『あ、お父さまですか。わたくし、レナです……ええ、今こちらは夜の7時を少し回ったところですわ。そちらのご都合を考えずにごめんなさいね、わたくしもう少しお電話の時間を早めようとしたのですけど、アーデルハイトさんが例の呪いの新しい糸口についてお話くださったのでそれに時間がかかりましたの。本当にあの方はわたくしによくして下さって、お婆さまのご慧眼に間違いはございませんでしたわ――』
俺が見ている前で国際電話をかけているのは黒いネグリジェ姿の浅海、この人は本当にどうしてこう……性格に似合わずフリフリなのを着たがるのか?
ここは彼女の家――俺の家から30分以上は自転車をとばさなければならないような場所にある古い、小さな洋館、その地下室の中央に置かれた縦横二メートル近い奇妙な箱型のガラスに覆われた『大豪邸』の中なのだ。
外から見える洋館はアデットの話とはだいぶ違う、どれだけ広く見積もっても60坪に満たないの土地に立つ家だった。
部屋もそれほどなく、家具も実に質素なもの……家に来た人がいればそれを見たとしてもこの家が特に金持ちとも思わないだろう。
だが、このガラス内の大豪邸はどうだろう? 恐らくアデットが言っていたのはこちらなのだろうが……俺の家くらい? 冗談じゃない、絶対にもっとでかい!
まずは邸宅の周りの庭、というよりもすでに森という周囲の大自然は数キロ先まで木しか見えない。
電球が一つだけの、暗いはずの地下室の中なのに月が昇り適度に明るく、何も手を加えなければ昼間に太陽が昇り、雨も雪も外と同じに降る。
ガラスの容器の中なのに川が流れ、森からは獣の鳴き声も聞こえてくる、その中央に立つレンガ造りの豪奢な邸宅はまさに貴族の住まい。
それはまさに魔法としか形容することが出来ない、体積や質量をまるで無視した異空間に建設されたマクリール家という魔術師の創り上げた研究成果の一部は、ガラスの箱から延びた電話線や電気コード、水道管がこの家の明かりや水道を補っているらしい。
しかし、こんな地下の一室に大豪邸を作り上げているとは誰が思うだろうか? しかも、豪邸が必要とする電力などは全てコンセント一つで足りて、蛍光灯くらいの電力しか使わない。
ほとんどタダで、まるで海外のリゾート地に立つ富豪たちの城のような邸宅での暮らしを再現できるとはうらやましい限り……コイツは、どうして俺の家になんてたまにやって来るのだろう? 疑問だ、疑問以外の何者でもない。
『ええ、わたくしもお父さまにお会いしたくて、本当に毎日涙を流すような思いで過ごしておりますわ。お母さまはお元気かしら? お爺さまはドイツからお戻りに? パトリックは? もう、そう云う事ばかり……プレゼントですか? わたくし、決して多くは望みませんわ、ええ、ほんのアレクサンドライトのリングと2万ユーロほどのお小遣いだけで結構ですわ――え、すぐに用意してくださるの? ありがとう、お父さま! 愛しておりますわ、それではお休みなさいませ』
何を話していたのか、こっちにはまったくわからなかったがガッツポーズをとっているところを見ると何かしらうまくいった様子だ、この前やってたワールドカップの優勝国を当てる賭けに勝ったのだろうか?
アデットはなにやら贔屓のチームが振るわなかったらしく、かなり面白くなさそうだったが浅海は毎日大騒ぎしてたからな……いくら買ったんだろう?
『あーははは、最高! 賭けにも勝ったし、おねだり作戦は成功したし、もう言うこと無しね! ほんと、この調子で今度は車でも買ってもらおうかなー』
電話を元に戻すと、勢いよく椅子から立ち上がった美少女は指を鳴らして喜びを爆発させた。
何を言っているのかよくわからない俺にも、その喜び方からすごく良いことがあったのは予想できた。
しかし、何かを思い出した様子で再び電話を片手にすると、またどこかへ国際電話。
『こんにちは、こちらレナですわ……ええ、アイルランドの――それで、この前の賭けの賞金全額をわたくしの投資に追加していただける? ええ、それについては我が家の代理人をしていらっしゃる弁護士のジャック・マクナマラにお聞きしていただければわかりますわ。番号は○×○○○-×××、ダブリン市内の番号を探せば住所もわかりますから、よろしく。それで、わたくしの投資利益についてはケイマン諸島の口座にいつものようにお願いね、ええ……おほほ、わたくしこそ貴方のことは素晴らしい運用屋とかっていましてよ、ではさようなら。あー、言い忘れていましたけど、お父さまかお母さまにこのことを話すようなヘマをされたら……全資産を他へ移しますからそのつもりで。ふふ、怖がらないでくださいね、これでも本気ですから。それでは、今度こそさようなら』
今度こそ完全に用事が終わったのだろう、電話を戻すと椅子を立ち上がり、コーヒーをいれた。
そして、そのついでに書棚から本を一冊とると再び机に戻ってそれを読み始める。
「おい、新入り。飯食わねえのか?」
突然聞こえた声に、そちらを振り向くと黒くて大きな体の『犬』。
浅海の使い魔というその黒い犬はよく手入れされているのだろう、光沢のある上品な毛並みの狩猟犬で足も長く、1メートルを大分超えるほどの大きさで、首輪はしていない。
その犬が俺に差し出しているのは、明らかにドッグフード……
「なあ、アンタ。俺、この部屋につれてこられたときから言ってるだろ? 俺は人間だって!」
それを聞いて、明らかに馬鹿にした様子の犬は鼻で笑った。
「へい、ブラザー……頭大丈夫なのか、あン? 野良なんてやってると、ヤバイ物にでも簡単に手を出しちまうのはわかるがよ、自分を人間だっていう犬はお前さんが初めてだぜ。ラリッてんのなら、まあ……なんだかな」
「だーかーら! 俺は篠崎公明って言って、浅海の知り合いの魔術師見習いなんだって! それで、目が覚めたら何故だか道端に寝てて、たまたま通りかかった浅海が捨て犬と勘違いして俺をここに運んできたんだよ!」
