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[34048] 時計塔の奇矯な魔術師(fate/zero 転生オリ主 原作知識あり)
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2015/09/22 01:44
2015 9/21更新しました。


 にじファンから亡命してきました。ここに馴染めるよう頑張っていきたいと思います。注意、感想、どうかよろしくお願いします。

 捏造設定、オリジナル設定含みます。公式資料やヒントが少なく、妄想補完するしかなかったためです。それを許せる方のみどうぞ。

 肝心のオリ主についてですが、最強ではありません。しかし状況次第でケイネス先生と同じくらいの強さはあります。いわゆる強キャラ(笑)みたいな感じです。でも真正面から戦ったら確実に負けます。そんな感じです。

 あと、たまにあとがきが入りますが、にじファンのほうからコピペになりますので敬語とか使ってません。

 以上を踏まえた上でご覧くださればと思います。



[34048] ある昼下がりのこと
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/10 22:30
 昼の休憩をこれ幸いと抜け出し、屋台で買ったホットドッグを食べながらセントジェームズパークを散策した帰り道。
 ついでにちょっと川でも眺めて帰ろうかなと思い立ち、ウェストミンスター橋へと進路を変えた直後のこと。

「すいません。アンケートにご協力いただけませんか?」

 そんなことを言われたのは、ある日の昼下がりだった。
 目をつけられたのはスーツを着ていたからだろう。如何にもサラリーマンですという空気が出ている気もしないではないし。
 腕時計に目をやると、まだ1時5分。次の講義は2時からだ。昼飯も済ませたことだし余裕はある。
 なによりこの人――美人だ。
 彫りの深い顔、短めの金髪に青い目、引き締まったウエストと巨乳。そして美しき尻。

 ――86、60、85か。

「あの、なにか?」
「いや、ごめんね、ちょっとぼうっとしてた。アンケート? 全然おっけー」

 貴女のスリーサイズを上から順に魔術強化した眼力で見抜きました、なんて言えるはずもない。できるだけ爽やかな笑顔と無難な言葉でお茶を濁した。
 しかし本当に美人だ。これはお茶に誘っても良いレベルだ。アンケートくらい答えても構わない。
 あわよくば、その先にしっぽり突入したいものだけど。

「では、まず一つ目の質問ですが――ご職業はなにを?」
「研究者です」
「そう、ですか……」

 目の前の美人さんが困っていた。そりゃそうだ。研究者といきなり言われても困るだろう。僕も嘘偽りなく答えただけなんだけど、少し親切心が足りなかったか。

「大学の教授なんですよ。どこなのかは秘密でお願いします」

 茶目っ気たっぷりのウィンクに乗せて助け舟を出してあげると、やや引きつった笑顔で美人さんは手元の紙にさらさらと何事かを書き込んだ。
 そうか。そんなに僕のウィンクは不格好だったか。
 自分の才能や能力を恨んだことはないが、こればかりは別だ。ミリ単位で人の表情の変化を観測できる眼鏡というのは、どうにも精神衛生上よろしくない効果を術者にもたらすらしい。
 ただ、一般人に見せかけた魔術師が洗脳やら暗示やら一服盛るやらを平気でしてくるので、これは常時着用しとかないと気が休まらない。
 などと考えていると手を止めた美人さんが次の質問に移っていた。

「ありがとうございます。では続いて」
「なにをやっているのかね、ベン」

 なにやらねちっこそうな声が美人さんの言葉を一刀両断した。
 見るまでもない。よく知っている声だ。おそらく、僕の親友と言っていい唯一の存在。
 ちらりと視線を向ければ、いつものように青い服を着て、なんだか浮世離れした空気を醸し出す親友がいた。
 僕は小さくため息をつき、それからジト目で乱入者を睨む。

「ケインくーん……ちょっとは“邪魔かもしれない”とか思わなかったのかな?」

 ケイネス・アーチボルト。
 絵画を描かせればコンクールで入賞できる。ヴァイオリンを持たせればプロデビューしないかと勧誘される。おまけに魔術は文句無し、トップレベルの天才。血筋はというと、9代続いた名門中の名門、アーチボルト家の嫡男だ。年月で言うと1400年くらい続いてきたらしい。
 そして、その能力値に裏付けられた自負と、それに伴う上から目線の持ち主。
 要するに、血筋と才能と力量は非の打ち所がなくて、ちょっぴり傲慢な、でも憎めない馬鹿野郎である。
 どこら辺が憎めないのかというと、主に輝く額と溢れ出る小者臭だったりする。後は悪い奴じゃないところか。
 これは実際に会ってから分かったことだけど、実はそんなに悪い奴じゃない。ちょっと選民思想のケがあるだけだ。自分より優れている人間を素直に認める度量もあるし、自分は天才だ! なんて自惚れも度が過ぎる程ではない。分相応な認識を持っている。
 ただ、ほんのちょっとだけ、愚か者には心が狭いだけだ。その部分だって、魔術師の中じゃ良心的な部類に入るんじゃなかろうか。鼻で笑ったり虐めたりせず、ただ無視するだけだし。

「全く、次の講義の準備を放り出して、どこをほっつき歩いているのかと思いきや」

 ケインはジロリと美人さんに目を向ける。
 軽蔑、哀れみ、見下し、そんな感情をとにかく詰め込んだ視線。

「――まさか、このような下賤の者に時間を取られていたとはな」

 また悪い癖が出ていた。
 無能見下し癖。一般人や凡才、無能を無意識の内に見下すという習性。人付き合い、なにそれおいしいの? と言わんばかりの悪癖である。
 ちなみに、僕命名。
 これさえなければ、と思った回数は数え切れない。

「ゲセンだの、センミンだの、本当にそういうのが好きだな、お前は。顔と体型には血筋もなにもないだろう」
「それほど女性の体に執着があるならば、娼館にでも行ってはどうかね? その女が良いというのであれば、暗示を使っても構わないだろう」
「それ本気で言ってるなら怒るぞ」

 ここまでの会話を現代風に翻訳するなら「おはよう、元気?」「うん、ぼちぼちだね」くらいのやり取りだろう。
 少なくとも、その程度には互いに気心の知れた仲だ。

「で、何の用? まさか一般人(パンピー)と関わってたから注意しに来たわけじゃないだろう」
「私が新たに作り上げた術式の出来を見てもらおうと思ってね。散歩がてら探していたというわけだ」
「そりゃまた……ご苦労様」

 驚いた。まさかそれだけのために僕を探していたとは。
 まあ、術式の最終チェックなんかには重宝する。僕はそういう魔術師だ。ただ、わざわざ僕を探しに来る理由としては弱い。
 ……きっと自慢したかったんだろう。考えてみれば僕だって、新しく術式を思いついたら真っ先にケインに自慢する。
 ケインのこういうところが“愛すべきバカ”という感じで、色々と欠点を知った今でも嫌いになれない理由の一つだ。

「じゃ、帰るかな。術式は後で見るよ。講義の準備はすぐ済むし、終わったらケインの工房に行くから」
「ああ。では、行こうか」

 二人並び歩く。
 時計塔広しと言っても、ケインと行動を共にできるのは僕くらいだろう。
 9代続いたアーチボルト家の嫡男、歴代最高の天才とまで称されるケインには、異常に友達が少ない。というか僕以外にはいないんじゃなかろうか。
 近寄ってくる女性だって、優秀な血を取り入れたいと思う家のハニートラップか、時計塔での権力を強めたいと思う家の政略結婚狙い、そんなところだ。
 かといって男友達はなかなかできない。ケインの才能が飛び抜けすぎていることに加え、性格が少し難儀なことになっているからだ。
 ケインは基本的に自分より才能が薄い魔術師を認めることはないし、それが元で妬みや嫉みをぶつけてくるような相手には尚更だ。
 また、ケインより格上の魔術師――いわゆるロード・バルトメロイなんかは、ケインを“アーチボルト家の嫡男”として見ることはあっても、ケイネス・アーチボルト個人として見ることはない。政争のライバルでしかないのだから、その程度で十分ということなのかもしれない。

 そんなわけで、僕と出会う前のケインは、いわゆるぼっちだったわけである。
 正直、初対面の時は仲良くなれる気がしなかったし。

「あ、あの……」

 訳が分からない、言外にそう訴える美人さんの声。
 これはいけない。置いてけぼりにも程がある。

「ああ、ごめん。ちょっと用事ができちゃったから失礼するよ」

 軽く会釈をして、さっさと立ち去る。
 暗示をかける必要はないだろう。そこまで聞かれてまずいことを話したわけでもないし。
 万が一、会話の内容に思いを巡らせることがあったとしても、妄想癖のあるおかしな男たちだったと、そう思ってくれるはずだ。

 呆気にとられた美人さんを置き去りにして、僕はケインとその場を立ち去った。
 右方にウェストミンスター寺院を臨む通りを連れ立って歩いていく。
 今日のロンドンはこれ以上ないくらいの快晴で、鳥の囀りが、そよ風で揺れる木の葉の音と妙に調和していた。
 こんな良い天気の日に時計塔に篭っているなんて不健康極まりない。ケインには、もっと外に出てくるように言ったほうがいいかもしれない。
 研究に掛かりっきりで外に出てこないなんて魔術師の間じゃ日常茶飯事だけど、はっきり言って好ましくは思えない。もう少し人間的な暮らしをすればいいのに、そう思うことは多い。
 きっと、そういう魔術師からすれば大きなお世話というやつだろうけど。

「――しかし、悪くないね」
「なにがだ?」

 ふと漏れた呟きに怪訝そうな顔をするケイン。
 僕は少し照れくさい気持ちを押し殺し、くつくつと笑いながら空を見上げる。
 ここの天気はすぐに変わるし、一雨来なければいいのだけれど。
 そう思いながら僕はケインと肩を組んだ。

「ベン、いきなりなにを」
「君とこうして歩くのは、悪くないってことだよ。我が友ケイン」
「……」

 僕の手を振りほどこうとしていたケインは、動きを止めて、少し驚いた顔をして、それからゆっくりと微笑んだ。
 そこには傲慢さも軽蔑もない。
 とても良い顔だった。

「……ああ、悪くない。悪くないとも。我が友ベン」

 僕とケインはお互いに笑い合い――

「だがこれはやめろ」

 それから容赦なく肩を振り払われた。
 こういうところの頭が固いのも、いつものことだ。

「はいはい」

 だから、僕もしつこく絡むことはしない。さっと体を引き、また並んで歩きだす。
 この距離が悪くないと思える辺り、かなり情が移っている。
 僕の命を最優先に考えるなら、関わらない方が良いに決まってるのに。
 でもまあ親友になっちまったものは仕方ない。今更、見捨てるなんてできないし。
 僕が頑張ってケインを助けるしかない。

 ――取り敢えず、戦争に行かせるのはダメだよなぁ。

 まあ、まだ時間もあるし、ゆっくり考えていこう。
 そんなことを改めて決意した。



[34048] 月霊髄液(仮)
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/10 21:53
 僕には、前世の記憶というものがあまり残っていない。
 より正確にいうと、記憶は残っているのに、そこに感情が付随していない。
 友達と遊んだことも、家族との思い出も、好きな人との恋物語も、全て覚えている。
 それなのに、悲しみも喜びも怒りも、何一つ記憶と共に蘇ってくることがない。
 そのおかげで新しい家には馴染みやすかったから、あまり気にしてはいないけれど。

 ちなみに、16歳の夏の日に眠ってから、それ以降の記憶がぱったりと途絶えている。
 きっとそこで、死ぬかなにかしたのだろう。
 別にどうでもいいことだけど。

 そんな僕が生まれたのは、11代続いたルーン魔術の大家だった。
 ベンジャミン・バンクス。それが、新しく与えられた僕の名だ。
 バンクス家は、ルーン魔術を扱うのに適した血を交配し続け、ただルーン魔術のみに特化した一族だった。
 フラガの家のように宝具を受け継いでいるわけではない。
 時計塔のロードのように、長年の積み重ねによる万能の強さを持つわけでもない。
 ゲルマンのルーン、総数24文字を使用した魔術。それだけを突き詰め、ある種の境地に至るまで極めた。他の全てを切り捨てて、ルーン魔術を介した根源への到達を目指した。
 その特化ぶりと言ったら、さながら、投影魔術しか使えない正義の味方の如くだ。
 僕はまだ20歳だ。にも関わらず、ルーン科で普通に講師を任されている。そのことが、如何にルーン魔術に長けた家系であるかを表していると言えるだろう。
 ちなみにケインも同い年で、降霊科(ユリフィス)の講師を任されている。
 ――まあ、ロードだし。より良い交配がしやすい環境だし。権力あるし。

 ともかく――ルーンだけの特化。魔術師の悲願、根源への到達を目指す上で、それが本当に正しい道だったのかは分からない。
 ただし、僕という存在が生まれたことで、それは思わぬ効果をもたらしていた。

 僕の生まれ持った魔術回路はメイン24本、サブ10本。
 属性は火と土の複合属性。

 ここまでは、まあ、普通だ。
 もちろん魔術師全体から見れば優秀な方ではある。ただ、11代も交配を続けた割には普通の域を出ない。むしろ残念な感じだ。
 魔術回路24本は平均よりも少し多いくらいでしかない。
 複合属性も珍しいのは確かだけど、それだけだ。ルーン以外の魔術は見習いレベルでしか使えないことを考えれば、宝の持ち腐れでしかない。
 珍しさだけを見ても、ケインが持つ水と風の複合属性には負ける。

 ならば、僕のなにが、ルーン魔術を最大限に活かしうるのか?
 答えは僕の起源にあった。

 起源――観測。

 それが、僕だけに許された、唯一無二の力だ。

 考えてみれば当然だとも言える。
 そもそも、僕という存在は、この世界を物語として観測する側にあった。
 ならば、その観測者がこの世界に生まれた以上――その起源は、観測になってもおかしくない。

 そしてこの起源が、ルーン魔術に意外とマッチしたのである。
 ここ時計塔では、東洋魔術は受け入れていない。呪術は時代遅れ――ナウくない。
 そんな状況下だからこそ、ルーン魔術にある最大のアドバンテージを存分に活かすことができた。

 たとえばルーン占い。
 それはもう、百発百中で当たるのだ。
 未来視でも使えるんじゃないかというレベルで当たるのだ。
 とにかく、知ること。それに関するルーン使いなら、この世界で僕の右に出るやつはいないんじゃないだろうか。
 起源の恩恵はルーン占いに留まらず、術式の出来や物事の本質を掴む魔術も得意分野になった。知識のルーンとか、運命のルーンとか、情報のルーンとかの扱いなら、紛れもなく時計塔屈指の腕前だと誇れる。
 逆に言えば、それ以外にできることがほとんどないということでもあり、ほんの少しだけコンプレックスだったりするけれど。





◆◇◆◇





 時計塔、地下三階。
 僕はある扉の前に立ち、間を開けて三回ノックした。

「ああ、開けてあるから入るといい」

 魔術で来客が誰なのかを感知したのだろう。扉は独りでに開き、中で待つケインの姿と、部屋の中が露わになる。

 何度見ても工房とは思えない、やけに優雅な空間がそこにはあった。

 まだなにをテーマにしているのかは分からない描きかけの絵画と、壁にかけられている完成品の油絵。どうやらテムズ川の夕暮れを捉えた風景画のようだ。
 中心に据えられた巨大なテーブルの上は、錬金術に使いそうな器具一式と、色とりどりの液体で満たされたフラスコが我が物顔で専有している。
 ふと漂ってきた紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。ケインはフォートナムメイソンをやけに愛用しているので、十中八九それだろう。茶葉がなにかまでは分からない。時間帯からして、焼きたてのスコーンとアフタヌーンティーでも優雅に楽しんでいたのか。

 ――相変わらずわけ分からん場所だなぁ。

 そんな内心をひた隠しにして、僕は何気なく手を振った。

「やれやれ、地下ってだけで気が滅入るよ。まだ三階で良かった」
「私は無駄が嫌いなのでね。さあ、中に」
「それじゃ、失礼するよ」

 僕の体が完全に部屋の中に収まると、これまた独りでに扉は閉まり、同時に結界が作動、外界とこの部屋を完全に隔離した。
 ケインはやや大仰な動作で腰をかがめ、一礼する。

「ようこそ、ケイネス・アーチボルトの魔術工房へ」
「お茶はいらないよ」
「元より、我々の間にそのような気遣いは不要、だろう?」
「そういうこと。のんびりお茶飲んでる暇はなさそうだし。ていうか、ここより下だったら日を改めてもらうとこだよ」

 とはいうものの、実を言うとケインの工房は、時計塔の中でも比較的上層にある。
 下に行けば行くほどキチガイ魔術師の巣窟になっていくのは時計塔の一般常識みたいなものだ。そういうキチガイ魔術師に限って、どこかブッ飛んだ――よくいえば天才的な発明をしたりすることも多い。いわゆる、マッドサイエンティストというやつだ。
 ただ、だからといって優れた魔術師の全てが下層に工房を置くかというと、決してそうではない。
 むしろケインみたいな正統派は、出入りが楽な地表に近い場所を選んだりすることも多い。
 もちろん、罠のえげつなさは筋金入りだけど。以前、ケインの研究成果を狙って潜入しようとした三下魔術師が、異界に取り込まれた挙句、文字通り壁と一つになって翌朝発見されたのは周知の事実だ。ムンクの『叫び』を実写化したらあんな感じになるんだろう、きっと。
 それから一ヶ月くらいは、見せしめの意味もあって放置されていた気がする。最後は、段々と時計塔名物みたくなった頃に、外観を損なうとかいうケイン本人の鶴の一声で粉々に破壊されてしまった。
 通りがかる人たちが「よう、アドルフ」と壁の巨大なシミに挨拶していくのは、僕個人としては非常に面白い光景だったので、少し残念に思ったのを覚えている。

 ちなみに僕の工房は地下じゃなく地上である。地下だと移動が面倒だし、すぐに太陽の光を浴びれる場所に居たいからだ。ただでさえロンドンは雨が多いのに、地下にいると気分までジメジメしてくる。キノコが自生してもおかしくないくらいだ。

「それで、見て欲しい術式ってなんだ? その顔からして、よっぽど自信があるんだろうけど」

 講義が始まるまで30分くらいの猶予があるとはいえ、術式を見るならあまり余裕はない。本来、起動前の確認、起動時の確認、動作確認、終了確認の四つを確実にこなしたいくらいだ。それを妥協しても、20分はかかるだろう。
 まあ、ケインもそれを計算して呼んだんだろうから、すぐに終わるとは思うけど。

「早いとこ見せてくれ。教師が遅刻するのはどうかと思うし」
「分かっているとも。術式の動作確認は済ませてある」

 ――今、なんつったこいつ。
 動作確認も終わったなら、別に僕を呼ぶ意味はない。
 ということは、だ。

「やっぱり、ただの自慢?」
「まあ、半分はそうだ」
「もう半分は?」
「まだまだ改良の余地がありそうなのでね。少し動作しているところを見ておいてもらいたい」
「りょーかい……」

 呆れ半分、苦笑半分で体内の魔術回路を起こす。
 起動のきっかけとしては、車の鍵を回してエンジンをかけるイメージだ。前世では無免許運転をしていたから、馴染みやすいのかもしれない。この世界ではまだ免許を取っていないけれど、いつか暇ができたら車に乗りたいものだ。

「incipiunt,laguz,ansuz,gebō(起動、水の閃きよ、神の智、と結合せよ/を贈りたまえ)」

 眼鏡に仕込んだ魔術を起動し、ルーンによる補助を自身に付与する。
 水のルーン、ラグズで霊感と直感を強化し、神のルーンであるアンサズによって思考力や知力を高め、贈り物の意を持つルーンのゲーボでアンサズの効力を高める。
 さらに、ゲーボには結合という意味も含まれている。それを利用した二重詠唱によって、ラグズとアンサズの二つを結びつける。
 これにより、直感や霊感で察知したことを、強化した脳でそのまま流れるように思索できるわけだ。
 さらに動体視力や静止視力は眼鏡で強化済み。事象そのものを見逃す、捉えきれないということはまずないと思っていい。
 即席の、たかだか一小節の継ぎ接ぎで構成された強化だが、今はこれで十分だ。
 完璧。我ながら完璧である。
 火と土の属性である僕は、本来ならば水のルーンを使うことは出来ないのだが、そこは血の恩恵である。ルーンに特化しているからこその、ルーン魔術における万能。

「準備できたよ。さあ、どうぞ」

 ケインは頷き、巨大な机の上に並んだフラスコから、一際大きく異彩を放っている鉄鍋を持ち上げた。
 中には、並々と銀色の液体が注がれている。

 ――もしかして、もしかしちゃうのか、これは。

 脳裏に、ある小説が思い出される。
 題名をFate/zeroという、この世界を構成する要素の一つ。
 そこで用いられた、ケインの持つ最強の切り札――

「Fervor,mei sanguis(沸き立て、我が血潮)」

 聞こえた詠唱と、それに伴って目の前の液体――水銀に注がれた魔力量の多さから、僕は自分の予想が全く間違っていなかったことを知った。
 ケインが鉄鍋をゆっくりと傾け、水銀を床にぶちまける。
 水銀は床に飛び散り、四散する――直前で、一箇所に集結し、ひしゃげたバランスボールみたいに歪な球を形作った。

 思ったより、小さい。
 横幅、縦幅、高さ、それぞれ10センチくらいしかない。
 ただ、水銀の比重から考えて、重さは相当のものだろう。
 1リットルあたり、13kg。
 それだけの重さを持つ液体が、鞭のように振り回されでもすれば――人体は、あっという間に物言わぬ肉塊へと姿を変えるに違いない。

「……こりゃ、また」

 知識としては見知っていても、やはり実物を目の前にしては驚嘆の声を漏らしてしまう。
 それほどに、威圧感と魔力を備えた礼装だった。
 重量は40kgほど。いまのケインは余裕綽々といった風なので、十分な量の水銀さえあれば、さらに増量が可能だと見ていいだろう。原作では140kgの水銀を自由自在に操作してたし。いや、130kgだったかな。

「これぞ、我が最高傑作――『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』だ」

 得意げに胸を張る仕草も、これに限っては相応しい動作だと認めざるを得ない。
 水と風の複合属性を持つケインだからこそ御しきれる、現代においては最強の礼装の一つ、その原型。
 まだ第四次聖杯戦争までには何年も間があるから、大丈夫だとは思っていたけれども――これは、予想以上だ。
 眼鏡越しに知ることができる全てのデータが、僕に知らせてくる。
 こいつはとんでもない代物だ、と。

「おい、こんなのいつの間に作った? 僕は知らなかったぞ」
「知らせていなかったからな。驚いただろう?」
「そりゃ驚いたけどさ……こんな、とんでもないものだとは思いも……」

 これは授業までの待ち時間に、片手間で見るようなものじゃない。それなりの準備と場所を確保して調査するべきだ。
 自身が魔術師であるからこそ分かる、この礼装の可能性。
 久しぶりに胸が高鳴る。

 それに――こいつを改良すれば、ケインの生存確率は上がる。
 まあ、戦争に行かせないのが一番なわけだが。

「ラテン語の呪文か……仕組みは?」
「基本的にはゴーレムと同じだ。ただ、あまり定形を持つ物にはしたくなかったのでね。それに、ヘブライ語を媒体とした呪文は、私の魔術とも合わない。その点は改変を加えてある」
「呪文からして常時魔力供給型だろうな。操作方法は?」
「貯蔵型にするには、あまりにも燃費が悪すぎる。素材が水銀では、貯め込める量も然程多くはない。それと、操作は基本的に手動だよ――scutum(盾よ)」

 ケインの声に反応した水銀は瞬きほどの間に、魔術強化された強固な防壁となって前面に展開する。
 その展開速度には目を見張るものがあった。おそらく、10メートル以上の距離があれば、銃弾が相手でも先んじて防御体制を整えることができるだろう。
 ――それでも衛宮切嗣には負けたが。

「強度実験はまだだが、計算上はほとんどの魔術に耐えうるはずだ。固体の盾による防御と液体の膜による防御を使い分けることで、臨機応変に対処できる」
「成程、ね……そこらが鍵になってくるかな」

 僕は内ポケットから一枚の紙を取り出す。
 僕の血文字でルーンを書き込んだ、特製の紙。即席の結界や、こうした調査の時によく使うものだ。
 それを、水銀にぺたりと貼り付けた。

「……perþ by Rune par normalis positio,meus originem(正位置のルーン、私の起源によって秘密は明かされん)」

 パースは主に秘密、神秘などを表すルーンであり、秘密を解き明かすという行為にも繋がる。そこにラテン語の補助詠唱を加えた、本格的な魔術行使。
 僕の中の魔術回路が熱を持ち、回転速度を上げ始める。ギアチェンジして同時にアクセルを踏み切ったかのような急加速だ。
 なにかを解析する時には有用な魔術である。この詠唱も僕の中では定番だ。
 ただ、自分の起源を少しとはいえ励起して用いる魔術なので、かなりしんどい。早急に済ませたほうが良さそうだ。

 用いられている術式、必要な属性、魔力量、総重量、総体積、その他種々様々、莫大な量の情報が、視覚を介して頭へと流れ込んでくる。アンサズのルーンで脳を強化していなければ気絶するレベルだ。

