「……」
耳に当てた電話から、ようやく誰かが受話器を取る音が聞こえた。
「こんばんは、教授。夜分遅くに失礼します」
アーデルハイトが相手に電話をかけ始めて、すでに十分以上が経過していた。
受話器を取った相手は一瞬間を置いてこちらが誰であるかを逡巡した様子だったが、こちらが誰であるのかまではわからなかったようだ。
無理もない、アーデルハイトが電話をかけた相手には滅多に面会者などいないのだから。
『ふむ、どうもこんばんは。専用回線に掛かってきたということは協会の幹部か。君……聞き覚えのある声だが、誰だったか? 『教授』と呼ぶからにはかつての教え子の一人だとは思うが……すまないね、君の事がどうしても思い出せないのだが』
老人のしわがれた声――上品でありながら、実に静かな喋り方でどこかの教師のような印象を受ける。
電話の向こうからは彼の声と共にクラシックが流れて来る――モーツァルトだろう。
アーデルハイトが電話をかけている部屋は学園の部室で、外では燦々と太陽が照りつけている。
クーラーの掛かった部室の中で、電話を握る彼女はやや緊張さえしていた。
今、電話を受けている相手は世界中の魔術師のスポンサーといっても良い人物なのだからそれも然りだろう。
ゆっくりと自分の名を告げた。
「ザクセンの錬金術師で名をアーデルハイトと申します」
名前を聞いて一瞬黙り込んだ相手は、苦笑しながらそれに応える。
『ああ、錬金術師アーデルハイト・フォン・シュリンゲル……王殺しのアーデルハイト』
「ええ。その通りです、マルドゥーク教授」
『ゴホン……それで、この私に何の用かな。生徒と教師としてならば喜んで会食の席を用意させてもらうつもりではあるが――ドイツにある私のホテルで食事でもどうだね?』
彼女が今どこにいるかもわかっているはずなのに平気で無茶を言う相手の言葉に苦笑が漏れた。
何より、彼の言葉には戦闘を予期させる響きが含まれていたのだからそれも当然だろう。
「フフッ、性格の悪い人ですね。吸血鬼キャッスルゲート公に手を出せば、私は世界中から怨まれてしまいますよ。会食はいたしませんが、教授には今回お願いがあって電話したのです」
米国在住のイギリス人公爵キャッスルゲート――世界経済を牛耳る大富豪にして、宇宙移民を考える突飛な変人……ついでに、吸血鬼と魔術師双方に資金を差し出すパトロン。
頼み、といわれた老人は欠伸をしながら話を逸らす。
『ああ……女史、そういえばイフィリルが君のところに遊びに行っていたとか。アレで私の遠縁、という建前がある相手だから殺さないでやって感謝しておくよ』
一月ばかり前の事件が頭をよぎり、老人の言葉が癪に障る。
しかし、本来は面白くないことでも彼女は態度には出さない。
「フフッ、実に腹立たしい皮肉ですね。いくら世界最大のパトロンといっても貴方のことは好きになれません。それより、私の話は……」
『ふむ、そういえば君とは何千年ぶりだったか。当時の生徒の中で君のように私たちの高みまで上ってきたのは三人くらい、と記憶しているがどうだったか。君、記憶しているかね?』
「確かにそのように記憶しております。実際には、貴方にご教授願ったのは私の祖先ですが」
錬金術師の始祖である彼に師事した者たちが現在の錬金術師の全ての源流なのだから、間接的には彼に関係のない術者などいない。
しかし、直接彼から学んだ術者の家系も存在して、それらは要するに正統派の家系というわけだ。
『左様、それは尤もな意見だ。そう、普通なら私の生徒と君はまったくの別人だろう。だが、当時から君が熱心に研究していたことを考えれば素直に納得することは出来ない。その体は別物かもしれないが魂まではどうか、実に疑わしい。それはさておき、君が私の弟子の代から数得て何代目なのかを聞きたいのだが?』
「家系図にある限り、37代目でしょうか。祖先はあまり長寿ではありませんでしたから」
それを聞いて、老人は感嘆の声を漏らした。
