「最低ね、この役立たず。全然面白くないじゃない……ジャンケン弱すぎるのよ。こんなとこ、普通に歩いてたって全然面白くないからあの子達をびっくりさせるような仕掛けを考えてたのに……貴方の責任よ、私に誠心誠意謝罪しなさい」
どうやら浅海は一番手になって悪質な魔術師ジョークを仕掛けようとしていたようだ、相変わらず洒落にならないことをする。
「変な仕掛けをして本気で幽霊とか出たら危ないだろうが! あいつらが怪我したらどうするつもりなんだよ、まったく。最後でよかったんだよ。ゆっくり出来るしな」
「? 幽霊が出るって? 何言ってるの、こんなに沢山いるのに」
浅海はそれこそ俺の気でも触れたかといわんばかりに辺りを見回した。
「アデット流の冗談のつもりか? 人魂とか怪物とか別に何もいないじゃないか」
同じく周りを見回した俺の眼にはやっぱり何も映らない。
その回答に呆れたような彼女はゆっくりと階段を上りながら語り始めた。
「幽霊って実際は私たちみたいな人間の魂がうろついているのとは違うのよ。人の思い……かな、恨みとか何とかそういう感情が集合して形を成してるの。人みたいな人格を持ってね、見るだけなら別に大した技術じゃないけど……見たい? 怖くて見れないかな?」
「馬鹿にするな、お前もそれを見てて怖がってないのになんで俺が……男がそんなの怖がってられるか!」
見るだけなら魔術ではなく、目に魔力を集中させた上でちょっとしたこつを掴めば見られるという。
「ふふっ、言ったわね。そこまで言うんだから、仮に漏らしたら私の下僕決定よ……なら、いい? 簡単に言うけど、この暗闇の中をよく注意して見ようとしてみなさい」
階段を上りきったところで浅海は懐中電灯の明かりを消し、真っ暗な世界を指差していった。
真っ暗といっても月の明かりが窓から差し込み、わずかな薄明かりが廊下や部屋の状態を示してはいる。
「注意して見ろって……一体どうすれば良いんだよ? アデットみたいにわかりやすく素人に教えてくれ。それと、仮に漏らさなかったらお前は何してくれるんだ」
「仮に漏らさなかったら? そうね、はっきり言ってこれを教えるだけで十分な対価は払ったと思うけど……まったく欲張りな人ね、貴方。でもまぁ、いいかな……今度ほら、映画やるじゃない、あの話題のハリウッド映画」
「うーん、何だっけ? あれ、じゃわからん」
「ほら、『星間大戦』だったかな。宇宙人とか何とか出るやつ」
「あー、あれね。確か日本の俳優もエイリアン役で出てたな、ちょい役っぽいけど……で、それが何?」
「私の親って、ああいう人たち、特に監督とかとよく遊びまわってるから何かサインつきで貰ってきてあげる。話題の映画とかならちょっとした自慢になるんじゃない?」
「なるほど、あの映画俺も結構期待してるからそれなら構わない。それで、注意する方法だけど」
現状とあまり変わらない敗北条件、勝ったら何かくれるというのなら貰ってやるさ。
何より、コイツの前で漏らしたら……多分自殺する。
「取り敢えず、これを見て」
ライターを取り出して火をつけた。
「おい、タバコでも吸うのか?」
「余計なことは気にしない。それより、ちゃんと見なさい……ちょっと催眠術をかけるから」
「は? 魔術は効かないんだろ、俺には」
「前から思ってたけど、ひょっとして救いようのないバカなの、貴方? 催眠術は科学、精神科医も治療によく使う技術なのよ。でも確かに魔術で人を操る方法もあるから科学的な催眠術って言えば良いのかな……もう! ちゃんと見なさいよ……貴方が自己催眠技術でも持ってるのならやりやすいのに……まったく、使えない。私の使い魔以上に使えないわ、貴方。ひょっとして、コウモリ並みの低脳なの?」
「うるさいな! 自己催眠ってあれだろ? スポーツとかでやってる、あれくらい素人でもすぐに出来るよ。要するに思い込めば良いだけだろ、そんなのはな、今すぐだって出来る」
