魔術を学び始めて何年が経ったのか?
親父からその手ほどきを受けたのは遥か昔のような気もすれば、つい昨日のことだったような気もする。
あれから……そうだな、多分27年位経ったか?
30を少し過ぎたオレは、今はしがない雇われの身だ――あの忌々しいザクセン野郎の金満家め、オレ以外にも二十人以上を雇ってやがる。これでもそこそこ戦闘には自信がある……オレに言わせりゃ魔術師なんてのは強くてナンボだからな、当然だ。
だが、そんなオレもこれほど当てにされてねえのは初めてだ、つまらねえ。落ちぶれ騎士の三男坊には期待なんてしねえってか?
だから、錬金術師なんて屑どもは嫌いなんだよ。
しかし……ここまで言ってなんだが、やっぱ仕方ないだろうな……あのザクセン野郎、吸血鬼狩りなんて物をやろうってんだから。故郷ザグレブをもう少し南にいったところなんかじゃ、この科学万能の時代になっても迷信に凝り固まった阿呆どもが心臓に杭を打ち込んで死体を埋葬してやがる……バカだな、ありゃ。
吸血鬼なんてクソどもは確かにいるが、アレはあのクソどもに噛まれた程度じゃ伝染しねえ――ったり前だろ、そんな調子じゃこの星なんてあっという間に化け物の巣だ。
あれは大昔のお偉いさんが干乾びた脳みそをお大事に抱えたまま生き続けてるただの亡霊だ、人間の血なんてものは正味な話どうでもいい……魔力さえ奪えりゃ、それで体は維持できるらしいからな。
で、その亡霊は正直言って、オレなんかよりずっと強え。だから、通常料金にかなり上乗せがあった訳だが……パリでもう少し遊んでおけばよかった、金は死んでちゃ使えねえからな。
今回、オレを雇ったのはザクセンのシュリンゲル伯爵――錬金術師の世界じゃ有名な化石みたいな連中で、かの大公爵の薫陶を受けてるらしいが……頭の悪い近親婚で肝心の精神と体が病んじまって衰退してる家系だ。
やっぱ、ああいうのは止めた方が無難だな。
身内ってのは気心が知れてる分得られる快感がヤバ過ぎてどんな賢者でもすぐにアホになるって、昔どこかの飲み屋で飲み友達が言ってたぜ。
尤も何十年か前にその地位に就いたとか言う今の当主は、見たところ身体の方は病んでなさそうだ。精神もあれでまだましな方だろう……ま、それが雇われの身にとっちゃ一番重要なことなんだがな。
で、そのお偉い伯爵様は笑えることに自分の領地に吸血鬼が発生するもんだから、それを退治するためにオレを雇ったんだと。退治される吸血鬼の呼称は『霧海』――元々はリリエンタール(百合の谷)なんて洒落た苗字の異教徒のクソ野郎だ。
今のソイツがどんな奴かはただ一人を除いて誰も知らねえ。シュトラ卿っていうペルシャ人……何でも大昔の偉い人で、ソイツがリリエンタールをぶっ殺したらしいんだが、野郎もしぶとくて世界を一つ作って逃げ遂せたとか何とか……古い本って奴は高ぇからな、そこが理想郷だって言うこと以上は何もわからねえ。
他にわかってることといえば、奴に襲われた場所は完全に更地に変わるって事くらいだ。
生き残れりゃ、それでいい。
だが、どうなるか……やっぱパリのジャンヌには告白っとけばよかったぜ。
『はぁ……クソ。一体何だってんだ、あの霧は?』
朝っぱらから急に城の周りを霧が覆い隠し始め、ついには城下町まで完全に霧に覆われちまった。取り敢えず、街から離れたオレ達は今伯爵の馬車の回りにテントを張って様子を見てるところだ。
一般人? あいつらは霧なんてただの自然現象だと思ってるから、たまたま濃霧が発生したとしか思ってねえよ。
死んだな、あいつらは確実に。で、今は午後9時くらいか?
正直、これだけ真っ暗だと魔術でもなきゃ城の周りの霧は見えねえな。おまけに千里眼だとか、遠視だとかの魔術や魔眼を使っても城下町の様子さえ見えないとは……どうすりゃいいんだか。
『吸血鬼が世界の構築を果たしたようですね、姉さま』
馬車から出てきて城の方角を眺めてたのは、長い金髪、青い瞳、如何にも貴族的な白い肌の美少女。数十年も生き続けてるらしいが、見た目は恐らく17,8歳だろう。
『ええ、そのようですね』
少女の言葉を受けたのも彼女と同じ外見の、ただし赤いローブを纏った先ほどの少女とは違って、青いローブを羽織った少女だった。この青いローブを羽織った方が当代シュリンゲル女伯爵――オレ達の雇い主って訳。
やってられねぇのは、こんなガキにアゴで使われることだ。
いや、錬金術師ってのは実際女が多いからな……女にアゴで使われる、そんな嫌な予感がしてたんだよな、クソ。
伯爵はどこかから金やら銀を持ち出して、景気よく振舞うんで確かに金持ちなんだろうが……どこか性根が腐ったような臭いがしてならねえ。
『では、そろそろ突入の準備を開始してください』
妹の方がオレ達に招集をかけたんで、オレも渋々歩いていく。集まってる連中はそれでも当代一流の魔術師達だった、オレの知ってる連中から知らないのまで……色々居るな。
だが、コイツらも気がついてるだろうが一番ヤバイのはどう見ても伯爵姉妹だ。
若い少女にしか見えないコイツ等からは殺しを愉しむ連中独特の気配が漂っている。人体を研究する魔術師なんかとはまた違う……趣味で人を殺せる人間か、そうでなければ真性の変態だな――そういう精神の病み方はなお悪い。
やれやれ近親婚の弊害なんてのは勘弁願いたいぜ、後ろにだけは敵を作りたくないからな。
『三グループに分かれての突入、それで行きます。私たち姉妹は最後のグループに加わりますので、第一陣は早馬を』
妹が指示すると、先発隊の奴らは早速霧の方に向かって走っていった。これじゃ、金だけ持って逃げるのは無理だろうな。
早朝から急に霧が立ちこめ始め、すでに十時間以上が経過した今……数世紀前から恐れられる恐怖の理想郷が完成されたのだからそれはなお無理だろう。
『霧海(むかい)』――別に深い意味はない、見たままの状況を伝えただけのことだ。覆われた地域が如何なる千里眼をもってしても覗き込めなくなる魔術的な霧、それが大海の如く半径数キロもの地域に広がる……
やってられねえな。
そのまま、オレは第三グループの一員として伯爵姉妹と一緒に霧の中に足を踏み入れた。
『1838年9月27日――22時、我々はザクセンの伯爵シュリンゲル家領に発生した『霧海』を滅ぼすために31人の術者を伴ってこれに侵入する……レポートはその一言から始めましょうか?』
もう姿も見えなくなったが、伯爵が妹に聞いていた。
『その書き出しで構わないと思いますよ、姉さま』
同意されてなるほどといった様子の伯爵の声がかすかに聞こえた。
『霧の成分自体が何かしらの魔術で作られた物質らしく、既存の物質ではエーテルに非常に近しい。一メートル手前の視界も遮られ、実際に隣を歩く人間の足音さえ注意しなければ聞き取れない、隣を歩く人間の顔は完全に見ることが出来ない……ここで罠など張られていれば全滅も、ありますね』
俺の近くを歩く彼女は淡々とレポートを続けている。
視界はゼロ、この状況では動物も何も関係ないだろう。先発隊の死体が転がっているということは無い。帰ってくる人間にも出会わない。
霧の中に入ってすでに40分以上を歩き続け、どう考えても霧を抜け到着しているはずの城にさえ辿り着けていない。
どうなってんだ、一体?
