少し前、市立病院では雨峰秋継の腕の接合手術が完了していた。
「なんとか、手術は成功しました。傷口をうまく繋ぐことが出来たのは切断面が綺麗だったこととよく冷やしておいて貰えたからです」
中年の医師がそれを告げたのは金髪の錬金術師、患者の親戚で付添い人ということになっていた。
そう、医師に信じ込ませていたのだ。
「面会は可能でしょうか?」
「今はまだ難しいですね、そもそも麻酔が残っていますから」
「なるほど。では先ほどの話ですが切断面が綺麗だったというのは? 私の目撃したところでは物の下敷きになったところを引き抜こうとしてああなったと思うのですが」
適当な作り話ではあったが正直に言えるわけも無い。
医師はそれを聴いて、ちょっと首をかしげた。
「そうですか? それは少しおかしい……患者の腕が落ちた現場を見たんですか?」
「いいえ、現場を目撃したわけではなく、大量の出血が見えたのがそういう状況としか思えませんので」
「うーん、それは難しいですね。私の見る限り鋭い刃物かガラスで切断したとしか思えないんですが、近くにそういったものは?」
考え込んだ表情のアーデルハイトに医師は問いかけようとした。
○○○○○
夜の病院――そうは言っても廃墟ではなく、患者が現に入院している病院の一室にその夜、場違いなほどに美しい訪問者が現れた。
入院している秋継はほとんど音もなく侵入したアーデルハイトの存在に、彼女が自分のすぐ脇に立つまで気がつかなかった。
部屋の中には患者は彼一人、そしてそれを訪れる人はいないはずであった。
だが、突然現れた錬金術師にわずかに驚きの表情を見せながら、何とか体を起こして彼女の方を向いた秋継。
百年を越える間老いることさえなかった美貌の錬金術師は世間話をするかのように、見回りの看護婦などが来ないように細工しておいたことを告げた。
「……で、一体何なんだ? いや、その前に腕のことは礼を言わせてもらうぜ」
「構いませんよ。それより、先ほどご実家から電話がありましたよ……お気の毒ですが、お兄様はお亡くなりになられたとか……妹さんは無事だそうで、不幸中の幸いでしょうか」
何かを予感していたのか、秋継はそれを聞いてもさしたる動揺は見せなかった。
「……そうか……」
相手のあまりにもあっさりとした態度はこの場では少々おかしかったかもしれない。
しかし、自分が襲われて兄にも何かあったのではないかというのは推理の飛躍というほどでもない。
秋継の周りには二人の一流の魔術師がいたが、夏彦にはそれがなかった……考えてみれば、彼の死は当たり前だったのかもしれない。
「……」
彼を見つめる視線はどこか厳しかった。
「あんたは俺が悲しくなさそうだって思うか? これで俺が後継者になれるって喜んでいるって思うか?」
何も言わずに見つめているばかりだった相手の態度を非難と思ったのか、秋継はやや興奮気味に言葉を紡いだ。
金砂の髪が揺れ、それを否定する。
「いいえ、まったく悲しんでいないとは思いませんよ……ただ、喜んでいるというのは本当でしょう?」
聞き間違いかと思った。
彼女は人格者ではなかったのか、ただそう思っていた彼にはその言葉を彼女の本音と信じることなど出来なかった。
「へ……なんだって?」
しかし、錬金術師はその言葉を聞いて、せせら笑う。
「あら、それでしたらもう一度申し上げます。私はむしろ、競争相手が死んで喜ばない魔術師が存在することが信じられないわけです。お兄様の死が心の底からうれしいでしょう?」
「は、何言ってるんだ? 兄貴が死んで悲しまない奴なんているか?」
「魔術師とは本来そういう非人間的なものでしょう。私なら、素直に喜びますけどね。対して貴方が喜ばないとは、冗談にしては笑えません」
冷徹とも思える言葉に秋継は驚愕する、アーデルハイトは冷たいサファイアのような瞳で眼鏡を通して彼の心臓を射抜く。
反論など許さない、そういう殺意めいた確かな意思が伺えた。
その存在感に圧迫されて、窒息しそうな魚のように言葉に詰まりながらも何とか自分の口から言葉を搾り出そうとした秋継。
「な、何だよ……いくらあんたが偉い人だっていっても、言って良いこと、と悪いことが……」
「恥の上塗りをする前に自決するか、あるいは全て白状すべき……では?」
秋継の額にはわずかに汗がにじみ始めた。
緊張で鼓動が高まる。
「証拠はあるのか、ほら、証拠は?」
緊張がそうさせるのか、声高にそう叫んだ。
対する錬金術師は実に静かに、そして冷静に言葉を続けた。
