・Scene 43-3・
「帰れ」
「断る」
夕暮れ時。
聖地との国境、崩壊した関所後を挟んでシトレイユ軍とにらみ合いが続き、ピリピリとした空気が蔓延しているシュリフォン王国であったが、この深い森の中の王宮の離れの客間ともなれば、まだ落ち着いた涼やかな空気に満ちている。
満ちている―――筈だった。少なくともつい先ほどまでは。
「つーか、疲れたからそろそろ寝ようかと思ってたんだけどさ、マジで帰れよ」
「貴様の事情など私の知った事ではないな」
寝ると言いながらもアマギリは、ドアを開け踏み入ってきた人物に微塵も視線を合わせもしないで、ベッドに無造作に広げた資料をパラパラと捲り、耳に挟んだ万年筆を取っては何かを便箋に書き綴っている。
眠りにつく気配は微塵もなかった。
無断で部屋に踏み入ってきた少年は、その客人―――招かれざる、と言う認識は彼にもあるが―――に対する余りにもぞんざいな態度に、眉根を寄せた。
「貴様、せめて顔を上げたらどうだ……?」
「……こんな安い挑発で青筋浮かべるくらいなら、ホント、来るなよマジで」
パタンと、クリップボードに便箋を挟んで、閉じる。傍に立って無言を貫いていた老紳士にそれを手渡した後で、漸くアマギリは顔を上げた。老紳士は勿論、主とその客人に一礼した後で、部屋を後にした。
「―――躾がなって無いんじゃない?」
「き、さ……~~~っっ!!」
肩を竦めてアマギリは、青筋を浮かべ握りこぶしを震わせていた少年―――の、背後に居た少女に声を掛けた。
少女は丁度、夕暮れで窓からの日も差し込まず、影となったドアの脇で、静かに佇んでいた。
瞳の色は暗闇色。唇は結ばれ、表情に氷のように色が見えない。無言のまま何の感情も見せないそれは、精巧な人形が壁際に立てかけられているだけのような錯覚すら覚えそうなものだった。
アマギリはその無反応に、感心したように頷いた後で、漸く少年と向き合った。
「ダグマイア君もさ、せめてこれぐらい上手く挑発を受け流せるようにならないと」
「お、ま、えは、久々に顔を会わせてみれば、何処までも愚弄しかしないのか、このっ……」
「もう、後ろ盾も無いんだし、ね」
「―――っ!?」
ベッドに向かって一歩踏み出してきたダグマイアに、冷徹な眼で言い捨てる。彼の背後に居たエメラに、漸く少しだけ反応が見えた。必要な情報の取捨選択が確りできていると言う事だろう。遊びが足りなすぎるのが些か趣味に合わないが、相変わらず有能な人だなとの印象をアマギリは受けた。
「貴様はやはり―――、いや」
「あん?」
「何でもない。―――フン、死んだように眠っていたと聞いていたが、見事に死に損なっているじゃないか」
不自然に言葉を切ったことにアマギリが首を捻るが、しかしダグマイアは無理やり話を切って、きっと入室当初からやろうとしていたのであろう、厭味を飛ばしてきた。
本当に形から入るのが好きだなこの男と思いつつ、指摘してやるのも面倒だから付き合ってやることにした。
「ダグマイア君こそ、二度も頭打ちつけてた割には何時もどおりに元気そうで安心したよ。ちゃんとX線検査は受けたか? 脳震盪は後が怖いぞ」
「―――っ! ……随分偉そうな態度を見せて労わりに、血反吐を吐いて倒れていた人間に言われたくは無いな」
一瞬歯を軋ませた後で、ダグマイアはそれでも嘲笑のようなものを浮かべて切り返してきた。ある意味成長しているかもしれない。
環境が人を変えるという良い見本と言うことか―――などと、偉そうな事を考えそうになった自分を、アマギリは笑った。ダグマイアにはどうやら、その笑みが自分を嘲笑っているものと取れたらしい、憮然とした顔をしている。
動じていないふりをしているつもりなのだろうが、何時もどおりに気付かない人は居ないだろう。
「ほんと、何時もどおりで癒されるよね、キミを見てると―――んで、結局何をしに来た訳?」
「まず初めにそれを聞け! 貴様は相変わらず、まともな他人とのコミュニケーションの取り方も知らんのか……」
「それ、キミにだけは言われたくないなぁ」
苦虫を噛み潰したように言うダグマイアに、アマギリは適当に手を振って先を促した。
「一つ確認がある」
一度大きく息を吐いた後で、ダグマイアはそれまでの会話を全て忘れたかのような冷静さを―――表面上だけ―――取り戻して、アマギリを睨みつけながら言った。