『姉さま、奇妙ですね。これほど歩いて城に着かないなど……町にさえ着かないではありませんか?』
妹の方がこんなヤバそうな状況でもなお淡々と姉の方に問いかけている。
『ええ。おかしいのはそれだけではありませんよ、周りを歩いていらした傭兵さんたちが今はお一人だけ。他は逃げたのではなく、意図的に別な場所に移動させられたようですね』
ほんのかすかに聞こえた姉の一言で俺も漸くそれに気がついた。
周りに誰もいない、それはマジみたいだな。
『傭兵さん、貴方はどこのどなたですか?』
姉妹のどちらの言葉かわからないが、取り敢えずそのどちらかであることは間違いない。
『帝国領クロアチア、ザグレブ出身のゲイル・シュミット……なぁ伯爵、これからどうすんだ? これじゃ、何にも出来そうにないぜ』
かすかにしか声が聞こえないから大声で叫んでいた。
すると、ぞくっとするような殺気が背中から襲い掛かってきた。
『無礼な人ですね……姉さま、この人殺して良いですか?』
妹の方の殺意だけしか含まれないような無機質な声。
コイツ、確実にやる気だ。
俺も思わず剣に手をかけていた。
『止めておきなさい。どうしても我慢できなくなったときは、少しずつ殺しなさい……必要になったとき取り返しがつくくらいの速度でじっくりと痛めつけていかないと、もしものとき困るでしょう?』
妹の方よりさらに冷たい気配、殺気だけでこの霧の中の何処に居るのかさえ見通せる――ヤバイ、この場で戦っても勝てる気がしねえ。
『姉さま、我慢出来そうにありません。姉さまにタメ口を利いて……私は許さない。バラバラにして、それを一つ一つ踏み潰して、じっくり殺しちゃいましょうよ……コイツ』
おそらく妹の方が何かしらの魔術の詠唱に入ろうとしているのがわかる。
正気か、こいつ等?
だが、オレが剣を殺気の向こうに向けようとしたとき、喉元に触れるのは姉の方の細い指。
『はい、一回死にましたね――ふふっ、ゲイルさん剣を収めてくださいね。妹の悪ふざけ、ただの冗談ですから……クスクス』
従うしかあるまい、その気になればその一撃で死んでいたのだから。
霧の中だというのに二人はそれを見通しているとでも言うのだろうか?
そうとしかいえないほどの動きだった。
『ゲイルさん、本当にごめんなさいね。貴方があまり緊張していらしたから、少し緊張を和らげて差し上げようとしましたの』
妹の方の笑い声――クソ……こんないかれた連中と一緒になってるのは俺だけかよ。
しかし、空間を捻じ曲げて隣を歩いている人間を消し去るなど並の魔術師では到底不可能な芸当だぞ。しかも俺は兎も角として、あの姉妹二人は周りの魔術師にちゃんと注意を払っていたのだから敵の異常さに背筋が寒くなる。
だが、しばらく歩くとなんと幸運だったのだろう……霧の向こうに明かりが見えてきた。
『……よかった』
思わず口から漏れた言葉。
横を見れば赤と青のローブの姉妹が互いに口付けしながら、イチャついていた。
『よかったですね、姉さま』
『そのようですね』
『おいおい……伯爵、とっとと街に行ってみようぜ。ここに居ても得になることは無いだろ』
その言葉に姉妹も同意する。
『やれやれ、仕方ありませんね』
『姉さま、いざとなればゲイルさんを盾にしましょうね。フフッ』
高笑いする妹、なにが『盾にしましょうね』だ……だから、女魔術師ってのは性質が悪い。平気でそういうことを口にするし、真実そう思ってるからな。
『おい、冗談はそれくらいにしとけよ、オレもいい加減怒るぜ』
『ゲイルさん、それよりここは何処でしょうね?』
姉の方にそう言われて、明かりの方向を見た。
天井を飾るのはあまりにも巨大な月――いつも見るものの数倍はありそうな巨大な満月だった。同時に、地面には雪が降り積もり……それでいて……地上とは思えぬ美しさ。
空を飾るオーロラ、冷たいはずなのに涼しい程度にしか感じない不思議な大気、銀色に輝く大地はまるで白い絨毯だ。さらに目をやれば海が遠くに見え、モスクが立ち並ぶイスラムの街――それもかなりの都会。
彼女たちと共にしばし声もなく、その場に立ち尽くしていた。
そんなとき、後ろからともに霧に入った魔術師が二人合流してきた。当然ながら、彼らもこの光景に言葉が無かった。
煌々と明かりが灯る街の様子を確かめるために、他に方法が無かったので実際に足を運ぶことにした。
そして、その街の状況に驚いた。
カーニバルが行われ、お祭り騒ぎの人々。様々な人種、様々な服装……アラブ風の服装の男からイギリス貴族らしい服装の男まで……黒人も白人も東洋人も何もかもが混住していて皆が笑っている。
奇妙なほどにニコニコしていて、こちらに陽気に挨拶してビールやワイン、あらゆる食事を振舞ってくれる。
領主は居るのか?
