―――**―――
「イッッッオリーーーンッ!!」
「っ、エレナ、頼むよ」
暴風雨に襲われたイオリに、エレナは甘栗色の髪をピクリとすら動かさず、大きな欠伸を返した。
町を歩けば十人が十人振り返りそうなその麗しい顔つきも、今は騒音に不機嫌そうに歪ませている。
胸元が開くシャツに、念のためと羽織っているカーディガンを適当に直しながら、エレナは呆れかえったような表情を目の前の二人に向けていた。
朝なのにきっちりと魔道士のローブを着こなしているイオリと、青みがかった短髪を振り乱しながらイオリに抱き付くティアの二人は、傍から見れば魔道士と、それに憧れる子供のよう。
実際話の内容も、子供が魔道士にねだっているようなものだったりする。
イオリが仲間に加わってから、一週間ほど。
早朝、という時間を考えていないようなティアの大声が向かう先は、ほぼイオリになっていた。
「あっし、ラッキーに会いたいですっ!!」
「っ、いや、だから、アルティア、ラッキーは、」
「いやだから、私のことは、」
「それは無理なんだ。人として」
「まだ何も言ってないのにっ!?」
“勇者様御一行”が訪れる宿舎には早朝大声が響く。
そんな通説がエレナの中に完全に形成されるほど、ティアは今日も絶好調。
宿屋の店主が今すぐに怒鳴り込んできても、なんら違和感は無い。
一週間は経つというのに、未だにティアのイオリへの興味は収まらないらしかった。
離れている分にはいいと思っていたエレナも、流石にそろそろあの口を塞ぐべきではないかという考えに至り始める。
寝起きで機嫌が悪いというのだからなおさらだ。
「しかし、良く懐いているな」
「あの子のあれは、いつものことでしょ」
ティアとイオリから一定の距離を保つエレナの隣に、小さく笑いながら紅い着物を羽織った少女が並び立った。
「まあ……、そう、だな」
小休止でもいれているのか、汗が浮かぶ額をタオルで拭いながら呟くサクは、小さく呟く。
戦場に在れば鋭い顔つきになるのにもかかわらず、今はエレナとは対極の、和んだような表情を向けている。
断言できるが、ティアに、癒しはない。
エレナは再度欠伸をしながら、宿舎の入り口の階段に向かった。
見上げた空は、僅かに曇っている。
ただ、北の大陸にいたときよりは気候は安定し、早朝の冷えた空気も清々しい。
いっそ、このまま眠り込めたら幸せな心地を味わえるだろう。
だがそれも、たった一人の少女が出す音量で遮られるのだけど。
「そんなに眠いなら、寝てればいいじゃないっすか」
最初からいたのだろうか。
階段に座り込んだエレナに、ほとんど無音な少女が呟いた。
だぼだぼの黒いマントを羽織ったマリスは、サクと違い、まるで発汗しておらず、人形のような涼しげな表情を浮かべている。
マリスの色彩の薄い眼は、むしろ彼女の方が眠そうに、いつも半分ほど閉じていた。
「あのねぇ……、あんたが朝練なんてやり出してんのに、一人だけ寝てろって?」
「自分のせいなんすか?」
今度は自分に静かに向けられた半分の眼に、エレナは睨み返した。
どういう心境の変化か、マリスが早朝に顔を出すようになってから早一週間。
つまりは、イオリが仲間に加わり、“勇者様御一行”が港町にいたときから、だ。
ただ彼女は、自己の強化というよりは、連携の方に重きを置いている。
マリスのサポートは彼女そのものが戦うよりは見劣りするが、それでもそつなくこなしているのは彼女の才を裏打ちしているようだった。
そろそろ、依頼の組分けも、くじ引きにでもなるかもしれない。
いつしか六人が宿舎の庭を埋めている。
そんな中、自分だけが宿舎で眠っているというのは何となく面白くない。
結果、“勇者様御一行”は、近年まれに見る早起き集団に変わっていた。
「……、」
変わった、と言えば、エレナもそうだ。
前の自分は、そんな状況でも無関心に眠り込んでいただろう。
運命に引きずられた、としか表現できなかったこの旅は、自分にとって、形を変えているのかもしれない。
「イオリン、マジ頼みますよっ! 前は見せてくれたじゃないですかっ、ちっちゃいラッキーをっ!! あたしゃ、あんにゃろーめのっ、ちょーちょーちょーちょープリチーな顔が忘れられずっ!!」
エレナも以前、イオリが操る召喚獣を見たことがある。
どうやら召喚獣は流し込む魔力に寄って伸縮自在らしく、イオリが僅かな魔力で召喚した手乗りサイズのラッキーは、まあ、可愛く見えなくもなかった。
ただそのラッキーは、特にティアに、かなり好評だったのだけは事実だ。
「おねげぇしますよぉぅっ!!」
「だから、意味もないのにラッキーを呼ぶのは、」
「意味ならありますっ!! 可愛いは正義っ!!!」
「それを意味ないって言うのよ―――」
「―――ふむぐぅっ!? いだっ、いだいいだいっ!!?」
ついに、エレナは動いた。
宿舎の入り口から飛ぶようにティアに襲いかかり、口を掴んで塞ぐ。
がっちりと決まったエレナのアイアンクローは、万力のようにティアの顔を締め付けた。
これ幸いとイオリが一歩距離を取ったのをエレナは見逃さなかったが、顔を押さえてうずくまるティアはそれどころではない。
「うごぅっ、顔がっ、ファイヤーッ!!?」
「助かったよ、エレナ」
「……、」
やはり、土曜属性の者は好かない。
小さく微笑んで見据えてくるイオリに、エレナは睨みにも似た視線を返す。
港町に滞在したのは、約五日間。
イオリの仕事が終わるのよりも早く港が復旧していれば、エレナは強引にでも船に乗っていたかもしれない。
「……、……、いようっし、ふっかーつっ!! さあ、イオリンッ!! ラッキーをっ!! さあっ、さあっ、さあっ!!」
「ティア。あんた、あの二人みたいに走ってくれば? ついでに探してくるとか」
「おっ、おうさっ! 私にっ、ま、か、…………はっ!!? エレお姉さま!! あっしは今っ、俗に言う厄介払いというものを理解した気がしますっ!!」
「あん?」
「ひぃっ!?」
やってられない。
エレナはため息にその言葉を乗せ、のそのそと入り口に戻った。
マリスとエレナは、小さく苦笑している。
ちらりと振り返った背後、再びティアはイオリにせがみ始めていた。
「強弱以外の属性間の相性って、本当にあるんすね……」
どかり、と階段に腰を下ろしたエレナに、マリスが呆れながら呟いた。
「……、にしても感情制御が下手すぎよ、あの子」
「? それは、どういう?」
「知らなくてもいいことよ」
エレナはちらりとサクに視線を送った。
眉間に僅かにしわを寄せて。
サクが知らないのも無理はない。
所詮、血液型占い程度の話だ。
「水曜属性の人って、土曜属性の人に惹かれるらしいんすよ」
「……、そう、なのか?」
サクは、ティアにからまれている、と表現できるイオリに視線を向けた。
惹かれる、を遥かに超越しているような気もするが、あの光景を見せられてはその話の信憑性は僅かに上がる。
「ちなみに、木曜属性の者は何に惹かれるんだ?」
「ちょっ、何でいの一番に私の話が出てくるのよ?」
「純粋な興味、だ」
エレナの睨みもさらりとかわし、サクは知識の宝庫とも言えるマリスに視線を向ける。
「水曜属性っす」
「……、ほう」
「言っとくけど、占い程度、よ?」
「エレねー、何気に詳しいっすね」
「っ、」
それきり、拗ねたようにエレナは口を閉ざした。
だがその表情を見ながら、サクは気づかれないように含み笑いをする。
占い程度らしいが、面白い。
そう言われてみれば、ティアの面倒を一番みていたのは、エレナだったような気もする。
もっとも、言われて意識する、というのがそういうものの温床なのだけれど。
「まあ、占い程度っていっても、現にそういうのはあるじゃないっすか。“惹きつける力”なんていうのは……、ほら、」
「……!」
マリスがだぼだぼのマントから出した指は、宿舎の外を差していた。
それを追って見えてきたのは、何故か全力疾走をしているアキラとエリー。
本日の罰ゲームを受ける羽目になった二人のコンビは、競い合うように宿舎の庭になだれ込んでくる。
「……、何やってるんすか? 二人とも」
「……、こいっ、こいつっ、がっ、最後っ、きょっ、競争っ、しようっ、とかっ、」
「あっ、あんっ、あんたがっ、いっ、言い出しっ、たっ、んじゃっ、なかっ、っ、たっ?」
必死に隣の男が訴えた言葉を否定するように声を出したのは、同じように倒れ込んでいるマリスの姉、エリー。
どちらがオリジナルか、というようなほど似ている双子のエリーとマリス。
その差異は、髪や瞳の色彩が薄いマリスと違い、姉のエリーは赤毛を有していること。
他にも近しい人間には分かる雰囲気の違いというものがあるが、現在最たるものは荒ぶるばかりの息遣いだろう。
「……察したっす」
息も絶え絶えなエリーに、マリスは小さく頷き返す。
そして、その隣。
「はっ、ごほっ、はっ、」
“勇者様”ことアキラは黙り込んで、ひたすら息を整えることに集中していた。
言葉にならなかっただろう声を、マリスは拾ってくれたようだ。
「……、……、」
アキラの身体は汗に塗れ、正直もうこれが朝練でいいのではないか、というほど身体が熱い。
アキラが朝これほどの距離を走ることになったのも、隣で同じように息を整えている女が、公正を期すためとか言い出し、サクのモーニングコールを禁止したせいだ。
殊勲にも、新たに到着した町並みを記憶しようとしていたというのに、最後の長距離ダッシュで消し飛んだかもしれない。
「おおおっ、アッキー、エリにゃん!! おかえりっ!!」
「た……、ただ……、いま……、」
大体は罰ゲームを受け、アキラの隣を走っているはずのティアが、びしっ、と手を上げて駆け寄ってくる。
その元気があるのなら、半分でもいいから今の疲労を受け取って欲しい。
「お、おまっ、え、そういや、なんで、今日っ、」
「おうおうおうっ!? あっしの早起きの秘密を聞きたいんですかいっ!?」
声を出す酸素も惜しみ、アキラは頷く。
「そう言えば私も気になっていた。私やイオリさんより先にここにいただろう?」
「ふっ、ふっ、ふっ、」
サクの視線も受け、ティアは得意げになって笑った。
「ほらほらほらっ、寝付けないことってあるじゃないですかっ!! 布団に入っても何か色々考えちゃって……、いやっ、変なことじゃないですよ!? そりゃあ興味はありますけどっ、って、きゃはっ、またまたまたっ、何を言わせんですかっ!!」
「……、」
声が出せればこの暴挙を止められるのだろうか。
だが酸素を欲するアキラの身体は、口から言葉を吐き出してくれない。
「で、まあ、気づいたら大分時間が経ってるじゃないですかっ!! そこであっしは考えた。寝なくてもいけるじゃないか!? と!! そんなこんなで、あっしは今日徹夜です!! このハイテンションも、実はそれゆえにっ、だったりっ!!」
「……、」
アキラは言葉を返せない。
だが、そこでティアは僅かに表情を曇らせた。
「ただ……、いけると思ってたんですが……、もう限界で……、ねむ……、く……、きゅぅっ、」
「うわっ、馬鹿だーーーっ!!!」
途端ふらつき始めたティアに、アキラはようやく、大声を絞り出せた。
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
クラストラス。
中央の大陸、ヨーテンガースの北西部に位置するこの港町は大層な賑わいを誇っていた。
他の大陸の港からの連絡は、ほぼ全てこの町に集約され、各地の名産品も商店街にずらりと並ぶ。
ときおり潮の匂いが町並みを包む中で、それ以上の活気が人口と比例して溢れ返っている。
どこか肌寒かった、アキラたちが数日宿泊したモルオール大陸の港町、ウォルファールとは空気が違った。
その活気は、昨晩到着したばかりだというのに、アキラたちをすでに呑み込んでいる。
周囲を城壁のような険しい岩山が囲っているこの大陸の、唯一の入り口と言えるこのクラストラス。
ただ、このヨーテンガースの人口が北部に密集しているのには、交通の便以上の理由があった。
ヨーテンガースの南部は、“死んでいるのだ”。
当然、誰も思わないのだろう。
世界最高の激戦区、魔王の牙城の傍に住みたいなどとは。
その上、ヨーテンガース大陸の中央にも巨大な岩山、そして岩山以外の中部は人と魔王の垣根を作るかのように大樹海が広がっている。
魔王の脅威からすれば心許ない防波堤だが、人の身と比してあまりに広大なその大樹海は、総てを阻むよう。
上の一部が繋がっていない八の字のように、不可侵の場所が存在する。
北部と南部は、同じ大陸に在って、そうではない。
ゆえに、“双子大陸”。
ヨーテンガースをそう称する者も、少なくはない。
「本末転倒。とてもためになる言葉よね」
その、クラストラスの宿舎。
エレナはベッドに足を投げ出しながら、隣のティアに呟いた。
聞いているのかいないのか、かけ布団に顔まで埋ませている完全寝不足のティアの面倒を、エレナがみることになったのは何の因果か。
その上熱があり、同室の自分がその保護者になるのは、ある意味自然かもしれないのだけど。
割高だった宿舎の料金の都合上、女性陣六人の部屋割は当然二人部屋三つになり、エレナの同室は騒音発生機のティア。
頑固反対したエレナだったが、寝るときだけは静かだと、今まで相部屋を担当していたサクに説得され、一人部屋を謳歌していた自分にティアはあてがわれていた。
こんなことなら、無限を誇る自分の財源から料金を取り出せば良かった、と思い至り、しかしそれは、あの正妻に猛烈に反対されたのだとため息を吐き出す。
お陰で残りの面々は自由の身で、依頼に向かってしまった。
それなのに、窓から見える影が短くなった今も、エレナはティアと共に留守番だ。
「……、」
今までの自分なら、どうだったろう。
そんなことを、ぼんやりと思い浮かべた。
一人部屋確保のために、勝手に部屋を一つ増やしていたかもしれない。
やることもなく、のんびりと見上げた天井は、今まで宿舎より清潔感溢れる新木の木目。
この港町の規模からか、宿泊施設は田舎のそれより質が高い。
