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[4677] 過去という名の未来へ(ゼロの使い魔 才人逆行)
Name: 歪栗◆970799f4 ID:287c4347
Date: 2009/01/22 21:00
まえがき


本作の才人はそこそこ強いです。
もしかしたら主人公最強モノといえるのかも知れません。
あと魔法等の独自解釈も結構あります。
上記が苦手な方はご注意を。

あと自分かなり遅筆なので、更新はかなり不定期になると思います。
つーか現状なってます。
忘れた頃にでも、上がってくるのを読んでくだされば幸いです。



[4677] プロローグ
Name: 歪栗◆970799f4 ID:287c4347
Date: 2010/11/07 08:49
 そこは、小汚い安宿だった。
 暗い室内に一組の男女がいる。情事の後の、むせ返るような性の匂いが部屋に立ち込めていた。
 上気した肢体を気だるそうに硬いベッドに預けて、素裸の女性はぼんやりと天井の隅に張られた蜘蛛の巣を眺めていた。
「でも、良かったのか?」
 声を上げたのは、男の方だった。女と同じく素裸で、しかし女からは少し離れるようにしてベッドに腰掛けている。
 男は、若かった。女の方も若いが、彼は輪をかけて若い。恐らく、何処かの世界ではぎりぎり、まだ未成年と呼ばれる年代なのだろう。だが、栄養状態が悪いらしい、痩せた、しかし引き締まった体つきが、その体に刻まれた無数の傷跡が、彼が潜り抜けてきた死線の数を容易に想像させる。
「それは、私の台詞だろう?」
 くすり、と女が笑った。
「どうした? そんなに離れて座って。女を抱いたのが始めてなどと言いはすまい?」
「俺はそうだけど、あなたが初めてとは思わなかったよ、師匠」
 男の返しに、女から虚勢が消えた。僅かに赤らんだ顔で、そっと呟く。
「久しぶりの呼び名だ。しかし、今そう呼ばれるのはいい気分にはならないな」
「どちらの意味で?」
「弟子を誘った、格好のつかない師匠として。そして、肢体を使って私事に有能な相棒を巻き込む情けない女として」
「両方か」
「何より。殿下を裏切ることが、それを為そうとする私がお前の師匠、だなんてな」
「……」
「今度はこちらの台詞だ。なぁ、お前はこれで良いのか?」
 身を起こし、女は男にしなだれかかった。男に負けず劣らず、女もまた戦う者としての身体を持っていた。
 女性特有の丸みを帯びた体は、だが決して柔らかいだけではなく、筋肉の硬い感触を男に与える。
「俺たちは仲間だよ、アニエス。姫さまも、俺も、あなたも、……皆復讐に囚われている」
「……それは」
「俺は師匠にいろんな物を貰った。まだ何も返せてはいない。姫さまだって俺と同じことを言うんじゃないか? 俺と姫さまは偶然仇が一緒だけど、アニエスは違った。だからついでにアニエスの仇も取る。ただそれだけじゃんか」
「ついでですますほど、貴族を殺す事は甘くない。如何にわれらがメイジ殺しと呼ばれようと、いや、だからこそ、私たちはそれを知っている。私たちが殿下から任された任務は、そんなついでを許すほど軽くは……」
「だからさ、同じなんだって。あいつを殺す事だって、本来なら姫さまが直接命ずべきことじゃ無い。アニエスは真面目過ぎる。アニエスは既に、アニエスの言う俺たちの“ついで”に巻き込まれてるんだ。だったら、俺がアニエスの“ついで”に巻き込まれるのも、同じだよ」
「そうだろうか……」
「そうだよ」
 納得しきれないそぶりで、アニエスと呼ばれた女が不安そうに青い瞳を揺らした。
「本当に、真面目すぎ。今更、俺に抱かれた後で、そんなことを言うなんて。もし俺がじゃあ止めときますなんて言ったらどうするんだ? 抱かれ損じゃん」
 男が笑う。アニエスの青い瞳と、男の黒い瞳が、暫し宙をぶつかり合った。
 唐突に、アニエスが男から体を離した。裸を隠すでもなく立ち上がり、脱ぎ捨てられた服を拾いに行く。
「気に入らないな」
「そうかな?」
「ああ、気に入らない」
 草臥れた服を手早く身につけ、そのうえにあちこち補強の跡のある鎖帷子を身に着ける。
「どちらにしろ協力してくれたと言うのなら、結局私は抱かれ損か? 自分でも、擦り切れた処女膜にさほどの価値は見出していなかったが」
 呟きながら、男の衣服を拾い上げ、男に向けて投げた。そして、でこぼこと傷だらけのテーブルの上に置かれた武器を、一つ一つ改めながら身につける。
「そんなこと無いって、良かったよ」
「……ばか者が」
 男もまた、立ち上がって衣服を身に着け始めた。アニエスよりも頭一つ高い長身の彼が身に着けたのは、彼女にも負けず、ぼろい衣服と鎖帷子だった。
 彼がかつて身に着けていた衣服は、三年にもわたる年月でぐんぐんと伸びた身長の為に着れなくなっている。仕立て直そうにも、生地が特殊な為に適わなかった。
 その特殊な生地の衣服は、今はゲルマニアにある“彼女”の墓に入っている。遺体も何もない墓だが、墓と言う形が、男の拠り所の一つになってくれていた。
「“メイジ殺し”の弾は後何発ある?」
 アニエスがテーブルに置かれた長銃を手にとった。それを見て、男が問う。
 男が“メイジ殺し”と呼んだその長銃は、随分と変わった形をしていた。
 長銃としても明らかに大きかった。主に前線の兵士たちが用いるフリントロック式の長銃に比べて、ゆうに一回り以上は大きく見える。
「丁度二発だ。無駄弾を撃つ余裕は無いな。本命の為にも、奴を殺すのにこれを使うわけにはいかない。かねてからの打ち合わせの場所に、これは置いていこう」
「だからあの時節約してれば良かったのに」
「私はそれでも良かったがな。お前は確実に死んでいたぞ?」
 そう笑って、彼女はその長銃を肩にかけた。
「では行くか」
 アニエスの声に頷いて、彼も鞘に収められた大剣を背中にかける。彼にとって、アニエスとは違うもう一人の師匠であり、相棒だ。
 先に立ち、部屋の扉を開けたアニエスは、だがそこで一度立ち止まった。
 男に背中を向けたまま、搾り出すような声を上げる。
「……すまない、ファイト」
「俺の名前は、才人です」
 ぷっと吹き出す。名前を間違われたのは、久しぶりだ。
 背を向けたまま、アニエスも微かに肩を震わせた。
「くく、すまない。サイト」
 先ほどとは違う、穏やかな声の謝罪。
 そのまま振り返らずにアニエスは部屋を出て、サイトと呼ばれた男もまた彼女の後を追った。
 背中に手を伸ばし、吊り下げた剣を僅かに抜く。
「命がけの仕事だけど、俺はこんなところで死ぬわけにはいかない。よろしくな、デルフ」
「今さらだぜ、相棒よぅ」
 これだけは三年間ずっと変わらず、相変わらずの陽気な声を上げたデルフの声に、サイトは笑って、そうだな、と返す。
 明るく、だが意味の無いやり取りだった。死地へと向かう。その事への恐怖なんて、とっくに擦り切れていたのだから。
 



 アルビオン帝国領トリスタニア、ブルドンネ街。 
 通りの中央を走る豪奢な馬車の中にあって、この元トリステイン王国における植民地政策の一端を担っているリッシュモン辺境伯の顔色は、良いものではなかった。
「酷いものだな」
 馬車のカーテンを開け、外を覗いたリッシュモンはそう呟く。
 そう、酷いものだった。
 職もなく、住む家もなく。汚い身なりの乞食たちが、彼の馬車に群がろうとしている。
 仮にもトリステイン総督の居城の膝下であるにも関わらず、その治安の悪さは三年にも渡る植民地政策の成果を明らかに否定していた。
 たかだか演劇を見に行くだけで、わざわざ馬車に乗り込んで多数の護衛を侍らせなくてはならないほどに。
 かつてはこのトリスタニアにあって、女王陛下の御許で質素ながらもささやかに、何より逞しく生きてきた平民たちを思い出し、彼は何故か得体の知れぬ焦燥が己を苛んでいる事に気づいた。
 リッシュモンは金の信奉者だ。彼が愛すべきは金貨であり、財宝である。
 そして祖国を売り払った彼は、その見返りに莫大な恩賞を得た。そして、その金と、占領後のトリステイン支配の要職という立場を持って、更に莫大な金銀を得た。
 時勢の見えぬ、最早滅びを待ち、すでに滅んだ王家に縋る愚かな貴族たちから土地を、財産を奪い取った。
 この時代、植民地人に課せられる税率としては当然とも言える重税をかつての祖国に暮らす人々に課し、其の内のいくらかを不当に己の懐に入れた。
 金、金、金、金。
 政治の分からぬ甘い小娘に仕えてきたときには想像すら出来なかったほどの財産を築き、更に己が私腹は肥える一方。
 なのに、だというのに。
 どうして、己の心は満たされていないのか。
 パンを、職をと穢れたなりの平民たちが馬車に群がる。
 それを兵士たちが押し留め、殴り、地に這わせる。
 哀れだった。例えようもなく、哀れな者たちが其処には居た。
「おい」
 傍らに控える従者に、財布を出させる。
「何でもいいだろう……。いつから貴様は私に逆らうことを許された?」
 は、何故でしょうか、と問い返されたリッシュモンは、自分でも理由の分からぬ怒りに不機嫌な声を上げた。
 慌てて差し出された財布を引っ手繰るように奪い取る。
 財布の中には、エキュー金貨がぎっしりと詰まっていた。
 彼にとっては、これも僅かな金に過ぎない。
 口を空け、無造作に金貨をつかみ取り、そして苦笑いを浮かべた。
 無意識のうちに、掴み取った金貨の枚数を重さから何枚か数えていた自分にあきれた為だ。
 手の中の金貨を全て袋に戻し、口は開けたままにする。
 そして、馬車の外に、金の無い哀れな平民たちに眼を向けた。
「黙れ!」
 何をするおつもりですか、と再び従者に問われたリッシュモンは、癇癪を起こしたように従者を怒鳴りつける。
 そして、先ほどから自分の身を苛む訳の分からぬ怒りに身を任せるかのごとく、財布を馬車の外に高く放り投げた。
 純度の高い金が、石畳を叩いて高い音を奏でる。
 続いて、平民たちのどよめきの声と、後は辺りに散らばった金貨を必死で拾い集めようとする彼らの喧騒がリッシュモンの耳を叩く。
 それを防ごうと、兵士たちが動いた。いや、錬度の低い兵士たちだ。取り返す振りをして、あわよくば金貨を己の懐に入れようという魂胆なのかも知れない。
 その証拠に、彼の護衛として集められた筈の彼らは、殆どが馬車から離れてしまっている。
「取り返す必要は無い。どうせはした金だ。捨ておけ」
 あきれたようにそう言って、彼は馬車の外の狂乱を締め出すかのごとくカーテンを閉めた。
 浅ましいものだ、と心の中で呟く。
 侮蔑でも、嘲笑でもない。リッシュモンは、金の為なら国も、かつての主君をも売り払った浅ましい男だ。
 それを彼は良く自覚していた。
 金を得るためには浅ましくもなる。正しい事だった。それは平民でも貴族でも変わらないらしい。
 その事に、彼は大きな満足を得た。
 リッシュモンにとってははした金でも、外の平民たちにとっては明日のパンの、冬を越すための衣服のための、大きな金だろう。
 だが、そこではっと気づいた。
 では果たして、彼は何のために金を求めたのだろうか。
 それが分からぬから、彼は自分でも理解できぬ焦燥を、怒りを覚えたのでは? 民衆に金をばら撒くという、普段の自分からは考えられぬ行動に出たのではないか?
 外の喧騒も、傍らの従者の声も、何もかもを頭の中から締め出して、眼を瞑った彼は深い思索の内に入る。
 ずっと昔、彼が売り払った女王陛下に仕えていた頃よりも遥か以前に、彼と言う、金の信奉者を形作った何かがあったはずだった。
 気がつくな、誰かが言った。黙っていろ! 彼は怒鳴り返す。
 もう少し、もう少しで、たどり着く。その泡沫の間際に。
 ガタン、と馬車が急停止し、その衝撃で彼は現実に無理やり引き戻された。



 信じられないほどの、幸運だった。
 あり得ないとは思いつつも、罠の存在を警戒するほどに。
「サイト! 右だ!」
「分かってる。アニエスも外は任せてとっとと飛び込め!」
 一閃。突き出された槍の柄を切り払い、兵士の懐に飛び込む。
 基本に忠実などとは言っていられない。この乱戦では。がむしゃらに切り、なぎ払い、殺し、躱し、適わぬのならば打ち払い、また切る。
 これまでの戦いの経験が、幾度も死線を潜り抜け、研ぎ澄まされた直感が、戦いのプロである兵士たちを一蹴する。
 彼らがプロというのなら、彼もまた、プロと呼ばれる人種だった。
 護衛の兵士たちは、通りを埋め尽くす人々が邪魔で思うように動けない。
 それは才人も同じだったが、すでに馬車の傍らに体を寄せることに成功したために、戦況はこちらに優位に進んでいる。
 何故リッシュモンが、あの近隣諸国に悪名が響く程の金の亡者が、馬車の外に金貨をばら撒くなどという意味不明の行為に及んだのか、それは才人には分かりようがなかった。
 ただ、この民衆と兵士の入り乱れた状況はどうやら罠では無いらしい。
 また一人、民衆の影に隠れるように移動して、馬車に近づいた兵士を切り殺す。
 ゲルマニアの傭兵たる才人が、かの国に亡命していたアンリエッタ姫殿下の接触を受けたのは二年と半年程前のことだった。
 ガンダールヴのルーンを失い、それでも幸運と、デルフリンガーという強力な武器に助けられていた彼の名はそこそこに売れており、また、彼女と彼には一つの縁があった。
 そして、トリステインという国家の滅亡の間際に新設された銃士隊の面々は亡命の際にも彼女の傍を離れず、彼は銃士隊と、そして彼女たちを指揮する隊長であるアニエスと縁を持った。
 そして、彼女に才人が戦い方の教授を受けて半年、それから二年あまりで、彼と彼女は合わせてメイジ殺しという異名を持つに至った。
 そのメイジ殺しの二人が、アンリエッタから秘密の命を受けたのは、今より数週間前。
 その命は、亡国最大の裏切り者の暗殺。だがそれが、亡国の為でも、亡国の民の為でも無い命令だということに、二人ともすぐに気づいた。
 それでも彼らがその命を一個の反駁もしなかったのは、アンリエッタへの忠誠や彼女の心を慮っただけでは無い。
 彼女もまた、自分たちと同じ傷を持っていると、復讐に囚われていると、同類の匂いを嗅ぎ取った故。彼らの復讐にも、その命令は渡りに船であった故だった。
 轟、と炎が渦巻き、馬車の側面が吹き飛んだ。
 直後、男の、聞くに堪えぬ悲鳴が辺りに響く。
 どうやら、中の決着がついたようだ。才人は手早く周囲に眼を配り、頭の中で逃走ルートを組み立てる。
 仕掛けた才人たちにとっても計画外の奇襲だった為、本来逃げるときに目くらましに役立つはずだった小麦問屋が無い。変わりとしてのこの人ごみだが、逃げ切れるか。
 竜騎士に追われなければ、どうにかなる。答えはすぐに出た。
 竜騎士に追われたとしても、よほどの数でなければ大丈夫だろう。
 才人は、アニエスが失敗したとは微塵にも思っていない。彼女の相棒、メイジ殺しの片割れだからこそ分かる。幸運に助けられ上手くいった奇襲、馬車の中という狭い空間、そして相手はメイジといっても文官である。
 良条件が三つもそろっている以上、彼女が失敗するわけが無い。
 その予想を裏付けるかのごとく馬車から小柄な人影が飛び出たのを片目で確認して、サイトもまたいずこかへ向かい走り出した。




 リッシュモン辺境伯暗殺の報は、トリステイン総督府を大いに揺るがした。
 本国にも噂が飛ぶほどの治安の悪さは伊達では無いらしいと、執務室に向かって歩く男はそう呆れたため息を吐く。
 男はアルビオン帝国の紋章と、竜騎士の証である竜の紋章が刺繍されたマントを羽織り、腰にはメイジの証である杖を下げている。
 鉄製の細剣の形をした杖が、彼が軍人であることを示していた。
 執務室の前で止まり、被っていた羽帽子を脱ぐ。そしてノックもせずに扉を開けた。
「失礼します」
「だから、何故すぐ追わなかったと……! お、おお、良く来てくれた!」
 扉を開けると、すぐ正面の豪華な机に腰掛けた老人が、ひきつったような作り笑いを浮かべて彼に声をかけてきた。
 老人はトリステインの総督であった。
 それに一礼を返し、男は室内に入る。
「賊は、捕らえられたかね?」
「現在、私の部下が追っております。とりあえずは、今分かってることを」
 アルビオン本国にて、皇帝の命のみに従う近衛部隊の一員たる彼が、このトリステインに寄こされたのは一月ほど前の事だった。
 トリステインの、特にトリスタニアの治安の悪さをどうにかせよ。そんな彼にとってはどうでもいい命令にも従わなければならぬのが宮仕えの悲しさか。
 元々トリステインを占領する段階で、現状は既に予測されていた事だった。小国ながら始祖の血を引きし三つの王国の一つだったトリステインの民は独立気質が高く、また王族を捕らえられなかったのも占領政策の大きな障害となっている。
 彼と、彼に従って派遣されてきたメイジたちだけでは、どうしようも無い問題。
 無論、そんなことは彼らの主も知っている。
 彼らの任務は二つ。このトリステイン総督府の、私利私欲にかまけた貴族たちの尻を叩くこと。そして殆どが失敗に終わっているといっても厄介なことである、一月に一度は為されている総督府の要人や要人の家族への襲撃を防ぐことだ。
 だが今日、リッシュモンという総督府の要人の一人が殺された。
 彼らも警戒はしていた。ただ、彼らの任務は後者よりも前者が優先される。リッシュモンという男は、彼らから見て使えない、むしろ邪魔者の筆頭である。
 囮としての価値しかなかった。
「仕手人は、……メ、メイジ殺し!?」
「依頼人は不明ですが、十中八九ゲルマニアの手の者でしょう。かの国も形振り構わなくなってきたようで」
 それでも、今回は彼の負けだった。
 如何に治安悪しとはいえ、政治を行うのに城下町に降りぬ貴族はいない。彼はリッシュモンが襲撃を受けた時、別の場所で彼らにとって殺されてはならない要人たちの一人の護衛についていたのだ。
 もし、メイジ殺しの襲撃に彼が立ち会っていたら、如何にただの平民では無い名うての傭兵の襲撃とはいえ、みすみすと仕手人どもを逃がすことはなかったろう。
 彼の部下は有能ではあるが、それでも彼ほどではない。
「お前の部下は、奴らを捕まえられるか?」
「正直、期待は薄いでしょう。私がいればまた話は違ったでしょうが」
「で、では、メイジ殺しはこのトリスタニアに野放しになると……? い、いや、リッシュモンの暗殺に成功したのだ。ならばゲルマニアに戻り、また戦線やその付近の都市に現れるようになるか」
「ゲルマニアがわざわざメイジ殺しなどと異名をとる名うての傭兵を送り込んできたのです。まずリッシュモン殿のみが目的ということは無いでしょう」
「そ、それでは……!」
 総督は、酷く怯えているようだった。まぁ、平民とはいえ分かっているだけでも両の手では足りぬメイジを下してきた傭兵である。
 その上、総督は狙われる理由に事欠かない。それを、良く自覚しているようだった。
 如何にメイジといっても、今の立場は文官には辛いものがあるだろう。
 男にとって、総督の内心など慮る価値などないのだが。
「ご安心下さい、閣下」
「そ、そうだな。こういう時の為に陛下はお前たちを寄こしたのだ。とりあえずお前は私の護衛を……」
「いいえ、閣下。非正規戦を得手とするらしい厄介な傭兵が出てきた以上、受け手に回ってはいけません。私は、これより僅かな部下たちと共に城下町に潜伏、メイジ殺しを追います。そう遠からず、良いご報告を持って帰りましょう」
 男の言葉に、総督の眼が驚愕にか見開かれた。
 期待を裏切られた為か、それとも怯えている故か、狼狽した総督の様子は実に見苦しい。
 と、執務室にもう一人、別の男が入ってきた。
 男は彼にまっすぐに近づき、小声で二、三言何かを話した。それに頷きを返し、彼は総督のほうを向く。
「閣下、良い報告がございました。追跡をしていた私の部下が、メイジ殺しの潜伏しているであろう家屋を発見したそうです。私もこれから向かいます」
「おお、そうか! では頼んだぞ!」
「は」
 一度礼をして、彼は執務室を出た。
 歩きながら、後ろに控えるようについてくる部下から報告を受ける。
 敵は、先に報告を受けたとおりメイジ殺しと呼ばれる二人組みの傭兵。詳細はまだわかっては居ないが、一年ほど前から彼の耳にもちらほらと届くようになった名前だった。
 彼自身がメイジ殺しと戦ったことは無い。主にゲルマニアとトリステインの国境の戦場や町で活動する彼らと、ここ三年の間殆どアルビオンに居た彼では接点の持ちようも無かった。
「メイジ殺し……か」
 つぶやきながら、彼は左手を押さえた。よく見ると、彼の左手は義手だった。どうやら、二の腕の中ほどから先を失っているらしい。
 平民で、メイジ殺しなどと言う名に、彼は一人の少年の事を思い出していた。
 そして、少年の主人だった彼女の事も。
「ガンダールヴより強いのかな? その傭兵は?」
 切られたはずの左手が、疼いた。




 才人が、別行動を取った時のために予め二人で打ち合わせていた落ち合い場所に現れたのは、彼の体内時計であの襲撃からおよそ四時間あまりたった後のことだった。
 追っ手を撒くために、大分遠回りになってしまった。既に日は落ち、彼の歩く通りはぼんやりと明かりを放つ魔法提灯の為か幻想的な光景を描いている。
 ブルドンネ街とは違い、初めからアルビオンの支配を積極的に受け入れた住民の多いこのチクトンネ街は、才人は知らぬがかつてトリステイン王国の街であった頃とそう変わらぬ風景を保っていた。
 税率は、ブルドンネ街よりすこしばかりマシと言った程度ではあるのだが。
 人通りも多く、薄汚れたマントを羽織った彼の姿も良く馴染んでいる。
 ゆっくりと道を歩いていた才人だが、ふっと、まるで消えるように一瞬で裏路地へ曲がった。
 そのまま進み、一軒の酒場の裏手にて足を止める。
 そのまま視線だけを動かして辺りに眼を配り、あたかもその店の下働きであるかのような自然な仕草で、薄汚れた扉を開いて酒場に入った。
 今のトリスタニアに、大の大人が下働きで働くケースなどいくらでもある。
 尾行には気を使ったが、メイジ相手にそれは気休めにもならない。
 とはいえ彼は特にその事を気にしてはいなかった。彼らがトリステインに来た際、レジスタンス的な行動をしている地下組織の協力を得て作った無数の拠点は、どれもメイジに襲撃されても何とか逃げられるくらいにはトラップが満載されている。
「お連れの方はもう見えています。こちらへどうぞ」
 この店で働く給仕なのだろう、ずいぶんと際どい格好をした女性に連れられて階段を上った。
 住み込みで働く店員たちの部屋らしい、左右の扉が立ち並ぶ二階。その突き当たりで足を止める。
 天井に、それと見ただけでは分からない継ぎ目が存在していた。その上が、才人らの拠点の一つである屋根裏部屋だ。壁に手足をつけて踏ん張れば十分に上れることを確かめて、梯子は片付けさせてある。
「ご用があればお呼び下さい。一応、私はジェシカと言います」
 女性の名乗りに、才人は僅かに顔を顰めた。それでも、それを彼女には気づかせず、口を開く。
「よろしく頼む。スカロンさんにも礼を言っておいてくれ」
 わかりました。そう言って、ジェシカと名乗った女性は下へと降りていった。
 それを見送って、彼は壁を登り始める。
 もしアルビオンの兵士やメイジに踏み込まれた場合、才人たちは一目散に逃げ出す。
 仕掛けられたトラップと、この店の店長であるスカロンを筆頭に店員たちも、足止めをしてくれる手はずだ。
 だから、もしかしたら見捨てていかなくてはならない女性の名前なんて知りたくはなかったのだ。
 正直、才人もアニエスも彼らを巻き込む事は本意では無かった。それでも、自分たちから乗ってきてくれた人たちを拒絶出来るほど才人たちに余裕は無い。
 天井を一度叩いて、一拍後に二度叩く。すぐに板が外れ、アニエスが顔を覗かせた。
「遅かったな」
「竜騎士二騎の追跡は流石に辛い。そっちこそ、無事で良かった」
 当然だ、と笑ってアニエスは才人を引っ張り上げた。


「気分はどうだ?」
 備え付けのベッドに腰掛けると、もわっと埃が舞った。が、そんなことを気にするような生活を送っていない才人は、背中から鞘に包まれた剣をはずして傍らに置く。
「気分?」
「そ、気分。復讐を果たしたっていうのはどんな気分なのかなってさ。後学までに聞いておこうと思って」
 アニエスが、リッシュモンにどのような恨みを抱いていたかどうかは、才人も詳しくは無い。
 精々、彼女が昔、まだ子供のころに住んでいた村が虐殺にあったこと。そして辛うじて生き残った彼女がそれを為した者、命じた者たちを探しているということぐらいだ。
「残念だが、私の復讐はまだ終わっては居ない」
「ああ、そっか。一人じゃないんだったな」
「私のことはいいだろう。もう十分に我侭は言った。後は、お前と殿下の番だ」
 それこそが、二人がこのトリステインにやってきた本来の目的。
「暫くはほとぼりを冷まさないと。ま、そんなことより……」
 才人は立ち上がって、アニエスに近づいた。人を殺した後というのはどうにも昂ぶっていけない。
 そのまま後ろから抱きしめようとして、片手で制される。
「気持ちはわからんでもないが、明日までは我慢しておけ」
「そうだな」
 まぁ冗談だった。襲撃を行ってから、まだ四時間。ここが安全だと判断するまで、一両日は様子を見なければならない。
 セックスの間というのは、排泄の最中と同じくらいには人間が無防備になってしまう時間なのだ。
「駆けずり回って疲れているだろう? まずはお前が休んでおけ」
「わかった。そっちも疲れたら起こしてくれ」
 そう言って、ベッドに戻り寝転がる。
 出来れば一度鎮めたかったが、さすがにアニエスの前でセルフサービスというのも格好がつかない。
 必要も無かった。
 早寝は、不規則な生活が常の傭兵には必須の特技である。
 目を瞑って、呼吸を調整する。それだけで、眠りはすぐに訪れた。



 俺はお前が好きだった。
 でもお前は俺の事をどう思っていたのかな。
 お前は立派な貴族だった。力は無くても、誇り高い貴族だった。
 使い魔でしかない俺なんか、平民である俺なんか、放っておけばよかったのに。
 責任感が強すぎるのは問題だ。優しすぎるのも問題だ。
 お前が戦ったのは、メイジとして自分の使い魔を放っては置けなかったからか? それとも、俺を召還したことを、お前なりに気に病んでいたからか?
 それとも……。


 どうにも俺には理解できない。
 俺は一度、お前を見捨てて逃げ出した。お前は俺にだいっきらいと言った。
 なのになぜ、お前は俺を助けたんだ。



「サイト」
 アニエスの声に、才人は薄く目を開けた。懐かしい夢を見ていた。このハルケギニアに来て凡そ三年。
 そのうち、彼女とともに過ごした時間は一月にも満たない。
 それでも、才人にとってあの時の記憶は最も尊いものだった。
 だが、今はあの時とは違う。彼女は居なくなり、彼は変わった。
 起き上がる。体の調子から考えて、一時間は眠っていただろうか。
 厳しい顔で、そっと埃まみれの窓越しに外を覗く。
「つけられてた、か」
「ああ、私か、それともサイトかな?」
 さぁ、と首を振る。どちらにしろ、いくら優れた傭兵といえども平民ではメイジの追跡を振り切ることは難しい。それは判っていたこと。
 ただ、心の中で才人はこの店の店員たちに謝罪をする。申し訳ありません。あなたたちを囮にして俺たちは逃げます。
 暗闇に、蠢く者たちが居た。路地裏の影に身を潜めるように、十数人の兵士が張っている。指揮を執っているのは、どうやらメイジのようだ。
 それに、メイジの動きを注視すると、時たま腕を振る奇妙な素振りを繰り返していた。合図の一種だろう。
 こちらからは見えぬ位置にも、兵士が張り込んでいる。
 裏手にこれだけの人員を配置するとは。
「完全に囲まれてるな。また随分と物々しい」
 アニエスが舌打ちとともに吐き捨てた。
「逃げ切れるかな?」
「さて、……せめてもう一組の姿を捉えられればな」
 うなづいて、ぐっと窓に身を寄せる。
 窓を開けるなどということは出来ない。
 なるべくこちらの姿を見られないよう、それでいて、可能な限り外の状態を把握しようとする。
 正面の家屋、その窓に、ここからでは見えぬ方向にある路地裏が映っていた。しめた、と眼を凝らす。
 そして、才人は一人の男の姿を目に捉えた。
 硬直する。手が震える。
「サイト? どうかしたのか?」
「……標的を発見。今日は本当についてるな、俺たち。新教徒にでも改宗するか?」
「元々私は新教徒だが、始祖に感謝するなど久しく忘れていた行為だな。今日が終わったら祈りでも捧げるとしよう」
「そっか。じゃあ……、どうする?」
 時間はあまり無い。下からは人の争う音が聞こえている。手早く作戦を組み立てて、才人は剣を抜いた。
「正念場だ、相棒。久しぶりに強力なメイジが相手だ。正面から魔法を喰らうぞ。頼りにしてるぜ?」
「おうよ。久しぶりの見せ場だかんね。はりきってるぜ、俺もよぅ」
 鏡のように光っている刃が、ぶるぶると武者震いをおこすように震えた。
「よし、じゃあサイト、先行は任せる。死ぬなよ」
「そっちこそ、頼んだ」
「すまないな。奴はお前の仇だというのに」
「あいつを殺すにはこれしかない。あいつが死んでくれるなら、特に直接なんてこだわらないよ。姫さまの仇でもあるんだ。任せた」
「……任された。必ずやつを殺そう」
 そう言って、アニエスは拳大の変わった形をした壷を取り出した。最近ゲルマニアの錬金魔術師が発明した目くらましのマジックアイテムで、原始的な閃光手榴弾と考えればわかりやすい。
 実戦では、とにかく引火しやすいのが原因で余程用途を限定しないと使えないどころか持ち歩くのも難しい物なのだが、今は十分に使える状況だ。
「――! 来たか」
 一瞬、二階に続く扉の役目をしている床の板から光の粉のようなものが漏れた。
 ディテクトマジックに引っかかったらしい。
 限界だ。才人はアニエスを見た。アニエスも才人のほうを向く。一瞬、重なり合った視線。頷きあう。
 デルフで、窓を一瞬で切り破った。外を目掛け、アニエスが手に持った壷を放り投げる。
「――はぁ!!」
 その後を追って、才人もまた、窓から跳び出した。



 まともに戦っても、平民では決してメイジには勝てない。それほどに、魔法という下駄を履いた者は強い。
 ならばこちらも下駄を履けばいい。
 戦う前に、すでに勝っているという状況を作り出すことが、メイジ殺しには必須である。
 世界が白く輝く中を、目を瞑ったままの才人は両足で地面に着地した。そのまま膝を曲げ、尻餅をつくように腰を落としごろごろと三回転ほどした後、跳ねるように立ち上がる。
 才人の後を追うように、アニエスも飛び降りてきた。才人と同じように転がって着地の威力を殺している。直前まで彼らが居た部屋の窓枠が、一際強い閃光を放った。携行しての持ち歩きも適わぬ危なっかしいマジックアイテムの、残り全てを部屋に突入してくるだろう兵士たちの足止めに使ったのだ。
 すぐに辺りは暗闇を取り戻す。周りには十数人の兵士たち。閃光に目をやられたためか、皆目を抑えて蹲っていた。
(敗因その一。場所を悟られないためなんだろうが、明かりを用意せずに配置についていたこと)
 速やかに近寄って、蹲ったままの指揮官らしきメイジの首を刎ねた。血を噴出し、どうと倒れる。
 直後、風を感じた。足のばねを使って思いっきり横に跳ねる。
 彼がすぐ前まで立っていた場所は、首を失ったメイジとともに吹き飛んだ。
 誰の魔法か、など今更確認するまでも無い。才人は最初から、彼の位置を把握している。
「流石はメイジ殺し、かね。こうも鮮やかな手並みを見せられては、そのふざけた異名にも納得というものか」
 三年間、一度として忘れたことの無い声だった。姿を捉える。三年間、一度として忘れたことの無い顔をした男が立っていた。
 三年間、一度として忘れたことの無い憎しみが心を焦がす。
 その衝動に逆らうことなく、才人は彼に向かって走り出した。
 バン、と音が響く。アニエスが腰の銃を抜き取りざまに男に向け撃ったのだ。背中の“メイジ殺し”は、重量がありすぎて近接戦には殆ど使えない。
 男はそれを軽く杖を振るうだけで弾き飛ばした。
 だが、その為に才人への備えが僅かに遅れた。彼我の距離は5メートル。あのルーンを持っていた頃の素早さは望むべくも無いが、三年間鍛えに鍛えた瞬発力は、その距離を可能な限りゼロに近づける。
「――な!?」
(敗因その二。これが自分たちの狩りだと思い込んでいたこと。俺たちの標的は、お前だ)
 だが、すぐに男はにやりと笑った。
 男の詠唱速度はもしかしたらハルケギニアでも一、二を争うほどに早い。僅かな遅れは、男にとって決して致命的なミスにはなり得ない。
 だがその事は、才人も十分に承知していた。
 猛烈な風が、才人の目の前に渦巻く。
 『ウインド・ブレイク』
 それが、一瞬で掻き消えた。才人の突き出した剣が、魔法を吸い込み光り輝く。
 今度こそ、男の表情から余裕が消えた。
「まさか――!?」
(敗因その三、……何よりも)
「直接俺を殺さなかった事が、お前の敗因だ! ワルドッ!!!」
 袈裟懸けに切り捨てた。何の抵抗も無く、デルフリンガーはワルドの体を二分割し、
「これは驚いた! 生きていたのかガンダールヴ!」
 猛烈な風に、才人は文字通り吹き飛ばされた。