その問いには、誰も答えることなく笑顔のまま笑い続ける。
リリエンタールを知っているか?
その問いにも微笑み続ける。
奇妙で恐ろしい街、全てが理想なのに誰もがまともでない。
この街には貧しい者が居ない、飢えている者が居ない、奴隷が居ない、虐げられている者が居ない、支配する者が居ない、笑わない者が居ない、墓所さえ見当たらない。
この世にあるべき負の部分が存在しない街。
これほど奇妙な街がこの世にありえてはならない。
『姉さま、どう考えても変ですね。こんな矛盾した街は存在しません……豊かな富を蓄えた場所に貧富の差も無く、支配者も居ない。このようなものは絵本の中の世界ではありませんか』
妹の言葉は尤もだ、実際に俺もそう思う。
『絵本の中にさえありませんよ……リリエンタール卿の目的が掴めません。ここがどういう世界なのか、その検討もまったく……流石にこの街で宿を取るのは危険でしょう。どこか郊外でキャンプを……ゆっくり捜索しなければ、この街ではなにがあるかわかりません』
散々街を歩き回ったのだ、彼女の言うことも尤もだろう。
同行している俺を含めて魔術師達もその意見に賛同する。
時計を信じるならすでにこの霧の中に入って十数時間、どうしても疲れが出てくる。
しかし、それが恐怖の始まりだった。
よもや夜が永遠に続く世界があろうとは……そう、この世界では夜が永遠に続いた。そして、何よりキャンプを張った瞬間から別な恐怖が襲うことになる。
『じゃあ、お先に』
そういって、歩哨に立ったオレに断りを入れた魔術師は……眠り込んだ瞬間に血の泉を作って忽然と消えた。
もう一人も、3日後に眠った瞬間に血だるまになって……空間の裂け目に食われた。異常な事態に一端霧の外への逃亡を図るが、空間自体が屈曲しているのか、外へ向かったはずが必ず街の方に戻されていた。
出ることは出来ない。
眠ることさえ出来ない。
それら自体は彼女たちにとっては苦痛ではなかったらしい……こちらの目蓋はすでに5日目を超えることも苦しいのに、それでも街を探索し続ける彼女は超人を思わせた。
『ゲイルさん……眠らないでください。ヒントが見つかりましたよ』
彼女の言葉に精神が何とか覚醒してくれた。
一瞬にして現れた希望に何とか気力を振り絞る。
『姉の……方か、その方、法と……は?』
すでに頭には思考能力がない、ヒントを聞いてもまともに考えられるかどうか。
『街の中では犯罪が起こりません、人も死にません……ですから、一昨日ナイフで10人殺しました』
『え?』
妹の方が話を引き継ぐ。
『この世界に居る人間はまともではありません。抵抗することなく、如何なる苦痛を持ってしてもあの笑顔が崩れない。殺される人間を見ても誰も騒がない……ただ笑い続けるだけ。それもそうでしょう……昨日その人たちは生き返っていましたよ』
『時間が繰り返している、ということか?』
再び姉。
『話は続きます……そして、昨日街中で魔術を使って5人ばかり殺したのですが、今朝見てみれば生き返っていました』
わからない……だから、どうだというのだろう?
それは、ここならば人くらい生き返るのではなかろうか?
姉妹は声を合わせて答えを告げる。
『時間が繰り返しているのではなく、これは一種の牢獄です』
『魂の牢獄だと?』
『魂の牢獄――彼は犠牲者の魂をこの世界の住人にして永遠の世界を自分で創ろうとしているようです。呪いと等しい契約で魂だけを縛っていますね、この世界(リリエンタール卿)が……クスクス、面白くなってきましたね、姉さま』
『一つの世界による、死者の魂を縛るほどの契約なんてものが可能だと思ってるのか?』
姉に聞くと、彼女は明確な答えを用意していた。
『ええ、全力ではありませんが私の剣を持って切り殺したのに再生しました……魂だけで行動する吸血鬼であっても一日で再生するなどありえません。ならば、本来覆ることのない定理を覆したということは……』
後ろからまとわりついた姉に口付けしながら、妹の方が続く。
『シュトラ卿の古典に曰く――リリエンタールの世界は夢である、と。ですが、眠った者の末路は見た通りです。よかったですね、ゲイルさん……姉さまが起こさなければ死んでいましたよ、フフッ』
『黙れよ……オレには、もうそんなに考える力が……』
『これが肝心な点でしょう。世界は夢、つまり私たちは今夢の中に居ます。しかしながら、魔術師たちの死は本物でした……現実と夢の逆転。起きている間だけ、この世界で生きていられる夢の世界の登場人物ということです。つまり、私たちはすでに現実の人間ではない』
『どういうことなんだ……』
『姉さまに手間をかけさせないでください。こういうことですよ、体が夢の中にある以上……こちらで見る夢が現実。ですが、現実の世界には戻るべき体が無い……つまりそれだけで死ぬ、ということです』
滅茶苦茶な話だ、いやそんな滅茶苦茶を実現するからこその魔導師の呪いか。
『んな……どうすれば?』
『私たちをこの世界においている以上、魂と成り果てたリリエンタール卿がこの街のどこかで眠っているはずです。この人口3万程度の街で眠っている本体を殺せば、維持する基盤を失った世界は自然に崩壊するでしょう』
『殺し、楽しい殺し合いですゲイルさん。噂をすれば……さぁ、お客さんがいらっしゃいましたよ、姉さま』
そのとき、街の郊外に構えていたキャンプに来訪したのはともにこの理想郷に入った28の魔術師達。
彼らは手に手に武器を持ち、その背後にさらに数百人の町の人間が従っている。
『やれやれ、貴女はゲイルさんを……みなさん、どかなければ殺しますよ』
伯爵が高速で式を組み立て、手を翳した。
その瞬間の光景は如何なる奇蹟によるものか?
