―――**―――
“世界”という存在は、それそのものに感情を覚えるようにはできていない。
前提としてある、ルール。
だから人は、見えている範囲、世界を輝かせようと疾走する。
世界の色を変えることはできない。
だから、せめて。
自分の世界の色をキラキラと輝かせようとするのだ。
時には、自分のために。
時には、他人のために。
そして時には、他人の世界にまで介入して。
自分の世界を守るのは、当然かもしれない。
だが、結局、それに伴う“対価”は必要になるのだけど。
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
「ど……、どうする……、の……?」
乾いた空気の中、エリーの小声が届いた。
そんな小声でも、十全に届くほど静かな空気。
アキラは、口に含んだ砂をそのまま飲み込んだ。
「ど、どうするもあるか……!!」
突然の、“目的地との邂逅”。
アキラは言葉をなんとか吐き出した。
全員が“それ”を見上げる中、逃亡さえしない。
分かっているのだ。
あの存在が“その気”なら、逃亡など無意味だということを。
自分たちが一日がかりで進むような距離を、ルシルは一歩で蹂躙できるだろう。
月下の下、“背に付属する山脈”は、今にも星空を突きそうだ。
自分が今まで“巨大”と形容していたものは、一体何だったのだろう。
その言葉は、この存在以外に使うことは許されないような気さえする。
視界総てを埋める、その存在。
それは、ルシルは、まさに“世界”だった。
「っ、」
ルシルはどうも、今はこちらを向いているようだ。
上顎が飛び出た、鳥類のような顔立ち。
両脇にあるその黒ずんだ瞳は、あまりの巨大さに、何を見ているのか、あるいは総て見ているのかすら分からなかった。
だが、僅かな星明かりの元、完璧には把握しきれないが、自分たちを認識しているのは間違いない。
幸か不幸か威圧感も隠されたルシルからは、“何も感じない”。
本来なら、圧死するほどの威圧感を覚えるのだろうが、今はただこの静かな邂逅に、僅かな汗を滴らせるだけだった。
やはり、“世界”に感情を持つことは不可能なのだろうか。
だが、相手は魔王の牙城。
平穏無事とはいかないだろう。
ならば、攻撃しかない。
あの巨体が本格的に動き始める前に、片を付ける。
アキラは右手を広げた。
僅かにオレンジの光が漏れる。
今度こそ、ためらわない―――
「に、にーさん、待つっす……!」
「?」
「もし、あの中に、エレねーたちがいたら、」
「……っ、」
マリスの言葉で、アキラの身体は止まった。
そうだ、彼女たちは、すでに“侵入”している可能性がある。
「そうです……!! 三人とも、あの中にいるのでは……、」
「じゃ、じゃあ、どうすんだよ……!?」
「って、ちょっ!!」
「―――!?」
アキラも、あのマリスでさえもそれに気づかなかった。
僅かに視界の隅で捉えていたエリーが叫んで指差したのは、ルシルの顔。
ルシルは顎を突き出しながら顔を下ろし、その嘴のような口を、全くの気配を見せず大きく開き始めた。
「っ、―――、」
攻撃の予備動作。
そう予想したアキラはマリスに視線を走らせた。
マリスは即座に頷き、メンバー全員の位置を確認する。
だがそれは、杞憂に終わった。
ルシルの口は開き続ける。
それは通常考え得る限界値を超えて、まるで自分の顔を飲み込もうとしているように、口が“裏返っていった”。
ゴム風船を裏返しているような光景の中、見えてくるのは、砂で汚れた、黒い体内。
ルシルの口が開き、口の中が見え、そして喉が見えかかったところで、ルシルはようやくそれを止めた。
ルシルの“裏返った顔”はグロテスクに見えるかと思いきや、巨大な洞窟の外観と大差がない。
もともとそういう構造なのだろうか。
「っ、……!?」
そして、その洞窟から次に現れたのは、喉の奥から伸ばした、ルシルの“舌”だった。
アキラは僅かに身体を強張らせ、しかしあまりに静かな光景に成り行きを見守る。
ルシルから出た“舌”は、アキラたちの前方数メートルほどの場所に突き刺さった。
幅は、人が十人以上はゆうに横並びできるほどだろうか。
長さは考えたくもない。
カメレオンのように舌を丸め込んでいたのか、数百メートル前方、地に着けている顔から、アキラたちの元まで伸びてきているのだ。
しかしそれは唾液などで濡れてはおらず、ゴツゴツとした表面で、アキラたちとルシルの口の中までの道を作った。
その道には、ルシルが地に顎を付けているというのに傾斜があるのだから、顎の高さも尋常ではない。
「な……、なんだってんだよ……!?」
「こ、来い、ってことじゃないの……?」
エリーの言葉はもっともだった。
巨大な生物が攻めてこず、口を大きく開けて、目の前に通路を作ったのだ。
ルシルの“裏返った顔”、洞窟と化したその喉は、ずっと奥の“世界”に繋がっているようだった。
最早、ルシルは“移動生物要塞”ではない。
このファクトルの地に、突如現れたダンジョンだ。
十中八九罠だろうが、ルシルに侵入するチャンスでもある。
「だ、だが、むざむざ口の中に……?」
「やっぱり、あそこが入り口なんすかね……?」
面々が会話を続けても、ルシルはその体制のまま動かない。
あの巨獣の体内に入るというのは、それだけで、大きな抵抗だ。
時間だけが過ぎ、サラサラと風が砂を転がす音が徐々に大きく聞こえてくる。
やはり。ダンジョンたるルシルは、動かない。
ただひたすらに、アキラたちの“答え”を待っている。
「い、行くぞ。罠だろうが、エレナたちがいるかもしれないんだ」
どの道、逃げることは許されない。
アキラは意を決し、一歩踏み出した。
恐る恐るルシルの下に足を乗せ、軽く力を入れて確認する。
その間も、ルシルは微塵にも動かなかった。
やはり、これは、自分たちを中に誘っている。
もう、行くしかない。
―――**―――
無限を思わせるルシルの“たった一部”、舌で作られた道を歩き、アキラたちは“体内”に侵入した。
入った途端に閉じるのではないかと懸念していたのも杞憂に終わり、ルシルは顔を“裏返したまま”微動だにしない。
恐らく食道と思われるところに侵入し、入ってすぐに緩やかな上りの傾斜が顔を出す。
ゴツゴツとした岩壁の洞窟のように、しかしそれでいて圧迫感を何ら覚えない、だだっ広い道を慎重に上り、永遠を思わせる距離を上り切ったとき。
岩壁はそこで終わっていた。
ほとんど四人同時に踏み入れた、ルシルの体内。
そこに、上下左右総てレンガのようなブロックが規則正しく並ぶ、四角い通路が姿を現した。
数十人はゆうに横並びになれるだろうか。
天井も透けるほど高く、通路というよりほとんどホールに近い。
ご丁寧にも数十メートル間隔にマジックアイテムと思われる石が左右対称に埋まり込み、各々灯りの役割を果たしている。
そして、前は、行き止まりが見えないほどに、長く長く続いていた。
生物の“体内”という常識では、やはり測れない。
「遺跡みたい……」
今まで灯りを担当していたエリーが小さく呟き、手を収めた。
その呟きすら、あまりに静かなその空間に響く。
生物の体内に入ったというのに、まるでそう感じられなかった。
無臭な上に、空気も外と同様乾いたもの。
横部屋さえない両脇の壁を建物と例えれば、ここは、活気のない市街地のようだった。
だが、空を塞がれている以上、確かにここは遺跡に似通っている。
そしてそれは、ある種“魔王の牙城”に相応しい、質素で、そして精緻な作りだった。
「……オレンジ、っすか」
「?」
また、“遺跡”の中に呟きが響いた。
マリスが最も近い発光装置にとぼとぼと近寄り、半分の眼でそれを凝視する。
「これ、自分も知らないっすよ……。こんな色を出せるマジックアイテムなんて……」
確かにアキラも今までこの世界の発光装置を何度も見てきた。
僅かな魔力を流すだけで夜の闇を逃れるマジックアイテム。
だがそれは、総てどこか淡い色を出す程度のもので、もっと言うなれば紅い色の比率が著しく高かった。
こんな、“昼”を思わせる光は放っていなかったはずだ。
外ではその巨体で夜を作り、中は昼を作る、ルシル。
その存在は、あまりに不気味だった。
「オレンジ……、ということは、」
サクがマリスに並んでそれをしげしげと眺めた。
マリスは僅かに瞳を狭め、そして頷く。
「“日輪属性”。今回の魔王は、やっぱり日輪属性っす」
「……!」
ピクリ、とアキラの身体が震えた。
日輪属性。
自分以外で“それ”を見たのは、たったの二度だ。
一度目はあの“神王”、アイリス。
そして二度目は、あの、自分とは別の“勇者”、スライク=キース=ガイロード。
世にも珍しく、有するだけで勇者の可能性が著しく高いその希少種属性を、“魔王”も有している。
「と、とにかく、前へ進むぞ。みんないるかもしれないんだし」
「……そ、そうね」
アキラが進み、次いでエリーが歩き出す。
僅かに気圧されこそすれ、ここで立ち止まっている場合ではない。
エレナに、ティアに、イオリ。
行方不明になった彼女たちはここにいるかもしれないのだ。
「でも不気味っすね……。誰も……、それどころか魔物も魔族もいないっすよ」
「つっても立ち止まってる場合じゃないだろ」
「分かってはいるんすけどね……、」
マリスがアキラの隣に並び、半分の眼を鋭く周囲に走らせる。
彼女の懸念は、全員が感じていた。
ルシルが―――恐らくは魔王の思惑だが、中に招き入れたのだ。
罠でないはずがない。
驚くほど静かなルシルの体内。
次第に口数の減った面々の足音だけが響く。
何一つ情報がない現状で、その通路を歩くのは、まるで死刑執行を今か今かと待つ罪人のような気さえする。
過酷な環境の外より、こちらの方が精神的にくるものがあった。
アキラが忙しなく周囲に目を走らせても、続くのはやはり遺跡のレンガの壁。
だがついに、何の襲撃もないまま、最初の通路を歩ききってしまった。
