<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

TYPE-MOONSS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[34379] 【月姫】七つ夜に朔は来る【オリ主もの?】
Name: 六◆c821bb4d ID:9128c408
Date: 2012/09/19 16:31
 ――――これより始まるは、小さな一族の物語。

 栄華もなく、ただ終焉を向かえるだけの悲劇。

 ひとつの血をめぐる、奇怪な舞台劇である。

 □□□

 それは、とある部屋の中で起こっていた。
 どう表現するべきだろう。
 男の首が根こそぎ食い千切られた。
 形状をただ簡潔に表すならば、きっとこれが正しい。
 男の首元、筋肉繊維から喉笛、そして頸椎に到るまで。
 その中心部がまるで猛獣の牙によって暴力的な破壊を成されたような形状を見せ、不気味な空洞を男の首に穿ちあけていた。
 もはや頭部と肉体の繋がりは皮膚によってのみ。
 ぽっかりと空いた穴から向こう側の光景が覗けた。

 そして数瞬の間を置いて、根幹の支えを失った首がずれた。

 鮮血が天井を濡らした。
 木目に拡散した血飛沫は野に咲く花の毒々しい花弁のようであり、それが妙に現実感を失わせていた。

 吹き出る血は畳を、男の肉体を赤く彩る。

 人間の体は血液が絶え間なく循環し、それによって生かされている。
 肉体を運用させるために血液は栄養及び酸素を運ぶ。
 その巡りは止め処なく、人間という生命を生かすためには必要不可欠なもの。
 そのために血管は体中をかけまわる。
 人間の血管は完全を成している。
 どこにも不備なく、穴もなく、欠ける事もなく、人間を生かす。
 しかし、血管を破り、出血は起こる。
 血液の無い人間はただの死体だ。人間ですらない。
 肉体は壊死し、その活動を停止させる。

 故に、男は死体に成り果てる。

 暫し、男は今自分がどのような状態に陥っているのか、理解が出来ていなかった。
 元より、そのような思考を男が保持していたのかは怪しい事この上ない。
 しかし、男の理解が追いつくよりも早く、その意識は霞み、そして途絶える。

 ――――それを感情もなく眺めている、男がいた。

 男を簡潔に述べるならば、研ぎ澄まされた抜き身の刃のような男だった。
 死に逝く人間を見る視線はあまりに鋭く、獲物を見つめる鷹のよう。
 その手には鋼の輝きを放つ、撥のような、あるいは擂り粉木のようなものが握られている。


 男は微動だにせず、死んでいく人間を見続けた。


 その目に情けはない。
 死に逝く者への憐憫、あるいは同情、あるいは嫌悪、あるいは畏怖。
 何もその瞳には映らない。
 感情も宿らぬ瞳は、男が死んでいく様を最後まで見続ける。
 痙攣する五体、根幹を失って後方にずれた頭部、座り込むように崩れる肉体。
 噴出する血飛沫は男の肉体をも染め、そしてそれも納まり、やがて動かなくなった。それを確認した男は踵を反す。そして男が立ち去った部屋には一つの死体。

 室内から抜けた男を、跪いた数人の男たちが出迎えた。

 和装の黒衣に身を包んだ、屈強そうな男たちは男の出た部屋に入りゆく。
 その内の一人が男に無言で手ぬぐいを手渡すが、男は何も言わず其れを引っ手繰るように受け取った。
 顔を拭い、血に滑り赤々と色を成していた撥を拭い懐に仕舞う。


 武家屋敷の中、男は無言で歩く。
 滑らかな重心移動、尖る気配が男の存在が尋常ではない事を告げている。
 血染めの衣服もまた其れを増長させているのもあるが、しかし、それ以上に男の目が際立っていた。


 先ほど、男は自身の兄を殺した。


 だと言うのに、男の瞳は何も変わらない。
 兄を殺した瞳から、その様はまるで変わっていない。
 まるで通常の瞳がそれであるかのように、瞳はただ冷たく、凍えている。


 男の兄は、禁忌を犯した。


 身内殺し。近親相姦を重ねる一族で、間引き以外の殺しにおいては最も重い罪だった。
 殺されたのは男の伴侶たる女。
 今しがた子を産んだばかりの女をその場で殺し、今廊下を歩く男の手によって首を破壊し尽くされ、命潰えた。


 男の兄は狂っていた。殺害に悦を見出した人間だった。
 元からそのような徴候はあった。
 幼い頃から破壊衝動に身を委ねた彼の姿を男は鮮明に覚えている。
 近年其れは悪化し身内の静止にも耳を貸す事もなくなり、そして遂には伴侶を殺した。
 女が死にゆく姿に、笑みを浮かべながら。


 兄は殺人に快楽を感じてしまうような人間だった。
 一族はとある事情からそのような人間が生まれやすい一族だったが、兄の場合はそれが顕著とさえ言えた。
 最も殺しに魅入られ、血肉を撒き散らす作業に没頭し続けた。
 それは暗殺という範疇さえも超え、ひたすらに人を殺すのならば時や場所、あるいは相手さえ選ばぬほどの徹底ぶりだった。
 依頼を選ばず、対象を選定せずに血みどろを良しとした。
 その結果自らの片割れである妻でさえもその手にかけた。


 そして、殺された。粛清と言う名の下。


 それを男は成した。当主と言う立場故に。一族の長という役割故に。


 だが、男は兄を殺してもまるで変わらなかった。
 揺らめかず、翳りなく、瞳はひたすらに鋭いまま。


 思い返す兄の姿は歪であった。
 理性をなくし、獣のような笑みを浮かべたあの顔。
 自身の弟が殺しに走ると言うのに、人間を壊すことに喜びを感じた悪鬼めいた表情。
 狂気に走る以前は情の分かる人間だった。少なくとも男以上には。
 だが、それもかつての話だった。
 男を身内と見ていない事なぞ、すぐさま知れた。
 獲物を見つめる愉悦の瞳に、最早人としての表情は浮かび上がらない。


 それが、かつて男にとって兄だった男の末路だった。


 だからこそ、感慨は抱かなかった。
 否、だからこそというのは誤りだ。

 無言で歩く男に、肉親を殺めた罪悪や戸惑いはない。
 
 元より、そのような感情が芽吹くような心を男は持ち合わせていないのだ。

 きっと、兄を殺したという事実もすぐさまただの記憶として塵となる。

 そのようなモノ、男には無縁であった。
 感情を削いで落としたような、無機質な鋭さだけが男の存在を表していた。


「御館様。ご無事で何よりでございます」


 と、廊下に突如として一人の老人が現われた。
 どのような術理を成したのか、音もなくその場に出現したのである。
 顔に刻まれた掘りの深い皺が、枯渇した大地を思わす老人だった。
 頑健とした体付きが老人の形相と実に奇妙な構造を成しており、不思議なバランスを保っていた。
 男は老人の声に立ち止まり、何も言わずその鋭い瞳で言葉を促す。

「奥方様は回収しました。現在お体をお清めしております」

 心臓を潰され、血に体を汚された女。兄の妻は即死であった。

 せめてもの慰めに、亡骸は綺麗にして手厚く葬る。
 幸であったのが、既に子供が生まれた後であった事だけであろうか。
 ただ殺されたならば、あまりに報われない。
 連れ添いの男に殺されるとは、女も思うはずがなかっただろう。
 
 あるいは、狂気に魅入られていた兄と結ばれたその時点で女はこんな未来を想像していたのだろうか。


 一族を永らえさせるために子を成し産み落とす。
 それは女にとって唯一の役割であり、また逃れられぬ宿命であった。
 故に、女は命を己が胎に宿した時に、己の命が潰える未来を諦観でもって迎え入れたのかもしれない。

 しかし、それを語る女はすでに物言わぬ死者に成り果てている。
 その心根を聞くことは、もうない。

「御子でありますが、元気な男児であります。もし、御子をここに」

 老人の呼び掛けに、一人の女が現われた。
 男と良く似た雰囲気を持つ女である。
 女はその腕に今しがた生まれたばかりの嬰児を清潔な布で柔らかに包みこみ慎重に抱えている。
 その不慣れな手つきは少々危うく、たどたどしい。
 重心の安定しない手つきで女は男に嬰児を手渡した。

 男は何故自分が受け取らなければならないのかと暫し時を置いて両者を冷酷に睨みつけた。
 しかし、老人の視線と目前に突き付けられた嬰児、そしてそれを支える女に他意がないことを視ると、仕方なく子供を受け取った。

 男は己の腕の中にいる嬰児を見る。

 ふやけた肌、産毛のような髪、閉じられた目蓋。
 弱々しく、そして儚い、新たな命。

 二人の関係は、今この時よりはっきりとしていた。
 兄を殺し、父を殺された二人。
 この幼子は誕生の瞬間には生みの親である母を父によって殺され、父は男によって殺された。
 生まれた時には、両親は亡骸だったのである。
 将来、真実を知ったこの子供はどう思うのだろうか。
 果たして父を恨むのか、それとも男を恨むのか。
 あるいは一族の定めであったと訳もなく流せるのだろうか。

 疑念は尽きない。だが、男は何も思わなかった。何も感じなかった。

 肉親を殺めた事も。
 自身の手で殺めた兄の子を自身が抱くという、男への皮肉のようなこの状況に対しても。

「御館様」

 老人の呼び掛けに声を返す事もなく、男は腕の中にいる嬰児を女に手渡そうとする。
 自分が抱いている事に意味は無いだろう、と何とはなしに考えた。

 だが。

「――――――――――――――――っ!!」


 叫び声。
 嬰児の割れ響く産声だった。
 顔面をしわくちゃにしながら、自らの存在を証明するかのように大きく、それでいて脆く儚い声だった。
 それはこの世に誕生した命の最初の訴えだった。


 それを感慨もなく一瞥し、男は女に嬰児を手渡そうとする。
 しかし、嬰児はそれを拒むかのように、よりけたたましく産声を上げた。
 まるでここがいい、離れたくないと語るかのようにつたない動きで体を捩らせ、小さな手足を震わせる。


「……」

 男は再び嬰児を見た。

 今しがた自分の親を殺した男に、この赤子は一体なにを求めているのだろうか。
 生まれたばかりの幼子にそのような感情はないかもしれない。思考もまた同じ。
 だが嬰児は泣き止まない。
 母の温もりを求めているのか、それとも父の温もりを求めているのか。
 しかし、二人とも既にこの世にはいないのだ。
 死んで、亡骸と化した。愛を注ぐ事も、共に過ごす暇さえなく。
 しかし、嬰児はそのような事知るはずもなく、ひたすらに叫ぶ。


 不可思議な視線を嬰児に投げかける男を見て、女は躊躇うかのように腕を引き、老人は笑みを浮かべた。
 その顔に相応しい好々爺のような笑みであった。

「御館様。私はどうにも他の者から呼ばれているようなので失礼します」

 白々しく、そしてわざとらしい言葉を重ね老人はほくそ笑んだ表情のまま。
 男の目前から老人は姿を消し、女もまた名残惜しそうな瞳を嬰児と男に向けた後、老人の姿を追うようにその姿を暗ませた。

 そして、残されたのは男とその腕に抱かれた嬰児のみ。
 女と老人の気配が遠ざかっていき、それに合わせ嬰児の産声も次第に小さくなっていった。

 暫し間を置き、腕の中にいる嬰児を揺する事もなく、男は再度歩み始める。

 軋む床の音。
 老人が何を考えているのか理解できなかった。
 それに比べ、男と嬰児を心配する女の感情は容易く読めた。
 揺らめく気配は不安と心配の混合。
 だが、それが一体何に対する心配なのかまでは男には視えなかった。
 例え視えたとしても、男には理解できなかっただろう。


 男は腕の中で眠る嬰児を見た。
 小さな命。弱く脆い存在。

 自分が殺した、兄の子。

 この子供が何をやりたいのかは知らない。
 理解も出来ない。ただ子供の好きなようにやらせるべきだろう、と男は考えた。
 腕の中の嬰児の体は大人の体温、それこそ先ほど浴びた血飛沫よりも温かい。
 生まれたばかりの子供とは皆そうなのだろうか、と男は場違いな思考をめぐらせた。


 何となく、ではあるが男は嬰児の小さな手に人差し指を触れさせてみた。
 嬰児が我儘によって男の腕の中にいるのだ。
 男の気まぐれもまた受け入れられるべきだった。
 理由のない行動ではある。
 しかし、それでも興味があった。


 すると、嬰児は男の指先をたどたどしくも、だが確かに握りしめた。
 嬰児が指を握る力は存外に強い。
 生まれた子供が何かを握るのは霊長類としての特徴でもある。
 しかし、それを考察しても力強い。
 鍛え上げられていなければ指をへし折らんばかりに。

 これは、良い。
 知らず、男は頷く。

 よく育ち、一族の名を冠するに相応しい男へと成長するに違いない。
 一族の者として生を受けたならば力強く生きなければならない。
 そのための兆候を子供はすでに保有しているのだ。
 脳裏で怜悧に子供の握力を計算しながら男は歩んだ。


 いつの間にか、男は屋敷を出ようとしていた。


 律儀にも玄関から出ようとする男の姿を光が照らした。


 それは朝焼けであった。
 深い深い森の遠くから夜を打ち消す太陽が姿を現していた。
 その光は暗いこの森を柔らかく照らしだす。
 温かくて、優しい。
 男は立ち止まり目を細めた。
 男の目前には時の流れに置いていかれたかのような、暗く荘厳な森が広がっていた。
 視界を覆う雄々しい木々、鬱蒼と生い茂る緑が影を指す。

 昇りゆく太陽を見て、男はこの嬰児に名が未だ無い事を思い立った。

 騒動はあれども命は紡がれ、またここに新たな一族の者が生誕した。
 ならば呼び名のひとつぐらいは記号として必要である。

 朝焼けの中、男は暫し太陽の光に身を温めながら黙考した。

 そして、男はポツリと、小さく呟いた。
 それは呟きと呼ぶにはあまりに無機質な声音であった。


「七夜、朔。それが、お前の名だ」


 全ての始まりの名を、嬰児に与える。


 微風に擦れる木々が穏やかな音色を奏で、陽光が今ひとつの生命を祝福するかのように煌いた。


 その時男の無表情が、ふと変化を遂げた。


 僅かに、本当に見逃しそうなほど少しだけ、小さく口角が上がり、瞳の形が変わる。


 それは笑みと呼べる表情であった。
 あまりに不器用な、だからこそ男に相応しい小さな笑みだった。
 好戦的か、あるいは相手を物怖じさせるような獰猛極まりない笑みである。


 あの朝焼けのように、世界を照らすように。
 嬰児、朔に笑みを向けた。
 行く果てが血染めの未来であろうとも、一心に生きるよう願いながら。


 そして男は再び歩み、その姿を森の葉群へと溶かして消える。
 光から暗がりへと逃れるように消え去ったその場に残されたのは、己が宿命を知らぬまま安らかに眠る嬰児の幼い寝息のみ。


 ――――退魔一族七夜現当主、七夜黄理。


 それが、男の名であった。


 ――――それから、七年の月日が流れた。



[34379] 第一話 黄理
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2012/09/08 21:12
 咽喉へ迫る銀の斬撃は、冬に照らす月光のように冷たく輝いていた。


 空気を薄く切り裂いて袈裟に振り被られた小太刀の刃は、あまりに速過ぎて刃の形が目視できなかった。
 線の軌道は鋼色を伸ばし断頭を狙いに来る。
 それを寸での所、頭部を傾けることでかわすが、首の薄皮一枚をもっていかれた。
 僅かな痛みを無視している間に遅れた黒髪が数本散り、相手の鋭い眼差しに翳りをもたらした。


 しかし、相手はそのような僅かな支障を障害とせず、せせら笑うかのように返しの一撃を揮う。
 握る腕に捻りも加わり、切っ先は肉を抉ろうと呻りを上げた。

 どの角度から小太刀が襲い掛かるのか判断できない。

 しかしそんな思考は無視されて、無慈悲に煌く刃が殺しに迫る――――。

 全身が警鐘を打ち鳴らす。

 ――――ぞわり、と。

 背筋を戦慄が舐めた。

 横から脳を穿つ閃光。
 それを万全の体勢で迎え撃つ事は出来ず、回避する事も出来ない。
 自身を震わす戦慄と風を突破する刃の音に、真横へと刃を回した。
 正確な位置も把握できない勘による判断だった。
 右手に握る小太刀の腹で受け流そうと、腕では事足りない衝撃を耐えるべく左手の掌を添えた。
 滑る刃に撃たれた瞬間、骨が響いた。


 ぐらつく。
 脳まで震えるその衝撃に抑え切れず足元が浮ついたが、それを好機と、重心を後方へとずらし、地面を叩く。
 結果、追撃の小太刀を回避。


 開いた彼我の距離は十五メートルもない。
 対する相手ならば一足で突き詰められる距離でしかないだろう。


 その時になって、ようやく呼吸を行う。

 刹那の交差は瞬きも許さず、呼吸を忘れさせた。酸素が足りない。
 意識が揺れている。

 肺一杯に吸い込んだ呼吸。
 荒れる息遣いに、肩で息をする。


 思考が雑だ。何を考えているのか定かではない。
 酸素が足りず、痛む肺を堪えて呼吸を果たそうと口を開く。


 だがそのような事、相手が、七夜黄理が許すはずが無かった。

 息を吸い込んだ瞬間を狙い澄まし、黄理は彼我の距離を一息もつかせずに詰めてくる。


 揺れる視界。突風のように走駆してくる。
 瞬きの内に、黄理は眼前に迫っていた。
 研ぎ澄まされた抜き身の刃の気配。
 切っ先を思わす鋭い視線を象るそれは、獲物を狙う猛禽のそれである。
 男は冷たい殺意を滲ませて、小太刀を真っ直ぐ心臓の位置へと向けてきていた。


 ――――嗚呼、あまりに疾い。


 思考は最早役に立っていない。
 感慨だけが浮かんでは消える。
 幾度と無く繰り返された切り結びは優勢とはあまりに遠い状況にあった。
 劣勢以外の言葉さえも見つからぬ、厳しい現状だった。

 高められた錬度が違う。鍛えられた密度が違う。

 七夜黄理が修める技量の底は見据える事も出来ず、こちらが拵えた稚拙な攻勢は幼子をあやす子守のようにあしらわれ、転ばされ、飛ばされた。


 それは自身が子供という事もある。
 成長過渡期にある未成熟な肉体では、完成された大人の圧力と拮抗できない。
 あまりに体重が軽いのだ。攻撃は通らず、防御は果たせず。
 自身の現状は把握している。
 既に追い縋るだけで精一杯だ。
 着流しには泥がついて、転んだ拍子に出来た擦り傷や、打ち込まれて回避できず打ち身も到る所にある。
 小太刀を握る手には力も入らなくなってきている。酸素も足りず肺が痛い。


 しかし、相手はどうだ。
 無傷で、疲労もない。まるで変化がない。


 両者の力量は歴然と横たわっている。
 それはそうだ。


 その様な事、全て承知していた。


 ――――迫る、刃。


 腕を伸ばせば届く距離に黄理はいた。


 黄理の構える刃はぶれることなく、明確な死を突きつけていた。


 死神の刺突である。死神から逃れる術などない。
 では、死神に対してどうする。
 このままあっけなく倒れるか。それとも――――。

「――――っ」
 
 肉体は容赦なく反応を示す。躍動を始める筋肉が血管を圧縮する。
 それは、敗北を喫しようとする者の最後ではない。

 瞬時、風が轟く。
 爪先が思考を超えて、関節の稼動を果たした。

 心臓へと突き刺さるはずだった小太刀の揮いを屈み込んでかわしていく。
 頭上に残酷な刃の輝きと、無機質な男の瞳が過ぎる。

 体勢は低い。
 四肢は土をなぞり、地面を這うような姿勢と化した。

 蟲の如きその姿に黄理は右手に握る小太刀を指の動きのみで逆手へと組み換えて、背面へと突き立てんと振り下ろし。

 ――――その眼球を、小太刀が捉えた。

「――――」

 肉体が限界まで高められた速度で腰元から捻られ、地を這う姿勢から回転を果たす。
 その胴は天へと向けられ、連動する腕は躊躇い無く小太刀を射出した。

 彼我の距離は言うまでも無く超近接。
 心臓の鼓動まで伝わりそうな間隙。
 こんな距離で、こんな合間で己の武器を投擲する。
 それを無謀と嘲う者はここにはいない。
 ただ結果だけが巻き起こる。


 飛来する刃を黄理は回避ではなく、小太刀によって打ち払う。
 甲高い鋼の悲鳴。
 襲撃した刃は弾かれた。

 企みが失敗したのではない。

 むしろこれこそ――――。

 左腕が地面を叩きつける。
 指先まで込められた力が強引に身体を起き上がらせ、無理矢理右足を動かして地面に突き立てた。
 嫌な音を立てて筋肉繊維が膨れ上がる。
 数本の筋肉がぷつんと音をたてて断絶した。
 その痛みを無視して、奥歯を噛み締めた。

 すると、どうだ。

 ――――黄理の顔が、最早目の前にある。


 推進力は上へと立ち上る。
 全身は押し込められたバネ仕掛けだった。
 緊張を保つスプリングは螺旋を描いて解放を喜び、右腕は振り上げられた。
 勢いのままに振りぬかれる腕は真っ直ぐに黄理へと突き刺さるために、駆動を果たす。


 黄理の小太刀は遠い。
 迫る身体に突き刺すには、遡る右腕と比べればあまりに遅い。

 頭蓋を破壊し、脳をぶちまける膂力が込められた一撃。
 拳の形は掌底。顎を打ち砕く威力を余すことなく一点へ。

 それが真っ直ぐに肉体へと突き刺さり。
 ――――不可視の衝撃が米神を撃ち抜いた。

 □□□

 不意に、目が覚めた。
 乾いた土の固い感触が背中にあり、どうやら自分は倒れているのだと気付く。
 そのまま倒れているわけにはいかぬと朧に起き上がろうとするが、なぜか身体に力が入らない。
 
 これは、一体なんだろう。

 何故自分は立ち上がることが出来ないのだ。
 肉体は立ち上がろうとしているのに、どうにもまともに動いてくれない。


「起きたか」


 不可思議な現象に暫し時を置いていると、その頭上から無遠慮な声音が降り注いだ。


 聞き間違える事のない、朔と名を呼ばれた子供には特別な響きを放つ声だった。


「御館様」


 力も無く横たわり、起き上がる気力も揮わないまま。
 朔は頭部を覗き込むような位置に佇む男、七夜黄理を朔は見上げた。

 そして、自分が負けたことを朔は悟った。

「負けました」

「そうだな」

 にべもなく返答する相手に対し、己は声が少し変だった。
 そして今しがたになり咽喉が渇いているのだと朔は気付いた。

「どうして」

「小太刀を弾いたが、そのまま捻って左手に持ち替えた」

 そして柄で打ったのだと、黄理は静謐に言った。

 確かに、あのまま右手に小太刀を構えていたら迎撃は叶わなかった。
 それゆえ振りぬかれた右腕を背面へと勢いのままに運び、そこで右手に持ち替えたのだと言う。

 それを安易に言葉にするが、それがどれほどの技量であるか。
 瞬時の判断、実際に行える技巧。
 どれもが並みの妙技ではない。

 だが、ああ、そうかと納得してしまうのはこの男の実力ゆえだった。

 七夜黄理。


 殺人機械、鬼神、殺人鬼。
 幾つもの仇名を冠された退魔一族七夜の現当主。


 目の前にいる男はひたすらに強く、その差は目に届かないほどにある。
 朔など歯牙にもかけぬ遥か高みに存し、手加減されて尚勝てない。

 本来、七夜黄理の得物は小太刀ではない。
 黄理自身の得物はもっと別のものにある。
 それでいて今回の組み手では黄理は小太刀以外を使用しないという枷まで課していた。
 つまり、五体を攻勢に用いず小太刀のみで朔の組み手を受け持ったのである。
 にも関わらず、無様にもこうして倒れ伏している。
 いや、そのような枷があっても朔では黄理には未だ届かないだろう。
 どれだけ幸運が巡り、例え目前の男が組み手最中にすっころんだと言うありえないような事態が起ころうとも。
 朔は黄理に勝てる映像が浮かんでこない。

 つまり、七夜黄理はそういう存在だった。
 挑むのも無謀な果て無き極地を闊歩する鬼神である。
 核が違う、そもそも立っている場所が違う、次元が違う。
 勝つ事も、越える事も叶わぬ七夜最強の男である。

 だが、それがわかっていても――――朔は。

「次を」

「あ?」

 七夜黄理の背中を朔は追い続けるのみである。

「次をお願いします」

「……てめえ一人に構える時間はもう無い」

 にべも無く、切って捨てられた。いっそ冷徹とさえ形容しても良い。
 しかしそれもそうか、と朔は思う。
 朔の志願を受け入れる理由が黄理にはないのだ。
 元より、朔が黄理の薫陶を受ける事それがあまり好ましい事実ではないのだ。

 早朝から行われる訓練において組み手は、冷めた熱を帯びて次第に殺し合いへと昇華し、今では正午になっていた。

 黄理との訓練に於いて気を抜けばあっさり死体と化す。
 それは訓練とは呼べぬ濃密な本番であった。
 事実これまで行われた組み手で朔は死にそうな目に幾度と無くあっている。
 瞬時の判断を誤り咽喉を潰され、骨を折られ、肉を裂かれた。
 意識を奪われる事などざらで、黄理の訓練はいつも苦痛を伴っている。

 しかし、これほどまでに充足される瞬間を朔は知らない。
 黄理の意識が朔を打倒する事、それのみにしか注がれぬ時間。
 僅かな時間ではある。けれど、朔はこの時間を好いていた。
 例え、黄理が自ら望んで朔を受け持っていなくてもだ。

 故に時がどれほど流れても全く気付かないのだ。

 時間は訓練終了の時間である正午へと辿り着いたのだろう。
 気付けば黄理はその場から立ち去ろうとしていた。
 倒れ伏し、脳を揺らされた朔を介抱する気なぞないのだろう。
 朔もそれを望んでいないのだから構わないが。

「……―――さーん!」

 すると、遠くから声が聞こえてきた。
 それと同時に地面へと接触する朔の背に規則的な振動が伝わり、近づいてくる人間の気配があった。


「父さーーーーーーーーーん!」


 幼い子犬を思わす、子供の声。

 声が聞こえる方角へ首を傾けると訓練場に一人の子供。
 それも朔とそう歳の変わらなさそうな男の子の姿があった。
 子供は元気良く腕を振り回して黄理へと駆け寄っていく。

 あの子供こそ、黄理の息子である七夜志貴だった。

 そして、朔は見た。

「志貴」

 それまで無機質めいた男の姿に、確かな温度が生まれた瞬間を。
 視線を僅かに緩ませて、黄理は志貴を迎える。
 そのぬくもりは、朔には向けられる事のない温度だった。


 七夜朔は七夜黄理の子ではない。
 身内殺しを行った黄理の兄の子供である。
 身内殺しは一族に於いて禁忌でしかなく、兄は朔が生まれた瞬間にはこの世には命を散らしたのである。
 目前にいる黄理の手によって。
 母と呼ばれる人物も出産に伴って亡くなっている事から、朔に対し黄理は温度を生み出さない。
 それもそうだろう、と朔は思う。
 禁忌を犯した者の子に対し、何を傾ければいいのか。


 それゆえ、この自身の待遇は恵まれたものであった。
 少なくとも朔は冷遇されても可笑しくは無い状況にある。
 それでも朔がこうやって生きているのは、朔を黄理が引き取ったからに他ならない。

 ただ、それをどうこう思う感慨を朔はまるで抱いていない事が問題であった。

 視線の向こうで黄理と志貴はなにやら楽しげに会話をしている。
 何を話しているのかまでは把握も出来ず興味もなかったが、それでも視線を外す事はなかった。
 出来なかった。


 そうしているうちに、黄理の子供である志貴がちらちらと視線を寄越してくるのがわかった。
 好奇心だろう。隔絶された扱いを受ける朔に興味を抱いたのかもしれない。
 しかし、そんな納得をする朔だからだろう。
 志貴の表情が心配そうな影を差し込んでいるのが理解できなかった。

 確かに、起き上がらぬ人間がじっと見てくるのは気分を害するだろうと、朔は視線を外した。
 
 そして空を見た。

 鬱蒼と茂る森の合間から差し込む太陽が眩しい。
 それを、無機質な瞳で眺め続けていた。

 □□□

 人里を遠く離れた太古の森。退魔一族七夜が根城、通称七夜の里。

 侵入者を防ぐ結界によって保たれた、七夜たちの住処である。
 森の周囲に施術された結界には、一般に生きる人間にはそこにあるのに認識できない暗示がかけられる仕組みとなっている。
 更には敷地内を多い尽す罠の総数は里の者の認識を凌駕していた。
 つまり、この森に入るのは必然的に裏の人間ということになる。

 七夜のほとんどはここで生まれ、ここで育ち、そしてここではないどこかで死ぬ。
 

 生業が生業なだけに、七夜の者は布団で死ぬ者が多くない。
 見守られながら死ねるなぞ、皆無と言ってもよい。
 混血への暗殺を主とする仕事上、どうしても生還できない者はいる。
 血なまぐさい世界の住人たる運命だろう。
 人としての形のまま死にゆく者は稀で、任務に失敗する=死という図式が当たり前のように出来上がったこの世界では、そのようなものも珍しくなかった。

 まだ古い時代の話だ。

 使い捨ての超能力者の血を長らえさすことに成功させた七夜は、近親相姦を重ねることでその血を保ち、それと同時に暗殺の術をひたすらに研鑽することで、退魔組織七夜と名乗るに到った。


 しかし、七夜はあくまで人間である。

 どれだけ人間としての限界を極め、また突破し人外の力を得てもなお、七夜は人間だった。
 それゆえ魔のモノたちとはもともと相性が悪く、専ら混血専門の暗殺を担ってきた。

 七夜の里。
 危険な仕事を生業とする一族の最後の安息地でもある。

 そんな七夜の里の奥。
 木製の小さな屋敷が点在する空間で一際大きい造りをした屋敷のなか、一人の男が唸り声を上げていた。

 場所は囲炉裏の間。
 機能していない囲炉裏のそば。
 そこには鋭いのだか鈍いのだかよく分からない雰囲気を放ちながら、苦悶の表情を浮かべる男が胡坐をかいて座っている。

 男の名は七夜黄理。
 七夜一族の現当主である。

 黄理は七夜でも最強と謳われた男であり、混血の者たちからは鬼神と呼び恐れられた存在である。
 ただひたすらに人体の活動停止の術のみを磨き上げた黄理は、かつて殺人機械として何の感慨も何の感情もなく殺戮を重ね続け、今では名を呼ぶことも憚れる存在と成り果てている。

 それは前線から退いた今でも変わらず、練り上げた暗殺術はなお健在。
 鬼神の名を欲しいままにした最強はいまだ最強だった。

 そんな男が今表情を歪ませ、腕を組んで思考を巡らし、ある問題を解決しようとしていた。

 ことの発端は五年前。
 男に息子が生まれたことにある。

 跡継ぎの問題のためだけにもうけた息子の名は七夜志貴という。

 七夜の一族は生業上早くに子供をもうけ鍛えられるのが望まれている。
 それはいつ死ぬかも判らぬ退魔業。
 次の世代を残すのはとても重要なことだからだ。


 ゆえに黄理もそれに習い、子をもうけた。


 確かに七夜の里には他にも子はいた。
 極めて幼少の頃から七夜として鍛えられたそのなかには、すでに頭角を現し、他の子とは比べ物にならない才をもった子も現われている。


 七夜の当主に求められるのは最強の人間である。
 それは現当主である黄理の血を引いていようがいまいが一切関係ない。
 七夜には世襲制など存在しないのだ。
 純粋に七夜を引っ張るに相応しい存在が求められているのである。
 ならば競争相手は多いほうが良い。
 互いに意識しあうことで更なる高みに進む者もいるだろう。そういうわけで黄理も子をもうけたのだが。


 殺人機械と化して感慨もなく人体を解体し、鬼神として呼び恐れられた殺人鬼七夜黄理。


 自分の血をひいた子供がひたすらに可愛くて仕方がない。


 いや、確かに里には子が何人もいるし、ある事情から黄理は以前から一人の子を育成している。
 だがその子には何も感じることなく、ただ作業として面倒を見ていたに過ぎない、と思う。
 

 そして黄理は鬼神と呼ばれた殺人鬼。
 殺人機械。老若男女容赦なく殺害してきた。

 呪詛を吐き出す老人を殺し、絶望に力を失った若人を殺し、自暴自棄となって向かってきた男を殺し、慈悲を乞うた女を殺した。

 無論、そこに子供の姿もあった。

 なにがなんだかわからず、ただ恐怖に泣き叫ぶ子供を何の躊躇いもなく殺した。

 殺して殺して殺して殺して殺して殺し続けて。
 肉と中身の混ざり合った血だまりのなかを、無機質に泰然と立ち尽くす殺人鬼。


 迷いなく、惑いなく、躊躇なく、容赦なく 慈悲なく、恐怖もなく殺す鬼神。
 七夜黄理という人間は積み上げられた屍の上に出来上がっている。


 だと言うのに、だと言うのにである。


 生まれた志貴はやたらに可愛く、そして愛おしかったのだった。


 それからの黄理は変わった。

 それまでの憑き物が落ちた黄理の姿は豹変と言ってもいいだろう。

「志貴がいるのに危ないこと出来るか!!!!」

 と一族ごと退魔組織を抜け出し、

「志貴を危ない目に合わせる気かこの■■■■(聞くに堪えない罵詈雑言)!!」


 と叫んで里の結界の強化を開始。
 本来ではありえないが外の魔術師を招いて結界の強化を重ねに重ね。
 今となっては魔の存在が近づくだけで森の植物が襲いだすというとんでもな自然要塞と化している。
 これ腑海林じゃね?と思った七夜がちらほら。
 当主の変貌っぷりに頭を痛めた七夜が続出。
 そんな彼らの目の前で当主は結界を合作した魔術師と共に、にやりとニヒルな笑みを浮かべた。

 その姿を見て全員が思った。

「「「(だめだ、この当主はやく何とかしないと……っ!)」」」

 とにかく黄理は何でもやった。
 その姿はまさしく子煩悩な父親である。
 息子のために何でも行う姿は正に世の父親の鏡とも言えるだろう。

 ただもう少し周りのことも考えて欲しいとは一族の言。

 そりゃ結界の影響で森の動植物たちが突然変異を起こしたとあっては笑えない。

 実際ある者は二足歩行のキノコを目撃している。
 生憎と最近は目撃情報はないが、証言によれば空中を漂いながら横回転するそうだ。

 それはともかく志貴が可愛くて仕方ない黄理だが、それと同時にあるひとつの悩みも抱えることとなった。

「翁」

「なんでございましょうか御館様」

 すっと、音もなくいつの間にか囲炉裏の対面に男が現われた。

 初老の男である。
 頑健とした身体を黒装束で包み、掘り深く顔に刻まれた皺がひび割れた大地を思い起こさせる男だった。


 翁と呼ばれたこの男。
 その役割は一族のご意見番であり、黄理が誕生する以前から七夜の当主に尽くした古参の男である。
 年老い、七夜としての力も衰えているが、長年培われた経験と、幾つもの修羅場を乗り越えてきたその度量は貴重であり、今では黄理の相談役としての顔を持っていた。
 しかし見かけはただの好々爺にしか見えない。

「……あいつは、どうしている」

「朔さまは現在里のものによって離れに移されております。私が見たところなかなかに疲労が溜まっているではないかと」

「……ああ」

 そうか、と黄理はため息を漏らした。

 黄理が抱えている問題。
 それは現在黄理が育てている七夜朔にある。
 いや育てていると言うにはは語弊が生じる。
 黄理は朔を引き取っているだけだ。世話もしていない。

 七夜朔。

 身内殺しを行った黄理の兄の息子。
 七年前に自分が預かった子。

 その存在は別に問題ではなかった。
 狂ってしまった男の息子ではあったが、当主が名目上預かる事となったため混乱は起きず、表面上は一応問題なかった。

 朔と名づけたあの時。
 夜を終わらす朝焼けのなか、黄理は笑みを浮かべた。

 殺人機械だった男が笑みを浮かべたのである。

 自分はなぜあの時笑ったのか。

 志貴が生まれるまで、結局それがなぜなのかわからなかった。
 しかし今ではなんとなく分かっている。
 それは志貴が生まれて始めて気付いた。

 志貴と名づけたのも、朔に似せようと思ったり思わなかったり。

 ただ、それに気付くのが、あまりに遅すぎた。

「御館様も気になるならば自分で行けばよろしいでしょうに」

 呆れながらも微笑み翁は言う。

 しかし、それが出来ないから黄理は困っているのである。
 預かっているとはいったが、黄理と朔は同じ住居で生活していない。
 この屋敷の離れ、小さく、隔絶されたようなその建物の中で朔はひとり生活している。
 
 あの頃、情もなかった黄理は屋敷の離れに朔を放り込み、世話の一切を妹に任せていた。
 志貴が生まれるまで黄理と朔は指で数えるほどにしか顔を合わしたこともなく、会話などありもしなかった。
 

 当時の黄理には朔と共にいる理由もなかったし、それを必要としていなかった。
 それが当然と感じ、そしてそれを受け入れていた。

 しかし志貴が産まれたことで黄理の憑き物が取れ、黄理はだいぶ人間らしくなった。
 今までの殺人機械はなりを潜め、朔への対応に疑問を感じるようになった黄理は朔と顔を合わすこととなったのだが……。

「翁。てめえは今のあいつをどう見る」

「……すさまじいですな。このままゆけば当主の座もありえないものではないかと」

「……」

「恐ろしいお方です。七夜の鬼才とは朔さまをいうのでしょうなあ」

 現在朔は七歳。
 通例に習い、早いうちから訓練を施すこととなった。
 退魔組織から抜けた現在においてもそれは変わらず、七夜の技は脈々と受け継がれる形となっているが、そこでわかったのは、朔はとても才のある人間だったことである。

 さすがは黄理の兄の子ということだろうか。
 鬼神の兄は狂気に飲まれはしたが、それでも黄理を凌ぐ強かさを練り上げた男だった。

 黄理が感慨なく解体する殺人機械なら、兄は圧倒的な力をもって相手を蹂躙する爆撃機だった。

 事実兄が殺した相手は肉片ひとつ残さず爆散し、彼が通った道には死体すら残されない。
 残念ながら殺人を楽しむ人間になってしまったが、ちゃんとした理性をもっていたならば、間違いなく七夜の当主となるはずの男だった。

 そんな人間の子である。

 驚異的な速さで成長する朔は今となっては同年代の子供らを遥か後方に置き去りにし、それでいて更なる飛躍を見せている。

 下手をすれば大人の者すら凌ぐ強さである。

 朔が掴まり立ちを成功させてから始めた戦闘訓練。
 七夜の子は幼いうちからその戦闘訓練を始めるが、それでもなお速い。
 最初それに難色を示す者もいたが、当主命令をちらつかせたことでそれは抑えられた。

 そうして始まった訓練。

 幼すぎる朔には身が重いだろうと思い込んでいた里のものは面食らうことになった。

 もの覚えよく、文句ひとつ言わず、訓練を受けた朔。
 朔は周囲の予想を裏切りメキメキと力をつけていった。

 今となっては鬼才と称すものも現われ、鬼神の子と呼ばれることも少なくない。

 
 その証拠に先ほどの訓練。
 無論手加減はしていたが、それに喰らいつこうと追随するのである。
 現当主に、七歳ばかりの子が。
 最後の交差。
 あの瞬間朔はこちらを殺そうとしていた。
 刃を重ねるごとに増す殺気。
 ひたすらに研ぎ澄まされた朔の殺気はただひとつ、黄理の命を狙っていた。
 通常ならありえないようなことである。
 しかし、事実朔は最後の最後まで諦めはしなかった。


 結局訓練は黄理が朔を気絶させることで幕を下ろしたが、顎を狙ったあの掌底。
 それを避けるため、力んだ一撃を撃ってしまった。
 当主の名は伊達ではない。
 本気の黄理の一撃は今だ訓練段階の子供に目視など出来ぬ速度で朔の米神を打ち抜いた。

 恐ろしいのはそれを打たせた朔にある。

 顎を狙った掌底。
 あれは確実に頭部を砕く力を秘めていた。
 再度言うが朔は七歳。

 末恐ろしいとは朔をいうのだろう。

「けどよ、翁……」

「はっ」

「あいつは一体誰に似たんだ?」

「それはもう、御館様以外の誰と言うのでしょうかのう」

「……」

 それを聞き、黄理はため息を吐く。

 七夜朔。
 七歳の子だというのに、妙に黄理に似ている。
 
 無論顔が似ているとかそんなんではない。
 黄理と朔は叔父という関係で、どこかに通っているような顔立ちはしているが、問題はそんなことではない。

 怜悧に鋭く、無機質な瞳。
 研ぎ澄まされた刃を思わすその雰囲気は間違いなく以前の、志貴が生まれる以前の黄理のものだった。

 今だ小さな子供が、殺人機械と称された男と似ているのはどういうことだろうか。

 殺人機械の黄理なら問題ないのだが、今の黄理は父性あふれた父の鏡。

 ほとんど放棄していてが、やはり何とかしたい。
 しかし本当に今更の話である。

 とりあえず一緒にいる時間を増やそうと朔の訓練は黄理が全て受け持つことにした。
 当主が訓練を受け持ち、しかもたったひとりを受け持つなどまさしく前例にないことである。

 だが、訓練中は必要最低限の会話しか交わさず、朔は訓練に没頭して黄理を会話を楽しむ対象として捉えていない。
 黄理は黄理で今までのことがありどうにも話しかけづらい。
 そうして朔はどう思っているのかわからないが、気まずい時間だけが過ぎていくのである。


 これではあまりに意味がない、と黄理は頭を抱えることになった。
 そこから先どうすればいいかまったくわからない。

 なのでこうして翁と相談するのである。

「一緒にご入浴などはいかかでしょう」

「……それはあまりに難易度が高くないか」

「いえいえ何を言いますか御館様。家族として近づきたいなら、四六時中一緒にいるのは当然のこと。事実志貴さまとご入浴などしょっちゅうではありませんか」

「それは確かに、そうだが……」

「ならば何を迷いますか。朔さまとご入浴をすることで親密度を上げ、フラグを立てればよろしいのです。そうすればいずれ朔さまは心をお開きになり、確実に父様発言フラグが発生するかと」

「おお……!!なるほど、さすがだ翁!!」

「感謝の極み」

 しかし、この男。
 本当に鬼神と呼び恐れられた殺人鬼なのだろうか。

 □□□

 月が里を見下ろしている。
 薄雲にかかる朧月夜は二重にその輪郭をぼやかせて、触れてしまえば忽ち壊れてしまいそうながらも、柔らかな光として夜のしじまを照らしていた。


 翳ることもない月を美しいと思わない自分はどこか壊れているのだろうか、と朔は庭先が広がる離れの縁側に腰掛けながら考えた。


 夜である。
 戌の刻ばかりだろうか。
 里は静まり、外に出ているものの姿はない。
 頭上には朧な満月。
 歪みない月が夜空に吊り下げられ、目下に広がる地上を睥睨していた。
  

 静かだった。
 ただ静かだった。


 生き物が発する物音は聞こえず、風に揺れる草のざわめきも聞こえない。
 無音にも似た沈黙が里を支配している。


 この耳鳴りがするような沈黙を朔は気に入っていた。
 ともすれば死者の眠る墓場を連想させる静寂の世界。


 生きている者のいない世界はなによりも自分がいるべき世界に思えて仕方がない。


 少なくともこの生者溢れる世界で、自分の居場所を見つけることの出来ない朔にとって、それはひどく相応しく感じられた。
 

 自分は一体何なのだ。
 一体何をすればいいのか。
 何者になればいいのか。


 それを考えるたびに朔は諦観めいた感情を抱く。
 特に独りのとき、その絶え間ない自問自答は加速し、朔を更なる深みに手繰り寄せる。
 子供らしくない思考のどうどう巡り。
 とは言え、それも無理からぬ事。
 特に朔の場合、環境が環境だった。


 七夜として自分が何を求められているのかは分かる。
 七夜の業を教え込まれているのも、やがて一族の担い手として、侵入者を排除する尖兵となるよう望まれているからだ。


 誰かに言われたわけではない。
 命令されたわけでもない。
 ただそのような蠢く意志を里の者から感じる。


 その証拠はいくつもある。
 今日の訓練もそうだろう。


 通常、当主は子を鍛え、指導しない。
 それは七夜の暗黙の了解のようなものだった。


 しかし、それが朔の登場で破られている。
 朔は訓練を始めてすぐ、当主が朔を預かって訓練の全てを面倒となっている。


 それは黄理からすれば朔との時間を増やそうという魂胆から始まったことなのだ。
 しかし、何分どうやって朔と触れ合っていいのかわからない黄理は事務的に相手してしまっているので、彼の狙いは今だ効果をあげているとは言えないだろう。
 そして、その本人は当主が子供の手解きを行う理由をあまり考えていなかった。

 ただ、それまで会話もほとんどなかった黄理がそばにいることを不思議に感じていた。

 黄理が指導する訓練。
 それは子が行うにはあまりに苛烈で厳しく、とてもではないが訓練を始めたばかりの子供には耐え切れることの出来ないハードなものだった。


 基礎的な体力作りのために突然変異を起こした密林地帯を駆け回り、それが終われば朔が動けなくなるまで組み手を行う。
 例え朔が気絶したとしても肉体的に問題がなければ、目覚め次第すぐに組み手を再開する。
 しかも使用するのは真剣である。
 本物の刃は扱いを誤れば自身を傷つけ、さらには相手を殺してしまうという禁忌を抱かされる。
 そしてその全てを黄理自身が受け持つのである。


 更にその黄理が持つのもまた真剣。
 彼本来の得物ではないと言えど、それが持つ怪しげな危険性と、黄理が放つ殺意は実戦さながらで、朔は幾度となく無残に殺された自分を夢想した。

 だがしかし。

 朔は泣き言を漏らさなかった。
 あまつさえ耐え切ってさえみせた。


 これが朔を異常足らしめんとするものだった。


 朔はひるまない。


 訓練を開始する子供はある程度の事柄をこなしてから本格的に訓練を始める。
 でなければ本人が危ないし、七夜の戦闘技術に耐え切れない。
 さらには将来、殺し合いというステージに精神が耐え切れない。
 そのための準備に何ヶ月かの時をかける。
 じっくりと時間をかけて肉体を準備し、精神を鍛え上げていくのである。


 だが、朔はその準備期間がなかった。
 だというのに、朔は耐え、こなしている。
 今となっては黄理に牙をつきたてようとしてさえいた。

 それを人は才能といった。
 朔を鬼才と評し、鬼神の子だと称した。
 
 事実朔は里の子では並ぶことのない高みへと上がり、大の大人との組み手であっても対等以上に渡り合っている。
 今では朔の組み手が務まるのは黄理ただひとりになっていた。
 

 しかし、


「まだ、遠い」


 ―――脳裏に焼きつくのは七夜黄理の姿。


 戦闘技術、重心移動、移動速度、気配遮断、神速の斬撃、死角からの奇襲。
 さらに全方位に目がついているのかと思うような勘のよさ。

 何よりも、油断なく、慢心なく、鋭く射抜くあの瞳。
 鷹のように、あるいは研がれた刃の切っ先のように冷たい視線。


 七夜の極みとして泰然と、遥か高みに屹立する男。


 今日の訓練でも黄理には届かなかった。
 朔が黄理の訓練を受け五年以上経つが、朔は未だに黄理へ一撃を食らわせていない。
 当主相手に組み手をこなす朔だったが、それは黄理が手加減をしてのこと。

 朔は知っている。
 黄理の本気、黄理の戦闘を。
 感慨なく、感情なく相手を殺す殺人鬼。
 殺人機械。鬼神。
 暗殺者として遥か高みに座する黄理との距離は果てしなく遠く、見えないほど。

 だが、それでも、朔は黄理に追いつこうとしている。

 ずっと見てきた。

 その姿を目に入れてきた。
 あの男の雄姿、その背中を。

 それがなぜだか分からぬが、朔は黄理のようになりたいと、漠然に思ってきた。

 離れに放りこまれ、使用人の世話を受けてきたが、朔の周りに大人らしいものの姿はなかった。

 ただ遠くに、黄理の姿だけがあった。

 だからだろうか、朔には黄理を追いたいと考えるようになった。

 あのような殺人鬼に。あのような殺人機械に。
 あのような鬼神に。あの、背中に。

 朔が影響を受けたのは、状況も考えれば、黄理しかいなかったと言える。

 隔絶された場所に放り込まれた朔にとっては、人間とはとても遠い存在だった。

 だが、そこに黄理がいた。
 黄理だけが見える位置にいた。


 だからだろう。
 朔は黄理を見るしかなかったのだ。


 無論そのようなことは朔には分からない。
 分からないが疑問には思う。


 だが、自分はなぜ黄理になりたいのだろう。


 志貴が産まれ、七夜一族が退魔組織を抜けることで状況は一変している。
 生業からも手を引いた。
 今となっては七夜は殺し屋にあらず。
 当主もまた護衛などというそれまでの血生臭い暗殺からはうって変わった依頼を受け持つようになっている。
 七夜の代表である当主がそうであるならば尚更、七夜そのものがある一定の変化を着実に歩んでいる。


 だと言うのに、自分は鍛えられ、望まれている。


 人を殺す技術、人を壊す精神、人を解す肉体。


 何のために? 
 何の、ために?


 最早必要とされない技術。
 すでに過去の産物へと成り果てんとする業。
 そこに意味はあるのだろうか。
 形骸化した使命でしかないはずなのに。

 自分はなぜ黄理になりたい。
 自分はなにになりたい。


 一族の担い手。
 里の尖兵。


 そうなるように望まれている。


 そうなるように求められている。


 それは分かっている。分かっては、いる。


 だが、自分は――――


「おい」


 不意に、声がした。


 いつの間にか、離れに黄理が赴いていた。


 母屋からきたのだろうか。
 今は淡く染められた着流しを見につけている。


 黄理が離れに足を運ぶのは珍しいことだった。
 黄理は基本この離れにやってきたりはしない。


 それにしてもなんなのだろうか。
 黄理からなにやら戦意のようなものが滲み、妙に意気込んでいるように見える。


 ただの用事には見えなかった。
 ただ事ではない雰囲気が黄理にはある。
 

「なんでしょうか、御館様」


 朔の返事になにやら黄理が動きを止めた。


 一体何なのだろう。


 しばらくして、妙に落ち着きのない黄理だったが、どうやら決心をしたらしい。


「てめえ、風呂には入ったか」


「もう入りましたが」


 間断なく応えられた返事に黄理は呻き声をあげた。


 朔は今、黄理と同じように着流しをまとっている。
 色は藍色。使用人が昔着けていたお古らしい。

 朔は先程母屋にある風呂に入ってきたばかりなのだった。

 そしてしばらくすると「そうか……」と力なく声を漏らし母屋へと帰っていった。
 その際に背中が煤けて見えたのは朔の気のせいだろう。

 
 志貴が生まれてから黄理は変わったと話は聞く。
 それはそうだろうか、と朔は思ったりしたが、別にそれは問題ではないしどうでも良かった。

 
 黄理を見て、黄理になんとなくなりたいと思っているが、彼の性格面はどうでもいい朔だった。


 求められている事は、わかっていた。


 望まれている事は、わかっていた。


 成るべきモノは、知っていた。


 為すべきコトは、知っていた。


 己が何なのか。


 そんなの、生まれた時から知っていた。


 それだと言うのに。


 今、己は何をしているのだろう。


 退魔組織から抜け出した七夜。
 最早修めた術理を行使することもない。


 しかし、自分は退魔の術理をひたすらに極めようとしている。
 御館様の命により、皆の期待により。


 一体、何を得ればいいのだろうか。


 己は、得てもいいのだろうか。


 一体、何を求めればいいのだろうか。


 己は、求めてもいいのだろうか。


 己は、一体何を為せばいいのだろうか。


 朔は一人、開けぬ未来への展望に鬱屈とした嘆息を吐いた。



[34379] 第二話 志貴
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2012/09/09 20:34
 一族の長、七夜黄理の実子である七夜志貴にとって、朔という存在は非常に不思議な少年だった。


 一族を纏める立場の子として生を受け、健康的にすくすくと成長していると言えるであろう志貴だった。
 そんな生まれて僅かでしかない志貴にとって、朔とは一種の疑念を抱かせるには十分な存在だったといえる。
 父が自ら手塩にかけ、彼が気にしているという意味でもそうであるし、里の中で殆どの住人と交流を断っている朔は見ようによっては不気味とすら言えた。
 それは幼心に父を取られたという嫉妬から来るものではなく、ただ漠然とした不安を志貴は朔に抱いていたのだった。


 志貴が住処としている母屋の離れで暮らしている自分よりも年上の子供。
 しかし、志貴は本当にそこに朔がいるのかという思いに時たま駆られることさえあった。
 幾ら住居から距離を隔てているとは言え、物音ひとつ、あるいは声音のひとつさえも母屋には届かない。
 また彼の離れを訪れるものといえば朔の世話役を名乗り出た叔母と、実質的に里の相談役である翁を除いては、思い立ったように父がふらりと立ち寄るくらいで、自分の母さえも忌避するように離れへは足を運ばない。
 しかし、それとなく周囲から話を聞けば睡眠食事は全て離れにて取っているらしく、母屋にも入浴する時は訪れているのだとか。


 ただ、志貴は朔が母屋に出現した場面になど出くわした事はないし、本当に真実であるかさえ甚だ疑念だった。
 当然、あまり広いとはいえない七夜の里であるから志貴も朔を目撃した事がある。
 それは父と朔が行う訓練でのことだ。
 父は朔との鍛錬には殊更熱を上げているようで、それは志貴との交流さえも脅かさんほどである。
 故に朔はどこかしらで朔に対し気に喰わないという感情を抱いていた。
 否、気に喰わないというよりも面白くないという呼ぶほうが形容としては正しいだろう。
 それは志貴がまだ悪しきものを知らぬ幼き子供ゆえの感情だった。


 何故に父があれほどまで朔を気にかけているのかと母に問えば、どうやら朔は志貴と従兄弟の関係にあるかららしい。
 少し顔に翳をかけながら母は言った。
『あまり彼には近づかない方がよろしいですよ』
 言葉に込められた意味は拒絶のそれ。
 それが一体何の因果なのか志貴には皆目検討もつかなかったが、母は兎も角父が朔を志貴と同等に扱っているのは一目瞭然であった。


 だから志貴はまずは朔の事を知ろうと決意した。
 敵を知らなければなんとやら、である。


 父と朔が訓練を行っている時刻を見計らい、離れへと忍び込んだのだった。
 離れに朔がいれば情報を会得するには難易度が飛躍的に高まるのは目に見えており、故にこそ朝から昼にかけての時間帯をもって志貴は作戦を決行したのだった。
 無論、叔母にも母にも見つからないように慎重に。


 そうして離れに侵入を果たした志貴であったが、離れには何もなく、違和感に困惑を抱いた。
 家財らしきものは一切見当たらず、広くもない。
 また狭くもない離れには漫然とした空漠だけが満ち満ちていた。
 本当に、生活するのに必要なものがひとつ残らず見当たらないのである。
 これには志貴も参った。
 彼を知り得るためのヒントを探しに来たものの、それらしきものが何もない。
 彼が持ちえているはずの所有物すら置かれていないのだ。
 試しに襖を開いてみれば、あるのは数着の着流しのみ。
 これでは一体何のために機を見計らい離れに侵入したのか、本来の目的も果たせぬままに志貴は当惑の中に佇む事になった。


 ここで諦めるわけにもいかない。
 けれど、何をするべきなのかわからない。


 仕方なく志貴は畳みのうえに寝転がり、目を瞑った。
 果たしてどうしたものやら、と暫し黙考する。


 そして、伊草の香りを鼻腔に浸しながら、朔の事を考えてみた。


 彼なりの浅薄な考えにより目的の人物である朔の本拠地に乗り込んでみたものの、根城はもぬけの空と言わんばかりの有様だった。
 猪突猛進な行動であった事は否めないが、それでも何かしらの収穫があってもよいはずだった。
 しかし、現実には僅かなヒントすら見当たらぬままだ。


 このままではいけない。
 志貴はもう一度朔の姿を脳裏に思い描いた。
 まるで湖面の薄氷を思わすように冷たく、そして張り詰めた空気を放つ少年。
 いつも彼を見かけると、朔は一人でいる。
 例外的に父と行う鍛錬があるが、それを除けば彼はいつもひとりぼっちだった。
 当主の子供として生まれた志貴の周りには何かと人がいる。
 それは家族であったり、また里にいつ同年代の子供だったり、あるいは当主に所要をもうけた一族の者だったりと、志貴は生まれてこのかた何かしらの形であろうとも一人でいる事のほうが少なく、そして稀だ。
 故に、いつも孤独に佇んでいるであろう朔のことが気になったのではないだろうか?


 その朔が唯一一人ではないときがある。
 それが父である七夜黄理との鍛錬時だ。


 志貴も朔の訓練を幾度か見かけたことがあるが、その内容は凄まじいという一言に尽きた。
 志貴もまた七夜の通例に習い訓練を始めて一年以上と、それなりの月日を経てきたが、朔の動きには度肝を抜かれた記憶が根深く残されている。
 それまで己が技量を密やかに自信としていた心を打ち砕くほど、朔の腕は凄絶であり、また訓練の内容も過酷極まりないものだった。
 苛烈に攻め立てる黄理と、それに猛追する朔。
 攻守は入り乱れ、まるでその中心だけが嵐を呼び込んだかのように汗は弾け、乱舞が目に焼きついて離れない。


 志貴が七夜の戦闘訓練を受け始めた頃から、父の話は幾度も聴かされたことがある。


 曰く殺人機械。曰く鬼神。曰く七夜最強の男。曰く、七夜を体現する蜘蛛。


 一族に於いて自らの父が一番強いのだと聞かされ、志貴は父に尊敬の念を抱いた。


 ――――そんな父と、朔は対等に組み手をこなしている。


 そして傍観者の立場にある志貴だったからこそ分かることもあった。
 朔はあの極限の戦闘訓練の中でさえ、更なる動きへの片鱗を見せていたのである。


 つまりそれは朔に未だ大きな伸び白があり、他の子供を差し置いて飛躍を見せているからに他ならない。
 あの黄理との鍛錬で朔は鋭く研磨され、鋭敏な動物となって父に喰らいつかんとしているのだ。
 自分とそう歳の変わらぬ子供が、である。
 悔しさは不思議となかった。
 ただ圧倒された。
 苛烈に躍動する朔と、それに応じる黄理に。


 そして、更に驚くべきは黄理だった。


 志貴は父の事が好きだ。
 それは家族としてもそうだし、一族の一員としてもそうだろう。
 しかし、同時に怖い存在だと認識している。
 立場ある当主としての威厳とでも言えばいいのか、抜き身の刃のような雰囲気を放つ黄理を志貴は心の奥底で苦手としていた。
 常に鋭い目つきなのもその要因だろう。
 どうにも、あの全てを射抜かんとする視線が幼い志貴には怖くてたまらなかった。


 その父が、殺人機械と称され慈悲など知らぬかのような父が朔との訓練では笑みを浮かべているのである。
 それは肉食獣を思わす獰猛な笑みであったり、あるいはふとして零れる微笑だったり、好戦的な破顔だったりと種類は様々であったが、それが志貴にとっては衝撃的であった。


 果たして、自分は父にあんなにも様々な表情を晒されただろうか。


 例えばそれは先日、朔が黄理の一撃でもって気絶したときの事である。
 表情そのものにはあまり変化を富まない黄理だったが、気絶していた朔を見下ろすその顔は、きっと周囲の者には分からないだろうが、志貴には笑みを浮かべているようにしか見えなかった。
 僅かに唇の端を引き攣らせ、口角を上げて凄烈に笑むあの感情は一体何なのか。


 それが志貴にはたまらなく悔しかった。
 自分の父が誰かに盗られたような気がした。


 自分の父は当主であるから将来有望な子供の面倒を見るのは致し方のない事である、と自ら整合して無理矢理に納得させる事は出来たが、そればかりは受け入れる事が出来なかった。
 無論、自分ではあのように俊英ではない。
 朔の動きに追随する事は出来ないだろうし、何より父と組み手を行うことすら叶わない。
 それが悔しくて、情けない。
 だって、志貴では朔には敵わない事は明白なのだ。
 故に面白くなくて、あの時志貴は朔が意識を取り戻したのを見計らって黄理の下へと駆け寄り、訓練の邪魔をした。


 それを黄理が知れば、きっと喜びのあまり滂沱の涙を浮かべながら更なる結界の強化に励むだろうが(当然、里の者に全力で阻止される事になるだろうが)、生憎そのような話を志貴が出来るはずもなかった。
 自分がかっこ悪いように思えたし、何よりも朔との訓練を楽しんでいそうな父にこの話を聞かせるのは、なんだか忍びないような気がした。
 志貴、すげえいい子である。


 なので、今回の調査へと話は戻るのだ。


 朔を知り、己を知ればなんとやら。
 勢い込んで行動してみたのは良いが成果は今の所ゼロである。
 そも、知ってどうするのかとか考えてもいなかった。
 対策を練るのか、はたまた弱みを握るのか。
 残念ながらそこまでの思慮は志貴には未だ存在していない。


 と、そこで志貴は離れに侵入を果たしてから駐在していた違和感の正体に気付いた。


 人が生活していればある程度の匂いはこびり付くものである。
 長年の習慣によって付着した匂いは体臭と言ってもいいだろう。
 それがこの空間にはないのだ。
 たっぷりと流した汗の匂いや、あるいは食事の残滓、そして朔の体臭そのものがどこにも存在しない。
 無臭、という訳ではない。
 あるのはただ新調されたかのように香る畳の臭いだけで、それ以外に朔へと該当するような匂いがないのだ。
 母屋にさえ存在するものが、この離れには一切見当たらないのである。
 それが違和感の正体。最初から起こっていた認識の齟齬だった。


 これは、ひとつ朔の事を知ったといっても言いのだろうか?


 確か世話役として叔母が朔の部屋に訪れているはずなのだけれど、そんな残り香さえ漂っていない。
 うん、そうだ。
 これはきっと朔を知るひとつの切っ掛けなのだろう。


 そう思うと何だか志貴の内側にやる気の焔が燃え上がった。


 ここで意気消沈してはいけない。諦観を抱いてはいけないのだ。
 志貴は未だスタートラインにすら立っていないのだ。
 思い込みを走らせた熱いパトス溢れる脳にストップという文字はない。
 そのようなもの、必要ですらない。肝心なのは諦めない心である。


 そう。だからこそ行動しなくては。
 自分がやるべきことは何も終えていない。
 否、始まってすらいない。
 なればこそ今、自らを奮起させる時。
 このまま目を瞑り横たわっている場合ではない!


 そして、志貴は目を開けた。


 ――――目前に、朔がいた。


「……………………………………………………………………………………ふぇ?」


 たっぷりと間を置いて漏れた言葉は何だか間抜けであり、志貴と朔のファーストコンタクトは幕を開いた。

 □□□

『空を翔けてはならない』


 それが鍛錬を始める際に黄理が紡ぐ最初の言だった。


 即ち、空中に足場はない。
 そして、人間には空を羽ばたく翼がない。
 故にもし空中にいる際敵対対象から襲撃された時、身動ぎ乃至防御姿勢をとる事でしか攻撃を防ぐ事は出来ない。
 しかし、それは選んではならない選択である。
 七夜は人間だ。
 近親相姦を重ね幾ら超能力を会得し、人間では不可能な動きを可能とする肉体乃至体術を習得しようとも。
 その規格は決して人間の範疇からはみ出す事はない。
 だから、もし身動ぎで回避できないほどの攻撃範囲、防御して防ぐことが出来ないほどの火力で砲撃された場合、七夜はあっけなく死ぬのだ。


 故に空中を翔けるな。
 空中では格好の的だ、と黄理は言う。


 だが、戦闘及び暗殺は常に自身の想定を軽々と超えていく。
 絶対に選択してはならない選択肢を咄嗟に選ばなくてはならない時が必ずやってくる。
 ならば空中に飛ぶ事でしか回避できない攻撃を受けたとき、どうすれば正しいのか。


 黄理は言う。


『空間を移動しろ』


 常に足場から足場へ。
 あらゆる障害物を己が地面として移動し続ける。
 足場は地面だけではない。
 壁、天井、家財、木々、岩場。
 利用できるものは全てを利用する。
 そうする事で七夜は人の予測を超えた高速移動を可能とする。
 七夜は暗殺業を営む一族であるから、狭い場所を想定し動く訓練を積むのは正に道理である。


『全ての遮蔽物は七夜の領域だ』


 それが黄理の言葉だった。


 生い茂る深い森。
 鬱蒼と聳え立つ木々の合間を縫って、朔は駆けていた。


 それは、俯瞰してみればどのように見えるであろうか。
 朔は今、地上から離れ樹の幹や枝へと飛翔し風を切り裂いている。
 時には葉群に肩をあて、頑丈な幹を足で叩き、己が体を突き飛ばしては他の樹木に駆ける、という芸当を朔はこなしていた。


 これこそ七夜の空中利用術。
 あるいはお家芸と誉れだかき閃鞘、閃走と呼ばれる術理である。
 
 無論、それは通常の人間ならば目で追いつく事の叶わない速度で行われており、空中を縦横無尽に移動する様はまず人間には見えない。
 まるで獲物を追い立てる虫のような駆動であった。


 その視線の先、常に俊敏な動きを行う朔の目下には直立不動で佇む七夜黄理がいた。
 不遜とも取れる態度で朔の動きを見やるその視線は鋭く、まるで今にも斬りつけんばかりに研ぎ澄まされた切っ先のよう。
 黄理の視界から何とかして逃れようと朔は更に速度を上げ、あるいは緩急をつけて黄理を錯乱させようと動き回る。


 風が頬を撫でる。
 必死に朔の意志に応えようとする体は熱をあげ、それが心地よい。
 しかし、それに現を抜かしてはいけない。今は訓練中なのである。


 通例のように行われた今回の鍛錬では互いに徒手空拳であった。
 武装しているものは何一つとしてなく、武器化できそうなものすら手にしていない。
 今回設定された状況は『突然の接敵に対する行動』だった。
 故に朔は無手であるし、対峙している黄理もまた現在においては何もしていない。
 全て朔に任せていると言っても過言でない。
 
 だけど、状況は決して芳しいものでない。
 幾ら不規則な動きを見せようとも黄理は泰然と朔の動きに追いついており、その視界から逃れる事叶わない。
 このままでは埒が明かない事は明白だった。

 故にここはひとつ、と朔は博打を打つ。


 着地した樹の幹に足の裏を貼り付け、地面と直角のままに駆け下りる。
 慣性の法則に従い体は墜落するかの如くに速度を上げるが、これでは足りない。
 もっと、速度を上げろ。
 もっと、もっと、もっとだ。
 己が限界を超えんばかりに踏み抜かれた足が悲鳴をあげ、後方へと景色は速度を増して流れていく。
 けれど、これでも足りない。


 だってほら。


 視線の先、黄理はいつの間にか朔の落下していく方向へと体を向け、万全の体勢で屹立している。


 どうにも黄理の想定から抜け出せず、朔は歯噛みする。
 まるで掌で踊らされているような感覚が風と共に体を包み込む。
 しかし、それも致し方なし。
 相手取るは七夜当主。
 己が一族最強の男。鬼神と仇名された益荒男である。


 迫りくる地面。着地すれば死は免れないだろうが、朔に怯えは訪れなかった。
 ただ、今胸の中を去来するのはどうすれば黄理に一撃を与える事が出来るか、それのみ。
 身の危機は度外視されている。
 例え負傷しようとも、傷を負った他の肉体を使用して動けばよいだけの話だ。
 勿論、このまま地に自ら突っ込むような真似はしない。
 迫る土まで接触は刹那。


 ――――樹が爆ぜる音が森に木霊した。


 爆発的に踏み抜かれた足が幹を穿たんばかりに叩き、今朔の体は限界を見据えた疾さで加速した。
 落下速度も相まり、身体は風のように森の中を凪いだ。
 その軌道は直線的であり、振り抜かれた刃の斬撃に似ていたのかもしれない。
 あくまで愚直に直線的な飛翔は、そう呼ぶに相応しい鋭さを放っていた。
 そうして移動した先は対面に生える樹木の下方、根元に近い場所であり、僅かに黄理の反応が遅れた。


 今こそ、好機――――!


 地面を滑空するように走りぬけ、振り向く途中にある黄理の背中へと突き進む。
 彼我の距離はあと僅か。
 小太刀をもっていればそのまま斬りかかる事も可能な距離。
 しかし、己の掌に愛用の刀はない。
 故に、掌の形は握り拳。
 凝縮された力が余さず集った自慢の拳だ。


 それを、足元へと思い切り叩きつけた。


 地面が抉られ、土埃さえ巻き起こる。
 変則的な形で浮かび上がった肉体は捻られながらそのまま黄理の頭上に到達した。
 黄理の顔面に翳がかかる。


 あのまま襲撃するのはナンセンス故の行動だった。
 背後は黄理の死角ではない。
 否、暗殺術を極めた七夜最強の男に死角など存在しない。
 故に必要なのは、あくまで黄理の予測範囲を超えること。意表を突くこと。
 それこそが重要である。


 朔は浮かび上がったまま拳を黄理の頭頂部へと振り下ろす。
 その勢いはまるで斧のよう。


 しかし、流石は七夜黄理とでも言うべきか。
 目視もされぬまま伸ばされた腕が朔の拳を絡めとり、真横へと暴力的に投げ飛ばされた。


 そうしている合間も朔は加速的に考える。
 黄理に届く算段を、必勝の戦術を。
 だが、考えれば考えるほどに七夜黄理という男の雄姿は圧倒的で、朔を容易に下す。

 朔は、それを分かっていても黄理に届いてみせたかった。
 いつだってそうだ。
 いつも朔は全力で黄理に挑んできた。
 例え肉体が十全に稼動せずとも、指先、あるいは爪先でも良ければ当主に届かせたかった。
 それは、あくまで訓練段階の子供からすれば夢物語にも等しい困難事である。


 だが、それでも自分は――――。


 思考に埋没しかけた瞬間。


 悪寒が朔の危機を救った。


 投げ飛ばされる形のままとなっていた体を無理矢理に動かし、その場から退避する。
 すると瞬間には朔が移動しなければ到達していた地点で、黄理が足を振りぬいていた。
 もし、方向を転換していなければ腹を蹴飛ばされ、胃液を口元から零す事になっていただろう。


 そうして、安堵した刹那。


 目の前に、黄理がいた。
 今しがたまで目視していたはずの姿がまるで幻のように、黄理は着地した朔の目前で佇んでいた。
 そして、貫き手が迫っていた。
 咄嗟に腕で塞ごうとするが、そのまま腕を掴まれて再び投げ飛ばされるのは明白だった。
 ならば、ここで迎え撃つ。
 左腕を掻い潜らせ、襲い掛かる肘の辺りを突いて黄理の内側へと入り込む。
 接近戦にはあまりに近すぎる距離。


 だが、それは同時に超近接戦の距離であった。


 懐に入り込んだ朔に黄理の膝が襲い掛かる。
 それを捻りこんでかわし、捩じ切れんばかりに回された膝から全身へと力が伝達して右足を振り回す。
 俊敏に揮われた右足は確かに襲い掛かってきた黄理の左鼠径を強かに打つ。
 しかし、鋼鉄めいた硬さに足が痺れた。
 極限まで鍛え上げられた黄理の肉体は最早肉の感触を帯びていなかった。


 それを同じくして、今度は一本突きの形をした左腕が朔の喉笛を狙う。
 右足は打ち込んだままの状態であり、体勢は不十分。
 だが、回避できないわけではない。
 
 瞬間、朔は飛んだ。
 軸を真横に回転させるような形で宙返りを行い、迫る腕を回転蹴りにて打ち払った。
 肉体構造を無視した可動に膝関節が文句を上げたが、当然のように無視される。
 渇いた、まるで鞭を打つような音がした。


 そのまましなる右脚は、今度は先ほどのお返しだと言わんばかりに黄理の腹を狙う。
 当然、これは後の布石。
 戦術はあくまで思考の探り合いであり、次の一手を先読みし対策を練った後に、己の布石が効果を発揮する。
 黄理は必ずこれを防ぐ。
 その瞬間には右の掌底が黄理の眼底を砕くのだ。


 そして、そのままどうやったのか。


 僅かな間隙を縫って空白が生み出された刹那に、黄理の両手が朔の回転する肉体に添えられて。


 ――――衝撃が爆発した。


 地面へと叩きつけられた衝撃を、手足を伸ばす事で分散させながらも、朔は先ほどの衝撃の正体を混乱気味に解析する。


 あれは恐らく発勁。
 拳法の達人は僅かにでも動ける場所があるならば、その関節を稼動させて力を生み出して衝撃へと導く。
 その威力は朔自身が身を持って味わった。
 打たれた不可視の攻撃は内臓まで伝わり、朔は痛苦に歯を食いしばる。


 だが、黄理が放ったそれは七夜の体術には存在しないもののはず。
 恐らく黄理自らが考慮し、研究し、研鑽して生み出したものなのだろう。
 どれだけ巧く人体を停止できるのかのみを追及してきた過程の産物だろう。


 努力を惜しまぬ殺人鬼は正に怪物だ。


 殺しの手筈を生まれながらに叩き込まれながらも、あえて更なる発展を目指す。これ以上先へ。
 もっと高みへと。


「時間だ」


 粛々とした黄理の冷たい声が、無慈悲に鍛錬の終わりを告げた。

 □□□

「可動は今の段階ではまあまあだろう。だが、まだ甘いな」


「はい」


「てめえも七夜が蜘蛛と仇名される由縁を知れ」


「もうしわけありません」


「……」


「……」


「……」


「もうよろしいでしょうか」


「……ああ」


 鍛錬後の反省もそこそこに二人は別れた。
 大抵訓練の後は黄理が現段階における朔の悪い部分を指摘するのみで他の無駄な会話は一切交わされない。
 あくまで事務的なスタンスは崩れないままである。
 ある程度の話も終えたところで、黄理が妙な空気を滲ませたのが唯一の気がかりではあったが、そこから話が発展する事もなかったので大した事ではないだろうと判断し、朔は先に戻る事にした。
 背中に黄理の鋭い視線を感じながら。
 一体なんだったのだろうか。


 訓練場として使われる場所から離れはわりかし近い場所にある。
 朔は己の訓練が済まされると寄り道をすることもなく真っ直ぐに離れへと戻っていく。
 用事や所要など朔には存在しないのだ。
 もし、あったとしてもそれは離れの中でも出来るようなことばかりであり、外出して行うには意味を見出せない。


 離れへと戻る最中、朔は何人かの里の者たちと擦れ違った。
 彼らは朔を見かけるとなにやらもの言いたげな表情をして、そのまま通り過ぎていった。
 朔はその悉くを風に揺れる柳のようにやり過ごし、結局一言も交わすことのないままに擦れ違っていった。


 朔は訓練以外の全てに受動的だ。
 己を淘汰し練磨する鍛錬においては積極性をおくびもなく曝け出すが、その他においては驚くほど無関心を貫き通す。
 何分特殊な一族の者からしても奇特な生活を送っているからだろうが、幼少から里の者と触れ合う事も出来なかった朔はひどく我の無い人格形成が為されていた。


 恐らく、何をするのも受動的なのはそれ以外の応対を知らないからであり、我の無い人格なのは、それ以外の生き方を知らないからなのだろう。


 ……もしかしたら、朔は愚直な性格なのかもしれない。
 己を知らず、いずくんぞ生を知らんや。
 ただ黄理の後姿ばかりを追い続けてきた朔にとって、それ以外の有象無象は意味や価値を見出せぬ事柄だった。
 少なくとも、同じ里に生きている者たちが、朔には自分とは全く違う生物で、彼らが自分とは距離を隔てた遠くで生きているように思えてならなかった。


 ざわめき、あるいは談笑が耳に届く。
 現在朔は里の開けた広場を横切ろうとしている。
 そこで人々は楽しそうにしていた。
 女は会話を楽しみ、子供は遊んで笑顔を溢し、男は仕事に励んで、年老いた者達はそれらを眺めて安らいでいる。


 それらを見て、朔は何も思わなかった。


 何も、感じなかった。


 ただ、それだけ彼らが表情豊かに過ごせているのは感情が富んでいるからなのかと、一瞬思考を過ぎった。
 しかし、それはきっと何かが違っているのだろうと瞬時に打ち消されていった。 彼らが安穏と過ごし、楽しげにいるのはそのように安直な理由からではない、と思う。


 やはり、それらに何の感慨も浮かばない自分は壊れているのだろう。


 諦観。


 彼らの笑みは尊いものなのだろうか。
 それとも素晴らしいものなのだろうか。
 朔の間断ない自問自答には答えが無い。
 巡り巡って帰結するものは大抵己の壊れ具合の再確認であるからだ。
 ただ、それでも疑問を抱くのはそういうものはとても大事なものであると理解してのことであり、それ以外の事はありえない。


 そのようにして導いた結論は、結局どうでもいいことだ、という思考放棄だった。

 全ての事象は己とは断絶した世界で繰り広げられる営みに過ぎず、そこに己は関係しない。
 たったひとつの個として朔はただ一人歩み、広場から離れていく。
 過ぎ去る空気はどこか寒々しかった。


 そうして己が根城である離れに辿り着くと、朔は違和感を覚えた。
 何者もいないはずの離れに何者かの気配があった。
 この時間帯使用人は訪れぬはずだし、翁もまた然り。
 その二人を除けば離れを訪れるものなど皆無に等しい。
 あるいは、何かしらの用件を誰かが伝えに来たか、と考えたがそこで室内から伝わる気配が使用人のものではないことにようやく気付く。


 幼く、まるで子供のような気配。


 そこまで考えて、朔はふと思い当たった。
 この気配は知っている。


 息を潜め、気配を遮断する事で離れの中を開かれたままの襖から覗いてみる。


 七夜志貴がそこにいる。


 当主の息子。
 己が目指すべき到達点の嫡子であり、そして決して朔には向けられる事のない温度を注がれる存在である。


 やはり、か。


 呟く事もなく、朔はひとり思ったが、疑問は解決できたものの未だ何故志貴がこの離れにいるのか理由がわからない。
 志貴は朔の覚えによれば今まで離れに近づいた事もなかったはずなのに。


 志貴の存在は朔にとって黄理に次いで気にかかる存在だった。
 それこそ他の里の者とは一線を越えた地点に志貴はいると言ってもいいだろう。


 現当主を変え、七夜が暗殺業から身を引いた理由の全ては志貴一人に集約される。
 事実、彼が生まれたことで七夜は生業だった退魔組織から抜け、今では深い森の奥で暮らすただの村人だ。


 その原因は間違いなく志貴に相違ない。
 志貴が生まれたことで当主は何かしらの影響を受け、今のような一族へと変化させたのであろう。


 朔は幾度となく志貴の姿を目撃している。
 それは母屋であったり、あるいは黄理と共にいる場面であったり、訓練を朔が行っている際のことだったりと、様々な場面でだ。
 その度に朔を発見した志貴が自らに何かしらの視線を投げかけたものだったが、ただ話しかけてはことなかったので朔は気にしなかった。
 だが、黄理と志貴が共にいる場面に出くわした時、何故だか胸の内が虚しさを覚えた。


 今回、何故か志貴が離れにいる。


 気になった朔はとりあえず、何やら畳に寝転んで目を瞑っている志貴の側にすり足で近寄ってみる。
 勿論、気配は断っている。
 七夜当主仕込みの気配遮断だ。
 黄理にはやはり劣るものの、式神並みの隠密行動に届かんとする気配断ちは、ただの人間では察知する事さえ叶わない。
 それは朔とさして歳の変わらぬ幼子ならば尚更であろう。


 事実、すぐ側に近寄り直立しているのに志貴は気付いてすらいない。


 どうやら何かを口ずさんでいるのか、口元をモゴモゴとさせているが、眠っていないのは明らかである。
 恐らくは独り言か、朔を襲撃するために仕込んだ毒でも口内に仕込んでいるのだろうか。


 独断専行か、周囲には後詰の気配はない。
 ならば朔を殺すのに相当の自信を持っているのだろう。
 だが、仕掛けさえ分かってしまえば毒なぞ恐れるに足りず。


 二人の距離は近い。
 額同士が直接触れ合ってしまいそうなほどだ。


 視線を落とせば幼少期特有の突き立った唇があった。
 もし、このまま毒を吐くならばそのまま唇で防いで息を吹き込み、逆に飲み込ませれば良いだけの話である。
 ただ、志貴は何やらぶつぶつと呟いている様子。
 何を言っているのか、と朔が聴力に意識を回し言葉を拾おうとすると。


 ――――目を見開いた志貴と視線があった。


 それを無感動に感慨もなく見つめる朔。
 ここらか仕込み毒を吹きかけられても回避し逆転できる自信が朔にはあった。
 ただ、直接的に当主の息子へと手を出すのは不味いだろうか、とその時になって去来した想いは。


「……………………………………………………………………………………ふぇ?」


 気の抜けた言葉ですぐさま消え去った。

 □□□

 正座。


 それは日本人の伝統的な生活文化の一形態であり、古くは江戸幕府、大名が将軍に謁見する際に正式決定された座り方である。
 また畳が普及し始めた事もまたその要因となっている。
 背筋を伸ばし、膝を揃えて畳んだ座法は美しくまた厳かでさえあり、正座の姿勢は日本独自の文化として花開いた文化である。
 故にその歴史も古く、過去に支えられた座法はどの国家にも引けをとらぬ輝きさえ放つ。
 嗚呼、それは素晴らしき座り方。
 美麗なる座法。


 だからこそ、正座で対面した志貴と朔の間に流れる空気が重い事も仕方の無い事であった。


「……」


「……」


 離れの内部は現在なんともいえない微妙な沈黙の空気に支配されていた。
 何せ両者共に直接対面するのは始めてであったし、志貴としては何故自分がこのような目に合わなくてはならないのかと内心涙目だったが、それは朔にしてもまた似たような心境であった。


 それもそうだろう。
 自分が世話(?)になっている相手の子供が、幾ら敷地内とは言え事前に連絡も無く己の住処に不法侵入をしているのである。
 どうやら口内に毒は仕込んでいない様子であったが、だからこそどのように対応すれば良いのかわからない。
 これが今まで交流のある人物だったならば、あるいはこのような空気にはならなかったのかもしれない。
 しかし、第一前提として朔にそのような存在はいない。
 得てして訓練の指南役である黄理。
 もしくは使用人の女。
 あるいは黄理の相談役である翁ぐらいしか離れを訪れる事はないし、それも個人的な友好関係とは程遠いような間柄だ。
 彼らの内心を知らぬ朔としては、それぐらいの僅かでか細い関係でしかない。
 そしてそれ以外の人物と朔はまともに会話を交わさない。
 視線すら合わせようとしない。
 故に、この離れにやってくるのは自然とその三名のみに限定されていたはず、だった。


 はずだったのだが、何故か対面には志貴がいる。
 その、志貴とは今まで接触がない。
 だというのにである。
 現に志貴は離れに侵入しており、目の前で正座している。


 とりあえず戸惑っているのは両者共に同じ。
 そして互いに何故か正座である。
 離れに漂う空気がそうさせたのか、いつの間にやらにだ。


 この妙な空気がそうさせているのか、志貴としては本来の目的人物である朔本人がいるのだから何かしら聞き出すべきなのだ。
 とはいえ、なかなか言葉を切り出せない。
 こうして朔と対峙していると、まるで父を相手取っているような錯覚さえ覚えてしまう。


 朔も朔でひらすらに考え、目の前にいる人物が一体何が目的なのか観察している。
 ならば直接聞けばいいだけの話なのでは、と思うこと無かれ。
 基本的に朔は会話を必要としない究極の器用貧乏である。
 今まで興味はあったが近づく事は無いだろうと判断していた人物がいきなりの急接近をしていたので、やはり志貴としても当惑の渦中にあった。


 そして朔の観察をどう間違えたのか、志貴は志貴で睨まれたと勘違いし、結果漏らしかけるというある意味莫迦らしいような状況が成立していた。


 まあ、つまり現状を要約してしまえば、めっちゃ気まずい。
 ただそれだけである。


 互いに緊張しているという前提で見る光景はお見合い会場に残された二人だと見ようと思えば見え、ない。全然見えない。
 残念ながら。何が残念ながらなのかさえも分からないが兎にも角にもそのようには決して見えなかった。


 しかし、このままでは埒が明かないことは一目瞭然。
 ならば、と思考を導いた朔はまごついている志貴を尻目に己から声をかけるべきだろうと決断する。


 とは言え、どのように話しかければよいのか。
 そもそもなんと呼べば良いのか。


 呼び捨てはありえない。
 相手は当主のご子息であり、こちらからすれば目上の人間である。
 志貴のほうが年齢は下でも立場は上だ。
 ならば他の者と同じように話しかければ良いだろう。それが妥当だ。


「志貴様」


「(………………びくっ!?)」


 めっちゃビクつかれた。
 まるで肉食獣の気配を察知した小動物のように。


 志貴としては話しかけられたのは大変ありがたいものであった。
 しかしなんだろうか、里にいる他の子(自分も含め)とは全く違う空気を放つ朔に対し、正直どのように話を切り開くべきかと雰囲気を掴みかねていた所でのことだったので、不意打ちを喰らったと言っても過言ではない。


 その声は静謐で落ち着き払い、かつ何とも感情のない無機質な声音であり、まるで機械音声のようであった。


 いきなり話しかけられ、少しばかりチワワ並みの小刻みな震えを起こしてしまった志貴である。
 やっべ、軽くちびったかもと少しの自己嫌悪に陥りながらも、志貴は慎重に自分の対面上に正座している朔を見た。
 朔は話を聞くところ年上。
 だからだろう背が高い。
 子供は年齢でだいぶ肉体の成長の差が現われやすいが、志貴と朔は頭ひとつ分以上差がある。
 おそらく里の同年代の子らと比べて最も高いのではないだろうか。
 体つきもよく、訓練用として使われる動きやすい服からは筋肉の盛り上がりが薄っすらと確認できる。
 それもただ筋肉を搭載したものではなく、引き絞られ引き締められた肉体だ。


 さすがは自分の父の教えを受けていると言えるだろう。
 おそらく朔は次世代を担う子供たちの中で最も当主の座に近い成長を見せている。
 それは自分たちと比べて作り上げられた身体の違いや、志貴が目撃する訓練の密度や質などから考えた結果である。


 それがなんだか悔しかった。
 けれどそれも当然かと漠然に思えた。


 何と言っても父が鍛えているのである。
 そうでなければ父が教えている意味が無い。


 次に顔つきだが、やたらと目つきが鋭い。
 そのくせに瞳の奥は茫洋としていてどこを見ているか把握できない。
 今でも本当に自分を見ているのだろうか。
 視線が志貴に向けられているだろうかその判断が出来ない。
 本当にこの相手は自分と同じような子供だろうか。
 見かけからも幼さが見られず、少年と言うよりも大人のような顔つきに見える。


 そして、志貴にはそれが何故だか終ぞ分からなかったが。


 朔の風貌はどこか父に似ているような気がした。


「志貴様。何故、ここに」


 はたと自らを取り戻せば朔がこちらに言葉を投げかけている。
 これには応えなければならないだろう。だって勝手に忍び込んだのは志貴だ。


 けれど、何を言う?


