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[36131] 【完結】第四次聖杯戦争が十年ずれ込んだら 8/3 完結
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/08/03 01:00
 原因不明の第四次聖杯戦争の遅延。
 与えられたモラトリアム。
 狂騒し奔走する飢えた獣。
 誰もが屍の山を築き、血の河を渡りソラに手を伸ばす。

 ────ただ全ては、
 自らの願いを叶える為だけに……











------------------------------------------------------

※表題通りの再構成物です。よろしくお願いします。

1/10追記
何度も話数変更して申し訳ありません。
携帯だと長すぎて見れない、との事でしたので1話目を分割しました。




作者:朔夜
連載開始:2012/12/12
連載終了:2013/8/3


過去作:『ゼロの境界面』
HP:『新しい月』



[36131] scene.01 - 1 月下にて
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/01/10 20:28
/1


「やはり……聖杯は私を選ばなかったか」

 深山町、洋館の立ち並ぶ区画にある遠坂邸──その一室、館の主たる遠坂時臣の書斎にて彼は椅子に腰掛けながら、何も描かれていない自らの手の甲を窓から差し込む月明かりに透かしながら嘯いた。

 聖杯戦争。

 およそ二百年近くも前から続けられる、聖杯という名を借りた願望機……万物の願いを叶える奇跡の所有権を巡る争い。
 七人のマスターと七騎のサーヴァントの壮絶な殺し合いの果て、ただ一組の勝者にだけ胸に抱いた祈りを叶える権利が与えられる。

 これまで三度の戦いが行われ、その全てが失敗に終わった。誰の手にも奇跡は渡ることなく、己が悲願を叶え損なった者達の怨嗟だけが残された。

 そして今、この町で都合四度目の儀式が執り行われようとしている。

 戦いは六十年の周期で行われてきた。三度目までは確かにそうであったというのに、今度の四度目は何の不具合が働いたのか、十年遅れての開催と相成った。
 その時に向けて準備をしていた始まりの三家は大いに混乱し、しかし無情にも戦いは行われぬまま月日が流れ、今頃になってようやく聖杯はその起動を始めた。

 戦いが十年もずれ込めば趨勢も変化する。魔術師であるが故に肉体的な年齢はそう影響を与えないにしても、老いは身体のキレを確実に衰えさせ、思考に鈍りを与えて判断を狂わせる。全盛期を誇っていた実力にも陰りが見えても仕方がない。

「しかしこの遠坂に限って言えば、この開催の遅延は大いに喜ばしいものと言える」

 十年前に開催されていれば、間違いなく時臣本人が戦いに参じる事となっただろう。その意気込みはあったし、誰にも劣らぬ自負と磐石の布陣を用意していた。されどその準備の全てが水泡と帰し、それでも時臣はこれを天啓と捉えた。

 十年という歳月は確かに時臣より力と思考を奪ったのだろう。無論研鑽を怠った事などないし、魔術のキレには些かの衰えもないと言い切れる。
 時臣の真意は自身にはない。時の流れは無常であり老衰を刻むものであれど、同時にそれは成長をも促すものでもあるのだ。

「この五代遠坂家当主──遠坂時臣に成り代わり聖杯を巡る争いに臨むのだ、敗北など許されない。
 無論それだけでなく勝利は優雅に、そして敵の全てを打ち倒して勝ち取らなければならない。分かっているね──凛」

「────はい、お父さま」

 書斎の中心、薄い月光だけが染める室内に、少女は冷徹な瞳を湛えて立ち尽くす。

 遠坂凛。

 時臣とその妻である葵との間に生まれた長女。葵の特異体質も手伝って、彼女はおよそ考えられる限り最高の才能を持って生れ落ちた。
 凡俗であり修練のみで地位と実力を築いた時臣を、この歳で凌駕しかねないほどの稀有な才能。

 当然にして彼女はその才能に胡坐を掻いていた訳ではない。父と兄弟子の指導の下、血反吐が滲み死んだほうがましだと思えるほど過酷な修練に十年以上耐えて研鑽を積み、余りある才能により磨きを掛けた。

 結果、完成したのは完璧な魔術師。

 遠坂時臣など軽く凌駕し、時計塔に蠢く血の重みだけを尊ぶ貴族や化け物じみた天才達と肩を並べても何の遜色もない魔性。
 既にその名は時計塔にまで届き、彼女の到来に恐れを抱く者さえもいるという。それが遠坂凛という少女であり、第四次聖杯戦争に遠坂から参じるマスターの名だった。

「聖杯は遠坂のマスターとして私ではなく凛を選んだ。ああ、それは当然だ。聖杯に意思があり、自らを用い願いをより叶えやすい者を選定するのなら、名ばかりの当主よりも才能に溢れた凛を選んで当然だ」

 時臣は机の上で肘をついて手を組み、直立する凛を見つめる。

「凛、おまえは……いや、我々は必ず聖杯を手に入れなければならない。他の二家は元より外来の誰の手に渡る事もあってはならない」

「はい」

「聖杯は遠坂の悲願であり、同時に今やその用途を正しく行える者は我らをおいて他にいない。妄執に駆られたアインツベルンや原初の祈りを忘却したマキリにさえも譲り渡してはならない。聖杯を手に入れるのは、我々だ」

「分かっています、お父さま」

 凛の才能をもってすればどんなサーヴァントを召喚したところで最高のスペックを引き出せるだろう。しかしそれでも磐石ではない。十年の猶予を与えられたのは何も遠坂だけではないのだから。
 故に時臣はかつて自身が触媒にしようと調達した聖遺物を用い、凛に最強の英霊を喚び出させる腹だった。

 最強の存在の能力を余すことなく引き出せる最優のマスター。これでも充分に戦えるのだろうが、時臣は更にもう一つの姦計を仕組んでいる。

「入ってきなさい、綺礼」

「────はい」

 厳かに開かれる扉より室内に足を踏み入れたのは長身の男。僧衣に身を包み胸のロザリオを月明かりに輝かせる聖職者だった。

「君には凛のサポートを務めて貰いたい。無論、監督役としての任もそうだ」

「はい。父に成り代わり監督役の責務を果たし、その上で遠坂の勝利に力添えをさせて頂きます」

 本来ならば十年前、監督役を務める筈だった綺礼の父──璃正は既に逝去している。その為監督役の権限は息子の綺礼に引き継がれ、父と時臣の父との間に交わされた友誼に基づき綺礼は遠坂に肩入れしている。

 監督役という本来ならば公平なジャッジを行わねばならない立場の人間が一勢力に助勢するなど許されるものではないが、これは遊びではなく殺し合いだ。
 不正は暴かれなければ不正ではなく、そして勝利の為の方策を卑怯と謗るのは負け犬の遠吠えに過ぎない。

 勝利への道を磐石にし、使えるものは全て使う。その上で他者の悉くを叩き潰し、誰もが認めざるを得ない勝利を手にする。それが時臣が思い描く勝利の形であり、娘に送る父としての助力だ。

「綺礼、君には損な役回りを押し付けてしまう事になる。それは心苦しいものだが、どうか娘の勝利の為に力を貸して欲しい」

「導師、そのような心配は不要です。どの道私は聖杯というものに興味がない。この手に刻まれた令呪も、何かの間違いなのでしょう」

 璃正が逝去する直前に時臣と綺礼は引き合わされ、そして璃正たっての頼みもあり二人は知己となった。

 己自身の歪みを幼少期より自覚し、煩悶と共に生きてきた綺礼にとって魔術師の知人というのは初めてのものだった。
 父が敬虔な信徒であることもあり、綺礼は生まれついての教会の人間。異端と叫ばれる魔術師は打ち倒すべき敵であり、事実代行者として神の敵を滅ぼしたことは数え切れないほどである。

 歪みに対する許しも答えも得られぬまま、死別した妻との別れの折に自らが信じ続けてなお救われなかった信仰とさえ決別した綺礼にとって、時臣との出会いは新たなる出発であった。

 今まで敵方であった魔術師の側になら、もしかしたら求めるものがあるかもしれない……そんな一縷の希望、藁にも縋る思いで時臣に弟子入りを志願し、魔術の門徒となりその門扉を開いた。

 結果、得られたのはより深い絶望だけだったが、綺礼はその時既に世界の全てを諦めていた。求め欲するものはなく、探し求めても見つからない。ならばそれはこの世界にはないのだろう。ないものを探していたのなら、それはまさに無駄骨だ。

 そんな悟りにも近い心境を経た綺礼は物事に対する興味が薄れている。
 万能の釜にも奇跡にも用はない。求めたものを求めた形でしか返さないものでは綺礼の望みは得られない。

 聖杯が綺礼の何を見てマスターとなる権利とも言える令呪を託したのかは知らないが、この男はそれを得ても何の感慨もないまま、ただ事務的に時臣に報告しただけだった。

 時臣はこの令呪の発現がより遠坂の勝利を磐石のものとする為の助力であると言っていたが、それが真実であれ間違いであれ綺礼にはどうでも良かった。
 ただ何かに打ち込んでいる時は心の煩悶と向き合わなくて済む。未だ払拭されない迷いから目を逸らす事が出来る。ただそれだけで充分だった。

 ……この戦いもまた、私には何の答えも齎さない。ならば木偶のように導師の指示に従うだけだ。

 監督役でありながら参戦するマスターであるという異常な立場を遠坂を利する為だけに使うことに異議はない。唯々諾々と粛々と、自身に課せられた任務をこなすだけだ。

「最優のマスターと最強のサーヴァント。審判を司る者の支援と更にサーヴァントを一体使役可能。これだけの布石を以って、遠坂は勝利を掴む。
 凛、これで負けるようならばおまえはただの無能だろう。私を落胆させぬよう尽力しろ」

「はい」

「勝利の暁には聖杯獲得の栄誉と根源への切符、更には遠坂の家門もおまえのものだ。名目上の当主でしかない私はこれでお役御免というわけだ。私の肩に圧し掛かり続けていた重圧からようやく解放される日が訪れる」

 時臣が名目上の当主でしかない理由は既に魔術刻印を凛に譲り渡している為だ。実質的な当主の権利を持つのは何年も前から凛であるのだが、彼女が未だ修行中の身であった為、当主としての面倒を時臣が一手に引き受けていた。

 あと数年、戦争の開始が遅ければ名実共に凛が当主を継承していたのだろうが、戦いの開幕はもうすぐそこだ。可能性としては低いがこの戦いでの敗北……即ち死亡が考えられる以上はそんな儀を執り行う意味はない。

 全ては勝利した後。最高の栄誉と共に遠坂の家門を継ぎ、凛は歴代最優の当主となる。

「私もこれまで以上に最大限の助力をさせて貰う。凛、そして綺礼。君達の勝利を、心から祈っている」

 それで話は終わりだと、時臣は背を向ける。
 背中で部屋を辞する二人の礼を告げる声を聞きながら、窓越しに空を仰ぐ。

 煌々を冴え渡る蒼い月。
 凍るように冷たい色の光を浴びながら、時臣は亡き妻に想いを偲ぶ。

 ────見ていてくれ葵。
 私達の子は必ずやその手に勝利を掴むだろう。

 見守っていてくれ、凛の勝利を。
 祈っていて欲しい、凛の無事を。

 私はただ、それだけを君に願いたい。

 一人の父として夫して。
 そして魔術師として。
 時臣は月に祈りを捧げたのだった。



+++


「凛」

 青白い月明かりが泡のように舞い踊る回廊。時臣の書斎を先に辞した静かな足取りで歩く少女へと、神父はその背に声を掛けた。

「…………」

 少女からの返答はない。彼女は無駄口を好まないし、何より言峰綺礼を蔑視している。いや、蔑視というよりは警戒という方が正しいか。

 綺礼が時臣に師事を願い出てから十年。彼はその全ての時間を自身の魔術鍛錬に打ち込んだわけではない。
 妹弟子である凛の教育にも一枚噛み、この遅れて開かれる第四次聖杯戦争で無事璃正より引継いで監督役に収まる為の工作として、教会での印象操作の為代行者として動いていた時期の方が遥かに多い。

 神の愛に疑いを抱き、信仰と決別した以上はただの事務的処理のように淡々と異端を排除するだけの仕事ではあったが、万物に対する興味の薄れている綺礼にとってみれば何かに没頭していられる時間の方が有意義ではあった。

 異端を排する事に躊躇はなく。凛に教育を施す時とて同様。凛や時臣が魔術師足らんとして感情を無為に表に出さないのとは違い、綺礼のそれは完全なまでの滅私。そこに綺礼の意思が介在しない。

 離れてみればこの男は良い聖職者として映るだろう。余計な先入観や感情を差し挟まない彼の言葉は、迷える子羊達にはさぞ心地良く響くのだろう。

 しかし長く綺礼と接してきた凛にとってみれば、この男ほど得体のしれない存在も他になかった。魔術師としての顔を見せる時の父時臣にですら、ここまで完全に思考の読めない無表情を見たことがない。

 父と共に一度だけ足を運んだ時計塔。その魔窟に棲む貴族や音に聞こえし天才と呼ばれた者達でさえ、ここまでの不気味さを放ってはいなかった。

 人が恐怖を抱くものの一つとして、理解の及ばないものがある。未知というのはただそれだけで恐れを抱くに足る感情の螺旋。
 視線の先にあるものが分からず、心の内を解する事など以ての外。人の皮を被った別のナニカ。そうであった方がよほど安堵の息をつけるというものだ。

 それでも言峰綺礼は人間だ。ましてや彼女のこれまでの研鑽に一役を買った兄弟子。無駄口を叩く趣味はなくとも、無視するという選択が彼女にはない以上、警戒を露に振り返るのが一つの落としどころだった。

 綺礼にしても凛のそんな視線など慣れたもの。目を輝かせて纏わり付かれるよりは余程心地良い。それを心地良いと思ってしまう自らの在り方こそが男を苛む因子ではあっても、それに対する解はないのだから無視を決め込む他にない。

「おまえはこの十年の遅延をどのように考えている」

「別段何も。私は聖杯に選ばれ令呪を託された。目の前に戦いがあり、戦う術があり遂げるべきものがある。だからそれを行うだけよ」

 そこに悲愴さはなく。ただ目の前の結果を当然と受けれ入れる少女の姿だけがある。これから殺し合いの渦にその足を踏み込もうと言うのに、未だ二十にも満たない小娘は歴戦の勇のような落ち着いた声音で言ってのけた。

「ふむ……ここで少しくらいは脅えた顔でもすればまだ可愛げがあるというものだが」

「お生憎様。無表情でそんなことを言うアンタにだけは言われたくないわ」

「だが凛。おまえは戦いというものがどういうものか、それをまだ身を以って知ってはいない。その覚悟の程は素晴らしいのだろうが、戦場を知らぬ小娘の戯言と一笑に附されても文句は言えん」

「……何が言いたいの、綺礼」

「分かっているくせに無知な振りは止めたまえ。もしここが戦場で私とおまえが敵同士であったのなら、おまえは既に死んでいるというだけの話だ」

 綺礼がその右手の甲に刻まれた令呪を月光に晒すと、それは幽鬼のように淡い光の中に現われた。
 青白い月明かりの中に浮かび上がる異様。御伽の世界から飛び出してきたかのような装束と、一目で分かるほどの圧倒的な魔力の気配。

 ────サーヴァント。

 過去英雄と呼ばれ歴史にその名を刻んだ古強者。歴史書は下より神話に伝説に英雄譚、果ては御伽噺や空想からすら喚び招かれる、世界の理より外れし者。彼らはヒトにあって人ではない、英雄と言う名の一つの伝説。

 この冬木の聖杯戦争における肝とも言える存在。令呪を宿す魔術師によって彼方より此方へと招かれし賓客。マスターと対を成すサーヴァントと呼ばれるもの。

 それが綺礼の背後に、音もなく現われ佇んでいた。

「…………」

 凛はさほど意外そうでもなく、静かな色をした瞳で現われた威容を眇めた。未だ自身の従えていないもの。これより従える事になるモノを観察するように。

「令呪の発現と共に戦いの幕は上がったようなものだ。悠長に構えていては血気逸った輩に足元から掬われかねん。
 まだ召喚を行っていなくとも、有力なマスターを排除してしまえばそれだけ自身の優位を手に入れられるのだからな」

 もし綺礼が敵であったのなら、あるいは僅かでも叛意を宿していれば、この場で凛を亡き者とするのは余りにも簡単な事だった。
 物事に執着のない綺礼だからこそ反逆など行う気は毛ほどもなかったが、凛を教育し彼女の能力を知る者が近しい立場にあり、令呪を宿し聖杯を欲していたら、間違いなく殺されていた筈だ。

 それほどに凛という存在は今回の聖杯戦争において有力な候補。サーヴァントを従える前に打倒出来るのなら多少の無茶を圧してでも消し去っておきたい大本命。

 それ故に綺礼は凛にこの時まで知らせることなく、時臣の指示により事前にサーヴァント召喚の儀を行っていた。
 これまで一切姿を見せる事のなかった彼だが、喚ばれてからこの方ずっと凛、引いては遠坂の屋敷の守護を担ってきていた。

 ……普段冷静な凛が僅かではあれ苛立っていた原因は、まさにサーヴァントにあるのだろうがな。

 内心でそう綺礼は嘯く。

 凛が綺礼の意味のない軽口に応じたのがその証左。明確な感覚ではなくとも、自らの周りに自身の知らない存在がうろついている事を無意識に感じ取っており、その苛立ちが彼女の平穏な心に爪を立てた。

 その嗅覚こそ驚嘆に値しよう。同時にそれを明確な敵ではないと判断したが故の放置であったのだろうが、それはある種凛の綺礼に寄せている無自覚な信頼とも呼べるのかもしれない。

 綺礼の不気味さを理解しているように、綺礼の物事に対する異常なまでの感情の希薄さをもまた凛は解しているのだから。それが何に起因しているのか不明だからこその警戒ではあっても、事実に対する理解は誰よりも早い。

「早急に召喚を行え凛。導師もそれを望んでおられる」

 綺礼の僅かな視線の傾きに頷き、背後にいたサーヴァントは現われた時のように音もなく消えていく。一言も発さぬまま、英雄は今一度その姿を眩ませた。

「言われなくても分かっているわ」

 チャリ、と胸元に提げた血のように赤い色をしたペンダントを握り締める。

 凛は別段臆したわけでも致命的な不備があったわけでもない。触媒は父の用意した最強の英霊に縁のある品がある。ただ何事にも完璧を求める彼女だからこそ、自らの状態が最高の時にこそ召喚を行いたいと思っていた。

 冗談のような話だが、遠坂には実しやかに囁かれる呪いがある。万が一の失敗を避ける為にも、可能な限りリスクは減らせるだけ減らしておきたかった。
 サーヴァントは一度喚んでしまえば代えの利かない代物だ。目当ての英霊以外を喚んでしまっては目も当てられない。

 だから触媒も複数の英霊に縁のある物より個人の所有物であった物の方が良い。父の用意した物は所有物ではないようだったが、凛もまた目を通した文献の記述に添えば、彼の黄金の君をおいてこの触媒に招かれる者もいまい。

 時刻は夜半。凛の体調がピークを迎える時間帯は近い。

「すぐにでも召喚を行うわ。綺礼、まだ帰らないのならお父さまに伝えてきて。私は最後の確認をしてくるから」

「分かった、師には私から伝えよう。凛、ここ一番でミスをするのがおまえの悪い癖だ。心して臨むが良い」

 最後に睨みつけるような視線を投げ、凛はそれでも足音を立てる事なく暗闇の向こうへと消えていった。一人残された綺礼は闇の向こうを見透かすように、されど瞳に色を湛えぬままに言った。

「何事もなければ凛、この戦いの勝利はおまえのものだろう。だがそういう時こそ得てして何かが起こるものだ」

 そこまで言って、綺礼は僅かに口端を歪めた。これではまるで、何かが起こって欲しいと願っているようではないか、と。

「……馬鹿らしい。私にはもう、希望どころか絶望でさえ有り得ないというのに」

 全てに対する関心を失した神父は一人、淡い月明かりの中で独白を謳う。踵を返し、師の下へと報告へ向かうその最中、しかし彼は気付かない。

 自らに対する理解を得て以来、ほとんど感情を表に出した事のない己が僅かではあれ笑みを浮かべたその事実に。
 言峰綺礼にとってもこの戦いが一つの契機にして転機となる事を、この時の彼に知る術などなかった。



[36131] scene.01 - 2 間桐家の事情
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/01/10 20:29
/2


 十一年前。

「その面、もう二度と儂の前に晒すでないと、確かに申し付けた筈だがな」

「聞き捨てならない噂を聞いた。間桐の家がとんでもなく恥晒しな真似をしている、とな」

 昼なお薄暗い間桐邸客室。
 淡い光がカーテン越しに差し込むだけの闇の中で、二人の男が対峙していた。

 一人は間桐臓硯。間桐……マキリに巣食う吸血蟲。語るもおぞましい延命術によって二百年近い歳月を生き抜いてきた妖怪だ。
 対する青年は臓硯の名目上の息子となっている雁夜。間桐の魔術を知り、魔術師の生き様を知り、そんな茶番には付き合っていられないと出奔した筈の男。

「何ゆえ今更になって間桐の敷居を跨いだ雁夜。魔道に背を向けた男が踏み入って良い場所ではないぞ、此処は」

「遠坂の次女を招きいれたそうだな。そうまでして間桐に魔術師の因子を残したいのか」

「カッ、その問いをまさか貴様が投げるとはな。ここまで間桐が零落したのは誰のせいだと思っておる。鶴野より余程高い素養を有していたお主が間桐を継いでいればこうまで落ちぶれることもなかったであろうに」

「そうして俺はアンタの傀儡として生かされ、果てにはこの血肉の一片をすら残さずアンタに喰われていれば良かったと、そう言うのか」

 この間桐臓硯が生き続ける限り、間桐という家系に終わりはない。但し臓硯の延命措置にも随分とガタが来ている。日に日に滴り落ちる腐肉は増し、魂の形が劣化している様が見て取れる。

 その形を崩すことなく維持し続けるには赤の他人の肉では不足だ。間桐臓硯と同じ血が流れ、同じ業を背負った間桐の魔術師の肉こそがもっとも良く馴染む。
 臓硯にとっては間桐の世継ぎは必要なくとも間桐の魔術師は必要なのだ。求めてやまぬ永遠の命。その形骸だけを真似た延命であろうとも。

 家に残った長男である鶴野は落ち零れにも等しい才しか有しておらず、その子の慎二に至っては遂に魔術回路すら備わらなかった。
 これで間桐純血の魔術師は絶えたも同然。それでも間桐に魔術師としての血を残そうとした臓硯は、遠坂より次女を招きいれた。

 姉に劣らず優秀な才能を持って生まれた遠坂桜。その胎盤から生まれる子はより良き間桐の術者が生れ落ちる事だろう。

「……魔術師の因子を残したいだけならばわざわざ養子を迎える必要などない筈だ。兄貴に適当な女でも宛がって、何人でも試せばいい。一人くらいは当たりが出るだろうさ」

「カカッ! やはり貴様も間桐の端くれよな雁夜。そんな発想が口に出来ることがその証左よ。しかしな雁夜、それではただのその場凌ぎに過ぎぬ。一代先延ばしたところで根本的な解決には繋がらぬ。そんなこと、お主も分かっておるであろう」

「…………」

「だからこその養子よ。桜は良質な苗床となろう。間桐の子を孕み、間桐の新たなる礎を築く良き母となるであろうよ」

「……っ、貴様……!」

 激情に駆られ振り上げた拳。されど目の前に立つ悪鬼には微塵の動揺もなく、落ち窪んだ瞳の奥に冷徹な色を湛え、雁夜を愉快げに睥睨している。
 この男は遊んでいるのだ。雁夜が二度とは帰らぬと誓った筈の家に戻った理由を察し、察していながら戯れている。雁夜自身から言葉を引き出す為に。

 死に損ないの老獪の茶番に付き合うのは御免だが、そうする以外に道がないのなら舞台に上がるまで。元より覚悟は決めていた。一度は背を向けたものに向き合う覚悟を。拳を下ろし、一度深呼吸した後、雁夜は今一度臓硯と向き合った。

「アンタは結局、間桐の繁栄になど興味はないんだ。ただ何処までも利己的に、自らの延命だけを望んでいる。
 しかしそれもその場凌ぎなんだろ爺さん。いずれ身体は朽ち果て、魂は腐り落ちる。俺でさえ予見できる未来を、アンタが見ていない筈がない」

「何が言いたい」

「聖杯」

 雁夜の核心を衝いた一言に、臓硯は諧謔めいた笑みを浮かべた。

「桜を養子に迎えて目指しているのは間桐の血統の維持なんかじゃない。いや、それも一つの理由なんだろうが本命は別だろう。
 この町に眠り、目覚めの時を待つ聖杯……万能の願望機。それを手に入れ、本物の永遠を手に入れることがアンタの目的だ」

 未だかつて誰も成し得ていない不老不死という命題。

 聖杯はその至難の業をすら容易く叶えてのけるだろう。でなければ万能の願望機、全てを叶える奇跡という触れ込みは偽りになってしまうから。
 それが偽りではないことは、臓硯の妄執めいた延命が示している。いずれ限界の訪れる延命、魂が軋むほどの痛みに苛まれながら、それでも生き足掻いているのは目の前に本物があるからだ。

 手を伸ばせば届く距離に求め欲した奇跡がある。願えば叶う万能の釜がある。ならば必死に足掻くだろう。泥を啜り霞を糧に、雲をすら掴んで這い上がる。

 間桐臓硯の策謀の全ては聖杯──それを巡る争いにこそ集約される。

「アンタは言ったな、桜の胎盤より良き術者が生れ落ちると。つまりはその代か……その次の代あたりで決死を掛けるつもりなんだろ」

「然り。特に今回に限っては間桐より出せる駒がない。鶴野程度の才ではサーヴァントを御し切れぬし、桜はまだ未熟に過ぎる。故に今回を見送り、次回こそが儂の本命よ」

「ならば聖杯を勝ち取れるだけの駒があればいいわけだな。
 だったら今回は俺が出る。そして聖杯を持ち帰ってみせる。それならば、桜にはもう用はないだろう!」

 六十年の周期で言えば来年が開催の年。いかに優れた才を持っていたとしても、魔術の薫陶などほとんど受けていない雁夜がサーヴァントを御せるレベルの魔術師になるには一年間という期間は余りに短すぎる。

 そんなことは承知の上で雁夜は憚った。間桐臓硯の秘奥をもってすればたった一年間でも使い物になる程度の魔術師には仕上げられる筈だ。何よりこの身は間桐の血肉で編まれたもの。臓硯の業は桜などよりは余程良く馴染むだろう。

 但しその対価は、恐ろしく高くつくことに間違いはあるまい。

「……お主、死ぬ気か?」

「今更になって心配か? そんな柄でもないだろう、反吐が出る。間桐の執念は間桐の人間が片をつけるべきだ。無関係な他人を巻き込むな」

 自らが魔道に背を向けたが為にこんな奈落に突き落とされた少女を救う。好きだった人の涙と、その子の絶望を背負い雁夜は立つ。
 これが己の撒いた種であり、足元より縛りつける鎖であるのなら。このくそったれな命を差し出し、せめてもの償いとしたいのだ。

「……ふむ。そういうことならば是非はない。最初からお主が間桐の秘術を継承しておればこんな面倒にはならんかったのだからな。
 お主が間桐の魔術を修め、間桐の魔術師として聖杯を勝ち取るというのなら、儂は最大限の助力を惜しむことなく尽くそうではないか」

「吐き気を覚える詭弁や御託はいい。さっさとしてくれ、時間が惜しい」

「そう急くでない。時間ならばそれなりにあろう。何せ、戦いの開幕は十一年も先のことなのじゃからな」

「な、に……?」

 それは雁夜をして目を見開くほどの驚愕。事実六十年の周期で言えば来年がその年に相当する。であるのなら、臓硯の言葉は腑に落ちない。

「……何を根拠にそんなことが言える? 開幕は来年の筈じゃ……」

「通常であればそうであろうよ。原因は儂にも分からんが、未だ冬木に眠る大聖杯に起動の兆しがないのだからどうしようもない」

 柳洞寺の地下深くに眠る大聖杯。聖杯戦争の大本とも言える仕掛けであり大魔術式。その起動がなければそもそも儀式自体が始められないのだ。聖杯はマスターとなる者に令呪を託さず、当然サーヴァント召喚の儀は執り行えない。

「この異変に気付いておるのは儂とアインツベルンくらいのものだろうて。遠坂の小倅は今頃来年に向けて奔走しておるだろうよ」

 しかし同時に感付いているかもしれない、とも臓硯は思っていた。時臣は凡夫なれどあの男が今座る椅子は決して先代の七光りで手に入れたものではない。凡庸なりの努力と研鑽を積み重ね、結果として相応の実力と地位を手にしている。

 それでも現段階では五分。以前を知らない時臣では気付けないものもあるのだ。

「アンタにどういう確信があるのかは知らないが、遅れてくれるのならこっちとしても好都合だ。俄か仕込みの付け焼刃で戦わなければならないと覚悟していたからな」

「お主の才であれば十年みっちり仕込めばそれなりのものにはなろう。ともすれば、遠坂の小倅に太刀打ちする事も叶うやもな」

「俺が……時臣に……」

 葵の幸せを信じて身を引いた雁夜の目に映ったのは、娘を失い眦に涙を浮かべる彼女の姿と、こんな地獄に突き落とされ絶望に暮れているだろう少女の姿。
 そしてそんな二人の姿を見て見ぬ振りをし続けている、どこまでも魔術師らしい糞野郎のしたり顔だ。

 その顔を歪めてやる事が出来る。地べたに這い蹲らせ、懇願の瞳を見下ろした時の心地を想像しただけで、油断すれば口元が吊り上ってしまう。雁夜を見下している時臣に一泡吹かせてやる事が出来るという思いだけで胸が早鐘を打つ。

「いや……」

 胸の中に湧いた恍惚を頭を振ることで霧散させる。想像を現実に昇華する為にはまず臓硯の仕打ちに耐えなければならない。そしてもう一つ。

「臓硯。開幕が十一年後であるのなら、それこそ桜は用済みだろう。俺はアンタが下すどんな命令にも過酷にも耐え抜いてやる。どうしても間桐の世継ぎが欲しいのなら、アンタの言いなりになって好きでもない女でも抱いてやるさ」

 ──だから桜は遠坂に、葵さんの下へ返すべきだ。

 そう告げて、次の瞬間雁夜の目に映り込んだのは、臓硯の冷笑だった。

「おう、そうじゃな。お主が事実として間桐の秘奥を継いでくれるのなら桜に用はない。優秀な胎盤を手放すには惜しいが、それと引き換えに十年後に勝負を仕掛けられるのならばまあ良いじゃろう。
 しかし雁夜よ。本当に桜を遠坂に返しても良いのか?」

「……何故そんなことを問う?」

「言わずとも分かりそうなものだがな。桜を遠坂に返したところで同じだと。あの小倅……時臣めは桜を引き渡したところでまたぞろ別の養子の口を探すだけだと、そう言っておるのじゃよ」

「…………」

 あれはそういう男じゃ、と臓硯は口を結んだ。

 確かに時臣の判断は魔術師として正しいのだろう。しかしそれは、父親としては致命的に間違っている。

 いかに魔術師として大成しようとも、家族と引き裂かれた上で成り立つ幸福など有り得ない。母子の望むちっぽけな幸福を犠牲にしてまで、才能とは開花させなければならないものなのか。

 桜がもし事前に問われていたとすれば必ず家族との幸福を選んだ筈だ。栄えある未来よりも、ただ家族と共にあれる幸福を望んだ筈だ。
 そして時臣の何よりの失敗は、よりによって間桐の手を握り返したことに尽きる。

 他の家系を知らない雁夜に言えることではないが、この家は地の底よりも深い奈落だ。この下があるとは到底思えないほどの無間地獄。絶望と怨嗟、慟哭を糧に蟲は哭き、悪鬼臓硯の掌で踊らされ続ける。

 だから雁夜はこう言うのだ。

「……こんな地獄にいるくらいなら、まだ他の家に迎えられる方がましだろう」

「そうでもあるまいよ。雁夜、お主が間桐の業を一手に引き受けるのなら、桜にはその継承をさせぬ」

「なに……」

「当然じゃろう。魔道の秘奥は一子相伝。例外はあれど基本はそうじゃ。雁夜が間桐を継ぐのなら、桜がその業を背負う謂れはあるまい?」

「なら桜は──」

「ああ、何も知らぬまま生きさせたいとかのたまうなよ? 既にあれは蟲蔵の底よ。お主がもう少し早ければその淡い願望も叶ったやも知れぬが、桜は既に魔道に片足を……否、全身を浸かっておるも同然しゃ」

「臓硯……キサマ……!」

「そう逸るな。どの道桜ほどの才ならば魔道の庇護なくしては生きられぬ。しかしそれは何も家系を継ぐ必要のあるものでもない。最低限魔術を理解し修めておけば事足りる程度のものじゃよ。
 それは才能を腐らせるにも等しい愚挙であり、遠坂の小倅はそれをこそ良しとはせんかったようじゃがな」

 つまりは雁夜さえ間桐の秘術を継げば桜はその業から逃れることが出来る。最低限魔術の知識を理解し技術を修めなければならないが、間桐の業を引き継がないのならば蟲に身体を犯される心配はない。

「桜の先天属性は虚数。間桐の秘術である使い魔……蟲の使役との相性は良くはないが、幸いにして魔術特性との相性はそう悪くはない。吸収を初めとした束縛、戒め、強制は虚数と通ずるものがある。伸ばせば充分に光るであろうよ」

「じゃあアンタは……桜を間桐の色に染め替えることなく、今の桜のままその才能を伸ばすって言うのか」

「間桐の子を孕ませるにはそうする他なかったのでな。特に枯れた慎二辺りと交じらわせるにはそうでもせぬと遠坂の因子が勝ってしまう恐れがあった。それでは間桐の属性に適した子は生まれない。
 が、お主ならば素養は充分だ。どれだけ桜の才を伸ばそうとも、刻印を継げぬ以上はいずれ頭打ちになる。それならば当主足る力量を備えたお主の方が勝るであろうよ」

「……その言い方じゃ俺が桜の相手になるように聞こえるんだが」

「そう言っておる。禅城の血の混じった桜の母体と、それなり以上の才を持つ雁夜の血が交われば、桜の才を腐らせてまで慎二に宛がうよりは、余程恵まれた才を持つ子が生まれてくれるであろう」

「…………」

 やはりこの間桐臓硯は化生の類だ。雁夜の想像など及びもつかない言葉ばかりが湧き出てくる。それでも雁夜はかつて一度この妖怪と対峙し、家督継承の拒絶と出奔を勝ち取ったのだ。唯々諾々と従い続けるのは柄じゃない。

「それも全ては俺が聖杯を掴み損なった場合の話だろう。聖杯さえ手に入ればアンタは俺にも桜にも用はないんだろ」

「無論。しかし儂も長く生き過ぎたせいか、どうにも心配性でな。石橋は叩いて渡らねば気が済まんのじゃよ。
 ────それで、どうする雁夜よ。今ならばまだ戻れるぞ?」

「愚問だよ糞爺。俺は間桐を継ぐ。十年の時間を掛けてこの身を研鑽し、聖杯を勝ち取るに相応しい力を手に入れよう」

「ならば対価として桜の身を差しだそう。当然魔道の加護は受けて貰うが、お主ほどの過酷は味わわずに済むであろう」

 此処に契約は成された。
 間桐雁夜は一度は背を向けた魔道に向き合う覚悟を胸に秘め、その身を犠牲に桜の無事を手に入れた。
 魔道から足を洗わせることは叶わなかったが、それでも奈落より引き上げることは叶った筈だ。

 桜の幸福が遠坂家に戻ることであると知りながら、時臣を今現在の力では打倒できない雁夜ではその望みは果たせない。
 儚い希望を胸に灯らせて家に帰しても、時臣は絶望の宣告を行うことは想像に易いのだから。

 ……待っていてくれ桜ちゃん。君の願いは、必ず叶えてみせる。

 胸に強固な意志を秘め、雁夜は奈落へと続く階段を下りていく。
 お姫さまを救い出す為に。
 自らが代わりになる為に。

 しかし雁夜は気付かない。
 桜の望む幸福の形と、雁夜が信じている桜の幸福の形が、決定的に違っていることに。

 矛盾から目を逸らしたまま、間桐雁夜は道の先で待つ煉獄での過酷に、長い時間耐え続けることになった。



+++


 そして現在。

 昼なお薄暗い間桐邸客間には三つの影。

 一人は間桐臓硯。十一年前からまるで変わらない容貌を湛えたまま、正面に座る二人をテーブル越しに見据えている。

 一人は間桐雁夜。十年という長い年月を掛けて才能を磨いたお陰か、その身体の表面上には異常はなく、ただ初期に蟲達の這いずりに耐えられず発狂しかけた時に色素を失った髪だけが、かつての彼と今の彼の目に見える相違だった。

 雁夜の右手の甲には赤い鎖状の紋様。マスターに送られる令呪が刻まれている。培った修練は身を結び、晴れて雁夜は間桐からのマスターとなる資格を手に入れた。

 最後の一人は間桐桜。二人の影に埋もれるように背を丸め、俯いたままの顔に掛かるのは長い前髪。視線はテーブルの一点を見つめたまま、身動ぎ一つしていなかった。許可なく動けば、鋭い鞭が飛んでくるとでも言うかのように。

「さて……第四次聖杯戦争(ヘブンズフィール4)の開幕は間もなくだ。雁夜よ、準備に抜かりはないな?」

「ああ。アンタの望みを叶えてやるよ間桐臓硯。そして俺は……俺と桜ちゃんの自由を勝ち取る」

 横目で見やる桜には反応らしきものはない。テーブルの一点を見つめたまま、置物のように動かない。

 十年を研鑽に費やした結果、雁夜は桜に拘う時間がほとんどなかった。一日の大半を蟲蔵で過ごし、修練に明け暮れた。
 空いた時間を見つけては桜の様子を見に行ったが、彼女は日を追うごとに顔に宿る影を増していった。

 雁夜が蟲蔵でのた打ち回っている時、桜に課せられた仕打ちを彼は知らない。確かに奈落に放り込まれ蟲共に嬲られるよりはましな修練であったのだろうが、それでも桜の身に課せられた過酷は悲痛に過ぎた。

 結局雁夜は甘かったのだ。間桐臓硯の底を見ていなかった。底だと思ったその先に堆積する闇の更に奥にある本当の底を見ることが叶わなかった。そんなものを見る時間があるのなら自身の研鑽に明け暮れた。

 結果、桜はその心を閉ざし、代償としてそれなりの仕上がりにはなった。直接的な戦闘では刻印を有する他家の者には劣るだろうが、その身に宿した膨大なまでの魔力は解き放たれる時を焦がれている。

 桜の閉塞の原因が自身にあると思いながら、決定的に思い違いをしている雁夜はそれでも前をだけ見据える。

「それで、他の連中については?」

「うむ。遠坂にアインツベルンは当然として、魔術協会からの枠も既に抑えられておる。残る外来勢については今のところ情報は皆無じゃな」

「時臣は出るんだろうな」

「いいや。生憎と令呪はその娘である遠坂凛に宿ったらしい」

 凛、という名前にぴくりと反応を示した桜。俯いたまま、耳だけは臓硯と雁夜の声を聞いているらしい。
 そんな様を見た臓硯は一人ほくそ笑み、雁夜は舌打ちをした。

「あの野郎……俺の十年はアイツに復讐を果たす為でもあったというのに。しかし……そうか、遠坂からのマスターは凛ちゃんなのか……」

 胸に渦巻くのはえもいわれぬ感情。桜を救う為には聖杯を手に入れなければならず、聖杯を手に入れる為には凛を倒さなければならない。
 それは二律背反。桜の幸福を望みながら、その傍らにあるべき姉を討たねばならないという矛盾への葛藤。

「まあいいさ。何とかする、してみせる。それが出来るだけの力は手に入れたつもりだからな」

「……ふむ。しかしそれでもどうじゃろうな。今回はどうにもきな臭い。どいつもこいつも腹に一方ならぬものを抱えているように思えてならぬ」

「はっ──他ならぬアンタがそんな戯言を謳うのか」

「まあ聞け雁夜。今回は儂も本気で聖杯を狙っておる。お主の仕上がりは儂の想像以上であったし、桜についても同様よ。これならば充分に他の連中と渡り合えるだろうが……それだけよ」

「何が言いたい」

「確実な勝利を手にするにはもう一手足りぬというところか。渡り合うのではなく圧倒出来るだけの戦力が欲しいと、そうは思わんか」

「……今更そんなものを用意出来るツテでもあるのか」

「既に用意しておる────桜」

「はい、お爺さま」

 言って桜は初めて顔を上げて、定まらぬ視線をそのままに、右手を僅かに上に向けて差し出した。

「なっ……それは」

 桜の右手の甲に描かれた三画の証明。春風に舞う桜花を思わせる呪印。それは紛うことなき令呪だった。

「馬鹿なっ……! 間桐のマスターは俺だ! 何で桜ちゃんに……っ、臓硯────」

 ぎちりと奥歯を噛み砕きながら、雁夜は憤怒の視線を臓硯に向ける。

 間桐臓硯は恐らく、初めからこれを狙っていたのだ。十年の遅延と雁夜の出戻り。そして桜の才を間桐に染め替える必要がなくなったこと。

 臓硯にとって桜は雁夜を釣る餌であると同時に期待に値する戦力の一つとして計算に入れている。本来ならば一陣営に一つしか宿らない筈の令呪を臓硯しか与り知らない外法を用いて桜に宿させたのだ。

「雁夜に桜。此度の戦では間桐からの参戦者はお主ら二人共よ。せいぜい気張り、儂に聖杯を齎すがいい」

 全てはこの悪鬼の掌の上。どれだけ足掻こうともそれすらも思惑の内。雁夜程度では出し抜けない老獪だ。

 くつくつと嗤う臓硯を前に、雁夜は歯噛みするしかなかった。



+++


 悪鬼臓硯の哄笑を背に、二人は客間を辞した。室内同様に薄暗い廊下を、どちらともが無言のままに歩いていく。
 最早蟲蔵に用はない。無間地獄で過酷にのたうち回る期間は既に終わっている。むしろ雁夜は既にあの場所に蠢く蟲共の大半を制御出来るまでに至っている。

 桜はと言えば、まるで幽鬼のような足取りでありながら、機械じみた正確さで自室へと歩を進めている。彼女に個人の意思と自由はない。臓硯の命がなくば一日中自室に閉じ篭っている事も有り得るほどだ。

 辛うじて許されていた通学も、開幕を間近に控えた現在は欠席している。何度か学校での生活について尋ねてみた雁夜だったが、芳しい答えは返ってこなかった。この暗い影を背負った少女にとって、間桐の屋敷も学校も変わらず救いなどないようだった。

「…………」

 彼女がこうなってしまった原因は己にあるのだと雁夜は思う。あの煉獄で喘ぎを上げている間、臓硯が桜に施した仕打ちは想像しか出来ない。けれど彼女の心は今なお暗く閉じてしまっている。
 もっと構ってあげられていたら。もっと傍にいてあげられていたら。彼女にこんな顔をさせずに済んだのでないのか、と。

 甘い言葉を囁く事も、希望を謳う事も出来はしない。淡い願望は目の前にある絶望に霞んでしまうから。それでも傍にいてあげられていたら、こんな曇った彼女の顔を見ずに済んだのではないかと思ってしまう。

 でもそれも終わり。これより臨む闘争の先には、明確な光が差す。願い持つ他の連中を駆逐し聖杯の頂に辿り着けば、この奈落とも決別を果たす事が出来る。

 その為に力を身につけた。地獄の釜で身を焼かれ続けたのだ。だから今こそ、救いの言葉を口にしよう。

「桜ちゃん」

 数歩先を歩く桜へと掛かる声。階段へと足を伸ばした彼女は、その制止の言葉に歩みを止め、くるりと振り向いた。
 その顔に宿るは陰鬱な色。長い前髪が表情を覆い隠しても、全身より滲み出る負の気配は隠しようがない。まるで咎のばれた稚児のように、身を竦め視線を下げている。

「はは……悲しいな。俺は桜ちゃんにそんなに怖がられてるとは、思ってなかったよ」

 びくりと身を震わせる桜。その様は完全な怯えを表している。まるで、臓硯を前にしたかのように。

「あの爺に何を吹き込まれたのか知らないが、そんなに怯えなくていい。俺は君に何かをするつもりはないし、以前のように接してくれると嬉しいな」

 蟲蔵に突き落とされたその日。雁夜が身代わりを決意したあの日。地獄の底で既に諦観しかけていた彼女をこの手で抱き上げた事を覚えている。
 もう大丈夫、と優しく声を掛け抱き締めた途端、溢れたのは大粒の涙。訳も分からぬままに間桐の家に連れて来られ、落とされた奈落で蟲共に嬲られるままだった彼女にとって、それは救いであっただろう。

 しかしその後が良くなかった。救うだけ救い、後は身代わりとして自身が地獄の責め苦を味わっただけ。救われた桜は今一度臓硯に絡め取られ、絶望で身を固めようとした少女に与えた一筋の希望は、悪鬼に付け込まれる隙となった。

 一度希望を望んだ後に訪れる絶望ほど過酷なものもない。希望があると縋り付いてしまった己を後悔し、より深く絶望に身を閉じる結果となってしまった。

 あの老獪に吹き込まれたのもあるだろうが、今の桜にとってみれば雁夜も臓硯と変わらない存在に見えている事だろう。間桐の正当な後継者を前に、臓硯の手足とも言える存在を前に、以前のように振舞えという方が酷というものだ。

 だから桜は動けないし顔も上げない。口を開くなど以ての外。ただ目の前の誰かが自分に対する興味を失くして立ち去ってくれる事を願うのみ。生きていく上での希望なんて、彼女にはもう何一つ残っていないのだから。

「…………ッ」

 唇を引き結び、手を震わせてスカートを握り締める少女の姿をこれ以上は見ていられないと、雁夜はその手を差し出した。
 いつかのように優しく、包み込むように。恐怖に震える少女が、少しでも心開いてくれるようにと。全てを拒絶した少女を、強く抱き締めた。

「……ごめん、桜ちゃん」

 桜はされるがままに抱き締められ、両の手はだらりと下がったまま動かない。そこに抵抗はなく、もしここで雁夜が情欲に駆られて手を出そうとも、彼女はされるがままに全てを受け入れただろう。
 そう教育を施され、身に刻まれた恐怖はトラウマとなって身体を縛る。抵抗の後に待つのは、より酷い仕打ちだと知っているから。

 しかし雁夜は絶望の鎧で身を覆った少女を優しく抱き締めるだけで。桜はそこでふと、視線を上げた。自らの頬を滑る、雫に気付いて。

「……雁夜、おじさん?」

 その名を呼ばれ、雁夜はより強く少女を抱き締める。ありがとう、と己の名を覚えていてくれた感謝を込めて。そしてごめん、と君をそんなにしてしまった己を悔いて。

「なんで、泣いてるの……?」

 雁夜は想いを言葉にはせず、ただただ涙を流し続けた。この十年で雁夜自身が変わったように、彼女もまた変わってしまった。母や姉と共に太陽のような微笑みを浮かべていた彼女はもういない。ただ全てを諦めてしまった少女があるだけだ。

 口先だけでの救いでは、きっと今の彼女には届かない。聖杯を手に入れて君を必ず救ってみせると言ったところで、きっとその心には響かない。
 それほどに少女の絶望は強固で、その闇が皮肉にも彼女を支えている。木偶のような形であっても、死という名の逃げ道にだけは足を向けずにいてくれるから。

 そっと身体を離す。眦に浮かんだ涙をはにかみながらに拭った。

「ごめんよ桜ちゃん。はは……年を取るとどうも涙脆くなっていけないな」

「…………」

 見上げてくる瞳は相変わらずの無色。そこに感情の色はなく、先ほどの疑問の色もまた既に風化してしまっている。ただほんの少し、震えが収まっているように感じて。それだけが雁夜にとって救いだった。

 流した涙を拭い、呼吸を整える。伝えたかった想いの全てを飲み込んで、雁夜は毅然として言った。

「桜ちゃん、君は部屋に戻っていてくれ。俺は少し、用事が出来たから」

 それに頷きを返し、桜は自室へと戻っていった。桜は間桐に対して従順だ。臓硯ほど酷な命令をするつもりはないが、こちらの頼みに素直に従ってくれるのは助かる。

 これより臨むのは熾烈なる戦いの宴。幾ら十年の研鑽を積んだとはいえ、長いモラトリアムを与えられたのは何も雁夜だけではないのだ。
 充分に戦えるだけの力を身につけた自負はあるし、身を苛んだ苦痛の数だけ強くなったと誇る事さえも出来る。

 この力は誰かを害す為のものじゃない。あの子を……今なお水底に沈んだままの少女を再び陽の当たる場所へと連れ出す為の力。その為ならば、憤怒も憎悪もありとあらゆる全てを力に変えて、ひたすらに疾走するのみ。

「だがまだ……足りない」

 桜の助力はきっと必要になる。己だけの力で他の連中全てを打倒出来ると思い上がっちゃいない。臓硯に踊らされるのは癪だが、彼女の力は有用だ。それでも力を借りるだけだ。矢面に立つべきはこの間桐雁夜だ。

 ……力が要る。全てを圧倒する、暴力が。

 彼女を守る為。
 あの子のいるべき場所へと連れて行く為に。
 こんな暗がりじゃなくて、陽の当たる道を歩いて欲しいと願うから。

 雁夜は一つの決意を胸に秘め、踵を返した。
 行く先は悪鬼待つ魔窟。
 聖杯戦争の始まりを知り、システムの一端を担った男の下へと。

 もう振り返る事さえ叶わぬ道を、歩んでいくと決めたから。



[36131] scene.01 - 3 正義の味方とその味方
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/01/10 20:29
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 北欧のとある地方。

 一年を通して雪に閉ざされたままの極寒の森。根雪は何処までも地平を白く染め上げ、居並ぶ針葉樹は降り注ぐ僅かな陽光をすら遮り影を作り出す。
 冬のこの季節ともなれば連日連夜の猛吹雪が森を覆い尽くし、人の踏み入る事の叶わぬ魔境へと変貌する。

 そんな人里離れた森の奥に存在するのは一つの城。中世よりその姿を保ち続けた古城。それは千年余りの歴史と燃え滾る妄執が渦巻く狂信者の住まう塔だった。

 その城からは少し離れた森の中。年に数回とない珍しくも晴れた空の下。淡い光の中に粉雪が舞い散る幻想的な一幕。一人の少女が雪の妖精のように、真白の髪を風に躍らせながら軽やかにステップを踏んでいた。

「キリツグー、何しているのー? おそいよー!」

 少女は後方の人影に向けてひらひらと手を振り、振られた方の男は苦笑を浮かべ小走りに少女に駆け寄った。

「イリヤは元気だなぁ。僕はもう年かな、イリヤについて行くのがかなり辛いよ」

「またそんなこと言って。本当はぴんぴんしてるくせに年のせいにしてごまかそうたってそうはいかないんだからっ!」

「おいおい心外だな。僕が何を誤魔化そうとしてるって?」

「キリツグは外でこうして遊ぶより、お城の中でぐうたらしてる方が好きなんでしょ」

「う……まあ、否定はしないが。それでも偶に晴れた日くらいは、イリヤの我が侭にも付き合うさ」

「わがままなんて言ってないもーん!」

 はしゃぐ少女と嗜める男。

 少女の名はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンと言い、男──衛宮切嗣の娘だった。姓が違うのは切嗣が婿養子のようなものであるからだ。

「もう。こうして一緒に遊べる機会はもう当分ないかもしれないんでしょ。だから今日はいっぱいいーっぱい遊ぶんだから!」

「ああ、望むところだ。今日は遊び倒して、明日は一日筋肉痛でベッドの上を覚悟しておくよ」

「だいじょうぶだよキリツグ。私がちゃんとマッサージしてあげるから。じゃ、とりあえずあの一本杉まで競争ね! よーいどーんっ!」

 苦笑いと共に走り出した少女を追いかける。

 この少女と……実の娘とただ親子としていられる最後の一時。だから切嗣は娘に何処までも付き合う覚悟をして、冬の森の中を走り出した。



+++


 衛宮切嗣とアインツベルンの関係を端的に表すとすれば、それは契約である。

 アインツベルンの千年の妄執の結末──聖杯の成就による第三魔法の顕現。これまで三度行われた聖杯を巡る闘争の全てで敗北を喫した彼らは、千年の純潔を捨て去り部外の人間を招き入れた。

 それは誇りに泥を塗り込むようなものだ。魔術師としてのプライドを金繰りに捨てるにも等しい行い。自らだけの力では聖杯を勝ち取れないと悟り、彼らの持ち得ない戦闘能力に秀でた魔術師を迎え入れた。

 彼らの聖杯へと賭ける情熱。行き過ぎたきらいのある熱情は、胸に抱く無形の誇りよりも形ある実利をこそ優先した。そうまでして聖杯を欲したのだ。

 聖杯戦争の開催が十年遅れても、その熱意に陰りはない。むしろ与えられたモラトリアムを最大限に利用し、磐石の布陣を敷き詰めた。

 それは数日前の話だった。

『ようやくマキリの仕掛けた令呪システムの綻びを見つけた。それは綻びというには些細なものであり、むしろわざとそう仕組んであったかのような盲点だったが、それもあの翁を思えば無理からぬ話だ』

 アインツベルン城最上階。祭壇と玉座を併せ持ったかのような造りの広大な一室の最奥でアインツベルンの当主たるユーブスタクハイトは切嗣とイリヤスフィールを呼び出しそう話を切り出した。

『しかしこれで我らはまた一つ優位を得ることになる。即ち、一つの陣営からは一人のマスターしか選ばれないという前提を覆し、衛宮切嗣とイリヤスフィールをアインツベルンのマスターに仕立て上げる』

『…………』

 祭壇に立つアハト翁を、直立したまま無表情に見つめる切嗣の右手の甲には既に十字架を模した令呪が浮かんでいる。
 アインツベルンからのマスターは通常ならば切嗣一人であるのだが、ユーブスタクハイトは長い月日をかけマキリの構築したシステムを紐解いた。そしてその裏を掻いてイリヤスフィールまでをもマスターにする算段だった。

 それはまさに外法。反則と呼んでも過言ではない暴挙だ。七人が競い合う闘争においてその内の二人が手を組んでいるとすれば圧倒的な優位に立つ事が出来る。
 作戦の幅は広がり、勝利への道を近くする。外法であり反則ではあれど、絶対に勝利と聖杯を掴まねばならないアインツベルンなりに最善を望んだが故の逸脱だ。

『いいえ、アハト翁。その必要はありません』

 しかし、切嗣は揺るがぬ意思を瞳に湛えて、拒絶の言葉と共に祭壇に立つ老獪を睨めつけた。

『……それは、どういう意味だ』

『言葉の通りです。僕は単独で全てのマスターとサーヴァントを打倒することが出来る。ならばイリヤスフィールに無意味な負担を負わせる必要はない、そう言っているのです』

『……何故だ? イリヤスフィールは初めから“そのよう”に調整を施してある。聖杯として機能する上での負担も多少はあるだろうが、それも戦いが終盤に差し掛かる頃合だと見ている。
 なればそれまでの戦いを円滑に進める為にイリヤスフィールにサーヴァントを喚ばせて状況を有利に進めておくべきだろう』

『それが不要だと言っているのです。イリヤスフィールをマスターに仕立て上げては彼女自身の命をいらぬ危険に晒す羽目になる。アハト翁、貴方は聖杯の守り手であるイリヤスフィールが戦いの途中で命を落とすことになっても良いと?』

『それをさせぬ為のお主であろう。お主は我らアインツベルンの剣であり盾だ。聖杯を勝ち取るのも守り抜くのもその役目に含まれる。よもやこの段になって臆病風に吹かれたなどとは言うまいな?』

『ご冗談を。分かっていないようなのではっきりと言いましょう。僕の戦略を推し進める上で協力者など必要ない。それがたとえ歴代最高のマスター適正を持つイリヤスフィールであってもだ』

 言って切嗣は自らの胸に右腕を差し込み、霊媒治療の如く体内より異物を引き抜いた。

 それはばらばらに分散し、切嗣の体内に溶け込んでいた聖剣の鞘。目も覚める青と金で彩られた、この世に比するもののない聖剣をその身に収めていた鞘だった。

『無理を言って発掘を願い出たこの聖剣の鞘の加護さえあれば、僕はたとえ相手がサーヴァントであっても遅れを取らない戦いが可能だ。
 しかしイリヤスフィールを戦場に立たせ守りを考えなければならないのなら、この鞘は彼女に預けなければならなくなる』

 持ち主に脅威の治癒能力を授ける妖精郷よりの贈り物。無論、本来の持ち主との繋がりがなければ完全には起動しないが、聖杯戦争に限ってはそれが可能になる。
 この鞘を体内に埋め込み、持ち主をサーヴァントとして喚び出せば、マスターは擬似的な不死を得ることが出来る。

 死を恐れることがなければ踏み込めぬ一歩を踏み抜くことが可能になるし、決死の戦場であっても優位に立ち続けることが出来る。
 それこそ相手がサーヴァントであっても限界を超えた魔術行使が可能ならば、その頂に指先を掛ける事さえも叶うかもしれない。

 それほどにこの鞘は脅威の性能を有している。切嗣の考え出した最大のジョーカー。自らの性能を余すことなく引き出し敵マスターを駆逐する為の切り札。

 しかしイリヤスフィールが戦場に立つのなら、この鞘は彼女の守護に回さなければいけなくなる。万が一にも彼女を死なせるわけにはいかない以上、切嗣に選択肢はない。それは切嗣という戦力を半減以下に落とすほどの愚策だ。

 見返りとして得られるサーヴァントは確かに魅力的ではあるが、サーヴァントであるが故に敵の警戒も厳しくなる。切嗣というマスターでしかない駒を最大限に活かした戦術よりも上策であるとは、必ずしも言えないのだ。

 ユーブスタクハイトにしても、自らが勝負を預けたマスターが不要であると言う以上は無理に食い下がるつもりもない。
 彼にしてみれば聖杯さえ手に入ればそれで良いのだ。より優位に戦況を進める為に苦心したものとはいえ、要らぬと言われてしまっては是非もない。

 必ず聖杯を掴み取る──その約定さえ果たされるのならば、過程などに興味はない。

 そう告げて話を終わらせようとしたアハト翁を遮り、

『ねえキリツグ。私、一緒に戦いたいな』

 彼女──イリヤスフィールは、そんな夢物語を謳ったのだった。



+++


 真綿のような雪の上を駆け回り、短い昼の時間を精一杯使いきって遊んだ二人は。一際大きな傘のように開いた巨木の足元で身を寄せ合って座っていた。

 残照の如く降り注ぐ淡い陽光。冬の森でその温かさに包まれながら、切嗣が呟いた。

「……イリヤ。なんであんなことを言ったんだ」

「あんなことって?」

「アハト翁に呼び出された時のことだよ。僕と一緒に戦いたいだなんて……」

 結局あの場はうやむやのままに終わってしまった。切嗣にすればそんな子供の駄々のような我が侭に戦場で付き合う気にはなれないし、イリヤスフィールは嗜める切嗣の言葉の全てを『やだ』で押し切った。

 本格的な喧嘩になっても水掛け論にしかならないのは明白で、だから切嗣が一時折れることでこの時まで決断を引き伸ばしたのだ。

「イリヤ。これから僕が臨むのは遊びじゃないんだ。アインツベルンの千年の悲願は……まあ僕個人としてはどうでもいいが、聖杯は絶対に勝ち取らなければならないものなのは間違いない。
 他の連中も死に物狂いだろうし、イリヤを守りながら戦うのは難しいんだ」

「それでも私は冬木に渡らないといけないんでしょ? 私が──今回の聖杯の器だから」

 彼女の母、アイリスフィールの胎内にいる頃からイリヤスフィールは聖杯として機能するよう調整を施されてきた。
 それはアインツベルンとしても試作の段階と考えていたものであったが、この開催の遅延によりイリヤスフィールは正式にその任を負う事になった。

 無機物の聖杯では叶わぬ自衛機能を有するホムンクルス型の聖杯。イリヤスフィールの体内に埋め込まれているわけではなく、彼女自身が聖杯そのものなのだ。

 アハト翁の言う令呪システムの隙、というのもイリヤスフィールの特性があってこそ可能なものだ。マキリの秘術を完全に解せないアインツベルンは、イリヤスフィールの小聖杯としての機能を利用し令呪を大聖杯より横取りする腹だった。

「ならキリツグはどのみち私を守ることになるんでしょ? だったら私も一緒に戦わせて欲しいの」

「非戦闘員のイリヤとサーヴァントを従えて敵に殺しの対象として定められたイリヤとでは守る難易度が段違いだ。
 完全に守りきる為には聖剣の鞘を渡さなければならないし、そうすれば今度は僕の性能が低下する。そうするとよりイリヤを守ることが難しくなるんだ」

「鞘はいらないよ。私は自分のサーヴァントに守ってもらうから」

「そういうわけにもいかないんだ。万が一にもイリヤに死なれては困るんだから」

 自分でそう口にして、切嗣は唇を噛み締めた。

 どの口がそんなことを言うのだ。最後には犠牲にしなければならない命に、犠牲にすると覚悟した娘に、ただ自分の願いを叶える為にこの手で殺すまでは生きていて欲しいだなんて──

 ──何処まで偽善者なんだ、僕は……

 真綿の雪を強く握り締め、その冷たさが罰のように感じられた。

「だいじょうぶだよ」

 その手を包み込む、温かな掌。
 視線を傾ければ、そこに輝くのは柔らかな笑み。

「キリツグの願いを知ってるから。それは、どんなことをしてでも叶えなければならない願いなんだよね?」

「……ああ」

 自らの娘の命を捧げてでも、叶えなければならない尊い祈り。

「この森で過ごした……私とキリツグと、そしてお母さまとの思い出さえを失くしてしまっても?」

「……ああ」

 切嗣の妻でありイリヤスフィールの母であるアイリスフィールは既に亡くなっている。彼女は本来起こる筈だった十年前の戦いに向けて調整を施されたホムンクルス。なればその寿命も当然にして十年前。
 戦いによって使い潰される前提で鋳造されたホムンクルスに余計な延命機能を付与するほどアインツベルンは甘くはない。

 それでもアイリスフィールは五年を生きた。寿命を超え、機能の限界を超え、愛する夫と子と共にその生を精一杯に謳歌した。

 避けえぬ死によって別たれる結末は同じでも、彼女にとってその五年間は幸福なものであった筈だ。短く、そして儚き生であっても、精一杯に生き抜いた彼女の生き様を誰も穢すことは出来ない。

 しかし切嗣だけは違った。

 アイリスフィールの願いが夫と子の幸福であると知りながら、彼はその想いを裏切る。自らの理想の為に、我が子を聖杯として差し出すのだ。

 なんという独善。何処までも自己欺瞞。それが許されざる罪であると知りながら、切嗣は歩みを止めることが出来ない。
 自らの過ちによって犯してしまった最初の罪を購う為には、聖杯に希う他にもう手がないのだから。

 自分自身と、これまでの犠牲を裏切れない。裏切ってしまっては衛宮切嗣が瓦解する。それほどに、その罪は切嗣の根幹に根付いている。
 逃れえぬ鎖。避けようのない運命。自らの胸を絶望と悲哀で埋め尽くしながら、正しき行いを遂行する。

 理想と現実の軋轢で鉄の心を軋ませながら。いつか夢見たものを追いかけ続ける。それでも切嗣は人間だ。どうしようもなく人なのだ。そこらにいる誰かと変わらない、弱く小さな一人の人間。

 どれだけ心を固めても、ツギハギだらけでその隙間からは悲しみが零れてしまうから。

「──泣かないで。イリヤはキリツグの味方だよ」

 俯いていた切嗣に覆い被さる小さな影。回された腕から感じる温もりに、切嗣は嗚咽にも似た声を漏らした。

「ねえキリツグ。イリヤとお母さまと、三人で暮らした時間は、幸せだった……?」

「ああ……僕には、もったいないくらいに」

 自らには分不相応だと思っていた人並の幸福。アインツベルンでの二十年余りは、幸福に過ぎた。この微温湯で命尽きるまで幸せの中で揺蕩い続けられたら、どんなに良かったことか。

 その思いが過ぎる度、切嗣は自らの身体に過剰なまでに鞭打った。
 幸せの中で堕落していくことを恐れ、胸に抱いた理想が風化することを恐れ、死に物狂いで鍛錬に明け暮れた。

 ここは本来自分がいるべき場所じゃない。あくまで理想を叶える為の通過点。そう自分を戒め続けなければ、この先の過酷に立ち向かえなくなる。それほどに切嗣にとってこの幸せは長すぎた。

「そっか……うん。私も、幸せだった」

 だから。

「キリツグは悲しまなくていい。泣かなくていいんだよ。キリツグの祈りが誰に認められなくても、私だけが認めてあげる。ずっとずっと傍にいてあげる」

 それが叶わぬ願いと知りながら、少女は歌う。
 この誰よりも尊い願いを宿し、けれどどこまでも人でしかない大切な父を想い……

「キリツグが世界中の人を救って正義の味方になるって言うのなら、私はキリツグだけの味方になってあげる。
 キリツグの夢の邪魔をする奴らなんかみーんなやっつけちゃうんだから!」

 その為に少女は力を願った。孤独に世界の救済を夢見る男の隣に立ち、その夢の片棒を担ぎたいと願ったが故に。
 守られるだけのお姫さまなんていやだった。そんな無様に甘んじるくらいなら、一緒に傷つき支えあいたい。

 イリヤスフィールの人生に、幸福をくれた父の役に立ちたいと、そう願った。

「…………」

 それは余りに感情的で、非効率な行い。冷徹に任務を遂行し目的を成し遂げる切嗣の理にはそぐわない。今でもイリヤスフィールの参戦には反対だ。その思いは変わらない。

「……分かったよイリヤ。僕の負けだ」

 それでもこの少女の想いに報いたい。出来る限りの願いに応えたい。この戦いの果てに散ることを約束されている少女に少しでも幸福に生きて欲しい。
 それは余りに理にそぐわぬ余分。されど父として子を確かに想うが故の祈りだった。

「ほんとっ!?」

「ああ。ただし僕の言うことを守ること。勝手な真似はしないこと。無理はしないこと。ちゃんと守れるかい?」

「うん! 簡単だわそんなの! だって私淑女(レディ)だもの!」

「…………まあそれは置いておくとして。そろそろ戻ろう。アハト翁にも伝えなければならないし。段取りも少し変えなければならないかもしれない」

「なんでもいいわ! キリツグにまかせる! ほら、そう決まったら急ごっ!」

「うわっ……とっ──!」

 少女に手を引かれ男は雪原を駆け抜ける。
 戦いに向かう前の最後の一時。
 その幸せを噛み締めながら。
 終わってしまう幸福に、名残惜しさを感じながら。



+++


 それから数日。

 あの日以来、森はまた吹き荒ぶ六花に閉ざされた。曇天は何処までも遠く空に蓋をし、垣間見えた青空を見ることはもう、叶わなかった。高まる闘争の機運とは裏腹に、曇り行く彼らの心のように。

 冬の城のエントランスホール。大階段の脇から伸びる通路の先にあるサロンに、切嗣とイリヤスフィールの姿があった。

 少女はその背に二人の侍女を従え、淹れられたばかりの紅茶の薫りを楽しんでいた。長机を挟んだ対面に立つ切嗣は、イリヤスフィールの楽しげな表情とは対照的な渋面を貼り付け虚空を睨んでいた。

 それと言うのも未だ切嗣の中でイリヤスフィールをマスターとした上で戦う為の算段がついていないせいだった。

 当初の計画通りイリヤスフィールはただの連れ添いとして冬木へと赴いた場合、矢面に立つのも傷を受けるのも切嗣とそのサーヴァントだけで済む筈だった。
 他の連中がいかに有能なマスターでも、強力なサーヴァントを従えていようとも、戦い抜ける──勝てるだけの算段と用意が切嗣にはあった。

 しかしイリヤスフィールが切嗣と同じ舞台に立つと言うなら話がまるで変わってくる。アハト翁と口論になった時にも言ったように、聖剣の鞘の守護を絶対に死なせるわけにはいかないイリヤスフィールに渡さなければならない。

 作戦の根底にあったものが騎士王の戦力と鞘の加護にあった以上、立てた概要の全てを放棄して一から構築しなければならなくなる。

 具体的には聖剣の鞘をイリヤスフィールに預けるとして、騎士王を召喚するのはどちらが良いか。もう一体喚べるサーヴァントはどのクラス、どの時代の英霊が好ましいか。避けられない切嗣自身の戦力低下をどう補うか。

「…………」

 イリヤスフィールの懇願を受け入れた事を早まったか……とさえ思うほどに状況は芳しくなかった。

 口を曲げて唸る父を上目遣いで見やる赤目の少女は、紅茶のカップを音もなくソーサーへ戻した後、頬を膨らませて言った。

「もう、キリツグったらいつまで悩んでるの? 何度も言ったじゃない、私は自分のサーヴァントに守って貰うから、鞘はキリツグが使えばいいって」

「……今ではそうするのが一番なんじゃないかという気もしているよ」

 何せアインツベルンに招かれた時、聖杯戦争の概要を聞いた後、切嗣自身が世界中の文献を当たり、その中から選び出した最良と考えうる策だったのだ。
 理想の王の手から失われし最強の聖剣をその身に納めたという鞘。アーサー王の凋落はこの鞘を紛失した事に端を発すると言われるほどの貴重品。

 事実切嗣はこの鞘が発見されなければ別のサーヴァントを招来する腹だった。

 鞘がなくとも円卓の王はおよそ最優のセイバーというクラスにおいても上位に位置する英霊だ。彼自身の武勇と手にする黄金の煌きがあればどんな英雄が相手でも一方的に劣ると言う事はないだろう。

 ただし、文献などから考察される騎士王の気性と切嗣のやり方は恐らく、致命的に合わないしズレている。正統であり真っ当な騎士の王と騙しや裏切りが常套手段の切嗣では相性が悪くて当然だ。

 聖剣の鞘ほど強力な縁の品ならば、そんな相性の悪さを無視して召喚を行う事は可能だろう。そしてそんな致命的なズレに目を瞑ってでも得たいほどに鞘の加護は強力。それが切嗣が鞘に固執する理由だ。

「……仮に僕がアーサー王……セイバーを喚ぶとして。今度はイリヤにどのサーヴァントを喚んで貰うべきかでまた頭を悩ませなくてはいけなくなる」

 幸いにしてこの十年……前回から数えて七十年の期間で、ユーブスタクハイトは相応の数の触媒と成り得るものをかき集めていた。
 名立たる英雄の所有物や、歴史に名を刻まれた縁の品。有名どころの北欧神話やギリシャ神話を筆頭に、世界中の誰もが一度は耳にした事のあるだろう大英雄の触媒さえも保管されている。

 ただ名のある英霊を喚べばいいという単純な話ではない。これが個の戦いであるならそれでも構わないかもしれないが、今回に限ってはアーサー王個人やクラス間との相性も考慮しなくてはならない。
 セイバークラスの強力なサーヴァントを二体使役出来たしても、それでは今度は搦め手に弱くなる危険性がある。

 各地に伝わる伝承で主役とされる者達とて、違う神話の登場人物達が直接剣を交えた事がない以上、明確に最強であり無敵である英雄など決められない。そもこの聖杯戦争がそれを決する場でもあるのだから。

「…………」

 結局は堂々巡り。上手い案は中々出ない。当然だ、そもそもこんな事態を切嗣は勘案など毛ほどもしていなかったのだから。

「いや……」

 そこではたと、切嗣は自身の見落としに気付いた。そもそもの話として、何故ここまで頭を悩ませなければならないのか、と。

「キリツグ……?」

 イリヤスフィールは窺うように切嗣の瞳を覗き込む。突如として色を失った、父の瞳を。

「……僕は馬鹿だな。ああ、本当に。前提を既に間違えていると、何故今まで気が付かなかった」

 これは誰の為の戦いであり、何の為の戦いか。
 自分自身に課した役目を今一度思い出せ。
 自分自身のやり方を──衛宮切嗣の流儀を。

 ……こんなにも、心が鈍ってしまっている。

 それほどに、この城での幸福は長く、満ち足りていた。

 精密機械じみた殺人者でしかなかった切嗣の心。黒く渦を巻いていた心は、この城の中で色づいた。当たり前の幸福をくれた二人のお陰で。しかしそれは余分。衛宮切嗣が衛宮切嗣であり続ける為にはあってはならない余分だ。

 機械を正常に動かす為には歯車は少なくてもいけないし、多すぎてもいけない。不必要なパーツを無理に組み込んだところで、動作不良を起こすだけだ。
 冷静に。冷徹に。冷ややかに戦局を俯瞰し、己にとっての優位を構築し相手にとっての劣位を押し付ける。

 誰かを守る為の戦いなんて一度としてした事などない。
 だってこの掌は────誰かを殺す事でしか、救いを手に入れられないのだから。

 瞼を重く閉じ、開いた時にはもう瞳には迷いはない。為すべき事は明確で、目的としたものはもうすぐそこ。ならば万難を排しただ駆け抜けるのみ。

「イリヤ。アーサー王は僕が召喚する」

「じゃあ……私は……?」

「イリヤには────」

 切嗣は無感情な声で、喚ぶべき英霊の名と考えられるクラス名を告げた。



+++


 そして遂に儀式が始まる。

 聖杯戦争の足掛かりとなるサーヴァント召喚の儀。広い儀式場の中心に男と少女は背中合わせに立ち、互いに向かい合うのは各々の血で描いた魔法陣。

 捧げるべき聖遺物は一つは切嗣自身と融合し、一つはイリヤスフィールの手の中に。血と鉄で描かれた紋様を前に朗々と歌は紡がれていく。

「我は常世総ての善と成る者──」

「──我は常世総ての悪を敷く者」

 発光する魔法陣。踊る気流。咲き乱れるエーテルの嵐の中、二人は身に宿した令呪の高鳴りと門を開く感覚に身を任せる。

 彼方と此方を結ぶ道。その創造はあくまで聖杯自身が行うものであり、マスターはただ呼びかけるだけでいい。難しい手順も何もなく、定められた詩文を謳い上げればそれだけで事足りる。

 朗々と謳い上げられる小節。一字一句の間違いもなく。これより招かれるは絵本の中の主人公。御伽噺の中でしかなかった存在が、もう間もなく目の前に現われる。

 サーヴァントを聖杯を手に入れる為の道具と割り切る男に高揚はなく。少女の心の内は不明瞭。されどどちらともが感じている。令呪より伝わる熱の意味を。

 遂に最高潮を迎える乱流。二人は共に最後の一節を声高に叫び上げた。

「……汝三大の言霊を纏う七天」

「抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ……!」

 詠唱の完成と共に咲き乱れていたエーテルが霧散する。突風が巻き起こり二人の視界を遮る。漂う靄。しかしそれも世界の外側より招かれた者が放つ圧倒的な気配の前に、ただのエーテル流などただの一足で吹き飛ばされた。

 白銀の具足が大地を打ち鳴らす。
 黄金の如き髪が風の残り香に揺れている。
 翠緑の瞳が、揺るがぬ意思を秘めて己を招きしマスターを見つめていた。

 そして同刻。
 白の少女の前にも彼女の喚んだサーヴァントが姿を見せる。

 風を踏んだかのような軽やかな着地。
 薫る甘い香の匂い。
 耳に残る、鈴の音。

「────問おう。貴方が」

「私のマスターかしら……?」

 幾千の時を超え、熾天より舞い降りた二人は、同時に己が主へと問いを投げ掛けた。



[36131] scene.02 開戦
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/01/02 19:33
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 室内に漂っていた薄靄は晴れ、視界が明瞭になる。

 切嗣が立つ召喚陣の中央には白銀の少女騎士が。
 イリヤスフィールが立つ召喚陣の中央には紫紺の魔女が、その姿を現した。

 彼方より此方へと招かれし賓客。時代にその名を残した英雄達。歴史書の中でしかその存在を知る事など不可能な筈の伝説が、綴られ終わりを告げた物語の続きを望むように……今こうして現世へと招かれた。

 召喚が成功した事による一瞬の弛緩。次いで投げ掛けられた問いに対する緊張。マスター達の刹那の感情の変化の間に、喚び出されたサーヴァント達も互いに置かれた立場を把握する。

 現世へ降りるに際し付与される知識、そして無意識に植えつけられる他のサーヴァントに対する敵愾心。それらによって互いを敵と認知してしまう上、倒すべき敵が召喚と同時に目の前に現われれば、殺気立って当然だ。

 しかしそれも数秒。警戒の色は解かないまでも、どちらもが機先を制し相手に一太刀浴びせる……などという事もなく、どころか得物を取るにすら至らなかった。
 互いの配置、マスターの立ち位置。状況。視界に映る全てのものを考慮しそれなりに思考を回す事で、両者は同じ結論へと辿り着いたようだった。

「マスター」

 口火を切ったのは白銀の少女騎士。澄んだ……それでいて揺るがぬ瞳を己を招いた男に向けながら、静かな声で確認の問いを投げ掛ける。

「あちらのサーヴァント……恐らくはキャスターと見受けますが、どうやら私と時を同じくして招かれたようだ。ならば彼女ないし彼女のマスターは、今のところ我々の敵ではないと判断しますが」

「…………」

 切嗣はすぐに答えを返せなかった。この男にしては珍しいほどの忘我だった。それほどに目の前の存在が異質なものに見えた。

 聖剣の鞘ほど明確な縁の品も他にない。現代まで完全な形で残っている聖遺物は恐ろしく希少だ。大概がマントの切れ端だったり鎧の破片レベルのものに過ぎない。
 しかし鞘は違う。現代まで現存していた本物の聖剣の鞘。傷の一つすら存在していない代物。それそのものを用いて召喚を行ったのだから。

 明確な証拠はない。目の前の少女から真名を聞くまで到底信じる事など出来ない。だがどうしようもなく、疑いの余地などなく、この少女は切嗣が渇望した英霊に相違ないと断言出来る。出来てしまうからこその、忘我だった。

 だってそうだろう……誰が信じるものか。彼の理想の王が、こんな年端もいかぬ少女であるなどと。

「…………」

 切嗣は答えぬままより深く眉間に皺を寄せる。忘我は脱したが今度はどう対応するべきかと思考を巡らせた。
 想像の埒外だった展開に光明を齎したのは、

「キリツグ」

 背に立つ愛娘の呼び声だった。

「淑女(レディ)に声を掛けられたのよ? 応えてあげるのが礼儀でしょ?」

 場違いなほど軽やかな声色に、切嗣は毒気を抜かれてしまった。

 彼のアーサー王がこんな少女だったとは今もってなお信じがたいが、目の前の現実は覆せない。十年前、当初の予定通りに第四次聖杯戦争が行われていれば、この少女とはきっと最低限のやり取りで戦い抜いて行く事になっていただろう。

 切嗣は現実主義者(リアリスト)だ。たとえサーヴァントが人の形をしていようとも、それが自身が聖杯を手に入れる為に必要な道具だと割り切って物事を考える。
 道具と言葉を交わす趣味はない。道具を愛せば応えてくれるなんてのは迷信もいいところだ。物は所詮物でしかなく、それを扱う人間の手腕こそが全てだ。

 同様にサーヴァントに対しても不要な信頼関係など築くつもりは毛頭ない。こちらの思惑通りに動けばそれでいい。それで済むだけの算段があの頃の切嗣にはあったから。

 しかし、かつてと今では圧倒的に状況が違っている。切嗣がアーサー王を招来するという結果は同じでも、背後に立つイリヤスフィールと彼女が喚び出したサーヴァントの存在がある。

 これから切嗣達が臨む戦いの舞台へは、この場にいる面子全員で挑む事になる。サーヴァントを道具と割り切る思考は変わっていなくとも、最低限以上の説明の必要性については理解が出来る。
 道具を正しく運用しようというのなら、それなりの“扱い”をもって臨まなければならない。

 一つ溜息を吐き、切嗣は目の前の少女に対して言葉を口にした。

「ああ。あのサーヴァントを喚んだのは僕の娘であり、今回の聖杯戦争における共闘の相手だ。つまりはそのサーヴァントともまた悪戯に争うことは好ましくない」

「了解しました。マスターがそう言うのであれば私に是非はない」

「だそうよ。貴方も事情は飲み込んで貰えたかしらキャスター?」

 最初の問いから無言で場を睥睨していた──目深に被ったフードのお陰で視線は判別し難いが──魔女はくすりと口元に笑みを浮かべた。

「ええ、分かったわ。でもとりあえずは色々な事情の説明をお願いしたいところだけれど」

 魔女の声はイリヤスフィールを通り越し切嗣へと向けられる。事情を最も把握している者が誰であるかを見抜いたが故のものだろう。

「分かっている。これから僕らの行う戦いは通常の聖杯戦争のそれを逸脱することになるだろう。元より事情は説明するつもりだった」

 ただ一つの椅子を争うバトルロイヤルにおける共闘。そのメリットと同等以上の弊害がある事など、イリヤスフィールの提案を受け入れると覚悟した時より予見していた。
 だからこの状況も大局だけを見れば想定内。一つの大きな誤算はあったが今更そんな事に拘うつもりもない。

 たとえ相手が道具であっても語る口が必要ならば語るまで。こちらから無闇に軋轢を作ることを最大限の運用とは言えないのだから。

「じゃあとりあえず移動しない? サロンでお茶しながらにしましょう!」

 そんなイリヤスフィールの提案はにべもなく切って捨てて余りあるが、それで円滑な関係が築けるのなら容易いと、切嗣は肯定と共に一階のサロンへとサーヴァント達を伴い向かった。



+++


 一階エントランスホール脇にあるサロンでアインツベルンの侍従の淹れた紅茶で喉を潤しながら、切嗣は手早く現状をサーヴァント達に説明した。
 それに付随して真名こそ明かし合わなかったが、互いのクラス名……白銀の騎士はセイバーを名乗り、紫紺の魔女はキャスターを名乗った。

 マスター達もまた己がサーヴァントとの正式な契約を行い、共に聖杯戦争を勝ち抜く為のパートナーと認めた。
 イリヤスフィールとキャスターの微笑ましいやり取りとは裏腹に、切嗣とセイバーのそれは事務手続きじみた淡々としたものだったが、お互いに納得の上でのものなら余人が口を挟むものでもない。

「つまりは本来不可能な筈のシステムの改竄を行い、貴方とイリヤスフィールは共にマスターとなったと。そしてそのサーヴァントである私達にもその関係を同様のものとして欲しいと」

「端的に述べるのならそれで間違いはない」

 キャスターの要約に切嗣は首肯を返す。

「少なくともこれで僕達は他の参加者からは優位な立場に立つことが出来る。最優と目されるセイバーと権謀術数に長けたキャスターの連携があれば、遅れを取ることなど有り得ないだろう」

「そうね。何事もなければ最終局までは有利に事態を進められるでしょうね」

 それは棘を滲ませた言葉だった。フードの奥に微かに灯る瞳に強い意思が垣間見える。見ているものが常人の一歩先。彼女が鬼謀に長けた魔女であるのなら、当然にしてその陥穽に気付かない筈がない。

「聖杯を獲得出来るのは一組だけという触れ込みらしいけれど? それはどうするの?」

 切嗣とイリヤスフィールは同じ地点を目指しているから構わないが、セイバーとキャスターが共に聖杯に招かれてその頂を目指す者である以上、その一点は譲ることが出来ないものだ。

 聖杯を手にする資格を持つのは六人六騎を蹴落とした、ただ一組の勝者のみ。それが揺るがぬ事実であるのなら、共闘などお笑い種だ。

「特に私は最弱にも等しいキャスターよ。堅牢な対魔力を有するセイバーと最終局面でかち合えばどうなるか、語るまでもないわよね?」

 切嗣に認識出来るセイバーの対魔力は最高位。およそ現代の魔術では彼女に傷をつけることさえ叶うまい。
 如何にキャスターが秀でた魔術師であったとしても、魔術師である以上は真正面から戦いを挑んでセイバーから勝ちを掴むことは至難を極めると言えるだろう。

 それが故の険を滲ませた物言い。都合良く使い捨てるつもりならこの場で争うことも辞さないという心積もりで彼女は憤怒を滲ませている。
 そう、彼女にとって都合よく利用されることほど許容出来ないものはない。生前誰かに振り回され続けた魔女だからこそ、そんな戯言は許せない。

 綺麗事でお茶を濁そうものならどんな手段に出るか彼女自身分からない。少なくとも、この城が無事で済むとは思えない。

 場には四人が揃って以来の緊張感が走る。その原因たる表情の窺えない魔女の視線を真正面から受けながら、切嗣は普段と変わらない声色で予定通りの言葉を吐き出した。

「おまえがそう言うだろうとは予測していた。だから僕と取引をしろ」

「……取引?」

「ああ、僕らの共闘関係は互いの利害が一致している間だけで構わない。無償の協定などこっちから願い下げさ」

 切嗣は基本的に他人の誰一人をも信用していない。目に映る全ての人間は打算をもって接するべき隣人に過ぎない。
 無償の愛。利害の絡まない関係。そんなものは何一つ信用に値しない。両者にとって利益がある関係こそが望ましい。

「こちらからの提示は三つ。まず一つは、おまえにこちらの用意する拠点を一箇所貸し与える。霊地としての格は幾つかの箇所よりは劣るが、それを補って余りある広さがある。敵の侵入を感知してから接近されるまでの猶予は時間単位であるだろう。
 好きなように改造し好きなだけ罠を張り巡らせ、自分だけの庭にしてくれて構わない。必要なら資金や物資も援助しよう。それに加えて、僕達をすらその排除対象として据えてくれても結構だ」

「…………」

「二つ目は敵の誘導を行う。戦場である冬木で、僕とセイバーは出来る限り目立つ行動を取り、敵の標的になるよう仕向ける。誰もが僕とセイバーをまず真っ先に倒さなければならないと思わせるほどに。
 その間におまえは自分の陣地を好きなだけ固めておけばいい。それこそセイバーを倒す算段も含めてな」

「……三つ目は?」

「いつ僕達の背中を狙おうが構わない。その瞬間、おまえは僕達の敵となるが、それまではこちらからおまえを攻撃対象とする気はない」

「…………」

 条件としては破格、とまではいかないが、充分に検討に値するものだった。

 キャスターのサーヴァントにとって、陣地作成は必須とも呼べるものだ。己だけの城。工房。神殿。魔力をその源とし、魔術を主体とするキャスターは魔術師の延長線上に存在するもの。

 通常の魔術師とて、自陣内での戦闘と他の場所での戦闘ではその戦闘能力に大きな差がある。キャスタークラスの魔術師ともなればそれは天と地ほどのものになるのは想像に難くない。
 神殿を建造し、その中でならば、最上級の対魔力を持つセイバーを相手にしても覆せるだけの可能性が生まれる。

 ただしそれだけの神殿を造ろうと思うのなら、相応の時間が必要となる。戦争が開幕してからその建立を行っていては、いらぬ横槍に晒される可能性がある。それをさせぬ為の二つ目の条件。
 それは切嗣自身がセイバーを召喚した際に元より行うつもりだった作戦の一つだ。これを条件とする事に切嗣側のデメリットはない。

 そして三つ目。セイバーを従えた切嗣にとって、キャスターは敵として値していない。最終局になるまでキャスターが残るも良し、セイバーを打倒する算段をつけたキャスターを返り討ちにするも良し。
 それだけの自信と性能が、今の自分にはあると切嗣は自負している。

「条件を呑む呑まないは自由だ。ただし呑まない場合は、互いにとって良くない結果となるだろうがな」

「……食えない狸だこと」

「お互い様だろう」

 裏の世界に生きてきた切嗣と、人の悪意に晒され続けてきた魔女。腹の探り合いなど常套手段であり、胸を痛めるものですらない。

「ねえ、ちょっと!」

 そんな二人の間に割り入る、可憐なる少女の声音。

「キリツグったら勝手に話進めないでよね、キャスターは私のサーヴァントなんだから!」

「そうは言ってもね。この手の手合いは疑り深いのが多い。無条件で共闘しよう、はい分かりましたで話がつくような相手じゃない。
 それこそ僕とイリヤが親子の関係であっても、それが己の利益を害するものなら排除の対象とする事に躊躇などないだろう。違うか、キャスター?」

「いいえ、その通りよ」

「キャスターまでっ!」

 むぅ、と頬を膨らませるイリヤスフィール。彼女にしてみれば今の状況は何から何まで気に入らない。
 切嗣と同じマスターであるというのに彼が言葉を掛けるのはキャスターで、キャスターは己がマスターを放りっぱなしでセイバーのマスターにばかりちょっかいをかけている。

 完全に蚊帳の外。

 頭上を行き交う言葉のキャッチボールに我慢がならず、ましてやその内容たるや憤慨にすら値するものだった。
 だから言ってやるのだ。そんな見当違いの言論を交わしている二人に。

「キャスター、こんな条件呑む必要なんてないわ。だって──私が貴女の願いを叶えてあげるから」

 フードの奥。目深に被ったその奥底にある筈の瞳を見通すように。イリヤスフィールはその赤い眼差しに力と意思を込めて見上げる。

「私がみんなの願いを叶えてあげる。キャスターの願いはもちろん、キリツグとセイバーの願いだって。私ならきっと、それが出来る筈だから」

 聖杯の器にして守り手である少女は謳う。余りにも戯言じみた夢想を誰憚ることなく言ってのけた。
 この身が誰かの祈りを叶える聖杯の器であるのなら、その成就に尽くしてくれた者の祈りの全てを叶えて見せると。

「…………」

 イリヤスフィールの真実を未だ知らないキャスターにしてみれば、それは夢見る少女が期待と共に歌う空言だ。そうであって欲しい、そうしたいというだけの祈り。そこに根拠はなく意味すらも蒙昧。

 しかしその瞳に宿る色には揺らぎはなかった。言葉を現実のものとしてみせるというだけの覚悟の色。衛宮切嗣とはまた違う、されど限りなく似ている、イリヤスフィールだけの美しくも儚き覚悟を表す色がある。

「……事実として」

 切嗣は瞳を伏せたままに割り込んだ。

「世界の内側に限り作用する祈りの全てを叶えるだけの力が聖杯にはある筈だ。勝者にしか聖杯は使えないというのは外来の魔術師を誘き寄せる為の餌に過ぎない。
 文字通りに聖杯が万能の釜であるのなら、マスターとサーヴァントに加えて後一人分の願いを加えても許容量を超えることはない」

 聖杯によって生まれるのは無色の力。
 方向性なき力の渦。
 万物の願いを叶えるに足る極大の魔力は、およそ奇跡と呼ばれる現象を現実に昇華するだけの許容量を持つと考えられる。

 されど切嗣とて確信があるわけじゃない。三度の闘争を経て未だ完成に至らない聖杯なのだ、その真実を知る者は誰もいまい。ユーブスタクハイトならば知っているのかもしれないが、尋ねたところで口を割るとも思えない。

 少なくとも聖杯の触れ込みに虚偽がなければ全ての祈りは叶う筈だ。今回に限ってはイリヤスフィールという規格外の存在が小聖杯を務めているという事もある。
 ただその為に、他の参加者を駆逐しなければならないという事実には何の変わりもないのだが。

「だから信じてキャスター。貴女の願いもきっと、私が叶えて見せるから」

 そっとキャスターの手に添えられる少女の掌。怒りに打ち震えていた魔女の手を、聖女の掌が優しく包み込む。

 ただ一人の勝者を選定するのには理由がある。聖杯の成就は英霊の魂によって成されるもの。聖杯は英霊の魂を取り込む器であり、魂は器を満たす水。
 ならばその完成形は七騎全ての英霊が消滅した後にこそあり、切嗣の願いを叶えるくらいならば一騎残っていても支障はない。

 ただし二騎のサーヴァントが存命している状態で、聖杯がどのくらい機能するのかまでは分からない。だから切嗣の言葉もイリヤスフィールの言葉も裏を返さずとも無根拠な物言いに過ぎない。

 魔女の疑心を晴らすには足り得ない。

「……分かったわ、信じましょう」

 けれど魔女は、肯定の言葉を謳った。

「ただし信じるのはセイバーのマスターでも聖杯でもない。私のマスターを信じることにするわ」

「ほんとう……?」

「ええ。少なくとも貴女(マスター)がセイバーのマスターの味方である限りは、セイバーとの共闘を約束しましょう。それと、切嗣(あなた)の大事な大事なお姫さまも、ちゃんと守ってあげるから安心なさい?」

「ふん、魔女め……」

「ふふ……お互い様なのでしょう? でも二度と私を魔女とは呼ばない事ね。今回はマスターに免じて許してあげるけど、次また口にすれば消し炭に変えてあげる」

「むー……なんかこの二人、妙に仲良くなってない?」

 じと目で無愛想な顔の父と口元に妖しい笑みを浮かべたキャスターを交互に見やるイリヤスフィール。

「それとは別にさっきの条件も呑んであげるわ。その方が切嗣(あなた)も安心でしょう?
 私が神殿を造るまでの間、貴方達は馬車馬のように働いて他の連中の目を釘付けにしておきなさいな。多少の助力くらいはしてあげるから」

 セイバーという前衛があれば、キャスターの築く城は難攻不落のものとなる。切嗣の思惑とは少しずれたが、ここまではほぼ予定通り。
 切嗣が己の算段によってキャスターを選んだ事に違いはないが、それでも最低限の守りは必要だった。キャスターならば充分以上に応えてくれるだろう。

 それでも腹の底を見せていない魔女に完全に信頼を寄せるのは危険だが、その為のイリヤスフィールだ。彼女のマスター適正は過去最高であり、その身に宿す令呪も規格外。たとえセイバーであっても容易には逆らえない。

 そんな切嗣の懸念とは裏腹に、魔術師の英霊は喜色を浮かべて見上げてくる赤い瞳に小さく微笑みを零す。全てを見通したわけではない。だがそれでも分かる。この少女はかつての自身と似ているのだと。

 外の世界など知らず、完結したこの城の中で生涯を過ごすことを約束された箱入り娘。これより巻き起こる闘争にも、決して彼女自身の意思で赴くものではない筈だ。

 ……この男が、彼女を利用する為に戦地に連れ出そうというのなら……

 裏切りの魔女は心の奥底で決意を固める。自身と同じ悲劇は起こさせない。あんな悲しみはもう沢山だ。
 元より聖杯になど希うものなどない身の上だ。聖杯の所有権を引き合いに出したのは、実力的に圧倒的な不利な立場にある彼女が少しでも優位を得る為の鎌掛け、これ以上の弱みを見せない為のブラフだ。

 彼女がその心に宿している祈りは、本当にちっぽけなものでしかないのだから。

 それなりの戦果は得られた。ならば今は静観こそが正しい選択。自らの足場を固めるまでは、最優の実力を利用させて貰うとしよう。
 涼やかな面持ちで、そんな打算に塗れた策謀を魔女は巡らせていた。誰に気取られることもなく。

「話の着地点は見えたようですね」

 咳払いの一つと共に、これまで沈黙を貫いていたセイバーが場を仕切り直す。

「私自身にもキャスターとの共闘に差し挟む異論はありません。マスターの意向であるのなら尚の事だ。
 では、マスター。今度は我々の行う作戦についての詳細を聞かせて欲しい」

 切嗣が語ったのは率先して敵の目を引き付けるという事のみ。それ以上の説明はまだされていない。具体的にどのような考えがあるのかを聞いておかなければ咄嗟の時に対応が出来ないと踏んだのだ。

「少し待ってセイバー。まだ私の話は終わっていないわ」

 セイバーの進行にキャスターが水を差す。切嗣もまた同じ事を考えている筈だが、口にしないのはわざとか。あるいはキャスター自身から言葉を引き出させる為のものか。まだこの男は、キャスターを計り続けている。

「イリヤスフィールの話に乗りはしたけど、この共闘は取引を前提としたものよ。提示した三つの条件に対する、貴方の要求を聞いていない」

 共闘自体が要求である、などと単純に考えるほどキャスターは馬鹿ではない。共闘は互いの利益が合致するが故の両者の落としどころであり、提示された条件に対する要求にはならない。

 三つの条件に対する要求。それが成立して初めて共闘が約束される。互いにそれは口約束であり、文書を用いたものではない。反故にする事は簡単で、してしまえば決定的に終わってしまう。

 いつ発動するか分からない令呪による縛りがあるとはいえ、魔女の手元にはイリヤスフィール……切嗣にとっての人質がある。反対に魔女が裏切れば簡単に、造作もなくセイバーに斬り捨てられてしまうことだろう。

 それをどちらともが理解し了解している。故に口約束なれど、相応の拘束力が発生している。

「さあ……要求を聞かせて。余程の無理難題じゃなければ応えてあげるわ」

 その言葉を受け、切嗣は室内でも羽織ったままだったコートの内側に手を伸ばす。ホルスターに収められていたものを引き抜き、衆目に晒した。

 それは衛宮切嗣が魔術師殺しと仇名される原因にして根本。手に吸い付く銃把は長年の使用に耐えた証拠であり、行き届いた整備はその年月を感じさせない。微かに薫る硝煙と、そして血の匂い。

 魔銃──トンプソン・コンテンダー。

 装填弾数一発限りの切り札。より詳細を言えばこの銃本体ではなく込められる魔弾こそが切り札なのだが、それを今は語る必要性はない。

 愛用の魔術礼装を見せた上で、

「僕の要求は──キャスター、おまえにサーヴァントを殺せる弾丸を作成して貰いたい」

 切嗣はそんな、およそ考えられる限り最も愚かな事を口した。



+++


 それから一週間ほどの時間が過ぎた。

 窓ガラス越しに見える景色は相変わらずの白銀一色で埋め尽くされ、この城を世界から孤立させている。
 そんな風景を視界に入れず、白銀の少女騎士──セイバーは一人、宛がわれた個室で黙々と瞑想に耽っていた。

「んー、んー、んー」

 サーヴァントは基本的に霊体だ。マスターからの魔力供給のオンオフで実体と霊体を切り替える事が出来る。霊体は感覚面で制限を受けるが、不必要な魔力消費を抑える事が出来る為、特段の用がない限りは霊体でいるのが効率的だ。

「んんんんんー」

 だがセイバーは実体のまま椅子に座し、身動ぎもせず瞼を重く閉ざしていた。

 彼女は霊体となる事が出来ない。その事実はサロンでの一件の後にマスターである切嗣に告げられた。
 それを聞いた切嗣は眉根を顰めはしたが、今更変えられない事実に憤慨をするほど子供でもなかった。事実を事実として受け止め、善後策を検討し実行に移した。

「むーむーむぅー」

 セイバーには僅かでも魔力の消費を抑える為の策として、魔力で実体化していた武装を解き、いずれ赴く事となる冬木での適応も含めて現代衣装を与えられていた。
 彼女の服を見繕ったのはイリヤスフィールとキャスターだ。前者はともかく後者の嬉々とした口元は今もってなお忘れ難い。

 今こうして瞑想に耽っているのも彼女個人が無用な消耗を抑えようとしている為だ。戦う事が意義でもあるサーヴァントにとって、未だ戦地にすら赴いていない現状ではやるべき事がない、というのも理由の一つではあったが。

「んーーーーーーーーー」

「…………はぁ」

 一つ大きな溜息を吐き、セイバーは閉ざしていた瞳を開いた。

「先ほどから貴女は一体何を呻いているのです、イリヤスフィール」

 視線の先には招かれざる闖入者。ベッドの上で枕を抱きながらゴロゴロと転がっていたイリヤスフィールは、ようやく反応のあったセイバーにつまらなそうにその赤い眼差しを向けた。

「だって退屈なんだもん。外は吹雪だし、セイバーはずっと瞑想してるし。キリツグとキャスターは二人で何かしてるし」

「……マスターとキャスターはこの間の要求についての話し合いと作成を行っているのでしょう。邪魔をしてはいけません」

 衛宮切嗣が共闘を餌に提示した三つの条件とその対価。即ちサーヴァントをも屠る魔弾の作成。

「セイバーはそのことをどう思ってるの?」

「キャスターの手腕ならばサーヴァントにも通用する弾丸を作る事はそう難しいものではないと思います。しかし問題はマスターの方だ。
 いかにサーヴァントを殺せる弾丸があっても当てられなければ意味がない。我々サーヴァントならば発射の瞬間を視認してからでも如何様にも対応が出来るでしょう」

 どれだけ殺傷能力の高いものであれ、標的に着弾しなければ意味がない。生身の人間でも条件さえ整えば対応は可能。人間の限界を超越した英雄達なら、余程の事がない限りは銃弾程度の速度に後れを取る事などありえない。

 しかしそんな事は切嗣自身が一番分かっている筈だ。分かっているからこそ、それを覆すだけの策があるのだろうとは思う。

「マスターにはマスターの考えがあるのでしょう。彼が素人同然でそんな夢物語を謳うのならば嗜めもしますが、そうではない。
 彼からは是が非でも聖杯を手に入れなければならないという覚悟が見て取れます。ならばそこには勝算があるのでしょう。私が口を出す事ではない」

 最悪の場合はこの身を盾とすればいい。サーヴァントとして召喚された以上、この身はマスターの剣であり盾である。
 セイバー自身にも目的がある以上はマスターを見殺しにするわけにはいかない。敵の打倒とマスターの保護を同時に行う覚悟はとうに決めている。

「……なんだかセイバーってストイックなのね」

「物事を感情を差し挟んで考えられる立場ではありませんでしたから。
 マスターは我々が勝ち抜く為に思慮を巡らせているのです、それを感情論でどうこう言うのは無意味でしょう」

「つまり感情的にはサーヴァントと戦うのは反対ってことよね?」

「…………」

「ぶー。都合が悪くなるとだんまりなんてセイバーずるーい」

 じたばたとベッドの上で暴れてみてもセイバーは涼しい顔でやり過ごすのみ。これ以上の話の進展はないと見て取ったイリヤスフィールは、話題を変える事にした。

「セイバーって、あのアーサー王なんだよね」

「はい。アーサーという名は男性名ですので、正しくはアルトリア・ペンドラゴンですが」

 我の強い騎士達を纏め、国を建て直し、襲い来る異民族共を撃退する。必要だったのは強い力。お飾りの冠は必要ではなかった。それ故に彼女は素性を偽った。

 王という責務を負った彼女にとって、私情は切り捨てなければならなかったもの。ただ一つの王という名の機構であり、王権を担うに足る公平さを求められた。
 そこにアルトリアという少女はいない。国を統治する上での理想、民にとっての理想とされる王の形があっただけだ。

 時に非情に。時に冷酷に。国とその中に暮らす民を守る為、最善を選び続けなければならなかった。そうでなければ立ち行かぬ程に故国は疲弊していた。
 その為に犠牲としたものは数多く。それに倍するものを救ってきた。けれどその犠牲を許せなかった誰かがいたからこそ、彼女は王座を追われる事となった。

 ……私が為すべき事はただ一つ。この身に課せられた最後の責務を果たす事。その為ならば……

 必要とあらば全てを斬り捨てる。
 泥を啜り這ってでも聖杯の頂に辿り着く。
 この掌を無辜の民の血で濡らしてすら、求め欲するものがある。

 その悲愴な覚悟を誰に理解されなくとも構うものか。
 戦うと決めたから。
 たとえ全てを、この掌から零してしまうとしても……。

「……イリヤスフィール?」

 気が付けば足元には少女の姿。胴に回された腕は優しく包み込むように。顔は伏せられその表情は窺えない。

「セイバー今、こわい顔してた」

「…………」

 悲痛な色を滲ませた少女の声に応えず、セイバーはその真綿の雪のような髪を愛おしげに撫でる。

「んっ……」

「痛かったですか?」

「んーん、気持ちいい。もっと撫でて」

 まるで触れれば壊れてしまいそうなガラス細工を愛でるように、セイバーはその透き通った髪に触れる。櫛など必要のない柔らかな髪質。薫る甘い匂い。何よりその髪色が一際目を引いた。

「綺麗な色ですね。まるで雪のようだ」

「ふふっ、ありがと。この髪はね、イリヤがお母さまから貰った大切なものなの。特別にセイバーに触らせてあげてるんだからね」

「イリヤスフィールの……お母上は……?」

「五年前に死んじゃった。でも寂しくはないよ、お母さまはずっとイリヤの胸の中にいてくれるから。キリツグもいるしね」

「…………」

「……セイバー?」

 撫で続けていてくれた手が止まり、イリヤスフィールは顔をあげる。先程とはまた違う険しさをその表情に浮かべた剣の英霊をじっと見やる少女。

 イリヤスフィールの外見年齢は実際の年齢より三つか四つ……あるいは五つ以上下に見える。それは彼女が生まれるに際し、彼女自身を聖杯として機能させる為、母の胎内にいた頃より魔術的な調整を施されたその弊害だ。

 吹けば飛びそうな矮躯。少し力を込めれば折れてしまうであろう華奢な肩。愛くるしいまでの無垢な瞳。
 少女はその誕生を呪ってはいない。むしろ感謝しているほどだ。彼女が生まれてからのこの約二十年は、とても幸福なものであったから。

 出口のない世界。閉じた円環。白銀の地平線と聳え立つ古城だけが存在する箱庭。その中での小さくとも温かな暮らし。それだけで充分だった。満たされていた。父がいて、母がいた。それだけで彼女は幸せだったのだから。

 その幸福も間もなく終わりを告げる。閉ざされた門は開かれ、戦いの場へと足を踏み出さねばならない。

 この少女が戦場へ向かわなければならない理由をまだセイバーは知らない。分かるのは己がマスターの揺ぎ無い覚悟と、それに同調したいと背を伸ばす幼子の想い。

 だから。

「イリヤスフィール、私はマスターの剣であり盾だ。けれど同時に、貴女の剣でもありたいと思う」

 彼女を守る事はセイバーの義務ではない。大局から見れば別のサーヴァントを従えた倒すべきマスターだ。非情に徹し実利だけを見るのなら、この場でイリヤスフィールを亡き者にする選択も考慮に値するだろう。

 しかしセイバーはそうはしない。泥に塗れ汚泥を啜る覚悟はあっても、この胸に灯るちっぽけな誇りがある。自らを自ら足らしめるものを切り捨ててまで、この少女を殺(おか)したくはない。

 それはせめてもの矜持。一国を背負ったものとしての誇りだ。この誇りを穢そうというのなら、相応の代償を求める事となる。

「イリヤスフィール。我がマスターだけではなく、貴女の身をまた守ると、私はここに誓いましょう。共に聖杯の頂へ。そしてキャスターが貴女の言葉を信じたように、私もそれを信じてみたい」

「セイバー……」

 誓いの言葉と共に向けられたのは初めて見る笑顔。召喚からこれまで感情を表に出す事のなかった騎士の心からの微笑みだった。

「うんっ、ありがとうセイバー!」

 返された微笑みもまた同じく。
 太陽のように優しく、星のように眩い笑顔だった。


/5


 切嗣とキャスターの準備が済んだ頃合、サロンでの一件から数えて二週間にも満たない時分。
 ようやく彼らはその重い腰を上げ、戦地たる日本──地方都市冬木へと出立した。

 出立の日は幸先も良く晴れの空。見渡す限りの青空、とまではいかないが、先日までの猛吹雪を思えばこれでも良く晴れてくれたと言えるだろう。

 切嗣もイリヤスフィールも基本的に手荷物は少なかった。イリヤスフィールは元より必要なものが少ない為、せいぜいが日用品に限ったもので、軽めのトランク一つが手荷物だ。切嗣はそれに加え他人に持たせなくない物──コンテンダーくらいのものだ。

 その他に事前に用意したもの、キャスターに依頼を受けたものは既に冬木へと送られている。今頃は先立って現地入りしている切嗣の片腕──久宇舞弥が彼らの到着までに全ての準備を済ませてくれる手筈となっている。

 切嗣とイリヤスフィールは途中までは同じ経路を辿る事になるが、冬木入りするに当たり別行動を取ると取り決めている。
 事前の考えでは共に冬木入りし、一度向こうにあるアインツベルン城に立ち寄った後、切嗣とセイバーは別行動を行う予定であった。

 既に切嗣がアインツベルンからのマスターである事は正式に教会に通達を出している。他の連中──とりわけ間桐と遠坂はいち早くこの情報を入手している事だろう。警戒の矛先が切嗣に向くのはこちらとしても都合が良い。

 イリヤスフィールはただの連れ添い、雇われでしかない切嗣のアインツベルンからの監視役程度の認識に収められるだろうと当初は予測していた。
 しかし同時に切嗣もまた現在の参戦予定者を調べたところ、およそ考えられない結果が齎された。それ故の直前になっての進路変更、別行動と相成った。

 そして現在。

 イリヤスフィールとは既に別れ、切嗣はセイバーと共に冬木へと向かう列車の中にいた。

 あの冬の城を発つまでの間、切嗣はキャスターと長く時間を共にした。それは切嗣が要求した物、キャスターが要求した物の打ち合わせを含んだ時間ではあったが、事実セイバーと顔を合わせていた時間の数倍にも及んだ。

 それだけの時間を過ごしてなお、切嗣はキャスターの腹の底が見えなかった。いや、サロンでのやりとり以上にあの魔女に対する猜疑を深くした、と言うべきだろうか。

 裏の世界で生きた男と人の悪意を知る女。そんな二人の会話が微笑ましいものである筈がない。事務的なやりとりの中に差し込まれる暗喩を含んだ言葉の数々。端々に皮肉とも聞こえるような棘を滲ませた応酬。

 互いが互いを牽制し合い、腹の底に蟠るものを探り続ける日々。結果、切嗣はその最後まで自身の奥底を見せなかった。しかし同時に、相手の底さえも窺えなかった。

 裏を返せばそれは互いに探られては拙いものを抱えているという事。そう当たりを付けていたからこそ二人は探りあったわけだから、結果は一歩として進んではいないが、疑念を大きくするのには役に立った。

 コルキスの王女にして裏切りの魔女──メディア。

 魔術の神の寵愛を受け、神代の魔術を操る、最も魔法使いに近い魔術師。

 彼女の素性、来歴、歩んだ人生は余人が見れば同情にも値するほど悲惨なもの。そこに彼女の意思はなく、神の呪いと一人の男に振り回され続けただけの人生。目が覚めた後に救いはなく、残っていたのは絶望のみ。

 だから彼女は魔女となった。ならざるをえなかった。

 正直なところを言えば、切嗣にとって魔女の素性など問題ではなかった。自分の求めるものを対価として支払えるだけの魔術的素養とキャスターとしての能力さえ有していればそれで充分だった。

 ただあの女は、もしかしたら切嗣が考える以上に厄介かもしれない、と思うほどに底が知れなかったのは誤算であり、この早期に気付けたのは重畳であった。

 ……今はいい。何を企てようが現状では何も出来ない筈だからな。

 イリヤスフィールをキャスターに預けるのは確かに不安ではあるが、あの女もまた聖杯の求めに応じて召喚された者である以上、それは聖杯に希うだけの祈りを有しているという事だ。

 ならばマスターを無為に殺害しようとはすまい。特にイリヤスフィールのマスターとしての能力は破格だ。彼女を上回る適性者などいない。ならば利用しよう、とは考えるかもしれないが殺そう、とまではいくまい。

 無論、そうさせない為に監視はつけてある。イリヤスフィールの世話係、という名目で側近の侍従を二人、アインツベルンの城にも整備と称して複数名の侍従を先立って赴かせている。それ以外にも幾らかの仕掛けを施してある。

 何より、共闘の約束は交わされている。それを裏切らない保障はないが、裏切ればどういうしっぺ返しが来るか、彼女自身が誰よりも理解している筈だ。

 ……今は忘れろ。まずは目の前の事からだ。

 そう考えを切り替えた時、次の停車駅を告げる車内アナウンスが鳴り響く。冬木駅への停車を告げる、アナウンスが。

 程なく停車した列車より、切嗣はトランク一つを抱えて降りる。随伴している男装のセイバーもまた無言のまま付き従うように降車した。

 北欧のアインツベルン城では女性用の衣服を着ていたセイバーが男装しているのには理由があった。切嗣は緒戦より敵の注目を惹く為、セイバーの身なりをそれなりに目立つものとしたいと考えた。

 この日本で外国人、しかもセイバー程の美貌の持ち主ならそれだけでも充分に映えるとは思っていたが、より余人の目を集める為の手段はないかとイリヤスフィールに相談したところ、キャスターを経由し何故か男装に行き着いたらしい。

 彼女らの思考回路は着る物には最低限の頓着しか持たない切嗣に理解不能な代物ではあったが、事実として現在進行形で道行く人々から視線を集めている以上、彼女らの狙いは的を射たらしかった。

 半ば奇異とも言える視線に晒されている当のセイバーはと言えば、先を歩く切嗣に追随するだけで、視線は警戒からか周囲を窺う気配はあるものの、そこに微塵の動揺もなく、むしろ胸を張り肩で風を切って歩を進めていた。

 少年のような矮躯でありながら、その威風堂々とした佇まいがより視線を集めているとも言えるのだが、当の本人はそんな事を気にする様子もなかった。

 駅を出たところでタクシーを拾い、運転手に行き先を告げる。

 向かう先は冬木駅のある新都から冬木大橋を超えた先にある深山町。開発目覚しい新都とは打って変わって、古き良き時代の名残りが影を落とす住宅街。その一角。
 日本家屋の立ち並ぶ一帯にある、とある武家屋敷。長く住人のいなかったこの屋敷を切嗣は冬木における拠点の一つとして買い取り、整備もまた既に済ませていた。

 トランク片手にセイバーと共に門を潜る。以前買い取り交渉の為に一度訪れた時の庭は足の踏み場もないほど草木が生い茂り雑然としていたが、今は綺麗に刈り取られ、地面が顔を覗かせている。
 母屋もまた同様。人が暮らす分には何不自由ないほどに整理が為されていた。

 無論、切嗣はここで家族ごっこに興じるわけではない。風雨を凌げ、仮眠を取れるだけの環境さえあればそれで必要充分。内装にも特に拘りがあるわけでもなく、一瞥しただけで興味を失した。

「マスター、仮の拠点とはいえ念の為、内部を検めても構いませんか」

 冬の城を発ち、イリヤスフィールらと別れてからここまで一言も発さなかったセイバーがそう言った。
 切嗣は頷きだけを返し、先に運び込まれていた幾つかの荷を解きに掛かった。

 丁度その時、切嗣の胸元で携帯がなった。無論バイブ設定にしてあったので外に音が漏れる事はなかった。

「僕だ」

『無事冬木へと入る事が出来たようですね、切嗣』

 聞こえた声は感情の起伏のない怜悧な音。彼女こそが衛宮切嗣の片腕にして冬木で事前の準備を進めていた久宇舞弥だ。
 このタイミングで連絡を取れたのは、恐らく荷物に何らかの仕掛けでも施していたのだろう。切嗣が荷物を開ければ、舞弥にそれが伝わるように。

「ああ。それで、例の情報は確かなのか」

 無駄な挨拶を省き用件を切り出す。例の情報、とはイリヤスフィールと別行動を取るに至った原因。聖杯戦争の参加者に纏わる事柄だ。

『はい。現段階でも現在正式に参加表明を通達、行っているのはアインツベルン、遠坂、マキリ、そして魔術協会枠の四名のみです』

「…………」

 それは明らかな異常だった。既に切嗣はセイバーを召喚している。しかも召喚から既に二週間近く経過している。にも関わらず、御三家と協会枠以外の参加者の情報が一切ないというのはどういう事か。

 一枠はイリヤスフィールが埋めている事を考えても、残りは二枠。過去の事例からマスター適性者が見つからず、無名、あるいはそれに類するイレギュラーが紛れ込む事は考えられる。
 それでも現状で二枠もが全く情報すらないというのはやはりおかしいと判断せざるを得ない。

「……遠坂や間桐が何かを仕掛けているのか? ──僕達のように」

『その可能性は考えられます。我々と同様に二枠分の席を確保出来たのなら、わざわざそれを露見させる意味がありませんから』

「…………」

 しかしイリヤスフィールがマスターとなれたのはユーブスタクハイトの執念とイリヤスフィールの特権があったればこそだ。令呪システムを作り上げたという間桐の妖怪──臓硯ならばともかく、遠坂にそこまでの技量があるとは考えにくい。

 参加表明のされている遠坂凛は確かに何かと芸達者な様子だが、聖杯戦争の根幹を解析出来るほどの手練ではない──今はまだ。

「遠坂はともかくとしても、間桐はやはりきな臭いな。衰退の一途にあった家系に、十年前に出戻った放蕩息子の間桐雁夜がマスターだというのも含めてな」

 間桐雁夜が出戻るその少し前に、間桐は遠坂から養子を受け入れたという情報も掴んでいる。こちらとの繋がりは不明だが、間桐の翁を思えば何があっても不思議ではない。

「ここ最近の間桐と遠坂の様子は?」

『特段は何も。監視としておいてある使い魔は何の異常も感知出来ていません』

「…………」

 それは嵐の前の静けさか。あるいはより良くないものの片鱗か。

「……いずれにせよ僕達の作戦に変わりはない。舞弥、今夜仕掛ける、バックアップは任せた」

『了解です。武運を』

 それで通話は途切れた。タイミングを見計らっていたかのように、セイバーが顔を出す。

「屋敷内に異常はありません。間取りも確認しました、不意の襲撃にも対応出来ます」

 切嗣からの返答はない。道具と無為な言葉を交わすつもりは最初からないからだ。ただ必要な事は、告げるべき事は告げなければならない。

「用がなければ待機しておけ。今夜、出るぞ」

「了解しました」

 セイバーもまた無駄口を告げず、長時間のフライトや移動で疲労した身を休める為に、背を向け適当な部屋へと足を向けた。

「…………」

 切嗣にとって、これまでのセイバーの応答は不可解だった。
 当初の目算では彼の王はもっと騎士然としたものを想像していたのもあってか、より噛み合わないものと思っていた。

 戦場で光を浴びる英雄という存在。彼らの威光は民衆の目を眩ませ、憧れという名の断崖へと誘い込む。誰もが英雄になれるわけじゃない、一握りにも満たない、それこそ歴史に選ばれたかのような存在だけが輝き立てる檜舞台──それが戦場だ。

 彼らが光り輝くその裏で、何百何千、何万もの名もなき兵士がその命を落としていく。自分もまた英雄になるという憧れを胸に抱き、そんな夢を見たばかりに花びらのように儚くも命は散っていく。

 人の歴史とは争いの歴史。戦争はその最大規模の闘争の形。権力者の我欲、飢えからの脱却、価値観の相違からの発展。戦争が起こる理由は様々であり、闘争は人が人である以上は決して避けられない、血に刻み込まれた本能だ。

 英雄が悪だとは必ずしも言い切れないが、彼らの存在が民衆の目を眩ませているのもまた事実。
 平穏な日常で殺戮を犯せば凶悪犯だが、戦場で多くを殺せば英雄だ。そこにある矛盾と異常に気付きながら、それでも人は争う事を止められない。

 英雄が輝くのは周囲に突き立つ剣の数だけ。
 英雄が踏み越え剣を掲げるのは屍の山の上。
 英雄が流した血の数以上の涙が、その裏で流されている。

 それを止めたいと思った。
 止めなければならないと願った。

 その為に歴史上有数の名を持つ英雄──円卓の王を従えたのは皮肉でしかない。

 だが今のところ彼女からはそんな英雄然とした鼻持ちならなさが感じられない。切嗣の命令には唯々諾々と従い、無駄口もまた好んでいない。
 彼女本人からその真名を聞き、マスターだけが見る事の出来るステータス表にもその名が間違いなく記されている。

 それでも不可解だった。
 アレは本当に────世界に名を馳せた英雄の形なのかと。

 もっと傲岸不遜を絵に描いたような奴や自分勝手な輩こそが英雄の気質を持つ者と思っていた。ならばあれは何なのか。
 セイバーの願いを切嗣は知らない。そもそもそんなものに興味がない。切嗣は自身の願いさえ叶えられればそれでいいのだから。

「…………」

 …………まあいいさ、手綱を握るのが楽でいい。

 今はその程度の認識で充分。どの道戦いの幕はもう間もなく開かれる。その時セイバーの正体を見る事が出来るだろう。
 同時に切嗣のやり方を見たのなら、噛み付いてくるのは必然だ。ただこれまでこそが異常だっただけの話だ。

 視線を遠く投げる。空は茜に染まり行き、黄昏時を告げている。間もなく空の赤は夜の藍に取って代わられ、やがて黒へと至るだろう。
 遥か空の彼方には輝ける一番星。魔術師にとっては夜こそがその真骨頂。息を潜め日常に溶け込んでいた獣達が、その牙を剥き正体を露にする。

 今暫くの猶予を楽しむ事も惜しむ事もなく、切嗣は来る戦場へと思いを馳せ、細心の注意を払い武装を整えるのだった。



+++


 夜の帳が完全に降りる前に、切嗣は身支度の全てを整えセイバーを伴い屋敷を後にした。

 行き先は特には決めていない。切嗣が知るこの街の情報は少しばかり古い。それ故の自らの目での戦場の確認を兼ねた夜の散歩、と言った風情だ。無論、それだけではないのはセイバーもまた理解していた。

 まず向かった先は深山町の反対側。日本家屋の立ち並ぶ拠点のある区画から大通りを挟んだ対面、洋館の立ち並ぶ区画。冬木は外国人居住者が多いのもあってか、このように綺麗に区分けされている。
 全てがそうであるというわけではないし、洋館街に住まう者全てがまた外国人であるわけでもない。

 切嗣の目的はその先、間桐と遠坂の拠点だった。

 アインツベルンと並ぶ、この冬木での聖杯戦争を始めた御三家の内二つがこの冬木に門を構えている。その立地もそれほど距離があるわけでもなく、二つの館は街に溶け込むように佇んでいる。

「…………」

 どちらの屋敷の前でも立ち止まる事なく、流し見る程度に済ませてすぐに立ち去る。魔術師の拠点は外から見て異変を感じられるようなものではない。とりわけこの時期、この両家がアインツベルンに弱みを見せるとは考えられない。

 だからこれは文字通りの視察。立地と外観、異常がないという舞弥の報告を念の為自らの目で確かめただけのものでしかない。

 とって返した切嗣が向かった先は、冬木大橋。冬木市を新都と深山町の二つに分かつ未遠川に架かる大橋。まだ深夜には早い時間だからか、それなりの交通量があるが、もう数時間もすれば人影もなくなっていく事だろう。

 その橋上──丁度真ん中辺りで一度足を止め、下流へと視線を移す。穏やかに流れる未遠川。その先には海が見える。
 灯台の明かりが僅かではあれ窺え、暗い夜を照らしている。そのまま下流の新都側、深山町側の河岸を一瞥した後、無言のままに足を新都へと向けた。

 新都は静かな深山町と打って変わって現在調の町並みだ。背の高いビルが立ち並ぶオフィス街。駅前広場はこの時間でもそれなりの賑わいがある。切嗣はそこから天を衝く摩天楼の一つを見上げる。

 冬木市民会館と並んで新都のシンボルとして数えられるセンタービル。この冬木で最も背の高い建物をその視界に納めた後、南側、閑静な住宅街を通り過ぎ、小高い丘の上に立つ教会へと辿り着いた。

 冬木教会、別名言峰教会。

 表の顔は文字通り、世界最大の信徒を持つ一大宗教の数多く存在する支部の一つだが、その裏の顔はこの地で行われる聖杯戦争の監督役を担っている。

 魔術師同士の諍いである聖杯戦争──その審判を務める者は、同じ魔術師では立ち行かない。魔術師が奇人変人の集まりであっても、その中には派閥や水面下での闘争、黒い部分が多々にある。

 同じ魔術師が魔術師の仲裁を行えば、そこには思惑が絡みすぎる。それ故に敵対組織とも言える教会から監督役が輩出される。
 教会の側にとっても聖杯……神の血を受けた本物の杯ではないにせよ、万物の願いを叶えるほどの代物を野放しにしておくのは上手くない。

 戦いの行く末を見届け、魔術師にしか理解の出来ない用途──世界の外側へと至るまでを観測する。それが監督役の務めであり役どころだった。

「…………」

 教会前の広場から天を眇める。金色の十字架がその輝きを夜の暗闇の中でさえ主張している。

 この教会の神父──第四次聖杯戦争の監督役を務めるのは前回務めた言峰璃正の息子、綺礼と聞き及んでいる。
 この男の素性もまた洗ってある。十二年程前に遠坂に弟子入りをし、その後に離別。綺礼はその所属を再び教会へと鞍替え、代行者として異端の排除に専心したらしい。その忠心が功を奏したのか、父璃正の跡を継ぎ、監督役に抜擢されている。

 そこだけを切り取っても遠坂と言峰の内通は確定的だが、証拠はない。証拠があったところでそれを糾弾する意味もない。
 教会から正式な辞令として監督役を任されている以上、遠坂の手はそれだけ深く教会に根付いている。両者にどんな取引があったのかは推測の域を出ないが、いずれにせよ表向きは公平を気取るしかない。

 露骨な贔屓を行えば、それだけで足が付く。そんな愚を冒すとは思えない。凡庸な才しか持たないながらに、家門伝来の宝石魔術とこの土地の管理者(セカンドオーナー)の座を確かなものとする程度には、時臣という男は優秀なのだから。

 言峰綺礼という男に対して、思うところがないわけではない。十二年前より更に遡った過去もまた調べ上げたが故の警戒心。
 だが現状では警戒以上の事は何も出来ない。ここは中立地で相手は審判。せいぜい監督役として正常な聖杯戦争の運営を期待するといったところだ。

 ……何か一つ、綻びが出ればまた話は別だがな。

 教会に背を向ける。通例として参加者は監督役の下に顔を出す決まりだが、それも形骸化している。相手がきな臭いとなれば尚更だ。

 来た道を戻り、切嗣は駅前広場へと戻った。

 そこでふと、急に口寂しさを覚えた。久方ぶりに日本に戻り、長く街並みに触れたせいだろう。かつての名残りを求め、適当な売店へと入った。

 ……アイリもイリヤも、この匂いは余り好きじゃないと言ってたっけな。

 母子の健康を思って煙草を断って二十年。完全に辞められたものと思っていたが、そうでもないらしい。
 その匂いは硝煙と血と並ぶ衛宮切嗣にとっての戦場の名残り。まだ若く、理想を目指して直走れていた頃の残滓だ。

 長く離れていた戦場に戻ってきた。見える街並みは平穏そのものでも、この明かりの裏には既に魑魅魍魎が息を殺し潜んでいる。血に飢えた獣が獲物を狙い済ますように、網に掛かるのを待っている。

 パッケージを空け取り出した一本に火を灯す。肺を満たす紫煙は懐かしく、こんなにも苦いものだったかと苦笑した。良くもこんな不味いものを日に何ケースと空けていたものだと過去の自分に辟易とした。

 だが心は落ち着いた。目に見えない戦場の空気に当てられ若干逆立っていた気配は、この懐かしい味が取り払ってくれた。口に煙草を咥えたまま、周囲へと視線を巡らせる。音もなく付き従って来ていたセイバーにも一瞥し、頷きを得る。

 本当に夜の散歩に興じていたわけではない。戦場の確認がてらの、敵へのあからさまな挑発である。

 見るものが見ればセイバーの素性など一目瞭然。わざわざサーヴァントを実体化させて連れ歩いている者を見れば、無視を決め込む事は難しい。
 遠坂や間桐は勿論、同じく夜の哨戒へと出ているであろう連中は既に、切嗣に当たりをつけている筈だ。

 霊体化出来ないセイバーを逆手に取った挑発行為。監視はしていても乗ってくる輩がいなければ無意味だが、一匹くらいは釣れるだろうと踏んでいる。

 ……さて。掛かった獲物はどれほどのものかな。

 街は既に完全に闇に没し、人工の明かりだけが煌々と夜を染める。駅前広場も時間が時間だ、先頃に比べれば随分と人影が減っている。
 これより始まるのは魔術師の時間。聖杯を巡る闘争の刻限。奇跡をその手に掴まんと欲する者達の、熾烈なまでの宴がようやくその幕を開こうとしていた。



+++


 切嗣が戦場として当たりをつけたのは未遠川沿いに広がる海浜公園。

 立ち並ぶ樹木と整備された路面。街灯が等間隔に据え付けられ、小さな明かりを灯している。
 人影はない。冬という事もあってか虫の鳴き声もまた聞こえない。響くのは、壊れかけの街灯のパチパチと弾ける音と、闇を流れる水の音。

「マスター」

 セイバーが一歩前へと出る。遠い薄闇、目を凝らせばようやく見える程度の闇の向こうに人影を見咎める。既に簡易の人払いは構築してある。ならばこの場へと踏み込めるのはその結界を物ともしない輩──つまりは同業者のみ。

 ……なに?