「……ないのかよ、罠」
「いや、それよりどうしますか?」
通路の行き止まりに到達した四人は、口を開かないわけにはいかなかった。
到着したのはT字路。
作られた迷宮のように直角に曲がり、左右に分かれていた。
「四人、か……」
「いや、二手に分かれるのは正気の沙汰じゃないでしょ」
「わ、分かってるよ、」
アキラは視線を二つの道に走らせる。
どちらの道も、遠くに続き、先は見えない。
いくらこちらが四人とはいえ、ここが敵の牙城である以上、選べる道は一本だけだ。
そして、道が分かれている以上、どちらかが罠というのは十分にあり得る。
「マリス、何か分からないか?」
「……分からないっす。どっちも、何の気配もないっすし」
頼みの綱のマリスも分からないようだ。
これだけの巨体を動かす魔力も、彼女ですら感知できなかった。
傍から見れば清潔なルシルの中は、未だ、不気味のままだ。
「あんたが決めて。どうなっても恨まないから」
こういう場合、やはり“勇者”たる自分が決めるべきなのだろう。
アキラはエリーに促され、ほとんど勘で右の道を選んだ。
「なあマリス。ここ、どう思う?」
再び長い通路を歩きながら、アキラは隣を歩くマリスに率直な意見を求めた。
無言のまま正体不明のルシルの中を歩くのは、やはり、辛い。
「そうっすね……。イオリさんの言っていたこと、覚えてるっすか?」
「ん? あ、ああ」
現在行方不明のイオリ。
ファクトルに入る直前までいた魔道士隊の支部で彼女が集め、みなに語った推測を思い出す。
「ルシルは召喚獣の類、ってやつだろ?」
「そうっす。自分もそうだと思うんすけど……、変なんすよね」
「変?」
マリスが眉を下ろし、アキラは眉をひそめる。
「召喚獣は術者の魔力に比例してその力が決まる。だけど、そこに注ぎ込む魔力も、やっぱりそれだけ必要なんす」
それも、イオリは語っていた。
魔力の総量が高いならば、それだけ召喚獣も強力かつ強大になる。
それは、召喚獣に“込めることができる魔力”は、多い方がよいからだそうだ。
魔力と召喚獣は、正比例的な関係にある。
イオリが前に見せてくれたコンパクトな召喚のように、込める魔力で召喚獣の力や大きさが決まる。
つまり、自分の力を注ぎ込む量は、ほとんど任意なのだ。
「これだけ巨大な召喚獣。維持するのに信じられないほど魔力を注ぎ込まなきゃいけないはずっす。“具現化”と違って、“生成時のみ”に魔力が必要じゃないんすから」
それが、“具現化”と“召喚獣”の違い。
“具現化”は、あくまで武具。
放っておけばいずれは消えると言っても、創り出しさえすればあとはそれを維持する魔力はほとんど必要がないのだ。
魔道の集大成といわれるほど、その利便性は強い。
しかし、“召喚獣”は一応生物なのだ。
呼び出したあとも、その活動を維持するために、魔力を流し続けなければならない。
その対価ゆえに、低レベルの者でも呼び出せても、すぐに消失してしまう。
「だから“召喚獣”を呼び出す以上、自分に“できないこと”ができる存在じゃなきゃ意味ないんす。そうじゃなきゃ、自分で戦った方が消費は少ないんすから」
例えばイオリの召喚獣―――ラッキーは、イオリにできない“巨大な敵との交戦”や、“飛翔による移動”ができる。
彼女が魔力の効率的使用を捨ててまでラッキーを呼び出すのは、彼女が不可能を前にする状況に陥ったとき。
イオリがティアにせがまれても極力召喚獣を出したがらなかったのは、そういう意味合いもあったのだろう。
「それで、何が変なんだ?」
サクが口を挟んだ。
マリスは、もう一度ルシルに視線を走らせる。
「“巨大生物生成”、“魔力感知不可能”、“隠密移動”。必要な機能だとは思うんすけど、どれをとっても消費が尋常じゃないっす」
「“魔王”ってくらいだからな……」
「いや、そういう話じゃないっす」
「?」
マリスは目を細めた。
そして気づかれない程度、全員に視線を送り、口を開く。
「“召喚なんてこと”しない方が、絶対に強い」
その言葉で、アキラの脳裏にとある光景が浮かび上がった。
“魔族”、サーシャとの戦いでも、彼女は“そういう意味”の言葉を口にしたのだ。
“余計なこと”に魔力を割いているのであれば、自分で戦った方が強い、と。
だからマリスは、単騎で戦えば最強なのだ。
召喚獣と聞けば、アキラたちは便利なイメージしかない。
だが、“そんな発想すら”、マリスには存在しないのだ。
「……マリス、召喚獣出せるのか?」
僅かな沈黙の内、アキラは口にした。
このわだかまりは、この際置いておこう。
「いや、練習すればできると思うっすけど……、考えたこともないっす」
確かにそうだ。
マリスに“不可能なこと”はない。
だからやはり、自分の“不足分を補う召喚獣”を出す必要性すらないのだ。
「とにかく、“魔王”がルシルを召喚した以上、“ルシルは魔王にできないことができる”はずなんす。日輪属性のことは分からないっすけど……、これだけの魔力があれば普通にどこかに牙城を構えてた方が効率的っすよ」
そうだ。
確かに居場所を掴まれないことは有意義なのかもしれないが、マリスが語るに、これほどの魔力があれば誰も抗えない。
ファクトルの過酷な環境も考えれば、“そもそもルシルという存在は効率的ではない”のだ。
なにせ、魔物の出現地に一歩踏み入れただけで、この現状を招いたのだから。
防波堤としては、ファクトルは十全だ。
ようやく、マリスの思考に追いつくことができた。
「待って、それ、おかしい」
「?」
今度はエリーが口を挟んだ。
「魔力があれば、“不可能なこと”なんてないはずでしょう?」
「?」
アキラは珍しい光景を見た。
エリーの言葉に、マリスが首をかしげているのだ。
もっとも、アキラも首をかしげる側だったのだが。
「それって、月輪属性のことじゃないのか?」
「? え、日輪属性もでしょ?」
「?」
まるでかみ合わない会話に、とうとう全員の足が止まった。
「日輪属性と月輪属性は、不可能なことがない。だけど、日輪属性は“特化”できる、って」
「え? なにそれ?」
「……、ねーさん、なんでそんなこと知ってるんすか?」
マリスの言葉を皮切りに、全員が不審な目をエリーに向けた。
「…………、あ、話さなかったっけ……?」
「聞いてねぇよっ、それっ!」
「えっと、い、いや、あのときはゴタゴタしてて」
エリーは視線を外し、頬を小さくかいた。
「覚えてる? あの、ラースさんって人」
「?」
「ああもう、覚えてないならいいわよ」
エリーの諦めきった表情に、アキラは過去の記憶を掘り起こしてみた。
ラース。
確かにどこかで聞いた名前だ。
いや、待て。
思い出した。
確か、あの、二人の“勇者様”と出逢ったあの事件。
そこに、もう一人、いつしか姿の消えていた“生存者”がいた。
「その人が教えてくれたの。日輪属性と月輪属性は似てるけど、日輪属性はその上で“特化”できるって」
アキラの記憶検索が終了した頃には、エリーの話は次の段階へ移行していた。
そして、また出てきた言葉。
“特化”。
これも、前にどこかで聞いた気がする。
「それって、本当なんすか? 仮説とかじゃなく」
「え、ええ、なんか、ものすごく詳しそうだったし、」
「ちょっと待て、置いてくなって」
話についていないアキラとサク。
アキラが代表して声を出した。
この辺の知識も、魔術師試験には必要なのだろうか。
「一説には、日輪属性は月輪属性と同じ、というのがあるんす」
「?」
マリスが口を開き、解説を始めた。
「“結果として”不可能なことのない二つの属性。だけど、日輪属性は他の属性みたいに、一つの力を“特化”することができるんすよ」
「?」
「“特化”っていうのは、あたかも他の属性みたいに、その方面に突出すること。例えば、エレねーみたいに身体能力向上とかっすね」
「……、……!」
そうだ、思い出した。
その、“特化”という言葉を最初に聞いたのは、やはり、二人の“勇者様”に出逢ったあの事件。
あのとき、人間とは思えない身体能力を発揮した“勇者様”、スライク=キース=ガイロードに、エリーは『木曜特化』と呟いたのだ。
そしてそのあと、スライクに、自分は『火曜特化』と言われた。
「だから、月輪属性は“劣化属性”。固有の“魔法”はあるんすけど、それでも、日輪属性の応用力は異常っす」
“劣化属性”という言葉も、スライクは呟いていた。
スライクとは別にいた、リリル=サース=ロングトンという、月輪属性の“勇者様”。
彼女に、スライクはその言葉を使っていた。
つまり、こういうことだろう。
月輪属性は、他の属性の“真似事”ができる。
それはすなわち、不可能を超越できるということだ。
しかし、日輪属性は、他の属性と“同じこと”ができる。
同じ不可能を超越した概念でも、日輪属性は月輪属性を上回って真に迫ることができるのだろう。
「…………、あれ、俺さ、魔法使ったことないんだけど、」
「やってんでしょ……、あたしの攻撃方法とか、イオリさんの攻撃方法とか、」
アキラの記憶にある日輪属性の魔法は、あの銃が放つ、“プロミネンス”だけだ。
だが、エリーにそう言われると、確かに、あの攻撃も魔術だった。
攻撃方法は変わらずに、相手に別の影響を与える。
剣で攻撃していただけのあれも、立派な魔術なのだろう。
「と言っても、検証できる人なんてほとんどいないはずっすよ。余程魔道に精通した人じゃないと……、それも、日輪属性の」
「でも、ラースさんは水曜属性だったわよ?」
「……、」
自分の属性をあっさりと“劣化属性”と言い放ったマリスは、口調も変わらず思考を進めていた。
マリスを見ていると、“劣化”という言葉はあまりに不釣り合いに思える。
アキラの方が属性として優れていても、結局のところ、魔力の総量は隔絶した差があるのだから、それは当然なのだろう。
だが、マリスは思考を進める。
やはり、妙なのだ。