 そも離れに侵入したのは志貴の衝動的な行動故のものであり、計画性も糞もない。
 しかも侵入した理由は、朔が一体どのような人物かを探るため、である。
 それを莫迦正直に「君のことが知りたかったから」などと言えるほど、志貴は頭がそこまで悪くは無かったし、人並みの羞恥心も培われていた。


 ただ、それを志貴の行動理由のみで考察してみると、まるで志貴が朔を恋い慕っているから故の行動のようにさえも見えた。
 恋する人間は大抵に於いてやがて想像では飽き足らないものである。
 だから暴走するなんて事もあり得るのだ。


 しかし、今回はもともとそのような理由ではなく、志貴が抱いたのはそのように陳腐な感情でもない。
 また志貴は未だそのような甘ったるい感情を知らなかった。


 だいたい二人は男の子同士。
 そんな腐ったものは無い。
 ないったら無い。
 ないんだってば。
 誰だ、ご褒美とかほざいた奴は。


 とは言え、なんと答えれば良いものか。
 子供ながらの成熟しきっていない脳が熱を放ってスパークするのではないのかと、自分自身を褒め称えたくなるほど考えた挙句、志貴は。


「…………」


 だんまりした。


 いやいやちょっと待てよ。


 焦燥に内心困惑ながら志貴は自分の声のない返答に頭がくらくらし始めた。
 そも、沈黙を返事とは呼ばない。


 だけど、焦れば焦るほど志貴の口元は固く閉ざされ、縮こまるように俯いてしまう。
 こんなことをして一体何をしたいんだ僕は、と自分を奮い立たせてみようともするが、志貴の口元は意志とは反対の行動しか取ろうとしない。


 そして某福音の少年のように「動け、動け、動けったら動けよ!?」と内心で叫び、どうにか朔へ目線を合わせようとするが、沈黙が痛くて内側からどうにかなってしまいそうだった。
 無論、その沈黙を増長させたのは志貴自身である。
 最早、どうしようもない。


 朔は何も言わなかった。
 何も言わず、ただ口を閉ざして志貴を観察している。
 そのどこを見ているのかさえ判別できない瞳が今の志貴にはまるで責め立てているような気さえして、辛かった。


 ともすれば、下を俯く志貴の眼の奥には涙が滲み出そうだった。
 だって、自分は何をしているんだろう。
 こんな格好悪くて、しかも何も出来ない。
 酷く惨めな気分だった。
 朔に抱いた悔しさや、自分自身に向けた情けなさとも異なる、胸の中心に重石でも詰め込まれたかのような感覚が体と精神を苦しめる。
 しかし、それをどうにかする術を志貴は持ち合わせていなかった。


 次第に潤んでぼやける視界。
 身体は極度の緊張に震えて俯いたまま。
 怒られているわけではないのに、何故だかこの時間が怖い。
 早くどうにか時が過ぎ去ってしまわなければ、自分が破裂してしまいそうだ。


 だけど。


「志貴様。用件はないのですか」


 朔の容赦ない追求にぐらりと意識が揺れた。
 それに答えられず、より一層俯く。
 だって自分は答えを持ち合わせているはずなのに、何故こんなにも応えることが出来ない。
 それを考えて、ひたすらに考えて思考はぐるぐると輪廻を描いていく。
 なるべく目前の朔を視界にいれないようにしているにも関わらず、意識は朔にばかりへと向かうけれど。


 いったい、沈黙はどれほど続いただろう。
 時計などない離れには時間を知る術がない。
 十秒か、一分か、それとも十分か一時間か。感覚が狂う。
 結局朔の声に応える事の出来なかった志貴は、ひたすらに俯いたまま。


 すると、その時である。


 ――――ぽふ。


 頭部に感触があった。
 髪をくしゃくしゃとさせながら動くそれの感触が心地よくて、ふと視線を上げてみると。


「え?」


 朔が無表情のままに志貴の頭を撫でていた。
 腕のみを動かして撫でるその動作は機械的であり、決して優しくはない。
 寧ろ定期的に動かされる掌は乱暴とさえ呼べた。


「なぜ志貴様がここにいたのかは知りません」


 そう言いながらも、頭を撫でる動作は止まらぬままで。


「ただ、今言いたくなければ、また次に言えばいい」


 無表情に朔は言った。
 声音は相変わらず無機質で温度が無く、まるで鋼のようでさえある。
 頭を撫でる掌も不器用で全然優しくない。


 しかし、それは無骨ながら、何故か志貴を落ち着かせる作用を持っており。


「…………、あ」


 そして志貴はようやく得心した。


 この感触は父の掌に似ているのだと。
 幾度も鍛錬を重ね皮が厚くなってごつごつとした掌。
 そして不器用な指先。撫でる事に慣れていない動作。
 その全てが父が志貴を撫でる動作にそっくりだった。


 そうして、志貴はしばらく朔に撫で続けられた。
 その間にどうにか落ち着きを取り戻した志貴は次第に掌の心地よさに身を委ねた。
 それは内心合点した部分があったからでもある。


 この人は、父に似ているのだ。
 だから何故か気になったのだ。


 果たしてそれが正しいのか間違っているのか、判別がつくほど志貴は大人ではない。


 ただ子供心の純真をそのままに、志貴はなんとなく思った。


「(兄ちゃんってこんな感じなのかなあ?)」


 志貴に他の兄弟はいない
 。黄理が他に子供を作るつもりがないのだ。
 故に彼は一人っ子である。
 だからこそ志貴は頭を撫でてくれる朔の姿に、現実には存在しない兄の姿を重ねたのだった。


 目の前で何も言わず、ただ呆然と安心を綯い交ぜにしたような表情をしている志貴を朔は眺めた。
 何故志貴がこのような顔をしているのかは分からない。
 朔はわからないがままに志貴の頭を撫でている。
 何か痛みをこらえているかのような姿を見て、自分は志貴に何かしたのだろうかと考えてはみた。
 しかしそれは、結局朔には見当たらない答えだった。
 内側を探ってみ見つからなければ他から探せばよい。
 だからこそ、こんな時黄理だったならばどうするのだろうと夢想した。


 彼は志貴の父である。
 父というものに対し想う事は無い朔ではあるが、黄理が志貴を至極大切にしていることだけは理解できていた。
 それが自分には傾けられない温度の行方を捜索しても辿りつくことも、理解することも出来ないことである事は疾うに知れている。
 だが父である黄理は己が子に今まで何を施してきたか。
 稀なる観察眼で朔はそれらを眺めてきた。朔は団欒とは無縁な存在である。
 故に、黄理と志貴が当たり前のように触れ合う光景が、朔にはどうも価値あるものとして映らなかった。
 そしてそれは同時に自分自身という存在の壊れ具合を測る作業にしかならなかった。


 あれはきっと尊いのだろう。
 恐らくは美しい光景なのだろう。
 もしかしたら、温かいものなのかもしれない。
 だが、それを判断する価値観が根本から形成させなかった朔には、それを判別しようとしても情や義、はたまた悪や邪に価値を見出せないのだ。


 それは朔が成長過程の頃に遡る。
 特殊な一族のそれ以上に特殊な扱いを受け、また事情を持つ朔だったが、彼は決して壊れているのではない。
 壊れるとは得てして形成されたものが欠損することだ。


 朔にはそれがない。
 人が当然として持つ倫理や価値観。
 それらが形として造られることもなく彼は成長した。
 無論、七夜としての常識をもである。
 周囲から隔絶された朔には己の自我のみが判断材料にしかならないのだった。


 故に、朔は壊れているのではない。
 ただ致命的な欠陥品なだけだ。


 兎にも角にも、目前の尋常ではない志貴にどうするべきかと考えた。
 こんなとき黄理ならばどうするのかと考察し、朔の圧倒的に足りない判断材料から吟味された結果、朔が取った行動は志貴の頭頂部を撫でるという、黄理の真似事だった。
 そこに想いはない。
 感情はない。
 ただ往復された駆動が同じリズムを経てくり返す。
 まるで機械仕掛けの人形のように単調で、無骨な動作だ。


 そのような理由でとりあえず行動を起こした朔も朔であるが、それを受け入れる志貴もまた志貴だった。


 しかし、この行為にいったい何の意味があるのだろう。
 ただ手で頭を擦っているだけにしか見えない。
 ただ、落ち着いた様子で目を細めた志貴の姿を見て、この動作にはこのような効果があるのかと彼は認識した。
 ならば、今はこれでよい。
 問題が浮上しなければ何も問題はない。
 そうして両者共に多少の誤解、あるいは食い違いがあれどもこの場は良しとされたのだった。


「ねえ。あの、ね?朔、さん」


「なに?」


「あの、その、えっと……」


「別に何かあるなら今度でもいい」


「次も来ていいのっ?」


「はい」


「うんっ。(やった!)」


「?」


 というやり取りがその後あったとか無かったとか。


 七夜朔。七歳にして、なでポ(対志貴専用)体得。


 そんな午後の昼下がり。




[34379] 第三話 とある女の日常
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2012/09/09 20:58
 春の匂いがする。


 小春日和の中、縁側で私たちは真昼の陽光を浴びていた。
 微風に揺れる葉群から若草の匂いが運ばれ、遠くには山腹を垣間見ながら、隣に座るあの人は穏やかな眼差しで世界を映し出し、その視線を大きくなった自身の腹部に向けながら優しく掌を添えた。


 穏やかな時間が流れていく。


 合間に訪れる沈黙もまた心地よく、時の流れは周囲と隔離されたかのようにゆるやかであった。
 きっと、今も尚誰かが死を運ぶ蜘蛛となっているのだろうけれど、そのような喧騒はまるで自分たちには関係ないように、まどろみすら覚えるほどに私たちの周りは温かい素材で組みあがっていた。


『ねえ』


『はい、なんでしょうか』


 軽やかに声をかけられて、私は硬い言葉を返す。
 性分でこのように女らしくない声音しか紡げない自分を歯痒く思うことは多々あれど、この人の側にいるだけでそれも不思議と和らいだような気がした。


『世界は優しいわね』   


『……そう、なんでしょうか』


 唐突、意味深に紡がれた言葉。


 私は躊躇いがちに問い返すと、あの人は何がおかしいのかくすくすと笑った。


『だってそうでしょう。女として生まれ、子供を宿す。これほど幸福な事なんてあるかしら?』


『……私にはわかりません』


 そのような思考も、あるいは経験も持とうとは今まで思っていなかった私には彼女の言葉に満足な答えを返す事が出来なかった。
 

 けれど、彼女はそれをもまた楽しげに笑って受け止めたのだった。


『貴方にもいずれ分かるときが来るわ。ひとつの命を紡ぐその時が来れば、いずれ』


『……そんな日は、きっと訪れる事はないでしょう』


『あら、どうして?』


『私は好いてもない男にこの体を許そうとは思いませんので』


 全ては一族故の宿命だった。
 この人が私の兄と結ばれた事。
 それが彼女の望んだ事ではない事。
 何もかも、思うが侭に人生はうまくいかない。
 運命という文字は命を運ぶという漢字を用いるが、得てして七夜の女とは次代へと血を残す胎盤としての役目が強い。
 それ故に、自由意志の有無は介入する余地も存在しなかった。


『確かにそれはそうかもしれないわ、でもね』


 そこで彼女はひとつ間を置いた。


『私は今、幸せよ。きっと百年先でも、死ぬ瞬間にでもそう言い切れる』


 そよ風が私たちの間を通り過ぎていった。
 風に靡く彼女の髪は柔らかく揺らめき、私は女としての美しさをそこに見た。


 今のこの人に世界はどう見えるのだろうか。
 たぶん、私には理解できず、また経験し得ない世界を穏やかに眺めているのだろう。
 宿命として狂気を帯び始めた男と繋がり、子を宿して母となり始めたこの人には。
 血に縛られ、子を成す事に疑念を抱いた日はないが、ここまで己が運命を容易く受け入れられるこの人は、きっと強い人なのだろうと自然に思えた。


『もし、この子が生まれたら』


 視線に更なる優しさを滲ませて、己が内に宿された命へと語りかけるように彼女は言った。


『どんな形でもいいからまっすぐに育ってほしいわ。それが例え七夜に縛られたとしても、もし違う形で生きるとしても』


 そう言って彼女は、私に向かって微笑んだ。


『その時は、貴方も見守ってくれないかしら。私の子供がどんな道を歩むのか』


 戯言か真意かはまるでわからない。


 けれど、ただ微笑を浮かべて問いかける彼女に、私は曖昧ながらもひとつ頷きを返したのだった。

 □□□

 東の地平から太陽が顔を出し、日差しが里にかかりだす頃に目覚めるのが私の習慣で、それはもうずいぶんと長く続いている。


 雄鶏が鳴くのと同じ時刻に起きてしまうのは少し眠い。
 だがそれも馴れてしまえば早くに起きないほうがもったいないと思い始めた。
 だって寝ている時間よりも、起きている時間のほうが楽しいことはきっとあるだろう。


 起きて先ず私は布団の上へ立ち上がって背伸び、全身の血のめぐりを良くする。
 こうすることでスッキリとした目覚めとなるらしいと聞いたが、それは本当だろうか。
 曖昧なことだが、なんとなくこれをやらないと一日が始まらないような気さえしてしまうので、最早日課だ。


 数箇所の関節から小気味よい音が小さく鳴って背伸びをやめる。
 全身に脱力感。だけど、少し身体が温かくなった気がする。


 布団を畳んで押入れの中にしまい、庭先に向かう。
 木製の屋敷、言うなれば武家屋敷のような造りをした屋敷の中を移動し、縁側へ。
 私の部屋は屋敷の端にあるので、縁側は近い。


 縁側から見える光景は密かに私が好きな場所だ。
 この屋敷は里の中で一番に高い場所、と言ってもそこまでだが、開けた視界が見える。
 そこから見えるのは里に点在する屋敷や平屋、その向こうには深い森が広がっている。


 東の木々の隙間から太陽が昇り、日差しが里を明るく染めていく。
 私は目を細めて暖かくなっていく地と澄んだ空を眺めた。


「今日もいい天気になりそうだ」


 くぅっ、と再び背伸び。


 さて。身支度を済まし、食事の準備を開始しよう。


 部屋の中に戻り、寝巻きを着替える。


 下着を着けている以外では何も着けていない状態で私は、ふと部屋の中に設置してある姿鏡の前に立った。


 女性にしては高い身長。
 肉付きの少ない身体。
 そして引き締まった肉体。
 良く言えばスレンダー、悪く言えば男性的な身体の私が鏡に映る。
 

 その顔つきも色気が無く冷たい印象を受ける。
 更に目は若干鋭い。
 ここらへんは私の家族(まだ私は未婚なので夫や子ではない)の血を色濃く受け継いでいるようだ。
 その顔つきは私の兄様(あにさま)と似ているような気がする。


 兄様は七夜の当主であり、七夜としては最強の座にいる男。
 そんな人間に似ているのは女性としてどうだろう。
 出来れば私は義姉様(あねさま)のような姿に似たかった。


 義姉様は兄様と夫婦の契りを交わしたお方で大変女性的なお方だ。
 朗らかで身体も女性らしい。
 豊かな胸など見るたびにため息が出る。私とは比べるまでもない。
 七夜としては別に問題ないのかもしれないが、女性としては少し、いや少々、いやいや結構考えものだ。


 内心、なんで見てしまったんだろう、と思いながらさっさと着替えも済ませ、台所場に向かった。


 今日の朝餉は昨日の晩に食した川魚が余っているので、これを焼いてほぐす。
 しかしそれだけでは寂しいので、汁物と漬物を添えて彩りを増そう。
 あ、あと米も炊かなくてはならない。


 身支度を済ませた私は台所場に向かう。


 まずは米を炊く。
 あらかじめ井戸から汲んであった水で米を研ぎ、そのまま釜の中に。
 竈に運んだらさっさと炊いてしまう。
 火をつけるのは面倒だが、それも手馴れたもの。
 少しばかりの藁に火打石で火種を点ける。
 僅かな時間で火種がつき、それを竈の下に敷き詰めた藁に投入。
 そのままでは消えてしまうので火吹き竹を使う。


 暫く息を吹き続けていると火が点いたので、更に強く吹いていく。
 目に見えるほど火が安定してきたのでそのまま少しの時間放置しておく。


 七夜の里は人里離れた森の奥にあるので電気が通っていない。
 なので電化製品が使えない。これは少し面倒かも知れない。
 生まれた時から七夜にいる私にはあまり関係ないのだが。


「~~~~~~~♪」


 料理をしているうちにちょっと機嫌がよくなってきたので鼻歌交じりに竈で川魚を焼いていく。
 昨日採ってきたものだが、まだまだ鮮度はよく、取った直後にしめてもあるので味は大丈夫なはずだ。
 あ、ちゃんと下ごしらえはしたぞ?


 焼き加減を確かめながら、汁物を作ったり漬物を小皿に盛ったり。
 ちなみに私は白味噌が好きなのでいつも白味噌。
 今日はほうれん草や甘い人参を入れた野菜汁だ。
 肉は入っていないが野菜のほのかな甘みが絶妙だ。


 まあ、私だけが食べるわけではないのだが。


 用意する食事は二人分。
 魚は二匹だけ。川魚はこれで終い。
 この料理を食べるのは私と、私が世話をさせていただいているお子。
 いつも無表情で無感想。おいしいともまずいとも言わない。
 一度試しにとんでもなく苦い食事を一品用意したが、その時も何も言わずに食べ、むしろ作ったのは言いけれど食べられなかった私のものも食べてもらった。
 反省。


 と言うか私の話をちゃんと聞いているのかも怪しい。
 だからその子においしいと言わせるのが私の密かな目標だ。


 そうしているとちょうどいい時間となった。
 釜から炊き立ての米の香りが漂ってくる。
 魚もいい感じなのでそろそろだろう。
 釜の蓋を除くと蒸気がふわっと登ってきた。
 それもまた良い匂い。お米の甘い匂いが食欲をそそる。だからだろう。
 

 お腹から音がなった。


 くぅ、と小さな音。


 恥ずかしくて思わず辺りを見渡す。
 ちょうどよく人もいなかったのでちょっと安心。
 これが義姉様に見つかったら微笑みながら「早く食べましょうねえ」と言うに違いない。少し顔が熱い。


 落ち着いたところで、米、川魚、野菜汁に漬物を盛って朝餉を完成させる。
 今日の朝餉もおいしそうに出来上がっている。
 密かに料理を得意としている私としてもまあまあな出来ではないだろうか。
 見た目は少なめにも見えるが、朝の食事なのだからそこまで大目でもきっと食べられないだろう。


 それらを大き目の盆に二人分乗せる。
 では運ぼう。
 台所場を抜け、目的地を目指す。
 玄関に一度向かって草履を履き、無作法だが足で引き戸を開ける。
 場所はこの屋敷の敷地内にある離れ。小さい建物だ。
 この屋敷が大きいからか余計にそう思う。


 今、時刻で言うところの六時前ぐらいだろうか。
 いつも台所場から私が立ち去った後で義姉様が朝餉の準備を始める。


 どうせなら一緒に調理すればいいと思われるかもしれないが、私が早起きすぎるのと義姉様が朝に弱いので合わせることが出来ない。
 決して義姉様のマイペースに巻き込まれるのが嫌だとかそんなわけではない。
 

 離れには縁側が小さいながらもついているので、そこに越し掛け一度盆を置いておく。


「失礼します」


 襖から声をかけるが返事はない。
 これはいつものことだ。なのでそのまま襖を開く。


 するとそこには壁に寄りかかって座る子、朔がいた。


 目つきは鋭いのに茫洋な瞳はどこを向いているのだろう。
 天井あたりに顔を向けているが果たして天井を見ているのだろうか。
 私には判断できない。


 布団はしまわれているようで畳みの上には何もない。
 朔は大変早起きらしく、私が朔を起こすなどほとんどなかった。
 なので朔の寝顔などレア中のレアだ。


「朔さま、朝餉をお持ちしました」


 話しかけても朔は無言。
 しかし無反応ではない。
 いつも食事を取る自身の定位置へと移動する。


 その動きの何と滑らかなこと。
 重心がどの位置にあるか把握できない。
 私も七夜として幼少から訓練を受けてきた身だがこんな何気ない動きの中で訓練の成果、朔の才が見えるのだから凄いことだと思う。


 縁側に置いてあった朝餉を室内に入れ配膳。
 朔が座るのは部屋の中心。
 朔の目の前に一人分を配膳し、その対面にもう一人分、私の分を配膳した。


「では食しましょう」


 配り終わり、食事を開始する。
 ただ私はまず手をつけない。
 目の前で朔が食事を口元に運んでいく。
 それはほぐされた魚。
 食べやすいようにあらかじめほぐしておき、絶妙な塩加減と焼き加減をした今日の会心の朝餉。
 それを食べ、朔はどのような反応をするのだろうか。


「……」


 個人的な目標で内心緊張する。
 ただそれを悟らせるのは愚の極み。
 見かけは装い、朔を見守り続ける。
 ただ、悟らせたとしても朔が何かするとはとても思えないが。


 徐々に運ばれていく魚の身。
 それに合わせ少し開く朔の口元。
 ただそれだけの事だというのに時間が遅くなっていく。
 スローな時の中で朔の姿だけがリアル。
 無表情な朔。淀みの無い動き、そして―――――――。


「っ!!」


 はむ、と朔が魚を食した。
 そのまま味わっているようなわけでもなく咀嚼していく。
 口をもごもごと動かす仕草は無表情ながらに子供らしく少し可愛い。


 しかし、今は朔が反応をするのかが肝心だ。
 名残惜しい気もするがいったん我慢しよう。
 結果が肝心で、朔が反応を示すかどうかが重要だ。
 そして朔がおいしいと、その口で言ってくれるだけで、私には充分だ。


 そして嚥下。


 魚を飲み込み、そして朔は。


 美味いともまずいとも言わず、そのまま食事を進めていった。


「(……わかってた、わかっていたさ)」


 密かな挫折感があった。
 

 悔しいがそれを表に出すわけでもなく、二人は無言のままで食事を進めていった。
 うちひしがれるのは慣れている。

 □□□

 食事を済ませ、朔が兄様との訓練に向かった後、私は家の家事を行っていた。
 その時ふと思ったのだ。
 食器をかたし、洗い物をして、掃除。
 普段と変わらない、私の時間のことだった。


「(そういえば、もう七年経つのだったな)」


 竿に洗い物を干しながら、私はなんとなく思った。


 私が朔の世話を行って七年経つ。思えば随分と早い。


 兄様が連れてきた時など、生まれたばかりの赤子だった。
 世話をする人間がいないと知った私はすぐさま朔の世話係を名乗り出た。
 それが長兄の子であることに関係ないと言えば嘘になるだろう。


 七夜朔。


 私たち三兄妹の長兄の子。生まれた時には親を亡くした子。


 長兄は一族の掟を破ったことで名を排されており、その名を呼んではならない。
 私自身長兄に対し肉親だった感情はない。


 長兄は強かった。
 圧倒的な力量で、単純に言えば暴力で蹂躙する様を強かったと言うのは少し語弊があるかもしれないが、それ以上に私はその存在が恐ろしかった。


 七夜の者は退魔衝動を色濃く特出させる。
 そして長兄は通常の七夜より遥かにそれを継承し、その影響で長兄は本人の気質と交じり合い殺人に快楽を見出す人間だった。
 その姿、その在りかたが、私には長兄は魔物に見えた。
 私たち七夜に存する異物。人間のようなナニカ。
 私と血をわけたはずに人間を、私はそう思った。


 だから私は長兄からはなるべく離れて生きていた。
 長兄が死んだ一年前には気がおかしくなっていたため余計に遠ざかっていった。
 だからだろう、長兄が粛清されたと兄様から聞いた時、正直私は安堵した。


 これには私自身の気質も影響していると言えなくもない。

 
 私は七夜でありながら魔を殺せぬ七夜。
 色濃い退魔衝動は反転すれば、それだけ魔へ過敏ということだった。
 

 アレが恐ろしい、アレが怖い、アレは嫌、アレは死。


 そんな認識が脳髄に叩きつけられ、とてもではないが前線で活躍することは出来なかった。


 例え認識を克服しようとしても、本能的、あるいはこの身体、もしくは魂が恐れを抱く。
 ゆえにだろう。
 私は魔的なものに排他的だ。もとより私は七夜。それは最早本能に近い気質。


 しかし、私は私を許容することが出来ない。
 魔的なものがいる事も、生きていることも、呼吸をしていることも、地に立っていることすらも。
 思考の隅に過ぎっただけで、私は耐え切れなくなる。


 そんな私を七夜は当然のように受け入れた。
 七夜全てのものが退魔として生きれるわけではない。
 ゆえに私は七夜として活躍することも、女盛りでありながら誰かと契りを行うこともしなかった。
 跡継ぎの問題は自分には関係ないことだと、考えていた。


 そんな私に変化があったのは、朔の世話を始めた頃。


 そもそもなぜ私が朔の世話を名乗り出たのか。


 世話をする人間がいなかったこともある。
 当時の七夜に朔を世話する人間がいなかった。
 そして死した長兄の子、というものに興味を覚えたのかも知れない。
 狂気に飲まれた長兄が、手にかけなかった子。
 ただひとり生かされていた子が朔だった。


 もうどのような理由で名乗り出でたのかは正確には覚えていない。
 だが、一ヶ月経ち、半年が過ぎ、一年を跨ぎ。


 朔に目立ったことはなかった。
 いや、何もなかったといえば嘘になる。


 何も無かったということがあった。
 

 離れに放り込まれ、そこで世話を受けていた朔。
 だが、朔と関わる人間は私を置いて誰もいなかった。
 朔を連れてきた兄様でさえ離れには近づかず、存在を忘れているのではないかと思えるほど話題にすら上がらなかった。
 推論したところ、朔の存在は当時施行令が敷かれていた可能性がでた。
 ゆえに朔は当時存在していなかった可能性がある。


 だから朔が関わるのは私一人。
 この里の中で朔は誰にも知らされず、存在していない子。


 私が朔の歪みに気付いたのは直ぐだった。


 笑わない。泣かない。喋らない。


 たった一人で世話を行っていた私だったから分かったのかもしれない。
 あるいは、側に兄様という具体的な殺人機械がいたからかもしれない。


 子は訴える。
 生きるために訴え、そして生かされる。
 それは七夜の里の赤子も例外ではない。
 生まれえたばかりの子は生きようと反応する。


 だが、朔にそれはなかった。


 訴えようとしない。
 時折どこかを見ているのは知っているが、それはどこだったのかわからない。
 少なくとも私ではなかった。


 そして気付いた。
 この子は異常だ。


 だが、処理とは違うだろうとわかっていた。


 異常だ。
 確かに異常ではあったが、害はない。


 ただ、憐れだった。


 誰も側にいない子。
 誰も守ってくれない朔。


 そして何も訴えず、ただ在るだけの赤子。


 恐らくこの時、私は朔の側にいようと決めたのかもしれない。


 七夜ではない七夜の私が、始めて自分から進もうと決めた。


 朝になれば起こして食事を共に食べ、昼も夜も同じく。
 最初の頃は共に風呂にも入っていた。
 そのような生活がもう七年以上。
 朔は私をただの使用人風情としか考えていないだろう。
 いや、朔の思考の隙間に私がいるのかと不安に思うこともある。


 だが私が感じた七年は、朔と共に過ごした七年であると言える。


 そう思うと、少しだけそんな自分が誇らしい。


 干し終えた洗い物を見渡す。
 暖かな日差しにあてられたそれらは緩やかな風に踊っている。


 その中に一着だけ干された藍色の着流しが、ひときわ軽やかに揺れていた。

 □□□

「どうすれば朔と食事をとれるのだろうか」


「知りません。そうしたければ、そういえばいいのです」


「っぐ、それが出来ないからお前に聞いているのだ」


「それこそ知りません。そのようなことを意識したことなどありませんので」


 そう言うと目の前で当主、兄様は苦虫を噛み潰したような表情をし、私を睨む。
 ただそれはお門違いだと直ぐに考えたのだろう、兄様は落ち着きを取り戻したようだ。


 昼になると兄様との訓練が終了するので、朔との昼食を済ませた後(もちろん朔に反応はなかった)、母屋の囲炉裏の間で朔の着流しにほつれを見つけた私は裁縫を行っていた。
 長いこと家事を行っているので裁縫などお手の物だ。
 チクチクと裁縫を行っていると、その場に兄様が現われた。


「だいたい、今こうしている間に朔に会いに行けばいいのでは?」


「だが……俺は朔と何を話せばいいんだ?」


「(うざいぞ、こいつ)……兄様、別に無理に話さなくてもいいのですよ」


「何?」


 ほとんど補修が出来上がっていた時のことだった。
 ゆえに兄様に視線はほとんど向けず、手元のみを注視する。
 しかし応答は行っているので問題はないはずだ。


「何かを話そうとしなくても、共に過ごす時間が多ければそれだけで変わるものもあります」


「なるほど……」


 私のそれとない提案を受け、兄様は思案を深め、言葉を止めた。


 その思案顔を見て思う。
 兄様が変わったのは兄様のお子、志貴が生まれたからだった。
 それから兄様は憑き物が落ちたように豹変し、その影響で七夜は退魔の生業から離れることとなった。


 それはいい。
 退魔業から抜けた七夜は平穏そのもので、実に穏やかな日々を私自身過ごしている。
 それを得難いものだと気付いたのは、私自身の進歩だろうか。
 あるいは業を深めた一族の末路と考えれば退化と呼んでも差支えがないのかもしれない。
 けれど、私は今の空気が好きだ。
 元から事情により前線に出ることの出来なかった私には、あまり関係ないことと思われるかもしれない。
 だが、七夜の雰囲気が変わってきていると肌で感じている。
 里に生きて戻らぬ者も在り、日々暗澹と殺人術を磨き続けた七夜とは一変し、実に安穏とし、温もりのある里になりつつある。
 これは、素晴らしいことだろう。


 しかし、懸念するのは朔のこと。


 朔はこの七夜が過ごす平穏とは隔絶された場所にいる。
 朔は人とのかかわりをほとんど持っていない。
 兄様、翁、私、そして最近になってそこに志貴が加わったが、それだけだ。
 温もりがわからず、温度の有難みがわからない子。
 それは一体どうしてかと、考えた時、要因が目の前にいる兄様にあるのではないかと思いついた。


「(ただ、それも今更なのかもしれないな……)」


 確かに要因かもしれない。
 だが、それを考え始めたのが最近。
 動き出すには遅すぎたのだろう。
 根付いた習慣は拭えず、朔は以前の兄様のような性格になりつつある。


 それをわかっていても朔を変えることの出来ない自分が腹立たしい。
 思考に行動が追いついていない私が言える事ではないのかもしれないが。


 ……そういえば。


「以前翁と話し合っていたご入浴の件はどうしましたか」


「……」


 兄様が固まった。
 いつだったか朔と一緒に入浴したいと兄様は言っていたが、今ではすっかり話を聞かなくなっていたのを思い出した。


「それが、なあ……」


 硬いままに兄様は私に視線を合わせず妙に動揺していた。


「俺が提案してもだいたい朔は既に入っている状態がほとんどでな……」


「それで、本当は?」


「いや……、一度断られてから、全く聞いてもいない……」


「このへたれが」


 一蹴した私は決して悪くはない。

 □□□

 どんよりとした空気を纏い始めた兄様を無視し、修繕の完成した着流しを離れに持っていく。
 この時間帯、兄様との訓練が終わり食事を済ませた朔はだいたい離れの中にいることが多い、というかほとんどだ。
 それは朔自身が用もないのに外出することを理解していないかもしれない。
 しかしそれ以上に兄様の訓練が厳しいことに尽きるだろう。


 兄様はあれでも七夜で一の強さを誇る七夜の当主。
 その力量は折り紙つきで、七夜の鬼神とは兄様を指す。
 混血の天敵として恐れられ、前線を離れた今もなおただただ強い。
 その強かさはほとんどの七夜では対応が出来ないほどのもの、なのだが、それに朔はついていっているとのことだ。
 しかも、時たま兄様を凌駕しようとさえしていると聞く。


 それを聞いて、少し嬉しくなり、そして悲しくなったのはいつの日か。


 朔には才があると知り、嬉しくないはずはないだろう。
 私が朔を今まで育ててきたと考えるのならば、自分の子供のように育てている相手が褒められるのはいいことだ。


 だが、今の七夜でその訓練が必要なのだろうかという疑問は尽きない。
 退魔組織から抜け、人里離れた場所に住まう七夜に、必要はあるのだろうか。
 外敵から身を守ると考えればいいのかもしれないが、それは大人の仕事であって、朔のような子供には訓練もまだ早いと感じる。


 ただでさえ朔は訓練を開始するのが早かった。
 未だ歩けたばかりの子供に課すには疑問を抱く事態。
 だが結局兄様の当主としての命令で、朔は訓練を行わされた。
 そして兄様の訓練は苛烈。
 ただの子供が行うにはあまりに厳しい。それに朔は追随していると言うのだ。


 もう七夜は退魔ではないのだ。
 だからそれだけ鍛えられても、ほとんど意味は無いのではないのかと、私は思い、そして過酷なことをさせている朔が文句を言わずに過ごしていることが、悲しかった。


「おや?」


 離れにやってくると、離れの中に朔以外の気配を感じた。
 襖の中を覗いてみる。
 堂々とすればいいのかもしれないが、ちょっとした好奇心だ。


 ……あとで気付いたが、襖を覗いている私の姿はなんと間抜けだったのだろうか。


 そして中を覗いてみると、なんとそこには横になって眠りについている志貴と朔がいた。


 志貴が朔と距離を縮めたのは最近のことだった。
 理由は結局わからずじまいだが、朔が誰かと仲を結ぶのは大変いい事だ。
 ただでさえ人との関わりのない朔に近しい人間の有無は微妙なところだろう。
 私は言うに及ばず、兄様や翁に繋がりの情を感じているのかも怪しい。


 だから志貴の存在は稀有だ。
 得がたい存在だと思う。
 従兄弟という関係ではあるが、今まで近づいていったこともなかった。
 それに歳が近い。ほとんど同い年同士だ。
 志貴にはぜひとも朔とより仲良くなって欲しいと思う。


 二人はお互い近づいて眠っている。
 志貴のみが一方的に朔へと近づいているだけかもしれないが、志貴に手が朔の着流しを掴んでいる。
 その光景は微笑ましく、温かみのある絵だ。


 ただその光景は少しばかり私には刺激が強い。


「(おっと、よだれが)」


 どうにも小さな子供が愛らしい姿にあると興奮してしまう。
 これはきっと性だ。
 致し方のない事である。
 それを人はショタコンと呼ぶが、断じて違う。
 この感情はそんな俗物的なものではなくもっと高尚で偉大なものだ。
 そんな性的興奮とは訳が違うのだ。断じて。
 それに私が注視しているのは朔である。
 世話役の義務として対象の成長を見守るのは当然。
 そこに私的感情を挟む余地はない。


 嗚呼、しかし無防備に眠っている朔のなんて愛らしく可愛らしい事だろう! 


 今でも精悍の片鱗を垣間見せるが、順調に育てば里一の男になるのは間違いない。
 容姿的な意味でも、技量の部分としても最も当主の座に相応しい男となるのは朔に他ならないだろう。
 その時が待ち遠しく、また心のどこかで怖いと感じている己がいる。
 朔が当主となれば伴侶が必要だ。
 それは本人の意志とは関係ない。
 その時、朔の隣にいる見知らぬ女の姿を想像するだけで虫唾が走る。
 唾棄すべき想いだとは理解している。
 けれど、それとこれとは別問題なのだ。
 朔を生まれたときから世話をしているのは私以外の他におらず、また唯一朔と接触できる女は私しかいない。
 つまり私は朔と最も近い血縁という事もあり、契りを結べる第一候補と言っても過言ではない。
 その時、他の女共が指を咥えて羨ましがる姿を想像するだけで愉悦が背筋を駆け巡る。
 嗚呼、しかし朔はやはり可愛いなあ、おい!


 そう遠くない未来を思い描いて私は一人ニヤニヤとする。


 最も、朔が当主となるのは微妙な所ではある。
 何せ朔の立場は大変危ういバランスによって保たれており、それは何かひとつの衝撃で簡単に崩落してしまう可能性を孕んでいる。
 一族から排された男の子供、というだけで朔は危険因子の目で見られてしまうと言っても過言ではないのだ。
 故に、なるべく私と翁はそれを秘匿し、朔を外部から隔絶するような形で育ててきた。
 それが正しかったのか、間違っているのかは今でも分からない。
 しかし、実力主義である七夜を考えれば朔が当主となるのはそう難しい話ではないのだが、それだけに長兄の実子であるというのはネックだ。


「(まあ、朔なら問題あるまい)」


 何せ黄理が手解きを行っているのだ。
 当主が目をかけているという事実が衆目に触れている時点で、私たちの狙いはうまい具合に働いている。
 後は順調に朔が育つのを待つのみだ。


「貴女は、見ていますか? 貴女の子供は立派に育っています」


 私は一人、襖を閉めた後にここにはいない誰かへと呟いた。

 □□□

『もし、ですけど』


 何気なく、彼女は口火を切った。


 柔らかな母としての笑みを浮かべながら。


『私に何かあったときは、この子は貴女に任せますよ』


『……それは』


『ふふ、もし、もしもの話ですよ。けれど、優しい貴女に育てて欲しいというのは私の本音』


 心の奥底に仕舞いこんだ秘密を解き明かす恥ずかしさに顔を染めながら、彼女は言った。
 けれど私は彼女の言葉の真実がどこにあるのか察することが出来ず、ただ戸惑いを覚えた。


 自らの子供を託す事にも違和感を覚えるが、果たして彼女は本心から私を買い、任せると言うのだろうか。
 私は役立たずの七夜だ。
 前線に出ることも出来ず、また七夜としての宿命を全うにこなす事も出来ない、正に出来損ないでしかない。
 故に、誰かに任された役目を果たせるとは、この時は想像出来なかった。


『……』


『誰よりも臆病で、誰よりも痛みを知る貴女にこそこの子の行く末を見守って欲しい。それはもし私に何かあったらだけではなくて、一緒に見守って欲しいという事です』


『滅多な事を言うものではありません』


『あら、何事も想定するのは七夜の領分よ?』


『それは、確かにそうですが……』


 彼女言い分も、分からなくはなかった。


 例え七夜の森という要塞の中にいようとも身の危機はいつも側に寄り添っている。
 その死神がいつ命を食い破るかは定かではない。


 故にこの人は私に託すのだという。
 母でもなく、また七夜としての使命を全うにこなせるはずもない私に。
 そのような資格の一切を持っていないのに。


 けれど、あの時見せた瞳の深遠に微かな感情の揺らめきが映し出された。
 それはすぐさまに消え去ったが、決して見逃したりはしなかった。
 託すものだけが持ちえる、精神の眩い光。


 ……もしかしたら、彼女はすでにこの時、己の命がそう遠くない未来に散りゆく事を知っていたのかもしれない。


 全ては過ぎ去った後の妄想に過ぎないが、あの時交わした視線の透明な瞳は、そう思わせる説得力を秘めていた。


『だから、お願いしますね』


『……はい』


 それはいつかの夢物語。


 春先の微風に吹かれながら、一人の女と母が交わした口約束。


 けれど、私はその約束をまだ、守っている。


















オリキャラ紹介

 叔母。
 七夜黄理の妹にして朔、志貴の叔母にあたる人物。本名は未だ知れず。
 退魔反応が強力すぎて魔に反応しすぎる弊害を抱えており、魔の気配に極度の恐怖を覚えるため前線に赴く事が出来ない運命を持つ。
 故に早々と婚姻を交わし、子を成す事を求められているが朔を育てるという約束のため未だ誰とも契りを交わしていない。
 もし、朔が順調に育てば血の濃度によって嫁の第一候補として彼女があがる。つまり、正ヒロインの座に座ることも不可能ではない人物。
 好きな事は家事、専ら危ない事は苦手。
 容姿は黄理に似ており、彼が女となればこのような姿となるに違いないと思わせるほどの鋭利な雰囲気を醸しだす女性。
 肉づきは悪く、良く言えばスレンダーな肉体をしている。
 口調は固く、時に凶悪な言葉さえ放つ辛辣な面を見せる。
 キャラクターイメージはACFAのオペレーター。
 元々あまり必要事項以外は口にしないタイプであるが、胸の内は妄想逞しい女性である。
 言うまでもなくショタコンであり、子供が大好き。
 好きというより愛している。無論ラブな方で。
 それは魔への強力な反応から来る怯えの裏返しでもあり、脅威が低い相手であればあるほど安堵と依存を覚える。
 ちなみにショタコンが覚醒したのは朔の世話を始めてからであり、それまでは何かを興味を覚えるような事はなかった。
 青い果実をもぎ取る未来を今か今かとタイミングを見計らっているとも言えるだろう。
 七夜では珍しく一族の宿命に懐疑的な思想を抱く人物であり、朔の訓練をあまり快く思っていない。
 とは言え、高められた実力によって彼が当主の座についた場合を想像し、隣に己がいると想うだけでニヤニヤする。
 朔を育てているという自負心を持っており、最初それは興味本位の部分が強かったが、朔の実母に当る人物との口約束もあり、本当の愛情を持つに至った。
 しかし、母性と性的欲求を綯い交ぜにしている部分があるため、その愛情がいったいどこから来るのかは甚だ疑問。



[34379] 第四話 骨師
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2012/09/10 08:36
 それは、おそらく運命と呼ばれるものだったのだろう。
 

 男はそのような曖昧なものを信じるほど夢を見るたちではなく、非常に現実主義な男だったはずだ。
 一族を束ねる棟梁としてそういう生き方を選び、行動してきた。
 時には身内を切り捨てて一族を永らえさせたこともある。
 そのようなモノとなるよう自身を戒め、そのように自身も、自覚していた。


 だが、この肉体を燃え焦がす激情を抑える術を、男は知らなかった。


 ともすれば身体が内側から破裂してしまいそうな感覚。
 血が煮えたぎり、骨が熱せられ、肉が震える。それは歓喜の感情。
 思考はそれに塗りつぶされ、精神はそれに押しつぶされている。
 このような感覚は知らない。今までに無い、経験もしたことも無い感覚。
 それが肉体を駆け巡り、そして、それに陶酔しきっている自分がいた。



 だからこれは運命なのだろう。



 その時、男は一人の少年と出会う。


 少年の名は七夜朔。


 男が自身の全てを捧げる子供である。

 □□□

 その日、七夜黄理は当主として自身の屋敷の客間に座していた。


 太陽は天に差し掛かり、少しばかり冷たくなった空気を温めようとしている。
 季節はそろそろ秋になるのだろうか。
 一族が住む森も鮮やかな彩りを見せ始め、生き物はそろそろ冬支度を始めようとしている。


 最近では二足歩行のキノコが増え、報告によれば多数の群れが確認されている。
 秋だからだろうか。どうやら繁殖しているらしい。
 それが群れを成して回転をしながら浮遊していたということらしいが、生憎と黄理は今だ目撃していないので何ともいえない。
 差したる被害があるわけでもなく、ただ浮遊しているだけなので今のところは放置している状況である。
 ただきのこは緑の傘には白い斑点、そして目のあたりがやたらと輝いているらしく、それが群れを成して浮遊している様はオカルトでありながら少々コミカルだ。
 結界強化をしまくった影響から生まれた突然変異種の中では特に進化した植物(?)として恐れられているとか。


 現在、黄理は客間にてしばらく目を瞑っていた。
 この時間帯、いつもならば朔の訓練時間である。
 早朝から始まり昼となって天上に太陽が昇るまで行われる訓練は、訓練と言う大義名分を使った朔とのふれあいタイムである。
 その時間だけは黄理が朔の面倒の一切を見ており、他のことは後回しにすることが一族の暗黙の了解だったりする。


 しかし今日はそれを行なっていない。
 と言うのも黄理に客が来るからである。


 七夜は退魔組織を抜け出してからは人里離れ閉鎖された空間で生きているが、それでも外部との繋がりはある程度存在している。
 それは情報の交換であったり資源の回収であったりと、いくら一族が励んでも足りないものは多い。
 ゆえに外部との繋がりは切っても切れないのだった。


 そして今回訪れるものは七夜に於いても重要な存在で、蔑ろにすることの出来ない相手である。
 七夜とのつながりも長く、黄理の先代から交流が行われているため黄理が相手をしなければならない。
 ゆえに黄理は今日ばかりは朔の相手が出来ず、泣く泣く訓練の中止を申し立てたのだが。


「翁め……」


 その一言にありったけの罵詈雑言怨念憎悪を込めて呟くが、果たしてそれは届くはずも無い言葉であった。


 訓練を中止したは言いものの、それでは朔はどうするのかというちょっとした問題が起こったのだが、それを解決したのが七夜のご意見番にして黄理の相談役でもある翁である。


 黄理が朔の相手を出来ないと決まると、朔の座学教授として名乗りを上げたのだ。


 朔には座学をあまり行わせていない。
 黄理としてはそういうものは実戦で学ぶことで必要なものは自然と身につく。
 興味を覚えれば自分で調べ研究するだろうと考えていた黄理は朔に対し座学をやってこなかった。


 それに待ったをかけたのが翁である。


 確かに実戦から覚えることもあるだろうが知識は必要である。
 知識を学んで備えを知れば選択の範囲も広がり、敵の対応にも役に立つ。
 それを蔑ろにしてはならない。


 大体その考え方は黄理を対象に前提とさせた話である。
 人体をどれだけ巧く停止させるかを探求していた黄理は興味の幅は狭いが、それなりの武術などには興味を覚えていた。
 しかしそのように活発的な七夜は稀であり、黄理にのみ限定したことであった。
 だから前提からしていかがなものか、とそう言い争って長いが、今回黄理が相手を出来ないということで翁が名乗りを上げたのである。


 朔はほとんどを黄理との組み手で費やし座学をほとんど行っていない。
 それに対して危惧を抱いた翁は朔の世話を行う叔母と共謀することで今回の運びとなったのである。


 事実今日黄理は朔と会っていない。
 訓練は無いが顔を合わすぐらいは構わないだろうと来客が来る時間前に思った黄理は朔がいるはずの離れにむかったのだが、


「おや。御館様」


 なぜか翁がいた。


 翁は畳に座り茶を啜っていた。
 正座で湯飲みを傾けるその姿はいっそ優雅と言える。
 だが離れにはなぜか朔の姿が見えない。
 それに疑問を抱いた黄理は朔の居場所を聞いてみたのだが、


「さあ? 私も存じませぬなあ。ご自分でお探しになったらいかがですか?」


 なにやら好々爺の顔に人を食ったような色を混じらせてのたまったのである。


 それを聞いて黄理確信。


 こいつ会わす気ねえ。


 だいたいこの時間帯に翁がここにいるのがおかしい。
 翁は当主の補佐を任された人材で、今の時間は来客を出迎えているはずである。
 里は結界を張らせていて普通に危ない。
 なので来客には案内役が必要である。ただでさえ広く雄大な森で、突然変異種やら植物に襲われたら堪ったものではない。
 そしてその案内役には翁を指名していたのだが、


「おやこんな時間でしたなあ。私もついうっかり和んでしまいました」


 なんか翁は目の前にいる。


 本来であるならば案内役は今森のルートにいるはずである。
 しかし翁が離れにいるということは、おそらく案内は他のものに任せたのだろう。
 でなければこんな落ち着いて茶を飲んではいない。
 しかしそれはなぜだ。
 なぜそのようなことを、と考えた結果、翁が何かしら謀をしていると導き出したのである。


 では朔はどこだ、と考えた黄理は翁なんかにわき目も振らず朔がいそうな所に手当たりしだい出向いたのだが。


「おや。御館様」


「これまた奇遇ですな御館様」


「そろそろお時間ではないですか?御館様」


 そのことごとくに翁がいた。


 離れ、母屋、鍛錬場、はたまた確立は少ないが広場。
 片っ端に探してみたものの翁としか会わない。
 朔には会わないし志貴もなぜかいない。


 そういえば近頃になって志貴が朔となぜかしらいる。
 それはいままでにはなかったことで、朔が拒絶もしていないことから、それまで顔馴染み以下の関係でしかなかった志貴がどうやって朔に近づいたのかと思いはしたが、結果としては良いことである。


 未だ成功もしていない『朔の黄理父さんは発言イベント計画』には大きな足がかりであると言えるだろう。
 志貴の父としては嬉しいことである。
 ただその自分に朔がそのような感情を抱いてないと感じている黄理としては残念である。
 実際自分よりも先に朔と心理的距離を縮めた志貴に少しばかりの嫉妬心を抱いたとか抱かなかったとか。
 兎に角今後も朔との仲をよくするのは黄理的最重要事項である。


 その朔になぜだか会わせないように動いている翁は黄理からすれば大変うざい。


 先代から七夜のために尽力する翁の存在は一族にとっても黄理個人にとっても欠かすことの出来ない存在である。
 その知識、経験、修羅場を幾度と無く超え、死線を幾つも潜り抜けた胆力。
 得がたい人材だと黄理は思っている。


 が、こればっかりはさすがにない。


 彼が貴重な存在だとか欠かすことのできない人材だとか、そんなこと一切関係なく黄理は思わず本気の殺気を翁に叩き込んだ。
 退魔から退いたとはいえ、鬼神として今もなお恐れられている男が放つ殺気は、胆無き者が触れればあっけなく気がやられ、動物は本能のままに逃げ出す。
 それを翁に叩き込んだのである。黄理実に大人気ない。


 しかし翁もさる者。
 そんなの全く関係ないと涼しい表情で受け流した。しかも若干鼻で笑った。


 なんだこいつはと思った黄理は臨戦態勢に突入しようとしたが、来客の時間になってしまい、有耶無耶になってしまったのである。


 ゆえに現在黄理は少しばかり朔成分が足りていない状況である。
 朔成分ってなんだろう。


 客間で見かけ泰然としているものの、少しばかり落ち着きが無い。
 果たしてどうしたものか、むしろ翁どうしてくれようかと考えを巡らせていると、襖の向こうから人の気配が近づいてきた。


「御館様。刀崎様です」


 襖の向こうには翁がいた。
 あいつめぇ、と内心思ったりしたがさすがに客が来ているのに怒気は発しない。


 そうして襖の向こうから男が現われた。


 男は、妖怪のような老人だった。


 座布団に座る黄理からすればそびえるような高さの身長。
 2メートルを優に越える身長で、着ているのは擦り切れた着物でよくよく見れば、筋骨隆々な肉体をしていたが、着物から覗く手足が不自然なほどに長く不気味な印象を与える。


 更に特筆すべきはその顔だろうか。
 深い皺に豊かに蓄えられた白髪と白髭。
 それだけ見ればただの老人に見えなくも無いだろう。


 だが、そのギョロリと大きすぎる眼が無ければの話だが。
 その風貌から黄理には伝承に残る妖怪爺に見えて仕方ない。


「邪魔するぞい、糞餓鬼」


 妖怪は合わさりあった金属のような声を軋ませ、不遜に備え付けられた座布団によっこらせ、と声を上げ座した。


「お前と会うのはいつ振りだ糞餓鬼」


「さてな。もう覚えていない」


「全く。お前らが退魔業から離れたと聞いたときは驚いたもんだ。混血からは鬼神と呼ばれた男の突然の引退。冗談にしては呆れたもんだ。ったく、お前は何様だ」


「それこそ分からん。それより梟。来訪とはどうした。早くに用件を話せ。こちらもそれほど暇ではない」


「うるせえこの糞餓鬼が。久しぶり交流を楽しむことも知らんのか」


 そう言い妖怪、刀崎梟は快活に笑った。
 

 刀崎。


 混血の宗主遠野の分家のひとつ。


 そして刀崎梟は刀崎の現棟梁である。


 混血と混血の暗殺を担う退魔の一族だった七夜が交友を結んでいるのは少しばかりわけがある。


 混血は人と魔が交じり合った者のことで、それは超越者であったり幻想種であったりと種は多々いるが、日本において混血とは鬼種と交じり合ったものを指す。
 そしてその混血を纏め率いる立場にいるのが遠野と呼ばれる混血の宗主たる家である。


 その宗主である遠野の当主はある特別な務めが存在する。
 それは反転した者の処刑または処罰である。
 そのため混血は退魔とは時には協力関係を結び、時には天敵となる存在なのである。


 その一例が今黄理の目の前にいる老人、梟である。


 刀崎と七夜は協定が結ばれており、黄理の先代から交流が行われている。
 それは七夜という武装集団と刀崎の相性が悪くなかったからだ。


 刀崎は骨師と呼ばれる鍛冶師の一族である。
 武具を鍛造し、刀を鍛える刀崎と暗殺に武器を用いる七夜は売り手と買い手という関係が昔に生まれ、そのおかげで協定が結ばれた。


「お前、変わったなあ。機械だった糞餓鬼はどこに消えた」


「……消えたわけではない。ただ、他の生き様を見つけただけだ」


「はっ。今のお前は詰まらんな」


 人を馬鹿にするような笑みを浮かべながら、いつの間にか入れられた茶を啜る梟は一拍おいて、


「どうも遠野に動きがある」


 と言った。


 □□□


「対象が自分よりも強い存在ならばどうしますか?では志貴様?」


「ん~っと。一度退いてから倒せる準備をする?」


「それもひとつの手で御座います。しかしそれは七夜としては正しくありません」


「そうなの?」


「そうで御座います。では朔様?朔様はどうしますか?」


「殺す」


 朔は臆面無く、瞬時にそう答えた。


 そこは里にあるこじんまりとした平屋である。
 当主の屋敷からは少し離れた場所にあるそこでは現在、朔そして朔についてきた志貴への座学教授が行われていた。


 指南役は翁。長机に並んで座る朔と志貴を相手に和やかな雰囲気で座学を進ませている。
 生徒役の一人である志貴はなんだか楽しそうにそわそわとしながらこの時間を楽しんでいるようだ。


 それに対し朔であるが、こちらは微動だに動かず、楽しいのかつまらないのかも分からない無表情。
 その茫洋な瞳は果たして翁を見ているのだろうか検討もつかない。


 今日は朔の訓練が行われなかったため、翁が訓練の時間を使って座学を教え込んでいた。
 そのために朔の世話を行う叔母と共謀し、来客のある今日に計画を決行。
 そして黄理の行動を先回りすることで今回の実現と相成ったのである。


 朔は才のある子供で、子供の中では里一番の成長を見せており、その成長速度は黄理が瞠目するほどのもの。
 だがいかんせん戦闘訓練ばかりである。
 これはいかんだろうと前々から翁は危惧していた。
 何事にも座学は必要だ。
 ついては思考力を備え、戦闘での思考停止を減少させ、生きる確立をあげる七夜にとっても欠かすことの出来ないものである。
 だが黄理が如何せん戦闘訓練を重視するばかり朔には座学が全く行われていなかった。
 確かに実戦でのみ得られることもあるという黄理の言も分かる。
 知っている事と分かっている事の差だ。
 事前に知識として得たものが実戦に於いて通用しないことなどごまんとある。
 実戦でしか得られないことがあることもまた事実。
 だが、それでも知識は身を救う。それが長年七夜として生きた男の言である。


 そういう訳で黄理から朔を一時的に切り離すことで座学を行い始めたのだが。


「朔様……。確かに結果的にはそうではありますが……」


「やることは変わらない。殺す。相手が強くても殺すことに変わりない」


 いかんせんこの様である。


 黄理の訓練の賜物かはたまた影響か、朔は非常に極端な思考を持っていた。
 戦闘での問題では七夜として相応しい答えを持っているが、それもまた非常に極端的である。


 曰く、殺す。それだけ。


 それが戦闘における座学で朔が持ちえるたった一つの答えだった。
 それにいよいよ焦りを感じ始めた翁は志貴にも問題を振るい、選択の幅を広めようとするのだがどうにも功をそうしていない。
 志貴の答えを全く聞いていないとは思えないが、歯牙にかけていない様子。
 志貴は志貴で朔にかっこよさを見出しているらしく、朔が答えるたび瞳をきらきらと輝かせて尊敬の眼差しを向けている。
 どうしようもない。


 だからと言ってここで諦めるのは翁に在らず。
 これぐらいの困難幾度となく超えてきた。


「まあ、実戦はこれぐらいにしておいて、次いでは七夜が持つ魔眼についてお教えしましょう」


 とりあえず切り口を変え、攻めを変化させてみた。


 七夜の一族は超能力を保持している。
 七夜は本来一代限りの超能力を近親姦によって色濃く継承し、退魔としての活動を可能とさせた一族であり、一族の人間は無制限で超能力を保持している可能性が高い。


 そして、七夜が保持し、望まれ、多くいるのが淨眼と呼ばれる魔眼の一種である。


 それは魔術師などが行使する一工程の魔術行使ではなく、本来から備わっている能力である。
 目としての機能と認識能力の向上によって備わった視界は通常では視えないものが見えるもので、七夜の淨眼は本来見えないものを視るという能力を期待されたものだ。
 しかし、もちろんそれが継承されないものもいる。


「七夜の魔眼は見えないものを視る能力です。しかしながら一族の人間全てが同じものを見るというわけではありません。私のように継承していない者もいれば、御館様のように人間の思念を視れる方もおられます」


 翁は魔眼を保持していなかった。
 それに気付いたのは早く志貴と同じ頃のことだった。
 そんなの関係ねえ、と叫んで敵陣に突っ込んだ記憶が懐かしい。


「思念って何なの?」


 志貴が不思議そうに首を傾けた。


「思念とは思っていることで御座います。人間が内で考えていること、それが思念です。普通それは視えないものですが御館様は視えます。この能力は淨眼と呼ぶには余りに弱いもので御座いますが、御館様はこれを用いることで多くの暗殺を完遂しておられます」


「どうしてなの?」


「志貴様は気配の消し方を習いましたか?人は気配を隠せても、思念は隠せないものなのです。ゆえにそれを辿ることで隠れたものさえも見つけ出し暗殺されたのです」


「へえぇ、お父さんすごーい!」


 志貴が父である黄理の株を上げているが、これを知った黄理がほくそ笑む姿が思い浮かぶ。
 しかしながら朔は反応もしていない。
 こうやって他人から黄理の評価を聞くことで朔の反応も変わるのではと少し考えてのことであったが、それは失敗したらしい。
 少し無念。だがここで終わってはならないだろうと話を振る。


「しかし、朔様は御館様に聞くところ魔眼は未だ発現されていないとか」


「はい」


 こうやって素直に肯定する様は同年代の子供たちと変わらないのだが、無表情で頷くのは少しばかり怖い。


「ふむ……。私は魔眼を持っていないので何とも言えませんが、どうですか?普段不可思議なものが視えるということはありませんか?」


「ない」


「ふうむ……。こればっかりはその人のものですからなあ。外部からの影響から発現することもあると聞きますし、これから焦らずに待つのがよろしいかと思われますよ」
 

 ただそれがいつになるかは誰にも、その人にも分からない。
 魔眼、引いては超能力の発現とは本人の素養によるもの。
 他人にどうこうできるものではない。少なくとも、魔術師等の魔道を用いえぬ限りは。
 教授を進めようとすると、一族の者が休憩用に茶と菓子を少々持ってきた。
 時間的にもちょうどいいのでそのまま休むことになった。


 □□□


「遠野がどうした」


 眼前で茶を啜る梟を睨みつけ、黄理は言った。


「さあてな。詳しくは俺も知らんぞ。ただ遠野が何かしらの動きを見せた。ただそれだけのことだ」


 梟は黄理の視線を気にするわけでもなく不適な態度を見せるのみ。
 しかしその内容が、それだけ、という話ではない。

「お前、そういえば槙久の野朗を半殺しにしたらしいじゃないか」


「そんな事も確かにあったな。つまり、その意趣返しだと?」


 混血の宗主遠野。
 古来に鬼種と混じった最も尊き混血。
 表向き巨大財閥として活動しているが、その影響力は計り知れず。
 分家も多く刀崎もその一員だが、おそらく組織としては日本一の規模を誇っている。


 その遠野が動く。
 しかも刀崎の報告から秘密裏のことである。
 何やらきな臭い、不穏な空気を感じる。
 七夜は退魔組織を抜けたが裏の人間であることは変わりない。
 前線から退いたとはいえ、黄理はそのようなことに鼻が利く。


 遠野の動き、狙いを考えるが何もわからない。
 これは長く生業から離れたこともあるのだろうか。
 勘が鈍っている可能性がある。


 だが、それでも黄理は七夜の当主。一族最強の男である。


 いざというときには……


 すると、その時、拉げた笑い声が聞こえた。


「ひひひひひひひひひゃひゃひゃひゃひゃ」
 

 それは目の前にいる梟の笑い声で、何とも耳障りな笑い声だった。
 金属が擦れ合わさる悲鳴のような音が客間に響いた。その様は真実妖怪のよう。


「なんだ、梟」


 内心苛立ちまぎれに声を突き刺す。
 しかしそれを受けても梟の笑い声は止まらなかった。


「ひひひ……。ああ、ああ!笑った。笑ったぞ黄理。久しぶりに面白かったぞ」


「……」


「糞餓鬼。さっき変わったっつったが、あれ訂正するぞ」



「糞餓鬼、お前全く変わってないな」


「……」


 ぴしり、と黄理は固まった。


「機械じゃないなんていって悪かったなあ。お前は変わらん。変わるはずがない。人間がそんな簡単に変わるはずがねえんだよ。俺らの原始は動かない。変わるはずがねえのさよお」


 そういって、梟は未だ愉快そうにくつくつと笑う。


 しかし黄理にはそれが受け入れられない。
 朔を引き取り、志貴を授かってから黄理は変わった。
 憑き物が落ちた黄理は自他共に認めるような変化があった。
 それはただ人を殺めるだけの機械が始めて温度を得たのである。


 それを変わっていないと、変わるはずがと、目の前の妖怪は言う。


 そして、今の黄理にその言葉は許せるものではなかった。


「訂正しろ梟」


 若干の殺気を込め梟に言う。
 それはいつでもお前を殺せるという黄理の自信だった。
 そして黄理は事実目の前の妖怪を殺そうと思えばいつでも殺せる。
 梟自身は戦闘は可能としているが刀崎の生業が戦闘向きではないのであまり戦闘を行わない。


 ゆえに殺し合いの場では不利。


 だと言うのに、妖怪は、刀崎は、梟は、侵しそうに笑う。


「何だ。気付いてないのかお前」


 それさえも可笑しそうに、


「だって手前、殺人機械の顔になってるぜ」


 そう言った。


 それは、黄理に衝撃を与えるには充分なものだった。


 殺人機械? ……殺人機械?


 誰が?俺が?


 そうして黄理は自らの顔に触れた。
 

 硬く、機械のように冷たい無表情がそこにはあった。


「ひひひ……。全く、わからねえ野郎だ。詰まらんヤツだと思えば、いつの間にかいつものお前だ。俺が知っている糞餓鬼だ」


 そうして笑い疲れたのか、茶を飲んで梟は笑いを収めた。


 しかし、その言葉が黄理にどれだけ突き刺さったのか、梟は理解して言っているのだから質が悪いと言える。


 昔から梟はこのような男だった。
 変わらないと言えばこの男も変わらない。


 先代当主に付き従い、始めて出会ったときもこの男は黄理を糞餓鬼とのたまい蔑ろにしていたが、それは今でも変わらない。
 そう言えばその頃から梟は刀崎の棟梁だったはず。
 一体年齢はどれほどなのだろう。
 不老と聞いても案外納得しそうな自分がいることに黄理は気付き、少しばかり口元にニヒルな笑みが浮かんだ。
 いつの間にか動揺は消えている。消えていくだろう。


「へ、また詰まんねえ奴に戻りやがって。詰まんねえ糞餓鬼は嫌いだ。俺は帰るぞ、こんなわけの分からんとこさっさと退散するに限る。おい糞餓鬼、俺はここにたどり着くまで空を飛ぶキノコを見てるんだぞ。なんだあいつ幻想種か?いつのまにここはテーマパークになってんだこら」


 キノコの存在を訴える梟の姿がなんだか無性に面白い。
 それを見て驚愕する梟の姿を想像すると余計におかしい。
 キノコと対峙して目をひん剥く妖怪。
 シュールにも程がある絵だ。


 しかし、次の梟の言葉は聞き捨てならなかった。


「そういや、糞餓鬼。お前子供いたな。おい、いつ二人目生んだ?糞餓鬼の子が二人いるとは聞いてなかったぞ。会わせろ」


 □□□


 最近、志貴が身近にいることが多い。
 それが良いことなのか悪いことなのか朔には判断しかねるが、おそらくあの日、志貴が朔の離れに訪れたときからだろうか、次の日から志貴が離れに訪れることが多くなった。
 朔が住む場所は当主の屋敷の敷地内であり、朔が住んでいるのはそこの離れに当たる。
 志貴はその屋敷の母屋に住んでいるので、当然顔を見ることもあった。
 だがそこに会話もなく、離れに訪れるような関係でもなかったはずだ。
 しかし、どうだろう。
 事実志貴は朔の側にいて、共に時間を過ごすことが多くなった。


 それは離れにいる時だったり、朔が母屋にいる時だったり、はたまた里の内部のどこかだったり、更には訓練の時であったりと多岐にわたる。
 さすがに黄理との訓練に参加することは今の志貴には出来ないが、志貴の言によれば最近頑張っているとのこと。
 自主訓練も行い始め、今では朔以外の子供のなかで一番強くなったとのこと。
 何が面白いのか楽しそうに報告する志貴を無感動に見ながら、朔は志貴の話を聞いていた。


 そしてそれに伴い朔と志貴にある変化が現われ始めた。
 それと言うのも、


「兄ちゃん、饅頭おいしいね」


「ああ」


「兄ちゃん饅頭もっと食べる?まだあるよ?」


「いい。いらない」


「そうなの?んじゃ僕が食べていい?」


「ああ」


 こういうことである。
 なぜだか志貴は朔を兄と呼び始めた。そして敬語の禁止を命じられた。
 敬語はいいだろう。
 もとからあまり固執していたわけでもなく、本人からの許可をもらってからあっさりといつも通りの口調に戻した。
 そもそも曖昧だった口調であったため、あまり意識もしていなかった。


 だが兄とはどういうことだろう。
 自分と志貴に直接的な血の繋がりはない。本来は従兄弟と言う関係だ。
 それがたまたま当主に預かられた朔を、志貴が兄と呼ぶのである。
 肉体的には近い存在なのだろうが、果たして事はそんなに単純なことだろうか、と考えたが、


「なんで兄ちゃん?」


「ええっとねえ。……なんとなく?」


「そう」


「そうだよ」


 と言うことらしい。
 ならば別に何か問題が起こるわけでもないしと朔は放置していた。
 事実志貴が朔を連れ回すことはあるがそれも多くはない。
 訓練の邪魔をするわけでもない志貴の存在はそれだけの存在である。
 あるのだが。


「? 何、兄ちゃん?」


 首を傾げるようにこちらを見る志貴。


 その姿は里の子供と同じように幼い。
 だが自分はどうだろう。
 朔は考える。
 自分は他の事はまるで違う。
 それは見かけとかではなく、存在が別の生物だ。
 いや、自分は本当に人間か?
 確認する術はなく、認識する事も出来ない。
 だが、志貴の存在を見て、自分との違いを発見することは可能だろうと考えた朔は志貴から離れることもしないし、思わないようになった。
 それは他人を見ることで自身の異常性を再確認する作業と同等の行為であったが、朔にはこれ以外の方法も対応も思いつかなかった。


「なにもない」


「そうなの?変な兄ちゃん」


 おかしそうに笑う志貴。
 変なのか自分は。変なのだろう自分は。きっとそうなのだろう。
 そして志貴はなぜ笑うのかも理解できず、朔は静かに湯飲みを口元に運んだ。


 現在朔と志貴は里の平屋にて菓子を食していた。
 本来ならば朔は黄理相手に訓練を行う時間だったのだが、今日は黄理に来客があるらしく訓練は行われないことになった。
 ならば今日は、ということで名乗りを上げた翁の教授により訓練の代わりに座学を行うことになった。
 朔のみの話だったのだが朔と共にいた志貴が興味を覚え、急遽志貴も参加という訳で今回の運びとなったのだったが、今は休憩時間とのこと。
 指南役の翁、生徒役の朔、そして志貴は使用人が運んできた茶と茶の子を楽しんでいた。
 と言っても朔は茶の子にほとんど手を伸ばさず茶を飲むばかりだったが。


「しかし朔様、よろしいので?」


 一通り落ち着いたのか、茶を啜りながら翁が口を開いた。


「なにが?」


「いえ。座学と今日は言いましたが、朔様は一切何も言わなかったのですから少しばかり心配を」


 今日の訓練の中止は昨日に言われたことである。
 そしてその場で、座学を行うと言われたのだ。翁の言葉で。
 それに朔はあっさりと従ったのみで、文句も驚きも言わなかった。
 だが、朔からすればそのようなことはどうでもいいことなのであった。


 言われた。それだけで充分だった。
 それで朔は動く。それしかない。


「別に、問題ないから」


「そうで御座いますか……」


 朔の言葉を聞く翁の顔の色は一体何なのだろうか。
 痛ましいような、悔しがるような。
 それは朔に向けた色なのだろうか。それとも自分に向けた色なのだろうか。


 わからない。わからないから考える。


 考えてみたが、朔には分からないことだった。


「さてと、そろそろ休憩は終わりにしましょうか」

 
 いつの間にか茶菓子が無くなっていた。
 そして志貴を見ると頬いっぱいに茶菓子を含めていて、二人同時に見られたのが恥ずかしかったのかアワアワと慌てていた。
 それに翁は微笑み、朔は何で慌てているのだろうと思った。


「それでは座学の続き参りましょうか」


 しかし、もう口の中の茶菓子を飲み込んだのか、志貴が文句を言う。


「ええー。まだ勉強やるのお?もう飽きたよ翁ぁ」


「ふうむ。それは困りましたなあ、座学が終わりましたら御館様に志貴様のことを報告せねばなりませんのに」


 そう言ってニヤニヤ笑う翁にふてくされながらも、結局座学を受けることにする志貴なのだった。
 やはり父は怖いらしい。


「では、今からは人体の構造を――――――――っ!」


 それは、唐突のことだった。


 強烈な存在感が里を覆っていた。
 それはまるで殺気を出す黄理のような恐ろしい存在で、ぬかるんだ汚泥のような感触が空気を淀ませる。


 それがこの平屋に近づいてくる。


 肌が粟立つ。筋肉が収縮し、意識が次第に鮮明になる感覚を朔は覚える。


 隣にいるはずの志貴を見る。
 この存在感に呑まれたのか、震える手は朔の袖を握りしめている。
 翁を見た。先ほどの好々爺の男は消え去り、その目はひたすらに鋭く近づく存在感を睨みつける。
 方角は玄関。平屋作りのこの場所からして、それはすぐそこ、左の方向。


 だが、朔は身を襲う不可思議な衝動に身体を固まらせる。


 なんだこの衝動は。これは知らない。これは知らない。


 身体が何かを訴え熱を持つ。精神が何かを叫んでいる。だがこの感情は何だ。


 なぜこんなに突き動かされる衝動が湧き上がる。


 ――――――――、―――――――――。


 最早内側は雑音が混じり始めている。
 視界が定まっていない。
 だが、その存在感だけはやけに知覚できる。


 揺れる、淀む、濁る。


 鮮明。鮮麗。鮮烈。


 ―――――――――、―――――――――。


 だけど、意識が何かに呑まれていく。
 それは存在感にではない外部からではない内部から。


 それを抑える術を自分は知らない分からない学んでいない習っていない倣っていない。


 ―――――――――――、――――――――――。


 音が消えた。


 だが心臓の鼓動がはっきりと脈打っている。


 それは激しい激情を訴えていた。


 だがそれが何なのか朔は分からない。


「           っ」


 誰の声だろう。いや、この声はなんだろう。誰を呼んでいるのだろう。


 身体が震えた。だが何に。精神が咆哮した。だが何に。


 意識が消える。


 もう限界だった。意識が消えることを抑えるのに?


 いや、身体を抑えるのに。


 それはなぜ?なぜ身体を抑える?


 それは、それは、それは、それは、それは、それは……


 それは?






「                 」


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――。
 

 暗転。



[34379] 第五話 梟雄
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2012/09/10 09:47
「子供に会いたい?それはなぜだ梟」


「なに、ほんの興味だ。糞餓鬼の子供っつうんだから期待も出来るってもんだ」


「興味、だと?」


 目前の妖怪の言い分を信じれるほど、黄理は間抜けでも警戒心が強い訳ではなかった。


 確かに嘘は言っていない。
 だが、真実を口にしているわけではない。目的を本意に隠している気配がある。 それが自分の子供の命を狙っているのならば話は早かった。
 懐に忍ばせてある黄理の武器を使用し、首を断てばいい。
 その後面倒なことになりそうだが、子供の命に代えられるものではない。
 黄理はあの二人のことは大切に思っているし、未だ関係は微妙な朔もいるが自身の子供として守っていきたいと思う。
 そのためには容赦なく躊躇いなく感慨なく感情なく殺す。
 殺してその後の面倒も排して殺す。
 まるで殺人機械だと、黄理は思った。
 そして、それが以前の自分なのだと、認めざるを得なかった。
 だが、今の自分が機械であるとは、受け入れられない。
 自分には守る者が、守りたい者がいるから。
 しかし、梟を注視する。
 そのような気配無く、空気も無い。
 目的は不明だが殺害が目的ではないことは分かる。
 衣服を見ても武装を隠し持っているようには見えない。
 いや、この男も混血。人外のものであることは確か。
 ならば子を殺すのに武装など不要か。
 ではどうするか。梟を会わすことでメリットはあるだろうか。
 七夜との協定上は問題ないだろうが、だからと言って会わす必要性はないだろう。

 まて、メリット……?

「梟、まさか。お前は未だに諦めてねえのか?」

 脳裏に過ぎった僅かな可能性が黄理の口を開かせた。
 そして梟は質問に答えることも無く、意地の悪い笑みを浮かべるだけだった。

 刀崎。
 混血の一族、遠野の分家。
 だがそれ以上に彼らは職人なのだ。
 鍛冶師として自身の腕で武具を生み出すことを誇りにした者達。
 そして、それは目の前の男も変わらない。
 刀崎梟は鍛冶師として数々の名刀を生み出した男として遠野でも重宝されてきた男だ。
 だが、それほどの腕を持っていながら梟の望みはシンプルに至上の武具の作成である。
 そしてそれは彼が刀工職人であることから生み出されるのは刀に限定されている。
 至上の刀。極上の真剣。それだけを求め続けた。
 この世界には概念武装と呼ばれる反則級の礼装が存在しているが、刀崎梟が求めているのはそれに近い。
 刀崎には、自身の腕を差し上げる者を見つけた時、その腕の骨を材料に作刀する事を可能とする秘術がある。
 そうして生み出された大陸の山絶の剣に似て非なる性質を持っていると聞く。
 そして梟は自身が生み出す最高の刀をそれとしている。
 だが、梟は未だにそれを作れていない。
 その証拠に、梟は五体満足。肉体に欠損は無い。
 理由は単純に梟の目に適う使い手がいなかったのだ。
 梟は刀崎の棟梁として長く刀を鍛え続けた職人気質な男だった。
 その梟の目にはどれほどの使い手も、稀代の達人と呼ばれる人間すらも価値の無い人間にしかならなかった。
 黄理が梟の望みを知っているのは、黄理もかつて彼の篩いにかけられた人間だったからであった。
 殺し屋として活躍し始めた頃の話だ。
 突然現われた梟は黄理を見て、お前じゃない、と言われたのだ。
 そして、お前が最後だったんだがなあ、と小さく呟いたのを、黄理は覚えている。
 それから幾年経った。最近ではめっきり梟は作刀していないと聞く。

 だが、もしまだ梟が自身の望みを諦めていなかったら。
 もし、その候補に志貴か朔を見に来たのなら。
 そして、そのために七夜の里にやって来たのなら。

「会う必要性は?」
「糞餓鬼の子供と会うのに理由があんのか?」

 言葉面だけで考えればその通りのようにも聞こえる。だが、

「俺はここの当主だ。俺の子もある程度の立場がある。そして価値もある。ゆえに子を使えば七夜の危険ということにも繋がりかねない」
「はっ、それこそまさかだろ。そんなことやって俺に何がある」
 
 恐らく見当違いな話を振ってみても、梟の表情は変わらない。
 意地の悪い笑みが梟の本心を曖昧にさせる。
 だが、黄理は梟の執念を知っていた。
 疑念は疑念を呼び、想定はさらなる想定を生む。
 そうした結果、黄理が導いた結論は。


「お前と会わせても意味が無いだろう。諦めろ梟。お前には会わせない」


 僅かにでも疑いがあればそれを排除する。
 臆病者の発想だ。だが、一族を率いる立場、子を守る立場を考えた結果、会わせないという選択に到った。
 しかし、梟は黄理の返答に呆れを含めた溜め息を吐くのだった。


「はあ。あのよお、糞餓鬼。手前は何もわかっちゃいねえよ」


「何がだ」


「お前らは殺し屋で、俺らは鍛冶屋だ。んで刀崎は刀崎として必要なものがある。己が腕を捧げる使い手だ。そいつとめぐり合える機会が少しでもあるなら、それに近づこうってえのが俺らの道理なんだよ」


「それが、いったいどうした。俺には、少なくとも七夜には全く関係のない話だな」


「まあ待て。これはそう悪くはねえ話だ。俺が糞餓鬼の子供を見極めて、使い手に相応しいならこの身体全部捧げてもいい。そしたら俺は前線を引くし、七夜の次代当主も決まったも同然だろ」


「それでも、だ」


 楽しげに顔を歪ませながら言葉を紡ぐ梟の意気を断ち切って。


「お前を会わせわしない」


 梟は面白くなさそうに、んだあとぉ、と息巻いた反応を見せたが、それもあっという間に消えうせた。


「はいはいそうかよ。まったく詰まんねえ奴だ」


 ぶちぶちと文句を言いながら、結局そのままその場はお開きとなった。


 だが、黄理は知らなかったのだ。
 刀崎梟という男の執念深さを。
 最早、それが梟の生の全てであることを。
 そして疑念を抱くべきだった。
 そんな男が黄理の言葉などで止まることがないことを。
 早々に引いた梟の魂胆を。

 

 それはだから、それだけの話なのである。


 □□□


 刀崎梟は混血の一族として生を受けた男だった。
 それに関して思うことはない。ただそうなのだろうと受け入れた。
 刀崎は混血として骨師と呼ばれる鍛冶師の一族だった。
 梟もその一族に習い鍛冶師としての道を気付けば歩み始めていった。
 刀崎の鍛冶とは刀工を指す。
 長い年月をかけて刀を作ることで、自ら刀崎と名乗ったと梟は幼少の頃に聞いた。
 そして刀崎の鍛冶は全工程を全て一人が請け負う。
 砂鉄を集め火にて溶かし、鋼を鍛えて形を造り、刃を研いで鋭さを増し、柄に銘を刻んで名を宿し、刀に合わせて鞘を生む。
 その全ての工程を誰の手も借りずに行い、そうして完成した刀は一切の歪みなく、ただただ武具として美しい。
 それは作刀者自身を映す心鏡。
 刀崎が刀崎たる由縁は、詰まるところ彼らが生み出したものが彼らの象徴たる刀だったのだ。
 そして彼もまた刀崎が生み出す武具に心奪われた一人だった。
 幼い頃から刀崎が生み出すものを見てきた。
 ゆえに彼が一族としての義務ではなく、自らの信念を持って鍛冶師となるのは当然の事だったと言える。

 砂鉄を見極め、玉鋼を生み出すのは心が弾んだ。
 熱気滾る鋼を鍛え、刀としての原型を作り出すのは歓喜の瞬間だった。
 鍛えた刀を水で冷やし、冷たい輝きを放つそれを見るのは心が安らいだ。
 刀を研磨し、ひたすらに鋭さと美しさを求める時間は至福の時だった。
 柄を生み出し刀と合わせ、その刀の名を刻むのは涙が出るものだった。
 そして刀に見合った鞘を作成し、出来た鞘に刀を納めた瞬間は背筋が震えた。

 最初の作品など疾うに忘れたが、それでもそこから梟が始まったと考えれば、それは彼の原始であった。
 刀鍛冶こそ自身の全てであり、それ以外には何もいらないと生き方を定めてからは早かった。
 梟は多くの失敗と試行錯誤を重ね、駄作を生んでは血涙を流し、完成間際に己が力量不足を感じた時など、身体が分解せんばかりの絶叫を上げた。
 そうして幾重の刀を生み出し、時間が流れた時、梟はいつの間にか刀崎随一の鍛冶師として堂々と棟梁の座についた。
 
 それが大よそ梟が三十を過ぎたばかりの頃だろうか。
 
 棟梁として刀崎を導きながらも鍛冶師として多くの武具を生み出し、時は瞬くに過ぎていった。
 梟が生み出した武具は宝剣として買われることもあれば、その価値に目をつけられ難癖によって奪われることもあった。
 だが、梟は自身が生み出した刀には興味を持てなかった。
 他の鍛冶師が到底登れない頂にいながらも、常に最高傑作を目指し続け、そして年を取った。
 年を取ってもなお梟の生み出す刀剣に届く刀崎はおらず、彼は未だに健在であるが、しかし彼は未だ諦めきれていなかった。
 至高の刀を。最上の刀を。
 人がまだ見ぬ、自分の最高傑作を。
 それをただ目指し続けた。それだけをただ追ってきた。
 だというのにそれは未だ叶わず、時間ばかりが過ぎて梟の時間はどんどん短くなってきた。
 年を取りすぎたのだろう。鍛冶師として刀を生み出すことが減ってきた。
 それだけのことであったが梟にそれは致命的だった。
 このままでは望み叶わぬまま死んで行く。それは嫌だった。
 死ぬことはどうでも良かったが最高傑作を作り出せぬまま死ぬことだけは許せない。決して許されざることだ。
 
 ゆえに梟はある賭けをしていた。
 それは誰にでもない、自身による賭けだ。

 刀崎は鍛冶師である。そして刀崎は骨師と呼ばれる一族だった。

 骨師。

 混血の種族たる刀崎は、人間には不可能な領域に到達できる可能性が秘められている。
 刀崎の者は生涯において、これは、という使い手に出会う時、自身の腕を差し出し、その骨でもって刀を生み出す。
 そして生み出された刀は鍛冶師として最後にして最高の逸品。
 大陸に伝わる山絶の剣と似て非なる性質を持つとされる。
 梟の狙いはそれだ。
 自身の身を捧げることによって生み出される究極の形。
 最高の武具。刀崎の最終到達点。
 例えそれが鍛冶師としての人生の終わりであり、再び刀を生み出すことが出来なくなろうとも、それが自信の全てだと信じ、そして終わりが近い梟にはそれだけが縋れる最後の術だった。
 事実、梟は自身の腕を差し出して刀を鍛える刀崎を幾人も見てきた。
 そして出来上がった刀は確かにその刀崎の最高傑作と言える輝きを持っていた。
 だからだろう。梟には確信があった。
 自分が生み出すものは、刀崎が未だ到達しなかったものであると。
 だが、同時に問題があった。
 肝心なのは自身の腕を差し上げる者の存在。
 使い手によって武具は更なる輝きを放つ。
 ゆえに自身の望むべくもない使い手に差し上げることなど言語道断。
 そうして見極め続けた結果、梟の目に適う存在がいなかったのだ。
 しかし、それでも彼は諦めきれなかった。
 例え命が尽きようともそれだけは認められない。認めるわけにはいかない。
 それは自身の否定に他ならない。
 今までの行き方、自身の理想、信念。全てを裏切ることに他ならない。
 それは妄執、あるいは執念と呼ばれる感情だった。
 ゆえに、賭けた。

 七夜黄理。

 殺人機械として混血に恐れられ、混血の天敵として恐れられる殺人鬼。
 鬼神の名を欲しいままにした男ならあるいは、ただ殺人術を磨き続けた男ならばあるいは、と思ったのはいつの頃だろう。
 噂はあった。強い男がいると。
 それはかつてあった男だった。
 出会いはあった。
 縁もあった。
 だから見極めにいった。
 その結果。


 梟は賭けに負けた。


 確かに黄理は素晴らしい男だった。
 ひたすらに鍛錬し続ける男。
 己を昇華させ続け、殺し屋としての格は高く、凄まじい。
 鬼神と呼ばれるだけのことはあった。
 だが、黄理は梟が惹かれる使い手ではなかった。
 殺人機械。
 黄理は殺すことに感慨も感情も持たない人間だった。
 それはいいだろう。それもひとつの果てだ。
 だが、黄理の殺意には魅力がなかった。冷たく、無機質な殺意。絶対的な死のイメージを叩きつける殺意。
 梟は古い人間で職人気質な男だった。
 何かが違う。何かが違うと彼の本能が訴えていた。
 こんなものではない。自身が捧げるのはこれではない。
 自身が求めているのはこんな人間ではないと、梟は感じた。


 だから、梟は負けたのだ。
 賭けに。人生に。信念に。理想に。


 その賭けから幾年経っただろうか。
 梟は刀を鍛えるのを止めた。
 諦めたのだ。
 もうじき寿命も終わる。
 だからそれでもいいだろうと、自分を納得させ、理解させた。
 これでいい。これでいいはずだと、自身に言い聞かせながら。
 若い者を育成させ、棟梁としての最期を選んだのだ。
 その証拠に、梟の身体は五体満足。欠けることのない身体。
 そうして梟はそのまま終わり、朽ち果てる。
 

 はずだった。


 妙な噂を聞いた。
 七夜が退魔組織を抜けてから子供を育てている。
 殺人機械だったあの男が子をもうけていることも意外だったが、黄理に子供が二人いるという。
 それはおかしいと思った。なぜもう一人いるのだと。
 黄理に子供が生まれたから七夜は退魔から身を引いたなどと聞いた時は冗談にしか聞こえなかったが、しかし、その計算だと子供が生まれたのは五年前。
 七夜と刀崎が協定を結んで長いが、刀崎でもある程度の情報はある。
 それによれば黄理が子供を育て始めたのは七年前だという。この違い。この差。
 この二年という年数は一体どういうことなのかと。
 考えることで梟は憶測した。
 黄理には子供が二人いる。
 憶測の域を出ない稚拙な考えだと思いもしたが、考えてみると妙に気になりもする。
 何分昔見極めようとし、違和感に見切りをつけた男のことだ。
 違和感がなくなっているのではと、消し炭の理想が少し揺れはしたが、梟は見極めには自信があった。
 だから、それだけはあり得ないと。
 故にこの確認はただの暇つぶしにすぎない。
 それだけのことでしかないと鼻で笑い、刀崎の棟梁として得た情報、遠野に何かしらの動きが見える、という情報を手土産に、梟は懐かしい七夜の里に向かったのだ。
 そして梟は再び黄理と出会った。
 随分と顔を合わすのは久しかった。だが、梟は黄理にあった違和感が増したと見えた。
 それは黄理の変わりようもあるだろう。
 だがそれ以上に梟の目がフィルターをかけていたのかも知れない。こいつでは、自分の望みは叶わない。
 子供の話を振ってみると、すぐさま反応した。
 噂と自らの憶測の正しさが真実めいてきたが、黄理は梟に疑念を抱いていた。
 それの正しさを認めながら、梟は強引な方法を取ることにした。

 そして、今。 

 刀崎梟は、畏れに身を震わせた。
 空気を壊死させる、殺意。
 質量を持った殺意が生命の動きを許さない。
 身体は軋み、肉体が悲鳴を挙げた。
 視界はノイズ交じりの砂嵐。
 だというのに。その姿だけははっきりと見える。
 小さい身体。鋭い目つきに無機質な瞳。身につけるは藍の着流し。


 少年。
 少年だ。


 今しがた平屋の内部から飛び出してきた子供が、姿勢を殊更に低くし、梟を見ている。
 無機質なその瞳が梟を捉えている。
 七夜の子供。
 七夜の人間は近親相姦を繰り返すことによって人の退魔衝動を特出していると聞いた。
 ならば混血たる梟に反応するのは当然のことだろうか。


 だが、震えが止まらない。

 この少年が放つ殺意。
 膨大な殺意が周囲に放たれている。
 凍るような殺意ではない。冷たく無機質な殺意ではない。
 圧倒的な殺意が梟を、いやそれだけではない里中を飲み込んでいる。
 それは、ただ七夜の人間だからという理由では説明のつかない殺害意思。
 ともすれば、あの鬼神七夜黄理をはるかに凌ぐ圧倒的な殺人衝動。
 眼前に獅子がいる小鹿のような心地が梟にあった。
 こんな子供が持てるようなものではない。
 まるで超越種のような次元の違う存在のように思えて仕方がない。
 それはまさしく恐れだ。自分よりも上位に対する畏れ。
 
 だが、それ以上に。
 刀崎梟の、鍛冶師の、骨師の肉体と魂と精神が子供から目を離させない。
 溢れる殺意に誤魔化しきれない才気。
 そしてそれを揺ぎ無く昇華させる執念。
 それは、機械には無い、もののけの気配。
 まるで黄理のような才を感じさせ、梟に訴えかける。
 そして、梟もまた自身に訴えかける。

 これだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだ。
 これだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだ。
 これだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだ――――――――――っっっっっっっ!!!!!!

 梟の意識が爆発する。
 眩い光が輝きを放ち、今目の前に現れた子供を目に焼き付ける。
 魂が歓喜の咆哮をあげた。それは絶叫にも似た、まさしく梟の叫び声。
 それが刀崎梟の身体を震わせ体中を駆け巡る。誰にも見えなかった、見出せなかった。
 自分の上位者。自分の腕を差し上げる者、自分の全てを捧げる者――――!

