・Scene 44-1・
天井の木目の数を何となく数える。
そんなくだらない行為によって、自分が生きている事を実感した。
シルク地のシーツに包まれて、柔らかい羽毛枕に頭を預けて。差し込む日差しと、木々の香りに祝福されて。
その何処までも懐の深い年輪を重ねた森の空気のせいで、一瞬、自分が神木家の屋敷に居るのかと錯覚してしまった。
そんな筈はあるまい。唇を歪める。眉根を寄せて、顎を引き、そのまま体を起こそうとして―――失敗した。
「……動かない」
身体にまるで力が入らない。
その事実に絶望するでもなく、それも当然かもしれないなと、あっさりと納得した。
自身は既に、本質的に樹木に近い立場に居るのだから、そもそも動物のように体を動かす必要は無い。
ただ光と風、そして広がる大地に根を張ることさえ出来れば―――いや、待て。
「隠居決めるにはまだ早いっての……っ!」
慌てて思考を振り払い、首を捻りながら体を動かそうともがく―――もがこうと、試みる。
しかし、うんともすんとも首から下は動く事を拒否しているようで、神経が通っている事も、体が熱を持っていることも理解していると言うのに、不思議なほどに力が入らない。
自己診断機能を立ち上げて―――そしてそれが、人間のやることじゃないなと若干絶望する。
動力の循環伝達機構に異常あり。損傷部位各所の復旧割合約七割。航法機能に異常・三次元座標取得機構損傷。
現状では以降の航海に深刻な支障を孕むと認む。早急な機能の復旧、もしくは全機能の更新が必要。
「いや航海って……」
亜空間航法が可能だったと解った段階から思っていた事だが、人が寝ている間に何の機能を実装しているんだろうか、あの鬼姫はと、思わず突っ込まずには居られない状況だった。
まさか、この身がそのまま聖衛艦隊の艦籍簿にのってやしないだろうなと、今は必要ない不安を覚えてしまう。
「なんて、現実逃避してる場合じゃないか」
そもそも今や、自身は存在そのものが秘匿される立場だろうから、表向きの艦籍簿に記されている筈は無い。いや、あれから七百年も経っているのだから、試作品である自身を叩き台とした正式採用版が量産されている可能性もあるか。兎角、今は考える必要の無い問題だ。
記憶領域から人体の動作情報を抽出―――再現情報を定型化、この”船体”の動作機構として常駐展開開始。
「よっ―――っと」
”ゆっくり”と”身体”を”起こす”―――鈍い。動作入力を並列処理化。初期動作入力時に分岐予測を補助展開。護衛力場体の動作情報を参考に、動作機構の再構築。
「―――ってか、まんまガーディアンの動作パターンを入れれば良いだけか」
そのほうが逆に、普段よりも良い動きが出来そうなものであると、即興で作った動作情報をあっさりと破棄して、船体の稼動設定の再構築を行う。
手を握り締め、離す。膝を曲げ、ベッドの上で胡坐をかく。
開いた窓に反射した自分の動作を眺めながら、一先ずの安堵を覚える。
多少の不自然さは見られるが、まずまず調子の悪い人間、程度の動きには見えるようになった。
「―――なんて一々やってる段階でもう、人間辞めてるって事だよなぁ」
戻れない所にまで来てしまった悲嘆と、望んで此処までたどり着いたのだからと言う諦観が同時に沸く。
―――やはり、独りというのは良くない。
広い室内―――見覚えの無い部屋、趣味の良い調度品に誂えられた其処を、見渡して、誰も居ないことに失望する。
ベッドサイドのテーブルに載せられたベルを鳴らせばきっと誰かが来るのだろうが―――それをする気力が沸かなかった。
4月の頭辺りから―――いや、はっきりと断言してしまおう。柾木剣士の存在を認識してからこっち、元々緩みかかっていたプロテクトが崩れ落ちるように無くなっていった。
それまで思い出せなかった、結び付けられなかった知識と記憶が一本化し、なくしていた過去の殆どを取り戻してしまった。
遥か銀河の彼方での、楽しかった日々のこと。
思い出してしまえば、不思議と望郷の念も湧き上がるもので。
