・Scene 52-4・
届く。
もう直ぐ届く。
ほら、見てごらん。もう。
もうその刃は、皮にめり込んで、赤い雫が―――。
「お兄様、駄目っ!!」
妹の悲鳴よりも、まず、首筋に感じた湿った感触に総毛だった。
我に還る。自らの行動を省みて―――そして、戦慄し、蹈鞴を踏んだ。
固まったまま動かない何かを握り締めた右腕を、その中身にあるものを認識して、全身から冷たい汗が噴出す。
剣を、握っていた。赤い雫がうっすらと滴る、剣を。
「何を考えておるのじゃお主! いきなり”自分の首を”掻っ切ろうとするなど!?」
ラシャラの怒声が、背中越しに響く。
その言葉の意味をかみ締めて、ごくりと一つ、喉を鳴らす。
開いている左手で、そっと自身の首を撫ぜた。
ぬるりとした、生理的な嫌悪を呼び起こすような、おぞましい感触。
撫ぜる仕草をやめて、手のひらを、顔の高さに運ぶ。指が朱色に染まっていた。
―――首筋から、血が滲んでいたのだ。
何故か。考えるまでも無い。右手に下げ持つ借り物の剣に視線を落とす。
滴る血が剣先に到達し、ゆっくりと、血に雫を垂らした。
「―――天罰」
震える声で、凛音は呟いた。
”次は無い”。
どうでもいい事のように、会話の片隅に混ぜられていたその言葉の意味を、今こそ正しく理解した。
予想通り怒らせると怖い存在で―――そして、予想以上に、矢張り恐ろしい存在だったらしい。
「事象の改変、か。”僕”にすら認識させないほど、完璧な―――」
しかも、きっと片手間に。ちょっとした悪戯気分で。
その事実に気付かされてしまえば、最早恐ろしいと思うよりも、唖然としてしまう感情のほうが強くなる。
自分では、どう足掻いても勝てない存在。
その実力のほんの一端を、見たくもないし知りたくも無かったけど、体験してしまった。
「無茶をするとは聞いていたが……その無茶は、流石に想定外だぞ?」
「っていうか、ちょっと、だいじょぶなのアマギリ! け、剣に、血、血が!」
アウラが安堵の息を漏らし、リチアは凛音の手の中に在るものを見ながら、取り乱す。
「……変な感じ。何時もの凛君の筋肉の使い方と、違う感じがした」
ユキネは、何処か不可解な物を感じて、考え込んだ。
「―――もう、私あの剣使えないわ……」
その横でキャイアが、自分の剣が切ろうとしたものが何だったのかを理解してしまい、呻いた。
息を一つ吐いて、高いところを見上げる。
目の前にある岩壁に息が詰まりそうだったのと―――それから、背後を振り返るのがどうしようもなく恐ろしかったから。
しかしどれほど首を傾けようとも、視界の端から屹立する巌の姿は消える筈が無く、返ってそれが、全知たる神の存在を実感していた。
今頃、何処かで。
嘲笑っているのだろう。凛音の事を。高みから。
「ま、居させてくれる事を認めてくれただけでも、御の字ですよ」
誰にとも無く口にして、肩を竦める。首を振り払って、何時もの気分へと切り替えた。
凄まじいという他無い経験をした事は事実だが、二度は無いと言う事もまた事実で、つまりは、囚われすぎていても何の意味も無いことに気付いていたからだ。
やるべき事。―――そうやるべき事は別に在る。
何となくの動作で抜き身の剣を地面に付きたてた後で、ようやっと、下を向いた。
地面。
そこに横たわる、柾木剣士のほうを。
「ん……」
まるで計ったようなタイミングで、剣士の閉じられた瞼がぶれて、口から小さくうめき声が漏れた。
「剣士!?」
耳聡くそれを聞き届けたらしいキャイアが、結界の向こうから驚きの声を上げる。
「んっ……―――んん?」
その音を煩わしいと感じたのかは、きっと本人以外にはわからないだろうが、眉根を寄せる剣士の顔は、明らかに意識を現実へと浮上させようとしているのだと、理解できた。
丘陵地帯に、緩やかな風が靡いて。
「―――空、晴れてる? さっきまで雨が降っていたのに……」
柾木剣士は、ジェミナーへと帰還した。
「そりゃ、夢だよ」
一足先に帰還を果たしていた凛音が、微苦笑交じりに声を掛ける。
剣士は、茫洋とした視線を空に向けたままで、凛音の言葉に応えた。
「夢ですか……。姉ちゃんたちにスゲェ怒られて、それから砂沙美姉ぇが、爺ちゃんのとこにお客様が来たからって席を外して、それから……」
「うん、夢だよそれは。間違いない、夢だ。と言うか、僕のために夢だと思うことにしてくれないかな」
何となく嫌な予感が先行したので、凛音は早口でそうまくし立てた。振り返るまいと誓った瞬間に追いかけてきたとあれば、その反応も仕方ないだろう。
「―――……? アマギリ、様?」
頭上近くから重ねられた言葉に、漸く剣士は、傍に立っていた凛音の存在に気が付いたらしい。
起き抜けの目を丸くして、凛音の顔を見ている。
「や。―――お早う」
後ろ手に手のひらを示して、物言いたいであろう少女たちの発言を止めながら、凛音は剣士に笑いかける。
「お早う……御座います」
「気分はどう?」
「えっと―――」
問われて、剣士はそれでもまだ大地に横たわったままで、何度か瞬きをした後で答えた。
「お酒が、漸く抜けたときみたいな気分です」
「夢から覚めた、みたいな言い回しを死無かったって事は、悪酔いしてた自覚が残ってたってことかな」
「―――どうなんでしょう。でも、ああしているのが正しいって、何だか」
今でこそ解る自身の行動のおかしさに、剣士は戸惑いを覚える。