“それ”を、日輪属性のスライクが知っていたのというのは、まだ分かる。
だが、ラースという男は、アキラの記憶では水曜属性だったはずだ。
マリスすら知らないようなことを、確信を持って語るなど、アキラの理解の範疇を超えていた。
ルシルの体内という異常な場所にいるだけに、僅かな疑念でも大きく膨らんでいく。
「その、ラースという男は、あのとき港にいたか?」
彼女も思考を進めて、そして黒い壁にぶつかったのだろう。
サクは口を開き、どこか鋭い視線をエリーに向けた。
「……いつの間にか、いなくなっていた」
「おいおいおいっ、思いっきりあやしいじゃねぇか、あの人!!」
「あ、あたしに言われてもっ」
「でも、」
始まろうとした二人の喧騒に、マリスが静かな声を挟んだ。
「その、ラースって人が言ったことが本当だとすると、やっぱり変っすよ。“不可能なことがない”日輪属性が、“不可能を補うため”の召喚獣を出してるなんて、」
「―――、しっ、」
マリスの言葉を遮り、サクが鋭い視線を後方に向けた。
マリスも即座に、そしてアキラとエリーは一瞬遅れてそちらを睨む。
「今、何か、」
「ああ、聞こえたな……」
サクの言葉に、アキラも静かに返す。
無限を思わせるこの道。
その後方から、もしくはその全体から、何か、振動にも似た音が響いた。
「ルシルが……、動いた、とか?」
「口は閉じたかもしれないですね……。でも、揺れてないですよ」
「“感知できない”んじゃないの……?」
「……、」
途端、このだだっ広い通路が狭く感じた。
そうだ。
失念している場合ではない。
ここは、“魔王の牙城”なのだ。
「と、とにかく、前へ進もうぜ……。今は―――なっ、」
「―――っ、走るっす!!」
アキラの言葉を遮ったマリスの叫びに、全員が同時に従った。
今、見ていた後方の道。
そこが、“狭まり始めていた”。
どういう原理か、堅そうに見えていたブロックの壁がまるで内臓のように、ぐにゃりと歪んで道を飲み込むように閉ざされる。
幸いにも後方から襲ったその事態に、アキラたちはひたすらに走り続けた。
もし、僅かでも足を止めれば、“遺跡に飲み込まれる”。
背中を押すのは、“縮小”による、追い風。
しかしそれでも、余裕を見せることはできない。
体内に侵入して以来、“縮小”という、初めて生物らしい動きを見せたルシル。
それは、確かに“罠”だった。
自分たちは何を学んでいたのだろう。
こういうことが、平気で起こるのだ、ここは。
「っ―――、」
わき目も振らずに走った長い通路。
そこは、再び二手に分かれていた。
「っ、右だっ!!」
直角に方向転換し、通路に飛び込む。
またも現れる、先の見えない長い通路。
ルシルの縮小も通路に準じているのはありがたいが、結局また、同じ逃走劇が始まるだけだった。
「っ―――、」
「―――!?」
隣を走るマリスが、身体を銀の光に包み、くるりと振り返った。
身体を浮かせ、そのまま進みつつ、腕を大きく振りかぶる。
「―――レイディーッ!!」
後ろを走るエリーとサクの間を縫って、銀の矢が狭まる通路に突き刺さる。
しかし、一撃必殺級のその一撃を受けてなお、ルシルの縮小はまるで止まらなかった。
「っ、ダメっす!!」
「ま、またっ!!」
「……!!」
再び見えた、分かれ道。
アキラは、今度は左と叫んで、全員がそこになだれ込む。
今なお、ルシルの動きは止まらない。
「どっ、どうするのっ!?」
「っ、」
エリーの悲痛な叫びを受け、アキラは視線を背後に向ける。
迫りくる、ルシルの“縮小”。
体力的にも、いずれ限界が来る。
もう、こうなったら、“その方向にいないと思うしかない”。
アキラが手を開き、身体を反転させようとしたところで、
「ちょっ、前っ!! 前っ!!」
「―――だっ!?」
アキラの右肩は強く通路に激突した。
“具現化”が完了していたら、銃を落としていただろう。
わけも分からず視線を走らせれば、今まで整った直線ルートだった道がうねり、蛇のように歪んでいた。
「なっ、なんだってん、」
「っ、アキラ様!!」
「―――!?」
一瞬、自分が切られたのかと思った。
電光石火の勢いで愛刀を抜いたサクはアキラの隣を跳躍し、何かをスパリと切り裂く。
うねった道の先、今度は正真正銘、“ホール”が姿を現わしていた。
山一つ程度は軽々入るような巨大な空間。
遥か遠くに、今入ってきたような道より遥かに狭い出口がいくつもある。
その中の選択など、一々考えてはいられなかった。
足場は今までの通路通り石畳が続いているが、そこは、まるで植物を植え込んだビニールハウスのようにコケや草木がびっしりと周囲を満たしている。
うっ、となるような湿気のある植物の空気が、ホール中を満たしていた。
まるで、殺風景なファクトルの草木がこの場所だけに集まっているかのようだ。
「また来たっ!!」
「っ、」
エリーの叫びに、再びサクは跳躍した。
彼女が切り裂いているのは、天井がぶら下がっている緑色の触手のようなツタ。
数は、数百、数千は下らないだろう。
それらはアキラたちを栄養分だとでも捉えているのか、一斉に天井から伸び、うねりながら襲いかかってくる。
そして、正面にも伸びきり、
「っ、レイリスッ!!」
銀の光が、ツタをズタズタに切り裂く。
サクも刀を振るい、ボトボトと足元にツタが落ちてきた。
一本一本は、弱い。
だが落ちたツタも、うねうねと動き、不気味にも活動を中止していなかった。
「うっ、後ろっ!! まだ来てるわよ!!」
「走れ!!」
マリスとサクが道を切り開き、エリーは外から迫ったツタを殴りつける。
今になって、アキラは剣を手放したことを後悔していた。
何も、できない。
「っ、」
「こっちっす!!」
永遠を思わせる長距離走。
先にゴールの一つに到達したマリスが、振り返って叫んだ。
サクはその場でツタの追手を切り裂き続け、道を塞がせまいと神速の斬激を繰り出し続ける。
アキラは出口に、転がるように飛び込んだ。
周囲からは再びツタが、後方からは未だ“縮小”が、迫ってきていた。
「早く―――っ!?」
出口に駆け込んで、振り返ったアキラは一歩のけ反った。
縮小は、ホールの半分ほどしか進んでいない。
だが、今、アキラたちのいるこの場所も、“縮小”し始めている―――
「っ、急げ!!」
「―――!!」
アキラが叫び、エリーがツタを振り切って飛び込んできた。
今すぐにでも駆け出したいが、まだ、サクは中にいる。
この“縮小”、今までの飲み込むようなものとは違い局地的で、どこかこの“胃”から獲物を出さないためだけの仕掛けのようにさせ思えた。
そしてそれは進行し、もう、なんとか人一人通れるほどしかない―――
「サ―――」
手を伸ばすこともできず、紅い着物が映える緑の光景は、目の前の壁に途絶された。
「っ―――、」
「そ、そん、」
「どくっす!!」
マリスの身体から銀の光がほとばしり、一閃。
目の前の“壁”に槍のような矢が突き刺さる。
しかし、そもそもそういう仕掛けなのか、目も覆わんばかりに爆ぜた光の先、傷一つつかない“壁”が黙して立ち塞がっていた。
最悪だ。
この敵地で、再び仲間と逸れてしまった。
しかもあの“胃”は縮小しているのだ。
この、定番の展開。
だがそれだけに、身体中から嫌な汗が流れる。
「ど、どうしよう!? サクさん、あたしを先に、」
「っ、サクッ!!」
「はい」
「くそっ、もう仕方ない……。撃つぞ―――、……? サク?」
「はい?」
右手を広げたアキラに届いたのは、どこか静かなサクの声だった。
しかし、姿は見えない。
次に、断続的にツタが切り裂かれる音も聞こえてきた。
「サク? 聞こえるのか?」
「ええ……、っ、」
また、スパリ、とツタが切り裂かれる音。
どうやらサクは、壁一枚隔て、向こうの“胃”で戦っているようだった。
「……この壁、何とかならないか?」
「っ、ええ、試してみたのですが、っ、切れません。ただ、“縮小”は止まっています」
どうやら、窮地というわけではないらしい。
ツタの切れる音と、サクの声が交互に聞こえる中、アキラは無駄と知りつつも“壁”を殴りつけてみた。
ブロックの壁にしか見えないそれは、打撃を受けると、ぐにゃりと沈み、アキラの攻撃を押し殺す。
打撃でも、魔法でも、斬激でも、このルシルの体内は破壊できないようだった。
「大丈夫か?」
「見ていてあまり気持ちのいい光景ではありませんが……、問題ありません。っ、このツタを倒すのは容易ですし……、そこまで速くない」
姿は見えないが、とりあえず、サクは無事のようだ。
「ど、どうする?」
落ち着きは取り戻せたが、事態は好転していない。
アキラは頭をガシガシとかき、視線を泳がす。
だがやはり、活路は見出せなかった。
「サクさん、そっち、別の出口もあるっすよね?」
「いや、同じように塞がっている……。あるいはこのツタを総て倒せば、っ、開くかもしれないが……、っ、」
当事者たるサクも、落ち着き払った様子で状況を分析する。
声とツタが切られる音だけが交差する“胃”の出口。
だがいくら待ってもみても、壁は開かなかった。
「……、三人とも、先に行って下さい」
「っ、お、おい、」
「いや、そこで立ち止まっていては、いつまた“縮小”に襲われるか分かりません」
“縮小”と聞き、アキラは周囲に視線を走らせた。
今まで歩いてきた道より格段に狭くなったこの出口。
三人横並びになるのがやっとだ。
確かに“縮小”は驚異的ではある。
「不本意ですが、っ、ここで別行動にしましょう。入り口の方はもう開いています。私はそちらの探索を、」
「ほ、本当に大丈夫なのかよ……!?」
「ええ」
向こうの状態はまるで見えない。
ただ、機械的にツタを切り裂く音が聞こえてくるだけだ。
ここは、学ぶべきなのだろうか。
自分たちに時間的猶予はないということを。
先ほどは、のんびりと歩いて“縮小”に襲われたのだ。
「……、分かった」
アキラは小さく声を出した。