 頭が痛い。
 目が辛い。
 ていうかもう全身が苦しい。

 ――これ以上はヤバイ。

 本能がこれまでで最大の警鐘を発した瞬間、僕は反射的に魔力の流れを断っていた。

「――はー、しんどッ!」

 行使時間、3秒57。
 そこで僕は術式を停止した。
 汗をこれでもかというほどに流しながら、頭痛に耐えかねてその場に座り込む。
 もう少しちゃんと修練を積んでいれば、こんな無様は晒さずに済むんだろう。
 まあ、この年齢で起源を短時間、しかも少しとはいえ励起させることができるのは僕くらいのものだけど。
 ――世の中には命知らずが少ない、ともいう。

「aqua(水よ)……相変わらず、無茶をする。あそこまでしてくれずとも良いものを」
「それがウリだよ。ふぅ……ありがと」

 一息つき、ケインが魔術で出してくれた水をありがたくいただく。
 多分、空気中の水を純粋に操作して、コップの中に集めたんだろう。それくらいなら専門外でも容易だ。
 やはり一汗かいた後の水は、この上ない甘露である。できることなら、もう少し健全な汗の流し方をしたいものだけど。





 息を整えながら、手に入れた情報を整理すること五分弱。
 ようやく頭痛も収まったので、ケインに言うべき言葉を考える。
 礼装には特に不備はなかった。改良の余地はあっても、決して悪い出来じゃない。

「……見た感じだけど……はっきり言って凄い。風と水の属性を両方活用できる流体操作を利用した術式と、水銀を利用するっていう着眼点――お前は天才だって思える出来だよ」
「そこまで見抜くとは、流石、私が友と認めただけあるな。君こそ流石だ」

 当然であろう、言外に主張しているその立ち姿。
 なんか決闘で勝った時みたいな動きだけど、なにをそんなに喜んでるんだ。
 まだ言ってなかったけど――僕は上げて落とすタイプだぞ。

「ありがとう。で、一つ聞いときたいんだけど――これをどこまで自由に扱えるんだ?」

 ぴたり。
 何故か勝ち誇っているケインの動きが、そんな感じで一時停止した。
 そして、花が萎れるように俯いて顔を逸らす。

「……私の研鑽がまだまだ不足しているということは否定しない」

 予想通りの答えに、僕はひとまず頷いた。
 この礼装は、風と水に共通する特性、流動操作を用いて使うものだ。
 ならば、自分の手足の如く扱うというわけにはいかない。複雑極まりない演算、面倒なことこの上ない計算、実際の動きを決定する想像力、そしてその結果を現実に作用させる際に生まれる差異を埋めるための経験――これら全てを兼ね備えていなければ、十全に使いこなすことは出来ないだろう。
 それは、おそらく最近になって開発したばかりのケインにはないものだ。特に経験。
 こうして球形、盾などの決まった形を維持させるだけでも、実は精一杯なのだろう。まして自由自在に動かすとなれば――難度は格段に増すはずだ。

「まあ、礼装に使ってる術式にも改造の余地はあるかもしれないけど……一番大きな要素は、ケイン、お前自身だよ。この礼装はそういう類の物だ」
「分かっているとも。……思いの外、長々と付き合わせてしまったな」

 言われて腕時計を見ると、1時50分。そろそろまずい時間になってきた。
 恐ろしく疲れたが、講義を休むわけにもいかない。魔力を消費していても講義に支障は出ないし。

「そうだな、僕はもう行くよ。改善点は後で紙に――いや、もう一度ここに来ることにする。今夜は徹夜だ。僕も色々と勉強になりそうだしね」
「そうしてくれ。では、さらばだ」

 ケインが指を鳴らすと、扉がまた開いた。
 自動ドアを魔術で再現する意味はどこにもなさそうだが、まあ気にするまい。

 そして外に出た瞬間――僕は講義予定の教室がある5階まで、猛ダッシュした。











 本日の作者ツッコミ

・まあ、ロードだし。より良い交配がしやすい環境だし。権力あるし。

 過疎ったルーン科と降霊科の人数比を考えると、ケイネスが講師を任されたのは権力でもなんでもなく、純然たる実力である。逆に主人公は人手不足だから数合わせで……ということも十分にありえる。
 ちなみにこの作品における人数比は、ルーン科所属の魔術師:降霊科所属の魔術師=1:11くらい。もちろん、競争率は比べるまでもない。

 主人公の負け惜しみェ……

 ・meus originemとmei sanguis

 ここ、最近になって作者が不思議に思った部分である。
 原作では「fervor mei sanguis(沸き立て、我が血潮)」であり、「mei sanguis=私の血潮」というふうに訳せる。気がする。
しかし、それだとmeiではない。「私の~」というふうに所有を表す場合はmeusに変化するのが正しい活用系なのだ。だからうちの主人公はmeus originemと詠唱している。
まあ、作者の文法知識もかなり大雑把なので、これ以上はごちゃごちゃ言わない。ぶっちゃけ揚げ足取りみたいなもんだし、間違ってたからなんだ、という話だ。どっちであってもfate/zeroが好きなことには変わりない。
ただ、実際のとこはどうなのか、誰か教えてくれたら嬉しい。



[34048] 朝帰り
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/11 19:20
「……ん」

 眠い。今何時だろう。ていうかここどこだろう。
 胸元にキケローがいないから、僕の部屋じゃなさそうだ。
 ――ああ、そうだ。昨日は講義終わってからケインの工房に直行したんだった。 
 で、月霊髄液《ヴォールメン・ハイドラグラム》の改良について話し合ったんだっけ。
 結局は大した意見も出ずに力尽きたのか。それとも画期的な進歩を遂げたのか。どっちだったかな。最後の方は寝かけで記憶が曖昧だから、どうも自信がない。
 僕はこの月霊髄液《ヴォールメン・ハイドラグラム》の完成形を小説で読んで知っている。ただし、そこに至るまでの過程を知らない。だから試行錯誤を重ねるしかないのだ。
 とある拳法の奥義の詳細を文面で知っていたとしても、それを使えるかどうかは全く別な話なのと同じだ。結局は自分で道を切り開いていくしかない。
 取りあえず、時間を見よう――と思ったけど、明かりがないから腕時計が見えない。
 明かりをつけようにも、ここはケインの工房だから場所が分からないし、場所が分かっても付け方が分からない。

「……kaun(松明の炎)」

 魔力を控えめにしたルーン魔術で指先に小さく火を灯し、のっそりと起き上がる。
 ケインは机にもたれ掛かって爆睡していた。
 水銀は鉄鍋に仕舞い直した上から、しっかりと魔術で封をしてある。当然だ。ホイホイ有効活用しているから忘れそうになるが、これは歴とした有害物質だ。寝ている間に頭から被ってしまうようなことになれば目も当てられない。
 明かりにかざして腕時計を見れば、時間は朝の7時。
 毎朝の目覚めを、窓から差し込む日の光と共に迎えている僕にとって、地下で迎える朝というのは陰気で仕方が無く思えた。
 Fate/zeroの原作で遠坂時臣がやっていたみたいな引きこもりも――命が懸かってるならやるしかないし、躊躇わないけれども――はっきり言って、一生遠慮したい。

「ったく、なんだって人間に生まれながら、わざわざ地下で過ごしたがるんだか、理解に苦しむな……ケイン、おいケイン! 起きろ!」
「む……」

 肩を揺さぶりながら起こしにかかると、ケインはむずがる赤ん坊のように僕の腕を軽くはねのけ、ゆっくりと覚醒し始めた。

「朝か」
「朝も朝、もう7時だよ、この寝ぼすけ野郎――ああもう、男同士でこんなのしても嬉しくない、全っ然嬉しくない」

 寝ぼけ眼の可愛い女の子なら可愛げもあるってものだけど、10年後の頭髪が激しく心配な男の親友だと気分が、こう、げんなりする。
 なにやってんだ僕、という虚しさに襲われるのだ。

「ほら、早く朝ごはん行こう。頭を使いすぎて腹減ったよ」
「ああ、そうだな……く、あぁあ……」

 ケインの大欠伸。ああ、これが美少女ならどんなに嬉しいか。
 そういやこいつ、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリと婚約するんだっけ。紅の髪の美女と。片思いの好きな女性と。しかもアーチボルトとソフィアリって言えば、両方共時計塔屈指の権力者同士だから、ケインからすれば政略結婚と恋愛結婚を兼ねた形になるわけだ。
 なんて羨ましい。前世でも今世でも清い体を守り通している僕に謝れ。

 ――で、その婚約者はケインのサーヴァントに惚れた挙句、そのサーヴァントと一緒にいるためだけにケインの指を笑いながらへし折るんだっけ。

 ……。

「ケイン……きっと僕が幸せにしてやるからなぁ……」

 僕はケインの肩にそっと手を載せ、涙を堪えながら言った。
 親友がそんな目に合うなんて、想像しただけでも涙が溢れそうになる。
 きっと、あの運命を、あの未来を覆してみせる。
 僕は改めて決意した。
 ケインはというと、寝起きの精彩を欠いた目と覇気のない――ぶっちゃけ元からないが――顔で、それでもこう言った。

「私は同性愛者ではない。君がそうだとは知らなかったが、できれば他を当たって――」
「違うッ! 僕はノーマルだ! 年上の甘えさせてくれるお姉さんか甘えてくれる少女希望だ!」

 一瞬でも心配した僕が馬鹿だった。
 というか、なんだかんだで3年くらいの付き合いがある相手に「こいつ実は同性愛者かもしれない」なんて思われたのは辛い。ケインは普段、一体どういう目で僕を見ているのだろうか。
 僕だって、ケインとそういう関係になる光景を想像しただけで寒気がするぞ。

「面白い冗談だな。さて、朝食を取るのだろう? 早く済ませて、研究に戻らなければ」
「……はいはい」

 僕は冗談で言ったつもりはこれっぽっちもなかったのだが、取りあえず黙っておくことにした。もう同性愛者云々の話は蒸し返したくない。
 自分の心に傷が付きそうな話題は、流れるに任せるのが一番賢いやり方なのだ。

「reserans(解錠)」

 ケインが呟いたのは、いわゆるキーワードである。
 夜に眠る時や外出する時は、常に張る結界とは別口で扉そのものを閉ざすために施錠するのが魔術師の常識だ。
 施錠が解かれたのを確認したケインは指を鳴らし、昨日のように扉を開く。
 そして、僕とケインは工房を出た。





 当然だけど時計塔の中にも食堂はある。かつて大儀式の実行に使われた2階の大広間を改修して仕立て上げたのだとか聞いたことはあるが、実際のところはどうなのか、よく知らない。ただ、食堂が開設されるのは自然なことだった。
 家族や恋人の弁当を持ってこれるような人間ばかりが在籍しているわけではないし、自炊スキルなんてものを身に付ける暇人――もとい、器用人は滅多にいない。しかし、食事のためだけにわざわざ外まで行くのは面倒くさい。
 そんな事情があって、100年か200年くらい前にできたらしい。
 僕みたいに、お日様が恋しくて外に出かけるようなのは少数派なのだ。
 あと言うまでもないが、外に行っても中で食べても、大抵の場合は不味い。ただ、そもそもイギリスの料理に期待をしてはいけないことくらい、時計塔に来る前から分かりきっていたことだ。

「しかし、この味で金取るのは詐欺だな」

 思わず呟いてしまう。よくも悪くも、食堂は変わらず平常運転だった。
 甘すぎる豆の煮物と、異常なまでに味のないサンドイッチを黙々と食べているケインが、いつものことながら信じられない。僕より育ちは良いはずなのに。
 こんな不味い料理になにも言わないのは何故か、以前聞いてみたことがある。すると、

 ――ぼやいても味は変わらないだろう。

 お前はどこの偉人だ。
 しかし、外の屋台で買ったホットドッグの方が美味いとはどういうことなのか、いつものことながら不可解だ。金払ってるんだから、せめて普通のものを出して欲しい。ケインはともかく、庶民の僕は満足できるようなものを。

「……っていうか、今日もするのか? そろそろキケローの嫉妬の虫が騒ぎ出す頃なんだよ」

 あまりの味気なさと甘さのせいで食欲がすっかり霧散してしまったので、手慰みに豆をフォークで転がしながら聞く。
 あいつの我慢は1日が限度だ。それを過ぎると、部屋に帰った途端やたらめったら引っかかれる。その後は、丸1日引っ付いて離れない。トイレも風呂も、外に行く時すら一緒に来ようとする。

「クックック……ベン、君も罪作りな男だな」

 ケインはキケローを見たことがあるし説明もしているので、愉快そうに笑っている。他人事だと思って気楽なものだ。まあ、紛れもなくケインにとっては他人事だけれども。
 それと笑い方が頭でっかちの小悪党っぽい。安定の小者クオリティだ。

「私はさしずめ、そう、泥棒猫といったところか」
「それ洒落にならないから。本気で痛いから」

 そういえば、そろそろ爪切りしてやらないと駄目だな。僕の保身とキケローの健康的な意味で。

「ねぇねぇ、あれ、バンクス先生よね。いまの聞いた?」
「聞いた。また、あのアーチボルトと一緒に朝ごはん食べてる。もしかして昨日はずっと一緒だったのかな? それに、い、痛いって……まさか」

 近くにいる女生徒二人が、そんな会話をしているのが聞こえた。ルーン科の授業で見た覚えのある二人だ。あれは――ケイトと、マリアとかいう名前だった気がする。前に図書館で見かけた時、美少年同士の絡みが書いてある淫魔召喚の挿絵付き資料を見てきゃぴきゃぴ騒いでたのが印象深い。1990年代のイギリスで腐女子にお目にかかれるとは夢にも思っていたから、尚更だ。
 どうでもいいけど、本当にどうでもいいことなんだけど――これ朝帰りみたいに思われたら嫌だな。本当に同性愛者のレッテルを貼られたらショックと恥辱で立ち直れないこと必定だ。
 ケイン×ベンに需要はない。
 ないったらないのだ。

「ほら、ルーン科って勢力弱いから……降霊科(ユリフィス)に取り入らなきゃやっていけないのかも」
「それで、体を売ってるってこと? あのバンクス先生がアーチボルト家の権力に屈して? それってゾクゾクするよね……げっ」
「でも、言葉から察するに無理やりじゃなさそうだし……って、どうしたの、いきなり変な声出して……あ」

 僕が音もなく近寄ってきていたのを見て、マリアは引きつった声を上げた。
 ケイトも怪訝そうな顔をして、一拍おいてから自分の背後に僕が立っていることに気付く。

「やあ、朝から二人とも元気そうでなによりだ。なかなか面白そうな話だけど、もう一度聞かせてくれないかな」
「いえいえ、バンクス先生のお耳を煩わせるほどじゃありませんッ!」
「そうです! 気にしないでください!」
「そうか。ところで――」

 僕は拳の骨を鳴らす――ことがちょっとできそうになかったので、内ポケットから血文字のルーン紙を取り出した。
 二人の顔が面白いくらいに青くなる。僕から教えを受けている生徒だから、僕のルーン魔術の恐ろしさが身に染みているのだろう。

「先月出した課題、エルダーイングリッシュルーンとゲルマンルーンの歴史的推移について比較するレポート、提出量を倍にされるか、ここで講師直々のゲルマンルーン体験授業をするか、どっちがいい?」
「ど、どっちも嫌なんですけど……先生のルーン魔術って絶対に致命傷ですよね?」
「レポートが倍になったら過労で死んじゃいます!」

 マリアはレポートが良いが、ケイトは体験授業が良いということらしい。まったく、自己保身のための意見統一もできない友達なんざやめちまえ。
 僕は溜息をつき、両腕を振り上げた。

「嫌なら、今度から愉快な妄想は程々に――しろッ!」
「きゃんっ! に、逃げるよ!」
「痛っ! ごめんなさい、もうしませんからッ!」

 頭を思い切りどつかれた二人は、涙目になって走り去っていく。まあ初犯だし、追撃は勘弁してやるとするか。
 なんか、猫から逃げるネズミを思い出させる逃げ方だ。さっきまでキケローのこと考えてたからだろうか。

「……なにをやっている」
「そう呆れた声を出さないで欲しいね。僕だけじゃなく、お前の名誉も守ったんだ」

 なにがあったのか理解していないケインは、どこか呆れた声だった。いや、意味が分かってたらマリアもケイトも五体満足じゃいられなかっただろうから、それはいいのだけれど――こう、あからさまに呆れられると物申したくなる。こいつだって男色家扱いされたくはないはずだ。
 ちなみに、ケインの未来を変えるための計画として、男色家の噂を流すというものを考えたこともあった。ただし、その場合は別な意味でケインの人生が終わる。もしくは目覚めて狂う可能性がある。助けたつもりが、別の地獄に叩き落としたみたいなことになる。
 あと、その策を使うと、確実に僕が相手だと思われてしまう。それほどまでに友達が皆無なのだ、この親友は。
 ソラウと婚約させたくはないが、そのために僕の社会的地位と将来できるはずの伴侶を犠牲にする気もない。

「ところでケイン。一回部屋に戻ってもいいかな? キケローに餌やらないといけないし、色々と準備もしていきたいし」
「ん? ああ、構わない。私も然程急ぐわけではないからな」
「悪いね。それじゃ――」

 いい加減うんざりな朝食の残りを手早くかっ込み、席を立つ。早く戻らないと、本当にキケローに殺されかねない。
 そして、その瞬間、何気なく食堂の入口に目が向いた僕は、見た。

 高く速く、そして優雅に跳躍する――黒い影を。

「むがごッ!?」

 遠慮の欠片もなく顔面に飛びつかれたのでバランスが取りきれず、そのまま後ろにひっくり返って後頭部を強打した。あと、伸びた爪が頬に刺さった。
 頭が割れるように痛い。最近こんなのばっかりだ。たまには労わってやらないと、馬鹿になったらどうしてくれる。

「っつぅ……おい、キケロー! 家で留守番しとけってあんなに言ったのに!」
「みぅ……」

 鳴き声からして、すっかりしょげているらしい。
 反省は大いに素晴らしいことだが、僕の顔の上では遠慮してもらいたいところだ。
 甘えん坊の黒猫、キケロー。
 僕の同居人――というか同居猫、そして今では唯一の家族だ。
 噂をしたら本当に来てしまった。

「みゃぅ、みゃあぁあ……」
「寂しかった? 僕だってそうだけど、我慢しろって言っただろ!」
「にゃぁあお、ふにゃあ」
「セネカも同じ気持ち? 嘘つけ、あいつはお前と違ってしっかり者だ! 大体、使い魔が主人の不在を寂しがるなんてこと、あるわけ……」
「みぃう……」
「そんな声出して、ごめんなさいなんって言っても無駄だぞ。僕は怒ってるんだからな」
「みぃう……」
「ああもう。だから無駄だって」
「みぃう……」
「……ごめん、言いすぎたな。寂しかったんだよな」

 胸元に抱え込んで頭を撫でてやると、キケローは満足げに喉を鳴らした。
 なんでこんなに可愛いんだろう。もう僕結婚できなくてもいい。
 辛抱たまらず、頭から尻尾まで撫で回す。

「この、このこの。愛い奴よのう」
「ふにゃぁあああぁああ……」
「やめてだと? はは、良いではないか良いではないか――あいた」

 頭をトレイで叩かれた。ケインの仕業だ。

「いい加減にしろ。これ以上そのような醜態を晒すようであれば、私も君との付き合いを考え直さねばならないからな」
「狭量だぞ、ったく……」

 僕はキケローを床に置いて立ち上がり、服の埃を払う。
 解放されたキケローは、僕の足に尻尾を巻きつけて、甘えるように優しく鳴いた。

「はいはい、後で遊んでやるから。な?」
「……にゃあ」

 不満げに、猫なのにそれと分かる不機嫌な顔で、キケローは離れていく。
 こうやって素直に甘えてくるところは可愛いのに、愛が重いってこういうことなんだろうな。
 しかし、こういう動物にはモテて、女の子に全くモテないのは前世の因果かなにかだろうか。別に悪いことした覚えはないんだが。
 ハニートラップを仕掛けられるのは慣れっこだというケインが、少し羨ましい。

「先に帰るよ。そうだな、9時になったら工房に行く」
「ああ、分かった」

 僕は工房と部屋が兼用なので、ここから割とすぐの場所だ。時計を見ると8時すぎくらいだったから、諸々の準備や片付けを考えると、余裕を持って9時くらいにしておいた方が無難だろう。
 ケインと別れ、階段を昇っていく。僕の工房兼自室は三階の南側にある。日当り良好、景色も良好な場所だ。そういう場所に限って魔術師からは人気がないから、取るのも楽だった。
 たとえば、魔術で薬を作る魔術師は必ず地下に住んでいると言っていい。精製途中の薬は非常にデリケートな物質で、日光が当たっただけで性質が大きく変化してしまうことも珍しくないからだ。
 ルーン専門の僕は知ったこっちゃないが。

「ほっ」

 掛け声をつけて最後の階段を三段飛ばしで駆け上がる。
 キケローは猫の俊敏さでなんなく着いてきていた。流石だ。
 そこから改めて工房へと向かおうと、南へ続く通路を歩いていく。

「お前がベンジャミン・バンクスか」
「……どなた様?」

 見知らぬ男に背後から声をかけられたのは、そんな時だった。



[34048] 売られた喧嘩
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/14 10:48
 正直、少し不穏なものを感じた。
 相手のガタイはそんなに良くない。ただ、178センチの僕がやや見上げるくらいだから、かなりの長身ではある。
 そんなやつが、やけに剣呑な目つきでこっちを見てくるのだ。警戒しないほうが難しい。

「まず、自分から名乗るのが礼儀だと思うんだけど、なぁ……それに、いきなりお前呼ばわりはないんじゃないの?」

 とは言いつつも、さりげなくルーン魔術を刻めるように体勢を整える。
 まさか時計塔の中で白昼堂々襲いかかってくるような馬鹿はいないと思うけれど、念のためというやつだ。

「チッ……私はジェイムズ・ジェファソン。降霊科(ユリフィス)の魔術師だ」

 今、聞こえたぞ。はっきり舌打ち聞こえたぞ。こいつ喧嘩売ってるのか。
 降霊科(ユリフィス)でジェファソン、しかも僕より年上でといえば、7代か6代くらい続いた家のジェファソンかな。ありがちな苗字はどこの誰だか分かりづらくて困る。
 僕の考えたジェファソンで合ってるなら、アーチボルト家からそこそこ遠い親戚筋だったと思う。同じ降霊科(ユリフィス)だからケインも知ってるだろうけれど、そうじゃなかったら、存在くらいは頭の片隅に留めておく程度だろう。
 見た感じ、いかにもお馬鹿で大した魔術師じゃなさそうなんだけど、一体なにを思って僕に突っかかってくるのだろう。

「フシャー……」
「待て、キケロー」

 あまりにも理不尽な展開に青筋が立ちそうになるのを必死で堪え、同時に今にも飛びかからんばかりのキケローを静止する。
 ただの猫が魔術師に勝てる道理はない。大事な家族に死なれたら、今度は僕が寂しくなる。それは困る。
 幸い、キケローは尻尾を逆立てて敵意を剥き出しにしたまま、しかし三歩ほど後ろに下がった。野生の勘からかどうかは知らないが、彼我の戦力差を正確に計り、自分では逆立ちしても目の前の男を打倒できないということを理解しているのだ。
 それにしても、待てで止まるってなんか犬っぽい。
 自由奔放なのが売りの猫なのに、言うことはちゃんと聞いて、でもそれ以上に寂しがり屋さんでデレデレってどうなのだろう。猫としての誇りというか本能というか、そういうものはないのか。……嬉しいから良いけど。
 あらぬ方向に進みそうな思考回路を修正し、僕は平静な声を出す。

「それで、ミスタ・ジェファソン。僕に何の用?」
「なに、あのケイネス殿が普段から連れている魔術師がどのような者か、見に来たというだけのことだ」
「……それで?」

 一体どうしろというのか。もう行ってもいいのか。
 言うだけ言ってなにも要求されないのは困る。
 こちらが反応を示さないと見ると、ジェファソンは軽く咳払いをして続ける。

「私は降霊科(ユリフィス)でも悪くはない腕だと自負している……もちろん、ケイネス殿に比べれば未熟極まりないことは認めよう。それは確かだ……だがバンクス、お前に――君に劣っているとは、まして戦いの面で劣るとは、とても思えない」
「ふーん」

 知るか。
 それが正直な感想である。思わず返事もそっけなくなってしまったが、仕方の無いことだ。
 大方、誰かに焚きつけられたってところだろう。アーチボルト家と血が繋がっているわけでもないのに、ケイン個人と親しくなった僕を疎んじる人は多い。争いの火種は至るところで燻っている。そこにちょっと風を送ってやれば、すぐに火がつく。
 しかし、戦いが嫌いで経験したこともない僕に勝ったからって、なにが嬉しいのか。
 むしろ、勝てなかったら大恥かくのは自分だ。
 はっきり言って、バンクス家は時計塔の魔術師に共通する常識“万能と魔術回路の増加を目指した交配”から全力で逆走したような家系だ。魔術回路は二の次で、ルーン魔術の適性を最重視した。その次に魔術回路、最後に属性や特製などのその他沢山の適正。
 他家から魔術回路の本数が飛び抜けて多い女性を政略結婚の材料として差し出されても断ったことがあるくらいだ。なんでも、その女性の才能がちょっと凄くて、ルーン魔術特化の血が薄まるかもしれないと危惧したんだとか。

