「大佐、ダングルベール卿からの報告書です」
スキンヘッドの軍人、サハロフがクリップで留められた数枚の書類を持ち上官であるベルトゥーチの前へと差し出した。ベルトゥーチはそれを受け取ると、それまで吸っていた煙草を携帯灰皿の内側へと押し付け火を消す。その場にはサハロフとベルトゥーチしかいなにも関わらず、彼はやけに真剣な面持ちで書類に目を通していった。
「今回の成功例は一件だけだそうだよ。やはりここまで順調だったぶん、この程度は我慢しなければならないのかねぇ」
束ねられた書類全てを確認し終わった途端、彼は再び煙草に火をつけながらサハロフへと報告書を返す。いかにも不満だという声色であったが、ベルトゥーチの表情は薄い笑みを浮かべたものであった。
「まあ、今はこれで良しとしようか。これまでの成功例がたったの一件であったことを考えれば、上々の滑り出しとも言えるからねぇ」
受け取った報告書へサハロフも目を通していることを横眼で確認しつつ、ベルトゥーチは煙草の灰を携帯灰皿へと落とす。そしてその眼はサハロフの眉根がピクッと反応したことを見逃さなかった。机の上に置かれた別の書類を手に取ると、いかにも今思い出したという風を装って声を上げるベルトゥーチ。
「ああ、そう言えば本国からの次の定期連絡はいつだったかな?」
「前回が二日前でしたので、次は一週間後になります」
手にした報告書から目を離さずにそう答えたサハロフ。その顔にはいつもの通りの無表情が張り付けられているが、指先に力が込められているのか手元の報告書には多くの皺がよっている。
「すまないねぇ、君の家族まで巻き込むことになってしまって」
声のトーンを下げ心底後悔しているといった様子でベルトゥーチは目を伏せた。彼のことをよく知らない人間であったなら本当に申し訳なく思っているように見えただろう。だが、サハロフがベルトゥーチの腹心となってから既に数年が経っており、彼の裏の顔を見続けてきたサハロフからすればその態度はこちらを小馬鹿にしているようにしか見えない。
サハロフはベルトゥーチから見えない位置で手のひらをぐっと握り、さらに奥歯を食いしばる。そうして必死に怒りを飲み込み、決して視線だけは合わせることのないようにしながら「いえ」とだけ言葉を返した。
ベルトゥーチは部下のそんな態度にも不快になる様子は見せずに、もう一度「すまなかった」と言うと椅子を反転させてサハロフに背を向ける。その裏で浮かべた醜悪な笑みを隠すように。ギィという椅子の軋む音が室内に響く。それほどまでに静けさが包んでいた部屋の中でサハロフは机の上に立てかけてある写真立てへと目を向けた。
そこに写っているのは今よりも少し若く見えるサハロフと一人の少女。少女は恥ずかしそうにしながらも真新しい制服に身を包んで嬉しそうに微笑んでいる。日に焼けたわけでもない褐色の肌に濃い黒髪が特徴的だが、そのどれもがサハロフのそれとは似ていない。
二人の関係はその写真からだけでは窺い知ることは出来ないが、写真の中の表情を見ればお互いを大切に思っているであろうことは分かる。その様子からは予想もできないような無表情のままサハロフは写真から目を離すと、報告書に目を通す作業へと戻った。
「その程度のことでほいほいと見ず知らずの人とナナリーさんをそこに残してきたと言うのですか、あなたは?」
ジノがレイラへと事の顛末を告げると、こめかみを押さえ上目づかいで睨まれてしまった。レイラは口調こそ丁寧であるが、家柄的に随分と差があるジノに対して媚びる様子もなく毅然とした態度で接している。飄々とした性格のジノとは正反対の常にきっちりきっかりとした性格の彼女だが、他の生徒たちとは違うその態度はジノには新鮮に感じられていた。
「まあ、大丈夫でしょ。共通の知り合いがいるみたいだし…それに、結構可愛い子だったから」
「いい加減にしてください!理由になっていません!」
だが、ナナリーのこととなるとその態度は一層硬化してしまうものだから、ジノも自然とナナリーに気を配る形になる。いちいちこうして小言を聞かされたのではそれも当然だろうが。
「そう怒鳴るなって。なんかいつもと雰囲気違ったから、邪魔しない方がいいと思うぜ」
怒りを露にしたレイラをなだめるジノ。ただ、未だかつてこの努力が報われた例は一度といしてないのだが。ジノは心の中で一刻も早く二人が帰ってくることを願いながら、今回も徒労に終わってしまうだろう試みを続けることにした。