一瞬の煌めきが錬金術師のローブの下から音速で放たれ、その場にいた魔術師28人をたったの一撃で全て障壁ごと打ち抜く。魔術師達は首から上を全て消し飛ばされた、いや何かに食いちぎられたと言ったほうが正確だろうか。
その戦果を上げた、速度ゆえの不可視光は予測さえ出来ぬランダムな動きでさらに十人の命を消し去った後、再び錬金術師の元に戻る。
一瞬の光景に誰もが息さえつけない。
それこそかの錬金術師の至高剣『サルヴェッツァ』――数ある中にあって至高を謳われた、斬れぬモノ無き剣。
『世界を破壊する邪魔者どもは、殺す。皆殺しにする』
それでも再び叫び始める右目だけが真紅に染まる人々達、これが契約の証か。
無理やりの契約であっても、それを結んだ以上はここで永遠を約束された存在に昇華する。
如何にリリエンタールの人形になるといっても、ここは確かに理想郷だ――死ぬことも無く、飢えることも無く、虐げられることも無い。
この世界の住人になってしまえば、外の世界など苦難しか存在しない場所だろう…….目の前の敵は彼ら自身の意思で世界の終わりを止めさせようとしている。
笑っているが、彼らは心から世界の永続を願ってそれを終わらせようとするものを排除しようとしている。
なんてえげつない真似をする男なのだろう。
この世界にあって永遠を約束された登場人物たちは、吸血鬼が見る夢のレギュラー……夢は殺せない、本体を滅ぼさない限り永遠に再生し続けるだろう。
妹が手を掴み、こちらの体を一気に肩に担ぐ。
『姉さま……お早く』
『くっ……雇われものがこれじゃ、格好がつかねえな……この恩はいつか返す』
思わず、泣きそうな声が漏れた。
妹に連れられて逃げるうち、姉が群集に叫んだ。
『リリエンタール卿に唆されましたね。如何に人に終わりがあるとはいえ、貴方たちが陥ったその弱さは本来唾棄すべきモノです!』
相手はほとんどが微笑み続ける一般人だ……もしも剣が発動すればあるいはかなりの数を殺したかもしれない。
しかしその瞬間、彼女が敵に投げかけたのは剣ではなく、大地を焼き尽くさんばかりの瓶詰めの大火だった。
本人以外は正体さえ知らぬ液体が地面にこぼれた瞬間、周囲の酸素は一瞬にして消費され、その場に居る人間は瞬間的に数千度にさえ達した凄まじい灼熱の焔に身を焼き尽くされた。
地上の雪が全て蒸発し、霧の煙幕が張られる。
その瞬間にオレたちも一度は逃げ切った
逃げるとき、あれのことを妹は『熱い水』と言っていた……如何なる魔法によって作られたものかもわからないがそれだけでその場には骨さえ残らなかったのだから尋常ではなかろう。
その後も次々にやってくる刺客が屠られ、退けられた。
人口数万人の街、リリエンタールを殺す方法を知った瞬間からその全てが敵だ……世界を終わらせるものを殺そうとする街の人間達はかつてこの世界が飲み込んだあらゆる武器を構えて殺そうとしてくる。
奪った馬で必死に逃げながら街に辿り着いたとき、カーニバルはまさしくカニバルに変わったかとさえ思えた。
全てがこちらを殺そうとしてくる、リリエンタールという名の世界がただ三人の人間を食い殺してしまおうと思っているのだ。
一人の男を捜しながら出会う人間を殺し、殺し……自分が生きているのかどうかさえわからなくなるまで微笑む人間を殺す、殺す、殺す……
オレも傭兵だ、守られてばかりじゃ格好もつかない。
剣を持って、一般人を切りまくる。腰に下げた銃にも手を伸ばすが、実際この人数じゃ埒が明かない。
街に入って一時間もしないうちに気分が悪くなる、すでにオレだけでも50人以上は葬ったというのにまだまだ居やがる。
流石にここまで笑顔の人間にいきなり一撃を入れることは気が咎めさえした。姉妹はそんな中でもまったく気にしていない……同じ人間とは思えないぜ。
呪いに捕らわれている人間を助けてやる位の強気で殺し続ける姉は銀の釘で老人を壁に磔にし、妹は少女の顔面に銀の釘を打ち立てた。
この街に金属がある限り釘は無限に練成される――錬金術の秘法が一つ『白の石』を用いた銀の釘が次々と人を串刺しにし、血の海を展開していく。
『一人一人に時間をかけられなくて残念……しかし、それでも埒が明きませんね、姉さま』
『だから、言ったでしょう? もう少し石や道具を持ってきなさいと。備えあれば憂い無し、ですよ……私の道具は貸しませんからね』
『アハハ、ケチな姉さま。ですが一人で殺すより、三人で殺した方が効率が宜しいですよ』
『やれやれ、仕方ないですね……ゲイルさん。そこ、危ないですよ』
妹の手から放たれたのは先ほどの小瓶の大火――冗談じゃない、こんな場所で……走って物陰に隠れたときその場に居た人間が一瞬で灰にされた。
その瞬間に、建物の中から襲ってきた連中に向けて氷結の魔術を放ち一気に砕いて始末する。
だが、それでも尽きることなき敵は無限か?
この世のものとは思えぬ惨状、殺し、殺し、殺し……
いくら翌日には蘇るといっても、これでは……凄惨な殺しにも眉一つ動かさない姉妹、どうしてこんな酷いことが出来る?
確かに蘇っていくのだろう、でもだからといってここまで凄惨な殺し方をする必要はあるのか?
みんな笑顔で、こちらに武器を振り下ろしてくる…….気持ちの悪い殺し、笑顔の相手を殺すだけで吐きそうになる。
『何をしているのですか! リリエンタール卿はいよいよ本気です、街の人間全てを弾に変えて襲ってくるはずですから、油断などしては……駄目でしょう!』
妹の手からこちらに投擲された銀の釘が背後から襲いかかってきていた女の額を見事に抜いていた。
その瞬間に飛び散る血、それが頬に当たるだけで体が震え始めて、ついに吐いてしまった。
そして、眠気が体を襲い、満足に立つことも出来ない。
すでに周りの人間の数は異常だ、笑い声ばかりの中……みんなが殺そうと武器を振り下ろす。
姉の方は姿を消していた。
どうやら役立たずの傭兵は見捨てられたようだ……
だが、そのオレの手を拾い上げたのは妹の方。
『やれやれ、大丈夫ですか? リリエンタール卿の始末は姉さまが……私たちは陽動です。死ぬ気で戦ってください』
自分は死ぬ、それがわかっていてこの少女はどうして笑みを浮かべていられるのか?
