そこは、小汚い安宿だった。
暗い室内に一組の男女がいる。情事の後の、むせ返るような性の匂いが部屋に立ち込めていた。
上気した肢体を気だるそうに硬いベッドに預けて、素裸の女性はぼんやりと天井の隅に張られた蜘蛛の巣を眺めていた。
「でも、良かったのか?」
声を上げたのは、男の方だった。女と同じく素裸で、しかし女からは少し離れるようにしてベッドに腰掛けている。
男は、若かった。女の方も若いが、彼は輪をかけて若い。恐らく、何処かの世界ではぎりぎり、まだ未成年と呼ばれる年代なのだろう。だが、栄養状態が悪いらしい、痩せた、しかし引き締まった体つきが、その体に刻まれた無数の傷跡が、彼が潜り抜けてきた死線の数を容易に想像させる。
「それは、私の台詞だろう?」
くすり、と女が笑った。
「どうした? そんなに離れて座って。女を抱いたのが始めてなどと言いはすまい?」
「俺はそうだけど、あなたが初めてとは思わなかったよ、師匠」
男の返しに、女から虚勢が消えた。僅かに赤らんだ顔で、そっと呟く。
「久しぶりの呼び名だ。しかし、今そう呼ばれるのはいい気分にはならないな」
「どちらの意味で?」
「弟子を誘った、格好のつかない師匠として。そして、肢体を使って私事に有能な相棒を巻き込む情けない女として」
「両方か」
「何より。殿下を裏切ることが、それを為そうとする私がお前の師匠、だなんてな」
「……」
「今度はこちらの台詞だ。なぁ、お前はこれで良いのか?」
身を起こし、女は男にしなだれかかった。男に負けず劣らず、女もまた戦う者としての身体を持っていた。
女性特有の丸みを帯びた体は、だが決して柔らかいだけではなく、筋肉の硬い感触を男に与える。
「俺たちは仲間だよ、アニエス。姫さまも、俺も、あなたも、……皆復讐に囚われている」
「……それは」
「俺は師匠にいろんな物を貰った。まだ何も返せてはいない。姫さまだって俺と同じことを言うんじゃないか? 俺と姫さまは偶然仇が一緒だけど、アニエスは違った。だからついでにアニエスの仇も取る。ただそれだけじゃんか」
「ついでですますほど、貴族を殺す事は甘くない。如何にわれらがメイジ殺しと呼ばれようと、いや、だからこそ、私たちはそれを知っている。私たちが殿下から任された任務は、そんなついでを許すほど軽くは……」
「だからさ、同じなんだって。あいつを殺す事だって、本来なら姫さまが直接命ずべきことじゃ無い。アニエスは真面目過ぎる。アニエスは既に、アニエスの言う俺たちの“ついで”に巻き込まれてるんだ。だったら、俺がアニエスの“ついで”に巻き込まれるのも、同じだよ」
「そうだろうか……」
「そうだよ」
納得しきれないそぶりで、アニエスと呼ばれた女が不安そうに青い瞳を揺らした。
「本当に、真面目すぎ。今更、俺に抱かれた後で、そんなことを言うなんて。もし俺がじゃあ止めときますなんて言ったらどうするんだ? 抱かれ損じゃん」
男が笑う。アニエスの青い瞳と、男の黒い瞳が、暫し宙をぶつかり合った。
唐突に、アニエスが男から体を離した。裸を隠すでもなく立ち上がり、脱ぎ捨てられた服を拾いに行く。
「気に入らないな」
「そうかな?」
「ああ、気に入らない」
草臥れた服を手早く身につけ、そのうえにあちこち補強の跡のある鎖帷子を身に着ける。
「どちらにしろ協力してくれたと言うのなら、結局私は抱かれ損か? 自分でも、擦り切れた処女膜にさほどの価値は見出していなかったが」
呟きながら、男の衣服を拾い上げ、男に向けて投げた。そして、でこぼこと傷だらけのテーブルの上に置かれた武器を、一つ一つ改めながら身につける。
「そんなこと無いって、良かったよ」
「……ばか者が」
男もまた、立ち上がって衣服を身に着け始めた。アニエスよりも頭一つ高い長身の彼が身に着けたのは、彼女にも負けず、ぼろい衣服と鎖帷子だった。
彼がかつて身に着けていた衣服は、三年にもわたる年月でぐんぐんと伸びた身長の為に着れなくなっている。仕立て直そうにも、生地が特殊な為に適わなかった。
その特殊な生地の衣服は、今はゲルマニアにある“彼女”の墓に入っている。遺体も何もない墓だが、墓と言う形が、男の拠り所の一つになってくれていた。
「“メイジ殺し”の弾は後何発ある?」
アニエスがテーブルに置かれた長銃を手にとった。それを見て、男が問う。
男が“メイジ殺し”と呼んだその長銃は、随分と変わった形をしていた。
長銃としても明らかに大きかった。主に前線の兵士たちが用いるフリントロック式の長銃に比べて、ゆうに一回り以上は大きく見える。
「丁度二発だ。無駄弾を撃つ余裕は無いな。本命の為にも、奴を殺すのにこれを使うわけにはいかない。かねてからの打ち合わせの場所に、これは置いていこう」
「だからあの時節約してれば良かったのに」
「私はそれでも良かったがな。お前は確実に死んでいたぞ?」
そう笑って、彼女はその長銃を肩にかけた。
「では行くか」
アニエスの声に頷いて、彼も鞘に収められた大剣を背中にかける。彼にとって、アニエスとは違うもう一人の師匠であり、相棒だ。
先に立ち、部屋の扉を開けたアニエスは、だがそこで一度立ち止まった。
男に背中を向けたまま、搾り出すような声を上げる。
「……すまない、ファイト」
「俺の名前は、才人です」
ぷっと吹き出す。名前を間違われたのは、久しぶりだ。
背を向けたまま、アニエスも微かに肩を震わせた。
「くく、すまない。サイト」
先ほどとは違う、穏やかな声の謝罪。
そのまま振り返らずにアニエスは部屋を出て、サイトと呼ばれた男もまた彼女の後を追った。
背中に手を伸ばし、吊り下げた剣を僅かに抜く。
「命がけの仕事だけど、俺はこんなところで死ぬわけにはいかない。よろしくな、デルフ」
「今さらだぜ、相棒よぅ」
これだけは三年間ずっと変わらず、相変わらずの陽気な声を上げたデルフの声に、サイトは笑って、そうだな、と返す。
明るく、だが意味の無いやり取りだった。死地へと向かう。その事への恐怖なんて、とっくに擦り切れていたのだから。
アルビオン帝国領トリスタニア、ブルドンネ街。
通りの中央を走る豪奢な馬車の中にあって、この元トリステイン王国における植民地政策の一端を担っているリッシュモン辺境伯の顔色は、良いものではなかった。
「酷いものだな」
馬車のカーテンを開け、外を覗いたリッシュモンはそう呟く。
そう、酷いものだった。
職もなく、住む家もなく。汚い身なりの乞食たちが、彼の馬車に群がろうとしている。
仮にもトリステイン総督の居城の膝下であるにも関わらず、その治安の悪さは三年にも渡る植民地政策の成果を明らかに否定していた。
たかだか演劇を見に行くだけで、わざわざ馬車に乗り込んで多数の護衛を侍らせなくてはならないほどに。
かつてはこのトリスタニアにあって、女王陛下の御許で質素ながらもささやかに、何より逞しく生きてきた平民たちを思い出し、彼は何故か得体の知れぬ焦燥が己を苛んでいる事に気づいた。
リッシュモンは金の信奉者だ。彼が愛すべきは金貨であり、財宝である。
そして祖国を売り払った彼は、その見返りに莫大な恩賞を得た。そして、その金と、占領後のトリステイン支配の要職という立場を持って、更に莫大な金銀を得た。
時勢の見えぬ、最早滅びを待ち、すでに滅んだ王家に縋る愚かな貴族たちから土地を、財産を奪い取った。
この時代、植民地人に課せられる税率としては当然とも言える重税をかつての祖国に暮らす人々に課し、其の内のいくらかを不当に己の懐に入れた。
金、金、金、金。