 口上はまだ続くらしい。今度は両手を広げ、演説でもするかのような調子だ。

「ケイネス殿はこう仰られた。“ジェイムズ、君の筋は悪くないが、その血は未だ薄い。まあ、仮にあと三代を経たとしても、私やベンには遠く及ばんだろうな”――はたして、そうか? 本当に? 呪術紛いの占いや、日常の手間を省くことにしか魔術を活用できない魔術師に、たかがルーンマスターに、この私が負けると思うか?」
「た、たかがルーン……」

 思わず口元がひきつった。よくもまあ、初対面の人間をここまで馬鹿にできるものだ。
 相手は仮にも魔術師、しかもそこらの凡百じゃなく、11代を経た大家の嫡男だ。どんな奥の手を隠し持っているのか分かったものじゃない、普通はそう思って慎重に接するはず。事実、ケインも最初に出会った時には、傲慢さを押し出してくることがなかった。
 実は凄く強いんです、なんて展開はまずないだろう。そもそも、そんな実力がないからケインに馬鹿にされたわけだし。実力を隠してたなら僕に喧嘩を売る意味はどこにもないし。
 となると、こいつは頭が残念なのか。それとも自分によっぽど自信があるのか。どっちにしても知恵足らずには違いない。
 ごほん、と少し咳払いをして僕は口を開く。

「まあ、たしかにルーンは戦闘向きじゃない。でも、そもそも魔術師が強さを競う必要は、どこにもないんじゃないかな。研究者が人を殺す必要はないし、傷つける意味もない」
「口ばかり達者だな。そうやって今までは逃げてきたのだろうが、今度ばかりはそうもいかん。私の血は決して薄くなどないことを、証明せねばならんからな」
「いやだから、魔術師の本分は研究であって戦闘じゃないから、ただでさえ戦闘向きじゃない僕に勝ったってなんの自慢にもなりゃしないって言ってるんだけど……」
「逃すつもりはないと、そう言っているのだ。お前を倒せば、私の屈辱は晴れる……!」

 ダメだ。同じ英語を話してることが信じられないほどに話が通じない。
 放って行くのもどうかとは思うけれど、このまま付き合っても何一つ有益な会話はできなさそうだ。

「悪いけど、研究のことでケインに呼ばれてるんだ。申し訳ないけど、これ以上君に構ってられない。君との会話、ケインとの待ち合わせ、どっちを優先するべきなのかは分かるよな?」
「ぐ、む……」

 僕が滅多に使うことはない、あからさまな無関心を込めた言葉遣い。つまり、魔術師としての基本的な言葉遣い。
 ジェファソンの顔は赤くなるやら青くなるやらで忙しい。怒りの炎に冷水をぶっかけられたにも関わらず、それを受けてもなお有り余る怒りが止まらないといったところか。
 別に人間観察が上手くなっても嬉しくない。が、こういう時は非常に役立つ。

「バンクス、お前まで私を侮辱するのか……この隠者気取り風情がッ!」

 ――心中に、ちょっとしたざわめきを感じた。
 あんな実家でも、馬鹿にされると腹が立つ。それもこんな馬の骨に侮辱されるのは屈辱の極みだ。

「……あんまり口の調子がよろしくないみたいだね」

 怒りを押し殺し、しかし声には底冷えするような敵意を滲ませる。しっかりと、警告の意が相手に伝わるように。

 隠者気取り――いつの頃か、バンクス家に与えられた蔑称。
魔術協会には封印指定というものがある。一代では到底成し遂げられないであろう業績を、たった一人で叩き出してしまった魔術師に対して贈られるものだ。いわゆる、我々の業界ではご褒美です、という類のもの。
 基本的には「こいつちょっと凄すぎるから、首に縄でも付けたいなぁ」と思われた魔術師が封印指定を受ける。
 封印指定を受けた魔術師は、協会に留まり続ければ間違いなく捕らえられ、ホルマリン漬けにされるか、一生を幽閉されてすごす。まあ当然ながら、そんなことを望む変わり者がそうそういるわけもなく、大抵の場合は逃げ出す。協会の方も、逃げ出した魔術師を無理に追うことはない。別に放っておいても損失ではないし、封印指定を受ける魔術師は例外なく恐ろしいまでの手練ゆえに捕まえるのも並大抵の苦労ではない。
 そして、究極的に自分のこと以外はどうでもいいと考える人種が魔術師だ。魔術をホイホイと衆目に晒すようなことがなければ、協会は封印指定された魔術師の逃亡を看過する。そもそも、封印指定を受けたからといってなにか悪いことをしたわけではない。魔術師として規格外なまでに優れているというだけのことだ。一応は執行者という封印指定の捕縛を専門とする人員も存在するが、追う手間とリスクを考えれば、わざわざ執行者を動員することは滅多にない。
 そんなこんなで逃げ去った封印指定はなにをするかというと、大雑把に分けて二通り。
 自分の領地や工房に引きこもり、自分だけで根源への到達を目指す賢者。
 子孫に自分の魔術を伝え、一族で根源を目指す隠者。
 バンクス家の人間が隠者気取りと呼ばれるのは、そのためだ。
 封印指定を受けるほどに途轍もない業績や成果を残したわけでもないのに、権力や協会から距離を置いて魔術の研鑽に努めたことを揶揄した呼び名。それが隠者気取り。
 そして僕を隠者気取り呼ばわりするということは、ケインに「魔術工房|(笑)、ロード」と言ったり、間桐雁夜に「ストーカー嫉妬男乙」と言うようなものなのだ。
 要するに、決闘を挑まれても仕方がないくらいの罵声である。
 僕は戦闘が得意でも好きでもないし、別に悪口を言われたくらいで実力行使し返すほど狭量ではないけれど――不愉快なのは事実だ。
 相手が相手なら「僕を隠者気取りと読んだ者は、例外なくブチ殺している」とかなるところだぞ、全く。

 そういえば蒼崎の血族が時計塔に来るらしいとかいう噂を未だに聞いたことがないけれど、一体いつになったら来るのだろうか。なんかブッ飛んでそうな人なので、あまり関わり合いにはなりたくない。

 そんなことを考えているうちに、今まで時間を無駄にし続けてきたのがなんだか馬鹿らしくなったので、ジェファソンはさっさと置いていくことにした。

「……話はまた後日、それも前もって予約を取ってくれるなら、喜んで付き合うよ。ほら、行こうキケロー」
「にゃあ」

 嬉しげに鳴くキケローを連れて、ジェファソンに背を向けた。
 その瞬間。

「こんな臆病者が唯一の親友とは、アーチボルトの名が泣くな……どうやら、次期当主たるケイネス殿は冷静な判断力を失っているらしい! 甘やかされて不自由なく育った、世間知らずの名門出にありがちな浅慮の結果が、お前というわけか!」

 立ち止まる。
 僕の中のなにかが、さっきから若干振り切れそうだったなにかが、清々しいほどに飛んでいった。
 そして振り向く。
 なんだか意外そうな顔をしたジェファソンがそこにいた。まさか、これで反応するとは思っていなかったのだろう。
 ただし、だ。
 僕への無礼、家族への罵倒、親友への侮辱。
 この三拍子が揃っていて怒らないほど、僕は寛大ではない。

「……あ゛?」

 自分でも驚くほどキレた声が出た。
 足元のキケローが、心配そうに擦り寄ってくるのを制止する。
 こいつ、今、僕の親友を馬鹿にしたのか。
 頭がお花畑のクセして。
 よりにもよって、十中八九この僕よりも弱っちい魔術師にすぎないというのに。
 根拠といえば、身の程知らずな嫉妬と分不相応な自信だけで。

「よく聞こえなかったから、もう一度言ってみろよ、おい。誰が甘やかされた世間知らずだ?」

 捨て台詞に過ぎないことは分かっている。
 いや、むしろそれより悪い。ジェファソンはアーチボルト家の親戚筋なのだから、本家の嫡男の悪口を言ってたとなれば、家と一緒に立場が悪くなること請け合いだ。墓穴を掘ったとしか言いようがない。
 それでも、ちょっと頭にきた。
 幼い頃から巨大すぎる権力に翻弄されて、それでも確固たる人格と誇りを持って、次期当主に相応しいと実力だけで認められるまで自分を研鑽し続けたケインを、なにも知らないこいつが決め付けだけで侮辱したのだ。
 現時点で時計塔の誰よりもケインのことを知っていると自負しているからこそ、許しがたい。


「いや、私は……」

 ジェファソンも口を滑らせてしまったことは自覚しているのだろう、これだけあからさまに喧嘩を売られているというのに、しどろもどろになっている。
 弱い相手には強く、強い相手には弱い。まるで僕を見ているようだ。
 僕に限らず、ほとんどの人間はそれが当たり前だ。それでも、良い気持ちにはならなかった。

「……もういいよ。知るか」

 そんな男を責め立てている自分が情けなくなって、急に頭が冷えた。
 親友を馬鹿にされたとはいえ、負け犬の遠吠えに過ぎない。それをいちいち怒っても仕方がない。
 第一、こんなことですぐにやり返せば、それこそケインの沽券に関わるというものだ。
 そう思っていた。

「……何事だね、ジェイムズ」

 興味の薄そうな声が、ジェファソンの背後、二階へと繋がる階段から聞こえてくるまでは。
 ジェファソンは顔を真っ青にして硬直し、僕はといえば、この状況をどうしていいやら分からずに停止していた。
 まさか、まさかの――ご本人登場である。
 コツコツと靴音が響き、ケインが近づいてくる。ジェファソンは顔を向けてその姿を確認すると、体ごと向き直って直立不動の姿勢を取った。阿てもいないが無礼にもならない、丁度いいラインの礼儀だ。

「答えろ、ジェイムズ。やけに苛立っていたようだが、ベンとなにをしていた?」
「いえ、私は、なにも……後ろめたいことは」
「はっきりと答えられぬなら、もう君には期待するまい。ベン、詳細に説明を」

 ケインはジェファソンの横を通りすぎ、僕の前に立つ。
 見切り早いなぁ、おい。
 思わず同情してしまいそうになるが、僕がこいつを庇う理由はどこにもない。その逆なら少しは見つかる。
 そんなわけで、僕がなにもかも包み隠さず話すのは当然の成り行きだった。

「要するに……そこのミスタ・ジェファソンは、自分の実力に相応しい評価が成されていないという意見を持っているらしい。およそ戦闘面において、たかがルーンマスターの僕より劣っているとはとても思えない、だそうだ」
「ほう、そうか。ジェイムズ、君は私の見立てを認めず、ベンよりも上だと言いたいわけか。それだけでなく、ルーン魔術そのものが貧弱であると主張するわけだな」

 僕の暴露を聞いて顔に朱が差したジェファソンは、次の追い打ちで哀れなほど萎縮していた。陳腐な表現だが、蛇に睨まれた蛙のようだ。

「ケイン、弱いものイジメは良くない。第一、これじゃ僕がケインの威を借りた弱虫みたいじゃないか。だから」
「そうだな。これでは、ベンの誇りは傷つけられたままだ。ならば――」

 ケインは僕の言葉を遮り、薄く笑う。
 それは、久しぶりに見た類の笑みだった。
 残酷で、冷酷で、ネズミを甚振る狐のような笑み。
 なんだか、途轍もなく嫌な予感がした。

「実際に戦い、見せつけるしかない。そうだろう? ――ジェイムズ。君は先程、ルーン魔術が貧弱であると発言したらしいな。良い機会だ、噂の隠者気取りの実力を見る良い機会だぞ。親友であるこの私でさえ、ベンの戦闘を見た回数は片手の指で数えられるほどだからな。こんな機会は滅多にあるまい」

 そして予想通り、こんなことを言い出しやがるあたり、やはり僕の勘は無意識の内に起源によって強化されているのではなかろうか。
 アーチボルトの親戚筋の嫡男と決闘――買っても、負けても、残るのは厄介事という終わりしか思い浮かばない。


「ケイィイイイインッ! 僕は無駄な戦いなんて金輪際ごめんだぞ! 研究者に腕っ節はいらないんだよッ!」
「なに、遠慮は不要。このケイネス・アーチボルトの名にかけて、ベンジャミン・バンクスとジェイムズ・ジェファソンの決闘を取り仕切る。一片の私情なく、公正に見届け人を務めると確約しよう。両者共に、光栄に思うのだな」
「いやだから、僕の不戦敗でもいいから――」

 皆まで言い切る前に、ジェファソンが嬉々とした表情で割り込む。

「構いません! 是非ともお願いします!」
「ああ。存分にその腕を振るいたまえ。ベンも今更引き下がるような真似はすまい。そのようなことをするのは、名誉の意味を知らぬ者だけだ。よもや、私の親友ともあろう者が、そのような恥知らずであるはずもない。そうだろう?」
「え、いや、だから、それと魔術師はなんの関係も――」
「決まりだ! では、五階の決闘場で行うとしよう。あそこならば使う者もいまい。私の名を使えば貸し切るのは容易だ」 

 あれよあれよという間に話が進んでいく。
 もう僕だけの話じゃなくなってきた。
 なにより、こうなったケインは、もう止められない。
 僕はケインに詰め寄り、ジェファソンに聞こえないよう囁く。

「おい、ケイン。僕は嫌だ」
「ベン。この際だ、君の強さを見せつけてやれ。これはここだけの話だが、私と君が行動を共にすることを不快に思っている者は、残念なことにとても多い。ジェイムズはその一部にすぎない」
「だから戦って勝って、相応しいと証明しろって? そりゃ勝手すぎる提案だぜ。しかも、こんないきなり言い出して、半強制的に戦わざるをえない状況まで持っていくのは卑怯だ。なにをどうまかり間違ったとしても、親友のやることじゃあない」
「私はああ言ったが、ジェイムズは悪くない腕だ。研究では目立った業績を残せない愚か者だが、こと実用的な魔術に関して言えば降霊科(ユリフィス)の研究者きっての俊英といっていい。そのジェイムズを真っ向から打ち倒せば――私は君に対して、より多くの便宜を図ることができる」

 自分の眉がぴくりと動いたのは、自分でも気付いていた。

「魔術師としての僕にもメリットがある、ってことか……聞いてたな、全部」
「さて、なんのことかな」

 ケインは残酷な笑みを引っ込め、意味ありげな微笑を漏らした。
 隠すつもりもないとぼけ方が癪だった。
 そう、ケインは話を――どこからかは分からないけれど――聞いていたに違いない。たった今思いついたにしては、手回しが早すぎる。途中からか最初からかは知らないけれど、きっと僕とジェファソンの口論を聞いていたのだ。そしてどこかの時点で、この二人の決闘を見てみたい、そんな風に思ったのだろう。
 はっきり言って、当事者からすれば迷惑極まりない。メリットを差し引いても余りあるくらいに。
 僕は戦闘というものが、死にたくないが故に、死ぬほど嫌いだから。
 怪我をしたくない。
 痛い思いをしたくない。
 死にたくない。
 そんな単純な思いだからこそ、強く忌避するのだ。

 ――まあ、おそらく負けないだろうから、ここは妥協しておくが。

「……次にこんなことやらせてみろ、縁を切るぞ。絶交だぞ。本気だぞ」
「分かっているとも。これっきりだ」

 ケインの頷きはとても軽い動作で、ちっとも約束を守るつもりには見えなかった。
 ややこしそうなことになってきたよ、全く。



[34048] 購入済みの喧嘩
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/15 20:04
 五階の決闘場は、かつてなんらかの大儀式に使われた大広間の成れの果てだ。
 なにを目的としていたのかは定かではない。ただ、この世界よりも高次元の存在を喚ぼうとしたのは確かだ。天使、神、そんな風に呼ばれる存在だったのかもしれない。
 いずれにせよ、真実は闇の中である。関わった全員が死んだからだ。
 ただし、中心人物の一人が自分の工房に走り書きを残していたので、ある程度の推測はできる。

 魔術的な選別を経て用意された10個の宝石。
 神秘を纏った純金を溶かして作られた22の装飾品。
 聖別された牛の血液。
 それらを用いて生命の樹を象った陣を形作り、然るべき時、然るべき場所で、然るべき言葉を用い、喚起する。
 その時、我々は根源への道を遍く開かれるだろう。

 この辺りで、走り書きの信ぴょう性はやや失われる。喚起は原則として自分よりも下位の存在を呼びつけるものだからだ。そして、この世界よりも下位にあるものが根源への道を開くとは思えない。加えて、下位の存在を喚ぶなら失敗する道理がない。
 まあ、全ては終わったことだ。どうでもいい。

 とにかく儀式は失敗に終わり、大広間の中には大量の血痕と、ある魔術師の被っていた帽子が血で赤く染まったもの、そして大きく破損した大広間だけが残っていた。
 時計塔のロードたちは、儀式の中核を担い当日も参加していた魔術師たちは、一人残らず、そして跡形もなくこの世から消滅した、と結論づけた。
 もしかするとそうではないのかもしれないが、少なくとも根源に至ったということはないだろう。警戒していた抑止力の現界も観測されず、しかもあからさまに物騒なことが起こった形跡が残っている以上、召喚か喚起かに失敗し、そして召喚儀式のセオリーに従って殺害されたというのが最も妥当な考え方なのだ。

 それ以来、この大広間はなんとなく使われなくなった。
 血痕は入念な調査とサンプル採取の後に綺麗に拭き取られ、帽子は暫くの間いじくり回された挙句、慎重に処理された。大広間の破損も全て修復された。ゆえに、使用に不都合な要素はなくなった。
 ただ、どこか不吉な雰囲気は拭いきれなかった。
 最高の栄光と願望の成就をもたらすと思われた儀式が、参加者皆殺しの殺戮に変貌してしまった現場ともなれば、別にゲンを担いでいなくとも気味が悪いというものだ。
 今から100年と少し前に、人目に付かない場所を選んで決闘をしたいと思った二人の馬鹿がこっそり大広間を使用するまでは、の話だが。
 その二人は散々に暴れ、最終的には相討ちに終わるという間抜けな終わり方をしたのだが、その決闘騒ぎを知った魔術師が何人かいた。
 元より魔術という神秘を扱う故に、迷信を鼻で笑う傾向は時に一般人よりも強い魔術師たちのこと、今までその空間を恐れていた自分が情けなくなりでもしたのだろう。それからここは決闘場として知られている。

 まあ、100年前といえば既に近代に入っている。その時には、決闘なんて古臭いことをする魔術師自体が減少していたので、決闘場として陽の目を見ることはほとんどなかった。思えば哀れな場所であり、因果を感じる。

で、なにゆえ僕はそんな辛気臭い場所で命の取り合いをする羽目に陥っておるのかというと、口車に乗せられたという表現が最適ではなかろうかと思ったり。

 前方には鼻息荒く張り切るジェファソン。
 僕とジェファソンの間にはケインが威厳たっぷりの立ち姿で佇んでいる。
 決闘の相手とその見届け人の構図である。
 やっぱり少し後悔してしまうのは仕方のないことだ。ノーベル化学賞取った人間に喧嘩しろなんて言うやつはそういないし、化学者の方も普通は受けて立たない。
 つまりは、わけが分からないよ、と。まあそういうことだ。
 わけが分かろうが分かるまいが、今更どうしようもないのだけれど。

「では、これより決闘を始める。相手を死に追いやる魔術行使はできる限り避けるように。いざとなれば私が割って入る。相手を戦闘不能にするか、負けを認めさせれば勝利だ。制限時間は特に設けないが、無策のまま一定時間逃げ回るのは戦いを放棄したものとみなすので、そのつもりでいるように。さて、なにか質問は?」
「はいはーい。僕は主要な装備を工房に置いてきてるんだけど、取りに行かせてほしいなぁ、とか思ったり……」
「却下だ。突発的な戦いという点ではジェファソンも同じなのだから」

 全然違う。
 きちんとした準備のない僕は、例えるなら素手の衛宮切嗣みたいなものだ。
 一般人よりは強いだろう。短時間なら逃げきる機転もあるだろう。だがそれだけだ。とても魔術師と正面切って戦えるような状態ではない。

「……あっそ。じゃあいいよ」

 それでも、ここで退くわけにはいかない。
 腹が立ったからでも、利益があるからでもない。ケインと馬鹿話できなくなるのは少し嫌というだけの理由。それでもまあ、原動力に足りないということはない。
 この一度だけ頑張ればいい。それでなにもかも解決する。細かいことはケインが手を回すことだろう。
 それに――勝算もないわけじゃない。
 魔術師としての地力、素材だけを比較すれば、僕だって捨てたものじゃないのだから。
 もちろん、僕だって戦闘は不得手だ。本分はあくまで研究者だし、封印指定の執行者みたいな恐ろしい仕事はケインに土下座されたって引き受けたくない。二回目の人生でも命は惜しいのだ。
 ただし、こいつと僕の間には、厳然たる年月の差がある。一族が積み重ねてきた歴史の重さの違いがある。
 小説やゲームなら血筋なんかものともせずに勝つ方法もあるだろう。実際、衛宮切嗣のような戦法ならその差を限りなく埋められるし、衛宮士郎のように長期間に渡って世界最高峰の宝具と触れる機会があればどうにでもなる。
 しかし、それはあくまで例外だ。
 近代兵器に頼らず、神話の宝具にも頼らず、ただ己の魔術を持って相対するならば、その結末を決めるのは、どこまでいっても血統だ。
 自分が11回の交配と改造の果てに生まれた存在であるからこそ、分かること。
 今はまだ見ていないけれど、いつか出てくるウェイバー・ベルベットのような考え方は、ケインの言うとおり、妄想の産物にすぎない。

 僕の家は権力の欠片も持っていない。今代までずっと、ルーンだけにしがみついてきた代償だ。
 ただ、それゆえに時計塔の魔術師の中では抜群に強い。
 より良いルーン魔術の運用、活用、応用、適用、etc――それらだけに11人の生涯を注ぎ込んだからこそ得られる、魔術刻印と共に継がれる経験の強さ。
 ウェイバーの理論にケインの魔術と魔力を足したのと同じようなもの。
 ならば、負ける要素はどこにもない。
 ――と、拠点防衛戦なら断言できただろう。
 まあ、おそらく負けはしないはずだけれど。
 胸の中心に刻まれた魔術刻印が、少し疼いた気がした。

「ジェファソンも質問はないようだな。では――準備ができたならば、所定の位置につけ」

 ジェファソンは無言で歩き出し、決闘場の東端に描かれた丸の中へと足を踏み入れる。
 その後ろ姿には戦意と、紛れもない自信が満ち満ちていて――やっぱり、少し面倒くさくなりそうだった。
 まあ、ぼやいても仕方がない――僕も指定された円に入り、身構える。

「準備はいいな。では――始めッ!」
「Awake(起動)」
「incipiunt.laguz,ansuz,gebō (起動。水の閃き、神の智、と結合せよ/を贈りたまえ)」

 ケインの声と同時に、ジェファソンの魔術回路が励起したのを感じ取る。
僕もまた、真っ先に演算能力を高めて臨機応変に対処するための準備をした。
 『慧眼』――それがこの魔術の名前だ。付けたのは僕だが。
 僕の手の内がルーン魔術だけであることは周知の事実だが、僕はジェファソンの使う魔術を知らない。最初から不利な材料を背負っているのだ。
 ゆえに、最初は少し様子見に徹して――

「げっ」

 ――そう思っていた時期が僕にもあった。
 僕の観察眼に晒されながら、ジェファソンが懐から取り出したのは、大量の――紙飛行機。
 何故に紙飛行機、という疑問を抱く暇などない。先端と翼に鉄の刃が付いているなら尚更だ。
 どうやって防御するのが最善か、必死で頭を回す。
 あれの正確な威力が分からない以上、できるだけ強力な防護手段を講じるのが一番賢いやり方だ。消耗品である血文字ルーン紙は使いたくないが、命と体は作り直せない。勿体無いという感情は脇に置く。
 空中に複数のルーン文字を書きながら、魔術回路に火をつける。
 と同時に、血文字ルーン紙を貼り付けたイチイの枝を前方に投げつけた。

「algiz,isa,gebō id est þurisaz!(護りのイチイ、停滞の氷、合わさればすなわち氷の巨人が護りし門なり!)」
「March!(進軍!)」

僕の魔術が発動し、イチイの枝を触媒として氷の防護壁が生まれる。
 ジェファソンの魔術が発動し、鋭い刃を携えた紙飛行機が一斉に飛来する。
 ほぼ同時だったそれを、飛来するまでの時間差で防ぎきることに成功した。

「ッ!」

 防護壁の生成が完了する直前、最初に辿りついた紙飛行機が僅かな隙間をすり抜け、僕の頬を掠めて背後へと飛んでいった。
 文字通りに薄皮一枚だけではあるものの、冷や汗をかくのは避けられない。
 さらに、傷口から魔術的な毒が感知された。

