26
騎士達の戦場から遠く離れた森の中心付近。闇に染まった森の中を駆ける二つの影。薄く引き伸ばされた霧を七色の閃光が晴らし、全てを飲み込む闇色の刃が地を走る。
遠坂時臣と間桐雁夜の戦場となった開けた場所より幾らか離れた森の中を、遠坂凛と間桐桜はその身に宿した魔の業を詳らかにしながら疾走する。
乱立する木々の隙間を縫い、ギアを一切落とす事なく地を駆け抜け、両者の間には魔術の衝突による絢爛たる花が咲き誇る。
間桐桜にとって、今この状況は望んだものではなかった。戦端が開かれた瞬間、遠坂凛はポケットから抜き放った小粒の宝石を空にばら撒き、乱舞の如き閃光を桜目掛けて撃ち放った。
初撃から容赦も呵責もない連撃。一撃の威力よりも数にもの言わせた波状攻撃で、先手を奪い機先を制した。
結果、桜はその迎撃に追われ、少しでも消耗とダメージを減らす為に身を隠しやすい森の中に逃げ込むしかなく、時臣と雁夜の戦場から強引に引き離されてしまった。
「情けないわね間桐さん。逃げ回るしか出来ないの? あのビルの屋上で息巻いた貴女は何処に消えたのかしら」
「くっ……!」
状況は凛の優勢。疾走を止めないまま、凛は正確無比に梢の隙間を縫い桜目掛けて宝石を放ってくる。桜はその迎撃と回避に追われ続けている。
宝石魔術の特性の一つである一工程(シングルアクション)からの魔術の発動短縮。
更には刻印によるバックアップにより、凛はほとんどタイムラグなく魔術を発動し、桜の行動に先んじて鉱石の煌きで夜を染める。
対する桜の虚数魔術には、どうしても詠唱が必要になる。無論一工程での発動も可能ではあるが、威力が大きく減衰する。それでは事前に魔力を仕込まれた宝石の即時発動を相殺する威力には足りない。
その為、木々を壁とし時間を稼ぎ、隙を見て影の刃を放つ事に終始する。終始させられている。刻印のバックアップのない桜では、どう足掻いても魔術発動の速度で凛を上回る事が出来ないのだ。
「……ッ、Es befiehlt(声は遥かに)──」
「Anfang(セット)」
ピン、と指で弾かれた宝石が、今にも腕を振るおうとした桜に先んじて放たれる。単純な速度の問題だけではない。凛は桜の行動をすら予測し、動きを計測し、常に一歩先んじて動いている。
詠唱の有無によるロスですら致命的であるというのに、そんな化け物じみた行動予測まで行われては、
「っ……はっ……ぁあ……!」
弧を描き襲い来る氷の魔弾。咄嗟に振るおうとした腕を止め、影の盾を敷くのが精一杯の抵抗。しかし相殺すら許されず、防御ごと桜は吹き飛ばされた。
「かはっ……」
野太い木の幹に背中を強かに打ち付けられ、桜は肺の中に溜まった空気を無理矢理に吐き出させられた。ずるずると腰を落とし、咳き込んだ息には血が混じっている。内臓の何処かをやられたらしい。
「呆気ないものね」
悠然と歩み寄ってくる凛を、桜は重い腰を上げながらに睨みつける。身体は動く。手足には力が込められる。ならば此処で、膝を屈する理由はない。
「どれだけ睨んでも戦力差は覆らない。魔術戦の究極は、積んだ研鑽の高さを競うもの。どれだけの過酷を耐え抜いたかを示すもの。貴女の十年と私の十年──その重みは同じじゃない」
「っ……私の苦痛を、知りもしないくせにっ……!」
「知らないし、知る必要もないわね。修練は自らに積み上げるもの。誰かにひけらかす為のものじゃないし、誰かに理解を求めるものでもない。そんな事も知らずに、貴女は魔術師になったの?」
凛に手心など一欠けらもない。ポケットから掴み出した宝石を指の間に詰め、大胆に間合いを詰める。完全に目の前の敵を葬り去る為に、確実にかつて妹と呼んだ少女を抹殺する為の間合いへと踏み込んで来る。
「なりたくて……なったわけじゃない……! それは、姉さんだって知ってるくせにッ!」
「私を姉と呼ばないで。虫唾が走るわ」
小指の先ほどの宝石が凛の手からは放たれ、瞬間、中空に渦を巻いて圧縮された風の針を形作る。大気を裂く空気の牙は未だ体勢の整わない桜の左腕を貫き、大木に磔にした。
「ぐっ……ぁあ……!!」
解けた風の後に残った空洞から、濁々と血が流れ落ちる。指先へと滴り、やがて大地に赤い斑点を描いていく。
「お父さまが言っていたでしょう。強い才覚の持ち主は、魔道の庇護なくしては生きられない。どうあれ貴女は魔道に足を踏み込むしかなかった。それか、自らの可能性の芽を潰し逃げ出すか」
間桐桜はその選択肢から目を背けた。受け入れる事も、逃げ出す事も選ばなかった。ただ状況に流されて今に至る。覚悟を以って魔道に生きると決意した凛との間には、埋めがたい明確な溝がある。
「貴女は一体何がしたいの間桐さん。貴女には覚悟がない。意思がない。そして何より力がない。そんな中途半端な様で私に勝てると息巻いていたのだとしたら、お笑い種ね」
凛が足を止める。確実に桜に止めを刺せる間合いに踏み入り、冷徹な魔女は変わらぬ色を湛える瞳を、その無機質な瞳を妹だった少女に向ける。
「…………」
凛の腕が上がる。言葉はない。敵にかける情けなど、この少女にはないのだ。末期の祈りも遺言も、聞き届ける義務もなければ義理もなく。ただ、己の前に立ちはだかる障害を、それこそ行く手を遮る壁程度にしか見ていない。
そう、だから。
冷徹にして非情にして鋼鉄なこの魔女の、唯一の隙がそこにある……!
「Schatten(影よ)────!」
「…………!」
これまで二小節以上の詠唱で影の刃を使役してきた桜が見せる、一工程での魔術式。威力を大きく落とし込むその術式では、凛の宝石魔術は破れない。そんな事は桜とて既に承知済み。
自分の力量が姉に劣っている事などとうに分かっている。研鑽の量を比べ合えば劣るなど当然だ。
魔術を忌避してきた己が、魔術を受け入れた者に真正面から勝てる道理はない。ならば頼れるのは己の頭脳。機転と不意打ち、それが絶対の自負と正道の力を有する凛に対抗する唯一の手段。
ただ闇雲に逃げ回ってきたわけじゃない。劣る自分がこの相手に勝る為に、必要な準備は既に済んでいる……!