政治の分からぬ甘い小娘に仕えてきたときには想像すら出来なかったほどの財産を築き、更に己が私腹は肥える一方。
なのに、だというのに。
どうして、己の心は満たされていないのか。
パンを、職をと穢れたなりの平民たちが馬車に群がる。
それを兵士たちが押し留め、殴り、地に這わせる。
哀れだった。例えようもなく、哀れな者たちが其処には居た。
「おい」
傍らに控える従者に、財布を出させる。
「何でもいいだろう……。いつから貴様は私に逆らうことを許された?」
は、何故でしょうか、と問い返されたリッシュモンは、自分でも理由の分からぬ怒りに不機嫌な声を上げた。
慌てて差し出された財布を引っ手繰るように奪い取る。
財布の中には、エキュー金貨がぎっしりと詰まっていた。
彼にとっては、これも僅かな金に過ぎない。
口を空け、無造作に金貨をつかみ取り、そして苦笑いを浮かべた。
無意識のうちに、掴み取った金貨の枚数を重さから何枚か数えていた自分にあきれた為だ。
手の中の金貨を全て袋に戻し、口は開けたままにする。
そして、馬車の外に、金の無い哀れな平民たちに眼を向けた。
「黙れ!」
何をするおつもりですか、と再び従者に問われたリッシュモンは、癇癪を起こしたように従者を怒鳴りつける。
そして、先ほどから自分の身を苛む訳の分からぬ怒りに身を任せるかのごとく、財布を馬車の外に高く放り投げた。
純度の高い金が、石畳を叩いて高い音を奏でる。
続いて、平民たちのどよめきの声と、後は辺りに散らばった金貨を必死で拾い集めようとする彼らの喧騒がリッシュモンの耳を叩く。
それを防ごうと、兵士たちが動いた。いや、錬度の低い兵士たちだ。取り返す振りをして、あわよくば金貨を己の懐に入れようという魂胆なのかも知れない。
その証拠に、彼の護衛として集められた筈の彼らは、殆どが馬車から離れてしまっている。
「取り返す必要は無い。どうせはした金だ。捨ておけ」
あきれたようにそう言って、彼は馬車の外の狂乱を締め出すかのごとくカーテンを閉めた。
浅ましいものだ、と心の中で呟く。
侮蔑でも、嘲笑でもない。リッシュモンは、金の為なら国も、かつての主君をも売り払った浅ましい男だ。
それを彼は良く自覚していた。
金を得るためには浅ましくもなる。正しい事だった。それは平民でも貴族でも変わらないらしい。
その事に、彼は大きな満足を得た。
リッシュモンにとってははした金でも、外の平民たちにとっては明日のパンの、冬を越すための衣服のための、大きな金だろう。
だが、そこではっと気づいた。
では果たして、彼は何のために金を求めたのだろうか。
それが分からぬから、彼は自分でも理解できぬ焦燥を、怒りを覚えたのでは? 民衆に金をばら撒くという、普段の自分からは考えられぬ行動に出たのではないか?
外の喧騒も、傍らの従者の声も、何もかもを頭の中から締め出して、眼を瞑った彼は深い思索の内に入る。
ずっと昔、彼が売り払った女王陛下に仕えていた頃よりも遥か以前に、彼と言う、金の信奉者を形作った何かがあったはずだった。
気がつくな、誰かが言った。黙っていろ! 彼は怒鳴り返す。
もう少し、もう少しで、たどり着く。その泡沫の間際に。
ガタン、と馬車が急停止し、その衝撃で彼は現実に無理やり引き戻された。
信じられないほどの、幸運だった。
あり得ないとは思いつつも、罠の存在を警戒するほどに。
「サイト! 右だ!」
「分かってる。アニエスも外は任せてとっとと飛び込め!」
一閃。突き出された槍の柄を切り払い、兵士の懐に飛び込む。
基本に忠実などとは言っていられない。この乱戦では。がむしゃらに切り、なぎ払い、殺し、躱し、適わぬのならば打ち払い、また切る。
これまでの戦いの経験が、幾度も死線を潜り抜け、研ぎ澄まされた直感が、戦いのプロである兵士たちを一蹴する。
彼らがプロというのなら、彼もまた、プロと呼ばれる人種だった。
護衛の兵士たちは、通りを埋め尽くす人々が邪魔で思うように動けない。
それは才人も同じだったが、すでに馬車の傍らに体を寄せることに成功したために、戦況はこちらに優位に進んでいる。
何故リッシュモンが、あの近隣諸国に悪名が響く程の金の亡者が、馬車の外に金貨をばら撒くなどという意味不明の行為に及んだのか、それは才人には分かりようがなかった。
ただ、この民衆と兵士の入り乱れた状況はどうやら罠では無いらしい。
また一人、民衆の影に隠れるように移動して、馬車に近づいた兵士を切り殺す。
ゲルマニアの傭兵たる才人が、かの国に亡命していたアンリエッタ姫殿下の接触を受けたのは二年と半年程前のことだった。
ガンダールヴのルーンを失い、それでも幸運と、デルフリンガーという強力な武器に助けられていた彼の名はそこそこに売れており、また、彼女と彼には一つの縁があった。
そして、トリステインという国家の滅亡の間際に新設された銃士隊の面々は亡命の際にも彼女の傍を離れず、彼は銃士隊と、そして彼女たちを指揮する隊長であるアニエスと縁を持った。
そして、彼女に才人が戦い方の教授を受けて半年、それから二年あまりで、彼と彼女は合わせてメイジ殺しという異名を持つに至った。
そのメイジ殺しの二人が、アンリエッタから秘密の命を受けたのは、今より数週間前。
その命は、亡国最大の裏切り者の暗殺。だがそれが、亡国の為でも、亡国の民の為でも無い命令だということに、二人ともすぐに気づいた。
それでも彼らがその命を一個の反駁もしなかったのは、アンリエッタへの忠誠や彼女の心を慮っただけでは無い。
彼女もまた、自分たちと同じ傷を持っていると、復讐に囚われていると、同類の匂いを嗅ぎ取った故。彼らの復讐にも、その命令は渡りに船であった故だった。
轟、と炎が渦巻き、馬車の側面が吹き飛んだ。
直後、男の、聞くに堪えぬ悲鳴が辺りに響く。
どうやら、中の決着がついたようだ。才人は手早く周囲に眼を配り、頭の中で逃走ルートを組み立てる。
仕掛けた才人たちにとっても計画外の奇襲だった為、本来逃げるときに目くらましに役立つはずだった小麦問屋が無い。変わりとしてのこの人ごみだが、逃げ切れるか。
竜騎士に追われなければ、どうにかなる。答えはすぐに出た。
竜騎士に追われたとしても、よほどの数でなければ大丈夫だろう。
才人は、アニエスが失敗したとは微塵にも思っていない。彼女の相棒、メイジ殺しの片割れだからこそ分かる。幸運に助けられ上手くいった奇襲、馬車の中という狭い空間、そして相手はメイジといっても文官である。
良条件が三つもそろっている以上、彼女が失敗するわけが無い。
その予想を裏付けるかのごとく馬車から小柄な人影が飛び出たのを片目で確認して、サイトもまたいずこかへ向かい走り出した。
リッシュモン辺境伯暗殺の報は、トリステイン総督府を大いに揺るがした。
本国にも噂が飛ぶほどの治安の悪さは伊達では無いらしいと、執務室に向かって歩く男はそう呆れたため息を吐く。
男はアルビオン帝国の紋章と、竜騎士の証である竜の紋章が刺繍されたマントを羽織り、腰にはメイジの証である杖を下げている。
鉄製の細剣の形をした杖が、彼が軍人であることを示していた。
執務室の前で止まり、被っていた羽帽子を脱ぐ。そしてノックもせずに扉を開けた。
「失礼します」
「だから、何故すぐ追わなかったと……! お、おお、良く来てくれた!」
扉を開けると、すぐ正面の豪華な机に腰掛けた老人が、ひきつったような作り笑いを浮かべて彼に声をかけてきた。
老人はトリステインの総督であった。
それに一礼を返し、男は室内に入る。
「賊は、捕らえられたかね?」
「現在、私の部下が追っております。とりあえずは、今分かってることを」
