そこは、誰もいないことを約束された場所――建築途中で放棄される事になったホテルの中。
月の明かりが照らすその場所に金髪の錬金術師が立っている。
七月の暑い夜だからだろう、紺色の半袖ブラウスとスカートを纏った程度。
銀縁の眼鏡の奥に光る青い眼差しは彼女の前に立つ相手を捉えていた。
彼女の前に立つのは神父らしき服装の老齢の白人男性、その脇には栗色の髪の若い修道女と白皙の青年。
「味な真似を……いいえ、貴方達は吸血鬼と結託してわざわざ火種を播いたのですよ。一体、どういう了見ですか?」
錬金術師の問いに、わずかに肩を竦めた神父。
その顔から彼もまた彼女に不平不満があることが見て取れる。
「我々がどういう了見か、ですと? それはこちらの台詞ではないですかな、アーデルハイト殿」
「……シラを切るつもりですか?」
錬金術師の手にはビルの中で拾った鉄パイプが一本――彼女の口がすばやく呪文を詠唱し、白い石が飾られた指輪を嵌めた右手が触れた瞬間に儚い光と共に鉄パイプの姿は消失した。
そして、その代わりに彼女の手に握られていたのは80cm程度の釘状の銀。
神父の前に二人の助手が歩み出て、その手に拳銃を握った。
「……シラを切る? それこそ妄言ではありませんかね、我々は貴女のお手伝いをしようとしただけに過ぎませんよ。それをどのように邪推されたのかは私の存じ上げるところではないが、敵対行為と考えられては困りますな」
神父は武器を構えた相手を前にしてもまったく最初の態度を改める様子がなかった。
「なるほど……義時さんをイフィリルと結託させた上でわざわざ火種もなかった魔術師の家に介入して、どうしようもない屑を傀儡に仕立て上げようとしたのが、私の手伝いとは……素晴らしい言い訳ですね。あわよくば私の殺害も予定のうちですか?」
「話が平行線ではありませんかね。そもそも、斎木卿がベルラック卿を連れ込んだのは私の感知するところではないので……いや、なんとも答えようがない。それに、斎木卿が関わったという魔術師の傀儡化の何が悪いと仰るのか、理解に苦しみますがね。こちらの言いなりになる魔術師が一人増える、むしろその何が悪いのかを説明していただきたいですな」
錬金術師はその回答を聞いて、顔に手をやって苦笑するしかなかった。
本当に、これだから同業者は困る……そんな言葉が漏れた。
「スカラッティ神父……どうして、無駄な争いを起こそうとすることが私のためになるのかを聞きたいと申し上げたのですが? 私の仕事は治安維持のはず、その私が自分で事件を起こしてどうなるというのです?」
錬金術師アーデルハイトに問われて、老スカラッティは一瞬呆然とした。
しかし、すぐに元の調子を取り戻して自分より年少にしか見えない相手に嘲笑を入り混ぜながら、回答する。
「アーデルハイト殿……貴女は一体何を仰っているのかご自分で理解しておられるのか? 治安維持、及び協会全体の勢力拡張……それこそ貴女が支払うべき代償のはず。ならば、斎木卿のやられたことの何処が間違っていると言うのか、それをお聞きしたい」
「一般市民に犠牲が出ました……それの何処が正しいと? 生贄を必要とする儀礼を行うためなら私に申請すべきですし、そもそも一般社会との必要以上の接触は望ましくないはずです」
神父は相手との話のかみ合わなさにいい加減苛々してきた様子だった。
「ハハッ、市民に犠牲が? だから、我々の責任だと? 仰っていることの意味がわかりませんな。ベルラック卿の薬とやらで犠牲になった市民は貴女に殺されたのでしょう? それに、薬を使ったのは我々の組織に加入する前の魔術師だとか……考えうる限り、実験場所を探していたベルラック卿をここに連れてきただけの斎木卿に、ひいてはその雇い主である我々に如何なる非があると仰りたいのか? ベルラック卿にしても罪などないでしょう、薬をまいただけなのですからね。それに対して、貴女は我々の計画も潰されて……まったく理解に苦しみます。もし、これで格好つけたつもりなら……貴女は見た目通りの子供だ」
「いい加減にしなさい、スカラッティ神父! 言うにことを欠いて……私が悪かったと? 言っておきますが、そういった細かい背景は今聞かされたのですよ。その点については義時さんにも非があると思われませんか? それに、イフィリルはこの地で『天命の書板』を行うことさえ可能だったのです……その手引きをした義時さんと戦ってどうして私が責任を問われることに? もしも儀礼に踏み込んでいたらどれだけの犠牲が出たことか、浅慮を呪うべきは貴方のはずです」
