―――**―――
「やっぱり、帰った方がいいですよ……!!」
「ええいっ、うるさい!!」
弱音を吐き出すたび、前を行く男は怒鳴り返してきた。
ようやくこの場に入り込めたというのに今帰るとは何事か。
そんな言葉を、後続の男は何度も聞いた。
汗が滴る。
足は重い。
徐々に強くなってきた土埃は、そろそろ本格的に砂嵐と名称できそうだ。
埃と土で鼻が塞がり、ほとんど匂いも分からなかった。
だが、体力と感覚が著しく削がれているとしても、確かに自分たちは何も成し遂げていない。
この秘境に入るために買い込んだ食料や上着の費用も、馬鹿にならないのだから、前の男の言うことももっともだ。
―――ファクトル。
すっぽりと頭から砂対策のフードを被った二人の男がいるのは、そんな名前のついた、“世界で最も危険な地帯”だった。
足場は、油断すれば身動きが取れないような、ゴツゴツとした岩場。
道、と形容できるかどうかは微妙だが、今歩いているだだっ広いここは、それを挟む岩山によって形作られている。
その岩山に比べてしまえば狭いそこには、吹き込める風によって砂埃が常に巻き上がっていた。
びゅうびゅう、と風が岩をかき鳴らし、人間と自然の力の差を感じさせるほど巨大な音色を奏でている。
遥か上空から見れば、岩でできた迷路だろう。
だがそれも、人の身に比すれば、スケールが違う。
とにかくこの地域は、人間に開拓されておらず、自然なままでここに在った。
「ぜっっったい、まずいですって、こんな場所……!! 俺明日、当直だったのに……!!」
「馬鹿野郎!! 開拓されてないってことは、何か有るかもしれないだろ!!」
その言葉は、確かに正しいかもしれない。
とにかく、ここにまともな人間は近寄らない。
裏を返せば、何を見つけても、それは“発見”となるのだ。
貴重な鉱石や、古代の遺産。
それらが“発見”される可能性は十分にあり、また、それは確かに一攫千金に成り得る。
だが、見つかるのは、岩、岩、岩。
そして、目も開けていられないほどの砂嵐。
昼間だというのに、そのせいでどこか薄暗い。
これでは、人間が近寄らない理由も分かる。
「大体っ!! どうするんですかっ!! こんな状態で魔物に遭ったら!!」
「お前は魔術師隊だろ!! 何とかしろっ!!」
「勘弁して下さいよ!! この場所に先輩入れたのばれたら、クビになるの俺なんですよ!?」
「だからお前にも半分やるって言ってんだろ!! それでトントンだ」
完全に叫ばなければ声が届かなくなった現状。
後続の男に返ってきたのは、無慈悲な言葉だった。
学生時代の名残で、先頭を行く男には逆らえない。
魔術師隊に入ってからも、後輩は、好奇心旺盛な先輩の気まぐれに付き合わされていた。
だが、今回の職権乱用は、ここまで来てなんだが、恐い。
場所が場所だ。
何せ、この場所には、
「一匹!! 一匹でもいたら、帰るって約束ですよね!?」
「分かってる!!」
分かってない。
後輩は確信した。
この先輩がそう言って、分かっていた試しがない。
翌日仕事があるから夜には帰りたいと言っても、翌朝まで酒を付き合わされたこともあった。
すぐに返して欲しいと言った金も、うやむやにされ、翌月会ったときにはすっかり忘れられていたこともあった。
とにかく、先輩はそういう困った男なのだ。
だが、今回は、強引に連れ込まれたここは、世界で一番危険な地帯。
魔物のレベルも、先輩から被る迷惑も、ケタが違う。
そもそもこの場所の魔術師隊の仕事は、後方支援が主たるものだ。
魔物と戦うときも、一人で戦うことはほとんどない。
“隊”として動くのだ。
先輩は態度もでかく、体力もあるが、魔術の方はからっきし。
すなわち、戦うのは自分一人なのだ。
何度説明しても、先輩ははき違えているようだった。
どうも、自分が飲みの席で漏らした、僅か一、二年で魔道士まで駆け上がったらしい人物の話がよくなかったらしい。
だが、
「……、」
後輩も、口ではそう言っていても、何となく、この場所に興味はあった。
魔術師隊に配属されて、四年。
この場所に入れる権限を持っているように、同期の中では一番の出世頭だ。
自信も、ある程度はある。
この激戦区の魔物を、倒したことは何度もあるのだ。
もっとも、そのときは数人で行動していたが、自分一人でも解決できたかもしれない。
そして、侵入を許されていないこの場所の魔物にも、自分は通用するだろう。
だから、たった一匹。
それだけなら、ちょっとした冒険で済む話だ。
懲りない先輩に、少しは危険な目を合わせてみたいと思ったりもしている。
―――それが多分、よくなかったのだろう。
「……!! 何か、聞こえないか!?」
「え!?」
先頭を行く先輩が、振り返って大声を上げた。
聞こえない。
聞こえるのは、厚い服を砂が叩く音と、岩にぶつかる風の音。
「……!」
だが、僅かにでも集中すれば、規則的に、ズシン、ズシンと、地面が揺れていた。
「っ、魔物!!」
後輩は、先輩を追い抜いて前に立った。
余計な思考を頭の中か弾き出し、身体中に魔力を張り巡らせる。
神経を尖らせ、砂嵐の中で何とか目をこじ開け、正面を睨んだ。
日光さえ遮られる砂の舞う景色、その向こう、両脇の岩山が途切れている地点。
そこから、
「―――!!?」
ぬっ、と何かの影が顔を出した。
土の向こう、僅かに見える、泥色の身体。
巨大な顎は、岩山さえ飲み込むほど肥大し、そして重々しい。
恐竜で言うところの、ティラノサウルスだ。
二足歩行。
両手は、胸の前で鋭い爪を携えている。
その巨大な影は、その顔を、獲物二人に向けた。
「ガッ、ガルドン!? まさかっ、」
「逃げるぞ!!」
一匹でも出現したら、逃げる。
珍しくもそれを遵守した先輩に、後輩は何の異論も唱えず駆け出した。
考えていた小さな思惑も、自分が持っていた小さな自信も、プライドも。
何もかも投げ捨てただただ走る。
いくら常識で測れない場所とはいえ、いきなりガルドンとは。
自分たちは、この場所に入って間もないではないか。
ズシン、ズシンと地を揺らし、その一歩で自分たちが歩いた幅を遥かに超越し、ガルドンは二人のいる“通路”に侵入してきた。
足場はめくれ、巨大な体は岩山を削り、道なき道を“通行”してくる。
荒れ果てた大地は、こうして形作られたのだろうか。
振り返らずに走るも、その地響きの足音は、ずんずんと近づいてきた。
息が上がる。
足場の悪さに、体力が根こそぎ奪われる。
足が、徐々に動かなくなっていく。
やはり、興味本位で入ってはならない場所だった。
「ギッ、ガァァァアアアアーーーッ!!?」
「―――、っ、」
最初、ガルドンは、雄叫びを上げたと思った。
長い屈強な尾を振り回し、今すぐにでも頭から喰らわれると戦慄していた後輩は、限界に到達した足を止め、恐る恐る振り返る。
どうも、ガルドンの声が、断末魔のように聞こえたのは、気のせいだろうか。
「―――!? せっ、先輩!!」
同じように自分より一歩先で力尽きた先輩が、振り返り、そして、身体中の血の気を引かせた。
きっと、“それ”を見上げる自分も同じ顔をしているだろう。
「っ、っ、っ、」
見えたのは、巨大な山だった。
いや、巨大と形容するのには、無理があるかもしれない。
“巨大”は、人間が産み出した言葉でしかないものだ。
“あれ”を形容した人間など、果たしているのだろうか。
そして、それに背後から“噛みつかれ”、赤子のように振り回されているガンドル。
身体を岩山に打ち付けられ、落石が酷い。
すでにこと切れたガルドンは、今にも戦闘不能の爆発を起こすだろう。
「っ、っ、っ、」
このファクトルの迷路を形作る険しい岩山と比べても、いや、ヨーテンガースを囲うベックベルン山脈と比べても、それは、あまりに、ケタが違う。
砂嵐の向こうに見える、あまりにも巨大な影。
見上げても見上げても、頂上を確認すらできない。
その巨体で日光さえも完全に遮断し、世界は夜に塗り替えられた。
「……、か、“亀”……、」
後輩は、その影を、そう形容した。
頭の中で、総てが危険と示していく。
だがそれは、その、四足歩行の常識外れの巨獣は、まさしく“亀”だった。
足の一本一本が、ようやく“巨大”と形容できる。
ここまでの接近に、何故気づかなかったのだろう。
もしかしたら、自分が景色の一部と誤認していただけなのかもしれない。
いや、景色ではない。
“世界”の一部と、誤認していただけなのかもしれない。
“それ”を視認する日は、来ないと思っていた。
魔術師隊には、情報さえほとんど下りてこない。
自分たちが支援している、魔道士隊のメンバーすら、“かえって”意識しないほど、それは、“違う存在”。
ついに爆ぜたガルドン。
その大爆発で、岩山の一角が消し飛ぶ。
眼前で起こったその音すら、後輩の耳には届かなかった。
現れたその影には、その大爆発さえ、大海に小石を投げ込んだ程度だ。
「……にっ、逃げろ逃げろ逃げろっ!!!!」
「っ―――」
先輩の声で、後輩は我に返った。
あの次元の違うガルドンさえ、人飲みできるような“それ”。
身体中の疲労を総て忘れ去り、ただ足は“それ”から逃げる。
「走れ走れ走れっ!!!!」
先輩は叫び続け、後輩はそれにひたすら従う。
こんな場所まで、“それ”が来ている。
これは緊急事態だ。
自分のクビなど、この事態の前には忘れ去られるだろう。
今すぐにでも、報告しなければならない。
「っ、」
亀とは形状以外、何一つ比較にならない、“違う存在”。
“移動生物要塞”、ルシル。