アルビオン本国にて、皇帝の命のみに従う近衛部隊の一員たる彼が、このトリステインに寄こされたのは一月ほど前の事だった。
トリステインの、特にトリスタニアの治安の悪さをどうにかせよ。そんな彼にとってはどうでもいい命令にも従わなければならぬのが宮仕えの悲しさか。
元々トリステインを占領する段階で、現状は既に予測されていた事だった。小国ながら始祖の血を引きし三つの王国の一つだったトリステインの民は独立気質が高く、また王族を捕らえられなかったのも占領政策の大きな障害となっている。
彼と、彼に従って派遣されてきたメイジたちだけでは、どうしようも無い問題。
無論、そんなことは彼らの主も知っている。
彼らの任務は二つ。このトリステイン総督府の、私利私欲にかまけた貴族たちの尻を叩くこと。そして殆どが失敗に終わっているといっても厄介なことである、一月に一度は為されている総督府の要人や要人の家族への襲撃を防ぐことだ。
だが今日、リッシュモンという総督府の要人の一人が殺された。
彼らも警戒はしていた。ただ、彼らの任務は後者よりも前者が優先される。リッシュモンという男は、彼らから見て使えない、むしろ邪魔者の筆頭である。
囮としての価値しかなかった。
「仕手人は、……メ、メイジ殺し!?」
「依頼人は不明ですが、十中八九ゲルマニアの手の者でしょう。かの国も形振り構わなくなってきたようで」
それでも、今回は彼の負けだった。
如何に治安悪しとはいえ、政治を行うのに城下町に降りぬ貴族はいない。彼はリッシュモンが襲撃を受けた時、別の場所で彼らにとって殺されてはならない要人たちの一人の護衛についていたのだ。
もし、メイジ殺しの襲撃に彼が立ち会っていたら、如何にただの平民では無い名うての傭兵の襲撃とはいえ、みすみすと仕手人どもを逃がすことはなかったろう。
彼の部下は有能ではあるが、それでも彼ほどではない。
「お前の部下は、奴らを捕まえられるか?」
「正直、期待は薄いでしょう。私がいればまた話は違ったでしょうが」
「で、では、メイジ殺しはこのトリスタニアに野放しになると……? い、いや、リッシュモンの暗殺に成功したのだ。ならばゲルマニアに戻り、また戦線やその付近の都市に現れるようになるか」
「ゲルマニアがわざわざメイジ殺しなどと異名をとる名うての傭兵を送り込んできたのです。まずリッシュモン殿のみが目的ということは無いでしょう」
「そ、それでは……!」
総督は、酷く怯えているようだった。まぁ、平民とはいえ分かっているだけでも両の手では足りぬメイジを下してきた傭兵である。
その上、総督は狙われる理由に事欠かない。それを、良く自覚しているようだった。
如何にメイジといっても、今の立場は文官には辛いものがあるだろう。
男にとって、総督の内心など慮る価値などないのだが。
「ご安心下さい、閣下」
「そ、そうだな。こういう時の為に陛下はお前たちを寄こしたのだ。とりあえずお前は私の護衛を……」
「いいえ、閣下。非正規戦を得手とするらしい厄介な傭兵が出てきた以上、受け手に回ってはいけません。私は、これより僅かな部下たちと共に城下町に潜伏、メイジ殺しを追います。そう遠からず、良いご報告を持って帰りましょう」
男の言葉に、総督の眼が驚愕にか見開かれた。
期待を裏切られた為か、それとも怯えている故か、狼狽した総督の様子は実に見苦しい。
と、執務室にもう一人、別の男が入ってきた。
男は彼にまっすぐに近づき、小声で二、三言何かを話した。それに頷きを返し、彼は総督のほうを向く。
「閣下、良い報告がございました。追跡をしていた私の部下が、メイジ殺しの潜伏しているであろう家屋を発見したそうです。私もこれから向かいます」
「おお、そうか! では頼んだぞ!」
「は」
一度礼をして、彼は執務室を出た。
歩きながら、後ろに控えるようについてくる部下から報告を受ける。
敵は、先に報告を受けたとおりメイジ殺しと呼ばれる二人組みの傭兵。詳細はまだわかっては居ないが、一年ほど前から彼の耳にもちらほらと届くようになった名前だった。
彼自身がメイジ殺しと戦ったことは無い。主にゲルマニアとトリステインの国境の戦場や町で活動する彼らと、ここ三年の間殆どアルビオンに居た彼では接点の持ちようも無かった。
「メイジ殺し……か」
つぶやきながら、彼は左手を押さえた。よく見ると、彼の左手は義手だった。どうやら、二の腕の中ほどから先を失っているらしい。
平民で、メイジ殺しなどと言う名に、彼は一人の少年の事を思い出していた。
そして、少年の主人だった彼女の事も。
「ガンダールヴより強いのかな? その傭兵は?」
切られたはずの左手が、疼いた。
才人が、別行動を取った時のために予め二人で打ち合わせていた落ち合い場所に現れたのは、彼の体内時計であの襲撃からおよそ四時間あまりたった後のことだった。
追っ手を撒くために、大分遠回りになってしまった。既に日は落ち、彼の歩く通りはぼんやりと明かりを放つ魔法提灯の為か幻想的な光景を描いている。
ブルドンネ街とは違い、初めからアルビオンの支配を積極的に受け入れた住民の多いこのチクトンネ街は、才人は知らぬがかつてトリステイン王国の街であった頃とそう変わらぬ風景を保っていた。
税率は、ブルドンネ街よりすこしばかりマシと言った程度ではあるのだが。
人通りも多く、薄汚れたマントを羽織った彼の姿も良く馴染んでいる。
ゆっくりと道を歩いていた才人だが、ふっと、まるで消えるように一瞬で裏路地へ曲がった。
そのまま進み、一軒の酒場の裏手にて足を止める。
そのまま視線だけを動かして辺りに眼を配り、あたかもその店の下働きであるかのような自然な仕草で、薄汚れた扉を開いて酒場に入った。
今のトリスタニアに、大の大人が下働きで働くケースなどいくらでもある。
尾行には気を使ったが、メイジ相手にそれは気休めにもならない。
とはいえ彼は特にその事を気にしてはいなかった。彼らがトリステインに来た際、レジスタンス的な行動をしている地下組織の協力を得て作った無数の拠点は、どれもメイジに襲撃されても何とか逃げられるくらいにはトラップが満載されている。
「お連れの方はもう見えています。こちらへどうぞ」
この店で働く給仕なのだろう、ずいぶんと際どい格好をした女性に連れられて階段を上った。
住み込みで働く店員たちの部屋らしい、左右の扉が立ち並ぶ二階。その突き当たりで足を止める。
天井に、それと見ただけでは分からない継ぎ目が存在していた。その上が、才人らの拠点の一つである屋根裏部屋だ。壁に手足をつけて踏ん張れば十分に上れることを確かめて、梯子は片付けさせてある。
「ご用があればお呼び下さい。一応、私はジェシカと言います」
女性の名乗りに、才人は僅かに顔を顰めた。それでも、それを彼女には気づかせず、口を開く。
「よろしく頼む。スカロンさんにも礼を言っておいてくれ」
わかりました。そう言って、ジェシカと名乗った女性は下へと降りていった。
それを見送って、彼は壁を登り始める。
もしアルビオンの兵士やメイジに踏み込まれた場合、才人たちは一目散に逃げ出す。
仕掛けられたトラップと、この店の店長であるスカロンを筆頭に店員たちも、足止めをしてくれる手はずだ。
だから、もしかしたら見捨てていかなくてはならない女性の名前なんて知りたくはなかったのだ。
正直、才人もアニエスも彼らを巻き込む事は本意では無かった。それでも、自分たちから乗ってきてくれた人たちを拒絶出来るほど才人たちに余裕は無い。
天井を一度叩いて、一拍後に二度叩く。すぐに板が外れ、アニエスが顔を覗かせた。