 そうして梟は、遂に見つけ、出会ったのだ。

「お前……。名は?」

 震える身体を抑えることも忘れ、梟はそう問わずにはいられなかった。

「■■■■■■!!!」

 最早人の言葉ですらない咆哮。
 発音器官を解していないような大絶叫が梟を突き抜けた。

 □□□

 
 爆発。
 それを表現するにはそのような安易な言葉の他になかった。
 平屋の襖が内側から爆ぜた。事象を短い言葉にすれば、それだけのことだった。
 襖は粉微塵に炸裂し、散弾の如くに平屋の前にいた男、梟に襲い掛かった。
 それを梟は避けることなく、ただ襖を突き抜け眼前に現われた朔を注視した。

 
 その様は虫。
 地面に舐めるようにひたすら低い体勢は狡猾に獲物を絡めとり、肉を貪りつくす蜘蛛の名を借りた蹂躙者に似ていた。
 それが、襖を突き破り、地に四足を這わせながら梟の目の前に出でた。
 四足に収束された力が解放を訴え、ぎちぎちと筋肉の引き絞られる音が、不気味に静まる里に沈む。
 そう。里は余りに静かだった。
 ともすれば沈黙のような静寂が里に訪れている。人が生活するうえで音が無いことはありえない。
 本当の無音とは無のなかにのみ存在している。だが、この沈黙が朔には相応しい。
 

 朔には何もない。
 自身のものなど何一つ与えられず、手に入れてこなかった。
 人間の殺め方などは幾つも学んだが、それは自身に帰る望みから来るものではない。
 それだけが彼にはあったのだ。
 だが、殺人術すらも自身が望んで手に入れたものでもない。
 それ以上に、朔には望むなんて大層なものは入っていなかった。
 中身のない空。空の殻。
 だからだろう。この沈黙こそ朔の居場所に思える。
 その茫洋だった瞳は最早何も写してはいない。
 光すら飲み込む無機質な瞳は、今この時その無機質すらも無くした暗闇が覗く。 だというのに、その目は梟を視ている。
 朔には何もない。
 それは人格を形成され始める時期に人間との接触がほとんど無かったことに他ならない。
 離れに放り込まれ、ほっとかれた。
 周りには世話役しかおらず、それ以外には誰もいない。
 ただ、遠くに黄理の姿があっただけ。
 今でこそ訓練のために里内に姿を現せてはいるが、それ以前、朔が訓練を始める以前、朔は屋敷から足を踏み出したことが無かった。
 外を知らず、他人を知らず、人を知らずに育った。


 だからだろう。朔には人が育まれるはずの感情がごっそり欠けている。
 感情は他人から与えられ、そして覚えていくもの。
 しかし、朔にはそれがなかった。ゆえに今となってはそれが理解できずにいる。
 

 欠陥の子。持っていない朔はそう呼んでも良い。


 だが、だが。
 今この時、この瞬間の刹那に於いて。
 朔の虚無な内側に朔の知らない衝動が宿った。
 いや、宿ったというのは正しくない。それは朔が生まれた時には既に存在していた。
 無から何も生まれない。ならばそれは最初からあった。
 ただそれに誰も気付いていなかった。志貴も、翁も、黄理も、そして朔自身も。


 考え直して欲しい。


 七夜朔。


 七夜の鬼才。鬼神の子。
 里の中で朔はそう呼ばれている。
 七夜当主黄理の手解きを受け、それをこなしあまつさえ黄理を喰らおうとする七歳の子。
 その才は折り紙つき。里の子では群を抜いて成長し、今となっては大人の者ですら抑えきれない。
 以前、朔の組み手の相手を黄理以外の里のものが受け持ったことがある。
 たまには違う相手と行うことも大事だという翁の説得から行われたそれだったが。
 結果から言おう。
 朔の相手をしたものは完膚なきまでに敗北した。
 現役として活躍していた七夜が、当時まだ七歳ですらも無かった朔に反応も出来ず、喉を潰され四肢を折られた。
 それを知って里の者は言った。


 さすが鬼神の子、と。
 さすがは黄理の息子だと。

 惜しみない賞賛を口々に囁いた。
 だが、だ。
 七夜朔は一体誰の子供だったか。
 里の者は故意にか、はたまた自然に忘れていた。
 生まれたのは七年前。
 黄理に育てられ、いささか噛み合っていないが一緒に生活していると言えるかもしれない。
 その様は子供にどうやって接すればいいのか分からず距離感に戸惑っている親とそれに無関心な子のように見える。


 しかし、朔は黄理の実子ではない。


 朔は甥なのだ。二人には直接的な血の繋がりはない。


 では、朔の父親は一体誰なのか。


 かつて、七夜に一人の男がいた。
 男はその類稀な膂力から爆撃機のような蹂躙を得意とし、好みとしていた。
 殺めることに愉悦を見出し、そして最期には狂気に呑まれた男。


 黄理の兄。


 最早名前を排された男。
 それが朔の本当の父親だった。
 朔が生まれた直後に妻を殺め、黄理自身の手によって討たれた男だった。
 黄理の兄が狂った原因。
 七夜は近親相姦を重ねることで超能力を保持させたが、それは七夜の者に人が持つ退魔意思を特出させる結果を生んだ。
 退魔意思とは自身とは存在そのものが違う魔に対して遠ざけたい、排したい、殺したいという人間が隠し持つ意思である。
 そして黄理の兄はこの特質を色濃く継承し、その結果殺人の快楽であり、狂気に呑まれた。
 はたして、それに気付いていた者はどれだけいたのだろう。
 黄理の兄の子として生まれた朔に才があったのならば、その男の特質を引き継いでいるなどと。


 それは梟の混血に反応したものだった。
 初めてだった。
 朔は始めてこの時魔的存在と対面したのだ。
 だからだろう。だれも気付かなかった。



 朔はこの時、始めて感情を宿した。



 殺める意思。殺める意識。殺す気配。殺す正気。
 それらが朔のなかに蠢き、解き放たれる。
 殺気が鳴動し里の空気を軋ませ、生者の正気を奪う。
 感情と呼ぶには余りに禍々しく、荒々しく。
 だが、それは自身から生まれ出でた純なるモノ。
 その存在は濁りなく混ざりの無い朔の感情だった。
 


「お前……。名は?」

「■■■■■■!!!!」



 凡そ子供とは思えぬほどの咆哮。瞬間、朔の姿が掻き消えた。
 
 
 影すら残さぬ瞬間の移動。七夜の体術。
 それを梟は目前で見ていたのに視認することが出来なかった。
 霧散するかのように朔が消えた瞬間、梟の老いた身体に警戒音が木霊す。
 それは長年棟梁として一族を率いてきた混血としての五感の鋭さにあった。
 骨が軋むほどの殺気。
 肌が粟立つ。
 それを梟が回避出来たのはほとんど偶然だった。
 ただ、回避できぬと判断した梟は前方へ無様に転がった。
 朔の位置も分からぬ故の判断だった。
 梟が飛び込んだ瞬間、梟がいた空間を何者かが通過した。
 いや、通過とは言い難い。
 梟には視認不可能な朔がいづれかの方向からか襲撃をかけたのだ。
 ただ、それが一体どこから来たのかすら梟には分からない。まさしく瞬間の英断。
 だが、一度回避したからといってどうなる。梟には対応できない。
 梟は混血であるが戦闘を行わないため、そのような手段など取れるはずも無い。
 しかし、その瞬間にもアレは来ようとする。


 再び、気配が近づく。
 風を切り裂きながら、空気を突き抜けながら。


 依然梟は転がったままの不恰好な状態。動くには体勢が不十分。
 回避不可能、回避不可能。
 梟の生存本能が悲鳴をあげる。
 死が近づく。


 だと言うのに、梟は笑んでいる。
 嬉しくて仕方ないと、肉体が、精神が、魂が興奮し歓喜の声を上げている。
 事実、朔が強大であればあるほどに梟は子供のように笑うのだ。


「ひひひひ―――っ!いいなあ、お前はいいなあ!」


 回避不可能な不可視の朔の攻撃を身を捻ることで何とかやり過ごす。
 しかし身につける着物の裾が引き裂かれた。その瞬間に感じた力強さに心が躍る。
 肉を引き千切られたような感触が梟を襲った。


「何なんだろうなお前、お前って奴は一体何なんだい!こんな奴いなかったぞ、今まで出会わなかったぞ!だと言うのにお前は、お前は――――!」


 興奮で何を言いたいのかすらも定まっていない。
 だが、梟はこの出会いの素晴らしさを教えたくてたまらなくなる。
 一世紀近く生きてきた。
 出会うために、巡り合うためだけに。
 この瞬間をどれだけ待ち望んでいたか、憧れていたか、焦がれていたか。伝えたい、教えたい。
 この身が張裂けそうな衝動と歓喜の正体を。
 襲い掛かる不可視の攻撃。それを何とかしてやり過ごしていく。
 だが回避するたびに、梟の身体はかすり傷を受ける。
 少しばかり掠った指先。紙一重に横切った拳。知覚できぬままにそれらは梟に教える。
 僅かに触れた攻撃の感触は人間を一撃で絶命させるものだ。


「ひひひ―――はははははははははっ――――!!」

 
 渇いた哄笑が自然と零れる。
 朔が、眼前に現われた。
 高速で移動し、真正面から梟に向かって真っ直ぐ突っ込んでくる。
 それは、ほんとうに偶々だった。流星の如くに梟へ襲い掛かる。
 その時は刹那。
 朔を視認してから梟に接触するまでの時間は瞬きほどの時間も与えられず―――――――――。


















「貴様……!…………どういうつもりだっ!!!!!」
「そのままお前に返そう。お前は一体何をしたっ」















 梟の眼前に、背中が現われた。
 人外の膂力を秘めた背なの筋肉が盛り上がりを見せる。
 男は、黄理は、梟を守るようにして現われたのだ。
 その手に握られているは撥のような鉄棍二振り。
 それは黄理の本来の武器。
 訓練では使用されない、殴打のために使用されるそれを斬殺に用いる、黄理の正真正銘人間を解体する愛器だった。
 それを交差させ、目前にいる朔の腕を抑えている。
 ギリギリと力がぶつかり合い、朔を抑える腕が小刻みに震えていた。
 梟は激昂した。
 それは自分の楽しみを台無しにされた子供の癇癪のような、けたたましい激怒だった。
 だが、黄理はそれに冷酷に返し、朔を見た。


「朔!おい朔!どうしたっ!!」


 あきらかに正気ではない。
 黄理の呼び声に反応を示さず、その空洞の瞳は何も見ていない。黄理の姿だけが瞳の空洞に映っていた。
 何よりこの尋常ではない殺気。
 梟が何やら気配を大きくし始めた時点で動いていた黄理だったからこそ、この瞬間にここに来れた。
 そして、超絶な殺気を感じたのだ。
 七夜の者でもここまで錬りきることの出来ない、超越種が発するような暴力めいた殺気。
 嫌な予感に駆られた黄理が見たのは、梟に襲い掛かる朔の姿だった。
 無表情ながら、ひたすらに力を篭めた朔の力みが突如として消えた。
 その瞬間だった。

「――――――っ!!」


 黄理に真横からの衝撃が襲った。


「っく!」


 場所は腋の真下。肋骨に重く衝撃が響いた。
 朔が移動していたのは気付いた。
 瞬間移動めいた動きによって移動した朔に完全に対応していたはず。
 だと言うのに、黄理は朔の攻撃を防ぎきれなかった。
 朔は現在武器を持っていない。
 身につけている藍色の着流しにも、武器になるような細工は施していない。
 先ほどの一撃は防御した黄理の腕を掻い潜って放たれた拳の殴打。
 幸い骨に異常はない。ただ衝撃が重く残る。
 問題なのは、それを防ぐことが出来なかったという事実だった。


「どういうことだ……?」


 疑念が黄理の思考を埋め尽くす。
 朔は黄理には届いていない。黄理の実力に届いていない。
 それは毎日行われている組み手でも明らかだ。
 朔は確かに強い。だが、黄理に一撃を入れるまでには未だ及んでいないなずだ。
 しかし。


「っ――!」


 またもや、一撃を喰らった。空気の弾けるような音。
 しかも今度は防御体勢に移ることもできずに。
 真正面に、朔はいた。その爪先が、黄理の腹に突き刺さっていた。
 固めた筋肉を突き破らんばかりの威力がその爪先にはあった。
 内臓に少しばかりの痛みが走った。
 それを無視する形で、再び内臓を狙う追撃の膝を打ち下ろす形にて握られた撥で迎撃する。
 しかし、その疾さのなんたること。目の前で展開される刹那の攻防が梟には見えない。
 残像すらも残さず、一瞬の過程が省略でもされているかのように疾い。気付けば接触している。
 

 こんな化け物に自分は襲われていたのかと、梟はにたついた猛禽の笑みを漏らした。


 黄理の握る撥と膝が打ち合った。
 打ち合った瞬間に鈍い音がした。短い撥がしなり、襲い掛かる膝を打った。
 足ごと粉砕していてもおかしくないそれを、朔の骨は耐え切ったのだ。
 そして、その時点でようやくその正体に気付いた。


「まさか、朔――――っ」


 今度は側頭。
 雷光のように放たれた右蹴りを寸でのとこで防ぐ。地面に四肢でもって着地した朔の目は空洞。
 それが何かを視ている。梟か、それとも―――。
 明らかに、朔は疾くなっている。
 それも、黄理がやっと追いつくほどの速度。
 七夜最強の男が対応できないほどの早さに朔はなろうとしている。
 だが、昨日はここまでではなかった。
 強くなってきてはいたが、ここまで異常ではなかった。ここまで異様ではなかったはず。
 だが、現実はどうだろうか。追随なんてものではない。これではまるで―――――。






 黄理の脳裏に、自身が殺めた兄の、狂い姿が一瞬過ぎった。
 






「―――――――っ!!!!!!!」


 その音は、自動車が追突事故を起こしたようなけたたましさだった。


 肉体を地面に這わすことで蓄えられた方向性の無い力。
 四肢は地面と縫いあわせるように、身体は低く、顔は上げられて。
 その力が解放される寸前のことだった。
 黄理の踵が唸りをあげ、朔の顎を捉えた。
 本気の一撃。
 常人であれば頭部ごと弾け飛ぶそれを黄理は放った。
 そしてそれを喰らってなお、朔は生きている。
 叩き飛ばされた朔は意識をその時には失っていたのだろう、受け身を取ることもできず地面に叩きつけられ勢いのまま転がり、やがて止まった。
 あの重圧のような殺気は今では消え去っている。七夜の里に生気が戻った。
 だが、朔を打ったままの姿で、黄理はしばし苦悶の表情を作り上げた。
 
 
 余韻が沈黙の里に染みる。
 それは、何かの始まりを終えた瞬間でもあった。
 

 だが、その静けさすらも里には許されなかった。


「黄理」


 金属の合わさりあった音が、不愉快な感覚を里に滲ませる。


「お前、あれがお前の子供だな……?」


 黄理の背中に問いかける梟。
 それは質問ではない。最早梟には確信があった。
 間違いない、あれは確かに黄理の息子だと。
 あれ以上に黄理の子供と呼べる存在はいないだろうと。


「なぜ、教えなかった、なんて言わねえぜ。そんなもんどうだっていい、どうだってよくなった。なぜなら俺は見たのだからなあ」


 その表情のなんたる禍々しい。
 邪悪にさえ見える笑顔を嫌らしくにたつかせ、梟は言う。


「だからよう、俺は――――――――――」
「五月蝿い」


 冷たい殺気が、梟を殺す。殺してなどいない。
 だが温度の無い殺気が梟の息を止めんばかりに襲い掛かる。
 梟の喉元には鉄の撥。それが突きつけられていた。
 お前を殺す。完全な意思表示。
 事実黄理は梟をこの場で殺す。
 何かしらの原因で交戦状態に入ったかは知らないが、十中八九梟に原因があるだろう。
 その証拠は先ほど感じた梟に肥大した気配。あれは恐らく焙り出し。
 そうやって七夜を刺激させ、目的の、黄理の息子に出会うつもりだったのだろう。
 それを見抜けなかった、考えなかった自身を黄理は恥じる。
 自分の考えが足りないばかりに、このような状況になった。
 判断が甘かったと痛感する。
 梟は最早殺す。その原因となったこいつを許しはしない。
 黄理の視線が真っ直ぐに梟を射抜く。
 返答次第殺す。返答しなくても殺す。嘘も、真さえも許さない、機械の目。
 

「なんだ?気に喰わないってか?」


 しかし、梟は笑みを深めるばかり。殺気など風の如く、より深く、より深く邪は色を増す。


「……」

「だんまりってか。はっ、そんなもん、どうだっていい。ああ、糞餓鬼、お前のことなんてもうどうでもいい」

「どうでもいい、だと?」
 

 黄理の殺気が増す。この状況で、この現状においてなお、梟は不遜。
 そして梟は笑うのだ。声を上げて、歓喜の声を上げて、黄理など知らぬとばかりに。
 その姿のなんて邪悪。梟は緩慢な動作で立ち上がり、ギョロリとした眼の狂気にも似た瞳は朔を見ていた。


「俺は見つけたぞ、黄理」


 そして梟は言った。


「俺は止まらん。もう止まらない、止まるわけがない。なにせ一世紀だ、それだけ待っていたんだよ糞餓鬼お前にはわからんだろうこの気分がこの幸せがどれほど焦がれていたかお前如きにはわかるはずがねえだろうだがだがだが俺は俺は俺は俺は遂に見つけんたんだよ糞餓鬼ぃハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!」


 猛る気持ちが梟を包み込む。諦観と絶望を吹き飛ばして。
 

 黄理は静かだった。
 不気味なほどに静か、梟が声を上げれば上げるほどに黄理は静まっていく。
 梟の望みは知っていた。だが、それは黄理には関係ない。
 知ってはいるがその価値を理解はしていないのだ。
 だから、梟の歓喜が耳障りだった。
 最早。殺す。
 そうして黄理は自身の撥を振るう。それはあっけなく梟の首を飛ばし―――――――。


「いいのかい、黄理。子供が見てるぜ」


 撥が首に食い込む寸前。梟の言葉に黄理の腕が止まり、黄理は反射的に朔を見た。
 だが離れた場所にいる朔は未だ気絶したまま動いていない。つまりは……。


「おとう、さん……」


 その声は小さかった。
 囁きよりも小さな呟きだった。だが、その声を黄理が聞こえないはずがない。
 黄理は振り向いた。襖の無い平屋。
 そこに志貴が怖がるように立ち竦んでいる。その姿、その弱い姿を見て、黄理の殺気は消えてしまった。
 殺人機械。
 黄理は殺人機械だ。血も涙も無く感慨なく殺す、血濡れの機械だ。
 だが、それでも、黄理に温度はある。
 自分は父親だ。自分は父親なのだ、と噛み締めたのはいつだったのだろう。
 おそらくそう思った時、黄理は父親になったのだ。
 だから、子供が不安になっている時、側にいなくてはならない。
 鎮まる殺気を前に、梟は歩み始めた。
 黄理に背を向け、里の外へと。
 黄理は自分を殺さないという確信が梟にはあった。


 黄理は詰まらない。理由はたったそれだけだった。


 そして黄理も歩み始めた。
 志貴が不安がっている、少しでも早く側に行ってならなくてはならない。


「梟」

 遠ざかる、梟に向かって、黄理は背中を向けながら言った。
 それは事実黄理の敗北宣言に近かった。
 黄理は梟という男に、梟が持つ執念深さに結局勝てなかったのだ。


「お前には里の出入り禁止を宣告する」


 里に金属の合わさりあう、邪悪な哄笑が響いた。 



[34379] 第六話 ななやしき君の冒険 前編
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2012/09/12 11:12
 これは、刀崎梟襲来から時を遡った時ごろの話である。


「森の奥ってどうなってるのかなあ」

 
 その日はそんな言葉から始まった。


 志貴は目の前で何やら翁と会話している父の黄理に向かいそう言った。


 話の所々で「……朔が…しかし……」「朔はやはり……」「風呂……朔……」と朔の名が頻繁に出てくるので一体何を話しているのだろうと思ったが、それを聞いても微妙にはぐらかされるので少し拗ねた。


 そんな父に朔の世話を行っている最近叔母から聞いた『へたれ』という単語を黄理に浴びせかけ黄理が落ち込み翁が励ますなど、なかなか混沌とした空間を作り出したのでとりあえず志貴は満足していた。


 志貴の何気ない一言が飛び出したのは、その空気が落ち着き始めた頃のことだった。


 志貴としては本当に何気ない一言であった。志貴はこの七夜の里から出たことはなく、当然外界がどのようなものか知らない。


 さらに人里から離れたことはなく、遠くはなれることは子供たちには固く禁止されていた。


 朔と黄理が早朝森の奥に向かい基礎訓練を行っているのは知っているが、それも黄理が朔を受け持っているが故の例外。そこが一体どういう場所なのか全く教えられていない。


 だから志貴としては未知なる場所に興味を持ち、気になっているのだ。


 志貴の幼い冒険心が燻り訴えているのだ。森はなんだかすごいところに違いない、と。


 だがそれを聞いて黄理と翁が固まる。


 里の外、つまり人里から子供を出すのを禁止させたのは黄理を含めた七夜大人組の総意である。

 七夜の里は森の内部にあり、そこは外部の敵を撃退する罠で埋め尽くされている。

 
 撃退と嘯いているが、対人地雷がいたるところに設置されていることからどう考えたって殲滅を念頭に置いた罠である。


 そもそも七夜は裏の人間であるため敵は多い。


 混血との協定を結んではいるが、それは薄氷の協定。七夜の安全が確保されているとは程遠いのである。

 
 それゆえ森には数多くの罠が設置され、その種類は七夜のものですら完全には把握することが出来ず、正規のルートを通らなければあっという間に死体と化す。


 だから安全な場所を知らぬ子供は里から出してはならない。


 と、これが建前である。


 本当の所、そんな罠が云々より、七夜の森にかけられた結界がヤヴァイ。


 過去志貴が生まれた黄理はそれまでの人間性が嘘のように変わり、言ってしまえば、はっちゃけた。


「ヒャッハアアアアアッ!!」

 
 などと、さすがにモヒカン軍団のような奇声を発声することはなかったが、その行動から自重が消し飛んでいた時期が黄理にはあったのである。


 その頃黄理は生まれてきた志貴のために、といままであった結界を強化することを決意。そのために異例であるが外界の魔術師と協力するほどの徹底振りである。


 そんでもって完成した結界により、森の生態系が突然変異を起こしたのは完全に黄理のせいである。


 植物が獣を襲い、獣がおかしな姿で動き回っているのである。


 幸い現在確認されている獣の中に七夜の脅威となるような存在はいなかったが、それでも危険なことに変わりない。


 最近の目撃例では空中浮遊のキノコが大量発生し、独自のヒエラルキーを生み出したとある。


 その他にも生き物を捕食しようと蠢く蔦や、闊歩する大樹など、とんでもない場所なのだ。


 そんなわけで七夜の森は現在子供たちだけで進むことは硬く禁止されている。


 今の森は言わば黄理の黒歴史であり、それを指摘すれば、あの頃の俺は若かったと視線を逸らすことも出来ずに身を捩じらせる黄理が見れるだろう。


 そんなこんなで人里を離れるのは大変危険である。
 生命的にも黄理の体裁的にも。


「志貴様。森は危険がいっぱいですので、子供をいかせるわけにはいかないのです」

 二の句が告げられない黄理に変わって対応に出たのは翁である。
 黄理は大した変化なく泰然と志貴を注視しているようにも見えるが、長年黄理に仕えてきた翁は黄理の額に浮かぶ脂汗を見逃さなかった。


「でも、それは子供だけでいくのは駄目だって事でしょ?だったらお父さんといけばいいってことじゃないの翁?」


「ふむ……確かに、そうでございますな」


 確かに大人の者といくのは認められていなくもない。
 子供のみでいかせるのは大変危険であるが大人の者、つまり安全な道筋を知っているものが一緒についていれば罠にかかることはないだろう。


 ただそれだけだと少し問題が起こる。
 先ほど言ったとおり森は黄理の黒歴史そのものであり、そこから誕生した突然変異種はほとんど調査が行われていない。
 調査が行われようとしてはいるのだが、昨日向かった場所の地形が変化していたり、生態系が一日だけで変わっているなどざらで、調査が追いついていかないのである。
 わかっていることと言えば、その影響が里にまで及ばないことであろうか。
 結界の影響か、里を守る方向性を持っていることからか、突然変異種はなぜか里に現われず、植物たちもその足を伸ばさないのだ。


「しかしそれでも、子供をいかせるのは大変危険でございまして……」
「じゃあなんで兄ちゃんはいいの?」
「ぬぐっ……」


 それを言われてしまえば翁としても何も言えなくなる。


 朔は黄理の預かりとなって早朝には森の奥に向かって基礎的な訓練、つまりは足腰の強化、俊敏性の強化、持久力の強化、空間把握と判断能力の強化を備えるため走りこみのようなものを行っている。
 走りこみと言っているが、覆い尽くす木々の合間を七夜の移動術をもってして縦横無尽に飛び交うそれを走りこみと言うのは少々、どころかかなりの語弊が生じるだろうが。
 その走りこみの中で判断能力の強化を期待されているのは、走りこみを行う場所に訳がある。


 黄理の暴走の末、森は七夜の者も吃驚な変化を遂げ、ここは腑海林かと突っ込みたくなるほど植物が暴れまわっている。
 獣を襲い捕食する植物が今日も活発に育っているのである。
 夜中など植物に襲われたのか獣、あるいは侵入者の断末魔が響き渡るのでかなり怖い。
 子供としてもあれは普通に怖い。悲鳴はやがてか細くなっていき次第に聞こえなくなる様など普通にトラウマとなる。


 想像出来るだろうか。四方八方から襲い掛かる植物たちを。
 それは蔦のような柔らかいものだけではない。視界を覆い尽くすような大木が向かってくるのである。それもいたるところから。
 それゆえ黄理は森に着目し、朔の訓練、危険把握能力を高めるため森にて走りこみを行っているのである。


 とは言え、正直にそれを志貴に言ってもいいのかと翁は吟味する。
 これで森の中はこれこれこういうことで、こんな理由があるから危険なのですと教え、その原因が自分の父と知った時志貴はどのような反応をするのだろう。
 少なくとも評価が上がることはない。


 翁はちらりと黄理を見た。
 なんか獣が死んだふりをしそうなほどの凄みで睨まれた。


 しかしこのまま答えないのもなんだかアレである。
 はぐらかす事も出来るだろうが、そのまま放っておくと勝手に森に行きそうだ。


 なので朔に関しては。


「私としましても、朔様がなぜ森に行ってもいいのか疑問に思っていたのでございます」


 まとめて黄理に丸投げしてみた。


 一瞬黄理の表情が「なにぃっっっっっ!」と歪み、翁に向けて憤怒の殺意を向けた。しかし翁はそ知らぬ顔をするばかり。


 この老人、自分が仕える相手を窮地に立たせるなどなかなかいい性格をしている。


 そして困ったのは黄理である。
 まさかお前のためはっちゃけちゃいましたとは言えない。
 一時期暴走してはいたが、常識らしい常識は情報から隔絶された場所に生きてきた黄理でもある程度持っている。
 後悔は微塵もしてはいないがかなり痛い過去であることには違いない。


 しかし志貴はそんなこと知らない。子供の穢れない純粋な瞳で「どうして?」と訴えている。
 その輝きが黄理には辛い。


「朔は、な」


 散々考えあぐねた結果、黄理はおもむろに口を開いた。


「朔は特別だ」

「なんでなの?」

「朔は私が訓練を付けさせている。だからだ」

「どうしてなの?」

「それはな……つまり……」

「ねえお父さんどうしてなの?なんで兄ちゃんがよくて僕は駄目なの?」

 答えに窮した黄理に対し、志貴は次第に機嫌を損ねてきたらしく、軽くぶーたれ始めている。
 その瞳が興奮か少し潤んでいた。どうしたものかと黄理は翁に視線で助けを求めた。


 翁は優雅に茶を飲んでいた。翁しかとである。


 黄理はこの世全てから裏切られたような衝撃を受けた。

 □□□

 結局、あの後黄理は志貴が納得するような理由を話そうとはしなかった。いや話すことが出来なかった。
 黄理としては志貴に話したい内容ではなかったが、話さずにいると志貴が不機嫌になり、もしかしたら嫌いとか言われるかもしれない。
 そしたら黄理には灰になる自信がある。


 しかしだからと言ってあの黒歴史を志貴に教えるには些か辛い。主に父としての威厳が。
 ゆえに黄理は当主としての仕事が未だ残っていたと、そそくさいなくなってしまったのである。
 もちろん逃げるための口実である。しかも志貴の視界から消えた瞬間閃走を使用するほどの徹底振り。黄理実に大人気ない。
 そうするとそれに追随するように、それでいて「今度教えて差し上げます」と口ぞえしながら翁もどこかに行ってしまった。


 不満なのは志貴である。
 事実一人残された志貴は憤っていた。
 誰も教えてくれないのだ。
 志貴の頭の中でこれは、皆自分に対して意地悪しているのだと解釈した。
 子供ながらの素直な思考であるが、それゆえ思い込みと決定は固い。


 実はこの話、黄理に話す以前に何人から聞こうとしたのである。


 例えば母。


 母にどうしてなのか、と問うてみると母は「大人になればわかるものよ」と優しい微笑を浮かべ言った。


 そして叔母。


 自身が兄と慕う朔の世話を行っている叔母に聞いてみると、叔母は視線を背けながら「とても私の口からは言えない」と若干苦味のある引き攣った笑みを顔に貼り付けていた。


 更には里の大人。


 そこらにいる里の大人に聞いてみても「いや、あれはなあ……」と遠い目をしてしまい聞くに聞けなかった。


 そういう訳で誰も答えてくれないと、思い込んだ志貴。


 しかしどうしたものだろうか。
 大人に聞いても答えてくれない。でも子供だけで行くには危ないらしいし、とウンウン考えた。


 必死になって考えるその様はなかなかに微笑ましく可愛らしい姿である。だが本人はいたって真剣。
 子供ながらに考え考え、考えすぎで頭が痛くなってきた頃、ハッと閃いたものがあった。


「――――ってことなんだ」

「……」

「結局お父さん理由言ってくれないし……。だから僕考えたんだ」

「何?」

「兄ちゃんと一緒なら大丈夫なんじゃないかなあって」


 七夜当主である七夜黄理の住む屋敷の離れ。
 簡素な部屋である。物らしい物がない、ひどく寂しい内部だ。そこに志貴は訪れていた。


 その対面にいるのはこの離れの住人、朔である。
 二人はいつぞやと同じようになぜか正座で対面していた。

「なぜ?」

「んとね、だって大人の人は教えてくれないし、でも僕たち子供だけじゃ今まで行った事もないから危ないし。だからね、何回も行った事ある兄ちゃんなら大丈夫だって、僕思ったんだ!」


 すごいでしょ、と志貴は満面の笑顔で言った。


 志貴の考えではこうである。


 子供だけでは駄目、大人は教えてくれない、ならば朔と一緒に自分の足と目で確かめればいいんじゃね? である。


 こんな流れが志貴の頭の中で完成され、そしてそれは最早朔さえよければすぐさま発動可能な計画でもあった。
 大人は駄目だから、志貴と同じ子供でありながら里を離れることが許されている朔ならば外に出ても問題ない。
 子供だけ、と言うのは懸念事項ではあるが、もしなにか問題あっても朔は志貴よりも遥かに鍛えられているし、志貴自身も最近は頑張っている。
 七夜の移動術もある程度ならば使えるようになった。だからきっと大丈夫だろう、と考えたのである。

 何とも子供らしい安直な考えではある。
 だが志貴としてはこれ以上の案はないだろうと踏んだのだった。


「……」

「だからさ、兄ちゃん」


 志貴は真っ直ぐに朔を見て言った。とても楽しげな笑顔で。


「森に連れて行って」

 駄目かな? と若干小首を傾かせながら志貴は頼み込んだ。


 そんな志貴の姿を、朔はその無機質な瞳でじっと見ていた。


 今現在昼を過ぎた頃。
 朔は僅かながらにもコロコロと表情を変える使用人と昼食を済ました後、特にやることもなく離れの中に寝転んで無意識のうちに黄理の動きを脳裏に描いていた。
 そして想像の中、朔と黄理の対戦で朔の殺された回数が十を越えた頃だった。
 離れに志貴が訪れたのである。

 
 そして用件は森に連れて行って欲しいとの事である。


 この頃朔は志貴と共にいる時間が多くなってきた。
 閉鎖された里というのも在るだろうが、一日で会わないことはない。
 常にいる、と言うことはないが極めてそれに近い。
 遊戯に付き合うことはあまりないが、時たま共に夜を過ごす事もあった。
 無論二人で眠っただけのことだったが、次の日使用人の鼻息がやたらと荒かった。


 兎にも角にも人里を離れることを志貴は望んでいる。
 朔は考える。以前から朔は訓練のため森の中に向かうことが許されている。なぜ許されているのか。
 森は子供には大変危険、らしい。
 全方位から襲い掛かる植物たちに、突然変異を起こした生き物たち。
 自然のヒエラルキーは逆転し、植物が生き物を喰らうという関係が形成された森は同じく生きた者である人間にとっても危険地帯に変わりない。
 それでも朔が森に行けるのは朔自身の生存率が極めて高く、無傷で生還が可能だからである。
 幼少の頃、気付けばそんな場所へ当たり前のように行けた朔だからだろう。


 そんな朔にとって森は危ない場所と思うことが出来ない。
 確かに危険な場所ではある。
 朔自身判断を誤り、命を落としかけたこともあった。


 だが、朔にとって自身の命の価値を判断することは難しく、死ぬことに厭いはない。
 ゆえに森の中に行くことは命を落とすことはあるだろうが、別に問題らしいことはない。


 朔は改めて志貴を見た。その茫洋な瞳に期待をしている志貴の姿が見えた。


「……」


 不意に立ち上がった朔に志貴は少しばかりの戸惑いを覚えた。


 もしかして駄目なんだろうか、と不安が過ぎる。


 朔はそのまま歩き出し、外に向かおうとする。
 そして座ったままの志貴に振り返ることもなく、


「行かないのか」


 と言った。


 始め朔が何のことを言っているのか分からなかった志貴であったが、次第に朔の言葉に思考が追いついた。


「行く!うん、絶対に行くよ!」


 嬉しさと楽しさが混じりあったような笑みを浮かべ、躍動するように朔の後姿を追った。


 朔の判断では、志貴が自ら森の奥に行きたいと志願したのは詰まるところ、森の奥に行っても生還できる自信があると判断したからに他ならない。
 森は大変危険な場所であるが、志貴は行きたいと言った。
 動物の本能には危険な場所には近づかない生存本能が存在するが、志貴は森を危険ではないと判断したのだろう、だから行きたいのだ、と朔は考えたのだ。

 
 当然の事ながら。

 
 志貴は森が危険な場所であると知ってはいるが、分かってはいない。
 志貴の想像する危険とは、精々危ない場所と言うことで、怪我しても仕方がない場所である、ぐらいのものでしかない。
 つまり朔の考えた志貴の判断は、全く見当違いなものであった。


 それ以前に子供は行くことを禁じられていると、朔は知っていて、それではなぜ断らなかったのか。


 朔自身、なぜかは知らないが、志貴の話はなんだかんだで断ることが出来ないと、未だ自覚していなかった。


 兎も角、他の七夜が聞けば全力で阻止しそうな朔の思考経路によって、志貴は里の外に向かうこととなったのである。

 □□□

 始めていく場所ほど興奮する場所はないんじゃないか、と志貴は密かに思っている。


 何しろ七夜の里は、外部から隔絶された場所にあり、志貴自身人里から離れた経験は無い。
 里は確かにいい場所ではあるが、未だ幼い志貴にはそれはわからない。
 この変化のない里はなんだか詰まらない所としか思っていたりする。


 自身と同じ子供と遊ぶのは楽しいし、訓練も辛いがやっているうちに面白いと感じるようになった。
 だが、いかんせん里は娯楽が少ない。外部から志貴の好奇心が満たされるようなものは入ってこないし、僅かにある楽しみと言うのも発展性が少ない。


 そんな折、志貴の前に現われたのが朔である。


 朔は兎に角凄い。
 志貴と同じくらいの子供でありながら、黄理と訓練が出来て、志貴には出来ないことが何でも出来る。
 志貴の思い込みも多々とあるだろうが、志貴の中で朔のイメージ像は大変膨れ上がっている。
 だからだろう、従兄弟という関係であるが、朔を兄と呼んでいるのは。
 兄は凄い。
 未だ朔と話したこともなかったあの頃は、朔は志貴にとって未知の塊で、朔の話を聞けば聞くほど志貴の好奇心は高まっていった。
 そして実際に会って、話してみて、共にいる時間が多くなり。
 志貴は朔と共にいることで、家族といるような安心感を見出していた。

 
 そんな訳で、朔と一緒にいるなら大丈夫だと思った志貴は森の奥に行きたいと朔にお願いしたのだった。


 志貴の視界には広大な緑。そして地面、そして空。それ以外の雑多なものはない。
 家もなければ、人もいない。
 いつもよりも濃い自然の香りが鼻腔に満たされる。それを吸って、吐いて。


 そして志貴のわくわくはピークに達しようとしていた。


「うわあ、なんだか凄いよ兄ちゃん!何もないよ!」

「ああ」

「ほら、里があんな所にある!さっきまであそこにいたのに、凄い小さい!」

「ああ」


 興奮冷めやらぬ志貴の言葉に、朔はまともに聞いているのか聞いていないのか判別のつかない返事を返した。


 今現在、二人は人里を少しばかり離れた場所に入る。
 そこは朔や志貴の他に里の者が使用する訓練場を抜けた先の所だった。


 里を離れ、森に向こうへ赴くのは良いが、果たしてどうやって行くか。
 いざ向かわんと意気込む志貴の目の前にそんな問題が現われたのだった。


 志貴と朔が話し合った結果、家のある場所からは少し離れた訓練場から向かうことになった。
 里には何人かの見回りがいて、外部からの敵の侵入を監視し、里から安易に子供が出ないように回っている者がいたが、そこは朔の出番。
 朔は人の視線の間隙を縫っての移動を敢行。同じ七夜の志貴ですら分からぬ、人からの視線。
 それを感じ取り、何者からも視線を感じない瞬間、二人は里から離れたのである。


 実際、里の実力者ですら容易には行えない芸当を苦なくこなせる朔の凄さが垣間見えた瞬間であり、志貴の中の朔への尊敬がまた大きくなった。
 だが既に限界値を突破しているので、意味がなかった。


 さて、そうして里を離れていった志貴と朔であるが、始め朔が先行していたのだが、高まる胸の鼓動を抑えることが出来なかった志貴の歩調が次第に速くなっていった。


 普段見慣れる風景。里から少しばかり離れただけだというのに、志貴にはこの空間が別の世界のように見えた。


 苔むした植物たちの匂いは遥か太古の原始を感じさせた。
 果てしなく広がり途切れることのない大樹は志貴の冒険心をくすぐらせた。
 そして後ろに振り返ると里がもう見えない。側には朔。
 朔がいるだけで冒険心を高ぶらせながらも、その存在に安心感があった。


 怖いものなんて何もない。


 幼い冒険心は未知への好奇心を飛躍させるばかりだった。


 目的地なんてどこにもない。ただ気の向くままに進んでいく道がきっと正しい。


 だから志貴はそのまま進んでいこうとして。


「待て」


 ふいに、朔に呼び止められた。


 朔の言葉に振り返ったなぜ呼び止められたのか不思議に思い、朔に聞こうとして。


「何かいる」


 その冷たくも意志の有無を許さぬ言葉に固まった。


 何かいる。なにかいる。ナニカイル?


 志貴は慌てて辺りを見回した。
 しかし志貴の視界には取り立てて生き物の姿は見えない。ではなぜ朔は呼び止めたのだろうと、不思議に思い、再び聞こうとしたその時だった。


 志貴の後方、朔の視線の先にある茂みから、草を踏む擦れた音が聞こえた。


「―――――――っ!」


 それは突然に現われた。
 一切の気配を志貴に感じさせることなく、志貴の直ぐ後ろに何かがいる。
 慌てて朔の後ろに隠れた志貴は、その茂みにいる何かに僅かな不安と多大な好奇心を揺らめかした。
 そんな志貴のことなど露ほど知らず、朔は携帯していた小太刀を鞘から抜き、腰を落として茂みを見つめいていた。


 その何かが何であれ、朔は殺す気満々だった。


 次第に大きくなる茂みの音。


 志貴の喉が鳴った。


 そして一瞬の静寂。


 その瞬間だった。


 茂みから、何かが現われた。


「―――――――――――っ!!!!」


 びくつく志貴。襲い掛かろうと低い姿勢になる朔。


 だが。


「――――――――……………………………………………………………ゑ?」


 呆然とした志貴の口元から表記しにくい音が漏れた。


 緑の傘。


 白い斑点。


 デフォルメされたように輝く眼に、淡い黄色のぼでぃ。


 あえて言えばキノコ。頑張って言えばキノコ。苦しいかもしれないが、キノコ。


 それが二足歩行で、なんかそこにいた。 


「……」
「……」

 茂みの中から現れたモノを見て、志貴はほとんど反応することが出来なかった。
 だってそうだろう。志貴としては始めての冒険である。
 その場所で出会うものは未知なものがいいなあ、と期待してはいたが、目の前にいるアレはなんだろうか。志貴の想定の範囲内を超えている。


 キノコ。見かけはまるでキノコであり、見事なキノコっぷりである。
 形状的に考えてキノコ以外の何者でもない。だがこれをキノコと呼ぶにはあまりに強引過ぎ、志貴としても些か首肯するには戸惑う。


 キノコとは本来、菌から発生した植物であり、その性質は花に近い植物である。
 そしてそれらは食用として食されることもあれば、命を脅かすような毒を持つものもある種類豊富な植物である。

 
 そして志貴の知識では、キノコは生物ではない。


 しかし、改めて目の前にいるモノを見る。


 キノコ。形状はキノコである。


 傘の部分は妙に毒々しい色をなし、その黄色のぼでぃには丸っこい手足のようなものがついている。
 そしてその顔面(この時点でおかしい)には輝く瞳。
 大きさは志貴よりも少し小さいが、何と言うかずんぐりむっくりとした感じであり、それが上目遣いで二人を見ている。


 部分的に鑑みるにキノコではある。
 正直、キノコと呼ぶにはキノコに対して失礼な気もするが、それ以外に呼び方が無い。だがどうにも納得できない。


 戸惑いを覚えながらも志貴はどうするべきかと朔に視線を投げかけたが、朔は朔で既に腰を落とした前傾姿勢。臨戦態勢である。
 その手に握られる小太刀はまっずぐに目の前の命を狙っていた。
 それを見て志貴は思った。駄目だ話にならない。


 朔にとって志貴が戸惑う未知の存在など、さして興味も沸かない奴なのだろうか、と志貴は考え、改めてキノコを見た。


 キノコは茂みに姿を現した状態のまま、そのつぶらな瞳で志貴と朔をじっと見つめている。
 キノコとしても二人に対し興味を持っているのだろうか。なんだかデフォルメされた瞳の虹彩が先程よりも輝いて見える。


 しかし、ここで何もしないのはちょっといただけない、と志貴は次第に落ち着いてきた頭で思った。
 突然の出会いに混乱はしたものの目の前にいるのは志貴の望んだ未知である。
 想像の斜め上に突っ走っているが、冷静になってみると志貴の好奇心がむくむくと大きくなっていく。


 志貴は再び朔を見た。キノコが未だ何も行動を起こしていないからなのか、朔に今のところ襲い掛かる気配は無い。
 しかし、このまま何もしなければしないで、朔が目の前の存在を廃絶するのは時間の問題である。
 その証拠に朔の身体から僅かながらに殺気が滲み出ている。それは朔といる時間が多い志貴だから分かる、朔の機敏であった。


「兄ちゃん。どうしよう?」


 朔にとりあえずどうするべきか聞こうした。


 朔は既に足を踏み込んでいた。


 志貴の気配読みはあてにならなかった。


「って、うわああぁ!待って待って兄ちゃん殺しちゃ駄目だよ!」


 本気で焦った志貴は今にも飛びかかろうとした朔の目の前に回りこんだ。
 キノコを背に庇うように。


 そして志貴の目前で朔は止まる。その手に握られた小太刀は志貴の鼻先。
 あと少し志貴が遅ければ頭部が串刺しにされていた。


 志貴ビビる。


「うわもうびっくりしたっ。兄ちゃんまだ駄目だよ!」
「なぜ」


 志貴の焦りように朔は静謐な声を返した。そしてまだってことは後でならばいいのだろうか。


「なんでも!」


 志貴は軽く怒ったように朔に言い、そして今しがた自分が守ったキノコに振り向く。


 キノコは朔の殺気にあてられたのか完全に怯えていた。


「あの、えとごめんね大丈夫?」


 とりあえず刺激しないようになるべく優しく接してみたが、キノコの瞳は潤んでいる。


 この時、志貴にはやばい予感が過ぎった。


 なにか自分たちはやってはいけないような、とんでもない事をしでかしてしまったような気がする。


「べ、別に君に何かしようとか思ってないよ?うん、まずは落ち着こう深呼吸して深呼吸は大事ってお父さん言ってた、あれでも君呼吸しているの?違うそうじゃなくてとりあえず落ち着こう、うん、そうしっ――――!!」


 森が、ざわめく。


 急激に接近する気配。


 何者か、それも複数の気配がいっきに近づいてきた。


 ニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロ。


 志貴の脳内で逃亡を促すアラートが鳴り響く。
 しかし、志貴がそれに従い逃げるよりも早く、それらは急激に近づきその姿を現した。


 キノコ。


「え、あの」


 キノコキノコキノコ。


「え、え、あ、あれ?」


 キノコキノコキノコキノコキノコキノコキノコキノコキノコキノキノコキノコ。


 志貴の視界にキノコが現われた。しかも複数。
 いや、今こうしている間にもキノコたちはその数を増やしていく。なんだかキノコ以外にもいるような気もするが。


「…………えぇぇ」


 森に志貴の力ない絶句が沈む。


 目前、いや周囲に渡って姿の似たキノコが蠢き犇めいている。
 数えるのが莫迦らしくなるほどのキノコたちが志貴や朔を取り囲んでいた。その光景の何とコミカルなことか。
 それら全てが二人を見つめているのである。
 しかし、数の脅威と言うべきか。同じ造形の生物に取り囲まれている志貴は怯えた。

 
 こいつはやべえ。


「に、兄ちゃん……」


 志貴はそもそもの原因である朔に縋りついた。
 あまりの事態にすっかり先ほどの出来事が頭から飛んでいったのだが。


 その朔は朔で、周囲に殺気を撒き散らしキノコたちを威圧している。瞳にキノコを映して。
 その増大な殺気にあてられキノコたちもなんだか怒っているような。
 その体を目一杯使って私たち怒ってるんですアピールをする様はなかなかにシュールである。


「兄ちゃん怖がらせちゃ駄目だよ!」


 しかし今度は志貴の言葉に朔は耳を貸さず、両者の睨み合いは次第に熱を帯び始めた。
 色めきたつキノコの群れとそれに対峙するのは朔。
 志貴は朔を止めようとしているが、朔と関わる合間に志貴が朔を止められること等なかった。

 
 それは詰まるところ、今この時点で志貴は役立たずということ他ならない。


 なので、


「「「―――――――――――――――――――――――――――――――――!」」」
「……」


 しばらくお待ちください。


「ああもう!殺しちゃ駄目だからねっ!」


 志貴は身の危険を感じ、とりあえず近くにそびえる木の枝に駆け寄った。
 あのままあそこにいたら巻き込まれるだろうと判断した結果だったのだが、おそらく正しいだろう。


 眼下には正面から衝突した朔とキノコの大群である。


 あきらかに数の対比がおかしい。朔一人に対し未知の生物であるキノコ。
 五十は確実にいる。これで正面から襲い掛かる朔は凄い、がもう少し何とかして欲しかった。


「うわあ……」


 見渡す限りのキノコの山に向かって襲い掛かった朔。とりあえず志貴の言葉を守っているのか、気付けばその手に小太刀はない。
 直接的な殺傷能力はこれで下がった、と思うかもしれないが、朔の膂力の凄まじさを考えればこれでも安心できない。


 だってそうだろう。


「――――――――――――――っ」


 キノコが宙に舞っている。


 群れの中に突入した朔は体当たりを敢行するキノコ共を千切っては投げ千切っては投げ。


 キノコ乱れ舞である。


 朔によって殴り飛ばされ、投げ飛ばされ、蹴り飛ばされるキノコたちは何やら悲鳴のような音を漏らしながらポンポンはねられていく。
 そしてその度にキノコの体から胞子が飛んで視界が悪くなっていく。
 キノコの色からして毒のような気もするが、とりあえず志貴は着流しで口鼻をガード。

 
 そして高い木から俯瞰している志貴にも分かるが、このキノコたち戦闘能力自体はあまり高くない。
 先ほどから行っている攻撃手段は相手に近づいての体当たりのみであり、その他のような行動は見せていない。

 
 だからだろう。朔の独壇場である。


 碌な抵抗も出来ずポンポンとすっ飛ばされていくキノコたちの目には涙。ホントにこれ植物か?


 相手が悪かったのもあるだろう。
 キノコたちが挑んでいるのは朔である。
 移動速度、膂力、急所へお的確な攻撃など根本的な七夜としての素質では七夜一。
 化生と殺しあうために存在した七夜において尚際立つその技量と膂力。
 さらに朔自身の努力でそれは更に磨きがかけられ続けている。
 そのような存在を相手に戦っているキノコが憐れでならない。
 いや、これは戦いとすら呼べぬ蹂躙だ。朔の動きに反応できているキノコがいないのがそもそも問題だろう。
 なにしろ木にいる志貴ですら朔の動きに目が追いついていないのだ。


 暴風雨の如くキノコたちを蹂躙していく朔。


 気付けばそこに動いている者はただ一人となった。


「……」 


 無論朔である。


 ぼっこぼこにされたキノコたちの亡骸が横たわる地面に朔は立っていた。


 倒れ伏す異形のモノどもに対し残心なく油断はなく。


 あいも変わらず茫洋な目。


 その姿に志貴は自身の父である黄理の姿を重ね合わせた。


「あの、兄ちゃん?」


 動くものがいなくなっても未だ臨戦態勢のままである朔に心配を抱き、志貴は木を降りて朔の側に寄った。


「……」


 しかし、朔の返事はない。志貴の存在に気付いているのかも微妙だ。


 そんな朔に懸念を抱きながらも、志貴は改めて倒れ伏すキノコたちを眺めたが、なんだろうか、漫画のように傘の部分にヒヨコが回っている。
 これを植物のカテゴリーと呼ぶには芸が細かすぎるだろう。


 そして志貴は今がチャンスと、ぴくぴくと痙攣しているキノコたちにおっかなびっくり近づいていった。
 朔が志貴の事を視界に納めながらも何も言わないのはきっと大丈夫だって事だろう。


 気絶していたり、ダメージからか動くことの出来ないキノコたちを憐れに思いながらも、それ以上の好奇心に罪悪感は薄れていき、目の前に倒れていたキノコの一匹。
 それに近づき、手で触れる。


 ざらついた手触りがした。そして妙に生暖かい。


 それを触りながら志貴は今更ながらに朔へ問うた。


「兄ちゃん、これなんだろう」


 不思議な生物がこの森にいるなんて聞いてもいなかった。
 もしかして黄理や翁が言っていた危険とはこれに関係するのだろうか。


「知らない」

「そっかあ」

「でも」

「でも?」

「前に見た」

「そうなんだあ……って本当っ?」

「ああ」


 朔は無表情に無機質に志貴の問いに反応する。


「兄ちゃんはこれいつ見たの?」

「訓練中に」

「森に入ってる時?」

「ああ」


 話しによれば、黄理との訓練中の際何度か遭遇していたのだとか。


「それってお父さんは知ってるの?」

「伝えていない」

「どうして?」

「聞かれなかった」

「……そっかあ」


 実に朔らしい事である。


「それで、その時にはどんな感じだったのこれって」

「変わらない。この形」

「それで、殺したの?」


 そう聞くと、朔はしばし時を置き緩やかに首を振った。


「殺した。だけど、殺せなかった」

「え?それって、どういう……」


 その時である。

 志貴の触っていたキノコそれが。

 むくり、と。

 ぎこちない動きで起き上がったではないか。

「うひゃぅ!」

 そしてそれに呼応するかのように、周囲に横たわっていたキノコたちが起き上がり始めたのだ。

 突然動き出したキノコたちに驚いてしまった志貴は朔の側に慌てて戻った。

「こいつらは殺せない」

 そして志貴を庇うよう前に出た朔は再びその殺気を滾らせた。

「どうして!?」
「何度でも甦る」

 それを聞いた志貴は愕然とした。なんだそれは。本当にこのキノコたちは何なんだ。

 ふらつきながらも起き上がったキノコたちは先程よりも怒っているようにも見えた。
 志貴は予想も出来ぬ展開にどうすることも出来ず、最早置いてかれているような状態だった。

「そして」

 そしてキノコたちは怒りの興奮そのままに、志貴の目前にわらわらと集まり始めた。


 やがてそれはひとつの集合体となり、塊となり、なんだか蟻の巣のような凄い光景である。

 その時、森に突風が吹いた。

 あまりに強い突風に志貴は目を覆う。

 森のざわめきが再び起こった。ざあざあと擦れる葉の音は何かの前触れにも聞こえた。

 目を閉じる志貴の体に舞い散る葉が何枚をあったっていく。

 だがその側にいる朔は目を隠すことなく、目の前の存在を見ていた。

 しばらく経ち突風は収まっていき、森のざわめきが消えていく。

 それに志貴は覆い隠していた目を徐々に開いていった。

「あれ……?」

 そして、志貴の目の前にいつの間にか山が出来ていた。

「合体する」



[34379] 第七話 ななやしき君の冒険 後編
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2012/09/19 16:29
 その日、私は悩んでいた。

 恥ずべきことだとは分かっていた。
 だが、自らを律しようとする理性と、私を掻き乱す本能がせめぎあっているのだ。羞恥や背徳を超越する欲望によって。
 胸の鼓動が高まり、鳴り止まない。
 恐る恐る手を伸ばそうとして、いや、やはりやってはいけないとその手を押さえる。だが視線はそれに釘付けで、逸らすことが出来ない。

 それでも、私は、私は……!

 正座で座る私の目の前の座布団に置かれた布。
 それは何者にも価値がなく、はっきりと取るに足らないものだと認識されるだろう。だが、それが私には、とても甘美なものに見えて仕方がない。

 だが、だが、私は、私には―――!

 切欠は些細な、それこそどこにでもあるようなことだった。
 今日、私はいつもと変わりなく屋敷の家事を行っていた。
 朔のために朝餉を作り、朔と共に食事を取り、その後訓練に向かう朔を見送り、昼食には再び朔と食事を取った。
 食後しばらく朔の部屋にいたかったが、まだ家事が終わっていなかったので朔と少しばかり言葉を交わし母屋に向かった。

 屋敷の家事は私が全て受け持っているわけではない。
 この屋敷には使用人はおらず、主に家事を担当しているのは私と義姉様だ。

 義姉様は私と違って大変女性らしい方で、私の憧れでもある。
 料理は美味しく、その身のこなしも参考になることばかり。さすがあの兄様と契りを結ぶ方で器量良く、何一つ取っても私なんぞでは逆立ちしても太刀打ちできない方だ。

 だが、だからと言ってこの屋敷の家事の全てを行えるわけではなく、私としてもそれは忍びない。
 更に言えば家事は数少ない私の趣味でもある。なので家事の負担を減らすため義姉様だけにやらせるのではなく、私も家事を行っている。

 そして私は母屋にて溜まっていた服を纏めて洗っていた。
 それもあと少しのところで、ふと何気なく残った洗濯物を確認したのだが、その中にひとつ、あるものを見つけてしまったのである。

 いつもならば、いつもの私ならばそれをそのまま洗い物として洗い済ましていた。だが、その時は止まってしまった。
 それがなぜだか、今となっては検討もつかない。
 ただ、私はそれ以外の洗濯物を洗い終わると、それを衝動的に着流しの袖の中にしまい、他のものを干し終わると急いで部屋に戻ってきたのだ……。

 改めて目の前にある品を見る。

 ……はっきりと言ってしまえば、朔の下着だ。

 それが目の前、敷かれた座布団の上に乗っかっている。

 果たして私は何でこれを掴み取ってしまったのか理解できない。
 ただ朔の汗やら体臭やら、その他諸々が染みている可能性があり私としても何とも甘美な予感があの時はして思わず手に取り匂いを嗅いだり口に含んで唾液に混じり滲み出た汁くぁwせdrftgyふじこlp!

「―――っは!」

 危ない危ない。

 もう少しで踏み出してならない領域に足を届かせようとしていた。

 だいたい朔はまだ子供。調べた限りでは精通もしていない。
 それなのに手を出しても意味は無いだろう。

 伸ばしかけた手を息を吐きながら戻そうとし、一瞬過ぎる未来の展望にそれは空で止まった。

 ……待てよ?
 私は七夜なのだし近親相姦は全然構わないのでそこらへんは問題にしていない。
 むしろばっちこいだ。

 七夜は早い内に子供を授かるのが望まれている。何せ七夜の家業はあれだ。
 将来現役は難しく、肉体の衰えなどで第一線を引く事が多くない。

 翁?あいつは駄目だ。あの狡猾な突撃莫迦を当てはめて考えてはならない。

 この歳になって私が未だ誰とも契る事が無かったのは、私自身身を固める必要性を感じなかったこともあるだろう。
 しかしそれ以上に七夜の男に感じ入るものがなかったのだ。
 魅力と言えばいいのだろうか、それがこの里に生きる者には感じられず、好き合ってもいない者と結ばれる事もいただけず、ずるずると時は流れていった。
 そしてそのまま私は老いていくのだろうと思う。思っていた。
 だがそれは朔の存在で覆される事となる。

 朔と触れ合うこと七年以上。着実に私たち兄弟の血をひいた成長を見せている。
 それを側で見守り続け、同じ時を過ごしていくうちに、私の中のナニカが産声を上げたのだ。

 今まで感じたことも無いような温度。朔の事を思うと胸が締めつけられるほどに切なくなる。
 始めこの感覚はなんだろうかと戸惑い、しかし誰かに相談することも出来ず我慢していったのだが。

 最近になってそれが抑えつけられなくなってきている。

 朔は子供ながらにその肉体は早くも男性的な引き締めを成しているが、ふとした時に見せる歳相応の幼さ、それに目を奪われる。
 訓練後の僅かに乱れた着流しの隙間から覗く身体。あれは素晴らしい。
 胸の鼓動が早くなり、少女のように赤面したものだ。

 朔の近くにいる志貴にも時たまそれに近い衝動が起こる。
 だがそれは朔以上ではない。志貴には感じられぬ、私を突き動かさざるを得ないナニカが私の中にはある。

 朔が寝静まった後の茫洋な気配がなりを潜めたあどけない寝顔など興奮した。
 思わず全力で気配を消し、その頬に触れ、挙句の果てには興奮の末、頬を舌で舐めてしまった。
 あれは良かった。気配を読む事に長けた朔からこのような事が出来ることは全くといって良いほど無い事だった。
 いつ朔が目覚めるかも知れぬ緊張の中、沈んだ夜の空気に頬を舐める湿った音のみ聞こえてくるのだ。

 あの時はそれ以上進めば止められなくなりそうだったのでそこで止めたが、もし次同じような機会があれば次はもう少し大胆に行ってみたいと思う。

 それは兎も角。

 問題となるのは朔の年齢。
 未だ子供であるから性交は出来ない。意味が無い。
 だが、もし今後朔を狙うような輩が現われた場合はどうだ。
 朔は受動的だ。もしかしたらそれを受け入れ、挙句の果てにはそのまま……。

「駄目だ。それだけは駄目だっ」

 朔がまだ赤子だった頃から育ててきたのは私だ。そんなどこの馬の骨かも分からぬ女に青い果実を掠めとられるなぞあってたまるかっ。

 そうだ、私には責任がある。朔を育てている私には朔の成長を確認する責任があるのだ。ならば朔に関する事の大抵は私自身の目で知っておかなくてはならない。

 朔のためならばこの下着をどう扱おうとも問題ない。むしろ誇るべきではないか!

 ――――答えは、得た。

「ならば。……躊躇う必要は、無い」

 良心の呵責やら理性によって震える手に力をこめ、恐る恐る朔の下着に手を伸ばし掴んだ。
 その厚みの何て頼りない事。このような薄布で、朔のあ、あ、アレは包まれているのか。赤面を自覚する。

 しかし、手に包まれた下着を見て、迷う。

 私は本当にこれを行ってもいいのだろうか。決定的な間違いを犯そうとしているのではないか。

 不意に浮かんでは消えを繰り返す私の弱さ。
 そして私は弱気な私を叱咤した。
 そう、これは私のやらなければならない事。
 私の責任、私だけの義務だ。私がやらずに誰がやるっ!

 心臓が痛いほど脈打っている。全身が熱を持ち、眼前にある布しか目に入らない。

 そうだ、躊躇うことない……!

 そして私は、ゆっくりと朔の下着を嗅ぐ。

「――――――――――――――――――っ!!!!」

 禁忌を犯すような背徳感が、私の背筋をなぞる。

 鼻腔が朔の匂いで満たされていく。少しばかり汗の混じったその匂いは、あっという間に私の中を蹂躙していく。
 痺れにも似た感覚が全身を駆け巡り、私の頭の中は次第に白くなっていく。

 嗚呼、これは、良い。

「あ、ふぁ……」

 全身が幸福感で包まれている。
 深く鼻で呼吸を繰り返す。その度に朔の匂いが私を染める。
 私が満たされる。私は満たされる。朔が満たされる。朔に満たされる。

 今まで私は、これを知らずにいたのか。なんて、愚か。なんて、無様。

 朔、朔、朔、朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔さくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさく―――――――――っ!

 呼吸が幸せとは、考えたことも無かった。

 だけど、これでは足りない、これだけでは足りないと私の中の更なる欲望が熱を持って訴える。
 朔の下着。それは今、私の息で少し湿っている。
 これを、もし、口に含んだら……。

「はぁぁ……っ」

 それを思うだけで、艶めいた吐息が私の口から漏れる。そして、そんな女らしさを持っていた自分に多少の驚きがあった。
 そして私は内側から起こる衝動のままに、ゆっくりとその布を私の口元の中へ――――。

「……あの、少し、よろしいですか?」

「わああああああああぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ!!?」

 突然話しかけられた。
 それに義姉様の声で今気付いた私は、思わず悲鳴をあげてしまった。
 そして声の方向に全力で顔を向けると、開かれた襖、そこには困ったような表情をした義姉様が私を見ていた。
 その苦味の混じった視線の先には私の口の中へとっさに入れた朔の下着。
 
 ……終わった。

 □□□
 
 それを見たとき、志貴は言葉も忘れて見入ってしまった。
 突然目の前に現れた小山は志貴にとって想定外もいいところ。無論魅了だとか、憧憬だとかそんな肯定的な感情ではないが。

 大きい。ひたすらに大きい。

 大人の者でさえも見上げてしまうような、そびえるキノコが、そこにはいた。

 小山の如きキノコだった。
 先ほどまでの愛嬌はどこにやら。見かけ、腕を組んだ筋骨隆々なキノコである。
 一頭身であったはずのキノコは今では人間のような構成と化していた。

 岩の如き大胸筋、見事な割れ目を成した腹筋。
 筋肉繊維まで見えそうな上半身であり、その下半身もまた然り。それでも顔に当たる部分はキラキラとしたデフォルメの眼が何とも言えない。
 子供ながらに志貴はその肉体の脅威に晒され瞠目した。だが何だろうか、この何とも言えぬ虚脱感。言葉にもし難い様相を成している。
 しかし、事はそれどころではない。

 志貴が見上げるような高さを誇るキノコであるが、その身体の造りは男性の構造に酷似している。
 つまり、それが確認できると言うことは、キノコは男性の肉体でありながら、裸体を曝け出していることに他ならない。
 裸体である。裸体、なのである。大事なことなので繰り返す。

 そして、志貴にはそれが見えた。

 人間的構造、それも男性体に極めて酷似したキノコ。

 それの股間部分。志貴は見上げてしまったので、はっきりとモロである。

 その部分に、先ほどまで散らばっていたサイズのキノコがちゃっかりと、おられている。

「うっわ……」

 志貴絶句。

 誇るように其れを突き出す巨大キノコ。何処からか「投影拳!」と聞こえてきたのは気のせいだろう。そう信じたい。
 仁王立ちのそれに時折その部分にいるキノコがピコピコと動いているのが、何とも不可思議である。

 それが、二人を見下ろしていた。腕を組み、股間を誇張する巨大筋肉キノコ。
 どこぞのボディビルダーもかくやのマッチョっぷりに志貴はドン引き。既にドン引きしていたが。
 そしてそれは、志貴たちを見てその顔を歪ませた。それは企みが成功し、そのまま勝利を確信したような表情であった。

 組まれた腕が解かれる。

 そしてその手が高く高く、その巨体からかゆっくりと持ち上がっていく。
 天高く上げられた拳が暗い森から、僅かしか入り込まない日差しを遮る。

 恐らく、その馬鹿らしい大きさの手を叩きつけるつもりなのか。
 その動きは愚鈍であるが、巨体から鑑みるに決して軽く見ることは出来ない。当たれば二人なんて轢き殺された蛙と化す。

 しかし、人は突発的な事態に遭遇した場合、動きが止まるものである。それは志貴もまた例外ではなかった。
 いや、だってこんな相手と対面するのだ誰が想像できるだろう。志貴の視線は巨大キノコ、股間のキノコに釘付けであった。

 が、何事もうまくいくようには出来ていないのがこの世の常。

 この突発的な事態を既に体験していた人間もここにいたのが、キノコ最大の不幸だった。

 ――――志貴の隣で、朔が動いた。

 呆然とし動けないでいる志貴には目もくれず、臨戦態勢を解き放ち、キノコに向かって飛翔した。ハッとし、志貴は朔の姿を追う。
 無茶だと思った。あまりに巨体、あまりに巨大。そのようなものに挑むのは無謀だと。
 朔が負ける姿は想像できないが、しかし確実に手痛い目に会うことは容易に想像できた。

 しかし、朔はそのような志貴の慮りなぞ知らないかのように、拳を打ち下ろすキノコに向かっていった。

「兄ちゃん!!」

 激突の寸前、志貴は思わず目を瞑ってしまった。朔が叩き潰された姿を恐れたのである。

 砂を打つ様な、くぐもった音がした。

 それが耳に入り、志貴は朔が負けたのだと思った。信じられるはずなかった。だが、あまりに両者の差は広がりすぎていたのだ。
 それを埋めることが、出来るはずがない。そう志貴は思い込み、次は自分なのだと思った。

 だが、待てどもその時は訪れなかった。何が起こったのかと志貴は恐る恐る目を開き。

 ――――巨大キノコの股間のキノコに拳をめり込ませた朔の姿が見えた。

「うわ……」

 志貴、この短い時間でまたも絶句。

 朔の拳は真っ直ぐに股間キノコへと突き刺さり、見るからにその形状を陥没させていた。
 どの様な威力を込めればそのようになるのか。朔の渾身の一撃にキノコの顔は潰れ、皺が寄り、ほとんど確認出来ない。
 その手足が痙攣しているのが痛々しい。

 しかし、それ以上に痛そうなのがそのキノコの親玉、巨大キノコである。

 股間とは男女問わず急所である。人間の身体には様々な急所が存在するが、最もポピュラーな急所として股間があたる。
 そこを陥没するほどの威力で打たれたのである。

「(あ、腰が引けてる)」

 朔の攻撃に晒された巨大キノコであるが、あの堂々とした態度から一変、仁王立ちが内股と化し、膝に力が入らないのかガクガクと震えている。
 あのキラキラの瞳は今では涙目である。そして志貴もそれを見て、少しだけ内股になった。

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!」

 数瞬遅れ、キノコが絶叫を上げた。すわ怒りに襲い掛かってくるのかと、志貴は身構えたが、キノコはその場に座り込み、股間を抑えていた。
 地響きを鳴らし、内股の女の子座りである。

 そりゃ確かに痛いわなぁ、と志貴は納得していたが、その志貴にいつの間に戻ってきた朔が話しかける。

「志貴」

「どうしたの?兄ちゃん」

「逃げる」

「え、そうなの?」

 志貴の問い返しにコクンとひとつ朔は頷く。志貴はそこで先ほど朔がこれは殺せないのだと言っていたのを思い出す。
 合体キノコやマッチョやら股間のキノコやら立て続きに見てしまい、脳がすっかり動かなくなっていた志貴であった。

 一先ずこのキノコが股間を抑えている間は安全だと教えられた志貴は朔の言にしたがい、その場を離れることにする。
 怒り心頭と化したアレを相手するのは嫌だったし、志貴としても流石にそのような倒せない相手にもう一度会いたいとは思いたくない。
 頭からあの姿が離れないので暫くは夢に出てきそうだ。もし今日そうなったら朔と一緒に寝ようと考えた志貴は、ふとある疑問を感じた。

「兄ちゃん。もしかして前にアレとあった時も、あれやったの?」

「ああ」

 無表情に答える朔に志貴は若干の戦慄を感じたのであった。
 ――――男の象徴をそんな簡単にポンポンと潰せてしまうなんて!
 男として生まれた朔にもあの痛みは分かるだろう。分かってやるのかそれを!と、内心朔は絶対に怒らせたくはないと誓う志貴だった。

 □□□

 時は進み、志貴と朔は森を進んでいた。暗がりの森は方向感覚を狂わせ、自分が何処から来て何処に向かいたいのか惑わせる。
 志貴は自分が飽きるまで進むと決めており、朔はそんな志貴を先頭についていくのみである。そもそも目的地があるわけでもない。

 あの巨大キノコから逃げおおせる事に成功した二人はとりあえず現在地がどこかも分からぬまま好きな方向、主に志貴の進みたい方向へと進んでいる。
 倒壊した巨木を乗り越え、苔生した岩石に腰掛け、幾重もぶら下がる蔦をかわし。
 最早森は暗さを増して木々の隙間から差し込む光は少なく、湿気が生じ空気は少し涼しくなってきている。
 その仄かに暗い森を進むのは若干の不気味さが生じるものなのだが、志貴の目的は冒険であり、また散策である。これくらいバッチコイと意気込んでいた。

「ねえねえ、兄ちゃん」
「何?」

 それでも多少の不安はあるため、志貴はひっきりなしに朔へと話しかけていた。
 いくら冒険心という火薬があれども、それは爆発するだけのものでありそれを揺ぎ無く持たせ続けるのは困難である。
 森はその本性を曝け出し、やがて志貴に己の幻想がどれほど輝かしく、そして脆いものかを時機に教えることになるが、それを知らぬ志貴はこの身に巣くう不安を持て余しており、それは朔と会話をすることで何とか誤魔化していたのだった。

「兄ちゃんはいつも森で何してるの?」
「訓練」
「どんな訓練?」

 志貴としてはそれも気になるところであった。
 朔は黄理に直に教えを受ける。それは志貴でも出来ぬことであった。
 確かに志貴自身、黄理の子という事で才はある。この若さにしてその片鱗を見せているだけでも充分だとは思う。
 しかし、それは朔を見ると少々見劣りせざるを得ない。

 七夜朔は里で密かに鬼神の子と呼ばれているように、その才は留まることを知らない。
 黄理の訓練に喰らいつき、更には大人の七夜との戦闘に勝利するなど、志貴には出来ない事を達成している。
 志貴にはそれが凄くて、そして少しだけ悔しいと感じていた。
 志貴と朔は同年代の子供であり、その歳の差も二つしか違わない。しかし、差は縮まるどころか更に離れているような気がするのだ。
 なので、この機会に何か特別なことをやっているのか聞こうと思った次第なのである。

「閃鞘、閃走で森を動き回る」
「……それだけ?」
「ああ」

 しかし、朔の答えは志貴の望むようなものと違っていた。

 閃鞘、閃走。それは七夜に伝わる空間利用術である。
 関節の可動域を広げ強化することで可能な、人間には本来出来ない急制動及び加速を生み出す七夜の術理である。

 無論、志貴は七夜であるので、それは使える。朔を除けば志貴は里の子供の中で一番にそれを使えるようになったのだ。当然自信もある。
 なので朔の答えは少し期待はずれであった。

「むむむむ。んじゃなんで兄ちゃんはそんなに強いの?」

 倒れた巨木の上を進みながら志貴は言う。どれほどこの場所にあったのだろう。その樹皮は苔むしている。

「強くない」

 朔はそんな志貴を見ているのかも分からぬ茫洋な瞳。その瞳に森の姿が写されている。

「え、なんで?兄ちゃん強いじゃん」
「強くない」

 志貴の言葉を跳ね返し、朔は言う。

「御館様のように、強くない」

 なんだそれ、と志貴は思う。黄理は志貴の父親であり、七夜の当主なのである。
 それはつまり父はこの七夜で誰よりも強いという事で、その父のようにとは如何な事だろう。

「御館様には、まだ遠い」

 目標が高い、という事なのだろうか。それならば朔はまだ先を見据えていると言う事か。

「ふうん……」

 そうして志貴は流したが、誰が知るだろう。
 朔には、其れだけしかないのだと言うことを。

 志貴はちらりと、朔を見た。
 藍色の着流しを着た子供。鋭い目つきに、あいも変わらずの茫洋な瞳である。
 子供らしくない雰囲気を持った、志貴と同じくらいの歳の少年。
 抜き身の小太刀を左手に握るその身のこなしは今でも重心にブレがなく、いつでも戦闘可能なポジションへ極自然に移動している。

 ――――もしかしたら、僕を守ろうとしてるのかな。

 何となく志貴は思い、朔に真意を聞こうとして。

 その姿が掻き消えた。

「あれ?」

 そして志貴はそれと直面した。

 最初、志貴はそれが何なのか理解できなかった。
 何か、影が躍り出たのだと思っただけだった。
 だって信じられないだろう。
 今しがた朔がいた場所に。
 蔦が襲い掛かってきた。

「な、なにこれ……」

 生きてるように、蠢くように、その苔むした色の蔦は幾重にも襲い掛かってきたのである。
 森を構成する木々の隙間から、地面から、草葉の中から、それは何本も現われ朔がいた場所の埋め尽くす。その様はまるで触手。

 視界一杯に現われたそれは、まるで捕食しているのかのようだった。
 そして、それらは志貴を見た。音にしたらぐりゅん、とした感じで。

「ひっ!?」

 ヤバイヤバイヤバイ、と志貴の本能が悲鳴をあげた。
 いきなりのピンチである。なんだか分からぬが、アレに捕まえられると十八禁もしくは「ヒギィっ!」どころではない展開がやってきそうな気がした。

 もしかして朔はそれを知っていて姿を消したのかと、志貴は慄いた。
 
 ―――瞬間である。それらが志貴に向かって襲い掛かってきた。

「う、うわああああああああああ!!」

 志貴は悲鳴をあげながら逃げた。
 咄嗟に閃走でそれらを振り切ろうとしたのだが、其れよりも早く触手は志貴を捕らえようと動きまわる。襲い掛かるそれらはまるで土石流のようであった。

 束となって迫るそれを寸でのところでかわし、次は何処から来るのかと確認をする前には地面に振動。
 咄嗟に飛んでみると、そこから木の根っこのようなものが生えてきて、これまた志貴を狙う。
 それを間一髪と安心する暇もなく、飛んだ志貴の背後から蔦が左右分かれて襲い掛かってきた。志貴は飛んだことが間違いだったと、何とかして身体を捻り、それを避けた。

 しかし、志貴の閃走、また閃鞘は未だ使えるのみであって、極めているわけではない。
 何が言いたいのかと言えば、朔と比べ圧倒的に修練が足りないのである。
 次いで状況判断、または空間把握に関しては今までこのような体験もしていなかったので論外である。
 なので志貴は簡単に追い込まれていたりする。
 志貴としても必死だ。次々と襲い掛かる植物たちに対処が追いついていない。
 今の所、何とかして回避はしているが、どうにも危うい。そして志貴自身このような状況に対応することも出来なかった。
 予測を立てることもなく、目の前に現れる障害をやり過ごしていく。

 故に、志貴はピンチだった。

「こんのおおおおおお!!」

 目まぐるしく変化していく状況に志貴は避けるために、倒れた大木の苔むした樹皮を走っていく。
 何とか気合で乗り越えようとするが、既に視界は襲い掛かる植物で覆われていた。最早脱出するには包囲網が完成しつつある。
 僅かな隙間しかなかった天井は覆われ、日の光は遠く轟く植物たちの動きだけがあり、志貴が逃げる樹皮の先に、なにやら枯れ木の化け物が鎮座していた。

 それに気付いた志貴、動きが一瞬遅くなる。
 そして、植物たちは当然それを見逃すはずがなかったのである。

「あ」

 やべえ、これ死んだ、と志貴は視界に迫る植物たちを見た。
 植物たちは呆けるような志貴に容赦なく殺到していく。

 志貴は、自分の未来を想像し。

「ぐえぇっ!?」

 その首根っこが思い切り引っ張られていく。

 突然の衝撃に志貴は噎せる。そしてそのまま志貴の体はバウンドするように樹皮を進んでいく。
 引っ張られる感覚に、志貴は何事かと着流しを引っ張る存在を見やれば。

 朔が、いた。

 どこからか現われた朔はそのまま志貴をその背に乗せて、おんぶの体勢となる。
 その時点で朔に助けられたのだと状況を把握した志貴は、朔に礼を言おうとしたのだが、朔の軌道に唖然とし言葉を失った。

 加速。急制動。地上にいるかと思えば、いつの間にか二人は空にいた。
 視界が流れる、なんてモノではない。急激な移動に、志貴は気付けばそこにいたのである。
 天を覆い尽くす木の葉が手を伸ばせば触れられそうな距離にあった。
 空にいる朔めがけ、再び触手が襲い掛かってくる。
 志貴はその量に悲鳴をあげた。どういうわけか、先ほどまでとは段違いの触手がやってくる。
 それはまるで鉄砲水の勢いで、複雑に絡まりあうかのように迫る。

 だが、再び志貴は時間を加速させたような感覚を受ける。空気が圧力を持った。
 それに志貴は突っ込んでいき、自分が大海に包まれたような気がした。

 その急加速に景色が見えない。

 思わず目を瞑った次には、朔は樹皮を走っていた。
 どういう軌道を描いたのか目を瞑ってしまった志貴には分からないが、あの決して近くはない間隔をどう詰めたのか。しかも着地の瞬間が分からなかった。

 志貴が驚いている合間に朔は風を切って走る。
 その直線状にいる、枯れ木のような化け物に向かって真っ直ぐに。

「ににに兄ちゃん!?前、前前前!」

 志貴の慌てように気付いているのか、朔は反応すらせず、それに向かっていく。真逆、そのまま突っ込んでいく気か。
 ヤバイ、朔ならやるっ、と志貴は恐怖を抱いた。

 目前にいる枯れ木は、巨木がそのまま枯れてしまったような木でありながら、それには長い枯れ木の手足がついていて、その胴体のような場所には顔らしき穴があった。何と言うか、某指輪物語に登場してきそうな植物である。
 先ほどのキノコもそうだが、この森は何なんだと志貴は始めて来た森に改めて恐れを感じた。
 しかし、そんな志貴なぞ関係ねえ、と朔は走る走る。朔の行進を止めるかのように植物たちが襲い来るが、それを軽々と朔はかわしていった。

 すると、志貴はこの状態にあって何気なく後方に振り向いた。
 なかなかいい神経をしているが、ぶれる体勢と突き進む朔に現実逃避を始めたのである。

 だが、それが間違いだった。

「げっ!」

 なんか巨大キノコが腕を組みながら浮遊し迫ってくる。それも夥しい数のキノコたちを引き連れて。
 回復したのかとか、またこいつかとか、股間のキノコは無事だったのかとか、なんで浮遊しているのかとかは考えなかった。

「もう、いやだなあ」

 ただ志貴は森に来たのを後悔し始めた。
 その呟きも力なく、思考は現実逃避をしたままである。

 そんな志貴を置いて行き、朔は迫るキノコ、待つ枯れ木の化け物に挟まれてしまったのであった。
 もうやべえ、もう死ぬ、と志貴は今日何度目かも分からぬ死を予想した。

 そして朔は枯れ木に突撃していき、

 するりと、その隙間を通っていった。

「あ、あれ?」

 予想と異なる展開に戸惑い、志貴は横切り後方に置いていった枯れ木やキノコを見る。

「「―――――――――――――――――――――――っ!!!!」」

「……」

 なんかガチバトルしていた。
 キノコは組んでいた腕を解き、枯れ木は鎮座から立ち上がり。

 拳と拳が唸りを上げながら互いの顔を殴打していた。
 なんだろうか、彼らが殴るたびに囲う木々が揺れる。怪獣大作戦もかくやの戦いっぷりである。

「ああ……」

 しかし、志貴はそんな光景を見ても納得するしかなかったのだった。
 いや、なんかもう受け入れるしかないなあ、と志貴の脳は判断するのであった。

 なかなか賢い脳である

 □□□

 時が少し経ち、志貴はある程度進んだところで降ろされた。
 植物たちはもう襲いかかってこず、森は落ち着きを取り戻し、あの怪獣どもの殴り合いは夢だったのだと志貴は自身にそう言い聞かせた。

「あ、ありがとう兄ちゃん」

 朔に助けられたのが嬉しくも恥ずかしかったので、志貴は少し頬を赤くしながらそっぽを見る。
 しかし、朔は「別に」とそっけない態度であり、ちょっと怒っているのか、と志貴は思ったが考えてみればいつも通りの事だった。

 だが、落ち着くと今自分は何処にいるのかと志貴は不安が増す。
 最早森には常識が通用しないと知った志貴は帰りたくなってしまった。だが、帰ろうにも今自分たちが何処にいるのか分からず、里が何処にいるのかすら分からなくなってしまった。
 迷子だと自覚が芽生え始めたのである。

「ねえ兄ちゃん。ここ、どこか分かる?」

「分からない」

「ですよねー」

 とりあえず朔に聞いてみたが、朔は首を横に振るだけだった。

 さて、本格的に焦り始めた志貴は考える。幼い脳を絞って考えてみる。
 やれる事は少ない。帰る手段としては来た道を戻ればいいだけなのだが、植物たちに襲われたのと、朔に行き先を任せっきりだったので、そんなもの把握していなかったりする。
 闇雲に森を進んだら、それこそ森の餌食になりそうだし。

 あれ、帰れない僕?と志貴は絶望する。
 ではここで野宿もありえるのか、と志貴は赤みを帯び始めた空を見やる。夕刻が近い。

 周りは更に深さを増した森。ジメジメとしていて空気の冷たさも増している。
 現在二人がいるのはそんな森の開けた場所であった。そこには苔むした地面と、志貴ほどの大きさがある石がチラホラとある位である。
 この場所で自分は寝るのか、と志貴は思った。

 幸だったのが朔がいる事だろう。朔ならなんか普通に野宿ぐらい余裕そうだ。
 適当に食べ物も取ってきそうだし、寝床も確保できそう。いや、寝床は無理だろう。朔はそこのところ無頓着っぽいし。
 ただ、朔がいるという事実が良かった。寂しくない。自分が兄と慕う少年の存在に志貴は感謝した。

 だが、そんなすぐさま野宿に気持ちを持っていけるほど志貴は大人ではない。普通に里に帰りたいし。

「でも、兄ちゃん。どうしよう」

 取り敢えず志貴は再び朔に聞いてみた。
 隣に朔はいなかった。

 志貴から離れるように朔は歩いていた。

「兄ちゃん?」

「……」

「ちょ、兄ちゃんっ」

 慌てて朔に追いすがる志貴だったが、朔は言葉も返さなかった。

 それを不信に思った志貴は取り敢えず朔の後ろについていく。はて、朔がこのように志貴の言葉を無視するのは珍しい。
 勘違いされがちだが、朔は話しかければ反応を示す。ただ極端な無愛想と無口なだけである。
 話しかけても言葉を返さぬこともあるが、しかしそれは無視ではなく、他に優先するべき事があるからなのである。

 いつも朔の側にいる志貴だからこそ気付いた事。
 これが訓練以外は最低限しか関わることのない黄理や、食事を作り世話を行っている叔母も気付いているかもしれないが、志貴としてはそれを自分だけで気付けたことが嬉しかった。

 朔は進む。木々の合間を抜け、広場を少し離れ、岩場に囲まれた場所に出た。
 静謐な空間だった。冷たい湿気漂う、森の聖域のようにも思えた。
 そしてその中央。苔むした地面。

 そこに、一輪の赤い花があった。

「志貴」

 それは、彼岸花と呼ばれる花だった。

 美しい花であった。葉もなく、花弁だけの植物。
 赤い花弁が咲き誇る、たった一輪の花。
 他に彼岸花は見当たらず、これしか生えていないようである。

 しかし、志貴にはこれが一体どんな花なのか知らなかった。

「なあに、兄ちゃん?」

 彼岸花へと近づき、朔はそれを見下ろしたまま話しかけてきた。

「これは、綺麗?」

 たった一人で咲き誇る彼岸の花を志貴は見入った。その孤高にも似た存在感は、まるでこの場所がこの一本の花のためだけにあるようにも感じられた。
 その独特の姿と、細く長い赤の花弁は、今にも折れてしまいそうで儚い。

「うん……綺麗なんじゃ、ないかな」
「そう」

 そして朔は少し間を空け、

「これは、綺麗なのか」

 と一人呟いた。
 肯定や否定の混じらない、更には納得すら滲んでいない、透明な声であった。
 そして、志貴は少し感づいた。

「兄ちゃん。もしかしてここ来た事あるの?」

「ああ」

「ッ! なんで言ってくれないのさっ」

「そう聞かなかった」

「分かってるって事じゃん」

「ここが何処なのか、分からない」

「そうなの?」

「知っているだけ」

「……」

「……」

 □□□

 後日談。と言うかその後の話。

 志貴と朔は帰り道を知っていたと発覚した朔の先導にしたがって里に帰ってきた。
 その途中仰向けに倒れ伏した巨大キノコと枯れ木を見たが、どうやら引き分けに終わった様だった。

 志貴と朔が里に帰ってきたのは夕刻も過ぎた真夜中の事であった。
 流石にお腹が減ったなあと思いながら里に帰ってきた志貴は、里の大人全員による捜索隊が組まれていて、運よく、あるいは運悪く、そこで志貴と朔がいかに可愛らしいか演説している黄理と出くわしてしまった。

 そこで志貴と朔がいかに素晴らしいかを声高々に語っている黄理の姿に一瞬驚いた志貴は、その話している内容に照れてしまったがそれは割愛。

 討伐隊が森に向かう前に帰ってきた二人は良かったものの、志貴は母に頬をはたかれた後、どれだけ心配したかを教えられ申し訳ない気持ちになった。
 翁にも軽い説教を受けてしょんぼりした。
 その側では朔も叔母に怒られていたが、全く話を聞いていないようだった。
 ただ叔母の手に朔の下着が握られていのが気になった。

 その二人を見て大人たちは良かった良かったと喜んでそのまま宴会へと突入した。無論一番はしゃいでいたのは黄理だったとここに記しておく。

 さて、大人たちが里の広場にて宴会騒ぎで盛り上がっている頃、志貴は朔の離れに訪れていた。
 夕餉を済まし、風呂にも入り今夜は朔と一緒に眠るためであった。

 離れに訪れた志貴を朔は特に何も言わず受け入れ、二人はひとつの布団で就寝についた。

 そして、今日の出来事を思った。

 今日は大変だった。
 意気込んで森に行ってみれば歩くキノコに遭遇するは、そのキノコと朔は乱闘するは、敗れたキノコたちが合体するは、植物に襲われるは、枯れ木の化け物に遭遇するは、その枯れ木と巨大キノコのガチでセメントを目撃するは、迷子になるは。

 兎も角一言では語りきれぬほど、今日という日は濃い一日であった。

 確かに森は危険で、一杯怖い思いをしたが、それ以上に楽しかったと志貴は満足していた。
 未知との遭遇はドキドキしたし、言ったこともない場所に行くことはワクワクした。
 勿論、また行きたいとは思わないが。

 志貴は隣で寝ている朔を見る。朔は耳を澄まさなければ聞こえないほど静かな寝息をたてて眠っている。
 志貴はそんな朔の無防備な寝顔が好きだった。この時だけは朔は自分とあまり変わりのない子供のように見えるからだ。

 朔はどうだったのだろう、今日という日を楽しかったと思っているだろうか。

 あの彼岸花を思い出す。
 あの場所で誰にも知られず咲いているたった一輪の花。それは凄く寂しくて、儚くて、その彼岸の花に志貴は朔の姿を重ねていた。

 もし、志貴があの彼岸花ならきっと寂しくて凍えてしまう。
 あの湿気冷たく鬱蒼とした森の奥地。きっと誰も訪れず、そのまま枯れてしまうだろう。

 だけど、朔はそのまま何も思わず、ただひとりで咲いて、そのまま枯れてしまうに違いない。
 きっと寂しいだとか、辛いとか思わずに。
 それは凄く悲しいことだと志貴は思った。

 志貴は眠る朔にそっと抱きついてみた。

 温かい、だけど何の反応もしない。寝ているから当然だ。
 あの赤い花と同じように、朔もまた一人なのだろうか。

 誰とも心混じらず、ただひとり朽ちていくような、そんな在り方。
 彼岸の花のように。

 それを思うと少し泣きたくなって、志貴は強く、自分の温度が朔に伝わるように強く抱きしめた。

「何?」

 朔が軽く目蓋を開け、志貴に聞く。

 その僅かに開いた茫洋な瞳には志貴の姿が映し出される。
 果たして、朔は志貴の事を見ているのだろうか。

 だけど、それを聞くのは怖かった。
 もし朔が志貴なんか見ていないと知ったら志貴はきっと泣いてしまう。

 だから、志貴は何も言わず、朔の身体を抱きしめる。
 それだけでもいいような気がしたのだ。
 側には自分がいるのだと、伝えたかった。

 そんな志貴にどう思ったのだろう、朔は志貴の頭をその手で撫でた。

 今までも、こんな風に朔に頭を撫でられる事があった。
 朔の掌は無遠慮で、全然優しくない。だけど、志貴はその掌に安心を抱くのだ。

 その掌に気持ち良くなり、志貴はそのまま眠りについた。

 □□□

 遠いどこか。
 月の光に照らされ、彼岸の花が、風に揺れた。



[34379] 第八話 蠢動
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2012/10/23 11:06
 ――――重ねたしゃれこうべを幾ら数えても、どれほど屍を築き上げても、そこに価値は無い。

 七夜は決して最強ではない。最も強い生命ではない。
 思えば、七夜黄理との訓練の際、教示された全ての事柄は否定から始まった。

 それはいつかの情景。取るに足らぬ、いつもの光景であった。

 日増しに力をつけていく朔に向けたものか、あるいは七夜としての特色を自分へと言い聞かせるように、何度もそんな言葉を彼は紡いだ。
 慢心を防ぐためか、それとも誇りを持たせるためか、理由はわからない。
 もとより誇りなんぞ塵芥ほども持ち合わせていなかったから、それを危惧したなのかもしれない。

 曰く、七夜は最強ではない。決してこの世界で最も強靭な存在ではない。
 ただ超能力を保持し、人間の粋を極めた身体能力を持ち、門外不出の暗殺術を伝えている、だけの存在でしかない。
 その暗殺術すら四足獣であるならば身につけられる程度のものでしかないのだ。それ以上でも、それ以下でも、それ以外でもない。それは隠しようのない紛れもない事実。
 もし、七夜がこの世で最も強い存在であると言うのであるならば、何故七夜の者は敗れるのか。

 それが答え。七夜は死ぬ。簡単に死に絶える。
 それは七夜が弱いからではない。人間というカテゴリーの中でならば七夜は極めて高い位置に座位する一族である。
 長い時をかけて繰り返された近親相姦は、七夜の血を研ぎ澄まして不純物のない身体を得るに至った。
 しかし、ではなぜ七夜は敗北し、死に散らざるをえないのか。
 確かに、以前黄理は護衛の任について負傷した事もある。それが驚くほど衝撃的だった。
 あの黄理ですら、自身が思い描く最強の男ですら簡単に傷つくのだと、彼が自分と同じ人間なのだと改めて実感したものだ。
 その時、黄理は「なれない事はするもんじゃない」と言っていたが、果たしてそれはどのような意味があったのか。

 この世には人間ではないものが溢れている。
 人外の化物。悪鬼羅刹の魑魅魍魎が跋扈する現界の地獄。それが世界の真実である。
 そのような者に七夜は勝てるのか。

 勝つ事もあるだろう。
 川原から砂金を発見するような確立で、勝ちを拾うこともあるだろう。
 だが、それは絶対ではない。

 世界は化物に満ち満ちている。
 裏に、夜に、闇に、影に、あるいは無に彼らは潜み、あるいは闊歩している。
 そんな世界では人間の想像を遥かに超える存在が当然のようにいる。
 超越種と呼ばれ、人間という種よりも高位に座する存在。
 それらは主に血を好む吸血種と考慮すればいいだろう。
 中には肉を捨てて事象に成り果てた化物もいると聞く。そのような存在に七夜は勝てるのか。
 黄理はこちらの思考を読み取るように瞳を細めて、視線を交わした。

 その時、自分はなんと答えただろう。恐らく、わからないとだけしか口にしなかったはずだ。
 しかし、そんな問答を切り捨てるように黄理は言うのだ。

 勝てない。七夜はまずもってそのような存在に太刀打ち出来ない。
 よほどの能力を保有していない限り、七夜が勝ちを拾うことは無い。絶対に勝てるなどという事など無いのだ。

 覚えておけ。

 七夜は退魔の組織において混血共を相手にしていた。つまり、それは七夜にはそれ以外の道しか残されていなかったとも言える証明。
 事実それは正しい。七夜は混血以外との相性が悪く、純粋な魔という存在に対して七夜はあっけなく殺されるのみ。
 それほど七夜は脆弱で、儚い存在なのだ。
 だが、それでも七夜が何故蜘蛛として恐れられ、禁忌の存在と謳われたのか。
 何故だかわかるか?

