・Sceane 15-4・
その場所を、彼は独り歩いていた。
何処までも何処までも続く、天上すらも見えぬ、木造板張りの床に無数の円柱の屹立する広い回廊。
彼は独りで其処を歩いていた。
何故か、幼い頃の姿で。
迷子の子供のように独りで―――しかし、彼は孤独とは程遠かった。
息づく生命の息吹が、彼を迎え入れるように、何処かから彼を呼んでいたから。
懐かしい感覚。あの頃はずっと、それこそ、あの場所では当たり前のように、聞こえていた声無き声。
だからこそ彼は、幼い姿には重た過ぎる、幾重にも羽織った着物姿で、回廊を歩んでいたのだ。
導きに従うまま。ただひたすらに、歩く、歩く。
何時から歩き始めていたのか―――そも、此処は何処なのか。
不安はある。顔にも出さず、彼は不安を覚えていた。
知らない事は、何時だって不安だ。知っている事を伝えられないのも、同様に。
彼は何時もそうだった。
だから初めてそれに気づいた時に、それを理解できない事、それに伝えられなかった事。
それがどうしようもなく、幼い時分に耐えられなかったのだ。
回廊はうっすらと霧が掛かっており、遠くその果てを見ようにも、白く靄が掛かって見えはしない。
それでも歩みを止めないのは、歩んでいる事、この場所にいる事、その理由が解らなかったからかも知れない。
そもそも、彼は―――自身の名前すら、解らないのだ。
自らを構成する重要な要素の一つすら、今の彼にはかけていた。
いやいや、何を言うの。貴方の名前はアマギリ・ナナダンでしょう?
回廊にそんな声が反響した。楽しそうな女の声だった。生真面目な少女のようにも、少し年上の、優しい女性のようにも聞こえる。
それは懐かしい、聞きなれた声ばかりだったけれど。でも―――違うと、そんな名前ではないと、彼は首を振っていた。
何故なら彼は、これでも、自分の名前は気に入っているのだ。―――でもそれも今は、思い出す事が出来ない。
恐らくは、対精神汚染用に施された催眠暗示による心理障壁の副作用だろう。
まさに精神が揺らいだ状態である、今この場所に居るからこそ理解できる真実の一端は、しかしそれが事実であるが故に”知っている知識を理解出来ない”状態である彼には何の状況改善の手助けにもならなかった。
―――訳もなく、彼はため息を吐いた。
つまりこれは夢で、起きたらもう、忘れてしまう事実。過去の情景か何かなのだろう。
その証拠に、ホラ。
霧が深まり、場面が変わる。
広い空間。一段高い位置で、悠然と腰掛ける女の姿が其処に在る。
其れは誰かの嫁であり、母であり、女王である筈なのに、何処まで行っても女そのものだった。
そういう、女だ。
薄く微笑み、扇子で口元を隠し、女は跪く彼に言葉をかけているようだ。
―――そんな記憶は、彼には無かった。
この女の前で跪くなど、むしろ視線をはずせばそれが死の確定とも言えるだろうに、自身の知らぬ自殺願望でも所持していたのだろうか。
いやそもそも、あの場所、あの頃の自分に、この女の前に一人で立つ度胸なんて有りはしなかった筈。
誰も彼もが自身の立場を羨んでいて―――父も母も、兄、姉達ですら―――しかし彼一人だけが、初め対面した時から、この女に恐怖を覚えていた。
震えて、逃げ出そうとして、慣れぬ礼服に脚を引っ掛け無様に倒れ。
泣き喚きながら、底の知れない女から一歩でも離れたかった。
それ故に、そう。女は何故か彼の事を気に入ったらしいのだが―――。
当時を思い返し忸怩たる気持ちを抱く彼を放って、女のカタチをした過去が言葉を続ける。
そういえば、坊やは哲学士になりたいんだってねぇ?