「下らぬ妄言を……そもそも『天命の書板』はこの土地だけでは到底足りないでしょう、永遠さえ手に入れた貴女がその程度のことをご存じないとでも? 兎に角、今回の件は我々の責任ではない。斎木卿にも一切の罪はない、当然でしょう? それなのにあの方は腕まで切り落とされて……本当に申し訳ないことをしてしまった。また、魔術師として一般人を使った程度のことで叱責された上に消された前途ある若者も不運だったとしか言い様がない……貴女にも、彼の冥福でも祈っていただきたいですな。さすれば、あるいは冥府で多少の罪の軽減にもなりましょう」
「言っておきますが、彼を殺したのではなく『贖罪』させているだけのこと……人聞きの悪いことは言わないで欲しいですね。それにしても、デビルサマナー・スカラッティ……貴方は噂通りの人物のようです。何を言っても無駄ですか」
「どうですかな、それは。見る人間によるのではないか、と言うのが実情でしょうな……アーデルハイト殿」
「……なら、もう貴方と話すことはありません、この件についての不当な叱責は甘んじて受け入れますが……如何に貴方でも次はありませんよ」
「どうぞご勝手に……それより、85%の確率で悪名高い『霧海』がこの街の近辺に発生しそうだとか。貴女も、さぞ大変でしょう……本当に私を敵に回しても構わないのですかな?」
『霧海』――遥かな昔に滅びた吸血鬼が見る夢、一つの永遠を約束された魔術の残り香。
理想郷と呼ばれるものがある――シャングリ=ラ、桃源郷、常若の国、ヴァルハラ、etc、それらを具現化するのが現実を侵食する夢『霧海』。
誰もが夢見る理想郷、されどそれは『帰らずの森』、『魔の海』などとも呼ばれる死を内包した悪夢。
すでにその身はこの世になくとも、吸血鬼の一つに数得られるソレ。
吸血鬼の魂が運営する一つの世界……かつて海を、森を、大地を、国を霧で多い尽くし、世界に囚われた全てを食い尽くしたそれは、未だに魔術を永続させる吸血鬼の魂を葬るに至らない。
『百合の谷』、呪術師ヨセフ・リリエンタール卿が生み出した最悪の呪い、数多い中でも最悪の魔術災害がソレだった。
原因は不明だが、一説には吸血鬼の魂の睡眠時間と起床時間の影響によって数年ごとに発生して猛威を振るう。
「ええ、どうせそれも計算のうちだったのでしょう。ですが、貴方は敵です……この代償はいずれ頂きますから。では、失礼。せっかくの日本の夜、どうぞ楽しくお過ごしください」
唇を噛み締めた錬金術師は不愉快極まりない会談を途中で切り上げた。
その瞬間に手に持っていた銀の釘が神速を持って投擲されたのだが、銃を構えた二人の助手より速く神父が指を鳴らすと……その瞬間に彼の影から放たれた雷のような光が宙を舞う釘を打ち砕き、その完全な直撃軌道を無効化した。
背を向けて帰ろうとする錬金術師を撃とうとした助手を止めた老神父は去り際の彼女に向けて、返礼さえしたのだから……助手は流石に呆れるしかなかった。
結局、粘りに粘った上層部は自らの責任をうやむやにして、事件は全てなかったことになったのだった。
○○○○○
「なぁ……なんでそんなに機嫌が悪いんだ? 俺、何かしたか?」
俺の目の前に座っている金髪の錬金術師は実に機嫌が悪そう。
いや、見た目には普通だけど……よく会う人の小さな変化には以外に気付いてしまうものなのだ。
彼女は成分もよくわからない粉薬を水で飲むと、一呼吸おいて脱力したような口調で語る。
「別に……何もしていないと思いますけど」
「でも、機嫌が悪いわけだろ。てか、その薬って何の薬? 体でも悪いのか?」
俺の言葉に苦笑するアデット。
「機嫌が悪いと見ただけでわかる貴方は私に好意でも持っておられるのでしょうか? ああ、それと……この薬は媚薬ですよ」
「え? いや……媚薬、ってあれ、その……」
この人は一体何を考えてこんなものを?
「精神鍛錬の一環と言いましょうか。特に肉体的な欲望と戦うことは女魔術師にとって実に……難しいことでしてね。男性を前にして性感が高まるような状況、これに耐えることは苦しい。しかし、それに耐えてこその精神の成長がある……とか、我が家の始祖の師匠が申していました。その実演でしょうか」
……その、つまりこの人はアレか?
今、その……飢えていらっしゃる?
