星々が煌めき、月の女神の玉座を飾る。
月の女神――ギリシャの古典においては『アルテミス』の名で称えられるその姿は、今夜命の危機を感じる人間には死を内包した妖しい美しさに感じられた。
彼の女神が放つという銀の矢でもこの怪物は葬れないだろうと思いながら、今宵最期となるであろう俺の眼は空を見上げていた。
これを見るのは最後になりそうだから繰り返そう……月が綺麗だ。
そうなのだ、空には白い月が今までで一番綺麗な光を放っている。
――なんて綺麗な満月だ……見納めに最もふさわしい光景だ。
大気は未だに冬の冷たさを忘れられず、懐かしむようにそれを再現する。
そして、俺の目の前には狼男としか形容しようのない怪物。
夢だ、これは夢だ、夢でなければ絶対におかしい。
だが、どれほど希っても現実はそれを否定する。
この現実という魔術師は俺を死へと誘うつもりのようで……狼男はそのまま手を着いて、本物の狼のように俺を目掛けて疾走してきた。
まるでそれはライオンに襲われる草食動物が最期に見る光景だった、もっともライオンなどよりも断然恐ろしく見えたが。
しかし、それは当然だ……テレビで見る動物は弱肉強食の世界で生きている、俺はそうじゃない、だから感じる恐怖なのだろう。
その上、狂気しか感じられないが相手の目は少なくとも人間の眼に見えたからその恐怖は際立っていた。
人間に殺される、それは他の何者に殺されるより恐ろしいことだ。
「あ……ぅ……」
声にならない、口ばかりが動く。
化け物が目の前に迫った瞬間、死を覚悟して眼を瞑った。
ありかよ、こんな死に方するなんて……世界で俺だけじゃないか?
こんなに不運な男が世界の何処にいる?
狼男に食われて死ぬなんて現実離れした死に方を一体俺以外の誰がするっていうんだ。
だが、俺の黄泉の国への旅立ちはその瞬間には訪れなかった。
風を切って、狼男を射貫いた弾丸がそれを止めたのだ。
眼を開いたとき――銀で出来た弾丸に肩を貫かれて、苦しみもがく狼男の体は俺の5メートルくらい先に転がっていた。
道路を削り取るほどの爪が空を切り、自分を狙撃した相手を探し回る赤い瞳が怪しく光っている。
「? コーメイ!? どうしてここに……いいえ、早く逃げなさい!」
知っている声に俺が気がつくと……崩れ去った壁から怪我をした様子の綾音が肩を押さえたまま、拳銃を構えて立っていた。
制服の肩からは止め処なく血が流れ、実に痛々しい。
狼男の赤い瞳が自分を撃った綾音に気がついて、咆哮と共に襲い掛かった。
「ちぃ! バカにして、何度も何度も……簡単にやられる私だと思わないことね!」
彼女の手の拳銃が火を吹いた。
44口径――化け物みたいな拳銃を彼女はなんと軽々と扱うのだろう。
銃を撃った衝撃などほとんど感じさせない、そんな彼女の指は次々に弾丸を放つ。
放たれるは吸血鬼殺しの銀の弾丸――受けた傷は彼らにとっても致命傷になるといわれる魔物殺し。
激しく音を立て、風を切り裂く速さで狼男の体に5つの穴を開ける。
その嵐のような射撃にたまらずよろけた相手に、綾音は刀を構えて韋駄天のような疾走と共に切りかる。
信じられないことだが、今の綾音なら男子の世界記録でも容易に抜くのではないかと思えるほどの速さ。
だが、狼男もそれは同じだったか。
獣の傷口から煙が立ち昇っているが、それはダメージを回復している証拠だろうか。
「はあぁぁ!」
全体重を乗せた刀の一撃。
響き渡る鈍い音、それは硬すぎる筋肉の鎧を貫いた刀の泣き声。
