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No.12144の一覧
[0] おんりーらぶ!?【第一部】 【完結】[コー](2010/03/01 00:00)
[1] 第一話『ルール通りの世界なら』[コー](2011/06/19 20:53)
[2] 第二話『今必要なのに、今の今まで』[コー](2010/01/26 23:05)
[3] 第三話『天上は、遠く座す』[コー](2010/01/26 23:06)
[4] 第四話『視界はかすみ、輝きは遠く』[コー](2010/03/13 02:34)
[5] 第五話『異物たちの共演』[コー](2010/01/26 23:09)
[6] 第六話『声が届く場所』[コー](2010/04/19 01:04)
[7] 第七話『二閃』[コー](2010/01/26 23:13)
[8] 第八話『描けていた世界』[コー](2010/03/13 02:39)
[9] 第九話『迷子が迷い込んだ迷路』[コー](2010/03/13 02:41)
[10] 第十話『踊る、世界(前編)』[コー](2018/09/17 21:23)
[11] 第十一話『踊る、世界(後編)』[コー](2018/09/17 21:22)
[12] 第十二話『儚い景色(前編)』[コー](2010/01/26 23:21)
[13] 第十三話『儚い景色(中編)』[コー](2010/01/26 23:22)
[14] 第十四話『儚い景色(後編)』[コー](2010/03/01 00:00)
[15] 第十五話『煉獄を視たことはあるか』[コー](2011/06/19 20:54)
[16] 第十六話『オンリーラブ(前編)』[コー](2011/06/19 20:54)
[17] 第十七話『オンリーラブ(後編)』[コー](2012/09/07 01:06)
[18] 後書き[コー](2010/01/26 23:43)
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[12144] 第十六話『オンリーラブ(前編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa 前を表示する / 次を表示する
Date: 2011/06/19 20:54
―――**―――

 来た。
 すぐに分かった。

 このファクトルは、庭なのだから。

「……、」
 その場所―――“王”に相応しい空間で、唯一の存在は確信した。

 この、物的意味合いでも世界の一部と形容できる、広大なファクトルの地。
 そこを、庭とまで形容できるのは、“その存在”からすれば当然のことだった。

 “その存在”が住む、いや、“乗る”その壮絶的な姿からすれば、まさしくここは、箱庭なのだから。

 侵入者だ。
 それも、数日前とは違う、本格的な“当たり”。

 ようやく来た。

 希望と言われる、“勇者”が。

 そして、ようやく終わる。

「……、」

 その存在は、小さく、しかし、“らしく”、荘厳に笑う。

 ようやく終わる。

 この、下らないチェスゲームが。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「? にーさん?」

 馬車の中から直接馬の手綱を引く先頭まで出たアキラを、半開きの眼の少女が迎えた。
 漆黒のローブに長い銀の髪をそのまま仕舞い込み、その上から砂対策の厚着を着込み、淀みない手つきで馬を操るのは、マリスことマリサス=アーティ。

 昼を僅かに過ぎた程度だというのにどこか薄暗いこの場所に、アキラたち“勇者様御一行”が入ったのは昨日の朝。
 うず高い岩山に囲まれた、それに比すれば狭い荒れ果てた足場。

 そこを行く馬車は揺らぎ続け、馬車を引く四頭の馬もすでに疲労を溜めている。
 車輪も特別仕様でなければ、とっくに破損しているだろう。

「もう起きたんすか?」

 操縦しているにもかかわらず、むしろ彼女の方が眠たげに見える眼を真横に座ったアキラに向け、マリスは小さく聞いてきた。
 余裕な表情、というより無表情に近いそれからは、疲労がまるで感じられない。
 数千年に一人の天才と言われるマリスにとって、例え“世界最高の激戦区”であろうとも、何も変わらないようだ。
 “魔術”ではなく、不可能を可能にする“魔法”を操る、月輪属性のマリス。
 その力は総てを超えているのだから、それは不遜や慢心ではなかったりするのだけど。

「流石に寝てられないだろ……、」
「……、」

 アキラはたった今這い出てきた馬車の中を思い返す。
 “七曜の魔術師”が共に行動している狭い馬車の中には、女性しかいないのだ。

 共に昨日の夜の番を務めた二人は睡眠をとっているが、そこに交じって寝ていられるほど、アキラの神経は太くない。

 そして、それ以上に、馬車の中は、居辛かった。

「休めるうちに休んどいた方がいいっすよ。いつ戦闘になるか分からないんすし」
「ああ、……でもなぁ……」

 アキラは視線を周囲に走らせた。
 馬車で揺れる景色には、砂と岩山しか見えない。

 僅かな休憩以外は走らせているというのに、どこまで進もうと景色は変わらなかった。

 そして、それどころか。

「魔物……、出ないっすね」
「……ああ」

 アキラの心情を察したのか、マリスが呟いた。

 そうなのだ。
 この地を囲う魔道士隊の支部から出発して以来、魔物どころか生物すら見ていない。

 意識して緊張感を高めていたそれも、その様子に萎え始めていた。

「魔物が出現するのって、もっと先だっけ?」
「らしいっすね。だから、休んどいた方がいいっすよ」

 再三休憩を促すマリスに、アキラは何も返さなかった。

 聞いたところによると、ここの魔物は、この辺りまではほとんど来ないらしい。
 というより、この辺りまで来ると、魔道士隊に駆除されるからだ。

 この地は、世界最高の激戦区、すなわち絶対領域。
 その拡大を防ぐために、この地は、魔道士たちによって閉じ込められている。

 といっても、何も起こらないというのも不気味だった。

「……、」
 アキラは何の気なしに、流れる景色の足場を眺めた。

 荒れ果てた大地。
 所々、土がめくれ上がって砂風にさらされている。
 確かに足場は悪そうだ。
 だが幸か不幸か、その場で魔物と戦う機会はなかった。

「……、」
 何となく、無言になる。

 岩を鳴らす風と、馬の足と、馬車の車輪の音。
 それだけが聞こえている乾いた空気の中、アキラはおぼろげに、右手開いた。
 そして、目の前にかざして見る。

 その右手は、今まで総てを蹂躙してきた。
 伏線も、想いも、何もかも。

 馬車は揺れ動き、砂埃が頬を叩くこの環境でも、その右手だけは揺るがなく見える。

 この右手から現れる、日輪属性の勇者たるアキラの、最強装備。
 プロミネンスという広大かつ壮絶な砲撃を放つ銃は、魔道を志す者の最終到達地点と言われる“具現化”だ。

 “とある意地”から使っていなかった、この力。
 それを、使うときが来ているのだ。

「……、風、強くなってきたっすね」
「……!」

 まるでマリスの呟きがそれを呼び込んだかのように、頬を叩く砂粒が強くなった。
 そして視界も徐々に悪くなる。

 風と岩の音色は力を増し、砂埃は舞い上がる。

 遮断されつつある日の光は世界に影を落とし、背筋を冷たい汗が撫でた。
 気分の問題か、馬車が闇に近づいているようにも見える。

 確かに、集中しなければ。

 終着点。
 このご都合主義の、優しい世界の切れ目。

―――ファクトル。

 ここには、魔王の牙城があるのだから。

―――**―――

「くー、」
「……、」
 薄暗く、狭い馬車の中。
 エレナ=ファンツェルンは、隣で眠る少女の乱れていたタオルケットを適当に直した。
 馬車の後方でチャプチャプと鳴り、面積を圧迫している食糧だけが、何の感情も抱いていないようだった。

 普段着にも近い簡易な服の上から羽織ったメンバー共通の分厚いローブを、逆にはだける。
 甘栗色の長い髪に、女性として理想的な身体つき。
 長いまつ毛に大きな瞳、そして妖艶に膨らんだ唇と、整った顔立ちの彼女は今、無表情だった。
 それこそ、木曜属性の彼女が敵を作業のように滅しているときのように。
 そんな表情を、“作っていた”。

「……、」
 思い直して、ローブを脱いだ。
 揺れる馬車の中、どこか重い空気。
 動かないとはいえ、砂対策の厚着は暑苦しいものがある。

「くー、」
 隣からは、依然、規則正しい寝息が聞こえてくる。
 その少女、ティアことアルティア=ウィン=クーデフォンは、“こんな場所”だというのに、あどけない表情で、ときおり口をもごもごと動かしていた。
 青みがかった短髪の、水曜属性の魔術師。
 その短髪をかき分け、エレナは何となく、ティアの額に手を置いてみた。
 僅かに吐息を漏らしたが、どうやら、体調は問題ないようだ。

 問題なのは、彼女が、“彼女のまま”であるということなのだが。

 馬車は揺れる。
 魔王の地に来ているだけはあり、その中は、和気あいあいとは流石にいっていない。

 だた、ティアが目を覚ませば、それだけで、そんなムードは消し飛んでしまうだろう。

 ティアが今寝ているのは、昨日の夜の番を務めたからだ。
 もしそれを、キャンプの夜更かし程度だと彼女が感じていたのだとしたら、やはり、忌々しき事態である。
 そしてそれを裏付けるように、ティアは、遊び疲れた子供のように眠っていた。

「……、」
 直しても直しても乱れるティアのタオルケットをまたも直し、エレナは次に、正面で眠る少女に目を向けた。
 エレナと同じような体勢で、馬車の隅に背を預け、自らの長刀を抱え込むようにして目を閉じている。

 高い位置で束ねた黒髪に、エレナとは対照的な精緻な日本人形のような顔立ちの少女、サクは、静かに休み、ティアとも対照的だった。
 触れれば切れるような雰囲気を持つ、金曜属性の魔術師。
 いつもは特徴的な紅い着物も、分厚いローブに隠れている。