どこか霞がかった瞳で俺を見つめ、舌なめずりした。
「おい、何やってんだ。ちょっ、ふざけてるのか?」
その怪しい瞳は本当にいつもの彼女とは別人のように妖しく、俺がうろたえているうちにブラウスの第三ボタンまでを外してしまう。
彼女の黒い下着が覗く。
「フフッ――実に良い反応ですね。紅潮するだけで身動き一つしない……女に対する侮辱か、あるいはそれが若さというものか……甘美な快感を、貴方に」
俺の横に座ると、顔を寄せ、長い足を絡めてくる。
吐息が感じられるほどに近く、俺は緊張やら何やらで体が動かない。
「さぁ、私がほしいですか?」
耳元で、息が当たるほど近くから甘い声でささやく。
「あ、いっ……いや、俺は、その……」
彼女は俺の手を掴むと、無理やりに自分の胸に押し当ててしまう。
柔らかな感触が伝わる。
そこは本当に……鍛えているはずなのに柔らかな感触だった。
押し当てられても、クーラーが効いた部屋で汗びっしょりになるだけで頭の中が真っ白な俺は指も動かなかった。
「貴方、この私に恥をかかせるつもり?」
どこかいつもと違う口調、いつもより高飛車な気がする喋り方だった。
その言葉と共に軽く耳を噛まれ、唾液を振りかけた舌でねっとりと舐められたときには、何でこうなっているのかもわからない俺の頭は完全にオーバーヒートしていた。
「いや、そのな……あの、こういう場所で、そういうことをするのは……良くないんじゃないかと……」
絞り出すような声で、空いていた俺の手をスカートの中に導こうとしていた錬金術師に伝えた。
その瞬間、彼女の手は止まり……
「ンフッ――クフフッ、アハハ……面白い人ですよね、相変わらず」
彼女は俺の足に絡めた自分の足を解くと、さっさとボタンを直して俺の前に戻って腰掛けてしまった。
汗びっしょりの俺は彼女の行動がまったく理解できない。
「? いや……どういうこと?」
アデットは制服のポケットからICレコーダーを取り出して、さっきの台詞を再生して見せた。
当然ながらそれを聞いていて、彼女の魂胆がわかってしまう。
「一種の悪ふざけですね。あの薬は媚薬ではなく、ちょっとした調整薬でして……暇だったので貴方をからかおうかと」
悪びれもせずに語る彼女はいつもと変わらない嫌な錬金術師の顔をしていた。
「……悪ふざけって……お前、一応女なんだから考えろよな」
「やれやれ、私に魅力がなかったのでしょうか? それとも、先ほどの忍耐は貴方の日頃の修練の成果でしょうか?」
「知らないよ! ……さっきので、もし俺がOKとかしてたら……あれで何するつもりだったんだよ?」
「ああ、取り敢えず修練が足りないお仕置きとして、去勢した後、人間を辞めたくなるまで続く『脅迫ごっこ』でもしようかと。貴方は抜き打ち試験に合格したわけですから、別に責めませんが……はぁ、魅力がないというのは……流石に自尊心を傷つけられますね……」
全然傷ついている様子のない彼女、それを見ていて正直挑発に乗りかけていた俺は冷や汗をかいている。
もしも迂闊な言葉など発していれば、良いように編集されて脅迫の材料にされていたのはあの人の性格を考えれば日を見るより明らかだ。
「あ、ははは……魅力がないとかじゃなくて、俺の、その精神力が向上してるって事だと思うぞ」
「そういうことにしておきますか……優しい人、というよりもしや……男性として不能ですか? ああ、もしそうなら言ってくださればよかったのに。良い病院を紹介しますよ」
「――!? 違う、断じて違うからな!」
「ああ、そういえば常に魅了の魔術をかけているイフィリルを前にしても平気だったとか……いくら魔術の効果を無視したとしても、夜のうちは彼女に勝る美貌はありえないと聞きますから……ひょっとして、同性愛者?」
「それも絶対に違う! 俺は健全な男子高校生だ」
「これも違う……難しいですね。では、私のように特殊な……」
「絶対に違う、お前とは絶対に違うから」
「ああ、耳が痛くなりますからもう少し落ち着いてくださいね。必要なら、鎮静剤を投与しますよ」
「なら、余計なことは言うな!」
「はいはい」
ああ、結局合格してもこういうことを言われるんじゃないか……本当に性格最悪。
「……にしても、お前はさっきどうして機嫌が悪かったのか、それはまだ聞いてないぞ」
俺の言葉に、虚をつかれた格好の錬金術師は一瞬黙って再びゆっくり語り始めた。
「少し……故郷と母のことを考えていましてね……」
オカルト研究会の部室に置かれたソファーに腰掛けた彼女は、面倒そうに体を起こした。
「お袋さんのことを考えるとなんで機嫌が悪くなるんだよ。嫌な人だったのか?」
錬金術師は苦笑混じりにそれを否定する。
「さぁ……一般人的な見方では最低を通り越して児童虐待者、あるいは人格破綻者の誹りを免れないでしょうね。ただ、私はそう悪い感情は抱きませんでしたけど」
「おい、その話は矛盾してないか? なんでそんな人に悪い感情を抱かないんだよ?」
彼女の向かいに腰掛けていた俺も思わず聞き返していた。
人を虐めることが好きな人間が他人から虐められたらどれほど不快だろうか、それを考えてみれば彼女の言っていることは矛盾でしかなかった。