それは、このファクトルの地を禁断とした、魔王の牙城だった。
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
「報告があったのは、一昨日の夜のことです」
「場所は?」
「目撃されたのは我々の呼称でDブロックと呼ばれる地帯です。第七部隊の……、つまりはこの防衛支部の南部。ファクトルに侵入して三十キロほどでしょうか」
「現在地は?」
「分かりません。すぐに調査部隊を派遣しましたが、すでに跡形もなく消えていました。足跡も、この砂嵐では……、」
“勇者様御一行”が到着したヨーテンガースの激戦区最前線、第七部隊護衛支部と呼ばれる場所は、慌ただしい空気に包まれていた。
絶えず足音が響き、ピリピリとした緊張感に包まれ、魔王の襲撃に備えている。
“勇者様御一行”ともあろう存在が到着したのにも関わらず、応答してきたのはライグと名乗った目の前の三十歳ほどの魔道士だけだった。
ガラス張りの窓は、風に狂う砂に打たれ鳴り響き、不気味な音を奏で続けている。
すっと広がったこの部屋は、作戦会議に使う場のようで、長い机で四角形が形作られていた。
緊張感溢れる口調でライグと話しているのは、ホンジョウ=イオリ。
思慮深そうな顔つきに、魔道士にしか着ることの許されない公式の黒いローブ。
髪を止める、小さな飾りのついたヘアピンが、唯一の女性らしさだろうか。
ホワイトボードの前に立ち、張りつけられた地図を眺め、“緊急事態”について情報を共有している。
「それで、発見したという二人は?」
「重傷です。憔悴しきり、未だ意識が戻っていません。どうやらファクトルを一日中駆けずり回っていたようで……。部下のリードは、伝えたきり、巻き込まれた民間人と同じく養生中です」
魔王の牙城を間近で見たというのは、やはりショックが大きいのだろう。
生きて戻って来られただけでも、一生分の運を使い果たしている。
情報を聞きたいところだったが、例え意識が戻っていても話はできないだろう。
イオリはそう判断し、ホワイトボードの地図を見やった。
タイローン大樹海と比べても遜色ない、広大な地帯、ファクトル。
Dブロックと呼ばれたその一区間のみを切り取った地図の一ヶ所に、巨大な×マークが記され、いろいろと書き込みが入っていた。
この場所は、自分たちが滞在していたカーバックルのほぼ真南に位置する。
そんな場所で、“事件”が起きたのだ。
「……ホンジョウ=イオリ氏、ですよね?」
「ん、ああ」
地図を眺め、思考を進めるイオリに、ライグから声がかかった。
「ご高名はかねがね。勇者様と共にこの地に現れてくれたことを、深く感謝いたします」
「力になれるのなら」
ライグも魔道士らしいが、ひょろっとした風情に、長い手足。
どちらかというと、ディスクワークが得意そうな男だった。
イオリは短く返し、再び地図を見る。
「推測される、“ルシル”の現在地は?」
「調査隊からの報告をまとめると、五ヶ所。岩山の破損状況などから割り出したのですが……、」
ライグが指を、地図の青くマーキングされた個所に這わせる。
イオリはそれを、脳裏に刻み込んでいた。
「……、イオリン、マジ、かっけーですね……」
そんな、二人の会話を、この部屋の残りの面々はぼうっと聞いていた。
机に肘を付き、顎を手に乗せてだらしなく呟いたのは、ティアことアルティア=ウィン=クーデフォン。
青みがかった短髪の彼女の、常に騒がしい口は、流石にTPOをわきまえているのか、流石に騒音発生機には至っていない。
今は、テキパキと会話を続けるイオリに、羨望の眼差しを向けている。
だが、どこか緊迫感の抜けたティアの感想に、隣に座る女性がその頭を軽く小突いた。
机にもたれかかったティアとは対照的に、腕を組み、足を組み、座った木椅子の背もたれに体重を預け、のけ反るように座っているのは、エレナ=ファンツェルン。
ウェーブのかかった甘栗色の長い髪。
ふくよかな胸に、生きた芸術品を思わせる美貌。
それは、およそ女性としての理想形とも言えるスタイルだが、今はふっくらと妖艶に膨らんだ唇からは甘い吐息は漏れそうにない。
退屈極まりない話し合いなどとっくに抜け出すような性格なのだが、自らの関心事とあっては流石に黙って話を聞いていた。
「その、“移動生物要塞”ルシル、というのは、一体……?」
イオリとライグの話し合いに、立ったまま背を壁に預けていた女性が入っていった。
現在、“勇者様”に仕えている、サク。
触れれば切れるような鋭い空気に、凛とした眼差し。
紅い着物を羽織り、それよりも特徴的な長刀を腰に携え、隙のない足取りでホワイトボードに歩み寄った。
「我々が呼称する、魔王の牙城です」
サクの問いに、ライグはゆっくりと答えた。
ここまで来ると、“魔王”という言葉がなんとも重々しく聞こえる。
「巨大な亀のような姿。ファクトル内を闊歩し、攻撃対象と認めれば例え魔物でもせん滅する、不気味な存在。魔族らしき存在が出入りしているという噂で……、まず、間違いない、と」
「牙城なのに、生物なのか?」
サクは、ライグの言葉に眉を寄せる。
このヨーテンガース大陸の南部の大半を占めるという、ファクトル。
そこに魔王が座し、閉じ込めるように魔道士隊の支部がそれを囲っているとは噂では聞いたことがあったのだが、城が移動するなど想像だにしていなかった。
「おそらく、召喚獣の類だろう」
イオリが地図から目を離し、サクに向き合った。
「“ルシル”、という存在は、魔道士になったときにようやく聞いたよ。移動する要塞。それゆえに、魔王の位置を特定できない」
流石に、魔道士というだけはある。
イオリの言葉に、サクは唸った。
確かに魔王の牙城の位置が割れていれば、“勇者様”に頼らずとも波状攻撃をしかけることができる。
戦いに赴くメンバーが、少数精鋭である必要はないのだ。
魔王の牙城が移動する以上、費用がかさむ大群で攻めいっても、逃げられてしまう。
その消耗戦は、広大なファクトルの地形で行うとすると、人間側があまりに不利だ。
窓の外に見えるファクトルの岩地。
砂嵐が吹きすさぶその地には、小回りが利く少数精鋭が入るのがいろいろと都合がいい。
魔道士の仕事は、この場で、ファクトルを闊歩するルシルを閉じ込めてくことに留まるのだろう。
「“キャラバン”、という手も、何年か前に考えられたそうです」
ライドは小さく呟いた。
キャラバン。
それは、住居用の荷を持って大人数で移動する手法だ。
通常のキャラバンは各地を回り、商品販売や宣伝を行うものだが、彼らは探索のためだけに、ファクトルに侵入したらしい。
「ですが、移動速度に乏しく、魔物に襲われ全滅したと、逃げ戻ってきた者から報告され……、彼もすぐにこと切れたそうです」
「……、」
費用も甚大ではなかっただろう。
通常の敵でそのレベルの魔物がいるのだから、あまりに採算が取れない。
惜しい人材もなくすことになっただろう。
だから彼らは待っているのだ。
各地を回り、経験を積んだ、少数精鋭を。
“勇者様御一行”を。
だが、その“勇者様御一行”も、すでに何組もファクトルに足を踏み入れ、それでも魔王の恐怖は終わっていない。
彼らは、“神話”にはなれなかった。
「ですが、あなたたちなら……!!」
沈んだ部屋の空気に気づいたライドが、顔を上げた。
強引に上げたその表情は硬いが、瞳には信頼の色が映っている。
「我々ファクトル担当の魔道士隊は、“勇者様”を無慈悲に死地に送り出す部隊と噂されていますが、そんなことはありません」
そんな噂をサクは今初めて聞いたのだが、口を開かなかった。
「“希望”になります。明日の命も分からないようなここで待つ我々は、本当に、“勇者様”を送り出した我々は、本当に、それにすがっていて、本当に、」
「あ、ああ、分かっている」
心の底からそう思っていなければ出せないようなライドの声に、サクはおずおずと頷いた。
気持ちはありがたいが、その言葉を聞くべきなのは自分ではない。
今、その“勇者様”ことアキラは、その“希望”を、支部内に振りまいている。
「通行許可は出しておきます。それでは、御武運を」
会話は、そこで終わった。
―――**―――
ヒダマリ=アキラは、背中に下げた剣をガチャガチャと鳴らす風を受け、ファクトルの大地を眺めていた。
高く登る太陽の下、巻き上がる砂埃の向こう、地の繋がる国の国境のように塞がれた柵の先、世の果てにまで続くような広大な荒野のさらに向こう、ベックベルン山脈と見紛うような岩山が連なって並んでいる。
広すぎだ。
日本、という元の世界の小さな国から来たアキラは、やはりこういった自然を見ることには未だ慣れない。
あの山の向こうには今すぐにでも市街地が連なり、夜を忘れた世界が始まっているかのように思える。
だが、地図で見たところ、アキラが想いを馳せる場所は、Dブロックと呼ばれる場所さえ超えていなかった。
「……、」
ついに、来た。
魔王の牙城がある、ファクトルに。
だが、そんな感情は、ほとんど浮かんでいなかった。
日常の延長。
そんな気さえする。
魔王を倒すことが目標の、この旅。
だが、とんとん拍子でここまで来たアキラには、それすらも、“ゴール”という認識で捉えられなかった。
「……、」
カチャリ、と、背負った剣にも構わず、アキラは背を建物に預ける。
砂対策が施されたこの強固な造りの建物の中からでも、未だに駆ける人々の足音が聞こえてくるようだった。
嗅覚は土埃で遮断され、目も大きくは開けていられない。