 サクとティアは、言い方は悪いが、エレナが直接脅しつけた二人だ。

 この場所の危険さ。
 認識の甘さ。

 だから気を張り、初日の夜の番をアキラと共に務めたのだろうが、それでもエレナの懸念は晴れない。

 確かに、気を張り過ぎてもかえって悪い結果になる、とはよく言われることだ。

 だが、そんな通説すら、戯言になる。

 気を張って、気を張って、それが僅かにでも途切れたとき、そこに待つのは惨めな末路だけ。
 ここは、ファクトルは、そういう場所なのだ。

 そしてそれは、“ここにおける通常の魔物”だけで、“そう”なのである。

 ここには、“そんなもの”と比較することすら愚かしい、魔王の牙城があるのだ。

 当然そこにいるのは、“魔王”だけではない。
 魔王直属の、“魔族”。

 それが、勢揃いしているであろう。

 “勇者様御一行”の旅の道中、出遭った“魔族”は二体。

 一体は、リイザス=ガーディラン。
 アイルーク大陸で遭った、“財欲”を追求するその存在は、アキラの最強の砲撃が、滅した。
 もう一体は、サーシャ=クロライン。
 ここ、ヨーテンガース大陸で遭った、“支配欲”を追求するその存在は、メンバー最強クラスのマリスを前に、逃亡を図った。

 たった、二体だ。

 先日宿泊した魔道士隊の支部でも、情報はほとんど集められなかった。
 逃げたサーシャもここにいるであろう上に、自分たちは、魔王戦力の総計を知らない。

 そして、もう一体。
 エレナだけが知っている、“魔族”。

 “それ”も、“未だ”ここにいるかもしれない。

 出遭ってどうするつもりかと問われれば、即座に『殺す』と返せる相手。

 “ガバイド”。

 自分たちが知っているだけでも、ここは、危険なのだ。

 だからエレナは、ひたすらに身体を休める。
 勝率を―――いや、もしかしたら、“生存確率”を少しでも上げるために。

「―――、」
 エレナが次に目を映したのは、サクの隣、同じように馬車に背を預け、ここ一帯の地図を眺めている少女だった。

 ホンジョウ=イオリ。
 巨大な召喚獣を操る、土曜属性の魔術師。
 黒髪に、小さな飾りのついたヘアピンが唯一のアクセサリーである彼女は、どこか暗い面持ちで、必死に現在位置とそれを照らし合わせていた。
 魔道士にしか着用を許されないローブも、今は面々と同じく、土色の分厚いローブで隠されている。

「……、」
 彼女は、“分かっている”。
 休息と、情報確認。
 つまるところ、それしか“許されない”この場所で、彼女は、それを理解し、それを実行している。

 助かった。

 エレナはふいに、そんなことを思う。
 イオリは、“警戒”していてくれている。

 魔物が現れないこの状況。
 決して、いつものように、“マリスを恐れて”現れないわけではないということを、イオリは理解している。

 今、“そう”であってくれているのは、自分、マリス、イオリ。そして多分、アキラ。
 エレナの目から見れば、そうとしか考えられなかった。

 他のメンバーは、“緊張”はしているが、“警戒”はしていない。
 だけどもう、仕方がない。
 自分たちだけ“そう”ならば、彼女たちがどう思っていても、結果には響かないだろう。

 結局のところ、エレナは残る彼女たちを、“そういうくくり”で考えていた。

「……、イオリさん、あたしたち、今どの辺りなんですか?」
 眠っている二人を気遣った小声が、外の風の音と混ざって吐き出された。

 重苦しい空気に耐えられなかったのは、エリーことエリサス=アーティ。
 短い赤毛に、大きい瞳。
 双子の姉というだけはあり、マリスと瓜二つの彼女は、“緊張”している最後の一人だ。
 そして、この“七曜の魔術師”の中の、火曜属性の魔術師。

 この、七人。

 その七人は、二つに分かれている。

 空気も、そして、実力も。

「ああ、流石にもうすぐ、とはいかないみたいだ。だけど、休養だけは、」
「……はい」

 ほら。
 あれだ。

 同じく小声で返してきたイオリに、エリーはまるで話しかける相手を間違えたかのように委縮し、再び身体を抱え込むようにして黙した。

 完全に、“別のこと”が気になっている。

 絶対に、何の余裕もない場所のはずなのに。

「……、」
 聞こえない程度に、エレナは空気の塊を吐き出した。

 砂風が馬車を叩く音と、食料の水音と、小さな寝息声。
 馬と車輪が大地を響かせ、馬車は前へ前へと進む。

 どこまでも我が道を行きたがるエレナにとっても、最終目的であるかもしれない、この場所。

 それなのに、こう思ってしまう。

 宿敵の首より、何より。

 “恐怖を無事に持ち帰りたい”、と。

―――**―――

「……、ああ、俺、やっぱり変わったかもしれない」
「? 何がですかっ?」

 天高く舞う砂が太陽を隠していたものとは違い、本当の夜が訪れたファクトルの地。
 アキラはパチパチと燃えるたき火の向こう、にこにこと笑うティアに小さく呟いた。
 その音量を遥かに超越して返ってくるその声に、僅かに苦笑し、視線を空に向ける。
 岩山に挟まれた空は、生憎曇り、そして狭かった。

 頬を撫でる土の匂いも、どこか弱い。
 砂嵐が発生しないのは僥倖だった。

「まず、体力。俺さ、もっと眠気に弱かったような気がするんだよ」

 今日は、ほとんど寝ていない。
 昨日夜の番を務めたというのに、目の前のティアのように休息を取らず、ずっと馬車の操縦席にマリスといた。
 それなのに、眠気は襲ってこない。

「それと、心も。今、馬車の中、あんま気になんない」
「おおっ!? アッキーが悟りの境地に!?」

 ティアから大げさな言葉が返ってくる。

 今、馬車の中では、ティアを除く女性陣が、湯浴みをしていた。
 湯浴みといっても、大したことはない。
 布を浸し、身体を拭くだけ。

 ファクトルは広大だ。
 魔王の牙城を目指すといっても、それは“移動要塞”らしく、今回探索で終わる可能性が高いのだから、女性からしてみれば身体を清めたいのだろう。

 ただそれでも、服は脱ぐ。

 もともと覗きをするほどの度胸はアキラにはないが、それでも今までは、悶々としていただろう。
 それが、今はどうだ。
 いい傾向なのだろうが、アキラの意識は、魔王に向いていた。

 ただ、少なくとも言えることは、ティアがアキラを見張る必要ない。

「ティア、お前はいいのか?」
「あはは、あっしは後でっ!! その、みなさんと一緒だと……、えっと、気後れして……、あはは」
「?」
「アッキー、女性にもいろいろあるんです」

 突如真顔でどこか冷めた言葉を吐き出したティアに、アキラはそれ以上追及できなかった。

「でもアッキー、休んだ方がいいですぜぃっ!? あっしはもう一晩、ばっちり行けます!!」
 ティアはよく寝ていたそうだ。

 だがそれが、“身体を休めていた”わけではないと、何となく思ってしまう。
 彼女は、“いつも通りのティア”なのだ。

「……、」
 目の前の、いつも通りの、ティア。

 それを見ていると、どうしても不安が募る。
 緊張感は、ある。
 だが、警戒心は、ほとんどない。

 あるのは、体力だけだ。

「……、」
 だがそれは、“結果として”、アキラも同じだった。

 身体中の感覚が湧き立ち、そして心には、夜も眠れぬほどの冷えた部分がある。
 身体を休め、万全の状態でいなければならいのに、それを感覚が拒絶する。
 全神経がピリピリと警告してくるのだ。

 そのせいで、休養が取れない。
 警戒と休養。
 そのどちらも必要だというのに、あまりにバランスが取れていなかった。

 “警戒”している三人、マリス、エレナ、そしてイオリは、“それ”ができている。
 一段階先にいる、あの三人。
 その真似事すら、アキラにはできなかった。

 伏線も、想いも、総てを蹂躙してきた旅路。
 ここはその、終着点なのに。

「―――アッキー、私は警戒していますよ」

 ティアからまた、静かな言葉が聞こえた。
 彼女はどこか視線をぼかし、目の前で揺れるたき火を、見ているようで見ていない。

「いや、多分、エレお姉さまが言う域には、全然達していないと思いますけど」

 ティアのこういう口調は、たまに聞く。
 面々に積極的に話しかける彼女。

 彼女は、ときたま、こういう雰囲気になるのだ。

「エレお姉さまにね……、前に、話したことあるんですよ。『死んだらどうなるんだろう』って」
「……、」

 たき火だけが、照らす世界。
 ティアのずっと小さな声だけが聞こえる。

 風の音も、馬車の中からの水音も、まるで聞こえなかった。

「人は、いつか死ぬ。分かっていても、私は恐い。だけど、思うんですよ。それが決まっているのなら、『恐がって動かないことが、恐い』って」
「……、どした、急に?」
「……、くぅ……、エレお姉さまにも似たようなこと言われました……。あっしにシリアスは向かないですかっ!?」
「い、いや、いいんじゃね?」

 アキラは一応、先を促した。
 こうした静かな場所で、ティアとこういう風に話したことは、思えば一度もなかったのだから。

「……それで、思うんですよ。いつかは何かにぶつかる。それまでは、恐がらずに走り続けたい、って」

 それは、もしかしたら、“挫折”を指しているのかもしれない。
 アキラが元の世界で経験したようなちっぽけなことではなく、もっと大きな、あるいは“旅にとって最も必要なこと”。
 それは、ここまで、一つもなかった。