「……貴方が私をどういう人間と考えておられるのか、それについては後ほど伺いたいところですね。それは置いておきまして、何故私が彼女を嫌いでないか? 簡単なことです、嫌いになる理由が存在しないからですよ。私も似た様な事をしますし、彼女なくして私は存在し得ないわけですからね……」
どこか遠い場所を眺めるような目――彼女が普段何を考えているのかを理解できたことなどないが、このときは特にそうだった。
悲しそう? 別にそんなことはない。
うれしそう? それも違う。
強いてあげるなら……何も感じていない、というのが正解だろうとは思う。
「らしくないな。そういうことを考える奴だとは思わなかったよ、お前。そもそも、子供は親を選べないって言うかと思ってた。まぁ、これについては逆も言えるわけだけど」
そう、親も子を選べないよな……実際。
アデットみたいなのが娘だったら、俺もすぐに白髪になるんだろうな……
浅海とかでも結果は変わるまい……連中の親父さんがどういう精神構造なのかを知りたくなってくる。
「いえいえ、何か勘違いをなさっておられるようですが……まぁ、それはそれで構いませんけど。因みに、公明さんのお母さまもご存命ではないそうですが?」
「まぁ、そうだけど。魔術師、って訳じゃないから。そうだな……普通の人? それ以上でも以下でもないと思うけど。それで、お前の親って……どういう子育てしてお前みたいな娘を育てたんだ? 興味本位だけど」
「まぁ、どちらも存命ではありませんから、語っても意味がないと思いますけど……父については顔も、名前も、何も知りません。母は一言で言えば、私と同じような顔で、同じような性格の錬金術師でした。生まれたばかりの娘を人体実験台に使うような人、そういえば大体想像がつくと思います……姉妹はそれで死にましたけど。まぁ……後継者争いで私が殺すのに比べればその方がよかったですね、特に双子の片割れを殺すのは死に際の呪詛が怖いですから」
「へ、へぇ……そうなんだ」
いや、こんな重いこと軽く言われても……困る。
普通に考えれば、アデットの母親が殺人犯なのは間違いないが数百年前のことで時効だし、そもそも魔術師の世界のこと……俺の倫理観の外の法律があるんだろうしな……
仮に、外国人が起こした外国の事件を日本の法律で裁けないように、魔術師の世界のことを俺達の法律で裁くのもまた……無理っぽい。
ああ、こういう場合は、どう反応すれば良いのだろう?
何気なく言ったとんでもない言葉に……驚けば良いのか?
同情すれば良いのか?
笑う? その選択肢だけはとりあえずないと思うが……わからん。
それに、こいつの言っていることの半分は冗談で出来てるから本音かどうかも判断できない。
てか、姉妹までいたのか……そいつらが存命中だったらさぞかしとんでもないことになっていそうだけど。
「――そういえば、人を生き返らせることが出来る魔術師は存在しますよ。彼らに依頼して公明さんのお母さまを蘇生することも出来るでしょう……そうしたいと思いますか?」
「え?」
人を生き返らせる魔術師か……五大人形師のうちの二人は蘇生を可能とし、他にも別な方法での蘇生を行う魔術師がいるとか言ってたっけ……
突然の言葉に一瞬考えてしまう。
だが、結論としては……
「いや、そういうのは駄目だ」
「何故?」
「それは……もしも、お袋が生き返ればそれはうれしいかもしれない。でも、生き返ったお袋は俺達と過ごした記憶も、何もないんだぞ。戸籍やらなにやらも問題だし……作り物の記憶なんて貰っても、それは幸せとは違うだろ。それに、俺は突然生き返ったお袋と、その……うまく付き合えないかもしれないだろ。親父はまだ記憶を弄れるにしても、俺は……」
「フフッ、貴方は真理を知っていらっしゃる。私は……それに気がつくのに何年も掛かったものですが。貴方の仰るように、人が生き返ることはそれだけで不自然です。死なない人間など本来自然でないように如何に魔術を行使しても、生き返った人間が幸せかどうかまでは保証できません。ですが……もしもお望みなら、生き返らして差し上げたのに……ああ、しかし、玲菜さんは後何時間私を待たせるつもりでしょうね? 公明さんもわざわざ付き合わなくても宜しいのに、どうして帰宅なされないので?」
そう、今回は浅海が何やら教えてもらうことがあるらしかったので、それに興味を持った俺はここに居座っていたわけだ。
しかし、待ち合わせの時間を40分も過ぎて……本当に覚えているのだろうか?
すでに授業も終わって、部活も始まっているはずなのだから覚えていればすぐにでも来るはずなのだが。
「興味があるからだけど。別に良いだろ、一応部員ってことなんだし」
「は、こういうときには私の勝手を承認してくださるわけですか。少しは利口になられたではありませんか、師匠としてはうれしい限りですよ。部長としては身勝手な幽霊部員の存在は少し複雑ですけど……では、今度ロッジを主宰しようかと思うのですが、参加します?」
「ロッジ? なんだよ、それ」
「錬金術師が集まる研究発表会、のようなものでしょうか。もっとも、参加者は素人ばかりですから貴方でもきっと楽しめますよ……場所は、ここです」
差し出された地図、それを手にして記憶と照らし合わせてみる。
この場所は確か高級マンションが立ち並ぶ地域では?