「――グッッ!」
 五メートルも、吹き飛んだ。体中が痛む。それをおして、才人は無理やりに立ち上がった。
 あの時のように、剣を手放しはしていない。
「風の偏在ね。相変わらず、厄介さは変わってねーやな」
 デルフが吐き捨てるように声を発した。
 その事に才人は微かに苦笑いした。
「サイト、無事か?」
「ああ、何とかな」
 吹き飛ばされた才人に、アニエスが駆け寄ってくる。才人は、彼女を庇う様にしてワルドに向け剣を構えた。
 彼らにとっては基本の配置だ。アニエスには、才人と違って魔法に対しての有効な防御手段が無い。
 才人が前衛、アニエスが後衛。それは、二年もの間も決して変わなかった、メイジ殺しの戦い方だ。
「なるほど、最初から俺の命が狙いと言うわけか。リッシュモン殿を殺したのも俺を誘いにかける為かね?」
 だが、状況は最悪だった。ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドという名のこのメイジは、今まで彼らが殺していたどのメイジとも文字通り格が違う。
 更に、先ほどの閃光で無力化されていた兵士たちが次々と立ち上がっている。このぶんでは屋根裏に突入してきた人員も、もうしばらくもせずに降りてくるだろう。
 なればこそ、ワルドも余裕を持って才人に話しかけてきたのだから。だが、彼が余裕であるもう一つの理由に、既に才人たちは気づいていた。
「あの時の少年が、メイジ殺しなどという名まで持って俺を殺しに来たか」
「……」
「仇討ちかい?」
「――それ以外の、何だって言うんだよ!」
 裂帛の気合。憎しみに身を焦がした復讐者がそこに居た。叫びながら、才人はワルドに向けて突貫する。今度は、アニエスは動かない。それを見て、ワルドは笑った。
「なるほど、あの時の焼き直しというわけか。いいだろう。貴様らは手を出すな! これは決闘だ!」
 ワルドの杖と、才人の剣が鍔迫り合う。『エア・ニードル』で渦巻く風を纏った剣が、がりがりと音を立てて才人の剣を削ろうとする。
 無論デルフリンガーがその刃を削られることは無いが、弾かれるのを避けることは出来ない。それにむしろ抵抗せず、しっかりと剣を握った才人は弾かれた勢いをも利用して杖の一撃を避け、反撃の一突きを繰り出す。
 それをワルドが跳び退って躱す。それを許さぬとばかり、才人は足に力を込めて跳び、距離を詰めた。
 意外なことに、戦況は拮抗していた。ガンダールヴのルーンを失いながらもデルフリンガーとアニエスという二人の教師に教えを受け、更に実戦で幾度となく死線を乗り越え腕を磨き続けてきた才人と、如何に凄腕のメイジといえど本職でない剣の腕で彼に拮抗するワルド。
 心外なのは、どちらかといえばワルドの方か。ガンダールヴという下駄を履いてようやく己を退けた平民の少年が、今やルーン無しでこれほどの力を手に入れているのだ。
 だが、ワルドは余裕の表情を崩さない。彼は剣士では無い。メイジである。
 そして、決闘などといっても、魔法を使わぬ道理など無いのだ。
「腕を上げたな、ガンダールヴ。だが、これで終わりだ」
 ギン、と才人の剣を杖で受け払い、ワルドは才人から距離をとった。
 その彼の両隣に、彼と全く同じ姿をした男が現れる。風のユビキタス。ワルド一人にようやく拮抗する程度の才人では、三人を同時に相手にしては一分も持つまい。
「あの時は敗れた我が『偏在』だが、今の君には無理だろう?」
「っち、やっぱそれ使うかね。どうするよ相棒。ちょっとばかしまずいぜおい」
 やめてくれ、と才人は思った。
 デルフの演技は、下手糞過ぎる。
「こうするさ」
 懐に、無理やり押し込んでいた壷を取り出す。十分に気を使ってはいたが、それでも割れていなかった事に安堵した。
「ぬ!」
 地面に叩きつける。その寸前に、ワルドは右腕で眼を覆った。流石に読まれているらしい。
 だが、眼を覆う動作。それこそが狙いであった。
(敗因その四、このマジックアイテムについての知識の不足)
 壷が地面に叩きつけられる。だが、肝心の閃光は発せられない。
 当たり前だ。持ち運ぶだけでも細心の注意が必要なほど物騒なマジックアイテムなのだ。
 あれだけ激しく動いていた才人が、そんなものを懐に忍ばせていたわけが無い。彼が持っていたのは、中身の無い偽者である。
 ただ、その壷がそれほど使いづらいものだと知らず、なおかつあの閃光を警戒している敵には、一回きりしか使えないがこの上もなく有効な目くらましになる。
(敗因その五、決闘なんて勝手に勘違いして俺を相手に集中してしまったこと。メイジ殺しは二人組みだ)
 そして、本命の一撃がアニエスによって放たれた。
 ドン、ドン、と二発続けて銃声が響く。才人が作った隙に、“メイジ殺し”を構えたアニエスが右手家屋の二階窓目掛けて銃を放ったのだ。
 長銃は続けて、ピーンと甲高い音を発した。
 その長銃の名はU.S.Rifle Cal.30.M1。一年ほど前に珍しいもの好きなゲルマニアの貴族からとある任務を受けるのと引き換えに譲り受けたものであり、才人の故郷ではM1ガーランドの愛称を持って呼ばれた軍用ライフルである。
「敗因その六、自分が安全圏に居るのだというその余裕。俺たちは戦いながらもずっとお前の本体を探してた」
 『偏在』は強力ではあるが制約も多い。最大で五つの意思の共有なんて、人間が処理できる限界を超えているのだ。それも一人二人を別行動させる程度ならともかく、戦いという複雑な動作を必要とする場面で複数人なんて、どうしたってその限界にぶち当たる。
 ならば精々、動きを見ながら操り人形のように動かすのが関の山。そのため術者は、どうしても戦場を視認できる位置に居なければならない。
 メイジを殺すには魔法を知らねばならない。更に、いつかワルドを殺す時の為に、才人は特に『風の偏在』というスペルには相当詳しくなっている。
 デルフリンガーの下手糞な演技も、才人の激昂も、アニエスが才人とワルドの戦いに手を出さなかったのも、後者二つを持ってワルドに決闘などと勘違いさせたのも、全てはこの為の布石。
 卑怯とは言うなかれ。平民にとって、魔法を使うメイジという存在はそれだけで卑怯の塊なのだから。
 三人のワルドが消える。術者の死んだ魔法は、当然消えてしまう。
 かつて、才人の左手に刻まれていたルーンが今は無いように。
 


 ワルドの『偏在』が消えた後、戦場はただ静まり返っていた。
 この場にいる誰もが、ワルドの強さを知っていたのだ。彼の部下であるメイジは元から。そして、メイジ殺しの包囲のために集められた兵士たちもワルドが『風』のスクウェア・クラスのメイジであることは知っていて、彼が殺されるまでその強さと勝利を信じて疑わなかった。
 アニエスが、ワルドを殺した化け物のような長銃を彼らに向ける。
 それだけで、兵士たちは恐慌を来たした。 
「う、うわああああ!」
「逃げろ! 殺されるぞ!」
「た、助けてくれぇ!!」
 ワルドの部下であるメイジたちの驚愕は、ワルドの強さを良く知っているだけに、兵士たちのそれを上回るものだった。
 それでも彼らに兵士たちの恐慌が伝播しなかったのは、彼らのメイジとしての誇り、そして強烈な克己心の故だ。
 だが、それはあまりにも危うい均衡で。
 才人がメイジの一人に向けて駆け出す。ワルドに拮抗するほどの腕の剣士が、突っ込んでくる。
「く、来るなぁ!」
 ワルド程では無い、それでも十分に早い詠唱によって、杖の先から巨大な火球が放たれた。
 だがそれは、才人の持つ剣が突き出されるとそれだけで消えうせた。
 才人の持つ剣が、魔法を消すという悪夢じみた剣が振るわれる。
「ヒィ!」
 一瞬で、彼の持つ杖が手から弾き飛ばされた。更に一閃。彼の腕が、切り飛ばされる。
「ぎゃあぁああああ!!」
 悲鳴を上げて、鮮血を撒き散らして逃げるメイジ。
 それを呆然と眺めていた他のメイジたちに、返り血を浴びて血塗れた才人が、血の滴る剣を以って振り返る。
 それでとうとう、危うい均衡は崩れ去った。
 



 才人とアニエスが逃避行に一応の終わりを判断したのは、ワルドを殺してから数日立ってからの事だった。
 トリステインとゲルマニアの国境沿いの街。無論ゲルマニア側である。国境を越えるまでは、殆ど眠らず、飲まず食わずの壮絶な逃避行であった。
「ようやく聞けるな」
 いつものように安宿で、部屋に入った途端に才人はアニエスを押し倒した。
 彼女がそれに抵抗しなかったのは、才人の様子が普段と違うことに気づいていたからだ。
 二年と半年。殆どの戦場で彼らは一緒だった。だからこそ、アニエスは才人の変化に気づけたのだ。
「何を?」
 一時間あまりの激しい情事の後、才人を正面から抱きしめるようにして寝転がったアニエスの放った言葉に、抱きしめられている才人が問い返した。
「復讐を果たしたというのはどのような気分なのだ? 後学の為に聞かせてくれないか?」
 ほんの数日前の問いを返された形になって、才人は微かに笑った。
 ぎゅ、とアニエスが腕に力を込める。彼女には、それがどうしても泣いているようにしか見えなかった。
「後悔してる。猛烈に」
「後悔?」
 思いもかけぬ言葉に、アニエスはまじまじと才人を見つめた。
「そう、後悔。どうして、俺はルイズを守れなかったんだろうって。いや、ようやく後悔する資格を持てたのかな、俺は」
 今更になって。後半の言葉は殆ど消えかけて、今度こそ才人は泣いていた。
 才人と初めて会ったとき、彼は確かに肉体的には弱かったが、それでも心の裡にぎらぎらと復讐の炎をたぎらせていた。
 二年と半年も一緒にいて、彼女が才人のこんなにも弱い姿を見るのは、初めてだった。
「ルイズというのは、その……」
 アニエスもアンリエッタから名前は聞いていた。ただ、才人からその名が出た事は一度も無い。
「恋人なんかじゃないよ。俺ほどあいつにふさわしく無いガキもいない。たださ、ただ。……たぶん俺は、ルイズのことが好きだったんだ」
 そうか、とだけ返す。好きな女の名前すら、己が口にすることを赦せなかったのか。
「これからどうする?」
「……さぁ、わかんね。ワルドを殺すことだけが、それをするだけの力を手に入れることだけが、俺の生きがいだったし。楽な人生だったのかなぁ」
「そう、なのだろうな」
 ふざけた話だった。いまだ復讐に囚われた自分が、復讐を成し遂げた者に同情している。
「ならば……」 
「ん? 何だ?」
「……いや、なんでもない。もう寝ろ。とにかく、今は眠れ」
 かけられる言葉も見つからずに、ただアニエスはそう言った。
 頷いて、すぐに才人はアニエスの腕の中で寝息を立て始める。
 それを確認して、アニエスはもう一度、才人をぎゅっと抱きしめた。
 どうしても、言えなかった。ならば自分の手伝いをしてくれないかなどと。
「私は、こんな感傷的な女だったかな」
 己の復讐のために主人すら利用した女が、ただ一人の男に揺らいでいる。
 リッシュモンの襲撃の時には、出来たはずだ。迷って見せたのも、所詮は見せかけ。才人が断るわけが無いというのを見越してのものだ。
 そしてそれは、才人も良く分かっていただろう。
 あの時と同じように、言えば才人は手伝ってくれる。なのに。
 どうしても、言えなかった。
 女の前で泣いた情けない男を、アニエスはとうとう好きになってしまったのだ。




『よくもルイズを騙しやがったな』
『目的のためには、手段を選んではおれぬのでね』
 またこの夢か、と才人は思った。あの時から、幾度と無く見た夢だ。
『ルイズはてめえを信じてたんだぞ! 婚約者のてめえを……、幼い頃の憧れだったてめえを……』
『信じるのはそちらの勝手だ』
 そこは色の無い世界だった。鮮やかなはずのステンドグラスも、引かれた絨毯も、彼の左手に倒れているウェールズ皇太子も、彼の口から零れた血も。
 何もかもが黒と白で構成されている。その中で、やはり色の無い始祖ブリミルの像の横に、僅かな例外があった。
 ワルド。色の無い世界にあって、彼の姿は殊更鮮やかな色彩を保っていた。
 ふざけるな、と才人は思う。彼の傍らに、彼の最愛の女性が倒れていた。ピクリとも動かない。
 そう、この時はまだルイズは生きていた。少なくとも、ワルドを退けるまで、彼の左手にはルーンが輝いていたのだ。なのにどうして、ルイズの色が無いのに、死人のお前が生きているんだ――!!
 叫んだつもりだった。なのに、口は全く動かない。当然だ。これは夢なのだ。才人の、忘れることの赦されぬ、忌まわしい過去を再現しているに過ぎない。
 今なら、奴を殺せるのに。俺は、奴を殺したというのに。なのになのに、才人の体は全く才人の自由にはならなかった。
 いつものように、夢は才人の記憶どおりに進行する。デルフリンガーが本来の姿を思い出し、ワルドが『風の偏在』を使い才人を追い詰め、そして。
 色の無い世界で、色の無いルイズが立ち上がり、記憶どおりに杖を掲げる。
『いいから逃げろ! 馬鹿!』
 “才人”が叫ぶ。ふざけるな! 才人も叫ぶ。
 俺はお前を殺しただろ。ワルド。実際に仕留めたのはアニエスだけど、ライフル弾を脳天に二発もぶち込まれたんだ。お前は死んだ。なのにどうして。
 ルイズが魔法を使う。ボゴンと音がして、ワルドが一体吹き飛んだ。
 残った一体のワルドが、ルイズに躍りかかろうとする。
 ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな!!
『逃げ――「死人が、ルイズを殺すんじゃねぇ!!」』
 声が、出た。夢の中で、才人は自分の体が動くのを感じた。
 どうして、とは考えない。そんな暇も無い。左手が一際強い光を放ち、世界は色を取り戻す。
 その中で。
 ルイズにワルドの『偏在』が呪文を放つよりも早く、ガンダールヴのルーンで加速した才人は、ワルド本体の首を刎ねていた。


「ルイズ!」
 才人はそれを確認して、すぐさまルイズに駆け寄った。間に合った。間に合ったのだ。
 俺はルイズを――。
「え?」
 違和感にはすぐ気づいた。どうして、魔法で吹き飛ばされていないルイズが倒れているのか。どうして、色を取り戻したはずの世界にあって、ルイズの色だけは戻っていないのか。
「ルイズ! おい、ルイズ!」
 叫ぶ。でもルイズは眼を覚まさない。
「……う、ぁあ」
 がたがたと震えながら、あの時と同じように、才人はルイズの胸に耳を押し当てた。
 あの時と同じように、鼓動は、全く聞こえなかった。




「――――っ!」
 声無き絶叫を上げて、才人は飛び起きた。夢の残滓がぐるぐると体の中に渦巻き、吐き気を催すのを必死で堪える。
「どうしたよ、相棒。すげー汗だな。また例の悪夢かね」
「……ああ。それも三年間でもとびっきりのな」
「そりゃおでれーた。でも納得だ。相棒、てめ、ひでー面してるぜ。あの娘っ子が死んだ時とおんなじくらいにはひでー顔だ」
 そうだろうな、と頷く。まさしくデルフの言うとおりだった。才人はまた、ルイズを助けられずに死なせてしまったのだから。
「何でだ? あの胸糞悪いヤローは殺したじゃねぇの。相棒は仇を討った。んでようやく追っ手も撒いて、ゆっくりと眠れるようになったわけだ。さぞや気持ちいい夢を見てるとばかり思ってたんだけどな」
「当たり前の話だよ。復讐なんて何の意味も無い。それを、夢の中で突きつけられた訳だ」
 そう答えて、才人は立ち上がった。横に眠るアニエスを起こさぬよう気を使う。寝汗をかいたせいか、喉が渇いていた。デルフの横に置かれた水差しを手に取る。
「そういうもんかね。人間てのは難しいな」
「ああ。難しい。俺だってその当たり前が分かっていなかった。……三年間か、高い授業料だったなぁ」
 水を飲んで、一息つく。そして、目の前に現れたものに、瞠目して立ち尽くした。
 彼の前に突然光る鏡のようなものが現れたのである。
 高さは二メートルほど。幅は一メートルぐらいの楕円形をしている。厚みはない。よく見ると、ほんのわずか宙に浮いていた。
 ずっと昔、もう今の才人では夢としか思えないような満ち足りた生活を送っていた頃に、これと全く同じものを見たことがあった。
「う……そだろ?」
 濃い、草の香りが鼻をくすぐる。理屈もなく、才人は確信していた。これは、あの日、才人とルイズが初めて出会ったあの草原に繋がっているのだと。
 過去は覆らない。死人は助けられない。それを、突きつけられた。己の三年間の復讐は無意味だったのだと、才人はようやく認めざるを得なかった。
 だからと言って、これは無いだろう。
 くぐれるわけが無い。才人が、これをくぐれるわけが無い。
 デルフが声を上げた。
「どうしたよ相棒?」
 愕然としている才人とは対照的に、実に落ち着いた声だった。
「……何が」
「いかねぇのか?」
 何を当たり前のことを、とでも言いたげにデルフが問う。どうしてそんな当たり前のことのように言えるのか、才人には理解できない。
「お前は、これが何なのか分かってるのか?」
「ゲートだろ。ちょいと特殊みたいだけど、天国にでも通じてるのかね。あの娘っ子は、死んでもお前さんに助けてもらいたいようだね」
 それだったらどれだけいいか。才人は低く喉を鳴らす。
「違う。これは過去だ。俺が、ルイズと初めて会った日の、初めて会った場所に通じているんだ」
「へぇ、それで?」
「だから、何が……!」
「何度も同じ事を聞かすなよ。いかねぇのか?」
「どうして、俺が、行けるって言うんだ……!」
「お前さんのご主人様が、お前さんに助けを求めてるんだろ? むしろ、どうしていかねぇのよ?」
「違う!!」
 静かな夜に、才人の声は驚くほどに響いた。ううん、とベッドのアニエスが寝返りをうつ。
「……」
「……」
 長く過酷な逃亡劇に、よほど疲れているのだろう。すぐにアニエスは落ち着いた寝息を立て始めた。
 それで幾らか落ち着きを取り戻し、才人は低い声でデルフに向かい口を開く。
「いいか、デルフ。過去は覆らない。俺が今更これをくぐったって、俺がルイズを死なせたって過去は変わらないんだ。この先に居るのは、俺の知っているルイズじゃない」
「ふーん。なら過去って言い方は変だね」
 だが、どれだけ才人が自分の心をえぐるような事を言っても、彼の相棒の剣の声色は変わらなかった。
「何だって?」
「このゲートは過去に通じてなんていないってことだよ。それで、このゲートの向こうに居る相棒の知らない娘っ子を、相棒は見捨てるのか?」
 ただ淡々と、才人の本音を探ってくる。
「……っ!」
 絶句した。俺は、ルイズを見捨てられるのか?
「赦されると思うか? ルイズから逃げ出した俺が、ルイズを死なせた俺が、何もかも無かったことにして、過去に戻ってルイズを助けるなんて」
「だからよ。相棒の言葉だろが、過去は覆らないって。無くなりゃしない。相棒が覚えてる限りな」
 過去じゃない。その通りだ。才人は決して忘れはしないだろう。ならば、このゲートが繋がる先はただの過去ではなく。
 ぐっと、デルフを握り締めた。過去は覆らない。でも、だからと言って、才人の知らぬ世界のルイズが死ぬのを、自分は見過ごせるのか?
 才人がこのゲートをくぐらなければ、ルイズは間違いなく殺されるだろう。
 あの誇り高い少女は、決してワルドの誘いに乗りはしないのだから。
 

「相棒わよ、確かにあの娘っ子を死なせた」
「……ああ」
「んで、そんな自分が赦せないと」
「そうだ」
「それはワルドの奴をぶっ殺した後もかわんねーと」
「手段が、間違っていたみたいだからな」
 分かっていた。過去は覆らない。死んでしまった人は助けられない。
 憎い。ルイズから逃げ出した自分が、ルイズを死なせた自分が、ある意味ではワルド以上に憎い、赦せない。
 ああ、それでも。
 才人が今まで生きてきたのは、皮肉にも彼がルイズを護れず、逆に助けられてしまったと言う最悪の結果、それ故にだった。
 認められない。認めたくない。それでも、才人はルイズに生かされたのだ。
 何という矛盾だろう。才人はルイズを死なせた自分を赦せないのに、ルイズは彼が生きることを望んだのだから。
 ルイズは才人が自分を責め、憎むことを望んでいない。才人はそう信じていた。
 死者の思惑を自分に都合のいいよう、勝手に好意的に解釈している。他人が才人のその考えを知れば、大抵はそう言うだろう。
 でも才人は、その考えを曲げようとは思わない。才人にとって、ルイズはどこまでも気高くて、優しくて。そして愛しい少女だった。
 そんな彼女が、愚かな復讐に身を焦がしワルドを憎んだ己と同じように、才人を憎んでいるなんて考えられるはずが無い。
「ならよ。これからもずっと間違えて生きてみろ。間違えて間違えて、いつか答えを出してみな」
「……そうだな。その通りかもしれない」
 それで、心は決まった。
「くだらねー問答だったね。どっちにしろ、同じことだ。おめーさんは行くだろ? 娘っ子を助けに」
「ああ。でも、ありがとう。お前がいなかったら、俺は前には進めなかった」
「いいさ。相棒がそういう奴だってのは、今さらだね」
 そうだな、と笑う。
 流石に裸はまずかろうと、服装を整えた。くたびれた服の上に、ぼろぼろの鎖帷子を着込んで、同じようにぼろぼろのマントを羽織る。
 そしてデルフを背中にかけようとして、そこでデルフが声を上げた。
「ああ相棒、俺は行けねぇぞ」
「え……、何言ってるんだ?」
「ゲートの向こうは、三年前の学院なんだろ? つーことは、街の武器屋に三年前の俺が居る。世界に同じ存在が二つなんて、許されねぇさ」
 試してみろ。そのデルフの言葉に従って、才人はデルフをゲートに通そうとした。だが、まるでそこにあるのが本物の鏡だとでも言うように、通らない。才人が手を差し出せば何の抵抗も無く通るというのに、どうしたってデルフはゲートをくぐれなかった。
「ま、そういうことだ。ちと寂しいが、此処でお別れだね」
「……、ああ、寂しいな」
 デルフが通れないからといって、才人に立ち止まる意思は無い。だからそういって、少し笑った。 
「私ともお別れだな。というか、ここまで私の存在を無視してのけるお前らには関心するしかないな」
「……アニエス」
 いつの間に目覚めていたのか。素裸の上にシーツを羽織り、才人のもう一人の相棒は、彼を見て笑っていた。
「いい顔になってるな、サイト。前に進むことを決めた男の顔だ。先ほどより、ずっといい。ああ泣くな。その顔のまま、行って来い」
 それは、何もかもを見通した上での、優しい言葉だった。
 言いたいことがあった。言うべきこともあった。でも、アニエスの言葉はその全てを優しく拒絶していて。
「姫さまと、銃士隊の皆。それにキュルケやキュルケの親父さんにも宜しく言っておいてくれ」
 結局才人は、最後だというのに事務的に、アニエスに言葉を告げる。
「私ではツェルプストーと接触するのは難しいかも知れないが、善処しよう」
「あと、ルイズの墓にも。死体も入って無い形だけの墓だけどさ。場所は姫さまが知ってるから」
「……私が行くことに何の意味があるのか分からないが。彼女の仇を討ったことは、墓前に報告しなければならないな」
「ああ、あともう一つ」
「まだあるのか? 全くお前は最後まで……」
 立て続けの頼みに苦笑いを浮かべるアニエスに、才人はデルフを差し出した。
「デルフを、宜しく。師匠なら、きっと俺よりもうまく使えると思う」
 差し出された剣に、アニエスは顔つきを改めた。真剣な顔で、才人を見る。
「いいのか。私の復讐はまだ終わっていない。これを受け取ったら、私はこれを己の復讐の為に使うぞ」
 そんなアニエスに、才人は首を振った。才人は自身の復讐の無意味さを悟ったが、復讐というものに込める気持ちは人によって違う。
 アニエスのそれを否定する資格は、才人には無い。
 そしてデルフは、元々復讐なんてのを気にする性格ではなかった。
「今さらだぜ、姐さんよ。俺は剣だからね。復讐がいい悪いなんてどうでもいいのよ。選ぶとしたら俺を振るう人間と気が合うかどうかだ。まぁ、お前さんは相棒ほどじゃないがマシなほうだかんね、我慢してやるよ」
「ありがたく使わせてもらおう」
 ひったくるように、アニエスは才人からデルフを取った。
「……ええと」
「何だ?」
「あ、いや……」
 それで、もう彼らには語るべきことはなくなってしまった。
 一緒に行動したことは多くとも、その殆どが戦場で。彼らに楽しい思い出話なんて存在しない。
 他に言うべき言葉は、既にアニエスが否定した。
 だから、彼らはもう別れも惜しまない。
「じゃあ、……行ってくる」
「ああ、行って来い」
「あっちの俺とも、仲良くやんなよ」
 別れの言葉なんて、そんなものだった。
 光る鏡に向かい、才人は歩き出す。
 躊躇いは、無かった。彼はもう、自分を憎むことをやめたのだから。
 復讐の旅は終わった。そして此処が、始まりだ。さぁ、自分を赦すための旅を始めよう。
 過去という名の未来へ向けて。




「なあ」
「なんだ」
 才人は、光輝く鏡のようなゲートに消えていった。すぐに、彼を飲み込んだゲートも部屋の闇に塗りつぶされるように消えてしまう。
 彼を見送った後、暫く黙ったまま、ゲートのあった辺りを見つめていたアニエスに、デルフが声をかけた。
「良かったのかよ」
「何がだ」
「お前さん、相棒に惚れたろ?」 
「!? っな、な、何を言う!?」
 慌てて、アニエスは手に持った剣をほうり捨てた。カランカランと音を立ててデルフが床へと転がる。
 粗暴な扱いに抗議するでもなく。気持ち笑っているような口調で、デルフは言葉を続けた。
「誤魔化すなって、分かってるからよ。それで、良かったのかよ。別れが、あんなのでさ」
「……私があの場でサイトに好きだと言って、それで奴が足を止めるのは嫌だったからな」
「止めるかね? 相棒が。未だに死んだ娘っ子にぞっこんの、あの相棒が」 
「止めるだろ、うん。何せ私とサイトの付き合いは二年半だぞ? それにサイトは彼女と両思いというわけではなかったようだしな」
「や、あれは両思いだったね」
「剣が、何を言う?」
「確かに俺は剣だけどね、お前さんが相棒に惚れたのを見抜いた剣の言葉だぜ」
「……あ、あとそうだ。サイトは私を抱いたぞ。好きでもない女を抱きはしまい?」
「相棒の筆下ろしはツェルプストーの嬢ちゃんだったけどな」
「……」
「……」
「……何が言いたい?」
「女がいつもは強い男に急に弱いところを見せられると、ころっといかされるのはよくある話だね。でも、弱い相棒よりも、さっきの相棒の方がずっとかっこよかったんだろ?」
「ま、まぁ、確かにサイトの心には彼女がずっといたようだ。ただ、私の言葉に足を止めるというのも、またあり得ない話じゃないかもしれん。かも、しれん」
「……いや、もういいや。ほんとに、お前さんの負けず嫌いは、変わんないね」
 呆れたように言って、お節介な剣は、アニエスの本心を探ることを諦めた。
 彼の新たな相棒は、かつての相棒よりもよっぽどしっかりしているようだ。



 復讐を果たした男は、彼女の元を去っていった。
 アニエスに、惜しむ気持ちは無論ある。ただ、その惜しむ気持ち自体が、アニエスが彼を引き止められない最大の理由だったのだ。
 惚れた男が自分の信じる道を行く。それだけでいいと思ってしまった。
 馬鹿な女だと、彼女は少しだけ自分の事を誇らしく思い、床に転がった剣を拾う。
「私はサイトほど甘くは無い。地獄の底まで付き合ってもらうぞ?」
「相棒を地獄に引きずりこめなかった女が、何を言うんかね?」
「……」
「どうした?」
「いや、前から思っていたが、ようやく確信した」
「ん? 何がよ?」
「お前に口で勝てる気はしない。だからこうしよう」
「え、ちょ、ま、まあ落ち着け。な? これから俺はお前さんの無二の相棒になったわけで、て、聞けっててめ――!」
 口の減らない剣を鞘に収め黙らせて、そこでアニエスは眩しさに目を細めた。
 いつの間にか、夜が明けていたようだ。
 東の空に顔を覗かせた太陽に、アニエスは背を向ける。
 光に向かって歩んでいった男とは対照的に、女は闇へと堕ちてゆく。
 ただ、いつかは彼のように、光に背を向けずに歩いていけるようになろう。
 復讐に十余年も捧げ続けた女は、初めてそう決意した。



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[4677] 第一話
Name: 歪栗◆970799f4 ID:488aeb62
Date: 2009/01/29 20:54
 草原に春の柔らかな日差しが降り注いでいた。
 丈の短い草にほんの少しだけ浮いた水滴が、そんな日差しを受け止めてきらきらと反射させている。
 あたかも、この草原に集う年若いメイジたちを祝福するかのように。
 今日は彼らにとって特別な日。
 春の使い魔召喚という、神聖な儀式の行われる日だった。
 トリステイン魔法学院に入学した生徒たちは、始めの一年で系統魔法の基礎を学ぶ。そして二年生からは、それぞれの属性にあった専門課程へと進み、更なる研鑽を続けることになっている。
 その属性を固定するために、メイジたちは使い魔を召喚するのだ。
 そしてその神聖な儀式に、周りの者たちとは少しだけ違った思いをかけている少女が居た。
 ルイズ・ド・ラ・ヴァリエール。メイジ=貴族という式がわずかな例外を除いて成り立つこのトリステインという国家に存在するトリステイン魔法学院は、例に漏れず殆どの生徒たちが貴族で、それも爵位持ちの上級貴族の令息、令嬢たちで構成されている。
 その中でも、ラ・ヴァリエール公爵家という最上級の貴族の令嬢であるこの少女は、どういうわけか魔法が大の苦手だった。
 いや、苦手というわけでは無い。尚酷いとでもいうべきか、ルイズは貴族でありながら、一部のコモン・マジックを除けば一切の魔法を行使することが出来ないのだ。
 自身も、それがどうしてなのかは理解できていない。一年間学院での生活を通じて、ついたあだ名は“ゼロのルイズ”。
 大貴族の令嬢であることも、少々年齢に比べて幼さを感じるとはいっても可憐な容姿も、魔法が使えないという事実の前では意味を成さなかった。
 むしろ肉付きの乏しい肢体を、魔法の成功率ゼロパーセントとかけられて馬鹿にされている始末だ。
 彼女の父も母も二人の姉も、皆が立派なメイジである。
 何故自分だけが? 何で?
 こんな筈じゃない。本当のわたしは、こんなのじゃない。絶対に違う! わたしは、誇り高きラ・ヴァリエール家の末娘なんだから。
 そう思って、そう信じて。
 理想の自分と、あまりに残酷な現実。その乖離は進むばかりで、一向に解消の方向を見せてはくれない。
 ゼロのルイズ。未だ変わらぬそんな蔑みと侮りがブレンドされた名で呼ばれ、彼女は今ここにいる。
 春の使い魔召喚。他の皆は、自分の使い魔がいったい何になるのか、高位の幻獣がいいなぁなどと少しばかりの緊張とそれ以上の期待を持って興奮したように話していた。
 そしてルイズがそれにかけた望みは一つ。
 自分が本当はすばらしいメイジであるという証明。そのための使い魔。
 同じように見えて、だが実際彼らと彼女の望みは全く別の物だった。
 ルイズはこれまでに二度自分に裏切られている。
 一度目は本当に幼い頃。初めて母に杖を渡されて、魔法を習った時。己に流れる血に誇りを持って、わくわくと期待しながら母が見せたお手本の真似をして杖を振るった。
 二度目はこのトリステイン学院への入学。数多の優秀なメイジを輩出している学院にて学べば、自分もメイジになれるのではないかと。
 そして今日が三度目。メイジの実力を見るには使い魔を見ろと言われるほどに、メイジにとって使い魔の存在は大きい。
 じゃあわたしがもし、もしよ? ペガサスとかユニコーンとか、はたまたグリフォンやマンティコアとかの、一流のメイジが使役するような使い魔を召喚しちゃったりしたら?
「では次に、ミス・ヴァリエール。『サモン・サーヴァント』を行って……」
 そうなったらどうしよう。わたし、一気に一流のメイジの仲間入りじゃない。今でこそゼロのルイズとか呼ばれちゃってるけど、それがきっかけで眠れる才能とかが目覚めちゃったりして、それでそれで……。
「っおほん! ミス・ヴァリエール!」
「ひゃい!?」
 いきなり声をかけられて、変な声が出てしまった。慎み深いトリステインの貴族にあるまじき、変な声だ。
 己の殻に閉じこもって無視してしまっていたことを棚に上げ、ルイズは抗議の意味を込めて彼女に声をかけた男を睨んだ。
「何ですか? ミスタ・コルベール」
 だが、すぐに違和感に気づく。何だか皆の視線が白いのである。な、何よ、今日はまだ爆発なんて起こして無いわよ、とそんな視線が向けられることには慣れっこでも今は向けられる覚えの無いルイズは少々萎縮した。
 悪意を向けられることには慣れても、その理由が分からないだけで怯えてしまうルイズはやはり女の子だった。
「ミス・ヴァリエール。君の番だ。早く『サモン・サーヴァント』をしたまえ」
「あ……は、はい! 分かりました」
 解けぬ疑問は残ったが、コルベールにせかされたルイズは慌てて頭からその疑問を押し出して杖を構えた。
 何故かコルベールが優しげな瞳で自分を見ていた気もするが、それも頭から追い出す。
 正念場なのだ。余計なことを考えている場合じゃない。集中せねば。
 疑問が解けなかったことはルイズにとっては幸せだったろう。誰だって、周りが見えなくなるほどに集中した時の自分の顔を見られていた事を知ったら、しかもそれがにやにやと如何にもだらしない顔だったと知ってしまったら、赤面して、後々まで懊悩する羽目になる。
 そんな事実は、……やっぱり知らないほうが幸せである。
「我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。五つの力を司るペンタゴン。我の運命に従いし、“使い魔”を召喚せよ!」
 