「聞こうか」
アマギリは鼻を鳴らして先を促す。
ダグマイアは眉間に皺を寄せながら、口を開こうとして―――その一瞬、少しだけ、影のように背後に立つエメラに視線を移してしまった事で、口を開く前に、言いたかった事を悟られてしまった。
「貴様が聖地で必要だったのは、私ではなく―――エメラだったのだな」
ポン、とアマギリが手を打ち鳴らした音が、むなしく客間の寝室に響いた。
夕闇が部屋を黒と赤で染め上げる逢魔が時と呼ぶに相応しいその空気に、どうしようもなく間抜けな響きだった。
「良く解ったねぇ?」
話したの、とエメラの方を見ながら、アマギリは感心したように言った。エメラは勿論、影の中で無表情を貫いていた。
「後から事情を聞けば気付く。―――貴様、私を馬鹿にしているのか? その程度も解らないと」
「馬鹿にされているって解らないんじゃないかって、これまでは馬鹿にしてたけど、今の台詞を参考にして、今度からは控えることにするよ」
返答に至るまでの間はコンマ一秒以下しかなかった筈なのに、スラスラと並べ立てるように人をおちょくった言葉ばかりが出てくるのだから、せめてシリアスな空気を出そうとしたダグマイアとしてはたまらなかった。
「戯言を……、ええい、貴様、本当に私のことは眼中に無いと言う事か!?」
「無いよ」
「―――っ、な、に?」
夕日を背に、影を落としたアマギリの顔は、色の一つも見つからない冷淡なものだった。
その無表情から吐かれた言葉の意味を、一瞬ダグマイアは見失った。アマギリは、そんなダグマイアを見て、失望したかのように息を吐いた。
「無いって。正直なんで未だに此処に居るのかすら疑問だ。―――解ってて聞いたんじゃないのか、キミ。勿論聖地で力を借りたかったのはエメラさんだけで、キミである筈が無い。そもそも僕が、キミの何処に期待すると言うんだ」
「う、……あ―――……」
冗談交じりに聞き流されるのだろうと言う甘えがあったのだろう。しかし、アマギリは特別それに付き合う義理も無かった。こんな面倒なことに時間を取られているよりは、さっさと剣士奪還のための策謀を巡らせたかったのである。それでもわざわざダグマイアのために時間を取っているのは、背後に居るエメラの存在が厄介だったからである。
その瞳は、相変わらず何も映していないかのように影の暗闇を反射した色をしている。
しかしその実体は、アマギリに対して腸が煮えくり返っているのだろう事は確実だった。
”聖地での一件でダグマイアを始末し損ねた”事により、彼とエメラがシュリフォンに滞在していると聞いた段階から、大きな負債を背負う事になるなと想像していたが、予想していた以上に面倒だと気付き、アマギリはばれない様に嘆息する他無かった。
狂信者ほど性質の悪い生き物は居ない。
樹雷と言う、目に見えて”神”が存在する国家に仕えていた関係上、アマギリは特定の何かを熱狂的に崇拝するような人間との付き合いの難しさを、良く理解していた。
所作も口調も一見にはまともなそれにしか見えないのに、その目だけは何処か普通ではない。何処か薄ら寒いものを覚えずには居られない、そういう狂気に焼かれた目をしていた。
―――今も、暗闇の向こうに狂信的な炎を燃やしている、エメラのように。
この手の手合いは、下手に取り繕って見せると返ってその激情に身を焦がす性質がある。
予め主義主張を伝えて、明確な線引きを決めてから付き合わないと、いずれこちらが身を滅ぼす事になるのだ。
特に聖地では、段取りを踏む前に、馴れ合いのようにも取れる”自主的な行動の強制”を行ってしまったから、エメラからしてみればアマギリに対しての評価は坂道を転がり落ちるようなものだろう。
「んで、―――話はそれで全部かな?」
”エメラに対しての”立ち居地の表明は既に済んだが故に、酷くぞんざいな態度でアマギリは尋ねた。
ダグマイアは怒りとも憎しみとも悲しみともつかない感情で瞳を濡らしながら、歯を食いしばっていた。
「いや―――いや、まだだ。まだ”私の”話は終わっていない」
「余り興味が無いな。出来れば今すぐ回れ右して出て行って欲しいんだけど」