「で、その研究発表会は素人ばかりなんだろ? どうして、お前がそんな無意味なことを? プロが素人なんて見ても笑い転げそうになるだけじゃないか」
「あらあら、考えが浅いですね。意外に思われるかもしれませんが、そういう場所でたまに才能がある人が発掘できるものなのですよ。今度推薦状を手にどこかの錬金術師の元に弟子入りする方が出るかもしれない……そう考えれば、裾野を広げる上で割りと面白いものでしょう?」
「あー、なるほど。確かにそれは良いかもしれない、でも俺は絶対に参加しないからな」
「ま、それはそれで構いませんけど……あら、漸くお出ましですか」
「ん?」
アデットがそう言ってから少ししてから俺にもかけてくる足音が聞こえてきた。
すごい地獄耳、迂闊に悪口もいえないなこんな調子じゃ……
そして、勢いよく扉が開いて茶髪の魔術師が登場した。
「はー、はー……ごめん。すっかり忘れてたわ」
予想通り、というか期待を裏切らない奴だよな、浅海は。
クーラーが作動していて実に快適な室内と違って、外からやってきた浅海は暑そうだった。
額に少し汗が見えた。
そのまま扉を閉めると、俺の横に腰掛けて一言。
「で、どうしてキミアキが一緒に? 用事があるのは私よ、貴方はさっさと帰りなさい」
いきなりこんなこと言われて……敵意さえ感じるのは俺だけだろうか?
だが、一々この程度のことで怯むわけにもいかない。
「そう言うなよ、俺もお前が何聞くのか興味があるんだ。別に良いだろ、減るわけでもないだろうに」
「減らなければ良いって物じゃないでしょう?」
一瞬、浅海の目が光った気がした。
正体不明の魔眼か……俺には効果がないらしいけど、結局何なんだろう?
仮に効果があればやばいものなのだろうか?
だとすれば、そんな物騒なもので何度も何度も睨まれてきた俺はこの先も本当に大丈夫かな。
「まあまあ……玲菜さんも一時間近く遅刻しておいて私への謝罪の気持ちが足りませんし、公明さんも野次馬根性のようなものでそう粘るものでもないでしょう。ここは私の独断ですが、公明さんも今回の講義に参加してもらって構いませんよ」
「ちょっ、アデット! そう簡単に素人に教えて良いの?」
「おい、素人素人うるさいぞ。これでも一応見習いなんだ、別に良いじゃないか」
「そういうことですね……今回の講義があるいは後の肥やしになるかもしれませんし、使えない人が聞いたとしても問題になるようなことではないでしょう。それに、免許もない私が他の術者に講義をするのは珍しいことなので、大目に見てあげてください」
人に教えるのに免許持ってないのかよ、この錬金術師は。
「……わかった。我慢する……だから、教えて」
渋々ながらも認めた浅海は大儀そうだった。
「で、何を講義する予定だったんだよ?」
「……バカ、死になさいよ。中身も知らないでそれって、あきれ果てるわね」
「バカっていう奴がバカだろ。お前が死ねよ」
「何ですって……誰に物を言っているか、わかって言ってるの?」
「あ、いや……いつもの乗りで、ちょっと……ごめん、許してくれ」
「いえいえ、楽しい講義になると私が話していたわけですから公明さんの責任とはいえないですよ。そうですね、『ルーン魔術』というものがあるのをご存知ですか?」
俺達の向かい側に腰掛ける錬金術師はソファーから立ち上がると、本棚に置いてあった一冊を手にとってこちらに渡した。
そこに描かれているのはミミズが這ったような文字……というか、完全に記号だな、これ。
『↑』やらなにやら、書くだけなら小学生でも出来るだろう。
「これが一般に『ルーン文字』と呼ばれるものです。実際は人の手で創られたものですが、伝承によりますと北欧神話の最高神であるオーディンが創造したことになっていますね……」
魔術と知識の神、戦の神、死の神……それがオーディンという神の顔。
彼は神槍グングニルを始めとする様々な魔法の道具を所有し、片目を失った代償として世界樹ユグドラシルの根元にあるミミールの泉の水で魔術を含めた様々な知識を得た。
一般には隻眼の老人の姿で語られる彼がユグドラシルの樹で首を吊り、グングニルの槍に貫かれたまま9日9夜の間、自分を最高神であるオーディンに生贄として捧げた結果として、ルーンを得たという。
故にその文字には力が宿るといわれ、魔術に用いられるのだとか。
「ふーん、これがルーンか……でも、こんなので長々呪文を書いたりするだけでも大変じゃないか? それとも読み専用の文字か?」
「バカね、本当にバカ……いい? ルーンはその形に意味があるのよ。基本は書き専用の文字に決まってるじゃない」
「煩いな。わかるわけないだろ、はじめてみたんだから」
