・Scene 50-2・
救世の異世界人を出迎えるにしては、軍港は酷く閑散としていた。
空中宮殿スワンが係留された大型航空艦船用の発着港の一角。
稼動桟橋の接着場所の近くに一人佇む少女と、その少女を遠巻きに距離を取って見守るように、正装した文官武官の姿が僅かに見えるのみ。後は、空港職員の姿が、少しだけ。
殆ど全員が、空港の入り口付近に控えていたから、実質的には広々とした港内の空間に、少女一人だけがポツリと佇んでいるような空虚な様子が出来上がっていた。
少女、この国の唯一の王女である、その存在価値と比すれば余りにもそれを取り囲む人の数が少なすぎる。
凛音は自動操縦でゆっくりと浮遊する稼動桟橋の中から、少女の姿を目で追っていた。
安全柵に置いた両手を握り締めながら、桟橋が埠頭に降り立つ僅かな時間の間に、何度と無く大きな息を吐く。
柄にも無く緊張しているのが自分でも解った。
もう僅か、あと僅か、視界の中の少女の姿は次第に大きくなってきており、少女のその瞳が確りと自身を見つめているのだと言う事実すら、認識する事が可能だった。
「……胃が痛いな、畜生」
呟いて、それで落ち着けるわけが無く、この後に控えているであろう展開を思えば、むしろ心臓の鼓動は嫌なリズムに加速していくのみである。
酒が欲しい。今度から外出の時は欠かさずリキュールのボトルを持ち歩こうと、恐らく自分を知る誰からも引っ叩かれる事になるだろうと理解していながらも、そんな風にすら思う。
無論、一番凛音の酒癖の悪さを指摘するであろう人は眼下に居る少女である事は確実なのだが。
「ばれない様に、今夜は一人で自棄酒だな、これは」
シュリフォン王と、男二人だけで顔をつき合わせて飲めたのは楽しかったなぁと、現実逃避気味に思考を過去へと飛ばして居る間に、いよいよ稼動桟橋は港に縁に接続した。
そして、自動で安全柵が開かれ、タラップが伸びる。
タラップを真っ直ぐ下って、九十度身体の向きを変えれば、もう、十歩も進まないそこに。
最後の悪足掻きと言う気分で、あえて少女が視界に収まらないようにと真正面だけを勤めて眺め続けるようにしながら、凛音は漸くの一歩を踏み出した。
何故だかとてもぎこちない足取りで、タラップを降りる。
何をそんなに緊張しているのやらと、脳裏の置くの冷静な部分が呆れ声を響かせながら。
そんなものは決まっていると、思考の過半を埋める落ち着かない気持ちが反論する。
「特別……か」
特別じゃない人は居ない、何て格好の良い発言でも貰いそうな言葉を呟き、それがおかしくて自分を哂う。
タラップを居り切った。不自然なほど機械的な動きで、直角に体の向きを変える。
栗色の長い髪。小さな肩。お気に入りの青いドレスが包む、細い身体。
頬から顎に掛けてのラインが、歳の割にははっきりとしており、幼い少女の愛らしさよりも、自然と女性としての美しさを見るものに感じさせる。
マリア・ナナダン。
凛音がこの世界での生活の中で、最も付き合う必要性を感じない人間である。
社会的な立場、与えられた情況も、凛音の中にマリアと親しくする必要性を覚えさせるものは無かった。
程ほどで、充分。それで誰が困る事も無く、それこそ、マリア自身も困りはしなかった筈だろうに。
だと言うのに、これほどにまで親しい―――のだろうか、それとも、いや、他に表し様が無いのだから、矢張り親しくなってしまったと言う事なのだろう。
運命的なものを全く感じさせなかった二人の関係は、事あるごとにちょっとした躍動を得ながら、いつの間にか、お互いの事で思い悩む程度にまで昇華してしまった。
―――して、しまった。
したくてなった訳ではないからと、心の中で言い訳してしまう。
男の意気地の無さと哂われようとも、凛音は結局、自身が此処まで少女の前に立つ度に躊躇いを覚えるのは、そういう理由だからに他無いと思っている。
適切な距離感と言うものを維持し続けられていれば、他の少女たちとのように、マリアとも上手く付き合えていたはずなのだと。
尤も、最近は他の少女たちとも今ひとつ距離感が掴みづらくなってきているのだが。
何処で間違えたのやら。
今ではもうその様子を思い出せないような、この世界に来たばかりの自分に、今の自分の空回りを教えてやりたい。お前は精々上手くやれよ、などと。
「―――何だか、凄く久しぶりの感じがします」
たかが二週間かそこらしか経っていない筈なのに。
風に乗って、少女の言葉が耳朶を打った。
思考に没頭している間に、いつの間にか、踏み込めば手が届く距離にまで、少女の近くへと歩み進めていたのだ。
至近ともいえる距離で、突然少女の顔を認識してしまい、目を瞬かせて驚きそうになるところを、強引に押し止める。微苦笑を浮かべるふりをしながら深呼吸まがいの息をひとつ吐いて、凛音は頷いた。
「そう、だね。本当にそうだ。今よりもっと離れていた事もあったのに」
「でも、あの頃は、―――いずれ帰ってくると解っていましたから」
それに比べて、今は、僅か一歩で手が届く距離が、何て遠いのだろうか。
両手を腰元で重ねて、静かな面を浮かべたまま、マリアは言った。
言葉の頭に”でも”と付いている以上、今はもう違うのだと言っているのと同義である。
「そうだね。うん―――本当に、そうだ」
誰の仕業とか、どういう状況だからとかは関係なく、結果としてもうそう言う関係では無くなってしまったのだ、凛音とマリアは。
予め決まっていた関係、決まっていた帰る場所も、もう何処にも無い。
それでも同じ場所へと帰りたいのであれば―――それは、二人共に相応の努力を払わねばならない。自らの意思で。
必要の無い行為だよ、それは。
脳裏の奥の冷静な部分が、凛音に訴えかける。わざわざ自分で自分を縛る行為を選ぶなど、阿呆のすることだと。
それこそ、今はこうして双方合意の上で関係がリセットされているのだから、改めて適切な距離を保った関係を築けば良いではないか。打算的と言うほか無い思考が畳み掛けるように脳裏を埋めてゆく。
適当に距離を置けば―――だって、泣き顔も見ずに済むじゃないか。
―――馬鹿馬鹿しい。咄嗟に首を横に振って、惰弱に過ぎる思考を振り払っていた。
泣いている事実に気付いておきながら、余りにも浅ましい思考。何よりも、確実に泣かせる事ができるのだと言う優越的な思考に、自分で呆れてしまう。
「あの、まずはその、―――先に、形式を果たすべき、ですわよね」
脳内会議から抜けられない凛音の表情から何を見て取ったのか、マリアが取ってつけたような口調でそんな事を言った。
形式。
考える必要もなく、今与えられた状況に対する公的な応対。
甘木凛音とマリア・ナナダンは初対面であり、故に交わされる言葉は立場の上に置かれた親しさとは無縁のもの。作り笑顔と、会話の裏の思惑を察する事に腐心するのみのやり取り。互いに利益を幾らか自分の方へと多く引き込むための。
―――それを、この少女と?