その決断について、エリーもマリスも、そしてサクからも非難の声は上がらない。
「速攻で魔王倒して、戻ってくるからな……!!」
「……ええ、お願いします。―――、」
最後まで、静かな声。
それきり壁の向こうからサクの気配が消えた。
もう彼女は、この場を離れて戦い始めたようだ。
「……行くぞ」
「ええ」
静かに言葉を紡ぎ、再び姿を現した長い道をアキラたちは駆け出した。
しかし決して、双子の姉妹と離れないように。
今自分はどんな表情を浮かべているだろう。
サクが無事だったという安堵と、彼女と別れた焦燥感。そして、また仲間と逸れたという危機感が入り乱れる。
“縮小”が始まってから、ここまでは一瞬の出来事だった。
だがもう、タイムロスはしている場合ではない。
ルシルの中は、不気味なほど静かだが、確かに罠があったのだから。
だから、たった今、宣言した通り、
「倒すぞ、魔王。速攻で……!!」
狭く、うねった通路を、三人で駆ける。
もう、とろとろ歩いているわけにはいかない。
立ち止まっている暇は、ないのだ。
―――**―――
間もなく終わる“刻”が来る、今。
それに直面すると、どのような表情を浮かべるものだろう。
“それ”は無為な思考に想いを馳せる。
恐怖だろうか。
絶望だろうか。
そしてあるいは、高揚感だろうか。
ただ、少なくとも、“それ”は笑っていた。
達成感を覚えているのだ、確かに。
誰も知らない。
誰にも悟られない。
そういったものが完成するときには、やはり笑うのが自然なのだろう。
もう、誰にも止められない。
自分は、演じ切って見せたのだから。
間もなく終わる“刻”が来る、今。
それはもう、起こるのだ。
逃れようなく。
―――**―――
「……!」
最早精緻な通路はなりを潜め、本当に内臓のようにうねった通路を駆け抜けた三人は、再び“ホール”のような場所に到着した。
だが、先ほどの“胃”とは違い、遥かに小さい。
円形の、狭い空間。
周囲の壁は、今までのようなレンガ造りではなく、磨かれた大理石のように白く、滑らかだ。
天井は、今まで以上、透けるように高かった。天辺すら視認できない。
オレンジの光に包まれたその空間は、まるで、細長い塔の内部のようだった。
そして中央には、塔の形にあわせているかのように、円形の白い舞台が鎮座している。
「な、なんだ、ここ……?」
先ほどの“胃”のこともあり、アキラは慎重に視線を走らせる。
だがここには、天高く続く壁の途中にあるオレンジの光源と、目の前の舞台だけ。
いや、舞台というより、ただの台だ。
地面より、たった一段高いだけ。
もっとも、不用心に乗る気にもなれなかったが。
「……、ね、ねえ、出口、ないんだけど……、」
「え?」
エリーの声で、アキラはようやく気づいた。
確かに視線を走らせても、ここの出入り口は、今入ってきた道しかない。
完全な行き止まり。
そして、“胃”からここまでは脇道はなかったはずだ。
「な、なあ、もしかして、ここ、外れの道だった、とか?」
思えば“胃”には出口がいくつもあった。
自分たちは、マリスが選んだその中の一つに入ったにすぎない。
「……戻るか?」
「そうね……」
一瞬、この場で唯一怪しい台に視線を走らせ、エリーは頷いた。
先ほどの罠もあり、過敏になっている今、どうしてもあの台に乗る気にはなれないのはアキラと同じようだ。
ルシルに入って以後、時間の感覚はまるでないが、大分長い距離駆けてきた気がする。
もしかしたら、そろそろあの“胃”の出口も開いているかもしれない。
「マリス、戻るぞ。言った手前、サクに今会うのは何となく避けたいんだけど、仕方な―――」
「あれ」
「?」
踵を返そうとしたアキラを、マリスの声が止めた。
マリスは顔をほとんど真上に向け、半開きの眼で空を凝視している。
そして、分厚いだぼだぼのローブから腕を出し、ゆっくりと上を指した。
「あれって、出口じゃないっすか……?」
「?」
マリスの指の先を追っても、アキラにはオレンジの光に包まれた空間しか見えない。
どこかぼやけたその光景から視線を戻し、エリーを見ても、首を振り返された。
同じく見えないらしい。
「なんか、穴が開いてるっすよ」
「マリス……、お前―――」
目、いいな。
そんな言葉をアキラが吐き出そうとした瞬間―――
『その台に乗るといい』
―――どこかしがれた声が、“塔”に響いた。
「―――!?」
『昇ってくることができる。罠でないことは保証しよう』
アキラの驚愕をよそに、声は淡白に響く。
老人のように、しがれたその声。
若々しくはないそれは、はっきりとした口調に、揺るがない意思を感じさせた。
「な、なに……?」
「ま、まさかとは思うっすけど……、」
「魔王、か……!?」
『そうだ。早く来てくれ』
僅かな呟きをも拾い、“それ”は声を響かせ続ける。
常軌を逸した存在であることを、あっさりと認めた。
まるで、ちょっとした所用を頼むかのような口調。
その声そのものからは、ルシルのように、“何の脅威も感じられなかった”。
『急がなくてはならないのだろう?』
「っ、」
魔王に促され、現状を把握するのも滑稽な話だった。
確かに、奇妙な空気程度に気圧されている場合ではない。
時間がないのだ。
だが、目の前の台が罠ではないと言われても、所詮敵からの情報だ。
しかし、
「ど、どうする……?」
「っ、どうするも、行くしかないじゃねぇか……」
「……フリオール」
台の前で立ちすくんでいたアキラたちの身体を、銀の光が包んだ。
マリスが腕を振り、全員の身体を宙に浮かせる。
オレンジとシルバーの光が混ざる景色。
どこまで昇っても同じ造りのその“塔”。
足元の台がぼやけて視認できなくなった頃、ようやくアキラの目にぽっかりと空いた穴が見えてきた。
マリスの“魔法”で、アキラたちはそこに入り込む。
入ったそこは、僅かな小道ののち、輝く大広間に続いていた。
正方形の、巨大な部屋。
一辺百メートルはあるだろうか。
今しがた昇ってきた“塔”のように、総ての壁が磨かれた白い石造り。
四方に設置された、闇にオレンジを作り出す発光装置は、煌々と輝き、温暖な空気が部屋を満たしている。
高い天井の中央には、シャンデリアを模した巨大な光源。
空気も、外の埃の匂いとは隔絶されて、どこか清潔だった。
僅かな装飾品を内包しただけの淡白なこの部屋。
そこに入ったアキラたちを、
「罠ではないと言ったのだが……、この高さを昇れるか」
その最奥。
最後の装飾品、一段高い王座に座る一人の男が出迎えた。
「そうか、“例えに出ていた”月輪属性の仲間はその彼女か。……相当優秀のようだね」
座ったまま、“それ”は呟く。
ブロンドの長髪に、総てを見通すかのような深い色の眼。
肩に金の刺繍が入った漆黒のローブを纏い、僅かに皺の入った肌色の表情からは優雅ささえ感じられる。
だがそれに、“恐怖”は何故か感じられなかった。
どこか柔和な、そう、まさに人間。
その存在の在り方は、ただの人間にしか見えなかった。
いや、それ依然に。
自分たちは、この男に、逢ったことがある。
「ラ、ラースさん……?」
先ほど話に出てこなければ、アキラは即座に思い出せなかったろう。
エリーの呟き通り、目の前にいるその男は、あの二人の“勇者様”に出逢ったときにいた、あのラースだ。
あのときより、若干年老いているように見えるも、間違いは、ない。
「一応は、自己紹介から始めよう」
“それ”は悠然とした動きで椅子から立ち上がり、右手を胸に当てた。
「ジゴエイル=ラーシック=ウォル=リンダース」
言葉を紡ぎ、その男―――ジゴエイルは、僅かに笑った。
「“魔王”。と、呼ばれている」
なんと陳腐で、なんと静かな邂逅なのか。
―――**―――
ファクトルの地を囲う複数の魔道士隊支部。
その内一つから派遣された全十名の魔道士の“ルシル調査”は、難航を極めていた。
まず、昨日、突如発生した巨大な砂嵐。
直撃こそ避けられたが、被害は甚大だった。
馬を防護服で覆って風下に移動させ、馬車に全員で乗り込む。
これだけでも大仕事だったのだが、慌ただしい作業で水樽をひっくり返しまるまる一つ分地面に寄付し、食料は踏みつけ、無残な結果となってしまった。
その調査隊の長を務める男は、夜、馬車の中、地図と残存食料を勘案しながらこう思う。
ファクトルの過酷な環境に、“慣れ”というものはほとんど存在しないのだ、と。
外を歩けば魔物を警戒し続けなければならず、馬車の中にいれば常に揺れて身体を休めている気がしない。
夜寝るときもいつ戦闘になるか分からないのだ。
心も身体も休まる暇がない。
最もきついのは精神面。
どれだけ進んでも変わらない景色に、心を病んでしまう者も少なくはない。
現に、今回初の調査隊員の二人は憔悴している。
それも、珍しいことではない。
こんな場所に、あと、五日はいなければならないのだ。
定期連絡のための帰還には、まだ、五日もある。
かくいうこの隊長も、ファクトルを調査十年以上務めるベテランなのだが、今すぐにでも帰りたいと思っているほどだった。
“ルシル”の目撃証言から約一週間。
神出鬼没のあの存在は未だ発見できない。
発見できればすぐにでも帰れるのだが、出遭いたいかと聞かれればまた別問題だった。
「隊長っ!!」
「!」
馬車の分厚い布が、破れんばかりの勢いで開かれた。
五つほど後輩のその男は、顔を真っ赤に染め、身体中で息をしている。
「どうした? お前は休憩―――」
「それ、どころじゃっ、」
喉が詰まり、ほとんど声が紡げない男に促され、隊長は馬車から出た。
「さ、さっき、爆音とか、あった、じゃないですか、」
「あ、ああ」
途切れ途切れの言葉を拾い、隊長は頷く。
確かに先ほど、怒号のような足音と、大気を揺する爆音が響いたのは聞いた。
だが別に珍しいことではない。
この辺りの魔物が死を迎えれば、それくらいの爆音は響く。
大方、同志討ちかなにかだろう。
