「兄さん、明日の葬儀の電話は……もう?」
今まで祖父の死を思い出して気分が悪くなっていたために、居間で休んでいた雨峰亜希子は部屋に入ったとき電話を終えた様子の兄に訊いた。
夏彦は目頭を押さえながら眠たそうに返事をする……無理も無い、ここ数日の忙しさと混乱は彼に満足な睡眠も与えていなかったのだから。
「ああ、縁があった人には伝えておいたよ」
部屋の扉を閉めると、兄の前に腰掛ける。
テーブルの上にはワインのビンが置かれ、疲れを紛らわせるために夏彦が一杯飲もうとしていたもののようだ。
彼は無言のまま亜希子にもグラスを勧め、その中になみなみとワインを注いだ。
「ありがとう……」
グラスを手元に置くと、それに口をつけることも無く礼だけを伝えた。
「いや。それより、こっちの方も片付いた……疲れているのならお前も休め」
椅子に深く腰掛け直すと、グラスの赤ワインで口を潤しながら夏彦は妹を気遣った。
「いいえ。でも……ごめんなさい、私色々取り乱して」
亜希子は申し訳なさそうに肩を落としていた。
夏彦はそれを見て、ため息をつきながら否定する。
「いや……別にそんなことは気にしなくていい。ただ電話しただけの簡単な作業だったから」
亜希子はそこで初めてグラスに口をつけながら、兄が電話した相手の名前を聞いた。
確かに大した数でもないが、社交辞令も多いだろうし、他にも面倒な作業であっただろう。
「……お爺様にはいつも精神の鍛錬が足りないって言われてたけど、当たってたみたい……やっぱり駄目ね、女が魔術師をやるなんて。本当に、私お爺様がアレだけ熱心に教えてくださったのに期待にもこたえられなくて……」」
「亜希子……女性の魔術師が少ないのは周知の事実ではあるけど、名を残している人も大勢いる。駄目なのはむしろ……後継者になったとして、どうするか良く考えていないこの……」
「秋継兄さんか、夏彦兄さんか……この家の魔術関係の遺産、この家、土地……ねぇ、別に後継者がどちらでも遺産争いなんてやめてよ。お爺様もそんなことは望んでいないはずだから」
「こちらはそのつもりだ、大体あんな大物達の目の前で兄弟での遺産争いなんてみっともない真似が出来るわけが無いだろう。むしろ問題は向こう……それより、亜希子はもう大丈夫なのか? もしはっきりしないのなら……これでも医者だ、一応健康に問題が無いか診ようか?」
「自分の体調管理は自分で出来ます! ……それより、今回の件は本当に吸血鬼関連なの? この家にはそんな大問題に関わるようなものは何も無いはずでしょう、それなのにどうして……」
「そんなことはわからないよ。そもそも何でも知っているわけではないのだから」
「そうね……ごめんなさい」
「一々謝ることでもないだろう。お前は秋継の方が適任だと……いや、やっぱりどうでもいい……忘れろ。それより、もう少しで八時になる、そろそろ寝た方が良いだろう。明日はきっと大忙しだ」
「ええ……でも、秋継兄さんが帰ってくるまでは待ちたいの」
「きっと時間をかけた捜索をしているはずだ。結果は明日聞けば良い、今日のところはお前がゆっくり休んで明日に疲れを……!?」
急にどこかから聞こえた物音。
いや、すでに屋敷の中で何かしらの物の怪が蠢いているのが二人にわかった。
「兄さん、これって!?」
それは屋敷の外からの侵入ではない、屋敷の中にいた者が急に怪物に姿を変えてしまったかのような変質だったのだ。
例えば秋継たちが出発する前に、家の者達のみを案じたアーデルハイトが彼らの立会いの下で侵入者探知専門の簡易な結界を張っておいたのだが、それさえ反応していないことを考えればそれは非常事態だった。
「近い、いや……もう周りを囲まれたみたいだ。部屋の前に一人、窓の外に二人……どうしてここまで侵入されるまで彼らに気がつかなかった?」
「そんな!」