“だが、その程度だ”。
やはりそれは、日常の延長線上。
背中の武具は、先ほど受け取った上物だった。
良く手になじむそれは、相も変わらずアキラの身の丈に合った細身の剣。
いかに“勇者様”といえども、あまりそういった援助をする余裕はないらしいが、気のいい魔道士の男がアキラの手に押しつけたのはつい先ほど。
剣の感触にはとっくに慣れたが、それでも、自分たちが刻んだ時は、あまりに短い。
自分の身なりも変わっていない。
仕込んだ防具があるとはいえ、Tシャツにジーンズ、そして適当に買い繕った上着。
せいぜい、伸びた髪を整えたときに染め直すのも面倒で、控えめな着色を施した髪が元の黒に戻っているくらいだ。
だが。
「……、」
アキラは何故かこうも思った。
“ようやく到着した”、と。
この短髪を染めたのは、軽くイメチェンでも図ってみるかと思った程度のこと。
元の世界ちょっとした冒険心さえ、今は埋もれ、思い出せない。
この世界の日々は、まさしく、冒険の連続だったのだから。
「……、にーさん、ここにいたんすか」
「……!」
なんとなくセンチな気分に浸っていたアキラに、のほほんとした声が届いた。
振り返れば、色彩の薄い銀の長髪をたなびかせた少女が、とぼとぼと歩み寄ってくる。
漆黒のローブに、砂地でさえも足音が聞こえないほどの落ち着いた空気。
アキラを捉えてくる、髪と同じく色彩の薄い銀の眼は、この場の砂埃のせいではなく、常に半分ほど閉じている。
“無音”な少女、マリスことマリサス=アーティは、アキラの隣に到着すると、同じように背を建物に預けた。
「挨拶は終わったんすか?」
「ああ、正直疲れた」
ここに到着し、身分を明かしたアキラに待っていたのは、この支部に集まった各員への挨拶だった。
“勇者様”の登場に対する期待は大きい。
流石に事態が事態で一同を集めての演説などをやっている時間はなかったが、それでも強い要望で、各所で仕事をこなしている魔道士や魔術師に挨拶回りをすることになった。
アキラの生涯で、あれほどの人に歓迎されたのも、あれほどの人に握手をしたのも、初めてだ。
微妙手が、未だ痺れている。
「この大陸のこんな場所まで来たら……、“自称”はほとんど外れるんすよ。それも、“勇者様”の仕事っす」
「めちゃくちゃプレッシャーかかったんだが……、」
アキラは眉をひそめ、先ほどの光景を思い出す。
“勇者様”、などというおとぎ話のような存在は、この世界でそれほど待ち望まれているということだろう。
以前出逢った自分とは別の“勇者様”、リリル=サース=ロングトンという少女を思い出す。
彼女は、こうした期待を受けることを拒んでいなかった。
それが、“勇者様”のあるべき姿だと。
今、彼女は何をしているだろう。
自分たちがもたついている間に、もしかしたらファクトルに入ってしまったかもしれない。
「……、でも、緊張感はなさそうっすね」
「……、」
マリスは、小さく呟いた。
「にーさんだけじゃなく、みんな。良いことなのか、悪いことなのか……」
「良いことだろ。ぎっちぎちに緊張するよりは」
アキラは、どこか中身のこもっていない声を出した。
何となく、その緊張感のなさの元凶が、分かっていたのだから。
“三枚”だ。
アキラはファクトルを眺めたまま、おぼろげに言葉を頭に浮かべた。
この、“勇者様御一行”の緊張感のなさ、余裕とも言えるその原因には、三つほど心当たりがある。
一つは、エレナ=ファンツェルンの力。
彼女の底が見えない。
命をかけて自己を強化する秘術を施したらしい彼女の実力は、敗北どころか苦戦という言葉を知らないかのようにさえ思える。
そして、底が見えないと言えばこちらもそうだ。
もう一つの原因、マリサス=アーティの力。
数千年に一人の天才と言われる彼女の才は、あらゆる逆境さえ跳ね返す。
“不可能なことがない”月輪属性。
先日襲いかかってきた、マリスを討つためだけの罠も、彼女は強引に突き破ってみせた。
そして、最後の一つ。
「……、」
アキラは眼前に手のひらを広げ、それを眺めた。
アキラの、“具現化”。
総てを消滅させる日輪属性の魔術、プロミネンスを放出するあの銃。
今やノーリスクで放てるその強大な力で、打ち倒せなかった敵、いや、打ち破れなかった状況は、ない。
そしてこれからも、討てない敵はいないだろう。
この絶対的な力の前には、恐らくマリスやエレナすらも、対抗できない。
“回避”や“吸収”さえ、許すことはないのだから。
“とある意地”から使っていない、この力。
ご都合主義なことに、アキラがこの世界に訪れたときから備わっていた、この力。
伏線や想いも超越し、総てを打ち消す、この力。
出所は、未だ不明のままだ。
そして、それらを総称し、アキラは、世界の“バグ”呼んでいる。
ご都合主義の、優しい世界に生まれた歪。
その創り手の想いは、一体、何なのだろう。
だが、魔王の牙城は目前。
このまま、総てが明かされぬまま終わってしまうのだろうか。
単純に魔王を倒すだけの、ゲームのように。
「……、そういえば、にーさん」
「?」
手のひらから目を離して視線を横に向ければ、マリスが壁から背を離し、半分の眼で見上げてきていた。
「ねーさんと、何かあったんすか?」
―――**―――
エリーことエリサス=アーティは、短くなった赤毛をガシガシとかき、支部内をうろつき回っていた。
時には、忙しく駆ける魔術師たちの波に乗って。
時には、忙しく歩きながら言葉を交わす魔道士たちの波に逆らって。
身体に吸いつくようなアンダーウェアに、羽織った上着。
室内だというのに、何故かつけてしまったプロテクターやナックルガードの具合を意味もなく確認し、彼女はうろつき回る。
頬には、うっすらと、汗。
大きな瞳をどこか鋭くし、基地を徘徊する彼女の奇行に、魔術師たちは流石に話しかけられなかった。
他のメンバーに情報収集を任せ、妹のマリスとファクトルに入る準備を整え終えたあと。
アキラを探しにいくと言ったマリスを見送って、エリーはこの基地で、ある意味最も忙しなく歩き回っていた。
ずっと、だ。
ここ数日エリーは、一人でいるとき、ずっとこうしている。
思い起こせば一週間ほど前。
自分にとって、大事件が起こった日。
日中に起きたことは、とある秘術の結果、身に降りかかった激痛やら苦痛やらで幸いにもほとんど覚えていない。
問題は、その夜だ。
「……、」
エリーはここ毎日行っている記憶の半数を開始した。
自分に妙なところはなかったか。
自然な態度だったか。
ちゃんと、“自分”でいられたか。
それら総てを勘案し、問題ないと結論つけたところで、しかしエリーは悶えた。
危なかった。本当に。
それに、その、ものすごく、近かった。
しかも自分は、そのままで、
「っ、っ、っ、」
エリーは奥歯を噛み、思考の渦から何とか這い出る。
「~~~っ、」
少しでもあのときのことを考えるとこうなるのに、“自分が自分でいるため”には、確認する必要があるのだ。
あのとき動かなかったのは、意識がもうろうとしていたから。
具合が悪かった。
眠かった。
そんな言葉たちを、何度も頭の中で作った。
しかし、わざわざ言うのもアレで、口が開けない。
もっと言うのならば、“あのときの当事者”と、まともに目を合わせられなかったりする。
「……、っ、っ、」
ヒダマリ=アキラ。
ぼうっとしていると、“あの光景”が頭を侵食してくる。
満月の下の、屋上。
星空の下の、屋上。
町の光景が見渡せる、他には誰もいない、屋上。
ベストプレイスだ。
それはもう。
そんな場所で、自分たちは何をやっていたのか。
見つめ合っていた。
その、ものすごく近い距離で。
互いの体温が溶けあうように感じられ、鼓動はリンクし、時は止まっていた。
脳髄は蕩け、病気に侵されたように思考が痺れ、しかしそれが心地良い。
そんな世界が、二人だけを包んでいた。
「あ~~~っ、」
エリーから途端漏れた声に、近くを歩いていた魔術師がびくりとするも、エリーは全く気づかない。
細い連絡通路の中間、エリーは今すぐにでも座り込んで唸りたかった。
誰にも見えないよう部屋に入って、枕でも抱きしめながらベッドの上で転がり回りたい。
自分たちの寝床は、まだ用意できていないのだろうか。
「……、」
あのときの自分の顔は、きっと、紅かった。
だが、夜の暗さに一縷の望みをかけ、アキラには気づけなかったと希望的観測をし、しかし唸る。
傍から見れば滑稽な姿だろう。
実際、数人がそれを目撃しているのだが、エリーの頭はそれらを認識できなかった。
「……、」
自分とアキラは、不慮の事故で婚約中。
それはもう、仕方ない。
認めたくないが、仕方ないことだ。
それを破棄するために、自分たちは魔王を打ち倒そうとしているのだから。
目的が、婚約破棄。
手段が、魔王討伐。
そんな戯けた動機であっても、もう、仕方ない。
それがこの旅の前提なのだから。
だが、“その前提が覆される事態”が、発生してしまいそうだった。
アキラは言った。
『俺は銃は使わない』、と。
そして、たどたどしくも、『一緒に強くなろう』と。
あまりにも気の利かない言い回しだったが、不覚にも、少し、その、アレだ。
そしてその直後、自分は、
「っ、」
いや、違う。
ちゃんと避けた。
近くなってきたアキラの頭に、“即座に手を置き”、それを避けたのだ。
「っ、っ、っ、」
アキラもアキラだ。
あのあと、素知らぬ顔で朝連に参加して、罰ゲームを受けて走っていた。
