―――**―――
“彼女”が最初に“彼ら”に攻撃を仕掛けたのは、モルオールだった。
同じ魔王直属のリイザス=ガーディラン。
その存在を滅した“勇者様御一行”。
その強力な人間たちを操作したいと感じるのは、“彼女”にとって当然のこと。
その場にあった“悩み”を利用し、襲撃をかける。
すると、チェスボードの上で駒を動かすように、対象は動く。
いつもの手口だ。
逃れようのない、戦い。
それを演出することは、“彼女”にとって容易いこと。
だが、例外の事態が発生した。
魔物がひしめく、おびき出した洞窟内。
戦力を分断し、精も根も尽き果てたと思った、カリス副隊長戦の直後。
洞窟内を埋め尽くしたのは、無限をも感じさせる、底なしの魔力。
およそ凡人が考えるような魔力の総量を遥かに超越した、確かな存在。
そこで、計画は変わった。
分断したもう一方の“勇者様御一行”のメンバー。
使い魔を通して耳にした、興味深い会話が頭に浮かび、総てが“彼女”の中で創り上げられる。
大きく開けた、罠の口。
ゆっくりと時間をかけ、ゆっくりと囁きかけ、獲物をふらふらと迷い込ませる。
それを舌で感じ、間もなく口は閉じるだろう。
逃れようなく。
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
「……、」
銀に輝く洞窟の中、マリスは普段通りの無表情で、半分の眼を目の前の敵に向けた。
たった今、自分の銀の矢を防いだ魔族、サーシャ=クロライン。
背中に垂らした金の長髪も、女性としての完成形のような身体も、それに吸いつくような薄く黒いローブも、妖艶で、そして美しい。
ぎらつくようなその銀の瞳に見つめられれば、異性ならば何物でも差し出すだろう。
しかし、そんな相手を、マリスは完全に殺戮対象として捉えていた。
背後には、自分と同じ“勇者様御一行”が勢揃いしている。
エリーを看病するティア。
魔族に殺気を飛ばしているエレナ。
状況把握に努めているサクとイオリ。
そして、自分の背後にいるアキラ。
だが、彼らの力を借りる必要はない。
“十分だ”。
「レイディー」
「っ―――」
マリスは再び、高速の銀の矢を射出する。
唸りを上げてサーシャを襲うその攻撃は、やはり銀の盾に弾かれた。
流石に“魔族”。
単純な攻めでは、討ち倒せないらしい。
「にーさんたち、ねーさん連れてもう少し下がってて欲しいんすけど」
「っ、ああ、お前らも……!」
小さくマリスが呟いた言葉に、アキラは即座に反応した。
いや、正しくは、マリスから感じた恐怖に、だろうか。
アキラは面々を促し、二つの広間を繋ぐ大穴まで下がる。
エレナは最後まで殺気をサーシャに向けたままだったが、流石に費消した魔力で戦うのは無謀だと感じたらしい。
珍しくも大人しく、ティアと共にエリーを抱えた。
「―――フリオール」
マリスはアキラたちが離れたのを確認すると、小さく呟き、身体中をシルバーの光で覆った。
解明さえされていない、“魔法”の力。
“自分が宙を舞うのに不都合な外部干渉”を打ち消し、自分の思い通りに操作し、身体を戦場の宙に走らせる。
そしてその縦横無尽の位置取りから、敵を討つ。
それが、マリスの戦闘スタイル。
相手が魔族でも、それは変わらない。
天井が吹き抜けているように高いこの場なら、十分普段の動きができる。
「―――、」
マリスは眼下の敵に半分の眼を向け、サーシャは頭上の敵を妖艶に頬笑み見上げる。
その挑発的な笑みが、またなんとも、
「っ、レイディーッ!!」
大きく振りかぶり、その場から動けないサーシャに一閃。シルバーの閃光を放つ。
鋭く走ったその一撃は、またもサーシャが展開させた“魔力遮断”の盾に防がれた。
物理的な攻撃もある程度は防げる、原理が解明不能な“魔法”の盾。
サーシャも集中し始めたのか、今度は一撃で砕けず、マリスの攻撃を完全に遮断した。
流石に魔族というだけはある。
そして、月輪属性という希少種の相手は、マリスにとっても初めてだ。
だが、
「レイディーッ!!」
マリスはシルバーの飛行物体と化し、銀に輝く洞窟内を飛び交った。
そしてあらゆる角度から銀の矢を放つ。
サーシャの真上や、ときおり正面にまで高度を下げて。
たった一人でサーシャを完全に包囲し、魔術を放つ。
眼下のサーシャは、あの場から動けない。
十分、“殺せる”。
「―――ディアロード」
「……!!」
ついに、サーシャが攻撃に転じた。
宙を鷲掴みするように右手を突き出し、甘く囁きかけるような声が漏らした“魔法”の詠唱。
その途端、マリスの周囲に銀の魔力が展開した。
洞窟を照らすマリスの銀とは違う、ぎらつくようなその色。
それは、さながら蛍光灯のように細長く光る銀の棒だった。
それがいくつも、前後左右上下にずらりと並び、マリスとの感覚を狭めてくる。
「っ、」
檻のようなその“魔法”に、マリスは即座に飛翔による移動を諦め、自己の魔力を発動させた。
「ディセル―――」
外から見れば、マリスが爆発したようだったろう。
マリスが身体を覆うように展開させた盾にサーシャの魔法が触れた瞬間、ぎらついた銀の魔力が爆ぜ、マリスの景色は爆風一色で染められた。
だが、並みの者なら閉じ込められ、絶命を待つばかりのその魔法も、マリスの鉄壁の魔力に阻まれる。
「―――化物、って言われたことない?」
「よく言われるっすよ」
自分の攻撃が防がれたというのに、サーシャの挑発的な笑みは変わらない。
しかしその皮肉に、マリスは肯定を返した。
「レイディーッ!!」
「っ―――」
さらに動きを機敏にし、残像が残るほどの速度でサーシャを攻める。
上から、横から、さらにはときおり緩急をつけて。
総てがサーシャの命を狙った攻撃を、マリスは繰り返した。
相手がコアロックで動けない、この状況。
流石に、わざわざ近寄っていくほど冷静さを欠いているわけではない。
だが、それにしても、この敵は、どうしても、
「レイディーッ!!」
“殺したい”。
「……、」
アキラはその戦いを、完全なギャラリーとして傍観していた。
隣にいるサクもイオリも、声一つ漏らさない。
眼前で起こっている戦い。
それは、まともな神経を持つ者では介入することができないものだった。
銀に輝くの洞窟内で、銀に輝く二人。
マリスは、“魔族”、サーシャの周囲を飛び交い、攻撃を撃ち下ろし続けている。
それを防ぐサーシャから届く、爆音と熱風。
サーシャの周囲では砂煙が舞い、アキラはほとんど視認できなかった。
その土煙を突き抜け、四方八方から撃ち込まれる銀の矢。
さながら戦闘機のようにそれを一人で囲うマリスは、あまりに強く、
「……、」
そして、恐かった。
それこそ、加勢した者さえもまとめて消し飛ばしかねないほどに。
マリスは、完全に怒っている。
付き合いの長さだとか、そんなものは関係ないほど、誰の目から見ても明らかに。
普段無音で、感情さえも外に出さないような彼女が、相手を執拗に“殺そうとしている”のを初めて見た。