「にしても……、やることねぇわぁ……、」
「……いややっ、ほんっっっと、申し訳ない。その上風邪とは……、」
「……はあ、あんた学習能力あるの?」
どうやら目を覚ましてはいるらしい。
いつもより遥かに音量の低いかすれ声に、口を閉じさせる意味でもエレナは冷たく返した。
ティアが熱を出したのは、これで二度目だったりする。
一度目はモルオールに近づいたとき。
ティアは、大陸が変わるたびに倒れていた。
原因は即座に分かる。
彼女は、気候が変わっていることも一切考えず、駆け回っていたのだ。
季節の変わり目は風邪をひきやすい。
それは当然、旅をして気候が変わるときも同じこと。
完全な通説になっているそれを、何故こうも無視できるのか。
しかも倒れる直前まで喚き散らしているのだから、誰も彼女の具合の変化に気づけない。
病気など吹き飛ばしてしまうようで、そうではないティア。
そんな彼女は、一体いつまで駆け続けるのだろう。
「みなさんは……?」
「依頼よ、依頼。二組に分かれて……、ああ、そうそう。今度から依頼の組分け、くじ引きになるって」
エレナは一応とエリーが残していったメモ用紙二つをぞんざいに折り畳んだ。
依頼書の写しであるらしいそれらには、それぞれ魔物討伐だの積荷護衛だのと記されてあった。
「そうですか……、エレお姉さまは?」
「誰のせいでここにいると思う?」
「たはは……、ほんっっっとに、」
「いいから寝てろっての」
こんな元気のない声を聞いていては、こっちまで調子がおかしくなる。
エレナは適当に視線を泳がせ、ベッドの頭付近に台で止めた。
そこには、ティアが昨日買って読んでいた漫画が置いてある。
大方、この話に感化でもされ、眠れなくなったのだろう。
エレナは気だるげに左手でそれを掴み、パラパラとめくる。
依頼の報酬の分配で得た金を、各地の本屋で消費しているのは、ティアにこの旅の緊張感が無いからだろうか。
ただ、旅立つ際には必ず処分し、邪魔にならないようにしているのだから別段言うことはない。
「おおっ、エレお姉さま、興味がありますか?」
「……、別に」
ざっと見たところ、少女向けではなく、少年向けの本のようだ。
都合良く力が増え、敵を討っていく、お約束の。
エレナは、この手の話のどこが面白いのか分からない。
現実というものは、これほど輝いた世界ではないことを良く知っている。
世界は、“主人公”以外には冷たいのだ。
歴史を見れば、“勇者様御一行”の旅も、キラキラと輝き、ハッピーエンドが約束されているように思える。
だが、その裏。
その旅路で倒れた“勇者様御一行”もいたはずだ。
語り継がれるのは、魔王を討てた勇者のみ。
他の勇者は、語られないほど、寂しい結末を迎えたのだろう。
いや、もしかしたら、後世に残された勇者の物語も、美談に変わっているのかもしれない。
自分たちの旅路は、“神話”になれるだろうか。
この結末は、語られるほどの存在になるだろうか。
そんな不安が、この世界には満ちている。
いやだからこそ、こうした物語は世界を輝かせるのだろうか。
我らが勇者様も、こういう漫画をティアから借りてよく読んでいる。
彼はこういう話が好きだ。
キラキラと輝く世界の陰りを嫌い、その輝きに胸を躍らせる。
それは、周知の事実。
だが逆に、こう思ってしまう。
彼は、世界の優しさを信用していないのではないか、と。
甘い部分を遠くから眺め、そこから一歩も動かず、胸を躍らせる。
もし世界が優しいと確信しているのなら、その世界に飛び込めるはずだ。
総てを見るのを嫌うのは、果たして、世界を愛している者なのだろうか。
「エレお姉さま、それ、面白いですよ……。仲間と力を合わせて……、強くなって……、ちょーちょーちょーちょー熱いです、よ?」
「……よくある話ね」
「それが、いいんじゃないですか。お金足りなくて、次の巻を買えなくなったのが不覚です……、」
「……、」
言うほどの話なのだろうか。
エレナが手にしたのは、五巻。
知らない登場人物が、我が物顔で現れ、よく分からない話をしている。
「私、思うんですよ」
「……?」
登場人物紹介のページを流し読みしていたエレナに、ティアのか細い声が届いた。
「どうしたら、そういう人たちになれるのかなぁ、って」
「……、なに、あんた? 現実と夢の区別もつかないの?」
「たはは……、」
分かっては、いるのだろう。
物語の彼らは、きっと、演じている。
物語のあるべき姿を崩壊させないように、自分に与えられた役割を遵守しているのだ。
だが、そう考えれば。
現実にも、そういう思考はある。
自分のキャラじゃない。
そんな言葉を聞いたことはエレナも何度もあるのだ。
その上、自分もそうしている。
少なくとも自分のキャラは、アホな理由で倒れた人間を看病するようなものじゃない。
そう、思っている。
それが自分の、“キャラクター”、だ。
それは同時に、自分が何かの“流れ”に飲み込まれていることにもなる。
自分は、物語はこうあるべき、という“流れ”に。
そういう“流れ”は、何から生まれたのだろう。
普通に考えれば、現実がまずあって、物語が生まれたはずだ。
だが物語は、現実に影響を与える。
ファンタジーがリアルに近づいているのか。
それとも、リアルがファンタジーに近づいているのか。
そしてその境界線は、一体どこだろう。
いつか聞いた、卵が先か、鶏が先か、という話を思い出す。
現実の“想い”は、何から生まれたのだろう。
物語の“想い”は、何から生まれたのだろう。
“理想”という存在を産み出したのは、一体、何なのだろう。
現実と物語は、相互に影響し合って、何かの道を作る。
その道は、どこから見れば綺麗で、キラキラと輝くのだろうか。
「でも……、そういう風になりたいです」
「……、あっそ」
らしくもないことを考えるのは、自分の“キャラ”じゃない。
エレナは、今度は最初のページから適当に文字を追う。
やっぱり五巻程度では、登場人物は弱い。
これが、物語のあるべき姿なのだろう。
「だって、いいじゃないですか……、そこの人たちは、友達たくさんできてるんですよ?」
「っ、」
思わず、ストン、と本体だけを落としてしまった。
手元に残ったカバーを、緩慢な手つきで取りつける。
「あんたが言いたかったの、そこ?」
「へへへ、まあ、そうです」
「はあ……、」
完成した本を、今度はそういう視点で眺めてみる。
確かに、仲間が多い。
まるで、自分たちの旅のようだ。
行く先々で、出逢いがある。
旅をしている以上、当然といえば当然だが、この主人公は確かに“刻”を刻んでいた。
数多くの人に、影響を与えて。
「やっぱり、『自分はここにいる』っていうのを、私は残したいと思っているわけでして、」
「……、なに、あんた死ぬの?」
病気で気弱にでもなっているのか。
ティアは布団を掴んでさらに潜り込んだ。
「エレお姉さまは思ったことないですか? 『死んだらどうなるんだろう』って」
「……、」
エレナは言葉を返さなかった。
だが、そのせいでなかなか寝付けなかった夜が、確かにあったのを思い出す。
もしかしたら、世界にいる誰もが思ったことかもしれない。
「私は、消えるのが、すごく恐いです。ときどきそんな不安が浮かんで……。実は、昨日の夜も、そんなことを思ってたりして、」
「それで、動きたくなったわけね?」
「たはは……、」
布団の中から聞こえる、ティアのくぐもった笑い声が震えているのは、風邪のせいだけではないかもしれない。
「もしかしたら……、漫画家の人も、“想い”を残したかったんじゃないかなぁって思うんですよ、私は。私が友達をたくさん欲しいのも、自分の“想い”を知ってくれている人が欲しかった、とか思ってたり、」
「……、」
自分がいなくなった世界。
それは、想像もできない。
だが、それはいつか必ず来るのだ。
だから人は、何かに“自分”を残す。
媒体は、様々だ。
「だから……、そういうお話、羨ましいんです。知ってますか、その本、話題作なんですよ?」
「これが……、ねぇ……、」
息のついでに吐き出したようなエレナの声は、部屋の空気に溶けていった。
いつしか半分ほど読み進めている自分に驚きつつも、また、ぱらぱらとページをめくる。
「いいですよね……、そういう風に、色んな人に、“想い”を伝えられて」
「……、私はその重い話を聞き続けなきゃいけないわけ?」
「なんですかぁっ、私にシリアスは向かないんですかぁっ、」
「“キャラ”じゃないでしょ」
エレナは本をぱたんと閉じた。
これ以上、途中から読むのは限界がある。
「でも、エレお姉さま……、」
「?」
「エレお姉さまは、イオリンのこと、あんまり好きじゃないですよね?」
「……ええ」
突如出てきた名前にも、エレナはあっさりと返した。
僅かにでも動揺するのは面白くない。
それほど、水曜属性と土曜属性の者は好かないのだから。
「私は……、和気あいあいとしている方が好きなんです。“想い”を伝えたり、伝えられたりするのって、楽しいじゃないですか?」
「あんた、この旅がどういうものなのか理解してるの?」
ようやくティアの話のゴールが見えてきた。
ティアは仲良し子好しがいいのだろう。
だが、今はもうそんな次元の話をしているわけにはいかない。
魔王の牙城がある大陸についているのだ。
これから自分たちは、ここを起点に路銀を稼いだら、まっすぐにそこを目指すつもりでもある。
どうせこの面々の旅は、そこで終わるのだ。
別に、必要ない。
意地などではなく、客観的に。
「でもエレお姉さま……、イオリン、なんか寂しそうにしている気がするんですよ、あっしは。アッキーと話しているのは、よく見るんですけど、」
それは、エレナも僅かに勘づいていた。
あの女は、何か、隠し事をしている。
その隠し事を、おそらくアキラは知っているのだろう。
二人で何やら相談をしているのを、エレナも何度も見ている。
「……、それは、あのアキラの従者も同じでしょ」
「サッキュンの無口とは違うじゃないですか。なんか、『おぬし、自分のすべきことに迷いがあるな』、みたいなっ、」
随分と、良く見ている。
旅に出て、色々多感にでもなっているのだろうか。
「……、かっこつけてんじゃないわよ」
「……それに、エレお姉さまも、」
「……?」
ティアは緩慢な動きで布団をめくり、顔を出した。
風邪のせいか、布団の中の熱気のせいか、顔は少し赤い。
「エレお姉さま、私はね……、エレお姉さまが本気で笑うとこ、見たいんですよ」
「あん?」
「ひぃっ、ほらっ、スマイルスマイルッ、」
下らない話だ。
エレナは伸びをし、適当な動きでベッドから降り立つ。
随分と、良く見ている。
「? エレお姉さま?」
「ちょっと買い物にでも行ってくるわ。このままベッドの上にいちゃ、眠くなるし」
「おおおっ、あっしもっ、お付き合いをっ、」
「寝てろ。うろちょろするな」
「うわわっ、今までで一番恐いっ、」
殺気に交じりに身を浮かせようとしたティアを睨みつけ、エレナは緩慢にドアに向かって歩き出す。
「もう昼過ぎね……。なんか消化の良さそうな物買ってくるわ」
「おおおっ、何たる光栄っ、」
「黙れ」
「エレお姉さまっ、そういう命令文は止めて下さいっ、マジ恐いですっ、」
やっぱり、水曜属性の者も好かない。
エレナは髪を適当に撫でつけ、ちらりと台の上の漫画を確認した。
あの口を黙らす意味でも、次の巻とやらを買ってきてやろうではないか。
―――**―――
「……遅くね?」
「しっ、」
ついぞ我慢できなくなって呟いたアキラを、隣に並び立つエリーがたしなめた。
だが、アキラから漏れた言葉に、ここに集まった全員から同意のようなため息が返ってくる。
クラストラスの町の中、船着き場に集まっているのは、十数名の男女。
その誰もが、旅慣れた様子で鎧やローブを着込み、目付きはどこか鋭い。
アキラたち同様、この依頼を受けた旅の魔術師だ。
だが旅慣れた彼らも、青空の下、潮風撫でるこの場所は、気候のお陰で僅かに心地よいが、数時間ほど立っているとなると流石に肌寒く、指先を擦り合わせている者もいる。
この場に集めた張本人の若い女性は、全員から無言のプレッシャーを背中で感じ、今か今かと海を眺めていた。
「……、お……、おっかしいなぁ……、遅いなぁ……、すぐ来るって聞いてたんだけどなぁ……、」
ときおり小さく、言い訳のような言葉を職員のようなその女性は漏らしていた。
アキラたちが到着したときには愛想よく元気に挨拶していたというのに、今では頼り無げに茶色の長髪の毛先を指で弄っている。
「……まあ、アキラ。今日の依頼は一日潰すことになるとは聞いていたから、これも依頼の内だよ」
背中に痛い視線を受け続ける女性が流石に不憫に思えてきたのか、エリーとは反対の隣に立つイオリが、僅かに大きな声で言葉を吐き出した。
あの女性は、恐らくこの面々を集めるためだけに、一時的に雇われたにすぎないのだろうからなおさらなのだろう。
今回から組分けはくじ引きと相成った本日の依頼は、アキラとエリー、そしてイオリの三人が一つの組、残るマリスとサクがもう一つの組ということになったのだが、ここまで時間を浪費していては、マリスたちの依頼は終わっている可能性もある。
依頼内容は詳しく知らないが、向こうの班はマリスを有しており、魔物の討伐など一瞬で終わってしまう。
対してこちらの依頼内容は、荷物運搬の護衛。
暇潰しにエリーに聞いてみたところ、とある“儀式”を行うための道具を岩山に運びたいそうだが、その荷物が一向に届かないというのが現状だ。
この大人数から察するに、かなりの量の荷物なのだろう。
「……、」
そんな中、アキラが集まった旅人たちを眺めていると、一組、奇妙な集団が目に入った。
女性、だろうか。
濃いオレンジのローブ纏い、同色のフードを頭からすっぽりと被った小柄な少女がいた。
海を眺めるように遠くに立ち、沈黙を守っている。
吹きつける潮風にローブがなびいているのに、その少女は、まるで空間を刈り取られているように、静かにそこに在った。
