6月19日、その月曜日は少し異常だった。
昨夜の修繕活動で魔力を消費してしまったためか、あるいはただの睡眠不足が原因だろうか、かなり体がだるく瞼は重かった。
しかし、そんなことがその異常の原因ではあるまい、それだけは断言できた。
迷惑な二人組がさっさと家を出て学校へ向かった後で、憂鬱なブルー・マンデーを切り抜けるための気分転換ついでにコーヒーを飲んだ俺は近所の人があの二人に気が付いていませんようにと思いながら家を出た。
午前八時を十分後に控えたその時間でもこの家からなら、ちょっと早歩きに歩いて二十分くらいで俺が通っている星霜学園高等部の校舎に到着する。
すると、そこで初めて異常に気がつく――何故か、クラスメイトや上級生、下級生に至るまでが俺を見てクスクス笑う。
別におかしな格好をしているわけではない、鏡を見て髪もセットしたし、制服もおかしな校則違反があるわけではない。
教室に入ったときも周りの人々の反応は変わらない、そこまで来ると流石に俺も黙っているわけには行かなくなり、席が近いアキラのところに向かった。
こいつも俺を見てなにやら意味ありげな笑いを浮かべている……いや、ちょっと待てよ……あれ、ま、さかこの前のことを言っちゃったのか?
「よう、篠崎。今日も元気そうだな」
椅子に腰掛けたまま、気軽に挨拶をしてきた。
「ああ、おはよう。それより、俺、何かしたか? ほら、クラスのヤツとか何笑ってるかわからないんだ」
予想はなんとなく出来てしまったが、それは嫌な予感ということにしておこう。
あれは誤解、そう俺の思い過ごしなんだ、そう、こいつらもそこまで悪じゃない……はず。
しかし、その最悪の事態は現実になってしまったのかもしれない、アキラは『わからないのか、お前』みたいな表情で少し呆れた風に言った。
「おい、分かってて言ってるんだろ? 昨日の、いや土曜の夜にやった肝試しで見事にお前の肝が潰れたって噂で学校中は持ちきりなんだぜ、浅海さんに迷惑かけて運ばせたってのも当然付け加えて、だけどな。後ろには気をつけとけよ、ファンが怒ってるかもしれないから」
最後の浅海関連の箇所は実ににこやかに、まるで大学の合格でも告げる瞬間のような顔で俺に教えてくれたアキラ。
まったく友達甲斐のない連中も居たものだ……顔面が蒼白になっていくのがわかる。
「ははは……アキラ、まさかそんなでたらめな噂を広めたのは、お前か? それとも良介?」
広がった噂は最早取り返しのつかないことだろう、怒る気力さえない。
いや、そんな気力があっても体中がだるくて体力がない。
ほとんど声にならない声でいつかこの復讐を果たすために犯人の名前を確かめようとすることが最後の抵抗だった。
「うん、というか俺達五人。浅海さんも、それに民子や真琴も……いや、悪かった。怒るかなって思ったけど、そんな気力が抜けたような顔されると悪い事したなって気がしてきた。ほんと、許してくれ」
悪事千里を走る、その故事には偽りはあるまい……ただこの場合は俺の恥が学校中を駆け巡っただけなのだが。
本当に悪いと思っている風でもなかったが、手を合わせて謝るアキラを問い詰めても仕方ない……しかし、忘れるなよ、今度肝試ししたときには魔術本で眼に物見せてくれる。
尤もそれは俺がちゃんとあれを使いこなせるようになったら、だけど。
「……まぁ、そう気にすんなよ。俺は怒ってないから、それにしても浅海か……噂を流した一人は、ふーん、アイツか」
そう、流石にやってくれるあのお嬢は……この決着はつけねばなるまい、今日も泊まるつもりなら夕食に七味唐辛子をこれでもかというくらいに混ぜといてやる。
いや、そういうのはまた家の破壊に……しかし、もっと直接的な復讐をすると命が惜しいし……難しいが兎に角借りは返してやる、多分……覚悟しておいてくれるよな、浅海……さん?
「なんか、お前って本当に心の広いヤツだよな。俺なら怒り狂ってるけど、篠崎は人間が大きいよ、感動したよ」
勝手にとっても人の良い人格にされた俺だが、アキラよ、お前は確実に勘違いしている……俺は怒り狂ってる、その対象に復讐する手段があればしてやりたい。
それが出来れば、これまでどれほど仕返しをしてやっただろう?
