・Scene 52-2・
「こうして、我が目で見上げてしまうと、自身の語彙の少なさが嫌になってくるの……」
「いや、でもラシャラ様。これは、流石に表現方法が限られてますし」
「ウム―――いやしかし、首が疲れてくるな、これは」
少女たちの声音はどれも畏敬に満ちており、それでいて、唖然と言うか呆れとも付かぬ響きを含んでいた。
なだらかな丘陵地帯、その中腹。背後、来た道を下っていけば、先史文明の遺跡を土台とした小さな山村へとたどり着くのだが、今この場には、見渡す限りの草原が広がるのみだ。
「スワンと見比べても、流石に尺度が狂いそうになるますわね」
「何か、トリックアートでも見せられてる感じよね」
「私はもう見慣れてるけど……」
やっぱり初見だと驚くよねと、マリアとリチアの言葉に、ユキネは微苦笑を浮かべる。
「ま、確かに。このサイズを肉眼で目にすることは稀だからね」
外部カメラが捉えた映像でならば、暗礁宙域にでも行けば好きなだけ見られるけどと嘯きながら、両手で剣士を抱えた凛音が、遅れて丘を登ってくる。
感心の欠片も見えないような口調と態度だったが、矢張り自然と、顎は上を向いて、視線は天高くへと置かれていた。
「む? 案内の者は帰し終えたのか?」
凛音の背後の丘を村へと向けて下っていく幾つかの背中を見送りながら、アウラが尋ねる。
「うん、まぁ、正直何が起こるか解ったもんじゃないからね。―――何度も言ってるけど、キミ等も出来ればスワンの方に―――」
「断る」
「と言うか、いい加減諦めなさいよ」
往生際の悪い。ラシャラとキャイアの主従が、口をそろえて即答してくる。
一応、とばかりに他の少女たちの顔も伺ってみるが、やはりそのどれもが、若干呆れを含んだ冷たい視線を向けていたものだから、凛音としてもはぁ、と大きく息を吐くことしか出来なかった。
腕の中の、物言わぬ剣士の復活を、これ以上もないほどに強く願いながら。
「此処まで来て、後は安全地帯に退避していろは、流石に無しだろう」
「いや、別にアウラさんだったら居てもいいけど」
「―――それは、喜んでいいのか、私は……」
「ご想像にお任せします」
困った風に眉根を寄せるアウラに、凛音は肩を竦めるだけで応じた。些細な掛け合いのつもりだったが、微妙に周りの視線が痛かったのだ。
「お主、未だに頬の赤みが引かぬというのに、無駄に豪気じゃの」
「機会は逃さない男ですので。―――と言うか、その件につきましては本当に何もお答えできません」
「道中の状況を思い返せば、聞かないでも解るわよ」
まだ少しヒリヒリとする頬を摩る事も出来ずに、凛音はラシャラとキャイアの冷たい視線から逃れるように一歩前へと踏み出した。
目の前には、石造りのアーチ状の構造物がある。
アーチの中に戸も、その周りを仕切るように柵も壁も無かったが、ただそこにあるだけで、それを見て受ける印象は”扉”以外に無かった。
扉とは、二つの空間を繋ぐ出入り口。その奥を覗き込めば、別世界が広がっている。
そしてまさに、今凛音たちが目にしている扉の向こうには、別世界が広がっていた。
見渡す限りの、”岩壁”。
視界全てを、岩の壁と言う他無いものが占めていた。
少し、円弧状に歪曲している岩の壁は、見上げても見上げても、何処までも果てなく続いている。
雲すらも付き抜け、それこそ常識では計り知れない高さまで、垂直に屹立しているのだ。
「天地岩、か。天上と大地を結びつける巌ってところかなぁ……」
やはり、全体像を思い浮かべてしまえば、畏敬の声を漏らすより無い。
それは正しく、円を描き天へと続く、続き続ける一本の巨大な、岩の柱なのだった。
「感心する気持ちも解らぬでは無いが、これから、どうするのじゃ?」
アーチ状のモニュメントの前で岩壁を見上げたままとなった凛音の背後から、ラシャラが声を掛けてきた。