言い方は妙になるが、そうして魔物が切磋琢磨しているからこそ、ここの魔物は危険なのだと考えることもできる。
そうしたことには、下手に首を突っ込まないのが吉だ。
それでも何故か一向に数が減らないのは、大きな悩みの種なのだが。
「そ、それで、あ、あれ、」
「……?」
馬車の外に出て、星明かりの下、後輩の男が遠くを指差した。
隊長は首をかしげる。
巨大な岩山があるだけだ、そこには。
別に、何も、
「っ、」
ようやく気づけた。
それは、山ではない。
ここに馬車を止めたとき、そんなものはなかったのだから。
ゆえに、あれは、“移動するもの”なのだ。
隊長も、それを、初めて見た。
だがまさか、“あれほど”とは。
「―――全員起こしてきてくれ。調査隊を再編成する。五名で、だ」
声もか細く、決して気づかれないように小さく呟いた。
これほどの距離で、“完全にそれの攻撃圏内”に入っていると錯覚するのは、あながち間違いではない。
あれが、聞いた話し通り歩き出せば、ここまで一歩で到達できてしまうだろう。
「そ、それに、変なんです、」
ようやく息を整え終えたのか、後輩の男は怯えた表情で言葉を初めてまともに紡いだ。
「ルシルが先ほどから、“微動だにしていない”んです」
―――**―――
「……、っ、」
エリーは目の前の存在に、“恐怖”を覚えていた。
強烈な威圧感も、脊髄を切り裂くほどの殺気も覚えない。
だが、“それそのもの”に、恐怖を覚えるのだ。
オレンジに輝く、無機質な大広間。
その反対側にいる、その存在。
魔王―――ジゴエイルは、あまりに“普通”だった。
“魔族”としてではない。
“人間”として、だ。
エリーの記憶にある“魔族”―――リイザスは人の形をしていたとはいえ、やはり別種の存在だった。
だが、ジゴエイルは、“人間”にしか見えない。
それこそ、そのまま人間の群れに溶け込めるほどに。
そして、“それ”をしていたことをエリーは知っている。
ジゴエイルは“ラース”と名乗り、自分たちと同じ依頼の中にいた。
そしてエリーは、彼と話していたのだ。
あのときは今のような初老ではなく、青年のようだったが、それを抜きにしても違和感さえ覚えなかった。
だから、恐い。
そんな“魔王”に、何一つ疑問を抱かなかったことが。
隔離して存在すべきである、日常と戦闘が混ざり込む、その瞬間。
脳裏を黒い思考が侵食し続ける。
「っ、」
「……、」
そのエリーの視界に、一人の男が割り込んできた。
アキラだ。
左腕を広げてエリーを庇うように立ち、右手は広げている。
「どうせ、すぐ終わる」
「……う、うん」
自分が震えていることに気づいたのだろうか。
アキラが小声で呟いた言葉に、エリーは小さく頷いた。
そうだ。
終わるのだ。
恐怖など膨らむ暇もなく、一瞬で。
彼は、“それ”ができる。
何度も見た、その光景。
覆らなかった事態は存在しない。
だから、大丈夫だ。
きっと、絶対に。
「……、」
エリーは両手を強く握る。
大丈夫だ、絶対に。
それは揺るがない。
だが、それなのに。
何故自分は、こんなに祈っているのだろう。
「君が今回の勇者か……。正直、一番遅いと思っていたんだけどね」
「……?」
二人から一歩出たアキラは、ジゴエイルの言葉に眉をひそめた。
だがそれが、アキラを、あのときの二人の“勇者様”に比した言葉だと思い至り、奥歯を強く噛む。
「……仲間が優秀だからな」
戸惑いながら、アキラはむっとして強い口調を選んだ。
相手は魔王。
勇者たる自分が、その眼前で、いつものようにビクビクしているわけにもいかない。
「確かに素晴らしい。……人数が少ないようだが、“七曜の魔術師”のパターンはそれが利点だからね。勇者の力はどうでもいい」
「……、」
挑発、だろうか。
一瞬アキラを追い越しマリスに視線を這わせたジゴエイルは、顎を僅かに上げて笑う。
好感が持てそうな柔和な表情は、いつの間にか嫌味を含んだものになっていた。
これは、一体何なのだろう。
相手は魔王だ。
それなのに、ただ単純に、こちらの神経を逆撫でするようなことしか言わない。安い挑発だ。
「にーさん、早くした方が、」
「……あ、ああ、」
マリスに声をかけられて、ようやくアキラは我に返った。
使命感を振りかざした勇者が魔王を討つ。
そういうものが自然なのだと思っていたアキラにとって、ジゴエイルは奇妙に映る。
だが、より好みしている場合ではない。
「……“あまりにあっけない”のもつまらないから話をしようと思ったのだが……、お気に召さないか」
「……、」
また、だ。
ピリピリと背筋を何かが刺激する。
こちらを過小評価するような、陳腐な挑発。
ジゴエイルは、何かを企んでいるのだろうか。
罠があるとしか思えない。
だが、目の前の魔王は脅威をまるで感じない。
普通の人間が立っているだけだ。
それゆえにためらう部分もあるが、今すぐにでも消し飛ばすことができるだろう。
「ときに、アキラ、だったかな」
「……!」
名前を呼ばれ、身体が震える。
自分の名前は、あの依頼で調べられたのだろうか。
「無駄に思考を働かせているようだが……、“時間がない”のだろう?」
「っ、」
そうだ。
また、ジゴエイルに思い出さされた。
あまりに静かなこの空間にいると、それすら忘れてしまう。
行け。
身体はゴーサインを出す。
だが、分からない。
相手の罠は、一体何か。
“それ”があることは、もう分かっている。
だからそれゆえに、動けない。
「いや、罠などないよ。ほら、どこにも」
「……!」
ジゴエイルはアキラの思考を読んだかのように、両手を大きく広げた。
確かにこの部屋には、何も仕掛けが見られない。
躊躇する必要は、どこにもないように思えた。
右手はプルプルと震える。
だが、最後の踏ん切りがつかない。
いや、待て。
冷静になれ。
アキラは必死に思考を進める。
そもそも、ジゴエイルの“狙い”は何か。
当然、こちらの全滅だ。
マリスが言うに、これほど巨大な召喚獣を出せるのならば、術者本人に相当は負担がかかる。
効率的ではない召喚。
とすれば、ジゴエイルに余力はないのではないか。
だが、もし、仮に、ジゴエイルが“尋常でないほど”魔力を有していたらどうだろう。
それこそ、召喚獣を“遊び”で出せるほどに。
効率的でない行動を取る理由など、道楽以外にない。
ならば、ジゴエイルは今なお強大な魔力を残していることになる。
いや、それならば、何故ジゴエイルは襲ってこないのか。
様々な思考が浮かんでは消える。
いつしか頬を伝った汗が地に落ちても、誰も動かなかった。
「そういえば、君たちは“チェスゲームの終わらせ方”を知っているか……?」
「……?」
チェスゲーム。
その遊びを、アキラは知っている。
元の世界にもあるものだ。
この世界でも実物を見たことはないが、恐らく共通のものだろう。
終わらせ方は、アキラもやったことがある、将棋と同じ。
敵のキングを取ることだ。
だが、そんなことを一々口に出す気にもなれない。
「……、」
答えを返さず、アキラはやはり挑発的に見えるジゴエイルを睨みつける。
そもそもそんなことはどうでもいい。
問題は、ここにきて、ジゴエイルがどうでもいい話を始めたことだ。
敵に会って、無駄な会話を続ける意味など一つだけ。
すなわち、時間稼ぎだ。
「つれないな……。嗜んだことがないのか」
「……、」
もう、想定するしかない。
ジゴエイルには余力がない。
“罠があると思わせることが、罠”。
本当の狙いは、時間を稼ぐことだ。
ならば、今すぐにでもたたみかけるべき。
なの、だが。
もし、間違っていたらどうなるか。
右手に視線を走らせる。
この力は、“最強”だ。
しかし、前に一度、この最強の銃の出所を、ジゴエイルと推測したことがある。
結局答えは出ず、ここまで来ても不明のままだった。
もし、ジゴエイルの狙いが、この銃を“具現化”させることであったら、その罠に乗ることになってしまう。
この銃を凌駕することなど、アキラには想像もつかない。
だが、相手はあの神―――アイリスが言うところによる、“英知の化身”。
どのような謀略があるか分からない。
正体不明の罠があるという疑心暗鬼は、ますます深くなっていく。
こんなことなら、この銃の正体が判明するまで調べ続けるべきだった。
「……、まだ、始めないつもりか?」
「……、っ、」
この言葉一つとっても、どちらともつかない。
時間稼ぎのためにあえて言っているのか、それとも、“具現化”を狙っているのか。
もしくは、単純な罠か。
マリスに攻撃してもらうにしても、どの道確率は同じだ。
「―――、そうか」
「……?」
ジゴエイルは一瞬目を伏せた。
そして僅かに含み笑い、聡明そうな瞳を開ける。
「煮え切らない君たちに、一つ、いいことを教えよう。きっと、攻撃する気になる」
「……?」
魔力を使った連絡でも入ったのだろうか。
ジゴエイルは、小さくため息をつき、口を開く。
「―――、」
一瞬。
ジゴエイルが言葉を出す前。
アキラの身体中に寒気が襲った。
何故だろう。
自分は、“それ”を、知っている―――
「君たちの仲間だが、全滅した。生死までは分からないが……、全滅だ」
あっさりと言われたその言葉。
ここにいるのは、七人中、たった三人。
サク、エレナ、ティア、イオリは―――
「どうだ? 急いだ方がいいだろう?」
「っ―――、」
一瞬遅れて。
エリーから、声にならない何かが漏れた。
マリスの気配が鋭くなった。
ジゴエイルは笑い続けていた。
これは、何だろう。
音が消えた、モノクロの世界。
身体中が煮え立っているというのに、アキラの世界はあまりに静かだった。
また来たのだろうか。
世界が勇者の“応え”を待つ、この、空白の時間。
そして、次は、“こう”だ。
「―――、」
アキラの右の手のひらからオレンジの光が漏れる。
部屋の同色すらかき消す、膨大な日輪属性の魔力。