それを聞いて、犬はケタケタ笑い続けた――笑う犬……実物を見ると、なんて腹の立つ奴だ。
「おいおい、なんでお前がマスターの名前を知ってるのか知らねえが……確かに、そいつは傑作だぜ! うけるよ、俺が新米ヤロウにここまで笑わされたのは初めてだって言うくらいにお前面白いよ」
「ああそうですか! ……なぁ、アンタ」
「アドルフだ。一応この街の裏仕切ってる顔役だからよ、困ったときは相談しな。それで、新入りは……公明だったな、あっはははは!」
このクソ犬……流石に飼い主があれだと、使い魔もこうなるよな……しかし、コイツは飼い主以下かもしれない。
それに、裏って……犬社会のことだよな? なんだか、マフィアっぽいんだが……気のせいということにしておこう。
「……で、アドルフ。アンタ、使い魔なら浅海と話せるんだろ? 俺のことをちゃんと話してくれれば、何とかなるはずだからアイツに話しかけてくれないか?」
腹がよじれるくらいに笑っていた犬は体を起こすと、まだ笑いの残った顔で俺の頼みに対する答えを発した――しかし、なんだ……どうして、いや、今俺が犬になったからかもしれないが、こう……犬の感情がよくわかるのもかなり複雑だ。
「ブラザー、マスターに話せっていうがよ……あのガキ、そもそも犬の言葉がわからんでもないんだぜ」
このクソ犬、この上俺をからかおうという算段か? 如何に浅海が魔術師とはいえ、動物の言葉までわかるとは思えない! そもそもアデットも確か動物の言葉はわからないといっていたのだから、可能だとすればそれはよほどの特殊技能のはずなのだ。
「嘘吐け! 俺の知ってる魔導師だってそんなこと出来ないって言ってたんだぞ」
「そりゃそうだ。それが当たり前ってもんだからな、でも、あのガキはちょっと特別なのよ……何しろ、化け物みたいに綺麗な狼に化けやがるからな。お前は知らねえだろうが、俺は痺れたね……小便臭い人間のガキだとばっかり思ってたが、ヤロウ……信じられねえ位に犯りたくなっちまうぜ。保障する、あれを見れば他の牝なんてどうでもよくなるってな」
「……」
浅海……お前の使い魔、かなりイタイ奴みたいだぞ……っていうか、お前、狙われてる。
呆れた顔で見ていたせいだろうか、アドルフの奴は流石に笑うのを止めて、咳払いをすると真面目な顔に戻った。
「ブラザー……もし今のこと、マスターが俺たちの言葉を理解できるときにばらしやがったら……打ち殺して、便所に流すぞ。覚えとけ!」
その上、この不良じみた使い魔はあからさまに恫喝してきやがった……ますます真実味を帯びてきたマフィア疑惑だが、犬ならまだ可愛いものだろう。
何たって浅海の地元はアイルランド……アイリッシュ・マフィアといえばアメリカでも結構危ない連中だ、尤もそれは俺の先入観だけど。
「その……なんだ。アンタが勝手に自爆したのは構わないけど、結局のとこ……浅海はいつ俺達の言葉を話す気になるんだ?」
「知らねえよ。気分ってやつだろ? 人間はよく言ってる、気分が乗らない、とか何とか……ただ、俺はこんなことも出来るから、そんなのはどうでも良いんだがな」
そう言うと、横に座ってドッグフードを食べていたアドルフの体が人間のように立ち上がり、その犬の顔がだんだんと人間の男のものに変化していった。
犬のときの上品な感じとは違う、山男のようにワイルドで毛深い40代くらいの、筋肉質の小男。
黒いタキシードを着ていて、よく映画で見かける如何にも執事のような服装だった――ただ、この服装は明らかにこのおっさんには似合っていなかったが。
『レナお嬢様、今日お嬢様が拾ってこられたこの犬、どうなさるんで? まさかここで飼うつもりですかい?』
何か聞き取れるのだが意味のわからない言葉で、コーヒーを入れて読書を始めていた浅海に話しかけたアドルフ。
面倒そうに開いていた本を閉じた浅海は、男を目の前にしてもネグリジェ姿の体を隠すこともなく、平然とした態度で対応した。
『何? まさかこの私に文句でもあるの、貴方』
『いいえ、滅相もありやせん。お嬢様の仰ることが全てでさあ……ただ、どうもあの新入り、ちょっと……頭酷く打ったらしくて、自分が人間だとか訳のわからないことを言ってやして……正直、俺もああいうイカレタのと一緒に暮らすのはきついんで、何とか考えてもらえませんか?』
『自分が人間? へぇ、そんな事言うのがいるんだ』
『へえ、左様で』
何か言った後、急に無表情になった二人はじっと見詰め合ってしまった。
まるで時間が止まったかのような瞬間だった。
『……』
『……』
しかし、緊張は一瞬だった。
『あははははっは、ふははは!』
二人のバカ主従は大爆笑、それは言葉がわからないこの状態でも完全に理解できる。
最低だな、こいつ等。
『あー、苦しい。本当に、そんな馬鹿な犬もいるのね。私、そんな事言うのは阿呆な飼い主が人間みたいに飼ってる、堕落しきった軟弱者だけかと思ってたのに、まさか野良でいるなんて、ほんと傑作だわー』
『まったく、俺も最高でさあ。アーデルハイトの姐さんもきっと爆笑されるでしょうよ』
『かもねー。でも、アデットは言葉わかんないから……じゃ、私がちょっとあの子と話してあげるわ』
何か言った浅海は席を立って、床に座っている俺のところに歩いてこようとしていた。
そのとき、急に何かの音楽が流れてきた――まるで警報のようだ。
『あ、お風呂がはいったみたいね。アドルフ、私、ちょっとお風呂だから服とタオルを用意しておきなさい』
『へえ、かしこまりました』
浅海は俺の目前まで迫りながら、急に方向転換。
部屋の扉を開けると、外へ出ようとした――よくわからないが、このまま浅海を行かせると俺が元に戻るまで時間がかかることは明白だ、絶対にこの場で俺の話を聞いてもらわねば!