 これまでにルイズは二度、自分に裏切られた。これが三度目の裏切りになるのか。はたまた三度目の正直になるのか。
 それは始祖たるブリミルのみが知りえる事。
 だが、これだけは確実に言える。ルイズは、幾度裏切られようとも決して自分を信じることは止めないだろうということ。
 尊敬すべき家族と、畏敬すべきラ・ヴァリエールのご先祖さまたちの血を引くルイズは、誰よりも立派な貴族になると決めているのだから。
 杖を振るう。ボン、と爆発が起きた。杖を振るう。ボン、と爆発が起きた。
「何やってんだよゼロのルイズ!」
「『サモン・サーヴァント』でさえ爆発を起こすなんて信じ――きゃあ!」
 杖を振るう。周りの喧騒をさえぎるように、ドガン、と一際大きな爆発が起きた。
 ……、くじけないもん。
 ちょっと目に涙を浮かべて、ルイズは杖を振るう。
 ボン、と爆発が起きた。
 何度やっても、使い魔の召喚どころかゲートが開く気配さえ感じられない。
「本当に何をやっても爆発させるんだな!」
「さっきからバンバンバンバンうるさいじゃないか! 僕が集中出来ないだろ!」 
 幾度繰り返しても成功の兆しは無い。
 嘲笑と罵声。三度目の裏切り。
 悲しくて、自分が情けなくて、思わず言い返そうとする。
「っ! わたしだって――!」
 わたしだって、好きで爆発を起こしてるわけじゃないわよ!
 言い返そうとして、言い留まる。
 知らず、頬を押さえていた。初めて母に頬を張られた日の事を、ルイズは思い出していた。
 それが、とても大切なものであると言うようにルイズはそっと頬を撫で、そして改めて両手で、ぐ、と杖を握り締める。
「我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。五つの力を司るペンタゴン。我の運命に従いし、“使い魔”を召喚せよ!」
 諦めない。ぜぇったいに、諦めない!
 魔法を使えない少女はただ誇りだけを胸にして。
 ルイズは、もう何度目かも分からぬ、杖を振るう動作を繰り返した。
 そして。
「あ」
 唐突に、その努力は報われる。
 振るった杖の、その先に、白く光る鏡のようなゲートが開く。
「やった……?」
 間違いない。“召喚”のゲートである。
 いつまでやってるんだよ、とか、もう諦めたら? 等と繰り返される失敗と爆発に呆れ混じりに声を上げていた生徒たちがどよめきの声を上げた。
 ルイズは笑う。満面の笑みを浮かべて、叫ぶ。
「――さぁ来なさい! 神聖で、美しく、強大な使い魔よ! わたしの導きに、応えて!!」
 そして、ゲートからなんかさも当然のように歩いて出てきた“人間”に、その可憐な笑みを張り付かせた。
 えーと、この、薄汚い格好をした平民が、わたしの使い魔?
『…………』
 誰も何も言わない。言ってくれない。
 ゲートから出てきたのは、男だった。彼もまた、何も言わずにルイズの事を見つめていた。
 だからルイズは、すうっと息を吸い込んで思いっきり叫んでやった。
「ななな、何で! 使い魔に! 人間が! それも平民が出てくんのよーーーー!!」



 数多の生徒たちの頭の向こう、ルイズ・ド・ラ・ヴァリエールが杖を振るっている。その杖の先に、ようやく楕円形の鏡の如きゲートが開いた事を確認して、コルベールはふう、とため息を吐いた。
 春の使い魔召喚の儀式も、ようやく終わりを迎えると。
 もともと、彼の引率には大した意味は存在しない。
 サモン・サーヴァントもコントラクト・サーヴァントも危険など殆ど無いのだ。始祖ブリミルが彼女の子たる彼らを護っている。またやり方も、前日までに十分にこのメイジの卵たちに教え込んであった。
 そして少々覚えの悪い生徒が失敗を繰り返して長引いたが、無事皆使い魔を召喚し、後は最後の生徒のコントラクト・サーヴァントを待つばかり。
 それにしても流石はミス・ヴァリエールだなとコルベールは思った。
 例え悪い意味にせよ、この学院に彼女ほど存在感のある生徒は居ない。
 今もどうだ? いくらメイジの実力を見るには使い魔を見ろと言われていると言ったって、一人の使い魔召喚にこれほど周りが注目することなんてあるだろうか。
 おかげでいつの間にかかなり後ろに押し下げられ、更に他の生徒たちが邪魔で、コルベールは彼女が召喚したであろう使い魔を見ることが出来ない。目に入るのはふさふさと髪の毛を生やした若い者たちの頭ばかりだ。
 いいなぁと、コルベールはため息を吐いた。うらやましい。私の頭では冬を越すのが寒いのなんのって。でも君たちも油断して手入れを怠ると、すぐに私と同じ頭になっちゃうぞ?
 微妙に負け惜しみ呪い染みた事を内心で零して、コルベールはルイズの叫び声に思考を打ち切らされた。
「人間?」
 彼女はそう叫んでいた。ミス・ヴァリエールは人間を召喚したのか?
 そう考えて、そこでコルベールは覚えのある臭いを嗅いだ。僅かだが、間違えようが無い。
 すっと表情を引き締めた。
「君たち、ちょっと下がってなさい」
 彼の前に居た生徒たちは、普段の暢気さのかけらも感じることの出来ないほど厳しい顔のコルベールに呆然として、道を空ける。
 この臭い。いつか、これと同じ臭いを腐るほどに嗅いだことがある。人の焼ける臭いほどではないが、彼はこの匂いに大いに覚えがあった。
 血の臭い、それも人の血の、だ。
 人の事をいえる立場では無論無い。だが、この血の臭いがルイズが召喚したであろう人間から発せられるものだということならば。
 その人間は、コルベールの教え子に害を及ぼす可能性がある。
 杖を握る。二度と破壊に使うまいと決めた自分の『火』だが、可愛い教え子たちとは変えられない。
 その覚悟を決めて、コルベールは人垣を抜けた。中央にはルイズの姿。向かい合うように、背の高い男が立っていた。



 ゲートをくぐっても、才人はあの時のように気を失ったりはしなかった。
 それが何故かは彼には分からない。また、それを疑問に思う余裕も無かった。
 ルイズの姿を視線に捉え、才人は涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。少しだけ勘違いをしたくなる。
 自分は過去に来たのではなく、過去に戻ったのだと。いや、それすらも間違いで。
 あの時、ルイズが死んだのは何かの間違いで、あれからずっと才人は長い夢を見ていたのだと、そんな酷い勘違いを。
 固く決めたはずの才人の決心を揺るがすほどに、その考えは誘惑的だった。
 目の前には懐かしい少女の姿。
 変わらない。いや、同じだと言うべきなのだろうか。ふわふわと波打っている、桃色がかったブロンドの髪。透き通るような白い肌。
 ただ、勝気につりあがった眼の鳶色の瞳に映った自分だけが、あの時とは違っていた。
「……で、あんた誰?」
 彼女と同じ問いを、目の前の少女がする。
 ああ、これは確かに辛いな、と才人は思った。
 覚悟していたとはいえ、ルイズに自分の名を問われるなんて、確かにこれは辛い。
 それでも才人は表情を変えずに、彼女の問いに答えた。
 自分にかなり呆れながら。酷い勘違いをしたのは少女の姿を見たからで、終らしたのは自分の名を問う少女の言葉で、才人は本当にルイズという存在に弱い。
 ぐっと、腹に力を込めた。あの時と同じ言葉を返すのは簡単だ。才人は決して、彼女との出会いを忘れたことは無い。
 でも、それを行動に移すわけにはいかなかった。
 ここは過去であって過去ではなく、少女はルイズであってルイズではない。
 そして才人もまたそう。彼は、かつてルイズから逃げ出し、そしてルイズを死なせてしまった才人なのだから。
「俺は、……平賀って言います。それで、俺を召喚したのはあなたですか?」
 丁寧語と、名を言わず平賀とだけ名乗ったのは、彼のけじめだった。
 才人は弱い。強くなったつもりで居て、それでも目の前に彼女が居ると、それだけで揺らぎそうになる。
 故に、才人はこれから平賀と成る。彼の過去にはあり得なかった存在。それを世界に誇示し、何より自分に言い聞かせて己を保とうとする。
 何というか、本当に自分らしいと才人は心の中でため息を吐いた。
 結局才人が強くなったのは見た目だけの張りぼてで、彼の心はあの時と殆ど変わっていない。
「そうよ。それで、あんたどこの平民? その姿、まさか盗賊じゃないでしょうね?」
 盗賊みたいな格好と言われて、才人は苦笑した。まぁ、そういわれるのも仕方ないくらいには、才人の格好は酷いものだったが。
「盗賊なんかじゃない。俺は傭兵です」
「傭兵?」
 ルイズが怪訝な顔をした。トリステインの公爵家令嬢に、傭兵という存在は縁の無い存在である。
「ルイズ、『サモン・サーヴァント』で平民を呼び出してどうするの?」
 その時、周りから声が上がった。
 ルイズが顔を真っ赤にして声が発せられた方に向け言い返す。それも才人には懐かしい光景だ。
 懐かしさはあれど、才人には少し、いやかなりむかつく光景だったが。
 でも彼は動こうとはしなかった。
 鍛えたといってもメイジ複数人はいくらなんでも荷が重く、それに今の才人はまだガンダールヴを授けられていないし、デルフも持っていない。
 というよりも、才人にルイズを庇う理由が無い。いくら才人が彼女の事を護るために召喚されたのだといっても、ここでそれを知るのは彼のみである。
 いらぬ疑念を持たれるかもしれない行動は、避けるべきだった。
 ぐっと己自身を諌め、才人は周囲を見渡してみる。
 あまり彼の見覚えのある姿は見当たらなかった。
 流石に三年も前の事だ。彼が覚えている生徒なんて、ルイズと、そしてあの後にも少しだけ縁のあったキュルケを除けば、後はほんの数人しか居ない。
 いや、もう一人居た。生徒では無く、教師だが。ミスタ・コルベール。
 あの時はルイズが呼んで初めて人垣から現れた筈の彼は、何故か既に人垣の中、才人からも見える位置に立っている。
 そして、才人に杖を向けていた。
 って、え? 何で?
「あの、ミスタ? 俺はあなたに杖を向けられる覚えが無いんですが?」
 少々顔を引きつらせながら問う。
 敵意は特に感じなかったが、前の世界では再会した時以来それなりに友好関係にあった人物に杖を向けられて、いい気はしない。
 そんな才人の様子をじっくりと眺めて、コルベールは杖を下ろした。
「いや失礼。ミス・ヴァリエールの言ったとおりもし君が盗賊か何かだったら、取り押さえねばならないと思ってね」
「そう言うって事は、俺が危険人物で無いと判断されたと思っていいんですかね」
「人を見る目には幾らか自信がある。さ、ミス・ヴァリエール。儀式を続けなさい」
「そんな! ミスタ・コルベール。あの、もう一回召喚させて下さい」
「それはダメだ。ミス・ヴァリエール」
 少々コルベールの登場が早かったが、あとは以前と変わらぬやり取り。
 そして、肩を落としたルイズが才人に近づいてくる。
「あんた、感謝しなさいよね。貴族にこんなことされるなんて、普通は一生無いんだから」
「そうかも知れないっすね。光栄です。ただ、ちょっと待って下さい」
 そこで、才人は此処に来て初めての自発的な行動に出た。手を前に上げて、ルイズが杖を振るうのを遮る。
「ちょっと、あんた何――」
「ミス・ヴァリエール。それは俺を雇ってからにしてくれませんか?」
「な、何言ってんのよ。わたしはあんたを使い魔にするために召喚したの。それはあんただって理解してるんでしょ?」
「メイジが使い魔を召喚することは、俺も知り合いの貴族に聞いて知ってます。メイジの使い魔になるのも面白そうだって、それで俺はゲートをくぐりました。でも、人間を止める気は無い」
「……続けなさい。つまり何が言いたいわけ?」
「従者として、俺を雇って下さい。従者兼使い魔。それで無ければ俺はあなたと契約することは出来ない」
 そこまで言い切って、才人はふぅ、と息を吐いた。ルイズは信じられないものを見る目つきで彼を見つめていた。怒りのためか、それとも屈辱か、僅かに唇が震えている。
 少し言い過ぎたかな、と思う。
 それでも、これは必要な事だった。ルイズと一定の距離を保つ。特に彼女に自分の庇護者になられては駄目だ。
 護られる存在ではない。護る存在になる。ルイズのためなら、必要とあらば命をも投げ出す。
 金銭での契約はルイズにそれを当然と思わせてくれるだろう。
 実際傭兵というものは自分の命が一番大切なものなのだが、この世間知らずのお嬢様はそんなことは知るまい。
 そして、才人はルイズの命よりも自分の命が大事なんてこれっぽっちも思っちゃいない。
 勿論ルイズに救われた命を無駄に扱うことは出来ないが、でもルイズのためならば、才人は自分の命を使うことが出来るのだ。



 貴族に対してなんとも遠慮知らずな事を言い出した男を、ルイズはきっと睨み付けた。
 なんなのこの男。盗賊みたいな汚い格好して、自分を雇えですって? 使い魔になるのが分かっててゲートを通ったのに? これじゃ押し売りじゃないの!
 そう思ったが、ルイズに選択肢は無かった。下唇を一度強く噛んで、精々威厳を感じさせるよう声を張る。
「……わかった。あんたを雇ってあげる。あんたは自分にいくらの値をつけるのかしら?」
「とりあえず新金貨で百。月の給金に関しては、後で話しましょう。そんなのんびりしてる場合じゃ無いようですし」
「まぁ、いいわ」
 自分を売り込ませるようなことを言わせても、ルイズには従者や傭兵を雇うための相場に詳しくない。自分にとっては大した金額ではないので、あっさり了承した。
「おいおい、使い魔を金で雇うって、前代未聞じゃないか!?」
「実家がお金持ちで良かったわね! ゼロのルイズ!」
 周りから上がる囃し立てに関しては、納得できるものでは無かったが。この男のせいでからかわれる羽目になっているのだ。
「まぁ、人間が使い魔って時点で前代未聞ですし、そんな気にすること無いですよ」
「あんたが言うな!」
 怒鳴りつける。更にこの際貴族への礼儀を教え込もうかしらと考えたところで、コルベールに遮られた。
「ミス・ヴァリエール。話は済んだようだし、早く『コントラクト・サーヴァント』を行ってもらえるかな?」
「わ、分かりました。ほら、あんたは跪いてちょうだい」
 渋々と頷く。なんでこうなったのか。
 わたしは、今日すばらしいメイジになる。そのための使い魔を召喚する筈だったのに。
 この時、ルイズは初めて自分が召喚した、自分の使い魔となる男をまともに見た。
 意外と若い。別にハンサムというわけでも無いが、無精ひげを剃って伸ばし放題の髪の毛も手入れさせたら、そこそこ見られた顔になるだろう。
 背も高いし、体つきも悪くない。きちんとした格好をさせて自分の後ろに控えさせれば、まぁ従者としてはそれなりにも思える。
 あくまで、従者としては、よ?
 そんなことを考えながら『コントラクト・サーヴァント』を唱えた。杖を振るって、男の、平賀と名乗った男の額に杖を当てる。
 その間、才人はじっとルイズを見つめていた。まるで神聖な、冒しがたいものを見るような目つきだった。
 実際『コントラクト・サーヴァント』は神聖なものであるのだが、貴族相手に押し売りをした無礼な男の態度じゃないわね、とルイズは少し奇妙に思った。
 目を瞑る。そして男の唇に、そっと口付けた。
「終わりました」
 立ち上がりながら言う。頬が赤くなるのは、抑えられなかった。
 違う。えっと、そう、これは怒りよ、とルイズは自分に言い聞かせる。
 怒りに決まってる。自分のファーストキスを、こんな平民に捧げる羽目になったのだ。
 憮然として、ルイズは才人を見下ろした。才人は先ほどと同じようにルイズを見つめている。キスしている間も、そうだったのだろうか。
 彼の視線に、ルイズは自分でも分からぬ居心地の悪さを感じた。思わず、顔を背けてしまう。
「『サモン・サーヴァント』は何回も失敗したが、『コントラクト・サーヴァント』はきちんとできたね」
 コルベールの声も、耳に入らない。
 何故だろう、と思う。無礼だと思っていた平民。上っ面の丁寧語だけで、貴族である自分の事を尊敬しているとはとても思えなかった。
 そんな彼が、自分を何かとても高貴な人を見る目つきで見つめている。
 わたしが高貴なのは、当然なんだけど。でも……。
 何か、違うのだ。ラ・ヴァリエールの領地に住む平民たちとも、何処か違う。
 生徒たちが、ルイズを馬鹿にするようなことを言う。
 そこで、とりあえず男への違和感について考えるのは止めた。彼らに向け言い返し、コルベールに取り成され、その内に才人がうめき声を上げて蹲る。
 使い魔のルーンが刻まれているのだろう。すぐに才人は立ち上がり、ルーンの刻まれた左手を胸の前に置いて、宣誓するように言った。
「使い魔の証、確かに頂きました」
 満点の態度だ。そう思う。思うのに、それがどうにも不自然に感じられて仕方がない。
「そ、そう。ふん、精々励んでよね」
 返す言葉も、知らず弱々しいものになってしまう。
「あの、どうかしたんですか?」
「何でもないわよ!」
 あんたのせいでしょ! とは言えずに、でも怒鳴りつけることは出来た。
「さてと、じゃあ皆教室に戻るぞ」
 コルベールがそう言って、皆が去っていく。魔法を使えないルイズを馬鹿にする言葉を発しながら。
 その事について、彼は何も言わなかった。一応、触れてはいけないものと感じるだけの知恵はあるらしい。
「俺はこれからどうすればいいんですかね?」
「……わたしについて来なさい。教室に戻るわ」
「分かりました」
 さっさと歩き始めると、それに不満を言うでもなく才人はルイズの半歩後ろをついてくる。
 ルイズの、春の使い魔召喚の儀式は終わった。
 今日、彼女は自分が立派なメイジだと、もしくはいつか立派なメイジになると証明するはずだった。しかし彼女が手に入れたのは薄汚い平民と、変わらぬゼロのルイズの名前だけ。
 理想と現実の差は、その乖離をますます進めたことになる。
 結局、彼女は三度、自分に裏切られたらしい。
 でもルイズは諦めない。信じてる。自分に流れるラ・ヴァリエールの血を、幾度裏切られようと自分を信じることを止めはしない。
 そしてルイズは気づかなかった。そんな彼女を、眩しそうに見つめている男が居ることを。
 彼もまた、一度は彼女を裏切り、そして二度と彼女を裏切るまいと誓いを固めていた事を。
 三度目の裏切りは、ルイズに決して自分を裏切らぬ存在をプレゼントしたのだ。
 ただそれが、彼女に対して救いとなるのか、はたまた呪いとなるのか。
 それはやはり始祖ブリミルの他には、幾らかの未来を知る男すらも知りようの無い事ではあるのだが。




 場所は変わって学院寮塔三階、ルイズの部屋。
 春の使い魔召喚の後、才人はルイズに連れられて教室に戻った。今日はもう特に授業等の予定は無いのか、コルベールは改めて生徒らに使い魔を召喚したことへの祝福を述べた後、解散を命じた。
 そして今、以前と同じように才人はルイズの部屋に案内されたという訳だ。
 前の時はぶん殴られて起きるまでほったらかされた為夜になっていたが、今回の才人はルイズにぶん殴られなかった為かかなり早くルイズの部屋に着いていた。
 時刻はまだ四時過ぎだろうか。西向きでないため直接夕日が差し込むことは無いが、窓から見える世界は赤く色づいて、室内にまでその領域を広げようとしていた。
 懐かしい。扉の傍らに佇んだまま部屋を見回して、才人はそう思った。初めてルイズと出会った草原以上に、この部屋は才人にとっては思い出深い場所だった。
 ここで、才人はルイズと一月以上も一緒に暮らしたのだ。
 何も変わっては居ない。貴族の私室としては十分な広い部屋。才人の正面の方向には清潔そうな白いカーテンのかかった大きな窓、左手に洋服が詰め込まれているだろうタンスがあり、右手には既に使用人たちが整えた後なのだろうパリッとしたシーツの掛けられたベッド。
 貴族の女の子の部屋としては意外と殺風景だな、そんな感想が出るのは才人が変わったからか。
 趣味とかは無いのかな、そう思い、そう思ったことに彼は目の前の少女に見られぬよう俯き、心の中で自嘲した。
 いやはや、なんだかんだで自分は実はルイズの事を何も知らなかったんだなぁと。
「座らないの?」
 中央の、テーブルの両端に置かれた椅子の片方に腰掛けたルイズが問う。
「従者が主人と席を一緒にするわけにはいかないですよ」
 才人の答えのどこが気に入らなかったのか、ルイズは少し不機嫌そうな顔をした。
「あんたはわたしの使い魔でもあるんだけど?」
「使い魔ならなおさら。椅子に座る使い魔なんて聞いたことが無いです」
 冗談の様な言葉を真顔で言った才人に、ルイズは眉を潜めてなら好きにしなさい、と返した。
「じゃあ本題ね。あんたはわたしの使い魔になったわけだけど、同時にわたしはあんたを従者として雇ったわ。あんたの口車に乗ってね」
 よっぽどあの時の事が腹に据えかねているのだろうか、才人を睨み付けるルイズの視線はきつい。
「ラ・ヴァリエールのご令嬢に仕えられるなんて光栄です」
「……ふん。あんな押し売り紛いのことして、盗人猛々しいったら」
「俺は押し売りをしたつもりは無かったんですけど。流石に断られてまで……」
 嘘だ。才人はルイズが断れない立場だったのを理解していた。何せかつて何も知らない少年だった才人を相手に渋々ながらも契約したルイズである。春の使い魔召喚の儀式の神聖性を欠片も理解してない才人でも、拒絶はあり得ないと踏んでいた。
 それを知らない事になっている才人は嘘をつくしかないが。
「わかってる! こっちの事情よ、もう!」
 弱みを見せることになるとでも思っているらしいルイズも濁すように怒鳴って、グラスに手を伸ばした。
 そこで、ルイズは才人を見た。え、と戸惑う才人に、不機嫌そうに眉を跳ね上げて水差しを示す。
 そこでようやく気づいて、才人は水差しを持ってグラスに水を注いだ。
 ちびりと一口、水を飲んで一息ついたらしい。
「ええと、なんだったっけ?」
 幾分落ち着いた声だった。
「本題に移るとか言ってましたね。本題、としか聞いてないですけど」
「話がずれたのは誰のせいよ」
 お前のせいだ、なんてストレートには流石に言えない。ただ、真実を指摘するのを放棄というのもルイズの為にはならない。
「俺はあなたに雇われた身なので、ミス・ヴァリエールのせいとは言えません」
 故に才人はこういう言葉の選び方をしてみた。
「そうね。あなたはわたしの使い魔だもの。従者でもあるんだっけ? それで、わたしはあんたと話してたんだけど、話がずれたのがわたしのせいじゃないとしたら、いったい誰のせいなのかしら。答えて」
「…………俺のせいですか?」
「そうね。今度から気をつけなさい」
 理不尽だ。ルイズはいつだって才人には理不尽だった。感動する場面では決してないが。
 話がずれた責任の一端は自分にあるのだと、そう悟っている上でこのような言い回しをするのだから始末に負えない。
「いい加減話を進めるわよ。あんた、貴族に仕えた経験は? 傭兵じゃなくて従者としてよ、勿論」
「無いですね」
「あんた、それでこのわたしに従者として雇ってくださいなんて言ったの?」
「はい」
「呆れた。ま、期待はしてなかったけど。その格好じゃあね」
 そう言ってルイズは肩を竦めた。
 果たして、ルイズは才人の着るマントのところどころを染める茶色い染みの正体を知ったらどんな顔をするのだろうか。
 そんな意地の悪い疑問が頭に浮かび、じゃあ三年前の自分だったら、とそこまで考えて才人は下らない思考を打ち切った。
 ルイズはわからないが、才人は実践済みである。立ち直るのに三日かかった。後者の答えが出ているのに前者まで求めるというのは、流石に悪趣味が過ぎるだろう。
「給仕にでも学びなさい。あんた、従者としては落第点もいいとこよ? 本当ならあんたみたいな得体の知れない平民がラ・ヴァリエールの従者になるなんてあり得ないんだから」
 言い返す言葉も無く頷く。従者なんて貴族の後をちょこまかついていて、後は適当に礼儀を払っていればそれでいいものかと思ってのいい加減な申し出だったのだが、少し早まったのかもしれない。
 才人は少し後悔していた。
「後は使い魔として、なんだけど」
 そう言い掛けて、ルイズはため息を吐いた。
「やっぱり駄目そうね。少しは腕が立ちそうだけど、それだけか」
「…………」
 言い返す言葉も無い。才人はルイズとの視覚の共有も、秘薬を見つけることも出来ない。視覚の共有に関しては一度あったが、それはデルフの説明によれば主の危険に際しての緊急的なものである。今は証明のしようがないのだ。
 ぶっちゃけ現時点では無能と判断されてもしょうがない。
 ましてや短い期間とはいえ使い魔の経験があって、である。従者として以上に、才人は使い魔としては失格なのかもしれない。
 一応は買ってくれているらしい主人を護る存在ということに関しても、才人は一度失敗しているのだから。
「ようやく、自分がどれほど不相応な真似をしたか理解したのかしら?」
 落ち込む才人をルイズはふふん、と鼻で笑った。
 そうだ。才人は理解している。自分がどれ程思い上がった行為を行おうとしているのかを。
 だが、ようやく、ではない。決してない。後悔も、自分の傲慢も、全てを理解して、そして才人は此処に居る。
 ルイズを見る。必ず護ると誓った少女を。護りたいと思って、護れなかった少女を。
「俺は使い魔としても従者としても半人前以下です。でも……」
 言えるのか。鳶色の瞳の中、才人がそう問いかけてきた。お前はそれを言えるのか。それこそがまさに思い上がりというものではないのか。
 言えるさ。才人は即答する。これが言えないのなら、才人は此処にいないのだから。
 相棒に背中を押されてようやくたどり着いた結論だということが、少し情けなくもあったが。
「ルイズを護る事だけは、自信があります」
 言った。左手を握り締める。誓いなどではない。そんなもの、とうに済ませた。
「俺に、ルイズを護らせてください」
 これは、懇願だ。一度失敗したものが、今度こそと、同じ願いを口にしている。
 情けない事この上ない。身の程知らずにも程がある。
 自分よりも何歳も年上の平民の、そんな無様な願いを聞いて。
 全てを理解している筈のないルイズは、笑いもせず、いきなり呼び捨てにされたことへの怒りも見せずに、ただそう、とだけ頷いて顔を背けた。


 

 出身は東方。こちらではロバ・アル・カリイエと呼ばれる地。三年程前にハルケギニアに流れつき、それからは傭兵稼業で生計を立てていた。
 主にトリステインとゲルマニアの国境付近で、国に雇われるのでは無く個人の貴族相手に揉め事始末やトレジャーハンターの真似事、街や村からの依頼で盗賊、亜人、幻獣退治など、言ってみれば何でも屋のような仕事をしていた。
 勿論、国同士の小競り合いが起こればどちらかに雇われての戦争も経験している。
 元々どこぞで戦争が起きたらその時のみ剣を取る兼業傭兵ではない傭兵は、衛兵か何でも屋ぐらいしか仕事がないそうだ。
 剣の腕にはそれなりに自信あり。メイジ相手は荷が重いが、少なくとも平民相手なら三人がかりで来られても負けはしない。
 以上が、才人がルイズに語った傭兵平賀の経歴だった。


 得体の知れなさ倍増。ルイズにとって見ればそれ以外に言い様が無い。
 特に……。
「ロバ・アル・カリイレから来たですって? あの恐ろしいエルフたちが住む砂漠をどうやって超えたのよ」
 夕食の為にアルヴィーズの食堂に向かう道程で、ルイズは才人相手に部屋での面接染みた問答の続きを行っていた。
「その辺は正直分からないんです」
「分からない?」
「はい。気がついたらハルケギニアに居たとしか」
 得体の知れなさ更に倍。二倍の倍でなんと四倍だ。頭が痛くなってくる。
「あんた、わたしを馬鹿にしてるわけ?」
 まさか、とんでもない。そんな恐れ多い事。
 陳腐な定型句を、良くもまあそんな真面目な顔で言えるものである。教養の足りなさが丸出しだ。
「ああそう。もういいわ」
 投げやりに応えて、ルイズはずんずんと進む。
 それを一定の距離を保って才人が追う。
 まだ彼らが出会ってから半日も過ぎていない。
 それでもルイズは、はっきり言って自分の使い魔となったこの男に苦手意識を抱いていた。
 言葉はいい加減な丁寧語で、公爵家の令嬢にいきなり従者にしてくれ等と言い始めた無礼者。
 その癖、従者としての教養もまるで足りない。
 それだけならルイズは才人を嫌って、馬鹿にして、それだけで済んだだろう。
 だが。
「腕には自信ある、ね。額面通りに受け取っていいのかしら。今のところあんたの唯一の存在意義だけど、これも口先だけじゃないって保障は?」
 振り返って問う。
「命にかけても」
 歴戦の兵士、彼は見かけだけならそう言える。でも、その態度は自身の実力に関する誇りというものにどうにも欠けているようにルイズには思えた。
 それ以上の感情が、彼の態度からあふれ出ていた。それが何かは、ルイズには分からない。
 ただ、彼が真摯にその言葉を言っていることだけは理解できた。
「……っ」
 再び前を向いて歩く。
 彼が返したのはまるで答えになってない言葉だ。いや、そもそもルイズの問いに明確な答えなど用意できない。
 平民を召喚した事への苛立ちが発露の、子供染みた意地悪な質問である。
 なのに何故、これ以上自分は何も言えなくなってしまうのだろうか。
 いつの間にか食堂についていた。
 そのまま入ろうとして、才人がそのままついてこようとしているのに気づく。
「あんたは外」
「え……」
 男の呆気にとられた間抜け面は、中々に愉快だった。
「その格好でアルヴィーズの食堂に入ってこられるわけないでしょ。外で待ってなさい」
 少し調子を取り戻す。勝ち誇るようにそう言って、ルイズは才人の服装を示した。
 そして、わかりました、の返事も待たずにルイズは才人を置いて食堂に入っていく。
 苦手な男のお目付けが無くなり、気の抜けたため息が出る。
 その事が、たかが平民にどうして気をもまねばならないのかと、ルイズを余計に苛立たせた。




 夕食の後、才人とルイズは一度学院長室に寄ってから部屋へと戻った。
 学院長室に寄ったのは、ルイズが才人を従者にした事についての報告や才人の住居、食事の手配等について話し合う為である。
 トリステイン魔法学院の生徒は殆どが上級貴族ではあるが、基本的に従者や個人的な使用人を連れることは許されていない。
 でなかったら面子が大事の貴族である。こぞって自分の家の者を、それも一人ではなく下手したら十数人も連れてこようとするだろう。
 広大な敷地に建てられたトリステイン魔法学院ではあるが、流石にそのキャパシティーは有限なのだ。
 その辺りの事情もあり、学院長であるオスマンはルイズが従者として使い魔を雇ったことを聞くと渋い表情を見せた。
 教育機関であるというシステム上、学院は生徒である貴族の子供たちは親の爵位に関係なく平等に扱っている。
 それが名目だけではなくしっかりと機能するように、学院は各国の王家から一定の権限も与えられているのだ。
 如何にヴァリエール公爵家の令嬢が相手でも、例外には出来ない。する必要も無い。
 だがここで厄介になるのが、才人がルイズの使い魔でもあることだった。
 人間を使い魔とするなんて、その時点で例外である。だがその例外を、メイジ養成学校でもある学院は容認せざるを得ない。
 そして、平民とはいえ人間である才人を使い魔同様に扱うというのも無理な話。
 最低でも雨露を凌げる住処。獣でない人間の食べ物。
 貴族の中には平民が同じ人間であると理解していない者も居る。獣と同じ暮らしでも、生きていくことぐらい出来るだろうと。
 だが学院の教師たちにはきちんとした良識を持った者も少なくない。学院長などその筆頭だ。
 また、その良識を持たぬ貴族たちも、箸にも棒にもかからぬ平民ならともかく仮にも公爵令嬢の従者に、獣と同じ暮らしをせよなどとは言えない。
 結論として才人がルイズの従者になる事を学院は了承。急な話ゆえにすぐには無理だが、食事は平民用の食堂にて明日の朝から、住む場所も明日の夕までには手配も行う。
 そんな所で話は落ち着いた。
 結局、“基本的な”決まりなど傲慢な貴族の勝手に対するクッションでしかない。例外とは、学院が与えられた一定の権限では対処出来ない、もしくはしにくい要望への逃げ道だ。
 勿論ただの逃げ道ではない。例外という言葉は貴族の自尊心を満たし、加えて特別に例外を許すということで恩を売る。
 オールド・オスマンも、伊達に年は食っていないと言うことだろう。
 今回の件を貴族の傲慢に類するのは、流石にルイズがかわいそうではあるが。