 闇を切り裂き切嗣達の前に姿を現したのは、予想もしていなかった人物だった。

「遠坂時臣……」

 臙脂色のスーツ。
 整えられた髪。
 蓄えた顎鬚。
 手には極大のルビーを象眼された一振りの杖。
 細められた瞳と僅かに余裕を滲ませた口元が垣間見える。

 まず真っ先に感じたのは、何故この男がここにいるかだ。

 遠坂家五代当主遠坂時臣。現在の遠坂家筆頭。されど事実上の当主は娘の凛へと委譲を終えており、時臣はその後見を務めているに過ぎない。
 何よりこの男はマスターではない。遠坂家からの正式なマスターとしての通達は遠坂凛と届けられているのだから。

「衛宮切嗣……かつて魔術師殺しと恐れられた暗殺者。闇から闇へと跳梁する輩が何を思ってこんな人目に付く真似を行ったのかな。フフ、余程優秀なサーヴァントを引き当てたと見受けられる」

「何故ここにおまえがいる、遠坂時臣。おまえは──」

「──マスターではない筈だ、かな? 君も既に目を通したのだろう? 現在の参戦予定者名簿に。ならばそこにある不可解に思い至るのは至極当然だとは思わないか」

 切嗣と同じく時臣もまた同様の結論へと辿り着いている。しかし、それでもこの場へと姿を見せた事は理にそぐわない。
 マスターとして届出を出している切嗣はこうして衆目に姿を晒し、敵の動向を探るのはまだ理が通る。だが名簿に名前のない時臣が単身戦場へと姿を見せるのは、解せないを通り越して猜疑を招く。

 一体何を企んでいる、と。

「そんな目をしているな。ああ、その疑念は当然だろう。だが私は私の理念に沿って行動したまで。
 まずは一つ、この土地の管理者として君に忠告がある」

「…………」

「君の悪辣な手段は聞き及んでいる。それを咎めはしないが、神秘が露見するような無粋は慎んではくれないか。
 大戦の最中に行われた前回とは状況が余りに違う。今のこの冬木は平穏そのものだ。そこにいらぬ波風を立てるようならば、この地を預かる者として相応の対処を施さねばならなくなる」

 全ては神秘の隠匿が大前提。平穏に包まれたこの街で行われる闘争を、一般市民に知られる事はあってはならない、無論、予定外の事態に対応する為に教会から専門のスタッフが派遣されている。

 しかし切嗣が過去行ってきた手段を慮れば、それは当然とも言うべき警戒だ。この男は目的を達成する為ならば巻き添えを厭わない。たった一人の標的を確実に殺害する為に、乗客を巻き込み旅客機ごと爆破したとも噂されるほどなのだ。

 この地を預かる管理者として、そんな醜悪とも言えるやり口は許容出来ない。野放しには出来ない男の機先を制し釘を刺す為に、時臣はこの場に現われた。

「……そんな事を言う為だけに姿を見せたのか?」

「無論違う。私の娘──凛は優秀ではあるが、まだ戦場での経験が少なくてね。なればここは一つ、先達として教授してやるのが親の務めとは思わないか」

 魔術師は余計な魔力消費を嫌う。古典的な者ほどその傾向が顕著に現われる。時臣はそんな古い時代の魔術師だ。文明の利器に対する理解はあっても、魔術を至上とする典型的な魔術師。

 故に魔術師は不必要に己が魔術を使わないし争わない。魔術とは一種の学問だ。学者がリングの上に立つ事など滅多にあるものではない。
 ただ魔術世界には派閥があり、上下関係があり、それに伴う争いがある。身内を守る為に杖を執り、家門の秘伝を継承する為に決闘を行うなど日常茶飯事。身内で諍いを起こし消えていった名門など数え切れないほどにある。

 特に土地の管理者である時臣は、そんな権力闘争に否応もなく巻き込まれ、そして勝利を重ねて今の地位を築き上げた。
 目の前の男は壮齢の紳士に見えるが、その中身は武闘派だ。魔術師殺しの異名を取った切嗣でさえ、油断をして相手をしていい男ではない。

 切嗣は眇めた瞳で時臣を見やる。その風体は自然体。緊張の欠片もない。その様だけで幾つもの戦場を経験した勇の風格が垣間見える。
 しかしこの冬木における闘争の主役を務めるのはサーヴァント達だ。マスターなど彼らに付随する付加価値でしかない。

 遠坂時臣はマスターではない。ならばサーヴァントを連れている筈もなく、だがそれは切嗣を前にして何の安全弁にもなりはしない。
 目の前の男が遠坂の長。マスター権を持つ参加者たる凛の父だ。彼は部外者ではない関係者。マスターではない、という理由で切嗣が手心を見せる相手ではない。そんなこと、切嗣の素性を知る時臣が知らぬわけがない。

 つまり。

「管理者としての責務、先達としての務め。そしてもう一つ────」

 時臣の視線が動く。切嗣を見据えていた瞳は微かに揺れ、切嗣を庇うように半身を前に出していたセイバーを捉えた。

「こちらのサーヴァントが貴女に挨拶をしたいと言って聞かなくてね。どうか少し時間を頂けないだろうか──アーサー王」

「…………っ!?」

 驚愕は一体誰のものか。未だ素性を一切明かしていない、どころかこの冬木へ入って間もないというのに、遠坂時臣は確信をもってセイバーの真名を言い当てた。僅かに見せてしまった動揺で、より確信を深めた時臣が唇を歪ませる。

 同時。

 セイバーと同じようにマスターを庇う形で霞が生まれる。それはサーヴァントが実体化するに伴い具現化する薄靄。魔力で仮初めの身体を構築する一瞬。

「なっ……」

 肉体を構築し終えたサーヴァントを認め、セイバーは絶句した。

 当然だ。
 当たり前だ。
 その姿を忘れる事など出来る筈もなく。
 こちらの真名が割れて当然の存在。

 栗色の髪。
 涼やかな面貌。
 引き締まった体躯。
 夜の闇の中でさえ曇る事のない、白の甲冑。

 伏せられていた瞳が開かれる。
 怜悧でありながら精悍な瞳が、同じくセイバーの姿を認めた。

「お久しぶりです──拝謁の栄に浴し光栄であります、かつての王」

「ガウェイン卿……」

 理想の騎士と謳われた黒と並ぶ白の騎士。
 円卓に集いし猛者の中でも随一の実力者。

 アーサー王の片腕。
 アーサー王の影とも謳われた太陽の騎士が、夜闇を照らし今宵その姿を現した。



[36131] scene.03 夜の太陽
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/01/02 19:34
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 未遠川より吹き込む風が対峙する二つの陣営の間を渡る。

 冷たさの滲む陣風が砂塵を巻き上げてなお、セイバーは目を離せなかった。遠坂時臣を庇い立つ白騎士から、視線を切る事など出来る筈もなかった。

 ────太陽の騎士(サー・ガウェイン)。

 アーサー王の片腕。アーサー王の影、あるいは王亡き後を継ぐ者とさえ謳われた忠義の騎士。身に纏う白の甲冑のように誠実で、実直で、何よりも情に厚き騎士。彼こそを騎士の体言といわずしてなんと言おう。

 共に戦場を駆け、共に国の為に剣を執った男が目の前にいる。道半ばで死なせてしまった騎士がいる。
 聖杯戦争は英雄を招来し競わせるある種のゲーム。星の数ほどある伝承、伝説、神話。その中からこうして同じ伝承に名を残し、同じ時代を駆け抜けた者が招かれるなど、どうして予想出来ようか。

 あるいは人はこの偶然を──運命と呼ぶのだろうか。

「ガウェイン卿……」

 呟いた声は風に攫われ音を失う。けれど白騎士は恭しく頭を垂れ、胸に手を置き、生前と同じ声音でこう告げた。

「お久しぶりです──拝謁の栄に浴し光栄であります、かつての王」

 それは涼やかな響きを伴った声。郷愁を覚えるほどの、聞き慣れた臣の声だった。

「…………」

 耳に馴染んだ音を聞き、セイバーは冷静さを取り戻した。目の前に立つ白騎士を認め、その存在を認め、深く息を吐いた。

「ああ……久しいなガウェイン卿。壮健そうで何よりだ」

 搾り出したのは王としての声音。生前、奇矯な魔術師が彼女に施していた偽装の魔術は解けてしまっている。素性もまたばれてしまった。それでも目の前の騎士は彼女を王と呼んだのだ、ならば応えるものは王の声でなければならない。

「このような時の果ててであれ、卿とこうして語らえる事を嬉しく思う。だが今の我々は共に剣を掲げ、国の為に尽くしていた頃の我等ではない。その程度の事、言うまでもなく卿ならば分かっているだろう」

「ええ、無論です。それを承知の上で、今代の主に無理を願い出てまで御身の下に馳せ参じた次第です。
 主に仕える剣の身に過ぎた私情、騎士にあるまじき厚顔と今もって恥じております。それでも──私は御身に告げなければならなかった」

 忠節の騎士は瞼を重く伏せる。

 主の温情があったとはいえ、これは彼自身が己に課した誓いを裏切るようなもの。私情を捨て、ただ主の剣となる事を望んだ男の、たった一つの未練。心に残る悔いを、今この機を逃せば叶わぬ願いを、己を裏切ってまで口にする。

「申し訳ありません、王よ。私は私情を捨て切れず、結果として貴女を死の淵へと追いやった。この身の不徳が円卓を瓦解させ、この身の怨恨があの男を追い詰めた。この身を焼いた私怨が、貴女を死なせてしまった。
 言葉では何の償いにもならない事など承知しております。それでも私は、貴女に伝えたかった」

 騎士道の体現者と謳われた男の唯一の汚点。人一倍情に厚かったが故、兄弟を殺された事実を国の崩壊間際になってなお引き摺り続けてしまった事が彼の悔い。
 王を守る為の剣が激情に駆られ大局を見失い、騎士達の誉れである忠義と誇りを穢してしまった。

 ようやく我に返った時には全てが遅すぎた。

 故国は二つに分裂し、円卓もまた無残に崩壊。その最期まで王を守る為に戦い抜いたものの、玉座の簒奪者の手によって無念の内に討たれてしまった。致命傷が私情に駆られ決闘を行った際に受けた古傷というのもまた皮肉な話だ。

 だから彼は願った。

 もし二度目の生というものがあるのなら。
 もしまだ挽回する機会があるのなら。
 今度こそは────主の為、自らの全てを捧げよう、と。

 しかし彼はこの時の果てで巡り会ってしまった。奇跡ですら叶えられぬと思っていた邂逅が果たされてしまった。
 今更の謝罪などでは何も変わらない。それはただ欺瞞に満ちた自己満足。騎士にあるまじき行いで、剣にあるまじき私情。彼自身が切り捨てた『己』そのもの。

 それを。

「良いのです、ガウェイン卿。それは貴方の私情などでは決してない。その心は、かつて仕えた私に対する忠節の証。貴方が恥じ入る理由など何もない」

 王は、肯定の言葉で応えた。

 意味のない謝罪と価値のない言葉の羅列。そんな過ぎた想いにも、王は真摯に答えてくれた。ああ、そうとも。彼の信奉した王はこのように高潔であり、公平であり、理想そのものの王だった。あの裏切りの騎士をもその最期には許した程の無欠の王。

 そんな王を裏切ってしまった後悔と呵責。それ故に死後、白騎士は己に完璧な騎士であり続ける事を課した。王の赦しを得ても胸に誓ったその祈りを違える事はない。より強固にその想いを貫くと、人知れず誓う。

 王は続ける。されど彼の見上げる王とは別の想いをその胸の内に隠して。

「何より貴方はその最期まで私に仕えてくれた騎士の内の一人だ。その忠義に礼を言うべきなのは私であり、悔いるべきなのもこの私だ。
 国が傾いたのも、円卓が崩壊した事も、貴方と彼の湖の騎士の間の友誼に刻まれた亀裂もまた、その発端は私にある。そう、私が────」

 ────王でなければ。
     貴方はきっと、その最期まで高潔な騎士のままで。
     彼の騎士も理想の騎士であり続け、二人は良き朋友であったであろうに。

 胸を締め付ける悔恨。
 言葉にならない想い。
 伏せた瞳に映るのは、落日の丘。
 剣の墓標が乱れ立つ、アルトリアの後悔の地。

「王……貴女は……」

 白騎士の誠実なまでの眼差しに影が映る。騎士がその言葉の続きを口にする前に、王は鋭くその舌鋒で空気を切り裂いた。

「貴方も私も、今や違う主を頂く同士。願い叶える奇跡の杯を巡り、共に競い、合い争う間柄だ」

 そう、冬木での聖杯戦争へと赴いたのはこの手に奇跡を掴む為。奇跡に希わねば果たせぬ願いを叶える為だ。
 たとえかつての忠臣が立ちはだかろうとも、決して歩みを止める事は出来ない。何をおいても、何を犠牲としてでも叶えなければならない祈りを、少女はその小さな身体に宿しているのだから。

「剣を執れ、ガウェイン卿。もはや我らの間に言葉は不要。語るべきは剣で語れ。よもやかつて仕えた主を斬れぬなどとは言うまいな?」

 逆巻く風がセイバーを包む。ダークスーツは一瞬にして戦装束──青のドレスと白銀の甲冑へと変化する。
 下段に構えた両手の中にもまた風が渦巻く。具現化したのは不可視の剣。風呪によってその刀身を隠蔽された稀代の聖剣。

「……ええ。我が剣は今代の主に捧げたもの。貴女がたとえかつて仕えた王であっても、我が行く道を塞ぐとあらば、押し通らせて頂きます」

 対するは月明かりを照り返す青白い刀身を持つ剣。セイバーの聖剣に勝るとも劣らぬ聖なる剣。
 共に最高位の聖剣を手にする騎士の中の騎士。ならばその優劣は所有者の技量によってこそ測られる。

「いざ────」

「────参るッ!」

 此処に第四次聖杯戦争の戦端は開かれる。

 奇しくもそのカードはかつて頂いた王と仕えた騎士。
 互いにその手の内の全てを知る者。
 共に最高クラスの戦力を有する至高の英雄。
 彼らほど開幕を告げるに相応しい者はなく。

 火花散らす聖剣と聖剣との激突が、
 厳かに鳴り響く鐘のように──開戦の合図を告げた。



+++


 逆巻く風が夜を駆ける。衝突は一瞬、共に全力を込めて放たれた初撃は極大の火花を咲かせた。
 全力で打ち付けたが故に生じる一瞬の硬直を埋める為、両者は共に飛び退き、体勢を整える。

「…………」

「────」

 たった一合剣を重ねただけで分かる互いの力量。生前において幾度か手合わせをした事はあったが、こうまで全力で打ち合った事はない。
 かたや国を率いた王そのものであり、かたやその片腕にして騎士の誉れ。轡を並べ同じ戦場を駆け巡った事は何度となくあっても、殺し合いにまで及んだ剣と剣との衝突は有り得なかった。

 その剣は国を守る為のものであり、民を守る為のもの。仕える主に向けるものでも、仕えた臣に向けるものでもない。故に互いにその実力を音に聞き、目にしていようとも、こうして己が腕で感じたのはこれが初めて。

 ──やはり、強い。

 どちらともが同じ結論へと至る。そして同時に感じる胸の高鳴り。強き者と剣を交える事に震える心の高揚。己をただ一振りの剣と断じてなお、騎士としての矜持が顔を覗かせている。

「ふっ──!」

 先に仕掛けたのはセイバー。

 その身に宿す特殊スキル──魔力放出の力を借り、体内を巡る膨大な魔力を推進力へと変え、優に十メートルはあった距離を瞬きの間に詰める。
 迎え撃つは白騎士。横薙ぎに構えた剣を大上段から襲い来る必死の一閃に合わせ打ち上げる。

「はぁ……!」

 今宵咲く二度目の大輪。一気呵成の一撃を難なく防ぎ止める。

 セイバーの手にする得物は不可視の剣。刀身どころか柄さえも視認出来ない文字通りの不可視。
 けれどこの白騎士はその剣を知っている。王の手にするその威光を何度となく己の瞳に焼き付けたのだ。見えぬ刃であれ、知り尽くした剣の軌跡ならば捉える事などそう難しいものでもない。

 セイバーとてそんな事は百も承知。見えない剣の有利は最初から捨てている。防がれる事など承知の上で放った二撃目。防がせる事すら目的の内。その真意は更なる追撃へと向かう切っ掛けに過ぎず。

「はぁああああああ……!」

 脅威の突進力で肉薄した結果、間合いの有利は共にない。ならば後は機先を制した者が勝つ。
 追撃を前提とした二撃目を繰り出したセイバーは間髪を置かず連撃を見舞う。

 上段、下段、袈裟、横薙ぎ。剣の軌跡に法則はなく、その全てが神速。瞬き一つ行う刹那に首を刎ね、胴を輪切りにし、両手両足を裁断して余りある速度と威力。並の実力者であろうとそのどれかによって致命傷を被るだろう。

 しかし相対するは同じく英雄。時代に選ばれた稀有なる騎士の一人。神速など浴びるほどに受け、その全てを跳ね返し、同様の速度で以って返り討ちにしてきた。王の片腕と呼ばれた男が、並程度の実力者であろう筈がない。

 一閃を繰り出す度に爆ぜる魔力。
 防ぎ止める程に弾ける火花。
 青い魔力の軌跡と赤い光跡が交じり合い、夜の闇を照らし上げる。

 繰り出される刃の全てが必死の威力。一撃受け損なえば致命傷に至る無刃。両の手に支えられた不可視の剣は、少女の身体から湧き上がる魔力を糧に暴威とも呼べる連撃を嵐の如く闇に咲かせる。

 受ける青刃は足を止め、守勢に回る事でどうにかその狂嵐を凌いでいた。彼の剣もまた相応の力強さを伴い流麗な剣閃を描いてはいるが、反撃の隙が見当たらない。
 セイバーの剣速は一合ぶつけ合う度に増し、今や視認すら難しい速度で縦横無尽に襲い掛かって来る。間断なく繰り出される剣の乱舞は留まる事を知らず、十二十と堆く積み上げられ、白騎士は愚直なまでにその全てを捌き切る。

 乱れ舞う剣戟。咲き誇る火の花。膨大な魔力の加護を得たセイバーの太刀は重く速く、そして鋭い。
 まるで針の穴を通すような精確さでガウェインの防御の甘い部分を狙ってくる。それを凌げているのは防御に専心しているからだ。

 反撃を試みようと思えばどうしても隙が生まれる。その好機をこの少女騎士が見逃すわけがない。
 いずれは打って出なければ状況は膠着したまま。長引けばやがて押し込まれる。しかしそれでも現状はセイバーの猛攻を押し留める事が肝要。そう判断しているかのように白騎士は防御に専心し、反転の好機を窺っている。

「…………」

 人外の戦場の外、セイバーの後方に控える切嗣は、口にしていた煙草の灰が風に攫われる事にも頓着する事無く、目の前の嵐を見据え続ける。

 人の身でありながら人の極点を越えた者。一握りですらない、天と歴史に選ばれた者だけが辿り着ける境地の果てに至った者。人はそれを英雄と呼び称え、畏怖と礼賛をもって祀り上げる。

 ああ、確かに。正直なところを言えばこれほどとは思いもしなかった。彼女達の戦いを思えば、魔術師同士の諍いなどそれこそ児戯にも等しい。
 資格なき者が踏み込めば、その余波だけで骨砕け肉が千切れるほどの死地。目で追えている剣舞だが、本当にその全てを見切れている自信がない。

 切嗣自身の衰えを勘定にいれたところで、二束三文にしかならない極地。これが英雄の高み。人々の賞賛を浴び世界に祀り上げられた英霊の座。手を伸ばしたところで届くような峰ではない。

 ……だが。

 だからこそ、切嗣は強く思うのだ。こんなにも眩しき光が傍らにある恐怖を。比類なき光に焦がれて空を飛べば、イカロスのように翼を焼かれ地に落ちてしまうのに。墜落の恐怖に勝る憧憬こそが、もっとも恐ろしい罪の形なのだと。

 人が空を飛ぶ必要はない。
 そもそも最初から飛べるように設計されてなどいないのだ。
 空を飛ぶ英雄達こそがおかしいのなら。

 ────僕は『英雄(かれら)』を、地に墜とそう。

 揺るがぬ決意。
 鉄の意志。

 衛宮切嗣はその為だけに策謀を巡らし、準備を整え、人の極点を見据えたのだ。

 全ては己の理想を叶える為に。
 人が人である事を誇れる世界であって欲しい。
 そしてその世界には、英雄なんてものは必要ないのだから。

 一際大きな炸裂音を耳朶に聞く。守勢に回っていたガウェインが連撃の隙間を縫い、肩口に刻まれた傷と引き換えにセイバーを弾き飛ばしたのだ。
 宙を舞った少女騎士は動揺もなく、銀の具足を打ち鳴らしながら、華麗に着地を決め今一度剣を握り直した。

「ふむ……流石は最優のセイバーにして彼の騎士王と言ったところか。ガウェインがこうまで一方的に押し込まれるとは」

 白騎士の後方で切嗣と同じく戦況を眇めていた時臣が嘯く。その声色には微塵の揺らぎも見られず、劣勢に押し込まれた側が持つべき焦りが見えない。

 百をも超える剣戟を交わしてなお双方の被害はガウェインの裂かれた肩口の傷のみ。それも戦局を左右する程のものではない。
 事実白騎士は押し込まれていたものの、天秤の針が僅かでも傾けば互いの立ち位置は変わっていた筈だ。

 ただガウェインをしてセイバーの放つ魔力放出は厄介極まりない代物だった。それは嵐の中心点から斬撃が降って来るようなもの。襲い来る暴風に耐えながら、より脅威な剣戟を凌ぎ続けなければならないのだから。

 良く見れば彼の身を覆う白の甲冑のところどころに傷が見える。物理的な刃と化した魔力の波動が鎧を削り取っていった証拠だ。

「…………」

 セイバー自身、手応えは感じている。このまま続ければいずれ致命的な一撃を見舞う事が可能だろうと予見している。
 ただ生前の彼と本気で剣を交えた事がない以上、憶測の域を出ない話だが戦場で見たこの忠臣は、太陽の騎士である事を差し引いても、もっと強かったような気がしている。

 流麗な剣閃、力強き一撃。その涼やかな面持ちを一切変える事なく振るわれる太陽の剣は並み居る円卓の騎士の中でも際立って輝いて見えたものだ。見る影もない、とまでは言わないが、曇りがあるように見て取れた。

「…………」

 セイバーがガウェイン本人に抱く違和感とは別に、切嗣は余裕の体を変えない時臣に猜疑の念を抱いていた。

 事実、切嗣に見えるガウェインのステータスはその全てがセイバーと同等以下。最優を誇るセイバーに匹敵していると言えば聞こえはいいが、同じ土俵で戦う者同士ならば、それが覆しようのない実力差を表しているとも言える。

 しかし切嗣の疑念はそこではない。そもガウェイン卿は太陽の騎士と謳われた傑物。その真価は日の光の輝く昼の時間にこそ発揮されるもの。
 冬木で行われる聖杯戦争は人目を憚って行われる。その性質上、昼の時間帯よりも夜の方が圧倒的に戦場を構築し易く、また戦闘が行われ易い。

 それを遠坂時臣が知らぬ筈がない。

 太陽の加護がなくともガウェインは一流の騎士だ。アルトリアがいなければセイバーのクラスで招かれていたであろう程の。
 その戦力を期待して召喚したのかもしれないが、それでも拭い切れない違和感がある。消えない疑念がある。自陣のサーヴァントを上回る可能性を持つサーヴァントと剣を交えてすら変わらぬ余裕。

 その真意は────

「こうして我らが君達の挑発に乗り、姿を見せたのはこちらも戦力を測っておきたかったからだ。想定外だったのはガウェインを上回るステータス値を誇る者がいたこと。それがかつて彼が仕えた王であったこと。
 ……いや、予感はあったかな。ガウェインが『セイバー』ではないと知った時から、この程度の事は予測していた」

 セイバーと同等のステータスと、同じく剣を得物とし近接戦闘を得手とする者でありながら、ガウェインは“剣の英霊(セイバー)”の“座(クラス)”で招かれてはいない。
 真名が明らかになった今、クラス名に然したる意味もないが、彼は七騎の内一つは紛れ込むというイレギュラー、エクストラクラス。

 戦局を左右する駒に不確定要素はあってはならない。それ故に遠坂時臣はこの一戦を仕掛けた。ガウェインの名と逸話、彼の偽らざる忠義を目の当たりにしながら、それでもより確実な戦力を把握する為に。

「幾つかの不満もあるが、しかし全ては許容の範囲内。緒戦にて貴女のようなサーヴァントがいると知れたこともまた重畳」

 時臣の目が細く鋭さを増す。吹き荒ぶ風に両の耳に飾られたピアスが踊る。街灯の明かりを受け、紅玉が煌く。

「余興は終わりだ。ガウェイン、君に太陽の加護のあらん事を──令呪をもって命ずる」

「…………っ!?」

 瞬間、迸る雷光。
 稲妻は夜を斬り裂き、白騎士の身体を貫いた。

 いや、実際は何も起こってなどいない。
 そう見えただけという幻覚。
 されどその変化は一目瞭然。

 白騎士の身体に充溢する魔力の高鳴り。
 手にした聖剣の輝きもまた曇りなき太陽のそれ。
 先程までの彼は衰弱していたのではないかと疑うほどの力強きオーラ。

 夜陰の黒が支配するこの戦場において、この瞬間、ガウェイン卿だけが太陽の加護を受ける。日の光は彼のもの。灼熱の輝きは星の光を駆逐し焼き尽くす。巡る血潮は熱を宿し、心は鏡面の如く闇を照らす光。

 刮目せよ──あれなるは太陽の具現。
       彼こそが真なる太陽の騎士。

 円卓で最強を誇った騎士をも圧倒した、天道を背負いし者。
 日輪が彼を裏切らぬ限り、其は無敵を謳う魔人なり。

 “聖者の数字”

 ガウェイン卿の特異体質にしてその本領とも言えるスキル。太陽の輝く時間だけ、己の力を三倍まで引き上げるという脅威の能力。
 それを絶対命令権たる令呪の力を用い、強制的に発動させた。本来昼の限られた時間だけしか発動しないスキルを、夜が戦場である冬木の聖杯戦争とは相容れぬスキルを、令呪の強制力は可能にして見せた。

 ……やってくれる。

 切嗣は内心で臍を噛む。その令呪の使い方は予測が出来た。遠坂が“ガウェインを狙って召喚した”のだとすれば、それ以外に令呪の使い道はないと。
 読みが外れたのはこの緒戦でカードを切った事。令呪はたった三度しか使えないジョーカーだ。ここぞという時にこそ切るべきカードであり、こんな見せ付けるように切るべき札ではない。

 最初からあった違和感。
 消えない余裕。
 その正体が見通せぬまま、戦闘は再開される。

「では第二幕と行こう。ガウェイン、君の真価を見せてくれ」

「御意」

「────っ……!」

 ガウェインが答えると同時に地を蹴った瞬間、セイバーもまた同様に地を蹴り上げた。ただしその方向が真逆。敵を刈り取る為に前へと跳んだ白騎士とは逆に、セイバーはただ逃げを打つように後方に跳んだ。

 セイバーの全開の踏み込みをも凌駕する加速。直後、振るわれる剣閃。音をすら置き去りにする峻烈なる横一文字。その一撃は辛くも空を切るが、剣圧が翻ったセイバーのドレスの裾を捉える。

 バターのように切り裂かれ風に舞う一枚の布切れ。それが判断を誤っていた場合のセイバーの姿。己の直感を信じ全力での回避を行っていなければ、ああなっていたのはセイバー自身だ。

「くっ……はぁ──!」

 踏み込みの速度が既に違いすぎる。今の白騎士の加速はサーヴァント一を謳うランサーにすら匹敵する。
 太陽を背負うガウェインを相手に逃げに回るのは悪手。今の一幕は初撃だからこそ許されたもの。このまま引き続ければ時を待たずして追い詰められる。

 雷光の速度でそう判断を下した騎士王は大地を全力で蹴り上げる。
 過重に掛けられた魔力放出のブーストも相まって、公園に敷き詰められたタイルはいとも容易く砕け散った。

 神速の踏み込みからの全力での一撃。
 大木すら薙ぎ払う容赦のない一閃──それを、

「はっ──!」

 ガウェインは容易く弾き、体勢を崩したセイバーに返す刀で致命を狙う。

「ぐっ……!」

 刹那をすら置き去りにする速度で迫る青刃。伸ばした足先が地を掴むと同時に最大威力での魔力放出。硬直をすら無視しての強制的な捻転。魔力放出という名の外付けのロケットエンジンで自身の身体を捻らせ、間一髪で回避する。

 ギチギチと軋む体。ぐるぐると回る視界。真横を擦過する熱線の如き刃。触れた髪先が焼け付いたように音を上げる。
 一撃躱したところで次の瞬間にはもう横合いから次撃が迫る。だが二度その全力の打ち込みを見た。対応出来ないほどの速度ではない……!

 風を巻き上げ振るう不可視の刃。
 ガィン、という音と共に今度こそ太陽の輝きを凌ぎ切る。

 太陽の熱を纏う白騎士と青白き魔力の波動を放つ騎士の王。熱線を帯びた剣と逆巻く風を纏う剣が鎬を削る。

 類稀なる直感は、彼女に勝利への道筋を照らし出す。如何に能力を倍加させようとも、何度となく見てきた剣筋だ。ただ速く重いだけの打ち込みならば、対処は難しくとも不可能という領域ではない。

 戦場となった海浜公園を所狭しと走る影。軌跡は既に目視に耐えず、移動による余波、剣と剣とのぶつかり合いによる衝撃、高まる太陽と魔力の波動が並び立つ木々を軋ませ、街灯のランプをすら割り砕く。

 両者は拮抗しているように見えるが、その実押しているのはガウェインだ。セイバーの表情には先程まではなかった陰りが見え、頬を滑るのは一筋の雫。
 対するガウェインは涼やかな面持ちを崩す事なく、精悍な眼差しもまた揺らぐ事なくセイバーを捉えている。

 セイバーの面貌に宿るのは焦燥だ。これまで何度も繰り返した衝突の中で、その内の幾度かは確実に肉体を捉えた。上手く芯をずらされ直撃とまではいかなかったが、鎧への打ち込みは成功している。

 しかしガウェインの鎧には太陽の加護を得てからの傷はない。無数に刻まれた裂傷は全てその以前に付けられたものであり、セイバーの剣は一度としてダメージを与えるに至っていなかった。

 ガウェインに刻まれた聖者の数字。その本領は筋力や敏捷の上昇もさることながら、この鉄壁の防御能力にこそある。
 彼の身体を覆う熱はありとあらゆる外部からの衝撃を遮断し、触れる全てのものを弾き返す。

 攻撃によるダメージを気にする必要がなければ意識の大半を攻め手へと回せる。多少の被弾を無視して相手の懐へと切り込める。
 事実セイバーはそのようなガウェインの動きによって身体に傷を負わされている。直感に物言わせた回避で致命傷こそ避けているが、このまま続ければじり貧は明らかだ。

 聖者の数字の効果時間は約三時間。太陽が出ている時と効力が同じであるのなら、この騎士に傷を負わせる為にはそれだけの時間耐えるか、防御を上回るだけの一撃を繰り出すほかに手立てはない。

 ……この猛攻を凌ぎながら、三時間耐える……?

 ものの十分足らずで既に何度か手傷を負わされているセイバーにしてみれば、三時間耐え抜くという判断は狂気の沙汰としか思えない。これに耐え抜いたという彼の湖の騎士は、別格という他あるまい。

 ──太陽の加護を得たガウェイン卿が、よもやこれ程とは……!

 目にするのと実際に剣を交えるのではその余りの違いに目眩を覚える。一瞬でも気を抜けば首と胴が死に別れ、一つ判断を誤れば腕の一本を容易に失う。

 動きの先を読んですら対応する加速。極大の重みを載せた一撃とて無造作に弾かれる。剣士としては愚直すぎる白騎士の太刀筋も、全てを圧殺して余りある威力を伴うのならそこに技量の入り込む余地がない。

 それ程に圧倒的。付け入る隙は見当たらない。完成された精神性がその強さにより拍車を掛けている。揺らぐ事のない鋼鉄の意志力。胸に誓った忠義、誇りを頼りに騎士は剣を振るう。
 瞳に宿る炎は力強く。セイバーの一挙手一投足を捉えて離さず、それ故に逃れる事さえ叶わない。

 ……不味いな。

 戦場を俯瞰する切嗣は冷静に判断を下す。セイバーの実力は相当だ。並み居るサーヴァントを相手にしても後手に回るような事態は余程の事がなければ起こりえない。
 最悪なのはその『余程』が真っ先に姿を見せた事。今のガウェインを真っ向から倒すにはセイバーでは不足。最優を誇る英霊ですら不足と言わせるほどに、太陽の騎士は圧倒的に過ぎる。

 もはや自身の目論見など二の次だ。英霊の半身たる宝具に訴え勝負に出るか、逃げを打つか。あるいは奥の手を曝け出すか。

 その選択を迫られた時────

『────……ッ!?』

 その場に居合わせた全員がその異常を察知する。

 オォン、とノイズめいた音が耳朶を貫く。金属に爪を立てたような不協和音。肌を駆け抜ける悪寒。心臓を鷲掴みにされたような不快感。
 全ては目に見えるほどの殺意と敵意の具現。全身を貫き、絡み付く凶気の波動。

 その明らかな異常を感じた瞬間、騎士王も白騎士も共に退き、己が主を庇い立ち、視線を真横を流れる未遠川へと向けた。

 そこにあったのは川面に浮かぶ闇。
 夜の黒を塗り潰すほどの闇色。
 立ち昇るように揺らめく漆黒のオーラは目視出来る憎悪のカタチ。
 深き怨念と暗き憎しみが生んだ凶気にして狂気。

 その闇の向こうに赤く灯る光を見る。
 爛々と輝く、血のように赤い瞳を。

「Arrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr……!!!!」

 此処にもう一つの運命が交錯する。

 星の光を絡め取る鎖。
 逃げ場のない牢獄。
 過ぎ去った筈の彼方より来る凶獣が、その産声を上げた。


/7


「くくく……くはっ……」

 深い、緑色をした闇の中。足元を流れる汚泥と粘ついた臭気に晒されながら、間桐雁夜は独り嗤う。
 新都の地下を流れる下水道。人の寄り付かぬ暗闇の中で嗤う雁夜は右手で半面を押さえていた。

 別段傷があるわけでも苦痛が伴うわけでもない。閉じた右目が見ているものは目の前にある腐臭に満ちた空間ではなく、遥か上空──地上の光景。
 海浜公園近くの雑木林の中に潜ませた使い魔の眼を借り、雁夜は今宵戦端を切られた緒戦を観戦していた。

「ははは……まさか、こんな展開があるとはな……」

 狂気じみた笑みを浮かべながら、それでも雁夜の芯は冷静だった。彼にとっての怨敵であり宿敵……遠坂時臣の姿を目視してなお激情に駆られ無為に動く事はしなかった。

 あの男が戦場に姿を見せた事は正直予想外だった。臓硯の話によれば遠坂からのマスターは娘の凛であると通達が出されていた筈だ。それが何を思って時臣が緒戦から姿を現し、あまつさえサーヴァントを従えているのか。

「あぁ……そんなこと、俺にとってはどうでもいい。奴が俺の敵として姿を見せた……その事実さえあれば、他に何もいらない」

 遠坂の現当主とはいえ、マスターでもない男を戦場に引っ張り出すのは苦労がいる。何事にも慎重なあの男ならば尚更だ。
 胸に抱いた憎悪の矛先を向けるべき敵がいない空虚をどう穴埋めするかと煩悶としていたその時に、時臣は戦場に姿を見せた。

 サーヴァントを従えたマスターとして。聖杯を目指すのならば何の躊躇もなく斃す事の出来る敵として。
 その興奮。その高揚。十年の間鬱積していた想いの丈が爆発してしまっても誰も咎める事は出来はしない。

 ともすれば自ら戦地に赴いて罵詈雑言と共に一矢報いる事さえ脳裏を過ぎった雁夜だったが、足は今なお戦地に向かう事なく、己がサーヴァントをも差し向けてはいなかった。下水の匂いの中で、ただ只管に観戦に務めた。

 脳と胸の中を目まぐるしく駆け回る黒い奔流。サーヴァントを召喚して以来、身を苛む憎しみの闇。狂気を形にしたかのようなサーヴァントに引き摺られかねない心を必死に抑制し耐えている。

 それは真っ白なキャンパスの上にバケツで黒いペンキをぶちまけられるようなもの。自分自身というキャンパスを違う何かが犯していく恐怖は筆舌に尽くし難い。
 常人ならば即座に発狂し、人としての形すら失くした廃人となってもおかしくないほどの怨恨と怨念に晒されてなお、雁夜は自我を保ち続けている。冷静に戦局を分析し時を計っている。

 ────全ては間桐桜を救う為。

 この心は黒き憎悪に塗り潰されてなお、その誓いを覚えている。

 ただ暴れ回るだけは彼女を救えない。遍く全てを凌駕する暴力を欲しはしたが、その力に飲まれてしまっては立ち行かないと理解している。
 感情の赴くままに暴れ狂った先に待つのは何一つの残滓さえ存在しない無残な自滅。そんな結末が欲しくて、この十年を耐え抜いたわけじゃない。

 欲しいのはたった一つ──あの子の心からの笑顔だけ。その願いだけを頼りに暗闇の荒野を歩いてきた。今更もう一度無明の闇に自分から落ちていく無様なんて許されない。向かうべき場所は陽の光の当たる場所であるべきだ。

 ただそれでも、この胸に渦巻く憎悪の奔流は全てを投げ出し、全てを破壊し尽くしたい衝動に駆られるほどに凶悪で強烈だった。不幸中の幸いであったのは、雁夜の胸に宿す憎悪は自分自身の闇をも孕んでいた事。

 後から侵入してきた黒色に塗り潰されながら、それでも己の形を見失ってはいない。それは十年の研鑽が身を結んだ賜物。蟲蔵の底で万をも超える蟲に体を嬲られ蹂躙された時を思えば、この程度の闇に心犯される事など有り得ない。

 何より想いは同じなのだ。心に宿す復讐の想念。湧き出るほどの呪詛の言葉。誰何へと向けられた殺意の波動。心を染める黒と黒は螺旋を描き、相克してより強い憎悪を生む。黒くて黒い、闇の憎悪を。
 生まれた憎悪を食らい身体中の蟲がギチギチと戦慄く。間桐の血から生まれた刻印蟲はそんな醜悪な感情をこそ好む。蟲は魔力を精製し、魔力は身体中を巡り、やがて憎悪の糧となる。

 それは無限に循環する円環。
 終わる事のない疾走。
 憎悪という名の闇が枯れ果てぬ限り、際限なく魔力を湧き出す血の泉。

『…………、…………、…………!!』

 内なる獣が声なき声で哭く。地上に輝く二つの光を憎悪し、自らを縛りつける鎖と疾走を阻む牢獄を喰い破らんと暴れ回る。
 血管の中を這いずる蟲が奪われていく魔力の高に絶叫し絶命する。すぐさま別の蟲が新たな子を産み落としその代替とする。

 雁夜の口元を流れる一筋の血。されど浮かぶは消えない笑み。

「あぁ……そろそろいいだろう。奴らに関して得られる情報は得た。後はおまえがその力を俺に示せバーサーカー。
 天に輝く星を落とし、地上に引き摺り降ろして這い蹲らせろ。貴様らの陰で消えた星の名を、今一度思い出すといい……!」



+++


 川面に佇む闇の形。夜を塗り潰す漆黒。突如として姿を現した不可思議な存在に、その場の誰もが目を奪われた。

「なんだ、あれは……?」

 セイバーは呟き目を細める。目を凝らしてなお茫洋として形の掴めない闇。漂う靄のようなものが姿形を霞ませている。焦点があっていないのか、二重三重にぶれて見えることさえある。
 唯一明確に見えるのは、闇の奥で輝く赤色だけ。それが瞳である事は、居合わせた誰もが理解していた。

「サーヴァントか……一体誰の差し金やら」

 嘆息と共に時臣は息を吐き出す。当然だ、今このタイミングでサーヴァントをけしかける理由が分からない。
 少なくともガウェインとセイバーの戦いを盗み見ていたのならそんな馬鹿げた行為をしようとは思うまい。

 如何に正攻法を得手とするサーヴァントを引き当てようとも、この両者の間に割り込ませるのは余りにも分が悪すぎる上に己が晒さねばならない札もまた多くなると気付く筈だ。大局を見る目があれば静観こそが常套、その上で対策を練るべきだ。

 現場にありながらそう客観的に分析出来る時臣だからこそ理解には至らない。このサーヴァントを差し向けた輩の真意が。
 想像出来るのは彼我の実力差を量れもしない無能か、強力な英霊を引き当て図に乗っている愚か者か、あるいは……。

「…………」

 万が一の可能性を考慮し時臣は警戒を緩めない。未だ動きを見せない魔術師殺しに対してもそうだが、今ほど現われた闇がもし何らかの意図をもって放たれたのだとしたら。時臣の想定を上回る“何か”を持っているのだとしたら。

「……もう一手、必要になるかもな」

 その呟きは誰に届く事もなく風に消え。赤いピアスだけが揺れていた。

 カタチのない闇。正体不明のサーヴァント。カチカチと震える、恐らくは金属が触れ合う音がするだけで、闇色のサーヴァントは一言も発さない。このまま睨み合う事に意味もないと思ったのか、ガウェインが静かな口調で問い質す。

「主に成り代り問いましょう。貴公は如何なる意をもってこの場に姿を見せたのか。開く口があるのなら答えて欲しい」

 その言葉に、闇はスリットの奥の瞳を揺らしてガウェインを見る。白き甲冑とそれを上回る輝きを纏う太陽の騎士を。

「Ga……」

 闇の手元にはいつの間にか得物が握られている。見る限り然して高位な剣とも思えぬ無骨な造り。異常があるとすれば剣は持ち主同様の黒色に覆われ、その上を無数に走る血管じみた赤色に染まっている事。

 ギチギチと唸る闇は、まるで獲物を見つけた猛禽のような鋭さで、川面を蹴って走り出した。

「Gaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa……!!」

 夜を引き裂く大音量。声にもならぬ金切り音を叫びながら、闇色のサーヴァントは疾走する。その速度はセイバーとガウェインにも劣らぬほど速く。抜き放たれた黒い剣は夜を斬り裂き迫り来る。

 迎え撃つガウェインは相も変らぬ涼やかな面持ちを崩さず、手にした聖剣を力強く握り締める。

「Aa……!!」

「はっ……!」

 青白き聖剣と黒の剣とが激突する。その余波は風を巻き起こし、一帯を薙ぎ払う。

 続け様に放たれる黒の連撃。凶悪なまでの重さと速さで繰り出される斬撃を、太陽の加護を未だ得たままのガウェインは、常人には視認すら難しい刃の嵐を、足を止めたまま凌ぎ切る。

「…………」

 闖入者の登場で蚊帳の外に置かれたセイバーは、警戒を緩めぬままに二人の戦場を傍観する。
 何故あの闇がセイバーではなくガウェインを狙ったのか、声を掛けたのがその理由なのかは不明だが、素性のまるで分からない敵手を観察出来る機会を得られたのは大きい。

 ガウェインに削られた傷も自動修復によって程なく治癒を終える。それまでは輪の外側にいる事も必要だ。獣のように敵に向かうだけが能ではない。戦う相手を知らねば勝てる戦も勝てないのだから。

 無尽に舞う刃の風。白と黒の騎士は先のセイバーとの剣戟にも劣らぬ勢いで共に鎬を削り合う。
 聖剣と称されるほどの名剣と打ち合う無骨な剣。並みの剣ならば一閃で芯を折られる筈だが、黒の剣は真正面から劣らぬ程の剣戟を繰り返す。太陽の熱をも遮る闇の刃。だかその異常を上回るのは漆黒の騎士の剣の冴え。

 聖者の数字を発動したガウェインに拮抗出来る英霊などそうはいない。土俵が違うのなら話は別だが、この漆黒もまた近接戦闘を得手とする者。ならばその名は歴史に深く刻まれている事だろう。

 ただしその正体を解き明かす事は誰も出来ない。時臣も切嗣も、どれだけ敵を睨みつけようとも漆黒の騎士のステータスを把握出来ないのだ。
 辛うじて見えるのはクラス名────“狂乱の座(バーサーカー)”という事だけであり、宝具はおろかスキル、パラメーターの一切を見る事が叶わなかった。

 数値は見えずとも現実に暴れ狂うものは見えている。太陽を背負うガウェインと真っ向から対峙出来る程の強者。ただそこに生まれた微かな異変に真っ先に気付いたのは、彼と剣を結んだセイバーだった。

「ガウェイン卿……?」

 セイバーと乱撃を交わしてなお一筋の汗さえも流さなかった男が、狂気に囚われた漆黒を相手にする今、確かに苦悶の色を浮かべていた。

 漆黒の騎士は確かに強い。狂気に犯されているとは思えぬほどの達者さで剣を振るい、先を読み、わざと隙を作り攻め手を限定までしている。
 ただ暴威を狂わせるのではなく、剣の一太刀に意味がある。繰り出される剣戟の全ては必死の一撃にして次の手への布石。流れるように美しく、見惚れてしまえば首を刹那に刎ねられかねない清淑の舞。

 本来バーサーカーという存在は限りない暴力を得る為のクラスだ。若輩の英雄を狂化によって、時には大英雄クラスにまで引き上げ強めるもの。その代償としてマスターからは多量の魔力を。サーヴァントからは理性奪い、それに伴い技量をさえ喪失する。

 だがこの漆黒は狂化してなお失うべき技量を維持している。言語こそ消失しているようだが、それは本来有り得ない筈の現象。極大の暴威と類稀な技術を併せ持つ──それがどれほどの異常かは事実目の前で行われている剣舞がその証左だ。

 それでも聖者の数字を刻んだガウェインならば、押し負けるどころか拮抗を自ら崩してさえ押し切る事が可能な筈だ。それ程に太陽の加護は桁違いの能力であり、彼自身の元より高いステータス値をより強力なものとしている。

 ならば目の前にある現実は何なのか。

「ア…………ァァア……ッ!」

「くっ……!」

 澱みのない剣尖は怜悧で、疾風をすら超える速度で穿たれる。セイバーの斬撃に匹敵、時には上回りかねないその一撃とて、太陽の騎士ならば無造作に防ぐ事も可能な筈。
 しかし今の彼は必死で凌いでいる。凌がなければ、致命の一撃を被るとでも言うかのように。

 その一幕を切り取るだけでも見て取れよう。押しているはバーサーカーであり、押されているのはガウェインだ。傷こそ受けていないものの、一方的なまでに攻め手を封じられ防御せざるを得なくなっている。

 合間を縫って繰り出す太刀の全てが水を切るように受け流し回避され、けたたましい数の斬撃を浴びるほどに受けさせられる。剣を切り結べば切り結ぶ程に白騎士の顔に宿る焦燥は増し、手にする聖剣の冴えが鈍っていく。

 輝ける太陽が、その熱を夜に奪われるように。

「なにをしているガウェイン……! 幾ら相手の得体が知れぬからと言って、君が遅れを取るような相手ではないだろう……!」

 遅れてガウェインの異常に気付いた時臣の叱責が飛ぶ。

「ぐっ……はぁ──!」

 それでもガウェインは押し返せない。剣先の乱れた一閃は敵を捉える事叶わず、返す刀で迫る黒刃をどうにか防ぎ切るだけ。先程までの力強さは見る影もなく、王の片腕と称された男とはとてもではないが思えぬほどの凋落。

 夜に輝く日輪は、深き闇に覆われその煌きを曇らせる。

「…………」

 なんだ、一体何が起きている……?

 セイバーをも圧倒したガウェインがこれほどに一方的に攻め立てられる事になるとは予想だにしなかった。更にはその原因が不明となれば尚更だ。

「……分が悪い、か」

 この夜の一幕はまだ緒戦。戦力確認を含めた互いの顔合わせに過ぎない。この一戦で敵を討ち取れるとは思っていなかったし、討ち取るつもりも毛頭なかった。
 こちらが必殺を期せば相手もまた必殺をもって応えるのは道理。それは余りにリスクが高く、こんなところで及んでいい事態ではない。

 ガウェインの戦力は充分に把握が出来た。彼に起きている異常についても後々問い質せばいい。まずはこの場を一旦退く。そう決めた時臣に────

 ────これまで沈黙を貫いていた、魔術師殺しが牙を剥く。

 誰もが白騎士と漆黒の騎士の戦いとその異常性に目を奪われていた裏で、衛宮切嗣は一人隙を窺っていた。これまで決して切嗣から目を離さず、警戒の網を張り続けていた時臣が気を逸らす瞬間を。

 セイバーを圧倒したガウェインを上回る存在に気を取られたその一瞬──夜陰に紛れるように身を低くし、最速でもって射程圏内へと駆け出していた。

「……っ!」

 時臣が気付く。手にした杖に象眼されたルビーが煌く。だが遅い。既に切嗣は魔銃を抜き放ち、その顎門を向け射線に捉えている。
 指先に掛かる引き鉄。後はそれを絞れば必滅の魔弾が繰り出される────

「……ダメですっ、マスター……!」

 引き鉄を引き絞るその直前、セイバーは遥か頭上──対岸に聳える摩天楼の頂点に輝いた赤い光を見咎めた。夜に煌く人工の明かりなどではない、目視した瞬間に背筋を凍らせるほど凶悪な魔力の高鳴り。
 それを視認出来たのはセイバーだけがこの場で唯一全てを俯瞰出来る立場にあったからであり、反応出来たのは彼女が最優のサーヴァントであったからに他ならない。

 夜を劈く金切り音。
 闇を引き裂く箒星。
 地上へと墜落する、遥か彼方より降る赤き流星。

 キロメートル単位を優に超える超遠距離からの狙撃。音をすら置き去りにする超音速で放たれた“矢”を、セイバーは必死のスタートダッシュから瞬時に最高速へと至り、そのまま全速力で駆け、マスター目掛けて降り注いだ凶星を間一髪で迎撃する。

「……ッ!」

 手に伝わる衝撃を噛み殺す声は響き渡る轟音に上書きされ、剣と矢との衝突は大気をも震わせ、白と黒の騎士の戦場を風嵐が荒らし猛り狂う。余りの余波に両者も剣を止め、共に天を仰ぐ。

 咄嗟の事で不十分な体勢での迎撃を余儀なくされたセイバーでは、余りある威力と勢いを完全には殺し切れず、剣で逸らす事が精一杯。
 風王結界を削りなお速度を落とさぬまますぐ傍を擦過して行った矢は、その捻れ狂う竜巻めいた余波で彼女に明確な傷を刻み込む。

「ぐっ……マスターっ!」

 不意の一撃により脇腹を抉られた格好のセイバーは、それでも状況を見誤ってはいなかった。
 壊滅的な威力を秘め、放たれた一矢。それだけ射手はこの一撃に魔力を注ぎ、一瞬の好機を窺っていた。次弾があったとしても、これだけの威力をもう一度込めるには相応の時間が必要。

 敵は“弓の英霊(アーチャー)”。見咎めた姿は遥か彼方。この距離は弓兵の間合いであり、剣士でしかないセイバーには為す術がない。時を置けば次弾が放たれるだろう。認識した以上撃ち落とすつもりではあるが、痛手を負った状態では防ぎ切れない可能性がある。
 遠隔攻撃を得手とする弓兵を相手に射手の間合いで戦う不利は、戦場に慣れている切嗣も良く知っている。

「……退くぞ」

 決断は一瞬、指示もまた簡潔。右手に引き鉄を終ぞ引けなかったコンテンダーを携えたまま、切嗣は左手でコートの裾より発煙筒を取り出しピンを引き抜き放り投げた。一瞬にして煙は辺りに充満し、誰もの視界を閉ざす。

「ガウェイン……!」

 時臣にとってもこれは好機。このまま漆黒の騎士と対峙し続ける意味はない。この場は一旦退き態勢を整える。いつ次弾が来るかも分からぬ現状で白煙に乗じて時臣を害そうと考えるほど魔術師殺しは愚かではない。

 戦場を白煙が覆った時点で既に離脱している筈。こちらも深追いする気は欠片もない。アインツベルンに遅れる形で時臣もまた離脱しようとしたが──

「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA……!!」

 吼え狂う凶獣はそんなもの一切お構いなしとばかりに白靄の中で剣を振るう。射手を見たのは僅か一瞬、弓兵を敵ではないと見て取ったか、あるいは別の何かか。理由が不明ながら漆黒の騎士はまたしても白騎士に刃を向ける。

 弾け飛ぶ火花。裂帛の一撃を辛うじて受け止める聖剣。未だ視界を奪われているというのに、どういうわけか獣は完璧にガウェインの位置を把握している。
 もしここで白騎士が先に霊体化を果たせば次に狙われるのは時臣だ。故にガウェインは向けられる剣に応えるしかなく。

「チィ……凛……ッ!」

 正調の魔術師はこの場にいない少女の名を叫ぶ。
 刹那、再度降る赤い星。

 先の凶弾に比べれば幾らも格を落とす威力ではあったが、如何にサーヴァントとはいえ無防備に喰らえばただでは済まない威力が秘められた矢が再び夜を貫く。今度は、バーサーカーに向けて。

「ァア──!」

 白煙ごと飛来する凶弾を切り裂く黒刃。激突は一瞬、セイバーのように逸らすのではなく完璧に迎撃し無力化する。
 一瞬とはいえバーサーカーの意識が逸れた以上、時臣らの撤退を阻むものは何もない。

 矢を撃墜し凶獣が振り返ったところには既に人影はない。切り裂かれた白煙が晴れた後に残ったのは、戦闘の爪痕と行き場を失くした憎悪を迸らせる漆黒の騎士のみ。

「Arrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr……!」

 遠吠えにも似た咆哮。それは一体何に向けたものなのか。誰も知る者はなく、此処に一つの戦闘が終わりを告げた。



+++


 新都の中心に聳えるこの街で最も背の高い建造物──センタービル。その屋上、地上よりもなお強い風が吹き荒ぶ天と地の狭間に、一組の主従の姿があった。

 黒の髪を左右に結わえた少女……遠坂凛。彼女の瞳は冬の風にも劣らぬ冷徹さで眼下を見据え、対岸にある公園で行われていた戦闘の一部始終を把握していた。

 彼女の傍らには赤い外套を羽織った銀髪の弓兵。左手には光沢のまるでない黒塗りの弓を持ち、今し方矢を放ったのか、右手には何も握られないままの矢を放った姿勢で硬直していた。

「ふむ……どうやら君の父君は無事戦場を離れられたようだな」

 言葉と共に弓を下ろす。黒塗りの弓は夜の闇に溶けるようにして消えていった。

「そう」

 少女の返答は無機質だった。声に感情はなく、音には色がない。まるで自らの不始末を恥じているかのように、この赤い従者を招いてからの彼女はより心を冷ややかなものとしていた。

 それも当然、彼女にとっても誤算の連続。本来彼女が招来しようとしたサーヴァントは父が収集した触媒の中でも選りすぐりの一つを用いた黄金の君。遍く英霊の頂点に位置する王者である筈だった。

 召喚には一切の不備はなく、粗さえも見当たらなかった。完璧と呼んで相違ない入念な準備の上、父の期待を背負い行った召喚は、意中のサーヴァントを引き当てることが出来なかった。

 今、傍らに立つ弓兵は彼女──遠坂凛の喚び出そうとした黄金とは異なる者。

 何が原因でこの赤き弓兵が招かれたのかは分からない。何故黄金の君が凛の呼び声に応えなかったのかは永遠の闇に葬られたまま。
 凛は己の喚び出したサーヴァントと共に十年遅れの聖杯戦争を勝ち抜かなければならなくなった。

 予めこのセンタービルの屋上に陣取っていたのは彼女もまた己のサーヴァントの力量を把握する為だ。
 太陽の騎士を補佐に、最強を誇る黄金の君が全てを駆逐する策謀は彼女の失態によって無為に落ちた。父は落胆こそしたが、それでも現状考え得る最善手を実行する為に自ら戦地へと赴いた。

 その背を支える為の配置。騎士の戦場からは遠く離れた弓兵にだけ許された独壇場。その場にて戦力を確認するのが彼女の今宵の役目。
 父の落胆を払拭し、アーチャーの実力を確かめる為の試運転。自身の名を思い出せないなどと嘯く英霊崩れにせめて力量を披露させようという凛の思惑だった。

 遠く公園での戦闘も終了し、その場へと横槍を入れる形になったが、凛にとって見ればアーチャーの狙撃能力は良い意味で予想外のものと言えた。センタービルから対岸の海浜公園までは優に四キロメートルを越える距離がある。

 時間を掛け魔力を込め、照準を狂いなく合わせるだけの優位と猶予があったとはいえ、それだけの超遠距離でありながら、針の穴をも通す精確さでセイバーのマスターだけを射抜く一射を放って見せた。

 結果だけを見れば捕捉した標的を撃ち抜けず、最優の剣士に阻まれはしたものの、相応の痛手を与える事には成功した。
 何よりセイバーを相手にダメージを与えられたという事実は大きい。素性の不明なサーヴァントにしては上々とも言える結果だ。

 記憶がないと憚っておきながら、宝具にも匹敵する威力の矢を惜しみもなく使いこなした事に不信感も増しているが、アーチャーが使える駒である事は間違いない。ガウェインとの連携をより綿密に行えれば、脅威の戦力になるだろう。

「凛、今夜の戦闘はこれで終わりだ、我々もこの場を離れよう。留まり続ければあの狂犬はこちらまで襲って来かねん」

 誰もいなくなった海浜公園の中心で吼え狂う黒き騎士。バーサーカーであるが故の制御不能状態なのだろうが、流石にここまで追ってくるとは思えない。が、万が一がないとも限らない。

 わざわざ敵が消えるのを待ってから離脱する必要もない。アーチャーの戦力を確認し、時臣の背を援護するという目的をも果たし、父もまた戦場を去った以上この場所に長居する理由もまた、ない。

 弓兵にとって懐は射程外だ。その距離まで詰め寄られた時点で詰んでしまう。この赤い騎士を効率良く運用しようというのなら、それなりの策を練るべきだ。幸いにして近づけさせない為の壁はある。一度屋敷に戻って父と話をしておくべきだ。

「分かったわアーチャー、一旦戻りましょう」

 言って、凛は屋上の縁へと足を掛けそのまま戸惑いもなく空中へと躍り出る。身を攫う強風の只中へ、地上二百メートル近い高さからの無謀なまでの落下。余人が見れば自殺としか受け取れない墜落。

 しかし魔術師にとってこの程度の高さなど大したものでもない。質量操作、重力軽減、気流制御。幾らでも着地の衝撃を減らし、命の危険をゼロにする手段はある。
 今回の墜落に限っては凛はそのどの魔術も使用せず、アーチャーに全てを預けた。共に夜に飛び込んだ赤い弓兵は少女を支えるように傍らに侍り、言われるまでもなく着地時のアシストを行うつもりでいた。

「…………」

 地上と空の狭間。星の光の届かない宙(ソラ)で着地までの数秒にも満たない時間、人がその死の間際に見るという走馬灯のように刹那を永遠に偽装して夢を見る。

 唯一つの願い。

 世界の果てに至って絶望を味わった男の荒唐無稽な願いはこの世界では果たされない。目的とした場所とは余りにかけ離れた場所。近くて遠い鏡の世界。胸に抱いた希望は、傍らの少女と出会った瞬間に瓦解した。

 磨耗した心に響いた少女の名前。雷光の速度で全てを思い出した後、その違和感と差異に気付き言葉を失った。顔には出さず態度にすら見せなかったが、内心は嵐のように渦巻いてメチャクチャだった。

 冷徹な魔女。血の通わない魔術師。それは男の知る少女ではない。そう振舞いながら、心の芯に人としての情を宿していた少女はいないのだ。

 胸に芽吹いた希望を一瞬で覆い尽くす絶望。神さまがもし本当にいるのなら、余りにも酷いその仕打ち。
 万分の一に満たない確率に賭けた祈りは果たされず、寄る辺となる少女は最早別人。あまつさえ先程対峙した敵は、この男にとってもっとも縁の深い二人。

 皮肉という言葉では済まされない。たった一つ胸に抱いたこの祈りは、こんな仕打ちで返されなければならないほどに悪辣で傲慢だとでも言うのだろうか。これまでの生き方を、否定する事さえ許されないというのか。

 この何もかもが違ってしまった世界で。
 この己は、一体何の為に剣を振るうというのか。
 誰の為に剣を握るべきなのか。

 ……今はまだ答えは出せない。
 ならば自身に課された役目を全うする事こそが目先の目的。

 それでも。
 こんな世界でも、もし己に成せるものがあるとするのなら……。

 赤い主従は夜の闇の中に姿を消す。
 それぞれの思惑もまた闇の中に消え、今はただ深海に沈んだ街と同じく、深く深く沈んでいった。



[36131] scene.04 巡る思惑
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/04/23 01:54
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 明くる日。

 十一月の朝ともなれば日の昇り始める時間も夏頃と比べれば随分と遅くなる。朝の弱い者にとっては苦痛以外の何物でもない起床の瞬間。
 陽の光という一日の始まりを告げる輝きが冬も差し迫っているという理由で寝坊をしているのなら、少しくらい寝過ごしても構わないだろうと誰もが思う時刻。

 遠坂時臣は太陽が何時昇ろうが自身に定めた起床時刻を守り、常日頃と変わらぬ朝の支度と朝食をもまた既に済ませ、書斎にて自らの手で淹れたばかりの食後の紅茶の薫りを楽しんでいた。

 優雅を信条とする遠坂において、意味のない自堕落は許されない。娘の模範となる父であるのなら尚更だ。幾ら事実上家督を譲ったも同然とはいえ、隠匿を決め込んだ老人のように時間に縛られない生活を彼は好まない。

 幼少時より実父に教えられてきた生き方。遠坂の家門を継ぐ者として当然の所作。役目を半ば果たし終えたとしても、今や身体に染み付いた習慣を変える事など出来る筈もなく、また変える気すらなかった。

 そんな時臣に不満な点があるとするのなら、今目の前で薫り高く湯気を燻らせる紅茶。常ならば侍従に淹れさせ自室へと運んで来て貰うところだが、全員に聖杯戦争を理由に暇を出している。

 魔術の薫陶を受け継がぬ者達とはいえ、彼女らも遠坂の屋敷に携わる充分な身内。魔術師は外敵に対して容赦がない分、身内には随分と甘い。
 無用の犠牲も好まないとなれば、何時聖杯を賭け争う連中に狙われるとも限らないこの屋敷に滞在させておく事は出来なかった。

 それ故に、この紅茶は時臣自身が淹れたもの。別段味に不満があるわけではない。家人の務めとして炊事に洗濯、掃除の全てを一通りこなせるだけの腕はある。
 彼が不満に思うのは、紅茶を淹れてから書斎に運んだせいで幾分熱を失っている事だ。横着をしたつもりはないが、このところ侍従に家事全般を任せていた事もあり、どうも要領に欠けるところがあると己の不明を恥じた。

 次はちゃんとポットを用意しておこう、とそんなまるで麗らかな朝の一時を楽しんでいた風のある時臣は、紅茶を一口含み、嚥下していく赤い液体で充足感を満たした直後、まるでスイッチで切り替わるかのように思考の表と裏を引っ繰り返した。

「ではまず、昨日の釈明から聞こうか、ガウェイン」

 細めた瞳は虚空を見据える。優雅に紅茶を愉しんでいた時臣の顔はそこにはない。あるのは魔術師としての面貌。
 何もない虚空に突如として現われる白の甲冑。霊体から実体への遷移。常に涼やかさを忘れなかった白騎士の顔に、今は僅かだが曇りが見て取れた。

「昨夜の一戦にて君の戦力は充分に把握させて貰った。セイバーとの見事な剣舞、そして聖者の数字を発動して以降の戦闘能力。素晴らしい。最優を誇る剣の英霊を相手取ってなお圧倒せしめたその実力には、惜しみない賛辞を送りたい」

「……ありがとうございます」

「だがだからこそ解せないな。その後に姿を現したバーサーカー。あれとの一戦は一体何なのだ? あの狂乱の英霊は、太陽の加護を得た君をも圧倒するほどの猛者なのか」

 傍目に見た限り、そうとしか映らないだろう。最高位のステータスを誇るセイバーを完封しておきながらバーサーカーを相手に手も足も出なかった不明。
 ステータスの一切を見通せない事がより一層の拍車を掛け、その正体は剣を切り結んだ本人にしか分からない。

 白騎士は引き結んでいた唇を僅かに開けて息を吐く。これより己の告げなければならない言葉に重みを感じながら。隠し通す事の出来ない、そのつもりもない事実を嘘偽りなく日の下に曝け出す。

「私がバーサーカーを相手に苦戦を強いられた理由は簡潔です。あの相手に対し、令呪を以って発動した“聖者の数字”はその効果を発揮しなかったからです」

 素の状態のガウェインの能力値は英霊の中でも優秀な部類に入る。並の英霊であれば圧倒出来るだけの充分な数値を誇っている。
 彼自身の剣技もその信条を反映したように力強く、時に愚直とさえ捉えられかねない程素直な剣筋だが、数多の戦場を切り抜けてきただけの冴えがある。

 何よりこの騎士にとっての真骨頂は太陽の輝く時間、全能力値を三倍に引き上げる“聖者の数字”に集約される。
 愚直すぎる剣も圧倒的な威力を誇れば敵の防御ごと斬り裂き、生半可な攻撃では傷の一つさえ付けられない防御能力は転じて攻撃面での優位性をより不動のものとする。

 一流の騎士ではあっても超一流には及ばない白騎士。されど全てを覆し圧倒する程の加護が彼にはあり、それを有効活用するだけの手段と策を持つマスターに引き当てられた事は彼の僥倖だろう。

 不運、最悪とも呼べる想定外は、あのバーサーカーの存在。ガウェインの優位を根底から揺るがす程の英傑。
 先の一戦にしてもガウェインがその心を平静に保てていたのなら、もっと善戦出来ていた筈だ。

 強力なまでの加護の弱点にして欠点。それは一度破られた相手に対しては二度とその効力を発揮出来ない事。
 令呪の強制を以って発動した“聖者の数字”であっても、その法則からは逃れられなかった。かつて破られた事のある相手に対しては、太陽は二度とガウェインを照らしてはくれないのだ。

「我が“聖者の数字”を真っ向から破った者は、後にも先にもただ一人のみ」

 太陽の加護を失った事による能力低下。
 正体不明の敵に対する理解と驚愕。
 ただ一振りの剣でありたいと願った彼の心を揺さぶる、あの闇こそは────

「────湖の騎士ランスロット卿。私と同じく、無謬の王に仕え、理想の騎士と謳われた男です」



+++


「…………」

 事の顛末を聞き終え、既に当事者の去った書斎。

 時臣は変わらぬまま椅子に腰掛け、机に付いた腕を組みカーテンの隙間から射す陽光が舞う虚空を見据えていた。

 ガウェインの語った真相。
 彼の優位性を揺るがす真実。

 永遠にして無謬の王。
 王の背に輝く太陽の騎士。

 更には理想を体現せし湖の騎士もまたこの第四次聖杯戦争に招かれているという事実。何たる数奇なる命運。仕組まれたのかのように同じ時の果てへと招かれた王とその側近。これを偶然と片付けるには無理がある。

 聖杯が何を思い彼らを招いたのか、参加者らがただより強い英雄を求めた結果なのか、あるいは彼ら自身の人生の結末に対する無念にも似た未練が、このような運命を手繰り寄せたのか……。

「……詮無い思索だ。答えのない問いには意味がない」

 彼らを巡る因果にどのような理由があれ、時臣がやるべき事には変わりはない。彼らの命運に決着が必要だとしても、その手を下すべきなのは彼ら自身だ。時臣はただ聖杯を巡る闘争にこそ想いを馳せるべきだから。

『導師、今お時間は宜しいでしょうか』

 不意に虚空に響く低い声。無音の静寂に閉ざされていた書斎にその無機質な声音が木霊した。

「ああ、大丈夫だよ綺礼。こちらの用件は一先ず済んだ。今後の課題は山積みだが、君との語らいに割く程度の時間はあると思うよ」

 書斎の一角、日の光の届かない死角に佇む蓄音機めいた機械。声の出所はそれだった。本来ターンテーブルのあるべきところに宝石仕掛けの意匠が施され、現在新都は冬木教会に腰を降ろす言峰綺礼との共振による長距離通話を可能にしていた。

 本来魔術師がこのような仕掛けを用いる事は少ない。僅かではあれ魔術の片鱗を宿すものを無為に使用する事自体を魔術師は忌避する。
 魔力の一滴の無駄も許さない……というほど頑固ではなくとも、必要のない魔力消費は極力抑えるべきだとされている。

 時臣も常ならば廊下に据えつけられている電話機を使用するところだが、この街は既に戦場。魔が渦巻く坩堝と化している。
 であれば魔術を使う事に抵抗はなく、躊躇もまた必要ない。何よりこの戦にはあの悪名高き魔術師殺しが参戦している。魔術を結果ではなく手段に貶め、代用出来る全てを科学で補う異端の魔術使い。

 この要塞と化した遠坂邸ではあれ、科学技術について最低限の知識を有していても切嗣ほどには精通していない時臣にしてみれば、この期に及んで電話機を使うという選択は有り得なかった。

 盗聴の危険を冒してまで魔力消費を制限し、監督役である綺礼との内通を露見させるなどという愚かな行為は許容出来る筈もなく。
 宝石魔術に対する深い理解と遠坂の秘術における薫陶がなければ盗聴どころか解析すら不可能なこの宝石仕掛けの通信手段こそが最上。それを理解し、事前に教会にも同型の仕掛けを搬入しておいた次第であった。

 これで心置きなく、誰憚る事なく愛弟子と会話を交わす事が出来る。

『凛はそちらに?』

「いや、あの子は今頃地下の工房だろう。日課の鍛錬を既に始めている頃合だからね。工房にも同型の仕掛けを置いてあるのは君も承知の筈だ。凛──聞こえているのなら返事をしたまえ」

『はい、お父さま』

 間髪を置かず返って来る少女の返答。この屋敷の中で優先されるべきは時臣の言葉。定刻通り行っていた日課にさえそれは優先される。

「鍛錬については少し置いておけ。今はこの会話に参加して欲しい。戦場を客観的に俯瞰していたおまえだからこその意見もあるだろう。何かあれば忌憚なく聞かせてくれ」

『分かりました』

 蓄音機の向こうで居住まいを正す音が聞こえる。それが消えた頃を見計らい、時臣は切り出した。

「まずは君達にも労いを。昨日は良くやってくれた。私が想定していたものと多少の違いこそあったが、全てが万事予定通りというわけにもいくまい。
 その上で作戦はほぼ工程の通りに行われ、実際に成果を出した。その点についてまず感謝の言葉を述べたい」

 昨夜の戦闘。その全てはこの場に声を募らせる三者の誰が欠けても為しえなかった。想定はしていたし、その上で作戦を練り上げた。
 これであの場に居合わせたアインツベルン、引いては盗み見ていた輩に対しても布石を一つ打てた事になる。

『いえ、導師。我々は戦場から遠く離れた場で眺めていたに過ぎません。矢面に立たれた導師こそが労われるべきでしょう』

「それは違うよ綺礼。作戦の立案者は私だ。ならばその責を負うべきなのもまた私であるのだ。矢面に立ったのは当然の事であり、なんら労われるべきものでもない……が、今は素直に感謝しよう。君の厚意はありがたく頂戴しておく」

 それでこの話は終わりだと言うように時臣は一旦区切る。師がそう言うのであれば綺礼には是非もない。

「では早速反省といこうか。ガウェインから先程聞いたばかりの話を、君達にも知らせておく」

 言って時臣は語る。バーサーカーの正体。太陽の加護の消失。千にも万にも上る世界中の英霊の中から、唯一ガウェインを御しえる強敵の出現。運命という名の縛鎖が、彼らの足元へと絡みつく。

 想定外と言えば想定外だが、世界を見渡せばガウェインを上回る英霊などざらに居る。凛が招来しようとした黄金の君を筆頭に、大英雄と称される者達ならば太陽の騎士へと手が届くだろう。

 限りない暴威によって蹂躙し尽くすのではなく、あくまであのバーサーカーとは致命的に相性が悪いというだけの話だ。他の連中に対しては、その優位性は一切の揺るぎも見せてはいない。

 何よりこの遠坂にはもう一騎、従えている英霊が居る。ガウェインただ一人で戦争を勝ち抜く必要はない。その背を守り、天に弓引く狙撃手があるのだから。

「凛、おまえの判断するところのアーチャーの戦力はどの程度と見る」

 時臣も実際にアーチャーの狙撃は目視している。戦場からの離脱に際しては助力さえも借りた。素性の不透明さ、未だ知れない真名、手にする宝具の名は語られぬまま。不安要素は数限りないが、昨夜の戦力は時臣もまた認めるところだ。

 凛に求めたのは射手の側から見る戦力分析。時臣はアーチャーのマスターではない。彼と言葉を交わしたのも数度のみ。これより弓兵を運用していく事になる凛だからこその視点を欲し解を求めた。

『現状では恐らく、お父さまが認識しておられる以上の答えは返す事が出来ません。私もまだアーチャーに対し猜疑の念を抱いていますし、その狙撃能力については評価もしていますが』

 今のところ唯々諾々と従ってはいても、何を切っ掛けに手綱を振り切ろうとするかは分からない。素性が不明である事はそれほどに厄介で、弓兵の底が見通せない以上は現状維持しか出来はしない。

『どうしても現段階で現状を打破しようとするのなら、令呪に訴える他に手段はないかと思います』

 記憶の有無に関わらず、令呪の強制ならば如何様にも縛り付けられる。小規模の奇跡とも言える令呪はそれほどに有用。ただし使い方を誤れば、主従の間に消えない軋轢を刻む事になりかねないが。

「……今はいい。アーチャーの現有戦力だけでも充分な作戦を提起出来るだろう。致命的なズレが見えない限りは、凛に全てを任せよう」

『分かりました』

 父がそう判断する事を承知していたように、凛の言葉にはブレがない。この時点での令呪の強制は、ガウェインに対する支援とは違い身を縛る鎖になる。聖杯を願う以上、表向きは不平不満は言って来ないかもしれないが、その内心に良くないものを募らせる結果となりかねない。

 そんな蓄積がここぞという時の裏切りに直結する可能性を思えば、現状維持こそが最善ではなくとも上等と言える。

「手の内の把握はこのくらいか。後は今後の動きについてだが、こちらもやるべき事は緒戦で済ませている。こちらから無理に打って出る必要もないが、警戒しておくに越した事のない相手もいるしな……」

 緒戦、姿を見せたバーサーカーがガウェインを狙ったその理由。彼があの湖の騎士ならばそれも頷けるが、同時に騎士達の仰いだ王もあの場には居合わせたのだ。
 狂気に犯される程の“何か”をその身に鬱積させた裏切りの騎士。彼を追い詰めたとされる王に先んじて同輩の騎士を狙ったその理由……。

 そしてもう一つ。

「綺礼、再三の確認で申し訳ないが、未だ通達のない参加者については何か情報は?」

『これと言って特には。霊器盤にて全七騎のサーヴァントの召喚は確認しておりますが、マスターについては何とも』

「…………」

 時臣は自分の采配が間違っていたとは思っていない。当初の予定通りであったのなら、今頃より悲惨とも言える状況下に置かれていたかもしれない。
 違えたかも知れない一手を後悔しても今更では意味がない。駒は盤上へと配置され既に局面は動いている。それを活かすも殺すも指し手の手腕に掛かっている。

「時に綺礼、君は何か用件があって連絡をくれたのではないのかな?」

 まさかこの時分に時臣と歓談がしたくてわざわざ連絡を入れてくるほど言峰綺礼は酔狂な男ではない。つい昨夜の反省と称した作戦会議を開いてしまったが、この会談もまた綺礼の連絡が発端だったのだ。

 今後について話し合う前に用件を聞いておいても損はない──そう思い、時臣は切り出した。
 そしてすぐさま理解する事になる。彼の告げる言葉が、これより先の思惑を一点へと収束させざるを得なくなる事を。



+++


 書斎にて声だけの作戦会議が開かれるその数分ほど前。
 つい今し方昨夜の顛末を己の口から語った白騎士──ガウェイン卿は廊下の一角で空を見上げていた。

 サーヴァントの実体化にはマスターの魔力を消費する。微々たるものだが、無駄な浪費は彼もまた好むところではない。本来ならばすぐさま霊体となり、屋敷の警備へと回るところだが、今の彼はそう出来なかった。

 この心の裡でざわめく陰りの正体。昇り始めた日輪の煌きでさえ消せない痛み。煩悶と渦巻く葛藤を抱えたまま、剣の振りをして消える事は出来なかった。
 己自身に課した誓いの為。こんなものを引き摺ったままではいけないと、今一度ただ一振りの剣へと立ち返る為に、十全な感覚がある実体のままで一時を過ごしていた。

 窓の縁を強く掴む。そう、こんな迷いを抱いたままでどうして主の剣などと吹聴出来ようか。剣に意思は必要ない。ただ主の意に応える剣であるべきだ。大きな一つの機構に組み込まれた、ちっぽけな歯車でいい。

「だというのに、何故この痛みは消えてくれない……」

 正しくあらんとする度に、誓いを見つめる度に、あの黒騎士の姿が脳裏を過ぎる。迸る憎悪とそれだけで射殺せそうな殺意。幾度となく打ち込まれた剣戟の苛烈さと、闇の奥で血走っていた瞳がちらついて消えてくれない。

 何が一体彼の騎士の身をあれほどに焦がしたというのか。
 何が彼の男をあんな狂気へと駆り立てたのか。
 どのような結論に至れば、あんな畜生へと堕ちる事が出来るというのか。

 ────貴公はまた、私の前に立ちはだかるのか、ランスロット卿……!

 それは白騎士の後悔の具現。かつて犯した罪のカタチ。二度目の生では繰り返すまいと心に誓った祈り。それが再び現われた。騎士としての道を貫き通したいと願う彼を嘲笑うように、生前よりもなお醜悪な姿で。

 全てから目を背けてしまえればどんなに楽だったか。騎士道を奉じるガウェインだからこそ自分自身を克己する為の戒めは許容出来ても、目の前にある己の罪から目を逸らす事は出来なかった。

「どうしたガウェイン卿、涼やかな君の面貌に見る影もない。そんな面をしてマスターと顔を合わせようものなら、太陽の騎士の名が泣こう。今すぐ己を律せないのなら、顔を洗ってくるがいい」

「アーチャー……」

 朧と姿を現す赤い外套。太陽の光を透かす銀髪と鋭い双眸を携えて、弓兵の英霊が隣に立った。

「何をしているのですアーチャー。貴方は今、この屋敷の警戒を任ぜられていた筈ですが」

「何、交代要員が中々顔を出さないのでね。心配になって探しに来ただけだ」

「…………」

 明確な時刻は時計のないこの廊下では分からない。が、アーチャーがそう言うからにはガウェインはそれだけの長い時間、思索に囚われてたという事だろう。なんという不覚。人を責める前に己の不明をまず恥じなければならなかった。

「……そうですか。申し訳ない。すぐにも警護に回りましょう」

「まあ待て。今の君に果たして屋敷の守りを任せて良いものか」

「それが役とあらばどのような精神状態であろうとこなして見せます。心配には及ばない」

「その言葉は既に己は十全ではないと告げているようなものなのだがな……。まあいい、別段交代したからといって何かやる事があるわけでもない。暫し付き合おう」

「…………」

「不服かね? どの道この時分に仕掛けてくるような輩はそういない。索敵能力ならば君よりも私の方が上だ。私の眼が見る限り、今この瞬間に危険は皆無だ」

 白騎士は据わった目で眼前の英霊を見る。赤い弓兵は口の端を僅かに上げ、ニヒルに笑った。

「つまり──少し話をしないか、という提案だ」



+++


 遠坂邸は深山町の洋館街の小高い丘の上にある。背後に山を背負い、正面入り口から伸びる道路を真っ直ぐに行けば直に間桐邸が見え、そのまま進むと深山町を南北に分かつ十字路へと行き着く。
 その立地上、屋根の上から町を見渡せば、深山町一帯が一望出来る。天気のいい日なら遠く未遠川に架かる冬木大橋の遠景をはっきりと見通せるだろう。

 但しそれは常人ならばの話であり、彼らサーヴァントにとってみればどれだけ悪天候だろうと大橋くらいまでは見通せるだろうし、鷹の眼を持つアーチャーならば鉄骨に穿たれたボルトでさえ把握する事が可能だ。

 つまり遠坂の屋敷の屋根の上は哨戒を行うのに適しているという事だ。屋敷を含む一帯が私有地という事もあり、守る分には楽な部類に入るだろう。

 これでもし敵に狙撃手がいればまた話は別だが、弓兵の英霊は遠坂の側にいる。警戒すべきは遠距離攻撃の手段を有しているであろうキャスターくらいのものか。大規模破壊を行える宝具を持つ輩までその対象にしては、どれだけ備に眼を凝らそうと意味がない。神経が擦り切れるだけだ。

 遠坂、間桐両家が市井に紛れるように暮らしているのはそんな攻撃手段を警戒しての側面もある。同じ魔術師ならば余計な被害とそれに伴う神秘の露見を嫌うものだ。住宅の密集するこの場所で対軍以上の宝具の使用に及べばその被害は甚大なものとなる。

 少なくともサーヴァントが屋敷の警戒をしている以上、そんな強硬手段に及べば間違いなく気付く。咄嗟の対処こそ迫られるが、そんなどうしようもないものまで警戒していてはおちおちと眠れさえしない。ある種の図太さで、彼ら両家の当主は今も変わる事なく我が家で過ごしている。

 先程までアーチャーが警戒を担当していたとはいえ、律儀なガウェインは屋根の上から町を一望し、サーヴァントの気配がない事を確認した後、不遜にも腕を組んで呆れた顔をしている弓兵へと向き直った。

「律儀なものだな。そんなにも私が信用ならないか」

「貴方に対する信用云々の話ではなく、これは自身に課せられた役目。マスターの命である以上、己が眼で確認するのは当然でしょう」

「生真面目なのは結構だが、行き過ぎればただの頑固だ。もっと肩の力を抜くといい」

 問われた事に一々真顔で答えを返すガウェインとは裏腹に、アーチャーは半ば茶化すように言葉で遊んでいる。まともに相手をしてはキリがないとばかりに白騎士は本題を切り出した。

「それで、何用ですアーチャー。まさか雑談がしたいというわけでもないでしょう」

「いいや、その通りだが? 本来ならば我々は語るべきを剣で語り、交わす言葉は牽制と挑発を滲ませた応酬であった筈だ。
 それが如何なる運命の悪戯か、こうして肩を並べている。折角の機会だ、彼の太陽の騎士と忌憚なく話をしてみたいと思うのはそれ程おかしなものだろうか」

 謙っているように見えてその実見下しているようでもあるアーチャーの口ぶり。その人を食ったような物言いは、かつて轡を並べた騎士の中にも似たような話術で煙に巻くのが得意な者が居た事を思い出した。

「私は主の為の剣。故に無用な問答など交わすつもりはありません」

「では無用でなければいいと。貴君は己を主の為の剣と言った。ならばその剣が迷いを宿していては、何時か主に仇なす事もあるのではないのかな?」

「……なるほど。轡を並べる者として、迷いを抱いた者に預ける剣はないと。そういう事ですか」

「理解が早くて助かるよ。マスターらのサーヴァントの運用法を勘案するに、卿が前衛で私が後衛だろう。弓兵という立場上、前衛が脆くては弓を引く事もままならないのでな。守るべきものを守れぬ剣に意味などないだろう?」

「安い挑発になど乗るつもりはありません。ですが貴方の憂慮もまた当然。迷いのある剣は己だけでなく主をも危険に晒す事でしょう。
 しかし貴公の手を煩わせるまでもなく、この身はただ一振りの剣です。迷いを抱く事すらも過ぎた身。ただ主の行く手を阻む全てを斬り倒すまでの事」

「そうか……では、同じ過ちを繰り返さぬよう期待したいところだな」

 言ってアーチャーは視線を遠く投げる。明け行く夜と昇り来る朝、その狭間から澄み渡る冬の空を望むように。

 弓兵が白騎士の何を、何処まで知っているのかは分からない。上辺だけでの言葉は誰の心にも響かない。他者を思う心がなければ届かない。何より心を持つ事すら不要だと言い切るガウェインを相手にしては尚更だ。

 過ちを繰り返して欲しくない? 当然だ、そんな事言われるまでもなく分かっている。私情に駆られ王を死なせた己の不明を恥じて、あるかどうかも分からなかった二度目の生では繰り返すまいと誓ったのだから。

 現実となった二度目の生。剣を捧げる主は違い、頂くべき王ですらなくとも、誓った祈りに間違いはない。
 先程まで胸で渦巻いていた煩悶も今や薄れている。全ては今代の主に優先される。過去からの呼び声に、今更耳を傾ける必要など初めからなかったのだ。

 如何にあの狂戦士が彼の湖の騎士であっても、王が彼を赦し、己もまた私情にて剣を振るうまいと律する以上、あの狂気はただ打ち倒すべき敵でしかない。
 理想の騎士が狂気に囚われた理由を勘案してやる必要などあろうか。その境遇を慮る必要があろうか。いや、ない。剣に意思がないのなら、倒すべき敵を想う気持ちもまたあってはならない。

 主の目指すべき先を切り拓く為の剣。ピースの一つ。組み込まれた歯車。それでいい。そうあるべきで、そうありたいと願ったから。

「…………」

 曇りなき瞳が弓兵を見る。太陽の熱を宿した澄んだ眼差し。日陰を生きた者にとっては眩しすぎる程の光。
 けれどそれは間違った輝きだと弓騎士は思う。滅私。忠誠。大いに結構だとも。彼の主が己の全てを賭けるに値する者であって、その間違いを彼自身が容認しているとすれば、の話だが。

 今多くを語ったところで白騎士の胸には届くまい。無謬の王と理想の騎士の登場は彼にとっても予想外のもので、正常な判断力を失している。
 ぶれていないように見えるのは原点に立ち返ったからだ。それは目を背けずとも、目を瞑るに等しいものだと気付いていない。

 だから今、告げるべきは一言だけ。

「何が間違っているか──まずはそこから見つめるべきだ。いらぬお節介だがな、聞き流してくれても構わん」

 それで用は済んだとばかりに弓兵は背を向ける。

「この時間の警護担当は君だ、後は任せよう」

 赤い外套が光に透けるように消えていく。一方的に話をしたいと言っておきながら、こんな顛末があって良いのだろうか。

「…………」

 元よりガウェインは多くを語るつもりはなかったのだから、無用に口を開く必要がなくなった事は素直に喜んでおくべきだろう。
 ただ、その最後に残された言葉がほんの少しだけ、気にかかった。

「私が……間違えている……?」

 弓兵の投げた問い掛けに対する答えを白騎士は持ち合わせない。間違えまいと己を律したというのに、一体何を間違えているというのか。
 そもそもからしてアーチャーの言葉を全て鵜呑みにしてはいけない。素性の知れない輩の声を真に受けていては立ち行かない。今はこうして肩を並べてはいても、何れは剣を交える事にもなりかねないのだから。

 心は深く深く沈み込む。思考は停止し、見つめるはただ前のみ。刃のように鋭利な瞳で高みより町を眺望する。明け行く空の彼方に何を見るのか、彼自身分からぬままに、一日が始まりを告げる。


/9


 昼なお薄暗い間桐の屋敷。

 窓に掛かるカーテンは外が晴天であるというのに閉ざされ、陰鬱な空間を作っている。光源はカーテン越しの陽光だけ。薄暗いのも当然だろう。

 意図して光を遠ざけているのには勿論理由がある。

 間桐臓硯──間桐に棲む大翁は吸血鬼だ。厳密に言えば違うが、それが“鬼”であろうと“蟲”であろうと大差はない。
 吸血鬼が苦手するものの筆頭は十字架やニンニク、それに陽光だ。あの翁は日の光を嫌っている。光を浴びれば灰になる、という程極端ではなくとも、習性として忌避し遠ざけている。

 そして彼の生み出した間桐の秘術である蟲もまた、陰鬱な闇を好む。地下にある蟲蔵は緑色の闇に包まれ腐臭に満ちている。求め欲した力を手に入れた雁夜にとって、あの地獄の底にはもう何の用もないのだが。

 そんな男は今、客室のソファーに身を埋めていた。手足をだらりと伸ばし、首もまた力なく垂れ下がっている。瞳は閉じられ、唇に動きはない。肌の色は青白く、身動ぎの一つもない様はまるで──

「雁夜よ。よもやお主、死んでおるわけではあるまいな?」

 屋敷の主がいつの間にか扉の前に立っていた。カーテン越しの陽光をすら煩わしそうに目を細め、視線は死んだように動かない男を向いていた。

「……死んでいると思う相手に声を掛けるほど耄碌したか妖怪」

 閉じていた目を眇め、虚空を見る。脇に立つ臓硯に視線を送らぬまま、何もない空間を呆と見つめた。

「それだけの口を叩けるようならば、サーヴァントの扱いにも問題はないようじゃな」

「ふん……」

 十年の研鑽で得た魔術師としての力はどうやら実を結んだようだ。狂化による魔力消費の増大はマスターへと多大な負担を強いる。過去バーサーカーのマスターとなった者達は皆その過負荷に耐え切れず自滅したらしい。

 そんな彼らとは違い、雁夜は今なお生きている。緒戦、バーサーカーを完全に御する事までは出来なかったが、死ぬほどの苦しみや身体に深刻なダメージを受けるまでには至らなかった。

「代わりにどれだけ蟲が死んだか分からないがな。アイツは魔力どころかその源さえ根こそぎ持って行きやがる」

 雁夜の体内に棲む刻印蟲。本来ならばそれは宿主に寄生し術者──臓硯に寄生者の存命を知らせるだけの使い魔。魔力を貪り、果ては肉すらも喰らい宿主に害為す文字通りの寄生蟲だが、雁夜の体内にあるそれは違う。

 間桐の秘術を体得し、蟲の扱いをも掌握した今の雁夜にとって、刻印蟲もまたその掌の上の存在。意思の操作は勿論、自己流に交配をし、魔力を貪るだけでなく生む存在へと造り替えている。

 云わばそれは雁夜が生まれ持った魔術回路とは別の魔力精製炉。平均的な魔術師ならば軽く凌駕する程度には、雁夜の宿す魔力量は多くなっている。
 そんな雁夜をして、バーサーカーを御するのは至難だった。これで格の低い英霊を狂化していればまた話は別だったかもしれないが、雁夜の喚んだ騎士は上位格。その名を広く世に轟かせる英傑であった。

 犠牲に見合うだけの能力値を誇り、事実彼の太陽の騎士を圧倒して見せた。あの状態ですらまだ、バーサーカーはその力の真価を発揮してはいない。全ての力を解き放った時、最優をも凌駕する狂気が具現化する。

 ……その時の俺が、その過負荷に耐えられるかどうかは別だがな。

 だから今、雁夜は無駄な魔力消費を少しでも抑える為にソファーに身を埋めていた。失った分の蟲をも精製しなければならず、余計な雑事に構っていられる暇はない。ようやく臓硯を視界に入れ、雁夜は嘯く。

「下らない話をしに来たのなら消えてくれ。今の俺にそんな余裕はないんだ」

「そう邪険にするでない。貴様一人でこの戦い、勝ち抜けるなどとは思っておるまい? バーサーカーの戦力は脅威ではあるが、他の連中も充分な策を弄しておる。
 真正面からの戦いには滅法強い貴様のサーヴァントも、絡め取られればどうなるか分かったものではない」

「……何が言いたい」

「────桜を使え。それでお主の負担は減り、戦況をより優位に持っていけよう」

「…………」

 それは桜もまた間桐のマスターであると知った時から、雁夜も計算に入れていた事。いずれ桜の手を借りねばならなくなるだろう、と。
 十年のモラトリアムが生んだ奇策は何も間桐だけの恩恵ではない。アインツベルンに遠坂も、それぞれ必勝の布陣を組んでいる。

「昨夜の戦いでお主も見たであろう? 遠坂からの正規の参戦者……マスターである遠坂凛のみならず、その父時臣もまた戦場に姿を現した。
 彼奴の従えたガウェインをバーサーカーは圧倒したが、それに横槍をくれたのは他でもない、アーチャー。娘の方が従えたサーヴァントよ」

 使い魔の目を通してでしかなかった雁夜には確信は持てなかったが、臓硯がそう言うからにはそれは事実なのだろう。遠坂の陣営は、こちらと同じく二騎のサーヴァントを従えている……。

「ガウェインに対してバーサーカーは相性、力量、共に優位じゃ。余程の事がなければそれは揺るがぬ。が、そこにアーチャーが加われば話は別だ。
 弓兵の矢の雨に晒されながら、一流の腕を持つ白騎士を相手取るのは、如何に最強を謳った湖の騎士とて容易くはなかろう」

 その為の桜と彼女のサーヴァント。遠坂が緒戦で二騎のサーヴァントを従えている事を露見した以上、これより先の戦いで隠す理由はない。前衛として白騎士を配置し、後衛に弓兵を据えるのは当然と考えられる。

 如何にガウェインに勝ろうとも、同じ英霊の援護を得た彼の太陽の騎士を相手にしてはバーサーカーといえど苦戦は免れない。
 更には相手取るべきは遠坂だけではないのだ。悪名高き魔術師殺しが、座して間桐の不利を捨て置く筈がない。僅かでも隙を見せれば、蛇のように絡め取られる。

 それでも雁夜は彼女が戦場に立つ事を良しとはしたくなかった。雁夜にとって桜は守るべき者。救うべき対象だ。彼女の力は必ず雁夜の助けになると分かっていても、あんな暗い顔をしたあの子にこれ以上の重荷を背負わせたくはなかった。

「大丈夫です、雁夜おじさん」

「桜ちゃん……」

 扉を開けて姿を現す間桐桜。何処から話を聞いていたのかは定かではないが、その顔には決意が見て取れる。長い前髪の奥に伺える瞳はいつかのように床の一点を見つめるのではなく、真っ直ぐに雁夜を見ていた。

「この“令呪(ちから)”は雁夜おじさんの助けとなる為にお爺さまに授けられたものです。そこに戸惑いはありません。それに……」

 光を覆う闇。昏い暗い底の感情。全てを諦めていた彼女はまた、間桐の闇に呑まれ使役される。
 だがそれ以外の感情を、雁夜は僅かだが見て取った。昏い瞳の奥に何かを。それが何かは雁夜には分からない。

 でもきっとそれは恐らく彼女の意思だ。言葉を発する事にすら脅え、常に下を向いていた彼女に宿った意思の力。それを無碍にはしたくない。どうせいずれは借りねばならなかった力なのだ。

 守るべき人の力を借りねばならない不甲斐無さ。嘆くべきは己の不徳で、恥じるべきは女を戦場に駆り立てなければならない己の弱さだ。

「……分かったよ、桜ちゃん、君の手を借りる。だけど、借りるだけだ。矢面に立つのは俺で、君にはそのサポートを頼む」

 ならば守ろう。

 このちっぽけな掌で、守りたいと願った君を。
 救いたいと足掻く、この己の心に賭けて。

「話は纏まったようじゃな」

 臓硯が落ち窪んだ瞳で雁夜を見る。異形とさえ思える面貌を歪に変え、憚った。

「では雁夜よ、お主に招待状が届いておるでな。渡しておこう」

「……招待状?」

 まさか文字通りのパーティへの招待状などではあるまい。この時期、この時分にそんなものを寄越すような奴がまともである筈がない。

「中身は念の為検めさせて貰ったがな。まあ、これに応じるかどうかは好きにせい。彼奴らにとっては儂らがどう転ぼうと構わぬ、という腹じゃろうからな」

 くつくつと嗤う臓硯より渡された手紙……招待状を乱雑に広げ目を通す。それは余りに荒唐無稽で馬鹿馬鹿しく、そして臓硯の言う通りのものであったが、雁夜もまた同じくその口元を歪めた。



[36131] scene.05 魔術師殺しのやり方
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/01/10 20:58
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 時は半日程遡る。

 場所は冬木市西方一帯を覆う森林地帯。頭上に輝く天然の明かりと疎らに立ち並ぶ人工の明かりとが暗い森を照らしている。
 しかしそれも切り拓かれた森の入り口付近を照らすのみで、少し遠くへと視線を投げれば無明の闇が広がっている。一度踏み込めば、二度とは戻れないのではないかと思えるほどの深い黒色。

 緒戦を終えた直後の深夜未明、森を切り拓き敷設された国道を走る一台の自動車の姿があった。煌々と灯るヘッドライトが夜陰を切り裂き、人気どころか対向車すら一台も通らない闇の中を高速で駆け抜けていた。

 ハンドルを握るのは壮年の男──衛宮切嗣。普段と変わらない無表情を能面の如く貼り付け、ライトが照らす道の向こうを見据えている。
 後部座席には金髪の少女──セイバーの姿もある。背筋を伸ばし折り畳んだ膝元に両手を添え、瞳は閉じられたまま微動だにしていない。深い瞑想のようだ。それでも彼女は欹てた耳で周囲への警戒を行っている。

 彼らアインツベルンの一翼を担う切嗣とセイバーは緒戦、敗走を強いられた。明確に負けたわけではなく、勝負の内容だけを見れば拮抗していたし、最終的に押されはしたがその為に相手が切った札は多い。
 こちらが晒した手札は予期せぬ事態から漏れたセイバーの真名のみであり、差し引きで見てもプラスの面が勝っている。

 それでも切嗣にとってこの緒戦は敗北と同義だった。勿論初っ端から見えた敵を討ち取れるほど易い戦いなどとは思い上がってはいなかったし、討ち取る心積りもなかった。討ち取る為の手の内を晒していないのがその証左だ。

 ただそれ以上に気掛かりであり、敗北と断じる原因は、切嗣自身が想定していた作戦がまるで失敗に終わってしまった事に尽きる。

 最優を誇るセイバーの実力と暗殺を主とする切嗣自身が真っ先に姿を見せるという異常を利用しての衆目の集中。戦場に華を咲かせ自らを囮とし、今後の展開を優位に進める為の一手は、無残にも破られてしまった。

 令呪を使用しての太陽の騎士の顕現。最優を超える最強を追い詰めた漆黒の狂戦士。超遠距離からの狙撃で戦場を荒らした弓兵の慧眼。彼ら三者の能力の披露により、セイバーの最優はその陰に埋もれてしまった。

 これでは他の連中がセイバーと切嗣を最優先に狙う理由はない。せいぜいが同等の力を持つという認識止まりであって、どうあっても、是が非でもセイバーを優先的に打倒しなければならない、という結論には誰も至らないだろう。

 セイバーが特別劣っていたわけではない。太陽の加護を得たガウェインと斬り結べた事やアーチャーの狙撃に対応出来たところから見ても、優秀な部類なのは間違いない。
 ただ切嗣の想定以上に遠坂を始めとする参加者連中は、この十年遅れの第四次聖杯戦争に入念の準備で臨んでいたというだけの話だ。

 ともあれ当初の予定を崩された格好の切嗣は次善の策を講じなければならなくなった。幸いにして入手出来た情報は多い。これらを利用し次なる作戦を組もうと、一旦久宇舞弥に連絡を入れたところで、事態はまた急変した。

 彼女曰く──キャスターより連絡が入った、と。

 切嗣は舞弥の存在をキャスターには知らせていない。イリヤスフィールは何度か面識がある事もあって切嗣の助手程度の認識はあるかもしれないが、父は実の娘に対しても舞弥の連絡先を教えてなどいなかったのだ。

 つまり彼女の居場所、連絡先を知るのは切嗣以外には誰もいない。いない筈だ。だからこその不可解。ではキャスターは如何にして切嗣と舞弥の関係を知り、連絡を取るまでに至ったか。

 いや、切嗣にとってはそれが如何なる手段であってもどうでも良かった。気に掛かるのは何故キャスターが連絡を寄越したのかという一点だけ。
 まあその内容についてもある程度は推論が出来るし、魔女の浮かべる喜悦の口元が想像出来て余りあるが、コンタクトを取ってきた以上は無碍にも出来ない。

 いずれ一度は顔を合わさなければならないと思っていたところだ。魔女の知恵を借りるつもりはないが、こちらとしてもキャスターの構築している結界の具合を確認しておいて損はない。

 その為、切嗣は夜の国道を飛ばしアインツベルンの森へと向かっている。程なく森の入り口とされる地点へと辿り着き、車外へと降りてその先を見渡した。
 夜という事もあって森はその不気味さを増している。灰色の土と灰色の木々。色付く葉は既に枯れ落ち、冬の到来を告げている。

 ここから先は全てアインツベルンの私有地だ。この近代に入っても人の手が入らず森が森の形を残しているのは冬の一族が開発を拒んでいるからでもある。前人未到、とまでは行かずとも、好んで人が入り込むような森ではない。

 目的とされる拠点──北欧の冬の城を模した古城までは優に十数キロメートル。昼なお薄暗く、夜ともなればまともに歩く事さえ困難な道程だが、日が昇る頃合には辿り着けるだろうと当たりをつけて踏み込んだその時──

「……っ!?」

 瞬間、彼を不意の目眩が襲った。何が起きたのかと考察する間もなく、視界は歪み足元は崩れ落ち、気が付いた時には目の前に突如として古城が姿を現していた。

 ……いや、違う。僕達が飛ばされたのか。

 身体を襲った異常が消え、冷静な思考が戻ってくる。代わりに現われた目の前の異常について思考が巡る。物理的に城が飛んでくるわけがない。ならば森へと踏み入った瞬間、切嗣達が城のある地点まで強制的に転移させられたのだ。

 空間転移は限りなく魔法に近い魔術の一つだ。その論法については高次元を経由するともある地点とある地点の間にある距離を切断する事によって無視するとも言われているが、その理屈は理解が出来ない。
 切嗣にとってこの手の魔術は専門外であり、そもそも余りに高度すぎる魔術である転移系の魔術などそうそうお目にかかれるものでもなく、即座に理解が及ぶ魔術師の方が稀有だろう。

 辛うじて分かるのは、これは純粋な転移ではないという事だけ。恐らくキャスターの定めた境界を超えた場所ではこれ程の魔術は発動出来まい。
 城を中心として最大半径十数キロメートルに及ぶ大結界。その内側でのみ可能な転移。充分驚愕に値するものではあるが。

 いずれにせよこれで無駄な時間をかなり節約する事が出来た。切嗣は目の前に聳える巨大な門扉を戸惑う事なく開き、エントランスホールへと踏み入った。

 北欧の冬の城とほぼ同型の内装。華美に過ぎず質素に過ぎず、それでも己が力を誇示するかのような絢爛さで彩られた大広間。中央に伸びる大階段の上──二階部分に紫紺のローブを見咎める。

「ようこそ、いらっしゃい。ちょっとした余興は愉しんで貰えたかしら?」

 口元に妖艶な色を浮かべながらキャスターは謳い、一歩また一歩と階段を下りてくる。魔女の軽口には付き合わず、切嗣は目の前の現実についてを問い質す。

「……もう結界の構築は終えたのか」

 切嗣とセイバーより若干早く冬木入りしていたらしいとはいえ、それでもせいぜいが一日二日。この広大なアインツベルンの森の全てを把握、掌握した上で更に結界の基礎部分を構築したのだとすれば。
 キャスターの工房建築能力は図抜けていると言えるだろう。

「完全ではないですけどね。向こうで森の見取り図は見せて貰っていたし、下準備も大方済ませていたもの。後は組んだ予定の通りにものを配置するだけでしたから」

 軽く言っているがそれがどれほどの手間でどれほどの労力を必要とするかは一魔術師程度では計り知れない。そもそも工房らしき工房を持たない切嗣のようなタイプの魔術師から見れば、埒外という他にないくらいの途方もない作業だ。

「当面の対策として遮音や感知といった基本の結界の構築は終えてるけど、後は好きに改造させて貰うつもりよ。まだただの工房止まり。神殿にまで至らせるには、もう少し時間が必要。
 まあそれも──貴方達がきちんと契約を果たしてくれればの話ですけれどね?」

「…………」

 契約。それは切嗣とキャスターが手を組む上で交わした条件の一つだ。魔女が結界構築を終えるまでの間、切嗣とセイバーが衆目を集め時間を稼ぐ、という。
 そしてその目論見は緒戦で崩れ去り、善後策を模索していたところへのキャスターからの連絡。こうしてこんな辺鄙な森の果てまで足を伸ばしたというわけだ。

「既にある程度の策は考えている。上策が失敗した以上、こちらが負うリスクも増すが構いはしない」

「そう。まあ立ち話もなんでしょうし、サロンにでも行きましょうか」

 背を向けた魔女を追い二人もサロンへと向かった。



+++


 城に滞在しているアインツベルンの侍従──ホムンクルスが淹れた紅茶がテーブルの上に薫る。三つ並べられた赤い液体に手をつけたのはキャスターだけだった。

 腰を落ち着けて話をするつもりがあるのがどうやらキャスターだけであるらしい。切嗣は長机に並べられた椅子には手も掛けず、壁際に背を預けている。マスターが座らない以上セイバーもまた座るつもりもないのか、こちらも直立してる。

「それにしてもセイバー。よく貴女、私の転移を受け入れたわね?」

 開口一番、水を向けられたのはセイバーだった。彼女自身、自らの立ち位置をマスターの剣であると定めており、切嗣もそのように扱っている。それ故にこのような作戦会議の場においても無駄な言葉を挟むつもりはなかったのだが、意見を求められては答えないわけにはいかない。

 セイバーの対魔力は最高位。およそ現代の魔術では傷の一つも付けられず、相手がキャスターであっても同様だ。魔術という式を用い、魔力を放つ類のものは全て彼女の肉体に届く前に四散する。

 ただそれも無意識に全てを弾いたり、無作為に遮断するわけではない。全てを無条件に拒絶するのでは、マスターが施す治癒系の魔術さえもその範疇に入ってしまうからだ。
 故に対魔力と一口にいってもそこにセイバー自身の意思が介在する。受け入れるもの、受け入れないもの。その取捨選択は本人の意思に委ねられている。

「私が転移を拒めば飛ばされるのはマスターだけだ。それは許容出来るものではない」

 転移の魔術といえど、セイバーならば拒絶出来た筈だ。ただその場合、強制的な転移に対する手段を持たない切嗣だけが飛ばされる事になる。それは相手の思う壺だ。マスターとサーヴァントの分断を容易にしてしまう。

 もし仮にセイバーがこのアインツベルンの森の主がキャスターだと知らなかった場合や明確な敵と断じていた場合、敵からの魔術的介入と判断し、あるいは反射的に拒絶していた可能性もある。

 現状、セイバーとキャスターは共闘の関係だ。マスター同士がそれを容認している。ならば明確な敵意のある術的干渉でないのなら、セイバーにとって拒絶する意味も理由もなかったのだ。

 何よりセイバーはキャスターがどのような手段で挑んで来ようとも返り討ちに出来るだけの力がある。

 剣の英霊を筆頭に槍と弓、俗に言う三騎士クラスが有する対魔力のクラス別スキルはそれほどにキャスターのサーヴァントと相性がいい。正面から戦う限り、どんな悪辣な罠を張り巡らせようと突破出来るだけの自負がある。

 だから魔術師の英霊を相手取る上で最も警戒するべき事は、マスターを狙われてしまう事だ。先の転移のようにマスターとサーヴァントを分断されてしまえば、如何に後者の力が優れていようと守りきれず、前者が優れていようと太刀打ちが出来ない。

 ならば共に虎穴に飛び込む方がまだ打つ手はある。遠く離れた場所でマスターの首を刎ねられたとあっては、為す術などある筈もないのだから。

「御託はいい。本題に入るぞ」

 切嗣が切って捨てる。

「緒戦、僕達の目論んだ衆目を集めるという策は失敗に終わった。どの陣営もセイバーは警戒に値するサーヴァントだと認識はしていても、真っ先に打ち倒さなければならない、と思わせるには至らなかった」

「…………」

 セイバーは黙し、僅かに唇を噛む。マスターの手足となり敵を討ち、与えられた指示を全うすべき存在がその責務を果たす事が出来なかった。
 彼女自身に落ち度はない。ただ、それ以上に相手の打った策略が上回っていたというだけの話であり、既に終わってしまった事。

 見つめるべき先は過去ではなく未来だ。過ぎ去ってしまった事象を検分する必要はあっても、何時までも引き摺る事はあってはならない。

「確認出来た敵は三騎。キャスター、おまえもあの戦いを覗き見ていたんだろう?」

「ええ、当然。太陽の加護を得た白騎士と、それを圧倒したバーサーカー、そして超遠距離からの狙撃を為しえたアーチャーね」

「正直なところ、バーサーカーについては後回しだ。身体の全てを黒い霧で覆い隠し、マスターの透視能力をすら無効化とする隠蔽能力がある限り、あのサーヴァントの素性は知れない」

「そうね……マスターにしても姿すら確認出来なかったし、何処の誰が差し向けたのかも不明。後回しにするって考えには賛成だけど、考察くらいは出来るんじゃない? ねえ、セイバー?」

 この段に来てキャスターは切嗣とセイバーの関係について大分理解が出来てきた。両者は聖杯の獲得という目的で一致し、足並みを揃えているように見えるが、違う。二人の間には見えない一線がある。己自身に課した線引きが。

 二人はその線を越えない限りは意見をぶつける事すらないのだろう。そしてそれは恐らくほとんどない。両者は共に自らの分を弁えているからだ。

 切嗣はあくまでマスターとして振る舞い、サーヴァントに必要以上に干渉しない。召喚時のように必要に駆られれば会話くらいはするのだろうが、このように第三者がいる場では極力話を振る事すらしない。

 消極的な無視、とでも言うのだろうか。わざわざキャスターの根城たるこの場所まで足を運んだのも、あるいは二人きりで会話をしたくなかったからなのではないか。
 そうまでしてセイバーを遠ざける理由にまでは、流石のキャスターをしても思い至らなかったが。

 そしてセイバーも同様。サーヴァントの分を弁え、マスターの方針に致命的なズレが見られない限りは口を挟まない。彼女は彼女なりに切嗣が己を忌避していると感付いているのかもしれない。

 二人の間に信頼と呼べるものはない。何処までいっても利害の関係。聖杯を掴むという大目標が一致しているからこそ共闘関係。切嗣自身がキャスターに持ち掛けた、条件付きの共闘と何ら違いがない。

 ……確かに合理的で無駄はないのかもしれないけれど。二人一組の戦いである聖杯戦争において、その合理さは何れ致命的な亀裂を生むかもしれないわね。

 ただ今はまだその時ではなく。事実この二人が足並みを揃えている限り、余程の強者とて容易には崩し得ないだろう。

「ガウェイン卿と縁の深い貴女だからこそ分かった事もあるのではなくて?」

 問いを投げ掛けられたセイバーは僅かに逡巡し、それから己の目から見たあの狂戦士について話し始める。

「マスターの目を以ってしてもステータスが見通せないとの事でしたが、それでも現実に目で見えたものは恐らく皆同じでしょう。
 あの狂戦士はバーサーカーにあるまじき練達の技を以ってガウェイン卿を圧倒していました。本来、力で全てを捻じ伏せる事が取り柄のバーサーカーが」

 膂力にしても狂化の恩恵を受けて強化はされている事だろう。それ以上に技の冴えが目を引いた、という事だ。理性を剥奪されては振るえない筈の技量。それを扱えるだけでもあのバーサーカーは規格外だ。

「そしてあの狂戦士は、聖者の数字を発動した状態のガウェイン卿を圧倒した。正直なところ、これには驚愕を禁じえませんでした。
 私の前にかつての忠臣が敵として立ちはだかり、夜に太陽の加護を得るというおよそ慮外の事態に剣先が乱れた事を差し引いても、ガウェイン卿は強い。だからこそ、あれはあってはならない戦いだった」

 太陽の加護を得たガウェインは文字通りの無敵だ。相手が如何なる大英雄であっても引けを取らないばかりか、圧倒出来るだけの力がある。
 最高位のステータスを持ち、生前の剣筋を知っているセイバーですら致命傷を避け凌ぐのがやっとで、毛ほどの傷も付けられなかったのだから。

 それ程に聖者の数字は驚異的なスキル。本来昼の限られた時間しか発動せず、この冬木の聖杯戦争と相容れない能力。打ち破る為には三時間耐え抜くか、宝具に訴えるしか有り得ない。

 しかしあの漆黒の騎士はそんな白騎士を一方的に押し込めた。涼やかな笑みを崩す事のなかったガウェインに、苦悶の表情を浮かべさせたのだ。
 本来ならば有り得ない事。ただ力で勝るだけでは決してあのような戦局には至らない。ならばそこに、仕掛けられたトリックがある。

 ……今にして思えば。あの時のガウェイン卿の顔は……そう、まるで。私が彼と見えた時のそれに、似通ってはいなかったか。

「セイバー? どうしたの?」

 言葉の途中で思索に囚われたセイバーに掛かるキャスターの声音。疑惑の色が混ざるその音に、セイバーは首を振り答えた。

「バーサーカーの正体については現状、答える事が出来ません。あの者と直接剣を交えるかガウェイン卿と再び見える事があれば、問い質すのもありでしょう」

 頭に浮かんだ推測を振り払う。そんな事がある筈がない。そんな事はあってはならないとでも言うかのように。

 セイバーはそれ以上を黙して語らず、どの道推測の域を出ない結論で早合点するのは不味い。正体を知る機会は今後幾らでもあるだろう。まずは目の前の、正体の知れている相手に対する対策だ。

「ガウェインの力は脅威ではあるが、回数制限のある代物だ。無限に、無制限にあの三倍状態を維持出来るわけじゃない」

 昼間に戦えばその限りではないのだろうが、ガウェインが参戦していると知れた以上、わざわざ昼間に遠坂に対し戦いを挑む馬鹿はいない。
 夜がメインの戦場である限り、あの力は有限だ。三画しかない令呪の補助がなければ発動出来ない、制限付きの無敵の能力。

 不可解があるとすれば、三度しか使えない能力を何故緒戦で晒したのか、という一点。

 バーサーカーの登場まで揺らぐ事のなかった遠坂時臣の表情。切り札を早期に晒す事に対する気負いが全くと言って感じられなかった違和。“あの”遠坂時臣が緒戦から自ら戦場に立ったという事実。

 “そうしなければならなかった”何かが遠坂にあるのなら、切り崩すならまずそこで、その裏にあるものを探らなければ彼の陣営は倒せない。

「遠坂に、今夜もう一度仕掛ける」

「勝算はあるの?」

「先程も言った通り、ガウェインの能力は有限だ。そう何度も使える代物じゃない。だからこそ戦いを挑み“使わせる”」

 弾丸の装填されていない銃身など恐れる必要のあるものではない。遠坂のシリンダーに残る弾丸は二発。それを使い切らせれば、素の状態のガウェインならばセイバーで打倒が出来る。

 ただそこに遠坂の仕掛けた何らかの姦計が存在するのなら話は変わってくる。けれどそこで怖気づいていては前に進めない。どの道危険を冒さねば渡れぬ橋だ、早いに越した事はない。

「ガウェインに気を配るのはいいけれど、もう一人忘れてない?」

 アーチャー。

 弓兵の英霊にして、衛宮切嗣を戸惑いもなく射抜こうとした下手人。太陽の加護を得ないガウェインであっても、あの弓兵の援護があってはセイバー単独での撃破は容易ならざるものとなる。加護のある白騎士なら言わずもがな。

 そもそもからして、遠坂が二騎の英霊を従えている事に切嗣は不審を感じている。令呪の創始者である間桐や聖杯戦争の根幹を知るアインツベルンならばともかく、遠坂にそんな芸当が可能なのだろうか、と。

 もし遠坂が意図的に令呪を二つ手に入れたのではないとしたら、もう一つは何処から来たのか? どんなカラクリを用い二人ものマスターを仕立て上げたというのか。

「セイバーがガウェインを請け負うのなら、アーチャーの相手は私が務めた方がいいと思うけれど」

 既にこの段になっては切嗣とキャスターの契約も半ば形骸化している。敵がサーヴァントを二騎従えている事が確定した以上、身内を牽制している場合ではない。
 セイバー単独、キャスター単独では白騎士と弓兵のコンビを破るのは難しい。一騎当千の実力者を二人同時に相手にする不利は、想像以上に重いものだ。

 だから切嗣もキャスターも無言の内に手を取り合う事を了承している。そうでなければこの戦いを勝ち抜けないと、どちらともが理解している。

「不要だ、おまえの手はまだ必要ない。敵が手札を晒しているからと言って、こちらが律儀に答えてやる必要はない。おまえはこの森を好きに改造でもしていればいいさ」

 キャスターの存在が露見すれば、そのマスターにまで疑いの手が伸びる。イリヤスフィールの存在はまだ隠し通すべきだ。少なくとも他の連中がまだ手の内を隠している現状で、晒すような札じゃない。

 現在時刻は深夜。今頃イリヤスフィールは温かなベッドで安らかな寝息を立てている事だろう。父の隣に立ちたいと言ってくれたあの子の力を借りるのはまだ早い。自らの力で出来るだけの策を打った後でも遅くはあるまい。

「それで、キャスター。この森をおまえ好みの神殿に造り替えるまで、あと何日必要だ」

「セイバーを殺せるレベル、という意味なら三日は必要ね。最短でも、二日は欲しいところよ」

 酷く物騒な言葉が出たが、それに切嗣もセイバーも拘う事はない。キャスターがそう言うからには文字通り最優の騎士を殺せるだけの仕掛けを施す自信があるのだろう。要する時間を勘案しても、妥当と言える。

 これまでの日数を合わせて五日前後。下準備も含めると二週間強。それだけの時間がなければ、魔術師の英霊では剣の英霊に対抗する事すら出来ないという事実でもある。

「一日だ」

 それを切嗣は、慄然と切って捨てる。

「今日中……最悪でも明日の朝までには完璧に仕上げろ。でなければ恐らく、この森に敵が踏み入ってくる」

「……酷い無茶を言うものね」

 確かに三日、というのは余裕を持ってスケジューリングした場合の計算だ。マスターに掛かる負荷や自らの消耗を度外視すれば、切嗣の言う期限には間に合うだろう。まさかそれを推測して今の発言をしたとは思えないが。

 ただそこまで言うからには彼なりの確信めいたものがある筈だ。明日の朝以降にキャスターの領域に敵が踏み込んで来るのではなく、アインツベルンの拠点に対して敵が仕掛けて来るという確信が。

「……貴方一体、これから何をしようと言うの?」

「僕は僕のやり方で戦う。それだけさ」

 衛宮切嗣は常と変わらぬ無表情で謳う。ただその表情に、僅かばかりの不敵な笑みを宿らせて。

「それじゃあ招待しようじゃないか。血で血を洗うパーティへとな」



+++


 朝を過ぎ、昼を超え、今一度夜が巡ってくる。人々にとっては眠りの時間、身体を休めまた次の日の朝に備える為の休息の刻限。
 しかし現在この街に集う魔術師達にとっては違う。夜は安らぎを齎す事なく、苛烈なまでの戦いを強いる。眠りに落ちる闇の中で、人知れず彼らは踊り続ける。目指したものを、その手に掴み取るその日まで。

 オフィス街に立ち並ぶ摩天楼の一角。周囲に突き立つ幾分背の低いビル群の中から一つ頭を飛び出した一棟の屋上に、衛宮切嗣の姿はあった。
 身を攫う強風の中にはためくコートの裾を気にする素振りもなく、口元に咥えた煙草の煙の行き先──遥か虚空を見つめている。

 今や深海に没したかのような街並み。僅かに灯る明かりは駅前が中心で、この街で一番背の高いセンタービルもその辺りだ。遠く見える教会とその麓の住宅街からは、ほぼ完全に明かりが途絶えている。

 本来ならば切嗣が立つこのオフィスビルにも、仕事熱心な輩によって未だ消えぬ明かりが灯っていた筈だ。今日に限っては、このビルを含めた周囲一帯からは、完全に人気が消えていたが。

 切嗣達は遮音や人払いの結界を施してはいない。ならば一体誰が今夜戦場と定められたこの場所に結界を張り巡らせたのか。
 答えは単純、切嗣達を誘蛾灯だとするのならば、周到な蛾がわざわざ戦場を整えてくれたのだろう。灯に誘われながら、その灯を食い破らんとする獰猛な蛾が。

「マスター」

 油断なく周囲を窺っていたセイバーが視線を細め振り返る。その先にあるのは屋上へと通じる階段。切嗣達も少し前に上ってきたものだ。
 セイバーの発声から数秒、立て付けの悪い扉が開かれ、そこから姿を現したのは他でもない、遠坂時臣と彼の従えた白騎士ガウェインであった。

 ビルの端付近に立つ切嗣とセイバー、扉を背にする時臣とガウェイン。時臣の手には先日も手にしていた樫材のステッキ。戦う準備は万端、と言ったところか。

「連日のお誘い痛み入るよ魔術師殺し。ただ、今日の誘い方は頂けないな」

 言って、時臣は懐より一通の封書を取り出す。切嗣自身にも覚えがあるもの──というより、彼自身が舞弥を経由して使い魔で教会へと送り届けたものだ。

 アインツベルン城での一件の後、冬木市内へと戻った切嗣がまず行った事が封書を送る事だった。
 認めた内容は単純明快──今夜零時、この場所で待つ。来なければ街の施設を無作為に爆破する、といった内容のものだった。

「先日、確かに忠告した筈なのだがな。街の平穏を乱すような無粋は慎んで欲しい、と」

 時臣の手の中の封書が一瞬で燃え上がる。生まれた炎は封書を焼き尽くし、灰となった残骸は風に攫われ消えていった。

 封書を直接遠坂邸に届けず、わざわざ教会を介して渡させたのには理由がある。遠坂時臣は一人のマスターである前に、この街の管理者だ。新都に根を下ろす教会とも深い関わりがある。

 この一件はマスターである時臣にではなく、管理者である時臣に対し送られたもの。それを強調する為にわざわざ教会の手を介させたのだ。
 街の安寧を司る者として、爆破予告などという穏やかならざる宣誓は無視出来るものではない。それも悪名高き魔術師殺しからの予告とあっては尚更だ。

 結果、時臣はこうして引き摺りだされた。遠坂が余計な一手を打つ前に、機先を制しこちらの用意した舞台へと強制的に上がらせたのだ。

「ああ、確かにそんな忠告を受けた覚えはあるが……僕が明確な返答をした記憶はないな」

「ならば今一度言おう。私が預かるこの街で余り派手に暴れてくれるな。無辜の人々を巻き込む事を、私は決して許しはしない」

 時臣がそう告げた瞬間──真夜中に閃光の華が咲く。
 遥か遠方、遠雷の如く鳴り響く爆発音。
 次いで目視したのは闇を煌々と照らす巨大な炎と、立ち昇る黒煙。

 オフィス街から少し離れた埠頭付近。
 火の手はそこから上がり、夜の黒色を上書きする、真っ赤な炎が一望出来た。

「き、さま……」

 衛宮切嗣の手には何らかの機械装置。恐らくは今し方起こった爆発を巻き起こす為の起爆装置だ。夜を染める赤色を背にしながら、魔術師殺しは嘯いた。

「それで、許さないのならどうするんだ管理者サマ? 今ので一体何人死んだかな」

 衛宮切嗣は犠牲を容認する。より大多数を救う為ならば、少数には死んで貰う事に躊躇はない。

 彼が聖杯を手にした暁に救われる数は世界の大多数。億にも上る数の人間だ。それに比べればこの街の人口など高が知れている。
 千や万を犠牲する程度で、億の人間が救えるのなら──衛宮切嗣は無辜の人々の血で己が掌を染め上げよう。

「…………」

 瞳に赫怒の念を宿した時臣は、手にしたステッキを中空に振るい業炎を呼び起こす。象眼されたルビーが闇の中に炎よりも赤い色を踊らせる。

「……ガウェイン。セイバーの相手を任せる。この外道は、私自らの手で誅罰を下さねば気が済まない」

「了解しました時臣。武運を」

「…………」

 白騎士の手の中に具現化する太陽の聖剣。セイバーもまた不可視の剣を呼び起こし、共にじりじりとビルの端へと移動する。
 ビルの屋上程度の広さではマスターとサーヴァントがそれぞれの戦いを行うには少々手狭だ。故にサーヴァント達は別の棟へと戦場を移すつもりのようだ。

「かつての王……いえ、セイバー。今一度貴女と剣を交えられる幸運に感謝を。そして今度こそ決着を着けさせて頂く」

「私も卿に問い質したい事があったところだ。付いて来るがいい」

 セイバーがまず離脱し、それを追う形で白騎士も夜の闇へと姿を消していく。後に残されたのは無手の切嗣と炎を輪のよう踊らせる時臣のみ。

 ……令呪は使わない、か。冷静な判断力は残っているようだな。

 ここで怒りに任せて令呪を切るような相手ならば容易であったのだが、時臣の芯は未だ冷徹な魔術師のままだ。今この瞬間に令呪を使う事が如何に愚策であるかを、重々承知している。

 ……使わないのならそれも好都合。どちらに転んでも僕達に不利益はない。

 ホルスターより黒鉄の銃身を引き抜く。魔銃トンプソン・コンテンダーを。

 緒戦は『見』に務めた事とアーチャーの横槍があった事もあり、切嗣はその実力のほとんどを晒していない。故にこれが彼自身にとっての緒戦であり、自らの性能を試す絶好の機会だ。

「外道衛宮切嗣。遠坂家五代当主遠坂時臣、正調の魔術師にしてこの街の管理を司る者として告げよう──おまえに明日はない。今日此処で斃れろ」

 時臣の宣告を一笑に附し、魔術師殺しは謳う。

「遠坂時臣、おまえは僕にとっての試金石だ。せめて踏み台程度の役割は果たしてくれよ」

 その挑発に乗ったわけではないのだろうが、時臣が無造作に腕を振るう。

「良くぞ言った。我が遠坂の秘奥──とくと味わうがいい」

 絢爛な炎がその顎門を開く。
 炎の殺到を以って第二夜、第二戦の開始の合図が告げられたのだった。



[36131] scene.06 十年遅れの第四次聖杯戦争
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/03/08 19:51
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 天高く輝く星は遠く、地に満ちる星もまた遥か水底。
 人にあってヒトならざる彼らの激突は、その狭間にて繰り広げられる。

 地上百メートル。軒を連ねるビルを一時の足場とし、逆巻く風を纏う星の聖剣と、夜になお煌く太陽の聖剣とが火花を散らす。

 今宵この一帯──オフィス街を包む形で人払いと遮音の結界が構築されている。外道衛宮切嗣と対峙するに際し、遠坂時臣は入念の下準備を終えて臨んだのだ。
 あの悪辣な男はそんな時臣の思惑を軽く飛び越え、結界の外、埠頭付近の何らかの建物を爆破し戦いの狼煙に代えた。

 街並みを染める赤い色も、夜を焦がす黒い色も、けれど今宵の戦場とは何ら関係のないもの。闇を切り裂くサイレンは戦場に立つ彼らの耳へは届かず、人々の目はこの宙の狭間へは届かない。

 切嗣の策略は、皮肉にも戦場の形をより確かなものとした。より目を惹く炎が上がった事で、余程の騒ぎが起きるか結界が綻びない限り、このオフィス街は人の立ち入れぬ死地となる。

 それを知ってか知らずか、白銀の少女騎士セイバーと白騎士ガウェインの戦いはその苛烈さを増していく。

 ビルの屋上を足場として空を渡る二つの影。切り結ぶは共に必死の一撃。一手を誤れば即座に地上へと墜落する空中乱戦。
 繰り返される衝突。神速の踏み込みからの音速の斬撃。空を舞いながら、刺すような一撃が乱れ飛ぶ。叩きつけるような斬撃を空中で喰らうも、壁面を蹴り上げて即座に復帰する両者。そんな途轍もない所業をいとも容易く繰り返す。

 打ち合った数は幾合か。身体に刻んだ傷は幾程か。マスターらとどれくらい距離を離れたか。彼らが足を止めたのは、未だ建造途中のビルの一つ。その無数に組まれた鉄骨の上だった。

 吹き荒ぶ風は冷たく、王と騎士の身を攫おうと強く吹き付ける。けれど二人はそれを意に介さず、互いから視線を逸らさぬままに剣の握りを強くした。

「ガウェイン卿」

 じり、と半歩前に進み、今にも戦闘を再開しようとしていた白騎士の動きを堰き止める少女の声。

 ガウェインにとってこの一戦は、正直なところ不利であった。主から令呪によって齎される太陽の加護がなければ、この白騎士は無謬の王に一歩及ばない。
 初戦を拮抗に持ち込めたのは、セイバーの側に微かに動揺が見られたからだ。かつて同じ時代に轡を並べた騎士が、その最期まで仕えてくれた騎士が己が敵として立ちはだかるという状況に。

 二戦目の今夜、それがない。そして戦場となった場所が致命的に悪かった。地に足をつけて戦うのならばまだ善戦が出来たものを、空中戦に持ち込まれては分が悪すぎた。
 セイバーはその身に宿す大量の魔力を放射し、空中でさえ自在に姿勢を制御し、時には無理矢理に軌道をさえ変えてくるのだ。そんな技量を持たない白騎士は、愚直に地を跳ね空を舞うしかない。

 その身に受けた傷は、白銀の少女騎士のそれに倍するだろう。致命傷だけは辛くも避けきったが、このまま続ければ何れ捌き切れなくなる。故にこの確固たる足場のある建造途中のビルの上、鉄骨の上で少しでも優位を築く為に仕掛けようとしたところを、セイバーが押し留めた。

 無視して切り込む事も出来たが、少女の顔に宿る色に足を止めた。悲痛とも、焦燥とも呼べそうな、そんなあってはならぬ表情に。

「如何されましたかセイバー。御身にそのような面貌は似つかわしくはない。かつてのように、涼やかな顔で眼前の敵を斬り伏せる事に何ら躊躇のない貴方は何処へ行かれた」

 王を王として崇拝していたガウェインにとって、そんな人並の感情を覗かせる王を訝しむ他にない。
 時に冷徹に、時に冷酷に。非情とも思える采配を振るい、国を導いてきた無謬の王。人々は、一部の騎士は彼女の在り方を非難したが、彼自身はそうではなかった。

 自らを騎士足らんと戒める太陽の騎士にとって、王という機構として駆動する人ならざる王に抱く畏敬の念は確かに本物であった。
 その心は死してなお変わらない。いや、なお強くそう想っている。私情に駆られ怨恨に塗れ、騎士の本懐を果たせなかった生前の不明を恥じるからこそ、王の在り方をより強く想い戒めとしていた。

 だからこそ解せないのだ。今目の前に立つ少女の顔に宿る色が。本来色さえもあってはならない王の無形。無感情に勝利と国の安寧を願った筈の王の顔に、ただ一人の少女の色が見えた気がして。

「……ガウェイン卿、どうか教えて欲しい。あのバーサーカーは何者だ」

「…………」

 その言葉に込められたのは、何れ敵対するであろう強敵の素性を知りたい、という理由ではない。ガウェインが直接対峙する事で直面した焦燥と狼狽に、この少女騎士もまた何かを感付いたのだ。

「……そう問われるという事は、御身は既に当たりを付けているのではありませんか?」

 でなければこんな問い方はすまい。

「太陽の加護を得たこの身が苦戦を強いられた理由……あの時の私が浮かべていたであろう表情に、御身は思うところがあったのではありませんか」

「…………っ」

 唇を噛むセイバー。それで確信に変わる。彼女の表情に宿るのは困惑だ。そうである筈がないという思いと、あってはならないという強迫観念が、けれど目の前にある現実が全てを語っている事を、今なお受け入れられていないから。

 それは王にあるまじき苦悩だろう。しかし既に彼女の騎士ではなく、たとえそうであっても王に尽くす騎士としての生き方を重んじる彼にとって、無闇に口を挟む事はしない。その在り方を問う事などあってはならない。
 理想と現実がたとえ乖離しようとも、ただ身に刻んだ忠を尽くす事。それが彼の選んだ生き様だ。

 ともかく、半ば確信しており、それでなお目を背けるセイバーの問いに答えない理由はない。主からも緘口令を出されているわけでもない。ならば問われた事に対しては実直に、誠実にあるがままを答えるのが彼の流儀だ。

「あの漆黒の狂戦士は、我が太陽の輝きを破った唯一の騎士────」

 白と並ぶ黒。
 アーサー王の片腕にして理想と謳われた誉れある湖の騎士。
 後年、裏切りの汚名を浴び、王の治世に拭い去れぬ咎を刻んだ背徳の騎士。

 彼こそは────

「…………っ!」

「…………っ!」

 騎士の名を口にしようとしたガウェインと、対峙していたセイバーにも奔る戦慄。二人が向き合うその側面、四角く組まれた鉄骨のその一辺の上に、突如として具現化する闇よりも黒き黒。
 茫洋とした立ち姿。輪郭を掴ませない影の揺らめき。滲み出る狂気と憎悪。手には無骨なまでの一振りの剣。そしてスリットの奥に爛々と灯る、赤い……紅い瞳。

「やはり……ランスロット卿。貴方なのですね……」

 悲痛を滲ませたセイバーの問いに、

「Ar……th、ur……!」

 獣のような底冷えのする唸り声で、黒騎士は答えた。



+++


 彼我の戦力差を測る上で有効なものの一つに、初手からの最大威力での一撃、というものがある。
 自らが持つ最大の攻撃手段を初撃から見舞う事で、相手の力量を測ると共に今後の動きを明確にする意図がある。

 無論、このやり方にはリスクも多い。全力で初撃を放つ以上、防がれては二の手が紡げなくなり、相手を調子付かせる事にもなる。
 ただ、通じるのであれば戦況の優位を築く事が出来、致命的な一撃であればそれだけで決着も着く。防がれるのであれば即時退却も視野に入れ、打開策を講じた後に再戦を挑むという手段もある。

 衛宮切嗣にとっての最大戦力──最も威力のある一撃とは、魔銃トンプソン・コンテンダーに込めた.30-06スプリングフィールド弾である。
 本来コンテンダーに装填出来ない口径の弾丸を撃てるように改造し、物理、魔術を問わず並の防壁などいとも容易く貫通するだけの威力を持つ最高の携行ライフル弾。切嗣はこれを出し惜しむ事なく繰り出す腹であった。

 開戦の合図を告げる言葉と共に、遠坂時臣の手にするステッキ──象眼された極大のルビーより呼び起こされた絢爛たる炎がうねる。夜霧を晴らす真紅の炎。触れる全てを焼き尽くす業炎が高く天に伸びる。

 瞬間、豪雨のように頭上より襲い来る炎の波濤から転がるように逃げ跳び、一瞬前に自身がいた地点を炎が包むさまを横目に、体勢を立て直した直後、コンテンダーからは必死の弾丸が繰り出された。

「────」

 音速をも凌駕する速度で放たれた弾丸。しかし相手は歴戦の魔術師。切嗣が引き鉄を引くその前に、既にステッキを振るい炎の操作を終えている。弾丸は発射の直後に射線上に現われた炎の壁に飲み込まれる。

 その炎に触れた瞬間、否──迫ったその時には既に、鋼鉄の弾丸は融解を始めていた。超高温の炎に突っ込んだその時にはもう標的を貫くだけの殺傷力など見る影もなく、弾頭から見る見る内に溶かされ、全てを炎に喰らい尽くされた一発の銃弾は、標的に到達する事無く跡形もなく赤き焔の中で消え失せた。

 後に残ったのは炎の熱気のみ。衛宮切嗣の最大戦力は、時臣の繰る超高温の炎によって阻まれた。

「良い一撃だ。並の魔術師では防ぎ切れまい」

「…………」

 時臣の肉体を穿つどころか、炎の障壁をすら越えなかった弾丸。鉛玉を主武装とする切嗣と、変幻自在に炎を操る時臣とは、決して相性の良い相手ではない。
 ライフル弾をも容易く溶かし尽くす程の炎熱。一線を退き、後継に道を譲ってなお彼の身に刻まれた魔術の薫陶は健在だ。

 周囲に踊る炎の残滓。揺らめく明かりが夜気を溶かし、冬の寒さを和らげる。けれど両者がその心に宿す熱は、その比ではない。

 切嗣は一旦コンテンダーをホルスターへと収めた。代わりに取り出したのはコートの裾に軽量化の呪符を張り隠し持っていた短機関銃(キャレコ)。威力ではコンテンダーに劣るものの、手数では勝る代物。だが、

「先の銃弾を防いだ私の炎に、ただばら撒くだけの鉛玉が通用するとでも?」

 ライフル弾の威力と速度を以ってしても貫けなかった炎の障壁を、キャレコに装填されている9mm弾が貫ける道理はない。
 科学の産物に然程詳しくない時臣の目から見ても、先の一撃は切嗣の誇る渾身のそれであったという確信がある。今手にするのは本来撹乱、ないし牽制用のサブウェポンでしかないものの筈。

 ……ならばこの男の狙いは時間稼ぎか?