だが、浅海に仕返しなんてしてみろ、反撃にどういう攻撃を食らうか……想像など出来ないだろうな、アキラの中での浅海は『意外に話せる学園のアイドル』になったばかりだから。
そのとき、教室の扉が開き先生が入ってきた。
「じゃ、今度はせいぜい俺の器が如何に大きいかを噂で広げといてくれ」
そう言ってすぐに自分の席に戻った。
この席からだと俺より前の列に座っていたアデットの姿が眼に入る、そう言えば昨日の吸血鬼の話は本当にちゃんとしておいてくれたんだろうな?
それにウダウダやってたせいで俺は聞けなかったけど、浅海に伝えるって言ってたことは何だったのか?
ちょうど良い機会だから、次の休憩にでも聞くとするか。
○○○○○
そのあと、憂鬱な月曜日の四時間目までが終わった。
世界史の授業を聞き終わってすぐ昼食になる、俺はそのときちょうど同じ授業をとっていたアデットに声をかけて食堂に誘うことにした。
二人で連れ立って、ではあらぬ誤解の種をこれ以上増やすことにもなりかねないから距離を置いて歩こうかなー、と思っていたのだがあの女、よりにもよって俺の腕を持って歩くなどという暴挙をやってのけてくれる。
「……なぁ、本当に離せって、いや、お願いですから離してください。マジで、そういう誤解を受けたくないから止めてくれ」
そう言われても別に気にする風でもない様子のアデット。
「まあまあ、そういう堅い事は言わないでくださいよ。この学園には別に不純異性交遊禁止という校則もないわけですから」
涼しい表情で言うが……ここの生徒会長な、お前。
食堂を前にして、すでに周りの人々の視線も感じ始めた。
「生徒会長ならそういう校則作れよ、個人的に公の場でこういう事するアベックは好きじゃないし、第一お前自身は気にならないのかよ?」
「別に。私の育った文化圏では愛は語らうものですから。尤も、公明さんとそういう関係になることは無いでしょうけどね。これは単純な嫌がらせです、面白い趣向でしょう? 尤も、私の本気の愛を受け止めてくださるというのでしたら、話は別ですけど……まぁ、私の愛は少し痛いですけど」
は、自分からそう告白する奴はなかなか居ない、流石に強敵だな。
そのまま何とか後ろから刺される前に食堂に着いた。
学園の食堂、いや学園全体は海外の著名建築家に設計を依頼したとかで、かなりおしゃれなテラスとなっている。
実に味のある木目張りの床の上に二十以上のテーブルと椅子が並び、学園の中庭を眺めるガラスの壁からは光が降り注いでいた。
観賞用植物も何鉢か置かれ、学園の中庭には園芸部が咲かせた花が咲き乱れていてどこかのリゾートホテルに来ている印象さえ受ける。
欧州のサンルームをモデルにしただけあってウェスタン風の落ち着きのある空間だ、個人的にはあまり日が眩しいから雨の日がちょうど良いと思う。
俺達は窓際の他と少し離れた席に陣取り、昼食に買ったスパゲティーなどの皿をテーブルに並べた。
「確か、話があるとか……何です? 私も土曜の朝から仕事で忙しくて、これで結構疲れています。それに、体の調子もイマイチでして……特に体に調整し切れていない胃がキリキリするのですけど」
そのために食欲がないのかサンドイッチとコーヒーしか買わなかったアデットは、そのわずかな食事に口をつけながら俺の用件を質した。
スパゲティーをフォークで巻きながら、取り敢えず俺が巻き込まれた事件が大事と考え、そのことから話そうとした。
「? 調整し切れてない? 何言ってんだ……ま、いいや。実は俺と浅海と他の友達とでその、土曜の夜肝試しに行ったんだ」
その言葉を聴いて、何を思い出したかタメ息を漏らすアデット。
典雅な美貌の金髪少女が漏らすタメ息はそれだけで絵になりそうな光景だが、そこからもたらされた言葉は何と言うことか。
「まったく……幽霊を見て気絶するなんて、男性としてどうかと思いますけどね。いえ、仮にも私に師事する者として本当に私まで恥ずかしくなってきます……本当にだらしのない。人間辞めてください、お願いですから猿からやり直してください」
「違うって! それは浅海のデマだろ!」
ちょっと力を込めて否定しておく。
大丈夫だろう、食堂にはクラシックの音楽が流れていて尋常ならざる耳の持ち主でもなければここでの発言が盗み聞きされることもないだろう。
俺の否定を受けて、どうにも胡散臭げにこちらを見つめるアデット。
「デマ? 一体どういうことですか? 言っておきますが、私にだけは臆病者と思われたくないというその矮小な気持ちも虚言を用いては現実味を失いますよ。何より、虚言は大きな罪だと思うのですが」
