【記録】
一月と二十四日と十時間十四分。それが目覚めまで要した時間。
精神状態も安定。記憶も想定の誤差範囲内。魔力値も前測定値に変化無し。
奴への報告は全ての教育プログラムを施行してから行うことにする。
当時の私の持つ最古の記憶は、今より数十年も前のこと。
紅魔館の地下深く存在する暗闇に満ちた一室。堅い石台の上にて、私は覚醒をした。
室内に存在するは、私の他に一人の男。厚手のローブを身に纏った生粋の魔法使い。その男は、目覚めたばかりの私に抑揚の無い声で告げる。
『人形。お前は今日からパチュリーと名乗り、この喜劇の舞台で踊れ。私が糸を手繰るままに、な』
男は感情を一切表に出さぬまま、自身が生みだした人形…この私の存在意義について語り始める。
私は目の前の男、一人の魔法使いに生みだされた人造生命体であること。私の為すべきことは男の傀儡として存在すること。
男の為に生き、男の為に死ぬ。それが私に与えられた命令。それだけしか許されない、それだけの為に存在する。それが私。
目覚めた私に、男はあらゆる教育を施した。魔法使いである男は私に魔法の知識、実際の行使、必要な博学の全てを叩きこんだ。
私は男の言われるままに全てのプログラムを淡々とこなすだけ。データを処理するだけの人形、それが当時の私。
数ヶ月の時を経て、私は男の教育プログラムの全てをこなし終えた。そんな私に、男は何ひとつ言葉を与えることはなかった。
命令、報告、連絡。それらの言葉以外で私は男の言葉を耳にしたことがない。何故なら人形にそのような言葉を与える必要など無かったから。
人形は感情を持たない。人形は自己判断をしない。人形はただ言われるままに動けばいい。操り人形はただ、糸に動かされるままに。
【記録】
全ての教育プログラムを修了する。パチュリーの能力は予想以上だ。
単純な魔力値だけならば、私やアイツをも上回る。アイツがこのことを知れば喜んだのだろうか。胸を張ったのだろうか。
先日、奴にパチュリーを紹介する。私の便利な傀儡、玩具だと告げると、奴は堰を切ったように笑い、私に告げた。お前も随分狂ったものだと。
奴はどうやら私を自分と同じ狂人だと見做した様だ。都合が良い。私は奴の言葉を否定することはしなかった。
これで少なくともパチュリーが奴の手にかかることはあるまい。私の人形、壊れた玩具と見做してくれている内は。
魔法使いの主である、この館の主への謁見を果たした。スカーレット、それが魔法使いの仕える家の名。
頭を下げる私に、吸血鬼であるスカーレットは笑みを浮かべている。嫌な笑みだと思った。気持ち悪い、蔑まれている笑みだと。
人形である私にすら不快を催すこの表情、常人なら一体如何程の苦痛だろうか。その答えは、スカーレットの隣に立つ一人の少女に在った。
金色の髪を持つ、スカーレットを遥かに凌駕する妖力を内包する少女。彼女はスカーレットの見えぬ横で、表情を歪めていた。
――下種が。会話をしたこともない、接したことも無い少女。なのに、少女の心の底から紡ぐ呪詛の言葉、それが垣間見えた気がした。
謁見中、その少女に一度目があったけれど、少女は詰らないものを見るように一瞥して私から視線を逸らす。
まるでスカーレットに対する私の抱く感情を同様の想いを私に対して抱いたかのように。それが少しだけ私には悲しかった。
人形は感情を持たない。だけど私は様々な感情を抱く。だから、当時の私は思ったものだ。嗚呼、私はまだ人形として不完全なのだと。
【記録】
パチュリーをフランドールの配下とするように奴に進言する。
適当な理由をでっちあげ、それらしく語れば判断力を失っている奴に断る理由はない。私の進言はすぐに了承された。
これでいい。遅かれ早かれ、フランドールは必ず行動を起こす。奴がレミリアを塵芥のように扱う限り、フランドールは必ず実行に移す。
本来なら殺戮機械とつながりを持つレミリアの方につけたかったのだが、そこまでは高望というものか。
フランドールがこちらの思惑に気付き、パチュリーをいつの日かレミリアと繋げてくれることを望む。小娘にとっても使える駒は少しでも欲しいだろう。
魔法使いに命じられ、私は先日謁見で会ったスカーレットの娘、フランドールの配下として働くことになった。
恭しく一礼し、挨拶をする私に、フランドールは先日同様つまらなそうなモノを見る目をするだけで何も言葉を返さなかった。
それから私は、フランドールの行動する後ろを少し離れてついていくだけ。何故なら魔法使いにそう命じられたから。他に何も命じられなかったから。
そんな私に、フランドールはある日一言だけ言葉を投げかけた。
『お前にとってノーレッジとはどういう存在なんだ。