 いや、本当になかっただろうか。
 アキラの頭のどこかが、何故か、ズキリと痛んだ。

「それに、エレお姉さまに言われたんです。『間に合わなくなっても知らない』って」

 ティアは本当に、エレナと話しているようだ。
 というより、懐いている。
 そしてもしかしたら、エレナも。

 そのときのエレナの表情は分からないが、きっと、心情は、ティアの身を案じていたのだろう。

「だけど私は、“いつも通り”を貫きたい。よく騒いで、よく寝て。変わらなきゃいけないってことは、薄々気づいているんですけどね」

 その機会は、きっと、アキラが奪ってしまったのだろう。
 順調に進んできた、これまでの旅路。
 その中身は、悪く言えば空虚なものだ。

 不揃いな世界は、“想い”を奪ったのかもしれない。

「だから、アッキー。休みましょうっ! あっしも昼間寝てたからいけそうですけどっ、一緒にっ、……って、きゃはっ、そんな意味じゃないですよっ!?」
「ティアに諭された……、」
「アッキーッ!?」

 ようやく話のゴール地点に到着し、アキラはうなだれ、ティアは喚く。
 だがアキラの中に、ようやく身体を休めるという選択肢が浮かんできた。

 ビクビクしないで、前に進む。

 きっと、そうすることで、この物語は“神話”になるのだ。

―――**―――

「……ラ、アキラ、」
「……?」

 意識がゆっくりと覚醒する。
 揺れる馬車。
 そしてそれより大きく、揺さぶられる自分。

 頭が徐々に回転したところで、アキラはようやく目を開けた。

「アキラ、起きてくれ」
「……、うわ……、かんっぺき寝てた……」
「いや、それはいいんだけど、起きてくれ。到着する」

 身体の節々がパキパキと鳴る。
 首を動かせば、折れたと感じるほど不気味な音を奏でた。

 随分と長い間、同じ体勢でいたようだ。

「おはよう」
「あ、ああ、」
 薄暗い馬車の中、目を開ければ、どこか苦笑したような表情で、イオリが覗き込んでいた。

「よく寝ていたね……。体調は?」

 身体に倦怠感は襲うも、流石にあと五分などとは答えられなかった。
 自分たちが今いる場所。

 ファクトルは、比喩ではなく、危険地帯だ。

 馬車内を見渡せば、各々が同じ位置で、座り込んでいる。
 ただ、エリーとサクだけがいなかった。

「到着したって、……どこに?」
「魔物の出現場所だ。今、二人の声も聞こえなかったみたいだね」

 その二人とは、エリーとサクだろう。
 イオリの視線の先、馬車の先頭、布に二人分の影が見える。

 今日の馬車の操縦担当者は、サク。
 エリーはそれに付き合って、そこにいるのだろう。

「……、俺って、どれくらい寝てた?」
「もう昼過ぎだ。エリサスもエレナも、とっくに起きてる」

 随分と寝ていたらしい。
 眠くなかったのは、本当に、心理的なものだけだったのだろう。

「やっぱり、疲れてたんじゃないですかっ!!」
「あ、ああ、」
 馬車内の正面から、騒音が聞こえた。

 昨日自分に寝るように促したティアは、どこか満足げに笑っている。
 ただ、起き抜けにしては厳しいその大声も、今は覚醒要因として望ましい。

「魔物は?」
「まだ、出ていない」

 イオリの返答を聞いて、ほっと胸を撫で下ろす。
 ファクトルの魔物に、アキラはまだ出遭っていない。

 その大一番を、自分が気づくこともなく過ぎ去るのは、あまり面白いことではなかったりする。

「警戒しなさい」
「……!」

 その、自分が気づく間もなく魔物を滅せるであろう女性から、どこか乾いた声がアキラに届いた。
 いや、アキラだけではない。
 恐らく、この場にいる全員に、その女性、エレナは伝えているのだろう。

「こんな場所まで来たってことは、何が起きてもおかしくないわ。そうでしょ?」

 エレナはアキラ、イオリを一瞥したあと、隣のティアを追い越し、奥で座っている最後の一人、マリスに視線を向けた。
 マリスは音もなく頷く。

 その雰囲気は、いつもののほほんとしたものではなく、半分の眼をどこか険しくしていた。
 彼女は、“警戒”している。

 そうだ、“警戒”しなくては。
 アキラは一気に身体中を覚醒させた。

 エレナの言う通り、ここは何が起きてもおかしくはない場所。
 口伝てでしか聞いていなくても、自分は“警戒”しなくてはならない。

 ここは、世界最高の危険地帯、ファクトル。

 だから―――

「全員馬車から降りろ!!」
 外からサクの怒鳴り声が聞こえた。

―――そんなことが突然起きるのも、自然なことなのだろう。

「っ―――、」
 最も早く反応したのは、マリスだった。

 座っていたマリスは瞬時に跳び起き、馬車の分厚い布を突き破るほどの速度で外に躍り出る。
 翻った馬車の布の先、彼女が両手を振り上げるのがアキラには見えた。

「出るわよ!!」
「ぐぇっ!?」
 エレナが隣で座るティアの首根を掴み、マリスに続く。
 アキラとイオリが競い合うように外に出れば、そこは、銀の光に包まれていた。

「っ!?」
 起き抜けでその光景を見れば、いくらなんでも動きは止まるだろう。

 道と形容できないほどの、岩山に囲まれただだっ広い通路。
 上空から見れば巨大な迷路を思わせるファクトルの地形は、どこまで行ってもアキラには差が分からない。
 少し戻れば、すぐにでも魔道士隊の支部に到着できそうだ。

 だが今まで、吹きすさぶ砂風の中、岩山の上部から、大岩が落ちてきたことは流石になかった。

「―――フリオール!!」
 マリスがその岩石に両手を突き出し、馬車の上空数メートルで止めていた。

 彼女が即座に反応し落下を止めていなければ、馬車はアキラたちごと押し潰されていたであろう。
 外にいたエリーとサクも、馬車から急遽離れ、倒れ込んでいる。

「何がっ、」
「ヒンッ」

 アキラが状況把握をする間もなく、馬車が動き始めた。
 危機から即座に逃げられるのは動物の本能か。
 操縦者を失った馬は、わき目も振らず駆け出した。

「っ、」
「止めなさい!!」

 それを追おうとしたサクを、エレナの怒声が止めた。

「“そんなの”、どうでもいいわ!!」
「―――!!」

 面々の積荷が、馬車と共に離れていく。
 指揮系統のなくなった馬は、今すぐにでも馬車と共に横転するかもしれない。
 だがそんなものは、完全に後回しだ。

 エレナが睨んでいるのは、たった今、落石を引き起こした存在。
 岩山の上から、面々を見下ろしている数体の魔物だった。

 いや、数体ではない。
 舞い上がった砂の向こう、岩山の上部に、わらわらと黒い影が並んでいる。

「ガァァアアッ!!!」

 威嚇するように咆哮を上げ、アキラがその正体を視認するよりも早く、俊敏に自分たちと馬車の間に降り立つ。
 マリスも一々止めていられないほどの、異常な数。

 その魔物たちは、総て黒い体毛に覆われた、ゴリラのような姿だった。
 旅の途中見てきた、クンガコングやガンガコング。
 姿形は似ているものの、“それ”は、一体一体の体長がゆうに三メートルを超えていた。

 肥大化した筋肉で、胸を討ち鳴らし、くすんだ眼でアキラたちを睨む。

「ランガコング!!」
「っ、」
 イオリが叫び、エレナが即座にその大群に飛び込む。

 マリスが魔法を解き、落石を“自然”に戻したのが、開戦の合図だった。

 落下する大岩。
 揺れる大地。
 踏んだ足場では、右足と左足が同じ高さに並ばない。

 予兆も、なにもなく。
 アキラたちは突如日常から切り取られた。

 ランガコングと呼ばれたその魔物の数は、数十体にもおよび、今なお岩山から飛び降りてくる。

「っ、うっ、後ろに!!」

 ティアの叫び声に、アキラは剣を抜くことで応じた。
 進行方向に跳び下りて、その巨体で道を塞ぐランガコング。
 しかしその反対から、巨大な影が、ぬっ、と現れた。

 日が遮られ、夜になる。

 ティラノサウルスにも似た、巨獣。
 自分たちは、その間近を通ってきたというのだろうか。

 魔道士部隊の支部で、確認されたと情報を受けた、ガルドン。
 獰猛な姿に相応しい、想像を絶する力を持つ魔物。

 広大な、“道”。
 そこで、完全に挟まれた。

「進むぞ!!」
 サクが叫び、全員がそれに応じて駆け出す。
 後方には、この世のものとは思えないほどの巨獣。
 確かにどう見ても、エレナが殴りかかっている前方の方が安全地帯だ。

 “ファクトルが始まる”―――

「っ、」
 背後から迫ってくるガルドンから逃げるように、前のランガコングの群れに飛び込む。

「―――、」
 ランガコングの巨体。
 初手で倒すことを瞬時に放棄し、アキラはコンパクトに剣を振った。

 魔力を相手に残し、中から揺さぶり、深刻なダメージを与える。
 同種と思われるガンガコングの鎧のような筋肉も凌駕した“それ”。

 その、土曜属性のイオリから学んだ攻撃方法は、

「っ―――!?」

 僅か、コンマ一秒。
 その程度の足止めにしかならなかった。

「スーパーノヴァ!!」
 直後、アキラが足止めしたランガコングに、スカーレットの光が爆ぜた。

「お、……っ、―――!!」

 現れるエリーに、言葉をかける機会は失われた。
 エリーの攻撃を受けても動くランガコングに、今度は大量に魔力を流し、切り裂く。

 その、火曜属性のエリーから学んだ攻撃方法で、ようやくランガコングは動きを止めて倒れ込む。

 これで、ようやく、一体だ。

「っ―――、」
 ランガコングの巨体に埋め尽くされた景色。

 味方の位置も、ほとんど視認できない。
 寝起きで、息つく間もない戦闘が、途端始まった今。

 頭が追いつかない。

 だが、確かなことは、エリーと離れたら、どちらもランガコングに殺されるということだけだった。

「―――フリオール!!」

 ランガコングの雄叫びと、死刑執行直前を思わせる、背後のガンドルの足音。
 その中、澄んだ声が聞こえた。

 そして、身体が銀の光に包まれ、“重力を忘れる”。

 身体に当たっていた鬱陶しい土風や、戦闘の熱気すら遮断され、アキラとエリーの身体は宙に浮いた。

「マリ―――」
「行くっすよ!!」

 眼下のランガコングを一瞥し、マリスは全員の身体を前方へ運んだ。
 すでに岩山の上にはランガコングはいない。
 マリスはそれを待っていたのだろうか。
 足元の大群は、この高度には流石について来られないようだ。