起動の呪文と共に、闇に沸き立つ影の檻。
それは桜が凛と戦う事を、あるいは時臣との戦いを予測し、事前に仕込みを済ませておいた術式。アインツベルンとの共闘によって地の利を確保出来た事で打てた布石の一つ。戦場となりえる可能性のある場所に、あらかじめ魔法陣を描いておいたのだ。
この場所は桜が追い詰められて辿り着いた場所ではなく、わざと誘い込んだ決闘の地。幾つか用意した戦場の一つ。
地に描かれている魔法陣も、夜の闇と立ち込める霧が覆い隠し、森に充溢する魔力が陣から零れる魔力を覆い隠す。
此処に仕込みは結実する。凛が踏み込んだ地点が彼女にとっての必殺の間合いであるのなら、同時に桜にとっても必勝の間合い。
虚数の魔術は在るがないものとされる負の魔術。それを桜は影として行使する。触れる全て、呑み込む全てを現実の裏にある虚数空間へと誘い塵一つ残さず消し去る、五大属性(アベレージ・ワン)と同等の価値を持つ希少属性(ノーブル)。
遠坂時臣をして最後まで頭を悩ませた、凛と正反対でありながら同等の素質を持つ桜だけの魔術特性。
影の檻が地より沸き立ち、凛を四方から包囲し包み込む。生まれたのは黒い球体。人間一人を覆うほどの巨大な球体だ。それもやがて規模を縮小し、最後には点をすら残さず消滅する。中に呑み込んだもの諸共、跡形もなく。
「はっ……」
桜は短く息を吐く。黒い影に囚われた遠坂凛は、後数秒もすればその存在ごと消し去られる。相手に油断がない以上、こちらも手心を加えられる理由などなかった。
今桜が構築出来る最高の魔術式。
その完遂を以って、姉と呼んだ人は、この世から完全にいなくなる。
いつも完璧で、優雅で、人々の羨望を集め己とはかけ離れた立ち振る舞いをする麗人。敵と定めた者に対し、たとえそれがかつて妹と呼んだ相手であろうと明確な敵意を向けられる非情なる魔女。
だけど、今黒い球体に囚われた人は、間違いなく桜の姉だった。
あの日の事を、昨日の事のように覚えている。
あの日──間桐の家へと迎えられる事になった時の事を。
今も桜の黒髪を結ぶ、姉より送られた淡い色のリボン。それが、唯一これまで桜の心を支え続けた拠り所だった。
あの頃の姉はもういない。桜が間桐の家で過酷な修練を受け、暗い影を落とす少女に成長したように。遠坂凛は、あの幼少の頃に抱いていた人としての温もりを、忘れてしまったのだ。
吐き出した言葉は届かない。想いはどれだけ口にしても、鉄の心に響きはしない。魔術師として完成してしまった遠坂凛に、人の痛みは理解が出来ない。
これも一つの結末。父には落胆され、姉にも見放された孤独な少女は、生きる糧を失くしても、生きる意味を失っても──
「────funf(五番),schneiden(斬撃)」
夜を真横に走る光の刃。黒い球体の内側から放たれた、闇を払う虹の煌き(アレキサンドライト)。
切り開かれた闇の檻の中に、魔女は依然健在。凛の所有する宝石の中でも希少な一つを用いての脱出。
桜が事前の仕込みを行ってまで編み上げた影の檻は、いとも容易く破られた。
「……ッ、Mein Blut widersteht Invasionen(私の影は剣を振るう)──!」
しかし桜はいち早く動いている。
己の未熟さを過たず理解し、姉の力量を正しく推し量ったのなら、たとえ影の檻で捕らえたとしても、抜け出される可能性は考慮すべきだ。
事実、凛は抜け出した。光の斬撃で闇を斬り裂き、今一度夜の下に這い出てくる。
桜が狙ったのはその瞬間。
檻を破り、桜を今一度認識し、確実に首を刎ねる一撃を凛が繰り出す一瞬前。裂けた影の檻が崩壊するよりも早く。光の斬撃が振るわれた直後。
檻の裂け目より覗く凛の胸元に向けて、最速で編み上げた影の剣を、その無防備な胸に突き立てる為に。
呪を紡ぎ、一歩を踏み出し、闇色の刃を、かつて姉と呼んだ誰かに向けて繰り出した。
生きる糧を失くしても、生きる意味を失っても──それでも、死ぬのが、何よりも怖いから。
今自分が蹲る、闇の堆積する奈落の底の、更なる下に落ちていくなんてイヤだから。復讐を糧に動き出した人形は、人として当たり前の恐怖から逃れる為、実の姉の胸に必死の刃を突き立てた。
「────それで、貴女の抵抗は終わりかしら?」
直後、響いたのは硬質な音。突き立てた筈の刃は、鈍い音を響かせ砕け散る。如何に最速で編み上げたといっても、並の刃物よりは何倍もの強度を誇る魔術の刃だ。まさかただの繊維服の前に折れるなんて事は有り得ない。
「戦場に臨む以上、準備は万端にしておくべきでしょう? 貴女が罠を仕掛けていたように私は私なりに最善を尽くしている」
「ぁ……」
相手が如何なる者であれ、舐めてかかるなんて愚をこの魔女は犯さない。ポケットには詰め込めるだけの宝石を詰め込み、万一に備え虎の子の幾つかも持ってきている。
桜の一撃を防いだのも、凛が事前に宝石を飲み込み体内で作用させた身体強化と硬質化によるもの。
鋼とて突き通させぬ、目には見えない強固な鎧。サーヴァントの攻撃とて一撃ならば耐え抜ける程の代物を、凛は出し惜しむ事なく使い桜の牙を折ったのだ。
「きゃっ……っぁ!?」
か細い悲鳴を上げ、桜は地に蹴り倒される。相手の横っ面を打ち抜くハイキック。ミニスカートを翻す、その一撃に相手を慮る気持ちなどある筈もなく、伏臥させた桜の頭蓋を、次の瞬間には無慈悲に靴底で踏みつける。
「ぁ、ぁ、あああぁ……!」
ギチギチと軋む骨。地に押し付けられる力は緩む事なく、魔女は手に宝石を掴み取る。相手の自由を奪い、詠唱の隙さえも与えぬ密接距離。逃げる事も、抵抗さえも許さぬまま、凛はトドメの一撃を繰り出そうとしたその時──
「やめろ」
突如響いたのは、第三者の声。凛の凶行を押し留める、静かな声だった。
「アーチャー」
桜への警戒を怠らぬまま、凛は僅かに傾けた目の端で現われた者の姿を確認する。闇に浮かぶ赤い外套。手傷を負っているのか、衣服が乱れている。手にしているのは白と黒の中華剣。弓兵にあるまじき武装だが、今気にするべきはそこではない。
「……幾つか気に掛かる事はあるけれど。アーチャー、何故止めるの?」