「『証拠』ですか――私は何故喜ばないのかを聞いていただけですけど、一体何を証明するための証拠が必要になるのでしょうか?」
自らの失言を上げられて、頭に血が上る。
「は、話の流れでわかるんだよ! 俺が兄貴や爺を殺ったって思ってるんだろ?」
「貴方は本当に勘の鋭い方ですね。確かに、正直に申し上げましてその通りです。そして、その論拠としてはその腕でしょうか?」
自分の包帯を巻かれた腕を見つめながら、秋継はそれが何だといわんばかりに反論しようとした。
「経験、医学的見地からして突然襲われた場合、彼らの運動能力を考慮したとしても、あれほどまで綺麗に腕を刎ねることは出来ません」
「は、何を言ってるんだ。実際にそうなってるから、俺は腕を……」
「ご存じないようなので申し上げますと、人の体は意外に丈夫です。速い、油断していた、などの条件が重なったと言ってもアレでは動いていなかったのと同じです。彼らにその場できり飛ばさせましたね?」
「……なに、が?」
「それは作為的なもの……救いようの無い愚か者ですね、貴方」
その冷徹な事実に秋継は沈黙せざるを得なかった。
「あまりに過剰な演技が貴方の罪を浮き立たせました。夏彦さんが死んだ場合に容疑者となるのは貴方だけですが……疑いを逸らすだけなら、もう少し考えるべきでしたね」
さっと取り出されたのは鋭い刃先のメス、秋継の体が恐怖に竦む。
「ちょ、ちょっと待てよ! 俺がそんなことやった物的証拠もなく、状況証拠だけ……その上、そんなモンで脅す気か!?」
艶然と微笑む相手はその言葉を受けてもメスを収める様子さえない。
「ええ、おせっかいな調査官が調べてくれましたから。あの吸血鬼、例の行方不明事件の被害者ですね。そのレポートによると、被害者が消える直前貴方の姿を目撃した人がいるようですよ……それも三件で」
「偶然だ、偶然!」
「そうかもしれません、また貴方があれほど不可思議な吸血鬼を作り上げる魔術を極めているとも思えまない」
確かに、あの吸血鬼は秋継のような人間にはとても作り出すことなど出来ないだろう。
しかし、状況は彼が怪しいと証明している。
「ですが、無関係でもないでしょう? 彼らが貴方の利害関係者、それも二人を殺し、その被害者の近くで貴方が目撃されている……申し訳ありませんが、状況証拠だけで調査する義務が生じますね」
「俺を調査だと? それは……一体何、をするつも……」
錬金術師はため息をつきながら、平然と言った。
「この場を借りてカミングアウトしますが、私はかなりの拷問好きでして。それで……正直に申し上げてくださった方が、お互いのためだと思いませんか?」
何を言っているんだ、この女は?
それでも、彼女は長々と話し続ける。
「は? いや、調査の話じゃないのか?」
「調査? ああ、拷問でも、自白剤でも、洗脳でも、もっと悲惨な方法でも構いませんよ……あるいは経験値は少ないですが、頭の生体解剖でもしてみますか? 多分、痛いでしょうけど」
「え……いや、何を言ってるんだ、あんた? 話がかみ合ってない」
「あら大丈夫ですよ、ご安心ください」
話が通じたらしい。
それだけで安堵の声が漏れた。
「ほっ。いや、わかってたよ。アンタみたいなのがそんな無茶する訳ないって……」
だが、それは勘違いだと知らされる。
「……男性を解剖するのはあまり趣味ではありませんが……朝までベッドの上でご一緒に楽しみましょうね。きっと良い思い出になりますよ、私のアレは一種の芸術と自負していますから」
「お、おい……あんた、さっきから何を言って……」
「私、張り切っちゃいますから……昇天などしないように頑張ってくださいね」
まともな状況で聴いた言葉なら、体は震えないだろう。
震えたとしたらそれは武者震いか喜びか。
だが、秋継は血も凍りそうな恐怖の真っ只中だった……相手が本気かどうかは目を見れば多少とも予想できる。
そして、錬金術師は冗談など通じそうな雰囲気ではないのだ。
「私が快感に打ち震え、その至高の頂に上り詰めた後でも気絶とかは禁止ですよ。尤もこの腕が如何に錆付いても、貴方が正気でいられる間に殺すようなへまはしませんから、ご安心ください」
彼女の瞳の狂気も、その言葉の真実も、全ては現実……それだけで秋継の心臓はとまるのではないかと思えるほどの冷たい空間。
「なに、そう心配しなくて大丈夫です。永久に苦しませることはあっても、殺しはしませんから。そう、命は大事にしないといけませんからね……少なくとも寿命以上には生かしますから、大丈夫ですよ」
「おい、そんなことしてどうなるか……わかってるんだろう? そもそもアンタは協会の……」