 時間を稼げばセイバーがガウェインを打倒する可能性は確かにある。聖者の数字の発動していない状態のガウェインでは、彼のアーサー王を相手にして確実に勝てる見込みなどないからだ。

 かといってここで令呪に訴えるのは余りにも早計だ。第二戦、必勝を期す為に令呪を使うのは選択の一つとしてはありだろう。だがそれを行えば、初戦で見せた策の意味が消失してしまう。
 状況分析に長けた者が思考を巡らせれば、何れ辿り着かれてはならない場所にまで至られてしまう。

 あるいはそれこそが衛宮切嗣の狙いなのかもしれない。既にこの“遠坂”に対する不審を抱いており、その疑念を確固たるものにする為に今宵誘い出されたのだとすれば。

 ……外道ではあるが、この男のやり方は合理的だ。無駄がない。油断をすれば、僅かでも隙を見せれば食われるのはこちらの方だ。

 それにガウェインの側については一つ布石を打ってある。後は巧くやるだろう。ならば己は目の前の敵に全霊を割くべきだ。ステッキの握りを強くし、切嗣の初動を見逃さないとばかりに睨む時臣。

「…………」

 そんな思惑を巡らせる時臣とは裏腹に、切嗣はまだこの敵を打ち倒す事を諦めてはいなかった。

 初手の全力を阻まれた以上、態勢を立て直すべきところではあるが、切嗣にはまだ伏せたままの切り札がある。.30-06スプリングフィールド弾は確かに切嗣が携行する最大威力の弾丸だ。
 しかし最も威力の高い一撃が、そのまま切り札となるとは限らない。切嗣にとっての切り札は、ライフル弾を加工した魔術師殺しの魔弾。コンテンダーに込めるもう一つの必殺の凶弾なのだ。

 ……けれど僕は、遠坂時臣に対しては起源弾は使わない。

 切嗣の起源を込めた魔弾──それが起源弾。被弾した術者の魔術回路の励起具合によってその威力を変えるが、最大励起状態の魔術回路に撃ち込めば、確実に魔術師を屠る脅威の弾丸。
 事実、これまで三十七人の魔術師に対し使用し、その全てを過たず破壊してきた。文字通りの魔術師殺しである。

 魔弾の破壊対象は魔術師。ならば遠坂時臣とて例外ではないのだが、切嗣には一つの懸念があった。

 遠坂の魔術である宝石魔術──それは宝石に込めた魔力を術者の意図によって発動するもの。宝石とは言うなれば外付けの簡易な魔術刻印。込めた魔力の分だけ威力を増し、用途によって宝石の種類を使い分ける事で多様な色を魅せる魔術。

 切嗣の懸念とはまさにそれ。宝石魔術は基本的に術者の魔力を消費しない。無茶な使い方をすればその限りではないのだろうが、長い年月を掛けて宝石に蓄積させた魔力を主動力とする以上、それは当然の帰結。
 であれば、魔術回路の励起具合によってその威力を変える起源弾は、果たして遠坂時臣に最大の効力を発揮し得るのだろうか。

 時臣の生涯を掛けて魔力を蓄積されたであろうステッキの極大のルビーには、一体如何ほどの魔力が込められているというのだろうか。
 無論それだけではなく、切嗣のコンテンダーに対するキャレコのように、サイドアームとして別の宝石を隠し持っている事は想像に難くない。

 遠坂時臣自身に魔力を消費してまで魔術を使わせるには、どれだけの時間耐え抜けば可能となるか、切嗣には分からない。
 銃弾を溶かす程の炎を繰り、宝石魔術を主武装とする遠坂時臣は、魔術師殺し衛宮切嗣との相性は、文字通り最悪と呼べるものと言えよう。

 自らの切り札を晒し、かつ相手に痛手を負わせる確信のないこの戦場。あまつさえ余人に盗み見られている可能性を考慮すれば、この場で起源弾を使う意義はない。

 ……だがだからこそこの戦いには意義がある。僕の初戦を飾るのに、おまえは相応しい相手だ。

 先に動いたのは切嗣。腰溜めに構えた短機関銃の乱射。銃弾は横薙ぎの雨となって時臣へと襲い掛かる。
 受ける遠坂時臣はステッキを使うまでもないと思い至ったのか、懐へと伸ばした手が掴んだ三粒の宝石を、

「────Anfang(セット)」

 起動の呪文と共に無造作に投げつける。

 両者の中央で弾ける魔力の高鳴り。一瞬にして炎の渦となった宝石達はばら撒かれた銃弾の悉くを飲み込み、全てを鉄屑へと変えた。
 銃弾をばら撒き終えた直後にはもう魔術師殺しは動いていた。屋上の中心で渦を巻く炎を迂回する形で時臣の側面を狙う。

 対する時臣も油断はしていない。自らの携行する最高威力の弾丸を防がれてなお挑んでくる以上、衛宮切嗣には勝算がある筈だ。
 何よりこの男は魔術師殺しと呼ばれるほどの殺し屋。時臣の調べた限り、衛宮切嗣というフリーランスの傭兵は、協会から依頼された異端の魔術師狩りのその全てを標的の殺害という形で完遂している。

 魔術師の習性を知り尽くし、探求の果てへと至る魔術をただの殺しの手段に貶め、魔術師には理解の及ばぬ科学の産物で武装する外道。
 だからこそ油断はあってはならない。この男を甘く見た連中は全て奴の凶弾に斃れて来たのだ。警戒してなおそれを凌駕し得る奇天烈ささえも持ち合わせていよう。魔術師という生き物にとって、この男は捕食者であると認識するべきだ。

 だがそれを覆してこその魔道の探求者。道半ばで倒れた者達の想いをすらその背に背負う者の誇りに賭けて、この巨悪に遅れを取る事などあってはならない。

 振るう腕。舞う炎。夜空に煌く宝石は数限りなく。それこそ湯水の如く。絢爛な炎が踊り風が逆巻き、空気が刃となる戦場。時臣は指揮者の如く腕を振るい魔術の薫陶を白日の下に曝け出し、魔術師殺しを追い詰める。

 ばら撒かれた銃弾は全て標的には届かず、繰り出すナイフや撹乱の為の発煙筒でさえその意義を為す前に消し去られる。
 遠坂時臣という魔術師を甘く見ていたわけではないが、近代兵器に拠った攻撃手段だけでは、やはり殺しきる事は叶いそうにない。

「……、は……」

 屋上を所狭しと駆け回り、駆け回らされ、遂にその一角へと追い詰められた切嗣。背後には背を支えるものはなく、一歩下がれば奈落へと転ずる背水の陣。
 足元より吹き上げる風が、まるで暗闇へと引きずり込もうと伸ばされる死者の腕のように絡み付く。

「…………」

 時臣には今もってなお油断がない。追い詰めた獲物を嬲る趣味もなければご大層な言葉を謳う事もしなかった。手にしたステッキに高鳴る魔力は今宵最大。瞳は射抜かんとばかりに切嗣の一挙手一投足を観察している。

 隙などなく、追い詰められたのは正しく事実。逃げるだけならば背中の虚空に身を投げてしまえばいい。着地の衝撃を殺す程度なら幾らでも手段はある。
 ただそれを許してくれるほど目の前の男が容易ければ、これほど追い詰められている筈もなく、最悪の場合地の底まで追ってきても不思議ではない。

 ……元より逃げるつもりなどない。己の力を測るのは、今まさにこの瞬間……!

「固有時制御(Time alter)────」

 詠唱の開始と同時に打ち捨てられるキャレコ短機関銃。伸ばす右手が掴み取るのは未装填のコンテンダー。時臣が動く。腕を振るうその所作と僅か一節の詠唱だけで、今宵最大級の炎を夜空に煌かせる。

 だが遅い。炎が切嗣に殺到するその一秒前に、

「────三倍速(triple accel)……!」

 魔術師衛宮切嗣の秘奥は、既に発動している……!

「…………っ!?」

 龍神と化した炎がその顎門を開き、獲物を丸呑みにしようとした刹那。衛宮切嗣は一瞬にして姿を消した。よもや背後の空に身を投げたかと訝しんだ直後、目の端に影を見咎め驚愕する。

 炎がようやく地に満ちる。まさに刹那という他にない瞬きの間に、切嗣は時臣の側面へと移動していた。

「くっ……!」

 衛宮切嗣の発動した魔術や異常をすら凌駕する速力に目を見開いている暇はない。これまでの切嗣とは余りにも隔絶した今の切嗣に抗する為の手段を、それこそ一瞬で巡らし打たなければ、殺される。

 救いと呼べるものがあったとすれば、切嗣が勢いのままに時臣へと踏み込んで来なかった事だ。最大の油断──油断と呼ぶには余りにも悲痛な隙を衝く事が出来なかったのには理由がある。

 現在コンテンダーには弾丸が装填されていない。ただの手刀や銃底での殴打では致命傷は望めない。やはり確実に敵を葬り去るには最大の一撃が必要だった。
 先程までの攻防は、全て弾丸を込める隙を探してのもの。時臣には油断がなく、装填の隙間さえ見出せなかった切嗣にとっては倍速状態での装填作業でさえ致命的な遅れであり、時臣にとっては勝ち取った戦果だった。

 秒をすら切る速度で再度込められる.30-06スプリングフィールド弾。次の瞬間には時臣の視線を振り切り反対側へと移動している。
 しかし相手とて然る者。それが魔術の恩恵を得た結果であるのなら、己が対処出来ぬ筈がないと鼓舞し思考を巡らせ策を打つ。

 ステッキのルビーだけでなく反対の手に無造作に掴み取った宝石の群を出し惜しむ事なく消費し、屋上一帯を覆い尽くさんとばかりに極大の炎を招来する。
 どれだけ速く動けようと、足場がなければ意味を為さない。地を炎で満たしてしまえば封殺出来る。時臣が瞬時に弾き出した結論は、まさに切嗣の足を殺す為の最高の一手。

 だが誰が知ろう──衛宮切嗣の身には、その策をすら凌駕する加護があると……!

 銃弾の装填を終えた切嗣が時臣に向けて駆け出すのと一帯を覆い尽くす炎が生まれたのは全くの同時。切嗣が時臣との間合いを半分詰める間に、既に目の前には炎の壁が顕現している。

 当然前方だけでなく左右や後方、それこそ自身の足元にすら炎の舌は生まれている。時臣の策は瞬時に対応した事を思えば最善の一手。切嗣がただ迅いだけの魔術師ならば押し留められていた事だろう。

 だから此処から先は衛宮切嗣だけが為し得る異常。この戦いに臨む為に、聖杯を掴み取る為にこの救済の殺人者が編み出した至高の策略。今の衛宮切嗣の道行きを阻むものなど、何一つ有り得ない……!

「ばっ……!?」

 時臣が驚愕に目を見開き、馬鹿な、と声にする事すらも叶わぬ異常。あろう事か切嗣はその身を炎に焼かれながら、速度を一切落とす事なく時臣へと肉薄する。

 脅威の速力で絡み付く炎を振り切り、焼かれた端から再生を開始する彼だけの、この聖杯戦争においてだけ有効な最優の加護。聖剣の鞘の治癒能力は、時臣の炎が身を焼く速度を凌駕し宿主の命を守り抜く。

 そして遂に切嗣は時臣の眼前へと辿り着く。逃げる事も躱す事も、ましてや防ぐ事さえ許さぬ接射。銃口を額に押し当てて引き鉄を引けば、どれだけ優秀な魔術師とて防ぐ手立てなどあろう筈がない。

 時臣が目を見開く。死神が見える。暗い銃口の奥底から、今まさに撃ち出されようとしている銀の弾丸が、死神の携える大鎌に見えて。

 …………凛ッ!

 無意識に娘の名を心の底で呼び、道半ばで果てる己の不明と、未だ途上の娘の未来を、走馬灯のように想った刹那────

 銃口が差し向けられている遥か上。
 楕円の月に覆い被さるような、無数の黒点を望み。
 直後、黒く巨大な雨粒めいた何かが豪雨のように降り注ぎ、炎の中心にいた彼らを飲み込んだ。


/12


 未だ建造途中のビルの上。
 無数に組まれた鉄骨の上で三騎のサーヴァントが睨み合う。

 セイバーとガウェインは互いの対面に立ち、遅れて現われた黒騎士──バーサーカーは彼らの側面に立つ形だ。頭上から見ればそれは正三角形の立ち位置。共にそれぞれの間合いへと踏み込み、踏み込まれている現状、迂闊に動く事は出来ない。

 悪手を打てば二人に襲われ一方的な不利を被る。誰もが歴史に名を残す雄であるが故、尚の事動く事あたわない。

「…………」

 セイバーは唇を噛み締め、手にした不可視の剣を強く強く握り締める。バーサーカーの正体。ガウェインの告げた言葉と、言語を喪失しながらも発した狂戦士の呼び声に、最早違えようのない確信を得てしまった。

 ランスロット卿。

 円卓の騎士随一の使い手にして最強の一。騎士の模範にして理想、あるいは完璧と謳われた騎士の中の騎士。太陽の加護を得たガウェイン卿とさえ互角に切り結んだとされる比類なき英傑──人呼んで湖の騎士。

 後年浴びた汚名により、その名は裏切りの騎士として歴史に深く刻まれているが、その実力は疑うには値しない。何よりこの場にいる王と白騎士、どちらともが生前の彼の雄姿を幾度となくその目に焼き付けているのだから。

「久しいですね、ランスロット卿。貴公とよもやこのような形で合間見える事になるとは夢にも思いませんでした」

 ガウェインが涼やかな面持ちを変えず口を開く。

 彼は生前、この目の前の黒騎士に対する拭いようのない憎しみによって、晩節を汚している。肉親を討たれ、王を裏切った不忠の騎士に抱く憎悪は正当なものであろうが、この白騎士はそれを良しとしなかった。

 騎士は剣。騎士は王の治世を為す歯車。剣や歯車が個人の感情などというものを抱く必要はない。何より後年、王はこの裏切りの騎士を許していたのだ。王妃を奪い、国に亀裂を刻み、円卓を瓦解させた騎士に、それでも王は許しを与えていた。

 王が許しを与えてなお、私情にて黒騎士を憎悪し続けた事が白騎士の不明。激情に任せた剣は背徳の剣の前に敗れ去り、己の過ちが王を死の淵へと誘った。

 後悔して救われるものなどありはしない。それでもこの清廉なる白騎士は己の不忠を深く受け止め、二度目の生と呼ばれるものがあるのなら、今度こそは信じた道を貫こうと決意した。

 今の彼には積年の恨みなど一欠片もありはしない。目の前の黒騎士はただ己と主が聖杯へと至る道を阻む敵手でしかない、とそう割り切っている。
 それでも……そう、こうして言葉を掛けたのは、その姿が、余りにも痛ましいものだったからだ。

「ランスロット卿。一つ、問わせて頂きたい」

 涼やかな面持ちを変えず、普段と変わらぬ口調で白騎士は問う。

「何ゆえ貴公はそのように憎しみを迸らせているのです。目視出来るほどの怨恨、直視にさえ耐えかねる黒い憎悪……一体何が、貴公を狂戦士などという(そんな)存在へと堕としめたと言うのか」

 ガウェインにはまるで理解が出来ない。だってそうだろう、この黒騎士は理想の騎士と謳われながら、私情にて王妃と不貞を交わし、刑に処される王妃を強奪し、円卓の同輩を斬り伏せ、王の信頼に後ろ足で砂を掛けて逃げたのだ。

 それが己の意思によるものであるのなら、後悔などある筈もなく。ましてや、王がその非道とも思える行いに寛大なる免罪を施したというのに。
 本来ならば涙を流し膝を折り、己の不明を恥じ入るべきであり、ガウェインのように、王への畏敬を抱き騎士としての忠誠をより確かなものとするべきであるというのに。

 この黒騎士は、一体何をこんなにも憎悪しているというのか。

「……良いのです、ガウェイン卿」

「王……?」

 セイバーは静かな声で告げる。伏せた眦を狂気に身を窶す黒騎士に向け、乾いた口から精一杯の声を絞り出した。

「それほどに、私が憎いかランスロット卿」

 それも当然と受け止めるセイバー。

 ガウェインの糾弾が正しいのなら、ランスロットの憎悪もまた正しい。だって一番初めに裏切っていたのは、他ならぬ彼女自身であるのだから。
 女の身でありながら男として振る舞い騎士達を偽り、女の身でありながら王妃を迎え彼女の人生を狂わせた。

 あの時、あの時代。彼女が王として国を統治し、より良き王として振舞うにはそれ以外に選択肢などなかった。誰もが褒め称える理想の王、誰もが認めざるを得ない聖君で在り続けるには、選べる道など既になかった。

 理想の王が年端もいかぬ少女であっては誰もが認めてはくれない。理想の王の傍らには誰もが憧れる理想の王妃が在るべきだから。
 犠牲を強いる事には慣れていた。犠牲に倍するものを救えるのなら、少なくない数の涙を自らで間引く事も必要だと諦観していた。

 彼女の治世を崩壊へと導いたのは、そんな歴史の闇に葬られた涙達の反逆。強いられた犠牲に涙した誰かの、違えようのない怨恨だ。

 その形の一つが目の前に立つ黒騎士だ。

 理想と謳われ、完璧と褒め称えられた騎士はしかし、誰よりも人であった。騎士としてしか見てくれない人々の羨望は、人であった彼には余りにも重いものであり、騎士という生き方に殉じるには彼は余りにも弱すぎた。

 彼の苦悩を誰も知らない。知っているのは彼を愛してくれた女だけ。そんな女をすら永遠の慟哭へと叩き落し、自責の涙を生涯を終えるその時まで流し続けた彼女を救えなかった悔恨が、彼の身を狂気へと堕とした。

「…………っ」

 かつて朋友と呼んだ騎士が、心根では通じ合っていると信じていた騎士が、今こうして己に対する拭い去れない憎悪を迸らせて立ち塞がっている。
 膝を屈し許しを請えればどんなに楽だったか。恥も外聞も捨て泣き叫べればどれだけ救われたか。だが彼女は未だ王。王としての最後の責務を果たす為、この時の果てでの闘争に臨んだのだ。

 少女としての心を王という外套で覆い隠し、震える膝を叱咤して、手にする聖剣を突きつける。

「ランスロット……貴方の憎悪は当然だ。私はそれだけの事をしたのだから。だがだからと言って、此処で道を譲るわけにはいかないのだ。貴方の剣に、討たれるわけにはいかないのだ。私は私の祈りを叶える為──」

 そう……この祈りはきっと、彼をすら救うと信じて。

「──貴方を斃し、聖杯へと辿り着こう」

 瞬間、膨れ上がる憎悪の波。黒騎士を覆う漆黒の影はよりその色合いを強め、セイバーの言葉の全てを戯言だとでも嘲るように高まり行く。

 元より彼が狂戦士に堕したのは、そんな言葉に耳を傾けたくなかったからだ。誰の言葉も彼には届かず、語る口すら必要ない。上辺だけの言葉など不要。ただこの身を滾らせる憎悪に全てを預けてしまえばそれでいい。

 復讐の想念が満ちる。
 積年の怨恨が声を上げる。
 贖罪を斬り伏せる為に憎悪が逆巻く。

 ああ、この時を待ち侘びた。叶わぬと知りながらに望み続けた。この胸に抱く黒い感情の奔流を、ただ剣に乗せて振るえる時をどれだけ待ち侘びた事か。
 ありとあらゆる全てのものから目を背け。ただ悲嘆に暮れた彼女の為。この身を苛んだ苦痛を返す為。この身は狂気に身を委ね、この時の果てへと至ったのだから。

 そう、あの時。

 騎士としてではなく。
 人としてですらなく。
 ただの畜生として王を憎悪出来ていたら。

 あんな結末は、なかったのかもしれないのだから……!

「Arrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr……!!」

 凶獣の吼え声と共に戦端は開かれる。
 王と二人の騎士を巻き込む、第二幕が開かれる。



+++


 三つ巴という状況にも関わらず、黒騎士は膠着を無視して一直線にセイバー目掛けて鉄骨を蹴り上げる。軋む鉄骨。震える音響をすら置き去りにする速度で肉薄し、叩きつけるように手にする漆黒の剣を振り下ろす。

「ぐっ……!」

 迎え撃ったセイバーの具足がぎちりと軋む。足元がもし土であったのなら、それこそ踝まで沈んでいてもおかしくはない程の暴威。力任せに叩き付けただけの一撃で、彼我の戦力差を明確にする。

「私の存在を忘れないで貰おうか、ランスロット卿……!」

 清廉なる風が吹き抜け、夜空を渡る。太陽の輝きを宿した聖剣が、横合いから黒騎士を討たんと振り抜かれる。

「Gaa────!!」

 セイバーを力任せに弾き飛ばし、返す刃で迎え撃つ。散った火花は極大の星。今度は鬩ぎ合う事すらせず、巧みな剣捌きでガウェインの剣をいなして来る。

「ガウェイン……!」

「セイバー……! 貴方とてこの騎士の力量を知っている筈でしょう。此処は……!」

「Aaaaaaaaa……!」

 吼え狂う黒騎士。滲み出る狂気。憎悪は魔力を生み、魔力は彼を駆動させる動力となる。

 生前において、誰一人敵う事のなかった最高の騎士。今なお見通せぬステータスはおよそ考えられる限りの最高値に違いない。それがもし狂化によってなお増幅されているとすれば王と白騎士、二人掛かりでも勝てるかどうか。

 恐らく、彼こそはこの十年遅れの第四次聖杯戦争に招かれた英傑の中でも最強の一。最優をすら凌駕する黒の狂気。
 マスターが自滅してくれるのなら容易いが、そう簡単にはいくまい。誰もが最高の布陣で臨むこの聖戦、相手の自滅など望めない。そんな一縷の希望に縋るようでは、この狂気に太刀打ちすら出来ずに砕かれる。

 ならばまずはこの黒騎士をこそ討つべきだ。ガウェインはセイバーに対しては優位に立てる。対してこの黒騎士を個人で相手取るのは、聖者の数字を封じられている事もあり些か以上に荷が勝ちすぎる。
 セイバーにしても同様。彼女にしてみれば太陽の加護を得た白騎士も狂気に犯された黒騎士も同等以上に厄介な相手だが、後者の方がより辛い相手だと直感する。

 僅か一合を打ち合っただけで理解が及ぶ膂力の差。だがこれでなおこの黒騎士は全力ではないのだ。
 今この狂戦士が手にする得物は恐らくマスターが与えた現代の剣。名も知れぬ刀匠か、それこそ機械が打ったかも知れぬ程度のただの剣。宝具ですらない無銘の剣だ。

 その剣で宝具である聖剣と打ち合える異常も然ることながら、この騎士だけが帯刀を許されたあの剣を抜かせてしまっては、それこそ勝ちの目が完全になくなる。
 当代最高の騎士にのみ贈られる稀代の剣。セイバーが秘蔵する聖剣と対を成す、あの名剣を抜かれる前に決着を着ける……!

 黒騎士より距離を取った二人が全くの同時に左右から襲い掛かる。神速の踏み込みからの神速の斬撃。鉄をすら両断する鋼の一刀。それを、

「Arrrrrrrrrr……!!」

 狂気に染まる黒騎士は、セイバーの剣を手にする無銘で受け止め、ガウェインの繰り出した聖剣を、あろう事かその腹を掌底で叩き軌道を逸らした。

「なっ……!」

 驚愕は誰のものか。刹那の攻防。驚愕に目を見開いたその間隙を縫うように黒騎士は身を捻り、円を描く軌跡でセイバーの剣を弾き、無防備のガウェインをすら巻き込まんと殺意を迸らせる。

 白騎士は一瞬前に半歩を退き事なきを得るが、直後、今度はこちらの番だとばかりに黒騎士が踏み込んで来る。

「チィ……!」

 涼やかな顔に浮かぶ苦悶。初戦の焼き回し。振るわれる剣戟の全てはガウェインの振るう太刀筋の上を行き、なお力強く、流麗な剣閃を描く。狂気に身を侵されながらなお寸分の狂いなく放たれる必死の刃。

 かつて戦場で目に焼き付けた、美しいまでの太刀筋。見る者の心を奪う研ぎ澄まされた武錬。この騎士を相手にいつかは勝ちを奪えるだろうかと苦心し、それでなお必死に追い縋った夢の形。

「これ程の腕を持ち、何故そのような姿を晒すのか……!」

 騎士達の夢。理想の在り処。その背に人々の羨望を集めた筈の騎士の、堕落した姿は見るに耐えない。
 この白騎士が志す騎士の在り方も、元を正せば彼の背中に辿り着く。王の夢を担い、王の傍らにあり、王に朋友と呼ばれた或る一人の騎士の姿。

 誰もが憧れ、夢を見たもの。彼のような騎士になりたい、彼のような騎士でありたいと願った全ての人々を侮辱する、騎士道に背を向けたも当然の背徳。
 許せる筈がない。許せる筈があろうか。誰よりも騎士足らんとするガウェインにとって決して見過ごすわけにはいかない理想の堕天。

「騎士としての誇りを捨て、英霊としての典範すら忘却したか黒騎士よ! 貴公の背に夢を預けた者達の願いをさえ、踏み躙ろうと言うのなら……!」

 ただ私怨に胸を焦がし、私情にて剣を振るうのならば。

「貴公は、我が太陽の騎士の名に賭けて打ち倒そう……!!」

 白騎士の心に火が灯る。手にする灼熱の聖剣に、勝るとも劣らぬ太陽の輝き。

「ふっ……!」

 そして此処にはもう一つの光がある。手にする聖剣は星の光を束ねた耀き。太陽の輝きにも劣らぬ星の煌き。

「貴方の憎悪に貫かれるべき私だ、今更許してくれとは希わぬ。そんな資格さえも最早私にはないのだろう。それでも、譲れぬ願いがあるのだ。叶えたい祈りがあるのだ。ランスロット──私は卿を超え、その先に待つ聖杯へと辿り着く……!」

 二つの星は闇を祓い、打ち砕かんと夜に閃く。

 だが。

「Arrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr…………!!!!」

 その闇は、太陽の輝きも星の煌きをも飲み込む暗黒の光輝。宙に浮かぶ太陽も星も、全ては等しく無限の闇に抱かれその存在を許されるもの。
 その比喩を体現するかのように、黒騎士は唯一人で王と白騎士の剣舞を捌き抜く。

 致命を狙う一撃は悉く届かず、牽制の刃は見抜かれたように捨て置かれる。二人同時に斬りかかってなお捌かれ、時間差をつけても対応される。二人掛かりでなお互角。水面に映る月を切るかのように、その実体には一太刀すらも届かない。

 流石の黒騎士も二人を相手にしては致命傷を狙うのは難しいのか、攻勢は然程強烈ではない。されど二人で攻めてなお崩せぬ側と、一人で切り結んでいる側。優位にあるのはどちらなのか、判ずるまでもない。

 ガウェインをして、認めたくはなくともこの黒騎士の圧倒的な力量は認めざるを得ない。

 今でこそセイバーと擬似的な共闘を結んでいるが、彼が本来背を預けるのは赤い弓兵。初戦、弓兵の一射はさしものバーサーカーも対応せざるを得なかった。だから彼の騎士の援護があれば、きっとこの黒騎士に手が届く。

 三騎掛かりというのは気が引けるが、この敵はそれほどまでに強いと認めざるを得ない。

 ……しかし。

 今もって援護はない。遠坂の陣営がアインツベルンの誘いに乗るにあたり、時臣は当然として弓兵を白騎士の援護として据えている。
 本来ならばとっくにその援護を受けている筈なのだ。セイバーと切り結んでいた時でさえ不可解に思っていたが、この段になってなお援護がないとすれば、

 ……あちらもまた、予定外の事態に巻き込まれていると考えるべきか。

 黒騎士の刃に弾かれ共に距離を取るセイバーとガウェイン。援護がない以上、現有戦力でこの場を切り抜けなければならない。
 最悪の場合、宝具の開帳さえ視野に入れ、二人は幾度目かの突貫を開始した。



+++


 オフィス街より南西方向。新都中心部に程近い場所に立つ、この街で一番背の高いビル──センタービルの屋上に一つの影があった。

 吹き荒ぶ冬風に晒されながら、屋上の縁から眼下を望む一人の少女。彼女がこの場所に訪れたのは、そう命令されたからだ。
 彼女は反論の口を持たない。その行動の意義や善悪を問う事などしない。ただ人形のように唯々諾々と、下される命に従うだけ。

 だけど。

“これは命令じゃなくてお願いだ。俺の助けとなってくれると言った君に、頼みたい”

 命令と願いに違いなどない。あの家に住まう者が下す声に、彼女は従う他に生きる道はないのだから。

「此処から飛び降りたら、楽になれるのかな……」

 身を苛む魔の苦痛。誰かの声に怯え生き永らえて、それで一体何になる。今歩いているこの道の先に、彼女が望む救いなんてきっとない。
 一歩を踏み出せば容易く奈落の底へと飲み込まれる。無駄な抵抗をしなければ、頭蓋がかち割られて即死だろう。

「…………っ」

 だけど出来ない。彼女には空を飛ぶ勇気なんて、これっぽっちもなかったのだ。自らの喉元にナイフを突き付ける事さえも怖い。死んだ後に何があるんだろうと思う事さえ、彼女には怖かった。

 死に勝る恐怖はなく。ならば苦痛の中でもがき苦しむ方が何倍もマシだ。

 それでもこのまま、救いもなく光もない道を歩いていくのは苦しかった。生きている事に意義が必要なら、自分はきっと、あの時に死んでしまっているから。二回目の死なんてごめんだ。

『サクラ』

 彼女だけに届く声を聞く。ああ、そうだ。今の自分はただの木偶人形。操り糸で動いているだけの人形だ。でも人形だって、気に入らない事があれば操り糸に逆らう事もあるかもしれない。

 これは少女の、反逆と呼ぶには余りにもちっぽけな想いの発露。かつて分かたれた半身に対する、復讐の一幕。

 その────宣戦布告だ。

 立て付けの悪い音を響かせ屋上へと通じる扉が開かれる。姿を見せたのは予想通り間桐桜と同じ黒髪の、少しキツイ目をした一人の少女。

「こんばんは、遠坂先輩」

「…………っ!」

 現われた少女──遠坂凛は僅かに目を見開き、目の前の存在を認識した直後、身構えた。

 彼女にとってこの場に自分以外の第三者がいるのは想定外の出来事だ。油断をしたつもりはないし、警戒もしていた。センタービルは狙撃を行うのなら最上のスポット。それは初戦で証明されている。

 事前にこの場所を押さえられている可能性を考慮出来ないほど凛は暗愚ではない。故に誰もいない事を確認した後に、階段を上がってきたつもりだった。

 桜の姿を視界に納め、ようやく気付く。彼女の足元に描かれた魔法陣。恐らくはその効力により、自身の存在を隠匿していたのだ。

「……アーチャー」

『人の気配は感じなかった。魔力の気配も此処に来てようやく把握出来る程度。ふむ……どうやら彼女の魔術の腕は、相応に高いらしい』

 姿を見せぬまま暢気に答える弓兵。

「…………」

 ともあれ、声を掛けられて無視するなんてのは遠坂凛の流儀に反する。小さく息を吐いた後、居住まいを正した。

「こんばんは、間桐さん。夜の散歩かしら。女性の一人歩きは感心しないわね」

 この時、この場所で出会う輩がそんなものではないと知りながら、凛は軽口を謳う。まるで学園で級友と何でもない会話を交わすように。

「そういう遠坂先輩こそお一人じゃないですか。こんな場所に、何か御用でも?」

「ええ。私って高いところが好きなのよね。此処は街の中で一番高い場所だから、たまに来るの」

「そうですか、奇特な趣味をお持ちですね。私には分かりません。高いところに立てば、後は落ちるしかないのに」

「一回くらい落ちてみるのもいいんじゃないかしら。多分気持ちいいと思うわ」

「無理ですよ。私は飛べません。遠坂先輩みたいに、空を飛ぶ事なんて出来ないから」

 間桐桜には地を這う蟲がお似合いだ。天の星に幾ら手を伸ばそうと届かないように、空を飛ぶ鳥にすら置いていかれる。地べたに這い蹲り、空に恋焦がれながら、空を行く者を見上げながら、意味もなく消えていく地星。

 でもきっと。
 この手はきっと。
 必死で伸ばせば、天の星をすら引き摺り下ろせる。

 でなければ意味がない。
 あの地獄に耐えた意味がない。
 今こうして生き永らえている、意味がないから。

 今こそこの手を伸ばし──無意味な生に意義を求めよう。

「遠坂先輩。もう分っているとは思いますけど、私は貴女の敵です」

「ええ、知ってる」

 遠坂凛に揺らぎはない。かつて“妹”と呼んだ誰かが立ちはだかろうと、彼女の鋼鉄の心には一筋の亀裂さえも刻まれない。
 ただ冷静に。冷徹に。目の前の現実を受け入れるだけ。そして何の感慨もなく、目の前の壁を粉砕し道の果てを目指すだろう。

「私の今夜の役目は貴女の足止め。アーチャーの狙撃の妨害。ただそれだけです。何もしないでくれるのなら、こちらも最低限の事しかしません」

「……もし抵抗すると言ったら?」

「“させません”」

「────凛」

 アーチャーが主の許可なく実体化する。それが緊急を告げるものだと即座に判断した凛は身構え、ポケットの中から幾つかの宝石を取り出す。

「いや、動くな凛。既にこちらは相手の術中だ」

「────」

 凛が横目で見上げるアーチャーは忙しくなく視線を動かしている。まるで姿の見えない敵を探すように。

「どういう事」

「見られている。今はまだそれだけだがな。もし“直視”されれば、君は元より私ですらもただでは済まん」

「…………」

 恐らくは、間桐桜の従えているサーヴァントだろう。間桐の陣営が二騎のサーヴァントを従えている可能性は彼女も考慮していたし、父からも忠告を受けていた。十年のモラトリアムはそれほどに御三家にとって優位なものとして働いている。

 ならばあるいはこの結果も当然か。敵を迎え撃つ準備を済ませて待ち構えていた相手に対し、後手に回らざるを得なかった凛は初めから罠に嵌められていたも同然だ。むしろ自分から罠に首を突っ込んだに等しい。

 アーチャーの視野の広さと鷹の眼を以ってしてなお姿を捕捉出来ない敵。幾ら目の前の少女が無防備であるとはいっても、完全に監視されている状態で彼女を討つのは相当にリスクが高い。

 眼に強力な力を宿す英霊……魔眼の保持者。対魔力を有するアーチャーですら警戒するレベルのものともなればかなり高位の色を持つ魔眼だろう。この騎士がレジスト出来ないレベルのものに凛が睨まれれば、それこそ打つ手はない。

「…………」

 いや、それでも弓兵の目は語っている。姿さえ捕捉出来れば如何様にも対処は出来る、してみせると。己を招いた少女にいつか告げた最強の自負。その言葉を違えるつもりはないのだと、鷹の目は告げている。

「…………」

 ともあれ、それは裏を返せば敵を捕捉出来なければ何も出来ないのと同義だ。やれる事といえばアーチャーが間桐桜を射るのが先か、姿を隠しているサーヴァントが睨むのが先かという結果の分かりきった勝負くらいしかない。

 分の悪い賭けは嫌いではない凛だが、リスクと天秤に掛ける程度の分別はある。桜の言葉を鵜呑みにするつもりはないが、初手から仕掛けて来なかった事を思えば、彼女もまた現在相応のリスクを背負ってこの場に立っていると考えるべきだ。

 敵が魔眼で直視したとしても、即座に絶命するわけでもない。振るえる腕が、動く指があれば間桐桜を殺す程度やれる筈だ。相手もまたそれを警戒して、足止めに全力を傾けているのだとすれば。

「いいわ間桐さん。貴女の罠に嵌ってあげるわ」

 まだ序盤にも等しいこの段階で、無理をしては続く戦いに禍根を残す。アーチャーの戦力は有用だ。この場で間桐桜と相打つ形で失うには惜しく、凛もまた脱落してやるつもりはない。

 父とガウェインに対する援護は不可能になるが、同時に相手のサーヴァントもまたこちらに釘付け。ならば条件としては対等だ。分の悪い賭けに挑むのは、差し迫ってからでも遅くはない。

 そんな打算と計算を瞬時に弾き出し、凛はこの夜の戦いを静観する事に決めた。無論、アーチャーには敵の居所を探り続けて貰うが。

「そうですか、これで私も安心です。ほら、きっともう戦いは始まってますよ」

 遠く、オフィス街から伝わる戦いの余波。結界に遮断され音は聞こえなくとも、魔力の高鳴りは此処まで響いている。
 今の凛に出来るのは、父とガウェインの勝利を願う事だけ。遠く投げた視線の先で、繰り広げられているであろう死闘に想いを馳せる事だけであった。


/13


 切嗣と時臣がいたビルの屋上。その更に上。文字通りの空中に滞空する一人の男の姿がある。いや、その男は浮かんでなどいない。彼の足元には幾百、幾千の蟲が蟠る。耳障りな羽音を響かせ、その背に己が主を乗せて夜空に浮かぶ。

「…………」

 ──しくじった。

 無言のまま、戦場であった場所を見下ろす間桐雁夜は内心でそう嘯く。今なお燃え盛る炎の輪。多少勢いを落としたとはいえ、時臣が生み出した炎はなお健在。
 ただ一角、切嗣と時臣が交錯したその場所だけ、ぽっかりと穴を開けたように黒い円が覆っている。

 よくよく見ればそれは、雁夜が踏みつける蟲に数倍する量の蟲の群れ。二人の交錯を狙い撃つように降り注いだ黒い雨の正体だ。

 あの一瞬、切嗣の手にするコンテンダーの銃口が確実に時臣の頭蓋を捉え、後は指先に掛かる引き鉄を引くだけという僅かな瞬間。傍観に徹していた雁夜は、二人を纏めて亡き者にしようと己が魔術を繰り出した。

 だが果たしてそれは、本当に雁夜が狙って放ったものだったのか。聖杯戦争の勝利を望むのなら、アインツベルンが遠坂の一角を落とすところを見届けた後で仕掛けても問題はなかった筈だ。
 確実に敵を一人脱落に追い込むのなら、静観こそが正解であった筈だ。

 けれど雁夜は横槍を入れた。二人纏めて葬ろうと欲を掻いた。本当に? それだけの理由で?

 今冷静に場を俯瞰する立場に立って、分かる事がある。そう、あの一瞬。雁夜は時臣が斃されるのが許せなかったのだ。間桐と遠坂の因縁に何の関わりもないアインツベルンが引導を渡す事を許せず、雁夜の憎しみを一身に受けるべき時臣が己の与り知らぬところで斃されるのが我慢ならなかったのだ。

 聖杯を獲得するという決意より、時臣に対する憎しみが勝った。刹那の天秤の揺れは、後者にその傾きを落としたのだ。

 その狂気が、己が従えたバーサーカーが一足早く戦闘に入っていた事により流れ込んだ憎悪の奔流に起因するとは雁夜は知らない。あの黒騎士の尋常ならざる狂気に引き摺られたとは、雁夜には分かりようもない。

 いずれにせよ目の前の結果は覆らない。
 願望より私怨が勝った事に変わりなどないのだ。

 だからこそ、こんな生温い手段で戦いの場へと介入した。十年の研鑽を省みれば、余りにお粗末としかいいようのない結末。今の雁夜が本気で蟲を操作していれば、本当に纏めて葬り去る事も出来たかもしれないのに。

 結果────

「……よう、魔術師殺し。お招き頂き光栄に与るぜ」

「…………」

 炎の輪の外。屋上の縁。虚空を背にし立つのは魔術師殺し衛宮切嗣。彼はあの一瞬、降り注ぐ蟲の雨からその速力で逃れていた。時臣を確実に葬れる好機を捨て、回避行動を選択したのだ。

 その結果からも分かる事がある。衛宮切嗣の身に宿る脅威の治癒能力。恐らく、それは万能というわけじゃない。本当に全ての傷を癒すほどの代物なら、雁夜の雨に撃たれながらでも時臣を殺していた筈だからだ。
 逃げたという事は、逃げなければ不味いと踏んだという事。それを知れただけでも収穫ではある。

 そしてもう一人────

「いつまで寝てるつもりだ遠坂時臣。その程度の蟲に喰い散らかされるようなタマじゃないだろうアンタは」

 キチキチと鳴く蟲達の声が一斉に鳴り止む。瞬間、黒い穴にして山となっていた大量の蟲は、その下より生まれた炎に飲み込まれ灰燼へと帰した。
 炎の中からゆらりと立ち上がる時臣。その衣服は蟲に食われたのかボロボロで、けれど彼自身の身体には傷の一つも付いていない。雁夜を見上げる瞳は、憤怒とも憎悪とも取れる彼らしからぬ色を宿していた。

「怖い顔をするなよ。せっかく助けてやったっていうのに」

「……そんな事を頼んだ覚えはない」

「こっちも頼まれた覚えはないな。仮に頼まれたとしても聞いてやるつもりもないが」

 雁夜を乗せた蟲達が僅かに高度を落とし、蟲の主は屋上へと降り立つ。その周囲に自らの繰る蟲を侍らせながら。
 雁夜は時臣から視線を外し、切嗣へと目を向けると、こちらは無感情な瞳で場を眺めている。雁夜に邪魔をされた事をどう思っているのか読み取れない。

「邪魔をしたな衛宮切嗣。アンタの誘いに乗った上、邪魔をしてしまったのは悪いとは思っているが言っておく。この男は、俺の獲物だ」

「…………」

 間桐邸へと送られた招待状。その正体は切嗣が今宵仕掛ける一戦についての情報を自らリークしたものだ。その狙いはキャスターを動かす事なく、アーチャーの狙撃を封じる事だった。

 間桐が純粋に聖杯を狙うのなら、この誘いは好機であった筈だ。アインツベルンが遠坂に仕掛けてくれるというのだから、その援護と称し遠坂のもう一つの駒であるアーチャーを封殺してしまえばいい。

 遠坂、アインツベルン両家が二騎のサーヴァントを従えている事が確定した時点で、切嗣は間桐もまた同様の仕掛けを施しているとほぼ確信していた。
 理想は切嗣と時臣が交戦、セイバーとガウェインが交戦。そしてアーチャーを間桐が二騎掛かりで始末してくれる事であった。

 仮に切嗣らが遅れを取る事があっても、これで最悪アーチャーは確実に葬れる。あの弓兵の狙撃能力は余りにも厄介であり、出来る限り早くに排除すべきと踏んでいた。
 だが結果はどうだ。今もってなお夜空を横切る光の矢が一度も目視出来ていない事を考えれば、間桐のもう一つの駒がアーチャーを抑えているのは間違いない。

 しかしこの場、よりにもよってあの瞬間に雁夜が介入してくるのは、さしもの切嗣も想定をしていなかった。合理的で無駄を嫌う切嗣にとって、あの場面で横槍を入れるメリットなど考え付かない。

 雁夜が時臣に抱く私怨の深さを読み切れず、バーサーカーがマスターに引き起こす弊害にまでその目を向ける事が出来なかったのが彼の失策。それを失策と呼んでは余りに無体ではあるが、彼自身はこれを己の読み違えとして結論を下すだろう。

「時臣、おまえにも言っておく。おまえは俺が殺すんだ、他の奴に殺されるなんて無様はやめてくれ」

 結果として時臣を仕留め損ない、切嗣にも逃げられた現状、雁夜の介入はただ場を乱しただけに過ぎない。それでも得たものがある。己が殺すべき敵がまだ息をしている。優雅を信条とする男が雁夜を赫怒の瞳で睨んでいる。

 魔道に一度は背を向けた唾棄すべき男に、命を救われたという事実は時臣のプライドに障っている。この汚名を雪ぐには、この蟲の主を焼き尽くす以外に手立てはない。雁夜の安い挑発すら、今の時臣は容易くは受け流せない。

「ああ……私もまた決意したよ。君はこの手で誅を下す。そうでなければ、私はこの足で立って歩く資格すらない。娘に向ける、顔がない」

「そんな顔がアンタにあると思っているのか。娘を捨てた貴様に、彼女の涙を理解出来ないキサマなんかに……!」

 雁夜の身から沸き立つ憎悪に蟲達が呼応しその羽音を高くする。今なお己の決断に間違いなどないと、そも間違いにすら気付いていない時臣に、雁夜は迸る憎しみを向ける。ただ全ては、彼女をあの暗闇から救う為に。

 その時。

 ずん、と重い響きが彼らの足元から伝わり来る。それが何であるかと訝しむ間もなく振動はやがて激動となり、続く炸裂音の連鎖が彼らの立つビルの崩壊を意味するものだと気付かせるのに数秒も掛からなかった。

「衛宮、切嗣……!」

 時臣の叫びに答えず、魔術師殺しは背を向け戦場を一足早く立ち去る。

 此処に思惑は崩れ去る。標的とした時臣は殺し損ね、アーチャーもまたただ足止めを喰らっているに過ぎないだろう。セイバーの方はまるで分からないが、とても芳しいものとは思えない。

 今宵仕組んだ全ての策が意味を失した以上、出直すのが最善。故に魔術師殺しは躊躇もなく戦場としたビルに仕掛けた爆弾を作動させた。

 今夜最後の、明日へと繋がる布石を。

 闇に姿を消した切嗣を追う真似をせず、時臣と雁夜も脱出の態勢に入る。時臣は屋上の縁へと駆け出し、雁夜は足場を形成した蟲へと飛び移る。

「忘れるな時臣……! おまえは俺が殺す……! 必ずおまえを殺し、桜を────!」

 それ以上の音は崩落に紛れ聞き取れず、空に身を投げた時臣の耳朶には届かない。虚空へと飛び去る雁夜を視界に入れる猶予もない。

 倒壊するビル。
 崩れ落ちるコンクリート片。
 落下していく鉄骨。

 今宵の一戦におけるその顛末と、後始末についてに頭を悩ませながら、正調の魔術師もまた闇の中にその姿を消していった。



+++


 熾烈を極める英霊の戦場。夜空に閃く刃の耀きは数限りなく。一体幾合の剣と剣とが交錯したか。どれだけの時間、彼らは死地に身を置いていたのか。
 体感では酷く長く感じられた戦闘。だがその実、バーサーカーが現われてからものの十分も経過していない。

 そう──ただの十分足らずで、

「はっ……は、っ……ぁ」

 セイバーは肩で息をし、その身に纏う鎧を半壊させられている。

「くっ……よもや、これ程とは……」

 ガウェインも同じく息を切らせ、こちらは頭を刃が掠めたのか、額から血を流していた。

「rrrrr……」

 そして唯一人、ほぼ無傷の狂戦士。二人の英傑、共に最高クラスの能力値と剣技を持つ者を相手取り、それでなお彼は終始戦いの優位を崩さなかった。
 余りにも凶悪で、余りにも隔たりがある。ただ迅く、ただ巧く、ただ強い。それだけの事でこの黒騎士は白銀の少女騎士と白騎士を追い詰めた。

 だがそんな事、分かりきっていた筈だ。

 白兵戦闘ではこの黒騎士に並ぶ者などそうはいない。剣の技量において彼の湖の騎士を超える者などある筈がない。この王と騎士を知名度で上回る大英雄とて、彼らほどに善戦が出来るかどうか。

 けれど英霊の本質、サーヴァントの戦いの本領は本来そこにはない。突き詰めればサーヴァントの戦いなど宝具の鬩ぎ合いに終始するのみ。剣技での競い合いなど所詮は前座。戦いを愉しむ性根を持った連中が好む児戯に過ぎない。

 しかしこの黒騎士ほどの技量の相手に対し、宝具を発動する為の一瞬の隙は文字通りに致命的なものがある。剣を振り被り、真名を唱えた刹那、首を刎ね飛ばされてはどうしようもない。

 黒騎士に欠点らしきものがあるとすれば、対軍、対城の宝具を持たない事だ。黒騎士の帯びる剣は彼をより高位な存在へと引き上げるが、対軍以上の宝具を撃たれては対抗する手段はない。

 だから真っ先に潰しに来る。宝具の解放には真名の詠唱と僅かだが隙がある。その間隙を見逃してくれるほどこの狂気は甘くない。

「……セイバー」

「ええ……もはや、それしか打つ手がない」

 これまで二人はあくまで白兵戦にて黒騎士を打倒する隙を探していた。二人掛かりでなお倒せぬ以上、より綿密に対抗策を練る以外、現状では恐らく勝てない。唯一勝つ術があるとすれば、彼らの手の中にある聖剣の輝きを解き放つしかない。

 共に真名が割れている以上、剣の名を秘匿し続ける意味もない。ただ懸念があるとすれば彼らの宝具解放は周囲へ多大なる被害を押し付ける。
 ビルの屋上という事もあり、最低限には抑えられるだろうが、今度は黒騎士がその解放を許す筈がないという問題が浮上する。

 少しでも予兆を見せれば神速で踏み込んで来る黒騎士。それを抑える役が、必要になる。

「此処は私が引き受けましょう、セイバー」

「……良いのですか、ガウェイン卿」

「私の聖剣が巻き起こす周囲へのダメージは御身も知っておられる筈だ。何より、確実に仕留めようと言うのなら、より威力の高いものを使うべきでしょう」

「……承知した。必ず、あの黒騎士を斬り伏せてみせる」

 避けて欲しい、とは言えない。こちらも全力で仕留めにかかる以上、手心を加える余裕などないのだ。自ら囮を引き受けた以上、当然白騎士は躱すつもりだろうが、それで黒騎士に逃げる猶予を与えてしまっては意味がない。

 これはセイバーにとってもガウェインにとっても決死の一瞬。全てが巧く噛み合わなければ、何か一つが欠け落ちるという綱渡り。断崖に架けられた綱を渡る以外、この狂戦士を打倒出来ぬと判断した。

 ならば全霊、死力を尽くして己の役を全うするのみ。後は天の配剤に期待する他に道はない。

 セイバーの手にする不可視の剣に風が逆巻く。それは聖剣を不可視足らしめている風の鞘の封印を解くという事。解れた風が暴虐にその猛威を奮っている。

「Arrrrrrr……!」

 その解れを目視した瞬間、黒騎士が動く。一直線にセイバーを狙う軌道は、逆にそれを押し留める腹だったガウェインには予測がしやすいものだった。

「これ以上は進ませてなるものか……! 今一度その曇った目を開き刮目せよランスロット卿……! 我らが焦がれ、その目に焼き付けた、いと尊き輝きを……!!」

「Gaaaaaaaaaaaa…………!!」

 太陽の背にて生まれる星の煌き。目を焼くほどの光輝の発露に、黒騎士は行く手を阻む白騎士に容赦のない連撃を浴びせ叩き伏せようとする。
 白騎士は繰り出される暴虐に耐え、凌ぎ、決してその道を譲らない。己が歩く忠道を違える事は出来ないとでも言うかのように。

 そして遂に露になる星の聖剣。無骨であり、装飾など少ない、されどこの世で最も美しい一つの形。人々の祈りによって編まれた形ある夢幻。
 王権の象徴ではなく、剣としての機能を優先した完成形。遍く騎士達の夢を束ね、その願いを背負った比類なき聖剣の姿。

 今──その全貌が明らかになる。

 振り上げられる聖剣。
 剣に刻まれし真名を謳い上げようとした、その瞬間──

「Arrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr……!!!!!!」

 黒騎士は己の行く手を阻む白騎士ではなく。
 聖剣の光輝を今まさに放たんとした王にでもなく。

 己の足を支える鉄骨。
 彼らの踏み締める足場を、その黒く染まった剣で斬り裂いた。

「なっ……!」

 裁断された鉄骨がずれ、足場が不安定になる。バランスを崩された格好の両者は一瞬、確かに隙を生んだ。
 その刹那を見逃さず黒騎士は飛び退き、連なる足場と支柱を可能な限り斬り捨てた。

 支柱が崩れ鉄骨は落下する。不安定な態勢で聖剣を放っては黒騎士に直撃させる事は困難を極め、最悪周辺への被害だけを残してしまう。そんな可能性がある以上、聖剣はもはや発動出来ない。

 ──してやられた。

 そうとも。この狂戦士は口を閉ざし、理性を剥奪されていながら、身に刻まれた技量の全てを顕在化させている。研ぎ澄まされ、昇華された武錬の極地。それは何も彼自身の剣技だけでなく、勝利への道筋を確かなものとするもの。

 聖剣を止める手立てがないのなら、足場を崩す。その程度の事、出来ない筈がない。

 それはしかし、紛れもない逃走。苦し紛れの敗走だ。狂気により敵を斃す事よりも、何としても生き延びる事を選択した結末。
 彼だけに許された剣を抜けば白騎士を突破出来た可能性があったにも関わらず、それをせず逃げの一手を打ったのだ。

 その理由が何であるかは彼女らには分からない。しかしどうにか、この夜を生き延びた事だけは確かだった。

 崩壊していく建設途上のビル。風の如く姿を消した黒騎士。彼女達もまた、急ぎ離脱しなければ。

 その時。

 遥か下方。鉄骨を支える基盤とも言うべき箇所に仕掛けられた爆薬が炎を上げる。それは衛宮切嗣が事前に仕掛けていた代物で、セイバーはこの建設途中のビルを最初から戦場とするよう伝えられていた。

 この爆破は撤退の合図。どの道足場が完全に崩壊し、黒騎士も去った今、疲弊した状態で残る二人が剣を交える理由はない。遠くマスター達の戦場もまた瓦解しているのもその理由となる。

「ガウェイン卿。いずれ、この戦いの決着を」

「ええ、望むところです。願わくば、三度剣を交えられん事を」

 互いに最後の言葉を交わし背を向ける。

 主の無事を信じ、霊体化し姿を眩ませるガウェインと。
 崩れ落ちる鉄骨を飛び渡り、無事なビルへと渡ったセイバーと。

 既に姿を消したランスロットの行方を想い。
 長い夜の戦いは、此処に一つの結末を残したのだった。



+++


 センタービルから望む遠景に異常が生じる。ほぼ同時に二つの摩天楼が瓦解するという事態は、遠く離れた場所に位置取る彼女らにも、それが今夜の戦いの終わりを告げるものだと伝わった。

「……終わったみたいですね」

「そうね」

 オフィス街での戦闘に対する横槍を入れるつもりだった遠坂凛にも、その横槍を防ぐのが役目であった間桐桜にも、これでこの場に留まり続ける理由はなくなった。どのような形であれ戦いが終息した以上、一旦拠点に戻り状況の把握を行うべきだ。

「じゃあ今夜はこれまでですね」

 桜が凛達の方を向いたまま後ろ向きに歩き、屋上の端へと下がっていく。凛がアーチャーに視線を送っても首を横に振るだけ。今もってなお監視の目は解かれていない。この場で桜に仕掛けるのはどうやら不可能のようだ。

「それではさようなら、遠坂先輩。また会えるといいですね」

「さようなら間桐さん。ええ、いずれまた会う事になるでしょうね」

 交わす言葉にはどちらも感情が篭っていない。事務的な返答。まるで機械が録音した音声を再生しているようだ。

「────桜」

 だから、その声を聞いてしまった間桐桜は足を止めた。背中から虚空に沈もうとしていた身体が、無意識に落下をやめていた。

「今度はちゃんと戦いましょう。そうすればきっと、お父さまもお喜びになるわ」

「…………ッ!!」

 人形の瞳に宿る黒。ドス黒い感情が渦を巻き、操り糸に繰られる人形ではない、彼女自身の言葉を発させた。

「戦いになんてしてあげない……貴女は私が殺すんだから……。泣いて許しを乞わせてあげますよ────“姉さん”」

 その言葉を最後に、間桐桜の姿が屋上から消える。無明の闇へと、飛べない鳥は墜落していった。

「…………」

 敵の去った屋上で、凛は顔にかかる髪を鬱陶しげにかき上げる。隣に立つアーチャーも既に警戒を解いている。桜の退場と同じくしてサーヴァントも去ったのだろう。

「……凛」

 アーチャーの声に視線を上げる。鷹の瞳に宿る色は、一体どんな色をしていたのか。

「いや……」

 赤い弓兵は瞼を重く閉じ、口を閉ざした。今何かを告げたところで、きっと何も変わらない。上辺だけの言葉は誰の心にも届かない。そもこの己は、生来そんなに口が巧くないのだから、せめてこの身体で意を示そう。

「戻ろう、凛。身体を冷やす」

 赤い外套が凛の肩にかけられる。
 それを振り払い、遠坂凛は肩で風を切って歩き出す。

 それが遠坂凛の生き方で、これまで歩んできた道だ。
 誰かの施しを甘んじて受けるような、生温い道を歩いてきたわけじゃない。

 アーチャーの助けを借りるまでもなく、凛は夜に飛び込んだ。
 一つ溜息を吐き、赤い弓兵もまた主の後を追う。

 難儀なものだと、誰にともなく自嘲しながら。



+++


「どうやら、協会のお偉方が言っていた事は正しいようですね」

 とある洋館の一室。主が去り、長く捨て置かれた古い洋館ではあったが、その内部は管理が行き届いていた。堆積するような埃もなく、残されたままの家具一式に不具合は見当たらない。

 拠点とする上での不備もなく、先の声を発した鳶色の髪の女性──バゼット・フラガ・マクレミッツは、閉じていた片目を開き、闇に沈む室内へと視線を向けた。

 室内には人工の明かりはついておらず、射し込む月光だけが頼りなく揺れている。ソファーに腰掛け、今し方まで行われていた戦いの一部始終を盗み見ていたバゼットは、己がこの冬木へと訪れるに至った理由を回想する。

 彼女は封印指定の執行者である。魔術を秘匿すべしという原則を破る者、当代限りの稀有な魔術を習得し協会の保護を受けながら、逃げ出した魔術師を追う事を生業とする武闘派の魔術師であった。

 異端を狩るという立場上、求められるのは強い武力。協会の中でもある種のエリートに属すると言えば聞こえはいいが、ただの体の良い厄介払いだ。

 魔術を探求の為ではなく、戦いの為のものとして修める者。その力を認めながら、自らを脅かす可能性を危惧し遠ざけられる存在。
 特にバゼットはとりわけ古い家系の出という事もあり、持て囃されたのは最初だけで、やがて腫れ物のように扱われ最後には封印指定の執行者の椅子に落ち着いたが、彼女自身はその事を然程気にしていない。

 今回もそんな協会からの依頼──否、勅令だった。

 元よりこの冬木で行われる聖杯戦争には、魔術協会枠と呼ばれるものが存在する。今回その枠に選ばれたのはバゼットだが、彼女の戦力を重用し、聖杯を持ち帰る事を期待されたわけではない。

 原因不明の十年遅れの第四次聖杯戦争。与えられた十年のモラトリアムはアインツベルンにマキリ、そして遠坂にこの上のない優位性を与えるものと判断された。
 流石に七騎の内の二騎をそれぞれの家系が囲う結果になるとまでは誰も読み切れてはいなかったが、協会上層部はこの聖杯戦争に名のある、前途ある魔術師を参加者として送り出す事を拒絶した。

 御三家の全てが各々が聖杯を手にする為、可能な限りの手を尽くす事など分かりきっている闘争。開戦の前から築き上げられる優位に、外来の魔術師が挑む事の困難さは想像に余りある。

 これが正常に行われる聖杯戦争であればまだ話は別であったが、開幕間際になってなお御三家と協会枠以外が名乗り出て来ない事が、上層部の意思決定の決定打に繋がった。

 時計塔にその名を轟かせる著名な魔術師や、途方もない才を有する前途ある若輩魔術師を御三家の食い物にされる事を協会は嫌ったのだ。
 かといって無名な魔術師や力のない魔術師を送り込んだところで高が知れている。完全に三家だけの対立構造にされるのもまた気に食わない。

 そこで白羽の矢が立ったのが、この男装の麗人──バゼット・フラガ・マクレミッツであった。

 協会の貴族(ロード)達ですら持て余す程の由緒ある古い家系に連なり、その実力は執行者として遺憾なく振るわれ、誰の目から見ても折り紙付き。
 聖杯を持ち帰るのならば良し。これまで同様に飼い殺しにすればいい。持ち帰れずとも良し。目の上のたんこぶが一つ消えてくれる。

 誰の腹も痛まない最良の選択。唯一異を唱えられるバゼット本人が一つ返事で了承した以上、この決定に異議を唱える者は一人としていなかった。

 無論、バゼットはそんな貴族連中の思惑など知るよしもなく、ただ下された命に従い任務を遂行するだけ。ただ、任務を受ける際、忠告は受けていた。

 御三家連中はかつてない策を弄している可能性がある、と。

 その忠告を信じ、直接己の目で見るのではなく、慣れない使い魔を操作して戦場を俯瞰したのは、確かに良い選択であった。
 協会きっての武闘派とされ、彼女自身回りくどいやり方よりも直接的なやり方を好む性分でありながら、これまで一貫して諜報に徹したのは間違いのない戦果である。

「へぇ……じゃあ大方の予想通りってわけか。ハッ、やるねぇ奴さんらも」

 机を挟んでバゼットの対面のソファーに腰掛ける青髪の男が声を上げる。その声は嬉々としたもので、悲愴な色合いがまるでない。

「何を喜んでいるのですかランサー。今夜確認出来ただけでも遠坂はエクストラクラスのガウェインとアーチャー、間桐はバーサーカーと姿は捕捉出来ませんでしたが確実にもう一騎サーヴァントを従えている。
 アインツベルンはセイバーしか確認出来ていないが、これで残る一騎が冬の一族に組していないなどと楽観出来る筈がない」

「オレを喚ぶ以前から、アンタはそれくらいの困難は承知の上でこの聖杯戦争に臨んだんだろうが。何だ、敵の正体が判明し、その強大さが目に見えるようになった今頃に、ようやく怖くでもなったのかい?」

「馬鹿な事を。敵が二騎のサーヴァントを従えている程度の事で恐れる必要など皆無だ。そういう貴方こそどうなのです、最も彼らの策の被害を被るのは貴方だ。歴戦の雄たるサーヴァントを二騎敵に回して、なお勝てると?」

「そいつをオレに訊くのかいアンタは。ああ、ならオレは答えるさ。勝てる。勝つさ。その為にオレはアンタのサーヴァントになったんだ」

 獰猛な笑みをその口元に浮かべ、ランサーのサーヴァントは豪語する。己の手にする槍に賭けて。彼を喚んだ彼女の期待に賭けて。この身は勝利を約束すると。

「それによ────」

 打って変わった軽口で、ランサーは視線を窓際へと向ける。月光の降り注ぐ窓辺に。淡い光が満ちる、その場所に。

 何故この第四次聖杯戦争は、十年の遅れを生じさせたか。

 その問いに答えられる者はいまい。アインツベルンの長老も、マキリの老獪にも、ましてや遠坂の現当主もまたその答えを持ち合わせてはいない。
 あるのは厳然とした事実だけ。第四次聖杯戦争は十年の遅れを生じ、その猶予を彼ら御三家は己が家系に与えられた勝利への準備期間と捉えた。

 真実、その布陣は過去最高。サーヴァントの数だけでなく、マスターの質もまた上等。どの陣営が勝利を手にしてもおかしくはない程の布陣である。それだけ彼ら御三家がこの戦いに賭ける意気込みが窺える。

 だが待って欲しい。

 彼らは一つ失念している。気付くべき異常に気付いていない。十年の遅延をさも当然と受け入れた事で、もう一つの異常をすら正常と判断してしまった。

 つまり。

 本来六十年周期の聖杯戦争が十年遅延したのならば──

 ──その十年分の余剰魔力は、一体何処に消えたのか?

 その答えが、此処にある。

 淡い月の光が降り注ぐ窓辺。
 そこに腰掛ける一人の少年、あるいは少女の姿。
 美しい金砂の髪を月光に溶かし、翠の瞳は遥か遠い天蓋を見つめている。

 其は人の姿をした、人ならざるヒト。
 人智を超越した者。
 この街に集う七騎の英霊とその存在を同じくするもの。

 それは──いる筈のない八騎目のサーヴァント。

「……ん?」

 窓辺に座る人影が、こちらを見つめる二対の瞳に気付き振り向いた。

「……何見てんだ」

「いや? てめぇはどう考えてんのかちょいと気になっただけだ。話は聞いてたんだろ」

 窓辺の人影はへの字に曲げた口元を三日月のように歪ませ嘯いた。

「敵が誰だろうが関係ない。オレがやるべき事は決まってるんだ。アンタらに組してやってるのも、それが一番効率が良いと判断しただけだしな」

「ただ単に他の連中とじゃ反りが合わないってだけじゃねぇのか? 顔見知りばっかなんだろ」

「……まぁ、それもある。あの連中と手を組むくらいなら一人でやる方がマシさ。その点アンタらは都合が良いし運も良い。このオレが手を貸してやるんだ、絶対勝てるぞ」

「そいつは景気の良い話だな。だが愛しの“お父上”と顔を合わせた途端、緊張して剣が握れないなんて無様はやめてくれよな」

「……黙れ添え物(わきやく)。これは“オレ達”の戦争だ。そんな無様を晒すものか。脇役なら脇役らしく、主役の為に雑魚掃除でもしてろ」

「────そこまでにしておきなさい、二人とも」

 売り言葉に買い言葉で、作戦会議の体を成していない二人の会話をバゼットが嗜める。

「此処でぐだぐだと管を巻いても結果など伴わない。諜報の時期は既に過ぎた。明朝より行動を開始します」

 へーい、と気の抜けた返事をするランサーと、何も答えぬまま今一度空を仰ぐ人影。その背を、バゼットはじぃと見つめる。

「……何だよ、まだ何かあるのか」

 根負けしたのか、人影は視線だけをバゼットに送る。

「貴女の存在は、恐らくは御三家の者達ですら把握出来ていないでしょう。貴女はこの聖杯戦争の台風の目となる。それを引き込めたのは大きく、また圧倒的に不利にあった我らがこれで互角の体を成せるようになる」

「…………」

「貴女が何を理由として私達に手を貸すのかは訊かないし聞く気もない。その最終的な目的も。けれど行き着くところが同じであるのなら、その道を違えるまでは共に歩んで行きたいと思います。
 どうか貴女の力を貸して欲しい────モードレッド」

 立ち上がり、窓辺へと向かいバゼットは手を差し伸べる。これまで共闘の意を明確にしては来なかったが、この段ともなれば否はない。
 この不確定要素、誰も知らないイレギュラーの手を取り、彼女達は熾烈なる争いの宴へと臨むのだ。

 おずおずと、モードレッドと呼ばれた少女は差し伸べられた手を握り返す。

「……フン」

「よろしく」

「照れてやんの」

「うるさいぞランサーッ!」

 空は遠く。
 星屑の踊る天蓋に座す月が謳う。
 いずれ明ける夜の果てで、今一時の休息を、祈り捧げる者達へと。

 かくして役者は出揃った。

 巡り巡る数奇なる命運。
 狂いながらに廻り続ける歯車。
 動き始めた運命の車輪は、その終着まで止まる事を許されない。

 幾つものイレギュラーを内包する十年遅れの第四次聖杯戦争。
 かつてない形で繰り広げられる、聖杯を巡る戦いの行方。

 その真なる幕が──今此処にようやく開かれたのだ。



[36131] scene.07 動き出した歯車
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/04/23 01:55
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 オフィス街での戦いから一夜明けた朝。淡い陽光を遮る分厚いカーテンの掛かる間桐邸客室に、間桐雁夜はいた。
 以前と同じようにソファーにその身体を預け、瞳は深く閉じられている。違いがあるとすれば、今彼は自身の身体を精査していた。

 二夜続けてのバーサーカーの運用。僅かではあれ自身の魔術をすら使用した事もあり、体内を巡る魔力は急速に枯渇に向かっていた。
 身体の中に巣食う刻印蟲も、昨日精製した分だけでは飽きたらず、根こそぎバーサーカーに持っていかれている。

 まだ余力はある。後一度の戦闘には耐えられる程度の猶予はある。もし付け焼刃で十年前に戦いに臨んでいれば、雁夜はとうに狂死している程の魔力を消費している。それでなお猶予がある事を思えば、充分以上に研鑽は意味を為したと言えるだろう。

「でもこれじゃ……足りない……。こんなザマじゃあ届かないッ……」

  バーサーカー……ランスロット卿の能力をほぼ完全に引き出し、その上狂化までさせてなお使役出来た事が既に驚嘆にも値する事なのだ。その分手綱を握る事が難しくなり、奪われる魔力量が桁違いなのが雁夜の誤算。

 あの黒騎士の狂気に引き摺られているのもその範疇だ。いずれこの身は憎悪と狂気に呑まれ、何を願い、誰を救おうとしたかを忘れてしまうだろう。
 ただ目に映る全てを破壊する化身と成り果てるかもしれない。その前に、全てを吸い尽くされ枯れ果てる方が早いのかもしれないが。

 どちらにせよそれは雁夜の望むところではない。理性が消えては戦えない。そんな状態で戦えるバーサーカーが異常なだけで、雁夜にはとてもではないが無理だ。獣のように狂ってしまえば、あの子を暗闇から救い出す事が出来なくなってしまうから。

「足りなければ他所から持ってくる……魔術の基本じゃの雁夜よ」

「……臓硯」

 瞳を開いた先、机を挟んだ対面のソファーにはいつの間にか間桐臓硯の姿があった。扉が開いた音は聞いていないし、気配すらも感じなかった。文字通り、間桐の妖怪は忽然とその姿を現した。

 雁夜は別段驚きはしない。間桐の工房は地下の蟲蔵だが、この屋敷とて臓硯の工房の一部には違いがない。神出鬼没であったところで驚きには値せず、当然のように受け入れ目の前の男に口を向ける。

「何の用だ……とは今更訊かない。足りなければ他所から補う……そんな事、言われなくとも知っている。この身に巣食う刻印蟲とて俺自身の魔力生成量に不安があったからこそ寄生させたものだからな」

「それでなお足りぬとは、ちと強力な英霊を喚びすぎたかのう。その分戦闘力は驚異的なものだが、マスターが食い散らかされ自滅しては意味がない」

 多量の魔力の消費と引き換えに手に入れた力は確かに強大だった。最優のセイバー、太陽の騎士ガウェインを相手取ってなお優位を保ち続けた近接、白兵戦闘能力は他の追随を許さない。
 その上ただ狂い暴れ回るだけでなく、確かな技量と戦況を把握する知恵を有するという規格外。代償は大きくとも、その分対価も相応以上に得てはいる。

 どう巡ろうとやはり懸念はマスターの魔力維持。過去のバーサーカーのマスター達の悉くが自滅したように、このままでは雁夜も同じ道を辿る可能性が高い。通常の魔術師を大きく上回る魔力量でも、本来弱小の英霊を強化する狂戦士の座に元から強力な英霊を招いた弊害は大きかった。

「いずれにせよ後悔したところで変わるものでもない。代償の分対価もでかい。ならばそれを有効に使う策を巡らせる方が建設的じゃろうて」

「……何か考えがあるのか」

「先程言ったはずだがな。足りぬのなら、他所から持ってくればいい」

「……俺に魂食いをやれと言うのか」

 サーヴァントの身体はエーテルで編まれている。それ故に魔力で肉体を維持出来るし、パスのオンオフで実体と霊体を切り替える事が出来る。
 魔力供給の手段は何もマスターからのものでなくとも良いのだ。一般の人間とてその身に宿す第二要素、ないし第三要素をその食事とすれば、サーヴァントに魔力を補給する事は可能なのだ。

 ただ問題なのは、その行いは余りにも人の道理を外れたものだという事。自らの願望を叶える為に、無関係な人間を犠牲とする事を許容出来るかどうか。如何に魔術師とはいえ、魂食いを容易に行えるような輩は、同輩に箍が外れていると見なされてもおかしくはない。

 雁夜にとって見ればそれはなお深刻な問題だ。生まれついてより魔道を歩んだ者ならいざ知らず、雁夜は十年前まではただ魔道の大家に生まれただけの人間に過ぎなかった。魔の道がどんなものかを知り、背を向けた雁夜にとって、人間としての常識は魔術師としての常識よりも深く心に根付いている。

 そして何より、桜を救う為に他の見知らぬ誰かを犠牲にしたと知った時、あの子はどんな顔をするだろうか。自らの足元に堆く積まれた屍の山を見ても、あの子は手に入れた幸福を甘受してくれるだろうか。

「ふむ……何やら勘違いしておるようだが、今は良い。その話は後回しだ。まずは昨夜の事とこれからの事を話しておかねばならん」

 雁夜は怪訝な面持ちで臓硯を見つめたが、表情からは一切の思惑が読み取れない。仕方なく、続きを促した。

「では雁夜よ。お主、何故昨日アーチャーを討たなかった?」

「……魔術師殺しの策に乗っかるのが不服だった。それじゃ不足か」

 確かにあの夜、前線に介入せず桜と共にアーチャーを狙っていれば、最悪でも相当の痛手を負わせる事が出来た筈だ。それをしなかったのは雁夜自身が天秤を私怨へと傾かせた結果であり、何よりあの姉妹が殺し合いをする場面など見たくなかったからだ。

 姉と妹が、聖杯を賭けて殺し合うなどという異常を雁夜は看過出来なかった。だから桜には足止めだけを願い、戦闘を避けるよう頼んだのだ。
 その間にバーサーカーが敵を一騎でも討ち取ってくれれば良かったが、そう簡単には事は運ばない。雁夜自身も戦場に介入しながら明確な結果を残せなかった以上、誰を責める事も許されない。

 全ては雁夜自身の心に蟠る甘さ。何を犠牲にしても桜を救うという願いに殉じ切れない心の弱さがその原因。バーサーカーの制御が完全ではないのもその辺りに原因があるのかもしれない。この心を冷徹な刃へと変えられれば、あの狂気もまた完全な制御下におけるのだろうか。

「……臓硯。やはり俺は魔術師殺しの策に乗り、アーチャーを打倒するべきだったんだろうか」

「いや……そうとは限らん。結果論でしか語れぬが、もしアーチャーを打倒しておったらアインツベルンの優勢が確定的になっておったやもしれんのでな」

 それぞれが二騎のサーヴァントを従えているという現状、一騎の脱落はほぼ趨勢を決するといっても過言ではない。ほぼ拮抗する三角形の一角が削り取られれば、瞬く間に残る一騎も刈り取られる事は想像に易い。

 そうなった陣営の取り得る選択肢は狭く、遠坂の一角を削った間桐に遠坂が協力を求める事は有り得ない。アインツベルンがもし遠坂を抱き込めば、戦力比は三対二。大勢は決してしまう。

 遠坂時臣がそこまでの凡愚とは思えなくとも、サーヴァントを失った遠坂凛を人質に共闘を迫るくらい、あの魔術師殺しならばやってのけるだろう。
 もしここまでのシナリオを衛宮切嗣が描いていたのだとすれば、雁夜の打った手は最善ではなくとも最悪を免れたと言える。

 恐るべきは衛宮切嗣の聖杯にかける執着か。

 何があの男を衝き動かしているのかは分からないが、決死の覚悟で時臣を殺しにかかった事といい、決して甘く見ていい相手ではない。下手を打てばこの間桐臓硯すら出し抜かれる可能性がある。

 ……そんな事はさせぬがな。

 この老獪とて今回の戦いには過去最大級の期待をかけて臨んでいる。雁夜と桜だけで足りぬというのなら、この臓硯もまたその知恵を巡らし魔術師殺しの上を行こう。伊達や酔狂で五百年の時を生きてきたわけではないのだから。

「まあ、結果としては無難に落ち着いている。膠着とも言えるが、分が悪いよりはマシじゃろうて」

 次いで、臓硯は今後の展望を語る。

「昨夜の一戦でどの陣営も前衛を務めるサーヴァントが疲弊しておる。セイバーとガウェインはバーサーカーとの戦いで消耗し、バーサーカー自体はほぼ無傷でも雁夜がこれでは後が続かぬ。
 故に今日、どの陣営も大きく動く事はせぬだろう。傷の少ないサーヴァントで偵察程度は行うかもしれんが、事実上タッグ戦の様相を呈す今回の聖杯戦争で、単独で動く事は不利益が大きいでな」

「休める時間があるのは正直有難い。が、それもアンタの推測だろう。敵が同じ結論へと至れば、あえてその隙を突いて来る可能性も考えられる」

 特にあの魔術師殺しは。

 昨夜の一戦もあの男がその土台を築いた上でのものだ。その結果が衛宮切嗣の想定通りではなくとも、裏を掻く事を常とする暗殺者ならばどんな悪辣な手段で攻めて来るか想像も出来ない。

 そしてもう一角。未だ姿を見せない魔術協会枠のマスター。御三家が二騎のサーヴァントを従えている事がほぼ確定的な現状、慎重になっているのだろうが、漁夫の利を狙うのならば今は好機の一つだと思われても仕方がない。

「まあ警戒するのは良いが、し過ぎても身体がもたん。休める時に休んでおけ。無理にこちらから攻め入る理由も今はあるまい」

 防衛に徹する限り、この屋敷はそれなりに堅固だ。サーヴァントの宝具に晒されればその限りではないが、現段階でそこまでの大事を仕掛けてくるような、後先の見えない愚か者はいないだろう。

 バーサーカーの脅威が知れ渡った事で標的にされやすいのは間違いがないが、正攻法では崩せない力があの黒騎士にはある。桜のサーヴァントも目を光らせているので、そう簡単には近づく事も出来ない筈だ。

 敵が攻めてくるとすれば、それはバーサーカーを撃破しうる策を構築し終えた後の事。今暫くの猶予はある。この僅かな休息を利用し、もう一手確実性の高い策を仕込んでおかない手はない。

「お主の警戒しておる衛宮も、今日に限っては動かぬだろうて。動いてしまっては、昨夜仕込んだ罠が意味を為さぬだろうからな」

 今後の展開については、やはりアインツベルンと遠坂の動きを見てからで充分だと臓硯は思う。衛宮切嗣が仕込んだ策と、それに対する遠坂の出方次第で間桐はその身の振り方を考えるべきである。

 今迂闊に動くのは得策ではない。足場をより強固なものとし、必要な時に十全に動けるよう策を巡らせる段階だ。

「では話は戻るがの。雁夜、儂はお主に魂食いをしろとは言わぬ。それよりも確実で安易な方法があるのでな」

 街の住人を無差別に喰らう魂食いにはリスクが伴う。監督役に目を付けられ、孤立無援に立たされる可能性がまず高い。
 そして臓硯も日に日に腐り落ちる身体を補う為、時折食事をしているが、雁夜に同等の真似を強要すればやり辛くなるし、何より雁夜との間に致命的な亀裂を生んでしまう。

 究極的な話をすれば、この間桐臓硯を殺せばそれで雁夜の願いは叶うのだ。この悪鬼を地上より完全に滅せば、二人は自由を手に入れられる。サーヴァントの力を以ってすれば、二百年を生きた妖怪とて一溜まりもない。

 それでもなお仕掛けて来ないのは、雁夜も桜も臓硯を恐れ、この男の生への異常なまでの執着を知っているからだ。
 今この客間に座す臓硯が本物である確証などない。本体ないし本物は何処かに潜み、悠々と場を俯瞰している可能性が極めて高い。

 そして雁夜も桜も臓硯がその気になれば身体の制御を奪い取られかねない事をもまた理解している。
 雁夜が蟲の秘術を修めたとしても、その始祖はこの悪鬼なのだ。制御を奪う方法など幾らでもある筈で、雁夜が気付かぬ内に臓硯の子飼いを寄生させられていてもなんら不思議ではない。

 桜にしても同様。一度だけ放り込まれた蟲蔵での記憶と、続く修練という名の責め苦は彼女の心に消えないトラウマを植えつけている。反抗の意思など芽吹かないよう、徹底的に調教を施されている。

 故に二人は臓硯を上回る力を手にしていながら、この悪鬼棲む魔窟と決別する事が出来ていない。臓硯を確実にこの世から葬る算段がない以上、聖杯を手に入れる方がまだ現実的で確実性がある。

 全ては間桐臓硯の掌の上。この屋敷で、マキリの呪縛から逃れる事は至難を極める。

「ところで雁夜よ、お主、出奔しておる間に投資をした事はあるか?」

「……? いや、ないが。その話と今の話がどう繋がる?」

「何、身に余るリスクはな、分散させておくものなのじゃよ」

 一瞬訝しんだ雁夜であったが、すぐさま臓硯の思惑へと至り、問い詰めた。

「まさか臓硯……貴様桜ちゃんに……」

「うむ。雁夜、お主と桜の間にパスを繋げよ。さすればお主の負担は一層減り、バーサーカーの十全の力を発揮出来よう」

 魔術師同士がパスを繋ぎ、魔力を共有出来るようにすれば、一方が重い負担を背負っていた場合にもう一方が肩代わりを出来たり、瞬間的に多量の魔力を必要とする魔術を展開する際に融通する事も可能となる。

 今回に限っていえば、雁夜が身に宿す蟲を含めた魔力量よりも桜が生来宿す魔力量の方が遥かに勝る。彼女自身もサーヴァントを従える身である以上、全てを賄う事は難しくとも一端を担う程度は充分に期待が出来る。

 バーサーカー以外のサーヴァントはその維持に然程の魔力を必要としない。マスターはあくまで現界の為の楔としての役目が主であり、サーヴァントを維持しているのは聖杯の負担の方が圧倒的に割合が大きいのだ。

 無論、サーヴァントに魔力を捧げれば捧げるだけその基礎パラメーターは上昇するが、生前を上回る事はない。唯一狂化によって生前を上回る可能性を持つバーサーカーのみが多量の魔力を必要とするのは、ある種必然とも言える。

 臓硯の提案はそう悪いものではない。桜の魔力を死蔵するくらいなら、バーサーカーの負担に回すのは決して悪い手ではない。

 しかし。

「ふざけるな……! これ以上あの子に重荷を背負わせてどうするっ! それにこれは俺が背負うと覚悟したものだ! あの子に背負わせるわけに行くものかッ……!」

 桜を守る為、強大な力を欲したのは雁夜自身だ。その為の代償を受け入れ、身の破滅の可能性さえも覚悟してバーサーカーを召喚した。
 それが今更になって自分だけでは維持が難しいから桜に一緒に背負ってくれなどと、一体どの口が言えようか。

 彼女を守る為に、彼女を救う為に彼女に犠牲を強いるなど、そんな本末転倒があって良いのか。

「確かに休養を挟みつつならばお主だけでも最後まで戦い抜けるやも知れぬ。だがこんな休息が今後も定期的に望めると本当に思っておるのか?
 遠坂時臣が、衛宮切嗣がお主の消耗の度合いを看破すれば、間髪を置かず攻め入ってくるのは当然だろうて。その時になって泣き言を言うつもりか? あの時、儂の提案を受け入れておけば良かったと、死の淵でそう思えば満足か?」

「…………ッ」

「あるいはお主自身が口にしたように無関係な人間を食らう覚悟があればまた話は別よ。要はバーサーカーを維持出来るだけの魔力さえ確保出来ればいいわけであるしな。それが桜だろうが見知らぬ誰かであろうが変わりはない」

 間桐雁夜は選択を迫られる。

 身に余る負担を意地に代えて一人で担い、破滅の道を歩むのか。
 守るべき少女に今まで以上の負担を強い、それでも自由を勝ち取る為と願うのか。
 無関係な誰かを食い散らかし、人の尊厳を捨ててでも勝利を望むのか。

「俺は────」



+++


 間桐桜は自室で椅子に腰掛け虚空を見据えている。
 それは普段と変わらぬ彼女の姿、間桐の人間からの命令がなければ彼女はずっとこうして窓の向こうに広がる世界を見つめている。

 いつもと違いがあるとすれば、それは彼女の心。無私の心で過ぎ行く時間に耐え続けるだけの彼女の心に、今日は渦巻く想いがあった。

 昨夜の戦い。対峙した少女。分かたれた半身。遠坂に生まれ、遠坂の家門を背負う遠坂凛──間桐桜の、実の姉。

 凛を恨む謂れはない。彼女もまたその父である遠坂時臣に歩む道を否応なく決定された被害者の一人に過ぎない。桜が恨むべきは己をこの奈落に突き落とした父であり、憎悪は父にこそ向けるべきだ。

 だが桜にはそれが出来なかった。幼少時、魔道とまだ関わりのなかった頃の父の姿を覚えている。魔術師としての側面を覗かせぬ父の姿を。
 その優しさに縋っている。今もってなお何故自分が間桐に送られたのか、彼女は疑問に思う事が稀にある。そこに父の願う何かがあっても、桜の現状は何一つ変わる事がないというのに。

 だから桜は凛の背中を追いかける。子供の頃の姿しか知らない父の背中よりも、学園ですれ違う、魔術師の顔をした姉にこそ憎悪はその矛先を向けた。

 自分が居てもおかしくはなかった場所。何か一つ、ボタンが一つ掛け違っていたら、二人の立ち位置は真逆であったかもしれない。
 いつ何時も変わらぬ凛々しさを湛える姉が憎い。常に俯き、視線を彷徨わせる自分とは違う、前を見据え続ける彼女が憎い。

 何故こんなにも自分と彼女は違うのか。あの姉もまた、この地獄に放り込まれればこの己と同じように暗く影を背負うのか。

“今度はちゃんと戦いましょう。そうすればきっと、お父さまもお喜びになるわ”

「…………ッ」

 その言葉を思い出す。桜の心に深く突き立てられた剣の碑銘を思い返す。

 魔術師として、その言葉はある種正当なものだ。この戦いが如何に戦争と名付けられていようとも、本来魔術師同士の争いはその身に刻んだ魔の薫陶の競い合い。積んだ研鑽の高さと深さを披露する場。

 だから凛の言葉は正しい。魔術師としてのあるべき姿だ。自らの刻んだ魔道を誇りに思うが故の、思っていなければ出てこない言葉。
 だから彼女には分からない。魔道を背負う事が苦痛である桜の悲鳴は、凛の心には届かない。

 ならばその身に知らしめよう。この身が刻んだ苦痛の数を。痛みを伴う修練の先に、望んだものが何一つなかった空虚を、望む事さえ叶わなかった絶望を、姉と──そして父に。

 凛の言葉は、皮肉にも生きる意義を失くしていた人形に息吹を吹き込んだ。たとえその形が歪で捻じ曲がっていようとも、凛の言葉は桜の心に深く深く刻み込まれた。憎しみは、最も明確な感情の彩。

 憎悪を糧に、人形は自らの足で歩き出す。

『サクラ』

 姿なき従者の声を聞く。その声に含まれた感情を察し、静かな声で答える。

「うん、大丈夫。私は大丈夫だから。だからお願い、貴女の力を貸してライダー」

『はい、私はサクラの助けとなるべく喚ばれた者。貴女を守る事に、一片の戸惑いもありません』

「ありがとう、ライダー」

 孤独に道を歩いてきた桜にとって、初めてともいえる明確な味方。雁夜は多分に桜に肩入れをしてくれているが、それでも間桐の人間である以上、彼女は全てを委ねる事は出来ていない。

 自らの腕に刻まれた三画の令呪だけが繋ぐ、けれど確かな絆。その細い糸を頼りに、少女は闘争の渦へと身を投げる。
 自らを捨てた父と姉に、これまで鬱積され続けていた感情の全てをぶつける為に。

 その果てに、“何か”があると信じて。


/15


 あの瞬間、確かに死を覚悟した。

 屋上を覆い尽くした炎の海を越え、携えた銃の銃口がこちらを捉えた時、遠坂時臣は生まれて初めて確実な死を予期し観念した。

 魔術師とは常に死を傍にあるものとして諦観する者。果て無き道を絶え間なき苦痛といずれ来る死の恐怖と共に歩む者。
 それは魔術師が魔術師としてある為に、第一に観念すべきもの。時臣も当然にして、魔道に足を踏み入れると決意した時に心に誓いを立てている。

 それでもあそこまで明確な死を突き付けられた事は一度としてなかった。魔術師同士の争いに巻き込まれ、死を隣に感じた事はあっても、あれほどの恐怖を味わわされた事は一度としてなかった。

 衛宮切嗣が如何に近代兵器で武装していようとも、あの時確かに、時臣は魔術師として敗北した。渾身の炎は敵を焼き尽くす事叶わず、対するあの男は死をすら踏み越えて時臣を殺しに来た。

 違いがあったとすれば、それは覚悟の差。あの男が何を願い聖杯を欲しているのかは知らないし、知りたいとも思わない。
 それでも衛宮切嗣の覚悟だけは本物だ。命を賭し、死をすら賭し、この街に集う祈り持つ者全てを踏み越えて聖杯を掴むという覚悟があった。

 ではこの遠坂時臣はどうだ。家督を譲ったも同然で、娘の凛は既にして時臣を上回る力量を有する傑物。聖杯にすら令呪を与えられなかった男が、物見遊山で戦場に顔を出していたのではないか。

 娘の力となる為、助けとなる為に杖を執ったこの己が、一番覚悟が足りなかったのではないのか。

「…………認めよう、私は自惚れていたのだと」

 ただ努力の果てに掴み取った椅子の座り心地の良さに甘んじ、娘の溢れる才を目にし鍛え上げ、己の役目は既に果たしたのだと弛んでいた。
 戦いの勝敗を分けたのはその覚悟の差だ。保身に走り、最後の一歩を踏み出せなかった者と、決死の覚悟で踏み抜けぬ筈の一歩を踏み抜いた者の、僅かな────けれど決定的な覚悟の差。

 父である事を忘れ、成功者としての自負を捨て、あの頃──ただひたすらに前を向き走り続けていたかつての己へと立ち返らねば、あの男は超えられない。全てを金繰り捨ててでも一歩を踏み込む覚悟がなければ、衛宮切嗣には届かない。

 ならば捨てよう、この誇りを。
 ならば捨てよう、この信条を。

 ただ全ては勝利の為。
 ただ全ては悲願の為。

 この身は今一度ただの一魔術師となり、死を想い、立ちはだかる全てを踏み越えてみせよう。その果てにこそ、今の自分が望む全てのものがあると信じて。

「間桐雁夜にも借りを返さねばな。だがまずは────」

 ただの一魔術師に立ち返ろうと、その肩に担う責務は消えてはくれない。昨夜の一件の始末は監督役たる言峰綺礼に一任はしているが、この街の管理を預かる者として報告を受けておかねばならない。

 時刻は早朝。
 小鳥の囀りがカーテン越しに聞こえる良く晴れた朝。

 優雅を信条とする遠坂時臣が、戦いの後から一睡もなく書斎で物思いに耽り続けていた異常を咎める者は誰もなく。
 娘の凛はそろそろ起き出す頃合だが、その前に顔を洗い身支度を整え、普段と変わらぬ己を演出した後、時臣は書斎へと戻り通信機のスイッチを入れた。

「綺礼、聞こえているのなら返事をして欲しい」

 時間帯は早く、昨夜の始末をもしなければならない綺礼がこの呼びかけに応えてくれる可能性は低いと時臣は見ていたが、数秒ほどの後、ノイズと共に返答が来る。

『はい、導師。聞こえております』

「ああ、朝早くに済まない。昨夜の処理状況について確認しておきたいのだが、今時間は大丈夫だろうか」

『はい。こちらは問題ありません。隠蔽工作なども既に済ませておりますので、報告にも問題ありません』

「そうか。仕事が早くて助かる。では疲れているところ悪いが、報告を頼む」

 はい、との返答の後、綺礼は抑揚のない声で語る。

 昨夜の一戦は時臣が事前に結界を敷いていた甲斐もあり、隠蔽工作は最低限のもので済んだ。
 被害状況は、埠頭近くの廃工場が一棟、オフィス街のビルが一棟、同建設途中のビルが一棟。全て衛宮切嗣が仕掛けていた爆弾により破壊されたものだが、周辺への被害はなく、人的損害は────

「ゼロ……だと?」

『はい。オフィス街の二棟は元より埠頭の廃工場についても民間人の死傷者はゼロです。鎮火、隠蔽に当たった教会スタッフに話を聞いたところ、魔術の痕跡が微かではありますが確認されたの事。
 これらから類推するに、事前に結界の類で、人避けを行っていたのではないかと思われます』

 つまりは全て魔術師殺しの掌の上。廃工場の爆破は時臣に対する挑発でしかなく、人的被害、神秘の漏洩を行っていないのなら、監督役から罰則を言い渡す事も出来ない。
 被害の規模は新聞の一面を飾るに相応しいものであっても、これではせいぜい厳重注意程度しか行えない。それ以上の介入をしてしまえば、聖堂教会と監督役が中立としての立場を逸してしまう。

 如何に時臣が管理者として諫めようと、神秘の秘匿という大前提が守られている限り、中立者は動けない。

「……だが、昨夜の一件で衛宮のやり口は確実に参加者連中に伝わった筈だ。破壊された三棟の建物のように、自らの棲家がその標的とされる可能性を考慮すれば、捨て置けるものではない」

 御三家の屋敷はどの家も一筋縄では行かない結界や罠が張り巡らされている。おいそれと魔術師殺しの侵入を許すとは思えないが、一体どんな手段で仕掛けてくるか分からない以上は警戒を緩める事は許されない。
 それならばいっそこちらから仕掛け、機先を制するのも一つの手だろう。

「ただ……それすらもあの男の掌の可能性があるのが煩わしいところだな」

 時臣を挑発する為の廃工場はともかく、ビル二棟は破壊せずに済ませられた筈だ。確かに戦場からの離脱に一役買ったのは間違いがないが、その為だけにあれだけの仕掛けを施すのは割には合うまい。
 ならばそこに仕掛けられた策略とは、自らのやり方を知らしめ、優位を築ける自陣へと引き込もうという狙いがあるのではないか。

「であればやはり、アインツベルンの従える二騎目のサーヴァントはキャスターか……?」

 陣地構築のスキルを有するキャスターの工房を陣営の拠点とするのなら、引き込もうとする意図は分かりやすい。最優の盾もあるのだ、易々と魔術師の英霊の首を取れるとは思えない。

「…………」

 それすらも罠ではないか? と勘繰るのは最早行き過ぎなきらいもあるが、あの魔術師殺しなら幾重の策を巡らせていても不思議ではない。警戒してし過ぎるという事もない。それは時臣自身が身を以って経験したものだから。

「とはいえ、ガウェインも相応に痛んでいる。仕掛けるにしても一日程度は休息が欲しいところだろう」

 魔術師の工房に挑もうというのなら、万全の状態でなければならない。それが英霊の手によるものなら尚更だ。幸いにも鷹の眼を持つアーチャーは無傷に等しい。屋敷の防衛に関してはとりあえずの問題はない。

「凛にも意見を聞きたいところだが……まあ結論は恐らく変わるまい。綺礼、我が陣営は今日一日を休息に当てる事にする。何か異論は?」

『いえ、特には』

「そうか。では私は衛宮切嗣を打倒する為の準備でもしておこうか。君は何か予定はあるのかね?」

『昨夜の戦後処理は既に済ませておりますので、これといった用事はありません。強いて言えば少し調べたい事があるくらいのものです』

「調べ物……? 何か手を貸す必要はあるかな」

『いえ、以前頂いた書類を引っ張り出す程度の事ですので、導師の手を煩わせるほどのものではありません。今日を休息日に当てられるのでしたら、どうぞ御自愛下さい。戦いはまだ始まったばかりなのですから』

「ああ、痛み入るよ綺礼。ではこれで失礼するとしよう。朝の早くに済まなかったな、君も休んでくれ」

 綺礼の返答を聞き届け、宝石仕掛けの通信機のスイッチを切る。さて、と時臣は書斎を辞し、地下工房に向かう事とした。
 凛にも今日の決定を伝えなければならないし、やるべき事もある。休息日と定めても日がな一日ベッドで横になっているような暇はない。

 この一日を後悔のない日とする為、遠坂時臣は行動を開始した。



+++


 時臣との通信を終えた言峰綺礼は、知らず溜息を一つ吐く。

 深夜に行われた戦闘とその後処理は朝方まで続けられ、綺礼自身が現場で作業を行う事はなくとも、その指示統括を任されているのだから先に眠るというわけにもいかない。隠蔽の規模の大きさからも、関係各所へと伝達や偽の原因をでっち上げたりとやるべき事は多かった。

 徹夜が苦ではなくとも、人を統べて動かす事を得手とはしない綺礼にとって見れば、この一夜は酷く肩の凝る思いだった。
 それも管理者たる時臣への報告を済ませ、朝刊に無理矢理捻じ込んた虚偽の文言が一面を飾っている事を確認し、ようやく人心地つけるようになった。

 自室のソファーへとその重い腰を下ろす。そのまま目を閉じて身体を休めたいところではあったが、最後の仕事とばかりに手を伸ばす。
 室内には人工の明かりはなく、燭台の蝋燭の炎を頼りに、綺礼は十年以上も前に時臣から譲り受けた書類へと目を通し始める。

 それは第四次聖杯戦争が十年前に行われる事を前提として収集されていた、当時のマスター候補者達の素性を洗い出したもの。時臣が時計塔の知人を頼って掻き集めた得られる限りの情報だ。

 あれから十年も立てば趨勢は変化し、マスター候補者自身も入れ替わったり、情報自体が古く意味を為さないものが大半だ。それでも綺礼はその中から事前に当たりを付けていた人物のものだけを抽出し、目を通していく。

 その人物とは衛宮切嗣。二十年近くも前にアインツベルンに召抱えられた、フリーランスの傭兵。魔術師殺しの異名で畏怖され、今この冬木で行われている聖杯戦争において、最も危険な人物。

 綺礼が夜通し行った隠蔽工作も、全て衛宮切嗣が発端となったもの。奴が建物を爆破などしなければ、もっと簡単に、楽に処理を済ませられていた筈だ。

 時臣は切嗣を含む参戦者の情報をこの戦いが開かれる前に収集している。綺礼が用があったのはこの十年の間の変化ではなかった。アインツベルンに招かれて以降、なりを潜めた男に興味などなかった。
 綺礼が求めたのはそれ以前。二十年より前の、戦場を横行していた時代の切嗣の情報だった。

 魔術師殺しとして名を馳せ、協会からの依頼を受ける傍ら、紛争地帯に頻繁に足を運んでいた事がその経歴から窺える。当時この情報を見た時の時臣の反応は、傭兵の小金稼ぎ程度と深く考察すらしなかったが、綺礼は感じていたのだ。

 ただ金欲しさの行動にしては、その間隔が余りに狭すぎると。

 一つの紛争地帯で依頼を遂行しながら、次の戦場に向けての準備をも同時に済ませるなど常軌を逸している。戦場とはそんなに甘いものではない。今を生き残る事に誰もが必死になっているというのに、この男だけが先の先をも見据えて動いている。

 その介入も戦闘が激化した時ばかりを狙い撃つように行われている事も不可解だった。まるで死地に赴く事に脅迫観念を抱いているかのよう。

 傭兵稼業はリスクが高い分、割も良い。こんな契約と契約の隙間さえもない、それどころか複数同時などという強行軍で予定を組むメリットなどない。如何に自分の腕に覚えがあっても、これではリスクは高まるばかりだ。

 だから綺礼は断定した。衛宮切嗣は金を目的に紛争地帯に介入していたのではない。名声欲しさに異端狩りを行っていたわけではないと。

 では一体何を求めてこれ程の試練を己に課しているのか。

 十年前の綺礼はそこで思考を停止した。己の歪みを知り、世界との間にある溝を理解して何に対する関心をも失っていた綺礼は、まるで目を背けるように切嗣の遍歴の奥にあるものを見つめることをしなかった。
 あらゆる苦行に意味はなく、求め欲した答えは何処にもない。死ねないが為に生きている真似事をしていた綺礼では、そこまでの興味を抱く事が出来なかった。

 だが今は違う。十年遅れの第四次聖杯戦争は既にその戦端を開かれ、参加者達は誰もが争乱の渦に自ら踏み込んでいる。そしてその渦の中心、渦中に立ち戦局を動かしているのは他ならぬ衛宮切嗣だ。

 これまでの戦いは全て、衛宮切嗣によって誘導されている。初戦は奴の挑発がその発端であり、二戦目もまた奴がその場を整えている。
 昨夜のビル倒壊は恐らく、第三戦目を自陣で行う為の布石。時臣が語ったように、自らの悪辣さを見せつけ罠へと誘い込む為の一手だ。

 戦いの趨勢を見ても、全体ではバーサーカーを擁する間桐陣営が強力だが、遠坂を含めこの二家は既に全サーヴァントを戦場に投入している。
 対してアインツベルンはセイバー単独で彼らと切り結び、なお致命傷を被る事なく生き延びている。

 今一番恐れるべきなのはアインツベルン、そして衛宮切嗣だ。最優のセイバーと衛宮切嗣の計略、そこにもう一騎サーヴァントが加われば、今は拮抗しているように見える天秤がどう傾くか、分からない。

「──衛宮切嗣。おまえは一体何を求めて、この戦いに身を投じた」

 死と隣り合わせの戦場で生き足掻くように何かを求めているその様は、かつての己、若かりし頃の自分自身に酷似している。
 まだ世界には救いがあると信じられていたあの頃、ありとあらゆる苦行の中で答えを探し求めていた己の姿と、衛宮切嗣の過去はまるで鏡合わせのように映る。

 今もってなお綺礼の心にぽっかりと空いた空虚を埋めるものはない。だが切嗣は違う。確固とした信念と目的を抱いて、この戦いに命を賭けている。
 ただ理由も分からぬままマスターとなった己とは違う。聖杯に願う祈りを宿し、衛宮切嗣はこの死地へと踏み込んだのだ。

 似通った過去を歩みながら、ならば綺礼と切嗣は何が違う。何が食い違い、こんなにも明確な差が生じたのか。

「その分岐点にあった何かが、私が探し求めたものであるのなら──」

 世界の全てに無関心だった男の心に灯る、炎の色。戦場で何かを捜し求めていた男が二十年の静寂を破り、かつてない覚悟を以って聖杯に手を伸ばす意味。言峰綺礼の心の中には存在しなかった何かを、この男は抱いているのか……?

 今はまだ分からない。その奥にまでは手が届かない。ただそれでも、何に対しても関心を抱けなかったこの心が、確かに心惹かれたのだ。

 ならば追いかけよう、その果てへと。
 この戦いの先に“何か”があるのなら、それを見てみたいと願うから。

『御免下さい』

 その時、壁越しに来訪者の声を聞く。

 綺礼の私室は特殊な構造になっており、礼拝堂での会話が聞こえるようになっている。今この時のように礼拝堂に教会の者が不在でも、この部屋に居れば対応が出来る造りになっており、事務作業をしている時などに重宝する。

「ふむ、来客か」

 聖杯戦争が開幕して以来、この冬木教会周辺には簡易な結界が敷かれている。人払いの類だが、信心深い者ならば潜り抜けられる程度の弱い結界だ。
 しかしこの時分、そんな参拝客は滅多に訪れない。ならば今ほど訪れた者は如何なる人物か、類推するのは容易い。

 どのような客であれ、常に扉の開かれている神の家を訪ねた者を無碍に追い返すような事はあってはならない。それは神の教えと決別した綺礼であっても、生まれてよりずっと教えられ続けて来たものであるが故、反故にするような選択肢はなかった。

 手にした書類をはらりとテーブルの上に落とし、綺礼は重い腰を上げた。
 いつの間にか眠気はなく、普段と変わらぬ佇まいで、神父は自室を後にし礼拝堂へとその足を向けた。



+++


 綺礼が礼拝堂に赴き、訪問者の顔を目視した瞬間、彼の者が信心深い参拝者である可能性は一瞬にして霧散した。
 対峙した瞬間に分かる怜悧な気配。戦場に身を置く者だけが嗅ぎ分けられる血の薫り。何よりもその瞳が、圧倒的な意思を秘めて綺礼を見上げていた。

「早朝に失礼します、言峰神父。私はバゼット・フラガ・マクレミッツ。魔術協会より派遣されたマスターです」

 単刀直入、余計な言い回しもなく、簡潔に自己紹介をしてみせたバゼットを名乗った男装の麗人に、綺礼はふと、違和感らしきものを覚えた。

「……マクレミッツ。その名は聞き覚えがあるな。それに、君とは何処かで出会っているような気がしている」

「そうですね。私は魔術協会の封印指定の執行者として。貴方は聖堂教会の異端狩りの代行者として。何度か同じ標的を狙い剣を交えた事もあります」

 当時の綺礼は何にも関心を抱かず、ただ下された命令に唯々諾々と従い続ける人形のようであったから、覚えが薄いのも無理はない。それでも記憶に引っかかる程度に覚えているという事は、相当の腕利きには間違いない。

「ふむ……そうか。いや、挨拶が先だったな。マクレミッツ、ようこそ冬木教会へ。歓迎しよう。例年通り、監督役に参加を表明する者は少なくてね。既に戦端は開かれているが、こうして訪れてくれた事を嬉しく思う」

「いえ、こちらこそ顔を出すのが遅くなって申し訳ない。仮にも魔術協会の名を背負う者が筋を通さないのは如何なものかと思い、こうして訪ねた次第です。それと、幾つか訊きたい事もありましたので」

「神父としての私に対してならば、如何なる問いにも答えるが、まあそれはあるまい。監督役としての私に対しての質問であれば、答えられるものであれば答えよう」

 言いつつ祭壇へと上った綺礼はバゼットに長椅子への着席を促すも、彼女は応えず立ったまま問いを口にした。

「ではまず一つ。監督役の立場である貴方なら既に知っているでしょうがこの聖杯戦争、御三家の者達がそれぞれ二騎のサーヴァントを従えているようだ。中立の立場にある貴方に問いたい。これを一体どう思うのか」

「別段何も。マスターの資格たる令呪を託すのは聖杯の意思だ。それだけのマスター候補を用意した御三家の面々の功労だろう。中立である以上、正式にマスターとなった者達に言うべき事は何もない」

「例えばそれが、不正な手段で得たマスターとしての資格だとしても?」

「それを立証し証明出来るのなら、話はまた違う。御三家の者達が組み上げたシステムを彼ら以上に解せる者がいるのなら、あるいはと言ったところだが。マクレミッツ、まさか君が御三家の不正を暴くと?」

「いいえ。私にそんな腕はありませんので。そもそも彼らが不正を行ったという証拠は何処にもありませんから」

 バゼットは表情を変えずそんな事を言った。自分から話を振っておきながらその結論は余りに無意味なものだが、綺礼は素知らぬ顔で続けた。

「まあ確かにこの聖杯戦争、二騎のサーヴァントを従えている御三家の者達が優位にあるのは間違いない。孤立を強いられている君に同情は禁じえないが、立場上手を貸す事は出来ない」

「ええ、それもまた期待していませんので、お気遣いは無用です」

「…………」

 話の狙いが見えて来ない。

 実際バゼットの置かれている立場は傍から見れば開始時点からして既に背水。戦場で不用意に立ち回れば即座に狩られかねないくらいに危ういものだ。だというのにバゼットには気負いがない。彼女の気質もあるのだろうが、余りに自然体過ぎて余計に何かがあるのではと疑いたくなるほどだ。

 それにバゼットの立場は完全に不遇というわけでもない。三勢力が拮抗している現状、彼女が何処か一勢力に肩入れすればそれだけで状況は大きく動く。一人と一騎で御三家を敵に回すよりは、生存する確率が高く見込まれる。

 その旨をせめてものアドバイスとして綺礼はバゼットへと伝えると、

「そうですね、それも一つの戦術としてはアリだ。ただまずは、我々の力を試してみたい」

「何処か狙いでもあるのかね?」

「昨夜の戦いでどの陣営もそれなりに疲弊している。今日一日に限っては無理に攻め込もうとはしないでしょう」

 それは綺礼も同じ見解であり、時臣もまた静観の体を明言していた。今彼女が仕掛けるのなら、穴熊を決め込んだ連中の鉄壁の門を破らなければならない。

「我々はこの後アインツベルンに対して仕掛けるつもりです。未だ姿を見せない最後のサーヴァントの正体を見極めなければ、今後についての対策も練りにくい」

「……結構な事だが、何故それを私に?」

「いえ、理由など特には。ただ中立である貴方に話したところで、誰の耳に漏れる事もないだろうと思ったまでです」

「…………」

 これで綺礼は事実上釘を刺されたも同然だ。アインツベルンに対しては間桐も遠坂も監視の目は置いているが、此処で露骨にバゼット達を追えば綺礼にあらぬ疑いをかけられる事になる。

 綺礼と時臣の内通を疑っているのか、ただ予防線を張っただけなのか、核心までは掴めないが、綺礼の行動の選択肢を幾つか封じられたのは確かだ。
 ただ今は、監督役としてこれより戦場に赴こうという戦士に労いの言葉をかける事が先決だ。

「そうか、では君達の健闘を祈らせて貰うとしよう。アインツベルンの拠点とされる街西部に広がる森は広く深い。どんな罠が待ち構えているかも不明だ。用心してし過ぎるという事もあるまい」

「ええ、ご忠告痛み入ります。彼の魔術師殺しが根を張る城に挑もうと言うのだ、こちらも万端の準備で臨むつもりです」

 それで用件は済んだとばかりにバゼットは踵を返す。

「ではこれで失礼します。言峰神父、良い聖杯戦争の運営を期待します」

「さらばだマクレミッツ。サーヴァントを失った時には、すぐにもこの場所へと駆け込みたまえ。死んでなければ治療を施すし、戦いの終了までの安全を約束しよう」

 汝、聖杯を欲すのなら己が最強を以って証明せよ────

 そんな綺礼の謳い文句を背に受け、バゼットは教会を去る。その門扉が閉ざされた事を確認した後、綺礼もまた礼拝堂に背を向けた。

「どうにも読めないところがある女だったが、まあいい。とりあえずは時臣師に報告だ」

 この情報をどう扱うかは時臣次第だ。自分達が不利益を被りかねない無茶をする程時臣は愚かではない。
 バゼット・フラガ・マクレミッツと一度も姿を見せなかったサーヴァント。彼女らの行く末が、この聖杯戦争の命運を分けるのかもしれない。

 綺礼はふと、そんな事を思ったのだった。


/16


「さて。これで監督役への挨拶も済み、煩わしい用事は全て終えた。では二人とも、そろそろ私達の戦いを始めるとしましょう」

 冬木教会で監督役である言峰綺礼と顔を合わせた後、閑静な住宅街を貫くなだらかな坂道を下りながら、姿のない二人の従者へと声を掛ける。
 けれどどれだけ待とうとも返答はない。不思議に思ったバゼットは前方への注意を怠らぬまま、肩越しに視線を後ろへと向けた。

「どうしました二人とも。何か問題でも?」

『いや……』

 最初に口を開いたのはランサーだった。

『バゼット、あの男には気を付けておけ。上手く言えねぇが、不吉なもんを感じた』

『癪だがオレも同意見だ。あんな目をした奴に、ロクな輩がいるわけがない』

 感情の読めない瞳。渦を巻いたような黒。視線は正面に立つバゼットを見ているようではあっても、その実何もを映していないかのような無関心。実体を持った幽霊という比喩がしっくりと来る。
 腐っても英霊である彼らから見れば、あの男──言峰綺礼はその反対に属す存在にも感じられた。

「そうでしたか? 誠実そうな男(ヒト)に見えましたが」

『まぁ、上っ面だけならな。だがあの手の手合いは止めておいた方がいいぜマスター。アンタじゃちと荷が勝ちすぎる』

『都合良く利用されて、飽きられたらポイッてな感じになりそうだな』

「一体何の話をしているんですか……」

 はぁ、と大きな溜息を吐いた後、バゼットは仕切り直す。

「まぁ、二人からの忠告だ、気には掛けておきます。ではこれよりアインツベルンの森へと向かいますが、何か異論は?」

 既に昨夜の時点で今日の日程は取り決めてある。二人にも了承を得ているので、これはただの最終確認に過ぎなかったのだが、

『バゼット、悪いけどちょっと寄り道してもいいか。ついでに頼みもある』

「何ですかセイバー(・・・・)。他にも気に掛かる事が?」

『いや、酷く個人的な都合なんだが』

 何処か言いにくそうに言い澱み、それから意を決してセイバーと呼ばれた少女は告げる。

『服が欲しい』

「…………理由を聞きましょう」

『霊体化してるのは何か変な感じだ。地に足がついてないと落ち着かない。どの道オレはアンタの魔力で現界してるわけじゃないんだ、いいだろう?』

 霊体と実体を切り替えられるサーヴァントのメリットを自ら捨てるその非効率さを、何よりも効率を重視するバゼットは一言に切り捨てようとしたが、

『お、いいねぇ。おいバゼット、俺にも服買ってくれ。アンタの素質ならちっと実体化してても問題ねぇだろ?』

「……二人とも、我々は遊びで此処にいるわけではない。もう少し真面目にして下さい」

『完全にデメリットがあるってわけでもねぇだろ? 実体の方がアンタを守りやすいし、敵からの攻撃にも対処がしやすい。別に遊び場に連れてけとは言わねぇよ。やる事をきっちりやるのが俺の性分だ』

『こっちも同じだな。どの道円卓連中にはオレの顔は割れてる。“不貞隠しの兜(シークレット・オブ・ペティグリー)”の効果じゃ完全には素性を隠しきれん。一度顔を合わせてしまえばそれまでだ。なら別に、そこまで不利益があるものでもないだろう?』

 武装状態のモードレッドを見られてしまえば、生前面識のある円卓の騎士の面々に隠し通せる道理はない。バーサーカーのように鎧を含めた全てに対して認識阻害の効果があれば話は別だが、彼女の兜にそこまでの隠蔽能力はない。
 その分汎用性はあるが、どの道この冬木での聖杯戦争においては完全な効果は望めない。

「……まったく。昨日はあれほどいがみ合っていたというのに、何故今日はここまで結託しているのか。まあいいでしょう。二人の服を購入した後、アインツベルンの森へと向かいます。
 それと、各自自分の服は自分で見繕うように。その手の事に私に期待するのはナンセンスです」

 後ろから聞こえる歓喜の声になお深い溜息を吐いた後、バゼットは歩を早める。

「こちらは貴方達の要求を呑んだのです、貴方達にも相応の働きを期待しますよ」

『おう、任せろ』

『問われるまでもないさ。なんて言ったって────』

 これより向かう森に待つのは、モードレッドの実父アーサー。
 自らの父が治める国の玉座を簒奪せし子が、数奇なる命運を経て、今再びこの時の果てで巡り会う。

 アインツベルンに仕掛けよう、という提案も元を正せばモードレッドの提案だ。素性の知れない、という意味では間桐のもう一騎のサーヴァントも同様であるのに、アインツベルンに挑むのは彼女の提案が決め手であった。

 無論、バゼットには彼女なりの腹案がある。理由なき挑戦を無謀と呼ぶのなら、この行軍は意義のある挑戦だ。

 人知れずモードレッドは震える掌を握り締める。
 それは緊張か、興奮か。
 彼女自身己の心を解せぬまま、三度開かれる戦端に向けて──運命の車輪の回転は加速していく。



[36131] scene.08 魔女の森
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/03/08 19:53
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 陽が高く昇る頃合。
 アインツベルン城一階にあるサロンには、マスターとサーヴァントの全てが揃っていた。

 昨夜の一戦を終えた後、切嗣とセイバーはこの城へと戻り、休息を行った。キャスターの補助さえあれば移動に掛かる時間は大幅に短縮出来る。切嗣が見据える次の作戦の為にもこの城への帰還は必要な事だった。

 セイバーのダメージはほぼ完治している。彼女自身が宿す膨大な魔力と精製能力は他のサーヴァント達を凌駕しており、自然治癒力も比例して高い。通常の戦闘を行う上での支障はない。

 切嗣自身もまた、疲弊やダメージはない。固有時制御──魔術師衛宮切嗣の秘奥とも呼べるその魔術の使用によるダメージ、世界よりの修正も彼が体内に内包する聖剣の鞘の治癒能力により瞬きの間に完治する。

 セイバーが召喚されてから北欧の冬の城を発つまでの二週間余りの間に、切嗣はどの程度までの負傷を無視出来るかを既に検証している。

 生身の状態では二倍速でもなお時間加速による内外時間の修正のダメージは色濃く残る筈が、聖剣の鞘の加護さえあれば三倍速を用いてもなお身体に欠損はない。
 通常時に三倍の加速を行えば、骨は砕け筋繊維は断裂、内臓器官にも深刻なダメージが残ると想定されていたが、鞘の力はその全てのダメージを一瞬にして治癒した。

 勿論あくまで驚異的な治癒で負傷を治すだけで、ダメージ自体がなくなるわけでもなく実際に被るし、治癒してなお痛みの残滓は身を苛む。
 それでも切嗣はそれを良しとした。本来ならば届かぬ領域に足を踏み込める。痛みに耐えるだけでこの身はより一層の高みへと手を伸ばせる。

 ありとあらゆる覚悟をした。死をも恐れぬ覚悟を。身体の機能が維持し続ける限り、この足が折れぬ限り、衛宮切嗣はひたすらに聖杯の頂きへと駆け上がる。

 昨夜の戦闘結果についてはある程度の情報共有を既に終えている。終わった戦いにいつまでも囚われても意味がない。逃した獲物は大きいが、ならば次はより確実を期し討つまでの事。その方策も既に仕掛け終えている。

 そして今彼ら、アインツベルンのマスターとサーヴァントが顔を突き合わせているのは切嗣が舞弥から連絡を受け取ったからだ。
 久宇舞弥の役目は切嗣のバックアップ。彼の行動のサポートだ。セイバーと実際に行動し戦場に立ち向かう以上、他の事については疎かになりがちだ。

 敵の追跡や監視の目、立てた作戦の進行具合を客観的に見れる第三の目──それが久宇舞弥の役目だ。

 この朝に齎された情報もまた彼女の地道な支援が実を結んだもの。その情報とは、今まで静観を決め込んでいた第三勢力、外来組に動きがあったとの報告だ。

「教会に仕掛けていた使い魔の目を通し、魔術協会推薦のマスター……バゼット・フラガ・マクレミッツの姿を確認したとの情報が入った」

 中立を謳う教会に監視をつけるなど本来は許される行為ではないが、時臣と綺礼の内通が疑われる以上は野放しにする事も出来ない。監視というよりはただの観察という程の距離を保って放たれていた使い魔の目が、教会を訪れるバゼットの姿を捕捉したのだ。

「その魔術師(マスター)の力量の程はどのくらい?」

 キャスターが問う。

「魔術協会の封印指定の執行者。協会上層部も煙たがるほどの名家の出であり、その戦闘能力も相当に高い。主な使用魔術はルーン。自身にルーンを刻み、肉弾戦を得手とする武闘派の魔術師だ」

「魔術師が肉弾戦……? 現代の魔術師は随分と野蛮なのね」

 神代の魔術師であるキャスターにしてみれば、それは青天の霹靂のようなものだ。魔術師が戦闘を行うのなら、敵を近づかせずに斃す。自ら相手に接近し、負わなくていいリスクを負う理由はない。

 事実、相当に腕に覚えのある魔術師であってもキャスターに一歩も近づく事すら出来ずに斃されるだろう。そういう手段があるのに、わざわざ肉弾戦を用いる理由が彼女には心底から理解が出来なかった。

 まあそれも、目の前に近代兵器で武装する魔術師がいるのだから今更だ。この男に比べれば、まだ魔術のみ戦おうとするだけバゼットなる輩の方が余程魔術師らしい。

「そのマクレミッツがこちらに向かっているという情報もある。つまりこれから、僕らは彼女らを迎撃しなければならない」

 本来衛宮切嗣が仕掛けた罠──ビル倒壊による拠点破壊の憂慮は、間桐と遠坂に向けたものだ。森に仕掛けてくるのならこの二家のどちらかだろうと踏んでいたのだが、当ては外れた。

 昨夜の戦いの消耗もある。海浜公園やオフィス街の戦いのように、地形的有利が誰にもないフィールドではなく、明確にこちらに地の利のある戦場なのだから慎重になるのも当然と言える。

 現在のところ遠坂と間桐に動きはないとの事だ。が、こちらも戦端が切られた今では形骸化しているも同然だ。
 サーヴァントが拠点の守護をしている限り、不用意に使い魔を近付かせる事さえままならない。教会と同程度に距離を保ち観察に留めているに過ぎない。

 舞弥からの報告も、正面玄関には異常は見られない、という程度。裏口や魔術を用いた高位の隠匿を行い外出を行った者までは完全には把握出来ない。
 つまりバゼット達だけでなく、予期せぬ第三者がこの森へと侵入して来る可能性は充分に考えられるが、今はまず目の前の敵の分析と対応を行うべきだ。

「舞弥が教会でマクレミッツを目撃してから既に数時間。この森に向かっているのならそろそろ捕捉出来る筈だ、キャスター」

「はいはい、分かってるわ」

 サロンの長机の上に置かれた水晶球。それは遠見の魔術で用いる代表的な触媒だ。占い師が水晶に手を翳し、対象を占うというのもこの辺りが起因となっているようだ。無論、街中に暮らす占い師の殆どは魔術とは無縁の者達だが。

 アインツベルンの森にはキャスターの仕掛けた結界の他にアインツベルン術式で組まれた結界が敷かれている。ただ、イリヤスフィールは純粋な魔術師ではなく、キャスターがこの森を工房化する際に手を加えている事もあり、キャスターに任せるのが確実だとこの場の誰もが承知していた。

 キャスターの遠見の有効射程はこの城から半径十数キロ。森に敷かれた大結界の全てが彼女の掌の上だ。敵の存在を感知していない事から、まだ敵は森に踏み入ってはいないようだが、近隣にまで迫っているのなら捕捉出来る可能性がある。

 水晶球の上に掌を翳したキャスターが何事かを呟くと、発光の後に水晶には遠く森の風景が映し出され、定点カメラの映像を切り替えるように、目まぐるしく映像がスライドしていく。

 そして、水晶球に映る風景に、やがて人影を見つける。
 場所は森の少し手前の雑木林の中。
 並んで歩く三つの影。

 映し出されたのは鳶色の髪とルーン石のピアスが印象的なスーツ姿の麗人と、青髪で何処か野生的な面持ちで、更には季節外れのアロハシャツ姿の長身の男、最後に赤いジャケットとチューブトップの、こちらも季節感を無視した小柄な少女。

「馬鹿な……ッ!」

 だんっ、とこれまで沈黙を貫いていたセイバーが机を叩く。
 彼女の顔に宿るのは焦燥、あるいは困惑か。揺らぐ事のない鋼の心を持つ少女が、かつてない動揺を覗かせている。

 無理もない。だって水晶球に映し出されていたのは、後頭部で結わえた髪型が一部違うにしても、金砂の髪と翠緑の瞳が印象的な──セイバーと瓜二つの顔を持つ少女だったのだから。

「ただ顔が似ているだけの赤の他人……というわけではなさそうね」

 キャスターがそう言い、切嗣に視線を向ける。

「……スーツの女がマクレミッツ、長身の男の方は恐らくランサーだな。もう一人は──イリヤ」

 切嗣とキャスターは冷静に場を俯瞰しているが、残る二人はそうではなかった。動揺しているのはセイバーだけでなく、イリヤスフィールもまた有り得ないものでも見たかのように目を見開いていた。
 それでも父に水を差し向けられた事で意識を取り戻し、強張った声で答えた。

「……うん。サーヴァントみたいね。でも、私はこんな奴知らない。私の知らないサーヴァントなんて、居ていい筈がないのに」

 小聖杯としての機能を有するイリヤスフィールをもってしても把握出来ていなかった八人目のサーヴァント。姿を認識しても一部ステータス情報が見通せない。恐らく、何らかの隠蔽能力が働いているのだろう。

 八人目の、居る筈のないサーヴァントが存在している事には切嗣もキャスターも僅かに驚きはした。しかし既にエクストラクラスで喚ばれたガウェイン卿や御三家がそれぞれ二騎のサーヴァントを従えているという例外が発生している。