「本当にバカね、素人がいう集中と一流アスリートの言う集中は雲泥の差よ。ったく、少しでも考える頭があるなら、私の言う通りにしなさいよ」
しぶしぶ彼女の言う通りに炎を眺め、俺を陶酔に落とそうとする言葉に耳を傾ける。
すると、徐々にその言葉に心奪われ瞼が落ちた。
頭を振られる、その衝撃に目が覚める。
「ほら、しっかりして。それと、あの本出しなさい」
浅海が言う本はあの魔術本、どれだけページをめくっても次が現れ、見た目を明らかに超越した容量の文字が描かれる不思議な魔導師の遺産。
たまに使っているが貴重なものだということなので多くの場合は手元に持ち歩いている、何しろ十億だ……落としたらそれだけでも恐ろしい、それ以上に泥棒も怖い。
デジカメや予備の懐中電灯や電池を入れていた俺の鞄から本を取り出すと、それを彼女に渡した。
「えーと、どれだったかな……確か、この辺に……あった、ほら……これを使って」
示されたページ、大丈夫だ……確かこのページの魔術なら使っても体に支障は無い。
「でも、確かこれってなぞっても何も無かった魔術だぞ。今度アデットに聞こうかと思ってたんだ」
「へぇ……それは多分……まぁ、取り敢えずなぞってみなさい。『集中して』ね」
「わかってるよ、貸してみろ」
本を受け取ると、それをなぞった。
瞬間、小さな爆発!?
急な爆発に驚いてしまった俺の手から、本が落ちる。
目の前に一瞬青い炎が広がったような気がしたのだ、だが……手で顔を覆って炎から守ったはずなのにまるで熱くない?
ゆっくり手を下ろしてもやっぱり何も無く、浅海もちょっと笑みを浮かべて俺を眺めているだけ。
「どう? 何も見えなかった?」
「……いや……青い炎が目の前に急に広がって……炎の中に何かいた」
そう、思い出してみれば一瞬で広がった青い炎の中に何かが動いていたのだ。
炎はその何かを焼いているように見え、そうあれは……次第に鮮明になっていくあの何かは……
「骸骨みたいな……あれが、その……幽霊?」
「合格。そう、あれが幽霊よ。さっきの魔術は簡単な除霊ってヤツ、普通こんな低級なのは気分を悪くさせたり、雰囲気を台無しにしたり、ポルターガイストくらいしか出来ないからわざわざ退治しないけど、その本が出来たときにはこんなのでも珍しかったんでしょうね。『集中して』ね」
浅海はそういいながら、俺から取り上げた本のページを一気になぞった。
瞬間、懐中電灯も切って真っ暗だった辺りがまるで太陽の真下にでもいるのかと見紛うばかりに光り輝いた。
光の中には十数体もの骸骨やなにやらもう訳のわからないほど醜悪な怪物たちが炎に焼かれている姿が見えた。
一瞬で青き炎は消え去り、再び静寂が訪れる。
「ほら、たくさんいたでしょう? 幽霊」
「あ……ああ、マジでいるんだな、幽霊。それも、あんなたくさん」
「まぁね、アイルランドだともっと幽霊がうようよいて、中には悪霊にまで高まって実際に害をなすのがいついてる城もあるから、こんなのは大したこと無いけどね」
本を俺に渡すと、そのまま月明かりが漏れる部屋に歩いていきそこから外の景色を眺める。
俺もすぐにそこに続いた。
「じゃあ、幽霊がいて、それがどんなのかよくわかったと思うからこの部屋の中を『注意して』眺めなさい。さっきみたいな幽霊がいるって分かってるんだから、あれを探そうとしなさい。あれだけに注意を払うのよ」
「そんなこといわれてもな……急にやれって……ま、わかったよ。やってみる、いるって証明されたんだから、探す努力くらいはしてやる。それより、この部屋にもいるのか?」
「ええ、全部で6体ほどね」
辺りを少し眺めた浅海が平然と言ってのけた。
あんな怪物が6体も?
「よし……なら全部見つけてやるよ!」
辺りを見回した。
埃だらけの机や散らかった書類、割れた窓ガラス、ぶっ壊れた扉……むき出しのコンクリート床には近所の馬鹿が食い散らかしたらしいジュース缶やゴミ。
音は風の音と鳥の声、あるいは虫の声か?