翻りかけたローブを両手で押さえる姿も慎ましく、顔がフードで隠れているのが悔やまれる。
あの少女は、一人でこの依頼を受けているのだろうか。
「……、あんた、どこ見てんのよ?」
「え……、え?」
隣の声に顔を向ければ、エリーが僅かに視線を強くし、見上げてきていた。
「断じて言うが、やましい気持ちはない」
「……どうだか」
エリーの声に、アキラは渋々視線を戻す。
だが、これ以上、船の到着を健気に待つ職員の女性を見ているのは、どことなく忍びなかった。
「まだなんですか?」
ついに痺れを切らしたのか、集団の一人、どこか柔和な表情の男が女性に歩み寄っていった。
早めに到着したはずのアキラたちよりも早くこの場に立っていた男だ。
「い、いえ、もうすぐ……、便が遅れているようで、」
「いや、寒いんじゃないかって思ってさ。向こうにいた方が良くない?」
ブロンドの長い髪を、紺のローブの背にそのまま垂らしている男は、その女性の身を気遣うように微笑み続けた。
風が吹きつけない納屋のような場所に誘導され、その女性は震えながら嬉しそうに頬笑み返している。
「ラースさんって言ったっけ? あの人。優しいわね……」
「へっくしっ、」
「今あたしは、本物の天と地ってもんを見たわ」
エリーの嫌味にも、アキラは首を青い上着にうずめながら首を振る。
依頼の内容が長丁場でないのなら、とっくに魔力で身体を温めたいくらいだ。
ラースのように、他の人間を気遣っている場合ではない。
他の集まった者たちも、いい加減に立っていることを放棄し、海から離れた適当な場所で座り込んでいる。
仕事をしている認識としてはどうかと思うが、町に戻った者すらいるのだ。
「……、だからもっと着込んだ方がいいんじゃないって言ったのよ」
「いや、いけると思ったんだよ」
「はあ……、やってることはティアと変わらないね」
「今、俺は猛烈にマリスに会いたい」
あの少女がこの場にいれば、無尽蔵の魔力で自分たちに風が吹きつけないようにしてくれるはずだ。
だがそのアイディアも、隣のマリスの姉に睨みつけられ四散する。
アキラは頬をポリポリとかきながら、視線を泳がせた。
「……あ、」
「? 何よ?」
「いや、お前じゃない。イオリ、ちょっといいか?」
「僕?」
アキラは不機嫌そうに喉を鳴らしたエリーを置いて、イオリを離れた場所に連れていく。
流石に、もうただ待つだけは限界だ。
「……イオリさ、」
「?」
エリーや他の者から十分に距離を取り、アキラは囁いた。
そのアキラの様子に、イオリも表情を僅かに引き締める。
「お前は、この依頼を“視た”か?」
「……え? ……あ、そういうことか」
口に出して、イオリは気づいたのだろう。
呆れたような表情で、アキラを見上げた。
「船の到着時間を知りたいってことかな?」
「あ、ああ、流石に風邪ひきそうで、」
「はあ……、」
イオリは呆れた瞳を向け続ける。
確かに、アキラもチートだと思う。
だけど、イオリの“予知”はもっと有効に使いたいとも思うのだ。
「先が分かるのって、面白くないと思わないかな?」
「お、お前なぁ……、」
「いや、冗談だよ。……視てない。本当に、未来は変わっているみたいだ」
イオリは視線を外し、のびのびとした表情で海を遠い目で眺めた。
「それに、僕の視た予知夢は、異常なほど長くてね。悪いけど、その細部を完璧に記憶できたわけじゃない。覚えていたのは、身の回りのことと……、そうだね、君が刻んだ“刻”くらいだ」
「いや、お前ならいけそうじゃん?」
「っ、君は僕のことをかなり誤解していないか? 超記憶能力とか、持ってないからね?」
「んだよ」
「……そこまで残念そうな顔されるとは思わなかったよ」
またもため息を吐き出すイオリから顔を逸らし、アキラも海を眺めた。
遥か向こうから船が来るはずなのだが、未だ、一向に見えない。
「……、」
ふいに、その途中、反対にこちらを眺めているエリーが見えた。
エリーはその場から一歩も動かず、先ほどの女性のように赤毛の前髪を指で弄っている。
「そういやさ、お前……、あいつと話とかしたことあったっけ?」
「……、エリサスのことかな?」
「ああ、そうだ……、そうだよ」
「いや……、挨拶程度、かな」
場繋ぎの言葉だったのだが、その言葉で、アキラの中に小さな疑念が浮かんだ。
イオリが仲間に加わって一週間ほど。
彼女は、自分以外の誰かと話していたことがあっただろうか。
この一週間、モルオールの港町で、イオリはひたすら事務の仕事をしていた。
隊長の引き継ぎ。
その仕事の量を、アキラは知らない。
だが、ときおり訪ねた仕事場で、イオリはテキパキと仕事をしていたように思える。
朝の鍛錬には顔を出していたが、その他の時間を全て使って、一週間。
その総量は、想像もできない。
「……、」
イオリは、未来を視たという。
そして、その未来を認めることができなかったから、それを壊した、と。
そのせいで誕生した“バグ”。
その“バグ”は、モルオールの魔術師隊の副隊長のカリスが、イオリに牙を向けるという形で現れた。
イオリが視た未来では隊長だったはずのカリスは、予知にあかせて隊長になった彼女に劣情を向け、イオリと剣を交えることになる。
自分たちがそれを制したために、カリスは昏睡状態に陥り、一週間意識を手放すことになった。
アキラたちが旅立つ頃には目を覚ましたらしい。
だが結局、イオリは、カリスに顔を合わせないまま船に乗った。
合わす顔がないというのがイオリの言葉だったが、そのせいで、カリスに対する伝言を文書にするという手間が増加したのは言うまでも無い。
ただ、イオリがそれでいいと言うのならば、アキラが介入できることではないのだろう。
しかし、その“バグ”の“落とし前”で、イオリが仲間に加わって一週間も経つというのに、メンバーと打ち解ける期間を逃してしまったようにも思えた。
口数が少ないわけではない。
むしろ、話はよくするようだ。
それなのに、イオリは、
「お前さ、」
アキラは言い出して、止まった。
ここで自分は、何を言うつもりだったのだろう。
まさか、皆と仲良くしましょう、なんてことを言うつもりだったのだろうか。
「?」
イオリは小さく首をかしげてアキラを見返してくる。
馴染めていないから、仲を取り持つ。
そんな、学校の先生みたいなことをするべきだろうか。
うまくいく場合もある。だが、それはほとんどの場合、お互いにとって苦痛になる。
そして、うまくいく場合の台詞は、アキラの頭では生み出せない。
しかし、イオリが輪の外で黙り込んでいるのは、何となく、嫌だ。
だが、言葉が紡げない。
「まあ……、気を遣ってもらって助かるよ」
イオリは小さく眼を瞑り、申し訳ないような表情を作った。
「皆とは、一度“予知”で知り合っていたからね……。そのとき、自分がどういう人間だったのか……、思い出せないんだ」
「……、」
やはりアキラの考えなど、イオリはとっくに思い至っていたようだ。
「友人を作るのは……、本当に苦手でね。その上、下手に動くと“バグ”を作りそうで……、恐いんだ」
イオリは目を瞑って、再びため息を吐き出した。
今彼女の脳裏にあるのは、やはり尊敬していた相手との戦いだろう。
思った方向へ動いたせいで、イオリは自分が視た世界のあるべき姿を壊していると考えているのだから。
カリスのときの“バグ”は、“落とし前”の付けているとアキラは考えている。
だが、彼女にとって、それは十分ではないのかもしれない。
「……、」
イオリの横顔を見ながら、アキラはふと、自分だったら、どう“落とし前”を付けるだろうと考えた。
現在、“バグ”を最も作っているのはアキラなのだ。
あの、銃の力。
超広範囲で相手を討つ、日輪属性の魔術、プロミネンスを放出する具現化の武具。
想いも伏線も、何もかも滅するあの絶対的な力。
それで自分は、総てを通り抜けてきてしまっている。
自分は一体どうすれば、どうやって、物語をあるべき姿に戻せるのだろう。
イオリのように、シミュレーションで全てを見渡すことはできない。
先を考えていられないほど、今の自分は手一杯だ。
「君が羨ましいよ……、本当に。日輪属性の、その惹き付ける力が」
「……、」
ローブに首を僅かにうずめるイオリに、アキラは言葉を返さなかった。
確かにこの力がなければ、他人との関係が希薄になった異世界から来たアキラは、ここまで早く順応できなかったかもしれない。
そういう意味では、ご都合主義は本当に助かっている。
「でも……、ありがとう」
「……、ああ、」
淡白に言葉を返し、アキラも首をうずめる。やはり、潮風の撫でるここは、微妙に寒い。
「……、」
すごい、と思ってしまう。
イオリの方が、ずっと順応している。
隊を束ねていたのだから。
そう考えると、やはり自分そのものの価値が希薄になっているとアキラは感じる。
同じ異世界から来た自分が築けた地位は、イオリに比して、あまりに小さい。
ただ、今更考えても仕方のないことなのだけれど。
「まあ、極力話しかけてみるよ。僕にとっては、結構難しいんだけどね」
「大丈夫だろ」
「楽観的だね、本当に」
イオリは、またも、苦笑に似た笑みを返してきた。
「……、」
そんな、光景を見ながら。
エリーはもう一度、赤毛の前髪を弄った。
一体あの二人は、何を話しているのだろう。
自分から離れてこそこそし始めたと思えば、自分から離れて二人で笑い合っている。
あの男がへらへら笑っているのはいつものこととして、その隣のイオリ。
ああいう風に笑える彼女を、エリーは自分の目の前で見たことがない。
いつもどこか凛とし、朝の鍛錬に顔を出したときもティアが飛びついてこない以上は、毅然としている。
そんなイオリが、やはりどこか楽しげに笑っているのだ。
魔道士。
それは魔術師隊を抜けてもイオリが有している地位であり、そして、エリーの夢でもある。
魔道を職として志す者ならば、誰もが憧れるものだ。
その存在は、遠い。
しかし、歳が一つ上のイオリは、その地位にいる。
「なに話してんだか……、本当に」
小さく呟いても、離れた場所にいる二人に声は届かない。
異世界から現れた勇者様と、異世界から現れた魔道士。
ぴったりだ。
それは、遠く見え、キラキラと輝いているようにも思える。
話し合いは終わっているだろうに、エリーの存在を忘れているかのように二人は戻って来なかった。
ああして二人して話している光景は、よく見るのだ。
何かこそこそと、誰にも聞かれないように言葉を交わす。
エリーがその場に近づけば、話し合いはそこで終わり、バツの悪いような表情を作って二人は分かれる。
そういう光景を見るのが、二人して話していること事態を見るよりどこか辛く、エリーは結局近づかないことにした。
イオリの話になると不機嫌になるエレナには『正妻が浮気現場に行っちゃまずいでしょ』などと苛立った言葉を返されもした。
憤慨したエリーだが、その実、それに近いことは思っていたかもしれない。
不慮の事故で、現在アキラとエリーは婚約中。
その婚約解消を行える神族に願いを叶えてもらうため、自分たちは打倒魔王を目指しているのだ。
その中で、遊んでいる暇などない。
そのはずだ。
それなのに、あの男は一体何をやっているというのだろう。
隣にいたらいたで、先ほどのように他の女性に視線を向ける。
本当に、
「ねえ、君、」
「……えっ?」
途端後ろから話しかけられ、エリーは思わず飛び退くようにその場で跳ねた。
「ああ、ごめん、そんなに驚かせるつもりは、」
「い、いえ、」
振り返ると、そこには先ほどあの女性に話しかけていた男、ラースが立っていた。
気まずそうな表情を浮かべ、しかしそれでも柔和そうな笑みを作っている。
この場に来たとき簡単に話したが、やはり歳は、自分たちよりいくらか上のようだ。
「え、えっと、何ですか?」
「あ、ああ、ごめん。こんなところに立っていると寒いかな、って思ってさ」
「あ……、ありがとうございます」
気づけばラースが全員誘導したのか、彼の指さす先の納屋には、人だかりができていた。
日に焼けたボロボロの木で形作られたそれは見るからに頼りなさそうだが、それでもここに立っているよりは幾分マシだろう。
そして外には、ドラム缶のようなものが設置され、メラメラと火が燃えている。
「中には壊れかけていたけど炉もあったし……、中にいるといいよ」
「は、はい」
ラースのブロンドの長い髪に誘われるようにエリーは歩き出した。
一瞬ちらりとアキラたちを視界の隅に捉えたが、こちらに気づいた様子はない。
もういいか。
風邪でも何でもひけばいい。
エリーは心の中で僅かに毒づき、ラースに並んだ。
「お一人なんですか?」
「ん? ああ、長いこと一人で旅しててね……。君たちは、あっちの彼らと?」
話し込んでいる二人に近づくのを敬遠しているのか、ラースはほとんど顔を動かさないままアキラたちを横目で見た。
「え、ええ。本当は、全部で七人いるんですけど」
「へえ……、“七曜の魔術師”みたいだね」
みたい、ではなくその通り。
そう思ったのだが、エリーはわざわざ訂正するのも面倒で、苦笑するだけに留めた。
今さらだが、あの男を“勇者様”と認めるのが何となく許せない。
「まあ、俺は毎年一人でこの依頼を受けててね……。船が時間通りに到着したことなんて一度もない。何人か、帰ってしまったよ」
「はあ……、」
それを防ぐべく、ラースは人々を誘導しているのだろう。
本来ならばあの女性がやる仕事のような気もするのだが、やはり、気が利く。
「わ……、」
そのまま歩いて納屋に近づいたエリーは、そう一言漏らした。
メラメラと燃える火の温かさが身体をくすぐり、頬が弛緩する。
自分の身体がここまで冷えていたことに気づかなかった。
旅の魔術師たちも、こぞってその前に手を突き出し、火を灯すドラム缶を囲っている。
「この火は?」
「ああ、さっきこの辺に転がっていたのを、俺が勝手に、ね。ほら、女性は中にいた方がいい」
ラースは微笑みながら、納屋の戸をノックする。
一人の女性が中から扉を開けると、暖かな空気の中、二、三人の女性が暖気を漏らす四角い箱を囲っていた。