命令をくれるご主人様か?自身を縛る怨む対象か?それとも、そんな様になっても尚お前は奴を――呼べるのか』
彼女の問いかけに対し、私は返す答えを持ち得なかった。何故ならノーレッジという人間を知らなかったから。
私は知らない。ノーレッジなんて存在は知らない。だけど、その響きは酷く懐かしい気がした。
何処かで聞いた、その優しい響き。だけど、私は知らない。今の私の知識の中にその単語は意味を為し得ない。
だから私は表情を変えぬまま、淡々と返答を返した。
『その問いに対する答えを私は持ちません。何故なら私はノーレッジなんて人物を知りませんから。
私に在るのは主である魔法使いの男の命令だけ。その男の命令、フランドール様の傍に居ること、それだけが今の私の全て』
『――!お前…そうか、そういうことか。ノーレッジ…馬鹿な男ね』
私の答えに表情を少しだけ歪めたものの、それ以上フランドールから言葉が返ってくることはなかった。
その日以来、フランドールが私を邪険にするような態度を取ることはなくなった。
フランドールに命じられるままに、私は日常を過ごすことになる。
【記録】
私の目的がフランドールに知られたが、計画には何の支障もない。
私の狙いがフランドールにとって益以外生まぬのだから、私の邪魔をすることもない。フランドールは私を利用するだろうし、私も利用させてもらう。
奴がこの世界とは異なる閉ざされた世界、幻想郷への移転と、世界への侵略を決意した。
従者たちも乗り気で、私の反対意見など耳にも入れようとしない。愚かな。最古の妖怪達が跋扈する世界を相手に戦争するなど。
…潮時なのだろう。これは恐らく分岐点。間違いなく私達は八雲達に敗北を喫するだろう。そして弱体化した私達をフランドールが見逃す筈がない。
これは好機。フランドールの要求も日増しに強くなっている。けれど、私は首を縦に振れない。振ることが出来ない。
愚かだと思う。馬鹿なことだとは思う。それでも私は裏切れない。殺したい程に憎くとも、殺す為の道程を描きながらも、私は最後まで裏切ることが出来ないのだ。
奴を…全てを失い、そして私の全てを奪ったスカーレットを、それでも私は…
その日、私は物語に出会った。空想話やお伽話にしか存在しない、紙の中のお姫様。
フランドールより、紅魔館にて妖怪達から殺戮機械と恐れられている紅髪鬼に接触しろとの命令を受け、その日私は紅魔館の最上階へと向かっていた。
そして、最上階のテラスまで辿り着いた私の視界に入った光景は筆舌にし難いものだった。
女の子。それはフランドールによく似た、小さな小さな女の子。
その女の子が、紅髪鬼相手に大輪の笑顔を咲かせながら何やら雑談に興じていた。ただそれだけの光景。
けれど、その光景から私は目を逸らすことができなかった。何故ならそれは私の知らないモノが凝縮された光景で。
全身の身振り手振りを使って紅髪鬼に楽しげに話をする少女。それはどこまでも楽しそうで、どこまでも幸せが詰っていて。
紅魔館の地下室で生まれ、これまで生きてきた私が今まで見たことのない表情。それは無邪気に笑う誰かの笑顔。
これまで人形として生きてきた私が知りうることの出来なかった姿。それは他者を楽しくさせる優しい空気。
知らない。こんな世界を私は知らない。私が知る世界はいつも命令と嘲笑と欲望に塗れた自分勝手な世界。
あの紅魔館(せかい)でこんな風に生きる人を私は見たことがない。あの紅魔館(せかい)でこんなモノを私は触れたことがない。
知らない世界。知らない空気。それなのに、どうして私はこんなにも惹かれる。どうして私はこんなにも憧れる。
知らない。知らない。それは本当に?私は本当に知らないの?こんな世界を、私は、本当に触れたことがないのか。
小さく生じた頭痛を抑えたまま、私は少女が去るまでの間、二人の生み出す世界をずっとずっと眺め続けていた。
その光景を眺めながら、私は何故か心の中で酷く羨望を感じていた。その光景から、お前は住む世界が違うのだと言われているようで。
やがて、少女が去り、それを見届けた後、紅髪鬼が私の方を振り返り、言葉をかける。どうやらずっと気付いていたらしい。
『覗きとは感心しないわね。お前がフランお嬢様の言っていた魔女かしら』
『あの…今の娘は…』
紅髪鬼の言葉への返答、その言葉に彼女は驚いたような表情を見せる。だが、それ以上に驚いたのは私の方だ。
どうして私が他人のことなど気にしているのか。それも先ほど外から眺めていただけの少女を。
少し間をおいて、私は自分が生まれて初めて他者に興味を抱いていることを知る。馬鹿な。どうして。唯の人形である私が。