 
 
 ランプの明かりが絶えると、ルイズの部屋は僅かな月明かりの他は殆ど暗闇に閉ざされた。
 すぐにルイズの微かな寝息が聞こえ始める。
 それを確認して、才人はそっと部屋を出た。
 鍵を閉め、夜の間もずっと灯っているランプに照らされた廊下を歩いて階段を降り、外に出る。
 そのまま大分歩き、彼がルイズに召喚された草原までたどり着いて、ようやく才人は足を止めた。
 黒々とした草原を強い風が撫でていく。
 春とはいえ、まだまだこの季節のトリステインは冬の名残りを引きずっていて、夜の間は結構寒い。だがかなり厚手のマントを羽織っている才人は気にせずに、腰に下げた短刀を抜いた。
 象牙の柄に鋼の刃。例え傭兵であっても平民が持てる物ではない。
 この短剣が、デルフをアニエスに託した彼が今持っている唯一の武器だ。
 すぐに、左手のルーンが輝きを放ち始める。
「……身体が軽い」
 思わず、呟く。
 一度失ったはずのルーンは、今またしっかりと才人の身体に馴染んでいた。
 踏み込みざまに横凪ぎに振るう。速い。袈裟懸け、突き、信じられない程に速い。
「参ったな」
 思わず、呟いた。
 頭の中に、敵の姿を思い浮かべた。五人の敵が、一斉に彼に向け杖を振るう。
 跳び退る。殆ど五メートルばかりを一瞬で。本来なら躱しきれぬ筈の魔法をらくらくと躱す。躱せる。
「何だよこれ」
 遅い。『閃光』など、このルーンの前では如何ほどのものか。更に地を蹴って跳び追い討ちの魔法を躱す。そして地に足が着いた瞬間、強引に慣性を殺して止まり一気に前へと駆けた。
 風圧が才人の顔を叩く程の猛烈な加速。
 地面が、才人の足との摩擦に耐え切れず生えた草ごと捲り上がって後ろに吹っ飛んでいく。
 突っ込んだ勢いのまま剣を振りぬき、仮想の敵を一人殺した。短剣を持たぬほうの手で杖を持つもう一人の敵の腕に添えて方向をずらし、そのまま喉を掻ききる。
 直後、残りの三人から一斉に魔法を喰らって、才人は敗れた。
「……」
 言葉が出ない。
 圧倒的な敗北感に打ちのめされていた。
「……こんな力に、俺は護られていたのか」
 一度、歯を思いっきり食いしばって。吐き出すように言った。
 リーチの短い、扱いの慣れぬ短剣で。
 デルフの力も借りずに、才人は五人と戦い二人まで殺して見せた。あり得ない程の戦果である。
 彼は日本という平和な国に生まれた。特に運動に関して長じた才能を持っていたわけではない。
 喧嘩をしたことも、皆無とは言わないが決して強い方ではない。
 そんな彼が、たった三年で凄腕の傭兵、メイジ殺しの片割れと呼ばれるようになった。
 実際にはアニエスに教えを受けてから一年もたたぬうちに、才人は現在とあまり変わらぬ程の強さを手に入れた。
 アニエスは才能と言った。デルフは、だからこそルイズに召喚されたんだろうとも。
 ただその才能にも限界があった。
 アニエスと出会うまでの半年と、それから一年で才人は自分でも驚くほどに強くなった。
 だが、そこで成長は止まってしまった。
 どう頑張ってもあのルーンを宿していたときのように、真正面からメイジを倒せる強さは手に入らなかった。
 勿論才能の限界、その言葉に語弊はある。
 才人が自身の才能の限界を悟った後も、彼は強くなり続けたし、それは彼以外の誰もが認めるものでもあった。
 ただルーンを失った直後の、何の力も持たぬ平凡な高校生が信じていた才能も、ある程度強くなれば欲が出る。
 ルーンを宿していたころの強さ。真正面からメイジを妥当しうる力を振るった事のある彼にとっては、そこにどうしても至らぬ自分の才能など最早信じれぬようになっただけで。
 そして今。
 彼は再びガンダールヴのルーンをその手に宿した。思えば思うほどに、すさまじい力だった。
 才人が必死になって身に着けた力が、それが一体何だったのかと笑ってしまうくらいに。
 寂寞と、悔しさ。そしてほんの少しの優越。
 それらがない交ぜになって、才人の心を乱そうとする。
 だが、才人は悩まない。彼にはどんな懊悩をも退ける強き思いがあった。それだけは、どんな感情にも揺るがない。
「俺は、ルイズを守る」
 平賀才人は、そのために彼女に召喚されたのだ。





あとがき

 原作八巻を見るに、どうやらゲートをくぐっても必ず意識を失うとは限らないようで。
 ゲートをくぐる時の才人が感じた電流を流すような衝撃ってのは、たぶんハルケギニアの言語が勝手に翻訳される能力を得る時のだったのかなぁと勝手に妄想を。こう、脳みそにインストールされる感じで。
 そんなわけで本作の才人はゲートをくぐっても意識を失いませんでした。

 予想以上も程がある感想数。ありがとうございます。恐縮する限りです。
 レス返し……は申し訳ありませんが自重させて下さい。前投稿してた時も思ったんですが、どうにもレス返し苦手でして。
 一応、ご指摘や質問に関してはお答えします。
 アニエスルートに関してですが、いつか書けたらなと思っています。
 たぶん才人がゲートをくぐらなかった、というかゲートが彼の前に開かれなかったらって感じのifものになるかと思いますが。
 ただでさえ原作のifものなのに更にifものってどうなのよ、とは思いますが、ご了承願います。
 つかまだこのssが軌道に乗っても居ませんし、かなり先の話になるかと思いますが。
 ガリアやコルベール先生に関しては、これからそれらが出てくる度に才人の視点で書く形になると思います。
 ガンダールブは完全に誤字です。ご指摘ありがとうございます。他にもいくつか誤字があったので一緒に直しておきました。
 あと前に投稿してた型月ssですが……まさかご存知の方がいらっしゃるとは。
 要望板で小生の名で検索したら経緯が出てくるかと思いますが、投稿する時に間違って全削除してしまいまして、その時にこうぽっきりと心が折れたと申しますか……。
 今のところ続きを書く予定は無いです。ただ最新話ぶんまでのバックアップをメールにて送ることは出来ますので、もし欲しいという奇特な方がいらっしゃったらご連絡下さい。


 *1/22 加筆
 *1/29 誤字修正



[4677] 第二話
Name: 歪栗◆970799f4 ID:299e5dac
Date: 2010/11/07 08:50
 流石は高名なトリステイン魔法学院の寮、なのだろうか。東向きの窓から差す気持ちのいい朝日に、才人は目をぱちりと見開いた。
 マントを敷いていたとはいえ板張りの床は固く、仰向けに寝転がっていた才人は背中の痛みに顔を顰めた。
 特に、枕代わりに頭の下に置いておいた右手は殆ど痺れてしまっている。
 前の世界では野宿すら日常茶飯事だった彼も、そういう時はすぐにでも立ち上がって戦えるよう片膝を立てて座り込んだ体勢で短時間仮眠を取る程度。
 だが今、彼が居るのは火を怖がらぬ厄介な野獣や敵の襲撃を警戒する必要の無い安全な場所である。
 そんな所で、ベッドじゃない床の上で一晩を明かした経験は流石に少なかった。
 ただ、決して始めての経験では無い。
 もうあの時と同じように『ニワトリの巣』を作る必要は無いんだけどな、そう苦笑して、身体を起こした時にぎしぎしと言い始めた関節に苦笑を強めて立ち上がった。
 下手に強がらずに素直に毛布を貰っておいたほうが良かったかも知れない。
 そんなことを考えながら、軽くストレッチをして身体をほぐす。
 傍らに置かれた鎖帷子を身に着け、床に敷かれたマントを拾い上げて纏う。その横に転がる茶色い皮の鞘に包まれた短剣は、デルフを置いてきた彼が今唯一持っている武器だ。忘れずに腰に下げた。
 視線をベッドに飛ばせば、そこにはあどけない表情で眠る主人の姿。起こさぬよう気を使って部屋を出る。
 今はまだ早朝と言ってよい時刻。軽く身体を慣らし、食事を済ませ、その後に水を汲んで戻ればルイズを起こすのにちょうど良い時間だった。




 トリステイン魔法学院は全寮制の学校である。通いの生徒は一人だって居ない。
 理由は色々あるのだが、あまり頭の良くない才人はその色々の殆どを理解しては居なかった。
 才人でなくたって、殆どの平民は国家間の政治的意味合いやメイジにとっては大きな意味を持つ難解な儀礼的意味合い、そして貴族らしい下らない慣例などを理解しては居ないだろうが。
 ただ一つだけ才人にも理解できる簡単な理由があった。自宅から通うにはいくらなんでも遠すぎるのだ。
 王都トリスタニアから馬を使って急いでも二時間、徒歩だと丸二日。
 一番近い村でも、馬を飛ばして一時間はかかる。付け加えるなら、この辺りはトリステイン王国の直轄領のため自らの領地を持つ諸侯は存在しない。それは近くにトリステイン魔法学院に我が子を入学させられるだけの血筋を持つ上級貴族が存在しない事を意味している。
 何故こんな僻地に伝統ある名門学院があるのかといえば、それはやはり前述の小難しい理由があって、才人の頭の及ぶところでは無かったりするのだが。
 そして、当たり前だがこの学院に居るのは貴族だけでは無い。
 学院の警備を司る衛兵や貴族たちに料理を振舞うコック、こまごまとした雑務を承る使用人や給仕、メイドなどの平民たち。
 勤めのために毎日馬を使うほどの財政的余裕の無い彼らにとってはトリステイン魔法学院の立地条件は致命的であり、そんな彼らもまた学院内の寮にて生活している。
 ここでもう一つ。トリステイン魔法学院内での貴族と平民の関係について説明しておこう。
 トリステインという国家、いや、このハルケギニアに存在する殆どの国家において、平民と貴族の身分差は絶対的である。
 領地に住む領民たる平民たちと、その土地とそこに住む平民たちを陛下から賜り彼らの生活全てに責任を持って統治する領主。また王都トリスタニアを筆頭に商業が発展した大都市などで暮らす平民と、行政を司る宮廷貴族や下級貴族。
 彼らの関係は上下関係にあり、そこに主客は無い。無論商業に関して言えば主客の関係は生ずるが、それは個人間、もしくは個人と店、家と店などの身分差とはまた独立した関係でしかないのだ。
 だがこのトリステイン学院においては、上記の理屈は建前にしかならない。
 何故ならば、上述のトリステイン魔法学院にて暮らす平民の内訳を読めば理解できる事と思うが、この学院に暮らす平民は生徒や教師等の貴族を世話するために雇われたものたちだからだ。
 彼らにとって貴族とは畏怖すべき存在であると同時にお客でもある。身分差とは独立しているはずの主客関係が身分差と直結している。
 
 さて、長々と説明したが、ではつまり何が言いたいかというと。
 このトリステイン学院では、貴族でありもてなされる側である生徒や教師と、平民でありもてなす側である使用人その他の人々の生活が明確に区別されているということだ。
 無論食堂についても同じことが言える。学院の教育機関の中枢である本塔にあるアルヴィーズの食堂は、彼らにとっては職場であって決して食事を摂る場所では無い。
 トリステイン魔法学院の敷地内でも外れの外れ、学院に勤める平民たちの寮が立ち並ぶそのエリア内に、平民用の食堂は存在していた。


「ま、飲めや新入り」
 随分と年季の入った傷だらけな樫のテーブル上で、才人に向けてずいっと赤紫色の液体の入ったグラスが突き出された。
「そうそう、貴族様に雇われた光栄な者同士、仲良くやろうよ」
 食事の為に席についていた才人は、彼の正面に座ってにかっと笑いながらグラスを突き出している男にため息を吐く。
「あんたがたは今日当番じゃないからいいかも知れないっすけど、俺はこれからその貴族様の世話をしなくちゃいけないです。酒は勘弁してください」
「ちょっと、俺を先輩と一緒にしないでくれないか? 昼からは俺も門に立って見張りなんだけど?」
「じゃあお前は酒飲むの止めとけよ」
「大丈夫だよ。これから一眠りするから。当番の時間になれば酔いも抜けるさ」
 はあ、そーかい。
 あいまいに頷いて、才人はスープに浸したパンを口に放り込む。
「で? 結局俺の杯をお前は受けるのか、受けねえのか? どっちだ」
「受けない。というかヤクザみたいなこと言わないでください」
「ヤクザ?」
「えっと、いやただの妄言です。それより小首を傾げて聞き返すな大の大人が気持ち悪いだけっすよ」
 ったく、連れねぇ奴だぜ。そう言って男は才人に突き出していたワイングラスを自分の口に運んで、そのまま一気に流し込んだ。
「にしてもついてるねヒラガ。しがない傭兵がいきなりラ・ヴァリエールのお嬢様の従者かぁ。大出世だ。お袋さんなんてそれを聞いたら涙を流して喜ぶんじゃない?」
「もう涙枯れてるんじゃないかと思うけどなー」
「はぁ? 何だそれ」
「これも妄言、つかこっちの話、気にすんな」
 まだルイズを起こすまでかなり余裕のある時間なのだが、貴族とは違い平民の朝は早い。
 才人が来た時には、食堂の中は衛兵や使用人たちで溢れかえっていた。
 カウンターにて質素な、だが量だけは多い食事を受け取って、才人は適当に空いてる席に座って食事を始めた。
 その時に、横に座っていた二人組みに絡まれてしまったと言う訳だ。
 既にラ・ヴァリエールのお嬢様が召喚した使い魔の噂は学院中に響き分かっているらしく、彼らにとっては見慣れぬ新顔の才人がまさに当人であると特定されるのに時間は居らなかった。
 才人の目の前に座ってしきりに酒を勧めていた壮年のゴリラのような大男がフーロー。その横に居る細身の青年がブラーシェ。
 両名共に学院の衛兵で、特にフーローは結構な古参であるらしい。平民の仕事というのは貴族ほどではないにしても世襲が多く、彼らも先祖代々トリステイン魔法学院の衛兵を任されていた家の出だそうだ。
 ゲルマニアなんかでは衛兵なんて傭兵の仕事というイメージが強い為才人もそんなイメージを持っていたのだが、そこはさすが伝統を重んじるトリステインだろうか。
「お、ありゃメイドさんご一行だ。おーい! 姉ちゃんたち、俺らと一緒に食事しないかぁ!?」
 伝統を重んじるトリステインだろうと、平民の気質はどこでも同じなようだが。
 出入り口から、どやどやと入ってきたメイド服の女の子たちに向けフーローが大声を上げるのに、少し呆れた眼差しで才人は彼を眺める。
 ブラーシェが苦笑いを浮かべた。
「まぁ先輩のこれはほっといたほうがいい。病気みたいなものだから。どうせ相手にはされないって」
「まーあの子達の反応見れば大体は察するけどさ」
 人目はばからぬ大声を浴びせかけられた少女たちは、それに怒るでもなくこちらを見てくすくす笑っている。
 いつもの事、と言うわけらしい。
「……ん?」
 その時、才人は少女の中に一人見覚えのある顔を見つけた。目立つ特徴。ゲルマニアには滅多に居ない、トリステインでもここまで濃い色は珍しい。
 才人も人の事を言えないのだが。
「どうしたヒラガ? 気になる子でも居たか?」
 自分の誘いを軽くスルーされた事をまるで気にしていないらしいフーローが、にやりと笑って言った。
「いや、あの黒髪の子」
 シエ……シエシエだっけか?
 正直、よく覚えていない。才人は彼女に結構親切に接してもらった記憶があるのだが、それだけだ。
「おーいシエスタ!! お前の可愛さが気になっちゃう野郎がまた一人増えたぞー!」
「あ、シエスタって言ったっけか」
 フーローが叫んでくれたおかげで思い出せた。そうそう、シエスタ。
 ……って、ちょっと待て。
 そう思った瞬間、才人は前にぐいっと引っ張られた。フーローが、立ち上がってテーブルから身を乗り出し、丸太の様な腕を才人の首に絡ませて肩を組んで来たのだ。
「いやぁ、ヒラガも目の付け所がいいな。あの子メイドたちの中じゃ一番人気だぜ。一見地味だけど、よく見ると可愛いんだ。気立てもいいし、そばかすも清楚そうでいいだろー?」
 何かいやに上機嫌だ。
 視線をシエスタの方にやると彼女もまた同僚であろう給仕姿の少女たちにからかわれていた。微かに顔を赤らめて、一瞬才人と視線があう。
 おびえるように顔を背けられたのが、微妙にショックだった。
「ええい、離せ暑苦しいっ」
「おお、すまんな」
 もがくと、ぱっとフーローが離れた。だがにやにや笑いは収まっていない。
「おいブラーシェ、おっさんのこれは何だよ?」
「何しろ娯楽が少ないから、他人の色恋なんて格好のネタさ」
 だから俺に絡んできたのか。メイジの使い魔で貴族の従者な今の俺の状況はそりゃ珍しいだろうなー。
 見世物小屋のパンダの気分を味わって、才人は憮然としてパンの最後のきれっぱしを口に放り込んだ。
 立ち上がる。話し込み過ぎた。そろそろルイズを起こしに行かないとまずい時間になっている。
「お、もう行くのか?」
「ああ、いい加減ミス・ヴァリエールを起こす時間だし」
「ちょっと付き合わせすぎたかな? もういい時間だ。急いだほうがいいよ。食器は俺たちでかたしとくから」
「悪いな」
「いいって」
「そうそう、気にすんな。お前は早く行け。貴族ってのは気難しいからな。機嫌を損ねないよう注意したほうがいいぜ? 昨日に雇われて今日首なんて洒落にもなんねぇ。下手したら文字通り首を切られるかも知れん」
 ご丁寧に手刀で自分の首を切る仕草をしながらのフーローの言葉に、思わず笑ってしまった。
 フーローもにやりとする。
「大出世なのは確かだが、しちめんどくさそうな仕事だな。ちょっと同情するぜ」
「まぁ、十分気をつけるよ」
 まだ少し笑いが収まらずに、頬を緩めたまま才人はそう言って食堂を後にした。
 フーローの言葉に笑った才人だが、それはフーローと笑いを共有したというわけではない。
 ルイズが彼の貴族観どおりだったとしたら、自分は何回首を刎ねられて居たのだろうかと、そう考えて笑ってしまったのだ。
 脳裏に浮かぶのはいつかの記憶。ルイズの機嫌を損ねては、お仕置きと称してご飯を抜かれたり蹴り飛ばされたり部屋を叩き出されたり。
 犬扱いされたり。
「ぶっ……!」
 こらえきれずに噴き出してしまった。
 食堂の出入り口ですれ違った人が、にやにやと笑いながら歩く才人をぎょっとした目で眺めていたが、気にせずに外に出る。
 そしてもう一つ、彼は気づけなかった事があった。
 ルイズと過ごした過去の事を、才人が後悔を伴わずに思い出したことは無い。
 傍から見ればどうしようもなく不気味な姿だが、過去を思い出して笑っている、それは才人が前を向いて歩んでいるという証だ。
 ただそれを自覚することは適わずに、才人は上機嫌に寮塔に向け歩いていた。




 ルイズは低血圧である。
 寝起きが悪い。
「ミス・ヴァリエール、起きて下さい。朝です」
 ベッドに眠るルイズに向け、傍らに立った才人はもう幾度目かの言葉を繰り返した。
「んぅ」
 あお向けに、あどけない寝顔を晒したルイズは桃色の唇から生返事にも届かぬうめき声を上げる。
 乱れた桃色の髪がくすぐったいのか、まぶたがぴくぴくと動いていやいやとでも言うように首を振った。
「……」
 ただそれだけ。
 すぐにそれは規則正しい寝息に変わり、いい加減時間が気になって仕方の無い才人もルイズの微笑ましい姿に頬が緩ませてばかりも居られない。
 ルイズが寝坊して、怒られるのは才人なのである。それも起きなかったルイズに叱られる。
「あーテステス、テステス!」
 声で起こそうとしているのは、毛布を引っぺがしたり体に触れるのは貴族の子女に失礼だろうと思ったからだ。
 雇われの身である以上、以前と同じ接し方はまずい。というよりも、ルイズと一定の距離を置くために才人は彼女に金で雇われたのだし。
 しっかりした石造りの建物のため音漏れはさほど気にする必要は無い。扉は木製のためまったく配慮が必要ないというわけではないが、外は廊下だ。余程の、それこそ戦場で体の箍を外す為の咆哮のような大声でなければ大丈夫だろう。
「テステス!!」
 ぴくり、とルイズの閉じられたまぶたが動いた。不快そうに、眉根が寄せられる。
「……よし、このくらいか」
 満足そうに頷いて、才人はすう、と息を吸い込んだ。
「――ぉ」
 ぱちり、まぶたが開いて、寝ぼけてくすんだ鳶色の瞳が才人を見つめた。
「おー……」
「はえ? ……あんただれ?」
「――お早うございます!! ミス・ヴァリエール!!」
「きゃあ! な、なに、なにごと!?」
「あなたの使い魔兼従者の平賀でっす!! よろしくっ!!」
 最早やけくそだった。
 例え寝ぼけているとわかっていても、ルイズの“あんただれ”は才人にはきついのである。
 そりゃもう、キャラが変わっちゃうくらい。いや、戻っちゃうくらい……かもしれないが。



「服」
「はい」
「下着」
「これですね」
「服」
「はい、腕を上げてください」
「…………」
 じろり、と才人を睨む。強い視線に当てられて、才人は困惑したようだった。
「なんですか?」
「なんでもないわよ!」
 ぷい、と子供のようにそっぽを向く。
「あの、なんかやっちゃいましたか? 俺?」
 自信なさそうな声に、苛立ちが募った。
 昨日の様子では従者のイロハのイも知らなそうな素振りをしておいて、少なくとも今のところ彼の立ち振る舞いに問題は見つけられなかった。
 言ってもいない下着の在り処すら知っていたし、服を着せるのも慣れた手つきだ。ドレスと違い学院の制服は着方が単純なのもあるだろうが。
 指示した覚えの無い水汲みも済ませていた。はっきり言って今のところは完璧だ。
 寝起き直後になんかあった気もするが、ルイズはそれについては寝ぼけていたためにあまり覚えていない。
 ともかくも、ルイズは彼の事を窓の桟に指をなぞらせる姑のごとくいびり倒そうと思っていたのに、肩を透かされた気分だった。
「完璧よ。……今のところはね」
「え?」
 だからこそしぶしぶながら褒めて上げたというのに、何でこの男はわたしをびっくりしたような目つきで見ているのかしら?
「――っ」
「あの……?」
 一瞬蹴り飛ばそうかとも思ったが、そもそも褒めること自体が不本意だったのだ。この可憐なルイズ様のお褒めの言葉を聞き逃したのなら、それだけで才人は不幸とも言えるかも知れない。
 ルイズはそう考えた。
「なんでもないって言ってるでしょう!」
 故にそう怒鳴って、話は終わりとばかりに部屋を出る。不思議そうに首をかしげた才人もそれに続いた。
 実際才人はルイズに褒められた経験なんて無いのだから、内心ではかなり喜んでいた。ただ、それ以上の驚きがあっただけで。
 故に、あながち彼女の空回りというわけではなかったかも知れない。


 
 部屋を出て、すぐにルイズは顔をしかめた。三つ並んだ扉のうちの一つが、タイミングよく開かれている所だったからだ。
 中から、背の高い赤毛の少女が出て来る。彼女は、ルイズを見るとにやりと笑った。
 少なくとも、朝から顔を合わせたい相手ではない。
「おはよう。ルイズ」
「おはよう。キュルケ」
 それでも向こうから挨拶してきたのに無視は出来ない。
 露骨に嫌そうな顔をしながらのルイズの挨拶に、赤毛の少女、キュルケの表情は変わらなかった。相変わらず、人を小馬鹿にするようににやにやしている。
 その意味がわかるだけに、ルイズの苛立ちはさらに増していくのだが。
「あなたの使い魔って、それ?」
「そうよ」
 憮然として肯定する。
 時間の関係上春の使い魔召喚は二度に分けられていて、運よくキュルケとルイズは別々の組に分けられていたが、噂はもう広まっていたのだろう。
 本来なら、公爵家令嬢のルイズがすばらしい使い魔を召喚したのだという噂とともにキュルケを見返すつもりだったのに、今学院を駆け巡っているのはどんな噂になってしまっているのだろうか。
「へぇ……」
「?」
 だが、キュルケの反応はルイズの予想を外れていた。
 何か感心したように彼女の後方、才人を眺めている。
「あなた、お名前は?」
 す、と目を細めて、ルイズは振り返って才人を視線に入れた。とりあえず当座の疑問は棚に上げておく。
 従者の無礼は主人の責任だ。例えキュルケが相手であっても、それは変わらない。
 才人の礼は、如何にも知識だけは持ってますといった風な慣れぬぎこちない動きだったが、まぁ及第と言えた。
「平賀と言います。ええと、ミス……」
「キュルケ・フォン・ツェルプストーよ、ヒラガ」
「始めまして、ミス・ツェルプストー」
 互いに名乗りあったが、キュルケは才人をじろじろと眺めたままだった。
 才人は困惑しているが、ルイズにはキュルケが何をしているのかよくわかる。
「格好はみすぼらしいけど、結構いい男じゃない」
 この女、人の従者に色目使ってる!
「行くわよ」
 ぐ、と手を引っ張る。見上げる程に背の高い才人は本来なら小柄なルイズが引っ張ったところで小揺るぎもしないだろうが、まるでルイズの行動を予測していたと言わんばかりに才人はルイズにあわせて歩き始めていた。
「あら、もう行くの? あたしの使い魔を紹介しようと思っていたのに」
「あんたの使い魔見たところでわたしに何の意味があるっていうのよ」
 肩を竦めたキュルケには目もくれず、ルイズはずんずんと歩いてその場を離れた。
「ミス・ヴァリエール。その、言いにくいんですけど」
「何よ」
「光栄ではあるんですが、その、これを人に見られるのはあなたにとってまずい気が」
 すっ、と才人の左手が持ち上がる。それにつられて、彼の左手を掴んでいたルイズの右手も持ち上がった。
 あわてて、手を離す。
 才人を見ると、なんと微かに顔を赤らめていた。明らかに照れている。コントラクト・サーヴァントの時は顔色一つ変えなかったというのに、どういうことだろうか。
「あんた、変な勘違い起こしているんじゃないでしょうね?」
 汚らわしいものに触った、そう言い聞かせるよう才人の手を掴んでいた右手を軽く振る。
「いいえ。今言ったとおり光栄には思ってますけど」
 まぁそれでも、才人の反応はルイズの自尊心を多少は擽るものだった。
 会うたびに身体的コンプレックスを猛烈に刺激されるキュルケと会った直後なら、尚更に。
「ならいいけど」
 故に、それ以上の追求はやめておいてあげた。



 朝食は、やっぱり才人は食堂に入ることを許されずに外で待つことになった。
 特に不満は無い。既に彼はルイズを起こす前に朝食を摂っているのだし。
 いや、一つ。あえて言うならばくらいの事ではあるが、貴族の食事が馬鹿みたいに長いことだけは、前日の例から分かってはいたものの多少才人にとって不満ではあった。



 朝食を終えれば、学生の本分である学業が待っている。
「どうぞ」
 教室の前に来て、ルイズが何か言うよりも先に才人はドアを開いた。
 ぎりぎりセーフ。
 ルイズはそれに片眉を僅かに上げ、教室に入った。
 以前と同じように、教室に居た生徒たちは一斉にこちらを向いて、くすくすと笑い始める。
「使い魔のおかげで主人のわたしまで笑われているんだけど、どうするべきかしらね?」
「え? えっと……」
 と、唐突にルイズが小声で話しかけてきた。以前との違いに一瞬思考が止まる。
「た、他人の使い魔を見て笑うというのはどうなんでしょうか、と思います」
「質問の答えになってないようだけど?」
「例えば」
 そこで、生徒たちの中にキュルケを見つけた。彼女もルイズを見て笑っている。
 今朝の様子から、キュルケはどうやら多少は才人の事を買ってくれてるような感じだったが、それでも笑っているというのが彼女らしい。
 キュルケは、別にルイズが平民を召喚した事を笑っているつもりではないのだろう。
 皆に笑われて、憮然としているルイズを見て笑っているのだ。
「あそこに座っているあなたのご学友、ミス・ツェルプストーだっけ。あー、彼女とあなたの立場が逆だったとしたら、あなたは彼女を笑いますか?」
「笑うわよ、勿論」
「……」
 即答。人選を間違えた。隅の方に居るタバサ辺りが適当だったのだろう。少なくとも彼女は自分たちを見て笑っていないし。才人は力なく肩を落とす。
「切り口は悪くなかったわ。だからお仕置きは勘弁してあげる。でも次からはもう少し上手にやりなさい」
 そう言って、ルイズはさっさと空いている席に向かって歩き始めてしまう。
 軽くため息を吐いて、彼もルイズを追った。
 果たして、才人が一度くらいルイズにお仕置きされてみたいと思ったかどうかは、彼の名誉のために伏せておこう。




 以前とは違い、才人は床に座らずルイズの傍らに立つことに決めていた。
 私語なんてもっての外である。
 確か、自分と話していたせいでルイズは皆の前で錬金をすることになったのだ。
 シエスタの名前もはっきりと覚えていなかった割に、才人はルイズに関しては細かいことまで良く覚えている男だった。
 だが。
「そうですね、ではミス・ヴァリエール、あなたにやってもらいましょうか」
「わたしですか?」
「そうです。あなたが大変な努力家なのは聞いていますよ。失敗を恐れては何も出来ません。やってごらんなさい」
 わかりました。そう言ってルイズは立ち上がり、教室の前に歩いていく。
 キュルケを始め生徒たちが顔面を蒼白にして制止の言葉を投げかけるが、聞く耳を持っていない。
「……困ったな」
 ぼそりと呟く。
 シュヴルーズの親切心が、以前と同じ結果を招いてしまった。
 彼女はゼロなどと揶揄されているルイズを可愛そうに思って名誉挽回の機会を与えたつもりらしいが、才人はそれが成らない事を知っている。
 しかし、どうしようもない。せめてもと、才人もルイズの後に続いた。
「どうしてついてくるわけ?」
「何かまずいですかね?」
「……いいえ。好きになさい」
 教壇にのぼり、ルイズの横、シュヴルーズの反対側に立った。
「えっと、ミス・ヴァリエールの使い魔君」
「はい、従者兼使い魔です」
「従者……はいいのだけど、その、どうしてそこに立つのかしら」
「ミス・ヴァリエールが魔法を使ってるところを、見たことが無くて。ご主人様のかっこいいところを近くで見たいなぁと。駄目っすかね?」
 その声に、魔法を使うために集中している筈のルイズの肩がびくりと震えた。
 だが、シュヴルーズの方を向いている才人はそれに気づかない。
「あらあら、主人思いの使い魔ですね」
 生徒たちはルイズの魔法にビビッている為か才人を気にしては居ないようだった。
 唯一、シュヴルーズだけは才人がついてきた事に疑問を呈したが、彼のその言葉にころころと笑って彼がそこに立つのを認めてくれた。
「ではミス・ヴァリエール。錬金したい金属を、強く心に思い浮かべるのです」
 しかし、このおばさんも暢気だなぁと才人は思う。
 教壇の上からだと良く見える。生徒たちは顔面を蒼白にして、前の方の席の者などは机の下に隠れてしまっていた。
 教室に漂う、そんないっそ異常ともいえる雰囲気に欠片も気づいていない様子で、ニコニコとアドバイスなんぞしている。
 というか、ルイズが努力家なのは知っているのに、彼女がゼロと揶揄されている所以を知らないのか。知らないんだろうなぁ。知ってたら、ルイズの横で暢気に笑っては居られまい。きっと彼女の耳には、悪い噂は通さない特殊なフィルターがかかっているのだろう。
 そして彼女は、そのおかげでこれからその身に降りかかる悲劇に欠片も気づく事が出来ないのだ。
 南無、と才人は心の中でシュヴルーズに手を合わせた。
 一度に救える対象は一人。ひどい話に聞こえるかもしれないが、彼女とルイズとでは、才人の中での優先度はまるで違うのである。
 ルイズが目を瞑り、丁寧に『錬金』のルーンを唱えた。メイジ対策の一環として才人は多くの魔法のルーンを覚えている。以前は気づかなかったが、随分ゆっくりと唱えるんだな、と思う。
 そして、杖を振った、その瞬間に。
「きゃっ!?」
 肩を掴んで後ろに突き飛ばす、教壇とルイズの間に体を入れる、爆発の衝撃に備えて両足を気持ち広げて踏ん張り、黒板に両手をつく。
 それらを、一瞬でやってのけた。
 自分でやっておきながら、ここまで完璧に出来るとはと才人自身も結構驚いてはいたが。
 もう一度やれと言われても出来はしまい。
 才人は、実はかなり運が良い。最も、そうでなければガンダールヴのルーンを失って、三年もの間このハルケギニアで生き残る事は出来なかったろう。
 デルフの存在と、力強い仲間たち。更に周到に張り巡らされた計画があって、それでもいつだってメイジ殺しは綱渡りだった。
 己の死を覚悟した経験は、両の手では到底足りない程にある。
 だから、本当に奇跡ってやつは意地悪だ、才人はいつもそう思うのだ。
 一番それが欲しい時に起こってくれなかったくせに、と。
 爆風は、才人にとっては想定していたほどでもなかった。
 あれだけの至近で吹っ飛ばされて黒板に叩きつけられたルイズが直後に何事も無かったように立ち上がったのだから、実際大した爆発ではなかったのだろう。
 真正面から爆風を受けたマントは、もう使えそうに無いが。ズボンの尻が破れていないか、才人は少し心配になった。
「な、なに、何が起きたの?」
「ミス・ヴァリエール」
 突き飛ばされた際に頭でも打ったらしい、目を瞑ったまま後頭部を両手で押さえていたルイズは、才人の声に目をぱちりと開いた。
 尻餅をついた体勢のまま、呆けたように才人を見上げる。
「ヒラガ?」
「――――」
 初めて、才人はルイズに名前を呼ばれた。
 衝撃は、彼が覚悟していたよりも大きかった。
「ちょ、ちょっと、どうしたのよ」
「いえ、なんでもないです。それより……」
 首を振って、表情を取り繕う。いつか、アンリエッタをかばって背中に矢を受けたときよりも至難ではあったが。
「立てますか?」
 そう言って、彼はルイズに手を伸ばした。
 顔の前に差し伸べられた手を見て、ようやくルイズは自分が尻餅をついていることに気づいたらしい。
「…………」
 自分が、いつものように魔法を失敗したことも。
 無言で、ルイズは才人の手を取らず一人で立ち上がった。憮然とした顔で自分の作り出した光景を眺めている。
 軽く服についた煤をはらい、才人もルイズに習って教室を見渡した。
 改めて、凄い光景だった。教卓は完全に消滅し、教壇や前の方の席は完全に煤だらけ。机の下に避難していた生徒たちの判断は実に賢明だった。その賢明な判断をしようが無かったシュヴルーズは、机と同じく煤だらけでルイズの足元に転がっているが。
 それに、ルイズの起こした爆発に驚いた生徒やその使い魔たちの、未だ冷めやらぬパニックの方も凄い。
 特に何かラッキーラッキー騒いでいる男子生徒。果たして、ヒュドロスだかサーペントだか知らないが、あの大蛇は彼の使い魔を吐き出してくれるのだろうか。
「ちょっと失敗みたいね」
「そうですね」
 睨み付けられる。流石に考えなしの追従はまずかったらしい。
「ちょっとじゃないだろ! ゼロのルイズ!」
「いつだって成功の確率、ほとんどゼロじゃないかよ!」
 才人は、基本的にルイズがゼロと呼ばれ蔑まれるのは気に入らない。彼女が好きで魔法を使えないことを考えれば、生徒たちの反応のほうが才人には理解できないくらいだ。
 それでも、己の使い魔を食べられてしまった彼の罵声は才人の心に結構響いた。