「くっ……亜希子、相手は恐らくお前がどうにかできる相手じゃない。手元の武器と呼べるものは護符だけ、おまけに私自身も戦闘なんて素人……窓の外にひきつけるから家に中のどこかに隠れろ! いいか、絶対に近所の民家に害が及ばないようにするんだ。それが……我が家の誇りだからな」
「兄さん、それなら私も……」
夏彦はその瞬間に扉を蹴破り、扉の向こうに立っていたサラリーマン風の中年を扉ごと床に押し倒した。
瞬間、窓のガラスが割れて赤い瞳が部屋の中にいた亜希子を睨み付けた。
「きゃっ!」
飛び散ったガラスが彼女の足元にも飛散し、夏彦はその妹の悲鳴に駆け戻った。
夏彦に扉ごと蹴り倒されたサラリーマンは扉をぶち壊して、床から立ち上がるとわずかに曲がっていた右腕を無理やり正常な方向に矯正し、瞬時にその腕を再生させてしまった。
折れていた骨が瞬間的に復元し、もともとの形を取り戻したのだ。
「こっちだ、化け物ども。ついて来い!」
駆け出した夏彦は窓から侵入を図ろうとしていた二人の吸血鬼を蹴り飛ばして、吹き飛ぶ彼らと一緒に中庭に降り立った。
家の後ろには大きな田畑が広がっているので、ここで暴れても誰かが気付くということはあるまい。
二人の吸血鬼と夏彦が向かい合った直後、彼を追いかけてきた吸血鬼が窓から飛び降りて合流する。
どうやら夏彦を攻撃対象として優先してしまったために亜希子には手を出さなかったらしい。
「兄さん! 逃げて、お願いだから、逃げて!」
窓から叫んだ亜希子の声に、わずかに彼女を見上げようとする夏彦だったがそんな隙を見せれば相手に殺されるのは明白だった。
一見するとただのサラリーマンにしか見えないが、彼らの纏う空気は魔術師にとってはそれだけで恐怖の対象。
「亜希子。絶対にこいつ等を家の外には出すなよ」
叫んだその声は果たして相手に聞こえたか?
彼を囲い込むように輪を縮めた赤い瞳の男達は不気味なうなり声を上げながら、その爪で相手を引き裂く光景を思い描いた。
「ぐるうぅ……」
だらしなく開いた口から垂れるよだれはただただ不気味だ。
身構えた敵を見れば武術などまるで素人なのはわかる、アレはただ単にこちらを傷つけようとする路上の喧嘩スタイルに過ぎない。
多少とも心身の鍛錬のために武術を知る夏彦には相手が一人ならまだ対処できるはずだった、だがこの人数を考えると苦しいかもしれない。
相手の身体能力が同じ場合でさえこの人数差は如何ともし難いというのに、彼らの跳躍や復元力などただの人には無い特性を持ち合わせていたのだからそれも当然だろう。
青白い肌にわずかにこびりつく泥、あちこちが破れているスーツ……それらが生暖かい夜の風にゆれ、同時に疾駆した体を通り抜けて行った。
同様に走り出していた夏彦の手元――握り締められた紙の切れ端に彼の体を流れる魔力が送られた。
切れ端に描かれているのは梵字つまりは『サンスクリット文字』であり、魔力がそれを流れた瞬間に鮮やかな赤色の光弾となって男の一人に襲い掛かった。
そこには恐らく夏彦の狙いが働いていたのだろう、寸分違わぬ連続攻撃となって男の眼前をすっぽり覆ってさえいた。
何より速かった初撃――
「■■■!」
その額を撃ちぬくべきだった弾丸は咄嗟に振り上げられた左腕の肉を抉り取りながらも、完全に軌道を外されて地面に吸い込まれるように突き刺さっていた。
初撃にわずかコンマ数秒遅れた追撃は、未だに残る右腕を盾と変えた吸血鬼の半身を無茶苦茶に抉ったのだが、果たしてその全てが急所を打ち抜いていてくれただろうか。
当然、どちらにしてもこれが一対一の勝負なら夏彦は勝っていただろう。
仮にダメージを回復できたとしても、散弾銃を浴びせられたように体中にダメージを追った男の反撃などで負けるとは思えなかった。
だが、それは叶わぬ願いか……
「……くそっ、なんて奴……!」
渾身の力を込めた最後の符が相手の右肩を吹き飛ばした光景を見届けた瞬間、掴れた腕をただ出鱈目な腕力で引っ張られて夏彦の体は宙を舞っていた。
その相手にぶつけるはずの魔術は完成を見る前……わずかに数秒遅れた、しかしそれが命取り。
