「はー、はー……ふっ、はー、はー、ふっ……」
肺が酸素を必要として、体を苦しめる。
汗が噴出し、息が上がって脇腹の辺りには激痛がしてきた。
夏の夜の熱い空気が体にまとわりついて不快だ。
暗い闇の中、いつものランニングコースを走っていた俺は時計に目をやる。
大丈夫、このペースなら新記録は狙える。
今の位置から計算すれば、すでに10キロのうち9キロまでは走り抜けているはずだ、残りはせいぜい数百メートルといったところ。
よし行ける、これなら記録更新だ。
体内を流れる魔力の流れは最初が少なかったために数倍になっただろうか……アデットから教わった『魔力を体内に留める方法』とか言うのを使った初めてのランニング……信じられないことにきつかった坂道を軽々登れた。
尤も、長い距離を走っているうちに結局は苦しくなってきたのだが。
しかし、体に蓄えた魔力がこの記録を実現させてくれているのだろう、そうでなければ説明がつかない。
彼女は言った、魔力は生きている以上はどんな生命にも存在する、と。
例外的に死んでいても膨大な魔力を保有するのもいるみたいだがそれはごく一部の例外。
魔力は流れに例えられたように通常は体内を隈なく回るとそのまま大気に溶け込み、世界に還元される。
それは必要以上の熱が汗で冷やされて消費され、体の表面から大気中に逃げていくのと同じことで、別に体から魔力が流れ出したからといっておかしなことが起きるわけでもない。
それは自然なことで全ての生命に起こっている現象だから。
しかし、その現象を歪めるのが魔術師――さっきも言った『流れ出る魔力を体内に留める』方法、それがアデットから教えられたステップアップの技法。
体から流れ出す魔力を頭の中にイメージした器に溜める、考えてみれば流れ落ちる水を受け止めるようなものなのだからそれはとても単純な方法だ……だが、実際にやってみてその先入観は間違いだと気がついた。
それを思い浮かべていることは非常な精神の集中を必要とするのだ。
そう……仮にイメージした場合頭の中に作られる器は予めそのキャパシティーが決まっていて、流れる魔力を受ける器を思い浮かべたときに自然と形作られる。
最初に思いついた形、それがその人間の器なのだという……直感的なものだが、それは実に正確に自分の限界を示してくれるらしい。
ただし、問題はその後だった……頭の中で一つのイメージをいつまでも維持することは実際かなり難しい、しかし常にそれを思い浮かべていられるようになるまで魔力は一時的にしか溜められないのだ。
それでは生命活動によって生成されたその瞬間の魔力だけしか使えない、それではおのずと限界が知れてしまうだろう……大魔術を使う場合は土地の霊力を使うしかないのでそれで構わないが、基本的なものは練習のために一日に何度も使う可能性がある……このような場合には魔力のストックが必要とされるわけだ。
そして、イメージを常に思い浮かべていられるようになれば自分のキャパシティー分の魔力を体に留めることが出来るようになる。
アデットが言うにはこの器の大きさも魂の成長にしたがって大きくなるとか。
それでこの魔力をたくさん溜め、次の機会に教えてくれるとか言う技法を身に着ければ年をとる速度が通常よりも遅くなり長寿と若さを実現できるらしい。
魔力は生命力に深くかかわる、たしかにその量が多ければ彼女の言う長寿だとかもわからないでもない。
しかし、それ以上に魔力を蓄え、それを拳などに集中させれば気功で言われるように金槌みたいに強化できることが重要だろう……第一、急に老けなくなったときを考えると……女は構わないかもしれないが俺はきつい。
何しろ、恐らく残りの人生を普通の社会で暮らすのだからほとんど年をとらないというのはよろしくない、何より不気味がられて一箇所に長くいられないだろう。
ただ、すでに実現してしまったことのように言ったが実際は未だに修行不足だし、俺の魔力がどれだけ充実していてもアデットほどに老けないわけでもない……俺は今漸く魔力を溜めることができるようになった段階、つまり器を四六時中イメージし続けることができるようになった段階なのだ。
しかし、たったそれだけのことが違いをもたらす……魔力の蓄えがそれだけで体の持久力を高め、自らを消費することで体力の消費を減少させたのだ。
それが体を楽にして、いつもよりも足が遥かに軽やかになった。
今器の大きさは小さなコップくらいだ。
その小さな器に俺のわずかな魔力を全て注ぎ込みすでに入りきらない魔力が体から溢れていたのだが、ランニングで魔力を消費したために再びわずかずつ溜まり、あるいは消費され始めているのがわかる。
それがコースの後半になってもそれほどペースを落とさなくてすんだ原因なのだ。
……ありがとうな、アデット……子供っぽいかもしれないが、なんだかこういうのって面白いよ。
どうせなら、このまま俺がオリンピック選手になるまで教えてもらえはしないだろうか? 行き過ぎた商業主義はよくないが、俺があの家継ぐ頃には相続税払えないかもしれないからな……いや、確実に払えないからあの錬金術師に金を作ってもらった方が良いのか?