先ほどまで手を擦り合わせていた旅の魔術師だ。
オレンジのローブを羽織った先ほどの少女も、全員から痛い視線を向けられていた職員の女性もいる。
それだけで一杯になるような小さな納屋だが、それだけに、温まりやすい。
「じゃあ俺は、あの二人も連れてくるよ。温まっていた方が、依頼もしやすいしね」
「本当に、ありがとうございます」
ああ、天と地だ。
柔和な笑みで戸を閉めたラースと、遠くでまたくしゃみをしているどこかの男は。
エリーは、女性たちが開けてくれた場に座り込み、炉に手をかざす。
ちょうどその頃、海の遠くから、巨大な船が近づいてきた。
―――**―――
「っぜぇ……、ついてくんなって言ってんだろうが……!!」
「了承できません。貴方はまた勝手に……、戻って下さい……!!」
「……?」
適当な物を買い込んで、かつてのクロンクランよりも派手やかな町並みを歩き回っていたエレナは、奇妙な集団を目に止めた。
高い建物とその前に盛大に開かれた商品店に囲まれた道、人ごみにまみれた町並み、その中を、自分と同じように、そのど真ん中をふてぶてしく歩いてくる者たちがいる。
若い男女が全部で四人、だろうか。
そこらを歩いている荷車を引く商人や、町を行き来する簡易な服装の住民たちとは違う。
一人の男は黒いシャツにジーンズと簡易な普段着で身を包み、剣をだらしなく腰の辺りに下げ、隣に並ぶ男は山吹色のローブを羽織って、杖を背負っている。
残る二人は女性で、一人は先頭の剣の男に何かを責めるように言葉を発し、もう一人は三人の後ろにいては姿が確認できないほど小さな身体でちょこちょこと歩いていた。
その二人も、前の一人は修道服のようなローブ、後ろに続く一人は簡易なプロテクターのようなものを身に着け、やはり一般人とは一線を画している。
「……、」
彼らが歩くだけで、町行く人々はそれを避けていた。
ただ、目つきは強い。
だが、エレナは冷めた瞳を向けながら、ただまっすぐに自分の行くべき方向を目指した。
「……、」
「……、」
必然。
道のど真ん中で、エレナとその四人はかち合った。
「……、」
「……?」
戦闘の剣を背負った男が、立ち止まったまま、目つきを怪訝に歪めた。
白髪、と表現できるだろうか。
短髪のその男は、かなりの長身で、エレナを見下ろしてくる。
「……あ?」
目つきの異様に悪いその男はそのままエレナを睨むが、エレナはただ、指が痛くなってきた気がして買い物袋を右手に持ち替えただけだった。
「っ、まず、……えっと、その、」
「?」
動かない剣の男の隣、杖を持つエレナほどの背の男がエレナを見ながら、何かを言い淀んだ。
こちらは黒い肩ほどまでの髪。
にこにこと愛想笑いのような表情を浮かべるこの男の言葉の内容を察することはできたが、しかしエレナは、黙ったまま剣の男を見上げたままだった。
「えっと、その、ほら、ね、」
「マルド、ちょっと下がっていて下さりますか。……あの、察していただけませんか?」
睨んだままの剣の金髪男と、マルドと呼ばれた杖の男。
その後ろ、従者のようだった一人が、業を煮やしたのか前に一歩出てきた。
エレナのようにウェーブがかかった艶やかな黒い髪を身体に纏った紺のローブの外にそのまま垂らし、少しだけ気の強そうな視線を向けてくる。
「……、」
エレナはその視線を受けても、察する気など毛頭ないことを身体で表現する。
すなわち、完全な仁王立ち。
そのエレナの様子に、ウェーブの髪の女性は目つきを鋭くし、未だ後ろから動かないティアより小さな少女は、あたふたとするだけだった。
「……、で、なに?」
エレナはようやく口を開いた。
視線は未だ、長身の男に向けて。
「なに、ではないですよ?」
「今はあんたと話してないわよ」
「っ、なななっ、」
「カイラ……、ぅぅ……、押さえてぇ……、」
流石に限界だったのか、後ろの少女がさらに一歩前に出そうだった女性のローブの裾を両手で掴む。
カイラというらしいウェーブの女性は、エレナの態度に憤りを露わにしているのは、通行人にも容易に見てとれた。
いつしかエレナたち五人の様子に人の輪ができ上がり、ひそひそと声を漏らしている。
「っだぁ? このアマ」
ようやく、長身の男から言葉らしい言葉が漏れた。
白髪の色とは対照的な、猫のように光る金色の瞳でエレナを見下ろす。
その態度はあくまで高圧的。
明らかに、エレナとの相性は最悪であった。
「なに? ていうか、どいてくれない?」
「はぁぁ~っ? やんのか?」
エレナがほとんど睨み返すように白髪の男を見れば、男は睨む瞳を強くし、口元を強気に上げる。
まるでチンピラだ。
やはり、このような相手に、道を譲る気は起きない。
強いて言うなれば、エレナは今、というより今も、すこぶる機嫌が悪かった。
居残りになっていた現状もさることながら、軽い気持ちで探したティアの漫画。
本当に売れているらしく、おざなり的に三、四店も回ることになってしまった。
興味本位で買ってしまった今までの巻もズシリと重く、一刻も早く宿舎に戻りたい。
こんなことをしている時間も惜しいが、八つ当たりできる場所を探していたのも事実だったりする。
「っ、スライク様、落ち着いて下さい……。あの、貴女。もう一度お願いいたしますが、」
「だから今はあんたに話してないでしょ」
エレナの態度に、ウェーブの女性、カイラは踏み出そうとするも、やはり裾を後ろの少女に引かれる。
だが裾を引く少女も、エレナをどこか信じられないように盗み見ていた。
「こちらの方は、スライク=キース=ガイロード様。“勇者様”なのですよ?」
「かっ、」
どこの出身か分からないが、スライクというらしい若白髪男は、やはり“勇者様”か。
カイラから漏れた言葉で断定できたが、当の勇者様本人から漏れたのは、その存在を気に入らないとでもいうような擬音。
そこだけは、エレナと同感だ。
“自称”の可能性も十分あるのだから。
「そう……。で、なに?」
「……、」
“勇者様”。
エレナは頭の中で、その単語を軽く思い浮かべる。
“本物”かどうか定かではないが、随分と妙な勇者様もいたものだ。
魔王の牙城があるこの大陸ともなれば、そろそろ出会うかもしれないと思っていた、が、所詮その程度、だ。
「いや、あの……、」
「……、」
説明に口籠るカイラに、エレナは無言を返した。
ようやくエレナが自分の言葉に反応してくれたとはいえ、カイラは慣れていないのだろう。
無条件で従うべき、『勇者様には最大限の敬意を』という“しきたり”に、全く反応しない相手を前にするのは。
「あの……、」
「だから何よ?」
「わ……、悪いのですが、貴女。わたくしたちに道を譲っていただけませんか?」
「……、本人の口から聞いてないんだけど?」
「どけ」
「あん?」
頬をぴくぴくと動かしながら道を譲ることを願うカイラに、ご丁寧にも単刀直入命令文で意思を伝えてくるスライク。
その両者を最早条件反射か、エレナは同じ目つきで睨み返した。
完全に対峙したエレナとスライクの強い視線が交差し、カイラと、杖の男のマルドがあたふたと身体を震わせ、
「ひぐ……ううっ、ひぐぅ……、」
残る一人の小さな少女は、泣き顔を曝し始めた。
「っ、キュール!? ほら、しっかりして、」
「だって、だってぇ……、恐くてぇ……、」
今まで以上に慌てたカイラが、キュールというらしい小さな少女をあやし出す。
「っせぇぞ、ガキ」
「……、ちっ、」
スライクが小さなキュールに毒づいたところで、エレナは舌打ち一つ残し道を開ける。
子供が泣き始めた以上、道一つ譲る譲らないで動かないのも馬鹿らしい。
「待てコラ」
「あん?」
人の輪が順調に巨大になっていく場所から一刻も離れようと歩き出したエレナの背に、殺気にも似た空気の言葉が届いた。
荷物を肩にかけながら振り返れば案の定、スライクが睨みつけてきている。
「スライク様、落ち着いて下さい」
「黙れ。おいテメェ……、」
止めに入ったカイラを振り払い、スライクは緩慢な動作で一歩前へ出る。
その鋭い猫のような瞳は怒り一色に染まり、その手は今にでも肩の剣に伸びそうだ。
「なに? やんの?」
「こっちのセリフだ。このアマ」
「スライク様!!」
エレナがため息を吐いたと同時、カイラが間に割って入り、スライクと対面する。
「確かにあの女性は態度も大きくいかにも態度が大きそうで態度が大きいですが、いつか天罰が下るでしょう。押さえて下さい」
「なに? あんた私に向かって言ってんの?」
「いえいえ、滅相もない」
スライクに対面したままちらりと振り返ってきたカイラの瞳には、僅かに挑発的な色が浮かんでいた。
間違いなく、今の言葉はエレナに対するものだったのであろう。
「とにかく、スライク様。いい加減、機嫌を直して下さい」
「はっ、元はと言えばテメェが妙な依頼受けてくるからだろうがぁ……!!」
やってられない。
スライクの怒りの先が自分から僅かに逸れた隙に、エレナは歩き出した。
背後から怒声が聞こえた気がしたが、もう振り返りもしないで、進み続ける。
「落ち着いて下さい。もうすぐ船も到着しますっ、荷物護衛の依頼はどうするつもりですか」
「っかっ、知るか。断れ。来ねぇのがわりぃんだろうが」
その言葉が聞こえてくるまでは。
「ねえ、」
「あ?」
エレナはくるりと振り返り、ずかずかと四人に近寄っていく。
どうも今、カイラから漏れた言葉の内容が、エリーが残していった依頼書の写しにも記されていたような気がするのだ。
「今の話聞かせてもらえる?」
―――**―――
「大変遅れて申し訳ありません。それではただ今より、開始したいと思います」
そんな言葉が、今まで針のむしろだった女性から漏れた。
碇を下ろした見上げるほど巨大な船を背に、やはり炉が恋しいのかラースが作った簡易な暖気に身を委ね、言葉を紡ぐ。
「ご存知の方もいらっしゃると思いますが、サルドゥの民は、毎年この時期にお祈りをするのです」
その演説を集まった旅の魔術師たちに囲まれながら耳を立てるアキラは、当然知らなかったことだが、“ご存知の方”はどうやらこの場にはいないらしく、全員聞き流し、ただただ話が進むのを待っている。
寒いから先を急げ。そしてたき火の前から離れろ、ということらしい。
「そしてこちらが、サルドゥの民の方々です」
完全に一時的に雇われたに過ぎないであろうその女性は、それも契約の内なのか、ちらりとその横に並ぶ数名に視線を移し、演説を続けた。
初老の男から若い女性まで、みな、白装束を纏い、その上から暖かそうな上着を羽織っている。
今までどこにいたのか、その者たちは船が到着するや否やその場に整列し、身体を震わせていた。
大方、遅れた船の話を聞き、今までどこかの店にでも入っていたのだろう。
依頼を頼んだ人々を放っておくのもどうかと思うが、“ご存知の方”たちが別段驚いた様子をみせないあたり、この手際の悪さは毎年のことらしい。
「では、私はこれで……、」
「おお、御苦労様」
「……!」
解説を終えた女性の後ろから、一人の男が現れた。
恰幅のいいその男は職員の女性に軽く手を振り、全員の前に仁王立ちする。
「サルドゥの民の族長、ヤッド=ヨーテス=サルドゥ、です」
体格に似合った野太いが、どこか面倒そうに漏れた。
「先ほどの方が申していた通り、わたくしども、サルドゥの民は、毎年この時期に、儀礼を行います。これより、ここから南西、タイローン大樹海の末端に座すベックベルン山脈の麓、ガリオールの地へ赴き、打倒魔王を願うバオールの儀礼を取り行いたいと思います」
言い慣れたようなつらつらとした言葉の中に、聞き慣れない地名や用語がいくつか出てきて、アキラはそれを全て聞き流した。
覚えてられない。
要するに、とある場所に行って儀式的な何かをするということだろう。
「ええと……、本日は、わたくしどもの警護をお願いいたします」
依頼の内容は、至ってシンプルのようだ。
打倒魔王の願掛けをするために、彼らを守ってその場所に行けばいいらしい。
“しきたり”に縛られた世界では、こうした式典がよく行われるのだろうか。
アキラは何となく、町の南西を眺めてみた。
高い建物に囲われ賑わう町並みしか見えなかったが、遠そうな気もする。
本当に、今日一日で終わるのだろうか。
「それと……、」
ヤッドは言葉を吐き出し終え、その視線を集まった旅の魔術師たちに泳がせた。
「どちらの方が、“勇者様”なんだ?」
「っ、」
「え……、あ、はい」
演説用の口調を放り出したヤッドから、あっさりと出てきたその単語にアキラは身体を硬直させた。
そしてアキラが反応する前に、先ほどの職員の女性が一歩前へ出る。
何気なく寄っていたドラム缶から身を離し、旅の魔術師たちを眺め、ある一点で視線を止めた。
「あ、あちらの方です……!」
職員の女性は、恭しく頭を垂れた。
しかしそのお辞儀は、アキラには向いていない。
「―――、」
職員の女性に倣って全員が視線を向けたその方向、そこに立っていた一人の女性が、ゆったりと歩き出す。
先ほどの、オレンジのローブを羽織った少女だ。
少女は前に出ると振り返って一礼し、フードに手をかける。
「……、」
アキラはその光景に、口を開けない。
混乱のただ中だ。
“勇者様”が、呼ばれた。
それなのに、それは自分ではない。
これは、
「リリル=サース=ロングトンと申します」
フードの中から現れたその少女の顔、リリルの肌は、雪のように白く、人形のようだった。
そしてマリスのような、色彩の薄い銀の髪。肩ほどで短く切られているのが相違点か。
瞳も同色で大きく、オレンジのローブに良く映える。
「“勇者”を……、務めています」
透き通るような声が紡いだ言葉は、アキラの脳髄に刻まれた。
―――**―――
「とっもだっちひゃっくにんでっきるっかなーっ!!」
「魔術師って、戦闘不能になったら爆発するのかしら?」
「エレお姉さまっ!?」
エレナは隣の席で弾まんばかりに暴れるティアに睨みを利かせて黙らせると、そのままの瞳を目の前で立っている四人に向けた。
一度、ティアの部屋に顔を出したのは失敗か。