 今更そこにもう一つ例外が上乗せされたところで腰を抜かすほどの動揺などない。要は敵が一人増えただけの話なのだ。手間も増えるが、やるべき事に変わりはない。

 ただそうではない者もいる。特にセイバーの動揺は常軌を逸している。ただ敵が一人増えた事に対する動揺である筈がなく、何かを知っている風ですらある。敵の詳細が見通せない以上、手掛かりがあるのなら問うべきだ。

「答えろセイバー、この女は何者だ」

 切嗣自身がセイバーに問いかけるのは珍しい事だ。キャスターやイリヤスフィールがいる時は、決して自ら話しかける事をしなかった。そんな男が視線を彷徨わせる少女に問う。それだけで事態の深刻さが窺い知れた。

 セイバーが水晶球に落としていた視線を上げる。唇を噛み締めて言い澱んだ後、掠れた声で言った。

 自らの息子(むすめ)の名を。
 実姉である妖姫モルガンの姦計によって生まれた不義の子の名を。
 そしてセイバーの王としての治世に決定的な破滅を齎し、彼女の命をも奪った者の名を。



+++


「取り乱しました、申し訳ありませんマスター」

 数分程でセイバーは冷静さを取り戻した。居住まいを正し目を伏せる。彼女の動揺は水晶球に映った少女だけでなく、最早覆しようのない運命によって集められた全ての円卓の騎士に向けられたもの。

 この運命が誰の手によって手繰られたものか、何によって意図されたものかは恐らく誰にも分からない。明確なのは、それぞれの陣営に円卓に名を連ねた者達が在籍しているという事。それぞれ皆が全員に対し浅からぬ因縁を有しているという事だけだ。

 その因果の糸がどのような結末を迎えるとしても、セイバーには目的がある。聖杯を手に入れるという祈りがある。忠義の騎士が立ちはだかろうと、朋友が狂気に堕ちようと、彼女は歩みを止めなかった。

 ならば今更、何を臆する事がある。全てを心の奥底に沈め、かつて玉座にて君臨していた時のように。無情に剣を振るい、立ち塞がる全ての敵を切り捨てるのみ。たとえその相手が──血を分けた己が子であろうとも。

 セイバーの切嗣を見つめる瞳は力強く。先程までの揺らぎは見られない。ここで使い物にならないようならキャスターと自身だけで打って出るつもりだったが、これならばどうにか使えそうだ。

「ではこちらから仕掛ける。手筈は打ち合わせの通りに。イリヤ、留守を任せる」

「……また私だけ除け者なんだから」

「イリヤの力を借りるのはもう少し先だ。イリヤをわざわざ敵の目に晒す必要もない。隠せる札は隠しておきたい。いざという時、僕が一番苦しい時にイリヤには力を借りる事になると思う。だから今は、この場所で待っていてくれ」

「……うん」

 たとえ納得がいかなくとも、イリヤスフィールには頷く他に道はない。この戦いに臨むに際し切嗣と結んだ約束もある。それにもし仮に自分が不用意に動けば切嗣が危険に晒されるとイリヤスフィールは理解している。

 それでも、共に同じ道を歩きたいと、正義の味方の味方になると誓った少女は、膨らませた頬を隠し切る事が出来ず。

「安心なさいイリヤスフィール。貴女のお父さまは、私がちゃんと守ってあげますから」

 魔女はそっと伸ばした手で少女の頭を撫でる。まるでガラス細工に触れるような優しい手つきで。これより戦いに赴く者が浮かべるとは到底思えない、柔らかな笑みを口元に浮かべて。

「私は貴女の剣だもの。私が貴女の代わりを務めるのは当然ではなくて?」

 イリヤスフィールはマスターとしての位階は最高位であっても純粋な魔術師ではない分その実力は不安定だ。
 小聖杯としての機能を利用した彼女だけの“魔術”は確かに驚異的なものだが、戦闘経験のない少女が歴戦の英雄と場慣れした魔術師を相手に立ち回るのは難しい。

 イリヤスフィールはアインツベルン陣営の要であると同時にネックにも成り得る。それを承知している切嗣が、最前線に彼女を立たせたくないと思うのは当然だろう。感情を抜きにしても、戦術に不確定要素を組み入れるのは巧くない。

「うん……キャスター、キリツグをお願いね。セイバーも、お願い」

「承知しています。二人の剣として、恥じない戦いをすると誓いましょう」

 セイバーに揺らぎは微塵もなく。かつて襲い来る異民族を震え上がらせた冷徹な王としての面影が此処に在る。

「迂闊なお嬢さん達に教えてあげましょうか。神代の魔術師の工房に土足で踏み込むその意味を」

 これまで後方で地道な下準備を続けてきた魔術師の英霊が、遂にその真価を見せる時が来た。

 最弱と揶揄される魔術師の英霊。それはあくまで、自身の力のみで他の英霊達とやり合った場合の裁定だ。対魔力を有する三騎士には得意の魔術はほとんど効かず、他のサーヴァント達にも身体能力で圧倒的に劣るが故の評価。

 その下馬評を覆す為、魔女はその手に杖を執る。

 此処は深くて暗い魔女の森。
 そこは遍く全てが魔女の庭。

 ────敵がこれより踏み込む森は、狩人が狩られる狩猟場。

 眠れる森が今、その牙を剥く。


/18


 アインツベルンの森へは深山町から国道を車で一時間。そこから更に一キロメートル程の雑木林を抜けてようやく森の入り口へと辿り着く。

 バゼット達三人が雑木林の中程へと辿り着いたのは、冬の太陽が中天に差し掛かる頃合だった。それというのも途中ブティックで買い物をしたり、二人の着替えにいらぬ時間を取られたからだ。

「ようやく辿り着きましたね。ええ、本当に。いらぬ手間が掛かってしまいました」

「そう拗ねるなよマスター。心に潤いは必要だぜ?」

「人の着替えを覗こうとする事の何処が潤いだ。次やったらほんとに殺すからな」

 女と呼ばれる事を執拗に嫌がるモードレッドの着替えを覗こうとしたランサーはまさに悪乗りのし過ぎである。
 街中でモードレッドが剣を抜いた時は流石のバゼットも肝を冷やした。幸い、場所がうらぶれた公園であった事もあり、人目につくような事はなかったが。

「安心して下さいセイバー。私の喚んだ英霊がそんな下種であるのなら、この手で自害を命じましょう。
 ランサー、私の期待を裏切る事のないように。この手で貴方を害すような事をさせないで下さい」

 へーい、と間延びした声が返ってくる。

 反省の色など見えない声音だ。まあそれでも、彼には彼なりの思惑があってあんな暴挙に出たのだろうとバゼットは自分を納得させる。これより初戦へと臨む自分達の緊張を解す為だったのだと思っておく方が、精神衛生上都合が良い。目を背けているだけだとは、彼女も分かっていたが。

 三人は合図もなく同時に足を止める。雑木林を抜けた先、森の入り口。後一歩を踏み込めば、敵の領域へと届く境界線の上で。

「最後の確認をしますが、今日はあくまで偵察です。自分達の戦力と敵の戦力を把握する事を第一に。無理だと判断すればすぐにも撤退します。その判断は私が行うつもりですが、もし不可能な場合は各々の裁量に任せます」

 バゼットはポケットより取り出した黒地の革の手袋を嵌める。

 これより挑むのは魔術師の工房。それがアインツベルンのものであれ、キャスターの手によるものであれ、一筋縄では行かない事が必至の魔境である。数多の魔術師を捕縛、打倒してきたバゼットとて油断すれば即座に足元を掬われかねない。

 だから警戒は最大レベルで。一歩を踏み込んだ瞬間、空間ごと身体を捻じ切られるくらいの事を覚悟して結界内へと臨む。

「あいよ。任せろ、アンタにゃ指一本触れさせねぇよ」

 現代衣装を覆い尽くす青いボディースーツ。手には血よりもなお紅い槍を携え、ランサーはその眼光を森の奥へと向ける。

「…………」

 そしてもう一人、モードレッドは言葉もなく全身鎧をその身に纏う。華奢な彼女の身体からは想像も出来ない程の重厚な鎧を。可憐なる面貌も今や無骨な兜に覆われ、見る事は叶わない。

「どうした、緊張で声も出せないか?」

 武装してなお変わらないランサーの軽口。視線を向けぬまま、モードレッドは裂帛の意思を声に乗せる。

「ああ、緊張もするさ。手も震えるさ。あの時とは何もかもが違うこの時の果てで。その先で……オレは今度こそ、あの王を越える──!」

 彼女の手の中に呼び起こされたのは青い柄と金の鍔、そして白銀の刀身を持つ剣。僅かに差し込む陽光を照り返す白銀の刃に、血の幻像をランサーは見る。
 明確な想いを抱いて立つ者を茶化す趣味はランサーにはない。たとえそれが歪で捻じ曲がった祈りであっても。肩を並べる者を穢す事を、この男は良しとしない。

 それ以上の言葉もなく、ランサーは前を見据える。緩やかな時間はこれで終わり。この先に待つのは苛烈なる闘争の刻限。彼が求めた、強者との何のしがらみもない戦いが待っている。

「では行きます」

 バゼットの合図と共に三人は結界内へと踏み込んだ。
 眠れる森の、その奥へと────



+++


 冬を間近に控えた十一月、森に乱立する木々からは葉が枯れ落ちている。色を失くした灰色の樹木、大地を覆う黒ずんだ落ち葉だけが森の形を成している。まるでそこはモノクロの世界。一昔前のブラウン管の映像のよう。唯一の違いは、木々の隙間から射す僅かばかりの陽光だ。

 淡い光を頼りに三人は道なき道を進む。周囲からは一切の音が聴こえず、耳に届くのは自分達の足音だけ。獣の息遣いの一つも聴こえず、本当に世界が死んでいるかのように錯覚する。

 人が踏み込まぬ僻地故に道はなく、獣がいないのなら獣道すらもありえない。道行きはランサーが手にした赤槍で地に這う根や蔦を切り払いながら先行し、間にバゼットを挟んで殿はモードレッドが務めている。
 一番脆弱なマスターであるバゼットを守るのは当然の事。この布陣が彼らの警戒レベルの高さを表している。

「……妙ですね」

「ああ……」

 バゼットの独り言にランサーは顔を正面に向けたまま答える。

 森に踏み込んで既に十分ほどが過ぎている。注意深く進んでいる事もあって歩いた距離は然程ではなくとも、ここまで何の異常も見られない事が彼女らにはこの上のない異常のように思えた。

 侵入は間違いなく感知されている筈。衛宮切嗣の思考をトレースした限り、不在という事も有り得まい。ならば何故何も仕掛けて来ないのか。万端の準備を整え、踏み込んだ敵を抹殺する為に今日この日を仕組んだのではないのか。

 あるいは森の防衛機能を捨て、深奥にあるとされる城に防備を固めている可能性も考えられるが、ここまで音沙汰がないと不可思議を通り越して不気味でさえある。アインツベルンは一体、何を考えているのか。

 そこでふと、ようやく異常らしきものが発生した。

 薄く引き伸ばされたかのように視界を染める白色。遠く景色が霞んで朧になる。世界を霞に包む霧が、何処からともなく現われた。

 咄嗟にバゼットは口元を押さえる。霧に偽装した毒の可能性を疑ったからだ。

「いや、こいつは本当にただの霧だ。気を付けておけ、霧に乗じて仕掛けてくるかもしれねぇ」

「ええ。セイバー、貴女も何かに気付いたらすぐに言って下さい」

 その間にも霧は勢いを増し世界を覆っていく。うねった木々が不規則に乱立しているせいでただでさえ悪い視界がより白く閉ざされていく。
 これは異常。異常としか言いようのない速度で広まる霧の目隠しは間違いなく魔術によるもの。ようやくアインツベルンの工房がその本性を表し、迷い込んだ獲物を刈り取らんと牙を剥き出したのだ。

「……セイバー?」

 ただ、それ以上に不可解だったのは後方のセイバーだった。森へ踏み込んで以降かつての饒舌さがなりを潜めていたのは知っているが、応答もないとはどういうわけか。幾ら緊張があるとはいえ、敵地で味方の声に反応しないのは頂けない。嗜めようとバゼットが後ろに振り返り──

「……なっ!?」

 そこに、居る筈のセイバーの姿が跡形もなく消え去っている事に、ようやく気が付いた。

「ランサー、止まって下さい! セイバーがいないっ!」

 幾ら周囲へと警戒網を広げていたとはいえ、バゼット程の手練が真後ろにいる人物の気配が消失した事に気付かない筈がない。本当にバゼットが振り返るその瞬間まではセイバーの気配はあったのだ。落ち葉を蹴散らす鋼の具足の足音もまた響いていたというのに。

 だからこそセイバーが消えた事に気付けなかった。自らの信じる判断力を、あるいは森に踏み込んだその時から狂わされていたのだとするのなら、どうしようと気付ける道理などなかったのだ。

「くっ……!」

 辺りに漂う霧はその濃さを増すばかり。既に数メートル先を見通す事すら困難な濃霧となりつつある。
 セイバーとは分断されてしまったが、彼女もまた歴史に名を残す英傑。幾らここが敵の陣地とはいえ、易々とやられるような事はないと信じ、正面へと向き直ったバゼットの視界には、

「……馬鹿な」

 先の見えない森の景観だけが映り。ほんの数秒前まであった筈の、青い背中が忽然と姿を消していた。

 ────有り得ない。

 余りに異常すぎる現象を前に、バゼットは混乱を通り越し冷静さを取り戻した。幾つもの魔術工房を突破してきたバゼットをして理解の及ばない域の神隠し。こんな業が現代の魔術師に、ましてや錬金術の大家に可能である筈がない。

 ならばやはり、この森の主はキャスターであろう。恐らく、神代レベルの魔術行使を可能とする魔術師の英霊である事はほぼ確信となりつつある。

「…………」

 口を引き結び、神経を尖らせる。身体の随所には既にルーンを刻み終え、拳は最速で標的を撃ち抜けるよう胸の前で構える。

 複数の敵を相手取る場合、有効な手立ての一つがこのような分断からの各個撃破。それも狙うのなら最も弱い箇所から襲うのが効果的だ。
 ましてや、サーヴァント達はマスターからの魔力供給によって肉体を維持しているのだから、マスターを斃せば弱体化は必至である。この場面、バゼットを捨て置きサーヴァントを狙う理由がない。

 身体の芯が告げる警報は最大レベルで鳴り響いている。
 ただでさえ見通しの悪い樹海の只中だというのに、加えて視界は霧によって閉ざされている。

 頼れるのは唯一、音のみ。
 足元を埋め尽くす枯れ葉が敵の接近を教えて、

「────ッ!?」

 無音のまま、まるで風を蹴ったかのような速度で白銀の影が迫る。一瞬早くその動きを感知出来たのは、不幸中の幸いとも言うべきか、周囲に漂う霧の恩恵。気流の流れまでをも誤魔化せなかったのか、僅かに揺らいだ白靄が奇しくもバゼットの反応を助けた。

 とはいえ影の速度は神速。どれだけ鍛えようと人の領域に留まるバゼットをして、目で捉えるのが精一杯の恐るべき加速。

 霧を突き破り現われる白銀。目視。手には何か、視えない武器を持っている。翠緑の瞳が獲物を見据える。目が合う。その時既に相手は目の前。振り上げられた不可視の剣が、断頭台の刃のように落ちてくる。

 秒にも満たない刹那の時間が、コマ送りの如く裁断されていく。引き伸ばされた時間。終わらないフィルムの再生。ああ、これが死の間際に見る走馬灯なのかと、まるで他人事のように見つめる……ような諦めの良さが、彼女にある筈もなく。

「ッ……ァア──!」

 腹の底から吼える裂帛の気勢を以って、見開いた瞳で刹那の中の永遠を見る。迫る断頭台の刃に合わせる形で、渾身の拳を繰り出した。

「…………ッッ!!」

 剣を不可視足らしめる風と接触し削られる腕。風の鞘は突き出した拳を容赦なく削っていく。革手袋に刻んだ硬化のルーンが諸共に消し飛ばされる。真正面から受けていれば腕の防御ごと貫通し、袈裟に胴を斬られていた事だろう。
 バゼットは死の瞬間、剣の軌跡を逸らす事だけに専心し、ダメージは確実なものと受け入れる事で死中に活を見出そうとした。

 けれどそんな生温い一手を許してくれるほど、目の前の敵が手緩い筈もなく。

 繰り出した腕は回転を止めない掘削機のような斬撃に弾き飛ばされ、白銀の影は着地と同時に身を捻り、返す刃が下段から命を獲りに来る。冷静に冷酷に無感情に。命を刈り取る為だけに振るわれる白刃が、二度は逃がさぬと迫り来る。

 体勢は不十分。渾身の一撃は砕かれた。打つ手はない。逃げ場もない。だがしかし。こんな緒戦で敗れてたまるものかという気合だけで、バゼットは決死の二撃目──残る左腕の一閃に全てを賭けた。

「…………ぐっ!」

 二撃目を繰り出した瞬間、バゼットは跳んだ。下方から振り上げられた相手の力を利用し無理矢理に後方に跳び距離を離したのだ。距離を離した、というよりも純粋に吹き飛ばされたという方が正しいか。

 空を舞うバゼット。両腕を犠牲にして得た僅かな猶予。この刹那の間隙に、己の最善を出し惜しむ事なく札を切る。

「────ランサー、来なさいッ!」

 血塗れの右腕が灼熱し、刻まれた令呪の一画が消えて効果を為す。キャスターの姦計により分断された己がサーヴァント・ランサーを、地形も幻惑もありとあらゆる全てを無視してこの場へと呼び寄せる。

 バゼットが令呪起動の言葉を謳うのと同時。白銀の影──セイバーは既にスタートを切っており、バゼットが無策のまま着地していれば今度こそ防御さえままならぬままに両断されていた事だろう。

 しかし言葉は紡がれた。此方と彼方を結ぶ道が創造され、招かれし槍の英霊が主を守る為に立ちはだかる。

 バゼットは窮地に際し最善を選んだ。踏み込んだ森の悪辣さと彼女の迂闊さには関係がない。ただ自らが最善を選んだのなら、相手もまた最善の一手を打っていないと何故楽観出来るのか。

 マスターを相手に最優のセイバーを動員するのは確かに最善。だが剣の英霊の主は、あの悪名高き衛宮切嗣である事を、忘れてはならない。

 令呪が発動しセイバーとバゼットの間にランサーが突如現われた直後。
 白銀の剣士と青の槍騎士が火花を散らした刹那。
 空中で体勢を立て直し、無事着地したバゼットに、

「……が、っ」

 その背後から、梢の隙間を縫い、魔術師殺しの凶弾が放たれた。

 霧深い森の中でさえ照星に狂いはなく。
 合わせられた照準の上を走った弾丸は、確かに心臓を貫いた。



+++

「ん……?」

 モードレッドが違和感に気付いたのは、二人と完全に逸れた後だった。

 目の前に確かにあった筈のバゼットの背中が霧の中に霞むように消えるまで、完全に騙されていた。
 いつの間に本物と偽物が摩り替わったのかさえ分からない程精緻な偽装。モードレッド程の使い手の目を欺くほどの鮮やかな手並み。これが現代の魔術師の仕業でない事は、彼女もこの時確信した。

「へぇ……最弱とか言われてても、腐っても英霊だな。完全にしてやられた」

 彼女がスキルとして保有する対魔力はあくまで彼女自身に向けられた、放たれた魔術に対する抵抗力を示すもの。空間、地形、大気、つまり本人ではなく周囲に対して施される魔術には対魔力は意味を為さない。

 視界を閉ざす霧に乗じて行われた分断作戦。二人とは逸れてしまったが、彼女に焦りはない。
 此処は敵地。ましてやキャスターの工房だ。分断からの各個撃破など、モードレッドだけでなくバゼット達も可能性としては考慮していた筈だ。

 埒外だったのはキャスターの手腕が想定の上を行った事だけ。焦りを滲ませるような事態ではない。そしてこの程度の困難を突破出来ない相棒達であるのなら、手を組む意味はないと切り捨てるだけの冷酷さがモードレッドにはある。

 偽物の幻影に誘導され、そのまま森を歩き続けていたモードレッドは、やがて開けた場所へと辿り着く。木々がその区画だけ伐採されたかのような広場。三十メートル前後の広さの空間で、足を止める。

「分断からの各個撃破……狙うなら最も弱い部分から。ならオレやランサーには、雑魚で足止めってところか」

 その言葉に呼応するように、地中から這い出す骨の群れ。それは竜の歯から精製された竜牙兵と呼ばれる使い魔の一種。並の魔術師でも対応が可能な雑兵だが、今目の前に現われた兵の数は五十を越える。

「戦略のお手本みたいな兵の使い方をする。ただ少し、お行儀が良すぎるな」

 モードレッドは手にした白銀の剣を器用に回転させ弄ぶ。自らの初陣の相手としては些か物足りないが、本番前のウォーミングアップには丁度良い。

「はっ……!」

 全身鎧を身に纏いながら、その重さを感じさせない跳躍からの剣の投擲。五十、今まさに更に増え続ける竜牙兵のど真ん中目掛けて渾身の一投を空中から見舞う。
 骨の群れの中心に放たれた剣。さながら弾丸めいた勢いで地に落下した剣は着弾点にいた兵達を木っ端の如く粉砕する。大地との衝突の余波で更に数体を巻き込み、砕け散る骨が舞うその只中に、モードレッドは華麗に着地する。

「ふっ……!」

 自らの放った剣を握り直し、周囲を囲まれてなお見えない口元に笑みを浮かべ、囲う円の一点目掛けて地を蹴り上げる。
 片手で器用に白銀の剣を振り回し、様々な得物を持つ竜牙兵の只中へと突貫し蹴散らしていく。時に剣で、時に拳で。果ては相手の武器を奪い投擲するような暴挙さえも、この騎士が行えば一つの技のように思える。

 彼女の剣には型がない。澄み渡る水面を斬るような美しい剣閃は描けずとも、野獣のような荒々しい剣舞で並み居る兵を薙ぎ倒していく。
 霧の中に舞う骨の破片。まるでそれは雪花の如く舞い散り、その中心で踊るモードレッドはさながら舞台役者のような華々しさで踊り続ける。

 モードレッド自身が言ったとおり、竜牙兵など所詮足止めに過ぎない。どれだけ数を揃えようと、サーヴァントを相手に回しては力不足に過ぎる。
 かと言って彼女もただ敵と戯れているわけではない。斬っても斬っても増え続ける雑兵を相手にし続けるのは敵方の思う壺だ。

 縦横無尽に走り、敵を薙ぎ払うその一方で、意識は別の方向を向いている。不明瞭な視界の先、分断された味方の行方を探す手掛かりを掴む為に。
 闇雲に動き回ったところでこの霧の迷宮は脱せまい。この森自体がキャスターの張った罠の一つなのだ。行き着く先を想定出来ないままに歩き回れば、それこそ本当に森に飲み込まれてしまうだろう。

 バゼットとの繋がりのないモードレッドでは彼女の位置を掴めない。だから感じ取るべきなのは戦いの気配。火花散らす剣戟の余波。
 ただ気配を察知しただけでは森を抜ける事は難しいかもしれない。しかし彼女にはその身に宿す直感がある。第六感とも言うべき研ぎ澄まされた感覚が。

 この直感をも欺いたキャスターの手腕は賛嘆に値するが、二度はない。一度掴んだ戦いの気配ならば、その糸がどれだけ細かろうと離さず辿り着く。

 その先には────あの王が居る筈なのだから。

「……見えたッ!」

 地を蹴る足に込められた莫大な魔力を推進力へと変え、モードレッドは確信を得た方角へと駆け出した。
 竜牙兵は掃除済みであったが故に彼女の道行きを阻むものはもう何もない。霧の視覚妨害でさえ、彼女には何の意味も為さない。

 高鳴る胸の鼓動を頼りに少女は森を駆け抜ける。
 鋼の具足を打ち鳴らしながら、一路戦場へ。
 その足取りは、まるで焦がれた星を追いかけるかのように。


/19


 銃弾が放たれた甲高い音と、剣と槍が衝突する剣戟音が同時に木霊する。

 最優の斬撃を食い止めた最速の槍。しかしそれまで。前門の虎の爪を凌げても、後門に潜んでいた狼の牙は、獲物の心臓を食い破った。
 霧の中に咲く血の仇花。容赦なく無慈悲に過たず。放たれた凶弾はバゼット・フラガ・マクレミッツの心臓を貫いた。

「…………」

 梢に身を潜め息を殺していた魔術師殺しが姿を見せる。無言のままコンテンダーに銃弾を再装填し、地に倒れ伏した女魔術師を感情の色のない瞳で見つめた。
 人一人を殺す事に衛宮切嗣は何の感慨も覚えない。何度となく通ってきた道だ。ただ、銃という武器はその点で最良だ。手には何の感触もないまま、引き鉄を引いただけで生物の息の根を止められるのだから。

 仰臥し、血を吐き出し続けるバゼットから青い背中──ランサーへと視線を移す。その向こうに見えるセイバーの表情に、僅かな違和感を覚える。

「ランサー……」

 ギチリギチリと鬩ぎ合う剣と槍。一歩も引かぬまま至近距離で睨み合う二人。不可解を抱いたのはセイバーの方。だって、

「何故貴方は笑っている? 己がマスターが斃されたというのに」

「────ハッ」

 詰まらない事を訊く、とで言いたげに。鼻で一笑に附す。

「そりゃ当然だろ。だってよ、オレのマスターがこの程度で死ぬようなタマなわきゃねぇだろ……!」

 渾身の鬩ぎ合いを制しランサーはセイバーを弾き飛ばす。そのまま追い縋る事をせず、跳躍を以って一旦バゼットの傍らへと後退する。
 枯れた木々が乱立し、最低限の足の踏み場しかない狭い道。その中心に槍騎士と魔術師がおり、二人を挟む形で剣士と魔術師殺しが睨み合う。

 前方と後方、両方への警戒を怠らぬままランサーは呟く。

「いつまで寝てる気だおい。こんなところじゃ風邪引くぜ」

「……そうですね、隙あらば反撃を試みようと思っていたのですが、そう巧くはいかないようだ」

 むくりと身体を起こすバゼット。先程まで血を吐き出し続けていた穴は塞がっている。致命傷を与えた残滓として、臙脂のスーツに血痕が刻まれていた。

「死者の蘇生……? 馬鹿な……」

 セイバーの驚愕も当然だ。死んだ人間を生き返らせる事は不可能だ。魔術であろうと科学であろうと起きた結果は覆せない。唯一可能とされる魔法など、この場にある筈もなく。ましてやバゼットはその使い手ではない。

 ただ例外と呼ばれるものはいつの世にも存在する。死んでしまった後に蘇生を行う事は不可能であっても、死を前提として発動する蘇生を事前に仕込んでおけば、不可能を可能へと偽装出来る。

 それは神代の魔術を以ってしても困難を極めるもの。宝具クラスの奇跡でなければ為しえない、途方もなく魔法に近い極点の一。

 蘇生のルーン。

 神代より続く家系の末裔にして特級のルーン魔術の使い手である彼女だからこそ行えた奇跡の法。バゼットが聖杯戦争に臨むに際し用意した切り札の一枚。

 ……まさかそれを初戦で失う事になるとは思いませんでしたが、仕方がない。これは私が招いた結果なのだから。

 敵の魔術工房に挑む困難さを知っていながら甘く見た。決して侮ってはいなかったが、容易くその上を行かれた。ならばその損失は当然で、生きているだけで儲けものだと考えるべきだ。

 事実、キャスターの工房としてはまだ序の口程度しかその罠を見ていない。霧の視覚妨害と分断の為の幻惑。そして恐らくモードレッドの足止め程度。
 規模や質が最高クラスであるのは疑いようのないものだが、結局まだその程度しか工房の力は露見されていない。真価は恐らく、まだ奥にある。

 ただそれでも、最優の騎士と悪辣なマスターがいれば途端に難攻不落の要塞と化す。不落の前衛がいる限り、この森を陥落させるのは容易な事ではない。
 それを知れただけでも重畳。払った犠牲に見合うかと言われれば否だが、己の迂闊さが招いた結果は甘んじて受け入れるべきだ。

「ランサー」

「ああ、一旦退いた方がいい。が、それも容易くはねぇな」

 互いに背中を合わせ敵手を見る。鋭く刺すような視線を放つセイバーは、こちらが動けば即座に踏み切ると告げている。冷徹な瞳を湛える魔術師殺しもまた、指をかけた引き金を引く瞬間を狙っている。

 蘇生をしたとはいえ、あくまでそれは死を覆しただけに過ぎない。セイバーとの激突で痛めた両腕は死んだままであり、拳より滴り続ける血は止め処なく。それもあり撤退を願ったのだが、霧の発動を遅め、森の奥深くへと誘われたのは、敵を逃がすつもりなど毛頭ないからであろう。

「内輪での相談もいいけれど。此処が戦場だって事、まさか忘れてはいないわよね?」

 声は遥か頭上から。

 空を覆う木々の天蓋の向こう、太陽を背負う影を望む。蝙蝠のような禍々しい翼を宙に広げ、この空は我が物とでも謳うかのように堂々と天に座す。
 手には銀の錫杖。ゆらりと杖先が動けば、しゃらんと鈴の音が鳴り響く。

「ようこそ我が庭へ、歓迎するわお嬢さん。そしてさようなら。私の領域に土足で踏み込んだその迂闊さを、死を以って償いなさい──!」

 天空に描かれる無数の魔法陣。瞬間契約(テンカウント)にも匹敵する大魔術を、錫杖を振るうその一動作で完結する。
 神代の魔女の本領、この森に満ちる魔力は全て彼女のもの。大気中のマナを貪り、マスターから無尽蔵の供給を得て、今──最弱がその牙を突き立てる。

「ランサーッ!!」

 バゼットの叫びよりも早くランサーは手にした槍の穂先を地に走らせ、ルーンの守護を敷く。次の瞬間、天から降り注ぐ巨大な光の柱。幾重にも折り重なる光の束が、たった二人を殺す為に容赦なく降り注ぎ、居並ぶ木々をすら巻き込み蹂躙する。

「おらぁ……!」

 防護のルーンを敷いた上に、更にランサーは槍で極光を弾き防ぐ。槍兵の対魔力では完全に無効化する事は出来ない。バゼットは言わずもがな。空に鎮座されては、彼女に打つ術はない。

 そしてこの場には唯一人──降り頻る光の雨をものともしない英雄がある。

 最高ランクの対魔力を有するセイバーは光の雨が舞う戦場へと突貫する。被弾を恐れる必要はない。彼女の身には如何なる魔術も通用しない。たとえそれがキャスターの深奥であろうと、魔という術で括られたその悉くをセイバーは弾き飛ばす。

 空からの掃射に気を割かずにはいられないランサーの横っ腹を切り裂かんとセイバーは迫る。今ランサーが手を止めれば、バゼットが無防備に晒される。
 故に選択は二つに一つ。キャスターの魔術で塵も残さず消え去るか、セイバーの剣で両断されるか。

「ハッ──なら両方まとめて相手すんのが英霊の意地ってもんだろうがッ!」

 手にする槍のリーチを活かし、セイバーが懐に入るのを阻みながら、空から襲い来る光弾をすら凌ぐ。そんな無茶を、槍兵は現実のものとする。
 敷いたルーンの防護と致命を避ける事に専心する事でキャスターの魔術をやり過ごし、神速の打突と薙ぎ払いを駆使しセイバーの猛攻を押し留める。

 守勢に長けた彼だからこそ可能にした防衛戦術。生前何かを守りながらの戦いを余儀なくされた男の、培われた修練と類稀なる才の結実。

 自らのサーヴァントが吼え声を上げ、決死の中で抗うその最中、マスターはただ膝を抱えて震えていたわけではない。
 痛んだ両腕に治癒のルーンを刻み僅かでも回復を試みる。その間も、視線はこの場にいるもう一人のマスター、衛宮切嗣を捉えて離さない。

 サーヴァント達の戦場に乱入するのは自殺行為にも等しい。バゼットが持つもう一枚の切り札があれば別だが、今回は偵察に徹する腹だった事もあり持って来ていない。仮に持参していたとしても、こうまで乱戦の体を為してしまっては使用は難しいだろう。

 だからバゼットは切嗣の動向を観察する。相手とは距離があり、ランサーの敷いた守護陣の外に出ればキャスターの光弾に晒される。銃器を武器とする相手とやり合うには、些か分が悪い。

 それでも目を離すわけにはいかない。バゼットが封印指定の執行者として活動するその前に実質引退したも同然とはいえ、これまでの戦いを見る限り魔術師殺しの腕に衰えは見られない。

 戦いになれば勝算はある。接近出来ればそれだけで勝ちを奪える。バゼットと切嗣が戦うのなら、その勝敗の分かれ目は自分に優位な間合いを維持出来るか、肉薄出来るかに終始する。

 今の距離は切嗣の間合い。せめて余計な動きをさせぬよう監視を怠らない。バゼットの思いも拠らぬ一手で戦況を覆しかねない恐ろしさが、あの男にはある。

「…………?」

 その時、バゼットが警戒しているのと同様に切嗣も彼女を警戒していたのだが、何を思ったか、男は視線を切り梢の向こうへと消えていく。霧深い森の中、一度標的を見失えばもう追い縋る事も出来ない。

 ……退いた? 何故?

 状況はアインツベルン陣営の優勢。ランサーはその身を剣に、魔術に晒されながら耐えている。血を流しながら獣じみた形相で襲い来る必至の刃を押し留めている。
 だがそれだけ。結局このままではいずれ押し切られる。天からの物量攻めと横合いからの乱舞の波状攻撃。

 サーヴァント二騎の猛攻を凌いでいるランサーの勇猛は賞賛に値するが、打開策を見出さない限りはいつか膝を屈すると彼自身も理解している。
 詰めの一手を打つのなら今だ。更なる物量で押し込めば、ランサーとバゼットはもう打つ手がないというのに。

 理由は不明ながらに魔術師殺しが退いた。ならばこちらにも打つ手はある。バゼットが次なる行動に移ろうとしたその刹那、ランサーと鎬を削っていたセイバーもまた退き、代わりに頭上より振る光の束がその数を増す。

 次の瞬間、霧が晴れる。退いたセイバーの手にする不可視の剣を不可視足らしめる風の檻が解かれ、暴虐の風が辺りを蹂躙する。白日の下に晒される黄金の剣。眩き輝きを宿す聖剣が、その刀身を審らかにする。

 ……衛宮切嗣が退いた理由はこれかッ!

 敵は一気にケリを着けに来た。アインツベルンが有する最大戦力、その一撃を以ってサーヴァント諸共マスターごと粉砕するつもりだ。切嗣が退いたのはその為。セイバーの射線から逃れる為だ。
 キャスターが足止めをし、僅かな猶予を作れば後はセイバーが全てを決する。先の鬩ぎ合いも、所詮は児戯に過ぎないと。

 英霊の本領は宝具にこそある。セイバーの一刀は全てを決するだろう。対してこちらのランサーは、槍の力を開帳する暇さえも与えられない。

「ランサー、宝具を──! この場は私が持ち堪える……!!」

「チィ……了解だ……!」

 癒しのルーンで幾らか回復した拳に再度硬化のルーンを刻み、天から降り注ぐ光の雨を迎え撃つ。バゼットの拳ならば幾度かは耐えられる。
 ランサーほど器用には立ち回れないが、彼が宝具を発動する猶予くらいならば稼いで見せる。

「はぁあああ……!」

 十条にも昇る光の同時落下を拳の乱打で防ぎ切る。死ななければ安いと割り切り、直撃だけを避ける事に専念する。
 主の言を信じ、ランサーは槍を構える。地を擦りそうなほど穂先を沈め、怜悧なまでに気を高めていく。

 その時、遥か天空に座する魔女の口元が僅かに歪んだ気がした。

「“約束された(エクス)────」

 開かれた宝剣。振り上げられた刃。魔力を高めていく槍。だが一手遅い。相手の必殺を目視した後に行動に移ったランサーでは、ほんの僅かに起動が間に合わない。周囲の魔力を食らい発動の糧とする魔槍は、この場を支配する魔女の理の前に敗れ去る。

 高まる黄金の光。この世で最も尊き栄光の具現。全ての騎士達の夢を束ね、遍く人々の祈りを集めた至高の聖剣が今──振り下ろされる。

 剣が神速で以って振り下ろされる間隙。
 刹那すらも遠い一瞬。
 槍の発動の間に合わぬランサーが、苦悶と共にその目の端に捉えたのは。

「────勝利の剣(カリバー)……!”」

「“我が麗しき父への叛逆(クラレント・ブラッドアーサー)……!”」

 勝利を約束された剣が振り下ろされる瞬間に僅かに遅れる形で、横合いの木々の隙間を縫い飛び出した全身鎧に身を包んだ少女は、手にした赤黒く、血の色へと変色した剣を無型のままに振り抜いた。



+++


 極光と赤雷が波濤となってぶつかった瞬間、先程まで森を覆っていた霧をも上回る白煙で包み込んだ。

 煙が晴れたその後には、つい一瞬前まであった筈の森が消え去っていた。黄金の輝きと赤き稲妻は、その余波で周囲一帯に乱立していた木々の悉くを消し去った。後に残ったのは荒涼とした広場。草の根一つない荒地。英霊の放つ宝具は、それほどの爪痕を残し残光と共に消え去った。

 されど、これでも被害としては最小だ。セイバーが全力で放った一撃ならば、その射線に存在する全てのものを無に帰した筈だ。しかし結果はそれなりの広さのある荒地を作り上げただけ。至高の一撃を食い止めたのは、奇跡にも等しい一瞬に身を呈して飛び込んだ一人の少女の戦果。

「ッ痛……流石に、あんな体勢じゃ完全には防げないか」

 広場の中心に立つ全身鎧。その半身は鎧が欠けて砕けている。焼き付いた左手は、浅黒く変色していた。
 十全の体勢から聖剣を放ったセイバーに対し、モードレッドは半ば無理矢理に宝具を発動したのだ。完全に相殺する事など出来る筈もなく、僅かにその軌道を逸らす事が精一杯であった。

 そもそも聖剣というカテゴリーにおいて頂点に位置する星の聖剣の一撃を、国の宝とはいえ人の手によって鋳造されたただの名剣に押し留められる道理はない。位階が違うとなれば尚更だ。

 ただこの剣と、担い手である彼女だけはその例外。

 クラレントはその銘の通り、“麗しき父への叛逆”の象徴。彼女が王位を奪う為に宝物庫より持ち出した戴冠の剣。国を乗っ取り、玉座を奪い、古き王と相打った逸話は、ただの宝剣を聖剣の担い手に通ずるまでに押し上げた。

「お久しぶりですアーサー王……と。この程度の挨拶は、既に忠義の騎士より聞き飽きておられる事でしょう。
 ですので私はこう言いましょう。お久しぶりです、“父上”」

「モードレッド卿……」

 顔を覆い隠していた兜は宝具発動の際に解除されており、今は瓜二つの顔を持つサーヴァントが互いの面貌を見つめている。
 セイバーはモードレッドの顔を見たのは二度目。あのカムランの丘での対峙の際、槍に貫かれ崩れ落ちる間際に割れた兜の向こうに見たその顔を、二度とは見る事はないと思っていた顔と再び合間見える事となった。

 これは運命の悪戯か。宿命の奔流か。生前果たされなかった願いを宿し、円卓に集いし王と三人の騎士は、この現世へと舞い戻った。

「アーサー王、貴方には言いたい事が、突きつけてやりたい事が山ほどある。だがこの状態で貴方と剣を切り結べると思い上がるほど、私は驕ってはいない。故にこの場は退かせて頂きたい」

 彼女の背にするバゼットとランサーは、その言葉使いに驚いた。平時の彼女の男勝りな口調はなりを潜め、慇懃ではあるがまだまともな言葉を使っている。彼女は生前、礼節に篤い騎士であった。その心が、憎しみに囚われるまでは。

「……それを私が許すとでも?」

 ほぼ無傷の騎士王が黄金の刀身を晒したままの聖剣を握り直す。己の最大威力の一撃を防がれてなお彼女には揺るぎがない。無情の王には、揺らす心がそもそもないのだ。

「でしょうね。貴方は私達を逃がさないでしょう。私を己が子としてでなく、かつて仕えた騎士としてでなく、叛逆の徒としてですらなく。ただ目の前に立つ敵として、裁断の剣を振り下ろす」

 かつてと何の遜色もない王の姿。焦がれ、憎悪した父の無感情な瞳に射竦められてなおモードレッドは口元に笑みを浮かべる。その瞳をいつか、本当の“己”に向けさせる事こそが──かつて彼女が願った祈りであったから。

 本来ある筈のない二度目の機会を得た。
 共に聖杯に招かれたという数奇なる命運に感謝しよう。
 千分の一、万分の一の奇跡が描いたその果てで、今一度この剣は叛逆を行うのだ。

「バゼット、ランサー、行けるか?」

 背後を振り向かぬままモードレッドが問う。

「ええ、無論です。それと、遅れましたが感謝を。助かりました」

「気にするな、お互い様さ。流石にあの二人を相手に一人で立ち回るのはキツイんでね」

「数の上じゃこれで同等。消えたセイバーのマスターの行方と姿を見せないキャスターのマスターの存在は気に掛かるが、今は」

「ああ。この包囲を突破する」

 ランサーが空を仰ぐ。宝具の激突以降鳴り止んだ光弾の爆撃。その間キャスターは何もしていなかったわけではない。
 円形に刳り貫かれた広場の向こう、木々の合間から湧き出すのは竜牙兵。モードレッドの足止めに放たれた数と同等か、なお上回る軍勢が進軍してくる。雑兵とは言え数が数だ。ましてや、そこにセイバーが紛れ込むのなら一筋縄ではいくまい。

「お話は終わった? では第二幕と洒落込もうかしら────」

 天に座すキャスターが今一度錫杖を振るい、開戦の合図をあげようとしたその時。

 きぃん、という耳を劈く金切音が森の空に木霊する。意識を眼下の戦場に向けていたキャスターの耳にその音が届いた時、ソレは既に目前へと迫っていた。

「なっ……!?」

 驚愕と共に振り仰ぐ先にあったのは一条の矢。
 螺旋を描いた刀身を持つ、一振りの剣。

「くっ……!」

 反射めいた動きで半身をずらし、咄嗟に放とうとしていた魔術をキャンセルし防護の盾を敷く。されど急造の盾であった為か、あるいは込められた魔力が想定を超えていたか、直撃を免れてなお矢が擦過していくその余波で、キャスターの纏う紫紺のローブはズタズタに引き裂かれ、森の彼方へと落下していく。

「キャスター……!?」

 頭上を仰ぐセイバーはそこでようやく合点が行く。

 その一矢は遥か彼方、己の認識外、恐らくキャスターの結界外より放たれたもの。こんな真似が可能なサーヴァントはあの赤い弓兵以外にいない……!

「走れバゼットッ!」

 アーチャーの奇襲によりセイバー、キャスター両名の意識が逸れた一瞬にランサー達は竜牙兵の包囲網を一点突破する為に広場に背を向ける。
 弓兵が何を思いこのタイミングで奇襲を仕掛けたのかは分からないが、これは千載一遇のチャンス。今この時を逃せば、二度とはこの森を抜け出す事は出来ない。

 赤い槍が並み居る兵を一息に薙ぎ払い、白銀の剣が一閃の下に両断する。硬化された拳はいとも容易く竜牙兵を粉砕し道を抉じ開ける。

「……逃げられましたか」

 セイバーが地上に視線を戻した時にはもう三人の姿は消えていた。追おうと思えば可能であり、彼らを相手に回しても立ち回れるだけの自負はある。

「今はキャスターの容態を確かめる方が先決か。マスターもまた、これ以上の戦闘行為を望んではいまい」

 この森での優位はキャスターの存在あってのもの。彼女を失う事はアインツベルンの戦力を半減するにも等しい。今や完全にタッグ戦となった今次の聖杯戦争において、単身で勝ち抜く事の困難さは身に沁みて理解している。

 深追いをし、予期せぬ反撃を食らうような無様は今後の作戦行動に支障をきたす。戦果は充分以上、敵の戦力も把握が出来た。

 バゼットの両腕を砕き蘇生を使わせ、ランサーには無数の傷を刻み付けた。そしてモードレッドは片腕を負傷した。それでなおセイバーには傷らしい傷はない。アーチャーの横槍がなければ、キャスターもまた傷を負う事はなかっただろう。

 これが己が陣地で戦うという事だ。揺らぐ事のない優位を約束する魔術師の工房。無欠の城塞。不落の神殿。
 ただ憂慮すべきは、敵はまだ力の全てを見せてはいないであろう事。次があった時、今回と同じだと高を括れば足元を掬われるのはこちらだ。

 無論、手の内の全てを披露していないのは、こちらも同様だが。

 セイバーは広場に背を向け歩き出す。
 キャスターが落下したと思われる方角へと向けて。
 一度だけ、背後を振り返った。
 何もない荒涼とした広場を眇め、言葉もなく歩みを続けた。



+++


 セイバー達と対峙した戦場から一目散に逃げ出す間、可能性として考慮していた工房の妨害はなかった。主たるキャスターが傷ついた為にこちらにまで手が回らないのか、いずれにせよひたすらに森の入り口へと邁進する。

「しかしおまえ、いいタイミングで飛び出してきたなぁ。まさか、狙ってたわけじゃないよな?」

 ランサーが半眼で隣を駆けるモードレッドを見据える。

「馬鹿か。あの時のオレにそんな余裕があるもんか。でなけりゃこんな傷を負う筈がないだろうに」

 今なお治癒しない左腕。片手でさえ器用に剣を振り回すモードレッドにしてみれば、片腕を失う程度は然程の痛手にはならないが、それでも同格以上の相手と戦うのなら万全の状態こそが好ましい。

「そうですランサー。モードレッドは私達を助ける為に片腕を失ったのです。感謝こそすれ茶化すなど論外だ」

「……分かってるよ。おい、アジトに戻ったら腕見せろ。治してやる」

「殊勝なランサーってのも何だか気持ち悪いな……」

「何か言ったか?」

「いいや何も……ふふん、そうだ、オレはおまえ達を助けたんだ。ほら、褒めてもいいんだぞ?」

「ええ、見事でした。彼の王の手にする星の聖剣と真っ向から打ち合ってなお譲らなかった貴方がいなければ、私達の聖杯戦争はあの場で終わっていた」

 足りなかったのは覚悟の量。届かなかったのは覚悟の差。魔術師の工房に踏み込むその意味を、真に理解していなかった。
 幾つもの魔術工房を突破してきたという自負が、知らずバゼットの中で驕りとなって油断を生んだ。ラックを持って来なかったのがその証。あれがあれば、まだ別の展開もあった筈だ。

「モードレッドが繋いでくれた戦いだ。こんな無様は二度と晒すものか」

「ああ、負けるのは一度で充分だ。次は勝つ」

 二人は己の心を深く戒め、一人は賛美に鼻を高くする。違いはあれど弛緩した空気。つい今し方まで敵と死闘を繰り広げていたとは思えない空気だが、これが彼女達の持ち味だ。血眼で聖杯を求める他の陣営には、こんな撓んだ空気は有り得まい。

 雑談の花を咲かせながら、それでも誰もが周囲への警戒を怠らぬまま、やがて森を突破する。薄暗い森の結界を抜けた先にはまたもや雑木林が広がるが、ここまで辿り着けばほぼ安全圏。

 その隙を縫うかのように、

「こんにちわ、魔術協会の魔術師さん。ちょっとお時間いいかしら」

 林の奥から姿を見せる、赤い主従。

「遠坂凛……と、アーチャーですね」

 弛緩した空気が今一度張り詰める。そう、バゼット達が無事離脱できたのはアーチャーの横槍のお陰だ。あの一矢がなければ、どう展開が転んでいたかは分からない。

「あら、封印指定の執行者にまで名前を覚えて頂けているなんて、光栄ですわ」

「ええ、貴女の噂は時計塔でも耳に届きます。何でも遠坂の長女は稀代の才媛であり、既に輝かしい将来を嘱望された期待のルーキーだとか」

 事実、凛の鳴り物入りでの時計塔入学は確定している。この戦いを無事終えれば、遠坂の家長の名と聖杯戦争の勝者の栄誉を携えて、彼女と同等以上の天才達が蠢く魔窟へと足を踏み入れる事になる。

 その中でさえ遠坂凛の輝きは色褪せず、より華々しい煌きを放つだろう。長く時間を掛けて研磨された宝石が、その輝きで人々を魅せるように。彼女はいずれ時計塔に名を残す魔術師となる。

「噂には尾ひれが付くものですから。鵜呑みにされていないと信じます」

 とはいえ凛はまだ何の栄誉も手に入れていない若輩者。あらぬ尾ひれがついているのは事実だが、凛はそれを現実のものとする気でいる。そう出来るだけの実力が、彼女には既にある。

「それで、何用ですか遠坂凛。貴女が何を思いアーチャーにキャスターを狙わせたのかは不明ながら、助けられた以上は礼を言いますが、それとこれとは話が別だ。無茶な用件ならば然るべき対応を取らせて頂きますが……?」

 畏まった言葉使いと口元に湛えた微笑を崩さない凛にバゼットは言葉の剣を振り翳す。戯言に付き合う謂れはない。こんな場所で足を止めて雑談に興じていては、背後から聖剣の光が降って来ないとも限らないのだから。

「そうね。腹の探り合いをしてる場合でもないし。用件だけ単刀直入に言うわ」

 被っていた猫を脱ぎ捨て、凛は顔に掛かる髪を払いながら、細めた瞳と口元に妖しい笑みを形作りながら言った。

「────ねえ、私達と手を組まない?」

 そんな、今後の展開に一石を投じる誘いを。



[36131] scene.09 同盟
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/04/16 19:46
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 遠坂凛とアーチャーが何故アインツベルンの森へと赴き、火花散らす二陣営に対し横槍を入れたか、それを知るには数時間ほど時を遡る。

 バゼット・フラガ・マクレミッツが冬木教会を訪れ、辞した後。宝石仕掛けの通信装置を用い時臣に対し報告を入れようとした綺礼からの連絡を受け取ったのが、凛であった事に端を発する。

 折悪く席を外していた時臣の代わりに報告を受けた凛。常の彼女ならばその業務連絡じみた内容の言葉を一言一句違えず父に報告して終わりだったであろう。綺礼の言葉に何を思う事もなく、感情の起伏もないまま淡々と伝えてそれで仕舞いであった。

 だが何を思ったか、この時凛は父に報告をせず、更には独断でアーチャーを伴い現地へと直接赴くというおよそ今までの彼女からは考えられない行動を取った。
 冷徹な魔女。唯一人で完結した人間。機械めいた人形。無駄を殊更に嫌い、感情の機微を失くした冷血漢。

 父の言葉には異論の一つも挟む事もなかった彼女が取ったその異常とも取れる独断専行を質すのは、彼女の従者である赤き弓兵に他ならない。

「凛、説明を要求する」

 日が天頂に差し掛かるその少し前。バゼット達が森に踏み込んだ直後の事。アインツベルン領とも言える森林地帯から南西方向に国道を挟んで広がる国有林の一画。キャスターの目さえも届かないほど距離の離れた場所で、嘆息と共にアーチャーは言った。

「決まってるでしょう、偵察よ。貴方が持つ鷹の眼なら、この距離からでもアインツベルンの森くらいは見渡せるでしょう?」

「出来る出来ないで問われれば出来ると答えるしかないが……それでもこんな場所からでは文字通り森全体を俯瞰する事しか出来ん。森の中までは流石に見通せない」

 幾らか背の高い木の枝から見渡しても、同じくらいの高さの木など幾らでもある森林地帯だ。アーチャーの目を以ってしても森の遠景を捉えられる程度。どれだけ目を凝らそうと居並ぶ木々が視線を阻み、これ以上の高所から俯瞰しようとすればアインツベルンに察知される恐れがある。

 距離が充分に離れているので可能性としてはゼロではない、という程度のものだが、もし森の主が、未だ不明のアインツベルンの二騎目がキャスターのクラスであればばれない保証はない。

「充分よ。魔術協会組……バゼット・フラガ・マクレミッツと二人のサーヴァントが森に向かうのは少し前に確認出来たし。後は相手の動き次第で、居る筈のない八騎目を確認出来ただけでも収穫だけど」

「…………」

 凛はそれでもまだ不十分らしい。

「凛、私が問いたいのはそうではない。君が一体何を考えてこんな真似をしているのか、という事を問い質している」

「……何か文句でもあるの?」

「いいや。私は君のサーヴァント……凛を主と仰ぐ従僕だ。主の言葉に疑いを持つような事はないし、命令とあらば大概の事はこなして見せよう。まあそれでも、唯々諾々と従うだけが良い従者などとは、決して思わんがな」

「持って回った言い回しね。言いたい事があるのならはっきり言ったらどう?」

「では言わせて貰おう。凛──この行動は、君らしくない」

 召喚されてからの数日で触れた遠坂凛という少女に対する弓兵の認識は冷徹な魔女の一言に尽きる。事実昨日までの彼女はそう振舞っていた。
 だが今回は違う。彼女らしからぬ独断専行。絶対と仰ぐ父にさえ筋を通していない強行偵察。これまでの凛の行動に一貫して見られた芯がぶれている。それを指してアーチャーはらしくないと憚った。

 今傍らに立つ少女をらしくないと思った己自身に赤い騎士は自嘲する。冷徹な魔女としての凛に違和感を覚えていた自分は一体何処に行ったのだと、知らず頬を吊り上げた。

「何を笑っているのか知らないけど。らしくない、なんて言われるのは心外ね。私はいつだって私よ」

「では問うが、何故父君に内密のまま偵察を行っている。家を出る前に伝える事は出来た筈だし、いつかのピアスを使えば声を届ける程度は道中でも可能だったろうに」

「必要ないと判断しただけよ。どうせ戻れば話すつもりだし、確実に外来組を捕捉するには一分だって時間は惜しかっただけ。悠長に話をして目標を見失いましたなんて、笑い話にもならないでしょう?」

 途中何か寄り道をしたらしく、凛達に遅れる形でバゼット達は森に入っていったが、それはあくまで結果論に過ぎない。直接森に向かわれていたら、捕捉出来たかどうかは微妙なところだ。
 だからバゼット達の動きを追うという意味では、凛の判断は間違ってはいない。らしいらしくないの話は別として。

「アーチャー、貴方が私の何を見てらしくないと思ったのかは知らないけど」

 傍らからの見下ろす瞳を力強く見上げる凛。その瞳に宿る色もまた強く。揺るぎなど微塵も感じさせない直視で以って少女は男の目を見返す。

「私は変わらないわ。きっと生まれた時から、何一つ変わってなんかない。だって遠坂凛は──そういう女だから」

「────」

 たとえ心が凍て付こうと。たとえ感情の機微が失われようとも。遠坂凛は変わらない。遠坂凛という存在が生まれた時から、彼女のその本質は何も変わってなどいないのだと、そう言った。

「……ならば最後に一つだけ、答えて欲しい。凛、君は一体何の為にこの聖杯戦争に立ち向かう」

「勝つ為よ。それ以上の高尚な理由も、それ以下の低俗な理由もない」

 目の前に戦いがあって舞台に立つ為の資格が与えられた。なら後は勝つだけだ。目の前の戦場から目を背ける事も、背を向けて逃げ出す事も遠坂凛の主義に反する。

 この偵察もあくまで勝利を得る為の最善手を打ったが為の強行策。これまで自ら積極的に行動を起こしてこなかったのはそうする必要がなかっただけに過ぎない。父の言葉を是として上策であると判断したが故のもの。

 その意思決定の根底にあったものこそが彼女の言葉に他ならない。

 凍り付いた心の奥底に静かに燃える炎がある。決して消えぬ不屈の炎。それが遠坂凛の本質であり芯の正体。

 ────ああ、ならば君は……

「……そうか」

 赤い騎士は静かに目を伏せ、頬をより吊り上げた。

「なによ……まだ何か言い足りないの?」

「いや、もう充分だ。ああ、それだけで、私としてもこの場に赴いた価値がある」

 要領を得ないアーチャーの言葉に首を傾げた凛の元に、直後、莫大な魔力の高鳴りが響いてくる。それは遠く魔女の森で解き放たれた黄金の輝きと赤き稲妻の衝突の余波。
 遮音の結界によって音は遮断されていても、漏れ出した極大の一撃同士が生んだ波紋は遠くこの場所まで届いている。

「さて、マスター。この局面君はどうする」

 鷹の眼は空中に浮遊するキャスターを視界に収めている。いる筈のない八騎目の存在を知り、アインツベルンの隠し札たる魔術師の英霊の存在をもまた確認した。偵察というならば充分に成果は果たせている。

「アーチャー、キャスターを狙える?」

 だがそれで満足するような女では、遠坂凛はないのだ。相手の索敵範囲外から一方的に目視出来るこの状況、逃す手はない。鷹の眼を持ち並外れた弓の腕を持つ弓の騎士の真価を活かさぬまま引き返すのは余りに惜しい。

「少々厳しいが、君がやれと言うのなら応えて見せよう」

 とは言え、アインツベルンの森までの距離は目算で七キロメートル余り。以前新都のセンタービルから狙撃を行った時の距離はせいぜい五キロメートル。しかも高所からの狙撃であった事も考えれば、この距離は無謀にも思えるほどに遠すぎる。

 それでもアーチャーは答えた。それが主の命であるのなら、従者としての役目を果たして見せると。

「直撃でなくても構わないわ。キャスターの気を逸らすだけでいい」

 敵にキャスターがいると確定した以上、あの森が工房化されているのは間違いない。なら踏み込んだ連中は苦戦を強いられている筈だ。アインツベルンにはセイバーもいるし、突破は簡単ではない。

 中の様子が窺えないので全て憶測の域を出ないもの。明確なのは防衛に長けた魔術師の英霊を、これ以上野放しには出来ないという一点だけ。
 あわよくばという思惑は幾つかあるが、ともかくキャスターの注意を引く事がまずは重要だ。当てられなくとも、キャスターがアーチャーの矢を認識さえすればそれでいい。大きく外れようとも問題はない。

「了解した。とはいえ、わざと外せるほど器用ではなくてね。狙う以上は当てるつもりで行く」

 枝を飛び移り目処をつけていた狙撃ポイントへと移動する。大小様々な高さを誇る木々の中でも図抜けて高い一本杉。その頂上へと昇り足場を確認した後、赤い騎士は黒塗りの弓を手に取った。

 番えるのは螺旋の刀身を持つ豪奢な剣。狙撃用に改良を施されたアーチャーが持つ矢の内の一振り。ギチリ、と弦を軋ませ矢を引いた。
 今度の狙撃は打ち下ろしではない平行射撃だ。生半可な魔力充填では届きすらしない。難易度は以前の狙撃を容易く上回る。

 鷹の眼が遠く標的を射竦める。相手はこちらにまるで気付いていない。当然だ、足元に油断がならない敵がいるというのに、これだけ離れた場所に位置する狙撃手を警戒する猶予などある筈がない。

 誰もの認識外からの一方的な狙撃こそが弓兵の真骨頂。唯一、その身にだけ許された独壇場。
 騎士が僅かに口元を歪ませた。本来あるべき弓兵の姿。それが己自身の好むものではないと認識しながら、何度となく弓を執った理由に。

 軋む弦は今にもはち切れそうなほど引き絞られ、矢へと充填されていく魔力は常軌を逸するほどに高まり行く。目に見えそうなほど濃密な魔力が矢に満ち、指先は極限まで弦を軋ませる。
 矢を届かせられるだけの準備が整えば、狙いをつける必要はない。風向きも重力も空気抵抗も、全て気にかける必要はない。この弓兵が矢を放つ時、必要なのはただ一つ──当たるイメージそれだけだ。

 “当てる”のではなく“当たる”イメージ。それさえ脳裏に描ければ、この射手は決して的を外しはしない。

「────」

 そして矢は放たれる。離した指先から伝わる確信。豆粒ほどの標的に向けて解き放たれた螺旋の剣は。
 膨大な魔力をその推進力へと変え、大気を切り裂く擦過音を轟かせながら、遥か七キロメートル先の空中に浮遊する魔女へと吸い込まれていった。



+++


 空を染める夕日の赤色が窓越しに差し込むカフェテリア。その店舗内でも一番奥まった場所にあるテーブルに、彼女達の姿はあった。

 アインツベルンの森を脱したバゼット達を待ち構えていた遠坂凛とアーチャー。そして黒髪の少女より持ち掛けられた共闘の提案。その提案に乗るにせよ乗らないにせよ、アインツベルンの膝元で問答を行うのは得策ではない事くらい、その場に居合わせた誰もが承知していた。

 バゼットにしてみれば遠坂に対して借りがある。意図が分からないまでも、事実としてアーチャーの狙撃により窮地を脱した負債があった。それを返済する為、遠坂側の提案を受け入れるその前段階──まずは提案の内容を聞こう、という具合に相成りこの会席の場が設けられた。

 居合わせるのはバゼットと凛のみであり、アーチャーとランサーは霊体化している。腕の損傷が特にひどいモードレッドは一足早く拠点へと帰還しておりこの場にはいない。バゼットもまた両の拳にルーンを刻んだ包帯を巻き治癒に努めていた。

 一通り注文を済ませた後、凛は紙ナプキンの上に簡易な魔法陣を描き、その上に小粒の宝石を置いた。

「用心深い事だ」

「森に住まう魔女の目が此処まで届かないなんて楽観は出来ないからね。ま、ちょっと音を遮断するだけの簡易なものだし、あんまり期待されても困るけど」

「では話は手短に。早速ですが森での提案の内訳を聞かせて貰いましょう」

 不意に持ち掛けられた凛からの誘い。ある程度の推測は立てているが、彼女自身から直接話を聞かなければ明確な判断は下せない。

「じゃ、単刀直入に言うけど。アインツベルンの森を攻略する為に手を組まないか、というのがこちらからの提案よ」

「…………」

 予想とほぼ同じ答え。バゼットは一つ頷き続きを促した。

「魔術師の英霊が構築した工房。その攻略難度は直接踏み入った貴女達の方が良く知ってると思うけど」

「ええ、我々が味わったものは辛酸であり苦汁だった。だがそれも工房の規模と質を考慮すれば、氷山の一角に過ぎないでしょう」

「そ。正直そんな場所に立て篭もられたら厄介この上ないわ。最弱と揶揄されるキャスターのクラスだけど、その特性から守勢に長けていて、かつ時間を与えれば与えるだけ不落の城が増築されていく」

 今こうしている間にも、キャスターは森の結界を強化しているかもしれない。アーチャーの狙撃でダメージは与えた筈だが、直撃ではなかった事からもどの程度の傷を負わせられたかは分からない。

「正直、この段階までキャスターの存在をすら発見出来なかった時点で私達の負け。アインツベルン……いえ、衛宮切嗣の陽動はものの見事に成功したってわけ。不本意だけどそれを認めないわけにはいかないわ」

 ただキャスター個人が立て篭もるのならばまだ打つ手はあったが、あの森には最優のサーヴァントと悪名高き魔術師殺しが潜んでいる。ましてや、そこにもう一人マスターがいるとなればその攻略難度は想像を絶する。

 強制的に後手に回らざるを得なくなる敵の領域での戦闘において、確実に勝利を掴もうとするのならこちらも相応以上の準備が不可欠になる。
 第一に挙げられるのが数的優位。どれだけ悪辣な罠や広大な敷地を誇ろうと、敵の手が回らない人数で攻め入れば一矢報いるのはそう難しくはない。こちらが相手の裏を掻ければ優位を得る事も不可能ではない。

「工房の規模がもう少し小さければやりようはあったんだけどね」

 遠坂や間桐が居を構える程度の工房であれば、アーチャーが遠距離から狙撃すればそれで済んだ。その手の奇襲に対する策は打ってくるだろうが、やってやれない事はない。
 問題となるのはやはり工房の広大さ。アーチャーの目を以ってしても全容を俯瞰する程度しか出来ない広さを誇り、魔術的隠蔽が施され、現代において航空機の目をすら欺く何処にあるのかも分からない城を狙えというのは無理な話だ。

 ましてや、徒歩で地道に罠を破壊し城を目指すには余りにも距離がありすぎる。

「我々が誘い込まれたのはせいぜいが第一防衛ラインでしょう。森の奥深くにはより辛辣な罠が設置されている事は想像に難くない」

 馬鹿正直に挑むには少々リスクが大きすぎる。かといってこのまま野放しにすれば工房はその強度を増すばかり。何の打つ手もなくこのまま手を拱いていれば、アインツベルンは篭城を決め込み続けるだろう。

「出来る限り早くあの森を攻略しなければならないってのは、共通認識だと思うけど?」

 単身で挑んでくる輩は正面から粉砕し、他の三陣営が争い合えば無傷の彼らが一番得をする。掛けられる時間は多くない。速やかにアインツベルンの森を攻略しなければ、戦いの趨勢が決まってしまう。

「提案の内容は理解しましたが、幾つか質問があります」

 凛はどうぞ、と掌を差し出した。

「具体的にどのように攻め込むつもりですか?」

「真正面から。堂々と」

「…………」

「実際数的優位を確保しても、分散させちゃったら各個撃破されて終わりでしょ。地の利は向こうにあるんだし」

「……最低限足並みを揃え、数的優位を確保しながら城を目指すと」

 理想論ではあるが確実性がある王道的な策でもある。問題は、あの霧による視界封鎖と幻覚による分断。それらをたとえ克服しようと、森の奥には更なる罠が待ち受けている筈。ならば共闘の意義とは。

「狙いを絞る。キャスターか、あるいはそのマスターの抹殺を最優先とする」

「イエス。誰か一人が城に辿り着き、森の主を討てればそれでいい。厄介なのはあくまでキャスターの工房だけ。セイバーとそのマスターも厄介は厄介だけど、彼女達だけなら幾らでも相手取る手段はある」

 敵から地の利を、後方支援を排除する事。森に篭城する意味を失わせられれば、この共闘は成功を見る。いずれは挑まなければならない不落の森。時を置けば力を増す結界。だからこそ凛はこの共闘を提示した。最も厄介な敵を真っ先に撃ち落とす為に。

 バゼットはウェイトレスの運んできた紅茶から立ち昇る薫りを無視したまま、残りの質問を矢継ぎ早に投げ掛ける。

「間桐に対してこの提案は……?」

「してないわ。というより無駄でしょう。間桐が遠坂と手を組むなんて、有り得ないでしょうし」

「仮に共闘が成立し実行に移した場合、間桐は野放しとなるわけですか」

「そっちにまで手を回したら正直共闘の意味がないもの。間桐にしてもアインツベルンの厄介さは把握してるでしょうし横槍は入れて来ないと思うわ。
 間桐の最善手を考えるとすれば、静観に徹して、傷付いた連中を刈り取る漁夫の利を狙うのが一番旨味があると思うけど」

「ふむ……」

 味わうように紅茶に口をつける凛とは裏腹に、バゼットは一息でカップの中身を飲み干すと結論を告げた。

「共闘の内容は把握しました。ですがこの場で決断を下す事は出来ません」

 暗黙の了解的に沈黙を貫くランサーと、一足早く拠点に戻ったモードレッドの意見も聞いてみなければならない。
 独断で決めてしまっても彼らならば了承してくれるだろうが、此処は一つの山場となる予感がある。魔の森に挑むか否か。遠坂と手を組むか否かは今後の展開を左右する分水嶺。慎重を期して悪い事はない。

「そう、分かったわ。とは言っても、さっきも言ったとおり時間を与えれば与えるだけキャスターは強化されていく。だから今晩中に返事を頂戴。遠坂邸(ウチ)に使い魔を送ってくれればそれで分かるから」

「分かりました」

「それと、こっちからそっちに連絡する手段はないから先に言っておくわ。共闘が成立した場合、明朝八時には今日出会った場所で落ち合うつもりで」

 遠坂擁する白騎士ガウェインは昼の時間帯に三倍の能力を発揮する“聖者の数字”の加護がある。夜が主たる戦場である冬木の聖杯戦争と相性の悪いこのスキルも、周囲の目を気にする必要のないアインツベルンの森であれば昼間の戦闘が可能だ。

 このメリットを有効利用する為の明朝からの作戦開始。同盟締結後すぐに挑んでは、彼の騎士の本領を発揮出来ない。セイバーを圧倒する実力と強力な対魔力を有する白騎士は切り札の一つ。使わない手はない。

「そちらも了解しました。ではこれで」

 バゼットは代金を置いて立ち上がる。

「いいわよお金は。誘いを掛けたのはこっちだもの、こっちが持つのが筋じゃない?」

「結構。これ以上貴女に借りを作りたくはありませんので」

「そ。じゃあ遠慮なく」

 それ以上交わす言葉もなく、一度も振り返る事もなくバゼットはカフェテリアを後にする。凛もまた去り行く女魔術師を目で追う事もなく、静かに目を伏せ残った紅茶を愉しんだ。


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「で、どうするんだ?」

 拠点としている森の洋館へと戻ったバゼット一行。森での戦いで負った傷の具合を確かめつつ、待機していたモードレッドに話の内容を告げた後、椅子に腰掛けたランサーは主を振り仰ぎながらそう言った。

「私個人の意見は既に決まっています。後は貴方達の意見を聞いてみたい」

 痛んだ手に再度ルーンを刻んだ包帯を巻きつつバゼットは答える。

「オレは反対だね」

 そう告げたのは定位置たる窓辺に腰掛けるモードレッド。聖剣のダメージが今なお色濃く残る左腕をランサーの記したルーンで覆われた包帯で巻いた彼女は、睨め付けるようにそう声を発した。

「あの女が気に入らない」

「そんな理由かよ」

 ランサーが鼻で笑う。

「中々気風の良いお嬢ちゃんだったぜ。難攻不落の要塞相手に正面突破を仕掛けようってんだ、肝も据わってる」

「そうか? オレはあの女から教会の男と同じ匂いを感じたね。あの男ほどじゃないが、あの女も相当だ。笑顔の分だけより悪辣かもな。
 差し出された手を握り返したが最後、体よく利用されて都合が悪くなったら後ろからずぷりと刺されても文句が言えない手合いだ。それでもいいのなら、共闘に応じてもいいんじゃないか」

「ひでぇ言いようだな」

 実際、ランサーも量りかねるところはある。先のカフェテリアでの彼女が本心から共闘を望んでいるのか、分からない。いずれ敵となる相手だ、そんな相手と手を組もうというのだから打算や思惑は幾らでもある。
 こちらも同様の思惑を抱えこうして議論しているのだから文句はない。問題となるのはそんな相手とはいえ一時背中を預けるのだ、つまるところ信用の問題。

 誰かに何かを期待をする、期待をかけるという事は、同時に裏切られた時に落胆しない覚悟をするという事だ。期待に応えられなかった相手に一々苛立ちを覚えるようでは、それは信頼とは呼べない。
 背中を預けるという事は、その背を刺される覚悟がいる。彼女達はその信頼に足る者なのか。

「今日殺し合った連中と、明日肩を組んで酒を呑んじゃいけねぇ決まりはねぇよ。逆も然りだ。
 オレは共闘に賛成だぜ。明日お嬢ちゃん達と酒を呑んで、たとえ宴席で毒を仕込まれようと、剣を向けられようと恨むつもりもねぇよ。それが赤枝の騎士(オレ)の在り方(ほこり)だ」

「はぁ……誇り高きケルトの大英雄サマは流石に言う事が違うねぇ」

「つーか裏切りだのなんだのはおまえの方が得意だろう」

「うるさい、オレの事はどうでもいいんだ」

 モードレッドは窓の外へと視線を向ける。藍色に染まり行く空。やがて来る夜へと落ちていく黄昏を想い。

「ま、オレはオレの意見を述べたまでだ。バゼット──」

 視線を戻し、二人のやり取りに静かに耳を傾けていた女を見る。真摯なまでの直視が返って来た。

「このチームの指揮官はおまえだ。だからおまえの下す決定に、オレは異論を唱えるつもりはないから、後は任す」

 共闘、というのならまずモードレッドとバゼット、ランサー達こそがその関係だ。互いに背を預ける事を了解し、いつか殺し合う事になると分かりきった上で両者は互いの手を握り返した。

 その覚悟があり、そしてバゼットをこの陣営の暫定的なトップとして立てているモードレッドにしてみれば、どのような結論が下されようとも異を唱えるつもりなど最初からなかったのだ。

 共闘関係。利害の一致。その関係性にどうしようもなく埋めがたい溝、決定的な軋轢が生まれない限り、彼女の意思は変わらない。そしてもしもその意思が覆されるとすれば、それはきっと……。

「分かりました、では遠坂との共闘を行います」

 揺らぐ事もなく、まるでそれが初めから決まっている事実であったかのように、バゼットは宣言した。

「モードレッドの言葉も気には掛かりますが、まずはアインツベルンの森の攻略を優先します。先の一戦から言える事は、我々だけでも入念の準備を行えば攻略は不可能ではないかもしれません。
 ですが時間はそれを許さず、そして他に使える手があるのなら使うべきだ。たとえその手に裏切りの短剣が握られていようとも」

「…………」

「何より、私は貴方達を信頼します。私が手を握り返すのは遠坂ではなく貴方達。ええ、この信頼に掛け値はない。背中を預けるとは、本来そういう意味でしょう」

「────ハッ」

「そうまで言われて期待に応えられなかったら、」

「ああ、オレ達英霊の名が泣くぜ」

 不器用だが、確かな信頼の証。
 真っ直ぐな言葉が、彼らの心に心地良く響く。

 誰かに期待を掛けられる事。身に余る信頼を寄せられる事。そんな事は、生前幾らでもあった出来事だった筈だ。そしてその全てに応えるべく剣を、槍を振るい、結果で全てを示してきた。

 ならばその無垢な信頼、応えられずして何が英雄か。ある種挑発めいたその言葉をこそ彼らは絶対の証と信じ、応えると決意した。



+++


 夜天に満ちる星(はな)。月が雲に隠れているせいか、今夜は星が普段より多く見通せる。満天の星空の下、白騎士ガウェインは遠坂邸の屋根の上で、頭上を埋め尽くす綺羅星の天蓋を見つめていた。

 彼に星読みの力はない。だからあくまでそれは、理由もなく意味もなく空を眺めるだけの行為にも見える。かつて彼が駆け抜けた時代にも輝いていた星々を、この遠く離れた現代でもいつかと同じように見上げていた。

 それは感傷などではない。彼の心にそんなものを抱くだけの機構は備わっていない。というよりも彼自身が己を戒める為に排した、というべきか。
 理想とされる王が、王足らんと私を殺したように。彼もまた騎士足らんとして、私を殺している。

 天を見上げていたのは空からの奇襲を警戒してのもの。ガウェインの認識範囲内に敵は確認出来ないが、その外からの攻撃がないと断じるわけにはいかないからだ。
 身内には対軍宝具の射程外から狙撃を行える射手がいるのだ、他に似た手段を持つ者がいないとは限らない。

「ガウェイン卿」

 不意に掛かったその声に、白騎士は振り仰ぐ。仰ぎ見た先には赤い外套を夜風に靡かせる弓兵の姿。

「何用ですかアーチャー。まだ交代の時間には早いと思いますが」

「ああ、知っているとも。ただ少し気掛かりがあったものでな」

 ガウェインに並び立ち、アーチャーは夜の向こうを見通すように睥睨する。細められた瞳は射殺すほどに鋭く。気配の残滓すら逃さないとばかりに警戒心を露にする。

「……そんなにも私の哨戒が気に入りませんか」

「いや、気を悪くしないでくれ。卿が先ほど空にまで警戒を向けていたのは見ていた。だから君に落ち度があるなんて事はない。ただ……」

 ぐるりと周囲一帯、全方位に視線を飛ばし探りを入れたアーチャーからは、何か確信めいた警戒の色が感じられた。

「何か気に掛かる事でも?」

「ああ。もし私がアインツベルンならば、この段階で仕掛ける。不落の城に篭城を決め込むと誰もが高を括っているからこそ、打って出る。少なくとも、衛宮切嗣はそういう男である筈だ」

 だからこそおかしい。人の裏を掻き確実に先手を取る事に長けたあの男が、篭城などという消極策を取る事が不可解でならない。追い詰められてからの篭城ならばまだ理解が出来るが、現状優位にあるアインツベルンが立て篭もる理由がない。

「昼の戦闘で貴方はキャスターを撃墜したのでしょう。ならば篭城も策の一つとして考えられるものではないのですか」

「であればいいのだがな……」

 その程度の事であの悪名高き魔術師殺しがこの好機を逃すだろうか。味方が負傷したのなら、だからこそ打って出て来そうなものなのだが。

「…………」

 ガウェインはふと、アーチャーの高すぎる警戒心に疑問を抱いた。確かにあの男、衛宮切嗣ならば彼の言うような行動を起こしてもおかしくはないと思える程度には、これまでに戦場を荒らされている。
 それにしてもアーチャーの警戒レベルが高すぎる。言葉の端々に滲む確信めいた何か。衛宮切嗣という男を、この弓兵は知りすぎているような気がしてならない。

 未だ以って正体不明とされる謎の英霊。召喚直後には記憶がないなどと憚っていたが、今の彼の言動からはそんなかつてを想起出来ない。

「アーチャー……貴方は一体何を知っているのです」

「…………」

 鷹の双眸が高潔な瞳を射抜く。ガウェインの不躾でありながら真っ直ぐな詰問。それに弓兵は口元を歪め答えた。

「私が知っているのは、同じタイトルがラベリングされた、中身が全く別物の本の内容だけだ」

「……何を」

「卿は神が実在すると思うかね?」

「…………?」

「神だよ、神さま。人が崇め奉り、畏れ戦慄く天の意思。まあ我ら英霊も、人々の信仰によって形作られるもの。ある意味では、神と似たようなものなのかも知れんがな」

「何が言いたいのです、アーチャー」

「神がいるかどうか。さて、そんなものは私にも分からないが、仮にいるとすればそいつは酷く性格の悪い奴だと思ってね」

「…………」

「那由他の果てに辿り着いた、唯一己の願望を果たせる可能性のある世界。だがそこは自分が知るものと決定的に違っていた。何もかもが、変わり果てた世界だった。そんな場所に放り出された者は、一体何を思うだろうか」

 アーチャーの言葉は要領を得ない。そもガウェインに何かを理解させようとして話してなどいない。これは、己に言い聞かせる為に壁に向かって話しかけているようなものだ。余計な相槌も入れず、白騎士はそれでも真摯に耳を傾ける。

「最初は思ったものさ。何が罷り間違って、こんな世界になってしまったのだろう、と。縋りたい一心で現状を把握しようとするが、知れば知るほど己の手で悲願を為せる可能性が無い事を思い知るばかりか、本当に、何もかもが変わってしまったと思った」

 だけど。

「──こんな変わり果てた世界でも、変わらないものがあると知った」

 だから。

「私は決めたよガウェイン卿。私は凛を勝者とする。その為ならば、この身はどんな辛酸をすら飲み込んで見せよう」

 定まらなかった想いの矛先。それがようやく、向けるべき先を見つけ出した。この身に宿る負の想念を果たせないのならば、せめてこの手で為せる事を為そう、と。
 巡り廻り、遠回りをして行き着いたのはそんなありきたりな結論。だけどそれでいい。それこそが、かつて歩んだ道の果てに、目指したものであった筈だから。

「我が主の願いもまた彼女を勝者とする事。ええ、これでようやく貴方と真に戦場を馳せる事が出来る」

 ガウェインはその手を差し出す。何処か消えない猜疑の念を抱き続けてきた弓兵に対する謝罪とこれから背を預ける事となる者への証。

「私は私の心の内を語ったが、卿からはまだ聞いていない」

 しかしその掌を、赤き騎士は拒絶した。

「……私は何度となく語った筈ですが。我が剣は主の為。主の剣となって立ち塞がる敵を断つ。それこそが我が騎士の道。誇りであると」

「果たしてソレは、本当に君の本心なのか?」

「愚問を。あるいは貴方こそ、我が忠義が偽りであるとでも?」

「いいや、君の意思は本物だろうさ。私を滅し主を立てる……個人の意思を持つ事すら不要と謳う鋼の信念。見方を変えればそれは主の傀儡に過ぎないとしても、極まれば一つの峰となる。
 私が疑問に思うのは、“碌に会話をすらしていない者”を主と定め、下された命令に従うばかりで疑いもしないその妄信だ」

 忠義の形は何も一つではない。尽くす事も、信じる事も、時に突き放す事すらも人によっては忠節の在り方として捉える事は出来る。
 だがガウェインの忠義は妄信に過ぎないとアーチャーは言う。彼自身の意思は本物であっても、盲目的に人に付き従う事を、忠義とは呼ばないのだと。

「君はこの戦いで、唯の一度も自らの手で剣を振るってなどいない。そんな曇り切った手で握られては、その手に輝く太陽の名が泣こう」

 意思のない人形が振るう剣が意思持つ人の剣を超えられる筈がない。誰かを理由にして振るわれる剣ほど、折れやすいものもない。白騎士の剣は傀儡の剣。操り糸がなければ振る事すらもままならない惰弱なものだと弓兵は蔑んだ。

「それ以上戯言を謳うのなら、侮辱と受け取るぞアーチャー」

 鬼気迫る形相で睨め付ける白騎士に、弓兵は息を吐くように笑みを零した。

「……全く。慣れない事はするものではないな。ああ、今夜はこれで退散しよう」

 外套を翻しアーチャーはガウェインに背を向ける。

「明日の戦いは恐らく、この聖杯戦争において一つの山場となるだろう。私にとっても、卿にとっても」

「…………」

「我が弓を卿の背に預けよう。故に存分にその輝きで戦場を照らしてくれ。誰もがその眩しさに、目を焼かれてしまうほどに」

「言われずとも。貴方の疑念を晴らす為にも、私は全力で剣を振るうと誓いましょう」

 アーチャーの言葉はガウェインを思ってのものである事は、彼もまた承知している。白騎士自身ですら見落としている何かを見ている弓兵の言葉を無碍にはしない。したくはなかった。

「アーチャー、この続きはいずれ。今度こそ我が忠誠が本物であると証明しましょう」

「ああ。ならば次こそ私は君の間違いを質そう」

 そんなやり取りを経て、二人は互いに背を向ける。ガウェインは今一度街を遠望し哨戒の任へと。アーチャーは光に透けるように、夜の闇の中へと姿を消した。



+++


 明朝。

 時間通りに遠坂陣営とバゼット一行は落ち合い、互いの情報を交換した。

 特に有益であったのは直接森に踏み入ったバゼット達から齎された工房の罠の性質。僅か数メートル先にあった背をすら誤認するほどの精緻な幻覚。霧の妨害もあり容易には突破出来ない。

「……ふむ。ならば霧が出たら一度足を止め、こちらも対抗策を打つしかあるまい」

 時臣が言う。

 視覚に対する幻覚はそれと理解していれば防げる可能性はある。しかし相手は魔術師の英霊だ。ならばこちらも相応の術式を組んで対抗しなければならない。

 幸いこちらには数的優位がある。マスターが術式を構築している間も、サーヴァント達は不用意に動かなければ霧に囚われる事もない。

「ではこれより森へ侵入する。凛、以降の指揮はおまえに任せる」

「はい、お父さま」

 この協定を締結した凛こそが指揮を執るに相応しいとバゼットも認めている。無論、凛の力量を把握する意味や、ルーン以外の細やかな魔術の扱いが不得手なバゼットでは対応が遅れる可能性を考慮してのものだが。

「では行きましょう。決して離れないように」

 隊列を組み一行は森へと侵入する。

 枯れ立つ木々の合間を縫い、枯葉の絨毯の上を何処までも進んでいく。その折、モードレッドは視線を感じて振り向いた。

「……何だよ」

 視線の先にいたのは白騎士ことガウェイン。八人目のサーヴァントがいる事は事前に凛から知らされていた事もあり、驚きはしなかったが、そのイレギュラーを目の前にし自然と視線を吸い寄せられたのも無理はあるまい。

 二人は因縁浅からぬ間柄だ。

 異父兄弟であり、特にガウェインにとってモードレッドは兄弟達がランスロットの手により討たれる間接的な原因にもなった、王妃の不義を暴いた者の一人。更には彼の直接的な死因……沈まぬ太陽を堕とした背徳の騎士なのだから。

「言いたい事があるのなら言えばいいさ太陽の騎士。生前の遺恨を今に持ち越すのはどうかと思うがね」

「いいえ、私個人に貴女に対し思うところはありません。全ては己自身の不徳故の結末。甘んじて受け入れるが筋でしょう」

 モードレッドの叛逆に無意識に、不可抗力的に手を貸す事になった不始末こそを白騎士は恥じ入る。守るべき王の傍を離れ、我欲に溺れた結果、全ては坂道を転がるように奈落へと落ちていった。

 その末路が叛逆の僭王の手によって討たれた事に、ガウェインの思うところはない。ただそれでも、許せないものがある。

「モードレッド卿。如何なる理由であれ、貴女の彼の君に対する裏切りを私は許容する事は出来ません。
 公正にして無欠の王にその刃を向けた貴女を、私は仲間とは認めない」

「────へえ」

 足を止めぬまま、二人は視線だけで火花を散らす。

「認めないのならどうするんだガウェイン卿。何ならいっそ此処で戦りあうか?」

「いいえ。この道程、アインツベルンの森の攻略は主が下した命によるもの。主命を差し置き個人の感情で私闘を行うつもりなど毛頭ありません。同様に貴女と手を組む事にもまた不満はない」

「……じゃあなんでわざわざ挑発するような事を言うんだか。一言多いのは死んでも変わらないなアンタは。
 まあいいさ。別に認めて貰う必要もない。互いに必要なのは互いの戦力だけ。心からの信頼なんか、必要ない」

 そも二人の関係は一時の共闘。いずれは殺し合う仲だ。生前の因縁などなくとも掛け値なしの信頼など望むべくもない。

 魔女の森を攻略する上で単独では戦力に不安があるからこその共闘関係。主と仰ぐ者達が手を取り合った結果だ。勝利という二文字の為に、互いの足並みを揃える事は難しいものではない。心の内が、どのようなものであれ。

「最後に一つだけ聞かせてくれないか。王を裏切ったオレを許せないとアンタは言った。なら、これからその王に刃を向けようとしているアンタは、何を思う?」

「──何も。主の意を剣として為す事こそが我が誇り。かつて仕えた王であっても、我らの道程に立ち塞がる障害になるのなら討ち果たすまで」

 事実これまでに何度も剣を交えている。生前の誓いに、忠誠に偽りはなくとも、今生にて剣を捧げた主を差し置いてかつての王に膝を付くのは間違っている。なればこそ、全霊で以って主の道行きに立ちはだかる王を打ち倒すのだと白騎士は謳う。

「────ハッ」

 ガウェインの心よりの言葉に、モードレッドは冷笑を漏らす。

「まさに騎士の鑑だなガウェイン卿。しかしそうだな……あえて一言余分に言わせて貰うのなら、生前その最期まで尽くしてくれた忠義の騎士が、心を持たない伽藍の洞だったと知ったら、あの王は何を思うのだろうな……?」

「…………」

 モードレッドが余分と言った言葉に反応を返さず、ガウェインは静かに目を伏せ口を閉ざした。感覚は周囲への警戒へと向けられたまま、数秒にも満たない時間閉じられた瞳は、その闇の中で一体何を映したのか。それを知るのは彼自身のみだ。

「盛り上がってるねぇ……生前の知り合いだと積もる話もあるのかね」

 先陣を務める騎士達の後方、殿を任された青い槍兵は暢気な声で嘯いた。

「無粋な横槍はやめておけ。藪を突いて虎が出ては目も当てられん」

 そう応えたのは同じく最後方に位置する赤い弓兵。やれやれ、と嘆息を零す。

「横槍なんざ入れるかよ。今のところ何の沙汰もないが、紛れもなく此処は敵地だぜ。悠長に話してるアイツらの方を嗜めてやれよ」

「既に話は終わっている。であれば、今更蒸し返すものでもないだろうよ」

 以降誰も無駄口を叩かないまま黙々と歩き続け、やがて森に踏み入って半刻ほどの時間が過ぎようとしている。

 しかし今もってなお以前バゼット達を襲った霧の妨害はない。数分おきに互いの存在を確認し合い、幻覚もまた発生していない事は了解済み。
 アインツベルンは一体何を考えているのかと、誰もが思ったその時。

 うねる木々の向こうに広がる荒野を見る。荒野というには少々手狭だが、それなりの広さのある空間。これまでの道程と打って変わって、スプーンで抉り取ったように一面何もない広場へと一行が足を踏み入れる。

「なっ……」

 その声を発したのは、果たして誰だったか。
 誰であろうと変わらない。
 広場に踏み込んだ者が全員、驚きに目を見開いた。

 明瞭な視界の先、城へと続き広がる森を背に立つ影。

 金砂の髪と翠緑の瞳、白銀の鎧を纏う少女騎士。
 身を覆う黒の狂気の向こうに、爛々と赤い眼を輝かせる黒騎士。

 並び立つ筈のない二つの姿。
 セイバーとバーサーカーが、森へと踏み入った狩人達の前に立ちはだかった。



[36131] scene.10 Versus
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/03/08 19:38
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 アインツベルンの森の一角、荒涼とした広場へと踏み込んだ一行を待ち受けていたのは二人の騎士。白銀の鎧を纏う騎士達の王と、漆黒の憎悪を滾らせる黒き騎士。
 これまでの戦いを見る限りにおいて、過去を鑑みてもなお、決して足並みを揃えられる筈のない遺恨を持つ者達が、森へと踏み込んだ彼らを出迎えた。

「…………」

 ざっ、と一行の先導を務めていたガウェインとモードレッドがマスター達を庇い立つように対峙する。二人に前面の騎士を任せ、ランサーとアーチャーはそれぞれが周囲への、姿を見せない他のサーヴァントに対し警戒を行っていた。

「……間桐め。一体何を考えている……」

 時臣は苦虫を噛み潰したかのように呟く。

 復讐の憎悪を滾らせるバーサーカーがセイバーを前に襲い掛かっていない事から、アインツベルンと間桐の間には明確な協定が結ばれているのが見て取れる。
 これで二人が争っていれば話は別だが、森への侵入者をこうして待ち構えていた以上はそう考える他にない。

 だとすればやはり不可解なのは間桐の動き。彼らが何を思いアインツベルンに肩入れしているのか、あるいはアインツベルンが間桐を脅迫しているのか? 理由が分からないが、こちらが手を結んだように向こうも足並みを揃えて来ている。

 とは言っても、それは余りに愚策に過ぎる。森の結界を有するアインツベルンに協力などしては、ただでさえ攻略困難な森の難易度が更に跳ね上がる。こちらが協定を結び森に挑むと決めたのは、あくまで相手がアインツベルン単独だと読んだからだ。

 冷静に状況を俯瞰出来る頭があるのならば、こちらに肩入れせずとも静観に徹するのが上策の筈。このまま森へと踏み込んだ二組の陣営が壊滅するような事になれば、それこそ戦いの趨勢は決してしまうと、分からないのか。

 ……間桐雁夜の独断専行……? 臓硯の入れ知恵か……? あるいは、これも衛宮切嗣が仕組んだ罠か?

 答えの出ない問いを胸中で渦巻かせる時臣の心情を知ってか知らずか、右手で器用に剣を弄ぶモードレッドが口火を切った。

「これはこれは……一体どういう事ですか。この森に父上がおられるのは無論承知していましたが、まさかランスロット卿までもがおいでとは」

 漆黒の騎士が赤い瞳を揺らし、全身鎧の少女を眇める。湖の騎士の周囲に立ち昇る黒い霧が、僅かにその勢いを増した。

「一体どの面を下げて父の傍らに侍るのやら。卿が一体何をしたか、まさか忘れたわけではないでしょう──裏切りの騎士よ」

 モードレッドの険を滲ませた物言い。それは当然の糾弾。王妃を拐かし、円卓に亀裂を刻み、国を崩壊へと誘った発端とも言うべき罪を犯した男が、何故今更王の傍らに立つというのか。

「完璧の騎士と褒め称えられながら、裏切りの騎士の汚名を浴びた筈の罪人が、どうして高潔なる王の隣に佇む事を許されるのか」

 たとえ王がその罪を不問とし、許しを与えようと。決して許容する事など出来ない。国崩しの一端どころが主犯とも言うべきモードレッドが言うべき事ではないが、彼女の厚顔無恥を正そうする輩はこの場にはいない。

 言葉を喪失したランスロットは喉の奥から漏れ出す呻きにも似た声を発しながら、射殺さんばかりにモードレッドを見据えている。もし彼が言葉を解す事が出来ていたら。どんな言葉を少女に向けたのか、それは詮無い思索だ。

 言葉を失い、理性を捧げ、畜生に落ちようと。果たしたい想いが彼にはあったから。そんなイフの話には意味がない。
 ただ明確のは、湖の騎士は自身の意思でこの場所に立っているという事だけ。憎悪を向ける相手と肩を並べているのは、マスターからの強制があってのものではない。

「これ以上彼を愚弄するのは止めて貰おうか、モードレッド卿」

 そう静かに言ったのは他ならぬセイバーだ。瞳にかつてない意思を秘め、まるで覆い隠すように全身を鎧で包んだ己が子を見つめる。

「ランスロット卿は私の意を汲みこの共闘を了承した。過去の遺恨が完全に消えたとは言わないが、この時に限っては轡を並べる者同士。我が朋友を相手にまだ戯言を謳うつもりであるのなら、剣によって応えよう」

 僅かに解れた、わざと紐解かれた風王結界の風が広場を蹂躙する。モードレッドの全身鎧がその風圧に軋みの声を上げ、それに紛れるようにした彼女の舌打ちは、誰の耳にも届かなかった。

「……モードレッド卿を擁護するつもりはありませんが、私も気に掛かる事はあります」

 ガウェインが消えかけの風を断ち切るように一歩を踏み込み声を上げる。

 オフィス街での一戦、セイバーの言葉が正しいのならバーサーカーの狂気の源泉は王への憎悪。王の懺悔の言葉を聞いてなお耳を貸さなかった狂戦士が、何故憎しみの対象との共闘を了承するに至ったか。気にならない筈がない。

 そしてこの黒騎士と対峙して以来、ずっと胸の奥で燻り続けてきた痛みの正体。一振りの剣に殉じ切れない己の不明はその痛みにあると確信する。
 騎士達の憧れとして、理想とされた完璧なる騎士の堕落した姿。誰よりも騎士道を信奉するガウェインだからこそ許容出来ない背徳。誇りを失った獣を質すのは己の手でなければならない。

「ランスロット卿、私は貴公に問わねばならない。騎士の道を奉じる身であるからこそ、私怨にて黒く染まってしまった貴公に」

 かつて兄弟を殺され、湖の騎士に対し復讐の想念をぶつけてしまったからこそ。己と同じ道を歩んでいる黒騎士を、このまま見過ごすわけにはいかないのだ。
 だってその果てには何もないと知っているから。辿り着いた先で見た景色は余りにも空虚で、涙で滲み、心に消えない後悔だけを刻み付けたのだから。

 白騎士の手の中に具現化するのは太陽の印。遍く全てを照らすこの世で最も大いなる輝きを手に、闇に堕ちたかつての盟友の為、ガウェインは今一度剣を執る。

 円卓に集いし王と三人の騎士。その誰もが眼前の敵へ、かつて同じ時代を駆け抜けた戦友へと明確な敵意を向けて剣を握る。
 時の果て、手繰り寄せられた運命の糸が導くこの現代で──それはまるで、生前果たされなかった無念と後悔を、誇りと想いを、祈りと夢を、成し遂げる為に。

「……血気に逸るのは結構だが、敵は目の前の二人だけじゃないようだぜ御両人」

 今にも戦端を切られようとしていた戦地の後方、手に赤槍を担うランサーが空を見上げながら呟いた。皆が見上げる視線の先に、君臨するは森の主。

「ふふ……今日は昨日にまして大所帯ね。頭数を揃えれば、私の城を攻略出来るとでも思いあがったのかしら」

 太陽を背に黒き翼を広げ天に座すキャスター。遠目ではあるが、見る限り彼女の身体に損傷は見られない。直撃こそ外したものの、アーチャーの矢の蹂躙を受けてなお魔女は健在だったらしい。

「向こうから出て来てくれるとは都合が良い。ランサー」

「あいよ」

 バゼットが革手袋を引き締め、足に早駆けのルーンを刻む。ランサーは逃がさないとばかりにキャスターを睨む。

 この森に踏み込んだ当初の目的を忘れてはならない。あくまで遠坂とバゼット達が手を結んだのはキャスターを討伐する為だ。セイバーもバーサーカーも今回に限ってはただの障害に過ぎない。
 本命がこうして前線に姿を見せたのだ、馬鹿正直に騎士達の戦いに付き合う道理はない。

「……そうね。此処でサーヴァント全員が戦りあうような事態になったら、混戦どころじゃ済まないでしょうし」

 凛が若干の思案の後、そう口にする。

 一人でも一つの軍隊にも匹敵する戦力を有するサーヴァントが都合八騎、同じ場所でぶつかり合えばそれはもう戦いではなく文字通りの戦争だ。
 統制が取れていればまだ救いがあるが、誰も彼もがそう融通の利く手合いではない。ましてや、そこにマスターまでもが巻き込まれてしまえば、どう低く見積もっても惨憺たる有様にしかなるまい。

 であれば、ここは敵の分断が上策。セイバーとバーサーカーの足止めをする者と、キャスターを討伐する者とに分かれるべきだ。

「……ならば、彼らにしかその役は任せられまい」

 時臣の視線の先には今にも、僅かなきっかけさえあれば飛び出しそうな二人の騎士の後ろ姿。円卓の王と最強の騎士の足を止めるのは、王と相打った背徳の騎士と最強と並ぶ太陽の騎士をおいて他にない。

 ……ただ、問題は。

「貴方達の思惑が透けて見えるよう。そう簡単にこちらが貴方達の策に乗るとでも?」

 そう、頭上にいるのは智謀に長けた魔女。今ほど考えた即席の作戦など、それこそ思考すらなく看破されて当然だ。

「とは言うものの、こちらとしても乱戦なんて面倒なものは避けたいのも事実。敵も味方もない殺し合いなんて、無様に過ぎるでしょう。
 だから私は退かせて貰うわ。追って来れるものなら追って来なさい。ただし──セイバー達を、その二人だけで足止め出来るのならね」

 魔女が空中に掌を翳す。フードに覆い隠された向こう、僅かに覗き見える口元が、こう告げた。

『夜よ、来たれ』

 瞬間、木々の隙間から差し込んでいた陽光は掻き消え、太陽の恵みたる温かさは、夜陰の冷たさに取って変えられる。世界を照らすのは太陽ではなく月。星々をその背に従え、夜の王が君臨する。

「なっ……!?」

 まるでコインの表と裏を引っ繰り返すように、世界が反転した。

 時臣が懐から取り出した懐中時計の告げる時刻は午前九時三十分過ぎ。夜の闇と月が我が物顔で君臨していい時刻ではない。これは世界そのものを裏返したのではなく、恐らくこの森、キャスターの結界内の昼と夜とを反転させたのだ。

 空間を限定したとはいえ、そんな規格外の現象を成立させるキャスターの手腕は逸脱している。並の魔術師がこんな大規模な改変を行おうとするのなら、どれだけの時間と手間と資金が必要になるか、考えたくもない。

 この森は文字通りキャスターの手中。魔女の為に、魔女の都合によって都合良く改変される異界だ。世界の目をどれだけ欺けるのかは定かではないが、この一時、確かに世界は彼女のものとなっている。

 とはいえ、魔女の為した事とはただ昼と夜を入れ替えただけ。規模の大きさと術の精密さは驚嘆に値しようとも、やった事はそれだけだ。ただ、それだけの事が、不都合となる存在がただ一人いる事を除いては。

「……ガウェイン」

 押し殺した時臣の声に、白騎士は静かに首を振る。

 “聖者の数字”は太陽の存在があってこそのもの。たとえ時刻が正確であろうと、彼が立つ場所が夜であるのなら、スキルは発動しない。時刻と世界との間にある矛盾に、システムは異常をきたす。

 キャスターの狙いはまさにそれ。太陽の加護のないガウェインは、王と三人の騎士の中では下位に位置する。最優の騎士と最強の騎士を相手取り、加護のないガウェインとモードレッドでは戦力差がありすぎる。

 セイバーとバーサーカーを足止めしようというのなら、あと一人必要になる。ただその選択は、敗北を認めるも同然の選択。残った一人でキャスターを追おうと、森の主たるキャスターと間桐のもう一騎とを相手に優位を得る事など不可能だ。

 戦力の分散は愚の骨頂。とはいえこの場での乱戦は余りにリスクが高すぎる。侵入者側の最も強力なサーヴァントを封じるだけで、容易く天秤の針は傾いた。

「手札の一つも晒さずに、私の庭を踏破しようなんて思い上がりもいいところ。そんな愚か者は此処で果てなさい。私と渡り合う資格すら有り得ないのだから」

 はためく翼に灯る魔力の灯。圧縮された魔力弾が、誰の手にも届かぬ天空から放たれようとしたその時──

 ──夜を切り裂く五つの光が、地上より天へと放たれた。

 唯一侵入者側で制空権を奪取出来る可能性を持つアーチャーが、具現化した弓に番えた名もなき矢を、一息の内に五条同時に撃ち放った。
 それはいつか弓兵が使用した矢に数段劣る無銘の矢。一撃の威力よりも初撃の速度と数を優先した牽制の矢。魔女の魔術の前には為す術のないその矢は、

「……フン、やはり幻影か」

 吸い込まれるように魔女の身体を貫き、貫かれた筈の魔女は煙か霧の如く夜の闇に四散した。

 権謀術数を得意とする魔女が意味もなく前線に姿を現す理由がない。こちらの侵入が気取られ、思惑をすら見抜かれているのなら、ネックとなる彼女自身が戦場の最前線に赴くのは道理に合わない。

 いつの世も、城主が座すのは天守閣と相場が決まっている。ならば今頃、本物のキャスターはこちらの動きを高みの見物と決め込んでいるに違いない。そしてガウェインを事実上無力化された侵入者側が取るべき選択をすら、恐らく見抜かれている。

「……相手の思惑に乗るのは気に食わないが、此処で退却しては余りにも無為。鉄壁の城塞がより堅固になるところを指を咥えて見ている事など出来る筈もない」

 今日此処で。この森を突破出来なければアインツベルンの勝利が揺るぎのないものとなるだろう。それを避ける為には、どうあれ森に挑むしかないのだ。

「ああ、キャスターの言葉はもっともだ。これは戦い、戦争だ。出し惜しみをして機を逸しては無様に過ぎる。この森を踏破する為──相応の札を晒そう」

 時臣の耳を飾る赤いピアスが揺れる。夜の中に真紅の輝きを放つ。

「令呪を以って命じよう──ガウェイン、君に太陽の加護を」

 令呪の強制力はシステムの矛盾を上書きする。太陽が輝いていなくとも、時間に矛盾があろうとも、小さな奇跡の絆は言葉を現実のものとして昇華する。
 そしてこの令呪使用による“聖者の数字”の強制発動という札を時臣が切る事はキャスターの、ひいては衛宮切嗣の狙い通りなのだろう。

 ああ、ならばこの遠坂時臣は──彼奴らの思惑のその上を行こう……!

「重ねて令呪を以って命じよう──ガウェイン、この一戦に限りバーサーカーを相手に“聖者の数字”を発動せよ!」

 一度破られた相手に対しては効果を発揮出来ないという欠点を持つ無敵のスキル。重ねて命ぜられた強制権により、今宵中天に輝く太陽は、最強の騎士を相手にしてすらその輝きは色褪せる事はない。

 これで時臣は初戦と合わせ三度限りの絶対命令権、令呪の全てを使用した事になる。マスターとしての資格を喪失するも同然の令呪の乱用も、主従の間に確かな絆があるのなら無謀ではない。

 この森を越える為、時臣は全ての札を切った。出し惜しんだ挙句踏破すらままならぬまま朽ちていくくらいなら、今日この日に戦いの決着をつけるくらいの意気を抱いて、前に進もう。

「ガウェイン」

「はい」

 その背より立ち昇る充溢する魔力の高鳴り。その背に誇らしさを覚えながら、時臣は言った。

「今の君は、この戦いに招かれた誰よりも強い。私はそう確信している。故に無様を晒す事など許されない。遠坂に組する者として、我らに勝利を齎す者として、恥じない戦いを見せてくれ、無欠の英雄よ」

「──はい。我が剣と誇りに賭けて。遠坂に勝利を齎すと、此処に誓いましょう」

 胸の前で掲げられた太陽の具現。かつてない煌きで刀身を輝かせる聖剣は、ようやくその真価を果たせると嘶いているかのよう。夜の冷気を払う熱を撒き散らしながら、白騎士は剣を構える。

「凛」

 父に視線を向けられ、娘は静かに頷きを返す。

「アーチャー、ランサー。先導は任せるわ。私達はキャスターを追うわよ」

 二人の応、という声を聞きながら、この場に残る円卓の騎士を除くマスター達は森の奥へと歩を進める。敵の妨害はない。今のガウェインを相手にしては、セイバーもバーサーカーも他所に気を回す余裕など微塵もない。

 不用意に視線を切れば、次の瞬間頭と胴とが死に別れていない保証はない。そんな背筋の寒くなる予感を実感とさせるほど、ガウェインの放つ気迫はかつてなく鬼気迫るものがあった。

「ようやく、邪魔者はいなくなったか」

 視線すら傾ける事なく広場を去ったバゼットとランサーを薄情だとモードレッドは謗りはしない。あれは無言の肯定。無防備に背を預けるにも等しい無垢な信頼。任されたのはこの森に存在する最強の二騎の相手を務めるという大任だ。

 意味のない激励も、価値のない発破もいらない。ただ信じ、前に進む事こそが彼らなりの激励なのだ。

 ……ま、それはオレがそう思ってるってだけの話で、そう思った方が気合が入るってだけの話なんだが。

 他人の腹の中なんか見えるわけがない。透視能力だってそんな器用に人の心を見透かす事なんて出来ないのだから。
 結局心を決めるのは己の意思一つ。他人の言葉なんてのは、何かの取っ掛かりになる事はあっても、鵜呑みにして良い方向に転がるなんて事は滅多にないんだから。

「…………」

 心を沈め、静かに息を吐く。

 心などとっくの昔に決まっている。己自身の為すべきもの、為したいと願ったものは、あの頃から何一つ変わっちゃいない。
 ならば示そう、この手で。胸に抱いたたった一つの、余りにちっぽけな祈りを、今度こそ叶える為に。

「じゃあ始めようぜ。アーサー王、今度こそオレは貴方を越える」

 白銀の剣クラレントがモードレッドの手の中で踊る。変幻自在、型のない剣を使う彼女ならではの構えらしくもない構え。受ける騎士王は下段に不可視の剣を構え、油断なく二人の敵手を見据えている。

「来るがいいモードレッド卿、ガウェイン卿。此処より先には、一歩たりとも進ませない」

「…………」

 ガウェインは無言のまま剣を握り直し、精悍な瞳は唸る黒き凶獣へと向けられる。

「Arrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr……!!」

 首に巻きつけられた見えない鎖を断ち切るが如く、神速の踏み込みでバーサーカーが戦端を切り、受ける白騎士の太陽の剣との火花が、開戦の合図として夜に散った。

 此処に伝説は再生する。
 歴史に名を残した四人の英傑。
 共に同じ時代を駆け抜けた円卓の騎士達は、この時の果てで再度火花を散らす。

 互いの立ち位置を入れ替えて。
 心に残響する想いを剣に乗せて。

 胸に抱いた尊き祈りを、今度こそ叶える為に────



+++


「おーおーうじゃうじゃいやがるねぇ、っと……!」

 ランサーの繰り出した赤槍が闇に閃く。リーチを生かした薙ぎ払いが行く手を塞ぐ雑兵──竜牙兵の群れを一網打尽にする。

 モードレッドとガウェインを残し、森の奥へと向かった者達を出迎えたのは、数えるのも馬鹿らしい程の骨作りの人形だった。行く手を遮る枝葉を払い、襲い来る兵を木っ端に変えながら、速度を落とす事なく一行は何処かにあるという城を目指す。

「つーか、おい、アーチャー! てめぇもちったぁ手伝いやがれ!」

「無茶は言うものではないなランサー。弓兵に何を期待している」

 弓を主武装とするアーチャーにとって、移動しながら敵を薙ぎ倒していくという戦い方は難しい。やろうと思えば出来なくはないが、酷く効率の悪いものとなる。何よりアーチャーの位置は殿だ。最前線を張るランサーとは立ち位置が違う。

「そもこの程度の雑兵、君一人で充分だろう? それとも何か? 私の手を借りなければままならないと泣き言を吐くのかな」

「チッ、一々癪に障るヤローだぜ。ああ、この程度オレ一人で事足りるが、ならせめて警戒くらいはしとけよ」

「言われるまでもなくやっている。私の感知範囲にサーヴァントの気配はない」

 とはいえ、此処は魔女の腹の中。それこそ気付く間もなく背後を取られる可能性とてゼロではない。軽口を謳いながら、その実アーチャーはずっと緊張の糸を周囲へと張り巡らせている。
 ランサーもそんな事は重々承知で、切っても切っても数を減らさない竜牙兵に業を煮やしちょっと悪態をつきたくなっただけの話だ。

「妙ね……」

 駆ける足を止めぬまま、凛が小さく呟いた。

「ええ、キャスターにしてはやり方が手緩い。こんな雑兵で我らを足止め出来るなどと、向こうも思ってはいない筈」

 受けてバゼットがそう答える。

 事実、以前彼女達が森に踏み入った時に視界を覆った霧や幻覚による分断が一切行われていない。夜の闇で視界が幾らか不明瞭であるとはいえ、僅かな月明かりを頼りに森を歩けぬほど魔術師は軟弱ではない。サーヴァントは言わずもがな。

「篭城を決め込むなら総大将の位置は天守閣って相場は決まってるけど、ねえバゼット。キャスターは本当にそこにいると思う?」

「…………」

 すぐには答えは返せない。僅かな思案の後、

「アインツベルンの総大将、というのは我らにとっての最優先のターゲット。であればそれは衛宮切嗣やキャスターではない」

 そう、この森の主キャスターをサーヴァントとするマスター。未だかつて戦場に姿を見せていない魔女の主こそが狙うべき標的。つまりはアインツベルンの首魁。であれば、此処まで秘匿したマスターのいる場所が城であるのなら、そこを主戦場とするだろうか?

 最も警備が厳重な場所は城だろう。トラップの類も張り巡らされていると予測される。ただし、敵をそこまで引き込むという事は、喉元に刃を突きつけられるも同然の事。最終防衛ラインを突破すれば、後に待つのは脅える子羊ただ一人。それは余りにリスクが高い。

「それに警戒すべきはキャスターだけではない事を忘れてはならない。衛宮切嗣に間桐の動きも気に掛かるな……」

 行く手を阻む雑兵を斬り倒すランサーの背から視線を逸らし、暗く闇の蟠る周囲へとそれとなく視線を向ける時臣。
 外道衛宮切嗣が、闇に乗じ何かを仕掛けてこない筈がない。アインツベルンと間桐の間に結ばれた協定がどういう形であれ、遠坂に敵意を向ける間桐が座して静観を決め込むというのも考えにくい。

 ならば────

「止まれッ!」

 アーチャーの突然の怒声に一行は一斉に足を止める。周囲を梢に囲まれた小道。見通しの悪い場所。闇の彼方から進軍してくる竜牙兵の数に衰えはなく。数秒の後、アーチャーの怒声の意味を皆が理解する。

「来たか……」

 闇に煙る白い靄。異常な速度で夜の森を霧が覆い、視界を白く深く閉ざしていく。

 霧が発生した直後から凛は魔術の起動を始めている。左腕に刻印された遠坂家の秘門、積み上げられた歴史の形──魔術刻印の回転数を上げ、霧による視覚妨害と次いで予測される幻覚に対処する為の術式を描いていく。

 ランサーは槍を構え周囲へと獣の眼光を向け、アーチャーは鷹の双眸で霧の向こうを見通す。時臣やバゼットも、油断なく周囲を警戒している。

 そしてそれは、彼らの警戒心を嘲笑うように顕現する。

 闇に轟く嘶き。不協和音じみた奇声。まるで断末魔の悲鳴の如き産声を上げ、周囲の木々が動き出した。

「ハッ──ここまで来ればもう御伽噺の世界だな」

 地に根を生やした木々がうねり、枝が触手のように乱舞する。枯れた筈の森は色付き、目に眩い新緑の葉を実らせる。
 具現化した異常。異常を凌駕する狂気。此処は魔女の腹の中で、全ては彼女の掌の上。眠れる森は叩き起こされ、森に踏み込んだ侵入者を喰らわんとその牙を剥く。

 狩人にとって、突破するべき森自体が、斃すべき敵へと豹変した。

 時を置けば数を増す竜牙兵と周囲を覆う木々。何処まで積み上げられる総量。敵を圧殺するかの如く、およそ考えられる限り最大の物量作戦に魔女は打って出た。

「ま、こちとら最大でもたった五人だ。雑兵もこれだけ数を揃えられちゃ面倒臭い事に変わりはないが──」

 ランサーは、周囲を圧倒的な数の敵に囲まれてなお不敵に笑う。

「──おいキャスター。まさかテメェ、この程度でオレ達英雄を殺せると、甘く見てるわけじゃねぇだろうな」

 地平を埋め尽くす兵の群れも、一騎当千の英雄の手に掛かれば物の数ではない。足止めとしては幾らか効果を為すだろうが、そんなものは文字通りの時間稼ぎ。篭城を決め込む側が取る策略ではない。
 ならばこの上にもう一手ある筈と踏んだランサーの慧眼は正しく。

「ええ、見事よランサー。脳味噌まで筋肉の野蛮な猿かと思ったけれど、多少は知恵が回るようね」

 森を従え魔女は宙に浮遊する。手には錫杖。カタカタと軋む竜牙兵の骨の音、蠢く森の異音を上書きする、鈴の音が鮮やかに夜に木霊する。

「貴方達は森に呑まれ、喰らわれ、此処で果てなさい」

 森自体が魔女の手足であるのなら、城まで敵を引き込む理由がない。見通しの悪い霧と夜の闇、周囲を圧倒的物量で囲まれた侵入者達に、魔女の目を欺き城を目指す道は何処にもない。

「道がなければ切り拓けばいい。至極単純な帰結だ」

 アーチャーは言って手の中に矢を具現化する。先ほど魔女の幻影を射抜いた粗末な矢ではなく、螺旋の刀身を描く煌びやかな剣を。

「おい、その剣は────」

 ランサーの瞠目と声を無視し、アーチャーは弓に番えた矢を引き絞る。

「凛」

「ええ。サーヴァントの相手は任せるわ。私達は城へ向かう」

 この場に残りキャスターと竜牙兵、森の木々を相手に立ち回るのは無謀に過ぎる。守るべき者を背に抱えて勝利を奪えるほど、今のキャスターは易くはない。

 彼女の慧眼は間違いなくランサー達のネックを狙いに来る。つまりはマスターを。であれば、此処で己がサーヴァント達の足手纏いになるくらいなら、命を賭して森の更なる奥へと踏み込み、城を落とす。それでこの戦いは決着を見るのだから。

「それを易々と私が見逃すと思って……?」

 しゃらん、と響く鈴の音に呼応し高まり行く魔力。天空に描かれた魔法陣は堆くその数を増していく。並の魔術師が見れば怖気を抱くほどの膨大な魔力を操る魔女を前に、赤と青の従者は笑った。

「見逃すさ。見逃すしか手はねぇ。でなけきゃ倒れるのはテメェの方だからな……!」

 蠢く木々が繰り出す枝の触手を斬り裂き、幹を蹴り上げランサーは宙を舞う。天に座すキャスターを目掛け、青い豹が夜に踊る。
 瞬間、地上より延びる銀の鎖。地表を覆い尽くす雑兵の彼方より伸びた鎖が、天に手を伸ばすランサーを絡め取り、地に落とさんと闇を走る。

 足首に巻きつこうとしていた銀の縛鎖を槍で払い、その出所を眇める。闇の中に浮かぶ紫紺。長い髪を躍らせた長身の女。瞳を覆い尽くす眼帯の向こうから、敵意を撒き散らす刺すような視線が透けて見える。

 それはこれまで姿を秘して来た間桐のもう一騎のサーヴァント。アインツベルンと間桐が手を組んでいるのなら、必ず存在すると思われた七騎目の英霊。

「アーチャーッ……!」

 天へと至る推力を阻害され、落下を始めたランサーの怒声が響く。魔女は無防備と化したランサー目掛け魔力弾を放ち、同時、アーチャーはランサーが看破した間桐のサーヴァントのいる地点目掛けて矢を解き放った。

「行け……!!」

 射線上に存在した全てのものを蹂躙し、闇の彼方へと消えていく螺旋剣。その一矢が切り拓いた道を辿り、マスター達は森の奥へと踏み込んでいく。
 今の一撃で間桐のサーヴァントを斃せたと思い上がるほど、アーチャーは楽観主義ではない。

 居所の掴めなかった敵の位置を把握し、足を止める為の計略。アイコンタクトもなく、無言の内に成立したランサーとアーチャーの共同戦線。その策は功を奏し、マスター達は無事この死地を突破した。

 とはいえ、彼らの置かれた状況は僅かに好転しただけ。アーチャーの拓いた道もすぐに閉ざされ、周囲は今一度竜牙兵と蠢く木々に覆い尽くされる。
 天には苛立たしげな魔女が居座り、ライダーと思しきサーヴァントの気配は周囲にあるものの、こうまで深く取り囲まれては正確な位置は掴めない。

「さて、どうするかねこの状況」

 無事着地を果たしたランサーはアーチャーにその背を向け、油断なく周囲を睥睨する。二人のサーヴァントを敵に回し、それに加え圧倒的な数の雑兵が視界を埋め尽くす。
 突破は容易ではない。ましてや、キャスターを打倒しようというのなら相当にリスキーとも言えよう。

「ま、こっからは勝負だわな。オレ達がキャスターを討つのが先か、マスター達が城を落とすのが先か」

 敵の足止めに留めるのならそう難しいものではない。だがランサーは端からそんな気は毛頭ない。この場で敵を討つ。それがどれだけの困難を伴おうと、成し遂げるだけの覚悟がある。

 それが彼の背負う英霊としての誇り。英雄としての矜持だ。

「誇りなど持つ身ではないが、この場に限っては君に賛同しよう。何よりマスターに託されたのだ、応えないわけにはいくまい」

 アーチャーは何を思ったか、弓を捨て、その手に一対の剣を具現化した。白と黒とで彩られた無骨な夫婦剣。弓兵が弓を捨て剣を執るというおよそ慮外の選択に、槍兵は半眼で睨めつける。

「……弓しか使えないんじゃなかったのかよ」

「私が一度でもそう口にした事があったかね。先入観でものを見すぎると、いつか手酷いしっぺ返しを喰らうぞランサー」

「抜かせ狸が。ハッ──まあいいさ。それがハッタリじゃない事に期待するぜ」

 互いにその背を預け、槍を、剣を構える。キチキチと嘶く雑兵の遥か頭上、冷酷な視線を眼下に向ける魔女は、静かに、開戦の歌を言の葉に乗せた。

「全く以って忌々しい。けれどまあいいわ。この展開もまた、想定の内……」

 この森の中で、魔女の掌から抜け出せる道理はない。今も眼下を見つめながら、違うところで森の全景を俯瞰する別の彼女が存在する。
 遥か前線で戦端を切られた円卓の騎士達の戦い。眼下で包囲を狭める雑兵を蹴散らし始めた槍兵と弓兵。そして森の奥へと向かったマスター達を迎え撃つのは……。

「さあ、踊りなさい。分かりきった結末へ向けて、転がり落ちるように」

 鈴の音が夜を渡る。
 骨の軋む夜の中に、一つの戦乱が幕を開ける。



+++


 アーチャーとランサーを置き去りに、三人のマスターは森を駆け抜ける。

 行く手を遮るものはない。時折群れから逸れた竜牙兵が襲い掛かってくるが、少数の雑兵相手に手間取るほど彼ら三人は生温い手合いではない。
 蠢く木々の化け物も、どうやらあれは森の全ての木々を手中とし操っているわけではないようで、幾らか距離を取った現在は、木々は木々のまま直立し、森としての在るべき形を取り戻している。

 とはいえ、夜の帳は健在だ。キャスターの結界内は全て昼と夜が逆転している。霧もまた薄くではあるが周囲を漂い、視界の不明瞭さに拍車を掛ける。

 時折を足を止め周囲を窺い、互いの存在を確かめ合うも、幻覚によるすり替えも行われた形跡はない。幻覚も森に仕込まれた時限式のトラップではなく、キャスター自身の手によって発動する術式であるのなら、それも頷ける。

 あの二人を相手に回して、こちらに気を割く余裕などある筈もないのだから。

 静けさに沈む森を走る。獣の息遣いの一つも聴こえない死んだ森。枯れ葉を蹴散らす時臣達の足音だけが響く深い森の中──

「…………ッ」

 先導していた時臣が、不意に手にしたステッキを虚空へと振るい、次の瞬間、呼び出された炎が前方より突如降り注いだ蟲の群れを焼き尽くした。

「……成る程。確かに、この展開ならば私に対する配役は奴しかあるまい」

 パチパチと火の爆ぜる音。焼け焦げて墜落した蟲は当然、この森に住まう原生虫などでは決してない。生き物のいない森に突如現われた蟲の大群。蟲使いに心当たりのある時臣は嘆息と共に告げる。

「凛、マクレミッツ。君達は先へと進め。奴はどうやら私に用があるらしい」

 間桐雁夜。遠坂時臣に並々ならぬ執着を持つ間桐の後継者。時臣にしても雁夜に対し借りがある。衛宮切嗣をこそこの手で討ち果たしたかったが、その前に返すべきものを返しておくのも一興。

 そう思い、時臣は二人に進軍を促したが、

「いいえ、お父さま。私も此処に残ります」

「……凛」

 無論、凛は父を心配してそう言い出したわけではない。そんなものは杞憂だ。凛は誰よりも時臣の実力を信じている。相手が間桐の秘術の継承者であろうと、遅れを取るなどとは微塵も思っていない。

「相手は“間桐”です。なら、私も残るべきでしょう?」

「ふむ……」

 流石に刻印を継承した手前、実力者二人を同時に相手取るのは時臣をして荷が重い。そして何より凛もまた因縁がある。間桐のもう一人の術者──間桐桜との間に結ばれた、消えない因果が。

「では私は城へ向かいます」

「良いのかねマクレミッツ。然らば君の相手は二人になるが」

 モードレッドがマスター不在のサーヴァントというイレギュラーな都合上、侵入者側はマスターの数で下回る。この場で遠坂が間桐を相手取るのなら、バゼットは一人でアインツベルンを相手にしなければならない。

「心配も気遣いも不要です。私達の目的に変更はない。如何に相手が魔術師を討つ事に特化した外道であろうと、こちらも外道の相手は慣れている」

 現役で前線で死闘の中に身を置くバゼットと、一線を退き十年以上隠匿を決め込んだ衛宮切嗣。戦闘者として優れているのはどちらか。一度は不覚を取ったが、二度はない。肩に担いだラックを背負い直し、踏み込む足に力を込める。

「分かった。武運を祈る」

「ええ、そちらも。では」

 たん、と一足で闇の中へと消えたバゼットの背中を見送り、時臣と凛は一帯を睥睨する。

「そろそろ姿を見せてはどうだ、間桐雁夜」

 その呼び声に応じたのか、夜に囀る梢の向こう、見通せない闇の中から二つの影が浮かび上がる。

 色素の失せた髪と射殺さんばかりの憎悪を瞳に滲ませた間桐雁夜と。能面のような無表情を貼り付け、茫洋と佇む間桐桜。間桐に名を連ねし二人のマスターが、同じく遠坂のマスター達と向き合う。

「まず初めに訊いておこう。間桐雁夜、君は何を考えている?」

「……何の話だ」

「今こうして我らが対峙している状況、これが本来あってはならないものだと、君は理解しているのか」

 アインツベルンと間桐が共闘などという事態になっていなければ、森の攻略はもう少し楽な展開になっていた筈。だから時臣は問うた。思惑の読めない間桐の真意を。

「さて……それを一々おまえに語って聞かせてやる義務は俺にはない。俺にとってはこの状況を作り上げられればそれで充分。遠坂時臣、キサマを完膚なきまでに叩きのめしさえ出来れば……!」

 闇の中から沸き立つ無数の甲虫。間桐の秘術に繰られた蟲が、幾十幾百とその数を増していく。時臣は無表情を装ったまま、手にしたステッキを回転させて夜の中に炎の花を咲かせる。

「大局を見る事も出来ず私怨に走る……ああ、間桐雁夜。君はやはり魔術師失格だ。一度は逃げ出した君に、魔道に背を向けた君に、その業は背負う資格などない」

 死と向き合う事に端を発する魔道。その歪さと過酷から目を背けた男が、正調たる魔術師である時臣には我慢がならない。
 十年の間でどれだけの研鑽を積んだのかは知らないが、所詮は付け焼刃。物心つく前から魔と共にあった時臣に、そんなナマクラが通用するものか。

「間桐雁夜、君はこの戦いの果てに斃れろ。間桐の家門を継ぐに、君という男は相応しくない」

 絢爛たる炎の輪を躍らせ、いつでも戦端を切れると意気込む時臣。対する雁夜は、蟲を周囲へと待機させたまま、喉の奥から森に轟く哄笑を響かせた。

「は、はははっ……! ああ、俺だって継ぎたくてこんなものを継いだんじゃない。継がなければならなかった。継がなければ、俺の代わりにあの地獄で責め苦を味わわされる少女(ヒト)がいたから……!」

 それを知り、目を背けられるほど雁夜は腐っちゃいなかった。

「自分だけが苦痛を味わうのはいい、でも、無関係な誰かが、自分の代わりに声すらも上げられない地獄でのた打ち回る様を、見て見ぬ振りなんて出来る筈がない……!」

 だから雁夜はその身を差し出した。あの悪鬼に、玩具にされる事さえも織り込み済みで背を向けた魔道に向かい合った。向き合った先で手に入れたのは、苦痛の代償としての力。手に入れたいなどと一度として思わなかった力だ。

 この身は復讐の想念で薄汚れている。今も怨敵を前に心臓は酷く脈打ち、視界は明滅し脳の奥から呪詛の声が聞こえてくる。その全てを捻じ伏せて、粉々に裁断されるが如き苦痛に耐えて、間桐雁夜は立っている。

 たった一つの祈りを叶える為。
 全てをその身体に背負い込んで、間桐雁夜は戦場にいる。

「魔道に苦痛は付き物だ。そんな生温い覚悟で足を踏み入れるから火傷をする。覚悟なき者は去れ。この道は、君のような男が歩いていい道ではない」

「────じゃあ、そんな覚悟もなく放り込まれた私はどうなるんですか」

 時臣の声を遮り、声を上げたのは間桐桜。幽鬼のような佇まいは変わらぬまま、垂れた前髪から覗く瞳には意志の力が垣間見えた。

「桜か……大きくなったものだ」

 細められた父の瞳が娘だった少女を見る。優しさに溢れた慈愛の眼差し。父が子に向ける温かな色を受けてなお、桜の心は揺るがない。

「答えて下さい。間桐に送られる事が決まった時の私に、貴方が言うような覚悟なんてなかった。そんな私が、どうしてあんなところに放り込まれたって言うんですか」

 静かな声で突きつけられた詰問。挑むような目で眇める桜の視線を不快に思ったのか、一歩を踏み出しかけた凛を時臣は手で制し、

「まさかそんな問いを投げ掛けられるとは予想だにしていなかったが……答えよう。桜、おまえは私の娘だった。遠坂の血を継いだ者だ。であれば、覚悟など生まれた時より決めて当然。今更そんな泣き言のような言葉、聞きたくはなかったな」

 落胆の色を滲ませ、そんな言の葉を紡いだ。

「…………ッ!!」

 遠坂時臣の観念に拠ればそれは当然の事。生まれついてより魔道と共にある者ならば、覚悟など意識する間もなく決めてしまって当たり前のもの。
 自らに流れる血を誇り、受け継いだ家門を誇りに思うのなら、その道を歩くと決意するのに何か別の理由など必要なものか。

 “常に余裕をもって優雅たれ”

 その家訓を是とし、心に刻み体現するのであれば、他に何もいらない。後は己の身一つで道の果てを目指し歩き続けるだけの事。

「おまえはそんな……そんな身勝手な決断で桜を間桐へと送ったのか……!」

「類稀なる才を有する者は、魔道の庇護なくしては生きられない。遠坂の家督を継ぐのが凛である以上、桜の才を腐らせる事になる。
 子の才を潰し、未来を閉ざす事を良しとする親などいまい。故に私は間桐に桜を養子として送り出した。全ては、桜の未来に幸あれと願ってのものだ」

 それも間桐雁夜の出戻りで、桜が間桐の秘術を継承する可能性は薄れてしまった。相互不可侵の条約が結ばれていた事もあり、雁夜の出戻りを時臣が知ったのは随分と後になってからの事だ。

 水の違う場所で育てられた魚を、今更生まれた池に戻したところでその水の中で生き続けてきた魚は超えられない。

 桜を遠坂に戻したところで凛を上回る可能性がないのなら、まだ間桐を受け継ぐ可能性や変異の芽がある間桐に残しておく方が良いと、魔術師としての時臣は判断した。
 何より遠坂と間桐の間で結ばれたその契約は正式に書面で交わされたもの。一方的な反故は難しく、そんな事をすれば遠坂の未来に禍根を残す。桜の未来を慮った余りに凛の未来を閉ざしてしまっては本末転倒。選択肢など最初からないに等しい。

「桜を此処まで育ててくれた間桐の翁に感謝しよう。数奇にもこうして聖杯戦争に二人が参戦したのも一つの巡り合わせ。
 凛が勝とうと、桜が勝とうと、その身体に流れる遠坂の血に勝利は捧げられる。十年の遅延が生んだこの幸運にこそ、私は感謝を捧げよう」