何故、気づかなかったのだろう。
アキラは縮小していった自分の怒りに対して、疑問を抱いた。
頭に血が上っていたときは気づかなかった、この事態に激怒する存在。
それは、エリーの唯一の肉親の、妹マリスだ。
秘術を知ったエリーに“囁きかけ”、命を落とすような事態に追い込んだサーシャ。
しかも、エリーが思いつめたのも、もともとはマリスが作ってしまったエリーのコンプレックスゆえのこと。
この事態に、最も触発されるのは、やはり、マリスなのだ。
「……?」
冷静になったからか、アキラはサーシャを囲う土煙の向こう、何か不穏な気配を感じた。
ほとんど攻めようともせず、マリスの攻撃を防ぎ続けるあの“魔族”。
マリスはダメージを全くと言っていいほど受けていない。
“リロックストーン”というマジックアイテムで現れた者は、その場からほとんど動けないとマリスは言っていた。
そのために、遠距離から猛攻撃を仕掛けるマリスに手の打ちようがないのだろうか。
だが、それならば。
何故この場から去ろうとしないのか。
そして、そもそも何故、姿を現したのか。
「……、」
アキラの中に、危険な香りの思考が浮かんでくる。
「イオリ」
「……、え、何かな?」
目の前の戦闘から目を離さず、アキラは呟いた。
イオリもそれを呆然と見ていたのか、僅かに遅れて反応する。
「何か、その、何て言うか、」
「?」
イオリは怪訝な顔を向けてくる。
だが、アキラは言葉を紡げなかった。
今、自分が感じているこの懸念を、言葉にすることができない。
嫌な予感がする。
単純に言ってしまえばそれだけのことだ。
だが、その原因が分からない。
マリスの攻撃による爆音が響く洞窟内。
その被爆地を、圧倒されながらも当然のように眺める面々。
それは、マリスの力は揺るがないという、当然の前提ゆえだ。
だが、それなのに、アキラの背筋を悪寒が撫でる。
「……、」
考えろ。
アキラは頭を回転させた。
いつも答えにたどり着けない、自分の浅い思考。
だが、それが必要だと、どうしても感じる。
そもそも、あの魔族、サーシャのやったことは何か。
エリーに“囁き”、危険な秘術に導いた。
カトールの民の“恐怖”を煽り、妙な依頼を発生させた。
小さな魔物に、マジックアイテムを使い、強大な魔物を出現させた。
そして、恐らくは、魔物がこの洞窟そのものを崩したのもサーシャの指示だ。
無秩序に並ぶ、サーシャの行動。
もし、それを、
「……、」
たった一つの線で結ぶことができたらなら―――
「レイディーッ!!」
もう何度、この銀の矢を振り下ろしただろう。
マリスは決して一ヶ所に留まらず宙を飛び交っていた。
「……、」
彼女の“魔法”は確認した。
先ほどの、ディアロードという攻撃。
自分が思った空間に、触れれば爆ぜる銀の棒を出現させ、対象を滅する月輪属性の“魔法”だ。
先のように防ぐことは十分可能だが、それでも流石に魔族、といった威力がある。
相手が“コアロック”で動けない以上、錯乱して、的を絞らせてはならない。
「っ、レイリスッ!!」
アキラたちを背に守り、土煙の向こうに腕を振るう。
守り切られている下級魔術から、中級魔術への転換。
一手でサーシャを襲う銀の矢を増大させると、マリスはなおもサーシャを攻めた。
土煙の向こうから見える、サーシャの防御幕。
そのぎらつく銀に、どこかくらくらしながらも、マリスは飛ぶ。
どうあっても、あの敵を討ちたい。
エリーを追い込んだことは当然として、その上で、あの挑発的な表情。
力を求める。
それは、本来生物が持つ願望なのだろう。
マリスにとってはほとんど無縁だが、それは、輝いて見えるのだ。
姉が、そして“彼”が、自分に見せてくれたこと。
劣等感に抗うように生きてきた人たちを、自分は知っている。
それなのに、目の前の敵は、それを蔑み、それを利用し、自分の思った通りの破滅へ歩ませた。
だから―――
「……!!?」
かくん、と、マリスの景色がぶれた。
ぎらつく銀に焼かれた瞳は、視野を一気に狭めていく。
そして、飛行速度が極端に落ちた。
その“初めての感覚”に、マリスは僅かに瞳を大きくする。
自分が攻め、サーシャがひたすらそれを守っていく。
完全に硬直状態だったこの戦闘の優位は、覆せないほどの猛攻を仕掛けていたマリスが俄然有利だった。
この方法で倒せなかった敵はいない。
それは、マリスが無意識で、自分に“前提”を置いていたからだ。
だが、今、それが―――
「戦闘しながら“別のこと”に魔力を割ける器用さ……、素敵よ」
「―――!!」
マリスの攻撃の手が緩んだと同時、サーシャの挑発的な言葉が耳に届いた。
すると土煙の中、ぎらつく銀の光が強さを増し、スパークするようにほとばしる。
これは、
「ディアロード」
「っ―――、」
今回、サーシャは銀の棒を檻として使うつもりがない。
細い銀の棒、その先端が、総てマリスに向き、サーシャから射出される。
「―――ディセル!!」
マリスは迷わず盾を展開させた。
見下ろしていたサーシャから撃ち上げられるように向かってくる銀の棒。
マリスの盾を貫かんと宙を走り、被弾するごとに、バヂンッ、と雷のような音を洞窟内に響かせる。
サーシャのあの魔法は、自分の攻撃同様、矢のような役割を果たすらしい。
これがサーシャの本気の攻撃だろうか。
あまりに重いその棒の大群に、マリスは全神経を注ぎ込む。
「っ、」
これで、リロックストーンによる魔力削減を受けているのだろうか。
止むことのない怒涛の攻撃に、マリスは両手を突き出し、何度も盾を張り替える。
半分の眼で捉える先、その手が震えていった。
ぎらつく銀で、頭がくらくらする。
「っ、っ、―――っ、」
マリスはついに、全ての銀の棒を防ぎきった。
しかし、身体はようやく重力を思い出したかのように、ゆっくりと下降していく。
いや、まさしく、“重力を思い出したのだ”。
マリスはアキラたちとサーシャの中間に降り立ち、彼女の視線を自分だけに向けさせる。
「今の、耐えられるんだ?」
「……、……、」
マリスは妖艶に微笑むサーシャは、防御に集中していただけはあり、負傷らしい負傷をしていなかった。
マリスは言葉を返さず、その時間を全て、悟られないように息を整えることに注ぎ込む。
顔はいつもの無表情。
これは、崩すわけにはいかない。
「……、……、」
だが、これは、まずい。
マリスは熱に浮かされたかのようにぼうっとする頭を、しかし高速回転させた。
今、“ほとんど感じなかった影響”が、明確に自分を削り取っていくように思える。
だが、ここでは引けない。
“背後の人たち”には、任せられる敵ではないのだから。
彼らは、費消している。
戦えないのだ。
“強者は弱者を助けなければならない”。
だから、守る。
それが、当然のこと。
「ふふふ、」
「……?」
サーシャは変わらず妖艶に、地上に降り立ったマリスに笑みを向けてきた。
そして僅かにマリスから視線を逸らし、その背後をぎらつく銀の眼で捉える。