そんな私に、彼女は少し考える仕草を見せた後、軽く首を振って言葉を紡ぐ。
『成程…話に聞いた通り、確かに同類ね。お前も私やフランお嬢様と同じ、壊れた生き物だよ』
『壊れた…生き物…?』
『フランお嬢様はそう判断したんだろうけれど、私はお前をまだ判断した訳じゃないからね。
だからこれは忠告よ、壊れた魔女。もしお前がレミリアお嬢様に害を為す存在なら、私がお前を殺してあげる』
それだけを言い残し、紅髪鬼は私から興味を失したように視線を外した。
そんな彼女に何も言い返せず、私は館へと戻っていく。先ほどまでテラスにいた少女の笑顔を思い出しながら。
――また、会いたいな。ただ、そんなことをポツリと呟いて。
【記録】
幻想郷への侵攻の準備が整いつつある。欧州中の奴の息のかかった配下を全て集めて暴れまわるつもりらしい。
その情報をフランドールに流すと、楽しそうに愉悦を零していた。理由を訊くと『面倒が省けるから』とのこと。
やはりフランドールは八雲達を利用して、奴の主たる配下を殺し尽すつもりなのだろう。いくらフランドールの力が奴より強くとも、
その配下全てを敵に回すのは骨が折れるからだ。そして何より、レミリアの安全を完全に保証出来ないから博打にも出られないのだろう。
そう返すと、フランドールは笑って連日と同じ誘い言葉を紡ぐ。だが、私はやはり首を横に振った。
呆れるように言うフランドールの言葉が胸に刺さる。彼女の言うように泣いてくれるのだろうか。こんなどうしようもない私の為に、あの娘は…
『悩むくらいなら声をかければいいじゃない。お嬢様は喜ぶと思うわよ。ただでさえ話し相手が少ないんだもの』
美鈴の言葉に、私はふるふると首を振る。そんなこと、出来ない。そんな勇気、私にない。
そんな私に、美鈴は今日何度目ともしれない溜息をつく。心底呆れられてるのは自分でも分かる。でも、どうしようもない。
あの夜、出会った少女――レミリア・スカーレットとの邂逅から一月。私は夜になると、テラスまで来ることが日常になっていた。
夜に訪れ、レミリアと美鈴の会話を眺め、レミリアが部屋に戻った後で美鈴と会話する。そんな日々を私は繰り返していた。
どうしてテラスに毎日訪れているのか、最初は自分でも分からなかった。フランドールに命令された訳でもない、だけど足が気付けば勝手に動いていた。
そして、気付けば美鈴とも会話をするようになっていた。会話と言っても、美鈴が話して、私が短く答えたりするだけ。
他人と雑談に興じるような教育プログラムを私は受けていない。だから雑談なんて出来ない。そんな私を理解しているのか、
美鈴も自分から話題を提起してくれる。私はそれを返すだけ。本当に不毛な会話。だけど、私にはそんな会話が嬉しく思えた。
美鈴と会話をする切っ掛けとなったのは、テラスを覗き初めて三日目のこと。レミリアが帰宅するのを見届けて私も戻ろうとしたところを
美鈴に捕まった。そして、そこから会話に無理矢理付き合わされるようになる。
どうしてそんなことをしたのか美鈴に一度理由を訊くと、美鈴曰く『大昔の自分を見てるようで何かイライラしたから』だそうだ。訳が分からない。
その日より、美鈴と会話を続けているのだけれど、その内容はやはりレミリアのこと。
美鈴の話から、初めて知ることが出来たレミリアの情報。レミリアがスカーレットの長女であること、フランドールの姉であること、
理由あって館に半軟禁状態にあること。そして…その理由が、彼女がスカーレットの娘であるのに関わらず、何の力も持たないからということ。
故にレミリアに対して目を向ける者など館にはいない。落ちこぼれであり、塵ほどの価値もない吸血鬼に一体誰が手を差し出すのだろう。
そんな話を聞き、半信半疑の私に美鈴は怒りを宿しながら言葉を紡いだ。
『この館は汚れしか存在しない。お嬢様に触れさせたくない、唾棄すべき屑どもしか。
正直なところ、フランお嬢様の存在がなければ、有無を言わせず私はレミリアお嬢様を館から連れ出していたわ』
汚れ。そう美鈴が表現したのは、きっとスカーレットとそれに群がる妖怪達。
成程、と思う。だからこそ美鈴はこんな風にレミリアの部屋の近くで待機しているのか。彼女を護る為に、彼女を汚れに触れさせない為に。
私と初めて会ったとき、強く釘を刺してきたのもそれが理由。この世界は何の力も持たない純粋な者には残酷過ぎるから。
あんな汚れに囲まれて生きていく、それはどんなに過酷なことなのだろう。どんなに辛いことなのだろう。
あのような奴等に囲まれ続けて、己の全てを噛み殺して――フランドールは、どんな気持ちであの場にいるんだろう。
レミリアに興味を抱く私。だけど、私の頭に描かれたのは、先に出会ったご主人様。