今この場所での楽しい生活の最中においても、ふとした拍子に、過去と重ね、比べるようになってしまう。
特に夜、独りになると駄目だ。
夢と言う物は自分自身では御し得ないものだから、どうしようもなく、思い出さざるを得ない。
本物の姉、本物の家族、本物の居場所。それを本物だと考えている自分にも苛立ちを覚えるし、その場所に居ない自分にも情けなさを覚えた。
尤もその後、独り夜を過すという現実に耐え切れずに、遂に魔がさして女性の肌の温もりを求めてしまった事実こそが、正しく悔恨の事態なのだが。
「きっとバレバレだったんだろうなぁ」
何となくそういう目をしている感じだったと、真昼間から思い出すべきでもない事を思い出しながら、微苦笑を浮かべる。
苦笑交じりに髪を掻き揚げ―――何時もつけている、妹から貰った髪留めの感触を首の後ろに感じない事に気付いた。眠っていたのだから当然なのだが、何故かなかったという事実に不安を覚え、ベッドの周りを見渡し―――サイドテーブルの呼び鈴の脇に丁寧に置かれていたことに気付き、ほっと息を吐く。
髪留めを拾い上げようと手を伸ばし、そしてその傍に、一枚の紙の切れ端を見つけた。
汚い字で一行、何か書かれた、破いたメモ帳の一ページのようだった。
”たびにでます さがさいでください”
「……誤字? いや、わざとか……?」
「―――因みに、裏に目的地と緊急連絡先が書いてあるぞ」
なるほど。前フリだった訳か。
キィ、という少しの音と共に、扉を開き入室してきた少女の言葉に、感心したように頷いてしまった。
「つまり、連絡しろと見せかけて、絶対連絡するなと言うことだな……」
「普通に連絡してやったらどうだ、そこは」
メモ帳の裏面を眺めながら言い放つ彼の傍に近づいてきた少女が、困った風に笑う。
「居てほしい時に居てくれない子に、わざわざ優しくしてやるのもなぁって」
「そう言う事ばっかり言ってるから、居てほしい時に居なくなるんじゃないのかそれは?」
「今は、アウラさんが居てくれるから満足するとしましょう」
おどけて、肩を竦めながら言うと、ダークエルフの少女はシニカルな笑みで応じた。
「誰かの代わりのような扱いをされて喜ぶ趣味はないぞ、私は」
「目の前の美人を此処に居ない美人と重ねるような真似はしないさ」
「――― 一応、ワウの事を美人と認めているのだな、お前は」
瞬きして眉根を寄せた後で、戯言に対する反応はその一言だけだった。静かに近づかれ、額に掛かった前髪を払われ、ひんやりとした手を添えられた。
「熱は下がった―――と言うよりも、上がったというべきか。正直、人体の平均体温を遥かに下回っていたからな。医者も肝を冷やしていたぞ」
汗の一つもかかないのはいっそ不気味だったとはっきり言い切ってくれるアウラに、肩を竦めて応じる。
「ああ、多分スリープモード……って、解らないですね、僕自身よく解って無いですし。身体機能の回復のためにエネルギーを回していたんで、寝てるときは体温下がるんです。体質みたいなものですよ」
「ワウもそんな話をしていたから、結局は点滴だけして寝かしておく事しか出来なかったが―――何だかんだでお前は、アイツには必要な情報を全て話しているんだな」
「そりゃ、大事な従者だからね。いざとなったときの代理役だって、任せたりもするしさ。多分あの子が、この星の中じゃ一番僕の身体の事詳しいんじゃないか―――って、何?」
あっさりと返したつもりで、目を丸くされてしまえば眉根を寄せたりもする。アウラは瞬きをした後で、いや、と首を横に振った。
「少しは否定するものだと思っていたよ」
「そりゃ、本人が目の前に居たらこんな返ししないけどもさ」
「私の前でも是非やめてくれ。たちの悪い惚気話を聞かされているようで落ち着かん」
「先にからかおうとしておいて、その言い方は無いでしょうに」
呆れたように言うアウラに、げんなりと返事をする。寝巻きの変えを手渡され―――そして、女性の前で着替える訳もなく、適当にベッドの脇に放る。
ぞんざいな態度に、アウラが眉を顰めた。
「着替えて、寝ていたほうが良いのではないか―――と言うか、起き抜けだろうに何でお前はそんなに落ち着いているんだ」
