・Scene 52-3・
六畳一間の畳敷き。
中央にちゃぶ台。その周りに座布団が敷かれている。
板張りの壁には、カーテン代わりに窓に障子がはめ込まれており、何とはなしにそれを開いてみれば、庭先だろうか、霧雨に包まれた外の様子が見て取れた。
雨の染み込んだ地面。小さな池と、その中央の小島に在る、一本の巨木が何よりも印象的だ。
新緑の葉が雨露を弾き、大樹は物言わぬまま、佇むのみで―――呆然と立ったまま、窓からそれを見ていた雨契には、それが、自らを歓迎する祝福の言葉を贈ってくれたように感じられた。
そう、同属たる雨契を―――。
「―――え?」
それに気付いて、目を瞬いた。
しかし何度瞬きをして、目を擦った所で、その現実は変わらない。
雨契が窓越しに見やるその先には、確かに大樹が地に根を下ろし、天に枝葉を広げている。
「皇家の、樹……は? しかも、アレ―――うぇ!?」」
いや、そんな馬鹿な。
夢から突然覚めたかのように、動作から緩慢さが消えて、凛音はしきりに辺りを見回す。
ちょっとした書生室のような、古めかしいつくりの木造建築。明かりがついていないため、雨ゆえに日差しも指してこないせいか、室内は薄暗い。
だが、何の変哲も無い部屋である事は確かで―――そう、何の変哲も無いのだ。
「何だ此処。天樹の中の筈も無いし―――あの樹が作った亜空間でも、無いよな。そんな、馬鹿な事が」
自身の健常な認識が異常でかつ冗談であって欲しいと、雨契は願った。
「いやいや、お前さんの認識は何も間違っちゃ居ないさね。此処は間違いなく鄙びた有人惑星の大気圏内で間違いない。因みに惑星の名称は―――”地球”」
声が聞こえた時には、丁度再び窓の向こうの異常事態に目を向けている最中だ。
振り返る速度の速さといったら、後で思い返したら自分でも笑うだろうなと思ってしまうくらいの必死さで、体の動きに目の焦点をあわせる動作がまるで付いてきていなかった。
だから、ブレる視界で一目見て。
「―――何時かの蟹の化け物!!」
「誰が蟹だい!」
頭を畳の敷かれた床に叩きつけられる事になった原因が、ハリセンによる一撃だったと気付いたのは、顔だけ起こしてソックスに包まれた細い足首を視界に納めてからの事だ。
そのまま、細いと言うかやせ気味の足をなぞるように視線を上げ―――られる筈もなく、もう一度顔を伏せて、まずは身体を起こした。
「―――瀬戸殿から聞いていた通り、面白みの足りない子だねぇ」
頭上から、つまらなそうな声が聞こえてくる。
もう一度叩いてやろうと思ったのにと聞こえたのは、幻聴だと思いたかった。
「割と最近は、女性に玩具にされる機会が増えましたが」
頭をなで摩りながら、頭一つ半は下に在るその女性に、雨契は言葉を返す。
「そりゃあ、いい男になってきた証拠さね」
納得の顔で、特徴的な髪型の持ち主は頷いた。赤い髪、後ろで纏めている筈なのに、大きく左右に広がった―――ようするに、蟹の足のような、そんな印象すら覚えるシルエット。
まぁ、座りなさいなと、何処か年寄り染みた口調でちゃぶ台の前に誘うその言葉に、雨契は逆らう気は起きなかった。
「一目見て勝てないって解る人と会うのは、大分久しぶりです」
「そうかい?」
「ええ、樹雷には沢山居たんですけど」
「だろうさね」
座布団に腰を下ろしながら語る凛音に相槌を打ちながら、赤毛の女性は何処か中空を、じっと眺めていた。
その顔には見覚えがあった。
ESP能力者が遠距離念話を行う時に見せるものだ。
今、お茶を持ってこさせるからと、顔を下ろした女性は言うので、雨契は曖昧に頷いた。
「―――それ、飲めるんですか?」
「飲めると思えば、飲める。飲めないと思えば、飲めない。―――まぁ、気分の問題さ」
自分の体を改めて見下ろして尋ねる雨契に、女性は禅問答のような言葉で返した。
改めて確認するまでも無く、雨契の身体は半透明に透き通っていた。
「アストラル体―――」
「そう見えるかい?」
「……いえ。”何だか良く解らない状態”に思えるんですけど」
見た目そのままの幼い顔立ちの中に、老練な賢者の視線を交えてくる女性に、雨契は正確さに欠けた返答をする。
これは何?