 だが、背後から迫る巨体は話が別だった。

「っ―――」
 遥か上空と表現できるこの場でも、背後のガンドルにしてみれば獲物を口に収めるのに丁度いい。

 七人全員の身体を、前へ飛ばすマリス。
 広大な前の景色。

 ランガコングの大群に潰されたのか、すでに馬車は見えなかった。

「っ―――」
 高速で過ぎ去る総ての景色。

 マリスの飛翔速度は、背後から迫るガンドルをゆうに超えていた。
 だが、荒い。

 マリスもマリスで、この事態には余裕を見せられてはいないようだった。

「っ、一旦、下ろすっすよ!!」
 マリスが叫んだ。

 それと同時に、ランガコングの群れを抜き去った面々の身体が地面に下ろされる。

「走れ!!」
 着地と同時、アキラは叫んだ。

 背後からは、ランガコングの群れが獲物を一目散に追ってくる。
 その後ろに、ガンドルという巨獣を携えて。

 今すぐにでも、この場を離れなければ。

「―――っ、」
 全員が、一心不乱に走る。
 背後からは、強大な敵。

 誰も、馬車を探そうとさえしなかった。
 一体何だ、この場所は。
 こんなことが、頻発するのだろうか。

 ただ、逃げる。
 めくれ上がった荒れた大地を強引に踏みしめ、足を取られても、何が起こっても、ただ逃げる。

 光が差し込めているように思えるあの岩を曲がれば、助かるような気さえして。

「づ―――!!」

 全員の足が、同時に止まった。

 今までの“道”よりも遥かに広い、荒野のような、“道”。
 七人が横並びになった、その世界。

 その正面から、揺れた世界が迫ってきた。

「っ、」

 背後に戻り、ランガコングの群れや、常軌を逸した巨体のガンドルと戦う。
 それが、あまりに容易いことと思えるようなそれは、“世界”ではなく、“群れ”だった。

「ア……、アシッドナーガ!?」
「それだけじゃない!!」

 エリーの呟きを、イオリが大声で正す。

 だがまさに、そうだった。
 かつて、リビリスアークを襲撃してきた、アシッドナーガ。

 太った竜のような姿のそれは、毒々しい膿のような膨らみを身体中に浮かべ、そして尖った牙をむき出しにしているのも、以前見た通りだ。
 巨大な翼でアキラたちに迫ってくる、“ボス”と形容できるその存在。
 それが、見えている範囲で、十体。

 そしてそれは、その景色の“たった一部”だった。

 サーシャが襲ってきたときにも見た、銀の体毛のオオカミ、ルーファングもいる。
 あらゆる生物を融合したような身体、キマイラのような魔物もいる。

 他の場所に出現するだけで、“異常事態”と称される魔物。
 その、激戦区の存在。

 それらがまるで一塊の津波のように迫り、身体中で危険信号が鳴り響く。

「トッグスライムに、バースガルも!!」
 イオリが叫んだそれを、いちいち確認できなかった。
 しかも、きっと、それだけではない。
 見えるだけで、十種以上はいる。

 中型から、大型の魔物まで。
 どれも殺意をむき出しにし、まっすぐに押し寄せてくる。

 地上からも、空からも。
 その“世界”は迫ってきた。

 ただ、確かなことは。

 死と死の間で、挟まれているということ。

『煉獄を視たことはあるか』

 イオリの言葉が蘇る。

 進めば地獄、退路はない。

「っ、」
 まず、エレナが飛び出した。
 そしてアシッドナーガに跳びかかり、その巨体を殴りつける。

 そうだ、動かなくては。

 立ったままでは、最初に背後のランガコングたちに襲われる―――

「っ―――、アキラ!!」
 剣を構えたアキラに、イオリの叫び声が届いた。
 短剣を抜き放ち、魔物に応戦しながら、イオリは叫ぶ。

 そうだ。

 例えこんな状況でも、自分たちは“無事でいられるのだ”。

 アキラは剣をその場に突き刺した。
 この剣は、ここでは何の役にも立たない。

 そして駆ける。
 背後の敵から逃げながらも、これは、変わらず出現するのだから。

 今必要なのは、“最強カード”だ。

 この右手が掴むものは、きっと、

「っ!?」
「エリーさ―――」
「―――!?」

 見えていた景色が、僅かに変わった。
 視界の隅に映っていた赤毛が、そこから消える。

 聞こえた隣のサクの叫び声。
 振り返れば、同時に駆けていたエリーがファクトルに足を取られていた。
 サクが即座に駆け寄るが、エリーの足は、割れた大地に挟まっている。

 背後からは、迫る魔物たち。
 眼前からは、迫る怒涛の“世界”。

 ここで後方に“あの力”を放てば、エリーたちを巻き込むことになる。

 どうする。
 どうすれば、

「―――、」

―――“いや”。

 エリーだけは、救わなければならない。

 “そう想ったじゃないか”―――

「アキラ!!」
「っ―――、」

 イオリの叫び声が聞こえる。

 だがアキラはその右手を、エリーに伸ばしていた。

「アキ―――」
「!! フリオール!!」

 イオリの叫びが途絶され、次に響いたのは、聞き慣れないマリスの大声。
 その直後、アキラたちの身体は銀に包まれ、“視界が消えた”。

「―――!?」

 まるで、水族館のようだった。
 銀の光というケイジに阻まれ、自分の世界と目の前の世界が拒絶される。

 そこでようやく、マリスが察したのは、ここを突如襲った砂嵐だったことに気づいた。

 完全で流れる、砂嵐。
 魔物も、景色も、何も見えない。

 見えるのは流れる砂と、辛うじて、僅かな距離で輝く人影、サク。
 そして、自分と同じケイジにいる隣のエリーだけ。

 まずい、これは。

 “誰がどこにいるか分からない”―――

「っ―――、」
 砂嵐に包まれた景色。
 そこで、エレナは口に含んでしまった砂を噛み潰した。

 この砂嵐は、まずい。
 乱戦になっている現状、アキラはあの力を使えないはずだ。
 マリスが全員を安全地帯に飛ばし、アキラの砲撃で片付ける。

 それがベストだったのだが、その手は採れなくなっていた。

 ほとんど勘で、前方の影を殴りつける。
 聞こえる魔物の呻き声と爆発音。

 突然の砂嵐に反応できたのは、マリスだけだったようだ。
 この視界の悪い中、数の多い相手との乱戦は危険と思っていたのだが、魔物も混乱のただ中にある。

 だが、事態は好転していない。
 とりあえずは、誰でもいいから発見しなくては。

「……!」
 砂嵐の僅かな切れ目、そこに、シルバーの発行体を見つけた。

 小柄な少女。
 間違いない。

「―――、」
「ぎゃっ、わわっ!?」

 そこに詰め寄り、襟首を引くと、心臓が口から飛び出たような声が聞こえた。

「っ、エレお姉さま!?」
「しっ、」
 何とか合流できたティアの口を、急いで塞ぐ。
 声を出すのはまずい。
 魔物の群れが、それを頼りに襲いかかってくる可能性がある―――

「っ―――!!」
「ぐぇっ!?」

 案の定、エレナたちがいた場所に何かが振り下ろされた。
 ティアを掴み上げ、即座に距離をとりそちらを睨む。
 砂嵐の向こう、とっくに視認できなくなっていたが、どうやら野太い腕のようだった。

「―――、」

 冷静になれ。
 エレナは目を細め、周囲を睨む。

 この砂嵐。
 プラスの面で考えれば、魔物の大群をまける可能性がある。

 ティアを保護できたのは僥倖だ。
 マリスとイオリは離れていたが、あの二人は問題ない。
 エリーとサクは、アキラの傍にいた。

 抜け切れる可能性がある。

 問題は、どうやって合流するか。
 マリスも砂嵐から自分たちを守るのが精一杯で、全員を飛ばすことはできていない。
 それどころか、空すらも、魔物の群れがいる危険地帯だ。
 ほとんど無抵抗になる空路は諦め、陸路で進むしかない。

 何か、合図のようなものがあれば、

「……!! エレお姉さま、」
「……!」

 聞こえたティアの小声を拾い、エレナは“それ”を察した。
 ズシン、ズシン、と規則正しく聞こえる地鳴り。
 ティアが怯えているそれは、先ほどの巨獣、ガルドンの足音だ。

「全員、あの足音から“まっすぐ逃げなさい”!!」

 聞こえているかは分からない。
 だが、エレナは叫んだ。

 それに反応して襲ってくる魔物をかいくぐり、ティアと共に走る。

 この砂嵐の中、足音から逃げろとは無茶なことかもしれない。
 だが、せめて自分たちがどちらに進んだかの指針にはなる。

「っ―――」
 進行方向の魔物を殴り飛ばし、エレナはティアと共に進む。

 冷静になれ。
 何度も、自分に言い聞かせる。

 これを乗り切れば、きっと、“恐怖”だけを持ち帰れるはずだ。

 ファクトルは、“こんな程度のこと”は普通に起こるのだと。
 だから自分は、機械的に冷静になり、ここを切り抜ける。

 そうすれば、きっと―――

「―――!!」

―――駄目、だった。

 エレナは足をピタリと止める。
 隣のティアが何かを言っているが、全く聞こえない。

 余計な神経が遮断され、たった一点にしか向かなかった。

 機械のように冷静になろうとした身体は、たった一つの感情で、総てが埋め尽くされる。

「っ、」
 噛み潰した砂を、さらに潰す。
 あるいは、自分の歯ごと。
 そして拳は堅く握られ、身体中が震える。

 今、砂嵐の切れ目、僅かな隙間から、見えた。

 “勇者様御一行”と、魔物の群れと、砂嵐。

 それらしかないはずのこの場に、エレナは“それ”を見つけてしまった。

 湧き上がる感情。

―――それは、“憎悪”。

「ガ、バ、イ、ドォォォオオオオーーーッッッ!!!!」
「―――!?」

 隣のティアを振り払い、エレナは全く別の方向へ駆け出した。
 意図せず立ち塞がってしまった魔物は、総てエレナに殴り殺され、無残に墜ちる。

 例えあの巨獣、ガルドンがいようとも、何が起きようと、エレナの足は止まらない。
 さながらアキラの銃の光線のように、総てを蹂躙し、その場に駆ける。
 視界は謝絶されているというのに、“そこ”までの道はまっすぐに引かれていた。