「わかっています、ええそれが大事なポイントですから。そう……何千回も『殺して』と叫ばせてそれを無視する快感、ご存じなのですか?」
「俺の話を聞いてるんだろ! なんで答えないんだ! 話に合わせた回答をしろ!」
「気絶はさせません、そうならない魔術はいくつも知っていますから大丈夫。心臓が止まったら? ご安心を、すぐに蘇生します。出血多量? 大丈夫です、輸血して続けますから……他にご心配の点は?」
「許さないぞ、絶対にそんなことは……」
「――ああ、本当に楽しみ。絶対にすぐには逝かせないわよ。そう、徹底的に終わらせてあげるからね、ボウヤ。Oh! Ich komme aus dem Lachen nicht heraus. Gott segne dich!」
「俺の話を聞け!」
「Was?――失礼。興奮のあまり、無作法な母の口調が少し移りました。しかし……想像するだけで回路がショートしそう、キャハハハ」
その一瞬の狂気と彼女から漏れた高笑いに矮小な陰謀家は耐えられなかった。
「止めろ、その笑いは止めろ! いや、絶対にそんなこと許さない、上が許すと思ってるのか! 訴えてやるからな、絶対に」
アーデルハイトは冷たく笑い、彼を侮蔑のまなざしで射貫いていた。
「上? ああ、天国の母上を愛しておられますか?」
ナースコールを押し続けても、まったく反応していない。
しかも、目の前の錬金術師はとてもまともではない上に、刃物を手にしている。
いや、ナースコールだけではなかった……使用厳禁であるとはいえ、携帯電話さえかからない。
錬金術師に図られた……直感的に気がついても、彼女の狂気に口を挟むことも出来ないし、手を出してどうにかできるとも思えない。
「私はこの手で始末した今でもとても愛していますよ、私はきっと深すぎる愛ゆえに彼女を手にかけてしまったのでしょうね。貴方は、母と同じコースで宜しいですか? OKですか、では……手術開始」
笑顔のまま、その手に握られたメスで容赦なく男に突き立てた。。
その軌道は太腿にしっかり食い込んで、血が溢れた。
まさか、ここまで狂気を感じさせても彼女がそんな事をとするわけがないと踏んでいた男の口からは恐怖と疑念が入り混じった悲鳴が漏れた。
体を回転させて、ベッドの下に落ちてわめき散らした。
「何を大きな声で騒いでいらっしゃるのやら……ここは病院ですよ。お静かに、ルールは守りましょうね」
「うっ、煩い! 狂ってる、狂ってるぞ、お前!」
「本当に失礼な方ですね、私の精神は常に明瞭ですよ。狂った人間にこんな芸術的な突き刺し方が出来るとお思いなのですか?」
「止めろ! もう止めてくれ!」
「私は狂っているというよりは、むしろ、錬金術師としては普通でしょう。何しろ、私たちは貴方たちとは違って、真に永遠を求める人間……研究の対象であるはずの人を、愛の対象と見る術者などいませんからね」
そして、思い出したように付け加えた。
「あ、いえ私は特別人を愛している方でした。ですから貴方も私の愛し方で、たっぷり愛してあげますよ。あくまで、私の愛し方でね」
ポケットにでも忍ばせていたのか、再び銀の光が煌めくと秋継の体からは鮮血がほとばしった。
搾り出すような悲鳴が響き渡るが、病院関係者の誰もこの場所を訪れることはない。
「あらあら、高速飛翔させた以外にはルーンやオガムを使ったわけでもないのですけど、障壁とか展開しないのですか? 少しは頑張って抵抗してくれないと、貴方を愛し切れませんよ」
嘲笑する錬金術師はポケットの中のメスをすっかり使い果たした。
投擲されるメスをかわそうと動き回ったために床は血だらけ。
ぐったりしている秋継を見下ろしながら、彼女は床に零れた血を指で掬い取って舐めた。
「あぁ……おいしい。人殺しの血はいつも美味、それは誰が作ったルールなのでしょうね……はぁ、とても興奮します、人を支配し、隷属させる喜びに近いですから」
淫靡な光景だった。
自分の唇に当てた手をかわいらしい舌が絡みつくように舐めまわし、こぼれた男の血を舐め取る。
眼鏡の奥の青い瞳はそれだけで霞がかり、彼女だけの幻想の果てに行ってしまったようだ。
「ところで、吸血行為の意味をご存知ですか? 相手の血を飲むことは相手の魂を支配するということ……古典呪術の一系統です。吸血鬼は好きなのですよ……貴方のような、人殺しの血がね。今正直に申し出てくだされば、殺すのも、拷問するのも止めますが如何致しましょうか?」
「あがっ……くぉ、あ……痛ぇ……頼む、助けてくれ。もう止めて……」