冷酷で、冷淡で、無慈悲な少女。あの誇り高き吸血鬼(おんなのこ)は、一体どんな気持ちでスカーレットの傍に立つのだろう。
こんなことを人形に訊ねられて、フランドールは不快に思うだろうか。人形如きが、他人の気持ちなど慮るだなんて、そんな行為を彼女は――
【記録】
幻想郷への紅魔館の移転を終え、幻想郷中に侵攻を開始する。
血気盛んな連中が率先して館から出て行くのは好都合だ。これでスカーレットが私を無理に戦場に立たせることもない。
私はまだ死ねない。私の命を代価として支払うのは八雲紫に対してなどではない。私が支払うべき相手は既に決まっているのだから。
パチュリーが体調を崩す。喘息と発熱が収まらない。地下室にてしばらく養生させる。
調査の結果、魔力回路に異常を感知。応急処置を施したものの、肝心の根源を取り除くには至らない。
パチュリーにはしばし休息を与え、その間に処置を施すことをフランドールに通達する。どうやらフランドールはフランドールで
これを好機だと捉え、レミリアとパチュリーを接触させる腹積もりらしい。こちらとしても無理さえさせなければ何も言うことはない。
私の言葉を聞き、フランドールが笑った。その笑顔に私は少しばかり驚いた。その笑顔があまりにもフランドールの母親に似ていて。
スカーレット、お前は本当に愚かだ。お前の失い死に物狂いで求めているものはここに在るというのに、お前はそのことに気付かない。気付けない。
…それは私も同じことか。だからこそ、お前には私が相応しい。妻達の傍ではなく、地獄の釜で共に呪詛を紡ぎ合う末路こそが、私達には。
体調を崩した。身体の調子がおかしい。男が言うには、私の身体の調整が上手くいっていないとのこと。
調整を終えるまで、私は地下の一室にて安静することになる。薄暗い明りとベッドしか置かれていない、そんな部屋。
まるで棺桶のような部屋で、私は数日の間一人で過ごすことになる。見慣れた天井を見上げては、この環境に私は思う。ただ一人、『寂しい』と。
身体の調子の悪さよりも、喘息の辛さよりも、身体の熱の熱さよりも、何よりも思う。『誰かに傍にいてほしい』と。
…私は本当に壊れてしまったのかもしれない。こんな馬鹿なこと、人形は思わない。それなのにどうして私は…
【記録】
パチュリーの身体が回復しない。悪化の一途を辿る。魔力そのものに拒絶反応。このような症状、過去に例が無い。
治癒が完全じゃなかったのか。あいつの一部で欠損を補ったことへの反動が今になって現れているのか。
とにかく手を考えなければ。原因は身体に溢れる魔力と身体の干渉負荷、そこに一枚恒久的な魔力、それも親和性の高いモノを噛ませれば…
奴から呼び出しが来たが無視する。そのような児戯に戯れている暇はない。
フランドールが来訪したが事情を話して後回しにしてくれと告げる。今は本当に他人に構っている場合などではないのだから。
探せ。何か方法は必ず在る筈だ。なんとしてもパチュリーを復調させる。その為にはどんな手でも使ってやる。
例え神に逆らおうと地獄に落ちようとこの身が滅びようと構うものか。どんな禁忌にも手を出そう。何をしても、パチュリーだけは。
その日、私の未来を決める一つの再会が訪れた。
調整の為、地下に一人横になり続ける私のもとに一人の少女が訪れる。
否、訪れるという表現はおかしいかもしれない。何故ならその少女もまた体調の不良でこの場に運ばれてきたのだから。
その少女の名はレミリア。紅魔館の主の第一子、レミリア・スカーレット。
私が触れてみたいと思った少女。接してみたいと思いながらも、勇気が足りなくて叶わなかった女の子。
私の隣のベッドに寝かせられ、辛そうに魘されている少女。どうやら意識はあるものの、私の存在を認知する程の余裕はないらしい。
少女の気付かぬ内に、私は精査の魔法を彼女に走らせる。…軽い感冒、命に別条無し。熱も微弱…症状的にはむしろ軽過ぎるくらい。
それなのに彼女がここまで魘されるのは、恐らく彼女が吸血鬼だから。吸血鬼は風邪などひかない。何故ならそういう存在だから。
…ならばどうして少女は。そこまで考え、私は美鈴の言葉を思い出す。そうだ、この少女はフランドールやスカーレットとは違うんだ。
だから人間がかかる程度の病に魘される。その程度の風邪が少女には酷く感じられてしまう。だからこその今の姿なのだと。
その少女の姿に、私は自分の辛い症状のことも忘れ、治癒呪文を唱える。少女の表情が少し和らいだのを確認した直後、私の意識は急激な
身体の負担増によって吹き飛ぶことになる。あの男の忠告、自分の許可無く治癒魔法のような高位魔法を使うなと命令されていたことを今になって思い出す。