感じた苦痛は一瞬だった。
壁に叩きつけられて意識が飛びかけたとき、耳元に感じた吸血鬼の吐息。
首筋に、腕に喰らいつくと同時に貪り食らう悪鬼たちの生命の鼓動は……奪われていく命への鎮魂歌となっただろうか。
○○○○○
白川綾音が雨峰邸にバイクを飛ばして駆けつけたとき、彼女はすでに事態が最悪の結末を迎えていたことに気がついた。
門を入ったときから微かに漂って来るのは穢れた悪魔の臭い……病院で始末した怪物と同じ臭い。
それに混じって血の臭いも感じられた。
玄関の脇に止めたバイクをそのままに、駆けて屋敷に走ると……赤い瞳が彼女を迎えた。
感情の無い赤い瞳が二体分……皆見た目は中年のサラリーマン。
地面に穿たれた穴とそこに放置された男物のスーツから察すると、その脇に倒れた雨峰夏彦が必死の思いで一体を始末したのだろう。
しかし、その奮戦虚しく残り二体の攻撃を受けた夏彦は事切れた肉の塊となっていた。
思わず唇をかみ締める……雨峰亜希子もすでに殺されてしまったか?
そんなことは今考えられない、目の前にいる人間の血が通わぬ怪物を始末せねばならないのだから。
すでに薄々彼の死を予見していた綾音は躊躇いも無く夏彦の遺骸に群がる吸血鬼たちに向かって走った!
にわか吸血鬼に何処まで当てはまるかはわからないが、伝承によれば夜が吸血鬼に力を与え、その身体能力を高めるという。
空間的に狭かった病院ではその身体能力が発揮できずにいた彼らも、この広い庭ではその身体能力の限りを尽くして彼女を襲うだろう。
自身の運動能力を誇示するかの如く、凄まじい速さで繰り出された鋭い爪!
病院からただ夏彦の保護を急いで駆けつけた彼女には武器の補給など無い、今の武器はナイフだけである。
敵はあのような外見に似合わず戦略を知るのか、彼女に襲い掛かった男ともう一人の男で挟み撃ちにしてしまおうという算段のようだ。
最悪の場合、夜の吸血鬼は人体の限界など気にはしないのだろう……だとすれば決して油断など出来ない状況だった。
魔術式を完成させるほどの時間は与えられない、そう踏んだ彼女の判断は間違ってはいなかっただろう。
彼らはそれを本能的に知るかのように一瞬で勝負に出ていたのだ。
繰り出された爪を姿勢を下げて躱した彼女はその腕を掴むと、一本背負い。
華麗に地面に叩きつけた瞬間には、すでに相手の心臓にナイフが突き刺さっていた。
相手の勢いを最大限に利用した片手での投げ技、それは一歩間違えば反撃される危険もある行動であり……それをさせないだけの自信がある故の技であった。
綾音に心臓を貫かれた吸血鬼が灰になって消滅していく。
その瞬間を狙って襲い掛かったもう一人の吸血鬼に対して、一気に地面を蹴って襲い掛かる敵よりも一段高く飛び上がった綾音は全力を込めて、その頭を蹴り上げた。
わずかに距離をとった場所に落下する吸血鬼は、しかし、見事に体勢を立て直して猫のような身のこなしで地面に着地した。
攻撃の際わずかに油断があった、左足を捻ったようだ……戦闘に支障は無いが、人ならざる速度で攻撃を仕掛けた敵にそれは命取りともなりかねなかった。
綾音が仕掛けようとした瞬間、相手が一気に疾駆した。
それは常人では追いつけまい速度、筋肉が悲鳴を上げて、それが千切れる音さえ聞こえる狂気の疾走だ。
一瞬の躊躇いも許されない瞬間……投擲されたナイフは鮮やかな光となって放たれ、吸血鬼の頭を捕らえたはずだった。
しかし、敵の身のこなしが優れていたのか、あるいは彼女のミスか、頭を貫くはずのナイフは相手の肩を貫くに留まってしまった。
当然その疾駆を止めることなど出来ない……ナイフを受けた吸血鬼がそのまま掴みかかって、彼女を押し倒した。
「くっ!」
見れば、ナイフは急所をはずれ相手の右肩に突き刺さっていた。
自身よりも強い力で押さえつけられ、敵の牙を前にするとわずかな恐怖さえ感じる。
まるで頭突きでもするかのように頭を突き出した敵が彼女の首を狙う!