倒れてもがく男の苦悶の声に錬金術師は赤く染まった口元を緩めた。
「一分以内で全て答えなさい……クリア出来れば、助けて差し上げますよ。有益でしたら、傷も手当てしましょう」
「あ、ああ、言う、言う……」
天使のような笑顔に変わった錬金術師は男の告白をじっくりと聞いてやったのだった。
○○○○○
「……ここは?」
目が覚めたとき、朝日が邪魔だった。
眩しくて仕方が無い、綾音は手で光を遮りながら体を起こした。
「おはようございます」
アーデルハイトの顔に気がつくと、そこが教会だと気がついた。
服はパジャマに変わっている。
「……貴女が私の着替えを?」
「ええ、サイズは義時さんに聞きましたから」
綾音の視線が鋭くなり、顔は真っ赤になった。
「シュリンゲル卿……まさかあの変態吸血貴族は私の素肌を?」
「いいえ、義時さんの結界なら人間の体を服の上からでも透視出来ますから目算でしょうね。私も昨日知って驚愕しましたよ、あの結界にも、綾音さんのサイズにも……」
「! そうです、良く考えれば貴女は知っていらしたのね? 彼が吸血鬼であるにもかかわらず、受け入れたのですね!」
「そう怒らないでください。私が協会の監察官に任命したわけではありませんし……実は義時さんも昨日の事件に関わりがあったようなので、事情を聞こうとしたのですが……まさかアレがマン・ド・グロワールだとは思いませんでしたね」
ブラウスのボタンを外して下着だけの素肌を晒したアーデルハイトの腹部には何かで抉った様な不可解な、そして大きな傷があるいは胸にまで達していた。
まるで内側から盛り上がったような傷、外側から抉られた傷……いかな凶器を持って行った攻撃かの判断さえつかない
傷口自体がとても尋常のものではなく、苦痛は想像を絶すると思われる。
「結論を申しますと、ご覧のように半ば返り討ち……手ひどくやられちゃいましたね。教訓としては、同じ相手との二度目の戦いは出来れば避けること、でしょうか」
「その傷は……やはり痛むのですか?」
「実際、神経を麻痺させていなければすぐにでも失神するほど痛いでしょう……そうですね、内臓をいくつか破損して、骨も二本ほどを体から抜き取られて、五本を砕かれましたか……脾臓丸ごとと胃の一部は抜き取られてしまいました。盲腸なら問題はなかったのですが、融通の聞かない人ですよ、本当に」
まったく苦痛を感じていないような表情に疑問は感じるところだが、彼女の行ったダメージは実際のものだろう。
それに、言い忘れているところがあった。
「……左腕も、ですか?」
ぶら下がっている左腕を見つめて、錬金術師は苦笑した。
「ああ、これは折られただけです。直に繋がりますよ。内臓は兎も角、骨はステンレスにでも替えますか……月曜までに治ると良いのですけど。まぁ、無理でしたら体を丸ごと変えるしかないでしょうね……正直、ホムンクルスを作るのは時間がかかるのですけど。ああ、本当に時間が足りませんね」
まるで他人事のように言う錬金術師に呆れるしかなかった。
敵に対しての殺意など微塵も感じないし、この傷に対する恨み節も聞こえない。
ただ淡々と事実と状況を説明しただけ、本当に人間的でないと感じさせられる瞬間だった。
「……彼は、あの男は?」
「殺しきれませんでした、あの厄介なことこの上ない腕だけは潰しましたけど……流石に、夜の吸血鬼はしぶとい。朝なら絶対に命を奪えた相手でも、夜は私の命を脅かす……体が直らないというのはそれだけで不公平、私は臓器一式を換えるまで食事も出来ないのですからね。ところで、先ほどから申しておりますように私は内臓が痛んでいて飲めませんが、綾音さんはコーヒーでもどうです? 紅茶もありますが?」
○○○○○
目が覚めたとき、すでに11時過ぎだった。
昨夜の大宴会、浅海と二人して家まで帰って部屋の中にぶっ倒れて……
「あっ、浅海! お前……」
居間の床の上に大の字になって寝ていた俺は、立ち上がったときソファーの上でへそを出したまま寝ていた浅海に気がついた。
顔はそれだけで真っ赤だ、思わず後ろを向くしかなかった。
どういう寝方をすればこうなるのか、熱くなって服を脱いだのかもしれない……上も下も黒い下着だけで、ジーパンを脱いだ上に足を開いていて、口からは涎が……とても見た目通りの寝方とはいえない、性格通りの寝方ではあるが。
艶めかしい白い肌に精緻な装飾の黒が映え、ウェストはまるで蜂のように見事に括れ、スレンダーな肢体はモデルのよう……思わず見とれてしまったが、今目を覚まされると首から上がなくなる!