妙に人だかりができてしまった区間から離れて会話をしようとしただけなのに、尾行してきたティアの提案で、長話でもするようにこの喫茶店に入る羽目になってしまった。
まだ顔も微妙に赤いというのに、ティアは楽しげに対面に並んで座る四人を眺めている。
どうやら“勇者様”らしいスライクは、足を大仰に組み、ソファーの背もたれに手を伸ばし、態度も大きく最も奥に座り込んでいるが、残る三人の表情は硬い。
昼をとうに過ぎた古めかしいこの店は、立地のせいで日当たりが悪く、すでに暗い。
それにもかかわらず、昼時顔負けに賑わいを見せているのは、まばらな客さえが全員何事かと視線を向けるティアが要因だった。
彼女がもし絶好調ならば、流石に店員が止めに来るだろう。
ただそれも、“勇者様”がいなければ、の話だが。
「で、さっきの話の続きだけど、」
「あっしは、アルティア=ウィン=クーデフォンです!! 呼ぶときはっ、」
「次に私の言葉を遮ったときが、あなたの最期よ。ばーん、よ」
「うわわっ!?」
「っせぇガキだな……、」
「四面楚歌っ!?」
ティアはエレナとスライクの睨みを同時に受け、天井で回っている天井扇のような動きで、テーブルの下に隠れた。
「で、でも、自己紹介……、」
「あん?」
「あの、わたくしたちはコントを見るために呼ばれたのですか?」
「だからあんたと話してないでしょ」
「っ、」
修道服のようなローブに身を包んだウェーブの黒髪の少女、カイラに再びにらみを利かせ、今度はその隣に座る勇者、スライクに視線を送る。
エレナの視線を受け、表情を変えなかった相手は初めてかもしれない。
特に、媚びる視線ではなく怒りの視線の方は、今まで百発百中に相手を委縮させていた。
だが、スライクは下らなさそうに目の前のやり取りを不機嫌そうに眺め、体勢も崩したままだ。
「ちょっと、」
「先ほども申しましたが……、こちらの方はスライク=キース=ガイロード様。タンガタンザの“剣の勇者様”です」
「自己紹介ってさぁ……、“自己”を紹介するもんじゃないの?」
「貴女。落雷とかに遭うのではないですか? わたくしは心配でなりません」
カイラの言葉を聞き流し、エレナはちらりとスライクの横に立てかけてある剣を捉えた。
長身の彼の身体によく合った、大剣。
スライクはそれを無遠慮に眺めるエレナを睨み返すが、無言を保ったままだった。
「まあ……、んなことどうでもいいのよ」
「エレお姉さまっ、甘いマスクはっ!?」
「もっとインスタントな関係になると思ってたのに……、あんたが乱入してきたからでしょ」
「ま、まあ、いいじゃないですかっ、旅は道連れ世は情けっ!!」
風邪声でも、何とか関係を持とうとするティアに、エレナはため息しか吐き出さなかった。
甘い声など、もうほとんど必要ない。
情報を聞き出したり、無理難題を押し付けたりするときに使うあの表情は、必要に迫られなければ意味のないものだ。
特に、みなと旅をしている今では。
「俺は、マルド=サダル=ソーグです。アイルーク出身で、“杖の魔術師”なんてのをやってて、」
エレナが何も言わなかったからか、完全に自己紹介の場となったこの空気に、次は杖の男が軽い口調で名乗った。
流れで、出身も口にしている。
彼の隣には、スライクの剣と同じく立てかけてある杖。
先端に銀の宝玉の付いた深い茶色の杖は、エレナが力を入れれば折れそうだが、それでも重厚な造りのものだった。
彼の羽織っているローブには、そういう武器こそが相応しいのだろう。
「……、わたくしは、カイラ=キッド=ウルグス。モルオール出身で……、“召喚の魔術師”を務めております」
次に、面白くなさそうに呟いたのは、ウェーブの女性、カイラだった。
修道服のようなローブを羽織った彼女は、イオリのような召喚術士らしく、武器らしい武器を持っていない。
「おおっ、やはりっ、“そっちのパターン”でっ!?」
「なにそれ?」
カイラの自己紹介が終わったところで、ティアは再びくるりと回ってエレナの隣の椅子に座り込んだ。
「ふふふ、エレお姉さま、知りたいですか?」
「そっちのあなたは?」
「……ぇ、わたしですかぁ……、」
「エレお姉さまっ!?」
勿体つけるティアを無視し、最後の一人、最も小柄な少女にエレナは視線を向けた。
身体を包むプロテクターがやや不格好なに見えるほど、戦闘には不向きな雰囲気を醸し出している。
先ほど見た、ティアと並んで歩いている光景から、ティアより身体は小さそうだった。
明るい茶色の長い髪を、首の位置で縛っているが、その表情はその色と対極に位置している。
「わたしはぁ……、そのぉ、」
「ほら、頑張りなさい」
「は、はいっ、」
隣のカイラに呟かれ、小さな少女は、ようやく顔を上げた。
「わ、わたしはぁ……、キュー……ル=……、マグ……ウェル……、で……す……。そのぉ……、シ……リスティ……ア……の……、“盾の……ま……、」
「は?」
「キュール=マグウェルですっ、シリスティアですっ、“盾の魔術師”ですっ」
そこが声の限界なのか。
普段のティアの声量の半分にも満たないか細い声を吐き出したキュールは、再びもじもじと、テーブルに目を落とす。
自己紹介程度にもかかわらず、何を泣きそうになっているのか。
ただ、少なくとも、彼女に“盾”は見当たらなかった。
「まあ……、覚えてらんないわ」
「エレお姉さまっ、あっしはばっちし記憶しましたぜっ!! ちなみにあっしはアイルーク出身です!!」
「で、さっきから何? “剣の勇者様”だの“杖の魔術師”だの」
「先ほどからの仕打ちがっ、胸にっ、グサリとっ!!」
「黙りなさい」
やはり無理にでも宿舎に戻すべきだった。
一向に話が進まない元凶を、エレナは睨みつける。
ときおり小さくコホコホとせき込んでいるのだから、なおさらだ。
「……ええと、ご存じないのですか?」
「?」
ウェーブの女性、カイラがどこか得意げにエレナに視線を向けてきた。
面白くないが、要所要所でちゃちゃを入れるティアがいる以上、黙っていた方が話は進むだろう。
「“剣”、“杖”、“召喚”、“盾”って、初代の勇者様のパーティで猛威をふるったと言われる四人の戦闘スタイルなのですよ?」
「……、」
「“二代目の勇者様”のパーティも、そういう四人だったと聞き及んでいます」
「ふーん……、」
言われてみれば、そんなようなことを聞いた気がする。
歴史には恐ろしいほど興味がないエレナも聞いたことがあるのだから、相当有名な話なのだろう。
そして、恐らくそれも、“勇者御一行”たる条件なのかもしれない。
「でも、マジかっけー自己紹介ですよね……。あっしもこれからはっ、何かっ、」
「あんたが妙なことをやり出しても私は絶対やらないわ」
「それでは統一性がっ、」
「すみませんが、」
ティアが喚き出そうとしたところで、カイラがそれを遮った。
「それで、あなたは?」
「……、私?」
「そうですよ。自分だけ言わないなんて、」
「ほらぁ、言われたじゃないですか」
「っ、」
ティアの口を塞ごうとした腕をぐっと押さえ、エレナはため息一つ吐き出し、いぶかしげな視線を向けてくるカイラに初めて視線を向けた。
名前一つ言う言わないで話が長引くのは、やはり馬鹿らしい。
「私はエレナ=ファンツェルン、よ。シリスティア、ね」
「……、シリスティアの……、ファンツェルン……、ですかぁ……?」
エレナが口を開いた瞬間、か細い小さな声が届いた。
恐る恐ると言った小柄な少女、キュールの口調に、しかしエレナは機微に反応する。
「……、何?」
「っ、なんでもっ、ない……、ですぅ……、」
「エレお姉さまっ、キュルルンを虐めないで下さいっ!!」
「……ぇ、」
キュールにとって、エレナの睨みより、妙な愛称を付けられている方が衝撃だったようだ。
キュールは儚げな表情を満面の笑みのティアに向け、おずおずとした表情に変える。
「キュール? この女性のことをご存じなのですか?」
「ぇ……、そのぉ……、あのぉ……、違うかもぉ……、なんですけどぉ……、」
「……、」
「ぇ……、ぁっ、」
エレナが視線を送ると、それだけでキュールは黙り込んだ。
別に隠し立てしいることでもないが、今はそんなことはどうでもいい。
それよりも、話を進めなければ。
おどおどするキュールをなだめるカイラもさることながら、
「勇者様、なんですよねっ、」
「あ?」
「えっと、アルティアちゃん、だっけ?」
「いやいやいやっ、あっしのことは……、はっ!? アルちゃんという新たな愛称が今誕生しましたっ!!」
今度は残る男二人、スライドとマルドに、にこにこと人懐こそうな顔を向けているティア。
スライクは相変わらずの無愛想を保っているが、マルドはどこか楽しげだ。
一体何なのだろう、この状況は。
「……、で、」
緩みきった状況を打破すべく、エレナは強めにコンコンと机を叩いた。
「さっきの話、聞かせてもらえる?」
今の問題はこっちだ。
道中聞いたところによると、昨日彼らが追い返されたという村は、どうやら今アキラたちが向かっている場所であるのは間違いないらしい。
エリーが残した、依頼書の写しの、依頼主。
それは、彼らが口走ったカトールの民、だったことは覚えている。
「それが聞いて下さいよ、」
ティアの影響で緊張がほぐれたのか、今度はマルドが声を出した。
「俺ら依頼を受けて、船着き場で護衛する荷物待ってたんですけど、来なくて来なくて」
初対面のときより、遥かに口調が軽い。
これが彼の素なのか、ティアの功績なのかは定かではないが、話はようやく進むようだ。
「それに寒くて……、時間になった瞬間帰ろうとしたスライクを止めてたんですけど……、流石に限界で、」
「かっ、それもこれも、こいつが訳の分からない依頼受けてくるからだろうが」
「言い訳になりますが、わたくしのせいだけではありません。あそこまで時間に不確かな依頼が世に存在するとは……、きっとサルドゥの民にも、天罰が下ることでしょう」
「なんでカイラはそんなに天罰下したがるの? 修道院でもそんなことしてたの?」
口の軽くなったマルドの視線を受け、カイラは小さく咳払いをする。
やはり服装そのままに、カイラは修道院出なのだろう。
エレナたちは最短ルート上の場所しか回らなかったが、モルオールにはそういう場所が多いと聞く。
「……、」
だが、そんなことはどうでもいい。
問題なのは、目の前の“勇者様”が本物だとして、その依頼を受けたという事実。
「あなた、属性は?」
「あ?」
「日輪です。正統派の勇者様ですよ」
睨むばかりで答えを返さないスライクの代わりにカイラが口を挟んだ。
「……、」
やはり。
その返答を聞きながら、エレナは小さくそう呟いた。
そして、そうだとするなら、やはり気になることがある。
アキラたちも、その依頼を引き受けているのだ。
くじ引きの結果、どうなったかは知らない。
だが、引き受けたという事実が問題なのだ。
“刻”を刻む日輪属性の者が、その依頼には二人も介入していることになる。
エレナはちらりと、外に視線を向けた。
立地から、太陽はまともに見えないが、日は大分傾いているだろう。
もう彼らが受けることを放棄した依頼は、始まっているはずだ。
「……、なんか“意味”があるのかもね……、その儀式」
「エレお姉さま?」
エレナは、すっと立ち上がり、正面に座って並ぶ四人を見下ろした。
「あなたたち、もういいわ。私、ちょっと用事できたから」
「ちょっ、」
「それと、」
何か言い出しそうだったカイラを遮って、エレナは視線をティアに移す。
「ティア、あんたは戻って寝てなさい。そんだけ元気があれば、留守番くらい一人でできるでしょ」
「ええっ、」
「ちょっと待っていただけますか!!」
「ぅぅ……、押さえて下さいぃ……、」
適当に財布を取り出して代金を置こうとしたエレナを、とうとうカイラは大声で止めた。
ローブの裾を泣き出しそうなキュールに再び掴まれるが、今度はそれを振り払う。
いよいよ我慢できない。
この、傍若無人なエレナの振舞い。
“そんなことが許される人間”ではないはずなのに、何故こうまでも、“勇者様御一行”を“勇者様御一行”と扱わないのか。
そんな人間、今まで一度も会ったことはない。
「貴女、先ほどから失礼過ぎませんか? この方は、“勇者様”なんですよ?」
「いちいち騒ぐな。めんどくせぇ」
「スライク様!! “勇者様”であるという自覚を持っていただけますか!!」
カイラとて、意地がある。
自分たちは、世界を救うという栄誉ある旅をしているのだ。
カイラは怒気の混ざった瞳をエレナに向けた。
「うるさいわよ、あんた。そこの白髪が勇者だからってなんなのよ?」
「貴女はっ、どこまでっ!! っ、スライク様も、何か言ってやって下さい!!」
「っせぇ、騒ぐな」
「あああっ、わたくし発狂しそうです!!」
エレナとスライクの言葉に挟まれ、カイラは大げさに髪をかき乱した。
その様子も乾いた瞳で捉え、エレナは身体の向きを表へ向ける。
もうすぐにでも、この場から立ち去りそうだ。
「なによ? 情報のお礼に、ここは私が奢るわ」
「そっ、そういう話ではなくて、」
「だから、なによ?」
「っ、」
カイラは言葉に詰まった。
エレナは一切表情を変えずに、ただ淡白に見返してくる。
確かに、彼女の態度を除けば、この程度の情報の礼としては差し出された代金で十分だろう。
別に急ぎの用もない。
だが、その態度が、どうしても、だ。
別に勇者様御一行に媚びへつらえと思っているわけではないが、それでも、誰もが勇者様には敬意を向けてきたというのだから。
「私さぁ……、“しきたり”がらみで態度変えるの、嫌いなのよね。最近無駄に高圧的な奴に逢ってさ。大して役に立ってもないのに偉いとか、イライラするのよ」
エレナは立ったまま、カイラを見返してきた。
その“無駄に高圧的な奴”が誰なのかは知らないが、エレナの表情からするに、余程気に入らない奴だったのだろう。
「でも、」
「ふふふっ、カーリャン、」
「っ!?」
エレナに向けた視線の外から、途端妙な言葉が聞こえてきた。
わざわざ視線を向けるまでもなく、その声の主は、ティアと呼ばれていた少女だ。