誰もお前だけに疑われたくないなんて思ってないから、俺はみんなにそういう誤解をして欲しくないんだよ。
「違う、絶対に嘘じゃない……その、だから、俺は今からその件について聞こうとしてたんだよ。浅海から聞いただろ、あの生意気な小学生みたいな奴、俺の本の製作者について相談受けたよな?」
「はぁ? ……本の製作者、というと……イフィリルがこの街に? しかも、公明さんが出会ったというわけですか?」
真面目な顔になって、そう聞いてきた相手に俺も頷いて答える。
「フフッ――実に面白い冗談です。同時に、死んでいただけません?」
「冗談じゃなくて、本気で言ってる。信じられないくらいに綺麗だけど、何の躊躇もなく人を殺すようなガキだろ? 小学生くらいの」
「え、ええ……ですが、そんな。いえ、貴方が彼女を前にして生存していると言う現実を信じろと? すごい笑い話ですよ、それ」
「ああ、そうだよ」
「本気……ちょ、ちょっと待ってくださいね……確率を考えますから」
その後しばらく沈黙が流れた、永遠とは言わないけど実に長い時間だった。
深く考えている様子のアデットには話しかける言葉を思いつかなかった。
そして、漸く考えがまとまった様子で、再び彼女の口が開く。
「あ……いいえ、私もその話ははじめて聞きました。しかし、彼女がここに来たというのならそれにふさわしい気配があってしかるべきなのですが……それに玲菜さんもご一緒だったのですよね?」
「ああ、俺は肝試しをした病院で、ほら知ってるかどうか知らないけど、甲山町との境にあるつぶれた病院で、浅海と二人でペアを組んで肝試しをしたんだけど……」
「ちょっと待ってください、それは少し山道を入ったところにあるあの殺風景な病院ですか?」
「あ、ああ。よかった、知ってたんだな。それで、そこで肝試しや浅海が本の魔術で幽霊を見せてくれたりした後、帰ろうとした俺達の前におかしなサラリーマンとOL風の二人組みが現れたんだ。おかしいっていうのは、その眼が真っ赤で……」
「どこか墓土の臭いのようなものが漂い、服は泥だらけ、牙が覗いていた……でしょうか?」
驚いた、俺の説明を遮っていったアデットの説明はまさにその通りだった。
しかし、そこで深い話になることはなく俺に続きを促した。
「で、そいつらを浅海が退治した後、その、言葉を多少話したOLを浅海が捕縛したんだけど……そこでアイツが出た。どこかの制服みたいなのを着て、長い黒髪の外国人の女の子、『ベルラック』って名乗った……そして、逃げるとき、信じられないくらいの本数の短剣を取り出したかと思ったら俺達に投げつけてきたんだ。俺も、浅海も避けられずに胸に刺さったはずだ。でも、目が覚めたら短剣がなくなってて、いつの間にか俺が勝手に気絶してたことになってたんだ」
全ての事情を聞き終えて、アデットはどうやら俺の話を信じてくれたみたいだ。
「……忘却剣『ジャッバーク』」
「え? 何だって?」
「公明さんを貫いたという剣の名前です……しかし、公明さんは信じられないような体質ですね。改めてそう思いましたよ、良いですか? 忘却剣といいましたが、それにはかなりの誤解がありまして、ジャッバークの本当の名前は『抹消剣』、記憶削りの呪いを付与された魔剣です……持ち主が望む記憶を切り殺す、つまり単純な忘却ではなく抹消です。抹消された記憶は決して戻りません、どんな魔術を持っても、どれだけの年月を持ってしても、どれだけの科学を持ってしても今までそれをなしえた人間はいない……公明さんが初めてでしょう。ましてや、ファティーフを殺すとは……本当に貴方は反則だ」
「ま、あれは俺が意識したんじゃないけどな」
「それが反則だと言うのですけどね。しかし、幸運でした……イフィリルを怒らせてもし『ピサール』が出ていれば、あの病院は蒸発していましたよ。森ごと焼きつくされてね」
「ぴさーる?」
「私も話に聞いただけで見たことはありませんが、人を食い殺す灼熱の槍だそうです。記憶が確かなら、ケルト神話の片隅でも語られていました。あれは昔ある街を食い殺したという逸話を持ったヤズルカヤの宝槍。私の想像通りでしたら誰もあれには勝てないでしょう、例え貴方でも。何しろあれは彼女の作ではなく、原本だけしか存在を許されない星辰の槍と聞きますから……本人も腕を食いちぎられて以降は使わなくなったそうで、出番がないのは救いですかね。一応、言っておきますと多分……街は大げさかもしれませんがこの学園程度なら蒸発すると思いますよ、跡形もなく」
「蒸発って……コンクリートや鉄の沸点って、何千度の世界だぞ……でも、ふーん。ま、やばかったってことか」