渾身の一撃を受けた狼男の腕が切り裂かれ、鮮やかな赤い花が当たりに舞う。
しかし、狼男の太すぎる腕を切断するには刀の強度が持たない。
腕の半分、骨に刃が食い込むくらいの一撃の後、怒りに燃える瞳で狼男が繰り出したのはまるで槍のような突き。
綾音は咄嗟に狼男の腕を蹴り上げて宙に舞うことで、まるで弁慶と戦う牛和歌丸のような、宙を歩くかのような動きでそれを優雅に躱しきり、見事に地面に舞い降りた。
それだけですでに人間業ではない、あのような怪物に自分から挑むだけでも並みの度胸ではないのにその怪物にあれだけの傷を負わせるのだから。
「くっ、どうしてなの? どうして銀弾だけでなく、御神刀まで効果が!?」
吐き捨てるように愚痴を言った綾音は再び獣と切り結ぶ。
続けざまに起こる鮮やかな打ち合い、それは風の楽団の演奏。
剣と爪が奏でる歪な二重奏は不快でありながらも、聞くものを放さない不思議な響きを放つ。
とても鋭く、まるでナイフのような黒い爪が白銀の刀と切り結ぶ。
それは獣と剣姫が演じた剣の演舞。
その一撃一撃が火花を起こし、幻想的でさえある光景が展開された。
まるで風のような速さで打ち合う両者の動きを完全に捉えることなど不可能だった。
綾音の疾風の剣戟は鮮やか過ぎる真紅の花をいくつも咲かせ、その刀はまるで狂気へと突き進む楽団を指揮するタクトのように優雅に振られる。
その剣先を目視することなど人間に出来るはずもない、そう思えるほどの高速剣。
人ならざる力で振るわれる刀はものすごい音を立て、相手を切り裂き、白銀の羽を羽ばたかせる。
俺はまだ逃げることが出来ずにその場で腰を抜かしていた。
常識を超えた両者の動きと、その異常なまでの迫力に完全に飲まれていたのだ。
まるで地面に張り付いてしまったかのような腰はせっかくの綾音の時間稼ぎを無駄にしてしまう。
咄嗟に獣との距離をとった綾音は刀を地面に突き刺すと、右手を獣に向けて、呟くような声ですごく早口にそれを紡いだ。
「世界潤す水を司りし者、我ここに白川の名において命ず、汝古き盟約の友よ! 今このとき、盟約に定めし務めを果たせ、清浄にして神聖なるその身を我が剣と変え、我が弓矢と変え、邪なる魂魄に制裁を!」
それは歌うように軽やかで、風のように速い詠唱。
わずか数秒の出来事。
だが、命の危機にある俺にはまるで永遠にも感じられた。
「大気漂う水よ、我が魔力が汝に力を与え、我が幻想が形を与え、我が言葉が意味を与える――」
言葉を紡ぎ始めたとき、青い光が綾音の手の平に輝き、辺りに凄まじい風が吹き始めた。
「我らを守るは古の水、偽り照らす水鏡の王、優しき光を纏い世界を包む汝の御手に触れし我が手にあるは氷結の弓、百の壁を抜き、千の敵を討ち滅ぼす真理の矢!」
まるで小さな台風でも近くを通過しているように辺りの木々が激しく揺れ、風速にして十メートルを超えるような風が俺の頬を打った。
言葉が完全に紡がれたその瞬間――それは嵐の前触れに過ぎなかったと思い知ることになった。
身構えていた綾音の手には銀に輝く弓矢! その鏃は細く、光を反射し、途方もない力が込められていることがわかる。
そう、弓はただあれを打ち出すだけの飾りだ、対する矢は素人目に見てもあれはヤバイとわかるもの、狼男も当然それに気がついていた。
「■■■■!」
何と叫んだのかもわからない咆哮を上げると、獣は大地を蹴り上げて突撃してきた。
装甲車のような印象を与える絶対の攻撃、まともに受ければ銀行の金庫も穴が開くのではないかと思えた。