『たったの二千数百年で君ほどの学術的な成果が得られるなら私も君に師事したいくらいだよ。まったく……宇宙という世界の開拓は実に時間がかかって仕方がない。そういえば女史、君はファッションというものに興味があるかね? いや、二千と数百年昔の君は実に奇抜な服を着ていたが今の君もそうなのかね?』
「教授、先ほどから申し上げていますが、それは祖先の話ですよ……私は興味があるというほどではありませんが、適度に目立たない服を選ぶくらいは気をつけています」
『実は何百年か昔、今でいう光学迷彩というものを研究していて、着ているのに周りからは見えないという画期的な被服を作り出したのだよ。君、モデルとしてきてみるかね? 人体は透明にならず、服だけが透明になるという素晴らしいものなのだが……』
「教授、おふざけはそこまでにして……『霧海』が私の領地近くに発生します」
『ふざけているとは失敬な、私は常に本気で恥辱に頬を赤らめる少女の姿を見たいと渇望している! しかし、なるほど……あの夢に迷った男の成れの果てが君の領地近くに現れるのか?』
「発生地点の予測は情報として得られたのですが、その地点には人家などが点在していまして……彼らを遠ざけたいので、土地の買収を進めてもらえませんか」
予測地点に住む人間は少なく見積もっても数千人、あの災害が発生した場合には誤魔化せるわけもない。
いや、誤魔化す必要はないのかもしれない……生き残れる人間などいないのだから。
老人は彼女の言葉に興味を感じたらしい、それが彼の声からもわかった。
『ふむ……場所は?』
「日本の私の担当地区、その南部地域です」
『構わんよ。あの『霧海』の発生地点にして消滅地点を私の領地に加え、なおかつ君に恩を売り、事業家として世の中に奉仕するという満足感も得られるわけだから……大都市圏なら事情はわからんが、取り敢えず五千億で足りるかね?』
とてつもない金額を当然の如く示した相手に驚嘆の声が漏れた。
「教授……今回の発生地点は半径十キロ程度と予測されますが、辺鄙な土地ですからそれほどは……」
『わかっていないな、女史。誰一人その場に留めて置くつもりがないのなら、本来の価値以上の値をつけてやらねばならない。世間的にはそうではないが、私にすれば端金だ。何しろ、人間とは愚かなもので私の工場で働き、私の店で食糧を買い、私のテレビ局が流す放送を見て、私の自動人形が支配する政府に税金を払う。そして、ライフラインは全て私の会社……いくら使っても、自然に集まってくるシステムは頭を使う必要がなくなってつまらないものだ』
老人の言ったことは尤もだった。
確かに、彼の言った金額で無くとも時間さえかければ土地の収容は可能かもしれないが短時間で全てを避難させようと思えば常識以上の金銭が必要なのだろう。
しかし、アーデルハイトが注目した点は少し違っていた。
「ひょっとすると、ピュレイジュの香水なども教授の?」
欧州で最近流行中の高級品、その発売元の大企業は嫌な予感が当たっていれば老人の関連会社だった気がしてきた。
『確か、自動人形のうちの一人が会長をしていたか……君がファンだというのなら百ダースくらい送るが?』
「いいえ、それは結構です。何を混ぜられているかわかりませんし……変態爺の資本による世界征服とは、本当に……気分の悪いことですね」
人間と同じような外見の自動人形を作り上げる人形師――彼は現在のロボット工学の数世紀先を行く高度な技術と、古代より磨きぬかれた魔術の融合によって完成させた有能な人形達で世界を資本という点において征服した。
事実、それは征服であろう……どんな悪環境でも人間の数十倍の効率で、24時間働いても何一つミスをしない人形達を相手に競争して勝てるわけもない。
同時に、その圧倒的な技術力を持って中世の時代から世界中の情報を握っていたのだから世界の富の半分を人間の真似をしている人形とその主が握っていても不思議ではない。
現在名を知られた財閥の当主、大富豪、それらの多くは実際には一人の錬金術師が作り上げた人形……つまり、分散させているが故に世界はその正体を知らないが、実質はただ一人に莫大な富が集中している構図だ。