凛が最も不可思議に感じたのはそこ。己の命を奪おうとする者、敵と断じる者を斃す事を止めるなど、正気の沙汰とは思えない。
何より桜は聖杯戦争に参加しているマスターだ。殺し殺される事を了承し、サーヴァントを従えたマスターだ。いずれ殺さなければならない相手に、今此処で慈悲を与える意味などない。
「やめろ凛。それは、君のやり方ではない筈だ」
必要以上に相手を痛めつけるやり方。敵を慮らないその無慈悲さを指して、アーチャーはらしくない、と諫めの言葉を口にした。
既に勝負は決している。今も呻き声を上げ続けている桜からは、抵抗の意思が失われている。不用意に動けば凛の足に込められる力が増すと、何の感慨もなく頭蓋を踏み砕くと、無意識の内に桜は理解しているのだ。
優しかった姉はもういない。今自分を地に這い蹲らせているのは、文字通り血も涙もない魔女なのだ。
そんな魔性に、命乞いなど無意味なもの。気に障ればそれこそ次の瞬間には脳漿を撒き散らし、眼球が飛び出ているかもしれない。
桜に今出来るのは、醜く呻きの声を上げるだけ。終わり行く自分の命に恐怖しながら、何かの偶然を希う事しか許されていない。
アーチャーは、そんな二人を冷めた目で見つめている。涙さえ零し始めた桜と、その呻きを煩わしいとでも言うように、足に込める力を増す己がマスターを。
「私の知る遠坂凛は、敗者に鞭打つような趣味の持ち主ではない。戦いの最中であれば容赦も加減もしないが、勝敗が決すれば僅かばかりの慈悲を与えられる人だったはずだ。今君のやっている事に、慈悲があってたまるものか」
確かに愉しんではいないだろう。死に行く者の悲鳴を愉悦とするほど、遠坂凛は歪んではない。しかし何もかもがやりすぎだ。抵抗の意思のない相手ならば、令呪を奪えばそれで済む話を、跡形もなく消し去ろうなんてのは、余りにも行き過ぎている。
かつて、森の郊外で見た少女の奥底にあると願った美しい輝きが最早見えない。凍りついた心の奥にあると思った、温かな光の芯が霞んでしまっている。
目の前にいるのはアーチャーの知らない女。冷酷で無慈悲な、血の通わない魔女だ。
「前にも言ったと思うけど。らしくない、なんて言われるのは心外だし、遠坂凛は最初からこういう生き物よ。
一体どんな幻想を抱いていたのかは知らないけど、お生憎様。私はねアーチャー、こういう生き方を選んだのよ」
魔女としての生き方を。
誰に誇るでもなく、誰に言われるまでもなく。父の跡を継ぐと己の意思で決め、誰にも頼る必要のない力を身につける為に血反吐を吐く思いをして修練を積み上げた。
魔術師として生きると覚悟した時、他の全てを擲った。遠坂を去った妹の事を諦観し、当たり前の平穏を捨て、孤独の道を歩くと決めた。
生温いやり方で、果てを目指せるほど楽な道のりなんかじゃない。甘えや弱さが邪魔にしかならないのなら、心を鉄で覆い隠して、冷徹な魔女の仮面を被り前へと進む。誰よりも魔術師らしい魔術師に。人々の蔑みさえも糧とする、魔女になるのだと決めたのだ。
それが凛の唯一の誇り。積み上げた修練だけが、彼女の強さの拠り所。
必要のない慈悲を与えて足元を掬われるのは馬鹿のやる事だ。凛は今も一切の警戒を緩めていない。桜が指一本でも動かす兆しでも見せれば、即座に宝石を放てる体勢を維持している。
それでなおこうしてアーチャーと会話を続けているのは、仮にも相手がサーヴァントであるからだ。ましてや、まだ続く戦いを共に駆け抜ける必要のあるパートナー。いらぬ軋轢は凛も好むところではない。
とはいえ、余りにも執拗に食い下がってくるのなら、凛にも札を切る準備がある。手の描かれし三画の令呪。絶対命令権を行使して、屈服させるのも必要とあらば断じるだけの覚悟がある。
「…………」
凛のその意思が、視線に乗ってアーチャーにも伝わっているのだろう。赤い弓兵も不用意には動かないし、更なる言葉を重ねる真似はしなかった。
ただ、胸に去来した感情だけは、どうする事も出来ない。あの森の郊外で感じた、何もかもが変わり果てたこの世界で、唯一変わらないと信じたものさえ、失われてしまっているのだとしたら。
“オレは一体、何の為に────”
手にする夫婦剣に力が篭る。魔女の仮面は、アーチャーが思う以上に凛に深く影を落としている。その心に、茨の如く絡みついている。
あの、天に輝く星の光にも似た鮮烈さを誇った少女を、太陽のような眩さに目を細めた少年の日の憧憬を、根底から覆してしまう程に。
「……いや、これ以上の問答は止めよう。それよりも凛、一つ悪い報せだ」
「そうね。何かあるとは思ってたけど。それで、何があったのアーチャー。昼夜逆転の結界が解けていないところを見ると、キャスターを斃せたようには思えないけど?」
アーチャーにはランサーと共に森の主であるキャスターと正体不明のライダーの相手を任せていた。よもや意味もなくこの弓兵が凛の下を訪れたとは考えられない。彼自身が言ったように、良くない事が起きたのは間違いがない。
そしてその問題は火急を告げるもの。でなければ、わざわざ戦場を放棄してまでアーチャーが戻ってくる筈などないのだから。
そしてアーチャーは語った。
一つの戦場で起きた顛末を。
「キャスターにランサーが奪われた。早急な撤退を提案する」
そんな、戦いの趨勢を決するにも等しい、結末を。
/27
「…………ッ、ぎっ」
胸を貫く鈍色の鉄線。自らの胸を貫き、背中へと突き抜けて赤い血の華を咲かせたイリヤスフィールの手にした針金。
明滅する視界。脳が痺れ、身体から力が抜けていく。血と一緒に、生きる力が失われていくのが、バゼットには感覚的に理解出来てしまう。
何度も踏み越えてきた死。死と隣り合わせの戦場に常に身を置き続けてきた己に遂に訪れた終わり。余りにも呆気なく、唐突な終焉。せめてもの救いは、戦場でその終わりを得られた事だろうか。
長く引き伸ばされた思考。ずっと終わりの来ない数秒間。思考の速度と時の流れが乖離している。これが人が死の間際に見る走馬灯と呼ばれるものであるのなら、自分は此処で斃れるのだろう。
何も為せず。
何も手に掴めず。
ただ、がむしゃらに走り続けたその先に、何を見る事も叶わずに。
「────っ、………ァ!」