「遅かったな」
「竜騎士二騎の追跡は流石に辛い。そっちこそ、無事で良かった」
当然だ、と笑ってアニエスは才人を引っ張り上げた。
「気分はどうだ?」
備え付けのベッドに腰掛けると、もわっと埃が舞った。が、そんなことを気にするような生活を送っていない才人は、背中から鞘に包まれた剣をはずして傍らに置く。
「気分?」
「そ、気分。復讐を果たしたっていうのはどんな気分なのかなってさ。後学までに聞いておこうと思って」
アニエスが、リッシュモンにどのような恨みを抱いていたかどうかは、才人も詳しくは無い。
精々、彼女が昔、まだ子供のころに住んでいた村が虐殺にあったこと。そして辛うじて生き残った彼女がそれを為した者、命じた者たちを探しているということぐらいだ。
「残念だが、私の復讐はまだ終わっては居ない」
「ああ、そっか。一人じゃないんだったな」
「私のことはいいだろう。もう十分に我侭は言った。後は、お前と殿下の番だ」
それこそが、二人がこのトリステインにやってきた本来の目的。
「暫くはほとぼりを冷まさないと。ま、そんなことより……」
才人は立ち上がって、アニエスに近づいた。人を殺した後というのはどうにも昂ぶっていけない。
そのまま後ろから抱きしめようとして、片手で制される。
「気持ちはわからんでもないが、明日までは我慢しておけ」
「そうだな」
まぁ冗談だった。襲撃を行ってから、まだ四時間。ここが安全だと判断するまで、一両日は様子を見なければならない。
セックスの間というのは、排泄の最中と同じくらいには人間が無防備になってしまう時間なのだ。
「駆けずり回って疲れているだろう? まずはお前が休んでおけ」
「わかった。そっちも疲れたら起こしてくれ」
そう言って、ベッドに戻り寝転がる。
出来れば一度鎮めたかったが、さすがにアニエスの前でセルフサービスというのも格好がつかない。
必要も無かった。
早寝は、不規則な生活が常の傭兵には必須の特技である。
目を瞑って、呼吸を調整する。それだけで、眠りはすぐに訪れた。
俺はお前が好きだった。
でもお前は俺の事をどう思っていたのかな。
お前は立派な貴族だった。力は無くても、誇り高い貴族だった。
使い魔でしかない俺なんか、平民である俺なんか、放っておけばよかったのに。
責任感が強すぎるのは問題だ。優しすぎるのも問題だ。
お前が戦ったのは、メイジとして自分の使い魔を放っては置けなかったからか? それとも、俺を召還したことを、お前なりに気に病んでいたからか?
それとも……。
どうにも俺には理解できない。
俺は一度、お前を見捨てて逃げ出した。お前は俺にだいっきらいと言った。
なのになぜ、お前は俺を助けたんだ。
「サイト」
アニエスの声に、才人は薄く目を開けた。懐かしい夢を見ていた。このハルケギニアに来て凡そ三年。
そのうち、彼女とともに過ごした時間は一月にも満たない。
それでも、才人にとってあの時の記憶は最も尊いものだった。
だが、今はあの時とは違う。彼女は居なくなり、彼は変わった。
起き上がる。体の調子から考えて、一時間は眠っていただろうか。
厳しい顔で、そっと埃まみれの窓越しに外を覗く。
「つけられてた、か」
「ああ、私か、それともサイトかな?」
さぁ、と首を振る。どちらにしろ、いくら優れた傭兵といえども平民ではメイジの追跡を振り切ることは難しい。それは判っていたこと。
ただ、心の中で才人はこの店の店員たちに謝罪をする。申し訳ありません。あなたたちを囮にして俺たちは逃げます。
暗闇に、蠢く者たちが居た。路地裏の影に身を潜めるように、十数人の兵士が張っている。指揮を執っているのは、どうやらメイジのようだ。
それに、メイジの動きを注視すると、時たま腕を振る奇妙な素振りを繰り返していた。合図の一種だろう。
こちらからは見えぬ位置にも、兵士が張り込んでいる。
裏手にこれだけの人員を配置するとは。
「完全に囲まれてるな。また随分と物々しい」
アニエスが舌打ちとともに吐き捨てた。
「逃げ切れるかな?」
「さて、……せめてもう一組の姿を捉えられればな」
うなづいて、ぐっと窓に身を寄せる。
窓を開けるなどということは出来ない。
なるべくこちらの姿を見られないよう、それでいて、可能な限り外の状態を把握しようとする。
正面の家屋、その窓に、ここからでは見えぬ方向にある路地裏が映っていた。しめた、と眼を凝らす。
そして、才人は一人の男の姿を目に捉えた。
硬直する。手が震える。
「サイト? どうかしたのか?」
「……標的を発見。今日は本当についてるな、俺たち。新教徒にでも改宗するか?」
「元々私は新教徒だが、始祖に感謝するなど久しく忘れていた行為だな。今日が終わったら祈りでも捧げるとしよう」
「そっか。じゃあ……、どうする?」
時間はあまり無い。下からは人の争う音が聞こえている。手早く作戦を組み立てて、才人は剣を抜いた。
「正念場だ、相棒。久しぶりに強力なメイジが相手だ。正面から魔法を喰らうぞ。頼りにしてるぜ?」
「おうよ。久しぶりの見せ場だかんね。はりきってるぜ、俺もよぅ」
鏡のように光っている刃が、ぶるぶると武者震いをおこすように震えた。
「よし、じゃあサイト、先行は任せる。死ぬなよ」
「そっちこそ、頼んだ」
「すまないな。奴はお前の仇だというのに」
「あいつを殺すにはこれしかない。あいつが死んでくれるなら、特に直接なんてこだわらないよ。姫さまの仇でもあるんだ。任せた」
「……任された。必ずやつを殺そう」
そう言って、アニエスは拳大の変わった形をした壷を取り出した。最近ゲルマニアの錬金魔術師が発明した目くらましのマジックアイテムで、原始的な閃光手榴弾と考えればわかりやすい。
実戦では、とにかく引火しやすいのが原因で余程用途を限定しないと使えないどころか持ち歩くのも難しい物なのだが、今は十分に使える状況だ。
「――! 来たか」
一瞬、二階に続く扉の役目をしている床の板から光の粉のようなものが漏れた。
ディテクトマジックに引っかかったらしい。
限界だ。才人はアニエスを見た。アニエスも才人のほうを向く。一瞬、重なり合った視線。頷きあう。
デルフで、窓を一瞬で切り破った。外を目掛け、アニエスが手に持った壷を放り投げる。
「――はぁ!!」
その後を追って、才人もまた、窓から跳び出した。
まともに戦っても、平民では決してメイジには勝てない。それほどに、魔法という下駄を履いた者は強い。
ならばこちらも下駄を履けばいい。
戦う前に、すでに勝っているという状況を作り出すことが、メイジ殺しには必須である。
世界が白く輝く中を、目を瞑ったままの才人は両足で地面に着地した。そのまま膝を曲げ、尻餅をつくように腰を落としごろごろと三回転ほどした後、跳ねるように立ち上がる。
才人の後を追うように、アニエスも飛び降りてきた。才人と同じように転がって着地の威力を殺している。直前まで彼らが居た部屋の窓枠が、一際強い閃光を放った。携行しての持ち歩きも適わぬ危なっかしいマジックアイテムの、残り全てを部屋に突入してくるだろう兵士たちの足止めに使ったのだ。
すぐに辺りは暗闇を取り戻す。周りには十数人の兵士たち。閃光に目をやられたためか、皆目を抑えて蹲っていた。
(敗因その一。場所を悟られないためなんだろうが、明かりを用意せずに配置についていたこと)
速やかに近寄って、蹲ったままの指揮官らしきメイジの首を刎ねた。血を噴出し、どうと倒れる。
直後、風を感じた。足のばねを使って思いっきり横に跳ねる。
彼がすぐ前まで立っていた場所は、首を失ったメイジとともに吹き飛んだ。