駆けた、浅海に向かって慣れない四本足走法で駆けた。
『? 何、私に用があるのならお風呂の後にしなさいよ。まったく……アドルフ、この子いくつくらいの男の子なの?』
俺が足元にまとわり着いたせいで、風呂場までいけなくなった浅海が後ろを振り向いて自分の執事兼使い魔にきいた。
『はぁ……人間の年に直すのは難儀ですが、恐らくレナお嬢様と同年代くらいだと』
『ふーん。自分が人間だっていう男の子で、私と同年代ね……ひょっとして自分が人間だと思ってるから私に欲情でもしてるの?』
内容はわからないが笑いを含んだ言葉だった、コイツは確実に俺の今の事態に気がついていない。
『あはは、だとしたら笑えやすが……ヤロウ、お嬢様に気があるんじゃなくて、拾って飯まで恵んでくださったお嬢様に感謝してるだけでしょう』
『ああ、なるほどね。確かに、そういうこともあるかもね……あら、ちょっと汚れてるわね。よく見れば、埃や泥でちょっと汚いわ……仕方ないわね。家を汚されるのは嫌だし、お風呂で私が洗ってあげましょう。アドルフ、この子を拭くタオルも用意しておきなさい』
『へえ、了解でさ。ですが、お嬢様』
『ん?』
『……ヤロウに気があるなんて仰らないでくださいね』
『……あはは、私が犬に気がある? んな訳ないでしょう、それって変態よ。本当にしっかりしなさい、貴方は私の使い魔なのよ。私の心くらい読みなさい。わかったら、さっさと用意する!』
そう言うと、俺を腕に抱えた浅海はそのまま廊下に出た。
木目張りの実に味のある廊下にはどこかの美術館にでも飾れそうな絵が何点か掛かっているが、大部分は絵の右端に彼女のサインがあることから本人が描いたとわかる。
確かに他のものと比べると数段落ちるのは仕方ないが、それでもどこかの美大で勉強でもしなければ描けないと思うほどのレベル。
色彩豊かで写実的な風景画はアイルランドの城や森、彼女自身、厳しい表情の老婆といった身近なものばかり……それなのに父親や母親、友達の絵さえないのは魔術師としてほとんど閉ざされた世界から出たことがなかったことが原因かもしれない。
想像に過ぎないが、俺は絵を見てそう感じた……日頃見る彼女のわがままや馴れ馴れしさは人との付き合いの少なさが原因……だと思えば、なんて気の毒な奴なのだろう、という同情が心に芽生えた。
きっと浅海はそんな俺の気持ちなど笑い飛ばすだろう、それでも俺は寂しさを寂しさと認知できない彼女という人格に同情する。
『あら、急におとなしくなったわね、貴方。何? 私の絵、犬にもわかるの?』
何か言いながら浅海は階段の下の部屋に入るとそこの電気を点灯させた、古いインテリアの邸宅の中でこの部分は実に近代的だった。
『さあて、貴方は裸だから良いけど、私は脱がないといけないから少し待ちなさいね――』
浅海が何を言っているのか俺にはわからない、それは本当。
次の瞬間、浅海の奴は急に服を脱ぎ始めた!
いや、風呂に入るのなら服を脱ぐのは当たり前だがいくらなんでも急にそんな……眼を閉じる前にちょっと、いや、かなりその裸が見えた……ヤバイ、どう言い訳すれば良い?
衣擦れの音がした、いつもよりその音がよく聞こえたのは犬になっているからかもしれない。
音だけで想像出来てしまう自分の妄想力はなんて罪深いのだろう?
『さて……と。あら、何、本当に自分のこと人間だと思ってるのね、貴方。ちゃんと眼まで閉じて、レディに対する態度がわかっていて大変よろしい』
何か言ったあと、急に浅海が俺の頭を撫でたのはすごくびっくりした。
しかし、驚きながらもしっかりと眼だけは閉じていた。
『でもね、私も犬に見られたからって怒ったりしないんだけど……まぁ、照れるような変わった犬もいるのは面白いけど、ほら、目を開けていいのよ』
何を言っているのかわからないが、取り敢えず目だけは開けるつもりなどない。
開ければ後でどんな言い訳をしても、相手にどれだけ落ち度が会っても俺は許してもらえそうにない。
つーか、死んでしまえば許してもらっても仕方ないわけで……ここで目を開けると、俺をこっちの世界に繋ぎとめている大事なものが消えてなくなるのだ。
『……仕方のない子ね、人間のままだと目も開けてくれないのかな? ……じゃ、狼なら良いわけ?』
目の前でわずかに風が巻き起こった気がした、すごく嫌な気配が……背中の辺りを突き抜けていく。
古傷が痛むような嫌な感覚、目を開ければ叫びだしそうな気配、この迫力はいつかの夜に感じたものに酷似していた。
「ほら、目を開けても大丈夫よ。今、人間の姿じゃなくて狼だから」
それはいつもより若干ソプラノのような気がしたが、浅海の声に間違いなかった……何しろ、この家にいるのは浅海とあのオッサンだけなのだから間違えるはずもないのだ。
いや、取り敢えず眼を閉じているうちに自分のことを告げなければ、この先の寿命が失われてしまう!