「sól(生命)」

 一工程(シングルアクション)のルーン魔術で生命力そのものを底上げし、毒の進行を妨げる。致死性の毒ではないし、体内に入り込んだ毒は極めて少量だ。さらに僕自身の対魔力の高さも考えれば、あと1時間は保つだろう。
 そして、ジェファソンが僕を侮ってはいても手を抜くつもりはないということも、これで分かった。
 実戦――予想に違わず、やはり嫌なものだ。
 
 しかし、詠唱の長さゆえに時間がかかる僕の防御が、まがりなりにも間に合ったのは僥倖と言ってよかった。
 ジェファソンも同じことを考えて出力を上げたのか、やや詠唱完了から発動までのラグが長かったこと。
 僕は最初に自らの強化を行なっていたことが影響し、ジェファソンより先んじて詠唱を始めることができたこと。
 ルーン魔術に特化している体のおかげで、詠唱終了後の魔術発動速度でこちらが上回ったこと。
 それら全ての要因に支えられて、紙飛行機を模した死の群れ、大量の鏃は一機を除いて僕の体に届くことなく、その直前で発生した氷の巨人を模した門に阻まれていた。
 まあ、自分の属性ではない水を使っての魔術行使でなければ、もう少し早く展開ができていたはずだ。そうだったなら、この擦り傷すら負うことはなく、悠々と防御できていたことだろう。
 ただ、水――というか氷を用いて防御しておいたほうが、後々で楽になる。この『氷巨人の門』は、僕が持つ魔術の中で、最も臨機応変に使える防御だ。
 門に抱きつくようにしてあらゆる侵入者を拒む、氷の巨人。二重詠唱の効果が顕著に現れた結果。
 しかし、かなりの過剰防衛だったらしい。紙飛行機の群れは、門どころか、氷の巨人の体表に亀裂を入れることすらできていないのだから。
 少なくとも、イチイを触媒に使ったり血文字を術式強化に使ったりする必要はなかった。それどころか、algiz(護りのイチイ)とisa(停滞の氷)のみの二工程(ダブルアクション)でも防ぎ切れた気がする。

「その程度か! 柔軟性に欠けるな!」

 声と共に、第二波が飛来する。今度は上下左右、そして背後から僕を包囲し、一斉に襲いかかってきた。
 自由自在な三次元軌道と、それら全ての統制を数百機同時にこなす演算能力。そして燃費の割には優れている殺傷力。成程、確かに実戦向きだ。
 ただし、少しばかり僕は甘く見られすぎているらしい。

「Vastitatem glacies,furens ventus,id est isa hagalaz!(砕けた氷、荒れ狂う風、すなわち雹にして氷の嵐!)」

 氷の巨人と門は一瞬で崩れ落ち、大小様々な氷の粒となる。
 それらはイチイの枝を中心に渦巻き、無数の雹からなる竜巻と化して僕を包んだ。
 これもまた、風属性の魔術行使であり、僕の持つ属性とは別の魔術。ルーン魔術でなければ使おうと考えることすら馬鹿馬鹿しい難度だ。
 最低でも握り拳くらいの大きさがある雹が、空を飛ぶ。それは人間の頭蓋骨を砕くことも可能な威力であり、所詮は紙にすぎないジェファソンの礼装が通過できる道理はない。瞬く間に紙クズとなり、地面に落ちていく。
 竜巻の隙間から見えるジェファソンの頬が、不快げに震えていた。

「……防御は中々だ。だが」
「oppugnare(攻撃)」

 雹が竜巻の形態を解き、投石ならぬ投氷としてジェファソンに襲いかかる。誰が悠長に話なんか聞くものか、馬鹿め。
 焦ったジェファソンの顔が見える。その口が何事かを呟くと、体がブレるほどの急加速で横っ飛びに5メートルは離れていた。おそらく身体強化と風魔術の併用だろう。ただし短時間しか使用できないらしい。
 もちろんこちらも、それを追って新たに雹を飛ばす。全てを一度に飛ばすわけもなく、ある程度の予備と余裕を残して攻撃しているのだ。人体を破壊するには3、4発もあれば十分なのだから。

 ここまでの戦闘推移で分かったことは3つ。
 1つ、ジェファソンは風の、もしくは風を得意とする魔術師である。
 2つ、風を使って直接的に攻撃するほどの力はない。
 3つ、強化と風魔術を併用して使えるくらいの器用さと熟練度はある。

 要するに、そこそこ攻撃と回避をこなしはするが決め手にかけ、防御手段は特になさそう、ということだ。なんかビーム出すとか、固有結界使うとか、礼拝堂を丸ごとスライスする風魔術が使えるとかではないなら、恐るるに足りない。
 ならば、自分の防御の準備を怠らずに絶えず攻め続ければいい。
 速く動けることと速く動き続けられることは別物。体にかかる負担の都合上、衛宮切嗣の固有時制御と同じく、あの回避行動も連続では行えないはずだ。その隙を狙い打てば勝てる……はず。多分。
 ただし、これしきで終わる相手を、「実戦においては降霊科きっての俊英」だなんてケインが評するはずもない。なにか、奥の手を隠していると考えるのが自然だ。ジェファソンの疲労を待つ持久戦を選択すれば、自然とそれは出てくるだろう。

「oppugnare(猛攻)」

そして、それを悠長に待つ理由はどこにもない。やや危険は伴うが、敵の準備が整わないうちに短期決戦に持ち込み、一気に勝負を決めさせてもらおう。
 残りの雹を一斉に放って若干の時間を稼ぎつつ、同じ文字が書かれた血文字ルーン紙を目の前の床に複数枚貼り付け、1つのルーン文字を象る。
 それは、Uを上下逆に反転したようなルーン文字。

「Cogito ergo est.cognocse te ipsum et seqere sum(我思う故に汝はあり。汝自らを知れ、そして我に従え)」

 大理石の床が盛り上がり、ある存在を形作っていく。
 それは、大理石の色で全身を彩る力強い動物のゴーレム――のようななにか。
 言葉で定義するのは難しいので、取り敢えずは写し身とでも名付けている。
 サーヴァントが座についた英霊のコピー、肖像画にも近しい存在であるように。
 これもまた、ルーン文字そのものが持つ本質を、この世の物に置き換えて敢えて表現しただけの、いってしまえば紛い物にすぎない存在だ。
 ただし、戦闘力は馬鹿にできないが。

「ūruz est.ūruz est.ūruz est.id est ūruz est,Aldebaran!(汝は勇気の雄牛。汝は突き進む野牛。汝は誉れある聖牛。すなわち、汝は勇敢なる猛牛、アルデバラン!)」

 詠唱の終了と同時に多量の魔力が僕の体から失われ、魔術が完成する。
 隆起した大理石は床から独立し、いまや一匹の野牛となって顕現していた。
 大理石の艶やかな体表、1メートルはある鋭い2つの角。そして実際の野牛よりも2回りほど大きいその巨体。自作ながら、とんでもない威圧感を放っている。主に大きさ的な意味で。
 僕命名――『アルデバラン』。
 別に牡牛座とは何一つ関係ない上に、そもそもアルデバランという言葉が牛と一切関係ない。あやかって付けただけの名前だ。もちろん、某聖なる金色の闘士に。
 アルデバランは――呼吸をする必要はないし、窒息という弱点は存在しないが、雄牛という属性の特性上――鼻息も荒く、前足の蹄で床を踏み鳴らし、光のない瞳で目の前の魔術師――ジェファソンを見つめる。
 柱の陰に隠れて雹の一斉投擲を凌いだジェファソンは、こっそり詠唱を済ませて反撃に移ろうと目論んだ、正にその瞬間を切り取ったかのように静止していた。
 顔が驚きと恐怖に歪み、指先がぴくぴくと小刻みに痙攣する。
 まあ、取りあえず一発かましておこう。

「oppugnare(攻撃)」
「ッ――!」

 ジェファソンがなんと言ったのかは、蹄が床を蹴る音にかき消されて聞こえなかった。
 ただ、足元に散らばっていた紙飛行機の残骸が一斉に舞い上がり、僕の視界を遮った。
 成程、これが奥の手か。人間相手には十分に有効だ。
 呼吸を止めるには4センチ四方の紙があれば十分だし、目を塞ぐには2センチ四方の紙があればいい。

 ただし、僕はそれを意に介さず、空中にルーンを書く。

「kaun(炎よ)」

 空中に書かれたルーンから、火炎放射のように大量の火の粉が吹き出し、舞い散る紙クズを焼き尽くす。
 全てが灰になるまでは瞬きほどの時間しか要しなかった。
 視界が開けた瞬間に見えたのは、今にもジェファソンに接触しようとしている雄牛。

「subsisto(停止)」

 命令を受けて牛が止まる。
 そこはまさしくジェファソンの目と鼻の先だ。
 ジェファソンは肩で息をしながら、縋るように僕を見た。
 ここで魔術による反撃を行おうにも、次の瞬間串刺しにされるのは目に見えている。彼我の距離、障害物の有無、地形条件、全てを考慮したとしても既に手遅れだ。
 さらにいうならば、なんらかの反撃を行う時間があったとしても、一足飛びに僕を攻撃することはできない。魔術といえど、距離を超越した攻撃は不可能。そしてアルデバランは頑丈さと力強さに優れた写し身であり、ジェファソンに行使できる程度の風魔術で一撃の下に破壊するのは無理だ。
 要するに、ジェファソンはもう詰んでいるのである。少なくとも、これが命を懸けた闘争ではなく、ただの決闘である以上は。
 さて、ここが分かれ目だ。

「降参する?」
「……く、ぐ……」

 躊躇った末、ジェファソンは――首を横に振った。
 額に汗を浮かべながら、足をガクガクと震わせながら、それでも踏みとどまるその姿勢は素晴らしい。
 その勇気に、心の底から拍手を贈ろう。
 そして死ね。

「oppugnare(攻撃)」

 僕の命令を受けた猛牛(アルデバラン)は、勢い良くジェファソンへと迫り、その角で今度こそジェファソンを刺し貫かんと――

「そこまでッ!」

 したところでケインの一声。予想通りの展開だ。
 心の準備もできていたので、余裕を持って魔術行使を中止する。
 雄牛は魔術による擬似生命を失い、ただの彫像となって動かなくなった。
 もちろん、それまでの推進力が消えてなくなるわけではない。地を蹴った状態で突如として動かぬ大理石の塊となった雄牛は、自らの駆動の名残に耐えかねて粉々に砕け散り、床に四散する。
 僕は息を大きく吸ってからまた吐き、ケインに手を振る。

「判定は?」
「……言うまでもなかろう。君の勝ちだ、ベン。――ジェイムズにも異論はあるまい」

 ケインが視線を向けると、ジェファソンは緊張の糸が切れたのか、へなへなとへたり込んでしまった。
 千の言葉よりも雄弁な意思表示だ。
 しかし、あの紙飛行機は悪くない。刃というわかり易い脅威に気を向けさせておいて、その後にちぎれた紙そのものが襲いかかってくる二段構え。もっと熟練していれば、さらに面白い使い方ができたことだろう。
 まあ、見ることなく終わって良かったと思っておくべきではある。実際、そう思っているし。

「では、行こうか」
「待てよ、こっちは疲れてるんだぞ、ったく……」

 歩き出したケインを追って、僕もその場を後にする。
 魂が抜けたようなジェファソンが、その場に置き去りにされたことにもなにも言わず、ただじっと僕を見ていた。

 ――闇討ちされないように気を付けよう。
 実は無理をしていた魔術回路が熱く痛むのを感じ取りながら、これからのことがさらに心配になった。



[34048] 幕間・基本的行動パターン
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:c5ca8ad4
Date: 2012/08/20 18:30
 僕は時計塔で働く人間だ。つまり、給料を魔術協会から貰って日々を食いつないでいるわけである。
 まあ、実際のところ、現金収入は微々たるものでしかない。雀の涙ほどの現金で、その月を生きていくので精一杯だ。
 その代わり、魔術実験の際に必要な材料やら道具やら場所やらを提供してくれるのは、ここ時計塔――魔術協会くらいである。だからこそ、こうしてショボイ給料で扱き使われてやっている。
 なにが言いたいのかというと――結局のところ、僕と時計塔は正規の雇用契約を結んでおり、仕事という現実からは逃げられない、そういうことだ。

 だから、僕はクソガキ共相手に、下らない授業をすることを強いられている。
 それも、貴重な休憩時間や大切な研究時間を削いで、だ。

「……すなわち、この時に用いられるルーンは既存のそれと異なる意味を持ちます。解釈も意味も同じままで」

 僕の言葉を、必死の形相で書き取る大多数の生徒たち。
 僕は板書を好まない。なぜなら面倒だから。
 基本的に口述なので、生徒が頑張らないと勉強できない――というか進級できないシステムだ。まあ、時計塔に来ている以上はそれくらいのこと、こなしてくれないと困る。
 僕の授業は、テスト6割、平常点4割。合格点は総合で6割だ。だから、ちゃんと授業に出てテストをそこそこ取っていれば、落ちるはずはない。
 その程度の努力もできない奴に単位をやるのは、授業という強制労働をさせられている僕からすれば、考えられない。
 生徒諸君にもそれなりに苦しんでもらわなければ、不公平というものだ。
 そのせいで僕の授業は超スパルタのハズレ授業として知られているらしいが、んなもん僕の知ったことではない。生徒が落ちようと、進級できようと、僕の給料と日常生活にはなんら支障がないのだから。
 だから、授業態度も別に気にしない。僕に関係ないからだ。

 だが前から三列目、右から四番目の茶髪。授業開始十分後に寝るな。僕だって自室で寝てたいんだぞ。嫌味か、嫌味なのか。
 それに前から五列目、右から七番目の赤髪。ルーン魔術の授業で鉱石学科の宿題の内職なんぞするな。なんか腹立つから。
 そして最後尾の男女四人組。甲高い声でベラベラ喚くな。耳障りで、さらにいうならば不愉快なことこの上ない。

 口には出さないけれども、腹の中に溜め込んで後に吐き出すのが僕の日課になりつつあった。人生花の20代にこんなことしなくちゃならないなんて、嘆かわしいことだ。
 ――まあ、3ヶ月前の誕生日になったばっかりだが。
 この調子だと、親友ケイン君のように額から砂漠化が進んで行きそうで恐ろしい。主にストレスが原因で。
 ケインのあれは、うん、遺伝だ。父親の写真、つまり現当主の写真を見たが、まだ43歳だというのに、見事に禿げ上がっていた。太陽拳とか使えそうな見事さで。

「ルーン占いをする時、ルーンはその意味を寸分たりとも変化させないこと、それは前述したと思います。それを踏まえて、ここで、敢えて“異なる”という表現を用いたのは――つまり、占いはルーン文字の持つ意味、そのものをただ知識として告げているだけだ、ということを言いたかったからです。
 þurisazという言葉が氷の巨人、普通の巨人、刺、門などを意味することを皆さんは既に知っているはずですが、占いでこのルーンを引き当てた場合、それは巨人や門、刺が持つ本来の意味、なにかを阻むという要素が運命に投げかけられていることを意味しています。未来を占った時にþurisazが出たならば、氷の巨人が操る吹雪、固く閉ざされた門、茨に彩られた道などを想像できます。ですが、戦闘の意図を持ってþurisazを唱えた場合、氷の巨人、門、刺……それらの本質をこの世に写し取ることができます。本当に門や刺を表出させる術師もいれば、そこに込められた妨害の意図だけを現出させ、利用する者もいるでしょう。これは召喚にも近しい行為です。占いがルーンを絵に描く、または詳細に描写する行為であるとすれば、ルーン魔術の行使そのものはルーンを召喚することだと言っても過言ではありません。ルーン魔術が魔術師にとっての教科書にも近しい存在として知られ、今もなお毎年のように新たなルーン文字が登録され、それなのにルーン魔術の使い手が大成しない理由は、単純でありながらも深淵な、実によくできたシステム構造にあるわけです。
 様々な魔術と共通項を持ち、ルーン魔術そのものも非常に広範に応用が利き、そして歴史的に見ても大きな意味を持つルーン魔術は、まさしく魔術の教本、根本に近いものと呼んでも差し支えないものでしょう。ですが、あまりにも応用が利きすぎるために極めることは難しく、ルーン魔術単体で戦闘やその他の実験を行うことのできる魔術師は――あー、まあ、非常に少数であると言えるでしょう。いないわけではありませんが」

 諸々の下らない思考をおくびにも出さず、淡々と授業を続けていく。
 僕は大抵の場合において、ルーン魔術だけで実験も戦闘もこなしているので、その少数派に属しているわけだ。自画自賛みたいで恥ずかしいが、紛れもない事実である。
 ただ、僕はゲルマンルーンしか使わない魔術師だ。つまり、ルーン魔術という大木の幹から11代に渡って離れず、枝の先にある花や実には見向きもしなかった連中、偏屈で頑固な一族の次期当主だ。ゆえに、この説明はあまり当てはまらない。
 ――北欧神話における最高神オーディンは、ルーンの秘密を知るために世界樹ユグドラシルへと赴き、自らを大神宣言(グングニル)で貫いたまま、9日9晩に渡って首を吊り続け、自分という存在を知恵の神にして最高神たるオーディン、すなわち自分自身に捧げ続けたという。
 全てをルーンに捧げ続けたバンクス家と、やたらと符合する記述。最初に聞いた時は、なんともいえない気持ちになったのを覚えている。
 まあ、ここでいう“ルーン魔術という大木”云々は言葉の彩に過ぎないけれども。

「硬化のルーン、幻覚のルーン、強化のルーンなどは主に実戦で使われ、また魔術師の間でも流行りの新種です。これらは、いわばルーン魔術という大木から伸びた枝葉末節。故に行使する際の燃費は非常に良いものです。新しい魔術は――少なくとも、ルーン魔術においては――大抵の場合において汎用性が高まる傾向にあります。
 しかし、古代より受け継がれてきた大元のルーン文字から離れてしまっているため、その神秘は弱体化してしまっていることも事実です。だからこそ、この授業で神秘の強い魔術を、ルーン文字の原型に近いものを学んで帰って欲しい――これも以前に言いましたね。
 ああ、今日の授業はここまで。きちんと聞いていたのかどうか、試させてもらいます。いつもの通り、テストを行います」

 ざわざわと幾らかの話し声が響き、十数秒ほどで収まる。
 同時に、ほとんどの生徒が食い入るように自分の、もしくは誰かのノートを食い入るように見つめ出した。
 授業の復習で見ているなら全然構わないのだが、一夜漬けならぬ一瞬漬けでどうにかしようという不届き者も多いようだ。
 まあ、好きにすればいい。その程度で良い点が取れるほど甘いテストではない。

「ミス・カウフマン」
「はい」

 僕の呼びかけに応じて補助講師の女性、アンネ・カウフマンがプリントを教卓の上に置く。いわゆる、小テストである。範囲は、たった今まで行なっていた授業の内容についてだ。
 授業を聞いていなかった連中は、ここで天の裁きを受けるのだ。
 そもそも平常点を4割も加味しているのに、なぜ落第するのか。答えは簡単、普段から頑張っていないからだ。
 こと研究的な魔術師に関して言うならば、一発勝負にだけ強いなんて話にならない。コンスタントに実力を発揮し、弛まぬ修練を積み、努力を怠らない者が魔術師という選民になる資格を持って然るべき。
 ――という建前で小テストを実施しているが、本当のところは少し違う。

「ミス・カウフマン、監視と回収、よろしくお願いします。直前の勉強時間は、いつもどおり3分で。答案は講師室の僕の机に」
「任せて下さい。では」

 後は任せて、僕は教室を出た。
 そう。小テストを利用すれば、本来の授業時間よりも10分短く仕事を終えることができるのだ。
 その時間を利用して、ゆったり紅茶を嗜んだり次の教室へ悠々と移動したりするわけである。完璧、まさに完璧だ。
 我ながら狡い気がしないではないけれども、まあ些事にすぎない。

 時間は3時の10分前。つまりは3限目が終わる10分前だ。
 今日――水曜日の場合、これが最後の授業なので、食堂が混み合う前にスコーンを購入し、外の木陰に設えた木のテーブルと椅子を使って優雅にアフタヌーンティーと洒落込むことにしている。

 ここ、ルーン科の授業は基本的に2階か3階で行われる。ルーン科の授業を受けるのは大半が新入生であり、あまり上層や下層に行かせるのは好ましくないからだ。
 時計塔の流儀や慣習に疎い新入生であれば、たかだか迷子とはいえども命の危険を伴うのだから。
 新入生諸君が、時計塔と書いて魔窟と読むことを理解するのに必要な期間は、平均すれば約2ヶ月。
 それまでの間、できるだけ死なないように、こちらも配慮しているというわけである。

 そんなわけで教室からすぐの所にある食堂に入る。

「あら、ベン」
「こんにちは、エリザベス」

 顔馴染みとなりつつある中年女性、エリザベスがこちらを見、笑顔を向けてきた。こちらも笑い返し、互いに挨拶を交わす。
 エリザベスは今年で45歳、いわゆる食堂のおばちゃんポジションである。決して美人ではないが、エネルギッシュな上に面倒見もよく、多くの人から慕われている。

 ただ、多くの人、の8割は普通の魔術師ではない。清掃夫などの職員、つまり魔術の使えない一般人であったり、僕のように一般人の間に垣根を作ろうとはしない、変わり種の魔術師であったりする。
 大概の魔術師は、食堂で働く一介の凡俗になど興味は示さないし――いやむしろ、馴れ馴れしい相手には無礼討ちも辞さない。ジョークにすればウケが狙えるかもしれないが、これは前例があるだけに笑えない。
 まったくもって、時代錯誤な貴族趣味の多い場所である。

 ちなみにエリザベスは不妊症であり、子供がいない。旦那さんとも既に死別しているそうだ。そのためか、時計塔の学生にやたら優しい。なぜか僕にも優しい。
 まだ僕は20歳で、他の学生とさして変わらない。年頃的に、息子のように思われているのかもしれない。

「いつものスコーン頼むよ。今日も紅茶は自前だから」
「分かったわ。でも……ベン。貴方、また授業を早退したのね? 最年少講師の名が泣くわよ」
「より正確に言うと、20世紀に入ってからのルーン科で最年少、だよ。19歳で正式な講師に任命されたのは17世紀以来らしいけど、まあ知ったこっちゃない。なにせ身近に馬鹿みたいな天才殿がいらっしゃるものだから、コンプレックスが毎晩疼いて仕方ない」
「口が減らないわね。コンプレックスなんて殊勝なもの、フォークより重たい物を持てないベンが持てるわけないのに」

 なんとなく、そこで会話が途切れて、それから2人してクスクスと笑い出す。
 こんなやり取りも、いつものこと。
 ケインの他にこんな会話をできる相手は、エリザベスくらいだ。それはエリザベスにとっても同じらしい。
 エリザベス曰く、

 ――ここのカボチャ頭は、ユーモアや気品を心得ずにロンドンに来た田舎者ばっかり!