目を剥きたくなるような馬鹿げた話だと思い、同時に、馬鹿げていると思えた自分の思考の馬鹿馬鹿しさに、一番呆れてしまった。
なんてことは無く、結局凛音にとってマリアと言う少女に求めている在り様は既に決まっていたのだから。
誰かに、自分のためにこうあって欲しいと。
そこに何の利益も生む訳が無いのだと正しく理解していながら。それでもそうあって欲しい。
自分のために。見返りを与える事は、出来ないけど。
―――覚悟を決めろ、つまり、自分の墓穴を掘る事の。
幼い頃に苦笑交じりに語っていた誰かの体験談を思い出しながら、今が自分にとってそういう時なのかもしれないなと、凛音は思った。
そうと決断してしまえば、幾らか心も軽くなって―――しかし、口を開いたのはマリアのほうが先だった。
当然と言えば当然だ。
語る言葉も見つけられずに、漸く出てきた言葉が公務に縋る弱さそのものだったのだから、ましてや、男は言葉に反応することも無く黙ったまま。
幼い少女に耐え切れる筈も無かった。
「我がハヴォニワへようこそお越しくださいました、救世の異世界人、甘木凛音様。―――はじめま、ぁ」
聞くに堪えない。
透き通るような―――透き通り過ぎたその声に、そんな思いを抱くのは凛音くらいだろう。
だが、凛音には耐え切れなかった。あろう事か、他人のように”始めまして”などと。
踏み込み、肩を掴み、強引に引き寄せる。
―――それから、”口を塞いだ”。
直ぐ傍に居たのだから、か弱い少女にそれを成すのは、凛音にとっては簡単に過ぎることだった。
それは文字として書き起こすには簡単すぎる行為だったが、その一字一句に漏らさず注釈を付けるとすれば、実行した凛音は確実に何処か誰も居ない所へと逃亡を企てる事だろう。
最早物語の中ですら絶滅していそうな、そんな行為を、刹那の反射で、凛音は行っていた。
眼前―――目いっぱいに写る少女の顔は、お互いが写った瞳は、驚愕に見開かれている。
当然だ。
同意無しに行ってしまえば、強姦だ等と訴えられても、おかしくは無い。
同意が無ければ。
同意を求めるなどと言う、つまり、理性を保ったままにこんな事を行うなど、自分にはとてもではないが耐えられないだろうなと、凛音は思った。
だから、一方的に寄せて、そして、一方的に離す。
離すといっても、背中に回した量の腕を解きはしないのだから、大概だったが。
そのまましばらく。その態勢を解かずにじっとしていると、腕の中の少女もまた、震えるような手つきで、凛音の背に手を回してきてくれた―――きてくれた、等と喜んでいる自分に、少し呆れた。
「―――ぁの?」
胸の中で吐息と共に発せられた少女の言葉に、凛音は息を吸い込んだ。
「”久しぶり”。碌に連絡もしないで御免。―――心配を掛けて、ホント、御免。反省した。謝る。だから」
演技だろうとそんな、他人行儀な真似をしないでくれと、胸に抱きしめると言うよりは、肩に縋りつく風に、一息で言い切った。
言葉が風に溶け消えた後の、暫しの空しい時間が満ちる。
―――はぁ、と聞こえた音はに乗せられた熱量の重さは、錯覚に過ぎなかったのだろうか。
「謝るくらいなら、もっと早く連絡してください。私、―――本当に」
漏れ伝わった言葉に、安堵以上に歓喜を覚える自分が、余りにもおかしかった。
「そうだね、本当に、御免。それから、心配してくれたありがとう。また会えて嬉しい。―――マリア」
親しげに、殊更にそう聞こえてくれるように。
「はい。本当にお会いしとう御座いました」
答えてくれた少女の背中に回した手に力を込めて。
「―――お兄様」
凛音は、その言葉を聞けた。
※ 前の時は妹視点だったので~って感じでしょうか。
まぁ、会えば何時もどおり。周りの人たちがやってらんねーとか言い出すレベルである。