・Sceane 21-1・
「……はぁ」
一つ溜め息を漏らすと、扉を開いた侍従がどうかなさいましたか、と心配そうな顔で振り返ってきた。
立場上、いや何でもないよ、と答えて扉を潜るべきなのだが、そうと解っていても、アマギリとしては嫌だなぁと言う思いが先に立つ。
苦手な事は後回し。
と言うよりはアマギリは自身の事を得意な事だけにひたすら時間を費やしたい人間であると自覚していたので、こういう対人関係の処理などと言う面倒ごとは、正直避けて通りたいと言うのが本音だった。
だからと言って、本当にこの場から逃げても、それで全て終えられる筈も無い。
何しろ、アマギリを呼び出したのは彼のスポンサーなのだから。
「いや、何でもないよ」
結局は、そう言うしかない。
肩を竦めて、息を吐く。そのあと少しだけ大きく息を吸い込んで深呼吸の真似事をした後で、アマギリはその部屋に踏み込んだ。
早い話がそこは、このハヴォニワ国の女王陛下の私的な住居空間だった。
室内は広大と評するに相応しい面積であり、飾られている調度品も一級品のものである。
一見派手好きに見えるように見えて、その実深い所では実利的な部分が強い女性の住まいであったから、内装は気品を失わない程度に実用的な拵えが多かった。
おのぼりさん宜しく―――先導として前を行く従者に気付かれない程度に視線を動かしながら、アマギリは毛深い絨毯の上を歩み、部屋の奥に踏み入った。
ロビーを抜け、リビングへと通される。件の女性は、そこに居るらしい。ソファに腰掛、テーブルをじっと見つめて、何かを考えているようだった。
どうぞ、とドアの傍で立ち止まり横に避けた従者に礼を言って、一歩部屋に踏み込む。
いっそわざとらしいくらい慇懃な態度で一礼して見せながら、アマギリは口上を述べようとした。
「女王陛下。アマギリ・ナナダン、参上によりまかりこしました―――って、あれ?」
「あら貴方、待ってたわ。今お茶を入れるから、こっちにいらっしゃいな」
「”あら貴方”―――字面だけ見ると何の問題も無いのに、何やら妙な含みを感じるのは気のせいかの……」
入り口からでは角度で見えなかったが、どうやら部屋の主以外にもう一人居たらしい。
顔を上げたアマギリは、テーブル越しに向かい合うその二人を見て首を捻った。
「ラシャラ皇女、居たんですか。―――なんか、変わった組み合わせですね」
「そうでもないわよぉ。だって、ラシャラちゃんをハヴォニワに招待したのは私だし」
言われてみればその通り。フローラの言に頷いて、アマギリはラシャラとフローラが向かい合うテーブルに近づいた。
フローラが、一人で使うには大き過ぎるであろう横幅の広いソファの中心から、少しだけ体をずらした事にアマギリは気が付いたが、礼儀正しく見なかったことにして誰も座っていない開いているソファに腰掛ける事にした。
丁度、二人の中間に位置する事となった。
フローラがつまらなそうに唇を尖らせているように見えたが、あえて気にしない事にしている。ラシャラが呆れ顔で苦笑しているのも、意地でも見るつもりはなかった。
基本的に、逃げの一手である。アマギリは視線をテーブルの上に落とした。
「チェスですか」
テーブルにはチェスボードが広げられ、盤上の進行は既に大勢は決しているような状況だった。
「と言うか、また派手に負けてますねラシャラ皇女」
「……言うでない」
盤上は割りと酷い有様だった。白、ラシャラの側は既に寄り添うキングとナイトを残すのみ。対してフローラの黒の駒はポーンが一駒落ちただけだった。
正直な所、どうやってこの状況に持っていったのか想像がつかない所がある。黒の側が途中から派手に遊びだしたんでもなければ、なし得ない状況にアマギリには見えた。
盤上を見下ろし趣味が悪いなぁと考えていたアマギリに、フローラが話を振った。
「ラシャラちゃんも頑張ったけど、まだまだよねぇ~。戦略に深みが足りないわ。―――そう言えば、貴方はチェスが強いんだったかしら」
「……何処の情報ですかそれ」
くるりと首を動かして問うて来るフローラに、アマギリは眉根を寄せた。
「妾じゃ。尤も叔母上の独自に知っておったようじゃが。―――それでお主、ダグマイアに勝ったそうではないか。あの者はあれで、社交界では有名な指し手じゃからの。それに勝てるのだから従兄殿も見事なもの―――と言うか、おぬしの普段の言動から見れば当然か」
ダグマイアとアマギリがチェスを指したのは終業式の少し前の一度きりである。
しかも、あの時は食堂の個室を人払いもして貸しきっていたから、勝負の結末を見ていた人間も居なかったし、そも、あの内容をダグマイアが人に語るとは思えない。アマギリだって、控えの間で待機していたユキネにも内容を伝えていない。
こういう、誰にも知られない筈の情報を何故か知っていたりする辺りがこの女性たちの油断なら無いところだなとアマギリは思った。
尤も、よく考えればあの場を貸しきるようにフローラの用意した人材を活用していたので、それが広まっているのも当然だとも言える。二学期になったら、嫌がらせとばかりに学院中に情報が広まっている可能性もあるだろう。
「……と言うか。あの勝負、僕の負けですけどね」
「あら、あれだけ相手の顔を渋面に出来れば勝ったも同然よ。ちょっと苛め過ぎって感じもするけど」
「それは叔母上が言えた義理ではないと思うが……」
念のため、と言う気分で付け足したアマギリの言葉に、フローラは微笑んで答えた。やはり、大方の流れまで知っているらしい。