「あの…お兄様とはどこでお知り合いに?」
閉じられたままの瞳をカレンに向け、不安そうな表情でそう尋ねたナナリー。その正面に立ったカレンはもう一度足の先から頭のてっぺんまで盲目の少女を見つめ、車椅子に乗ったその姿を記憶の中の写真に写った姿と比べてみる。髪型や身長は違っているが、やはりカレンには何度見ようと目の前の少女とルルーシュの妹の姿が重なって見えた。それほどまでにカレンの中であの日の出来事は彼女の人生の転機であっただけに、鮮烈に記憶の中に残っているのだ。
「すみません、まだお名前を伺ってもいないのに不躾なことを訊いてしまいました」
カレンからの返事がないことを自分が無礼であったからと捉えたのだろうか、ナナリーは沈んだ声で謝罪の言葉を述べた。その態度にはっと意識を覚醒させたカレンが慌て取り成そうとする。考えてみれば失礼であったのはこちらの方だったと、カレンもまたナナリーに謝罪を述べた。
「い、いや、こちらこそごめんなさい…そうね、まずはお互い自己紹介から始めましょう?」
その提案に頷いたナナリーの表情は若干和らいで見えたが、相変わらず不安そうに眉が下がったままである。あの日手紙の文面に見た兄に対する妹、そして狂おしいまでの兄の妹に対する愛情。こうして会うことが出来ずとも未だにこうして彼等は互いを想い続けている。
「私は、カレン…。中等部の一年よ」
未だに己の姓がシュタットフェルトであると言うことに抵抗を感じていたカレン。だからと言ってこの場で日本人としての姓を使うわけにもいかないので、彼女はあえて名前だけを述べるに留まった。
「カレンさんですね。私はナナリー・ベルトゥーチ、初等部の四年に通わせていただいています」
座ったまますっと頭を下げるナナリー。洗練された物腰に改めて彼女が貴族としての教育を受けていることをカレンは再確認していた。そして、もう一つ気になった点は彼女の名字である。カレン自身よく覚えてはいないが、確かベルトゥーチなどといったものではなかったように記憶している。
その辺りのこともこれからの会話で明らかになっていくのだろうかと思うと、カレンの胸の内に僅かな罪悪感が芽生えてきた。ルルーシュの知らないところで意図的にではなくとも、兄妹の秘密を探ろうとしている自分が卑怯なことをしているのではという気にさせてくるのだ。
さらに言えば事実を知ってしまうことが怖くもあった。ルルーシュが頑なに隠し通そうとしていた兄妹の秘密。最後は訊いてくれれば答えると言ってくれたが、それも自分から言おうとはしていない。もしもその秘密を知ってしまうようなことがあれば、カレンとルルーシュの関係に何かしらの亀裂が入ってしまう気がして仕方がないのだ。
しかし、ここまできて人違いであったと言ってごまかすようなこともできない。それに見ず知らずの人間と二人きりになってまで兄の安否を気にかけているナナリーを、同じような身の上であるカレンには見過ごすようなこともできなかった。
「それで、あなたはルルーシュ・アウグシュタイナーの妹…でいいのよね?」
これは最後の確認であり、途切れてしまった会話を再開させるためのキーワードでもある。二人をつなぐものはルルーシュという人物であって、お互いに指示している人物が同一のものであるという確証を得ることから始めなくてはいけない。これまでの状況からでも十分すぎるほどの証拠は上がっているが、それはカレンがナナリーの顔を知っていたからであって、ナナリーからすればカレンに対しての不信感はぬぐえていないはずである。だからこそあえて今度は名字を使い改めて確認を取ったのだ。
「…はい、確かにその方が私の兄で間違いありません」
わずかな間をおいての返答。その時間の内にナナリーが何を考えたのか、何を思ったのかカレンには分からない。おそらく、いや、確実にルルーシュと彼女自身に関連したことなのだろうが。
「どこで私とルルーシュが出会ったかだったわよね?たぶんあなたの思っている通りの場所だろうけど…日本よ」
それを聞いたナナリーが驚いた様子もなく小さく「日本…」と呟く。ルルーシュとナナリーの元の家が日本に存在していた以上、この程度は予測がついていてもおかしくはない。音信不通となってからの空白の一年間が存在していることが唯一のネックであったが、今のナナリーの態度を見る限りではやはり日本に兄がいるとふんでいたようだ。