人形が犯した生まれて初めての命令違反。そのことへの驚きよりも、それが少女の為の行動であることに喜ぶ自分がいた。
意識を失いながら、私は一人思う。――次に目覚めたとき、今度こそこの娘とお話しよう、と。
【記録】
症状悪化。対処。移植。成功。
『大丈夫?私の顔が認識できる?ほら、指は何本?』
目覚めた私を待っていたのは、隣のベッドで病に魘されていた筈の少女。
私の顔を覗き込みながら、心配そうに訊ねかけてくる少女。何だろう、この状況は。私が起き上がろうとすると、慌てて少女が静止する。
『こら、何無理しようとしてるのよ。まだ寝てなきゃ駄目よ。貴女はここ四日間眠りっぱなしだったんだから』
『…四日、間?』
『そうよ。目が覚めたと思ったら、知らない部屋で隣のベッドで貴女が魘されてたんだもん。びっくりしたわよ。
事情を聞こうにも貴女は起きないし、館医みたいな男は『目覚めたそれに事情を聞いてください』しか言わないし…』
話し相手がいなくて暇だし寂しいし辛かったんだからね、そう文句を零す少女に私は言葉を返せない。
事情も何も、私は彼女が言うには今まで眠り続けていたのだ。それをどうして事情を説明することが出来るだろう。
そもそも事情を知りたいのはこちらの方だ。そんな私の考えも知らずに、少女は楽しげに微笑みながら言葉を続ける。
『まあ、そんなことは置いといて。私、凄く待ってたのよ』
『待っていた?』
『そう。私は貴女が目覚めるのをずっとずっと待ってたの。
だって、そうじゃない。気付いたら知らない部屋で、その部屋には知らない女の子が傍にいて。これで貴女に興味を持たないなんて嘘よ。
貴女、紅魔館に住んでるの?名前は?お父様に仕えてるの?種族は?年齢は?』
歓喜を爆発させて言葉を並べ立てる女の子に、私は困惑するしか出来ない。
私のことをあれこれ他人に訊かれたのは初めてだから、対処できない。こんなとき、どうすればいいのか分からない。
でも、女の子の質問は全然不快なんかじゃなくて。いつも影から見てるだけだった女の子、彼女が私のことを知ろうとしてくれている。
ただ、それだけのこと。それだけのことなのに、何故かとても嬉しいような気がして。胸が暖かくなるような気がして。
一方的に言葉をまくしたてる少女が、『あ』と何かに気付いたように、こほんと咳払いを一つして再び口を開く。
『病み上がりの相手に対する態度じゃなかったわね。ごめんなさい』
『えっと…気にしてないから』
『そう言って貰えると助かるわ。ちょっと興奮し過ぎたみたい。
でも、仕方ないと思わない?だって私、館でお話しするのって美鈴とフラン以外貴女で三人目だもの』
『――え』
『それ以外の人と私、お話したことがないのよ。だから興奮しちゃったの。本当に悪気はなかったのよ』
少女の言葉、それに酷く違和感を覚えた。美鈴とフランドール、だけ?
彼女はこの紅魔館の主の長姉で在る筈。確かに美鈴は言っていた、少女に力がないこと。そのことで館中の連中から蔑まれていること。
だけど…だけど、この少女はスカーレットの娘なのだ。親もいて、それなのにどうして…
『私はレミリア。レミリア・スカーレット。この館の主であるスカーレットの長姉といえば分かりやすいかしら』
『わ…私はパチュリー。ファミリーネームは無いわ』
『パチュリー、パチュリーね。…うん、言い難いわね!貴女の名前、素敵な名前だけど呼び難い。
ちょっと待って、今呼び方を考えるから。パチュリ…パッチュリ…パチェリー…ぱっつぁん…パチョレック…オルタナティヴ…』
『あの…貴女、スカーレットの娘なのよね』
『うん?そうよ、さっきそう言ったじゃない。それと私のことはレミリアって呼んで頂戴。勿論、愛称なんて大歓迎よ。
愛称で呼び合うのって、何か友達っぽいじゃない?私、友達ゼロだから初めて友達出来そうで嬉しくて嬉しくて…』
『あ、ありがとう…じゃなくて。貴女、スカーレットの娘だったら、父親とお話したり…』
『無いわよ?あれ?そういえば私、お父様と会話したことないわね。生まれて一度も…あれ?ないわね。
まあ、そんな訳で貴女が私の人生のお話し相手三人目。私が人生で声をきいた三人目の相手だわ』
笑顔で語る少女。その存在に私は喜びよりも先に恐怖を感じてしまった。
――歪。この少女を包み込む違和感と綻び、それを知ってしまったから。少女を…レミリアを取り巻く環境の恐ろしさを。
理由は分からないけれど、レミリアは他者の存在を『忘れさせられて』いる。己の違和感を違和感とも認識しえない程の力で。
だからこそ、レミリアの話す言葉にはズレが生じる。彼女の認識と現実との乖離が生まれている。