そんなのはイヤだ。そんな終わりを求めて、こんな場所まで走ってきたわけじゃない。伸ばし続けた手は、自分でもまだ良く分からない何かを、いつか願った何かを掴み取りたかった筈だ。
こんなところでは終われない。
こんなところで終わってたまるものか。
背中から零れ、抜け落ちていく命を押し留める術はなくとも、ほら、この足は、この手はまだ、動くから。
「ぁ……ぁぁぁああああッ……!」
踏み締める足に力を込め、寸前で止めた拳に喝を入れる。
「っ──うそっ……!?」
赤い瞳をした少女が驚きに目を見開く。よもや心臓を貫いた人間が動き出すとは夢にも思ってはいまい。
だからこれはある種の奇跡。生き足掻く人間だけが持つ、命の輝きだ。
そんな予想外の動きに、勝利を確信していた少女は対応出来る筈もなく。
「────ぁ……」
バゼットの放った渾身の拳に、イリヤスフィールは声を上げる間もなく頬を穿たれ、二階吹き抜けの端に聳える壁へと叩きつけられ、その意識を刈り取られた。
イリヤスフィールは聖杯であるが故に殺せない。それが事実であろうと嘘であろうと、聖杯を持ち帰る事が任務であるバゼットには、その真偽を確かめるまでこの白雪の少女を殺せない。
事実を知り加減した事と身体から力が抜けていた事もあり、イリヤスフィールは昏倒しただけだ。全力で打てば人の頭蓋など軽く吹き飛ばせるバゼットの拳を受けて、首から上が繋がっているのがその証拠だ。
「っ────、はぁ、は、っぁ──!」
そこで力を使い果たしたのか、バゼットもまた膝を付く。生きているのがおかしい程の傷をその身に受けたのだ、呼吸を刻めるだけでも儲けもの。
だが戦いはまだ、終わりを告げていない。
階下から猛然と迫り来る白の侍従。鉄塊じみた凶器をその手に、リズと呼ばれた侍従が主を傷つけた敵手の首を刈り取らんと襲い来る。
しかしバゼットにはもう迎撃するだけの余力が残されていない。今此処で無理に動けば本当に死ぬ。命の砂時計に残された砂は、一握にも満たないもの。
無駄を打てば死ぬ。下手を打てば死ぬ。何か一つを間違えれば、本当にバゼットの命は音もなく消えてしまう。
ゆえに取るべき最善の選択は治癒のルーンを傷口に刻む事。死んでいないのなら、この心臓がまだ鼓動を刻んでいるのなら、きっとまだ癒せる。
ただ、その回復を眼下の侍従は待ってくれないだろう。バゼットがルーンを刻み終えた瞬間、その首を刎ね飛ばされる未来は容易に想像が出来た。
「…………ッ」
それでもバゼットは己に治癒のルーンを刻む道を選んだ。それ以外に先が見えないのであれば、一瞬でも生き残る可能性を掴み取る為に。震える指先で血を滾々と吐き出す傷口に触れ、治癒のルーンを確かに刻む。
リーゼリットの振るう刃が何かの間違いで外れてくれれば、即座に令呪でランサーを呼び寄せ迎撃が出来る。立場を覆す事が出来る。その逆が不可能である以上、バゼットは一縷の可能性に全てを賭けた。
「────良い足掻きだ。それでこそ人間よ」
処刑人の手にする刃が罪人の首を刈るその直前、白亜のエントランスホールに響く何者かの声。バゼットのものでも、リーゼリットのものでもない、皺枯れた男の声。
「動くでないぞアインツベルンの侍従よ。動けばお主の主人の首を手折るとしよう」
「っ…………!?」
その男は、いつの間にかそこにいた。バゼットが吹き飛ばしたイリヤスフィールの傍。倒れ込んだ少女の首下に、筋張った手を掛けた状態で。
リーゼリットの動きが止まる。膝を屈したバゼットへと迫りに、今まさに断頭の刃を振り下ろさんとしていた女の手が、止まった。
「…………マトウ、ゾウケン」
振り上げていたハルバードを地に落とし、階下へと退いたリーゼリットがその名を呟く。
その名はバゼットも聞き覚えがあった。協会でも要注意人物の一人と目される、五百年を生きる老獪。間桐家の現当主。
そしてバゼットの与り知らない事ではあるが、このアインツベルンと間桐の間の協定を持ちかけた人物でもある。
「……何故、邪魔をするの……?」
両家の間には一時的な同盟が結ばれている。そんな状態で、敵であるバゼットを助けるばかりかイリヤスフィールを手にかけるような真似をするなど理解が及ばない。
戦闘能力の向上と引き換えに知性の幾らかを犠牲にしたリーゼリットからすれば、その疑問は当然のもの。常人どころかバゼットさえも困惑する状況に純粋なまでの疑問を投げ入れる。
「何故……か。ふむ……端的に答えるのなら、そう……これが儂にとって最も都合が良い状況だから、かの」
「…………」
リーゼリットは勿論、バゼットにも理解不能。何がどう都合が良いのか、どんな思惑をその脳裏に描いているのか、その落ち窪んだ瞳からは何一つ読み取れない。
この男が姿を見せた理由も、同盟相手を裏切るような真似をしている理由も、誰にも理解など出来る筈もない。
「何が……目的です、間桐臓硯」
喉奥から迫り出す血塊を拭い、荒い呼吸を吐きながら、僅かながら回復を始めた身体を押してバゼットは問い質す。
「イリヤスフィールが……本当に今回の、……っ聖杯の器であるのなら、手の内に収める意味もあるでしょう。だが……それは、私を助ける理由にはならない」
イリヤスフィールが目的であるのなら、リーゼリットがバゼットの首を刎ね飛ばした後に姿を見せれば済んだ筈だ。あのタイミング、神懸り的な間隙を狙ったのは、バゼットを生かす意思がなければ有り得ない。
「そんなにも死にたかったか、赤枝の女騎士よ。お主が生き延びたのは偶然でも奇跡でもない。イリヤスフィールが急所を外しておらなんだら、お主は儂が介入する間もなく死んでおったであろうよ」
心臓を抉った一本の針。意識的にか無意識的にか、イリヤスフィールはその芯を僅かに外した。それでもバゼットが魔術師でなければ、その身に刻んでいた防御用のルーンの守護がなければ死んでいた程の傷であったが、命の糸は千切れる事なく繋がれていた。
一瞬の間隙を衝いた致死にも至る一刺し。もし貫かれると同時に意識を手離していれば文字通りに死んでいた筈の命。繋ぎ止めたのはバゼットの生に対する執着だ。
「カカ、やり口は父親に似て悪辣だが、詰めが甘いの。いや、父親ほど冷酷にはなれなんだというところか。いずれにせよその拾った命、大事にするがよい」