クリムゾンレッドのボディに、竜を模した黄金色の装飾。
現れたのは、絶大な信頼を寄せられる、“最強の武具”―――
「―――!?」
ジゴエイルの表情が変わる。
そうだ、“これ”は、お前のものじゃない。
忘れていた。
これが、他人に付与されたとは思えないほどの安心感を思い起こさせることを。
アキラは現れた銃をまっすぐジゴエイルに向ける。
今のは、挑発のための嘘かもしれない。
彼女たちが全滅するなど、信じられるわけがない。
だが、罠だろうが何だろうが。
そんなことは“関係なかったのだ”。
伏線も、想いも、蹂躙する力。
この最強カードは、最初から、最後まで。
“最強だからここに在る”。
「……―――、」
「―――!?」
総ての音が消え去った世界。
アキラはただ、単純作業を行った。
引き金を引くだけの動作。
その直後、おびただしい魔力が射出された。
それはまさに、竜の息吹。
オレンジに輝く巨大な光線が、眼前の光景総てを埋める。
身じろぎ一つできなかった魔王を飲み込み、ルシルを体内から貫いていく。
「っ―――」
最初から、こうしていればよかった。
無表情のまま、アキラは引き金から指を離す。
イオリに言われた通り、ファクトルに入る前に射出すればよかったとさえ思う。
総ての敵をこれで消し飛ばし、それでただただ魔王を討っていればよかったのだ、自分は。
「っ、……、っ、っ、づ、」
「―――!?」
下ろしかけた右腕を、アキラはビクリとして上げた。
“蹂躙”が通り、夜空が見える、ルシルに開いた穴。
その、手前。
“存在しているものがあった”。
「こ、こいつ、まだ、」
信じられない。
流石に魔王というべきなのだろうか。
この砲撃の直撃を受けてなお、ジゴエイルは立っている。
「いや、にーさん、」
マリスはいつの間にか一歩前に出て身構えていたが、それを解いた。
「……もう、決まってるっす」
半開きの眼が捉えているのは、目の前のジゴエイル。
ローブは焼き消え、ブロンドの髪はジリジリと焦げている。
露出した肌も、焼けただれているとはいえ、やはり人間相応。
今の砲撃に消し飛ばされていないことが、人ならざる者の証明ではあるが、もう“終わっていた”。
生と死の狭間で、ギリギリ踏みとどまっているにすぎない。
これほどまでに、あっさりと。
今、自分たちは、“魔王を討ったのだ”。
だが、その直面する死の前。
ジゴエイルは、再び笑った。
「“一撃で倒してもらう”つもりだったが……、まさかこれほどとは……、な、」
「……?」
「―――な、なに……!?」
その“振動”に、最初に反応したのはエリーだった。
笑うジゴエイル。
まるでそれに呼応するように、ルシルが全身を振るわせ始めている。
「答え合わせだ。“チェスゲームの終わらせ方”」
外から舞い上がった砂が吹き込んでくる。
まもなくジゴエイルは、間違いなく死を迎えるだろう。
だが、それに構わず、ジゴエイルは立ち、声を絞り出し続けていた。
「“魔王”が“勇者”に討たれるだけ。繰り返される歴史……。つまらん。つまらなすぎる……。この“下らないゲーム”は……!!」
ジゴエイルの例えていた対象がようやく分かった。
彼の言う、チェスゲーム。
それは、この、勇者と魔王の戦いのことだ。
あるいは、神族と魔族の戦いのことだろうか。
いずれにせよ、アキラは、その答えが分かった。
チェスゲームの終わらせ方。
相手のキングを取っても、並び変えられ最初から始めることができてしまう。
ならば、終わらせ方は、
「“チェスボードを破壊する”。駒も……、なにも……、かも、」
アキラはもう、ジゴエイルの言葉を聞いていなかった。
そんな定番のこと、一々説明されなくても分かっている。
問題なのは、このルシルだ。
巨大な存在の、不気味な振動。
そんなものは、“パターン”だ。
想像できる限り、一つしかない。
ルシル。
この存在は、“爆発する”。
大広間を照らしていたオレンジの光が徐々に薄まり、それはまるで大津波の前の潮の引きのようだった。
視界が遮られ、闇が迫ってくる。
開いた大穴から差し込める月や星の光は、あまりに淡すぎた。
「―――、っ、……?」
その緊急時。
ジゴエイルは語る。
だが、音が総て遮断され、アキラの頭の中で何かが叫んでいた。
―――そして、“情報”が頭の中に途端漏れ出す。
爆発の規模は、世界総てを巻き込むほど。
ルシルはそれをするために召喚された。
ジゴエイルにできず、ルシルにできることは、蓄えられる魔力の“限界値の超越”。
―――何故、自分は知っているのか。
魔王はほとんど全て力をルシルに注ぎ込み、余力はなかった。
いよいよ蓄えられたルシルが爆ぜる。
その“スイッチ”は、魔王を一撃で倒すこと。
その衝撃が大きければ大きいほど、ルシルはよりよく“それ”を達成できる。
―――聞いた、聞いたのだ。
今、暗闇の向こう、ジゴエイルが声を振り絞り語っている、諸悪の根源らしい台詞。
その“情報”を、自分は聞いた。
―――だから、とっとと“終わらせろ”。
だが、一体どこで聞いたというのだろう。
まるで、RPGのテキストを適当に読み飛ばすかのように、ジゴエイルの言葉を聞き流す。
この物語の終点にあって、アキラはそれについて何の感情も抱いていなかった。
あれほど目指してきた、“魔王”、ジゴエイル。
その言葉すら、ただただ聞き流すだけ。
一体何だ、この感覚は。
どれほど広大な計画を聞いても、飽きた児戯にも劣る。
世界が消失してしまう。
その事態は、“どうでもいい”。
それは“何とかなることを自分は知っている”。
だから、何故、自分は。
それより遥かに“大切なこと”を思い出せないのか―――
「―――っ、フリオール!!」
「……!!」
「ディセル!!」
立て続けに二つ、マリスの声が響いた。
ああ、そうだ。
そうなっている。
「―――!!」
闇に呑まれた大広間が、今度は銀の光に包まれる。
何度も見た、マリスの澄んだシルバー。
その二つの“魔王”は、ルシル総てを覆い尽くした。
「……ぐっ、にーさん!! 自分は―――、」
マリスの言葉も、“知っている”。
フリオールと、ディセル。
外部干渉を防ぐ二つの魔法を重ねがけすることで、ジゴエイルとルシルを“一時的に切り離す”。
ジゴエイルには拒絶される可能性があっても、ルシルは別だ。
ルシルは、所詮爆発物の役割しか持っていない。
“スイッチ”を切り離せば、それは、“止まる”。
これは、“知っていた”。
頭は割れるほど痛み、身体中を何かが締め付けていく。
なんだ、この感覚は。
“勇者”の目覚めなどという、戯けたものではない。
これは、確信。
「にーさん、早く!!」
マリスの催促が飛んできた。
ルシルほどの規模を覆っているのだ。
現に、銀の光は淡かった。
彼女に他のことに魔力を回している余裕はない。
そうだ。
どれほど感慨が浮かばなくとも、やることをやらなければ。
ここでの自分の役割。
それは、ルシルの“魔力の貯蔵庫”を吹き飛ばすことだ。
今はまだ、ルシルの魔力は“爆発”に転換されていない。
魔力とは、別に、爆発物ではないのだ。
そこを撃ち抜けば、召喚獣たるルシルは自分の身体を維持できず、消失する。
世界はそうして、“勇者”に守られるのだ。
だから、今、マリスが察知した、そこ。
マリスが指差すアキラの足元に、引き金を引けばいい。
今すぐに、だ。
「―――ぐっ!?」
途端、何かに体当たりをかまされた。
薄ぼんやりと光る程度の銀の世界。
アキラはその衝撃に仰向けに倒れ、銃を取り溢す。
「ぐっ、あっ、っ……!?」
カラカラと銃が転がっていく。
倒れ込んで腹部に目を向ければ、ジゴエイルがアキラを抑え込んでいた。
ジゴエイルは最後の力を振り絞り、強大な力でアキラの身体を締め付ける。
まだ、これだけの力を、
「一瞬でプロミネンスを放つ日輪属性の勇者。ルシル全体を覆い尽くせるほどの月輪属性の魔術師。予想外はそう何度も起こせん……!!」
「がっ、あっ!?」
ギリギリと万力のような力で、アキラは羽交い締めにされていた。
暗がりの眼前に見えるジゴエイルの顔は、狂気に満ちている。
最初に見た理知的とは対極に位置するその憤怒の表情。
「世界すらも、自己すらも、総てを消す……!!」
―――総てを無に帰す、本物の“破壊欲”。
これが、“百代目の魔王”の本性。
“英知の化身”―――ジゴエイル。
それを自分は、“知っている”。
“確かに聞いたのだ”。
このままでは、ジゴエイルの単純な筋力に、アキラは“破壊される”。
“いや、そうならなかった”。
ならば、“次は何が起こった”のか―――
「―――!!」
バンッ、とスカーレットの光が爆ぜ、アキラの身体は解放された。
「かほっ、」
「早く拾って!!」
暗がりの向こう、見知った人影が、よく知る声で怒鳴った。
エリーがジゴエイルを殴り飛ばし、アキラとの間に入る。
そうだ。
今は、とにかくルシルだ―――
「―――ぐぐっ!?」
「―――!?」
銃の転がった方向に視線を走らせたアキラの耳に、ジゴエイルのうめき声が聞こえた。
思わず身構えるも、直後、それがジゴエイルの断末魔であることに即座に気づく。
死の直前で踏み留まっていたジゴエイルは、エリーの今の一撃でとうとう“それ”を迎えた。
淡い銀が満たす大部屋。
そこに新たに、バチバチとオレンジの光が現れる。
これは、戦闘不能の爆発だ。
いくらルシルに力を注ぎ続けたとはいえ、この部屋を消し飛ばすくらいの爆発は起こるだろう―――
「っ、“止めろ”!!」
―――銃を拾うことも忘れ、アキラはエリーにそう叫んだ。
エリーがジゴエイルに駆け寄っていく。
彼女が狙っているのは“相殺”。
下手をすれば二次災害が起こる可能性があり、僅かなずれも許されない。
アキラも極力自重している、危険極まりない行動。
インパクト時最大級の威力が出る火曜属性のその一撃で、ジゴエイルの爆発を抑え込もうとしている―――
―――止めろ!!