 殺す、殺す、殺す。

 それしか浮かんでこない。

「―――、」

―――景色は総て、砂嵐に染まっていた。

―――**―――

 たった、一度の襲撃。
 それが、現状を招いた。

「すー、すー、すー、」

 歯から漏れる、空気の音。
 視界を途絶する暴風。
 マリスの銀の魔術はとうに切れ、顔を砂に殴りつけられる。

「すー、すー、すー、」

 ほとんど空気を吸い込めない呼吸法。
 それでも身体はそれを欲し、ピッタリと噛み合わせた歯を通して空気を取り入れる。

 アキラは目も開けられない砂嵐の中、ただひたすらに前に進んでいた。

 右手には、エリー。
 左手には、サク。

 その手から伝わってくる体温だけが、自分がこの世界にいる証のような気さえした。

 歩行速度は、通常の半分にも満たない。
 今襲われれば、例えこの激戦区の魔物でなくとも全滅するだろう。
 いや、そんな必要すらない。
 ただ前から、石を投げつけられただけで、自分は昏倒するだろう。
 避けることすら許されない。

 だが、幸か不幸か、周囲に自分たち以外の存在は感じられなかった。

「っ、ぷっ、」
 下を向き、砂を含んでしまった口から唾液を吐き捨てる。
 もう何度、こんなことを繰り返しただろう。

 身体の表面全ての水分がぬぐい去られ、顔は乾き切っている。
 砂に擦り切れた顔には、もう感覚がほとんどない。
 ときおり、自分が足を進めているか疑いたくなる。
 ただ砂嵐が自分たちを殴りつけているだけで、世界の景色は変わらない。