「あなたと連絡が取れなくなった後、一人であなたを探しに東京租界まで来たんだけど入れ違いになっちゃたみたいで…」
「一人で東京まで?!そんな、だってお兄様はあの時は確か福岡に…」
ナナリーの表情が初めてルルーシュの名前を出した時のように驚きに染まった。それもそうだろう。ルルーシュの妹なら彼の体力のなさはよく知っているはずだ。福岡から東京までは直線距離でもおよそ900kmもある。それをたった一人の少年が妹の無事を知りたい一心で歩いて旅をしたというのだから、彼のことを知らない人間でさえもこの話を聞けば驚くことだろう。
カレンに言わせればなぜ世話になっている家のものに訊こうとしなかったのかということも疑問の一つであったが、ルルーシュのことだから居ても立ってもいられなかったのだろうと当時のカレンは結論付けていた。それはあれだけ謎が多く、様々なことを隠していた風なルルーシュが隠そうともしなかった数少ないものの一つが妹への愛情であったことを思い返してみてもよく分かる。あるいは彼のブリタニア嫌いがそうさせたのかもしれないが。
だが、ルルーシュのことを注意深く見るようになってからは違った見方もするようになっていた。ルルーシュの言った貴族の道楽という言葉が本当に嘘で、幼い兄妹に本当に貴族の欲しがるような利用価値があったとしたら…。彼の背後に見え隠れしていた複雑な生い立ち。それに今自分は立ち入ろうとしている。それも彼に無断で。そう思うとやはり罪悪感を抱かずにはいられないカレン。
「それで、元の家に戻ることを嫌がったルルーシュを家が預かることになったんだけど…」
「では、今お兄様はカレンさんのお家にいらっしゃるのですか?!」
後ろめたい気持ちから自然と声が小さくなっていくカレンの言葉を遮るようにして、ナナリーが縋るような大きな声を発した。思わず驚きにたじろいでしまうカレンの気配に気づいたのだろう、ナナリーがはっとして申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんなさい…その、お兄様のことが心配で」
しゅんと項垂れるように伏せられた小さな頭。そこから感じ取ることのできる不安と気がかり。それはあの手紙の文面だけからでも容易に窺い知ることのできた兄妹の強い絆と同じだ。ルルーシュがナナリーを想っていたのと同じように、ナナリーもまたルルーシュを想い続けてきたのだろう。
そう思うと自然とカレンの頬は緩んだ。ナナリーの目の前まで歩み寄ると顔の高さを合わせるように屈み、彼女の手をとり優しく握る。その一連の行動に初めは驚きを露にしたナナリーであったが、カレンが口を開く気配を感じ取ると覚悟を決めたような面持ちになった。
「今は一緒には住んでいないわ…ルルーシュはまだ東京租界にいるはずよ」
そっと包み込まれたナナリーの手の震えがカレンにも伝わってきた。わずかに芽生えた兄と会えるかもしれないという期待感がナナリーの中で薄れていく。この二年間以上、ナナリーの大部分を占め続けていた兄への想い。やっと掴みかけた手がかりが指の間から抜け落ちていく感覚。堅く閉じられていたナナリーの瞳から一筋の涙がこぼれ、その一滴がカレンの手の甲に落ちた。
「探せばすぐに見つかると思うわよ。確か租界の知人の家を頼ると言っていたから、あなたも知っている方じゃないかしら」
それはカレンが泣きだしてしまったナナリーを慰めるつもりで言った言葉であったが、ナナリーは首を横に振った。
「いえ、お兄様が無事だと分かっただけで私は満足です」
首を横に振り無理矢理作った笑顔でカレンを見るナナリー。悲しみを押し殺すようにして作られたその笑顔がカレンの胸を締め付ける。ナナリーからの手紙にも書いてあった二人の素性がばれるとまずいという言葉。そこから鑑みるにルルーシュもナナリーも誰かに居所を知られることに足して並々ならぬ注意と恐れを抱いているように見える。
だからこそカレンはそこで踏み止まる判断を下した。先ほどまで感じていた後ろめたさも手伝い、カレンの中でこれ以上踏み入ってはいけないという警鐘が鳴らされ始める。これから先は軽々しく知りたいという興味本位だけで突っ込んでいいようなところではない。そうカレンの考察と本能が告げる。