「まあまあ、当然ながらルーンは読むことが出来ますから専用とかそういうものでもないですよ。それで、一般的に言われる『オーディンのルーン』は……救い、癒し、敵、解放、矢止め、呪詛返し、鎮火、宥め、航海、対魔、盾、死者、守り、知識、小人、情愛、貞節、最後……で、これらはオーディンが自らを生贄にした結果得たルーンといわれます。しかしながら、後世になりますと他にも有能な術者がいくつか追加したものもありまして、その数はかなりの物になりますね」
本の上に書かれた文字を見ていると、何故俺にも描けそうな落書きみたいなのが力を持っているのかさっぱりだ。
「で、アデットは教えてるわけだから使えるのか?」
「いいえ、正直に申し上げましてあまり使えませんね。これは天性の才能が物を言う魔術ですから、私のようにこの分野に疎い人間にはあまり……玲菜さんは『オガム』というケルト版のルーン文字の話をお聞きになりたかったのですよね?」
「ええ。我が家の魔術に新しいレパートリーを開拓しようかと思ってね……つまり、私によって創始されたっていう分野が欲しいのよね。そうすれば、永遠に名前が残るでしょう?」
「……」
こいつ、本気で魔術師としての知識欲だけから言ってるのか?
この発言から考えればわかるけど、絶対に目立ちたがりの性分が原因だと思う。
「それで、たしか基本はルーンと同じなんでしょう? 文字はわかってるから、詳しい部分を聞きたいのよ。アデットはオガムの方も詳しくないんでしょう、ルーンで良いからそのまま続けて」
「では、お言葉に甘えさせていただきますよ。何しろ、故郷ではオガムなど使いこなせるドルイドには会ったこともありませんでしたから……で、少々実演して見せましょうか」
そういうと、机の上置かれていた紙を取って戻り、それをテーブルの上に置いた。
ソファーに腰掛けると、再び語り始める。
「ルーン魔術の素晴らしい点についてお教えしましょう。この魔術の本質は長い詠唱などを行うことではありません。この魔術の本質は如何にうまく効果的な位置にルーンを刻むか、その一語につきます。見ていてください、まず最初の術式は『刻印』、つまりこのようにルーンを対象に書き込むことです。この際は自分の血などを用いれば良いですね」
「おい、ちょっ……何やってんだ」
アデットはナイフを取り出して躊躇いもなく自分の手の平を切り裂き、そこから溢れる血で紙の上に『↑』を書いたのだ。
それがあまり急だったので驚いてしまった。
浅海はまるで動じる様子さえなかったのに、俺ばかりがおろおろしてしまうのも恥ずかしい。
「最初に刻んだ刻印の位置、これが重要です。力の基点になりますからね……今回は、まあ私にしては良い方でしょう。次の工程は『祈祷』ですが、その前に申し上げておきますと『解読』、『染色』、『試行』を理解しておく必要があります。要するに用いるルーンの意味を理解しているか、ということです。今回の場合、私が刻印したのは『テュールのルーン』、勝利のルーンです。このルーンは武器の強化に用いられ、武器に直接刻み込むことが最も効果的です。そして、この発動条件ですが、今回は『祈祷』と同じで『テュール、テュール』と唱え……玲菜さん、血を少しこれに」
ナイフを渡された浅海は、それを使って指先を少しきると、数滴の血を紙の上に垂らした。
「これでいいの?」
「どうも。これは一般に『供養』と申します、生贄を捧げることですね。このルーンは敵の血を受けることが必要でして、実際に殺していないので、効果は薄いと思いますが……」
なにやら、口元が細かく動き詠唱が行われた様子。
「『葬送』、生贄を確実に捧げたことになりますか……これで儀礼は終了。見ていてください」
紙を持って立ち上がると、縦にしたまま壁に叩きつけた。
その瞬間、わずかだが突き出された先端が……壁に食い込んでいた。
「あらあら……やはり私は才能がありませんね、文字の位置が悪かったのでしょう。と、まあこのような形で行われまして、今回私が行ったのは魔力の少ない人が節約しながら行う場合、またはイフィリルのような人が武器に魔術をかける方法の一つです。自分の魔力を使う、つまり自分を生贄に使う場合、先ほどの工程をいくつか省けますから即効性のあるものだと思いますよ。そして、最後に忘れてはいけないのが……『破壊』です」
さっと、紙のルーンに触れて、いらない線を血で付け足した。
その瞬間にまるで下敷きみたいに真っ直ぐになっていた紙がただの紙に戻ってしまった。
紙を引っ張ると、それは無様に破れ、壁に突き刺さっていた部分だけがそのままそこにとどまっていた。
「……すごいな、それ俺にも使えるか?」
