「”運命”の子供達 ~7日間の黙示録」2月1日・昼
「来い」
ただ一言、そう書かれた葉書をシンジは難しい顔をして見つめ続けている。
差出人の名は碇ゲンドウ。差出人の住所は記されていない。まるで大慌てて殴り書きしたような汚い文字だが、それは確かに父ゲンドウの手によるものだった。
「……たった一言で人を呼びつけるなんて、何様だと思ってるんだよ。父親らしいことをしたことなんか1回だってないくせに」
その手紙が届いた時、そしてそれに目を通した時、シンジはそれをそのまま破り捨てようとした。実際その手紙は中央から上半分までが破られている。だがシンジはそれを破れなかった。捨てられなかった。破られた葉書はセロハンテープで補修された。
そして今、シンジは手紙に命じられるままに第三新東京市を訪れようとしている。列車の車窓には流れ行く箱根の森が映し出されていた。
「……ったく」
シンジは内心に渦巻く思いを言葉にすることができなかった。その思いに一番近い言葉を探すなら、「不満」である。シンジはゲンドウに対するものと同程度の不満を、自分自身の行動に対して抱いていた。
「……?」
シンジは自分の左手の甲を見つめて首を傾げた。手の甲に、引っ掻き傷のような筋が何本も描かれているのだ。こんな傷がいつの間に出来たのか、とシンジは疑問に思いながらも得意の治癒魔術を自分の手に行使する。
が、その傷は消えなかった。意地になって3回くらい治癒魔術を行使し、そのことごとくに失敗してシンジもようやく気が付いた。それは傷ではない、何らかの魔術によって描かれた刻印なのだ。シンジを乗せた列車が第三新東京市内に入る頃、その刻印は血が滴りそうなほど深く紅く鮮明にシンジの手の甲に焼き付けられていた。
シンジは第三新東京市郊外の、高級住宅地に程近い駅で下車する。シンジは憮然としてしばらくの間手の甲を見つめ、その後左手をコートのポケットに突っ込んだ。真冬の風の冷たさに背中を丸めながら、シンジは駅前を歩いていく。
そのシンジの後を、見つからないよう一定距離を置いて追う者がいる。追跡者は赤いコートを身にまとった、美しい少女だった。
……駅前から既に30分ほど歩いている。碇家本邸はもうすぐだ。道路の両側は土塀が延々と続いており、門は見えない。土塀の内側には竹林や松林が広がっているようだった。道路はアスファルトではなく、石畳により舗装されている。
シンジはこの30分間、何度も何度も後ろを振り返っていた。シンジは武術の達人ではないから人の気配を感じ取るような技術は持っていない。魔力を感じ取るのは魔術師としての基本的スキルだが、魔力を隠すのもそれと同等以上に基本的なスキルである。普通の魔術師なら魔力は隠して当たり前、だからシンジはこの30分間魔力感知の術を行使しようとはしなかった。
が、ここに来てシンジも言葉にできない予感を覚え、魔力感知の術式を行使する。術式で作られた擬似的な感覚器を立ち上げ、周囲の魔力を受信・解析しようとした。
「……何だこれ……?」
シンジはいつも行使している疑似感覚器の他に、左手の甲の刻印が疑似感覚器として作動していることを悟った。その感覚器が、何らかの魔力の存在をシンジに教えている。その魔力の存在は、言わば発信器。そして左手の刻印は言わば受信機だ。いや、刻印は発信器と受信機を兼ねているのだ。
左手の魔力受信機が発信器の存在をシンジに教えている。シンジの至近、シンジのすぐ後ろにそれはある。シンジは身体ごと後ろを振り返った。
「え……」
シンジのほんの数m背後に、その少女は立っていた。シンジの脳内は一瞬ホワイトアウトする。
そこにいたのは澄んだ蒼い瞳に赤みがかかった金髪の美少女だった。惣流アスカ・ラングレーという名のその少女は、シンジにとっては物心付いた頃からの幼なじみである。だがいつもは太陽のように華やかで勝ち気なはずの少女が、今はその美しい顔を泣いているかのような暗い翳りで覆っていた。
「シンジ、あんたもこの戦争に参加するのね」
「アスカ……一体」
アスカが何故ここにいるのかが判らない。アスカが何を言っているのかが判らない。アスカが何故こんな暗い表情をしているのかが判らなかった。