楽しそうに、女は哂っている。
世界と言う世界、宇宙と言う宇宙、銀河と言う銀河全てを意のままに動かす女にとって、幼い子供の戯言など笑いものにするしかないという事か。
今の彼ならきっと、それに殺意くらい覚えられただろうが、この頃にこんな事を言われたら―――きっと、その日の晩に自殺でもするだろう。
嘲る様なその言葉に、精神が耐え切れずに。
なるほど。―――樹の全てを解体し尽くしたいと望むお前であれば、あのアカデミーの狂人どもの英知を奪い取ることこそ、その最善の道と思えるだろうよ。
女の語る言葉は、それは彼自身の内に秘めた考えだった筈だ。誰にも言ったことは無い、―――父に告げた、あの時より。
夢は他人に利用されるものだと理解した、あの日より。
特にこの女の前で、自身の夢を語るなどと言う隙をみせたりなんて、出来るはずも無い。
一生を束縛され、血の一滴、魂の一欠けらまで、きっと毟り取られてしまうから。
だけど、そう。彼はどうしてもなりたかったのだ、哲学士に。銀河の英知の頂点に。
その場所から見える、その場所からしか見えない景色が、幼い、無知な頃の彼にはどうしても必要に感じられたのだ。
最早心の原風景に焼き付いてしまっている、父や母と共に在った”それ”の意味、存在の理由が知りたかったから、だからこそ。その知恵を求めてその道を志し、貶められ―――その果てに、あの女の眼前に引きずり出されたと言うのだが。
女は、女のカタチをした曖昧な記憶が、さらに彼に語りかける。
知りたい事が、その先にあるような気がした。
だがね―――<ノイズ:耳障りな響きが彼の耳をかき乱す>―――こうは考えられないか。自らを知らぬ者が他者を真に理解する事など出来ない。
故に私はこう思う。人は他者を知ろうとする前に、まずは自らを知ることから始めるべきでは無いだろうかと。
だが解る、私には解るよ。君はやはり―――の血統らしい性急な心根からは逃れられない。
逸るまま、自らを省みる事すら忘れ―――きっと君も、既に穴に落ちたことにすら、気付かないようになる。
私はそんな風に、君の感性を散らすのは惜しいと思っている。
だから、君には良い物をあげよう。
そう、君の望んだ―――<ノイズ:聞きたい言葉が聞こえない。知っていなければいけないことなのに>―――を。
自らを知る暇が無いほどに他者を追い求めるとするならば、話は簡単だ。
他者と自らを、同一にしてしまえば良い。そうすれば、自らを知るのと平行して他者を知ることが出来る。簡単な話だろう? ―――あの狂人どもの手を煩わせる必要も無い。
そう言って女は、彼に近づき。
彼は恐怖で―――そんな筈は無い。
歓喜と共にそれを、受け入れたのだ。
それに気付いて、その時には。いつの間にか全てが消えていた。木造の大広間も、女の姿も、霧も、何もかも。
彼自身すらも。
その白い世界に残ったものは只一点。
静かに脈打つ、その小さな力強い生命の欠片―――彼は浮上する意識の片隅で、其れを見た。
……種。漸く芽吹き始めた、小さな小さな種。―――年もかかって、ようやく、発芽した其れの姿を。
彼は見た。
自らの、内側で。
見たのに、気付いたのに、嬉しかったのに―――だけど。
浮上する意識は、彼に過去への回帰を許さない。
そして夢は覚め。
規定の事実どおりに、彼は全ての記憶を破却した。
―――目覚めは、未だ遠い。
・
・・
・・・
ぼやけた視界に映ったそれが、自身のベッドを囲う天鵞絨の天蓋であると認識するまでの刹那に、アマギリの意識から夢で見た全てが零れ落ちていた。
それを悲しいとも思えないのが、つまり、アマギリ・ナナダンの現実だった。
現実―――現実?
一夜の夢、過ぎ行く夏の残照のようなこの日々が―――現実?
漠然とした纏まらない思考のまま、天蓋の刺繍を眺め続ける。
ベッド。自室の。昼。開いているカーテン、差し込む光と、淡い風。
それから最後に、人の気配。
「……気は済んだ?」
ポツリと、枕元でアマギリの様子を伺っていた女性は、そんな風に漏らした。
気が、済んだか。覚えている事、思い出せる事をアマギリは思い返す。
戦闘、勝利、爆発に、それから―――それから?