いつも通りの光景。
エリーも疲労から起きるのが遅れ、ルールはルールと罰ゲームを受けることにしたのだが、自分を見向きもしないで身体を動かしていた。
何か、もっと、アクションがあってもいいではないか。
ついでに言うなら、あのあと軽く整えたこの髪にも、一言くらいは、何か。
いや、違う。
それでいい。
それで、いいはずだ。
あれは、何でもなかったのだから。
それに、自分たちは今、どこにいるというのか。
魔王の牙城があるという、ファクトルに到着している。
自分の関心事は、そんな、“どうでもいいこと”ではないはずだ。
こんな“下らないこと”で悶々としている場合ではないのだから。
緊張感だ、緊張感。
エリーは呼吸を整える。
妙な唸り声を上げていた人物が急に落ち着き払った“てい”になり、再び魔術師たちの奇異の眼差しを受けているが、それにはやはり、エリーは気づかなかった。
「……、ふぅ、」
悶々とするのは、いい加減終えなければ。
日が経つごとにこうした時間が縮小しているのがせめてもの救いだ。
結局この一週間、依頼のくじ引きに“幸運にも”恵まれ、あの男とは組んでいない。
ここまでの移動中も、大して会話もしていない。
精神を保つには十分な時間だった。
落ちつけ自分。
自分は、“エリサス=アーティ”だ。
いつものように、あの男に怒鳴りつけているのが、“自分”ではないか。
さあ、行こう。
「……!」
エリーが踏み出した足は、見事なロールを描き、進行方向とは真逆に向いた。
そして戦闘中でもかくや、と思わせる動きで身を物陰に隠す。
今、自分が曲がって入ろうとした、階段。
その下から、子供のように二段飛ばしで登ってきた男。
“急いでいる”魔術師たちとは違い、“忙しない”その様子は、エリーは何度も見てきている。
よりによって、あいつだ。
ドクンと、胸が跳ねる。
「っ、」
ここは、建物の二階。
三階では、今、エリーたち以外の四人が情報を集めている。
てっきりそのまま三階に向かうかと思った、登ってきた男―――アキラは、何を思ったかその場で立ち止まった。
迷ったのかどうかは知らないが、その様子を影から覗うエリーは、息を殺し、特徴的な赤毛をはみ出させないことに意識を集中させる。
今、アキラがいる場所には、階段以外はない。
もしアキラが三階に進まなければ、このまま自分と鉢合わせすることになる。
声を出すことが許されるのなら、今すぐにでも登れとエリーは叫んでいただろう。
だがアキラは、どうやら昇ることを諦めているようだった。
三階へ上る階段を一瞥し、頭をポリポリとかき、その足を、連絡通路に向けた。
「っ、」
どこか身を隠す場所は、とエリーが視線を走らせても、不審人物を発見したかのような表情を浮かべる魔術師たちしか見えなかった。
額に汗が浮かぶ。
まずい。
「……、」
いや、別に、まずくない。
いいではないか。
鉢合わせになっても。
たまたま通りかかったように話しかければ、自然ではないか。
ついでに、勇者として挨拶していたアキラに、調子に乗るなと一言でも言えば、それで、“自分”だ。
ふー、よし。
エリーが壁から身を離し、数歩下がって、たった今向こうから歩いて来たかのように一歩踏み出したところで、
「アキラ」
三階の階段から、声が聞こえてきた。
エリーは再び壁に背を合わせ、階段のスペースを覗う。
「イオリか。終わったのか?」
「ああ、ついさっきね。そっちも?」
落ち着き払った物腰で三階から降りてきたのは、イオリだった。
魔道士にしか着用が許されない黒いローブを纏い、理知的な顔立ちを浮かべている。
「……疲れたろう? 実は僕たちも、さっき異常に期待をかけられてね。……まあ、プラスに働いてくれるといいんだけど」
「ああ、もう、手が……」
「握手、か……。僕も入隊したときそうだったよ。日本だと、ボディランゲージはあまり広まっていないからね」
日本。
それは、あの二人がいたという元の世界の国だ。
その話を、エリーは何度も聞いてきた。
「まあ、」
最後の一段を降り切り、イオリはどこかからかうような笑みを浮かべ、右手を差し出した。
「とりあえずはお疲れ様。これからが本番だけど、頼りにしているよ、“勇者様”」
「……お前は俺の話を聞いていなかったのか?」
「冗談、だよ」
イオリは出した手をあっさりと引き、やはり苦笑した。
「……、」
何だ何だ、今のやり取りは。
物陰で様子を覗うエリーは、イオリの表情を注視していた。
理路整然とした端正な顔立ちに、年相応の女性の様子を僅かに覗かせる。
自分の知るイオリは、生真面目で、もっと堅いイメージのある女性だ。
いや、違う。
自分は知っていた。
今のようにたまたま覗く、二人の様子。
そこでは、イオリは、“そう”ではない。
笑い、頬笑み、どこか面白いように苦笑し、冗談を言う。
そんなイオリを、エリーは何度も見てきた。
「そうだ、エリサスとマリサスは?」
「マリスには会ったけど……、あいつは分からない」
「そうか……。買い出しは順調そうだったかな?」
「……あ、」
「っ、聞いてないのか……。まあ、二人なら大丈夫かな」
イオリは僅かに目をつむり、僅かに微笑む。
アキラもどこか微笑した。
やっぱり、嫌いな雰囲気だ。
「それで、何だって?」
「ああ、出発は三日後になりそうだ。明日と明後日はどうやら、砂嵐が酷いらしくてね」
「到着したばっかなのに……、まあ……」
アキラは額に手を当てた。
今日の朝と昼の狭間に到着したばかりで、疲労は溜まっているのはみな同じ。
だがアキラは、はっきりと、言った。
「いよいよ、か」
その言葉は、同時にエリーの中でも響いた。
そうだ。
本当に、自分たちは“そんな場所”にいるのだ。
リビリスアークにいた頃は、夢にも思っていなかった、魔王討伐。
今や自分たちは、“勇者様御一行”として、それを目指すのだ。
まだ見ぬ魔王。
その力は、常軌を逸しているはずだ。
それこそ、討てば“神話”になれるほどに。
「まあ、準備期間にはなるさ。この辺りの足場にも、少しは慣れられるといいんだけど」
「やっぱ、話聞いた方が良かったかな?」
「いや、聞いた話はあとで僕が要約して伝えるよ。それより、地形の話を聞いた方がいいかもね。足場の悪い所ではいくつか依頼をしてるけど、砂嵐まであるとなると話は別だ」
だが、そんな重要そうな話をしているのに、エリーは足を踏み出せなかった。
やはり二人が話していると、自分の介入は許されないような感覚さえ味わう。
アキラと、イオリだけが知っていること。
それが存在するのは、とっくに知っている。
だが、その内容について、あの二人は決して語らない。
それは、触れてはならないことなのだろうから。
「……、」
壁を、感じる。
物陰から姿を現し、一歩進むだけで到達できるのに、“そこ”は、絶対領域なのだ。
そして、二人の距離は、近い。
「―――そうだ、アキラ」
「……!」
そこで、イオリの雰囲気が変わった。
そして“壁”が、さらに強固になる。
アキラもそれに気づき、目を細めた。
「“バグ”の話か?」
「……、近い」
イオリは積極的には肯定しなかった。
だが、口ぶりから、アキラは表情を変えない。
“バグ”。
あの二人の会話を盗み聞いてしまったとき、その言葉を聞いた。
どうもあの二人は、それについて、共通の懸念を抱いているのだ。
やはり、今あの二人には、近づいてはいけない。
だがエリーは、引くこともできなかった。
「……、アキラ、実は君を探していたんだ。……話がある。いいかな?」
「ま、まあ、」
「来てくれ」
そう言って、イオリは階段を下りていった。
アキラもそれに続く。
触れてはならない、二人。
だがエリーは、いつしか二人を追っていた。
―――**―――
「きゅぅ……、」
「そのまま溶けて流れていったら?」
エレナはあてがわれた自室、ベッドの上で液体のように伸び切るティアに、辛辣な言葉を呟いた。
しかしティアはいつものように喚かず、青みがかった髪を枕に埋め、うつ伏せにただただ寝頃ばるだけ。
やはりこの子を情報収集などというデリケートな場に置くべきではなかった、とエレナは今さらながらに頭を抱える。
イオリが話していただけだというのに、頭の許容量をオーバーしたティアは、干されたクラゲのように動くことを放棄していた。
もっとも、馬車に揺られるだけのここまでの旅路は、肉体的にも疲弊はあるのだが。
「しかし、本当に“証”は必要だったみたいだな」
横並びにベッドが三つ置かれただけの質素な部屋の隅、壁に背を預け座り込んでいたサクから声が届いた。
座ったまま愛刀を光にかざして、ときおり目をつむり、魔力を流している。
頻繁に行っているその手入れには、やはり今日も余念がないらしい。
「“七曜の魔術師”。こうした支部がファクトルを囲っていては、入るのにも許可はやはり必要だったか」
サクの言うことも、もっともだった。
まず、この辺りには町や村がない。
荒れ果てた大地が広がり、草木を見た記憶もない。
ないない尽くしだ。
本当に、ヨーテンガースの南部は“死んでいた”。
エレナたちもここに来るまで、高い運賃の馬車を走らせ、まるまる三日かかったのだ。
こうした宿を提供してもらわなければ、ファクトルに入るのは自殺行為。
その上、忍び込まなければならないのだ。
数日前にファクトルに忍び込んだという一般人も、大層苦労したことだろう。
“七曜の魔術師”、という“証”がなければ、ここでも相当な悶着があったはずだ。