「机、はここに置いとけばいいんですかね」
 あの後、以前と同じく爆発とそれに続く教室内の喧騒を聞きつけて飛び込んできた教師にしかられたルイズは、魔法を使わずに教室を掃除するよう命じられた。
 以前と違うのは、才人の手伝いまで禁じられそうになった事だろうか。従者に手伝わせては罰にならないという事らしい。
 何故かルイズが何も言わなかったので、才人は自分は従者であるがそれ以前に使い魔であるとか使い魔はメイジと一心同体であるとか、拙い知識で適当な事を言って何とかルイズを手伝うことを了承してもらった。
 この点に関しては、叱りにきたメイジが典型的な平民を見下すタイプだったのが幸いだったのだろう。
「さてと、後は教室内をきれいにするだけですか。机の上は、ミス・ヴァリエールにお任せしますんで」
 予備の机も、窓ガラスも、置いてある場所は分かってたので速やかに取りに行って戻ってくることが出来た。
 しかし、あれを女の子が一人で運ぶのは無茶だよな~と思う。以前は何往復もしてやっとこさ運んだのを、今回は膂力に任せて窓ガラスと教卓の一回ずつですんだ。
 だがそれでもかなりの重労働だったのだ。
「何も言わないの?」
 バケツに汲んできた水に雑巾を浸したところで、ルイズが唐突にそう才人の背に声をかけてきた。
「……」
 背を向けたまま、才人はその問いの意味を吟味する。
 今の才人とルイズの関係は、以前の彼らとはまるで違う。
 メイジと使い魔。主人と従者。以前は曖昧だった彼らの関係に明確な線を引いたのは才人の方だ。
 そしてルイズの問いは、つまり魔法を失敗した自分を才人はどう思っているのかという事で、それは才人が引いた線を明らかに踏み超えたものだった。
 ルイズは知らない。以前の彼らの関係など。才人が、自分との間に線を引いている事など。
「……」
 以前のようにからかうのは論外。それはいい。問題は、ではどう答えるかだ。
 ここで何も無いとか、尊敬していますなどと答えるのは簡単だった。そして、それが一番良い答えの筈だ。才人はルイズとの関係に一線を引くことが、彼女を護る為に必要だと信じている。
 だが、才人は知っている。ルイズが、魔法を使えない自分に悩んで居るという事を。
 ここは、認めるべきなのだろうか。自分一人でも、ルイズを認めてあげるべきなのか。
 ルイズの悩みを、教えられていない筈の才人は知っている。その利点を生かせば、彼女を励ますことも出来るかもしれない。
 しかしそれは、今の才人が行うというのは余りに傲慢で、何より卑怯ではないか?
 心の中で才人は鋭く舌打ちをした。何故ルイズが今、才人にこのような質問をしたのかは分からなかったが、以前との差異は全て才人の影響によってのみ引き起こされる。
 今この場で迷わされるのも、ルイズの問いを予測していなかったからだ。結局自業自得である。
「ちょっと、答えなさいよ!」
 考えすぎた。彼女の問いに答えるために、振り返ってルイズの方を向く。
 鳶色の瞳が不安そうに揺れて、才人を見上げている。心を凍らせて、告げた。
「すいません、どう答えたらミス・ヴァリエールの機嫌が直るのか、ずっと考えてまして」
「は?」
 余りにも予想の埒外にあった質問だったのか、ルイズは目を白黒させた。
 無難な答えであれば、ルイズは確実にそれを悪い方に受けとって落ち込んだだろう。あまつさえ、才人は答えるまでに十数秒もかかっていたのだ。
 彼はそこまで彼女を理解していたわけではない。だが、彼の答えは一応ルイズの身を苛んでいた自己嫌悪を吹き飛ばすことには成功したようだった。
「そ、そうなの? ふ、ふぅん? ……えぇと、なら聞いてあげようじゃない。どんな答えが出たのかしら?」
「ごめんなさい。出ませんでした」
「はぁ?」
「いや、俺はその、見ての通りあんまり学は無くてですね? その、流石に貴族のご令嬢の憂いを除くような気の利いた台詞なんかぱっと出てこないというか、そもそも思いついたとして俺みたいな平民がミス・ヴァリエールにそんなことを言うのもどうなのかと」
「……」
 喋っているうちに、ルイズの視線はどんどんとその温度を下げ続けていた。
「つまり、えー、つまり……」
「あー、もういいわ」
 あきれ声で、遮られる。才人もほっとした。このまま続けさせられても、それはそれで色々と苦しい事になっただろう。
「とっとと床を拭きなさい。わたしは机の上を拭くから。早くしないと昼食に間に合わなくなっちゃうじゃない」
 才人に指示をする、その姿に先ほどまでの不安定さは無い。
「分かりました。急ぎましょうか」
 これで良かったのだと、才人は思った。
 彼は結局、ルイズの悩みを先送りにしただけに過ぎないだろう。何も変わっては居ない。だが、今の才人に、他に何が出来るというのか。
 きりきりと、胸の奥が痛んで才人は顔を歪めた。予測しておくだったのだろう。自分だけが、卑怯にも相手の事を知っている。それがどういう事なのかを。
 デルフが、結局最後まで才人の行く道を正しいと言ってくれなかったのは、つまりはこういう事。
 自分を許すためだけの傲慢な旅。その為にルイズさえ利用してしまう。
 前へと進む、たったそれだけがどれ程につらいものなのか、今更になってそれを理解するというのも愚かな話だった。
 だが立ち止まるという選択肢は無い。
 いや、違うだろう。才人は、己の意思で、立ち止まらないという選択肢を選び続ける。
 それだけが、彼を見送ってくれた者たち、そして死なせてしまった彼女に向けて、彼がが胸を張る唯一の方法なのだから。



 才人が以前とは違い効率良く動いたためか、教室の掃除は以前より早く済んだ。ルイズの服が汚れなかったため、着替えに時間を取られなかったのも大きいだろう。
 といっても、昼休み前の最後の授業は、もう半ばまで過ぎてしまっている。
「ミセス・シュヴルーズのところにお見舞いとお詫びに行くってのはどうでしょう」
「へぇ、割と気が回るじゃない。確かにそうするべきね」
 今更授業に参加しても意味は無い。ではどうするべきか。
 劣等生というレッテルを不本意ながらも貼られているルイズだが、彼女に授業をサボるという経験は皆無である。
 むしろ彼女は学院でも一番と言って良いほどの模範生だ。だからこそシュヴルーズの耳にも、ルイズが大変な努力家であるという話が届いていたのだ。
 その努力は、今のところ哀れなほどに報われていないが。また、先ほどのように授業を滅茶苦茶にした経験も少ないながらあるけれど。
 ともかくとして、模範生であるルイズはぱっと沸いた空き時間をどう使うのか迷ってしまった。
 従者である才人に、意見を求めてしまうくらいには。
 先ほどの件で、いくらか才人へのルイズの信用が増したというのもあるかもしれない。
 そして、彼の提案は一応ルイズの信用に応えるものだった。
「食堂で果物でも貰っていきますか」
「ええ」
 方針は決まった。
 シュヴルーズが居るのは、保健室か、職員室だろうか。それとも彼女の研究室かもしれない。
 授業中だったらアウトだが、まさかまだそこまでは回復しては居ないだろう。
 座っていた椅子から立ち上がり、だがそのまま動かずに、ルイズはじいっと才人を眺めた。
「なんでしょうか?」
「……えっと、ね」
 よっぽど、ルイズは彼に聞こうかと思った。あんたは、魔法の使えないご主人様をどう思っているのかしら、と。
 先ほど同じ事を聞いたとき、ルイズは完全にごまかされた形になった。あの時はルイズもいっぱいいっぱいでごまかされたことにも気づけなかったが、落ち着いた今になってそれに気づけた。
「その……」
 従者としても使い魔としても不足という事で、ルイズは昨日から散々彼をこき下ろしている。
 ラ・ヴァリエールの従者は、使い魔は優秀でなければならないと。
 ならば、果たして自分は主人として、そしてラ・ヴァリエールのメイジとして優秀なのか。
 優秀とはとてもいえまい。自分は『ゼロ』のルイズなのだ。
 だから、内心では彼もルイズの事を馬鹿にしているのかもしれない。人に散々文句を言っておいて、お前はどうなんだよと思っているかも知れない。
 いや、ごまかされたという事が、既に答えを言ってしまっているではないか。
 ただ、才人はルイズに雇われた身であるから、それを口に出来ないだけで。
「なんでもないわ」
 そう首を振って、ルイズは教室を出ようと歩き始めた。
 自分の言いつけをよく守っているのだろう、才人が先に立って扉を開く。
 ルイズは、情けない自分に泣きたい思いで彼が開けた扉をくぐった。



 さて、昼食の時間である。才人はかなり汚らしい格好であるからして、アルヴィーズの食堂に入る事は許されない。
 何故か今回に限ってルイズは才人に食堂に入って良いなどと言い始めて彼を驚かせたが、彼はそれを丁重に断っていた。
 ルイズの爆発によりマントを失った才人の姿は戦装束の面を前面に押し出した凄絶なもので、ところどころの煤けがさらにその印象を後押ししている。
 つまり、今朝よりも更にアルヴィーズの食堂にそぐわないものとなってしまっているのだ。
 故に外で待っている。
 まぁそれは才人にとってさしたる問題では無い。昼食なんてきちんと食べれた日の方が少なかった上、今回は自分で言い出したことでもある。
 ルイズが、虚無の曜日にでも街へ出て、公爵家令嬢の従者に相応しい服を仕立ててあげるなどとも言っていたし。
 では何が不満なのかといえば、それは今朝述べたとおり。
「……暇だ」
 腕を組んで、壁に寄りかかる。無作法な仕草だが、咎める者は今食事中だ。
 昨晩や今朝の事を考えれば、待たされる時間はまだ大分ある。
 以前もこんな感じではあった。出禁にこそされなかったが、彼に与えられたあまりにも少ない食事は食べ終わるのに五分とかからず、後は羨ましそうに周りの生徒たちが豪勢な食事を摂るのを眺めるだけ。
 とはいえ最初の一回を除けば後は殆どシエスタに食事を恵んでもらいに行っていたのだから、ここまで時間を持て余す事は無かったが。
「ん?」
 そこまで考えて、ふと何かを忘れている気がして才人は声を上げた。
「ま、いっか」
 忘れているということは、ルイズ関係ではありえない。そして、ルイズ関係でないなら、才人にとってはどうでもいい事だった。
 人の生き死にが関わってくるならまた話が別だが、少なくともアルビオンに行く前にそんな誰かの命の危険なんて、フーケ関連しかありえない。
 そして、フーケが学院に盗みに来るのは来週のはずだった。
 そんなことより、考えるべきは今の暇な時間のつぶし方である。
 まぁ、考えているだけでどんどんその暇な時間は減っていくのだが。
 どうせなら裏手に回って鍛錬の時間に廻そうかな、そう考え始めた時、彼の前を一人の少女が通り過ぎた。
(あー、シエスタか)
 思い出した。そういえば、以前彼女に初めてあったのは、この時だったなぁと。
 シエスタもまた、才人に気づいたらしい。
 彼を視線に入れた彼女はびくっとしてその場に立ち竦んだ。カーン、と高い音を立てて、銀製だろうトレイが彼女の足元に落ちる。
 空いた両手が、口元に伸びた。大きく開かれた口から迸るのは、……悲鳴しか考えられまい。
「いや、ちょっと待った」
 いくらなんでも、ショックな反応だ。無理ないのかも知れないが。
 だが、ここで悲鳴を上げられるというのは困る。
「き……む、むー!」
 左足で寄りかかった壁を蹴り、才人はシエスタに近づいてずいっと右手を伸ばした。
 のんびりした動きに見えて、彼の行動は実に迅速だった。
 ぐ、と才人の大きな手のひらがシエスタの口をふさいだ。握りつぶすようにではなく、逆手で以って封じたのは一応女性である彼女に気を使った結果だ。
 倒れこまないように左手は頭の後ろに沿え、軽くシエスタの顔をのけぞらせる。シエスタは何とか才人の腕を外そうともがくが、少女の細腕の抵抗など問題にもならない。口を封じた右手の甲に鼻が当たるほど顔を近づけ、睨み上げるようにして押し殺した低い声で、告げた。
「騒ぐな。こんな細い首、俺はいつでも……って違う違う」
「むー! む゛ーー!!」
 職業病とも、いえるのだろうか。ついつい尋問する体勢になっていたのに、あわてて顔を遠ざける。
 遠目には、尋問というよりこれからレイプしますとでも言うような格好だった。人目が無いのは、才人にとっては幸いなことだったろう。
 顔を遠ざけたが、口をふさぐ手はまだ離さない。
 哀れシエスタはすっかり怯えきっているようだった。目をめいっぱいに見開いて、涙を浮かべてすらいる。
 パニックを起こした女性は、無能な味方と同じくらい厄介な存在で……。
「だから違うって」
 首を振って、場違いな考えを頭から追い出す。
 なるべく意識して、優しい声を出した。シエスタからすれば、不気味なことこの上ない声ではあったが。
「俺は君に危害を加えるつもりはない。口を押さえているのは君がいきなり悲鳴を上げようとしたからだ。俺の言ってることが分かったら大きく一回瞬き」
 ぱちり。
「よろしい。なら次。俺は怪しい存在じゃない。分かったら大きく一回瞬き」
「むー」
「うーん。いや、気持ちはよくわかるんだけど。俺今こんな格好だし。じゃあ……どうしようか?」
「むー! むー!」
「何言ってるか全っ然分からん」
「む゛ーーーー!!」
「良し分かった。こうしよう。俺は今から手を離すけど、それでいきなり悲鳴を上げようとするのは無しな。俺が誰なのかはこの後ちゃんと説明するから」
 最初からこうするべきだった。後悔先に立たず。
 シエスタは怯え、それ以上に才人をすっかり警戒しきってしまっている。
 これから、最低でも自分が怪しい者じゃないと分かってもらうことは可能か。
「むー!」
「あ、ごめんごめん。それじゃ、今言ったことが分かったら一回瞬き。それで俺は手を離すから」
 ぱちり。先ほど以上に、強くシエスタは瞬きをした。
「はい離した」
 可能だ。才人は、彼の故郷が誇る最強とも言って良い技術を保有している。
 手をシエスタの口から離すと同時、バックステップで一気に才人は彼女から一メイルも跳び退った。
「ぷはっ、あ、あなたいったい――」
 そのまま、腰を落として両膝をつく。地面に手を置き、頭突きするように額を土に押し当てた。
「――何なんですか! って、え?」
 そして、シエスタが叫び終わる前に、それは完成していた。
「あ、あの」
「すいません! 申し訳ない!」
 これこそジャパニーズ・土下座。外国だろうがハルケギニアであろうが、貴族だろうが平民であろうが、きっとエルフにだって有効な謝罪方法。
 はぐれドラゴンには通じなかったが。
 あの時はアニエスに散々に、後々までずぅっと笑われ続けたなぁと、才人はちょっと切なくなった。
 無いと思っていたが、意外に面白い思い出話はあるものだった。いや、才人にとっては苦々しい記憶なのだが。
「悪かった、本当に! ごめん!」
「い、いいですから! 分かりましたから顔を上げてください! こ、こんなところ誰かに見られたら、私……」
 そして、勿論ドラゴンではない人間の平民であるシエスタに、土下座はこの上なく有効だったようだ。
 傍目には、……傍目には、どう、見えているのだろうか?
 野蛮な戦装束に身を包んだ大の大人が、メイド服の可憐な少女の前に跪いて、あまつさえ地に頭を擦り付けて外聞なんて気にしないぜ! 的な態度で謝っている。
 あらぬ誤解を受けそうな様子なのは確かだ。それも、とんでもない妄想付きのとんでもない誤解を。
 人目が無いのは、シエスタにとっては至極幸いだったのだろう。




「ヒラガさんって、あの、ミス・ヴァリエールに召喚された使い魔の方だったんですか」
「まぁ、そんなとこ」
 頷きながら、どうぞ、と差し出されたシチューを受け取る。
 ここは、アルヴィーズの食堂裏の厨房である。以前と同じく、才人はシエスタに昼食をご馳走になっていた。
 まさか、今回も食事を分けてくれるとは才人も思ってなかった。ましてやあんな出会いの後である。どんだけ人が良いのだろう、この少女は。
 シエスタとしては、他に選択肢が無かったのだが。
 人目憚らず奇妙な態度(ドゲザと、才人はシエスタに説明した)で謝り続ける才人を取りあえず厨房裏に引っ張り込んで、それを同僚のメイドに見られ、言い訳に食事を分けてあげる為だと答えてしまった。
 そのとき、丁度才人のお腹がぐうと鳴ったのも大きい。
 同僚がなるほど、とすぐに納得してくれたのはシエスタも意外だったが、今お互いに彼に自己紹介をしたところで理解した。
 何せ、ミス・ヴァリエールが平民を召喚したという噂は、既に昨日の段階で学院中に広まっていたのだ。
 彼女は、才人を知っていたのだろう。随分とおっかない外見だというのも噂にはあったし、それとも遠目にでも見たのだろうか。
「いや、シエスタとも顔は合わせてるよ」
「あれ? そうなんですか?」
「ほら、今朝、平民用の食堂でさ」
 言われて、はっと気づく。
「あ、あの時の」
「怯えて、顔を背けられたけどね」
「す、すいません」
「いや、別に気にしてないから、そんな謝られても困るって」
 そう言って、才人はご馳走様、と手を合わせた。
 え、とシエスタがさっきシチューをよそったばかりの器を見ると、もう空になっている。
「食べるの、お早いんですね」
「まぁ、元々食うにも困る傭兵だったから。意地汚いのは見逃してくれ」
「すいません、そういう意味で言ったんじゃないですけど」
「俺だってそんなつもりじゃないから、謝られても……」
 互い、困った顔で向かい合う。
「……っぷ」
「くっくっく」
 そして、同時に笑い出した。
「駄目だこれ、くく、も、もうちょっと砕けて話さないか?」
「そ、そうですね、ふふ」
 笑いながら、才人は立ち上がった。改めて彼の背の高さにシエスタは驚いたが、先ほどのように怯えはしない。
 今の会話云々の前に、先ほどのジャパニーズ・土下座の時点でそんなもの吹っ飛んでしまっていた。
「これ、どうしようか。自分の使った皿ぐらい洗って返したいけど、この格好で奥に行くのは無茶だよなぁ」
「そういえば、その格好はどうなさったんですか? 今朝はマントを羽織っていましたよね」
 あ、私が洗いますから大丈夫ですよ、と器は受け取っておく。
 シエスタの問いに、才人は苦笑してくちをもごもごとさせた。
「その、ルイズが」
「ああ、ミス・ヴァリエールの魔法に巻き込まれたんですか」
 『ゼロ』のルイズの噂は平民たちの間にもそれなりに広まっている。恐れ多くて、凄く場所を選ばなければ口の端に上らすことも難しい噂だが。
「そういうこと。こんな格好じゃアルヴィーズの食堂に入れないからさ。あんなとこに突っ立ってったって訳。まぁ……」
 元々マントがあっても食堂に入れないのは変わらなかったけどね。
 そう締めくくって、それで言うべきことは終わったらしい。
「ご馳走様。食事の礼は、今度必ず」
 そう言って、才人は出口に向けて歩き始めた。
「あ、待ってください」
 才人は不思議そうな顔で振り返った。ご丁寧に首をかしげているのが見た目と反して少し滑稽で、悪いと思いつつも笑ってしまう。
「食堂に入れなくて困っているんですよね?」
「うーん、まぁ、そんなとこだけど」
「お洋服、お貸ししましょうか?」
 微笑んでの提案に、どういうことかと、才人は更に首を捻った。




「どうですか?」
「す、少しきついかな。肩とか背中とか、下手したら裂けちゃいそうだ」
「細身に見えてたが、にいちゃん実はかなりガタイよかったんだなぁ。軍人さんかい?」
「そんなきちんとしたもんじゃないっす。ただの傭兵ですよ。それも元、ですけど」
 シエスタに連れられ厨房の奥に入った際、働いていたコックもメイドたちも才人の姿を見て最初ぎょっとなっていた。
 それは、才人の姿を見たシエスタが最初悲鳴を上げようとしたのと同じ理屈だ。
 慌てたシエスタが才人の事を説明して、ようやく、ああ、あの噂の、と警戒を解いてもらったが、それを考えると朝食の時の見世物小屋のパンダ状態も悪いことばかりでは無いらしい。
 シエスタだって、まぁ土下座の効果も否定しないが、まず第一にその噂を聞いていたからこそ才人への警戒を解いてくれたのだろう。
 でなければ、衛兵に痴漢として突き出されていてもおかしくは無かったのだから。
 そして今、案内された厨房の奥で才人は貸してもらった給仕の制服に着替えていた。
 今の才人の身長は、180サントを半ば超えるか、超えないかといった程。彼にとっては非常に不快な例え方になるのかも知れないが、だいたいワルドと同じくらいになる。
 ハルケギニアにおいてもかなりの高身長だ。また、引き締まった細身の体つきといっても、ボクサーほどに絞っているわけでもない。
 彼が貸してもらった制服はアルヴィーズの食堂に勤める男の給仕たちの中でも一番背の高い者の物だったのだが、それでもぎりぎりだった。
「大丈夫そう……ですね」
「何とか。でも悪いな、服まで貸して貰っちゃって」
「気にすんな。困ったときはお互い様だろ?」
「……ありがとうございます」
 コック長のマルトーが上機嫌そうに笑う。やけにフレンドリーな対応に才人は心中で困って、結局作り笑いを浮かべる事を選んだ。
 マルトーの友好的な態度は結局、今朝の食堂の連中と大差無い。最初は貴族の従者と名乗った才人を胡散臭げに見ていた彼だが、才人がその薄汚れた格好の為に主人からアルヴィーズの食堂に入ることを禁じられたと聞いて、急に協力的になった。
 それはつまり、傲慢な貴族に仕える平民同士としての共感みたいなものが芽生えたに過ぎないという事。
 才人だって、勿論平民を蔑む貴族に対して思うところがあるにはある。
 平民を同じ人とも思わぬ貴族が居るという事もそうだし、それ以上に。
 統治者としてのトリステイン貴族は、才人に言わせればその資格を持っていない。
 才人の知る歴史では、アルビオンに統治されたトリステインは植民地として重税を課せられひどい有様になっていた。
 それは、アルビオンよりはマシの統治をしているトリステイン貴族を肯定するという意味ではなく。
 トリステイン貴族が、統治者として平民の生活を他国より護る責務を果たせなかったという事。  
 だが、少なくとも平民の為に命を捧げた貴族を知っている才人は、完全に彼らと思いを共有することは出来ない。
 理屈よりも感情的な意見ではあるし、それさえも、結局才人がトリステインの国民でないという事が大きいのだろうけれども。
 そして。
 才人の主である貴族の少女が、彼の最愛の女性である事からの贔屓目も、無論あったのだろう。
 マルトーを騙していると言う認識は、あまり感じなかった。
 今朝才人に絡んできた衛兵たちに、話をあわせたのと一緒だ。
 ただ、いい加減蝙蝠続けるのもまずいかなぁという認識はあったが。
「これ、配るんだろ? 手伝うよ」
 それに関しては後で考える事に決めて、取りあえずデザートの乗せられた銀のトレイを示した。
「え? でもヒラガさん、ミス・ヴァリエールのところに行かなくていいんですか?」
「まぁそうなんだけど、別にミス・ヴァリエールの所に行っても後ろに突っ立ってるくらいしかやる事無いしさ」
「は、はぁ。……あれ? じゃあ何で」
「うん。実は……、いい加減貸しが込んでて、更にこんな頼みをするのはどうかと思うんだけど」
 シエスタと、良好な関係を築けた事は才人にとっては幸いだった。
 こんな事を頼める知り合いなんて、彼女以外にはありえない。
 マルトーに紹介してもらうと言う手も考えられなくは無いが、やはりルイズの従者兼使い魔な自分がそれを頼むと言うのも気が引けたのだ。
 不思議そうな顔をしたシエスタに、才人は図々しい頼みを口にしようとして。
「ドゲザは止めてくださいね?」
「……勿論」
 ジャパニーズ・ドゲザ。彼のそれを初見で防げた者は存在しない。ドラゴンは、……あれは例外として。
 そして、二度目でそれを封じた者というのも、皆無に近かった。
 彼女で二人目だ。
 才人は、シエスタを脅威と認識した。





あとがき
 お久しぶりです。いや本当に、お久しぶりです。
 三ヶ月以上にも渡る更新停止ですが、ぶっちゃけ特に理由はありません。もともと遅筆なのと、何か筆が乗らなかった為、これほど遅くなってしまいました。
 遅筆で本当に申し訳ありません。
 まえがきに追加しておきましたが、本作は超々不定期更新と言う事で。肩の力を抜いて忘れた頃に上がってくるのを読む事をお勧めします。
 本当に申し訳ない。最初に書いて置くべきでした。
 後、一点だけ。
 前回量が少ないと言う意見が多かったのですが、それは展開と文量のどちらなんでしょうかね?
 ちと悩みますが、とりあえず一話の後半に16kbほど追加しておきました。
 これからは、本編で大体30kb以上を目安とする事にします。
 さて、次回はギーシュとの決闘まで。大方は書き終わってるので、来週にでも。
 その次が何時になるかは分かりませんが。
 上に書いたとおり、超々不定期更新なので、あしからず。

 
*1/29 誤字修正



[4677] 第三話
Name: 歪栗◆970799f4 ID:0f526f1d
Date: 2010/11/07 08:51
 何やってるの? あいつ。
 今日一番初めの授業でやらかした失敗からこっち、自分の才能の無さとか従者が自分をどう思っているかとか色々悩みながら憂鬱に、豪華な食事を不味そうに取っていたルイズは、ふと顔を上げた際に己が目に映った光景に目を丸くした。
 一瞬、見間違いかと思った。それくらいには、ありえない光景だったのだ。
 何か、自分の従者兼使い魔が、如何にも着慣れて居なさそうな清潔な給仕服に身を包んでまっすぐこちらに向かってくる。
 手に持っている銀のトレイには、デザートだろうケーキが乗せられていた。また、彼の傍にはケーキを掴むためのはさみを持ったメイドの少女が同じく歩いている。
 彼がトレイを持ち、彼女がケーキを配る係りなんだろうか。
 いや、そんな事はどうでもいい。
 何で、食堂に入るのを自分から遠慮したくせに、普通に入ってきてるのか。
 どうして、給仕服なんぞに身を包んでいるのか。
「どうぞ、今日のデザートはイチゴのケーキです」
 考えがまとまらぬうちに、彼はルイズの座る椅子の近くまで来ていた。
 横に座ってるマルコリヌは、ケーキを配る給仕の片方がよもや今朝の授業で自分がルイズと纏めて馬鹿にした使い魔だとは夢にも思っていないのだろう、才人には目も向けずに鷹揚としてケーキが配られるのを眺めていた。
「ああああ、あんた、いったい……?」
 ルイズが給仕の方を向いて、魔法の才能程ではないが地味に気にしているてんぱった時のどもり口調で喋り始めても、美味しそうなケーキに目が釘付けのまま。
 いや、マルコリヌの事はどうでもいいか。というか、マルコリヌじゃなくてマリコルヌだったっけ。
 それもどうでもいい。少なくともルイズにとっては。
 メイドはルイズの態度に驚いたように目を丸くして、才人はちょっと考えるように間を溜めて口を開いた。
「勉強させて頂いてます」
 混乱している主人よりは周りの視線を気に出来ているらしい、小声での回答だった。
「勉強ですって?」
「はい。彼女に頼みました。ミス・ヴァリエールが仰っていた通りに」
 才人が、傍らに立つメイドを目で示す。メイドが始めまして、とルイズに軽くお辞儀をした。
「あ」
 思い出す。そういえば、昨日の夜、確かにルイズは従者として色々足りていない才人に、給仕にでも学べと言っていた。
「あんたは……」
 それを、ルイズの言った事を、才人は真面目に守っているのだ。
 魔法を使えない、ゼロのルイズという駄目な主人が言った事なのに。
「……随分とよく出来た従者ね」
「あー、やっぱ勝手にはまずかったすか?」
「そ、そういう意味じゃないわよ。褒めてるの」
 己が身と引き比べ、つい皮肉気な口調になってしまった。才人がしゅんとなるのに慌ててフォローする。
 実際のところ、一応才人の行動には突っ込みどころがいくつかある。彼が自分で言ってる通り、主人に事前に報告もせず勝手に給仕の真似事をしている事。また給仕に学べと言ったのはあくまで従者として必要な事のみだ。誰がまんま給仕をやれと言ったのか、などなど。
 だが、今のルイズはそれに気づける心境ではなかった。また、例え気づけたとしても、果たして無能なご主人様と現在絶賛自虐中の彼女が才人を叱れたかどうか。
「それは、……ども」
 ルイズからのお褒めの言葉に、才人は嬉しげに微笑んで彼女の元を離れた。
 微かに頬を上気させて照れてすら居る、その本当に嬉しげな笑みに、ルイズは自分の胸がどきんと脈打つのを感じた。
 そのまま、彼が立ち去っていく後姿をぼうっと眺め続ける。
 何故だろう。そう思う。
 才人は内心では魔法の使えないご主人様を馬鹿にしているはずなのに。
 今の彼の笑みが裏のあるものだなんて、ルイズはどうしても思えなかった。
 他人の、表に出されぬ心境を読み取るなんて彼女には出来ない。
 才人が内心では自分の事を馬鹿にしているのだろうと思ったのも、自己嫌悪からの勝手な思い込みだ。
 だが。
 みんな、魔法を使えないわたしのことを馬鹿にしてる。
 殆ど物心ついたころより始まった彼女の自己嫌悪はとても強く。
 それが一瞬でひっくり返ったのに、ルイズはただ呆然とするしかなった。
 