確かに考え物だ、これは近いうちに相談せねばなるまい……たまの滞在人二人にも何とかしてもらいたいが、頼むことをプライドが許さない……もう少し傲慢になっても良いのか、俺?
そんな下らないことを考えているうちに家の明かりが見え、旅の終了が近いことを告げた。
最後の加速、水溜りを飛び越えるとそのまま家の門まで一気に駆け抜けた。
○○○○○
「おい……新記録達成だ、信じられるか? 36分だ、たったそれだけでいつものコースを走ったんだぞ。おい、すごいだろ?」
居間に駆け込むと、誰でも良いから自分の興奮を伝えたくて仕方無かった。
すでに俺の家を別荘くらいに思っているらしい綾音と浅海は興奮した俺を唖然とした表情で俺を見つめたまましばらく沈黙し、やがて……
「……遅っ、たった36分くらいでそんなに興奮してたの? 笑わせないでよね……冗談でしょう? あーあ、驚いて損した」
え? なんだ、そのそっけない対応は?
いくら衛星放送でワールドカップを観戦中といってもそれはないんじゃないか?
「世界記録でも出したかのような喜びようで、それは無いと思いません? 私も何事かと思ってびっくりしました」
サッカーの優勝国を当てる賭けをしているとかいう浅海はまだわかるが、そんなことをしていない綾音までそんな……何故俺の成長を喜んでくれない? お前ら、鬼か?
「いや、おい! 10kmを36分だぞ、俺って帰宅部なのにそんな記録出してちょっとはすごくないか? マラソン選手でもないのに、ほとんど時速20キロ近いんだぞ」
それは……確かにいるよ、これくらい早く走れる人間は! 世界中、あるいは日本中を探せばゴロゴロいるよ。
でも、今までの記録が50分くらいだったことを考えると飛躍的な進歩だと思わないかな……
「はぁ? それくらいじゃ全然駄目、はっきり言って足遅すぎ。ラクダでもそれよりは速いわよ」
椅子の上に転げたままリモコンを弄っていた浅海がつまらなそうに告げた。
すでに試合は決している、彼女の態度を見ていると賭けているところの調子が悪いのか?
でもな、浅海……実際、ラクダってかなり足速いよ、もう砂漠だと競馬でラクダを走らせるくらいだから多分速いはずだろ?
「人騒がせですね、本当に」
綾音は上品に欠伸を隠しながら、読んでいた本に眼を戻す。
「だっ、だったらお前らは一体どれくらいで走れるって言うんだよ? 女と男じゃ基本の体力が全然違うんだぞ! 言っとくが大した記録でもないのにそんな強気な発言を……」
「10キロでしょう? 私の最高記録は1分くらいかな……綾音は?」
綾音は面白くなさそうに、浅海の質問に答えた。
「15分くらい……呪いのためとはいえ体力バカの貴女には敵いませんが、平均以上の記録だと思います。それに、男女の体力差など私たちにしてみればそれほど大きなものでもないのよ。確かに基礎体力で差をつけることは重要だけど、もっと重要なのは魔力量の大小とその人がどれだけそれを扱いきれるか、ということ。覚えておきなさい」
俺とは次元が違うところでうろついてるのが天才と呼ばれる魔術師さんたちなんだな……。
「……ごめん、どうやら俺はたいしたことのないレベルで思い上がりすぎてたみたいだ。ってか、浅海の記録って本気で言ってるのか? 時速600キロくらいだぞ、お前……新幹線、いやリニアより早いじゃないか。ありえないだろ、そんな速さで動く人間なんて! そう、そんなのいたらそれこそ詐欺だ」
「ええ、そうね……でも記録は本当。それにしても、綾音って思ってたより遅いのね。トロ子って呼んでも良い?」
綾音をチラリと覗く目には勝者の余裕がうかがえた。
いや、そんな嘘っぽい記録を信じろというのだろうか、この女は。
そして、そんな嘘っぽい記録を信じるのか、綾音は。
「どうせ狼にでもなってインチキしたのでしょう……自分の肉体だけで勝負しなさい! 私の記録は魔力の助けがあったとはいえこの身一つでたたき出したもの、魔術は使っていません!」
本を置いた綾音は相手の不正を疑っていたが、浅海はそう聞かれてもそんな必要が無いと答えた。
俺でさえ、浅海ほどの記録はインチキが無ければ出来ないと思っていたのだが違うのだろうか?