そして今正にフローラに苛められている形のラシャラが溜め息混じりに更に重ねた。
情けないような顔で、アマギリにこんな事を尋ねてくる。
「従兄殿、お主―――此処から、勝てるか?」
自軍、二駒のみ。敵軍に完全に包囲された状況。アマギリは苦笑いと共に首を振った。
「無理ですよ。大体僕、ダグマイア・メストにすら勝てませんから。明らかにそれより強そうな女王陛下に、この状況から勝てるわけ無いじゃないですか」
「あら」
「む?」
さり気なく語られたアマギリの言葉に、フローラとラシャラは揃って目を瞬かせた。
眦を寄せる二人の美女―――或いは美少女に、さて、と首を肩を竦めながら、アマギリは室内付きの侍従が用意したコーヒーを受け取り、啜っていた。
「お主まさか……本当に負けよったのか?」
ラシャラが呻くように尋ねたが、アマギリはさて、余裕の笑みで答えようとしない。
答えなければ、真実は誰にも解らないからだ。だが、彼とそれなりに会話をした経験があるのであれば、真実を推察するのは容易いだろう。
アマギリ・ナナダンがダグマイア・メストとのチェスの真剣勝負でわざと―――それも相手に気付かれないほどさり気なく―――負けてみせたと言う話は、事情を知る術を持つ人間達にとっては有名な話である。
アマギリとダグマイア。この二人の対立構造は、その上の人間達の対立構造の縮図として注目される事が多かったからだ。
そしてこのチェスの勝負は、その前後の状況から、両者の格の違いを示す一例として評価された居た。
アマギリ・ナナダン侮りがたし。そう思われる結果となった。
―――いたのだが。
「バレたらきっと、お主の株も右肩下がりじゃろうなぁ……」
「あら、そんな事はないわよぉ」
明確な回答が得られなかったが故に、敗北が真実だと確信して呆れるばかりのラシャラだったが、フローラはそれに違う意見があるようだった。
どういうことじゃと問うラシャラに、フローラは朗らかに笑って答えた。
「だって、実際にダグマイア・メストは自分が負けたって思ってるじゃない。事実が調べようが無いなら、その人が思い込んだ真実が現実になるのだもの」
ダグマイアどころか、その話を聞いた誰もがアマギリが実質的に勝ったのだと信じている。
そして、事実はアマギリ本人以外に知りようが無いのならば、大多数が判断した仮定こそが真実に摩り替わる。
「そもそもこのヒトが求めていたのはチェスで勝つことじゃなくて、調子に乗っている子供に、自分の立場を思い知らせる事だもの。その目的を果たしているんだから、あの場は実際、このヒトの勝ちよ」
「……詐欺の手口じゃのう。いや、らしいとも言えるが」
手八丁より口八丁。いかにもこの男ならやりかねないなとラシャラは呻いた。
そして、その事実を誇らしげに語るフローラも何なんだろうなぁと疲れたように思った。
アマギリをチラリと見る。何も気にしていないような顔をして、微妙に頬が赤かった。一丁前に照れているのかと突っ込んでみたかったが、どう考えても薮蛇になりそうだからとラシャラは思い直した。
「遊びなら、それで済むが―――本気だったら、予想がつかないしの」
誰にも聞こえないように、ラシャラは二人と視線を合わせずにそっと呟いた。
最近、マリアがこの二人が一緒の時は傍に寄らないのもそれが原因かもしれないと、ラシャラは何とはなしに思う。
第三者である自分は平気だが、一応は身内のマリアには、居心地が悪い空気に違いない。
「ところでラシャラちゃん。―――そろそろ、次の一手は決まったのかしら?」
「む、おお―――すまぬな、いま少し待たれよ」
ラシャラの曖昧な表情の変化を目ざとく察したのか、フローラが心持ち低い声で問うてきた。
本当に、本気だった場合予測がつかんなと思いつつ、ラシャラは盤面に視線を戻す。
―――率直に言って、勝ち目は無かった。それなのに未だチェックが掛かっていないと言う神が定めたような絶妙のバランスの盤面なのが、自身と相手の力量差を示していた。
しかし勝てないとは言え、この状況からあっさりと投了してしまうのも面白みに欠けるだろう。
さて、どうしたものか―――ラシャラは考えて、あっさりと解法を見つけた。
「のう、従兄殿よ」
ニヤリと笑って、一人優雅にコーヒーを啜っていたアマギリに視線を向ける。
「何です? 従妹殿」
アマギリは、ラシャラの問いに目元を楽しそうに震わせて、答えた。面白い話だったら乗っても言いと、その目はそう語っていた。
ラシャラは満足げに頷きながら言った。
「ダグマイアを一敗地塗れさせたお主なら、この盤面からどう勝利を収めるか―――”お主のやり方”を、見せてもらえぬか?」
「あら、楽しそうね」
ラシャラの言葉に、フローラも賛同の意を示している。
「僕のやり方、ねぇ」
アマギリは、その言葉を反芻して、盤面を眺めて高速で頭を働かせているようだった。
そして、何か判断がついたのか、一つ頷いて言った。
「良いでしょう。僕のやり方―――ですよね」
「その通りじゃ。お主の―――」
「―――そう、貴方のやり方。ここからどうやって勝つのか、私にも見せて」
ラシャラの言葉を引き継ぎ―――遮り言うフローラに、アマギリは卓上の駒に手を伸ばしながら、苦笑して頷いた。
何だかんだで、女性の頼みに逆らえないのがアマギリだった。
「ご期待に沿えるかどうか、解りませんがね―――」
※ ダグマイア様乙。みたいな話。