「っ……、貴方は私の質問に答えていない……! 何故だッ、何故私を助ける……!?」
「二度同じ事を口にするのは好かんがの。その方が都合が良い──ただそれだけよ。そして覚えておくが良い。お主は、儂に生かされたのだとな」
「…………ッ!」
ぎょろりと、黒い汚泥のような瞳がバゼットを見る。ぞわりと背筋を走る寒気。単純な戦闘力で比較するのなら、万全でさえあればバゼットの方が勝るだろう。だがこの男からは得体の知れない怖気を感じる。
サーヴァントとマスターの集う死の森の中、唯一部外の人間が紛れ込んでなお己にとって都合の良い状況を演出する妖怪。
この男は恐らく、バゼットや他の参加者連中とは違うものを見ている。あるいはその先にあるもの、見通せない闇の奥を。
「さて、早々に退かせて貰おうか。いつ誰が襲い掛かってくるともしれんのでな」
背を折った姿でありながら、間桐臓硯はイリヤスフィールを小脇に抱えて一歩退く。リーゼリットは動けない。主の命が握られている以上、迂闊には動けない。バゼットも当然完治には程遠い。今抗ったところで幼子のようにあしらわれるだろう。
仮に体力が戻ったところで、バゼットにはイリヤスフィールを助ける理由がない。臓硯の言動から確かにイリヤスフィールと聖杯の器に関連性があるようだが、その確保は今でなくとも良い。
酷なようだが、バゼットにとってみればイリヤスフィールもまた斃すべき敵の一人。命を賭して助け出すだけの理由は、何処を探しても見当たらない。
「アインツベルンの侍従よ、そこな女騎士は殺すでないぞ。それと衛宮切嗣に伝えておくがいい。イリヤスフィールの無事は保障すると。お主らが、余計な事をしなければな」
闇に没する廊下の奥へと消えていく臓硯とイリヤスフィール。この場にいる誰にも、その撤退を妨げる事は出来なかった。
「…………」
臓硯がその姿を完全に消した後、バゼットはゆらりと立ち上がった。傷は完全には癒えていないが、ある程度の行動を可能とする程度には回復出来た。まともな戦闘など望むべくもないが、このまま此処でいつまでも膝をついているわけにもいかない。
「……貴女は、どうするのですか」
振り仰いだ先の階下には、感情の失せた瞳を虚空に泳がせる白い侍従が一人。守るべき主を守り通せなかった彼女の心は、如何なるものか。
「…………」
リーゼリットは答えない。彼女の情報処理能力では、現状を打破するだけの決定が下せない。後を追うのは簡単だ。だがそうしたところで一体何が出来るという。
臓硯の手中にイリヤスフィールが落ちた時点で、既に敗北は決定付けられていた。追い縋ったところで人質を盾にされては何を救う事も叶わない。
これは彼女の落ち度ではない。リーゼリットは主の意思に従い主の敵を討とうとした。不測があったとすれば臓硯の動きを読み切れなかった事。同盟者の裏切りを予測出来なかったアインツベルンのマスター達にこそ非があろう。
今もって姿を見せない衛宮切嗣。あの男が今何処で何をしているかなど、この場にいる二人には知る由もない。
「…………」
動きのない侍従から視線を切り、バゼットは呼吸を整える。血に染まったスーツの乱れを正し、これからの行動を思考する。
バゼットの目的は失敗に終わった、キャスターのマスターであるイリヤスフィールを討つという目的は果たす事が出来なくなった。
まともな戦闘力さえも失った己は、戦場において足手纏いにしかならないと正しく把握している。自身の現状をも鑑みるのなら、此処は撤退こそが最善だ。
いずれにせよランサーかモードレッドとの合流を急ぎたい。森の入り口付近に残してきたモードレッドよりも、ランサーの方が位置的には近いだろう。
まだ走れるだけの体力は戻っていない。それでも緩やかに歩み出そうとしたその時──
「痛ッ……!?」
突如、右腕に走った鋭い痛み。脳髄へと突き抜ける正体不明の痛みに一瞬怯んだバゼットが、その正体を探ろうと革手袋を外したその手の甲には、
「────なっ」
そこに描かれているべき赤い紋様が、彼女と彼を繋ぐ唯一の令呪が、バゼットの身体から完全に消失していた。
「……ランサーッ!?」
バゼットは震える足を叱咤し階下へと走る。軋む心臓に鞭を打ち、頽れそうな膝を強引に前へと進ませる。
令呪が失われた意味。
消えてしまった理由。
幾らでも推測が出来、想像が出来る可能性の全てをシャットアウトしバゼットは森へと向かう。
何かの間違いであって欲しいと。
そんな筈があるわけがないと。
そんな──絶望的な希望だけを、血に濡れた胸に抱いて。
+++
地を覆い尽くす化外。肉のない骸と足の生えた樹木。戦場となった広場を埋め尽くす雑兵の群れ。世に名を連ねる英霊にとってみれば物の数でもないそれだが、
「チィ──! おい、テメェなんとか出来ねえのかッ!」
朱色の槍が夜の闇と霧を横薙ぎに払う。力任せに放たれたその一撃で、十の骸と一の巨木が夜に散った。
一瞬後には開いた空間は即座に別の化外が埋め尽くす。森の彼方より押し寄せる木と骨の大軍。十や二十ならば問題にならない。百や二百でもどうとでもなる。だがそれが千や万に上れば、さしもの英雄達とて苦戦を強いられる。
「泣き言を言う暇があるのなら一体でも多く敵を倒せ。そら、次が来るぞ……!」
弓兵でありながら両の手で双剣を担い、迫り来る大軍を押し留めるアーチャー。既に戦いが始まってどれくらいの時間が経過したか、どれだけの敵を切り倒したか、そんなものはランサーもアーチャーも覚えていない。
数えるのも馬鹿らしい数の敵を屠り、襲い来る敵の打倒のみに専心する。結果、ただの一撃たりとも致命傷を負う事なく善戦している。しているように見える。
見通せない森の奥の何処かで量産されている骸の兵士が、暗闇の中から次から次へと現われ、樹精もまた、骸ほどの数はなくともその巨大さで視界を遮りうねる蔦が鞭のように襲い来る。
倒せど倒せど尽きる事のない悪性。まるで切った端から増殖するアメーバのよう。
何よりも過酷なのは、終わりの見えないこの戦いそのもの。体力が尽きるよりも先に精神が参る。
どれだけの敵を倒せば終わりが来るのか。
そもそもこの敵は本当に尽きるのか?