「ええ、実に命がけの危ない綱渡り、本当にやばかったと言うことですね。で、玲菜さんの記憶のことですが、話を聞いた限り咄嗟に放ったものでしょうから、彼女とて抹消できるのは数時間以内の記憶に限るでしょう。そういう心配なら要りません、尤も……公明さんが臆病者という噂はしばらく我慢するしかなさそうですが」
「なら、俺の胸に突き刺さったのになんであれは消えてたんだ? それに、他の剣も」
「ジャッバークの原本は現在、北欧に保管されています。彼女をして魔導師足らしめるのはその武器作りの才能だけでなく、自分が作った武器を魔術で完全に再現することです。尤も、彼女とて魔術でそれを再現する以上はかなりの魔力を使いますから長い間実体化することはないのですけど」
「つまり消えたって事か? 時間切れになって、その魔力が切れたって事?」
アデットが首を縦に振ってそれを肯定した。
「あの、ベルラックを捕まえないで良いのか? お前もそんなに落ち着いてるけど、吸血鬼なんだろ、それも指折りの!」
「……実は私今体が弱っています。とても、とても弱っていて……戦えば、死にますよ。それにこの街にはいないでしょう……この前聞いた話では、赤い水晶のようなものを使って私の警戒を無効化したのだとか……現物でもなければわかりませんが、特殊な道具でしょう。あれは酔狂人ですから、きっと肝試しついでだったのでしょうね。私を試す、また道具も試す……こう舐められては、本来殺しますが今は流石に難しいですね」
そう聞かれて、思い出そうとする。
確か……俺に本名を口にされる前、何やら実験の成功とか何とか……
「思い出した、言葉を話したOLが実験の成功例とか何とか、兎に角そんなことを言って、そのOLだけはつれて帰ったみたいなんだ」
「……成功例? ……なるほど、わかりました。しかし運が良いですね、会った吸血鬼が彼女で。あれは自尊心の塊みたいな人ですから、表情に出していなくとも数十年くらいはショックを引きずるでしょう」
本当によく知った相手なのか、そう話したときのアデットの表情に険しさはなかった。
「公明さん、ここは私の担当地域なのでこの件はここまでにしておいてください。深くかかわると、まぁ……適当なところで死ぬかもしれませんし。揉め事の解決を貴方に手伝ってもらっては私の名誉にかかわりますからね」
「絶対に係らない、てか浅海が身動きできなかったような小学生相手に戦えるかって! それに、言っちゃ何だが、あんな小さな女の子を本気で殺したりなんて、俺には出来ないからな」
「小さい? ……ああ、そういうことですか……公明さん、彼女はあれで20代の女性ですよ。そう見えないかもしれませんが……まぁ、それは置いておきまして確か他にも何かありましたよね?」
促されたので、続きの質問をしなければ……
「そう、昨日綾音と浅海が大暴れしたんだ。家具とか滅茶苦茶になって、その修理だけで朝までかかったほど大変だった」
「ほぅ……詰まる所、痴話喧嘩ですか? 公明さんのような人は大変ですね、本当に」
楽しそうにそういう顔はまったく気の毒に思う様子がない。
「違う、痴話喧嘩じゃない! まぁ、兎に角だ。綾音がお前から何か託ったって言ってたんだ。結局喧嘩でうやむやになってたんだけど、俺に関係のあることか? それとも浅海の呪い?」
コーヒーを一口飲み、次の言葉が綴られる。
「いいえ、イフィリルの呪いを打ち破った実績について研究していけばまた発見があると思いますが、現時点で呪いの方は袋小路です。それから、伝達事項はたいしたことではありませんので、ご心配なく。占星術協会からの報告で、ちょっと大地震があって太平洋のどこかの島が消えてなくなる程度のことで、海外旅行は控えなさいというだけのことですから……まぁ、小さなことです。確率は67パーセント程度ですしね」
「あ、ああ……そういうのは政府に知らせてやれよ。マジで、人の命が懸かってるんだろ」
「確かに、魔術師という人種が非人間的であるといっても人命が軽いとは申しません……しかし、ここで報告などしたら、私が預言者にでもならなければなりませんでしょう? 世間のことには干渉しない決まりがありましてね……実際、今のような時代になりますと山の奥での修行などするのも難しい。こういうご時世に、街中で暮らすのは仕方がないにしても魔術で世間を動かすなど当然ご法度です。人を動かすと、特に欲が出て我々の社会が堕落しますからね……精神を鍛えるべき我々を世俗化するような真似をしたら、まぁ逮捕されて縛り首ですか……私はそういうのはちょっと勘弁願いたいですけど」