「貴女には悪いとは思いますけど……この私に手傷を負わせたのだから、腕が上げられなくなっても恨まないで欲しいものね!」
叫んだ綾音は引き絞った弓から銀に輝く氷の矢を高速の速さで打ち出した。
野蛮なアルテミスの一撃はまるで光。
それは俺の動体視力などでは目視など不可能だった。
辺りの大気が恐怖で震えるほどのエネルギーを放つ戦車の砲台、その印象は当たらずしも遠からずだろう。
放たれた矢は一秒にも満たぬ一瞬のうちに、耳を劈くはずの音さえも置き去りにして、突撃して来た獣の肩を見事に打ち抜いた。
獣を撃ちぬく瞬間、まるでガラスが割れたような音、その瞬間に肌を凍てつかせる零下何度という冷風が突風のように俺の頬に当たった。
矢は間違いなく狼を打ち抜いた、いや、そんな生易しいものではない。
それは骨の粉砕さえ狙っているとんでもない威力の一撃。
獣の数百キロもの体重が宙を舞い、獣の体がぶつかった木を一本ほどへし折ったほどなのだ。
あれで手加減など考えていたらそっちの方が驚きだ、間違いなくあれは本気。
当たればあるいは戦車でも吹き飛ばされただろう、まるでミサイルみたいな攻撃は人の手で為された一撃、仮に戦車を破壊できないとしても戦闘ヘリを落とすくらいはするだろう。
在り得ない光景といえる、氷の矢がそれほどの威力を発揮したのだからそれはすでに魔法だ。
当然だが、悪夢のような一撃をまともに受けた獣はぐったりと倒れ、その肩を完全に粉砕した氷の矢は大気の熱に溶けるように昇華していった。
狼男が起き上がることはないだろう、あれだけの一撃を受けて立てる生物がこの世に居るとは思えない。
これは夢だ、夢でなければおかしい……人間にあんな真似が出来てたまるか、それも俺の幼馴染が。
そう心の中で叫び続けた。
倒れた狼男の死体を睨みつける綾音の顔は今でも険しい。
見事に倒した相手への警戒をまったく解いていないのがわかった。
「矢の効果がかき消された? あれで仕留められないなんて、どうして!?」
綾音がそう呟く。
俺の視線も綾音から狼男へと移るが、まるで体中から蒸気を発しているような状態の狼男が再び立ち上がってきたのだ。
骨まで見えた肩の大穴が徐々に塞がっていくのが見える。
気持ち悪くて吐きそうなほどグロテスクな傷から流れる血が蒸発するほどに熱を放ち、赤い瞳に恨みと憎しみの感情だけが見られる。
「障壁は全部打ち抜いたはずなのに……アサミ、貴女わざとやっているの? それとも、これが世に言う『対抗力』? だとすれば、なるほど。魔術が効かないというのはそういう理由……」
激しく疲弊した様子の綾音は再び刀を手に取りながら、狼男に文句を言う。
その文句の意味などわからないが、まるで知り合いにでも愚痴を零すようだった。
「ぐるぅぅう!」
狼男にはそんな気配はまったくない、痛む傷の賠償を求め、贖うための血を、肉を奪い取ろうとする獣の姿がより醜くなっただけだ。
「安心しなさい、今度こそ沈めてあげるから!」
刀の少女は再び疾駆する、流れる星の如く燃え尽きようとする生命の全てをかけて、目の前の怪物を打倒するために走る。
両手をフルに使って攻めてくる狼男と、ものすごい太刀筋でそれを全て打ち払う綾音! 攻撃の手数と速さならば獣が押しているのは明らかだが、ただの力押しでしかない相手の攻撃はやすやすと打ち払われている。
だが、だからといって綾音ばかりが攻勢なわけではなかった。
その一撃を受け流すだけで、肩を怪我している綾音の顔が苦痛に歪む。
骨がきしみ、その筋肉が引き裂かれるような痛みが彼女の華奢な体を痛めつける。