 歩いている方向はどうだろう。
 自分たちは、前へ進んでいるのか。
 そして、前へ進んでいくことは、そもそも正しいのか。
 自分たちがここにいることは正しいのか。

 心にいくら問いかけても、何も応えてくれない。
 拷問のような責め苦に、出口のないこの環境。

 世界の総てが敵になったとさえ感じられる。

 顔が痛い。
 腕が痛い。
 足が痛い。

 重い、辛い、寒い、苦しい。

 身体中の力が根こそぎ奪われる。
 今すぐにでも倒れ込みたい。

 だが、敵は追ってくる。
 逃げなくては。
 とにかく今は、逃げなくては。

 だが、“どこに逃げるというのだろう”。

 分からない。
 もう、何も、分からない。
 ただこの手だけは、離してはいけないことだけは、感じていた。

 これを離せば、自分は世界で一人になってしまう。

 この砂嵐を抜ければ、あのキラキラと輝いた世界に戻れるだろうか。
 少しでも戻れば、あのキラキラと輝いた世界に戻れるだろうか。

 一筋の光さえ見えない。

 ただ足は、惰性からか、止まらない。
 もう何時間、こうしているだろう。
 空にはまだ、太陽はあるだろうか。

 見上げることすら許されず、ただ砂を避けるように顔を伏せ、足を順々に前へ出す。

 もう何も、分からない―――

「……!」
 左手が、くん、と引かれた。

 一体、何だろう。

 もう一度手を引かれ、アキラの足は、導かれるまま僅かに左に動いた。
 そして、右手には自然と力が入る。

 自分が両手に何を掴んでいるのかすら、分からない。

 だけど、この手は、離せなかった。

「っ、」
 最後に強く、手が引かれた。
 それに導かれるまま、アキラは倒れ込む。

 途端止んだ砂嵐。
 アキラの隣で倒れていた左の女性と、今倒れてきた右の女性。

 総ての感覚が麻痺した中、辛うじて、ここが岩山にできた穴だということに気づけた。
 三人いるだけで、塞がるほどの小さな穴。

 後ろでは、砂嵐が巻き起こり、騒音を奏でている。

 アキラはそれだけを認識して、目を閉じた。

―――**―――

―――それは、すぐに夢だと分かった。

 小気味いい包丁の音。
 ボウルに溜まる水の音。
 笑い声。

 そして、まどろんでいる自分。
 座り心地の良いソファの隣から、『疲れた?』と笑いながら訪ねてくる人がいる。

 僅かに目を開けた向こう、その屈託のないはずの笑みは、どこかぼやけていた。

 そうだ。
 もう、ほとんど顔も覚えていない。

 だから、夢。

 父が現れた。
 自分を挟んで、座る。

 母は呆れたように笑い、授業を続けた。

―――ここまでだ。

 意識を覚醒させ始めた。
 夢というものが、本人の願望を現わすものならば、ここまで。

 だからアキラは目を覚ました。
 安堵すべき光景から、何一つ持ち帰らないまま。

「―――正直、認識が甘かった」

 場所も分からぬ岩山の狭い穴の中。
 最初にサクが切り出した。

 三人がゴツゴツとした壁に背を預け、向かい合って座り、纏ったローブで身体を覆い隠す。
 この空洞の前では、未だ狂気の砂嵐が強く舞っていた。

「砂嵐も……、突然あんな大群に襲われたことも……、そのレベルも。全部、全部」
「……、」

 奥歯を噛みしめるサクを見ながら、アキラもエリーも無言だった。

 認識の甘さがある。

 そんなことは分かっていた。

 アキラもイオリに再三注意されたことだ。
 だが、後から考えても、想像しろということさえ無理がある。

 空洞内にいるのは、たった三人。
 魔物の出現場に到達してから、僅か一瞬で、半数以下になってしまった。
 そんなもの、事前に察しろという方が無茶だ。

 頭の中で、どこか、何かの襲撃を受けても七人で話し合う場くらいはできると思っていた。

 ファクトル。
 世界最高の激戦区。

 突如砂嵐が襲ったことといい、その名に恥じない危険地帯だ。

 だが事態は、最悪だった。

「向こうは……、合流しているのだろうか……?」
「してる……。してなきゃ困る」

 サクの言葉に、アキラは強く返した。
 最も奥に座るアキラの眼前では、荒れ狂う砂嵐が未だ見える。
 幸いにも、まだ日は沈んでいないようだった。

「……、」

 逸れたメンバーは、四人。
 マリス、エレナ、ティア、イオリ。

 実体験として、この危険地帯を一人で歩いていては欲しくない。
 せめて、自分たちのように避難所を見つけられていればいいのだが。

「―――ごめん」

 砂嵐の轟音に交じったその小さな声は、しかし確かに聞こえた。

「邪魔……、しちゃったでしょ?」
 呟きながら、エリーは視線をアキラに向けてきた。

「いや、お前、それは、」
「最悪……、ほんとに、最悪……、足場悪いって聞いてたのに……、最悪……、」

 アキラが言葉を思いつく間もなく、エリーは膝を抱え、足元に視線を落とした。
 ぶつぶつと、自己嫌悪に陥った言葉を吐き出し続ける。

 あのときこの右手が掴んだのがエリーでなければ、確かに総て片がついていたかもしれない。
 結果、この広大な地で散り散りだ。

「約束のせい?」
「……違う」
「邪魔?」
「違う」

 エリーの呟きを総て拾い、アキラは言葉を返した。
 精神的に、かなりまいっているようだ。

「どっち道、砂嵐でわけ分かんなくなってたよ」
「……、」

 何を、自分は。
 こんな言葉しか吐き出せないのか。

 アキラは視線を伏せたままのエリーに思いついたままの言葉を発し、そして黙り込む。
 いつもの後悔だ。

「……イオリさん。あんなに叫んでたのにね」
「だから、」
「『約束を破ってくれ』って、言ってたのにね」
「……!」

 ピクリと、アキラの身体は揺れた。
 聞いていたのか、エリーは。

 あのときの会話を。

「―――ごめん」

 口の中が、身体の中が、総て乾く。
 そのエリーの言葉は、アキラには拾えなかった。
 ただ、しん、と砂にまみれた自分の靴を見下ろしただけ。

 イオリにも、そしてエリーにも、自分は“あの銃”を使わないと約束した。
 そしてそれを守って、ここまでの旅路を進んだのだ。

 だがイオリには、出発前、それを破ってくれと“懇願”された。
 アキラは、それに頷き返した。
 その真摯な願いを、避ける術を知らなくて。

 しかし、エリーには、何も言っていない。

「……、」

 だから、だろうか。
 だから自分の右手は、躊躇したのだろうか。

「違う」

 アキラは小さく呟いた。
 きっとそれは、自分に。

 あのとき躊躇したのは、やはり、自分だけのせいなのだ。

 絶大な力を持つ、アキラの“具現化”。
 その力に意識的にセーブをかけたときから、アキラの中でも、無意識に、それができ上がってしまっていたのだ。

 切り替えさえ、できない。

 だから即座に出せなかった。
 きっと、自分が介入しなくとも、あの状況を脱せると高をくくっていたのだろう。

 いかに最強の力でも、扱うのは自分自身。
 身の丈に合わない力は、ここまで来ても、身の丈に合わないのだ。

「謝るなら、俺だ。ほんとに、何やってんだよ、って話だよな……」

 ほとんど独り言。
 もし体力がもう少しあれば、壁でも力いっぱい殴りつけたい。

 そんな程度のこともできないほど、自分は凡人なのだ。
 そしてそのせいで、こんな事態を引き起こしてしまった。

 だが、エリーはただ、視線を落としている。
 そもそもこの力にセーブをかけたのは、他ならぬエリーだったのだから。

 そして今は、その力を、惜しんでいる場合ではない。

「―――なあ、俺、使っていいか?」

 せめて少しでも、“しこり”をなくそう。
 ふいに思い立ったアキラは、エリーに囁きかけた。

 エリーを責めたくはないが、躊躇した要因に、彼女がいるのは事実だ。
 “彼女がいるから”、自分はそれを使えない。

 だから、次。
 その力が必要になったら、それを躊躇なく使えるよう、彼女に許可を取りたかった。

 空になった背中の鞘。
 剣ももう、どこに突き立てたのか覚えていない。

「―――うん」

 返ってきた声の、なんと乾いたことか。

 これはあのときと同じだ。
 最初にエリーに使うなと言われたばかりで、あの力を使ってしまったときと。

 滅した相手は、“魔族”、リイザス=ガーディラン。
 そのときも、彼女はそんな表情だった。

 そのとき、彼女はどうしたら笑ってくれたのだったろうか。
 彼女はきっと、アキラが苦労も知らずにいることが、耐えられなかったのではないだろうか。

「なあ、魔王を倒したあと―――」
「……?」

 きっと、彼女は、エリーは、自分の魔術の師は、アキラが、上を見ていないことが、嫌だったのだ。

「―――魔術師試験、受けてみたい」
「……、」

 アキラは口に出した。

「お前も忙しいだろうけど、その、合間に、勉強とか教えてくれないか?」
「いいよ……、無理しないで」

 ようやく顔を上げたエリーは、その乾いた表情をアキラに向けてきた。
 それは、同情を向けられているのではないかと勘ぐっている、表情。

 それを受けて、アキラは、僅かにはっとした。

「……いや、違う。多分、そうじゃない」

 多分口に出したときは、沈んだエリーに手を指し伸ばしたかっただけだろう。
 だが、違う気がする。

 気づいたのだ。
 自分が、この世界で、“勇者”を終えたあとの世界。
 それが、どういう色であるべきか。

 続く、“旅”。
 いつまでも、勇者でいられるわけではない。

 この世界で生きていくには、自分は、“そう”あることが相応しいのだ。

「俺さ、魔術師になる。勉強して、資格取って、それで、それで、魔道士に」
「……、」

 エリーの表情は、まだ、いぶかしんでいる。
 だが、アキラは本気だった。

 高い壁だろう。
 あのマリスに勉強を習ったというエリーでさえ、一度落ちているというのだから。

 だが、一応アキラとて、元の世界で大学受験を経験している。
 残念ながら三流と言われても仕方のないキャンパスだが、それでも、受かったのだ。

 本気で取り組めば、できない話ではないだろう。
 誰に無理と言われても、自分はそれを、目指したい。

「だから、今は、あの力を使いたい。魔王を倒して、全員で戻って……、それで、そのあと。だから、使っていいか……?」
「……、」

 エリーは僅かに目を伏せ、呆れたように、“笑ってくれた”。

「―――だから、いいって言ったでしょ?」

 そして、本当の返事が返ってきた。

「二年はみといて」
「それは、魔道士か?」
「“魔術師試験”の第一部よ。試験は二部構成」
「ちょっと待て。それまでが、二年か?」
「三年かな……? 合格するころには、あんたより若い人、結構多いかも」
「うわぁ……、まあ、でも、」

 ズラリと並ぶ同期は、自分より年下。
 上司もそうかもしれない。
 その光景を思い浮かべるだけで、気後れし、しかしアキラはそれでもいいと思えた。

「あたしも、忙しいだろうし」
「そこは、ほら、頑張ってくれよ」
「教え方も、多分下手だし」
「いや、お前がいい、っ、」
「……、ふーん……」

 もののはずみで出た言葉に、エリーはジト目を向けてきた。

 だが、今さら訂正しようとは思わない。
 天才のマリスより、実際に魔道士試験までもパスしたイオリより、多分自分は、エリーに習いたいと思っている。

 不慮の事故で婚約した二人。
 魔王を討ち、その報酬でそれを消すために始まったこの旅。

 だがその“婚約破棄”は、今は、頭の外に追い出していた。

 きっと、それで、

「―――こほん」

 その咳払いで、心臓が飛び出した。

「……ああ、すみません」
 気まずそうに視線を外していたサクは、しかし、どこか笑っていた。
 気づけば砂嵐も、少しだけ、収まっている。

「サ、サクはどうするんだ? その、終わったら」
 開いた口で何とか言葉を紡ごうと、アキラはサクに問いかけた。

 ただ何となく、話しておきたかったのかもしれない。

 不安に押し潰されそうな今。

 その今だからこそ、これからのことを。

「そうですね……、私は、アキラ様の従者ですから……」
「……、あ、ああ、」

 凛としたたたずまいのまま、サクは言葉を吐き出した。
 その彼女と比べると、アキラの方が従者のような気さえするが、事実彼女は“とある事件”から、アキラに仕えているのだ。

「しかし、『“勇者”ヒダマリ=アキラ』に仕えているのなら、終わったあとは、」
「あ、ああ、いいよ。それで、」

 この奇妙な主従関係も、魔王を討つまでの方が相応しい。
 サクが自分の従者になったときは無邪気に喜んだものだが、自分がそこまでの度量がないことを、アキラはとっくに分かっていた。

「……そうですね。鍛冶屋、とか」
「……あ、悪い。ちょっと待った」

 これからのことを話している今。
 そこにきて、店を持ちたいときた。

 不謹慎だが、ものすごく、危険な香りがする。

「……、いや、悪い。それで?」
「……ええ、それで……、いや、止めておきましょう」

 サクも察したのか、口を噤んだ。
 だが、冷や汗をかいているようで、やはり少しは笑っている。

 全員、精神的には、回復したのかもしれない。

「まあ、とにかく、これからどうするか考えましょう」
「……ああ」

 そうだ。
 全員、思い描く未来がある。

 そこに到達するためには、今の危機を脱しなければならない。
 絶対に、だ。

「こういうのはどうだ? 砂嵐が止んだら、俺が空に乱射する。オレンジの光を見れば、マリスたちは俺らを見つけられるんじゃ……?」
「そうね……、あんまりさっきの場所から離れていないだろうし……。みんなこの辺りにいるんじゃないかな……、」
「いや、」

 僅かに浮かんだ作戦を、サクが止めた。

「近くにいるとすれば、あの魔物たちもだ。またあの大群が攻めてくるかもしれない」
「それでも、倒せるぜ?」
「……待って。もし、マリーが他の人たちと別れていたら、陸路は大変なことに……」
「……、」

 そうだ。
 マリスたちが空からくれば、あの銃は魔物たちを滅することができる。
 だがもし、向こうが二手以上に分かれていたら、陸路でこちらに向かうことになってしまう。

 そのとき、アキラが乱射した広大な光線が彼女たちを捉えないとは言い切れない。

「合流場所とか……、決めときゃよかったな……」
「……! あ」
「?」

 そこで、サクが声を出した。

「覚えていませんか? あのとき……、多分、エレナさんが、“あの足音から逃げろ”と叫んでいたのを」
「……?」

 アキラとエリーは首をかしげて顔を見合わせた。
 どうやら、聞こえたのはサクだけらしい。

「足音って……、あの、ガンドルのか?」
「ええ、多分」

 アキラの脳裏にも、背後から迫ってきた巨獣の足音の響きは刻まれている。
 それから逃げろ、とは、すなわち、“前へ進め”ということだろう。

「じゃあ、前へ進めば、」
「ええ、合流できるでしょう。この辺りを探索して、いなければ、そちらに向かいましょう」

 流石に、エレナだ。
 彼女も入る前から“警戒”していただけはある。

 少なくとも、エレナはそちらに向かっているだろう。
 彼女なら、この砂嵐の中でさえ強引に進んでいそうなのが逆に恐い。

「どの道、明日にしましょう。砂嵐も収まってからじゃないと……、」
「……メシとか、どうする?」
「……はあ、」

 アキラの懸念が別に動いたところで、エリーが蠢いた。
 身体に纏った分厚いローブの中に手を入れ、腰につけたポーチから、小さな袋を取り出す。

「一応、少しは持ってるわ。馬車襲われたらまずい、って思ってね」
「おお、流石……、あれ、俺だけ?」
「ええ、他の人も、同じことをしてましたよ?」

 見ればサクも、同様の袋を取り出していた。
 認識の甘さは、もしかしたらアキラが一番酷かったのかもしれない。

「ん」
「お、おう」

 袋から取り出したパンを頬張りながら、エリーはアキラにもそれを渡す。
 食いちぎり、渇いた喉で強引に飲み込んだ。
 水もない、質素な栄養補給。

 徐々に日は、沈んでいった。

―――**―――

 余計なことを。
 いや、その方がいいのだろうか。
 ただ、その場合は。

 ただただ静かな、その大広間。
 その、“とある存在”は、頭の中で情報を整理し、黙考を続ける。

 ここは、“安全地帯”。
 だが、ここ以外は、“そう”ではない。

 ならば、ならば、ならば。

「―――、」

 いい。
 これで。
 いや、足りないだろうか。

 慎重に、あらゆる場合を想定し、そして瞳を開ける。

 誰にも気取られることなく、“それ”は進めなければならない。
 そうでなければ、終わらない可能性がある。

 この、“下らないチェスゲーム”が。

 だから、これを、喜ぼう。

「……、」

 敵は強大だ。
 慎重に、確実に。

 この、“英知の化身”が挑むのは―――“あの存在”。

―――**―――

 結論として、何も、見つからなかった。

 魔物も、アキラが突き立てた剣も、そして、仲間も。

 アキラたちがいた狭い洞窟は、どうやら魔物の大群に襲われた場所からあまり離れていなかったらしい。
 大分長い時間歩いていたと思っていたのだが、砂嵐が収まった昼、見通しの格段に良くなった荒野は、目と鼻の先にあった。