「後ろの人たち、退屈そうね?」
「―――、」
サーシャがゆっくりと、腕を向ける。
その瞬間、マリスは振り返った。
後ろの人たちは、自分たちの戦いに、呆けたような表情を浮かべている。
だが、今、サーシャの攻撃対象は、
「ディアロード」
「っ、フリオール!!」
マリスは全身に魔力をほとばしらせ、背後の面々の元へ飛んだ。
サーシャのあの魔法は、出現場所を選ばない。
自分が庇うように立っていたところで、彼女はそれを飛び越え、あの場所に銀の檻を展開できる―――
「―――!?」
「なっ、」
予想通り、面々の周囲に銀の檻が出現した。
最初にマリスを襲ったときのように、それらは感覚を狭めてアキラたちに接近していく。
自分が、守らなければ―――
「ディアロード」
「―――、ディセル!!」
アキラたちに向かう途中、マリスの眼前に幾重にも銀の棒が展開された。
マリスの進路を防ぐ、網状の防壁のように。
視界は、ぎらつく銀一色に変わる。
マリスはそれに、わき目も振らず飛び込んでいく。
身体中から魔力を噴き出し、破壊しながら強引に進む。
最短ルートで進まなければ間に合わない。
自分の速力も加わり、壮絶的な威力と化したその銀の魔法は、マリスの身体に多重な負荷を加える。
防ぎ切れなかった銀の棒は、鋭い先端でマリスのマントを引き割く。
全身に走る痛み。
全身に走る苦痛。
「っ、っ、っ、」
だが、気にせず進め。
急がなければ、彼らが危険だ。
余力を考えず、ただただ一直線で。
とにかく今は、“自分が彼らを守らないと”。
「にーさん!!」
「―――マリサス!?」
マリスが決死の覚悟で飛び込んだ先、イオリが目を見開いて待っていた。
イオリは短剣を構え、隣のアキラもサクも武器を抜いている。
ティアはエリーを庇うように抱え、エレナは周囲に展開していた銀の檻を掴み、吸収していた。
無事、だ。
「はっ、はっ、はっ、なん、で……?」
「……、っ、マリス……!?」
アキラは剣を仕舞い、銀の景色の向こうから現れたマリスの身体を抱きかかえた。
足元はふらつき、纏った漆黒のマントもボロボロになったマリスの身体は、異常なまでに軽い。
だが、倒れかけているマリスが全体重をかけていることは分かった。
「なんで……、無事……、なん、すか?」
「……?」
マリスがここまで困惑した表情を、アキラは初めて見たかもしれない。
だが、アキラは何が起こったのか分からなかった。
自分に浮かんだ疑念に捉われている最中、途端周囲に銀の檻が展開された。
その銀の攻撃をイオリが防ぎ切ったあと、マリスが憔悴して現れたのだ。
あの、無敵のマリスが。
幻想的な“魔法使い”同士の戦い。
その途端、自分たちが攻撃対象になって確かに焦りはした。
だが、ここにいる面々からすれば、対処できない攻撃ではない。
エレナなど、魔力が枯渇していても、かえって吸収できると楽々消滅させた攻撃だ。
それなのに、何故マリスは血相を変えてこの場に現れたのか。
それも、わざわざ敵の攻撃に飛び込んで。
「!! あんた、今すぐ休みなさい!!」
僅かなりとも魔力を回復させたエレナが、アキラの腕の中で震えるマリスに怒鳴りつけた。
そして、その衝撃を受けたかのように、銀に輝く天井から小さな子石が落ちてくる。
まさか、これは、
「あはははははっ!!」
「……!」
アキラはびくりと身体を振るわせた。
「嵌った、嵌ったわ……!!」
銀に輝く広間の対面、突如高らかに笑い出したサーシャの表情は、異常なまでに醜く見えた。
耳触りに響く、サーシャの笑い声。
「そうよねぇ……、そうよねぇ……、“雑魚は守らないと”……、あはははははっ!!」
そこでようやく、アキラはサーシャの狙いに気づけた。
そして、マリスの状況も。
自分の腕の中で荒い息遣いを繰り返すマリス。
彼女は、限界だ。
「……! そういうことか……!!」
イオリは一歩前へ出て、サーシャを睨む。
イオリも、気づいたようだ。
サーシャの狙いに。
この洞窟内で、エリーに秘術を行わせたのは、引くわけにはいかない“ゴール”を作るため。
カトールの民に依頼を作らせたのは、時間差でこの場に呼び込むため。
挑発的に話していたのも、“彼女”をたきつけるため。
全部が全部、
「“マリサスが狙い”だったのか……!!」
「そうよ?」
またもあっさりと、サーシャは肯定した。
「ふふふ……、“このフリオール”、切っちゃだめよ……?」
「っ、」
アキラの足元に、再び天井から小石が落ちてきた。
今この洞窟で、自然物の落下はあり得ない。
ゆえにこれは、術者の魔法が完全な形で発動できていないことを現わしている。
「っ、あのときは……、テストか……!!」
サクが刀に手を当て、目付きを鋭くした。
彼女の脳裏に、以前受けた依頼が思い起こされる。
突如洞窟が崩れたあの依頼。
同じようにマリスが支えたあのときの事態は、
「ええ……、“限界値”を知るため」
サーシャは高揚しきった顔で言葉を紡いだ。
熟練者には、表情や感覚で、相手の残存魔力をおおよそ察することができる。
マリスに広域の魔力を発動させ、あとは比率計算だ。
アキラたちが、無意識のうちに持っていた、前提。
それは、マリスの魔力が無尽蔵であるというもの。
だが、彼女に不可能な魔法があるように、マリスにも当然、限界がある。
「もうっ、さいっこうっ!! 自分が作った大がかりな舞台で……、誰かが自分の思い通りに動く……。それが、そういう優秀な子だと、もうっ、」
「っ、」
アキラは腕の中で、マリスの身体が震えているのを感じた。
初めてだ。
マリスが、ここまで悔しそうにしているのは。
「さあ、優秀なマリサスちゃん? 続けましょう? “そんな人たちには、私は倒せない”んでしょう?」
「―――っ、」
ギリ、と、マリスの口から歯の音が鳴った。
マリスはサーシャの言葉を聞きながらも、洞窟内を銀の光で保ち続ける。
ここまで大規模な魔力だ。
その上、マリス本人も負担が大きいと言っていた、月輪属性の魔法、フリオール。
これを継続しながら、マリスは一人、サーシャと戦っていた。
そして、先ほどの、マリスの行動。
がむしゃらに相手の魔法に飛び込んだ彼女は、肉体的にも負傷している。
それは、やはり、サーシャが、
「“囁いた”な……!!」
サクが声を出したところで、アキラは再び、腕の中のマリスを見下ろした。
銀の長髪の下、俯いたマリスの表情は見えない。
だが、身体は、震え続けている。
「そうよ? あなたたちがその子と比べて絶望的に弱いから……、その子の責任感に、ね」
「っ、」
「自覚あったんでしょ? 雑魚の守護してやってる、ってさぁ」
サーシャは醜い笑みを止めない。
今、彼女の罠はマリスを完全に呑み込んだのだ。
「っ、」
マリスの口元から、再びギリ、と音が聞こえてくる。
マリスは今、一人で戦っていた。
それこそアキラたちを、事件に巻き込まれた一般人のように見なして。
そのせいで、マリスは他人を庇うような真似をすることになった。