「狼? は、違うわね。あの姿ならどれだけ必死になっても多分5分台くらいしか出ないもの。それでも、確かに私ってアヤネみたいなのと違って家に閉じこもってウダウダやってる魔術師だから、呪いがなかったら本当は体力なんて全然なんだけどね」
「ほら見なさい、私は前々からほとんど体を鍛えもしない貴女などに髪の毛一本とて負けたとは思っていませんからね」
「だって、汗臭くなるのって嫌いなのよ……でもまぁ、魔術は使ったけど、そういうのって私の力だから。それを含めるかどうかは見解の相違ってやつじゃない?」
そう答えられたとき、何か思い当たることがあったのか綾音が舌打ちした。
「……『固有時操作』? ちょっと、それは反則でしょう!」
「固有時操作……なぁ、それってどんな魔術なんだよ?」
浅海は軽くため息をつくと、体を起こしてリモコンでテレビをニュース番組に変えた。
「……私の家は時の魔術の大家なのよ。わかる? 時間の魔術師なのよ、この私は」
「時の魔術?」
口にしてみれば俺も馴染みがある気がする……直感だが、ゲームでよくあるあれか? ヘ○ストみたいな、早く動けるようになる魔法なのか?
俺の疑問符がついた物言いに綾音が同意の言葉を継ぐ。
「ええ、浅海の実家の卑怯な外法です」
『卑怯』の部分に力がこもっていて、本当に憎々しそうだった。
確かにゲームでよくある速く動けるような魔術ならそれは反則だろう、とは思うが魔術師としての争いなら一概にそう言っても良いものかどうか……迷わないでもないな。
「あのね……卑怯って言うけど、時間移動から時間操作まで時間に関する魔術の大部分は私たちが開発した秘法なのよ。だーかーら、真似できない奴の僻みじゃない、そういうのは……ねぇ? 家伝の魔術を使う才能で私に負けてるアヤネさん」
「なんですって! この私が僻む? 料理も掃除も三流以下の貴女を? 馬鹿にしないで下さらない。そもそも、私は別に術者としてあなたに劣ってなど……」
「どうかな? 前に貴女の家で見せてもらった、アレ……言っとくけど、トラウマになりそうだったのよ」
顔の筋肉がピクピクしてるぞ、綾音……てか、一体何があった?
「おい、その綾音の家まで行って浅海は何を?」
「ああ、聞きたい? 実はね、アヤネってば白川家伝統の人形作りで……」
「わー、わー、わー、もうその話はおしまいです! 打ち切り! それは浅海の戯言です、絶対に信じないで!」
もう必死になって騒ぎ立てた綾音にはいつもの余裕など一パーセントも残っていなかった、浅海の首に本気でナイフを突きつけてその話を中断させたのだからすでに本気なのは明白だ。
「あ、あはは……いやね、アヤネ……私ちょっとお茶目さんだから、その……口が滑ったのよ。お願いだから、ナイフは下げて……ほら、怪我すると危ないから、さっさと下げなさいよ! まったく」
ナイフを片付けながらも、彼女の視線は浅海から離れてはいない。
「浅海……前に三丁目の秋芳堂の和菓子で手を打ちましたよね……次に今のような真似をしたら、本気で刺しますからそのつもりで」
「今度は、一丁目のエーデルシュタインのバームクーヘンが食べたいのよねー。アデットに連れてってもらってからあそこのファンで……予約が半年先まで埋まってるスペシャルデラックスなヤツ、貴女の家の名前で融通が利くでしょう? 可及的速やかに電話してよね、番号教えてあげるから」
ネタは知らないが脅迫かよ……アイリッシュ・マフィアなんて物騒な言葉もあるけど、今の浅海もそれに劣らずアレだな。
エーデルシュタインといえば、戦時中に渡って来たユダヤ系ドイツ人が始めたこの辺でも指折りのパン屋……テレビに取り上げられてたのを見たこともあるし、あそこのスペシャルデラックスは一日限定何個の世界らしいからな……いくら地元の名士でも無理じゃないか?