「OK、わかった。それなら気の毒だけど、仕方がないな……それより今度でいいから、浅海にそれとなく俺が気絶したわけじゃないって教えといてくれないか? はっきり言って当事者にくらいは事実を知って欲しいからな」
「なるほど……しかし、それは残念ですね。もう少し恥でもかいて欲しかったのですが」
「おい!」
「切実なようなので願いは受け付けましょう……ちょっと難しいと思いますが善処します。では、そろそろ授業の時間ですので私はこれで失礼。食事、食べるのなら急いだ方が良いですよ」
時計を見れば、実に後10分くらいか……そのまま俺が無言で残りの食事を平らげたことは言うまでもない。
○○○○○
その瞬間、天井が見えた。
叩きつけられる衝撃が体中を駆け抜け、足の先まで痺れる。
うまく受身を取ったつもりだったのに、畳の上にぶつけた背中を通り抜けた衝撃はそのまま内臓に伝わり、胃液が逆流したような気さえした。
倒れた俺を押さえつけるために、鳩尾への追撃を加えた上に圧し掛かってきた柔らかな体――その衝撃さえ加わり、体を起こすことさえ叶わなかった。
そして、反撃もままならないうちに喉の手前で止められた小さな拳――いかにも女性的な綺麗な手だったが、本来ならその手に握られたナイフが俺の命を奪っていたことだろう。
俺の体の上に馬乗りの姿勢になっていた綾音の顔が覗いた。
「はぁ、は……また足元を疎かにして! これが真剣勝負なら今日だけで20回は死んでいたのよ、真面目にやりなさい! いいえ、これで本気なの?」
鬼気迫る気迫、すでに何十回も投げられ、落とされかけ、体はガタガタ……今日は本当にどうしたのか、学校帰りに『心身を鍛えるためには武道が一番手っ取り早くて、ちょうど良い場所が確保できるの。稽古してあげますから、付き合いなさい』と、言われてついてきてみたら……なんでこんなことに?
華道だか茶道だったかの家元をしている家になんでこんな道場があるのか? それはこの家が魔術の鍛錬に武道を古くから取り入れていたからだ。
魔力は生命力の一種、ならばそれを強化するのは精神力のみならず、肉体も深く作用するはずだ。
だから、それを同時に鍛えることが出来る武道は実に効率が良い……らしい。
すでに開戦から二時間近く、最初からほとんど手を抜いてくれない綾音にすでに半殺しにされ、体中は汗でぐっしょりだった。
「ちょ……無茶、言うなよ……お前に言われてた、基礎体力作り、だけじゃ……こんなに本気出されて、どうにか出来るわけ……ないだろ、はぁ……ほんと、苦しい……腹の上から退けてくれ」
そう、体力作りはアデットは何かしらの武術の経験もあるくせにあまり乗り気でない様子だったので、綾音大先生に師事していたわけだが……走ったり、腕立てしたり、腹筋したり……何一つ武術は教わっていない。
つまり、ぶっつけ本番でこの人は本気で叩きのめしに来たわけだ、半端ないスパルタ式。
「優れた弟子とは師の技を眼で盗むものです。体でそれをこれだけ受けたのなら、何かしら覚えたこともあるでしょう……私が納得するまで何度でもかかってきなさい。もとより、魔術も魔力も何も使っていない生身の勝負……体力的な面を考えても、体重があるそちらが有利なのですから、一本も取れないなどという軟弱な精神はこの際捨てなさい!」
そう言いながら、体の上から退けてくれる。
再び距離をとって、構える……俺も何とか体を起こして立ち上がった。
「まったく……あの不埒者を思い出すだけで、苛々が……」
「? おい、不埒者って浅海か?」
来ていた胴衣を直しながら、何かを考えながら独り言を言っていた綾音に聞いた。
「いいえ、浅海は無法者です……私の言っているのは……いいえ、兎に角さっさとかかってきなさい! 殴っても構いませんのよ」
「どうも。でも、やっぱり女は殴れないだろ。グローブつけてないし、それに突きとかありにしたら俺がヤバイ」
それをどう受け取ったか、真っ赤になって怒った綾音が一喝した。
「! 失礼よ、私はそんなに体重もないのにどうして貴方が危なくなるの!」
怒りのままに駆けた白い風、一瞬構えるのが遅れたのが命取り……口でああ言っておきながらも軽く握り拳を作っていた右手が反射的に出て軽いジャブを放つ。
しかし、その軌道よりもさらに姿勢を低くして避けられ、防御ががら空きになった内に入られる!
「クッ!」
力を入れる前にめり込むように決まっていた鮮やかな掌底!
胃液が逆流したような気持ち悪さと共に体が崩れた、口からは呻き声が漏れてそのまま倒れそうな体を引きずり何とか後ろに下がる。
「ゴホッ、ゴ……」
「どう? 手加減は無用とわかったでしょう、本気で来なさい」
いや、俺は本気ではあるのだが……単純に勝てるわけもないだろう!