飲んで暴れる人ではなくてよかったが、今目覚められるとかなりヤバイ。
一方の浅海は、というとあまりにも気持ちよさそうで俺のことなど気にはならなかったのかもしれない。
辺りを見回しても掛け布団も見当たらないし……ああもう!
そうか……俺が部屋を出れば良いのか!
おお、そうだ……確かにそれが一番良いに決まってる、脱ぎ捨てられていた上着とジーパンを彼女の体の上に眼を瞑ったまま載せて、そのままその場を離脱する。
そっと足を忍ばせて部屋を出ようとした。
そのまま扉に手をかけて、ゆっくりと音を立てないように取っ手を回そうとしたとき、急に勢いよく扉が勝手に開いた。
「あ……綾音サ……ン、どうも……おはよう……ございます」
ものすごく機嫌の悪そうな美少女の顔がそこに……昨日の朝出て行った綾音が今帰還した。
「ずいぶん遅いお目覚めのようね……取り敢えず、おはようございます。でもどうかしまして? 貴方、なんだか……お酒みたいな臭いがしますよ」
まずい、いや……ここ二ヶ月ばかりの我が家の風紀委員長が気付いてはいけないことに早速気がついてしまった上に……部屋の中には危険物が……
「部屋の中で飲み散らかしたのですか? 友達付き合いも大切かもしれませんけど、節度を弁えなさい……私も昨日は色々なことがあって疲れているのですよ。本当は忘れ物を取りに来ただけなのだけど、日頃お世話になっている貴方へのお礼ということで掃除くらいは手伝ってあげます。さぁ、そこを退けなさい、こんな良い天気なら窓を開けて空気の入れ替えくらいしなければ……」
耳から聞こえた言葉は反対側の耳から抜けていく。
ああヤバイ、ヤバイぞ、これは……いや、この事態をどう言い訳するよ?
待て、落ち着け! 篠崎公明17歳、いや『享年』17歳。
深呼吸? そんな時間は無い。
落ち着け、落ち着け……うん、そうだ部屋に入れなければ良いんだ。
なんだ、簡単じゃないか、そう簡単だ、小学生にだってそれくらいはわかる……ただ目の前にいる機嫌が悪そうな綾音を説得する言い訳があるのなら、な。
「あ、ああ……あのな、綾音。今日、そんなに疲れてるのにお前の手を煩わせるのは非常に心苦しいんだ。俺の方こそ体を鍛える特訓や軽い武術の鍛錬をつけてもらっている上に食事も作ってもらってるわけで……むしろこっちがお礼がしたいくらいなんだ。だから、気持ちだけ受け取って今日は帰って寝た方がよくないか?」
その言葉を聴いて彼女は少し考えたようだったが、何か不審点でも思い浮かんだらしい。
「そういえば……玄関には浅海の靴も脱ぎ散らかしてありましたけど、彼女は?」
心臓を鷲掴みにされた、心臓が止まりそうな恐怖が迫る。
部屋の中にいる、そこまで言えば彼女の今の姿がばれてしまう……ふぅ、見られたら俺が自然に悪人になって……日を見るより明らかな地獄が展開されることだろう。
そこまで分かっていて正直に言う馬鹿はいない。
「あ、浅海はだなぁ……その、上で寝てるはずだ。何か用事があるなら伝えとくよ、ほら、アイツって朝弱いみたいだから」
不審そうな顔でその言葉を聞く綾音の視線がだんだん疑いの光を持ち始めていた。
「朝が弱いといっても今はもう11時半ですよ。正直、起きていなくてはおかしいでしょう。浅海も一緒に貴方の友達と飲み明かしたみたいですね、そうでしょう? いい? 事実だけを言いなさい! 彼女は何処にいるの?」
「いや、だから本当に寝てるんだって。昨日飲みすぎたから起こすなって言われたんだ」
必死である、素直に帰ってもらうためなら嘘など厭わない。
「浅海にはシュリンゲル卿から魔術師としての託を預かっているの、上で寝ていても関係ありません。今から上に行って見ますけど……貴方は私に嘘を言う不誠実な人間ではないと一応誓ってもらってもよろしいかしら? 嘘だったら、ちょっとお仕置きを受けても良いと」
「あ、あ、ええと……ひょっとしたら、もう起きて家のどこかをうろついてるのかも……しれないな」
冷や汗が流れる、額が次第に汗で覆われていく。
疑わしそうな表情の綾音は俺の顔をじっと見つめてどんどん勘が冴えてきたみたいだった。
「どうして彼女を匿おうとするのかは私にもまったくわかりませんが、そこをどきなさい。大方私の私物を破壊した浅海を隠しているのでしょう? 良い機会ですからあの女に説教を……」
疑惑は別な方向に向いたようだが扉の前で綾音の道をこれ以上塞ぐことなど出来そうになかった、握り拳を作った彼女は多分ボクサーより怖いと思う。
扉からいったん手が離れてしまうともう戻ることは出来ない、部屋に一歩踏み込まれた瞬間俺はそのまま押されるように下がった。
「あーさ……みぃ?」
純粋な少女の瞳孔が一気に開いた気がした、空気が完全に凍りついた。
浅海を呼ぼうとした声が最後には裏返っていたくらいにその光景に動揺していた綾音、ヤバイのは十分すぎるくらいにわかっていたのに、スパイじゃあるまいし窓を破って逃げ出す気もない俺はそのまま煉獄への道が開くのを凍りついたまま見つめていた。
まるで怪談話に出てくる人形の首が回るシーンのように、まるで映画に出てくるロボットのように、綾音の首がゆっくりとこちらを向いた。
無表情、俺が下着姿でぐーすか寝ている浅海と一緒の部屋にいたことに対して冗談にもならないくらい怒ってらっしゃる……?