 間桐雁夜の歪んだ顔を涼しげな顔で見やりながら、

「後は……そう。雁夜、君が斃れれば万事抜かりはない。全ては遠坂の勝利の為。私は君に誅を下す」

「時臣……おまえは……おまえは狂っているッッ!!」

 遠坂時臣という人物は、人としての側面と魔術師としての側面が完全に乖離している。娘に向ける優しげな眼差しも、敵に向ける辛辣な視線も、等しく彼の本質を表したもの。どちらが本物かという問いには意味がない。
 どちらもが遠坂時臣。二つの顔を破綻する事なく持ち合わせ、時と場合で使い分ける二面性。ペルソナですらない顔を同居させる、その異常を指して雁夜は狂っていると叫びを上げる。

「魔術師として破綻している君にそんな事を言われる筋合いはないな。そろそろ戯言も終わりとし、決着を着けよう雁夜」

 闇に踊る炎を見つめ、雁夜は唇を噛むしかない。顔に張り付いた苦悶を隠す事も出来ないまま、ただただ無様に手に力を込める。

「俺は……俺は……ッ!」

 常軌を逸した魔術師としての時臣の本質を垣間見た雁夜が苦悶に沈む中、そっとその肩に掌が添えられた。

「……桜、ちゃん」

 前髪で表情を覆い隠した少女は、小さく首を振った。

「いいんです、雁夜おじさん。もう、分かりましたから」

「…………ッ」

 雁夜は己の不甲斐無さを恥じる。この場で一番辛い思いをしているのは誰だ。泣きたいのを必死に堪えているのは誰だ。

「ごめん、桜ちゃん」

 添えられた掌に手を添えて、雁夜は真っ直ぐに前を見る。

「最初に謝っておくよ。俺は──これから君のお父さんを殺す」

 ガチン、と脳の奥で撃鉄が落ちる音がした。僅かに残されていた、余りにも微かな希望はその本人によって砕かれた。
 ならば後はもう、やるべき事は一つしかない。彼女が願った居場所が、彼女にとって陽だまりにさえならないのなら。

 せめて──この命を賭して、あの暗闇から救い出すと。

 その為に、目の前の男を越える。この地に集うマスターもサーヴァントも全員斃し、聖杯を手に入れ、間桐の呪縛から彼女を解き放つ。その為だけに、この命を使う事に雁夜はもう何の迷いもなくなった。

「…………何やら、顔つきが変わったか」

 面を上げた雁夜に顔に、つい先程まではなかった覚悟が見て取れる。肉食獣の如き眼光を宿し、身体には魔力が充溢する。

「そんな顔も出来るのだな……だが私のやるべき事には何ら変わりはない」

「ああ、俺も覚悟を決めた。遠坂時臣、キサマのような奴をこれ以上のさばらせておけるものかッ!」

 雁夜が虚空に腕を振るい、周囲に蟠る蟲が一斉に飛翔する。標的は時臣。黒い鎧に覆われた蟲の群れが炎術師目掛けて殺到する。
 遅れて桜も腕を振るう。生じたのは影。夜の闇よりも濃い三柱の影が地表より立ち昇って蟲達を追うように迫る。

「────Anfang(セット)」

 起動の呪文と時臣がステッキを振るったのもまた同時。蟲の大群は炎に飲み込まれ灰燼と化し、影の刃は凛が放った宝石によって掻き消された。

「相手を間違えない事ね桜。貴女の相手はこの私よ」

「……遠坂先輩……いえ、姉さん」

 指に幾つもの宝石を挟み持ち、これまで沈黙を貫いてきた少女が敵と定めたかつての妹を見る。無感情に、まるで見下すような眼差しで。

「貴女に姉と呼ばれる筋合いはないわね、間桐さん。さあ、いつかの約束を果たしましょうか」

 尋常なる勝負を。その身に刻んだ魔の薫陶を、積み上げた研鑽を白日の下に晒し、命を賭けて、聖杯を賭けて。

 遠坂と間桐。
 浅からぬ因縁を持つ者達の戦いの幕が上がる。

 この、仄暗い森の中で。



[36131] scene.11 night knight nightmare
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/05/11 23:58
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 間桐臓硯がアインツベルンの森に姿を現したのは、昨日バゼット一行が撤退したその少し後の事だった。
 たった一人で魔女の森に踏み込みながら、その姿は悠々としたもので、気負いも緊張も感じられない様のまま、結界を越えた辺りで周囲を睥睨し喉を鳴らした。

『聴こえておるのだろうアインツベルン。こちらに敵意はない。古き盟友と少々話をさせて貰いにわざわざ足を運んだのだ、まさか無碍にはすまい?』

 間桐の大老。五百年を生きる老獪なる妖怪。間桐臓硯の良からぬ噂を少なからず耳にしていた切嗣にしてみれば、水晶球の向こうに見える老骨は斬って捨てて当然の存在。話を聞くことすら不要だ。

 ただ、現在の状況がそれを許さない。バゼット一行を撃退し、遠坂凛のサーヴァント──アーチャーによる予想外とも言えた狙撃によって少なからずキャスターはダメージを負っている。この森が彼女の工房である以上、数時間も休めば回復する程度のものだが、逆を言えば数時間分の猶予を稼がれた。

 その為にバゼット達を取り逃がし、遠坂との接触を許してしまった。勝利を勝ち取る上で最上の舞台に敵を引き入れてなお逃した不始末は、今もって尾を引いている。

 間桐臓硯がわざわざこのタイミングで、間隙とも言うべき瞬間を狙いアインツベルンに接触を図ったのも偶然ではない。偶然である筈がない。

 マスター権を所持していない部外者。御三家に連なる者であろうとも、輪の外にいる筈の翁。けれどこの老獪は虎視眈々と聖杯を狙っている。自らが送り出した二人のマスターを手繰り、他の参加者全てを轢殺し聖杯を掴もうという意思が透けて見える。

 今まで裏に潜んでいたこの男が表舞台に姿を見せたのは、それだけの理由があるに違いない。間桐雁夜や間桐桜では叶わぬ一手を楔として打ち込む為に、こんな僻地へと足を運んだのだ。

 事実、ここで臓硯を無碍にしては先の展開がある一つの結末へと収束する。つまり──アインツベルンを除いた三勢力による結託。森の結界を有し現在優位にある切嗣らに対して包囲網を敷かれてしまう可能性が極めて高い。

 如何にセイバーの能力と魔女の結界があろうと、サーヴァント六騎を相手に回して勝ちを拾えるなどとは驕れない。セイバーと同等以上の力を有するガウェインやランスロット、未だ正体すら不明なサーヴァントもいる。これだけの敵を相手にしては、単純な物量、力で押し切られてしまうだろう。

 遠坂とバゼットの同盟が考えられる以上、残る一勢力である間桐はその身の振り方を如何様にも変える事が出来る。静観も、何処かに組するも胸先三寸。現状はどう足掻いてもこの翁の掌の上。バゼット達を逃がしてしまった以上避けられなかった展開だ。

 間桐臓硯の用件は恐らく、切嗣の想像の通りのものに違いはあるまい。何を画策しアインツベルンの手を取ろうというのか、その真意までは流石に見通せないが、相手の掌の上で踊るなんて真っ平だ。

 これまで戦端を率先して開き、主導権を握り続けてきたのはそれが最も効率的に戦いを優位に運べると計算してのもの。であるのなら、此処で他人に、ましてや切嗣に数倍する年月を生きた化生といえど、体良く利用されるなんてのは御免被る。

 ……いいだろう間桐臓硯。おまえの掌の上で僕が踊っていると、思っていれば良い。踊らされているのが自身だと、気付かぬままに。僕は僕の思惑を成し遂げる為、おまえを利用させて貰う。

 斯くして。

 遠坂とマクレミッツの同盟に対抗するアインツベルンと間桐の協定が交わされた。

 四つに分かれた陣営は手を取り合い二つとなり、四人と四人のマスター、四騎と四騎のサーヴァントに分かれ、人の立ち入らぬ仄暗い森の中で、広大な森の闘技場にて、今まさに雌雄を決さんと激突していた。



+++


 森を疾走する一つの影。夜霧が閉ざす森の中を、鋭敏化した感覚と研ぎ澄まされた集中力でノンストップのままにバゼットは駆け抜ける。
 追っ手はない。妨害もない。彼女の道行きを邪魔立てする全てのものは後ろに残してきた者達が引き受けてくれた。

 森の突破とはすなわち城の陥落。城主であるキャスターのマスターを討てば、それでこの一戦は終わりを告げる。
 未だ姿を見せぬ魔術師殺しが気には掛かるが、より強大な敵を引き受けてくれた皆の為にも、単独で城を攻め落とすとバゼットは森の中心へと急ぐ。

 やがて遠く霞む夜の向こうに黒以外の色を見る。木々の天蓋よりも高い白の尖塔。そのままラストスパートとばかりに地を蹴り上げ、駆け抜けた先、開けた空間に屹立する古城を捉えた。

 古めかしい白の城壁。天を衝く異様。御伽の世界に紛れ込んだと錯覚するかのような、中世に実在した本物の城をバゼットは見上げる。
 その威容はアインツベルンの権力の誇示だ。手を取り合いながらも決定的に敵同士であった遠坂や間桐と己達は違うのだと、聖杯を手に入れるべきなのは自分達なのだと見せ付ける為だけにこの城は移築された。

「……プライドも、ここまで見栄を張ればある種の畏敬を覚えてしまいますね」

 ふぅ、と僅かに乱れた呼吸を正し、バゼットは革手袋をきつく絞る。今まさに目の前に聳え立つものこそが敵の本拠地。立っている場所は敵の膝元。いつ何処からどんな手段で不意を打たれるか分かったものではない。
 張り詰めらせていた緊張の糸をなお引き絞り、覚悟を抱いて一歩を踏み出す。

 見渡す限り、特に異常と思えるものは何もない。霧も薄く掛かってはいるが、後方の戦場ほど濃くはない。
 城への侵入経路も幾つか考えられるが、バゼットは迷う事無く城門、巨大な正門へと足を向けた。

 どうせ此処まで足を踏み込んだ事は知られている。変に機転を利かせても恐らく意味はない。であれば、堂々と真正面から踏み込み城の主を討つ。それが最も手っ取り早いと確信しバゼットはいよいよ門を開いた。

 重く軋む扉を押し開けた先、目に飛び込んできたのは広大にして絢爛なエントランスホールだった。

 白磁で統一された内装。華美(いやみ)にならない程度に設置された装飾品。足元から伸びるレッドカーペットはホール中心を貫き、その先にある大階段へと届いており──

「ようこそ、アインツベルン(わたし)の城へ。歓迎するわ、協会の魔術師さん」

 その最上段に二人の侍従を侍らせた、赤い目をした年端もいかぬ少女の姿を見咎めた。

「貴女がキャスターのマスターですね」

 ふわりとスカートの裾を摘み、恭しく歓迎の挨拶を述べた少女に対し、バゼットはホールの中ほどまで歩みを進めながら、簡潔にして無機質な声音で問い質した。
 少女は己の挨拶を無視されてなお柔和な笑みを崩さず、城主としての厳かな声を響かせ名乗りを上げた。

「ええ。アインツベルンのマスターが一人──イリヤスフィール・フォン・アインツベルンよ。どうぞお見知りおきを」

「私の所属を知っているのなら当然素性も調べてあるのでしょうが、名乗られたからには名乗り返させて貰いましょう。バゼット・フラガ・マクレミッツです。貴女の命を頂きに参上した」

「ふふ──正直なのね貴女」

「ええ。回りくどいやり取りは好みではありません。無駄話に興じる趣味もない。早速で申し訳ありませんが、その命──刈り取らせて貰う」

 胸元の高さに硬化のルーンを刻んだ拳を構える。ボクシングスタイルのような構えと共に戦闘態勢に入ったバゼットに呼応してか、イリヤスフィールの傍に控えていた二人の侍従の内の一人が、無言のまま主を庇い立つように踏み出した。

 その手には巨大な金属の塊。斧と槍の特性を併せ持つ斧槍(ハルバード)。
 旧時代の武装だが、身の丈を超える鉄塊を軽々と持ち上げ振るう能面の侍従は、易い相手ではないとバゼットは直感する。

 庇われた格好の主──イリヤスフィールは明確な敵意に晒されてなお赤い瞳と口元に無邪気な笑みを絶やさない。まるで獲物を嬲る猫のようだ。

「正直なところ、私の戦闘能力じゃきっと貴女には敵わない。だからリズ(これ)を卑怯だとは言わないでくれると助かるわ」

「元より尋常な決闘など期待していませんので。これは命を賭けた戦い、戦争だ。勝つ為に手段を選ばないのはむしろ当然の行い。敵の優位が確立している場所に踏み込んだのはこちらだ、劣勢は承知の上」

 その上でなお勝ちを奪い取る。その為に此処まで来たのだ。

「そう……じゃあ少し遊んであげなさい、リズ」

「ん」

 短い返事とコクリと頷き、ハルバードを携えたリズと呼ばれた侍従が跳んだ。二階ほどの高さから、エントランスホール中心に立つバゼット目掛けて襲い掛かる。
 頭上に揺れるシャンデリアに届かんとする程の大跳躍と、全身を弓なりに絞ってからの全霊での振り下ろし。バゼットの脳天をかち割るばかりか頭の天辺から股下までを一刀両断にせんとする無慈悲な一撃。

 それを、

「ふっ────!」

 軽やかなステップ。見え見えの敵の攻撃を容易く回避する。大理石の床へと叩きつけられた鉄塊は易々とそれを砕き、破片を周囲に撒き散らしながら下手人は着地する。
 着地の隙、一瞬の硬直による隙間を縫うように、後退したバゼットは即座に踏み込む足に力を込め、敵の懐へと潜り込む、

「……ッ!!」

 つもりであったが、敵の常識外の行動──深々と大地を抉った筈のハルバードを無理矢理に引き抜きながらの薙ぎ払いを見咎め、間一髪で踏みとどまった。
 自らが生み出した破片と土煙を薙ぎ払い、白の侍従は無機質な瞳を敵手に向けた。

「…………やはり、ホムンクルス」

 人の身では叶わない、無理な駆動を可能とする体構造。サーヴァントにも匹敵する人外の膂力。色のない瞳。感情の欠落した表情。
 恐らく戦闘用に調整された弊害か、イリヤスフィールの傍に立つもう一人の侍従には見える生気(いろ)がこの敵からは感じられない。

 無機質な、ただ主の命を遂行するだけの人形。主の生命を守護する為に鋳造された人工生命。より深く接すればまた違うのかもしれないが、現状そう捉える他にない程度には目の前の敵は機械めいていた。

 アインツベルンは錬金術の大家。その産物であるホムンクルスとは一度、かつて戦った事がある。廃棄予定だったホムンクルスに、当時未熟だったバゼットの腕を差し引いても苦戦を強いられた。

 目の前のホムンクルスは以前のそれとはレベルが違う。
 戦闘を行う事を前提として造られたこのホムンクルスは恐らく、以前対峙したものより数段強力であると予測が出来る。

 更には背後にもう一人と、キャスターを従え、この森の結界を維持構築させるだけの供給力を持つマスター。その実力は未知数だが、侮っていいものではあるまい。

 味方の援護は期待出来ない。此処までの道を開いてくれただけでも充分すぎる働きを彼らは見せてくれた。であれば、目の前に如何なる困難があろうとも、打ち破り勝利を持ち帰るのが己の務め。

「ホムンクルス。貴女に恨みはありませんが、邪魔をするというのなら壊させて貰う」

 肩に掛けたままだったラックを放り、身軽となった身体で再度構えを取る。巻き上げられた土煙の晴れた視界の先、片腕でハルバードを操る人形が、言葉を発する。

「させない。イリヤは、わたしが守るから」

 言葉少なに、されどその言葉に宿る言霊は本物。人の身ではない人を模しただけの人形であれど、彼女にもまた意思というものがある。
 聖杯戦争とは他者の願いを、他者の祈りを踏み躙り、礎に変えて天に輝く杯へと手を伸ばすもの。マスターではなくとも、立ち塞がる敵を打ち砕く事に戸惑いを抱くなどあってはならない。

 何よりスイッチの入ったバゼットもリーゼリット同様の戦闘機構。目の前の敵を粉砕するだけの機械となる。
 そこに同情の余地はなく。それでも主を守るという意思(ねつ)を宿す彼女に敬意を評し、全霊で以ってこの障害を突破する。

 森の最奥にて行われる最後の戦い。
 その火蓋が今、切って落とされた。



+++


 振るわれる刃は旋風。触れる全てを断つ鉄の檻。長大なハルバードを軽々と振るい、エントランスホール中心でリーゼリットは踊る。
 対するバゼットは足を使って周囲を駆け回り、懐に潜り込む隙を窺っている。

 二メートル近くもあるハルバードとただの拳。二人のリーチには決定的に差がある。遠隔からの攻撃手段を持たないバゼットは、どうにかしてハルバードの間合いに踏み込まなければ勝機はない。

 得物が長く大きい分、一回の攻撃に掛かる時間と引き戻しに必要な時間は増す。その為攻撃後の隙を衝いて接近を試みるバゼットであったが、幾度目かの失敗を経て、少しばかり距離を取った。

 人外の膂力で鉄塊を振るうリーゼリットには、本来ある筈の硬直がない。いや、僅かではあれ硬直はあるのだろうが、バゼットをして付け入る隙が見出せない程にリーゼリットの動きに余分が見られない。

 ホムンクルスとしての長所──人と似た構造でありながら、決定的に違う形ゆえの、人には限られる動作の制限を撤廃されている。痛みを伴う捻転も痛覚を排せば意味を為さず、反射をすら凌駕する機能を以って肉体は駆動する。

 封印指定の執行者として人の域を逸脱した魔術師を幾人も相手にしてきたバゼットだが、純粋に人を上回る性能を有する敵と拳を交えた数はそう多くない。その手の役目は執行者よりも教会の代行者の専門だ。

 ……やりにくい相手ではありますが、全く勝機が見えないわけではない。

 例えるのなら、リーゼリットは擬似的なサーヴァント。人の創造の域に収められた劣化サーヴァントだ。
 神域に立つ英雄(かれら)は余りに遠い存在だが、目の前の存在はその模倣。幾つもの機能を制限した上で獲得した超常性。付け入る隙は必ずある。

 唯一懸念があるとすれば、未だ沈黙を保つ階上の二人。三人掛かりで仕掛けられてはさしものバゼットも危ういが、何を思ってか彼女達は階下の戦闘を見守るばかりで何も仕掛けて来ない。

 侍従の方は冷徹な視線で階下を眇めており、少女の方はにこやかな笑みを崩していない。

「あら、どうしたの? もう抵抗はやめたのかしら。それとも、私達が気になって集中出来ない?」

 バゼットの思惑を見透かしクスクスと笑う無邪気な少女。此処が戦場でなければそれは微笑ましい光景なのだろうが、今に限ればその無邪気さは、何処か空恐ろしささえ感じる場違いなものだ。

「安心していいわバゼット。貴女がリズを突破しない限り、こちらからは手を出さない。せっかく足を運んでくださったお客さまだもの、簡単に壊(つぶ)しちゃったら、もったいないじゃない?」

 邪気のない笑い声がホールに響く。無邪気ゆえの無垢さが、酷く心を逆撫で爪弾く。

「…………」

 意図の見えないイリヤスフィールの言葉。城に踏み込んだ者は圧殺して余りだけの罠を仕掛けていると思っていたバゼットにとって見れば、少女の言葉も現状も拍子抜けもいいところだ。

 何が狙いかは分からないが、イリヤスフィールは遊んでいる。バゼットを侮っている。あるいは、リーゼリットに篤い信頼を寄せているのか。

 いずれにせよ好機には違いない。敵の言葉を鵜呑みにするつもりはないが、それでも一対一の状況で負けるようであればどの道先はないのだ。何としてもリーゼリットを突破し、イリヤスフィールに王手を掛けなければならない。

「状況は再確認しました。ではイリヤスフィール、一つ宣言をしましょう。次の攻防で私はリーゼリット(かのじょ)を突破します。畏れるのであれば、三人掛かりで仕掛けて来ても一向に構いませんが?」

「────」

 少女は沈黙し赤い瞳を細めた。戦闘が始まってまだ数分。互いに様子を窺う程度の接触しか果たしていない。
 それだと言うのにバゼットは憚った。もう攻略の糸口は見つけたと。リーゼリットを退けイリヤスフィールにこの拳を叩き込むのは、何も難しいものではないのだと。

「へえ──言うじゃない」

 無邪気だった視線に明確な敵意が滲む。
 遊んでいるのはこちらのつもりだったというのに、遊ばれていたとも取れる挑発を差し向けられて少女は酷く苛立ちを露にした。

「いいわ、その安い挑発に乗ってあげる。リズ、手加減は不要よ! そいつの頭をかち割りなさい……!」

「了解」

 突風の如き踏み込みからの大上段。大きく振りかぶったハルバードは力任せに大地へと叩きつけられる。
 触れれれば命を丸ごと刈り取るだろう凶刃を跳躍によって躱し、先と同じように硬直すらなく再度薙ぎ払われるハルバードを、

「っあぁ……!!」

 身を低くしてからの、伸び上がりと共に繰り出されるアッパーカット。硬化と強化の相乗が重ね掛けされたバゼットの拳が捉えたのは、斧槍の斧の部分。唯一表面積の広い斧の側面を、下から叩き上げるように撃ち貫いた。

「…………ッ!?」

 ハルバードの重心は先端にあり、遠心力で薙ぎ払いを放ったリーゼリットはバゼットの渾身の一撃によりその体幹、重心をずらされた。
 本来回避されてもそのまま手元に戻ってくる筈の刃は堰き止められ、足は俄かに浮き足立つ。

 その一瞬、外せば首が飛ぶ覚悟を以って敵の得物を弾き飛ばしたバゼットは、重心が崩れ踏鞴を踏むリーゼリットの懐へと──己の間合いへと踏み込み、

「ふっ────!」

 人体の急所の一つ、鳩尾を正確に撃ち抜いた。

「っ、ぁ……!」

 声にならない音を発しリーゼリットが舞う。
 人と違う構造をしていようと、無防備に胸の中心を高速の鉄塊で強打されたも同然のバゼットの拳に打たれては抗う術はない。

 壁面を叩きつけられたリーゼリットを尻目にバゼットは一直線に大階段へと向かう。

 元よりバゼットの目的はリーゼリットを斃す事ではない。あくまでも本命はイリヤスフィール。キャスターの支配を封じる為にマスターを討つ事に他ならない。

 渾身の一撃を受けてなお絶命していないであろうホムンクルスを相手にしていては限りがない。イリヤスフィールにはリーゼリットほどの頑強さはない筈だ。であれば、その首を落とすのは鶏の首を刎ねるよりも容易い事。

 文字通り斃すのではなく突破したバゼットと、リーゼリットが攻略されるとは思ってもいなかったイリヤスフィール。両者の違いは明確で、階段に足を掛けたバゼットの行く手を遮るものはなく──

「私を忘れて貰っては困りますね」

 冷徹に場を俯瞰していたもう一人の侍女が、その行く手に立ちはだかる。

 とはいえ、彼女もまたリーゼリットとは違う、人よりも長けた知識を有するが故に脆弱な肉しか持たない本来の仕様に近いホムンクルス。
 如何に精緻で肌理細やかな魔術回路を有していても、それが魔術師と変わらぬものであればバゼットの土俵。

 簡易な詠唱で放たれた、極大の風呪の魔術。叩きつけるような暴風と切り裂くような大嵐を、前面に立てた腕で防ぎながら休める事無く前へと踏み込む。

 硬化されていた拳以外の腕の部分が切り裂かれ、スーツは愚か肌をすら蹂躙した風の刃を受けてなお、腕を血塗れしてなおバゼットは止まらない。一撃で命を奪い取る類のものでなければ気合と根性で耐え切れる。

「なっ……!」

 まさかそんな力技で自らの魔術を捻じ伏せられると思ってもいなかった侍女は、容易くその間合いに踏み込んだバゼットによって意識を刈り取られ地に伏した。

「後は──」

 視線の先、動揺から立ち直った少女を見据える。その時バゼット自身の後方、エントランスホールから瓦礫の崩れ落ちる音が聴こえた。
 それは吹き飛ばされたリーゼリットが、今一度立ち上がった証拠。主の危機に本能的に察し、先に数倍する速度で迫り来る。

 だが遅い。

 イリヤスフィールはバゼットのすぐ目前。二歩も踏み込めば届く距離。対して広大なホールの壁面へと叩きつけられたリーゼリットは、数メートル以上の距離がある。どう足掻こうが、それこそ転移でもしない限り届かない。

「流石にやるわね」

 バゼットが、己が命を刈り取ろうとする敵手を目前にしてなお、イリヤスフィールは揺るがない。柔らかな微笑みこそ消えたが、今の彼女の面貌に宿るのは冷ややかな色。口元だけが、僅かに吊り上っている。

「最後に一つ、教えてあげる」

 未だ余裕を崩さないイリヤスフィールに疑念を覚えたが、既に状況はチェックメイト。何かを口にしようとする少女を無視したまま、後方より迫る刃が届かぬ事を理解した上で、バゼットは無慈悲に、その拳を振り下ろす──

「私は聖杯よ────私を殺せば、聖杯は手に入らない」

「…………っ!?」

 ──つもりだった凶手が、事実振り下ろした拳が、イリヤスフィールの末期の言葉に、鼻先数センチで止まった。

「がっ…………」

 そして戦場に華が咲く。
 血の色をした赤い華が。

 それはバゼットがイリヤスフィールの頭蓋を砕き生んだものではなく。
 イリヤスフィールがその手にした、何の変哲もない針金がバゼットの身体を貫き、その背に赤い薔薇を咲かせていた。


/24


「バーサーカーと話がしたい……?」

 アインツベルンと間桐が同盟を締結させた夜の事。

 朝日と共に森へと踏み込んで来ると予測されるもう一つの連盟──遠坂・マクレミッツの同盟を迎え撃つ為、間桐家のマスターである雁夜と桜はアインツベルン城に逗留し一夜を過ごす予定だった。

 与えられた一室。客人用に設えられた、主の部屋にも見劣りしない豪奢な部屋で休息を取っていた雁夜の下に訪れたセイバーが唐突にそう告げた事に、彼が当惑を露にするのも無理からぬ話だ。

「冗談なら笑えない話だが……」

「いいえ、私はただ本当に彼と話をしたいのです」

 椅子に座した雁夜を見つめる誠実な瞳。背筋を伸ばし屹立したその様は、一枚の絵画のよう。狂いなく迷いなく、彼女こそ最優の英霊に相応しき者。それを体現するかのように、微塵の害意もなく少女は敵であるマスターと向き合う。

 本来ならば馬鹿げた話だと切って捨てるところだが、少女の揺るがぬ意思に気圧されたせいか、雁夜は嘆息と共に口を開いた。

「話になどならないと思うがな。アンタも知っての通り、俺のサーヴァントはバーサーカー──狂いの御座に招かれた英霊だ。
 狂化のランクはそう高くないが、言葉を発する事は出来ないし、理性にも制限をかけられている」

 隠蔽の宝具のお陰で雁夜以外誰もバーサーカーの詳細なステータスを窺い知る事は出来ないが、別にばれて困るものでもないと雁夜は一部の情報を開示した。
 バーサーカーの狂化のランクは『C』相当。魔力消費と能力上昇が高ランクのそれと比べて抑えられる分、完全に理性は剥奪されないが、複雑な思考が困難となり言葉を発する事が出来なくなる。

 通常、このランクでも並のサーヴァントならば雁夜のバーサーカーほど卓越した技を振るえなくなる。思考能力の低下は戦時の戦況判断能力の低下をも意味し、当然技の冴えを鈍らせる。

 一瞬の判断ミスが命を脅かす戦場において、それは余りに致命的な欠点。それを補う為の能力値上昇でもあるのだが、雁夜のバーサーカーにはその低下が効果を為さず、それがかつてセイバーやガウェインを苦しめた御業の正体だ。

 秘匿されたままのスキルの一つが、狂化されてなお彼の剣から冴えを奪わず、濁りさえも落とさない。理性を奪われてなお積み上げられた武錬に劣化などなく、生前最強を謳った騎士の剣技を完全に再現している。

 とはいえ、あくまでそれは戦闘状態に限定されたスキルだ。剣に曇りがなくとも、理性が低下している事には違いはない。

「そも話をしたいと言うが、バーサーカーは喋れないんだ。会話になどならないだろう」

「それでも良いのです。彼から完全に理性が消えていないのなら、私の声は届く筈だ。彼からの応えはなくとも、私の声に耳を傾ける事は出来る筈」

「そいつもどうだかな……。確かに声を聞き、理解するくらいは出来るだろうさ。だが問題は、バーサーカーが耳を傾けるかどうか。
 事実、今もアイツは狂い吼えている。目の前にアンタが現われて以来、まるで檻を引き千切らんばかりに暴れているんだ」

 現界の為のパスをシャットアウトし何とか抑え込んではいるが、気を抜けば意識ごと持って行かれかねない狂いようだ。
 それがバーサーカーの闇。畜生に落ちてでも果たしたかった復讐の想念の深さ。雁夜をして蒼褪める程の業。

「本当なら、今すぐ目の前から消えて欲しいくらいなんだセイバー。アンタが近くにいるだけで、こっちは酷く消耗を強いられる」

「ではなおの事話をしなければならない。そのような状態で明日、足並みを揃えて敵を迎え撃つ事など不可能でしょう」

「む……」

 同盟を結んだ相手がよもや主の手綱を振り切って味方を襲うような事態になれば、何もかもが台無しだ。せっかくの同盟が無為になるばかりか、布陣が崩れてしまえば一気に押し潰されかねない。それは雁夜も避けたい展開だ。

「……話をすれば、コイツを宥められるって言うのか?」

 相手にガウェインとモードレッドがいる以上、こちらも円卓の二人で迎え撃たなければ勝機はない。最悪令呪の使用で抑え付ける事も考えていた雁夜だが、使わなくても済むのならそれに越した事はない。

 今の雁夜にとって令呪はまさに命綱だ。一つの無駄も避けて行かなければ、聖杯には辿り着けない。

「それは話してみなければ分からない。試すだけの価値はあると思いますが?」

「…………」

 試した結果、駄目なら令呪の使用も考慮すればいい。セイバーが雁夜を罠に嵌めようとしていない限り、この交渉で雁夜が失うものはない。

「一つ、聞かせてくれ。これは、衛宮切嗣の発案か?」

「いいえ、私の個人的なものです。誰にも話していないし、誰の知恵も借りてはいません」

 清濁併せ呑む強かさはあるものの、この戦いに招かれた英霊の中で一、二を争う高潔さを持つセイバーだ、まさかその言葉が虚言である筈もない。
 これがあの外道や魔女の入れ知恵であるのならその思惑を勘繰り、裏を掻かれる憂慮を思い、切って捨てる事も辞さなかったが、本当に彼女個人の意思であるのなら乗るのもまた一興か。

「分かった。ただし、俺は責任を持てないぞ。現界を許した瞬間、アンタに襲い掛からないとも限らないんだからな」

「ええ、その程度は承知の上です。パスを繋いでくれさえすれば後はこちらでなんとかします」

「そうか……じゃあ好きにすると良い。ああ、流石に城の中は拙いだろう。やるなら外にしてくれ」

「了解しました、では先に向かいます。間桐雁夜──貴方に感謝を」

 軽く会釈をしセイバーは雁夜の前から立ち去った。
 雁夜自身もセイバーとバーサーカーとの間にあった……今なお残る因縁と確執をそれとなくは知っている。

「さて、どう転ぶか。バーサーカー……いやランスロット卿。おまえは一体、今何を想っている──?」

 答えはない。
 響くのは心に沁みる唸り声だけ。

 間桐雁夜の言葉はバーサーカーには届かない。
 同じ闇を共有しているだけの主と従ではその闇を晴らせない。
 闇の底に落ちた者に救いの手を差し伸べられるのは輝く星の下に立つ者の掌だけだ。

 ただ、それでも。

 救いを求めぬ者の手は、どうやっても掴めない。
 天に手を伸ばさぬ者の手は、誰にも捕まえられないのだ。

 雁夜は自ら奈落に落ちる事を良しとした。
 自身の救いを捨て、誰かの幸福を願った。
 その果てに、尽きぬ憎悪に身を焼かれると知っても。
 この想いは間違いではないと、今でもそう思っている。

 では、あの黒騎士は……?

 その答えは────



+++


 月と星だけが照らす森の中心。深い闇に囚われた荒野で、白銀の少女と黒の騎士が対峙する。
 吹き荒ぶ風は肌を裂くように冷たく。少女は消えない炎をその瞳に宿し、闇よりも濃い黒を見据えている。

 現界を許されて後、黒騎士は赤い瞳を輝かせて低く唸り続ける。手足に込められた力は傍から見ても分かりやすく、まるで号砲を待つスプリンター。きっかけが一つあれば、即座にセイバーに襲い掛かるのは明白だ。

 対する少女は改めて黒く染まってしまったかつての同輩を見やり、その柳眉を顰めた。輝かしき栄光を手にした誉ある騎士の余りに変わり果てた、痛々しいまでの姿。人の心の分からぬ王と謗られた彼女であっても、その悲痛は理解が出来た。

 何せ彼が、ランスロットがあんな姿になってしまった原因は己自身にあるのだから。彼を苦しめ、悩ませ、追い詰めたのは、他ならぬ自分であるのだから。

「ランスロット卿」

 心を鎮め、胸に手を置き静かに風に言葉を乗せる。

「どうか、私の声に耳を貸して欲しい」

「Arrrrrrrrrrrrrrr……!」

 そうセイバーが口にした瞬間、黒騎士は大地を蹴り上げ一気に間合いを詰め、手にした漆黒に染まった剣を少女へと叩き付けた。

「ぐっ……!」

 セイバーは不可視の剣を呼び出す事なく、クロスさせた手甲で斬撃を受け止めた。黒騎士の一撃は非凡なるもの。たとえそれが彼だけに許された剣でなくとも、セイバーの防御の上から数歩分をも後退させるくらいの威力を伴っていた。

 それは言葉を発せぬ黒騎士からの返答。貴様の声に耳を貸すつもりなどないという、明確なまでの拒絶の意思。それでもセイバーは、めげる事なく声を上げる。

「今更許しを請うつもりはありません。膝を屈し頭を垂れ、その剣に貫かれれば貴方の積年の恨みが晴れるのだとしても、私は此処で斃れるわけにはいかない」

 止む事なく繰り出される刃の雨。一太刀一太刀に込められた憎悪はセイバーの芯を崩さんとばかりに無慈悲なまでに叩きつけられる。
 それでも少女は剣を手にし応戦しようとはしなかった。されるがままに剣を受け、身を固め防御に徹し変わらぬ声音を吐き続ける。

「私にはまだ為すべき事がある。恥も外聞も金繰り捨て、今にも頽れてしまいそうな膝を叱咤し、無様にこうして貴方の剣を受けているのには、理由があるのです」

 尽きる事のない斬撃に白銀の手甲が軋みを上げ、悲鳴を上げ、こそげ落ちていく。破壊された端から魔力を回し修復し、繰り返される暴挙に耐え続ける。
 聖剣を手にすれば避けられる魔力消費の無駄を厭わず、自らに戦意はないのだと証明するかのように、ただただ少女は耐え続ける。

「Ar……thur……!」

 黒騎士の喉奥から搾り出した声。己の名を忘れ、矜持を忘れ、ただ復讐を果たす為だけに駆動する獣と成り果てても、彼にはまだ僅かに残る理性がある。
 意味を為さない文字の羅列。本能が叫んだその名こそが、彼に灯る理性の火の証明に他ならない。

 だがそれも一瞬の事。目の前の誰かが己が想いの矛先だと過たず認識する為のものでしかなく。事実振るう腕に込められた力には一切の容赦はなく、繰り出す斬撃には躊躇というものが見られない。

 かつて仕えた聖君、理想の王に抱いた畏敬も礼賛もなく。朋友と呼んでくれた彼女への信頼も誇りもないままに。ただ身を焦がす憎悪に任せ、目の前の敵を切り倒さんと黒騎士は剣を振るい────

「ランスロット──どうか貴方に聞いて欲しい。私が聖杯を求める理由を。この胸に抱いた祈りを」

「……っ!」

 ────止む筈のない剣の雨が、その言葉によって堰き止められた。

「Arrrrrrrrr……!」

 次の瞬間には、暴威はより強大に吹き荒れ蹂躙を再開する。

 一瞬とは言え止まった斬撃。それが何に起因するのかはセイバーには分からない。分かるのは、バーサーカーに己の言葉は届いているという事。獣と化した彼の心に、まだ響くだけの想いがある。

 ならば謳おう、誰にも理解を求めないと誓った、この胸の祈りを。
 ならば告げよう、己に課した王としての最後の責務、黒騎士の心の迷いをすら晴らす願いを。

 そして求めよう。
 贖罪は遠く、罰は道の果てに。
 聖杯の頂に至り全てを叶える為、あの惨劇の丘の上で夢見た、唯一つの救いを。

 鎧は砕かれ、手甲は削がれ、肉体に傷がついてない箇所はない。最強の暴威を相手に防御に徹したとはいえ、晒され続けたその代償は余りある傷を彼女に刻み付けた。
 流れ落ちる血を構わず、切り裂かれていく肉体を厭わず、遂には胸板を守る板金をすら粉砕されてなお、一秒後の死を認識してなお、少女は剣を執る事はなく。

「──────」

 ただ──少女は語る。

 胸に抱いた荒唐無稽な祈りを。
 歪な形をした願いを。
 高潔にして公正な王が、その今際のきわに願ってしまった、全てを裏切るにも等しい救済の夢を。

 いつしか剣戟の音は止み、夜の森を渡る冷たい風の音だけが木霊する。軋む木々の音は誰も耳朶にも届く事はなく、少女はただ訥々と胸の内を語り、騎士は蒸発した理性で末期の祈りを聞き届けた。

「ァ……ァァア……!」

 狂える獣が戦慄いた。無防備に胸を晒す怨敵を前に振り下ろす事が叶わぬばかりか、手にした剣は滑り落ち、大地へと打ち付けられて、からん、と乾いた音が響いた。
 黒く染まった剣はバーサーカーの手を離れた事で憎悪の黒と血走った赤は消え失せ、本来の色合いを取り戻し、ただの剣へと立ち返る。

 しかしそんな余分を誰も気にしてなどいない。少女は目の前の黒く覆われた闇の向こうで揺れる赤い眼を直視し続け、剣を取り落とした黒騎士は搾り出すような声を呻きに変え、直後、森を揺るがす慟哭をあげた。

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■────!!」

 最早言葉にさえもならぬただの振動。喉を震わせ意味を持たない音を、バーサーカーは天を割かんとばかりに張り上げた。

 誰が知ろう、彼の身を襲った衝撃の規模を。僅かに灯った理性が消えかけるほどの本能の雄叫び。心の底から沸き上がる感情を言葉に出来ないからこその慟哭。今ほど彼は、己の不甲斐無さを呪った事はない。

 理想と謳われた王。民の為に身を粉にし、国の為に私を殺した王の中の王。時に残虐と謗られた執政も、全ては理由あってのもの。先を見通せない愚か者共は異議を唱えたが、戦果によって己の正しさを証明し続けた聖君。

 正しさの奴隷、王という名の機構、理想を体現する人ならざる畏怖の対象。ああ、そうだろう。事実彼女はそういうものだった。そうでなければ国を守れないほどに、あの時の祖国は疲弊していた。

 幾度となく海を渡り襲い来る異民族を撃退し、決して広くはなく肥沃でもない土地を拓き国を豊かに変えるには、そういうモノでなければ立ち行かなかった。
 優しいだけの王では国を守れず、暴虐に塗れた王では民に疲弊を強いるだけ。彼女は決して、誤った道を選んでなどいなかった。

 ああ、だというのに。ならばその祈りは何なのか。王の口より零れ落ちた願いは、時代に生きた全ての者を否定するもの。余りに間違った願いだった。
 完全にして公正にして高潔なる王。その王が最期に夢見たものが、そんなものであっただなんて、どうして信じられようか。

「…………、…………ッ!!」

 搾り出す声に意味はない。どれだけ残った理性を掻き集めようと、喉を衝くのは形を得ない音だけだ。
 それは駄目だと諫めたくとも言葉には出来ず。それは間違っていると正したくとも想いは形にはならない。

 自らの憎悪を晴らす為に狂える獣に成り果てた今、彼の言葉は誰にも届く事はない。そも言葉は言葉として認識される事はないのだ。
 それが狂乱の檻に囚われるという事。身に宿した復讐の想念を剣に込め、ただ暴れ回るだけの暴虐の化身に、そんな余分は必要ないのだから。

 そもこうして思考を可能としている事こそが奇跡にして異常。低ランクの狂化とはいえ複雑な思考を不可能とする狂気に犯されてなお思考が出来ているのは、彼にとって彼女の言葉が余りにも衝撃的だったからだ。

 誰に、どんなに蔑まれ、虐げられても忘れなかった王への畏敬。騎士としての己を捨てられず、獣に堕したこの己がようやく忘却できた筈の想いを、再度想起させるほどの響きを伴い、王の願いを聞いてしまった。

 王がただ我欲で聖杯を欲していてくれればどんなに良かった事か。それならば己もまた自らの狂気に殉じる事が出来たのに。

 ああ、そんな願いを宿せないと、誰よりも知っていた筈だ。
 個人としてのアルトリアを殺し、王としてのアーサーとして生きると覚悟していた少女は──王は王のまま死に、理想に殉じるのだろうと。己にはなかったもの、果たせなかった強さを持っていたから。

 だから聞きたくなんかなかった。
 聞くべきではなかった。

 王がその最期に夢見てしまった、祈りの正体など。
 その余りにも痛ましい願いを、聞くべきではなかったのだ。

 だって────

「Ar……thur……」

 悲しいまでに無垢な願い。
 たとえその果てに自分自身の存在の全てが、これまで歩んだ軌跡が一片たりとも残っていなくとも。

 構わない────それで、救えるものがあるのなら。

 王は最期まで王だった。
 騎士が傍らに仕えた時と変わらぬ王のままだった。
 この時の果てですら、彼女には迷いはなく。

 それに比べてこの己はどうだ。
 復讐の憎悪に自らを明け渡し、ただ刃を打ち付けるだけの獣と成り果てた。

 その根底にあるのは彼の愛した女に対する深い想い。
 愛した女に永劫の涙を流させてしまった男の、全てを金繰り捨ててでも果たしたかった想いだ。

 いや、それもただの言い訳だ。女が流した涙は王への贖罪と騎士への懺悔の形。彼女はきっと王への復讐など望んでいない。
 彼女もまた弱かった人の一人。王の高潔な理想を担いきれなかった自責が、王の后でありながら騎士を愛し、二人を分かつ亀裂を刻んでしまった。

 愛した女の涙を理由に、王への憎悪を盾に、自らの弱さを正当化しようとしたこの己こそが最悪の罪人。全てを手に入れようとして、掌から零してしまった愚か者。

 ああ、なんて罪深き咎人。
 王は、こんな己が手に掛けていい人ではない。

 刃を突き立てられるべきなのはこの己であり。
 裁かれるべきなのはこのランスロットだ。

 もしあの時──声高にそう叫べていたら。
 そんな詮無い思索に意味はなく。
 過去をやり直すなんて夢を、この己は抱けない。

 だから──

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■────!!」

 今一度森を轟かす慟哭。獣の咆哮じみた魂切る絶叫。曇りを晴らす金切り音。セイバーは深き憎悪の闇に霞む赤い瞳に光を見た。零れ落ちる、一筋の光を。

 そして黒き騎士は決断する。

 王を打ち倒す為だけに呼び声に応えた獣が、騎士へと立ち返る。

 騎士としての生き方しか出来なかった、余りにも弱い男。それゆえに王を裏切り女を裏切った男が、畜生に堕ちる事で生前果たせなかった想いを果たそうとした男が、狂いながらに一つの克己を形にする。

 この身に王を討つ資格などない。
 悲痛な願いを宿しながら、それでも自らの信じた道を歩む者を、虐げる事は出来ない。

 狂える己に諫めの言葉は紡げない。
 騎士としての諫言も、朋友としての助言も、誇りを捨てた獣の声では届かない。

 狂乱の御座に身を置いた己では、王を救う事など叶わない。
 ならば共に行こう。

 たとえその果てが断崖絶壁であろうとも。
 奈落へと転ずる道であろうとも。
 共に転がり落ちていく事こそが贖罪であるとでも謳うかのように。

 その身を復讐の想念に焦がされてなお。
 理性を消し飛ばす狂気に犯されてなお。

 ただ、この剣は────王の為に。

 想いを言葉に出来ない狂戦士は、己が身一つで以って、心に誓った決意を形にした。

 輝かしき王の御前にて、恭しく膝を折る。
 宮殿で、叙勲を受ける騎士のように。

 夜の闇の中、二人のいる場所だけはまるでステンドグラスから降り注ぐ淡い陽光に満たされたかのように、光の雫が舞い散った。

「────ありがとう」

 王の言葉。
 それ唯一つで報酬は充分。他に何もいらない。

 狂気の奥底、自らが願った本当の祈りを思い出した理想の騎士。
 黒き狂気に犯された騎士は、手に掴んだただ一粒の光だけを頼りに、無間地獄の底を征くと覚悟を決めた。


/25


「Arrrrrrrrr……!」

 夜霧を切り裂く黒の斬撃。触れる全てを両断する必死の刃が戦場となった深き森、その最前線にて無尽に舞う。
 狂気に染まってなお手にした一粒の光。生前果たせなかった夢、その最期まで王と共にあるという誇りを手にした獣が、王の道に立ち塞がる敵を討たんと、容赦も呵責もなくかつての戦友へと剣を叩きつける。

「ふっ……、はぁ──!」

 受ける白刃は太陽の熱を纏う清純の剣。夜の闇が支配する森の中で、彼だけを照らす中天の煌きがある限り、その剣に曇りが生まれる事など有り得ない。

 裂帛の気迫を放ち、鎬を削る白と黒。共にアーサー王の片腕と呼ばれ、円卓を代表する騎士として称えられた英傑。
 闇の中に裂く火花は刹那に散華する仇の華。かたや最強と謳われた理想の騎士。かたや太陽を背負いし王の影。両者は一歩をも譲る事なく剣戟を交わす。

 恐るべきはやはり、バーサーカー──ランスロットだろう。太陽の加護を得て三倍の能力値を獲得したガウェインを相手に、狂化しているとはいえ自分自身の能力だけで拮抗に持っていけるのは、並み居る英霊の中でも彼くらいのものだろう。

 ガウェインをしてそれは驚愕に値するものだった。

 生前の決闘、死の要因を受けるに至ったランスロットとの決闘は、己の心に乱れがあったからこその敗北だと思っていた。
 私憤に塗れ、王の為に剣を担う騎士にあるまじき執着からの敗着。三時間もの間粘り切られ、焦りが生んだ手痛い失態の隙を衝かれる事で敗北したのだと。

 だと言うのに実際はどうだ。今のガウェインの心に曇りはない。騎士の誇りを重んじ剣としての生き方を得た事で、心には一滴の穢れさえも有り得ない。
 黒く染まってしまったかつての盟友に思うところがないわけではないが、それとこれとは話が別だ。心は澄み渡る水面もように清らかで、かつて激情に駆られた時のような憎しみは一切ないと断言出来る。

 だと言うのに攻め切れない。
 だと言うのに振り切れない。

 私情にて王を裏切り、あまつさえ狂える獣に堕した男をすら討ち取れない。そんな無様を許せるだろうか。令呪の加護をも得、時臣に後を託されたというのに、そんな無様をこれ以上晒す事は許されない……!

「はっ、あぁぁあ……!」

 黒く血に染まった剣を今宵最大の一撃を以って打ち払う。僅かに空いた防御、黒く霞む憎悪の霧の向こうにある漆黒の鎧へと向けて峻厳たる一突きを繰り出す。

「Gaaaaaa……!」

 しかして相手もさるもの。人外の膂力で打ち払われた右手の剣を引き戻す事なく、咄嗟の判断で左腕を前面に盾として差し出し、今や鉄をすら両断する灼熱を宿す太陽の剣を、軌道を逸らす事で見事にいなした。

 武芸の極地。到達点。一つの時代において最強の名を欲しいままにした騎士の慧眼は理性を制限されてなお狂いなく。譲れぬ誇りを胸に抱きし白騎士を相手にしてなお一歩をすら譲らなかった。

「……解せませんね」

 直撃こそ叶わなかったが、黒騎士の鎧の一部を剥ぎ落とした白騎士は一度距離を取った。

「海浜公園での戦い、オフィス街での戦い……二度、剣を交えて感じたのは獣の如き荒々しさ。狂化してなお失われない武錬であっても、生前の貴公にはなかった濁流のような奔流が感じられた」

 生前の彼の剣は清流の如き静寂。風の凪いだ澄んだ湖の水面そのもの。打ち付ける剣の全ては軽くいなされ、緩やかに見える剣筋であっても、気が付けば喉元に突きつけられている──そんな剣であった。

 事実、その剣は今も健在。愚直とも取れる太刀筋を能力の後押しで振るう太陽の剣は、その清流の剣によって阻まれている。
 それでも以前の黒騎士には濁りがあった。狂化による凶暴さの増幅、全てを破壊する力強き剣、復讐を果たさんとする憎悪があった。

 それが今はない。いや、薄れている。身を焦がす憎悪を果たす為だけに狂戦士になった筈の男から、何故その根源とも言うべき憎しみの心が失われているのか。

「一体どのような心境の変化があったというのです、ランスロット卿。王を討ち、害す為だけに騎士としての誇りを捨てた狂える獣よ。
 先に聞いた彼の君の言葉──王の意を汲んだというのが、今の貴公とかつての貴公の差異の原因なのか」

「…………」

 黒騎士は答えない。応えるべき言葉を持っていない。月明かりの下で交わされた王と騎士の誓い。それを知るのは彼らだけ。誰にも理解を求めない、破滅が約束された無間地獄の最果てへと至る旅路。

「どのような理由であれ、かつての盟友の落ちぶれた姿を見るのは忍びなかった。貴公が失ったものを、捨て去ったものを取り戻したというのなら僥倖。これで、私も迷いなく本懐を果たす事が出来るというもの」

 狂気に堕した獣を諫める必要はなくなった。ならば後は目の前の敵を、主の道行きを阻む敵を討ち倒す事だけに専心すればそれでいい。
 これ以上語るべきものはない。後は剣が口に成り代わり、互いの主張を張り通す。

 いざ、第二幕を開かんと地を蹴りかけたところで、

「ッ……、ちぃ……!」

 広場の反対側で同じく剣を交えていたモードレッドが、弾き飛ばされたのか地を滑りながらガウェインの傍へと着地した。

「ハッ、流石は円卓を束ねし王。スペックが同等でも、真っ当な打ち合いじゃこっちの分が悪いか」

 具足についた砂を払いモードレッドは立ち上がる。

 モードレッドはアーサー王の息子、妖姫モルガンの姦計によって生み出されたホムンクルス。
 言ってしまえば王のコピー品。素体となった王と同等のスペックを有する、王を打ち倒すその為だけに産み落とされた部品だ。

 アーサー王と同様に、彼女の身体にも竜の血が流れ、その心臓は魔術師と一線を画す魔術炉心を備えている。少女の細腕で全盛期を誇る英雄達と切り結べるのは荒れ狂う魔力の猛りの賜物だ。

 とはいえ、どれだけ基本の能力値が同じであっても、その後に積み上げられた研鑽、努力という名の修練は一人ひとり違うもの。
 全く同じ才能を有する双子が全く同じ生育環境で育っても差異が生まれるように、王と背徳の騎士では地力に差が生じている。

 どのような相手であれ真正面から打ち倒す事を誉れとする騎士の剣と、飄々と振る舞い相手の意の裏を掻く事に特化した変幻自在の剣。

 どちらが優れているという話ではない。
 単純に、然程広くもなく遮蔽物もないこの戦場においては、真っ当な打ち合いを得意とする王の剣の方が勝っているというだけの話だ。

 ガチャリ、と白銀の具足が大地を踏む。遅れて現われたセイバーは涼やかな顔を崩す事なく、黒騎士の傍へと戻ってきた。

 それぞれの敵を定め、二つに分かれていた戦場が再び一つへと収束する。
 この後に待つのは四者入り乱れた乱戦か、再度二極化をするのか、誰もが場の推移を窺っていたその時、

「丁度良い、王に一つ問わせて頂きたい事があります」

 モードレッドが、剣ではなく言葉で先の先を打った。

 先ほどついた悪態とは打って変わった慇懃な物言い。王に叛逆の意を示し実行に移したとはいえ、彼女は王を王と認めていなかったわけではない。むしろ誰よりも王の在り方を崇敬していた。彼女が王を下に見る事はない。それゆえの、言葉遣い。

「…………」

 セイバーがマスターから課された役目はモードレッドとガウェインの足止め。打ち倒せれば尚の事良いが、戦力は拮抗している。同スペックを有する王とその子、最強とそれに比肩する太陽。

 千日手、とまでは言わないが、天秤の針を傾けようというのなら相応の犠牲を払わねばならなくなる。相手から時間を消耗してくれるのなら好都合。セイバーはモードレッドの話に乗る事にした。

「良いでしょう。私に答えられるものであれば答えましょう」

「なに、そう難しい問いではありません。王よ、貴女は何を願い聖杯を求めるのです」

 それはサーヴァントに対する根源的な問い。何を求め主の召喚に応じたかという原初の問いだ。
 その問いは、アーサー王が招かれたと知ったときからモードレッドが心に秘めてきた問いでもある。

「……答えるのは吝かではありません。が、であれば、まず貴女が己が願望を詳らかにすべきではないのですか」

「ご意見ごもっとも。ええ、我が願いは誰に憚るものでもない。ゆえに声高らかに謳わせて頂きましょう。
 私の願いは、王よ──貴女が引き抜いたという選定の剣に、私もまた挑ませて欲しい、ただそれだけです」

「なっ…………」

 それはセイバーをして予想外の祈りの形だった。

 生前の叛乱を思い返しても、モードレッドが王位に、玉座に執着を持っていた事は窺い知れる。
 ただその願いは、聖杯に賭けるにしては余りにも迂遠なもの。万物の願いを叶える奇跡であれば、彼女を王座に就かせる事など造作もあるまい。

 だというのにモードレッドは自らを王にせよ、と願うのではなく、王を選定した剣に挑ませて欲しいと、謳い上げたのだ。

「結果だけを手に入れたところで意味などありません。聖杯の力で王の椅子を勝ち取ったところで納得など出来ない。
 私が欲し求めるのは自らの力の証明。貴女が終ぞ認めなかったオレを、これ以上なく認めさせてやることだ────!」

 元を正せば彼女の叛乱も、王の嫡子であるにも関わらず後継者と認められなかった事に端を発する。
 疎まれ、忌み嫌われる出自であっても、公正にして高潔な王ならば色眼鏡で見る事なく己を見てくれるものと信じた。

 末席とはいえ円卓に名を連ね、誰にでも誇れるだけの研鑽を積んできた自負があったモードレッドの心は、王の無慈悲な拒絶によって壊された。

「……モードレッド、貴女は私が最後に告げた言葉を、忘れたのですか」

 カムランの丘。死屍累々にして剣の墓標が立ち並ぶアーサー王の終わりの地。その頂で行われた王と背徳の騎士の一騎打ち。
 国崩しを成し遂げ、王に怨嗟の言葉を投げ掛けたモードレッドに対して、無表情に放たれた王の言葉。

『私は一度も貴公を憎んだ事はない。貴公に王位を譲らなかった理由は唯一つ。────貴公には、王の器がないからだ』

 その最期まで王に何一つを肯定されないまま、失意の内に斃れた少女。聖槍に腹を貫かれながら、それでも王に致命の一撃を与えはしたが、そこまで。
 何一つ欲したものを手に掴めぬまま、アーサー王の伝説に後ろ足で泥を掛けた稀代の叛逆者は戦場に散った。

 それがモードレッドの終わり。

 そして彼女の願いは死してなお揺らぐ事のないものだった。生前では叶わぬ願い。時の楔から解き放たれた今ならば叶えられる祈りを胸に、少女は今一度戦場に立ったのだ。

「ええ、王の末期の言葉……忘れもしませんとも。ですが私に王の器がない、というのは貴方の主観でしかない。王の証明が選定の剣を引き抜く事であるのなら、それに挑む事さえ許されなかった私の器を一体誰が量れるものか」

 王の幕下にあっても、王の留守を託される程度には政を治めていた。剣の腕も、その能力も、王に何一つ見劣りしない己が、王に相応しくないなどという事は有り得ない。王に出来て己に出来ない筈がない、という想いが、彼女を駆り立てる動力だ。

「モードレッド卿」

 これまで沈黙を貫いていた白騎士ガウェインが少女を見る。普段と変わらぬ涼やかな面持ちもまた変わらず、純粋な疑問を投げ掛けた。

「貴公は選定の剣への挑戦を聖杯に望むといいましたが、その結果、引き抜けずとも納得出来るのですか」

 並み居る騎士の誰もが引き抜けなかった岩の剣。アーサー王となる前のアルトリアだけが手にする事の出来た剣だ、ガウェインやランスロットでさえ確実に引き抜けるという保証はない。
 そも剣を抜くのに王の器なるものが必要ならば、一騎士でしかない彼らには引き抜ける道理はない。

 ガウェインの問いに、モードレッドは鼻で笑う。

「愚問だな太陽の騎士。このオレに、引き抜けない筈がないだろう……?」

 圧倒的なまでの自負。滲み出る自信。自らの力を一切疑っていない証拠。事実として王位を簒奪するに至った歴史が、彼女にここまでの自尊を与えている。

「さて、私の願いは語り終えた。王よ、貴女の祈りを聞かせて頂きたい」

 公正にして高潔にして完全なる王。誰よりも尊く理想に生きた、過ちを犯さなかった聖君が、死後に迷い出てでも欲する聖杯に託す祈り。その正体が今、かつて王と肩を並べた騎士達に向けて明かされる。

「私の願い……私の王としての最期の責務──それは私よりも王に相応しき者にあの時代を託す事。祖国の破滅を防ぎ、繁栄を齎せる者にこそ王位を明け渡す事。
 そう──私が王でなければ、私が選定の剣を引き抜かなければ、あんな滅亡(おわり)になどならなかった筈だから」

『──────』

 セイバーがその胸の内を語った後、痛いほどの沈黙が降り注いだ。森を渡る風は止み、遠くこの森の何処かで行われている別の戦いの余波も届かない。
 無音の世界。音の消えた森。その静寂を引き裂いたのは、王に問いを投げた張本人であるモードレッドであった。

「私の聞き間違いでなければ……王よ、貴女は今、こう仰ったのですか。選定の剣を引き抜く直前まで時間を戻し、己ではなく他の誰かの手に王権を委ねると」

「ええ、その通り。私と同じくあの時代を駆け抜けた貴方達なら分かる筈だ。あんな終わりを認めてはいけない。あんな終わりなどあってはならない。誰一人救われる事なく幕を閉じた王の治世など、最初からあってはならなかったのだと」

 円卓の崩壊、あるいは王妃の不義に端を発する王国の滅亡。その終わりは国を二つに分けての大戦。王とその子による王座を賭けた争い。何処にでも転がっている、ありきたりな物語で、ありきたりな結末。

 勝者も敗者もないただの滅亡。二分された円卓の騎士達の大半は戦死し、最期の一騎打ちとなったアーサーとモードレッドもまた、後者は王の剣によって斃れ、前者は瀕死の重傷を負った。

 その結末に救いはない。後に残ったものなど何もなかった。残ったのは、王の目に焼き付けられた死に行く大地の姿だけ。赤く染まった空と、血の河が流れる屍の丘。そんな悲惨な結末だけだ。

 国の為に己が身を捧げ、剣を執った。海の彼方より襲い来る異民族を迎え撃ち、国を豊かに変える為に身命を賭した。
 しかしその結果はどうだ。彼女に報酬として与えられたのは、目に映る赤い丘と、守りたかった国の崩壊、民の嘆き。掌で掬い上げようとした全ては、一滴残らず滑り落ち、何一つ残りはしなかった。

 国を守る為に犠牲にした民がいた。
 王の栄光の陰で涙した女がいた。
 騎士としての誇りを貫けぬまま、死んでいった者がいた。

 幾つもの犠牲を払い、残ったものがこんな光景では、あんまりだ。
 何を以って許しを請えば良い。
 何を償いとすればいい。
 どうすれば、こんな終わりを誇れるものか……!

 王は全ての終わりの地であるカムランの丘の上で、血に染まった祖国を眺め思ったのだ。

 ────ああ……ならば、私は間違えていたのだと。

 国を守る為と犠牲にした多くの命。それを駄目だと咎めた騎士達の言い分こそが正しかった。だってそうだろう、犠牲にしたものに報いる事の出来なかったこの己に、王としての資格など、最初からなかったのだから。

 だから心の底から求め欲し、そして願った。
 血染めの丘の上で、頽れそうな身体を剣を支えにして、天を睨み付け、そして──

「私は、王になどなるべきではなかった。私よりも相応しい者がきっと、あの時代にいた筈だ。民を犠牲にする事なく戦果を勝ち取り、国を繁栄させ、騎士達の信頼をも得て、万人に称えられる王が」

 アルトリアがその掌から零してしまった全てを掬い上げられる者が。いて欲しい。いなくてはならない。でなくては、余りに救いがない。

「これで分かったでしょう、モードレッド。私の言葉の意味が。私より生まれ、私の血を継いだ貴女に、王の器などある筈がない」

 自分自身を、その終わりで省みたからこその言葉。国を崩壊へと誘った王の息子に、王としての素質などある筈がない。
 特にモードレッドはアーサー王の模造品。全てを似せて造られたホムンクルス。たとえ王権を手にしたところで、その終わりは見えているも当然だ。

「は……はは………クハハハ……アーッハッハッハッ……!!」

 不意に、天を衝く哄笑が森に轟く。産声のように高らかに響き渡る笑い声の主は、誰あろうモードレッドだった。

「何がそんなに可笑しいのです、モードレッド卿」

「何が……? ハッ、そんなもの、全てに決まっているだろう王よ! 高潔にして公正にして誇り高き王が、よもや自分は王に相応しくなかったなどと……!」

「その評価は間違っている。貴女を含めた多くの騎士が私を玉座から引き摺り下ろそうとしたように、私は皆に認められ、祝福されて王になったわけではない。
 全ての不満を戦果によって抑え付けてきただけの事。勝ち星を挙げ続ける限り王座に居座る事を黙認されてきただけの王に過ぎない」

 誰にも引き抜けなかった選定の剣を引き抜き、国一番の魔術師の後援を得る事で手にした玉座。
 認められていたのは勝利だけ。王としての在り方も、年を取らぬその異様も、畏怖される事はあっても心の底から忠誠を誓った騎士はそう多くなかった。

 王妃ギネヴィアを連れ王城を離れたランスロットに付き従った者、王座簒奪を目論んでいたモードレッドに組した者。アルトリアが真に王に相応しき者ならば、彼らの離反はなく国は安寧に包まれていた筈だから。

「私が王でなければランスロット卿の悲劇はなかった。ガウェイン卿は盟友と共に騎士の道に奉じる事が出来た。そして、貴女も──」

 全ての悲劇はアルトリアが王権を手にした時から始まっていた。であれば、その始まりを覆す事で全てをなかった事に出来る。
 王としてのアーサーの存在は歴史より抹消され、ただのアルトリアとしての生がそこにある。

 しかし彼女は己の安寧など心の底から望んでいない。ただ全ては国の為、民の為。王に相応しくなかった己の代わりに国を治める者を求めて、聖杯を手にする為にこんな時の彼方での戦いに挑んでいる。

 己に課した王としての最期の責務──国を救う未だ見ぬ誰かを求めて。

「……なあ、おいガウェイン卿。アンタはどう思うんだ忠義の騎士。今の王の言葉に思うところがあるのなら言ってもいいんだぜ」

 水を向けられた白騎士の顔に、今はいつもの涼やかな笑みはない。宿るのは巌のように硬い表情。柳眉を寄せた真剣な眼差しで、王と背徳の騎士のやり取りを見守っていた男はこう告げた。

「騎士の口は王の代弁。王の不在に成り代わり、王の意思を示すもの。であれば、私から申す事は何も」

 王の在り方を信じ疑わなかった騎士の中の騎士。
 たとえ私情を殺し王としての生き方に殉じるのが年端もいかぬ小娘であっても、己の心を捧げた主に向ける言葉はない。騎士はただ王の命を信じ遂行するもの。そこに疑いを抱いては、立ち行かなくなる。

 王の末期の願いがどのようなものであれ、口出しする事は出来ない。ただ一振りの剣である事を己に誓った忠義の騎士に、今更諫めの言葉など掛けられる筈もない。

「ええ、王に問うべきものは何もない。ですが、ランスロット卿──貴公には問い質さなければならない事がある」

 王の傍らに控え、言葉を持たない獣でありながら、場を静観していた黒騎士へと白騎士が視線を向ける。茫洋と霞む漆黒の鎧。灯る赤い瞳。顔色も感情も一切が見通せない狂戦士に向けて、ガウェインは言い放つ。

「王への憎悪に狂っていた貴公が今そうして王の傍らに侍るのは、今の言葉を、王の願いを聞いたから。間違いはありませんか」

「…………」

 黒騎士は答えない。応えるべき言葉を持たない。しかしその姿が雄弁に物語っている。あれほど王への憎悪に狂い、執着していた男がその対象と肩を並べる理由など、他に考えられもしない。
 無言こそがその肯定。語る口は持たずとも、その在り方が全てを示している。

「貴公は王の願いを聞き、それを叶えるべきものと見定めて付き従うのですか。理性の大半を剥奪されたその身で、それでも王の祈りを肯定し味方すると」

 王を裏切り、王の治世に消えない亀裂を刻んだ黒の騎士。彼の後悔は推測する事しか出来ない。己の不実をもなかった事に出来る王の願いに賛同したのか、自らの憎悪を掻き消される程の何かを感じ取ったのか。

 それはガウェインには分からない。言葉を紡ぐ事の出来ない、出来なくなっても良いと覚悟して狂気に身を堕としたかつての盟友の心の内など、想像する以外に知る術などあろう筈もない。

 ならば────

「──ランスロット卿。やはり貴公とは相容れない。貴公の闇を、この太陽の聖剣の輝きで以って晴らして見せましょう」

 横薙ぎに構えられる青の聖剣。灼熱を宿す太陽の剣は、何処までも高くその熱を高めていく。

「ッ、おい! おまえまさか──!」

「モードレッド卿、私の聖剣の威力は貴女もまた知るところ。巻き添えを食らいたくなければ早急にこの場を離れる事を勧めます」

 涼やかな声とは裏腹に、高まり行く炎に際限はなく。白騎士の顔に宿る表情もまた無機質なもの。何が彼の心の琴線に触れたのかは定かではないが、既に紐解かれた聖剣を止める手立てなどなく。

「くっ……!」

 ガウェインの言葉を聞き終わる前に後方へと撤退したモードレッド。対峙する二人の王と騎士には同じ選択は出来ない。

 白騎士の聖剣の威力は絶大だ。解き放たれれば周囲一帯を焼き尽くすだろう。そしてそんな破壊が森の中で起これば、当然張られた結界にも異常を来たす。
 結界の性能低下、ないし消失はキャスターの戦力ダウン、ひいては防衛側の大幅なダメージとなる。

 今も何処かで繰り広げられてる戦い。その最中にそんな異常が襲い掛かっては、さしもキャスターも対応し切れず一気に押し切られる可能性がある。
 ゆえに此処は迎撃の一手。太陽の聖剣を相殺しなければ、それだけで大勢が決してしまいかねない。

 でなくとも、セイバーに命じられたのは此処での足止め。敵の凶手を止める手段があるにも関わらず。むざむざと背を向けるわけにはいかない。

 最高位に位置する聖剣を迎え撃つには、当然同等の威力を有するものが必要になる。であれば此処は、セイバーが手にする星の聖剣を今一度解き放つ以外に方法は──

「ッ……ランスロット卿……!?」

 今まさに風の封印を紐解かんとしていたセイバーの前に、漆黒の鎧が歩み出る。今や大気をも焦がし、息苦しささえ覚える空間へと変貌した広場。地上に燃え盛る太陽の前に、湖の光輝が立ちはだかる。

「いけない、貴方の剣では彼の聖剣に対抗出来る筈がない……!」

 ランスロットの手にする稀代の剣は、王の剣や白騎士の剣のような周囲へと向ける能力を有していない。対軍、対城と呼ばれる宝具群ではなく、自分自身を高める対人宝具。圧倒的な威力の前に、その輝きは陰りを見せる。

 広範囲への攻撃手段を有する相手に対してランスロットの取り得る最善手は、そも使わせない事に尽きる。どれだけの威力を有する業物であろうと、その真価を発揮出来ないのであればただの名剣と違いはない。

 並の使い手ではそんな所業は困難を極めるだろうが、彼こそは当代最高の騎士と謳われた傑物。太陽の輝きを背負った白騎士を三時間に渡り封殺し勝利した男。この男にとっては常人には不可能なものであっても可能なものでしかない。

 しかし今は状況は違う。既に太陽の輝きは紐解かれた。数秒の後に具現化するのは、文字通り地上に落下する太陽の如き灼熱。
 ありとあらゆるものを消し炭さえも残さず燃やし尽くす、エクスカリバーと対を為すもう一振りの星の聖剣。

 黒騎士の技量が如何ほどのものであれ、解き放たれた聖剣の前に為す術はない。今更、どうしようとその結末は揺るがない。

「────」

 揺るがぬ敗北を前に、それでも黒騎士は王をその背に庇い立つ。

 彼の周囲に漂っていた黒き霞が霧散する。正体を隠蔽していた宝具が解除され、在りし日の騎士の姿が露になる。
 霧の向こうから現われたのは華美に走らず、無骨に堕ちず、それは機能美と豪奢さを紙一重のバランスで両立させた完璧な全身鎧(フルプレート)。

 彼にだけ許された剣と同じく、彼のみが装着を許された荒々しくも流麗な、匠の粋を集めて造られた戦装束。無数に刻まれた傷さえも、彼の武勲を物語る勇猛の華。王の傍らに常にあった騎士の姿。

 霧散した霧は黒騎士の手の中に再度集まり、一つの形を具現化する。

 遂に明かされる黒の宝剣。エクスカリバーと起源を同じくする神造兵装。湖の貴婦人より賜れし、当代最高の騎士のみが手にする栄誉を許された稀代の名剣が、日の下にその姿を現した。

 その剣に在りし日の清純さはない。狂気に堕した担い手と同じく、同輩の騎士の血を吸い魔剣と化したその剣は、生前のそれと似て非なるもの。
 されどその刀身に曇りはなく。切れ味には微塵の衰えもない。決して毀れる事のない剣と謳われた、その剣の名こそ──

 ────無毀なる湖光(アロンダイト)

 理想の騎士ランスロットのみが手にする最高の光輝。

 超新星の爆発のように今にも決壊しそうな太陽の前に、ただ一振りの剣を担い王の騎士は立ちはだかる。
 ガウェインの静かな怒りの対象が己であるのなら、王の手を煩わせるのは筋違いだとでも言うように。

「観念した……というわけでもなさそうですが、我が太陽の輝きの前に立つ意味、ならばその身を以って知るがいい──!」

 生前の黒騎士ですら恐れ、決闘の際にはその使用を封じるべく立ち回った男が、燃え盛る太陽の前に立ち剣を構える。
 彼の心の内は読み取れない。何を考えこんな無謀に挑むのかは理解が出来ない。

 それでも。

 王の祈りを聞き、その膝を折った騎士に全幅の信頼を預け、セイバーは静かに事の推移を見守ると決意した。
 彼女の知る彼の騎士が、勝算もなく戦場に立つ筈がないと。勝利と栄光を欲しいままにした理想の騎士に、敗北などある筈もないと。

 今やその背に宿る、かつての輝きを信じて。

「“────転輪する勝利の剣(エクスカリバー・ガラティーン)……!”」

「Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa……!!」

 太陽の写し身と化した青の聖剣が抜き放たれる。アーサー王のエクスカリバーが指向性のある光の波濤であるのなら、ガラティーンは周囲一帯の全てを地獄の釜へと変貌させる炎熱の具現。

 周辺被害を考慮しない、平地限定での使用を前提とされた殲滅兵器。下手を打てば味方すら巻き込む炎と熱の波濤。
 触れる全てを消滅させる太陽の輝きを前に、アロンダイトを手にした黒騎士は高らかな吼え声と共に駆け出し、死地の中で一閃を振り抜いた。



+++


 夜を覆う霧の魔術は、地上に現われた太陽の熱によって全てが溶かし尽くされた。地に走る炎。燻る煙。

 周囲に突き立っていた木々の姿はない。遠く霞む煙の向こうに、聖剣の薙ぎ払いを免れた森が広がっている。ガラティーンの射程内に存在した樹木は全て燃え落ちた。消し炭すら残す事なく。

 これが最高位の聖剣の威力。王の聖剣、エクスカリバーと同等の出力を有する太陽の聖剣の威力だ。

「馬鹿な……」

 だから、その存在こそが予想外。

 全てを薙ぎ払った筈の荒野に立つ、一人の騎士の姿。
 手にした剣を振り抜いた姿勢のまま、その背に背負った王と森をすら守り抜き、黒騎士は依然健在。

 鎧を焦がした炎もやがて消え、傷一つない魔剣は湖の光輝を湛えている。ランスロットは太陽の聖剣の真名解放を耐えたのではない。

「ガラティーンの灼熱を、まさか切り裂くとは……」

 生前の黒騎士にすら不可能であった御業。回避だけならばまだしも、迎撃という至難を果たせたのは強運と彼の積み上げた修練の賜物だ。

 十年の猶予を得た雁夜からの魔力供給で生前の能力値を取り戻し、狂化により更に数値を強化させた。元より高い幸運に加え、王を護るという名分を得る事により精霊の加護によって更なる幸運を引き寄せ、アロンダイトの能力上昇、判定強化の達成を以って完成された至玉の一閃。

 襲い来る炎の波を一刀の下に斬り伏せ、その背に頂く王と森を守護して見せた黒の騎士。

 ガラティーンの輝きは森を半円状に斬り裂いたに留まった。驚異的な威力であったのは間違いはないが、太陽の剣はその目的を果たせなかった。ランスロットに、この戦いの軍配は上がったのだ。

「…………」

 絶対の一撃を見事に凌ぎ切られたガウェインに、告げられる言葉はない。胸に去来したのは感服と賞賛。狂気に堕した男は、確かにかつての輝きを取り戻した。王の為に剣を振るう──その一念の前に、白騎士の剣は敗れたのだ。

 昨夜、遠坂邸の屋根の上で赤い弓兵に投げ掛けられた言葉を思い出す。

“君はこの戦いで、唯の一度も自らの手で剣を振るってなどいない。そんな曇り切った手で握られては、その手に輝く太陽の名が泣こう”

 戯言だと切り捨てた筈の言葉。己の心に誓った誇りに間違いはないと思っていた。ただ主の為に尽くす剣。剣に意思は必要ない。ただ王命を全うする事こそが騎士の本懐だと。

 ならば目の前に立つ男は何だ。我欲に溺れ私情に塗れ地に堕ちた獣。されど王と共にあるという誓いを取り戻した騎士。
 未だその身は狂える獣であれど、黒騎士は意思なき剣ではない。自らの意思を以って、残った理性を掻き集めて、王の剣になると誓った獣。

 語る言葉は持たずとも、自らの身体一つで意思を体現し実行した誇りある騎士。赤い弓兵の言葉は真実であるのなら、白騎士の意思なき剣は、黒騎士の意思ある剣に敗れたというのか。

“ならばこの心に誓った誇りこそが、間違いだというのか”

 晴れた筈の心に掛かる薄い靄。自らの在り方に疑問を抱いたガウェインの前で、黒騎士は僅かにその身を傾げた。

「ッ……ランスロット卿……!?」

 彼自身の身体には傷の一つもない。だが、彼に魔力を供給しているマスターが同様に無傷である保証はないのだ。
 ただでさえ魔力を多量に食らうバーサーカーであるというのに、所持する二つの宝具を封印する事で解き放たれる魔剣を振るったのだ、その魔力消費量は常軌を逸する。

 並の魔術師であればそれこそ魔力の限りを搾り取られ、ミイラ化して絶命していてもおかしくはない。
 その辺りの対策も充分に練っていた筈の雁夜であっても、彼自身もまた戦闘中であったのなら、その消耗はより加速度的に増している事は想像に難くない。

 黒騎士が勝利の代償に手にしたのは消滅を早めるカウントダウン。零れ落ちるだけであった砂時計の器に、亀裂を刻むようなもの。残された時間は、一気に少なくなった。

 しかしまだ終わらない。

 これが十年前、何の予備知識も対策もないままに雁夜に召喚されていれば此処で終わった戦いも、与えられた猶予が砂時計の砂の落下を鈍らせている。

 とはいえ、これ以上の無理な戦闘は今後に支障を来たすどころか消滅を早めるだけの自滅行為。黒騎士の姿が霞み、解けて掻き消えていく。

「後は任せて下さい、ランスロット卿。どの道この森での戦いもそろそろ佳境を迎える頃合だ。貴方が切り開いたこの時間を、無駄にはしない」

 低い唸り声を残し、黒騎士はその姿を消した。

 後に残ったのはセイバーとガウェインのみ。拓かれた森の中、舞う炎の只中に二人は静かに佇む。

「ガウェイン卿。貴方にまだ余力があるというのなら、私が相手を務めますが」

「…………」

 聖剣の一振りを放った今、余剰魔力はそう多くない。マスターからの供給を鑑みても、全力のセイバーを相手にするには太陽の加護を得ていたとしても厳しいか。
 エクスカリバーを抜かれればガラティーンで対抗するしか術はなく、二度の宝具使用に耐えられるかどうかは未知数だ。

 幾らかの沈黙が流れ、どちらともが剣を手にして動かない、そんな硬直が続いた時。

『…………っ!』

 不意に、森の奥から轟いたのは爆発音。夜を染める赤い炎が、霞む空の向こうに窺えた。

「状況は変わったようですね。ガウェイン卿、三度決着を持ち越すのは私としても不本意ですが、これも勝利の為。
 貴公が今後も私の前に立ちはだかるというのなら、何度でも剣を合わせ戦いましょう。私が聖杯を掴む、その時まで」

 鋼の具足を鳴らし、王は戦場に背を向ける。一足飛びに森へと消え、やがてその姿は見えなくなった。

「……化け物だな、あの男は。流石は最強の騎士と謳われただけの事はあるか」

 セイバーと入れ替わる形でモードレッドが広場へと戻ってくる。彼女にも傷はない。どうやらガラティーンの射程範囲から無事逃れていたようだ。

「遅かったですねモードレッド卿。もう一足早ければ、違う展開もあったものを」

「有無を言わさず宝具を解放したのは誰だって話だよ。オレのクラレントや王のエクスカリバーとは違って、アンタのそれは範囲攻撃な分逃げるのに時間を食うんだ」

「それにしては帰還が遅すぎた。まさか、狙ってこのタイミングで姿を現した、王が去るのを待っていたわけではないでしょう」

「さてね。ご想像に任せする」

 飄々とした態度を崩さないモードレッドにガウェインは鋭い視線を向けるも、頭部を覆うフルフェイスヘルムに阻まれ表情は窺い知れなかった。

「とりあえず進もうぜ。何やらキナ臭い感じがする」

「……それは勘ですか」

「ああ、まあオレの勘は悪い方に良く当たるからな。バゼット達に何事もなければいいが」

「待ってください」

 歩き出そうとしたモードレッドの背に、ガウェインは問いを投げた。

「モードレッド卿、貴女は王の祈りを聞き、何を思ったのですか」

「…………」

 黒騎士は王に剣を捧げる誓いを立てた。
 白騎士は口を閉ざし、王に仕える騎士に剣を向けた。

 ならば、背徳の騎士であるモードレッドは何を思うのか。王の実子にして国を崩した張本人。王にあの祈りを抱かせたのは、彼女自身だと言っても過言ではない。
 己に王の器がないと、王が言い放ったその根拠をすら聞いてしまった彼女は、今一体何をその心に描いているのか。

「……オレの願いに変わりはない。聖杯を手に入れ、選定の剣への挑戦権を手に入れる。そして証明する。この身の存在を。天地の全てに、遍く民に。そして他でもない、あの王にその証明を見せ付けてやる」

 去り行く背中。少女の身には重過ぎる鎧を打ち鳴らし、モードレッドは戦場の奥へと消えていく。

「…………」

 白騎士は静かに思った。
 少女の背に宿った感情を。
 僅かに滲んでいた声色に。

 憤慨と、悲哀。
 赫怒と、屈辱。

 相反する想いをその心に抱き、口にする事もなくひたすらに前へと進む少女に。

「……モードレッド卿。貴女はもしや、涙したのですか。王の祈りに。その、余りにも悲痛な願いに」

 確たる証拠はない。ただ、なんとはなしにそう思っただけの事。そもあの少女はランスロット以上に王の意思に背いた者。同情の余地や憐れまれる立場にはない。

 己の内に降って湧いた感傷を振り払い、白騎士もまた森の奥へと足を向ける。
 自らの心さえも分からないのだ、誰かを気に掛ける余裕などない。

 ただ今は、前に進むのみ。
 ままならない心を抱えたまま、終わり行く戦いの予感を確かに抱いて。



[36131] scene.12 天と地のズヴェズダ
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/06/02 02:12
26


 騎士達の戦場から遠く離れた森の中心付近。闇に染まった森の中を駆ける二つの影。薄く引き伸ばされた霧を七色の閃光が晴らし、全てを飲み込む闇色の刃が地を走る。
 遠坂時臣と間桐雁夜の戦場となった開けた場所より幾らか離れた森の中を、遠坂凛と間桐桜はその身に宿した魔の業を詳らかにしながら疾走する。

 乱立する木々の隙間を縫い、ギアを一切落とす事なく地を駆け抜け、両者の間には魔術の衝突による絢爛たる花が咲き誇る。

 間桐桜にとって、今この状況は望んだものではなかった。戦端が開かれた瞬間、遠坂凛はポケットから抜き放った小粒の宝石を空にばら撒き、乱舞の如き閃光を桜目掛けて撃ち放った。

 初撃から容赦も呵責もない連撃。一撃の威力よりも数にもの言わせた波状攻撃で、先手を奪い機先を制した。
 結果、桜はその迎撃に追われ、少しでも消耗とダメージを減らす為に身を隠しやすい森の中に逃げ込むしかなく、時臣と雁夜の戦場から強引に引き離されてしまった。

「情けないわね間桐さん。逃げ回るしか出来ないの? あのビルの屋上で息巻いた貴女は何処に消えたのかしら」

「くっ……!」

 状況は凛の優勢。疾走を止めないまま、凛は正確無比に梢の隙間を縫い桜目掛けて宝石を放ってくる。桜はその迎撃と回避に追われ続けている。

 宝石魔術の特性の一つである一工程(シングルアクション)からの魔術の発動短縮。
 更には刻印によるバックアップにより、凛はほとんどタイムラグなく魔術を発動し、桜の行動に先んじて鉱石の煌きで夜を染める。

 対する桜の虚数魔術には、どうしても詠唱が必要になる。無論一工程での発動も可能ではあるが、威力が大きく減衰する。それでは事前に魔力を仕込まれた宝石の即時発動を相殺する威力には足りない。

 その為、木々を壁とし時間を稼ぎ、隙を見て影の刃を放つ事に終始する。終始させられている。刻印のバックアップのない桜では、どう足掻いても魔術発動の速度で凛を上回る事が出来ないのだ。

「……ッ、Es befiehlt(声は遥かに)──」

「Anfang(セット)」

 ピン、と指で弾かれた宝石が、今にも腕を振るおうとした桜に先んじて放たれる。単純な速度の問題だけではない。凛は桜の行動をすら予測し、動きを計測し、常に一歩先んじて動いている。
 詠唱の有無によるロスですら致命的であるというのに、そんな化け物じみた行動予測まで行われては、

「っ……はっ……ぁあ……!」

 弧を描き襲い来る氷の魔弾。咄嗟に振るおうとした腕を止め、影の盾を敷くのが精一杯の抵抗。しかし相殺すら許されず、防御ごと桜は吹き飛ばされた。

「かはっ……」

 野太い木の幹に背中を強かに打ち付けられ、桜は肺の中に溜まった空気を無理矢理に吐き出させられた。ずるずると腰を落とし、咳き込んだ息には血が混じっている。内臓の何処かをやられたらしい。

「呆気ないものね」

 悠然と歩み寄ってくる凛を、桜は重い腰を上げながらに睨みつける。身体は動く。手足には力が込められる。ならば此処で、膝を屈する理由はない。

「どれだけ睨んでも戦力差は覆らない。魔術戦の究極は、積んだ研鑽の高さを競うもの。どれだけの過酷を耐え抜いたかを示すもの。貴女の十年と私の十年──その重みは同じじゃない」

「っ……私の苦痛を、知りもしないくせにっ……!」

「知らないし、知る必要もないわね。修練は自らに積み上げるもの。誰かにひけらかす為のものじゃないし、誰かに理解を求めるものでもない。そんな事も知らずに、貴女は魔術師になったの?」

 凛に手心など一欠けらもない。ポケットから掴み出した宝石を指の間に詰め、大胆に間合いを詰める。完全に目の前の敵を葬り去る為に、確実にかつて妹と呼んだ少女を抹殺する為の間合いへと踏み込んで来る。

「なりたくて……なったわけじゃない……! それは、姉さんだって知ってるくせにッ!」

「私を姉と呼ばないで。虫唾が走るわ」

 小指の先ほどの宝石が凛の手からは放たれ、瞬間、中空に渦を巻いて圧縮された風の針を形作る。大気を裂く空気の牙は未だ体勢の整わない桜の左腕を貫き、大木に磔にした。

「ぐっ……ぁあ……!!」

 解けた風の後に残った空洞から、濁々と血が流れ落ちる。指先へと滴り、やがて大地に赤い斑点を描いていく。

「お父さまが言っていたでしょう。強い才覚の持ち主は、魔道の庇護なくしては生きられない。どうあれ貴女は魔道に足を踏み込むしかなかった。それか、自らの可能性の芽を潰し逃げ出すか」

 間桐桜はその選択肢から目を背けた。受け入れる事も、逃げ出す事も選ばなかった。ただ状況に流されて今に至る。覚悟を以って魔道に生きると決意した凛との間には、埋めがたい明確な溝がある。

「貴女は一体何がしたいの間桐さん。貴女には覚悟がない。意思がない。そして何より力がない。そんな中途半端な様で私に勝てると息巻いていたのだとしたら、お笑い種ね」

 凛が足を止める。確実に桜に止めを刺せる間合いに踏み入り、冷徹な魔女は変わらぬ色を湛える瞳を、その無機質な瞳を妹だった少女に向ける。

「…………」

 凛の腕が上がる。言葉はない。敵にかける情けなど、この少女にはないのだ。末期の祈りも遺言も、聞き届ける義務もなければ義理もなく。ただ、己の前に立ちはだかる障害を、それこそ行く手を遮る壁程度にしか見ていない。

 そう、だから。

 冷徹にして非情にして鋼鉄なこの魔女の、唯一の隙がそこにある……!

「Schatten(影よ)────!」

「…………!」

 これまで二小節以上の詠唱で影の刃を使役してきた桜が見せる、一工程での魔術式。威力を大きく落とし込むその術式では、凛の宝石魔術は破れない。そんな事は桜とて既に承知済み。

 自分の力量が姉に劣っている事などとうに分かっている。研鑽の量を比べ合えば劣るなど当然だ。
 魔術を忌避してきた己が、魔術を受け入れた者に真正面から勝てる道理はない。ならば頼れるのは己の頭脳。機転と不意打ち、それが絶対の自負と正道の力を有する凛に対抗する唯一の手段。

 ただ闇雲に逃げ回ってきたわけじゃない。劣る自分がこの相手に勝る為に、必要な準備は既に済んでいる……!

 起動の呪文と共に、闇に沸き立つ影の檻。

 それは桜が凛と戦う事を、あるいは時臣との戦いを予測し、事前に仕込みを済ませておいた術式。アインツベルンとの共闘によって地の利を確保出来た事で打てた布石の一つ。戦場となりえる可能性のある場所に、あらかじめ魔法陣を描いておいたのだ。

 この場所は桜が追い詰められて辿り着いた場所ではなく、わざと誘い込んだ決闘の地。幾つか用意した戦場の一つ。
 地に描かれている魔法陣も、夜の闇と立ち込める霧が覆い隠し、森に充溢する魔力が陣から零れる魔力を覆い隠す。

 此処に仕込みは結実する。凛が踏み込んだ地点が彼女にとっての必殺の間合いであるのなら、同時に桜にとっても必勝の間合い。

 虚数の魔術は在るがないものとされる負の魔術。それを桜は影として行使する。触れる全て、呑み込む全てを現実の裏にある虚数空間へと誘い塵一つ残さず消し去る、五大属性(アベレージ・ワン)と同等の価値を持つ希少属性(ノーブル)。

 遠坂時臣をして最後まで頭を悩ませた、凛と正反対でありながら同等の素質を持つ桜だけの魔術特性。

 影の檻が地より沸き立ち、凛を四方から包囲し包み込む。生まれたのは黒い球体。人間一人を覆うほどの巨大な球体だ。それもやがて規模を縮小し、最後には点をすら残さず消滅する。中に呑み込んだもの諸共、跡形もなく。

「はっ……」

 桜は短く息を吐く。黒い影に囚われた遠坂凛は、後数秒もすればその存在ごと消し去られる。相手に油断がない以上、こちらも手心を加えられる理由などなかった。

 今桜が構築出来る最高の魔術式。
 その完遂を以って、姉と呼んだ人は、この世から完全にいなくなる。

 いつも完璧で、優雅で、人々の羨望を集め己とはかけ離れた立ち振る舞いをする麗人。敵と定めた者に対し、たとえそれがかつて妹と呼んだ相手であろうと明確な敵意を向けられる非情なる魔女。

 だけど、今黒い球体に囚われた人は、間違いなく桜の姉だった。

 あの日の事を、昨日の事のように覚えている。
 あの日──間桐の家へと迎えられる事になった時の事を。

 今も桜の黒髪を結ぶ、姉より送られた淡い色のリボン。それが、唯一これまで桜の心を支え続けた拠り所だった。

 あの頃の姉はもういない。桜が間桐の家で過酷な修練を受け、暗い影を落とす少女に成長したように。遠坂凛は、あの幼少の頃に抱いていた人としての温もりを、忘れてしまったのだ。

 吐き出した言葉は届かない。想いはどれだけ口にしても、鉄の心に響きはしない。魔術師として完成してしまった遠坂凛に、人の痛みは理解が出来ない。
 これも一つの結末。父には落胆され、姉にも見放された孤独な少女は、生きる糧を失くしても、生きる意味を失っても──

「────funf(五番),schneiden(斬撃)」

 夜を真横に走る光の刃。黒い球体の内側から放たれた、闇を払う虹の煌き(アレキサンドライト)。

 切り開かれた闇の檻の中に、魔女は依然健在。凛の所有する宝石の中でも希少な一つを用いての脱出。
 桜が事前の仕込みを行ってまで編み上げた影の檻は、いとも容易く破られた。

「……ッ、Mein Blut widersteht Invasionen(私の影は剣を振るう)──!」

 しかし桜はいち早く動いている。

 己の未熟さを過たず理解し、姉の力量を正しく推し量ったのなら、たとえ影の檻で捕らえたとしても、抜け出される可能性は考慮すべきだ。
 事実、凛は抜け出した。光の斬撃で闇を斬り裂き、今一度夜の下に這い出てくる。

 桜が狙ったのはその瞬間。

 檻を破り、桜を今一度認識し、確実に首を刎ねる一撃を凛が繰り出す一瞬前。裂けた影の檻が崩壊するよりも早く。光の斬撃が振るわれた直後。
 檻の裂け目より覗く凛の胸元に向けて、最速で編み上げた影の剣を、その無防備な胸に突き立てる為に。

 呪を紡ぎ、一歩を踏み出し、闇色の刃を、かつて姉と呼んだ誰かに向けて繰り出した。

 生きる糧を失くしても、生きる意味を失っても──それでも、死ぬのが、何よりも怖いから。

 今自分が蹲る、闇の堆積する奈落の底の、更なる下に落ちていくなんてイヤだから。復讐を糧に動き出した人形は、人として当たり前の恐怖から逃れる為、実の姉の胸に必死の刃を突き立てた。

「────それで、貴女の抵抗は終わりかしら?」

 直後、響いたのは硬質な音。突き立てた筈の刃は、鈍い音を響かせ砕け散る。如何に最速で編み上げたといっても、並の刃物よりは何倍もの強度を誇る魔術の刃だ。まさかただの繊維服の前に折れるなんて事は有り得ない。

「戦場に臨む以上、準備は万端にしておくべきでしょう? 貴女が罠を仕掛けていたように私は私なりに最善を尽くしている」

「ぁ……」

 相手が如何なる者であれ、舐めてかかるなんて愚をこの魔女は犯さない。ポケットには詰め込めるだけの宝石を詰め込み、万一に備え虎の子の幾つかも持ってきている。

 桜の一撃を防いだのも、凛が事前に宝石を飲み込み体内で作用させた身体強化と硬質化によるもの。
 鋼とて突き通させぬ、目には見えない強固な鎧。サーヴァントの攻撃とて一撃ならば耐え抜ける程の代物を、凛は出し惜しむ事なく使い桜の牙を折ったのだ。

「きゃっ……っぁ!?」

 か細い悲鳴を上げ、桜は地に蹴り倒される。相手の横っ面を打ち抜くハイキック。ミニスカートを翻す、その一撃に相手を慮る気持ちなどある筈もなく、伏臥させた桜の頭蓋を、次の瞬間には無慈悲に靴底で踏みつける。

「ぁ、ぁ、あああぁ……!」

 ギチギチと軋む骨。地に押し付けられる力は緩む事なく、魔女は手に宝石を掴み取る。相手の自由を奪い、詠唱の隙さえも与えぬ密接距離。逃げる事も、抵抗さえも許さぬまま、凛はトドメの一撃を繰り出そうとしたその時──

「やめろ」

 突如響いたのは、第三者の声。凛の凶行を押し留める、静かな声だった。

「アーチャー」

 桜への警戒を怠らぬまま、凛は僅かに傾けた目の端で現われた者の姿を確認する。闇に浮かぶ赤い外套。手傷を負っているのか、衣服が乱れている。手にしているのは白と黒の中華剣。弓兵にあるまじき武装だが、今気にするべきはそこではない。

「……幾つか気に掛かる事はあるけれど。アーチャー、何故止めるの?」

 凛が最も不可思議に感じたのはそこ。己の命を奪おうとする者、敵と断じる者を斃す事を止めるなど、正気の沙汰とは思えない。
 何より桜は聖杯戦争に参加しているマスターだ。殺し殺される事を了承し、サーヴァントを従えたマスターだ。いずれ殺さなければならない相手に、今此処で慈悲を与える意味などない。

「やめろ凛。それは、君のやり方ではない筈だ」

 必要以上に相手を痛めつけるやり方。敵を慮らないその無慈悲さを指して、アーチャーはらしくない、と諫めの言葉を口にした。

 既に勝負は決している。今も呻き声を上げ続けている桜からは、抵抗の意思が失われている。不用意に動けば凛の足に込められる力が増すと、何の感慨もなく頭蓋を踏み砕くと、無意識の内に桜は理解しているのだ。

 優しかった姉はもういない。今自分を地に這い蹲らせているのは、文字通り血も涙もない魔女なのだ。

 そんな魔性に、命乞いなど無意味なもの。気に障ればそれこそ次の瞬間には脳漿を撒き散らし、眼球が飛び出ているかもしれない。
 桜に今出来るのは、醜く呻きの声を上げるだけ。終わり行く自分の命に恐怖しながら、何かの偶然を希う事しか許されていない。

 アーチャーは、そんな二人を冷めた目で見つめている。涙さえ零し始めた桜と、その呻きを煩わしいとでも言うように、足に込める力を増す己がマスターを。

「私の知る遠坂凛は、敗者に鞭打つような趣味の持ち主ではない。戦いの最中であれば容赦も加減もしないが、勝敗が決すれば僅かばかりの慈悲を与えられる人だったはずだ。今君のやっている事に、慈悲があってたまるものか」

 確かに愉しんではいないだろう。死に行く者の悲鳴を愉悦とするほど、遠坂凛は歪んではない。しかし何もかもがやりすぎだ。抵抗の意思のない相手ならば、令呪を奪えばそれで済む話を、跡形もなく消し去ろうなんてのは、余りにも行き過ぎている。

 かつて、森の郊外で見た少女の奥底にあると願った美しい輝きが最早見えない。凍りついた心の奥にあると思った、温かな光の芯が霞んでしまっている。
 目の前にいるのはアーチャーの知らない女。冷酷で無慈悲な、血の通わない魔女だ。

「前にも言ったと思うけど。らしくない、なんて言われるのは心外だし、遠坂凛は最初からこういう生き物よ。
 一体どんな幻想を抱いていたのかは知らないけど、お生憎様。私はねアーチャー、こういう生き方を選んだのよ」

 魔女としての生き方を。

 誰に誇るでもなく、誰に言われるまでもなく。父の跡を継ぐと己の意思で決め、誰にも頼る必要のない力を身につける為に血反吐を吐く思いをして修練を積み上げた。
 魔術師として生きると覚悟した時、他の全てを擲った。遠坂を去った妹の事を諦観し、当たり前の平穏を捨て、孤独の道を歩くと決めた。

 生温いやり方で、果てを目指せるほど楽な道のりなんかじゃない。甘えや弱さが邪魔にしかならないのなら、心を鉄で覆い隠して、冷徹な魔女の仮面を被り前へと進む。誰よりも魔術師らしい魔術師に。人々の蔑みさえも糧とする、魔女になるのだと決めたのだ。

 それが凛の唯一の誇り。積み上げた修練だけが、彼女の強さの拠り所。

 必要のない慈悲を与えて足元を掬われるのは馬鹿のやる事だ。凛は今も一切の警戒を緩めていない。桜が指一本でも動かす兆しでも見せれば、即座に宝石を放てる体勢を維持している。

 それでなおこうしてアーチャーと会話を続けているのは、仮にも相手がサーヴァントであるからだ。ましてや、まだ続く戦いを共に駆け抜ける必要のあるパートナー。いらぬ軋轢は凛も好むところではない。

 とはいえ、余りにも執拗に食い下がってくるのなら、凛にも札を切る準備がある。手の描かれし三画の令呪。絶対命令権を行使して、屈服させるのも必要とあらば断じるだけの覚悟がある。

「…………」

 凛のその意思が、視線に乗ってアーチャーにも伝わっているのだろう。赤い弓兵も不用意には動かないし、更なる言葉を重ねる真似はしなかった。

 ただ、胸に去来した感情だけは、どうする事も出来ない。あの森の郊外で感じた、何もかもが変わり果てたこの世界で、唯一変わらないと信じたものさえ、失われてしまっているのだとしたら。

“オレは一体、何の為に────”

 手にする夫婦剣に力が篭る。魔女の仮面は、アーチャーが思う以上に凛に深く影を落としている。その心に、茨の如く絡みついている。
 あの、天に輝く星の光にも似た鮮烈さを誇った少女を、太陽のような眩さに目を細めた少年の日の憧憬を、根底から覆してしまう程に。

「……いや、これ以上の問答は止めよう。それよりも凛、一つ悪い報せだ」

「そうね。何かあるとは思ってたけど。それで、何があったのアーチャー。昼夜逆転の結界が解けていないところを見ると、キャスターを斃せたようには思えないけど?」

 アーチャーにはランサーと共に森の主であるキャスターと正体不明のライダーの相手を任せていた。よもや意味もなくこの弓兵が凛の下を訪れたとは考えられない。彼自身が言ったように、良くない事が起きたのは間違いがない。

 そしてその問題は火急を告げるもの。でなければ、わざわざ戦場を放棄してまでアーチャーが戻ってくる筈などないのだから。

 そしてアーチャーは語った。
 一つの戦場で起きた顛末を。

「キャスターにランサーが奪われた。早急な撤退を提案する」

 そんな、戦いの趨勢を決するにも等しい、結末を。


/27


「…………ッ、ぎっ」

 胸を貫く鈍色の鉄線。自らの胸を貫き、背中へと突き抜けて赤い血の華を咲かせたイリヤスフィールの手にした針金。
 明滅する視界。脳が痺れ、身体から力が抜けていく。血と一緒に、生きる力が失われていくのが、バゼットには感覚的に理解出来てしまう。

 何度も踏み越えてきた死。死と隣り合わせの戦場に常に身を置き続けてきた己に遂に訪れた終わり。余りにも呆気なく、唐突な終焉。せめてもの救いは、戦場でその終わりを得られた事だろうか。

 長く引き伸ばされた思考。ずっと終わりの来ない数秒間。思考の速度と時の流れが乖離している。これが人が死の間際に見る走馬灯と呼ばれるものであるのなら、自分は此処で斃れるのだろう。

 何も為せず。
 何も手に掴めず。

 ただ、がむしゃらに走り続けたその先に、何を見る事も叶わずに。

「────っ、………ァ!」

 そんなのはイヤだ。そんな終わりを求めて、こんな場所まで走ってきたわけじゃない。伸ばし続けた手は、自分でもまだ良く分からない何かを、いつか願った何かを掴み取りたかった筈だ。

 こんなところでは終われない。
 こんなところで終わってたまるものか。

 背中から零れ、抜け落ちていく命を押し留める術はなくとも、ほら、この足は、この手はまだ、動くから。

「ぁ……ぁぁぁああああッ……!」

 踏み締める足に力を込め、寸前で止めた拳に喝を入れる。

「っ──うそっ……!?」

 赤い瞳をした少女が驚きに目を見開く。よもや心臓を貫いた人間が動き出すとは夢にも思ってはいまい。
 だからこれはある種の奇跡。生き足掻く人間だけが持つ、命の輝きだ。

 そんな予想外の動きに、勝利を確信していた少女は対応出来る筈もなく。

「────ぁ……」

 バゼットの放った渾身の拳に、イリヤスフィールは声を上げる間もなく頬を穿たれ、二階吹き抜けの端に聳える壁へと叩きつけられ、その意識を刈り取られた。

 イリヤスフィールは聖杯であるが故に殺せない。それが事実であろうと嘘であろうと、聖杯を持ち帰る事が任務であるバゼットには、その真偽を確かめるまでこの白雪の少女を殺せない。

 事実を知り加減した事と身体から力が抜けていた事もあり、イリヤスフィールは昏倒しただけだ。全力で打てば人の頭蓋など軽く吹き飛ばせるバゼットの拳を受けて、首から上が繋がっているのがその証拠だ。

「っ────、はぁ、は、っぁ──!」

 そこで力を使い果たしたのか、バゼットもまた膝を付く。生きているのがおかしい程の傷をその身に受けたのだ、呼吸を刻めるだけでも儲けもの。

 だが戦いはまだ、終わりを告げていない。

 階下から猛然と迫り来る白の侍従。鉄塊じみた凶器をその手に、リズと呼ばれた侍従が主を傷つけた敵手の首を刈り取らんと襲い来る。

 しかしバゼットにはもう迎撃するだけの余力が残されていない。今此処で無理に動けば本当に死ぬ。命の砂時計に残された砂は、一握にも満たないもの。
 無駄を打てば死ぬ。下手を打てば死ぬ。何か一つを間違えれば、本当にバゼットの命は音もなく消えてしまう。

 ゆえに取るべき最善の選択は治癒のルーンを傷口に刻む事。死んでいないのなら、この心臓がまだ鼓動を刻んでいるのなら、きっとまだ癒せる。

 ただ、その回復を眼下の侍従は待ってくれないだろう。バゼットがルーンを刻み終えた瞬間、その首を刎ね飛ばされる未来は容易に想像が出来た。

「…………ッ」

 それでもバゼットは己に治癒のルーンを刻む道を選んだ。それ以外に先が見えないのであれば、一瞬でも生き残る可能性を掴み取る為に。震える指先で血を滾々と吐き出す傷口に触れ、治癒のルーンを確かに刻む。

 リーゼリットの振るう刃が何かの間違いで外れてくれれば、即座に令呪でランサーを呼び寄せ迎撃が出来る。立場を覆す事が出来る。その逆が不可能である以上、バゼットは一縷の可能性に全てを賭けた。

「────良い足掻きだ。それでこそ人間よ」

 処刑人の手にする刃が罪人の首を刈るその直前、白亜のエントランスホールに響く何者かの声。バゼットのものでも、リーゼリットのものでもない、皺枯れた男の声。

「動くでないぞアインツベルンの侍従よ。動けばお主の主人の首を手折るとしよう」

「っ…………!?」

 その男は、いつの間にかそこにいた。バゼットが吹き飛ばしたイリヤスフィールの傍。倒れ込んだ少女の首下に、筋張った手を掛けた状態で。
 リーゼリットの動きが止まる。膝を屈したバゼットへと迫りに、今まさに断頭の刃を振り下ろさんとしていた女の手が、止まった。

「…………マトウ、ゾウケン」

 振り上げていたハルバードを地に落とし、階下へと退いたリーゼリットがその名を呟く。

 その名はバゼットも聞き覚えがあった。協会でも要注意人物の一人と目される、五百年を生きる老獪。間桐家の現当主。
 そしてバゼットの与り知らない事ではあるが、このアインツベルンと間桐の間の協定を持ちかけた人物でもある。

「……何故、邪魔をするの……?」

 両家の間には一時的な同盟が結ばれている。そんな状態で、敵であるバゼットを助けるばかりかイリヤスフィールを手にかけるような真似をするなど理解が及ばない。
 戦闘能力の向上と引き換えに知性の幾らかを犠牲にしたリーゼリットからすれば、その疑問は当然のもの。常人どころかバゼットさえも困惑する状況に純粋なまでの疑問を投げ入れる。

「何故……か。ふむ……端的に答えるのなら、そう……これが儂にとって最も都合が良い状況だから、かの」

「…………」

 リーゼリットは勿論、バゼットにも理解不能。何がどう都合が良いのか、どんな思惑をその脳裏に描いているのか、その落ち窪んだ瞳からは何一つ読み取れない。
 この男が姿を見せた理由も、同盟相手を裏切るような真似をしている理由も、誰にも理解など出来る筈もない。

「何が……目的です、間桐臓硯」

 喉奥から迫り出す血塊を拭い、荒い呼吸を吐きながら、僅かながら回復を始めた身体を押してバゼットは問い質す。

「イリヤスフィールが……本当に今回の、……っ聖杯の器であるのなら、手の内に収める意味もあるでしょう。だが……それは、私を助ける理由にはならない」

 イリヤスフィールが目的であるのなら、リーゼリットがバゼットの首を刎ね飛ばした後に姿を見せれば済んだ筈だ。あのタイミング、神懸り的な間隙を狙ったのは、バゼットを生かす意思がなければ有り得ない。

「そんなにも死にたかったか、赤枝の女騎士よ。お主が生き延びたのは偶然でも奇跡でもない。イリヤスフィールが急所を外しておらなんだら、お主は儂が介入する間もなく死んでおったであろうよ」

 心臓を抉った一本の針。意識的にか無意識的にか、イリヤスフィールはその芯を僅かに外した。それでもバゼットが魔術師でなければ、その身に刻んでいた防御用のルーンの守護がなければ死んでいた程の傷であったが、命の糸は千切れる事なく繋がれていた。

 一瞬の間隙を衝いた致死にも至る一刺し。もし貫かれると同時に意識を手離していれば文字通りに死んでいた筈の命。繋ぎ止めたのはバゼットの生に対する執着だ。

「カカ、やり口は父親に似て悪辣だが、詰めが甘いの。いや、父親ほど冷酷にはなれなんだというところか。いずれにせよその拾った命、大事にするがよい」

「っ……、貴方は私の質問に答えていない……! 何故だッ、何故私を助ける……!?」

「二度同じ事を口にするのは好かんがの。その方が都合が良い──ただそれだけよ。そして覚えておくが良い。お主は、儂に生かされたのだとな」

「…………ッ!」

 ぎょろりと、黒い汚泥のような瞳がバゼットを見る。ぞわりと背筋を走る寒気。単純な戦闘力で比較するのなら、万全でさえあればバゼットの方が勝るだろう。だがこの男からは得体の知れない怖気を感じる。

 サーヴァントとマスターの集う死の森の中、唯一部外の人間が紛れ込んでなお己にとって都合の良い状況を演出する妖怪。
 この男は恐らく、バゼットや他の参加者連中とは違うものを見ている。あるいはその先にあるもの、見通せない闇の奥を。

「さて、早々に退かせて貰おうか。いつ誰が襲い掛かってくるともしれんのでな」

 背を折った姿でありながら、間桐臓硯はイリヤスフィールを小脇に抱えて一歩退く。リーゼリットは動けない。主の命が握られている以上、迂闊には動けない。バゼットも当然完治には程遠い。今抗ったところで幼子のようにあしらわれるだろう。

 仮に体力が戻ったところで、バゼットにはイリヤスフィールを助ける理由がない。臓硯の言動から確かにイリヤスフィールと聖杯の器に関連性があるようだが、その確保は今でなくとも良い。

 酷なようだが、バゼットにとってみればイリヤスフィールもまた斃すべき敵の一人。命を賭して助け出すだけの理由は、何処を探しても見当たらない。

「アインツベルンの侍従よ、そこな女騎士は殺すでないぞ。それと衛宮切嗣に伝えておくがいい。イリヤスフィールの無事は保障すると。お主らが、余計な事をしなければな」

 闇に没する廊下の奥へと消えていく臓硯とイリヤスフィール。この場にいる誰にも、その撤退を妨げる事は出来なかった。

「…………」

 臓硯がその姿を完全に消した後、バゼットはゆらりと立ち上がった。傷は完全には癒えていないが、ある程度の行動を可能とする程度には回復出来た。まともな戦闘など望むべくもないが、このまま此処でいつまでも膝をついているわけにもいかない。

「……貴女は、どうするのですか」

 振り仰いだ先の階下には、感情の失せた瞳を虚空に泳がせる白い侍従が一人。守るべき主を守り通せなかった彼女の心は、如何なるものか。

「…………」

 リーゼリットは答えない。彼女の情報処理能力では、現状を打破するだけの決定が下せない。後を追うのは簡単だ。だがそうしたところで一体何が出来るという。
 臓硯の手中にイリヤスフィールが落ちた時点で、既に敗北は決定付けられていた。追い縋ったところで人質を盾にされては何を救う事も叶わない。

 これは彼女の落ち度ではない。リーゼリットは主の意思に従い主の敵を討とうとした。不測があったとすれば臓硯の動きを読み切れなかった事。同盟者の裏切りを予測出来なかったアインツベルンのマスター達にこそ非があろう。

 今もって姿を見せない衛宮切嗣。あの男が今何処で何をしているかなど、この場にいる二人には知る由もない。

「…………」

 動きのない侍従から視線を切り、バゼットは呼吸を整える。血に染まったスーツの乱れを正し、これからの行動を思考する。

 バゼットの目的は失敗に終わった、キャスターのマスターであるイリヤスフィールを討つという目的は果たす事が出来なくなった。

 まともな戦闘力さえも失った己は、戦場において足手纏いにしかならないと正しく把握している。自身の現状をも鑑みるのなら、此処は撤退こそが最善だ。
 いずれにせよランサーかモードレッドとの合流を急ぎたい。森の入り口付近に残してきたモードレッドよりも、ランサーの方が位置的には近いだろう。

 まだ走れるだけの体力は戻っていない。それでも緩やかに歩み出そうとしたその時──

「痛ッ……!?」

 突如、右腕に走った鋭い痛み。脳髄へと突き抜ける正体不明の痛みに一瞬怯んだバゼットが、その正体を探ろうと革手袋を外したその手の甲には、

「────なっ」

 そこに描かれているべき赤い紋様が、彼女と彼を繋ぐ唯一の令呪が、バゼットの身体から完全に消失していた。

「……ランサーッ!?」

 バゼットは震える足を叱咤し階下へと走る。軋む心臓に鞭を打ち、頽れそうな膝を強引に前へと進ませる。

 令呪が失われた意味。
 消えてしまった理由。

 幾らでも推測が出来、想像が出来る可能性の全てをシャットアウトしバゼットは森へと向かう。

 何かの間違いであって欲しいと。
 そんな筈があるわけがないと。

 そんな──絶望的な希望だけを、血に濡れた胸に抱いて。



+++


 地を覆い尽くす化外。肉のない骸と足の生えた樹木。戦場となった広場を埋め尽くす雑兵の群れ。世に名を連ねる英霊にとってみれば物の数でもないそれだが、

「チィ──! おい、テメェなんとか出来ねえのかッ!」

 朱色の槍が夜の闇と霧を横薙ぎに払う。力任せに放たれたその一撃で、十の骸と一の巨木が夜に散った。

 一瞬後には開いた空間は即座に別の化外が埋め尽くす。森の彼方より押し寄せる木と骨の大軍。十や二十ならば問題にならない。百や二百でもどうとでもなる。だがそれが千や万に上れば、さしもの英雄達とて苦戦を強いられる。

「泣き言を言う暇があるのなら一体でも多く敵を倒せ。そら、次が来るぞ……!」

 弓兵でありながら両の手で双剣を担い、迫り来る大軍を押し留めるアーチャー。既に戦いが始まってどれくらいの時間が経過したか、どれだけの敵を切り倒したか、そんなものはランサーもアーチャーも覚えていない。

 数えるのも馬鹿らしい数の敵を屠り、襲い来る敵の打倒のみに専心する。結果、ただの一撃たりとも致命傷を負う事なく善戦している。しているように見える。

 見通せない森の奥の何処かで量産されている骸の兵士が、暗闇の中から次から次へと現われ、樹精もまた、骸ほどの数はなくともその巨大さで視界を遮りうねる蔦が鞭のように襲い来る。

 倒せど倒せど尽きる事のない悪性。まるで切った端から増殖するアメーバのよう。
 何よりも過酷なのは、終わりの見えないこの戦いそのもの。体力が尽きるよりも先に精神が参る。

 どれだけの敵を倒せば終わりが来るのか。
 そもそもこの敵は本当に尽きるのか? 

 そんな疑問と戦いながら、ただひたすらに二人は剣と槍を振るい続ける。

「ふふ……」

 その遥か頭上、星の天幕に腰掛けた魔女は一人、妖艶に微笑み、終わりのない戦いを強いられている剣闘士を眺めている。

 そもそも魔女にはこの戦いを終わらせるつもりなど更々なかった。安価な竜牙兵と、結界の力とその内に満ちる魔力で動員可能な樹精を用いた消耗戦。

 アーチャーやランサーが何を仕掛けようと思っても、頭上を制圧している以上は即座に反応が出来る。たとえ宝具に訴えようとしても、それをさせまいと魔力弾の雨をいつでも撃てるよう砲身に弾は装填している。

 事実、現状を打破しようとして眼下の二人が動いたのは一度や二度ではない。その度にキャスターは致死にも至る魔力弾を浴びせ、そしてこの戦場には、もう一人の英霊が存在している。

 キャスターの行動に呼応するだけでなく、不規則に襲い掛かってくる間桐桜の従えているライダー。紫紺の髪を夜に靡かせ、まるで蛇のように骨と木の大海をすり抜け、手にする釘と鎖で結ばれた奇怪な短剣を、広場の中心で踊る二人に繰り出す。

 その一撃は凡庸で、対処の難しいものではない。問題は、いつ仕掛けてくるのかまるで分からず、身動きの取れない二人と比べてて変幻自在に襲い掛かってくる事。
 そしてヒットアンドアウェイでの一撃離脱を戦法としており、深追いの出来ないこの状況では一方的にされるがままであり、厄介な事この上なかった。

 更にはライダーの素性や能力は未だ不明。魔眼の保有者である可能性が極めて高いが、戦端が切られてから一度としてその眼帯の奥に輝く瞳は月の下に晒されていない。
 能力の分からない相手に不用意には仕掛けられない。数を減らさない雑兵と魔女の目もある事から、槍兵も弓兵も頭上に居座る魔女の掌で踊る事を余儀なくされていた。

「────おい、このままじゃ埒があかねぇ」

 とはいえ、いつまでもこうしているわけにはいかない。森の入り口でセイバーとバーサーカーを抑えている二人や、奥へと進んだマスター達が敵を打倒し加勢に来てくれるのを期待するのは柄じゃない。

 此処は二人に任されたのだ。であれば、現状を打破しキャスターを討つのは彼らの手でなければならない。

「雑魚(した)はやるから魔女(うえ)をやれって言ったら、出来るかアーチャー」

「…………」

 一帯の敵をとりあえず排除し、広場の中央で背中合わせに武器を構える赤と青。包囲網はすぐさま狭まり、数秒もすればまた骸と木を相手に消耗を強いられるばかりの無駄な戦いをしなければならない。
 これはその間隙。十秒にも満たない時間に開かれた、たった二人の作戦会議。

 これまで仕掛けようとして失敗に終わった原因の一つに、それぞれが個々に包囲を突破しようとした事がある。
 足並みの揃わない状態での強行策は、曲がりなりにも連携しこちらの足と手を止めに来るキャスターとライダーの前に敗れ去った。

 アーチャーとランサーは互いをこの一戦、敵視してはいないまでも、完全に背を預け合う事をしていない。無意識の反発。反りが合わない。それほど面識があるわけでもない二人だが、互いが互いをやり辛い相手だと認識している。

 それゆえの不揃い。自らの力に対する自負もあるのだろうが、背を預ける相手に信頼を置かぬ状態ではこの包囲を突破する事は出来ないと、そう結論に至るにはそれほど時間は掛からなかった。

「……逆だ。私が雑魚を相手取る。君はキャスターを狙え」

 ランサーにしてみれば、遠距離狙撃を可能とするアーチャーの方が天に居座る魔女を撃ち落としやすいと思いそう提案したつもりだったが、僅か数秒の黙考の後、アーチャーが弾き出した回答は真逆のものだった。

「へっ──そうかい。じゃあ雑魚の相手は任せるとすらぁ…………!!」

 ランサーはアーチャーの能力を認めている。真っ当にやり合えば自分が勝つのは揺ぎ無いと見ているが、この弓兵を単純な戦闘力で測るのは間違いだ。
 足りない力を知恵で補い、積み上げた研鑽で以って覆す。端的に言って、戦のやり方が巧い。どんな修羅場を潜り抜けてきたのかは知らないが、相当に場数をこなしているのは見て取れる。

 そんな男が現状を打破する上で最善のプロセスを最短で弾き出したのだ。ならば後は己自身をただ一振りの槍に変え、目標を貫く事だけに集中すればいい。

 会議の終わりと共に襲い来る骸の群れ。それを薙ぎ払い、その勢いで地に円陣を描く。陣に記されたのは神代のルーン文字。描かれた魔法陣は淡く発光し、小規模の結界として成立する。

 アーチャーを信用していないわけではないが、キャスターの妨害やライダーの横槍を防ぐ為の守護結界。そう長く保つ代物ではないが、アーチャーの加勢もあれば宝具を解放する時間程度は稼げる。

 そう思い、やおら槍を構えようとしたその時────

「ッ────!?」

 全身を駆け抜ける一筋の電撃。
 耳の内側で轟々と鳴り響く警報。

 レイラインで結ばれた先から送られてくるその火急を告げるシグナルは、マスターの身に異常が起きた事を告げるサイン。

 魔力線で結ばれたマスターとサーヴァントは、ある程度の距離内であれば互いの位置を知覚する事が出来る。
 今、ランサーに降り注いだシグナルはその最上級。マスターの身に死の危険が迫った時のみ奔る、距離の概念を無視した第六感。虫の報せとも呼べるもの。

“バゼット、まさか──!”