そもそも頼むのなら教会関連でアデットに頼めば良いのに……あそこ、宗教は違っても商品の納入とかで太いパイプがありそうなのに、などと思っていたら戦場はますます混沌としてきた。
「ほう……あんなネタで私を使い走りに出来るとお思い? それに、そんなものを要求するなんて……本当に小さな人ですね、貴女は!」
「は、小さい!? 確実に胸で勝ってる、この私が小さい? 何処に目をつけてるのよ、身長だって負けてないわよ」
「ばっ……サイズではなく、人間が小さいといったのよ!」
浅海が放った見当はずれのパンチはそれでも綾音にはアッパーのように効果があったらしい、それくらいの変化球だったからな……この浅海のわざとらしい日本語の解釈間違いは。
顔を真っ赤にしながら怒った綾音はもう許してくれそうにないんだが。
「? よくわからないわね。でも……どうやら決着をつける必要が出来たみたいね、お互い。先に謝っておくわね、ごめん、篠崎君。貴方の家今から壊れるわよ」
「え? いや、そういうのはちょっと…….よくないかなーって思ったりするんですけど。おい! マジでやる気じゃないよな? 家とか壊さないよな? 本気でやるっていっても駄目だぞ、絶対に許さないからな!」
必死に言ってみたが今睨みあう二人に割って入ることなど出来ない……
「……そうですね、喧嘩というのも文明人にはふさわしくないでしょう。浅海、10キロランニングで魔術無しの勝負をしなさい。手袋はありませんが、決闘を……」
そんな決闘でも家に被害が来ないとは限らない……ここは話を逸らすしかない!
「いや、綾音もそこまでこだわらなくてもいいだろ? それより、時の魔術を使うとどうして早く走れるんだ? 大体想像はつくけど、詳しく聞きたい」
そうだ、取り敢えず片方でも話題に巻き込んで二人の空気を暖めてあげよう。
恐らく作戦は成功する、浅海も俺の言葉に闘争心を一瞬で散らせたみたいだし、それはほぼ間違いあるまい。
「……ああ、それ? 私自身の時間軸をずらして周りよりも早く動くからよ。簡単でしょう?」
「簡単って……どうすればその時間軸が動くんだよ。見えないし、触れないものを動かすなんて無理だろ。大体、時間軸って何だよ」
「ん? 真似でもしたいの? 言っとくけどマクリール以外の魔術師がこれをやるのはほとんど無理だと思うわよ。技術の蓄積量がダンチだから……ていうか、貴方のあの本に出てるの?」
「あのな、そうじゃなくて俺は原理をだな……」
「知らないわ、そんなの。お婆様でもなければわからないわね。私、感覚で使うから詳しい原理を知らないの。別にそんなの知らなくたって、同じように使えれば一緒でしょう? 大体ね、奥義って言うのは人に教えないものなのよ」
使えれば良いなんて……なんて魔術師らしくない魔術師なんだろう。
そもそも今の発言はどうかと思うけぞ、原理なんて知らなくても使えれば一緒って……だったら、お前は何の研究してるんだ!