もっとも、流石に緊急時ということもあり、あてがわれた部屋は三つだけ。
倉庫を整理したとかで、未だどこか、埃っぽかった。
「ま、これでお役ごめんね。ティア、戻り方分かる?」
「エレお姉さまっ!?」
流石にティアは反応し、ベッドから跳び起きた。
「そのお言葉がっ、胸にっ、ずずずずっ、と!!」
「黙りなさい」
エレナはベッドに足を投げ出したまま、視線も合わせずに底冷えするような声を吐き出した。
いつものやり取り。
その様子に、サクは僅かに苦笑し、刀の手入れを続ける。
この二人と同じ部屋、というのは妙に慣れなかったのだが、どうやらそれは、杞憂らしい。
ティアが自分たちに加わったとき、エレナが水曜属性の魔術師を適当に現地で見繕うなどと言っていたのも、記憶に新しかった。
ともあれ、自分たちは、今、ファクトルに到着したのだ。
サクは入念に、刃こぼれを探し続ける。
先ほどのライグという男が、いや、全世界が、自分たちにかけてきた期待。
それに応え、“神話”になる。
そうすることで、総てがキラキラと輝くのだ。
だが、
「ティア、戻りなさい」
エレナは二度、繰り返した。
サクはピクリと手を止める。
エレナの口調は、どこか、いつもとは違っていた。
「……ほんとのとこ言うと、あの正妻も。もしかしたら、そこのアキラの従者も」
「……!」
会話の内容が自分にまでおよび、サクは視線を鋭くした。
「あんた、足場が悪いの、慣れてるわよね?」
「……、ああ。タンガタンザは、そういう地形が多い」
タンガタンザ。
その西の大陸は、サクの出身地だ。
景色いっぱいに大地が広がる広大な地。
そこで育ったサクにとっては、ファクトルの地形でも動きに支障はない。
「それで、ギリギリ。そんな気がするのよ」
エレナの言わんとしていることは、とっくに分かっていた。
“力不足”。
それを、彼女は懸念している。
あまり考えたくないことだが、この“勇者様御一行”の中で、エレナの不安材料に、自分は入っているのだろう。
否定したい。
だが、それを口にできないほどの事実がある。
そして、それ以上に。
エレナの言葉は、いつものような嘲りを含んでいなかった。
彼女の表情は、懸念一色に染まっている。
「私やアキラ……、それにあの天才ちゃんや魔道士は……、多分、大丈夫。“常軌を逸して強い”もの」
“常軌を逸して強い”。
自己を含めてそう称したその言葉は、エレナが言うと、不遜とも過剰とも聞こえなかった。
アキラには、あの壮絶な銃がある。
マリスには、あの膨大な魔力がある。
エレナには、あの暴力的な力がある。
イオリには、あの強大な召喚獣がある。
彼らは、“常軌を逸して強い”のだ。
それこそ、ヨーテンガースの魔物にすら、そして、“魔族”にすら渡り合えるほどに。
「でも、私たちが入るのは、その“常軌を逸して強い”が“普通”になるとこ。世界最高の激戦区よ」
サクもティアも、エレナの言葉に口を挟まなかった。
ただ、それを聞く。
その、事実を。
この場に来るまでに、魔物には出遭わなかった。
その理由は、“逃げ出したから”だそうだ。
人間は愚か、ヨーテンガースの魔物すら、ファクトルの大地には近づこうとしない。
この魔道士や魔術師がひしめく支部のみが、存在を許されるのだ。
「楽勝が、惨死に。辛勝が、惨死に。引き分けが、惨死に。ファクトルは、そういう場所なのよ」
「……! ここに来たことがあるのか……?」
そのエレナの口ぶりに、サクはとうとう口を挟んだ。
エレナは座ったまま、砂が叩く窓を眺める。
問いかけへの応えは、返って来なかった。
「さっきの、ライグって人の言ってたこと、覚えてる?」
「……ああ」
覚えている。
彼は、自分たちを“希望”だと言ったのだ。
僅かに重圧を感じたのだが、彼は、本当に、必死だった。
「それ聞いて、“恐くならなかった”?」
「……?」
エレナの言葉の意味が分からず、サクは怪訝な表情を浮かべる。
ティアも、同様の顔つきだった。
「……、そう」
エレナはその“返答”を受け取り、ベッドから降りた。
そして、いつも通り傲慢な足取りでドアに向かうと、僅かに足を止める。
「忠告は、したわよ」
ドアが開き、エレナが外に出て、静かにドアが閉まるまで。
サクもティアも、一言も発さなかった。
―――**―――
日は高く、吹きすさぶ風も収まりつつあるファクトルの大地。
それは、翌日に起こるという砂嵐の予兆を思わせる。
そこに続く荒野を見渡し、魔道士隊支部の建物の陰に立ち、アキラとイオリは向き合っていた。
アキラはただ立ち、イオリは僅かに視線を外してただただ黙し。
「……、俺さ、実はさっきここにいたんだけど、」
沈黙に耐えきれず、アキラは声を出した。
ここまでの道中、イオリは先ほど集めた情報を簡単に話してくれた。
“移動生物要塞”、ルシルの存在。
それが目撃されたという場所までの距離。
地図を直接見なければ分からないような話は、イオリは飛ばしてくれた。
早足で歩くイオリの言葉は、どこか重かったように感じる。
だが、それを聞いても、アキラはやはり、“日常の延長線上”としか感じられなかった。
「……そういやさ、出発するときって盛大にパレードとかしてくれんのかな?」
「……いや、見送りくらいはあるだろうけど、それはないよ」
ここに来て、ようやく口を開いたイオリは、どこか疲れたような言葉を返してきた。
聞いた話によれば、“勇者様”へは最大級の敬意を示さなければならないという“しきたり”は、大きな町に行くたびに薄れていくらしい。
何せ、勇者は数が多い。
自称で事足りるそれまでには、流石に対応してはいられないのだろう。
多くの人が集まる場所では、そうした“詐欺”も起こっていると聞いた。
ほとんど自称が外れるここまで来ても、それは変わらない。
当然、敬意を示してはくれるのだが、流石に物的支援までしていてはその場所の身が持たない。
せいぜい、出身地くらいがそれをしてくれるだけだそうだ。
「……、」
ただ、間をつなぐためだけの言葉。
それは、アキラもイオリも分かっている。
「……、話って、何なんだ?」
ここまで連れてきて、呼び出した理由は語らないイオリに、アキラはついにそれを問うた。
楽しい話題ではないだろう。
特に、“バグ”がらみでは。
「アキラ、君に頼みがある」
「……、」
あまりに真摯なその口調に、アキラは身構えた。
イオリは、目の前の少女は、どこか、“懇願”している。
「“約束を破ってくれ”」
足音に揺れる建物や、砂の転がる音。
それらが総てどこか遠くに聞こえ、ただ響いたのはイオリの声だけだった。
「なに、を……?」
「アキラ、さっき僕の話を聞いて、“恐くなかったか”……?」
「……?」
「強大な魔物や、過酷な地形。強大な魔王の牙城。僕たちが今から挑む諸悪の根源、“魔王”。それを聞いて、君は、“恐怖”を覚えたか?」
イオリから溢れてきた言葉に、アキラはピクリと身体を硬直させた。
その、懸念。
それを、アキラは頭の中で、確かに浮かべた。
だが、
「驚愕は、しただろう。いや、もっと簡易に、“驚いた”、かな」
「……、あ、ああ、」
ずばり胸の内を言われ、アキラはくぐもった口調を返した。
魔王の牙城は、巨大な“移動生物要塞”、ルシル。
確かに、魔王の牙城には、どこか不動なイメージを持っており、それが動いていたというのは驚くべきことだろう。
“だが、その程度なのだ”。
「きっと、多分、みんなそうだ。その事実に……、いや、“その程度のこと”に驚きこそすれ、恐怖までは感じていない」
「……まさかイオリ、恐いのかよ?」
「……、」
イオリは僅かに止まり、アキラに視線を合わせてきた。
「恐い」
「……?」
はっきりとした口調で、イオリはそう言った。
だがその言葉にも、危機感は覚えない。
いや、危機感“など”。
「イオリさ、恐がってちゃ、何も、」
「いや、それは違うと思う」
「?」
「“事実”を“事実”としてしか受け取らないのなら、コンピュータでもできる。それに感想を抱かないのなら、人間である必要はないよ」
イオリの言葉は強かった。
アキラに何かを訴えかけるように。
どこか辛辣なイオリの言葉に、アキラは口を開かなかった。
ここまでの旅路、その戦闘中、アキラは自分が“感想”を抱かないようにしたことがあったのを覚えている。
魔物、と言っても生物だ。
それを切り裂くのは、やはり気持ちのいいことではない。
だから、“それ”を事実としてしか受け取らず、まさにコンピュータのように動いた。
そうすることで、自分は、“勇者”になれるのだ。
日常でも、同じ。
自分は、“それ”を抱かなかった。
そして、それが裏目に出たのは、イオリと出逢ったとき。
“感想”を抱かなかった自分は、いつしか迫っていた世界の陰りのただ中で、嘆いていた。
深追いすると、それは陰ることを知っていたから。
「みんな、麻痺している。道中迫ってきた脅威に対して、怒りや驚愕は覚えているが、最も大切な“恐怖”を受け取っていない」
イオリの言う、“感想”。
ここでは、恐怖のことだ。
もしかしたら、全員に緊張感がないような気がしたのも、その“恐怖”がないからだろうか。
というより、ここまでの旅路。
敵に“恐怖”を覚えたことが、ない。
「はっきり言うのも避けたいけど……、マリサス、そしてエレナ。彼女ら二人がいれば何とかなる。そう、みんな思っている」
「っ、」
「そして、アキラの力もだ。僕は見る機会がなかったが……、聞いている限り、壮絶だ。ここで乱射しているだけで、ファクトルそのものを消し飛ばせるほどなんだろう?」