言葉の中で強調された部分を正確に理解して―――ダグマイアが、アマギリの態度を正確に理解していたことに若干驚きつつも、それでも面倒だという態度を態度を崩す事無く、アマギリは言う。
「いいや、聞いてもらう―――っ」
ダグマイアは大きく頭を振った。
改めて感じる、想像以上の自身の立場の無さを、それでも受け止めて前へ進みたいと本人としては思っているのだろうなと、アマギリは特別興味を示さずに頷く事で先を促した。どうせ次の言葉は予想できていたからだ。
「私は、貴様と父上の末路を見届けさせてもらう」
「父上が私を縛る過去だとすれば、貴様は私の未来を遮る壁だ」
「私は自らの道を自らの意思で決めると誓った。自らの居場所を、自らの力で手に入れると」
「新たな道を探すためにも、縛られたまま使われていた事にすら気付こうとしなかった過去を振り切るためにも」
「私はまず、貴様達の戦いの結末を見届けなければ何も始められん」
「故に、何を言われようとも最後までつき合わせてもらうぞ」
―――長い台詞ご苦労様と、ベッドに広げておいた資料を頭の中で整理しながら、アマギリが思った事はそれだけだった。
語られた内容自体に驚くべき部分は欠片もないし、一片の感慨も沸くものでも無かった。
何時もどおり楽しそうで結構な事だ―――その分、また楽しくないアレコレを視界の隅に入れなければいけないのかと思うと、多少の苛立ちも覚えなくも無かったが、それも一つの、必要経費と言うヤツだろう。諦めれば済む話だった。
一応と言う程度の気分で深くなった影の中に居るエメラに視線を送ってみるが、やはり無反応だった。
忠臣も結構だけど、止めてくれると助かるんだが―――そんな風に思って、忠臣が忠誠を捧げている人間以外の気持ちを気にする筈が無いかと、自分の甘い考えにアマギリは微苦笑していた。
「好きにすれば良いと思うけど、邪魔だから前には立たないでね」
「―――っ、そんなもの、知った事ではない」
黙ったまま、ダグマイアからしてみれば漸く得られたアマギリの反応が嬉しかったのだろうか。勢い込んで返答があった。
三つ子の魂百までとか、こういう場面で使って良いんだっけとくだらない事を言いたくなったが、アマギリは肩を竦めるだけに留めた。
「だと思ったよ―――で、今度こそ話は終わり?」
もう面倒だから出てけよと言う気分をまるで隠そうともせずアマギリが言うと、ダグマイアは鼻を鳴らしてくれやがった。
「私の話はな。―――だが」
そして、何を思ったのかわざとらしい態度でエメラの方を見やりながら―――エメラも、戸惑うような態度を見せた―――薄い笑みを浮かべた。
「貴様は随分とエメラにご執心らしいじゃないか。―――私はこれで外す。どうせ暫くは行動を共にするのだ。話したい事は話しておけば良い」
「―――はぁ?」
ダグマイアの言葉は此処で初めてアマギリの予想の斜め上を行った。
「ダグマイア様、私は―――」
「エメラ。無位無官に落とされた私に、今も従ってくれていることには感謝しよう。だが―――これからの私の選択は、全て私だけのためのものだ。決して、お前の行動を縛るものではない。私の選択に、おまえ自身の判断を委ねようとする事は、やめろ」
「私が貴方のお傍にあるのは、私自身の意思です! 貴方が決めたのであれば、私はそれに従うだけだと―――」
「それがいかんと言いたいのだ、私は。結局それでは、お前は望む望まざるに関わらず、私の行動をただ優先するのみで―――これまでと、何も変わらない。もう御免だ、与えられたものを自分の力だと思いながら道化を演じ続けるのは。私は自分で必要なものは自分で掴む」
轟然と語るダグマイアの言葉に、影の中のエメラは取り乱したように肩を震わせる。
「わた、私は、貴方に必要ないと……」
「―――……。感謝している、と言ったぞ。だが、エメラこそ、私を必要としないだろう。お前にはそれだけの能力があるし―――おそらく、そのことを私以上に理解している人間も居る」
―――待て、そこで僕を見るな。
叫びたかったが、堪えた。一々説明しなければこの馬鹿は解らないだろうなと、直ぐに理解したからだ。
アマギリが苦い顔をしたのをどう受け取ったのか―――ダグマイアは、最後にアマギリに、これで貸し借り無しだとでも言いたいのか、侮蔑のような笑みを浮かべて部屋を後にした。
―――エメラを、残したまま。