 こちらの深遠を覗く様に黄理は瞳を見る。
 その鋭い眼差しに映るこちらの姿は熱気も興奮もなく、ただ深々と黄理の言葉を受けいれていた。

 それは偏に、殺す殺さないと言う領域において、七夜に敵う存在がいないからに他ならない。
 七夜は殺しを目的とし手段とし結果とする一族。故に殺す事を第一に教え学び、必殺を授け考え鍛え磨き続けてきた。
 殺しに徹し、殺しを珠玉とする一族なのだ。
 他の退魔の一族ではどうか。確かに彼らもまた魔を対象に相手取って動く集団。
 だが、彼らの目的は七夜と異なる。
 彼らは魔を相手に討伐し封印し祈祷し法術によって祓うことを目的とした一族であり、殺しは手段の一つ、あるいは結果でしかない。

 これが魔であるならば更にはっきりとしている。魔が持ちえて行使するのは暴力。
 彼らは自らが生まれ持った素養や能力を使用して、他を圧倒する術を惜しみなく発揮させる。
 それは鍛えて得たものでもなく、また本人の意志とは関係なく望んで手に入れたものではない。
 彼らは魔であるが故に暴力を会得していて、それを揮って対象が死んだという事に他ならない。
 七夜は違う。七夜は殺す。確実に殺し、必ず殺す。
 それ以外は出来ぬ。それ以外をやろうと思わない。
 それが七夜にとっての最善であり最良、そして存在証明なのだ。
 だから理性を持つ者は俺たちを恐れるのだ、とそこで黄理は視線を外し、空を見上げた。
 葉群によって遮られた空は狭く、薄暗い。それでも隙間から零れ出る光のなんと輝かしいことだろう。

 七夜は殺人鬼だ。殺しを目的とし、手段とし、ただひとつの結果とする殺人鬼だ。
 俺たちは暗殺者だ。殺しを目的とし、手段とし、唯一の結果とする唯の暗殺者だ。

 そして黄理は言った。そこに自嘲の響きがあったのは、きっと気のせいではない。

 ――――これほど最悪な者がいるだろうか。
 七夜は生きているから殺すのではなく。
 殺すために生きているなどと、自ら証し立てているのだから――――と。

 それを己はどう受け取ったのだろう。今となってはわからない。ただ理解できることがあるとするのならば、自分はただ殺す事を唯一の行為とするだけの存在でしかないのだと、なんとなく思ったぐらいなのだろう。

 それは、いつかの情景。いつしか幻のように色褪せて消えていく、いつかの光景――――。

 □□□

 人がどうにか不十分には過ごせなくもない広さは家主に似たのか、温度のない静寂が横たわっていた。
 志貴はその圧迫感を宿す雰囲気にどこか息苦しさを覚えながらも、目前で耳を澄まさなければ聞こえないほど小さな寝息をくり返す朔を注視していた。

 すぐ側に人がいるというのに、朔は目覚めない。
 それも当然だ。何せ彼は黄理の手によって気絶させられたのである。
 訓練によるものではない。本気の一撃だ。肉体への負荷はどれほどのものか。

 里を騒然の渦に叩き込んだ男――――あの妖怪のような老人が去ってから、すでに二日経っている。
 しかし、朔は未だ眠りから覚めず、その目蓋を開かない。

 その呼吸はあまりに静かで、胸の僅かな上下がなければ死んでしまったのではないかと疑わざるを得ないほどだった。
 顔面の筋肉は微動だにせず、微かな身動ぎさえ起こさない朔は精巧に作られた人形を思わせ、ある種の恐れさえ抱かせるほど。
 故に志貴は時間が許す限り朔の側を離れず、その目覚めを待ち続けていた。

 志貴の表情は頑なであり、どこかしらに不安と彼自身にも判別できぬ感情が複雑に絡まりあっていた。
 そうして思い返すのはあの時目前で突如として巻き起こった一連の騒動だ。

 志貴の側で突然に豹変した朔。見た目は変わらないのに発する雰囲気が一変した瞬間を志貴は幼心に察した。
 そして戸惑いを隠せない志貴を置き去りにして、まるで理性を失ったかのような身動きで朔が外へと襖を破って飛び出していった。
 そして繰り広げられた戦端。否、あれを闘争と呼ぶのは些か一方的に過ぎた。
 あの妖怪に襲い掛かる朔が見せた動作の悉くは、獲物を甚振る肉食獣のそれであった。
 急制動と加速の連続は七夜である志貴でさえも目視することを許さず、ただ老人の命を翻弄し続けた。まるで始めて手に入れた玩具へと戯れるように。

 あのまま黄理が駆けつけなければ、あの妖怪はきっと朔の手によって必ずや命を散らしていただろう。
 何故だか志貴はそんな未来を簡単に確信できた。
 それは朔が圧倒的だったとか、そういう簡単な言葉ではなく、決まりきった運命が無理矢理に捻り曲げられたような有無を言わせぬ説得力が、あの時間にあったからだろう。
 未だ人を殺めたことのない志貴でさえも自然と知れるほどの決定的な死という審判があの時、すでに打たれていたのだ。

 無論、志貴は今でもちゃんと整合がつけられた訳ではない。彼の思考が現実に追いつく事には全ての終止符が打たれたのである。
 しかし、それでもあの現場に居合わせた志貴は全てを見ていた。否、見ざるを得なかった。

 朔の異変に飲み込まれ、言葉を失い視線で追いかけた先にいた妖怪の前に降り立った兄と呼ぶ従兄弟。
 空気が硬質を帯びたかのように動かなくなり、時が止まったように感じられた。
 間違いなく、あの瞬間に暴動の中心として里を支配していたのは朔だった。
 その身から噴出する殺気は周囲を仄暗い深海へと貶め、妖怪の命を狩ろうと襲い掛かったのである。
 その時、志貴は呼吸が苦しくなったのを感じた。
 未だ戦場を知らず、本番を知らぬ志貴にとって始めて感じる本物の殺意は肉体が動くのを止めるほどの威力でもって志貴を蝕み、息をしてしまえば、それが自分の最期なのだと思うような感覚を志貴は味わった。

 朔がそのような人物である、という事を志貴は知っていた。
 以前も敵対したきのこの化物へと問答無用に襲い掛かったのがその証明である。

 だが、あそこまで箍が外れているとは思いもしなかった。
 言葉を変えれば、考える事を止めていた。

 冷静に考えれば、それも致し方のないことなのかもしれない。
 志貴と朔の交友は未だ短く、濃密な時間を共に過ごしたとは言えぬ。
 兄と志貴が一方的に呼称してはいるが、その距離感は曖昧なままで、志貴が頑張ってその間隙を縮めようとしても朔は何も反応してはくれない。
 そればかりか、朔からは何もしてこない。志貴としては、朔とは友達という感覚ではなく、それよりももっと近い場所にいてほしいと思っている。
 それは同じ敷地内に生活しているというのもあるだろうし、両親のいない朔を哀れんだというのもまた事実。
 しかし、そのような打算はあれども、本来二人の関係が稀薄な従兄弟関係であるならば、その距離を縮めて本当の家族になれるのではないのか、と志貴が打算を凌駕して考えたのもまた事実であった。
 志貴は一人っ子だ。両親との生活に満足してはいるが、兄弟というものに憧れている節がある。
 里にいる同年代の七夜の子らを見て、友とは違う、歳の近い家族がいるという事がひどく羨ましかったのだ。
 だから朔と交友を深める事で、今は無理でも真実兄弟のような関係になりたい、と子供ながらに志貴は願っていた。

「兄ちゃん……」

 志貴は布団の中で未だ目覚めぬ朔を見やる。

 あきらかに他の子供とは違うというのは感じ取っていた。黄理に似た従兄弟、というだけでは説明がつかない。
 本質的に、自分とは違うという事実が、あの時現実として志貴の認識に叩きつけた。

 故に朔が豹変して老人へといきなり襲い掛かったとき、志貴は朔に言いようのない感情を覚えた。
 尋常ではない殺気。自分とは全く異なる、まるで獣か鬼のような存在が放つ殺意。それが志貴には怖くて怖くてたまらなかった。
 自分の知らない朔。自分が見たことのない兄。
 話しかけようとも、まるで人語を解していないような無反応のまま強襲していった従兄弟。
 大人である翁の拘束と静止を振り払って飛び出した家族。

 もとよりそのような徴候があったのは事実。そしてその時が来たのだと実感した。

 しかし、志貴はそれを受け止め切れない。だから戸惑い、どうすればいいのかと悲嘆に暮れる。

 けれど、黄理が朔を気絶させたことであの場はどうにか収まった。そして、朔が気絶したことに安堵した自分自身を志貴は恥じた。
 あれではまるで、自分が朔を恐れているようではないか、と。
 どれだけ豹変しようとも朔は朔。それだけは変わりようのない真実であって、自分が兄と見定めた従兄弟なのだ。
 それを自分が怖がってどうするのか。それでは本末転倒も甚だしい。

 そう思い、そう思った。

 けれども本能は理解を超える。今でも朔の側にいるのは少し不安だ。
 もし朔が目覚めた時、兄は自分の知っている朔ではないかもしれない可能性。それが脳裏を過ぎ去って不安へと変貌する。
 そしてもし、あの時の姿が朔の本当の姿であるならば、あの殺気が自分に向けられるのではないのか。

「大丈夫、だよね?」

 それがいったい何に対する言葉なのかも分からず、志貴は腕を伸ばして朔の手を握る。
 ごつごつとした感触に、力の篭っていない掌は冷たい。

 志貴の中身は感情がごちゃ混ぜになっていて、自分自身でも統制の取れる状況ではない。
 だけど、それをどうすればいいのだろう。未だ志貴は幼く、人生経験など殆どない。
 誰かに助言を貰えば良いのかもしれないが、今現在里の大人たちは朔の処遇をどのようにするべきなのかと母屋に集って話し合いを行っている。
 その内容によっては朔がこれまでとはまた一変した生活を余儀なくされる場合もあるだろう。
 その時、自分はどうすればいいのか、まるでわからない。
 志貴には難しい事は分からない。だから、大人たちの決定に、父の決定に従わなければならないのか。
 自らの力で答えを導くには、志貴はあまりに無知で、そしてあまりに力不足だった。

 もし、朔があの時のままで、大人たちの審議が厳しいものになった場合、自分は本当に朔を兄と呼んでもいいのだろうか。
 近づいてもいいのだろうか、側にいても、いいのだろうか。
 一抹の不安が過ぎる。そもそも希望なんてものはどこにもない。
 全て志貴の手には届かない場所で動き、決定されるのだ。その時になって、自分はどうするべきなのだろう。

 しかし、そもそも朔は自分をどう思っているのだろう?

 それを思うと恐れと切なさがこみ上げてくる。
 今まで共に過ごした時間。一緒に過ごした日々。
 それに対し、否、志貴に対し朔が何も感じていなかった場合、志貴はそれに耐え切れるだろうか。
 ありえる可能性に、身体が心から震えるような気がした。だから志貴は朔の掌を力強くにぎった。

「大丈夫……、大丈夫だよね、兄ちゃん」

 自分へと言い聞かせるように志貴は呟く。
 朔に、朔を取り巻くであろう状況に恐れを抱いているのは事実。しかし、志貴は朔から離れることも嫌だった。

 朔と共にいるのならば恐怖さえも踏み越えよう。
 志貴は朔と家族になりたかった。
 父や母とも異なる自分の居場所。拠り所を欲した。そのためならば、決してこの気持ちは折れない。
 でも、具体的にどうすればいいのか分からない。分からない。分からない。
 だから志貴は、ただ黙って朔の掌を握り締めた。硬く、冷たく、まるで死人のようなこの手を決して離すまいと、自らに証立てるように。
 震える心を、抑え付けながら。

 □□□

 それは、屋敷内部に一瞬の余韻すら響かせることなく、どよめきと女の怒号によって遮られた。
 いっそ発破された声音は罵声と言っても差支えがないほどである。

「どういうことですか、兄様っ!!」

 朔の世話役をかってでている女が吼えたて、自身の兄であり、当主である黄理に向かって噛み付いた。
 しかし、皆の注目を集める黄理は座したまま、冷酷とも言えるほどの無表情で言いのける。

「どうもこうもない。これはもう決定した事だ」

 そのまともに相手取りすらしない黄理の態度に女はますます憤怒に表情を歪めていく。

「だからと言って、あんまりではないですかッ!?」
「くどい。何を言おうが最早俺が決めた。……お前達も聞いたな。これよりお前達は今後七夜朔との接触を一切禁じる」
「兄様!!」

 悲鳴のような女の声を無視して、更に黄理は続ける。

「以降、朔と接触するのは俺を除きその一切を許しはしない。これは提案ではない、命令だ」

 黄理は冷たい表情のままにそれを宣言した。

 ことは朔と黄理の衝突から二日と経過し、里内部の混乱が沈静化された後に一族の者が当主の館に召集された事から始まった。
 黄理から七夜と刀崎の協定を検討し直す旨が伝えられたまでは良かった。
 あの日、刀崎梟の行動は里に無用な混乱を与え、決して好意的に流されるものではない事は明白である。
 故に刀崎との協定破棄は異存の声が上がらなかった。そもそもあの時、戦闘に長ける者は挙って梟の討伐を虎視眈々と狙っていたのである。
 戦力にはならない者は除いて、偏には発見されぬ隠密により確実に不穏分子と化した梟を仕留める算段をつけていた。
 それが行使されなかったのは黄理の命によるもの。協定破棄とは言え、相手は遠野の分家を纏める棟梁。それに手を出せば確実な報復が目に見えている。
 危険分子は排除されるのが世の常であろうが、あの時梟が無事に七夜の森から抜け出したのはそのような計算もあってのことだった。

 現在梟に襲撃し、黄理との衝突によって気絶した朔は未だ目覚めておらず、黄理が召喚したヤブ医者の処置によって肉体的損傷には問題ないことが判明している。 彼の診断を正しいと判断すればの話であるが、もういつ目覚めてもおかしくはないとの事である。
 そして今現在朔は離れにて安置されているが、それは隔離にも近い状況である事はこの場に召集された者達も承知していた。

 突如として巻き起こった朔の豹変。
 それが七夜に動揺をもたらしている。

 もとより朔は黄理が預かり表沙汰にはあまりされていない子供ではあるが、その存在が黄理の兄の実子である事は周知の事実。
 つまり彼の血を色濃く受け継いだ危険分子であるのだ。
 故に朔がいずれ成長したとき、なんらかの騒動を起こすのではないのかというのが穏健派の意見であった。
 にも関わらず朔が今日まで多少の不便はあったにせよ無事に成長できているのは、黄理の決定と妹の鶴の一声によるもの、そして翁の賛意があったからである。
 当時、朔を不安視する者の中には混乱を起こす前に排斥するべきでは、という過激な発言すらあった。
 それを抑えていたのは翁乃至黄理である。自分たちが面倒を見るからそのような事は起こらぬ筈だと言い、曲がりなりにも朔を引き取っていたのだ。

 しかし、今回の騒動により彼らの懸念が現実のものとなった。

 故に彼らはやはりあの時殺しておくべきだったと声をあげかかった。それに待ったをかけたのが黄理の決定だった。

 何者に於いても、また如何なる時であっても朔への干渉を禁ずる。

 もともと人との交流は少ない朔である。
 効果は薄いのではないのか、と懸念の声も聞こえたが、子供というものは状況から精神を守るため否応なく変化する、という翁の説のもと渋々と応じたのである。
 
 しかし、それだけでは納得出来ないものがいる。

「私は反対です」

 黄理の妹だけは頑なに彼の言説を拒んでいた。

 もとより朔の味方は少ない。あの刀崎梟が原因となって巻き起こした混迷によって、それも減少して今では朔の世話を行う妹ただ一人である。
 故に彼女はここで引き下がる訳にはいかなかった。ここで引き下がれば、大事な何かを失うと危惧したのである。

「兄様。朔は未だ十にも届かぬ幼子です。そして今が最も子供にとって大事な時期である事は、兄様にも理解できるはずです。ならば、今朔を放っておけばどのような事になるか、お分かりになっているはず」

「確かにそうだな」

 幾ら当主とは言え肉親の言葉は無下には出来ず、黄理は鷹揚に頷いた。

 確かに、女の言葉にも説得力はあった。
 どのような経緯があるにせよ、朔は未だ子供。ここで彼を育児放棄してしまえば、朔の精神構造にどのような害が生じるか想像も出来ない。
 ただでさえ特殊な一族である七夜の中で更に特異な生活を強いられている朔が、あれよりももっと酷い事になることは目に見えているはずなのだ。

 ――――それなのに、この人は!

 妹は目前で座する肉親を睨みつける。ともすれば、激情に憎しみが注がれんばかりの力を込めて鋭く睨みつける。
 しかし、黄理は依然として無表情であり、妹の激昂など何処吹く風と言わんばかり。
 駄目だ。このままではいけないと、彼女は尚も食い下がる。

「義姉さまも、何ゆえ兄様を説得して下さらないのですか!」

 下位に座る義姉を見やる。
 だけど、彼女は目を伏せて応えてはくれない。
 垂れ下がった前髪が頑なに彼女の瞳を隠していた。それが彼女の言葉ならざる返答であった。

「……そんなに朔が邪魔ですか。そんなにも朔が邪魔なのですか」

 いっそ憎しみを込めて女は呟く。それはここにいる全ての者に発しての怨嗟であった。
 誰も彼もが気まずげに視線を反らす。当主ではないとはいえ、当主の妹である女の覇気は彼らの心臓を握るほどのものがあった。

「誰も邪魔だとは言っておりませぬ。これもまた一時的なものであって、致し方のなき処置で御座いますゆえ」

「翁っ! あなたもあなたです! 何故朔を庇おうとしない!」

 この場には似つかわしくない穏やかな声音は翁によるものだった。女は感情をそのままにぶつけて標的を変える。

「あなたも朔の世話を曲がりなりにも受け持った身でしょう。何故兄様の意見に賛意などするのです!」

 しばらく無言が続き、翁は徐に口を開いた。

「里のためで御座います」
「……何だと」
「如何様な理由があったにせよ、朔さまの情緒が不安定になったのは事実で御座います。故に無用な騒動は避けなければならないもの。里の存続を願う者の身ならば、何もそこまで間違えた選択では御座いますまい」
「……ッ、お前!」

 女は翁に飛び掛る寸での所で黄理の無感情な瞳に射止められ、その動きを止めた。

 そして本人ですら自覚なき威圧感に気圧された。

「ですが、これも一時的な処置で御座います。朔さまが落ち着き次第直ちに以前の生活にお戻りしていただきます」
「……つまり、お前は様子見か。この道楽屋めが!」
「どのようなお言葉を言って下さっても構いませぬ。しかし、これは最早決定した事。そうで御座いましょう、御館様」
「……そうだ」

 頷く事もなく、黄理は肯定の意を下した。

 それが女の激情に油を注ぐ。朔を赤子の頃から世話をしてきた女にとって朔は己の子も同然。
 故にどのような正論であろうとも、彼女の前ではただの唾棄すべき戯言にしか成りえない。
 子を守る母が驚異的な強さを持つのと同じように、彼女は今我が子を守る一人母として、一族の総意と対峙していた。

「……志貴はどうするのです。志貴はそのような事情で納得するはずもない」
「私が徹底させます」

 苦し紛れに搾り出した言葉を切り崩したのは、今も尚俯いている志貴の母だった。

「義姉様……」
「これは最早決定されたのです。だから、あの子にもちゃんと言い含めて……」
「そういうことではない! 志貴にもまた同じような気持ちを味合わせるのかと聞いているのです!」
「……」

 志貴と朔の仲が良好なのはすでに里中で知られている。その仲を引き裂こうと、義姉は言っているのだ。
 同じ子を持つもの同士、きっと義姉はこちら側についてくれるだろうと、心の片隅で女は思っていた。
 しかし彼女は黙ったままだ。沈黙は時として言葉よりも重い肯定である。故に女は裏切られた心地がした。
 最早、誰も味方にはなってはくれない。誰も朔を庇おうとはしない。それが決定付けられようとしている。
 改めて思うは何と朔の味方のいないことだろうか。これほどまでに朔は里の者から庇われる事もなく、また擁護されることもない。
 それは皆内心朔を疎んじていたからなのか。驚愕と怒りがうねりあげて背骨を痛めつける。何とかしなければならない。
 何とかしなければならないが、焦燥と怒りにうまく言葉が続かない。今口を開けば、出てくるのは彼らを罵倒する言葉ばかりだろう。

 故に彼女は、ここでは禁句とされていた名を紡いでしまうのだ。

「ここで問答しているのは志貴の問題ではない。朔の問題だ」
「しかし兄様、幾ら朔が長兄の子とは言え――――っ」

 瞬間。重圧が屋内を飲み込んだ。

 咽喉がひりつくような感覚に肌が粟立つ。それは紛れも無く七夜当主である七夜黄理が放った殺気であった。
 全身に刃が食い込んだような感覚に皆、息を止める事しか出来ない。

「口を慎め」

 黄理が発する殺意にも似た威圧により、激情に身を任せる寸前だった女も止まらざるを得なかった。

「朔があいつの子供である事はもう変えようのない事実だ。お前も目にしただろう、朔のあの変容を」
「……」
「ならば、今は里のため朔の殺人衝動を抑えつけ、操作するのが道理。朔には暫く行動を厳守させ、衝動を抑えるための枷をつくる」

 それが、ひいては朔のためにもなるだろう。

 小さく、黄理は己へと言い聞かせるように呟いた。
 彼らは皆未だ覚えているのだ。黄理の兄の圧倒的な姿、その蹂躙、その狂気を。
 肉片すら残さずに散って行く生者と、亡者ですらない死体を幾重にも生み出した男の偉容を。狂態を。
 その呪われた血に名を列ねる幼子。朔は未だ小さいが、ひとつの火種だ。
 彼が後に成長し、やがて長さえも凌駕する力を得たとき、何が起こるか。狂乱か、それとも混沌か。
 少なくとも安寧とは程遠い修羅道を七夜は再び歩むかもしれぬ。二日前のあれはその片鱗であろう。
 圧倒的な暴力と冷酷な意志。興奮もなく、狂気もないただの行為として殺人に没頭できる性質の一片。
 それは人間味の薄い人格と幼子では抑えきれぬ殺気と相まって、真性の殺人鬼としての資格を朔はすでに手にしている。
 否、最早化け始めているのだろう。人外の鬼に。その時に起こるであろう騒乱は如何ほどか。

 それを良し、とする者はここにはいない。
 折角手に入れた安らぎを身内の手によって崩されるなど、昔ならいざ知らず、平穏を知ってしまった七夜にとって素直に受け入れがたい事であった。

 故に、誰も朔を庇わない。否、庇えない。

 ここにきて黄理の決定による、ズレが生じてしまった。
 もし、七夜が退魔組織から抜け出していなければ。
 もし、あのままの七夜でいたならば、このような問題と直面はしなかったであろう。
 例え狂気に身を委ねようと優秀であるならば暗殺者として育て、そして戦線に立たせる。
 寧ろ殺人という行為に嫌悪感を持たない鬼子であるならば、挙って殺人者にさせるはずだった。

 しかし、最早七夜は退魔の組織にあらず。退魔を抜けた七夜は最早人里から遠く離れた森の住人でしかない。
 殺しを手段として是とするが、生業としては、一族としては否と認めなければならない。認めなければ、行く末は惨めな滅びでしかない。

 それを分かっているからこそ、黄理は念を押す。

「異論はないな」

 顔を見合わせるものはあれど口を開くものはいない。いるとすれば、悔しさに顔を歪めて黄理を睨みつける妹ぐらいか。

 彼女だって理解はしているのである。このままでは朔の状況が追い込まれるだけだという事は、彼女自身も理解しているのだ。
 けれど、理解と受け入れるのはまた別の話。
 これで女が愚昧であるならば、まだ救いはあった。
 将来も打算も見出せぬほど愚かな女であったならば、問答無用に異議を唱え続けた。
 朔をこれ以上に冷遇するとは何事かと、当主を相手取った。

 しかし、彼女は聡明に過ぎた。
 女としての己よりも、七夜としての自分がこのままではいけないという忠告を彼女に告げるのである。
 もしこのまま朔の処遇に手を拱いて何も行わなかった場合、一体何が起きるか。
 あの恐るべき長兄を間近で触れた彼女だからこそ、懸念は必然だった。とても楽観視出来ぬ程、朔は危ういのだ。
 人格、殺人衝動、行動。そのなにもかもが人として大事な何かを欠落している。
 まるでそれはあの狂気に魅せられ、そして身を委ねた長兄と同じ道を歩んでいるような気が女にはしてならないのだ。

 故に枷をつけるのだ、と黄理は告げる。

 それがどれほど朔を苦しめる結果となるか、想像もしたくはない。そして女自身朔と今更離れる事は許容できない。
 愛情を注いだ。温もりを与え続けた。報われぬ愛だとは思えない。朔は歪なりにも順調に育っているのだ。それに、約束もある。
 朔の実母と交わした口約束だ。取るに足らない、ただの気まぐれにも似た約束に過ぎない。
 しかし、それを彼女は頑なに守り通してきた。何故、などと問うのは無粋だ。女が朔に愛情を注いでいるのは、亡き朔の実母との約束もある。
 だが、それ以上に朔へと注いだ愛情が偽者ではなく本物であったからこそ、尚も食い下がる。

『もし、この子が生まれたら』

 あの約束を、覚えている。

『どんな形でもいいから真っ直ぐに育って欲しいわ。それが例え七夜に縛られたとしても、もし違う形で生きるとしても』

 麗らかな春の縁側にて交わした契約。
 優しくあの人は微笑んでいた。

『その時は、貴女も見守ってくれないかしら。私の子供がどんな道を歩むのか』

 だからこそ、女には朔の行く末を見守る責務がある。
 決して違える事の許されない、女同士の約束。
 今は亡きあのお方とのそれを破る事なんて、出来るはずもない。

「……ッ」

 しかし、今この状況を覆すほどの立場ではないこともまた事実。
 彼は当主の妹ではあるが、結局のところ、当主の妹でしかないのだから反目は無意味に等しく、すでに決定付けられた御触れに抗う事は出来ない。

「では、お前達。以降は俺の命に徹しろ」

 悔しさに噛み締めた口内から、血の味がした。

 □□□

 鮮やかな月が天上に吊り下げられ、地上を淡く照らし出す。
 だけど月の燐光は眩くとも儚く、触れてしまえば忽ちのうちに消えてしまいそうに脆い。
 だからこれは、月にも照らし出されぬ宵闇の話だ。
 
 暗い暗い底、影さえ憚る闇の中の会話である。

「それで、お前はいいのか。刀崎と七夜は協定を結んでいたはずだが」

 男は目の前に座る怪物へ慎重に言葉を選んだ。本来、二人の立場を考えるならばありえないが、男は対面に据わる相手には下手に出ざるを得なかった。
 眼前にいるのは横柄に座椅子へと腰掛ける老人である。
 ランプシェードの明かりが晒すその相貌は伝承に残る妖怪と良く似ていた。擦り切れた着物に包み込んだ逞しい肉体。長い手足。
 そして、ぎょろりと眼窩から飛び出したような魚眼の瞳は、仄かな光に照らされてより一層不気味な様相となっていた。

「構いはしねえ。ああ、構うこたあねぇ。そんなもの、今となってはどうでもいい」
「どうでもいい、だと?」

 金属の擦り合わさったような声音はあいも変わらず不快だ。思わず顔を顰めるが、そんな瑣末に相手が勘ぐりをつける事など終ぞありはしない。
 ただ、不愉快にくぐもった忍び笑いを漏らすだけ。

「ひひ。ああ、そうともよ。今の俺にとっちゃ、んなもんどうでもよくなった」
「ふん。ならば、いい。私にとってもどうでもいい事だ。お前が約束を違えなければな」

 約束、という部分に重みを込めて再度確認する。

「お前が言う所が本当であるのならば、手筈を早急に整える。その代わり……」
「俺が正規の道筋をあんたに教える」

 男の言葉を遮って妖怪は嗄れ声をあげる。

「その代わり、だ。条件は破るなよ」
「……気に喰わんが、正しき道筋を知る者がお前しかいない今、条件は守ろう。……しかし、本当にそれで良いのか」

「おう、これで恨みを晴らせるなら安いもんだ。違えかい?」

 何故老人が話を持ちかけたのか、男にはいまいち分かりかねる事だった。
 来訪の予告すら無く昂然と現われた妖怪が持ちかけた話には確かに旨みが尽きぬ。正直、男自身も存外に悪くない話だと思っているが、いやに気にかかるのもまた事実。
 鼻につく、とでも言うべきだろうか。話をこの妖怪から持ちかけられたこともそうだし、秘密裏に計画していた案が何故妖怪の耳に触れたのかすれ分からない。
 それも、話の条件が条件だ。
 妖怪の尋常ならざる執着心を測りえない男にはどうにもピンとこないがあり、内心忸怩たる思いがある。

「……たかが子供ひとり、何をそんなに拘る」
「……」
「その、七夜朔、だったか。そいつを捕獲してお前はどうするんだ」
「……ひひ」

 男の問いに応えず、老人は卑下た笑みを浮かべるのみ。
 しかし、淡い光に照らされた老人の顔は陰影が色濃く反映し、何とも言えぬ不気味さを醸しだしている。
 否、それはもともとからか、と男は思いなおしながらも、魚眼の裏に隠された企みを読み取ろうと目を細める。

 故にここはひとつ鎌をかけてみる。

「しかし、知らぬぞ。もし確保してしまえば、殺してしまうが」
「何言ってんだあんた?」

 意気込んでいた男の意気込みを肩透かしするように、妖怪はいっそ莫迦にした笑みを溢す。

「なに?」
「ひひひひひひっひひひ! これは愉快だ。あんたら如きにゃあいつは手を出せねえ。気を抜けばそのまま口の中。あっという間に喰われちまうぜ」
「……」

 どこか揶揄したような妖怪の声音には篭っていた。それは暗喩としてなのか、皮肉としてなのか男には判別できない。
 ただ、目前に居座る男が何かしらの形であろうとも感情を起伏させると、どうしようもなく癪に障る。有体に言えば、気に喰わない。
 とは言え、持ちかけられた話を逃す手もなく、男は老人の条件に今は従っていなければならない。
 何故なら、これは千載一遇の好機なのだ。またとないチャンスなのである。これをみすみす逃す事など、それこそありえない。だから、我慢をする。

「だから安心せい。あんたらは目に付いた奴らを分け隔てなく殺せばいい。きっと生き残った中に、あいつはいる。朔はいやがる」
「……」
「あぁ。待ち遠しいなぁ。これが身を焦がす想いってやつか、ひひ。作刀以外にこんな思いをするたあ、思わなんだ」

 顔面の皺という皺を寄せて恍惚の表情を浮かべる老人を見て、男は吐き気を催した。
 どのような理由であろうとも、男はこの妖怪と対面したくはなかったのである。
 彼の精神構造、肉体が目前の老人を拒んでいた。故に、早々と話を切り上げる。

「……そうか。まあ、いいだろう。では頼んだぞ、梟」

 男の言葉を受け、妖怪、――――刀崎梟はにやりと歯茎を剥きだしにして笑った。
 暗がりで密かに物語りは進んでいく。だが、それは月にも映されぬ闇の中に溶けて消える。
 だと言うのに、天上に吊るされた月は、あいも変わらず地上を睥睨して照らす。

 満月まで、あと暫し。
 
 □□□

 まどろみから浮上してくる時は、大抵が苦痛を帯びていた。
 稽古で御館様に打ちのめされた時、一瞬の判断に躊躇して怪我をした時、無理な可動に肉体が悲鳴を訴えた時。
 その痛みこそが自身の伸び白が未だ存在している証拠であると思いはすれど、目標は未だ遠く果てしない。
 遥かな高みへと上り詰めるためには、未だ精進が足りない。
 やけに重たげな目蓋を開くと、見覚えのある天井が目前に広がっていた。見慣れた自室の天井である。
 差し込む光の加減からして夜なのだろう。恐らく光源は月。感慨は浮かばない。 
 だが、どうにも記憶に齟齬がある。おぼろげな思考は随分と頼りない。果たして、自分は何故ここに戻ってきていただろうか。
 そのような記憶はないのであるが、事実として今自分はここにいる。

 そして、どこか痺れたような感覚の手に圧迫感を覚えて、視線を辿る。
 そこに志貴がいた。

 志貴は不思議な事に、泣きそうな笑みを浮かべながら「おはよう」と呟いた。
 何故泣きそうなのか。何故微笑んでいるのか。

 状況に追いつけず理解が乏しい。もとより理解できるものではないだろうけれど、遂にはそれに対して考えても無駄だと思考を放棄した。

 しかし、不思議だった。
 側に志貴がいるというのに気付かないとは、それほどまで深い眠りの床についていたのか、と身を起こそうとすれば妙な気だるさが身体を包み込み、起き上がる動作を拒絶した。
 五月雨に打たれたような鋭く甘い痛みに歯痒さを覚えるが、これ以上体は動く事を許さない。
 とは言え、視線だけは動かせるので、何気なく側で泣きそうな志貴を見続けた。
 ふとした拍子に滴が目じりから垂れてしまいそうなほど、目を潤わせている志貴を見て、思い浮かぶ言葉はない。
 そも、かける言葉なんて朔には持ち合わせていない。だから、見動けぬ体の代わりに、志貴の掌を強く握り締め返した。
 子供特有の柔らかく、温かな掌だった。朔のように鍛え上げて硬質を帯びたものとは肉の感触である、と。

 ――――殺す、精神が遠吠えをあげた。

 殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す。

 殺せ、ではない。

 それは命令ではなく、決定の審判であった。

 あまりにも突然な殺意が精神に水を注いで内側を潤していく。
 今すぐにでも目の前にいる子供の内臓を引き摺りだし、首を捩じ切って心臓をすり潰す想像が朔の中身を埋め尽くす。
 目の前の子供は驚く暇すら与えられず、呆けた表情のまま首を落とし、内臓を引き釣り出されるのだ。
 きっと若々しい臓物は妖しげに照り輝いて、真っ赤な血を流すだろう。
 それは想像するだけで脳からしがみついて離れぬ思考回路。行方知らずの殺人衝動である。

 あの時感じた感慨にそれは似ていた。あの面妖極まりない老人と対峙した時のそれと。
 それを朔はよく分からない。どうすれば良いのかまるで検討もつかない。
 故にそれを今は無視して、なんとなく志貴の手を握り続ける。
 言葉を発する気にもなれず、それが挨拶の変わりだと言わんばかりに。

 しかし、それで志貴は満足したらしい。暫く静かに笑みを浮かべ、もう一度「おはよう」と囀った。

 その笑みに、その柔らかな姿に言いようのない衝動を覚える。
 今すぐにでも目前で安堵しきっている子供の中身を引きずりだしたいという欲求が、内心で遠吠えをあげる。
 あまりに理不尽な衝動だ。敵意ではなく、害意でもない感覚に戸惑いすら覚える。

 しかし、この解体を促す内側の感覚を、朔は悪くないと感じた。

 ――――それは甘くも柔らかい、初めての感覚であった。



[34379] 第九話 満ちる
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2012/10/26 18:36
 呼吸は深く長く。五体の隅々、爪先の末端にまで酸素が行き渡るように息を吸い、そして吐く。
 吐く息は白く、まるで魂まで吐き出しているよう。肺と胃の中に溜まっていた空気を吐き出して、肉体の中身を吐き出すようにして呼吸を吐き切る。
 それをくり返す事数回。冷たい空気が体中に染み入り、熱気が消えうせていく。姿勢は直立不動。あくまで自然体のままに呼吸をくり返す。
 そうする事で意識が次第に澄んでいくのが理解できる。思考と肉体から雑多なものが吐き出され、余分なものが取り払われていく。

 その呼吸法は空手等に伝わる息吹に似ている。特別な呼吸によって全身の筋肉を刺激させ、更なる動きの可能性へと結びつける。
 武道家が行うそれと、殺しの術理を磨く殺人鬼であってもそれは代わらない。肉体を駆使するという意味では、特に七夜であっては両者共に同存在だろう。

「――――……」

 夜だ。朔は訓練場にて一人佇んでいる。季節はいつの間にか冬となって訓練場は夜の静寂(しじま)が増していったような気がする。
 外気は肌に刺すほど寒々しく、着流し一枚を身にまとっているだけの朔は身震いさえ起こさない。

 時刻は幾程ばかり経っただろう。
 黄理との訓練は疾うに終わっている。にも関わらず朔はこの場を動こうとはせず、黄理に教えられた動作、黄理が行っていた仕草を脳裏で反芻していた。
 反復運動をくり返し、自分なりの最良を見つけ出す作業はそれなりの手ごたえがある。
 それが楽しいとか、嬉しいという感情に帰結はせずとも、朔はひたすらにそれを繰り返していた。
 そうする事で今の自分にはないものを発見し、身につけるという事は存外に没頭できる。特に朔の場合、それが顕著であった。
 食事も、あるいは休息を取る事無く続けているのがその証拠だろう。

 そうして荒ぶった呼吸を整え、静かに目蓋を下ろしていく。視界は暗闇。一切の光を閉ざした意識は、疲労故にかすぐにでも解けてしまいそう。
 その感覚が数回。それらを断ち切って、あの日の残像で拭っていく。

 あの時、目前に突如として出現した異物を思い描く。
 響き渡る哄笑と、嗅いだ事すらない異臭が今も五感に残っている。それを自分の内側は殺せと咆哮し、同調した肉体が昂ぶった。
 筋肉は痛いほどに熱を持ち、ともすれば自分の意識さえも剥奪してしまいそうな感覚。思い出すだけでこうなるのだ。
 再び目前にあの存在が現われた時、きっと身体ははち切れてしまうだろう。

 だが、これではない。こんなものではない。あの時の自分はこんなにも静寂な自我ではなかったはずだ。
 だからもっと意識を潜行させなければならない。自分の中に深く潜り込み、あの混血という魔の姿、存在そのものを脳裏に思い描く。
 姿ばかりが似ていても意味が無い。魔。人間とは、七夜とは対照的な存在を根本から思い描かなければならない。

 自分とは違う、人間ではないもの、人間以外のもの。正真の化物。

 しかし、目蓋の裏で思い描く混血の姿は想像しようとすればするほど歪と化し、あの日に出会った老人とは似ても似つかぬ存在に成り下がる。
 想像力の欠如か。あるいはあの時忘我の極みにあったからなのか。理由は幾らでも見つかるが、わかる。

 違う。これではない。こんな紛い物ではない。

 創造と否定の繰り返しに脳が痛むが、それでも構わない。頭痛などと言う瑣末に気を取られてはいけない。少しでも気にしてはぶれてしまう。
 化物の姿が。化物の存在が自分から離れてしまう。一度手放してしまえば、最早元には戻らず、また最初からやり直し。それでも、また創造を始める。

 朔も元から出来ないことだとは解っている。あの時の自分はあまりに昂ぶりすぎて五感の全てが振り切れてしまっていたのだ。まともに知覚すら出来てすらいないのである。
 故にあの化物の完全再現なんて不可能なのだ。しかし、だからと言ってやらない理由にはならない。
 この完遂できない作業を朔は混血と出会ったあの日から欠かさず繰り返してきたのだ。
 それは始めて遭遇した混血に対し自分はどのような反応を示したのかの確認作業であり、また自分自身に起こった変化に対する出口なき問答であった。

 何故自分はあの時あんなにも昂ぶったのか。
 何故あんなにも変化を遂げたのか。
 何故自分はあのような反応を示したのか。
 何故あの時自分は真っ直ぐにアイツを殺そうとしたのか。
 何故。何故。何故。
 自分は、自分は、自分は――――。

 幾ら考えても疑念は尽きず、溢れて今にも零れてしまいそう。

 変わったと言えば、それは朔自身を含めた環境にも当てはまる。
 朔には人間がわからない。それは最早覆す事の出来ない大前提であり、決定である。
 それは自分が他の人間とはどこか違っているからだと思い込んできた。周囲に溶け込もうとしない自分。
 環境に溶け込めない自分を含めて自分と言う存在は人間とは異なった生物なのだと考え続けた。
 だが朔はそれでも何故自分は彼らとは違うのかと思い、ひたすらに思考を重ね続けた。それだけが朔に出来るたった一つの解答への至りだった。

 しかし、今となってはそれさえも疎ましい。否、これは疎ましいという感情よりも排他的と呼んで差し支えない。
 そうして朔は疑問を疑問と思わないようになってきていることに気付いた。これこそ最も己に起こった顕著な変化であろう。
 以前の自分であるのならば疑念を抱くような事柄に対し、朔はより淡白に、より無機質になりつつある。それを良しとするか悪とするかの判別はつかない。
 判断をつけるための基準がそもそも曖昧なのだ。それをどうしろと言うのか。
 だが、そのような分別すらも最早朔にとっては価値の見出せぬものになりつつある。
 だからだろう。あの日の自分へと近づき、その答えを見出そうとしているのは。

 あの混血――――周囲の大人が交わしていた言葉からそのような存在である事が知れた――――と朔が対峙した時、朔は何か明確な変化を遂げた。
 それまで空白でしかなかった歯車の欠片がようやく嵌ったような気がした。

 どこか白熱とは程遠い生であった。黄理との鍛錬にはそれなりに傾斜できるが、今ではそれでも何か物足りなさを感じていた。
 それが何すらも解らず、朔はその空洞の虚ろを胸の内に収めていた。故にあの混血と対峙した時の感覚をもう一度味わいたい。
 そこに答えの手がかりがあるような気がした。これほどまでに熱中するのは始めての事で、朔自身も多少驚いている。
 驚愕と言うわけではないが、寧ろ戸惑っている。しかし、止める事は出来ない。
 これは自ら始めて黄理との鍛錬以外で望んだ事なのだ。それを自ら手放すほど、朔は賢しくない。故に愚直なまま、朔は意識の心髄に潜り続けた。

 変わったのは己だけではない。身の回りにもまた多少の変化が起こった。
 まず食事を誰とも取る事が無くなった。朝目が覚めると襖の向こうに朝餉が置いているだけであり、世話役という役割を持った女の姿はない。
 そうすると必然的に朔は誰も訪れる事のない離れの中、たった一人で食事を行う。必要な分量の食事を取り終えると黄理との訓練が始まる。
 黄理との鍛錬はあれ以過激になった。もともと黄理との力量は隔絶しているのだから当然の事であるが、黄理が次第に容赦を止め始めていた。
 それが朔には言い様の無い熱を帯びさせる。楽しいとかそういう感情は解らないけれど、恐らく黄理との鍛錬は楽しいと言う表現に当てはまるほどまでに昇華されていった。
 黄理が容赦を止めたという事は、つまり朔に手加減は無用と判断したのである。 それほどまでに朔の力量を黄理が認めたのだ。
 しかし、朔に慢心はない。元より慢心するほどの余裕は鍛錬時には皆無だし、己の力量に自信を持つほど驕りを朔は持っていない。
 だから黄理と過ごせる唯一の時間を削りたくなくて、朔は休息を拒み、昼食さえ摂取するのを止めた。
 そのような時間があるならば、もっと黄理と共に過ごす時間に傾倒していたい。
 そんな想いに応えたのか、黄理もまた朔の鍛錬に出来る限り付き合った。
 以前であるならば正午に終わるはずの鍛錬は、他の時間へと裂くのを厭うかのように過激なものとなり、夕刻まで続けられる。
 長時間の打ち合いと酷使によって肉体は満身創痍も甚だしい。一日中動かし続けた筋肉は痛みの危険信号をけたたましく鳴り響かせ、これ以上は無理だと脳に訴える。
 しかし、朔は黄理が去った後も鍛錬を止まなかった。肉体疲労なんてものは瑣末事に過ぎない。重要なのは昇華し、研磨される己自身である。
 そこに休息だとか、食事だとか言う些事が入り込む余地なんて無いのだ。
 何故なら自分が限界へと近づく事で、意識は次第に澄み渡り、自我が透明となって混血へと対峙したあの日の自分と同じ状態になれることが解ったのだ。
 忘我の境地とでも言うべきか、そこに微かにだが触れる事が解ったのである。

 これは大きな発見だった。

 ただ己に問い続けるしかない朔にとって他人に答えを求めるという選択はありえない。
 だからこそ、己自身の問題を解く鍵を己自身で見つけたというのは多大な功績だった。
 故に、そこからが本番。限界の先の先、忘我の極地目指して邁進する。
 無論、疲労のピークなど一切無視しているのだから、じきに意識が飛ぶ。そうして垣間見た瞬間の映像こそ朔が求めるものなのだ。
 そして気付くと朔は離れで寝ているのである。恐らく誰かが気絶した朔を運んでいるのだろうと推測は出来る。
 が、その誰かを予想する事無く再び鍛錬場に足を勧める。その度に朔はいいようのない視線を感じたが、どうでも良いことだ。
 こちらへと注がれる視線に害意らしきものは感じられないのならば、放っておくのが賢明である。
 そして再び鍛錬場に辿り着けば無茶な動作をくり返し、意識を透明化させていく。そんな生活も最早慣れ、かれこれどれほどたったのだろうか。
 時間の感覚は曖昧で朝と昼と夜と大雑把に三分割したものでしかない。故に時期は一切問わず、朔は鍛錬に打ち込めるのであった。

 これをあれから毎日続けている。朔の今の状況を考慮するのであるならば、いっそ病的と呼ぶのが相応しい。
 限界以上の鍛錬は身体に毒だ。何かにとり憑かれたように行動する朔は以前よりも遥かに危うい。
 しかし、止めるべき者は最早黄理しかいないのだ。彼が黙認しているのならば、どうして関わる事ができよう。当主自らが発した今の所一部の者を除いて浸透しつつあった。

 だが、ここに例外が存在する。

「……兄ちゃん」

 気付けばそこに、志貴がいた。
 眉根を寄せて困っているような表情を見せている志貴の身長は以前と比べ緩やかに伸びている。
 何故志貴がここにいるのかと朔は疑念を抱えども、いつものことだとそれも消化される。

 いつからか人気のなくなった朔の側。それも当然だろう。いきなり――――すぐに協定は破棄されたが――――協定相手の棟梁へと襲い掛かったのである。
 人払いが行われるのは致し方のないことだ。しかし志貴はそれを無視し、朔の側に留まっている。
 いつも変わらずに志貴は朔の隣にいる事が、不思議でならなかった頃もあった。だが、今となってはその答えを求める感情は芽生えようともしない。

 ――――そういえば最近になって志貴が六歳になったと誰かから耳にした。
 その誰かは女性で、何故か自分の表情を執拗に隠していた。
 震えるように感情を隠して、抑え気味に囁かれた声によれば、朔との会話は一切禁止されており、この会話も秘密なのだとか。

『食事はちゃんと取っていますか』
『休息は十二分に取れていますか』

 交わした言葉はそこらに転がっている世間話。けれど、朔の瞳を覗く女の表情は真剣そのもので、時折暗い色を瞳に湛えていた。
 そして女の質問に機械的に答えると暫し唇を噛み締めた後に「やはり、兄様は何もわかっていないじゃないか」と恨みを吐くよな声音を残して去っていた。
 彼女が朔に向けた瞳は仄暗いながらも、柔らかなものだった。

 だが、果たしてあれは誰だったのか朔は思い出せない。
 記憶の片隅に似たような存在がいたような気もする。

 光陰矢のごとしと言わんばかりに加速化した朔の脳は余分なものを置き去りにしていった。
 かつての朔であるならば記憶に留めていたものが今となっては雑多なものと化し、風化していく。

 あの女もまた自分に縁のある七夜なのか?

 思い出そうとして、何故思い出さなければならないのかと疑い、そして思考を放棄した。
 七夜の血族は皆親近者である事に変わりは無い。なら、あの女もまたその一人なのだろう、と結論付けた。

 しかし、そこでどうして自分は疑問に思っているのだろうか、と考えてみる。
 だが、その考えは果たして必ずやいるものなのかと思えば、そもそも自分に疑問を抱く機能そのものが必要なのだろうかと考えた。
 ただ自分は黄理のようになりたいだけで、他に余分なものは必要ない。

 そして、それも最早どうでもいいことになるだろう。自分にはきっと意味の見出せないことなのだろう。そもそも意味を求める事自体間違いなのかもしれない。
 とは言え、朔はそれを間違いだと断定できるほどの判断材料を保有していなかった。
 今となっては黄理ともほとんど会話を交わさなくなってきている。それは普段の生活のみならず鍛錬の際においてもそうだ。
 真意を見せぬ黄理に問い質すつもりはないし、如何様な理由があれども朔は今の生活に十分な満足感を覚えている。
 飛躍の手がかり、始めて垣間見た『敵』の存在。どれもが素晴らしい価値を秘めている。
 故に周囲の環境が変わった理由を朔は知ろうとさえしなかった。残念だと、無念だとさえ思う事無く。

 だがそれでも、変わらないものも、あるとするのならば――――。

「兄ちゃん、ねえってば。もう夜だよ? 家に帰ろうよう……」

 終わらぬ精神統一を図る朔の側には必ず志貴がいる。
 黄理から特例でも出されたのか、彼だけは相も変わらず朔の側にあり続けた。
 朔の鍛錬は夕刻を過ぎて、星の輝きが瞬く頃まで行われる。志貴は夜の鮮やかな黒に紛れる事無く、小さな掌で朔の袖を掴んで帰宅を促す。

 いつから、人気のなくなった朔の傍。だが志貴だけは今も尚そこにいる。いつも変わらず朔の傍にいる。それが不思議であった頃もあった。
 しかし、今となっては朔にその答えを求める感情は存在しない。朔の内側にあるのはあくまで昇華への渇望なのだ。その他はどうでもいい。
 どれだけ日常的に触れ合う志貴であってもそれは同じだ。
 限界突破を目論んで肉体乃至精神を過酷な負荷にかけたこともあるが、その時の言い様の無い心地と比べれば志貴との遣り取りなど、春にたなびく柳と会話しているようなもの。

 しかし、帰りを促す志貴が何故今も尚ここにいるのかと考え、志貴は黄理の代理にきたのだと憶測した。
 そして、黄理とはもう顔を合わすこともないのかと漠然と邪推した。
 残念だとは思わない。もとより疎まれて当然の身。理不尽は当然であるし、里の住人との交流も芳しくない。冷遇は致しかなの無い事なのだ。
 だから、これも当然の事なのだ。当然のことなのだろう、と思いはした。

 ただ、内側に広がる虚しさが悲しく震えた。

「兄ちゃん……?」
「……」

 反応を示さぬ朔に心配となったのか、こちらを覗くように志貴が顔を見せる。

 すると、――――視界が僅かに霞んだ。

 しかし、自分の瞳が濡れていないことは理解している。ならばこれは一体何なのか。
 時折だ。朔の視界に微かな靄がかかることがある。
 それはこの時のように志貴に見つめられている時だったり、あるいは離れに一人でいる時だったり、母屋と忍び足で向かっている時だったり、はたまた訓練所にいる時だったりと、かなりの頻度で視界に靄は降り注いでくる。
 最初目に何かしらの病を患ったかと思いはしたが、どうやら靄を注視してみると多様な変化がある。
 色がついているものもあれば、濃淡にばらつきがあるようなものもある。
 そして視界いっぱいに靄は広がるのではなく、血管のようにどこからか繋がり漂っている。これが一体なんなのかは具体的に理解できない。
 一度翁と相談するべきだろうか。

「……」

 そこで朔は頭を振る。

 ――――そんな事を考えてどうするのか。考えたところで、自分に答えなど解るわけないだろう。自戒に瞳を閉ざす。
 目蓋を閉じても志貴の不安そうな視線を感じて、朔は致し方なく自身の住処である離れに向かって歩いてく。
 この靄が何なのかはわからないが、見ていて気持ちの良いものではない。何より、動くのに邪魔だ。

 半ば志貴を無視するような形で動こうとする朔。――――と、その身を引っ張る力があった。
 着流しの袖を志貴が掴んでいる。だがそこに朔を押し留めるような力はない。
 だと言うのに、志貴は朔の袖を掴んで離さず、何かを訴えかけるかのように微力な握力で朔を引き止める。

「……兄ちゃん」

 志貴は俯いていて、その表情は今が夜という事もあり、よく見えず察する事も出来ない。そして朔は志貴が一体何をしたいのかがよく解らなかった。
 朔を帰らせるためにこちらへ志貴は赴いたはずなのに、その志貴が帰そうとしないはこれ如何に。
 生憎人の機敏に疎い朔には志貴の胸中を渦巻く形なき不安など理解できるはずもない。
 故に、この行為は無駄なのだ。意味のない行動のはずなのだ。
 なのに、朔にはこの手を振り払う事が何故か出来なかった。
 か弱き力で袖を握る志貴の手を振り払おうと思えばいつ出来もできる。けれど、どうしてもそのような行為をする気にもなれない。
 致し方なく、そのまま二人は歩いていく。朔が志貴を連れ立つような形で。

 頭上には月、冬の冷たく澄んだ空気で満月の輪郭が良く見えて、夜の森を歩く二人を淡く照らし出す。
 それはまるで月光が歩む道程の未来を映し出しているようだった。

 □□□

 食事を作る。ただそれだけの事がたまらなく楽しいと思えるようになったのは、いつからだろう。
 野菜を煮て、米を研ぎながら相手に満足してもらいたくて、一生懸命料理を作った。
 それでもまったく反応のない彼にもっと頑張ろうと思った。
 今度こそは反応してくれると期待しながら、無表情の子供を思った。
 そしていつも通り何の変化も示さない少年に敗北感を覚えながらも、次こそはと執念の焔を燃やした。
 うまいと言ってくれた事なんて一度も無い。舌鼓に表情を綻ばせた場面なんて、全く無い。
 だからそれを変えたくて、女の意地を張った。

 けれど、二人で食事を取ったあの瞬間は、何よりも温かかった。黙々と箸を運ぶ少年の仕草にどぎまぎしながらも表面上は冷静に料理を口に運んだ。
 何を考えているのかは解らない少年だったけれど、私が作った料理は全て残さずに食べてくれた。

 それでよかった。何気ない日常の一コマとしていつまでも続くと思われたその時間。

 ――――それだけで、私は良かったんだ。

 母屋の居間にて一人夕餉を食す。だいぶ遅めの時間だったためか、食事を取っている人間は私だけしかいない。
 たまたまそのような状況になっただけであって、私自身この状態を望んでいた訳ではない。
 時折襖の向こうに人影が通り、無意識に視線で追った。

 屋敷の中は本当に静かで、自分が屋敷の中にいるのではなく、暗い深海に沈んでいるような孤独感が胸を締め付ける。
 たった一人の食事。それだけの事だというのに、なんて味気ないだろう。自分で作った料理の味すら解らなくなるほど淋しい気持ちになる。
 以前、朔と共に食事を取っているのならばうまいと感じていただろうが、今では箸の進みも遅く、動きも能動的ではない。

 対面に座っていたはずの少年の姿は暫く見ていない。たった一人の人間が私の日常から離れただけなのに、随分と心模様は様変わりした。

 胸の内に寂寞が巣食っている。それはいつの間にか私の中に宿って、そのまま離れてくれない。
 そしてその寂寞を自覚するたび、私はどうしようもなく叫びたくなる衝動に駆られる。
 この状況、理不尽ともとれる現状。そして無力な自分。その全てを纏めた感情の一片までも身体から吐き出してしまいたくなる。
 だが、そんなことに意味が無い事は百も承知していた。私は子供ではない。子供でいられる時間は疾うに過ぎている。
 駄々をこねて泣き叫んでいるだけの子供でいてはならないのだ。もう、子供ではない。

 しかし、あの子は、朔はどうだっただろう。

 朔もまた私と同じように夕餉を一人でとっているのだろうか。そも食事をまともに取っているかも怪しい。
 朔がいないのを見計らって食事の残りを下げに行くと、そこには殆ど手のつけられていない料理があるのだ。それを見るたびに膨れ上がる心配は一入だ。

 兄様の決定以降、朔に対する接触禁止令による隔離から幾ばくかが経った。
 時は流れて季節は移ろい、冬の冷たい空気が里に降り注いでいる。朝の地面には霜が降り、本格的な冬の訪れまではもう僅かだろう。

 そしてそんな冬の中で、朔は生きている。たった一人で。

 あの日から直接的な接触を禁じられてしまった私は朔と共にいる事ができない。一緒に食事を取る事も、何気ない時間を一緒に過ごす事も叶わない。
 全ては胡蝶の夢だと疑わんほどに、あの日々は残滓を微かに置いて消えた。
 私に許されているのは、ただ朔の食事を作っておくだけ。共に食事を取る事は許されていない。
 朔を起こして顔を合わすことも出来ず、料理を縁側に置いておくだけだ。
 勿論、私はこのような状況を受け入れられない。何度と無く当主である兄様に問い質した。
 何故そのようなことをしたのか。真実、朔の事を考えたつもりなのかと、訴えた。
 だが、兄様は私に朔の現状を言ったうえで、全ては里の存続のためだと、当主の顔で私に言うのである。

 兄様は七夜の当主。云わば七夜の代表であり、一族を守り、歴史を紡いでいく事が彼の責務である。
 そのためならば、何かを切り捨てなければならない。
 故にかつて私たちの兄だった人間を粛清の元に排斥したのだ。本来であるならば朔の父親となるはずだった男をだ。
 それは解る。感情では受け入れたくないが、理解できる。
 私は当主として動く兄様の姿を幾度となく見てきた。
 必要なことなれば幾らでも冷酷になれる人間であり、朔の接触禁止もまた一時的とは言え必要なことなのかもしれないと、暗がりで囁く自分がいることも事実。

 ――――だが、だがだ。

 噛み締めた唇から鉄の味が滲む。気付けば箸の動きは止まっていた。
 どのようにもならない現状を嘆く感情は後悔か、悲嘆か、あるいは罪悪か。
 朔の実母である彼女と交わした口約束のひとつすら守れない私は一体何をしているのか。
 何気なく交わした約束を頑なに守り続けてきたのに、それをあっさりと覆されたのである。
 激情に身を任せて暴れてしまえばどんなに楽だっただろう。けれど、癇癪を起こすのは子供のすること。
 私が暴動を起こせば朔の立場が危うくなるのは必然だ。そも暴動など起こせる力もない私が暴れてもすぐに取り押さえられるのが関の山だろう。

 少し前の事だ。私は自身の衝動を押さえつけることが出来ず、朔と会った。誰に知られず、兄様にさえも知られずに秘密裏にだ。
 懸念もあった。手をつけた形跡の見られない料理や、鍛錬場から戻る時刻の遅さ。遠目に見ても明らかに休憩をとっていない。
 だから、この目で確かめたかった。朔は今どのようになっているのかと、心配だからと言い訳して。

 今、ここに告白しよう。私はあの時、自らが安心したいがために朔へと近づいたのだ。
 愚かな私は自身の不安を消してしまいたいがために朔のもとに向かったのだ。
 なんて愚劣な行為だろう。朔の事を思っての行動とのたまいながら、結局行っているのは自分しか考えていない行動でしかなかったのだ。
 それがどれほど卑怯な行為だったかも、あの時は気付きもしなかった。

「朔……」

 閉じた目蓋に浮かぶ朔の姿。夕闇の中、夕暮れの朱にも闇夜の漆黒にも溶け込むように佇んでいた朔の姿を。

 茫洋な気配。記憶よりも少し高くなった背丈。それに対し削げた肉体。頬は痩せこけ、余分な脂肪など残されていない身体。
 強引に引き締められたその身体は以前まではあった子供特有の丸みを消失させていた。

 そして、あの眼。

「朔っ……」

 無機質な瞳。何者にも興味を持たず、何事にも関心を示さないあのあの眼。それが深くなっていた。
 鋭い眼光はここではない何処かへと向けられ、目前にいる私など風景の一部でしかないのだと言わんばかりだった。
 事実それは正しいのだろう。あれは私を見ていない。朔の視界にたまたま私がいただけだ。
 しかしその眼球の中身は虚無そのもので、どこか闇色を孕んでいる。
 思わず息を呑んだ。たったこれほどの時間で人はここまで様変わりできるのかと、朔にかける言葉を見失い声につまった。

 ――――故にあの時、私には朔の姿が幽鬼に見えて仕方がなかった。

 禁止令の施行から幾ばくの時が過ぎた。それは短いと言うにはあまりに長く、長いと言うにはあまりに遅く、致命的だった。
 朔の変容がその証明だ。

 いや、朔を変えてしまったのは、果たして誰だ?

「――――っ」

 何もかもが今となっては言い訳に成り下がる。
 何者からも隔絶された子供にどのような影響が及ぶのか想像することも出来ない、あの時私は強く兄様に訴えた。
 だが、現状はどうだ?
 安直な決定が微かにでもあった朔の人間らしさを奪ったのだ。
 唇を強く噛み締める。そうでもしなければ嗚咽が漏れてしまいそうだった。
 だが、そんな資格、私にはない。結局朔の味方でいる事が出来なかった私に彼を想って泣く資格は失われたのだ。
 手のつけられない料理はすでに冷め切っている。もう旨味を感じる事はないだろう。
 否、私にとって朔と取る食事という要素が無ければ味があっても旨味など無いも同然なのだ。
 朔はあの時何も言わなかった。稚拙に語りかける私を視界に収めながらも、反応する事も無く、そして口を開く事も無かった。
 文句も、泣き言も言わなかった。
 ならば、私が泣いて良いはずなんて、ない。

『世界は優しいわね』

 そんな事はない。そんな事は無いのです。
 世界はこんなにも冷たく、悲しい。

『私に何かあった時は、この子は貴女に任せますよ』

 そんな約束さえ私は守れない。七夜として終わった女だ。使い物にすらならない、無力な女だ。
 けど、あの時私は確かに頷いた。春の兆しの中で、確かに彼女の言葉を受け取った。

『だから、お願いしますね』
『……はい』

 ――――それはいつかの夢物語。

 嘗ての約束が、虚しく響く――――。

 □□□

「御館様」

 母屋、囲炉裏の間。火の灯る囲炉裏を囲むように座る黄理に翁は声をかけ、そのまま対面に座る。公式な場でないので足は崩されている。
 黄理は静かに座布団へと座し、力なく囲炉裏を挟んだ向こう側にいる翁を見た。その瞳には僅かな疲労が窺える。
 それは肉体的なものではなく、精神的なものだと翁には解っていた。

「志貴様も困ったものですな」

 世間話をするように語り掛けた翁であったが、返ってきたのはぎろりと睨みつけられた黄理の眼差しであったので、肩を竦めるしかなかった。
 けれどその表情は忍び笑い。何せ先ほどまで彼が見ていた光景は微笑みを浮かべるには十分なもの。
 それは孫の成長を見つめたような好々爺の表情である。

 すでにここには黄理と翁しかいないが、先ほどまで志貴がいた。

『なんで兄ちゃんと会っちゃ駄目なの』

 朔を迎えにいった帰りなのだろう、志貴は不服そうに頬を膨らませて黄理と問いかけた。
 瞠目したのは黄理である。真逆、志貴が自分のいう所に反感を覚えるとは埒外の事だった。

『どうして誰も兄ちゃんと一緒にいないの?』

 真摯な眼差しが黄理には痛かった。一時的な措置とは言え兄と慕っている朔を隔離させたのは他ならぬ自分の決定であり、志貴には黄理を責める権利がある。
 だのに志貴は黄理を弾劾するのではなく、ただ不思議でならないと質問するのだ。
 その無垢な心が自分に向けられていると想うと、どうも言葉にし難い歯痒さを黄理は覚えてならなかった。

 真正面から父を見上げる志貴の視線は真剣そのもの。故に余計なはぐらかしなど忽ち打ち払われてしまう事は確実である。
 だからこそ黄理は朔そのものの状況、そして現状を簡素に伝えるだけに留めた。
 余計な情報を与えて刺激するのは賢い選択ではないし、適度に餌を与えておけばそれで満足する。そう思ったのである。しかし。

『なんで!? ちゃんと答えてよ、父さん!』

 志貴はあっさりと黄理の企みを看破した。別に甘言を用いたわけではない。だが、隙を見せるような言動も行わなかった。
 だと言うのに志貴はあっさりと父の企みを破り、更に睨みを利かせたのであった。
 意外ではあった。志貴の言うとおり自分は彼が求める明確な答えを提示していない事が理解されていたのだ。
 しかし、まだぬるいとも感じた。ここで糾弾するのではなく、もっと実用的な手段を用いれば利益も得れるだろうにと打算的な思惑が生じた。

「すこしばかり自由に育てすぎたか」

「ほほ、そのようで」

 一人ごちる黄理に翁が相槌を打つ。

「あいつは俺の子供だ、本当のな。だから俺に似るかと思ったが、んなこたあなかった。あいつはあいつのままで俺なんかに似やしなかった」
「御館様の可愛がりようはそれはもう見ていて微笑ましいほどでしたぞ」

 そのような起因。原因になったのは恐らく。

「朔、か」

 己が手で粛清した兄が残した遺児。それを戯れに引き取ったのは翁の思惑も重なるが、今となっては立派に成長し里一番の成長を見せている。
 このままいけば次期当主の座も嘘ではないほどにだ。
 故に、惜しい。
 あの事件がなければ朔はそのまま自制の効いた暗殺者として一族を背負う人材になっていただろうに。
 いや、もしかしたらあの時に朔の本性の一片が垣間見えたのは、ある意味では幸いだったのだろうか?

 実力を考察すれば朔に追随する者はいない。下手な大人ではもう太刀打ちすら出来ないだろう。鍛錬を直接受け持っている黄理だからこそ認められる。
 それほどまでの力を朔は秘めている。だが、それがもし遠くない未来で暴走を起こしたらどうなるか。
 結果は見るまでもない。惨い地獄絵図だけが広がるのみだ。誰も朔を止められはしない。
 故に今回の決定は見解を変えてみれば良い結果だったのかもしれない。朔の置かれていた環境を除けば、の話であるが。

 一番はやはり志貴だろう。朔の接触禁止令を故意に無視して朔と共にいる姿が度々目撃されている。それを叱ろうとも志貴は碌に話を聞かない。
 志貴の言い分の主だった所は結局の所、何故朔といては駄目なのか、のみに尽きる。
 黄理からすればそのような説明懇切丁寧にするつもりもなく、だからこそ志貴は窘められるのを覚悟のうえで朔の元へと向かうのだからたちが悪い。
 これが噂に聞く反抗期か、と黄理は心密やかに思った。
 子供だから、という理由で甘く見るつもりはないが、志貴の反抗心には興味がある。
 幼心に動き始めた原動力はいっそ愚直と言ってさえ良い。それが良い方向に向かえば朔の楔としての効果を得るかもしれない。
 そうなれば実に理想的だ。朔が殺し、志貴がそれを抑える。
 本人には無理でも外部の力を借りればどうにかなるというのならば、それも存外にありえない話ではない。

 そして二番は妹の事だ。あれ以降、彼女はやたらと黄理に辛辣だ。元々自分に似た外見をした姿をしているのだから、睨まれるとそれなりの気迫がある。
 そして彼女は一時黄理を睨んだ後に、『兄様は、それでいいでしょうね』と冷たい瞳で蔑み、目前から去った。
 本来は妹が朔の境遇改善を再三訴えてきた果ての事だったが、彼女が去り際に残した言葉が耳から離れない。
 勿論、あの決定が当主として正しかった。
 無駄な騒乱の種を残すのならば刈り取ってしまえば良い、と以前の自分なら考えたやも知れぬが、少なくとも命を絶たぬだけマシであると言えよう。
 故に朔を隔離し、自制心を覚えさせようとした。
 しかし、自身の全てを鍛錬に捧げている朔を見ると、あの時の決定は本当に正しかったのかと疑心に狩られる事もある。
 最初、黄理は反省のためにより苛烈な鍛錬を朔が望んでいたと思っていた。しかし、時が進んで思えばそれは大きな見当違いではなかったのか。
 今の朔はより増大な力を得んとする獣だ。寝食すら惜しんで戦いに備える一種の闘争心そのものだ。

 だから、黄理は疑わざるを得ない。
 接触禁止令は朔にとっては降って注いだ大きな転換期であり、今となっては止める者もいない事から存分にそれを貪っているのではないのか、と。
 事実刀崎梟を襲っている際に感じた朔の気配は、かつて長兄が発していた存在感そのものに類似していた。
 このままいけば、遠からず朔はそれに極めて近い存在になるという予感が黄理にはあった。

 故に朔を隔離した。精神的な枷を架し、もし朔が再び暴走しようとも他の七夜に一切の危害が及ばないように徹底している。

 だが、この背筋に這いよる百足のような悪寒は一体なんだ?

「翁」
「はい」

 それまで何処からか取り寄せたのかお猪口に酒を注いでいた翁が面を上げる。

「今の朔は誰に似ている?」

 黄理の問いかけに翁は暫し眉根を吊り下げて黙考し、恐る恐る口を開いた。

「性質は長兄の方に似ていますな。まず間違いなく、朔様はあのお方の血を引いていらっしゃいます。それは最早変えようのない事実。ですので、朔様が長兄のお方に似られるのも無理からぬ事かと」
「確かに、そのとおりだ――――」
「ですが」

 言葉を続ける黄理の声音を切り裂いて、翁は声を紡ぐ。

「性格等は幼き頃の御館様そのままでございますよ。私は覚えていますよ、御館様は小さき頃から七夜として何処か外れていましたから、よく印象に残っております。ですから朔様も御館様に似たのでしょう。朔さまは何処か、と言うよりもかなり外れていますゆえ」
「そう、か……」

 七夜黄理も確かに兄妹の中においては人並みから外れた存在だった。
 幼少の頃よりどのようにすれば巧く人体を解体できるかを追及し続けた履歴を鑑みれば、病的と呼んでも差し支えはない子供時代を過ぎ、いつの間にか周りからあげ奉られる形で当主の座についている。
 自分はただ殺しの手筈を追求していたはずだったのに、気付けばそれだ。
 生憎その頃には人間らしい感情を持ち合わせていなかった黄理は唯々諾々と当主の務めを果たしはしたが、それは最低限の事ばかりで、殺人鬼として活躍していた頃は前線にて殺す事にこそ価値があると思い邁進した。
 事実最初に殺人を果たした際はその魔性に取り込まれ、関係ない者まで手にかけた。
 脅威を事前に取り除くという要素を構築すればそれも挽回出来なくはないが、血に酔うなどという経過を経ても黄理の暗殺は人並み外れていた。
 あるいは朔もまたその可能性を秘めているのか?

 そのように考察してみると実に興味深い。朔は始めて混血と対峙した事で七夜としての血が目覚めたと考えたならば、あの出来事は大きな跳躍になったのだろう。
 切っ掛けは違えども、この七夜黄理と同じように、だ。
 つまり今行っている精神の枷を架けるという所業はより七夜としての速度を早める事に繋がるのかもしれない。

「御館様。随分と悪い顔をしておりますな」
「あ?」
「まるで悪戯を思いついたような童のような顔をしていますぞ」

 翁に言われ、黄理は自らの頬を指先でなぞる。確かに表情筋が吊りあがり、無表情から変化を遂げている。
 しかし、それほどまでに凶悪な変容をしている訳でもない。
 幼子のような表情、しかも悪戯を思いついた童のような顔と言われてもいまいちピンとくるものがない。

〝こいつ、魔眼には目覚めてねえはずだったが〟

 内心翁を勘ぐり魔眼で見つめてみるが、さしたる変化はなし。
 ならば黄理よりも長命であり、先代から忠節を守ってきた翁の人生経験とやら故に人の心根の機敏が読めるとでも言うのか。
 馬鹿馬鹿しい。翁にそのような読心術めいた能力はない。
 つまり、翁に解るほど自らが揺らいだという事だ。けれど、その揺らぎもまた楽しからずや。

「翁」
「はい」
「朔がもしこの機を乗り越えたならば、あいつを次期当主候補の筆頭にする」
「ほう、誠でございますか。しかし、それでは他の者が納得しないのでは?」

 答えなど解りきっている癖に、翁は面白がる表情で問い返す。

「戯け。七夜は力が全てだ。多少外れていようともそれは変わらねえ。実際、朔の実力は今の所桁違いだ。俺が保障する」
「つまり、御館様自らが後ろ楯になると」
「まあ、なんだ……結果的にはそうなるな」

 自分で言いながら、それがどれほど荒唐無稽な話か笑いたくなってくる。
 実在的に今現在厳罰という形で隔離を行っている者に対し、次期当主の座を将来的に譲ると自ら言いのけているのだ、この七夜黄理は。
 何という馬鹿げた話、何と愚かな事。噴飯物の戯言だ。だが、それが面白い!

 自らの血を引いている志貴もまた将来的な実力を考えれば未知数の力を秘めている。
 朔の挙動に眼は奪われやすいが、実地的な実力は朔に次いで志貴が子供の中では追随している。
 それに志貴は朔を兄と慕うストッパーだ。何かと無茶しがちな朔を止める良き相談役にもなるだろう。
 未来を想像するとはこんなにも面白いものだったのか、と黄理は今気を抜けば表情を更に崩してしまいそうだった。
 二人はきっと上手くやるだろう。七夜の未来をどんな形であれ、より良い方向へと引っ張っていくに相違ない。

 とは言え、それは朔がこの試練を乗り越えられればの話だ。

「だが、朔が今回の件で潰れるんだったら」

 その時は仕方がない。

「手ずから殺す」

 己が手塩にかけた子供を抹消する、と黄理は確言した。
 何も手放しに朔を擁護する訳ではない。確かに黄理は朔の面倒を見てはいるが、それが災厄の芽となれば話は別である。
 当主として、然るべき処置を行わなければならない。ただでさえ今の朔は危ういのだ。
 朔は徐々に変わりつつある。狂気に飲み込まれかけているのか、あるいは昇華の経過の最中にあるのかは解らない。
 しかし、鍛錬に熱中し他の物一切目をくれない朔を見ていると、どうにも危うさを感じてしまうのだ。
 より無機質に変質し、より機械的に変容していき、そしてより暴力的に変身していく朔の姿。そしてあの目、朔のあの瞳だ。
 無機質だった眼が今では何も見ていない。どこか遠くを見つめているような眼差しは、かつての自分のようでさえある。

 ――――ただ、どうにもそのような考えをすると、脳にノイズが走る。

「翁。お前の眼に朔はどう映る」

 それはかつて、黄理が翁に問うた言葉だ。
 朔が変わったのは、何も瞳や在り方だけではない。あれ以降、朔の運動能力は飛躍的に伸びているのである。
 単純な膂力は無論、一々の動作に切れが更にかかり、時には黄理でさえ視認出来ないほどだ。
 打撃は重く、鋭さを増した攻撃はより狡猾に敵を、訓練の相手である黄理をしとめんと蠢く。
 縦横無尽に動き回る朔の動きは正しく蜘蛛の片鱗を見せている。僅か八歳の子供がだ。
 今となっては黄理は自身の獲物である鉄撥を使用している。
 それでも手加減がやっとの状況であり、本気の動きを強いられる瞬間が増えた。黄理と対峙する朔はさながら小規模の暴風雨のようだ。

 故に黄理は時折、朔に怖気のような感情を抱く。それは畏れと言っても過言ではないだろう。
 幼子相手にそのような想いを抱くなど、思いも余らなんだ。
 そう遠くない未来。朔は黄理を超えるだろう。

 それは、はっきりと、異常。

「そうですな……ただただ恐ろしいと存じ上げます。あのままではどうにかなってしまうのではないのか、と」
「……」

 正直に己が心根を述べる翁に容赦はない。無理矢理に現実へと眼を向けさせる声音だ。

「ですが、もしその時が来て、御館様は本当に朔さまをその手にかけることが出来ますかな」
「なんだ、俺を見くびっているのか、翁」

 思わぬ言葉に黄理は眉を顰める。

「いいえ、そうではありませんよ。確かに里を守る当主の役目と思えばそれは正しいかと思われます。しかし、御館様。貴方はその時、本当に朔さまを手にかけて後悔をなさいませぬか? 胸を張れますか?」

 翁の言葉が空間に響く。その時、ぱちりと音をたてて囲炉裏の焔が小さく爆ぜた。

 可能か否かと問えば、可能だ。
 朔は確かに実力を持った子供であるが未だ黄理を凌駕せぬ幼子。実力的に考察すれば有無を言わさずに殺める算段はつける。
 正面から殺すのもありだし、鍛錬で気絶した寝首を掻くのも容易に可能だ。それこそ赤子の手を捻るように簡単だろう。

 だが、黄理は何故か翁の問いかけに頷くことが出来ない。

 あの生まれたばかりの子供を引き取ったのは誰だ?
 成長していく幼子の姿を見定めていたのは誰だ?
 鍛錬で力をつけていく幼児にほくそ笑んだのは、一体誰だ?

 思い出す。始めて朔が黄理の腕を掻い潜って一撃を放ったあの時を。
 咄嗟に本気の一撃を放ってしまい結局朔の仕掛けは失敗に終わったが、秘めたる可能性に黄理は確かな笑みを浮かべたのだ。

 覚えている。鍛錬をしている朔は自分にはそれ以外の楽しみがないのだといわんばかりに振る舞い、じゃれ付くように黄理へと襲い掛かっては気絶させられ、それでももう一度と頑なに苦痛極まる鍛錬を止めなかったあの子供を。

 記憶に残っている。結界によって突然変異を起こした森の奥地を舞台に、基礎体力の向上だという名目のもと鬼ごっこめいた催しを行ったあの日々。

 それらの思い出が色彩を振り撒いて脳に焼き付いている。

「――――嗚呼、そうか」

 そして黄理は気付くのだった。自分は出来れば朔をこの手にかけたくはないのだと。曲がりなりにも自ら育てた子供なのだから、それなりの愛着があるのだ、と。
 否、愛着なんてものではない。これは志貴へと同等に向けられていたはずの、親愛。

 何てことだろう。今更ながらに、黄理は朔を我が子同然に扱っていたのだと気付いた。
 しかしそれは、なんて苦痛。我が子も同然の子供を、自ら手塩にかけて育てた子供を己が手で殺めなければならないなど。

 以前の黄理であるならば、ただ巧く人体を解体できるかを追及し、没頭し続けた殺人鬼であるならばこのような痛みなど無縁だっただろう。
 ただ「そうか」と決めて、あっけなく事を済ましていたはずだ。あの、兄のように。
 七夜の血に負け、狂気に飲み込まれた長兄の姿は歪であった。いっそ禍々しいと形容しても良かったであろう、醜悪なあの姿。
 全ては一族の掟だった。身内殺しは最大の禁忌として処罰しなくてはならない。そう黄理が決めて、そして実行した。

 なら、その可能性を孕んだ朔に対しても同じように今の黄理が振舞う事は出来るだろうか?