何か、大切なものを見つけたような、そんな胸の中に温かな気配が―――いいや、それは夢に過ぎない。
自身の現実は陰惨で凶悪で、暴力的なものだったはずだ。
罠に嵌め、欺き、叩き潰し、威嚇の咆哮をあげて―――それから、それら全てを映像に残したから、今頃―――今が何時なのか解らないが―――後ろ暗い物を抱えている者たちは、本国との通信で忙しい事だろう。
だが、最後に一つミスを犯した。紛れも無い汚点といえるそれを、アマギリは苦い思いと共に思い出す。
ダグマイア・メスト。あの程度の小物に勝ち鬨を上げさせた事は、羞恥を覚えずに入られない現実だった。
必ず報復は行おう、そう、こんな所で手打ちにするつもりなど、まるで無い。
気が、済んだか?
いやいや、返って―――。
「―――やっと盛り上がってきたって感じかな」
コン、と。手の甲で額を叩かれたのが解った。
眉根を寄せた、怒り顔。だらしない弟を叱る姉のそれだった。
「御免、面倒をかけたねユキネ」
謝って見せたら、もう一度、今度は平手で叩かれた。一度目より本気度が上がっているようにアマギリには思えた。
「面倒とか、そういうのは、関係ない」
「……ご心配をおかけして、スイマセンでした」
ベッドの上で身体を起こしながら、アマギリはユキネに向かってしっかりと頭を下げた。
下げた頭に、ユキネの掌の感触が伝わるのが解った。
「無茶は、駄目。……反省して」
心配する側のみにもなって欲しいと、それは、忠告と言うよりは懇願と言えたから、アマギリも素直に頷く事にした。
本人としては勝算があっての無謀だったのだが、周りの人間全てがそうと受け取ってくれるとは限らないから。
「次からは……まぁ、気をつけます」
自戒を込めてそう宣言したら、ユキネは何故か、突かれた様に肩を落とした。
駄目、まるで気が済んでいないと、音を出さずに呟いている気がしたが、気にしてはいけない。
「……因みに、何日ほど寝てたんですかね、僕」
時間帯が昼と言う時点で、爆死しかけた当日とは思えなかったから、アマギリは日数の経過を当たり前のようにユキネに尋ねる事が出来た。
そういう、人に言われずとも自分で勝手に物事を理解してしまう態度こそが、他者に無用の心配をかけるのだという事実には気付かない。
「……三日。今日は、振り替え休日の最終日」
「三日?」
随分と寝ていたものだとアマギリは目を瞬かせた。
「随分寝ていた―――いや、そもそも何で意識を失ってたんだ、僕は」
冷静に考えれば、爆死一直線の状況であった筈だ。いや、勿論高速で落下するコアからだっていざとなれば飛び出す覚悟もあったことだし、生き延びる事は可能だっただろうし、事実としてそのつもりだった。
―――もし本気でアマギリを爆殺したかったのならば、大火力で一撃で決めるべきだったのだ。
相手に考える隙を与えず、悟られぬように一瞬で。
犯行声明をわざわざ上げる等、愚の骨頂である。そういう満足は、自分の中だけに秘めておけば良い。
それが出来ずに、中途半端に相手に何かをする隙を与えてしまう辺りが、ダグマイア・メストの限界とも言えるだろうが―――恐らくこれに関しては、意味が違う。
ダグマイアは節操の無い、我慢の効かない人間だったから、彼自身が爆薬を仕掛けたのであれば、量を考えずにオーバーキルしてしまうような、それこそアマギリに仕掛けの存在を悟らせてしまうほどの量を仕掛けていただろう。
だが、現実に起こった爆発は違う。
完璧にアマギリを殺せるようで―――ギリギリのラインで、アマギリを”殺さずに済む”ような、神業的な配分。
と、するならばこれを行ったのはダグマイアでもなく、ましてやユライトでは有り得ない。
何故なら爆薬を仕掛けたという事実は、アマギリがユライトを出し抜かなかった場合において、彼の今後に致命的な悪影響を及ぼすからだ。
常に自身を安全圏に置いておきたいと言う部分が見えるユライトのやり方では無い。
直接的な排除行動はダグマイアの仕切り―――そして実行犯は、何処の忠犬か。
全く持って見事なものである。ダグマイアのペットにしておくには、実に惜しい人材だとアマギリは思った。
しかし、それとは別問題で、アマギリは有り得ない事実に気が付いた。
―――無傷。
「無傷、だと?」
ガバリと体を跳ね上げて、寝巻きの前を開き自身の体を覗き込む。―――やはり、目に見えて傷の一つも見当たらない。
三日の間に直った?