誰の魔法か、など今更確認するまでも無い。才人は最初から、彼の位置を把握している。
「流石はメイジ殺し、かね。こうも鮮やかな手並みを見せられては、そのふざけた異名にも納得というものか」
三年間、一度として忘れたことの無い声だった。姿を捉える。三年間、一度として忘れたことの無い顔をした男が立っていた。
三年間、一度として忘れたことの無い憎しみが心を焦がす。
その衝動に逆らうことなく、才人は彼に向かって走り出した。
バン、と音が響く。アニエスが腰の銃を抜き取りざまに男に向け撃ったのだ。背中の“メイジ殺し”は、重量がありすぎて近接戦には殆ど使えない。
男はそれを軽く杖を振るうだけで弾き飛ばした。
だが、その為に才人への備えが僅かに遅れた。彼我の距離は5メートル。あのルーンを持っていた頃の素早さは望むべくも無いが、三年間鍛えに鍛えた瞬発力は、その距離を可能な限りゼロに近づける。
「――な!?」
(敗因その二。これが自分たちの狩りだと思い込んでいたこと。俺たちの標的は、お前だ)
だが、すぐに男はにやりと笑った。
男の詠唱速度はもしかしたらハルケギニアでも一、二を争うほどに早い。僅かな遅れは、男にとって決して致命的なミスにはなり得ない。
だがその事は、才人も十分に承知していた。
猛烈な風が、才人の目の前に渦巻く。
『ウインド・ブレイク』
それが、一瞬で掻き消えた。才人の突き出した剣が、魔法を吸い込み光り輝く。
今度こそ、男の表情から余裕が消えた。
「まさか――!?」
(敗因その三、……何よりも)
「直接俺を殺さなかった事が、お前の敗因だ! ワルドッ!!!」
袈裟懸けに切り捨てた。何の抵抗も無く、デルフリンガーはワルドの体を二分割し、
「これは驚いた! 生きていたのかガンダールヴ!」
猛烈な風に、才人は文字通り吹き飛ばされた。
「――グッッ!」
五メートルも、吹き飛んだ。体中が痛む。それをおして、才人は無理やりに立ち上がった。
あの時のように、剣を手放しはしていない。
「風の偏在ね。相変わらず、厄介さは変わってねーやな」
デルフが吐き捨てるように声を発した。
その事に才人は微かに苦笑いした。
「サイト、無事か?」
「ああ、何とかな」
吹き飛ばされた才人に、アニエスが駆け寄ってくる。才人は、彼女を庇う様にしてワルドに向け剣を構えた。
彼らにとっては基本の配置だ。アニエスには、才人と違って魔法に対しての有効な防御手段が無い。
才人が前衛、アニエスが後衛。それは、二年もの間も決して変わなかった、メイジ殺しの戦い方だ。
「なるほど、最初から俺の命が狙いと言うわけか。リッシュモン殿を殺したのも俺を誘いにかける為かね?」
だが、状況は最悪だった。ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドという名のこのメイジは、今まで彼らが殺していたどのメイジとも文字通り格が違う。
更に、先ほどの閃光で無力化されていた兵士たちが次々と立ち上がっている。このぶんでは屋根裏に突入してきた人員も、もうしばらくもせずに降りてくるだろう。
なればこそ、ワルドも余裕を持って才人に話しかけてきたのだから。だが、彼が余裕であるもう一つの理由に、既に才人たちは気づいていた。
「あの時の少年が、メイジ殺しなどという名まで持って俺を殺しに来たか」
「……」
「仇討ちかい?」
「――それ以外の、何だって言うんだよ!」
裂帛の気合。憎しみに身を焦がした復讐者がそこに居た。叫びながら、才人はワルドに向けて突貫する。今度は、アニエスは動かない。それを見て、ワルドは笑った。
「なるほど、あの時の焼き直しというわけか。いいだろう。貴様らは手を出すな! これは決闘だ!」
ワルドの杖と、才人の剣が鍔迫り合う。『エア・ニードル』で渦巻く風を纏った剣が、がりがりと音を立てて才人の剣を削ろうとする。
無論デルフリンガーがその刃を削られることは無いが、弾かれるのを避けることは出来ない。それにむしろ抵抗せず、しっかりと剣を握った才人は弾かれた勢いをも利用して杖の一撃を避け、反撃の一突きを繰り出す。
それをワルドが跳び退って躱す。それを許さぬとばかり、才人は足に力を込めて跳び、距離を詰めた。
意外なことに、戦況は拮抗していた。ガンダールヴのルーンを失いながらもデルフリンガーとアニエスという二人の教師に教えを受け、更に実戦で幾度となく死線を乗り越え腕を磨き続けてきた才人と、如何に凄腕のメイジといえど本職でない剣の腕で彼に拮抗するワルド。
心外なのは、どちらかといえばワルドの方か。ガンダールヴという下駄を履いてようやく己を退けた平民の少年が、今やルーン無しでこれほどの力を手に入れているのだ。
だが、ワルドは余裕の表情を崩さない。彼は剣士では無い。メイジである。
そして、決闘などといっても、魔法を使わぬ道理など無いのだ。
「腕を上げたな、ガンダールヴ。だが、これで終わりだ」
ギン、と才人の剣を杖で受け払い、ワルドは才人から距離をとった。
その彼の両隣に、彼と全く同じ姿をした男が現れる。風のユビキタス。ワルド一人にようやく拮抗する程度の才人では、三人を同時に相手にしては一分も持つまい。
「あの時は敗れた我が『偏在』だが、今の君には無理だろう?」
「っち、やっぱそれ使うかね。どうするよ相棒。ちょっとばかしまずいぜおい」
やめてくれ、と才人は思った。
デルフの演技は、下手糞過ぎる。
「こうするさ」
懐に、無理やり押し込んでいた壷を取り出す。十分に気を使ってはいたが、それでも割れていなかった事に安堵した。
「ぬ!」
地面に叩きつける。その寸前に、ワルドは右腕で眼を覆った。流石に読まれているらしい。
だが、眼を覆う動作。それこそが狙いであった。
(敗因その四、このマジックアイテムについての知識の不足)
壷が地面に叩きつけられる。だが、肝心の閃光は発せられない。
当たり前だ。持ち運ぶだけでも細心の注意が必要なほど物騒なマジックアイテムなのだ。
あれだけ激しく動いていた才人が、そんなものを懐に忍ばせていたわけが無い。彼が持っていたのは、中身の無い偽者である。
ただ、その壷がそれほど使いづらいものだと知らず、なおかつあの閃光を警戒している敵には、一回きりしか使えないがこの上もなく有効な目くらましになる。
(敗因その五、決闘なんて勝手に勘違いして俺を相手に集中してしまったこと。メイジ殺しは二人組みだ)
そして、本命の一撃がアニエスによって放たれた。
ドン、ドン、と二発続けて銃声が響く。才人が作った隙に、“メイジ殺し”を構えたアニエスが右手家屋の二階窓目掛けて銃を放ったのだ。
長銃は続けて、ピーンと甲高い音を発した。
その長銃の名はU.S.Rifle Cal.30.M1。一年ほど前に珍しいもの好きなゲルマニアの貴族からとある任務を受けるのと引き換えに譲り受けたものであり、才人の故郷ではM1ガーランドの愛称を持って呼ばれた軍用ライフルである。
「敗因その六、自分が安全圏に居るのだというその余裕。俺たちは戦いながらもずっとお前の本体を探してた」
『偏在』は強力ではあるが制約も多い。最大で五つの意思の共有なんて、人間が処理できる限界を超えているのだ。それも一人二人を別行動させる程度ならともかく、戦いという複雑な動作を必要とする場面で複数人なんて、どうしたってその限界にぶち当たる。
ならば精々、動きを見ながら操り人形のように動かすのが関の山。そのため術者は、どうしても戦場を視認できる位置に居なければならない。
