・Sceane16―1・
「藪を突付けば蛇が出る程度の覚悟は決めていましたが……いや、しかし」
『フン、もとより龍の巣に首を突っ込んだのだ。この程度の神話の顕現など予測の範疇だろう』
窓から差し込む夕日のみを光源とした暗い室内で、ユライト・メストは椅子に腰掛け亜法通信端末と向かい合っていた。
机の上に置かれた、双方向立体映像をやり取りする事が可能な掌大のその装置には、厳しい顔をした壮年の男の姿が映し出されていた。
覇気の満ちた野性的な笑み。名をババルン・メストと言う。超大国シュトレイユの宰相を勤めている男であった。
ババルンは自らが率先した”余興”の顛末をユライトから聞きながら、さも可笑しそうに哂っていた。
『何、根本的な解釈の相違すら疑われていた石碑の一文すら実在する事が判明したのだ。……ガイアの存在に確信をもてたと思えば、良い』
予想外の事態にも轟然と笑みを浮かべてみせる兄ババルンに、ユライトは悟られぬように息を一つ吐いた。
この兄にとって、只一つの目的以外は世界全てが余興に過ぎないと言う事を、ユライトは今また実感していた。
―――それ自体は、ユライト自身もさして変わらないのだが。
困ったように眉根を寄せて視線を逸らす弟の内心を知ってか知らずか、ババルンは一方的に自身の言葉だけをつなげていく。
『あの”女神の翼”が開いた瞬間に人形の意識にも活性化が見られた。大事の前の戯れに過ぎぬつもりだったが、それなりに有益だったと言うべきだろう』
「ですが、能力を別として、彼個人をこのまま放置しておくのは正直躊躇われます」
『―――ほう。ユライト。キサマが特定個人を”消せ”等と口にするとはな』
それまでの報告よりもいっそ、弟の言葉にババルンは笑みを深めた。共に計画を進める外道の一味でありながら、ユライトは後ろ暗いやり方をあまり好む心根ではなかったから、個人の存在自体に否定的であるという意見は、珍しかった。
「彼は―――いえ、だからこそ龍と言うのでしょうか。気紛れで人の手には負えない」
『感心するべきだろう。ああも割り切って自らの手を汚せるなど、生半の事ではない。一歩踏み外せば政治的にも絶体絶命の状況だっただろうに、絶妙なタイミングで踏み込んで見せる。―――なるほど、伊達や酔狂であの女王の息子を名乗っていないと言う事だ』
自身の仕掛けを利用され逆に利を奪われてしまったと言うのに、ババルンの顔に苦渋の一欠けらも浮かぶ事は無かった。
失われた命、秘密裏にかき集めた装備の補充も一苦労だろうに、そういった事に対する陰りは一切無い。
所詮は余興に過ぎず、大勢に影響は無いという事だろうか。
『―――こうも衆目を集めてしまえば、最早戯れ気分で巣に手を差し込む事も出来んよ。国の内外問わず、またぞろ分別を弁えぬ愚か者どもが騒ぎよってからに』
―――龍は実在した。
居るとされ、しかし今まで確固とした情報が欠けていたハヴォニワの”龍”。
各国各勢力が躍起になって情報を得ようとしていたそれが、その水面下でのもがき具合を嘲笑うかのように、自ら姿を現したのだ。隠しようも無い映像データとして、全世界に伝えられたと言える。
それ故に各勢力は、今までに無い全く異質なそれに対応する方策を決めるべく、浮き足立ったように騒ぎ出している。
その力、どれ程のものか。
引き入れる場合は? 対峙する場合は? そも、他に同様のものは存在するのか?