「あ、あのな、浅海……俺の話を冷静に聞いて欲しいんだ。冷静にだぞ、冷静に……頼むから、いきなり怒ったりするなよ」
「? 気のせいかしら、貴方の声って……私の人間の知り合いによく似てるのよね。それに……どうして私の名前を知っているの? ……嫌な予感はするけど、一応、貴方の名前を教えてくれる?」
「あははは、いや、そんな怖い声出さないでくれよ。冷静に話し合わないとよくわからなくなるから、兎に角、冷静にな? いいか、本当にパニックになりそうなのが俺だってわかってくれよ……俺は篠崎公明だ」
一瞬、相手が『へ?』といったのが判った気がした、とても間抜けな声だったがそれだけに嵐の前の静けさということもある。
「……キミアキ? あの、アデットの弟子のキミアキ? アヤネによく投げ飛ばされてたり、バカみたいに扱かれてるあの……」
コクリ、首が縦に動いたことで相手の疑いと笑いを含んだような声が急に掻き消えた。
氷河さえあっという間に氷解してしまいそうなものすごい熱を感じた、浅海の顔が真っ赤になったのだろう……これは危険などというレベルではなくなっている、目の前にいるのは華奢な女の子どころか凶暴きわまる人狼なのだからそれも当然だ。
「怒るなよ、そして殴るなよ。俺にもよくわからないし、ずっと眼は閉じてたからな」
沈黙が長く続く。
「ふはっ」
沈黙の中でなされたのは小さな笑い。
「……ふは、あはははは……」
あー、やっぱり壊れた、のだろうか?
ピントの外れたような氷の冷たさを含んだ笑いだった。
「アハハハ、貴方は今まで私の家に居たのよね? アハハ」
「いや、だからそれはお前が勝手に連れてきたから……」
「居たのよね? フフ」
「ああ、でも俺はちゃんとお前の使い魔に伝えるように言ってたし……」
「見たのよね? 見たんでしょう、私の私生活、見たわよね! 違うなんていってみなさい、その首へし折って川に投げ捨てるわよ」
「見はしたけど……人間の言葉はよくわからなかったし、お前がその、ネグリジェ姿で電話してたところしか……」
「アッーハハハハハハハッハハハハハ! どうして貴方がここにいるの? どういう魔法を使ったの? アデットの差し金かしら? どちらにしても貴方、今すぐ死んで。ほら、さっさと死んで。私のために死んでよ」
「あはは、いやー。冗談きついな、浅海さん」
俺も笑いながら相手に答えた。
「ハハハ、冗談? そう、貴方にとってこういうのって冗談なの」
もう真っ赤になっているはずの浅海はそれでも笑いを崩さない。
「言っておくけど、このままだと『エクスター公爵の娘と結婚する』選択肢しかないから……慎重に答えなさいよ」
エクスター公爵って誰? ましてやその娘となんで俺が結婚なんてする?
「アハハ、だから、俺は目が覚めたら道端に転がってて、どうしてだかよくわからないけど……お前が俺を拾ってここに連れてきたんだよ。でも、俺は何度も言ったからな、ちゃんと俺は篠崎公明だって叫んだし……それより、エクスター公爵ってお前の親父さん? その娘ってお前か?」
次の瞬間は鋭い刃と化した声、この人はマジで怒ってる。
「は? 訳の分からないことを……目が覚めたら突然? 馬鹿じゃないの、そんな言い訳何処を探したら思いつくのよ、その程度の低い脳みそは本当に飾りなの? え!」
頭をゴツンと殴られた、猫パンチみたいなものだったが人狼の馬鹿力のせいで滅茶苦茶痛かった。
「つぅー! 止めろよ、痛いなー。このバカ女!」
頭に手をやると、そこにタンコブが出来ているのがわかる。
「馬鹿ですって! 満足な言い訳も思いつかないくせに……そうね、教えてあげる……『エクスター公爵の娘』は十六世紀にロンドン塔の城守をしていた三代目エクスター公爵が考え出した拷問機のこと、『結婚』っていうのはそれにかけられることなの……お分かり? この家、そのレプリカが置いてあるのよ。もう一回でもふざけた事いうと、貴方にどれほど効果があるか実証してもらうけど? 早く人間に戻りなさいよ、犬の格好なんてして……この私を馬鹿にしてるのなら、本当に許さないんだから」
「冗談じゃない、拷問なんてしなくても俺は本当のことしか言ってないって! 目が覚めたら本当に道端に倒れてて、どうしてだか分からないけどこの体から元に戻れなくなったんだよ! いいか、例え腕をへし折られたってそれ以上の説明なんて出来ないからな」
大声でそれだけ言うと、流石の浅海も一瞬考えた様子だった。
短いながらも思考があっという間に結論を導き出していたのは彼女の天才によることころかもしれない。
「ん……あ! そうか、確かにそれはおかしいわ。アデットの魔術さえ効果のないキミアキを犬に変えるなんて、そんな大魔術はそれこそこの世の中に存在しないもの……ええ、そうよね、そう。ごめんなさい、確かに貴方が自分で変身したとか言うのは私の想像の飛躍だったわ」
ひとまず肩の荷が下りた気がした、一番の難題を解決した今、彼女が何とかしてくれれば俺の問題もすぐに解決するはずだ。
「ふー、よかった。何とか分かってくれたんだな、それより俺もそろそろ目を開けたいから……その、服とか着ろよ」
「別に目なら開けても良いけど、今なら狼の姿だし。さっきは怒ったけど、あれは人間の姿を見られたからよ……因みに、そっちは後でシバキ倒すから安心して、取り敢えず今は大丈夫だから」
「な、何言ってんだお前! 裸なんだぞ、それにお前女、俺男だぞ!」
「はぁ? 犬の姿なんだから別に気にするようなことでもないでしょう? それとも何、貴方今すぐにでも人間に戻りそうなわけ?」