 最早予感を超え確信となってランサーは思い知る。森の奥へと向かったバゼットの身に危機が迫っていると。一秒でも早く主の下に馳せ参じなければ、取り返しのつかない事態になると。

「おおおおおおおおおおおおおおおおっ……!!」

「っ──ランサー……!?」

 裂帛の気迫を放ち地に身体を沈める青き豹。しなやかなバネを誇る四肢を四足動物の如く撓らせ、構えられた槍は穂先は大地を削り、獣の眼光は空に居座る怨敵を睨む。

 遅れて、雑兵の始末に追われていたアーチャーがランサーの異変に気付く。

「チィ……!」

 既にスタートを待つスプリンターのように宝具を放つ姿勢に移行したランサーを押し留める術はアーチャーにはない。であれば、いま己に出来る最善手を模索し、一秒の後に実行に移す。

「────投影(トレース)……!」

 瞬間、広場の上空に現われたのは無数の剣群。洋の東西を問わず、刃先を地に向けた剣の群れが、主の号砲に従い雨となって刹那の内に降り注ぐ。

 地を埋め尽くす骨の大軍が砕け散る。小気味の良い音を立て、竜の牙で形作られた兵士がその身体を切り刻まれ塵となって消えていく。樹精はその蠢く足を縫い止められ、振るう枝をこそぎ落されて行く。

 一瞬の内にして広場に犇いていた雑兵共は沈黙した。森の奥には未だ幾千もの竜牙兵が待機しているのだろうが、彼らが広場を埋め尽くすまでには数秒の猶予がある。

 邪魔者は消えた。これで心置きなくランサーはキャスターを狙い穿てる──そう楽観する事はまだ、許されない。

 砕け散った骨の残骸、霧に霞む塵の向こうに、立ち尽くす黒と紫紺の女を見る。鋼の森の奥──傷を負った様子のない女は、片手には釘のような短剣を、そして残る片腕は封じられた眼帯へとその指を掛けていた。

 アーチャーが次の一手を仕掛ける寸前、届かぬ刹那の間に、遂にその瞳は開かれた。

 水晶のような眼球。
 四角い瞳孔。
 虹彩は凝固している。
 億にいたる網膜の細胞はその悉くが第六架空要素(エーテル)で出来ている。

 その色のない瞳で見つめられた時──否、その瞳が世界を見つめた時、全ての生物はその活動を止めた。

「ぐっ……!?」

 不意に身体へと圧し掛かる重圧。抵抗(レジスト)を無為にする強制力。見るもの全てを、視界に納めた全てのものを石へと変える、黄金をも凌駕する宝石と呼ばれし魔眼。
 神代の怪異──メドゥーサがその身に宿したとされる悪魔の瞳が、今現代へと蘇り古の英雄達へと再び牙を剥く。

 アーチャーとランサーの身を襲う重圧。低ランクの魔力値の者ならば即座に石へと変えられているところだが、ランサーは敷いたルーンの結界で、アーチャーは弓兵にしては高い魔力値のお陰で判定を逃れ、二人は石化するには至らなかった。

 とはいえ、瞳に睨まれてから身を苛む重圧は消えてくれない。メドゥーサの魔眼は石化を逃れた者をさえ捕らえ、その動きを低下させる。

 そして魔眼が開かれたの同時、多重展開された魔法陣が一面の夜空を埋め尽くし、装填された魔力弾がレーザーの如き照射を開始した。

 降り注ぐ光の雨。突き立つ剣の森を蹂躙する一斉掃射。こと此処に至りライダーもまた打って出る。手にした釘剣を投擲し、鎖は蛇のようにうねり夜を渡る。

 それを防ぎ止めるのは弓兵の双剣。その身を襲う重圧に耐えながら、ライダーの横合いからの攻撃とキャスターによる頭上よりの掃射の両方を捌き、弾き、いなし、迎撃する。

 宝具解放の体勢に入ったランサーを、庇うかのように。

「“突き穿つ(ゲイ)────”」

 それを知ってか知らずか、あるいは全幅の信頼を預けてか、ランサーは手にした魔槍の真名を紐解く。

 ルーンの守護陣は弓兵の迎撃を抜けてくる魔力弾を防ぎ、魔眼の重圧をすら和らげる。ましてや彼は随一の英雄。怪物退治は幾度となく経験している。相手が魔に属する者であれば臆するにあたわない。

 怪物殺しは英雄の誇り(サガ)であり代名詞(サーガ)。人々を守る英雄が、人々を食らう怪物の前に敗れ去る事など有り得ない。

 目標はあくまで頭上の魔女。月を背に妖しげな口元を湛える森の主。

 大気より魔力を食らい発動の糧とする魔槍。この森の支配者はキャスター。であるのなら当然、森に満ちる魔力もまた魔女の思いのまま。掠め取った魔力は、通常時より遅れてではあるが槍に満ち、必要充分に達している。

 たとえこの一撃を外そうとも、キャスターの意識を逸らす事が出来ればバゼットの下へと辿り着ける。

 守るべき主を見捨てて手に入れる戦果に意味などあろうか。キャスター討伐は大目的であれど、その為にマスターを犠牲にしては本末転倒もいいところだ。

 そして何より、恐れる事など必要ない。彼の手の中で貪欲に魔力を貪り、拍動を刻む魔槍こそは、一度放てば心臓を必ず貫くと言われた名高き槍。王を打ち倒す王の槍。

 キャスターを斃し、バゼットを助ける──この一撃は、そんな不可能を可能とする……

「────ようやく隙をみせたわね」

 残る一節を謳い上げ、空に向けて槍を放てば全てが決する瞬間。引き絞った槍が今まさに放たれんとしたその、刹那。
 天を見上げていたランサーの視界から魔女が掻き消える。何の前触れもなく、それこそ幻か何かのように。

「…………ッ!?」

 気配を察し視線を後方に流したその時、そこにあったのは紫紺のローブ。目深に被ったフードの奥で、三日月に嗤う魔女の姿。

 敵が必殺を期した一撃を今まさに放たんとし、意識の全てが一点に集中する間隙を狙った空間転移。転移先も逃亡を狙っての後退ではなく、首を刈る為の接近。これまで一度として敵の接近を許さず、接近を行わなかった魔女が打った秘の一手。

 その手には、奇怪な形をした短刀が握られており────

「“破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)”」

 既に宝具を放つ体勢に入っていたランサーは、予期し得なかった魔女の間近への転移に対応する術はなく。
 石化の魔眼(キュベレイ)の重圧と魔力弾、ライダーの迎撃に手を割かなければならなかったアーチャーが介入を行う隙などある筈もなく。

 魔女の手にした折れ曲がった短刀は、滑らかにランサーの背へと突き立てられた。

 一度放てば心臓を穿つ槍──ランサーの手にしたその槍は、放つ事さえ許されず、夜の中で沈黙した。



+++


 空から降り注ぐ魔力弾の爆撃は止み、大地を覆うのは巻き上げられた砂塵。夜の黒と霧の白に混じり、視界不良に拍車を掛ける。

 そんな中、その光景だけは誰からも見えていた。射竦めるように見つめた先──青い背中に突き立てられた、魔女の短剣。

 魔女の短剣には殺傷能力などない。奇怪な形、折れ曲がった刀身。稲妻の形を描いたそれは、少し力を込めれば折れてしまいそうなほど脆く見える。
 折れこそしなかったが、ランサーの背に差し込まれたのは刃先だけ。心臓を刈り取るほどの威力など当然にしてある筈もなく、事実毛ほどの傷しかランサーは付けられていない。

 だが、それだけでこの戦場の空気が一変した。何が変わったわけでもない。戦闘の痕跡こそ無数に点在しているが、異常と呼べる異常は、誰の目にも映ってはいない。

「テメェ……何をした?」

 その中で唯一、刺されたランサーだけがいち早く異常を感じ取る。先程までの鳴り響いていた警告音、マスターの窮地を告げるシグナルが刺された直後に鳴り止んだ。
 そして己の身体に流れ込む魔力の源流が変化している。遠く、微かに感じ取れていたバゼットの気配を察する事は出来ず、代わりに、充溢する魔力を槍兵の身体に注ぎ込むのは、彼の背に立つ魔女に他ならない。

「簡単な事よ……貴方の契約、それそのものを破戒させて貰っただけ」

 魔女の短剣は、ランサーの肉体を斬り裂いたのではなく──彼とそのマスターを繋いでいた契約を断ち切り、新たに自分自身へとその矛先を塗り替えた。

 神代に生きた裏切りの魔女。人々の望むままの魔女を、その生涯演じ続けた非業の王女の生涯を具現化した裏切りと否定の剣。
 ありとあらゆる魔を破戒する、彼女にこそ相応しき契約破りの短剣だ。

「貴方はこれで私のもの。さあランサー、まずはあの目障りな男を排除なさい」

 魔女の言葉は重くランサーを縛り付ける。

 身を縛る言葉の重圧。新たなマスターとなったキャスターの言葉はランサーの言動を縛り付ける。

 サーヴァントがサーヴァントを従えるという、本来ならば有り得ない契約。それを可能とするのはキャスターが魔術師のクラスの英霊だからであり、そしてただの言葉だけで重い戒めを施せるのは、彼女が規格外の魔術師であるからに他ならない。

 ただの魔術師と比して、彼女の言葉は重みが違う。神代の言葉をも謳うその唇から放たれる一言一言は、それぞれが鎖となって従者を締め上げる。

「そいつぁ……聞けない相談だな」

 ただこの男が、そんなものに屈する筈はない。確かに下手を打った。まさか契約を破られるばかりか主まで変えられるとは予想だにしなかった。
 ああ、認めよう。この己は魔女の策の前に敗れ去ったのだと。守るべき主の下へと参じる事も叶わぬ愚か者だと。

「マスター面してオレを顎で使おうなんざ許せるわけがねぇだろう……!」

 だからと言って、新しい主の命令にはい、そうですかと頷いてやるわけがない。契約は結ばれただろう。主に従う義務もあるだろう。
 しかしそんな建前で、この男の誇りを折れるものか。頭は垂れても尻尾は振らない。それがせめてもの意地というものだ。

「そう、なら令呪を以って命じるわ──私に従いなさい」

 魔女の手の甲に輝くのは赤い二画の紋様。バゼットの手に輝いていた筈の剣の形を模した令呪が、キャスターの手の中で輝きを灯している。
 そして謳い上げられた文言。絶対遵守の命令は、より強力な縛鎖となってランサーを羽交い絞めにする。

「ぐっ……!」

 令呪の強制力に耐えられる程の対魔力の持ち主など、サーヴァントの中でもセイバーのクラスくらいのものだ。
 ましてやマスターがキャスターであるとすれば、最高位の対魔力持ちでなければ抗う事すらも許されない。

 どれだけ抵抗の意思を滲ませようと、身体は脳の命令を無視して勝手に動く。魔女を穿つ筈の槍は、赤き弓兵の心臓へとその矛先を向けた。

「ふん……似合いの末路だなランサー。こうも容易く鞍替えを受け入れるとは、所詮犬は犬か」

「…………ッ」

 アーチャーの軽口にランサーは応えない。ランサーの誇りを侮辱するも当然の挑発を受けてなお、青き槍兵はただ静かに刃を軋ませるだけ。
 ただ、その瞳に込められた感情は、視線に乗せられた憎悪は、果たして誰に向けられたものか。唇から血を流すほどに歯を噛んで耐えているのは、ただの屈辱ではない事を、アーチャーは知っている。

「さあ、終わりよアーチャー。後は貴方を斃せば趨勢は決する」

 赤い騎士にとって、状況は最悪の四面楚歌。
 広場を埋め尽くし始めた雑兵。
 上空へと舞い上がった魔女。
 石化の重圧は緩まず、手にした釘剣の鎖をじゃらじゃらと打ち鳴らすライダー。

 そして眼前には朱色の槍を担う、たった数瞬前まで肩を並べて戦った男の姿がある。

「────体は剣で出来ている(I am the bone of my sword)……」

 アーチャーが詠唱を始めた瞬間、キャスターの魔力弾が空より放たれ、ライダーは釘剣を投擲し、ランサーは地を蹴った。

 赤い弓兵の謳い上げた言葉こそ、彼自身を現す呪文。■■■■■■の、本質を体現するたった一つの言葉。
 その身は剣。無限の剣を内包する、たった一振りの剣。その骨子が捻れ狂おうとも、その身は大地に突き立ち、天を目指して屹立する。

 たとえそこが死地であろうとも────彼が、己の在り方を違える事など有り得ない。

 刹那の後、顕現したのは無数の剣。先の爆撃にも匹敵する、古今東西ありとあらゆる剣と呼ばれし業物達が、威風を纏いその刀身で月明かりを照り返す。
 同時に具現化するのは一枚の盾。花弁にも似た形を持つ三枚羽の盾だった。練成の速度を重視した結果、その盾は本来の性能から大きく劣化している。

 ただアーチャーの目的を鑑みれば、それで必要充分だという判断だった。

 生み出された盾はランサーの進路を遮り、降り注ぐ光弾をその身で弾く。無数の剣はその矛先を定めぬままに地へと降り注ぎ、雑兵を蹴散らしライダーとランサーの足を一瞬だけ、しかし確実に止めた。

 剣と盾が生んだ一瞬の間。瞬きの後には盾は容易く破られ、剣はただ行く手を遮るだけの障害になるだろう。
 しかしアーチャーは、この一瞬だけを手に入れられればそれで充分だった。

 不意に、広場に爆炎が巻き上がる。大地に突き立てられた無数の剣──その内の一本が自壊し、その身に秘めた神秘を拡散し爆発となって解き放たれたのだ。

「なっ……」

 その規模は広場の半分を覆い尽くすもの。剣に込められていた神秘の量は、並の宝具にも匹敵している。
 それは壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)と称されるもの。英霊が手にする半身、宝具を自壊させ一度限りの破壊を撒き散らす不可逆の幻想。

 アーチャーはそれを無作為に行った。突き立った剣の数は優に三十を超え、連鎖的にその内の幾本かを爆破させていった。

 広場を覆う白煙。英霊とて直撃を被ればただでは済まない幻想の崩壊の連続行使。ただでさえ視界の悪い森の中、燃え盛る炎と立ち昇る煙は一帯を覆い尽くし、アーチャーへの追撃など、当然にして三者には不可能なものだった。

 そして白煙が晴れた先。未だ地を走る炎と、爆破を免れた幾本かの剣が突き立つ広場の中に、

「鮮やかな引き際ね。スマートではないけれど、してやられたわ」

 アーチャーの姿だけが、忽然と掻き消えていた。

 地を眇める魔女の瞳には、鈍い輝きを放つ剣が突き立っている。宝具にも匹敵する剣群を無数に持ち、躊躇なく破壊してのけるその異常。
 今もって名の知れぬ錬鉄の英霊。その正体に、キャスターは少し惹かれるものを見た。

“手に入れるのなら、あっちの方が面白そうだったかしら”

 後の祭りだが、くすりと魔女は微笑んだ。

 アーチャーの追跡など簡単な事。この森は魔女の庭。今までこそ己が目的を達成する為に細心の注意を払い、眼下の戦場に意識を傾けていたが、その気になれば森の中の全てを手に取るように把握出来る。

 ともあれ、アーチャーが巻き起こした爆発は彼自身をも巻き込んで行われた。それがゆえに不意を打たれたが、あの男も間抜けではない。致命的な手傷を負ってなくとも、少なくはない傷をその身に受けたと考えられる。

 ランサーを強奪した事でアインツベルンと間桐の側に戦力の天秤は傾いた。押し切るのなら今。足場の優位もあるこの森で決着をつけるべきだ。

「…………サクラッ!?」

 不意に、眼帯で再び石化の瞳を覆ったライダーが振り仰ぐ。鮮やかな紫紺の髪が揺れ、彼女は弾かれたように森の中へと消えていく。

 それは恐らく、ランサーと同じく主の窮地を察してのもの。魔女の瞳には、地に這い蹲らされた間桐桜の姿が見えている。少女の軋む頭蓋に足を掛けているのは遠坂凛。冷徹な魔女の姿。

 アーチャーが逃亡を図った先は恐らく凛の下だろう。ランサーが奪われた以上、戦力差は明確で、真っ当なやり方では勝利は掴めない。
 どのような選択を行うにしろ、マスターとの合流を図るのは妥当だろう。

「ランサー、貴方はアーチャーを追いなさい」

「…………」

 青の槍兵は応えず、視線を上げて魔女を一睨みした後、軽やかな跳躍で森の奥へと消えていく。

「さて……と」

 とりあえず第一目標を達成した魔女は、今一度森を俯瞰する。

 既に森の入り口で行われていた円卓の騎士達の戦いは終結し、セイバーはこちらへと向かっている。間桐と遠坂の戦いも、終わりは近い。後は────

「…………ッ!?」

 その時、魔女が捉えた映像は、彼女の想定外のものだった。それは事前に立てた作戦を覆すもの。あってはならない異常だった。

「何を考えているの、あの男は……!」

 常に妖しげな笑みを湛えていた魔女の口元が歪む。振り仰いだ先、遥か後方──森の中心より更にその向こう。
 魔女がその瞳で見たものは、同盟者たる間桐臓硯によって、連れ攫われていく己がマスターの姿だった。



[36131] scene.13 遠い背中
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/05/16 00:32
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 夜に燃え盛る紅蓮の炎。
 闇を飛翔する黒き甲虫。

 遠坂時臣と間桐雁夜の戦場となった空間は、他者の入り込むの余地のない死地へと変貌していた。

 地を走る炎の波は足の踏み場を失くすほど燃え広がり、水気の防御膜でその身を覆った数百、数千の蟲の群れは、森に現界した炎の海を渡り、敵手たる時臣の首を刈り取らんと鋭利な牙を逆向ける。

 炎に対する適性を獲得した雁夜の蟲を炎術で焼き尽くすのは至難を極めた。雁夜の十年の集大成として結実した対時臣用の甲虫。鋼鉄の弾丸をすら容易く溶かし尽くす炎をすら、その蟲は意に介さず戦場を蹂躙する。

「チィ……!」

 よって時臣は、自身の資質から外れた魔術を以って蟲の迎撃を余儀なくされた。炎に対する適性を強化しすぎた弊害か、蟲は他の属性に対しては酷く脆い。
 時臣は掴み取ったエメラルドを、自身の魔術適性による炎として行使せず、鉱石の特性を利用し大気をすら切り裂く風の刃として振るい、襲い来た蟲の一団を殲滅した。

 その宝石の使い方は時臣に負担を強いる。娘の凛のような五代属性持ちならば宝石の力を損なう事なく最大限の行使が可能であるが、時臣のような単一属性しか持たない者が他の属性を操ろうというのなら、攻撃の選択肢は狭まり、消耗は倍加する。

 自らの腕に、これまで積み上げた研鑽に対する自負に揺るぎはない。だが、このまま消耗戦を強いられれば、敵に対する明確な策を用意していた雁夜に軍配が上がるのはそう遠くない未来にある結末だ。

「……正直なところ、驚きを隠せないな雁夜。たとえ十年の研鑽があろうとも、それよりも長く魔道を歩んで来た私に、こうまで匹敵出来るとはね」

 雁夜の周囲に滞空する未だ数百を下らない蟲の大群。蟲が炎に対する適性を有していようとも、雁夜自身はあくまでただの魔術師だ。地に走る炎に阻まれ、時臣に近付く事は叶わない。

 それゆえに両者は距離を保ったまま、戦闘が始まってからこれまで遠距離での攻防を繰り広げてきた。互いに決め手を欠いたまま、されど消耗の度合いで言えば、炎以外の属性を宿す宝石が確実に目減りしている時臣の方が大きいか。

「戦闘における汎用性を捨て、ただ私に対してのみ特化した蟲の精製と行使……ああ、その執念だけは認めよう。そんなにも君は、私が憎かったか」

「……当然だろう。俺の十年は、貴様を屈服させる為にあったも同然だからな」

「分からないな……なぜそうまで私を敵視する。そんなにも桜を間桐に送った事が気に食わないのか?」

「何度も言わせるなッ! あんな地獄の先に、彼女の望む幸福など有り得ない……! そんな地獄へと突き落とした貴様は、断罪されて当然だろうがッ!」

 魔術師として娘の才能の開花、それに伴う栄華ある人生を慮るのは、親としての当然の務めであると時臣は考えている。ただ生きているだけの、呼吸を刻んでいるだけの人生に一体どれほどの価値がある。

 だから時臣には雁夜の言葉が分からない。

「では君は私にどうすれば良かったというのかな。桜の才能を潰し、希少な魔術回路を徹底的に破壊し、ただ家族として接していれば良かったと? 魔道に生きる遠坂にあって、唯一人普通の人間として生かすべきだったとでも?」

「……少なくとも、桜ちゃんはそれを望んでいた筈だ。父と、母と……姉と。生まれた家で家族と共に暮らす事──そんな当たり前をあの娘は望み、願っていた筈だ」

 人としての幸福。当たり前に人が持ち得るもの。温かな陽だまりの中で、生きていければそれで良かった。
 魔道なんてものを継ぎたいと思っていないし、欲しいとも思っていなかった。桜が心から求めていたものは、そんな当たり前で──それを、父が奪い去ったのだ。

「それは家畜の生だよ、雁夜」

 娘の求めた当たり前の幸福を、父は一言で切って捨てた。

「ただ生きているだけの人間に価値などない。誰かに生かされているだけの人間に意味などない。
 安寧の中で肥えた豚のように生きて、一体何の意味と価値がある。与えられる幸福を貪る家畜を人間の生とは私は認めない」

 人生とは、苦難を積み上げその先にある栄光を目指すもの。始まりから全てを諦め放棄した生など、人が歩む道ではない。ただ生まれ、ただ生きて、ただ誰かから与えられるものだけで動いている人間を、本当に生きているとは言える筈がない。

「欲しいものがあるのなら、手にする為の努力をすれば良い。人は生まれを選べないが、生き方は選べるのだから。
 私は桜の未来を想い、道を提示した。それが不服であったのなら、自らの力で望むものを掴み取るべきだった」

 一拍を置き、時臣は続ける。

「今もって桜が間桐に居るのはあの娘がそう選択した結果だ。選ばない、というのも一つの選択。今を変える努力をしなかった桜に、どんな願いを心に想ったところで、現実にする事は叶わない」

 今よりも悪化する未来を恐れ、足を踏み出さなかった者に、微笑む女神など何処にもいない。栄冠が輝くのは、いつの世も足掻き続けた者の頭上だけだ。

「それは力ある者の結論だ。おまえには、足掻く事さえ許されない地獄がある事も、手を伸ばしてさえ掴めないものがある事を知らない」

「知っているとも。私とてただの凡夫。どれだけ足掻こうと、血反吐を吐くほどの研鑽を積もうと、届かない頂がある事を知っている。高みに指を掛けようとし、死ぬよりも悲惨な地獄を何度となく味わった。
 それでも私は諦めなかった。自身で叶わぬものであるのなら、我が子にその道を継いで欲しいと願い、形にした」

 凛の才能と力量は二十を前にして時臣を凌駕している。その為、時臣は遠坂の秘門たる魔術刻印を既に譲渡し、名目上の当主の座に甘んじている。道は何も一つではない。見方を変えれば幾らでも先は広がっている。

 そんな未来から目を逸らし、過去にナスタルジックな想いを抱き続ける者の想いなど、汲んでやる謂れなど何処にあるものか。

「家畜の安寧……ああ、結構だとも。だが我が遠坂の血を継いだ者に、そんな怠惰は許されない。欲しいものがあるのなら、必死に手を伸ばせ。自由を掴み取る為に、飢えた狼のように足掻き続けるべきだ」

 遠坂の家訓たる常に余裕を持って優雅たれ、という教えも、あくまで人の目のあるところでの話だ。その裏で流された血と涙を誰にも悟らせず、苦痛と悲鳴を押し殺して、威風を纏い生きるもの。

 それが遠坂の人間のあるべき姿。六代に渡り受け継がれてきた、彼らの魂だ。

「…………」

 雁夜は反論すべき言葉を口に出来ず、沈黙した。

 時臣の言葉は裏を返せば、桜が心から遠坂に帰りたかったのであれば、その為の努力を尽くすべきだったと言っている。奈落の底でただじっと身体を打つ鞭に耐えるのでなく、その地獄から這い上がるべきだったと。

 そうして桜が再び遠坂の門戸を叩くのであれば、その想いが真実時臣の眼鏡に適うものであったのならば、彼女が望んだ幸福を、失った筈の陽だまりを手にする事も出来たかもしれないのだと。

 それは、時臣なりの優しさなのかもしれない。千尋の谷から我が子を突き落とすも同然の所業だが、谷を這い上がる気概をすら見せぬ者を一顧だにしない冷酷さはあれど、谷を這い上がってきた者を蹴落とすほどこの男は狂ってはいない。

 桜は前者。谷の底で、じっと助けが来るのを待つばかりだった獅子。自らが持つ爪を、岩壁にすら突き立てなかったからこその今なのだと。

 ただ、それでも。

「やっぱり俺には、おまえが理解出来ないよ時臣。子を持たない俺に、親の心は分からないが、おまえのそれが正しいとは思えない。
 悲しみに暮れる娘を前にしてなお揺るがぬおまえが、絶望に沈む我が子の現状を知ってなお見過ごす貴様は──どうしようもなく魔術師だ」

 間桐雁夜が心底から嫌うもの。父であり祖父でもある、間桐臓硯と同じ生き物。腐臭を放ち世界の裏側を生きる、この世で最もおぞましい生き物。

「甚だ不本意だが今は君もその魔術師だろうに。私に抗する為、桜の現状を変える為に、君は一度は逃げ出した魔道と向き合ったのだろう?」

「間違えるな時臣。俺は確かに魔道を背負うと覚悟したが────俺はただの人間だ」

 少女の涙を救う為。今一度陽だまりへと連れ戻す為。あの頃──母と姉に囲まれて、無邪気に笑っていたあの頃の彼女に、もう一度あの笑顔を見せて欲しいから。

「俺をおまえらみたいな薄汚い魔術師と一緒にしないでくれ。俺が心に誓った約束を、おまえ達の欲望と同列に語ってくれるなッ……!」

 沸き立つ甲虫。空を走る黒の一団。煌く炎の海を渡り、ステッキを構えた時臣の首を目掛けて襲い掛かる。

「我らの宿願……聖杯による根源への到達。それを薄汚いと、浅ましいと罵るのであれば──」

 荒れ狂う風の刃が蟲を蹂躙する。吹き荒ぶ風は地を走る炎の勢いを増し、陽炎と夜を染める。

「──命を賭けろ。ただ人の身で魔術師の闘争に挑むのであれば、命くらい賭けずに勝利を掴む事など不可能だ」

「貴様に言われるまでもなく、俺は十年前からこの命を賭しているッ──!」

 この命はただ、あの子の為に。

 その想いが何処から湧き出たものかなどと、振り返る暇もなく、ただずっと走り続けてきた。身を苛む苦痛に耐え続けてきた。
 全てはこの戦いに勝利する為。あの子の笑顔を取り戻す為。自らの命を擲って、間桐雁夜は聖杯の頂へとその手を伸ばす────

「…………が、ぁっ!?」

 不意に、水気を纏う甲虫を操作していた雁夜の顔が苦痛に歪む。

 それは常軌を逸した量の魔力が一度に吸い上げられた為に起こる激痛。人の生命力、原動力とも呼べる魔力を、何かが根こそぎ奪い取って行った。

「ッ──、バーサー、カー……」

 その消費量は狂える獣が王の為、真なる宝具を抜いた証。雁夜が己だけで賄い続ける魔力消費が、底を尽きかねない程の速度で奪われていく。

 雁夜は臓硯の提案を蹴っている。桜に負担を強いる事も、赤の他人を食い物にする事も嫌い、その背に全てを背負うと覚悟した。
 だって彼は人間だから。救うべき誰かに重荷を預ける事も、見知らぬ誰かを犠牲にする事も、人間である雁夜には許せない。そしてそんな事をして得た結果では、彼女が笑ってくれないと信じているから。

 とはいえ、その消費量は雁夜の想像を超えていた。今すぐ底を尽く事はなくとも、これではまともな戦闘など望むべくもない。
 バーサーカーが消えては意味がない。雁夜が死んでも意味がない。ならばやるべき事は唯一つ。

「そんなにも魔力が欲しいのならくれてやるさ……バーサーカー! この身に宿る令呪を一つ、おまえにくれてやる!」

 雁夜の右腕に灯る赤い光。三画ある令呪の一画が昇華され夜の闇に消えていく。令呪とはサーヴァントを縛る鎖であり、同時に強化をも為し得るブースター。
 雁夜はその小さな奇跡を純粋な魔力へと変換し、バーサーカーが消費する魔力を令呪の消費で賄ったのだ。

 たった三度しか使えない切り札。雁夜が最後までバーサーカーを御し切る為の鎖。その一画の消費を以って、戦闘の続行を可能とする程度の残存魔力量を確保した。

 ただ、今まさに彼がいるのはその戦闘の最中。こちらの立て直しを待ってくれるほど相手はお人好しではない。一時的に制御を失った蟲は時臣の繰る風の刃に微塵に裂かれ、雁夜が苦痛に顔をゆがめていた間に、次なる行動へと移っている。

「Intensive Einascherung(我が敵の火葬は苛烈なるべし)──」

 静かな声で謳われた呪文。これまで宝石で雁夜の繰り出す蟲を迎撃していた時臣が、手にしたステッキを振るい呼び起こす地獄の業火。
 紅蓮の腕は夜に逆巻き、その規模を大きくしていく。空へと向かって伸びた炎の腕は、一転地上への落下を開始し、雁夜をその顎門で飲み込まんと殺到する──

 その、直前。

「────っ、ぁ……」

 時臣の胸を背後から貫く銀の衝撃。意識の大半をこの戦場に傾けていた時臣の隙を衝いた狙撃。
 制御を失った炎が空中で四散し炎の雨となって降り注ぐ。それを雁夜は水気の鎧を持つ蟲を盾のように展開し防ぎ、目の前で起こった異常をより深く思考した。

 森の奥──見通せない闇と霧に覆われた遥か彼方。強化した視力で以ってしても捉え切れない程の距離の向こう。僅かに見えたのは鈍色の光。闇に浮かぶ黒鉄の銃口と、そこから立ち昇る白煙。

 そして梢に潜み、銃把を握る男の姿。

「衛宮、きりつぐ……」

 時臣が喉奥からせり上がった血が零れる事も厭わず、視線を傾けた先。姿を目視したわけではない。だが、こんな手段を講じる輩は奴をおいて他にいない。その確信が、時臣にその名を吐き出させた。



+++


「キャスターに、ランサーを奪われた?」

 アーチャーが語った彼がいた戦場での結末。魔女の短刀は背後から槍兵を刺し、その契約を破戒し新たにキャスターをマスターとして再構築された。

 とはいえ、そんな事態は流石の凛も想定していなかった。はぐれサーヴァントとマスターが契約するくらいはあるかもしれないと思っていたが、よもやサーヴァントがサーヴァントの契約を破り従えるなどと。

 だから凛がアーチャーの言葉をすぐさま理解出来なかった事に彼女の落ち度はない。足元でその頭蓋を踏みつける、かつて妹だった少女へと意識を傾けていた事もあり、直後に起こった異変に対応する事が出来なかったのはむしろ当然の帰結だった。

 金切り声のように響く破壊の音。森を揺るがす程の衝撃。遥か闇の奥より、超高速で迫る光の塊。並み居る木々を薙ぎ倒し、木っ端に変えながら、ソレは一秒の後に凛達のいる広場へと到達した。

「……凛ッ!」

 アーチャーが駆け出し手を伸ばす。瞬時に手の中に組み上げられたのは長柄の槍。刃先の根元を手で掴むように具現化し、直後、全力で以ってその槍は、柄を先端として凛へと向けて放たれた。

「…………っ!?」

 脳内に湧いた疑問と、足元の妹。そして僅かに目の端に映った光とアーチャーの奇行。その全てを一瞬にして同時に処理するのは凛をして困難を極め、結果、凛はアーチャーの繰り出した槍をその腹に受け吹き飛ばされ、直後、森を蹂躙した光の塊は、凛のいた場所をその暴威を以って蹂躙した。

「…………くっ、」

 木の幹へと強かに打ちつけられた凛。体内で作用させていた宝石の効果もあり、身体に大きな損傷こそないが、背を打った衝撃には顔を顰めざるを得なかった。
 凛の視界に映るのは巻き上がる粉塵と大地を抉り取った何かの跡。巨大な球体が地に接したまま長く引き摺られたような跡が、森の奥からこの広場まで伸びていた。

 ほどなくアーチャーが凛の下へと駆けつける。その手には双剣。木の根元に腰を下ろしたままの凛を庇い立つように、紅の従者は粉塵の向こうを見据えている。

 やがて晴れていく粉塵の向こうに、その正体を見る。白い翼を持つ一頭の馬。既にこの世界より姿を消した筈の幻想種。神話に語り継がれ、今なおその姿を数々の書物の中に残すその存在は────

「……天馬(ペガサス)」

 御伽の中の存在。天翔ける有翼馬。その背に手綱を握るライダーと、間桐桜を乗せて、天馬はその翼を夜に羽ばたかせる。

「…………」

 一瞬の沈黙。眼帯の奥に灯る瞳は何も語らず、ライダーは天馬の背を撫で、応えた天馬は踵を返すように夜の向こうへと消えていった。

 戦場に戻る静寂。斃すべき敵は戦場より姿を消した。凛に落ち度はない。落ち度があるとすれば、凛が刺そうとしたとどめを妨害したアーチャーにあるだろう。

 あの場で桜を亡き者にしていれば、最後の力を振り絞ったライダーとの戦いは避けられないものだったと思われるが、それでも一人のマスターを脱落に追い込む好機を逃したのは事実。凛の内心たるやどんな感情が渦巻いているか、分かったものではない。

「……言い訳はしない。叱責があるのなら後で聞こう。今はこの森を脱出すべきだ」

 戦いは既に佳境。戦力バランスも崩れている。このまま戦い続けてもじり貧になるのは目に見えている。キャスター討伐の目的を果たせなかったのは覆しようもない敗北だが、収穫がゼロだったわけではない。今は一旦退き、体勢を整えるべき時。

「……ええ、そうね。お父さまと合流を。それと──」

 立ち上がった凛が、森の奥へと視線を向ける。背にしたアーチャーにその視線を向けぬまま、

「助けてくれてありがと。ほら、急ぐわよ」

「…………」

 森の奥へと走り去っていくマスターの姿。その背を見つめ、アーチャーは呟く。

「凛……本当の君は、どちらなんだ」

 魔女の冷徹な仮面の隙間から、時々顔を覗かせるアーチャーの知る凛の表情と言葉。魔術師として完成した彼女は未だ、その心にかつての面影を残しているのか。それとも、それすらアーチャーを体良く利用する為の冷酷な判断なのか。

 アーチャーには凛の心が分からない。どちらが彼女にとっての仮面なのか、明確な判断が下せずにいる。

「……今は」

 そう、今は。この森を生きて脱出する事を優先する。死んでしまっては何も残らない。何をも為せぬまま、斃れる事を良しとは出来ないのだから。



+++


 森の遥か上空。地上よりも雲に近い高さで、その背に乗る二人を労わるように穏やかに天馬は滞空する。

「らい、だー……」

 決して広くはない天馬の背に横たえられた桜が、弱々しくその手を伸ばす。何をも掴めなかったその掌を、確かにライダーは掴み握る。

「申し訳ありません……サクラ。貴女を救うには、ああする他になかった」

 天馬の高速突進は、その風圧で桜の身を斬り裂いた。無論出来る限りの減速を行い、被害を最小限に留めるようライダーも配慮したが、桜の身体には明確なダメージとなって刻まれている。

 ライダーには一刻の猶予もなかった。凛の殺害の意思は本物で、それゆえに鳴り響いたシグナル。
 悠長に地を足で駆ける暇も、釘剣で敵の気を逸らす暇も、有り得なかった。己の持つ最高速を用いての奇襲。それ以外に、確実に桜を助ける方法を、ライダーは捻り出せなかったのだ。

「ううん……いい、よ。ありがとう、ライダー。私を、助けてくれて……」

 弱々しく、けれど優しげに桜は微笑む。桜もライダーの接近に気付き、直前に防護の盾を敷いていた。天馬の突撃に耐え得る程の強度など望むべくもなかったが、緩衝材程度の役割は果たしてくれた。

 身を襲った明確な死の恐怖。奈落の底でさえ感じた事のなかった、本物の殺意。それを桜に向けたのが実の姉であった事に、今更になって怖気が走る。
 自分の覚悟など甘っちょろいものだった。復讐だの殺すだの口にしながら、何処かでまだ救いの手が差し伸べられるんじゃないかと期待していた。

 幼かった日々の記憶。姉との約束。父の背中。母の微笑み。

 それが全部嘘だったのでないかと思うほどに、あの姉は怖かった。本当に、何かが間違っていれば、あの場で殺されていた。

 救いなんて何処にもないと知っていた。この十年で、嫌というほど思い知っていた筈なのに。

「…………っ」

 まだ何処かで期待していた己が愚かだった。絶望の底で見上げた、一筋の希望に夢を見ていた。
 伸ばした腕は何も掴めないどころか、逆にその手を払われた。希望の糸に縋った結果、待っていたのはより昏い絶望だった。

 父にも姉にも間桐桜は見捨てられた。落胆と殺意を以って、淡い期待は踏み躙られた。弱かった自分を今更後悔したところでもう遅い。嘆き悲しんだところで此処より底はないのだから。

 だったら────

 喉から零れそうになる嗚咽。眦を滑る雫。胸の奥底からせり上がる想いに、蓋をするように心の扉を閉ざして。

「ライダー、雁夜おじさんのところへ、お願い」

 軋む身体を起こし、ライダーの背に掴まる。

「サクラ……?」

 眼帯の奥の瞳を己の背にいるマスターへと向けるライダー。彼女がその目に見たものは。


/29


 穿たれた穴より零れ落ちていく血液。閉じる事のない空洞。衛宮切嗣の狙撃は、過たず遠坂時臣の心臓を撃ち貫いた。

「とき、おみ……?」

 斃すべき敵から流れていく命の証。口元を伝う赤色。苦悶に歪んだその表情が、何よりも雄弁に死の到来を告げている。

 雁夜にも、その光景が瞬時には理解出来なかった。だってそうだろう、雁夜の十年の研鑽はこの男を打倒する為のものだ。桜を救う為に、蟲蔵の底で血の涙を流し耐え抜いて手に入れたものだ。

 この身に刻んだ魔の薫陶で、時臣を斃す為だけに高みを目指し、組み上げ精練した我流の秘術で、娘を地獄の底へと追いやった悪鬼を地に這い蹲らせるのは、この──間桐雁夜の筈だったのに。

「がっ────……」

 装填された次弾。撃ち出された鋼の弾丸。夜の森の中、視界も悪く遮蔽物の覆いこの森の中ですら、魔術師殺しの照星に揺らぎはなく。撃ち出された二の弾丸は、時臣の脇腹に二つ目の風穴を開けた。

「あ、ああああああああああああああああああ……!!」

 雁夜の絶叫が木霊する。同時に、初撃で傾いでいた時臣の身体が、次撃を食らい地に倒れ伏す。生み出される血の泉。大地を炎よりも赤い色に染めていく。

 時臣の身体にはもう魔術刻印がない。術者を延命する為の補助機能は娘へと委譲されている。心臓を精確に撃ち抜かれては、流石の魔術刻印でもその延命は難しいと思われるが、それでも可能性のあった未来は、無残にも打ち砕かれた。

「衛宮……衛宮切嗣……!!」

 揺らめく炎と闇の向こう、微かに窺えたその姿も、既に掻き消えている。二発目の弾丸の着弾を以って、標的の死は確実だと判断した結果なのだろう。たとえ僅かな息を残していても、その絶命は不可避なものだと。

 斃すべき目的を見失い、雁夜は判断を迷った。姿を消したとはいえ、あの魔術師殺しが次の標的を己に定めないとも限らない。
 警戒を露に周囲を見渡す。燃え盛る炎と闇の向こうに広がる森。何処から銃弾が放たれても対応出来るだけの体勢を維持していた雁夜の前に、

「──────え?」

 森の中から姿を見せたのは、遠坂凛とアーチャーだった。

 時臣と雁夜の対峙していた広場の横合いから炎の走る戦場へと踏み込んだ少女の目にまず真っ先に映ったのは、伏臥した父の姿。臙脂のスーツを赤黒く染めた、状況説明を必要としない、明確な死の淵にいる父の姿だった。

「りん、ちゃん……これは────」

 自らに父親の殺害の疑いを掛けられると思ったのか、雁夜は言い訳じみた言葉を口にしかけたが、凛はそれを意に介さず、勢いを弱め始めた炎を避けて、父の元へと走っていく。

「────」

 間近で見下ろした父の背中。二つの風穴をその身に空けた、弱々しい父の姿。

 凛は何も言わない。父の身体を支えあげる事も、生死を確かめる事も、治癒を施す事もしなかった。だってそれが、既に助からない命だと理解してしまったから。

「…………り、ん」

「……お父さまっ!?」

 風に霞みそうなほど小さな声。うわ言のように時臣の口から零れ落ちた言葉を拾い、凛は初めてその膝を折って父の容態を確かめた。

「…………っ」

 その結果は己の判断が間違っていなかった確信を得ただけ。たとえ凛が最高位の治癒術を修めていたとしても、時臣の命は救えない。凛に出来る最期の救いは、その末期の祈りを聞き届けるだけだ。

 ……いや、まだ手はある。その命が枯れ落ちていないのなら、救えるかもしれない可能性が一つだけ、凛にはある。

「……まち、がえるな、凛……」

 父の言葉に凛の意識が引き戻される。成否の判定が確定的でないものに、切り札の一枚を消費する無様を父が諫める。
 たとえ時臣を救えたところでその戦力は大幅に低下し、復調する頃には戦いの結末を迎えているだろう。その為に遺した切り札を使わせる事は出来ない。そんなことに使う為に、あの宝石を託したのではないのだと。

 時臣が立ち上がる。凛を下がらせ、身体に大穴を空け、心臓を撃ち抜かれながら、所持していた宝石の幾つかを使い、ほんの僅かな時間だけの猶予を得る。
 立ち上がったといってもその足は震え、顔面は蒼白。当然だ、生身の人間ならば即死する傷を負い、死に至らなかった事が奇跡なら、今こうして動いている事すらも奇跡だ。

 たとえ魔術師であっても、宝石の援助を用いても、覆せぬ死に立ち向かうその姿は。彼がその胸に誓った、誇りある己を最期まで貫くという意地であった。

「……道を、拓く。凛……遠坂に、聖杯を──」

 身体を支えるステッキに残った魔力の全てを込める。遠坂時臣の生涯を掛けて魔力を貯蔵した極大のルビー。炎を扱う事だけに特化する事で、凡夫でありながら他の魔術師にも劣らぬ火力を手にした時臣の常在武装にして切り札。

 その輝きがかつてないほど高まり行き、

「Es flustert(声は祈りに)──Mein Nagel reist Hauser ab(私の指は大地を削る)」

 その魔力が炎となって爆発する寸前──虚空より響いた少女の声。
 闇に振動したその音は、暗闇を削り、刃と化し、最期の力を振り絞った時臣の身体を、四方から貫いた。

「──────」

 凛も、アーチャーも、雁夜でさえも、動く事の出来なかった刹那。影の刃にその身を裂かれた時臣が、僅かに視線を傾けたその先──星の天蓋を背に、白き天馬に跨った、かつての娘の姿。

 全身を痛々しい傷で覆われながら、その瞳は正しく時臣だけを見ていた。冷たい瞳。色のない視線。殺意も敵意も害意もない、ただ路傍の石ころを眺めるような、そんな眼差しを向ける間桐桜の姿を。

 そんな娘の姿をその網膜に焼き付け────今度こそ本当に、遠坂時臣は、その命脈を絶った。

 程なく、天馬が地に下りてくる。状況に頭の追いつかない雁夜の傍へと、天翔ける白馬は着地する。

「さくら、ちゃ──」

「乗ってください、雁夜、おじさん。この森から、出ましょう」

 痛々しい少女の声。身体の傷はまるで癒えていない。先の魔術行使も相まって、より微弱な生命力へと落ちている。ただ今の彼女を、ライダーと天馬という守護者がいる限り、誰も害す事など出来ない。

 優しげな声とは裏腹に、蟲めいた無機質な目を守るべき少女に向けられ、雁夜は頷く他になかった。どの道雁夜の目的は消えてしまった。遠坂時臣は、その命を散らしたのだ。ならばこの森に留まり続ける理由は既にない。

 天馬が羽ばたく。凛にもアーチャーにも、彼女らを止める事など出来ない。この場でのこれ以上の戦闘は、凛達も望むところではないからだ。

「桜────」

「────気安く呼ばないでくれますか、遠坂先輩」

 ようやく搾り出した凛の声に、桜は見下すような瞳と共に言った。

「それじゃあ、さようなら。また何処かで、会いましょう」

 そんな言葉だけを残し、桜達は去る。戦場に残ったのは、未だ燻り続ける炎と、赤い主従と、そして冷たくなっていく誰かの遺体。

「アーチャーッ!」

 森から響く、再三の第三者の声。遥か前方で戦いを繰り広げていた筈のガウェインとモードレッドが、此処でようやく彼女らに合流した。

「っ──これは……」

 ガウェインが目を剥き、倒れ伏した時臣を見る。モードレッドもまた、細めた瞳で一瞥した後、

「おい、悪いがオレは先に行く。どうせもう、まともな戦いなんて何処の陣営も出来ないだろう。アンタらも一旦退いた方がいいと思うぜ」

 モードレッドは返事を待たず森の奥へと消えていく。彼女もまた良くないものをその身で感じているのだろう。
 共同戦線を放棄するも同然の独断専行だが、アインツベルンと間桐もまた足並みを揃えているとは思えない。誰も全身鎧の少女の道行きを止める事はしなかった。

「時臣……」

 ガウェインがその膝を付き、主の前で瞳を閉じた。

 主君の窮地に馳せ参じる事が叶わぬばかりか、その死に目を看取ることすらも出来なかった。彼に託された想いをすら、果たせなかった己の不明を恥じ入るばかり。白騎士の背負いし太陽は、何を照らす事もなく地に堕ちた。

「ガウェイン、悪いけどどいてくれる?」

 感情の読めない表情を浮かべ、凛は退いたガウェインに代わり父の傍に立つ。その亡骸の横に転がっていたステッキを掴み、呪文と共に振り抜いた。

 瞬間、巻き起こる炎。時臣の亡骸を優しく包み、燃え上がらせる浄化の炎。このまま遺体を放置しておけば、キャスターに利用されないとも限らない。かと言って連れ帰るだけの意味もない。

 全ての継承を既に終えていた時臣の遺体に、価値はない。まさか自身の死を見越していたとは思えないが、それでも遠坂時臣は、一魔術師として果たすべき責務の全てを果たし、眠りについたのだ。

 魔術師に墓はいらない。ただ、その身を包む炎が、娘から父へと送る最期の手向けが、父にとって少しでも慰めになればいいと、鋼鉄の仮面を被った少女は想った。

「行くわよアーチャー、ガウェイン。キャスターやセイバーが襲ってこない保証はない。一刻も早く離脱しましょう」

 此処は戦場。父が死の間際に警戒し、活路を拓こうとしたのもそれを危惧したゆえ。どのような理由からか、アインツベルンの追撃はないが、空間を渡る術を持つキャスターならばいつ姿を見せてもおかしくはない。

 今はただ──この敗走に甘んじて、次の戦いへと備える。

「お父さまが死んでも、戦いはまだ終わらない……何一つ、終わってなんてないんだから」

 そう──これは始まり。

 一人の魔術師の死を契機に始まる、終焉へと至る序曲。
 坂道を転がるように加速していく、戦いの宴。

 二人の騎士をその背に従え、父の形見であるステッキを手に──遠坂凛は戦場に背を向けた。


/30


 遥か天空を翔ける有翼馬。その背に都合三人を乗せながら、形無き空を踏み締める蹄鉄の力強さは変わりなく。
 手綱を手にしたライダーの指示の元、誰の手も届かぬ空を行く。

「桜ちゃん……」

 防護膜でもあるのか、かなりのスピードで移動してなお身を襲う風は柔らかなもの。春に吹く微風とまでは行かないが、身も凍るほどの寒風に晒される事はない。

 そんな中呟いた雁夜の声は、当然桜の耳元へと届いている。

「雁夜おじさんは、大丈夫ですか……?」

「あ、ああ……俺に傷はそれほどないよ。それよりも、桜ちゃんの方が──」

 雁夜は服が煤け、幾らか破れているものの、身体へのダメージは然程ではない。魔力をバーサーカーに根こそぎ持って行かれたのは凶悪な痛みとなって全身を苛んでいるが、令呪の援護もあり今すぐ死ぬようなものではない。

 見た目だけならば、桜の方がよほど重症だ。凛との間にどんな戦いがあったのかは知らないが、全身に傷の付いていない箇所はなく、左腕の損傷が特に酷い。

 いや、今はそれよりも、あの事を問うべきなのだろうか。

 天馬に跨った桜が、空から放った魔術は死の寸前にあった父を貫いた。その後に雁夜が目にしたものは、これまで見た事もないほど、感情を希薄化させた桜の瞳。世界の全てを諦めたかのような、絶望の眼差しだった。

「…………」

 ただ、今の桜の瞳にそんな色は見られない。苦痛に顔を歪めているのも、ライダーの腰に手を回している姿も、雁夜の良く知る桜と変わらないものだった。

 だから雁夜は問えなかった。何があったのか、と。何を見て、桜はあんな目をするようになってしまったのか、と。

「あ、ライダー、待って。帰る前に、お爺さまを回収していかないと」

 ふと思い出したように桜は言った。桜にとって畏怖の対象であり象徴でもある祖父を、忘れ物をしたみたいな気軽さで。

「あんな爺、捨て置けば良いさ。どうせ殺したって死なないんだ、放って置いても勝手に帰って来る」

 この森にいる臓硯は恐らく、本物ではない。本体ではない、と言うべきか。五百年の時を生き、生に並々ならぬ執着を持つあの妖怪が、わざわざ戦いの最前線へと何の準備もなく赴く筈がない。

 良いところで影武者のようなものか、いずれにせよ本体は命の危険のないところでのうのうと蠢いているに違いない。
 その本体の居場所を今以って知り得ないからこそ、サーヴァントを従えて圧倒的力量差を獲得してなお、雁夜達は臓硯に従い続けている。

「そんな事言っちゃ、ダメですよ。それにお爺さまにも、お爺さまの目的があったみたいだから」

 ────それを、確かめておかないと。

「…………ッ!?」

 それを口にした瞬間の桜の顔から、得体の知れない恐怖を感じて雁夜は目を見開いた。特に何か重要な言葉を口にしたわけでもない。それなのに、身の毛もよだつ寒気を感じてしまった。

 ……何かがおかしい。なのに、何がおかしいのか分からない。

 異常がない事が異常……そんな矛盾が成立してしまいそうな程に、今の桜からは危うい感じがする。

 ともあれ、聞くべき事は聞いておかなければならない。今後の為にも、桜の為にも。

「桜ちゃんは……どうするんだい?」

「……え?」

「……時臣は死んだ。凛ちゃんは……きっと、君を温かくは迎えてくれない。君が帰りたいと望んだ居場所は、もう──」

 ──この世にはない。

 そう続けようとして、雁夜は唇を噛んだ。

 自分達が抱き続けてきた祈りなど、泡沫の夢に過ぎなかったのだと思い知った。この十年間は、間桐だけでなく遠坂にも致命的な何かを齎した。
 最早道が交わる事はないだろう。後に待っているのは、姉と妹の熾烈な戦い。皮肉にも時臣が望んだ展開だけだ。

「桜ちゃんが此処で降りるというのなら、俺は全力でそれを援護しよう。臓硯だって説き伏せて、君の無事を確保したいと思う」

 それは諦めるという事ではない。桜がこれ以上血の道を歩く必要はないのだ。
 桜を失う事による間桐陣営の戦力低下は著しくとも、バーサーカーの力があれば充分に勝ち抜ける。

 かつて程凶悪に魔力を吸い上げる事をしなくなったこの獣を御し切れれば、雁夜単独でも聖杯を掴むチャンスはある筈だ。

「降りませんよ。私はこの戦いを続けます」

 そんな雁夜の淡い期待を裏切るように、桜はそう口にした。

「私にも目的が出来ましたから。中途半端で終わらせるなんて事、出来ません。それに、ライダーもいてくれるしね」

 騎兵の腰に回した手をそのままに、こつんとその背に頭を預ける。確かな感触。エーテル体とは思えない、実際の人間と変わらない体温。
 間桐桜を守る盾であり、間桐桜の為の剣──それがこのライダーだ。

「私はサクラを守ります。どんな困難があろうと、絶対に」

「……うん。知ってる」

 それが彼女の誓い。
 揺ぎなき心の証。

 その誓いが何に起因するのかは雁夜には分からない。だが、その心だけは本物だと、疑いようもなく信じられる。

「……分かった、じゃあもう止めない。必ず聖杯を手に入れよう。そして、君を必ず救ってみせる」

 この暗闇から、せめて掬い上げたいと。かつて居た陽だまりに戻る事は叶わなくても、新しい居場所を作って上げたいと。
 遠坂時臣への復讐を半端なままに終わらせてしまったからこそ、この約束だけは違える事はしないと、雁夜はそう心に固く誓った。

 行く先に広がるは暗雲。
 鼻を衝く雨の匂い。

 天馬の羽ばたきは力強く。
 空へと響く嘶きと共に、彼女達は次なる戦いの舞台を目指す。



+++


 胸に渦巻いた悪い予感を振り払うように、モードレッドは森を疾走する。奥へと進むほどに霧は薄くなり、視界がより開けてくる。

 明確な位置は把握出来ない。霊的パスを通していないモードレッドでは、バゼットの位置を掴む事は出来ない。
 ただ先の凛達との合流も、彼女の直感に従って導いたもの。であれば、悪い予感のする方へと直走れば、いずれその原因ともぶつかるだろう。

「…………? あれは……」

 霞む木々の向こうに見える白い尖塔。アインツベルンの居城と思しきその影を、見る事の出来る距離まで迫ったモードレッドは、

「ッ……おい、バゼット!」

 胸を押さえ、苦しげに呻き、木の幹に身体を預けたバゼットの姿を見咎めた。

「……っ、モード、レッドですか……」

 スーツの胸の部分を赤黒く染め、隠し切れない痛みを覗かせるバゼット。城からそう離れていないこの場所で、一体何があったのかをモードレッドは問い質す。

 バゼットは痛みに耐えながら語る。キャスターのマスターであるイリヤスフィールを討つ事に失敗した事。間桐臓硯に彼女が攫われた事。そして自らの腕に刻まれた、令呪が唐突に消えた事を。

 治癒のルーンで表面上の傷は癒えていても、その内部はまだぼろぼろだ。令呪が消えた事で城を脱し、ランサーの姿を求めて森へと踏み入ったが、程なく限界を向かえこんなところで立ち往生していた。

「…………」

 モードレッドは無言のまま、ぐいとバゼットの腕を持ち上げる。確かにそこにあった筈の、剣の形を模した令呪が跡形もなく掻き消えている。
 ランサーはキャスターとライダーの前に敗れ去ったのか? それとも……。

「いや、今は一刻も早く森を出るぞ」

「っ、けど、ランサーが……!」

「そんな身体で一体何が出来る。たとえランサーが生きていたとしても、そんな様でアンタは一体何をするつもりだ」

 冷酷で、非情なる声。バゼットの嘆願を切って捨てる少女の諫言。立っているのもやっとな様で、パスを切られ、生きているかどうかも分からないランサーの姿を求めて森の中を彷徨い歩くなど正気の沙汰ではない。

 今はまず生き残る事。この森から無事脱出する事。生き永らえて、傷を癒し、全てはそれからだ。

「これだけ言っても無茶したいってんなら止めないぜ。無駄死にしたければ好きにすれば良い。生憎と、オレはそんな心中に付き合う気はないけどな」

「っ────……」

 バゼットも頭では分かっている。ただ、心が理性に従ってくれないのだ。ずっと憧れ続けてきた英雄の背中。絵本の世界で夢見ていたもの。
 叶わぬ筈の逢瀬の果て、こんな余りにも理不尽な別離を受け入れる事を心が拒んでいた。

「分かり、ました……今は、貴女に従います」

 そうする以外に選択肢はない。敵の陣地の中、死に体にも等しい己を守りランサーを探せと頼めるほど厚顔でもなければ、少女に義務もない。あくまでモードレッドはバゼットにとっての協力者。彼女の立ち位置はランサーとは違うのだ。

「歩けるか……? 無理そうなら手を貸そう」

「いいえ、不要です。僅かにですが休息は出来ましたから。これなら、走る程度は可能だ」

 言ってバゼットは森の奥、入り口へと向けて駆けて行く。その背を見つめ、少女は一人呟いた。

「情けないな大英雄。守るべき主君に槍を向けなかったのは上等だが、掛ける言葉もないとはな」

 視線を流した先。鬱蒼と生い茂る梢に身を潜めるように、青い槍兵の姿を見咎める。彼はアサシンほどではないが気配を殺していた。それを発見出来たのは、持ち前の勘の良さと嗅覚の賜物だ。

「……うるせえ。今更どのツラ下げてアイツに会えってんだ」

「ハッ──オレが知るか。で、どうするんだ。まさか隙を衝いてオレを殺そう、なんて算段をしていたのだとしたら、見下げ果ててるところだが」

「してねぇよ。何やら新しいマスターは忙しいようでな。こっちに気を回している余裕はないらしい」

「……なるほど。つまり今なら逃げやすいと」

 ランサーに下された命令はアーチャーの後を追え──ただそれだけだ。躍起になって追うつもりなど毛ほどもなく、アーチャーがいたらしい場所まで着いたところで強制力は目に見えて落ちた。

 その為、ある程度の自由を得たランサーは、こうして影ながらバゼットを見守っていたのだ。

「フン……まあいいさ。こっちはこっちで好きにやらせて貰う。安心しろよ、拠点に帰るまではバゼットの身の安全は保障してやるから」

「…………」

 ランサーは応えず、もう用はないとばかりに背を向ける。敵の軍門に下った己に、彼女の言葉に水を差す資格がないとでも言うかのように。

「最後に答えてくれランサー。アンタは、その魂までをも魔女に売り渡したのか」

 契約を破棄され、斃すべき敵の従者となった槍の騎士。その身を縛り付ける令呪の鎖は強力で、緩い命令だったからこそ今は自由に動けるが、目の前で魔女にバゼットを殺せと命じられれば、抗えるかどうかは分からない。

「この槍はオレの誇りだ。この誇りを穢されて、黙ってられる筈がねぇ」

 モードレッドの求めた答えからは幾分外れた言葉だけを残し、ランサーは去った。少女は一人、フルフェイスのヘルムの下で微かに口元を歪ませた。

「さて……いつまでも此処にいちゃバゼットにも怪しまれる」

 たん、と軽く地を蹴り、バゼットの向かった方角へと跳ぶ。その間際、振り返った先にはもう闇しか見えない。
 彼女がその最後に求めたのは、肩を並べた騎士の幻影か。あるいは、悲痛な願いをその胸に宿した、王の面影か。

 誰もその答えを知る事なく──背徳の騎士モードレッドは戦場を去って行った。



+++


「説明をして貰うわよ」

 時間は前後し、切嗣が時臣に二発の銃弾を撃ち込んだその少し後。森の中に沈み、行方を眩ませた衛宮切嗣の前に、空間に割り入るようにキャスターが姿を見せた。切嗣に驚きはない。この展開は想定していた。

「貴方は一体此処で何をしているの。貴方の役目はイリヤスフィールの守護だった筈でしょう……!」

 事前の打ち合わせでそう取り決めが為されていた。キャスターは自らの宝具を切嗣に明かし、いずれかのサーヴァントを奪い取る算段を事前に打ち合わせていた。
 その折、この森での一戦での切嗣の役目は、城を守るイリヤスフィールの警護であると決めた筈。侍従だけでは心許ないと、切嗣自身が買って出た事でもある。

 それが一体どうしてこんなところにいる。狙撃銃を携帯し、森に息を潜めて獲物を狩るのは彼の役目ではない。彼は敵を斃すのではなく、娘を守るべきだった筈なのに。

「…………」

 切嗣は答えない。その必要がないとでも言うかのように。

「間桐臓硯の裏切りも予測はしていた筈でしょう。おめおめと娘を攫われておきながら、一体────」

 そこではたと、魔女は気付く。キャスターの詰問にも揺るがず、イリヤスフィールを攫われたと知っても動じない、この男の心の在り方に。

「…………貴方は私を、騙していたの?」

 切嗣の顔に宿るのは色のない能面。感情の機微をまるで感じさせない、仮面のような空虚さだ。

 全てを知っていなければこんな顔は出来ない。全てを予見していなければ、ここまでの揺れのなさは有り得ない。

 つまり、切嗣にとって現状は予定調和。キャスターがランサーを奪い取った事も、時臣を亡き者にした事も──そして、イリヤスフィールが攫われた事も。全て、この男が最初から描いていた通りの絵図。

「……何を企んでいるのかは知らないけれど。こんな真似をして私達の間の共闘が今後も継続すると、思い上がってはいないでしょうね?」

 そして、その問いすらも切嗣の想定の範囲内ならば。

「マスターッ!」

 梢の奥から姿を見せる白銀の少女騎士。キャスターの戦場で巻き起こったと思われる爆発を機に森の奥へと戻り、その戦場へと立ち寄った後、こうしてセイバーは切嗣の下へと帰参した。

「一体これは、どういう……?」

 ただ、セイバーの目に映ったのは予想外の光景。フードの奥から剣呑な気配を撒き散らすキャスターと、それを何処吹く風といなし、煙草に火を灯す切嗣の姿だった。

「イリヤスフィールが攫われたわ。この男が、己の役目を放棄したお陰でね」

「なっ……!?」

 それは瞠目して余りあるもの。セイバーも聞き及んでいた事前の策の根底を覆す結末。何を思い衛宮切嗣がイリヤスフィールの傍を離れたのか、彼が何も語らない以上は答えが出ない。

「いいわ、問答は後にしてあげる。まだあの男は森の中にいる。今から追えば充分間に合う──」

「────追わなくて良い」

 キャスターの言葉を遮り、切嗣はようやく口を開いた。

「マスター……? 何を──」

「間桐臓硯は追わなくて良い。イリヤを助ける必要もない。あの男にイリヤは殺せないし、キャスターとの契約を切られる心配もない」

 令呪の創始者である間桐臓硯。彼の手に掛かれば並の令呪ならば簡単に剥がし移植する事も叶うかもしれない。ただ、イリヤスフィールだけは別だ。

 彼女の令呪は規格外の代物。全身の魔術回路と同化した、無理に剥がそうとすれば命さえ危ぶむもの。
 イリヤスフィールが聖杯の器だと知っている臓硯が、聖杯が壊れる可能性を考慮せずにイリヤスフィールの令呪に手を掛ける事はない。

 その仕掛けはどれだけ強大なサーヴァントでさえも御し切る為にユーブスタクハイトが仕組んだものであり、聖杯の成就を見るまでイリヤスフィールを守るサーヴァントを剥離させない為のものだ。
 アインツベルンの手が入っている分、臓硯とてその解析は難しく、そんな手間暇を掛けるだけの時間もメリットもありはしない。

「ですがマスター、イリヤスフィールを敵の手に残しておくのはどういうつもりですか。キャスターの転移があれば追いつけるのなら、取り戻すべきでしょう」

 真実臓硯にイリヤスフィールが殺せないのであれば、人質としての価値はない。どれだけ脅しを掛けようと、実際に殺せないのあればそんな脅迫など滑稽なだけだ。
 リーゼリットが手を止めたのは、彼女はイリヤスフィールの真実を知っているからだ。真実を知らぬ者に、イリヤスフィールは殺せない。

「殺せない人質にも価値はある。大事に守られるだけのお姫さまではないんだ、イリヤにも役に立って貰う」

「貴方は……!」

 自らの勝利を、祈りを叶える為に。
 聖杯をその手に掴む為に。

 衛宮切嗣は娘の命をすら利用する。敵を陥れ、味方をすら欺き、確実に葬れる敵から一匹ずつ刈り取って行く。
 非情で冷酷で冷徹な暗殺者。今の衛宮切嗣はそんな生き物。彼の目には、戦いの向こうにある祈りしか映っていない。

「…………」

 此処に一つの亀裂が生まれる。

 誰かに利用されるだけの人生だった王女メディアの心に、消えない軋みが刻まれた。
 切嗣の判断は人々に望まれるまま魔女として生き、死んだ悪女の心に残る善性に、爪を立てた。

 それを顔に出す事はしない。目的の為に父を慕う娘の心を弄ぶ悪徳に、どれだけ苛立とうとも、此処で牙を剥くのは得策ではないと、冷静な自分が諫めるから。

「分かりました……貴方の判断に従います。けれど、まさかこのままイリヤスフィールを放置するつもりではないでしょうね?」

「ああ、時を置けばイリヤの秘密を解き明かされる可能性がそれだけ増す。それは僕も望むところじゃない」

 今仕掛ければ間桐の一派を纏めて葬る事も出来るかもしれない。ただ切嗣にも幾つか憂慮がある。
 その最たるものを見極める為、わざわざキャスターの不審を買うと理解しながら、遠坂時臣を殺害した。

 未だ舞台に姿を見せぬ役者を、無理矢理に引き摺り上げる為。
 最後の演者を、ライトの照らす舞台の上へと引き摺り出す為に。

 ────さあ、どう出る言峰綺礼。

 衛宮切嗣が唯一その行動を予測し切れない狂信者。
 遠坂時臣の影に潜んでいた、本当のマスター。

 未だ脱落者のない七人八騎のバトルロイヤルは、彼の登場を以って終局へと加速する。

 終わりは近く、果ては遠く。
 十年遅れの第四次聖杯戦争は、如何なる結末を迎えるか。

 それを知る者はまだ、誰もいない────



[36131] scene.14 聖杯の眼前にて、汝を待つ
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/05/28 01:03
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「────……ぁ」

 深い、微睡の底から意識が浮上する。重い瞼を開き、霞んだ瞳は茫洋とした風景を映している。手足は鉛のように鈍重で動かない。覚醒と共に徐々に鮮明となっていく視界で、首だけを動かし状況を確認する。

 薄暗い部屋。差し込むのは月明かり。人工の明かりはなく、窓から降り注ぐ月光だけが室内を照らす光源。
 見覚えのある天井と壁。此処はバゼット達が拠点とした森の奥の洋館だ。どうやら、自分はソファーで眠っていたらしい、とバゼットは自己分析した。

「ようやくお目覚めかい、眠り姫」

 そんな軽口に、バゼットは手足を縛る見えない鎖を引き千切るように跳ね起きた。視界の先、言葉の主はいつかのように窓辺で腰掛け、淡い光の中からこちらに翠緑の瞳を向けていた。

「モー……ド、レッド……ですか」

「一体誰と勘違いしたんだバゼット」

 右腕を掻き抱くようにして視線を下げたバゼット。先の軽口は、彼女の良く知る男のそれに似ていた。完全に意識の戻っていなかった頭には、まるであの男の言葉のように響いたのだ。

 だが今はもう、バゼットも理解していた。左手で触れる右手の甲には、刻まれていた筈の聖痕がない。マスターの証であり、サーヴァントと繋がる令呪が、夢か幻のように消え失せていた。

「……わざと私をからかうような事をするとは、貴女も大概底意地が悪い」

「そりゃ悪かった。だがまあ、そんな軽口を返せるんなら、怪我はもう大丈夫のようだな」

 その言葉にバゼットは自分自身を走査する。

「ああ、上着は脱がせてやったから感謝しろよ。あんなスーツ着込んでちゃ寝にくいだろ」

「ええ……それは感謝します」

 シャツの中心には黒い大きな斑点。それはバゼットの心臓部より吐き出された彼女自身の血液。襟を開き胸元を覗き込めば、赤黒く凝固した血液が傷口を塞ぎ、死に至る可能性の極めて高かったイリヤスフィールに穿たれた穴はどうにか閉じられたようだった。

「身体の調子はどうだ」

「はい、多少の鈍痛はありますが問題はないかと」

 拳を握ったり指を曲げ伸ばしして感触を確かめる。腰を上げ、全身の動きに異常がないかも確かめたが、特に問題らしき問題は見当たらなかった。

「ですが、完治には程遠い」

 治癒のルーンを用い、それがたとえ特級のルーン使いであるバゼットの代物であったとしても、一昼夜で完全に回復するような傷ではない。
 怪我を弁えた上での戦闘は可能だろう。だが戦力が拮抗し、勝敗を分ける死線を潜らなければならなくなった時、このダメージは重くバゼットに圧し掛かるだろう。

「そうか。じゃあ、オレの役目も此処までだな」

「えっ……?」

 バゼットの驚きを他所に、モードレッドは窓辺を離れる。その足の向く先は、部屋の出口だ。

「……? 何を訝しむ事がある? アインツベルンの森での戦いでランサーを奪われ、アンタはマスターじゃなくなった。この十年遅れの第四次聖杯戦争における最初の脱落者──それがアンタだよ、バゼット・フラガ・マクレミッツ」

「…………ッ!!」

 言葉にされ、明確に突きつけられ、ようやくバゼットも実感した。令呪を喪失したマスターは、サーヴァントを失ったマスターはただの魔術師。

 戦いに敗れた脱落者だ。

 バゼットの意気込みや想いなど関係ない。それは明確で厳然たる事実。既に覆しようのない、真実だ。

「戦いに敗れたとはいえ、アンタは死ななかったんだ。さっさと街を離れるといい。サーヴァントを失ったマスターは教会に駆け込むのが通例らしいが、あの神父は何を考えているのか分からん。自由に動く身体があるのなら、そのまま街を出る方が懸命だと思うぜ」

 室内を横切り、モードレッドは窓際の椅子に掛けてあった赤いジャケットを掴み出口へと向かう。

「ま、待って下さいモードレッド……! 私はまだ……!」

「まだ、何だ? サーヴァントもいない、令呪もない、そんなただの魔術師を相手に、オレが一体何を待てと言うんだ?」

「…………っ」

「間違えるなよバゼット。オレとアンタらの関係は利害の一致があったればこそ。二騎のサーヴァントを擁する他陣営に対抗する為の謂わばギブアンドテイク。
 そっちから差し出されるものが急になくなったんだ、ならこっちからだけ一方的に差し出す義理が、オレにあるか?」

 部屋の出口である扉を前に振り返るモードレッド。翠の瞳は何をも映さず、冷たい色を湛えている。
 投げつけられた言葉もまた冷酷なもの。互いを対等のパートナーと認めているからこその言葉とも取れるが、そこに同情や憐憫は一欠けらも存在しない。

 誰に落ち度があったわけでもない。ただ、敵がこちらの予測の上をいっただけの話。一度目の敗走では事なきを得たものも、二度目の敗走ではそれが許されなかったというだけの話だ。

 天秤の両皿が釣り合っていたからこその共闘関係。片皿から釣り合いの取れるものがなくなったのなら、この結末は当然のもの。
 モードレッドが冷酷なのではない。最初からそうと決められていた関係性だ、今更縋ろうとするバゼットの方が筋違いも甚だしい。

 この拠点に戻るまでの記憶は曖昧だが、モードレッドが随伴してくれていた事は覚えている。ランサーとの契約が消滅したのなら、わざわざバゼットを此処まで連れ帰る理由などモードレッドにはない。

 それを承知でわざわざ森からの脱出、安全地点までの誘導をしてくれた彼女に感謝こそすれ糾弾紛いの論争など行えるものか。

 自らの不始末を己を対等として見てくれていたモードレッドに擦り付けるわけにはいかない。此処まで明確な拒絶を示したのも彼女なりの優しさなのかもしれない。バゼットは二の句が継げなかった。

「じゃあなバゼット。アンタ達と過ごした数日間、悪くなかったぜ」

 そんな別れの言葉を残し、モードレッドは洋館を去った。

 後に残されたのは傷付いた魔術師だけ。マスターとしての資格を剥奪された、最初の脱落者であるバゼットだけだった。

 急に脱力したかのように、バゼットはその身を落とし背凭れに預けた。手足はだらりと下げられ、まるで糸の切れた人形のよう。

「そう……彼女の言葉は正しい……」

 バゼットに聖杯に捧げるほど渇望する願いなどない。協会からの指令を受け、御三家の闘争に割り込んだ部外者だ。
 覚悟はあった。自信もあった。けれど、バゼットのそんな想いでは届かぬほどの祈りを胸に秘め、他の参加者は鎬を削っている。

 連綿と続く血の系譜。その誇りを穢さぬ為、積み上げた歴史の正しさを証明する為、彼らは命を賭している。

 家に背き、故郷で埋もれるように死んでいく事を恐れ外の世界に飛び出した己に、逃げ出した己にはなかったものを彼らはきっと持っている。
 目を背けず向き合った先、たとえそれが地獄のようなところだったとしても、なお祈り叶えよと叫ぶだけの強さがあった。

 どんな言い訳を並べたところで、敗北した事実は変わらない。任務の失敗はバゼットにこの依頼をした上層部からどのような叱責を被る事になるか分からないが、後は結末を見届け協会に報告書を提出すればそれでいい。

 数多くこなす依頼の内の一つを失敗しただけ。何食わぬ顔をしてロンドンに戻り、次の依頼を手配して貰えばすぐさま任務に忙殺されるようになる。
 何も考えずひたすらに任務をこなせばいい。その内、この一件も記憶の奥底に沈み、いつか思い返した時にそんな事もあったな、と思えるようになるだろう。

「だけど……っ、私は────!」

『──よう、アンタが、オレのマスターかい?』

 その言葉を、覚えている。

『バゼットね。りょーかい。んじゃバゼット、これからよろしく頼むぜ?』

 あの笑顔を、覚えている。

 遠い昔、幼少の頃に夢見た英雄。
 本の中で見た、祖国に今なお語り継がれる英雄譚。

 何にも関心を抱けなかった己が唯一没頭できたもの。本を読んでいる間だけは、時間を忘れる事が出来た。幾度となく読み返し、諳んじる事の出来るくらい、この胸に刻まれた誰かの記述。

 憧れの英雄。決して出逢う事の叶わない、遠い存在。その出逢いを叶えたのはこの地の聖杯、聖杯戦争だ。
 聖杯戦争の事情を知った時の高揚を、今も忘れる事など出来ない。任務だという事を忘れるくらい胸を高鳴らせ、この地を踏んだ。

 出逢った本物は知れば知るほど本の中の英雄とは違っていて、自分の理想ともかけ離れた男だったが、傍にいて安心出来たのは確かだった。
 今この胸にぽっかりと空いた穴。イリヤスフィールに穿たれた肉体の穴よりも、心に空いた空洞の方が胸に痛い。

 己が不甲斐無いばかりに、こんな結末を迎えてしまった。彼の力を活かす事が出来ずにリタイアするはめになってしまった。
 心の穴を擦り抜ける寂寞。埋める事の出来ない哀惜。不本意な別れに、自分はこんなにも────

「…………?」

 そこでふと、モードレッドとの会話を思い出す。彼女は何か、妙な言い回しをしなかったか。

『……? 何を訝しむ事がある? アインツベルンの森での戦いでランサーを奪われ、アンタはマスターじゃなくなった。この十年遅れの第四次聖杯戦争における最初の脱落者──それがアンタだよ、バゼット・フラガ・マクレミッツ』

 そう、ランサーは消滅したのではなく──奪われたのだと。

「…………ッ!」

 わざわざモードレッドがそんな嘘を吐く筈がない。理由がない。ならばそれは事実で、ランサーは戦いに敗れ消滅したのではなく、何者かに奪われたのだ。

 であればランサーは生きている。どのような姿であれ、まだ、この世界にいる。

「…………」

 バゼットは静かに立ち上がった。血の凝固したシャツを脱ぎ捨て、ジェラルミンケースから替えの下着とシャツ、スーツを取り出し着替えていく。
 姿見の前でネクタイを締める。頼りない月明かりが照らす己の姿に、先程までの弱さはない。淡い輝きを受けて、耳を飾るルーンのピアスが煌いた。

 気が動転していながらも、どうにか森から持ち出していたラックを背負い、バゼットは拠点を後にする。

 鬱蒼と生い茂る森。見上げた空には星が瞬く。夜を渡る風は、バゼットの心に灯った熱を奪い去る事は出来ない。

「──こんな時間に何処に行こうってんだ、怪我人」

 街へと繋がる森の途中。
 闇の中から響く聞き慣れた声。

「決まっています、ランサーの下へ」

「行って何をする? 令呪のないアンタじゃたとえランサーを取り戻したところで再契約なんて無理だろうさ。
 何よりそんな身体で、己が身一つで、サーヴァント共がいる戦場に挑むつもりか」

「はい。無謀など承知の上。死など元より覚悟の上。それでも私には──取り戻さなければならないものがある」

 ざっ、と木々を揺らす風が吹く。バゼットは顔にかかる髪を気にする事もなく、ただ前だけを見据えている。

「命を賭けてまで取り戻したいもの……それはなんだ、バゼット・フラガ・マクレミッツ」

「彼の誇りを────私が不甲斐無いばかりに穢してしまった彼の誇りを、取り戻しに行きます」

 静寂を取り戻した森の中に、一つの溜息が生まれた。次いで、闇に閉ざされた梢の先から金髪碧眼、赤いジャケットの少女が姿を見せた。

「……ったく。頑固な女だなぁ、おい」

「モードレッド……」

 現われた少女はそっぽを向き、ガリガリと髪を掻きながら、

「まぁ……なんだ……オレも勝てるだとか何だとか、でかい事言っておいて、このザマだしな……それに……服を買って貰った恩もあるか……」

 言い訳めいた事を口にするモードレッドが可笑しくなり、ついバゼットは笑いを零してしまう。

「あ、おい! 何がおかしいッ!」

「ふふ……いえ、すみません。それでモードレッド、貴女はどうしてこんな場所にいるのですか?」

「今更それ、聞くのかよ……」

 見栄を張って別れを演出した手前、どうにも落ち着かずモードレッドは僅かに頬を紅潮させている。夜の闇の中、その赤みが良く見て取れた。モードレッドは一つ嘆息した後、言葉を続けた。

「生憎とオレは死にに行く人間に付き合うつもりはない。死に急ぐ輩にもな。けどアンタがまだ戦う事を諦めてないってんなら、付き合ってやっても良い」

「ええ。私一人では困難を極める。貴女が手を貸してくれるのなら、それより心強いものもない」

 いつかのように、バゼットは掌を差し出す。

「一応言っとくが、勘違いするなよ。アンタがただの魔術師だったなら本当に此処までだった。けど、アンタの切り札は有用だ。そこに利用価値があるから、今回だけは付き合ってやるんだからな」

 おずおずと、モードレッドはもまた掌を差し出した。

「なるほど……これが様式美、というものですか」

「何の話だッ!」

「いえ、こちらの話です」

 誓いの握手を終え、モードレッドは切り出す。

「けど、本当に間違えるなよ。ランサーを取り戻す事は出来ない。サーヴァントを奪われた時点で、アンタの聖杯戦争は既に終わっている。此処から先は、バゼット──おまえ個人の戦いだ」

「承知しています」

 令呪を失ったマスターは極稀に聖杯より令呪の再分配が行われる場合がある。だがそれに賭けるには余りにも望みが薄い。
 何より、そんな甘えた事を言ってサーヴァントを御するマスター達からランサーの誇りを奪い返すなど至難を極めよう。

 だから、彼女達がこれから臨むのはランサーを取り戻す為の戦いではない。ランサーの誇りを、彼の魂を取り戻す為の戦いだ。

「じゃあとりあえず、拠点に戻ろうぜ」

「は……? 今からランサーのところへ行くのではないのですか?」

「莫迦を言え。ランサーを奪ったのはキャスターだぞ? ガウェイン達と共闘しても森の結界は崩せなかったんだ、オレ達だけで森に挑むのはただの無謀だ」

 ランサーという戦力が減じているばかりか、キャスターに使役され敵対する可能性が極めて高い。最悪三対一を強いられる事になる。そんな無謀には流石のモードレッドも付き合えない。

「森での戦いからこっち、バゼットはずっと眠りっぱなしで碌に情報交換も出来なかったからな。オレの知る情報とアンタの知る情報を突き合せて策を練るべきだろう」

「そうですね……」

「それに森での戦いからまだ一日も経ってない。何処かの陣営に動きがあるとするならもう少し後だろう。来るべき時の為、身体は休めておけ」

「ええ。貴女もですよ、モードレッド。彼の円卓の王と最強と謳われた騎士を相手に立ち回ったのです、疲労もそれなりにあるでしょう?」

「宝具を使ったわけでもなし、そこまでの疲労はないが……まあ、言われるまでもなく休むさ」

 後に控える大一番の為、無駄な力の消耗は避けておきたい。

 バゼットに組するのは感情論だけではない。今や戦いの天秤のバランスは崩れている。このまま事を進められてしまえばアインツベルンの優位性は揺るがない。
 ならば残った陣営は使える札は全て使い、彼の一角を崩すべきだ。その為に、バゼットの有する切り札は有用だ。

「ところでモードレッド。前から気になってはいたのですが……」

 拠点へと戻る道すがら、バゼットは不意に問いかけた。

「なんだ?」

「いえ、ただの好奇心ですので別に答えて貰わなくてもいいのですが」

「だから何だって。もったいぶるなよ」

「……モードレッド。貴女はマスターもなしにどうやって現界しているのですか?」

 それは根源的な問い。いる筈のない八人目。いてはならない八人目。それがモードレッドだ。

 サーヴァントがマスターと契約するのは現界の楔とする為だ。マスターを現世に繋ぎ止める依り代として機能させ、その維持はマスター自身からの魔力供給、そして聖杯からの供給によって賄われている。

 だからこその不可解。マスターもなく、単独で行動し、宝具の使用をすら可能とするモードレッドの異常。アーチャーが有するクラススキル『単独行動』であっても、ここまで自由な活動は不可能だ。

 十年分の余剰魔力。たとえそれが八人目の召喚を可能とし、事実モードレッドを現界させ続けているのだとしても、マスターのいない彼女は現世に留まる為の楔が欠けている。どれだけ魔力があったところで、留め置く楔がなければ現界は叶わない筈。

「ああ……なんだそんなことか」

 何でもない事のように、

「オレを現世に繋ぎ止めているのはオレ自身の祈りであり、あの王であり──そして、聖杯だ」

 そんな、語られぬ真実を口にした。


/32


『そうか……師は、身罷られたか』

 アインツベルンの森から帰還したその夜。

 戦場であった森はキャスターの魔術により昼を夜に偽装されていたが、凛達が遠坂邸へと戻ったのは夕刻頃。それから実に六時間ほど後の今現在。
 凛は宝石仕掛けの通信機を通し、言峰綺礼へと森の戦いの顛末を説明した。

 重く沈黙が降る。

 凛にとっては実の父を喪失し、綺礼にしても十年以上の間、師と仰いだ男がこの世を去ったのだ、思うところが何もないわけではないだろう。

「お父さまの最期の言葉は……貴方も聞いていたでしょう?」

 時臣の耳を常に飾っていた紅玉のピアス。それは音声送信専用の宝石細工であり、その仕掛けを通じて綺礼はある程度の戦場の状況を常に把握して来た。
 流石に音だけで一部始終の全てを把握するのは難しく、凛は森での戦いの一連の流れを綺礼に説明していた。

「お父さまは最期にこう仰られたわ。遠坂に、聖杯を──と」

 その最期まで、遠坂時臣という男は魔術師として生き、そして死んだ。たとえ一パーセントだろうとあった筈の己が命を救う可能性を捨て、凛の手の中に、勝利し得る可能性を遺した。

 凛が首から提げている赤い色の宝石。凛が虎の子する宝石達と同等か、それ以上の魔力を貯蔵された切り札。凛の手腕とこの宝石があれば、死の淵に瀕する者であろうと救えるだけの可能性を持つ。

 時臣はそれを自身の救命に使う事を拒絶し、これより熾烈化する戦いへと赴く事になる凛に託した。それがどういう意味か、今更論じるまでもない。

「私は聖杯を手に入れるわ、綺礼」

 手の中のペンダントを握り締める。

 これまで、目の前の戦いにおいて勝利を得る事だけを見てきた凛。聖杯は勝利に付随するオマケ程度にしか見ていなかった。
 手に入れてしまえば使い道を色々と考慮しただろうが、手に入れる前から皮算用をするほど凛は酔狂ではない。

 ただそれが僅かに変化した。勝利を掴む大原則は変わらずとも、聖杯を得る事──そして遠坂の悲願を達成する事が、凛の中で明文化された。
 これまで漠然としていた勝利への道筋が確固たる意思となった。微々たる変化ではあっても、確かにそれは、この世を去った五代当主の跡を継ぐ、六代当主の宣誓だった。

『そうか……凛、おまえの成長を師も御喜びになられている事だろう。とはいえ導師とて命を奪われるほどの闘争だ、今後更に激化する事を思えば想い一つで容易く乗り越えられるものではあるまい』

「そうね。でも、こっちの戦力的な痛手はそう大きくないのが幸いよ」

『ああ、ガウェインを律する令呪は未だ三画。導師という戦力以外に、アインツベルンの森で遠坂が失ったものは何もない』

 ガウェインのマスターは初めから綺礼だった。中立を謳う教会の人間、ましてや監督役が一参加者であるという情報を公にするメリットは何処にもない。
 その為、綺礼の代わりに時臣はガウェインの仮初めのマスターとして戦場に立ち続けてきた。彼自身の提案によるものとはいえ、時臣はあくまで、偽装の為の代理マスターに過ぎない。

 時臣が使用したように見せかけていた令呪も偽装工作によるもの。真実は彼の耳を飾るピアスを通して、綺礼が遠く教会から令呪を発動していたのだ。

 更に、綺礼は監督役という特性上、過去三度に渡り持ち越された未使用令呪をその腕に宿している。前任者である父──言峰璃正より譲り受けたその令呪は、任意によって他者に譲り渡す事を可能とした。

 綺礼はこれを使い、時臣が使用した三度の令呪を補填している。つまり、ガウェインを律する為の令呪に欠損はない。栄えある太陽の騎士の頭上には、いつでも、何度でも太陽が輝くだろう。

『それで、どうするつもりだ凛。ガウェインはその消滅を免れたとはいえ、マスターと認識されていた導師は死んだ。これをおまえはどう扱う?』

「どうも何も、今まで通りよ。まさか綺礼、アンタが前線に出張るわけには行かないでしょう?」

 中立者にあるまじき一陣営への肩入れ、マスターである事を隠蔽した事実、そして職権の乱用による令呪の補填。
 一つ一つが重罪であり重なれば言わずもがな。公になれば監督役の地位を剥奪されるばかりか綺礼自身が相応の罰則を与えられるだろう。知りながら加担した、むしろ推奨した遠坂もただでは済まない。

『ふむ……では私の存在を隠し通したまま、ガウェインとアーチャーを運用すると?』

「ええ。聖杯のバックアップがある状態なら、私なら二騎のサーヴァントを従える事も不可能じゃない。幸い宝石のストックは山ほどあるし、魔力枯渇の心配もない。私のスペックを知っている魔術師なら、疑問に思っても納得するしかない」

 一拍の後続ける。

「たとえ偽装がばれても、アンタに辿り着ける奴が何人いるかしらね。アンタにしたってバレないように細工はしているんでしょう?」

 綺礼の令呪は右腕にびっしりと刻まれた余剰令呪に紛れるように現われている。僧衣の袖が令呪群を覆い隠しているし、たとえ見られてもどれが本物なのか分かるわけもない。何故ならその全てが、本物なのだから。

 ばれたところで知らぬ存ぜぬを貫き通せば良い。証拠もなく監督役に矛を向ければ、それこそこちらの思う壺だ。

「だからこれまで通りアーチャーとガウェインを使うわ。ガウェインの令呪の使用タイミングはこれから私が報せる。アンタも今まで通り監督役面してそこで踏ん反り返ってればいいわ」

 これより激化を辿る事になるだろう戦いにおいて、有用な戦力であるガウェインを隠し持つ意味などない。ランサーがキャスターに奪われた事でより隠匿する必要性が薄れた。アーチャー単独でアインツベルン相手に立ち回るのは分が悪すぎる。

『それがおまえの結論であるのなら、そうするがいい。私から異論はない』

「とは言っても、どうしたものかしらね。アインツベルンに仕掛けるのは現状自殺行為。かといって、他に手を出してアインツベルンに漁夫の利を持ってかれるのも気に食わないのよね」

 戦力バランスの拮抗が崩れた現状、優位にあるのはアインツベルン。ましてや森の大結界に再び挑む事は無謀に等しい。
 どうにかしてアインツベルンを森から引き摺り出さなければ、打つ手のなくなった他陣営が玉砕紛いの特攻をしかけ順次狩られるはめになりかねない。

 あるいは先の凛の言葉のように、他陣営同士が争い漁夫の利を掻っ攫われるか。どの道にせよ上手くない。何かきっかけがあれば良いのだが……。

「あ、そうだ綺礼」

 未だ途切れていない通信装置の向こうにいる綺礼に、凛は思い出したように問いかける。

「アンタ、夕方頃いなかったの? 一度連絡したけど反応なかったんだけど」

『ああ、所用で少し外していた』

「所用って何よ」

 アインツベルンの森で戦闘が行われたのだから、先の戦いのような大規模な隠蔽工作は必要ない。となれば、当然綺礼の出番もない。戦いがほぼ終息していたとはいえ、無断で綺礼が通信機の前を離れるほどの何かがあったのか、とそう凛は問うた。

 それに綺礼は無機質な声で答えた。普段と変わらぬ、何にも関心を抱かぬ声で。

『何、小五月蝿いハエを払っただけだ』



+++


 凛との通信を終え、綺礼は自室へと戻りソファーへと身を預ける。

 頼りなく揺れる蝋燭の明かりが照らすのは、テーブルの上にばら撒かれた数枚の紙。衛宮切嗣の経歴を記した書類だ。

 監督役という立場上、綺礼は表立って動けない。中立を謳う者として、一個人として戦場に立つ事は許されていない。

 特に衛宮切嗣ならば、既に綺礼がガウェインのマスターである事にほぼ確実に感付いているだろう。それでも手を下せずにいるのは、綺礼の立場があるからだ。
 監督役に矛を向ける事、敵対する意味。その後に下される罰則。そういう計算もあるだろうが、何より綺礼が切嗣の思惑を見抜いている事を、切嗣は恐らく理解している。

 互いに下手に動けばその失策を利用する腹だ。故に両者は無関心を装い、かたや一参加者として、かたや監督役として、闘争の渦の只中に居続けている。

 綺礼の思惑が叶う時。
 切嗣の眼前にこの狂える男が向き合うのは──

 ──恐らく、全てが叶うその直前。

 誰の横槍もなく。
 全ての祈りを踏み躙った先。
 黄金の杯が天に輝くその時こそが、約束の刻限。

 いずれ来るその瞬間を心待ちとし、神父は闇の中で静かに微笑む。

 そう──既に賽は投げられたのだから。

「マスター」

 不意に、虚空より響く凛とした声音。闇の中に涼やかな風が吹き込んだかのように錯覚する。

「ガウェインか」

 扉の方を振り仰ぐ綺礼。そこには白の甲冑を纏いし、遠坂時臣のサーヴァントとしてこれまで戦場に身を置き続けてきた、綺礼のサーヴァントの姿があった。

「何用だガウェイン。私はおまえを呼んだ覚えはないが」

 綺礼は召喚からこっち、ガウェインとほとんど会話をしていない。召喚直後はそれなりに言葉も交わしたが、あくまでそれはマスターとサーヴァントとしてのもの。互いにその境界線を割り切っていたからこそ、何の問題も生じなかった。

 綺礼は遠坂に組するマスターとしてガウェインを派遣し、ガウェインは己がマスターの剣である事を頑なに守り、主の命を遂行してきた。
 最初に命じた『遠坂時臣をマスターとし、その命令を第一とせよ』という綺礼の言葉の通りに。

 だが今、この場にガウェインがいるのは綺礼の命令ではない。時臣が命を落とし、新たなる命令を授かりに訪れたとも取れるが、これまでの綺礼の行動を鑑みれば、そのまま凛の指揮下に入るのが正しい選択だと気付けないほど、この白の騎士は愚かではあるまい。

 だからこその問い。

 誰が相手であろうと見下す事もしないが、仰ぎ見る事もない綺礼だからこそ、不可解な動きを見せた己が従者に問うのはある種当然と言えよう。

「マスター。貴方に一つだけ問わせて頂きたく、こうして参上した次第です」

「…………」

 不可思議だ、と綺礼は思った。

 まるで木偶のように、オウムのように、下した命令に全てイエスと答え続けてきた騎士が問うと言う。
 この白騎士にとっての忠義とは、主の命令を疑わず、過たず遂行する事にあると綺礼は見ていた。だからこそ何の苦労も背負う事はなかったが、ならば何故此処に来てそんな言葉を口にするのか。

「ほう……? 珍しい事もあるものだ、太陽の騎士。己をただ一振りの剣と断じておきながら口を開くと、そう君は言うのかな」

「…………」

 押し黙るガウェイン。彼もまたそれが、この場にいること自体が正しいのかどうか、判断を下せずにいるように思える。

「まあいい。問いがあるというのなら答えよう。無論、私に返せるものであれば……の話だがな」

 白騎士の心変わり。鉄の忠誠心を揺らがせたものが何であるか、綺礼は知らない。ただその変化を面白いと思う。死の淵で無念と悔恨に涙を流すほどの想いを束ね、己を剣であると誓いを立てた男に生まれたその変化。

 その正体を見てみたい、と。

「マスター、貴方にとって私は如何なる存在ですか」

「…………」

 幾つかの問いを予想していた綺礼だったが、それは嘆息に値するものだった。

「愚問だなガウェイン。私はマスターであり、おまえはサーヴァントだ。それ以上でもそれ以下でもあるまい?」

 二人の間に信頼と呼べるほど強固な関係性などある筈もない。遠坂を勝者とする為にサーヴァントを求めた綺礼と、ただ己の心の中にある理想の主に忠義を尽くすガウェイン。両者に歩み寄る余地はない。

「正直なところ、おまえがいようがいまいが私にとって差異はない。監督役という立場もあり、表立って動けぬ人間にサーヴァントは過ぎたるものだ」

 そして何より、と綺礼は続け、

「私は聖杯に希うものなど何もない身だ。命を賭け、死力を尽くし合い争う他のマスター達とは毛色が違う。
 私が求めているものは唯一つ────」

 この救いなき身に答えを齎せる者との邂逅のみ。

 誰が聖杯を手にしようが、勝ち残ろうが、己がサーヴァントが消え去ろうが、その大目的が達成されるのであれば他はいらない。
 そして綺礼の中には一つの絵図が見えている。たとえこの未来予想が外れたとしても、ならばあの男はそれまでの男だったという事。

 やはり己は何かの間違いで生れ落ちた屑なのだと、再確認するだけの事だ。

 綺礼は何も求めない。
 既に世界を達観している。

 善行よりも悪行を尊び。
 正道よりも外道に組し。
 美しきものより、醜いものにこそ恋焦がれる。

 そんなあるべき倫理観から外れた男に、その在り方に諦念を覚えてしまった男に、何かを期待すること自体が間違っている。

「私におまえが理想とする王の姿を重ねようとするのなら、やめておけ。私に王の素質などあるわけもなく、たとえあったとしてもそう振舞うつもりなど毛頭ない。王の影を私に着せ取り繕おうとしても無駄だ、すぐにボロが出る」

「…………っ」

「ガウェイン。何がおまえの心を変えたのかは知らないが、私から言える事は何もない。私におまえの行動を制限する気はない。名目上のマスターは私だが、実際に指揮を執るのは遠坂の人間だ。
 質問には答えた。もう用がなければ戻るが良い。万が一にも教会を出るところを見られるような無様はやめてくれ」

「…………」

 これ以上の会話は不毛の極地だ。どれだけの言葉を並べ連ねようと、綺礼の心には響かない。
 上辺を滑る耳障りの良い言葉が聞きたいのであれば幾らでも吐き出せる。だがガウェインはそれを求めていない。だから全ては綺礼の本心。

 この男は──心底からガウェインに興味がないのだ。

 ガウェインをサーヴァントとしたのも、夜が戦場となりやすい冬木において令呪の使用回数の制限が緩い綺礼だけの特性を利用しようとした時臣の進言によるもの。
 マスターとサーヴァントの相性を度外視した、縁の品による強制召喚。本来ならば軋轢の生まれやすいこの召喚形態でもこれまで何の問題も生じなかったのは、線引きの出来るガウェインの在り方があってのもの。

 剣としての在り方に疑問を覚えた己が従僕の心を導くだけの誠実さが綺礼にはない。この高潔たる騎士の心を暴き見たところで、綺礼が悦楽を覚えるほどの濃い闇を覗き見る事は叶わないのだから。

 ソファーの背凭れに身を埋め瞳を閉じた綺礼。最早言葉を交わす必要もないという明確な意思表示。
 ガウェインは己がマスターへと目礼し、霊体化しようとしたその直前──

「私情にて剣を振るった事を悔い、主の命じるままの剣となると誓ったはずのおまえが、今一度私情にて剣を執ろう言うのなら──」

 ガウェインが振り返る。綺礼は瞳を閉じたまま、何をも見つめず最後の言葉を告げた。

「そこに悔いを残したままでは、同じ過ちを繰り返すだけだ。それそのものが過ちであると気付かなければ、何度でもな」

「…………」

 ガウェインは僅かに目を見開き、口元に笑みを浮かべた。言葉は必要ない。礼などこの男は求めてはいない。だから先と同じく、静かに目を伏せ、現われた時と同じように、白の騎士は闇の中に溶けていった。

「……全く」

 綺礼だけが残された室内で、彼もまた笑った。

「らしくもない事をする。ああ……それほどに、この心は高揚しているのか」

 何にも関心を抱けなかった心に熱が灯っている。

 誰に知られても蔑みの目を向けられる在り方を隠し通してきた長き日々。悟られる事もなく過ぎし追憶。その終焉はもう間もなく。問い続けた日々の苦悩も、諦めに至った後の日々の無為も、ようやく報われる時が訪れる。

「────聖杯の眼前にて、汝を待つ」

 静かに。
 告げるように。
 言祝ぐように。

 神父は揺らめく闇の中、そう謳い上げたのだった。


/33


 時は遡り、夕暮れ時。

 一台の自動車が深山町の一角に構える武家屋敷の正門前で停車した。

 ハンドルを握っていたのは衛宮切嗣。助手席にはセイバーの姿がある。二人は言葉もなく降車し、仮初めの宿へと再び訪れた。

 アインツベルンの森での激戦の後、善後策を練った三人の結論は、拠点を森からこの屋敷へと移す事で合意された。

 鉄壁にも等しい森の大結界。事実二度の襲撃に耐え、撃退した結果がその城壁の高さを示している。ただやはり、憂慮されたのはイリヤスフィールの存在。
 間桐臓硯の手に落ちた彼女を捨て置き、来るかどうかも分からない敵を待つのは消極策に過ぎると言うもの。

 森の中で待ち構え続ければ、まず間違いなく勝利を掴めるだろう。アインツベルンを除く三つの陣営全てが結託でもしない限り、あの森は不落を貫くと想定される。ただ、その恐れるべき協定も、間桐と遠坂の因縁がある限り困難を極めるものとなろう。

 しかし篭城を続ければ、敵がどんな手に打って出るかは不明瞭。最悪、アインツベルンの手に聖杯が渡る事を忌避し、ならば誰にも渡らぬ方がまだマシだとイリヤスフィールを殺害する可能性さえも有り得る。

 故にこうして彼らは不落の城を無人のまま残し、前衛拠点へと移動した。最低限の警告結界しか敷設されていない、魔術師の工房にあるまじき四阿。此処を敵の襲撃に耐えられる強度に造り替える時間的余裕はない。

 魔術師にあるまじき開けた屋敷だからこそ敵の目を欺き、簡素な結界しかないからこそ敵の盲点にもなりうる。
 何もしない事も一つの防衛策。敵の襲来があったとしても、サーヴァント達がいる限りそう易々とは突破される事もあるまい。

「悪いけど、少し出掛けるわ」

 先に屋敷へと霊体となって移動していたキャスターが、庭先へと入った切嗣と目を合わせるなりそう言った。切嗣は続きを促す。

「結界もりの中だからこそ可能だった事も、此処そとじゃ簡単には出来ませんもの。特に転移は森のように自由自在にとは行かないわ。
 土蔵を帰還基点とした跳躍は可能なように細工をしたけれど、他にも幾つか仕掛けておきたいから」

「好きにするといい。ただ、敵への警戒は怠るな」

「言われなくとも分かっているわ。あーあ、誰かさんが余計な事をしなければこんな苦労も必要なかったのだけれど」

「…………」

 切嗣は答えず縁側から母屋へと入って行く。ふん、と鼻を鳴らし、キャスターはローブに包まれるようにして虚空へと掻き消えた。

 森での一件以降、二人の関係は目に見えて悪化している。元々二人ともが疑念を持って互いを見ていたところはあるが、他陣営への対処という名目の下、力を合わせていたのもまた事実。

 今もそう、表面上は悪態をついたり無視したり、以前にはなかった兆候が見られるが、足並みが崩れているかと言えばそうでもない。先の展開を優位なものとする為、目に見える協力はなくとも互いに最善を尽くしている……ようだ。

「…………」

 はぁ、とセイバーは嘆息する。

 板挟みになる身にもなって欲しい。先の城での会議という名の水面下での足の蹴りあいのような、針の筵に座らせられるような事は二度と御免被りたい。

 ただ、セイバーも思うところがないわけではない。

 キャスターの磐石を期した足場が崩された苛立ちも、切嗣の何を犠牲としてでも目的を成し遂げるという意思も、セイバーには理解が出来る。

 何が正しく、何が間違っているかを論じるだけの時間はない。場を諫める程度の事はしても、セイバーは己を剣と断じる者。個人の意思は二の次だ。全ては、結果によって優先される。

 切嗣の目論んだ策が結実するかどうか──ようはそこに全てが懸かっている。

 先に屋敷へと踏み入った主を追い、セイバーも敷居を跨ぐ。

 切嗣の姿は居間にあった。居間には何やら機械の類が幾つも置かれ、その配線が地を這っている。
 他には銃器の整備用品など、かつてはなかった筈のものが散見される。切嗣が持ち込んだものでなければ、彼がその助手である舞弥に用意させたものだろう。

 当の切嗣は立ったまま、携帯電話を耳に押し当てていた。

「…………」

 長く続くコール音。セイバーが居間へと踏み入るその前から鳴り続ける電子音。いつもなら取り決めの通りツーコールで出る筈の舞弥が、電話に出ない。

 ……まさか。

 切嗣の脳裏に良くない想像が過ぎる。衛宮切嗣の助手にしてこの男よりもなお機械めいた女。そんな舞弥が、切嗣からの連絡に出ない。それそのものが異常だ。

「…………」

 無言のまま電話を切る。足早に、切嗣は外へと歩き出す。

「マスター、外へ出るなら同行します」

 切嗣は振り返らず、一瞬だけ足を止め、直後無言の肯定を以って歩き出そうとした時──

「…………ッ!?」

 切嗣の左手の小指に激痛が奔る。

 それは“一つの結末”を告げる痛み。衛宮切嗣の小指には呪的処理を施された舞弥の頭髪が仕込まれている。
 髪の持ち主に命の危機に関わるような事態が起こった時、自動的に燃焼し相手へと伝える仕組みとなっている。

 どれだけ待とうと繋がらないコール。瀕死の場合にのみ発動する呪的連絡。二つの事柄が指し示すのは、久宇舞弥の窮状に他ならない。

 切嗣が把握している舞弥の潜伏先までは、どれだけ急ごうと十分以上はかかる。いや、セイバーのみであれば彼女の下へ飛ばすのは不可能ではない。
 令呪の力を用いれば、もし仮にまだ舞弥が生存していれば助けられるし、襲撃者の正体も見当がつけられる可能性がある。

「マスターっ!?」

 突然顔を顰め指を押さえた切嗣の行動の理由を知らないセイバーは、ただならぬ事態が起こったとだけ認識するしかない。全ての決断は切嗣個人の裁量に委ねられている。

「…………」

 短く息を吐き、切嗣は外へと向かう。

 令呪は使わない。三度しか許されないブースターを、生きているか死んでいるか分からない相手を助ける為に使う愚行は犯せない。
 連絡が取れてその最中に起こったのならまだしも、既に毛髪が燃え尽きた以上、生存の目は少ない。

 助けられるかもしれない人間を見捨てる事に躊躇はない。たとえそれが長く連れ添った相手であったとしても、衛宮切嗣の心は揺るがない。
 既に娘の命すら理想を叶える為の生贄として差し出したのだ、今更人並の情で心の矛先を変える事など、どうして許されようか。

 だから衛宮切嗣は静かに、久宇舞弥の死を受け入れた。

 そしてその死を看取る為ではなく、少しでも情報を得る為に、車のハンドルを握り隠れ家の一つへと急いだ。



+++


 鼻を衝く血臭。
 噎せ返るような血の匂い。
 壁一面の赤。

 舞弥の潜伏先であった隠れ家の扉を開いた切嗣の目に飛び込んできたのは、壁を背に頽れた久宇舞弥の姿。

 だらりと下がった腕。
 投げ出された足。
 目は閉じられ、口からは一筋の血が垂れている。

 呼吸を確かめたり、脈を測り生死を確かめるまでもない。
 死因と思しき胴──心臓の傷口から零れたのであろう赤い血が、彼女の下に水溜りのように広がっている。

「これは……」

 遅れて室内へと踏み込んだセイバー。彼女の瞠目を他所に、切嗣は膝を折り舞弥だったモノの検分を始めた。

 下手人の姿など無論なく、死因は剣のような刀身の長い得物か。背を突き抜け、壁に痕跡を残すほどの膂力で以って舞弥は心臓を一突きにされたようだ。剣と思しき凶器が引き抜かれた際に崩れ落ち、今の格好となったと思われる。

 近くにコンバットナイフが一振り落ちている。それも抜き身の状態で。
 であれば、舞弥は無防備に殺害されたのではなく、抵抗したが及ばず息の根を止められたのだろう。

 そもこの街に切嗣以外に舞弥の知人はいない。セイバーとてこれが初面識。唯一可能性があるとすれば如何なる手段を用いてか、連絡を取ったらしいキャスターだが、彼女が襲撃者であれば舞弥が抵抗の意思を示すとは思えない。

 あの魔女の事だ、何らかの目的を持ち舞弥を殺害し、切嗣を欺く為の工作を行った可能性も考えられるが、今回に限ってはその線も薄い。

 舞弥の膝の上に、わざと目につくように置かれた一枚の紙。その紙の上にはこう記されていた。

『聖杯の眼前にて、汝を待つ』

 無機質な筆致。特徴の何もない文字の羅列。わざとそう書かれた襲撃者による切嗣宛てのメッセージ。

 ならば襲撃者は切嗣と舞弥の関係性を知る者。切嗣自身は無論有り得ず、セイバーにも不可能。キャスターでさえないのなら、可能性を持つ相手は、唯一人。

 ────言峰綺礼。

 唯一人、舞弥に辿り着けるとすれば奴しかいない。この街に潜伏する教会スタッフを手足のように使える監督役という立場。
 常に教会に監視の目を置かせていた事に気付いていたのなら、中立にして公平を謳う教会に猜疑を抱く輩がいると唆し、調査を行わせていても不思議ではない。

 ならばこれは切嗣の失策。

 有益な情報を何一つ引き出せず、警戒だけをし続けた代償。動きを封じる為の監視が逆にこちらに協力者がいる事を悟らせ、暴かれ、付け狙われた。

 久宇舞弥は、衛宮切嗣の愚かさ故にその命を失った。

「マスター、外を警戒します。まだ襲撃者が近くに潜伏している可能性もありますので」

 切嗣の肯定を待たず、セイバーは部屋を出て行く。

 襲撃者──言峰綺礼が近くにいる可能性など皆無だ。気を利かせたのかもしれないが、そんなものは余計なお世話だ。

 切嗣に悲しむ資格はない。詫びる資格などある筈もない。いつか切り捨てるまで、都合良く使い潰すつもりの女が予定よりも長く持った──そして今、ようやく終わった。ただ、それだけの事だ。

 そっと伸ばした掌。血に塗れ、何を掴む事も許されないと思い続けた掌を、死んだ女の頬に添える。
 まだ温かい。人の温かさがまだ、この身体には残っている。失われていく体温。やがてこの温かさも消え、文字通りの屍へと変わってしまう。

 それを止める手段はない。止める理由も見当たらない。そもそもとして、止められる筈などない。既に失われた命は、何をどうしようが還る事はないのだから。

「舞弥……ご苦労だった」

 悲しむ事も、詫びる事も許されぬのならば……せめてこれまでの働きを労うくらいは許されてもいいだろう。

 それが別れ。
 それが終わり。

 衛宮切嗣と久宇舞弥の別離は──こうしてその幕を閉じたのだった。



+++


 後始末を終え、手筈の全てを整え終えた切嗣は、セイバーと合流し深山町の拠点へと戻るべくハンドルを握る。

 死んだ人間の事をいつまでも引き摺るような切嗣ではない。今、真っ直ぐに前を見つめるこの男の脳裏には、襲撃者である言峰綺礼の事だけが浮かんでいた。

 言峰綺礼は何を想い、久宇舞弥を殺害したか。

 舞弥を殺したのは恐らく、ついでのようなもの。あの男の目的は切嗣のバックアップを奪う事でも、奪った事で動揺を誘う事でもない。

『聖杯の眼前にて、汝を待つ』

 このメッセージを切嗣に見せる事。ただそれだけが、目的だった。

 現場に自身の痕跡を何一つ残す事のなかった男が残した、唯一の証拠。わざと残していったメッセージであるのなら、他に理由は考えられない。

 未だ全サーヴァントが存命しているこの状況下で、既に終幕を見据えたメッセージを残した意味。このタイミングで舞弥を排除した綺礼の狙い。

 それが意図してのものか、そうでないのかは不明ながら、切嗣も此処に来てようやく現状を正しく把握した。

 この戦いはもう長くは続かない。

 拮抗していた天秤はバランスを崩し、これまで溜まりに溜まった目に見えない力が、坂道を転がるように終局に向けて落下している。この聖杯を巡る戦いに関わった全ての者を巻き込みながら。

 膠着は終わり、誰もが終わりを見据えて動いている。失ったもの、手に入れたもの。それぞれが手の中に残ったものを全て使い、己が目的を果たさんとして。

 ……ならば僕もまた、全てに決着を着けよう。

 窓の向こうに見える空は灰色。
 雨の到来を告げる鈍色だ。

 その果てから忍び寄るように迫る暗雲。
 それはまるで──彼らの行く末を暗示するかのように……。


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「これが……聖杯……?」

 アインツベルンの森での戦いを終えたその日の夜。間桐邸へと帰還した彼ら間桐の人間は薄暗いリビングに一同に介していた。

 森で臓硯を回収した折、彼の者が抱えていた少女の正体。キャスターのマスターを人質として攫ってきたものだと思っていた雁夜は、臓硯の言葉に唖然とした。

 だってそうだろう、目の前のソファーに横たわるのはただの女の子だ。雪のような白さの髪と、透けるような肌の白。身を飾る気品溢れる衣服も相まって高貴な雰囲気を纏っているが、どうみても年端もいかぬ少女そのもの。

 この少女が聖杯を隠し持っている、という話ではない。この少女自身が、聖杯の器それそのものなのだ。

「錬金術に長けたアインツベルン製のホムンクルス。彼の者らは聖杯の守り手としての役を担い以前の闘争にも随伴しておった。だが三度目の争いの際、聖杯の器はその完成を待たず破壊されてしまった。
 その反省を活かした自己防衛能力を有する生ける聖杯。ホムンクルスに聖杯を宿すのではなく聖杯に手足を付随するとは、あやつの発想には儂も舌を巻くわい」

 カカ、と嗤う臓硯。しかし雁夜はこの少女を仕組んだ誰かにも、その仕組みを知ってなお泰然としている目の前の悪鬼にも、吐き気を覚えるほどの邪悪を見た。

 まともな倫理観でこんな事が出来るものか。容認出来てたまるものか。幾ら造られた命とはいえ、それを弄び、己が目的の為の玩具とする事を、肯定出来る訳がない。

 ただ、雁夜は安堵もした。自分はこんな腐りきった魔術師とは違うと。命を玩弄する輩にまだ怒りを覚えられる人間なのだと、そう安堵した。

 ──その醜さを、浅ましさを、知る事もなく。

「で、この子をどうするんだ」

「どうもせん。というよりもどうにも出来ぬ」

 じくじくと、臓硯の足元より数匹の蟲が這い出した。蟲はソファーを這い登り、イリヤスフィールに取り付こうとした瞬間、

『ギィ……!』

 気味の悪い断末魔を残し、一匹残らず消滅した。

「魔術的干渉を行おうとするとそれに反応して迎撃を行うよう設定されておるらしい。この小娘自身の判断か魔女の入れ知恵かは知らぬが、賢しい真似をしてくれたものよ」

 魔術による干渉が不可能であれば、正直なところ臓硯にはイリヤスフィールをどうこうする事も出来ない。自分の都合の良いように操る事もその詳しい生体についての調査も出来ない。

 せめて令呪を剥奪し、キャスターを消滅させられればとも思ったが、これではそれも至難を極める。

 物理的な干渉は此処まで運べた事からも可能だと思われるが、下手に肉体に損傷を与えて聖杯の機能に不具合を起こされてはたまったものではない。
 その身は機械より精緻でガラスよりも脆い芸術品。扱い方を間違え、これまでの苦労の全てを水の泡とするような愚かな真似は出来ない。

 臓硯自身、正直なところイリヤスフィールの存在を既に持て余し始めている。聖杯の器を手中にしているという事実は今後の局面を優位に運べる好材料となりうるが、同時に器に傷をつける事が許されないのであれば人質としての意味を為さない。

 逆に言えば、衛宮切嗣によって押し付けられた可能性をすら考え始めている。

 最終的に手元に戻ってくるのならばそれで問題ないと。一時的に敵の手に預けたのは、逆にイリヤスフィールをこちらのネックとする為の策なのではないかと。

 幸いにしてイリヤスフィールが目を覚ます様子はない。自分自身を人質に暴れ回られるような事態になられては面倒極まるが、自己防衛を優先する為の眠りに落ちていると見るべきだろう。

 とはいえ、衛宮切嗣の手によって間桐臓硯へと贈られたトロイアの木馬。それがこのイリヤスフィールになりかねないは事実。

「お爺さま」

 その時、これまで沈黙を保っていた桜がその口を開いた。以前と変わらぬ幽鬼のような立ち姿。長い前髪の向こうの瞳は、微かにしか窺えない。

「なんじゃ、桜よ」

「お爺さま。もしお爺さまが“それ”をいらないって言うのなら──私に下さい」

「桜ちゃんっ!?」

 雁夜は無論、臓硯にしても桜の嘆願には驚きを隠せない。間桐の家へと迎えられてからこっち、彼女自身が何かを求めた事など一つもなかった。
 身の丈に合わぬものを望めば、鋭い鞭が飛んでくるとでも言うかのように。桜はただ、臓硯の言いなりになるばかりの人形だった。

 人形が願いを口にした。動かぬ筈の口を動かし言葉を発した。脅えて肯定の意を返すのではなく。自ら、望むものを手に入れようと。

「ほぅ……? 珍しい事もあるものだ。して、桜よ。仮に儂がイリヤスフィールを貴様に譲り渡したとして、どう扱うつもりだ?」

「決まっています。彼女が聖杯の器であるのなら、その器に魂(みず)を注ぎ、捧げるだけです」

 この街に集う今回の聖杯戦争における生贄──聖杯の器にくべられるべき英霊の魂の数は八。本来は七つで満ちる杯に、十年の遅延が生んだ余分が一つ。
 されどその器には未だ一滴の水も注がれていない。全てのサーヴァントは存命し、戦いの行く末は未知数。

 この段階で聖杯を聖杯として機能させる術はない。桜の言葉は、戦いの行方を見守るのと何ら変わらないもの。それではわざわざ臓硯が桜に聖杯を託す理由はない。

「いいえ。抱え続けても満ちるその時まで邪魔になるものであるのなら、いっそ最初から捧げてしまえばいいんです。
 聖杯の器を欲しがるのは、何も私達だけじゃないんですから」

「ほう……? つまり桜よ、貴様はイリヤスフィールを他の連中を戦場へと誘う餌にしようと?」

「はい。今回の降霊の地が既に判明しているのであれば、そこに導くだけでいいんです。勝ち残らなければ意味がないのなら、わざわざ危険を冒して聖杯の器を持ち続ける理由もないと思います」

 聖杯の器を手に入れたとするのなら、誰もがその死守に全霊を傾けるだろう。いずれ訪れる終焉の刻限、その時に聖杯が手の内にある優位性は語るまでもない。

 しかし、臓硯の分析が正しいのなら、扱いに困る聖杯の器を未だ脱落者のないこの段階で持ち続けるだけの理由は少ない。
 衛宮切嗣がわざと臓硯にイリヤスフィールを引き渡したのだとすればなおの事。彼奴の策を崩す意味でも効果的だ。

 聖杯の器が既に降霊の地にあると聞けば、こぞってその確保を目論む連中が押しかけるだろう。
 その状況を作り上げるという事は、これまで常に先手を奪い続けてきたアインツベルンの思惑の裏を掻く事にも繋がる。戦場の優位性を確保する事が出来る。

 森に引き篭もっていれば勝利はほぼ確定的なアインツベルンも、これでは戦場に出てくるしかない。

 衛宮切嗣とてイリヤスフィールの無事は確保しておきたいだろう。自らの与り知らぬところで戦いが行われ、そして聖杯の器が誰の手に渡るのか、どのような状態かも分からないような状況は避けたい筈で、ならば出張ってくるしか他にない。

 守り抜こうとすればするほど弱点を露呈させる聖杯の器も、扱い方次第で幾らでも状況を動かせる駒になる。

 この発想は桜だからこそのものだろう。物欲がなく、執着もない彼女ならではの策。聖杯に、自らの祈りの成就に、並々ならぬ執着を持つ臓硯ではこんな使い捨てるような策略に思い至らないのも不思議ではない。

「ふむ……悪くはない。カカ、孫が初めて爺に物をねだったのだ、くれてやるのも良いかもな」

 時を置けば衛宮切嗣が何かを仕掛けてくる公算は高い。その前に、動くのなら早いに越した事はない。

「良いぞ桜よ。イリヤスフィールはお主の好きにせい。だがくれぐれも丁重に扱えよ? もし聖杯が機能不全を起こすような事があれば──」

「大丈夫です、お爺さま。私にだって、聖杯を手に入れなければならない理由はあるんですから」

 糸に操られるだけだった人形を動かす理由。それが成長と呼ばれる類のものであったとしても、臓硯には微塵の興味も惹かれない。孫の成長を喜べるほど、この翁は人としての情を既に残してなどいないのだから。

「それで、お爺さま。今回の降霊の地は何処でしょうか」

「ああ……本来三つある霊地が順繰りに廻り、今回は一番初めの地点……柳洞寺だと推測されていたが状況が変わっておる。今回は新たに生まれた四つ目の霊地──新都の中心にある冬木市民会館が降霊の地じゃ」

 聖杯戦争を行う上で手を加えられた霊脈は、此処に来て異常を来たし、本来霊地ではない場所に最大級の力の瘤を形成するに至ってしまった。

 霊地としての格は当然ほかの三つに劣るが、六十年周期で満ちる筈のものに十年を上乗せされた結果、第四位の地点が他の霊地をも上回る魔力量を蓄えている以上、降霊の場所は変える事が出来ない。

「冬木市民会館……? 本当に新都のど真ん中じゃないか! あそこは周囲も住宅街で密集している。そんな場所で降霊を行うのか!?」

「何を危惧する雁夜よ。今更になって巻き込まれるかもしれぬ無辜の人間共の心配か? だとすれば遅すぎるな。
 この戦いの初めからこの街に住む者の命は危険と隣り合わせよ。これまで省みる事のなかった貴様にそんな世迷言を吐く資格などあるまい」

「くっ……!」

「だが安心せい。冬木市民会館はセンタービルと並ぶこの市の恩恵を授かった建築物よ。敷地面積は広大を誇っておる。よほどの事がなければ問題などあるまいよ」

 その『よほど』が起こり得る聖杯戦争だからの危惧。対城レベルの宝具を有する英霊が激突すれば、その被害は甚大に及ぶだろう。

 ただ、雁夜がしたような危惧を他の連中もしないわけではあるまい。特に正規の英霊達ならば、周囲への被害を慮るくらいの高潔さは持ち合わせている筈だ。

 逆を言えば、そのお陰で市民会館付近での広域殲滅型の宝具はその使用を封じる事が出来る。
 対人戦特化のバーサーカーにとっては優位な戦場を形成できる可能性もあるだろう。

 まあそれも希望的観測を含んだもの。聖杯を掴む為、祈りを叶える為と、他の全てを犠牲に出来る輩がいないわけがないのだから。

「じゃあ、雁夜おじさん。聖杯の器を運んで貰えますか」

 話はそれで終わったと、桜は行動に移る。

「本当に……やるのか?」

「はい。やるなら早い方がいいです。でないと、アインツベルンが何かを仕掛けて来ないとも限らないので」

 雁夜はまだ戸惑っていた。桜の余りの変わりように。

 森の戦い以前と、その後ではまるで別人だ。何が彼女を此処まで駆り立てるのか、雁夜には皆目見当もつかない。

「……分かった」

 それでも、彼女が自分の意思を口にしてくれるのは嬉しかった。人形のように唯々諾々と命令に従うだけの彼女は見るに耐えなかったのだ。
 たとえそれが聖杯を掴む為の策であろうと、彼女自身の意思で彼女が動いている事が、雁夜には嬉しかった。

 ……ああ、きっと俺達は勝てる。勝って、この地獄から抜け出して。

 その先に、幸福があるように──

 そんな、遠い夢の向こうを想う。
 今目の前にある、足元にある現実から目を背けるように。

 自らを騙る、欺瞞から目を逸らして。



+++


 そして雁夜はイリヤスフィールをその腕に抱き、間桐邸を去った。

 まだ誰の手も入っていない降霊の地へと。誰もがその確保を最優先とする筈がないこの時期だ、雁夜の道行きを阻むものは何もない。

 桜は残り、臓硯と今後について話し合う手筈となっていた。桜の策を了承したが、臓硯にとって桜は全てを託すにはまだまだ未熟。アインツベルンや遠坂に足元を掬われぬよう手解きをしてやろうと思った矢先──

「ライダー、『他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』を強制展開──令呪を以って命じます」

「ッ!?」

 瞬間、世界は血の色で覆われる。本来十日ほどの時間を掛けなければ構築出来ない魔法にも等しい大結界。それを令呪の強制力で、桜は強引に間桐邸内に展開した。

「──何を考えておる、桜っ! 血迷いおったかっ!?」

「いいえ、お爺さま。これが正しい選択です。この家に棲まう蟲のその悉く、一滴の魔力も残さず吸い尽くしてあげます」

 鮮血神殿はその内側に存在する魔力を有する存在を溶解し吸収する。並の人間ならば数分も保たず意識を失い、やがて全てを血液の形へと分解され吸収されてしまう。
 魔術師ならば自身に無意識に防護を行い、即座に分解されるような事はないが、結界内に居続ければ同じ道筋を辿る事になるだろう。

 臓硯自身が耐えられても、この家に蠢く無尽にして無数の蟲はそうもいかない。間桐臓硯の子飼いの蟲はそれ自体が魔力の塊。使い魔としてはサイズも小さい。
 人間大のものを溶解するには数分の時間が必要でも、蟲を溶かし切るのには数秒と時間は掛からない。

『ギィィィィィィ…………アァァ、ァァッッ!!!!』

 地の底から響く断末魔。腹の底へと響く雄叫び。自らの甲殻を溶かす血の霧に咽び、奪われていく魔力に身を捻じ切る。
 今頃間桐の修練場である蟲蔵は文字通りの血の海と化しているだろう。数万、数億にも及ぶ蟲が溶解した赤い海。純粋な魔力で満たされた、地獄の底に生まれた原初の世界。

「ォ、ォ、ォ、ォォ、ォォォ……!」

 蟲の絶命に伴い臓硯の表情が変わる。五百年を生きる化生も、まさか全ての蟲を一瞬で無に帰されるような事態は想定していまい。

「さ、くら……! 貴様ァ……!」

「うるさいですよ、お爺さま。そんなに叫ぶと、ほら──」

 桜の最後から臓硯目掛けて飛ぶ刃。ジャラジャラと鎖を打ち鳴らしながら、ライダーの得物である釘剣は臓硯の首へと巻きつき、引き戻す反動でその皺枯れた首を捻り切り落とされた。

 ごろり、と臓硯だったものの頭が床に転がる。それを見下すように桜は眇め、首を落とされてなお睨む瞳に鋭き眼光を宿す祖父の頭蓋を──

 ──その足の底で、踏み砕いた。

 じくじくと溶ける臓硯の身体と頭。蛆が沸いたように這い出す無数の蟲は、地下の仲間達と同じように鮮血の神殿に溶かされ、悲鳴を残して消え去った。

「最初から……こうしておけば良かった。そうすれば……」

 全てが終わった場所で桜は呟く。後に続く言葉は、誰の耳にも届かない。

「サクラ……」

「うん……大丈夫だよライダー」

 間桐臓硯がこれで確実に死んだという保障はない。

 常人に数倍する長い年月を生き、人の身体を捨ててでも延命を図った蟲なのだ、桜や雁夜の叛旗を予想していなかったとは思えない。
 それでも、この家に棲まう蟲の全てを消し去ったのは事実、間桐臓硯の力を削いだのは事実だ。

 たとえ生きていたとしても、何も出来まい。かつてと同じ力を取り戻すには相応の時間が必要だろう。たとえ対策を打っていたとしても、今すぐに復活出来るような手緩い奇襲をかけたつもりはない。

 臓硯が生きているのなら、その力を取り戻す前に決着を着ける。

 間桐桜はその覚悟で──あの悪鬼に初めての叛逆を行ったのだから。

「行こう、ライダー。全部、終わらせてしまおう」

「はい、サクラ。私は常に貴方と共に」

 臓硯の魔手から逃れない限りは桜に幸福な未来はない。だからライダーはこの奇襲に加担した。

 懸念すべきは、その血に濡れた掌で、幸福を掴めるのだろうか。先の見えない暗闇の向こうに、主の望む未来が待っているのか……。

 それはライダーには分からない。

 それでも、今出来る最善を。
 マスターの望む道を征く。

 それが彼女の在り方。
 この身が地獄に落ちようと、望みが叶うのならばそれでいい……。

 悪鬼の手から逃れた主従が夜を進む。
 誰もが予期し得なかった先陣を切り、聖杯の向こう側へと、辿り着く為に。



[36131] scene.15 Last Count
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/06/02 20:46
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 今夜はいつものように空に煌く星が見えない。どんよりとした分厚い灰色の雲が遥か彼方からゆっくりと迫り、果てまで続く夜空を覆い尽くしていく。

 遠坂邸の屋根の上。
 哨戒を任ぜられたアーチャーは一人、呆とそんな空を見上げていた。

 彼の心に渦巻く想いは如何なるものか。自分の知る世界とは余りにかけ離れてしまった世界。何が原因かも分からないこの世界。唯一変わらないと信じた少女の心は見通す事すら叶わず、ならばこの手に握る剣は一体何の為に振るうべきか。

 生前、迷う事なく果てを目指し走り続けた。たとえその先に破滅しか待っていないと理解しても、それでもがむしゃらに走り続けた。

 果ての先にあったのは無念と悔恨。自らの愚直さを呪い、胸に刻まれた呪いを恨み、渦巻く憎悪だけを糧として一縷の望みに全てを賭けた。

 ああ、それはもういい。此処が己の望みの叶わない世界ならば、いつまでも引き摺り続けるような無様はあってはならない。
 永遠を延々と繰り返せばきっと、己が願った世界へと至る事は可能だから。万に一つで足りないのなら、億に一度の奇跡に賭ける。

 この心がどれだけ磨り減り擦り切れようとも、その願いは今でもまだ心に残っている。

 だからそれはもういい。すっぱりと諦め、切り替える。今彼の心にあるのは一人の少女の面影だけ。冷徹な魔女として振舞い続ける、遠坂凛の幻影だけだ。

「アーチャー」

 不意に、横合いからかかる凛とした声。振り向けば、そこにはガウェインの姿があった。

「何を呆けているのですアーチャー。それでは哨戒の意味などないでしょう」

「ああ、耳に痛いな……」

 先日まではガウェインが哨戒についている時に色々とちょっかいを出してきたアーチャーだ、今自分が逆の立場に置かれて、そしてこの距離までガウェインの接近に気付かなかった迂闊さは、弓兵にあるまじき失態だ。

「それで、何用かなガウェイン卿。まさか私に喚起を促す為にわざわざ屋根の上に登ったわけではあるまい?」

「それも一つの理由ですが。ええ、アーチャー。先日の続きを……いえ、答えを貴方に告げる為にこうして参じた次第です」

 アインツベルンの森での決戦前夜、二人は今と同じく屋根の上で問答を繰り広げていた。

 アーチャーは言った。ガウェインの剣には意思がないと。彼の在り方を指し、自らの意思でその太陽の剣を振るっていないのだと。

 ガウェインは森での戦いでその意味を思い知った。理性を消失し狂える獣に成り果てたかつての盟友。そんな男が振るった意思持つ一閃。
 それは太陽の加護を得たガウェインの最大の一撃を斬り裂いた。生前ですら叶わなかった奇跡を、幸運を、意思の力で成し遂げた。

 ただ王の為──その一念が太陽の輝きを上回った。唯々諾々と主の命に従うだけだった白騎士の剣を凌駕したのだ。

「なるほど……その答えは、是非聞かせて貰いたいな」

 ガウェインが一度この屋敷を離れた事は承知している。恐らく、本当のマスターである言峰綺礼の下へと向かったという事も。
 であればこの白騎士はそこで答えを得たのだろう。あの神父がどんな言葉を囁いたのかは知らないが、ガウェインの顔を見れば分かる。

「いや、やはり止めておこう。その答えは君のものだガウェイン卿。私が聞いて良い資格などない」

「何故ですアーチャー。貴方が幾度となく私に問いを投げ掛けてくれていなければ、この答えを得る事も叶わなかったでしょう。資格がない、などという事は有り得ない」

「では告白させて貰うが、私が卿を焚き付けていたのは君を思ってのものではない。ただの八つ当たりだよ」

 永遠の王。
 少年王。
 いつか蘇る王。

 今なお呼び声高き彼のアーサー王を知る一人として、この現世で巡り会った王に仕えし騎士に苦言を呈していたに過ぎない。

「彼の王の高潔さを知っている。気高さを知っている。だからこそ許せなかった。王の心を解さず、彼女の心にあんな祈りを抱かせた君達円卓の騎士が」

 王は人の心が分からない、とは誰が言った言葉だったか。

 だが同時に、王に仕えた騎士達もまた王の心の内を理解しようとは思わなかった。王の迷いなき裁断や揺ぎ無き統制を身を持って味わい、王と自分達は根本的に違う生き物なのだと畏怖を抱いた。

 人の身では有り得ない無情。
 一切の手心なき断罪。
 私を殺し公の為に手を汚す王。

 人は理解の及ばないものに恐怖する。騎士達にとってまさに王は恐怖の象徴。海の彼方から襲い来る異民族達と何ら変わらない異物に見えていた事だろう。

 それでも王は結果を示し、戦果を示し、騎士の不安を抑え付けた。
 たとえ理解の及ばない怪物であったとしても、事実として国を守る為の役に立つのなら致し方ない、と。

 けれど頭ではそうと理解が出来ても心まではそうもいかない。自分の上に立つ存在がそんな人間離れした存在だという事を心底認められる者などそう多くはない。心から忠誠を誓える騎士は一握りにも満たない。

 だからこそ叛乱は起きた。
 だからこそ祖国は滅びた。

 人の心の分からぬ王に忠誠など誓えるものか、と。
 いつかその心無き刃は自分達へと向けられるのではないか、と。

 だがそれは逆に言えば騎士達も同様に王の心を理解しようとしなかったという事。

 無慈悲に見える決断の裏にあった軋るような痛みを誰も知らない。
 情なき裁断の裏にあった苦渋の思いを誰も知らない。

 王が王であり続ける為に封殺した少女の心を──誰一人理解しようとはしなかったから。

「たった一人でもいい。あの時、あの時代。彼女の心を理解する者がたった一人でもいてくれていたのなら、彼女はこんな戦いに臨む事はなかった。
 血染めの丘の上で咽び泣くように零した、あんな悲痛な願いなど、宿す事はなかった筈なのだから」

「アーチャー……貴方は……」

 まるで見てきたかのように語るアーチャーにガウェインは驚きを隠せない。少なくともガウェインの記憶にアーチャーと合致する風体の騎士は見覚えがなかった。
 だというのにこの赤い騎士は知り過ぎている。当時の円卓の面々は勿論、この戦いの中で知るまで思いも至らなかった情報を知っている。

 その正体についての猜疑が再び鎌首をもたげる。誰も名を知らぬ英霊。円卓の騎士でさえ知り得なかった王の心を解す者。共通項なき不明さが、なおその疑念に拍車をかける。

 しかしガウェインは『いや……』と心の中で首を振った。

 今更この弓兵の正体を論じる必要はない。たとえ問いかけたところで不都合ならば答えないだろうし、それを知りたいと思うのは欲深いというもの。
 知る必要があるのはこのガウェインではない。そしてそんな余分を気にかけていられるほどの余裕があるわけでもないのだから。

「これで分かっただろう? 私は利己的な憤りで君を唆した。あの王の傍らにありながら何をも為さなかった君達円卓の騎士を言外に糾弾したも同然だ。
 その苦悩を知ろうともせず、ただ悪戯に戦火を肥大化させ、あの血の結末を齎した不甲斐無い騎士へとな」

 皮肉めいた口調と共に口元を吊り上げるアーチャー。挑発と受け取られかねないその物言いは、けれど王の心を慮ったものだ。
 当時の騎士達の誰もが省みなかった王の心。それを理解するが故の。

「今更貴方が敵役を演じる必要などないでしょうアーチャー。貴方の言葉は全て真実、当時の我々が王の下一つになっていれば、あんな結末は有り得なかった。
 王の理想を砕き、地に貶めたのは他でもない我ら円卓の騎士だ。特にこの私が己が私情にて剣を握らなければ、救えたものもあった筈です」

 だからこそ死の淵で願ったのだ。
 今度こそは、と。

 叶わなかったものを叶える機会があるのなら。
 踏み躙ったものに報いる機会があるのなら。

 今度こそは間違えないように──と。

「私はまた同じ過ちを犯そうとしていた。それを糺してくれたのは他ならぬ貴方ではないですかアーチャー。
 己の罪を清算する為に、今一度見える事の叶った王を蔑ろにしかけた我が心に光明を齎したのは貴方だ」

「……押し付けがましい救済を人は独善と呼ぶ。私のそれはもっとたちが悪い。先にも言ったが私のそれはただの八つ当たりだ」

「独善であろうと、八つ当たりであろうと、それでも私はそこに答えを見た。であればそれは、間違ってなどいないでしょう」

「────」

 はっとしてアーチャーはガウェインを見た。普段と変わらない柔和な笑み。そこにはかつてない意思が窺える。
 なにものにも揺るがぬ鋼の心。たとえアーチャーの言の全てが憤懣から来るものであったとしても、己一人では得られなかった答えを得られたのだから、それは何も間違ってなどいないのだと。

「貴方の想いの発端がどのようなものであれ、結果である私の意志にもう揺らぎはない。だから貴方に感謝を、アーチャー。
 ええ、私の意志を聞く気がなくとも、この想いだけは受け取って欲しい」

「……頑固な事だ」

 はぁ、と弓兵は嘆息を零す。

「それは貴方もでしょう、アーチャー。お互いままならないからこその今でもある」

「違いない」

 そして二人は小さく笑った。未だ戦火に満ちるこの戦場の中で、心からの笑みを浮かべあった。

「では次はこちらの番だアーチャー。貴方の顔に見て取れた曇り、その心を晴らす手助けをさせて欲しい」

「いや、その必要はない。私の迷いも今のやり取りで晴れた。卿の手をこれ以上煩わせる必要もない」

 自分自身が口にした言葉は、ガウェインという鏡に反射され己の心を突き刺した。押し付けがましい救済も、独善も、今に始まったものではない。
 アーチャーは初めから『そう』であった筈だ。小器用に立ち回る術を覚えてからはなりを潜めていたが、本来この男はそんな機微に疎い愚鈍な男であったのだから。

 他人の理由など知ったことか。救いを求めようと求めなかろうと、瀕した相手が視界にいれば助けるのがこの男の在り方。自己犠牲を厭わぬ偽善の塊。それをよしとして道の果てへと駆け抜けたのではなかったか。

 ならば、上っ面を飾る仮面など脱ぎ捨てよう。この心に正直に、為すべき事を成し遂げよう。でなければきっと、あの分厚い仮面で心を覆い隠した少女に、この想いは伝わらないから。

 前へ。ひたすらに前へ進む。己の願望など叶わぬ変わり果てた世界の中で、それでも守りたいと願ったものがあるのなら。

 そう二人がようやく、己の心と向き合ったその時────

 ずん、と目には見えない重さが肩に圧し掛かるような衝撃と、夜の黒を塗り替える赤が世界を覆った。

「なん──」

「これはっ──!?」

 夜空を覆う赤い天蓋。アーチャーやガウェインの目がおかしくなったのではなく、文字通りこの街全体が何か得体の知れないものに覆い尽くされている。

「アーチャー! ガウェイン!」

 異常を察知したのか、邸内から凛が躍り出てくる。二人の騎士は庭へと降り立ち、少女と向き合った。

「何が起きたの、二人とも」

「いえ、我々にもそれは分かりません、レディ・リン。哨戒をしていた折、突如世界が赤く染まったのです」

「…………ライダーの仕業だな」

 困惑を滲ませる凛とガウェインを他所にアーチャーは冷静にそう告げた。

「森から帰還した際に告げた通り、間桐の擁するライダーは神代の怪異メドューサだ。これは彼女が持つ石化の魔眼、天馬を繰る手綱に次ぐもう一つの宝具──」

 ────他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)

 結界内に存在する者を溶解、魔力へと変換し吸収する鮮血の神殿。生きたままその血を飲み干す吸血種の持つ特性、その具現。

「少なくともこの街に鮮血神殿を形成し得る基点は一つも見つかっていなかった。であればこれは、令呪による強制発動だろう」

 長い時間を掛けなければ組む事すら叶わない高位魔術式。その規模ゆえに基点を構築すれば魔術師ならば容易に発見する事が出来る。
 その解呪が熟練の魔術師を以ってしても容易ならざる難易度だとしても、これまで誰の目にも留まる事なく構築し終えていた……などという事は有り得ない。

 構築過程を短縮しうる唯一にして無二のもの──それが令呪だ。

「ライダー……つまり桜の仕業ね。どういうこと? あの子、まさかこの街の人間全員を消し去ろうとでも言うの?」

「いいや、それもどうだろうな。本当にそのつもりなら既に我らの身にもその重圧が襲っている筈。先に感じた結界発動による魔力の波動以外は感知出来ていない、魔力はまだ奪われ始めていない」

「ではアーチャー。ライダーの目的は魔力を奪う事ではないと?」

「最終的にはどうか分からん。今のところはまだ、という話だ」

「いいえアーチャー。良く分かったわ。悪いけど、屋根の上まで運んでくれる?」

 アーチャーは頷き、凛をその腕に抱え壁面を蹴り上げ屋上へと戻る。ガウェインも随伴する。

 魔術的に強化した瞳が映すのは見渡す限りの赤い世界。空も地上も、一面の赤。常軌を逸する規模の結界展開。まさしく冬木市全体をこの結界は覆っている。

「やっぱりね。この結界、完全じゃないわ」

 街一つを覆い尽くす程の規模の結界を令呪の一画で構築してしまえるとは思えない。令呪とて万能ではないのだ、限定空間内ならばまだしも、半径にして優に数十キロメートルを超える市全体をカバーするのは不可能だ。

 令呪に出来るのはマスターとサーヴァントの魔力を合わせた範囲内に限られる。治癒能力がない者の傷は一瞬では癒せないし、次の攻撃は外すなと言われても必中能力のない攻撃は外れる可能性がある。

 この結界はそれらとは違い、ライダーの能力を拡大したものだ。だから不可能ではなく実際に発動しているが、短期的命令ではなく長期に及ぶものほどその効果を減衰する。
 結界の目的が極短期的な魔力の蒐集ならば可能でも、結界の維持がその目的であった場合は効果の減衰は否めない。

「令呪を使って桜が行使したのは結界の展開まで。その発動は注文に入っていない」

 だからこそ今なお結界は維持されているし、魔力の搾取は行われていない。起動状態に入ったがゆえに魔的なもの見る目を持つ者には世界は赤く染められているが、現状では魔術師への被害は極軽微、一般の人間への被害も最小限と予測される。

「ねえアーチャー? 桜は何でこんな真似をしたと思う?」

「……体の良い人質、と言ったところか。街全体、全ての住人を人質に何かを行おうとしている」

「そ。で、ガウェイン。これは誰に対する人質だと思う?」

「無論それは聖杯戦争の参加者全員でしょう。しかしあえて特定人物に限定するのなら──レディ・リン、貴女しかいない」

「……でしょうね。正直、ここまでやるとは思わなかったけど」

 起動状態に入った結界内の人間は、何もしなくともその体力を奪われ続けていく。防護手段のある魔術師には効かなくとも、何の対策も持たない一般人は気だるさを覚え、やがて昏睡に至るだろう。

 溶解が起こるのはその後。起動から発動に切り替わった後。

「桜があと何画令呪を残してるかは知らないけど、最低一画は残っている筈よ。もし私が桜のところへ辿り着けないようであれば、きっと」

 残った令呪を使い結界を発動する。そうなれば全てが終わりだ。街の住人は全て血液へ溶解され無人となり、聖杯戦争どころの話ではなくなる。明日の朝日を拝める冬木市住民は誰もいなくなる。

 それにこれだけの規模の結界だ、霊脈にも著しい傷を残すと思われる。最悪今後の聖杯戦争を執り行えなく可能性さえもあり、そもそも街を無人にするような不始末を行えば凛は審問を受ける事間違いない。

 六十年後の心配より、数日後の心配。数日後の心配よりも明日の心配。そして明日の心配をするくらいなら、今全てに決着を着けるべきだ。

「綺礼、聞こえているんでしょう? 令呪を使ってガウェインに太陽の加護をお願い」

 耳を飾るピアスへと語りかける。この事態は教会も把握している筈。ならば凛の声はきっと届くだろう。

 程なく、ガウェインの身体に光が宿る。夜にあって輝く太陽の祝福。白騎士の身体に力が篭る。

「ガウェイン、先行して頂戴。私は少し準備があるし、他の陣営がこの機に仕掛けて来ないとも限らないから、アーチャーには一緒に来て貰わないとならない」

「了解です」

「それと、これ持って行って。簡易な魔力信号弾よ。もし桜かライダーを見つけたらそれを打ち上げて。他の敵とかち合った場合は、対処は任せるから。
 もう一つ。こちらが見つけた場合も同様に信号弾を上げるけど、援護は必要ないわ。こっちはこっちで始末をつけるから。貴方は他の陣営への警戒をお願い」

「承知しました。レディ・リン、アーチャー、武運を」

 白騎士は目礼を残し闇へと飛び込む。屋根を伝い疾風の速度で消えて行った。

「アーチャー、下へお願い。準備と、一応綺礼にも連絡を入れておかないと」

「了解した。私は外で待っている」

 凛を地上に降ろし終えたアーチャーは再度壁を登る。鷹の目を持つアーチャーであれば結界の基点の幾つかを発見出来る可能性もあるし、運良く桜かライダーを捉える事も出来るかもしれない。

 とはいえ、そんなものは楽観だ。これが凛に対する挑発、脅しの類であればそう簡単に見つけられるようなところに潜んではいまい。
 そもそも室内に潜まれていれば外からの目視は絶望的なのだから、あくまで凛が準備を整え終えるまでの猶予時間を無駄にしない為のものだ。

「アーチャー!」

 階下から怒声を聞く。思ったよりも随分と早かった。それだけ、この結界の危険性を凛は把握しているという事だ。

「準備は終えたか」

 地上へと降りる。

「ええ。本当は貴方にも先行して桜達を探して欲しいところだけど、他の連中の襲撃や桜の狙いが私とアーチャーの分断にある可能性が考えられる以上は、悪いけど一緒に行動して貰うわよ」

「ああ」

「それと、今回は邪魔をしないで」

「…………」

 森での戦い。凛は桜を追い詰め、後一歩にまで迫っていた。それを押し留めたのがアーチャーであり、結果、桜は倒せず時臣は殺され、今の状況を作り上げた。
 直接的ではなくとも間接的な要因として現状はアーチャーにも過失がある。あの時、桜を亡き者としていれば……などという回顧には意味などないが、また同じ事をされては敵わない。

「私達の因縁を貴方に邪魔立てされる謂れはないし、今回はそれ以上に一人の魔術師としてあの子は許してはならない」

「…………」

「魔術は秘匿されるべきものであり、悪戯な犠牲を拒むもの。結界はまだ発動していないけれど、実際に被害は出るだろうし見過ごせばより甚大なものとなる。
 これは遠坂と間桐の問題以前の魔術師としての問題。この地の管理を預かる者としての責務の話よ。分かった?」

「承知している。要は犠牲者を出す前にライダーを斃せばいいだけの話だろう」

「ちょっと、ちゃんと話聞いてる? ライダーを斃すのは前提だけど、私と桜の邪魔をするなって言ってんの」

「知らんな。今回のオーダーはこの結界の解除が至上命令だろう? ならば最優先討伐目標はライダーであり、当然私もそれを優先とする。
 しかしその後の事まで束縛されるのは気に入らない。どうしても私の行動を縛り付けたいのであればその令呪で戒めるがいい」

「そう──じゃあ命令するわ、私の邪魔をしないで」

 思考の隙間もなく、冷徹に凛はその命令を令呪を用い下した。

「────ッ」

 アーチャーの身体を奔る電流のような痛み。凛の意思に逆らう行動を取れば強制的にその身を戒めようと今のように痛みが奔る。

「フン……そのような命令の為に貴重な令呪を一画無駄撃ちするか」

「無駄ではないでしょう? 現に顔色、少し悪いわよ?」

 画一的な命令でない分、その威力は押して知るべしだが、凛の魔術師としての能力の高さが災いしてか、アーチャーを縛り付けるコマンドは強力な枷となった。

「別に貴方の能力を信用していないわけじゃないわ。むしろ弓兵としてはその応用力の高さに驚いたほどよ。剣とか槍も出してたし。
 真名もこれまでに明かしてないんだから言いたくないんでしょう? なら聞かないし興味もない。有用なその能力を私が聖杯を手に入れる為に使いなさい、そして私の邪魔をしないで。分かった?」

 反抗の意思を示すだけで鋭い痛みが身体を襲い、ステータスにまで影響が出る。アーチャーは嘆息と共にせめてもの皮肉を口にした。

「……了解した。地獄に落ちるがいい、マスター」

「言われなくても分かってるわよ、私の行き先が地獄だって事くらい。でもね、地獄に行く前に片付けておかなきゃならない事が山積なの。だからその為に、力を貸しなさいアーチャー」

 強化した脚力で地を蹴り上げ、向かいの民家の屋根へと登る。無駄な時間を浪費した。一刻も早くこの広い街から桜を探し出さなければならない。
 悠長に地面を走っている暇はない。ショートカットして魔力の濃い地点を目指す。そこにこの結界を構築している基点がある筈だから。

 魔女には地獄の底が似合いだろう。だがその前に果たすべき責務がある。やり遂げなければならないものがある。

 赤い従者を従えて、冷徹な魔女の仮面を被った少女は進む。
 父の形見である紅玉の杖をその手に、その手で実の妹に断罪を下す為に。



+++


 同刻、深山町の一角に構える武家屋敷。

 その庭には衛宮切嗣を筆頭にセイバー、キャスター、そしてランサーが集っていた。

 この結界が誰の手によるものか、というのはアーチャーのように明確に断じられるだけの要素が彼らにはない。ただ、残る面子から考えればライダーであろう、という仮説は立てられた。

 これだけの規模の結界を構築出来る可能性があるのはこの場にいるキャスターを除けばライダーしかいない、というのがその根拠だが、外れている可能性は極めて低いと誰もが認識していた。

「それで、どうするのかしら」

 今後の動きについてをキャスターが問う。

「まだ結界は起動待機状態、構築されただけにも等しいけれど、いつ本格的な搾取が行われるか分からないわ。
 本当、呆れるほど愚かな手ね、たとえこんな手段が可能であっても、実際に行えばどうなるかなんて分かるでしょうに」

 キャスターも時間と資金が潤沢にあるのなら、同規模の結界を構築するのは不可能ではない。事実として、アインツベルンの森一帯を神殿化している。

 ただキャスターならばこんな愚かな一手は打たない。街全体を人質に取るのは有用であっても、リスクに対してリターンが割に合わない。
 魔力が欲しいのなら静かに、少しずつ街全体から搾取する。こんな一夜で全滅紛いの結界を張れば敵も当然にして動くし、四面楚歌へと追い込まれるのは明白だ。

 こうしてアインツベルンが対策を練っているように、他の陣営も同様だろう。

 幾ら街が広くともいずれ追い込まれる。追い込まれて人質を人質として使えず、結界を発動してしまえばそれで終わり。多大な魔力を得ても結果が死では意味がない。この結界を構築した時点でほぼ詰んだも同然だ。

 ただ、警戒すべきなのは──敵の目的が勝利ではない場合、だ。

「キャスター、イリヤは今何処にいる?」

 切嗣はイリヤスフィールの服に発信機を仕込んでいたが、間桐邸でロストしている。敵もそこまで無用心ではないとは思っていたので問題はない。イリヤスフィールとパスを繋いでいるキャスターであればほぼ正確な位置も把握出来る。

「きっちりとした位置までは分からないけれど、新都の中心付近ね」

「…………」

 そこにあるのは住宅街と冬木市民会館が主な建造物。そして後者は今回の降霊の儀式の場だ。偶然にしては出来すぎている。

「イリヤの状態は確認出来るか?」

「異常は今のところない、という程度ね。後、私達の誰かがイリヤスフィールに接触しない限りあの子は目覚めないわよ。そういう風に『教えて』あるから」

 切嗣の目を盗みイリヤスフィールに何かを吹き込んだという事か。だがそれはイリヤスフィールの安全を危惧してのものだろう。自らの手元を離れた場合の対処策。入念な事だ、と切嗣は思う。

「……僕達がすべき事はこの結界の解除──ライダーかそのマスターの排除と、イリヤの無事の確保だ」

「あら? 自分から手離しておいて今更心配?」

「状況が変わった。それだけの事だ」

 流石に切嗣も間桐がいきなりこんな突飛な行動に出るとは予想出来なかった。間桐臓硯の入れ知恵か他の要因かまでは分からないが、打って出るだけの思惑、あるいは勝算があるのは間違いない。

 敵の目的など切嗣は興味がない。自らの道を阻むのなら排除する……思考としてはそれで完結している。

「キャスター、おまえはランサーと共にライダーとそのマスターを探せ。こちらはイリヤを確保する」

「……一応訊いておくけれど、何故貴方達が確保なのかしら」

「イリヤがまだ間桐の手にあるのは間違いないが、そこにライダー達も一緒にいる保証はない。ならば索敵に長けたおまえと速力のあるランサーを、姿の見えない敵を探す為に使う方が効率的だ」

「…………」

「イリヤの方は確実に護衛がいる。恐らくはバーサーカー。最悪の場合そこにライダーもいる可能性があるが、セイバーならば単独でも後退するくらいは出来るだろう」

「はい。ライダーが持つという石化の魔眼(キュベレイ)も私なら抵抗(レジスト)出来ます。バーサーカーの方も手の内は分かっているので遅れを取る事はありません」

 そしてバーサーカーはあの森での戦いの直前にセイバーに対し誓いを立てている。同盟が事実上破棄された現状、どう出るかは不明ながら、その辺りも状況を優位に動かせる可能性を有している。

「如何に従えているとはランサーに単独行動はさせたくない。キャスター自身も対魔力持ちとかち合う可能性を思えば同様だ。であればこの配役に文句などないと思うが?」

 横目で魔女へと視線を向ける切嗣。その先には妖艶な口元。この結論を初めから分かっていてわざわざ説明させた事が窺える。

「そうね、異論はないわ」

 言って、魔女はローブを翻す。

「念の為、霊脈を使って街全体に薄い催眠を掛けておくわ。結界の効果で直に衰弱するとしても、その間に問題は起きかねないし、完全に発動してしまえば全部お仕舞いだもの。上手くこの夜を無事に越えた場合の保険は必要でしょう?」

「ああ、助かる」

 気だるさの原因はただの疲労の蓄積と誤認し、昏睡者を目撃したとしてもその目撃者自体も直に昏睡するかキャスターの催眠に掛かり眠りに落ちる。
 その辺りに間桐は頭が回っているのかいないのか、理解していてあえて無視しているのかは不明だが、これで結界の完全発動までは街の住人に混乱は起きにくくなる。

 後はターゲットを始末し結界の解除を行うだけだ。

「じゃあ先に行かせて貰うわ。ランサー、付いて来なさい」

「あいよ」

 気だるげに言ってランサーは浮遊するように塀の外へと向かった魔女に随伴する。庭に残ったのは切嗣とセイバーだけ。

 白銀の少女が見上げた空は赤い色。
 真夜中だというのに夕焼けよりも濃い血の赤だ。

 この赤さが見えているのは彼らだけ。魔術を知らない一般人には何の変哲もない夜として映っているだろう。
 知らない内に体力を奪われ、合図一つで身体を血の塊へと変えられる地獄にいるとは、夢にも思う事はなく。

「ではマスター、我々もイリヤスフィールの救出に向かいましょう」

 武装したセイバーが振り仰ぐ。けれど切嗣は悠然と縁側に腰掛けた。

「マスター……?」

 コートの懐から煙草を取り出し火を灯す。吐き出した紫煙は風に揺らめいた後、空に吸い込まれるように消えて行った。

「────イリヤは、助けない」

「は……?」

 突然の切嗣の宣誓にセイバーは瞠目する。今、この男は何と言ったか。イリヤスフィールを助けないと、そう言ったのか。

「……説明を求めます」

 先程の作戦説明を根本から覆す切嗣の言葉。であれば当然、その行動の理由を問うのは筋だろう。

「イリヤを助ける必要はない。放っておけばいい」

「何故です……! 先程貴方は助けるとそう言ったではないですか!」

「…………」

 切嗣は答えない。元よりセイバーとの会話を極力避けているような節がある切嗣だ、無理に迫っても答えを引き出す事は無理だ。

 だからセイバーは考えた。切嗣の言葉の意味を。これまでの発言から想定出来る、この男が一体何を目的としているのかを。

 イリヤスフィールを間桐へと差し出したのは切嗣自身だ。けれど今現在の展開は予想外の筈。だからこそセイバーも先の作戦を了解した。
 敵の懐に潜り込ませたトロイアの木馬も、こちらの思惑と違っては上手く機能しない。ゆえに一旦手元に戻してから次の機会を窺うものだと。

 だが切嗣は必要ないと、そう言った。木馬は木馬のままでいいと。敵の手の中にあっても何ら問題などないのだと。

 此処から推測される切嗣の狙いとは何だ。イリヤスフィールを使い何を目論んでいる?