「まぁ、そのうち調べるわよ。実際、今までの研究で近いところまでは到達したし……固有時間って言うのでわかると思うけど、物理学の難しい理論が必要で私もまだ研究が進まないとこあるのよね」
「いい加減な魔術師だよな、お前は……まぁ俺も物理って苦手だから気持ちもわかるけど」
「でしょう? 私もそう思うのよね」
綾音はそれを聞いて鼻で笑った。
「つまらない言い訳をしないでもらえる? それはただの未熟者です。そもそも浅海は怠け過ぎよ。救いようのないエセ魔術師なのよ」
そういわれてムッとする浅海、面白くないのはわからないでもないが正直言ってアデットみたいな錬金術師とはまるで考え方が違うと思う。
「そういう貴女はどうなのよ、こんなところに入り浸って……私のストーカー? 訴えるわよ」
「ばっ、失礼な! ……自意識過剰、この日本語はお分かり? 今の貴女はまさにそれ」
「えっと……何が過剰なの? 羞恥心ってこと?」
「バカ! 貴女は本当に……やはり一思いに決着を……」
こうして相変わらずな夜は更けていった。
そして、翌日電話を受けた綾音は浅海に警告を残し慌しく家に帰って行くのであった。
○○○○○
白川綾音が慌しく篠崎邸を後にした朝、教会に客が訪れた。
朝の9時になったあたり、土曜だったこともあり教会でやや遅い朝食を食べていたアーデルハイトを呼ぶのはフェルゼン老神父の声。
「アーデルハイトさん、お客様ですよ」
白い髭を生やした恰幅の良い老人はサンタクロースのイメージそのままに見える。
「私に、ですか? 学校関係の方でしょうか」
金髪の美少女は白いブラウスとデニムのスカートという装い、暑い日本の夏を嫌う彼女は早めに衣替えを済ませていた。
「いえ、教会の方から来られたエクソシストと名乗られております。きっと古い同僚の方でしょう」
エクソシスト、そう聞いて良い思いではない。
凄腕の霊媒師たちは霊を操り、精霊や悪魔、果ては神さえ使役する……霊媒師出身の魔導師たちに至っては死者の冒涜者以外の何者でもない、そう思えば彼らと付き合いたくはないのだが。
「わかりました、すぐにその方とお会いします。その方は礼拝堂でお待ちなのですか?」
「ええ……私はこれから少し出かけますので、貴女には施設の管理をお願いしますが、いいですね?」
「はい、教会本部に係ることでしたら後でお伝えします。では、失礼します……食事は後で食べますから残して置いてくださいね」
彼女はそのまま礼拝堂に向かった。
扉を開け、錬金術協会とは犬猿の仲でもあるエクソシストたちとの遭遇に備える。
不可思議な光を放つ白い宝石で飾られた指輪を両手の薬指に嵌めた……彼女にとってそれはすでに戦闘になっても大丈夫な体勢であることを意味した。
ただこの邂逅が実際に戦闘になるとは思わない、しかし、それでも彼らは錬金術師に対して確かな敵意を持っている。
それを思えば、不測の事態も考えられる今の状況で可能性に備える必要はあった。
扉が完全に開くと、整然と並ぶ席の一つに腰掛けていた男に気がつく。
『サラマンドラは燃えよ、ウンディーネはうねれ、ジルフェは去れ、コボルトは勤しめ!』
男を見た瞬間に紡がれるラテン語の呪文――扉に触れていたはずのアーデルハイトの右手にはいつの間にか剣のような銀の釘が握られていた。
それでも動じない男――室内でサングラスをかけた筋骨隆々で坊主頭、六月だというのにコートを羽織っていて右腕は包帯でぐるぐる巻き、身長190センチくらいはある長身の日本人。
年の頃は40代後半、とても善人には見えない威圧感ばっちりの御仁だった。
「……」
アーデルハイトの顔に緊張が走る!