「アスカ、一体何を……何があったんだ?」
アスカは一瞬悲しげに目を伏せ、すぐに顔を上げる。その時にはアスカから表情というものが消えていた。アスカはシンジに狙いを定めるように、右手を突き出す。
「Flammen-Pfeil!」
アスカが至近距離から火系攻撃魔術を放った。シンジにそれを避けることができたのは完全な僥倖である。
「アスカ! 何でだよ!」
「うるさいっ! あんたもマスターならあたしの敵よ!」
アスカの連続攻撃をシンジは防御結界魔術で防ぎながら大慌てで後退する。アスカから約二十m後退し、アスカの間合いから脱してシンジはようやくアスカに向き直った。
「アスカ、何があったんだよ? 教えてくれなきゃ判らないだろ!」
だがアスカはその問いに答えない。アスカはため息をつくと、虚空に向かって冷ややかな声でただ一言呼び掛けをした。
「セイバー」
それに応え、何もないところから一人の戦士が現れる。シンジは己が目を疑った。その戦士の圧倒的な魔力量に、そしてそれだけの魔力を持った者が今まで気配を全く感じさせず隠れていたことに。
その戦士は細身で長身、長い手足は戦うために良く鍛えられている。年齢はおそらく二十歳前後。やや長めの金髪は燃え上がるかのように輝いており、瞳は宝石のように青い。身にしている紅い鎧はボディースーツのように薄く、羽根のように軽そうだ。手にしている長剣はまともに目にするのが困難なほど強烈な魔力を放っていた。
シンジの目はその紅い鎧の戦士を見つめ続けている。だが、気が付いたら紅い戦士はシンジの目の前にいた。その戦士は二十mの距離を瞬間移動のような速さで走破し、その長剣でシンジを薙ぎ払おうとしている。
シンジは防御魔術を盾のように両腕に集中させ、それを顔の前で交差させる。長剣の一旋を両腕で受け止めるシンジ。そのまま断ち斬られなかったのはまさしく奇跡だった。長剣に跳ね飛ばされたシンジは弾丸のように宙を飛んで土塀にぶつかり、背中を強打する。
「くはっ……!」
シンジは血を吐き、石畳の上を転がった。左腕の骨は完全に砕けている。肋骨も何本か折れているようだ。痛みのあまり気が遠くなるが、シンジの意識を覚醒させたのは強烈な殺気だった。何とか頭を持ち上げると、そこには紅い戦士が佇んでいた。紅い戦士は長剣を持ち直し、シンジの身体を串刺しにしようとしている。数秒も待つことなく、シンジに身体はその長剣に貫かれるはずだった。
(殺される)
「……あぁあ……」
(助けを)
思考が麻痺し、シンジの口から痴呆のような喘ぎ声が漏れる。
(殺される、助けを)
シンジは己が身体を庇うように左手を突き出そうとした。
(殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを殺される助けを、助けを助けを助けを助けを助けを! 助けを!!)
その時カチリとスイッチが入るように、左手の刻印とシンジの魔術回路がつながった。光と魔力が爆発し、シンジを中心に渦を巻く。
「ふん、ようやく召還したか」
紅い戦士はその有様を冷徹に見守っていた。
膨大な魔力の奔流がシンジの中を流れて通っていく。シンジの魔術回路を通って、巨大な魔力の固まりがこの世界に現れようとしている。
シンジは自分の身体がまるでパイプのようになってしまったように感じた。パイプと化した自分の身体を、卵のようなものが通っている。卵の中にいるのは、人の形をした魔力の化け物。今の自分はこの人外・常識外の存在を産み落とすための産道なのだ。それを理解したシンジは力の限り叫んだ。
「来いーーっ!!」
シンジの雄叫びに応え、光の中から爆発するように人影が姿を現した。人影はそのまま矢のような勢いで飛び出し、手にしている短刀で紅い戦士の腹を斬ろうとする。紅い戦士は長剣でそれを受け止めた。
精根尽きたシンジがやっとの思いで首を持ち上げると、そこには紅い戦士と斬り結ぶ一人の少女の姿があった。
体格は小柄な部類に入る。東洋人らしき、黒曜石のような黒い瞳。絹のような光沢の長い黒髪は無造作に括られている。身にしているのは簡素と言うよりむしろ粗末なワンピース風の白い短衣。袖と丈は短く二の腕と太股は半分くらいしか覆われていない。臑とその下の足先は毛皮の長靴により防護されている。紐で括られた長剣を背に負い、手にしている短剣は紅い戦士の長剣と鍔迫り合いを演じていた。