メイジを殺すには魔法を知らねばならない。更に、いつかワルドを殺す時の為に、才人は特に『風の偏在』というスペルには相当詳しくなっている。
デルフリンガーの下手糞な演技も、才人の激昂も、アニエスが才人とワルドの戦いに手を出さなかったのも、後者二つを持ってワルドに決闘などと勘違いさせたのも、全てはこの為の布石。
卑怯とは言うなかれ。平民にとって、魔法を使うメイジという存在はそれだけで卑怯の塊なのだから。
三人のワルドが消える。術者の死んだ魔法は、当然消えてしまう。
かつて、才人の左手に刻まれていたルーンが今は無いように。
ワルドの『偏在』が消えた後、戦場はただ静まり返っていた。
この場にいる誰もが、ワルドの強さを知っていたのだ。彼の部下であるメイジは元から。そして、メイジ殺しの包囲のために集められた兵士たちもワルドが『風』のスクウェア・クラスのメイジであることは知っていて、彼が殺されるまでその強さと勝利を信じて疑わなかった。
アニエスが、ワルドを殺した化け物のような長銃を彼らに向ける。
それだけで、兵士たちは恐慌を来たした。
「う、うわああああ!」
「逃げろ! 殺されるぞ!」
「た、助けてくれぇ!!」
ワルドの部下であるメイジたちの驚愕は、ワルドの強さを良く知っているだけに、兵士たちのそれを上回るものだった。
それでも彼らに兵士たちの恐慌が伝播しなかったのは、彼らのメイジとしての誇り、そして強烈な克己心の故だ。
だが、それはあまりにも危うい均衡で。
才人がメイジの一人に向けて駆け出す。ワルドに拮抗するほどの腕の剣士が、突っ込んでくる。
「く、来るなぁ!」
ワルド程では無い、それでも十分に早い詠唱によって、杖の先から巨大な火球が放たれた。
だがそれは、才人の持つ剣が突き出されるとそれだけで消えうせた。
才人の持つ剣が、魔法を消すという悪夢じみた剣が振るわれる。
「ヒィ!」
一瞬で、彼の持つ杖が手から弾き飛ばされた。更に一閃。彼の腕が、切り飛ばされる。
「ぎゃあぁああああ!!」
悲鳴を上げて、鮮血を撒き散らして逃げるメイジ。
それを呆然と眺めていた他のメイジたちに、返り血を浴びて血塗れた才人が、血の滴る剣を以って振り返る。
それでとうとう、危うい均衡は崩れ去った。
才人とアニエスが逃避行に一応の終わりを判断したのは、ワルドを殺してから数日立ってからの事だった。
トリステインとゲルマニアの国境沿いの街。無論ゲルマニア側である。国境を越えるまでは、殆ど眠らず、飲まず食わずの壮絶な逃避行であった。
「ようやく聞けるな」
いつものように安宿で、部屋に入った途端に才人はアニエスを押し倒した。
彼女がそれに抵抗しなかったのは、才人の様子が普段と違うことに気づいていたからだ。
二年と半年。殆どの戦場で彼らは一緒だった。だからこそ、アニエスは才人の変化に気づけたのだ。
「何を?」
一時間あまりの激しい情事の後、才人を正面から抱きしめるようにして寝転がったアニエスの放った言葉に、抱きしめられている才人が問い返した。
「復讐を果たしたというのはどのような気分なのだ? 後学の為に聞かせてくれないか?」
ほんの数日前の問いを返された形になって、才人は微かに笑った。
ぎゅ、とアニエスが腕に力を込める。彼女には、それがどうしても泣いているようにしか見えなかった。
「後悔してる。猛烈に」
「後悔?」
思いもかけぬ言葉に、アニエスはまじまじと才人を見つめた。
「そう、後悔。どうして、俺はルイズを守れなかったんだろうって。いや、ようやく後悔する資格を持てたのかな、俺は」
今更になって。後半の言葉は殆ど消えかけて、今度こそ才人は泣いていた。
才人と初めて会ったとき、彼は確かに肉体的には弱かったが、それでも心の裡にぎらぎらと復讐の炎をたぎらせていた。
二年と半年も一緒にいて、彼女が才人のこんなにも弱い姿を見るのは、初めてだった。
「ルイズというのは、その……」
アニエスもアンリエッタから名前は聞いていた。ただ、才人からその名が出た事は一度も無い。
「恋人なんかじゃないよ。俺ほどあいつにふさわしく無いガキもいない。たださ、ただ。……たぶん俺は、ルイズのことが好きだったんだ」
そうか、とだけ返す。好きな女の名前すら、己が口にすることを赦せなかったのか。
「これからどうする?」
「……さぁ、わかんね。ワルドを殺すことだけが、それをするだけの力を手に入れることだけが、俺の生きがいだったし。楽な人生だったのかなぁ」
「そう、なのだろうな」
ふざけた話だった。いまだ復讐に囚われた自分が、復讐を成し遂げた者に同情している。
「ならば……」
「ん? 何だ?」
「……いや、なんでもない。もう寝ろ。とにかく、今は眠れ」
かけられる言葉も見つからずに、ただアニエスはそう言った。
頷いて、すぐに才人はアニエスの腕の中で寝息を立て始める。
それを確認して、アニエスはもう一度、才人をぎゅっと抱きしめた。
どうしても、言えなかった。ならば自分の手伝いをしてくれないかなどと。
「私は、こんな感傷的な女だったかな」
己の復讐のために主人すら利用した女が、ただ一人の男に揺らいでいる。
リッシュモンの襲撃の時には、出来たはずだ。迷って見せたのも、所詮は見せかけ。才人が断るわけが無いというのを見越してのものだ。
そしてそれは、才人も良く分かっていただろう。
あの時と同じように、言えば才人は手伝ってくれる。なのに。
どうしても、言えなかった。
女の前で泣いた情けない男を、アニエスはとうとう好きになってしまったのだ。
『よくもルイズを騙しやがったな』
『目的のためには、手段を選んではおれぬのでね』
またこの夢か、と才人は思った。あの時から、幾度と無く見た夢だ。
『ルイズはてめえを信じてたんだぞ! 婚約者のてめえを……、幼い頃の憧れだったてめえを……』
『信じるのはそちらの勝手だ』
そこは色の無い世界だった。鮮やかなはずのステンドグラスも、引かれた絨毯も、彼の左手に倒れているウェールズ皇太子も、彼の口から零れた血も。
何もかもが黒と白で構成されている。その中で、やはり色の無い始祖ブリミルの像の横に、僅かな例外があった。
ワルド。色の無い世界にあって、彼の姿は殊更鮮やかな色彩を保っていた。
ふざけるな、と才人は思う。彼の傍らに、彼の最愛の女性が倒れていた。ピクリとも動かない。
そう、この時はまだルイズは生きていた。少なくとも、ワルドを退けるまで、彼の左手にはルーンが輝いていたのだ。なのにどうして、ルイズの色が無いのに、死人のお前が生きているんだ――!!
叫んだつもりだった。なのに、口は全く動かない。当然だ。これは夢なのだ。才人の、忘れることの赦されぬ、忌まわしい過去を再現しているに過ぎない。
今なら、奴を殺せるのに。俺は、奴を殺したというのに。なのになのに、才人の体は全く才人の自由にはならなかった。
いつものように、夢は才人の記憶どおりに進行する。デルフリンガーが本来の姿を思い出し、ワルドが『風の偏在』を使い才人を追い詰め、そして。
色の無い世界で、色の無いルイズが立ち上がり、記憶どおりに杖を掲げる。
『いいから逃げろ! 馬鹿!』
“才人”が叫ぶ。ふざけるな! 才人も叫ぶ。
俺はお前を殺しただろ。ワルド。実際に仕留めたのはアニエスだけど、ライフル弾を脳天に二発もぶち込まれたんだ。お前は死んだ。なのにどうして。
ルイズが魔法を使う。ボゴンと音がして、ワルドが一体吹き飛んだ。
残った一体のワルドが、ルイズに躍りかかろうとする。
ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな!!