解りません。
質問した側が怒り出すようなその言葉に、しかし質問者の女性は、満足そうに頷いた。
中々見所があるじゃないかと、楽しそうに哂う。
「無理やり自分の常識から答えを導こうとしないのは、良いことさ」
「いや、まぁ……今更、この状況で常識云々語られてもしょうがないような」
体の重みを感じないながらも、肩を落としてみれば体重が乗った気分になる。全く以って不思議である。
そも、自分は今、何処で考えて何処で見ているのか。どうやって喋っているのか、謎以外の何者でも無い状況だった。
諦め口調でのたまう雨契に、女性は完全に同意だと頷く。
「そうさね。まさかあたし達も、いきなり脅迫なんてされるとは思わなかったさ」
暗い室内が、更に暗くなったように感じられたのは、気のせいだろうか。
責められているのか、面白がられているのか―――いや、反応を見て、玩具にするつもりなのだろう。
「必要であれば、やる。他人に言わせると、僕はそういう人間らしいですよ」
それ故に、”面白みが足りない”と言う人物評そのままの、落ち着いた態度で応じていた。
元より本気で、憚る気持ちは一片たりとも以って居なかったのだから、仕方ない。
案の定、とでも言うべきか、女性はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「―――ま、思惑がみえみえの演技でも、乗ってあげるのが大人の役目さね―――でも、本気で切っちまうヤツが居るかい」
「ああ、ガーディアンを自立モードにして命令を実行させてましたから。―――でも、本気でやらないと、出てきてくれなかったでしょう?」
辛口な言葉にも、雨契は落ち着いて言葉を返す。
何が、とも言わないし、そもそも、目の前の女性が何者であるかすら、彼は未だに確認して居なかった。
暫しの睨みあい。
「まぁ、良いさね」
その後で、折れたのは女性の方だった。折れてくれた、と表するのが正しかったろうが。
「坊や殿の思惑通り、剣士殿は、今はあたしの末妹が必死こいて修復してるトコ。喧嘩ばっかり得意な妹だけど、まぁ、剣士殿のためなら心配はいらないさ」
「ああ。―――助かります」
女性の言葉に、雨契は深々と頭を下げた。
女性は良いって、と面倒くさそうに手を振った。
「あたしにとっても大事な弟のことなんだから、こうなっちまえば他人事とは言えないさ。―――坊や殿を放置しっぱなしにしていたのは、あたし等にも責任がある事だからね」
「―――今更、消されるのは無しですよ」
「あたしは恋する女子供の味方だよ」
一部、女子じゃないのも居るみたいだけどと、目を細め鋭い眼差しになった雨契に、女性はカラカラと笑って言い切った。
「好きなだけ、居れば良いさ。予定はあくまで予定。―――結果が満足いく物ではなかったからといって、他所から強引な手段で手直しするなんて、如何にも破廉恥だ。あたしは嫌いだよ、そういうやり方」
「僕は割と好きですけど、力押し」
「―――ははっ、実はあたしもさ」
軽く肩を竦めた雨契に、女性もニヤリと笑って同意する。
「でも、今回の力押しは剣士殿を直すまででお終いさ。正常な力を有する剣士殿と、正常な力を発揮できるようになった坊や殿を、二人同時にあそこに放り込んじまうと、正直、あの時の二の舞になるだろうからね」
「……あの時?」
「こっちの話さ」
首を捻ってみるが、女性は深くは聞くなと話を切ってしまったので、雨契は相応の賢明さを発揮してそれ以上の言葉を重ねる事は無かった。
「ま、世の中知らない方がいい事は、沢山ありますもんね……」
「そういうのを無理やりひっくり返してあけっぴろにするのが哲学師の役目なんだけどねぇ……。坊や殿のその潔さは、哲学師には向かないね」
