車駕
さて、その頃の皇帝劉協の様子は……
業に向かう袁紹軍の先頭付近に豪華な車が二台走っている。
来る時は一台だったので、一台増えた勘定になる。
来る時に車に乗っていたのは袁紹。
そして、今車に乗っているのは一方が袁紹、これは来たときと同じだが、もう一台が陛下。
オリジナルの車駕(皇帝用の車)は焼失してしまったので、洛陽から持ち出すことが出来た車の一台を車駕として使っている。
袁紹の車よりみすぼらしいが、まあ袁紹車は袁紹個人の車なのであきらめてもらおう。
そこまで、袁紹、何でも皇帝のためにするという心意気は持っていない。
宦官のように骨の髄まで利用してしまおうということはないが、いてもいいですわよ!程度の感覚だろう。
まあ、一応皇帝だから尊重はするだろうけど、意見が対立したら、どうなるかはわからない。
この皇帝車に乗っているのが皇帝劉協と、その大事な侍女ということになっている董卓。
董卓は大事な侍女だと言われると、確かにその通り!という雰囲気を湛えているので、誰もそれを疑わない。
董卓が遠路歩いたり馬に乗ったりするのは無理っぽい。というより、想像できないから、陛下と一緒でよかったろう。
その二人の会話。
「月。朕が業に赴いたら、どんな運命が待っていると思いますか?」
「はい、献様。お会いした袁紹様は少し高慢な印象を持った方でしたが、それでも十常侍のように自分の我侭のためなら何でもすると言う雰囲気は感じられませんでした。
ですから、洛陽にいたときのように悲惨なことになることは無いと思います。
それに、部下の方々は皆良心的に見えました」
「そうですね。
朕には諸国の様子がほとんど伝えられていなかったのですが、それでも冀州は袁紹が善政を治めているという噂は耳に届きました。
宦官はそれを苦々しそうに話していたものでした。
実際に善政が行われているようでしたら、袁紹に全てを任せたいと思います」
「それがいいかもしれません。
私も権力闘争に巻き込まれるのは疲れてしまいました」
「ごめんなさい、月。朕のために苦労をかけましたね」
「あ、申し訳ありません、献様。そういうつもりでいったのではないのですが……」
「いえ、全ては朕の所為です。
朕がいなければ、月も雍州でもう少し静かに過ごすことができたでしょうに」
それに対する董卓の言葉はなかった。
とりあえず、田豊の心配は杞憂に終わりそうだ。
その後も、車駕は移動を続ける。
「月」
「はい、何でしょうか?献様」
「朕は生まれて初めて安堵した気持ちで時を過ごすことが出来ています。
これも袁紹のおかげなのでしょうね」
「はい、袁紹様が宦官を駆逐してくださいましたから、もう献様を政治的に利用しようとする輩はいないでしょう」
「それに、命の心配もない」
「はい。命の心配をしなくてよいというのは本当に幸せなことです」
「本当ですね」
「ところで、献様。外をご覧ください。
畑が見えてきました。
これが業の畑でしたら、あと数刻で業につくと思います」
「そうなのですか?
畑が見えたら街が近いのですか?」
「はい。人々は日々街から畑に出向きますので、あまり街から遠いところには畑は作られないのです」
「朕は皇帝といっても、そのような市井の人々の生活は全く知らなかったのです」
「仕方のないことだと思います」
「……皇帝がそれでは困ると思うのです」
劉協が皇帝として施政を行っていれば、もっとまともな漢になっていたのかもしれない。
さて、畑は見えたが、その日は董卓の予想に反して業にはつかなかった。
「月、業には着きませんでしたね」
「はい、おかしいです」
「誰かに聞いてみましょう」
劉協が車駕の外を見ると、護衛のように皇帝にぴったりとくっついている皇甫嵩が目に留まった。
「陽」
「はい、献様」
「業にはあとどのくらいで着くのでしょうか?」
「今の速さで進み続ければ、あと3~4日で着くと思われます」
「月の話では、畑が見えたら程なく街に着くということでしたが」
「はい、冀州以外ではその通りです。
しかし、袁紹は街から離れたところにも畑を作るようにして収量をあげていますから、このような街から遠く離れたところまで畑が広がっているようです。
そして、冀州では、平民全員が毎日酒を飲むことが出来るほどに麦が収穫できるらしいです」
「え?!そんなに……ですか?」
皇甫嵩の言葉に反応したのは董卓であった。
「月、平民が酒を飲むと言うのは大変なことなのですか?」
それに答えたのは董卓でなく、皇甫嵩であった。
「はい、献様。
私もその話を最初聞いたときは冗談だと思いました。
しかし、実際に黄巾党の討伐に向かうときに、私の率いた軍、全員に酒を振舞われ、麗羽の言葉がうそで無いことがわかりました。
酒をつくるには多くの食料を使いますから、それだけの食料を作ると言うことは信じられない量の麦の収穫があると言うことを示しています。
そして、それだけ酒を作っても尚、餓える民は全くいないと言うことです」
「……信じられません」
またもや董卓が感想をはさむ。
「それは、民が皆充分に食料を得ているということなのですか?」
劉協が質問する。
さすがに、皇帝も始終王宮に篭っているわけでもなく、多少は街をであるくが、洛陽の凋落振りは車から見ても明らかで、餓死者も少なからずいるだろうことが予想された。
「はい、街は活気に溢れ、餓死という言葉は終ぞ聞いたことがありませんでした」
「………陽」
「はい」
「皇帝とは何なのですか?」
「……それは」
「袁紹のような施政を行うことが皇帝の使命なのではないのですか?」
「そうかもしれませんが、皇帝は漢の象徴としてあまり細かいことに気を回さなくてもよいのではと思います」
「象徴とは何ですか?
ただいればよいのですか?
それなら、石でも玉座に据えておけばよいではないですか」
「いえ、そういうものでは……」
「先の霊帝が即位した年齢を覚えていますか?」
「確か御年12歳ではなかったかと」
「その通りです。それでは、その前の桓帝は?」
「もう少し上だったと記憶しておりますが、正確には……」
「桓帝は15歳、質帝は8歳、沖帝は2歳、順帝は11歳、安帝は13歳、殤帝は生まれて間もなく、そして和帝は10歳でした。
そんな年端もいかない子供が皇帝に据えられて象徴となったと言うことは、それを利用する宦官のような輩がいたというだけではありませんか」
皇甫嵩、何も答えられない。
「そして、皇帝に即位しても、その後は命の心配ばかり。
陽、私が洛陽でしたことはなんだか分かりますか?
今日を殺されないように生きること。それだけですよ。
政のことなど考える余裕はありませんでした」
「ですから、麗羽のところで、皇帝としての力を発揮していただきたいと思うのです」
「そうですね。そうなのかもしれません。
朕の身の振り方については、袁紹と相談しなくてはならないのかもしれませんね。
それにしても、まずは業に着いて落ち着きたいものです。
そして、業の街をこの目で見てみたいものです」
「はい、もう数日お待ちください」
皇甫嵩の言葉だけで、袁紹領の裕福さに圧倒されてしまった劉協と董卓であった。
あとがき
これから数回皇帝関係が続きます。
同時にさらに数回?女性関係の話が続きます。
呼び込んでしまったので、暫くはご容赦ください。
その後、軍事・政治関係に移る予定です。
農業は……さらに先?