しかし、考えようによっては経験値の差を埋める方法も何かあるはずだ――身長、体重、スタミナ、基本的な力なら確かに俺に分があるはずだから、その如何ともし難い魔力量の差を無視できる戦いなら何か方法が……
不意打ち、それ以外にあるまい――誰かを見たと言って、扉の方を見ながら声を出す……引っかかるとは思えないが、素で戦って一本を取れるわけもない、駄目元だ!
「? どうしたの、苦しくて動けなくなった? そうなら、魔力で身体の強化をしても構わないのよ」
乱れていた息を整え、何とか体勢を立て直すと相手のこの上ない申し出にうっかり乗りそうになった。
魔力をコントロールして身体の能力を強化すれば普段の何倍か位の動きは出来たかもしれない、あるいは何倍も行かなくても今よりはましなはずだ。
でも、いくら相手が魔術も体術も一流でも女の子……自尊心が許してくれるはずもない。
それにそれで負けてみろ、俺は自分へ言い訳することも出来なくなる。
そんな恥ずかしいことが出来るわけもない――正直、勝つ自信もないし。
ただ、大声を出したり、目潰ししたり、あるいは降参した振りをしての不意打ちくらいなら……戦術の範疇、だよな?
「冗談だろ、いくら俺が素人でもそんなにハンデ貰ったらお前だってきついはずだ。それにもう二時間近くも投げられて、体力もほとんど限界なのに、この上無理に魔力を使い切ったら明日動けなくなる。本気で来いよ」
多少の誇張はあるがそれは真実だった、嘘はない。
それを聞いて、本当に感心した様子の綾音は俺の心を読みきれていなかった。
それは俺が考えていた作戦が露見していないことを意味するだけでなく、俺の計算違いを露にした。
「……ごめんなさい」
真面目な顔で謝罪する綾音、どうしたというのか?
「ん?」
「貴方がそんな威厳ある、そして高貴な精神を養っていたなんて……見抜けなかった私は自分が『手加減』を加えていたことを深く恥じます……白川の後継者として、手合わせとはいえ本気の相手に手加減するなど、なんて恥知らずだったのでしょう。安心して、本気でやりますから」
「へ? あの、ちょ……手加減って……、その綾音サン?」
一度目を閉じて精神を集中した彼女が再び眼を開いたとき、その総身は凄まじいまでの気迫を感じさせた。
違う、さっきまでとはまったく違う。
「骨が折れるくらいで、それ以上のことをする前に納めますが……貴方のその高貴な精神に敬意を表して、我が流派の奥義でお相手を致します」
目の前で原子炉が臨界点を軽く突破していく……何か、とてつもなく大きい勘違いがあっという間にこの空間を殺伐とした、冗談の通じない空間に作り変えてしまった。
不意打ちなど不可能だ、その隙などない……声も出せないほどの張り詰めた気迫。
本気だ、これが彼女の本気――魔力の助けなどない、魔術の行使もない、それでいてその総身から漲る殺意にも似た気迫は俺の体を麻痺させる。
言わなきゃ……よかったな、ほんと。
計算違い、それ以外の何者でもない。
口は災いの元とはよく言ったな、昔の人……しかし、だからこそこれほどの集中力を乱すものがあれば、その回復は困難なはず。
タイミングだけを見計らって、アデットの名前でも出せば問題あるまい。
構えだけは見よう見まねで、さっきまで綾音がとっていたポーズをとる。
ここから何か続ける技を知るわけでもない、綾音とて柔道の投げ技みたいなので俺を投げたりしてただけだ。
だが、今は違うさっきまでと構えが変わり、すごいのが来る予感が素人でもわかる。
ヤバイ、声を出さないと死ぬかもしれない……今綾音の頭の中から俺が魔術の聞かないからだということは忘れ去られているのだろう、骨が折れたらヤバイのだが。
「では、行きます」
その一言と共にわずかにとられていた距離があっという間に縮まる、それは体が魔力で強化されていたら、仙人が用いたという縮地にも見えたかもしれないほどの動きだった。
呼吸をする時間さえ忘れて、行われるであろう奥義の披露を防止するため、大声で叫ぶ!
「そこ何してるんだ、アデット!」
「!」
見えないほどの蹴りが俺の耳元で止まっていた、目前で体を反転させたかと思った瞬間にはもうその場にあった右足は踵が俺の耳を打つ寸前で一瞬止まったのだ!