彼女を責めさいなむ狼男の方はというと、恐るべきことにこちらが拳銃で与えたダメージ、刀で切り裂いたダメージさえどんどん回復していく。
それはまるで汚れを水で流したときに白い肌が露わになっていくときのように。
まるで怪我などただのこびりついていたただの泥であったかのように。
氷の矢、刀傷や銃創を受けた箇所は完全に元の状態が再現され、その細胞が再構築され、傷つきながらも必死の反撃を試みる綾音をあざ笑う。
「馬鹿っ、コーメイ! 何で逃げないの! 早く、私が押さえているうちに逃げなさい!」
こちらを一瞬振り向いた綾音が必死にそう叫んだ瞬間、その一瞬の集中力のと切れが命取りだった。
相手の爪にばかり気を取られていたとき、不意に繰り出された蹴撃。
当たる瞬間に刀を寝かせて受けたが、相手の体にはその程度では傷さえ与えられない。
響き渡るのは綾音の体に獣の攻撃が食い込んだことを知らせる鈍い音。
蹴られた綾音の華奢な体はそれだけで壊れるのではないかというほどの勢いで、俺が腰を抜かしている方向へ吹き飛ばされた。
まるで大砲が打ち出した弾がそのまま木に激突したみたいだった。
幹が太い木に背中から打ちつけられて、小さなうめき声を上げた綾音はそのまま気絶したようだ。
「おい……綾音!」
思わず、駆け出していた。
今まで俺の体を縛っていた恐怖がその瞬間だけ、退けられた。
木に背中を打ちつけた綾音を見れば、肩の怪我は甚だひどく、よくあれだけ動けたと思うほどだった。
おそらく爪で引き裂かれたのだろう、焼き鏝を押し当てられたような激しい痛みだったはずなのに、凄まじい精神力だ。
だが、彼女を介抱する暇など与えられてはいない。
俺の後ろで怪物が勝利に酔ったような咆哮をあげ、じわり、じわりと……迫ってくる。
俺の真後ろに来た狼男、俺は相手を引き離すために、じわじわと綾音から遠ざかっていた。
だから、相手に追いつかれたとき、綾音はとりあえず追加攻撃を受けないだろうほどの距離、俺は何とか相手を彼女から引き離すことに成功していた。
だが、相手に勝つ手段などない……ただ相手を睨みつける。
見つめる獣の瞳は獲物の最後の抵抗を楽しむように、見えた。
瞬間、俺の首を刎ねるように繰り出されたナイフのように鋭い爪、腕の軌道さえ見えなかった攻撃を何とかしゃがんで躱した。
背中を引き裂かれた痛みが俺の足を止めようとしたが、咄嗟に拾った枝を掴むと咆哮と共に相手の銀色の体に叩きつけた。
腕が枝ごと砕けるのではないかと思うくらいに硬い体、それは筋肉の鎧であるだけでなく何かしらの金属でも仕込んであるのではないかと疑うくらいに硬かった。
綾音が数十合も打ち合った相手に俺はたった一撃で蹴り飛ばされ、そのまま硬いアスファルトの上に倒れた。
十メートルくらいは宙を舞った……体の骨が折れたことは確実、内臓もいためたかもしれない。
受身など取れるはずもなく、叩きつけられた瞬間は呼吸も止まるのではないかと思うほど痛かった。
俺の背中をえぐった爪を長い舌で舐めながら、その血を味わう獣は一舐めごとに極上の、残酷な笑顔を浮かべ……最後に止めを刺そうと迫る。
体が動かないことは確実、立つことも出来ない。
綾音も起きる気配がなく、例え起きたとしても彼女に逃げて欲しいだけだ。
どうしてこうなったのか、綾音があんな場所に居たのは何故か、そんなことはどうでもよかった。
本当に重要なことはこれが現実で、俺達が殺されようとしているということだけだったのだから。