すんでのところでそれを交わすと、視線の先に血を撒き散らして倒れた夏彦の死体が見える。
力で押し返そうとしても相手の方が体勢で優位、苦しくはあるがそれでもこの程度の危機ならば問題ない。
次に攻撃に来た瞬間に一気に敵を滅ぼす、その自身に些かの驕りも無く、それは確信といってもよかった。
獲物を前にした吸血鬼のだらしない口からは涎が零れ、それが綾音の肌を汚した。
実に気持ちの悪いものだが、それにより慌てるような彼女ではない。
ただ獲物を獲るために、再び首を狙った吸血鬼!
その瞬間に、彼女を抑えていた体からわずかに力が抜ける。
肩を負傷していたこともあったのかもしれない、しかしそれは彼女の技だろう。
一気に足に全力を込め、相手の体を投げ飛ばした。
同時に、自身の左手がしっかりと相手を掴み、その右手がナイフを掴むと一気に肩から首へと引き裂く。
夜の闇の中で飛び散る鮮血、ただ自身に何が起こったのかもわからなかった男の顔には驚愕の色だけが見られる。
鮮やかな勝利……敵の体が完全に灰になったことを見届けて、ほっと一息ついた。
押さえつけられた際にわずかに敵の爪で腕を負傷していることに気がつき、応急処置をした。
簡単な魔術で表面的に傷を治癒させたのだ……呪禁師たちのようにその道の専門家ではないだけに大怪我は無理だが、かすり傷程度なら彼女でも容易に処置が出来た。
これも吸血鬼との戦闘を常に想定している魔術師達の宿命だろう。
しかし、保護すべき対象を抹殺されたことに屈辱を覚え、そして不甲斐無さを呪う。
これは雨峰という家を狙った恨みによる犯行だ……まさか翁だけでなく、その息子たちまで狙われるとは思いもしなかった。
そして、相手の行動の早さ、あの吸血鬼らしき魔物は一体何なのだろう?
ゆっくりと立ち上がった綾音はそのとき、恐ろしいものがすぐそこに居たことに……気付いた。
後ろを振り返ることが出来ない、まるでそれが彼女の死を意味しているかのように。
体が硬直して、動けなくなる。
「――見事な腕だ。人にしては、そして女にしては多少はやる」
『死』はそう告げた、皮肉そうな中年の男の声で。
「……何ですか、貴方は?」
後ろを向いたまま、相手に告げる綾音の顔には生気は無かった。
「今は気配を隠しているわけではない、貴様なら答えを聞かずとも察しはついていよう?」
「本物の吸血鬼……ですか?」
「……だが、例え私が何であったとしても今は争う立場にはなく、この件の犯人も私では……」
相手の言葉に不意に答えを知らされた気がした。
そうか、コイツが犯人なのか、と……思った。
「この状況で何を今更……許しません」
意を決して自分が恐怖する相手の方向に振り向く綾音。
その視線の先には長身で筋骨隆々でスキンヘッドの男。
彼女の行動を予期していたのか、相手は苦々しそうに舌打ちをする。
「ちっ、貴様は今大きな勘違いをしているぞ。この事件の主犯は他に……」
「貴方が殺したのね、あの人を!」
獣に貪り食われた夏彦にわずかに目をやりながら、戦闘体制を整える。
「浅慮……が、私の言葉など聞く気は無いか。ならば、面倒だ。このままその軽い頭を冷やしてくれよう……バン、ウン、タクラ、キリク、アク!」