 
「少し、ビックリしました」
 本来、メイドとして仕事中に、それも職場である食堂内において、シエスタは滅多に私語というものをしない。
 彼女が真面目だと言うのもあるし、そもそも杖を振るだけで簡単に自分を殺す事の出来る者たちを接待する場では、緊張して私語など出来るはずが無い。
 それでも、シエスタはつい小声で話してしまった。
「何を?」
「その、ミス・ヴァリエールのご様子が」
 それだけ、才人と話すルイズの態度が、彼女の貴族観と違って見えたのだ。
 シエスタは、勿論ルイズ個人について詳しくない。だが、彼女にとっては貴族というのは恐ろしい存在で、その上ルイズは才人の格好が汚らわしいからと言う理由でアルヴィーズの食堂に入るのを禁じた貴族ではなかったのだろうか。
 何か、普通に良好な主従関係だったじゃないですか。
「俺も驚いたよ」
「え?」
「ルイズ、暗かったな」
 シエスタは、まじまじと才人の顔を見つめた。
「な、何?」
「もしかして、ヒラガさんとミス・ヴァリエールって」
 給仕服に身を包んでも、その長身と体格から才人が戦士である事は容易に理解できた。
 だが、清潔な服装に身を包んだためか、見る人に野蛮さとか恐ろしさを感じさせる事が無くなって、ぱっと見には普通に好青年にすら見える。
 なんだかんだで、顔立ちもそう悪いほうではない。
「シエスタ?」
 学院でも一、二を争うほどの高位の貴族の、妖精のように可憐な容姿を持つ美少女と、その従者兼使い魔の長身の好青年。
 しかも、才人はシエスタとの会話だけでもう二度もルイズの事を呼び捨てている。
 一度目は聞き違いか何かじゃないかと聞き流していたが、今のははっきりと聞いていた。
 気に入らない主人を陰で呼び捨ててると言った感じではない。
 彼は、心から主人を案じる口調で、彼女を呼び捨てにしていた。
 ああ、あの、もしかして、禁断の恋とか言うやつですかもしかして。
「……あぁ」 
 何だか、とっても妄想を刺激される関係じゃないですか。
 赤らめた頬に手を当てて、きゃーとでも言いたそうに悶えるシエスタを、以前にも見た事の無かった彼女の奇行に才人は唖然として眺めるしかなかった。
 その時、シエスタの足元にかつん、と何かがあたった。
「あら、何でしょうか、これ」
 それで、即座に妄想から立ち戻る。メイドの仕事といっても、食堂内でやる事など慣れてくれば本当にルーチンワークで、妄想でもしないとやっていけない。
 そして、それを打ち切るのも、手馴れたものだった。
 そんな事知らない才人は、余りにも速い立ち直りに口を噤むしかなかったが。
 ……本当に貴族は平民たちに恐れられているのだろうか。
「小瓶?」
 腰を落としてそれを拾い、思案する。
 それは、如何にも高貴な雰囲気を伺わせる、僅かに赤みの勝った透き通る紫色の液体で満たされていた。
 香水、だろうか。平民の持てる物には見えなかった。誰か生徒が落としたものに違いない。
 顔を上げ、落とし主を探そうと辺りを見渡そうとして。
「ちょっと待った」
 小瓶を持った右手ごとがっちりと掴まれて驚愕の余りもう片方の手に持ったはさみを落とそうとしてしまう。
「な――!」
 何でそう動きが唐突なんですか!
 叫ぼうとして、何とか思いとどまる。
 シエスタの無言の抗議に才人はごめんごめんと謝りながら、シエスタから小瓶をもぎ取って、そして、右手にふと視線を投げた。
 シエスタもつられて右を見る。幾人かの男子生徒たちが楽しげに歓談をしていた。
 中心は、グラモン伯爵家ご令息のギーシュのようだ。シエスタは彼を知っていた。上級貴族の多い学院の生徒たちの中でも伯爵家という高位の家柄の出であり、またその整った容姿から、彼はメイドたちの間ではそれなりに人気が高い。
 容姿は間違いなく二枚目なのにやってる事は三枚目なギャップも、面白いし好ましいらしい。彼のファンなメイドの談では。
 メイド以外にも、彼はその奔放な恋愛観から学院に働く娯楽に飢えた平民たちに面白い噂を提供する事が少なくなく、キュルケ・フォン・ツェルプストーと並んで平民たちの間ではもっとも知名度の高い生徒の一人だ。
 その彼を、小瓶を持ったままの才人は思案するように眺めていた。
 ギーシュが、この小瓶の落とし主なのだろうか。
 そういえば、とシエスタはつい最近、寮で同室のメイドから聞かされた噂を思い出していた。
 何でも、今ギーシュはモンモラシーとケティという、二人の少女にお熱らしいと。
 女性としては、色々と突っ込みどころのある噂だ。二股じゃない。それって。
 そう言ったシエスタに、同室のメイドは、絶対長続きしないわね、今週中にはぼろを出すんじゃない? と何故か目を輝かせていたが、それはともかく。
 モンモラシーが『水』のメイジであり、趣味が香水作りであるという噂はシエスタも聞いた事がある。
 ならばこの小瓶はギーシュがモンモラシーから贈られたものなのだろうか。
 なら、早く返してあげなきゃ駄目じゃないですか。
 そう思い、思案したままの才人にそれを伝えようとして、シエスタは瞠目して立ち尽くした。
 才人は、うん、と何かに納得したように軽く頷いて、小瓶を己の懐にしまいこんでしまったのだ。
「な、何してるんですか、ヒラガさん……!」
「いいから、早くケーキ配っちゃおう」
「あの、ヒラガさん?」
 何が何だか分からない。そんな、勝手に落し物をくすねる様な人には見えなかったのに。
 そして、混乱したシエスタの思考は。
「ちょっと、そこの平民! ギーシュ様の落し物をどうする気なの!!」
 後方から上げられた声に、更なる混乱に突き落とされた。



 ケティ・ド・ラ・ロッタという名のその少女は、憧れの先輩であるギーシュに、つい最近告白を受けた。
 憧れと言っても、入学式の時にちょっと目に留まって、あの先輩かっこいいね、等と友人らと話す程度だったが。
 だから最初、彼女はとても戸惑った。自分はギーシュの事を知ってはいるが、まさかギーシュが自分の事を知ってるとは思わなかったし、それに。
 ギーシュは、彼と同学年のモンモラシーと付き合ってるのではなかったのかと。
 そんな噂も、ケティは耳にしていたのだ。
 頬を染めながらも、本意ではないのだけれど、そんな事を言って断ろうとしたケティに、ギーシュはこう言った。
『一応噂の事は否定しておくよ。ただ、例え本当だったとしても問題は無いんだけどね』
『君を一目見たときから、僕の目には君以外の少女は映らなくなってしまったのだから』
『後悔はしていないよ。きっと、これが運命って言うものなんだと思う』
『立派な貴族、そう君は僕の事を評したけれど、自分で言うなら僕はまだまださ。父上や兄上たちに比べればひよっこに過ぎない。魔法の腕もそうだし、軍人としての心構えも。まだ僕は学院に通う生徒に過ぎないけれど、ずっと父や兄たちの背中を見て育ったんだ。だから、どうしても自分を比べてしまう。それで、いつも思うんだ。僕は弱いなって』
『一人は嫌だ。女の子と付き合いたいって、何度も思った。でもね?』
『僕は自分を薔薇に例えている。だけど、薔薇と言うのは一輪だけそこにあっても周囲を遠ざけるだけだ。僕の周りにはいろんな女の子が居たけれど、僕のとげに傷つくのを恐れて、いや、僕自身が彼女たちを傷つけるのを恐れていたのかな、とにかく特定の女性をつくるのは許されない。ううん。許されないと思っていた。君を見るまでは』
『月夜に浮かび上がる霞草。野花のうちにあってもその控えめな美しさは僕の目を捉えて離さなかった。知ってるかい? 霞草は、薔薇の花束にとてもよく合うんだ』
『ややもすれば毒々しすら映る薔薇の花束を、その柔らかい色で美しく引き立たせる』
『……ちょっと失礼な言い方になってしまったかな。ごめん。でも、僕は一目見たときから、君とならうまくやっていけるって確信したんだ。だから』
『もう一度聞く事を許してくれるかい? ケティ。僕の恋人になってくれないか』
 蝶よ花よと育てられた世間知らずの貴族のお嬢様に、その口説き文句はオーバーキルとでもいうようなものだった。
 しかも。
 貴族の娘など、結婚すらも家の出世のための道具に過ぎない。そんなことは彼女も知っている。故に諦観して、それでも心の奥底では白馬の王子様と言うものにずっと憧れ続けていた。
 家柄は自分の実家よりも上の伯爵家。四男であり、おそらくは婿入りと言う形になるのだろうが、伯爵家と関わりが持てるのだ。まさか親も文句を言わないだろう。何より、見ほれるほどのルックスに、心を蕩かす甘い囁き。
 ギーシュは自分にとってこれは運命の出会いなどと言っていたが、ケティの方こそ確信していた。
 彼こそ、私の白馬の王子様なのだと。


 そして、ケティはギーシュの恋人となった。付き合い始めてまだ日は浅く、逢瀬も片手で数えられるほどしかしてないけれど、それでも彼女は幸せだった。
 ギーシュは、ケティを自分の彼女だと喧伝したりはしてくれなかった。
 こういうものは、皆に話す時は時期を見なくてはいけないものらしい。嫉妬に狂った女の子たちが、ケティに牙を剥く可能性があるからだと。
 彼女自身も、周りに羨ましがられるならともかく、下手に周囲を刺激するのは確かに避けたかったから、了承していた。
 何せ、トリステイン魔法学院に入学してからまだ一月と経っていない。先輩たちからのいじめなんて、本当に勘弁である。
 今日も彼女は、昼食を摂りながら、ぼうっと頬を赤らめて恋人の姿を眺めていた。
 楽しそうに友人たちとおしゃべりに興じている。人目があるところでのいちゃいちゃは上記の理由で禁止されていたが、出来ればしたいなぁ、と思う。
 見て、あの格好いい姿。彼が私の彼氏なの。彼が! 私の! 彼氏なの!
 もし知られたら、どうなるのだろうか。例えば、同じようにギーシュを見ている少女が居た。ケティは彼女の事を知っている。モンモラシー・マルガリタ・ラ・フェール・ド・モンモラシ。
 ギーシュの彼女では無いかとひそかに囁かれている少女だ。
 きっと、彼女もギーシュに憧れているのだろうけど、彼女がもし私がギーシュの恋人だと知ったら?
 きつそうな顔。先輩でもあるし、学院に入りたての自分じゃ、魔法では勝てないかもしれない。
 でも、その時はきっとギーシュが助けてくれるだろう。彼女だけじゃない、嫉妬に狂った多くの少女たちから、ギーシュはきっと自分を守ってくれる。
「いいかも……」
 桃色の思考で妄想を働かせながら、彼女は飽く事なくギーシュを見つめ続けていた。
 だから、気づけた。ギーシュが友人相手にオーバーアクションで何かを喋って、その時に彼のポケットから何かが落ちたのを。
 それは、ころころと転がって、丁度デザートを配っているらしいメイドの足元で止まった。
 すぐにメイドはそれに気づき、拾い上げる。傍らに居た給仕がメイドに何か言ってそれを受け取って、ギーシュの方を向いた。
 そして、あろう事か、自分の懐にそれを仕舞い込んだ。
「ちょっと、そこの平民! ギーシュ様の落し物をどうする気なの!!」
 気づいたときには、ケティは立ち上がっていて、大きな声で叫んでいた。
 立ち上がるついでに両手でバシンとテーブルを叩いたので、正面に座る同級生が驚きの余りにスープを噴き出していたが、彼女は気にしない。
 ずんずんと、仕手人の給仕に詰め寄る。
 給仕の傍らに立つメイドはおろおろとしていて、ケティは給仕を下からにらみ付けた。
 でかい。それが給仕への彼女の第一印象だった。
 どちらかと言えば彼女は小柄な方だが、それにしたってでかすぎる。まさに見上げると言った風に彼女は給仕の顔をにらみ続けた。
 給仕は、静かにケティを見下ろしていた。上げられた声も、落ち着いたものだった。
「何の事でしょうか?」
「とぼけないで! 私、ちゃんと見たんだから!」
 それにしても、なんと図々しい男なのかと思う。ここである程度人生経験の積んだ者なら、臆面も無くしらばっくれる才人の態度に初犯ではないな、とさらなる疑いをかけた事だろう。
 ケティは残念ながら人の物を盗む者を見るのはこれが初めてだったため、そこまで頭が回らなかった。だが、それくらいに彼の態度はケティから見れば自分を舐めきったものだったのだ。
「良くわからないけど、このお嬢さんは何を言ってるんだ?」
「おい、よく見たらこの給仕、ゼロのルイズの使い魔じゃないか?」
「ホントだ! 何で使い魔が給仕をやってるんだよ!」
 当たり前だが、彼らは相当に衆目を集めていた。いきなりのケティの行動に凍り付いていたようになっていた食堂内が、急に騒がしくなる。
「この人がギーシュ様の落し物を拾って、そのまま自分の懐に入れたんです!」
 ケティが叫ぶと、ざわめきは更に増した。ふと気になって、ギーシュの方を向く。
 彼は、自分のポケットを探って、何かを必死で探していた。そして、どうしても見つからないらしく顔を青ざめさせた。
「ギーシュ様! この人です! この人がギーシュ様の落し物を盗んだんです!」
 ケティが更に叫ぶ。
「ギーシュ“様”?」
「おい、ギーシュ。もしかしてお前が付き合ってるのって……」
「主人が主人なら使い魔も使い魔ね。まさか盗みを働くなんて」
「見た目からして、いかにも貧乏くさいもんな、あいつって」
 喧々囂々。何故か始まったギーシュへの追求と、給仕の男への蔑みの言葉。
「ちょっと、ヒラガ!」
 そこに、更に一人の少女が飛び込んできた。
「どういうことよ!!」
「あーいや、えーと、ですね? そのぅ……」
「いいから! ギーシュの落し物っていうのを出しなさい!」
 少女は軽くウェーブのかかった桃色の髪の、びっくりするくらい可憐な少女だった。彼女が二年生のマントを羽織っていたのには、ケティも目を見張ったが。あれで、上級生? と。
 そして、その少女が給仕に詰め寄ると、急に彼はみっともないくらいに慌てふためき始めた。
 負けじと、ケティも詰め寄る。そもそも、この男の犯行を見破ったのは自分なのだ。愛しの恋人の持ち物を取り戻す栄誉を、どうして他の女に譲れようか。
 ちょっと汚くて嫌だったけど、ケティは強引に彼の懐に手を突っ込んだ。かつんと、硬質な感触が爪に触れる。
 掴んで引っ張り出そうとして、その時給仕の手ががっちりとケティの腕を掴んだ。
 掴まれた腕に痛みは感じなかったが、給仕の腕はまるで鉄で出来ているのではないかと思わせるほどに硬く、どう頑張っても腕を引き抜けない。
「――っ離しなさいよ!」
「ヒラガ!」
 二人の少女に詰め寄られて、彼は下を向くと大きくため息を吐いた。ケティが不思議だったのは、彼のため息が最早誤魔化せない諦観といった風ではなかったからだ。
 どちらかというと、うんざりしたようなため息だった。加えて、微かに彼が呟いた言葉、『あほくさ……』とはどういう意味なのか。
 考えてるうちに、彼はゆっくりとケティの腕を掴んだまま彼女の体に運んでいった。
 ケティの手は、しっかりとギーシュの落し物を掴んでいる。
 そして、ケティの拳を彼女の胸の前まで運んで、彼はようやく彼女の腕を離した。
 ケティはすぐさま身を返して彼のほうを向いた。
「ギーシュ様、取り返しました! ……ギーシュ様? あの、どうしたんですか?」
 なのに何故だろう。何故ギーシュの顔は青ざめたままなのか。
 その上、何だか気力を使い果たしたとでも言うように、何だか煤けてすら見える。
 ケティは、彼の前で落し物を掴んだままの手を開いた。彼女の小さな手のひらに乗せられたのは、紫色の液体で満たされた小瓶。
「おいギーシュ……。そ、その香水、もしかしてモンモラシーのじゃないか?」
「そうだ! その鮮やかな紫色は、モンモラシーが自分の為だけに調合している薬だぞ! って、あれ?」
「そいつが、ギーシュの落し物なのか? だとすればギーシュはモンモラシーと! ……いや待て、おかしい。ギーシュ? お前まさか……」
「ギーシュ様……?」
 彼の友人たちの言葉を聞くまでも無く、彼女もまた真相に辿り着いていた。
 ぼろぼろと、彼女の頬を涙が伝う。
 既に、彼女の中に先ほどまでの出来事は消えうせていた。盗みを働いた給仕なんて、どうでもいい。
 ただ、彼女の心を占めていたのは、裏切られたと言う感情だけ。
「ケティ。聞いてくれ、僕は……」
 スパーンと、いい音が響いた。彼女は人の頬を張った事なんて一度も無いが、初めてにしては強烈なビンタだった。
「さようなら!」
 泣きながら、それでもはっきりとそう言って。
 ケティはその場から逃げるように走り去った。
 勿論失恋も初めてで、初めてにしては心の痛みもとても強烈だった。


「で、どういう事なの?」
「つまり、ミスタ、えーと」
「グラモンよ。そいつの名前。ギーシュ・ド・グラモン」
「つまりミスタ・グラモンが彼女たちに二股をかけていたと。それで、どちらにも、彼は付き合ってるのは君だけだとか言ってたんだと思います」
「なるほどね。ならあの香水は……」
「ミス……、あー」
「モンモラシ」
「どうも。あれはどう考えてもミス・モンモラシとの付き合いの明らかな証拠なわけですから。そりゃあのお嬢様も怒りますって」
「それで、あんたはどうして香水を盗んだりしたわけ?」
「後で返そうと思ってましたよ。ただ、この場で彼に渡すのは――」
 そこで、才人は横を見た。頬を張られ、あの後二股をかけてたもう一人であるモンモラシーにワインを頭から浴びせられたギーシュの姿はかなり哀れなものになっている。
 おまけに、食堂内の少女たちは彼を汚らしいものを見るかのように眺めながらひそひそと何やら話していて、男たちはギーシュを思いっきり笑っていた。
 ギーシュは気にせずに薔薇の意味がどうのと語っているが、それが強がりだと言うのは一目瞭然である。
「――こうなっちゃうから、やめた方がいいかなぁと。ミスタ・グラモンの噂は今朝ちょこっと耳に挟んでましたし。意図とはまるっきり逆の結果に終わりましたけど」
「……ま、ギーシュは自業自得ね」
 いやまさか、ここまでの惨状になるとは才人も予想していなかったが。
 主人と話す従者に口を挟むのはまずいということで、シエスタは一歩はなれた所で彼らの会話を聞いていたが、彼女もまたなるほど、と頷いていた。
「黙って聞いてれば、好き勝手言ってくれるじゃないか。使い魔君」
 と、いきなりギーシュが会話に割り込んできた。苦々しげな口調。事実を言っただけで、少なくとも才人に彼の悪口を言った覚えは無かったが、相手がそう感じたのなら仕方ないだろう。
「すいません」
 とりあえず、謝っておく。心がこもっていないのは、まぁ見逃してほしいと思いながら。
「謝ったって遅い、と言うか、好き勝手言った事に僕は怒ってるんじゃない」
「じゃあ何に怒ってるのよ?」
「ルイズ、君は黙っててくれ。いいかい、使い魔君。君が余計な気を廻したおかげで、二人のレディの名誉が傷つけられた。僕はそれを怒っているんだ」
 どこかで聞いた台詞だった。答え方を間違えれば、以前と同じように決闘と言う事になるんだろう。
「いくらなんでも無理が無い? それ」
 と、才人が答える前に再びルイズが口を挟んだ。更に、ギーシュの事をただ笑っていただけの男子生徒たちもそれに乗っかり始める。
「そうだぞギーシュ! それじゃあただの言いがかりじゃないか!」
「一応その平民はギーシュをかばおうとしてたんだしな。つーかそもそも二股すんなよ! 何か腹立ってきたぞ!」
「むしろ俺たちのこの気持ちをどうしてくれる!」
「そうだそうだ!」
「モンモラシーとあんな可愛い一年生二人と付き合っていたなんて、もてない僕への嫌味かよ!」
「――っだから、君たちは黙っててくれ! 僕はこの使い魔と話してるんだ! ……それで、どうしてくれるんだい?」
「…………えーと」
 ここは、才人にとっては悩みどころだった。
 そもそも。シエスタがギーシュの落とした香水を拾ったその時点では、才人にギーシュとの決闘を繰り返すという考えは無かったのだ。
 ギーシュの浮気がばれないように香水を隠す事すらした事からもそれは明瞭である。
 あの時。ギーシュ・ド・グラモンが居なければ、才人はルイズの遺体を彼女の家族の元に届ける事すら出来なかっただろう。
 アルビオンからの脱出もそうだし、当時のアンリエッタはただ親友と想い人の死に悲嘆にくれるばかりで、ラ・ヴァリエール家へ何と報告するかまでは頭が回っていなかったのである。
 任務を、トリステイン宰相のマザリーニにすら秘匿していた事が裏目に出た形だった。
 ギーシュは才人にとっては恩人で、だからこそ才人はギーシュに似た彼をかばった、かばおうとした。
 ただどうするか迷ったのは確かで、故に今才人は再び迷っていた。
 結局こうなってしまったのだ。ならばここで、自分の力をルイズに見せるのもいいのではないか、と。
 何故かは分からないが、才人の予想以上にルイズは自分が魔法を使えない事に落ち込んでいる。それこそ、以前とは比べ物にならない程に。
 卑怯ではない。そうも思う。ルイズが召喚した平賀という名の使い魔の実力を見せ、引いては彼女にほんの少しだけ自信を持ってもらう。それだけだ。
 少なくとも、ルイズから授かったガンダールヴのルーンは、彼女に胸を張らせるに足るものなのは事実なのだから。
 それに、今避けたところで、結局ルーンを得た才人の力を何時かはルイズも見る事になる。遅いか速いかの違いでしかない。
「では……憂さ晴らしにでも付き合いましょうか」
 あんだけかばおうとしたのに結果はこれで、才人自身聊かうんざりしてたというのもあったりする。
 それに、以前とは違い彼は見てしまった。ケティとか言う少女が泣きながら走り去っていくのを。
 傷ついた少女の顔を、はっきりと。
 ぶっちゃけ、女を泣かしたギーシュに才人は恩義をも超える醜い同属嫌悪を感じていたりもした。
「――? どういう意味だい?」
「どうぞ俺を叩きのめしてください。勿論貴族である貴方に対して俺は一切抵抗しませんので。お好きなようにどうぞ」
「ヒラガ!? あんた何言ってるのよ!」
 才人の頭が沸いたのではないかと思うほどの愚かな提案にルイズは叫んで、そしてギーシュは獰猛に笑った。
 父親と、三人の兄。軍人一家の出であり、暴力と言うものの臭いを幼い頃から嗅ぎなれていたギーシュは、才人の雰囲気が変わっている事に気づいていた。
 勿論、今は一介の学生に過ぎず。彼は暴力の臭いは嗅ぎなれていても、暴力そのものに慣れているわけではない。
 ただ、せっかくの平民からの厚意を退けるほどに無粋という訳でもなかった。
「面白い事言うじゃないか。でも、無抵抗の平民に暴力を振るうなんて僕のプライドが許さないよ」
 当然、前提としてメイジの自分が平民なんぞには絶対に負けないという確信があっての事だが。
「では、……実はもう一つ提案が」
「奇遇だね。僕も君に一つ提案があるんだ」
 思わぬ不穏な気配に、周囲のざわめきが急速に冷えていく。
 そして、才人とギーシュは、殆ど同時に口を開いてこう叫んでいた。

「「決闘だ!!」」




 場所は、ヴェストリの広場。着替えを終えた才人が着き次第開始。
 そう言い捨てて、ギーシュは食堂から去っていった。
「あんた、自分が何をやったかわかってる?」
 これまでの感心を全て吹き飛ばすような才人の暴挙に、ルイズは呆れたように声をかけた。
 ただ、内心に少しばかり喜びの感情があったことは否定できない。
「とにかく。あんたはわたしの部屋にでも戻ってなさい。それで、今日一日は謹慎ね。ギーシュにはわたしから謝っておくから」
 フォローされっ放しだった彼女が、初めて才人の仕出かした行動の尻拭いをする羽目になったのだ。それは、彼女が才人に、初めてご主人様らしい姿を見せるという事でもある。
 本来ならばなんでわたしが従者の尻拭いなんか、と思うところだったろうが、今のルイズにとっては彼に自分を見返す大きな機会にすら思えていたのだ。
 威厳を示すようにちょっと胸を張って、ルイズは才人にそう告げる。
 なのに。
「いえ、ミス・ヴァリエールのお手を煩わせる事じゃないです。大丈夫ですよ」
 彼は自信満々にそう言い切って、ルイズの助けを拒絶した。
 意地とか、そういうのはまったく感じなかった。彼は心から、今の自分の状況を大したものじゃないと思っているのだ。
「ミス・ヴァリエールにご迷惑もかけません。言ったでしょう? 俺は、ミスタ・グラモンのうさばらしに付き合うだけですから」
 理解出来ない。この男は、メイジと平民が戦うと言う事がどういう意味か分かっていないのだろうか。
 いや、そんなわけが無い。
「分かってないなんて言わせないわよ、ヒラガ。平民はメイジには勝てない。それとも、自分は特別だとでも言うつもり?」
「はい。俺は特別です」
 食堂内にはまだ多くの生徒が残っていて、ルイズと彼女の使い魔の言い合いに注目が集まっていた。
 そこで、臆面もなくギーシュに勝てると言い切った平民に、失笑が漏れる。
「……っ。思い上がりも甚だしいわね。それに、自分で言ってたじゃない。メイジ相手は荷が重いって」
 反面、ルイズは戸惑っていた。今までの彼とは百八十度違う、己の力への自負に満ち溢れた言葉。
 ではどうして、彼の態度は変わらないのか。
「俺は平民です。ミス・ヴァリエールの言ってる通り、本来ならメイジ相手には絶対に勝てない。勿論自分でもそれはわかってますよ」
「じゃあ何で!」
「俺が、貴女の使い魔だからです」
 時間が、止まったかと思った。ルイズの耳に、全ての音が聞こえなくなる。
 比喩ではなく、その時確かに食堂もまた凍り付いていた。
 ゼロの使い魔だから勝てるという、余りにもありえない発言に。
「見ててください。あなたの使い魔の力を」
 そう言って、彼はルイズの前から立ち去った。
 すぐに食堂は爆笑に包まれる。ドットクラスのギーシュと平民の決闘なんて興味のなかっただろう輩が、面白いものが見れるとばかりにヴェストリの広場に向かおうと席を立ち始める。
 そんな騒々しい喧騒の中。
 ルイズは自分の胸に手を当てたまま、暫くその場に立ち尽くしていた。



 決闘は一瞬で終わった。
 ガンダールヴのルーンの使い方を理解していた才人にとって、個人的には相性などの関係で結構苦手としていた『土』系統のメイジとはいえ、ドットクラスのギーシュなんてはなから相手にもならない。
 本来ならば、才人も少しは長引かせるつもりだった。ルイズに自分の力を良く見てもらう為に。
 ただ、傷を負わせる気はなかったとはいえど、圧倒的な強者が手加減をしながら弱者を嬲るという構図は当事者にしても気分の良いものではない。
 相手が恩人に良く似ているとなれば尚更だ。
 結果として、才人はギーシュの繰り出した一体目のワルキューレを切り捨てた後、一気に近づいて剣を突きつけ、降参させて決闘を終わらせたのだった。



 広場は静まり返っていた。勝者への歓呼も、敗者への嘲笑も、何も聞こえない。
 当たり前だ。その場に集まる誰にも予想外だった決闘の結果は、ただ平民が貴族に勝ったと言うそれだけの意味ではなかった。
 人間が、あれほどの速度で動けるわけがない。『風』系統のメイジが魔法を使ってならともかく、ギーシュの相手はただの平民のはずである。
 そして、その場に居る誰もが、口に出さずとも考えていたのだ。
 もし、自分があの使い魔と戦ったら、と。
 あの速度で近づかれたら、詠唱すら許されない。そして、魔法を使わずに、あの体格の男と戦える訳がない。
 つまり、自分ではあの平民に勝つことが出来ない。
 そう、思ってしまっていた。
 僅かな例外を除いて。
「あなたなら勝てるかしら? タバサ」
「分からない」
「分からないって事は、勝てるかも知れないって事?」
「そう」
「ふふ、あたしも。まぁ一瞬だったし、あれじゃ分からないのも当然か。それにあたし、彼が使ってた剣も気になるのよね。見間違いかも知れないんだけど……」


 一方、才人は決闘の結果にある程度満足していた。
 広場の様子を見れば一目で分かる。
 ガンダールヴのルーンによる人外の速さを見せ付けるだけだったが、自分の力を証明するという当初の目的は十分に達成できたのだ。
 こうやって落ち着いてみると、如何に自分が子供っぽい真似をしたのか分かって恥ずかしくなるが、ギーシュの面子もこれなら然程潰れたというわけでは無いだろう。
 何とも上から目線の思考である。ガンダールヴの力でもってギーシュを一蹴した才人は、完全に驕っていた。
 しかも、その力だって才人が自身で身につけたものではない、ルイズに授けられた力だと理解している、その上でだ。
 かくのごとく、強大な力を得た凡人が自身を律すると言うのは難しい。
 仕方の無い事なのかもしれない。彼は力が無かったからルイズを死なせたのだと信じている。だから彼は力を求めた。
 これまでは良かった。力の魔力に取り付かれようと、才人が手に出来た力は小さく、自分に自信を持ちようが無かった。
 その彼が、ついに求め続けた強大な力を手に入れた、もしくは取り戻したのだ。
 悠々と主人の下へと歩き、そこで才人は彼女の顔を見て首を傾げた。
 どうして、ルイズの顔は浮かないままなのだろうか、と。
 才人は気づかない。気づけない。
 当たり前だ。彼は自分を赦す旅を始めるずっと前から、間違っていたのだから。
 自分の罪に気づけても居ないのだから。
 それに気づけない限り、例えこの世界でワルドを倒そうとも、彼は絶対に自分を悔いる事になるだろう。



 才人は、宣言どおりにギーシュに打ち勝った。それも、圧倒的な力を見せ付けて、一瞬で。
 決闘の勝者が自分に近づいてくる。
 そして、彼女の前で跪いた。
「見ていましたか?」
「……ええ」
 ぎこちなく、答える。
「これが、貴女の使い魔の力です。つまり、貴女の力です」
 そんな言葉、信じられる筈がない。自分はゼロのルイズなのだ。
「そうは思えないけど。あれはあんたの力でしょ?」
 きっと、彼は分かっていたのだ。自分が魔法を使えない事に悩んで居るという事を。
 あぁそれは、優秀な従者ならば、主の心労を取り除こうとするだろう。
 本当に、良く出来た従者である。
「まさかギーシュと決闘して勝てるなんて思ってなかったわ。こんな優秀な使い魔、わたしにはもったいないくらいね」
「ミス・ヴァリエール?」
 それは、醜い嫉妬。
 従者としても、使い魔としても、彼はとても優秀だ。
 無能な主人とは違って。
 この場から逃げ出したくなる気持ちを懸命に堪えて、ルイズは才人を睨み付けた。
 そんなルイズに彼は何を感じたのだろうか。
 あろう事か、才人は笑った。
「何笑ってるのよ!」
 怒鳴りつける。いくら才人に対してかなりの引け目を感じているとはいえ、いや、だからこそ、主人を笑う従者に彼女は強い怒りを感じたのだ。
「いえ、ミス・ヴァリエールは大きな誤解をしているみたいで。それがおかしくて、つい」
「誤解?」
 はい、と頷いて、才人は彼女の前に左手を伸ばす。
 褒美に、手に口付けでもして欲しいという事か。だが、何故左手なのだろう。
「俺が貴女の使い魔であると言う証です。そして。これのおかげで、俺はミスタ・グラモンに勝利する事が出来ました」
「……意味が分からないわ」
「このルーンは、俺の身体能力を強化する力を持っているみたいです。昨夜には確認していましたよ、この力の事を。……俺の力ですって? そんなわけ無いじゃないですか。ただの平民があれほど早く動けるのなら、メイジは貴族じゃなかったでしょう」
 そう言って、才人は苦笑した。
 ルイズの表情は変わらない。良く出来た従者の言葉が、信じられない。
 彼の話は、確かに理屈は通っている。彼は、決して無能な主人に真面目に仕えていたわけでは無かったと言いたいのだ。
 ギーシュを一蹴するほどの力をもたらすルーン。そんなものが自分に刻まれているのに気づいていたならば、それはルイズの事を有能なメイジだと思うのも無理も無い。
 だが、話が出来すぎては居ないだろうか。
 迷うルイズに、才人はため息を吐いて立ち上がった。
「信じられないのならそれも結構。俺は伝えるべき事は伝えました。……そろそろ次の授業が始まります。教室に行かなくていいんですか?」
 ああ、とうとう呆れられてしまったのだなと、そう思った。
「……」
 泣き出しそうな思いで、ルイズはただ身を翻して広場から立ち去る。
 才人もまた、いつもの様にルイズの後を一定の距離を空けて追ったが、ややあって前を歩く主人に向けて再び口を開いた。
「俺は、信じています」
 足が止まる。振り返る事は出来なかった。今の顔を、ルイズは従者に限らず誰にも見せたくなかった。
「貴女が、誰よりも立派な貴族、メイジであると、俺は信じています」
 彼女が振り返らなかったのは才人にとっても幸いだったろう。自分に対する一つの裏切りを、彼自身一体どんな顔で言えているのか分からなかった。
「気味の悪い事を言うのね。あんたがわたしの何を知ってるって言うのよ」
「信じる事はいけませんか? 俺が貴女を信じてるか信じていないかなんて、俺の勝手です。貴女に指図される謂れは無い」
「何よそれ」
「言葉通りの意味です。……えーと、改めて、俺は伝えるべき事は伝えました。今度こそ」
 これ以上何を言う気にもなれず、ルイズは再び歩き始めた。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「……その、ミス・ヴァリエール」
「分かったわよ!!」
 立ち止まり、怒鳴りながら振り返った。本当に、この男は何なのだろうかと思いながら。
 直前の、自分が呆れられてしまったのではという考えは、既にルイズからは消えていた。当たり前だ。伝えるべき事は伝えたと言いながら、もう三度目。
 才人は、不安そうな顔でルイズを見つめていた。ずっとそうだったのだろうか。
「あんたはわたしの使い魔で、使い魔の自分がギーシュを倒せる力を持ってるんだから、わたしが魔法を使えないのを落ち込むのは止めろって言いたいんでしょ!」
「え、えーと、はい。まさしく……」
「なら立ち直ったわ。わたしは、たった今立ち直った! これでいいかしら!?」
 実際、優秀なはずの従者兼使い魔の情けない姿に、自分がやっていたあまりに子供じみた振る舞いを気づかされたと言う事もある。
 これ以上無様な姿を従者に見せる事は出来ないと、彼女はようやく気づけたのだ。
 その分、本来持っていた巨大なプライドがおかしな具合に吹き出て、ルイズは相当に妙なハイテンションになってしまっていたが。
「ヒラガ!」
「は、はい!?」
「あんたはわたしを信じてるって言ったじゃない?」
「そうですけど」
「随分と、わたしを軽く見てくれたわね」
「な、なんすかそれ」
「馬鹿にしないで。わたしは、あんたが思ってるよりもずっと立派な貴族に、そしてメイジになるんだから!」
 今日の夜、布団に入ってから、彼女は己の従者兼使い魔に切った余りにも大きな見得に後悔して一晩中身悶える羽目になるのだが、それはともかく。
 優秀な従者兼使い魔に、ようやく立派な主人の姿を見せる事が出来たと、その時は強く信じていた。
 ほら、何だか才人も感動したような表情でルイズを見ているし。