深く、静かに自らの計画を進めたかったババルンにとって見れば、自らの周りで―――それを利用して自らを引き入れようとしながら―――慌しく活動を始めている愚か者達の態度は、うざったい事この上ないのだろう。
『下らん話だ。あの程度の映像データであれば、ハヴォニワの鬼姫が意図的に流出した情報から幾らでも得る事が出来ただろうに、今頃騒いでいる連中はそのていどの情報を集める力も無い馬鹿どもばかりだ。だが、所詮この世は馬鹿ばかりが世に憚っている。―――私はしばらく、馬鹿どもを躾けなおす事から始めねばいかん』
「―――では、女神の翼当人にまで干渉している余裕は無いと?」
眉を顰めて問うユライトに、ババルンは鷹揚に頷いた。
『自らを挟んで誰も彼もがにらみ合いで身動きが取れん。迂闊に手を出せば、先のように返り討ち。―――この状況を狙って作ったと言うのであれば、流石はフローラの息子、天晴れよとしか言えぬ』
「……本人曰く、血の繋がりは無いらしいですよ」
『出自や血のつながりなど、個人の才覚を決める要素の一滴にすらなりはしない。その者がその場に居られるのは、偏にその者が自らの才覚を示したが故の必然。それを解らぬ愚か者が我が身内に居るなどと羞恥と屈辱の極みと言った所か』
自らを揶揄しながらも、ババルンの口調は楽しげであった。
言葉の意味が理解できていたユライトも苦笑いを浮かべた。
「彼は彼で、頑張っていますよ」
『方向性の見えぬ努力に何の価値がある。あの粗忽者が、与えてきた何物かを使いこなして見せた事が、今までに一度でもあったか? ―――精々これ以上迂闊な行動をするなと言い聞かせておけ。私は情勢の変化が訪れるまでは本国での工作に専念する』
取り成すようなユライトの言葉を切って捨てて、ババルンの姿は通信端末から掻き消えた。
薄暗い部屋にユライトだけが取り残され、静寂が満ちる。
「情勢の変化……ですか。起こると言うより、起こすという事なのでしょうね、きっと」
『シュトレイユで政変でも?』
ユライト以外居ない筈の部屋の奥から、くぐもった機械のような女の声が伝わってきた。
背後から響いたそれに驚く事も無く、ユライトは肩を竦めた。
「さて、私には何も解りません。天然の災害か不慮の事故か、何か不幸が起こるのかもしれませんが、それは私の感知できる範囲ではなさそうです」
もとより計画は兄ババルンが個人で強力に推進しているのであって、協力者であるユライトであっても兄の動静を推し量る事は難しいのだ。
起こった事態に対処するしかないと言う意味では、アマギリと似ているといえるかもしれない。
『現シュトレイユ皇は宰相派とは政治的な対立状態にある。……しかし、心身不健康なシュトレイユ皇の跡継ぎは、幼い姫一人しか居ない』
黙して語らぬユライトに、女の声が剣呑な事実を告げていた。
「既に病弱な王に代わり国政の大半を取り仕切っているのは兄上です。しかし、そうであってもやはり皇と言う存在は大きい。頭一つ抑えられているせいで大胆な行動に移れないのであれば、或いは……」
『それもまた、迂闊な行動と呼べるんじゃないかしら』
「自信があるのでしょう、兄上には。伝説に挑もうというあの人には、瑣末な事と言い切れるのかもしれません」
くたびれた老人のような声で、ユライトは言った。
大きく何かが動き出そうとしている。それはきっと、ユライト自身も望んでいた事だった筈なのだが、時折こうして考えていると、酷く煩わしいものに感じられるのだ。
『それで、女神の翼―――アマギリ・ナナダン。どうするつもり?』
「どうも何も、兄上が手出し無用と言っていたでしょう?」
『それはババルン・メストの意見。私が聞きたいのはユライト・メストの意見よ』
質問に質問で返すユライトに、女は明確な回答を求めた。
『彼は言っていたわ。貴方とババルンは別だと』
「別、ですか?」
『本質を突いていると私は思ったわ。―――本質を穿ちすぎているとも』
言葉の意味を問うユライトに、女の声は淡々と言葉を返す。その態度にこそ、穿つべき言葉の本質が見えた。
「私たちに、今、彼を排除する事は出来ない」
『他ならぬ私たち自身が、そういう状況を生み出してしまった―――』
「状況を利用された、の方が正しいですがね。―――それを別としても、不可能です。私たちは私たちの理由で、彼に手を出す事が出来ない」
ユライト・メストにはユライト・メストの目指すべきものがあるから。
そこへ至る道標を増やす意味でも、女神の翼は外しがたい要素の一つだった。
『だからと言って、アマギリ・ナナダンに頼るのは―――』
「ええ、頼れませんよ、アレは。龍に人の法理は通用しません。アレは自分の思うとおりにしか動かないでしょう」
『こっちの勝手で動かそうとしても、噛み千切られるだけで終わるということ?』
自身も同様の思いだったのだろう女の確認するかのような言葉に、ユライトは頷いた。
「参ったものですよ。現状、彼は外し難いファクターである事は事実。しかしそれと同時にどうしようもないほど邪魔にしかならないファクターでもある。道の真ん中にとぐろを巻かれたような気分です」
あきらかに、この世界において不要であり、邪魔な存在。しかし、大きすぎて動かせない。
それがユライトのアマギリ・ナナダンに対する最終的な評価だった。
『情勢の変化……私たちにこそ必要かもしれないわね』
「ええ、―――現状、要素が少なすぎて取り得る手段が無い状況です。何か一つ、突破口でも見つかれば良いのですが」
結局はしばらく動けないという事実に行き着くしかないのだ。
アマギリ・ナナダンすら掃いて捨てても構わないような新たな要素でも搭乗しない限り、ユライトに取り得る手段は無かったから。
「流石の兄上とて、シュトレイユ国内の意思統一を図るのは骨でしょうから、そうですね……一年や二年は様子見しか無いかもしれません。そのためにも、まずは……」
『まずは?』
やれやれと肘掛に手を駆けて立ち上がるユライトに、女の声が問いかけた。
ユライトは、それこそが一番大変なのだというように苦笑を浮かべて、言った。
「甥っ子を諌める事から、始めないといけないのでしょうね」
※ 次回は反省してくれないフェイズ。
……まぁ、反省してくれるならあんな事は誰もしないよねー。