「……あ、ああ、」
アキラは一応肯定した。
世界総てをオレンジ一色で染めるあの力。
仮定の話だが、それはできるかもしれない。
伏線も、想いも、そして魔王すら、あの力なら超えられる。
その確信は、未だにあるのだから。
「僕は、今すぐにでもそうしてもらいたいくらいだ。相手にどんな手があるか分からないから動けないが……、それでも、ね」
「いや、あれは、」
「そこで、だ」
ようやく確信か。
きっと見上げてきたイオリの瞳を、アキラはまっすぐに見返した。
「僕は、あの地に入ることに恐怖を覚えている。今すぐにでも逃げ出したいくらいに。……だから、“約束を破って欲しい”」
「……、」
「アキラ、君はモルオールで僕に言ってくれたね。もうあの銃は使わない、と」
言った。
確かに言った。
先日、エリーにも宣言した言葉だ。
その約束は、とうとうここまで守り切られた。
「アキラ、どうかためらわないで欲しい。一瞬遅ければ、最悪の事態になる。僕も……、きっと、マリサスも、エレナも、警戒しているはずだ。せめて僕たち四人は、危機感を持っていなければいけない」
「……、」
完全に、イオリの中でパーティへの評価は二分していた。
メンバー内の危機感を、常に掃ってきた力。
その四つの力は、いつでも強大だった。
力半分でも、解決できないことはない。
だがその四人が、全力で戦わなければならない場所にいる。
メンバーの最弱サイドにいるアキラを、最強サイドへ。
危機感が欠けた今の状況を、解決することは難しい。
だからせめて、戦力の拡充を。
綺麗事など言っている場合ではない。
それが、イオリの“懇願”だ。
もしかしたら、彼女は、“未来を視た”と語るイオリは、
「イオリ。ここで、何かを“視た”のか?」
「……、」
予想できていたのだろう。
イオリから返ってきた沈黙は、そういう色を帯びていた。
「……アキラ。君は、煉獄を視たことはあるか?」
「……?」
その声は、あまりに小さい。
だがその瞳は、口調と同じくあまりに強かった。
「生と死の狭間。一歩でも進めば、地獄が待つ。退路はない。そんな場所を」
ない。
あるわけがない。
日本では問題があったとはいえ、ぬくぬくと育ち、この世界の旅も、あまりに順調だった。
イオリは、それを視たというのだろうか。
「やはり多くは語れない。だけど、頼む。ためらわず力を発揮してくれ。そうでなければ、」
そこで口を噤んだイオリは、しかし視線を逸らさなかった。
この“懇願”は、あまりに重い。
イオリは、例えあるべき世界の姿を壊してまでも、それを、望んでいる。
「―――頼む」
「っ、」
拳を握り締め、イオリは頭を下げてきた。
いつも冷静で、困ったように苦笑しているイオリが、だ。
身体は僅かに震えている。
それに、
「あ……、ああ」
アキラはくぐもった口調で、肯定しか返せなかった。
風がサラサラと、また強くなっていく。
アキラに頭を向けたイオリが、また、語りかけているような気がした。
煉獄を視たことはあるか。
―――**―――
「……! ああ、ねーさん。部屋の場所、聞いたんすか?」
「……、」
「?」
ノックもせずに部屋に入ってくるなり、自分を無視し、ベッドに頭から倒れ込んだ姉に、マリスは首を傾げた。
エリーはうつ伏せに倒れたまま、動かない。
三つベッドが並んだだけの、質素な部屋。
窓の脇のベッドに陣取ったマリスの隣、エリーは中央のベッドに顔を埋めている。
アキラと別れてからとぼとぼ支部内を歩いていたおり、部屋の準備が整ったと連絡を受け、同室のエリーとイオリに言付けを頼んだマリスは、部屋で地図を広げていた。
先ほど顔を出したサクたちの部屋で貰った、ファクトルの地図。
そのとき、サクとティアの妙な空気に半分の眼をさらに細めたのだが、今のエリーの様子にもマリスは同じリアクションを起こした。
最近のエリーは、妙だ。
基本的に自分と同室のこの姉は、突如頭をガシガシとかき、悶え、そしてマリスがいることに気づいて居住まいを正す。
原因を追究しようと、先ほどアキラに聞いてもはぐらかされてしまった。
やはり、二人の間で、何かあったのだろう。
しかし、眉を僅かに下すも、マリスの今一番の関心事は、目の前のエリーだ。
妙だ妙だと思っていたが、今日は、“違う”。
こんな、無気力に倒れ込んだりはしなかった。
「具合、悪いんすか?」
「違う」
乾いた言葉が返ってくる。
「買い忘れとかあったんすか?」
「ない」
乾いた言葉が返ってくる。
「……そういえば、にーさんたち、どこ行ったか知らないっすか?」
「知らない」
冷えた言葉が返ってくる。
これだ。
「……、ねーさんたち、またなんかあったんすか?」
僅かなため息ののち、マリスが呆れたように呟いた言葉には、エリーは何も返してこなかった。
ただ、うつ伏せのまま、寝転ぶだけ。
何をやっているのだろう、自分たちは。
ここはどこだ。
魔王の牙城がある、ファクトルだ。
そんな場所まで来たというのに、それがまるで、アイルークの孤児院にいるときのようではないか。
ようやく、エリーのこの様子に名前をつけられそうだ。
無気力に倒れているようで、どこかピリピリとした空気を感じた。
まるで、爆発寸前の、火山のように。
だがそれでいて、その噴火は自分の中にしか起こらない。
これは、拗ねている。
「出発は、三日後になりそうっす。あとで、イオリさんたちが話をしてくれるらしいっすよ」
「聞いた」
マリスの経験上、こういうときのエリーに何を言っても無駄だった。
淡白な言葉しか返って来ない。
本当は、危機感を持って欲しいのだ。
“魔王”、という名前に、現実感を持てという方が無茶かもしれない。
それがどれほど強大な力を持っているかは分からないが、結局は“魔族”。
つい先日、マリスが強引に一人で打ち破った存在でもある。
だが、そうであっても、危機感は必要だ。
警戒心と言い換えてもいい。
この面々には、力があってもそれがまるでなかった。
戦闘になりさえずれば、みな集中するだろうが、現状を見るあたり、不安は募る。
だが、かけるべき言葉も見つからなかった。
その危機感を取り除き続けてしまったのは、他ならぬ、マリスたちなのだから。
「……、」
流石にピリピリしている姉の隣で地図を眺められるほど、マリスも神経は太くない。
最後に簡単に確認し、それを畳む。
今はエリーを、そっとしておいた方がいいだろう。
「自分は、にーさん探しにいくっす。もしかしたら、部屋に戻ってるかも、」
「止めなさい」
「じゃあ、散歩に」
ほとんど同じなのだが、マリスはエリーにそれを告げて、歩き出した。
ドアを開けて、外に出て、ドアを閉める。
そこで、マリスはようやく息が吐けた。
「……、」
マリスが出ていった部屋、エリーの頭の中では様々な言葉が渦巻いていた。
アキラとイオリの会話。
面々に、危機感がない。
そんなことは分かっている。
よくないことだ。
自分たちは、力不足。
そんなことは分かっている。
よくないことだ。
言われると辛いものはあるが、それを乗り越えようとしているのだが、今さら言われても取り乱したりはしない。
何より、今は、“気をつけなければならないのだ”。
一週間前に、自分たちに攻撃を仕掛け、逃げおおせた魔族、サーシャ=クロライン。
人の悩みに“囁きかけ”、黒い思考に誘うあの魔族は、未だ生存している。
いつ自分たちに囁いているか分からないのだ。
こういう思考は、せめて解決するまでは自重すべきだろう。
だから、問題は、最後の会話。
「誰にでも同じこと言ってんじゃない……」
枕に吐き出した言葉は、濁って部屋に響いた。
なんだなんだ、本当に。
何が、『俺は銃を使わない』、だ。
何が、『一緒に強くなろう』、だ。
エリーの関心は、結局のところ、そこに向いていた。
なんだなんだ、本当に。
自分がそれを聞いたときには、すでにもう、彼の中でそれは決まっていたのだ。
あの男が銃を使わなくなったのは、きっと、“そのとき”からだったのだろう。
アキラはとっくに宣言していたのだ。
イオリに。
「……、」
今まで、昇って元に戻る、を繰り返していたものが、降りて元に戻るものに変化した。
しかも何だ。
自分にそれを言ってから、一週間しか経っていないではないか。
それなのに、イオリの頼みに、アキラはあっさりと頷いて見せた。
確かに、イオリの様子に思うものはある。
ファクトルの危険性も、考慮すべきだろう。
だが、それにしても、もう少し、何か。
「……、」
あの男が、“そういう男”だということをすっかり失念していた。
あの男は変わらない。
結局この面々も、アキラ以外は女性になっている。
“それに歓喜するような男”なのだ、アキラは。
「……、」
いいはずなのだ。
別に。
銃を使わないでここまで来たことは、アキラの確かな糧となっている。
この際、面々を集めて、盛大に宣言してもいいくらいだ。
それで、逃げ道を潰してもらいたいくらいだ。
“もうこの際”、全員に伝えて欲しい。
その決意を聞いたのは、自分だけではなかったのだから。
自分以外に、イオリも聞いている。
よりによって、イオリ、だ。
「…………、あ~~~っ、これ、囁かれてる……、囁かれてる……、」
傍から聞けば理解困難な呟きを、くぐもった声のままエリーは吐き出す。
口でも開いていなければ、やっていられない。
「……!」
そこで、澄んだノックの音が響いた。
「ああ、エリサス。ここにいたのか」
エリーはドアが開き切る刹那、身体を即座に起こし、ベッドに座り直す。