 純粋な疑問として、そもそも自分は朔をこの手にかける事なんて出来るだろうか。
 嗚呼、こうなるならばいっそ本当の我が子として朔を育てればよかった。
 そうすれば志貴と同じように育った朔は今のような状態にはならなかったかもしれないし、このような苦悩を抱える必要もなかった。

 全てはイフ。ありえない可能性。

「なあ、翁。俺はどうすればいいんだろうな」

 ぼんやりと黄理は言葉を残した。

 ジレンマだった。自分でも疲れていると実感できる。最近では志貴との関係も上手くいっていない。今回の喧嘩がそのよい証拠だろう。
 志貴は黄理に反発し、そのまま朔のもとに駆けつけていった。
 どうしようもない状況に気が休まらない。朔の事が気がかりで一時たりとも頭から離れないと自覚してしまった。
 こうして悩んでいる事も朔の事ばかりで、しかも解決策は見つからずに結局は堂々巡りだ。

 答えの見当たらぬ泥濘に黄理は嵌ってしまった。もう、どうすればいいのか解らない。

 それでも、月は苦悩する黄理を無視して明るく輝いていく。

 □□□

 布団から見上げる天井はいつもと変わらぬ母屋の情景だった。もうどれほど朔と共に眠っていないのか志貴は月日を数える事も忘れた。
 見ようによっては顔にも見える木目と、頑丈そうな梁。
 昔は明かりによって生まれる影に妖怪がいるのだと教えられ、酷く怯えたものだが、今となっては懐かしき思い出である。
 それでも時折その恐怖を思い出し、傍らで熟睡していた朔にしがみ付いたものだったが、それももう随分と前の出来事のように思える。
 普段と変わらぬ視界に思わず溜め息が漏れた。

「どうしましたか志貴、眠れないのですか?」

 傍らで編み物をしていた母が優しげに問いかける。そう言えば母は昔から優しかった。
 厳格な父とは違い、不安に揺れる志貴をいつも慰めてくれたものである。

「ううん。なんでもない、なんでもないんだ。母さん」

 自分自身へと言い聞かせるように志貴は呟く。けれどそんな志貴を咎めるように母は言う。

「志貴。自分自身すら欺けない嘘なんてつくものではありませんよ。何を考えてたのです?」

 穏やかに、だけど真実を貫いて母は緩やかに笑む。やはり母には勝てない。
 自分の稚拙な誤魔化しなんて全てお見通しなのだろう。
 ならばここでこの胸の中に渦巻く疑念を全て吐き出してもいいものだろうか?
 けれど、この話題を出せば母は必ず良い顔をしない。幾度となくそんな光景が繰り返されたのである。
 余程の莫迦でもない限り、同じ過ちは繰り返さないだろう。ならば、我慢できずに口から疑念を漏らした志貴は余程の莫迦に該当するに違いない。

「兄ちゃんのこと」

 簡潔に言葉にすると、やはりと言うべきか母は顔を曇らせた。けれど、一度零れた言葉はもう戻れずにとことん溢れていく。

「僕は兄ちゃんと一緒にいたいだけなのに、だけど皆駄目だって、行っちゃいけないって言うんだ。……僕は一緒にいたいだけなのに、ねえ母さん、何で皆は兄ちゃんと一緒にいちゃ駄目だって言うんだろう?」
「……」
「父さんも答えてくれない、翁も何も言ってくれない。誰も反対するばかりで、皆駄目っていうだけ」

 そう呟いて、不意に視界がぼやけてきた。いけない、思わず瞳が濡れて泣いてしまいそうだった。
 不安や不満が綯い交ぜになって今にもはち切れてしまいそう。
 でも泣いてはいけない。きっと、泣いていい資格があるのは朔ただ一人なのだ。
 あの彼岸花を思い出す。二人で見つけた赤く咲き誇る一輪の花を。
 たったひとりで咲いている様は淋しげで、自分だったら思わずしくしくと泣いてしまうだろう。
 朔はあの彼岸花だ。たった一人で咲いても文句を言わずに咲き誇るたった一本の華。群生することなく、理由なんて求めずにただ在るだけの赤い花弁だ。

 ふと気付くと、母は俯いていた。やはり、良い顔をしないのは解っていた。
 けど何も母を責めている訳ではない。ただ不思議なだけだ。
 この突然降って沸いたような理不尽が不思議でたまらないだけなのだ。――――と。

「そうですか……」

 一言呟いて、布団に潜りこんでいる志貴の頬を母は今にも壊れてしまいそうな陶器を扱うように優しく撫でた。

「志貴は優しいのですね」

 まるで慈しむように母は囁いた。

「僕は優しいの?」
「皆怖いのです。何かを失う事が、誰かがいなくなる事が。大人になればなるほど傷つきたくなくなる。そして傷つけたくなくなる。だから朔を遠くにおいた。朔は今不安定ですからね」
「どうして?」
「……それは」

 言い逃れを許さぬような志貴の純真な視線に耐えて、母は言葉を紡ぐ。

「皆そこでどうしてだと思わない。いいえ、思わないふりをしています。それが一番悪くないことだと、自分に言い聞かせながら。それが一番痛いと皆気付かないふりをしながら」

 そして、それは私も同じです。
 と、母は懺悔するように小さく呟いた。

「母さん?」
「しかし、志貴。あなたは違った。皆が気付こうとしない事に自ら向き合った。だから、あなたは優しいの」

 志貴にとって母は誰よりも優しく、そして柔らかい人だった。
 当主としての顔を常に保つ父や拠り所としての朔、そして朔の世話をしている叔母や相談役の翁とも違う、どこか奥底で受け止めてくれる、そんな雰囲気を持った女性であった。
 志貴にとっては理想的な母とさえ言える。そんな母から優しいなどと言われるとは思っていなかった志貴は、くすぐったい感覚を覚えながらも少しだけ誇らしいと思えた。

「痛いことは悲しい事。だけど痛くないと思うことが一番悲しい。だから、まだ大丈夫なんじゃないかと思います。これも希望観測でしかないのかもしれませんが……」
「母さん?」
「私たちはまだ踏み出せません。でも、志貴。あなたならもしかしたら……」
「……」

 どう答えればいいのか解らずに迷う志貴に母は少し微笑んだ。

「もう夜も遅くなります。おやすみなさい、志貴」
「……うん、おやすみなさい」

 結局明確な答えは解らないままに、襖を閉じて出て行く母にそっと志貴は呟いた。

 夜。明かりの消された室内はひんやりとした気配にすぐさま飲み込まれていく。敷かれた布団の中、志貴は眼を凝らして天井を見つめた。
 最早木目は見えずに、あるのは暗がりと化した影。
 僅かばかりに開いた障子の隙間から差し込む月光が眩しかった。
 これほどまでに月の光が強いのはいつぶりだろう。それほどまでに月明かりは眩しく輝いていた。

 そうして、朔を思った。目前で変わり果てていく朔の姿を思った。

 それをどうにかしたくて、けれどどうすることも出来ない自分は傍にいるだけ。それが悲しくて、悔しくてたまらず父に噛みついて、母に泣きついた。
 今思えばなんて情けない。これではただの八つ当たりだ。
 今日もまた、朔を迎えにいった。朔は鍛錬の時間も終わったと言うのにその場から離れず、何か瞑想しているようだった。
 あの事件から朔がそのように眼を瞑っている姿は幾度となく目に付いているけれど、あれは何を思っているのだろうか。
 少し前までは迎えにいくのは父の役割だったが、父はもう朔と関わる事を止めたのか、その役割は志貴が買って出た。
 せめて、たった一人で佇む朔のその傍にいたかった。
 だけど、それ以上先に踏み込む事ができない。何か特殊な結界でも敷いているかのように近づく事が出来ない。
 理由は解っている。朔の瞳のせいだ。
 朔は見ていない。何も見ていない。誰も見ていない。茫洋で曖昧な瞳はここではないどこかを映し出しているような気がした。
 それが志貴には怖くて、その度に朔の袖を掴んだ。これ以上朔がどこか遠くへ行ってしまわぬように、強く握り締めた。
 本来ならば掌を掴みたいが、それにはまだ勇気が足りない。あの好きだった掌までの距離は限りなく遠い。

 だけど、ここで立ち止まっては駄目だと気付いた。

「僕が、頑張らないと」

 決心の言葉が暗がりの室内でまるで灯火のように広まる。
 周りが変わらない以上、朔もまた変わり続けてしまう。きっと兄と呼んだ人物ではなくなって、ここではないどこかへと消えてしまうだろう。
 それだけは嫌だ。嫌なのだ。論理や根拠なんてない。ただ傍に居て欲しい。あの兄と慕う少年と共にずっといたい。

 だから、志貴は決めた。

「明日、一緒にご飯を食べよう、かな」

 もっと近づいて、あの頃の二人に戻ろう。きっと父は最初怒るかもしれない。母も自分を嗜めるかもしれない。
 けれど叔母を味方につけて、翁を説き伏せてしまえばこっちが有利だ。そうすれば他の人もきっと元通り。
 父は普段通り気難しい顔で、母は微笑んで、叔母は冷たいながらも優しくて、翁は快活に笑っている。

 だから、自分が頑張る。そう決めた。
 だから、今はお休み。全ては明日だ。

 目蓋を閉じる。部屋に入り込んでくる外気が少し寒くて、志貴は布団に潜りこんだ。
 部屋に入り込む月光は閉じた目蓋でも痛いほどに眩しく輝いている。
 そのまま志貴は、緩やかにやってくる眠気にひょいと乗り込んで眠りについた。

 □□□

 月が、満ちる。

「槙久さま。足並整えました。いつでも行けます」

 夜の帳に紛れ込み、復讐の化生は訪れた。
 車から降り立って踏みしめる地面は土の感触。久しく味わっていない感覚に興奮し、脂汗が自分でもわかるほど発奮される。

「これは、粛清だ」

 かつての恐怖を何層にも奥深くに押し込めて、男は呟いた。

「行くぞ」

 懐には鬼。人外のための人外。

 殺人鬼を滅ぼすために鬼を引き連れて、男はやってきた。

 頭上には忌々しいほどに輝く満月。余韻に浸る余裕はなく、今はただ月明かりが邪魔だ。

「七夜黄理を殺れ」


 ――――逢魔が刻。



[34379] 第十話 月輪の刻
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2012/11/03 09:25
 七夜の森は果てしなく広大であり、鬱蒼を成す黒き森林は正に樹海と呼ぶに相応しい外観をしている。
 故に内観もまた然り。太古の匂いを感じさせる緑の要塞が視界をふさぎ、今では結界による作用から徐々にその範囲を外部に侵食しており、生者が入り込めば抜け出すことの叶わぬ自然の墓場と化している。
 無論、森の中で命を散らしたものに墓標は存在しない。
 正式な手続きを踏まず、また正規ルートを辿る事の無かった彼らは皆侵入者という形で処理され、無様な屍を晒すのみだ。
 その亡骸も鴉が啄ばむ前に植物達が群がり、骨の一片までも失われる末路。
 まともな神経を持っている者ならば、まず侵入しようとは考えぬ地獄の扉である。


 外部から招待した魔術師との共同作業によって設置された結界は七夜以外のものを排斥する効果を発揮し、更には自然の秩序乱れた森の内部には殺傷能力の高い罠が幾つも隠されている。
 そして極めつけは結界の副作用によって変異した動植物たちであろう。序と言わんばかりに彼らは森林の内部で血を求めて這いずる獣と成り果てている。
 そのさまは正しく死徒二十七祖に数えられるシュバルツバルトの魔物さながらであった。


 だから大丈夫だろう、とは誰も考えはしない。幾ら防備を重ねた牙城であろうとも崩れるときはあっさりと崩れるもの。
 もとより、七夜には敵が多すぎた。殺した対象の数は幾星霜。歴史を紐解けば、それこそ表沙汰には出来ないほどの暗殺が七夜によって行われているのである。
 ならば、憎悪の数がそれに比例して増幅していくのも当然の事。
 例え退魔から抜け出そうともその血の業の罪はあまりに深く、混血ともどもにおいては恐怖と侮蔑によっていつまで経っても忘れられるはずがない存在である。
 まるで魔である混血よりも人間の結晶である七夜の方が妖怪であるかのようだ。


 故に、今日の夜は当然の事だった。あまりに必然すぎた。


 方やかつての屈辱を忘れる事が出来なかった混血。
 方や陰に潜み魔を狩り尽くした絶対の殺し屋。


 その関係性は簡潔に尽き、余分なものを含みはしない。水と油のように互いは離反しあい、決して融合などしない。
 即ち彼らは必然的に殺しあうしかないのだった。
 仮初の協定を結んでいたが、薄氷と呼ぶに相応しい薄っぺらさの関係は容易に瓦解し、やがてはこうなるであろうと誰もが内心思っていた。
 それはまるで見えない糸が先の先で紡いだ運命のようだった。
 なれば馴れ合いは無く、歩み寄りもまた然り。互いに理解はすれども共有は得ない。
 今宵は殺し合い。どちらかが滅ぶまで戦い続ける絶叫の夜。
 その果てはきっと、天上で煌々と光る月輪(がちりん)のみが覚えているだろう。

 □□□

 深夜の森の中を武装した男達がひた走っていく。
 物音は限りなく静かに、それでいて獣のような素早さで位置を変え、慎重に進んでいく。
 地面に落ちていた枯葉の一枚すら踏まぬように注意しながら邁進する彼らを頭上の月が窺っている。
 獣道さえないような森林である。視界は不明瞭。
 夜であるならば月明かりのみが頼り。木々の合間を縫って、その手には銃器。身に纏うは厚手の戦闘服。
 顔を隠すようなマスクを装着したその出で立ちは戦地に向かう如くであった。


 彼らは今宵七夜襲撃を企てた遠野槙久の私兵であり、数としては小規模。
 しかし偵察を使命に受けた彼らの足並はプロのそれで、無線機と手信号のみで連携を取り合いながら、微小ながらも確実に潜伏していく。
 目標は未だ遠く、沈黙は耳に痛いほどで、隣にいる隊員の荒い息遣いさえ聞こえてくる。
 皆緊張しているのだ。何せここは混血の天敵とされた七夜の根城。人間である彼らの上位者である混血が畏れる化物の巣窟である。
 何とすれば敵対対象の寝首を掻く心意気を皆持ち合わせているが、それでも心のどこか奥底で恐怖の感情が呼吸をしているのがよく解る。
 心臓が痛いほどに脈打っている。今だけは黙れ、黙れと内心繰り返しながら慎重に進んでいく。その足並はいっそ臆病と形容してよいかもしれない。
 まるで外敵に警戒している草食動物のようでさえあった。――――と。不意にこの部隊を率いていた隊長格である山本はある事に気付いた。
 聞こえてくるのは自分たちの足音、更に言えば息遣いばかりで、この森に入ってから何の音も聞こえない。鳥の囀りも、虫の鳴き声も何も聞こえない――――。


 そして、がさりと、明らかに自分たちのものではない騒音がした。


「いぎゃあああああああああああああああああああああああああっ!!?」


 絶叫。突然、茂みのどこからから仲間の悲鳴が迸った。


「なっ、……! 状況報告、状況報告」
「状況不明ッ! 何者かの襲撃にあっている模様、う、うわああぁぁぁぁぁぁ!!」


 暗闇の森の中、散開していた仲間たちが襲われている。
 咄嗟に隊長である山本は無線をフルオープンで状況確認を急ぐが、返ってくるのは言葉として聞き取れないほどの悲鳴のみ。
 何が、一体何が起こったのか理解出来ない。
 そして悲鳴がひとつの契機だったように、前を進んでいた者たちの辺りからも次々と断末魔の絶叫が木霊した。
 まるで地獄の獄卒と出会ってしまったかのような絶望感に彩られた悲鳴は、次々とそこ等彼処から聞こえてくる。
 暗闇に灯されるマズルフラッシュ、セミオートのトリガー音。


「た、助けてくれ、助けてくれぇ!!!!!!」
「いやだ、死にたくない死にたくない死にたく――――」


 何かが潰される音。
 精強を誇っていた兵士がまるで未知の巨大生物に遭遇したかのような弱兵と成り下がり、指揮系統は最早意味を成さなくなった。
 暗い暗い森の中、兵士を預けられていた山本に状況は解らずじまいだった。何か理解を超えた現象が起こっている。
 だが、仲間が今この瞬間にも何者かに襲われているという事実に揺るぎは無い。


『孤立するな! 全員密集隊形を取れ、周囲を警戒しろ!』


 咄嗟に怒鳴り、どうにか混乱した者達を収めたかった。
 しかし冷静さを欠いたものから死んでいくのだと言わんばかりに、返ってくるのは悲鳴。そして渇いた銃声音。
 至る場所で仲間が死んでいくのが暗闇の中でも解る。そして悲鳴がどんどんと遠のいていく。
 その悲鳴の有様はまるで奈落の彼方に連れ去られていくかのようにも聞こえた。


 そして、男の元に集まってきたのは僅か五人ばかりだった。
 あれほどいた兵士たちがもうこれだけしかいないという切迫感に誰かが息を飲む。はあ、はあ、荒ぶる吐息がやけに耳について離れない。


「一体、何があったんだ」


 呆然とした様子で山本は周囲を窺いながらもどこか上の空で聞く。


「わかりません、何か生き物のようなものに襲われたとしか……」
「七夜かッ?」


 ここは敵の根城。すでにこちらの動きを察知している可能性が高い。しかし問いかけた山本に対し返ってきた言葉は否という報告だった。


「いえ、あれはもっと原始的な、人間ではないなにかです」


 そんな要領を得ない報告に呻き声が漏れる。
 状況は緊迫している。周囲は訳の解らないものに囲まれていて、いつの間にか自分たちは突然窮地に立たされているというのか。
 そうしている合間にもこの場に辿り着く事の出来なかった仲間たちが何ものかに襲われていくのが解った。
 夜だから音だけが頼りなのだ。静けさに満ちた森林では何かに引き摺られる音、何かを潰す音、何かを砕くことが鮮明に聞こえる。
 その中には水っぽいものが樹か岩に叩きつけられているような歪な音が木霊している。まるでこの世にいるような感覚ではない。
 山本は傭兵として幾つもの戦場を練り歩いた過去を持つ男だが、このように常軌を逸した場面に遭遇した事などない。
 そう、ここが異常なのだ。七夜の里。遠野が怨敵として畏れる者達が暮らす自然の墓場。
 そして、誰とも言わず何かに気付いた。


「……おい、なんだあれはっ」


 月光が影となり仔細は分からない。しかし、確かに見えた。見えて、しまった。
 彼らの視線の先、樹木の生い茂る森林の中で、何かに引っ張られるように隊員が宙吊りにされていく。
 その手足、胴体に巻きついているのは蔦、あるいは枝。それはさながら生贄を月へと捧げる神秘的な光景ですらあった。
 先ほどから生贄となった隊員の声から助けを呼ぶ声が迸っているが、最早言語としてまともに理解できぬほどのものに成り下がっている。
 まるで豚の鳴き声のようだ。憐れで、騒々しい。
 そして――――ぼくん、という場違いな音がした。


「……」


 誰もが何も目の前で行われた惨劇に声を忘れた。
 いとも容易く蔦によって引き千切れた体。肉の千切れる形容しがたい音がした後、股関節の外れる音だけが鮮明に聞こえたのであった。
 半分に切り裂かれた体から溢れ出す臓物が月光に照らされて、ひどく鮮やかな前衛芸術作品のような呈を成す。
 遅れて、矢鱈と瑞々しい血潮と内臓の落下音が耳に届き、ただの肉塊と化した元人体のもとへ一斉に蔦やら蔓やら、あるいは細い枝やらが群がり、喰らっていく。
 彼らもまた曲がりなりにも遠野に属する者達である。この世には常識では賄え切れぬ超常が在りえることは存じていた。
 特に彼らの雇い主である遠野の場合はそれが顕著で、理解を超えた存在として理解している。
 故に彼らは理解を超えた、という現実を解っていた。しかし、今この眼球で映される映像はなんだ。
 植物が人を襲い、あまつさえ血肉を貪るなどどんなB級ホラー映画だ。暗闇の向こう側で今でも悲鳴と咀嚼音がバックサウンドとして流れていく。
 映画で描写されればある程度の想像を掻き立てて、僅かばかりの恐怖感を煽るだけしかない場面が、今目前でリアルとして起こっている。
 山本がちらりと隣にいる隊員を見やれば、呆然と表情を崩している。思考など一切していない隙だらけの様相だった。
 しかしむべなるかな、きっと山本も同じような顔をしているのだろうから。


 つまり、一連の光景を見せ付けられた事によって山本たちは解ってしまったのである。
 今しがたまで通り抜けてきた道は油断させるための罠。否、すでにこの森に侵入を果たしたときから彼らは虎視眈々と山本たち人間を狙っていたのである。
 ここは最早ただの森ではない。
 魔物の口内、もしくは餌場なのだ、と。


「ききき、来たぞぉッ!?」


 絶叫めいた報告に忘我していた山本たちの周囲はいつの間にか捕食者達に囲われていた。
 最も捕食者たちはまともな姿をしていない。
 肉食動物ですらない彼らの姿は皆、植物。柔らかそうな蔓に棘の生えた蔦がうねりながら、さながら蛙を囲む蛇のように厭らしくじわじわと迫ってくる。
 のたうち蠢く緑の触手には幾つもの赤い斑が付着していて、きっとそれは喰われた者たちの鮮血だろう。
 山本たちは皆、ここがこの世ではないような気がした。悪夢?
 いや、きっとこれは地獄ですら生温い。


「なんだ、ここは」


 それは誰の呟きだったのか。ここにあらずな表情で溢された言葉が合図であったかのように、植物達が一斉に山本たちへ群がった。


「なんなんだここはっ」


 そして一人、また一人と触手に連れ去られ、飲み込まれていく。血飛沫を撒き散らしながら消え去った後で、形容しがたい咀嚼音が聞こえる。
 冗談ではなかった。皆ここにいた者達は山本を信頼し、着いてきた小隊である。
 同じ鍋を囲み、時には冗句を口ずさみながら共に眠りについたこともあった、愛すべき同胞である。
 幾つもの戦場を歩んで、時には隊員の誰かが戦死した事はあるが、決して涙は見せなかった。
 皆解っているのだ。彼らは自ら進んで戦場に向かうような愚か者である。そのような者達にいちいち涙を流しては次に死ぬのは次の番だと。
 故に涙を飲んで邁進し、戦場を練り歩いてきた。
 しかし、ここは何だ。ここは戦場ですらない。
 あの硝煙の香りと、懐かしき砂埃はどこにもない。あるのは濃厚な緑の臭いと、静かな森の姿だけ。
 ここが戦場だと?
 とんでもない、ここはただの処刑場だ。


「なんなんだあお前らはぁッ!!」


 山本は短銃を標準も合わせずに発砲しながら、絶叫した。
 弾丸が着弾しても触手の動きは収まることを知らない。寧ろ痛みに身悶えて震える様は巨大生物の一部かのようだ。


 そして、ずんと重く響いた音が山本の体を貫いた。


 いきなりやってきた鈍痛に山本は顔を顰めながらも、どうにか痛みの正体を知る。
 どうやら槍のような根っこが自分の体を穿ったらしく、股間から背骨まで飛び出した樹木の感触がやたらと冷たい。
 そうして山本の体は勢いよく振り回され、上空にて半身となった。辛うじて首だけで繋がっているが、もう体の感覚はない。
 縦に真っ二つの状態になるとは夢にも思わなかった男の意識はそれでも微かに覚醒していた。それも末期の光景となるだろう。
 最期に彼が見たものは、まるで口を開くように山本を貪らんとする植物のうねりだった。
 そして木霊すのは悲鳴ではなく、何かの咀嚼音。そうして惨状が広がった森の各箇所には月光の淡い輝きに照らし出され、赤い牡丹を花開いた。

 □□□

 武装が本来意味する所は自らが弱小の存在である事を公表している事に他ならない。
 幾ら強力な銃火器を装備し、厚手の防護服を身に纏っていても、結局の所それはそうでもしなければ自分がいつ死んでもおかしくない状況にあると見ている者に公言しているようなものだ。
 その様は確かに一見屈強な兵士のようには見える。
 だが、裏を返せばそのぶんだけの弱さを内包した生命であり、そのような装備をしなければ生きていけないのである。それ以上の事は期待出来るはずもない。


 男に自信などない。過去には誇りと自信を胸に闊歩していた時代もあったが、それもとある事件を経て粉微塵に砕かれ、今となっては屈辱の歴史だけがある。
 月明かりだけが頼りで足元さえもおぼつかぬ森の中を老人の先導によって歩み、周りを武装した兵士によって守らせ、しきりに周囲を警戒させてはいるが、それは即ち不安と恐怖が綯い交ぜとなって心理的圧迫感を覚えさせているからに他ならない。
 今感じている緊張はまやかしだ、現実には幻だと内心唱えても負の感情は消え去るばかりか更なる鼓動を感じさせる。


 かつて受けた恐怖。その時受けた傷はもう完治してはいるが、あの恐怖を思い出すたび、男は自分が自分でなくなってしまうような感覚を覚えた。
 あの目が数年経った今となっても忘れられないのだ。夢にさえ見ることもある。
 反転した斎木を売り、七夜の手に巻き込まれたあの時、倒れ伏す自分を眺めて、あの男は嬉しそうに顔を歪めたのだ。


 ――――七夜、黄理。


 それが、あの男の名である。
 混血の天敵であり、男に恐怖を刷り込んだ死神の名だ。
 現役を引退しているとはいえ、その名は今でも混血たちにとっては禁忌。凡そ口にする事さえ憚れる忌まわしき存在なのだ。
 あの屈辱、あの陵辱を忘れはしまいと自身に呟いた日々だった。古傷が痛むたびに復讐の焔が燃え上がり、体を燃やすようだった。
 だが、それは恐れを忘れることさえも出来ぬ自信の弱さそのものであった。
 それを認めたくなくて、あの屈辱を拭い去りたいからこそ、今日ここに男はやってきた。天敵の根城、七夜の森へ。


 目前、先頭をまるで散歩のような足運びで進む老人に目を見やる。
 擦り切れた着物と異様に長い手足は妖怪のようだ。いや、もしかしたら本当に比喩でもなんでもなくこの老人は妖怪なのではないのかと疑いたくなる時がある。
 剥き身の双眸に晒されると、まるで深層心理に横たわった恐怖感や思考さえも覗かれた気がしてならないのである。
 でなければこのタイミングはなんだ。七夜襲撃の機会を伺っていた時期に突如として舞い込んだ刀崎梟からの協力要請。
 あまりにも上手くできすぎて気味が悪い。まるで最初からこの老人の掌で踊らされているようだ。


 ――――先ほど、先行していた偵察部隊が壊滅したと報告があった。


 妖怪は信用できるが、その言葉までは信頼できない。あらゆる甘言、戯言を用いて相手を惑わす老人の手法はいまいち信用に欠けた。
 故に先ずは妖怪の言う安全ルートから外れた場所から部隊を先行侵入させ、情報乃至あわよくば七夜の手並みを拝見しようとしたのだが、ものの二十分も満たずに無線の向こうから返ってきたのは理解できぬ言葉と悲鳴が混ざった救助要請。
 どうやら絶叫のままに助けを求めた隊員が、何者かの襲撃を受けたらしい。
 彼らとて歴戦とまでは言えないがある程度の場数を踏んだ兵士である。
 早々壊滅する事はないだろうとの思惑故の命令だったが、それも無駄に終わったらしい。
 更には報告に歯噛みし、焦燥を感じる男を見て妖怪は嘲ったのだ。


『ほれみろ』と。


 その金属を擦り合わせたような声を軋ませながら男は嘲笑混じりに言ったのである。
 その全てを見下し、男の企みなどまるで児戯と言わんばかりの表情はあからさまに男個人に向けられていた。
 神経を逆撫でるような物言いを含め、男は妖怪の全てが気に触って不快だった。最も、この妖怪を好む人物など刀崎衆しかいないだろうが。
 男にとって妖怪はただただ不愉快な存在である。一世紀近くも生きた化石でありながら、その発言力と意見は親戚一同の中でも一入で簡単には無視できない。
 それでいてその欲求の傲慢さや言動の身勝手さに腸が煮えくり返る事もしばしばである。
 無論、そんな輩でも遠野に連なる血族の一員。無下には出来るはずもない。それに男の知識、そして経験は現存している一族の中でも抜群である。
 故に男は老人を信用している。しかし妖怪としての側面としての信頼は微塵も無い。


 もとより男は被虐意識の強い精神構造をしていた。他人に信を置くなどまずありえないし、その感情の殆どは身内にしか向けられない。
 だから老人などに向ける感情などあってはならないはずなのに、この老人の言動は一々癪に障る。
 しかし、この妖怪がいなければ男達がすでに物言わぬ屍だった可能性も否定できない。ここは七夜の根城にして常識では対処できない魔窟なのだ。


「こっから先は大丈夫だ。獣道を辿ればまず死ぬこたあねえだろう」


 と、鬱屈した思考を繰り返す男の耳に妖怪の耳障りな声音が鳴り響いた。
 暗い森の中、月光を纏って案内を口ずさむ老人の在り様はあくまで楽しげだ。まるで出来の悪い三文劇を観閲しているように、男を含めて見下している。


「俺の案内はここまでだろうな。なあに、安心しろ。てめえらは油断なく殺し合えばいい」


 そして拉げた笑いが零れる。背筋に寒気が走るような不快感を覚え、男は鼻を鳴らした。


「いいだろう。案内、感謝する」


 心にもない言葉を口にするが、不機嫌さが丸解りの声に妖怪の愉悦さは更に熱を帯びた。


「ひひ……老骨への感謝痛みいる。それじゃ気張れ、気張って殺されろ。それと、だ」


 ずい、と老人は音も立てずに男の傍に近寄り、その耳元に囁く。
 そこにいたのは先ほどの世を嘲笑する老人ではなく、百年近くを生きた妖怪の醜悪な邪笑であった。


「契約を違えるなよ、ご当主様?」


 まるで錆びた金属がへし曲がるような音が鼓膜を震わせて、咄嗟に男は身を翻した。
 その様を終始眺めて笑みを浮かべた妖怪は足取りも軽やかに森の影の中に消えていく。確かな足運びはまるでこの森を全知しているような自負心が窺えた。
 拭いきれぬ不快感に男は殺気をその背中へと寄越すが、それさえも可笑しいと体を揺らしながら、遂に妖怪は視界から消えていった。
 いつの間にかあの妖怪が発していた空気に呑まれていた。
 残っていた私兵は我を思い出し、急いで状況を報告していく。
 微細を漏らさず目に付いたもの、気付いた事を瞬時に述べる姿は流石に男の周囲を任されているだけの事はあるだろう。
 そして、慌しくなったその中心で男は一人、呟いた。


「……ああ、いいだろう。契約は守ってやるさ。私が発見すれば、な」


 誤魔化しきれぬ緊張と愉快さに男の体が震える。冷や汗とも脂汗ともつかぬ滴が頬を垂れて地面に落ちた。
 顔面を濡らす雫を拭う事も無く、男はその身に巣食う恐怖を押し潰して命令を下す。


「状況開始。散開しろ」


 男の命令に従い私兵隊は森の中に散って行く。その手に装備された弱さを武器にして。
 もともと男も彼らにはさほど期待しては居ない。幾ら強力な銃火器を手にしてようとも、七夜の脅威は誰よりも知っている男である。そのようなものが通用しない事ぐらい承知の上だった。
 故に彼らはあくまで囮。あわよくば後詰として残っていればそれで良し。


「ふん……」


 鼻を鳴らし、男もまた歩み始める。
 その脳裏には妖怪と交わした契約。道順を教える代わりに出された唯一の要求である。
 確かに妖怪は信用ならないが、その信用を自ら貶めるつもりはない。
 例え対象が粉微塵な肉体となっていても、ちゃんと確保はしてやる度量ぐらいは彼ももっていた。


 男は、遠野槙久は浅く笑った。見ようによっては引き攣った笑みである。


 数は揃えてある。古臭い通説を信じるつもりはないが、やはり殺し合いは数こそ全て。
 どれだけ相手の数があろうとも、まずこちらに負けはないと槙久はこの時点で確信していた。相手は天敵であるはずなのに、だ。
 そのための布石はすでに打たれている。
 武装兵力と単純な個人戦力。比較するのも莫迦らしいほどの兵器を男はわざわざ引き連れてきたのである。
 ここは存分に活躍してもらわなくてはならない。そのために温存してきたのだ。


 ――――鬼札。


 あれを表すならば、そう形容する他ない。
 存在そのものが出鱈目の規格生命であり、人知を超越したあれがいたからこそ遠野槙久は七夜襲撃に踏み込んだと言っても過言ではない。
 それほどまでの存在。理解するのも莫迦らしい怪物。
 次第に槙久の笑みが深く、凄絶になっていく。満願成就の夜なのだ。せめて楽しまなくてはならない。それほどの余裕がこちらにはある。


 所詮、鬼に敵うものなど、ありはしないのだ。

 □□□

「殺し合いは久しいな」
「確かにその通りでございますな」


 さながらこの場に居合わせながらどこか浮世にいるような心地で七夜黄理はひとりごちて、隣に随伴する翁が厳かに首肯する。
 周囲は慌しく外敵の襲撃に備えている。
 正体不明の敵から襲撃の報があって僅かばかり、皆は後続の戦力として保存に回して黄理は一人で外敵を切除する所存である。
 その身をいつしか着なくなっていた黒の仕事服で包み、当主として、あるいは殺し屋として名を馳せた過去に想いを重ねながら、里の広場に黄理は屹立していた。 ただ直立しているだけだというのに、それだけでも様になるのはこの男が醸しだす雰囲気がひとつの傑作として完成しているからだろう。
 その横に控える翁もまた常とした好々爺としての顔は隠れ、剣呑とした空気を滲ませながら黄理の傍にあった。
 翁の形相は歴戦の修羅場を潜り抜けた猛者の顔。黄理の隣にいても何ら不自然ではない。


「しかし、本当にお一人でよろしいのですかな」
「俺一人で十分な奴らなら他の連中は不要だ。違うか?」
「……まあ、確かにその通りでございますな。しかしその身はご当主の身。是非にご自愛してほしいものです」
「自愛、だと」


 隣で里を纏める相談役としての言葉を紡ぐ翁に顔を傾け、黄理は言う。その声音は冷たく引き攣ったような笑いを溢した。


「知らんな。てめえがやることはただ一つ。鏖殺するだけだ」


 否、声音だけではない。その眼差し、眼光、黄理を構成する何もかもが冷気を放っているように凍えている。
 それは充満する殺意。温もりなく、また心も無い殺人機械としての黄理の姿である。故に今この時には身内の事も忘れる。
 黄理に許された動作はただひとつ、敵を追い詰め、対象を殺し、七夜の脅威を排除する事に他ならない。


「思えば、防衛戦てのは初めてだな」
「そういえばそうですな。御館様の代におかれましては始めての事です」


 思い立ってみれば七夜黄理の場合暗殺が殆どであり、それは里以外での場所、つまり外部へ赴いての殺しが全てであった。
 こうして攻められる側、しかも守らなければならない里に襲撃者が来るなど黄理の記憶にはない。
 しかし、翁の言葉の言うとおりであるならば前代未聞の騒動ではないとのこと。


「つうことは何か? 前の代の頃にはあったのか」
「さあて、どうでしたかな。私の記憶には数回ほど外部から襲撃の憂き目にあった事もありますな」


 そうなのか、と黄理は呟いた後に、まあ確かにそうだろう、と納得した。何せ七夜の職業柄を敵は多い。
 これまで殺してきた者に組みする者の報復、あるいは七夜というブランドを打ち倒す事で名誉を手に入れようとする阿呆、もしくは七夜を恐れた者達が襲撃を企むなどありえなくは無い話ではない。
 故に七夜の森は黄理が凡そ知る以前から要塞化が進んでいたのだろう。森を網羅する罠の数に、今となっては動植物が襲う修羅の場だ。
 相当の幸運か、正規ルートを知る者でもいない限りは七夜の里に五体満足でたどり着ける者などそうそういない。
 で、あるならば此度の襲撃者は一体何者かと思案した所で、黄理はある話を思い立った。
 遠野が襲撃を企てている、と内密に教えてきたのは一体誰だったか。


「刀崎が敵方に周ったか?」
「……まずありえない話ではないでしょうな。しかし、彼らが相手方に周ったとして何を得ますか?」
「そこが解らねえ。奴らが敵に周る可能性は否定できねえが、メリットが見当たらない」


 確かに遠野分家の刀崎ならば宗主たる遠野の呼びかけに応じざるを得ない場合もあるだろう。
 しかし、正規ルートを教えてまで積極的に関わろうとする理由が不明瞭だ。
 真逆、七夜との縁を切られたのを逆恨みしたとは到底思えないし、棟梁の性格があれだ。まともに遠野に協力するとは思えない。
 そして協力しても積極的な姿勢を向けるような性分の持ち主ではない。あの老人は自分の享楽を至上とし、それ以外はどうでも良いと排するような腐った根性を持った男である。
 例え遠野に招来されようともまともに興味を傾けるとすら思えないほどに歪んだ性格なのだ。
 仕事柄嫌でも関わるざるを得なかった黄理でさえ辟易とするような妖怪なのだから、遠野に組みする意図が不明である。
 それに噂に聞く限りでは遠野槙久はかなりの神経質の持ち主。どう考えても二人が結びつくようには思えない。


「まあ、関係ねえだろ。刀崎だろうが遠野だろうが関係はない。やる事はただひとつだけだ。例えあの糞爺が敵にいようともだ、単なる気紛れだろうがな」


 曰く、七夜には鬼神がいる。心せよ、七夜を相手取るのはそれ相応の覚悟を持て。


 七夜黄理が現役時代に口ずさまれた文言である。
 上位種である混血を相手取り、数々の暗殺を達成してきた黄理の偉業を讃えながらも畏れた彼らがそう発言するのも無理からぬ話である。
 何故なら七夜黄理は今生において七夜の最高傑作とまで称された逸材。敗れることなぞまずなかったし、また依頼を達成できなかった事などありはしない。
 今回もまた同じような結果が生み出されるだけだ。屍を積み上げ、血溜まりを疾走する蜘蛛として活動するのみ。
 その手に握るは愛着すら抱いた鉄撥が二本。月光を浴びて冷たく輝く様はとてもではないが暗器として使用される一品とは思えない。
 けれども彼はこの武装を手に幾つもの死体を生み出してきたのである。そう思えば冷たさを放つ鉄撥の照り返しは血に餓えた獣の瞳のようでさえあった。


 そんな黄理を横目に見やり、翁は昔に戻ってきたと思った。
 ここ数年は当主としての仕事よりも子を持ち父としての顔を常に張りつけていたが、今の黄理は対象全てを殺害する一つの機械だ。
 父親としての側面はどこにもなく、あるのは如何にして対象を排除するかの算段のみ。その思考に温度はなく、その行動に油断はない。
 あの恐怖さえ覚える七夜の鬼神が戻りつつある、と翁は柄にもなく自分の血が滾っていくのを感じた。
 翁もまた年齢にとらわれる事無く黄理に追随しようとしているのだから、血には逆らえないといった所だろうか。


「まあ、折角遠路遥々やってきたんだ。盛大に歓迎してやろう」
「あい解り申した。及ばずながら私もお供いたします」
「勝手にしろ、物好きめ」


 はっ、と短く黄理は笑みを切った。


「そういえば志貴様はよろしいので?」
「女に任せてある。……まあ、もしかしたら家に残っていたほうが生きる確立は高いかもな」
「まるで負けるような物言いですな」


 思わぬ言葉に同じような笑みを浮かべて翁は茶々を入れた。ここら辺は普段と変わらぬやりとりに黄理はつい可笑しくなってほくそ笑む。


「言ってろ。……さて、忙しくなる。迎撃に出るぞ、殲滅する」
「委細承知」


 深々と頭を垂れる翁の声に反応する事無く、黄理は疾風の如き速度で駆け出す。と、その後姿に声をかける者があった。


「兄様っ!!!!」


 息を切らし走り寄ったは黄理の妹である。彼女は着流しが乱れている事すらも忘れ黄理を引き止めたのである。
 これを妙に思ったのは翁である。彼女は前線に出ることも、また殺す事も出来ぬ身の上。
 屋敷の中で待機しているようにと言われていたはずなのだが、それを省みずに黄理を止めたという事だろうか。
 それにしても彼女の様子は尋常ではない。
 息を整える事ができないのは全力で走ってきたからだろう。髪も、衣服も乱れた様はまるですぐでも伝えなければならぬかのような様子。
 同じことを思ったのだろう。黄理は踏み出しかけた足を止め、ゆるりと振り向いた。


「屋敷の中にいろ、といったはずだが? そんなに死にたいのか」


 実妹を見る黄理の目の色はひたすらに冷たい。
 人情など理解できぬ温度を漂わせる雰囲気と相まって、くだらない事を彼女が申せば妹であろうともその手にかけてしまいそうな獣性があった。
 しかし、黄理の視線に晒されても妹は怯む事無く、寧ろ切迫感を更に増してその言葉を口にした。


「兄様っ、朔の姿がどこにも見当たりませんッ!!」


 しん、と静まり返る里の中、彼女の声は悲鳴となって割れ響いた。

 □□□

 天上に吊り下げられた月の形は冷たい真ん丸。夜に一際輝く月光は、その者の歩みを止めることは無かった。
 あまりの美しさに言葉を失ってしまいそうなくらいに明るい月だというのに、である。
 本来、夜は魔の時刻。人間以外が堂々と跋扈する魑魅魍魎の世界。光の中に生きて文明を築き上げた生者では踏み入れる事の出来ない亡者の領域。
 そこにいたが最期の時。この世と今生の別れ。あの世への誘いは月光の役目である。


 ――――そうであるならば、自身もまた化生の類に違いは無い。


 言葉ではなく、思考としての感慨が浮かんで消える。
 森の中をただ一人闊歩する男もまた、誘蛾灯に引き寄せられる虫の如くに月の光も隔たる鬱蒼の森を進んでいく。
 その歩みを止めるものはいない。七夜の結界によって突然変異した動植物たちは統制すら取れぬ野生を持ちえた思考の群体である。
 本来であるならば森の中を極自然に歩む男は格好の餌食となるはずだった。しかし、依然として男の周囲には何も出現しない。
 生き物も、植物も同様にまるで男を恐れるように現われ出でなかった。
 故に黙々と歩む男の思考は内面に向けられる。未だ生物が見当たらぬのならば、それも致し方ないだろう。接敵の予感すらなければそれは尚更だ。


 ――――己が生に実感を得られない。


 呼吸をし、思考をし、肉体が活動をしているのは確かではあるが、なんと言うべきか、情熱を傾けるべきものが男には何もなかった。
 どのような芸術品にも心奪われる事は無かったし、また死の直面に出くわしてもこの一個の命の塊は動揺ひとつさえしなかった。あまつさえ反応すらしなかった。
 それが何故だか男には検討もつかない。うまれいずったその時には、男は男として存在していた。何者にも近寄らず、何者も近寄らせずに。
 強大すぎる生命力、濃すぎる血。
 まるで畏れるように人は周囲にいなかった。恐らく親と呼べる者もまた同じだった。
 彼の記憶では自分の目前に人の形をした生命が現われたのはただの一度きりである。それほどまでに男は孤独だった。
 何も理由が無かったわけではない。
 男は知らぬことだったが、男は一族の血を集結したような存在であり、そのあまりな結末に絶望した親族は誰も彼に近寄らなかったのである。
 そして遂には身内の手にかかる運命となった。彼の意見など――彼に意見、というか言葉などありはしないが――誰も求めはしなかった。

 だが、彼は死ななかった。米神に弾丸を撃ちつけられても、頭蓋を砕くどころか出血さえしなかったのである。驚嘆すべきは男の強靭な硬さだろう。
 音速を超えた速度で射出された鉄の塊に、彼の体は勝ったのである。まずもって人間には不可能な所業だ。
 そして男は死なず、生き延びて一族を滅ぼした。
 ただ感覚のままに、微弱な感性のままに振る舞い続け、気付けば焦土にも似た場所で彼は屹立していた。
 そこが元は人の住んでいた屋敷があったことなど誰もが思わぬほどの更地を生み出し、親族乃至両親を皆殺しにしたのである。
 そこに罪悪は無い。そも罪という概念が彼には解りかねる事だった。
 ただ存在する事が罪であるならば、果たして全生命に罪は存在しないのかという疑念故にではなく、単純に罪という概念そのものが彼の理解の果てにあった。
 けれど、疑問だけが残された。
 曖昧模糊の人生である。その人生の中で自身が生まれた意味とは何だったのか。その疑念だけが生まれ、残された。
 故に樹海の奥に生き、俗世を絶って修験者の如き生を送れども未だに答えまでは届かない。そもそも答えがあるのかさえ不明だ。
 何せ、彼はこれまで何かを手に入れるということをしてこなかったのだ。心の底から何かを欲した事など一度たりとて無い。
 ならば人の世から外れようとも解脱の境地には早々至れるはずもないのも至極当然だった。


 しかし、かつて一族を滅ぼした後、ある男と会い見え、この右目を潰された時、自身は何かを掴みかけた。
 もう随分と昔で記憶も朧である。
 しかしながら、あの時眼球を潰された感触、あるいはその痛みは今でも辛うじて覚えている。
 凡そ脈絡というものに縁のない生を送っていた彼にとって始めて起こった隆起がそれである。その痛みに、何かを見たような気がした。
 あれは一体なんだったのか。次ごう数年は経つが今でも解らない。
 それが解らず、だからこそここまで来た。
 話が来たのは偶々ではない。恐らく遠野の当主はこれだけが目的のために己を囲い匿ってきたのだろう。
 しかし、それに応えようなどという気骨は男には該当しない。男が出来る事はたった一つなのだから。
 故に当主の目論みは見当違いも甚だしいし、男の目論見と重なる事は決してない。


 果ても見えぬ深緑を彷徨う事僅か。悠々と歩いていればやがて辿りつくだろう、などという安直な思考の元に歩んでいた男は、ふと足を止めざるを得なかった。
 不自然な風が髪をそよがせる。強風とは言わないが猛烈な風の勢いが突如として男の体を包み、体が硬直した。
 それは殺気。生命が他生命を殺すための気概。それが質量を持って男たったひとりに向かって放たれていた。
 純然な殺気に森が泣いた。
 空気は軋み、周囲で虎視眈々と男を狙っていた突然の変異に生命は逃げ惑った。佇むのみの男にもそれが解る。
 とても人間の発する事の出来ない殺気に風景が歪んで見える。あるいは物の怪の類でも現われたかと、男が腰を落としたと時だった。――――眼前に子供が現われたのは。


 強大な殺気と共に現われたのは意外な事に小さな体の人間だった。
 藍色の着流しをはためかせ、その手に握るは小太刀。しかし、そのようなものは眼中にない。男が唯一興味を引かれたのは、その眼だった。
 茫洋な空洞を成した、まるで硝子のような瞳が男を映し出している。
 それは例えるならば闇。それは例えるならば鏡面。遍く全てを飲み込み、光さえも吸収する人形細工の瞳が子供の眼窩に嵌めこまれている。
 その体が呼吸をしていなければ式神の類と錯覚しただろうほどその子供には生命力がなく、あるのはただ膨大極まりない殺気と、幽鬼の如き気配のみ。
 まるで道先案内人のように唐突に現われた童は身動ぎ一つ、あるいは彼の存在に動揺すらすることなく、そこにいるのが当然であるかのように屹立していた。


「嗚――呼」


 言葉の変わりに零れる声音。ようやく待ち侘びた自分の役割を果たすときが来たのである。それに呼応するように子供の口元が微かに動くのが見えた。


「――――……ッ」


 ――――瞬間、森が絶叫を上げた。


 まるで爆発したかのように放出された殺気はそのまま形となって男の肉体を撫でた。
 あれほど小さな体格でありながらこれほどの殺気を内包しているとは、流石は七夜と言うべきかと、男以外の者ならば感嘆の言葉を漏らすであろう。
 それほどまでに子供の身から滲み出る強烈な殺意は鋭利かつ壮烈なものであった。
 しかし、それを受ける男もまた常人とは異なる。否、最早人とさえ異なるかもしれない。
 お前を殺す、今から殺してやると言外に叫ばれているはずなのに、そのようなものは瑣末に過ぎず、何処吹く風と言わんばかりに佇んでいる。
 常人であったならば、普通のただの人間であったならば肉体が生命活動を拒否して気絶するほどの殺気を受けても男は常と変わらずに在った。
 それだけで男がどれほど外れているかが解るだろう。
 だが男は、その男だけは対照に位置する子供の殺気にあてられて、脳裏に何かが煌き過ぎ去っていっただけだった。
 それは、かつて感じた事があるような気もする。懐かしささえ覚えているような気さえする。しかし、何も解らない。
 確信には程遠く、核心には少し触れた程度。記憶の中に残るあれに近しいような気がする。それとも遠いような気もする。

 だから――――。


「嗚――――呼――」


 言葉の変わりに呻き声とも取れぬ声音を溢し、男は、軋間紅摩は、一歩大地を踏み抜いた。真実へと触れるように。

 □□□

 何者かが七夜の森に侵入しているのに最も始めに気付いたのは離れにて休息していた朔であった。


 それは奇しくも七夜の大人たちが襲撃に気付く五分前程度の事。しかし、その五分の合間に朔は行動を開始した。
 深夜、時刻で言えば秒針は零時を指し示しているあたりだろう。
 疲労の蓄積された肉体を休めるためには睡眠が今選択できる行為で最も効率が良いが、睡眠欲もなく深い眠りにつくことの出来なかったが朔は庭先で地上を睥睨する満月を瞳に映し出していた。
 硝子のような瞳に今夜の満月の光は染み入る。まるで朔という個人に光が侵入して浄化させているような感覚さえ覚えていた頃の事だった。
 天上に居座る月を見ても感慨は浮かばない。
 俗に美しいだとか、神々しいだとか形容できそうなほどに見事な満月である事は認めるが、月は月だ。
 最早そのような自然に対し感情を抱くような無駄な機能を朔は停滞させていた。
 亡、と瞳は月を映し出している。しかし何も思わない。何も感じない。
 今この時、夜の月光に照らされても、朔にさしたる変化は見受けられなかった。
 常とは変わった行動もある一定の変化を肉体に促すやもしれぬと期待した故の行動だったが、それも徒労に終わろうとしていた。
 相変わらず五感は鋭いがそれ以外の機能は停滞の一途を辿っている。
 だからだろうか、最近あまり眠っていない。
 脳が活発に活動しすぎているのか、知覚できるもの全てに対してとても敏感であり、僅かな変化すら流す事が出来ない。
 以前の平時であるならばそれでも睡眠は可能であっただろうが、今となっては寝ようとさえ思えない。体が眠るという意志に上手く反応してくれないのだ。
 充分な休養を取らない肉体は疲労を蓄積させて精神さえも磨耗させる。
 だからだろう、月のもとに佇み亡羊に空を眺める朔の姿はこの世のものとは思えぬほどに儚い。
 いっそ月光に現われ出でた亡霊であると言われたほうが信じられただろう。


 そしてその時だった。朔はこの里で最も早く外敵の存在に気付けた。
 何者か、七夜以外の何かが森に近づいている感覚。七夜の森に展開する結界とほぼ同時の速さで朔はそれを感じ取れた。
 あるいは自我と言うものをとことん磨耗させ、自己を周りの自然と同等の位置にまで透過させた朔であったから、微かな変化に気付いたのかもしれない。
 それを証明するように、視界に変異が生じた。微かながらに靄のようなものが漂って見える。
 実像無きそれは一筋の糸となって様々な色を混ぜ合わせながら、森の向こう側から漂ってきていた。
 その中にただひとつ、紅い赤い朱い靄が波濤のように近づいてきている。
 気配は未だ遠い。この里にその靄を放つ存在が訪れるには未だ遥か先の場所。そこに何かが、いる。
 とても普通の言葉では表現できないような紅の靄はまるで明け方の日差しか、あるいは夏の日の蜃気楼。
 普通の人間ではまず気付けない、七夜の者ですら気付く事の出来ない極僅かな気配である。
 だが、それはあの時、正面から対峙した混血に感じた桁違いの化物の気配である事に朔は察知した。
 それが音となり、匂いとなり、そして視認できる形となって朔の五感に訴えかける。

 それはつまり、真性の人外がいるという事実に他ならない。


「――――」


 気付けば、朔は走り出していた。
 侵入者がやってくるという報告を誰かに伝えるのは念頭になかった。猛進する朔の思考回路は今や蜃気楼の他は瑣末事に成り果てている。
 誰かに訴えるなどと言う行動はまず思考に過ぎりすらしなかった。

 この気配、この匂い、この靄の濃さ。

 蜃気楼に近づけば近づくほどそれは濃厚となり、朔の体に直接化物の存在を知らしめる。
 里から速やかに離れ、森の中を縦横無尽に駆け回り、それでいて一直線に紅い靄の発信源の元へ走っていく。
 その行動に、あるいはこの靄に朔の内側が歓喜の産声をあげた。喜び勇んで魂からの咆哮を体に木霊させる。


 ――――殺す。殺す。殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
 殺す殺す殺す殺すコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス。


 思考は殺意に埋め尽くされていく。
 いつかの決定事項。殺せ、という矮小な命令ではなく、殺害の意思を強力に塗り固めた思考回路。
 あの時よりも、あの老人と会い見えたあの刹那よりもそれは強く、激しく、まるで直接脳を揺さぶるかのよう。
 だけど意識は次第に済んでいき、余分な物など何も無くなった。
 体感温度が消えた。あれほど寒々しかった冷気が肉体から隔離されたかのように消え去った。
 口内の感覚が消えた。最早自分が口を閉じているのかさえ定かではない。
 肉体にあった疲労がどうでもよくなった。蓄積された肉体疲労を投げやって、朔は進む。
 記憶が薄くなっていく。すでに自分自身という存在は思考の内側から消え去ろうとしていた。
 ――――しかし、朔という存在概念は朔自身の記憶が磨耗使用とも決して消えたりはしない。
 脳内に反芻される殺人手順。どのように動けば意表をつくことが出来るかの可動確認。そして、気付けば開けた広場に出て、そいつを眼にした。


 頑健な肉体の男である。
 体を締め付けるような胴衣を身に纏い、それでもなお筋骨隆々とした筋肉は紛れようも無く浮き彫りにされていた。
 そして左目だけ覗く修羅のような形相と相まって、まるで破戒僧のような印象があった。
 だが、それ以上に男の発する気配の何たる。男が無自覚に発する存在感に朔は自身の死を幻視した。
 気配が物量でもって朔を圧死させようとする。気を抜けば忽ち体がぺしゃんこになるような重圧が男から放たれていた。
 そして最も朔を魅了させたのは男が無意識に放出させているであろう蜃気楼であった。
 紅い靄はまるで霧雨のように周囲を覆いつくし、一種の結界のよう。それこそ朔が感じ取った気配の正体であった。


 もし、朔の中に理性や本能と言うような珠玉全うな感覚があれば、目の前の怪物に怖じて震え、そして自身を奮わせただろう。
 これと対峙した自分こそがこいつを倒すのだと気合を入れたのかもしれない。
 しかし朔にはそれがない。興奮もなければ覇気もない。あるのは純粋で混じり気のない殺意。ただそれのみに尽きる。
 この気配。この独特な重圧は間違いなく混血の気配であった。
 あの日対峙した化物の気配、それもあの老人よりもなお濃厚な気配である。まずもってあの老人以上の戦闘力乃至能力を秘めているに違いない。
 しかし、朔がやることなど、決して変わりはしない。
 例え目の前に佇む怪物が朔の手には負えぬ規格外の生命だとしても朔が行える手段はたったひとつ。
 いつだって朔はそれだけのために存在し続け、養育されてきたのだ。
 ならば今こそが、その時ではないだろうか。

 そうだ、朔はいつだってそうだった。


「殺すだけ」


 そっと、久しぶりに咽喉を介して音を漏らした。しかし、それは声にもならぬ音でしかなかった。
 いつぞや以来か、このように言葉を発するなど。
 咽喉は発声器官としての役目を忘れ、ただ呼吸を行うための機関に成り下がっていたのである。故にその声は掠れ、相手には届かない。
 だからこの言葉は自分自身に向けられた言葉。暗示そのもの。
 肉体の昂ぶりが抑えきれない。体は今すぐにでも眼の前の生命を殺そうと声をあげている。血管を流れる血が沸騰して、今にも破裂してしまいそうだ。
 最早、姿勢に意味は無い。立ち居振る舞いは全て真っ直ぐに男の命へと向かうだけだ。


「嗚――――呼――」


 目前の男がなにやら呻き声を漏らしている。その様はまるで知能を持たぬ動物のよう。
 だが朔の耳に届きはしない。


 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
 コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスころすころす――――!!


 脳内に反響する殺意はもう呪詛のような衝動と化した。とても男の言葉などに耳を傾ける余裕があるはずもない。
 体は疾うに殺害を行使するだけの機関に成り果てた。
 視界は紅赤朱の蜃気楼。靄。鬱陶しいにもほどがあるが、その霧雨の中で男の存在だけがはっきりと認識できた。
 そして、それ以外に考慮する事さえも忘れ、男の獰猛な踏み込みを契機に朔はその場から掻き消えた。
 七夜の技術は必殺。それ故に小手調べを必要としない。殺害可能な時に殺すのである。
 人体破壊術はあくまでそのための布石に過ぎない。肝心なのは対象の生命を一撃で絶つこと。
 更にここは七夜の森。朔が慣れ親しんだ七夜の領域である。
 どうやらいつもなら邪魔でしかない動植物も今回は静観を決めている様子。ならば余計な邪魔が入る事もないだろう。
 動かないのであるならば、それらは全て障害物となる。本来であるならば視界を狭め行動を制限させるしかないそれらを七夜は覆す。
 腕を脚を巧みに扱い使用し三次元移動を可能とする七夜の空間利用術は、本来障害物が多い場所での行使が望まれる。
 ならば、この森はその絶好の場所に他ならない。
 地を、樹木を、枝を足場にして滑空する様は正に獲物を追い詰める蜘蛛。対象は幾ら動こうとも中心に封じられ、後は食い殺されるのみ。
 森の中を縦横無尽に翔ける。地上に降り立ったと思えば上空に身を翻し、木にすぐさま着地する事で正確な目視を許さない速度を生み出す。
 目まぐるしい動きに男はまず間違いなく追いついてはこれない。


 そして狙うは背面。目標は男の分厚い背中。やや左側に収められて脈動している心臓。そこを一息に貫く――――!


 目的はつけた。算段も完了している。ならば後は穿つのみ。
 弾丸めいた疾さが空気を突破する。
 朔はより速くなる。あの老人との対峙時よりも、黄理との鍛錬時よりも更に速く風を両断して、真っ直ぐに男の心臓へ向かう。
 加速はすでに最速。これ以上ないほどの速さで踏み込み、距離を一息で詰める。
 幸い男は未だ反応できていない。もしこのタイミングで反応できたとしても、その時はすでに心臓を貫かれている正に絶好の機会。
 一秒にも満たぬ刹那に握られた小太刀は命を穿つ。

 それがきっと、朔の始めての殺人となる。

 感慨は浮かばない。思想は生まれない。
 今ここにいるのは殺意以外の感情を持たない殺人人形なのだ。何ゆえに殺す目的以外の事を想わなければならないのか。故に、今この時こそ朔の満願成就。

 朔の生まれ出でた意味を貫くのみ。――――と、肉に小太刀が食い込んだところで、ガキンと甲高い金属の悲鳴が聞こえた。


「――――ッ?」


 一瞬、朔には何が起こったのか理解できなかった。
 だってそうだろう。小太刀の切っ先は朔の最高速度、最高のタイミングで込められた膂力、そして全体重を一致させて男の背中に突き立てられた。
 突き立てられたはずなのだ。
 しかし、目の前にあるのは何だ。即ち刃は肉の中に入り込まず、それどころか皮膚を切り裂いてさえいない。
 肉を突き破り、骨を砕いて心臓を貫く威力を秘めた朔の一撃が、まさか傷一つさえ負わせられないなどと想像だにしなかった。どれほど鍛えられた筋肉なのか。
 否、例え想像を絶する鍛錬によって鍛えられた筋肉であろうとも刃には劣る。小太刀が通らない理由にはならない。
 ならば、背中に何かを仕込んでいるのか。だが、そのようには窺えない。男の胴衣は薄手であり、とてもではないが特殊な線維を使用したとは思えぬ。
 ならば体の中に直接仕込んだのか。それでも皮膚は破れてもおかしくはないはず。
 それに、小太刀を突き立てた朔の手には確かに人間の肉の感触があったのだ。
 だが、それは一瞬に過ぎなかっただろう。
 朔の手には、まるで刹那のうちに男の肉体が鉄塊と化したかのような――――。


「嗚――呼――ッ」


 どのような原理かは不明であるが思考の海に潜っている暇はない。
 男が振り向き様に拳を振り被っていた。あれほどの筋肉である。その破壊力は想像も出来ない。故にここは回避運動を取るのが最良だろう。

 だけど、その刹那の事である。

 威圧感を放ち、うなりをあげる拳が一瞬だけ巨大化したかのような錯覚を覚えた。
 それを寸での所で身を屈ませて回避する。頭上を通過した拳に背筋が嫌な感覚を舐めた。まるで小さくされた嵐がこの体の傍を通り過ぎたかのような悪寒。
 これを最小限の動きでいなし、防ごうとした時、何かが起きるであろう予感が脳裏に過ぎった。


 最小限の動きながらも視界から消え去った朔に対し、男の拳は止まらない。
 豪、と音をたてて突き放たれた握り拳は推進力を持ち、男の踏み込みと相まって決して細くはない樹木に叩きつけられる。否、突き刺さる。
 そして拳に込められた破壊力に耐え切れなかった木が、爆ぜた。木片を散らばせ、そのまま反対側へと突き抜けた拳が通り過ぎたその箇所は粉砕され、そこを起点にゆっくりと、みしみしと悲鳴をあげながら圧し折れ倒れていった。


 呆然とするのは朔の番である。幾ら鍛えられた拳とは言え太い幹を粉砕するどころか、あまつさえ貫くなど到底出来ぬ芸当である。
 あの黄理でさえもそれは不可能だ。それをこの男はまるで綿菓子に腕を突っ込むような軽やかさで成した。
 一体どんな腕力をしているのか。それもこの男の、混血の能力だと言うのか。
 明らかにこの混血はあの老人と違う。直感的に朔は悟る。
 この剛力を成す、破壊の権化のような男はあの老人とは根本的に、もっと基底の部分で異なる真性の怪物なのだと。


 朔の理解は正しい。
 刀崎梟は刀崎の棟梁として一族を纏める立場にある混血であるが、混血としての強さはこの混血とは比較にならぬほど微弱である。
 寧ろ比較対象として刀崎梟を上げるほうが憐れだ。何せ目前に存在する混血はその血の濃さ故に一族から見放され、遂には一族諸共滅ぼした男なのである。
 確かに強力な混血は様々な形で存在する。それでもこの男ほど規格外ではない。
 濃縮された血の極みの果てに男は生まれた。ならば、その他の混血と比べる事さえおこがましい理解ではないだろうか。
 更に朔はここに来てひとつの勘違いを思い知らされた。
 七夜が敵対する混血はある一定の程度はあれ、さほど強力な存在ではないのではないのか、と。
 それも致し方ない事ではある。何せ、朔がこれまで対峙した魔は混血としては微弱の地位に部類される刀崎梟のみであって、その他の混血を知らなかった。
 知識としては多種多様な混血が存在すると朔は知っていたが、理解にまでは至っていなかったのである。
 別に朔が慢心をしていたわけではない。朔は確かに勉学に関しては勤勉な態度を見せはしなかったが、知識を凌駕するほどの経験を常にしてきた。
 黄理との鍛錬には必ずや朔の思惑を通り越す何かが生じる。その経験を糧とし、吟味し舐りつくして朔はその経験を己が力量として加えてきた。
 故に敵対者である混血に対し、朔は決して驕るような性格をしてはいないのだ。


 では何故、ここに来て朔の思考が一時的にも停止したのか。それは簡単だ。
 朔は混血という存在はすべからずあのような存在であるという認識、あるいは思い込むが自然と行われていたのである。
 あの時対峙した混血は抹殺対象であり、決してこちらに牙をむくような敵ではなかった。敵対するような素振りさえ見せなかったのである。
 だからこそ、思い込みが固定されていた。


 そのような思い込みなど、この男、軋間紅摩相手には、あまりに無為だというのに。


 そして、男は驚嘆の念を禁じえなかった朔に対し、ゆっくりと腕を引き抜きながら振り向く。
 ミキリ、と歪な音をたてて樹木が倒れ伏す。
 垂れ下がった髪の毛の隙間から露わとなるその形相は。


 まるで、鬼のようだった。


――――ここはどこぞ。もし悪鬼と会わば。
ここは地獄ぞ。奈落の底よ――――。





 七夜朔 対 軋間紅摩
 状況開始




 あとがき、らしきもの。
 始めて後書き、のようなものを書かせていただきます。始めましての方は始めまして、そうでない方は日頃からご愛読感謝いたします。にじふぁんから移転して参りました、六でございます。皆様以後お見知りおきを。さて、今回のお話をお読みになった皆様も当然のように疑問を抱いている方もいらっしゃいますでしょうが、今回の説明、と言いますか、言い訳をさせていただきます。何故朔が黄理よりも先に軋間紅摩と戦闘になったのか、についてです。皆様もご存知かと思われますが、七夜黄理対軋間紅摩は月姫における最大の見せ場と言っても過言ではないほど熱い場面です。では、何故その場面ではなく黄理の代わりに朔が軋間紅摩と戦っているのかですが。ぶっちゃけていいますとそれ以外で朔が生き残れる道が他に想像できなかったからです。そのために自分から最大死亡フラグに立ち向かっちゃう朔ちゃん、まじ自殺志願。と、ここまで書いていて理解した方もいらっしゃるでしょうが、朔は基本的に危険を顧みずに敵へと突っ込む単純莫迦です。もし本編でアルクェイドと出会った場合、弱体化する前に襲い掛かっちゃうほど単純な思考回路をしています。なので今回軋間紅摩が来た→よし、殺ろうか、などというトンデモナ結果となってしまいました。理性ある生命は普通自ら危険に飛び込む真似しないのに、どうしてこんな事になったのか六でも解りませんwww

 



[34379] 第十一話 紅き鬼
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2013/01/10 12:13
「ひひ、ひ……ようやっと動き出したか、ねえ」

 暗い森の中、影さえ溶けてしまいそうなほどに黒い獣道を悠然と歩みながら、刀崎梟は森にはこびる闘争の予感に頬を吊り上げた。しわがれた皮膚が壮絶に歪む。

 森の奥深く、遠野槙久の傍から離れた梟は森を大きく迂回するような形で歩を進めている。無論罠を多く詰め込んだ爆薬庫のような森だ。ここに至るまでに幾つもの罠を発見したものだが、先代の頃より七夜との付き合いのある梟は七夜すら知りえないルートを伝っているのである。

 何故この道を遠野槙久に教えなかったのかと言えば、彼から離れる必要があったからに他ならない。その往年の観察眼によって人の良し悪しを見抜くのに長けている梟には槙久があまり契約を重要視していない事などお見通しであった。故に自らの足で朔を回収乃至捕縛しようという心積もりである。

 混血の宗主、言い換えれば自らの主を信用しないのは褒められた事ではないが、復讐の念に駆られているあの神経質な男が信じるに足るかと言えば、梟はにやついて首を振るしかない。それほどまでに槙久は矮小で誇り高い男であった。梟からしてみれば噴飯ものである。

「いいね、いいねえ。殺し合いの空気がここまで匂ってきやがる」

 戦前から生きてきた梟であるから戦の肌を指すような雰囲気は知っているが、このように国同士の戦いではなく異なった血族同士の潰しあいには違った気配が漂うものである。それは興奮ではなく、また退廃でもない純然なる殺意だ。
 大まかな総体の国家とは異なり個人の感情が流入しやすい人間同士の争いは戦争と比べそれが顕著である。だからこそ面白い、と梟は破顔するのであった。

 特に今夜の顔比べは互いに相反するもの同士。方や魔の血をその肉体に混ぜた混血であり、方や純粋に人間同士の交配によって殺人衝動を向上させた一族である。 どう考えても交渉の余地などありはしないし、譲り合う事もないだろう。譲るとは梟の価値観からすれば要らないものを捨てるのと同等の行為である。
 つまりここで譲り、妥協するという事は自身に流れる血の否定に他ならない。それはこの状況では破滅への呼び水だ。少しでも亀裂が入れば決壊の兆しを見せるダムのように、あっという間に内側から崩壊するだろう。

 それを予想するだけで梟の顔はだらしなく歪むのだ。邪悪に、醜悪に。顔面の皺という皺を寄せて邪笑を浮かべる様はまるで本物の妖怪である。否、今この時間、一歩一歩確実に歩みを進める梟は、階段を昇るように本物の妖怪へと変貌しつつあった。

「死ね。全員死ね。あいつ以外は全員滅べ。そうだ、滅べばいいさ」

 破滅への足音が近づく度に、梟は肩を揺らして呵呵大笑する。そして楽しくて、待ち遠しくて仕方ないと叫び声を今にも叫びたくなるのだ。それはさながらプレゼントを待ち焦がれる子供のように、方向性は逆位置であろうとも純粋な笑い声であった。
 冬の刺すような冷たさに相まって空気が乾いているのがよくわかった。そこに争いの熱気がぶつかって、殺し合いの空気へと変わる。老人である梟にとっては懐かしくも嗅ぎ慣れた臭気である。
 一世紀近く生きた人生の中で闘争の最中に巻き込まれた事もある。大きな戦争もあり、小さないざこざもあった。刀崎の名を冠する梟は刀剣を造れるだけで良いとそれらをゆるりと凌いできたが、如何せん梟は刀崎の棟梁である。その肩書きに召喚の命令を受け、斬った張ったも数え切れぬほどにある。時にはこの命散るのではないのかと危惧した場面もあるが、今も尚彼はどうにか生きている。
 故に遠野に関われば碌な事がないと学習した梟はなるべく公の場に出ないようにしてきた。棟梁の肩書きが己の自由を縛る言葉だと理解してからは尚一層そうしてきた。自分は刀を造るだけでいいのに、と愚痴を口ずさみながら。

 しかし、今日この日だけは棟梁の肩書きに感謝した。己が自由を縛り要らぬ欲求を強いるそれが巡り巡って、輪廻のように梟の希求し続けた存在を見つけ出したのだ。
 あの時の歓喜は今でも忘れられない。あの瞬間を思い出しただけで悦楽の感情に体が疼き、熱に浮かされて数十年ぶりに女を抱いたほどだ。しかし、たかが女の肉だけでは体の昂ぶりは収まらなかった。故に梟は女を抱く事を止めて己が内側に燃え盛る熱気をひたすらに閉じ込めるようにした。きっと誰にも理解は共有されぬ事は解っているし、誰にもこの熱を渡したくはなかったのだ。
 そしてこの夜。満月の明かりに空が青ざめた森。遠野の襲撃に乗じて梟は再び七夜の地を踏んだ。

「嗚呼、待ち遠しいなあ」

 その双眸は愉悦交じりながらも、どこか恍惚としている。それほどまでに今夜の再会を梟は切望していた。

 老体である梟を突き動かす執着心は間違いなくただ一人のためだけに注がれている。そのためならば邪魔なもの全てを利用し、淘汰する所存で梟はいる。元よりそのような性格であったため羞恥心など浮かばない。あるのは早鐘を鳴らす心臓の鼓動のみ。
 あの日から、あの出会いから、あの子供が忘れられない。黄理の叫び声を盗み聞いて覚えた朔という名。それが運命を刻んだ。
 朔の事を考えるだけで口から笑みが自然と零れてくる。未だ成長段階の未熟者には過ぎない。子供なのだからそれは致し方ないだろう。だが、あの時魅せた桁違いの存在感は、そう遠くない未来に化ける可能性を充分に秘めていて、やがてそれは梟ですらも知らない領域へと上り詰めるだろう。いや、確実になる、と梟は確信している。

 あの殺気にあてられた時から、梟は朔に参っていたのである。あの殺意に満ちた瞳と、七夜というだけでは説明のつかない移動の軌跡、容赦と言う言葉さえ知らないような振る舞い。それらがいつも梟の脳裏には鮮明な映像となって蘇る。その度に梟は熱気を帯びるのだ。あいつだ、あいつこそ自分の上位者に違いない、と。

 ――――もし言葉を許されるのならば、梟は朔に恋をしたのだ。

 あまりに歪んで逸脱しているが、身を焦がすほどの情熱と朔に出会うために万難を排する所存である心根は紛れもなく恋慕、あるいは敬慕の情念である。
 一介の男が真逆子供にそのような感情を抱くなど、これまで梟は思いもしなかったが、ここまでの感情は正しく恋と当てはめる他ない。故に感情のままに梟は行動する。

「まあ、懸念と言えばあれぐれえか」

 準備をしているとはそれとなく聞いていたが、真逆アレを引っ張り出してくるとはなあ、と梟は誰ともなく呟く。

 遠野分家軋間家最後の当主、軋間紅摩。

 存在そのものが反則極まりない混血の中でも、核違いの怪物である。

 人伝の話では己が一族を滅ぼした後には世俗を疎んで樹海に篭り、頑なに外へ出ようとはしなかったらしいが、そいつが今夜は七夜の森に赴いている。
 梟も軋間紅摩は初見の相手であったが、垣間見た紅赤朱は正しく人を外れた怪物であった。混血としての血は微弱である梟でさえ理解できる存在感は度肝を抜かれた気分だった。
 あれは危ない。存在自体が神秘めいた混血であり、未だに正気が残っているのが驚きだ。一体どうやって自我を保っているのか。ある一定の混血はその宿命として先祖返りを背負っている。特に軋間の一族の場合、当主は必ずや先祖返り、即ち紅赤朱となる運命が定められている。血の純度では遠野には及ばないが、血の濃度では他の追随を許さぬ一族の必定が正気を失わなければならないのは皮肉が効いていると思うが、それでもあそこまで濃い血は始めて見た。流石は肉まで魔と混ざり合った一族の末裔、とでも言うべきだろうか。
 もし、あれが朔と当るならば、想像はしたくはないが十中八九朔は敗れる。確かに朔の素養は素晴らしいものがある。恐らく今後の鍛えようによっては人間の限界を突破するやもしれない。

 だが、軋間紅摩。あいつだけはいけない。

 元から存在そのものが違うのだ。幾ら混血殺しを生業としてきた七夜であろうとも純粋な魔に迫っている軋間紅摩に抗う事など不可能だ。何せ七夜は混血限定での暗殺を請け負ってきた殺し屋であり、魔に敵う可能性は限りなく低い。
 それほどまでに両者の間には莫迦らしいほどの隔絶がある。人間と魔の混ざり者とは言え、完全に魔へと反転しかけている存在である。その差は歴然だ。梟でさえ対峙などしたくはない。自ら死にに行くなど阿呆のする事だ。

 問題は朔と軋間が対面すること。

 一度対峙した梟だからこそ解る所だが、朔はまず間違いなく軋間の方へ突撃するだろう。アレは血の濃度に反応し蠢く海獣なのだ。まるでどんな距離を隔てていても血の匂いを嗅ぎ分けて獲物へと忍び寄る鮫のように、朔は軋間に惹かれる。それが梟の気になるところではある。
 朔が死んでしまっては意味がないのだ。ある程度の損壊は仕方ない事だろうが、朔が殺されてしまうのだけはいただけない。緻密に編んだ計画、刀に心血を注いだこの人生、そして梟と言う人間そのものの意味が無に帰する。
 だから正直なところ、朔と軋間が出会わない事を梟は願っているが、無理な話だろう。何せ朔は梟と言う運命に出会った子供なのだ。きっと運命が彼を放っておかない。

「んでもあいつなら……ってえ考えるのは贔屓が過ぎるもんかねえ」

 無理だ、無茶だとは解っていても、どうしても期待してしまう自分がいる。軋間が破れる事はないだろうし、彼を用意したからこそ槙久は七夜の襲撃に踏み込んだのだ。対抗できるのは恐らく七夜黄理ぐらいなものだろうし、その黄理が敗北してしまえば七夜は一気に瓦解するだろう。軋間紅摩という反則によって。それを食い止めるものはいない。
 けれど、もし朔が生き残ったならば、あるいは軋間に一矢報いる事が出来たならば?

 ――――老人の描く絵空事だ。実際には不可能だろうし、現実には起こり得ない事は明白である。
 それでも朔に期待し、彼の可能性に触れてみたい自分がいる事に梟は気付いて悦に浸る。と、懐にしまいこんでいた無線機から音が漏れている事に梟はようやく感づいた。
 電波など届かぬ森の中である。この深海のような森では携帯電話など無用の物品に成り下がるのだ。

「おう、なんだ。何かあったか?」

『はい、遠野槙久が動き出しました。それに七夜黄理も動き出したと確認がとれました』

 無線機の相手は槙久に貸し出した刀崎衆の一人である。槙久は情報と共に戦力の補強まで梟に要求したので、梟は致し方なく兵隊を十人程度槙久に貸し出したのだが、彼らは梟の信奉を捧げているので、こうして秘密裏に梟へと情報を横流ししているのであった。

「なるほどな。流石は糞餓鬼、動きが速い。んで、何人やられた?」

『確認できるのは現在のところ六名です。皆、罠にかかって即死です』

「ほうほう、んで。朔の方は」

『……それなのですが』

 何か言葉にはしたくないのだろうか、無線機の向こう側にいる刀崎は一瞬言い淀んだ。

『どうやら軋間紅摩と交戦を始めたようです』

「……ひひ、ひ」

 雑音交じりで聞こえた情報に梟は思わず苦笑を漏らした。いやはや、ここまで予想が的中すると逆に怖いものがある。

『如何いたしますか?』

「んー、今の所は静観しとけ。せいぜいだらだらと動いてろ」

『しかし、対象の回収はどうします』

「なあに、賽はとっくに投げられてる。俺たちにゃもうどうすることもできねえよ」

 そう言って無線機を切った梟は総身に走る戦慄に身を奮わせた。やはり朔はこうでなくてはならない。予想を裏切らない行動にほくそ笑みながら、梟は再び歩み始めた。
 状況は最早始まった。賽は投げ出されたのである。どのような目がでるか後は朔の運次第。そこに誰かが入る余地はないだろうし、とてもではないが梟が今駆けつけた所で間に合わないのは目に見えている。それに介入したところで巻き込まれて死ぬのが関の山だ。何せ自分は刀鍛冶師。それ以外はまるで駄目だし、争いごとに巻き込まれるのは御免被る。
 刀鍛冶師としての自負心は確かにあるが、戦力としての自分など取るに足らない。所詮今宵七夜の森にやってきたのも槙久の腰巾着程度でしか考えていないし、自身もそれで良いと思っている。あくまで主役は彼らであり、自分は傍観者風情に過ぎないのだ。ただし、色々と動き回る観客である。

「んじゃあ、ま。迎えに行くとするか。……忘れるんじゃねえぞ、朔。お前は俺のもんだ。他の奴にやられんじゃねえぞ」

 期待と一抹の不安を胸に梟は森の奥深くに進んでいく。その足取りは軽い。不安などどこにもない、何処吹く風と言わんばかりの歩調であった。

 □□□

 鬱蒼と茂る森の中、今銃声の渇いた破砕音とは異なる強大な音を立てて、太い幹が圧し折られた。
 言葉に形容するのは簡単である。ただ木が限界強度を超えて倒壊した、と簡略的に示せば良い。だが、問題はそれが一体誰がどのようにして行ったか、に尽きる。

 彼、軋間紅摩を語るのに、そう多くの言葉は必要とされない。

 何故なら彼の存在そのものが規格外、現代に残存する神秘の体現であるからだ。

 狂気の経過を歴史に刻んだ軋間家最後の一人にして、軋間家を滅びの道に導いた張本人である彼の強靭さ、あるいは強大さは人類史を含めた歴史においても類を見ない様相を成している。
 混血としての血の尊さは宗主たる遠野には劣るものの、混合率という計測をもってすれば血の濃度は驚嘆の一言、あるいは絶句に尽きる。何せ血縁どころか肉まで魔と混ざった一族の末裔なのである。練磨された狂気が常識を超える妄執となるのは無理からぬ事ではあるが、それでも彼は外れすぎている。最早掠れ、役にもたたぬものと化している記憶の中では軋間の中にも彼に似通った人物はいたが、その末路は大抵人間とは呼べぬ化物と成り果て一族から排斥されるのがオチだった。

 つまり、軋間紅摩という存在はそういうものだ。そういう風に出来ている、と言っても過言ではないだろう。そして彼はその者等悉くを滅ぼした過去を持つ男である。危険さ、厄介さで言えば彼に並ぶものなどまずいない。

 全身の筋肉は言うに及ばず、骨や皮膚に至るまで硬化させる能力と、今しがた行ったように大木を握力のみで握り潰す単純な破壊力は計測すら不可能。純粋に魔に近い軋間紅摩だからこそ出来る人外の芸当である。故に彼の一族は自分たちの末路がこのような魔そのものかのような存在である事に絶望し、彼を殺そうと撃鉄を引いた。
 しかし、米神に着弾した弾丸は頭蓋を貫くどころか出血さえ成せなかったのである。人類の叡智の一つの結晶である現代科学の銃が純粋に効かないほどの外れた彼に、半端な魔であった一族が逆に滅ぼされたのは全く持って当然の事だった。
 それほどまでに強力な生命。ただ単純に強力な生を彼は生まれながらに持っている。誰かに与えられた訳でもなくにだ。

 故に軋間紅摩とは言葉通りに桁違い、真実人智を超えた化生に最も近い混血と形容できるだろう。宗主である遠野ですら統制の出来ぬ怪物なのである。

 だが、それだけに代償はある。

 紅赤朱、つまり先祖還りを宿命付けられた一族の濃縮された血を受け継ぐ彼だからであろうが、元より人から離れていた。当たり前のように交わされる言語、つまり言葉を理解し使用するまで八年の歳月を必要としたとおり、人間の道理が通用しないのである。思考もまた然り。
 年々歳月を経て費やされていく時間によって彼の思考は間違いなく人外の脳髄にならんとしている。そのような素養が強い一族とは言え、あまりに速い先祖還りの徴候である。通常混血の先祖還りは大抵が老年期に入って理性が磨耗してからなのだが、混血の常識でさえ彼には通用しないのだ。軋間の一族が彼を畏れたのも無理からぬ話だろう。何せ代を重ねる毎に彼らは自ら人外の道、真性の化物への道程を歩んでいると知らされたのも当然なのだから、妄執の最果てに行き着いた彼らの絶望を推して然るべきである。
 では何故軋間紅摩が現在七夜の森にいるのか、と言えば別に深い意味は無い。
 歩行する兵器さながらな彼だ。槙久の命令には殆ど耳を貸してなどいないし、また聞く価値もないと思っている。けれども彼は実際にこうして――槙久に運搬されたとだけとも見てとれるが――この七夜攻めに参加しているのである。
 彼という人物を知るものは殆どいないが、それでもその存在上奇異なことなのは否めない。とは言え、それも致し方ない。ただ彼は今宵確かめにきただけなのだ。

 かつて彼の右目を潰した人物の存在。自らの前に現われた謎の男がここにいると聞き及び、足を運んだまでに過ぎない。別に、右目の仇を討とうなどという考えはない。そういう粘着質な精神構造は彼には理解できないし、理解する気もない。
 一族を滅ぼし、斎木に監禁されていた当時の記憶は朧だが、何故だかその時の記憶は彼の中に強烈に残っている。
 あれは軋間紅摩、十の頃だ。あの時、彼は何かを見出し、そして何かを感じた。だがその重要な何かが未だに解らずにいる。だから彼はここまで来た。世話になった遠野宗主への恩返しなど、そこに打算的な考察はない。
 あの時感じたあれが一体なんだったのか確認をするため、あるいは答えを得るために態々自分が暮らしていた森から離れ、七夜攻めに参加した次第である。
 そして、今。

 軋間紅摩は一人の童と相対していた。

 彼と比較するにはあまりに脆弱な命である。突きの一つ、あるいは体に触れてさえしまえば粉微塵に砕けてしまいそうな生命力しか保持していない。彼の脅威になど成りはしない微弱な存在だ。

 そんな子供が今、鬼神と対峙しあまつさえ戦端を自ら開いたのである。

 七夜とは混血とは異なり純粋に人間同士の交配によって退魔衝動を高めた一族であるから、混血の一つの到達地点である軋間紅摩に挑みかかるのは、まあ存外ない話ではない。
 しかし、それと敵対し襲い掛かるのは別だ。他の種族とは異なり、より人間に近い彼らだからこそ混血の極みである彼の魔の気配に強大さに危惧を抱いて登場しないのならば、まだありえた。
 だが、この子供は自らの足で彼の眼前まで現われ、殺気を放っているのである。
 その身から発せられる殺気は子供の身でありながら見事なもの。七夜である、という言葉だけでは説明がつかないほど練り上げられ、また凶悪な殺気である。胆力のないものならば忽ち萎縮し逃亡してしまいそうな殺気が彼よりもずっと幼い童から噴出されているのは、ある意味では驚嘆すべきことだった。
 内包する殺気は純度の違いはあれども決してその存在規格を超越したりはしない。それは生命の意志の強靭さの問題であり、また規格そのものに関わってくる問題なのである。故にこの子供はすでに等身大以上の殺気を放ち、彼を威嚇しているのだ。
 ただ、それは軋間紅摩からすれば虚しい事だ。
 彼にとって殺気など、怖じるに値しないものなのだから。

「嗚――――呼」

 呻き声とも似つかぬ声音と同時、紅摩が踏み込む。爆発的な踏み込みに地面が抉れ、木立が軋めき、弾けるように彼我の距離が詰められた。
 軋間に生まれた者の性、とでも言うべきだろうか。世俗を離れ樹海の奥で手慰みに武術の真似事を彼は行っているが、彼の本来の強みとは肉体の潜在能力そのものにある。
 絶滅種の血を色濃く継承した彼の肉体は、苛烈な鍛錬を経由していないのに頑健そのものだ。膨れ上がった筋肉繊維ははち切れんばかりのもの、力んださいに浮かび上がる血管はまるで葉脈のようでさえある。鋼の如きに作られた彼の肉体は正に鋼鉄の肉体であった。
 先ほども言ったとおり、別段彼は特別な鍛錬をしているわけではない。特殊な環境に身を置いてはいるが戦場に赴くわけでもなく、また死線を彷徨う軍人のように自然と発達した肉体を保持しているのでもない。彼は本当に何もしていないのだ。それこそ軋間の血を濃縮された証、生きた神秘である。

 樫の幹のように太い首、金剛石の如き怪腕。頑丈と言う言葉でさえ生温い鋼の肉体は人として発達して作られたものではなく、魔としての肉体が作られたからだ。純度の高い鉱石ですら及びもつかない筋肉は、彼の凡そ知れぬ所で発達し、その破滅的な力を増したのである。
 故にその俊敏性、反応速度は人智も届かぬ領域。踏み込みただ一つで子供の距離を瞬く間に縮める事さえ可能なのだ。その速度から放たれる突進は単純なれど、子供からすれば見上げるほどの巨躯、そしてそこに十重と秘めたる魔としての力は童ほどの矮躯を木っ端微塵に変貌させるほどの威力を放っていた。巨大な巌が霞みと錯覚せんほどの速度を持って転がり落ちる様を想像すれば解りやすい。だから、怨念の如くに佇み殺気を放つ少年の体はあっけなく散り散りとなる、はずであった。

 しかし、軋間紅摩の肉体が少年へと衝突する寸前に、彼の視界から掻き失せた。そして眼には見えぬままに体の数箇所から斬撃の衝撃が走ったのを彼は感じた。勢いのままに暫し直進し続け、直線状にある木々を薙ぎ倒しながら緩慢な動作で振り向けば先ほどと同じ位置で少年は屹立していた。まるでそこを軋間紅摩が通過したのが幻であったかのように。けれど、今しがた踏み抜いて亀裂の走る大地は間違いなく彼が猛進した証明に他ならない。だからそこに少年がいたことは明らかである。

 改めて少年の姿勢を見ると先ほどとまるで変わらぬ佇まいだった。四肢を地面へと突き刺し、土を舐めるほどに低い姿勢からこちらを窺っている。まるで蜘蛛の如きに這い蹲り、足元から見上げる姿に変異はない。あるとすれば彼の四肢の周辺。亀裂に目が奪われやすいが、四足獣と化した少年の足元の土は急加速と急制動に盛り上がりを見せ、僅かな山を築き上げているぐらいだろう。
 つまり、少年は軋間紅摩さえ視認できぬ程の速度で突進をいなし、擦れ違い様に彼を斬りつけたのである。否、正確には紅摩の死角へと僅かに移動しながらの所業であった。呻りをあげる威圧と重圧を風の柳と言わんばかりにかわし、あまつさえその手に握る小太刀で肉を裂かんとした算段は上々であったと言えるだろう。相手が軋間紅摩でなければ、の話であるが。

「――――」

 じっと、観察するように少年の瞳が翳る。その眼の先は己が感触を確かめるためか彼の肉体に向けられていたが、斬りつけられたような軌跡はあれど、皮膚が裂かれた訳ではない。血肉を晒すはずの肉体は確かに斬りつけられはすれども、依然として無傷であった。
 先ほどからこのような展開が続いている。紅摩が仕掛け、それを子供は驚嘆すべき術利と速度で回避しながら斬りつける。後の先を取るつもりだったのだろう童の算段は、しかし肝心の相手の肉体に傷一つ未だ負わせられぬ状況にあった。
 子供ながらに観察眼は一丁前と言うべきか、紅摩の攻撃速度は驚くべきほどのものであるが、よく見れば隙だらけである。今現在の突進もそうであるが、猛然といきり立って剛腕を揮う紅摩であったが実直すぎるのだ。ひたすらに真っ直ぐに直撃せんと己が五体を振り回しているが、だから安易に回避され、切り裂かれるのである。通常であるならば今も背面を見せ、小太刀の刃によって首の静脈動脈、足の腱、弛緩させていた手首の血管を合わせて都合十五箇所斬りつけられている。
 まともな相手ならば肉体の弱点と言って差し支えの無いそれらの部分から激しい出血を伴い、やがて死に至らしめられるだろう。そう、相手がそのような道理が通用するのならば、だが。

 凡そくり返された交差はこれで四度。しかし、無傷のままで直立する彼の姿はいっそ異様である。すでに同じ箇所を数度も重ねて斬りつけられているのだ。腱は致し方なくとも、血管乃至皮膚ぐらいは裂けてもおかしくはない。
 だが、そのような常識が彼、軋間紅摩に通用しないのもまた、全くの道理であった。
 何せ彼は混血の中で一際色濃く絶滅種の血を引いた現代の神秘である。古代ならまだしも、現代においては正しく無敵の剛健さ。つまり単純な硬さは決して真剣に劣りはしないのだ。
 なれど、子供の小太刀を侮る事なかれ。刃物として丁重に扱われ、真剣としては上々の一品である。決して重い鋼ではないが、人体を解体するにそう力の要らぬものに相違ない。肉を断ち、中身を穿いて命を殺す所を本懐とした正に刃そのものである。更に言葉を重ねれば子供の技量も恐ろしいものがある。瞬時の交差に同じ箇所をなぞりあげているのだ。軋間紅摩でなければ、あるいはすでに滅んだ軋間の一族であるならば皮膚が磨り潰され、二度目の交差で失血死しても可笑しくはなかっただろう。
 だが、そんなもので彼の体に傷を負わすことなど出来るはずもない。
 軋間紅摩は別格なのだ。存在そのものが桁違いな生命であり、化物揃いの混血の中で尚恐れられた怪物である。そのようなモノを相手に常道の技術、通常の刃で倒せるはずもない。

 そう、すでに結果は見えている。少年では軋間紅摩を殺す事は出来ない。否、殺すどころか傷一つ負わせる事さえ叶わない。そして、紅摩の一撃が掠りでもすれば少年は忽ち粉微塵だ。恐らく直撃すれば体の原型を留めることさえ出来ないだろう。こちらの攻撃は通用せず、だのに相手の一撃が掠りでもすれば一瞬で勝負は決まるこの理不尽。通常の者ならば逃げの一手を打つか、勝負を投げ打って玉砕覚悟の一撃を放つ状況である。

 しかし、通常という意味合いからすれば少年、七夜朔もまた軋間紅摩と比べれば微細なものであるが大きく外れていた。

 鍛錬の習熟度からすれば同年代の七夜から大きく離れ、それどころか七夜最強の黄理から直接手解きを受け、彼に追いつかんとする鬼才である。暗殺集団である七夜において鬼神の子と謳われ、惧れさえも抱かせた子供である。幾たびの交差に朔は死を幻視すれどもそれは遠く、依然として減少しない人外の殺意のままに軋間紅摩へと漫然と対峙する。そこに怖じる気持ちはなく、また逃げの算段を開始するような思考もない。どれほど強大な混血であろうとも満を持して立ち向かう様は、確かに朔は七夜であった。

 だが、朔は歴戦の猛者でもなく蛮勇を奮う愚者でもない。今は俄然獣の如き本能に駆られ命永らえているが、僅かに残っている理性でこの混血が自分の手に余る事は百も承知していた。だからこそ正面から攻勢をくわえるのではなく、死角範囲からの消極的攻勢を今現在は強いられているのだが、それでも埒が明かない事は明白である。
 朔では軋間紅摩を殺せない、軋間紅摩は朔を殺せる。しかし、それは彼の剛腕乃至肉体が掠ればの話だ。
 故に限界まで引き付けて寸での所で回避し、何度となく刃を振るっている。常道であれば通るはずの刃、そして尋常であれば粉微塵と化していると思えば、現在の闘争は常識の適用されぬ怪物たちのぶつかりあいだった。
 とは言え、それもジリ貧の千日手。今は朔の姿を捉えきれぬ軋間紅摩であるが、この繰り返しの果てには速度にも馴れ、朔を捕捉できるであろう。つまりこの状況を打破できるのは朔の手にかかっている。

 しかし、どうするか。

 ちらり、と手元の小太刀を窺えば刃に罅が入っている。撫で斬りにするはずの真剣に返った感触は、さながら純度の高い金属に刃を打ち据えたようだった。最早、持ってあと数合という所だろうか。ならば必殺の際に取っておくのが賢しいだろう。
 殺意の衝動に飲まれてはいるが、殺す術を計測するのみに限定されて言えば朔の思考はとても冷静であり、熱とは無縁であった。もしこの肉体の昂ぶりのままに突っ込めば死は免れないと理解したからだろう。とてもではないが、この相手は朔の手にあまる事実が目の前に突き当てられていた。
 それでも、それでも、である。

「――――」

 小太刀の柄を口に咥え、四足を自由にして一息、地を舐めるような姿のままで朔は軋間紅摩へと接近した。

 朔が七夜朔である限り、撤退の二文字はありえないのだ。ここで退いては何のために駆けたのか。その理由が失われる。
 無論、ただで接近を許す紅摩ではない。

「嗚――呼」

 幽鬼が近づいてくるのを感じ、稲光の如き打突が放たれる。それを首を傾ける事でかわしながら、朔の足が地面を叩いた。

 がきん、という鈍い音が森に響く。

 軋間紅摩の懐に入り込んだ朔が放った脚の一撃、踵から抉りこむように天を穿つ上段蹴りが紅摩の顎を捕らえて上下の歯が噛み合った音だった。通常、この一撃が入ったならば頚椎が圧し折れるか、少なくとも強制的にぶつかり合った歯の何れかが砕けても可笑しくはないほどのインパクトであったが、やはり紅摩には通用しない。
 ぎょろりと眼を向いて脚を突き出す格好の朔を無造作に腕で打ち払おうとして――――、再びの衝撃が今度は米神に走った。槍のように鋭い肘が紅摩の頭蓋を貫く。

 それまでの朔の動きとは一線をかいた動き、消極的動きから積極的な動きへと変化したものである。しかしそれは軋間紅摩の距離に常にいることを指し示す。先ほどまでの交差ではどうにもならない、と考えあぐねた朔が導いた戦術がこの近距離戦であった。
 無論、そこに勝機はない。寧ろ、正気を疑るような思考である。一瞬の交差では敵わぬならば常に近距離へ身を置くのは戦況の打開としては一理あるやもしれない。だが、相手は軋間紅摩なのだ。その拳、その肉体が掠りでもすれば忽ち致命傷を負わざるを得ないような暴力と破壊の塊なのである。そのような相手の懐に常に身を置くなど、まずもって全うな理性を持つ者の選択肢ではない。正しく正気の沙汰ではない。あまりの重圧に精神が狂気を帯びたか、と想うがあくまで朔の思考は静かだ。
 脳内は脈絡なく消去法を重ね、遂に近距離に身を置く事を決心しただけの話である。四度の交差による結果は切創すら生み出せなかった。ならば、常に近距離から七夜の体術を叩きこみ殺害乃至昏倒させる次第である。あまりに無謀、あまりに無策とは思う事なかれ。軋間紅摩に対し物怖じすら感じない朔にとって、これは次善の策に等しい。

 つまり直接的に抹殺できないのであれば、行動不能となるように疲労を蓄積し、そこを執拗に叩く。狙いは頭蓋。硬い骨に守れた脳を破壊する。脳を損壊させる事さえ出来ればどんな生物でも動く事が叶わなくなるのは黄理から教えられた薫陶の一つであった。
 こちらには軋間紅摩に対抗できるような手段はない。肉体を破壊するはずの一撃は通用せず、体術もまた然り。であるならば、自ら暴風雨の中に立ち入り、そこに活路を見出すしかなかった。

「――――」

 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す――――。

 退魔衝動の叫びが止まらない。朔の内側、その奥底から歓喜交じりの絶叫を上げて軋間紅摩に接近する。噛み締める小太刀の柄を更に力強く奥歯で噛んで、この混血へと猛追する。

 朔にとって軋間紅摩はある意味麻薬のような存在であった。接触するたびに感じる魔の感覚に痺れ、酔わせる。近づけば近づくほど混血の猛威に体が震え、喜びを噛み締める。まるで甘露のような味わいが軋間紅摩にはある。あの老骨の混血とは比べものにならないほどそれは美味であり、思わず身を委ねてしまいそうな衝動にさえ駆られる。

 元々朔の感情には滾るような情熱はない。そんな朔に始めて生まれ出でた感情こそ殺意であった。喜びや悲しみ、怒りや嘆きを理解できないなかに誕生したこの殺意こそ唯一の寄る辺。軋間紅摩に安らぎを覚えるのも無理からぬ話かもしれない。人を、強いては他の七夜を慮外の存在だと認識していた朔だから、今の退魔衝動が心地よくさえある。

 可笑しな話だ。内側から張裂けてしまいそうな殺意に入り混じり、今朔は敵わぬ相手に怖じるどころか親近感さえ覚え始めていた。だからこそ近づき、もっと紅摩に触れていたい。

 そして始まった接近戦はさながら嵐のようであった。一撃離脱の動きから一変して紅摩に追い縋る朔と、それに応じる紅摩。

 やがてそこは爆心地と化した。

 対象が目前にいることから激化した紅摩の五体が炸裂せんほどに揮われる。それをいなし、執拗に死角へと移動しながら打撃を放つ朔。二匹の攻防は舞踏と表現するにはあまりに華がなく、あまりに武骨で熾烈だった。互いに互いを損壊させるために脚を、腕を振り回す。やがて幾度も軋間紅摩に踏み抜かれた地面が陥没し、勢いが加速した朔は旋風と化して独楽のように回転する。それをひき潰さんとした下段突きに顔面が骨ごと剥がれた錯覚が起こった。錯覚とだとは解っている。しかし、拳のひとつに込められた破壊の威力は想像を遥かに超えて、掠りでもすれば忽ち粉塵となるだろう。
 存在規模が違う。桁が異なる。核が離れている。正しく場違い。最早人間の範疇に属する事も出来ぬ純粋の混血である。歯がたたぬのも致し方ない。

 が、状況にある種の感情を覚えているのは軋間もまた同じであった。相手は小さな子供である。幾ら俊敏とは言え捕まえられぬはずがない。あっという間に破壊できるはずであった。
 しかし、未だ相手は存命しており、抵抗を見せている。解せない。軋間紅摩には相手が何故未だ活動しているのか理解できなかった。何者も抑えきることの出来ない剛力を持ってして捕殺出来ないとは如何な事か。苛立ちや焦りとは無縁の彼であるが、この状況が不思議でたまらなかった。
 内心に降り注ぐ不可解さのままに鉄槌のような上段蹴りを放つ。目視すら許さぬ脚捌きの狙いは小さな子供の頭部である。触れれば人間の頭蓋など豆腐にさえ等しい一撃だ。それを童はどういうわけか回避し、更に下へと潜り込む。お誂え向きに晒された頭頂部に振り上げられたままの脚が断頭刃のように振り下ろされた。しかし、それさえ子供は今度は見ることさえせずにかわして見せ――――。

「――――ッ」

 下顎に衝撃が起こった。今度はどのような手段を行ったのかさえ理解が追いつかなかった。ただ脳天まで響く衝撃に己が死角へと出鱈目に拳を振ったが、捉えたのは冷たい空気のみ。まるで亡霊と対峙しているかのよう。実像は必ずあるはずなのに、いっこうに掴めやしない。

 ――――なんだ、これは。

 今まで破壊できないものはなかった。対峙するものなど居なかった。目前に屹立したものの悉くは雑作もなく原型を留めぬ肉塊と化した。

 だと言うのに、この小僧は未だ生きている。あまつさえ攻勢に出た。

 彼からすれば蟲の抵抗に等しい行為である。煩わしい、という感慨はないが戸惑いばかりが浮上する。


 何故未だ戦う。何故未だ生きている?