尤も、だからといってどうということもない……彼の錬金術師、太古より生き続ける吸血鬼の望みは宇宙への道が開くまでの間、世界のシステムが維持されること。
積極的に悪事を働くわけもないのだから、魔術師達は自分達に資金まで融通する彼に刃を向けることはない。
それは奇妙な共生関係。
『変態、変態と私の非ばかりをいうが、実際には君の口の悪さも変わらない。いや、君風に言えば君の祖先か? どの道、性根の腐ったような家系だ』
「それはお互い様では?」
『かも知れぬ。しかし、奇妙なもので私は名を知られた性格の良い錬金術師など知らないがね』
共に性格が良いとはいえない錬金術師達はお互いを嘲笑し、同時にこの罵り合いを楽しんでいた。
「奇遇ですね、私も同様です。特に、教授とあのアラブ人などは大嫌いな部類ですね。お二人は実に汚らわしい最低の変態爺ですから」
『いや、君……そういう君自身はどうなのか、と激しく問いたいね。噂は聞いているが、君の何処が正常だというのか?』
「噂は噂です。私は貴方よりは絶対にましな部類ですから」
『……私は君とあの忌々しいダキア女が嫌いだ。尤も、二人とも容姿さえもう少し幼くなれば……考えないでもないがね。イフィリルくらいの外見になれないのか? 14までなら、OKだが』
「そういうところが大嫌いです。貴方からは対象への愛が感じられない……一度死んで頂けませんか?」
『君からも愛が感じられないよ……それにしても、君がアレを滅ぼそうとするからにはよほどの自信があるのだろう? 教えてくれたら、国の一つくらいはくれてやるが?』
「ネタは明かせませんが、勝算はあります。かなり高い確率で」
『ハハッ、それもそうだ。君の一族が根付いていた土地はアレに食われたそうだから、さぞ自信はあるのだろうよ。工房を壊された怨みか?』
百年と少し前の惨状が思い浮かぶ。
あの夜、必死で逃げなければどうなっていたか……恐らく死んでいただろう。
「いいえ。邪魔ですから、彼に眠ってもらおうというだけのことですよ」
霧の夜に感じた恐怖はあの時代に捨てた、すでにアレを滅ぼそうというのは恐怖ではなく……ただの業務の一環だ。
『君……建前上言っているだけだとは思うが祖先によく似たことを言う。しかし、用件はわかった。発生時期と詳しい場所を教えておいてくれ』
「わかりました、では……」
場所を伝えた後、電話を切った。
額に手を当てて、数ヶ月先の敵との対決を考えることにする。
○○○○○
俺は……夏の暑い日、浅海のオガム練習に付き合っていた。
「……違う、そこじゃなくてもう少し上だ」
すでに何度言っただろう?
何度も、何度も飽きるほどにそればかり繰り返していたのだ。
すでに沸点などとっくに突破しているほどに苛々している。
……あ……またやってる。
一応言っておけば、苛々しているのは俺じゃない……目の前で59回目の挑戦でミスした浅海。
「――キミアキ、本当に適当に言ってないわよね?」
頬がピクピクしてるぞ、お前。
実際、夏休みの補習授業に出た浅海が学校から帰って俺の家に着いたのが6時で……今は10時だから、かれこれ4時間くらいだろう。
その間、綾音には延々と横槍を入れられ続け、彼女が寝室に上がっていってからもひたすらに失敗続きで……やり場の無い怒りに狂いそうな浅海はとうとう目の前に座っている俺に狙いをつけて、今までのイライラを全部ぶつける気のようだ。
とんでもない話だ、俺も真剣(テレビを見たり音楽を聴いたりで浅海に聞かれたときだけは真面目に)だったのだから……少しだけその八つ当たりは不当な気がする。
尤も、今なんて本を読みながらほとんどページから目を離さずに言ったわけだから……疑われても仕方の無いわけだが。
しかし、言い訳はある……アデットに教えてもらってから何週間か付き合っているのだからいい加減に俺も飽き飽きしてくるというわけだ。
「ああ、そう見えるかもしれないけど……場所は間違いない」
そう、見えた場所は間違っていない。
そして、浅海の指した場所は間違っている。
トランプの上、すでに鉛筆で真っ黒になっているそれはいい加減に破れそうだ。