ある意味今最も会いたくない相手、イオリが部屋に入る頃には、エリーは“自然”を取り繕っていた。
「……? マリサスは?」
「……さっき、散歩に行きましたよ」
「そうか……。話があったんだけどね」
“危機感”の話だろう。
イオリが、最強メンバーに話していること。
イオリは即座に出ていくのをためらったのか、ドアに最も近いベッドに座り込んだ。
その冷静な顔からは、彼女が語った“恐怖”は感じ取れない。
それとも、自分たちに危機感を持たせるのを諦め、むしろ不安を与えないよう振舞っているのだろうか。
「出発は、三日後になりそうだよ」
それは何度も聞いたことだ。
だが、わざわざ言うのも億劫で、エリーは頷くだけで返した。
「……と言っても、長丁場になるかもしれないけどね」
「?」
だが、イオリの言葉には続きがあった。
「あとでみんなにも話すけど、とりあえず目的地を決めて、そこまでを往復するんだ。馬車は、貸してくれるらしい」
ファクトルは広大だ。
しかも魔王の牙城は“移動”する。
入ればすぐに出遭えるというわけではない。
それはもはや、“旅”だ。
そして、砂嵐が頻繁に発生するその地で、長々と居座ることもできないだろう。
結果、この支部を起点に、少しずつ調査を進めることになる。
格安とはいえ宿代がかかるが、この激戦区の支部の部屋を提供してくれるのだ。
いよいよもって、“証”の必要性が出てきた。
「だが、エリサス。本番のつもりでいてくれ。なにせ最初に行くのは、目撃証言のあった場所なんだから」
「分かってますよ」
「?」
マリスのベッドを挟んで向き合うイオリに、エリーは短く返した。
要するに、結局のところ、危機感を持て、ということだろう。
不安を与えないように回りくどく言っていても、イオリは、自分の力のなさを嘆いているのだ。
「本当はそういうの、“勇者様”の仕事だと思うんですけどね」
面々を鼓舞するのは、やはり、“勇者様”たるアキラの仕事だ。
アキラが偉そうに語る姿は想像するだけでももやもやするが、イオリにあれこれと気を回されるのも面白くない。
そうだ。
面白くないのだ。
「……、まあ、アキラはそういうことには慣れないよ。その分、ね」
「……ええ、それは本当に」
エリーは重ねて同意した。
“それ”を知っているのは、イオリだけではないのだ、と。
「……、エリサス、その、もしかして疲れているのかな?」
「……いえ」
僅かに視線を逸らし、エリーは否定した。
確かに、疲れてはいる。
いや、そうだ、疲れているのだ。ここまでの長旅で。
だから、イオリと話すのが、面白くないのだ。
「まあ何にせよ……、いよいよ、だ」
イオリが呟いた言葉は、今度はエリーの中で響かなかった。
ただ無機質に、それを“情報”として受け取る。
“感想”は、抱けない。
イオリはずっと、気を張っているような気がする。
アキラの前以外では、“イオリ”は、“イオリではない”のだ。
そんな空気ににも近しい言葉に、抱けるものなど何もない。
部屋の空気が、しん、となる。
砂が窓を叩く音も、なんとも乾いて聞こえることか。
「―――エリサス」
自分はそこまで冷たい表情を浮かべていたのだろうか。
イオリがどこか腫れものを扱うような様子で、エリーに語りかけてきた。
「……この旅は、いつまで続くんだろうね?」
「?」
ふいに、イオリはそんなことを呟いた。
ただ間をつなぐだけの言葉だろうか。
イオリは、彼女にしては珍しく、ベッドに足を投げ出し、姿勢を崩した。
「そろそろ話してみたいんだよ……。この旅の、終着点をね」
「終着点……?」
「ああ、終着点を」
それは、“ここ”がゴールだとエリーに認識させるための言葉だろうか。
それとも、彼女は本当に恐怖を覚えていて、それを和らげるための言葉だろうか。
どちらかは分からない。
どちらも、かもしれない。
判断のつかないエリーは口を開かなかった。
終着点。
そんなもの、考えるまでもなく一つだけ。
“魔王討伐”。
それが、“勇者様御一行の旅”の終点であり、“神話”の最期に綴られるべき出来事だ。
「後世に残る僕たちの旅は……、きっと、魔王討伐までだろう。今までの伝承も、そこまで伝えられている」
そんなことは知っている。
わざわざ言うようなことではない。
だが、イオリは、それを口にし続けた。
「……、」
ただ、少し。
思うところはある。
というより、魔王の牙城が目前に迫っている以上、それは考えるべきなのだろう。
これは本を閉じれば終わる物語ではなく、自分たちが今生きているリアルなのだから。
「“神話”の終着点は、きっと、“そこ”だ。だけど僕たちの旅は、一体どこまで続くんだろうね……?」
イオリの言う、“旅”。
それが、今のこの旅を指しているものではないとようやく分かった。
彼女の言う“旅”は、この人生そのものだ。
「ここが最後の目的地。そう認識してなくてはいけない。だけど、どうも、ね」
もしかしたら、これはイオリの独り言なのかもしれない。
ここに危機感を持てと言っている彼女は、実のところ、先を見ているのだ。
続く、日々。
それに想いを馳せるだけに、彼女は、ここが、“終点”が恐いのかもしれない。
「イオリさんはどうするんですか? 魔王を倒し終えたら」
独り言に、エリーは口を挟んだ。
自分が今、イオリの言葉に思うものがあるのは、彼女が空気に近しい言葉を吐き出していないからだろう。
彼女の本心は、きっと、ここで聞ける。
「…………、そうだね。魔術師隊に戻るかもしれないな……。その先までは、流石に考えられていない」
その言葉が返ってきて、エリーは何故か、胸を撫で下ろした。
イオリは、この世界で生きていくことを考えている。
「エリサスは?」
「……、え、い、いや、あたしは、えっと、」
簡単に答えられていた、エリーの夢。
魔術師隊に入り、いつか素敵な出逢いがあり、そして孤児院を継ぐこと。
それは、口には出せなかった。
「……、やっぱり、アキラと?」
「っ、」
まさか彼女の口から“それ”が出るとは思わなかった。
エリーの身体がピタリと止まる。
「婚約してるって、」
「っ、そ、それ、あいつから聞いたんですか……!?」
「……、あ、ああ、そう、アキラに聞いたよ」
イオリは僅かに止まり、肯定を返してきた。
あの男は一体どこまで口が軽いのか。
本人も知られたくなさそうだった事実なのに、よくもまあイオリに話したものだ。
「“魔王討伐の報酬”。それで破棄すると聞いたけど……、」
「……、つ、使います」
小さく、返した。
イオリが聞きたかったのは、“これ”だ。
エリーは確信した。
あれこれと気を回していた自分が馬鹿みたいだ。
イオリは、自分たちの想いに、探りを入れてきたのだろう。
「……そうか。じゃあアキラは、一体どうするつもりかな……?」
「……?」
言葉だけを捉えれば、わざとらしいイオリの呟き。
だが、エリーは何故か眉を寄せた。
イオリの口調は、まるで、アキラを“完全な他人”と扱っているとさえ思える。
「同じ異世界から来た僕は……、幸か不幸かこの世界で生活する術を持っている。でも、アキラは、」
「……、」
異世界来訪者に優しいこの世界。
アキラは何度もそう言っている。
だがそれは、魔王を倒したあとはどうだろう。
イオリの懸念は―――いや、もしかしたらその程度のものですらないかもしれないものは、そこだ。
確かに、魔物を倒す旅を続けることはできる。
魔王を討ったとしても、それは魔物の統制がなくなるだけで、町や村に被害を与える存在には変わらないのだから。
イオリが魔術師隊に戻れるように、魔王を倒しても、魔物との戦いは終わらない。
次の魔王が現れるときのために、人々を救い続ける必要もある。
だが、旅をつづける以上、まともな貯蓄はできない。
できる人もいるが、何せ、“あのアキラ”だ。
彼はずっと、戦火の中にいることになる。
それこそ、彼に合った職業、例えば孤児院の子供たちの世話係でもしなければ。
未だどこか埃臭い、静かな部屋の中。
静かな会話は続く。
「こんなのはどうかな? 魔王討伐の報酬、それを、アキラを元の世界に戻す、なんてものにするのは」
「っ、」
今日一番の衝撃に、エリーは身体中の時間を止めた。
「それって、」
「いや、そういう解決方法もあるんじゃないか、ってね。アキラがこの世界から去れば、婚約は必然的に解消できる。万事解決のような気もするんだよ」
「それは……、その、そうなんだろうけど……、無理だと思います。あいつ、この世界好きそうだし」
イオリの抑揚のない声に、エリーは必死に食らいつく。
そもそも、異なる世界を行き来する方法など、何一つ不明なのだ。
だが、アキラやイオリは何故、この異世界に来訪することになったのだろう。
それを考えれば、それこそ神族が介入しているとしか考えられない。
ならば、願いとして、その報酬はありだ。
しかし、ご都合主義がどうだの言っていたあの男は、この世界を本当に楽しんでいる。
アキラはこの世界を好きなのだ。
帰るなどと、言い出しそうには思えない。
そのはずだ。
「でも、彼が勇者でなくなれば、この世界の優しさは彼に向くかどうか分からない。失礼だとは思うけど、彼が魔術師試験を突破できるとは思えないしね」
エリーは知っている。
魔術師試験の難易度を。
ここまでの旅で、アキラはある程度の知識を有しているが、それは実践向きで、むしろ魔道士試験の趣旨に近い。
単純な基礎の学力も必要な魔術師試験とは、アキラには相性が悪すぎる。