「そりゃ……確かに違うけど、やっぱり倫理的によくないだろ」
「あのね、キミアキ。貴方は犬を見て興奮したりする変態なの? 私、そういう人とはちょっとね……ま、昔のギリシャ人なら分からなくもないわよ……ミノタウロスみたいな神話があるくらいだから。でも、現代の日本人でそれって……ねぇ? やばくない?」
「そんな訳ないだろ! それじゃ完全に人間辞めてるじゃないか」
「そうでしょう。それなら別に良いじゃない、タダの犬だし。キミアキもそういう意味なら私の人狼姿前に見てるでしょう? あれに興奮しなかったのなら同じことよ。それにお風呂入って汚れ落としても別に気にならないでしょう? 犬だし」
「……そういや、お前の使い魔のアドルフだっけ? あれ、お前のその変身した体、狙ってるぞ」
「へぇ、そうなんだ。別に良いんじゃない? 寝てるときには薬のお陰で変身しないし、起きてるときなら自分の使い魔がどうこう出来る訳もないし……それより、お風呂に本気で入らないの? 対策考える前に綺麗になってもらえないと家の中を歩かせないわよ」
「……良いんだな? 俺が目を開けても、絶対に後で俺を殴ったり、喚いたり、兎に角危険なことをしないな?」
「しない、しない……構わないから、さっさとしなさいよ。お風呂に一緒に入った後で私が着替えるまでは待ってもらうけど、取り敢えず目は開けておいた方が便利でしょう?」
「じゃ……開けるぞ」
そう言いながら、ゆっくりと目を開いていった。
目を閉じていたために風呂場の明かりがすごく眩しかったがすぐに鮮明になっていく、そして俺の目の前にいた美しい銀色の狼に気がつく。
何時ぞやの夜とは違い一メートルを少し超える程度の大きさで、その毛並みが光っている錯覚さえ覚えるほどの、体が震えるほどに綺麗な狼……赤い瞳で、本物の狼と同じ骨格で以前のように立ったりすることはないようだ。
「ほら? 別に気にすることでもないでしょう?」
美しすぎる狼が告げた、それは人間の目で見ればただの恐怖の対象以外の何者でもなのかも知れないが、今のように犬の目で見れば彼女の姿はすでに高貴な芸術の粋にさえあった。
吸血鬼ベルラックがその血に塗れた悪名に反する幼き美の化身であったのと同じで、あれを人間から狼に置き換えるとこのような姿になるのではないかと思わせたほどの美しさだ。
「……うぁ」
「あ? うぁ、って……私を見て吐き気でも催したの? それって……そのまま死刑判決受け取れるわよ」
思わず漏れた感嘆を極端に歪曲して受け取られたことは心外だったが、タイミングを考えればそれも仕方ない。
「違うって、ホント……犬の目で見れば、すごく綺麗だなって……思ったんだ」
つい考えもせずに本音を口にしていた……それを聞いた浅海は一瞬呆けたような表情になった。
犬だから分かるが――恐らく人間が見てもその表情の変化などわからないだろうわずかな変化なのだが――彼女は顔中真っ赤になってしまった。
「バカ! おかしなこと言わないで! ……変態! 狼になんて興奮して……この色情狂!」
真っ赤になったまま顔を背けてしまった彼女はそのまま罵詈雑言を投げつけてきたが、すっかり呆けてしまっていた俺の耳にはそれさえ心地よく聞こえてきた。
「いや……綺麗だって言っただけだろ? 何でそこまで言われないといけないんだよ」
「同じよ、馬鹿キミアキ! もう……さっさとお風呂入って人間に戻るから、ついてきなさい」
真っ赤な顔でそのまま風呂の扉を開けると、そこでは大理石張りの風呂が湯気を立ち上らせながら俺達を待っていた。
黒い大理石張りの床は人間の目で見てもかなり広いのだろうが、犬の目で見れば圧倒的だ。
欧米ではシャワーだと思っていたが、浅海の家はそうでもないらしい実に豪勢な浴場だった。
「ほら、そこにボディーソープとかあるから今から体中にこすり付けてあげる。はやく、来なさいよ。犬の体ならちゃんと洗えないでしょう」
そういわれたので彼女の前までいくと、浅海はシャワーの蛇口を器用に回して俺の上にシャワーを流した。
最初は冷たかったが、すぐに人肌くらいになり、次第に心地よい温度になっていった。
すると、俺の腰をついて浅海が割り込んできた。
「ほら、独り占めしない! 私も洗うから、ちゃんと考えなさいよ」
「あ、ああ、悪い。でも、この手じゃ体を洗えないんだけど」
そう良いながら、犬の手になってしまった両手を前に出してみせる。
体中をいったん洗った浅海は一度シャワーを止めると、信じられないくらい器用にボディーソープを手に取りそれで俺の体を洗い始めた。
「私が洗ってあげる、まあ、最初から犬を洗ってあげようと思ってたわけだから同じね……ま、本当は私が人間の姿で、だったけど。やばかったわね、本当に……」
そう言いながら、俺の体の表面をゴシゴシ洗ったものだから体中が泡だらけになっていた。
そうすると、すぐに彼女も自分の体を……なんと人狼の特性であるあの人間みたいな手で洗ってしまうのだからちょっと恐ろしい。
しかし、流石にこの期に及んで俺が自分で洗ってやるというのもおかしなものだから、まあ、仕方ないだろう。
すぐにシャワーでお互いの体を洗い流すと、そのまま湯船に飛び込んだ。
「あー、良い湯だな……本当にお前の家って凄過ぎだ。こんな大豪邸に住んでるのに、どうして俺の家に来るんだ? 俺なら、まずこの家から出ないけどな」
湯船から何とか頭だけを出しながら、それを楽しむ。
犬掻きならあるいは中でも泳げるほどに広いが、正直なところこの格好でうまく犬掻きをする自身がなかった。