『逃げ――「死人が、ルイズを殺すんじゃねぇ!!」』
声が、出た。夢の中で、才人は自分の体が動くのを感じた。
どうして、とは考えない。そんな暇も無い。左手が一際強い光を放ち、世界は色を取り戻す。
その中で。
ルイズにワルドの『偏在』が呪文を放つよりも早く、ガンダールヴのルーンで加速した才人は、ワルド本体の首を刎ねていた。
「ルイズ!」
才人はそれを確認して、すぐさまルイズに駆け寄った。間に合った。間に合ったのだ。
俺はルイズを――。
「え?」
違和感にはすぐ気づいた。どうして、魔法で吹き飛ばされていないルイズが倒れているのか。どうして、色を取り戻したはずの世界にあって、ルイズの色だけは戻っていないのか。
「ルイズ! おい、ルイズ!」
叫ぶ。でもルイズは眼を覚まさない。
「……う、ぁあ」
がたがたと震えながら、あの時と同じように、才人はルイズの胸に耳を押し当てた。
あの時と同じように、鼓動は、全く聞こえなかった。
「――――っ!」
声無き絶叫を上げて、才人は飛び起きた。夢の残滓がぐるぐると体の中に渦巻き、吐き気を催すのを必死で堪える。
「どうしたよ、相棒。すげー汗だな。また例の悪夢かね」
「……ああ。それも三年間でもとびっきりのな」
「そりゃおでれーた。でも納得だ。相棒、てめ、ひでー面してるぜ。あの娘っ子が死んだ時とおんなじくらいにはひでー顔だ」
そうだろうな、と頷く。まさしくデルフの言うとおりだった。才人はまた、ルイズを助けられずに死なせてしまったのだから。
「何でだ? あの胸糞悪いヤローは殺したじゃねぇの。相棒は仇を討った。んでようやく追っ手も撒いて、ゆっくりと眠れるようになったわけだ。さぞや気持ちいい夢を見てるとばかり思ってたんだけどな」
「当たり前の話だよ。復讐なんて何の意味も無い。それを、夢の中で突きつけられた訳だ」
そう答えて、才人は立ち上がった。横に眠るアニエスを起こさぬよう気を使う。寝汗をかいたせいか、喉が渇いていた。デルフの横に置かれた水差しを手に取る。
「そういうもんかね。人間てのは難しいな」
「ああ。難しい。俺だってその当たり前が分かっていなかった。……三年間か、高い授業料だったなぁ」
水を飲んで、一息つく。そして、目の前に現れたものに、瞠目して立ち尽くした。
彼の前に突然光る鏡のようなものが現れたのである。
高さは二メートルほど。幅は一メートルぐらいの楕円形をしている。厚みはない。よく見ると、ほんのわずか宙に浮いていた。
ずっと昔、もう今の才人では夢としか思えないような満ち足りた生活を送っていた頃に、これと全く同じものを見たことがあった。
「う……そだろ?」
濃い、草の香りが鼻をくすぐる。理屈もなく、才人は確信していた。これは、あの日、才人とルイズが初めて出会ったあの草原に繋がっているのだと。
過去は覆らない。死人は助けられない。それを、突きつけられた。己の三年間の復讐は無意味だったのだと、才人はようやく認めざるを得なかった。
だからと言って、これは無いだろう。
くぐれるわけが無い。才人が、これをくぐれるわけが無い。
デルフが声を上げた。
「どうしたよ相棒?」
愕然としている才人とは対照的に、実に落ち着いた声だった。
「……何が」
「いかねぇのか?」
何を当たり前のことを、とでも言いたげにデルフが問う。どうしてそんな当たり前のことのように言えるのか、才人には理解できない。
「お前は、これが何なのか分かってるのか?」
「ゲートだろ。ちょいと特殊みたいだけど、天国にでも通じてるのかね。あの娘っ子は、死んでもお前さんに助けてもらいたいようだね」
それだったらどれだけいいか。才人は低く喉を鳴らす。
「違う。これは過去だ。俺が、ルイズと初めて会った日の、初めて会った場所に通じているんだ」
「へぇ、それで?」
「だから、何が……!」
「何度も同じ事を聞かすなよ。いかねぇのか?」
「どうして、俺が、行けるって言うんだ……!」
「お前さんのご主人様が、お前さんに助けを求めてるんだろ? むしろ、どうしていかねぇのよ?」
「違う!!」
静かな夜に、才人の声は驚くほどに響いた。ううん、とベッドのアニエスが寝返りをうつ。
「……」
「……」
長く過酷な逃亡劇に、よほど疲れているのだろう。すぐにアニエスは落ち着いた寝息を立て始めた。
それで幾らか落ち着きを取り戻し、才人は低い声でデルフに向かい口を開く。
「いいか、デルフ。過去は覆らない。俺が今更これをくぐったって、俺がルイズを死なせたって過去は変わらないんだ。この先に居るのは、俺の知っているルイズじゃない」
「ふーん。なら過去って言い方は変だね」
だが、どれだけ才人が自分の心をえぐるような事を言っても、彼の相棒の剣の声色は変わらなかった。
「何だって?」
「このゲートは過去に通じてなんていないってことだよ。それで、このゲートの向こうに居る相棒の知らない娘っ子を、相棒は見捨てるのか?」
ただ淡々と、才人の本音を探ってくる。
「……っ!」
絶句した。俺は、ルイズを見捨てられるのか?
「赦されると思うか? ルイズから逃げ出した俺が、ルイズを死なせた俺が、何もかも無かったことにして、過去に戻ってルイズを助けるなんて」
「だからよ。相棒の言葉だろが、過去は覆らないって。無くなりゃしない。相棒が覚えてる限りな」
過去じゃない。その通りだ。才人は決して忘れはしないだろう。ならば、このゲートが繋がる先はただの過去ではなく。
ぐっと、デルフを握り締めた。過去は覆らない。でも、だからと言って、才人の知らぬ世界のルイズが死ぬのを、自分は見過ごせるのか?