「コレでも外面取り繕うのは得意でさ」
「いや、それは良く知っているが―――とにかく、平気なのか平気でないのかくらい、ちゃんと正直に言ってくれ」
ああもうと、余りにも何時もどおり過ぎる空気に流されそうになりながらも、アウラは頭をかき混ぜながら言う。若干懇願が混じっていたのが、おかしかった。
「何か今日は、いやに真面目だね」
「まだ戯れるか―――まぁ、一応方々から頼まれているからな、今の私は」
「方々?」
首を傾げると、疲れたような言葉を返される。
「ワウもユキネさんも、フローラ女王も此処には居ないからな。―――私が今日は彼女等に代わり、愚痴を聞く担当だそうだ」
ぽん、と肩を押されて頭を枕に押し戻されながら、言われた。
その拍子にメモ帳の破片が手から離れて空を舞いそうになったから、慌てて掴みなおす。勢い余って握りつぶしそうになったのを、手ではたいて皺を伸ばしていたら、アウラはそれを面白そうに笑ってきた。
「―――なに?」
「いや、似たもの主従で何よりだと、少しな」
何を思い出したのか、アウラは微笑ましいものを見るような口調だったから、不貞腐れたような態度で視線を逸らさざるを得なかった。
「ワウでしょ、アウラさんにそんな事言ったの」
「リチアにそこまでの包容力は無いからな」
「―――微妙に酷くないですか、その発言」
「いや、この場合否定しないお前の方が酷いと思うが……」
図星だった。
「まぁ、それはさておき」
「良いのか、さておいて……いや、話を振った私が言うべき事でもないが」
アイツ意外と地獄耳でカンが良いぞと言う言葉に一瞬詰まりそうになるが、あえて流す。
「さて―――おかせてください、ええ、後生ですから。―――ともかく、体調なら問題ないですよ。若干血が足りてない気もしますけど」
「アレだけ血を吐いていればな……正直、ああいうスプラッタな光景は金輪際御免だぞ。食事は? 何か食べるか?」
「はは、善処しますよ。―――ああ、飯でしたら後で軽めのものをお願いします」
「もう少しすれば往診の時間だからな、その時に頼もう。―――と言うか、善処ではなく、確約してくれ頼むから」
アウラが流石に苦い顔で、嗜めるように言う。その後で、やはり慣れないなと大きなため息を吐いた。
「言ったろ、私は彼女等の代理だと。戯れで誤魔化さずに、たまにはワウ達と一緒の時のように、少しは本音で話してもらいたいのだがな」
窓の向こう。木々の合間から見える青い空。流れる雲。―――風が吹いて、カーテンを揺らした。
言った方も言われた側も、慣れない空気に言うべき言葉を見失っていた。
起き抜けに返って気を使う事になってる気がするなと、多分どちらも理解していた。
それゆえ、どちらも気を使って最初に口を開こうとして―――重なる事無く、結局は、アウラは一歩遅れたお陰で、初志を貫徹する事が出来た。
「―――負けたんだよねぇ」
ポツリと、吐息と共に洩れた言葉は、弱音にも思えるか細い響きを伴っていた。
ああ、この男こういう態度も取るのかと、アウラには中々の衝撃だったらしい。目を丸くしているのが、実に愛らしかった。
だからいっそ、気楽に続ける事が出来た。
「ボロボロに負けたじゃない。格好付けて飛び出して、自爆して、挙句ミイラ取りがミイラになって、最後まで見届ける事なくダウン、なんて」
なんて――――――情けない。
「もうちょっと格好良くさぁ、どかん、ばかん、ボカーン、みたいな感じで景気良く聖地を吹っ飛ばして脱出、とかするつもりだったんだけど……何だこれ。どうやったらこんな最悪な展開になるんだ。あり得ないでしょう」
「その擬音はなんとかならんのか、その前に」
「ならないよ、愚痴なんだからコレ」
「そうか。―――そうか?」
コレはコレで、適当にはぐらかされているのではないかとアウラは微妙に察しかけていた。それを細まった視線のうちに感じて、薄く笑う。
「ま、良く出来た従者だよね、あの子もホント」
「……すまん、会話の流れがまるで繋がってなくないか?」
