・Sceane 15-1・
走る。
走る走る走る。只ひたすらに走る。
薄暗い原生林の中を、最早崖と言った方が正しく思えてくるような傾斜の上を、滑り落ちるように駆け抜ける。
背後を振り向くようなヘマはしない。足元を一々確認するような徒労はもたない。
只眼前、視界に入る木々の枝葉を一瞬の判断で掻き分けながら、ひたすら、走り続ける。
何処へ?
それは解らない。
だから正確に言えば、これは走っているのではなく走ら”されている”のだが、その事実は現状を何一つ改善しない。
樹齢数百年は堅いであろう大木の枝から枝を飛び移り、時たま唐突に差し込む木漏れ日に目を細めながら、それでもアマギリは足を止める事はなかった。
恐怖からではない。恐怖など一遍たりとも感じては居ない。
そもそもここまで速度を出す事を、誰にも要求されては居ない。だが、アマギリはほぼ全力に近い速度で森の中を駆けていた。
ヒュン、と言う空気を切り裂く音。
それが、背後から自身を追い上げてきている事に、アマギリは気付いた。
身体を傾ける。幹に手を掛け、遠心運動を利用して方向転換。最早どの方角へ向かって進んでいるかも定かではないが。
はじめ、足場にしようとしていた枝を放棄して、隣に生えていた幹に水平に着地する。重力が地面に身体を押し付けようとする前に、全身のバネを使ってさらに次の幹へと飛び移る。
通り過ぎる視界の端に、鋭い小刀のような物が足場にする筈だった枝に突き刺さっているのが見えた。
それに構う事無く、さらに水平方向に身体を立てたままで駆け続けようとしていたが、その動きは次に飛び移ろうとした大樹の幹に小刀が突きたてられた事で封じられた。
上、下、左、右。
瞬時に視界を滑らせ―――そして、取り得る行動の全てが、付きたてられた刃によって封ぜられている事をアマギリは理解した。
当たり前だが、人類は重力を無視して空の一点に留まっている事など不可能で、動きを止めてしまえば幹から足が離れて、アマギリは地面に落下するしかなかった。
その事に、怯えは無い。
止まれ、と言われているのだから、アマギリはその場に止まるだけだった。
幹に片足を滑らせながら、速度を調節して背の高い雑草の生い茂る地面へと落着する。
その最中、空を見上げる。幾つもの巨木の枝葉が複雑に重なり合って、空の青はカケラも見えはしない。
周囲を落ち着いて見回してみても、急な傾斜の真っ只中であり、何か記しとなるモニュメントも無い。
ただ、あのまま方向転換せずに更に直進していれば、さらに急な角度を落下する事になる事だけは解った。
時間的にはまだ昼過ぎ程度のはずなのに、その向こうは暗く鬱蒼とした気配が漂っていた。
「ゴール……って訳じゃないみたいだけ、どっと」
幹を伝って盛り上がった根元に降り立ったアマギリは、動かし詰めだった足腰を休めるようにその場で屈伸運動を行いながら、辺りを見渡す。
何も無いし、誰も居ない。アマギリと―――もう、一人以外。
その人物は、アマギリが駆け抜けていた後方に、突然飛んできた小刀の突き刺さった枝の上に、静かに佇んでいた。
日の差さぬ暗い森の木陰よりも尚、黒い装束。
表情は読めない。当然だろう、白い仮面のついた修道女を思わせるフードによって、頭はすっぽりと覆われていたから。
身体のラインから言って、恐らくは女性。とは言え、アンドロイドやアストラル体を遠隔操作している可能性も全く否定できないため、実際のところは解らない。
―――それに、はっきりと言えば。あまり、解りたくないのだ。
そういう身も蓋も無い本音もアマギリの中にはあったが、現実として何も解らないままでは上手く状況に流される事しかできないと解っていれば、こういう無茶をとりもしてしまう。
大樹の幹に背を預け、ずるりと滑るようにその場に座り込み、仮面の女と正対する。
生命の暖かさを感じる背中の感触に、そういえば背嚢は速攻で処分してしまったなとアマギリは思い出していた。中に何が入っていたかもまともに確認していない。
ダグマイア・メストの仕切りで用意された物だから、それ相応のものが入っていた事だろうが、それも何処か遠くに置き去りだ。
「思えば、遠くへ来たものだ……ってのは、何か違うか」
ぼうっと、アマギリの口からそんな言葉が洩れた。朝から一連の流れを思い出せば、あながち間違いでも無いかと、どうでもいい思考が頭を掠めて、苦笑を浮かべる。
しかし、佇む仮面の女に、態度の変化は見えなかった。
「……今日は、首元が寂しいのですね」
「山の中じゃあ、ホラ。何かに引っかかって邪魔になるかもしれませんからね」
「なるほど、準備万端と言うわけですか」
「それほどしっかり考えている訳ではないですが、精々、行き当たりばったりですよ」
探るようなユライトの言葉を、アマギリは肩を竦めて切り返す。むしろ、アマギリの言葉こそ相手の声音を伺うそれだった事に、周りに居た生徒達の誰も気付いてはいなかった。
只の雑談、それ以上のものには、見えるはずもなく。その場はそれで、終わった。
だからそれは、スタートを控えたアマギリに、スタートの監督役を務めているユライトが激励の言葉を掛けているようにしか見えなかった。
二泊三日の行程で、聖地学園の麓の原生林を使用して行われる山間行軍訓練。その当日。
大歓声の中森の中腹の開けた場所から参加者一人づつ順番にスタートして行き、アマギリは生徒会執行部役員として早い順番で出発する事になった。