 だ、そうだ。
 僕も、それほどユーモアを心得ているわけではない――しかしまあ、気軽な会話もできないくらいに選民思想でガチガチになった魔術師の相手ばかりしていれば、エリザベスにもストレスが貯まるのだろう。
 僕は貴重な話し相手、というわけだ。

「ほら、早いとこオーダーを伝えてくれないかな。早く来た意味がなくなる」
「はいはーい。厨房! ミスタ・バンクスとミスタ・アーチボルトのスコーン!」
「ちょっと待ったぁ!」

 僕の大声に、エリザベスはきょとんとした様子でこちらを見る。まるで、僕がなんの脈絡もなく叫んだかのようだ。
 だが、先程のエリザベスは明らかにおかしかった。明らかにだ。
 なにをトチ狂っているのだろうか。どこをどう見ても、ここには僕しかいないというのに。

「あのさ、僕はここに一人で来たつもりだったんだけど……」
「どうせ、ミスタ・アーチボルトの分も持っていくんでしょう? 早く持っていかないと怒られるわよ」
「む……僕とあいつは友達だけど、いつも一緒にいるわけじゃないさ。そんなんじゃ恋人もできやしない」
「いつも一緒じゃないの。恋人なんか作る気もなさそうなくらいにね。私がもう20歳若かったら、それでも狙いにいったでしょうけど……最近の娘たちには、どうも気合が足りないみたいね。貴方、それなりに人気はあるのに、誰からもアプローチ受けないでしょう? そういうことに興味がないと思われてるのもあるのよ?」
「な、なんだって? そりゃないよ……」

 またも聞き捨てならない発言が飛び出した。
 僕には意外と人気があったらしい。それなのに恋人ができないのは、もしかしてケインと一緒にいるからなのか。そうなのか。
 女の子からすれば、間に自分の入る余地がないくらい仲良しに見えるのか。そうかそうか。
 泣いていいだろうか。

「エリザベス。僕だって好きで恋人を作らないわけじゃあ」
「あら、スコーン焼けたわよ。はい」
「ああ、ありがとう。――じゃなくて! 僕は普通に女の子と仲良くしたいんだよ! あとケインの分はいらないって言っただろ!」
「分かった分かった。ほら、早く! 怒られるのは私たちなのよ? あまり悪い影響を与えるのは好ましくない、過度な付き合いは慎んでくれたまえ、なんて感じでね」

 え――なんだ、それは。
 ケインが嫉妬に駆られて、わざわざ食堂の職員に警告を飛ばしにいくということか。
 それって、まるでホモのヤンデレ野郎みたいじゃあないか。
 割と本気で引いた。

「ま、冗談だけどね」
「……エリザベス……」

 もうここ嫌だ。
 声に滲みでそうな疲れを必死で抑えながら、僕は背を向けて歩き出そうと――

「あ……待って!」

 そこに、エリザベスの悲痛な声が聞こえた。
 その声に、僕は思わず立ち止まる。
 なんだ、なにを言うつもりだ。言いすぎた、そう思ったのか。まあ、素直に謝るなら許してあげるのも吝かじゃあない。
 当のエリザベス、時計塔の数少ない常識人は、とても困った顔でこちらを見ながら、僕に手を差し出して、こう言った。

「スコーン2つ、講師割引も込みで6ポンドになります」
「……ああ、そう」

 やはり、時計塔にロクな人間はいなかった。





◆◇◆◇





「……やっぱり多いな」

 紅茶を飲みながらスコーンに齧り付く。
 やはり、午後のおやつにスコーン2個は多い。1個で十分だ。
 そして、僕はプレーンよりもフルーツ入りの方がいい。
 フォートナム&メイソンのアフタヌーン・ティーは、いつものように素晴らしい味わいで安心した。

 しかし、なぜこうもケインの影がチラつくのか。
 僕の私生活とケインのそれは完全に別個のものであり、別に僕を殴ったり、引き止めたりしたからといって、ケインがどうこうするわけでは――いや、するな。間違いなくする。
 ただ、それを差し引いても、ベンジャミン・バンクスという個人を見てくれている人は少ない気がする。
 ケイネス・アーチボルトの側近……いや、そんなものではない。もっとプライベートなものだということは、既に周囲に認知されている。
 前のジェファソンの一件から、それに堂々と文句をつけてくる馬鹿もいなくなった。全滅したのか、それとも激減したのかは、もう少ししてみないと分からないが。

 しかし、なんとも奇妙な話だ。
 ケイネス・アーチボルトの友人であるベンジャミン・バンクスを認知しているやつは大勢いるだろう。
 だが、ベンジャミン・バンクスの友人であるケイネス・アーチボルトという認識を持っている人間は皆無に等しい。多分、だが。

 それこそが、アーチボルト家の業でもある。
 というよりは、有力な家――ロードの嫡子として生まれた瞬間から不可避のものとして決定された運命、と言うべきか。

 そして、その嫡子の私的な友人であるからこそ、僕の一挙手一投足、僕に対する全ての行動は、時計塔の趨勢に大きく影響しうる。ならば、気にするなという方が無理な話だ。
 エリザベスの発現は半分以上がネタではあるが、一分どころか二割くらいの真実を含んでいるのだ。
 だから、僕がなにかすると、もしくは、僕になにかしたいと思った時、大抵の人間はこう思う。

 ああ、これについてケイネス・アーチボルトはどう思うだろうか。
 ベンジャミン・バンクスにこんな干渉をした場合、ケイネス・アーチボルトはどう思うだろうか。

 つまるところ、僕はケインの影から逃れられないのだろう。
 僕の全てを通して、彼らはアーチボルトを見る。
 それで僕のプライバシーやプライドは侵害されているのだから、傍迷惑な話だ。

「有名税……とは、ちょっと違うか」

 どちらかというと、ケインの有名税が僕からも徴収されているという理不尽な状況である気がする。
 アーチボルト家の嫡男というのは、どうも垂涎の課税対象であるようだ。

 調律された政争。
 調和を保つ派閥。
 そこには、友情すらも計算材料として含まれている。なんとも、やりきれない。

「やなとこだよ、ほんと……」

 ずるずると茶を啜りながら呟いた。
 僕の毎日は、大体こんな感じである。







お久しぶりです深海魚です。
ちいと潮流に乗るための免許とってきました。
長々と間を開けておいてなんですが、来週からまた、ちょっくら深海に里帰りしてきます。1週間くらい。
ではでは。



[34048] 予期せぬ襲来の予期(9/5加筆)
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:bb5474a8
Date: 2012/09/05 20:29
「お次はなにを?」
「んー……ロンドンポーター」
「スコッチ。グレンファークラスを」

 注文を聞いたマスターが、酒瓶の並んだ棚に向き直った。
 パブ『Albion』。ラテン語の『白い国』を語源とする、ブリテン島の古名だ。
 このパブは魔術の存在を知っている、数少ない魔術師御用達のパブである。原則として魔術の話を大っぴらにするのは遠慮するという暗黙の了解がなりたってはいるが、もし酒に酔って魔術の話をしてしまっても、マスターに暗示をかける手間が省ける。
 店内にはビル・エヴァンスの静かなピアノが流れている。マスターの趣味らしい。ちなみに昨晩はジョン・テイラーだった。二週間前はハンク・モブレーの陽気なメロディ。趣味の幅が広いんだか狭いんだか。
 僕はというと、静かなジャズ音楽は嫌いじゃない。ロックなんかはどうも肌に合わない。あとなぜかビートルズは気に食わない。知り合いの魔術師連中にもビートルズファンは多いのだが、僕はなんとなく好きになれないのだ。アビーロードも通ったことがあるだけで、特に思い入れはない。
 その点、ビル・エヴァンスは素晴らしい。最近のお気に入りだ。ポップスやらロックやら聞く連中は、物が分からなくて困る。

「『Walts for Debby』は名曲ですねえ」
「同感だ。これは『Autumn leaves』だがな」
「……」

 前言撤回。僕も分かっちゃいないようだ。
 甘みのあるエールを胃の底へと流し込み、一息ついて話を元に戻す。

「で、新入り……でしたか。この時期に?」
「おう。珍しいことではあるが、確かな話だ」

 スコッチが並々と注がれたグラスを傾けながら、導師は不快げに鼻を鳴らした。
 導師というのは、ルーン科の主任講師、アルバート・キャクストンのことだ。枯れかけの立ち木みたいに貧相な体の割に、中身は怒りっぽく、自分の理念から曲がったことが大嫌い。遠慮なく言うならば――自己中心的で頑固極まりないご老体だ。
 おまけに無類の酒好き。今も、もう60歳を超えているというのに、酩酊寸前まで飲んでふらついている。
 ただ、腕前は確かであり、しかも実力による叩き上げで主任講師まで上り詰めただけあって、僕のことをきちんと認め、また評価してくれる数少ない人物である。
 ケインと知り合う前からの、時計塔における最初にして最後の師――かけがえのない恩師だ。

「極東の成金、|薄汚い黄色猿(イエローモンキー)風情めが。尊き魔術の秘奥を、よりにもよって時計塔で学ぼうなどと……思い上がりおって」
「由緒正しきイギリス紳士が、そんな汚い言葉を使うのもどうかと思いますけど」
「ハン! かつての栄光もどこへやら……大戦が終わってから、吐き気がするような人権論とやらをどいつもこいつも唱える……生温いことだ」
「ま、周りのことも、ちょっとは気にかけてくださいよ……」
「やかましい! 他人の耳が怖くて、戦争ができるかッ!」

 導師はグラスの酒を一気に飲み干し、新たに注ぐ。
 もうボトル1本、自分だけで開けてしまっている。まったくもって恐ろしい爺さんだ。
 とはいえ、言葉が色んな意味で危なっかしくなってきてはいるが。

 まあ、この人の暴言は人種差別というより、戦争アレルギーというか、戦争のトラウマというか、そういった精神的な要素が大きい。だから、周囲の人間も、僕も、困った顔で注意するくらいに留めるのだ。
 導師は若い頃――というか、今も――愛国心旺盛な根っからの愛国主義者であり、第二次世界大戦に兵士として赴き、生きて帰ってきた人だ。
 世界大戦が巻き起こった時、何名かの魔術師が自分の国を守り、あるいは敵国を打ち破るために兵士として参加することがあった。
 そんな魔術師を駆逐するために、魔術協会も苦心していたらしい。なにせ祖国を守るためという大義名分でもって、敵兵を魔術で燃やしたり、氷漬けにしたり、あるいは魔術毒を巻いたりと、秘匿を鼻で笑うような行為を平気でやる馬鹿が大勢いたのだから。そしてそういう魔術師は――いやさ、魔術使いと呼ぶべきか――なまじ数が多いだけに、完全に秘匿することは不可能に近い。
 導師の仕事は、そんな馬鹿を秘密裏に処理し、尚且つロンドンの時計塔に被害が出ないよう、こっそり連合側に協力することだった。
 ただし、導師は元から熱心な愛国主義者である。魔術協会に所属している手前、戦争に繰り出すようなことはしていなかったが、この任務は渡りに船だったというわけだ。そして熱心にやり遂げた。

 それから導師には、ドイツ人や日本人、イタリア人を色眼鏡で見る癖がある。初めて出会った5年前からも、ずっと変わっていない。
 ドイツ人を見てはナチ呼ばわりし、日本人を見ては手先の猿扱いし、イタリア人を見てはファシストだと決め付ける。
 ここだけの話、戦争のストレスで頭をやられてしまったのかもしれないという意見が、時計塔はルーン科学部の中では有力視されているくらいだ。
 それを補って余りあるほどに優秀だから、扱いにも困り果てているらしいのだが。
 昔、現役バリバリの頃は、封印指定の執行者やら死徒狩りやら、戦争の陰で暗躍する魔術師の駆逐やら、嬉々としてやっていたという話だし。
 拠点防衛に特化していた僕が、曲がりなりにも屋外戦闘をこなせるようになったのも、この人の御蔭だ。
 フラガ家の男女(おとこおんな)もびっくりなレベルで屋外戦闘をこなす還暦越えの老人――なにそれこわい。

「こんなことで、時計塔を、我らが大英帝国を守れるものか……ナチの味方をした連中だぞ……ファシストの手先……ブリテンの土を、踏ませるな……」

 段々とふらつき始めている。案の定、飲みすぎだ。
 どれだけ酔っても暴れはしないのが、この人の美点だ。これで酒癖も悪かったら、流石の僕でも縁を切っていたかもしれない。
 ――そもそも、飲みすぎて暴言を吐く時点で美点もクソもないといえば、そうだけれども。

「飲みすぎですよ」
「誰が……この程度で」

 そう言ったっきり、導師は黙り込んだ。
 機嫌を損ねないように黙って飲んでいると、数分後には規則正しい呼吸音が。これが寝息であることは疑いようもなく明らかだ。
 やれやれ。この老体を担いで帰るのが、誰の仕事だと思ってるんだか。おまけに折角の酒も飲みかけだ。まあ、これも弟子の務めではあるから仕方ない。
 導師を背負うと、見かけは細く小さい割りに、そこそこ人体の重みを感じる。頭脳労働の専門家には辛い労働である。


「マスター。金、ここに置いとくよ。おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」

 導師の暴言を聞かなかったことにしてくれるのも、ここくらいだ。まったく、頭が上がらない。
 マスターに別れを告げ、机の上に紙幣を置き、背中の重みに唸りながら扉を開けた。
 冷たい風が、酒で火照った頬をぴしゃりと叩く。
 もう春だというのに、この小さい島は寒さが消えない。
 個人的には、導師のいう“ちっぽけな猿の国”の方が気温的な意味で住みやすそうだと思うこともある。
 前世の故郷もあのあたりだ。いつか行ってみてもいいかもしれない。
 特大の厄介事が無事に終了すれば、の話だが。

 しかし、やはり重い。何度でも愚痴りたくなるくらい、重い。
 枯れ木のような老人とはいえ、肉体労働とは無縁な魔術師には重荷だ。
 強化の魔術を使えないわけではないが、満足な肉体の強化ができるほどには熟達していない。筋力を必要なだけ強化するなんて、僕には無理な芸当だ。
 かといって、ゲルマンルーンに肉体強化を可能とするものは存在しない。
 移動のルーンなら存在するが、そんなものを使えば一般人に見られた時の言い訳がきかない。
 結局、汗かいて運ばなければならないのである。

「……むぅ」

 導師が唸る。
 寒風の刺激で少しは酔いが覚めてくれたのか、頭を緩やかに振りながら、やたらと瞬きをしている。
 まだ自分だけで歩くことはできないだろうから、背負ったままであることには変わりないが。

「導師。家までお送りしますから、ちゃんと開けてくださいね」
「……ああぁー……アンナ?」

 だめだこの導師、早くなんとかしないと。

「奥方と弟子を間違えるようじゃあ、主任は務まりませんよ。そろそろ引退を考えたほうがいいのでは?」
「やかましい……猿が喚くな」

 今度は猿ときた。なんて憎たらしいジイさんだろう。
 早いとこおさらばしたい。導師の家はそろそろか――

「――サカ、たかだか5代の小童め……」
「は?」

 なんだ。
 今、導師はなんと言った。
 とんでもない名前が飛び出したような気がする。
 我が耳を疑いつつ、素早く脳裏で計算を始めた。
 いまは聖杯戦争の七年前で、原作時の推定年齢は二十代後半。となれば二十代前半か。
 遠坂の四代目当主が逝去、引退したという話は聞いていないから、息子はまだ自由に動けるだろう。
 そして、全ての魔術師にとって魔術協会との綿密なつながりは必要不可欠なものだ。次期当主が単身、はるばる英国は時計塔まで留学に来てもおかしくはない。

 ――つまり、ありうる。十分にありうる。

 その結論が脳内で叩き出された瞬間、僕の額を一筋の汗が伝う。

「導師。今、なんと?」

 心臓が大きく跳ねるのを努めて落ち着かせ、できる限り平坦な、なんでもないと思っているかのような口調で、問うた。
 冷や汗をかいていることまでは流石に隠しきれなかったが、泥酔している導師には気付かれなかったらしく、それどころか問いの意味を理解する余裕すらないのか、頭をひねっている。

「む……あ?」
「導師。しっかりしてください。大事なことです。日本からやってくる新入りの名前は、なんというのですか?」

 先よりも少し強い語気で問い直す。
 所詮は酔っ払いの言葉、明日にでも聞き直せばいいし、別の知人に聞いてもいい。だが、この場でどうしても確かめておきたい事柄だった。
 それだけの重要事項なのだ。
 もしも件の新入りとやらが、僕のよく知る人物であるならば。
 僕は、事と次第によると――殺人という罪を犯さねばならないのだから。

「あぁー……ああ、新入り?」

 導師は苦しそうに頭を振りながら、先程よりもはっきりとした声で、こう言った。

「トーサァカとかいう、山猿のことか」

 予想通りの答えに、自分でも分かるほど明確に、血の気が引いた。





 導師を家まで送り届け、僕は工房に戻った。
 固く閉ざされた扉の前で、鍵を呟く。

「Seneca」

 扉が青く発光し、魔術錠と結界の全てが解除される。
 入ると、見慣れた部屋が僕を出迎えた。

 アンティークの木製家具。
 柔らかな白熱灯。
 机の上では黒猫、キケローが丸まって眠り、玄関から少し進んだところにある止まり木で、忠実な使い魔である鷹、セネカが僕の帰りを待っていた。

 僕のためだけに作られたかのような空間。しかし、それに酔い痴れる暇はない。
 鉱石学科の人間は既に眠っている。というより、そもそも知り合いが二人しかいない。その二人とも、いまは国外だ。遠坂についての真偽を確かめるのは翌朝に持ち越すしかない。
 ならば、いま可能な最善の行動はわかりきっている。
 なにかというと、占いである。
 時計塔、鉱石学科の受付は既に営業時間外。
 しかし叩き起して聞くには動機が薄い。僕が遠坂との接触を目論んでいるといった類の話が流布すれば、アーチボルトが遠坂を自陣営に吸収しようとしている、そう取られかねない。

 机の引き出しを開け、中から袋を取り出す。袋を持ち上げると、大量の小さな石が擦れ合う音が聞こえた。
 カードを使ってタロット占いのような形式にしてもいいが、あれは準備に手間がかかる。それに、僕のルーン魔術とは方向性が微妙に違う。あまり効果は得られないだろう。

 少し前の解説には、語弊があった。
 僕の起源『観測』は、占いが当たりやすくなるわけではない。
 占いの解釈を、絶対といっていいくらいに間違わなくなる。それだけだ。

 机の上に袋を置き、袖をまくって深呼吸する。

「新たに時計塔へとやってくる遠坂の魔術師について……彼の者を取り巻く運命、この手で見定めたい」

 自分で宣言し、目標を明確にする。魔術的な効果があるわけではないが、自己暗示みたいなものだ。
 そして精神を集中し――袋の中に手を突っ込んだ。
 硬く、冷たい石の感覚が指先に触れる。
 まさぐり続けて数秒後、指先に電流のようなものを感じた瞬間、その石を掴んで袋から取り出した。
 刻まれた文字は、ない。
 空白――すなわち、ウィアド。
 運命のルーン。白紙の分岐点。流れの読めない大波。
 具体的な内容はさっぱり分からないが、とにかく大きな運命の分岐路が近づいていることだけは分かる――要するに、とびっきり面倒なことが起きそうだ、ということだ。

 ウィアドの石を袋の中に戻し、石をかき混ぜた後、もう一度ピンとくる石を探す。

「運命の渦の中には、なにがある?」

 真摯な問い。
 それと共に引き当てた石は、ある意味で予想通りのものだった。
 松明の炎、なにかの始まりなどを意味するルーン、カノ。
 この石は正位置と逆位置も定めてある自作品だ。そして、今のカノは正位置で引き当てた。
 これが正位置で出たということは、僕の努力次第で計画は進み、道は開けるということ。
 もしくは、ただ単に遠坂の末裔が全ての始まりとなるということ。
 この場合は、どちらにも取れるし、どちらの意味も含んでいるだろう。

「どうすれば、道は開ける? ケインを生かせる?」

 呟いて、再び石を直感に任せて掴み、取り出す。
 裏向きの石を表にすると、そこには――

「……なんてこったい」

 石を中に戻し、袋の口を縛って引き出しに放り込む。
 これまた予想通り。ただし、当たって欲しくはなかった予想だ。

 引き当てたルーンは、テイワズ。
 公正なる戦いの神、ティール神の象徴。
 普通の占いでテイワズを引いたなら、自ら積極的に問題解決に勤しむことで解決できるということを暗示している。
 あるいは、公正さに焦点を当てて解釈するなら、正々堂々と立ち向かう方が良いということを示す。

 この場合、解釈として最もふさわしいのは“決闘”だ。
 それは、なにかというと――遠坂の末裔を殺すに、最適な手段である。
 それはそうだ。もしもやってくるのが真っ当な魔術師なら、そしてあの遠坂時臣なら、決闘を断るはずもない。
 決闘から逃げるなど、貴族の生き残りとまで称される彼が取りうる選択肢ではないのだから。

 おそらく、暗殺や襲撃は上手くいかない可能性が高いのだろう。
 占いは決して未来予知ではない。外れることだってあるし、盲信するのは愚かなことだ。
 しかし、不確定だからといって無視するのも馬鹿の所業だ。

 つまりは、僕が遠坂とタイマン張って殺すなり、ボコって魔術が使えなくなるくらいまで追い詰めるなり、しなければいけないわけだ。
 まあ、ギルガメッシュの触媒を冬木の地に届けること自体が論外なので、間違いなく殺すことになるだろうが。

 遠坂が欠けたからといって、聖杯戦争の開幕に支障が出るわけではない。
 令呪は滞りなく配布され、マスターはつつがなく用意される。
 そこには、おそらくケインもいる。
 ただし、ここで遠坂が欠けているということには、もっと大きな意味がある。

 すなわち――英雄王ギルガメッシュの不参加。
 それに伴う、言峰綺礼の覚醒フラグ折り。

 もちろんケインの参戦そのものを避けたいが、避けられなかった場合のことを考えると、これは大きい。
 言峰綺礼は自分の戦う意味を見いだせずに惑い、最強の主従は既に舞台から姿を消している。
 そんなわけで、万全を期すならば、遠坂には消えてもらったほうが好都合である。ケインを戦争に行かせないのが前提とはいえ、できるだけの備えをしておくにこしたことはない。
 おそらく、その時のマスターはこんな感じだ。

 アインツベルンの衛宮切嗣。
 遠坂、あるいは外様としての言峰綺礼。
 間桐からは間桐雁夜。ただ、遠坂時臣が戦争に参加しないという仮定の上ならば、ここは不確定。

 そして、外様の三人か四人。
 その内の二人は、間違いなくケインと僕だ。
 ウェイバーは聖遺物をネコババするイベントが起きなければ時計塔で燻ったままでいてくれるはずだし、雨竜龍之介のほうは数合わせ。僕が参加の意思を示したなら、聖杯は間違いなく僕を優先的に選ぶ。
 そこに、アーチボルト派の凄腕魔術師をもう一人、もしくは二人伴えば――三人のマスターが同じ陣営に属し、共闘するという状況が可能になる。
 そうなれば、衛宮切嗣といえど手も足も出ないはず。こっちは防御をしっかり固めて、地に足を付けて戦っているだけでいいのだから。
 サーヴァント三体、四体での連合とか、最早チートだ。これは最悪の想定ではあるが、言峰のサーヴァントとしてギルガメッシュが出てきたとしても負ける気がしない。
 ただし、アインツベルンのマスターが二人になる可能性もあるので、どう動くかは聖杯戦争を詳しく調査してからになる。
 それ以前に、遠坂時臣に勝てる保証はどこにもない。あえて火中の栗を拾うような真似は慎むべきか。

 さらに。それだけのために、もしかしたらという保険のために――人を殺しても良いものか。

 やってくるのは間違いなく遠坂時臣だ。彼も魔術師である以上、死の覚悟はしているだろう。
 しかし、残された家族はどうなるのか。
 彼の娘は二人いたはずだが、妹の遠坂桜が原作の時点で5歳か6歳ほど。おそらく、今はまだ生まれていないか、胎内で育っている途中だろう。
 原作によると、二人ともかなりの逸材。遠坂桜の方は、架空元素・虚数の持ち主だ。この時計塔でもまだ発見例が稀な、天然記念物よりも貴重な存在。その体を使えば、世にも貴重で強力無比な礼装を作ることだって可能だろう。魔術師として育てても大成することは間違いない。
 そして、姉の遠坂凛は、五大元素全てを扱える逸材、アベレージ・ワン。架空元素と比べれば見劣りはするが、あくまで希少性ゆえだ。魔術の威力、応用性、可能性だけで考えるならば、むしろこちらのほうが伸び代は大きい。こちらもまた、貴重にして有用な存在だ。
 また、二人の母親である遠坂葵は、交配相手の特性を最大限に引き出した子供を産むという特異体質の持ち主。魔術師からすれば垂涎の体である。

 もし、この状況で当主の時臣が死ねば――三人が三人、例外なく幸せな人生を放棄することになるだろう。

 僕が黙っていれば誰も気づかないかもしれない、などという甘い期待は、間桐臓硯があの街にいる時点で放棄するのが賢明だろう。
 遠坂家の窮状に付け込み、幼子とその母になにをするのか、具体的には思いつかないが――あまり愉快なことにはならないだろう。

 遠坂時臣を殺すことが、その事態に直結する。

「……どうするかな」

 いまは迂闊に動かない方がいい。理性はそう囁く。
 いまここを逃す手はない。運命はそう叫ぶ。

 実益の点でも、良心の点でも、選択を迫られる。

 最善解と正答の二つ、どうも一朝一夕では出そうになかった。















こんにちは、作者です。感想ありがとうございます。
ここは指摘に対するレスに使います。感想欄に書くつもりだったのですが、なぜか無理だったのでご容赦を。

>陽炎さま
 今回は微妙。自覚してます。でも勘弁してください。このままやると日常編が永遠に続きそうなんです。そこからシフトするのは流石に長すぎて自分でもイライラするんです。
 それと誤字の指摘、ありがとうございます。修正いたしました。

>とおりすがりさま
 主人公はギルガメッシュの実力を測りきれていないのと、常識に縛られているのと、二つの理由から楽観しています。
 常識的に考えてエアのような大技を何度も連発できるわけはありませんし、サーヴァントは7種類。数が増えるということは、それだけ戦術の幅が広がるということでもあります。
 さらに、ギルガメッシュは煽り耐性0ということも承知していますので、そのあたりを利用すれば勝てると思っています。
 いざとなればマスターぬっ殺し、あとは隠れ潜みながらの消耗戦を挑むだけで無問題!
 まあ所詮は思っているだけです。実際にどう転ぶかはわかりません。

>万力さま
 誤字修正しました。ご指摘、感謝です。


>くいさま
 BLのつもりは全くないのに、にじファン時代も夢小説っぽいとか言われて戸惑っている深海魚です。

>タロウさま
 意見を参考に、あらすじは削除しました。

 こんな感じですね。
 どうかこれからもよろしくお願いします。



[34048] 友情
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:7a3d4908
Date: 2012/10/16 22:49
 小鳥の囀りと、差し込む朝日の光で目が覚めた。
 結局、悩んだところで答えがすぐに出るはずもなく、それどころか知らぬ間に眠ってしまっていたらしい。酒も入っていたから仕方ないといえば仕方ない。
 しかし困った。まったくもって困った。戦争まであと7年くらいあるからといって安心していたら、頭から冷水をかけられた。
 現実からは誰も逃れられない――なんともはや、この世の真理を見せつけられたかのようだ。
 ぶつぶつと憂鬱な気分を口から吐き出し、言葉にならない音の塊を垂れ流しながら洗面台へと向かう。
 鏡の中には、髪はボサボサ、顔には少しだが酒気が残っている冴えない男の風貌が移っていた。お世辞にも凛々しいとはいえない状態だ。
 まず口をゆすいでから、ざっと歯を磨き、その足で服を脱ぎながらシャワー室に向かった。
 シャワー室の扉を開けると、そこには見覚えのある黒猫が佇んでいた。