俺とは違ってまるで本物のようにうまく泳いでいた浅海は俺の些細な質問に少し寂しそうに答えた。
「ふん、凄い家ね……ま、大きくて立派、それは確かでしょうね。お婆さまが造った魔法の館だから……廊下で私の絵、見たでしょう? あの時、貴方どうして急に暴れなくなったの?」
「ああ……いや、笑われそうだけど、なんかお前って寂しい奴なのかなって……お婆さんの絵くらいしか他人を描いた絵がなかったから、ずっと二人だけだったのかなって……ま、俺の想像だから違ってたら謝るけど」
わずかな沈黙、それが問いの答えを告げていた。
「当たりよ、当たり……私って寂しがり屋さん。本当、貴方は勘が良いのね……運は悪そうなのに、本当にそればっかりは良いんだから……嫌な奴ね、貴方。ま、お母さまやお父さまは大した才能のない人たちだから、お婆さまが私を後継者として育てたいって言っていたのも魔術師としては当然なんだけどね……終いに呪いなんてかけられたら目も当てられないわ」
「浅海……」
「あーあ、本当に下らない話、お涙頂戴の話は大嫌いよ……ワンパターンだもの。それより、キミアキの体でも考えましょうか」
その顔、微かに涙のようなものが見えた気がしたのは気のせいではないだろうが、黙っておくことにした。
「そうだな、出来れば俺もすぐにそれに入りたいと思ってた。何か心当たりってあるか?」
話の話題が変わったせいだろうか、彼女の声色も少し調子が変わった。
「ないわ、はっきり言っておくけど私は知らない。それより、今日の学校はどうしたの? 朝の記憶とかある?」
記憶を思い出していく……今日は7月31日、月曜日……昨日は日曜日だったな。
確か昨日は初めて20キロで50分を切ったんだった、訳判らなくなるくらい疲れて死にそうだったけど、その後……腹筋やらを少ししてから、風呂に入って……魔術本でいくつか練習した後、テレビを見ながら食事で、寝る前に少し本を読んでたな。
読んだ本のタイトルは……忘れたが、確か夏の甲子園に関係した特集をやってたやつだ、うちの高校は野球部弱くて部費が増えても三回戦負けだったけど、中学のときの友達がベンチに入った学校が代表に決まったので買ってたんだ。
それから、すぐに寝て……朝は……いや、なかなか寝付けなくて、しばらくクーラーをつけたり消したりして……結局寝たのは2時過ぎくらいだったな。
それで、朝は……起きて、ん? 起きたのはいきなり道路の上で……俺は……
「――と、まあ、目が覚めたら道路の上にいて、その後よくわからないままうろうろしてたら、たまたまお前が俺を見つけて、そのまま拾ってったんだ」
星霜学園は進学率上昇のためとか言って、夏休み返上で今日も授業があった、だから浅海は学校帰りの姿だったのだろう……俺は……別に任意の補修になんて出る気もないし、出る必要を感じない。
勉強が出来るからじゃない、そもそもそこまでするほどの学校へ行こうと思っていないのだ。
「なに、それ? まったくヒントになる行動がないじゃない。見かけ通りに使えないわね、貴方は……情報が少なすぎる中でどれだけ考えても仕方なさそう。現地へ行って見ましょう、お風呂から出たら貴方の家に行ってみるのよ」
「俺の家に? ま、確かに……それしかないよな。アデットには電話しとくのか?」
「いいんじゃない? 別に、私や、ひょっとすると貴方だけで解決できるかもしれない問題なのに人を頼るのは良くないわ。じゃ、出ましょうか……キミアキはひょっとして長湯する方なの?」
「いや、お前は?」
「私も違うわ、アドルフはそうだけどね」
「あのオッサンが?」
「ええ、ああ見えて格好は気にするから。笑えるでしょう? コウモリなのにね、ホント笑える」
「コウモリ?」
「ええ、元はコウモリ。今は私の呪いの影響で犬になってるの。変わってるわよ、あいつ」
「まあな、でも。お前もあの使い魔も、どっちもどっちだぞ」
「? どういう意味?」
○○○○○
「……どういうこと?」
風呂上りで髪もわずかに湿った黒いジャージ姿の浅海は犬の姿である俺を抱いたまま、クーラーによって室温14度くらいに保たれていた部屋の中で、まるで死んだように眠っていた『俺』の体を見下ろして言った。
浅海は今赤い瞳で、この状態なら人の姿をしていても意識さえすれば今の俺の言葉が分かるし、それを話すことも出来るそうだ。
「俺……だよな? え? だとすれば、どうなってるんだ!」
犬の俺をベッドの上において、浅海はそのまま眠っている俺の脈を取って、息をしているか、心臓が動いているか、瞳孔の具合はどうなっているか、などを調べた。
「……駄目ね、まるで分からないわ。確かに体は生きてはいる、呼吸もしている……でも、脈も心臓の鼓動も生命活動が凄く希薄なの。まるで仮死状態になっているみたい……それに、この体、魂が抜けてる」
真っ青になった浅海は辛うじてそれだけ伝えた。
「魂が抜けてるって……まさか、俺がその、魂?」
この言葉に浅海もギクリとした様子だったが、仕方なく首を縦に振った。
「多分、そうだと思うわ。ちょっと待ってなさい、今クーラーを切って体を温めるから……」
そういうと、部屋のクーラーを切って俺の体に毛布をかける。
そして、背負ってきたナップザックから俺が持っている本によく似た古い魔導書を取り出した浅海はそのページをめくり始めた。
「おい、大丈夫なのか? 俺の体、このまま死んだりしないよな?」
すでに気が気ではなかった、こんな状態で死んでしまったら俺は犬になってしまうのではないか、という危惧も勿論あったし、死にたくなんてない。
「ええい、黙っていなさい。私を信用して、そこに座ってて」