そんな疑問と戦いながら、ただひたすらに二人は剣と槍を振るい続ける。
「ふふ……」
その遥か頭上、星の天幕に腰掛けた魔女は一人、妖艶に微笑み、終わりのない戦いを強いられている剣闘士を眺めている。
そもそも魔女にはこの戦いを終わらせるつもりなど更々なかった。安価な竜牙兵と、結界の力とその内に満ちる魔力で動員可能な樹精を用いた消耗戦。
アーチャーやランサーが何を仕掛けようと思っても、頭上を制圧している以上は即座に反応が出来る。たとえ宝具に訴えようとしても、それをさせまいと魔力弾の雨をいつでも撃てるよう砲身に弾は装填している。
事実、現状を打破しようとして眼下の二人が動いたのは一度や二度ではない。その度にキャスターは致死にも至る魔力弾を浴びせ、そしてこの戦場には、もう一人の英霊が存在している。
キャスターの行動に呼応するだけでなく、不規則に襲い掛かってくる間桐桜の従えているライダー。紫紺の髪を夜に靡かせ、まるで蛇のように骨と木の大海をすり抜け、手にする釘と鎖で結ばれた奇怪な短剣を、広場の中心で踊る二人に繰り出す。
その一撃は凡庸で、対処の難しいものではない。問題は、いつ仕掛けてくるのかまるで分からず、身動きの取れない二人と比べてて変幻自在に襲い掛かってくる事。
そしてヒットアンドアウェイでの一撃離脱を戦法としており、深追いの出来ないこの状況では一方的にされるがままであり、厄介な事この上なかった。
更にはライダーの素性や能力は未だ不明。魔眼の保有者である可能性が極めて高いが、戦端が切られてから一度としてその眼帯の奥に輝く瞳は月の下に晒されていない。
能力の分からない相手に不用意には仕掛けられない。数を減らさない雑兵と魔女の目もある事から、槍兵も弓兵も頭上に居座る魔女の掌で踊る事を余儀なくされていた。
「────おい、このままじゃ埒があかねぇ」
とはいえ、いつまでもこうしているわけにはいかない。森の入り口でセイバーとバーサーカーを抑えている二人や、奥へと進んだマスター達が敵を打倒し加勢に来てくれるのを期待するのは柄じゃない。
此処は二人に任されたのだ。であれば、現状を打破しキャスターを討つのは彼らの手でなければならない。
「雑魚(した)はやるから魔女(うえ)をやれって言ったら、出来るかアーチャー」
「…………」
一帯の敵をとりあえず排除し、広場の中央で背中合わせに武器を構える赤と青。包囲網はすぐさま狭まり、数秒もすればまた骸と木を相手に消耗を強いられるばかりの無駄な戦いをしなければならない。
これはその間隙。十秒にも満たない時間に開かれた、たった二人の作戦会議。
これまで仕掛けようとして失敗に終わった原因の一つに、それぞれが個々に包囲を突破しようとした事がある。
足並みの揃わない状態での強行策は、曲がりなりにも連携しこちらの足と手を止めに来るキャスターとライダーの前に敗れ去った。
アーチャーとランサーは互いをこの一戦、敵視してはいないまでも、完全に背を預け合う事をしていない。無意識の反発。反りが合わない。それほど面識があるわけでもない二人だが、互いが互いをやり辛い相手だと認識している。
それゆえの不揃い。自らの力に対する自負もあるのだろうが、背を預ける相手に信頼を置かぬ状態ではこの包囲を突破する事は出来ないと、そう結論に至るにはそれほど時間は掛からなかった。
「……逆だ。私が雑魚を相手取る。君はキャスターを狙え」
ランサーにしてみれば、遠距離狙撃を可能とするアーチャーの方が天に居座る魔女を撃ち落としやすいと思いそう提案したつもりだったが、僅か数秒の黙考の後、アーチャーが弾き出した回答は真逆のものだった。
「へっ──そうかい。じゃあ雑魚の相手は任せるとすらぁ…………!!」
ランサーはアーチャーの能力を認めている。真っ当にやり合えば自分が勝つのは揺ぎ無いと見ているが、この弓兵を単純な戦闘力で測るのは間違いだ。
足りない力を知恵で補い、積み上げた研鑽で以って覆す。端的に言って、戦のやり方が巧い。どんな修羅場を潜り抜けてきたのかは知らないが、相当に場数をこなしているのは見て取れる。
そんな男が現状を打破する上で最善のプロセスを最短で弾き出したのだ。ならば後は己自身をただ一振りの槍に変え、目標を貫く事だけに集中すればいい。
会議の終わりと共に襲い来る骸の群れ。それを薙ぎ払い、その勢いで地に円陣を描く。陣に記されたのは神代のルーン文字。描かれた魔法陣は淡く発光し、小規模の結界として成立する。
アーチャーを信用していないわけではないが、キャスターの妨害やライダーの横槍を防ぐ為の守護結界。そう長く保つ代物ではないが、アーチャーの加勢もあれば宝具を解放する時間程度は稼げる。
そう思い、やおら槍を構えようとしたその時────
「ッ────!?」
全身を駆け抜ける一筋の電撃。
耳の内側で轟々と鳴り響く警報。
レイラインで結ばれた先から送られてくるその火急を告げるシグナルは、マスターの身に異常が起きた事を告げるサイン。
魔力線で結ばれたマスターとサーヴァントは、ある程度の距離内であれば互いの位置を知覚する事が出来る。
今、ランサーに降り注いだシグナルはその最上級。マスターの身に死の危険が迫った時のみ奔る、距離の概念を無視した第六感。虫の報せとも呼べるもの。
“バゼット、まさか──!”
最早予感を超え確信となってランサーは思い知る。森の奥へと向かったバゼットの身に危機が迫っていると。一秒でも早く主の下に馳せ参じなければ、取り返しのつかない事態になると。
「おおおおおおおおおおおおおおおおっ……!!」
「っ──ランサー……!?」
裂帛の気迫を放ち地に身体を沈める青き豹。しなやかなバネを誇る四肢を四足動物の如く撓らせ、構えられた槍は穂先は大地を削り、獣の眼光は空に居座る怨敵を睨む。
遅れて、雑兵の始末に追われていたアーチャーがランサーの異変に気付く。
「チィ……!」
既にスタートを待つスプリンターのように宝具を放つ姿勢に移行したランサーを押し留める術はアーチャーにはない。であれば、いま己に出来る最善手を模索し、一秒の後に実行に移す。
「────投影(トレース)……!」
瞬間、広場の上空に現われたのは無数の剣群。洋の東西を問わず、刃先を地に向けた剣の群れが、主の号砲に従い雨となって刹那の内に降り注ぐ。
地を埋め尽くす骨の大軍が砕け散る。小気味の良い音を立て、竜の牙で形作られた兵士がその身体を切り刻まれ塵となって消えていく。樹精はその蠢く足を縫い止められ、振るう枝をこそぎ落されて行く。
一瞬の内にして広場に犇いていた雑兵共は沈黙した。森の奥には未だ幾千もの竜牙兵が待機しているのだろうが、彼らが広場を埋め尽くすまでには数秒の猶予がある。
邪魔者は消えた。これで心置きなくランサーはキャスターを狙い穿てる──そう楽観する事はまだ、許されない。
砕け散った骨の残骸、霧に霞む塵の向こうに、立ち尽くす黒と紫紺の女を見る。鋼の森の奥──傷を負った様子のない女は、片手には釘のような短剣を、そして残る片腕は封じられた眼帯へとその指を掛けていた。
アーチャーが次の一手を仕掛ける寸前、届かぬ刹那の間に、遂にその瞳は開かれた。