「やっと召還したのね、サーヴァントを」
アスカの言葉は安堵のため息のようだった。
紅い戦士と白い短衣の少女の力の均衡は短時間しか続かなかった。紅い戦士に押され、短衣の少女はじりじりと後退している。紅い戦士は力任せに長剣を払い、短衣の少女は跳ね飛ばされた。少女はそのまま体操選手のように宙返りをし、大地を蹴って一旦松林の梢の中へと姿を消す。
紅い戦士は長剣を下に構え、静かに待った。そこに短衣の少女が弾丸のような速度で降ってくる。紅い戦士は長剣でそれを斬り払い、少女は地面に身体を叩き付けられ、転がった。紅い戦士は容赦なく追撃する。長剣を高々と振りかざし、大地を叩き割るような威力を込めて長剣を振り下ろそうとした。が、長剣の軌道は力任せにねじ曲げられる。長剣は飛来してきた矢を薙ぎ払った。
「アーチャー……ではないだろう。何者だ、貴様」
紅い戦士は新たに現れた二人の人影を見据える。その間に短衣の少女はシンジのところまで大急ぎで後退していた。
一人は女性、年齢は推定二十代後半。泣きぼくろが特徴的な美女だった。肩の高さで切り揃えられた、金に染められた髪。グラマーな肢体をハイネックのシャツと黒いタイトスカート、黒いストッキングで包み、さらにその上に真っ白なコートを羽織っている。細い煙草をくわえ、色の付いた眼鏡の下の冷たい瞳をアスカと紅い戦士へと向けていた。
彼女に同行しているのは一人の戦士だった。髪は長く、焦げ茶色。身長は紅い戦士と比べればやや低く、細身である。腰に剣を携え、銀の弓を手にしている。服装は古代地中海世界の軽歩兵風の、短衣と軽い鎧、それに長いマント。人生に疲れたような陰気な雰囲気を漂わせている、不景気そうな戦士である。そして一番異様な印象を与えているのは、包帯のような細い布で両目の部分を完全に包んで隠していることだった。
「ちっ、別のマスターか」
アスカは舌打ちする。一方シンジは驚きを隠せないでいた。
「リツコさん……?」
リツコはシンジに構わず、前に進み出てアスカと対峙する。アスカは険しい表情でリツコを睨んだ。
「どういうつもり? そいつもマスターなのに、庇おうって言うの?」
アスカの問いに、リツコは「ええ」と答える。
「ちょっと事情があってね。シンジ君をここで倒されたら困るのよ。どうする? セイバーのマスター。キャスターとアサシン、二人のサーヴァントを一度に相手する?」
アスカは一瞬「あれがキャスター?」と怪訝な顔をした。が、すぐにその顔に嘲笑を浮かべて見せる。
「最弱のサーヴァント同士の同盟か、笑わせるわね。それでセイバーに勝てるとでも?」
「キャスターは弱くはないわよ。それにセイバーを倒しきれなくても、時間が稼げればいいのよ。アサシンが貴女を殺せるだけの、ね」
アスカの口が歯軋りの音を立てた。二人の女性が殺気を放ちつつ対峙を続ける。やがて、先にアスカが肩をすくめた。
「この場は退いてあげるわ。感謝するのね」
「ええ。助かったわ」
リツコは素でそう返す。アスカは舌打ちを一つして、紅い戦士を連れて立ち去っていった。
それを見送ったリツコは、安堵のため息をついて汗を拭う。そしてシンジの元に駆け寄った。
「シンジ君、大丈夫?」
自分に治癒魔術を行使していたシンジは「ええ」と答えた。シンジの横には護衛のように、短衣の少女が立っている。シンジは少女に助けられながら、何とか立ち上がった。
「……えっと、助けてくれてありがとう。でも君は一体……」
「アサシンのサーヴァントです。マスターの召還に応じ、英霊の座より現界しました」
意味不明なことを言われ、シンジは助けを求めるような視線をリツコに向けた。リツコは小さな苦笑を漏らす。
「どうやら何も知らないようだから一から説明してあげるわ。いいわね、シンジ君」
シンジは、お願いします、と頭を下げた。
「……戦争が始まったのよ。どんな願いでも叶えるという聖杯を巡る魔術師同士の戦争が。この街でね」
リツコは真剣な瞳でシンジを見つめた。
シンジはリツコの拾ったタクシーに乗り、移動した。リツコと共にいた戦士は姿を消し、短衣の少女がシンジに同行している。