才人がこのゲートをくぐらなければ、ルイズは間違いなく殺されるだろう。
あの誇り高い少女は、決してワルドの誘いに乗りはしないのだから。
「相棒わよ、確かにあの娘っ子を死なせた」
「……ああ」
「んで、そんな自分が赦せないと」
「そうだ」
「それはワルドの奴をぶっ殺した後もかわんねーと」
「手段が、間違っていたみたいだからな」
分かっていた。過去は覆らない。死んでしまった人は助けられない。
憎い。ルイズから逃げ出した自分が、ルイズを死なせた自分が、ある意味ではワルド以上に憎い、赦せない。
ああ、それでも。
才人が今まで生きてきたのは、皮肉にも彼がルイズを護れず、逆に助けられてしまったと言う最悪の結果、それ故にだった。
認められない。認めたくない。それでも、才人はルイズに生かされたのだ。
何という矛盾だろう。才人はルイズを死なせた自分を赦せないのに、ルイズは彼が生きることを望んだのだから。
ルイズは才人が自分を責め、憎むことを望んでいない。才人はそう信じていた。
死者の思惑を自分に都合のいいよう、勝手に好意的に解釈している。他人が才人のその考えを知れば、大抵はそう言うだろう。
でも才人は、その考えを曲げようとは思わない。才人にとって、ルイズはどこまでも気高くて、優しくて。そして愛しい少女だった。
そんな彼女が、愚かな復讐に身を焦がしワルドを憎んだ己と同じように、才人を憎んでいるなんて考えられるはずが無い。
「ならよ。これからもずっと間違えて生きてみろ。間違えて間違えて、いつか答えを出してみな」
「……そうだな。その通りかもしれない」
それで、心は決まった。
「くだらねー問答だったね。どっちにしろ、同じことだ。おめーさんは行くだろ? 娘っ子を助けに」
「ああ。でも、ありがとう。お前がいなかったら、俺は前には進めなかった」
「いいさ。相棒がそういう奴だってのは、今さらだね」
そうだな、と笑う。
流石に裸はまずかろうと、服装を整えた。くたびれた服の上に、ぼろぼろの鎖帷子を着込んで、同じようにぼろぼろのマントを羽織る。
そしてデルフを背中にかけようとして、そこでデルフが声を上げた。
「ああ相棒、俺は行けねぇぞ」
「え……、何言ってるんだ?」
「ゲートの向こうは、三年前の学院なんだろ? つーことは、街の武器屋に三年前の俺が居る。世界に同じ存在が二つなんて、許されねぇさ」
試してみろ。そのデルフの言葉に従って、才人はデルフをゲートに通そうとした。だが、まるでそこにあるのが本物の鏡だとでも言うように、通らない。才人が手を差し出せば何の抵抗も無く通るというのに、どうしたってデルフはゲートをくぐれなかった。
「ま、そういうことだ。ちと寂しいが、此処でお別れだね」
「……、ああ、寂しいな」
デルフが通れないからといって、才人に立ち止まる意思は無い。だからそういって、少し笑った。
「私ともお別れだな。というか、ここまで私の存在を無視してのけるお前らには関心するしかないな」
「……アニエス」
いつの間に目覚めていたのか。素裸の上にシーツを羽織り、才人のもう一人の相棒は、彼を見て笑っていた。
「いい顔になってるな、サイト。前に進むことを決めた男の顔だ。先ほどより、ずっといい。ああ泣くな。その顔のまま、行って来い」
それは、何もかもを見通した上での、優しい言葉だった。
言いたいことがあった。言うべきこともあった。でも、アニエスの言葉はその全てを優しく拒絶していて。
「姫さまと、銃士隊の皆。それにキュルケやキュルケの親父さんにも宜しく言っておいてくれ」
結局才人は、最後だというのに事務的に、アニエスに言葉を告げる。
「私ではツェルプストーと接触するのは難しいかも知れないが、善処しよう」
「あと、ルイズの墓にも。死体も入って無い形だけの墓だけどさ。場所は姫さまが知ってるから」
「……私が行くことに何の意味があるのか分からないが。彼女の仇を討ったことは、墓前に報告しなければならないな」
「ああ、あともう一つ」
「まだあるのか? 全くお前は最後まで……」
立て続けの頼みに苦笑いを浮かべるアニエスに、才人はデルフを差し出した。
「デルフを、宜しく。師匠なら、きっと俺よりもうまく使えると思う」
差し出された剣に、アニエスは顔つきを改めた。真剣な顔で、才人を見る。
「いいのか。私の復讐はまだ終わっていない。これを受け取ったら、私はこれを己の復讐の為に使うぞ」
そんなアニエスに、才人は首を振った。才人は自身の復讐の無意味さを悟ったが、復讐というものに込める気持ちは人によって違う。
アニエスのそれを否定する資格は、才人には無い。
そしてデルフは、元々復讐なんてのを気にする性格ではなかった。
「今さらだぜ、姐さんよ。俺は剣だからね。復讐がいい悪いなんてどうでもいいのよ。選ぶとしたら俺を振るう人間と気が合うかどうかだ。まぁ、お前さんは相棒ほどじゃないがマシなほうだかんね、我慢してやるよ」
「ありがたく使わせてもらおう」
ひったくるように、アニエスは才人からデルフを取った。
「……ええと」
「何だ?」
「あ、いや……」
それで、もう彼らには語るべきことはなくなってしまった。
一緒に行動したことは多くとも、その殆どが戦場で。彼らに楽しい思い出話なんて存在しない。
他に言うべき言葉は、既にアニエスが否定した。
だから、彼らはもう別れも惜しまない。
「じゃあ、……行ってくる」
「ああ、行って来い」
「あっちの俺とも、仲良くやんなよ」
別れの言葉なんて、そんなものだった。
光る鏡に向かい、才人は歩き出す。
躊躇いは、無かった。彼はもう、自分を憎むことをやめたのだから。
復讐の旅は終わった。そして此処が、始まりだ。さぁ、自分を赦すための旅を始めよう。
過去という名の未来へ向けて。
「なあ」
「なんだ」
才人は、光輝く鏡のようなゲートに消えていった。すぐに、彼を飲み込んだゲートも部屋の闇に塗りつぶされるように消えてしまう。
彼を見送った後、暫く黙ったまま、ゲートのあった辺りを見つめていたアニエスに、デルフが声をかけた。
「良かったのかよ」
「何がだ」
「お前さん、相棒に惚れたろ?」
「!? っな、な、何を言う!?」
慌てて、アニエスは手に持った剣をほうり捨てた。カランカランと音を立ててデルフが床へと転がる。
粗暴な扱いに抗議するでもなく。気持ち笑っているような口調で、デルフは言葉を続けた。
「誤魔化すなって、分かってるからよ。それで、良かったのかよ。別れが、あんなのでさ」
「……私があの場でサイトに好きだと言って、それで奴が足を止めるのは嫌だったからな」
「止めるかね? 相棒が。未だに死んだ娘っ子にぞっこんの、あの相棒が」
「止めるだろ、うん。何せ私とサイトの付き合いは二年半だぞ? それにサイトは彼女と両思いというわけではなかったようだしな」
「や、あれは両思いだったね」
「剣が、何を言う?」
「確かに俺は剣だけどね、お前さんが相棒に惚れたのを見抜いた剣の言葉だぜ」
「……あ、あとそうだ。サイトは私を抱いたぞ。好きでもない女を抱きはしまい?」
「相棒の筆下ろしはツェルプストーの嬢ちゃんだったけどな」
「……」
「……」
「……何が言いたい?」
「女がいつもは強い男に急に弱いところを見せられると、ころっといかされるのはよくある話だね。でも、弱い相棒よりも、さっきの相棒の方がずっとかっこよかったんだろ?」
「ま、まぁ、確かにサイトの心には彼女がずっといたようだ。ただ、私の言葉に足を止めるというのも、またあり得ない話じゃないかもしれん。かも、しれん」
「……いや、もういいや。ほんとに、お前さんの負けず嫌いは、変わんないね」
呆れたように言って、お節介な剣は、アニエスの本心を探ることを諦めた。
彼の新たな相棒は、かつての相棒よりもよっぽどしっかりしているようだ。
復讐を果たした男は、彼女の元を去っていった。
アニエスに、惜しむ気持ちは無論ある。ただ、その惜しむ気持ち自体が、アニエスが彼を引き止められない最大の理由だったのだ。
惚れた男が自分の信じる道を行く。それだけでいいと思ってしまった。
馬鹿な女だと、彼女は少しだけ自分の事を誇らしく思い、床に転がった剣を拾う。
「私はサイトほど甘くは無い。地獄の底まで付き合ってもらうぞ?」
「相棒を地獄に引きずりこめなかった女が、何を言うんかね?」
「……」
「どうした?」
「いや、前から思っていたが、ようやく確信した」
「ん? 何がよ?」
「お前に口で勝てる気はしない。だからこうしよう」
「え、ちょ、ま、まあ落ち着け。な? これから俺はお前さんの無二の相棒になったわけで、て、聞けっててめ――!」
口の減らない剣を鞘に収め黙らせて、そこでアニエスは眩しさに目を細めた。
いつの間にか、夜が明けていたようだ。
東の空に顔を覗かせた太陽に、アニエスは背を向ける。
光に向かって歩んでいった男とは対照的に、女は闇へと堕ちてゆく。
ただ、いつかは彼のように、光に背を向けずに歩いていけるようになろう。
復讐に十余年も捧げ続けた女は、初めてそう決意した。
※11/10 誤字修正