 残された瞳が濁る。目視が叶わぬのならば、瞳は最早無用。ただ皮膚を打つ感覚のままに五体を揮う。
 状況は拮抗などとは程遠い。埒外の戦力差を子供も理解しているはずだ。だと言うのに逃亡することさえしない。

 何故だ?

 漠然とだが、不思議だった。

 矮小極まりない生命でしかない小僧が強大な戦闘力を持つ彼に挑み、追い縋るなど一体何のつもりなのか。終局は見えているはずなのに、絶無なる死が目前にいるはずなのに。その心積もりを支えるものは一体何なのか。――――と、軋間紅摩の振り上げていた脚が踵から大地へと降り注ぐ。渾身の威力を放つ大震脚。森が揺れ、衝撃波となって朔の脚に襲い掛かった。内側から破裂するような激痛が足運びを鈍磨させた。

「――――」

 それに、子供の動きが突如として僅かに鈍った。

 混血の肉体から放たれる重圧に今更押しのけられた、のではない。震脚の余波はあくまでも切っ掛けに過ぎなかった。

 蓄積された疲労。自身の限界を突破しても無視して行われた鍛錬は確実に朔の肉体を蝕み、疲れとして残されている。それが抜けないままに衝動のまま襲撃した時にはすでに朔の体は悲鳴をあげていた。挙動のひとつひとつに関節が軋み、筋肉が泣いて骨が慄いた。それら全てを飲み込んで朔は今の全力で目前の混血を抹殺しようと動き回った。しかし、ここにきて限界が訪れる。本能のままに動いた肉体は最早断末魔の叫びを上げ、必死に己を保とうと理性が散逸しそうな五体を辛うじて繋ぎとめてきた。しかし、それは切っ掛けひとつさえあればすぐさま消える蝋燭の焔だった。

 それがここに来て限界を向かえ、脚が縺れた。

 僅かな停止。瞬き一つぐらいの刹那に動作が止まっただけに過ぎない。

 だが、それはここにきて致命的な停止であった。

「嗚――呼!」

 そのような間隙をこの男が、この怪物が見逃すはずがない。

 背後で停止した子供の殺気に軋間紅摩は万全の体勢から旋回し、裏拳を打ち放った。風が轟く。急速に放たれた一撃が空気を突破して子供の頭蓋へと向かった。
 朔は眼前に迫る拳を呆然と見続けた。小さな朔の頭部ほどに大きな握り拳である。そこに秘められた威力はよく理解していた。そして、それが回避不可能である事も今現在の状態から知れた。感覚の曖昧な下半身に、体勢は不十分。無理に動けば致命傷は確実――――!

 その脳裏に様々な光景が流れては消える。幼少の頃から続けた鍛錬風景。対峙する黄理の圧倒的な背中。焦がれた刃の煌き。交差する肉体の熱さ。芝に倒れて見上げた木漏れ日。志貴と過ごした日々。翁との会話。世話役の表情。それらが一変に瞳の中で情景として過ぎ去っていく。

 そうして拳が当る寸前、朔はそれが走馬灯である事をようやく理解し。

 ――――瞳が輝く。



[34379] 第十二話 鬼共の饗宴
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2013/02/24 11:13
 何かの気配を感じて、俯かせていた顔を上げた。

 遠くから悲鳴が聞こえる。恐らくは今夜襲来してきた者たちの絶叫だろう。森の動植物にやられたか、あるいは先行して屠殺を行っている兄の手によるものかは解らない。
 ただ言える事は未だ敵の足は里には伸びていないと言う事実であり、兄は一人里を守護するために殺しの限りを尽しているのだろう。

 それを知りながら、私は何も出来ない自分自身に情けなさを覚えながら唇を噛んだ。

 万が一のために屋敷は出払っている。現在は里の外部に最も近い平屋の中で、私は震えている。
 本当ならば戦力になりはしない私は屋敷の中にいて万が一の時を待つべきなのかもしれない。だが、それでも私はここにいたかった。
 私たちがひっそりと暮らすこの七夜の森に人外共がいると言う事実。
 七夜の領域に唾棄すべき存在がいると言うだけで憎悪の念が宿る。
 しかし、混血が近づいてくるかもしれない現状に体はいう事を聞かない。
 精神が、心が怯えを示している。空気に交じって伝わる人間以外の気配が森に充満しているという事実が堪らなく怖い。

 だが、それ以上に朔が何処にも居ない事が怖かった。

 朔が何処にもいない。今宵混血の襲来を知り慌てて朔が居るはずの離れへと向かうと、そこには無人の空間だけが広がっていた。
 人気のない室内は寒々しく、ぬくもりの無い布団だけが敷かれている事から朔は元から離れの中にいなかったことに他ならない。
 血の気が引くとは正にあの事だろう。足元から崩れ落ちてしまいそうな感覚に耐えながら、狂騒する精神をどうにか堪え、兄様に報告した。

 現在兄様は外敵の排斥を行いながら朔の捜索に乗り出している。
 本来であるならば人海戦術として他の七夜も捜索に乗り出すべきなのかもしれないが、それを兄様は無用と切って捨てた。朔一人ぐらい自分で見つけ出せると、そこには怜悧な瞳に自信を覗かせる兄様の姿があった。
その深遠には有無を言わさぬ力強さがあり、私は何も言えなかった。
 自分もついていくとは、とても口に出来なかった。
 本当なら私自身が朔を探し出すべきなのかもしれない。
 が、今七夜の森は戦場だ。力なき者たちから死んでいく無情なる審判の場。
 ならば無力な私が紛れ込んでも朔を発見する以前に殺されるのがオチだろう。
 とてもではないが兄様の口からそう言われるのは嫌だった。
 お前は必要ない、お前などいらないなぞ言われたくもなかった。
 だが、それ以上にお前では朔に相応しくないとあの瞳は私に叩きつけていたようで、たまらなかった。

「大丈夫ですか?」

 いつの間にか不安で膝を抱えていた私の傍で優しげな声がした。

「義姉さま……」

 隣を振り向けば、そこには私と同じように屋敷を出払っている義姉さまがいた。 どうやら挙動不審な私に心配をしたのだろう。申し訳ないと同時にありがたさも感じる。
 あのまま自己嫌悪の海に沈む込んでいたらいつ浮上するか解らない。ただでさえ最近は暗くなりがちだと自覚しているのだ。これ以上皆に迷惑をかけられない。

「すいません。少々気落ちしていたようで」

「……そうですか。それは朔の事ですね」

 真実を射抜くように義姉さまの瞳は私を映し出した。嘘をつける瞳ではない。

「……はい、その通りです。申し訳ありません、全ては私の監督不届きでした」

「いいえ。朔の事はあの人が全て受け持っていたのですから、責任の所在があるとしたらあの人にあります。それに今はこんな事態ですし、それも詮無きことです」

「しかし、私は朔の世話係なのです。例え役目を免除されようとも、兄様に強いられようともそこだけは譲れません」

「……そう。難しい事ですね」

 いや、難しい事なんて何もない。朔の傍にいると誓いながら、結局その約束を果たす事が出来なかった私が悪いのだ。
 今は亡き朔の母と交わした契約は重石のように私を閉ざし、生き方を定めたのである。
 七夜としてまともに生き方を定められなかった私からすれば、あの日の誓いは啓示のようであった。それを喜びはしても、決して厭になどなりはしない。

「それより、志貴の事はよろしいのですか。こんな時なのですから傍に居たほうがよろしいと思いますけれど」

 朔の行方を失った私と比べ、義姉さまの子供である志貴はちゃんと所在は確認されている。屋敷の方で眠っているとのことだが、不安になって目覚めでもしたら傍らに母親が居ないのは心もとないだろう。

「志貴なら今は眠ってますし、まず心配はいらないでしょう。あの子寝付きがいいからすぐには起きません」

 そう言って義姉さまは微笑んだ。その笑みは慈愛に満ちた母親の顔だった。
 義姉さまの笑みはあまりに優しすぎて、とてもではないが直視出来なかった。そして顔をそらして私は自問するのだ。

 私は朔にこのような笑みを向けただろうか、と。

 朔の実母に任されて請け負った世話係であったが、出来る限りの愛情は注いだつもりだ。
 けれど幾ら愛を注いでも朔は笑みどころか表情を一変させることさえしなかった。
 記憶の中にある朔はいつも無表情で、ここではないどこかを眺めていた。私などそこにいないかのように認識していたのではないのか、と今でも一抹の不安が首を擡げる。
 それは私が朔に安らげるような微笑みを傾けなかったからではないのか? この義姉さまのように相手を案じて重んじ、そして真底安心させるような慈母の笑みを向けた事がないからではないのか?
 疑念は次の疑念を呼び込み、螺旋となって私を渦巻く。
 一瞬黒い感情が蠢いて私は義姉さまに嫉妬しているのか、と疑ったがそのような要素は何処にも無い。
 確かに朔の身辺問題で相手方に回った事も思う部分もあるが、それも里を想えば致し方のない事だったと自分を納得させた。未だしこりの残る部分もあるが、現在の状況を思えばそれも無視できる。
 ではなんだ? この胸の中にとぐろを巻いて狼煙を上げる感情は。

「……」

「大丈夫ですよ。あの人は誰にも負けませんから」

 黙考する私を励まそうとしたのか、義姉さまは目蓋を閉ざして見当違いなことを言う。
 確かに、今宵襲撃してきた敵方の正体は不明であるが七夜に付け入る隙はどこにもない。
 罠と結界によって要塞化された森の内部と、七夜一の辣腕を誇る兄様が矢面に立っているのだ。まず負ける道理はないだろう。

 しかし、私は七夜でありながら、七夜の進退よりも朔の身柄の方が気になってたまらない。
 こんな夜に限って行方不明になるなどあってはならないことだというのに、何故朔は何処かへと消えてしまったのか。
 凡庸な私には朔の思考など把握できない。ただいつも朔の行動に憂慮するばかりだ。これでは母親などと仮初の称号すら頂戴できはしないだろう。
 ひんやりと冷気を帯びたもう一人の私が惨めな私を嬲る。お前では役不足なのだと、始めから理解していた事だというのに眼をそらしてきた罰が今ようやく下ったのだと嘲る。
 私はそれを真っ向から否定する事が出来ない。
 出来損ないの七夜でありながら誓いを守ろうなど言語道断の噴飯ものだと戒め、それでもと朔と向かい合ってきた過去が私を擁護するのだ。
 どちらもが正しくて、どちらもが異なる。一体私は、何がしたいのだろう。

 物憂げに浸る私を知ってか知らずか、義姉さまは更に言葉を募る。

「あの人がいるからにはこの里は早々に破られはしません。あなたも知っているでしょう? あの人の強さを、逞しさを」

「……はい」

「だから心配はいりません。今宵を凌げば、きっといつもの朝が来るわ。何気ない、当たり前のような朝が」

 滔々と自分の言葉に酔いしれるように語る義姉さまを見つめていると、兄様への信頼が酷く歪である事が知れた。
 どれだけ兄様が強かであろうとも、所詮は人だ。人以上の化物と相対して七夜が存命する確率は少ない。
 それを知っていて尚、兄様へ全幅の信用を預けるのは盲目的な信仰だ。
 しかし、兄様の伴侶として数々の出立を見続けたからこそ、義姉さまの信頼は解らないものではないし、また私も存じている。

 だが、私は思うのだ。

 彼女の言う所の〝いつもの朝〟とは、一体いつの朝なのだろう。

 義姉さまが言ういつもの朝とは、きっと彼女の内側を巡る日常の延長に過ぎない。
 実子である志貴がいて、伴侶たる兄様、相談役である翁、そして義妹である私がいれば十二分な日常なのだろう。
 そこは完全なる箱庭で、きっと漏れもなく安逸で平穏な時間の流れが約束されている。

 けれど、そこに朔の居場所はない。
 彼女は曲がりなりにも朔の立場を追いやった一人なのだ。だからこそ今ここでは私の心配をしているが、そこに朔は含まれて居ない。
 彼女は彼女の平和のために祈っているに過ぎない。妄信の祈りだ。

 そう思うと、義姉への信頼は反転し、不信へと姿を変貌させる。

 今この時、隣にいる彼女もまた私たちの敵ではないのか、と。 

 あれからと言うものの、私たちの合間には目には見えない微細な変異が横たわっていた。
 視界には入らないが、視力を凝らせば見えてしまう居心地の悪さ、とでも言えば良いのか。
 共に相反した間柄であることは認めるが、それでも時折はこびる幽かな気まずさは拭いきれない。私自身はどうでもいい。
 そこに感情の入り込む余地などないし、血縁で言えば親族に当るが、本来の意味で他人でしかない私たちの間に余計な波風を立たせるのも浅薄な考えである事は理解している。

 ただ、朔を思えばそれも変わる。

 朔の傍には誰もいない。あの時明確に突きつけられた事実は敵味方という簡略的な構図を成して、私を現実に呼び戻した。
 所詮は泡沫の夢に過ぎなかった夢物語。
 朔と共に私以外の誰かが親身となって傍にいる、なんて夢想があの日忽ち現実として再来したのである。
 私以外は誰もが朔のもとには集わない。なればこそ、一心に朔へと思慕を傾けた私とは相反するのは道理だ。否、私個人では無く朔と相反しているのである。
 朔個人に対して想う事は多々あれど、私ほど熱を帯びて情念を傾ける人物など、私以外には現在兄様ぐらいだろう。
 だから今も外敵の排除を行いながら、同列に朔の捜索に当っているのかもしれないが、少なくともそこに打算的なものは包含されていないと見える。
 では、それ以外の七夜はどうか、と言えば正直に頷けることは出来ない。
 あの日に私以外の七夜が朔を蔑ろに扱う策へと従ったのである。反抗も、妥協もなしにだ。
 だからこそ、真実の意味で彼らは信頼できるかと言えば、言葉に出来ない違和感しか覚える事が出来ないのだ。後ろめたさを覚えるのも致し方ない。

「それでも、今は信じるしかない、か……」

「はい、あなたも私も気持ちはきっと同じ」

 恐らく見当違いな私の囁きの意味する所に気づこうともせず、義姉さまは深い笑みをたたえた。
 窓枠の隙間から入り込む月光に映し出された義姉さまの笑みは美しいが、それ以上の違和を感じさせずにはいられなかった。

 □□□

 重い衝撃が肉体を駆け巡った。
 まるで猛牛に追突されたかのように伝播する鈍痛が思考を塗りつぶした時、朔の体は宙へと弾け飛んだ。
 まるで空へと放り投げられた人形のようにくるくると回転し、血飛沫をぶちまけていく。
 通常、それはありえない光景である。
 例え子供の体とは言え、人体との接触により体が宙を舞うなどありえはしない。打撃によって地上から打ち上げられるという非現実。
 それが軋間紅摩の一撃を喰らってなお粉微塵となっていないのならば尚更だった。そのまま約二秒後、朔はようやく地面に叩きつけられた。
無論、着地など不可能。まともに軋間紅摩の拳を受けているのである。脳の思考回路は全身を走る激痛にして命令を聞かない。

 それでも、朔は未だ存命していた。

 鬼神、軋間紅摩の拳に直撃してなお生きている。それは黄理との戦闘訓練が功を募らせた結果であった。
 神速の攻勢を仕掛ける黄理と比べるのならば、軋間紅摩の打突など瞬き可能な速さでしかない。
 故に肉体が条件反射し、防御をとった。とって、しまった。
 頭部を守るため、破壊の限りを尽す剛腕の鬼である混血の一撃をくらってしまった。

 その代償が激痛に喘ぐ朔の目前に落下してくる。

 不自然に折れ曲がった骨。千切れた筋肉繊維。未だに血の通った皮膚。握り拳のままに固まった掌。力強く握られた指先。

 最初、朔はそれが何かよく理解できなかった。しかし、左肩に熱せられた鉄板でもあてつけられたような痛みが、朔の思考を促す。
 それは朔の左腕だった。
 袖ごと肩部からもぎ取られ、断面に骨を覗かせる自らの体の一部だったものだ。無論、それだけではすまされない。
 鬼神の一撃を受けた肉体は全体が軋み、悲鳴をあげていた。
 体中は擦り傷と土、草に塗れ、左肩からの出血が止まらない。
 月光に照らされた鮮血は場違いなまでに美しかった。生命が零れていく。溢れていく。
 それを、朔はまるで夢から醒めたかのように見つめた。このまま処置をしなければ失血多量で死ぬ。それは全身から抜けていく灼熱の感覚で分かる。
 あれだけ蒸し暑かったのが幻だったかのように、今は寒い。寒さと痛みが交じり合って、まるで極寒の凍土にでもいるかのようだった。
 肉体の一部を失ったという喪失感はない。ただ、痛みだけがあった。

 痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛――――。

 脳髄が蕩けそうなほどに痛い。
 全身を駆け巡る衝撃が行き場を失い、左肩の損失と相まって脳へと危険警報をチカチカと点灯させている。命が危ないと狗のように叫びたてている。

 正に満身創痍。正しく致命傷。

 ――――だが、それだけ。それだけだ。

 たったそれだけの犠牲で朔は生き永らえた。腕を失い、血を喪いかけてもなお生きている。未だ死んでいない。
 ならば、あいつを殺さないと。
 あやふやでノイズが走る意識の中でその意志だけは明瞭だった。
 痛み、傷を負ってなお色褪せない殺意が灯火のように揺らめいている。咥えていた刀は辛うじて無事のようで、傍に転がっている。
 
 だから、動かなきゃ。

 これまで朔も負傷とは無縁だった訳ではない。黄理との鍛錬で幾つもの怪我を負い、痛みを知ってきた。
 だが、今肉体を襲う痛みは記憶の中を漁っても一番に痛い。これほどまでの苦痛を朔は知らない。
 痛みで体がぺしゃんこに潰れてしまいそうな気さえする。

 さあ、動け。

 残された右腕を支えに、体を持ち上げる。だけど無視できない激痛と損耗に体の各部位が命令を聞かない。
 もうこれ以上は無理だ、駄目だと吼えている。
 確かに体が悲鳴をあげるのは最もなことだ。あまりの痛みに視界は定まらないし、出血による寒さは体が震えんばかりだ。
 だが、最早何処を見ているのかさえも分からぬほど蒙昧なその眼は自分の敵の姿を映し出していた。
 ゆらゆらと陽炎のように揺らめく紅い靄に包まれた鬼神。
 そう、あれこそが敵だ。自分が殺す相手だ。朔の望んだ相手だ。だから朔は殺さなくてはならない。あの剛健な混血を滅ぼさなくてはならない。
 ずくんずくん、と喪われた左腕が痛みに泣いている。
 けれど、それは幻痛だ。もう無くなった部分が痛いはずがない。ならば無視できる。すでに失ったものならば、無いのと同じだ。
 しかし、左肩の出血は軽視できない。血管ごと引き千切られたのだ。地面を濡らす赤色の色合いは危険なほど紅。
 だが、徐々に朔の体は起き上がる。閉じた唇の隙間から呻き声を漏らしながら。

「……」

 それを、軋間紅摩はじっと見つめ続けた。殴り飛ばした七夜の子供が今まさに立ち上がろうとしているその瞬間を。
 朔の体を打ち砕いた拳には確かな感触があった。
 不完全な裏拳ではあったが、子供の肉体を死滅させるには充分なほどの威力が込められた一撃だった。
 だというのに、朔は未だに生き延びており、あまつさえ立ち上がろうとしている。
 ここにきて軋間紅摩の内心に生み出された不思議さは如実に形を帯び始めた。
 最初から太刀打ち出来ぬと知りながら立ち向かい、左腕を引き千切られて窮地に立たされた子供。
 その意気を支えるものは一体なんなのか。
 見つめる先の子供はとてもではないが動きに耐えられるようには見えない。
 藍の着流しは土と鮮血に汚れ、斑に色を変えていく。地面に着地も出来ず叩きつけられた傷も抜けてはいない。
 根元からもがれた左肩は不気味な様相を見せ、最早戦う事さえ出来ない肉体である。
 なのに、殺気は失せない。それどころか更に鋭敏に、鋭角になっていく。
 まるで悪鬼のような子供だ。自分では敵わないと理解しながら、打ち砕いても引かず死なず。
 その姿は殆ど死にたがりだ。死に向かってまっしぐらに邁進する愚者であり、足掻いているその姿は羽を失った蟲のようである。
 しかし、軋間紅摩はその姿を嗤うことはなかった。寧ろ理解を超えたものへの不可解が重みを増していた。

「――――――――づぁっ――――ぎい」

 歯を食い縛って立ち上がる朔を紅摩は理解できない。何故そこまでするのか分からない。
 それも致し方なし。二人は似たもの同士ではあったが、決して同じではなかったのだ。
 生まれは違えど奇妙なほどに境遇は重なったのは事実である。孤独に佇み、その才気によって畏れられた二人である。
 独りであることを受け入れ、人の温もりも命の温もりもテンで理解できない。
 相違があるとするならば、恐らく己の人生に意義を定めたところにあるだろう。
 軋間紅摩は遠野槙久に飼われてなお世俗を離れ、漫然と日々を過ごしてきた。そこに意味があるとは本人でさえ頷く事は出来ない。
 しかし、朔はそのようなことなど疾うに決めていた。

 朔は殺す者。殺すだけの者だ。

 殺すために生を受け、殺すために育てられ、殺すためだけに今まで教えを受けてきた。
 朔はそれだけだ。それだけの存在なのだと認めている。
 殺害方法以外の事象に興味を持たず、肉体運用以外の事柄に関心を示さず、また視野にもいれず。
 情は理解の範疇になどない。心もまた然り。

 ゆえに、立ち上がる。

 全ては、あの背中に追いつくために。

「ぐぎっ――――」

 硬いものが口の奥で砕ける感触。満身の力を込めた顎の力に耐え切れず奥歯が砕けたらしい。
 だってそれだけなのだ。それだけしかないのだ。それしか理解できないのだ。
 黄理のようになりたいと願い、故に殺すために存在している。それだけが朔の全て。
 黄理に届くためにしか行動できない朔のレゾンデートル。
 激しい出血に意識は鮮明になっていく。致命的な傷だ。自然に止まるはずはないし、保身を考えるなら早々に引くのが賢い。
 しかしそれだけではこの激情は止まらない。この執念が止まる事はない。
 確かに傷は痛い。あの時の一撃に朔は死を見た。
 しかし、何も感じる事はなかった。
 苦痛に苛まれても、どうすればいいのか。
 痛みにのたうち回ればよいのか。涙を流して嗚咽を溢せばいいのか。それとも苦しみに喘ぎ混血に対して怯えて恐怖し、赦しでも乞えばいいのか。
 だが、そんなこと出来るはずもない。
 そんなことは人間のすることだ。全うな人が行う感情だ。
 自分はこのままでは死んでしまうかもしれない。それが一体なんだというのか。
 生と死はいつでも背中合わせの硬貨で、どちらが表になるかは朔の慮外であって、どうでもいい。それで言うのならば、朔は紅摩の豪腕を喰らった時点で死んでいるはずなのだ。
 今も尚呼吸し心臓を動かしている事こそおかしな話。生きていることのほうがおかしい。
 けれど、それはきっと、何も感じる事が出来ない自分こそが最もおかしな事なのだろう。

「――――が、ああああああああぁぁぁぁあああああああああああああああっ!!!!」

 ここまで大声をあげたのは生涯で始めてであった。
 全力の力を込めて動く。動かなければならない。
 敵は目の前。自分が殺す相手は眼前にいる。ならば動かなくてはならない。
 未だ自分はあいつを殺していない。そうだ、朔は未だあれを殺していないのだ。紅色の鬼を殺していない。

「……」

 知らず、紅摩は朔が立ち上がるまで遂に動けなかった。殺すだけならばもがいている合間に頭部を踏み砕いてしまえば良かったのにである。
 そして脳裏に過ぎる不可解さの正体を彼は理解した。これはシンパシーなのだ。生き方を定め、それに縋ることしか出来ない子供同士。
 生を求めるという意味では二人も確かに同じ求道者であった。自分が破壊を司る者であるならば、あの子供は殺害を司る者なのだ。
 ならば、子供がこちらに立ち向かうのは全くの道理であった。
 立ち上がった朔は明らかに衰弱している。
 出血により意識の有無、全身に負った傷の痛み、そして子供の身では有り余るほどの疲労感。風が凪げば今にも倒れ伏してしまいそうである。
 だが、朔は自らの意志で動き二本の脚で屹立している。例え幽鬼の如きにふらつきながら、崩れ落ちそうになりながらも佇んでいる。何という意志だろうか。

「問おう、わらべ」

 その時、紅摩は始めて言葉を発した。重みがありながらも存外に聞き取りやすい声音だった。

「お前にとって生とは何か」

 問いかけながら紅摩は少々自分自身に驚いていた。
 真逆誰かに語りかけるなど、今までなかったことである。
 けど、納得も出来た。眼前にいる子供の姿が何処となくあの男に似ているのだ。
 黒い森の奥深くに子供の苦しい呼吸が掠れて沈む。無表情、無機質な瞳はまるで不気味。
 だが、それ以上にその反応の無さが痛ましい。遊びに盛り、地を仲間と共に駆ける年代の子供の身でありながら、なんという業の深さか。なんという強靭な意志の持ち主だろうか。故に問いかけて。

「ころすだけ」

 鬼神に問いへの返礼ではない答えが、森のしじまに沁みる。
 ひどく掠れ、子供の愛らしい声音ではない、始めて紅摩が聞いた対峙者の言葉。それでも紅摩は充分であった。
 残された左目を閉じて自己へと埋没する。そして思う。
 殺すためだけの人生。何かを殺す事しか出来ない性。それは七夜という一族ならばきっと正しいのだろう。何とも模範的な答えである。
 だが、その人生はあまりに無為で儚い。誰かを害する事でしか生きられない命。

 ――――それは、さながら軋間紅摩と同等。
 所詮殺す事しか出来ない紅摩と、殺すことこそが全ての朔。その差異は一体どこにある。
 無情感が胸の中を占める。

 対峙し続ける相手の千切れた左肩からの出血は著しい。ショック死も可笑しくはない流血である。止血さえも行っていないのだから尚更だ。
 それでいて痛みに喘ぐ肉体を自らの意思で動かし、紅摩を排除しようと殺気を今も滾らせているのである。その精神力は異常に過ぎる。
 しかし、最早決着はついている。
 先延ばしにしていた未来がとうとう追いついたのだ。どれほど朔の精神が強靭であり強固であろうとも、それに追随する体のほうが限界である。
 幕だ。この刹那の会合は終わりを迎えようとしている。
 紅摩は漠然とそれを知り、そして何故だか僅かばかりの落胆を憶える自分に気づく。
 何を期待していたというのか、闘争すらも知らぬ己が闘争心を抱いているとでもいうのか。
 莫迦らしい。この自分には何もないのだ。
 だが、紅摩は知らなかった。分かっていてもいなかった。
 興味や関心とは無縁な彼は、七夜という存在を理解していなかった。

 七夜は殺し屋。殺すことを糧とし退魔組織に参入した一族である。
 故に殺すことへの執念は最早血として流れ、決して消し去る事などできない。
 魔へと対抗するため永の時を暗殺術の昇華へとひたすらに費やし、近親相姦によって人間が本来持つ退魔衝動を特化させたのが彼らなのである。
 故にその肉と骨に刻まれた七夜の遺伝子の系譜は真に度し難く、七夜の血は今や人としての規格すらも超越しようとしていた。

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッッッッ!!」

 木立を揺るがすほどの大絶叫。
 最早言葉でも声ですらもない咆哮を残し、地を舐めるような低さで朔の姿が霞む。
 骨まで晒す左肩の断面から鮮血を撒き散らし、ただまっすぐに突撃する。
 影を置いていかんばかりの疾走にいよいよ玉砕覚悟かと紅摩が眼を開くと、朔は弾丸のようにそれを射出した。

 ――――それは、朔のもげた左腕だった。

 不自然に拉げたはずの前腕骨から突き破られた骨の断片が茨の棘のようになりながら、恐るべき速さで投擲されたのである。
 しかし、恐るべきはそれを行った朔だった。自らの腕を躊躇する事無く拾い、それを武器として使用する。
 およそ通常の子供、否、全うな神経の持ち主ならば選択しない行動である。
 弾道は紅摩の視線上。
 真っ直ぐに射出された腕は稲光のような鋭さで紅摩の顔面に突き刺さろうとする。
 だが、いかに威力の込められた物体であろうとも、このようなものは目暗ましにすらならない。
 ただ、未だ抗うか、と窮鼠猫を噛むような状況に興醒め、らしきものさえ感じた。これさえも回避するほどの脅威ですらない。
 けれど、軋間紅摩は知らなかった。理解していなかった。
 それは事前に情報を与えていなかった槙久にも責任はあるが、それ以上に今まで七夜と対峙し、朔という子供を肌で感じた紅摩には――――あまりに慢心だった。

 ――――地面を舐めるような姿勢で朔が翔ける。それは今までの変則的な動きではない。
 彗星のように真っ直ぐに、今しがた己が投擲した腕の後を追う形で併走する。
 人間は通常自らが投擲したものには追いつけない。正確に表現するのならばその速度に追いつく事は出来ない。
 投擲した姿勢からタイムロスすることなく走行の姿勢へと体を変え、そして走り出す頃にはすでに物体と距離が開かれている。
 人は音速を超える弾丸を回避出来ないのと同じように、圧倒的なまでに反射能力乃至反応速度が遅いのだ。
 しかし、ここにひとつの例外が存在する。

 七夜最秘奥、極死・七夜。

 それは一族の名を冠された究極の一、七夜がたどり着いた一つの極地だった。
 回避不可能な暗殺術、正しく必殺の一撃。それは放てば必ず殺し、必ず殺さなくてはならぬ七夜の研鑽が産んだ最高技術。

 武装の投擲に追随し、投擲された武装と同時に相手へと到達。
 そして襲い掛かる得物に気を取られれば接近した術者に抹殺され、術者を対象にすれば忽ち得物によって致命的負傷を負う二段構えの必殺。
 この技術を会得する者は暗殺集団七夜一族でも極僅か。
 正確無比な投擲及び射出した武装と同等の高速移動を要求するこの業は、肉体への負荷を考察すれば半端者では習得不可能であり、円熟した技量を持つ者でさえもなかなかに伝授されぬ正に秘奥。
 それは七夜の信念にこの秘奥が直結している部分があるからだ。
 暗殺とは完全ではなければならない。影から忍び寄り、闇から闇へと移り渡り、対象に気付かれず、そして気付かれてもなお死を与え生を奪う。
 そこに余分なものは一切含まれない。極限まで削がれ、完全を追求した結果生まれた業こそが極死・七夜。
 だからこそこの業を体得する事は七夜に最も必要とされ、また課題であった。
 しかし空間把握能力、反射能力、反応速度、そしてしなやかな動きを要求する最秘奥を会得する者は前述した通り七夜でも少ない。
 故に苛烈な鍛錬を経た才気あるものがこれを極めたとき、その者は正しく七夜の名を冠した業を担う者であり、また七夜の最高戦力として扱われるのであった。

 そして、朔もまたその極地に到達せんとする七夜の一人であった。

 だが、朔は今自分がどのように動き目的にしているのか全く考えていなかった。 もっと言ってしまえば自分がその極地にたどり着こうとしていることさえ気付いていなかった。
 ただ、それも当然。朔は未だ最秘奥を授けられていないのだ。
 黄理との組み手で教えられた訳でもない。教育係の翁に口ぞえされた訳でもない。また叔母に手解きを受けた訳でもない。
 本当に朔は自らの動きが何なのか知らないのだ。
 では何故朔が一族の血の結晶とも呼べるそれをこの土壇場に思いついたのか。
 血。肉。骨。そして遺伝子。七夜朔を構成する細胞の隅々まで刻まれた七夜の歴史。
 それらを足してもまだ足りぬ七夜朔という者の業。それら全てが混ぜ合わさった結果。 
 真相は分からない。本人でさえも不明なのである。
 ただ言える事は、血肉と化した歴史を背負う朔の脳が、身体が七夜最秘奥を知らぬはずがない。
 七夜朔は純血の七夜。
 一族が研鑽し、求道した極みの果てこそがそれであるならば、次代を引き継ぐ朔の存在そのものがそれを知らぬ訳がないのだ。
 そして、今無心のままに駆け抜ける朔には、そのような些事はどうだっていいのだ。
 寧ろ思考は邪魔であり、視界に広がる情報を脳髄が拾っていく。

 ――――視える。

 紅い靄。まるで血風のような薄霧が朔の視界には見えた。
 しかし、それが本当にそこにあるまでかは判断できない。けれど、それはそこにあった。今から殺す混血の肉体から噴出しながら。
 靄は紅摩を覆い隙間無く広がっており、どういう訳かそれは時折変化して一部が伸縮し、濃淡さえも変化していく。
 だが、それがどういうものか、あるいは仕組みなのかは考えない。

 何せもう考える意識さえも無い。血が足りない。

 身体がどんどんと冷たくなっていく。まるで自分の体ではないかのような錯覚さえする。しかしこの躍動感は一体なんなのか。
 人間が失血で致死する量は凡そ血液の三分の一であり、それ以上の損失は機能不全及び脳への障害、あるいは絶対な死は避けられない。
 そう死ぬのだ。今まさに朔は死ぬのである。
 肉体は限界だ。心臓は最後の抗いかのように激しく鼓動し、命を燃やし尽くそうとしている。

 ならばこの命を捧げよう。炉にくべて激しい焔を生み出してくれよう。それでアイツを殺せるのならば、いっこうに構わない。

 肉体を動かすのは強靭な意志。意思はすでに消えかかって、点滅をくり返している。だがそれだけでは朔の精神を止める事は出来ない。
 紅摩を殺そうとする意志のみが朔の身体を突き動かす。まるで衝動である。そう、これはまさに退魔衝動。抑えることなどできはしない七夜の宿命なのだ。
 無意識の殺人行動。退魔衝動はこの瞬間に朔そのものと化した。

 翔けるその様は今しがた腕を失ったことにより安定していない。それがどうした。

 出血が止まらない。すぐにでも力んだ身体が弛緩してしまいそう。それが何だ。

 もう全てがどうでもいい。もう何もかもがどうだっていい。

 過去も未来も投げ打って今を生きる。


 朔。――――青春の時。


 弾丸のように撃たれた朔の千切れた腕。満身創痍になっても無事だった小太刀を広い、迫る。
 相手は鬼神。打倒は不可能。殺人も無論不可能。だからどうした。それら全てを遍く超越して朔は達成するのだ。

 そして、視えた。

 紅摩を包み込んでいた紅い靄が形を微細に変化させた。
 直面に迫った腕へと向かって紅が薄く伸びて、次第に血色のように濃い赤へと変わっていく。他の部分は稀薄だ。
 靄の正体は依然として不明である。それが一体何なのか検討もつかない。

 だが、その空白に勝機を見た。

 覆いかぶさるように追随していた朔も蔑ろにした紅摩の視線はナンセンスだ。奇襲こそが七夜の冥利。
 砂塵を巻き起こして朔が飛ぶ。空を翔ける朔の背後には満月。目暗ましには丁度良い。寧ろ絶妙だ。
 弾丸は鬼神の顔面に着弾寸前。避ける気も、打ち払う気もないのだろう。当然だ、効果の無いものに避けるなど当然考えないだろう。
 だが、それこそ慢心だった。傲慢ですらあった。

 腕は布石に過ぎない。本命は右手に握った小太刀。それでこの舞踏を終いにさせる。

 ――――弾丸が紅摩の顔、注目すべきはその両眼に着弾する。

 流石に視界を塞がれるとは思わなかったのだろう紅摩は僅かに身動ぎする。泰然なる姿勢が崩れる。
 そして、再び朔を視界に捕らえようとしたその時。

 垂れた前髪に隠された右目へ小太刀が突き刺さった。

 満身の力を込めて突き立てた切っ先はそのまま眼底を破壊しようと深く捻り込まれる。
 ようは簡単な話だ。外殻が堅牢ならば内側から破壊すれば良い。
 そのためにはどこを攻めるべきかと考察すれば答えは安易に出てくる。つまり思考をする脳髄が詰まった頭部の通ずる箇所。
 それこそ眼窩だ。朔はそこに無意識に目をつけた。
 他にも口内、あるいは鼻腔や鼓膜という手段もあった。しかしそのような隙を紅摩が見せるとは思えない。
 故に眼球から脳髄を破壊し、勢いのままに首をへし折ろうという算段である。
 そして、布石は成った。
 幾ら肉体が鍛えられようとも内臓の外部機関である眼球までは鍛えられない。
 故に小太刀は右目に突き刺さり、そのまま朔は勢いのまま脳をぐちゃぐちゃにしようと更に力を込め――――、分厚く無骨な掌によって頭部を捕らえられた。

 □□□

 軋間紅摩にとって先の攻防は意味のない事であった。だが、右の眼窩の入り込んだ刃がどうも痛む。ただ、そのような事はどうでもいい。
 今は掌によって捕まえられた子供。この存在こそ今紅摩の思考を統べる全てであった。
 真逆、ここにきてあのような動きが出来るとは。
 真逆、ここまできてこちらを殺しに来るとは。
 真逆、ここまできておいて軋間紅摩を傷つけるとは。
 小太刀が突き刺さったままの右目蓋から血が垂れる。血、出血である。

 軋間紅摩の人生において自らの血は皆目一度しかない。
 些細な事では傷つかぬ身体に恵まれて、どんな刃物もどのような銃火器であっても彼の身体は貫かれず傷つけられたこともない。
 ただ一度、右目を除いてだ。そしてそれを行った人物は七夜黄理。今自身が殺めんとする者の長である。その出血をこのような子供が成しえた。
 恐るべきは七夜の血統か。それともこの小さな子供か。
 だが哀しいかな。子供の戦術にはひとつ誤りがあった。
 確かに視界を隠し、見事に奇襲を成功させた俊敏性、また周到さや執念は見事だった。

 けれども子供が狙うべきは右目ではない。左目だった。

 何故なら軋間紅摩の右目はすでに潰されていたのである。
 もし左目を狙われていたならば視界を失った紅摩は無力に等しい嵐である。
 幾ら耳を澄ませても対象からは逃れられるだろうし、一方的に嬲られるのが(それが例え紅摩の肉体に通用しなくても)おちだった。だがそうはならなかった。
 その結果がこれだ。皮膚を裂いて肉の内側に潜りこんでも破壊すべき眼球はないし、子供の膂力と勢いでは眼底を破壊するまでは至らなかった。
 紅摩は右腕に吊り上げられた子供を再度見る。
 鍛えられた痩身に鋭敏な気配と虚ろな雰囲気を併せ持つアンバランスな姿。その失われた左肩から零れる血はまるで濁流。
 抗う力さえもう残されていないのだろう。先ほどの一撃が正真正銘最後の一撃だったのだ。
 微弱に痙攣する身体がそれを物語っている。
 そしてその掴んだ掌の隙間から、輝きの無い蒼の瞳が垣間見えた。

 ――――魔眼、発現。

 七夜が本来持つとされる超能力、淨眼。この土壇場にきて、朔は一族の能力である魔眼を発現させたのだった。
 死に際の花を咲かせた、とでも形容すれば良いのか紅摩には分からない。
 ただ、もし彼が解せることが出来たのならば感嘆の息を吐いただろう。
 強者を望む戦闘者であったならば賛辞の言葉を送ったであろう。

 しかし紅摩はそんな甘い存在ではない。

 彼は鬼神なのだ。惨憺も悲哀も纏めて粉砕する無慈悲な鬼なのである。
 例え朔がこのまま失血死しようがしまいが関係ない。この子供を殺すだけの鬼なのだ。
 だから、今紅摩は満身の力を込めて拳を握る。そのあまりの圧力に朔の頭蓋が悲鳴をあげた。
 けれど朔には声をあげることは出来ない。最早そのような力さえ残されていないのだ。
 ただ未だにもがこうとする筋肉がぴくりと反応するだけで、抗うまでには至らない。
 それも当然。寧ろ満身創痍と化してまで立ち上がったことがもう奇跡なのだ。もうこの肉体は動く事も、また保つことさえも出来ないだろう。
 その様を見やる紅摩の瞳は変わらない。出会った当初から不変の怪物な眼である。
 朔では紅摩を殺しえない。それは分かっていたことだ。これは詰まる所、必定の結末に過ぎない。
 しかし何故だろう。
 紅摩はこのまま子供の命を断つことに何とも言いがたい感覚を覚えた。
 敬意、からではない。
 好意、からでもない。
 もっと複雑で深遠にある感情が揺らめいている。この子供は不思議だ。こうもこの軋間紅摩を揺るがせるとは、ある意味大した偉業である。

 けれども、自らがやることに変化は無い。自分は破壊を司る者。この子供が殺人鬼であるならば、自らもそれも応えるに過ぎない。今はまだ、それだけで良い。

「……」

 朔を吊り上げていた拳から前腕にかけての筋肉が尋常ではない盛り上がりを見せる。筋繊維が膨張し、やがては熱を生み出す。
 紅摩が生み出す熱に彼の身体から陽炎が現われた。自身でも制御できぬ熱をそのままに、紅摩は次第に握力を増していく。
 朔の頭部が軋む。人間の骨は硬いが、大木を握り潰す紅摩にとっては骨も鉄も粉雪同然。
 故にそのまま朔の頭部を圧壊させようとして――――、その掌に強かな痛みが奔った。

「――――――っ」

 そして反応も出来ない風斬り音。
 振り切られた刃を思わせる鎌鼬のような風は何かの到来を予感させ、何かが紅摩の傍を通り過ぎた。
 そして風に捕らわれて気付けば、掌の中に朔の姿はない。

「おい、餓鬼。俺の子供に何しやがる」

 いつの間にか男はそこにいた。
 鋭い、濡れそぼった刀身を思わせる男である。空気を切り裂くように彼はそこに屹立していた。
 その両腕に今しがた紅摩が潰そうとしていた子供を抱えながら。
 紅摩を睨む瞳の色は子供とは色彩の異なる蒼色。ひたすらに鋭角な視線は得物を狙う猛禽類のよう。
 それが殺意を孕んで紅摩を睥睨している。
 そして嗤っている。嘲っている。
 殺したくてたまらないと、表情には出さないが瞳が訴えている。

「お――ぁ」

 黒い装束。細く、しなやかでありながら必要最低限の筋肉をまとう身体。

 そしてその掌に握るは月光の輝きを浴びて鈍く光る二本の撥。

「あん、餓鬼。おまえどっかであったか?」

 男は、七夜黄理は、当たり前のようにそこにいた。

 ――――骨が軋むほどに凍える寒い北風が森を凪いだ。

 淡い月の燐光さえも眼に染み入るほどに冷たい。

 そして、世界が死を望んだ。
 今この時、七夜の森にいる全生命は自身の死を見た。冷酷かつ絶対な無慈悲なる死を幻想した。
 それは人間も非人間も関係なく、原型を留めぬほどに殺され尽くした自身の姿を夢想したのであった。
 それほどまでに、森を覆いこむ殺意は強大だった。
 森に生息するあらゆる命は自ら死を望み、自ら息絶えていった。
 蟲は共食いを始め、鳥類は地面に自ら落下し、その他の動物達も例外なく壮絶に死んでいく。
 この世界から逃れていくように。ある意味でそれは正しかった。
 何せ彼らはこう思ったのである。あのように殺されるぐらいなら、自殺したほうがましだ、と。

 動物は本能で生きているが故に賢しい。自然の掟に従い秩序に従順だからこそ知りえるものを彼らは所有している。
 だからこそ自らの死にも敏感で、死が近づく事への嗅覚に優れている。
 老いた狼などには己の死期を悟り、屍を晒す前に群を離れる修正がある事がそれを証明している。
 故に今この時、七夜の森を飲み込んだ殺気にあてられた動物達は、今この瞬間こそが己の死期であると悟ったのである。

 真夜中の海辺のような静寂が森に広がった。そして対峙するは人間と人外。

 方や人間。永の時を混血殺しとして歩み続けた暗殺者。
 方や怪物。猛威を揮い圧倒的な力で命を押し潰す絶滅種。

 退魔一族七夜当代当主、鬼神七夜黄理。
 遠野分家軋間最後の当主、鬼の末裔軋間紅摩。

 ――――今この時。かつて出会い分かれた両者は、今こうして再び遂に会い見えた。

「……」

 だというのに、黄理は視線から紅摩を外し腕の中にいる朔を注視した。
 決して油断ならない相手であることは本能から理解している。だが、それよりも優先すべきことは朔の状態であった。

 全身傷だらけで、左肩は損失。肌の色は今にも息絶えてしまいそうなほどに青い。
 死人一歩手前という所だろう。藍色の衣服は出血によりどす黒い色へと変貌しており、輝きのない蒼の瞳だけが場違いのように明るかった。
 そうして思うのは朔の抱き心地であった。
 朔が生まれた時以来、黄理は朔を抱いたことがない。
 それ以外に肉体の接触を行ったのは鍛錬の時ばかりで、拳の殴打や関節での打撃のみが唯一の触れあいと言っても過言ではない。
 だからこそ、こうして久しぶりに抱いた黄理が内心驚いたのはあまりに軽い朔の軽さだった。
 覚悟していたほどの重さもない。丸みはなく、削げた肉体に子供とは思えないほどに引き締まった肉体。
 朔よりも年下で未熟な志貴と同等か、あるいはそれ以下の体重である。少しでも力を込めてしまえば枯葉のように朽ちてしまいそうなほどに脆い。
 子供だから、という理由だけではとても説明できないほどの脆弱さだった。

 そんなこと、黄理は知らなかった。朔の逞しさにだけ着目して鍛錬を施し、勝手に期待して非道な命令を押し付けたのである。

 しかし黄理の胸を締めるのは後悔や困憊ではなく、寧ろ充足感であった。
 腕の中にいる朔は動かず、動けない。
 表情は虚ろで血の気の無い顔色はまるで死人のようだが、浅く上下する胸の動きだけが彼はまだ死んでいないことを教えてくれた。

「朔……」

 なんと言葉をかけてやれば良いのか分からない。
 色々言いたい事はあった。
 無断の襲撃、そして黄理が敵の凡そを殲滅させるまでの時間稼ぎ、一時とはいえ姿を消した事。
 そして怪物とさえ呼んでも良い相手に一撃を当てた賞賛。見やれば相手は右の眼窩に突き刺さったままだった小太刀を引き抜いていた。
 こんな時、普通の親ならばなんと声をかけるべきか、と黄理は臍を噛む。
 何せ二人の関係はあまりに歪で、あまりに一方的だった。
 今更父親することは出来ないし、出来るはずもない。黄理は朔の本来の父親を屠った男である。そんな男が何を言えるのか。

 だから、重要なのは言葉ではなかった。言葉以外にも伝わる事はあるはずだ。

「よく、やった」

 意識があるかも不明な朔に向けて微笑む。それは師として、あるいは父代わりに向けた笑みである。
 それは笑みと形容するにはあまりに小さく微弱で、不器用に尽きた。
 しかしその笑みは奇しくもあの時。生まれたばかりの子供に名を与えた朝焼けの微笑みに良く似ていた。

「翁」
「は」

 黄理の背後がゆらりと揺らめく。するとそこには跪く翁の姿があった。

「朔を連れて退き、治療を行え。俺はこいつを殺す」
「あい、分かり申した」

 恭しく翁は黄理の腕から朔を引き取り、早急に止血を始めた。
 自らの袖を引き千切り、朔の脇の下に巻いて静動脈を圧迫させる事で応急な措置を行ったのである。
 しかし、これはあくまで一時的な治療に過ぎない。本格的な措置を行うには一度里にまで退かなければならない。
 それほどまでに朔の負傷は酷い。特に左肩の損壊は見るに耐えない。
 根元からもげた左肩からは千切れた筋肉繊維が垂れ下がり、その合間には紅い色に塗れた白の骨。
 出血の勢いはとり合えず食い止めたものの、あたりに散見する夥しい血痕は朔の負傷が如何に危ういか翁でなくとも理解できる。
 寧ろそのような傷を負ってなお混血に食い下がり、あまつさえ傷を負わせたのは賞賛に値するだろう。

 それほどまでに相手は桁違い。幾ら朔が優秀とは言え、対峙するにはあまりに今は核が違いすぎる。
 翁の目からしても眼前の混血が一線を描いた異常であることは一目瞭然であった。故に正直この場に黄理を独り残しても良いものか悩む。

 だが、今の黄理に何を言っても無駄だろう。翁の老いぼれた目に映る黄理の背中は匂いたつような闘気が火柱のように燃え上がっていた。

「……では御館様、御武運を」

 内心の懊悩を押し留め、翁は消える。その腕に未だ脈打つ朔の肉体を抱きしめて。
 そして残されたのはこの二人だった。
 黄理と紅摩。
 互いに無言である。
 黄理が感慨に耽る合間、紅摩は自身の頬を濡らす血を拭い、自身の血をじっと見ていたのだった。
 何故この混血がこちらへと踏み込んでこなかったのかは不明だが、そのような瑣末黄理には関係ないし、聞く気もない。
 二人はただ殺し合うためだけに今日この時に巡り合ったのだ。故に言葉は不要。

 ここに来て、黄理の内心は驚くほどに静かであった。
 我が子同然に育てた朔がずたぼろにされて、そうした根源が目前にいるのである。
 それなのに心は落ち着いて、ひたすらに清涼であった。
 しかし、それも無理からぬ事。
 黄理にとってはいつもの事。
 普段のように最適に、通常のように最良の選択を取捨し、対象を殺せば良い。
 幸い朔のお陰で混血の脅威も知れたし、また殺せぬ相手ではない事は疾うに知れてる。

 ならば黄理はいつも通りに振舞えば良い。
 心に何も宿さぬ、殺人機械。

「嗚――呼ッ」

 地響きのように低い猛り声が紅摩の口から吐き出される。
 右の眼窩の負傷などなかったかのように発奮し、猛然と走り出す。その様は獲物へと襲い掛かる犀のようだ。
 だが、それをまともに迎え撃つほど黄理は莫迦ではない。
 瞬時に黄理の身体が加速する。瞬きも追いつかせぬ疾さ。影すら置き去りに、疾風すら起こさずに。
 その速度は朔を凌駕し、彼の肉体は夢幻のように消え去った。

 交差が始まる。殺し合いが、始まった。

 そしてこれが。


 七夜の森最後の戦闘となった。
 








 後書き
 なんというか、あれですね。二人の交錯は書きにくい。やりとりがないし、ブラフとかもないし。書き手の技量の問題なのかしら。

 以下今回のおさらい。
 七夜朔は厨二病(魔眼)を憶えた!
 七夜朔はロケットパンチを習得した!
 七夜朔は軋間紅摩とライバルフラグを立ち上げた!
 七夜黄理はなんやかんやで美味しい所を持って行った!
 七夜黄理はドサクサに紛れて七夜朔を息子と公言した!



[34379] 第十三話 Sky is over
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2013/04/17 00:45
 闇夜を駆け抜ける影がある。

 鬱蒼と茂る樹木の枝から枝へと飛び移り、まるで月光を嫌うように飛翔する影。
 刻まれた皺が枯渇した大地を思わせる屈強な老人。翁である。

 翁は楽天家の一面を持ち合わせているが、同時に徹底的なリアリストでもあった。
 戦況を正確に見極め、最善の一手を打つために着実に理を詰める。そのためにこちらの手札の特性を把握し、相手方の弱点を探る。翁は黄理の相談役に相応しいだけの知能と冷気を好々爺の裏に隠し、しかし確実に持ち合わせている。だからこそ信用され、黄理に登用されているのだ。

 状況は想定していた以上に差し迫っている、と翁は木々の合間を駆け抜けながら冷静に分析する。
 脳裏に描くは七夜の森の地理と、恐らく配置された敵兵の位置。
 相手方の先遣隊、一波二派を撃滅することには成功した。森の結界と黄理の手により余さず敵を討ちとったまでは良い。寧ろ理想的とさえ言える。

 ただ現状を鑑みると楽観視は出来ない。

 七夜最大の戦力である七夜黄理はあの異常極まる混血の相手で遊撃隊の虱潰しが出来なくなった。そう思えば朔があの混血に時間稼ぎ乃至一矢報いたのは驚嘆の一言に尽きる。幾ら朔が成長著しい暗殺者とは言え、戦場を知らぬ幼子でしかないはずだった。

 しかし蓋を開けてみればどうだろう。朔は一時行方不明になったとは言え、あの化け物の足止めを成し遂げたのである。
 あの怪物がもう少し早く七夜に猛威を揮っていれば、全滅はせずとも相当の痛手を食らうに違いない。
 かと言ってあれ一匹にかまけていれば他の攻撃部隊が里に辿りついてしまう可能性もあった。

 それだけはいただけない。乾いた風に頬を撫でられながら熟考する。
 今宵七夜の勝利条件は相手を撃滅乃至撃退し、なおかつ七夜が生存するに尽きる。そのために最大戦力である七夜当主が一番手となったのだ。

 そう考えてみれば、今日の一番手柄は今は胸の中で眠る七夜朔かもしれない。黄理が敵戦力を削る時間を稼ぎ、恐らく敵方最大戦力である混血に万全の状態で対峙することができたのだ。


 しかし、首尾は上々かと問われれば素直に首肯できない。


 それほどまでにあの混血は度を逸している。今まで翁が散見してきた混血からなお外れた存在であることは、ただそこにいるだけだというのに翁が気圧された事実が証明している。
 年老いてなお現役。老齢になろうと最前線で活躍してきた翁の知覚、あるいは五感があの混血との衝突を拒絶した。時には黄理と共同戦線を張ってきた翁が、である。

 そんな相手を目前にして黄理は逃走を選ばなかった。それは朔も同じであるが、意味合いは大きく異なる。
 恐らく黄理とあの混血の戦闘力は同等だと、翁は冷静に憶測する。朔は一歩及ばずに敗れはしたが、負傷させたという功績を残して、その傷は黄理に託された。
 万全な黄理に対し、相手は朔との戦闘で多少なりとも負傷を抱えている。僅かな負傷、僅かな疲労ではある。だが命の遣り取りにおいてその僅かな部分が天秤を傾けることは重々承知。と、すれば黄理に分がある、はずなのだ。


 だが、この総身を走る悪寒は一体なんだ?
 ともすれば咽喉元を掻き毟りながら叫びたくなってしまいそうなこの予感は一体なんなのだ?


 歴戦を幾度と無く潜ってきた翁でさえ判別できぬ怖れ。

 それほどまでに相手は圧倒的過ぎる。あんな盤面をひっくり返すような存在、見た事が無い。
 恐らく翁では太刀打ちさえできまい。戦わずに分かることもある。理解できる。あれは人では持ち余す敵だと。本能が訴えている。
 例え玉砕覚悟、十八番の突貫攻撃でさえも通用はしないだろう。 

 しかし、それは翁に限った場合の話だ。

 この世に無敵は存在しない。最強と謳われる者は存在するだろう。だが決して無敵ではない。それを翁は熟知している。
 その証拠にあの鬼神は朔との交差で傷を負った。眼への刺突。見まごう事なき負傷である。


 ならば、あの紅き混血と雌雄を決したときが七夜の運命を決める分水嶺に相違ない。


 果たして天秤はどちらに傾くのか。すでに賽の目は投げられているのである。どちらの面が出るのか、翁でさえもわからない。
 しかし、現在優先すべきは朔の治療である。
 腕の中に抱えられた朔の身体は覚悟していたほどの重さもない。意識のない肉体というものは重心が安定せず運びにくいものであるが、朔にはそれすらもなかった。まるで子供が弄ぶ人形のようだ。
 出血負傷共に著しく、現在は疲労のために眠っているが、それも気を失ったのと大して差異はない。特に左腕の損失が激しい。応急的措置をしてはいるが肩部からもがれ、それでもなお戦闘を続行した戦意は凄まじいものであったが、あれこそ正に玉砕を絵にかいた交差であった。


 死んで華を咲かせるのは確かに美徳だ。
 だが、死んだ者がすべからず華を咲かせるとは限らない。


 朔は未だに幼子。修羅の道理に一縷の美意識を見出すにはまだ早い。
 これからの七夜を担う若者が壮絶な末路を迎えるのは、あまりに耐えがたい。年老いた翁には尚更若人の死は堪える。
 どんなに暗部で生きていようと、それが宿命づけられていようとも、生きてこそが華だ。それをちゃんと教えなければならない。伝えなくてはならない。
 それこそ老兵が後世に残せる最後のたむけだ。


 ……今宵を無事に乗り切れたのならば、説教の一つでもしなくてはいけないらしい。


 状況が切迫しているというのに、翁は僅かにほくそ笑んだ。皺がれた顔面が更にしわくちゃとなる。
 決して余裕から、ではない。そのような余裕など現在はない。
 だと言うのに、未来を想像している自分がおかして仕方がなかったのだ。
 今日さえ乗り越えられれば、安寧の日々が待っている。相手方を全滅させ、七夜は退魔を引いてなお今も健全であることを周囲に知らしめれば、接敵を許すことなどない。そうすれば、この暗がりの森の静かな生活が再び訪れるのだ。


 負けられない。断固として、負けるわけにはいかない。


 そう胸に決心を宿し、翁は更に加速した。出来るだけ俊敏に、なおかつ朔に負担をかけぬように。


 朔。


 老齢の翁からすれば里の子は皆自分の孫のように愛らしい。
 生憎と翁自身は子をもうけることは出来なかったが、子供の可愛らしさというものは七夜としては驚異的なまでに長命な翁からすれば熟知している。
 それでも朔は群を抜いて放って置けない。危うい部分がある、というのは事実だ。
 だがそれ以上に朔の逞しさと同時に持ち合わせた幼さはあまりに無垢なのだ。
 多少なりとも子供は悪戯心を覚えるものだが、朔にそれはない。まるで孤高であることを自ら望んでいるかのような振舞い、立ち位置は幼いという言葉だけでは内胞出来ぬほどに説明不可能。
 だから構いたくなる。その成長を見守ってしまいたくなる。老婆心、とでも呼べばいいのか。どうにも朔に対しては甘くも厳しい視線で対応してしまう。

 故にこんなところで死なせるわけにはいかない。

「朔様、もう少しの辛抱ですぞ。今しばらくその命、彼岸に持っていかれまするな」

 意識のない朔の胸の鼓動を感じながら、翁は疾走する。
 夜明けは未だ遠い。

 □□□

 ままならない。

 準備は不足なかったはずだ。懇切丁寧に不備がないよう何度も確認を行い、戦略を練った。武装を手配し、隊員たちと幾度も確認を行った。
 こうすれば上手くいく、しかしそれでは損耗が激しすぎる、ならばこれはどうか? と何度も何度も作戦を練り直しては今日に至った。

 今でもこちらに問題はなかった、と遠野槙久は頷ける。
 では何故こうも上手くいかない。

 各自散開した後に入ってくる情報はこちらが不利だと断ずるものばかりだった。先遣隊の全滅。遊撃部隊の壊滅。そして軋間紅摩の足止め。

 先遣隊の全滅は仕方がない。妖怪の助言を無視した結果である。その結果彼らは絶叫を木霊しながら亡骸と化していった。
 しかし、その犠牲があったからこそ妖怪の示唆した正規ルートの安全性を確認できた。だから彼らの死は決して無駄ではない。
 遊撃部隊の壊滅もまた想定した範囲内であった。
 今宵相手取るは最後まで退魔を生業とする魔の一族七夜。そう易々と懐に入れさせてくれるはずもない、と最初から知っていて槙久は遊撃部隊を使った。
 彼らは云わば囮だ。槙久最大の怨敵である七夜黄理を里からおびき寄せるための贄である。そして彼らは確かに任務を全うしたと言えるだろう。情報からは確かに七夜黄理が里から出撃し、巧みに遊撃部隊を潰したと連絡があった。
 ここまでは順調。将棋で歩が確実に敵陣地を蝕んでいくように上手くいっていた。

 だが、その後がいただけない。

「軋間は何をやっている!」

 苛立ちと焦燥に声を荒げる。しかし返ってくるのは彼の望んだ答えではない。

「はい、子供一人を相手取り今も尚交戦中とのこと……」
「何故だ! 何をあいつはたかだか子供一人を相手に手間取っているのだ!?」

 そう、こちらの最大戦力である軋間紅摩が未だ予定通りに進行していない。

 軋間紅摩は云わば小型の台風であり、蹂躙戦車だ。何もかもを踏破し、轢殺する重機。それこそが今宵槙久が選択した最大の決定打、策であった。

 軋間紅摩は一度解き放たれれば誰一人として止めることなど不可能。それほどまでの脅威。それほどまでの狂気である。
 だと言うのに、依然として軋間紅摩はこちらの予想に反して足止め状態。それもたった子供一人相手にである。

「糞、これではアイツを飼ってきた意味がないではないか……」

 憤懣のままに槙久は愚痴を溢す。それが周囲の隊員の士気を減退させる。
 何故斎木が滅んだ後に軋間紅摩を飼い殺しにしてきたのか。全ては今日のため。七夜への復讐のためである。
 確かに軋間紅摩は混血が生み出した狂気の凝固である。操作を見誤ればこちらに牙が剥かれてもおかしくはない。そんな相手を今日まで囲ってきた。内側にいつ炸裂するか知れぬ爆薬を抱えているようなものである。
 しかし、槙久は危険を顧みず軋間紅摩を引き取った。打算、妥協、脅威、恐怖、全てを飲み込んでだ。

 全ては七夜、強いては七夜黄理を討ち取るためだけにだ。

 槙久も阿呆ではない。自分が幾ら混血であろうとも七夜黄理に直接手を下せるのは不可能であろうことを彼は弁えていた。だからこそ七夜黄理を殺せるだけの実力を伴った相手が必要だった。
 集団では意味がない。それは過去の斎木が滅んだ日に証明されている。
 手引きがあったとは言え、七夜黄理はあの時その身一つで斎木邸に侵入し、一人一人確実に仕留めて遂には鏖殺した。群集のただなかであろうとも身を潜め、暗殺をなしていく冷酷なる殺人機械こそ七夜黄理。その脅威は槙久が充分承知している。何せ一時は槙久も黄理の暴走に巻き込まれ命危ぶまれた者なのだ。あの恐怖を、あの恥辱を忘れるはずがない。

 だからこそ最大戦力である軋間紅摩を七夜黄理にぶつける。
 七夜は魔に否応なく反応してしまう一族。あまりに濃い魔の気配に黄理は軋間紅摩の元へと釣られるはずだった。

 しかし、戦端が開かれたと聞いて詳細を知ればどうだろう。

 今現在軋間紅摩が相手取っているのはたった一人の子供。それも幼子と表しても過言ではない子供である。
 これには最初槙久も面食らったものだが、たかが子供一人だと高を食っていた。例え七夜の系譜であろうとも子供一人。軋間紅摩は幼子の手では有り余る存在。あっけなく潰されるのがおちだ、と槙久は思っていた。

 だが、二人の交差は今も尚続いているとの事。

 ありえない。そんな事、ありえるはずがないのだ。

 相手はあの軋間紅摩。混血の狂気を余す所なく受け継いだ絶滅種の一人である。幾ら七夜が人間を超越した練磨を行おうとも、太刀打ちできるはずもない。
 故に人間という範疇に収まる七夜の子供では容易に殺されるはずなのだ。そうでなければ、あまりにおかしい。何処で計算を間違えた。何処で考察を断絶させた。可能性、そう可能性を彼は軽んじたのだ。

 焦燥と腹の底から煮えわたる怒りに顔が歪む。体が震える。

 当初興奮と恐怖を綯い交ぜにして尚、槙久は勝てると踏んでいた。しかし蓋を開けてみればどうだろう。ままならぬ状況に歯噛みし、憤怒しているのは槙久ただ一人。今では樹木の匂いですら鼻について仕方がない。

 そう、思えばここは踏み入れた瞬間から気に入らなかった。七夜の根城、という理由だけではない。もっと根本の部分で槙久を揺さぶる。乱立する木立に空は遠く、月明かりのみが頼りの森。苔むした樹皮に、ぬかるんだ地面は鼻を背けたくなるような臭気を放っている。それが自然の香りだと分かっていても、受け入れがたい。周囲にはさきほどから何者かの気配がしてならないし、その度に神経がささくれる。最早全ての事象が槙久を嘲ているようにしか思えなかった。

 今宵は時間との勝負でもあった。夜明けが来ればこちらも引き返さなければならない。
 あくまでこの作戦は秘密裏、表沙汰にはされない極秘の任務なのだ。もし事が露見すれば、遠野の沽券に係わる。いや、露見ならまだ良い。もし失敗すれば遠野の権威は確実に減退し、槙久の地位も危うい。
 混血の系譜最大の当主が、消えうせる。それだけはあってはならない。何としても防がなくてはならない。

 過去に受けた汚辱の払拭。だから自分はここまで来たのだ。全ては七夜を打倒するためだけにやってきたのだ。危険を顧みず、ただ復讐のためだけに。

 故に、間違いなど自分は犯してはいない。そう槙久は断ずる。ただ単にこれは相手が無為な反抗を試みているに過ぎない。
 そうでなければ今頃七夜は滅び去っているのだ。ならば、その子供こそ七夜黄理に次ぐ実力者、ということだろう。

 あるいは、その子供こそがあの妖怪が連れ去ろうとしている七夜朔、なのだろうか?

 決定的な確証はどこにもない。しかし、あの軋間紅摩と対峙し今もまだ存命しているという時点でその可能性はある。
 ならば、ここで潰しておくべきか。妖怪との約束を反故にするとは言え、それは『できれば』の話だ。あまりに抵抗が激しく、自ら死へとまっしぐらに突撃しようとする短慮な者を保護するのは、当然ながら難しい。ならば言い訳は立つというもの。
 そも槙久は妖怪と交わした条件を満たそうなどと一抹も考えてもいないのだ。考えるべき優先事項は如何にして七夜を掃滅するか。そこに尽きる。

「槙久様。どうやら現場に変化が現われた様子」

 輩として連れてきた刀崎衆の一人が槙久に近寄り耳元で囁く。

「どうやら子供は敗退、その代わりに目標である七夜黄理が軋間紅摩との交戦を開始したとのことです」

「……そうか、ようやくか」

 それまでの憤りを飲み込んで、槙久は表面上冷静に頷く。

 だが、内心は忸怩たるものだ。あまりに展開が遅すぎる。どれもこれも最大戦力たる軋間紅摩が足止めを喰らっていたせいだ。
 ならば、それを果たした子供もまた速やかに殺しておかなければならないだろう。そして、その子供こそ七夜朔に違いないのだと確信する。

 やはり、幼くても七夜は七夜。殺す事に帰結した執念の鬼。

 微塵も容赦はしない、と槙久は動き始める。
 今や妖怪との約束など考慮するほどの価値さえもなかった。

 □□□

「おい朔! 聞こえるか!」

 朔が里へと無事に運び込まれた時、場は一時騒然と化した。
 何せ殆どの七夜は、朔は死んだものだと考えていたのである。幾ら戦場が七夜の森とは言え、闘いを知らぬ子供が勇み足で挑んでいいはずがない。
 それほどまでに鍛錬と実際の戦闘は異なる。己を過信しすぎた罰が下ったのだ、だから仕方がないと半ば朔の命を諦めたのが殆どだった。

 しかし、朔は戻ってきた。意識不明、左腕の損失という代償と引き換えに。

「触診の結果、左上部肋骨に罅が二箇所、完全骨折が鎖骨を含んで六ヶ所。粉砕骨折はありませんが周囲の筋肉が炎症の可能性あり。また膝の腱が損傷しているかもしれません。内臓は開いていないので何とも言えませんが肺の一部に打撲を負っているかと」

「骨折はとり合えず捨て置け。今は止血を急げ!」

「今やっています……っ! ああ、糞! 全然止まらない!?」

「何をやっている、縫合はせずに傷口を縛れ!」

「縫合をしないのですか!?」

「傷口が荒れすぎている! 縫合は現段階では不可能だ! 今は消毒と止血を最優先だ!」

 平屋の中、床に寝かされた朔を中心に多くの七夜が駆け回る。先ほどまでの緊張を孕んだ静寂が嘘だったかのように内部は火が点いたかのように騒々しい。
 火種は間違いなく朔だ。その朔は現在床に横たわっている。意識はない。当然である。
 ここに来るまで一体どれほど失血したのか想像がつかない。血の気の引いた肌はまるで物言わぬ死体のようでさえある。熱した湯を浸した手布で肌を拭えば身体には幾つものチアノーゼが浮かび上がっている。血が足りず、肉体に血液が回っていない証拠である。顔色は土気色。青い顔色はまるで死人。

 陣頭指揮をしつつ私は必死に朔の治療を行い、意識のない朔に呼びかける。無駄かもしれないが、意識が浮上さえすれば存命の可能性もある。
 ここに専門医はおらず、完璧な治癒を行えるほどの設備もない。故に今は里にあるもので治療を施さなければならない。
 素人目から見ても朔は重体だ。左上半身は完全に破壊されている。一体どのような攻撃を受けたのか、まるで野獣に噛み千切られたかのように左肩は筋肉繊維をこぼし、白骨が見えている。腕は回収されていないので、再び繋ぎ合わせる事はもう不可能と言って良い。
 意識は確認したが沈殿したままだ。ここに運び込まれた時、翁が言うには回収した時すでに意識は混濁していたとの事。これから浮上するかも怪しい。

 ……ここまで流された血の量を思えば、その目を開く事は二度とないかもしれない。


「喧しい! 造血剤はまだか!」


 一瞬弱気になりかける自分を罵倒し、嫌な予感を払拭する。今は未来を考えるのではなく、目の前で死にいく朔を蘇らせる事が重要なのだ。他の事など考える暇さえ惜しい。大事なのは今だ。今しかない。

 死なせはしない。死なせてたまるか。
 朔を死なせなどしない。そのためならば、例えこの身と引き換えにしても一向に構わない。

「造血剤持ってきました!」

「よし、投薬しろ!」

「お待ちください! 止血も完全に行われていない今投与すれば徒に出血が増すだけです!」

「そんな事分かってる。だが、このままでは失血死するだけだ!」

 そう叫んで造血剤を引っ手繰るように奪う。
 手の中に収められた瓶は、以前森の結界を強化するために呼び寄せた魔術師から買い付けたものだ。七夜は何かと物騒だ。専属医はいるにはいるが、今から召喚しても到底間に合うはずがない。故に常備薬として幾つかの魔術的薬品を購入していたのが今回功を成した。

 失われたものは戻りはしない。それは血液にしても同じだ。ならば今あるものを増やせばいい。朔の体内に現存している血液に薬を浸透させ、内臓乃至脊髄を強引に活性化させることで造血細胞を無理矢理作り上げるのだ。

 しかし、即効性の薬と言うだけあり、これは劇薬だ。

 肉体に負荷をかけ、失ったものを再び増加させていく。そのためのエネルギーを身体から搾り取り、心臓に負担をかけなければならない。
 衰弱している身体を更に酷使させるのだ。重体の朔にはあまりに酷な選択である。だが、選択肢は一つしかない。医者のもとへ向かうまでに朔の命の灯火が消えるかもしれない。
 ならば治療だけ行えば良いのかと言えば、そうではない。血が足りないという事は脳に血が周らない可能性もあるのだ。そうすれば最悪後遺症を残すかもしれない。
 それはいけない。であれば、今自分たちがすべき事は抜本からの治癒。血液を増やすという荒業である。

 死人に鞭を打つような所業だ。無論、服用すれば暫く身体を動かす事は出来ない。
 最早身動ぎひとつ出来ぬ子供なのである。最後の一滴までも力を振り絞って血液を作り上げる過程には激痛が伴う。
 それに朔の肉体が耐えられなければ、絶命の可能性さえもある。故にこれはある意味賭けだ。

 ただ、賭けるだけの価値はある。


「……朔」


 後頭部に腕を回し、朔の頭を持ち上げる。
 意識を失った瞳は青々としてがらんどう。輝くこともなく、虚空を思わすような蒼だ。生者の放つ色合いではない。まるで死人のような瞳である。身体も冷たい。

 だが、このまま死なせるわけにはいかない。自分は朔の傍に在り続けると決めたのだ。誓いを果たさなければならないのだ。約束を守り通さなければならないのだ。
 そのための覚悟は疾うに決めた。弱さを嘆いているだけの自分は押し殺した。

 私は弱かった。長兄に抱いた恐怖、朔に抱いた不安、兄に抱いた不満。全てもとをただせば自分を棚に上げた感情でしかなかった。
 それを気付きもせず、自分は自分が楽な道を選んで歩いてきたのだ。なんと厚かましい女だろう。思わず自嘲が浮かぶ。

 朔を信じきることが出来なかった莫迦な女だ。どうしようもなく愚かだ。

 けれど今は全てを飲み込まなければならない。朔が再び意識を取り戻した時、その時に告解しなければいけない。


「戻ってくるのです。死の淵になど行かせはしません」


 ひとつの決意を瞳に宿し、瓶の蓋を開けて口に含む。形容し難い味が口内を蹂躙する。苦味と酸味、そして甘みとえぐみが合わさったかのような酷い味である。

 しかし、これで朔は救われるのだ。


「……ん」


 閉ざされていた朔の唇に口付け、にゅるりと舌を捻じ込み、咽喉を開かせる。舌根が咽喉に落ちないように舌を絡ませて、薬を流し込んでいった。

 始めて味わう朔の口内に背筋が痺れた。甘くはなく、寧ろ苦味しか残らない接吻だった。けれど、こんな時でありながら、結果的に朔と口付けを交わして女としての自分が燃え上がった。腹の底が締め付けられて熱くなる。脳内まで麻痺していくような陶酔感に暫し己を失いそうになる。周囲の目すら同でも良くなり、まるで世界にたった二人だけしかいないような錯覚に溺れそうになる。

「ん、むぅ……?」

 甘美な交わりの中、舌先に違和感を覚える。何か硬いものが奥のほうにあった。柔らかな口内に小さな鉱石のようなものが転がっている。もしかしたら、と逡巡し更に奥へと舌を入れていく。唾液と血、そして造血剤が混ざった口内は今蛇が絡みあうかのように淫靡だった。あまりに場違いな感慨を抱きながら、舌先で歯茎をなぞる様に伝っていき、奥歯の辺りへと侵入していく。そして、ようやくそれを見つけ出し、慎重に自分の口の中へと運んでいく。

 唇を離す。緊急事態で在りながら、私は暫し酔いしれた。生涯始めて接吻を許したのである。それも意中の相手と。年齢で考えればあまりに初心なのかもしれない。しかし、唇が離れあった際に伝った唾液は更なる欲情を駆り立てる。ぬめる唾は互いを繋げる架け橋だった。

 そして口内からそれを吐き出す。小さく、赤に塗れた破片。掌に転がっていたのは奥歯の欠片だった。縦から亀裂が走っている事から、顎を噛み締めた結果割れたようだ。

 この欠片と朔の重体具合から察して、彼は修羅場を潜り抜けたのだと容易に推察できた。それも飛び切りの地獄を相手にしてきて、生還したのだ。

 なんと言う誉れだろう。賞賛して然るべき事なのかもしれない。

 だが、曲がりにも母として、またこの小さな少年に人生を捧げると誓った女としては表情が曇る。
 七夜はともすれば死と生の合間を渡り歩く一族。いつ屍を晒しても可笑しくないのは事実。死中に生を見出した者達の結晶こそ朔なのだ。
 蒼い瞳がその証明だ。朔は死に瀕して更なる飛躍を遂げたのだ。七夜の神髄、淨眼を発眼させたのである。
 どうして止めることが出来ようか。私には朔を叱るべき権利も、止める術ももっていない。しかし、もし朔がこの戦場を生き残ることができたなら、……とその時、朔の身体が痙攣を始めた。


「朔!?」


 劇的な速さで、死に掛けの顔が血色を取り戻していく。それまで微弱だった心臓の鼓動が太鼓を乱打するかのように高鳴り、今にも破裂してしまいそうだった。
 すると今までの冷たさが嘘だったかのように身体が熱を発し、命を生かそうと全身が脈打つ。まるで新生児のように体が燃える。
 どうやら増血剤の効果は私の想像以上だったらしい。魔術には疎くとも目前に現われた効能を思えば、まやかし以上の効果を発揮するらしい。

 驚嘆と朔が峠を越えた安心に全身から力が抜ける。


「安心するのはまだ早いです」


「義姉さま……」


 ふと緊張の糸が切れた私に、左肩の止血を担当していた義姉さまが叱咤するように声を張る。額には汗を浮かべながら、懸命に糸を肩部へと巻きつけている。雑多な手段ではあるが現段階では的確な処置だ。

「今はまだあの人が戦線を保っていますが、もしあの人の手から逃れて里へと侵攻する者がいたなら、私たちで応戦するしかありません」

「……それは」

 暗に、朔を戦線に復帰させる可能性を述べて義姉さまは私へと視線を向ける。

「酷な事かもしれません。しかし、現状はそんな事を許してくれません。無論、他の七夜が出撃する事が前提ですが、朔もまたその一人と考えておいてください」

「しかし、朔は現在意識もなく重体の身です! これ以上は無理です!」

「もしも、の話です。朔がこのような有様になったという事は、朔以上の存在がいたと言う証左。今はあの人が相手をしていますが……」

 それ以降、義姉さまは言葉を濁した。
 成長著しく、鬼の子とまことしやかに囁かれる朔が倒されたのである。大人の七夜ですら追い抜いた朔を倒した相手がいるのであるのならば、それは確実に里の脅威となる。

 よもや今宵の襲撃者達はとんでもない化物でも引き連れてやってきたのか。

 戦いとは縁のない身の上である私には推測する事しか出来ない。だが、その可能性は極めて高い。ここは七夜の生まれ故郷。鬱蒼とした森に配置された罠と、視界を邪魔するように乱立する樹木。地の利はこちらにある。幾ら数では負けているとは言えども、早々敗退する事はない。
 つまり、相手にはこちらの優位を覆すほどの存在がいるに他ならない。朔の状態がそれを示している。なればこそ、朔がそのような相手と対峙して生き延びた事実は感嘆の一言に尽きる。

 危惧はある。それも飛び切りのだ。もしかすれば七夜最大戦力である兄さまでさえ敵わないほどの存在が相手方にいるかもしれないのだ。

「先ほどあの人の下へと戻った翁の言によれば、決して油断してはならない怪物がいるようです。私たちも相応の覚悟をしておいたほうがよろしいようですね」

 一抹の不安を切り捨てるように義姉さまは昂然と言い切る。私は朔を胸に抱いたまま、無言で頷いた。

 思うところもある。こんな自分では戦力にはならないであろう惨めさと、朔を再び戦線に復帰させるかもしれない予感を噛み締める。
 本当ならば嫌なのだ。今すぐ全てが終わって欲しい。何もかも消えて無くなってしまえばいい。私はただ朔と共に静かに生きていたいだけなのだ。この森で。何の変化も何の諍いもない、この静かで暗い森の中で。
 けれど、そんなささやかな幸福を願うほど、状況は許してはくれないという事ぐらい、承知していた。
 まずは止血を行い、その後に砕けた骨の処理を行わなければならない。そして朔は再び目を覚ますだろう。そして朔は敵陣へと自ら赴くだろう。そんな朔を留めることなど、私には出来ない。ただその後姿に追い縋るだけで精一杯になる。溢れる涙を抑えるのに必死となるのだ。と、その報は止血作業に粗方目処が立ち、暫しの安息が漂い始めた頃合だった。

「奥方さま!」

「声を荒げるな! 怪我人がいるんだぞっ!」

 悲鳴のような声を上げ、血相を変え七夜の一人が屋内へと駆ける。思わず叱責してしまったが、顔を良く見れば青ざめ、冷や汗をかいている。尋常な様子ではなかった。
 
「どうしましたか?」

 何かを感じたのだろう、義姉さまは努めて冷静に問う。そして七夜は暫し呼吸を整え、しかし抑えきれぬ語気に声音を震わせた。

「そ、外に混血が……っ!」

 命が萎縮した。心臓を鷲掴みにされた気がした。

 頭から血が失われていく感覚に、まるで足元の床がなくなってしまったような錯覚に囚われる。地底すらもない、底抜けの暗黒へと飲み込まれていく。

 混血が、里に到来した。

 その事実は風よりも速く七夜を動かした。直ちに皆武装し、外へと駆け出す。大人子供関係なく。
 義姉さまもその一人だった。
 暗器は手にしなかったが、状況を見極めるため颯爽と駆け抜けた。いざと言う時の陣頭指揮は義姉さまが受け持つ。普段のやんわりとして雰囲気が嘘のように張り詰めた空気を漂わせながら。

 私は、部屋に取り残され、ただ呆然としていた。


 混血が、里に?