「まぁ、酔ってる時の行動って、後から考えると、結構恥ずかしい物だったりするしね。―――あんまり引きずる物じゃないよ」
「そんな、簡単に。だって、俺―――」
眼前に手のひらを持ってきて、剣士は呻くように言った。辛そうに。
「俺、この手で」
手は、少し震えていたし、顔は青ざめかけていた。
ババルン・メストの下にあった時の事を、正しく、理解し始めているのだろう。
破壊した”物”。奪った”者”。その何れも。
今の剣士の正常な倫理観で言えば、決してやってはいけない事だったのだ。
「壊して、―――殺して」
「だから、そんなの気にするような事じゃないって」
「そんなのって!」
気軽な口調で返す凛音に、剣士は悲鳴としか聞こえない声で反論する。しかし、凛音はそれでも、剣士の揺れる瞳を前にしても、平然とした物だった。
「殺して、壊した。思わず、意識しないままに? それがどうしたってのさ。たかが城や砦の一つや二つ吹き飛ばした程度で、ゴチャゴチャ泣き言を口にしてるんじゃないよ。―――若い闘士が勢い余って”小惑星の一つや二つ”塵も残さず消滅させるのなんて、日常茶飯事じゃないか」
それに比べれば、どうと言うことも無い瑣末ごとに過ぎないと、凛音はあっけらかんと言い切った。
剣士は、果たして何と応じればいいのか言葉に迷い、押し黙る。
「いやまぁ、僕の領分が荒されていないからこそ言える事ではあるんだけどさ。でも、そうだからこそ、ホントに、あんまり気にする必要も無いことだと思うんだよね。―――今回はキミは失敗した。うん、それは事実。だけど、運良くキミの大切な人たちも、概ね無事のままなんだから、次に気をつければ良いだけじゃない」
肩越しに親指を差し向けて、結界の向こうで見守っていた少女たちを指し示す。
「皆……」
「そ、皆居る。―――ああ、若干名外回りで外しているけど、概ね無事だ。メザイア・フランとユライト・メストも、まぁ、向こうで元気なんじゃない? ―――ああ、ついでにガイアも無事な訳だ」
やれやれと、凛音は肩を竦めた。
「ガイア」
かみ締めるように剣士は繰り返す。その瞳に、意志力が戻ってきている事に、凛音は安心を覚えた。
「やられたら倍返しが樹雷の流儀だろ? そんな所で呆けてる暇無いぞ。―――いろんな意味で」
向こうのお嬢さんたちもそろそろお待ち兼ねだと、茶化しながら。此処から先、完調に戻す役目は、もう自分の役目では無いなと判断して、苦笑混じりに言う。
「そうですね」
漸く剣士は、微苦笑交じりに頷いた。
それに頷き返して、凛音は寝たままの剣士に、片手を差し出す。
「立てる?」
「―――はい!」
ぐっと、差し出された手を握り締めて、剣士は身を起こす。
そして。
転写情報内に規定情報との差異を感知。
必須更新情報と確認完了。
情報更新を自動実行開始。
実行中。実行中。実行中。実行完了。
システムを再起動し、全情報領域に対して自己診断機能の実行を開始。
「―――どわっ!? 何するんですか、アマギリ様!」
起き上がろうとしてバランスの悪い姿勢になった瞬間に、突然支えにしていた手を離されてしまえば、剣士といえども悪態を付くのは当然だろう。
しかし、凛音はたった今振り解いたばかりの、手のひらを見ていた。
「何をしておるのじゃ、凛音殿」
「―――新手の、虐め?」
「日頃自分が苛められる立場だからって、それは無いと思う」
次々に背中に突き刺さる少女たちの言葉も、しかし耳に入らない。
手のひらを、じっと見る。
何も無い。―――でも。
あっさりと怒り顔をなくして、不思議そうな顔で見ている剣士に、視線を送る。
もう一度、自分の手のひらを見る。
「―――アマギリ様?」
剣士の呼びかける声も、やはり、何処か遠い物に聞こえた。
手のひらには何も無い。そこに物理的な影響力を持つ何かは、一つたりとも存在していなかった。
でも。
「アストラル・コードの、接触転写……?」
まさか、とか。そんな馬鹿な、とか。脳を占めるのはそんな益体も無い言葉ばかり。
でも、これが現実だ。
元はと言えば、これを求めて剣士の復活を目指していて、そして、こうしてそれは、無事に手に入った。
”修正パッチ”。
”剣士の手”から”凛音の手”に、今まさに、それは写し取られたのだ。
『そのお礼代わりといっちゃあなんだけど、あの子にはあたしが作ったアンタの機能を安定化させる修正パッチと、瀬戸殿の仕掛けたロックを解除する解除コードを持たせておいたから』
―――”持たせておいた”。
呆然とした思考で、その意味を理解する。
「持たせておいた―――なるほど、”持たせておいた”か。ハハ、そうだな。足の先や頭の上に、物を”持つ”ヤツは何処にも居ない。持つと言うからには、手段は一つ―――ハハ」
暗い笑みが、そばで見ていた剣士には酷く恐ろしい物に見えた。
「あ、アマギリ……様?」
震える声で問いかけるも、しかし凛音は歯噛みしながら、手を思いっきり握り締めて、遥か天空を見上げるのみだ。
そして。
「気付く筈が無いだろうがっ! 蟹ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっ――――――!!!」
絶叫が、青空に響き渡った。
・Scene 52:End・
※ 上手くやれば90話前後で手に入っていたと言うのに、コイツと来たら……