部屋の隅から隅まで眺め、特に影の辺りを調べ上げていく。
見逃すほどに早いのか、あるいは遅いのかもわからない。
だが、相手の形は大体わかっている……それに幽霊がいるということも。
精神は明瞭で、周囲の雑音さえ聞こえない。
アデットにはじめて教えてもらった本格的な瞑想に似た感覚、研ぎ澄まされた神経でわずかでも動く目標物を探し続けた。
「!?」
一瞬、部屋の隅を飛んでいた白っぽい影が見えた。
影が向かったらしい方向を見つめると、月明かりの元に骸骨みたいな醜い顔が浮かび上がる。
息を飲む、はっとするほどに不気味な光景……ゆっくりと浮遊するそれは部屋の中を漂っていた。
そして、それを見つめ続けるうちにその全体がより鮮明に浮かび上がっていく。
だんだんと、ボロを纏ったような5体もの骸骨が部屋中を浮遊していると気がつく。
「あ、浅海……見えた、わかった。いる、確かにここには変な化け物が漂って……」
振り向いた瞬間、目の前にあったのは骸骨の伽藍の瞳、腐ったような皮膚がへばりつき、歯が何本も欠けた幽霊の姿だった。
不覚、浅海がいたそちらを漂っていたソイツに俺は絶叫した。
後に心の底から後悔するほどの大絶叫!
幽霊が俺の顔を通り過ぎて、俺の体を通過していくまでその絶叫は続いた。
漏らさなかった、漏らしかけたけど……
死ぬほど怖かった、いやびっくりした。
それを見つめる浅海が上げた笑い声は鮮明に俺の耳に届く。
あー、やっちゃったな……俺。
○○○○○
「情けないわね、賭けは引き分けって事で無しにしてあげるからちゃんと立ちなさい」
腰を抜かした俺は浅海に手を引かれて何とか立ち上がった。
魔術師とて意識して注意深く眺めない限り幽霊は見えない、今俺はあの忌々しい怪物を探そうともしていないから部屋はまったく最初の状態。
「あ、ありがとう。そ、それよりだな……俺は漏らしてないわけだから、賭けは俺の勝ちだ。まぁ……さっさと上に行こう。時間とか、ずいぶんかかってるからな」
「賭けは俺の勝ちって……女の子の前であんな大きな悲鳴を上げておいて? 恥ずかしくないの、男の子として。それとも何? 実は女の子になりたいって人?」
「勝ちは勝ちだ! ……なんだよ、そんな哀れむような目で見るなよ」
「わかったわよ、今度何か包んで持ってきてあげる。ふっ、本当にかわいそうな人ね。自尊心とか、尊厳とか、これからも色々なものを切り捨てて生きていくのよ、貴方は。それで、最後には何も残らないの、可哀想」
「五月蝿いやい、それよりさっさと行くぞ」
もう神経は参りかけてる、おかしな怪物が辺りを浮遊してるってだけで気分も悪い。
正直、ポジションが逆なら言うことは無いのだろうが……俺は怖がっているのかもしれない。
俺達はそのまま、階段を上がって写真を撮る部屋まで行った。
そこで写真を撮ると、そそくさと階段に向かおうとする俺を急に引き止める浅海。
「何だよ? トイレか?」
「冗談! こんなとこで出来るわけ無いでしょう。そうじゃなくて、何だか……アデット? それともアヤネかな……よくわからないけど、あの二人の匂いがあの部屋の辺りから漂ってくるのよ、ちょっと見に行きましょう」
手をつかまれ、向かったのは写真を撮った部屋とは反対方向にあった扉のぶち壊れた部屋。
よく見れば壁の一部が欠損したり、爪で引っかいたような跡があったり、何やらおっかないものが突き刺さったような跡、ぶっ壊れた机や人が暴れたような跡まで……一体なんだ?