タクシーの向かった先は、山間部中腹に建てられている古い寺院だった。シンジもそこを何度か訪れたことがある。そこは碇家の菩提寺となっている寺院だった。
シンジはそこでリツコから手当を受けた。折れた肋骨と左腕をテープを固定、左手は首から吊っている。
治療を受けながら、シンジはリツコから聖杯戦争についての説明を受けていた。長い長い説明が終わり、シンジはどうにか状況を理解する。
「……つまり、碇家が聖杯システムという術式を組み上げた。そのシステムに選ばれた7人の魔術師が英霊をサーヴァントとして召還して自分の戦力にして、戦争をする。最後まで生き残った1組が勝利者となり、どんな願いも叶えるという聖杯を手に入れる。
父さんも母さんも前回の戦争にマスターとして参加して、生き残ったのは父さんだけ。そして今回僕が召還したのはアサシンのサーヴァント。リツコさんはキャスター、アスカがセイバー」
シンジの理解の度合いに、リツコは満足そうに頷いて見せた。
「ええ。他には弓兵アーチャー・槍兵ランサー・騎乗兵ライダー、そして狂戦士バーサーカーがいるわ。そしてあの子の言う通り、キャスターとアサシンはサーヴァントとしては最弱と言われている。セイバーは逆に最強とされているわ」
短衣の少女……アサシンはちょっと不満げに頬を膨らませたが、何も言わなかった。
今度は逆にリツコがシンジに訊く。
「シンジ君はどうしてこの街に?」
シンジは何も言わず、懐から手紙を取り出してリツコに渡した。手紙を読んだリツコは目を見開く。
「あの人が……まさか」
リツコはそのまま沈黙する。長い時間自分の思考に囚われたままになっているリツコに、シンジが声を掛けた。
「リツコさん、リツコさん」
「え、ああ、ごめんなさい」
「リツコさん、父さんはどこです?」
リツコがシンジの問いに答えを返すのに、少し間があった。
「……行方不明よ」
え、と息を飲むシンジ。
「この戦争が始まる直前から連絡が一切取れなくなっている。あの人は仮でも碇家の当主だから、この戦争の監督役をする義務もあるのに。もしかしたら殺されたのかも知れないと思っていたけど、どうやらまだ無事のようね」
リツコは安堵の微笑を漏らした。
「その手紙はね、多分あの人なりのSOSなのよ。監禁されているのかどうなっているのか判らないけど、それでもシンジ君には精一杯虚勢を張りたいのね。本当、あの人らしいわ」
手紙を返してもらったシンジは、それを穴の空くほどに見つめた。リツコはそんなシンジを面白そうに眺めている。
「それでシンジ君、どうする? 代理の監督役に申し出ればサーヴァントとの契約を解除して無傷でこの戦争から降りることも、決して不可能ではないわ」
リツコの試すような質問に、シンジは即答した。
「戦います。父さんが行方不明になったのはこの戦争に関係してのことでしょう? 父さんを見つけ出さないといけない。それに、アスカのこともある」
リツコは無関心を装ってシンジの意志を確認する。
「あの子、アスカって言ったかしら。年齢のわりには優れた魔術師のようね。本分に忠実な魔術師なら、聖杯のために幼なじみを殺すことも辞さないのはむしろ当然ではなくて?」
「それでもあんなの、あまりにもアスカらしくありません」
シンジは断言した。
「最強のセイバーを手にしているのなら尚更です。相手が誰だろうと堂々と五分の条件で戦って打ち倒す、それが本来のアスカのやり方なのに、あんなの……何か事情があるとしか考えられません」
シンジの記憶は脳裏に、アスカの今にも泣き出しそうな顔を映し出していた。シンジは腕の骨が悲鳴を上げるのも構わず、拳を握り固める。鉄のようなその拳の固さはシンジの意志の強さを示していた。
シンジはアサシンの少女に向き直り、頭を下げた。
「アサシン、僕は僕の目的のためにこの戦争に参加する。できれば僕に力を貸してほしい」
「もとより、この身は貴方の剣となり盾となるために召還されたもの。マスター、貴方の目的のためにこの身とこの剣を捧げましょう」
「うん、これからよろしく」
シンジの視線とアサシンの視線が、宙で固く結ばれた。二人が交わした契約のように。