タイローン大樹海や、この避難所を進む途中の魔物との戦い。
洞窟総てを支える魔法。
ルーファングとの戦闘。
戦闘後のアキラたちや、エリーの治療。
そして、サーシャとの連戦。
マリスに負担がかかり続けた今、彼女は窮地に追い込まれている。
それなのに、彼女は戦うことを止めなかった。
洞窟を支える任をこなしながら。
マリスのそういう戦いを、アキラは何度も見た。
巨大マーチュのときも、マザースフィアのときも、マリスは単騎で敵を滅していたのだ。
それが今、再び起こった。
自分たちは、強くなっているはずなのに。
マリスは自分たちを、全く信用していない。
見下している、と言い換えられるだろう―――
「……?」
「……、へぇ……、気づけるんだ。日輪属性は便利ね」
「っ、てめぇ……!!」
アキラは怒りそのままに、怒号を上げた。
今、自分に浮かんだ黒い思考。
それが“囁かれた”ものだと知り、頭に再び血が上っていく。
まるで連想ゲームだ。
物事に表と裏がある以上、それを通して黒い思考に辿り着く。
そうした人間を見ることで、サーシャの欲は満たされるのだろう。
「“支配欲”」
サーシャはもう一度、自分の欲を口にした。
「思い悩んで……、見つける黒い答え。それが、まさか他人に操作されたとは思わないで進んでいく……。操るのは、最高の快感」
アキラは頭を振り、サーシャを睨みつけた。
僅かに浮かんだマリスへの嫌悪も、同時に打ち消す。
これをマリスもされたのだ。
相手をコントロールできるという、快楽。
それが、サーシャの“支配欲”。
「さ? どうするの? 今逃げ帰れば……、間に合うんじゃない?」
「っ、」
マリスが動けない、現状。
この洞窟は、いつ崩れてもおかしくない。
これが、サーシャが“リロックストーン”で現れた理由だ。
彼女はいつでも、この洞窟を去ることができる。
エレナは僅かに回復したとはいえ、未だ戦闘域には達していない。
ティアはエリーの治療がある。
現状、戦えるのは、アキラとイオリ、そしてサク。
マリスの攻撃に耐え切られたように、彼女に守りに徹されればタイムオーバーだ。
「逃げてもいいわよ? 楽しめたしね」
これはサーシャの挑発だ。
彼女の狙いは、こちらの全滅。
この挑発的な言葉も、マリスがそうしてしまったように、後先考えずこの場に居残らせるため。
そんなことは分かっている。
だが、どうあっても、
「……、イオリ。“一度くらいは見たい”って言ってたよな……!!」
「……! アキラ?」
もう駄目だ。
アキラは手のひらを広げた。
口ぶりからして、あの魔族はこちらの“最強カード”を知らない。
よもやノータイムで自己を抹消する力があるとは、サーシャも思っていないだろう。
エリーの前だからとか、最早どうでもいい。
あの魔族は、ここで、
「殺す」
「?」
サーシャを睨みつけたまま、アキラは底冷えするような声を発する。
弱ったマリスをサクに預け、一歩前へ踏み出した。
「あいつが爆発したら、どうなるんだろうな……?」
アキラの手のひらが、オレンジの光を放ち始める。
身体中が、手のひらから漏れ出した熱に温められる。
久しぶりの感触だ。
やはりこの力には、絶大な信頼を寄せていい。
「なに……?」
サーシャの表情が、僅かに強張る。
アキラはそれに、変わらず乾いた表情を向け続けた。
マリスさえも退けた魔族、サーシャ。
その力は、常軌を逸しているのだろう。
だが、今から始まるのは単純作業。
何の問題もない。
「……、見せてくれるの? 勇者様のち、か、ら」
「ああ。それがお前の最期の光景―――っ、」
挑発的な表情を取り作ったサーシャを睨み、手を輝かせ続けるアキラ。
その、アキラの上着の裾が、つん、と引かれた。
思わず振り返れば、サクに支えられていたマリスが、顔を伏せながらだぼだぼのマントから腕を伸ばしている。
「マリス?」
「……いいっすよ、にーさん」
「……!」
マリスはふらつく足取りでサクから離れると、よろよろとアキラに並び、サーシャと対面する。
「あら、いいの? 崩れちゃうわよ?」
「……にーさん、自分、本当にそういうつもりじゃないんす……」
サーシャの挑発を無視し、マリスは顔を伏せながら、ぼそぼそと呟いた。
「誰かと組むのが……、向いてないことは分かってるんす……。自分で倒した方が、絶対に早いから……。でも……、でも、見下してるとかは、」
「あ、ああ……、分かってるよ」
アキラの怒りは、また、マリスに止められた。
エリーがアキラを衝動的に動かせる少女だとすれば、マリスは逆に、アキラを落ち着かせる少女だ。
「みんなも……、分かって欲しいっす……。“自分が異常”。それは分かってるんす」
「……、」
弱々しいマリスの言葉は、全員に届いた。
だが誰も、声を出さない。
初めて、マリスの悩みを見た。
さっきから、アキラにとって初めてのことだらけだ。
これは、自分がマリスに少しでも近づけたからだろうか。
「だから、にーさん、」
「……!」
マリスは伏せていた顔を、そのままゆっくりサーシャに向けた。
アキラはそれを横から見て、身体を震わす。
マリスは、疲弊し切っているのではなかったのだろうか。
マリスの半分の眼は、今度こそ完全に冷え切っていた。
「今からの“これ”は、にーさんたちを信用してないんじゃなくて……、」
「マ……、マリス……?」
ぞわっ、とアキラの身体が一気に冷える。
今日一番の恐怖だ。
銀に輝く洞窟内。
この場の主賓は、やはり、マリスなのだ。
「“これ”は、個人的な報復なんす」
マリスは右手をゆっくりとサーシャに突き出した。
煌々と、強く輝くその小さな手のひら。
一瞬、魔術攻撃と誤認したサーシャが身構えるも、漏れた銀の光はそのまま放たれず、マリスの手の中に留まり続ける。
彼女は、アキラがそうしようとしたように。
サーシャを一撃で滅するつもりだ。
「まさ、か、」
「っ、アキラ、離れよう!!」
イオリが即座にその事態を察し、マリスの真横に立っていたアキラの身体を引き寄せる。
アキラも、その場に立っていることの危険性は理解できた。
「―――」
マリスの手から漏れる、膨大な月輪属性の魔力。
それが、徐々に“何か”を形作っていく。
アキラは、そういう動きをする魔力を、自分の手のひらで何度も見た。
あれは、
「“具現化”……!! できるとは思ってたけど……、」
エレナの声は、遠くに聞こえた。
マリスの動作は、それだけを、アキラの脳裏に刻んでいく。
そうだ。
自分にできて、彼女にできないわけがない。
マリスもまた、自分で認識している通り、“チート”と呼ばれる力を有している。
「―――、」
マリスが、自分の手に留まる光を強く掴んだ。
それと同時、洞窟内に爆ぜるのは、壁を覆い尽くす彼女自身の光と比べても、澄んだシルバーカラー。
握り締めたマリスの右手。
そこには、彼女の身の丈を超す長い杖が握られていた。
長い柄の色は、白銀。
その先端には左右対称に、天使のような純白の翼が広がっている。