「なるほど、こういう事情なら隠そうとする気持ちも『理解』出来なくもありません……」
「え? この状況だけで俺が困ってたのがわかるのか?」
静かな声で、ちょっと笑顔になりかけて彼女は言った。
その後、急に訪れた沈黙。
どうしたのか、彼女は笑顔のまま俺の顔を見つめて何も言わない。
口を動かそうにも誤解してくれているのならそのままの方が都合が良いと思いかけていたそのとき……
「そんなわけないでしょう! 不潔です! 本当に貴方たちは私がいないところでなんてはしたないことを……もう我慢できません、今日という今日は私が徹底的に教育して差し上げますわ!」
それは心臓が止まるかと思うほどの絶叫、鬼気迫るほどの迫力の咆哮!
ああ、やっぱりこうなるよな。
そう思っていてもこの瞬間はめちゃくちゃ怖かった。
「いや、ちょっと俺にも言い訳を」
「は? 浅海を隠そうとしておいて言い訳ですって!」
火に油を注いでしまった、激昂する彼女を止める術など最初からなかったのかもしれないがここまでタイミングの悪い俺は考え物かもしれない。
そのとき、その声につられて間抜けな欠伸が聞こえてきた。
「ふぁー、もう……煩いわね。誰……綾音、なの?」
俺と綾音の視線がそちらを捉える。
体を起こした浅海に掛けてやっていた上着が上半身からはらりと落ちた。
「あ、馬鹿!」
思わず口にしてしまっていた。
「へ?」
二日酔いにでもなったか、まだ頭の中がしっかりしていない様子の浅海は顔を下に向けてだんだん事情が掴めてきた様子で……急に小さな悲鳴を上げて服を着始めた。
そのとき、喉を掠めるのは少し冷たい北風さん。
「ほら、貴方はちゃんと目を閉じていなさい」
「了解!」
すぐに目の前が真っ暗になる、どちらがどれほど怒っているのだろうか?