「あー、もう! 今日はもうやーめた。だいぶ近づいてはきたけどまだまだ全然ね、そう、ポイントは掴めてるんだけど……ねぇ、さっきから何読んでるの?」
俺の手にあるのは宝探しを描いた小説。
オルメカ文明の遺産を探すとかいうストーリーで、主人公は考古学の教授……などというどこかで聞いたような話。
「宝探し……ま、実際に宝が見つかっても土地の持ち主やその州、国やらとの権利関係がややこしい場合や遺跡を破損してしまった場合とか、そういった大切なことを無視してるけど小説としては面白い」
トランプを片付けながら、なにやら考えている様子の彼女。
「ふーん。宝探しね……魔術師的な宝探しなら私も興味あるけどね」
「へぇ、魔術師的な宝探しか。一体何を探すんだ? 聖杯とか、ロンギヌスの槍とか?」
アイルランド関連の話に登場するといえばアリマタヤのヨセフがイングランドまで持っていったという聖杯だろうか。
このアーサー王伝説の聖杯はランスロットの息子にして最高の騎士ギャラハッドが見つけ、聖杯を発見した土地で王となった彼が昇天した際にどこかへ消えてしまったというが……実際はどうなったのだろうか。
「聖杯、ロンギヌスの槍……そういった伝説関連のものはいくつか実在するわ。特に、武器とかなら創り手が今でも健在なわけだし」
「ああ……確かに。それなら武器関連は実在するか……そういったのが宝探しか?」
「ええ、そういう宝探しをする人もいるわね。私はもっと現実的に金銀財宝の方が好きだけど」
「金銀財宝か……そんなの探す魔術は無いのか? もしも場所がわかれば、スコップが砕け散るまで掘り続けてやるけど」
そう、一山掘り当てられるのなら腕が砕けたとしても構わないかもしれない。
死ぬ寸前で発見……というオチが無ければ、だが。
「腕の良い占い師なら見つけるんじゃない? 私の知り合いにはいないからわからないけど、そういうことしてる人もいるらしいから」
「その人の弟子になれたら、一生『師父』と呼んで崇めるよ。実際に宝を発見できたら神として奉って、神殿でも何でも建ててやる」
冗談半分の口調でそういった俺、実際に見つかれば本気で神と崇めるくらいはするだろうな。
それを見た浅海はやや呆れ気味。
「才能も無いのに何言ってるのよ……それより、疲れたし、苛々したから夜風にでも当たりながら散歩でもしない?」
面倒なことを……そう思いながらも外に散歩に行こうという誘いに乗ってやることにする。
ねっとりするような暑さがきっと不快だと思うが、それでも空は綺麗な星々に飾られているはずだ。
「散歩は良いけど、一体どこまで行くんだ?」
「別に、考えてないけど。どこか見晴らしの良いポイントでもあるの?」
少し考えて、ちょうど良い場所を思いついた。
「アデットの塒なんてどうだ? あの教会の近くは静かだし、わりと景色も良いらしいぞ」
「……冗談でしょう? アデットの近くなんてうろついてたらきっとロケット花火でも打ち込まれるわよ。特に、夜はあの人の性格が余計に悪くなるから……」
呆れたような顔の浅海がそう言ったのは尤もかもしれない、確かに俺は浅はかだった……あの人はそれくらいイタズラの範疇で済ませるだろうから……止めておこうか。
「じゃあ、学園にでも潜り込んで時計塔の上に登るとか?」
図書館と一体化した塔、その上に時計があってかなり高いそこからの景色はなかなかのものだとか。
「どうでもいいけど、そんなことをすれば警備員に捕まるわよ?」
「俺は兎も角お前は違うだろ?」
「そうかもね。でも、捕まれば停学食らうかもしれないのよ?」
「かもな。でも、景色はなかなからしいぞ」
「……そういった類のスリル、私はわりと好き。貴方にしては面白そうな考えだわ。目的地は学校の時計塔で決定、でいいわね?」
「ま、自分で言ったわけだから当然だな。綾音はもう寝たかもしれないから、さっさと出かけるぞ」
すぐにその場を片付けた俺達はそのまま学校まで散歩に向かった。
夜だというのに外はやはり暑かった、予想していた通りだ。
しかし、空は実に綺麗だった。