それを槍に例えるのなら、純白な翼の中間、刃の部分には、三日月を模した鋭利な深い銀の鎌。
だが、そんな刃物すら、この場の誰の頭にも警鐘を鳴らすおびただしい量の魔力の前では、装飾品以外の意味を持たない。
綺麗、だ。
アキラは淡白に、そんな感想しか浮かべられなかった。
精緻な造りのその杖。
それはあまりに精巧で、何よりも強く輝く。
「レゴルトランド」
これが、マリスの具現化。
アキラに取って、自分以外のそれを見たのは初めてだ。
マリスは言っていた。
普通の杖では自分の魔力に耐えきれずすぐに壊れる、と。
あの杖こそが、彼女の魔力を受けても損壊しない唯一無二のマリスの武器。
「……、」
誰の目をも奪うその芸術品。
だがマリスは、長年連れ添ったそれに特別な視線も送らず、その三日月の刃をサーシャに向けた。
「……、“固定ダメージタイプ”?」
「違うっすよ。“魔力依存型”っす」
マリスはサーシャの問いに、あっさりと返す。
その、なんとでもないような口調は、普段のマリスと同じだった。
完全に、戦闘が終わっていると確信しているように、マリスは半分の眼をサーシャに向け続ける。
「あっさり言ってるけど……、それじゃ意味ないこと分かってる?」
マリスの異様な雰囲気に気圧されながらも、サーシャは表情を再び取り作った。
マリスには、彼女の余裕も分かる。
自分は限界。
サーシャにはまだ余力がある。
いかに具現化といっても、爆発的に強くなるわけではない。
アキラは例外中の例外だ。
あくまで自分の実力の範疇で、自分が最も必要とする武具が形作られるだけ。
“固定ダメージタイプ”でもなければ、術者の危機を覆すことにはならない。
だが、
「これでいいんすよ……。魔力なら、“あるじゃないっすか”」
マリスは表情を変えず、小さく返した。
「―――、」
サーシャはマリスの杖のように、腕を向けてきた。
あの場から動けない彼女にとって、正体不明の杖を向けられるプレッシャーは強いのだろう。
そして、マリスを倒せば、今すぐにでもこの洞窟は崩壊する。
どの道、彼女は攻撃してくるだろう。
「―――、ディアロード」
マリスの半分の眼が向いている先、杖の先の向こう、銀の棒が再び大量に展開した。
先ほどマリスが彼女にそうしていたように、あらゆる上下左右あらゆる角度から先を向けてくる。
彼女の狙いは、杖を構えたままのマリス。
数多の銀の棒が、マリスを取り囲むように撃ち放たれてきた。
流星群のように、走る光。
その終着点は、たった一つ。
「……、」
この銀一色の世界で、マリスを包囲した、サーシャの“魔法”の群れ。
ぎらつく、怪しげな銀。
それは、
「―――、」
一振り。
マリスが軽々とその杖を振った瞬間、消え去った。
純白な翼の装飾に触れた矢は、呑み込まれたように洞窟内から消滅する。
再び鮮やかな銀の世界に戻った洞窟内。
そこで、サーシャの表情が変わった。
彼女は理解したのだろう。
自分が放った“魔法”が、一体どこに消えたのかを。
「……、……、にーさんたちから貰おうと思ってたんすけど……、もう、十分っすね」
「……!」
マリスは小さく呟いた。
そして再び杖の先を、サーシャに向ける。
一歩も動かず、それだけの動作を行ったマリス。
サーシャの攻撃でも、何も起こらなかった。
変わらない、状況。
だが、一つだけ、変化があった。
マリスの持つ、杖の先端。
その三日月が膨らみ、満月に近づいている。
「……、」
それを背後で見ていただけのアキラも何が起きたのかを理解した。
“パターン”だ。
あの芸術品が起こしたリアクションは。
それは、アキラにとって当然の事態のようにも思える。
マリスの杖は、あのサーシャの魔力を、“吸収したのだ”。
「エレねーみたいに自分の力には変えられないっすけど……、杖の力には変えられるんすよ」
「―――!!」
マリスの杖の先端、最早半月と化したそれが、煌々と輝き出す。
サーシャに向きながら、ヂヂヂとスパークしながら光を漏らす半月。
そこまでくれば、サーシャも総てを理解した。
「レゴルトランドは“魔力ブースター”。少ない魔力でも、十分“殺せる”―――」
「っ―――」
サーシャの視線が、自分の足元の石に走った。
それを眺めるマリスは、無表情のまま、言葉を紡ぐ。
「レイディー」
「―――、」
マリスの杖から光が放たれる刹那、サーシャが足元のリロックストーンを全力で踏みつけるのが、アキラには見えた。
その直後、圧縮された鋭い銀の矢が、たかが低級魔術のそれが、洞窟の銀の岩盤を撃ち抜いた。
アキラの世界を飲み込むような巨大な砲撃とは違い、槍のように細い、まるでレーザーのようなその一閃。
その一撃は、ベックベルン山脈そのものを撃ち抜いたかもしれない。
「……、逃げられた……、っすね」
マリスはゆっくり、先端が三日月に戻った杖を下ろした。
いつぞやのエレナのように冷え切らせた半分の眼。
それを、砕けて大地に溶けるように消えていくリロックストーンに向けたまま、
「戻った方がいいっす。流石にそろそろ、支え切れない」
自分の銀一色になった世界で、小さく呟いた。
―――**―――
「―――」
“それ”を聞いたのは、久しぶりだった。
魔族サーシャを退け、戻ってきた町、カーバックルの宿舎。
月明かりだけが窓から差し込める自室で、アキラはゆっくりと目を開けた。
今までまどろんでいたベッドの上に別れを告げて、立ち上がる。
暗闇に慣れた目で、無表情なままドアに向かう。
机とベッドだけで埋まる、華やかさがほとんどない、狭く質素な、寝るためだけの部屋。
ギギギ、というドアの建てつけの悪さもどこか遠くに聞き、アキラは部屋を出た。
魔王の牙城の傍ということもあり、やはりこの町は、宿泊に力を入れていないらしい。
「―――……」
同じように歩くだけで音が鳴るような木製の廊下を歩き、階段を見つける。
誘われるように、アキラは上りの階段を選択し、重い足を一つ一つ持ち上げていく。
三階の客室を超え、四階の関係者以外立ち入り禁止の部屋を超え、辿り着いたのは外への出口。
両開きの扉の片方が半開きになって、月光を暗い階段に入れている。
頬をくすぐる、外気。
ここから、屋上につながっているのかもしれない。
「……―――」
アキラはそれを開け、屋上に出た。
“それ”は、歌声は、どんどん近付いてくる。
「―――、」
屋上に出ると、少女が、いた。
小さく胸の前で手を合わせ、屋上の縁に登り、すっと広がる町並みを見下ろしながら。
彼女は透き通るような声で歌っていた。
髪ごと羽織った漆黒のマントをはためかせ、町の中央にある、天高くそびえる塔に正面から向き合い、月下で、祈るように。
こんな光景を、アキラは何度、見たのだろう。
「…………、うるさかった……、っすか?」
「……、いや、」
夜の闇に溶けるような声を止め、彼女は振り返った。
その半分の眼を、月光が染める。
申し訳ないようなその言葉に、アキラは、心から否定した。
「マリス」
「……、」