彼女には父親が居る。けれど、レミリアは会話をしたことがないという。そんな筈がない。娘に一度も会わない父などいるものか。
彼女は私に『人生で声を聞いた三人目の相手』だと言った。そんな筈はない。何故なら彼女は先ほど『館医みたいな男と話した』と言った。
恐らく彼女は強い暗示をかけられている。術者が命じた相手以外との記憶の一切を残さないように、残らないように。
それ以外の記憶の一切を捨て去るように。その答えに辿り着き、私は生じた全身の悪寒を必死に抑えつける。怖いと思った。恐ろしいと思った。
この少女の笑顔。それを取り巻く周囲の薄汚い獣達。そんな獣達から少女を護る為の絡みつく狂気。
少女を取り巻くそれらの事象。その結果生じた少女の笑顔。それが酷く優しく、そして何より残酷な光景に思えて。
【記録】
調査の結果、パチュリーは完全に快方に向かうことが分かった。
これから先、発熱や喘息といった症状がパチュリーに生じることは二度とないだろう。そうさせない為の処置は施したつもりだ。
後のことはパチュリー自身の問題だ。何せパチュリーとアイツに加え、私の生涯で築き上げた総魔力だ。使いこなすには相応のことをする必要があるだろう。
狂気に身を委ね追い続けたが故の結果が最強の魔法使い。求めずして得られたトップワンの位。なんとも皮肉なものだ。
奴が八雲紫に敗北を喫した。紅魔館の残存勢力も一割を切るほどに殺し尽された。
機は熟したか。奴の力も弱まり、奴の有力な配下も残るは片手で数える程。もはやこのチャンスをフランドールが見逃す筈がない。
その証拠にフランドールが最後通牒を出してきた。その誘いに私は最後まで首を縦に振ることは出来なかった。
苦々しく表情を歪めるフランドールに申し訳なく思う。フランドールは私を生かしたいのだろう。だが、そんなことは出来ない。許されない。
…本当、嫌な役目を押し付ける。汚い大人だ。全てをあの少女に押し付け、私は奴と共に楽になろうとするのだから。
本来ならば何も知らぬまま無垢な少女のままでいられただろうに。だからフランドール、私に情けなどかけてくれるな。パチュリーと自身を重ね合わせるな。
レミリアの為に、この腐りきった館の全てから解放される為に、己が未来の為に、私をその手で。
私が目覚めて二週間。その期間の間、私はずっとレミィと共にいた。
レミィの方は完全に風邪が完治していたのだけれど、私がまだ地下にいなければいけないことを知ると
『私もパチェの傍にいる。友達がつらいときに傍にいるのは当然でしょ』と言ってくれた。その言葉が本当に嬉しくて、泣きそうになってしまった。
それからの間、私はずっとレミィとお話をした。互いのこと、館のこと、そして未来のこと…沢山のことを話し合った。
最初は何を話せばいいのか分からず、一方的に話を聞くだけだった私も、レミィに促されて自分から話すようになった。
話慣れていない何一つ面白いことを言えない私の話を、レミィは文句ひとつ言わずに全て聞いてくれた。私なんかの話に、時に笑い、
時に怒り、時に驚き、時に悲しみ…私と沢山の感情を共有してくれた。私と沢山の想いを共有してくれた。
――嬉しかった。レミィが傍で笑ってくれることが。私を見てくれることが。
――嬉しかった。誰かとお話をして、こんな温かい気持ちになれることが。
――嬉しかった。レミィと話せば話すほど、自分に生が満ち溢れている気がした。
レミィと一緒にいる、それだけで私は人形から解放されているような気がした。
彼女の前で私は全てを曝した。笑顔、涙、怒り、悲しみ。以前の私なら何ひとつ表に出せなかったモノ。感情。
その全てがレミィの前では現すことが出来た。レミィの前でなら、私が私で在ることから解放された。
人形の私ではない、もう一人の私。レミィの前で躍動する、もう一人の私。そんな自分が生まれた。
私の目の前で何ひとつ穢れなく笑う少女。その少女が与えてくれる暖かな気持ち。ああ、成程、今ならば美鈴の言っていたことの意味がよく分かる。
これは私達にとって毒だ。甘美過ぎる、これまでの自分を捨て去ることに何の躊躇も擁かなくなるほどの甘美な毒。
レミィは私達にとって眩し過ぎる。私達のような地の底で泥を啜り生きるような、そんな壊れた存在にとって、レミィは輝かし過ぎるのだ。
例えるなら暖かな陽光。植物の誰もがそれを求めるように、私達のような連中はレミィを見て堪らなくなる。
レミィのように、どこまでも穢れなき優しい女の子。
自分が求める言葉を何ひとつ余すことなく伝えてくれる優しい女の子。
そんな彼女にどうしても触れたくなるのだ。こんな自分でも、こんな私でも彼女に手を掴んで貰いたくて――