「隙あり!」
唖然とした表情の綾音の顔がわずかに見えたときには俺の腕が相手の胴着をしっかり掴んでいて、体育の授業でやった柔道のときに身に着けた大外刈りをかけていたのだった。
そのとき恐怖で体が竦んでいたためか、技をかけた直後の足が滑った。
「あっ、やば……」
びっくりした表情の綾音と俺の体が宙を舞った!
床に叩きつけられるかと思ったが、下敷きになった綾音の体があったためにその衝撃はずっと小さなものだった。
しかし、それでも痛いかな……と思うと目を閉じていた。
人の体の上に倒れこんだわけだから、ちょっと柔らかな感触が伝わった。
「……」
「……」
パシャ!
沈黙が続いた、一体どうしてかよくわからないが綾音まで無言だった。
おかしな手段を使ったから、命にかかわるかと思っていたのだがそれは意外だった。
パシャ!
「……見事でした……シュリンゲル卿の気配にまで気がついて、私を投げ飛ばすなんて……本当に貴方、すごいわ。ただ、そこから手をどけなさい! もう早く、退けて!」
目を開けたとき、朱色に染まりながらも呆然とした綾音の顔がそこにあり、俺の手は彼女の胸の上に……あ、ヤバッ!
さっと手を離すと、そのまま彼女の体の上からどける。
パシャ!
俺が必死に掴んでいたために乱れてしまっていた胴着を直しながら、俺の差し出した手をつかんで起き上がる綾音。
しかし、その視線は俺とは反対の方向に向けられていた。
パシャ!
何とか俺に投げられた衝撃と胸を掴まれた羞恥心を克服しようとしているのかと思ったが、俺もそちらを見て体が固まった。
デジタルカメラを片手に持った金髪の錬金術師は学校帰りらしく制服姿で、鞄を片手に俺達とそれほど離れていないところに立っていた。
それも、極上の悪魔の笑みを浮かべて。
「どうも、こんばんは」
カメラを収めると上品にお辞儀をした彼女がさっきの光景を楽しもうとしているのは火を見るよりも明らかだった。
それが証拠に綾音は苦虫を噛み潰したような顔に変わっていた。
「公明さんたちがこちらで稽古をつけていらっしゃると、正臣さんから伺いまして……気配は隠したつもりでしたが、公明さんがまさかそれを見破るとは思いませんでした。ああいった、綾音さんの熱心なご指導の賜物でしょうかね? 参考までに写真に撮らせて戴きましたが、結構激しい接触があるようですね」
天使のような悪魔がなんとも楽しそうにそう語った。
手に入れた玩具をどう弄ろうかあの明晰な頭脳で考え始めているのか。
「誤解……です。それより、その、どうして貴女がお父様に?」
綾音のその言葉は深く追求される前に相手から主導権を取り戻そうという行動だったようだ。
俺も何か言おうと考えてたけど、言葉が頭の中を回り続けてばかりで口から出てこなかった。
「先日の雨峰家の相続問題で秋継さんは不幸にも病院から『行方不明』になってしまわれたでしょう? その代わりに……ショックから立ち直られた亜希子さんが白川家側の協会に所属したいとおっしゃられて、こちらが手を引くとお伝えに。まぁ、こちらの不手際が目立ちましたし、この責任は私よりもっと上のところが取る事になるでしょうね。ところで、さっきの気配遮断は自信があったのですがどうやって私に気がついたのですか?」
その言葉と同時に二人の視線がゆっくり俺に向いてきた。
今更、嘘八百を並べて綾音から一本取ろうとしたとはいえまい。
「あはは、そんなに見るなよ。勘……だ、勘!」
勢いで誤魔化すしかなかった。
「心眼ですって!? 貴方……本当にこんな短期間ですごい成長を……すごい、私の教え方は間違っていなかったのね。そうでしょう、シュリンゲル卿?」
あ、ちょっと……何かものすごく勘違いなさってますよ。
しかし、勘違いの輪は止まらない。
俺の態度を見ながら少し考えた様子のアデットは、それでも気がついていないのか、見当違いの言葉をさらに続けた。
「確かにあれだけうまく気配を消した私を簡単に見つけてしまったのですから、これは天才か綾音さんのご指導が卓越していたためでしょうね。いつか私もご教授願いたいくらいです……ただその際、さっきのように押し倒した上、胸を揉まなければならないと思うと少し考え物かもしれませんね。流石に自由な校風の我が学園でもああいうのは……ちょっとよくないと思われませんか?」
最後の辺りに実に力の込められた台詞だった、最初の辺りは首を振りながら胸を張っていた綾音も最後の辺りには流石に赤くなっていた。
俺も事故とはいえ……サイズはAとBの間くらいか……いや、つい無意識のうちに測定してたが、あれは事故で、そもそも試合なんだからおかしな気はなくて、このバカ生徒会長が考えているおかしな妄想なんて存在しないんだ。