「それ、瀬戸様にも言われましたよ」
「つまり、誰でも思うことさ」
だからと言って、それで諦めないのも自由だけれど。
先達としての目上の態度で語られて、雨契も律儀に目礼を返していた。
「―――お茶をお持ちしました」
と、そんな声とともに、部屋を間仕切る襖が開き、三つ指付いた女性が楚々とした姿勢で廊下に控えていた。
赤に対して、今度は青―――青よりは柔らかな、水色だろうか。
美しい、と思う以前に幻想的な雰囲気を感じてしまうような、そんな女性。
―――尤も、私服にエプロン姿と言う、如何にも現実感と言うか、生活観が有り過ぎる装いだったりもするのだが。
大和撫子と言う言葉が完璧に嵌るような洗練された動作で、女性は六畳間に踏み入り、雨契の前に緑茶の注がれた茶碗を差し出した。
傍に近づいた一瞬に視線が絡み。
「―――めが、み?」
雨契は、気が遠くなりそうなほどの衝撃を受けた。
「口説き文句としちゃ、唐突過ぎる上にイマイチ洗練されてないね」
「もう、からかっちゃだめだよぉ」
ちゃちゃを入れてきた赤毛の女性に、水色の髪の女性は、ふんわりと微苦笑を浮かべる。
それから、先ほどまでよりも幾分現実味を感じさせる笑顔で雨契に振り返り、再び、ゆったりと頭を下げてきた。
「あの子がいつもお世話になっています」
「は?」
言われた意味を理解できずに、後頭部を見つめたまま呆けた声を上げてしまった雨契に、赤毛の女性が茶を啜りながら口を挟んだ。
「その子も、剣士殿の姉ちゃんさ」
「―――ああ」
納得したと雨契は頷く。
本当に柾木剣士の”姉”なる存在であるとすれば、とんでもない人に頭を下げさせている事になるよなと頭の片隅で思いながらも、何とか返す言葉をひねり出す。
「その、むしろちゃんとお世話し切れなかったから、こうやってお縋りせねばならなかったのですが」
自戒染みた口調でそんな風に言うと、女性はゆっくりと頭を上げて、やはり、微笑んでいた。
「元々こちらの勝手で押し付けてしまったようなものですから。気にかけて下さる方が居てくれるだけでも、安心するものです」
「あ―――でも、その。……僕が居たせいでってのも、ありますし」
「そんな事は……」
『そうだな。貴様の存在が全てを狂わせた』
暗かった室内が、壁や、天井、畳と卓袱台だけを残して、無明の闇へと姿を変えた。
下される言葉は、正しく、天上からのもの。
しかし見上げるまでも無い、確かな存在感を感じさせる”何か”が、今まさに、雨契の目の前へと顕現していた。
赤、青と来れば黄色か。
思うほど黄色っぽくも無いなと、圧倒されている割には、自分でも不思議に思うほど、余裕のある事を考えていた。
「―――終わったのかい?」
『ええ。無事に。送り返すタイミングは、姉さんに任せます』
「任せておき」
それはきっと、その存在の興味が、一片たりとも自身に向いていないことに、気付いていたからだろう。
ただの人間にしか見えない存在。
神とも人とも付かない存在。
それから、神そのもの。
「―――人に自慢しても、誰も信じてくれないよな」
「随分余裕あるじゃないか、坊や殿」
もれ聞こえた言葉に、赤毛の女性は感嘆の笑みを浮かべたが、超常的な”気配”にすれば、毛ほども面白くない言葉だったらしい。
『戯れごとばかりを。―――エラー如きが。姉様たちの言が無ければ当の昔に因果の一欠けらも無く滅せられておる事を、よう心得るのだな。”次は無い”、故に』
一瞬だけ、戦慄を覚えざるを得ない圧倒的な圧力を雨契に浴びせた後、それは消えた。
同時に、無明の闇から、世界があるべき姿へと戻る。
少しだけ、無言の間。
女性たちにとっては、恐らく驚くべき事でもない事態だったのだろうから、ようするに、雨契の言葉が待ち望まれている状況だった。