「いや……」

 そもそも本当に、切嗣はイリヤスフィールを何かしらの策略の為に利用するつもりがあるのか? 逆に手元にイリヤスフィールがいない事……それそのものが切嗣にとって都合が良いとすれば?

 イリヤスフィールがいないからこそ可能な事とはなんだ。そもそもこの推測が正しいという確証は何もない。答えは切嗣以外は持ち合わせていない。

「マスター、貴方の思惑がどのようなものであれ、この事態は想定外の筈だ。その上で御息女を守ろうとしない理由が、私には分からない……」

「…………」

「ですがこの身は彼女の剣となる事をも誓った身。森の戦いの折は策の為というマスターの言葉を信頼し静観していましたが、これ以上は見過ごせない。
 無為にイリヤスフィールを危機に晒しておく事は好むところではない。マスターが赴かずとも私が──」

「セイバー、許可なくその場を動くな──令呪を以って命ずる」

「なっ……!?」

 セイバーの足を縛る目には見えない茨の鎖。まるで石膏か何かで塗り固められたかのように彼女の足は動かない。地に根を生やし、地下から見えない腕で掴まれているかのように令呪は彼女を大地に縛り付けた。

「マスターッ、貴方は……!!」

「囀るなセイバー。その口も令呪で縫い付けて欲しいか」

「くっ……!」

 セイバーの対魔力の高さを警戒してか、切嗣は令呪発動直後から己が従者に回す魔力を最小限に制限している。
 単一の命令であるがゆえにその効果は凄まじく、魔力さえも絞られては抗えない。本来逆らえるだけでも破格というもの。じりじりと足を動かしているセイバーの意志力と対魔力は異常に過ぎる。

 とはいえ、どう足掻こうが切嗣の解除命令がなければこうしてミリメートル単位で動く事しか出来ない。抵抗が出来てもその抵抗自体が無意味では何の意味もない。

 セイバーの動きは封じられたも同然。まさか本当に口を封じる為に令呪を使うとは思えないが、有り得ないとも言い切れない。思惑の読めない主の前で、無様にもがき続けるしかない。

 ……イリヤスフィールッ! キャスターッ!

 セイバーの心の吼え声になど気付くわけもなく、切嗣はホルスターから抜いた愛銃に一発の弾丸を装填した。

 煙草の先から燻る紫煙が、鈍色の空へと消えて行った。


/36


「で、何処かアテはあるのかいキャスター」

 青い豹が夜を駆ける。既に戦闘態勢に移行したランサーは赤い槍を手に、屋根から屋根へと跳躍しながら前を行く魔女を追う。

 強制的に契約を結ばされたとはいえ、それが与えられた任務であり仕事であるのなら、愚痴も言わずこなすだけの甲斐性を持っている。もっとも、その心の内が外面と同様であるかどうかは彼自身にしか分からないが。

「これだけの規模の結界ならば、最低でも支点が六つ以上、基点が一つある筈よ。解除を狙うのなら支点は全て無視して基点だけを狙うのが好ましいけれど」

 基点とはその結界の中心部分。家屋で例えるのなら大黒柱だ。支柱が全て残っていても中心の大黒柱がなくなってしまえば脆くも瓦解するのは当然だ。

「でもどうせ解除は無駄ね。相手に令呪がある以上、下手に解除しようとすれば発動される恐れがあるし、解除出来る保障もない」

 神代の怪異であるメドゥーサが組み上げた魔術結界。同じく神代を生きたキャスターならば解除のしようもあるかもしれないが、基点を発見後即座に解除とはいかない。

 キャスターの持つ契約破りの短剣、魔を破却する短刀も、この結界が宝具によるものであれば通用しない。どれだけ低ランクであろうとも、ルールブレイカーでは宝具を初期化出来ないのだ。

「だからやっぱり狙うのならマスターとサーヴァントの方。まあ、基点を探すのは悪い事ではないわ。そこにライダー達がいる可能性が一番高いから」

「結局は虱潰しって事か」

「そうでもないわよ? 付近に幾つか点をすで見つけたわ。それが支点か基点かは偽装されていて行ってみないと分からないけど」

「はっ、仕事が早いねぇ。だったらこっちもちょいと気張るとするか」

 キャスターの示す方角へとランサーは勢い良く屋根瓦を蹴り上げる。先導していた魔女を追い越し、小高い木々が立ち並ぶ林道を跳躍で以って飛び越え、着地目標は未遠川沿いに広がる海浜公園。

 その一角へと着地しようとしたランサーへと、

「────っ!?」

 横合いから、高速で回転する剣が迫り──

「はぁ……!」

 それをランサーは目視よりも早く認識し、手にした朱槍で一閃の下に薙ぎ払った。

「矢避けの加護を持ってるオレに投擲なんざ通用しねぇって事くらい分かってるだろう。なぁ、モードレッドさんよ」

 着地したランサーの前方。弾き飛ばした剣が地に突き立った地点。そこには全身をフルプレートで固めた少女の姿があった。

「…………」

 そして、その傍らにはスーツの女。バツが悪そうに、ランサーはそっぽを向く。

「あら、誰かと思えばサーヴァントにサーヴァントを奪われた愚かなマスターじゃない」

「っ、キャスター……」

 遅れて到着した魔女がふわりと着地する。挑発めいた軽口に反応し、バゼットはその視線に怒気を込めた。だがそれも数秒。頭に血を上らせたままで立ち回れる相手ではない事など痛いほど理解している。

「わざわざ私達を待ち伏せていたの……?」

「いや? 此処で逢ったのは偶然だぜ。アンタらと同じように結界の基点を探してたらばったり、ってなだけだ。まあ、こっちが基点を探してた理由とそっちが探してた理由が同じとは限らんがな」

 言って、モードレッドは剣を引き抜く。夜の中にあって何処までも白く銀色を輝かせる剣を。

「……今がどういう状況か、勿論分かっての発言よね?」

「ええ。この結界がどのような効果を持ち、実際に発動した場合の被害もまた理解しています。だが、その解除は私達の役目ではない」

 結界を張った誰かの意図。釣り糸を垂らし、釣り上げようとしている獲物が一体誰であるのか。そこに理解が及んでいるからこその発言。下手に結界の主を刺激し、発動を許すような事になっては目も当てられない。

 少なくとも即時発動しなかったのだから獲物が掛かるまでの猶予はある。そして、その獲物にはこんな愚かな暴挙に出た魔術師に裁断を下す義務がある。ならば、部外の魔術師が首を突っ込む必要はない。

 これは彼女達の戦いであり、その決着の為の舞台。
 そしてバゼット達にとっての決着の舞台が、此処である。

「なあキャスター。オレにはおまえがそんな魔術師としての当たり前の義務や正義感からこの結界の解除を行うような輩には到底見えん。一体何を企んでいる」

 モードレッドの不躾な問い。それに魔女は妖しげな笑みを口元に浮かべるだけで、何も答えない。

「まぁいいさ。そっちの理由なぞ知らん。オレ達にはオレ達の目的があるんでな」

「キャスター、ランサーは返して貰う」

 モードレッドは剣を、バゼットは拳を構える。既に二人は臨戦態勢。街の置かれている状況など知った事かと、私情にて武器を執る。

「……で、どうするよ」

 最低限の警戒を行ったまま、ガリガリと髪を掻きながらランサーは指示を仰ぐ。今の彼のマスターはキャスターだ。令呪の束縛もあって私的な行動は許可されていない。

「…………」

 一度こうして見えた以上、逃げを打とうと何処までも追い縋って来るだろう。サーヴァントを失いただの魔術師となりながら、それでも死地に赴いたのだ、生半可な覚悟である筈がない。

 そして当然、キャスター自身にも思惑がある。結界の解除が本当の目的ではない、というのは事実。人々に魔女と蔑まれた女に正義を求めるのは酷というものだ。
 死するその時まで民衆の望む魔女として振舞い続けた彼女は、死んだ後もそう振舞い続けるしかない。

「……いいわ、遊んであげなさいランサー。貴方もしがらみを抱えたままでは私の傀儡にはなりきれないでしょう?
 だからその手でかつてのマスターを──愛しき女を殺しなさい。これは命令よ」

「…………」

 魔女が空に舞う。戦士は槍を構える。

「……悪いが。加減は出来ん」

「そんなものがいるか。殺す気で来いよランサー。でなきゃオレの剣がおまえの首を刎ね飛ばす」

 モードレッドがバゼットを庇うように前に出る。

 バゼットが如何に優秀な魔術師であっても、怪我もあって真っ向からランサーと戦うのは分が悪すぎる。
 この決戦における前衛はモードレッドでありランサー。その背後には人の身に余る切り札を持つ女魔術師と神代の魔女が並ぶ。

「──バゼット」

「はい、モードレッド。約束は、忘れていません」

 この戦いの意味。
 その向こう側にあるもの。

 失くしたものは戻らない。
 零れた砂は戻らない。

 それでもきっと、取り戻せるものがある。
 取り戻さなければならないものがある。

 だから────

「はぁ……!!」

 この戦いに命を賭す。
 命よりも尊いと思うものを、取り戻す為に────



+++


 薄暗い空間。最低限の照明だけが広大なコンサートホールの一部と舞台の上を照らしている。

 間桐雁夜は冬木市民会館にいた。桜に言われた通り今回の降霊の地であるこの場所へと無事、聖杯の器たるイリヤスフィールを届けたのだ。

 彼女は今、舞台の中心に横たえられていた。これまでの道程でも同様だったが、起きる気配が微塵もない。ここまで来れば自然な睡眠状態ではなく、故意に眠り続けているものと思われる。

 いずれにせよ、騒がしくなくていい。下手に起きて動かれては雁夜も対処せざるを得なくなる。だが今の彼に、そんな余裕は何処にもなかった。

 雁夜は舞台横に据えつけられたホールへと降りる階段の上に座っていた。薄暗い照明は彼を照らさず、暗闇の中で沈黙を保ち続けている。

 今この街が置かれている状況、桜が行った事も全て雁夜は知っていた。無論、それは桜自身が一度この場所を訪れ説明をして行ったからだ。
 今はもう桜はいない。彼女は自身の戦いへと赴いた。その先にある破滅を厭う事なく、全てに決着を着ける為に。

「…………くそ」

 止められなかった。
 何も出来なかった。

 絶望に染まった昏い目をしたあの子に、手を差し伸べる事さえ出来なかった。

 人形であった桜の心に芽吹いた意思。自らの言葉で話す彼女に希望を見た雁夜の夢は、夜明けを待つ事なく瓦解した。

 間桐臓硯というストッパーを失い、自らに味方する強大なサーヴァントを得た事で、桜は止まる術を失った。
 雁夜の言葉など届かない。どれだけ嗜めようと意味などなかった。行く先が望む場所ではなく奈落だと知っても、あの子は自らその先へと踏み込んだ。

「……思えば、時臣が死んだ時に全てが決まっていたんだろう」

 実の父からの明確な否定。落胆。
 実の姉からの容赦のない蔑み。殺意。

 唯一希望と残されていた陽だまりに、彼女の居場所などなかった。誰もあの子を迎え入れてはくれなかった。

 絶望の色が濃ければ濃いほど、希望に縋った後の絶望はより鮮明となる。桜の痛みや苦しみを雁夜は理解してやれない。身体を鞭打つ過酷では負けていなくとも、心が折れるほどの軋みを味わった事のない雁夜には、桜の気持ちが分からない。

 どんな気持ちであの子は、この戦いに臨んだのだろう。
 どんな気持ちであの子は、父と姉の前に立ったのだろう。
 どんな気持ちであの子は、父をその手にかけたのだろう。

 どんな気持ちであの子は、破滅への道を進んで行ったのだろうか。

「葵さん……貴女が、生きていてくれさえすれば……」

 時臣の伴侶。
 凛と桜の母。

 今は亡き、かつて恋心を抱いた人。
 報われぬ恋をした思い人。

 彼女が生きていてくれさえすれば、こんな結末はなかった筈だ。

 桜を間桐へと養子に出した時だって、彼女ならば涙を流してくれたに違いない。凛を今のような冷徹な魔女へと変えた時臣の教育に異を唱えてくれたに違いない。実の姉と妹が殺し合う様を、きっと止めてくれたに違いない。

「……ははっ」

 乾いた笑いが零れる。

 だって全ては推測。所詮雁夜の願望に過ぎない。

 人並の幸福を捨て、魔術師の妻となる事を選んだ女の心など、振られた男には分かるわけがない。

「ああ……本当に。俺は何も知らなかった……」

 好きだった女の心も。
 救いたいと願った少女の心も。

 何も分かっちゃいない事を理解したのが、こんな時だというのも皮肉なものだ。いや、こんな時だからこそ、なのだろうか。

 その時、雁夜の眼前に不意にバーサーカーが実体化する。

「バーサーカー……」

 雁夜の周囲に監視の蟲を放つ程度はしているが、より強力なセンサーはサーヴァントそのもの。パスを遮断せずにおいたのは、バーサーカーに敵の襲来の感知を報せて貰うつもりだったからだ。

 とはいえ、二人の間に明確な意思の疎通が出来ているわけではない。ただ単に、バーサーカーにとっても退けぬ戦いがあり、その敵手が接近した場合は実体化するだろう、と踏んでいただけだ。

 闇よりも濃い黒の具足が鋼の音色を打ち鳴らす。

「行くのか、バーサーカー……いや、ランスロット卿」

 雁夜の声に、狂戦士は答えない。答える声を彼の騎士は持っていない。

「その身を汚辱で染めながら、それでも己が心と向き合ったおまえのように、俺も、覚悟を決めなければならないか……」

 揺らめくように立ち上がる雁夜。
 虚空へと差し出した右手に宿るのは残る二画の令呪。

「餞別だ。俺からの供給では足りないだろう魔力を、好きな時に好きなだけこの令呪から持って行け」

 令呪のバックアップさえあれば、アロンダイト使用を視野に入れたバーサーカーの全力での戦闘時間は飛躍的に延びる。この戦いに招かれたどのサーヴァントを相手に回しても対等以上の戦いが出来るだろう。

「じゃあな理想の騎士。ロクに話も出来なかったが、おまえが俺のサーヴァントで良かったと思う」

 ゆっくりとコンサートホールの出口へと向かっていた黒騎士の足が止まる。そして彼は低く唸るような声で、

「MA……s、……r……」

 そんな、言葉にもならぬ音の羅列を発した。

「ああ……」

 頭ではなく、心にこそその音は響いた。意味のない言葉も、理由のない言葉も、けれど意思が篭っているのなら、誰かの心に届く事もあるだろう。

 そして黒騎士は去り、己が戦場へと赴いた。

 だからこそ雁夜も、己が敵と向き合う決意をした。

「そこにいるんだろう、間桐臓硯。アンタがそのくらいじゃ死なないって事くらい、誰よりも知ってるぜ」

『カカ……』と耳障りな嗤い声を闇に聴く。

 何度となく蟲蔵の底で聞いた声。もがき苦しむ雁夜を十年間、嘲笑い続けた声だ。

 声はすれど、姿はない。

 いいや、居場所など分かっている。いかに臓硯が不死身に近い化生といえど、その身体の大部分を構成する蟲のほとんどを奪われては復活は容易ではない。
 桜も伊達で十年もの間、間桐の屋敷で暮らしていたわけではない。彼女の奇襲は確実にあの悪鬼から不死身性を奪い去った。

 誤算があったとすればその生き意地の汚さ。
 生にしがみつく怨念めいた執着の深さへの理解だ。

 その業をもっとも理解出来るのは同じ間桐の血の流れた者だけだ。
 雁夜が間桐の血統の中でも比較的まともな方だとしても、その根底に流れているのはあの化け物と同じ血だ。

 だからこそよく分かる。もし自分が臓硯であった場合、どのように対処をするか。恐怖で組み敷いた者達からの叛逆に遭った場合の再起の手段。
 聖杯という奇跡を前に、長きに渡り悲願とした永遠を前に、指を咥えて見守るような無様は許されない。

 再生は最短にして最速を。
 間桐の腐肉がもっとも良く馴染むのは、当然にして同じ血の流れる間桐の身体。

 ならば────

「──アンタは俺の心臓に巣食っている。そうだろう、間桐臓硯ッ!!」

『カカッ! 腐っても間桐の後継者よ! だが気付いてなんとする? 貴様が何かをする前に、その身体──全て儂が貰ってやろうッ!!』

 間桐の因縁。
 その清算。

 間桐雁夜にとっての救いを賭けた戦いが、聖杯の眼前にて始まった。



+++


 夜を走る白。

 凛より先行を託されたガウェインは既に新都へと進入していた。

 道中、幾つか結界の支点と思しきものを発見はしていたが、ガウェインにはどうする事も出来なかった。
 多少の心得があった程度でどうこう出来るレベルの術式ではなかったからだ。

 だから白騎士はすっぱりと支点の破壊を諦め、ライダーとそのマスターの捜索を続けていた。

 けれど、今以って彼女達の姿形どころか影すらも掴めていない。それは当然といえば当然で、何故ならガウェインには全くアテがなかった。
 だからやっている事は虱潰し。せめて高所から地上を俯瞰し、凝らした目で索敵を続けるが、効果のほどは今一つだった。

 しかしガウェインも分かっているのだ、凛の意図が。

 彼女がガウェインに先行を任じたのは、本当に彼に桜とライダーを見つけさせる為ではない。結界の主達を追う者の排除、自らが決着を着ける為、横槍を入れさせない為の先行索敵なのだと。

 それでも律儀に周囲への警戒と索敵を続けているのは、これがこの騎士の性分だからだ。

 今更簡単には生き方を変えられない。
 だからこそ愚直に、騎士としての本懐を果たそうとしている。

 新都中心部と立ち入り、住宅街の屋根の上から遠景を眺めていた折、遠く、遥か彼方の空に咲く火の花を見咎めた。

 それは恐らく凛が打ち上げた信号弾。色の意味や識別は分からなくとも、屋敷を出る前に彼女が提示した通りの行動だ。

 ならば凛とアーチャーは標的を発見したのだろう。この血の要塞を仕掛けたライダーとそのマスターと接触を果たしたとみるべきだ。

 後は任せておけばいい。此処から先は彼女達の領域だ。信号弾の打ち上げ地点は橋を挟んだ向こう側。この距離では援護に行ったところで戦いは恐らく終わっている。

 であれば白騎士の取るべき行動は外敵の排除。彼女達の戦場に敵を近づけさせぬ事だ。

 そして、ガウェインにもまた、越えなければならない壁がある。心に宿した誓いを果たす為に、乗り越えていかなければならない絶対の敵が。

 特に理由があったわけではない。ただ、己の心の信ずるままに足を向けた。それは彼の幸運が呼んだ偶然か、あるいは定められた運命なのか。

 辿り着いたのは新都の中心──冬木市民会館。

 その前庭で、二人は向き合った。

「ランスロット卿……」

「…………」

 広い空間。周囲には剪定された庭木が並び、左右に伸びる道路には木々が立つ。戦闘を行う上でそれらは邪魔にはならない。広さも充分。此処はまるで、誂えられたかのような決闘場だ。

「決着を着けましょう、ランスロット」

 白騎士の手には太陽の輝きを宿す青の聖剣。
 対する黒騎士は既に姿を歪め霞ませる霧を纏っておらず、その手には黒く染まった魔剣が握られている。

「我が太陽の輝きを払った貴公の一閃。あの一撃によって我が心は打ち砕かれた。迷いなどないと信じていた誓いに、迷いが生じた」

「…………」

「肩を並べていた騎士の言葉にも耳を貸さず、愚直に己を信じ続けたその果ての敗戦。覆しようのない敗北だった」

 主の下す命に従うばかりの盲目の剣。意思なき剣は狂える獣の意思ある剣の前に敗れ去った。

「騎士の敗北とは即ち死。されど我が身は未だ生きている。ならば生き汚く足掻き、この心に宿りし『意思』を言葉にしよう」

 灼熱を宿す剣を、白騎士は黒騎士に向けて突きつける。

「祖国救済を願う王……そしてその王の願いを肯定した御身の祈り。私はそれを──否定する」

「…………」

「高潔にして公正にして無欠の王が、その死の間際に夢見た悲痛な祈り。そんなものを抱かせた我ら円卓の騎士が何を言うかと、何処かの誰かは嘲笑うかもしれない。謗るかもしれない。
 それでも私はこう言いましょう──王の願いは、間違っていると」

 王として生き、王として死んだ彼女は、その誇りを抱いて眠るべきだ。国を救えなかった悔恨と無念が生んだ願いは、時代を生きた者達の否定だ。

 王の目には、失われたものしか見えていない。彼女が救ったもの、守ったもの、誇るべきものが何一つ見えないくらいに曇っている。

 それほどに失ったものが多すぎたのだろう。だからと言って、全てをなかった事にする事が許されるのか。王の為に身命を賭した騎士の勇敢を、王を崇敬していた民の心を、踏み躙る権利があるのだろうか。

「王の為の剣──そう己を律するのであれば、時には諫めの言葉も必要だと、私はようやく気が付いた。
 王を絶対視し、王に全ての責任を押し付けていた事こそが我ら円卓の罪。なればこうして再び王に謁見を許された騎士の一人として、今一度王の御前にて膝を折り、この胸の内を詳らかにしましょう」

「…………」

「ランスロット……我が古き盟友よ。貴公は本当に、王の祈りが正しいと信じているのですか? 王が王であった事実を消し去り、あの時代の全てをなかった事にする事が、本当に正しいと信じているのですか?」

「…………」

「語る言葉を持たない貴公との問答が無用である事など百も承知。それでも訊いておきたかった。我らが手にする剣にて、雌雄を決するその前に」

 ランスロットが何を想い、王に膝を折ったのかはガウェインには分からない。けれどきっと、心は同じだと信じている。全ては王を思ってのものだと。生前果たす事の出来なかった想いを、手に入れた二度目の戦いの中で果たす為に。

「私は卿を越え、その先で王に諫めの言葉を申し上げる。交わらぬ道ならば、後は剣にて雌雄を決するしかないと思いますが、如何に?」

 ガウェインの言葉に、ランスロットが賛同する事など有り得ない。そんな事が罷り通れば黒騎士の誓いが嘘になる。王に嘘を吐いて膝を折った事になる。黒騎士もまた、全てを覚悟してその心に誓いを立てた筈。

 王の為の剣として、王に組する道を選んだ黒の騎士。
 王の為の剣として、王に仇名す道を選んだ白の騎士。

 二つの道。
 交わらぬ対極。

 それが唯一交わる瞬間、それは剣を交える瞬間に他ならない。

「円卓の騎士──ガウェインとランスロットの名において、承認を請う!」

 高らかに、ガウェインが謳い上げる。

「我らが望むは決闘の舞台! 尋常なる勝負を此処に! 在りし日の王城よ、今こそ顕現せよ──!」

 瞬間、周囲を奔る炎の道。二人の騎士を中心に円を形取る炎の輪。やがてそれは空高く垂直に伸び、炎の決闘場を創り上げる。

 炎の向こう、霞む陽炎に見えるのは絢爛たる王の居城。
 今なお語り継がれる王と騎士達の物語の始まりの場所。

 “聖剣集う絢爛の城(ソード・キャメロット)”

 円卓の騎士二名の同意か、熟練の魔術師のサポートによって成立する決着術式(ファイナリティ)。

 周囲に聳える炎の壁、王城の城壁はあらゆる外敵を寄せ付けず、如何なる者の進入をも拒む絶対防壁。決着が着くまで解除の許されない決闘術式。生きて炎の壁を、城門を越えられるのは、唯一人のみ。

「…………」

「…………」

 この決闘が成立した今、もはや言葉は不要。
 語るべきは剣で語り、己の正しさを信ずるのなら勝つしかない。

 それはまさに伝説の再現。
 円卓にて一、二を争う太陽と湖の決闘。

「行くぞ、ランスロット……!」

「Ga、aaaaaaaaaaaaaaaa……!」

 互いに王の為の剣を担い、在りし日の王城にて雌雄を決す。









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最後のあれはCCCから。
こういう発動の仕方が出来るかどうかは不明です。多分出来ません。
勢いとノリで!

感想返しは後日に。
最後までお付き合いいただければと思います。



[36131] scene.16 姉妹の行方
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/07/24 10:22
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 間桐桜とライダーが何処に潜伏しているか。

 結界の基点にいる可能性がもっとも高いが、だからこそこちらの意図を外してくる可能性がある。
 あるいはこの戦いの始まりにおいて、凛と桜が最初に出会った場所。センタービルの屋上も考えたが、そんな目立つ場所であれば他の者達に見つかる可能性が極めて高く、これも却下。

 全く理由のない、それこそ港にある倉庫街のような人気のない場所も選択肢の一つに入れてはいたが、この結界の起動が桜が凛を誘き出す為のものであるのなら、虱潰しは効率が悪すぎる。

 故に結論は、桜と凛の両者にとって縁のある場所。凛が想定しうる、桜が想定しうる共通項。交わらぬ道を行く二人が、いつも肩を並べていた場所は、この街にはたった一つしかない。

 ざっ、と乾いた砂を踏む。草臥れた校門。慣れ親しんだグラウンド。毎日のように通った校舎。
 この戦いが始まってからは一度も足を踏み入れなかった穂群原学園────そこには確かに、桜とライダーの姿があった。

 凛は校庭の中心に立つ二人を閉ざされていた校門の外側から見咎め、ポケットから取り出した信号弾を打ち上げた。これでガウェインにこちらが敵と接触した事は伝わり、あの誠実な騎士ならば横槍を入れてくる事もない。

 閉じられた門を飛び越え、そして両者は対峙する。

「待っていました、遠坂先輩。貴女ならきっと、私を見つけてくれると思ってました」

「単刀直入に言うわ。間桐さん、この結界を今すぐ解除しなさい」

 桜の柔らかな声を無視し、凛は毅然とした声で告げた。

「貴女の目論見が何であろうと、これは少しやりすぎよ。こんな結界が発動したらどうなるか、まさか分からないわけじゃないでしょう?」

「勿論分かっています。街の人たちはみんな消える。だけどそれが何だって言うんですか? ……全部消えてしまえばいい。何もかも。なくなってしまえばいい」

 垂れた前髪の奥の瞳は見通せない。けれど、放たれた声に宿る憎しみを、実際の痛みのように肌で感じ取る。

「貴女が憎いのは私達『遠坂』でしょう。無関係な人達を巻き込むのは止めなさい。仮にも魔術師を名乗るのなら、その程度の節度は弁えて欲しいわね」

「無関係……? いいえ、無関係なんかじゃありません。この街の住人がみんな消えてしまえば、当然この街の管理を預かる誰かさんは責任を追及されますよね。
 そんな事になれば管理者の責を解かれ家名は没落。道行きは不透明で未来は暗闇の中。長く続いた遠坂の歴史も、貴女の代で終わるかもしれませんね」

「桜……アンタ……」

「……全部、失ってしまえばいい。何もかも、一つ残らず。
 私は全部失いましたよ。肉親も、居場所も、生きる意味さえも。だから姉さん──貴女も私と同じところまで堕ちてくるべきでしょう……!!」

「アーチャーッ……!!」

 赤い風が砂塵を巻き上げ走る。その手には既に一対の夫婦剣。同時に、中空に二本の剣が顕現し、ライダー目掛けて襲い掛かる。
 同時に凛も走り出す。時臣の形見であるステッキから一工程で炎を生み出し、一直線に桜目掛けて撃ち出した。

 ライダーは手にした釘剣で射出された二本の剣を打ち払い、直後迫ったアーチャーからの斬撃を二本の釘剣を繋ぐ鎖を盾として迎撃する。
 そのままアーチャーは踏み込み連撃を見舞い、再度空中に具現化した剣を避けるようにライダーは後退し、アーチャーはその後を追う。

 桜は撃ち出された火球を地よりせり上がった三枚の影の盾で勢いを殺し、その隙に校舎へと逃げ込んでいく。凛は当然その後を追うしかない。隙を見せれば、時間を与えれば、本当に桜は令呪を使い結界を発動しかねない危うさがあったからだ。

 駆け出す足に力を込める。最早交渉の余地はない。間桐桜は魔術師としての禁を破り、無関係な人々を巻き込もうとする害悪。
 遠坂の名を継ぐ者として、この地の管理を預かる者として、これ以上は見過ごせない。

「────」

 パチン、と脳の奥でスイッチが切り替わる。胸に刃が突き立てられたような感覚。同時に視界はより鮮明に、手足は無駄を排除した動きで意思に付随する。情などかける気は最初から微塵もなかったが、これで容赦の必要性も完全に消えた。

 玄関口を潜り校舎の中へ。当然電灯などついてる筈もなく、頼りになるのは薄暗い空から差し込む僅かな星明りだけ。それも魔術的に強化された視力を以ってすれば、暗視スコープなどなくとも充分な視界が確保出来る。

 桜の姿を再度捉えたのは下駄箱を越えた先。左右に伸びる一階廊下の右側。玄関と二階へと続く階段のその中ほど。

「ノロマな姉さん。そんなに愚鈍だと、本当に令呪を使っちゃいますよ?」

「安い挑発ね。切り札は使わないからこそ切り札に成り得る。確かに結界を発動させれば私を破滅させるくらいは出来るでしょうけど、当然アンタ自身もタダで済むとは思っちゃいないでしょうね?」

「そうですね。きっと私は姉さんの手でズタボロにされるんでしょうね。けど、さっきも言ったように、私にはもう生きている意味もないんですよ。自分の命と引き換えに、姉さんを同じところまで引き摺り下ろせるならそれもいいかなって思います」

「…………」

 そう言いながら桜はまだ令呪を使っていない。この距離ならば凛が追いつくよりも早くライダーに命令を下す事は可能な筈なのに。無論、使えばそちらに気を取られた桜に凛は接敵し、一撃の下にその意識を刈り取るだろう。

 桜が形振り構わないのであれば、とっくの昔に結界は作動し街の住人は全て血液に変えられている筈。

 それが今もまだ行われていないのは、凛がうろたえる様を愉しんでいるからなのか、あるいは。

 凛の頬を一筋の汗が伝う。

 いずれにせよ、下手を打つ事は出来ない。使わないからこそ切り札に価値はあると凛自身が言ったように、街の住人の命が桜の手の中に在るのは事実なのだ。
 凛は冷酷な魔術師だが、魔術師であるが故に許容出来ないものもある。全てを犠牲にする覚悟はあっても、その倫理観を裏切る事は出来ない。

「さあ姉さん、遊びましょう? 昔みたいに鬼ごっこをしましょう。もし姉さんが私を捕まえられたら、令呪は使いません。というか多分使わせて貰えませんし。もし捕まえられなければ、全部台無しにしてあげます」

 そんな桜の口上を凛は鼻で笑い飛ばす。

「……本当、馬鹿な子。私が憎くて仕方がないなら、そんな口上を垂れる前に令呪を使ってしまえばいいのに。命が惜しくないんでしょう? 何も失うものがないんでしょう? だったら早く使いなさいよ。それが貴女の覚悟なの?」

「クスクス……やっぱり姉さんは姉さんですね。強がって、ハッタリばかりで。決して相手に弱みを見せようとしない。内心びくびくしてる癖に、よくそんな事が言えますね」

 桜の声から色が消える。底冷えのする、冷たさだけが残る。

「でも私は、そんな姉さんに憧れていました。でもそれもお終いです。私の憧れていた人はもう、いない」

「…………」

「姉さんを地に這い蹲らせて、泣いて乞わせて、その上で全部を奪ってあげる。貴女が守りたいと思うものその全て……私が台無しにしてあげますッ!」

 翳された腕。奔る暗闇の槍。桜自身の影が四つに分裂し、左右の壁と天井と床を伝い渦を巻くように凛へと迫る。

「────Anfang(セット)」

 凛は手にしたステッキを腰に差し、ポケットから掴み取った四つの宝石を放ち影の槍を相殺する。

「いいわ桜。鬼ごっこ、付き合ってあげようじゃないの。でも忘れたの? 貴女、私に一度でも勝った事があったかしらね」

「何度負けても、這い蹲っても、たった一度だけ勝てばそれで充分。この戦いに勝てば、私は姉さんを越えた私として、死ねるんだからッ!」

 夜の校舎を舞台に姉妹の戦いの幕が上がる。

 全ての因縁に清算を。
 鎖のように強固で、糸のように絡み合う因縁の決算が今、始まった。



+++


 ライダーがアーチャーに追われるがままに逃げ込んだのは弓道場の裏手にある雑木林だった。

 速力で勝るライダーとはいえ、剣の射出からの面制圧能力の高いアーチャーを相手に、遮蔽物の何もないグラウンドで戦りあうのは上手くないという判断からだった。

 事実、雑木林に入ってからはアーチャーはライダーへの追撃の手を緩め、迎撃に重きを置いている。
 蛇のようにするすると木々の合間を抜け、四方八方からの攻撃を可能とするライダー相手に同じ土俵で戦う必要はない、という判断だろう。

「ライダー、君は何の為に戦っている」

 不意に、アーチャーはそう問いかけた。手には双剣。弧を描いて襲い来る釘剣を払った直後の事だった。

「無論、サクラを守る為です」

 声はすれども姿は見えない。響くのは地を駆け抜ける蛇の足音と、舞い上がる枯れ葉の音だけ。舞う枯れ葉からも位置が特定出来ないよう、ライダーはそれこそ縦横無尽にアーチャーの周囲を駆け回っている。

「主を守る為に剣を執る……実に職務に忠実なサーヴァントだ」

「……貴方は違うとでも言うのですか?」

 交わる剣戟。直後、風が逆巻いたかのようにライダーの姿が掻き消える。夜の闇も味方して、鷹の目を以ってすらその視認は難しい。

「いいや? 私も君と同じだよ。従僕の役目などそれ以外にはあるまい」

「ならば何故このような無意味な問いを──」

「君が本当に、主を守っているようには見えないからだ」

 響いていた枯れ葉の擦れる音が消える。無音の静寂。ライダーは姿を隠し息を潜め、決定的な瞬間を窺っている。
 アーチャーはそんなライダーの狙いを看破しながら、素知らぬ顔で言葉を続けた。

「街一つを人質に取るような真似をし、魔術師としての禁を犯そうとしている君のマスターを、ならばその従僕は嗜めるべきではないだろうか」

 その果てに幸福など存在しない。行く先は断崖絶壁。エンジンをフルスロットルのままブレーキも踏まないチキンレース。辿り着く先は深い闇。奈落へと転ずる底なしの闇だ。

「主の未来に破滅しかないと分かっていながら、今この刹那だけを見つめて守る事に一体何の意義がある。
 私を斃し、凛を斃し、それで君のマスターが幸福になれるとでも? 街の住人全てを犠牲にして手に入れた幸福の上に胡坐をかけるような図太い神経の持ち主には、君の主は見えんがな」

 ライダーからの反応はない。アーチャーは嘆息を一つ吐き出し、結論を告げる。

「分からんか。このままではおまえのマスターは死ぬと言っているのだ」

 父に拒絶され、姉に疎まれ、生きる意義を失くした少女。こんな余りにも無謀な暴挙に出たのは投げやり以外の何物でもない。
 遠坂凛に対する為の布石とも考えられるが、その果てには何もない。体良く凛に勝利しえても、桜にはもう目的意識が欠如している。

「おまえは何を以って主を守ると口にするのだライダー。主の意に沿い破滅の道を共にする事が、おまえにとって主を守る事だとそう言うのか」

「全てはサクラの命に優先する……それだけの事です」

「命さえ無事なら他の全てを擲っても良いと? 父だけでなく姉すらもその手に掛けた自責の念を抱き、街の住人を皆殺しにした十字架を背負い、それでも彼女に生きていけと、おまえはそう強いるのか」

 そんなものは無理だ。今の桜にそんな重荷は背負えない。今彼女を衝き動かしているのは凛に対する深い憎しみだけ。全てが終わり我に返った後、彼女は己の手を濡らす返り血を見つめ──恐らくは、その命を絶つだろう。

 縋る希望がなければ何処までも強固だった心の鎧も、一度夢見た希望にその手を払いのけられた今となっては罅割れ、ガラスよりも脆い、剥き出しの心と変わらない。

 間桐桜を今なお衝き動かしているのは遠坂凛に対する深い憎悪だけ。その憎悪がなくなれば、憎悪を向ける対象が消えてしまえば、桜自身からも動力が失われるのは当然だ。

「間桐桜を生き永らえさせたいのなら、凛を殺してはいけない。凛への憎しみを失った間桐桜は自壊する。それほどに、おまえの主は今危うい天秤の上にいる」

「……何が言いたいのですアーチャー。そも貴方が私のマスターを気にかける理由はないでしょう。貴方は一体、私に何を求めようと言うのです」

「決まっている。手を退けライダー。おまえがいては、間桐桜は救われない」

「…………」

「おまえ自身分かっているだろう? この街を包む結界も令呪によるもの。であればおまえの意思では解除は出来ん。この結界が在り続ける限り、間桐桜は自滅のスイッチを手にしているも同然だ」

 自らのこめかみに銃口を突きつけながら、その引き鉄は自分自身には何ら害を為さないと錯覚している。
 たとえ撃ち出された銃弾が間桐桜自身に傷をつける事がなくとも、引き鉄を引いたという事実が、取り返しのつかない事態を生む。

「マスターの意思を尊重するのは構わんがな、行く先が破滅と分かっていながら止めない事を尽くすとは言わん。ライダー、此処が分水嶺だ。引き際を誤れば、後は坂道を転げ落ちるしかなくなるぞ」

 闇の奥に棚引く紫紺の髪を見る。梢から姿を現したライダーは、何をも見通せない眼帯の奥から突き刺さるほどの殺意を放つ。

「どのような言葉を並べようと無意味です。そもサクラをあそこまで追い詰めたのは遠坂の人間でしょう。そこに組する貴方が耳障りの良い言葉を並べ立てたところで、信用などされると思っているのですか」

「……耳に痛いな。だがそれでどうするライダー。凛を殺し、間桐桜を衝き動かす憎悪が消えた後に、あの少女が一人で歩いていけるだけのものがあるというのか」

「────聖杯」

 静かな、けれど良く通る声で女は言った。

「聖杯の奇跡を以ってすれば、不可能などないでしょう。たとえ此処でトオサカリンを殺しても、サクラは止まりません。いえ、だからこそ聖杯を手に入れなければならなくなる」

「…………」

「幸いにして聖杯の器は我らの手にあります。此処で貴方とそのマスターを斃した後、残る全サーヴァントを斃せばそれで済む話。
 聖杯の奇跡を用い、サクラが生きるに足るものを手に入れる。必要とあらば、この命をすら差し出しましょう」

 自己犠牲を厭わぬ他者の救済。ライダーが何を想いそれほど間桐桜に入れ込むのかはアーチャーの埒外。けれど、その答えは鼻で笑うに値するものだ。

「……皮算用もいいところだな。この戦いがそんなに都合良く動かせられるようなものであれば、此処まで混迷を極める事もなかっただろうに」

 そしてライダーには決して見通せぬ落とし穴がある。この戦いの結末に用意された、最悪のシナリオ。流した血と涙の全てを無為に帰す、極上の絶望が。

「良く分かった。これ以上は水掛け論にしかならんか。まあ、それも当然か。遠坂と間桐の因縁の前に、我らは殺し合う事を前提とされたサーヴァント。私とおまえが手を取り合うような事は有り得なかったのだから」

「…………何を」

「────I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)」

 アーチャーが呪文を唱えたその瞬間、周囲の空気が変質する。冬の夜気が満ちる雑木林の中に、一瞬だけ不可解な熱を感じ取った。

「終わりにしよう、ライダー。全力で来るがいい。私もまた、全霊で以って君の意地に応えよう」

 刹那の内に中空に浮かび上がった剣群は十を越え、なおその数を増していく。ライダーは静かに眼帯へと指をかけた。封じられた宝石の瞳が今再び、開かれる。

「貴方は彫像にしても飽き足らない。その欠片まで粉微塵に変えて、貴方のマスターの前へと連れて行きましょう」

「────っ!」

 石化の魔眼。その瞳が見たものの悉くを石へと変える現代では失われた大魔術。蛇の眼光に射竦められた瞬間、周囲に立ち並ぶ木々諸共、アーチャーの足は即座に石像のように凝固する。
 アーチャーの魔力ランクではレジスト出来る確率は五割ほど。以前成功した事を思えば今回の失敗は当然のもの。自らの運のなさを嘆きな悲しむ余裕はない。

「Unknown to Death.(ただの一度も敗走はなく、) Nor known to Life.(ただの一度も理解されない)」

 紡がれる詠唱。繰り出される横薙ぎの剣の雨。

 周囲の木々と同様、ライダーに見つめられた剣群は空間に停止したかのようにその疾走を阻まれ、地へと落下し砕け散る。
 しかし次の瞬間にはまたも無数の剣が生まれている。間断なく降り頻る雨粒のように、際限なく隙間なく剣が生まれ凝固し砕け散る。

 ライダーが地を蹴る。石の森と化した雑木林の中をアーチャーへ肉薄せんと疾走する。地に突き立った石の剣と木を避け、足元から襲い来る石化の侵攻に苦悶に顔を歪めるアーチャーへと。

 それを阻むは剣の壁。十重二十重と連なる剣群は、石と化しても地に突き立ち、ライダーの進路を妨害する。

「チィ……!」

 ライダーが苛立ちと共に釘剣を払う。伸びた鎖が石の剣群を破砕し道を拓くも、次の瞬間彼女の目に映ったのは、頭上を埋め尽くす鋼の雨。
 かつてアインツベルンの森で雑兵を薙ぎ払った多重投影。ライダーの足を止める為に、鋼の檻となって降り注ぐ。

 漆黒の騎兵が後退する。剣を石に変えるのは容易であっても、殺傷能力が完全に失われていない石の剣の直撃を被るわけにはいかなかったからだ。

 アーチャーは間合いを維持する事に終始している。その証拠に、一定以上の距離を置けば深追いをして来ない。弓兵の目的は詠唱の完遂。それを阻害するライダーの行動を邪魔立てしても、剣の乱舞で討ち取ろうとは考えていない。

 とはいえ、朗々と紡がれる呪文の完成を、座して待つ事など出来る筈もなく──ライダーは、手にした刃で自らの首を掻き切った。

 大動脈から溢れ零れる膨大な血。それは意思を持つかのように蠢き、形を成し、主の眼前に魔法陣を構築する。

 瞳のような、蜘蛛のような、神代の怪物の血で描かれた召喚陣。刹那の後に、発光、空間を裂き割るように現われたのは白き翼持つ天馬。

 顕現した天馬へと跨り、白き極光となって道行きを阻む全てを蹂躙する。

 石となった木々も、石となった剣群も彼女らの疾走を止められる筈もなく、繰り出される剣群も石となる前に天馬によって蹴散らされていく。
 最早その疾走を阻むものはない。後はただ、標的を轢殺し主の下へと帰るのみ。

 数秒も待たず現実となる筈だったそれに意を唱えるように、アーチャーが口の端を吊り上げる。

「■■■―――unlimited blade works(その体はきっと剣で)」

 林を駆ける白き極光の暴力的な破壊音に紛れるように、静かに謳い上げられた最終節。直後、暗闇に奔る二重の炎。アーチャーを中心に円を描く炎は、まさにライダーの光がアーチャーを飲み込むその直前に完成し────

 ────世界は裏返る。

 赤茶けた土。
 煤の匂い。
 鉄錆の風。
 炎のように燃える紅蓮の空。
 中空に浮かぶ巨大な歯車。
 奏でるのは、まるで鉄を打つ残響。

 そして足元に突き立つのは無数の剣。剣。剣。

 地平の彼方までをも埋め尽くす鋼の森。
 それこそまるで、銘なき墓標。
 担い手のいない剣は静かに並び立つ。

「…………これは」

 ライダーが感嘆と共に呟く。

 天馬の突進がアーチャーを飲み込みかけた瞬間、世界卵はその表と裏を入れ替え、同時に互いの立ち位置さえをも入れ替えた。
 ライダーの一撃はアーチャーを飲み込む事なく何もない空間を蹂躙し、眼下、この赤い世界の中心に立つ男を天馬の背から見下ろしている。

 固有結界。
 心象風景の具現。
 魔術における一つの到達点。
 およそ弓兵が持ち得る能力ではない。

 全ての疑問を飲み込み、ライダーはただこの煤けた世界を俯瞰した。

 生き物の息遣いは彼らをおいて他になく、鉄と炎と剣だけが存在する無機質な世界。
 これがアーチャーの心象風景であるというのなら、彼の心はまさに荒涼であり寂寞。

 唯一人──この赤い世界の中心で、孤独に剣を握る。

 この世界には何もない。
 だが不思議と、その寂寞を哀しいとは思わなかった。

 それはこちらを見上げている男の瞳に宿る力強さゆえのものか。自身の心に何一つ存在しない世界を抱えながら、それを当然と受け入れている。あるいは、彼にとってこの世界にこそ、彼が望んだ全てがあるとでも言うのか……。

「固有結界……確かに驚きに値するものですが、これで私に勝てると思っているのですか」

 世界を空中から見つめるライダーの瞳は、既にこの世界自体に亀裂を刻み始めている。見たもの全てを石へと変える魔眼。最高位の魔眼は、大地を石に変え、突き立つ剣を石へと変え、そして世界そのものを石へと変えて破壊する。

 アーチャー自身の身体もまた、石化は解除されず腰ほどにまで侵攻している。如何に世界を塗り替えたところでアーチャーはその場から一歩すら動けない。如何に強力な能力であろうと、動きを封じられては為す術もあるまい。

「ああ──勝てる。勝つ為に、こうして世界を塗り替えたのだからな」

 だがアーチャーは断言した。最早動く必要もないと。この世界を構築し終えた時点で、勝利は確約されたも同然だと。

「…………」

 確かに、この世界はアーチャーの切り札なのだろう。

 構築に呪文の詠唱を必要とし、時間が掛かる為にこれまで機会の逸していたとしても、この局面で切った札ならば相応の自信も頷ける。
 けれどライダーは口元を僅かに綻ばせた。アーチャーが切り札を秘して来たように、ライダーもまた、最後の一枚を残している。

「──いいでしょう。ならば此処で決着を。私は貴方を斃し、サクラの下へと戻り、そして聖杯を掴み取る」

「────」

 アーチャーは答えず、空を見上げる瞳を更に鋭く尖らせる。ライダーが手を打った瞬間に反応が出来るように。

 そしてライダーは最後の札を曝け出す。血の要塞、石化の魔眼、天馬──そして、天馬を繰る手綱を。

 天馬はライダーの宝具ではない。幻想種としては破格の年月を生き、格を一つ繰り上げてはいてもその性質は天馬に準じる。天馬とは本来心優しき生き物だ。今も数々の本の中で描かれるように、気性の大人しい幻想種である。

 ゆえにその力は常にセーブされている。そのリミッターを外し、防御能力を数倍にまで高める手綱──それこそがライダーの秘して来た最後の宝具。

 ライダーは静かに我が子の鬣を撫でる。心優しきこの子を強制的に支配し、敵を薙ぎ払う兵器へと変貌させる事はライダーも望むところではない。

 だが、全ては桜の命に優先される。

 それが彼女の誓い。守ると誓ったマスターの為、心を鬼神へと変え手綱を繰り、行く手を塞ぐ全ての敵を駆逐する。

 手綱を引けば、力強き嘶きと共に天馬は旋回し、形なき無空を踏み締め空の彼方へと昇っていく。
 手綱で能力を引き上げられた上に更に重力による落下の速度を加え、まさに地に堕ちる流星とならんと空を駆け上がる。

 雲を下に見る遥か高空で停止し、羽ばたきは一度だけ。後はそう──引力に引かれるままにアーチャーの下へと墜落するのみ。

「……お願い」

 桜を守る為に、力を貸して欲しい。

 その想いを汲み取ったかのように、自らを戒める手綱を受け入れ、天馬は空を蹴って、墜落を開始した。

 その遥か下方、世界の中心に立つアーチャーは静かに時を待つ。視界より姿を消したライダーであっても、鷹の目と耳は即座に反応を感知する。

 雲を突き抜け落下する白き極光。綺羅星の如き輝きを身に纏い、天馬と一体化したライダーは流星となって落ちてくる。
 その速度は測るのも馬鹿らしく、天馬の強大な防御能力も合わさって、まるで巨大な壁が超高速で落下してくるようなもの。

 しかもアーチャーは足を封じられ逃げ場はない。固有結界を解除すれば互いの位置をある程度自由に出来る事から、この一撃を躱す事は可能だろう。
 けれどこの弓兵はそれを望まないし行う気もなかった。ライダーが全ての札を切って勝負を賭けように、アーチャーにとっても此処が天王山。

 真っ向からの勝負など、本来全力で戦う場合は避けるべきもの。固有結界という規格外の能力を持っていても、アーチャーは本人が認めずともあくまでも搦め手と不意打ちを得手とする男だ。

 真っ当な英霊が持つ究極の一を持たないがゆえの汎用性の高さと器用さを活かして立ち回り、隙を突いて勝ちを拾う。
 仮に円卓の面々と正面からやり合う事態になっていれば、固有結界の展開すら許されず袈裟に斬られていたかもしれない。

 だからといってライダーが弱いわけではない。あくまでも戦いの相性や戦場の状況も相まって、上手く歯車が噛み合ったに過ぎない。

 ただ、この敵だけは真っ向から迎え撃つ。
 でなければその勝利を誇れないと確信出来る。

 自らの胸に宿った想いを成し遂げる為には、ライダーは越えねばならない大きな壁だ。

 雲を割り襲い来る白き巨星。轟音は世界に残響する鉄を打つ音をすら掻き消し、この世界そのものを破壊せんとばかりに一切速度を緩める事なく落下してくる。

 確かに固有結界内ならば周囲への被害を考慮する必要はない。だが何もそれは、ライダーだけの特権ではないのだ。

 左手を静かに前に突き出す。
 この世界が完成した時点で、自らに語りかける呪文の詠唱は不要。
 此処には全てを構築する要素がある。
 ならば後は、想い一つで紡ぎ上げる事など造作もない。

 その上で、高らかに謳い上げよう。
 アーチャーが心の残滓から掬い上げるその盾の名は────

「“────熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)……!!”」

 二つの光が衝突し、弾ける。

 中空に咲く七枚羽の盾。まるで花弁を髣髴とさせる薄桃色の盾は、ありとあらゆる投擲宝具を防ぐアイアスの盾。アーチャーの誇る最硬の守り。

 けれどライダーと天馬は止まらない。白き巨星は七つの城壁にも例えられるアイアスの盾を前に僅かにその速度を落としただけで、微塵の揺らぎも有り得ない。

 恐るべきはその突進能力。

 攻撃性を持たない天馬が持つ強大な防御能力に物言わせた力押し。強力無比な盾を超高速でぶつければ何者も行く手を阻む事の出来ないという猛進。勇猛を通り越したごり押しであれ、事実アイアスは順にその花弁散らしていく。

 如何に投擲宝具が相手ではないとはいえ、その防御能力は折り紙付き。こうも容易く破られるのは、魔眼によるステータスダウンが効果を発揮している所以だろう。

 石化の魔眼は対象を石に変えるだけでなく、レジストを行った相手にも能力のワンランクダウンを押し付ける。
 中途半端にレジストしているアーチャーは石化の侵攻を遅らせてはいるものの、そのランクダウンもまた同時に食らう羽目になっている。

 天馬を繰る手綱と石化の魔眼。
 その両方に対処するには、アイアスの盾だけで不十分。

 ゆえにアーチャーは最後の札を切る。
 元より此処までの展開は想定内。
 ライダーのような敵を圧殺する盾を持たないアーチャーは、敵を斬り伏せる為の剣がなければ勝利しえないのだから。

「────切り札は、最後までとっておくものだ、ライダー」

 言葉と共に世界(こころ)から掬い上げたのは、黄金の剣。
 居並ぶ剣群とは一線を画す、煌く刀身を誇る一振りの剣だ。

 盾が一枚砕け散る度に激痛が身を襲う。
 左腕の筋繊維は断裂し、血が噴き出している。
 アイアスの維持に魔力を回し、その上でもう一つ──自身の破滅を招きかねない黄金を手に掴んだ代償は、

「はっ────、がぁ……!」

 身体の内側で弾ける痛みの刃。
 刃先で肉を一枚一枚削がれるような激痛。
 万にも上る剣にその身を貫かれたと錯覚とする苦悶。

 この身が英霊に引き上げられてからは感じる事のなかった痛み。身体の内側で刃と刃が擦れ合う懐かしい残響を聴く。
 永遠にも思える痛みの檻は、真実刹那の内の出来事。花弁が一枚消されたかどうかというほどの一瞬。

 血に塗れながら、黄金の剣を振りかぶる。足が固定されているのは、むしろ都合が良かった。下手をすれば、崩れ落ちてしまいかねない痛みと眩暈。ぎちりと石と化した足に力を込め、純白の光と桃色の光の衝突点を見据える。

 振り上げた手に握られた黄金は、この世で最も尊い光。
 世に遍く人々の想いを織り込み造り上げられた祈りの結晶。

 あの日──暗闇の中で踊る月の雫よりも美しく、尊いと信じたもの。
 今なおこの心に焼き付いた、忘れる事の出来ない運命の夜。

 遠い日に見た赫耀に、心奪われた少年が紡ぐ模造の奇跡。

 この聖剣が敗れる事など有り得ない。
 たとえそれが偽物であろうと、模造であろうと、型落ちであろうとも、あの尊き黄金の名を冠した剣に、敗北は許されない。

 ゆえに全霊を。
 魂の一片をすら込め、この一撃に全てを賭ける。

 その真名を解き放った先に待つのは分かりきった結末。
 身に余る奇跡の代償はいつも一つ。

 ライダーは『未来』を語った。
 けれどアーチャーは『現在』に賭けた。

 血の一滴をすら絞り上げ、目の前の敵の撃破に全霊を傾けた者と。
 目の前の敵をただの通過点と捉え、全力ではあっても先を惜しんだ者と。

 これはきっと、それだけの違いで。

「“────永久に遥か黄金の剣(エクスカリバー・イマージュ)”」

 静かな声と共に。

 遥かなる王の剣が、振り下ろされた。


+++


 夜を走る七色の光。黒髪を左右に結った少女の手から放たれる宝石の数々は、闇を味方につける影の刃の悉くを駆逐する。

 四角い廊下を縦横無尽に走る影。床、壁面、天井と、森での戦いでは為しえなかった三次元空間を用いたラッシュ。

 左右同時に襲い掛かった二本の槍はルビーの炎に焼き尽くされ、地よりせり上がった無数の棘はエメラルドの風によって切り払われ、天井から落下した影の洪水も、サファイアの輝きが生んだ氷の乱舞に防がれる。

「っ──、本当、節操がないですね姉さん! お金に飽かせた物量での強制的な正面突破だなんて……!」

「はっ、宝石魔術師ってのはね、宝石の質と量がものを言うのよ。勿論技量があればある程度は補えるけど、行き着く先は結局そこ。要は金持ちの方が強いのよ──!」

 逃げ惑いながら影を繰り出し姉の首を取らんとする妹へと、全力で駆けながら襲い来る全ての攻撃を相殺し続ける凛。
 森での戦いで証明された通り、純粋な魔術戦では桜は凛に及ばない。地形的有利があっても、それを全て吹き飛ばすだけの戦力が凛にはあるのだ。

 桜が間断なく攻撃を続けているのは凛に反撃の隙を与えない為。今の凛は重戦車だ。生半可な攻撃は全て往なされ、攻撃の手を緩めれば大砲が飛んでくる。

 幸いにして今は夜。閉鎖空間内であり、どんよりとした雲間から覗く僅かな月明かりによって影が生まれている。ゼロから影を生み出すのではなく、既にある影を利用し矢継ぎ早に攻撃を繰り出して凛の進行を僅かでも押し留める。

「っく……!」

 とはいえ影の乱射にも限度がある。桜が影を使役し放つより、凛が宝石の輝きを生む方が徐々に速度で勝っていく。
 後方に注意を払いながら前に進まなければならない桜と、ただひたすらに前へと突き進むだけの凛の差だ。

「手が遅れてるわよ──eins(一番)、zwei(二番)、drei(三番)……!!」

 結局、桜は凛の繰り出す宝石乱射の前に詠唱を遮られ、転がるように真横にあった教室へと飛び込んだ。

「痛っ……」

 居並ぶ机を薙ぎ倒しながら転がった桜が立ち上がった折、脛に鈍痛が走る。教室へ飛び込んだ際、凛の放った宝石の刃が桜の足を掠めていったのだ。

「此処で鬼ごっこも終わりかしらね。その足で、まさか私から逃げられるとは思っていないでしょう?」

 教室前方の入り口に立つ凛。中ほどで中腰のままの桜を射竦めるように見下ろしている。

「どんな状況を用意しようと、手を尽くそうと、貴女じゃ私には勝てないって、まだ分からない?」

 積んだ研鑽の量も、受けた教練の質も、凛は桜に遥かに勝る。水の合わない池で育った魚が、水の合った池で育った魚に勝てないように。
 宝石魔術を扱う為に必要な素質の全てを持って生まれ、最適な師を持った凛と。自らの属性に適さない家門で、適性を持たない師を持った桜の、埋めがたい明確な溝。

 唯一桜に出来る事は、彼女が行おうとした通り、自らの破滅と引き換えに姉にも同等の破滅を見舞ってやる事。
 勝利出来ないのならせめて相打ちを。地を這いずるしかない星が天に輝く星を堕とそういうのなら、それくらいの代償がなければ難しい。

「…………」

 そんな事、桜自身よく分かっている。だからこそこの街に結界を仕掛けた。桜が唯一凛を相手に対等な足場に立てるだけの、最悪な仕掛けを冷静な頭で指示したのだ。
 決して、何もかもを失い自棄を起こしたのではない。間桐桜はまだ、壊れかけてはいても完全に壊れる事を良しとはしていない。

 だって彼女は────……

「姉さんは……何故聖杯を求めるんですか」

 不意に、桜は俯き加減にそう訊いた。

「……治癒の為の時間稼ぎなら他所でやって欲しいところだけれど。答えてあげるわ。お父さまを、見殺しにしたからよ」

「────……っ」

 元より凛には聖杯への執着などほとんどなかった。目の前に戦いがあり、自分がその参加者に選ばれたからこそ参戦しただけ。戦う以上は勝利は当然。聖杯は勝利に付随する副賞のような扱いに過ぎなかった。

「弾痕から見ても、下手人である衛宮切嗣の狙撃によって瀕死の重傷を負ったお父さまだったけれど、その時点ではまだ私には救うだけの手立てがあった。
 けれどお父さまは私の治療を拒否されたわ。お父さまの命を救う代償に、私が失うものを天秤にかけてね」

 言って、凛が胸元から取り出したのはペンダント。鎖の先に輝くのは三角形の赤い色の宝石。見るものが見れば、その宝石に込められた魔力量に目を剥くだろう。
 遠坂時臣がその生涯をかけて魔力を貯蔵したステッキに象眼されたルビーには些か劣るものの、十年、二十年単位の魔力がその宝石には込められている。

 極大の魔力と凛の手腕、魔術刻印のサポートまでがあれば、死んでいない人間の、死に掛けている人間の命を繋ぎ止める事などそう難しいものではなかった。

 けれど時臣は拒絶した。そんな事に使う為に、そのペンダントを託したのではないと。死を覚悟していた今まさに死に行く誰かを救う為ではなく、遠坂の悲願を成し遂げる為にこそそれを使えと、そう遺して。

「お父さまはその最期まで気高い魔術師であられたわ。そして私に聖杯を掴めと遺してこの世を去った。
 五代遠坂家当主時臣の跡を継ぐ六代当主としての最初の務め──それが聖杯を手に入れること。私が自身に課した義務よ」

「…………」

 根源へ至る事は魔術師の願いであり義務だ。けれど凛は聖杯の力を行使して世界の外側に至る事に正直に言えば疑問を持っていた。
 確かにこの聖杯戦争は遠坂も一枚噛んだ大儀式だ。聖杯の所有権はあるだろうし、事実として手に入れたのなら誰かがそう願うのも否定しない。

 だが凛にとっては、これはただ用意されたものに過ぎないのだ。自分の力が関与するのは全ての前提に介入する余地がない、一参加者としてのものだけ。二百年も前に敷かれたレールの上を走り、目的地に辿り着くようなもの。

 ああ、これまで時臣の敷いたレールの上を走り続けた己が何を言うかと、誰かは嘲笑うかもしれない。
 それでも、魔術師として生きると覚悟を決め、冷酷な魔女の仮面を被ると決心したその時から、せめてそれだけは自分自身の手で掴み取りたいと思っていた。

 実際、聖杯を手に入れた後の事は凛にも分からない。目の前に万能の奇跡が降って沸いた時、その奇跡に縋らない保障は何処にもない。
 遠い、余りにも遠い道の果て。その場所へとショートカット出来る手段が手の中に生まれた時、その誘惑に抗えるかどうかは定かではない。

 いずれにせよ、聖杯を手に入れることは凛の中で決定事項だ。その後のことは後になってからまた考えればいい。
 手の中にないものを空想し悦に浸る趣味もない。今はそう──目の前の敵を一人ずつ蹴散らし、勝利への歩みを進めるだけだ。

「そういう貴女はどうして聖杯を求めるの? いえ、全てを破滅させようって考えてる貴女だもの、今更そんなものに興味はないのかしら」

「……欲しいに、決まってるじゃないですか」

 搾り出すように、桜はそう口にする。痛んだままの足を引き摺り、転がる机を支えに立ち上がる。

「ええ、聖杯を手に入れるのは私です。でないと、あの人を手に掛けた意味がない……!」

「…………」

 桜の言うあの人、というのは無論時臣の事だろう。瀕死の重傷を負っており、捨て置いても死に行く命だったとはいえ、最期の一押しをくれたのは間違いなく間桐桜だ。
 未だ逡巡の中にあった凛の思考を切り裂き、最期の力を振り絞り道を拓こうとした父の命を奪ったのは、他ならぬ彼女なのだから。

「……今更、救われたいとは思っていません。私の願った救いはもう、この世界の何処にもないんですから。
 ええ、だから私も、姉さんと同じですよ。姉さんがあの人を見殺しにしたから聖杯を求めるように──私もあの人を殺したんだから、せめて聖杯くらい手に入れないとならないんです……!」

 決別の言葉を言い渡されようと、落胆の顔を見せられようと、桜にとって時臣は間違いなく実の父親だった。
 幼き日のことを覚えている。まだ陽だまりだけが世界の全てだと信じていた頃、その大きな背に強い憧れを抱いたことも鮮明に思い出せる。

 間桐へと送られることになったあの日までの温かな記憶だけが、桜を今もこうして繋ぎ止めてくれているから。

 捨てられたも同然とはいえ、時臣は時臣なりの考えによって桜の幸福を望んでいたのだろう。何の因果か送られた先が最悪の地獄だっただけの話で、時臣だけが元凶とは言い切れない。

 実の父親をその手にかけ、育ての親すらも手に掛けた。あの悪鬼はまだ生きている可能性はあるが、今はそんな些細な事はどうでもいい。
 間桐桜は自らの意思で二人を殺害したのだ。ならば重ねた罪の分だけ報いを受けなければならない筈で、もう止まる術を持たないブレーキの壊れた車は、落ちると分かっていても断崖絶壁に突き進むしかない。

「そして私は……これから姉さんもこの手に掛けるんですよ。ね、ほら、聖杯くらい貰わないと、割に合わないでしょう?」

 この身を誰かが裁くまで、間桐桜はひたすらに走り続けるしかない。奈落へと通じる坂道を、泣きそうな顔のまま、転げ落ちるしかない。

「本当に、救いようがないわね……桜」

「さっきも言ったじゃないですか。今更、救われたいだなんて思っていません」

 救いを求める時間は終わった。天から垂らされる蜘蛛の糸にも興味がない。地を這う蟲が天を望めないというのなら、

 ────ああ、ならばその終わりまで、醜く足掻き続けるだけだ。

「私はッ! 姉さんを殺してッ! 聖杯を手に入れるんだからッ……!!」

 桜がその懐から取り出したのは数枚の紙切れ。無論ただの紙切れなどである筈もなく。

「……っ、呪符……!?」

 凛が宝石を放つのに先んじて、空を舞う呪符。それは森での敗戦を受け桜が用意した即席の簡易礼装。自らの髪を貼り付けただけの代物。

 女の髪は強い魔力を宿すと言われている。魔術師のものなら尚の事。高位の女魔術師が長く髪を伸ばすのは、その方がより強い魔力を溜め込めるからだ。
 髪は女の魔術師とって最後の切り札。埋めがたき溝が存在し、実力では埋められないのなら、埋められるだけのものを用意すればいい。

 詠唱は簡略。一小節で事足りる。魔術刻印を持たないが故に必要だった詠唱の時間を短縮し威力を増幅する為の呪符だ、簡易ではあっても女の切り札を用いたのだから、その効力はお墨付きだ。

「くっ……!」

 桜の放った影は四散し、呪符を貫き威力を増幅させて凛の前方で弾け飛ぶ。教室内の椅子と机を無造作に吹き飛ばし、噴煙を巻き起こし、その隙に桜は廊下へと躍り出る。

 森での戦い以上の攻撃手段を持たないと侮った凛は一手遅れて廊下へと飛び出す。既に桜は遥か前方。コーナーを曲がり三階への階段へと足を掛けようとしている。

「逃がすかっての……!」

 指を突きつけ放つはガンド。相手を指差し体調を崩させるという北欧の呪い。単純な呪いであり直接的なダメージは本来有り得ないが、凛ほどの術者が放てば文字通り質量を有し弾丸の如き威力を誇る。

 夜の闇を切り裂く黒の弾丸はコーナーを前に若干速度を落としていた桜の足を狙い放たれた。凛が先に傷つけた脛のダメージは抜けていない。同じ箇所を狙い完全に足を止めようとするえげつない一撃は、

 くすりと微笑んだ桜がはらりと舞い落とした呪符より生じた影の盾に阻まれ、何を貫くこともなく消滅する。

 如何に現実の銃弾ほどの威力を誇るとはいえ、宝石を用いた一撃に比べれば遥かに格を落とす。曲がりなりにも宝石を相殺する影を操る桜を相手に詠唱すらも不要なガンドでは傷をつける事さえも叶わないの道理と言えよう。

 幾ら教室で煙に巻かれたとはいえ、凛がその程度の事に頭が回らない筈がない。ガンドの利点は移動しながらの攻撃にも耐えること。詠唱が不要であり凛が持ち得る札の中で最速であること。

 対して桜はコーナーを曲がる途中だった事もあり、一瞬だが足を止めた。わざわざ挑発めいた笑みさえ残したのだ、差は確実に縮まっている。

 僅かに遅れて凛がコーナーを曲がる。その時、目に飛び込んできたのは、

「な、何をしている……!?」

「えっ……!?」

 薄暗い廊下を照らす懐中電灯。その持ち主は桜ではなく、壮年の男性だった。

 丁度階下から上ってきたのだろう。下から突如差し込んだ明かりに目を細める。光の向こうに微かに窺えるその身なりから想像出来るのは警備員か宿直の教師か、いずれにせよ聖杯戦争とは何の関係もない一般人。

 桜が戦場と定めたこの場所で、血の要塞の基点にもっとも近いこの場所で、まさか未だ意識を保っている人間がいるとは想像だにしなかった凛の思考は、確かに一瞬だけ麻痺を起こし、

「──Auf Wiedersehen(さよなら)」

 その隙を、間桐桜が見逃す筈もなく。

「このっ……!」

 凛は半歩を一瞬にして警備員へと詰め寄り、容赦もなく階下へと蹴り飛ばした。

 直後、一瞬前まで警備員がいた場所、つまり今現在凛がいる場所に、頭上より降るのは影の槍。階段をすり抜けるように降った影の雨は無造作に凛の身体を貫き、ようやく体勢を戻した凛が一歩を退いた時、既に跡形もなく消えていた。

「やって……くれるわね桜……!」

 凛の身体に傷のついていない箇所はない。咄嗟に魔術刻印を回し防護の網を張ったが、警備員を蹴り飛ばした為に一手確実に遅れを取った。
 赤い上着には血が滲み、裂かれた頬からは血が零れ落ちていく。足にも被弾し機動力を奪われた。

 凛の魔術師としての在り方を理解し、どう行動に及ぶかを完璧に理解していたからこそ叶った奇襲。
 あの警備員はわざと結界の影響が出ないよう細工を施されていたのだろう。此処でかち合ったのが偶然か桜の仕込みかまでは不明だが、一杯食わされたのは間違いない。

 桜が全力で逃走を試みているのだとすれば、既に追いつけるような距離ではあるまい。凛は息を一つ吐き出し、階下へと向かい踊り場に転がる警備員の症状を確かめる。幸いにして気絶しているだけだ。打ち所も悪くはない。

「巻き込まれたのは不運だけど。串刺しにされなかっただけ有り難いと思って欲しいわ」

 凛が咄嗟に蹴り飛ばさなければ脳天から串刺しで今頃はこんな安らかな寝息を立てていられなかった筈だ。桜は凛が必ず庇うと分かった上で容赦のない一撃を見舞ったのだ、彼が生きているのは偶然ではなく必然だ。

 警備員を横たえ、歩みを再開する。予想だにしなかった手を打たれ、充分に距離を離され標的をさえ見失った。
 このまま三階に上がったところで反対側の階段に逃げられてしまえばいたちごっこ。終わらない鬼ごっこを延々と続ける羽目になる。

「────Anfang(セット)」

 まともに鬼ごっこをしているのなら、それに付き合うのも良いと思っていた。地力で勝る以上は相手の土俵で戦うのも悪くないと。しかし桜は一線を越えた。凛が庇うと想定していたとはいえ、一般人を直接戦いに巻き込んだ。

「先に形振り構わない手を打ったのはそっちよ桜。だったらこっちも容赦なんてしてあげないから」

 手には父の形見のステッキを。象眼されたルビーが起動の呪文に呼応しその輝きを増していく。

「Triff einen Boden und ist Flamme(地を満たせ、炎よ)」

 瞬間、リノリウムの廊下を奔るは炎の道。二階廊下の全てを炎で埋め尽くし、その火の粉は舞い上がり更なる延焼を続けていく。

 踊り場に転がる警備員には火の手は及ばない。階段を境に結界を構築し遮断している。とはいえ、長く時間を置けば校舎自体が焼け落ち彼もその崩落に巻き込まれるだろうが、そこまで時間を掛けるつもりもない。

 これで下へと至る道は封じた。警備員と凛がかち合った時、桜の声は頭上から響いた。なら間違いなく彼女は上の階層にいる筈で、彼女自身がこの校舎を鬼ごっこの舞台に指定した以上、窓から校庭へと飛び降りれば敗北だ。

 桜にとって凛は負かさなければならない相手。決闘の場を用意しておきながら尻尾を巻いて逃げるような愚を犯しはしまい。凛に背を向ける事──それが今、桜がもっとも忌避する事の一つなのだから。



+++


 三階を踏破し、その更に上、立て付けの悪い扉を越えて、凛は屋上へと踏み入った。

 火の手は三階を延焼している最中であり、此処まで届くにはもう幾許かの猶予がある。そして屋上へと辿り着いた凛の目に入ったのは、その中心で空に手を伸ばす妹の姿。

「どれだけ手を伸ばしたって、アンタに星を掴む事なんて出来ないわ」

「知ってますよ、そんな事。姉さんにだって、出来ないでしょう?」

「舐めないでくれる? こんな場所から手を伸ばしても掴めないけど、本当に星を掴みたいのならまず自分が星の高さに至ればいい。星を引き摺り下ろして掴みたいアンタには一生無理でも、私ならきっと出来るわ」

「それは強者の理論ですよ。誰も彼もが姉さんみたいな強さを持ってるわけじゃない。自分を星の高さに引き上げる強さを持ってなんかいない。
 だから自分より高い場所で輝く星に嫉妬して、引き摺り下ろしたいと願うんですよ」

「弱さを盾に己の浅ましさを他人に押し付けないで欲しいわね。怠惰な者の手に望んだものは手に入らない。そんな事、誰だって分かってるでしょうに」

「ええ、分かっていますよ。それでも欲しいものは欲しいし、憎いものは憎い。人間ってそういうものでしょう?」

 何を掴む事も出来なかった手を戻し、桜は凛と向き合った。

 叶わぬ願いと知りながら、地を這う星は天へと手を伸ばし続ける。救いを求める為ではなく、この地の底に誰かを引き摺り下ろしたいが為に。

「今度こそ、鬼ごっこは終わりよ。此処が私たちの戦いの終着点。花はないけど、まあそれくらいは許してあげるわ」

 天に輝く星に、地を這うしかない星の心は分からない。ただ、自らの行く手を阻むものを薙ぎ払い、願った先へと進むのみ。

 そこから先は最早、死力を尽くした総力戦。

 屋上に舞う七色の光。
 風に舞う呪符を貫く影の乱舞。

 所狭しと地を駆け、宝石の輝きを、影の槍を、実の姉妹に向けて殺意を乗せて繰り出すだけ。

 語るべきを語り終えた二人の間に、問答はない。
 掛ける言葉も、掛ける情けも存在しない。

 ただ、目の前の敵を駆逐する──その為だけに、彼女たちは腕を振るう。

「あ、あああああああああ……!!」

 呪符を五枚、並べで空中に固定。殴りかかる勢いで放った影の槍は一枚呪符を貫く度にその威力と速度を増し、五枚全てを貫き終えた槍は魔槍の如き異形の大きさとなって凛へと襲い掛かる。

「──Paradigm Cylinder(煌け、七色の光)」

 空中に舞う七つの宝石。その輝きをカットによって七色に変化させる宝石の真骨頂。大師父によって残された課題──その末端も末端を紐解き編み上げた凛の奥の手。
 この場所を戦いの終着点と定めた以上、出し惜しみはなしだ。秘蔵の七つを用い、完膚なきまでに間桐桜を捻じ伏せる。

 先を思い、力を残して倒れることなどあってはならない。獅子は兎を狩るのにも全力を尽くすという。遠坂凛もそれは同じ。敵対者に対して、彼女が容赦した事など一度足りとてありはしない……!

 七つの宝石は互いの力に干渉し増幅し合い、この世にはない色を発現させる。それはまるで、万華鏡のよう。あらゆる色を持ち、顔を変える宝石の極点。いずれ凛が至るべき高き峰の上に咲く一輪の花の如し。

 鈍色の空を染め上げる極光。闇よりもなお黒々とした巨大な柱めいた槍は、僅かな鬩ぎ合いの後、全てを照らす万華鏡の輝きの前に霧散し──

「ああ……」

 今自身が放ち得る最大の一撃を苦もなく消し去った七色の光を見つめ、桜は再び思い知らされた。

 ────やっぱり、姉さんは強いなぁ……。

 間桐桜が持ち得なかった強さ。高い才覚を持ちながら、それに胡坐を掻くことなく修練を積み上げなければとてもではないが届き得ない高み。
 地を這い、渋々と受け入れ続けてきた自分とは余りにもかけ離れたその強さは。

 憧れを抱き、嫉妬し、憎悪し、恋焦がれたもの。

 人が自分にはないものを他者に求める生き物であるのなら、桜にとっては凛こそがその象徴だった。
 もっとも身近にいながら、もっとも遠くに感じていた存在。手をどれだけ伸ばそうと、決して掴み得ない遠い背中。

 迫る光。
 全てを溶かす万華鏡。
 抗う術も、抗う意思も失った桜は、静かに瞳を閉じ、その終わりを受け入れた。

「死にたくもないくせに、死に場所を探す真似はもう止める事だな」

「────……え?」

 抗える筈のない死の奔流を目前に、何処かで聴いた声を聴く。全てを呑みこむ筈の光の乱舞は、突如現われた赤い背中によって阻まれる。

「アー……チャー……?」

 刹那にも満たない時間の中、見つめた背中は満身創痍。赤い外套はより濃い血によって覆われ、無手のまま、凛の放った万華鏡の輝きの前に立ちはだかる。

 何故。
 どうして。

 遠坂凛のサーヴァントであるアーチャーが、間桐桜を庇う理由はない。空に手を伸ばしてた最中に消えた令呪から、ライダーの消滅は窺い知れたが、こんな展開は予想の外。敵のサーヴァントが敵である自分を主に逆らい守るなど、まるで意味が分からない。

 いずれにせよ、桜を呑み込む筈だった光の奔流は赤い騎士の手によって阻まれた。極光が消え去った後に残ったのは、愕然と見つめる遠坂凛と、呆然と視線を彷徨わせる間桐桜。そして、瀕死でありながら、膝をつきながらなお存命し続ける弓兵の姿。

「アーチャー……!? 貴方、なんで……!」

「ふん……我ながら驚くほどに生き意地が汚いな。だがそれも限界か。流石にもう長くは保たん」

 足の先から、指の先から光の粒になっていくアーチャーの姿。自らの消滅をかけた黄金の剣を振るい、サーヴァントにさえ通ずる凛の一撃を受け止めたのだ。生きているだけ奇跡であり、残されたのは僅かな時間。

 零れ切らなかった砂が、ただ落ちていくのを待つだけの猶予。だがそれでも、まだ完全に消えていないのなら出来る事もあるだろう。

「凛、君の戦いは此処で終わりだ。もう聖杯を掴む事は叶わない。よもやサーヴァントを失った身で、戦い抜けると思い上がるほどには腑抜けてはいないだろう」

「なんで……令呪で命令したでしょうに。私の、邪魔をするなって……」

「死に掛けの人間は、どうやら想像以上に足掻けるものらしい。元よりそう強力ではない命令だ、面と向かってどけとでも言われなければ、拘束力も弱まるというものさ」

 そもアーチャーは己の命を度外視していた。凛の命令が戒めとなって手足を縛ろうと、ステータスの低下を気に掛ける必要がないのなら命令に意味などない。それこそ、彼自身が言ったように目の前で直に命令を告げられない限りは。

「何故そこまでして私の邪魔をするの……? そんなにも、私が気に入らないかしら」

「いいや、私は君が思う以上に君を気に掛けて来たつもりだ。だからこそ何度も私は諫言を口にした。マスターが二度とは戻れぬ道に踏み込む事のないように、と」

「…………」

「妹をその手に掛け、父の為に聖杯を掴む……? 呆れるな、自分自身の行動の理由を他者に求めるとは君らしくもない。
 そんな強迫観念めいたものに衝き動かされた結果に手に掴んだものに一体どれだけの意味がある。ふと振り返ってみればそこには何も残っていない。轍となった者の怨嗟だけが残るだけだ」

 言ってアーチャーは自嘲する。どの口がそんな戯言を謳うのかと。強迫観念に衝き動かされ、遂には世界の外側へと至った大馬鹿者が一体何をほざくのかと。自分自身の全てを棚に上げ、弓兵は続ける。

「まあ……どれだけ説教を述べたところで、君の心に響かない事はもう分かっているさ。ただ、君が譲れぬものをその心に宿すように、オレもまた譲れないものがあったと、それだけの事だ」

「そんなにも、私が桜を殺す事が気に食わなかったの?」

「当然だ。姉妹が殺し合うなど救いがないにも程がある。手を取り合えとは言わないが、殺し合う理由がなくなれば君は手を引くしかない」

「…………」

 ライダーは消滅し、街を覆う結界は解除された。アーチャーは深手を負い、もう幾許もない命。
 凛も桜も、互いにサーヴァントを失った脱落者。姉妹の殺し合いの前提は聖杯を巡る争いにある。

 ならばその戦いから脱落してしまえば、聖杯を賭けて争うという名分がなくなれば、姉が妹を手に掛ける理由はなくなるのだ。

 ライダーを消滅させ、自分自身もまた消え去る。それがアーチャーが企てた目論見の正体であり、姉妹の争いを止める為だけに、画策された今である。

「私は……死ななきゃならないんですよ……」

 アーチャーの背で、ぽつりと呟かれた桜の言葉。

「お父さんをこの手で殺め、お爺さまも殺したんです。私なんかが、生きていていい理由なんかないでしょう……!?」

「先にも言ったが。死にたくもないくせに、死に場所を求めるのはもう止せ、間桐桜。生きていく事に理由が必要なら、オレでも凛でも好きに恨めばいい。それが生きる糧になるのなら意味もあろう」

「────……っ」

「そんな泣きそうな顔で死に場所を探すくらいなら、俯いたままでも生きてみろ。それでも死にたいのなら、自分の喉元に刃でも突きつけてみるがいい。死を恐れる君が、自殺など出来るとは思えんがな」

 俯き、眦に大粒の雫を溜めながら、吐き出すように桜は言った。

「ひどい……人ですね……」

 それに弓兵は苦笑を返す。

「ああ……そうとも。オレはそういう人間だ。決して英霊などと崇め奉られるようなものではなく、ただの──」

 多くを救い、少数を切り捨ててきた殺人者。
 望むと望まないとに関わらず、死に瀕した名も知らぬ誰かを救い、この胸に宿る理想の為に走り続けただけの大馬鹿野郎。

 ただ、正義の味方に憧れただけの、弱い人間だ。

 それでもこのちっぽけな掌で救えるものがあると信じた。多くを救う為に、より多くを取り零していた男が末期の夢で願った小さな願い。
 生前、取り零したものを掬えたかもしれないのなら、この変わり果てた世界に生きた意味もあるだろう。

「────凛」

 消えかけの身体で、失われていく視界の中、愛しい人の名を呼んだ。

 その最後まで冷酷な魔女の仮面を脱がせる事は叶わなかったが、その仮面の奥から時折覗くアーチャーの知る凛の顔を信じている。
 森での戦いで桜を殺めなかった事も、この学園での戦いでも倒しきれなかった事も、全て彼女の良心が願った結果なのだと。

 止められない強迫観念を、止めてくれる誰かを信じて、あの一撃を見舞ったのだと。

 全ては憶測。アーチャーの願望だ。結局最後まで心の内を理解出来なかった主なのだ、全部分かっているなどとは口が裂けても言えないが、彼女ならば、もう間違える事はないだろう。

 欠けた瞳で視線を遠く投げる。
 冬木を分かつ未遠川のその向こう。
 鈍色の空の下で輝きを強める黒き太陽。

 この戦いが十年のずれを引き起こしていようとも、アレがアーチャーの知るものと同位なのであれば、起こり得る結末は想像が及ぶ。
 真に正義の味方を標榜したかったのなら、あの輝きこそを止めるべきだったのだろう。この世の地獄が産み落とされる事こそを、止めるべきだったのだと。

 いや、この戦いで接点こそ余りなかったが。

 ────オレは、信じている。

 この心に理想を刻み付けた誰かと。
 この心が尊くも美しいと信じた誰かを。

 このちっぽけな掌で救えなかったものを、彼らならば救ってくれると心から信じて。

 小さな笑みを浮かべ……
 赤い外套を纏いし弓の英霊は──静かに、この世を去って行った。



+++


 後に残されたのはサーヴァントを失ったマスター達。御三家のマスターであるが故に手の甲からは令呪こそ失われていないが、再契約には逸れサーヴァントが必要だ。この局面、街を覆う霊気からしても、そんな都合の良い物件が転がっている筈もない。

 彼女達の戦いは終わった。

 多くを失い、手に掴んだものは何もない。けれど、此処で歩みを止める事もまた許されない身の上ならば、全てを受け入れて前を向いて進むしかない。

「何処へ……行くんですか……」

 背を向け、階下へと通じる扉へと歩み出した凛を止める桜の声。崩れ落ちた姿勢で、睨むように見据えている。

「何処って、後始末よ。アンタを追い詰める為に学園に火を放ったから、それをせめて始末しておかないとマズイもの」

「なんで……なんでですかっ!? さっきまで私をあんなに殺したがってたくせに、もうどうでもいいんですかっ!?」

「ええ。アーチャーが言ってたように、私にはもう貴女を殺すだけの理由はないわ。街の結界も解除されて未遂に終わった。お父さまの事は残念だけれど、参加者を参加者が殺したところで罪に問うのは筋違いだから」

「聖杯はっ……!」

「サーヴァントもなしに残る参加者を倒せるなんて思い上がっちゃいないし、都合良く逸れサーヴァントがいる保障もない。
 分の悪い賭けは嫌いじゃないけど、負けの見えてる勝負にベットするほど狂ってもいないつもりだから。それに──」

 この肌を刺すような感覚。街全体を包み込む、血の要塞とは毛色の違う悪寒。どうにも何やらきな臭い。

 アーチャーが最期に見つめていた場所。遠く新都中心付近には何か黒い穴のようなものが望めている。あれが聖杯と関わりのあるものならば、凛でさえも知らない何かが起ころうとしているのは間違いない。

「私は結末を見届けるわ。貴女はどうするの、間桐さん? 此処で這い蹲って、涙を流したままでおしまい?」

「────……っ」

「死にたいのならお好きにどうぞ。止めはしないし邪魔もしない。でもね、貴女が罪を負うべきだと思っているのなら、生きなさい」

「──────」

「死は救いにも罰にもならないから。生きること──それがきっと、貴女に課せられた罰だと思うわ」

 そして凛もまた同じ罪を背負う。父を見殺しにし、その遺志を果たせなかった罪は、彼女が生きて己の力で果てへと辿り着く事で清算する。
 泣いて乞う真似も懺悔も必要ない。過ぎ去ったものと踏み越えたものに胸を張って、少女は道の彼方を目指していく。

「……生きていく理由のない人に生きろだなんて……誰も彼も、辛辣ですね……」

「当然よ。この世界は残酷だから。ただ生きているだけで苦しいし、呼吸を刻むのは辛いもの。でもそれが、生きるってことでしょう?」

 救いなんてのはあったとしても一握り。大半は苦痛と悲嘆に彩られている。それでも、死ねないのなら生きるしかない。どれだけ苦しくとも、理由などなくとも、その心臓が鼓動を刻み続ける限り、その足で歩き続けなければならない。

「────桜」

 階下へと通じる扉の前で、振り返る。今までにない、柔らかな声音で凛が呼ぶ。崩れ落ちて、声を上げる事もなく屋上の床を見つめるだけの妹の名を。

「どうしようもなくなったら私のところへ来なさい。私は貴女を救うつもりなんてこれっぽっちもないけれど、悪いようにはしないから」

「……ねえ、さん……?」

 それだけを残し、姉は去って行った。

 その言葉の真意は分からない。けれど、背を向けるその刹那に見えたのは、口元に湛えられた柔らかな笑み。
 あの遠い日、陽だまりの中で見続けてきた背中が後を追う少女へと振り返り、差し出された手を掴む時に見た笑みと同じもの。

「ねえ……さん……」

 まだ失われていないものがこの世界にはあった。
 温かな記憶の在り処は、変わらずずっとその場所にあったのだ。

「うぁ……」

 それが彼女にとっての救いとなるかは分からない。

 明確なのは、絶望の底にいた少女はこの時、生まれて初めて声を上げて泣いた事。
 薄暗い闇の淵で、声を押し殺して泣く事しか出来なかった少女が、誰に憚る事もなく幼子のように大きな声で泣いた。

 それはまるで──産声のように。
 今は見えない、遠く輝く天の星へと、届けとばかりに。



[36131] scene.17 誰が為に
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/07/04 20:19
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「はぁ──!」

「──らぁ!」

 裂帛の気迫と共に振るわれる白銀の剣。夜の闇をも照り返す意匠深き剣は、血よりも濃い朱で彩られた槍の旋回に阻まれる。
 未遠川沿いにある海浜公園。その一角で、手を取り合った筈の二人の騎士は、互いの首を刎ね落とさんと、容赦のない剣戟を繰り返していた。

 キャスターによってバゼットとの契約を破壊され、魔女の手に落ちたランサーと。
 脱落者となった女魔術師に肩入れし、女の相棒だった男と切り結ぶモードレッド。

 空から降り注ぐ天然の光源はなく、彼らの舞台を彩るのは街灯の明かりだけ。薄暗い闇の中、幾度となく繰り返される剣と槍の応酬が無数の火花を生んでは弾け、死地にありながら口元に笑みを浮かべる彼らの顔を照らし上げる。

 一撃交える度に溢れる脳内物質。視界は明滅し太刀筋のみが目に焼き付く。時間を置き去りにし、高速の剣と槍は当事者以外の認識を超えていく。
 剣を執り、戦乱の世を駆け抜けた英傑。強者との鬩ぎ合いは彼らの本質にも等しく、互いの目的を度外視し、今目の前にある心躍る狂騒に溺れ続ける。

「────っ、と!」

 かに思えたが、歴戦の古強者たる彼らが戦に狂い、目的を見失う無様は有り得ない。本来剣を交える事の叶わない筈の相手と競い合える宴の場だ、その心の高揚は大きくとも、今宵の一戦は彼等の為の戦いではない。引き際を誤っては魔女に足元を掬われてしまう。

 モードレッドは手にした剣をくるりと回転させ、神速の打突を放つランサーをいなし、一足跳びに距離を離す。
 全身を鎧で覆っているとは思えないほどの身軽さで間合いを離したモードレッドは、兜の奥でくつくつと笑いながら言った。

「流石は名高きアイルランドの光の御子。噂に違わぬ槍捌きだ。忌々しい同輩連中と比しても引けを取らないばかりか上回るかもな。
 ああ、味方の内は頼もしかったが、敵には回したくない類の輩だよアンタは」

「ハッ、抜かせ。飄々とオレの槍を捌き切った輩が何をほざく。奇妙な剣を使いやがってやりにくい事この上ない。
 だがまあ、そっちの評価と同じものをこっちも返すぜ。ここまで人を小馬鹿にした剣を振るう奴はテメェが初めてだよ」

 足を止め、神速の槍を振るうランサーと、身軽なステップと型に嵌らない剣筋を以ってその槍をいなし続けたモードレッド。
 肩を並べていた間は気付かなかったものが、こうして刃を交える事で見えてくる。

「酷い言われようだが、オレは別に誰も馬鹿になんかしちゃいない。型に嵌められるってのが昔から気に入らなくてね、要は勝てばいいんだよ」

 上段から振り下ろされると踏んだ剣が、奇怪にも一瞬にして横薙ぎに変わり、体勢の維持を無視した回転を用い裏を掻き、右手に握られていた筈の剣がいつの間にか左手に持ち替えられている。
 そんな余りにも常識を逸脱した剣こそがモードレッドだけの剣術。型に嵌らない型、とでも呼ぶべきだろうか。

 だが結局のところ、奇策は初見だからこそ有用に働く。槍術の基本にして奥義のような槍捌きを行うランサーを相手に、この遮蔽物のない場所で真正面から戦うのは正直なところモードレッドに旗色が悪い。

 森での戦いでセイバーに押し切られたように、純粋な暴力の鬩ぎ合いでは彼女は真っ当な担い手に一歩劣るところがある。
 彼女自身もそれは理解している。このまま剣と槍を単純に交え続ければ、いずれ対処され迎撃が間に合わなくなる。剣を交えたのが今夜が初とはいえ、何度か同じ戦場を駆け抜けた相手だ、その対応は他の連中よりも早いだろう。

 だけど今は。

「どちらが上か決める事なんかに意味はないと思うが。せめて一太刀くらいは浴びて行けよ──!」

「フン、なら倍にして返してやらぁ……!」

 再度地を蹴り、二人だけの戦場へと奔る青と赤の英霊達。激突は突風を巻き起こし、他者の介在を許さぬ嵐を生む。

 そう……今この場で戦いを繰り広げているのはランサーとモードレッドのみ。

「…………」

 モードレッドの後方、張り詰めた弦のように緊張を緩めないまま戦場の推移を見つめていたバゼットが空を振り仰ぐ。今は見えない星でも、暗く厚い雲を眺めようと思ったわけでもない。

 戦闘が巻き起こるその前から滞空する紫紺の魔女。鈍色の空を背負い、鈴を鳴らす錫杖を手にしたキャスターは、表情の窺えないフードで顔を覆い隠したまま遥かな高みから戦場を俯瞰している。

 ……一体何を考えている?

 バゼットの予測では、キャスターは彼女に仕掛けてくると踏んでいた。空を飛べないバゼットでは戦いの相性は最悪で、唯一サーヴァントを屠り得る切り札もまた魔女にだけは通用しない。

 この冬木の戦場において、マスターとしては破格の戦闘力を誇るバゼットがもっとも戦いたくない相手がこの神代の魔女であり、そんな思考を容易く見透かすキャスターならば当然にして弱者から始末をつけるものと思っていた。

 如何なモードレッドといえどランサーを相手に、手負いのバゼットを守りながらキャスターの相手をも務めるなど不可能に近い。
 それでも覚悟を以って戦場に臨んだバゼットを嘲笑うかのように静観を決め込む魔女に不信感を抱くのは当然と言えよう。

「────」

 バゼットの視線に気付いたのか、キャスターがこちらを見る。即座に戦闘態勢に入ったバゼットだったが、キャスターは微かに窺える口元を妖しく歪めるだけで攻撃は仕掛けて来なかった。

 森での戦いほど自由に魔術を扱えずとも、現代の魔術師など赤子の首を捻じ切るよりも容易く手を下せる筈の魔女が何も仕掛けて来ない。
 不信は疑惑に変わり、やがて警戒を強める結果となる。それでも、魔女は動かない。神代の指先は、中空に何を描く事もなく静かに握り締められている。

 ……魔女の思惑は分かりませんが、こちらにしても好都合。何かを狙っているのだとしても、やるべき事は変わらない。

 敵にサーヴァントを奪う手段があると知った今、モードレッドもただでその罠を踏む真似はすまい。ならば後は覚悟一つ。命よりも尊いと信じたものを取り戻す為、この身を捧げ剣と為そう。

「モードレッドッ……!」

 バゼットの怒号が飛ぶ。それに呼応し死地で切り結んでいた鎧の少女は、片手で担っていた剣を両手に持ち替え、赤き一閃を渾身の力で弾き飛ばす。

「よぉ……こうして遊んでるのは楽しいが、時間も惜しい。そろそろ本気でやろうぜ」

「…………」

 モードレッドの軽口に、ランサーは答えず槍の穂先を沈める。

 ランサーにとっての全力とは、相手を殺すか自分が死ぬかの二択となる。そして槍に付与された呪いにも等しい魔力は、確実に敵対者の命を奪うもの。
 それをバゼットもモードレッドも知っている。なのに、その上で全力で掛かって来いとは何を考えている。

「それは……オレの宝具の能力を知った上での発言か」

「ああ。来いよランサー、オレがおまえの全霊を受け止めてやる」

「…………」

 ランサーの視線がモードレッドを越え、その後ろに佇む女を見る。険しくも、真っ直ぐな瞳。覚悟を宿したかつてのマスターの力強き瞳を見て、ランサーは吐息と共に小さな笑みを零す。

「ハッ、いいだろう。死んでから文句言うんじゃねぇぞ」

「オレがこんなところで死ぬもんか。オレにはまだ為さなきゃならない事があるんでな。おまえ達の為に死んでやるつもりなんか毛ほどもない……!」

 顔を覆い隠す兜が割れ、その素顔が白日の下に曝け出される。モードレッドの握る白銀の剣──クラレントが血を浴びたかのように真紅に染まる。
 邪悪に満ち、憎悪に焦がれ、異形の邪剣へと変貌していく。彼女の立つ足元から、血の川が流れ出るように大地をも赤く染め上げていく。

 対する青き槍兵は地を擦る程に穂先を沈め、蠕動し拍動する槍は貪欲に周囲の魔力を貪っていく。
 凶悪に魔力を食らうその様は、周囲の熱をも奪い去り、凍るように冷たい夜気が満ち満ちていく。

「────」

 カラン、と海浜公園のタイルの上を転がる鉄筒。モードレッドの後方、バゼットもまた肩に下げていたラックから一つの球体を取り出し、構えに入る。

 肩ほどの高さに掲げた拳の上に球体は浮かび、短剣の刃のようなものが顕現し、バチバチと迸る電気じみた魔力を纏い始める。
 それこそがバゼットが有する切り札。神代より現代にまで受け継がれ続けてきた正真正銘の現存する宝具。サーヴァントをも一撃の下に屠り得る、究極の迎撃礼装。

 本来ならば彼女自身が純粋な戦闘能力で相手から切り札を引き出さなければ真価を発揮し得ない礼装だが、今回は前衛にモードレッドがいる。
 彼女の言葉と、今大地を満たす憎悪の血に塗れた破滅の一撃に対するには、ランサーもまた全霊で以って迎え撃たばなければ勝機はない。

 サーヴァント戦の極地。行き着く先は結局のところ互いの担う宝具による一撃滅殺。矛を交え機先を読み合う事など所詮は児戯。共に宝具発動の隙を窺うだけの前哨戦。

 今この瞬間こそが──戦いの極点。全てを決す刻限だ。

 唯一の懸念は、キャスターの動向。三者が全て臨戦態勢に入った今もまだ、魔女は指先一つを動かさない。不可解を通り越した奇妙に過ぎる静寂。
 思惑の読めない敵が頭上を専有している状況で、明確な隙を生む宝具による激突を行って良いのかと一瞬頭を掠めたが、

「覚悟を決めたんだろバゼット。今更引き返したいだなんて口にするのなら、オレはアンタを軽蔑する」

「…………」

 そうだ。魔女にどのような狙いがあれ、踏み越えて先を目指すと誓ったのだ。激突の先にある一瞬、暗闇の荒野の先にある光を目指し、命を賭して魂を捧げると。

 全ては──彼の誇りを取り戻す為に。

「モードレッド。貴方に全てを託します」

 少女は傾けた視線だけで頷きを示し、今や獰猛な獣の如き殺意を撒き散らす朱の魔槍を担う男を見つめる。

 もはや言葉は不要。
 後は互いが信頼を置く一撃に全てを賭けるのみ。

「“刺し穿つ(ゲイ)────”」

「“我が麗しき(クラレント)────”」

「“後より出でて先に断つもの(アンサラー)────”」

 三つの詠唱。
 重なる言葉。

「“────死棘の槍(ボルク)……!”」

 されど真名を解き放たれたのはその一刺しのみ。
 対峙するモードレッドは詠唱を止め、横薙ぎに構えていた異形と化した剣を引き戻し両の手で握り直す。

 ランサーの真名解放に遅れる事一拍。
 究極のカウンター礼装がその牙を露にする。

「“────斬り抉る戦神の剣(フラガラック)”」

 ただ撃ち放つだけでは低威力しか発揮し得ないこの剣は、敵の切り札に反応し発動する事でその真価を見せる。
 敵が攻撃を放った直後に発動し、敵の攻撃が着弾する前に敵を撃ち貫く戦神の剣。

 故にその名は後より出でて先に断つもの。後出しでありながら強制的に先手を奪う時を逆行する魔剣。

 神速で以って放たれた朱の魔槍。それに遅れる形で発動した時の魔剣は運命を逆行し、後出しという結果を捻じ曲げ先に発動したという因果に書き換え、何よりも先んじて敵に着弾したものとして時間を改竄する。

 収斂された針のような一撃。もっとも凶悪な暴力は余計な破壊を撒き散らすものではないとでも言いたげに、フラガラックは神速の魔槍に先んじて、ランサーの心臓を正確に撃ち貫く。

「────」

 使用者が倒れれば宝具は発動しない。故にフラガラックが発動し着弾した時、相手の攻撃はなかったものとしてキャンセルされる。
 それはこの青の槍兵をしても同様。宝具を発動する前にまで遡って敵を撃ち貫く魔剣に対する手段は、そも宝具が発動してしまった時点で対処する術はない。

 が、彼の手にする魔槍だけはその例外。

 真名解放のその前に、既に『心臓を貫いている』という結果を作り出した後に放たれる彼の槍は、逆行する時の剣を以ってしても、その発動を押し留める事は叶わない。

 使用者が倒れようと、真名の解放を妨げられようと、既に生まれている結果を覆す事は何者にも許されない。

 故に──心臓を貫くという因果を背負った槍は、使用者の手を離れても、その結果を導き出す為に直走る。

「────はっ」

 標的は無論にしてモードレッド。彼女が真名の解放を留め置いたのは、この結果が予見出来ていたからだ、両者相打つ命運を斬り抉る逆光剣は、因果を繰る魔槍までをも斬り抉る事は出来ない。

 心臓を貫く槍を相手に赤雷を放つ魔剣を繰り出したところで意味がない。ランサーはバゼットの一撃で致命傷を負い、その後にクラレントが消し炭に変えたところで朱の魔槍は止まらない。

 モードレッドの役目とは、最初からその因果に打ち克つ事。
 必滅の朱槍の、王者を貫く王の槍の運命を打破する事。

 自らの目的の為。この先にある願いの為。こんなくそったれな殺し合いに臨んだ意味と答えを見出すまでは、死んでたまるものか……!

「お、お、あああああああああああああああ……!!」

 地の底に沈んだかと思いきや、即座に跳ね上がり、通常では有り得ない軌道で襲い来る槍を相手に、心臓を狙ったその槍を両の手に担った剣で以って鎬を削り火花を散らす。

 本来この槍と鎬を削る事など不可能だ。因果を定めた後に放たれる槍は回避も防御も不可能。活路は槍の運命を上回る幸運を引き寄せるか、槍の間合いから逃れるか、そも発動させないかの三点に尽きる。

 モードレッドにはそれほどの幸運値はなく、既に槍は放たれ間合いの中。それでも彼女が直撃を避けられたのは、彼女が背負う運命によるもの。

 定められた運命に抗い続けた者だけが持つ強さ。
 避けられぬ死に叛旗を翻す者の力。
 自らの望むものを、たとえ世界の全てを裏切ってでも手にするという叛逆者の呪い。

 己はこんなところで死すべき運命にはないと心の底から信ずるからこその異常性。
 運命を打ち破るのは、いつだってそれに抗う者の一念だ。

 理想の王の治世を、王の理想を打ち破りし稀代の叛逆者。
 彼女は今再び──覆せぬ筈の運命を、己が力だけを頼りに切り拓く……!

 火花を散らし、心臓を射抜く事なく過ぎ去った筈の槍は、反射でもしたかの如くその軌跡を折り曲げ、長柄の特徴を完全に無視したまま、標的の心臓を背後から再び襲う。

 避ける事は叶わない──たとえ避けても何度でも槍は襲う。
 迎撃は間に合わない──たとえ間に合っても同じ繰り返し。

 槍の呪いを、運命を、乗り越えなければ避けえぬ死。

 だったら──

「オレはッ! こんなところで死ねないんだ……ッ!!」

 その運命を越えて行こう。
 覆せぬ終わりを覆そう。

 その為だけに、その為にこそ、この身はこの戦いに身を投じたのだから。

 そして────

「がっ──はっ……っ!」

 遂に槍はその進行を止めた。
 心臓を穿つ魔槍は、

「越えてやったぞ……運命を……!」

 標的の心臓を抉る事なく、モードレッドの右胸に着弾した。

 モードレッドは槍の運命を上回った。
 幸運に頼るでもなく、間合いから逃れるでもなく、第四の手段によって。
 運命に抗う力と、その身に刻まれた“呪い”によって、運命に打ち克ったのだ。

「────」

 槍を放った青き戦士は、その勇姿に笑みを零す。
 収斂された一撃で心臓を破壊された彼の者は、消え行くのを待つだけの運命。

 抗えぬ死。
 覆せぬ終わり。
 壊れた砂時計の器はもう二度と元には戻らない。

 ああ、されど。

 こんな姿を見せられて、黙って消えてしまって良いのか?