そして、室内に静寂が満ちる。
影の中にエメラ。
夕日を背にしたアマギリ。
向かい合い―――欠片も、視線を交わしていなかった。
アマギリは作業に戻り、エメラはただ立ち尽くすのみ。
ダグマイアは誤解しているようだが、アマギリは彼女と語る言葉を持ち合わせていない。
そもそもエメラには、ダグマイア以外の言葉は”聞こえない”。行動の決定基準を自分以外の誰かに定めてしまっている以上、幾ら他所から言葉を重ねても徒労にしかならない。
エメラを動かしたいのなら、聖地で行ったようにダグマイアを上手く誘導して、エメラが動かざるを得ない状況を作り出すしかないのだ。
それが解っていたから、アマギリはダグマイアが部屋を後にした段階で、それまで行っていたハヴォニワ国内の治安回復を目的とした資料整理に戻っていた。
そのまま、幾許かの時間が過ぎただろうか。
「一つだけ、確認したいことがあります」
ふいに、エメラが口を開いた。
「何?」
アマギリは、微塵も驚かなかった。
彼女の生き方にアマギリの存在は必要ない。それを理解していたから、この会話自体が無意味なものだと解っていた。
エメラの口調は淡々としたものだった。色の無い、重みの欠片も無い。
「聖地襲撃の折、貴方は当初の予定通りにラシャラ女王が参加しなかった場合、ダグマイア様を”列車に置き去りにして殺害する”つもりでしたね?」
淡々として、色の無い。重みも、感情の欠片も無い言葉だった。
「うん」
それは、なんの衒いも無く、資料を並べなおしながら頷くアマギリも同様だった。
エメラはそんなアマギリの態度に、頷く事すらせず、ピクリとも表情も、体も動かす事すらせず、言葉を続けた。
「当然、バベルの停止のために利用し、そして用済みとなった私も?」
「逃げるにはスワンに紛れ込むだろうって解っていたからね。確実を期す為に一個小隊を確保する予定だった」
無駄になったけどと、やはり恥る素振りを見せずにアマギリは言い、―――エメラもまた、怒りの一つも見せなかった。
そしてアマギリは、予定調和の言葉の応酬に、飽きた。独り言を呟いているのと何も変わらないことに気付いたからだ。
「―――で、それを聞いてどうするのかな?」
意味の無い行動も、時には気分転換に必要だろう。アマギリは書類をまくる手を止めて、薄く笑いながら影の向こうにあるエメラの顔をうかがった。
予想していた通りそれは、やはり何の意味も持たない行為だった。
「特に何も。―――貴方の企みが成功していたなら私はこの場に居ませんし、それにそもそも、貴方の殺意は私が貴方に殺意を抱く理由にはならないですから」
―――私の殺意は、ダグマイア様の意志と共にあるのだから。
それが当然であるのだから、そこに誇るべき何かを見つけられるはずも無い。
結局、当然の事実と事実を確認しあっただけで―――場を用意した人間には及びもつかないであろう、何の意味も果たさなかった邂逅を終了する。
「ま、その辺が、後ろから黙ってついていくってタイプの人間の辛い所か。前に出て危機を取り除ければ楽だろうに、ご苦労様って感じだよ。―――さて、そろそろ行けば?」
気障な仕草で掌を返して扉を示すアマギリに、エメラは何の反応も示さずにドアに向けて歩を進めることで返した。
しかし何を思ったのか―――本当に何を思ったのか、エメラはドアノブを握り扉を引き、そしてそれから、何故か最後に一度だけアマギリのほうへ振り向いて、呟いた。
「―――お大事に」
瞬きをしている間に、エメラの姿は扉の向こうに消えた。
”お大事に”。
他者を労わる言葉だったから、アマギリはその言葉の意味を履き違えなかった。
なぜなら、エメラの生き方にアマギリの存在は欠片も影響を与えない。例え彼が好調だろうと不調だろうと、機嫌が良かろうと不機嫌だろうと、そんなものはエメラにとって、何の感慨も覚えない無価値なものだ。
エメラにとって意味のある存在は唯一つだけ。
故にその言葉は―――正しく、ダグマイアの意思である筈だった。
だからそれは、アマギリにとって、無価値なものだ。
―――つまりは、結局。
最後まで彼と彼女の会話に、意味の一片も存在しなかった事が、唯一の事実である。
※ 夢を語る少年と夢の無い現実、みたいな感じでしょうか。
なんかホラーっぽくなったな……。