 正規のルートから大きく逸れていたその穴から、その場所を探索すること数時間。
 探索を諦め、昨日の計画通り、ただ前へ進む。

 魔物が現れなかったのは僥倖だが、それでも、疲労感は身体中を襲っていた。

 目を覚ました頃には、太陽が高く昇っているほどに。

 アキラは、狭い洞窟の中、二人の少女と共に一夜を明かしたというのに、泥のように眠っていた。
 馬車、という恵まれた環境にいたときには、できなかったこと。
 それだけ、余裕がなかったのだろう。

 夜の最後の見張りを務めた起きに強いサクの話では、声をかけるのもためらわれるほど、アキラとエリーは眠り込んでいたらしい。

「……、」

 徐々に日が傾きかけた、危険地帯ファクトル。
 そこを、アキラたち三人は足だけを動かして進んでいた。

 その前進は、ほとんど“祈り”に近い。

 喉が渇く。
 頭が痛い。
 足が前へ進んでいる気がしない。
 時間も、分からなかった。

 昨日の砂嵐の中を歩いていたときも味わった感覚だ。

 そして、変わらない景色。
 風が砂をサラサラと転がし、砂と岩山だけの中をただただ歩く。

 アキラは、元の世界で、トップアスリートのインタビューをテレビで何度も見た。

 成功の秘訣。
 彼らの語りによれば、表現こそ違えど、自分に負けないことだそうだ。
 肉体的なことより、彼らは精神的なそれに着目していた。

 彼らは、苦難の先にある栄光、その場所に、自分がいることを信じ切り、ただひたすらに前へ進めるのだ。

 その理由が、今は、何となく分かる。
 もう大分歩いてきたこの道。
 ゴールが見えない。
 心が折れてしまいそうだ。

 不安だった。
 先があるのか、否か。
 何も分からない。

 信じることは、ここまでも、難しいことなのだろうか。
 あの悪夢を再来させるのではないかと怯え、ときおり吹く弱い風でも、三人で手をつなぐ。

 誰か一人でも弱音を吐けば、全員がこの場で足を止めるかもしれない。

 だから、口に含んでしまった砂を噛みしめ、ただひたすらに、足を進める。

 自分たちは、無理でも何でも、信じ切らなければならない。
 このどこまでも続く道の先、そこに、いる、と。

「……!!」

 もうどれくらい歩いてきただろう。
 日は沈み、岩山に囲まれ、狭い星空が姿を現したファクトル。

 そこに、一筋の、希望が見えた。

「い、今のは、」
「え、ええ……!!」
「っ、」

 アキラはにべもなく駆け出した。
 エリーとサクも、同時に駆ける。
 重い足を蹴り上げ、身体中の力を振り絞って進む先。

 荒れた大地に足を取られても、知ったことか。
 強引にそれを踏み破り駆け続ける。

 乾いた大地の先、岩山の挟むその先、星空の下。

 見えた。
 確かに。

 チカチカと道の先で光る、あの色。

 それは、自分たちのよく知る、澄んだシルバー。

「おーーーいっ!!!!」

 潰れた喉からは、想像以上の大声が飛び出た。
 ファクトル中に響く、アキラの声。
 魔物に位置を知られようが、知ったことか。

「―――」
 その声と同時、銀の光が空に浮かんだ。
 目映い星の中に紛れ、しかしそれでもその光は、何よりも輝いている。
 あの銀は、そう在るべきだ。

「―――、」

 何か小さな声が聞こえ、銀に輝く飛行物体から、ファクトルの闇を消し飛ばすような光が眼下に放出された。
 そして聞こえる、爆発音。

 あの場では、戦闘が起こっている。

 だがそんなもの、どうでも良かった。
 彼女がいる以上、その戦闘は、終わっているのだから。

「マリスーーーッ!!!!」

 その光―――マリスは、浮かんだ位置から、アキラたちに接近してきた。
 やはり戦闘は、終わっている。

「うおっ!?」
 銀に輝く飛行物体に銀の髪と半分の眼を見つけ、そこでアキラは大地に足を取られて転んだ。

「だ、大丈夫っすか、にーさ―――」
「マリーッ!!」
 転んだアキラの前に降り立ったマリスは、次いで接近したエリーに跳びかかられた。
 ほとんどタックルのようなそれは、正確にマリスを捉え、絞め上げてくる。

「マリー、マリー……ああ、ほんとに、」
「ね、ねーさん、く、首が、絞まってるっす……、ぅ、」
「よかった、よかった、」

 あらん限りの力で抱きついてくるエリーを何とか引きはがし、マリスは息を吐いた。

「マリス……、マジでよかった……、」

 たった一日ぶりの再開だというのに、立ち上がったアキラは心の底から安堵の息を漏らした。
 今の転倒で分厚いローブが僅かに破けてしまったが、そんなことはどうでもいい。

 あのマリスに、合流できたのだ。

「マリーさん、」
「サクさんも……、よかったっす。無事で」
 マリスの口調はいつも通りのものだったが、それでも、表情を綻ばせていた。
 この広大なファクトル。
 そこで逸れて巡り合うなど、奇跡のようなものだ。

「マリス、今の戦闘か?」
「……そうっすよ」
 マリスはちらりと振り返り、すぐまた顔を戻した。
 どうやら向こうは、完全に片がついているらしい。

「……、それで、みんなは?」

 感動の再会の余韻も僅かに冷め、アキラは目を細めた。
 マリスの後ろからは、誰も現れない。

「……、」

 マリスは一度眼を伏せ、三人に向かい合った。
 その表情は、いつもの無表情から僅かに逸れ、そして、

「自分は、一人っす」

 予想できてしまっていた答えを、小さく返してきた。

―――**―――

 マリスの話はこうだった。

 あの砂嵐に巻き込まれた日。
 辛うじて全員に魔力を飛ばしたあと、彼女も全員を見失ってしまったらしい。
 自分の魔力を飛ばした対象さえも見失う、あの妙な砂嵐。

 危険な香りを感じたものの、流石に仲間と魔物が入り乱れた環境で魔力を乱射することはより危険だと判断し、砂嵐の中を探索していたそうだ。
 空路は避け、陸路を進み、魔物がひしめくあの煉獄を、とぼとぼと。

 偶発的に出遭った魔物を滅し、ひたすらに自分以外の銀を探す作業。
 魔物にしてみれば、視界が途絶される砂嵐の中、歩き回るマリスの方がむしろ煉獄だっただろう。

 しかしそれは、結果、実を結ばなかった。
 いつまで経っても止まらない青天の霹靂に、マリスはついぞ探索を諦め、前へ進んだらしい。
 どうやらマリスにも、エレナの声は届いたようだった。

 そして、せめてもと、ここまでの道の途中にいた魔物を討ち、昨日の晩は、今、アキラたちがいる洞窟で待機していたそうだ。

「本当は、ずっと往復したかったんすけど、」
 魔力を流すだけで僅かな紅い光を放つマジックアイテム―――カピレットを何となく眺めながら、マリスは呟いた。
 そして、ローブの中から出した食糧をアキラに渡してくる。
 聞いた通り、マリスもこういう事態の備えはあったようだ。

 四人入ってもまだ余裕のあるその洞窟は、奥が潰れていること以外、アキラたちが泊まった洞窟とは雲泥の差があった。

 まず、広い。
 足を伸ばすだけで他者とぶつかったあの狭い洞窟とは違い、ゆうに距離を取れる。
 腰が駆けられるほどの岩もあった。
 ただ四人は、小さく一塊になっているのだけど。

「流石に自分も目立つ行動は避けたくて……。実際、少し外にいただけであの大群っす」
「さっきのか?」
「そうっす。あれだけやったら、流石にしばらく近寄らないと思うんすけど」

 もしかしたら、ここまでの道、魔物が現れなかったのはマリスのお陰だったのかもしれない。
 彼女は砂嵐の中でも行動し続け、この辺りの魔物の命を刈り取っていたというのだ。
 どうやら、ごり押ししていたのはエレナではなくマリスの方だったようだ。

「それで、これからどうする?」

 マリスに合流できたのは幸いだったが、未だ、残る三人は見つかっていないのだ。
 エレナに、ティアに、イオリ。

 彼女たちは、前に進んでいるのだろうか。

「移動速度なら、自分が一番のはずっす。イオリさんもあの砂嵐の中、飛ぼうとは思わないはずっすし」
「……だよな」

 昨日の夜から一日中ここにいたと言うマリス。
 彼女がここまで来ることができたのは、フリオールを使えたからだ。
 “外部影響遮断の魔法”が使えなくては、アキラたちのように砂嵐が収まるのを待つしかない。

 何より、マリスはここまで飛んできたのだ。
 そして、彼女は外を見張っていた。
 すなわち、マリスがいるここが、面々が到達できる“前”の限界値。

「でも、にーさんたち、出発したの大分遅かったんすよね?」
「ああ、昼はとうに過ぎていたと思う」
 サクの言葉に、全員が押し黙る。

 出発時間が大分遅かった自分たち。
 そうであれば、もしかしたら、自分たちが、“後ろ”の限界値であるのかもしれない。

 その前と後ろが出会った今、しかしそれは欠けていた。

「道が、別にあるのかもしれない」

 アキラは呟き、視線を外に向ける。
 淡い光で紅く光る洞窟から見える外は、ただただ暗かった。
 星空も、本調子ではないのかもしれない。

「もし、エレナたちが別の道にいるなら、探さないと、」
「……、そうね」
「ええ」
 あまりに希望的観測なアキラの言葉に、エリーが小さく返した。
 サクも頷く。
 一夜を共に明かした三人は、暗く沈むことの恐怖を、よく知っていた。