…そう、今なら気持が分かる。誰よりも痛く、間違いなく美鈴よりも遥かに強く理解出来る。
この優しい太陽を護る為に、この笑顔を護る為に――フランドールがどれだけその身に汚れを纏い狂気に身を窶しているのかが。
彼女は決めている。覚悟を決めてしまっている。
レミィを護る為にならば、どんなことでもしてみせると。どんなに己が穢れても、汚くなっても構わないと。
私はレミィを裏切らない。
レミィは私を変えてくれた女の子。私にとって沢山のはじめてをくれた大切な親友。
そう、私はレミィを裏切らない。そして――それ以上にフランドールを裏切れない。
レミィを愛しく思う。愛しているのだと自覚する。だからこそ、私は…愛する人の為にその身を捨てた女の子の味方になる。
愛する親友を護る為に、あの男の人形をやめる。私はレミィの笑顔の為に…フランドールの力となろう。
【記録】
間違いなく、これは私の記す最後の記録となるだろう。
今しがた、スカーレットの命の気配が消え去った。やったのは間違いなくフランドールだろう。
…逝ったか、スカーレット。やっとお前は誇り高き吸血鬼に戻れるのか。私達が憧れ、誇りにした偉大な吸血鬼へと。
心配ない、すぐに私もそちらにいく。何、旗揚げからの付き合いだ。地獄の旅路も二人ならば飽きることはなかろうよ。
これでようやく永い悪夢から解放される。私もお前も、ようやく…本当に、本当に永い悪夢だった。
お前の妻が死に、フランドールが狂い、レミリアが禁呪を侵し、アイツと娘がお前の引き起こした事故に巻き込まれ…本当に、全てが悪夢だった。
だが、それも終わりだ。私の死を以って全てが終わる。全ての元凶であるお前と私が去り、紅魔館は誇りを取り戻す。
お前の娘は立ち、私の娘は事故の傷も完全に癒えた。操作した記憶も直に取り戻すだろう。私達が去り、紅魔館は再び歩み始めるんだ。
誇れ、スカーレット。お前の娘達は本当に優秀だった。レミリアはお前も知るところだろうが、お前が狂ってからのフランドールは
昔のお前をも凌駕するほどだ。もし、まともな未来が存在していたら、お前はどちらを後継者にするか頭を悩ませていたのだろうか。
ああ、実に優秀な娘達だ…お前も私も、本当に娘に恵まれた。
互いに汚れた身だ。己が娘に『お前は私の誇りだ』などと告げることなど出来まいよ。なればこそ、地獄の悪鬼共に語ろうではないか。
私達の娘は最高の娘だと。地獄の釜の底で笑い合おう、娘の未来に幸あれと。
フランドールが行動を起こすと同時に、私も行動を起こす。
私が向かうは地下の一室。私が狙うはスカーレットの右腕にして、この館に残された最後の実力者。
その男のもとに私が向かう理由は唯一つ――未来の為に、あの男を殺すこと。全てをリセットする為に、私は生みの親の男を殺すのだ。
この紅魔館の大掃除を担うのは私とフランドールだけ。美鈴は不測の事態に備えてレミィについて貰っている。
本来なら、フランドール一人で行うつもりだったらしいけれど、そこに私が無理やり押し通った。いくらフランドールでも、
スカーレットとあの男を同時に相手に出来るとは思わなかったから。スカーレットの実力は勿論のこと、あの男は魔法使いとして一流。
だからこそ、私が抑える。私が殺す。人形である私を生みだしたあの男。恩を仇で返すことは重々理解している。それでも私が殺す。
最後の最後までフランドールは認めようとしなかったけれど、私は自分の意思を押し通した。
だって、嫌だったから。フランドールがこれ以上一人で手を汚し続けることが。その汚れを分かち合いたいと思った。
レミィを護る為に、レミィの未来の為に、レミィの笑顔を護る為に、私は綺麗でい続けることなんて望まない。
…いいえ、違う。レミィの為、だなんて唯の逃げだ。レミィに責任を転嫁してる。私がそうしたいから、私の未来の為に、私は生みの親を殺すのだ。
階段を下り終え、地下の扉を開くと、そこに私の目的の男は居た。
私の登場に目を見開き驚いた後、男は口元を歪めて嘲笑して私に告げる。
『何をしにきた、人形。命令ならフランドールに訊けと言っておいた筈だが』
『そのフランドールの手伝いにきたのよ。でも、この場にいるのは私の意思。他の誰でもない、私だけの』
『人形風情が口を利く。貴様に自立など誰が求めた?人形は人形のままに主の命令だけを訊いていればいい』
『そうね…人形で居続けるなら、それもよかった。だけど、私は人形じゃない。私は人形なんかじゃないもの。
私はレミィが好き。大好き。だからレミィの力になりたい。レミィの傍に居たい。レミィといつまでも過ごしたい。
ねえ、貴方は私を作りだしたんでしょう?だったら教えて頂戴。私を人形と断ずるのなら、私の胸から溢れるこの感情は何?