『おい、オレなんかに構うな! お前も伯爵についていけば、あいつを滅ぼせる確率が高くなるだろ』
『ゲイルさんは意外におせっかいな人ですね。構わないのですよ、姉さまさえ何とか生き残ってくだされば私はどうなっても、ね。アハハ、今宵は寝られませんよ。この街が寝かせてくれませんから……さぁ、武器を取って続いてくださいね』
そう涼しげに言った妹は一緒に飛び込んだ鍛冶屋の中から次々に銀の釘を投擲して、人々を屠っていく。
あるいは突いて串刺しにして、あるいは壁に打ちつけ、あるいは顔面をぶち抜いた。
コイツ……まったく、オレなんかのために残るなんて、甘い奴だ。
○○○○○
錬金術師の心象を表すかのように雨が降る。
こちらを追い詰めながら、その実自らも追い詰められたリリエンタールが彼女だけを外に飛ばしたために、中途半端になってしまった大災害はそれでも城周辺の土地と城下町を全て地上から消し去っていた。
夢の世界の外で経過していた時間はわずかに10分……どうやら一日が一分の計算だろう。出鱈目な世界を出た後、急に感じる喪失感――リリエンタールを殺そうとしたとき、右腕は完全に死んでしまった。
左目の視力はすでに無い、骨も何本か折れている、満身創痍であることは間違いあるまい。
しかし、それでも感慨など無かった……妹に実際は怖かった、その弱音を伝えるべきだったかもしれない。
それだけが心残りだろうか……
止めを刺されかけて恐怖に歪んだリリエンタールの顔だけは鮮明に覚えている。死を覚悟して、無我夢中で人の波を押し開いて活路を得た……脱出不可能な迷宮で真実逃げる術を探した……死は流石に怖かった、そんな相手に偶然発見された彼の驚き様は如何程だったか?
思い出すだけでも、アレは奇蹟だ……一流でない以上は人探しのルーンなど役にも立たなかった、占いの類も全滅、頼るべきは勘だけだったのだ。
だから、まさにアレは奇蹟以外の何者でもないのだ。
『リリエンタール……』
次に遭ったら殺す、それだけは間違いあるまい。
相手は絶対の要塞に立てこもってこそ居るが、それは逆にあの場所から逃れられないことを意味する――コロシテヤル。
――バラバラにしてコロシテヤル。
絶対に地上に生かしてはおかない。アレは地上にありえぬ世界なのだから生かしてはおかない。
殺意、などといった明確なものではない。
一番肝心なことには――彼のやり方が気に入らない。
『フフッ、アハハハッ――下らないですね。こんな方法で永遠などと……それにしても、城もなくなりましたし……どうしますか』
錬金術師の流浪はそれよりのち百年以上続くことになった。それは彼を滅ぼせなかった自分への罰だと彼女は思う。
妹と呼んだ相手に償う気持ち?
そんなものは存在しない。そもそも、アレは妹ではなくただのホムンクルスに過ぎないのだ。
自分の作品に対して悲しみなど欠片も無い。
しかし、それでもうまく作りすぎた人形だけに少々情が移っただけのこと――質の悪い失敗作に過ぎないはずなのに……それだけは今でも不思議だ。
本物の妹から作ったホムンクルスだからか?
本物の妹さえ愛していなかったのに、そのホムンクルスに愛を感じるとしたら随分と焼きが回ったものだ。
それでは歪んだナルシズムではないか。死んだ人間を生き返らせるべきでない……タダの見習いさえ知っていたことなのに未だに後悔するとは情けない。
アーデルハイト・フォン・シュリンゲルは彼の師匠だ、かつての出来事を今更考えてどうなることでも無かろう。
ああ、今から先のことを考えても疑問は尽きない。
…………
……
「なぁ、さっきから呼んでるんだけど」
俺の声に漸く気がついた様子のアデット。
「――ゲイルさ……あ、いえ……失礼。何の用ですか?」
「? いや、ほらあの遊園地の件だけど、おかしいんだよ。地図に載って無くてさ」
教会の彼女を訪ねていた俺は礼拝堂の椅子に腰掛けていた彼女の横に座り、地図を渡してみた。
「ああ、それはですね……魔術師のための遊園地というやつでして、地図には載らないものなのですよ」
「なるほど、そうか。確かにそれはもっともだ」
そうだな、それなら当たり前だ。
「それより、そろそろ夏も終わりですね。文化祭には面白い企画を考えますから、期待していてください」
「お前の言う『面白い』企画は俺達の基準だとヤバイと思うけどな」
「ふふっ、本当に貴方は面白い人ですね」
「はぁ、何が?」
「遊園地は冬11月くらいになると思いますけど、楽しみましょうね。アトラクションはタダですからきっと楽しいですよ」
「そうなのか?」
「ええ、係員は愛想が良いですし、色々な料理を出してくださいますから」
「へぇ……じゃあ、期待してるよ」
「ええ。私も期待していますよ」
意味ありげな微笑み、何かいやな予感がした。
そのとき、急に教会の扉が開かれた。
秋の訪れが近しいことを告げる風が吹き込み、灯されていた蝋燭の炎が揺れた。
二人の視線が扉の方向を向いたとき、そこには長身の老紳士と少女、数人の護衛らしいサングラスの男達の姿があった。みな欧州系の外国人だったので、教会にやってきた信者だと思った俺は取り敢えず視線を前に戻した。
しかし、アデットの視線は彼らの中の老紳士を見つめたまま……
「おい、あんまり見てると失礼だろ」
小さな声で彼女に注意したが、すぐに小声で返される。
「公明さん、テレビや新聞をみていますか?」
「はぁ? いや、見てるけど……」
彼らの一団は、自分達を見つめるアデットに気がついたらしくこちらに歩みを進めてきた。
「イギリスの外務大臣、少し前に辞任しましたよね?」
何でも仕事に意欲がなくなったとか何とか、とんでもない理由で辞めてしまった大臣がいたな。
「ああ、確かそんなニュースも、って…….」
え、嘘……あの老紳士の顔はまさにその大臣ではないか。
俺達の前にやってきた彼は被っていた帽子を取ると、恭しくお辞儀した。
「どうも、お初にお目にかかりますシュリンゲル様」
老紳士は実に流暢な日本語で話しかけてきた。アデットも流石に座っているのはどうかと思ったのか、立ち上がって彼に返す。
「いえいえ。ですがキャッスルレー男爵……何故ここに?」
俺には見向きもしていない様子の彼ら、それでも流石にみんなが立っていて俺だけ座っているのも気分が悪いので立ち上がった。
「買収作業を補佐し、状況によっては貴女の補佐もするように公爵様よりご達しがございました」
「おい、知り合いなのか?」
アデットに小さな声で耳打ちする。
「初めて、と男爵が言ったと思いますけど。彼の主がちょっとした魔術師の知り合いです……公明さんはしばらくここで留守番をしていただけますか」
「ああ、わかった。でも、早く戻ってきてくれよ」
「ええ。男爵、場所を変えましょう……上に私の部屋があるのでそこで」
「承知いたしました。では、この者達もここにとどめておきましょう」
そして、二人は上にあがって行った。
だが、最悪なことにその場に取り残された俺の周りには見ず知らずの外国人が20人も。
みんなごついオッサンばかりで、とても愛想笑いなどして返してくれそうに無い。多分、日本語なんてよくわかってないだろう…….下手にニタついてたら殺してくれそうで実に怖い。
小さくなって、彼らと離れて座ろうとしたのに俺を両方から挟んで席に座ってしまって…….脱出など不可能だ。
緊張していた俺の横に、急に腰掛けてきたのは男爵が連れていた少女。
孫だろうか?