梵語によって紡がれた呪文と同時に左手によって描かれる五芒星の印。
その瞬間、空間を覆いつくすほどに広がるのは相手の結界、それは古の大魔術だった。
「『広域結界』!? そんな、貴方……シュニッツェラー卿?」
相手は苦笑しながらそれを否定した。
「いや、あれほどの大結界には及ばぬよ。だが、見えるぞ……貴様の鼓動が、その艶かしい柔肌が、毛髪の一つ一つまで……最早貴様は我が手の内にあるも同然」
いやらしさは感じられない、相手の心を乱そうとする言葉だ。
ただ、相手の言葉がまったく真実であることもわかった。
「『ボイオテイアの大山猫』……斎木義時……卿?」
その震える言葉に相手は極上の笑みを浮かべた。
魔導師、斎木義時は吸血鬼の一人……それが頭の中に浮かぶ。
「ご名答、勘のよい女だ。しかし、筋肉も、内臓も、何もかも見通す結界内では流石にその容姿も意味を成さんことが悔やまれるな……こうなってしまうと、やはり身分の貴賎を問わず人は醜い。ただ、貴様の場合は処女であることが救いか……処女の血は甘いからな」
羞恥に顔が赤く染まる。
900の時を生きる古の怪物はその名の通り、見通せぬものなどない一点における究極の眼を持つといわれた。
それが内臓から、何から望むものを透視する大山猫の瞳。
魔眼だとばかり思っていた、だが今夜その勘違いは晴らされる。
その正体は古い貴族が作り出した忌まわしき大結界であったのだ。
それは個人を狙うのではなく、一定空間自体に設定される魔術で人が平時展開しうる程度の結界では防ぐことが出来ない特殊なもの。
それから逃れようとすれば、別な方法を用いる必要があるだろう。
この魔術の結果として、術者にはこの空間内にいる生物・鉱物、その他の物質を全て透視・把握することができる。
神話の神がその万能にして巨大な目玉で大地に蠢く人間達を監視しているようなものだろうか。
つまり綾音は全裸で彼の前に立っているに等しく、それはとても若い心で耐えられる屈辱ではなかった。
なぜなら、彼の結界は彼の体内も同じわけで……全て、その全てが彼に見通されるのだから。
「少々動悸が上がったか」
「……この、変態」
「ふっ、低俗なことを言う。それより貴様、シュリンゲルとは多少とも縁があるそうだな? 象牙海岸では奴を殺し損ねたが、貴様はどうだろうな? 勘違いのついでだ、今宵はいっそのことその首に牙を突き立ててくれようか……」
「黙りなさい!」
それは震えながらの叫び声、絶叫といっても良いかもしれない。
憎むべき吸血鬼に震える体が抵抗を許さない、それは彼女にとっての屈辱。
彼の瞳、否その結界に囚われている不快感はすさまじい恥辱。
自身を叱咤するための叫び声は金縛りを一瞬で振り払った!
「世界潤す水を司りし者、我ここに白川の名において命ず、汝古き盟約の友よ! 今このとき、盟約に定めし務めを果たせ、清浄にして神聖なるその身を我が剣と成せ――」
貴族はわずかな詠唱さえ許さずに攻撃できたにも拘らずその光景に見とれた。
眼前で黒いスカートが、長く美しい黒髪が風に靡く。
眼前の敵へ放つための一撃を紡ぎ上げようとする綾音の手に集まるのは吸血鬼が畏れる『水』!
