「”運命”の子供達 ~7日間の黙示録」2月5日・夜
シンジが目を覚ました時、眼前には天井があった。
「……見慣れた天井だ」
意味もなく呟いてみる。それは碇邸、シンジの部屋の天井である。シンジは身を起こそうとするが、全身が悲鳴を上げる。頭部を枕に沈め
たシンジは寝たまま自身の身体を解析しようとした。
全身が無数の打ち身と切り傷にまみれている。身体の機能を損なうような負傷はないようだ。一つ一つの傷は比較的浅い上に、傷には応急的な治療が施されている。もうしばらく横になっていればすぐに動けるようになれそうだった。
「……運が良かったのかな」
ゲルマン神話の英雄と戦ってこの程度の傷で済んだのは……と口の中で呟いて、シンジは気を失う直前の状況をようやく思い出す。
「そうだ、アスカは!」
身体の痛みも無視して跳ねるように身を起こすシンジ。だがその時、ちょうど当のアスカが襖を開けてその部屋へと入ってきた。
「お邪魔するわよ、シンジ」
鍋掴みを手にして土鍋を運んできたアスカは、シンジの枕元へと腰を下ろす。
「あ、うん……」
シンジは毒気を抜かれながら惚けたようにアスカの横顔を見つめた。アスカは土鍋の蓋を開け、レンゲと茶碗をシンジに手渡す。土鍋の中には卵のお粥が湯気を立てていた。
「お腹空いてるでしょ。これ、晩御飯だから」
「あ、うん、ありがとう」
シンジはそれを受け取りながら苦笑する。
「別に病人てわけじゃないんだから、普通のご飯で良かったのに」
「作ったのはレイ、あの子よ。あの子、これしか作れる料理がないんだから仕方ないじゃない。あたしとキャスターのマスターの夕飯もこれだったのよ」
他の料理も教えてあげないとね、等と言いつつシンジはお粥を口にする。意識はしていなかったが確かにかなり空腹だったようで、シンジはものの数分でそれを完食した。
「ふう、食った食った」
シンジが人心地ついて落ち着いたのを見計らい、アスカが躊躇いがちに口を開く。
「……シンジ、昼間のことだけど」
「そう言えば、あの後どうなったんだ? セイバーは? リツコさんは?」
アスカの話を聞く前にシンジは現状を確認しようとした。
「勝ったシンジの意志を受けて、とりあえず休戦。アサシン・キャスター・セイバー、皆でライダーと戦うって協定が結ばれたわ」
「そう、良かった」
シンジは胸を撫で下ろした。だがアスカは暗い表情を隠すように顔を伏せる。
「これでライダーに勝てるとでも思っているの? キャスターの宝具を当てにしているのなら無駄よ。オイディプスが背負っている信仰とライダーが背負っている信仰じゃ桁が5つ6つ違うわ。何を神託したところでライダーを倒せるわけがない」
アスカは膝の上で手を握り締める。シンジは思わずその手を掴んでいた。
「正直アサシンとキャスターだけじゃどうにもならなかった。でもセイバーが加わってくれるなら勝ち目はある。セイバーとキャスターでライダーを引き付けておいて、その隙にアサシンが聖杯を破壊する。ライダーは倒せなくていいんだ、聖杯を破壊すればそれが僕達の勝利だ」
だがアスカは首を横に振った。
「確かに勝ち目はゼロじゃないけど、それでもゼロに近いわ。もしあたし達が負けて唯一神が降臨することになったら……シンジ、あんた死ぬほど後悔するのよ」
シンジはアスカに反論しようとして口を開く。だが何も言えなかった。アスカがどこか悲しげに微笑む。
「だからシンジ、もしもの時はあんたがあたしを殺すのよ」
「アスカ!」
シンジはそう叫び、それきり絶句した。
「あたしだって死ぬのは嫌よ、だからこれは最悪の事態を想定しての話」
アスカはそう言うが、シンジには判る。アスカは事態が結局はその「最悪」に至ると確信していた。
「……その時は他の誰でもなく、あんたにあたしを殺してほしい。キャスターのマスターに殺されるなんて最低だけど、あんたなら諦めもつくし」
アスカが透明な笑みを見せる。シンジは自分でも気付かないうちにアスカの身体を強く抱き締めていた。肌に感じるシンジの身体は思いがけず筋肉質で硬い。シンジの両腕に力任せに締め付けられ、アスカは痛みを覚える。だがその痛みが今は陶然とするほど甘かった。
二人は抱き合ったまま長い間沈黙していた。
「……判った」
ようやくシンジが、喉を軋ませるようにしてやっとの思いで言葉を出す。シンジは堅い意志を瞳に宿し、アスカを見つめた。
「僕は全世界の数十億だけじゃなく、数十億プラス1を選択した。だからその実現のために死ぬ気で戦う。でももしそれでも僕の力が届かないなら、その時は僕が責任をとる。アスカだけを死なせはしない、僕もアスカと一緒に逝く」
「駄目よ、シンジは生きて」
アスカはシンジの腕の中から抜け出て立ち上がる。シンジは腕を伸ばすがアスカには届かなかった。襖を開けたアスカはシンジの方を振り返る。
「シンジは死なないで。あたしのことを忘れないで。ずっとあたしのことだけ想い続けて、いつまでも生きていて」
アスカの姿が襖の向こうへと消え、シンジの腕が力無く垂れ下がる。シンジは己が無力を痛いほどに思い知りながら、そのまま虚空を見つめ続けていた。
一方、ゲンドウが寝ている1階の仏間。
リツコがその部屋に入ってきた時、ゲンドウは布団の上に身を起こしていた。その膝元ではレイが横たわり、猫のように身体を丸めて眠っている。ゲンドウはレイの顔を見つめていた……リツコも初めて目にするような表情で。
「リツコ君」
「は、はい」
言葉をなくしていたリツコが慌てたように返答する。
「私は私の計画のためにこれまで多くのものを切り捨ててきた。踏みにじってきた。だが今私の計画はほぼ瓦解している。今になって捨ててきたものを再び拾おうとしたところで、やはり叶うまい」
リツコは沈黙したままゲンドウの言葉を聞いている。ゲンドウがリツコに頭を下げた。
「リツコ君。この戦いが無事終わったなら、君にレイとシンジのことを頼みたい」
「お断りします」
リツコがそう即答し、ゲンドウが目を見開いた。
「貴方は捨てられた側の気持ちが判っていません。貴方がレイやシンジ君にしてきた仕打ちを、多少なりとも埋め合わせられるのは貴方だけなんです」
リツコがゲンドウの側に膝を付き、ゲンドウの手に自らの手を重ねる。
「この手で償っていってください。わたしが手伝います。わたしがお側にいます」
長い間沈黙していたゲンドウが、やがて嘆息する。
「……判った。共にいてくれ、リツコ君」
リツコは微笑みながら頷く。それは憑き物が取れたような、澄んだ穏やかな笑みだった。