アキラが名を呼ぶと、マリスはまるで重力など感じていないようにふわりと縁から降り立った。
そしてとぼとぼアキラに歩み寄り、扉の横の壁に座り込む。
アキラもあのときと同じように、その右隣に座った。
「マント、直ったのか?」
「いや、買ってきたんす。魔術で編まれた法衣……。そういう店が、遅くまでやってて良かったすよ」
マリスはマントに僅かに視線を向け、再びのんびりと塔を眺めた。
リビリスアークを模したというこの町にも、その塔は、高くそびえている。
「……、あいつは、大丈夫だってさ。今、エレナたちが看てる」
「……そうっすか」
ほっと、マリスは安堵のため息を吐き出した。
やはり、マリスはエリーの部屋に戻っていないようだ。
「……、」
マリスは、“魔族”、サーシャ=クロラインを退け、町に戻ってきてから、別行動をしていた。
疲弊しているというのに、いつも通り、何を考えているか分かりにくい無表情のまま。
戦闘でボロボロになった身なりを整えるためゆえと言っていたが、アキラも、そして他の面々も、どこか彼女の心情を察していた。
彼女は、はっきりと、自分を“異常”だと言い放ったのだ。
「……、あの唄、何なんだ?」
「?」
「いや、よく歌ってるけど……、その、綺麗だな、って思ってさ」
アキラは視線を塔に向けたまま、小さく呟いた。
マリスがよく歌っている、あの唄。
この世界に来て、最初に聞いたものだ。
旅に出て、宿舎に滞在しているときには、流石に迷惑を考えて歌っていないようだが、アキラには、いついかなるときに聞いても心地よく思える。
「“おまじない”っすよ」
「おまじない?」
「“いつこうなってしまったんだろう”……。そういうときに、歌う、唄」
マリスの口調は変わらない。
だが、やはり、身近な者には感じられる、変化があった。
町の東に位置するこの宿舎。
巨大な満月の下、そこから眺める中心の塔の向こう、遥か西には険しくそびえるベックベルン山脈がある。
そこにある“避難所”は今、完全に崩れ去っていた。
マリスが“魔法”で捻じ曲げた、その運命を受け入れて。
「……、本当は、使いたくなかったんす」
「……、」
極力意識しないようにしていたもの。
それを、マリスの方から口にした。
「“具現化”。あの杖は、エレねーも回復できないくらい小さな魔力でも、あんな威力に変えられる」
「……、」
今日初めて見た、マリスの“具現化”。
レゴルトランドという、芸術品を思わせる、あの銀の杖。
それからは、まさに“不可能”という概念を超越している可能性すら感じられた。
「特に、ねーさんの前では使いたくなかったっす」
「……、」
今日の出来事。
あの、人の悩みに“囁いて”、人を支配するサーシャ=クロラインは、エリーのコンプレックスにつけ込んだ。
だが、例え“そう”であったとしても、その悩みは、やはりマリスが創ったものだ。
マリスは悪くない。
そして、エリーがそう思うことは、きっと悪くない。
だが、今回は、たまたまそれが負に働いてしまっただけだろう。
「エレねーも、きっと“それ”ができる。でも、多分我慢してた。自分は、無理だったっす」
「……、いや、流石にあれは、俺も無理だった」
アキラは、心の底から言葉を吐き出した。
結局、自分でリロックストーンを破壊して逃げたサーシャ。
あの挑発的な顔を思い出すだけでも、身体は震え、何かを八つ裂きにしたい衝動に駆られる。
「……でも、自分一人の力で倒したいって思ったのは、本当っすよ」
「……、」
戦闘中、マリスも囁かれた。
やはり、マリスが言いたいことは、それのようだ。
超絶的な力を持つマリスは、自己解決能力が著しく高い。
それゆえに、他人の力など、緊急時にすら思い起こされないのだろう。
「……、マリス、“分かってる”」
「……、」
「いや、その、な、」
口にして、アキラは自己嫌悪に取りつかれた。
これはやはり、触れてはならない部分だ。
自分たちは今日、マリスに完全に守られた。
サーシャの策略にはまり、危機に陥ったマリス。
だがその状況すら、マリスは強引に跳ね返した。
完全な力押し。
そこに、他人が介入する余地はなかった。
自分たちは、マリスに守られている。
マリスも、心のどこかで、そう思っている。
だがそれを、どちらか一方でも口にしたら、仲間として成り立たないのだろう。
はっきりさせてはならないこと。
やはりそれは、存在するのだ。
今回サーシャは、その部分に触れた。
メンバーの力に、大きな差がある現状。
そのデリケートな部分は、きっと、この面々のアキレス腱なのだ。
もっと長く旅を続けていれば、それは薄れていっただろう。
だが、もう、その旅は終わる。
この、“はっきりさせてはいけないこと”は、それだけに、胸に重く積もっていく。
「マリスは、強い。でも、それでいいと思う」
「……、」
拙い言葉で、アキラは“それ”を刺激しないように口を開いた。
マリスもそれを、黙って聞く。
最強の仲間がいる。
それ自体は、今まで思っていたように、いいことのはずだ。
メンバー内の、最強と最弱を行き来する自分。
いかなるものでも照らす、照らしてしまう、日輪属性の自分。
きっと、自分の仕事は、誰しもが触れたがらないその部分に、入っていくことなのだとアキラは思った。
「マリスがルーファングと戦ってたとき……、マリスが必要だって思ったし、」
「……、」
何もできなかったあの、巨獣との戦い。
サーシャとの戦いの前哨戦。
アキラは心のどこかで、この場にいることを間違えたような想いが浮かんでいた。
昔、何かのRPGで、世界を自在に行き来できる移動手段を手に入れ、大分先のダンジョンに迷い込んでしまったときのことを思い出す。
歩いているだけでエンカウントしてしまう、圧倒的強さの敵。
そこで、アキラの操る主人公たちは、あっさりと全滅した。
そんな感覚。
だが、今日。
エレナが呟いたように、マリスがいて、本当に助かった。
これならば、迷わず魔王の牙城に攻め込めると思えたのだ。
「マリスは、やっぱり必要だって思った」
「……、」
たどたどしく、思ったまま、言葉を吐き出す。
“バグ”だろうが、世界の陰りだろうが、マリスは、いなければならない存在。
その想いを乗せた、曖昧な言葉は、はたしてマリスに届いただろうか。
マリスは半開きの眼を、塔に向けたままだった。
「……、にーさん」
「?」
「にーさんの夢って……、相変わらず“アレ”なんすか?」
「……、っ、」
マリスが視線を変えないまま呟いた言葉に虚を突かれたアキラは、僅かに思考を止めた。
そして、胃が痛くなる。
最近、幸いにも話題にならなかった、アキラの夢。
マリスも知るそれは、あまり刺激して欲しくない、ハーレムを目指すという戯けた夢だ。
「……、あ、ああ、」
それきり黙り込んだマリスに、アキラは渋々肯定を返す。
話題を変えるにしても、あまり声を大にして言いたくないものは、アキラにとって、ある意味この“勇者様御一行”の現状より“はっきりさせたくないこと”だったりする。