「キケロー、お前も浴びるか?」
「にゃあ」

 キケローは尻尾を振り振り、肯定の意を示した。
 キケローは温かいシャワーが大好きだ。おそらく、僕が起きるのを待っていたんだろう。
 あまり関係はないが、セネカは絶対に入ろうとしない。それはそうだ、水浴びが好きな鷹はそういないだろう。
 
 ノズルを捻ると、暖かな雨が優しく降り注ぐ。眠気と不快感、それに酔いの残滓が纏めて押し流され、少し心中にも余裕ができた。
 頭から爪先まで湯が伝うと、表現しがたい安心感が体を満たす。
 足元には、機嫌良さげに目を閉じて、一緒にシャワーを浴びるキケロー。
 可愛くて、座り込んで頭を撫でると、もっともっとと言うように頭を押し付けてきた。
 惜しみなく愛を向けてくれる家族を、僕もまた、胸が締め付けられるくらい愛おしく思う。
 その反面、よく分からない寂しさと怖さを覚えた。
 酒の残りがシャワーと一緒に抜けて、一気に頭がクリアになったからだろうか。

「……浮気するなよ? 僕の家族はお前とセネカしかいないんだから、さ」

 堅物の父も。
 人形の母も。
 予備の妹も。
 なにもかも打ち捨てて、失くして、最後に残ったのがキケローとセネカだ。
 この2匹がいなくなるのは、とても寂しくて、辛いことだ。
 そんな思考が浮かぶのは、運命の渦が間近に迫っていることに気付いてしまったから、なのだろうか。
 先の余裕や安心感はいつのまにやら失せ、気付けば、口が勝手に動き出していた。

「今までケインを生かすために努力してきたつもりだった。でもさ、全然そんなことなくて……」
「……?」

 キケローは首を傾げる。人間の言葉は分からないが、僕が落ち込んでいるのは分かっていて、戸惑っているのだろう。
 僕は構わず、言葉を続ける。こういう時は喋れない相手の方が都合がいい。

「踏ん切りが付かないんだ。覚悟が決まらない」

 それは、当然のことでもあった。
 命のやり取りをしたことなど、ほとんどない。
 尋常なる決闘で誰かと対峙するなど、恐ろしくてたまらない。
 僕は真っ当な魔術師ではないが故に、真っ当な魔術師との戦いを恐れていた。
 遠坂は凡才だ。それでも雑魚ではない。正々堂々と戦って勝てる保証などない。もし、現時点で聖杯戦争時の7割以上の技量を持っているならば――僕が焼き尽くされる可能性も高いだろう。
 ルーン占いは最善の道を示しはしても、その成功率までは保証しない。もしかすると、他の選択肢は10%か20%の成功率である中、決闘の成功率だけが40%だというだけのことかもしれない。
 最善だからといって、成功するとは限らない。
 それは、魔道を歩み始めて最初に学んだことだ。

 この手を血に染めて――痛いほどに刻みつけられた、訓戒だ。

「人殺しは初めてじゃない。それなのに、殺し合いが恐ろしくてたまらない。人を殺すのが怖いんじゃない、人に殺されるのが怖いんだ。そんな僕を、臆病だと思うかい? 少なくとも、自分の一族郎党、容赦なく皆殺しにした男の言葉じゃあないよな」

 ここで真に度し難いのは、僕の恐怖が自己保身においてのみ発せられているということだった。
 人並みの良心と常識を持ち合わせていながら、自分の罪や咎は棚に上げ、僕という存在が失われることを恐れている。これが卑怯者の臆病者でなくてなんだというのか。
 もし、遠坂に一切の反撃を許さないまま、一方的に致命傷を負わせることのできる手段があるならば、迷わずそれを使うだろう。その後の家族にアフターケアを行うくらいならするかもしれないが、それはあくまで、ついでのことだ。
 それは魔術師ならずとも当然の決断ではある。しかし――

「……みゃぁお」

 キケローが、するすると僕の膝に登ってきた。
 目と目が合う、その瞬間――ペロリと舐められた。
 鼻の頭から始まり、頬、口、耳たぶまで、顔を満遍なく舐められる。
 まるで、雌猫が番にする毛づくろいのように、優しい舐め方だった。

「く、くすぐったいな……やめろ、分かった、ありがとう。もう大丈夫だから」

 キケローは素直に降りる。本当に空気を読むのが上手い猫だな、こいつは。実は人間の魂が入ってるんじゃなかろうか。
 心が荒んだ時、余裕がなくなった時、この可愛い黒猫はいつだって傍にいて、励ましてくれる。慰めてくれる。
 セネカは僕の使い魔だから、家族とは少し違う。でも、キケローは正真正銘、名実共に僕の家族だ。
 僕には過ぎた、家族だ。
 自己嫌悪と恐怖は、和らいで意識するまでもないほどに小さくなっていた。

 足に頭をもたせかけてくるキケローを撫でながら、僕は自然と笑った。自然に笑えた。

「まあ、そう短絡的に戦ったりはしないよ。できれば遠坂も殺したくはない。荒事は嫌いだからね」

 そう。まだ戦うと決まったわけじゃない。
 僕が死ぬとも決まってはいないし、遠坂も話が分かる人間でどうにかなるかもしれない。

 僕には、とっておきのカードがあるのだから。
 ただ気になるのは、それが最善の手段ではないと占いに出たことだ。
 聖杯戦争に全てを懸けてきた御三家が一角――遠坂。
 それが素直に認めるとは思えない。

 そう――聖杯の汚染などという戯言を見ず知らずの人間から聞いて、信じるとは思えない。
 万が一、信じたところで――聖杯を諦めるわけがない。

 現在、有効であろう選択肢は三つ。

 一、当初の予定通り、決闘で事故を装いブチ殺す。
 できることなら、魔術刻印や礼装も破壊し、遠坂の命脈を完全に断ち切りたい。残された妻子については……復讐が怖いし、魔術協会にそれとなく情報を流して、どうにでもしてもらうのが一番だろう。ハイリスクハイリターンな一手だ。
 欠点としては、後味が悪すぎることと、僕が土壇場になっても実行できるかどうか、その覚悟があるのかどうか、イマイチ判然としていないあたりが挙げられる。やるならとことんやりきらないと、この手の方法は意味がなくなってしまうのだけれど。
 後は、単純に勝率の問題になってくるから、今はなんとも言い難い。

 二、遠坂には特に危害を加えず、関与しない。少なくとも、そのように見せかける。
 来る聖杯戦争に備え、こちらの情報は一切漏らさず、ひたすら遠坂の諜報に務める。隙あらば権力闘争に巻き込むなり刺客を送り込むなりしてもいい。それで勝手に死んでくれれば御の字だし、そうなったなら、残された家族の面倒は僕が見ても構わない。それくらいの責任は負ってもいいだろう。
 最も無難で妥当な選択肢ではあるが、まだ情報が不足しすぎている上に、これから状況がどう動いていくのかに大きく左右される。要するに、運任せの側面が強い。不安を覚えない方が無理だ。

 三、聖杯の秘密を明かし、大聖杯の解体、聖杯戦争の終結を求める。
 これが一番望ましく、そして成功率が最も低い手だ。
 まず、なぜそんなことを知っているのかという話になるが、話せるわけがない。高次元の異世界から魂だけで来ましたなんて言おうものなら、次の日にはホルマリン漬けになること確定だ。重要度としては魔術協会の中でも最上級のものだろうが、なんの慰めにもなりはしない。
 かといって、占いで知った、調査した、それは付く価値もない稚拙な嘘。占いがそんなに万能なわけはないし、遠坂や間桐の目をかいくぐって冬木の大聖杯を調査するなんて、笑い話にもならない。管理者としてのプライドにかけて、遠坂はあの地を守護しているはずだ。
 仮に信じてもらえたとしても、どうにかなると考えて戦争を開催する可能性の方が高い。
 以上の点から鑑みて、結果的には僕の首を絞めて終わってしまうようにしか思えないのだ。

 取り敢えずは、遠坂との接近が急務。
 実際の人格、趣味、嗜好、思想、癖――思いつく限りの全てを調べておきたい。
 ならば、僕が真っ先に遠坂と親しくなることで調査を容易にし、また時計塔での交友関係をできる限り束縛する。
 つまり、遠坂勢力の拡大を消極的に阻止しつつ、遠坂時臣の調べを進め、後はその結果に応じて決断するということだ。
 正面から闘うのか、搦手から攻めるのか、それとも胸襟を開いて打ち明けるのか、決めるのはその後でも遅くない。

 僕はシャワーを止め、体を拭く。隣でキケローが体を震わせると、濡れ鼠の体から水滴が飛び散って本棚に付着した。

「おいキケロー」
「にゃー」

 知ーらないっと。
 そんな感じの鳴き声を残し、キケローは窓際に走り寄って日向ぼっこを始めた。
 朝が早く、寝起きから水浴びをする猫――やっぱりこいつおかしい。
 僕はというと、手早くTシャツとジーンズを履き――セネカの不在に気付いた。

「セネカ」

 声帯振動を通して使い魔に念を飛ばすと、こちらに戻ってくる途中だということが分かった。その足に、ある書類を掴んでいるということも。
 まったく、以心伝心とはこのことだ。本当に良く出来た使い魔で、僕も鼻が高い。
 僕は忠実で気が利く鷹の帰還を出迎えるべく、窓を開ける。
 風が差し込んだことで、キケローが身震いしながら講義の鳴き声を上げても気にしない。
 その直後、セネカが開いた窓から部屋の中へ飛来し、キケローの体に接触して床にズリ落とすと同時に、僕の手の中へ絶妙なコントロールで書類を落としていった。そのまま直進し、止まり木に着陸する。
 
 キケローの威嚇に動じず、しゃなりと佇むセネカに苦笑いを漏らしながら書類を開けると、そこには一言、こうあった。

 ――遠坂時臣・来英予定日6/9――

 ふむ。やはり遠坂の来英は本当だったか。導師は酔っても嘘をつかないのだから、99%確定していたのだが――これで100%だ。
 6月9日といえば3日後。根回しは十分に間に合う。
 人間との出会いは、第一印象が大事だというし、ここらで先手を打つのも悪くない。
 あまり占いを多用すると、運命を読み違える危険も少なからずあるので、ここから先は僕の推測と独断で動くことになるだろう。

 しかしやはり、先手を打つのは僕だけでは無理っぽい。たまには知り合いの威でも借りてみるとするか。
 本人のためでもあるし、バチは当たらないだろう。

「ansuz(伝達)」

 一工程(シングルアクション)の遠話の魔術を発動。右手の人差し指に嵌めた指輪の台座にある青い石が発光する。
 あらかじめ僕の魔力を注ぎ込んだルーン石を持っている相手に話しかけることのできる魔術だ。通信機のようなもので、距離が離れているほど魔力の消耗は激しくなり、通信には僕の魔力を消費する。受信には石の貯蔵魔力を使うため、使いすぎると、こちらからの発信はできるのに相手側が受信できない、なんて間抜けなことにもなりかねない。
 しかし、こういった緊急の用事には最適である。
 普段なら歩いて会いにいくのだが、お目当ての人は一昨日からロンドンを離れてしまっているので仕方ない。
 今は確か、キングストンの支部に出かけたんだったか。少し距離があるな。

《……こん、朝、ら、何……?》

 遠方にいるせいか少し雑音混じりの声が、ルーン石から聞こえた。
 このままでは会話もままならないので、魔力をより多く注いで出力を上げる。

「あーあー、聞こえるか? 出力上げてみたんだけど」
《……ああ、クリアになった。だが、こんな朝から何事だ? この私の眠りを妨げるとは、一体なにを考えている》

 どうも起きたばかりらしく、かなり不機嫌そうな声だ。相手が僕であるにも関わらず、傲慢スイッチがオンしてしまっている。
 ここは彼の性格上、何事もなかったかのように本題へと入ったほうが良いだろう。注意を逸らすべきだ。

「朝から悪いね。ちょっと力を貸して欲しいことができたんだ」
《君が私に頼み事を? 珍しいことだな。言ってみろ》
「いやなに、時計塔に遠坂時臣っていう新入りが来るはずなんだけど、その迎え役、僕がやってもいいかな?」
《なに?》

 素直に驚いたらしいケインの声は、やや新鮮なものだった。
 僕の真意を図りそこねて困惑しているのは間違いないだろう。頭の回転の速さに関してはそこらの凡人よりも抜きん出ているケインが、固まってしまっている。

《確かに、そのような者が時計塔に来るらしいとは聞いている。だが納得いかないな。なぜ君が、そのような者を気にかける?》

 約5秒の沈黙。
 その無駄な時間を経て、ようやくケインは、いつもの冷静さを取り戻したようだ。静かな声が聞こえてくる。
 ただ、静かすぎて不気味なものを感じた。
 戸惑い、驚きだけでなく――どこか、怒りのようなものを含んでいる気がする。
 わざわざ起源覚醒をして“声色を観た”わけではないが、まず間違いないだろう。

 まさか、本当にホモのヤンデレ君、というわけではないはずだが。
 ……違うはずだ、うん。

「いや、あのゼルレッチ老に見出された魔術師の子孫だろ? エーデルフェルトとは滅多に会えないし、その他に存続している家系は貴重な存在だ。会えるときに、会ってみたいじゃないか」

 この理由なら、ケインに怪しまれることはないはずだ。
 あの傍迷惑かつ奔放な宝石クソジ――もとい、知識と力と栄光溢れる魔導元帥閣下の身に余る教えを受けてなお、5代という時を経た遠坂は、割と本当に珍しい。
 仮にも魔術師ならば、食指が動いたっておかしくはない。

 ちなみに、当たり前だが僕はゼルレッチ老に会ったことなどない。もしも会っていたなら、五体満足でここに立っていられるかどうかは怪しいものだ。
 小説やゲームではあまり悪く書かれていないが、実際、時計塔では真剣に議論がされたこともあるくらいだ。
 なにについてかというと、魔法使いと疫病神、どちらの呼び名がより的を射ているかだ。気まぐれに平行世界を飛び回れる魔法使いなど、迷惑極まりない。災害よりもタチが悪い。
 正直、聖杯戦争の件がなければ、遠坂とは関わりたくもない。エーデルフェルトにだって、会う機会はあったけれど故意に見過ごしているくらいだ。

《……ふむ。まあ他ならぬ君の頼みだ、聞き入れるのも吝かではない。しかし、空港に迎えに行くほど執着を見せるのは、どうも腑に落ちん。なにか他の理由があるのではないかね?》

 なんと鋭い。ケイン、お前はKYだからこそケインなのに。
 疑問の根拠が推理や推察ではなく、純粋な感情論の気もしないではないが、深く考えるのはよそう。そっちの方向に意識してしまったら、今までのように友人関係を続けるのは不可能になってしまう。きっと勘違いだ。そうに決まっている。
 ――どうも最近、エリザベスや腐女子コンビのせいで妙な想像をしてしまいがちだ。ここらで頭の中を清掃しておかないと、僕も危ないかもしれない。

「うーん……」
《なにを言い淀んでいる?》
「いや、そんな理由があったかな、と思って。」

 大雑把に相槌を打ちながら、考えを巡らせる。
 さて、困ったことになった。
 今のケインに迂闊な返事をしても、見破られる可能性が高そうだ。しかし、馬鹿正直に聖杯戦争のことをベラベラ喋って、無駄な興味を煽りたくはない。
 かといって、上手い言い訳もすぐには思いつかない。
 ふむ――ここはまあ、嘘を突き通すのが妥当かな。ケインのKYが平常運転であることを祈ろう。さっきの鋭さは気の迷いか運命の気まぐれだと思って。
 
「考えてみたけど、特に思いつかないね。なんとなく、としか言いようがない。なぜか興味が湧いたんだ」
《ほう。そうか。成程な。十全に理解した》
「そりゃ重畳」

 それっきり、会話が途切れた。
 やはり嘘は下策だったか。しかし、それ以外の対応は論外だ。
 なんだか無駄に重苦しい沈黙が続き、僕は耐え切れずに口を開いた。

《分かった。手配しておこう》
「え、マジで?」

 見計らったように、ケインが答えた。
 僕は前につんのめりそうなのを必死で堪え、代わりに動転したまま言葉を発してしまう。
 いや、かなり予想外だ。さっきまでの反応からして、もっと渋るかと思っていた。

《君には友人が少ないようだからな。このあたりで人脈を広げておいてもらわなければ、この私の友人には相応しくない》
「お前――」

 お前が言うな、と素でツッコミをいれそうになった。
 いや、魔術師の友人が少ないだけで庶民には友人多いから。完全にぼっちのケインとは違うから。
 しかし、余計なことを言って変な疑問や喧嘩の種を蒔いてもつまらない。ここは僕が、大人と勝者の余裕を持って引き下がるべきだろう。

「――そうだな。まあ、そうだ。気を遣ってくれて、どうもありがとう」

 どうもイラつく答えではあったものの、冷静に反応する。
 すると、石の向こうから得意げに鼻を鳴らす音が聞こえた。

《なに、友として当然の助言と忠告をしたまでのこと。君の希望はキングストン支部を介して伝えておこう。では、そろそろ仕事があるので失礼するよ》

 そう言って、ケインは通信を切断した。僕としても用は済ませたので、別に構わない。
 が、やはりイラッとくる。

「あーあ、ったく……」

 もう少し、空気が読めるように、人を思いやれる人間になってはくれないものか――そんなことを思って、自然と溜息が出た。





◆◇◆◇






「失礼するよ」

 そう言い、一方的に通信を切る。
 そのまま石を机の上に置き、私は深く椅子に座り込んだ。
 まったく、急に連絡してくるなど初めてのことで、一体なにが起こったのかと思えば――取るに足りない、凡骨の魔術師と渡りを付けてくれ、などと。
 とうとう血迷ったか、と思ったほどだ。
 いや、血迷うという表現は正確ではない。彼は血迷った状態こそが平時のそれであり、魔術師らしい一面はむしろ戦闘の中において発揮される。人が変わったような冷徹さを見せる。

 私がベンを親友として認めるのは、偏にその才能と観察眼、そして人間性ゆえだ。
 彼は私をアーチボルトとして観察し、なおかつケイネスとして見る。
 アーチボルトという権威の衣の存在を認め、その本質を理解した上で、私自身をも見透かしているのだ。
 それは、私の自尊心と、ベンと出会うまで秘められていた欲求を解き放つのに十分すぎる事実だった。

 そう、私は――好敵手が欲しかった。
 友が欲しかった。
 アーチボルト家に固有の才能ではなく、ケイネスに特有の性質を認める者が欲しかった。
 私に勝るとも劣らぬ才を持ち、競いあえる相手が欲しかった。

 私は孤高なる者だ。それがロードの宿命であり、義務でもある。下々の存在と対等に付き合っていては、先祖より受け継いだ権勢が、名誉が、傷つけられることにもなりかねないからだ。
 そしてバンクス家は、はっきりいってアーチボルトが付き合うに値しない。家そのものが滅んだ上に、残された嫡子は平民と親しくする変わり者だ。

 それでもベンは、私と並び立つに相応しい存在であった。
 その柔軟性、11代に渡って磨かれた魔術、権力に尻尾を振ることのない真摯で純粋な魔術師としての姿勢。
 全てが好ましかった。

 五年も経ったいまでも、明確に思い出せる場面がある。
 かつて出会ったばかりの頃、私から持ちかけた決闘で私を完全に打ち破ったベンは、迷いなく手を差し伸べ、こう言った。

「ミスタ・アーチボルト。貴方はとても――ああ、なんだ、面白い人だな」

 当時の私には意味が分からず、目を瞬かせることしかできなかった。
 それからしばらくして、ベンの一片を理解して、ようやく納得した。
 なんのことはない。ベンは、私と付き合うことが面白そうに思えたから、感情のままに手を差し伸べた。それだけのことだ。
 根底にあるのが、魔術師としての知的好奇心なのか、それとも別のなにかなのかは、私の知るところではないが。ベンに聞いても、別にどちらでもいいなどと言うだろうが。
 そしてその習性は、今でも変わっていないらしい。
 敗者である私は勝者の希望に従い、そして今、我々は親友だ。
 ベンは、私にとって唯一の親友だ。
 私は、ベンにとって、親友の一人だ。おそらくは、だが。

 そこまで考え、鼻を鳴らす。
 なにやら分からない、謎の熱と虚脱感が体を襲ったからだ。
 どうも妙な気分だ。
 私にはこれがなんなのか理解できないが、強いて言うならば――怒りに近いのだろう。

 トオサカと関わりを持つことは、決してベンにとってのマイナスにはならない。だからこそ、私は彼の頼みを受け入れたのだ。
 しかし、それだけでは説明できない不快感がある。
 理屈とは別に、溢れる感情がある。

 そこで気がつき、自覚した。
 感情の正体を知識と推察によって見定め、見極めた。
 だが、その結果として得られた事実は、まったくもって不愉快極まりない。

 完璧な魔術師である私が――一介の凡骨風情に、嫉妬しているなどと。
 そのような馬鹿馬鹿しい結論を、見出してしまったのだから。










本日の作者呟き

・遠坂との関わり、人脈
ベンは一応、アーチボルトの派閥に所属していると考えられているし、実際その認識でも間違いはない。ただ、あくまで個人的な友人であるために政争では力が弱い。
ゆえに、遠坂を味方に引き入れておけば、ベンも力を増し、アーチボルトもお得。
ただ、ベンはそこまで考えてないし、もともとケインは不干渉でいくつもりだった。遠坂へのアプローチで余計な波風を立てるデメリット、遠坂との繋がりを得るメリット、メリットとデメリットを天秤にかけると、対費用効果は極小だからである。

・決闘で負けた
ケインはベンに決闘で負けた。それは事実。ただ、ベンはそのことを周囲に隠しているので、ケインも従って隠している。ちなみに、ベンは真っ向から戦ったが、事前の準備と根回しが効果を発揮して勝った。ゆえに純粋な決闘とは言い辛い。もしそうでなければ、ケインは自分が負けたことを隠さなかったかもしれない。
ただ、当時のケインには月霊髄液がなかったので、現在は正々堂々戦ったとしても微妙な勝率。短期決戦なら7:3でケイン有利、それを凌げば五分五分。

・嫉妬しているなどと。
ホモじゃないよ。でも、仲の良い友達が自分を差し置いて他人と仲良さそうに喋ってたら、ちょっぴり気になるはず。え、気にならない? そうですか。



[34048] 厄介事
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:d720a56d
Date: 2012/12/24 00:20
「……まだか」

 時計の針は午前11時を指している。
 飛行機の到着が遅れているわけではない。既に着陸して二十分は経過しているというのに、待ち人は一向に姿を見せない。
 性格からして、遅れるのを良しとするような人間ではないはずなのだけれど。
 朝食を抜いたこともあって胃袋が抗議運動を始めたのを感じ取りながら、僕はホットドッグに大口開けてかぶりついた。

 ロンドン西部、ヒースロー空港。
 その到着ロビーで、右手に持ったホットドッグを齧りながら待つ僕がいた。
 時計塔職員の正装である時代錯誤極まりない黒のローブを着用し、左手には同じく協会員の証となる指輪を中指に嵌め『Welcome to Britain,Mr.Tosaka!』と書かれた旗を持ってパタパタと振っている。
 もちろん、ただ呑気なだけの装備ではない。自分を中心とした半径50mにルーン石を要所とした魔法陣を構築、この場で可能な最低限の警戒網を張り巡らせている。受信機は左耳に付けたピアスで、魔術、神秘に関わるなにかしらがこの陣内に踏み入れば即座に警戒信号が発せられ、ピアスがそれを受信、微弱に振動する仕組みだ。独特のリズムで鼓膜を直に揺らすため、喧騒の中でも聞き逃す心配はない。
 そこまでしている以上は当然ながら最低限の戦闘がこなせるように準備もしており、左手小指と右手中指には戦闘用のルーンを彫り込んだ特別性の指輪を装着しており、有事にも備えている。