「―――世の中、知らない方が良い事も、ありますよね」
熟考もせずに、当たり前のように吐き出された言葉は、それだった。
「坊や殿には、哲学師は無理さね」
「そうかなぁ、その慎重さは、危険な研究をする人には必要だと思うけど」
深々とため息を吐く赤毛の女性を、水色の髪の女性はやんわりと嗜めるように口を挟む。
わざわざ言葉に”危険な”と入れている辺り、日頃何か色々と思うところがあるのかもしれない。
是非とも聞いてみたい所だが―――。
「じゃあ、そろそろ時間さ」
そういう事だ。
六畳一間の小さな和室。
理解し得ぬが、確かな現実として存在しているらしいこの場所で、理解し得ぬであろう方法を用いての邂逅は、いよいよ終わりとなるらしい。
「最後だし、サービスだ。何か聞きたい事があれば答えるよ?」
赤毛の女性の言葉に、雨契は少し考えて―――それから、一つだけ知るべき事があった事を思い出した。
じゃあ、と前置きして。
「結局なんで僕は、ジェミナーに居るんでしょうか」
その言葉で、ピシリ、と。
擬音でも響きそうなほどに、世界が、固まった。
ダラダラと汗を流しながら視線を逸らす赤毛の女と、困った風に笑いながら、矢張り額に汗を浮かべた青い髪の美女。
空気は余りにも不穏すぎた。
「まぁ、アレだ。そのうちウチの馬鹿娘に、詫びを入れさせに……」
「ウチのお姉ちゃんにも、菓子折りを持ってちゃんとお詫びをしに行くように言い聞かせておきますので。―――ああ、いえ。勿論、私も原因の一つではあるんですが……」
冗談でもなく、本気で両手を床について頭を下げてくる二頂の神の姿は、恐ろしすぎていっそシュールだった。
何なら今から呼び出すけど、と気楽に言ってくれたところで、雨契としては全力でお断りするより無い。
世の中、本当に知らない方がいい事があるのだと、二人が頭を上げるまでの間、必死で自分に言い聞かせ続けた。
「じゃあ、そろそろ時間さ?」
赤毛の女性は、先ほどの区切りの言葉を、何故か今度は疑問系で言い直す。
礼儀正しく、誰もそのことには突っ込まなかった。
青い髪の女性が、雨契と向かい合い、そして矢張り、深々と頭を下げた。
「あのこの子と、どうぞ宜しくお願いします。無茶ばかりを繰り返す子なので、また、ご迷惑をおかけするかもしれませんが」
まるで母のような口調だなと思いながらも、一つ頷くだけで答えた。
それは、答えるまでも無く、我が身の生まれを思えば、果たすべきことだと確信していたからだ。
「―――それから」
そのまま別れとなるのかと思ったら、女性は頭を上げて、更に言葉を続けてきた。
そっと、たおやかな動作で、雨契の頬に手を伸ばす。
母のような、優しい仕草で。
「余り無理をなさっては、いけませんよ。魅月が―――あの、優しくて憐れな子が、貴方に託したその命。その想いを、どうか、忘れないで」
目を見開く。
その瞬間から、視界が急激に”そこ”から遠ざかっていく。
引き伸ばされた距離は現実を超越し、―――否、今こそ現実への回帰の時だと告げていた。
遠くで、赤と青の女神が、手を振っているのが見えるが、もう、届かない。
あるべき場所へ、戻るのだ。
※ 9が六個も並んでいる珍しい光景を見れる人も中には居るんですよね……。
まぁ、さて、そんな訳で。
これでオリ主の前日譚的な経緯に関して、劇中で語れる範囲で語りつくしたかなぁと。
大体こんな感じ、と何となく解れた人も中には居るでしょうか。と言うか、居てくれると助かる。予備知識必須だけど。
これ以上正確に書くとしてもエピローグ以降になりそうですかねー。
しかし遂に、聖機師の二次なのに聖機師キャラどころか舞台すら出てこない話が出てきちまったなぁw