それに、とカレンは思う。出来ることならばそのことはいつかルルーシュ本人の口から聞きたいという思いもカレンにはあった。再会できるという保証もなければ、ルルーシュが必ず話してくれるという保証もない。けれど、今はその不安な気持ち以上にルルーシュを信じる気持の方がはるかに強い。その想いに縋っているとも言える今のカレンだが、どうあろうと変わらない想いであることも確かだ。
「あの…お兄様はお元気でしたか?」
たったそれだけの確認が今の兄妹が他人に見せることのできるギリギリの境界線なのだろう。それほどまでに二人の生い立ちは混迷を極めているに違いない。ならば今現在、自分ができることといえば、少しでもこの少女の不安を取り除いてあげることだけだろう。そう考えたカレンはもう一度ナナリーの手をしっかりと握り直し、穏やかな口調で返事をした。
「ええ、だからそんな顔をしないで。きっとルルーシュが今のあなたを見たら心配し過ぎて卒倒しちゃうわ」
安堵からか、それともカレンの言葉に思うところがあったのか初めてクスッと声を出して笑う。握られている手にも力が戻っていくのが分かったカレンの顔にも笑みが広がった。
「カレンさん、ありがとうございました。それが聞ければ私は満足です」
ぺこっと頭を下げ丁寧なお辞儀でカレンへと感謝の気持ちを伝えるナナリー。少しは力になることができたかな、とカレンも満足そうに頷いた。
「それじゃあ一緒にいた人のところまで行きましょうか?」
はい、というナナリーの返事を聞いたカレンがゆっくりと車椅子を押し始める。だが、ほんの数歩ほどあるいたところでナナリーがおずおずとカレンに話しかけたことで再び二人の足は止まってしまった。
「…カレンさんは私に訊きたいことはないのですか?」
正直に言えばカレンも知りたいことが山ほどある。まだルルーシュについて知らないことが随分とあることに不安を感じずにはいられないことだってある。それでも、あの約束がある限り私はルルーシュを信じつづけよう、とカレンは心に決めていた。
「訊きたいことはたくさんある。だけど、今はいいの。いつかルルーシュが私に話してくれるようになるまで待っていたいから」
そう言うカレンの言葉に驚いたのだろう、ナナリーが一瞬だけ呆けた表情で後方を振り仰いだ。だが、それも徐々に申し訳なさと安堵感を綯い交ぜにしたような複雑なものへと変化していく。カレンが念を押すように「だから気にしないで」と言うとぎこちないながらも微笑みが返ってきた。
その笑みを見ていると、なぜルルーシュがあそこまでこの妹のことを想っていたのか少しわかるような気がしたカレン。こうしているとまるで自分が妹を心配する姉のような気分になってくるな、と想像を巡らせていたカレンだったが、ふとその考えに引っ掛かりを感じた。
ナナリーちゃんが私の妹ということは、私とルルーシュが…。カレンは浮かび上がりそうになる想像図を、頭を振ることで無理矢理打ち消す。いくらなんでもそれはいきすぎた想像だと自戒するのだが、一度茹でり始めた思考はなかなか冷めてはくれない。
とそこへ追い打ちをかけるようにナナリーの言葉が襲い来る。
「…少し安心できました」
「安心?」
隠していることが知られなかったことを言っているのだろうか、いや、まさか私の前で態々そんなことは言わないだろう。カレンが冷静になれない思考のなかでそんなことを考えていると、先ほどとは打って変わってナナリーが随分と嬉しそうに「はい」と返事をした。
「カレンさんがお兄様のことを大切に思っていてくださっていると確信できましたから。だから、そんな人がお兄様の近くにいてくださったことに安心できました」
「大切に」のくだり辺りから余計に赤くなってしまったカレンの頬。それをごまかすようにカレンはぐっと力を込めてナナリーの乗っている車椅子を押し始める。あの背の高い少年がどこまで行ってしまったのか定かではないが、その時のカレンは気恥ずかしさから何かをせずにはいられなかった。
「安心できましたけど、少し妬けちゃいます。そこまでお兄様を想っていてくださるなら、お兄様もきっとカレンさんのことを大切に想っていているはずですものね」
穴があったら入りたい、その気持ちを生まれて初めてその身を持って実感したカレンの歩く速度が自然と速くなる。そんなカレンの姿が見えていないからなのかは分からないが、ナナリーは徐々に速度を上げていく車椅子の上で楽しそうに微笑んでいた。