返事を聞く前に、凛音より前へと踏み出して、アーチの内側へと手をさしのばす。
音も無く。色すら見えず。
「このように、遮られてしまう訳じゃが」
その手は、丁度アーチを構成する二つの柱が平行した地点を境に、奥へと侵入する事は出来なかった。
何も無い空間を、窓でも叩くかのように、二度三度と手の甲を打ち付けるその様子は、とても演技には見えない。
「―――結界」
ユキネが呟く。
見えない壁が、確かにそこに在るのだとその瞳は告げていた。
「なるほど、何か妙な存在感とでも言うべきか、確かに、感じる」
横合いから、今度はアーチの傍の空間に手を伸ばしてきたアウラが、感覚を研ぎ澄ましながら言う。
ダークエルフらしい卓越した直観力から読み取ったその言葉に、凛音は頷いた。
「此処まで強力な神域ならば、本当は周囲の空間との間に何の違和感も感じさせない筈なんだけど―――多分、自己主張の激しい神様なんだろうね」
「―――その、強力な神様とやらに、随分な口の聞き方するわね、アンタも」
今更大概だけどと、キャイアが呆れ口調で言うので、凛音は哂って言い返した。
「そりゃ、僕にとっては”親戚の叔母さん”みたいなものだからね」
え、と目を丸くする少女たちを放って、未だアーチに手を付いたままのラシャラの脇を潜り、凛音はアーチの中に足を踏み入れた。
「……おお」
誰か、或いは少女たち全員か、驚きの声が漏れた。
凛音は、何も無い空間を、それが当然とも言うべき気安さで、踏み抜けた。
「入れたな」
もう一度何も無い空間に手を伸ばして、矢張り何も無い場所でさえぎられる事を確認したアウラが、感心したように漏らした。
この地で生まれた人間として、ユキネも同様に感嘆の声を上げる。
「神罰が下るかと思ってたのに」
「……姉さん、何気にきつくない?」
岩壁―――天地岩の前に抱えていた剣士を降ろして、凛音は乾いた笑いを漏らした。
「まぁ、お兄様に下るのは天誅と言うよりは人誅でしょうしね」
驚きから復帰してそんな風に言い切ったマリアに、”誅するのは誰なんだ”と聞くものは居なかった。
誰だって、命は惜しい。
「それで―――これから、どうするのだ」
少し怪しい方向へと走りそうになった空気を振り切るように、アウラが声を上げた。
見渡す限りの岩壁―――天地岩。神の降臨する聖なる結界に守られた地。
遂にその場所へと辿りついたわけだが、そこから先に一体どうやって、何を以って精神崩壊した剣士を復活させるのか。
出来ると断言した凛音に引きずられるようにこの場所まで来たようなものだったから―――実際、言うからには出来るのだろうと疑わなかったのだが、それでこの後、具体的にどうするのかが判別しなかった。
凛音は剣士を横たえた姿勢から身を起こして、少女たちに頷いた。
「まぁ、ようするに前に説明したとおり、神頼みをね」
これからするのだと、凛音はあっさりと言う。
「―――だから、それをどうやってって」
「神様……居るの?」
天を見上げながら言うユキネに、凛音は肩を竦めた。
「居るとも言えるし、居ないとも言える―――まぁ、人間の尺度じゃ解らない領域に存在する人たちだから、ね。アプローチを取るには、それなりの手順を踏まないと」
そんな風に言いながら、凛音は再び、アーチを抜けて”外”へと戻ってきた。
無論、寝かしたままの剣士は、”中”に残されたままだ。
まさか、このまま後は、神様とやらが降りてくるまで、待ち続けるだけなのか。
嫌な予感に顔をしかめる少女たちを見渡した後で、凛音は二度、三度とキャイアとユキネを交互に見渡しながら、一つ頷き、口を開く。
「キャイアさん、腰の物貸してくれる?」
指を指しながら凛音に請われて、キャイアは護衛聖機師としての嗜みとして腰に下げてあった鋭剣の柄にてをやった。因みに、この場で帯剣していたのは護衛役であるキャイアとユキネのみである。