「短絡的なアキラは、そのときにはすぐには分からないだろう。だけど、いつかきっと、後悔する」
「そんなの、」
「可能性の話だよ。歴史には神族に願いを叶えれもらって幸せな人生を送った“勇者様”もいるらしいけど……、その“特権”の使い道はもう決まっているんだろう?」
エリーには、イオリの言葉は自分を責めているように聞こえた。
「それに、」
ベッドに深々と座り、纏ったローブに構わず体重を預けるイオリは、ただただ言葉を吐き出し続ける。
「僕もそうだけど……、元の世界の記憶は曖昧だ。まるで、元の世界への愛着を損なわせるように。だけどもし、それを取り戻したら、アキラは―――」
「か、関係ない話です!! あたしには!!」
「っ、」
想像以上の声が出た。
ベッドから下ろした足に、自然と力が入る。
今すぐにでも、駆け出してしまいそうだ。
「……すまない」
「あ、いえ、」
「いや、本当に、」
イオリは今気づいたかのように、姿勢を正し、ベッドに座り直す。
再三謝罪を口にするイオリに、エリーは視線を合わせなかった。いや、合わせられなかった。
「やっぱり相当まいっているみたいだ……。忘れてくれ」
分かっている。
イオリの危惧していることは分かっているのだ。
だからそれゆえに、エリーは声を荒げてしまったのかもしれない。
アキラの“先”。
自分たちの“先”。
それを考えるのがどうしようもなく恐い。
今を生きる。
それを口にするのはあまりに簡単だ。
人によっては、そうすることに何の苦もないなだろう。
だが、それは、“先”にいる自分を信用していないことにもなる。
長期的に物事を考えられないことにもなる。
取ろうと思えばいくらでも取れる、“裏”。
それで、サーシャにもやられた。
先も、今も、不安な現状。
判断もつかないのにその間に落とされることが、エリーは、恐い。
「どうもエリサスくらいしかこういう話をできないと思ってね……。すまない」
「いいんです、本当に」
確かに、“アキラを除けば”、一番話している。
ティアは別として、イオリにとって不安を打ち明けられるのは、エリーが適任なのかもしれない。
「……、」
そこでエリーは、はたと顔を上げた。
目の前のイオリ。
すでに、落ち着いた表情を取り戻している。
彼女も、自分自身がたった今口にしたように、元の世界への愛着が削り取られているのではないか。
「イオリさんは……、元の世界には?」
彼女も異世界からの来訪者。
それならば、彼女がいるべき場所は、ここではないのかもしれない。
「僕は……、そうだな、」
イオリは小さく苦笑した。
いつもの表情。
だがそれは、いつもと違う。
エリーの目には、何故かそう映った。
「帰らないよ。多分ね」
「?」
静かな部屋で、消え入りそうな声。
イオリは焦点の合っていないような瞳を携え、小さく呟いた。
「この異世界には……、そう、二年もいたんだ。愛着もある、それに、サラもいる」
「……、」
サラ。
モルオールで会った、魔術師を思い出す。
イオリの部下であった彼女は、親友でもあったようだった。
「で、でも、元の世界には、」
「そうだね。両親もいる」
サラを語ったときと比べ、なんと軽い口調か。
彼女の中の天秤が、どちらに大きく傾いているか、それだけで分かる。
「でも、こっちの世界の方が……、うん、いいと思う」
うつむいたイオリの表情は、よく見えない。
だが、多分、苦笑しているのだろう。
「あ、あいつが、帰るとしてもですか……?」
顔が見えないときの特権か。
エリーはとうとう、思っていた疑問を口にした。
イオリは、アキラとよく話している。
本当に。
そして、彼女は、アキラの前では、より自然に見えるのだ。
その距離は、近かった。
思えばメンバーの誰もが、アキラに惹かれている。
だがその理由も、想いの名前も、共通のものではないだろう。
最近は、エレナがアキラに寄り添っても、憤りは僅かにしか浮かばない。
何よりマリスに止められている。
だが、イオリは、違う。
「……多分、勘違いしているよ」
「?」
イオリはゆっくりと顔を上げ、エリーと向き合った。
その顔は、いつも通りの苦笑した顔。
だが、やはり、何かが違うのだ。
「アキラとはよく話す。それに、面白いと思うのは確かだ。元の世界でも逢ってみたかった、と感じるくらいに」
イオリは表情を変えない。
「でも、僕はさ……、多分、」
「……、」
カタカタと、砂が窓を叩いているはず。
その小さな音は、エリーにはまるで聞こえなかった。
「アキラのことが、嫌いなんだと思う」
―――**―――
―――結局、エリーがアキラとまともに話すことはなかった。
「馬車って、誰か操縦できるのか?」
「ああ、自分とイオリさんが交代でやるっす。サクさんもできるんすよね?」
「ああ、多少は」
「じゃあ、三人っすね」
三日後、“勇者様御一行”はファクトルに続く荒野に立っていた。
聞いていたより大したことはなかったが、一昨日、昨日と続いた砂嵐も晴れ、太陽が東から昇り始める頃。
早朝と言っても差支えない時間帯。
馬車の操縦など、一体いつの間に覚えたのだろう。
自らのオーバースペックをなんてことでもないように語る自分の妹を見ながら、エリーは馬車に積荷を積んでいた。
先頭にいる四頭の馬が不釣り合いに思える、中程度の馬車。
中は、七人と積荷だけで一杯になるほど狭苦しかった。
砂対策の分厚い布や、悪い足場用に丈夫な車輪で造られているが、ヨーテンガースに来て最初に見た馬車、サルドゥの民のそれには遠く及ばない。
だが、賃貸料を払ったとはいえ、かなりの上質だ。
流石、魔道士隊の備品というだけはある。
ここまでが、彼らが自分たちに支援できる最低限だ。
今から自分たちはこれに乗って、ファクトルに入る。
エリーは深く息を吸い込み、鼻にまとわりつく砂ごと吐き出した。
大気は、乾いている。
「わああ……、あの、あのっ、ちょっとやってみていいですかっ!?」
「誰か、縄くれない? ちっちゃい子供一人拘束できるくらいの」
「エレお姉さまっ!?」
その馬車の先頭、目を輝かせて馬に近づくティアにエレナの冷たい声が突き刺さる。
ここに滞在し始めた初日、どこか様子がおかしかったティアは、もう完全に復活しているようだ。
今の彼女に馬車の操縦を任せたら、あっさりと横転するだろう。
最後に荷を積み終わり、エリーはため息を吐いた。
集中しないと。
いるだけで、じゃらついた口触りを感じる。
パラパラと、顔に砂が当たる。
息を思い切り吸うのも、ためらわれるほどだ。
「……、」
集中しないと。
僅かに視線を面々に送り、エリーは心の中で呟いた。
緊張感が薄れた面々。
やはり少しは強張っているようだが、最高潮には達し得ない。
そして、自分も。
「……、」
エリーの視線はアキラたちを追い越し、建物の前で数人の魔道士たちと話すイオリに向いた。
随分質素な見送りだが、あの場にはピリピリとした空気が満ち溢れている。
こちらは、まるで観光にでも行くような雰囲気だ。
そして、エリーも、魔王討伐より―――魔王討伐“など”より、イオリの言葉の方が気になっていた。
三日前の彼女の言葉は、耳に残って離れない。
その真意もつかめぬまま、とうとう、“今日”だ。
「よし、出発しようか」
話は終わったのか、イオリは自分たちの元へ駆け寄ってきた。
その後ろから、魔道士たちの少ない声援が聞こえてくる。
それも、どこか、遠い。
「アキラ」
「……、」
イオリは僅かにアキラに目配せし、頷かせる。
あのときの“懇願”の確認だろうが、イオリは小さく微笑んだ。
やはり、“そう”見えない。
「アッキーッ!! 出発前に、何かっ!!」
「へ?」
さっそく馬車に乗り込もうとしたアキラを、ティアが止めた。
「士気を上げるためにもっ、“勇者様”のお言葉をっ!!」
彼女はピクニック気分の代表格だろう。
必要性は感じるが、表情は、あまりに明るかった。
今すぐにでも、身体を跳ねて暴れさせそうだ。
「えっと、」
全員の視線がアキラに向く。
だがエリーは、いや、全員が、その場から近寄ろうともしなかった。
「か、勝つぞっ」
「……、」
しばし沈黙。
何も考えていなかったことが浮き彫りになるようなアキラの言葉に、マリスは呆れたような表情を浮かべ、イオリは小さく苦笑する。
エレナとサクが、小さくため息を吐き出したところで、
「おっ、おうさっ、私にっ、ま、か、―――ストップストップ!! エレお姉さまっ、今だけはっ!!」
「黙りなさい」
アキラの言葉を何とか拾おうとしたティアが、掴みかかろうとしたエレナから一気に距離を取った。
本当に、乾いた光景。
全員が全員で、“日常”にいる。
こんな場所なのに。
「……ま、行きましょうか」
エレナが呟き、馬車に乗り込む。
面々が、それに、無気力に続く。
あるいはそれが緊張ゆえだったら、望ましかっただろう。
「ま、いいか」
それで、納得してしまう自分も。
エリーは小さく呟き、それに続く。
みなが言うには、今回は探索だけで終わるかもしれない。
魔王の牙城は移動する。
目撃証言があったという場所には、もうとっくにいないだろう。
食糧などが半分になったら、またこの場に戻ってくる。
そうなるはずだ。
だからむしろ、エリーの注意は別に向いていた。
他のメンバーも。
だから。
「行くよ」
最初の操縦を務めるイオリが、馬車の面々に声をかける。
メンバーは思い思いに、ばらばらに、それに適当に応じる。
緊張感のない面々。
―――それが多分、よくなかったのだろう。