古の精霊に支配された元素は大気から、あるいは彼女自身の魔力から、水を集めてその右手に凝集させる。
「大気漂う水よ、我が魔力が汝に力を与え、我が幻想が形を与え、我が言葉が意味を与える。汝、我が剣となりて昏き混沌を裂け――」
それは見ほれるほどに美しき青の剣――氷とも、水とも知れぬその刀身が一瞬で闇の眷族を討つ刃と化す。
詠唱はわずか十数秒。
しかし、この年齢にあって当代一流といえる術の完成速度でありながら、貴族が如何にハンデを与えているかも理解していた。
彼が本気であるならばすでに攻撃を受けている。
しかし、手加減されたからといってこちらが手加減する彼女ではなかった。
瞬時に指で印を結んでいった。
『――刀印、臨、兵、闘、者、皆、陳、列、在、前!』
編まれていく『咒』――吸血鬼殺しにはいくつかの手順を踏んだ方法が用いられる、これはその一つであり吸血鬼であってもその攻撃を受け続けていてはその命さえ失いかねない特殊な魔術。
咒の完成を待って剣が一瞬青白い光を放った。
しかし、敵はそれに感心こそすれ畏れなどしない。
「はあぁ!」
相手の正面まで一気に駆けた綾音、一瞬でその体が反転した。
剣を構えて相手を狙った一撃はすでに距離を感覚で掴んでいたために見事にその太い首に向けて放たれている。
吸血鬼はそれでも余裕だというのだろうか、笑みさえ浮かべている。
それはいずれに根拠をおく自信か、鋼鉄さえ切り裂く一撃を前にして貴族はただその腕前を見届けようとしていた。
最初の衝撃は彼の体を守る障壁との間で起きた。
まるで何も無い空中で他を弾き出す透明な斥力の障壁が剣の侵入を防ぐために凄まじいまでの抵抗を見せる――仮にマシンガンであったとしても、これほどの強度を誇る障壁を抜けることなど出来なかったであろう。
その対物理障壁は最早鉄壁の楯とさえいえる代物だった。
如何に鍛えた魔術師とてこれほどの強度の障壁を構築することなど容易ではない……それこそが膨大な魔力を誇る吸血鬼貴族達に与えられた夜の特権の一つといえる。
しかし、それは鉄壁であっても不敗ではなく、また無敵でもない……全力で放たれた彼女の剣はたったの一撃でその理の壁を打ち抜いた。
貴族の口からはその初手に全力を込めた少女の勝負勘に対する感嘆の声が漏れた、手を抜いているうちに彼を滅ぼしてしまおうというその攻撃に彼は純粋に感心しているのだ。
続けて起こるのは第二の衝撃、それこそは魔術という物理法則外の理を防ぐための障壁――物理法則に根拠を置かない呪いさえ打ち払う魔術殺しの空間はこれほどの魔導師のものになれば本来必殺の大魔術さえ軽微なダメージでやり過ごすかもしれない。
仮に単純な物理攻撃であれば、この結界は反応しなかっただろうが魔術のこもらない攻撃では彼らを滅ぼせないことは歴史が実証している。
例え抜いたとしてもこの結界は厄介というほかあるまい――満足なダメージが伝わらないかもしれないのだから。
それは綾音の一撃とて例外ではなかろう、しかし形を崩しかけた剣に渾身の魔力を叩き込み弾き出そうとする貴族の障壁を剣は確かに打ち抜いた。
打ち抜かれた障壁が再生するまでの時間は確かに貴族への攻撃は有効となる。
その代償が彼女の魔力の大部分であっても構わない、攻撃が通ることもなくジリ貧に追い詰められての無様な死に比べて、たった一撃で勝負を決めようというその心意気は実に彼女らしかった。
そして、首に向けて放たれた一撃は無防備な相手の首を確かに切り飛ばしたはずだった。
だが……
「嘘……どうして、そんな」
剣は確かに相手の首に当たった、だがその首を切り飛ばせない。
いや、薄皮一枚とて切り裂けていないのだった。
「やれやれ、何か当たったか?」
哄笑する貴族は自分の首を狙って放たれた剣を見てもまるで動じていない。
剣をつかまれるという危惧が一瞬で剣をひかせ、再び構えを取らせた。
「くっ!」
きっと対物理障壁突破の際に腕にかかった負荷でかなり握力が弱くなっていた、それが剣のスピードを完全に殺してしまっていたのだろう。
再び無防備な相手に繰り出した全力の一撃。
しかし、それでも相手の体にダメージなど通らない。
「所詮人間の身で起こす奇蹟など児戯に等しい……まったく無意味だな」