 いいわけがない。
 許される筈がない。

 ああ、彼女達はランサーを縛り付けていた魔女の呪縛から解き放った。その身を戒めていた凶悪な呪いは、死に行く者には作用しない。
 この身の不甲斐無さが生んだ結末を、この命の終わりと引き換えに、失われた誇りを取り戻してくれたのだ。

 ──ああ、だったら、ちゃんと礼をしなきゃならねぇ。

 力を失くしていく手足に力を込める。倒れそうになる足に踏ん張りを利かせ、たった一つの言葉を謳い上げよう。

「“突き穿つ(ゲイ)────”」

 引き戻した槍に今一度力を込める。その拍子に足元が崩れた感覚が襲い体勢を崩す。だがもう体勢を維持する必要はない。地に倒れ伏そうとするその中、気合だけでその身を捻って天を仰ぐ。

 そこには空に座す魔女の姿。
 獣の如き赤き眼光が、間違いなく“標的”を見据える。

「…………っ」

 魔女がこちらの狙いに感付く。だがもう遅い。森の結界がないこの場所では、一瞬での転移も不可能。そのタイムラグは、刹那にも満たない一瞬は、永遠にも等しくランサーの味方をする。

 ────借りを返すぜ、魔女さんよ。

「“────死翔の槍(ボルク)”」

 静かな言葉と共に。
 倒れ行く戦士の手を離れ、朱の魔槍は投げ放たれた。

 同時に。
 魔女は身に纏うローブに包まれるようにしてその姿を掻き消す。

 既に槍の呪いは発動している。
 投擲された槍は標的を追い、何処かへと消え去った。

 だん、とランサーの背が地を叩く。

「ランサー……!」

 駆け寄るバゼットと、ゆっくりと歩みを進めるモードレッド。

 かつての主に消え行く身体を抱え起こされた槍兵は、視線をモードレッドへと投げた。

「悪ぃ……手間掛けさせた」

「ふん、まったくだ。だがまあいいさ。こっちにも収穫はあったからな」

 モードレッドはあの槍の呪いに打ち勝ったのだ。であればやはり、この身はあの王と雌雄を決するべき命運にあるのだと確信する。
 彼女の運命の終着点はあの場所だ。全ての終わりの地。全ての始まりの丘。果たせなかった願いを果たす為、彼女は孤独に最後の戦いへと臨む。

「モードレッド……ありがとうございました」

 己の役目はこれで果たしたと、鎧の少女は背を向ける。その背に投げ掛けられたバゼットの感謝の言葉に、少女は手を振って応えた。
 しみったれた別れには興味はない。たかだか一協力者に過ぎなかった者を相手にして、その腕の中の男を蔑ろにするのは本末転倒だとでも言うように。

 血に塗れた剣を担い、茨の道を歩む少女は、惜しむ別れもなく、一つの戦場を去って行った。

 去り行く背中を目で追う事もなく、彼女が残してくれた僅かな逢瀬を悼むように、バゼットは腕の中の男を掻き抱いた。

 砂が零れるように光となって消えていくランサー。手足は既になく、身体は何処もかしこも透け始めている。

「……すみません。私は、不甲斐無いマスターだった」

 詫びるようなその言葉に、もしまだ腕が残っていたらランサーは拳骨の一つも見舞っていただろう。
 不甲斐無さで言えばランサーも同様。主の火急に焦りを滲ませ、事を急いたせいでキャスターに足元を掬われた。

 それでもこうして誇りを取り戻してくれた主を、どうして責め立てる事など出来ようか。

 英雄の末路は非業なものと相場が決まっている。
 国を背負い、たった一人で抗い続けた男は、誓いを破らされ自らの手にした槍で腹を貫き絶命した。

 それでもこの男には後悔はなかった。二度目の生になど興味はなく、ただ一人の戦士として全力で腕を競い合えればそれで満足だった。

 その願いは結局、果たされたのだろうか。自らの槍の運命を凌駕したあの小娘との戦いも悪くはなかったが、その発端を思えば満足のいくものでもない。

 報われぬこの身。
 救いなど元より求めた覚えはないが、それでも惜しむ気持ちは僅かにはある。

 ああ、それでも。

 この終わりを、気に入った女の腕の中で逝けるのならば、そう悪いものでもない。

 消え行く身体にはもう力が残されていない。言葉は泡のように消え、上手く発する事が出来ない。

「……達者でな、バゼット」

 それでもどうにか、その言葉だけを口にした。

 告げたかった多くの想い。
 万感の想いを、上手く笑えたか分からない笑みとその言葉に乗せて。

 ────静かに。
 一人の戦士が、女の腕の中でその息を引き取った。

「──貴方も。英霊の御座にそのような概念があるかは分かりませんが、どうか健やかに」

 女は憧れた英雄に別れを告げる。

 元より叶う事のなかった筈の逢瀬。
 一時の夢、白昼夢を見たの同じだ。

 それでもこの腕は、確かな温かさを覚えている。
 傍らにあった心地良さを、確かに覚えているから。

「さよなら、クー・フーリン──貴方は、私にとって最高の相棒(えいゆう)でした」

 だからこそちゃんと別れを告げる。
 これより続く彼女の歩み。
 前へと進む為に。

 その胸の内に蟠っていた澱を、拭い去ってくれた彼へと向けて。


/40


 静謐に包まれた住宅街に、一発の乾いた音が木霊した。

 衛宮切嗣が拠点と定めた武家屋敷。
 闇の降りた庭園。
 その片隅に佇む土蔵。
 開け放たれた扉。

 土蔵の中を染め上げる極光。
 それは転移の証。
 キャスターが基点と定めたこの場所へと、逃げ帰るように跳んだその先で。

「──────ぁ……」

 胸の中心を貫く重い感触。
 破れた臓腑より湧き出し、口元より零れる赤い血液。


 魔女が視線を傾けた先、開け放たれた扉の向こうには、黒鉄の銃身をこちらへと向ける下手人の姿。
 夜の中で良く目立つ、白い硝煙が、その銃口から立ち昇っており、

「……マスターっ!?」

 セイバーの当惑を孕んだ叫びも意味を為さず。
 キャスターは、衛宮切嗣の手によって放たれた銃弾が、自身の胸を撃ち貫いたのだと理解した。



+++


 トンプソン・コンテンダーに装填されていた銃弾は、切嗣がキャスターに依頼して作らせた対サーヴァント用の弾丸だ。
 アインツベルンが長い年月を掛けて掻き集めた礼装、聖遺物の中でも選りすぐりの高位の神秘を宿すものをキャスターの手腕によって魔術的に弾頭に加工した代物。

 本来ならばサーヴァントを相手にしては何の役にも立たない筈の機械の産物、人類の叡智は、魔女の手によって神秘を纏う怪物をすら貫く銀の魔弾へと変貌した。

 皮肉なのは──加工した張本人が、その弾丸の標的にされた事だろうか。

 切嗣は素早くリロードを行う。秒を切る速度で再装填された銀の弾丸が、確実に魔女を屠り去ろうと引き鉄を絞られるその直前。

 甲高き金切り音と共に、夜の彼方より飛来した赤き稲妻が、土蔵の天井を貫き魔女の心臓へと突き刺さる。

「が、ぁ……ぁあああ……!」

 その身に帯びた呪いを完遂する為ならば、地の果てまでも追い回す赤き魔槍。主の手を離れてなお、その牙は消えた標的を追い、その心臓を喰らい、体内に千の棘を撒き散らし、この場所でその役目を果たし終えた。

「…………」

 さしもの切嗣もこの展開は予想していなかったが、手間が省けた。が、念押しに、再装填された銀の魔弾を未だ残る魔女の顔面へと向け、

「────……」

 石榴のように弾け飛んだ魔女の頭を始まりに、その身体は、身を貫いた槍と共に夜に溶けるように消えて行った。



+++


 静寂が戻る武家屋敷。

 衛宮切嗣は土蔵から背を向け、コンテンダーから薬莢を取り出した。さも、何でもないかのように。

「マスター……貴方は、最初からこれを目論んでいたのですか」

 未だ動きを封じられたままのセイバーは、己がマスターの非道を詰るように怒気を孕んだ視線を向ける。

「キャスターにその弾丸を作らせたのも、初めから彼女を撃つ為に使うつもりだったのですか。己が聖杯を掴む上でいずれ邪魔となる者を、自らの手で排除する為に」

「…………」

 衛宮切嗣は答えない。
 が、セイバーの推論は遠からずも近からず、といったところか。

 確かに自らの手でキャスターを屠る展開は切嗣も想定はしていたが、そう上手くいくものではないとも思っていた。
 キャスターはイリヤスフィールを守る為の存在。戦場から遠ざけておく為に切嗣が用意した駒だ。

 だがキャスターが切嗣の思惑を読めば、いずれ敵対する事もまた想定していた。切嗣は自らの性質を良く理解している。
 それゆえに、似た性質を持つキャスターのクラスをイリヤスフィールのサーヴァントにしたのは、その結末を予期してのものだった。

 誤算があったとすれば、キャスターの力量が切嗣の想定を上回っていた事。森に敷設された神殿は幾度となく侵入者の歩みを阻み、あまつさえランサーをすらその手駒に変えて見せた。

 要は、キャスターはやり過ぎたのだ。

 切嗣の想定を凌駕した神代の指先。いずれ仇となるものをこれ以上は野放しにはしておけないと、今夜の策に乗り出した。

 森の中では万が一にも勝ち目がない以上、街中へと引き摺り出す必要がある。間桐桜によって展開された血の要塞は好都合であり、その状況を体良く利用したに過ぎない。

 キャスターが撤退を試みる状況になるのなら、必ず一度この場所に帰還しなければならない。土蔵に仕掛けられた魔法陣はアインツベルンの森との唯一の直通路。
 街中に仕掛けた魔法陣は全て緊急退避かこの場所へと戻る為のものであり、一瞬で森に転移しようとするのならキャスターとてこの場所を通じなければ不可能だったのだ。

 だから切嗣はこの場所で待った。

 セイバーが随伴しては、万が一にもキャスターが撤退するような事態は起こり得る筈もなく、令呪を使ってまで押し留めたのはその為だ。

 暗殺者にとって、もっとも必要なのは待つ事。たとえそれが無意味なものとなったとしても、根気強く待ち続ける事。
 一瞬の隙を狙い撃つ為に、他の全てを犠牲にする事だ。

 キャスターが敗走してくる可能性は決して高くはなかった。上手く敵サーヴァントを消し去って行ってくれるのなら、何食わぬ顔でまた別の機会を待つつもりでもあった。
 だが結果は、キャスターは何がしかの理由により土蔵へと撤退し、切嗣によってその背を撃たれ、この世から消え去った。

 後に残るのは結果のみ。過程などどんなものであろうと構わない。結果としてキャスターは消えたのだから、切嗣の思惑は此処に完遂を見た。

 ──ただ、気に掛かるものがあるとすれば。

 二発目の銃弾でキャスターの頭蓋を吹き飛ばすその直前。
 はだけ落ちたフードの奥、振り仰いだキャスターが苦悶を滲ませながらも浮かべていた笑み。

 そして。

 ──わたしの、かちよ。

 言葉にもならない唇だけの動きであったが、キャスターがそう口にしたような気がするのは単なる思い過ごしなのだろうか。
 読唇術の心得もないではないが、明確な答えは分からない。間近に迫る死に震える口元がそう見えただけに過ぎない可能性の方が高い。

 それでも。
 笑みを浮かべていたのだけは間違いがなく。

 そしてそんな益体のない思考を一笑に附し、

「そうだ。僕は初めからキャスターを使い潰すつもりでイリヤに召喚させた。で、それが何だ。
 聖杯を手に入れられるのは唯一組。ならば一時手を取り合った相手とはいえ、いずれ倒さなければならない敵には違いはない」

「イリヤスフィールは言っていました。私達皆に、聖杯の奇跡を分け与える事も出来るだろう、と。貴方もそれに同意していた筈ではないのですか」

「聖杯が触れ込み通りのものであればの話だ。未だかつて明確な勝者なきこの戦争、聖杯を実際に使用した者が一人としていない現状で、そんな不確定要素を鵜呑みする方が愚かというもの。
 聖杯に託す祈りがあるのなら……何を犠牲としても叶えなければならない願いがあるのなら、確実を期すのは当然だろう」

 一拍を置き、不動のまま立ち尽くす己が従者に無機質な瞳を向け切嗣は続ける。

「おまえの祈りは他者と分け合えるかもしれない、という程度の浅い祈りなのか? 是が非でも叶えたい願いではないのか?」

「…………っ」

 切嗣の言葉は正論だ。類推を含むイリヤスフィールの言を信じるよりも、明確に唯一組の勝者となる方が祈りの実現性は高い。
 後になって願いを分け合う事は出来ないなどと判明したら、それこそ血で血を洗う闘争に発展しかねないのだから。

 相手が他者の裏を掻く事に特化した魔女だ、最後の最後で手痛い裏切りに遭う可能性もゼロではない。危険の芽は事前に摘んでおく。利用するだけ利用し必要がなくなったら使い捨てる切嗣の判断は、合理の極地でもある。

 合理性を突き詰めるという事は、感情を排斥するという事。かつて王であった時代にセイバーがそうして来たように、切嗣もまた己が悲願の為に人として大切な何かを切り捨ててこの場に立っている。

 甘い事を言っていたのはセイバーの方。余りにも酷いその非道は──まるで鏡を見ているかのような錯覚をし、徒に噛み付いた。

 けれど目はもう覚めた。

 どれだけ切嗣を問い質してもキャスターが消滅した事実は揺るがないし、マスターがなければ現界の叶わない身の上ではどう足掻こうとも意味がない。
 何より──切嗣の言うように、セイバーの抱える祈りは尊きもの。他の全てを踏み躙ってでも叶えなければならないと信じるものだ。

 己が聖杯に手を掛ける為に、轍に変えたものが一つ増えただけの話。今更、綺麗事で取り繕ったところで浅ましくも聖杯を欲するこの心は変えようがない。報いるのなら、せめて聖杯を掴み取らなければならない。

「言葉が過ぎました、マスター。ですが、イリヤスフィールについてはどうするつもりですか。彼女は未だ敵の手中。まだ救出の必要性はないと?」

「ああ……救い出す必要はない。が、僕達が向かうべき先にはイリヤがいる」

 キャスターの消滅と同時にランサーの槍が消え去った事からも、少なくとも二騎のサーヴァントが今宵戦場を去った事になる。
 そして立ち込める暗雲と、肌を刺す街全体を包む魔力の高鳴り。推測だが、既に過半数のサーヴァントが倒れていたとしておかしくはない。

 舞弥がいればもう少しマシな状況を把握出来たのかもしれないが、ないものをねだったところで何も出ない。
 現状を把握する為にも、一度イリヤスフィールの居場所──今回の降霊予定地である冬木市民会館を目指すのは必要な事だ。

 ────僕の勘が間違っていなければ。

 今夜の内に全ての決着が着くだろう。
 膠着状態は崩れ、事態は急速に終息へと向かっている。

 ならば後は、残る敵手を撃滅し、聖杯の頂に手を掛けるのみ。

「────行くぞ」

「はい────」

 令呪の戒めを解かれたセイバーを従え、衛宮切嗣は戦地へと赴く。

 これまで積み上げて来た骸に報いる為に。
 轍と変えたものの全てに、意味があったと証明する為に。

 その胸に宿した、余りにも尊い祈りを叶える為に──



[36131] scene.18 想いの果て
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/08/03 00:51
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 闇に没した大ホール。

 休日にイベントが催されれば、二階席まで埋まる事もある冬木市民会館コンサートホールも今は暗闇。入り口付近を照らす非常灯の明かりだけが、薄暗く灯っている。

 誰もいない筈の深夜のホールの中は本来ならば静寂に包まれているものだが、今は男の呻き声が残響する。

「お、お、お、……うっ、あぁぁ……!」

 ステージ横の階段から転げ落ちた間桐雁夜は蹲り、自らの身体を侵す異常に苦悶を浮かべる。

 血管の中を這いずる無数の蟲。臓腑を貪るキチキチとした鳴き声。視界は明滅し汗は滝のように滴り落ちる。人間の身体の中に本来あってはならないものを飼っていた雁夜だが、今はその制御を奪われ、身体の自由をすら奪い取られようとしていた。

『カカ! 辛そうよな雁夜よ。いい加減抵抗を諦め素直に身体を明け渡せ。さすればその死にたくなるほどの痛痒から逃れられるぞ?』

 声は雁夜の喉の奥から響いてくる。雁夜自身が漏らす呻きとは別の、良く聞き慣れた声が自分自身の内側から聞こえてくる事に酷く不快なものを覚える。
 しかし、その不快感をすら上書きする体内の異常。自分自身の身体が、自分自身の存在そのものが、一分一秒と消え、書き換えられていく恐怖に勝るものはない。

「誰、が……貴様なんぞに……!」

 雁夜が体内に寄生させていた刻印蟲も、元はといえば臓硯の子飼いだったもの。制御を覚えてからは自分の力で蟲を精製し入れ替えたが、その程度でこの男の魔の手から逃れられると考えていたのはやはり甘すぎた。

 一体、いつから臓硯が雁夜の体内に潜んでいたのかは、雁夜自身もまるで把握出来ていない。単に、あの悪鬼が生き延びているとすれば、己の内側以外にない、とそう思い至ったに過ぎない。

 どれだけの長い期間潜伏していたのかは定かではないが、現に雁夜の制御を乱し奪い取るほどに刻印蟲を掌握しているのなら、それこそ初めから、雁夜が間桐を継ぐと宣誓したあの日から、臓硯はそこにいたのかもしれない。

『ふむ……存外耐えおるな。腐っても十年、儂の教練を耐え続けただけはある……』

 並の人間、あるいは熟練の魔術師であっても、身体の内側から肉体を乗っ取られるような状態になれば抵抗は極めて難しい。相手が臓硯ともなればその難度は更に跳ね上がる。
 雁夜が耐え凌げているのは十年の間に培った蟲に対する適性と抵抗力があったことと、間桐の血が皮肉にも臓硯の侵攻を押し留める助けとなっていた。

『のう、雁夜よ。少し話をしようか』

 不意に、臓硯はそう切り出した。まるで世間話でもするかのように。今この状況とは場違いなほど、穏やかな声で。

『この十年、儂は貴様を見続けてきたが、憐れでならなんだものよ』

「貴様に、憐れまれる……筋合いなど……っ!」

『ほう……? では問うが、貴様は本当に桜の為にこの十年を耐えてきたのか?』

「っ……なにを……」

『お主はことあるごとに桜の為だとか、桜を守ると口にしておったが、儂にはそれが自分自身に言い聞かせておるように聴こえてならなんだものよ』

「────」

 臓硯の声がやけに脳に響く。喉奥から漏れる別の誰かの声という違和感も、今や気にならず、ただ、その言葉の意味だけが残響する。

 桜を守る。桜の為。ああ、雁夜はそう自分に言い聞かせ続けてきた。自らが背負うべきものに背を向けた結果、身代わりとして奈落に引き摺り込まれた少女を救いたいと欲する事に何の不思議がある。

 雁夜が最初から間桐の家門を背負っていれば、逃げ出していなければ、少なくとも臓硯の魔の手にあの子が掛かる理由はなかったのだから。

 背を向けたものを背負う覚悟……嫌悪し、忌み嫌い、唾棄すべきものを少女の為に背負うと決心したのだ、言い聞かせ続けなければ立ち行かないのも道理だろう。その克己心こそが雁夜の原動力になっていたのだから。

 だから、臓硯の言葉には何の意味もない。

 だけど、その先を聞いてはならないと何かが警鐘を鳴らしている。
 続く言葉は雁夜の積み上げて来たものの根幹を破壊するに足る、と。

「ぁ……、が……っ……っ!!」

 されど、体内を蹂躙する蟲の蠕動は止むことなく、雁夜を蝕み続けている。声を絞り出そうにも漏れるのは呻きだけで、音は言葉にはなってくれない。

 そして────

『雁夜よ。お主の本心は桜にはあるまい?』

 ──やめろ

『お主が見ているのは、桜に残る母の面影──』

 ──やめてくれ

『未だ初恋の女を諦められぬ、浅ましい男の慕情』

 ──それ以上は

『禅城葵──手に入れられなかった女に対する、未練だろうて』

「あああああああああああああああああああああああああああああ……っ!」

 雁夜の絶叫がホールの中に木霊する。

 心の奥底に沈めていたもの、覆い隠してきたものが、心を蝕む悪鬼の手によって、この闇の中で詳らかにされていく。

『カカッ! 良い年をした男が未だ初恋を忘れられぬとは、初心なものよ。女を食い散らかし、次代の為の胎盤としか見なさなかった間桐の嫡男とは到底思えぬ初々しさよ』

 臓硯の愉快そうな声音がくつくつと囀る。

 間桐雁夜にとって禅城葵は幼馴染であり、恋焦がれた人だった。遠坂時臣に対する憎しみの根源は、彼女を奪い取られたことに起因している。桜を捨てたことも当然怒りの理由にはなっても、葵を掻っ攫われたことが無関係とは口が裂けても言えない。

 とはいえ、雁夜は自分から身を引いたのも事実。間桐の魔術を知り、間桐に迎え入れられた後の彼女を想い、時臣ならば彼女を幸せに出来ると信じて受け入れた。

 だが結果は時臣は所詮魔術師でしかなく、娘の一人は間桐に送られ、葵は早くにしてその人生を終えた。彼女の死因を雁夜は知らない。間桐と遠坂の間に結ばれていた不可侵の条約もあり、正式に間桐を継いだ雁夜は葬儀に訪れる事も叶わなかった。

 後に残ったのは憎しみだけ。葵を幸せに出来なかった、その家族を引き裂いた男に対する深い憎悪だけだ。

 けれど雁夜は時臣と戦場で出会った時、葵の名を口にはしなかった。

 まるで隠すように。
 遠ざけるように。

 必要以上に桜を引き合いに出し、葵に対する想いに、蓋をするように。

 ああ、それは当然だ。既にいない人よりも、今を生きる人の幸福を願う。それは人として当たり前で、正しいものだ。
 泣いて縋っても亡くした人は戻らない。過ちをやり直す事も許されない。だからこそ、葵よりも桜の為と、声高に吼え上げた。

 ────それは、本当に?

 蓋をした筈の想いの底から漏れ出す声。自分自身へと還る糾弾の鏡。真実桜の為と嘯くのなら、臓硯の言葉にあれほどの動揺をする筈がない。

『お主は桜を救いたいのではない』

 だからそれはきっと、真実で、

『桜に残る禅城葵の幻影を追いかけておるに過ぎず』

 だからそれはきっと、真実で、

『そんな女を手に入れたくて、少しでも気を引きたくて、こんな愚かな蛮勇に出たのであろう?』

 それもまた、雁夜が水底に沈めた筈の真実だ。

『カカカカカっ! のう雁夜よ、儂が以前お主に桜を宛がうと話した時のことを覚えておるか? 儂はようく覚えておるぞ。期待と興奮、動揺と焦燥の綯い交ぜとなった、お主の顔をの』

 臓硯の下卑た嗤い声は留まる事を知らず、何処までも雁夜を追い込んでいく。

『雁夜よ、所詮貴様も間桐の血筋よ。年端もいかぬ幼子に欲情した挙句、声高に叫んだ言葉は全て偽り。
 十年の苦痛は桜の為などではなく、自分自身の為のもの。果たせなかった想いをその娘に重ね、成就しようとした鬼畜の所業よ。ああ、貴様はどうしようもなく愚かしく、救いようのないクズよな! これでは桜が救われぬも当然だろうて!』

 雁夜の抵抗が弱まるのを境に、臓硯の侵攻はその速度を増していく。足の末端から自由を剥奪され、違う色へと染め替えられていく。

 自分自身に言い聞かせ続けてきた言い訳は白日の下に晒され、偽りの想いは暴かれた。この手が救いたいと願ったものは、奈落の底に繋がれた少女などではなく──浅ましくも愚かしい、この己の心だったのだ。

「は、はは、はははははは……!」

 蹲ったまま哄笑を喉の奥から漏らす雁夜。既に抵抗は止み、後数分もすれば臓硯に身体の全てを奪い取られる事となる。

 魂は引き裂かれ、空っぽの器に臓硯が居座る。魂の劣化に伴い腐り落ちていく肉体を繋ぎ止める為、夜な夜な人々を食い散らかしてきた悪鬼の犠牲者がまた一つ増えるだけ。

 ただ同じ間桐の血肉で編まれた雁夜の肉体は臓硯の魂と良く馴染む。赤の他人の肉を乗っ取っても一年も保たないが、間桐の肉ならば数年は持つだろう。

 既に今回の聖杯戦争も佳境。空中分解したも同然の間桐陣営では勝ち抜くのは難しい。雁夜の身体を乗っ取った後、まだバーサーカーが生き残っているのなら抗ってみるのも一興だが、勝ちの目は少ないと見ている。

 故に臓硯はその先、戦いの向こうを既に見据えている。如何に損耗を減らし、次の戦いに備えるか。聖杯を巡る闘争は今回が最後ではない。また六十年の後に巡り来る。いや、今回のイレギュラーな事態を鑑みれば、早まったとしてもおかしくはない筈だ。

 チャンスはまた巡り来る。勝機の芽のあった今回を敗戦で終えることは甚だ不本意ではあるが、覆しようのない結末に固執し取り返しのつかない展開は避けなければならない。

 この手に永遠を掴み取る。老いに怯える事も、腐り落ちていく肉に悲嘆する事もない真実の永遠。その為ならばどれだけの月日であろうと待ち続けよう。何度でも繰り返し、幾度でも織り成そう。

 終わらぬ連鎖を。
 途絶えぬ嘆きを。

 全てはこの手に、永遠を掴み取る為に。

『気でも触れたか雁夜よ。ああ、別に構わぬ。お主の意識もどうせ儂にとって替えられるのだ、その魂も精神も不要。肉体だけがあれば何の問題もない』

 臓硯が雁夜の体内に潜んでいたのも全てはその為。万が一、雁夜と桜が敗戦した場合を想定し、劣化を続ける魂の器として最も相応しい間桐の肉体を求めていた。
 赤の他人を食い繋いでいくだけでは、次の戦いを迎える前に魂の損耗が限界を越える可能性もあった。

 けれど間桐の魂に間桐の肉体ならば、劣化の速度は減速する。間桐臓硯が間桐臓硯のまま生き続けるには、間桐の魔術師の肉体が必要だった。
 雁夜が無事聖杯を掴み取っていれば不要なものだが、この展開から勝利をもぎ取るのは至難を極めよう。ゆえに方針を転換し、生存を第一に優先する。

 次がある。
 明日がある。

 いずれ来る勝利の日の為、闇に潜む事には慣れている。

 雁夜の身体の大半の制御を奪い取った臓硯は消え行く息子の醜態を見届ける。その心を暴かれ、支えとしたものを折られ、抵抗の意思を失くした人形を。

「ああ……アンタの言う通りだ。俺は桜ちゃんの為、と声高に叫びながら、本当は……自分のことしか考えていなかった、どうしようもないクズだ」

 それは諦めか、悟りか。自らの罪を懺悔するように、雁夜はか細い声でそう言った。

『何、それを恥じる事はない。人は誰しも自分が一番可愛いものよ。自分自身と他人を天秤にかけ、後者を迷いなく選べるような者は狂人だ。
 それは魔術師であれ人間であれ変わりはない。自己を優先するのは人として当たり前の本能よ。嘆く事はない』

 息子にも等しい雁夜を食い物とし、自分自身の延命を望む臓硯とてそれは同様。間桐の秘術を伝えていくだけならば雁夜に全てを託せば事足りる。けれど臓硯が望んでいるのは果てる事のない生。

 魔術師としての究極や根源への到達など既に度外視。日に日に腐り落ちていく肉を押し留め、変わる事のない永遠を謳歌する事こそが命題。その為に、血を分けた家族を食らう事にも躊躇はない。

 人として外れた化生だが、その本質は未だ人のまま。自己の保存を最優先する何処までも人らしい魔性を、間桐臓硯という。

「ああ……俺は、どうしようもなく人間だ。だけど俺は──貴様のような、腐りきった魔術師じゃない」

『────なに?』

 雁夜の腕が動く。既に臓硯の支配は頭部を残し大半の自由を奪い取っているというのに、臓硯の意思に反し、雁夜の意思によって腕が動く。

 滑り込ませたポケットから掴み取ったのは、何の変哲もない一振りのナイフ。そこらの店で売っているような、普通のナイフだ。
 暗闇の中に刃の鈍い輝きが灯る。震える手で、ギチギチと体内の蟲が蠕動する腕を振り上げ、雁夜は自身の心臓に刃を向ける。

『雁夜、貴様……!』

「見たくないものから、背を向け……視線を逸らし……逃げ出した……偽物だらけの俺の人生だったが」

 ────最期くらい、本物になってみたっていいだろう?

 そうして。

 雁夜は残る力の全てを振り絞り、臓硯の妨害を振り切り、渾身の力を込め、自分自身の心臓を突き刺した。

『アアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァ……!!』

 けたたましい蟲の鳴き声が木霊する。

 どれほどの怪物であろうと、その身はただ一匹の蟲。蟲を一匹殺すのに、ご大層な魔術なんぞ必要ない。
 切れ味の悪い鈍らなナイフだろうと、覚悟と勢いを以って突き立てれば、充分な殺傷能力となる。

 五百年の時を生き、永遠に執着し続けた化生の末路にしては呆気ない幕切れ。極大の魔術戦の果てでもなく、聖杯を巡る闘争の終焉でもない、その道半ばで。間桐に巣食っていた悪鬼は、人間の手によって葬られる。

『お、お、お、おおお……雁夜、貴様、なんということを……!』

 それでもそう簡単にくたばるような易い命ではない。心臓に巣食う本体をナイフによって引き裂かれながら、それでもまだ間桐臓硯は生きている。

「臓硯……間桐の因縁は、此処で、全部終わらせよう……」

 血を吐き出しながら、それでも雁夜は突き立てた刃になお力を込める。刃先より伝わる生き汚く足掻き、のた打ち回る蟲の息の根を完全に止める為に。

 持って生まれた逃れられぬ宿命から背を向け、恋慕を抱いた相手にすら手を伸ばせなかった弱い人間。それが間桐雁夜という男であり、その薄弱な心の奥にはそれでも消せない想いがあった。

 自らの弱さを隠す為、好きだった女の娘を理由に剣を執った。ああ、本当に。どうしようもなく浅ましく、ずるい男だと雁夜は思う。
 でも、その心の全てが偽りだったわけじゃない。そんな浅ましさだけで十年の地獄を耐え抜けた筈がない。

 だからこの心にはきっと、一欠けらの本物がある。

 あの蟲蔵の底で声を殺し泣いていた少女を掬い上げた時の気持ちを確かに覚えている。この子を守りたいと願った想いを、今でも忘れてはいない。
 それすらもまた、自らの慕情から端を発したものの可能性はあるだろう。何処までいっても、虚飾に塗れた事実は変えようがない。

 だからこそ、最期に望んだものはたった一つ。

 救いたいと声高に叫んだあの子の為に。
 嘘も偽りもない、唯一つの真心でそう願ったから。

 彼女を蝕む間桐の闇を──自らの命と引き換えに、断ち切るのだ。

「救いようのない、クズの……俺にも、……救えるものが……ある、のなら」

 誰に誇るでもなく。
 誰に認められる必要もない。

 ただ──彼女の未来に幸あれ、と願うから……!

「ぞう、けん……おまえは、ここで、俺と共に、たおれろ……!」

『──────っ……!!』

 声にもならない断末魔の悲鳴を上げ、間桐臓硯の本体が両断される。柄まで深く沈みこんだ刃は確実に心臓に巣食う蟲を断ち切った。

「ご、っ……ぁ」

 自らの心臓を貫いた雁夜は喉からせり上がる血を止める術もなく、それでも、皮肉げに笑った。

「なぁ……臓硯、……あんたのほんとうは、何処にある……」

 最早虫の息の雁夜は、死の間際に穏やかな声で問いかけた。後数秒もない命で、聞こえているかも分からない相手へと。

「永遠……不老不死……それを、願ったアンタの心は、何処にある……」

 ナイフで両断されながらも、醜くもがいていた蟲にその声は届いていた。

 永遠を求めた理由。
 不老不死を願った理由。

 理由のない願いはない。何の目的もなく不老不死など求めはしない。人として死を忌避し恐れるのは当然の感情だが、臓硯のそれは常軌を逸している。
 五百年の時を生きる為に食らってきた人間の数は途方もなく、日々腐り落ちる肉に恐怖しながらそれでも永遠を求め続けるその執念の原点。

『ああ……』

 それをもう、思い返すことは出来ない。

 長い年月を生きた代償に、想いは擦り切れ、願いは忘却の彼方。分かるのは、いつの間にか手段と目的が入れ替わってしまったということ。
 最初から永遠が目的だったわけじゃない。永遠を求めたのは、何かを成し遂げたかったからだ。

 その『何か』は、この擦り切れた魂では、もう思い出すことも叶わないが。

 それが──この矮小な命を賭けるに値する、永遠にも勝る尊い輝きだったことは、覚えている。

『儂は……わたし、は────』

 望んだものを掴めず、望んだものが何であったかを思い出せないまま、間桐臓硯は、その長く苦難に満ちた生の幕を閉じた。

「さく、ら──ちゃ……」

 そうしてもう一人、間桐雁夜もまた重く瞼を閉じる。

 言葉では表せなかった沢山の想いを秘めたまま。
 これより続く彼女の道の先に、少しでも多くの幸福があって欲しいと願いながら──

 自分自身の為にしか生きられなかった男は、その最期に──誰かの為に、その命を投げ出したのだった。


/42


 灼熱の光輝を纏った一閃が夜に閃く。受ける黒刃は夜よりもなお暗き黒に染まり、全てを照らす太陽の輝きとさえ拮抗する。

 冬木市民会館前の広場に展開された決闘場──“聖剣集う絢爛の城(ソード・キャメロット)”内にて二人の騎士は火花を散らす。

 周囲に立ち昇る炎に陽炎の如く揺らめくのは在りし日の王城。一人の王の下に集った幾多の聖剣使いが轡を並べたキャメロット。
 王の御前、自らの正しさを証明する為に剣を執るのに、騎士の決闘を行うのに、これ以上の相応しき場所も他にない。

 決闘場から出る事を許されるのは唯一人の勝者のみ。王の御前へと面通しを叶うのは、かつての同輩を斬り捨てた白か黒の一人のみ。

「はぁ……!」

 マスターである言峰綺礼からの令呪ブーストで、ランスロット相手にも聖者の加護は狂いなく発動し、円卓一を誇った最強に拮抗する。
 攻め手は緩めることなく、ひたすらに足を前へ。自らの意思を乗せた剣戟を、目の前の相手へと叩きつける。

「Ga、aaaa……!」

 しかし相手は人々の崇敬と羨望を集めた国一番の猛者。荒々しき灼熱の波濤を、月の光を照り返す湖面のような美しさを損なうことなく捌きに捌く。
 狂化してなお揺るがぬ無窮の武錬は、より強大な力強さを伴い無数の花を夜に咲かせては散らせていく。

 蒸発した理性の中、それでも僅かにだけ残る思考能力でランスロットは不審に思う。

 かつて、三時間もの間耐え抜いた筈の太陽の斬撃が、徐々にその激しさを増していく。裂帛の気合を乗せた一閃が、少しずつ黒色の鎧を削いでいく。

 手を抜いているわけではない。ましてや、この身は狂化されることで生前を上回る能力値を獲得している。であれば状況は拮抗などする筈もなく、本来ならば黒騎士の側が押し込んでいなければならない。

 なのにバーサーカーは押し込まれる。間近で弾ける太陽の熱に目を細めるように、じりじりと後退を余儀なくされている。

「腑に落ちませんか、ランスロット」

 一切苛烈なる剣戟の手を緩めぬまま、黒騎士の内心を見透かした白騎士が問いかける。その表情に涼やかな笑みは既にない。剣を担う誰もと同じ、険しくも力強い眼を黒騎士へと叩きつける。

「かつて貴公に戦いを挑み、破れた私は私憤に駆られ、私怨に呑まれ、激情に任せて剣を振るった。けれど今は違う。
 この身が剣を振るうのは私自身の意思によるもの。この身に課した役を果たす為、貴公という壁を越える為に剣を振るう一人の騎士。あの時と同じと思われては困る……!」

 容赦のない一撃がランスロットの首を狙う。剣を盾に見立て、左腕を添えてその一閃を黒騎士は受け止める。ギチリ、と剣が嘶く。決して毀れることのない名剣と謳われたアロンダイトが軋みの声を上げる。

 兄弟を殺された怒りと、王を裏切った失望により心を憎悪で埋め尽くし、怒りに任せて剣を振るっていたかつてのガウェイン。その敗北は必定であり、心乱れた状態で斬り伏せられるほど最強の名は安くはない。

 けれど今は違う。裏切りに走った盟友に対する想いは完全に払拭は出来ていなくとも、今の白騎士の心に曇りはない。
 彼が剣に乗せる意思は騎士として王の為を想う心一つ。悲しいまでの願いを宿し、そんな願いを宿させてしまった己が不明を恥じ入るからこそ、旧友を斬り伏せてでも王の下へと辿り着くという信念をより強固なものとしている。

 意思なき剣が意思宿す剣に破れるのならば、共に意思を宿すのなら、より強い願いの方が勝つ。

「ランスロット。貴公は王の為、王の剣となると誓ったようですが、今はその剣に迷いが見える……!」

「…………っ!」

 夜を焦がす灼熱の大斬撃。巻き起こる熱波は周囲に踊る炎と遜色なく、がぎん、と一際大きな音を立てて打ち付けられた太陽の剣に、受けた漆黒の騎士の具足は深く地面へとめり込んだ。

「今一度問いましょう、我が盟友よ。貴公は本当に、王の願いが正しいと思っているのですか。王の祈りが、王という存在そのものを消し去ってまで与えられる救済が、本当に正しいのだと信じているのですか……!」

 叩きつけられる剣の重みに言葉の重みが上乗せされ、より強力に、より熾烈なる一撃となって黒騎士へと襲い掛かる。

 王の祈りを肯定し、王の願いが正しいのだと心の底から信じているのなら、剣に迷いなど生まれはしない。この完璧と湛えられた騎士が迷いを抱かぬのなら、如何に太陽の加護を得たガウェインであってもその牙城は崩せない。
 手にする剣に乗せる意思が共に譲れぬ想いであったのなら、地力で勝る黒騎士の勝利は揺るがない筈だった。

 それが今、一撃交える度に揺らいでいる。かつてない威力を込められた太陽の斬撃。騎士としての在り方──その答えの一つに辿り着いた白騎士の剣が尋常ではない力強さを誇るのも当然だ。

 騎士という型に自分自身を押し込めていた男が、今は逆に自分自身に騎士の想いを重ねている。

 騎士とは“こうあらねばならない”という考えではなく、“こうありたい”と彼自身が願ったから。王の為に、王の行く道に付き従うだけだった男が、王の行く末を案じられる心を手にしたのだから。

「ランスロット……! 卿の心は何処にある! 何を見て、何を想い、何を願い、王の祈りに膝を折ったのです!」

 狂乱に囚われながら、それでも王の為の剣となったバーサーカーの誓いは常軌を逸するほどの異常だ。何より、王を討つ為だけに畜生に堕ちることを容認したのだ、生半可な心変わりである筈もない。

 しかしそこには迷いがある。逡巡がある。理性と本能の鬩ぎ合いなどとは違う、全く別の葛藤が恐らく、この黒騎士の心の中にある筈なのだ。

「語る言葉がなくとも、御身にはその手に握る剣がある筈だ。王の為に振るう剣──そこに迷いがあるのならば」

 その隙を突かせて貰う。ガウェインは今一度王の下へと馳せ参じなければならない。泥を啜り土を食らい、這ってでも前へ。

 己の誇りを後生大事に守り、王の下へと辿り着けない無様は許されない。たとえ相手がこの黒騎士だろうと、最強を謳った誉れある理想の騎士だろうと──

 ──その壁を越え、その先へと……!

「はぁああああああ……!!」

 乾坤一擲の突きが闇に閃く。間断のない連撃で黒騎士の剣の動きを縫い止め、ようやく見出した隙を穿つ刹那の好機。

 とはいえ相手はこちらの手の内を知り尽くしている同輩。剣に迷いを抱いていも、剣閃に曇りはなく、類稀なる武錬もまた健在。
 故にガウェインにとってもこれは賭け。我が太陽の剣が漆黒の鎧を穿つのが先か、こちらの動きを読み切ったランスロットがなお先んじる一閃を見舞うか。

 瞬きさえも遠い一瞬。
 刹那に偽装された永遠の中で。

 互いの剣は、互いの胸へと向けられ──

「──────え?」

 驚愕の声と共に、手には肉を断つ感触。
 白騎士の手にするガラティーンは、漆黒の鎧を突き破り、黒騎士の心臓を破壊した。

「何故……」

 柄元まで深く突き刺さった青の聖剣。ランスロットの背から白銀の刀身が伸び、刃は血の赤に濡れている。
 相手の懐深くまで潜り込んだガウェインは、その視線を僅かに上げた。

 剣が胸を貫いた衝撃で黒騎士の兜が落ちる。からん、と音を立てたフルフェイスヘルムよりも、吸い寄せられるようにかつての盟友の顔を見上げる。

 青白く染まった面貌。
 口元より滴る赤い色。

 何より──その優しげな瞳に目を奪われた。

「ランスロット……貴方は……」

 激突の瞬間、白騎士の剣が黒騎士を捉えるよりも早く、アロンダイトは白の鎧を捉えていた。一瞬の攻防では理性よりも本能がものを言う。狂戦士として存在する黒騎士は、自らの死に対する反射めいた俊敏さで白騎士の先を行った。

 けれど結果は、ガウェインの身体に傷はない。ガウェインを討つ筈だった黒刃はランスロット自身の意思によって堰き止められ、彼は灼熱の剣にその胸を貫かれた。

「これで良いのです、ガウェイン卿。私の迷いを見透かした、貴公の勝利だ」

「ランスロット……!!」

 崩れ落ちる黒騎士をガウェインは膝を折り抱える。腕に抱いた男は軽く、生気は刻一刻と抜け落ちていく。サーヴァント現界の核たる心臓を破壊されては数分の猶予もない。けれど逆に言えば数分は猶予がある。

「ランスロット……貴方は一体、何を考え、このような……」

 狂気の檻に囚われていた黒騎士も、その死の間際に鎖より解き放たれた。一刻もない猶予であれど、確かに言葉を交わす機会を得たのだ。

「卿が問い質した通り、私は迷いを抱えながら王に膝を折ったのです。己が私欲で王に剣を向けたばかりか、今度は偽りの忠誠で王を欺いた。ああ、私はまた、許されぬ罪を犯したのです、裁きを受けて当然だ」

 自らの罪を懺悔するランスロットであったが、それでも彼の表情は言葉とは裏腹に穏やかだった。

 何故そんな穏やかな顔が出来る。自らの犯した過ちを嘆くのなら、こんな顔が出来る筈もない。そもそも、ランスロットは自らガウェインに向けてその胸を差し出し貫かれたも同然なのだ、腑に落ちない点が多すぎる。

 ガウェインの剣によって倒されることが彼にとっての裁きなのか。いいや、そんな筈はない。そんな上辺だけの想いで、あのアインツベルンの森でガラティーンの灼熱を切り払えた筈がない。

 少なくともあの森で王の隣に立っていたこの男の忠誠は本物であり、嘘や偽りがあったとは思えない。ならば一体、何が彼を死へと駆り立てたのか……?

「……貴方はまさか、最初から私に倒されるつもりだったのですか」

 そう考えれば、全ての辻褄が合う。狂乱の御座に囚われたままでは叶わない、王への深い想い。狂気に堕してなお膝を折った真意。そんな想いを伝えられる、かつての盟友に後を託す為に。

「……恥ずかしい話ですが。王への憎悪を糧に全てを投げ捨てた私には、王へと言葉を掛けることすらも叶わない。王の悲痛な祈りを……お諌めすることすらも」

 王の祈りを聞き、王に剣を向けられなくなった黒騎士は、王の為に剣を振るうしかなかった。その身に許されていたのは誰かに剣を差し向けることただそれだけ。理性は失われ言葉は封じられ、それでも心だけは確かに在った。

 王を諫める事も出来ず、剣を向ける事も出来ないのであれば、後は王の為に剣を振るうしかない。
 たとえそれが偽りのものであったとしても、王の為を願った彼の心は本物であり、そして──後を託すに足る者が此処にいる。ならば、如何にして抗う必要があるのだろうか。

「卿の兄弟を……私欲の為に斬り捨てた私の願いを、聞き届けて欲しいとは言いません。ですがどうか、王を──王の為に……」

 光となって消えていく黒騎士に残る願いはそれ唯一つ。我ら円卓が王に抱かせた余りにも尊く悲痛な祈り。それを間違っていると、貴女はその最期まで正しかったのだと、誰かが言ってやらねばならない。

 その役目は裏切りの騎士と蔑まれた己ではない。王に背を向け、国を裏切り、朋友に剣を向けた自分ではなく。その最期まで王の為に剣を振るい続けた、この盟友こそが伝えるべき言葉だと思うから。

 だからこそ晴れやかな心のままで去ることが出来る。この男ほど、後を任せられる男も他にいない。彼の背負う太陽の輝きはきっと、王の背負う闇をさえ払拭してくれると信じているから。

「────ランスロット」

 消えかけの掌をガウェインが掴む。しっかりと、その熱を感じ取るように。

「貴方の願い、確かに聞き届けました。貴方の想いを言葉に込め、私が必ず王の心を晴らして見せます。だからどうか、安らかに──」

「ああ……」

 許されざる罪を犯した己を、白騎士の兄弟を私情にて切り捨てた私を、それでも卿は受け止めてくれるのか。
 八つ裂きにされても文句は言えぬ筈なのに、私の死に場所を、この男の腕の中にしてくれるのか。

 古き盟友。
 轡を並べた同輩。
 王の両腕と称えられた太陽と湖。

 生前の蟠りも、消し切れない多くの想いも、今はその全てを擲って。

 去り行く朋友を、
 後を託す盟友を、

 共に────

「ああ────おまえ達の想いは、確かにオレが受け取った」

「…………ごっ」

「────」

 白騎士の胸より映える白銀の刀身。肉を裂き零れた血が刃先を伝い、黒騎士の顔へと降りかかる。

 薄れ行く意識の中。
 ランスロットが最後に見たものは、ガウェインを背から貫く、王と同じ顔をした少女──モードレッドの姿だった。



+++


 消えたランスロットを抱えていたガウェインが、動きの鈍い首を振って背後を見る。暗き空をその背に、冷徹な色をした瞳を湛えた一人の少女の姿を見る。

「モー……ド、レッド卿……なぜ……」

「ふん? 末席とはいえオレも円卓の一員だったんだぜ? 王城の門を潜るのに理由なぞ必要ないだろう?」

 絶対不可侵の決闘領域、“聖剣集う絢爛の城”の炎を越え現われたモードレッド。その右胸には痛々しいまでの傷痕を残しているが、核を破壊されたガウェインに比べれば程度の落ちるダメージに過ぎない。

 柄を掴んだままのモードレッドは、より深く剣を突き刺した。

「がっ……あぁ……!」

「太陽の加護を得ているアンタはそう簡単に死にそうにないんでな。念には念を入れさせて貰った」

 そんな事をしなくとも、モードレッドはガウェインを生前に討ったという逸話がある。伝説は長所にもなれば短所にもなり得る。今回の場合、モードレッドはガウェインに対し優位性を持っている。

 手負いであったとはいえ太陽を撃ち落とした者として、モードレッドの一撃は致命傷に至る威力となって白騎士を襲う。

「安心するといい。アンタの願いも、湖の騎士の願いも、オレが纏めて叶えてやる。あの王の願いを圧し折り、オレは──」

 ──“今度こそ”

 ずるりと引き抜かれるクラレント。崩れ落ちるガウェインを尻目に、モードレッドは剣の血を払った。

 そうして少女は戦場を去る。
 失意の内に消えていく白騎士に目を向けることなく。

 彼女の目にはもう、唯一人の姿しか映っていなかった。


/43


 薄暗い冬実市民会館へとモードレッドは入っていく。大理石の床を打つ鋼の具足の音が木霊する。
 入り口から真っ直ぐ正面にあるコンサートホールへと続く扉を押し開ける。直後、耳に響いたのは拍手の音だった。

 コンサートホールということもあり、良く音の通る空間を貫く階段を下り、少女は舞台正面へと辿り着く。そこに待ち受けていたのは乾いた音を響かせていた下手人、言峰綺礼だった。

「ようこそ。君が一番乗りだ、モードレッド卿」

「…………」

 モードレッドは視線を横に滑らせる。舞台脇に据え付けられた小階段。そのすぐ傍に横たわっている男の姿を見咎める。

「……そいつが一番乗りじゃないのか? 死んでちゃ世話はないが」

「私が此処を訪れた時に、間桐雁夜は既に事切れていた。どのような理由で自刃したのかまでは定かではないが、君が言う通り生きていなければ意味がない。故にこそ、君を一番乗りだと言ったのだよ」

 大仰そうにそう言った神父をモードレッドは不審の目で見つめる。この男と接触したのは霊体化した状態でただの一度きりだが、それでも得体の知れないものを感じた。警戒しておいて損という事はないだろう。

「で、アンタは何故此処にいる?」

「決まっている。この場所が今回の聖杯降臨の地であり、先頃脱落した二騎を含め六騎のサーヴァントの消滅を確認した。聖杯戦争の監督役の務めとして、戦いの終わりを見届けに来たに過ぎない」

「…………」

 それにしては余りにタイミングが良すぎる。ガウェインとランスロットが消えたのはほんの十分ほど前の話だ。事前にこの場所に待機でもしていなければモードレッドを先回りなど出来るのだろうか。

「アンタがどんな思惑を抱えていようと知ったことではないが、まだ戦いは終わっていないだろう?」

 この戦いに招かれたサーヴァントは全部で八騎。イレギュラーのモードレッドが存在しなければ残る一騎が勝者なのだろうが、まだ二騎が残っているのなら戦いの終わりは今少し先の話だ。

「無論、把握している。残っているのはセイバーだ」

「…………」

 モードレッドの危惧を見透かしたかのように綺礼はそう告げる。他にかまけていた間に本命が脱落していましたでは世話がない。だがこれで、モードレッドの求めた舞台は整ったことになる。

 それはまるで運命のように。
 誂えたように、彼女とセイバーだけが残った。

「時にモードレッド」

「……なんだ」

「ふっ、そう警戒するものではない。私はあくまで中立を謳う教会の監督役だ。君に味方することこそあれ、敵対する事などない」

「どうだかね。中立を謳うのなら黙って結末を見届けたらどうなんだ」

「いや、これも監督役の務めでね。モードレッド、既に聖杯は六つの英霊の魂をその器に満たしている。これが何を意味しているか分かるかね?」

「…………」

 聖杯にくべるべき魂の数は七つ。本来ならば全サーヴァントが脱落しなければ完成を見ない聖杯だが、今回に限っては一枠分の猶予がある。
 そして六つもの魂を飲み込んだ聖杯は、既に起動待機状態にあり、不完全ながらもその使用に耐えると思われる。

「……何が言いたい」

「完全な聖杯の起動……魔術師のように世界の外側を目指すのなら後一つ魂が必要だが、世界の内側に限るのであれば、既に願いを叶えられる状態だ。
 故に私は君に問おう。サーヴァントである君に外側を望む理由などあるまい? であるのなら、その願いを叶えてはどうか、とな」

「…………」

 舞台の中央、望んだ場所には中空に祀り上げられた銀髪の少女の姿。あれが今回の聖杯の器なのだろう。何故あんな形をしているのかなどモードレッドは興味もないが、言峰綺礼の言葉には一理ある。

 願いは目前。手を伸ばせば届く距離。心に秘めた祈り、渇望した願いがあるのなら、叶えてしまえと神父は言う。それがこのイレギュラーに塗れた聖杯戦争を勝ち抜いた者の権利であり、最も早く聖杯に辿り着いた者の権利だと。

 けれど少女は、鼻で笑って答えに代えた。

「生憎と、オレはもう聖杯にかける願いなんぞ持ってないんでね。アンタのご期待には添えそうにないな」

「……ほう?」

 その言葉は矛盾している。モードレッドはアインツベルンの森で王と同輩の騎士達に向け高らかに宣言した筈だ──『選定の剣へと挑戦させて欲しい』と。

 その願いは聖杯を使えば叶えることが出来る。万能の願望器という触れ込みに虚偽がなければ、モードレッドの願いは叶えられる。

 けれど彼女はそもそもとして聖杯に祈ることを拒絶した。願いなどない、と。その真意は彼女自身にしか分かりえない。

「此処まで勝ち上がっておきながら、聖杯に用はないと? 君が斬り捨ててきた者達の願いを踏み躙っておきながら、万能の奇跡など必要ないと、そう言うのかね」

「そうだ。オレは聖杯なんかいらない。もう、必要ない」

「……そうか。要らぬと言う者にこれ以上の強要をするつもりはない」

 たとえ明確な願いなどなくとも、目の前に全てを叶える奇跡がありながら、それを必要ないと断じられる者もまた奇特を通り越し異常の部類だ。大仰な願いでなくとも、ささやかな願いでもいい。何も願いがない、というのは有り得ない。

 少女の心の内など知る術はないが、言峰綺礼には願いを押し付ける趣味もない。が、

「いずれセイバーとそのマスターがこの場所を訪れるだろう。モードレッド、君が望むのはセイバーとの一騎打ちと見るが、どうかな?」

「ああ。オレに願いがあるとすれば、それだけだ」

「ふん? なんだ、願いがない、というわけでもないのなら、そう聖杯に願えばいい。セイバーのマスターは悪名高き男だ、マスター不在のサーヴァントが相手と知れば、何を仕掛けて来るか分かったものではないぞ?」

「…………」

 モードレッドも直接自分の目でセイバーのマスターである衛宮切嗣のやり口を見たわけではないが、オフィス街の戦いでビルを何棟も倒壊させた下手人だと聞き及んでいる。バゼットからも、軽く経歴程度は聞かされている。

 高い対魔力を有するモードレッドを相手にただの魔術師風情の攻撃が通用するとも思えないが、マスター殺しという最善の手段が通じない相手と知れば綺礼の言う通りどんな罠を仕掛けて来るか想像すらも出来ない。

 相手も聖杯を目の前に手段を選ばず仕掛けて来るだろう。セイバーとの一騎打ちを望むモードレッドにとって、懸念となるのは間違いない。

「そこで提案だが。衛宮切嗣の相手は私が引き受けよう」

「…………何?」

「君に聖杯を使う意思がないのであれば、私がそれを代わりに行おう。言ってしまえばただのマスター代行。ああ、マスター不在の君と健在のアインツベルンとでは、両者の天秤には著しい開きがある。その差を埋めようというだけの話だ」

「ハッ──中立が聞いて呆れる空言だな。何を考えている?」

「関与しないことを中立とは言わない。これでただマスターが脱落しただけならば話は別だが、最初からマスターのいない君だ、聖杯にも願いがないというのなら、その代行を行う程度のことが悪である筈もあるまい?」

「饒舌に綺麗事ばかり並べ立てるのを聞いてると反吐が出るな。本当の目的を言え、言峰綺礼。アンタの狙いは最初から衛宮切嗣──なんだろう?」

「────」

 言葉ではなく。言峰綺礼は笑みによって答えを返した。酷く歪で、禍々しさに満ちた、邪悪な笑みで。

「……ようやく本性を見せやがったか、エセ神父」

 モードレッドが初見で感じた不審の正体。この男は人間の皮を被った別のナニカだ。多くのもの踏み躙り、悪と蔑まれるモードレッドとも違う別の生物。薄気味の悪い、理解のしようもない怪物。

「……だが、オレにアンタの提案を断る理由はないな」

 今更審判の役目も何もない。残る一組を倒す。モードレッドにとっても、セイバー達にとってもそれが絶対にして明確なたった一つのルールだ。

 セイバーとの一騎打ちを求めるモードレッドにとって、言峰綺礼が何を目的に衛宮切嗣を引き受けようが関係がないし興味もない。自らの望む舞台に上がれるのなら、誰の手だって利用しよう。

 ────その先に、求め欲したものがあるのなら。

「では、交渉成立だな。肩を並べて戦うこともないだろうが、よろしく頼むとしよう」

「そっちこそな。早々に倒されて横槍が入るような真似だけは止めてくれ」

「……ふむ、その危惧は確かにある。戦闘に関しては多少の心得はあるが、相手はあの魔術師殺し。予期せぬ手段で煙に巻かれる可能性も有り得る」

 言峰綺礼がモードレッドと手を結ぶなどとは流石の切嗣も考えまいが、可能性の芽は潰しておきたい。綺礼にとってもこの戦いは願い求めたもの。自らの生に意味を見出す為の戦いだ、出来る限りの万全は尽くすしておくべきだ。

「ならばやはり、聖杯の助力を請うとしようか」

「……何に使うつもりだ?」

「簡単なことだ、聖杯に衛宮切嗣とセイバーの分断を願う。欲を言えば二人の目を欺く為の目晦まし付きで、というところか」

「……万能の釜に願うにしちゃ、えらく安っぽい願いだな」

「君に聖杯を使う意思がないのなら、マスター代行の私が使用しても文句はあるまい? どの道この程度の願いは膨大な魔力の上澄みを使う程度のものだろう。戦いの後に願いが生まれたのなら、改めて願いを叶えるがいい」

「そんな事態になるとは思えないが。まあ、そうなったらその時にまた考えるさ」

 その言葉を了承と受け取った綺礼は階段を上り、磔刑に処された神の子のように中空に浮かぶ少女へと手を伸ばす。

 万能の杯に願うにしては余りに小さな願い。二人の目的を果たす為の過程に過ぎないのだから、それも当然。ただ、今の彼らにはこの後に巻き起こる惨劇を予期するだけの材料も理由もなく。

 そして。
 大いなる黄金の輝きと共に。

 ────地獄の釜の蓋が、重く開かれた。



[36131] scene.19 カムランの丘
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/08/03 20:34
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 厚く空を覆う灰色の雲。
 冷たい夜気が肌を刺し、疎らに灯る街灯だけが街を照らしている。

 静寂に包まれた冬木市。出歩く人間の数はいつにも増して少なく、誰もが今宵開かれる惨劇に脅えるように、家の中へと閉じ篭っている。

 平穏の裏で行われている魔術師の宴の事など露とも知らない彼らであっても、街を包む気配……雰囲気とでも言うのだろうか。そんな異常を無意識に感じ取り、防衛本能を働かせている。

 ……そんなものは、逃避に過ぎないと知らず。圧倒的な暴威の前に、背を向けたところで何の意味もないのだと彼らが知るのは、まさに今この瞬間だった。

 衛宮切嗣がセイバーを伴い冬木市民会館へと辿り着いた時、既に異変の兆候は人知れず発動されていた。

 街に漂う魔力さえも霞む程の圧倒的な魔の気配。都合六騎。今宵倒された英霊の魂は水となって器に注がれ、黄金の輝きによって満たされている。
 市民会館の入り口を潜り、正面、扉一枚隔てた向こうに求め欲した聖杯がある。人の形をした器──愛娘の姿が。

「────」

 されど切嗣の心はもう動じる事はなかった。長き年月の果て、見果てぬ夢を抱いた男の終着点。多くのものを走り抜けた道の轍と変えてきた男が、今更、娘一人の命を惜しんで夢を諦める事など許されない。

 それは強迫観念にも近い衝動。理想という名の軋み。この胸を打つその音に従い、衛宮切嗣はとうとう、道の果てへと辿り着く。

 そして、扉を押し開け、コンサートホールへと踏み入ろうとしたその時──

「────っ!?」

「なっ───!?」

 二人に走る戦慄。

 切嗣が扉に触れるその直前、扉を突き破り、溢れ出したのは黒い汚泥のようなもの。真正面にいた切嗣を呑み込み、濁流となって押し流す。

「マスター……っ!!」

 手を伸ばすセイバーの掌は何も掴めず、汚泥の海に飛び込もうとした彼女を突如脳裏に閃いた直感が危機を告げる。これに触れてはならないと。指の一本でも触れてしまえば跡形もなく溶かされ、目前に迫った聖杯を掴む事さえ叶わなくなるのだと。

「…………っ!!」

 サーヴァントでは決して抗えない黒き呪い。それを直感にて感じ取ったセイバーは一足の内に飛び退き、コンサートホールより流れ出る汚泥から距離を取った。

 汚泥の海は止め処なく溢れ出し、刻々とその規模を拡大していく。泥の海の向こうに消えたマスターを追うべきか、状況の把握を優先するべきかを逡巡したセイバーへと、今度は頭上より滝となった泥が降り注ぐ。

「……くっ、これでは……!」

 直前で察知したセイバーが回避するも、天井は各所が溶けて泥が降り注ぎ、崩落もまた起き始めている。泥はやがて火へとその姿を代え、足元を炎の海に、視界を黒い煙で閉ざしていく。

 もはや聖杯や己がマスターどころの話ではない。一刻も早く離脱しなければ何も出来ないうちに泥と炎と崩落に巻き込まれる。

 ……マスター、どうかっ……!

 切嗣の身を案じながらも、セイバーは泥を避けて市民会館を離脱する。マスターを救うにはまず自分自身が生き延びなければ不可能なのだ。その背に崩落の足音を聞きながら、少女騎士は手を伸ばせば届く距離にあった聖杯に背を向けた。

 斯くして。

 最優のセイバーと、悪名高き魔術師殺しは分断された。この結末を願った本人ですら想定外の、大規模な災害を巻き起こしながら。



+++


 暗い海の底で目を覚ます。

 手足の感覚は曖昧で、上下の感覚は不確か。上も下もない場所で、水面に横たわるように見通せない無明の闇の中に浮かんでいる奇妙な感覚。今は、自分は浮上しているのか、沈んでいるのか、それすらも分からない。

「僕、は……」

 覚えているのは、コンサートホールの扉を押し開けようとした瞬間、視界を埋め尽くすタールのような、ヘドロのような黒い何かに抗う暇もなく呑み込まれたという事だけ。気が付いた時にはもうこの場所にいた。

 あの黒い汚泥がなんであったのかは分からないが、推察する事くらいは出来る。あんなものを宝具とするサーヴァントは今回の戦いの中にはいない。聖杯降臨の地。奪われたイリヤスフィール。今宵消えた幾体ものサーヴァント。

 アレは、聖杯より溢れ出たもの。

 誰が何を願ったのかは知らないが、黒い汚泥は間違いなく聖杯より零れ落ちたものに他ならない。無色の力、万能の奇跡。聖杯がそういうものであるのなら、アレもまた一つの願いの形なのだろう。

“いいや違う。アレは最初からそういうカタチをしたものであり、アレ以外のカタチなどないものだ”

 何もない闇の中に響く誰かの声。聴いた事のある声のような気がするが、咄嗟には思い出せない。

「……どういう、意味だ」

 だから切嗣はそう問い返す。声の相手が誰であれ、声の主よりも言葉の意味の方に酷く不穏なものを感じたからだ。

“それを知りたいのなら、さっさと目を覚ますがいい。その時おまえは答えを知り、私もまた答えを得るだろう”

 それで声は途切れた。

 ああ、言われなくとも目を覚ますさ。こんな場所で寝ている暇なんかありはしない。もう目の前に、手を伸ばせば届く距離に長い旅路の果てがある。後少しで、踏みつけてきた全てに報いる事が出来るんだ。

 眠るのなら、全てを終わらせた後に。
 世界の変革を見届けた後で、泥のように眠るのだ。

 ホルスターから引き抜いたのは愛銃であるコンテンダー。既に弾丸を装填されているそれを、虚空へと向ける。
 目を開けながら寝ているのなら、このくらいの荒療治は必要だろう。

 引き鉄は引かれ、撃鉄は落とされ、発射された弾丸は闇へと突き刺さる。ガラスに罅が入るように闇に亀裂が走り、砕け散った闇の向こうには────

「────な……」

 ────地獄が、広がっていた。

 見渡す限りの赤い地平。地を走る炎は道を、木々を、家屋を、空を、一切の容赦なく焼き尽くし、立ち昇る黒煙は薄暗い夜をなお黒く染め上げる。
 ほんの少し前までは静けさに閉ざされていた街並みが、今は赤い炎に包まれ、轟々と音を立てて燃えている。

 衛宮切嗣は、ただ立ち尽くしたまま呆然とその光景を眺めた。

 ──僕はまだ、夢を見ているのか……?

 そんな益体もない考えが脳裏を掠めるほどに、目の前の惨劇は現実離れしていた。

「目を背けるな衛宮切嗣。これは間違いなく現実だ」

 その声は、闇の中で聴いた声と同じもの。視線を傾けた先、胸に輝くロザリオを握り僅かに目を伏せた男が、そこに立っていた。

「言峰……綺礼……」

 切嗣が最も警戒していた男。時臣の影からサーヴァントを操り、監督役という立場から戦場を俯瞰していた男。そんな男が遂に、戦場へとその姿を現し、慄然と切嗣の前に立ちはだかった。

「混乱したおまえと戦うのは私にとっても不本意だ。必要ならば状況を説明しよう」

 そうして綺礼は語った。既に六騎のサーヴァントが消滅した事。あの泥は聖杯より溢れ出たものである事。そしてその泥が、今街を焼き焦がしているのだと。

「正直、私もまさかこんな事態になるとは想像だにしていなかった。私が聖杯に願ったのはおまえとセイバーの分断、欲を言えば目晦まし、それだけの事だ。
 ただそれだけの願いを、聖杯は周囲一帯を焼き尽くす事で実現した。この意味が、おまえには分かるか?」

 万能の奇跡、無色の力の渦。聖杯はそういうものであるとされている。行き場のない膨大な魔力に指向性を与えるのは願った者の祈りだ。
 切嗣との一対一での対面を望んだ綺礼の心に偽りはないのだろう。けれど事実として綺礼が聖杯に願った結果がこの災厄であるのなら、この光景は言峰綺礼の願望の結果に他ならない。

「違うな、間違っているぞ。この災厄は私の願いなどではない。私には、そもそも願いを持つだけの理由がないのだから」

「…………」

 そう、言峰綺礼という男からは何の情熱も感じられない。あらゆる分野で相応の結果を残すが、全て極める前に次の分野へと移る事は、以前見た調書に記されていた綺礼の過去がそう物語っている。

 何かに入れ込む事はなく、何かを求めているわけでもない。この男には、人にあるべき熱がどうしようもなく欠落している。
 淡々と与えられた任務をこなし、そこに理由や意味を求めない。考え得る最大の結果を残そうとも、人々の賛辞ではこの男の心の空虚は埋められない。

 信仰に縋っても、己が肉体を痛めつけても、魔の門徒となっても、綺礼は何の感慨も覚えなかった。あらゆる出来事に、関心を抱けなかった。

 だからこその不可思議。何も求めないこの男に、聖杯は何故令呪を託したのか。奇跡にさえも興味のない男の何を見出し、この戦争へと駆り立てたのか。

「その得心を、実際に聖杯に触れる事で私は得た。おまえとの邂逅こそが私が求めたものだと思っていたが、この聖杯には、より明確な答えが潜んでいた」

 綺礼は膝を折り、地を焼き焦がす泥を掬い上げた。掬い上げた端から零れていく汚泥は綺礼の掌を焦がしはしなかった。

「先にも言ったように、この黒い泥や街を焼く火災は私の願いによって生まれたものではない。最初から聖杯を満たしていたものが零れ落ちただけであり、そして──おまえ達が求めた奇跡の正体だ」

 万能の願望器の中に渦巻く黒い泥。無色と信じられていた力の渦は、この泥によって黒く汚染されている。
 今や聖杯の奇跡は指向性のない渦ではなく、この泥によって一定の指向性によってしか願いを叶えられないものへと変貌している。

「──即ち、破壊。この聖杯は願った者の祈りを破壊によってのみ叶える。私がおまえ達の分断を願った結果、聖杯は周囲一帯ごと焼き尽くす事でその実現を図った。
 本来ならば転移程度で済ませられる願いを、聖杯は、こんな形でしか叶えられなかったのだ」

「馬鹿な……」

「目の前の現実を見るがいい、衛宮切嗣。今おまえの目に映っているものはなんだ。何よりも明確に、雄弁に、私の言葉を真実だと告げているだろう」

 腕を広げた綺礼の向こうで、焼け焦げた家屋が崩落する。遠く聞こえるのは誰かの声。救いを求める声か、嘆きの声か、倒壊と火の爆ぜる音で良く聞き取れないが、それが慟哭から生まれたものだという事だけは分かった。

 それでも。

「……ほう?」

 泰然とした姿勢を崩さない綺礼へと切嗣は銃を突きつける。

 確かに目の前の現実は本物だ。街を包む大火は真実で、聖杯が綺礼の願いを聞き届け、火災を巻き起こしたのは事実だろう。けれどそれは、聖杯が泥に汚染されているなどという話の根拠にはなりえない。

 聖杯に眠る力は無色だと信じられてきた。それが今更になって破壊でしか願いを叶えられないだなんて戯言を信じられる筈がない。
 この火災は綺礼の願いが生んだもの。聖杯がこの男の深層意識を読み取り巻き起こした破壊に違いない。

「僕はおまえの言葉を信用しないし認めない。そんな戯言で惑わそうというのなら甘く見られたものだ。そこをどけ。僕は是が非でも聖杯を手に入れる」

「……まあ、そうだろうな。何を聖杯に求めているのかは知らないが、縋るほどの祈りがあるのなら私の言葉などに耳を傾けないのも当然か。
 いいだろう、ならば私は此処でおまえを倒し、その後で生まれ出でるものを祝福するとしよう」

 僧衣の裾を払い引き抜かれたのは左右三対の黒鍵。十字架を模したその刃は、教会代行者でも最近は得物とする者の少ない概念武装。

 魔術師殺しの手にする魔銃の照星が言峰綺礼を捉える。
 願いなき求道僧は腰を沈め足に力を深く込める。

 切嗣が撃鉄を撃ち落とすのと、綺礼が地を蹴ったのは全くの同時。

 此処に最後の幕が開く。
 共にその最初から互いを敵視していた者同士が遂にその戦端を切る。



+++


 セイバーが泥を避けるようにして市民会館の外へと離脱して程なく、今し方まで威容を誇っていた建造物は音を立てて崩れ落ちた。
 猛る炎に巻かれ噴煙は一層燃え広がり、視界は覆われ、建物が瓦解する音は軋みの如くセイバーの耳朶に轟いた。

 マスターである切嗣の安否も心配だが、それ以上にイリヤスフィール……引いては聖杯の行方が気に掛かる。
 この身を構成するエーテルが解けていないところから見ても、聖杯は無事であると思われる。ただ、この会館の中にイリヤスフィールがいたのだとしたら……。

「浮かない顔をしておられますね。ですが貴方の心配は杞憂だ、無謬の王よ」

 煙る視界の向こうから、聴き慣れた声が響く。崩れ落ちた瓦礫を踏み荒らす具足の音。未だ開けぬ視界の先にいるのは、

「モードレッド……」

 足音が鳴り止む。距離を置いた場所で同じ顔を持つ少女は立ち止まった。

「既に戦いは最終局。残るサーヴァントも私と御身だけ。さあ、今度こそ決着を着けましょう、王よ。この──カムランの丘の上で」

 一閃。

 噴煙を斬り裂く白銀の刃。暴風を巻き起こしたモードレッドの一刀は、覆い尽くされていた視界を鮮明にする。

「ああ……」

 開かれた視界の先にあったのは、赤い世界。
 地に突き立つは焼け落ちた家屋の柱や破片。
 空を染めるのは、洛陽の赤ではなく炎の赤。

 細部は違えど、この光景を知っている。
 血塗れの丘の上で、剣を支えに細めた瞳で、何度となく見渡した風景。

 胸に鋭い痛みが走る。
 時代を経ても、戦場が変わっても、この身が行き着く先はいつも此処なのか、と。

「そこをどくがいい、モードレッド。私は聖杯を手に入れなければならないのだ」

 歩みを止める事は許されない。この血染めの丘の向こうに願ったものがあるのなら、尚の事。
 もうすぐそこにあるのだ、全てを叶える奇跡が。あの忌まわしい終わりを打ち消せるものが。

「邪魔をするのなら、今一度斬り捨てよう。あの時のように」

「────ハハッ!」

 悲痛に決意を滲ませ、剣の握りを強くする少女とは裏腹に、同じ顔の少女は愉快げに口端を歪めた。

「ええ、出来るものなら。ですが私をあの時と同じと思ってもらっては困る」

 片手で器用に剣を振り回していたモードレッドが、剣を下段に構えて両の手で握る。その構えは正面に立つセイバーと同じ。鏡写しのよう。

 型に縛られない戦い方を得手とするモードレッドであるが、それは騎士としての正道の剣を扱えない事と同義ではない。
 彼女の剣技はどんな立ち振る舞いをしようと、勝つことを前提としたもの。相手の裏を掻き、翻弄し、勝つ為に手段を選ばないが為の無縫の剣。

 されど今、眼前に立つのはその剣を破りし者。かつて一度、あの落日の丘でモードレッドの命を奪い去った者。同じ手段で立ち回れば、同じ結果に行き着くのは当然。であれば、裏を掻く事を信条とするのなら、これもまた彼女の流儀。

「……付け焼刃の見様見真似で、私に届くと思い上がっているのなら浅はかだと、忠告しておこう」

「これでもキャメロットの剣術は修めておりますので心配は無用。私の心配などより御身の心配をされよ。
 御身の手に私の腹を裂いたロンゴミニアドはない。同じ結末は、ありえない……!」

 地を蹴り、突風となってモードレッドが走る。対するセイバーは腰を落とし、迎撃の構えを取る。
 ぶつかり合う剣と剣。咲き誇る極大の火花。二人が身体に帯びる多大な魔力が絡み合い、電撃のように鎧を擦過し、陣風のように大気を震わせる。

「今一度問いましょう、王よ。貴方は何故聖杯を求めるのです」

 ギチリと軋む剣の向こうで、静かな声でモードレッドが問いかける。

「全てをやり直す為だ。あの終わりを覆す為だ。私は王になどなるべきではなかった。だから、聖杯に選定のやり直しを請う」

 全ての悲劇を、アルトリアが王であったが故に起こった惨劇をなかった事にする。

 忠義の騎士は赫怒に塗れ、失意の内に死する事もなく、騎士の中の騎士として歴史にその名を残し。
 理想の騎士は人々の誉れとしてあり続け、無念を抱くことなく最愛の人とその生涯を共にする。

 国の崩壊で憂き目を見た民の嘆きを消し去り、より長く国の平穏を保つことの出来る王を願う。
 その果てには、目の前の背徳の騎士にもまた、救いがあるだろう。

「……誰が、そんな事を貴方に願ったというのです」

 搾り出したかのような声。俯いたモードレッドは、唇を震わせ口火を切った。

「なに……?」

「太陽の騎士がそう言いましたか。理想の騎士がそう請いましたか。貴方にあの破滅の責任を取れと。民がッ! 歴史のやり直しを求めたことがありましたかッ!」

「そんなものは必要ない。誰しもが救いを求めて、理不尽な終わりに涙した筈だ。こんな終わりは認められない、と」

 だからこそガウェインは今一度現世に蘇り、今度こその忠義をと求めた。だからこそランスロットは狂気に身を委ね、不甲斐無き王に断罪の剣を振り下ろす為にこの己の前に姿を現した。

「滅びを華する武人である彼らがそうであるのだ、力なき無辜の民が彼ら以上に嘆き、悲しみ、絶望した事は想像に難くない。
 だからこそ私は救いを求める。己が巻き起こした悲劇の責任を取る。何故それが、貴方達には分からない……?」

「分かっていないのが貴方だからでしょう……!」

 裂帛の気迫と共に剣を払う。風を帯びた不可視の剣を握る王は地を滑り後退を余儀なくされる。それほどに、今の一撃には全霊の力が込められていた。まるで、彼女の怒りを表すかの如く。

「民は、騎士は貴方に理想であれと願ったでしょう。それは事実だ。そして貴方は本来なら有り得ない理想として在り続けた。いつか破綻すると誰もが思った理想のまま、貴方はその最期まで誰もの理想で在り続けた」

 なのに。

「何故それを否定しようと言うのです……何故全てを消し去ろうと言うのです……何一つを間違えていなかった貴方が……何故……ッ!」

「モードレッド……」

 悲痛に顔を歪ませるモードレッドの姿に、セイバーはただ驚きを覚える他ない。

 彼女の知るモードレッドという騎士は、同輩の騎士を扇動し、民を唆し、国を崩壊へと導いた逆賊そのもの。
 守りたかったものを守りきれず、聖杯などという荒唐無稽な奇跡を欲する浅ましさを嘲笑うものと思っていたが、あの森の戦いでも、今この時でも、彼女は、

「モードレッド。何故貴方がそのような顔をするのです」

 それは今にも泣き出しそうな幼子の顔のよう。生前、唯の一度垣間見ただけの相手とはいえ、その面貌は自身と瓜二つのもの。どう見間違えようと、王の無様な足掻き冷笑しているようには見えない。

「私の理想を打ち砕き、玉座を簒奪せんと目論んだのは他ならぬ貴方だ。事実、遠征の隙を突き玉座と騎士の半分を掌握もした筈。
 何故今更……貴方も聖杯に願うのは王の選定であるなら、私が私を否定したところで貴方にとって何の関係もないでしょう」

「────……ッ!!」

 その言葉に、モードレッドは下を向いていた顔を上げる。宿るは様々な感情が綯い交ぜとなった得も言われぬ顔。

「……私がただ、玉座欲しさに叛逆を企てたとお思いか」

 モードレッドの手にする剣が奇怪に蠢く。国の宝として宝物庫に収められていた名剣クラレント。王位簒奪の証にモードレッドが持ち出した見目麗しい白銀の剣。
 それが今、赤黒く染まっていく。刀身は歪み、より長大に、禍々しく変貌していく。彼女の心を、その上澄みを汲み取るように。

「私を息子(むすめ)と認めなかった貴方への憎しみだけで、全てを敵に回したのだと、本当にそう思っているのなら──」

 炎が染める地面に血の脈動が走る。それはあの落日の丘の再現。多くの騎士が零した血が頂より流れ、血の河となって大地を赤く染めていく。

 不実の子。妖妃モルガンの姦計により生まれしアーサー王のクローン体(ホムンクルス)。それがモードレッドの正体だ。

 モルガンからの推薦状だけを手に、王城キャメロットへと訪れたその時より、己の正体を知り、王に詰め寄ったあの時まで、清廉潔白な騎士であったモードレッド。

 ホムンクルスであるという歪な生まれゆえに普通の人間に対する妬みはあったが、理想とされた王への強い憧憬がそれに勝り、誰よりも騎士の模範足らんと務めた。母であるモルガンが彼女に課した、玉座簒奪の目的を忘れたまま。

 全てが狂い出したのは、己の出生の秘密を知ったあの時。

 それでも完璧と謳われた王の血を引く己を誇り、ホムンクルスである事もまた受け入れようと思っていた彼女が、王に父としての愛を求めたのは当然の事であり、けれど返答は無慈悲なものだった。

 彼女にとっての叛逆とは、つまり────

「────王は、人の心が分からないッ……!」

 王にそう吐き捨て、城を去ったのは誰だったか。

 けれどそれは王城に集いし騎士達の総意。
 たった一言に込められた糾弾。

 誰しもがそれぞれがそれぞれに王という存在の理想を見て、現実とのギャップから生まれし弾劾の剣。
 ある騎士は軍備を整える為に村を滅ぼす必要などないと言い、ある騎士は余りにも無慈悲な王の断罪に埋められない溝を感じた。

 モードレッドがその言葉に込める意味とは、たった一つ。

 不実により生まれしこの身が求めたものを終ぞ与えてくれなかった誰かへの叛逆。たった一つ、たった一言願ったものが与えられていたのなら、あの結末も、こんな戦いも、きっとなかった筈なのに……!

「“我が麗しき(クラレント)────”」

 紐解かれる真名。
 血に染まった丘の上で、王を討つ剣が明かされる。

「“約束された(エクス)────”」

 迎え撃つセイバーもまた最強の聖剣を以って応えるしかない。

 此処は戦場……されど住宅地にも程近い街の中心点。聖杯の泥が巻き起こした火災があろうと、まだ生きている者もいる筈。そんな状況下で大規模な破壊を撒き散らす宝具を放てば被害はより甚大なものとなる。

 セイバーの狙いは相殺だ。クラレントの放つ赤雷を相殺し、これ以上の被害拡大を食い止めた後、白兵戦にてモードレッドを下す。

 聖杯を手に入れる為ならば如何なる犠牲も払うと覚悟したこの身が、何を悠長な事をと誰かは嘲笑うかもしれない。けれど、この一撃は止めなければならないと、彼女の内なる何かが警鐘を鳴らしている。

 高まり行く赤き雷光と黄金の輝き。
 最強の聖剣と、王を討った剣とがその煌きを極限まで高め────

「“────父への叛逆(ブラッド・アーサー)……!”」

「“────勝利の剣(カリバー)……!!”」

 極光となって、ぶつかり合う。

 直線状に放たれる血色の雷光。触れる全てを焼き尽くす、憎悪の稲妻。
 射線上に存在する全てのものを押し流す光の波濤。気高き黄金の一閃。

 『最強の幻想(ラスト・ファンタズム)』とも称されるセイバーの剣、エクスカリバーの出力に勝る聖剣はこの世には存在しない。魔剣であっても同格に近いものはあっても上回るものなど有り得ない。他の武装を見渡しても、一握り以下だろう。

 人々の想いによって形作られ、星が鍛え上げた神造兵装。他を寄せ付けぬ頂点の一つ。それと曲がりなりにも打ち合えるクラレントの異常性は、彼の剣の来歴に由来する。

 装飾の美しい、言ってしまえばただの名剣でしかないクラレントが、エクスカリバーと同等の出力を獲得しているのは、この剣がアーサー王に対する特効性を有しているからに他ならない。

 聖槍ロンゴミニアドにその腹を貫かれながら、それでもモードレッドは最後の力を振り絞り、王に致命傷を与えた。
 王を討った剣、アーサー王を倒したにも等しい剣は、持ち主が英霊となる事で彼の王に対してだけは本来の格以上の性能を発揮出来るようになった。

 本来ならば力負けする筈のエクスカリバーと、対等に競い合えるほどに。

 王の手に聖槍が残っていたのならまた話は別だったのだろうが、剣の英霊として招かれたアーサー王に槍の武装はない。
 どのような威力を誇ろうと、『アーサー王と同等』というある種の概念に守られたクラレントの一閃は、裏を返せばエクスカリバーは破り得ないという事に他ならない。

 下回りはしないが、上回る事も出来ない不実の剣。されど、モードレッドにとってはそれで必要充分に過ぎた。

 赤雷と光波がぶつかり合い、弾け、相殺し合おうと、周囲への被害は完全にはゼロにはならない。地を削った砂礫が舞い、巻き起こった風が視界を奪い去る。

 極大の一撃を放ったが故に生じる一瞬の隙。
 両者共に抗えぬ筈の硬直を、

「アァァァァァサァァァァアア……!!」

 この瞬間を最初から狙っていたモードレッドは打破し、煙る砂塵を引き裂きながら、セイバーに先んじて動き間合いを詰める。

「……くっ!」

 脱せない硬直に足を絡め取られたセイバーは、魔力放出の噴射によって無理矢理に腕を動かし、

 両者の剣が、交差し────

 鎧を斬り裂く音と共に、

 ────血の華が、咲いた。



+++


 衛宮切嗣は言峰綺礼の戦闘方法を人づての情報でしか知り得なかった。

 それも当然、聖杯戦争の監督役にして中立を謳う教会所属のこの男は、今まで一度たりとも戦場に姿を見せた事はなく、これが言わば初戦。
 曲がりなりにも手の内を晒し、此処まで勝ち上がってきた切嗣とでは情報の差に開きがある。

 故に切嗣の取るべき初手は明白。
 遠坂時臣に対しそうしたように、まずはこちらの最大戦力で仕掛ける。

 ただ時臣の時と明確な違いがあるとすれば、最早手の内を隠す段にはないという事。残る敵はこの男だけ。目の前の怨敵を撃滅すれば、後は聖杯の頂へと駆け上がり、胸に抱いた祈りを叶えるだけだ。

 出し惜しみはない。
 これまで秘して来た衛宮切嗣が秘奥──起源弾を初手から撃ち放つ。

 対象に着弾した時の魔術回路の励起具合によっては一撃で致命傷を与える起源弾。最大励起状態でなくとも、それは高圧電流の流れる回路に一滴の水を落とすようなもの。
 防御不能のスプリングフィールド弾で肉体を破壊し、起源弾で魔術回路を止め、次の一手で止めを刺す。

 引き鉄が引かれ、撃鉄が落ちる。破砕音と共に撃ち出された弾丸は、迷い違わず一直線に切嗣へと迫る綺礼へと吸い込まれていく。
 されど相手も一流の代行者。踏んだ場数は切嗣にも劣らない。銃口が己を向いた瞬間、綺礼は目を見開き、弾丸が発射されたその刹那、左方への跳躍で必死の魔弾を回避した。

 生身の人間が銃弾が撃ち出された後に躱すなどという芸当は到底不可能だ。けれど綺礼は銃口の向き、指先の動きから行動を予測し、鍛え上げた肉体と、積み上げた経験で躱せぬ筈の一撃を回避した。

「────」

 切嗣の動きが一瞬止まる。滑らせた視線の先には即座に体勢を整え、高速で疾駆する獣の姿。右手が動く。指の間に挟み持つように握られていた三本の黒鍵が振り抜かれ、宙を走り空を裂く。

「──固有時制御(Time alter)、三倍速(triple accel)」

 それに先んじ、常に最悪を想定する魔術師殺しは無論、銃弾が弾かれる、ないし避けられる可能性を初めから考慮しており、綺礼が回避した後に地を蹴った直後には、詠唱が紡がれていた。

 起源弾が魔術師殺しとしての秘奥であるのなら、こちらは魔術師衛宮切嗣が秘奥。体内時間を加速させ、常時を凌駕する加速を手に入れる。
 体内にアヴァロンという規格外の治癒能力を宿す宝具を隠し持つ切嗣ならば、生身での限界である二倍を超える三倍での加速を可能とする。

 高速で振り抜かれた黒鍵は綺礼の手を離れ、切嗣を串刺しにせんと接近する。死徒を容易く駆逐する黒鍵投擲も、その速度が三分の一となれば回避など容易。

「…………っ!?」

 だが……そう。この一手は、既に一度、戦いの中で使ったもの。綺礼自身はその戦いを直接見ていなくとも、相手が三倍に加速すると分かっているのなら、それに対する処方もまた幾らでも覚悟出来る。

 切嗣が迫る三本の黒鍵を回避しようとしたその後ろ、勢いを落とすことなく迫る綺礼の手の中にはあるべき残り三本の黒鍵がない。右手の黒鍵を切嗣に向けて放った次の瞬間、綺礼は左の黒鍵もまた既に抜き放っていた。

 投げた先は正面ではなく、頭上。切嗣の回避行動を事前に予測し、逃げの道を封じる為の牽制の一手。正面の黒鍵を回避しようと左右に避ければ頭上より貫かれる。避けなければ正面の黒鍵により串刺しだ。

 切嗣は既に動きを縫われた。これまで駆け抜けた戦場の中で晒した情報は全て綺礼の戦術予測に利用され、こうして追い詰められている。

 だが、だからと言って易々と刺されてやるわけにはいかない。この先には願い縋ったものがある。こんなところで燻っている時間はない……!

「…………なっ!?」

 綺礼の驚きは切嗣が全く予想外の一手を打った事に対するもの。

 如何なる動きをしようと、黒鍵による被弾の避けられない状況であるのなら、ダメージを最小限に抑える為に左右への回避を選択する筈。それが最も賢く、綺礼はその直後を狙い撃つべくもう一手を仕込んでいたが、

「ああああ……!!」

 切嗣はあろう事か、正面の三本の黒鍵の雨の中にその身を投げ出したのだ。

 如何にその動きが目で追えているとはいえ、完全な回避は不可能だ。そうさせない為に綺礼は投擲しているし、事実、一本目の黒鍵は切嗣の腹を裂いた。

 けれどそれでも魔術師殺しは止まらない。血を脇腹から吐き出しながら、それでも猛然と前進し、残る二本の黒鍵をもまたダメージ覚悟で突き進む。

 二本目の黒鍵は左腕をぱっくりと切り裂き、三本目の黒鍵は腿を過たず貫いた。

「ぐっ……!」

 それでも、切嗣は止まらない。痛みに目眩を起こしそうダメージを受けてなお、愚直に前へと進み続ける。

 開けた視界の先、突破した刃の雨の向こうには、徒手空拳の綺礼の姿。綺礼の戦術予測をダメージ覚悟で突破したのだ、敵が無防備であるのは当然の事。

 切嗣は右手に握ったコンテンダーを振り上げる。三倍の勢いに任せ銃底で殴りつければそのダメージは計り知れない。

 しかし。

「──────」

 綺礼は、その更に先を行く。

 徒手空拳。無防備。無手。ああ、そうだろう。綺礼の策は左右へと逃げた切嗣を追撃する事で完遂を見る筈だった。よもや、敵がわざわざ最も危険の大きい正面を突破して来るとは思いもしなかった。

 それでも綺礼には見えている。常人を軽く凌駕する三倍速も、黒鍵の被弾によって勢いを僅かであれ落としているし、切嗣自身の肉体強度は綺礼には遠く及んでいない。

 振り上げられたコンテンダー。迫る銃底。受ければ腕の一本も持っていかれるだろう。ああ、ならばくれてやろう。ただしその代償は、その命で償って貰う……!

 綺礼は回避行動を取ることなく、迫る切嗣に向けて更に疾駆、肉薄し、振り下ろされるコンテンダーには左腕を差し出し、直後、骨の砕ける音を聴く。

「────」

 それでも、綺礼には微塵の動揺もない。最初から覚悟したダメージなど、既にして思慮の外。踏み込みを強く、体幹は揺らぎなく。生み出す力は捻転を呼び、生まれた力は全て右の拳へと集束する。

「────破ぁッ……!」

「…………ッ!」

 胸の中心を穿つ衝撃。綺礼の縦拳は切嗣の胸の中心を捉え、胸部諸共その内臓をも粉砕する。
 吹き飛ぶ切嗣。地面を跳ね、倒壊した家屋の柱へと叩きつけられ、噴煙の中にその屍骸を晒す。

 中国武術、八極拳の流れを汲む綺礼独自の殺人拳法。教会代行者という先入観が、初手が黒鍵であったという事実もあり、切嗣には綺礼がこの手の武門を習得しているなどとは予想だに出来なかった。

 その結果がこの結末。綺礼の手には確かな感触。胸を貫き、骨を砕き、臓腑を破壊した感触が確かに残っている。

 戦いの決着など所詮、一瞬で決するもの。長く宿敵と思い込んできた男もまた、その一瞬の交差によって倒れ伏した。幕切れとしては呆気なく。綺礼の心には他の全てと同じく、何の感慨も生まれない。

「……やはりおまえは、私とは違うのだな」

 聖杯に渇望する祈りのない綺礼と、縋らねばならない何かを持つ切嗣。その事に気が付いたのはごく最近の事であり、心に同じ空虚が仮にあったのだとしても、それは綺礼とは違う寂寞の証なのだろう。

 ……私の答えは、聖杯の中にこそある。

 聖杯に触れた瞬間、電撃のような理解と共に得た回答への道筋。聖杯の中に蠢くもの、無色の力を汚染した黒い汚泥その正体。
 悪であれと願われたもの。最初から人々に生まれを望まれぬもの。その生誕と行く末こそが、綺礼の心に答えを齎す。

 長きに渡る旅路の果て。聖杯がこの言峰綺礼をマスターとした理由。それが己が誕生を手助けさせる為のものだったのなら、全ての涜心と共に、その誕生を祝福しよう。

 綺礼は終わった戦いに背を向ける。
 目指す先には聖杯の眼前。
 空に高く昇る暗黒の太陽。

 その下で、この意味なき生に意味を求めよう────

「────固有時制御(Time alter)、四倍速(square accel)」

「何……っ!?」

 瓦礫の山を蹴破り、先の三倍を越える加速で以って猛然と切嗣は襲い掛かる。砕けた筈の心臓は再生し、穿たれた胸は既に閉じている。

 切嗣自身、己自身の蘇生には驚きを禁じえなかった。戦いの前に冬の森で鍛錬と平行しアヴァロンの性能はある程度確かめたつもりであったが、流石に死からの蘇生を試す事など出来なかったからだ。

 それ故に先程までの切嗣の限界認識は三倍速。身体へのダメージは深刻だが、死にはしないというレベル。しかしその先、死からの蘇生が可能であるのなら、不可能を可能とし、限界を凌駕する四倍速を可能にする。

 切嗣自身が理解していなかった死の先。ならば当然、綺礼の驚愕はその更に上を行く。確実に心臓を砕いた筈の敵が猛然と迫って来るのだ、恐慌し錯乱してもおかしくはないほどの異常だ。

 振り返る。目視。既に敵は目前。駆ける最中に秒を切る速度で再装填は行われ、魔銃には必滅の魔弾が装填されている。
 向けられる銃口。敵を正面に捉える。直後。視界から消失。左方。綺礼の腕の損傷を利用し、守りの薄い左方から切嗣が迫る。

 その直前、切嗣はコートの裾から引き抜いたナイフを投擲しており、今度は綺礼が追い詰められる。正面には高速で迫るナイフ。左方には魔銃携えし魔術師殺し。目では動きを追えても、肉体が思考に追いつかない。

 ナイフを避ける時間はない。切嗣に対応する時間もない。どちらかに対処すれば、どちらかに貫かれる。ならば当然、切嗣がそうしたように、綺礼もまた最大の脅威に対処しようとしたその時、

「…………なっ!?」

 今度の驚愕は切嗣のもの。綺礼が切嗣へと向き直り、ナイフがその身を切り裂こうとした瞬間、足元に燻っていた炎の下にあった泥が蠢き、まるで、綺礼を守護するように盾となってナイフを呑み込んだ。

 さしもの切嗣もそんな異常を目にしては、追撃をかけられない。蠢き蔓のように伸びた泥から逃れるように、地を強く踏み込み、一足の内に間合いを離す。

「ほう……聖杯よ、おまえは私の勝利を願うのか」

 じくじくと蠢く闇。
 綺礼の足元に蟠る汚泥は触手のように立ち昇り、綺礼の周りで踊る。

 切嗣にはその光景が信じられなかった。無色の力。意思なき力の渦が、自らの意思によって勝者を選定するなどと。

 ……ならば、本当に聖杯は……。

 あの黒く禍々しい何かによって汚染されているのか。聖杯の力をその何かは利用し、そして綺礼に味方している。

「私としても驚きを禁じえないが、これで分かっただろう、衛宮切嗣。意思なき力の渦に宿る黒き意思。汚染の原因、聖杯の正体。そしてどうやら、聖杯は私に勝者となる事を望んでいるようだぞ?」

「…………」

 認めない。

 そんな強固な意志を込めて切嗣は睨みつける。ああ、別に構うものか。聖杯が綺礼に味方しようと何ら関係がない。勝つのはこちらだ。聖杯を掴むのは衛宮切嗣だ。だからこんなところで膝を屈するわけには行かない。

 ただ、それでも。

 聖杯が、求め欲した奇跡が、切嗣の願いを叶えられないものであったとしたら。
 これまでの道程が、犠牲としてきた全てのものが無為に落ちるのだとしたら。

「…………ッ」

 ギチリと奥歯を噛み、切嗣は心に沸いた弱音を噛み砕く。全ての答えはこの戦いの向こうにある。聖杯の正体を知るのは、この敵を下したその後。今は、目の前の敵を突破する。

「覚悟は決まったか? では来るがいい。この世全ての悪意でその身を焦がし、生まれ出ずるものの贄としよう……!」

 綺礼が腕を振るう。その意思に呼応し、泥が一斉に切嗣へと殺到する。触れた全てを焼き焦がし、跡形もなく呑み込む不可避の汚泥。
 市民会館から溢れ出た泥に切嗣が溶かされなかったのは、それが綺礼の願いによるものだからだ。

 あくまで綺礼が聖杯に願ったのは切嗣とセイバーの分断、そして切嗣との対峙。泥の海に溶かされては綺礼の望みは叶わない。

 けれど今回は別だ。綺礼にも、聖杯にも切嗣に情けをかける理由はない。綺礼の望みは聖杯の完成と内なるものの誕生であり、聖杯の望みと合致する。数十、数百にも上る悪意の触手が切嗣を飲み込まんと襲い掛かる。

「固有時制御(Time alter)────」

 既に二度、固有時制御の揺り戻しのダメージを被っている切嗣は、三度目の詠唱を開始する。如何にアヴァロンがどれほどの傷もダメージも修復するとはいっても、ダメージそのものがなかった事になるわけではない。

 黒鍵に貫かれた傷み、時間流の調整による揺り戻しのダメージ。何より、胸を貫いた綺礼の拳のダメージは色濃く残り、精神にはより多大なる負荷が生じている。

 常人ならば発狂するほどの痛みに耐え、噛み殺し、それでも切嗣はまっすぐに立つ。その胸に秘めた理想を違えないが為、踏みつけて来たものの全てに報いる為、残る全ての力を振り絞り、この敵を越える……!

「────十倍速(last accel)」

 死を超越する時間加速。一秒を裁断し十秒へ。十秒を切り刻み十分へ。全てのものを置き去りに、限界のその先へと加速する。

「…………なん、だと……!」

 乱舞する悪意の触手。五月雨のように降るそれを、切嗣はいとも容易く突破する。加速についていけない肉が断裂し血を撒き散らしながら、骨が軋み、砕ける音を何度となく聴きながら、白熱する視界で見通せない闇の中を、それでも過たず前へと。

 傷の全てはアヴァロンが回復する。耐えるべきは痛みだけ。気が狂いそうになる死の連続を乗り越え、蘇生し続けて疾駆する。

 流石の綺礼も余りに異常すぎるその突貫に瞠目する。死徒とてこれほど並外れた回復能力を有してはいない。今この一瞬、衛宮切嗣はこの世に生きるあらゆる生物を凌駕する怪物として存在する。

「そうまでして何を求める……衛宮!」

 乱れ舞う触手は切嗣に毛ほどの傷もつけられない。そもそも、傷をつけるまでもなく切嗣は勝手に自傷し自滅している。
 死んでいるのか生きているのか分からないその狭間で、たった一つ胸に抱いたものを叶える為、前へ前へと進み続ける。

 触手のままでは捉えられないと悟ったのか、泥は形を変え壁となる。どんな速度を得ようとも、越えられない壁に阻まれては速度を落とし迂回するしかない。その隙を狙い撃とうという目論見は、

「…………」

 真正面から悪意の壁を突き破る、規格外の獣によって破られる。

 最早絶句という他にない。衛宮切嗣は止まらない。全てを溶かす筈の泥を被ってなお、その足は止まらない。焼け焦げた肌はすぐさま蘇生し、こびりつく泥を払うことなく距離を詰める。

 既に敵は眼前。
 しっかりと握り締める銃把と腕はまだ動く。
 疾走を阻むものは既になく。
 間合いを離す隙も与えぬまま、

「ぼく、は───……」

 至近距離。
 逃げる事の叶わぬ零距離から、魔弾が放たれ、言峰綺礼の胸を貫いた。

 仰臥する綺礼。同時に泥も形を失くし、地に落ちて水のように広がった。聖杯に意思があるとはいっても、それはまだ担い手がなくば何も為せない無垢の形。言峰綺礼という拠り所がなくなった汚泥が、制御を失うのも当然だろう。

「がっ、……は、ぁ──」

 口元から血を吐き出しながら、持ち前の身体能力でほんの僅かに命を永らえた綺礼が視線を滑らせる。真横には伏臥した切嗣の姿。綺礼を撃滅した直後、糸が切れたように彼もまた倒れ伏していた。

 限界を超えすぎた代償。力の限りを尽くした衛宮切嗣は、もう、立ち上がる事さえ出来ないだろう。

「……それでも、おまえは、立つのだろうな……」

 アヴァロンの加護がある限り、切嗣は死なない。そんな事を知らない綺礼だが、此処で切嗣が止まるとは到底思えなかったのだ。

「フン……結末を、見届けられないのは……不本意だが……」

 遠く霞む空の彼方に輝く暗黒の太陽。
 周囲に燃え盛る炎は彼の者の産声のよう。

 もう間もなく。
 内なるものが這い出るだろう。

 最初から悪であれと望まれたもの。
 望まれず生まれ落ちるもの。
 言峰綺礼の人生に、明確な答えを齎すもの。

「……おまえの勝ちだ、衛宮切嗣。後は、好きにするがいい」

 敗者は大人しく去る。求め欲した答えを前に、求道の果てを目前に、言峰綺礼はその息を引き取った。
 その死に顔は、望みを前に倒れる事の絶望に染められてはおらず、むしろ、穏やかでさえあった。



+++


 そして決着の鐘は鳴る。

 赤き雷光と黄金の輝きの衝突の直後、死力を尽くした両者の一刀は、

「ああ……」

 互いにその腹を裂き、崩れ落ちたのはモードレッドの方だった。

 勝利を分けたのは、この戦いに至る前の傷だ。セイバーは十全の状態、無傷のまま最終決戦へと臨み、モードレッドはランサーに貫かれた胸をそのままに臨んだ。

 共に腹を裂いたエクスカリバーとクラレント。皮肉にも、かつて王の手に握られた槍で刺し貫かれた時と同じ箇所を、また、モードレッドは貫かれ、倒れ伏した。

 仰臥した後、彼女の胸に去来したのは悔しさでも、絶望でもなく、悲しみだった。

 運命は繰り返す。足に巻きついた枷は永遠に彼女を捕らえて離さない。求めたものを目前に、手で掴みかけたそれは、滑るように零れ落ちて行った。

「は、はは……」

 そして納得する。ランサーの因果の槍を乗り越えられたのも、全てはこの結末へと収束する為のものでしかなかったのだと。
 彼女自身がその実力で槍の運命を乗り越えたのではなく、この時に至るまでの全ては、此処で倒れる為に描かれた筋書きに過ぎなかったのだと。

「ぐっ……」

 セイバーは腹に刺さったままだったクラレントを引き抜き、大地に突き立て、エクスカリバーを杖に震える足を支える。その視線は倒れたモードレッドへ。空を睨みつける彼女へと向けられていた。

「王よ……運命は変えられません。あの結末を、貴方にはなかった事には出来ない……」

 それが負け惜しみだとは、セイバーは思えなかった。酷く真摯で、穏やかな声音で告げられた言葉に、吸い寄せられるように問いを返す。

「何故、そう思うのですか」

「貴方には、あの聖杯は使えない……使う事を、認める事が出来ないからですよ……」

 それは聖杯を知っている口ぶりであり、事実聖杯の眼前にまでモードレッドが迫っていたのだとすれば、知っていてもおかしくはない。そうセイバーは解釈し、そうするしかなかった。

「どうか、お考え直しを……貴方は何一つを間違えなかったではないですか……何故、それを過ちだと思うのです……」

 栄光の日々。
 崩壊の足音。

 永遠に続く理想郷はない。この世のあらゆる全ては崩壊と新生を繰り返し、一つ一つを積み上げていく事で出来ている。
 セイバーが王であったブリテンも、その流れに逆らう事が出来なかっただけの話で、別の誰かが王となったところでこの現代まで続く王国など夢物語に過ぎない。

 それでもセイバーは願ったのだ。あの余りにも救いのない結末を変えられる誰かを。たとえ全てが消えてなくなるのだとしても、慟哭の涙しか残らない結末では、あまりにも無残ではないかと。

 王としての責務。悲劇を齎した者としての義務。そんな強迫観念が彼女を衝き動かし、とうとう此処まで辿り着いてしまった。

 モードレッドが倒れた今、彼女の歩みを妨げるものは何もない。セイバーが“モードレッドと同じように”、他の何に変えてもその願いを叶えなければならないと思ってしまえば──

 ──悲劇はまた、繰り返される。

 だからモードレッドは、全てを金繰り捨てて諫めの言葉を口にする。ガウェインやランスロットの遺志を汲んだのではなく、ブリテンの民を思ってのものでもなく、彼女自身の──心からの願いによって。

 それを願ってしまったら、本当に王に理想を夢見た者達の死が無為になってしまうから。
 いいや、そんな上辺の気持ちではなく。

「父……うえ……」

 伸ばした腕は何も掴めない。
 望んだものは全てこの掌から零れ落ちていく。

 何が願いを叶える聖杯だ、そんなもの、嘘っぱちではないか。

 モードレッドはその最期まで、何も手に入れる事なく。
 ただ──王の決断を信じ、胸に抱いたたった一つの言葉も口に出来ぬまま、静かに、風に攫われて行った。

「モードレッド……貴方は……」

 消える間際、モードレッドの眦に浮かんでいたのは一粒の雫。それが敗れた悔しさによるものなのか、別の何かだったのかは、彼女には分からない。
 人の心が分からないと謗られた王は、今以って誰かの心を理解など出来ないのだから。

 ああ、それでも。

「モードレッド……貴方の言葉は理解出来た。それでも私は聖杯を手に入れなければならないのです」

 だから。

「その真贋は、私自身の目で見定めましょう。貴方の言うように、それが、私の願いを叶えられないものであったのなら──」

 遍く騎士達の王は剣を支えに前へと進む。

 クラレントの刻んだ傷はすぐさま修復してはくれない。彼女にとっての死因となる彼の一撃は、深く、その身に傷を刻んだのだから。


/45


 ──そして、全ての終わりの地へと辿り着く。

 セイバー達の戦場が外縁にも等しかったのだとしたら、此処はその中心点。泥の被害が最も大きな地点だ。

 外縁部では焼け落ちた家屋などがまだ残っていたが、この場所にはもう、何もない。見渡す限りの赤い地平。遠く霞む空の向こうに、唯一、夜に輝く暗黒の太陽を見る。

「っ……あれは……」

 その直下、中空には磔にされた一人の少女の姿。暗黒の太陽を背負い、黄金の輝きを放つその様は、無事を喜ぶよりも先に理解が生じた。

「イリヤスフィール……貴女自身が、聖杯だったのですね……」

 そう考える事で全てに納得がいく。召喚直後の会談での発言も、間桐臓硯がイリヤスフィールを拉致した理由も、衛宮切嗣がその救出に積極的でなかった理由も。

 イリヤスフィールの無事に安堵の息をつく暇もなく、その後ろに輝く暗黒の太陽を望む。

 それは世界に穿たれた穴。響くのは軋みのような音。濁流の如く吐き出される黒い汚泥は、周囲を焼き焦がす炎の源。

「あれが……聖杯……?」

 困惑は極まる。こんな姿をしたものが、セイバーの求めた聖杯だというのか。あらゆる願いを叶える万能の願望器だと。

「……そうだ、それが、聖杯だ」

「マスターッ……!」

 背後。遅れて到着した切嗣は、憔悴した顔を天へと向ける。アヴァロンによって傷という傷は癒されているが、完治には程遠い。数秒の間で幾度となく死と再生を繰り返した代償は今なお色濃く切嗣に残っている。

「僕達が求め、欲したもの……その正体。汚染された黒の杯……僕は、僕は……こんなものの為に……ッ!」

 崩れ落ちる切嗣。見渡す限りの大災害。積み上げられた犠牲の上には、何の結果も残らなかった。
 破壊によって願いを叶える異端の聖杯。そんなものは、切嗣が望んだ聖杯ではない。望んだのは、痛みのない世界。痛みの伴わない変革だ。

 この聖杯に願ったが最後、どんな形で祈りが叶えられるかなど誰にも分からない。人の争いを止めるという切嗣の願いを叶える為ならば、それこそ全人類を皆殺しにしたとしても何らおかしくはない。

「ああ……」

 此処に来て、旅路の終着点に来て、切嗣の心が折れる。弱い心を覆っていた鉄の意志は削げ落ち、剥き出しの惰弱な心が晒される。

 今まで必死に走って来られたのは、その最後に救いがあると信じていたからだ。犠牲としたものに報いられると、踏みつけて来たものに顔向けが出来るようになると、そう信じて果てのない道を歩んで来た。

 でもそれも終わり。
 道の果てに待っていたのは黒く染まった絶望だけ。
 何の救いもない現実。

 伸ばした手が掴めるものは希望と呼ぶにもおこがましい、最悪の災厄を呼ぶ地獄の釜の蓋だけだ。

 衛宮切嗣の理想は、奇跡を以ってしても叶わない。
 突きつけられたのは、そんなどうしようもない現実だった。

 衛宮切嗣は人間だ。どうしようもなく弱い一人の人間に過ぎない。どれだけ強固な理想で心を固めていても、剥き出しの心は脆弱でしかない。
 いつだって逃げ出したかった。全てを捨てて逃げてしまいたかった。あの城で過ごしていた頃、妻と娘の手を引いて逃げようと思った事など、幾度だってあったのだ。

 それでも、自らが心に誓った理想に背を向けずにいられたのは、この場所に救いがあると信じたから。世界の全ての変革の果てにこそ、望んだものを掴める世界があると、そう信じていたのに。

 目の前の土を掴み。爪が割れる事も厭わず、強く、強く、握り締める。溢れる涙はすぐに枯れ落ち、逆巻く炎に消えていく。

 ああ……此処は地獄だ。何一つ救いのない、地獄なのだ。

 最早立ち上がる力すら失った切嗣の前へと、一人の少女が歩み出る。

「マスター、確認しますが。本当に、我らの願いは叶わないのですね?」

「……いいや。願いは叶えられるだろう。ただし、その過程には破壊を伴う。おまえが何を願うのかは知らないが、望んだ結果とはかけ離れた形で、コレは願いを叶えるだろう」

「分かりました……」

 モードレッドが言っていたのはこの事だろう。セイバーの願いをどのような形で叶えるかは分からないが、この黒き聖杯に願う事で、彼女の祈りが正しく叶えられる可能性は極めて低い。

 ああ、ならば……

「切嗣。聖杯を──破壊しましょう」

 あの暗黒を。
 今なお街を焼き焦がす炎を食い止める為に。

 ただしその行いは、自らの願いの否定に他ならない。

 渇望した祈り。是が非でも叶えなければならないと願ったもの。その祈りの為に踏みつけて来たものの全てを無為に落とし、自らの理想をも切り捨てる。それがどれほどの痛みを伴うものであるのかは、当事者である彼らにしか分かりえない。

 その時、自らの所有者による自らの否定を悟ったのか、聖杯は暗黒の虚無より吐き出す泥の勢いを増した。濁々と吐き出される泥の前へ、マスターを庇うようにセイバーは立ち塞がる。

「ぐっ……」

 足元に絡み付く泥はセイバーの身を焼き焦がす。サーヴァントである限り決して抗えない呪いの奔流。それに耐えながら、それでも穏やかな声でセイバーは問いかける。

「切嗣、貴方の目には見えないのですか。そこにある命が。まだ、救える命が、この地獄の中にも残っているでしょう」

 何もかもを焼き尽くす炎。既に泥が吐き出されてから随分と時間が経っている。少なくとも泥を被った者達のその多くは、生きてはいまい。
 理不尽な炎に焼かれながら、出口を探し逃げ惑う幼子。子の命だけでも救いたいと、助ける求める母親の叫び。

 そんな幻聴が、怨嗟の声が聞こえる。この地獄を生み出したにも等しい彼らへと。既に亡き者達の怨恨が、炎の中に揺らめいている。

 そんな中で──唯一人、生き残る者を空に見る。

 七つの魂をその器に収め、聖杯は完成した。もう幾許もなくその内に潜む者が本格的に溢れ出す。これはその発端に過ぎず、本当に穴が開ききればそれこそ世界の全てをこの泥が覆い尽くし呑む込むだろう。

 その前に、まだ、出来ることがある。
 この、何も掴めなかった掌で、掴めるものがある。

 なら、立ち上がらないと。

 目の前にある巨悪へと、立ち向かわなければ……

 ──ケリィはさ、どんな大人になりたいの?──

 ……それこそ、本当に、犠牲としてきたものに顔向けが出来ない。

「…………セイバー」

 目の前に立つ少女から風が吹く。その手にした黄金の輝きが紐解かれ、汚泥の海の中にたった一つの煌きが灯る。

「────聖杯を、破壊してくれ」

 手に宿る令呪が白熱し、昇華される。黄金の刀身はその輝きをより強め、世界を照らす光を生む。

「…………ッ」

 逆巻く風と黄金の光の中、切嗣はその拳を握り締めた。

 理想の終わり。
 道の果て。

 衛宮切嗣に課せられた罰は、その理想を自らの手で破壊する事に他ならない。

 多くの犠牲に報いられなかった無様を恥じながら。
 踏みつけて来たものを無為に落とした事に涙を零しながら。

 それでも、たった一つ。

 目の前にある、小さな命を救う為に────

「セイバー……お願いだ、イリヤを助けてくれ…………ッ!!」

 振り上げられた黄金の剣は、過たず暗黒の太陽を両断した。

 黄金の光が空を染める中、切嗣は頽れそうな膝を叱咤し、イリヤスフィールの下へと駆け寄った。

 ふわりと、腕の中に収まった娘の軽い身体を抱きながら、膝をつき、声を上げて男は泣いた。

 何も掴めなかった掌の中に残ったものを抱き締めて。
 振り出した雨粒を気にもかけず。

「……ありがとう」

 誰にともなく。
 感謝の言葉を述べ、強く娘を抱き締め続けた。

 その様を見やりながら、セイバーもまた足元より消えていく。

 聖杯は破壊され、令呪は全て消費され、自らを繋ぎ止めていた楔はなくなった。この場所に留まり続ける理由もなく、セイバーは静かに、その終わりを受け入れた。

 彼女の旅路は此処では終わらない。通常の英霊とは逸する特殊な契約を結ぶ彼女は、今一度その死の間際へと舞い戻る事となる。
 現代に再現されたカムランの丘ではなく、本当のその場所へ。

 この戦いの中で得たものは何だろうか。
 願い求めた奇跡を自らの手で破壊した彼女は今、何を思うのだろうか。

 その、答えは────



+++


 ────こうして。

 十年遅れで始まった第四次聖杯戦争の幕は閉じる。
 多くの悲劇と爪痕を残し、誰に救いを与える事もなく。

 降り頻る雨が、全てを洗い流して……



[36131] scene.20 Epilogue
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/08/03 20:41
/epilogue I


「なるほど……これが今回の聖杯戦争の顛末か」

 魔術協会から依頼という形で聖杯戦争へと参戦したバゼット・フラガ・マクレミッツには当然にして報告の義務がある。
 聖杯を持ち帰る、という依頼を未遂で終えた事は居た堪れなくはあっても、提出した報告書に記された内容を読めばそれが最善であったと判断される彼女は踏んでいた。

 事実、彼女に依頼を持ち掛けた時計塔のロードの執務室で、報告書の内容に目を通した彼の顔には怒りの色は見られなかった。

 十年遅れの第四次聖杯戦争の結末は、未曾有の大災害によってその幕を閉じた。死者、建物の倒壊数は前代未聞の数字を記録し、教会スタッフの隠蔽工作もままらない内に世に公表される結果となった。

 教会スタッフを統べていた監督役が火災に“巻き込まれ”、死亡した事も後手に回らざるを得なくなった事の要因の一つだ。

 とはいえ、魔術協会、聖堂教会の両組織が懸念とする神秘の漏洩は、考えられる限り最小限に留められた。街を焼き尽くした炎はありとあらゆる痕跡をも消し去り、遠方から現場を目撃した人間には聖杯の正体を窺い知る術などなかったからだ。

 バゼットが提出した報告書も、冬木の地を預かる遠坂家との協議によって作成されたものであり、彼女自身には非はない、と明確に記されている。それが責任逃れでない事は、バゼットもまた了承している。

「あくまで今回の聖杯戦争における器が破壊されただけであり、その大元がある限り、再び聖杯戦争は起こる……ね。君はこれをどう思う?」

 水を向けられたバゼットは、淡々と答えた。

「聖杯が本来持ち得る万能の力を汚染され、破壊によってしか願いを叶えられないというのは事実のようです」

 遠坂家と協議の間に、一つの情報が何者かによってリークされた。それが聖杯の汚染。皆が血眼になって求める奇跡は、紛い物にも劣る代物でしかなかったのだと。

 そのリーク者が誰であるか、情報の真偽は確かめてはいない。けれど遠坂の当主もバゼットもまた、あの火災を己が目で見届けている。これが戦いを生き残った勝者からのリークであるのなら、疑いの余地などない、と。

「であるのなら、そんなものは破壊してしまうのが良いのではないかと」

「過激だな……とはいえ、聖杯戦争そのものをぶち壊すとなれば、潰えたマキリ、遠坂はともかく、アインツベルンは黙っていないだろう」

 彼らの千年にも及ぶ妄執は今度の戦いでも現実とはならなかった。ならば幾度でもあの狂信者どもは繰り返すだろうし、取り壊しを正式に発表すればどんな手に打って出るか分かったものではない。

「他にも、たとえ破壊によってしか願いを叶えられないとはいえ、その使い道は有用だと判断する者もいるだろう。とりわけ根源を目指す魔術師にとっては、世界がどうなろうと知ったことではないだろうよ」

「…………」

「とはいえ」

 ロードは書類をテーブルに投げ出し、視線をバゼットへと向ける。

「私も君の意見には賛成だ。こんな代物、人どころか魔術師の手にだって余る。たった一人の根源到達者を出す為に、世に存在する他の魔術師全員が犠牲となるようなやり方は容認出来ない」

 魔術師の中……とりわけ貴族連中の中でもまともな倫理観を有するこのロードのその言葉に、バゼットは安堵の溜息を零す。これならば、自分があの戦いに赴いた意味もあったのだろう、と。

「かと言ってこれほどの大事となれば私一人の独断では動けない。相応の人員も用意する必要があるだろうし、まずはケイネス先生に話してみるか……」

 ぶつぶつと今後の段取りについての思索を巡らせ始めたロードを他所に、バゼットは立ち上がる。

「それでは私はこれで。また何か依頼があれば、その時は」

 軽く一礼し、バゼットは執務室の出口へと向かう。

 報告は終わり、戦後処理については信頼に足る人物に託す事も出来た。これでバゼットの戦いは本当に全てが終わった。後は────

「──マクレミッツ」

 その背へとかかる、温和な声。振り向けば、小さく笑みを浮かべる男の姿。

「以前、君にこの依頼を持ちかけた時と、今、こうして報告を受けている時の君とでは顔つきが違うようにも思える。何か、良い出逢いでもあったのかな?」

 その問い掛けに、バゼットは笑って答える。

「ええ、最高の出逢いが」

 扉を閉め、歩き出しながら、二度とは逢えない男の背中を瞼の裏に追想する。

 その背を追い掛ける事はもうない。
 歩むべき道筋はまだ定まっていないが、歩き出せる足があるのだ、まずは一歩でも前に進もう。

「でも、その前に──」

 一度、故郷へと戻り自分自身を見つめ直そう。
 そして、あの男の生地へと赴こう。

 感謝を込めた、花束を手に────


/epilogue II


「本当に良かったの?」

「はい。もう間桐の家には跡取りはいません。雁夜おじさんのお兄さんはいらっしゃるようですけど、今更あの家を継ぐとは思えませんし」

 遠坂邸。そのリビングで二人の少女は向き合う。テーブルの上には温かな紅茶とサワークリームの添えられたスコーン。麗らかな午後のティータイム。

 あの戦いの後、その戦後処理に追われた遠坂凛がひと段落つけたのは、数日も後の事だった。それというのも言峰綺礼が戦争の最中で死亡し、現場の指揮を取れる人間がいなかったからだ。

 教会スタッフが一流の隠蔽技術を有しているとしても、頭のない手足では乱れのない統率が取れない。それも間際になってから頭の消失を知らされた手足の混乱具合は、想像に易いだろう。

 その為、見かねた凛が一時的に権限を預かり、現場スタッフの指揮を取った。父や綺礼にはその辺りについても仕込まれていたのが幸いしたが、慣れないせいもあり、疲労は極地だった。

 へとへとの体で家へと戻った凛に待ち構えていた第二の試練は、

『姉さん、家がなくなったので泊めてください』

 という、何処から突っ込むべきか分からない、間桐桜の言葉だった。

「……私の知らない間に資産どころ土地と家まで売り払うとか、正気の沙汰じゃないわよねアンタ。ええ、今更だけど」

 死に場所を探していた間桐桜を生き永らえさせたのは凛のサーヴァントであるアーチャーであり、それが罪であり罰だと言ったのは他ならぬ凛だ。
 一度口にした言葉を引っ込めるのは彼女の流儀ではなく、今現在もこうして桜は遠坂の家に逗留している。

「生きろと言ったのは姉さんです。頼れと言ったのも姉さんです。ですから、ちゃんと責任とって下さいね?」

 男が面と向かって言われれば一撃でノックアウトしそうな微笑みと言葉も、凛は白けた目で見やるばかり。

「蒸し返すようで悪いけど、お父さまが望んでいた貴女の幸せは、家門を継ぐに足る魔術師となることよ。
 貴女はそれを捨てた。間桐の秘術は継承出来ずとも、家門自体を受け継ぐ事は出来たのにそれもしなかった」

 間桐へと養子に出したのは時臣の最大の善意であり親の愛だった。それが間桐桜には理解の出来ないものであったとしても、父の教練を長く受けてきた凛にとっては当然の事として受け止められる。

 魔術師としての幸福とは、秘めたる才を開花させ、魔の道を歩み続ける事それそのものである。桜はそれを拒絶した。その道の先には彼女が望む幸せはないのだと。

「私にとっての幸福は……家族で一緒にいられればそれで叶っていました。お父さんも、お母さんももういないけど……」

 それは人としての当たり前の幸福であり、魔術師としての幸福ではない。魔の家門に生まれながら、桜には後者の幸福は前者に劣るものでしかなかったのだ。

「ま、その辺りはお父さまの失敗ね。魔術を覚えるよりも先に人の幸福を知ってしまった貴女を、無理矢理に、それも他人の家に送り出せば、拒絶するのも当然よね」

 時臣が真に桜の幸福を願うのなら、凛だけでなく桜にも同等の教育を施し、魔の道こそが至高であると植えつけるべきだったのだ。
 そう出来なかったのは、遠坂の色に染めてはただでさえ馴染みにくい他家の色に染まらなくなる事を恐れた時臣の判断であり、失態に他ならない。

「……で。最終確認をするけど。本当にいいのね?」

「はい。私は此処にいたいです。遠坂の秘術なんか入りません。魔術師としての幸福もいりません。姉さんと一緒にいられれば、私はほかに何もいりません」

 桜が望むのはもう、それだけ。生きる理由のない彼女にとって、縋る対象は姉以外にもうこの世には誰もいない。一人で生きるには過酷する世界の中、重すぎる罪を背負う彼女は支えなくして歩いてはいけないのだ。

「そう……でも、私の返答ももう分かってるわよね?」

「…………」

 冷徹な魔女である凛は打算によって物事を判断する。そこに感情の機微は挟まない。桜が凛にとって有用かどうか。要は使えるか使えないかしか判断の基準はない。

「もう後始末も落ち着いたし、残りの雑務を終えたら近い内に私はロンドンへ向かうわ。時計塔への推薦状はもう貰ってるし、本格的に魔術の勉強に打ち込みたいから」

「…………」

「だからお荷物はいらないわ。足枷なんてもっといらない。私の邪魔をするような事があれば、すぐにでも追い出すから」

「………………え?」

 その返答に違和感を覚える。家も土地も売り払い、背水の陣で望み凛の気を引こうと考えた桜の打算は見透かされ、明確な拒絶を突きつけられるものと思っていた。
 一人でこの過酷な世界を生きていく事も覚悟していた。支えがなければ歩く事も出来ない脆弱な身でも、死ねないのだから生きるしかないのだと。

 だからこそ、その言葉は不可思議だった。

「──桜、貴女の力は有用よ。間桐の色に染まりきっていないし、上手く使えば遠坂の色に染め直せるでしょう。当然、刻印を受け継いでる私には届かないでしょうけど、充分に高みを狙える素質がある」

 姉の言葉がよく分からない。頭に入ってこない。

「生きる事に理由が必要なら、私の為に生きなさい。その力の全てを、私の為に役立てなさい。そうすれば、私はずっと貴女の傍にいてあげる」

「ねえ、さん……?」

 それは明確な打算から生じる言葉。桜の力を自身が高みへと登りつめる為に体良く利用する腹としか思えない言葉だった。

 それでも、その言葉は桜の心に酷く響いた。甘く、せつなく、最も欲しかった、その言葉が。

「貴女に、ついて来れるかしら?」

 差し出された掌。
 震える腕を伸ばし、その掌を握り締める。

 ────ああ、温かい。

 間桐桜が……遠坂桜が求め続けた陽だまりは此処にあった。

 苦難の果て。
 地獄の底。
 その先に。

 死にたいと願い続けながらも生き抜いた彼女の手に、やっと、求めた光が降り注いだ。

 ────もう、二度と。この手を離さない。

 そう固く心に誓い、少女は──櫻のような笑みを浮かべたのだった。


/epilogue III


 未だキャスターが健在であった頃。

 アインツベルンの森の陣地構築に勤しみ、切嗣とセイバーが表立って戦場に立っているその裏で、魔女はこの戦いそのものの解析をも並行して進めていた。

 召喚直後に行われた会談でのマスターであるイリヤスフィールの発言。唯一人の勝者以外の願いをも、聖杯の力ならば叶えられると言ったその言葉を、彼女は鵜呑みには出来なかったのだ。

 生前、様々なものに振り回され続けた彼女だからこそ、確信が欲しかった。マスターの言葉を心の底から信じられる確信が。

 まず最初に彼女が目を付けたのは己がマスターそのものだった。

 その矮躯とは不釣合いなど膨大な魔力量。規格外の全身に帯びる令呪。そして彼女の発言そのもの。眠る必要のないキャスターは、侍従の目を盗み、イリヤスフィールが眠っている時間を利用し解析を連日行い続けた。

 結果として彼女は辺りを引いた。イリヤスフィールがこの戦いにおける小聖杯それそのものだと確信した後、聖杯戦争を引き起こしている基盤である大聖杯の在り処を特定し、そして──聖杯に潜むものの正体にまで行き着いた。

 この真実は衛宮切嗣は勿論、イリヤスフィールにさえ知らされていなかった。情報にロックが掛けられていたのだ。
 そんな事が出来るのはアインツベルンしか存在せず、そして恐らくは、聖杯の成就を前に謀反を起こされては困るから、という判断からの措置だろう。

 けれど、キャスターはこの早期に辿り着いてしまった。神代に名を残す特級の魔術師である彼女の手腕と、マスターがイリヤスフィールであったという偶然が生んだ事の真相への理解。

 この事実を白日の下に晒せば、どのような結果になるだろうか。誰しもが求める奇跡が誰もの望んだ形で叶わないとなれば、戦いそのものが破綻する。キャスターの望む、イリヤスフィールの無事を確保することが出来る。

 聖杯にかける願いのない彼女にとってはその真実はさほど重要ではなかった。この真実を知り、最も被害を被るのは誰か。

 それを良く知るキャスターは、誰にも胸の内を語る事はなかった。



+++


「そうか……僕は、キャスターの掌で踊らされていたのか」

 夜。

 月を望む縁側に、一組の親子の姿がある。

 戦いの後、正式に買い取り改修した深山町に構える武家屋敷の一角で、切嗣とイリヤスフィールは静かに空に輝く月を見上げていた。

 切嗣の独白は、風に解けて消えていった。

 イリヤスフィールが語ったキャスターの真意。聖杯となり、その内側に魂を納める事で知った真実。

 キャスターが死の間際に口にしたように感じた、勝利宣言めいた言葉がずっと気に掛かっていた切嗣は、ようやくその回答を得る事が出来た。

 キャスターが狙ったのはイリヤスフィールの生存と、その傍らに切嗣の存在がある事。

 イリヤスフィールの生存だけを願うのなら、早い段階で聖杯の真実を露見させていれば未然に防ぐ事も叶っただろう。

 キャスターの言葉を信じる信じないを別にしても、イリヤスフィールに施されたロックを外してしまえば彼女自身の口から答えは語られる。そうなればさしもの切嗣も信じるしかなくなる。

 けれどそれでは、衛宮切嗣という男は止まらない。この地の聖杯が願いを叶えない代物だと事前に知ってしまえば、別の奇跡を求めて世界を彷徨い歩き続けただろう。愛娘を、冬の城に残して。

 だからキャスターは真実を語らなかった。彼女は切嗣が勝ち残る事を確信し、切嗣の狙いを看破した上でそれを利用し、自分自身をすら犠牲としてまで、衛宮切嗣に絶望を突きつけた。

 ──全てはイリヤスフィールの為に。

 国を離れ、大切な人達と引き裂かれ、二度と逢う事すら叶わなかった少女の願い。裏切りの魔女と蔑まれた、そんな女の心に残った少女の献身が、願いが──今この状況を作り上げたのだ。

 その為に犠牲となったものも少なくはない。街を焼いた大火は今なおその爪痕を残し、生き残った人々の心にも深い傷を負ったまま。

 キャスターがこの状況を完全に承知していたのかどうかまでは、分からない。

 切嗣とセイバーならば未然に防ぐだろうと思っていたのかもしれないし、言峰綺礼というイレギュラーと接触する事のなかった彼女では、あの男の行動を読み切れなかったとしても不思議ではない。

「うん……本当は、私はキャスターに怒らなきゃダメなんだろうけど、感謝してるの」

 この戦いの後に潰える筈だった命。願いが叶えば門の内側へと消え、叶えられずとも彼女の寿命は戦いの終わりに最初から定められている。

 今こうしてイリヤスフィールが父の傍に寄り添えているのも、キャスターの仕業に違いない。
 イリヤスフィールを救うのがキャスターの目的であったのなら、寿命とはいえ不本意な終わりで父と娘が引き裂かれては何一つ救いなど残らないのだから。

 衛宮切嗣の掌に残った小さな希望は、キャスターによって仕組まれたもの。最初から掴み取る事を想定されていたものだ。それでも、男は心の中で感謝を述べた。あの地獄の中、救い出せたものがあったのだから。

 愛娘を犠牲とし、願いを叶える事はなくなったのだから。

「ねえ……キリツグは、どうするの?」

「……生きるよ……イリヤと、一緒に」

 死んで償えるものなんか何もない。
 踏みつけたものに報いられる筈がない。

 ならば、醜くても、無様でも、滑稽でも、生き続けていかなければならない。

 理想の歯車は砕け散り、それでも残されたものがある。
 自分の為に生きる資格などない身であっても、ならば彼女の為に生き続けよう。

 それを願ってくれた誰かがいるから。
 こんな愚かな男の掌でも、掴めるものがきっとあるから。

 傍らの娘の頭をそっと抱き締める。
 温かな感触。
 求め続けたもの。

「へへ……あったかいね」

「ああ……あったかいよ」

 ──青白い月の輝く夜の下。

 理想に破れた男は、胸の中に人の温かさを感じて生きている。
 これからもきっと、その愚かさに後悔を抱きながら、それでも生きていくのだ。



[36131] scene.21 Answer
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152
Date: 2013/08/03 00:59
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 ──全ての始まりを語ろう。

 そこは地獄だった。周囲には炎が走り、赤黒く燃えている。焼け落ちた家屋は無残にも崩れ、そこかしこに散らばっている。遠く聞こえるのは人々の嘆きの声。理不尽に襲い掛かった災厄に困惑し恐慌し救いを求めている。

 けれどそんな声は誰にも届かない。だって、此処は地獄だから。救いなんて、ある筈がない。

「ああ……オレ、は──」

 剣を支えに立ち上がる。身体に痛んでいない箇所はなく、血は溢れ続けている。手当ても止血も間に合わないし意味もない。もって後数分の命。その残された僅かな時間の中、赤のセイバーは何が起こったかを追想する。

 といっても、覚えている事は多くない。

 何が原因か、何処で歯車が狂ったか、聖杯大戦と名付けられた七人七騎と七人七騎の殺し合いは、凄惨な結末へと転がり落ちていった。

 発端は赤の陣営の空中庭園の陥落。巨大な要塞はその制御を失い、あろう事か街中へと墜落した。それを阻もうとし、失敗した多くのサーヴァントは崩壊に巻き込まれ、戦争は一層激化した。

 本来中立であるべき監督役が一陣営に肩入れしていた事実が公のものとなったのも盛大に拍車を掛け、赤と黒は全面戦争へと雪崩れ込み、結果、多くの犠牲を払い、此処に戦いは終結した。

 最後の相手が誰であったか、霞み行く思考ではもう思い出せない。乱戦の体となったのだからそれも当然で、赤のセイバーはがむしゃらに勝ち抜いたに過ぎないのだから、状況把握など二の次だった。

 大戦の結末、示されたのは唯一人の勝者の確定。

 乱戦、共倒れ、ありとあらゆる想定外が起こった聖杯大戦は、赤のセイバーの勝利によって幕を閉じる。彼女の眼前には黄金の輝きを帯びた聖なる杯。願い叶える権利は彼女だけに与えられた。

「……悪いな、マスター」

 足元に倒れ伏す己がマスターへと詫びの言葉を述べながら、それでも彼女は目の前の輝きから目を逸らせない。

 求め欲した奇跡。
 生前では決して叶える事の出来なかった祈りを此処に。

 多大なる犠牲の果て、万能の釜に捧げる願いは、もう既に決まっている。

「さあ、聖杯よ。勝者たるオレの願いを叶えろ。あの王が引き抜いた選定の剣に、挑戦させてくれ……!」

 白光が視界を染めていく。それが聖杯より溢れる光だったのか、自身が消滅する間際に見た輝きだったのかも分からぬまま、気がついた時、彼女は街の中にいた。

「…………は?」

 街並は彼女の見慣れた時代のものではく、どちらかと言えば聖杯大戦の行われた時代に近しいものだった。その直後に理解したのは、天啓のように脳裏に降った多くの情報。脳へと叩きつけられる問答無用の膨大な知識。

 聖杯戦争。
 魔術師の宴。
 殺し合い。
 マスター。
 サーヴァント。
 令呪。
 奇跡。

 そう、それら情報は彼女の良く知るもの。つい先程まで行われていた死闘の始まりに叩き込まれた情報──多少の差異はあれ──だった。

「なん、だ……これ? オレは確かに、聖杯に……」

 選定の剣へと挑戦させてくれ、と願った。その答えが再び聖杯戦争に参加しろなどとは頭が悪いにも程がある。そんなわけの分からない状況のまま、突っ立っていても状況が変わるわけでもなし、赤のセイバーは行動を開始した。



+++


 序盤は静観に務め、状況把握を優先するつもりだった彼女の思惑は、ある一人の騎士の存在によって霧散した。

 それは遍く騎士達の王。
 永遠に幼い少年王。
 理想と謳われ、無謬の執政を敷いた一人の王者。

 アルトリア・ペンドラゴン。
 またの名をアーサー王。

 赤のセイバー……モードレッドの実父に当たる少女との、それが初めての邂逅だった。

 その先については既に語られている。この戦いが三つ巴の様相を呈する戦いであると理解したモードレッドは、唯一単一の組でしかなかったバゼット達に接触し、戦力の均衡化を計った。

 他の三陣営への肩入れでは戦力バランスが崩れ、あの王と見える前に他の陣営に潰される可能性も出てくる。何より、このイレギュラーなモードレッドを最も受け入れ易いのは、戦力に劣る彼女達だという打算的な読みもあった。

 結果としてモードレッドの目論見は成功し、何食わぬ顔をして戦いに明け暮れた。

 自らが何故この戦いに招かれたのかを知らぬまま。
 聖杯の奇跡が齎した意味を解さぬままに。



+++


 彼女が真に理解しえたのは、己が腹をエクスカリバーに貫かれた後の事だった。

 この身が願った『選定の剣への挑戦』という祈り。
 その上辺の願いを聖杯は見透かし、彼女の本当の願いを叶える為に聖杯はモードレッドをこの戦いへと呼び寄せた。

 無謬の王と剣を交えられるこの戦いへと。
 言葉を交わせるこの地へと。
 手を伸ばせば届く、この一瞬の為に──。

 けれど彼女の手は、何も掴むことなく地に落ちた。
 王の願いの悲痛さに涙し、自らを否定する父に嗚咽し、そんな姿に憧れていた己自身を責め立てるように。

 伸ばした手は何も掴めない。触れて欲しいと、褒めて欲しいと、そう願った少女の願いは叶えられない。
 だってこの聖杯は、破滅でしか願いを叶えられない代物だから。聖杯はただ、絶望を突きつける為にこの地にモードレッドを招いたのだと。

 そう、失意の内に絶望を抱きながら、モードレッドは、この世を去った。


/Answer


 ────そうして、一人の王は舞い戻る。

 墓標のように突き立つ剣。
 大地を染める血の赤。
 倒れ伏す無数の骸。
 落日の空が染める──この、カムランの丘の上へと。

 生きていながらサーヴァントなった彼女は、聖杯を手に入れるという結果に辿り着かない限り、何度でも聖杯を巡る戦いへと招かれ、失敗に終われば何度でもこの地へと舞い戻ってくる。

 今回はその一番初めが失敗に終わったというだけの話。
 あの聖杯はアルトリアの望むものではなかった。
 彼女の願いを叶えるに足る代物ではなかった。

 だから、次の聖杯を求めよう。今度こそ彼女の願いを叶えられる奇跡を探し、再び、この手を血で濡らそう。

 ……本当に、それでいいのか?

 紛い物とはいえ、アルトリアは自らの意思で聖杯を破壊した。望めば叶うかもしれないものを前に、破壊を撒き散らす悪だと断じて剣を振り抜いた。

 だから何度と言う。望んだものを望んだ形で叶えない代物が万能の奇跡などとはおこがましいにも程がある。世界を巡れば、次代を巡れば、きっと真にアルトリアの願いを叶えてくれる奇跡はある筈だ。

 それを求める事の何がいけない。罪を償い、悲劇の責任を取り、より良い結末を願う事が間違っているとでも?

「…………」

 そう自問する度、胸に鋭い痛みが走る。

 何が正しいのかが分からなくなる。何が間違っているのかが分からなくなる。答えは何処に。そもそも、答えなどあるのだろうか。

「モー……ド、レッド……」

 剣を支えに、足を引き摺り、アルトリアは倒れ伏す同じ顔の少女へと歩み寄る。その腹を聖槍に貫かれ、伸ばした腕は何も掴むことなく散って行った少女。

 父の温もりを求め、けれど一度として触れる事すら出来ずにその儚き人生を終えた少女へと、

 ──アルトリアはそっと、その頬に触れた。

「貴女は……私が間違っていると思うのですか……私は……、この結末を……受け入れるべきだと」

 まだ温かさの残る少女の頬。甲冑越しではなく砕けた手甲から覗く指先には温もりが伝わる。

 アルトリアの全てを奪い去ったその元凶。国を崩壊へと誘った逆賊。されど彼女は、アルトリアの願いに涙を以って否と唱えた。

 嘲笑ってくれたのなら、この心をより強固に出来たのに。
 踏み躙ってくれたのなら、より強く剣を突き立てられたのに。

「貴女はなにを……求めていたのですか……本当の、願いは……何だったのですか……」

 それを知る術はもう、彼女にはない。
 その願いが既に果たされている事も、知る由もない。

「私は────……」

 戦いの終わりに、小さくとも残った光を抱き締めた誰かを想い。

 ──私の心にも、まだ、残っているのだろうか。

 小さくとも、輝ける光が。
 遍く全てを叶えるなどという奇跡に縋る必要のない、確かな意味が。

 血塗れの王は天を睨む。
 その心と静かに向き合いながら。

 胸の底に眠る──少女の心を見つめながら。



+++


 破滅によって願いを叶えるという奇跡。
 少女は自らの死の後に、その願いを叶えられた。

 長かった一人の少女の旅路は、ようやく、その終わりを迎えたのだった。








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執筆期間:2012/12/12~2013/8/3 了


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