1メートル近い釘を持ったまま思わず身構え、椅子に座っていた男に確かな殺気を向けた。
そこにそれを感じることの出来る人間が居たとすれば卒倒しそうなほどに鋭い彼女の殺意を感じたのか、男はゆるりと立ち上がった。
それでもそのさっきを受け流すかのようなゆるりとした動作には緊張も、恐怖も何も感じられない、彼にはアーデルハイトの存在さえ見えてないかのようであった。
しかし、当然気がついていないわけではなく、サングラス越しに二人の視線がぶつかり合った。
「……久しいですね、義時さん。象牙海岸、あの紅い夜以来でしょうか?」
すでにいつ戦闘になっても良い体勢だが、こんな場所で戦うのは流石に気が引ける。
釘を相手から逸らすと、彼の出方を伺うように慎重に言葉を選びながら言った。
「左様、我らの邂逅はあのときより実に十年ぶり……だがシュリンゲル、最高の錬金術師よ。まさか貴様が我が故国に在って『調停者』をしているとは思わなかったぞ。そして……久しいという相手に物騒なものを向けるとも思わなかった、ククッ……まったく礼儀を知らんな」
「白々しいですね。わかっていたから来たのでしょう?」
アーデルハイトは男の包帯が巻かれた右腕を見つめながらさらに続けて言った。
「……その右腕、10年も経って未だに包帯さえ取れないとは……貴方にしては悪い仕事ですね。名が泣きますよ」
その言葉を受けた男は苦笑しながら、サングラスを外した。
大きな傷が本来目のある場所に広がり、彼の視力が奪われていることは明白だった。
「ククッ、この両目と右腕……私を殺す代わりに貴様が奪ったのだぞ。忘れたか?」
「……」
「流石に私でもこれでは、な。生活に不便は感じぬが、仕事の腕は……確かに落ちたよ」
サングラスを再びかける男を見つめるアーデルハイトは目を細めた。
「……」
「しかし、なんだな……狩りをせぬ狩人など聞いたこともない。貴様のその腕はすでに錆付いてしまったのか? 私の腕のように」
低い声が扉を閉めた教会に響く。
「わざとらしいですね。わざわざ日本まで来た目的は察するところ、いつぞやの復讐でしょう? だとすれば、こんな早朝からやって来たことを後悔することに……」
その言葉を受けた男は苦笑して、それを否定した。
「いや……実に血気盛んなことだな、シュリンゲル。だが確かに本来ならそれが妥当であろうな、私は今……貴様の腕を引き千切り、足を引き千切り、目玉を抜いて、耳、鼻、乳房、体の表面の皮膚も全てそぎ落とした上で腹を割いて引き出した小腸を使って絞殺して……血の一滴も、髪の一本さえこの世には残さんつもりではあるからな」
憎悪しかこもらない声? そうではない、ただ淡々と台詞を棒読みするような丸で感情のない声で男は語った。
その不気味さか、アーデルハイトの釘は再び相手を向いた。
「しかし、按ずるが良い……此度は調停者としての貴様の働きを監察に派遣されたに過ぎん。殺し合うのは……また別の機会としよう。何より、私もこんな街中で朝から戦うほど酔狂でもないのでな」
向けられた殺意に対して、彼はなんと無抵抗にそれを受けていることだろうか?
まるで風を受け流す柳のように、彼に向けられた殺気が彼を通り抜けていくようだった。
「監察官? ……驚きましたね、どうやって協会に取り入ったのです?」
「なに、必要なところに供給が向かうのは必然。吸血王を撃破した件で錬金術協会の躍進甚だしく、それを面白く思わぬ輩も多いということだ。何より、貴様の調停者としての活動は生温過ぎるという理事も多い……それを知らぬ貴様でもあるまい?」
「……妬みや嫉妬は人の常ですか……しかし、貴方のような異端の方術師を迎えるとは形振り構わない行動の受け入れ先は?」
「ふん、察しの通り霊媒師どもだ。確認せずともわかっていたはずだ、この教会を調べ上げたのは奴らなのだからな」
「……それで、私のやり方が温いと知って代わりを用意するか、懲罰人事でも?」
相手はそれを聞いて爆笑する。
「くくっく……愉快、愉快。だが、それは無い……私の目で見たところ、それでも貴様は最優秀だ。代用を立てるとなれば、それは『我々』しかいないが……奴らが納得するはずもなかろうしな」
「義時さん、知っていれば教えて欲しいのですが、彼女は未だにアレを止めていないのですね?」