 さて、そんなわけの分からない服装であるからには必然だが、空港に出入りする人々は漏れなく僕のことを二度見していく。精々、この時代には珍しいコスプレ野郎とでも思ってくれることを願おう。ないとは思うが、警察を呼ばれでもすれば厄介なことになる。
 ちなみにこのローブ、一着500ポンドから、下位防御魔術が付与されたものならば1500ポンドはする、着用者が絶望的なまでに少ない不人気商品である。孤独な引きこもりか傲慢極まりない一匹狼が構成員の半分ほどを占める時計塔において、魔術協会に所属していることを服装で示すなど有り得ないということだ。引きこもりは服装に興味などないゆえにわざわざ手間のかかる服は着ない。一匹狼はプライドが邪魔して着ない。というのは理由の一部でしかなく、そもそもダサすぎて主義主張に関係なく誰も着ようとしないというのが本当のところであろう。こんな野暮ったいマントやらローブやら、誰が好き好んで身につけるというのか。時計塔の魔術師は服装の流行りに疎いことも多いが、中世の流行りを今でも好んで身につけるようでは正気すら疑わしいと言わざるをえないだろう。
 着用者の感想としては、ヒラヒラして動きづらい。有事の際には迷わず脱ぎ捨てること間違いなしだ。あと無駄に高い。駆け出しや窓際魔術師にだって手が届くものではあるが、気軽に買える代物でもない。それなのに魔術協会に入った時点で強制的に購入させられるのだから、反発も大きいらしい。こんなもん誰が着てやるものか、といった心境なのだろう。たとえば僕、実はそれなりの小金持ちであるが、こんなもん買うくらいなら魔術触媒を買う。まず間違いない。
 そんな連中に配慮して作られたのがこの指輪(一個200ポンドから、魔術による簡易保護つき)である。そして、当然ながらやはり不人気。ローブよりはまだマシらしいが、着用者が一割から二割になった程度である。
 そもそも時計塔に所属しているということが、独立独歩を旨とする魔術師には恥辱なのであり、したがってローブを指輪に変えたところでなんの意味もない。
 引きこもりは前述の理由。
 指輪や手袋を魔術の触媒として用いる魔術師などは論外。触媒が十あるのと九あるのとでは、いざというときの生存率がまるで違う。
 というか、ローブも指輪も売れていない最大の理由は、学生が制服や学校指定の髪型をなんとなく拒否するのと同じではなかろうかと僕は睨んでいる。権力に屈してしまったようで気に入らないという感じなのかもしれない。魔術師という人種、自分よりも強大な他者への反骨精神は揃いも揃って人並み以上と言っていいのだ。
 あとやっぱり高い。指輪は少々お値打ち品となったかのような印象を受けるが、そもそも買うことにメリットがないのであり、もっと他のことに使った方が有意義だ。それを考えると大人しく着てやるのはムカッ腹が立つのだろう。大事なことなので二度いうが、反骨精神は人並み異常なのだ、この魔術師という選民どもは。

 僕はといえば、協会に所属していることには反発したりしない。便利だから使わせてもらっている以上、それなりの義務は負うべきだとすら考えている。しかし、いくらなんでもローブはダサ――もとい目立ちすぎるので敬遠しがちなのも事実である。実際、先程から周囲の耳目を集めて仕方がない。秘匿が義務の魔術師にとって、この注目は煩わしいものだ。
 なにより色んな意味で薄すぎる。防寒具としては不適格なまでに冷気が素通りするのもそうだが、さらに致命的なのは防御力が皆無な点だ。物理的な意味でも、魔術的な意味でも。最高級のローブを買ったとしても、所詮は量産品。僕が一から魔術的処理を施して作ったローブの防御力を100とするならば、15か20といったところか。
 ちなみに、いま着ているのはは最低価格である500ポンドのローブ。流石に紙装甲すぎて心もとないので、自力で防御魔術を付与してある。本気で防御力を上げたいのなら繊維の一本一本から手を加えなければ話にならないので、はっきりいって無駄な手間なのだが、それでも防御力12くらいまでは向上する。
 ルーン魔術とは本来“適切な物質に適切なルーン文字を刻む”ことで最高の効果を発揮するものだ。衣服に刻み、もしくは縫い付けて魔術を発動するというのは、王道にして正道、最も有効な使い道なのだ。

 指輪は、普段からつけるのが面倒くさいのと、魔術の触媒として指輪を用いることが多い僕にとって十分の一のリソースを奪われるというのは大きなデメリットなので好ましくない、これら二つの理由から、やはりいつもは着けていない。
 ただし。仕事の最中にあるビジネスマンがスーツを着用するのと同じく、いまの僕は時計塔の正式な命令を受けてやってきた迎えである以上、ローブと指輪は装備しておくのが責任ある大人としてのけじめというものだろう。荒事ならばいざ知らず、このように儀礼的な任務であれば尚更だ。

 ちなみに、指輪は五芒星のデザインによって着用者の階位が分かるようになっていたりする。
 五芒星を象った台座の上になにも乗っていなければ、確実に僕より下っ端。俗世風に言うと大学院の院生から契約講師くらいまではここらへんだ。
 そこからは階級に直結してくる。有名なのは、王冠が乗っていれば『王冠(グランド)』階位とかだろうか。そこから下は、研究者か実戦部隊かで区分が変わってくる。たとえばケインは研究者である。月霊髄液の開発が認められたこともあり、王冠の二つ下――『塔(バベル)』に昇格したはず。
 正直どうでもいいことだが、『王冠』よりも『塔』のほうが上位に聞こえると昔から思っている。なんだか王冠は俗っぽいが、塔と書いてバベルと読むそれは神秘性を感じるからだろう。
 こういった階位も最近になって生まれたものだ。だからこういう妙な名前がつく。
 僕は『塔』からさらに三つ下、研究者階位の『杖(スコラー)』である。とりあえず杖なのか学者なのかはっきりしてほしい呼び方だが、日本にある魔術協会支部ではこのように表記してあるのだから仕方がない。ここらへん、僕は前世から考えると元日本人ではあるが、日本人の考えることはわけ分からんと言わざるをえない。なぜあえて別の意味を持つ読みを当てるのか。中二病が治りきっていないに違いない。
 『杖』階位という扱いについては、ルーン魔術の扱いに長けているとはいえ特筆すべき成果を上げてもおらず、さりとて戦功はなく、となれば昇進できる道理はない。そんなわけで不満はない。なにか特別な努力をしてまで研究を進めるつもりはないので。しばらくはこのままだろう。というか下手に昇進すると本格的に政争に巻き込まれそうで嫌だ。気ままな研究ができなくなるくらいなら名誉など不要である。僕が求める真理とは、ただ僕が知っていればそれでいいのだ。

 閑話休題。

 昨夜のケインの手回しが功を奏し、僕が遠坂の迎えに任命されたのは昨日のことだ。
 たかだか東洋の一魔術師を講師である僕が出迎えるというのは不自然でもあるが、元々が変わり種として扱われているからか、案外すんなりと許可がおりた。
 最初はアーチボルト陣営が行動を開始したのかと勘違いした一部のロードが、すわ一大事とばかりに騒ぎ立てていたらしいが――ケインの一言で納得したらしい。
 曰く、「ベンの気紛れ」。
 気紛れで納得されるのはどうなんだろうかと我ながら思わないではない。
 それに騒ぎ立てたロードたちのことも気にかかる。納得したような態度をとってはいるらしいが、内心で穏やかならぬことを考えていそうだ。僕だって、この一連の行動とその結果が“バンクスと遠坂”ではなく、むしろ“アーチボルトと遠坂”の接触であるかのように誤解されても仕方がないことは分かっている。その点、ケインには要らない迷惑をかけてしまった。文句のひとつも言ってこなかったのが不思議なくらいだが、そのあたりは、やはりアーチボルト家の嫡男に相応しい度量の大きさ、とでも評しておくべきだろうか。
 ちなみに、バルトメロイ家は一顧だにしなかったらしい。まあ、アーチボルト家が遠坂を取り込んだところで、バルトメロイのぶっちぎり首位は揺るぐまい。遠坂などという弱小ではなおさらだ。ピッコロと神様が手を組もうが合体しようが、魔人ブウには遠く及ばないのである。

 とまあ、前世知識も交えてつらつらと今更益体もないことを考えているうちに十分が経過。これで合わせて三十分の遅刻となった。
 どういうことだ。いくらなんでも遅すぎる。あの遠坂が、よりによってこの日この時に遅れるとは考えにくい。なにかがあったのは確実だ。
 もしや襲撃か? 否、メリットがない。現時点では、遠坂を襲うことで利益が生ずる陣営が存在しない。むしろ、この局面で遠坂を害することは明らかな不利益につながる。旗幟を鮮明にしていない勢力を攻撃するなど、政争渦巻く時計塔においては狂気の沙汰だ。そのような狂人はまだ見た覚えがない。気狂いに刺されたのかと思いもしたが、魔術師がただの通り魔に負けるなど普通はありえないし、そんなことになれば今頃は大きな騒ぎになっているはずだ。仮にその気狂いが魔術師だったとしても、遠坂に一切の抵抗を許さず殺害するのは難しいに違いない。飛行機が墜落するくらいは平気でやってのけるはず。
 では逃走か。否、あの遠坂時臣が尻尾を巻いて逃げるものか。時計塔に留学する程度のプレッシャーに屈するものか。というかそんな人間が次期当主の座にあるわけがない。遠坂から送られてきた人物評価は極めて高く、現代的な――つまり、魔術の探求以外のことに縛られがちな――魔術師として、また一個の霊地を管轄する管理者(セカンドオーナー)の跡継ぎとして、これ以上なく理想的なものだった。惜しむべき点としては才能の不足を挙げられるが、それを補ってあまりある努力と、そして成果があることも記載されている。性格は堅実、周到が服を着て歩いているかのよう。根底には帰属としての美意識、管理人としての義務感、次期当主としての誇りが見て取れる。
 僕は遠坂をその方向では信用している。

 案外、腹でも壊したのかもしれない。優雅に排便しようとしているから時間がかかっているのかも……ないか。ないな。その程度なら宝石魔術で治癒できるはずだ。

 馬鹿な想像を最後に一連の思考を締めくくり、靴を床に打ち付ける。
 カツリと耳障りのいい音が聞こえ、全ての思考が洗い流される。
 僕にも予定というものがある。今日の授業は休講にしてあるが、遠坂に僕が接触したことで巻き起こる派閥間の争いをできる限り小さく、穏便に済ませるための根回し作業が山のように残っているのだ。
 まず万が一にも有り得ないが、遠坂が航空機内で殺され、秘密裏に処理でもされていたら――これからの展望は完全に読めなくなり、色々と面倒なことになる。それはそれでアリだとも思うが、とりあえず現状を鑑みれば生きていてくれた方が、多少だが都合は良い。

 ――エンジンキーを、右に回す。

「incipiunt(起動)……nauthiz,eihwaz(忍耐、防御)」

 なにが起こっているのか分からないので、まずはローブの内側に縫い付けたルーンを発動し、攻撃に転じる際に支障が出ない程度の防護を全身に張り巡らす。ナウシズのルーンで痛みへの耐性と対魔力を向上させ、その上から物理的な衝撃、熱、電撃、励起、その他諸々にただし、ひと目でそれと分かる臨戦態勢では遠坂を――もしくは誰か別の人間を――無駄に刺激してしまう可能性もあるため、一工程の簡易防御に留める。
 そして懐から雀を取り出し、呪文を唱える。

「servitus, ansuz(奴隷、神の智)」

 雀の体に魔法陣が浮かび上がった直後、その体に染み込むように消えた。
 僕の魔力を吸った術式は効果を十二分に発揮し、雀は簡易な使い魔となった。その視界は僕の左目と、聴覚は左耳とリンクする。
 術式の簡易さゆえに触覚、味覚、嗅覚はリンクできない。が、この場面では視覚と聴覚があれば十分すぎるので特に問題はない。
雀の視界を人間の脳で処理することは難しいので、アンサズのルーンで強化しておくのは必須だ。これを忘れると雀とのリンクを維持できないほど激しい頭痛に襲われる。あれを体験するのは一度で十分である。具体的には十代前半の若気の至りくらい。

 この雀は常に持ち歩いている。暗示でローブの中を絶対に安全な巣だと思い込ませ、僕のことは信頼できる親鳥のような存在だと確信させることで持ち運びが容易になるのだ。そして僕のルーン魔術による強化も受けている。単純な筋力や視力から、対魔術隠蔽、対魔術といった神秘に関わる力まで、出来うる限りの強化だ。雀の脆弱さゆえに成功率は四十分の一くらいだが、単純計算で雀を三十匹犠牲にすれば使い魔が一匹は確実に完成するのであるからして、効率は悪くない。セネカは呼べばすぐに駆けつけてくれるだろうが、現在は危険が排されていないので却下。僕が手ずから作り出した正式な使い魔であるセネカは、その死や危機に伴って様々なデメリットが僕にも降りかかる。普通そんなことは有り得ないのだが、僕の場合はちと複雑な魔術を用いており、その弊害というか副作用というか代償というか、まあその類のものだ。
 真の使い魔とは異心異体でありながらも以心伝心である存在を指す。使い魔とはもうひとりの自分であり、近しい相棒でもある。元は鳥類でありながら独立した思考回路とそれに基づく独自の行動を選択しうるセネカは、それに相応しいと言えるだろう。
 それに比べて、今回の雀は使い捨てのインスタントだ。
 基本的に、鳥類、特に雀ほど偵察用の使い魔に向いている生物はそうそういない。
 その理由として挙げられるのは二つ、空を飛べる点と、視力が人間のそれを遥かに凌駕している点である。
 前者は言うに及ばず、後者についても得難い能力だ。
 雀のように、鷹や鷲と比べて弱い――つまり一点を集中して見るのではなく、広範囲を目を光らせ敵をいち早く発見する能力に長けている――鳥であっても、人間の三倍ほどの視力があるという。
 加えて、人間が赤、青、緑の三原色を元に色を認識するが、鳥類はその三色に加え紫外線をも捉える四色型色覚を持つ。色を認識する能力についても人間より鋭敏なのだ。インコなどが派手派手しい色を持つのは、それを利用した求愛のためだとかなんとか。
 その鳥類の中でも雀は体が小さく、服に入れて持ち運ぶのが容易である。また、ここロンドンならば雀が屯していても不自然さはない。
 そう言う意味でなら別にハトでも構わないが、個人的に害鳥のイメージが染み付いている鳥なのでなんとなく使いたくない。空港でも、雀ならば微笑ましい目で見られるだろうが、ハトは冷たい目で睨まれそうな気がする。
 ついでに餌代も嵩まず、死んでも代替品はありとあらゆるところに生息しているので調達も容易だ。
 以上の諸々から、状況認識のための偵察として、これ以上に有用な使い魔はそうそういないのである。

 即席の偵察機となった雀は、僕の手のひらから飛び立ってロビーの奥へと消えていった。
 左の瞼を閉じ、使い魔の景色を見る。
うむ、やはり鳥との視界共有は楽しい。見慣れた景色であっても、殺風景であっても、全てが普段より鮮やかに映るからだ。
 世界はこんなにも輝いている、そんな感傷まで抱けるほどに美しく見える。
 肝心の見えるものはというと、突然飛び込んできた雀に驚く人も多いようだが、あまり注意して見るわけでもなく、すぐに忘れているようだ。まあ、ここイギリスにおいて雀なんぞにいちいち注意を向けるようでは、頭がいくつあっても足りない。
 雀をロビー上方で旋回させ、大小様々な老若男女の顔と服装をチェックしながら、少しずつ捜索範囲を広げていく。
 ところどころに落ちているパン屑などを啄みながら力強く羽ばたき、自分の羽音に混じって聞こえる喧騒を置き去りにして奥へ奥へと進んでいく。
 それからは、慣れつつも新鮮な数分が経過し――





 今更だが、遠坂の服装は赤色を基調としているはずだ。来英にあたって地味な服装に着替えるという遠慮を見せることもなく、今日も今日とて平常運転。事前に与えられた情報にも赤いスーツを着用して出国したと記載されているのだから間違いない。
 なにが言いたいのかというと。

 ――見つからねえ。

 言葉の通り、一向に見つからないのである。
 雀は空港内のあちこちを飛び回った。待合室、CIQ(税関、出入国管理、検疫)や免税店、レストランにラウンジ、全ての場所を見回ったのだが、その視界の内に遠坂が映ることはない。
 遠坂が乗ってきた航空機の機内も見回ったが、影も形も見当たらない。
 ここまでくると、遠坂が自らの意志で意図的に姿を隠していると見るべきなのだが……しかし理由が分からない。こうして使い魔を派遣していても、魔力の残滓や魔術の行使、争いの痕跡は全く見受けられないからだ。
 現状は八方塞がりとしか言いようがない。とりあえず思いつく次の方策としては、僕が自ら空港の中に赴き、暗示を使ってでも場内アナウンスをしてもらう。内容は勿論、遠坂を呼び出すものだ。
 それでも見つからないようならば時計塔に帰還し、遠坂本家へと連絡を取りつつ鉱石学科のほうへ報告することになる。
 ここがもし物語と同じ世界ならば、僕のバタフライエフェクトがあったとはいえ遠坂に被害が及ぶとも考えにくく、したがって生きている可能性が高い――というかまず間違いなくはずなのだが、往々にして現実は非情である。特にこの世界では。

 トトン、トン、トントン。

 特徴的な振動による警報がなされ、僕の背後から足音が迫りつつあるのは、そんな時だった。
 人ごみに紛れている足音はともかく、魔術反応を誤魔化すつもりすらないらしい。警戒網に引っかかるどころか、使い魔とリンクしていない素の状態であれば、感覚だけで察知できただろう。意識を少し向けてみれば、なるほど、魔術回路を励起させている気配が明確に感じ取れる。ここまで堂々としているならば、十中八九は協会からの使者だが、さて何事か。
 雀とのリンクを適度に保ちつつ、敵意がないことを表すために努めてゆっくりと、振り返る。

 ビジネスマン。
 それが最初の印象だった。
 目立たないねずみ色のスーツにズボン、白のワイシャツ、薄い青のネクタイ、どこを取っても一山幾らの会社員である。東でなら畑から取れるかもしれない。

「貴男がミスタ・バンクスですか?」
「え? ああ、はい。そうですが――?」

 背後からの声。
 そして気付く異常。
 それは至って単純で、なぜ、目の前の男からではなく僕の背後から声が聞こえたのかというだけのもの。
 反射的に振り向くと、そこにはまるっきり同じ、鏡に写したかのような男の姿があった。

 トトトトトトトトトトトッ――

 けたたましく鳴り響くアラートが、警戒網の報知が、僕の思考を遮る。
 瞬時に雀とのリンクを切断し、目前の男に思い切り接近するかのようなフェイントをかけて側転。

「sol!(太陽!)」

 空中で右手中指の指輪を起動、指輪は、その台座部分に据え置かれた水晶から小さな光球を放った。
 即座に目を閉じ、瞼の裏に刻んでおいた刺青を触媒としてルーン魔術を発動、瞳孔を極限まで収縮させる。
 同時に結界も敵の魔術行使を確認、おそらくは風魔術であろう攻撃が靴の先端部分に、ぶつかり、削り取っていくのを触覚で知る。
 僕の魔術がなんらかの形で対策されていたならば、死はともかく負傷、それも重傷を負って劣勢に陥ることは免れない。

 クソッタレの神へ。アーメン・ハレルヤ・ピーナツバター。

 結果を神に祈りつつ頭を抱えて接地した瞬間に、魔術――『太陽圏』が発動した。
 光球が破裂、内包されていた約125万カンデラもの光が爆発的に発せられ、周囲の人間の目を焼き、網膜を役立たずにする。
 魔術を再び使い、瞳孔を適度に開いてから目を開けた。
 目の前には顔を両手で覆ってよろめく男たちの姿がある。これほどのショックを与えたにもかかわらず、男は両方とも姿が消えたり揺らめいたりしていないので、どうやら魔術ではなく、ただの双子か変装か、とにかくそこらへんであるようだ。
 いまので分かったのが敵は発光への対策をしていなかったということ。

「confortance(強化)」

 右手拳に強化を施しながら素早く接近し、最初に声をかけてきた方の顔面を思いっきり殴り飛ばす。苦手な強化魔術ではあるが、拳の硬度そのものを強化する程度ならできる。中指の指輪がメリケンサック代わりになるので、この強化は攻撃のためというよりは拳の保護が主な目的だ。
 鼻の骨が潰れる良い音が聞こえ、拳に嫌な感触が伝わった。殴られた男はたたらを踏んで堪えようとしたが、そのまま倒れ込んだ。
 気を失ったかまでは分からないが、集中力を保ったまま詠唱できる状態ではないはずだ。さらに言うならば、鼻が潰れた状態でまともな発音ができるわけもない。とりあえずの脅威は排除したと見ていいだろう。
 この間、約2秒。そこで、もうひとりの男が立ち直った。魔術を使おうとしているのが見なくても分かる。
 僕もその場で振り向きながら左手小指の指輪を起動、文字通り間髪いれずに背後の男に向かって突きつける。
 指輪の台座の水晶に刻まれた文字は――

「wind!」
「isa!(氷/槍=氷の槍!)」

 振り向いた分のタイムロスと、魔術発動速度の優位、総合的に見た発動時点は同時と言ってよかった。
 僕の腕ほどの太さがあり魔術的加護も受けている『氷槍』は物理的威力を伴った風を難なく貫通し、風は槍をするりとかわして飛来する。
 そして、結論から言おう。
 男が巻き起こした風の刃は、僕のローブの防御を半分ほど消耗させただけに終わった。首を狙っていた一撃に対して咄嗟に右手を差し出し、中指の指輪、その水晶に込められた魔力を全開放することで風の刃の威力を、気休め程度ではあるが弱めたのが幸いした。その代償として風の刃が拡散し、肌が露出している部分――頬や耳たぶ――に小さな裂傷ができたり、指が半分ちぎれて落ちかかったり、内蔵魔力の全開放なんて想定外かつ馬鹿な行為をやったがために水晶が砕け散ってしまったりしてはいるが、まあ命には代えられないというものか。いやむしろ、完全に不意を打たれたにしては上首尾とさえ評価できよう。我ながら頑張った。
 さて、僕が放った『氷槍』はというと、男の頭部を貫いて脳を完全に破壊した。
 この魔術は指輪ひとつ使い捨てにするタイプの魔術であり、宝石魔術と類似した部分も持つ。つまりは発動時間に比して尋常じゃなく威力が高い。頭蓋骨など、銃弾の前の豆腐みたいなもんである。
 透き通った切っ先を赤く染めて槍は空中を突き進み、街灯に突き刺さって停止した。

 眼前敵の死亡を確認したらまた振り返り、鼻を押さえていた最初の男の顔面を魔術強化した脚力でもって思い切り踏みつける。
 僕のへっぽこ強化魔術と筋肉など皆無の細い足では威力などたかが知れているが。
 ――某格闘漫画曰く、小学生の全体重を踵に乗せて顔面を踏みつければ、大人をノックアウトできるとかなんとか――
 そういうわけなのかはしらないが、とにかくそれは男の意識を完全に刈り取るには十分すぎたようである。動きが消えた。というか殺していないか心配になる。ピクピク動いてはいるので大丈夫だろうが、これって危ない感じの痙攣だったりしないのか。やはり力加減というやつは難しい。普段が非力なら尚のこと。
 この男に障害が残ると後の状況に響いてくるのだ。いつだって、捕虜には健全な意識と肉体があることが望ましい。
 尋問が楽になるから。

「sól(生命)」

 現状も落ち着いたので、簡易の治癒魔術で細胞治癒、そして止血。
 ついでに脳内のアドレナリンやらドーパミンやらの生産量をちょいと向上させ、擬似麻酔に挑戦する。前にやったときは量を間違ってラリったが、失敗も二回目はない。大丈夫大丈夫。
 その瞬間、槍に込められた魔力が切れて『氷槍』が砕け散る。半ばから断たれたままつっかい棒を失った街灯は重力に従って頭から地面へと倒れこみ、ガラスが割れて鉄がぶつかる壮絶な音を立てた。
 なんかもう、めんどい。

「……だるっ」

 魔術行使と命のやり取りで精神的にも肉体的にも疲労した。
 傷を負ってしまったこともさることながら、最大の問題は衆目である。これほど大っぴらに襲ってくるとは思ってもみなかった。当然ながら認識阻害などかけていない。

 そして周囲の惨状に目を向ける。

「目が、目がぁあああ……」
「暗い、真っ暗だ……」

 うん、ひどい。色々と。
 我に返ってみれば、戦闘があった時間は10秒もないのだが、まあ予想通りの阿鼻叫喚の渦ときた。主に僕の『太陽圏』のせいで。
 125万カンデラといえば、スタングレネードをも上回る光量。そんな危険なものを、周りに一切配慮せず使用すればこうなることは当たり前のことだった。
 ただしそれは大事の前の小事であり、最優先は僕の命であるから後悔はない。幸いというべきか、空港設備は無傷、周囲の人たちにもそれ以外の外傷はない。尋問相手も残っているなら上出来と考えるべきか。
 失明した人がいるかもしれないが、僕は被害者であるからして、そこまで責任持てない。
 もちろん、放っておくのは流石に気が引ける。こういう目立つ事態になった場合は時計塔から派遣されたチームがどうにか現場復帰と証拠隠滅をしてくれる手はずになっているので、そのチームに少し言付けておくとしよう。

 空港の中から、騒ぎを聞きつけた空港警備員や一般人が駆けてくるのが見えた。『太陽圏』は音を伴わない魔術だ。しかし、謎の閃光と街灯の破壊音のふたつが揃えば、事件性を認識されるには十分すぎる。このまま見つかれば厄介なことになるのは想像に難くない。

「mannaz,nebura(霧は我が姿を隠す)」

 こそりこそりと自然に何気なく、指輪とローブの両方に刻まれた認識阻害魔術を併用して気配を完璧に隠滅、気絶した男を引きずりながら僕はその場から離れる。とりあえず、この男はどこかに隠さなければ。
 二重の認識阻害で二人分の存在感を隠しているのだ。誰も僕たちを引きとめようとはしなかった。

 ――たかが出迎えでこの騒ぎ。遠坂と関連した出来事であるならば、厄介なことになりそうだ。
 どの勢力にも動機がないのは相変わらず。誰が、どのような意図で、どんな目的を持って襲撃を起こしたのかが全く読めない。それはつまり、事態の根本的な解決が不可能ということだ。
 誰の差金か、早急に突き止める必要がある。

 そんなことを考えながら空港近くの、ハエが飛び回るポリバケツに男を放り込み、魔術施錠を施した。

「あ、遠坂」

 そこで、肝心要の遠坂時臣の生存確認、及び合流が未だに果たせていないという事実に思い至り、ため息がこぼれた。

 僕の人生で……大体5番目くらいの悪い日になりそうである。










お久しぶりです。深海から浅瀬に戻ってきたしがない魚であります。
腐った虚ろな目で大学の秋学期を生き抜くこと3ヶ月、ようやくどうにかなる目処が立ちました。
まあ1月からテストあるんですけどねうふふのあはは。
どうにかこうにかしていきたいと思っておりますので、こんな一介の魚が書く文章ではありますが、見ていただければ幸いです。
それではまた。



[34048] 突破
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:d720a56d
Date: 2013/04/18 13:36
 空港の入口まで戻ってきたあたりで、このローブは目立ちすぎるということに気付いてはいた。
 しかしながら、ここは空港である。都合よく服屋があるというわけではない。さらにいうならば店があったとしても持ち合わせがない。
 だから、非合法な手段を取らせてもらうことにした。
 ちょうどよく目にとまったグレースーツの男に近寄る。体格も僕と同じくらいだ。

「こんにちは」
「ん? ああ、こんにちは。」

 僕に話しかけられた男は、見知らぬローブ姿の男に話しかけられて驚いている様子だった。魔術関係者ではなさそうだ。元から魔術回路が励起していないくらいは確認していたが、これならば問題ない。
 全く、こんな善良な一般市民を利用するなんて気が引ける。

「いやあ、今日は良い天気ですね。そのスーツくださいな」
「へ? なにを言っ、て……」

 これぞ十三ある我が秘奥義の内のひとつ、エロ光線!
 説明しよう! 魔術師は相手の五感に訴え掛けるなんらかの刺激を媒介にしてエロ光線を発射することができるのである!