長い黒髪で、実に綺麗な10歳くらいの少女――青い瞳が愛らしく、それでも俺と同じように緊張でもしていて表情は堅かった。
まったく同じではなかったが、かすかに記憶にあるあの吸血鬼に実によく似ていて、着ている制服らしきブレザーもあのときの吸血鬼のものに……本当によく似ている。
それからしばらく、誰も話さないすごく重い空気がその場を支配した。
こんなときに信者の人が来ればすぐに逃げ帰ってしまうだろう。
今のこの現場はどう考えてもマフィアの集会だ、特に周りの黒服たちは。
「……」
やばい、トイレに行きたいからそこを退けてくれって英語はなんていえば良いんだろう?
黒服の男達が四人も座っている前を通りたいのに、言葉がわからない。ゴリラみたいな顔した角刈りのボディーガードは、不審な動きをする俺を一睨みした。
「May I help you, Sir?」
野太い声がまるで恫喝するように聞こえた。頭の中が真っ白でなんていったのかもよくわからなかったけど、絶対に、『動くと、殺すぞ』といっている顔だ。
「……Sorry」
小さな声で謝ったら、何とかその場は許してくれたが絶対に見間違いではなく、確実に懐に手を入れていた。
この状況とこの見た目で、それが銃以外のものであるはずもあるまい。
もういやだ、助けてくれ。
「魔術師殿」
「へ?」
隣に座った少女が急に日本語で言ったものだから、思わず間抜けな声を出してしまった。
「――伯爵様の高弟であられるということはいずれかの古い家系のご令息とお見受けします。あたくし東方の家系については不勉強ですゆえ、宜しければ貴方様の家系についてご教授願いたいのですけど」
前を向いたまま、丁寧な口調で流暢な日本語を話す少女。
だが、根本的に勘違いしていることは言うまでも無い。
「いや、その……」
周りの黒服の動きがものすごく気になる。VIPの令嬢の話を無視したらどうなるのか、考えるだけでもどきどきだった。
「あの、俺は篠崎公明って言って……確かに教えてもらってるけど、そんな偉い家系のお坊ちゃんなんかじゃない。その……名前、何だっけ?」
「失礼をお許しください、公明様。あたくしはプリメラ・キャッスルゲートと申します。プリメラと御呼びください」
「キャッスルゲート、って…….あの大富豪の娘さん?」
ということは、コイツも吸血鬼か何か?
「いいえ。この身は公爵様の御創りになられた紛い物の命、そのようなものを娘とは申しますまい」
「作り物? 何のことだ?」
「公爵様をお慰み申し上げることがあたくしの存在理由なれば、此度の件もその目的に適いましょう……公明様、此度の件では伯爵様にご同行されるとか。如何様な手段を隠しておられるのか、差支えが無ければご教授願えませんか」
「此度の件って? 何の事言ってんだ?」
「声の判定から――真実を仰られている可能性は87.8%ほど……信用に値すると判断します。その上で、隠されるとはよほどの理由があると推察されます、心拍数の上昇はそれを隠すためでございましょう?」
いや…….多分、トイレに行きたいのを我慢してるからだと思うけど。
「……では、これ以上のコンタクトは無駄と判断いたします。公爵様、報告は以上です。回線の切断を願います……疲れた。ねぇ、公明さま」
黙りこんだかと思ったら、急にフレンドリーな口調に変わった少女。漸く俺の方を直視する。
確かに、あの吸血鬼によく似ている……なおあの妖しい美しさは備わっていないが、それでも美少女であることは変わらないだろう。
「あたくし、この街を探検したいの。案内してくださらないかしら?」
「はい? いや……留守番頼まれてるから無理だろ。それに……この周りの強そうなおじさんたちが許さないんじゃないか?」
上品に口に手を当てて笑うプリメラ嬢。
「このような者たちのことはお気になさいますな。新型といっても、所詮はあたらしいだけのガラクタですわ」
そう言うと、すくっと席から立ち上がったプリメラ嬢は小さな声ですごく早口に何か言った。
何を言ったのかもわからなかったが、男達は席から立ち上がって俺達に道を譲った。
「さぁ、参りましょう。男爵と伯爵さまの会見はきっと長引くでしょうから」
俺の手を取って楽しそうに歩き出すプリメラ嬢……トイレ、行かせて貰っても良いだろうか?