「いいえ、本を使うだけの公明さんには荷が重いですよ。ですが、ルーンは要するにとても簡略化した上でなお力を秘めた式の一系統でして、数十小節、あるいは数十分を必要とする魔術もたった一文字で行える可能性がある反面、実に扱い辛い。一流のルーン魔術師は世界にもそう多くないとか……玲菜さんのオガムの腕が如何ほどかは存じ上げませんが、私以上であるのなら北欧で誰か有能な師を探されることをお勧めしますね。記憶が確かなら、ルーンの元老シグルドリーファ卿がフィンランドかどこかに隠棲中だったと思います。あのご老体に入門叶えば私のような三流などすぐに乗り越え、一流の使い手になれるかと。宜しければ、推薦状は用意しますけど」
「ありがとう……でもね、その日はいつ来ることやら……それに、まだ私はかじったばかりで全然よ。貴女の話が本当に新鮮だったくらいだから」
「うれしいお褒めの言葉ですね。ですが、私はルーンを使う方法の一つを示したに過ぎません。詳しい術者ならいくつも他の方法を示すことでしょう……玲菜さんがあるいは自力でそれに辿り着けることを願っていますよ。ですが、才能がないと思われたらすぐに止めることをお勧めしますね……これは後で研究したらよくなるというものではありませんから。頂点を目指すなら絶対に才能が必要です」
破り取った紙をゴミ箱に捨てたアデットは、テーブルの上の本を片付けると再び席に戻った。
「……なぁ、文字を書くだけなら俺でも出来ないか?」
「無理、と申し上げたはずですが。それに、貴方の特異体質は私からすれば、いいえほとんどの魔術師からすればルーンを完全に身に着けることより遥かに意義深い。ファティーフ殺しの素人の名前はイフィリルが誇りにかけても漏らさないでしょうが、漏れれば貴方を解剖したいという人はいくらでも沸いてくると思いますけどね……実は私も日々その欲望を抑えています。我慢できなくなったら、殺すかもしれませんのでお気をつけあれ」
容赦のない人だよな、本当に。
少しでも望みがありそうなことを言ってくれても良いのに……
「それ、俺にとっては全然ありがたくないから。いや……本気で俺を殺そうとしてるのか?」
「どうでしょうね? まぁ、天は二物を与えず、といいますからちょうど良いのでは? 私など、素手で戦えば玲菜さんほどでもありませんし……正直、魔術が効果をなさない貴方に攻撃する術などそれほどないのでは?」
「そうかぁ? お前なら拳銃でも引っ張り出してきそうだけど……兎に角、俺はさっきのルーンとか、アレくらいなら出来そうな気がするんだけど、本当に無理なのか?」
「フフッ、公明さんはルーンの破壊の仕方だけ覚えていただければそれで結構だと思いますよ」
しかし、なんだか納得の行かない俺がいる。
あの程度のことなら、絶対にできると思うのだ。
「なぁ、だったら俺がここに書いて欲しいって場所にお前らが刻みつけるってのはどうだ? 刻む場所を考えるのが才能なんだろ? だったら俺にもあるかもしれないじゃないか」
それを聞いて、笑うのかと思えば二人は割りと真剣にその願いについて考えてくれた。
そして、少し考えたあと……
「そうですね、確かに見る前から才能を判断するのは良くないかもしれません。どうでしょう? 玲菜さんが選んだ場所に私が書いたものと、公明さんが選んだ場所に私が書いたものを使って比べてみますか?」
アデットのそれはなんともありがたい提案だった。
「ええ、確かにそれは面白そう。書く場所を選ぶだけなら魔術も使えないキミアキとでも勝負できるしね。じゃあ……さっきのアデットのを記録にして、アレと比べてみましょうか」
「壁を穴だらけにされるのも困りますから、今度はレンガ割りにでもしません? 因みに私の最高記録はトランプでのレンガ半分切断です」
「じゃ、負けた奴がこれから夕食でも奢るってことにしましょう。当然、アデットもその半分記録で参加ね」
と、あれよあれよという間に話は進んでいった。
何でもアデットはこの魔術が得意ではないから、見ただけでその出来を判断しかねるらしいので実際にレンガをトランプで切りつけることになった。
そして、俺も渡されたトランプの中の一番力を込めやすそうなところを勘で探り当てて、その場所に鉛筆で印をつけた。
アデットは二人が選んだ箇所に対してさっきと同じルーン魔術をかけた。
そして、これから誰が最も場所を選ぶ才能があるのかを競う戦いが始まるのだった。
「じゃあ、私から行くわよ。このレンガね……よし!」
気合を込めて手に持ったトランプを一度レンガに当て、そして腕を上げると一気にレンガに向けて振り下ろした。
因みに、このトランプはマークがプリントされた面が、ハードカバーの本程度のサイズで普通のものよりだいぶ大きい。
強化されたわけだから、それが当たればレンガに多少ひびが入るのではないかと思った。