「そういう邪な感情しか抱けない貴女こそどうかと思いますが」
それは実に冷静な対応でかなり棘のある言い方だったが、そんなことを気にする相手でもない。
「ほう、それは面白い。先ほどの写真で皆さんに聞いてみましょうか、特に風紀委員長などに。校外での活動とはいえ、眼にした以上黙っておくというのも名誉ある学園の生徒として問題がありますからね。ましてや、私は常に公明正大で潔癖な生徒会長、そうでしょう?」
自分の生徒会にわざわざ混乱を巻き起こそうかというこの生徒会長は……何なんだろう? 少なくとも良い人、とは言えないと思うな。
「くっ……要求はお金ですか?」
真剣な顔でなにやら大人の言語を話し始めた綾音。
そもそも何かを要求しているわけでもないのに、そうすぐに金というのは人としてどうかと思うのだが。
「おほほ、金銭が目的といわれては心外ですね。私は富も、名声も、地位も、全て持っていますでしょう……持っていないのはどうしようもなく暇なときに遊ぶ玩具くらいのものでしょうか。尤も、貴女方はずいぶん前から私の玩具でしたけど」
あくまで涼しげな彼女は本来なら自慢にしか聞こえない台詞を実に嫌味のないものに変えていた、それに錬金術師である彼女の言うことは間違いなく真実であった。
「ふ、シュリンゲル卿。貴女はあの程度の映像がどういう脅しになると思われるのですか、魔術師を脅す材料があれでは話にもなりませんわ」
腕を組んで相手を見据えた綾音はほとんど勝利宣言のように高らかに言った。
「それは当然ですね、ただ私は何と言いますか……学園やお父上に娘さんが殿方と二人だけでこういうことをなさっていると、お見せしようかと。第一、いくら格闘技の実習とはいえどうしてああいう体勢になるのか疑問ですし、顔も近すぎました。接吻などしていると勘繰られても仕方の無い角度で撮ってありますからご安心を」
上目遣いに、相手の出方を伺うような言い方だった。
「事故だといっています! 貴女の邪推は度を越していますよ、あれくらいの状況などいくらでも起こりえることですわ」
その否定には俺も同意する、実に早い切り返しで綾音はそう言った。
「かもしれませんね。しかし、事実を判断するのは民衆の目でしょう。白いは黒い、黒いは白い……ね、私の知りうる限りにおいては残念なことですが真理を見抜く眼を持った人というのはごく少数ということになりますよ」
わずかな嘲笑は貴族的な高笑い、この人は本当に……
「なぁ、アデット。お前もわかっててからかってるんだろ? あれは間違いなく事故だって!」
「む、公明さんも否定に回りますか。しかし、私も精神的に何かしらの刺激を必要とすることもありましてね……いっその事、猫のコスプレでもして商店街をにゃーにゃー啼きながら歩くなど、かなり恥ずかしいことをさせたかったのですが、それはまた別の機会にでもしましょうか」
「返すんだな?」
「ええ、記念にどうぞ。お受け取りください」
そういって投げられたカメラを受け取ると、さっきの映像は消去された。
「まったく、貴女は本当に神出鬼没で、とんでもない人ですね」
「そう呆れたような顔で見ないでくださいよ。実はここにもう少し呆れそうな人がいらっしゃいましてね、先日、あの土曜の夜に公明さんは幽霊を見て気絶なされたそうですよ。玲菜さんとご一緒に肝試しをしておられたそうですが、何とも情けない話だと思われませんか?」
「あ、おい! お前、何言って……バカ、それは嘘だって」
「……シュリンゲル卿、そのお話をもう少し詳しくお聞かせくださいませんか」
「すごい噂でしたけど、ご存じないとは。しかし、ええ、喜んで。実はですね……」
カメラを素直に渡したとき、俺は実はコイツは良い奴じゃないかと勘違いした……しかし、もう少し面白そうな遊び方を思いついただけだったのだ。
俺が幽霊に気絶した、という話にもろに乗った綾音がその臆病さに激怒して俺をさらに地獄の特訓につき合わせてくれたことは全て、いつか、アイツに責任を取らせてやりたい事件だった。
「おほほ、本当に情けない話でしょう? 私、お二人よりもずいぶん長く生きていますけど幽霊を見て、女性の前で気絶した男性は本当に初めてです! まさかそんな人がいらっしゃるとは夢にも思いませんでしたよ。その上、気絶する前に玲菜さんに抱きついて、『浅海助けて!』と絶叫したというのは本当に眼も当てられませんね」
なにやら、余計な尾鰭を付けてくれたことも付け加えておこう……この人は最悪だ。