今度は、心の中で、その叫び声が響いた。
身体中で警告音が鳴り続ける。
モノクロの世界。
アキラの時間は止まり、ただエリーの背中だけが離れていく。
“知っている”。
“知っているのだ”。
漏れ出した想いは止まらない。
ここで魔王が爆ぜたら、自分たちは全滅する。
エリーの手は、それを救う唯一の方法。
だからエリーは、一人で魔王の爆発に対抗する。
そしてそれは、“成功してしまう”―――
「―――、」
ゴォゥンッ!!
スカーレットとオレンジの光が眼前で爆ぜ、鈍い音が響く。
届く爆風。
カッ、と光が目を焼き、大広間が粉砕される。
天井は吹き飛び、壁砕け、しかしそれでもアキラは転げるだけで済んだ。
部屋は淡い銀に戻り、星だけが空を照らす。
ジゴエイルの最期がもたらしたのは、部屋半分の破壊。
そして、今。
拳を突き出したまま仰向けに倒れた、“その事態”。
「ね―――」
「っ―――、」
ルシルの爆発など、頭の外に追い払われた。
アキラは“一縷の望み”を託し、倒れ込んだ一人に駆け寄る。
「っ、」
すぐさま跪き、身体を抱え起こす。
魔王の爆発を眼前で受けたその身体は、どこまでも熱く。
―――そして、冷えていった。
「お、おい、」
―――“分かってしまった”。
小声で呼びかけても、彼女は―――エリーは反応しない。
分厚いローブは焦げ切り、身体は焼け、爆風で切ったのか、額や頬から血を流している。
―――“分かってしまった”。
エリーは目を、開かない。
いくら揺すっても、全く、微塵にも、動かなかった。
―――“分かってしまった”。
そのショックに、涙さえ出ない。
思考は途絶し、モノクロの世界が、暗転していく。
これを、“どうしても避けたかったのに”。
―――“分かってしまった”。
アキラの身体も、冷え続ける。
間もなく総てが終わる、今。
吹き抜けた天井から覗く、星灯りの中、転がった銃が視界に入った。
あれは、“自分からの贈り物”だ。
―――“分かってしまった”。
「俺は―――“繰り返したのか”」
―――*―――
“魔王”―――ジゴエイルは“恐怖”を感じる敵だった。
切りかかったアキラの攻撃を回避し、不敵に笑う。
しかしそれでいて、向こうからは攻撃してこない。
マリスが銀の矢を放っても、それを難なく避け、やはり笑う。
その思慮深い瞳は、アキラにこう語りかけてきている気がした。
『お前の本気はそれではないだろう?』
“魔王”が、“勇者”の力を待つ戦い。
“裏”を感じるその態度はまさしく、“恐怖”だった。
その上、時間がない。
この大広間に到達する前、仲間とはぐれているのだ。
ときには、ファクトルで。
ときには、ルシルの体内で。
だから、アキラは焦っていた。
すぐにでも倒さなければいけない相手。
それなのに、相手はまともに戦おうとせず、ただアキラの攻撃を避けるだけだ。
“それでは不十分だとでも言うように”。
魔王が避けるだけの戦いは続く。
だがそれは、“それ”を聞いて、終わった。
“はぐれた仲間の全滅”。
耳に届いたその言葉で、“世界が止まった”。
怒りからか。
焦りからか。
それは分からない。
だが、今すぐにでも魔王を倒さなければならないそのとき、世界はアキラの“応え”を待ったのだ。
そして、“定番通り”。
“勇者の危機”に生まれた、魔道の集大成―――“具現化”。
アキラの遠距離攻撃を大きく助成する、最強の銃が。
そして、その一撃は、“それ”までの道を一直線に引いてしまった。
―――**―――
「俺は―――“繰り返したのか”」
大穴から覗く星空の下、ファクトルの乾いた空気が頬を撫でる。
腕の中のぬくもりは、徐々に冷えていった。
身体が震える。
力強く抱きしめても、エリーは応えてくれなかった。
涙さえ、出ない。
それらしく、泣き叫んで彼女を揺することすらできない。
ただ、覚えるのは、身体から総てが抜けていくような絶望感だけ。
「―――そうっすよ」
「……、」
淡い銀に光る半壊した大広間。
大穴に向いたままのアキラの前に、一人の少女が現れた。
月を背にして立つその少女―――マリスは、いつの間にか砂対策の厚着、いつもの漆黒のローブだけを纏っている。
月下を受け、風になびく銀の長髪。
しかし、アキラにはその色彩すら、分からなかった。
「自分も今、思い出したっす……。自分たちは―――」
ルシルの爆発を一時的に止めたまま、マリスは静かに呟く。
その緊急時でも、アキラの身体はエリーを抱えたまま動かなかった。
「―――ああ……、“二週目”だ」
アキラは呟く。
ジゴエイルを倒した“刻”をもって、“当事者たる”自分たちの記憶は解放された。
もうほとんどおぼろげな、遠い記憶。
だが、確実に覚えていることがある。
冷えていく、腕の中のぬくもり。
これだけは、忘れようもない。
この、“神話”の出来事。
失うものがあり、魔王を討つ。
定番の、出来事。
本当に、“よくできた下らない話”だったのだ。
「にーさん……。今すぐルシルの“魔力の貯蔵庫”を撃ち抜いて、みんなを助けに行くべきっす」
それも、マリスは“あのとき”言っていた。
ジゴエイルの言葉が挑発かどうかは定かではないが、安全ではないだろう。
他の四人を、今すぐ助けに行くべきだ。
そして、未来に辿り着く。
だが、アキラは身体中から力が抜けていた。
心の中の大切な支えが消え去り、今はもう、自分は糸の切れた人形だ。
あの銃の力を持ってしても、何もできない。
「……こいつがいない」
アキラは呟いた。
腕に力を込め、顔をうずめる。
ようやく自分は、泣くことができているのかもしれない。
この銃でみなを救い、辿り着ける“そこ”。
その未来には、エリーがいない。
“それだけは避けたかったことなのに”。
思い出した記憶は、今の想いと二重になり、重くのしかかる。
自分は何をやっていた。
この銃があれば、総てを救える。
余計なものを蹂躙し、ただただ未来に辿り着けた。
それなのに、何が、意地だ。
「にーさん……、」
「―――マリス」
アキラは、顔も上げずに呟いた。
あのときは、彼女が言った。
双子の姉を救うため、彼女は“それ”を、申し出たのだ。
だが今は、アキラが口にする。
魔王を討った報酬。
“神族”が願いを一つ叶えてくれるというもの。
それは、あまりに不確かだ。
他のメンバーの状況も分からない今。
一つの願いは、意味をなさないかもしれない。
なにより“神族”は、信頼できないのだ。
だから、最も信頼できる、彼女に問う。
「―――“逆行魔法”。使えるな……?」
“結果として不可能なことがない”、月輪属性。
その、固有魔法。
その存在を、アキラは知っていた。
自分たちが、この“刻”から遡ることができた、魔法。
それは“総てを巻き戻す”。
「―――使えるっす」
マリスはちらりと、眼下に視線を走らせた。
彼女ができないことがあるとすれば、魔力不足。
しかしその魔力は、今あるのだ。
ルシルの振動が、この“刻”を持って、弱まった。
ジゴエイルが蓄え続けた、世界を滅するほどの魔力。
“その半分”をマリスは使い、世界は姿を変えたのだ。
「少し戻せば、“蘇生”もできるっす」
「それじゃダメだ」
時間を戻せば、確かにエリーも戻るだろう。
だが、それは、ジゴエイルもだ。
僅かに戻ったところで何になるのか。
結局この場に入った“刻”に戻ることになる。
逆行して分かったこと。
それは、運命は、容易には変わらない。
また、これを繰り返すだけだ。
「にーさん、“それでも同じっす”」
「……、」
マリスの言葉は知っている。
そうだ。
ここに到達した時点で、ジゴエイルの謀略にはまり込んでしまっていた。
いや、中途半端に戻っても、“流れ”は変えられないだろう。
ならばいっそ、最初に戻った方がいい。
まっさら状態で、最初から。
だが、自分たちは最初から繰り返して、結局ここに到達してしまった。
一週目も、二週目も、同じ。
先の世界から唯一持ち帰った“具現化”さえあれば救えると思っていた。
自分が到達できた最強の力が最初からあれば、こんな結末にはならないと思っていた。
同じ“神話”は再現されないと思っていた。
過去の自分は、あまりに弱い。
アキラは過去の自分を信じられなかった。
だから、考える必要もなく総てを超えられるものを授けたというのに。
結局は、同じだった。
「……ルシルの魔力は、あと一回分。失敗したら、今度は三倍悲しむことになる。この賭けは、あまりに、いや、でも、」
マリスは口ごもった。
分かる。
分かるのだ。
この“刻”に、心が壊れそうなのは、アキラだけではないということを。
だがアキラは、慰めの言葉もなにもかけず、マリスの言葉を待った。
決めたのだ、もう。
「―――最後の一回に、賭けるっすよ。その“具現化”に、もう一度、」
「それじゃ、ダメだ」
「……?」
これは、利己的な旅だった。
誰にでも、戻したい時間がある。
誰にでも、戻したくない時間がある。
時は、逆らうべきものではない。
だけど自分たちは、それを犯した。
仮定はどうあれ、魔王を討ったことは、他の者にとって大きな希望になるだろう。
だが、それは、自分にとっては、ダメだった。
この“刻”だけは刻まないために、時間を戻す。
許されることではないのかもしれない。