「ああ、アレは性質の悪い女だからな。だが、それは今関係ない。今回はその代わりに、こちらの情報網が捉えた事件を伝えよう。活動を行う上では実にやりやすくなる情報を、な」
「? 事件?」
「この街近郊の術者、雨峰実篤が死亡した。老衰ということになったために新聞記事にはならぬが、こちらが介入する手立ては十分……諸々の情報はそろえておいてやった」
「雨峰? 隣町の術者ですか……隣町は私の担当地域ではありません。派遣されている方は……」
「ああ、今はいない。しかし、そもそもこの国には空白地帯も珍しくはあるまい。方術協会は数の上では圧倒的だがまとまりにかける。その支配地域は虫食いだらけ……これは協会の勢力を強める良い機会だ。錬金術師も霊媒師も、全体のためになればそれでよいと思えるほどの麗しき自己犠牲の精神は持ち合わせているだろうからな」
方術協会は広大なアジア全域の種々の魔術師達の集まり――元々東北アジア系の術者が主導権を握っているが南アジア系、東南アジア系の諸勢力の伸長により人事の面ではほぼ拮抗状態であり、勢力争いに疲れた一部の名門が主導する新興の協会が分離独立したことで長い間混乱状態にあった。
最近は北方アジア系の有力な指導者が事態を収拾し、各派のまとまりが保たれるようになったために加盟魔術師の数では世界最大といわれる名誉ある地位を維持するために中央での活動や研究を活発化させている。
方術協会には東洋錬金術のような術者から呪術の類まで幅広い魔術師が加盟していて、主には文字や護符などを用いる術者が多い。
普通、魔術を学ぶ上でやりやすいものを選んで学ぶ――例えば、占星術に才能があれば占星術協会に、霊媒術の才能があればその協会に……という具合だ。
だが、この広大なアジアという地域に関してはそれらの全てを包括した『方術』と呼ばれるものが発達している、それは呪術、占星術、霊媒術など諸々を含んでいながらアジアという地域ブロックで巨大な組織を作り上げた例外だ。
ゆえに、地域差などで独自の要素はあるものの厳密な意味で『方術』というものは存在しない、そう名乗るものは大抵魔術師であったり、呪術師であったりするからだ。
しかし、その分専門的な知識を求めるものには向かないが、総合的な知識を高めたい術者には近年は西洋や北米などからも留学してくるほどに魅力的である。
基本的に西洋やアフリカ、新大陸、オーストラリアなどを除いた広大な地域に広がっているためにその支配領域内には大小様々な協会が点在していて、協定の有無によってはその協会の支配域が『虫食い』地域として調停者たる中央の協会の派遣魔術師の管轄外となることがあり、今回の場合はそれであった。
「気に入りませんね……たまたま親交を持ったばかりの雨峰家が絡む事件とは、貴方の関与さえ疑ってしまいます。そもそもただ老人が亡くなっただけのことで、何が問題になると?」
「知っていて私に言わせるか? それは相続だ……遺領と当主権の相続以上に我々を悩ませるものは無い。何より、ここは貴様が派遣されているほどの霊地だ、それを可能とする術者なら記録の書き換えさえ成し遂げるやも知れぬ。わかるだろう……その近くの土地とて田舎魔術師にはもったいないのだ……雨峰翁の二人の孫が座を賭けて争うだろう。いっそ共倒れでもすれば、こちらとしては都合がよいのだがな……お互いその方が楽で助かる」
「互いの身を喰い合う獣……そういうことですか」
人の醜さを蔑むような少女の呟きに、男は皮肉な笑みを浮かべて応じた。
「ああ、弱者は常に互いの足を引っ張り合う……人の世は例え千の年月を経ても変わらぬ。これが真実、貴様は人間という種を過大評価している。それ故に愚かなのだ、貴様は」
「私が愚か、未だ賢者には程遠い以上それは否定しません。斎木監察官、貴方が私にしばらく付きまといたいというのなら構いません。ただ私はこれから雨峰さんの葬儀に向かいます、しかし教会には留守が必要……頼んで構いませんか?」
「それは構わん。だが、うまくやれ……あそこは今異端派の『東方協会』領、こちらの利益になる終わらせ方を心がけろ」
「知っています。東方協会の盟主は多少の縁故のある方ですから、平和的な交渉で解決できると思います。では……」
礼拝堂を去った少女を見届けて、静かに席に腰を下ろす男。
「ふむ、舞台は観客を楽しませるためのもの。黒子の存在も知らぬ女優がどこまで華麗に演じるかをじっくりと楽しませてもらおうか、シュリンゲル」