「わかった……」
怒鳴られて、少しショボンとなる。
しかし、俺の本とは違うとはいえ魔導師が綴ったものであるという点では同じだ、それにかかれた知識は今の文明では知り得ないようなことまで描かれているのだろう。
「……難しいわね、物質化した魂の離脱及び動物化なんて本当なら大魔術よ? それが偶然、それも魔術が効かない人の体に起こるなんて実例は……いいえ、これは人間の姿だわ……うーん、これも違う」
どんどんページはめくられていくが、そこに書かれた知識では足りないのか、浅海の顔は晴れない。
「……」
しかし、それでも彼女に全てを任せる以外に方法などない……ここは彼女を信じることにする。
「……レーンス大僧正ハインリヒの日記、『和漢三才図会』の71巻、『甲子夜話』などに見られる肉体から抜け出る魂についての考察……これだわ」
本のページをしっかりと開いて、その内容を精読し始めた。
「……なるほど、そう……でも……あ、そうか…………難しいわね。キミアキ、そこで寝ている貴方の口に触れてみて」
「わかった」
言われるまま、自分の唇に前足で触れると……その瞬間にまるでバリアーにでも弾かれたように触れようとした前足が跳ね除けられた。
「!?」
「……やっぱり……このままだとかなりヤバイわよ、貴方」
「ヤバイって、一体どういう風に?」
浅海は本をじっくりと読み聞かせるように俺にそれを説明した。
「いい? こういう現象について私のご先祖様が研究したことがあったんだけど、貴方の今の状態は魂が肉体から遊離しているということよ。魂と肉体、それともう一つの特殊な要素が人間を構築しているんだけど、そのうちの魂だけが貴方の体から抜け出て犬の姿をしているってわけ。過去の事例では離脱は原因不明とされているけど、ご先祖様の見解だと魔術の修練をしている修行者の精神が非常にリラックスした状態になったときに、その精神的高揚が一定の水準を満たした場合『多重存在』という超高等魔術の亜種として不完全な幽体離脱を完成させてしまうらしいの」
「どういうことだ? それって魔術なのか?」
「いいえ、ご先祖様が言うには一種の超能力の一種ではないか、ということだから魔術ではないと思うわ。あ、この超能力って言うのはこの場合魔術でも説明できない人間や吸血鬼とかの力のことよ。テレビでやってる透視とかじゃなくて、もっと別な現象ね。それで、この現象が起きると魂はたまたま近くにいた動物などのイメージを取り込んだ形になるの。魂はしばらくうろうろした後、大抵は元の体に戻るそうだけどたまに体を入れ違ったり、見失ったりすると、二人の人間の体が入れ替わったり、病気になったり、ひどいときは死ぬそうよ……今はそのひどい状態、魂が体を留守にした時間が長過ぎるの。大体一日、持ってそこまででしょう……でもすでに戻れなくなっているから、儀式でもやって強制的に何とかしないと……」
「な、なら早くやってくれ! そんなに時間がないんだろ、頼むから急いでくれ!」
「そんな簡単に言わないで! ……それは普通の人間なら今からでも十分時間があるでしょうよ、でも貴方の場合は特別、魔術が効果を示さない体にどうやって儀式を行えって言うの?」
「……くそ、こんなときにそんなのってありかよ……」
悔しくて、怖くて、苦悶する声が漏れた。
「待って……落ち着きなさい、人間を構成する魂と体が分割されている現状ならひょっとすると……貴方のあの特異体質が一時的に麻痺しているかもしれないわ。絶望するのはそのあとで、もう打つ手がなくなるまで我慢しなさい」
力強い言葉、それには確かに自信が感じられ、俺もそれを信じずにはいられない何かがあった。
「いいわね?」
『Fire』
その言葉と共に俺の体毛と寝ている俺の髪の毛の一部が小さな炎でちょっとだけ焦げた。
「わっ、お前……急に何するんだ!」
「ごめんなさい、でも確かめることが出来たわ。今の貴方なら魔術が効果を示す……やるわよ。今からなら絶対に間に合うはずだから」
○○○○○
中庭の近所からは見えない場所に描かれたのは同じ中心から描かれた大小三つの円、その中央には俺と寝ている俺の体。
円を囲むように蝋燭が回り、この儀礼の司祭を務める浅海は午後11時、最も深い瞑想にあった。
目を閉じたまま、彼女の口が開いた。
「これから行うのはいわゆる呪いの儀式を応用した、魂の帰還よ……貴方も集中しなさい、そして祈って……『逆行の衝撃』は緩められるはずだけど、もしものときは私もタダではすまないから」
『逆行の衝撃』とは呪いをかける場合にそれが返って来たときに起こる術者への反動、最悪の場合は死ぬことにもなるというものだ。
これを避ける方法は唯一つ、緩衝壁を設けることだけ……自分自身も俺とは別の魔法陣に立っているのはそのためだった。
「わかった……でも、いざとなったらお前だけでも助かるようにしてくれよ」
「お生憎さま……呪いを解く手がかりがなくなったら、私も生きる気なくなるから……黄泉路への道連れに位なってあげるわよ……ここからは黙って体へ戻るイメージだけを考えていなさい」
そう言い終わると、浅海は地面に膝を着くとナイフで自分の手首を切り、その血を小さな銀の器に注いだ。
その傷はすぐに塞がり、聖杯を地面に置くと本を片手に聞きなれない呪文を紡ぎ始めた。
『――el elohem ekohe zebaoth elion escerchie adonai iah tetracrammaton saday……』
言葉と共に俺の周りの円に奇妙な文字が刻まれていく……聖杯から零れ出た浅海の血で!?