瞬間、まるでガラスが砕けたような音が響き渡り、手に握られたトランプが破れて宙を舞っていた。
「……私の負けですね。レンガは見事に切断されています、実に良いセンスをお持ちのようで……羨ましいですよ、玲菜さん」
アデットがそう言ったとき、同時に俺も視線をレンガに戻していた。
宙を舞ったトランプは破れてしまっていたが、レンガは確かに二つに切られていたのだ。
しかし、これは……浅海のセンス云々と言うよりは半ばあの化け物じみた腕力の賜物ではないかと思うのだが……だって、トランプは破れてた訳だし……レンガは確かに切断されていたが、その下のコンクリートも砕けてるからな……アデットとどっこいだと思うぞ、実際は。
「では、真打ご登場……公明さん、魔術の素人がどれほど的確に基点の位置を決められるのか、興味深いデータですので好成績を収められることを願っておりますよ、クスクス……」
「煩いぞ、アデット。トランプを振る浅海がミスったらどうするんだ。黙ってみてろよ」
「はいはい。わかりましたよ、旦那様」
相変わらず性格の捻じ曲がった女だな、この人は。
「そうね、これで負けたら……キミアキの財布パンクさせてあげるから安心しなさい」
おいおい、それだけは冗談じゃないぞ。
しかし、そういう言い訳を聞くつもりなどなさそうな浅海はトランプを手に取り、新しく用意されたレンガに狙いをつける。
この際、浅海の腕力がそのままレンガを砕いてくれることを願うしかあるまい。
ただ、その奇蹟を信じて俺は目を閉じた。
そして、振り上げられたトランプの剣がレンガを打ち抜く瞬間に目を開けていた。
それは奇蹟、そうとしかいえない……トランプは破れもせず、ただ床まで豆腐を包丁で切ったみたいに綺麗に切り裂いていたのだ。
唖然としたのは持っていた浅海とアデット、そして一番驚愕したのが俺。
「……」
「……」
「……公明さんの勝ちですか……まったく、魔術師でないことが惜しいですね。いえ、貴方が持つ特異体質、魔術師でないことが原因で気がついたのでしょうけど……本当に、貴方は位置を見抜く才能だけは私など比べ物にならないほど豊かなようです。そんな奇蹟はシグルドリーファ卿に見せられて以来ですよ……」
「あ、ああ。俺も驚いてる、でも、偶然かもしれないだろ?」
「偶然? バカね、そんなことありえないわ……基点の位置はそう単純なものでもないの。あーあ、魔術も満足に使えないのに負けるなんて……キミアキ、私自信なくしそうよ、本当に」
トランプエクスカリバーに刻印されたルーンを見事に消し去った浅海は、脱力した表情でソファーに腰掛けた。
アデットも、本当に複雑そうな表情だった。
「本当に惜しい、位置を見る才能はあるのに使えないとは……猫に小判、その諺の通りです。いっそのこと、お二人で練習などされては? 玲菜さんも公明さんほどではないにしろ位置を見る才には恵まれているようですから、公明さんの指摘されるポイントと比べていけばその極意に辿り着けるかもしれませんよ」
「ちょっと、そんなことまでペアを?」
「組め、と命令しているわけではありません。提案しただけです」
「そうね……どう、キミアキ?」
こちらを向いた浅海と目があった。
なんだか彼女が俺を見る瞳から俺を見直した感じがするのは気のせいだろうか?
「どうって聞かれても……別に俺には使えないわけで、俺が場所を考えながらお前が実際に使う、なんてのはいつまでも続かないと思うぞ」
「いいのよ、練習のときだけ聞ければ。で、どうなの?」
「んー、まぁいいけど。でも、浅海の家には行かないからな。工房なんて、勝手に入っても良いことなさそうだし」
尤も、この部屋自体が錬金術師の工房ではあるが。
しかも、その本人は機会があれば殺してやりたくなるかもしれない、などとこの上もないほど恐ろしいことを言ってくれるのだから難しい。
まぁ、それは流石に冗談……だと思う。
「じゃ……奢ってくれるのよね?」
「仕方ありませんね。それに、私も……お腹が減りました。奢りますけど、何処で食べましょうか?」
「私はね、エーデルシュタインへ……」
「それでも構いませんが、今度はもっとおいしい店を紹介しましょう。それと、公明さん?」
「ん?」
部屋を出ようとした俺に語りかけた錬金術師。
浅海はさっさと部屋を出て行っていて、今は俺と彼女しかいない。
「今度、隣の県で『霧海』という理想郷が見られるそうなのですが……一緒に見に行きませんか?」
「? よくわからないけど、遊園地なら別に良いけど……」
「ええ、では……約束ですよ」
「ああ」
その意味有り気な笑いはすぐに気にならなくなったが……少し空寒い思いがした。
ただ、俺達はそのまま錬金術師の奢りに預かり、ある夏の日を過ごしたのであった。