「実はあっしたちはですねぇ、」
「ティア、余計なこと言わなくていいわ。別に私は、“そう”だからってこういう態度をとってるわけじゃない」
「エレお姉さま……、マジかっこいいです!!」
「? いや、聞きたいんだけど、」
ティアの態度に、マルドが身を乗り出す。
カイラも自然と、そちらに視線を移した。
全員の視線がティアに向き、エレナが諦めたように小さくうなずいたところで、
「あれはあっしが、シーフゴブリンに盗まれた指輪を探しに行ったときのことでした」
しなくてもいい説明を、ティアは時間を遡ってから語り出すという暴挙に及んだ。
―――**―――
「まだ言っていないのかな……、アキラは」
「え?」
クラストラスからもうすでに大分離れた草原の中。
エリーの身の丈ほどもある巨大な車輪の横、隣を歩くイオリが久々に口を開いた。
夕日に染められている、薄汚れた白い布のその馬車は、黒い馬十二頭総出で引かれている。
最初はエリーたちも馬車の外に掴まりながら移動していたのだが、徐々に岩が増えてきたせいで足場が悪くなってきたこともあり、結局は歩くことになってしまった。
家が一軒は入りそうなほど巨大な車内の中には、船から下ろされた神具が入っており、エリーが小耳に挟んだところによると、馬車内の面積を大きく占める大きなやぐらや、舞台のようなものらしい。
馬車の周囲には、依頼を受けた旅の魔術師が十名ほど並んで歩いている。
全十九名の依頼のはずだったらしいのだが、結局戻って来なかったらしく、この数名に落ち着いてしまった。
クラストラスに残ったあの職員の女性が、どれほど船が遅れるか全員に通達しなかったゆえの結果らしい。
手際の悪さを感じたのは、船の到着の遅れうんぬん以前に、あの女性に原因があるのかもしれない。
だが、その程度のことは、歩いている旅の魔術師たちにとってはどうでもいい。
問題なのは、今、馬車に乗っている存在。
“勇者様”。
あの、リリルと名乗った、色白の女性の存在が、脳裏に刻まれている。
そして、さらに一人の男が馬車の中に乗り込んで数時間。
サルドゥの民が乗っている馬車の中から、一向に戻ってくる気配がない。
「はあ……、どうせ中でサボってんでしょ。ほんっと、何考えてんだか」
馬車の中に乗り込んだ男、アキラが入った馬車を眺め、エリーは極力大きな声でそう発した。
馬の足音や車輪の音のせいで中に声が届くことは叶わないだろうが、それでも文句の一つくらいは言いたい。
初めて逢う、自分以外の“勇者様”に、アキラはしきりに興味を示していた。
ヨーテンガースに来た以上、いずれは逢うことになるとは思っていたが、まさか同じ依頼を引き受けていたとは。
エリーですら猛烈に意識しているというのだから、アキラが興味を示すのは当然のことなのかもしれない。
だが、話好きで女好きのあの男のことだ。
大方、あのリリルとかいう女と鼻の下を伸ばして話し込んでいるのだろう。
あの女性はサルドゥの民に促されて馬車に乗り込んでしまい、どこか話しづらい空気を持っていたが、アキラには人の心を開く日輪属性のスキルがある。
本当にあの男は、タチの悪い力しか持っていない。
「えっと……、疲れてない?」
「……え、あ、はい。ありがとうございます」
今すぐにでも車輪を殴りつけたい衝動を抑えていたエリーの前から、ブロンドの長髪をそのまま背中に垂らしたローブの男が近づいてきた。
「びっくりだよね、“勇者様”がいるなんて、」
エリーの返事を聞き、二言三言会話をすると、柔和な頬笑みのまま今度は馬車の後続の魔術師たちの元へ歩き去る。
こうして彼が様子を見に来たのも何度目か。
歩くようになってから、頻繁に周囲を回ってはその度先頭に戻るその男、ラースは、自分も疲労が溜まりつつあるであろうに周囲への気遣いを損なわなかった。
「ほんっと、天と地。あのバカはサボって馬車の中で楽してるってのに」
「“勇者様”も、そこにはいるんだけどね、」
「…………、彼女も同じです」
「……、」
僅かな沈黙ののち、エリーはあのリリルという“勇者様”も同じくくった。
小さな村で育ったエリーは、勇者様は絶対の存在だと認識を持っている。
それは今も変わらない。
だが、どうしても、あのリリルという女性は好きになれない。
「……まあ、この依頼は荷物護衛というより、サルドゥの民の護衛。アキラも、さっきの彼女も、サルドゥの民を中で守っているって思えば、それほどサボっているというわけでもないさ」
「イオリさん、包容力ありすぎですよ」
というより、放任主義というべきか。
だが確かに、現れる魔物はこの人数に太刀打ちできず、馬車の足を止める必要も無いほど速やかに討たれている。
十数回は襲われていると思うのだが、その内エリーたちが参加できたのは二、三回ほど。
依頼の方は、至って順調だった。
「まあ、一応“勇者様”という地位を考えれば、それ位の待遇にはすべきなんだろうけどね。僕たちが特殊なだけさ」
イオリの言葉に、エリーは面白くなさそうに口を尖らせた。
「でも、どうせあいつの方は、自分が“勇者様”ってこと、隠したいとか思ってますよ」
「?」
「どうせ、実は俺も“勇者様”だった、みたいな感じにしたいとかで、ね」
エリーは馬車の中で交わされているであろう会話を想像しながら、呆れた表情のままその色の声を出した。
「なんだ」
「? なんですか?」
突如苦笑したイオリに、エリーは怪訝な顔を向けた。
ゆっくりゴロゴロと回る車輪の隣、イオリは、どこか面白そうにエリーを見返してくる。
「分かってるじゃないか、って思ってね。アキラが考えていそうなこと」
「……、」
面白くないところを突かれ、エリーの表情はますます不機嫌になる。
だがそれは、やはり、誤っているのだ。
「分かりませんよ……、ぜんっっぜん」
エリーはちらりと、イオリを見て、そののち視線を先頭のラースに向けた。
アキラはいつも、能天気に笑っている。
まだアキラが馬車の外にいたとき、自分はラースと話していた。
会話は思ったよりも弾み、出身や属性のことにまで話は及んだ。
多分、自分は笑っていただろう。それも、楽しげに。
長年旅をしているだけはあって雑学も多彩な彼の話は面白かったのだから。
魔物が出てくるようになってからは、彼は先頭を歩くようになってしまったが、それまでずっと、エリーは笑って話していた。
それなのに。
ふと振り返れば、アキラはイオリと普通に話していたのだ。
そしてやはり、楽しげに。
こちらを見もせずに、だ。
「ほんっと、何考えてんだか……」
「? エリサス?」
「……、エリーでいいですよ」
「いや、人を愛称で呼ぶのは慣れなくてね……、」
イオリは苦笑しながら、おもむろに魔道士のローブから投げナイフを取り出し、草の背が高い場所に投げ入れた。
グレーの光が漏れたと思えば、その草むらの中から小さな爆発音が聞こえる。
それが、一行の隙を狙っていた魔物の最期だということは容易に見てとれたが、緩みきった空気に振り返らない者すらいた。
「一応世界最高峰の激戦区の大陸だから警戒していたけど……、この分なら“ヨーテンガースの洗礼”は受けなくて済みそうだね」
「……今から行くベックベルン山脈は結構危険ですよ。……侵入だけはしないで下さいね」
「ああ、気をつけるよ」
“ヨーテンガースの洗礼”。
それは、この地にいる魔物の力が高いことを示した言葉だ。
流石に魔王の牙城がある大陸だけはあり、魔物のレベルは格段に上がる。
それも、他の大陸で見た同じ魔物ですら、力が違うのだ。
その油断から生まれる隙でも、旅人は手痛い洗礼を受けることとなる。
眼前に迫っている険しい山は、その代表格になりうるだろう。
だが、イオリは、流石魔道士というべきか、クールに笑ってそれを眺めていた。
「……、」
イオリは凛として、振り返った者たちに、問題ない、と軽く手を振る。
エリーがよく見る表情だ。
だがエリーは、もう一つの彼女の顔も知っている。
イオリはもっと、笑えるのだ。
特定の場所で、だが。
「そういえば、エリサスの地元はここなんだよね? マリサスも」
「……、ええ」
ここまでの旅路で何となく交わした情報。
ただ、イオリの言葉を肯定するのに、エリーは僅かに時間がかかった。
「この辺りなのかな?」
「いえ、もっと南です。タイローン大樹海を超えた先」
「魔王の牙城の近くで?」
「いや、流石に結構離れてますよ。山に囲まれた、小さな村です」
イオリのハキハキとした言葉に、エリーは無感情のまま返す。
表情も変えないイオリの中は、相変わらず見えない。
一体今、彼女は何を考えているのだろう。
「それで、アイルークに?」
「ええ……。両親が……、その、いなくなってからは……、縁があったらしい孤児院に」
「そうか……、すまない、妙なことを聞いて」
「い、いえ、もう終わったことですから」
エリーの無表情をそう取ったのか、イオリは小さく目を瞑った。
両親が他界したのはもう済んだことだ。
とっくに乗り越えた、過去の出来事。
それよりも、今は、
「イオリさんは、あいつと同じ世界から来たんですよね?」
「ん? アキラのことかな? そうだね……。世界というものがいくつあるのかは知らないけど……、話を聞く限り、彼がいた世界は僕のいたそれと同一のものみたいだ」
事もなげに、道中の会話を繰り返す。
これも、意味のない話だ。
ただ、場をつなぐためだけの。
何故ならイオリは、自然に話していないのだから。
「アキラからはあまり聞いていないんだっけ? 彼らしい」
「え、ええ、あいつはそういう話は下手ですよね」
エリーはイオリに重ねて同意した。
あの男といえば、知っているのはどうでもいいような雑学ばかり。
異世界の歴史というものに少しは興味があったのだが、その辺りのことはアキラも理解していないらしく、要領を得ない言葉が返ってくる。
「そうだね……。当時高校……、義務教育というものが終わったあとに入る学校だけど、そこにいた僕よりそういう面では疎いらしい」
「イオリさんから見ても、やっぱりそうなんですか?」
エリーは重ねて同意した。
「まあ、機会があったら、今度話すよ」
「……ええ、お願いします」
苦笑するイオリを見ているのを何となく避けたくなり、エリーは視線を外した。
彼女は本当に、彼を知っている。
胸の中のわだかまりは膨らむばかり。
エリーが視線も強く馬車を睨んだところで、またも魔物が現れた。
どうやら今は、依頼に集中した方がいいらしい。
―――**―――
「いやあ、やっぱり兄ちゃん面白いねぇっ」
「い、いや、あの、」
「はははっ、おっと、カップが空だ……、マーズ! お代りを!!」
目の前の男は、ヤッドと名乗ったサルドゥの民の族長だ。
大柄な体躯に、無精髭。
恰幅のいい身体の中にはそれ相応の量のお茶が入っているはずなのだが、マーズと呼ばれた女性に運ばれてきた液体をグビグビと飲み、再びカップを空にする。
「ごめんなさいね、うちの人、話好きで」
「い、いや、」
「おっとアキラ君、君もお代りを貰いなさい。マーズ!!」
「はいはい、分かってますよ」
アキラの止める間も無く、ヤッドにカップをさらわれ、マーズがそれを馬車の隅の樽に運んでいく。
黒い長髪を装束の上で束ねた妙齢の女性の背を見ながら、アキラはため息を吐き出した。
年齢のわりには妙に若々しいその女性、マーズは白い装束のみを纏い、憂鬱な表情を浮かべてカップに茶色い液体を注ぐ。
普通のお茶のはずなのだが、上機嫌なヤッドの様子にアルコールでも入っているのかと疑いたくなる。
自分が“勇者様”に興味を示してこの中に入り込んだのは一体いつからだろう。
てっきり“勇者様”への対応が見られると思っていたのだが、それはほとんど無駄だった。
他のサルドゥの民は広い馬車に腰を下ろし一歩離れていたが、ヤッドはほとんどアキラに接するのと同じように、リリルと話しこんでいたのだから。
アキラが入ってくる前は、彼女がヤッドに掴まっていたのだろう。
ちらりと視線を移せばリリルはヤッドから離れ、馬車に背を預けて座っている。
室内で見ても色白のその少女はただ沈黙し、アキラとヤッドの会話を盗み見ていた。
話すチャンスは、完全に失われている。
今度は馬車の後部に視線を移し、アキラはそこに座す大荷物を見据えた。
その場所には白い布を被せられた巨大な物体。
ヤッドの話によると、そこには儀式に使うやぐらや神具が入っているそうだ。
「いや、俺も乗せるとき見たが、今年は見事な造りだったなぁ……。タンガタンザ製の特注品」
その話は、一体何度目か。
自分がここに入ってきたときも、ヤッドはリリルにそんな言葉を投げかけていた。
アキラは借りてきた猫のように委縮し、ヤッドの話をひたすら聞く。
馬車の隅に背を預けているのだが、揺れる車内に打ち付けた腰がそろそろ痛い。
だが、離脱しようにも、それを塞ぐようにヤッドが正面で胡坐をかいているのだから動きようもなかった。
残るサルドゥの民も、そして恐らくリリルも、アキラに同情的な視線を向け、しかしヤッドに絡まれるのを危惧してか、遠くで大人しく座っている。
今頃外では何が起こっているだろうか。
車内の前方についている窓から、外の様子を覗き見ようにも、小さな窓からは運転手の背中しか見えなかった。
ときおり、外の魔術師の声や、魔物の爆発音が聞こえてきているのだが、馬車の足は止まらない。
どうやらアキラが介入する前に、依頼は順調に進んでいるらしい。
「アキラ君、君は、タンガタンザに行ったことがないんだったね?」
「え、ええ、まあ、」
「あそこの技術はすごいぞぉ……。製鉄に関しては世界一だ」
それも、かなりの数聞いている。
隣に立てかけてあるアキラの剣を見ては、是非一度行くべきだと何度言われたことか。
都合上、アキラはアイルーク出身ということになっているのだが、もう今後、会話としてヤッドに自分の出身を語る機会は失われているのだろう。
「そうだ、見てみるか? あの中のやぐらは、」
「っ、あなた!!」
立ち上がりかけたヤッドに、ついに我慢できなくなったのか、鋭い声が飛んだ。