それは生きているように地面の上を動き回り、大地に吸収されることなく文字を書き綴っていった。
『――jehova emmanuel tetragrammaton jelah erigion messtah arapheton anasbona jessemon agia eloyn adonay……』
風が俺達の円の周りをものすごい勢いで吹き始め、さながら台風の真ん中にいるみたいだ。
呪文を唱える浅海は汗をかき始めていた……初めての魔術、しかも専門外の呪いを本に描かれた言霊を使うとはいえ、まともに完成させることはとても一筋縄でいくようなことではない。
それこそひとたび気を抜けば逆行の衝撃で彼女自身の破滅さえありえた、それを知りつつもこんな危険に身を投じてくれたことに深く感謝すると共に荘厳な雰囲気さえ纏った司祭としての彼女の輝きに目を奪われそうになる。
しかし、そういった雑念が儀式を失敗させたのでは目も当てられない……俺はただ自分の体に入り込んでいくイメージの完成だけを急いだ。
『おお汝、東方を支配知る王、オリエンスよ! 西方の王パイエオーンよ! 南方を統べる大王マエモーンよ! おお汝、北方を治めるアイギ-ナよ、我忍びやかに汝に訴える。いと強きアドナイの名により、我が望みの成就されんがため、このヒトガタの中に汝の入り込まれんことを――』
その瞬間に、一瞬だけ俺の前足が体に吸い込まれたような気がした。
いける、この調子なら何とかいける!
浅海はすでに汗びっしょりで、心なしか輝くようだった赤い瞳さえその光を半ば失っていた……本来は人を呪い殺しさえする魔術を俺を助けるために使おうとした反動かもしれない。
『――アラトオル、レピダトオル、テンタトオル、ソムニアトオル、ドゥクトオル、コメストオル、デヴォラトオル、セドゥクトオル、汝ら破壊と憎悪の共にして執行人よ、呪いを行い、不和の種を蒔く者よ。我汝に祈念す、シノザキ・キミアキの憎悪と不幸のために、汝らがこの似姿に秘蹟を授け、祝聖を与えられんことを!』
憎悪うんぬんは元々が呪いの呪文なのだから仕方ない、しかし後から考えてみれば気にならないわけでもなかった……ただこのときはその言葉さえよくわからなかったのだから気にするはずもない。
呪文詠唱が終わった瞬間、俺の体に向かって光の道が開かれた気がした。
イメージは実在を伴い、想像は実像を結ぶ……それは儀式の成功を告げる光景だった。
○○○○○
「うぅ……あ、はぁ……くぅ、むぅ……ああ!」
ベッドでうなされていた浅海、儀式は完成したのだがその無理がたたって倒れてしまった彼女を庭から家の中まで運び、ベッドの上に寝かせたのは俺だ。
庭の魔法陣は不思議なことに儀式の完了と共に血の文字、周りのろうそくの火、円を回っていた風ごと全て消滅してしまっていたから聖杯と浅海の本を回収する程度しかすることはなかった。
「……大丈夫か?」
濡らしたタオルを頭に載せてやると、苦しそうな顔が少し楽そうになった。
目がゆっくりと開き、俺を見つめる……瞳はすでに色を失い、いつものような碧色。
これは呪いの力が弱まったとかそういうことじゃない、獣の姿を借りることも出来ないほどに疲弊してしまっているということだ。
綾音との戦いでもそこまでは疲弊しなかったということを考えれば、それは極端なほどの消耗だといえる。
「……ああ……よかった、うまくいったみたいね」
呪文を唱え続けていたためか、やや掠れた声でそう告げた。
「ありがとう……本当に今回は助かった。お前、そんなに消耗して……本当にありがとう」
ちょっと疲れていたのか? 彼女の顔に近づいてみたとき、頬が真っ赤になっていた。
すぐに布団の中に顔を隠すと、手だけを出してそれを振った――お礼など要らないということだろう。
「いいのよ……お礼なんて。私も、貴方が死んだら困るわけだから……一蓮托生、呉越同舟よ! だから、もう……疲れたから一人で眠らせてよ」
照れたような声でそう言った彼女はどこかうれしそうだった。
俺は……恩を感じたためだろう、そんな彼女がどうも可愛く見えた……後で例の件を追及されるわけだから、何ともいえないが。
その夜は何ともいえない夜だった……まぁ、こんな日があっても良いかな。
後日談としては、浅海に軽く殴られた……ことくらいだろうか?
ついでに言うと、この日から彼女が身近になった気がした。