「確かにそうっすね……。でも、一つだけ。言っておかないといけないことがあるんす」
「……?」

 マリスは半分の眼を僅かに狭め、ローブの中から四角く折りたたまれた用紙を取り出した。
 そして、丁寧にたたまれたそれを、カピレットの光に照らして開く。

「ここ」

 マリスがローブから出した細い指は、地図の×マークが記された場所を捉えた。

「自分たちがいるここって、一応、“魔王の牙城”がある予測地帯なんす」
「っ、」

 アキラは“それ”を、ほとんど忘れていた。

 ファクトル。
 ここには、心身ともに削られてしまった。
 仲間とも、逸れてしまった。

 だが、それは所詮、この場所を“危険地帯”とする理由の一端でしかない。

 ここには、“魔王の牙城”があるのだ。

「もっとも、数日前は、っすけど」
 最後に小さくつけ足したマリスも、楽観はしていないようだった。
 いくら情報が古くとも、この近くにいる可能性があるだけで、警戒心をそばだたせていなければならない。

 ここまで来て、アキラはようやく魔王の存在そのものに、“恐怖”を覚えた。
 魔王、などというファンタジーの世界のそれは、今確かに、自分たちの近くにいるのだ。

 自分たちは疲弊し、メンバーを欠いている。
 未だ自分の銃に自信はあり、“許可”も貰っていると言っても、不安材料には事欠かない。

 そして、“魔王”。

 その存在は、一体、どのようなものだろう。
 かつて、ヘヴンズゲートで出逢った神―――アイリスが言っていたこと。

 “英知の化身”。

 イメージとしては、謀略を企てることに長けていそうだ。
 そうであるならば、自分たちは、

「ねえ、」
「……、」
「?」

 エリーに話しかけられても、アキラは黙考を続けた。
 本来ならば、イオリがやりそうなことだ。
 だが、今、彼女はいない。

 世界の歪を知っている自分が、考えなければならないことだ。

 “英知の化身”は、何を考えているのだろう。
 決まっている。
 自分たちを倒すことだ。

 ならば、あの砂嵐もいよいよもって怪しくなってくる。
 あの砂嵐がなければ、こんなことにはならなかった。

 マリスも、あの砂嵐のせいで、自分の魔力を感じられなくなったと言っている。
 あの、“不可能なことがない”月輪属性の天才が、だ。

 となればあの砂嵐は、自然発生などではなく、“魔王”―――最低でも、“魔族”が介入していたのではないだろうか。

 ということは、

「……、」

 もうすでに、自分たちは策略にはまっていることになる。

 姿の見えない、エレナ、ティア、イオリ。
 彼女たちは無事だろうか。

「―――!!」

 視線は虚ろ、思考は五里霧中。
 その途端、目の前のカピレットが砕かれた。
 面々の中央にあった光源を砕いたのは、サクの長刀の柄。

 何を、と思ったのも束の間、突如、ドドドドッ、と地鳴りが響き、パラパラと洞窟内に石の粒が降ってくる。

「何だ……!?」
「しっ、」

 息を殺して、出口を見やる。
 星明かりにぼんやりと照らされた外。

 そこは瞬時に、

「―――っ、」

 怒涛の黒い影に塗り潰された。
 右から左へ、まるで昨日の砂嵐のように、何かの影が高速で通過しつづける。
 大気は揺れ、洞窟内は今すぐにでも崩れそうなほどの地響きを奏でていた。

 その正体は考えるまでもない。
 あれは、あの、黒い大群は、魔物の群れだ。

「……、……?」

 暗い洞窟の奥、岩に身を隠し、四人分の瞳は外の光景を捉える。
 しかし、僅かに呆けた。

 アキラも右手を広げてこそはいれ、動かない。
 というより、動く必要がなかった。

 洞窟内の外、暗がりで蠢くそれらは、洞窟などにわき目も振らずに過ぎ去っていく。
 正体さえ視認できないが、大中小様々なサイズの影が、力の限りを持って走り続けていた。

 まるで魔物の百鬼夜行だ。
 だがその動きの速度は、生物としての本能をむき出しにし、霊的な要素は微塵にも組み込まれていなかった。

「魔物……? でも、何で!?」

 ほとんど叫ぶように、エリーが声を出した。
 それでも、地鳴りと魔物の足音の向こう、僅かに聞こえる程度だった。
 その騒音は洞窟内にも響き渡り、埃が巻き上がり、岩壁が削れる。

 だが、それを演出するものたちは、ただただここを過ぎ去るだけ。

 本当に、“何か”から逃げているかのように。

 激戦区の魔物たちが、こぞって逃げ出す、“何か”。
 それは、今まさに頭に浮かべていた、その存在以外にあり得ない。

「まさか……、嘘だろ!?」
 全員の懸念の行き着く先、アキラはそれを感じ、叫んだ。

 まさか、まさか、まさか。

「っ―――」

 ついに魔物の行列が過ぎ去った。
 ぼんやりとした星明かりが戻ってくる。
 アキラは何故か立ち上がり、ふらふらと外へ向かった。
 まるで、“そう”あることが決まっているかのように。

「―――ギ、ギァァァアアアーーーッッ!!」

 洞窟内から足を踏み出す直前、耳をつんざく何かの断末魔が響いた。
 すると一間、洞窟の前に影が走る。
 左から、右へ。
 きっと、あの巨獣、ガルドンだ。

 同じ個体かどうかは定かではないが、あの雄叫びは今も耳に残っている。

 だが、そんな巨獣、ガルドン。
 たった今、それが起こしていた右から左への“逃走”。
 それを一瞬で無に帰す、何かの存在。

「―――ギィィィィァァァアアアアアーーーッ!!!!」

 ガルドンの叫びは、あまりに巨大で。

―――そして、あまりに矮小だった。

「―――、」

 魔物たちの百鬼夜行はとうに止み、今はまるで残り香のように土煙が舞うファクトルの道。
 乾いた空気だけが支配する空間。
 だだっ広い荒野を囲うような岩山にできた洞窟から出た、その場所。

 踏み出たアキラは、必然、左に顔を向けた。

「―――、」

 数百メートルという、“たったそれだけの短距離”の先。

 そこには―――“世界”があった。

 全長は、図る気にもなれない。
 首だけ動かしても、その巨体を視界から外すことは不可能だった。
 前に見た、巨大マーチュの数十倍には相当しているだろう。
 この存在の身に比すれば、アキラなど、ノミ程度だ。

 生物に例えるのなら、話通り、やはり、“亀”だろうか。
 背中、と形容できるかどうか分からないが、その部分には、“山脈そのもの”が月下に照らし出されている。
 そこにあるのは、本当に、天を突くような高い岩山たちだった。
 神話の、『世界を体現する巨大な樹木・“ユグドラシル”』とでも言うべきか。
 その巨体は、“世界”を背負っているのだ。

 自分の眼前にあるのは、“その存在”の首の付け根に相当する場所なのであろう。
 一言も発せないまま、アキラは“空”を見上げる。
 そこまでは、自分の目の前から伸びた高層ビルのような首が伸び、その頂上には米粒のようなガルドンが蠢いていた。
 とうとうガルドンの命が尽きたのか、グレーに爆ぜ、一瞬全身が照らされる。
 だがその一瞬では、目の前の“世界”の百分の一も見渡すことができなかった。

 “それで上半身”、なのだ。
 今、数十キロはあろうかという先にある、それこそ世界樹のような前脚の角を曲がって、そこで初めて“世界”の本当の規模を把握することができる。

 こんなものは、これは、明らかに、“違う”。
 アキラの銃の砲撃でさえ、この“世界”総てを覆うことなどできはしない。

「っ、っ、っ、」

 隣に、人の気配をアキラは感じた。
 全員出てきたのだろう。
 しかし誰も、言葉一つ交わさなかった。
 ひたすらに絶句。

 信じられない。
 こんな化物の存在も。
 こんな化物がこんな近くまで接近していたことに、まるで気づかなかったのも。

「……、」

 ガルドンを“喰い殺し”、その存在の首がゆっくりと縮小し始めた。
 するするとしまわれていく、伸縮自在のその首。

 それを呆然と眺めながら、アキラはようやく気づいた。

 “音”が、無い。
 それどころか、もしかしたら気配すら。

 先ほど、この首にガルドンが捕まったときもそうだった。
 この巨大な存在が取る一挙手一投足から、アキラは何も感じられない。
 こんな巨体が動き回れば、それだけで暴風が巻き起こり、岩山は総て崩れ、ファクトルはとっくに真っ平らになっているはずだ。

 それどころか、こんな巨大な生物は、“存在してはいけない”。
 自身の体重を支え切れないからだ。
 それを許すのは、この世界の力。
 巨獣を巨獣たらしめるのは、その存在が有する“魔力”だ。

 “ようやく”、その首が元の位置に収まった。
 僅かな星明かりの先、鳥類のような鋭い嘴をピタリと閉じ、水分を吸い取られた樹木のような皺だらけのその顔。
 その嘴も、その皺も、そして黒ずんだ瞳も、あまりにもスケールが違う。
 そこらの岩山すら、この身に比すれば眉毛程度とすら形容できる。

 やはり、これは、“違う”のだ。

 今、目の前に、身体を支えるどころか“無音”で移動する最強の“世界”が存在する。

 魔道士隊も、これほど巨大な存在の行方を見失い、推測しか立てられないほど機密性に満ちた、それ。
 その巨体からの影響を、極限まで落とし、ファクトル内を縦横無尽に闊歩する、それ。

―――“移動生物要塞”・ルシル。

 それは、魔王の牙城だった。


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