水晶のような眼球。
四角い瞳孔。
虹彩は凝固している。
億にいたる網膜の細胞はその悉くが第六架空要素(エーテル)で出来ている。
その色のない瞳で見つめられた時──否、その瞳が世界を見つめた時、全ての生物はその活動を止めた。
「ぐっ……!?」
不意に身体へと圧し掛かる重圧。抵抗(レジスト)を無為にする強制力。見るもの全てを、視界に納めた全てのものを石へと変える、黄金をも凌駕する宝石と呼ばれし魔眼。
神代の怪異──メドゥーサがその身に宿したとされる悪魔の瞳が、今現代へと蘇り古の英雄達へと再び牙を剥く。
アーチャーとランサーの身を襲う重圧。低ランクの魔力値の者ならば即座に石へと変えられているところだが、ランサーは敷いたルーンの結界で、アーチャーは弓兵にしては高い魔力値のお陰で判定を逃れ、二人は石化するには至らなかった。
とはいえ、瞳に睨まれてから身を苛む重圧は消えてくれない。メドゥーサの魔眼は石化を逃れた者をさえ捕らえ、その動きを低下させる。
そして魔眼が開かれたの同時、多重展開された魔法陣が一面の夜空を埋め尽くし、装填された魔力弾がレーザーの如き照射を開始した。
降り注ぐ光の雨。突き立つ剣の森を蹂躙する一斉掃射。こと此処に至りライダーもまた打って出る。手にした釘剣を投擲し、鎖は蛇のようにうねり夜を渡る。
それを防ぎ止めるのは弓兵の双剣。その身を襲う重圧に耐えながら、ライダーの横合いからの攻撃とキャスターによる頭上よりの掃射の両方を捌き、弾き、いなし、迎撃する。
宝具解放の体勢に入ったランサーを、庇うかのように。
「“突き穿つ(ゲイ)────”」
それを知ってか知らずか、あるいは全幅の信頼を預けてか、ランサーは手にした魔槍の真名を紐解く。
ルーンの守護陣は弓兵の迎撃を抜けてくる魔力弾を防ぎ、魔眼の重圧をすら和らげる。ましてや彼は随一の英雄。怪物退治は幾度となく経験している。相手が魔に属する者であれば臆するにあたわない。
怪物殺しは英雄の誇り(サガ)であり代名詞(サーガ)。人々を守る英雄が、人々を食らう怪物の前に敗れ去る事など有り得ない。
目標はあくまで頭上の魔女。月を背に妖しげな口元を湛える森の主。
大気より魔力を食らい発動の糧とする魔槍。この森の支配者はキャスター。であるのなら当然、森に満ちる魔力もまた魔女の思いのまま。掠め取った魔力は、通常時より遅れてではあるが槍に満ち、必要充分に達している。
たとえこの一撃を外そうとも、キャスターの意識を逸らす事が出来ればバゼットの下へと辿り着ける。
守るべき主を見捨てて手に入れる戦果に意味などあろうか。キャスター討伐は大目的であれど、その為にマスターを犠牲にしては本末転倒もいいところだ。
そして何より、恐れる事など必要ない。彼の手の中で貪欲に魔力を貪り、拍動を刻む魔槍こそは、一度放てば心臓を必ず貫くと言われた名高き槍。王を打ち倒す王の槍。
キャスターを斃し、バゼットを助ける──この一撃は、そんな不可能を可能とする……
「────ようやく隙をみせたわね」
残る一節を謳い上げ、空に向けて槍を放てば全てが決する瞬間。引き絞った槍が今まさに放たれんとしたその、刹那。
天を見上げていたランサーの視界から魔女が掻き消える。何の前触れもなく、それこそ幻か何かのように。
「…………ッ!?」
気配を察し視線を後方に流したその時、そこにあったのは紫紺のローブ。目深に被ったフードの奥で、三日月に嗤う魔女の姿。
敵が必殺を期した一撃を今まさに放たんとし、意識の全てが一点に集中する間隙を狙った空間転移。転移先も逃亡を狙っての後退ではなく、首を刈る為の接近。これまで一度として敵の接近を許さず、接近を行わなかった魔女が打った秘の一手。
その手には、奇怪な形をした短刀が握られており────
「“破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)”」
既に宝具を放つ体勢に入っていたランサーは、予期し得なかった魔女の間近への転移に対応する術はなく。
石化の魔眼(キュベレイ)の重圧と魔力弾、ライダーの迎撃に手を割かなければならなかったアーチャーが介入を行う隙などある筈もなく。
魔女の手にした折れ曲がった短刀は、滑らかにランサーの背へと突き立てられた。
一度放てば心臓を穿つ槍──ランサーの手にしたその槍は、放つ事さえ許されず、夜の中で沈黙した。
+++
空から降り注ぐ魔力弾の爆撃は止み、大地を覆うのは巻き上げられた砂塵。夜の黒と霧の白に混じり、視界不良に拍車を掛ける。
そんな中、その光景だけは誰からも見えていた。射竦めるように見つめた先──青い背中に突き立てられた、魔女の短剣。
魔女の短剣には殺傷能力などない。奇怪な形、折れ曲がった刀身。稲妻の形を描いたそれは、少し力を込めれば折れてしまいそうなほど脆く見える。
折れこそしなかったが、ランサーの背に差し込まれたのは刃先だけ。心臓を刈り取るほどの威力など当然にしてある筈もなく、事実毛ほどの傷しかランサーは付けられていない。
だが、それだけでこの戦場の空気が一変した。何が変わったわけでもない。戦闘の痕跡こそ無数に点在しているが、異常と呼べる異常は、誰の目にも映ってはいない。
「テメェ……何をした?」
その中で唯一、刺されたランサーだけがいち早く異常を感じ取る。先程までの鳴り響いていた警告音、マスターの窮地を告げるシグナルが刺された直後に鳴り止んだ。
そして己の身体に流れ込む魔力の源流が変化している。遠く、微かに感じ取れていたバゼットの気配を察する事は出来ず、代わりに、充溢する魔力を槍兵の身体に注ぎ込むのは、彼の背に立つ魔女に他ならない。
「簡単な事よ……貴方の契約、それそのものを破戒させて貰っただけ」
魔女の短剣は、ランサーの肉体を斬り裂いたのではなく──彼とそのマスターを繋いでいた契約を断ち切り、新たに自分自身へとその矛先を塗り替えた。
神代に生きた裏切りの魔女。人々の望むままの魔女を、その生涯演じ続けた非業の王女の生涯を具現化した裏切りと否定の剣。
ありとあらゆる魔を破戒する、彼女にこそ相応しき契約破りの短剣だ。
「貴方はこれで私のもの。さあランサー、まずはあの目障りな男を排除なさい」
魔女の言葉は重くランサーを縛り付ける。
身を縛る言葉の重圧。新たなマスターとなったキャスターの言葉はランサーの言動を縛り付ける。
サーヴァントがサーヴァントを従えるという、本来ならば有り得ない契約。それを可能とするのはキャスターが魔術師のクラスの英霊だからであり、そしてただの言葉だけで重い戒めを施せるのは、彼女が規格外の魔術師であるからに他ならない。
ただの魔術師と比して、彼女の言葉は重みが違う。神代の言葉をも謳うその唇から放たれる一言一言は、それぞれが鎖となって従者を締め上げる。
「そいつぁ……聞けない相談だな」
ただこの男が、そんなものに屈する筈はない。確かに下手を打った。まさか契約を破られるばかりか主まで変えられるとは予想だにしなかった。
ああ、認めよう。この己は魔女の策の前に敗れ去ったのだと。守るべき主の下へと参じる事も叶わぬ愚か者だと。