あたふたとするばかりのアキラの前、ヤッドの肩を上から押さえ付けたのは、先ほどからお茶くみに殉じていた、マーズ。
いよいよヤッドに我慢ならなくなったらしい。
「あれは儀式のときに出すんです!! “勇者様”への非礼といい、いい加減に、」
「分かってるって、俺を誰だと思ってる? サルドゥの民を束ねるヤッド=ヨーテス=サルドゥ様だぞ?」
今立ち上がりかけた男の言うことか。
ヤッドを上から抑えるマーズも、アキラと同じ視線を向けていた。
「あなた、アキラさんも“勇者様”に挨拶に来たんでしょうから、」
「ちょ、おい」
マーズは手慣れた様子でヤッドを引きずっていく。
それを見ながら、ようやく解放されたアキラは、姿勢を崩した。
硬直していた身体がパキパキと鳴る辺り、外で歩いていた方が幸せだったかもしれない。
「はあ……、」
「……助かりました」
だらけるような姿勢のアキラに、今度は今まで沈黙を守っていたリリルが近づいてきた。
銀の髪に、それと同色の瞳。
今、自分の隣に腰を下ろした小柄な少女は、“勇者様”、だ。
「私も、動きがとれませんでしたから……。あなたが来なければ、」
リリルは小声で囁いた。
アキラが来なければ、リリルはヤッドに捉まったまま、延々と同じ話が繰り返し続いていたのだろう。
リリルとバトンタッチした形のアキラには、それ相応の情報が脳に刻まれていた。
まず、今から向かう、ベックベルン山脈のガリオールの地で、舞台をセットする。
そしてその舞台で、打倒魔王を願い、バオールの儀式を行うのだ。
何でも毎年行うことが恒例となっているらしく、由来は定かではないとのこと。
その辺りのことを、アキラは、五、六回ほど語られ、今では軽くガイドの真似もできるだろう。
ついでにここにいる面々はサルドゥの民の代表だとか、かつてヤッドは旅をしていたが婿養子になって族長を務めているだとかの予備知識付きだ。
ミドルネームを付けることが通例となっているサルドゥの民になるときに、自分に地名に由来した名前を付けた、だとかも聞かされ、アキラにもう、隙は無い。
「ええと、アキラさん、でしたっけ?」
「あ、ああ、はい。“勇者様”、ですよね?」
「止めて下さい、そこまでの敬いは求めません」
アキラの言葉に、リリルは首を振った。
だったら“勇者様”と名乗らなければ良かったのはないか、とも浮かんだのだが、アキラは頷くだけで返す。
今は、“勇者様”というだけではない親近感が生まれていた。
「……まあ、そう言ったから、彼は嬉々として語り出したんですけれど、ね……、」
リリルは疲労が溜まったような表情を浮かべた。
やはり同年代のようだ。
それだけに、やはりヤッドの話は辛かったのだろう。
自分と同じく。
アキラも同じ表情を作り、向こうでマーズに叱りつけられているヤッドを盗み見た。
同じようにヤッドを見やるリリルの横顔は、船着き場で見た凛とした表情より、遥かに和んでいる。
もう一つ、親近感を覚えた。
「あの、一人でこの依頼を?」
「……ええ、私は一人です。“三代目の勇者”、レミリア様をご存じでしょう?」
「……ごめんなさい」
「……何故謝るんですか?」
知らないのだ。
そんな歴史は。
何せついこの間まで、勇者が大量にいるなどということを知らなかったのだから。
アキラは、“七曜の魔術師”を集めるパターン。
聞いた話によれば、“初代の勇者様”と同様らしいが、知っているのはそこまでだ。
勉強より身体を動かすことを選んだアキラは、今、この世界の歴史は延々とヤッドが語ったサルドゥの民の歴史しか知らない。
「まさか、」
「ごめん……」
「……、謝られると、私が悪いことしているみたいになるんですけど……、知らなかったんですか……」
僅かに口調が軽くなったリリルは、指を一本立てた。
「女性でありながら……、たった一人で魔王を討った勇者様。証もなく、誰の力も借りずに、ですよ」
すごいでしょう、とでも言っているように、リリルは得意げに笑う。
アキラはある種気迫のようなものを感じ、頷いて肯定した。
確かに、一人旅は過酷なものであったのかもしれない。
そして、それに倣う、リリルも過酷な旅をしているのだろう。
「……リリルさんもすごいじゃないですか」
「敬わないで下さい。あくまで“自称”、です」
「っ、じゃあ、リリル?」
しきりに敬意を跳ね除けるリリルに気圧され、アキラは口調を崩した。
リリルは満足げに頷いたが、アキラには違和感が残る。
それほど敬われるのが嫌なら、何故、自分は“勇者様”だと名乗り出たのか。
「……、言わないと、駄目なんです」
「……?」
アキラの疑問を察したのか、リリルはどこか遠い目をした。
「誤解している方もいますが……、“勇者様”の名の持つ意味は、人から敬われるものだけではありません」
「……、」
そこで、アキラもおおよそ、話の流れが読めた。
あの、アイリスという神と出逢った町、ヘブンズゲート。
そこで自分は、憎悪を宿す者たちを見た。“勇者様”の旅というものがどういうことか理解したはずだ。
「勇者と名乗れば、敬われることを代償に大きな期待がかけられます。勇者は自称で事足りますが、暴利を貪る者もその重圧で逃げ出すんですから」
「……、」
「勇者であれば、それら総てを受け止めなければ……。不自然なまでに敬われるのは、苦手ですけどね、」
アキラは沈黙した。
それはまさに、普段自分が勇者と名乗らない理由だったのかもしれないのだから。
気恥しさより何より、アキラは期待をかけられるのに苦痛を覚える。
そして今、完全に、自分も“勇者様”であると言い出せない空気が完全に形成されていた。
「ですから私は、勇者と名乗るのです。……今は依頼の“本番”に備えてしまっていますけど、」
「……あ、」
リリルの言う、依頼の“本番”。
その事実をアキラはヤッドとの会話で知っているのだが、エリーたちは知らないだろう。
やはり、伝えにいかなければ、
「でも、不思議ですね、あなたは話しやすい」
「っ、」
立ち上がろうと思っても、話が続き、それは遮られる。
先ほどはヤッドに。今度はリリルに、だ。
アキラは諦めて、動きを止めた。
どうせ、“手遅れ”だ。
「言葉がすらすら出てきて……、失礼ですが、属性は……?」
「いやっ、話し上手聞き上手って言われるんだっ、」
アキラはいつかのサクのときのように言葉を濁した。
「……まあ、どの道、私が守り切ってみせます。それが、勇者の務めですから」
「偉いっ!!」
もう解放されてしまったのか、ヤッドがリリルの言葉に呼応し、笑いながらアキラたちに近づいてきた。
その足元がときおりふらついている気がするのは、馬車が揺れているからであると信じたい。
「いやいや流石に勇者様だ!! 必ずや、魔王を倒してくれ!!」
「はい、そのつもりです」
リリルが視線も逸らさずにヤッドに返す。
それは、期待を受け入れるという彼女の姿勢の表れだろう。
アキラはその様子を、黙って見ていた。
やはり、言い出せない。
―――**―――
「……じゃ、じゃああんた、知ってたわけ?」
「いや、伝えようとは思ったよ。だけど、抜け出すタイミングが見つけられなかったんだ……!!」
パチパチと燃えるたき火の前、アキラの大げさな肯定に、エリーは拳をわなわなと震わせた。
去年もこうして使われたのか、切り倒されていた大木に腰をかけ、正面の男を強く睨む。
ベックベルン山脈と、今まで歩いてきた平原の境。
カリオールの地には、サルドゥの民と旅の魔術師たちを併せて二十名を超える大人数がつめ寄せていた。
周囲を険しい山道の入り口と、森林で囲われたその開けた場所。
その南部に、アキラたち三人は座り込み、背後にある開けた儀式の場に魔物が近づかないよう見張っていた。
すでにどっぷりと日の沈んだ夜空には無数の星が浮かんでいるのだが、流石に光源としては心許なく、周囲はただたき火のみに照らされている。
ヨーテンガースを二分するタイローン大樹海ほどの規模ではないとはいえ、その森林は、馬車の通り道以外の陸路をほとんど奪っていた。
アキラたちの守っている地点は、正面からベックベルン山脈が始まり、その直前に二十畳ほどの舞台と、その奥に設置された儀式用の巨大なやぐらが未だ白い布を被されている。
この、儀礼を行う場所、ガリオールの地に着くや否やサルドゥの民が準備を進めただけはあり、今すぐにでも儀式を始められそうだ。
木々の向こうに、整った舞台と、その近くに停めてある馬車が僅かに見える。
ただ問題は、その開始時間だった。
「バオールの儀式は夜明けと共に」
たき火に照らされたアキラの顔は、微妙に得意げになっていた。
「俺たちは今からここで野宿しながら、夜の見張りをするんだよ」
「っ、妙に詳しそうね……!!」
エリーは、アキラの言葉に歯をかみしめながら返した。
先ほど簡単な説明を受けたばかりだというのに、事態をより良く把握しているアキラは、事もなげに声を出す。
「まあ、少ないけど夕飯はくれたし、大丈夫だろ?」
アキラは先ほど分配されたスナック菓子のような軽食を持ち上げ、楽天的に振舞っていた。
「どうすんのよ!? マリーたちに何も言ってないのよ!?」
「いや、もう遅いし……、俺に言われても……、」
ついに叫んだエリーは、頭を抱えた。
自分たちは、どうやら依頼の、一日中、というものを誤解していたようだ。
すなわち、朝から夜まで、と。
しかしその実態は、朝から朝までだったらしい。
この距離を移動していたときから、クラストラスに戻れるのは日付が変わる可能性もあるとは覚悟していたが、まさか本当に翌日になるとは。
安全面から考えて、大人数で行うにしては高額なこの依頼には、それだけの意味があったようだ。
依頼を受けた魔術師たちの中には、知らない者もいたようだったが、ここまで休憩なしで歩かされた疲労から、非難を上げる者はいなかった。
今はアキラたちがいる南部以外の三方で見張りを始め、思い思いに座り込んで護衛を始めているだろう。
“勇者様”ことリリルは、日中休んでいただけもあり、中央で遊撃を務めているが、他の面々は疲れが溜まっていた。
かくいうエリーも足は痛む。
だがそれよりも、目の前の男に対する怒りの方が強かった。
この事態が、あの船着き場で会った要領の悪い女性のせいかは定かではないが、どの道もう戻れない。
手遅れ、だ。
「ほんっとに、あんたは……!!」
「まあ、今更言っていても仕方ない。それよりアキラ、テントを組み立てるのを手伝ってくれないか?」
「ん? あ、ああ、」
「っ、」
イオリに言われ、アキラは立ち上がった。
イオリは簡単な寝袋と、木に繋げば囲いになりそうな大きい布を持っている。
先ほどサルドゥの民に配られたそれらは、この場で寝泊まりできる、簡易なテントだ。
「ある意味“ヨーテンガースの洗礼”だね……。魔物だけじゃなく、依頼でも苦労しそうだ」
「……あ、悪い、そっち引っ張ってくれ」
「ああ」
テキパキとテントを組み立ていく二人を見ながら、エリーは軽く眼を擦った。
しかし、移動中ずっと馬車に乗っていたアキラは元より、イオリは表情一つ変えずに動き続ける。
彼女は自分よりも早く起きて朝の鍛錬に参加していたというのに、ここまでの旅路での疲労はさして無いようだ。
「それよりどうだった? “勇者様”は?」
「いや……、“勇者様”って感じだった」
「っ、アキラ、会話を成立させる気はあるのかな?」
呆れたようにため息を吐き出すイオリは、しかし笑っているようにも見えた。
「あの、あたしも手伝いますよ」
「……いや、もう大丈夫だ。エリサスは疲れたろう? もうすぐ、……ってアキラ。何故その木にそれを結んでいるのかな?」
「え? あ、お前こういう感じにしようと思ってたのか……!」
「はあ……、まあ、いいか。それでも」
エリーが介入する前に、テントができ上がってしまった。
たき火から僅かに離れたそれは、テントというより単なるしきりだが、一応は中が覗けないようになっている。
それだけで一杯になってしまうほどの小さなものだが、中には二つ分の寝袋が適当に転がされていた。
「よし、エリサスは休んでいてくれ。次はアキラのテントを作ろうか……。最初の見張りはアキラでいいだろう?」
「いや、俺、寝なくても大丈夫そうなんだけど……」
「っ、君は朝のアルティアの話を覚えていないのかな……?」
「あの!」
苦笑交じりにテントを作り始めるイオリに、エリーは僅かに大きな声を浴びせた。
「あ、あたしも手伝います」
「……、お前疲れてそうじゃん。最初の見張りは俺やるし、休んでろよ」
返ってきたのはアキラの声だった。
エリーは踏み出す機会を逃し、ただ茫然と、二人の作業を眺める。
蚊帳の外。
今の状況今日はそう説明できるのだろうか。
身体を襲う疲労感も手伝って、もう一つのテントができるまで、エリーは一言も発さなかった。
「……、」
倒れた木に座り込み、今度はぼうっと、たき火の日を眺める。
アキラとイオリは、未だ、作り終わったテントの近くで話していた。
疎外感。
そんなものを覚える。
彼らの話は、自分が介入してはいけないようなものなのだ。
誰だって、そういうものはあるのだろう。
例え共に旅をしているメンバーでも、そういうものは存在する。
だが、どうも、そんな仲間は遠くに感じるのだ。
旅を始めた当初、何も知らなかったアキラは、しきりにこの世界の話を求めていた。
それなのに、何も知らない彼は、いつの間にか、自分の知らないことを知っている。
もう彼に、自分の声は届かないのだろうか。
「どうせなら……、最初から遠くにいなさいよ……」
小さく呟いたその言葉は、たき火の音に溶けていった。
「こっちは、大丈夫かな……?」
「……!」
足音が聞こえたと同時、そんな言葉が聞こえてきた。
立ち上がるのも億劫で振り返ったエリーに、一人、森林からブロンドの長髪の男が姿を現す。
肩にはズタ袋のようなものを提げ、柔和に微笑んでいた。
「あれ? ラースさん? なんで、」
「いや、俺は慣れているから見回っていて……、もしかして君たちも、知らなかったクチ?」