そのまま、手を引かれて外に出る俺。
プリメラ嬢は教会の下までの坂道をスキップしながら下り、よくわからない状況におろおろしながらついていく俺を手招きして誘う。
「あの、プリメラ? 悪いけど、ちょっとあそこのデパートででもトイレ行かせてもらえるか?」
指差したのは街中にある一番大きなデパート。聞かれたプリメラ嬢は実に不思議そうな様子だった。
「トイレ……何の施設ですの、それ?」
「いや、日本語得意そうだからわかると思ったけど、そうでもないのか? それなら、トイレット……でいいのか?」
「……なるほど、排泄行為でしたの。人はエネルギーの効率よろしくありませんのね、同情いたしますわ」
「? まぁ、よくわからないが……じゃあ、ちょっと中に入って飯でも食っててくれ。それくらいなら奢ってやるから」
デパートに入ったあと、外国人だからというよくありの理由で連れて行った寿司屋で彼女に待ってもらい、俺はトイレを済ませた。
そして、店に戻ろうとしたとき……やばいことに気がついた。
いや、どうしてこうなるのだろう?
一瞬、綾音が見えた気がしたのだ。
壁に貼ってあったポスターを見れば理由は理解できた、華道の家元の展示会……これだ。
さっさとプリメラ嬢をつれて離れたほうがよさそうだな、これじゃあどう考えても外国人の女の子をかどわかしたやばいお兄さんだ。
だが、戻ったときにはさらに問題が大きくなっていた。
なんと、あのバカ娘、俺が連れて行った寿司屋で何故か……すしを握っていたのだ。
それもみんな何故かそれを咎めていない。寿司屋の店長さえ近くでメモを取っている。
彼女が握ったすしを食べた人々は実に満足げな表情で、俺はなにがどうなっているのかもわからずその場を逃げ去りたかった。
「あの、どうして外国人の女の子がすしを握ってるんですか?」
黒山の人だかりの中に入って、その一人に聞いた。
「ん? いやね、あの子すごいよ。すしを握ってる職人が未熟だって切って捨てたかと思えば、自分が握ったほうがましだとか言い出して……職人を打ち負かしちまったんだよ」
「…….」
この店にとっては最悪の客だな…….大富豪の娘なのになんでこんなことが器用にこなせるのか、十歳程度のはずなのにどうなってるんだ?
あ――どうすればいいんだろう?
そのとき、俺の背後に誰かが立つ気配。
「あら、こんなところで何をしているの?」
綾音も人だかりが気になってやってきたのだろう。
最悪の展開だな……どうやってこの状況を打破すれば良い?
「あ、ああ綾音……ちょっと大騒ぎだ見たいだから、気になって……買い物の途中だったんだけど。なんだか、うん……別に事件とかじゃないみたいだから」
「何です? あのお寿司を握っているのは……」
「いや、それはその……」
しかし、綾音の視線がプリメラ嬢を捉えたとき、彼女はそれだけで驚愕していた。
「……オート・マータ!? それも、あれは……」
「ん? おーとまーた?」
俺に視線を戻すと、すごく真剣な顔で睨んだ。
「シュリンゲル卿は、何処です? あんなものがこの地に居る以上、彼女は了承しているのでしょう?」
○○○○○
最古の人形作りキャッスルゲート卿……それに従う人形の中に『ザグロスの四機士(The four metal knights of Zagros)』と呼ばれる最古の人形達がいる。
人を蘇生させる者から人以上の存在を作る者まで、幾多の人形師たちがいる中にあって人以上の存在を目指した最高の術者キャッスルゲート卿の人形。
数ある人形達の中にあって最古にして最強……すでに数千年、ほぼ全ての魔術師以上の圧倒的な時間を生き続ける人形は、月の魔力を受けて真の生命となり人にあらざる身でありながら魔術を使う。
そして、その力はそもそもの造りが人間で無いだけに桁違い。
かつて吸血鬼と魔術師の戦争があったとき、彼の大公爵が未だ魔術師側のパトロンで無かった時代にはその力を持って幾多の殺戮を行った彼ら。
その彼らも今ではただ各地の財閥の当主を装っているとか……で、その中の二体があの男爵、それと俺と綾音の前で一緒に映画を見ているプリメラ嬢……らしい。
俺の家の居間でレンタルしてきたDVDを見ながら、ジュースを飲んでいるプリメラ嬢、それを睨むように見つめる綾音。
「面白い、という感情はさまざまな場合に用いられる気がしますけど恐らく今は面白いのでしょうね。人形師殿、あたくしはプリメラと申しますの」
「私は白川綾音です。レディ・プリメラ――どうしてあんな場所で、あんなことを?」
よく戦闘にならなかったものだと思ったが、流石に人前だったから何事も無く、うまく誤魔化してプリメラ嬢をあの場から連れ帰ったのだがどうしたものか……今の空気が殺伐としている気がする。
「公爵様がある件でアーデルハイトさま、つまり伯爵さまに正式に依頼されてご協力していますの。いくつかの協会にも断りはいれてあると存じますわ。ですから、綾音さまもご家族からすぐに通知を受けると思いますわ」
「その件とは? かの大公爵が関わった件が小さな事件であるはずがありません、どんな事件です?」
「申し訳ございません、禁則事項ですのよ。公爵様よりそれを言う権限を与えられているのは男爵だけで、あたくしにはその権限がございませんの」
「あー、悪い。お前ら何言ってるんだ、さっきから……てか、プリメラは人形師って呼んでたけど綾音ってそうなんだ」
てっきり戦うだけの人かと思っていたのはオフレコだ。
「匂いでわかりましてよ。伯爵さま、公爵様と同じ匂いがいたしますもの」
「目敏い方ですね、貴女は。それより……どうして二人であんな場所に居たのです?」
俺達二人に向けられた質問、答えなんてない気がするのだが。
「せっかく来た日本ですもの、ダウンロードした日本語を使ってさまざまな場所を眺めませんと。ねぇ、公明さま?」
「まぁ……なんて言うか、外国人だから観光とかしたいのかなって」
「ふぅ……なんて浅はかな――貴方は浅海をもう少し狂暴にした存在と歩いていたのよ、それをわかっていらしたの?」
「失礼、綾音さま。そのアサミさまという方はどのような女性なのですか? ご発言だけを聞いておりますと、どうもネガティブなイメージしか得られないのですけど」
「レディ・プリメラ。貴女も猫を被っていらっしゃらないで。悪名高いザグロスの機士が観光だなどと言い訳が通ると思いまして?」
「悪名はあたくしではなく、他の三体のものかと存じますわ。愛玩人形、あたくしは所詮その枠に留まる存在ですもの。他の三体のようにそれに主眼を置いていませんの」
「嘘ですね。私にも人形師の勘と言う物で貴女がどの程度の存在かわかります。『黒機士』プリメラ、2000年規模で存在する貴女が愛玩人形としての意味しか持たぬと誰が信じますか」
「……人形って……プリメラがか?」
話について行けてない俺の言葉。
「ええ、そうです」
「綾音さま、あたくしはこれでも嘘は申しておりませんのよ。他の三体に比べれば脆弱な、本当に脆弱な体ですものあたくし。男爵、あたくしの兄に当たる『赤機士』エンリルやその他の兄達があまりそういうことばかりが得意というだけで、あたくしの力など知れたものでございます」
「おいおい、人形ってのはもう少し、その……ピノキオみたいなのじゃないのか? ゼペット爺さんなんかは多分有名な魔法使いだろ?」
「!?……あたくしがピノキオなんて――公明さま、いくら人形と申しましても……例えが童話では傷付きましてよ」
「まぁ、確かにアレは私の家系が継承する魔術によく似ていますが……ふふっ、ピノキオと同列に扱われると形無しですわね、レディ・プリメラ」
「ふん! 知りませんわよ。公明さまの意地悪」
頬を膨らませて抗議するプリメラ嬢。
そんなにピノキオ、嫌いなのか……まさか、木で出来てるからか?