「マスター面してオレを顎で使おうなんざ許せるわけがねぇだろう……!」
だからと言って、新しい主の命令にはい、そうですかと頷いてやるわけがない。契約は結ばれただろう。主に従う義務もあるだろう。
しかしそんな建前で、この男の誇りを折れるものか。頭は垂れても尻尾は振らない。それがせめてもの意地というものだ。
「そう、なら令呪を以って命じるわ──私に従いなさい」
魔女の手の甲に輝くのは赤い二画の紋様。バゼットの手に輝いていた筈の剣の形を模した令呪が、キャスターの手の中で輝きを灯している。
そして謳い上げられた文言。絶対遵守の命令は、より強力な縛鎖となってランサーを羽交い絞めにする。
「ぐっ……!」
令呪の強制力に耐えられる程の対魔力の持ち主など、サーヴァントの中でもセイバーのクラスくらいのものだ。
ましてやマスターがキャスターであるとすれば、最高位の対魔力持ちでなければ抗う事すらも許されない。
どれだけ抵抗の意思を滲ませようと、身体は脳の命令を無視して勝手に動く。魔女を穿つ筈の槍は、赤き弓兵の心臓へとその矛先を向けた。
「ふん……似合いの末路だなランサー。こうも容易く鞍替えを受け入れるとは、所詮犬は犬か」
「…………ッ」
アーチャーの軽口にランサーは応えない。ランサーの誇りを侮辱するも当然の挑発を受けてなお、青き槍兵はただ静かに刃を軋ませるだけ。
ただ、その瞳に込められた感情は、視線に乗せられた憎悪は、果たして誰に向けられたものか。唇から血を流すほどに歯を噛んで耐えているのは、ただの屈辱ではない事を、アーチャーは知っている。
「さあ、終わりよアーチャー。後は貴方を斃せば趨勢は決する」
赤い騎士にとって、状況は最悪の四面楚歌。
広場を埋め尽くし始めた雑兵。
上空へと舞い上がった魔女。
石化の重圧は緩まず、手にした釘剣の鎖をじゃらじゃらと打ち鳴らすライダー。
そして眼前には朱色の槍を担う、たった数瞬前まで肩を並べて戦った男の姿がある。
「────体は剣で出来ている(I am the bone of my sword)……」
アーチャーが詠唱を始めた瞬間、キャスターの魔力弾が空より放たれ、ライダーは釘剣を投擲し、ランサーは地を蹴った。
赤い弓兵の謳い上げた言葉こそ、彼自身を現す呪文。■■■■■■の、本質を体現するたった一つの言葉。
その身は剣。無限の剣を内包する、たった一振りの剣。その骨子が捻れ狂おうとも、その身は大地に突き立ち、天を目指して屹立する。
たとえそこが死地であろうとも────彼が、己の在り方を違える事など有り得ない。
刹那の後、顕現したのは無数の剣。先の爆撃にも匹敵する、古今東西ありとあらゆる剣と呼ばれし業物達が、威風を纏いその刀身で月明かりを照り返す。
同時に具現化するのは一枚の盾。花弁にも似た形を持つ三枚羽の盾だった。練成の速度を重視した結果、その盾は本来の性能から大きく劣化している。
ただアーチャーの目的を鑑みれば、それで必要充分だという判断だった。
生み出された盾はランサーの進路を遮り、降り注ぐ光弾をその身で弾く。無数の剣はその矛先を定めぬままに地へと降り注ぎ、雑兵を蹴散らしライダーとランサーの足を一瞬だけ、しかし確実に止めた。
剣と盾が生んだ一瞬の間。瞬きの後には盾は容易く破られ、剣はただ行く手を遮るだけの障害になるだろう。
しかしアーチャーは、この一瞬だけを手に入れられればそれで充分だった。
不意に、広場に爆炎が巻き上がる。大地に突き立てられた無数の剣──その内の一本が自壊し、その身に秘めた神秘を拡散し爆発となって解き放たれたのだ。
「なっ……」
その規模は広場の半分を覆い尽くすもの。剣に込められていた神秘の量は、並の宝具にも匹敵している。
それは壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)と称されるもの。英霊が手にする半身、宝具を自壊させ一度限りの破壊を撒き散らす不可逆の幻想。
アーチャーはそれを無作為に行った。突き立った剣の数は優に三十を超え、連鎖的にその内の幾本かを爆破させていった。
広場を覆う白煙。英霊とて直撃を被ればただでは済まない幻想の崩壊の連続行使。ただでさえ視界の悪い森の中、燃え盛る炎と立ち昇る煙は一帯を覆い尽くし、アーチャーへの追撃など、当然にして三者には不可能なものだった。
そして白煙が晴れた先。未だ地を走る炎と、爆破を免れた幾本かの剣が突き立つ広場の中に、
「鮮やかな引き際ね。スマートではないけれど、してやられたわ」
アーチャーの姿だけが、忽然と掻き消えていた。
地を眇める魔女の瞳には、鈍い輝きを放つ剣が突き立っている。宝具にも匹敵する剣群を無数に持ち、躊躇なく破壊してのけるその異常。
今もって名の知れぬ錬鉄の英霊。その正体に、キャスターは少し惹かれるものを見た。
“手に入れるのなら、あっちの方が面白そうだったかしら”
後の祭りだが、くすりと魔女は微笑んだ。
アーチャーの追跡など簡単な事。この森は魔女の庭。今までこそ己が目的を達成する為に細心の注意を払い、眼下の戦場に意識を傾けていたが、その気になれば森の中の全てを手に取るように把握出来る。
ともあれ、アーチャーが巻き起こした爆発は彼自身をも巻き込んで行われた。それがゆえに不意を打たれたが、あの男も間抜けではない。致命的な手傷を負ってなくとも、少なくはない傷をその身に受けたと考えられる。
ランサーを強奪した事でアインツベルンと間桐の側に戦力の天秤は傾いた。押し切るのなら今。足場の優位もあるこの森で決着をつけるべきだ。
「…………サクラッ!?」
不意に、眼帯で再び石化の瞳を覆ったライダーが振り仰ぐ。鮮やかな紫紺の髪が揺れ、彼女は弾かれたように森の中へと消えていく。
それは恐らく、ランサーと同じく主の窮地を察してのもの。魔女の瞳には、地に這い蹲らされた間桐桜の姿が見えている。少女の軋む頭蓋に足を掛けているのは遠坂凛。冷徹な魔女の姿。
アーチャーが逃亡を図った先は恐らく凛の下だろう。ランサーが奪われた以上、戦力差は明確で、真っ当なやり方では勝利は掴めない。
どのような選択を行うにしろ、マスターとの合流を図るのは妥当だろう。
「ランサー、貴方はアーチャーを追いなさい」
「…………」
青の槍兵は応えず、視線を上げて魔女を一睨みした後、軽やかな跳躍で森の奥へと消えていく。
「さて……と」
とりあえず第一目標を達成した魔女は、今一度森を俯瞰する。
既に森の入り口で行われていた円卓の騎士達の戦いは終結し、セイバーはこちらへと向かっている。間桐と遠坂の戦いも、終わりは近い。後は────
「…………ッ!?」
その時、魔女が捉えた映像は、彼女の想定外のものだった。それは事前に立てた作戦を覆すもの。あってはならない異常だった。
「何を考えているの、あの男は……!」
常に妖しげな笑みを湛えていた魔女の口元が歪む。振り仰いだ先、遥か後方──森の中心より更にその向こう。
魔女がその瞳で見たものは、同盟者たる間桐臓硯によって、連れ攫われていく己がマスターの姿だった。