ちなみに、前走者は森が生活圏のダークエルフ、アウラ。アマギリの後に出発するのは、生徒会役員の中では運動が苦手そうな女子だった。
前へは追いつけず、後ろからは追いつかれない。どうしようもないほど謀ったように、進行ルートで孤立しそうな順番である。
とは言え、半日ばかり補整されていない山中の畦道を進めばタイム測定を行うチェックポイントで合流する訳だから、遭難を恐れる必要は無い。何しろ、背嚢に入っている備品の中には、地図代わりの亜法器端末も入っているし、それを用いて上空を飛翔している筈の巡視飛空艇と連絡をつければ、道に迷う事も無い。
と言うか、迷うほど険しい道ではない。道なりに傾斜を上っていけば良いだけである。各国の王侯貴族が通うと言う性質上あまり危険すぎる事はできないし、ゼロからルートを作り直した最難関コースでこれなのだから、その現実は推して知るべしと言ったところである。
費用ばかりかさむようになって、結局訓練としての名目が果たせているかと言えば、首を傾げざるを得ない。
尤も、それを気に掛けるような生徒はこの聖地学院には存在しないが。
生徒達は―――教員達すらも、この怠惰なモラトリアムの中でたまの刺激を求めていただけで、それが果たされると言うのであれば挙ってそれに参加する。積極的に、状況を楽しもうとする。
だから、アマギリは大歓声に背を押され、山道へと踏み出すことになった。
それを見送るように傍に居たユライトが、アマギリにだけ聞こえるように声を掛けてきた。
「頑張ってくださいよ、貴方には大勢の人が期待しているのですから」
「期待、ですか。―――期待、ね。まぁ、注目されてるうちが華とも言いますし、精々頑張らせてもらいますよ」
穏やかな顔で激励らしき言葉を言うユライトに、アマギリは微妙な言い回しで持って答える。
そこから、その日に起こる全てを予測できる人間は、きっとその場には居なかっただろう。
アマギリでさえも。ユライトでさえも。少し離れた位置で、彼ら二人に厳しい視線を向けていた、ダグマイアでさえも。
そしてアマギリは、観客の生徒達で溢れるスタート地点から森の中へ姿を消し―――。
半日後に、消息不明として中継地点に戦慄を走らせる事となった。
「―――待っても、来ないですよ」
何時まで経っても言葉一つ掛けてこない仮面の女に、今頃自身の不在が判明した頃だろうかと思いながら、アマギリは言葉を掛ける。
開始して、空からも木々に隠れて見えなくなったその瞬間、アマギリはおもむろに荷物を投げ出して道の無い森の中に飛び込んだ。方向も決めずに、只適当に進める方向に、進み続けた。
その結果が、現在の状況であった。いつの間にか背後に現れた気配が自身の行く道をコントロールし、そして此処までたどり着いて、にらみ合っていた。
『……来ない?』
くぐもった、合成音のような女の声だった。無表情の仮面の向こうから、それが洩れている。
つかみ所の無い声に舌打しそうになりながらも、アマギリは時間を無駄にするのも勿体無いと頷いて話を進めることにした。
「ええ、荷物も、襟に張り付いてた結界式も捨ててきましたから。もうしばらくは、誰も此処には着ませんよ」
そう、アマギリは手荷物べき端末も背嚢に押し込み、ついでに全身くまなく探して、上着の襟から見つけた探知用の亜法結界式も外して捨ててきたのだ。
故に、現在の彼の居場所を探知する事は、ほぼ不可能である。足跡を辿って地道にやるしかないだろう。
『いきなり自分から駆け出したのは、そのためね。―――此処でこうして、私だけとの会話の時間を作るために』
「ええ。ダグマイア・メストの忠犬は恐らく会話が通じないでしょうから、性急に事を進められてしまいそうですし。―――付き合ってやっているのは僕なんですから、必要な情報を聞く権利くらいはあるでしょう?」
隙の無い笑顔で言い放つアマギリに、仮面の女は顎を少し引いて伺うようにアマギリを睨んだ―――睨んでいるように、見えた。
そのまま、少しの間また、にらみ合いの時間が過ぎた。
『聞いていた通り頭の回転が、早い。それに、森の中を自在に駆け抜ける運動神経も悪くなかったわ。―――それにしても』
仮面の女、ネイザイ・ワンというその女は、そんな風にアマギリを評した。
実際に、ダグマイアの手の者が、本来ならアマギリを誘導する筈だった。
だと言うのに彼は先手を打って、自分から道を外れ駆け出し始めた。それ故に、自分が出張らなければならなくなった。
主導権を譲るつもりは無いのだと、そんな風に体を張ってみせる少年。
何のためらいもなく自分自身を賭け札として投じて見せて、それでいてそれは、選択肢として非常に正しい。
必要とされているのはあくまでそのスキルのみであり、アマギリ・ナナダン個人ではないのだと、彼自身理解している筈なのに、それを理解したうえでの、堂々とした態度。
自分の価値を良く理解している人間だけが持てる、それは王器のようなものだ。
『……それにしても本当に、その、いかにして相手をやり込めようかとばかり考えるのは、フローラ女王とそっくりなのね』
「此処へ来てこのタイミングで、アンタみたいな人までソレを言うのか」
しみじみと語られるその言葉に、アマギリは至極嫌そうな顔を浮かべた。
※ 12話の予告を見るに、やっぱ最終話のラスト15分くらいからが本番になりそうですね、天地らしく。
謎ばっか増えてくよホント。それっぽい伏線はあるんだけどもさ。
……そしてダグマイア様。台詞の大部分が悲鳴だけってどういうコトッスか……あ、何時もどおり?