あとがき
 散々引っ張ってギャグオチかよ、と突っ込まれそうな落ちですが、自分も色々と構成に苦慮しましてね、その、これ以外どうしようも無かったのです。
 申し訳ない。勿論、これで問題が解決したと言うわけではありませんので。
 ギーシュとの決闘の描写をすっ飛ばしたのは、……まぁ、原作でもガンダールヴを発動させた才人は結局ギーシュを一蹴していましたし。
 どう書いても原作の二番煎じか、後はギーシュ視点で才人スゲーと思わせる以外に展開が思いつかず。
 んでそんなん書いても面白くなかったので、だったらすっ飛ばしちまえと、そういう事です。

 さて、感想で出た疑問その他についてお答えします。
 才人がシエスタの配膳を手伝ったのは、食事を振舞われたお返しとしてではありません。むしろ才人がシエスタに手伝わせてもらった形で、借りは増えています。
 今回のお話の冒頭で、疑問が解消されていればと思います。
 次ですけど、独自展開ですか……。
 えーっとですね。とりあえず、&さんの言うマブラヴを例に出すと、拙作の才人が逆行前に居た世界がアンリミ、現在がオルタになるんでしょうか。
 そうなると、マブラヴの12月24日が、拙作でいうルイズがワルドに殺された日になるわけです。
 これを乗り越えられるかどうかが拙作の(自分にとっては)見所になりますので、以降の話は現状考えてません。
 えー、次。誤字は修正しておきました。指摘してくださった方、ありがとうございます。
 後、あれです。一話の横に(2/22加筆)とか書いてますが、(1/22加筆)が正しいです。現在は消してますが、そこ間違えるって自分でもどうなのよと思いました。
 最後に、次回は未定です。では。

*1/31 誤字修正。つーかプラウザの戻るを押し続けてたら三話をもう一度送信してしまった(汗。フォームの再送信ってそういう意味かよ! 慌てて誤字修正だけしときました。
 お騒がせして申し訳ありません。次から気をつけますんで。



[4677] 第四話
Name: 歪栗◆970799f4 ID:a9d0bd55
Date: 2010/11/07 08:47
 何か、得体の知れない怪物が自分の体を食らおうとしている。
 そんな不快な夢を見たような気がして、才人は上半身だけ起こしたままベッドの上で大きく欠伸をした。
 事実は小説よりも奇なり、とでも言おうか。ハルケギニアに生息する幻獣どもの姿の多くを知って、その内の幾つかを相手に戦った事もある才人だ。悪夢の中の正体不明な化け物なんて怖がれるわけも無い。
 ただ、本当にそうなのか、とも思った。夢の中の正体不明の化け物は、いやどうにも見た事のある化け物じゃなかったろうか。
 眠たげに細められた目を更に細めて、彼は一体あれは何だったのだろうかとぼんやりと考えた。
 起きた直後にその日見た夢を反芻するなんて、ハルケギニアに来てからは殆ど経験した事が無い。
 彼の過去を再現した夢ならば話は別だが、今日のそれは悪夢とはいえどう考えても他愛の無い夢に過ぎず。
 しかし、今の生活はそれを簡単に許すくらいには平穏だったのだ。
 夢の中、自分に迫ってきた巨大な影を思い浮かべる。
 ぎざぎざとした鱗、細長い独特の虹彩。ちろちろの細長い舌が不気味に揺れて、びっしりと鋭い牙の並んだ大きな口が己を飲み込もうとしていた。
「――あ」
 ぽん、と手を打つ。
 あれは大蛇だ。
 そういえば、才人の体はやけにふわふわと黒く毛深かった。
 何だか初めのうちは、自由に蒼穹を飛ぶ愉快な夢だった気もする。ラッキーな夢だと思っていたものだ。
「下らねぇ……」
 本当に下らないが、夢の中身が判明した事に少しだけすっきりして、才人はベッドから降りた。
 彼が居るのは、随分と暗い部屋だった。今が早朝である事をある事を差っぴいても、暗すぎる。
 だが、それもやむなき話。
 使い古されて染料が落ちかけている薄茶色のカーテンを引いて、才人は外を眺めた。
 眼下には学院の裏手の大部分を占める広大な森林。逆に言えば、それ以外には何も見えない。空には未だ仄かに黒味の勝った群青の空。窓を開ければ冷たい風がひょおっと吹き込んで、森に住む獣のだろう遠吠えが微かに耳朶を振るわせる。
 春先だというのに全く春の訪れの感じ取れぬ、どこまでも寒々しい風景。
 朝も早い時間帯に、西向きの窓から見える景色などそんなものだ。
 うーん、と特に気持ち良くない朝の光景を眺めながら、大きく伸びをした。
 今日で、才人が再びルイズに召喚されてから丁度一週間。と言っても、地球の単位で表せば、だが。ハルケギニアの基準に従うのなら、明日で丁度一週間という事になる。
 そして、才人は彼女に召喚された翌日から、今彼の居る彼のために用意された部屋で生活していた。
 清潔そうなシーツに柔らかそうな毛布が被されたシングルベッド、一冊だけ本の入っている木製の本棚に、数着、定期的に学院を訪れる行商から買った真新しいシャツやパンツが入っている洋服棚。
 黒塗りのテーブルには、ぼろぼろの鎖帷子や皮の鞘に収まった短剣の他にも水差しとバスケットが置かれて、そのバスケットには無造作に夜食用の黒パンが数本突き刺さっている。
 広さは、部屋の奥から扉まで、大体才人が歩いて八歩というくらいだろうか。
 一所に長く留まるといった経験の少ない彼は、私物を部屋に置こうという意識が薄い。必要最低限のものしか置かれぬがらんとした部屋は、ぱっと見には誰も住んでいないと勘違いしてしまいそうでもある。
 その事が、部屋を実際のそれよりも随分と広く感じさせていた。
 事実として、ルイズの部屋に比べれば確かに狭いが、平民に与えられる部屋としてはそれなりに広いし、内装も才人には区別がつかない程度には整っているのだけれど。
 寝起き特有の口中の粘つきに、才人は水差しから水を口に含んで傍らの桶にぺっと吐き出す。
 そのまま水差しをテーブルに戻そうとして、才人はそれに気づいた。
 テーブルに、いくつもの円が描かれている。大きさは一定で、色は黒。外周は白く、そしてそれらの円が重なり合ってさながら幾何学模様を呈していた。
 何の事は無い。黒はテーブルの色で、白は埃。テーブルに薄く埃が積もっていて、それが丸い水差しに切り取られながらもその領域を広げようとしているという、ただそれだけの話。
 考えてみれば当たり前の事だ。才人がこの部屋に住むようになって一週間。掃除をした記憶は初日の一回のみである。
 その時の記憶が頭に蘇って、才人は苦笑を浮かべて雑巾を探し始めた。




 当たり前の話ではあるが、生徒や教師の住む寮塔に比べると平民用の寮の部屋は相当に質素である。
 狭い、暗い、汚いの三重苦。
 階段を上って、最奥の突き当たり。自分がこれから住むことになるその部屋に案内された才人は、思わず声を上げてしまった。
「うわぁ……」
 扉を開けた瞬間、隙間から濛々と噴き出したるは灰色の埃。
 それを払い咳き込みながら中を覗くと、西向きの窓から殆ど沈みかけた夕日が最後の抵抗とばかりに眩しく輝いているのが目に映る。
 天井からは、びっしりと張り巡らされた蜘蛛の巣が無数に垂れ下がり、扉を開けたことで回り始めた気流になびいて室内に射し込む夕日を反射させていた。
 ゆらゆらと揺れる蜘蛛の巣の動きに合わせて、反射された赤い光が踊っている。
 その、まるで炎に包まれているかのように幻想的な光景も、埃の匂いとともにあっては全く温かみというものを感じさせず、ただただ不気味だった。
 一体、この部屋は使われなくなってからどれほどの間放っておかれていたのだろうか。あまりにも壮絶な光景に、開かずの扉を開いてしまったんじゃ、などと益体も無い考えすら浮かぶ。
「い、一応、いいお部屋……なんですよ?」
 彼を此処まで案内したシエスタの声も硬い。
 本当に、一応この部屋はいい部屋のはずなのだ。シエスタの知る限りでは。
 貴族の部屋に比べれば確かに狭いが、平民の部屋としては十分すぎる程。
 西向きとはいえ平民用の寮塔でも最上階にあり、三つ隣の部屋はコック長のマルトー、その向かいは給仕長の部屋と、平民のお偉方が住んでいる。
 そんな並びの部屋に才人が住めることになったのは、公爵家令嬢ミス・ヴァリエールが従者にはそれなりの部屋に住んでもらおうという、学院側の厚意の結果だ。
 置かれている家具だって、高級と呼べる程の物ではないにしろ、決して粗悪なものではなかった。古臭いが、瀟洒とすら言える代物だ。
 狭い部屋を二人組みで使っている、シエスタを初めとした下っ端の平民たちに比べれば別格の待遇。
 それに。
「まずはお片付けをしないと、住めそうに無いですけど……」
「まぁ結構広いし、造りもしっかりしてるからいい部屋ってのは納得だ。……でも、うーん、いくらなんでも此処まで汚いと眠れそうに無いな」
 シエスタは知らぬが、才人もハルケギニアに来てからはそれなりに酷い生活を送って来ている。
 野宿なんてざらだし、屋根があってくれるならきこりのあばら家だろうが場末の安宿だろうが構っては居られない。
 勿論ツェルプストー邸やアンリエッタが匿われていた屋敷に泊まった時などは、向こうの厚意で殆ど貴族の部屋と変わらぬ豪華な私室を貸して貰っていたが、それはむしろ貴重な経験である。
 不満は無い。ちょっとどころじゃなく驚かされたのは確かだが、汚ければ掃除すれば良いだけの話だ。
「案内ありがと。こりゃちょっとやそっとじゃ住める環境に出来そうにないし、頼んでいた件は……今日は無理かな。明日からよろしく」
 肉体的にはともかく、精神的には、今日一日色々あった疲れがずっしりと才人に圧し掛かっていて、どうにも気が進まなかったが。
 そんな気持ちが、声に滲み出てしまっていたのだろうか。
「お手伝いしますよ」
「え……?」
 シエスタの提案に、才人は困ったように固まった。
「……? どうしたんですか?」
「あ、あー、その、何で?」
「何でって……、私、そんなにおかしな事言いましたか?」
 おかしい。ただ、心底不思議そうな顔で問い返してきたシエスタにそう言うのは、何故か間違ってる気がした。
「俺、別に疲れてないから」
「はい? えっと、それは何よりです」
「……」
「…………?」
 冷や汗が一筋、才人の背中を伝う。認めざるを得なかった。
 シエスタは、彼女にとって当然の提案をしただけに過ぎず、そこには何の思惑もありはしないらしいと言う事を。
「二人でやればすぐ済みますよ。さ、手早く片付けちゃいましょう」
「う、うん」
 ハルケギニアという過酷な世界に揉まれ、すっかり汚れきっちまった気で居る才人には彼女の在り方はそりゃもう眩しかった。
 シエスタは、才人よりも遥かに長い期間平民としてこのハルケギニアに暮らしているはずで、それでも尚てらい無くただ善意を持って人に対する事が出来るのだから。
 少しは相手を選んだほうがいいと思う、と偉そうな考えも頭に浮かんだが、それを口にするのはやめておく。
 才人にその気は無いし、そもそも選んでいないはずが無い。
 ただ、高々出会ってまだ数時間にもならぬ自分が、その対象になるくらい信用されているのだというその事実が妙に気恥ずかしい。
「とりあえず、用具は俺が持ってくるから。シエスタは手順を考えておいて」 
 一体これでいくつ目の借りなんだろうか、これを返すのは大変だなぁとため息を吐いて、才人は歩き出した。
 もしこの場を、かつて彼の相棒であった女性が見ていたとしたら、ため息とともにこう言っただろう。
 そんな、向こうも求めていないだろうお返しを態々馬鹿正直に考えているお前も十分にお人好しだと。
 そして、そんな彼女のため息も、才人のそれに似ていると誰かから評されるものだったのだろうが。


 そんなこんなで、才人はシエスタとともにこの部屋の掃除に奮闘したのだが。
『もういいじゃん』
『いえ、まだこことかそことか汚れてます。あ、カーテンも用意しないといけませんね』
『なぁ、俺としては寝れるだけでいいんだからさ、そこまで細かく……』
『駄目ですよ。ほら、早くバケツの水を替えてきてください』
『……わかった。でも後は俺一人でやるから、シエスタは戻りなよ。いい加減疲れたろ?』
『え?』
『もう日も沈んじゃってから結構経ってるし、相部屋の子も心配してるんじゃないか?』
『でも……』
『感謝はしてる。俺一人じゃここまで手際よく出来なかったろうし。そういえば今日は一日、迷惑掛けっぱなしだったな。ありがとう』
『いえ、迷惑だなんてそんな』
『送ってくよ。行こう』
『あ、はい。……ヒラガさん?』
『何?』
『バケツ、忘れてますよ?』
『え? バケツ……?』
『…………』
『あ、ああ! そうそう、バケツ、バケツね。うん。この後シエスタが部屋戻っても俺は掃除を続けるんだから、そりゃあ水替えのバケツを持たなくちゃ駄目だよな! いやー、うっかりしちゃったなー、はは……』
『ヒラガさん』
『……はい』
『お掃除、お手伝いします』
『……はい』


 言い訳をさせて貰うのならば、根無し草の才人は自室の掃除と言うものの必要性をそもそも理解出来ていないのである。
 根無し草になる前だって、彼は何処にでも居る普通の(多少だらしない)高校生だった。精々、年末に一回親に強制されて自室の大掃除をするくらいで、定期的に部屋の掃除などという習慣など持ち合わせては居ない。
 ルイズの部屋を掃除するのはまた別の話だ。いつかの習慣の中で、数少ない彼が定めた一線に抵触しない行為。彼にとっては進んでやって当然の事。
 だがそんな理屈が才人の過去を知らぬシエスタに理解できるわけも無い。
 シエスタの才人への評価には見た目のわりに誠実で真面目そうな人の他に、見た目どおりにだらしない、いい加減な人、と言う間逆の項目が新たに付け加えられ。
 翌日に行われたシエスタの講義において、その評価はダイレクトに才人に跳ね返ってきた。
 元々才人は従者として必要な知識、技能を教えてもらうだけのはずだった。
 なのにシエスタは開口一番、自分の部屋の掃除も満足に出来ない人が主人の部屋の掃除をきちんと出来るわけが無いでしょうなどと言って、以降も才人はシエスタに従者と言うかもてなす側の人間としての精神論を叩き込まれたのだ。


「ま、こんくらいかな」
 そう言って、本棚の上や窓枠等を見えない振りして雑巾をバケツに放り込んだ才人を見ると、彼女の講義は全くの無意味であったようにも思えてならないが。




 平賀才人の朝は早い。殆ど夜明けと共に彼の一日は始まる。学院に働く平民たちの朝も早いが、彼はそれよりも少し早く起きるようにしていた。
 食事前に、鍛錬をする為だ。
 他にもいくつか理由はあるのだが、それが一番の理由だろう。
 ガンダールヴの力は才人に己の力への自負をもたらしたが、初め、彼はこの大きな力を持て余していた。
 才人が、三年にも及ぶ年月をかけてそれこそ死に物狂いで身に着けた戦術は、非力な平民がメイジや、凶悪な亜人、怪物たちを相手に何とか戦いの格好を取り繕うためのものであって、決してそれらを真っ向から打ち破るためのものではないのである。
 体に染み付いた技術と、ガンダールヴのルーンが上手く噛み合わない。
 だからといって身体能力の向上のみに満足して、戦術は以前どおり、という訳にもいかない。それは余りにも勿体無いというのもあるし、それ以上に、彼の目的はルイズを護る事なのだ。奇襲暗殺が基本の“メイジ殺し”は、人を護る事を想定していない。
 それでも、ルーンを宿してもう一週間が経つ。今、自分には何が出来て、何が出来ないのか、それを彼は連日の鍛錬で大方把握出来ていた。
 服装は何時もの通りに、擦り切れた麻の衣服の上から鎖帷子を着る。昔の日本などでは、鎖帷子は別名着込み等とも呼ばれ、その名の通りに衣服の下に着込むのが通例であったが、ハルケギニアにおいては別に上に着ていてもそこまで不自然なものではない。
 勿論、平時において今の彼の姿は他の者から見れば示威的とすら受け取られかねないのは、先日のシエスタとのファーストコンタクトの例を見ても明らかだ。ただそれを避けるためのマントは生憎消し飛んでしまっている。
 結局破けていたらしいズボンの尻は指を血だらけにしながら不器用に繕ったのだが、首に巻きつけた部分しか残らなかったマントはどうやって補修すればいいというのか。
 まぁ、ルイズを守る為の代価としては安いものだし、いい加減才人の姿も学院の者たちに見慣れられて、初めの頃のようなトラブルを冒す心配も無くなってきているのだが。
「……?」
 鎖帷子を着る途中、指にちくりと痛みが奔って、才人は不思議そうに右手を眺めた。
 人差し指に血の玉が浮かんでいる。
「げ……」
 鎖帷子の、肩の辺りのリングのリベットが外れて、おまけに思いっきり歪んでいた。初めての経験では無いし、材料も手元にあるとはいえ、補修には三十分はかかるだろう。
 朝食と鍛錬の時間。どちらかは確実に潰れてしまう。
 急げばどうにかなるだろうか。いや、難しい。
 それに、ルイズを起こす時間を昨日よりも早くしなくてはならない理由もあった。
「っち」
 思わず、舌打ち。がるる、と腹の虫がうなり声を上げる。
 それでも、出来れば、鍛錬の時間は削りたくなかった。
 才人は数日で、ガンダールヴの力をほぼ理解することが出来た。それでも、彼は決してその事に満足せずに朝の鍛錬を続けている。
 デルフを手に入れるまでは、この短剣を用いた鍛錬にはこれ以上さして意味はないと悟った後もだ。
 習慣というのも無論あろう。その習慣は、自身の無力さに泣いた経験から来るもので。疎かに出来よう筈がない。
 だが、ただ使命感に突き動かされているだけではなく、それと同じくらいには、今の彼は鍛錬を楽しんでもいたのだ。
 自身の限界を、ぶつかっていた壁を容易く打ち壊したルーンの力。
 単純に、男として心が躍る。



 補修には思ったより時間がかかった。補修を始めようとしたところで、何と杭打ちの頭部が柄からすっぽ抜けてしまったのだ。
 こう言うのを泣きっ面に蜂って言うんだっけか、とため息を吐いて友人である衛兵ブラーシェの部屋の扉を叩き、夜通しの見張り番で疲れ果ててこれから寝ようか、という所だった彼を相当に不機嫌にさせながらもどうにか杭打ちを借り受けて自分の部屋に戻り、不器用な手つきでやっとこさ補修を終わらした。
 もしかしたら軽く朝食を食べる時間があるかも、という儚い望みは簡単に打ち砕かれた訳である。
 一食抜いた程度で十全の力を発揮できない等と言うつもりは無いが、一応健康な青年男子、食えるなら食っておきたかった。
 補修された鎖帷子を身に着けながら才人ははぁ、とため息を吐いて、扉を開けた。
 廊下に出る。そこで、ガチャリと左の方から音がしたのに目を向けた才人は、気まずげに顔を強張らせた。
 何ともまぁ、悪いことは続くものだ。
「……ども」
「ああ」
 そこに居たのは、マルトーだった。彼は才人とは対照的に上機嫌そうに笑みを浮かべている。
「よく会うな」
「そうっすね。俺もマルトーさんも朝は早いほうですから。むしろこれまで会わなかったのが不思議な話で」
 仕込みなど色々と忙しいのだろう。とは言え、彼の朝は他の平民と比べて特別に早いと言う訳ではない。
 ここで会ってしまったのは、才人が何時もより遅くに部屋を出た為である。
「お前が俺の事を避けてたんだろーが」
 苦笑しながらのマルトーの言葉に、才人は小さくすいません、とだけ返した。
 それだけが理由ではない。ただ、一因ではあった。
「何だ、まだ気にしてるのか?」
「まあ……。昨日の今日じゃそうそう切り替えられませんよ。今は、どっちかっていうと恥ずかしさが先に立ってますけど」
「フーローたちとは普通に飯食ってるんだろ?」
「あの人たちは、特にフーローさん最初からは全く俺の立場を気にしませんでしたからね」
「俺だってそうだ」
「そうですよ。だから恥ずかしいんじゃないですか」
 難儀な性格だな、とマルトーは笑って、才人もそれに合わせるように軽く笑った。
 いつかのように、愛想笑いでは無かった。

 ぶっちゃけ、自意識過剰だったのだ。ついでに、偏見を持ちすぎても居た。
 良かれと思っての行動が、たった二つの認識のズレでイタい勘違い野郎になってしまった。
 ああ、今思い出しても頬が熱い。穴があったら入りたい。いや、むしろここで掘る、掘らせてくれ。
 平賀才人20歳前後の偽らざる本音であった。



 
 あのギーシュとの決闘を境に、才人は学院内における自分の立場を改めた。
 具体的には、我らの剣と言って歓待するマルトーを筆頭としたアルヴィーズの食堂の面々に俺はあなた方の剣ではなく、ルイズの剣であるとはっきりと言い(ああ恥ずかしい、何であんな言い回しをしたのか)、他の平民たちにも自分は平民ではあるがルイズの味方、貴族側の人間だという事を明確に表明し。
 それが原因で、彼は数日間マルトーやその他平民たちとの関係を(一方的に)ギクシャクさせていたのだ。
 先日の夜までは。




 お茶の淹れ方というのは、従者にとってもある意味基本中の基本といえる。
 という訳で、いや、どういう訳か才人はいまいち理解しきれて居なかったのだが、その日の才人はシエスタに何度目かのお茶の淹れ方についての講義を受けていた。
 場所は平民用食堂の厨房。時刻は夜。扉の向こうからは酒の入っているらしい男の叫び声が聞こえるあたり、そう遅くではないようだ。
 椅子に腰掛けたシエスタを前に、才人がティーポットからお茶を注ぎいれた。
 それを見て、シエスタが問う。
「何ですか? これ」
「今日はブラックティー風に淹れてみた」
 才人の大きな手のひらにすっぽりと収まってしまうほどに小さなティーカップには、成る程彼の言葉も頷けるような黒い液体が注がれている。
「あ、あのですねぇ……」
 が、シエスタが上げたのは呆れたような苛立ったような声。だがそれも当然の事。こんな黒いお茶があるわけが無い。
 明らかに茶葉の入れ過ぎである。
 男の料理は豪快というのはハルケギニアでも通用する定型句だが、そうですかヒラガさんもそうなのですか、とシエスタとしてはため息を吐くしかない。
 シエスタの勤めている場所にはその定型句が通用しない男が複数人存在するが、そもそも自身の父親がばっちし当て嵌まる人だったので、彼らの方が例外だと彼女は思っている。
 まだ幼かった頃。とある冬の日。病気で寝込んだ母の代わりに父が作ったオートミールのあまりの玉葱臭さに弟妹たちとともに泣いた日を思い出して、シエスタは大きくため息を吐いた。
 何度言っても聞き入れてもらえない所も同じなのだ。
 いやはや、まさかこんな所で幼少の頃のトラウマを刺激される事になるとは、彼の頼みを聞き入れた時には予想もしていなかったなぁと。
 これでもかというくらいに私呆れていますという態度を示すシエスタに、流石の才人もちょっとあわてた様だった。
「いや、でも今回は違うんだって」
「何が違うんですか?」
「さっきも言ったとおり、これはブラックティー……」
 ブラックティーなんて、この国ではかなりマイナーな言葉だ。お茶といえばミルクティーが主流のアルビオンにおいて、素のままのお茶を示す為に作られた言葉であって、トリステインでは殆どの人はそんな言葉聞いたこともあるまい。
 シエスタだって、ずっと前に読んだ本に書いてあった記述を偶然覚えていただけで、少なくとも他人の口からそれを聞いた事は無かった。
 彼もまたシエスタと同じように本に載っていた言葉を見つけて、きっとそれが何を意味するかも分からないのに使っているんだろう。
 そもそも、当の本を才人に貸したのはシエスタである。それくらい、訳も無く理解できる。
 因みに、上記したとおりブラックティーとは素のままの紅茶、つまりストレートティーを指すわけであって、決して字面通りのブラック(黒い)ティー(お茶)を意味するものではない。
 何やら言い訳をしているらしい才人の声を右から左に聞き流し、シエスタは彼を見つめた。
 貴族を倒した時の彼はあんなに格好良かったのに、どうして普段はこうなんだろうかと思いながら。
 公爵家令嬢の従者、ゼロのルイズの使い魔、ギーシュを一蹴した平民の剣士、平民の剣(違)、ラ・ヴァリエールの剣(笑)。ちなみに括弧内は、前者は才人の、後者は才人の友人だという衛兵たちの感想だ。
 ともかくも、学院における現在の才人の評価は貴族と平民、そしてそれぞれの中でも好意悪意180度違う考えがあったりしていまいち明確ではないのだが、これだけははっきりと言える事がある。
 少なくとも、一目置かれて居るという事。召喚された翌日にあんな騒ぎを起こしたのだから当然と言えるだろう。
 だが。
「一々屁理屈を言わないで下さい」
 ばっさり。
 シエスタは、そんな色眼鏡をとっくのとうに外している。
 いくらなんでも、普段のヒラガさんは子供っぽすぎです。

 
 だんだんシエスタの態度から遠慮が無くなって来たなー。才人が最近とみに感じる事の一つである。
 不満は無い。そもそも構えた関係というのは苦手なのだ。かつて、それはそれは酷かった彼の演技力は、今や戦闘中に限れば見破られることはありえないとばかりまで向上したが、普段の生活でそれは疲れる。
 自分で飲んでみてください。そうシエスタに突っ返されたカップを強がって呷った。こちとら洒落ではなく毒杯を呷ったこともある。舌が痺れる程に濃い紅茶でも、才人にとっては表情を取り繕う必要すらない。
 少し目を丸くして、でも呆れたままの表情でどうですか? と問うシエスタに、才人はこう答えた。
「昨日よりはマシだと思う。明日はもっとマシになってるんじゃないかな。シエスタのおかげだよ、ありがとう」
「……」
 本音だったのだが、なぜかシエスタは押し黙ってしまった。
「? どうかした?」
「何でもありません」
 ちょっと怒った風にそう言って、シエスタはポットに手を伸ばす。何が何でもないのか、というか何をする気なのか、と首を傾げた才人を尻目に、新しいカップに紅茶を注ぎ入れる。
 そして、才人が止める間もなく、その、先ほど突っ返した筈の才人の紅茶を口に運んだ。
 一口。顔を顰める。才人が口を開き何かを言おうとする前に、更にぐいっと、一気に残りを喉に流し込んでしまう。
 そして、顔を顰めたままカップをテーブルに戻した。
「シエスタ?」
 才人には、彼女の行動は完全に理解不能だった。一度は突っ返した紅茶を、何でわざわざ飲んだのか。元々淹れた本人からして絶対に美味しくないだろうと思っていた紅茶である。
 突っ返されて、実はほっとしていたというのに。
「渋すぎます」
「え? ああ、うん。確かに……」
「こんな紅茶で、教えた事のお礼を言われてもうれしくありません」
「……う」
 きつい。ブラックティーの下り、教えてもらっている立場でふざけすぎただろうか。いや、下手糞過ぎる腕前を自嘲気味に茶化しただけであって、決して淹れる時もふざけていた訳ではないのだけれども。
 冷や汗を浮かべる才人に、シエスタはちょっと笑った。
「もう一度。今度は私の前で淹れて見て下さい」
「わ、わかった」
 誰にでも経験のあることだろうと思う。教師に見つめられながら成果を示すのはとても気まずく、やり難い。自信が無いのなら尚更だ。
 だが、あんな不味い紅茶を淹れた後では、そんな言い訳を口に出来る筈も無いのだった。



 夜女性の一人歩きが危険なのは地球もハルケギニアも同じことだが、その危険度は格段に違う。
 とは言え、それは街中や街道での話である。平民だろうが貴族だろうが、住んでいる者、勤めている者の身元どころか所在すらしっかりと把握されていて、更に至る所に衛兵が配置されているこのトリステイン魔法学院内において、たかだか食堂から寮に戻る道中を女性一人で歩くことにどれほどの危険性があるというのか。
「しっかしごめんな、こんな毎晩毎晩」
「いえ、お給金ももらってますし、それに人に自分の仕事を教えるというのも楽しいですよ? それに私にとっても勉強にもなってます」
 だから、これは礼儀だった。才人もシエスタも、昼日中は己の仕事があってなかなかに忙しい。夜、下手したら深夜になってからの講義の帰りに、シエスタを寮まで送っていく。
 いくら平民の人権に対する意識の薄いハルケギニアと言えど、いや、それでもその事実を知った時才人は結構驚いたのだが、男性と女性の寮は基本的に分けられていて、更に幾つか建っている平民用の寮の中で、才人の住む寮とシエスタの住む寮は一番離れていた。お堅いトリステインらしいとも言えるのだろうが。
「へぇ、そういうものなのか?」
「はい、そういうものなんです」
「人にものを教えるのは、自分にとっても勉強になる……か。どっかで聞いた言葉だな。あれ? 人にものを教えるには自分はそれに何倍も詳しくなくちゃいけない、だったかな」
 十分にも満たない短い時間だが、才人はそれなりにこの時間を楽しんでいた。明かりといえば空に浮かぶ二つの月と、後はまばらに建つ建物の窓から漏れるランプの光だけ。それらは弱々しく、だが足元が見えるくらいにはしっかりと、夜のトリステイン学院を仄かに照らしあげている。
 風情、といった面で言えば日本のコンクリートジャングルなんぞハルケギニアの足元にも及ばないだろう。
 その事に郷愁を感じるには、才人はハルケギニアに長く暮らしすぎていた。ただ、こんないい雰囲気の中を容姿可憐器量良しと三拍子揃った女友達と、取り留めのない事を話しながら歩くのを楽しんでいるだけだ。 
 貴族のお嬢様に亡国のお姫様に銃士隊の隊長以下の面々に後は馴染みの娼婦たち。このハルケギニアに来てより色んな女性と知り合い、ある者とは行為を交わし、ある者とは共に戦った。彼の女性の知り合いはかなりバリエーション豊かなものだったが、シエスタみたいなタイプは居なかった。
 性格だけを見ればアンリエッタか。立場が違うので、こんな気軽に言葉を交わす関係では決してなかったけれども。
 現時点では深窓のお姫様とメイドな平民。まさしく天と地ほどに身分の離れた二人を並べ立て、似たタイプだと思ってしまうのは、……果たしてどちらが変わり者なのやら。
「そう言えば、あの話はどうなりましたか?」 
「あの話?」
 ふと、シエスタが振ってきた言葉に、才人は首をかしげた。
「ミス・ヴァリエールの事です」
「あぁ……」
 生返事を返して、空を見上げる。
 あからさまな誤魔化しに、シエスタが目を吊り上げた。雰囲気でそれを察して、才人は慌てて口を開く。
「恥ずかしいんだって。今更そんな」
「駄目です。平賀さんはミス・ヴァリエールの従者なんですから、私たちとは違うんですよ?」
「でもなぁ」
「とにかく、明日の朝一番で言ってみて下さい。時間が経てば経つほどもっと恥ずかしくなるでしょうし」
「努力する……と」
 楽しいお喋りに、気を抜いてしまったのか。
 いや、気を抜くも何も、平和な学院内で何に警戒というのか。だからこれは、不運なだけだ。
 恐らくはお互いに帰り道。
 だが、朝の早いはずのコック長がどうしてこんな深夜に出歩いていたのだろう。珍しい事もあるものである。
 本当に不運だと、才人は深くため息を吐いた。
 避けて避けて明日でもう一週間。予想もつかない場所と時間に、ばったりと出会ってしまったのだから。
 向こうもこちらに気づいたらしい。僅かに目を見開いて才人を見やり、そして横のシエスタに視線を走らせ、また才人に戻した。
「…………」
 別に、気まずく思う必要など無い。才人は自分の思うところを言っただけである。勝手に期待されたのを否定しただけで、裏切ったつもりも無ければ裏切られたと思われる謂れも無い。
 もしあの時逃げ出さなかったら、そうやって胸を張れたんだけどなぁ……。
 そう、才人は逃げ出してしまったのだ。あの時、自分を歓待しようとするマルトーらに対して自分の立場を表明した直後に。
 予想は付いていた。以前も似たような事があったから。才人は以前と同じ行動を心がけてなど居ないが、ギーシュとの決闘を繰り返してしまった以上、それもまた繰り返されるのは必然ともいえた。
『俺は、俺の剣はミス・ヴァリエールの為にのみ振るわれます。我らの剣なんて呼ばれるのは、……その、正直迷惑です』
 そう言った時の、食堂内の雰囲気の悪さは、今思い返すだけでも顔を顰めたくなるほどには最悪だった。そして、それに耐えられずに、才人は逃げ出したのだ。
「…………」
 だからこそ気まずくて、でもここでまた逃げ出すのはいくらなんでも失礼で。故に才人は沈黙することしか出来ない。
 貴族寄りである事へであったら、罵声も侮蔑も才人は覚悟の上である。堂々と胸を晴れる。自分はルイズの従者兼使い魔なのだから。
 でも、逃げ出したのはどうにも胸の張りようが無い。
 どっちつかずで宙ぶらりんなまま固まった才人は、故にマルトーの目が笑っている事に気づけなかった。
「なぁ、ヒラガ」
「……なんすか?」
「いい加減、俺に言うべき言葉があるんじゃないか?」