「腰の物って……コレよね」
「うん。ちょっと必要だからさ」
「剣など、何に使う気じゃ?」
疑問を浮かべながらも、何となく剣を手渡してしまうキャイアを横目に、ラシャラは不信気な顔を浮かべた。
「言ったろ、―――手順が要るって」
内面を見せない笑みを浮かべながら、凛音は片手で適当に剣を振り回して、握り具合を確かめる。
「聖域に武器を持って立ち入る、と言うのは些か趣から外れているように感じられますが」
「儀式的な意味合いでは、刀剣類は結構見るけど……」
ハヴォニワの主従も揃って首を捻るが、矢張り、答えは出なかった。
揃って疑問顔を向けてくる少女たちに、しかし凛音は何も答えずに再びアーチの向こうへと踵を返す。
それを潜り抜ける刹那、アーチの傍の空間に立っていたアウラが、囁くように尋ねた。
「―――やはり、碌でもない事をするつもりか?」
「まぁ、ね。―――”抑えてくれると”助かる」
やはり凛音も、小声で返す。
アウラは小さく息を吐いて、凛音にだけ伝わるように了承を示した。
「お前の頼みは聞く。―――前に、言ったろう?」
アウラの同意も得られたことで、まずは一安心といった所かと、振り返らずに凛音は微笑を漏らす。
そしてそのまま、剣を右手に下げ持って、剣士の前まで歩みを進めた。
天地岩の真下に仰向けで寝かせられている、物言わぬ剣士の前へと。
「さて、と」
自分の声の乾き具合に、要らぬ緊張を覚えていたことに気付かされる。
いつの間にか口の中に溜まっていた唾を嚥下して、大きく、深呼吸をして―――それから。
剣を持ち上げて、刃先を、剣士の喉下に当てる。
「―――おい!」
「ちょっ―――何を!?」
背後で悲鳴が上がるのが聞こえたが、凛音は剣を持った手をピタリと静止させて揺らす事は無かった。
天を見上げる。
屹立する岩壁、雲の向こう、成層圏を越えて、更に遠く、物理的な距離すら、時間の遠さすらも超えて、遠く、遠くを。
「―――柾木剣士を殺されたくなければ、今すぐ我が声に応じろ。10秒だけ待つ」
言った。
「ちょっと何考えているのよ、アンタ!」
「正気か従兄殿!」
「凛君、それはさすがに……っ」
次々と聞こえる、少女たちの避難を向ける声も、凛音に行動の撤回を促す事は出来なかった。
「10。9。8。7……」
一片も姿勢を動かさぬが故に、その顔色は伺えない。
しかし、少女たちには確信があった。
―――やると言ったら、やるのだ。
甘木凛音と言う少年は。
それを信じたからこそ少女たちは此処まで来たのだし―――それ故に、宣言したその言葉に、嘘を感じる事は出来ない。
「4。3。―――2」
「待て、待つのじゃ、聞かぬか!」
「ああ、もう―――ちょっとアウラ様、なんで止める!」
表情を消して肩を掴んで押し戻してくるアウラを突破した所で、見えない壁に阻まれて凛音の元へとよれる筈が無いのも道理。
「―――……1」
だが、遂にカウントが狭まり剣を天頂へと振り上げた凛音の姿を見れば、目を見開きもがき前へと進もうとするのも、当然だろう。
「従兄殿っ……―――剣士!!」
自身を遮る鉄柵となったアウラの腕越しに、ラシャラは叫び手を伸ばして―――やはり、阻まれた。
強い力で手を伸ばしても、資格無き少女に、聖域は門を開くことは無い。
故に。
「0」
言葉とともに振り下ろされた白刃を、極限まで研ぎ澄まされた意識で、見続ける事しか出来なかった。
ゆっくりと―――しかし、現実には刹那の間も持たずに、剣士の首と胴体を切り離す刃。
届く。
もう直ぐ届く。
ほら、見てごらん。もう。
もうその刃は、皮にめり込んで、赤い雫が―――。
音にすらならぬ音と、光とは感じられぬ光が、空間を満たしたのは、その時だった。
※ 割りと本気で捨て身である。