いや、予想出来た怪我の度合いからすれば、聖衛師の回復亜法を持ってしても全開は難しかろう大怪我を追っていたはずだ。
それが、傷一つ無いとは、一体。
そもそも、それ以前に―――どうやって、助かった?
後頭部を撫でる。痛みなど無い。包帯の一つも巻いていないし、頭を打って記憶が曖昧と言う訳でも、無いらしい。
「誰かに助けられたか? 確かに、ダグマイアの暴走だったから気を利かせた忠犬か、後はユライト・メストが手を回して―――っと、うわ」
口元を押さえて自身の考えに篭りそうになるアマギリの肩を、ユキネがそっと押した。
そのまま、ベッドに押さえつけられる。
「……起き抜けに疲れる事を考えるのは駄目。お医者様を呼んでくるから、少し休むべき」
正面から両肩を押さえつけて、じっと至近距離で顔を向かい合わせて、ユキネは真摯にそう言った。
視線が絡む。
終ぞ無い、真摯に自身を、自身だけを心配してくれる瞳。
「―――すいませんホント、心配かけて」
それに溺れてしまいそうな曖昧な歓喜を味わいながら、ふぅ、と細く息を吐いて言たあとで、アマギリは答えた。
その時になって漸く、アマギリは何故だかとても酷く疲れている自分に気付いた。
三日間寝込んでいたから―――そういう物とは別の疲れだ。
全身から生きるために必要な力を、残らず使い切ってしまったような、そんな、有り得ない虚脱感。
止められる前に起き上がろうとしても、床に倒れ付していただろう。
そう気付いてしまえば、もうベッドから半身を起こす力すら見つからなかった。
「ごめんね、ほんとに―――」
常ならぬか細い声。これが自分の声かと、アマギリは出来る事なら大声で笑いたかったが―――そんな体力も見つからない。
ユキネはそっと微笑んで、ゆっくり休んでと言い残して彼の寝室を後にした。
一人残されアマギリは、天鵞絨の天蓋を見上げて呟く。
「助かった―――助かった、か。ハハ、そもそも僕は、死ぬなんて考えてなかったじゃないか」
そうとも、たかが大爆発の中心に居た程度で、死んでやれるほど軟な生き方はしていない。
今回の一件、その最後は、足元にたまたま爆竹が転がっていて、踏んづけたら甲高い音が鳴ったような、その程度のサプライズとして受け取っていたという事実を、アマギリは今更思い出していた。
生き残って当然と、そう考えて―――そして、現実として理由はどうあれ、自分はそう考えたとおりに生き残っている。
なら、この場所でこうしてのんびりと時を過しているのは必然の事実として受け入れるべきだ。
きっとこの後、外へと出ればいくらかの面倒が待っているのだろうが、それはいま少し先の話。
今はそう、心配をかけてしまった人のために、まずはゆっくりと身体を休めるとしようと、アマギリは瞼を落とした。
―――目覚めは、未だ遠い。
・Sceane 15:End・
※ 何か締めの展開に入ってるっぽいけど原作開始まで劇中時間でまだ一年半くらいある件。
そこから事が起こるまで更に半年くらい掛かるから、……まぁ、もうちょっとだけ続くんじゃ的なアレで。
次回は反省会フェイズ。