 信じられない。信じたくない。森を網羅する罠を潜り抜け、突然変異した動植物たちの襲撃を凌ぎ、更には兄さまの暗殺から逃れた存在がいるというのか。
 ぐわんぐわん、と頭が揺れて視界が歪む。骨髄から冷たい水銀でも流し込まれたような冷気に身体が芯から震えだす。圧倒的事実に理性が逃げ出そうと叫びだす。 どうせ偽電だったのだ、と無理矢理現実から目を背けたくなる。
 だけど、全ては最早激流に飲み込まれた一片の花びらのように、私と言う存在を遍く飲み干して動く。


「ひひ……、ようやっと見つけたぞぉ、朔」


 軋む。世界が罅割れ軋んでいく。

 それはまるで長年放置された刀が鞘から抜かれるようにざらつき、周囲に敵意を放つ妖刀と化してしまったかのような声音だった。
 いや、人の声というにはあまりに雑音過ぎて、鳴き声と称したほうが適切だったかもしれない。耳朶がそれを聞いて背筋に蟲が這いまわるようなおぞましさと寒気で身震いがした。

 思わず、声のした箇所へと振り向く。


「おまっとうさん、とでも言うべきかぁ? ひひ、遠路遥々来たかいがあるってもんだ」


 目を見開く。恐らく、瞳孔まで開いていただろう。

 そこには、妖怪のような老人が扉を背に屹立していた。

 周囲を七夜に囲まれてなお余裕綽綽。ぎらついた殺意に晒されても磊々落々。豪胆に長すぎる腕を組み、魚眼のようにひん剥かれた眼で厭らしくこちらを見て、邪悪に笑う。狡猾な笑みではない。ただただ純粋なまでの悪意と歓喜でもってその眼は嗤っていた。


「いよう朔、久方ぶりだなあ」


 七夜の里から追放されたはずの刀崎棟梁、刀崎梟はそこにいるのが当然のように犬歯を剥き、舌なめずりをした。

















 以下血迷ったNG
 口移しによる造血剤の投与を終え一息ついた時、しんとした異様な静けさが舞い降りた。

「――――、何をしている、お前ら」

 周囲を見渡すと七夜の者らが気まずげに、それでいて表情はによによとさせながら私たちを見つめている。まるで幸福な者へと送る祝福の眼差しのような視線である。

「ええっとですね?」

「何でしょうか義姉さま」

 傍らで止血を手伝っていた義姉さまが手を止めて、私へと微妙に困ったような顔を向けてくる。一体なんだというのか。私にはまるで理解が出来ない。けれど、次に義姉さまが放った言葉は射られた弓矢のように私を貫いた。

「その……朔はまだ早いと思うのですけれど……」

「――――? 義姉さま、何を言って……ッ!?」

 ようやく得心がたどり着く。そして瞬時に理解が追いついた。慌ててその場にいる七夜を見回すが、各々「やっとこさ契りを結ぶ相手を選びましたか」「しかし朔様は未だ幼い。精通もまだなはず。子種はまだであろうなぁ」「いき遅れ、か……」「何の、愛さえあれば関係ありません!」「……えっちいのはいけないと思います」などと好き勝手にのたまっている。

 顔が急激に赤面していくのがわかる。きっと今の私は茹でた蛸よりも赤い顔をしているに違いない。血の気が引いているはずなのに、身体はどこまでも正直であった。

 嗚呼、私は見られたのだ。仕方が無かったとはいえ、朔との初めての接吻を!

 初心な口付けを、衆目に晒したのだ!

 莫迦だ莫迦だと自分自身思っていたが、まさかこれほどまで阿呆だとは思っていなかった。いつもの冷静な私はどこに消えてしまった。こんな失態を犯すなど、ありえないではないか。

 混沌が忍び寄る心を落ち着かせようと、自然に力が込められた全身は、腕の中にいた朔を熱く抱擁するような形となってしまった。全てが裏目に出る。

「「「おおぉおおおっ!」」」
「ええい、五月蝿いぞ貴様ら!?」
「……あのお、朔の止血が終わりましたよ?」
「「「あ」」」

 何か雰囲気が色々とぶち壊れた。

 その後、なんやかんやで遠野の襲撃を退けた後、幾数年か経って逞しく成長した少年と恥を捨てきれない初心な女性の祝言が盛大に執り行われたとか、なんとか。


 終われ。

 
 後書き
 Sky is over=天国は終わる



[34379] 第十四話 崩落の砂時計
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2013/06/29 18:01
 女――――彼女はそう呼ばれ続けた。そして、彼女を表すにはそれだけで充分だった。


 生まれ持った名前はある。記号として与えられた他と区別する彼女だけの名。しかし、七夜という社会の暗部を跋扈する一族にとって、彼女の名前は不要だった。表沙汰にされることのない混血の処理を担当するために暗殺術を磨き続ける。故に個性などは無用だった。
 更に女性として生を受けた事も重要だった。一族の血脈を紡ぐための胎盤。それが彼女に与えられ、全うすべき使命だった。長い歴史を持った一族を絶やさないため、続きの続きのために、伴侶と添い遂げ、純血を捧げ、胎に子供を宿す。それが、それだけが彼女の役目だった。


 故に彼女は女、あるいは奥方としか呼ばれた事がない。次第に彼女自身、自分の名前を忘れた。胎盤でしかないのならば、名前に意味などなかった。そう思った。


 それを人はどう見るだろう。哀れと呼ぶか。それとも浅はかだと見るか。


 どちらでも女は構わなかった。人間社会から隔絶され、一般常識から乖離した生活を送る彼女にとっては世間の目など些事でしかなかったし、役目さえ全うすれば良い。モラルは無用、道徳など噴飯ものだ。近親相姦で命を繋ぐ者達に常識など無意味。だから彼女はただの女だった。無論、そこに当主の伴侶である、という付加価値はつくけれど。
 だけど、それが一体何なのだろうか。自分は当主の女、でしかない。それ以上でも、それ以下でもない。当主の伴侶だから、という理由で何かしらの権限を貰える訳ではなく、優遇される訳でもなく、他の何者でもなく、女はただ女だった。
 同年代の女と会話に花を咲かせることもなければ、蝶よ華よと愛でられることもなく、化粧に憧憬を抱くこともなく、恋に身を焦がす事もない。子を宿せる年齢になれば、子を宿さなければならない。いっそそれは宿命とさえ形容できる一族の掟だった。
 勿論、彼女は掟に従順だった。抗う理由は何処にも無かったし、当主と身を結ぶと考慮すればこれで良かったのだ、と思えた。幸い今代の当主は寡黙で理性的であったし、役目を全うすれば少なくとも不遇な扱いは受けなくて済む、という打算が無かったと言えば嘘になるが。


 そんな風に女は生きてきた。抗う事無く、逆らう事無く、流れに身を任せ、甘受する。そこに己が意志を挟む余地などなかった。寧ろ、これが当然なのだと思っていた。
 現代社会とは隔絶した森の奥深くで、暗殺の術理を会得し、次代へとそれを紡ぐ。七夜は群体で蠢く生物なのだと、幼いうちに弁えていた。


 しかし、それを覆した者がいた。
 今代の当主であり、女にとっては夫である七夜黄理である。


 彼は息子が誕生すると同時に退魔組織からの脱退を決定したのである。揺ぎ無く続いた七夜の歴史に一つの楔を打ち込んだのだ。そして七夜は困惑の渦中に陥った。


 七夜は退魔、混血への抑止力として活動し呼吸する一族だ。つまり七夜は退魔であるのが大前提で、退魔を家業とするのが当然の事だったのである。否、退魔であるのが七夜であると自負し、己の成すべき事だと認識していたのだ。彼らの当惑も無理からぬことだった。退魔から抜けて今後どう食い扶持を繋ぐか、他の勢力とどう折り合いをつけるか。


 そも、どうやって生きるべきか。
 そんな当然で、当たり前の事が、七夜には分からなかった。


 無論、そこに女もいた。退魔は七夜の生き様であり、殺しを極めてこその七夜である。そのような人生観を幼少から訊き育ってきたのだ。それが突然一変したのである。
 当初、女は一連の動きに自分にこそ責任があるのではないのか、と自責した。自分が子供を産まなければこのような事態にならなかったのではないのか、と苦悩した。そして当主の思惑が分からず、ただ事態を見守る他なかった。女もまた七夜の一族の末端に連なる者として、せめて一族がどうなっていくのかを見極めんとした。
 そうして七夜の殆どを置き去りにして、当主は退魔組織からの脱退を宣言した。
 不安がなかったと言えば嘘になる。ある意味過去に縛られて生きてきた一族が、改めて未来を切り開く。雲を掻き分けるように暗中模索だった。


 しかし、一年が過ぎ、二年が瞬く間に過ぎた。


 するとどうだろう。静寂に包まれた暗い森の中で息を殺して生きてきた一族に変化が起きた。大人たちは暗器を捨て農具を握って田畑を耕した。子供たちは訓練を止め、遊ぶようになり、大声をあげてはしゃぎ回った。殺伐とした雰囲気は何処かへと消え去り、安穏の日々が訪れた。
 人里離れた森の中にある集落である。当然文明機器など保持していないし、電化製品なんて誰も所有していない。まるで古めかしい村落のような生活だ。だが、誰もがこれを良しとして受け入れた。
 これを女は流石だと当主を賞賛した。これを自分の夫は予見していたのだと、確信した。見渡せば一族たちの表情から暗い影は消え去り、皆朗らかな笑みを浮かべている。夫は皆に新たな『幸福』を与えたのだ、と女は思った。


 そして女もまたその一人だった。人形でしかなかった自分が、命令をただ受け入れるだけでしかなかった自分が胎を痛めて産んだ我が子を荒事に、血生臭い戦場に送り出さなくて良くなったのだ。幾度、夫が依頼と称して暗殺に向かう後姿を切なく見送っただろう。もし夫が死んでしまったら、と夜中に怖くて眠れなくなる日々もあった。それを我が子に強いる必要がなくなった。女として、母としてこれ以上の幸福はないだろう。安易に死が訪れない生活、身内が亡くなる可能性が格段に減った事実。故に当主の、ひいては夫への信頼は不動なるものに変動した。否、それは最早信仰と称しても過言ではない。信じ仰ぎ見る。揺ぎ無く、怯み無く、泰然と屹立しながら前へと進む後姿のなんと頼もしき事か。あの背中こそ自分たちが信じ、縋るべき姿なのだと確信した。
 ならば、自分は役割を果たすだけだ。子供を健やかに育て、家庭を守って夫を安心させる。例え名前を忘れても、名前で呼ばれなくても、当主に頼られなくても、妻として母としての勤めだけは果たしてみせる。それこそ夫への信仰の証になるだろう、と全うした。
 疑問は浮かばなかった。崇敬する当主が示した道標を歩むのに疑念を挟む理由がどこにあるだろう。過酷だった道のりは緩やかに、険しい道程は穏やかになったのである。女は自信を持ってその同道を闊歩した。


 しかし、ひとつの杞憂があった。


 真っ直ぐに前を見つめていれば気にするべくもないただのしこり。しかし、どうしても注意せざるを得ない存在がいた。


 夫の兄、身内殺しを行い名前を排された忌むべき者が最後に残した種、七夜朔。


 本来ならば隔離され、冷遇される身の上でしかなかった子供に何故か夫が目をつけたのである。
 最初はほんの気まぐれだろうと思い込もうとした。過去の残り香を嗅ぎ、朔に自分が殺した兄の影を重ねているのだろうと。


 だが、夫の少年に対する熱の入れようは度を逸していた。苛烈極まりない修練を朔に施し、実子である志貴以上の扱いを施したのだ。ただでさえ当主自ら鍛錬を教授することが異例であるのに、それが朔だという事に女は理不尽さえ感じた。何故志貴ではなく朔なのか。何故志貴だけではなく朔もなのか。更には秘密裏に養子縁組の手筈まで組まれようとしていたのである。何と不可解な事だろう。女には理解できなかった。
 七夜朔は過去の遺物だ。今の七夜には不必要な存在である。幾ら外敵から里を守る尖兵となるため手解きを行おうとも、退魔組織から抜けた七夜に一族の業は不要なのだ。それを律儀に貫き通す朔は最早理解の範疇外でしかない。
 ただ、それでも夫に尽そうと決めた。それほどまでに彼女の信仰は揺るがないものだった。
 しかし、いや、その信仰ゆえにだろう、女には許せぬ虚言が里で実しやかに流れていた。


 曰く、七夜朔は『鬼の子』である。


 これが鬼子であるという噂話であったなら許容できた。朔は異様極まりない子供である事は周知の事実である。幼き頃より当主の手解きをこなし、あまつさえ最早大の大人ですら敵わないその修練度は暴虐の血を引く彼らであっても見過ごせぬ事態であった。
 けれど、女の琴線に触れたのは、その噂の尾鰭に七夜朔こそ当主が見出した後継者である、というものだった。
 七夜の一族はその手腕によって当主の座を決める。決して世襲制ではなく、ただ実力でもって当主に選ばれるのだ。故に早くに子供を生み、その中から生え抜きの才能を見出して英才教育を施し、当主の座を譲るのである。もともと何時絶命するか分からぬ生業に務めていたからか、早々に次代を育てるのだ。しかし、何事にも競争相手が必要不可欠。互いに競い合い、鎬を削りあう同士が必要なのだ。だから女も子供を産んだ。当主の血を引き継ぐ者の誕生に誰もが祝福した。あの無口な夫からすらもお褒めの言葉を頂戴したのだ。
 しかし、それが今ではどうだろう。
 何故誰からも祝福されなかった朔が次期当主として見出されるのか。確かに実力は折り紙つきだろう。同年代では比べ物にはならない力量を収めているのは、悔しいが認めざるを得ない。だが、朔はあの夫の兄の血を引いた子供なのだ。いつ暴発するともしれぬ炸薬に等しい。事実、刀崎襲来の際にその片鱗を彼は見せている。あまりある狂暴性は夫手ずから納められたものの、その危険性に変わりは無い。
 故に夫以外からの隔離施行令は妥当なものだと判断できた。あんな危うい存在がいていいはずも無いし、そも志貴と戯れる事など断じて許せるものではないのだ。


 しかし、それでも消えぬ朔の次期当主の噂。女には望外の事態だった。いっそ青天の霹靂と形容してもいい。そして一族の者や相談役の翁に話を聞いてみれば、なんと朔が当主に納まるのは殆ど確実視されているのだとか。


 どうしてだ。単純にそう思う。


 朔は陰惨極まりない過去の遺物でしかない。血生臭い生活からやっと抜け出したというのに、今更そんな殺伐とした殺し合いの生活に戻るというのか。遡れば、朔の父は出産したばかりの片割れを殺し、身内殺しとして禁忌を破ったのだ。その実子である朔が畏れられながらも着目される事実。それの何と滑稽な事か。皆忘れてしまったのか。あの忌まわしき存在を。血に狂った獣を。血肉を浴びながら夜空に咆哮する悪魔を。そんな、そんな者の血を引いた子供を次期当主に?
 可笑しな話だ。歯車がかみ合っていない。本来であるのならば志貴が次期当主になるはずなのに、何故それよりも皆朔を囃したてるのか。あれは過ぎ去った時間の名残に過ぎないのだ。
 煩悶が煩悶を呼び込んで、内側でとぐろを巻く不満はまるで魔女の釜の底の如く。
 疑問は疑惑へと羽化し、ぐるぐると回転しながら産声を上げるのを待っている。声を大にして叫びたい。何かがおかしいと、何かが間違っていると言いたい。けれど言えない。自分はあくまで当主の女というだけの存在だけでしかなく、そんな発言権など持っていない。逃げ道の見えぬ思考は何時しか沈殿して螺旋し、波紋すら飲み込んで混沌と化していく。自分自身でも把握できない感情が今にも爆発しそうだ。
 しかし、それを偽って微笑みの仮面を被り続けた。余計な事は言わぬが仏。そう言い聞かせながら。だから表出しない。だからこそ誰に読み取れない。
 そうして気付くのだ。
 幾つもの枝を伸ばした可能性を反芻して、星のように小さい煌きを見せる希望を追い求めて。


 嗚呼、と。
 私は――――。


□□□


 かちかちかちかち。


 空気が軋んだ。歪み、音に触れた物体が剥がれ落ちかけた。歪み、嗄れ、金属が無理矢理に押し曲げられ、思わず耳を塞ぎたくなる様な、悲鳴にも似た、声。そう、声だ。声、なのである。決して鳴き声でも、音でもない。いや、音であったならばどれほど良かった事か。その音声が人間の笑い声だと気付くのに、少しばかりの労苦が必要だった。胸元を掻き毟りたくなるようなそれは、確かに人の言葉を乗せた声だった。


「幾久しく、……ってえ所かい? ええ? おい?」


 かちかちかちかち。


 それは唇をだらしなく歪ませながら、だらしのない笑みを浮かべる。身の丈は見上げるほど、筋骨隆々でありながら、異様に長い手足が擦り切れた着物から伸びて、猛禽のようにぎょろりとした瞳は伝承に残る妖怪を思わせる姿。そいつが喋っている。人の言葉を喋っている。唇を動かし、舌を操っている。


「半年ぐらい、か? 長かった気もするが、会ってみればそんなものなんでもねえな。ひひ」


 瞠目。驚愕。困惑。様々な視線を受けても妖怪は長すぎる両腕を組みながら悠々と屹立していた。まるで自分がここにいるのが当然であるかのように、その表情は不遜。いっそ大胆不敵とさえ見て取れる。だからこそ七夜の者達は当惑していた。


 遠野分家刀崎衆棟梁、刀崎梟が何故ここにいるのか。


 前線は当主が、そしてその他の獣道は一族の者しか知らぬ罠が張り巡らされ、一歩間違えれば結界によって進化した肉食動植物によって蹂躙される。まずもって五体満足で生存する事は不可能に近い。では、どうやってここにやってこれたのか。
いや、最早そのような事はどうでも良い。重要なのは刀崎梟という混血が里にいるという事実だ。


 かちかちかちかち。


 今気付いた。先ほどから聞こえてくる音は私が震えて歯を鳴らしていた音だった。
 だって、混血がここに来れるはずがないのだ。混血がここにいられるはずがないのだ。そう言い聞かせながらも事実は変わらない。今、私たちの目前には混血がいて、にたにたと嗤っている。薄汚い黄ばんだ歯を剥き出しにして、哂っている。
 恐怖。困惑。畏怖。侮蔑。憎悪。悪意。殺意。恐慌。嘲笑。委縮。汚濁。
 ありとあらゆる感情が混濁して肉体を支配する。生命が、血肉が、根本から拒絶反応を示していた。


 混血、混血、混血――――!


「う、ああ」
 気配に気圧され、呻き声が漏れる。
 姿形が、造型が、声音が、精神が、魂魄が、気配が、存在そのものが。
 混血を構成するあらゆるものが酷く饐えた臭いを放ち、私を捉える。
 私を飲み込もうとする。私が私でいられなくなる。


 がちがちがちがち。


 震えが止まらない。骨が軋むほどに筋肉が収縮している。


「ん? 手前は確か、糞餓鬼の妹だったか。その様子だと相も変わらずみてえだなあ」


 魚眼をぎょろぎょろと動かし、わざとらしく腕を広げて混血が歩み寄り、床板を踏みしめる。誰も彼を止めようとしない。否、止められない。今宵の一戦において刀崎梟の登場はあまりに不可解であるのもそうだし、その彼がここにいるのが未だ信じられなかったのだ。私は一歩一歩、ゆっくりと歩み寄る梟に震えるばかりだった。


「はん、今は手前なんざに興味ねえ。なあんもしねえよ」


 語尾に嘲笑を混ぜ合わせて、視線が私から反らされる。
 その視線の先には、意識を失い横たわったままの朔がいた。


「ほうほう、腕一本で生還したか。こりゃこりゃ一体全体、ひひ、ひ……予想以上と言うべきか」


 興味深げに近づく梟の眼に熱情が灯る。まるで恋い慕う者を想うかのように。何とも似合わぬ不気味な表情。思わず恐怖を押し殺して策を庇うように梟の眼前に立ちはだかった。


「しっかし、あんの糞餓鬼。随分と派手にやってくれたもんだ。ええ、おい?」


 だけど、妖怪は私など最初からいないかのように呟く。
 周囲の殺気が篭った視線などまるで眼中に無いかのように、梟の独白がここにいない誰かへと投げかけられる。恐らくは朔が今宵対峙し、そして重傷を負わせた者にだろう。言葉の端に憎悪すら滲ませて、罵倒する。


「ああ、糞、糞! あの餓鬼め。しかもまだ足りねえだと? どんだけ餓えていやがる。蛆でも脳に沸いたか莫迦野朗、くそったれめ。鍛造する前だったから良かったもんだが、腕一本はでけえな。いや、寧ろ腕一本で済まされた事の方が幸いか。死んでねえ事こそ僥倖と見るべきか? 何とか回収は出来たと訊いてるからどうにかできるけどよう」


 ぶつぶつぶつぶつ、と何者も視界に入っていないかのように、私たち七夜など最初からいないかのように梟の独白は加速して止まらない。


「人形師を頼るか? いや、そっちには伝がねえ。こうなりゃ腕一本だけで揮えるように拵えるべきだろうな。じゃあ、感応者を使う? いや、確かあそこは没落したと訊くな。……いや、待てよ? そういやあいつ、確か巫淨分家筋の餓鬼を何人か引き取ったと言ってたな。それを使って肉体治癒を最優先させて、腕をくっつける。……いや、無理だ。繋がってねえものを繋げるのは感応の芸当じゃ無理だ。部分的な問題としてそもそも生命力を増幅させるものであって離れた部品を再度くっ付けるにはお門違いが――――」


「……よろしいですか?」


 段々と熱を帯び始めていた梟の独白を義姉様が断ち切る。その視線は鋭い。表情もまた鬼気迫るものがあり、義姉様のそのような表情は今まで一度も見たことがなかった。


「何故あなたがここにいるのかは知りません。何故あなたがここに来れたのかも知りません。……しかし、ひとつだけ答えてください。今宵、あなたは私たちの敵ですか?」


 義姉様の言葉に呼応して、屋内にいる七夜たちの踵が床から離れる。軽い爪先立ちの体勢は今にも獲物に飛び掛る獣のよう。それほどまでの殺気が渦巻いていて、呼吸が少し苦しい。けれど、それも致し方なし。ここにいるのは兄様には劣るものの立派な七夜だ。眼前に目標がいれば声も上げさせずに暗殺する事ぐらいわけない。事実、梟の答え次第では屋内の七夜が殺到して彼を完膚なきまでに解体するだろう。だが、それが未だに実行されていないのは、一重に義姉様がいるからだ。兄様が現在おらず、翁もまた兄様の救援に向かった以上暫定的な取り纏め役は義姉様となる。その義姉様が未だ指示を出していたのだ。もし、ここに義姉様がいなければ、とっくの疾うに梟は物言わぬ亡骸となっていたはずだ。
 私としてはそれが望ましい。今眼前に屹立する混血は何か良からぬ雰囲気がある。上手く言葉では説明できない危機感。でなければ敵陣のど真ん中に登場できるはずがない。


「ん、手前は。あー確か、黄理の女だったか」


 しかし梟は総勢十名以上の七夜を相手にして余裕綽々。緊張に身を強ばらせる事なく、怯えに総身を震わせる事無く、不遜に鼻を鳴らした。


「は、俺はなんでもねえよ。あんたらの敵かと言えば敵だし、敵じゃないと言えば敵じゃない。云わば傍観者ってえ所か妥当か。ま、第一俺は混血で、手前らは七夜だ。そんな判断、生まれる前から決められていた定めだとわかってただろうが」
「……っ」


 義姉様の問いに傲慢とさえ取れる言質で答えた。これは明確な敵対宣言だった。故に七夜の者が足元を踏み込み、多方面から奇襲を仕掛けようとして。


「ちょい待て」


 梟の長い掌に皆が制止する。今か今かと襲い掛かろうとしていた七夜を止める。今や平屋は梟の独壇場だった。彼が支配し、彼が操る。いつの間にか、私たちは魔に飲み込まれていた。


「なあに、敵かどうかの判断はどうでも良い。そうさ、そんな瑣末どうでもいいことだ。俺はな、提案を持ちかけてきたんだ」
「……提案、ですか?」


 恐る恐る、その一挙一足を見逃さぬように義姉様が問いかける。


「応、それ次第によっちゃ七夜は生き残れる。皆無事にな」
「……そんな莫迦な事が」
「これがありえるんだなあ。ひひ、ひ……何せ槙久の野朗には何かと借りがある。条件を飲み込ませる自信はあるぜ。どうだ、悪くねえ話だと思わねえか」


 気軽に、まるで歌舞伎役者のように朗々と響く声音で梟が告ぐ。しかし、あまりにわざとらしすぎる。何かの罠ではないのかと勘ぐる。ちらりと義姉様を見やれば、相手方の出方を窺って言う様子。
 相手が敵ならば、増してや魔の血を引く混血であるならば問答無用で殺してしまえばいい。だが、誰も梟に奇襲をかけない。梟が発する邪悪な気配はあらゆる手段が通じない何かを持っていた。そして何か良くないものを滲ませながら、梟は何とはなしに紡ぐ。


「話がわかってんじゃねえか。そりゃそうだ、賢しくなければ生きていけねえ。んでだ、提案は大した事じゃねえ。ほんのちょっとした事だ。


 ――――七夜朔の身柄を俺に寄越しな」

 驚愕に七夜の意識が凍る。想定していなかった事態に皆が動揺していた。

「何を、言っているんだ貴様……ッ!」
 呼吸さえ苦しい最中、喘ぐように叫ぶ。咄嗟に叫んだ声は掠れて、息苦しい。
「何、何を? そりゃ手前、この状況を打破するための一手よ。現状遠野に攻め寄られ、最大戦力の糞餓鬼は紅赤朱に手間取ってる。ま、言ってみりゃ情勢は芳しくねえ。糞餓鬼が倒れちまえば、あっという間に手前らお陀仏だぜ」
「……それが、朔とどういう関係がある」
「直接的に今夜の襲撃と朔はあまり関係はねえ。が、間接的に言えば関係はある。何せ今宵の七夜攻めの一端は俺の甘言に乗せられた槙久の阿呆のせいだし、そしてそれをあくまで自分自身のために利用した俺のせいでもある」
「……では、何のために」
「朔を手に入れるためにだ」


 簡潔に、妖怪は言い切った。


「つまり、今宵の襲撃は朔の身柄を確保するためだけに行われているのですか?」
 愕然とする私に代わり、義姉様が妖怪に問いかける。
「いいや、そいつはちっと語弊がある。今夜の騒動はあくまで槙久の阿呆が企てたものに相違ない。あいつあ糞餓鬼に一度殺されかけた。それを忘れられなかった。んで復讐のために今日この日に攻めてきた。俺はそれを助長させたに過ぎねえ。だから、俺は悪くねえ」
「……それと朔がどう関係するんだ」
「俺はよう、どうしても刀崎なんだわな。どう足掻いても刀崎として生きることを止められねえ。だから必要なのさ。この体を、この魂を捧げる担い手がな。俺が渾身の一品を作れる相手がな。それが朔なのよ。手前らも理解してんだろう? 朔ほどの逸材は他にいねえ。少なくとも俺が出会った中では最上級の才覚だ。ひひ、痺れたぜえ朔の殺意は。こんな幼いくせに、なかなかどうして糞餓鬼を越える可能性を秘めている。だから槙久の阿呆の稚拙な作戦に乗ったのよ。騒動に便乗して、朔を手に入れるためだけに」
 刀崎衆棟梁は歪に嗤う。自身を献上する相手を見つけ出したが為に、ここまで来たのだと嘲う。
「そ、そんな理由のために攻めてきたというのか貴様らは!」
「そんな理由ね……確かに手前らにとってはどうでもいい理由だろう。槙久の野朗も約定を守るつもりすらねえ。俺ばかりが執着してるのがこの様だ。けどよう、俺は老骨、老い先短いただの爺だ。それぐらいの願い、叶えられなくてどうする? 俺の人生を台無しにさせる気か?」
 細めた瞳に紅蓮の炎が燃え上がる。老人とは思えぬ執念に絶句する。いや、老いさらばえたからこその執着の気炎と言うべきなのだろうか。
 つまり何だ、今日の騒動はこの妖怪が画策したも同然の事なのか。あまりの事態に絶句する。思考が上手く働いてくれない。
「……この、妖怪めッ!」


 呻き声は梟の高笑いに掻き消される。


「ひひ、ひひひ! 妖怪! そうさな、俺は最早妖怪だ! んで、どうする? 朔を渡すか渡さぬか。どの道貰い受ける事に変わりはねえが、朔一人差し出すことで手前ら全員の命を助けてやるよ。なあに、槙久の野朗の説得なんぞちょろいちょろい。そんで、朔の身柄で今夜の事は全部ちゃら、無かった事にしよう。これからは互いに不干渉、関わる事も接する事もなく安心した生活を保障してやる」
「そんなの、確証が何処にあると言うんだ」
「ひひ、こういう時に権威ってのは便利よな」
 反論、反抗、全てを権力で捻じ伏せる。梟はそう言った。
「んで、どうする。一人の命と全員の命、手前らはどちらを選択する?」


 それは悪魔の囁きにも似た響きで鼓膜を震わせた。


 当然であるのならば、一人を捧げる事で皆の命が救われるという条件、承諾せずにはいられない。それほどまでに梟の提案は甘い響きを持っている。だが、私たちは七夜なのだ。身内を売るような真似など言語道断。決して許させる事ではない。それは禁忌にも等しい所業だ。一族の結束を舐めきった甘言である。
 だが、皆は動揺しきった顔で義姉様を見ている。今の段階において決定権を握っているのは他ならぬ義姉様。彼女がどちらを選択するかによって七夜の命運は分かれる。私もまた縋るように義姉様を見やる。義姉様は吟味するように俯いて思考している。その表情は見えない。


 まさか、と思った。本当に義姉様は刀崎梟の提案に乗るのか?


「……義姉様」
「刀崎梟、その条件ではそちらに利益が無いように思われますが?」
 私の問い掛けを無視して義姉様は口を開く。
「ひひ、利益なんてのっけからあいつが考えてると思うか? あの阿呆はただ仕返しがしたいだけなのさ。腸が煮えくり返るほど七夜が憎い、けれど自分では何も出来ない。だから俺の言葉に乗って、紅赤朱まで動員させてまでここにやってきた。けれどよく考えてみろ、例え七夜を滅ぼしたところで一体何の益がある? あいつは私怨だけで動いてるだけにすぎねえ。端から利益なんて考えちゃあいねえのさ」
「しかし、遠野が貴方の言葉を鵜呑みにするとはとても思えません。それほどまでにそちらは被害が出ている。違いますか?」
「ああ、あいつは鵜呑みにする。何せ今の所死んでるのは所詮他人だ。あいつは身内にゃ滅法甘いが、その逆他人にはまるで興味がねえ。んだから多少の被害じゃどうにもこうにも、一撃をお見舞いした所で退くだろうさな」
「その保障は?」
「さあな、保障なんて何処にもねえよ。今はただ、手前らが俺を信じるか、信じないかのどちらかだ」
「……そうですか」
 そして溜息一つ吐いて、義姉様は私に顔を向ける。その表情はとても冷やかだった。思わず、傍らで眠りについている朔を抱きとめる。その熱い体だけが今私が縋れる温もりだった。
「今の話、しかと訊いていましたね?」
「……はい」
「では、心苦しいですが今から私が言う事も理解できていますね?」
「ですが義姉様……!」腕の中にいる朔を強く抱きしめる。「朔を売るつもりなのですか!?」
「売るとは……とんでもない。これは引き換えなのです。私たち全員の命と、朔の身柄ひとつ。どちらを取るかは一目瞭然。違いますか?」
 身体全体が心臓になったかのように鼓動する。視界が揺れて、まともに義姉様の顔が見れない。けれど、幽かに見えるその表情はあまりに冷酷で、私が知っている義姉様の顔ではなかった。……あるいは、これこそが義姉様の本性だというのか。
「ひとつだけお答えください。朔がそんなに邪魔だったのですか……?」


「はい」


 ひどくあっけなく、義姉様は答えた。
 あまりのそっけなさに、絶句する。
 周囲からざわめきが起こった。皆少なからず思っていた心根を、兄様の奥方である義姉様が言ったのだから。


「邪魔、というには少し誤解がありますが、疎んじていたのは事実です。貴方も分かっているでしょう? 今の七夜に朔は不要なのです。昔ならいざ知らず、朔は皆を暗澹に引っ張る、そう引力とでも言えばいいのでしょうか、そのようなものを持っています。しかし、それは最早今の七夜にはいらないです。七夜は修羅道から抜けたのです。もう戻りたくはありません。なのに疎外されているはずがあの人は相変わらず朔に係りきりで、志貴もまた朔を気にしています。おかしな事です」
「……」
「私はあの人を信じています。その一足一挙動には必ず意味があると、七夜に有益を齎せると信じております。ですが、ひとつ。そう、たったひとつだけあの人は失敗をしてしまいました。それが朔です。朔がいる限り私たちは過去から完全に脱却できない。今宵の襲撃もその一端でしょう」
「し、しかしあれは兄様の行ったことであって、朔は何も関係がありません」
「確かに、直接的な関係はないでしょう。しかし、もしもです。もしも、朔とそこの妖怪が出会わなければ、襲撃が行われなかったのかもしれない。もしも、朔に実力が無ければ妖怪がここまでの執着心を持たなかったかもしれない。そして、もしも朔が生まれなければ今宵の襲撃そのものがなかったかもしれないのです」


 それは可能性の話。本来ならばありえなかった事象。


「義姉様は、こんな混血の甘言を信じきると言うのですか!?」
 たまらず悲鳴のように叫ぶ。けれど、義姉様は相変わらず冷たい表情のまま。
「全部を信じるはずがありません。ええ、このような裏切り者に一体どのようにして心腹を置けと言うのですか」
「ひひ、ひ……ひでえ言われようだな」
 それまで状況をにやにやと嗤いながら見守っていた梟が口を挟む。
「んで、どうするんだい? この賭け、乗るか乗らないか」
 そして義姉様は宣言した。


「はい、状況を打破できるのならば、七夜はその条件を飲みましょう」


 足元から崩れ落ちるような感覚がした。
 眩暈がして、たまらず吐き気を催す。今ここに七夜の結束は打ち破られ、朔には敵しかいなくなった。これが、絶望か。これが、終焉か。
 だが、飲み込まれてはいけない。
 少なくとも私は朔の味方で在り続けなければならない。
「――――っ」
 状況についていけなかった者たちの間隙を縫って、朔を抱いたまま外へ出る。冬も間近だというのに空気が少し生温かった。屋内にいた者、そして外で警護していた者達が私を見る。その瞳には憐憫が浮かび上がっていた。


 笑いたくば笑うがいい。嘲いたくば嘲うがいい。


 私は一人の女としてここにいる。ただの女としてここにいるのだ。如何様な感情も甘んじて受け入れよう。だが、愛しき者を奪われるなど、そのような事は断じて許さない。
「真逆、そこまで溺愛しているとは思っていませんでした」
 ゆったりとした歩調で義姉様が歩み寄る。
「ですが分かっていますか。貴方のしていることは最早……」
「黙れ外道」
 視線は鋭く、殺意を乗せて義姉様を睨む。
「一族の者を売り渡す所業、断じて許される事ではない。もし斯様な事が兄様に露見すればただでは済まされない」
「大丈夫です。あの人は七夜のために動いているのだから、それぐらいの事など承知するはずでしょう」
「それは誰の事を言っている! 兄様か、それとも当主にか。少なくとも私にはそのようには感じられない。貴方は妄信しているだけだ! それに朔は兄様が預かりの身として扱われているのだ。私たちがどうこうできる問題ではない!」
「そうね。朔の身柄はあの人が握っている。確かにその通り。そのお陰で次期当主と褒めそやす輩までいるのですから」
 くく、と咽喉元を鳴らすように義姉様が笑う。
「おかしな話ですよね。朔は冷遇される身の上だったはずなのに、何故かあの人が目をつけて気を傾ける。私たちは当主様の行為に何も言えない。それを良いことにあの人は朔にすっかり御執心です。愛息であるはずの志貴を蔑ろにしてまで!」
「……それは違います。兄様は朔と志貴様を同等に遇していた」
「そう! 同等に、同等に、同等になのよ。これが可笑しいと言わずに何と言うべきかしら! 血の引いた我が子と甥の朔を同じように扱う、いえ、それ以上に扱うなど妻として認められるはずがありません」
 その吐き出すような言葉に思わず顔を顰める。
 義姉様は我が子可愛く、そしてそれ以上に周囲から渋々とはいえ認められている朔を疎んでいる。皆、その思いは同じだろう。だが、問題なのは朔が周囲の批判を全く気にしなかった事だ。朔は努力した。懸命に、時には血反吐を吐きながら兄様の鍛錬に修身した。けれどそれは周囲の風評を気にかけての事ではない。朔は七夜の結晶体なのだ。過去から続いた歴史が産んだ凝固。歴代最強とまで言わしめられた七夜の忘れ形見なのである。故に七夜として振舞うのは当然のことで、義姉様たちの嫉みは全くもって筋違いも甚だしい。久しく安寧に浸って思考回路が放蕩してしまったのか。


 そして、もうひとつ。義姉様は大きな間違いを犯している。


 禁忌を犯した故に実兄すら手をかけた兄様は果断だ。身内であろうが、例え血が繋がっていようが、その精神性は決して揺るがない。そんな兄様が、禁忌にも身内にも峻厳な兄様が、身内を売るような真似を許すはずが無い。
 義姉様が兄様を妄信しているのは理解できた。だが、兄様は決して義姉様を許しはしない。己が手で処断するだろう。それは朔を混血に明け渡したからではなく、身内を敵に売り渡そうとした事実に対してだ。
 そう思えば、目前にいる女性は憐れなのかもしれない。夫となった男に己が全てを捧げ、身を粉にして尽してきた。胎盤としてしか期待されていないことを承知の上で、子を宿した。しかし蓋を開けてみればどうだろう。夫は我が子ではなく、違う子供に執心しているのだから。
 一体、彼女の人生はなんだったのか。


「しかし、これで七夜全滅は避けられたのですね。そうですよね、梟」
「ああ、そうさな」
 不敵な笑みで家屋に持たれかけながら、梟は義姉様の問いに是と唱える。
 だが、と梟は厭らしく前置きをおいた。


「少し遅かったみたいだな」


 と、訳の分からぬ梟の言葉を訊いた瞬間、地鳴りがした。いや、地鳴りは立地上ありえない。では地震か。しかし、足元から伝わる地響きはまるで巨大な足音かのようだった。
「ほれ、見てみ」
 西の方角に皆の視線が注がれる。森の宵闇は平等に森を包んでいる。そして今は夜。太陽は昇らず、月明かりだけが唯一の光源だ。だと言うのに、私たちの視線の先は仄かに明るい。まるで火の粉が舞い上がるかのように、まるで朝日の到来を告げるかのように、暗い森に赤い紅い赤い朱い赤色が立ち上る。
「手前らがくだらねえ言い争いなんぞしちまってるから時間がきちまった。もう間に合わない、全員死ぬ。間違いなく滅ぶよ、手前達」
「……何を言っているのですか、刀崎梟」
「ひひ、ひ……現実を見たくないのか、それとも虚構に逃げたいのか。さてはて俺にとっちゃあどうでもいいが、いつでも現実は仄暗いもんだ」
「だから、何が言いたいのですか!?」


 ヒステリカルに義姉様が叫ぶ。


「膠着状態は終わっちまった。あの紅蓮が何よりもの証拠。勝者は紅赤朱、七夜黄理はおっちんじまった!」
 はは、と狂態染みた笑い声を上げ、身が捩れんばかりに刀崎梟は歓喜の表情を浮かべた。
 瞬時に、誰かが莫迦な、と言いかけた。そのような事があるはずがない、と言いかけた。
 しかし、それは猛進してくる桁違いの存在感によって掻き消された。
森から近づいてくる気配はまるで篝火の如くに燃え盛っていて、熱い。まるで山火事でも起こったかのような温度だ。
 そして気付く。どうして冬も間近だというのに外気が生温いと感じたのか。原因はきっとまだ見ぬ相手なのだ。


「あいつも俺とおんなじで朔に興味を持っちまったらしいからよお、出来るだけ早くに確保したかったんだが、これはやべえな。なんて楽しそうなんだ、地獄がやってくる」


 血走った眼は最早狂っている。理性の欠片もない。その証拠に梟が口を開くたびに唾が弾け飛んでいる。
 だが、私たちにはもう刀崎梟などどうでもいい。問題はこの恐るべき速度で駆けてくる怪物だ。べきべきと樹木を圧し折りながら真っ直ぐに向かってくるのである。気配だけでもう怪物と形容する他ない。でなければ、こんなにもこの身体が震えるはずがないのだ。身体の芯から凍えるように寒い。熱波が近づいてくるのに、こんなにも寒い。
 そして、私は気付く。これが死の感覚、なのかと
「あ――――う、ぁ――――――――」
 熱が肌を焼く。見えない火柱が天を焦がした。森の奥から現われたのは巌のような男だった。筋肉が溶岩で出来ているのではないのか、と錯覚するほど異常なまでに放熱しており、筋骨隆々。そしてその瞳はまるで灼熱。私は飲み込まれて、へたり込み、視線を反らすことが出来ない。
 僅かに身体へ付着した血痕。右腕を赤く濡らす血色。それは一体誰の血か?
 本能で分かった。脳髄ではなく、魂から理解できた。
 こやつだ。朔を戦闘不能にまで貶めた混血はこいつなのだと。
 そして、恐らく七夜黄理を突破したのはこやつに違いないのだと。
 修羅を体現したかのような男はそっと唇を開く。


 酷く厳かな言の葉は、まるで噴火寸前の火山のようで。
荒武者と呼ぶにはあまりに猛々しく、益荒男と呼ぶにはあまりに荒々しい。


「――――――――――――わらべは、どこだ」


 鬼神が、今ここに顕現した。










 後書き
 オリキャラばかりが喋りまくりな状況であり、朔に至っては意識を失っているという有様。もう少しで本編に移行できますので、皆様ご期待ください。
 結論、女は色々な形で自分勝手。



[34379] 序章終極 鬼の哭く夜に、月は堕ちて夜は終わる
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2013/07/13 10:17
 一先ず幕は一度降ろされる。
 後に残るのは、観る者もいない観客席。

 □□□
 
 ふいに、目が覚めた。
 
 広い屋敷の中は誰もいなくて、痛いほどに静かで、僕は寂しくなって外に出た
 
 離れに向かっても兄はいなかった。皆何処に行ったのか分からない。中には敷かれた布団だけがあった。

 静かな夜に何処からか音が聞こえた。遠く耳を澄ませばそれが森の方からだと分かり、誰もいない事が嫌になって森に向かった。森の中は子供だけで行っては駄目だと言われていたけれど、誰もいない屋敷にいるのが怖かった。

 森は暗くて、冬の空気がシンと身体に痛い。息は白く、先も見えない暗がりを進んだ。

 流れる黒のヴェールに月の光は届かない。森は深く深く、先に何があるのか分からなくて、僕は少しドキドキしながら音の聞こえる所に進んでいた。

 ナニカが弾ける様な音、硬く乾いた様な音が、聞こえる。それはどこにだろう。

 森を進んでいると、誰もいなかった。人も、動物も、皆いなくなっていた。誰かとすれ違うこともなく、鳥の鳴き声も聞こえない静かな森が横たわり、夜には森の向こうから聞こえる音しかなかった。

 ――――――し、き―――。

 名前を呼ばれた気がして、そちらに向かう。

 ――――――――――わからない。

 広い場所に皆いた。

 赤い赤い、赤い地面。赤い水が、広がっていた。

 その中に、皆いる。だけど皆ナニカが欠けていて、バラバラになっていた。

 手がない。足がない。身体がない。頭がない。

 赤い水の中を泳ぐように、皆倒れている。

 ――――――――――わからない。

 誰かが僕の前に現われた。僕をバラバラにするために、やってきた。

 そして、誰かが僕の目の前に飛び出て、僕の変わりに倒れていった。

 赤い水を浴びる。

 僕の代わりにバラバラになった、お母さんと言う人は、そのまま動かなくなった。

 ――――――――――わからない。

 赤い水が目の奥に染みこんでくる。

 それを拭おうとは思わなかった。

 ――――――――――わからない。

 僕の前に、誰かが来る。僕をバラバラにするために、やってきた。

 ナニカ鋭いものをその手につけて、僕に向かって突き刺す。

 痛いとは、思わなかった。

 だけど力が入らなくて、そのまま地面に座り込んだ。

 この人は僕をどうするのだろう。

 僕を皆みたいにバラバラにするのだろう。

 そして―――――。

「―――――――――――――――――っ」

 その背中が、見えた。

 僕の前で、僕を守るように、その背中があった。

 半身は肌蹴ていて黒ずんだ藍色の着流しは破れていた。

 僕よりも少しだけ大きな背中は引き締まり、だけど細く。

 その左腕は長くなっていて、まるで人形の腕を無理矢理くっつけたようだった。

 けれどその背中は、なくならない。揺るぎなく立ち続ける背中はまるで父親の背中のよう。

 それに僕は安心して、涙が出そうになった。

 力がなくなって、僕はそのまま倒れてしまう。

 頭が靄にかかったように曖昧で、自分でも何を考えたいのかよく分からなかった。

 倒れて、空が見えた。夜の空に、月が独りぼっちで吊るされている。

 そして、思う

 ああ、何で気付かなかったのだろう。

 見やる空に浮かぶは、満月。

 丸い形をした淡い光。

 ――――嗚呼。今夜は、こんなにも。
 つきが――――――きれい―――――――――――だ―――。

 
 □□□


 時は少しばかり遡る。


 鬼の豪腕が風を突破して迫る。


 その刹那が永遠の如くに感じる。あまりある質量と膂力にものを言わせて攻勢を強いる軋間紅摩の一撃はまるで暴風雨のようだった。風が轟き、稲光が劈く。凡そ人の域を凌駕したものだけが揮える拳であった。
 まともに喰らえばただでは済まされぬのは百も承知。故に七夜黄理は迫る拳をするりとかわして出方を待つ。すると軋間紅摩は避けた黄理に目掛けて又もや拳を揮う。埒外の威力を秘めた拳をだ。それを回避すれば勢い余った紅摩の拳が樹木に直撃し、軒並み圧し折った。決して細くは無い、寧ろ巨木と称するべき木々を拳ひとつであっけなく破壊したのだ。並みの威力ではない。もし身体で受け止めれば、まず間違いなく木っ端微塵となる。


 鬼達の交差はまるで災厄のようであった。否、軋間紅摩こそが災厄の象徴そのものであった。


 一度腕を揮えば樹木が抉れ、一度地面を踏みしめれば大地が割れる。とんだ化物だ。


 そも軋間紅摩はそのような存在なのだ。質量乃至膂力、果ては存在又概念に至るまで、まず根本的な部分から人とは異なる混血。黄理は知りえぬ事だが、血とはいわず、肉まで魔と混ざり合った過去を持つ狂気の結集だ。対峙する黄理とは最早核が違っていると表現しても過言ではない。
 黄理も幾度と無く混血殺しを行ってきたが、これほどまでの化物は初めて対峙する。黄理自身、人間の頭部を身体にのめり込ませることが出来る故、尋常ではない力量を持ちえているが、眼前で乱舞する鬼は鍛錬や努力という言葉を軽く握り潰してくる。凝縮された巨獣という形容では足りない。一瞬たりとも気を抜いてはならない。


 硬められた拳の打突が腹部を狙って放たれる。鉄塊よりも重く、馬鹿げた威力を放ちながら黄理を殴殺しようと、轢殺せんと迫る。その一撃を寸でのところで避けるが、頭部を横切る握り拳の余波に一瞬脳が揺れた。拳圧だけで頭蓋骨を揺さぶるのか、と内心驚嘆しながら、僅かに歪む意識に顔が苦々しく歪んだ。その刹那を紅摩は見逃さない。
 振り抜かれた拳は勢いを殺す事無く、逆の腕が跳ね上がる。筋肉繊維が急速に膨れ上がり、葉脈のように血管が浮かびあがる。踵から生まれた急激な旋回に紅摩の足元が沈む。爪先から始まる回転力は足に伝達され、太腿を刺激して腰骨を捻る。筋肉の連動は留まる事を知らず、正確に拳へと伝わった。近代ボクシングで言う所の右フックに近い一撃が放たれる。しかし、紅摩の全身から放たれた拳が所謂ただのスポーツの範疇で収まるはずがない。混血の最終地点に君臨した男の拳が、人間程度の威力で収まるはずがない。


 それは稲光だった。曇天を切り裂く赤い雷光であった。


 音すら置き去りにして、時が止まったかのような刹那の永遠。その空間を抉るように紅摩の一撃が迫る。限界まで引き絞られた上腕二頭筋と僧房筋が、黄理の身体を破壊し尽くさんと死神の鎌の如くに襲い掛かり――――。


 其れよりも尚早く、銀の刺突が紅摩の首筋に突き刺さる。


「嗚――呼――」


 だが紅摩は止まらない。例え骨肉を磨り潰す銀撥の一撃を喰らってなお、剛毅なる意思をそのままに肉体へと変換したかのような紅摩には痛みすらも感じない。そして、打たれた事実を意に介さず振り被られた腕は、またもや幻のように消え去った黄理により、発散するはずの力を解放できず、空振りという結果に終わった。
 そして首筋を穿った黄理の銀撥には、強かな痺れが走っていた。まるで鋼鉄を打ち据えたかのような骨まで震える痺れだ。


 状況だけ見れば攻勢に出ている紅摩が有利と言えよう。だが、彼の本懐はその圧倒的なまでの潜在能力を直撃させなければ発揮されない。無論、直撃すれば忽ち黄理は原型を残さずに亡骸と化すだろう。そう確信がある。


 それに対してこちらはどうか。
 剛直さで言えば劣るのは明々白々。頑健さもまた然り。しかし、肉体運用と死角への移動速度であるならば黄理が有利。益荒男の如き肉体の紅摩に対し、黄理も人の段階を踏破した鍛錬を行っているが、少々見劣りするのは致し方が無い。そも混血と張り合おうという思考がそぐわない。
 やはり、初撃で決めるべきだったか。
 距離を置き、内心忸怩たる思いで髪の毛を揺らめかせ、鬼気迫る表情でこちらを見やる紅摩を睨む。
 七夜の体術は暗殺に特化している。正面から対峙し、戦闘に移行するのは愚の骨頂。七夜が退治する混血は人の範疇を超えた化物なのだ。ならば正面から戦うのは愚の極み。故に暗闇から忍び寄り、気付かれる事無く背後から奇襲し殺す。歴史の最中、幾度と無く血を流した七夜が生み出した混血に対する唯一の攻撃手段である。
 しかし、黄理は初撃でそうはしなかった。否、出来なかった。あの状況、あの段階において早急に朔を救出しなければならなかった。故に真正面から姿を現したのだ。少しでもこちらに混血の意識を傾けさせるため。
 確かに判断としては正しかっただろう。でなければ、朔を救えなかったのも事実。


 そう思えば、このような化物に傷を負わせた朔は驚嘆するに値する。近年目覚しい成長を遂げていたが、真逆あそこまで食い下がるとは思わなかった。己の千切れた腕を生贄に、奇襲を果たしたのだ。死力を尽くし、すでに動けぬ身体を無理矢理稼動させ、最後に見せた戦術は賞賛すべき事態であった。何故なら、七夜最大戦力を誇る黄理が、今も尚相手に対して傷ひとつ負わせていないのだから。
 俊敏性はこちらが圧倒的に有利である。しかし、紅摩の質量と甲殻にも似た表皮は岩石そのもの。あるいは凝縮された鋼のよう。一撃で屠るにはほぼ不可能と、黄理は結論付ける。そしてあの行動が現在取れた最善であった、と付け加える。
 では退けるか。そう思考して、無理だとすぐさま却下する。この混血はどのように負傷しても必ず邁進する。例え遠野からの退却命令が出たとしてもそれを無視して直進する何かを持っている。具体的に把握できないが、茫洋たる瞳に燃え盛る紅蓮の炎がそれを証明している。こういう手合いは厄介だ。決して怯えず、怯まず、己の内側に眠る心根を信じきるため、絶望もなければ空虚すらない。精神的に追い込もうとしても、意味がないのだ。
 ならばどうする。と、思考の間隙を縫って第二波の猛攻が放たれる。


「――――っ! 狂犬かてめえは!」


 犬歯を剥き出しに、壮烈な眼差しでこちらを睨みながら拳を繰り出す混血に思わず舌打ちが漏れる。


 まずもって対峙する混血は普通とは異なる。幾ら魔の血脈を混ぜているとは言え、人間としての括りから抜け出る事はない。それは肉体も同じ事。どんなに異常な能力を秘めていようとも、先ほど黄理が穿った一撃は咽喉下を貫き頸骨を砕くほどの威力を込めて放った一撃である。だと言うのに相手はそれを意に介さず反撃にかかる。尋常ではない。


 これが噂に訊く紅赤朱か?


 混血の中には時たま先祖返りを起こして純血の魔へと成り下がるものがいる。そうなれば最早人の手には負えない真性の化物となる。つまり眼前で脅威と化している混血はその類のものか。瞳に理性は見えないし、あるのは荒々しい気炎のみ。凡そ通常の人が持つ眼ではない。
 その可能性が浮上すると厄介どころの話ではない。今まで屠ってきた相手方に紅赤朱とした開眼した者はいなかった。真っ当な奇襲では打倒不可能だろう。現実として、今もなお混血は猛威を振るっているのだから。では、どうする。黄理の額に脂汗が流れた。
 幸いにして動体視力及び敏捷性はこちらのほうが上。更に相手は隻眼である。死角へと潜り込むのは容易い。そこからが勝負だろう。と、再び鬼の豪腕を掻い潜って死角に移動しながら首筋へと銀撥を穿つ。これで良い。寧ろ、これが良いのだ。幾ら相手が頑丈極まりない混血とは言えど心臓脈打つ生命に変わりは無い。ならば殺せる。生きているのなら殺せる。そう確信できたのは、奇しくも朔が最後に与えた傷だ。致命傷には至らなかったが、相手が傷つくという事実は黄理に計り知れぬ大きな要因を与えた。つまり、相手がどんなに化物であろうとも、傷を負い血を流したのであるのならば身体構造は人と同じ、同じ生物なのだ。倒しきれる。知識とこれまで培ってきた経験でもって黄理は相手を打倒する算段を錬り、死角から踏み込んで再度首筋を打つ。
 どんなに硬い岩石であろうとも、長年雨滴に晒されればやがてへこみ、遂には穴を穿つ。つまり黄理の戦術はこうだ。安全圏内に常に移動しながら相手の首筋の同じ箇所に銀撥を叩き込む。それの繰り返しだ。地道な作業と言うなかれ。黄理はそれを実行するたびに、刹那とはいえ嵐の中に潜り込むのだ。柔な心胆では竦んで思いもつかない算段である。しかし、黄理は暗殺者。奇しくも相手の混血と同じ呼び名で恐れられた男だ。それぐらいの事、軽く実行してみせる――――!


 そう覚悟を決めて、黄理は戦闘の最中でありながら不思議な感覚を味わった。これまで幾度と無く覚悟を決めては来た。無理難題、不可能とさえ呼ばれる暗殺を行ってきた。だがあくまでそれは暗殺、奇襲による一撃に過ぎない。このように戦闘を行い、戦術を練るなど、黄理の生涯に於いて初めての事象であった。死線を踏むこえ、相手を打倒する算段を思考し、そして結果を残す。それは幾度も繰り返した。だが、こうして相手の正面に立ち、真っ向から立ち向かうなど人生で初めての経験だ。
 心臓が高鳴る。自然と呼吸が乱れる。筋肉が熱を放っている。


 そうか、これが戦いか!


 合点した。この不思議な感覚は始めての戦闘に心躍っているのだと。互いの命を両天秤に乗せて戦い続ける『殺し合い』なのだと。
 これまで黄理は一方的に殺し続けるだけの人生だった。闇夜に紛れ、暗がりに身を潜め、対象に狙いを定めて、間隙を突いて殺す。それだけの人生だった。


だが、今はどうだ。今自分は交戦しているのだ。殺し合いをしているのだ!


 妙な得心ではある。だが、その結論に至り黄理は凄絶に笑った。
 そうか、これが殺し合いが。互いの命を懸ける殺し合いなのか、と興奮した。
 殺すことで興奮することなど未だ体験した事のない感情だ。殺人機械と称された黄理はどのような状況であろうとも感情を抑制し、決して怯まず鏖殺してきた。そうでなければ困難な要請は達成できないし、心というものが壊れてしまうだろう。黄理には心があるかどうかは分からない。ただ、もしも心が黄理の中にあったとするのならば、その深い部分が壊れてしまっているのだろう。でなければ、こんな状況で笑えるはずがない。戦いを楽しみ、殺し合いを果たす。まず常人の理性ではない。しかし、それでも構わない。七夜は最早常人ではないのだ。
 そうして、更に黄理は混血の首筋に刺突を解き放った。
 振り被ったふるはしで岩盤を穿つような感覚に、暫し酔いしれる。


 この感覚こそ、勝利への布石なのだ。


 □□□


 大樹の生い茂った葉群に紛れ、交戦の状況を真摯に翁は戦場を見守っていた。あわよくば黄理の救援を、と考えていたが自らの力量を考えると無理だと理解した。波飛沫がぶつかり合うような殺し合いに自分が介入してしまえば、寧ろ黄理の邪魔となろう。で、あるならば自分はひたすら疼く身体を抑えて戦況を見守るしかない。


 そして、はたと気付く。あの黄理が凄絶に笑っている事実に。


 ただでさえ表情の変化に乏しく、感情も変化が見られない黄理が今、殺し合いを楽しんでいるのだ。自らがそのような状況に陥った境遇に滑稽さを感じているのかも知れないし、ただ純粋に殺し合いを楽しんでいるだけなのかもしれない。
 だが、それこそが危うい。今の黄理は尋常ではない。彼の淨眼は余さず周囲に移った者の思念を読み取るが、この自分に気付いていないという事実が圧倒的な現実となって翁に圧し掛かる。相手の挙動に集中しているからだとか、必死になっているから、という理由ですら言語道断だ。
 殺し合いで、ひいては戦場に於いて感情は無用なのだ。感情を爆発させれば肉体が抑制できず、勝敗が決してしまう可能性がある。感情の発露は抑えなければならない。暗殺に向かう黄理に再三上申した言葉だ。どれほど感情統制に優れていた黄理であろうとも、もしものことがある。故に翁は口酸っぱく申し上げてきたのだった。血に酔い痴れた過去があるだけ、余計にだ。


 そして、目の前の状況は充分危惧に値する。


 現在七夜最大戦力の黄理は一体の混血を抑え切る役目を担い、哨戒の者たちの報告によれば随時遠野の部隊が里に迫っているとのこと。翁は眉を顰めて状況が芳しくないのを知り、起死回生の一手はないかと必死に考察する。遠野部隊はどうでも良い。はっきりと断じてしまえばあれは烏合の衆、いくら遠野当主自ら率いようとも夜の、しかも七夜の森では無力に陥る。報告によれば特殊な混血はおらず、殆どが武装集団なのだとか。銃火器など恐るるに足りず、彼らは息つく暇もなく絶命するだろう。
 問題なのは、あの混血だ。永の時を奇しくも生き永らえた翁の目にはあの紅蓮の混血が戦車のようにも見えた。愚直なほどに真っ直ぐ前進し、砲撃の如き一撃を放つ。黄理が押し留めなければ、その道程には何も出来ずに七夜の屍が積み上げられるだろう。彼は前進し、押し潰し、打ち砕く一個の意思を持った戦車なのだから。


 故にここで黄理が混血を抑えきれるかどうか、あるいは打倒できるかどうかで七夜の命運が決まる。云わば分水嶺。瀬戸際と形容しても過言ではない。


 見やれば黄理は打ち倒す術を持っているらしい。幾ら打てど叩けど皮膚一枚傷つかぬ相手を殺しきれる戦術を練っている。遠目から見れば良く分かる。黄理は幾度と無く混血の猛攻に晒されながらも、その間隙を縫って首筋の同じ箇所に銀撥を打ち据えている。正確な動体視力と肉体を余さず稼動できるから出来る芸当だ。つまり、黄理はあの混血の咽喉元を磨り潰すつもりのようだ。今までと変わりの無い、七夜黄理だけが持ちえた殺しの技法だ。


『世には数多の不死が存在する。中には永遠の命を手に入れた者も存在する。だが不滅は存在しない。存在する限り、存在しているものは必ず滅びる定めにあるのだ』


 いつか、黄理が口にした言葉だ。場面は思い出せない。老いて頭が呆けてきたのだろうか。しかし、その鮮烈な言葉だけはどれだけ歳月が流れようとも脳内の皺に刻まれている。暗殺を極めた黄理だから言える至言。鬼神と呼び恐れられるに至ったが故の豪語。暗殺の依頼さえ受ければ必ず殺してみせる、と黄理は何気なく言った。けれど、その何気ない一言がどれ程翁に感銘を与えたか、きっと彼は知らない。いや、知らなくても良い。


「御館様……ご武運を願いまする」


 今はただ、状況を見据えるのみ。何も出来ない自分に歯噛みしながらもつぶさに状況を見やる。固唾を飲み、己が仕える当主の必勝を願いながら。
 この勝敗により、七夜の命運が決するのだから。


 □□□


 交差を重ねること幾数回。気付けば、二人は草原にいた。風に凪いでそよぐ草花と、空気に乗って香る草の匂い。火照った身体を冷ます風が気持ち良く、月光を浴びた草達はどこか神秘的な燐光を放っていた。
 しかし、ここは不味い。交戦に夢中になり過ぎて周囲に気を配る余裕がなかった。明らかに黄理の失態だ。この周囲には遮蔽物や足場になるような樹木が無い。つまり、改めて混血の脅威に真正面から晒されなければならなくなったのだ。黄理は不利な環境で戦わなければならないのだ。状況は最悪に傾いていると言えるだろう。
 けれど、黄理の口角はにやりと吊りあがる。眼前の敵を如何に打倒すべきかと。 そう、あれは暗殺対象ではない。最早完全に黄理の敵になった。なってしまった。倒さなければならない愛しい敵になったのだ。俄然殺さなければならない相手になってしまったのだ。笑みが零れるのも無理からぬ事だろう。この感覚は覚えている、そう確か……。


「ああ、お前あの時の餓鬼か」


 思い返すは十数年以上前。初めての暗殺以来に赴いた時だった。遠野槙久に企てられ、お膳立てされた初めての任務である。その時、黄理は初めて暗殺という形で人を殺した。それまで訓練という形で幾度となく人体を解体し、絶命させてはいたが、あれが仕事では初めての殺人だった。故に黄理は血に溺れた。何事にも初めは昂揚するもの。黄理も過分洩れず血に酔い痴れ、無用な暗殺を行った。その時、黄理はこの混血と出会っていたのだ。まだ幾許の歳も覚束ない少年だった。斎木に飼殺しにされてはいたが、なるほど、軟禁するだけの脅威をあの時この混血はすでに携えていた。故にその片目を奪ったのだ。まだ自分がどうにかできるうちに対処する布石を打つべきと、怜悧に判断したのだった。
 であるならば、布石は開戦前に既に打たれていたということ。それも黄理自身の手によって。そこに至り、黄理はより獰猛に笑った。全ての布石は整えられ、符号は合致し、今宵を迎えたのだ。誰も脚本していない物語に於いて、二人は自らの意思で対峙していたのである。


「真逆、こうしてまた会えるとはな」
「嗚――――呼――」


 皮肉な状況に思わず言葉を漏らすが返答はない。そも意志の疎通すら曖昧だ。最も、最初から返事など期待していなかったが。相手は狂人か、あるいは猛獣なのだ。意思疎通など出来るはずもない。


 相手は相も変わらず徒手空拳。されど砲弾のような拳と肉体で迫りきり、黄理の体には幾つかの掠り傷が生じている。首の皮一枚、紙一重でかわし続けてこの様だ。七夜最強と讃えられても所詮はこの程度、軽く笑える。対するこちらは銀撥を二振り。長年愛用し続けた暗器は黄理の信頼に応え罅ひとつ走っていない。頑丈極まりない鋼鉄の肉体を殴打してもなお健全に揮えるのは称賛に値するだろう。ならば、こちらも戦働きでそれに応えなければならない。
 混血は一見無傷。その肌には掠り傷ひとつもなく、まだ打撲痕もなければ出血もない。どうやら、朔が負わせた傷は疾うに塞がっているらしい。そして骨折もまた然り。しかし、その内側はどうだ。この黄理が、七夜最強と謳われた七夜黄理が勝算もなく殺し合いに挑んでいるはずがない。何度も同じ場所に穿った銀撥の威力は表面上には浮き出ていないが、頑丈な皮膚と筋肉に守られた骨に亀裂を走らせている。先ほど打ち据えた時、掌に確かな感触があった。そうするとなれば、相手の頸椎は最早限界に近付いている。あと一手、あと一撃穿てば絶命は必至だ。つまり、この殺し合い黄理が勝者となる。
 そして黄理は身体の熱に身を任せた。この緊張と昂ぶりは最早抑えが利かない。いや、抑えたくも無い。こんなにも楽しいことがこの世にあるとは思わなんだ、と体制を低くし、距離を保つ。ここで討つ。全力で。
 考えることは相手も同じか、仁王に屹立しながら肉体に渾身の力を込めている。隆起した筋肉から陽炎のような靄が立ち上っている。そうか、お前も同じなのか、とここに至り黄理は相手も同じ心境であったことを悟る。見やる所、相手方の混血は生まれながらの純粋種。さぞ退屈していただろう。好敵手もおらず、発達した身体だけを持て余して、さぞ窮屈だっただろう。


〝そうか、お前もか〟
〝そうだ、俺もなんだ〟


 言葉ではなく、ただ瞳でもって語り合う。こんなに愉快な事が当たり前のように転がっていたはずなのに、自分たちはまるでそれに気付かず、素通りしてきた。しかし、最早無視出来ない相手と出会った。出会ってしまったのだ。好奇に思わず顔面が緩んでしまいそうだ。鍛錬によって昇華した技法でもって必ず殺してきた黄理、そして生まれながらの体躯で戦う事など出来なかった混血。これはもう運命と形容しても過言ではない逢瀬だ。
 一陣の風が一際強く凪いだ。まるで二人を包み込むかのように。
 しかし、哀しいかな。楽しい時間はあっという間に終わりを告げる。 


 黄理の勝利でもって、終いとする――――!


「お互い損をしたな、小僧――――ッ!!」


 呼吸をひとつ置き、一気に踏み込む。爪先から地面を抉るように射出された肉体の姿勢は低い。草原を舐めるかの如くに地を這い進む。影を置き去りに、風を突破して体躯が速度で霞む。これが正真正銘、全身全霊の動きだ。挙動の一切を捨てた全速力での突撃。捨て身の突貫。
 地面と平行に移動する前傾姿勢。筋肉に酸素が行き渡り活性化された血が沸騰寸前と化し、黄理の身体を一息で最高速度へと移行させた。地面が爆ぜ、掻き消える景色、顔面に受ける風が心地よい。
 目標はこちらの狙いに気付いたのか、あくまで受け身の構え。拳をぶら下げた自然体。だが、隙だらけだ。身構えても最早遅い。あまりに遅い。幾つもの暗殺を成功させてきた黄理には混血は最早標的に成り下がった。伏線をいくつも張った結果、それが今まさに収束する。頸部への必要なまでの殴打、片目を奪った過去。疾走する黄理は左手の銀撥を捨て、僅かでも軽量化させて目標部分を目指す。
 これから放つは渾身一滴の突き。肉を抉り、筋を磨り潰し、咽喉元を食い千切り、骨を砕く全力の打突。これを喰らえば頑健極まりない混血であろうともひとたまりもなし。瞬く間に絶命は必至。予感がある、自分は勝者として拳を突き上げるのだと。


「――――ッ!」


 するりと死角に移行する。隻眼の瞳にはどう見えただろう。
 こちらへ突撃してくる相手が突如視界から消え去ったのだ。
 そして黄理は狙い通りの場所へと辿りつく。
 失われた視界に潜り込んだ黄理は地面を踏みしめ、全力の突きを放ち――――。


 ずん、と身体を突き抜ける何かに動きが止まった。


 これは致命傷だな、と黄理は思いながら下腹部を恐る恐る見やる。そこにはあるべき下半身が無かった。背骨が晒されて、内臓が滴り落ち、皮一枚で上半身と下半身が繋がっているが、千切れて落ちた。空洞となった下半身から零れる血に草原が赤く濡れる。


 呆然と黄理は省みる。咽喉元からせりあがる血が唇から漏れ出た。もう少し踏み込めばこうはなっていなかった。混血の首筋に銀撥は確かに触れている。だが、あと少し、あと少しだけ踏み込む速度が遅かった。それは混血が反応したからだ。何故、こちらの意図に気付いたのか。何故、反撃が出来たのか。布石は幾つも打ってあったのに、とそこでふと、黄理は気付く。もしも、この混血もまた布石を打っていたならば?
 最後まで戦うためにあくまでかわせる攻撃を避けず、わざと喰らっていたのならば。
 本当は死角への対処など疾うに済ませていたのならば。
 そして、それはいつ考え付いたのか。


「……さ、く?」


 思いつく限り、それしかない。もしも朔が黄理と同じ戦法を取っていたのならば、二度目の戦いとあらば対処は容易いだろう。それを黄理は知らず知らずの内に同じ轍を踏んでいたのだ。そうと混血が判断し、次第に慣れたならば、後は簡単だ。自ずから動かずとも、相手は先ほどの子供と同じような動きを行うのだから。


「ああ……」


 苦悶に声が漏れる。けれど、そこには韜晦の響きもあった。
 これが、敗北と言うやつか。


「                   」


 相手が何かを囁いているようだが、もう聴こえない。視界は暗黒に呑まれ、次第に黄理自身を激痛とまどろみの中に引きずり込んでいく。


 そして、黄理は幻想した。
 幼き日々からの鍛錬を経て成長した己の姿。そして初めて朔を抱いたあの日の朝焼け。それから志貴と朔と共に過ごした日々を。幾つかの騒動もあったけれど、何かと微笑ましい営為がこの暗い静かな森で行われていた。
 そうして時が過ぎ、黄理は自らが所有する屋敷にたむろしていた。縁側に座り込み、隣には女がいて、目前には志貴と楽しげに戯れる朔の姿。快活に笑い声を上げながらはしゃぎまわる朔を相手に妹はおろおろとして、翁は緩やかな時の流れに身を任せながら、相変わらず好々爺の笑みを浮かべている。


 嗚呼、そうか。


 幻の中で黄理は合点がいった。
 これが自分にとっての理想。夢にまで見た幻想だったのだ。
 そして幻の中で朔がこちらを振り向き、明るい声で「父上」と言った。一切の曇りも暗がりも無い心からの笑みに、自分はなんだか嬉しくてたまらなくなり、幸福を噛み締めながら。
そして――――……。


 □□□


 草原に頭部と下半身を失った屍が横たわっている。かつての強敵の亡骸だ。しかし、骸は骸。もう二度と動く事は無く、声を聞くことも、戦う事もできない。


 それが妙に残念だった。


 あの刹那の交差、七夜黄理が捨て身の突貫を行ったとき、もしあの子供と紅摩が交戦していなければ、こうはならなかったかもしれない。自分が倒れ伏し、黄理が勝者として亡骸と化した自分を見下ろしていたかもしてない。全てはもしもの話だ。実際は紅摩が勝った。


 そう、これは紛れもない勝ちだ。


 最後の瞬間、紅摩は死を幻視した。死角から弓矢のように伸び上がる銀撥に己の死を幻想したのだ。この生涯にて初めての経験である。人の生命を奪ったのはこれが初めてではない。何度と無く紅摩は他人の人生を台無しにし、滅ぼしてきた。けれど、殺したことはない。殺すとはあくまでこちらも殺される可能性がある状態で指す表現である。これまで紅摩が行ってきたのは、轢殺であり蹂躙であった。誰も敵わない、誰も相手が出来ない、為すがままに滅んでいった。
 しかし、今胸に満ちるこの充足感はなんだ。対等の相手と命を賭けて殺し合う。これが生命の証。死に触れてこそ理解できた。生きているとは、こういうことなのかと。死を間近に感じる事で、紅摩は生を実感できたのである。


 どくん、どくんと心臓が脈打ち熱を放つ。この熱こそ、紅摩が生きている証明なのだ。
 身体が昂ぶる。精神が高揚し、魂が震えた。
 勝利を味わい、死を想い、生を謳う。これがこんなにも歓喜極まりないことか。


 熱い。気付けば、草原に火が灯り、焔と化していった。次第に広がっていく炎の海は空を焦がし、紅摩を祝福するかのように容姿を照らし出す。
 燃える。燃える。草原が、草花が、地面が燃える。それはさながら暁のようだ。
 紅摩は暫しその光景に見とれた。熱情に広がる景色はまるで己の心象風景のよう。灼熱は天へと昇り、身を焦がす熱さに酔い痴れた。そして想う。この熱を忘れたくない、と。自分はこんなにも今生きているのだ。これを失いたくは無い。


 では、どうすれば良いか。


 遠野槙久の指示通り七夜黄理は殺した。これで己はお役御免だろうが、これだけでは物足りない。もっと、もっとだ。身体が滾り迸る熱情は未だ足りない。まるで水分を求めるかのように、紅摩は枯渇し、所望した。
 そして思い至る。何も七夜黄理のみに標的を絞らなくても良いのではないのか、と。目につくもの全ての七夜と戦い続ければ、この滾りは永遠に続くのではないのかと。そう決断したのならば、行動あるのみ。
 そこでふと、脳裏に掠めた黄理の最後の言葉だ。


 〝さく〟


 七夜黄理は末期の際に、確かにそう呟いた。何せ意識不明寸前に零れた言葉であるから確証らしきものはない。けれど『さく』とは恐らく固有名詞なのだ。そして『さく』とはあの子供のことだと爆発的に理解した。
 『さく』は七夜黄理と比べれば修練度は未だ低い。しかし、この軋間紅摩を傷つけた偉大な功績を残している。傷口は疾うに塞がっているが、傷を残したという時点でそれは脅威だ。で、あるならば『さく』は黄理に次ぐ担い手に相違ないだろう。体感したからこそ分かる。あれは間違いなく本物だ。まじりっけなしの、本物の七夜だ。
 では往くしかあるまい。最早価値を失った亡骸を後方に紅摩は歩みだす。
 目指すは『さく』。小さき童。邁進は止まらない。


 □□□


 音も無く樹木を渡り走る。翁は厳しい顔つきでただ前へと疾走した。終始余さず黄理と混血の勝負を見定めて、そして結果は一目瞭然、黄理の敗北に終わった。それは即ち、七夜の敗北と言う意味を齎す。最大戦力である黄理が倒れた今、あの混血に敵う者はいまい。で、あるならば七夜の壊滅は必至だろう。あの混血は七夜の精鋭を一網打尽にする怪物なのだ。翁が幾ら捨て身覚悟の奇襲を加えても無駄だろう。こちらの武力では敵うはずもない。


 ――――今宵七夜は終わる。虚しさはない。胸中に宿るのは、ただ寂寞のみ。


 長年、それこそ先代当主から仕えてきた。粉骨砕身、滅私奉公。全ては七夜繁栄のためとあの手この手を使い、智謀と老いてなお前線に挑むその姿勢に歴代当主からも御礼の言葉を頂いている。少なくとも、今代の当主も同じように影の奥深く、闇の中に紛れて彼を補助し、七夜の行く末を見守るはずだった。しかし。
 嗚呼、無念。枯渇した大地を思わせるほどに干からびた顔面を更にしわくちゃにしながら、ともすれば眼の奥が熱くなる程、翁は無情を呪わずにはいられなかった。
 永の時を脈々と受け継いできた歴史が今日潰えるなんて、想像だにしていなかった。当初は撃退可能だと考えていたが、とんでもなく甘い結論だった。あの混血が投入されて、それまでの流れが一気に遠野方へと傾いたのだ。これを悔しいと想わずにして何とする。もっと自分が知略の限りを尽していれば、こうはならなかったかもしれない。あの混血を打倒しうる術を考え出していたのならば、こうにはならなかった。あの忌まわしき混血が今宵全ての元凶だ。そしてあの怪物を止める算段はこちらにはない。終わりだ。どうしようもなく、終わりだ。今日、この夜に七夜は終止符を打たれる。絶望だった。


 だが、だがである。


 翁は面を上げて眼下をつぶさに散策した。
 七夜。その名を聞けば、誰もが恐れて震え上がり、混血の者は忌み嫌い、退魔組織からさえ爪弾きにされたほどの一族なのだ。人間の身で在りながら混血を暗殺する術を長い長い時間をかけて練り上げてきた一族。それは人間の本能の中に刷り込まれた退魔衝動を最大限に発揮させた結果も含み、七夜の名は斎木暗殺の際激震と共に語り継がれた。


 だが、それ以上に彼らが恐怖したのは、七夜のその徹底振りにあった。


 暗殺の練達者。そう言えば聴こえはいいかもしれない。完成されたプロフェッショナル。依頼達成の為ならば如何様な手段を用いても達成する賢しさ。一族に受け継がれる秘伝の技法もまた然り。その術理、その手際の良さは最早完成された一個の芸術。鬼神と呼び恐れられた七夜黄理は七夜の最高傑作の誉れを頂戴してさえいるのだ。
 だが、混血たちがそれ以上に恐れたのは、七夜たちの執念深さにあった。狙った獲物は逃がさない。必ず殺すと書いて必殺。それを体現し、生き様のように生きてきた群集団。それこそが七夜の恐るべき観点である。
 そう、彼らは必ず殺すのだ。そのためならば、自らの命を捨て去るほどに。
 それこそ七夜の矜持。生まれながらに殺すことを宿命付けられた者たちの誇りだった。


「おやおや、そんなに急いて何処に行かれまする?」


 眼下に見定めた武装集団に向かって翁は快活に問う。月光すら届かぬ深い森の闇の中を慎重に進んでいった彼らからしてみれば、突如として降り注いだ声は度肝を抜かれた。彼らはどうやら未だ七夜と遭遇していない新参者のようで、翁にとっては乳飲み子にも等しい無力な存在だった。


「これより先に進んでも貴方がたにするべきことなど何もありますまい。早々に帰路へつかれるがよろしいかと。さもなくば――――」


 翁の言葉が途切れる。声の出所に気付いた小隊が翁が佇む幹に発砲したのである。しかし、闇夜で、更に言えば一族の根城であるこの森で銃弾など恐れるに足りず、翁は身動ぎひとつで音速を突破する弾丸をかわした。


「やれやれ、最近の若者はこらえ性もないと見えまするな。まあ、ただの人間でしかない貴方がたにとって、それも致し方のない事とお見受けする。もう少しこの老骨の言葉にお付き合いしてもよろしいでしょうに」
 咽喉元でくつくつと笑いながら、翁は眼下で戦闘待機している部隊を観察する。数は凡そ十数名、各自銃火器を装備しているが、暗視スコープの類は装着していない様子。そして多少の訓練はされているようだが、動向からして素人に毛が生えた程度の修練度具合。まずもって申し分の無い獲物である。残念なのは今宵の首魁である遠野槙久の姿が見当たらぬことぐらいか。こういう輩は子供たちの為にとって置き、後学の為に保存してもよさそうだが、何分時間がそれを許さないし、何より状況がそれを許してくれない。もう、後々の事など考える暇すらないのである。無情を噛み締めながら、それでも翁は言葉を紡ぐ。


「今宵の祭りは最早終わりを迎えようとしております。なに、貴方がたが駆けつけても全ては後の祭り。残念なく全てが終わっていましょうぞ。であるならば、これ以上ここにいても無駄に尽きまする。それでも進みたくばこの翁の屍を超えていかねばなりますまい。ここにいるは先代より仕えた七夜が一人、貴方がたの相手など赤子の相手よりも容易かろうて」


 足元から激昂と動揺の気配が生じているのが分かって、尚更翁は可笑しくなった。これぐらいの戯言でたじろぐなど程度が知れる。そしてそれぐらいの戯言でたじろぐような相手に我々は負けるのだ。であるならば、今から行うはれっきとした負け戦。殿もいない、撤退戦もない、正真正銘の敗戦処理なのだ。
 そう思えば、少しだけ懐かしさを憶えた。先代より七夜当主に仕え続けた翁はどの七夜よりも修羅場を潜り抜けた経歴がある。若かりし頃は本当に戦争のようなものに巻き込まれたこともあった。国の情勢が崩れ、外敵が押し寄せた頃合、翁は炸薬と爆薬の扱いを得意とする七夜として、集団への奇襲攻撃を当主から賜ってきたのである。故に翁は刃傷沙汰よりも、よりいっそう戦争の香りがする火薬の香りが好きだった。若かりし頃の青春はまさに戦場と共にあったと言っても過言ではないだろう。
 特に敵陣へと突撃して炸薬を破裂させるのはたまらなかった。爆炎に紛れて魂ぎる絶叫は愉快そのもので、七夜では忍ばない七夜としての語り草として今も尚語られたものだ。特に先代の当主には付き従う事も多かったが故、そして得物が爆発物ばかりだったが故に積み重ねた屍の数は実は現当主よりも多いという事実に気付いた時は、中々荒唐無稽な話だと想ったものだ。
 思えば全てが懐かしい。七夜としては驚嘆に値するほど長命な翁は、その後前線を引いてご意見番や相談役として幾つもの役目を担ってきた。それは即ち七夜の変遷をこの目で見てきた事に他ならない。先代当主から続いた刀崎との盟約を交わした際も立会い、今代当主七夜黄理が正式に当主として任命された場面にも立ち会ってきた。そして黄理が退魔組織を脱退し、以降は俗世を離れて暮らす決断を下す際にも相談役として幾度と無く密談を交わしたものだ。それから七夜の雰囲気も一変して安穏とした生活を送り、翁自身もまた血生臭い生活から一風して平穏な日々を謳歌してきたものだが、やはり血は争えない。


 こうして命を賭そうとする瞬間、翁の心は猛々しく、眼下の敵を抹殺せしめんと滾りきっていた。


 再びの発砲。マズルフラッシュに刹那森が明るくなる。しかし、そこに翁はいない。全員が気付いた時、翁は小隊のど真ん中に鎮座していた。老齢であろうとも翁は七夜、意識をずらし移動する心得は誰よりも誇っている。


「さて、皆様方お付き合いのほうをよろしくお頼み申す。何ゆえ、前線を引いて久しいのでご満足して頂けるかどうかは定かではありませぬが」


 そう言って、翁は胸元を開く。肋骨の浮いた表皮に染みがついているが、着目すべき点はそこではなかった。戦闘衣装の内側には数え切れぬほどの手榴弾がぶら下がっていた。


「どうか、ご堪能してみて下され」


 瞠目した隊員達が慌てて翁の脳天目掛け引鉄を引こうとした時にはすでに遅く、翁はピンを引き千切った。まず感じたのは激しい衝撃だった。身体が内側から破裂してしまうような感覚に引き続き、今度は灼熱とけたたましい破裂音が耳を劈く。無論、その場にいた部隊は爆風に巻き込まれ全身が奇怪なオブジェとなっていた。けれど、翁にそれを確認する術はない。何故なら自爆した翁は火薬と共に散り散りとなってしまったのだから。


 嗚呼、御館様。


 ――――それでも、脳裏に焼きついて離れぬ望郷の限り。安寧の日々。子供たちの笑顔。唯一の気がかりと言えば朔と志貴。どうか二人は生き延びて欲しい。けれど、翁にその力はなく。


 ――――今、お傍に参りまする。


 そうして、翁は、七夜至上最も長命と公式記録に残された一人の七夜は、満面の笑みを浮かべながら絶命した。


 □□□


 耳を劈くような爆音が森に木霊する。木立が揺れるほどの爆発は槙久を慌てさせるには充分すぎた。しかし、再度参集させた部隊の総数を確認して槙久は愕然と声を嗄らした。


「たったこれだけなのかっ!? 他の輩はどうした!!」
「それが、襲撃及び罠に嵌められてしまい……」


 辛うじて生き延びた部隊隊長は萎縮して面を下げる。犠牲となった者の中には彼の部下もいたのだろう、悲痛な目元をしていた。しかし、そのような瑣末は槙久には関係ない。今宵七夜侵攻作戦の為に集めた者達はなるべく迅速に動けるよう少数精鋭部隊ばかりで、それを期待して槙久は彼らを雇ったのだが、この様だ。森に侵入する以前と比べれば、隊員の人数は数えるほどしかいない。それほどまでに七夜の森が堅牢だった、という部分も過分にあるだろう。だが、折角大金を払ってまで雇った部隊が物の役にも立たず、徒に数を減らしただけというのは、ただでさえ沸点の低い槙久の怒りを買うに充分値するものだった。


「本当に貴様達は精鋭部隊なのか、このような有様でよくもまあ今まで生き残れたものだ」
「……は、申し訳ありません」


 仮初の雇い主とは言えど、散っていった部下達を揶揄するような物言いに隊員たちの柳眉が下がった。そして、それに槙久は気付かず、更に罵倒を繰り返す。これには隊員達も溜まったものではなかった。裏の世界ではその名を轟かせる七夜を攻める等という狂気の作戦を立案しただけでも正気の沙汰ではないというのに、更には戦果を挙げろという。すでに存命率は大幅に下がり、士気もだだ下がりだ。これで更に侵攻するのは無理があるだろう、と隊長が進言をしようとした所で、彼らの合間で紛れるように沈黙していた刀崎衆の一人がおもむろに口火を開く。


「槙久様、朗報です」
「なんだ、私は今非常に腹がたっている。下らぬ報告ならもう充分だ」
「七夜黄理が討たれました」


 思わぬ報告に、槙久は言葉を失い、隊員達は心身凍る。


「それは本当か」
「はい、戦闘を監視していた者からの報告です。七夜黄理は軋間紅摩に破れ、最早再起不能だと」
「再起不能? それは存命しているということか」
「いえ、頭部を破壊され、内臓も破裂されている様子。とても存命は不可能かと」
「そう、か。そうか……」


 あまりのあっけなさにそれまでの意気込みが嘘だったかのように、槙久は悄然とする。お膳立てした斎木暗殺計画の際、血に酔った七夜黄理に重傷を負わされ一時は生死を彷徨った身である。当然、七夜黄理への憎悪は深かった。慰撫のために訪れた見舞い客に当り散らすほどの屈辱は、最早深い恨みへと変動して黄理への復讐を企てるほどだった。今までの行動指針の全てが七夜への制裁と表現しても過言ではなかった。しかし、その七夜黄理が討たれた。自分が用意した紅赤朱の前に敗れ去ったのである。


「く、くく」


 いつの間にか食い縛っていた歯の隙間から苦笑が漏れた。


「くくく、くははははははははははははは」


 愉悦と歓喜が槙久を笑わせる。なんだ、あれだけ脅威だと、怨敵だと思っていた男がこんなにもあっさりと死んでしまうのか――――!
 槙久は腹を抱えて笑った。今までの労苦が報われた歓喜の笑い声であるはずなのに、どこか不気味極まりない哄笑は森の暗闇に吸い込まれ、周囲の隊員達を怯えさせた。それほどまでの狂態だった。堪えなければ涙さえ流してしまいそうなほど、槙久は笑った。


「それで、如何致しますか。当初の目的は達成されましたが……」


 やがて落ち着き始めた槙久の様子を伺い、刀崎衆が声をかける。


「いや、まだだ。まだ足りない」


 面を下げていた槙久が顔を上げ、周囲の者たちは思わず息を呑む。血走った眼は最早人の物ではなかった。


「これだけの戦果ではまだ足りない。もっとだ、もっと戦果を挙げよう。幸い相手方の最大戦力は敗れた。もう七夜黄理はどこにもいない、後に残されたのは取るに足らぬ七夜ばかりだ。討ち取ろう、首級をあげよう。今宵は月が綺麗だ。血を眺めるにはさぞ美しかろう。禍根は断たねばな、何時復讐に来られるかわかったものではない。私は安心して眠りたいのだ」


 血眼になって部隊へと更なる侵攻を告げる槙久。その有様に部隊隊長は戦慄を覚えた。人はかくも変化するものなのか。こんな狂気を身に宿せるのか、と。


「し、しかし我々の戦力ではこれ以上の侵攻はあまりに危険が」
「否、否だ。こちらの手札には軋間紅摩がいる。真性の鬼が、真のジョーカーがあるのだ。あいつは最早暴走機関車、触れた者は容赦なく挽き肉になるだろう。ならば、我らはあやつの作った道筋を進めば良い」
「ですが、これ以上の被害が出れば部隊編成も難しくなるかと」
「だから、どうした?」


 あくまで自分たちの存命を危惧する隊員達は槙久の返答に絶句する。


「最早ここまで進んでしまったのだ。ここまで来てしまったのだ。帰りたい者がいれば帰ればいい。だが、上手く帰れるかな? 行きは良い良い帰りは怖いとも言う。無事に出口まで帰られる者がこの中に何人いる。で、あるならば進むしかあるまい。私たちはただ邁進すれば良いのだ。紅赤朱の闊歩した道筋をひたすら真っ直ぐに」


 槙久は己の意思を翻すつもりはない。あくまで前進するつもりだ。しかし、隊長には首筋に嫌な寒気が走っていた。彼らも歴戦を超えた猛者たちである。予感というのはあながち莫迦に出来ない事を熟知している。その予感が悪寒を告げているのだ。これ以上進むのはあまりに危険だと。


 しかし、上申しても無駄だという事は理解した。眼前で狂乱を見せる槙久の様子を見る限り、彼は有頂天なのだ。


 隊員達は憎憎しげに刀崎衆を睨む。彼の情報が無い限り隊長は撤退を申し上げようとしたのだ。これ以上の損害は出せないし、槙久自身にも危険が及ぶかもしれないと。槙久は小心者だ。己の命に危機が及ぶかも知れないと分かったなら、すぐさま反転して撤退しただろう。だが、それも刀崎衆の情報ひとつで露と散った。刀崎衆は手を打ったのだ。この男は状況が上手くいかない事で焦燥していた槙久が今一番欲しい情報を、この上ないタイミングで言い放ったのだ。槙久がそれに飛びつかぬはずもない。それが目の前の槙久の姿だ。彼はようやく己の怨敵が亡くなって、更に欲をかいた。七夜を滅ぼす。当初はせめて七夜黄理の首級だけ取れれば良かったのだ。それが最低かつ最大条件だった。だが事態は想定を遥かに超えて、黄理を倒してなお進軍するとのこと。今の槙久は貪欲に進撃する狂人でしかない。


 もしかすると、今日の戦場を支配しているのは七夜でも遠野でもなく、刀崎ではないのか?