「おい……ここってあの二人の秘密基地か、それとも特訓道場?」
「それは無いんじゃない? あの二人って性格はあんまりあわなさそうだし……それにしても、何が暴れたのかしら?」
机やらぶち壊れた家具の辺りを眺めていた浅海はそう呟いた。
俺もまるで綾音のナイフでも突き刺さったのではないかと思える穴を見つめながら、足元のゴミをよけていた。
「お前じゃないのか? 狼にでもなって……」
振り返った先では、爛々と血に飢えた輝きを放つ赤い双眸が俺を睨みつけていた……浅海の指の爪がナイフのように鋭く伸びて、彼女の口から覗く犬歯は牙としか形容できないほどに鋭かった。
「え? 何かいった?」
手に持った何かを見つめながら、こちらに冷たい問いをかけてきた彼女の気配はめちゃくちゃ怖い。
幽霊など比べ物にならないほど濃密な存在感で、俺という存在に死を感じさせた。
「ごめんなさい……いや、本当、何が暴れたんだろうな? ゴリラかな?」
「よくわからないけど、多分実験でもしてたんでしょうね……こういうのって工房でやって欲しいけど。それに、私だけ除け者にするなんて……今度、ぶっ飛ばす!」
一瞬振り回された爪が、まるでレーザーでも使ったのではないかと思わせるほど綺麗な傷跡を壁に刻む。
その爪はまるで万能剣、四条の跡を刻んだ爪が折れることは無く、逆に壁はわずかに煙さえ上げていた。
悪い……除け者にされてるのって、俺もなんだけど。
「さっ、行きましょうか。不愉快だし……」
「あ、ああ。いや……本当、仲間はずれはよくないな。うん、今度言っとくよ」
先を進もうとした浅海の足がふと止まった、俺も立ち止まったが……何かよくないことでもしただろうか?
逆鱗に触れていませんように……それだけを願いながら、恐る恐る問いかける。
「……なんで止まるんだよ? まさか激怒したとか?」
「黙りなさい。それより、何も感じない? いえ、貴方に聞いても仕方ないわね……気をつけて、よくないものが近くにいるわ。私から離れないで、本も構えておきなさい!」
そう叫ぶ浅海の声は真剣だ、俺も思わず素直に従い本を手に構えた。
「なぁ……よくないものって? 幽霊?」
「いいえ。これは悪霊? いいえ、それよりもクラスの高い怪物……多分、魔力の多い私に反応してきたのね。最初からここにいたんじゃなくて、隠れてて……土から現れた? 数は二、今壁伝いに上がってきてるみたい……一匹は任せるわ、もう一匹は私が捕縛するから。頭の中での式の組み立てに時間がかかるから、時間稼ぎは頑張ってね」
壁に向き直った浅海は俺より一歩分前に構えた。
「俺に任せるって? バカなこと言うなよ! 何だよ、その急展開?」
「新種の怪物なら捕縛してアデットにでも突き出さないと……人を襲うタイプで数がいたら危ないでしょう。それに、それの100ページ目くらいの魔術なら拳銃渡されてるくらいには大丈夫よ。貴方の魔力量はそこそこたまってるから、数発分は持つでしょう。体術も、アヤネが仕込んだのなら適当に体を強化すれば大丈夫、さっきみたいに体の強くしたい部分に魔力を集中させなさい」
窓を睨みつける浅海の瞳はすでに戦闘状態が整っていることを告げていた。
「いや、綾音に仕込まれたって……ほとんど投げられてるだけ、なんだけど。ええい、クソ! 何なんだよ、本当に!」
何がなにやらわからぬうちに浅海が指定したページを開く。
すでに何度か試したが、拳大の石くらいなら粉々に吹き飛ばすような魔術が登場するのもこのページ……今まで到達している最高のページだ。
窓を睨みつけ、鋭い爪を構えた浅海を横目に混乱状態の俺。
「なぁ、何もいないじゃ……」
そのとき、窓にかかるのは土で汚れた手……それが少しはなれた窓にも……ガラスで指を切りながらもほとんど血の流れない奇妙な指。
「死人? まさか……吸血鬼がこの街にいるの?」
驚愕する浅海、絶叫する俺……爛々と輝く紅の眼がさっと窓から覗いたのだ。
俺達を見つけて、にやっと笑ったのはOL風の若い女とスーツ姿の中年男……さっと体を浮かせると、そのまま部屋の中に入ってきた。
「…………」
すでに声が無い、口から除く牙と土の匂い、その青白い肌が彼らを死人たらしめているのは明らかなのに体が動いている。
「なに、貴方たち? アデットがよくやる性質の悪い新手のジョーク……なら言っておきなさい、あんまり性質の悪いことするとぶっ飛ばすって」
出来るだけ穏やかな口調で言った浅海、それを聞いて嘲笑する声を上げるのは女。
「違うみたいね、なら、結局貴方たちが誰なのか教えてもらえるかしら?」
「コロス、血、血、血、ノマセロ、コロス、ヨコセ」
女の狂気に歪む口から発せられたのは、その狂気に見合った言葉か。
「吸血鬼、なの? はじめてみるけど……違うのなら今のうちに言いなさい。魔術師として、吸血鬼は討伐しなければならないから」
「コロス、皆殺し」
喋るのは女だけ、だらりと腕をたらした男はまるで無言で急に襲いかかってきた!