それが気がかりでならない。
そのあと、床に正座させられた俺と浅海はおよそ二時間もの間、綾音サンのご高説を長々と聞かされることになった。
どうして一つ屋根の下でああいうことをしてはいけないのか、とかなんとか……論理的というよりはやや感情的な説教で苦しかった。
しかし、昨日何があったのか知らないがとても機嫌の悪そうな彼女の殺意漂う気迫に気おされて俺達は黙ってそれを聞くしかなかった。
そんな説教が佳境に差し掛かったとき、ふと思いついた言葉をつい口に出してしまった。
「なぁ、思ったんだけど……聞いて良いか?」
「? 何ですか!」
自分の話の途中に口を挟まれて面白くなさそうな綾音はちょっと乱暴な口調だった。
「いや、何て言うか……あれなんだけど、どうして綾音がそんなに怒るんだ? 浅海が怒るのならまだわかるんだけど……やっぱ、おかしくないか?」
それが思わぬ変化球だったのか、綾音は返事に詰まった様子で口を噤んでしまった。
俺の横に正座させられていた浅海も漸くこの場の主導権を手に入れる機会がやってきたとばかりにこれからの綾音の返事を見守る姿勢だ。
二人に見つめられた綾音は詰まったまま顔がちょっと赤くなってきた。
「そ、それは……ですね……あの、ほら、ええ……と……」
あたふたしながら、必死に言葉を探している様子。
「まったく、何なの? さっきから素直に説教を聞いてたけど、理由もなくあんなに長ったらしく説教してたワケ? ちょっと、アヤネ……勘弁しなさいよね」
相手に反撃するチャンスと思ったか、浅海が追加攻撃を仕掛けた。
「理由はあります! つまり、ですね……苛々していたのは本当ですし、あの……」
力強くそういったものの言葉が続かない。
「それにしても、顔真っ赤だけど貴女風邪でも引いた? それとも、まさか……」」
「違います! ごほん、つまり私が怒ったのはですね……男女があんなはしたない格好で同じ部屋に寝ているなんてあまりにも恥知らずだと思ったから説教したまでです。そもそも、魔術を志す者には自制心と種々の煩悩を忘れ去る精神力が求められるわけでしょう、いいですか? 私は魔術の学友として、二人が……その、修練の足りないうちから、健全な高校生として不適切な関係を持とうなどとしていたことに憤激したまでの話で……いいえ、嫉妬とかそういう感情ではなくて、これから私と切磋琢磨していこうという浅海のことを考えて説教したのです。いいですか、決して邪な感情などではなく好敵手を考えての諫言ですからね? よろしいわね?」
すごい早口で急にそうまくし立てた綾音は、言葉を吐き終えて肩で息をした。
詰まっていた言葉を全て吐き出したためだろうか、さっきまで真っ赤だった顔が少し落ち着いた気がする。
しかし、何だ……どうして俺と浅海がそんな仲だと疑われるのか?
一流の魔術師で、あれだけ我の強い浅海にそんな変な気を起こすと思われたことが心外だし、ちょっとありえないと思うけど。
当然、逆ならありそうだとは思うが。
「……なんだか、よくわからないけど……要するに私がこいつに襲われたと勘違いしたわけ?」
浅海、お前はどこをどう縦読みすればそういう勘違いができるんだ?
「二人が付き合っていて、いかがわしい真似をこんな場所でしていると思ったといったのよ! 悪いかしら?」
俺が、浅海が、ではなくて二人が両思いですと?
綾音、お前は俺達がそんな風に見えるのか?
「ちょっと待てって、俺達がおかしな状況だったのはここへ来たときにすぐにお前が気がついてた飲み過ぎが原因で……てか、浅海もなんで服を脱いでたんだよ?」
「は? 私が自分で脱いでたの? キミアキが、じゃなくて私自身だったの?」
公明って……いつから呼び捨てにするほどの仲になったよ?
いや、そういえば……昨日飲み明かしてたときに『篠崎君じゃ、堅いわね。今度からキミアキって呼ぶけど、いい?』って言ってたよな。
んで、俺が『別に良いけど』って言った……か。
しかし、それを聞いていた綾音はとても疑わしそうですごく怖かったりする。
「……ひょっとすると、てか、そうじゃないかと思ってたけど、名誉のために言わせてもらえれば、俺は本当に何もしてないからな。起きたときには浅海はああいう状態だったんだ」
「うーん、確かに……考えてみれば昨日はそんな事した気がしてきたわね」
「……つまり、貴女方は何もおかしなことはしていないのね?」
疑惑が晴れたと思った喜びからか、綾音の表情に光明が差してきた。
「ちょっと、アヤネ。貴女も冗談がきついと思わない? キミアキがおかしなことをすることがあっても私がおかしなことをする気になると思う?」
「思うから疑ったのですけど?」
「おいおい、お前ら……家に泊まりに来てるのはそっちなんだから少しは俺を信用しろよ。いや、確認のために聞いとくけど信用してるから、ここに泊まってるんだよな?」
それはそうだろう、そうでなければこっちが納得できない。
信用も出来ない相手のところに暇つぶしで泊まられては迷惑というものだろう。
「私は貴方がこのバカ女に乱暴狼藉を働かれないか保護しようとしてここにやって来ているの。当然でしょう、事の成り行きは兎も角貴方をこっちの世界に引き入れたきっかけは私と浅海が原因ですから。つまり、私には貴方のいく末を見守る義務があるのよ、納得戴けたかしら?」
なるほど、多少乱暴な気もするが自分の責任を果たそうというのなら確かに立派な心がけだよな、そういうつもりなら俺も嫌がるわけにも行くまい。
「ああ、綾音の言い分はわかるよ。じゃあ……そもそも浅海はなんでこう度々遊びに来るわけ? いや、友達……かどうかはわからないけど知り合いだから訪ねてくるのは良いけど、いい年の女の子が同い年の男の子の家にたまに泊まりに来るというのも考え物だと思うだろ? そもそもこういう事件もおきないわけだし」
あ、こういう言い方するとまずかったか……?