 疑念が脳裏を過ぎる。刀崎棟梁刀崎梟は独断専行して、彼の配下である刀崎衆が梟の思惑通りに槙久を動かしているのならば? 


「……っく、これまでか」


 今日で命運尽きるかもしれない。誰かが嘆きを溢す。しかし、槙久はそんな隊員達の様子に気がつくはずもなく、意気揚々と刀崎衆の道案内に従い足取り軽く闊歩していく。その後姿の何と頼りなく、危うげな事か。彼は気付いていないのだ。今宵の戦が全て刀崎梟の掌の上でしかない、という真実に。
 心内で戦慄しながらも、諦観を抱き隊員たちは黙って追随するしかなかった。
 空を見上げる。鬱蒼とした森の葉群から差し込む月明かりはあまりに朧で頼りにすることも出来そうにない。まるで自分たちのこれからを指し示すかのようで、胸中に諦観が宿る。槙久に付き従う彼らの表情は暗澹とし、まるで絶望に飲み込まれていくようだった。


 そして、彼の予感はやがて現実のものとなる。だが、彼がそれを知るのは後のこととなる。


 □□□


 耳が痛いほどの沈黙が流れている。けれど、轟々と吠え立てるようなこの威圧感は一体何なのだろう。ともすれば体躯そのものが押し潰されてしまいそうな圧迫感。遥か頭上にまで聳える崖を目前にしたかのように皆閉口している。誰もが言葉を失い、その場に仁王立ちしている者に目を奪われた。ある者は驚嘆の、ある者は畏怖の視線で。しかしあらゆる視線に晒されている男はあくまで泰然と屹立している。幹のように太い首と、鋼鉄を思わせる肉体、そして修羅を体現したかのような面立ち。その衣服に付着した黒い染みは恐らく血痕だろう。それ以外の表皮にも鮮血や肉片が塗りたくられている。恐らく同道にいた七夜を文字通り蹴散らしてやって来たのだ。男にはそう思わせる何かがあった。


「ひひ、随分と早いご到着じゃねえか、紅赤朱」


 鼓膜を劈きながら、浮き足立って刀崎梟が口火を開く。


「で、どうだった。七夜黄理はご満足に至る相手だったかな?」
「嗚――呼――――」


 梟の茶化したような物言いに答えず、男の咽喉から零れるのは熱風のような吐息。その様はまるで何も見ていないかのように茫洋で、何も聴こえていないかのように蒙昧だ。いや、七夜の里に踏み込んでから、軋間紅摩はある一点のみを見つめているに過ぎない。それ以外にはまるで眼中にないと言わんばかりに、凝視していた。そして、その視線の先には女の腕に抱きしめられて今は意識不明に陥っている七夜朔。今宵二度目の再会だった。
 女は思わず咽喉にまででかかった悲鳴をどうにか耐える。眼前にいるのは刀崎梟とは比較にならないほど膨大で莫迦らしいほどの魔を撒き散らしている。人の血が混ざっているはずの混血とは思えぬほど、目線の先にいる男は魔そのもの。人の形を保っているほうが不思議なほど、あまりに魔的――――!


「化物か……」


 同じように反応した七夜の誰かが苦しげに声を漏らす。そう、皆の視線の先に昂然と佇む男はそう形容する他ないほど、化物の気配を漂わせていた。その臭気を嗅ぎ取ってしまえば瞬時に酩酊してしまうほど、芳醇で、忌まわしい香り。


「あー、んでだ。興奮してるところ悪いんだが、あんたの役目はもう終わりだ。ここで終了、行き止まり。後は俺に任せてちゃっちゃとお帰りを――――」


 お願いしたい。その言葉を梟は紡ぐ事が出来なかった。


 紅摩が一歩踏み込んだのである。しかし、それは震脚と見紛うほどの衝撃を周囲に広げ、地面を陥没させた。否、地が割れた。その先にいるのは女と、その懐で眠る七夜朔。紅蓮に燃える瞳が更に烈火の炎を焦がす。最早、軋間紅摩に周囲などどうでもいい些事に成り下がっていた。この溢れんばかりの熱情をもっと味わいたい。その一心で彼は進軍を再開する。故に彼が目指すは朔のみ。そして朔を抱く女が怯え竦む。


「嗚――呼」
「あ、駄目だ。全然駄目だ、そいつあそうだ。あいつは端から人の話に耳ぃ傾けるような質じゃねえか」


 仕方ないと言わんばかりに梟は肩を落とした。


「刀崎! 先ほどの約束はどうなるのですかッ!」


 想像を絶する化物の登場に飲み込まれていた奥方が悲鳴交じりに梟へ問う。


「おお、そうだそうだった。約束は守るぞ、俺は義理固え爺だからな」


 するりと前身する紅摩を緩やかに通り過ぎ、怯えて立つことも出来ぬ女の前に躍り出る。


「おい、黄理の妹。ひひ、朔を渡せ。あいつの狙いは最早朔しかあるまい。で、あるならば朔を手渡せ。そうすればあんたも、ここにいる全員の命も守れる」
「……そ、そんな、保障がどこにある」


 震えながらも、女は気丈に梟をねめる。瞳に写るは女の一途な想い。それのみ。故に梟はそれを利用する。


「なに、保障はする。今日の目的はあくまで七夜に恨みを晴らすだけで、黄理がお陀仏になった今それも解決した。なにも手前らも一緒くたになって死ぬ理由はねえよぅ。そこらへんはこの俺がいい感じになあなあにしてやる。だから朔を俺に寄越せ」
 

 一人の命と引き換えに、全員を救う。それは何と甘い誘惑だろう。


「それになにも朔をどうこうするつもりは毛頭ねえよ。俺が引き取って大事に育てる。手前の意志は俺が継ぐ。大切で大切でたまらないのは俺も同じ。今だってほら、碌な治療さえも出来ねえ有様だろ。こういう事もあろうかと刀崎衆を呼んである。ちゃあんと治療もしてやる。どうだ、悪かあねえ取引だろ?」


 命の定量だけ見定めるなら、釣銭が余るほどの取引だ。その中身を見据えなくても、ここは仮初であっても梟に預けるのが必定。だが、しかしである。女は周囲に気を配る。正確には周囲で状況を見守る七夜をだ。こいつらは朔を切り捨てた。最早信頼ならないのは明白。ならば朔の面倒見役を長年務めてきた女にとっても心情としては助ける価値は見出せなかった。朔の敵は自分の敵。そう考えるほど、女はただひたすらに朔を愛し、そして追い込まれていた。
 こうして会話を交わす合間もあの混血は迫ってくる。誰も止める事が出来ない。否、実際に止めようとしても瞬きひとつで肉片となるのは想像だに硬くない。それは無意味な死だ。自決にも等しい愚行。必殺を信条とする七夜にとっては唾棄に値する行動である。もしかすればこうしている間にもあの混血を殺す策を誰かが練っているかもしれない。だが、それはあくまで希望測に過ぎない。本当はこの場を収拾するための算段を錬っているのかもしれない。朔を手渡すのを前提として。


 女は唇を噛み締める。無力な自分に対して、無念とさんざめく涙を止める事も出来ず。


「……朔を、よろしくお願いします」


 血を吐くような想いで女は朔を手放す。だが最後までその温もりだけは、と己の胸元に朔の頭部を埋ませて、なるべき時間を置いて眠る朔の身柄を引き渡した。翁はにやりと三日月型に唇を歪ませて、朔を受け取る。そうして縋るように手を伸ばす女の手が朔の髪をさする。柔らかな感触と、確かな温度に切なさがこみ上げ涙が止まらない。眦から零れる涙は朔の頬を濡らし、最後の別れを惜しむ。
 これが子を奪われる母親の気持ち。これが愛しい者を投げ渡す寂寞。女はあまりの哀しみと、朔を失った孤独に嗚咽を漏らした。それはこれまで過ごした静かで穏やかな日々にあった愛を失った女の哀しみだった。もうこれ以上会うことも、会話をすることも許されない今生の別れ。その予感に女は身震いし、寒さに心を凍らせた。


「さあて、もう一丁一仕事いたしますかね、ひひ、ひ……」


 朔の身柄を確保した梟は、その小さな体躯を腕の中に隠すかのように抱いて振り返る。
 眼前には今まさに踏み込まんとする修羅の顔。軋間紅摩。


「ほうれ、あんたの望んだ朔はここだ。だが残念かな、あんたの仕事はここで終わりだ。こいつは最早俺のもんだからな」


 けたけたと歪み嘲う。いっそ哄笑と呼ぶべき嗤い声に紅摩の足取りが止まる。


「そいじゃ、こんな湿っぽい所おさばらと行きますか――――」


 と、歩もうとした梟の背中に甲高い怒声が飛んできた。


「ここにいたのか、刀崎梟……ッ!」


 その声の正体は武装集団を引き連れてやってきた、今宵の首謀者遠野槙久だった。スーツを葉や土で汚し、肩を怒らせながら彼はなおも叫ぶ。


「どうやってここまでやってきた! お前の教えた道筋を辿ってこの様だ! 部隊は殆ど壊滅したぞ、この責任どうとってくれる!」


 激昂する槙久とは対象に、梟は気だるそうに振り向いた。しかし、その顔に張り付くのは嘲笑。


「責任、責任だってぇ? ひひ! こいつは驚いた、俺は確かに里への道筋を教えてやったが、そこが完全に安全だって誰が口にした。ん? 手前らがそんな様なのはただ単に運が悪かった、その程度の事でそう怒るなよ。程度が知れるぞ、小僧?」
「知った口を聞きおって! それに軋間、何をやっている! さっさと七夜を全滅させろ!」


 喚き散らす首謀者の様態に皆が顔を顰める。だが、七夜にとってはどうして聞き流せない言葉があった。


「おいおいおいおい、この状況でよくもまあそんな事が言えるもんだな小僧」


 皮肉げに肩を揺らす梟に槙久が噛み付く。


「何?」
「周りをよおく見てみろ。その目を開いてよおくだ」


 梟の言に改めて周囲を見渡す槙久は渦巻く殺気の念に肝を冷やした。それら統べては七夜が発する殺意だった。彼らは軋間紅摩に注意を払いながらも、確実に槙久へと殺意を注いでいた。短く槙久が悲鳴を溢す。


「分かったかいお若いの。今宵の主催者は手前で、紅赤朱と比べたら明らかに手前が弱い。俺ならそうさなあ、弱い奴から殺すな。弱い奴から死んでいく。それが道理、この世の真理ってなあ」


 恐らく梟がこの場にいなかった限り、確実に七夜は槙久を殺しに走っていただろう。何せ彼は今宵の騒乱を巻き起こした張本人だ。その首が泣き別れするまで収拾はつかない。故に七夜は挙って槙久を殺す。それが七夜の総意である。せめて最後に首級を挙げようと。


「で、どうする? 手前が動けば七夜が動く、七夜が動けば紅赤朱が動く、紅赤朱が動けば俺も動く。さあて、誰が最初に動くかな」


 槙久は忌々しく梟を睨みつける。その懐にいるのは恐らく七夜朔に相違ない。人質、という訳ではなく、彼は独力で朔の身柄を確保したのだ。全てはこの三すくみを形成するために――――!


 ならば積年の恨みを晴らすべく、槙久は朔をこの場で殺しておきたい。ここで七夜を掃滅しておかなければ確実に遺恨が残る。その遺恨はやがて猛毒へと変化して確実に槙久を殺すだろう。ならば、殺すなら今、今しかない。しかし、槙久自身は動けない。彼が動けば七夜が彼を殺すだろう。槙久程度の混血なら、七夜はいとも容易く殺せる。では、頼りにしていた軋間紅摩はどうかと言えば、何故か仁王立ちのままで動かない。黄理を殺した今、彼に七夜への執着は最早無いのか? と槙久は疑る。そして梟は明らかにこちらへ手を貸す気はない。どうにも出来ぬ状況に槙久は歯噛みする。


 こうして、今ここに三すくみの状況が出来上がった。
 全ては妖怪刀崎梟の思惑通りだった。


 □□□


 そこは乳白色の闇だった。黒くもなく暗くも無い、白い闇だった。まるで太陽を見上げながら目蓋を閉じているような視界に疑念が過ぎる。果たして自分は何処にいるのか。辺りを見渡しても所在は不明。このような場所は見聞に無い。ならば、ここは地獄への入り口だと考えるのが妥当だった。次いで、自分は死んだのだ、と結論も自然と出来上がった。
 しかし異な事、死人が思考できるとは終ぞ知らなかった事実である。死人に口なし、とも言う。あるいは皆死んでしまっているから、その真実を伝えることが出来なかったのかもしれない。何せここはとても居心地が良く、今にも眠ってしまいそうな錯覚に溺れてしまいそうになるのだから。まるで温かなお湯に浸かっているかのように、全身が温かい。そうすると、次第に気分まで良くなってしまう。嗚呼、これが死なのかと受け入れてしまいたくなる。そんな感覚に酔い痴れる。


 この感覚は、知っている。遠い記憶、未だ人間としての形骸を作りかけている途中の頃に、こんな感覚に包まれていたことがある。あれは、確か母体の胎の中にいた時だった。自分は確かにこんな小さな世界にいた。自身を囲う何もかもが柔和で、幼稚で、そして優しい物で作られた世界。


 そこで自分は生命として誕生した。生まれ、死んだ。そうして今またここに戻ってきた。


 つまり生と死は同じ場所からやってくるのだ。体に宿された生命力も、肉体から離れていく魂も、皆同じ場所を辿り、やがては同じ場所へと戻っていく。まるで出口のない輪廻の中を永遠にぐるぐると彷徨っているようなもの。あるいは巨大な渦の中を悠々と流されていくようなもの。寧ろ、これこそが運命と呼んでも過言ではないのかもしれない。運命とは「命を運ぶ」と書く。誰かの意志の介入をされることなく、ただ同じ場所へと往き帰り、そしてその作業は営々と行われていく。永遠に。
 では、やはり自分は死んだのだろう。あるいは死にかけているのだろう。このような場所にまでやってきたのだ。それ相応の理由があり、自分はここにいるのだ。


 しかし、何故? ここに至るまでの過程が何一つとして思い出せない。あるいは運命によって記憶すらも洗い浚い流されてしまったのだろうか。けれど、ここが知っている場所だという事は間違いない。つまり、これこそ原初の記憶、なのだろうか。人が生きる過程において刻まれた決して消えない記憶。決して癒える事のない爪痕。ならば、この生と死の狭間こそ己の原初の記憶だというのか。
 それは、都合の良い考えかもしれない。けれど、しっくりくる。


 自分は生きているという感じはしなかった。少なくとも、今自分は生きているという実感は一度も経験をしたことはない。一度は誰しもが感じる生の感覚が、自分にはごっそりと欠けていた。呼吸をしても、食事をしても、睡眠から覚醒しても、生きていたとは思えない。そんな周囲で言うところの当たり前さえ、己は享受出来なかった。どうしても違和感を拭えなかった。本当に自分は生きているのか? 命題とも言うべき絶壁の前で、自分は立ち竦んでいた。遥か見上げる壁の先は雲のようにあやふやで、光のように有耶無耶でさえあった。そんな場所にいて、果たして自分は生きているのかという自問自答を繰り返し続けた。何度も自分に問いかけた。それでも自分は生きているのだと言い聞かせ続けた。修練に次ぐ修練の果てにその答えが見つかるのだろうと、願い、縋った。


 けれど、本当は分かっていたのだ。自分は生も死も曖昧な存在でしかないのだと。その事実から目を反らしていたに過ぎないのだと。


 ならばここにいるのは当然の帰結。生も死も綯い交ぜの混濁でしかなかった己が到達するのはやはりここなのだ。妙な得心だった。


 本当は、己も生を謳歌してみたかった。例えば春、生命が芽吹く季節に包まれて感慨を抱きたかった。こんなにも生命は喜びながら生まれてくるのだと、思いたかった。


 けれど、駄目だった。己はどうしても生を上手く受け入れる事が出来なかったらしい。いや、受け入れる以前に理解する事さえも出来なかったらしい。理解力は確かに備わっているはずなのに、生に関して己は全く理解が及びつかなかった。寧ろ、無関心だったと言わざるを得ない。嗚呼、なんと残念な生命、なんと愚かな命だっただろう。死に瀕して今更ながらに己の愚物さに苦笑さえ漏れる。


 ――――苦笑?


 はたと気付く。死んだのならば肉を持っていないはず、なのに己は苦笑を漏らした。つまり、未だ肉はついている、ということだろうか。そういえば温もりさえ感じているのだ。何故気付かなかったのだろう。あるいはあまりの事態に未だ理解が追いついていないのかもしれない。
 そこでふと、眼前に淡い光景が浮かんだ。それは誰かの背中だった。雄大でありながら細身の背中だった。


 ――――嗚呼、そうだった。


 誰よりも雄々しく、寡黙で、そして壮烈なその背中に、己は憧れたのだった。


 たぶんそれは心惹かれたと形容しても良い。こちらを振り返らず、遠くへ去っていくその勇姿に、憧れたのがたぶん始まりだったのだ。


 そうだ、段々と思い出してきた。


 決して振り返ってくれない背中に追いつきたくて、自分は走り出したのだ。届かぬと知りながら手を伸ばし、必死に追い縋ろうとした。それまで不動だった風景の中で現われた大きくて、しなやかな造りをした背中に。自分は、その姿をいつも見つめ続けたのだ。眼前に現われてくれないが故に、遠目からずっと心焦がしながら。視線はその姿を追い続けた。他には何者にも目をくれずに、走り出した。
 ――――景色が変わる。
 自分は佇みながら、眼前に現われた巨大な人物を観察した。ずっと見つめ続けていたが、正面から対面するのは始めてだったが故に、全身くまなく観察した。視線は鋭利で触れてしまえば忽ち切り裂いてしまいそうで、何を考えているのか把握できない冷たい表情だった。男は誰からも御館様と呼ばれていた。だから自分も余計な反感を買わぬよう御館様と男を呼ぶことにした。
 御館様が真っ直ぐに自分へと話しかける。言葉少なに、自分は誰かと問う。その姿に釘付けとなりながらも、自分は覚えたばかりの言葉で返答した。


「そうか、お前が朔、か」


 朔。そう自分は呼ばれていた。名前という記号。固有名詞。そしてその時に自分は改めて朔という名のだと再確認した。男は自分の答えに満足したのかさえも分からぬ無表情で立ち去っていった。
 ――――情景が変わる。
 自分は腕の長さとそう変わらない長さの刃物を握り締め、それで目前に屹立する御館様へと斬りかかった。場所は森。初めての外出で、自分は御館様から手解きを受ける事となった。自らの一族は人を殺すために永らえた一族なのだとその時教えられたものだったが、生も死も曖昧な自分はそれをよく分からずに受け入れた。だから特訓を始めたが、何分初めて持つ刃物は重たく、握っているだけで精一杯な有様だったので、自分は無様に転倒した。特に痛みは感じなかった。しかし、その際御館様は笑うことも罵倒することもなく、再び襲ってくるように、とだけ口にして決して手を貸さなかった。そして、立ち上がろうとする自分を一心に待ち続けてくれた。
 その佇む姿を、朔は見つめ続けた。
 ――――光景が変わる。
 組み手に失敗し腕の骨が完全骨折した時、御館様は黙々と添え木を拾い手当てをしてくれた。そして再び、組み手を開始した。万全な状態でなくとも肉体運営を行えるように。
 景色は変わる。
 情景は変わる。
 光景は変わる。
 その全ての中心に、御館様がいた。
 次第に生活は御館様を中心に巡っていった。御館様との鍛錬のために目覚め、食事を取り、少なからずな時間を御館様を過ごす日々。楽しい、という感情はよく分からないが御館様と過ごす時間はあっという間に過ぎてしまうほど没頭出来る瞬間だった。それが良かった。少しでもその背中に追いつくため、少しでもその高みへと上り詰めるため。その一心で走り続けた。


 しかし、それはある時期を境に変化した。


 突如として現われた異物。御館様のご子息である彼は、常日頃から自分の傍にいた。自分よりも幼く、其れでいて子供らしい感性のままに振舞う彼。とりつめて御館様との関係以外を結んでいなかった自分は、彼が己を兄と呼び慕う事に賛同した。そこにより御館様との強い縁を結べる術を見出したからだ。云わば、打算での関係でしかなかった。都合よく子供はそれに気付くことも無く、傍らで表情をころころと変えながら話しかけ、時には朔さえも知らぬ知識を披露し、またある時は自身の父である御館様を自慢げに話してくれた。彼との間に結ばれた縁はとても有効なものだった。彼の話から己は御館様の普段の姿、あるいは己に見せぬ姿を知る事が出来たのだから。
 ただ、時として何もせずに過ごす時間もあった。子供らしく遊ぶわけではなく、ただ傍にいる。己が住処としていた小さな離れの縁側の腰掛け、空に浮かぶ雲を眺めたり、あるいは風の囁きに耳を澄ます。幼い子供からすれば大して面白くもない時間だっただろう。だが、子供はそれを是とした。交わす言葉は少なく、その場の雰囲気を堪能するかのように目を閉ざして、己の傍に座っていた。
 最初は奇特な子供だと思った。なにぶん、人と縁を結ぶのが下手だとは心得ている。飽きさえすれば自然と姿を消すだろうと考えていた。けれど、それは次第に変化して稀有な子供だと認識を始めた。沈黙も受け入れる、ありのままを受け入れる。そんな子供もいるのだと。
 ――――そうして景色は再び変わっていく。
 離れから見える本家の内部。そこに御館様と子供がいる。二人は話し合いながらも、時折子供がじゃれ付いて、御館様は邪険に扱いもせず、少し不器用な微笑みを浮かべていた。


 その、なんと温かみのある風景を、自分は離れた場所から見ている。


 そうして思い知ったのだ。自分にはあんなもの、手に入れる事など出来ない。触れる事さえ叶わぬのだと、悟った。
 あんな風に戯れることも、無邪気に振舞うことも出来ない自分は異端でしかない。だから、手には届かないし、その深遠にある温かみを理解できないのだと、思い知らされた。その驚愕は己をより一層頑なにさせ、孤立は更に激化していった。誰も彼もが己を腫れ物扱いし、誰も彼もが自分をいないものだと扱う。


 ――――それでは、自分が生きる意味とは?


 改めて問われた命題に、己は何も答えることができず、そこでふとこれが噂に訊く走馬灯なのだと悟った。死に際に見る、今までの光景、生き様、その全てを再び垣間見せる人間の本能。死の恐怖に耐え切ることの出来ない人間が取る、一種の逃避行。それは死への恐怖を癒し、温かな死を向かいいれるための準備。


 けれど、この虚しさは何だ。


 刹那に過ぎる光景は己が如何に無様だったかを再認識させる程度のものでしかなかった。つまり、己の人生はその程度のものだった、という事なのだろうか。何故、生き、何故生きたのか、その命題に直面してなお、答えは何処を探しても見当たらない。
 これでは、生きているのか、死んでいるのかさえ分からない。
 きっと、そんな人生を今まで自分は歩んできたのだ。生きているのに死んでいる。そんな矛盾を抱えた幽鬼。それが自分の正体だったのだ。


 ――――嗚呼、寒い。


 心が砕けて散ってしまいそうだった。


 生きるとは何ぞや。生きるとは何ぞや。生きるとは何ぞや。
 死ぬるとは何ぞや。死ぬるとは何ぞや。死ぬるとは何ぞや。


 繰り返し、繰り返して問うが返ってくるのは虚しき反響。


『生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く。
 死に死に死に死んで死の終わりに冥し』


 このままではいけない。逝けない。まだ自分は何も手に入れていない、何も手を触れていない。探さなくてはいけない、己に足りないものを見つけ出さなくてはならない。生と死の狭間において、命題の答えを得なければならない。
 そのためにはまず、足りないものを補う事を憶えなくてはならない。自らに備わっていないものを身につけなくてはならない。己に未だないものを探しあぐねなくてはならない。


 ――――そうして、己は『其れ』に触れた。


 □□□


 最初に違和感を覚えたのは刀崎梟だった。散々に緊迫走るこの場を引っ掻き回して退散し、後のことは知った事ではないと彼は早々に立ち去るつもりだった。七夜が滅びようが遠野が負けようが最早些事、どうでも良いことに成り下がっている。賽はすでに投げられている。後は神のみぞ知る。彼にはもっと大事なことがあったのだ。
 この懐の中で気絶している朔。これから自身を捧げる担い手。彼の身柄の確保と保全。全てを成し遂げるために、輝かしい未来のために梟は殺伐とした空気の中、観賞するのを辞めて去ろうとした時、左腕に違和感を覚えたのだ。


 はて、この痛みはなんぞと、改めて懐を見たとき、彼は魚眼をさらに見開いて思わず叫ぶ。


「ああ――――ッ!?」


 思わぬ叫び声に皆の視線が梟へと注がれ、全員がぎょっとする。


 致命的負傷を負い、意識不明の重体にまで陥った朔が梟の左腕前腕を食んでいる。否、喰らいついている。現に、朔は梟の腕を骨ごと噛み砕き、食い千切って嚥下している。恐るべき咬合力によって老いてなお筋骨逞しい梟の腕を食べ、そしてなお足りぬと更に齧り付く。そのおぞましさ、その異様に誰もが混乱した。特に混乱したのは梟自身と、そして朔をこれまで育て続けた女だった。


「朔、……手前なにを――――っく!?」
「朔、どうした!!」


 あまりの激痛に悶絶する梟。いつかこの腕を捧げると誓った相手が真逆、その腕を喰らうなど想像さえもしていなかっただけにその驚愕は一入だった。まるで爬虫類のように骨をごりごりと噛み砕く音が里に響く。不気味な咀嚼は止まらず、なおも朔は左腕を食む。まるで失ったものを取り戻すが如くな所業に、意識が浮上したが錯乱しているのかと女が走り寄ろうとするなか、哄笑が高鳴った。梟の鮮烈な嗤い声である。


「ひ、ひひ……ひひひひひひひひっひひひひいっひいひひひいひひひひひひひ!」


 何かに思い当たったのか、梟の表情は快活だった。しかし齧り続けられ、左腕を損失していく梟の笑い声は森を揺らして殆どの者達の心胆を冷やしめた。事実鮮血を零れさせながら食われていく梟の有様は尋常ではない。


「そうか、そうかそうかそうか! 朔、手前至ったな!? 至ったんだな! その極みに到達したんだな! いいぞ、いいぞ、この老骨の腕存分に喰らえ、喰らっちまえ!」


 ぶちぶちと首の力を駆使してまで骨までしゃぶり尽し、朔の捕食は進んでいく。そしてそれを止めるものは誰もいない。誰も二人を止められない。見た様子、朔に意識らしきものはない。目蓋は開いているがその蒼き虹彩に理性の輝きはない。では、やはり気が狂ったか。そう思われるのも致し方がないだろう。その様は畜生道に堕ちた餓鬼の如く。
 だが、異変はこれでは済まされなかった。


 ぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎち――――。


 それは表現するならそう形容する他ない不気味な音だった。例えるならば、蛹から羽化する蟲がその外殻を破るような、そんな音。


「っな……!?」


 驚きに何処からか声が漏れる。しかしそれも仕方なし。


 ――――何故なら、失われたはずの朔の左肩から、腕が生えてきているのだから。


「そうだ、そうだろうとも! 訳は分からねえが、これこそ至りの証拠! 極地への到達!」


 狂乱する梟の左腕は最早殆ど喰われている。激しい出血に痛みが伴ってもおかしくはないはずなのに、梟は可笑しそうに嗤っている。


 そして、朔がその身を翻し梟の懐から跳んだ。満月の月光を背に飛翔する朔は正に異形。生え出した腕は収まるところを知らず、更に伸びて腕の形を象っていく。二の腕、肘、前腕、甲、掌、指、爪に至るまで生やした頃には、まるで蟲の如き形となっていた。何故ならば、朔から生えてきた左腕はあまりにおかしすぎた。身の丈に合わず、長すぎる。筋張って、色素まで異なる腕の先に生えたる爪はまるで猛禽類――――!


「嗚――呼――ッ!」


 朔が地面へ着地した刹那、それまで不動の態勢だった鬼神が異形と化した朔へと猛追する。標的が行動を開始したが故にだろう。そのまま突撃しても過言ではない勢いは突進。身体ごとぶつかり朔を粉々に砕く所存だったのだろう。だが、紅摩が朔に接近した刹那、朔の姿が掻き消えた。


「――――ぎゃああああああああああああああああああああああああああっ!」


 劈く悲鳴が森を揮わせる。それは全く場違いな所から響いた。皆がその居所を見やれば、槙久の周囲を防衛していた部隊のうち三名の首が消失し、鮮血を噴出させていたのである。
 そして再び皆の眼前に現われた朔はそれぞれに首を抱えていた。小さく細き右腕には驚愕した隊員の首を、長すぎて地面に引き摺るような形で伸びた左腕には唖然とした表情の首を、更にその口に咥えたるは自身が死んだことにさえ気付かなかったのだろう、瞬きをする首がぶら下がっていた。首を抱えるその様、悪鬼と形容する他なく、鬼と表現する他もなし。


「ひひ、ひ……! そうさな、そうさなあ! 折角の誕生祝いだ! それぐらいじゃ物足りんだろう朔! もっと喰らえ、もっと殺せ!」


 左腕の止血を刀崎衆に行わせながら、刀崎梟は膝を叩いて大いに嗤う。


「なんだ、何が起こった梟!?」


 目前で起きた事象に理解が追いつかぬ槙久が叫ぶ。だが狂乱する梟は涎を垂らし、唾を吐きながら嗤うだけ。
 そうしている合間にも、悲鳴が重なる。朔に狙いを絞らなくなった紅摩が他の七夜に攻撃を開始したのだ。そして身内が殺されている様を尻目に朔は再び姿を揺らめかせて消える。


 これから始まるはただ鬼の饗宴だ。それを眺めるは狂乱した刀鍛冶一人。


 その光景が照らすは満月の月明かり。少々心もとない演出ではあるが、妖怪を満足させるには充分すぎる惨劇が淡い光に映し出される。その地獄のような有様。この煉獄のような修羅。


 兎も角、疾走するは鬼が二頭。森に響くは梟のけたたましき嗤い声。


 ――――どこかで、鳥が悲鳴を上げながら飛翔していった。


 □□□


 結果だけ供述しよう。
 ○月×日。
 遠野槙久率いる七夜討伐隊は、槙久を除いて全滅。
 また闇夜に蠢く蜘蛛の異名を轟かせた七夜も壊滅。
 これを行った首謀者の名は七夜朔、及び軋間紅摩。
 先導役を任された刀崎梟も重傷を負うが治療せず。
 この記録は明るみに出してはならぬ忌まわしき物。
 目を通した者は、速やかにこの記録を滅却すべし。
 槙久は気まぐれに走り、一人の子供を拾いあげる。
 子供の名を志貴という。槙久の子と奇しくも同じ。


 かくして運命は叫び声をあげて、その扉を開かん。














後書き。
 ようやく七夜編が終わりました。長かった、実に長かった!
 しかし、これで終わりではありません。この小説は更に本編へと入る導入篇に過ぎないのです。これからが本番と言っても過言ではないでしょう。また、この拙作を愛読して下さる方々は所々に起こった変革に気付いたはずです。それが今後どう本編に影響するのか、楽しみに予想してみてください。
 次回は間幕をひとつ挟み、いよいよ本編に入ります。こうご期待、といった所でしょうか。
 では、今度はいつの更新になるか分かりませんが、またお会いしましょう。
 
 PS:感想とか、ほしいです(懇願)



[34379] 刀絵巻 百花繚乱/曼荼羅地獄絵図
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46
Date: 2014/01/29 21:59
 刀崎白鷺の人生を鑑みると、屈辱に塗れていた。
 

 稀代の刀鍛冶師、刀崎梟の三女として生を受けた彼女はその才能を皆に期待されながら生まれた。刀崎の技術を二代も三代も飛躍した傑出な男の血を引いているのだ。周囲の期待も無理からぬことであった。


 それほどまでに刀崎梟の名は刀崎に鮮烈な輝きを見せていた。彼が構想する概念、思想、技術は他を圧巻させ、歴史に埋もれていた技法を再び表舞台に晒しだし、そこに己の着想した業の在らん限りを叩き込んで前代未聞の名刀、あるいは妖刀を幾つもこの世に誕生させた。


 そう、簡略的に形容すれば、彼女の父は天才だった。それもあらゆる言葉で表現しても全てを表す事が出来ぬ程に。百の言葉を語っても一を語り尽くせぬ程に。その娘なのだ。誰もが期待せずにはいられなかった。


 しかし、彼女には刀鍛冶師としての才覚がごっそりと欠けていた。


 これに拍子抜けしたのは周囲以上に本人だった。自分は誇るべき父の血脈を受け継いだ正統な刀崎だ。刀に於いて優れていないはずがない。そう自分に言い聞かせ、何度も彼女は刀の鍛造に挑んだがその悉くが失敗に終わった。原因は不明だが、彼女は自らが作ろうとする刀を脳裏に明確な図形としてイメージする才能が無かった。


 才能。たった一言だけで彼女の自尊心は大いに傷ついた。


 刀崎として生まれながら刀を生み出せぬ無能の烙印を押された彼女は、即刻見切りをつけられ刀鍛冶師としての教育の一切を受けることが許されなくなった。才知に劣る者の幾ら教えを授けても無為な時間が積もるだけ。ならば刀崎梟の娘、という価値の一点に絞って箱娘として育てるべし。それが皆の見解であり、決定だった。


 そして始まったのは偽りの養育、刀には全く関わらない所謂お嬢様としての教育だった。だが、彼女は悲しいことに人間観察という点については優れており、周囲が自分を隔離しようとしているのをすぐさま察知する事が出来た。


 故に抗った。己には刀崎として相応しい教養と才覚があると信じ、秘密裏に刀鍛冶の現場を観察し、愕然とした。刀崎の刀鍛冶は一線を書く。普通の刀の鍛造とは異なる技法をあらぬ限り注いで、文字通り心血を注いで作刀するのだ。


 時には己の腕や脚を鋸で引き裂き、刀の原型に打ち込むのである。白鷺には理解できぬ狂気であった。無論、口伝で刀崎が如何なる者かを彼女は知っていた。しかし、知ってはいたが理解にまでは至っていなかった。血飛沫と骨と鉄が交じり合う神秘は何かおぞましい魔術の行使に思えたし、良くしてくれた人が鬼気迫る表情で刀を鍛造する姿に心胆を飲み込まれた。


 だから彼女は心折れた。自分には無理だと悟ったのである。


 それから彼女は文字通りお嬢様としての教育を受けることになる。あんなのは自分には無理だと言う挫折と、才覚の無き恥辱に耐えながら。


 周囲はそんな彼女に目もくれなかった。それも彼女の矜持を逆撫でた。自分は刀崎梟が娘、刀崎白鷺。貴き血を受け継ぐ者なのである。だと言うのに、彼女に侍る者の殆どは彼女を見下していた。


 そこに偉大な父との比較が無かったと言えば嘘になる。刀崎棟梁の名目は伊達で務まっているのではない。その才覚に皆が焦がれて、彼の姿を追った。あれこそ刀崎が目指すべき到達点だと信奉していたのである。


 白鷺としてはたまったものではなかった。何せ自分には刀鍛冶師としての才能が皆無なのだ。幾ら知識に富んでいても、貢献できなければ意味が無い。自らの手で栄光を掴むしかない。そう彼女は考えていた。だから父が煩わしくも恐ろしい者に変化するまで時間はそう掛からなかった。


 皆の侮蔑は彼女の容姿も遠因として含まれていた。玉のような肌に夜の色を垂らしたような黒髪は男女問わず溜息を漏らすほど。そして常日頃からその黒髪を結い上げて見せている項は艶やかを通り越して蠱惑的でさえあった。その美貌に酔い痴れる者がいても可笑しくなく、白鷺の妖艶な笑みに惑わせられる者は後を絶たなかった。


 ただ、残念だったのは刀崎に彼女の容姿は必要なかった事であろう。刀崎は刀を造ってこそという古典的思想が定着している今となって、白鷺がいくら美しい娘であろうとも関係なかった。


 故に彼女は〝刀崎の出涸らし〟と陰口を叩かれるに至ったのであった。


 無論、白鷺はその陰口を聞き及んでいた。女中の語り草を耳ざとく聞き、誇りに泥を塗られたも同然と憤慨した。しかし、彼女にそれを論破する術はなく、甘んじて罵言を受けるしかなかった。


 で、あるならば、刀崎として認められないのであるのならば、違う方向性から認めさせれば良い。そう考え付くのに時間はかからなかった。刀崎という狭きも深い門からでは見えぬ事柄もあるだろうと彼女は外の、ひいては所謂一般知識の収拾にあたった。そこで発見したのは、刀崎が如何に古めかしい伝統に囚われているか、という事実だった。


 時代錯誤とでも言えば良いのだろうか。武士が巷を歩く時代であるのならば刀崎の刀はおおいに称賛を帯びただろう。刀崎作刀の一品の何たる凄まじきことか、と千客万来で受け入れられたかもしれない。


 だが、時代は最早現代、刀剣を所有している者は余程奇特な者か、あるいは一部のディレッタントくらいだろう。刀崎の刀は最早芸術品に成り下がっている。それが彼女の見解だった。刀は使用されてこそその真価が発揮されるというのに、今では銃刀法違反で摘発される始末だ。


 これで刀崎が武器商人であるならば良かっただろう。刀を作るのを止め銃火器に手を出せば今までの経験を活かし、すぐさまブランドとしてのし上がれたはずだし、買い求める者も後が絶たなかっただろう。事実、彼女はそれとなく自らの父親にそのように進言した。しかし、返ってきたのはこちらの意図を見透かすような言葉だけだった。


「刀崎は刀をつくってなんぼ、それ以外に刀崎を名乗る資格なし」


 つまり、刀を作る才覚のない者は刀崎としてさえ認めてもらえない。刀崎梟は彼女の密やかな企みを見抜いて一蹴したのだ。


 悔しかった。歯痒かった。それ以上に、屈辱だった。


 作刀の才覚無し、と認識されてから彼女は情報収集を怠らなかった。常日頃から街道を練り歩き、最新鋭の武具を閲覧した事さえもある。直接的に力の介添えとなれないのであるならば、違う方面から力を貸す存在になればいい。故に自分たちが没落の危機に瀕している事実に気付くことが出来たし、それとなく上申したのだ。


 だと言うのに、誰も彼女の言葉に耳を貸さなかった。それどころか、出涸らしが何するものかと嘲りを受けた。彼ら、梟に心身を捧げる刀崎衆はもっと他の事に夢中で、彼女の事など眼中になかったのである。


 だが俯瞰してみればそれも致し方のないことだった。棟梁の娘とはいえ、たかだか一介の小娘が口にすることなど耳ひとつ貸すに値しない。それが彼らの見解だった。故に彼女は箱娘として大事に育てられながらも冷遇を受けるという何とも矛盾した状況に陥るのだった。


 以上の事を踏まえ、彼女は自らの生家は如何に黴の生えた古臭い化石であるかを思い知った。果たして、何故自分はこの家に生まれたのかと枕を塗らしたこともある。自由を謳歌する事も出来ず、己は籠の鳥に過ぎない。そして幾ら囀ろうとも誰も振り返ろうとしないのだ。虚しさと、それ以上の怒りと失望が白鷺の中で生まれた。


 そんな折だった。彼女に縁談の話が周って来たのである。


 これには流石の彼女も愕然とした。縁談は分かる。刀崎は名家だが、今以上に力を蓄えたいのは一目瞭然。何せ古来は将軍家に刀剣を献上した事さえある由緒正しき血族だ。本家である遠野当主でさえ一目置かざるを得ない刀崎の現状は正に栄華を極めていた。それも全て白鷺の父である梟による手柄だ。彼は鍛造の腕ではなく交渉も上手く、あれよあれよと遠野当主を手玉に出来るそうな。分家でしかない刀崎が遠野を蔑ろにするような振る舞いをするのは如何なものかと白鷺は常々いぶかしんでいたが、だからこその縁談なのだろう。


 分家同士の力を高めあい、本家と対抗できる程の影響力を蓄える。誰でも考える事の容易い構図だ。


 問題なのは、その渦中にあるのが自分だったという事実だ。作刀の才は皆無とは言えど、自分は才女たらんと自戒し、励んできた。いつかこの古めかしい一族から離れ、一人の女としての幸福を掴み取らんとしていた矢先にこの縁談だ。


 必要無しの烙印を押されども、刀崎の謀略のための駒、そして胎盤として白鷺は贄に捧げられたのである。


 しかも訊く限り相手はあの軋間家の当主という。白鷺はそれに身震いした。軋間家当主と言えば先の七夜討伐に従軍し七夜を掃滅させた張本人であり、本人の器質も軋間家を滅ぼした事から暴君のような性格なのだろう。その話を聞いて彼女はあまりの恐怖に眠れぬ夜を過ごした。何故自分がこのような目に合わなくてはならないのか、と世の不条理を呪わずにはいられなかった。夜な夜な涙と共に呪詛を溢す日々が続いた。


 確かに、年齢で言えば縁談が回ってくるのは自分だろう。他の兄や姉は刀崎の鍛冶師として存分にその腕を揮い、他から婚約者を呼び込むのが殆どだ。その一例として自分も今回の沙汰が下ったのだろう。


 だが、あんまりではないか。これだけ刀崎を呪っていながら、なお刀崎は自分を縛ろうとするのだ。特殊過ぎる血筋とは言えども、このような辱めを受けるとは終ぞ思っていなかった白鷺は、結局絶望を抱いたまま縁談を受け入れた。


 ようは諦めたのだ。鍛冶師として才覚が無いのであるならば、胎盤として血を絶やさない道具として生きるしかない。それが宿命だと彼女は思い知ったのだった。人は諦観を抱けば心が壊死する。この頃の白鷺はそれまでの美貌に影を宿し、弱々しい姿で男共を惑わした。


 かくして彼女は鬼と対面する事となる。内心の恐怖に怯えながら。


 しかし、縁談の相手である軋間紅摩は彼女の想像の域を遥かに超える男だった。寡黙かつ泰然とした姿勢は一目置くに値する大人のそれであり、更に惹かれたのは彼が持つ特有の匂いだった。


 それは類稀なる遺伝子を持った雄の匂い。筋骨隆々の体躯から持て余すように放たれた芳しい雄の香りは瞬く間に彼女を虜にした。


 そう、彼女は一目で恋に堕ちたのである。


 それまで一目惚れなど幻想に過ぎぬ噴飯ものであると足蹴にしていながら、彼女は内心の震えさえも忘れて物の数秒で恋に堕ちたのだった。


 それからの彼女は忙しかった。今までの仕打ちを見なかった事にして刀崎にあの逢瀬を感謝しながらも、この出会いは正に運命だったのだと恋焦がれた。


 彼こそはこの忌まわしき家門を根底から破壊し、今までの自分を壊してくれる存在に違いないと思ったのである。故に彼女は幾度となく手紙を認めた。どうすれば彼が自分に振り向いてくれるか、恋仲になれるのかを脳裏で考えながら、一心にこの熱情を彼に訴えたかったのだ。


 しかし、哀しい事に軋間紅摩は恋文の返信をくれなかった。否、手紙を読んでくれているかも怪しい。短い逢瀬であったが、彼は手紙などに目をくれるような男ではないと白鷺は見抜いていた。だから大事なのはもっと直接的な何かである、とも了見していた。


 とは言え、慌てることはない。この縁談は双方にとっても断れるものではない。刀崎とすれば、軋間紅摩の影響力は咽喉から手が出るほど欲しいものであったし、軋間家の血筋を途絶えさせる訳にはいくまい。軋間の血筋は貴重なのだ。それを絶やすなどあってはならないだろう、と彼女は周囲を含めて考察した。


 だが、多少の問題もあった。果たして本家である遠野がこの縁談を許すかどうかである。分家同士で繋がりを強めるのは他方から見れば派閥を作るも同然の事。最近落ち目の遠野家当主がこれを見逃すはずがない。すぐさま待ったをかけるだろうと白鷺は推測したが、事態は思わぬ方向に進む。


 何と、遠野家当主である遠野槙久が何者かに襲撃されたのである。幸い命に別状は無かったものの、一時は危篤状態になる程の重傷を負い、回復への傾向は未だ遠いとのことだった。なればこそ、この時を見逃すはずもない。白鷺は父である梟に物申した。今こそ双方の婚約を行う時期ではないのか、と。これを逃す手立てはない、と。


 それを梟は大声で嗤いながら受け入れた。


「流石、腐っても俺の娘だ、その腹黒さは見事なものよ」


 それが、彼女にとって唯一父から認められた瞬間だった。腹黒さに太鼓判を押されるのは些か顔を顰めたものだが、こういう経緯を孕んで彼女の目論みは結実したのであった。


 □□□


 季節は三月。


 遅めの粉雪が降っていて、庭先に植えてある梅の花が零れ落ちていた。もう少しで本格的な春を向かえるというのに、桜に身を譲るその健気さは儚いものがある。寒空に咲く花は風雅であった。庭の枯山水とちらちらと降る粉雪が、紅梅を引き立てるような色化粧をしているようで、思わず溜息が出るほどに美しい。


 ただ庭師からすれば、折角流した枯山水の形が崩れてしまうのは肩が落ちるような思いなのだろうなあ、と少し笑みを溢しながら、着物に厚着をしている自分もなかなかに滑稽である、と改めて己を鑑みて、どちらも似た様なものかと結論付けた。


 白鷺には一等地の日本家屋が与えられている。現棟梁の娘、ということもあるだろうし、余計な事態を引き起こさないようにさせるための、云わば隔離だ。とは言え、白鷺にもそのような思惑は読み取ることが出来たし、風情のあるこの家にはそれなりに満足している。


 ただあまりに静か過ぎるのが少し残念なくらいだろう。基本的に白鷺と女中が二人しか住まわないこの家屋に人が訪ねてくることもなく、屋内は常に閑散としていた。


 本家、つまり刀崎衆が根城の工房からは誰一人として足蹴く通ってくる者はいない。あるとすれば、たまに刀崎棟梁の娘という価値を見出した木偶の坊のご機嫌伺い程度のもので、ひどくそれも不愉快な結果となる。このような場所に隔離された娘に価値を見出す者のあくどさも当然あるが、その程度の男に見初められる自分に対してもだ。


 白鷺は手を伸ばしてそっと粉雪を掌で掬った。おそらくこの季節最後の雪となるだろう。淡く散りゆく粉雪は積もる様子もなく、白鷺の肌に着地してしまえばあっという間に雨滴となる。その水さえも少ない量だ。道行く人々が肩を濡らすことはあろうとも、体の芯まで凍えることはない。


 これが冬の最後の足掻きで、自らの存在の一片限りまでも固持せんとする何かしらの意図が混ざっているのならば、多少は許せるというものだ。風流というよりは長閑、長閑と呼ぶにはあまりに淋しい光景はまるで自分の内心を現わしているかのよう。この風景を掻き消してくれる人は胸中に一人しかいない。紅蓮の炎で雪どころか梅の花、それどころかこの身まで焼き尽くすほどの慕情。嗚呼、今にも体が想いで爆発してしまいそうだ。


「白鷺様、お客様です」


 と、物思いに耽っていると、襖の向こうから静々と女中が声をかけてきた。折角の夢想を楽しんでいた白鷺は当然不機嫌となる。


「誰かしら?」


「それが……」


 女中は一瞬言い淀んで、再び口を開く。


「軋間家当主、軋間紅摩様がお目見えです」


 思わぬ来訪者に目を見開く。


「……すぐお通しなさい。あ、いえ私が出迎えます」


「しかし……」


「良いのです」


 食い下がろうとする女中をぴしゃりと切り捨てて、白鷺は着物の裾を気にしながら先ほどまでの物憂げさが嘘のように慌てて動く。女中の話によれば正門で待っているらしい。実直らしい彼の事だ。門を潜る許可を待っているのだろう。このような寒空に佇んでいるのは体に良くはないというのに。


「紅摩様……」


 逸る心を抑えて、けれど足並みは早く戸口へと向かう。途中に置いてある姿鏡で容姿を改めて確認した。着物の着こなしは上々だが、婚約者にはしたない女と思われたくはない女心である。


 戸口を開ければ遠くからも見える大柄な体躯。少なからずな刻を佇んでいたのだろうに、その体躯のどこにも粉雪は降り積もっていない。淡い雪とは言えど、彼の前で寒さは無縁なのだろう。陽炎のような熱気が立ち上っているのがよくわかる。


 しかし、嬉しかったのは彼が身に纏う白い厚手のコートだ。幾ら寒さに強いとは言え、風邪を引いては万が一と白鷺がプレゼントした一品を彼は羽織っている。


 それだけで白鷺は頬が淡く紅色に染まり、番傘を差してかけよる。


「お待たせいたしまして面目次第もございません、どうぞお入りになってお寛ぎ下さいまし」


「……」


 久々の客人、しかも相手は婚約者であり慕情の募る軋間紅摩である。早急におもてなしをしなければならなかったけれど、生憎立ち寄る者も少ないこの家では粗末な物しかお出しできない。


 そう言えば、以前戯れに訪れた父の茶があると閃いた白鷺は奥に控えていた女中に茶を入れるよう指示しながら、紅摩を引率した。紅摩がここに足を踏み入れることさえ滅多にないのだから、心急くのは無理からぬことだった。


 ただ不思議だったのは紅摩が前触れもなく来訪した事だ。彼の性格上積極的に婚約者と顔を合わせようなどという殊勝な魂胆はない。こうして会ったのもこれが片手で数えるほどで、手紙の返信さえも送ってくれないほど無愛想だ。


 またそんなつれない所が良いというのも惚れた弱みなのだろう。無駄に顔色を伺うような輩と比べたら何倍もマシだ。ああいう輩は白鷺の父である梟と友誼を結びたいがためにここへと訪れるが、無駄足も甚だしい。白鷺は才覚なしと見切りをつけられた女なのである。父の都合で動かざるをえない場合はあれど、白鷺自身の都合で梟に連絡をつけることなどまずあり得ないし、刀崎工房に訪れても門前払いをされるのが落ちだ。


 故に刀崎の甘い蜜を吸おうと考える無粋な輩など不愉快極まりないし、だからこそ打算もなく無遠慮な紅摩には仄かな好意を感じる。


 後方に紅摩がいると思う今でさえこんなに胸が高鳴っているのだ。足取り軽く、白鷺はあまり使用されない客人用の部屋へと案内した。古風な家柄らしいシンプルな様相はみずぼらしささえも感じさせるが、紅摩がそのような事気にするはずもなく、彼はコートを脱いで座布団の上へ胡坐をかいて座った。


「……」


「……」


 対面に座ったものの、互いに無言の時間が流れる。白鷺は恋した相手をまともに見ることもできないし、紅摩は自ら口火を切るようなたちではない。故に言葉を交わし始めたのは、と言っても白鷺が声をかけたのは女中が粗茶を運んできた後だった。


「あの、軋間様」


「……」


「本日はどのような御用件で?」


 白鷺の問いかけに紅摩は無言で湯呑を傾けるのみ。無愛想極まりない態度である。しかし、白鷺には慣れたものだった。


 紅摩が突如として前触れもなく来訪するのは、何も今日が初めてではない。風来坊のように突然現れては言葉を交わすことなく去っていく。そんなつれない態度も白鷺の心を刺激するのだが、もしかしたら今日は来てくれるかもしれない、けれどやっぱり来ないかもしれないと煩悶するじれったさに白鷺は改めてこれが恋なのだ、と実感するのだ。


 それに無言の時間も決して悪い事ではない。例え向こうに用件があろうがなかろうが、同じ時間を共有するというのが白鷺にとっては重要なことだった。同じ時間を共に過ごし、沈黙を交わしながら、それが決して不快ではない。


 一般的な幸福を願う白鷺にとっては理想的な構図とさえ言えるだろう。それがこのように雄々しい益荒男が相手なのだから、人生わからないものである。


「そう言えば、本日は梅がこぼれ始めました」


「……」


「そろそろ春も近付こうというもの。遠野邸での暮らしが、私は楽しみなんです」


 遠野。


 それは白鷺や紅摩の中に通う魔と人を掛け合わせた混血の当主である。その歴史は古く、またその血の貴さから混血を纏める権限を握る云わば総取締役だ。分家の娘、しかも三女である白鷺からすれば雲のような存在とも言えるだろう。


 ここで問題なのが、二人が時機にその遠野へと呼ばれ、そこで暮らすことになることだ。父の計らい、あるいは気紛れなのかは知らないが、これは願ってもいないことだった。この屋敷から離れることもそうだし、何よりこれからは正式に紅摩と同じ屋根の下で暮らすことが出来るのである。淡い思いを抱いた女の本懐とも言える事態だろう。


 故に家財道具等はすでに遠野邸へと送っており、今屋敷にあるのは必要最低限な家財類ばかりだ。性急かもしれないが、早くこの屋敷から抜け出して外の世界に触れてみたいという好奇心と、紅摩と共に過ごしていきたいという願いが白鷺を突き動かした。しかし。


「ただ、ここの梅の花が見れなくなるのは残念です」


 庭先に一本だけ植えられた梅だけが心の慰めだった。嘆きの日々に続く無聊を癒す光景だった。冬が終わる頃に咲き、春の訪れを感じさせながら、本格的な春となれば桜にその席を譲り、自らはひっそりと散りゆく。


 そこに健気を見た。献身を見た。あのような生き方もあるのだ、と思い知らされた。己が野心に燃えた日々と、刀崎に屈辱を浴びせさせられる際にふと見た梅の花は、かくも美しく、そして儚い。皆、春の訪れは桜にばかり着目するが、梅の花にこそ、その本懐を見た。


「そうですね、どうせなら見に行きませんか? 今花がこぼれ始めました」


「……」


「きっとご期待は裏切りません」


 なけなしの勇気を奮い、意中の人を誘う。本来ならば男性から誘われるものかもしれないが、紅摩にそのようなことを期待しても無駄というもの。


 ならば、最後かもしれない時の中で散り際の梅の花を見て欲しかった。共に、見ていたかった。


 しかし、相手は無反応。仕方ない事かもしれない。いきなりの誘いだ。戸惑わない事こそおかしい。けれど、自分たちは縁談で結ばれた仲だ。それぐらいの事ぐらいは許されても良い、と自分に言い聞かせながらも白鷺は何だか急に羞恥心が膨れ上がってきた。


 果たして愚かしい、出過ぎた真似をしたかもしれない。それに相手は呆れ返っているのかもしれない。全ては予測、あるいは脳内で反芻された妄想に過ぎないが、恋とは些か奇妙なものであり、ある意味で目の前にある現実を曲解しがちなものだ。


「……」


 だが、打算がない訳ではない。軋間紅摩という男を真摯に見つめてきたのである。彼の性格の本質を白鷺はすでに把握していた。彼は常に受動的であり、能動的に動くことなど、まずない。故にこちらから声をかければ、紅摩は決して首を振らない。


「では、ご一緒に見に行きましょう」


 故に行動を起こすのは自然と自分になる。だから彼女はなけなしの勇気を奮って、鎮座している紅摩の手を握り縁側へと向かった。手を握るなど、否、紅摩の身体に触れるなど初めてのことで何分緊張したが、それ以上に感じたのは紅摩の手のなんと雄々しいことかであった。

 
 分厚い皮膚に頑健とした指先、そしてまるで燃えるかのような体温は、鍛錬で作られたものではない。自然発達した、生まれながらの強者である事を如実に感じさせる指先だ。それの何と頼もしい事か。


 愛しき人と触れ合っている。ただそれだけなのに、白鷺の子宮は情欲に脈動した。ああ、これが恋なのが、これが愛なのだと思いながら。ただ、それを面に出す事はしない。手を握っただけで赤面するなどはしたないことだ、と自ら努めて我慢しようとした。けれど、慕情に尽きる相手と手を繋ぐだけで心臓は高鳴り、今にも破裂してしまいそうだった。


「あれです」


 庭先にぽつんと植えられた梅の樹は、枯山水と粉雪によって白い雪化粧となっていた。枝の先から幹の根元まで雪が積もり始めている。けれど、注視すればそこに一筋の異なった色合いが混ざっている。梅の花だ。その花弁に僅かな雪をのせて淡い桃色に儚さを交えさせながら屹立している様は、一瞬の光景なれど、なんとも美しい景色であった。


「……」


 と、紅摩が手を離した。熱するような体温が消え去り、残念な気持ちが浮かび上がってきたが、それ以上に驚いたのは紅摩が裸足で庭に踏み下りたからである。


「もし、軋間様?」


 なんだか不安な気持ちがおくびに出て、思わず白鷺は庭に下りた紅摩に声をかけるが、玉砂利の枯山水を踏みしだきながら闊歩する紅摩から返礼らしきものはない。寧ろ今まで自分がいなかったかのように振舞う背中は紅摩がどこかこのまま帰ってしまうのではないのかと思わせる何かがあった。けれどそれは杞憂に過ぎた。紅摩は真っ直ぐに梅の樹の元へと向かったのである。白鷺はそこでようやく理解した。彼もまた自分と同じように花を愛する人なのだと。


「その梅は私が生まれる以前から植えられていたものです。もう随分と前になるようですが」


 そうなれば白鷺は止まらなかった。同じ物を共有し、思い出とするには彼の行動は充分すぎる。一心に恋する女である白鷺からすれば、紅摩が同じ物を好んでいるという事は、浮かれるのに十二分値するものであった。


 はらり、と梅の花びらが零れた。


「今の季節で、しかもこの雪です。きっとすぐに全ての花が落ちてしまうでしょう」


 樹皮に右手を添えて、紅摩は静かに残された目蓋を閉じていた。それを自分の言葉に聞き入ってるのだと思い込んだ白鷺は更に言葉を紡ぐ。せめてもの慰みにと。


「来年、またここにいらして下さい。花が満開の頃、咲く頃に合わせて」


 だが、その言葉に紅摩では到底無視できぬものがあった。
 みし、と音が重く響いた。


「……え?」


 最初、その音は雪の重みに耐えられなくなった枝が悲鳴を上げているのだと白鷺は思った。だが、紅摩の様子を見て愕然とする。紅摩は幹を掴み、己の豪腕だけで梅の樹を握り潰そうのとしたであった。


「――――嗚呼」


 みしみし、という音は正しく樹の悲鳴。根を伸ばして昏々と成長してきた梅の樹は、己の中腹に注がれる許容外の力によって圧し折られようとしているのである。


「もし! 軋間様っ!?」


 それに耐えられぬのは白鷺である。正しく青春と共に過ごした樹が目の前で抉り取られようとしている。だが何故だか白鷺には理解できない。一体何に紅摩が反応したのかを。


 元々、白鷺という女は機微に聡明な人間であった。育った環境が故に人の反応に恐れ、積極的に話しかけたりなどしない。刀崎に生まれ、その才能の無さが故に話しかけてしまえば愚鈍だと断じられる恐怖と屈辱で白鷺は構成されている。
 

 だがしかし、今この時ばかりはそのような自戒を忘れていた。刀崎以外と過ごすことが出来ず、どこか鬱屈とした日々の中に突如として入り込んできたのが紅摩である。積もりに積もった恋慕は彼女の悪癖を晒しだしてしまったのだった。


「―嗚―――呼」


 そして、樹が圧し折られた。慮外の強力を生まれながらに持っていると知ってはいたが、それは人伝から聞いただけの事であって、白鷺は紅摩の外れっぷりを全く既知しっていなかったのだった。だからが故に、彼女は自ら紅摩を触発してしまうような言葉を知らぬままに口にしたのである。


 みきみきと音をたて、枝葉が折れて梅の花弁が宙に舞う。


「さ――――く――――」


 そんな風景を生み出した紅摩は搾り取るように口を開く。


「さ――く」


 呆然と事のあらましを見ていた白鷺は紅摩が何を言いたいのか、全く理解できなかった。その合間に圧し折られた樹から煙が昇る。よく見れば、紅摩が握っていた箇所から火の手があがっていた。焔はやがて紅蓮の如きに燃え盛り、梅の樹を燃やし尽くす。


「どこ、だ――――」


「……ひっ!?」


 大火の傍にいながら、紅摩はまるで熱さなど感じさせぬ佇まいで白鷺の方へと顔を向け、白鷺は思わず悲鳴をあげた。紅摩の顔にあったのは修羅の顕現。憤怒でも悲嘆でもない、まるで怨敵を見つけ出すかのような形相である。


「さ――くは、どこ、にいる」


 轟々と燃え盛る焔の音が木霊する中、不思議と紅摩の声は良く聞こえた。


 そして、白鷺は爆発的に理解した。何が紅摩の琴線に触れたのか、自らの無知で彼を触発したのか。


 さくとは、七夜朔のことであろう。七夜襲撃の際にたった一人だけ生き延びた、刀崎衆に於いて何よりも大切にされている孤児。ある意味、朔の存在によって刀崎は狂気を増長させたと言っても過言ではない。


 かつて人伝に聞いて、己には関係ないと記憶から消去した、恐るべき、しかしながら無関係な子供でしかない、と白鷺はずっと思っていた。しかも噂話によれば現刀崎棟梁刀崎梟の寵愛を一身に注がれているとか。父からの愛を受けた事のない白鷺からすれば、小さな燻りを感じさせる存在だ。けれど、その程度だ。ただ、それだけの話だ、と白鷺の中で七夜朔の情報は完結していた。目の前で鬼の形相である軋間紅摩ともまた関係のない話だ。そう思っていた。


 だけどそうではなかった。軋間紅摩は七夜攻めの際に出陣していたのである。七夜を壊滅させた力量の凄まじさは、人の理解を超えた修羅だ。超雄。それこそが紅摩を讃えるのに相応しい形容だろう。


 しかし、そんな彼を相手取って生き延びた者が存在する。それが七夜朔である。深くは白鷺も知らないが、二人は共に七夜と遠野を壊滅状態にまで追い込んだと聞く。そこに因縁があった。それだけ白鷺は把握していた。だが、紅摩がここまで執着する姿を見るのは初めてだった。身体から陽炎さえ立ち上らせて、歯を食い縛りながら朔の姿を探してはいるが、無論ここに朔はいない。ここには白鷺と僅かな女中しかいない。それでもなおここに足を運んだのは、いっこうに見つからない朔を探し出すがため。


 なるほど、と白鷺は混沌と化した内心の中でひとつの合点を得た。どれだけ慕情を募らせても紅摩が振り返らないのは、すでに紅摩の中には執念の相手がいたのだ。心の全てを捧げてもなお足りず、心の全てを占める相手が、すでに存在していたのだ。だからどれだけ白鷺が振り向いてもらおうと画策しても無駄でしかなくて、彼女が紅摩の中に入り込む余地はどこにもない。


「ああ……」


 そうか。紅摩がここに訪れたのも全ては朔を見つけ出すがためで、決して白鷺のためではない!


 なんという怠慢。なんという愚鈍だろうか――――!


 だからこそ、己の価値などその程度なのだと目前で爆ぜる梅の樹を見ながら、白鷺は得心がいったかのように微笑む。


 けれど内心はまるで燃え盛る焔だった。


 単純明快かつ、複雑怪奇な感情。
 つまり、強烈な嫉妬。


 ――――刀崎白鷺は、生まれて初めて他人を恨んだ。


 □□□


 日本人の文化には侘び寂びというものを尊ぶ傾向にある。


 虚無の中に美しさを見る、というのは遥か昔、仏教が海を越えて到来した際に刷り込まれた感覚である。すなわち必要以上に着飾ることを善しとせず、清貧の中にこそ善がある、という何時の時代でも変わらぬ観念、とでも言えばいいのか。この見知らぬうちに憶えさせられた呪縛は決して心を解放しない。人を、理性を、呪い、縛る。


 故にか、刀崎梟はその概念を嫌った。

 
 誰よりも刀に実直であるがため、自由奔放に、かつ苛烈に生きた男は何者にも縛られず存在しなければならない。それこそ彼が善しとする美徳であった。とは言えど、彼はその信仰にも似た教えをある一面では評価していた。それは刀と宗教の綿密な関係性である。


 時代がどれだけ変容していっても変わらぬ刀への絶対なる信頼。芸術品としてもそうだが、刀は世界万民が持つ神秘の具現だった。神社では真剣が奉納され、やがて信仰の証へと変わっていく。そこに清貧も富みもなく、何者も入り込むことの出来ない宗教への確信がある。


 だからこそ元々刀鍛冶の家柄である刀崎にはよく宗教的な意味合いを含めた刀剣鍛造の依頼が申し込まれてきた。土地神に捧げるため、自らの信仰を確固たる物とするため。理由は様々であるが、刀崎には宗教とは切っても切れない関係性にある。


 そこに梟は目をつけた。幾ら切っても切れない関係ならば、いっそのこと利用すればよいと。


 であるから、今日この日の会合は決して無意味ではない。偶然でもなければ、突拍子もない話ではない。全てはイコールで結ばれた必然だった。


「相も変わらずその成り立ち。美醜に囚われぬ者しか到来できぬ極地。見事という他あるまい。一介の刀鍛冶にはあるまじき存在。あるいは、刀崎梟こそ魔術師に匹敵する存在かもしれぬ。その在り方は荒耶から見ても好ましい。極地に至ろうとするその姿勢は殆ど魔術師のそれに近い」


 男は哲学者のような苦悶の形相を浮かべながら、目前にいる妖怪を評価していた。方や魔術師であり、方や刀鍛冶である。魔術師が魔術礼装のために訪れた、のではない。魔術師は招来されたのであった。


「ひひ、そんな褒めたって何もでねえぜ――――荒耶」


 互いに比較をして見ると、凡そ一般人からは掛け離れた外見をしている。今回足を運んできた魔術師は全身を黒で覆い、また目元の翳りが酷い。それに対し刀鍛冶は中身のない左袖を揺らめかしながら魚眼を歪めている。


 どちらかと言えば人間離れしているのは一見刀鍛冶ではある。だが外見に惑わされてはいけない。二人の最もたる特徴はその精神性である。自己への果てしない問答をくり返してきた魔術師はまるで地獄か、あるいは怪物のようであるし、崩落する事なき自我を堅持している刀鍛冶は怨念のよう。あるいはその方向性があるからこそ、二人の友誼は成立していると表しても過言ではない。


 場所は刀崎工房の一室。間諜の心配が必要とされない部屋。


 そこで妖怪と怪物が対面していた。質素な和室造りの部屋に黒と灰色の二人は座布団に座しながら互いを見つめているかのように思えるが、実は違う。彼らは同じ場所にいながら、ただ己だけを見つめ続けていた。


「話は聞いた。自身の担い手を見つけたと。だがそれを私に報告して何がある」


「何、先々代棟梁から続いていた仲じゃねえか。魔術方面からのアプローチで随分と支援してくれたらしいしよ。そんなアンタだ、刀崎はこれでも感謝してるんだぜ?」


「無意味」


 おどけた様に話す梟の言葉を荒耶は一言で切り捨てる。


「全くもって無意味かつ無価値な事だ。私はある意味においてお前を一目置いてはいる。だが戯言を交わすためだけに語り合うほど、荒耶と刀崎は親密ではない」


「まあ、そう言うなって。ひひ、ひ……それに俺がどういう目論みか何となあくだが手前もご存知だろう?」


「……腕の良い人形師ならば他にもいる」


 荒耶の視線の先には左腕を消失していた梟がいる。本来、刀崎にとって五体の何れかを失うことは大変名誉な事である。それは自身の身体を捧げうる相手を見つけ、その対象に文字通り全身全霊を刀に錬りこんで奉るのだ。それこそ長年培ってきた刀崎の業である。


 だが、妖怪は首を振った。


「冗談!」


 げらげらと片腕だけ残された掌で膝を叩きながら妖怪は笑う。


「刀崎にとって本来の肉体は正に自身の至宝。今更この身体を切り落として命を永らえようだなんて、これっぽっちも思っちゃいねえ。それにこの左腕だって俺が望んだことだ」


「ならば何故この荒耶を望んだ」


 眉根の皺を更に濃く刻みながら、荒耶は答えを望んだ。


「私は梟、貴様を一定に評価している。その力量もそうであるが、一因として大きいのはその人格にある。時代を遡るかのように刀鍛冶を続ける貴様であったからこそ、今でもこのように会話をしているが、そもそもこれ事態が無意味だ。先々代が台密の理念に興味を抱いて私にたどり着いたが、刀崎梟と荒耶に交流そのものはない」


「ひひ、俺は利用するものは全部利用する質でね。だからこそ今回はアンタを利用する」


「それは魔術師としての荒耶という事か」


「いや」心底面白げに頭を振って梟は言う。「荒耶個人としての手前だよ」


「なに?」


「無論、報酬もある。手前からすれば、まあ咽喉から欲しいってもんじゃねえだろうが、あっても損は無い品だ」


 そう言って、梟は着物の懐から布で包まれたなにかを取り出して机に置いた。それに対し、荒耶は顔立ちは変わらないものの、瞳の奥で微かに驚きを見せた。


「それは、仏舎利か」


 昔日、釈迦が入滅した際に残された一品である。破戒僧である荒耶からすれば、驚愕に値する物品がそこにあった。


「ああ、先代が残した一品でね。俺からすればなあんの価値もねえが、魔術師である手前には出来るならば欲しいものだろう」


「確かに、刀崎梟からすれば価値はない。だが、これを用意までしてこの荒耶に何を望む」


「まあ、話はこれを見てからだな」


 と、いつから持っていたのか梟はテレビのリモコンを操作した。ぶうん、と音をたててテレビが点けられる。するとそこに映っていたのはとある空間の俯瞰風景であった。監視カメラからの映像なのか、画面は時折ざらついたが要所要所は捉えることが出来ている。


 まず注視出来たのは夥しい死体の数だった。人間だけではない、動物、果ては魔物と呼ばれる者に到るまで、種類様々な死体が積み上げられている。長い時間放置されたのか、腐敗して蛆が食んでいる死体も幾つか散見できた。


 そして山積された屍の次に見られたのはたった一人で屹立している子供だった。それをただの子供と形容していいものか、荒耶には判別出来なかった。


 まるで異なる人形を繋ぎ合わせたかのように長く伸びる左腕。何度も返り血を浴びたのか、衣服は血だらけで頭部も同じ。血が乾いてぱさついた髪の隙間から覗くのは、茫洋とした蒼い瞳だった。


「これは地下の映像でな、そろそろ動く時間だぜ」


 テレビから流される映像の有様に眉根を寄せた荒耶の耳に届いたのは、この光景があの小さな子供によって作られたと暗喩したものだった。


 そして、場面は梟の言った通りに変化する。


 どこから現われたのか、分厚い刀剣を持った大男が絶叫しながら子供に向かって突撃する。だが子供はまるで誰もいないかのように、相変わらず蒙昧な瞳で虚ろを見つめていた。このままでは子供は明確な殺意によって殺される。


 けれど、そうはならなかった。何故ならば接近していたはずの大男の頭部が瞬時に失われたのである。そして子供はいつの間にか大男の首を持っていた。引き千切られたのか、あるいは首の根元を断線したのか分からない。しかし、現実として子供は大男を殺したのである。その左手に背骨ごと引っこ抜かれた首を引き摺りながら。


 そこで、ふと子供が、こちらを見た。


 いや、正確には設置された画面越しに荒耶と梟を睨んだのである。口元についた肉片を拭うことなく、衣服についた血痕を払うことなく。


 その様は不気味に輝く蒼い瞳と混ざり合って、まるで出来の悪い夢に登場する悪鬼のようだった。


「ここまで、だな」


 唐突に映像が切られる。だが黒しか映らないテレビ画面を荒耶は凝視し続けていた。


「梟、貴様はこれを見せたかったのか」


「ああ、でどうだい?」


 暫し閉口し、考える素振りを見せながら、しかしはっきりと言葉を口にする。


「――――あの子供は、起源に覚醒している」


 厳かながらに重みのある口調だった。


「ひひ! やっぱりな!」


「どこで見つけた、あのような存在を」


「七夜だ」


「何?」


 今度こそ、荒耶は瞠目した。


「七夜はすでに全滅したと聞き及んでいるが」


「ああ、それ以前から目をつけていてな。七夜攻めんときに便乗して拾ってきた逸材よ。んでそん時に左腕を食われて、いまじゃ俺の左腕はあれに生えてる。……なあ荒耶、起源に覚醒したものは起源に飲み込まれながらも肉体への影響は出るのか?」


「それは、ある」


 荒耶は断言する。起源を覚醒したものは肉体さえも変質させてしまうと。その実例は荒耶自身が証明している。黒い外套を纏ったこの荒耶宗蓮というこの男は外見上では四十代後半に見えるが、その実、自らの起源を覚醒させて二百年を生きた怪物である。


 全ての起源覚醒者がそうではないが、荒耶もまた起源に目覚めて身体に影響を及ぼした一人だった。だから、それはある、と荒耶は断言する。荒耶の起源は静止である。それゆえにこれ以上生命が変動することはありえない。言ってしまえば、彼は生きてもいないし、死んでもいないのだ。


 そも起源とは生命が誕生する以前から決定された志向性だ。どれだけ抗おうともたかだか百年ぐらいしか生きられない人間では無力に等しい。起源を発揮した者は起源に飲み込まれるのだ。


「だが、どのような起源を覚醒したのかまでは視ることが出来なかった」


「いや、それで充分だ。俺はよう、確かめたかっただけなんだ。人為的に起源を覚醒させる事の出来る人間に、あいつがどう見えるか、をな」


「ならば解せん。何故あの子供に殺人行為を繰り返させているのか」


 言外に無駄な行為だと告げる荒耶に対し、梟は口角を吊り上げて笑う。


「あいつは根っからの殺人鬼でな、だからこそああやって殺害行為をしねえと自傷行為に走るんだ。あいつの殺意は自分も含めた生命全てが対象になる。だからまあ、言ってみりゃ食事みてえなもんだ。毎日糧を用意して、んであいつがそれを殺す。その繰り返しさ。それによう、あの空間の真上は製鉄場がある。毎日殺して、怨霊を溜め込んでいるのよ。攫ってきた一般人から確保した外道まで、恨みと妬みがあそこでは渦を巻いて上部の製鉄場に上ってくる。云わばあそこは蒸留所という所か」


「……死の質より量、という事か」


「あんたが目指しているのとはま逆だな」


 温くなっていた湯飲みを傾けながら「けどな」と梟は続ける。


「俺が重きを置いてるのは死じゃない。殺人行為よ」


「ふむ……それは経験も含めて、という訳か」


「大当たりだ。アンタは死を蒐集しようと必死だがな、人間を死に到らせるためには殺人や自殺も含有しなければならない。そうして積み上げていった恨みはやがて怨嗟の魂となって猛威を揮うだろう。俺が狙っているのはそういう部分もある。亡霊の呪いこそ感情が辿りつくひとつの到達点だ。少しずつ少しずつ積み上げた呪いはやがて強大な怨恨となり、俺の目指すような……」


 と、そこで滑らかに動いていた梟の軋んだような声音が途切れる。まるで夢から醒めたかのように唖然と荒耶を見つめ返した。


「……ああっと、俺は何を喋っていたんだ?」


「梟、貴様破綻したか」


「ああ、俺もそろそろ歳らしい」


 突然正気に戻ったかのように、梟は瞳を伏せる。


「反転、か」


 反転とは混血が持つ一つの宿命だ。それも歳月が積み重なり、老齢に差し掛かれば発作する病気のようなもの。かつて魔と交わったが故に起こる人間性の欠陥、そして魔的な思想や行動は理性では抑えきることの出来ない魔の本能だった。


 梟もまた、他の混血と同じように反転しかけている。優れた理性と信じがたい狂気を併せ持つ梟であったが、近年突如として記憶を失う時がある。とうとう惚けが始まったのかと勘ぐってはみたが、実際の所は更に深刻な問題として梟を蝕んでいた。理性が時として瓦解し、更なる狂気を表出させてしまう反転衝動は濁流のように梟の意識を飲み込まんとしている。


「本来なら、よ。俺が正気でいられる間に作刀してえ。……朔は未だ成長期で、肉体がどれだけ変化するか、あるいは癖をつけるか確かめて完全な七夜となってから刀を鍛造したい。ひひ、ひ……けどそれだけじゃ間に合わねえ」


 時間が惜しい、と梟は心底から溜息を吐いた。


「俺が俺でいられるのは何時までだ? 果たして俺のまま刀を打つにはどれほど時間がかかる? この老骨を捧げるまで間に合うのか、正直自信がねえ。今は大したことなねえ、意識が吹っ飛ぶのは本当に一時的な、発作的なものだかな。だがよう、反転衝動は確実に俺という存在を蝕んでいく。ならば、どうすれば良い? 俺は寝ても覚めてもそればかり考えた。考えに考えて、ひとつの結論に辿りついたのさ、荒耶。俺の能力と併用する形で刀を打つ。もうそれしか方法がねえ」


「貴様……真逆魂ごと鍛造する気か」


「俺は魔術ってえのには全く理解が及んでねえけどよ、俺の業を使えばそれがベターな方法だ」


 混血という生物は人間でありながら魔の性質を生まれながらに取得している。それが一体何なのかまでは本人が自覚するまでは分からないが、混血は個別的に人を超越した能力を保持しているのである。そして同じく混血である刀崎梟もまたそのような能力を生まれながら持っていた。だが、それはあまりに人智を超えすぎて、荒耶と出会わなければ今もまだ持て余している可能性があった、不可解で、だからこそ梟らしい能力であった。


「魂と肉体を結びつける物は精神だ。そして俺はその精神を感知し操ることが出来る」


「……なるほど。そこに目をつけたか」


 気軽に狙いを言う梟であるが、魔術師の荒耶からすれば根底を覆すような言質だった。特に魂からのアプローチを常に講ずる荒耶だからこそ、眼前にいる妖怪がどれだけ度肝を抜かせる発言をしているかが理解できる。


 魔術師という存在は一族をかけて難問に挑む集団であり、そのためならばあらゆる手段を選ぶ。異質であるとは言え、荒耶もまた人の形骸をなしながら魔術師として『』に到るため外道の手段をもってして二百年間もの長い歳月を生きる怪人である。魔術師の目的である『』への同道に、あるいは己の才気の無さに志を泣く泣く折り、あるいは魔術から身を引いた者がいることを知っている。また、あるいは寿命によって根源の渦への道を閉ざされた者がいる事を理解している。それほどまでに魔術師の目標は果てしなく峻険であり、門扉は固く閉ざされている。


 しかし、眼前でニタニタと己の目的を話すこの妖怪は、彼らの亡骸を踏み躙るかのように闊歩する。闊歩し飛躍し、そして辿りつく。そのための才気と魂を梟は生まれながらにして得ている。何というズルだろうか。


 だが刀鍛冶の鬼才はそれらを充分承知の上で魔術師の魂胆を下らぬと断じ、そのための長き道を叩き潰す事を許されているのだ。俊英、天才、奇才、あるいは二世紀もの時間を生きる荒耶からすれば梟は神童なのである。荒耶が欲する才能を持つことを許された者なのだ。そしてそれら全てを嘲りながら、梟は己が目的を開示する。


 精神の具現化。それが梟の能力である。
 具現とは、文字通り精神を物質化させ干渉する事を指す。


 稀代の刀匠を鬼才足らしめるのはその手腕もそうだが、能力による側面も強い。精神とは肉体と魂を繋げる第三要素であり、魔術師でも容易には扱えぬ代物である。何故ならば精神の具現化とは己の内面をそのままに表出させるという事であり、肉体を剥き身にしたも同然の事だ。身柄を解放したも同義の事なのである。


 故に精神干渉には不快感が伴うし、精神の解体清掃と呼ばれる代物は己の自我を一時的にばらばらにさせるため、好んで扱う者はまずいない。それほどまで扱うのが難儀である第三要素を梟は扱える。いや、扱えると形容するよりも己の手足の如くに干渉し具現化させることが可能なのだ。


 それがどれほど魔術師の認識を覆すか。魂に着眼している荒耶からすれば、咽喉から手が出るほど欲しい才覚、と表現しても良いだろう。それほどまでに梟の能力は理不尽であり、また稀有な才能であった。


「ま、それも時間の問題よ。ひひ、ひ……俺様に不可能の文字はねえ。後はそれまでに朔が育ってりゃ御の字、つう所かね」


「お前は何故あの童子にそこまで固執する」


 ふとした疑問を口にする。七夜の才気とは言えど、梟が単に絶滅した七夜の生き残りに執着する理由が荒耶には不可解だった。


「あ? 手前も『』とか言う変なものに拘ってるじゃねえか」


 全魔術師の目的を「変なもの」と形容するとは、他の魔術師が聞けば激しく憤るだろう、とどこか他人事のように思いながら、荒耶は続ける。


「……『』への道を開門するのは全魔術師の悲願だ。貴様のようにたった一人の童に構うとは訳が違う」


「へ、俺からすればどっちもどっちだがね」


 まあ、と暫しの暇を縫って梟は言う。


「アイツの才能に惚れた。いや、アイツ自身に惚れたとでも言う所かね。朔自身が持つ可能性ってか」


「……」


「ああ、先人が幾度も挑んで諦めた可能性に俺は魅せられた。ただそれだけの話よ」


 そう言って梟は仏舎利の入った布巾着を手渡した。


「さて、今度は俺の番よ。……荒耶、さっきの言葉から想像して、手前はまだ根源の渦を諦めていないのかね」


「諦める理由がない」


 質問を責め立てるかのような口調で荒耶は言う。しかし、荒耶が目指した先は厳しくも険しい道のりであった。


 全魔術師の願いである根源への到達。他の魔術師が一族として群を成し、妄執のように根源を求める。まるでそれしか生きる術がないかのように。荒耶と他の魔術師とで異なるのは一族で行動をする他の魔術師のような術ではなく、荒耶たった一人で挑み続けている事だろう。


 故に眉間に刻まれた懊悩の皺は艱難に挑み続けた結果である。たった一代、たった一人で根源を目指す様は、まるで荒耶そのものが根源に挑み続ける概念のようなものだ。否、人でありながら人間性を失った荒耶は寧ろ概念そのものである。


 何故その悲願を探索し続けられるのか、梟には検討もつかない。何故なら魔術的知識に覚えがない梟から見ても、荒耶には才能がない。飛躍するための翼も無ければ、疾走する足も無い。それでも挑み続ける様は自ら志願して苦行に挑む禅問答である。決して答えのない答えに挑み続けるのは、寧ろ滑稽と言ったほうが正しい。


 しかし、記憶を引っくり返してみても荒耶は諦めなかった。抑止力というものに何度も阻まれながら、それでも諦めず己の思想を頑強にしてきた。まるで地獄のような男だ、と梟は思う。遍く全てを己の中に溜め込んで、それ以外の一切を否定する様は、荒耶が破戒僧という事もあり、天竺の下方で蠢く意思を持った巨大な地獄であった。


 梟であるから理解が出来ないという側面も確かにある。才能が努力を凌駕して偉大な功績を残すのは世の常だ。寧ろ刀という思想において飛躍的な着想を生み出し、それを鍛造する才覚がある梟にとって、畑は違えど努力のみでもって魔道に挑み続ける荒耶は不思議で仕方がない。何故挑み続けるのか、何故諦めないのか。そのようなもの、自己への執着は梟には持ち得ないものである。


 しかし、その挑み続けるという荒耶の右に出る者はいないだろうと憶測している梟は、それもまた才能なのだろうと結論づける。だからこそ梟は唯一荒耶を認めているのだった。ただ、時たまに苛烈な生を歩む荒耶を見ると憐れでならない、という点は否めない。


 だからだろう、梟は友誼らしきものを感じる荒耶に提案する。


「手前自体に可能性はないが、もしかすればいつの日か可能性を持つ奴と出会うかもしれねえ。そん時にゃ朔を貸さんでもねえぞ」


「……七夜、か。確かに私自身は無力に等しい。だが、手駒にするには相応しいだろう」


「ひひ、ひ……、まあ、どっちもまだくたばってなけりゃの話だがなあ」


「どのみち、あらゆる方向から抑止力は働く。私の関与しないところからもだ。ならばその不条理を断つため、あるいはあの七夜を借りる事もあるかもしれん」






 ――――この会話をもってして荒耶は自分ではなく他人の才覚に賭け、遂に長年焦がれて求めた存在と出会う事になるが、遂には気軽に交わされた口約束が叶わなかった。


 梟の着想から得た漏れることのない蒸留所として奉納殿六十四層を作り上げ、人工的な心象風景を作れども、彼が七夜を呼ぶことも、梟が死んだ後にその約束は曖昧にされ、対抗手段のひとつを失った荒耶は一人の少女に果敢と挑み、そして再び辛酸を舐めて敗北を味わう。


 だが、それは後の話としよう。


















 蛇足
 もし、式と朔が戦っていたならば、荒耶戦にて。

「魂を削りながら彼は自殺を是とし、お前は否とした」

 ――――という台詞を載せたかったなあ。

 しかし、荒耶は取り扱いが難しいですね。
 と言う事で、番外編でした。次回やっと本編に入ります。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.10511803627014