何度も繰り返された斬撃、その全てが相手の体に触れていても切ることが出来ない。
しかし、その攻撃を中断して後退した綾音の頭の中にこの不可思議な現象を説明する技法が思い浮かんだ。
「まさか……くっ!」
ナイフを相手の胸、その中の一点に向けて投擲した。
吸血鬼の黒いコートを貫いた瞬間に小さな爆発が起こり、投擲したナイフが砕けて吹き飛んだ。
「は、今頃になって気がつくとは……愚物、貴様は救いがたい」
ようやく吸血鬼は相手に対して構えを取る、そのコートの心臓部分辺りが小さくぽっかりと穴になっていて、その周囲がわずかにこげていた。
辟兵術と呼ばれる古典魔術が存在する。
現存する魔術師に使い手は少ないが、古の時代においては様々に応用されたもので、今の場合は北斗と日月の符を身に着けることで如何な剣を持ってもその身を貫けないようにしていたのだ。
そして、綾音のナイフがそれを貫いたことで最早その加護は消えうせた……相手にとっての戦いは今始まったところ、ということだ。
綾音にとってここまで愚弄されたことに対しての怒りは凄まじい、挙句の果てにこんな簡単なトリックに騙されていた自分に対する怒りが叫ばせる。
「舐めるな!」
咆哮一閃、左の肩から右の脇へ抜けるはずの一撃。
手刀でそれを打ち払おうとした貴族の前で綾音の持つ剣は形を失い、膨大な水となって彼を包み込んだ。
それは粘性を持ったスライムの如く、貴族の体を捉えた水が確かに彼の体を完全にその水に封じた。
流水渡れぬ真祖、その言い伝えは果たしてどれほど真実か?
そんなことはすでに考えの範疇の外、倒すべき敵を前に取り出したナイフをただ突き立てようとした。
守りの呪符を打ち砕き、吸血鬼を封じる神秘の水牢獄を展開している今ならこれで滅ぼせるはずだ。
相手を封じた水の中でさえ、彼女の刃には失速は無い……それこそが水を支配するとまで言わしめる魔術師が生んだ天才の実力か。
狙うは心臓、唯一吸血鬼の急所とされた場所。
抵抗さえしない相手に彼女は勝利を確信した。
○○○○○
その瞬間、吸血鬼の忌まわしき結界が消滅する。
勝利を疑わなかった綾音。
しかし、ナイフを向けた彼女の顔の先にあるのは包帯を巻いた吸血鬼の右腕。
本来は完全に相手を捕縛するはずの彼女の魔力が編んだ水の檻がその貴族の右腕が放つ膨大な魔力に抗し切れなかったのだ……全ては呪符に惑わされて無駄に魔力を散逸させてしまったためだった。
そして何より問題がある……水の檻から覗くその右腕、不思議なことにその右腕を示されただけで体がいうことを聞かずに完全に麻痺してしまったのだ。
思わず、いつぞやの夜に彼女が殺しあったいい加減な魔術師の魔眼が脳裏をよぎった。
だが、これはそれとは原理が違う、魔眼ではなく魔手と言うべき代物だ。
その魔手によって彼女の周りの物理障壁も魔術障壁も全てが一瞬で弾かれていた。
銃弾ならその軌道も捻じ曲げる障壁はそう脆いものではないのだが、あまりにも強大で不可思議な右腕をかざされただけで全てが消し飛んでいたのだ。
それはいくら何でも普通なれば異常、されどこれほどの魔導師を相手にすれば必然。
心臓をあと数センチ先に控えた手からはナイフが零れ落ちた、それは彼女が敗北を認めた証。
やられる、そう思った……吸血鬼との殺し合いで秒のロスなど死と同義だ。
その観念の感情が水の檻を解除させた、大地に落ちるわずかな水とエーテルとなって大気に消えていく水。
わずかに体が濡れた貴族は確かに魔力の総量から見れば多少は疲弊していたのかもしれない、しかし綾音にとってその疲弊はまったく役に立っていなかったといっても問題ないだろう。
膨大な魔力、彼自身も水を支配する家の流れをくむ存在、それが苦手とする水に対しても貴族をこれほど強大にしているのか……綾音は眼を瞑った。
しかし、吸血鬼は嘲笑しながらも、彼女の死を望まなかった。
「なに、そう急く事もあるまい。貴様如きを始末するのにこれほど美しき夜など選ばん。死合う前に言いかけたが……私は協会の監察官としてこの街に来た。貴様らに害をなそうというわけではない、一応そういうルールだからな。それでもわざわざ死合ったのは、貴様がやる気だったので遊んでやっただけだ」
男の言葉に驚愕する、吸血鬼が協会の監察官を?