現れた男、ラースは、ローブの裾を引いてエリーの隣に座り込む。
彼の視線の先には、野宿するにはあまりに頼りないエリーたちの持ち物。
どう見ても、宿泊するためのものは無かった。
「たまにこういう年があるんだよね……。泊まりだってことを知らない人がいて……、」
「ラースさんは、“勇者様”と一緒に遊撃なんでしたっけ?」
「あ、ああ、中央で、ね。本当は“勇者様”が護衛を務めると言うから、息抜きに、ね」
ラースはどこか疲れたような表情を浮かべた。
もしかしたらラースも、アキラの語った話の長い族長に捉まったのかもしれない。
「あれ? えっと……?」
「ああ、君が今年の犠牲者だった……。大変だったろう?」
「そうだ、」
ラースの存在に気づいたアキラが歩み寄ってくる前に、エリーは立ち上がった。
丁度、この場に居辛くなっていたところだ。
「ラースさん、あたしも見回り手伝いますよ。また色々お話聞かせていただけますか?」
「え、休んでいた方が、」
「大丈夫です」
エリーは立ち渋ったラースを半ば強引に促し、森林に誘う。
ラースがその様子に小さくため息を吐き、立ち上がったのを背中で感じ、足早にたき火から離れた。
「お、おい、お前、」
背後からそんなアキラの言葉が届くが、エリーは足を止めず、振り返るだけ。
振り返ったその先、エリーは僅かに、イオリを捉えた。
イオリは言葉を発さず、アキラの隣でいつものように苦笑をしている。
「てか、その人は……?」
その隣、アキラは怪訝な表情を浮かべていた。
ラースとはほとんど言葉を交わしていないアキラが、彼のことを知るはずもない。
「……見てなきゃ、分かんないわよ」
何故かそんなことを小さく呟き返し、エリーは森林の闇に消えていった。
―――**―――
「へえ……、」
時を遡って、大分冷えてきた潮風が撫でる夕暮れ時。
クラストラスの町の外、エレナは現れたその存在に、そう一言漏らした。
紅い太陽に照らされたそれは、スカイブルーの鱗に覆われた、巨竜。
イオリの操るラッキーよりは流線型に近い身体をしているが、大きな翼が付属するその背中は、それでスペースが圧迫されているとは思えないほど広い。
鼻が尖ったような竜種特有の顔つきに、大きな瞳。
しかしその瞳は丸く、温厚そうな色を携え、竜種のわりには牙もない。
大通りを圧迫する程度の身体にしては、それ以外の攻撃能力は低そうだ。
ドラゴンから牙や爪の攻撃能力を奪えば、丁度こういう姿になるかもしれない。
「ワイズ、ご機嫌いかがですか?」
ウェーブのかかった黒髪の少女、カイラが修道服のようなローブから手を出し、自分の召喚獣の鼻を優しく撫でる。
ワイズと呼ばれたその巨竜は、気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らし、その愛撫を受け入れていた。
やはり、どう見ても戦闘用に見えない。
見えるとするなら、
「わっ、わわわっ!! カーリャンッ!! あっしも、いいですかっ!?」
子供の目を輝かせる、愛玩動物に、だ。
「おっきーなぁ……、いいなぁ……、召喚獣……、いいなぁ……、いいなぁ……、いいなぁ……!!」
「グルル、」
興奮状態のティアが撫で回しても、ワイズは変わらず気持ちよさそうに喉を鳴らす。
種族の差から表情は読み取れないが、人間であったとしたら、ワイズは満面の笑みなのだろう。
やはり、どう見ても、だ。
「カイラのワイズなら、六人でも行けると思います」
二人と召喚獣から離れて立っていたエレナに、長い杖を背負った男、マルドが囁いた。
隣には今にも欠伸しそうな白髪勇者様、スライクと、その影におどおどとして隠れる小さな少女、キュールが所在なさげに立っている。
先ほどの喫茶店で、熱弁を振るうティアを止める気も失せ、気づかれないようにその場を後にしたエレナは、一人でアキラたちが向かったガリオールの地に向かおうとした。
しかし、向かう先は、結局のところ、へき地。
この時間ではすでに便もなく、その辺りの馬車の持ち主に色目でも使おうかと思っていたところでティアたちが合流。
どう話をまとめたのか、召喚術士のカイラの力で共にその場に向かうそうだ。
「まあ……、俺たち、スライク以外の勇者様ってのに会ったことがなくて……、楽しみだよな?」
「かっ、」
「……、あ、悪い……」
マルドの言葉に、威嚇するようにスライクは返した。
どうも、その言葉を聞くことを拒んでいるようだ。
「……はっ、ご丁寧にも魔王を殺そうとしてんだ。マメな野郎だろうよ」
「……?」
スライクから漏れた言葉に、エレナは眉をさらに寄せた。
彼は、“勇者様”ではないのだろうか。
口ぶりから、どうも、それが感じられない。
そもそも世界を救うという使命に燃えていないように感じるし、何より魔王を倒すつもりがないようにも感じる。
だが、アキラという存在への興味は少なからずあるようだ。
「でもどうしよう? 威厳たっぷり、とかだったりしたら」
「っ……、ぅぅ……、」
エレナの思考をよそに、というより、スライクから勇者としては妙な言葉が漏れたにもかかわらず、マルドとキュールは話を続けていた。
二人の中のアキラ像は、時間とともに膨らんでいくらしい。
膨れていく限り、それはアキラから順調に遠ざかっていくのだが、エレナは黙って見ていた。
その方が、彼らがアキラと出会ったとき、面白いかもしれない。
樹海に行くために、面倒な手間を省けるとはいえ、望みもしない団体行動だ。
それくらいは対価が欲しい。
「……、」
だが、ふと、エレナはその対価が得られない可能性を脳裏に浮かべた。
最近の、アキラの様子。
鍛錬では、以前より遥かに集中力が増している。
そしてその成果も、だ。
今朝の様子一つとっても、アキラは成長している。
以前のアキラがエリーと競争しようものなら、追う気も失せるような差が生まれ、町の中を一人でとぼとぼ歩いていただろう。
勇者としての自覚が確たるものになったのかどうかは知らないが、彼はもう、肉体的には“勇者様”と呼べる存在になっている。
あとは、
「エレお姉さまエレお姉さまエレお姉さまっ!! ワイズがマジ可愛いですよこんちくしょーっ!!! はっ!? イオリンのラッキーと並んでたらっ、あっしはいったいどうすればっ!!?」
「そうね。アイルークに帰ったら?」
思考に沈んでいたエレナを、ティアの大声が呼び覚ました。
「うおおっ、冷たいっ!? 寒いですよっ、エレお姉さまっ!!」
「さむ……、って、あんた震えてんじゃない」
夕暮れの潮風に当たるティアは、声こそ張り上げているが、顔色はどこか青い。
エレナは羽織っていた亜麻色のカーディガンをぞんざいにティアに投げつけ、その手でそのまま町を指した。
「あんた、やっぱり戻りなさい。いい加減にしないと、」
「うおおっ!! エレお姉さまにほどこしを受けられるとはっ!! あっしは感激しまくりですっ!!」
「っ、」
外気に触れた肌を軽くさすり、エレナは顔を背けた。
今朝の“占い”のことも脳裏にちらつき、面白くない。
だが、ティアは渡したカーディガンを羽織っても、やはり僅かに身体を震わせていた。
他の四人は、苦笑いを浮かべるばかりで気づいていない。
ティアは、風邪をぶり返している。
「これからそれで飛んでくんでしょ? それじゃあ、」
「ああ、それなら俺が何とかしますよ」
エレナの言葉を察したマルドが、杖を取り出し、目を瞑る。
余計なことを。
彼から漏れ出した銀の光を見て、エレナは小さく呟いた。
「……、フリオール」
銀の光が、こんな“低速”で展開されたのを初めて見た。
マルドの杖の先の宝玉が光を放ち、六人の身体を包み込む。
「……、ふう……。これなら、大丈夫かな?」
「おおおっ、あったかいっ!!? マルドンッ!! マジありがとうですっ!!」
「……、負荷は、大きいんだけどね……、」
ティアの奇妙なセリフを聞きながらも、マルドは軽く額を拭う。
言葉通り、この広範囲のフリオールは彼には荷が重いようだ。
「……、」
だが、これが普通なのだ。
同じ色の魔術、いや、魔法を操る少女が語っていた、フリオール。
攻撃以外の外部影響を選択遮断。
時に重力にすら逆らい、宙を飛び交うことすらできる。
数千年に一人の天才と言われるマリスにとってはその程度の影響は薄いらしいが、魔術を超越しているそれは、やはりそれだけの魔力を必要とするのだ。
「月輪属性に会うのは初めてなのですか?」
「お生憎様。七曜の魔術師は、もう全員集まってるわ」
どうやらティアの演説は、流石に途中で遮られたらしい。
召喚を終えて近づいてきたカイラに一言返し、エレナは大股でワイズに近づいていく。
スカイブルーの姿のそれは、エレナの接近に機敏に反応し、小動物のように身を震わせた。
「ちょっと、ワイズを威嚇しないでいただけますか!?」
「何もしやしないわよ……、私たちを運んでくれるんでしょ?」
「っ、」
エレナの物言いに、カイラはピクリと眉を歪めた。
「一応は引き受けた依頼。とっくに出発してしまったようですが、儀式は夜明け。十分に間に合うでしょう」
「……? 夜明け?」
カイラから漏れた言葉に、エレナは依頼書の写しを取り出した。
どこに目を走らせても、そんな言葉は書いていない。
だが、今気づいたが、妙なことに、依頼が終了する正確な時間は書いていなかった。
「バオールの儀式は夜明けと共に。そう伝え聞きます」
「カイラはそういうことには詳しいからね」
二人の言葉に、エレナは依頼書を握り潰した。
恐らく、アキラたちはこの事実を知らないだろう。
知っていたら、一言くらいは伝えに来たはずなのだから。
手元で丸まった資料は、最早何の役にも立たない。
誰が作成したかは知らないが、随分いい加減な仕事をする。
「まあ、そこだけ間に合っても、とんだ遅刻ね……」
「っ、あなたが、わたくしたちを、」
「サボるつもりだったじゃない。特にあの男」
エレナは無遠慮に、欠伸をしているスライクを指差した。
スライクは鋭い視線を返してきたが、エレナは乾いた瞳でそれを見返す。
「……それに、そもそもわたくしが協力するのは、“勇者様”のためです。誰か様とは違って、わたくしは他の“勇者様”にも敬意を払いますので」
「そう、それは殊勲な心がけね」
「っ、」
「カイラ、押さえろって、」
マルドがエレナを庇うように立ちはだかっても、カイラはエレナを睨んだままだった。
どうやらカイラが乗る気なのは、エレナに対する反発だったようだ。
どうもエレナは、こういうタイプをあまり好めないらしい。
「……、ま、助かるわ。それより、ティア」
「はい!」
フリオールの影響で寒気がなくなったのか、ティアは元気に声を出した。
だがやはり、顔はどこか赤い。
「今の話聞いたでしょ? あんたに任務を与えるわ。あの天才ちゃんとアキラの従者。流石にもうすぐ戻ってくるだろうから、このこと伝えといて」
「おうさっ!! 私にっ、ま、……ええっ!? またお留守番ですかっ!?」
喚くティアに睨みを利かせ、エレナは親指で町を指す。
フリオールを纏っているにもかかわらず、身体を震わせていては、ただでは済まなくなる。
「いいから戻って風邪を治しなさい。あんた……、“間に合わなくなっても”知らないわよ」
「……、っ、…………了解……、しました……、」
エレナの言葉が利いたのか、ティアは名残惜しそうにカイラのワイズを見上げる。
だがそれでいて、彼女の焦点はあっていないように思えた。
そう、それでいい。
面々に別れを告げ、とぼとぼと町に歩いていくティアを見ながら、エレナは小さく頷いた。
ティアが纏ったシルバーの光が、徐々に離れていく。
「……さ、行きましょうか」
「ちょっ……、えっ!?」
ワイズが搭乗口のように頭を下げる前に、エレナは身体能力強化にあかせてそれに飛び乗った。
一般的な建物の、二階ほどの高さだろうか。
ワイズに負担を与えないようにふわりと着地したエレナは、無表情にぽかんと開けるカイラを見下ろす。
エレナは、高くなった視線の先、夕暮れに染まる瞳に、確かに大樹海を捉えた。
「……よう」
「……!」
「随分乱暴だなぁ、おい」
エレナの隣にいつの間にか同じようにワイズに飛び乗っていた男が、挑発的に見下ろしてきた。
自分とほぼ同時に跳んだのかもしれない。
ほとんど気づかなかった。
自分に、身体能力で追従できた人間を見るのは初めてだ。
流石に、“勇者様”というだけはあるのかもしれない。
「ふーん……、」
だが、エレナはそれだけ呟き、視線を遠くに座す山脈に移した。
ともあれ、自分たちは、アキラたちに合流する。
杞憂であればそれでいいのだが、やはり、妙な予感はするのだ。
モルオールの港町についてから、正確に言えばイオリが仲間になってから、どこか様子の変わった気がするアキラ。
彼らがリオスト平原から戻ってきたときのことは、今でも覚えている。
多くは語らなかった彼らだが、重傷のアキラに、意識を完全に手放していたカリス副隊長。
それだけで、おおよそ、何が起きたのかは推測できる。
だが分かったことは、やはり単純な事実だけで、何を“想ったのか”は分からなかった。
「……、」
ほんの少しの疎外感に、エレナは紅い太陽を眺めた。
太陽は、万物を惹き付ける。
それならば、太陽は、何に惹き付けられるのだろう。
それを観測するもの総てを愛で、そこに在る。
表も裏も、同じ色。
太陽もまた、そうして自分を見てくれる万物に、惹き付けられる。
そのはずだ。
それなのに、人間だから、影を作る。
その影は今、エレナには見えない。
「ちょっ、ちょっと、貴女、今何をっ!?」
「そこの白髪も同じことでしょう」
正規のルートから遅れて登ってきたカイラに、エレナは小さく返した。
「そうだ、あなた、水曜属性よね?」
召喚獣ワイズのスカイブルーの鱗を撫でながら、エレナはどこか乾いた瞳を向けた。
「え、ええ。それが?」
おずおずと頷くカイラの向こう、巨竜によじ登る残りの二人を見ながら、エレナは肩にかかった髪を手の甲で払った。
「いえ、別に」
そしてエレナはまた、小さく返す。
占いは、やっぱりあてにならない。