「足を潰して……下手をすれば、女の方を逃がすから私はアイツから目を離せない」
迫り来る男、牙をむき出しにして俺達を引き裂こうと敵意を持って襲い掛かってくる。
まるでゆっくりとした動きに見える、だがそれは人の脚力などではあるまい。
身近な連中の動きを見慣れたゆえに遅く見えるのだろう……本をなぞろうとする指が動かない。
相手は人間だ、いや違うとしても人間の形をしている……それにこんな魔術をぶつけて良いのか?
「早くしなさい、あれはまったく人間の匂いがしないわ……怪物よ。それも明らかに人を襲う、ね」
後三メートルも無い場所に迫った敵、浅海の言葉……俺の指が一気に動く!
瞬間、ガラスが砕けるような音と共に男の体が派手に床を転がった!
浅海の頬を打つ風、その視線は片言の言葉を解した女を睨みつけたまま。
床に転がる男の右足は完全に砕け、引きずりながらもさらにこちらへ進もうとする。
「……見苦しい」
そう、理性のある声で呟いた女は退避するどころか、浅海めがけて狭い部屋の中で大きく跳躍した!
まるで人間的でない跳躍、その着地地点を見てびっくりする……足を引きずる男の頭だ。
まるで果物のような、トマトでも叩き潰したかのようなつぶれ方……男の頭が砕け散る。
その瞬間に飛び散る血液が顔に散っても、浅海は女から眼を離さなかった。
血の眼くらましを仕掛けた女がそれに紛れて浅海の首を狙って爪を立てようとした、俺は完全に茫然自失となり本をなぞるという行為が完全に頭から抜け落ちてさえいたというのに、冷静な浅海は小さく呟いた。
「――悪いわね、式はほとんど完成。貴女、これで終わりよ! Time is on my side……」
その瞬間、世界はどうなったのか?
まるで編集されたビデオテープ、まるで違う場面に時間が跳躍した?
一秒も経たないうちに、女の体は床に完全に押さえつけられ、両腕、両足は逆に曲がっていた。
女の体の上でそれを抑えていた浅海が面倒そうに呟いた。
「ほら、時間を操るって言うのはこういうこと……ちょっと無理したけど、絶対に逃がさない。運が良いわね、殺すつもりなら今首と体が繋がってないわよ……人殺しさん。無駄に魔力を消費させてくれたわけだから、正体とか明かさない? 肝試し中で待ってる友達がいるのよね……早く正体を言わないと、篠崎君とおかしなことしてたって噂になっちゃうでしょう……そうなれば責任、取らすわよ」
完全に組み伏せた相手の耳元に告げる浅海、赤くて冷たい瞳はとても怖かった。
「あ……浅海、その、何だ……兎に角、え? 死体が……」
俺が指差した方向で、浅海が捕らえた女に殺された男の死体が灰みたいになって消えた……まるで空気に溶かされてしまったように。
「ほら、人間じゃなかったでしょう。篠崎君、アデットに電話して。よくわからないけど、拘束してるコイツを突き出さないといけないから」
「ハナセ、離せ、私を離せ! 離しなさい!」
浅海に組み敷かれている女が理性ある声で叫び始めた。
「おい、浅海。この人、人間なんじゃ……」
「いいえ、匂いがさっきの男と同じ。それに……!?」
さっと女から飛び退いた浅海、俺を自分の背後に隠すようにして窓を睨みつけた。
女は折れた両手足をなんと力技で無理矢理曲げて、立ち上がる。
そして、窓の方に退き始める。
「Le clair de lune éclatant est beau. Ne pensez-vous pas ainsi ?」
「へ?」
生暖かい風に乗って、この世のものとは思えないほど美しく、そして幼い声が聞こえた。
声の方向を見た俺は眼を疑った。
それは、誰もいなかったはずの窓に腰掛ける、真っ黒い厚手のレインコートを着た人影。