通り過ぎる車、そのライトが俺達を照らしたが制服を着ているわけでもないのだから高校生だとばれる心配などしなくても良いだろう。
仮にばれても学校までばれなければ問題ない。
歩く人もそう多くなく、たまにランニングをしている人とすれ違ったりするくらいだろうか。
「あー、やっぱり止めておけば良かったわね……暑いわ」
苛々は解消されていないのだろう、浅海は大儀そうになってきた。
とはいえ、俺の家から学校まではわずかな距離だからそう長い時間も掛からなかった。
「ほら、あそこに警備員が常駐してる。裏口から行くか?」
校門の脇にある常駐所にわずかに視線をやりながら、警備員に気付かれないように隣を歩く浅海に侵入経路の検討を諮る。
そのまま校門の前を通り過ぎて、学校のまわりの壁に沿って道を曲がった。
「いいえ。裏口は止めておいたほうが良いわ……歴史上、難攻不落といわれた要塞には必ず一つ弱い場所が用意されているの。その場所に行けば……罠で敵は全滅よ」
「……いや、ただの学校だから」
「甘いわね。ここはアデットが暇つぶしに警備強化を図ったような場所よ、何か魔術的な罠でも仕掛けられていたらどうするの?」
なんて楽しそうに話すんだろう……コイツは完全に乗り気だな。
しかし、警備員の常駐などは確かにアデットが考えた学校荒らし対策だとか……そこまでする高校はそれほど無いと思うが、資金さえあれば大抵の無茶でも通るものだ。
「じゃあ、どうするんだよ? 壁をよじ登るって言っても……3メートルくらいあるだろ?」
「壁をよじ登るのよ……確か、この辺りは何も無かったわね」
そういうと、さっと地面を蹴って一気に飛び上がる……なんと彼女は軽々と壁の上に上ってたのだ。
立ち飛びで……何メートル飛んでるんだ、コイツは?
唖然とする俺を見つめると……
「さっさと来なさいよ」
当然の如くそう言った、人間の体の構造を忘れた魔術師の言葉は本当に理解できない。
「いや……こんな壁、立ち飛びで駆け上がれるわけ無いだろうが!」
「仕方ないわね……」
呆れたようにそういうと、俺の横に降り立ちすぐに俺を抱えて壁を飛び越えてしまう。
どうでもいいが……立場が逆じゃないか?
「……ありがとう。悪いが帰るときも頼む」
「ええ。それより、罠の気配は無いわね? 油断しないで、時計塔まで一気に走るわよ!」
周囲を見回した途端、風のように走っていった浅海。
「え? あ、浅海……くっ、マジかよ」
遅れに遅れた俺もすぐに彼女について走った。
大丈夫だ、場所は同じなのだからはぐれても問題ない。
時計塔までようやく辿り着いたとき、辺りを見回して侵入経路を考えていた浅海は扉を思いっきり殴りつけて破壊してしまおうとしていた。
「ストップ! ストップだ! 止めろ、それだけは止めてくれ」
渾身の一撃が俺の声にようやく止まる。
「なに? 声が大きいわよ……」
「バカかお前は! そんな正面突破なんてしたら警備員がすぐに駆けつけるだろうが」
「警報装置は止めたわよ、というより……一時的に麻痺させたから問題ないわ」
そういう問題ではなかろう。
大切なことが何一つわかってないよ、この人は。
「アデットが犯人を見つけるのは簡単だろうな」
そう、そもそもこんな芸当をする人間などすぐに思いつくだろうが、なお証拠まで残すというのはいただけない。
「あ……そういうこと。確かに、それは考えて無かったわね。でも、困ったわ」
「なにが?」
「問題は簡単じゃない。そもそもどうやって登るの、この塔を?」
浅海が見上げた塔は実に十メートル以上あるだろう、とても飛んで登れる高さではない。
フリークライミングの真似事などして死ぬのは真っ平だし、あきらめた方が良いか?
「ははっ……いや、流石にこれはあきらめるか?」
「それは面白くないわね。そう、途中で挫折するのは私の主義じゃないわ……飛翔のオガムを使いましょう」
「正気か? お前、今日は全然当たってなかったじゃないか」
「正気よ。場所を貴方が選べば問題ないわけだから……そうね、靴にでも描く?」
○○○○○
嗚呼、この不公平は超人的な運動神経を持つ浅海とただの人間の俺の違いだろうか?