 本当に、自意識過剰。偏見を持ちすぎ。
 そして何より、思い上がっていた。早めに気づけたのは幸いだったろう。
 ここは、才人にとっては未来だが、同時に過去でもある。他の誰もが知らぬ事を才人は知っていて、そして逢ったことのある見知らぬ相手の人となりすらある程度理解できている。
 だからこその失敗。才人にとって、マルトーは貴族嫌いで腕のいい学園のコック長という、それだけでしかない。
 そして、それが全てだと思っていた。以前は知らなかった人の一面なんて、シエスタで散々理解させられていたというのに、だ。
 これは後に知った事だが、聞けばマルトーは学院の教師で当然貴族であるコルベールとそれなりに親しい間柄だという話ではないか。


「その、いきなり立ち去ってすいませんでした。俺の為に用意してくれた席なのに……」
「おう、そうだな。ただで許せる範囲を超えてるぜ? 何でいきなり出てったのか、詳しく聞かせてもらおうじゃねえか」
 何故立ち去ったのか。それを問われても、あの時言い放った言葉の真意は問われない。
 それが、全てを示していた。


 早めに気づけてよかった。自分の思い上がりを。
 以前の知識だけで判断する。それが過ちを招くという事を。
 取り返しのつく過ちで気づけたことは、本当に幸いだった。




 ほんの少しの気まずさを残しながらもマルトーと友好的に会話した後、才人はその足で学院の門へと向かった。
 無駄に荘厳な(才人にとってそう感じるだけで、トリステイン魔法学院という歴史と権威のある学院の門としてはむしろ相応なのだが)正式の門ではなく、平民や教師がちょっとした用事で外に出る時に使う勝手口のような門だ。
 ここ一週間で随分と増えた顔見知りの衛兵、そのうちの一人と軽く挨拶を交わして、外に出る。
 軽く体をほぐし、そして右手に聳え立つ高い塀沿いに走り始めた。
 傭兵にとって体力は大きな比重を占める。常に十全の力を出せて当然。その為の体力作りは欠かせない。
 その為の手段として、ランニングはもっとも手軽だ。
 そして、体力作り以外にも、これは役に立つ。
 とんとん、と固定化のかけられている古びたスニーカーのつま先で軽く地面を叩き。
「さて」
 今日は何周しようかな。
 朝飯を抜いた事による空腹感を慣れ親しんだものとして、やはり手馴れた調子で無視しつつ、才人はぐるりと三十分ほどで学院を一周してのけた。
 この時点で、ルイズを起こす時間まで後残りは二十分ほど。いや、ルイズを汗臭い体で起こすわけにも行かないので、その前に身づくろいをする時間も含めれば鍛錬に使えるのは後精々十分程度しかない。
 当然、後何周も、どころか一周すら難しい時間だ。
 普通なら。
 そして、少なくとも今の才人は普通ではない。
 腰に下げた短剣を抜いて軽く息を整えると、彼は再び走り始める。
 抜き身の刃を光らせながら全力疾走する男の図はどう考えても異常だが、才人は特に気にしなかった。少なくとも、才人が走る速度は手に持つ短剣を視認できるほど鈍い動きではないのだ。
 精々後十分しかない。さて、後何周しようかな。
「く」
 以前は気づかなかった、ガンダールヴの齎すある種全能感のようなものに酔いしれながら走り続ける才人は、知らず口の端を軽く吊り上げていた。




 がちゃり、と扉が開く。その時には、既にルイズは支度を全て済ませていた。
 朝も早くの、寮塔の自室。カーテンの開かれた東向きの窓から差し込む暖かい朝日を背に受けて、開かれた扉から入ってくる男に顔を向ける。
 急いで準備をした為に、軽く息を切らしているのを、ゆっくりと落ち着けながら。
「失礼します、ミス・ヴァリエール……って」
「あら、お早うヒラガ。今日も随分ゆっくりね?」
 そして、もう三日目だというのにいちいちびっくりしたように動きを止める己の従者に、ルイズは勝ち誇ったような笑みを浮かべて迎え入れた。
 何をしていいのか分からなかったが、どうやらこの思いつきは成功しているらしいと。
錯覚かも知れないが。
 何せ、何をどうしたら良いのかすら分からない手探りの段階である。常に落ち着き払っている才人の驚いた表情を見れるだけでも、ルイズには軽い手ごたえを感じさせてくれる。
 無論、ルイズは別に才人の驚いた、戸惑った様子を見たいわけではない。いや、100%ない、とまでは言い切れないけど。
 とにかく、違うのである。ルイズの目的はそんなものではない。
 彼女の目的、それは立派な主人の姿を己の従者兼使い魔に見せる事だ。
 ルイズは元々、自分を立派な貴族だと思っている。魔法こそ使えないものの、それ以外の立ち振る舞いについてはその自負があるし、その為の教育も厳しい母と姉等からしっかりと受けて、それを十全に実践してきた。
 だが、だからといってこれまでどおりで良いのか、それにルイズは首を傾げてしまうのだ。
 故にこその試行錯誤、その一環として始めて今日が三日目となるこの行動。
 ぶっちゃけ、才人を召還する前は普通にやっていた事を再開しただけなのだが。
 ただ、感じられるのは軽い手ごたえという頼りないもので、明日以降も続けるかどうか迷っても居た。
 別に、朝起きるのが辛いというわけではない。いや、低血圧なルイズとしては正直辛いが、前述したとおり才人が来る前は普通にやっていたことだ。
 つまり、他に問題があるという事で。
「……失礼しました。昨日よりは早めに来たつもりだったのですが」
「そうね」
 初日なんかは何か至らぬ点があったでしょうかとか随分と焦った様子を見せた才人だが、三日目とあっては入るときに一瞬驚いただけですぐに平静に戻ってしまう事。いや、何度も言うが別にルイズは才人の驚いた様子を見るのが目的では無いが。
 そしてそれ以上の問題。それは、彼女の行動がヒラガとのチキンレースの様相を呈し始めてきた事である。
 初日は不意打ちで才人を驚かせる事が出来たが、この出来た従者が二日目以降も何時もどおりの時間に起こしに来ると思うほどルイズは才人の事を甘く見ては居ない。
 二日目は安全に安全をとってかなり早めに起きたが、それでも割りとぎりぎりだった。
 そして三日目の今日。ルイズはついさっき準備を終えたばかりである。というか、扉がひらく直前に慌ててマントの前を留めたくらいだ。
 このまま行くと、果たして明日はいったいどれだけ早く起きる必要があるのか。
 どうしよう、と考え込むルイズを尻目に才人は何故か失礼、と一言言うと、彼女に背を向けて今後ろ手に閉めたはずの扉を開いた。
「ヒラガ?」
 そしてすぐにルイズに振り返る。手には、ティーカップとポット、それに茶菓子を乗せた銀盆を持って。
 才人の体越しに、扉が再び閉まる直前に一瞬だけ、腰を曲げて一礼するメイドの姿が見えた。
「それでは朝食まで時間もありますし、朝のお茶でもどうぞ」
 チキンレースなど、とんだ勘違いだった。才人は既に、そんな馬鹿げた競争など放り捨てて、別の手段で己が職務を全うしようとしていたのだ。
 連日の訓練でそれなりに自信がついているのだろう颯爽とした仕草でお茶の準備に取り掛かる才人を見ながら、ルイズは軽く下唇をかみ締めた。


 切り出しにくい。何処か不備でもあっただろうか。いや、不備があったらその場で言ってくれるからそれは無いか、でもだとしたら何でだろう?
 主の心情を理解し得ない無能な従者は、首を傾げながらシエスタから教えられたとおりにルイズへお茶を振舞った。
「その、こちらは木苺のパイです」
「そう」
 切り出しにくい。つっけんどんな仕草に腹の下を冷たいものが流れ落ちる。この雰囲気の中でどうしろっていうんだ。
 才人は逃げ出したくなったが、扉の向こうからのプレッシャーは収まらない。というか、先ほど盆を受け取る時よりも強くなっている気がする。扉越しなのに。
「これはあんたが淹れたの?」
 ふと、ルイズが話しかけてきたのに思考を中断させられた。彼女が掲げたのは白いティーカップ。その中に、湯気を立てて赤みがかった褐色の液体が入っている。
 ルイズの表情は変わらない。お茶の準備をするまでは上機嫌に見えたのに、急に不機嫌、というか落ち込み始めた。そのままである。
 声だって暗いもの。話題に窮したから唯なんとなく聞いてみた、そんな感じだ。よりによってそれを選ばないでくれ! と才人としては悲鳴を上げたくなったが。
 とはいえど、流石にこんな事で嘘をつくわけにもいくまい。
「えーっと、……いえ、違います」 
「……ふうん?」
 だが、それに渋々否定を返すとルイズの雰囲気が変わった。おや? と才人は思う。
「ねえヒラガ、あんたメイドにお茶の淹れ方を習い始めてどれくらい経ったのかしら?」
 何故に、急に上機嫌なんだろうか。弾むような声。対して才人は、ついさっきまでのルイズのような声で返す。
「そろそろ、……週が一回りするくらいですか」
「ならそろそろあんたの淹れたお茶が飲みたいのだけれど。ねぇヒラガ、主人として、いい加減従者の腕前を見てみたいわ」
 俺の淹れたお茶ってあれか。あの希釈前のカルピスみたいなあれなのか。
「ごめんなさい勘弁してください」
 平謝りする。幾らなんでもあんなものをルイズに飲ませるとか無理である。才人の従者としての自己評価は底辺もいい所であるが、そんな底辺にもちっぽけながらプライドというものがあるのだ。
 出来たら、初めて主人の為に淹れるお茶、美味しいと言って貰いたい。
「もう週が一回りしそうだというのにそれ? いったいわたしは何時になったら従者の淹れたお茶を飲みながらゆっくり出来るのかしらね」
 何かもうルイズはノリノリである。全く以って意味が分からない。何がルイズをここまで上機嫌にさせたのか。
「……。……。…………フリッグの舞踏会までには、何とか」
 搾り出すようにして応えた。期待してるからね、そう口の端を吊り上げるルイズを死んだ魚の目で眺めつつ、今がチャンスではないのか、と才人は思った。
 扉越しに伝わるプレッシャーも、そろそろ物理的な力を持ちそうな具合になってきているし。ルイズの上機嫌の理由も分からないが、どうしてあそこまでシエスタが張り切っているのかもさっぱり分からない。
 才人がこれまで接してきた女性たちは、それ以前に同類か戦友といった関係ばっかである。女心は神秘でいっぱいだ。
 すー、と息を吸って気合を入れる。言うか、よし、言うぞ、俺。
「ではそろそろ時間ですし朝食に向かいましょうか、……ぉ、お嬢様」
 貴族のお嬢様らしい慎み深い仕草で上品にお茶を楽しんでいたルイズは、ぶほっ、と貴族のお嬢様らしからぬはしたない仕草で下品にもお茶を噴出した。


「それで?」
 わざわざ早起きして済ませた準備の悉くを台無しにしてくれた己の従者に、ルイズは怒りを押し殺した低い声で問う。
「申し訳ない。その、まさかあそこまで驚くとは思わなかったので。あ、腕を上げてください」
「そ・れ・で?」 
 顔を洗うための水を大急ぎで汲んできた才人は僅かに息を切らしており、顔も赤かった。
「その、シエスタ、あー、俺の先生なメイドの子なんですけど、その子が何でヒラガさんはミス・ヴァリエールの従者なのに他人行儀な呼び方をするんですか、と言ってきまして」
 ルイズの顔も赤いが、これは怒っているためだ。決して、常に他人行儀だった従者兼使い魔からいきなりお嬢様、などと呼ばれて照れているわけではない。
「そ、そう。……ま、確かにそのメイドの言うとおりね。わたしに雇われた以上、あんたはヴァリエールの人間なんだし」
 ラ・ヴァリエール領内に、ルイズをミス・ヴァリエールなどと呼ぶ者は居ない。考えてみれば当然の事だ。
「そですか、じゃあやっぱりこれからは、……お、お嬢様、と呼ぶべきですかね。っと、動かないでください」
「……」
 お嬢様、それだけの言葉を実に言いにくそうにしている才人を見て、ルイズは才人の顔が赤いのが急に運動をしたからだけでは無いらしいと直ぐに気づいた。
 ふと、そしてむくむくと悪戯心が沸きあがる。
 この男、メイドどころかあのキュルケにすら(!)まるで興味の無いそぶりで接しておいて、ルイズに対してだけは指の先が触れたとかちょっとした事ですぐ照れるのである。
 その割に着替えの際などには一切が事務的なのがアンバランスではあるが、その為ルイズは才人を特に警戒していない。
 自分の体が男の獣性を刺激し得ないモノだということぐらい理解しているというのもある。……実に業腹だが。
 今ルイズは着替え中だが、やはり才人が照れている原因は違うだろう。……本当に業腹だが。
 いくら才人でも例えばキュルケの裸などを見たら流石に照れると思う。ああもうホンットウに業腹よ!
 とにかく、悪戯心が沸いたのである。黙り込んだルイズにその、お嬢様? と蚊の鳴くような声で問いかけてくる才人に向けて、ルイズは若干頬を染めながら口を開いた。
 無論、これは照れているわけではない。先ほどの怒りがまだ引いていないだけだ。
「お嬢様、じゃ誰を指しているか分からないわね」
「ぅえ!?」
 取り乱した様子は愉快だったが、タイを締めている途中だったので首が絞まった。
「す、すみません!」
 けほ、と咳き込んだが敢えてその事への叱責はせず(これに怒ったら先ほど紅茶を噴出させられた事に対する叱責は間違いという事になる)、ルイズはにやにやしながら三度それで? を繰り返した。
「えっと、じゃあやっぱりミス・ヴァリエールで……」
「却下」
「ですよねー……。えーと、じゃあヴァリエールお嬢様?」
「却下ね」
「ミス・ヴァリエールお嬢様?」
「訳が分からないわ。却下」
「ミス・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールお嬢さ――」
「あんた、もしかしてふざけてる?」
 半眼になってそう言ったルイズは、思わず息を呑んだ。俯いてごにょごにょと訳の分からぬ事を言っていた才人が、急に顔を上げたからだ。
 トリステインには珍しい黒色の瞳が、ルイズを見つめている。
 その顔には、おふざけの欠片も見られない。それどころではない。羞恥も、困惑も、その表情からは抜け落ちていて。
「ルイズ――」
「……え?」
「――お嬢様、というのはどうでしょうか」
「……ごめんなさい、聞こえなかったわ。もう一度お願い」
「ルイズお嬢様」
「…………」
 その言葉を、才人がどれ程の葛藤を以って引きずり出したのかは、ルイズには決して理解できないだろう。
 ただ、その黒い瞳に、ルイズ以外の何者をも映していないその瞳に、彼女はただ呑まれていた。
「それで、ですね。一つだけお願いがあるんですけど」
「……言ってみなさい」
「俺のことは、才人、って呼んでくれませんか」
「サイト? あんたの名前はヒラガでしょ?」
「それはそうなんですけど、俺の本名は平賀才人、えっと、才人平賀、かな? とにかく、平賀はファミリーネームなんです」
「そ、そうなの。えっと、じゃあ……」
 また一つ、前に進めた。そんな才人の思いを理解し得ぬままに、
「……サイト?」
「なんでしょうか、ルイズお嬢様」
 ちょっと頬を赤らめてのルイズの言葉に、才人もまた顔を赤らめて、笑顔で応えたのだった。






あとがき
 とりあえず、一巻分終わるまではsageでいきます。超々不定期更新にも程があるので。
 こんなに間を空けたのに待っていて下さっていた方、有り難うございます。



[4677] 外伝:初めて人を殺した日
Name: 歪栗◆970799f4 ID:0f526f1d
Date: 2009/02/11 02:33
 怒号と、悲鳴。子供の泣き声が信じられないほどに耳障りに聞こえた。
 がたがたと体は震えていて、瞳から絶えず涙が流れている。煩わしいのに、小刻みに震える腕はピクリとも動かせず、涙とともに垂れる鼻水すらぬぐう事が出来ない。
 怖かった。こんなに恐ろしい事があるのかと、世界にこれほどの恐怖が存在していいのかと心の中で怨嗟をあげる。
 板張りの床に体育座りの格好で座り込み、分厚い布を頭まで被った体勢で、彼はひたすら外が静かになるのを願っていた。
 すぐに、それは叶う。一度、野太い男の怒号が響いた。女の絶叫は、まるでテレビのスイッチを切るようにぷつりと途切れる。とっくに、子供の泣き声はやんでいた。
 最後に、か細い声で『お兄ちゃん、助けて……』という声が聞こえた気がしたが、彼はそれを気のせいだと決め付けた。
 気のせいに決まっている。何故親を目の前で殺された子供が、今日会ったばかりの少年に助けを求めるというのか。
 お父さん、お母さんと叫んでいただけだ。そして、物言わぬ躯に泣きついて、そのまま殺されたのだろう。
「ぐぅ……!」
 吐き気を催して、必死で堪えた。動かなかったはずの腕は、己の危機には呆れるほどに従順だった。
 右手で、口を押さえる。ここ二日ほど何も食べていなかったが、数時間ほど前に出会った彼らにご馳走になったパンとシチューが、どろどろと溶け合って手のひらに不快な感触を伝えてきた。
 このどろどろが、彼女の作った最後の料理なんだろう。吐き気は更に強まり、その衝動を押さえつけるように彼は強引に飲み下した。
「……っはぁ、はぁ、はぁ」
 引きつるように息をする。狭い空間に無理やり体を押し込めていた彼は、更にぎゅっと体を縮こまらせて、周囲の音に耳をすませた。
 一体何人居るのだろうか。複数の足音が床に押し付けた尻から振動となって彼にその存在を主張している。
 居なくなれ。早く、居なくなれ。
 今度は、願いは叶ってくれなかった。
『大将、こっちの馬車には何が入ってるんですかね?』
『あぁ? 何言ってんだてめぇ。こっちこそ本命だろう。サルト産の毛織物だよ。上物だぜ? さぁて、今日の成果を確かめっとすっか』
 心臓を、鷲づかみにされた気分だった。体の震えは更に大きくなり、ついに失禁してしまったのか、股の間がいやに生ぬるい。
『へぇ、毛織物ねぇ……』
『てめぇらはホント物の価値がわからねえんだな』
『大将とは生まれが違いますよ。それに俺らにとっちゃこの仕事は、女を抱けるのが美味しいんで。あーあ畜生、いい女だったってのにあんなんにしちまいやがって』
 足音が、止まる。我慢しきれず、布の間から顔を覗かせた。
「あ……」
 薄布の向こう、男の影が二つ、確かに映っている。
「……ぅあ、あ、ヒ――」
 無意識に、ゲロのついた手で剣を握っていた。鞘はとっくに抜いてある。
 初めは、これで戦おうとも思っていたのだ。
『どこがよ、中古の年増だったじゃねぇか……ん? ちょっと待て』
『へ? どうしました?』
『お前、先に馬車の中に入って中を改めろ」
『まぁ、いいっすけど、何かあるんすか?』
 よいしょ、と気の抜けた掛け声とともに掛け布が捲り上がり、男が一人中に入ってきた。
 そして一歩一歩、こちらに近づいてくる。
 ドクン、と心臓が跳ね上がる。ドクン、ドクン、ドクンドクンドクンドクドクドクドクとうるさいこんなにうるさいんじゃ俺がここに居るってばれちゃうじゃないかでもどっちにしろすぐにばれちゃうのか。
(死にたくない)
 だから、戦うのをやめたのだ。
「中を改めろったってこんなに暗くちゃ何も……」
 ぶつくさと呟いて、ついに男が才人の前まで来た。そのまま、彼には気づかず通り過ぎようとして。
『分かってる! いいからちょっと待て! ……よし、見逃すなよ!』
「へいへい」
(死にたくない)
 だから、こんなところで震えているのだ。
 うっすらと、光の粉のようなものが彼の目の前に溢れた。
「お?」
 そして、男は彼のすぐ傍で足を止めた。にんまりと笑って、分厚い布が不恰好に膨らんでいるのを足で小突く。
『どうだ!?』
「見つけましたぜ! へ、ネズミが一匹居やがった! 可愛そうにぷるぷると震えていらぁ!」
(死にたくない)
 だから、誰かの悲鳴も聞こえない振りをしたのだ。
『とっとと殺せ! あ、待て! こっちまで引っ張りだせ! 商品を血で汚しちゃ台無しだからよ!』
「分かりましたよっと。へへ、それじゃご対面……へ?」
(俺は、死にたくない!!)
 だから彼は――、
 男は、あっさりと彼が被っていた毛布を剥ぎ取った。男のにやけ顔が、剣を握り締めた彼の姿に凍りつく。
 そして。
「うわぁあああああ!!!」
 恐怖の余りに裏返った叫びとともに、彼は男の腹に手に持った剣を突き出した。
 ――人を殺す事に、躊躇いを覚えなかったのだろう。
「あ? なん……」
 男は、不思議そうに彼を見て、次に彼の持つ剣、そして、剣が突き刺さり赤いモノを溢れさせる自分の腹と視線を移らせた。
『おい! 何が起こった!?』
「死ねっ! 死ね死ね死ね!!」
 抉る。血が飛び散り、彼の顔を汚すが気にもならない。
「――――」
 断末魔の声も上げずに、男はそのまま息絶えた。
「はぁっはぁっはぁ!」
『くそっ! おい! 返事をしやがれ!』
 血走った目で、彼は馬車の出口を睨んだ。
 掛けられた布が再びめくり上げられ、差し込んだ眩い光に目を細める。
 そこに、もう一人の男が立っていた。
「……っち」
 男は一瞬驚愕したようだが、すぐに舌打ちをすると手に持った棒のような物を彼に向けた。
「おい坊主。丸焼きにされたくなかったら出て来い。焼かれ死ぬってのは相当苦しいもんだぜ? 大人しく出てくれば首を刎ねてやるからよ。そっちの方が楽だろ?」
 それは、まるで地の底から響いてくるように恐ろしい声だった。
「い、いやだ!」
 彼は剣を馬車の外に立つ男に向けて、かすれ声で叫ぶ。
「あぁ? なら焼け死ぬか?」
「いやだ! お、俺は死にたくないんだ! 死にたくない! 死にたくないだけなのに!」
「そうか」
 え? と彼は戸惑ったように声を上げた。男の声が、急に優しげに変わったからだ。
「わかった。お前は助けてやるよ。だから出てきな」
「ほ、本当に……?」
「ああ。俺は嘘をつかねぇ。見ろよこれ。俺はメイジだぜ? 貴族様が嘘をつくわけねぇだろ?」
「あ、……あぁ」
 一歩。彼は導かれるように足を出口に向けて踏み出そうとして。
「待ちな、相棒」
「な、何だよ……?」
 小声での囁きに、慌てて足を止めた。
「あいつの言葉を信じるのか……?」
「だ、だって、あいつは俺を殺さないって……!」
「おい、とっとと来い!」
 外からの怒声に、彼はびくりと体を竦ませた。
「嘘に決まってんだろ、そんな事。いいか相棒、良く聞きな。死にたくないんだろ?」
「……」
 がくがくと、頷く。
「だったらよ……」
 小声で、その声は彼に成すべき事を伝えた。
「どうよ? 簡単だろ?」
「そ、そんなの……」
 出来っこない。そう言おうとした彼に、声は更に言葉を被せる。
「出来る出来ないじゃねぇ。それしかねぇんだよ、相棒。――いい加減覚悟を決めな」
 ごくりと、彼は唾を飲み込んだ。手が白くなるほどに、ぐっと剣を握り締める。
『大将? どうしました?』
『あれ? あの野郎は大将と一緒に居たんじゃないんすか? その馬車の中ですかい?』
「てめぇらは黙ってろ。……さぁ坊主、いい加減出て来いよ。言ったろ? 殺しはしねぇから、な?」
 眩しさにようやく目が慣れて、彼は彼の居る馬車の外を見通せるようになっていた。
 そこに、男が一人立っている。分厚い唇に、異様に細い目。額はてかてかと脂ぎって、短く刈り込んだ金髪の生え際に大きな傷跡があった。
 がっしりと頑強な肉体に、太い首。それを、傷だらけの鉄製らしい鎧で包んでいる。
 右手に持った杖だけが、男が紛うこと無きメイジであると主張していた。
 勝てるわけが無い。自分は、ただの高校生に過ぎないのだ。それなのに、あんな強そうな男に勝てるわけが無い。
(でも……)
 震える足で、彼はようやく一歩目を踏み出した。
「おし、ほら、とっととしな」
(でも、俺は……)
 もう一歩。男がその細い目を更に細めてにやりと笑った。
(俺は……、死にたくないんだ!!)
「うぉおおおおぁああああ!!」
 突っ込む。振りかぶりもしない。ただ剣を真っ直ぐに突き出したまま、彼は男に向け駆け出した。
「馬鹿野郎が」
 てんで素人の動きといえど、そうそう侮れはしない。使い手は素人だろうと、凶器は凶器。それに、彼の持つ剣は既に男の仲間を一人殺しているのだから。
 こういうぶち切れた素人ってのは一番厄介なんだよな、と男は冷静に考えながら、身を引く事で彼の剣をあっさりと躱していた。
 彼はそのまま、馬車から飛び降りる。スニーカーが地面を滑って転びそうになり、慌てて踏みとどまった。
(まず一点目。馬車から出たら、上手く着地することだけを考えな。絶対に転ぶんじゃねぇぞ)
「おわ……!」
「な、何だ!? この餓鬼!」
「おい! あいつはどうしたんだよ!」
(二点目。馬車から出ても絶対に逃げるな。相棒の足じゃ逃げ切れっこねぇからよ)
 すぐに彼は振り向いて、メイジの男を視線に捉えた。他に男は4人。
 それぞれ手に剣や槍を持っていて、そして一斉に彼に向けてそれらを構えた。
 彼はそれを無理やりに無視して、メイジの男に剣を向ける。
(三点目。外に敵が何人いようと、気にするな。あの野郎だけを相手にするんだ)
「おい小僧。なんだそれ?」
「…………」
 彼は答えずに、男を睨みつけた。怖い。怖くて堪らない。
 でも何故か、体の震えは止まっていた。
「へぇ?」
 それにメイジの男はにやにやと笑って、杖を突き出した。
「た、大将? なんすかこいつ」
「ちょっと離れてな。どうやら丸焼きをご所望らしい」
 その声に、男たちもまたにやりと笑う。
「贅沢な餓鬼っすね?」
「大将に丸焼きをご馳走になるたぁ、羨ましいぜ!」
 そう言いながら、数歩後ずさった。
 そして、メイジの男が口の中で短くルーンを唱えるのに、彼はその時を待っていたとばかりに駆け出した。
 杖の先から、巨大な火球が放たれる。
 それを、彼は何処か現実味の無い光景のように見つめていた。
 火球が、まるで冗談のように突き出された剣に吸い込まれて消え去る。
 男は、何が起こったのかわからないのか、未だににやにや笑いを顔に張り付かせたままだ。
(四点目。素人が剣で相手を切るなんて考えるなよ。おめーさんでも出来る剣の使い方なんて一つしかねぇ)
「――首」
 ぼそりと呟く。それに応えるように、声が響いた。
「そうだ! 首を突け!」
 ずぶりと、いやな感触が手に伝わる。先ほどは、必死すぎて気づかなかった。
(これが、人を殺す感触か……)
 他人事のようにそう思って、彼はそのまま剣を押し込んだ。
 細かった目は信じられないほどに見開かれて、男は彼を見つめていた。何か言いたいのか口が動き、だが、ごぼごぼとあふれ出る血を泡立てるだけで意味のある言葉にはなりはしない。
 彼もまた、静かに男の目を見つめ返した。それもまた、まるでスクリーンを通して見ているかのように、酷く現実味が無い。
 男の目が光を失った。倒れこみ、それに剣が引っ張られて彼は慌てて剣を抜こうとする。
 意外に硬い。男の肩を踏みつけて、無理やりに引き抜いた。
「た、大将?」
「……嘘だろ」
 メイジの男が倒れるのを、遠巻きに眺めていた男たちは驚愕の目で眺めていた。
 そこに、声があがる。
「剣を持った餓鬼が、メイジじゃねぇと思ったのか? まぁ、無理もねぇけどな」
「だ、誰だよこの声! 何処から!?」
「それにメイジって!?」
 最後の仕上げだ。彼が生き延びるための、最後の仕上げ。彼は右手で剣を構えたまま、彼の前に倒れた男から杖を取り上げる。
「決まってるだろーよ。平民が俺様みたいなマジックアイテムを持てると思ったのか?」
 男たちはようやく声が何処から聞こえてくるのか気づいたらしい。彼の持つ剣を僅かに恐怖の混じった目で見つめた。
「ただ杖を無くしちまっててな。貴族も、杖を持たねば唯の人ってよ。それで隠れてたんだが……、よぅ相棒。これでもう安心だな」
「…………」
「おい、相棒?」
「……あ、あぁ、そうだな」
 彼はそう言って、男から奪い取った杖を男たちに向けた。
 一度、静かに息を吸い込んだ。
 そして、震える声で、男たちに告げた。
「切り刻む方が、得意なんだ、けど……、お、お前らは、丸焼きの方が好きらしいな……」
 デルフに負けず、彼の声も引きつってしまって酷いと言う外無いものだった。
 それでも、彼が殺したメイジの操る炎を幾度と無く見てきた男たちには、その声は恐ろしく聞こえたらしい。
 悲鳴を上げながら逃げ去る男たちの後姿を、彼はぼうっと突っ立ったままに見送った。
 やっぱり、現実味が感じられない。まるで、他人事。
 そう思いながら、彼はのろのろと歩き出した。杖をほうり捨て、剣を背中の鞘に収める。
 周囲には、彼が乗っていた馬車の他に数台の馬車が止まっている。
 そのうちの一台の前で、彼は足を止めた。
 馬車の横に、先ほどの男たちとは違う質の良い麻の服を着込んだ男が仰向けに倒れていた。胸の辺りが赤く染まっている。穏やかそうな顔は見る影も無く、白目を向いて口は絶叫の形に開けられて固まっていた。
 その傍らに、栗色の髪を束ねた女性が座り込んでいた。ただ、その頭部は見るも無残にぱっかりと、縦に割り開かれている。
「……っぐ」
 堪えようとして、堪えられなかった。
 彼女が作ってくれたシチューを、彼女の傍にうずくまった彼は一気に吐き出していた。
「げほっこほっ、……はあっはあっ」
 そして、視線を上げて。
 彼女が、首の無い子供の死体を抱きしめているのにようやく気づいた。 
「う、うぁ、あぁあ……」
 何処に行ってしまったのかなんて、考えるだに恐ろしかった。ましてやソレを探すなんて、出来るわけもない。
 再び下を向いて、出すものの無くなった胃を無理やりに絞り上げる。黄色い胃液がぽとぽとと落ちて、地面に広がるどろどろと交じり合った。
 涙も流れていたが、それが、彼らが死んでしまったのが悲しいからなのか、それともただ吐いた事による生理的なものなのか判断がつかない。
 彼らとは、数時間ほど前に知り合っただけの関係だった。
 行商の男と、その家族。
 空腹の余りに行き倒れた彼を拾ってくれて、近くの町まで送ってあげると、彼らのキャラバンに乗せてもらった。
 昼食を済ませてしまった後だというのに、若い奥さんは親切にも彼のためだけにシチューを作ってくれた。
 幼い少女は、久しぶりに国境を越える長い旅に飽きていたらしく、彼が話す彼の故郷の話に目を輝かせて聞いていた。
 傾いた太陽が赤く染まり始めた時分。
 お兄ちゃん、もっと聞かせて、とせがむ少女を宥めて、疲れ果てていた彼は商品の積まれた馬車の中で一足早く寝かせてもらう事になった。
 メイジ崩れをリーダーとする盗賊が彼らのキャラバンを襲ったのは、それから少し経ってからの事だった。
 護衛の傭兵は全員が平民で、ほとんどあっという間に殺された。それを幌の隙間から見ていた彼は、直前まで一緒に戦おうとしていた気持ちも忘れて、商品らしき毛織物を被ってがたがたと震えるしかなかった。
 そして……、彼らを見殺しにして、彼だけが生き残った。
 人を殺したのだと。それに対して彼はその時になってもまだ現実味を感じられずに居たが。
 人を死なせてしまったのだと。その思いは、信じられないほどに強かった。

 それは、才人が始めて人を殺した日。
 自分の弱さゆえに彼は再び逃げ、そして自分が死にたくないからという理由で人を殺した。
 それからだ。彼が力を求めるようになったのは。
 情けない話だが、愛する少女を失った直後の彼には、復讐という気持ちすら浮かんでいなかった。
 アンリエッタを笑えはしない。彼もまた、失意の底にあって、ただ嘆くだけしか出来なかったのだから。
 力を求めるようになって、それで初めて才人は復讐という魔物を己の体に住まわせるようになった。
 例えすぐには現実味を感じられなかったとはいえ、人を殺したという経験は酷く重く、それでも彼は震える手で三日目にはデルフを握れた。
 人殺しの業を、復讐という業で押さえつけた。
 才人の復讐が、彼の中で明確なビジョンを伴うようになったのはそれから一年と半年も経ってからの話。
 亡国の王女アンリエッタと、彼女の部下である銃士隊隊長アニエス。
 彼女たち二人の同類と出会ってからの事だったのだが。
 本当の意味で、彼の中で復讐の旅が始まったのはこの日からだったのだろう。
 人の良い行商人と、彼の若い妻と幼い娘。彼らを護る為に雇われた傭兵七名に、彼らを襲った盗賊のうちの二名。
 十二人もの人の死を生贄に、才人の中の魔物は高らかに産声を上げた。





 あとがき
 題名にも書いている通り、このお話は外伝です。
 ちと四話の筆の進みが思った以上に遅く、息抜きに連載が終わったら載せようと思っていた話を書いたところ筆が進む進む。
 いや、別に欝なお話が特別好きと言うわけではないのです。
 ただちょっと、今日(正確にはもう昨日ですけれど)完結されたとある方のssを読んで、興が乗ったと申しますか……。
 それだけです。はい。
 これからもちょいちょい逆行才人の過去を語る事になると思います。
 では、四話でお会いしましょう。今月中には、たぶん。

 最後に、外伝という事で、アニエスを期待してしまった方、ごめんなさい。


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