「なんで、」
「……、」
「なんで、ハーレムがいいんすか?」
はっきり“それ”を口に出して聞いてきたマリスに、アキラは目を伏せた。
笑われるか馬鹿にされるかの“それ”の理由を、聞かれたのは初めてだ。
というより、興味を持たれたのが初めて、というべきか。
男の夢。
そう言ってしまえば、一言だ。
だが、きっと、自分は、
「……、元の世界の話になるんだけどさ……、」
正直、理論的でもなんでもない。
とってつけたような空想話の方が、まだ美しいとアキラは思う。
だが、きっと、あれが理由なのだ。
「俺の母親……、料理教室やってたんだ。家を改造して、趣味みたいに」
まな板の音や、水がボウルに溜まる音にレンジの音。
それは、幼いアキラの耳にもよく残っている。
改造したダイニングキッチンの奥のソファーで、近所の主婦たちの背中越しに、母親の授業を分かりもしないのに行儀よく聞いていた。
「そこの生徒に、アカリさんって人がいて、よく遊んでもらってたんだ。授業そっちのけで」
短い髪に、子供のように笑ったときに見える白い歯が特徴的な女性。
当時あまり理解できなかったが、大学を卒業したばかりで、家業を手伝っていたそうだ。
その余暇を利用して、料理を習いに来ていたらしい。
もしかしたらアキラの初恋も、彼女だったのかもしれないというほど、輝いた女性だった。
「母親も、俺の世話を任せられて……、アカリさんは生徒の中で一番親しかった。一緒に遊びに行ったり……、妹みたいに思ってたかも」
本当に、面白い人だった。
子供心に、いつでも笑う人は素敵だと感じていたのを思い出す。
アキラのせいで、料理の方はからっきしだったのだが、彼女もそれに満足していたようだった。
「その、アカリさん、って人がどうかしたんすか?」
「……、」
マリスに促されて、アキラは追憶を続けた。
部屋の中の景色のせいで、天気も季節も思い出せないが、“それ”が起きたとき、確か、母親はお菓子を教えていたような気がする。
「俺の親父、特殊な仕事しててさ……、よく、家にいたんだ。それで、たまたま時間が開いたのか、気まぐれで教室に入って来たんだよ」
明るくも礼儀正しいアカリとは、すぐに打ち解けたようだった。
それから、ソファーに座って遊んでいたアキラを挟んで、アキラの父がアカリと話す光景を見るのが増える。
ときにはアキラを連れて、授業中だというのに外に遊びに行ったこともあった。
ときにはアキラを連れて、仕事部屋の掃除をしたこともあった。
どうやら彼女が大学で専攻していたものが、父親の仕事と似通った部分があったらしく、よく気が合っていたように思える。
その難しい話は、当時のアキラには、というより今でさえ、理解できなかった。
だが、当時の自分は、アカリと遊ぶ時間が削られることより、近寄れなかった父親の仕事部屋に入れたことに何か達成感のようなものを覚えていたように思う。
そしてまるで、家族が一人増えたように、自分と父と母、そしてアカリの四人で出かけることも多くなった。
そして、ときには。
父とアカリの二人で、どこかに出かけていたらしい。
だがそれでも、それはキラキラと輝いていたと思えた。
「……、まさか、」
「……、いや……、まあ、そうなんだけど、」
マリスは当然、察したようだ。
だがアキラは、言葉を続ける。
どうせ、ここまで話してしまったんだ。
アカリと父が親しくなってから、どれくらいの時間が経っただろう。
夜、父親が出かけている日、アキラは母親にそれとなく聞かれた。
普段、自分がいないとき、父とアカリはどうなのか、と。
アキラは何も考えず、事実を伝えた。
とても仲がいい、と。
それだけで背を向けた母親に、アキラは多分、何か静止の意味を持つ言葉をかけた気がする。
『待って』か『止めて』か。
それは分からない。
だが、子供心に、何か、危険な匂いを感じた。
そして、母親からの返答は、『無理』。
それだけは、耳に残って覚えている。
次にアカリに会ったとき、あの輝くように笑う彼女は、泣いていた。
いるように言われた寝室から抜け出して、ガラスの戸から中を覗いた光景。
母親がアカリと、それに並ぶ父親に、何かを怒鳴っていたのを覚えている。
そして、アカリを見たのはそれが最後だった。
「ぶっちゃけて言うと、不倫、だった。しばらくして、俺の親、離婚したんだ。それで俺は、どっちの子になるのかって聞かれた」
「……、どうしたんすか?」
「親父、って答えたよ。母親が、いろいろ壊したんだって思ってさ」
どんな説明を受けても、アキラは答えを変えなかった。
何を言われても、キラキラと輝いていた景色を壊した犯人が、母親だと確信していたのだから。
キラキラと輝いていた、あの場所。
だが、陰りは潜んでいた。
儚い景色。
無邪気の喜んでいた自分。
だけどそれは、少し深追いしただけで壊れるほど、本当に、儚かった。
父親に引き取られてから、母親にも、アカリにも会っていない。
元の世界では、父親との二人暮らしだ。
アカリは流石に事態が事態で、アキラたちに近寄るのを止めたようだった。
「正直今思うと、親父が悪い。だけど、今さら言えない。離婚したあと、母親の悪口を言っていた俺を、すごい剣幕で怒ってたから、なおさら、な、……どうした?」
「いや、そんな重い話が飛び出してくるとは思ってなかったんすよ」
「……悪い」
別に幼少時代、重い傷を心に受けたわけでもない。
トラウマではないのだ。
そのときは、楽観していたのだから。
気づかないまま、いろいろ終わっていた。
そんな話をされて、リアクションを取れという方が無茶だ。
「でも、」
アキラは塔を眺めたまま、ただただ呟く。
「俺は親父を選んだ。みんなで仲良くしてれば良かったのに、って。それから何となく、そう思うようになったんだよ」
幼少時代、無垢に信じたものとは恐ろしい。
心に刻まれたそれは、そう簡単には覆されないのだ。
深追いせず、ただ、笑う。
それが、アキラにとって遠くに在る、輝いた世界。
追い過ぎると、どんなものでも、陰る。
だから、それでいいのだと、やはり今も、アキラは思う。
「……、血じゃないっすか?」
「……言うと思った。でも、今さら、な」
「……、」
マリスは半分の眼を伏せ、ようやく、塔から視線をアキラに移してきた。
アキラもそれを見返す。
この距離だと、やはりマリスの香りが鼻をくすぐるようだった。
「にーさん、それ、変わってないんすか?」
「……、だから、今さら、な、」
「でも、……、」
マリスはゆっくりと目を伏せ、そして沈黙する。
アキラも言葉を出さず、音が消え去った。
満月の下での会話は、あまりに静かだ。
「……、もし、」
「?」
マリスはようやく口を開いた。
「もし、自分が秘術を受けようとしたら、にーさん止めてくれるっすか?」
「……、え?」
マリスの話は、再び飛躍した。
アキラはそれに、間の抜けた声しか出せない。
「だから、今日みたいに、必死に、わき目も振らず、」
「……、いや、マリスは必要ないだろ?」