抑えても抑えてもあふれ出るこの想いを知ってもなお、私は人形で在り続けるというの?』
『…下らんな。壊れた人形になど何の価値も無い。パチュリー、お前は廃棄だ。
命令を受け付けない人形など必要ない。お前の代わりなどいくらでも生み出せる。裏切り者の代わりなどいくらでも、な』
『ッ!代わりなんていない!私は私一人、私はここにいる!パチュリーは私一人よ!』
『だが私は認めない。私が存在する限り、パチュリーは無限に作り出せる。私がいる限りお前は世界に一つの存在になれやしない』
『だったら――だったら貴女を殺して私はたった一人のパチュリーになる!パチュリーは私だけよ!』
私の絶叫を皮切りに、私と男は互いの魔法を全力で放ちあう。
男の魔力は私と同等かそれ以上、だからこそ勝負は厳しいものになる――そんな予想を覆し、私の魔法は男の魔法を容赦なく呑み込んでいった。
まるで男の魔力が失われてしまったかのように。まるで私の魔力が遥かに底上げされてしまっているかのように。
そう…以前までには無かった力、それが今の私には在った。その存在に気付いたのは本当に今更になって。
私の魔力に飲み込まれる刹那の男の顔――これまで見たことがない、穏やかな優しい表情を見てしまって、私は全てを悟ってしまった。
初めて私が目を覚ました時の男の顔。私に魔法を教えるときの男の顔。私が身体の不調を訴えたときの男の顔。あの表情の全ての意味を。
そして、男の正体。その男が何者なのかを知ってしまった。『思い出して』しまう前に、知ってしまったのだ。
『…そうだ、他の者などいるものか。世界が認めずとも私が認めるのはお前だけだ。
私とアイツの娘はお前だけ…私達の愛するパチュリー・ノーレッジはお前だけだったよ』
あの男は――お父様は、本当に酷い『大嘘つき』なんだって。
【記録】
最後に記す。この日記の保管場所を読み解く者…恐らくはフランドールだろうか。
もしこの日記をフランドールが手にしたのならば、私の最後の願いをきいてほしい。
これまで散々パチュリーのことを頼んでおいて、『またか』と思うかもしれないが、そこは親馬鹿と見下して見逃してほしい。
私が頼むのは、ただ一つ。パチュリーをそれとなく誘導してほしい。
パチュリーの目指すべき魔法使いの姿を『裏切りを誇れる魔法使い』に。
フランドールは重々承知だろうが、私は最後の最後まで奴を裏切れなかった。奴を殺して自分だけ生きる道を選べなかった。
真に奴のことを考えるなら、私は奴を裏切り、幼いレミリアとフランドールを連れて館から逃げるべきだったのだ。
だけど、私は駄目だった。友の為に何が大切かを知っていながら、行動に移せなかった。その結果が現状だ。
だからこそ、パチュリーに望みたい。私のような愚か者ではない、もう一つの未来。友の為に友を裏切れる、
そんな裏切りを誇りだと思える魔法使いになることを。
他人に後ろ指を指されるかもしれない。他人に蔑まれるかもしれない。けれど、そんなことを恐れないで欲しい。
何故なら私は知っているから。大切な者の為に全てを裏切り、大切な者(あね)を護り通す小さな勇者(おんなのこ)を私は知っているから。
だから私は娘に望む。大切な人の為に、全ての柵を、世界を裏切れるような、そんな魔法使いになってくれることを。
最後になるが、一筆だけ残させて欲しい。自分勝手だと分かっている。戯けたことだと分かっている。
それでも私は残したい。他人の目に見える形で、死に向かう今も己の気持ちが最後まで真実であったと。
私は娘を――パチュリーを誰よりも愛している。
本当に駄目な親ではあったけれど、私もアイツも、心からお前のことを愛していたよ。
願わくば、私達の築けなかった未来を…幸福な未来を歩まん事を。
「…勝手ね。本当、勝手過ぎる」
書を閉じ、私は一人息をつく。
言いたいことは山ほどある。それほど図書館中に響き渡る程の慟哭を伴って。
けれど、決して口にはしない。それはあの人の生き方を汚すように感じられたから。
私をスカーレットから護る為に、己が誇りも何もかも捨て去って、私に嫌われてまで私を護り通しくれたあの人。
私は袖で目元をゴシゴシと強く拭き、書を巧妙な認識阻害魔法のかけられた棚に収納し、軽く深呼吸をする。
軽く気持ちを入れ替え、私はゆっくりと目を見開く。大丈夫、変わりない。私の見える世界は何ひとつ変わらない。
「さて…と。そろそろお茶の時間だし、遅れないように向かわないとね。レミィがいじけちゃうから」
軽く笑みを零し、私は図書館を後にする。
言いたいことは沢山ある。ぶつけたい不満は山ほどある。だけど、私は絶対にそれを口にしない。
だって、そうしちゃうと今、こうして私の得た世界を否定することになるから。今の私の幸せを否定することになるから。
あの人の行動、思惑、生き方、その全てが今の私の幸せに在る。だったら、誇らないと。私を護ってくれた人――お父様がくれた、私の幸せ。
だから最後に一つだけ約束してあげよう。お父様の最期の言葉に思いを馳せながら、私は一人言葉を紡ぐ。
「愛しき親友(レミィ)と気高き悪友(フランドール)の為に、
精々必死に目指してあげるとしましょうか――ノーレッジ(お父様)の意思を継ぎ、『裏切りを誇れる魔法使い』とやらに、ね」
二人を絶対に裏切らない魔女ではなく、二人の為に裏切ることの出来る魔女に。
目指すと言った自分で言っておいて笑ってしまう。ああ、成程、その役割は本当によく私に似合ってる。性格が悪い、この私にはとても。