「で、その、なんだ……お前は人間じゃなかったのか?」
「そもそも最初から人間だとは申しておりません」
「考えればわかる状況だったでしょう……貴方、いくら何でもこんな容姿の外国人の女の子と一緒に歩いていれば誤解されるとか思いませんでしたの?」
「あは、ははは……いや、そう思わなかったわけじゃないけど、あの場所から出られるならそれでも良いかなって」
「そんなに環境が悪くは無いでしょう、あの教会は」
「いや、綾音は知らないだろうけどあの状況は100人中100人が嫌がるような状況で、出られるならそれでも良いって思うぞ普通」
「レディ・プリメラ、本当にそのような状況でしたの?」
「どうでございましょう……新型のオート・マータ、つまりあたくしの弟達が二十体ほど詰めていただけですし……他には変わったところはございませんでしたけど」
「ボディーガード風の外国人が二十人ですか……なるほど、状況はつかめました。災難でしたね」
「わかってくれたことに感謝する。やっぱりお前は俺の味方だな」
俺にそういわれて、少し得意そうになった綾音は「当然です」と胸を張って言う。
味方、だったんだ……いや、本当に今知ったよ。
「それで、綾音さま。あたくしが悪い人形でないとわかっていただけまして?」
「まぁ、一応貴女を信用しますわ。ですが…….まさか、とは思いますが、このまま街に居つく気ではありませんよね?」
確かにそれは俺も疑問に思う点だ。
このまま大富豪の娘だのがいつ居てしまって良いとは思えないのだが。
「いいえ。臨時の仕事が終了するまで伯爵さまをお助けするように申し付けられているだけですもの、仕事の終了を待って帰国いたしますわ。尤も、今回は下見をするための来日ですから、すぐに帰国いたしますわ」
「それを聞いて安心しました。貴女たちのような存在が居ては争いの元ですから」
「辛辣なことを仰られますな……綾音さま?」
「何か?」
「綾音さまの御創りになられた人形を見せていただけませんこと? きっと、海外の親類に会うような感動的な対面になると思いますの」
そういわれた綾音は顔色が少し悪くなってきた気がする。
「い、いえ……そういうことは魔術の隠匿が、その……兎に角、絶対に駄目です!」
すごく嫌そうな綾音、どうしてなのかそのときはただ疑問だった。
しどろもどろに言い逃れして、絶対に人形を見せたくない彼女。
すごく気になる……むしろ、見せたいんじゃなかろうか?
「なぁ、頼むから俺にも見せてくれ。一回綾音がどんなの作るのか見てみたいんだ」
「え……いえ、それは……その、個人的に、ということなら。貴方一人だけ、絶対に他言しないというのなら……何とか」
「? 綾音さま、あたくしには?」
「絶対に駄目です。私の近くに近づくことも認めません、いいえ……家の近くで見つけたら、部品まで含めてバラバラに『壊しますよ』」
笑顔でそんな物騒なことを言われたプリメラ嬢は自分が人形だといっていたのに怯えて俺にしがみついた。
人形を作る魔術師の『壊す』は、人形にはやっぱり怖いらしいな。
てか、人間の俺もさっきの笑顔は怖い。
「ひっ……怖い。公明さまぁ、綾音さまはいつもこのように物騒なことを仰るの? 人形を壊す人形師なんて野蛮ですわよ」
「まぁ浅海が居るときに限ってなら、こんな調子ぃ…….いや、あ、何だったかな?」
正直に言ったのが悪かったか、凄まじいまでの視線を感じた。
「貴方も、壊してあげましょうか?」
「ごめんなさい……おい、お前も謝っとけ」
「ご、ごめんなさい…….公明さま、本当に怖いですわ。もしものときは助けてくださいましね」
悪いな、いざというときには俺だけで逃げる。
とてもじゃないが、プリメラ嬢を助けることは出来ないだろう。あの笑顔はそれほどに凶悪だ。
それはさておき……あの吸血鬼を基にしてるっぽいプリメラ嬢に抱き疲れるのも……精神的につらいものがあるな。
さっさと離れてはくれないだろうか?
その後、止めておけば良いのに綾音の家に行って、以降の記憶を削除しなければならないような人形を結局見てしまった俺たち。
結構、色々観光までして……何やってんだろ。
プリメラ嬢を教会まで連れてった時にはもう日も暮れて、男爵を待たせてしまって居たりした……大財閥の総帥で、男爵で、元外務大臣なんて大物を数時間も待たせたのは流石に心臓に悪かったな。
何より、おつきの人々の視線がまた怖い。
そして……怖いおじさん達に殺される前……もとい、その日のうちに彼らは仕事の打ち合わせが一旦終わったとかで帰っていったのだった。