オガムを靴に書くというとんでもない離れ業により、確かに体が宙を舞ったのだが……彼女が壁を駆けるように塔を登ったのに対して俺は……風船みたいに靴が上になって、体を釣られたようにして上っていったのだ。
怖くて靴から手を離すことさえ出来ず、塔の上に来たときに浅海がどこかから取り出したロープで投げ縄みたいにして捕まえてくれるまで死ぬ思いだった。
ようやく床に脚をつけることが出来て、本当に安心する。
すぐにオガムを破壊して、空に逃げようとした靴を黙らせてため息をつく。
「いや……ありがとう。滅茶苦茶怖いな、これ。靴が脱げかけたときは死ぬかと思ったぞ。なぁ、帰りはもっと怖くない方法で帰ろうな」
「……」
俺の方ではなく、時計塔の上から見える街の絶景を眺めていた彼女。
「すごいな……俺も初めてみるけど、夜のこの場所は最高だな」
「ええ、確かにすごいわね」
小さな宝石箱を床にぶちまけたみたいな、1万ドルくらいの夜景だろうか?
それでも、十分に魅力的な景色だった。
しばし、二人は言葉さえ失う。
二人の背後で時計が12時の訪れを告げていたが、実にロマンティックな光景にそれさえ忘れかけていた。
しかし、その最高の状況が……最悪の崩れ方をしてくれた。
「ありゃ、お嬢様じゃありませんか……こんなところでなにを?」
オッサンのダミ声がどこかから聞こえた。
二人が同時に振り向くと、腹の出っ張ったようなオッサンが空を歩きながら塔の中に入ってきたのだ。
「……アドルフ、家を留守にしたの?」
髭を生やして、執事が着るようなスーツを着ていて、酒を飲んだような赤ら顔の外国人はなんと壁を歩きながら天井で立ち止まってしまった。
「失礼、どうもこの体勢の方が落ち着くもんで。ですが、留守にして取られるようなモンがある家じゃないでしょう、あのあばら家。工房の中に入れるのは魔術師だけでしょうし……おや、小僧、お前確か公明? こんなところで何してんだ?」
悪びれもせずにそういう使い魔は実際、格好の悪い吸血鬼そのものに見えた。
「ああ、さいでしたか……申し訳ありゃせん、お嬢様。どうもいいとこを邪魔しちまったみたいで」
クスクス笑いながら、実にむかつく喋り方で厭味ったらしくそういうアドルフ。
「ち、違うわよ! ……でも、どうして貴方が、ここに?」
首をひねり、その口から鋭い牙を除かせる使い魔は意外そうに言った。
「は? いや、ここは散歩の巡回コースで、いつも来てやすが?」
うわぁ……俺達、こんなオッサンの縄張りにわざわざ入り込んで夜景が綺麗だとか思ってたのかよ。
しかも、いつも来てるのか……勘弁してくれ。
「この前なんて、別嬪のメスがいたので……へへっ、ここでズッコンバッコン……わかるでしょう?」
それを聞いていた浅海の顔は真っ赤になっていた。
自分の使い魔のアホさ加減に激怒しているのか、あるいはこんな低俗なオッサンが使い魔であることが魔術師として恥ずかしいのか……多分、両方だろう。
「死になさい、この……よくもこんな場所で、不潔よ!」
「はぁ? いや、なんで怒ってらっしゃるんでそもそもこういう場所の方が女落としやすいでしょう? あ、いや……お嬢様? 一体何怒ってらっしゃるんで?」
その夜は、まさに吸血鬼と魔術師の戦いというものを目の前で見せ付けられた気がした。
霧にはならなかったが、わずかな距離を時間短縮して瞬間移動する使い魔。
手に炎を握り、それを放つ魔術師……よく気付かれなかったものだ。
時計塔は何とか朝までに修復され、この夜の事件がばれることは無かったがこれ以降この場所を訪れようという誘いの言葉はお互いかけることが無くなった。
あのアホ使い魔は……大怪我したらしいが、次の日にはピンピンしていたみたいで、何でもあの土地の土がよくあうのだとか何とか……もう俺の目の前に来て欲しくない災悪を呼ぶマスコットだ。