月の光の下でも異質なその人物は子供のような小さな体で、そのままゆっくりとレインコートから顔を覗かせた。
「気の利かぬものよ……今夜は月が美しい。其方もそう思わぬか、魔術師?」
レインコートのボタンを外したその姿は、どこかの制服みたいな紺色のブレザーを着た小学生くらいの女の子。
夜の闇よりも黒く、絹を思わせるほどに美しく長い髪。
陶磁器の白よりもなお美しい、人形のものとでも形容するしかない純白の肌。
スカートから覗く脚は床にさえ届いていない、そんな幼い女の子なのに、彼女の顔は成熟した女性のもののように色っぽい。
まさしく月の皇女を思わせる、その少女の赤い瞳――それだけで俺達を襲おうとした両名の仲間であると察しがつくのに、彼らとは存在自体がまるで違う気がした。
少女が纏うのは俺とはかけ離れた存在であることを示す、犯しがたいほどに高貴なオーラ。
彼女の美しく整った鼻梁、貴族的な肌の白さ、口から覗く小さな牙……古今東西の如何なる巨匠でさえも再現できない、美の極致とも思えるほどの完璧な美しさを備えた少女にその場の時間さえ停止したのかと錯覚させられた。
彼女の美しさはすでにそれ自体が芸術だ、性別も、年齢も、宗教も、人種も、民族も、社会的地位も、他の何も関係ない……仮に地上の誰が彼女の美しさに魅了されてもそれは仕方のないことだろう。
彼女は全てを超えた次元で最高に美しい。
如何に寛容な神々さえも嫉妬を禁じえないだろう美という概念の集合体、彼女はまさしくそれだ。
「あ、ああ……ゴシュジンさま、御主人さま」
窓まで逃げた女が美の黄金率を持つ少女の手に触れ、切なそうな声を上げる。
「能無しのクレームを聞いてみれば成功例とは……なんと僥倖に恵まれた夜であろうな。神祖よ、貴方には感謝せねばなりますまいな」
女の頭をなでながら、窓の下に足も届かない状態で静かにそう言った。
驚いたことに女の足の骨はすでに再生していた、当然ありえることじゃない……どうなってるんだ?
浅海に眼をやると、すでに彼女の顔から色が失われている。
汗でびっしょりで、とても生きている気がしない。
「だ、誰……貴女?」
絞り出すような声が彼女の口から漏れた。
震えている? わずか10に届くかどうかという少女を相手に彼女は怯えていた。
そのとき、俺はそれが完璧な美の体現者を前にしての恐怖だと思った。
だが、後に知った事実を総合すればそうではなかったようだ――夜の世界に伝えられる一つの伝説がある……ある貴族についての伝承というべき言い伝えが。
夜を統べた吸血王、その剣と称された第一貴族――最初に人間であることを辞めた魔導師はこの世のものとは思えぬ美貌を誇り、四界に覇を唱えんとした英雄たちでさえもその美の虜にしたという。
曰く、会えば彼女が誰か必ずわかる……
古より幾多の吸血鬼狩りが彼女を滅ぼそうとしてその逆の道を辿った。
3898年という悠久の年月、一つの文明よりも、一つの民族よりも、一つの国よりも長い時間を生き続ける吸血鬼は、こんなにも近くにいて触れることさえ出来るはずなのに、なお永遠といえる距離を俺達との間に有している。
彼女と人間は完全に別の生き物、そうとしかいえない――彼女はその圧倒的な美貌で、俺達を感情のこもらない視線で射抜いた。
その伝説に語られた吸血鬼の名は――
「――妾はベルラック。其方たちは?」
吸血貴族の第一位、最初に人間として生きることを辞めた第五魔導師は艶然とした表情で告げた。
夜の恐怖を体現し、王侯貴族の中でも性質の悪さなら群を抜くといわれた武器作りの吸血鬼は俺にとって別に何の恐怖も感じないただ綺麗なだけの少女に見えた。