首を捻るアウラに、寝たままで肩を竦める。
「ようするにさ、アウラさんみたいな人を傍においておけば、気を入れて格好付けてなきゃいけなくなるから、少しは気が紛れるだろうってこと」
あの子は実際知っているのだろう。
夜を迎える度に自然口数が少なくなり物思いに耽っている主の事を。
故に、病人扱いされている現在、気を使われて独りになる場合が多くなりそうだったから―――無理やり誰かに傍に居てもらうように頼んだに違いない。
そんな風に話すと、アウラが諦念混じりの吐息を吐いた。
「……結局、酷い惚気話を聞かされることになっただけなのだな、私は」
「いや、結構気晴らしになりましたよ。一人で考えてると、悪い方へ悪い方へ思考が走っちゃいますからね」
「どうだかな。私こそお前で気晴らししてるだけの気もするが。―――正直この二週間、気分が良い事など全くなかった」
内に溜まったものを吐き出すようなその言葉は、まさしくアウラの濁っていた心情を示していた。
「……二週間?」
「ああ、二週間だ。聖地を脱出して関を突破し、シュリフォン国内に入り、王宮へと逃げ込み―――そして、今だ」
「ああ、シュリフォンなんだね、此処。道理でアウラさんがドレス着てるわけだわ」
森の王国、ダークエルフの領域、シュリフォン。
どうりで、樹雷のような濃い緑の気配を感じる訳だ。
納得すると同時に、最後に指示をした特別製の反応弾の爆発を防いでいる途中で気を失ってしまった間にも、一応は計画通りの行動をとってくれたらしいことに安堵した。
下手にあの場から引き返されでもしたら、どうなるか解ったものではないからだ。
それにしても、あの最悪の結末を迎えた聖地攻めも、もう二週間も前かと、何処か遠い気分で嘆息する。
ロケット花火をぶつけて、怒って庭先に出てきた鼻面を、引っ叩く。そして逃げる。
子供の悪戯のような作戦だったのだが概ね、形として成功していた筈だった。
失敗と言える結果になったのは、自身の―――自身に対する、見積もりが甘すぎた事。
光鷹翼の使用が、あれほど消耗するものだとは流石に解らなかった。
朦朧とした意識のままでの激闘、無茶に無茶を重ねた結末は、予想し得ない―――予想したくなかった、最悪の結末に到達した。
「……剣士殿」
奪われた―――敵に。樹雷の至宝たるべき少年が。
状況の解釈には幾らかの視点はあるだろうが、自分が原因の一つになったと言う事実は変わらない。
こうなると解っていれば、もう少しやりようがあった筈だと悔恨の念ばかりが沸いてくる。
「シュリフォン側の国境は、現在厳戒態勢で封鎖中だ。聖地は最後の大爆発の後、岩盤の崩落が起こって巨大な岩山のような状態になっているらしいが―――どうも、シトレイユからの敵の増援が、復旧作業を開始しているらしい」
大地下深度の施設を発掘しようとしているのではないかと、アウラは暗い瞳で告げた。
その口調に労わりのようなものが見えたので、返って意地になって、振り切るように冷徹に言葉を吐いた。
「なら、ババルンは生きているな。出なければ、わざわざガイアと聖機神を掘り出す必要が無い。ババルンが生きているなら、あのドールとか言うのと、当然、剣士殿も生きている筈だ。―――使い道がなければ、初めから奪いはしない」
「―――そうか」
その答えに何を思ったのか、アウラは短くそれだけを呟いた。
「結局、私の愚痴に付き合ってもらっただけだな、やはり。すまなかったな、起き抜けに疲れる話を―――」
アウラは医者を呼んでくると、それだけを言ってそのまま部屋を後にした。
何処か気まずい空気に、耐えられなかったのかもしれない。
そして、アマギリは一人取り残された。
手元に握ったままのメモ用紙に視線を落とす。汚い字。くだらない冗談交じりで。
「―――ホント、居てほしい時に居ないな、アイツも」
顔を見せて、声を聞かせて欲しいと思いながらも―――自分から連絡する事は、多分無いんだろうなと。
余計な意地を張って損をするであろう自分を、アマギリは哂った。
※ 燃え尽き症候群、と言うかまぁ、負け試合の後のアンニュイな感じで。