「私に来るなって言いたいわけ?」
案の定かよ、ま、失礼な言い方でもないと思うのだが気分を害したのなら謝っておこうか。
「いや、来るのは構わないって言ったろ? そうじゃなくて、世間体ってものがあるから、その、泊まるのもどうかと……」
「世間体なんて考え方、好きじゃないわ。良いじゃない、ここに来れば料理の手間も省けるし、私の家より学校に近いし、掃除もしなくて良いしね。部屋まで用意してもらって、私も色々持ち込んでるからこっちでリラックスの時間を持つのが研究のために良いと思うのよ。私って、合理主義者だから」
「人の家を別荘扱いかよ……ま、魔術師としての先輩だから、ためになる話も聞けて俺も良いんだけどな」
俺が執事で、綾音がコックといいたいわけですか……お嬢、いい加減にしろよ。
それが気に障った、あるいは暗にそういわれていることに気がついたのか綾音がちょっと強く反論した。
「ちょっと、それなら今まで通りじゃないですか! そういう間違いが起こりかねない状況を控えろって言ったのよ!」
「あ、いや、俺は別に気をつけてくれるのならそれでいいけど……まぁ、騒々しいのも嫌いじゃないし」
「じゃ、決定ね。今度からアルコールは少し控えるようにするわ」
「この……いえ、我慢よ、我慢……取り敢えず、高校生なら当たり前のそういうこともちゃんとしてなかった浅海が改善するというのならそれだけでも良しとします。でも、私はまだ不足だと……」
「あ、でもワインは別よ。あれって、ジュースみたいなものだから」
「まったくわかっていらっしゃらないようね! 酔うのなら一緒です!」
「何言ってるの、ワインはヨーロッパの心みたいなものでしょうが。そもそも昨日酔ったのはちょっと日本のビールを飲みすぎたからで、私、元々お酒には強いのよ」
元々中東近辺で水分やビタミンを補給するための果物酒だったものが葡萄の栽培地拡大に伴って欧州へ伝わり、それがワインの元になったという。
欧州の河川は長く、ドナウ川やライン川では海に流れ着くまでに土壌中のカルシウムなどが川の水に溶け込み一般的にそういう金属のイオン濃度が高い、つまり硬水である。
日本は逆に軟水で、欧州のような硬水だと日本のようにそれを直接飲むと腹を下すことになる、だからワインは水分の補給という意味で特に役に立ったわけだ。
ただそういう意味よりも宗教上の儀礼と結びついたことで欧州にはワインが深く根付いた、日本で言うお茶くらいに思っても良いのかもしれない。
「変なところで強勢を張るな、お前。で、そのなんだ……俺も咄嗟に慌てて隠そうとしたけどちゃんと説明すればよかった。綾音にはおかしな勘違いさせて、悪かった。ごめん」
「わ、わかればよろしいのよ。私も言い分を聞く前からあんなに興奮して、ちょっと馬鹿みたいでした」
「いや、そん……」
「そうよ、本当に良い迷惑。話も聞かないうちからあんなに長い説教だなんて、頭の中エロエロなんだから……日頃から何考えてるのよ、貴女。魔術師がどうたらかんたら言ってるけど、駄目なのは自分じゃないの。笑わせるわよね、本当に」
浅海さん……いや、ちょっとそこまで言うのもよくないんじゃないかな。
案の定……かなり怒ってらっしゃいますよ。
流石に色々早とちりした分我慢してるみたいだけど、これ以上は言わないでくれ。
「まったく、白川って家は貴女みたいなむっつり助平みたいなのばっかりなんでしょうね? 呆れそう……本当に日曜の朝からこんなに煩わされて、休日が台無しじゃない。おいしい料理でも作ってくれないと詫びを入れたことにならな……」
その瞬間にちょっとさっきまでとは違う意味で真っ赤になった綾音が無言のままぐーで浅海を殴ろうとした。
しかし、魔力も使わぬただの高校二年生の攻撃など呪いとはいえ超越種にも匹敵する動体視力を持つ浅海にはスローにさえ見えたのだろう、軽々とそれを顔の前で受け止めた。
「ちょっと! 話の途中でしょう、マナーを知らないわね。それに、今の攻撃はちょっと遅すぎるわよ、トロ子ちゃん」
それが開戦の合図となったのか、その日は六月で最も熱い日曜日となった。
その日の夜、奇跡的にご近所から戦争の騒音についての文句を言われなかった俺達だったが、破壊された部屋を魔術で可能な限り修繕する運命からは逃れられなかった。
死ぬ思いで戦場を生き抜いた俺は勝者なき争いの当事者二人と一緒にその夜のほとんどを使って自分の楽園を再生させることに成功させた。