吸血鬼が監督官をするなど、そんなことは彼女さえ知らない、そんな非常識がまかり通るなどあって良いはずは無い。
それなのに、相手の顔は真実しか語っていないように見えた。
「ほう、貴様……よく視れば亡き娘によく似ている。体の細かな造りもまた、よく似て……もっとも実力はアレよりも相当に上だがな」
その言葉にまた彼女の頬が朱に染まる。
「ぶ、無礼な! 貴様、どこまで私を侮辱するつもりだ!」
毅然とした言葉にも相手は嘲笑だけで答えた、彼女に反撃など許されていない。
体が言うことを聞かないのだ。
「侮辱などしたつもりも無いのだがな、白川綾音」
「!? なぜ、私の名を?」
「監察官といったはずだが。この地をいずれ担当するシュリンゲルのために情報を集めてやっていた私だ、知っていて何がおかしい?」
正論だ、監察官は調停者の力不足や地方の協会との癒着などを調査する存在、さまざまな情報を調べ上げていることに何の疑問があろうか。
「そして、白川……私はシュリンゲルを助けるために調査対象の雨峰の家の者の話を聞こうとしていたところ、というわけだ」
「嘘よ、でまかせだわ!」
「やれやれ、貴様は吸血鬼とあれば容赦なく倒そうとするようだな、おまけに信用もしない。その姿勢は同郷の術師としては率直に評価しよう……だが、名目上対立組織の構成員が監察官に手を出すとどうなるかわからぬわけでもあるまい。いいか、私は貴様がいなければ、あの怪奇な生物を捕らえようとさえ思っていたのだ、その浅慮を反省するのだな」
協会の派遣魔術師の行動を調査する彼らもまた協会の権威を示す存在、それに手を出すことは抗争の種にもなろう。
しかし綾音にも言い分はある、長く抗争を続けた吸血鬼をメンバーに加えるなどという非常識を認めないのは道理、それこそ勘違いして当然のことである。
それもあってか、皮肉を込めて義時に告げた綾音の視線は鋭い。
「……どうして、貴方のような吸血鬼が人間の手助けなど? 人の生き血を啜る獣が慈善事業のつもりですか、『ご先祖様』」
綾音の言葉に義時は嘲笑で答えた。
ゆっくりと彼の右手が綾音の顔に触れた、それを避けることも出来ない。
その瞬間に、まるで体から力が奪われていくような感覚に囚われた。
「うっ、これは……まさか、マン・ド・グロワール? ……ぁあ……くっ、離しなさい! 汚らわしい!」
暴れることも出来ず、口だけで抵抗する意思を伝えた。
不可視の糸に囚われた人形のように動かぬ体ではそれが精一杯か。
「祖先と呼ぶわりに口の減らぬ小娘だ。だが勘違いすることでもない、シュリンゲルの番号を知らぬゆえ……少々電話を借りるだけのことだ。気丈な貴様にいつまでも攻撃など許していては、反撃で殺してしまうやも知れぬ……私も、あの女との決戦を望みはしないのだ」
そう言うと、すでに透視していたポケットの中から携帯電話を取り出した。
薄れていく意識の中、服を通して肌に触れた義時の無骨な体の感触が不快だった。
そして、体のサイズから見ればとても小さい電話を片手に錬金術師の番号を押そうとした。
しかし、その前に思い出したように綾音に視線を戻して告げた。
「……言い忘れていた、白川。貴様の活躍のお陰か、女は生存しているようだぞ。そして、こちらの処理は我々がしておく……貴様は眠っても構わん」
「なっ……にを?」
右手が彼女の頭を通り抜けたような気がした、まるで幽霊が体を抜けるように……その瞬間、綾音の意識が完全に吹き飛んだ。