「……、」
マリスは、そこで立ち上がった。
アキラはそれに、声を出さない。
ただ、座ったまま。
この身体が動かないのは、本当はマリスの言っていることが分かってしまったからかもしれない。
「にーさん、」
「……、」
マリスは立ったまま、半分の眼でアキラを見下ろす。
満月を背にした彼女は、透き通るように見えた。
「できれば自分は、太陽は月だけを照らして欲しい」
マリスの口調はいつも通りなのに、何かが違った。
「でも、他の星も、きっとそう思ってる」
自惚れかもしれないが、アキラには、マリスの言葉が理解できた。
だが、何故か喉が潰れて、何も吐き出せない。
“それ”をすると、輝きから遠ざかるというのは、刻みこまれていた。
アキラの中で、条件反射ができ上がってしまっている。
だけど、マリスのその言葉だけで、何かが壊れるような感覚を味わった。
「にーさん、話してくれてありがとう。自分は、もう寝るっす。流石に、眠いっすし、」
「あ、ああ、お疲れ、」
多分、今一緒に降りることは、マリスが望んでいない。
アキラはその背中を、座ったままで見送った。
「……、」
一人残った屋上で、アキラは巨大な満月を見上げた。
まるで、太陽がそれしか照らしていないような錯覚さえ起こす。
だが、視線を変えれば、数多の星が空を輝かせていた。
太陽は、一体、何をやっているのだろう。
「……―――、」
何となく、アキラはマリスの歌を口ずさんでいた。
“いつこうなってしまったんだろう”。
そんなときに、歌うもの。
適当な、音だけでの真似だ。
何の言語かも分からない。
「―――……」
本当に、太陽は、一体何をやっているのだろう。
「……、え、嘘、あんただったの……!?」
「っ、」
びくりとして、アキラは歌を止めた。
終わると思っていた、長い夜。
その屋上に、同じ顔の少女が現れた。
今、一番逢いたくない女性かもしれない。
「っ、っ、おっ、おまっ、」
「……驚きすぎよ」
白い布の服を身に纏い、現れた少女、エリーはアキラの右隣に座り込んだ。
先ほどのマリスとは、反対側。
「唄。マリーだと思ってたのに……、って、そんなわけないか……。いたの?」
「……、あ、ああ、ついさっきまで、」
しどろもどろになりながら、アキラは何とか返答する。
「お前、大丈夫なのかよ?」
「……ええ、もう。さっき目が覚めたばかりだから……、寝れなくて」
ここにくるとやはりそうするものなのか、エリーの視線は高い塔に向いている。
「マリーに会いに来たんだけどね……、」
そう言っても、エリーはそこから動かなかった。
エリーが何気なく、手の甲で赤毛を肩から後ろに払う。
その勢いが僅かに強く、肩までの髪がまくり上がった。
「……、お前、髪切った?」
「……、本当に見てないの?」
「?」
「……いいわ。良かった。……エレナさんに感謝しなきゃ」
エリーは膝立てて、それを抱え込む。
その静かな気配は、やはり双子の妹と瓜二つ。
だが、アキラには、違って見えた。
「……全部聞いたわ」
「……、」
先ほどのマリスと同じように、エリーの方から切り出した。
同じく視線も外して、塔に向いている。
「目を覚ましたら、エレナさんがいて……、教えてくれた。あたし、ずっと“攻撃”されてたんだってね」
「……、」
あまりにカラカラと、エリーは笑った。
それがアキラには痛々しく感じ、乾いた表情しか浮かべられない。
「今思うと冗談じゃないわ……。死ぬなんて。あたしの夢は、孤児院を継いで、お母さんたちに楽をしてもらうことなんだから」
「……、でも、」
その言葉を遮りたくて、アキラは口を開いた。
こんな虚勢を張り続けるエリーは、あまりに、見ていられない。
「少しは思ってたろ……?」
「……、」
エリーは言葉を止め、塔を眺め続けた。
多分彼女は、その塔を見ていない。
「うん」
アキラは、今日初めてエリーの声を聞いた気がした。
何を言っているのだろう、自分は。
多分そこは、触れていい部分ではない。
だが、どうしても、口を開かずにはいられなかった。
「あんたに“具現化”使うなって言っといて、何やってるんだろうね、あたし」
エリーは視線を地面に落とした。
静かなエリー。
やはりこのときの彼女は、“何か”を待っているのだ。
「悪かったな……、止められなくて」
「……別に、いいわよ。あたしが悪いんだし」
不明確な、地に足を着けない会話。
だが、それでもエリーには通じた。
「その、」
「?」
アキラは頭を回転させる。
今、彼女に何かを言わなければならない。
彼女の悩みを和らげるような、何かを。
エリーは今、沈んでいるのだから。
落ち込む人を立ち直させるには、三つ、方法がある。
一つ目は、その人物より高いところに立ち、聖者のように導くこと。
二つ目は、その人物と同じところに立ち、親族のように支え合うこと。
三つ目は、その人物より低いところに立ち、道化のように笑わせること。
「お、俺は、銃を使わない」
道化は、卒業だ。
アキラは何とか、ろくな言葉が浮かばない頭を鼓舞し、口をこじ開ける。
彼女のその悩みを、どうしても、和らげたい。
「一緒に、その、強くなろう、ぜ?」
気の利いた言葉は、言えなかった。
あの洞窟内で浮かんだ想いを、ただ口にする。
せめて自分は同じ位置にいるのだと、彼女に知ってもらいたい。
「だから、その、―――っ、」
「っ、」
想いのまま、横を向いたアキラの眼前に、エリーの顔があった。
彼女は地面から視線を移し、アキラを見上げていたようだ。
「……、」
「……、」
月を映すエリーの瞳に、アキラはかすかに、自分も見つけた。
彼女の瞳いっぱいに、自分がいる。
顔色は分からないが、きっと、紅い。
僅かにでも動けば、触れ合いそうな距離。
マリスと違った、エリーの香りが鼻腔をくすぐる。
暖かな体温が、伝わってくるようだった。
口の中はカラカラだ。
エリーは、動かない。
「……、」
近い。
肩はとっくに触れていた。
鼓動が高まる。
生気を取り戻し、紅くなっているエリーの唇が、本当に、近い。
まるで、時が止まっているかのようだった。
静かなエリーは、“何か”を待っているのだろうか。
今、自分が見ているのは、“たった一人”―――
「……、っ、」
アキラは、動かなかった。
「……、あ、危ない」
「っ!?」
ペシリ、と、アキラの額にエリーの手のひらが当たった。
「か、顔近いわよ、あんた、」
「お、あ、ああ、悪い、っ、」
エリーはアキラの額に体重をかけ、立ち上がった。
そしてすたすたと歩き、ドアを背にして立ち止まる。
顔は、見えない。
「あたし、マリー探すわ。お礼言わなきゃいけないし……。あんたにも、ありがとう。もう寝た方がいいわよ?」
「……あ、ああ、」
聞こえただろうか。
エリーは足早に、屋上から姿を消した。
「……、」
今は、追えない。
またも一人残された満月が照らす屋上。
アキラは、またも何となく、口を開く。
「―――……、」
“いつこうなってしまったんだろう”。