だけど、それが分かってなお、それをしなければ心は完全に壊れてしまう。
先を視ることができない。
彼女がいない光景は、どうあっても、想像したくないのだ。
だから、マリスの力を“チャンス”と見立て、いっそどこまでも“我”を出そう。
「―――“記憶”を、持っていきたい」
「っ、にーさん、」
「分かってる」
かつて、ここで、この“刻”に、マリスにそれは断られた。
未来から“具現化”を持っていくだけでも不可能に近いのに、記憶はそれを遥かに上回る。
それができてしまえば、総てが覆ってしまう可能性があるからだ。
「記憶を有したままの逆行は大罪っす。それに、ルシルの魔力が全部あっても、それは、」
「…………」
聞いた。
それをアキラは、聞いたのだ。
だから苦肉の策で、“具現化”のみを持っていった。
ある種、現れたばかりの強大な力に、惹かれていたのかもしれない。
だがそれでこの“刻”が避けられないことは、今証明されたのだ。
「“具現化”なんていらない。持っていくのは、記憶だけだ」
「……、っ、そ、それでも、」
マリスは、それを勘案した。
極力エリーに視線を向けないようにしながら、頭を高速で回転させる。
記憶の持ち込み。
それに“似た”ことは、僅かなら可能だが、まるまる過去に影響を及ぼすほどとなると、対価があまりにも足りな過ぎる。
「完全じゃなくてもいい……、“力も何もない一週目”。“力だけある二週目”。どっちもだめなら、それしかない」
「……、」
「全員、全員救う。時間を戻すなら、魔王を絶対に倒す。それに必要なだけ、あればいいんだ」
それでも、無理だ。
マリスはそれを、知っている。
感じられる、ルシルの魔力。
現段階で、世界の半分を消し飛ばすことができるほどの力。
だが、それでも、対価があまりにも足りない。
マリスは首を振り、視線を落とす。
「無理っす。対価が、無い」
ここで、無理、という言葉を出すのはためらわれた。
顔が合わせられない。
今できることは、勝率の低い逆行を行うこと。
もしくは、二人で他の面々を助けに行くことだけだ。
だが、アキラが望んでいるのは、それではない。
それに自分は、応えられないのだ。
「―――なら俺の、命をやるよ」
「―――、」
一瞬、何を言っているか分からなかった。
思わず視線を向けた先、アキラが祈るような瞳を向けている。
「勇者の命だ。安くは無いだろ……?」
魔術の対価は、“魔力”、“時間”、そして“生命”。
今、エリーが倒れたのもジゴエイルの爆発を止めるべく、魔力を放出し、“生命”にまで対価が及んだ結果だろう。
その理屈に則れば、それは、成立する。
「“魔王”を倒す“刻”をもって、俺は、いなくなる」
自分の先など、いらない。
そうでなければ、償いきれないのだ。
自分は物語を壊し、そして結局は、この事態を避けられなかったのだから。
昨日胸に宿した夢さえも、今なら簡単に捨てられる。
「っ、にーさん、今、自暴自棄になってるだけっす。一時の感情に流されて、絶対あとで、」
「できるのか、できないのか」
「っ、」
マリスは死人のようなアキラの表情を受けて、奥歯を強く噛んだ。
―――“できてしまう”。
勇者の“生命”は、その対価には十分だった。
自分のそれと比しても、神に選ばれた者の特権か、アキラのそれは、違う。
思わず計ってしまった自分に怒り、マリスはさらに食いしばる。
特殊な秘術だ。
他の魔術のように、“生命”を分割して使うことなどできない。
だから彼は、確実に、
「ダメなんだよ、マリス……。今、そうしないと、マジで、本当に、今、」
「……、」
その声は、悲痛だった。
マリスはアキラを、落ち着かせることができない。
今アキラの心は、ただ、どうしようもない現状から逃れるために暴れ回っている。
きつく閉じた彼の目に、“先”はまるで映っていないだろう。
今この“刻”を避けることしか、考えていない。
今押し潰されないことしか、考えられていないのだ。
短絡的な、と言ってしまえばそれだけのこと。
ヒダマリ=アキラという人間は、決して、聖人ではないことをマリスは知っている。
運命を受け入れる心の強さも持っていない。
自分を騙して、心を乾かせる賢さなど持っていない。
人にまですがり、捨てられるものは総て捨て、願いをただただ欲する人間だ。
だが、“だからこそ”、どこまでも、“勇者”なのかもしれない。
彼の“想い”は、確かに伝わってくる。
「っ、あとで“何とかなる”なんてこと、ないんすよ……?」
「できるのか……!?」
止めるつもりで、しかし思わず口を滑らせてしまった。
アキラの瞳は大きく開き、マリスをまっすぐ見つめてくる。
「でも、」
「マリス……!!」
「っ、」
意味ない。
成功して、未来に到達しても、“自分にとって、それでは意味がないではないか”。
マリスは叫びたかった。
だが、自分は、取り乱せない。
自分はただただ静かに、彼に応じて不可能を可能にする、“マリサス=アーティ”。
そして、彼は、止められないのだ。
「―――、」
マリスの手のひらから、銀の光がほとばしる。
しかしそれは、放出されず、確かな何かを形作っていった。
色は、白銀。
広がるのは、先についた、純白の大きな翼。
彼女の身の丈を大きく超す“それ”を、マリスは掴み、振りかざす。
「―――レゴルトランド」
現れた、マリスの“具現化”。
最強の杖。
ルシルの魔力ですら、この術式には圧倒的に不足している。
だからこの杖で、それを増幅する必要があるのだ。
そしてこれを出した以上、応えは、決まっている。
「マリス……!!」
「……ずるいっすよ、」
聞こえない程度に、マリスは呟いた。
顔を伏せ、杖を振るう。
ルシルの“核”の位置を確認し、そこから魔力を吸収。
そして、煌々と光るレゴルトランドを掲げ、目を伏せる。
「―――な人に、こんなこと」
「……?」
マリスの呟きは、聞こえなかった。
アキラはただ、掲げられた精緻な杖を見上げるだけ。
月下に照らされたそれは、それ以上に、光を放つ。
この光景を、アキラは確かに、覚えていた。
「……自分ももう、“わがまま”なことはしないっす」
「……?」
遠く聞こえたマリスの声―――
「―――、」
―――そして、“唄”が始まった。
マリスが澄んだ声で口ずさめば、心地よい、その、“唄”。
ずっと、ずっと聞いてきた。
“いつこうなってしまったのだろう”。
そんなときに、歌う“唄”だと彼女は言った。
「―――、」
身体に、何かがまとわりつく感触が走った。
これは、前回の“逆行”にはなかった感覚だ。
きっと今、対価が捧げられている―――
「―――、」
マリスの唄は続く。
アキラは力を込めたままの腕の中を、ちらりと見る。
“いつこうなってしまったのだろう”。
自分は、こんな人間だったろうか。
こんな、自分をあっさりと投げ出せる人間だったろうか。
それはもう、分からない。
だが、きっと、それでいいのだ。
自分は、自分のためだけに、世界を変える、そんな人間。
褒められることでは、決してない。
どこまでも利己的で、どこまでも醜い。
だけどそれに、どうしても抗いたい。
きっとそれは、醜い自分の、想いだけの物語になるだろう―――
「―――、」
さらに強く、腕に力を込めた。
今度こそ、助ける。
全部だ。
世界も、物語も。
全員だ。
マリスも、サクも、エレナも、ティアも、イオリも。
そして、エリーを。
自分など、どうでもいい。
それが、“落とし前”。
自分が壊してしまった世界。
何のことはない。
あれほど恐れていた“バグ”の作り手は、自分だったのだ。
だから力は、ここに置いていこう。
きっとそれで、自分の世界はキラキラと輝く。
「―――、」
不安がないなどと、嘘は吐けない。
重くのしかかるのは、世界を救うという、重圧。
世界を好きなように変えるのだ。
それだけに、誰もが救われなければならない。
それをするのは、“勇者様”たる、自分。
だけど、きっと、それでいいのだ。
「―――、」
視界が歪む。
身体が浮き沈みする。
これは、術式の完成だ。
つぎはぎだらけのこの世界を離れ、自分はこれから“そこ”に行く。
自分がこの世界に訪れた地点へ。
「―――、」
マリスが“唄”を紡ぎ終わり、レゴルトランドが一層光を放つ。
もう、何も見えない。
感じるのは、腕の中のぬくもりだけ。
“いつこうなってしまったのだろう”。
銀の色で光り輝く中、アキラは視線をエリーに向けた。
「……、」
ああ、そうか。
やっと分かった。
この世界に落とされた、自分。
あの塔の下。
そこで出逢った、一人の女の子。
風邪なんか、関係なかった。
きっと、多分。
“俺はお前に恋している”。
それだけだ。
だからお前に、逢いにいこう。
「……、」
一週目は、力も何もなかった。
二週目は、力だけあった。
その二つには、最も大切なものがなかったのだ。
力はいらない。
連れていくのは、この―――
―――想いだけ。
「行くっすよ、にーさん!!」
「ああ!! 頼むマリス!!」
マリスの声に、強く応える。
銀の世界が、かすみ、暗転していく―――
さあ、行こう。
世界を変える、旅路へ。
“三週目”の世界へ―――
―――**―――
―――** ―――
―――***―――
プロローグ・完。