 ――とまあ、ふざけるのも大概にしておこう。ぶっちゃけるまでもなくただの暗示だ。詠唱いらず、魔力いらず、時間いらず、ついでに習得のための努力すらいらずと四拍子揃った利便性の高い魔術である。これすらもロクに使えなかったウェイバーくんは、まあ、うむ、ほどほどに頑張ればいいと思う。
 目が虚ろになった男は、するりと上着を脱いで僕に手渡してくれた。

「うん、ありがとう。ついでに、ズボンとベルトとシャツとネクタイと靴も頼むよ」
「……わかりました」

 唯々諾々と、お願いに従って服を脱ぐ男。自分で脱がせておいてなんだが、おっさんが脱ぐ姿は全くもって不快である。戦闘のストレスと相まってイライラする。
 これが終わったら娼館にでも行こうそうしよう。グラマラスでセクシーな美人のお姉さんにイロイロ慰めてもらうんだ……。諸事情あって童貞は捨てられないのが残念だ。
 夢想の最中、そこに突き出される衣類。
 いつの間にかパンツとアンダーシャツと靴下だけという哀れな格好になった男は、丁寧に折りたたんで全ての服を寄付してくれた。


「ありがとう。じゃあ、君はそこの草むらに隠れていてくれ」
「は、い」

 男はふらふらと、僕が指差した草むらまで歩いていき、そこに寝転がった。うむ、あれなら簡単には見つかるまい。暗示が解けるまでは三十分ほどあるから、この場を離れるには十分だ。僕の顔も忘れるように細工してあるし、心配はいらないだろう。
 さて、着替えよう。目立たないところで。
 認識阻害の魔術をかけたとはいえ、車の陰でコソコソと着替える僕は間違いなくみっともなかった。少なくとも、パンツと靴下だけで草むらにうずくまる中年男と同じくらいには無様だったろう。





 十五分後。
 暗示は便利なものだ。対魔力皆無な一般人相手であるときは特に。
 茫洋とした目に生気のない表情で口を動かす職員を見下ろしながら、つくづくそう思った。

【お越しください。繰り返します。Mr.遠坂、協会のMr.バンクスがお呼びです。至急、聖ジョージ教会前までお越しください。繰り返します。Mr.遠坂――】
「あ、もうそこらへんでいいよ。Annarr(宵の眠り)」

 6時間ほどはぐっすりと眠れる魔術をかける。発展系として脳幹の働きを停止させるものもあったりするが、別に殺しが趣味とかではないので却下。魔力消費もったいないし、そもそも彼はなにも覚えていない。
 彼が頭を垂れて寝息を立て始めたのを確認し、息をつく。他の職員は全て眠らせているので問題無い。
 職員に暗示をかけ、館内放送で遠坂に連絡。ここまでは上手くいった。次だ。

 そして、大音量の警報が鳴り響いた。
 なにをしたのかというと、そう複雑なことではない。大量に使い魔を作成し、そいつらに炎のルーン文字を書いた煙草を空港の至るところに持って行かせる。そして然るべき時に火災報知器の傍、もしくは真下で作動。それだけである。これだけでちょっとしたテロはできそうだ。
 職員たちは漏れなく眠りこけているので、僕は悠々と、先程まで操っていた彼が持っていたマイクらしきものを手に取る。

「皆さん、火災が発生しました。急いで空港の外に出てください! あらゆるところから出火しています! 急いで! 死にたくないなら急いでください! 急いでーっ! あ、あぁ、ここにも火が! 急いで逃げて! 早く、早くぅっ! 逃げないと死ぬぞ、急げ!
畜生、死にたくないっ、死にたく……う、うわぁあああっ!」

 最後に不吉すぎる叫びを上げ、机をひっくり返して物音を立てつつ唐突に通信を切る。
 うん。ちょっと楽しかったことは否定できない。
 気を取り直して、使い魔を通して監視カメラの映像を見てみる。案の定、パニックになって逃げ惑う老若男女の姿があった。よろしい。非常によろしい。さあ、早く不幸なる一般市民は避難するんだ。
 こうすれば、神秘の秘匿を気にせず魔術行使ができる。我ながら名案だ。
 全員の避難にかかる時間はどれだけか知らないが、管理室を無事に出るためにかかる時間ほどではなさそうだ。

 さて、あとは肉体労働のお時間である。
 蒼崎橙子――というかまともなルーン魔術師よろしく、たまには指を使うとしよう。

 指先を空中に走らせ、ansuz(神)のルーンを描く。全ての知恵の源であり、またあらゆる智慧の探求者である神のルーンは、全てのルーン文字の威力を底上げできるのだ。

「Incipiunt,laguz,ansuz,gebō (起動。水の閃き、神の智、と結合せよ/を贈りたまえ)」

 言葉に応じて眼鏡の全機能が起動する。脳も強化、並列思考と高速演算を開始した。不意打ちに備えてのことだ。

 使い魔の雀は空港の屋根の上で待機させている。戦闘の危険があるなら連れ歩いても無駄に死なせるだけだ。使い魔がいなくても、先程の警戒網をそのまま放置してあるので、魔術に関わりのある何者かが立ち入ればすぐに分かる。そして、まだ誰も現れていないようだ。報知する前に破壊されたとしても、魔法陣との繋がりを失ったピアスが警報を発するはずなのでやはり異常なしという結論に至る。

 協会への連絡は既にした。が、先方によると、記憶操作や認識阻害のチームとは別に、実戦に耐えうる魔術師を選別して送り込むとのことだ。戦闘の危険はあれど都合よく執行者が空いているわけではない、となれば仕方ない。しかしチームを一から編成するならば、それなりに時間がかかることは必定。移動時間を含めて少なくとも三十分は見ておいたほうがいい。ならば、手をこまねいているよりはこうして行動したほうが効率的だ。アナウンスした聖ジョージ教会は、増援部隊と落ち合う場所として僕が指定したところである。

 顔の傷は完治させたし、指も包帯を巻いてルーンを刻み、治療中。出血は止まっているので、無理に動かさない限りは傷が開く心配もない。唯一の難点としては、動かさずに済む保証が現段階では全くないあたりだろうか。
 ちなみに痛みはない。ここ重要。痛みは集中を阻害し、魔術行使を邪魔する要因だ。だから、治療や止血よりもまず痛み止めの手段を用意しておくのが魔術師の――多少でも戦いの心得がある魔術師の常識である。

 さて、本番はここからだ。
 一の矢は防いだ。しかし、はっきり言ってここで終わるとは思えない。そんな手緩いことがあるものか。
 たしかに、魔術行使の前触れをほぼ完璧に消し去っていたという意味で、あの双子の殺し屋は見事なものだった。なにか歯車がずれていれば、いま僕はここに立っていないだろう。
 だがそれだけだ。純然たる実力でいえば、僕には及ばない。正面きって戦端を開いたならば、僕が現状の装備のまま無傷で勝利を収めなければならないという条件付きであったとしても、二人纏めて沈めるのに十秒かかるか、かからないか。そんなところである。僕が依頼主なら、そんな未熟者だけに任せるなどありえない。後顧の憂いを断つためには、古今東西を通して執拗かつ徹底的な根絶が基本である。
 そうでなくとも、魔術師の暗殺に二の矢三の矢を用意しないわけがない。そして、そいつらが既に空港に来ていないという保証はない。

 ならば、ここからゲーム開始だ。ステージは空港から時計塔まで。暫定的勝利条件は、増援の到着か時計塔への退避。
 遠坂を連れて行くかどうかは、彼が教会まで到達できるかによる。正直、ここまで状況が混迷するとは思ってもみなかった。何者の差金かは知らないが、遠坂との接触に伴うリスクは増大している。しかも敵勢力の脅威度や目的が計り知れない。である以上、要因の一つ、もしくは主要因であると考えられる遠坂を切り捨てることも当然ながら選択肢に入るのである。どうせ対応を決めかねていたのだから、ここで死んでくれても一向に構わないというわけだ。事ここに至って原作を重視する意味は全くない。遠坂を守りきれなかったことに対する過失責任は問われるだろうが、この状況については情状酌量の余地があるだろう。ケインの力添えを考えれば心配には及ばない。

 というか、そもそもの標的が僕なのか遠坂なのか、それすらもはっきりとしていないのである。
 先ほどは遠坂を迎えに来たタイミングで接敵したために遠坂が狙われていると思い込んでしまっていたが、ケインに近しい僕を短慮で暗殺しようとする人間なら心当たりはいくらでもある。
 尋問を後回しにしたのは的確な状況判断の上だ、という確信はあるものの、敵の目的が明確でない現状は心に不安を抱かせる。ついつい溜息が出てしまった。


 まあ結論してしまえば、いまのところ全ては遠坂の腕前次第ということだ。
 僕の下まで生きて、いやそれだけでなく足手まといにならない状態で辿り着けるならよし、さもなければ。

 ――語るに及ばず。その運命、自らの手で切り開いて見せろ。極東の貴族たる者なら。

 らしくもなく格好つけた台詞を胸中で呟く。
 同時に、ある疑問が僕の内に湧く。
 そして、その問いに冷静な魔術師の部分の僕が答える。

 はたして、僕は無事に教会へと辿り着けるのか?
 大丈夫だ、問題ない。“本気を出せば”。

 本気を出せば、とは言葉通りの意味である。
 僕の持つ、全ての手札を切る。なんであろうと全ての手段を利用する。
 それだけわかれば十分だ。
 さてさて、お次は自分自身の覚悟を覗き込もう。

 本当にやるのか? 本気で?
 これまた、語るに及ばず。

「mannaz, gebō, algiz (自分×保護=自己保護)」

 魔術回路再起動、深部第五層までの自己暗示解凍。
 精神転換を開始。

「Initium sapientiae cognitio sui ipsius. Sibi imperare est imperiorum maximum……Mihi nomen Benjamin Alice Bendix est」

 なんでこんなことになったのかとか、ふざけるなとか、言いたいことも、漏らしたい愚痴も、叫びたい文句も、山のようにある。
 でも、それよりなにより。

 僕は、死にたくないんだ。
 こんなところで、こんなに無駄なことのためなんかに死にたくは、ないんだ。

 誰を前にしても断言できる偽りのない思いを胸に、僕は彼女を起こした。





◆◇◆◇





 空港の入口で起きた騒ぎの次は、謎の館内放送。そして火災騒ぎ。
 これが、人の目と耳を引き付けないわけもなかった。空港に集まった警察組織や警備員は、市民の避難誘導に大わらわになりながらも、一部が管理室へと駆けつけつつある。
 そして、その全てが暗示などの非暴力的手法で無力化されつつもあった。下手人は、ベンを狙う殺し屋たちである。火災騒ぎが人払いの狂言であることは、全員の一致した認識だったからだ。
 彼らに与えられた任務は、個別に与えられたものではあるが、ベンジャミン・バンクスの殺害という一点において共通していた。一般人がその周辺に集まるのは都合が悪いのである。
 教会に待ち伏せるのも一つの手ではあるが、遠坂と合流されては厄介極まりない。なにより、そちらは依頼に含まれていない。
 ならば、所在がはっきりしているここで――そう考えるのも致し方ないことであった。

 ただし、その前提条件に大きな思い違いが存在していることには、ついぞ気づくことがなかった。
 館内放送機器のある部屋、その扉の前で待ち伏せる魔術使いの殺し屋。手のひらには渦巻く炎が拳ほどのサイズまで凝縮され、解放の時を待っている。それなりの腕前を持つ彼もまた、気付かなかった。否、知ることがなかった。

(バンクスは、この先にいる。扉が開いた瞬間に、練りに練ったこの炎魔術で)
「þurisaz. (棘)」

 そこから先の思考は、扉から飛来した棘によって脳髄ごと切断され、虚無に消えた。
壁に血文字ルーン紙を貼り付け、詠唱。扉そのものを変化させた棘で貫き殺したのだ。
 ベンの眼鏡は自身の手によって魔術探知能力を付与されている。半径三メートル以内に接近していれば、魔術回路の分布から頭部の位置を割り出し、障害物越しに致命傷を与えるなど容易いことである。
 命の灯火が消えると同時に魔術回路も停止し、眼鏡が持ち主に排除完了であるという情報を与える。
悠々と扉を開けたベンの前で、拳銃を構えた二人が即座に反応。銃口を向けた。
 ベンはその場に伏せつつ、両の袖口に仕込んでいたビー玉ほどの球体を投げつける。松脂油を抽出し、中詰めしたものである。
 発砲音が響く、だが当たりはしない。ベンの魔術刻印に施された最大の自動防御の前では、神秘の欠片もない鉛玉などモノの役にも立ちはしない。

 ――cen/kaun(松/松明/炎)

 呆気に取られる凶手の前で、ルーン文字を書いて魔力を通す。
二人の眼前にあった球体が炎と衝撃を伴って破裂――要するに爆発し、二人の頭に強烈なパンチをかました。
原始的ルーン魔術の利点。それは、一文字で様々な意味を持つため、同時に複数の効果を起こせる点である。松の意味で松脂を強化し、松明の意味で松脂と炎の関係性、すなわち引火性を強化、そして炎の意味で着火。あらかじめ球体に書き込んだ同じルーン文字がその効果を倍増させる。さらに、ベンの属性は火と土の二重属性である。土に属する松脂を火という形での攻撃に転化するという工程を経た以上、その二重属性は十二分に威力を高めることができる。
その結果が、胸から上を粉々に吹き飛ばされて崩れ落ちる肉塊だった。
ベンはグロテスクな死体になんの反応も示さないばかりか、一切の動揺を見せずに詠唱を開始する。

「Co eo et ocs te ipm et sere suūz et ūz et ūz et i est ūz et Aldbn」

 唇の輪郭がぶれ、その舌が超高速で呪文を紡ぐ。その速さたるや、尋常の聴覚では意味ある言葉として捉えきれないほどだ。
とはいえ、それが終わるまでの猶予が与えられる訳もない。あちらこちらから魔術、あるいは銃弾、魔弾による攻撃が飛来する。
しかし全ては無駄である。銃弾も魔弾も、まるで自ずから軌道を変えたかのようにベンの体を逸れ、地面や柱に着弾した。
風の動きではない。水分も、不可視の力場さえもない。
 それはまるで、魔法のようだった。

 そして機会は失われる。詠唱は終わり、巨大な牡牛が顕現する。

「Plaudite, acta est fabula(拍手を、お芝居は終わりだ)」

 主の意を受けた牡牛が手近な獲物に向かって駆け出す。
 哀れな男は炎の魔術を放ったが、アルデバランの前ではロウソク火よりも心もとない。
牡牛はまったく意に介さず、勢いに乗って角を突き出した。
 串刺しにされた男の血の臭いが場を満たした。
 それだけでは終わらない。全速力で走り出しつつ、懐から大量の小石を取り出し、いままで進んできた方向へばらまく。

「þurisaz!(棘よ!)」

 そして人の前進を阻む象徴たる茨の棘、その棘の部分だけを抽出して発動した。
 小石は空中で形を変える。石が内側から膨張し、無数の棘を生やす。
 それらが床に落下し、まきびしを撒いたのと同じ状況が生まれた。
 遠距離攻撃が通用しないことに業を煮やした残りの敵手たちは、ベンが一目散に走り去っているために警戒が薄れ、追跡を試みていた。
 それが命取りになった。

「kano(炎)」

 ベンの一言で小石が内部から膨張し、破裂した。
 その衝撃で大量の棘も勢いよく射出され、破片手榴弾と同じ効果をもたらす。
 絶叫が響き渡る空港を後にしたベンの顔には、なんの感情も浮かんではいなかった。










 こんにちは、深海魚です。
 微妙ですね。はい、微妙ですね。質だけじゃなく量もイマイチですね。
 戦闘シーンが苦手すぎて困ります。適当な理屈考えるのは得なんですが、描写する力がないので、いつまでやっても納得いくものが作れないんですよねえ。
 まあともかく、お待たせいたしました。



[34048] 危地
Name: 深海魚◆9c67bf19 ID:d720a56d
Date: 2015/09/22 01:57
 吹雪の中に佇む城の一室で、座したバスティアンは巨大な鏡を見ていた。
 そこに映る自分は、ぞっとするほど美しい。いつでも、何度目でも彼はそう実感する。
 純白を基調としながらも金の装飾を施されたローブを身にまとい、水晶玉を前に座っている姿は、座り方から指の伸ばし方まで気品に満ちていた。その完成度は、長きにわたって教育を受けなければ、とてもこのような雰囲気を発することはできないと、一見しただけで容易に知らしめるほどだ。肩まで伸びる白銀の髪と、天然の水晶の鋒を彷彿とさせる顔立ちは、見る人を魅了せずにはいられないことは明らかである。
 これほどに非現実的なまでの美貌は人を遠ざけ、畏怖を集めがちなものである。ただ口元に浮かぶ品の良い笑み、ただそれだけの要素が天上の美を人知の及ぶ範囲に留めていた。
 ある女性は彼を見て「妖精のよう」とまで言ったが、客観的に見てあながち間違いでもないように思われる。
 そして当然のように瞼は閉ざされていた。

「……ふん」

 それを確認して口元の笑みを消す。途端に鏡の中の妖精は氷の彫像へと印象を転じた。神が作った完璧なビスク・ドールが存在すればこのようになるのだろう。人間から欠点という欠点を全て取り除き、欠落という欠落を全て埋め合わせた、文字通りの「神の似姿」。

 彼に言わせれば、それは「不気味の谷」を超えた先にある新たな「不気味の谷」でしかない。

 不完全な姿しか持てない人間は、完全な姿を見ることに耐えられない。であるならば、感情表現を必要とする人間種族に合わせ、感情の変化に付随して起こる非合理的な顔面の筋肉動作、俗に言う表情なるものを浮かべておくのが無難である。
 バスティアンはいつものように、百九十三万千五百二十回目の思考結果をそう結論付けた。

 そこで背後からノックが聞こえた。大きくもなく、小さくもなく、早すぎず、遅すぎず。
 世界一正確なメトロノームは? と問われたなら、躊躇いなくこのノック音を正答として推す。それくらいしか形容の言葉が見つからない。
 そして現在、これだけ気味の悪い正確さを持つノックの持ち主は、この城に一体しか存在しない。

「エドゥアルトか」
「はい。紅茶をお持ちいたしました」
「わかった、入っていいぞ」
「失礼いたします」

 ――このやり取り、録音すればいい売り物になるな。
 腐りきった婦女子なる珍妙不可思議な生物への商法を刹那で考え付く自分の脳に呆れ返りつつ、バスティアンは鏡越しに扉を見やった。

 今、まさに開いた扉。入室した従者もまた、同じような美貌の持ち主だ。髪は短く刈り込まれ、チュニックとシャツの間の子のような服を身にまとっている。服の上からでもわかる筋肉と、相反するように細身なシルエットは豹もかくやの機能的肉体美を備えていると言って過言ではない。
 その手には銀盆。紅茶のセット一揃いと、数枚の書類が乗っている。

「少し遅かったか?」
「は。先日より三十二秒ほど遅れています」
「なぜだ?」
「竃が破損していました。発見後、即座に炎の魔術を使用し湯を沸かしました」
「なるほどな。まあ、別に少し遅れたくらいならどうということはない。さ、早く注げ」
「かしこまりました」

 白い陶磁のカップに湯気を立てる紅茶が注がれ、バスティアンの傍らの机に音ひとつ立てず置かれる。
 
「紅茶は良い。小島の貧乏人共もひとつくらいは取り柄があるものだ。餅は餅屋に、紅茶はインド人に、奴隷経営は女王陛下に……そんなところか?」

 エドゥアルトは答えない。バスティアンも、返答を求めてなどいなかった。期待していないことを人形に求める馬鹿はいない。少なくとも、この場にいる者に人形遊びをする趣味はない。それが一人遊びなら尚のこと不毛だ。
 無言のひと時が過ぎて、主がカップを置き、従者も呼応して書類を示す。

「バスティアン様、知らせが届きました。いかがなさいますか?」
「よこせ、と私が答える前に渡すことができれば成長したと言えるが。まったくお前は良い従者だな。エドゥアルトという名前まで付けてやったのに」

 従者は主の皮肉に眉ひとつ動かさず、ただ一礼をもって答える。バスティアンは、ふんと一つ鼻息を吐く。悪意を感じる機能がないというのは、思っていた以上に呆れ果てるに値するものだった。
 馬鹿正直かつ間抜けなエドゥアルトのこと、あるいは賛辞と受け取ったのやもしれぬ。そんな推測すらできる。

「やれやれ……ほう?」

 苦笑しつつ書類を受け取って流し読めば、その中身に少しだけ口の端が歪んだ。

「偽報が通じたか。時計塔の情報網の手薄さは相変わらずと見える。しかし、あの禿頭予備軍が独自で動いたのは予想外だ。……なあ、エドゥアルト?」
「……」

 僅かな希望を込めて視線を向けてはみるが、案の定反応はない。
 ため息を挟み、独白は続く。

「さて、どうやって察知したのやら。権謀術数、悪意渦巻く時計塔のロードを務めるだけはあるということか、それとも……あいつが余計な世話を焼いたか。間違いなく後者だ。相も変わらず、魔術師らしくない男め。捻り殺してやれ」
「かしこまりました」

 エドゥアルトが背を向ける。

「おい、どこへ行く」
「は、武器庫へ」
「待て待て」

 エドゥアルトがまた回転する。
 再び向かい合った人形の融通の無さ。頭痛が溢れ出るのを禁じ得なかった。

「まったく、待たんかい。ロボットとホムンクルスの区別もつかないままお前を作った覚えはない。いまの言葉が冗談か命令か、自分で判断しろ」
「申し訳ございません。ただいまのお言葉がご冗談かご命令か、ご教授いただけますでしょうか」
「マジか」
「失礼ながら……まじ、というお言葉の意味は」
「もういい黙れ」

 意味のないやり取りを打ち切り、バスティアンは熟考する。
 現状において時間は貴重なのだ。このような馬鹿話に費やす余裕がないというほどでもないが、効率的にやるにこしたことはない。

 ――上手く、いきすぎている。

 そのような感想が脳裏に浮かんだ。
 一部に偽報が割れたのはともかく、策略そのものは成功した。ただし、それは最初から八割しか達成できないことを見越した上でたてた策だ。現在の達成度は九割ほどだが、そのまま成功を収めてしまったならばそれは既に誤算であり、事態が自分の手元から離れてしまったのと同義だ。
 予想外の成功に手放しで喜んでいては、予想外の失敗を誘発するということは歴史が語っている。計画の修正が必要なことは疑いない。
 そうしてなんだかんだ理屈をこねつつも、バスティアンとしてはたった一つの理由があるだけなのだが。

(他人の思惑が、俺の策略に干渉するのは許せん。特にあいつは)

 これらの前提を踏まえ、しばし黙考する。数秒の後に答えは出た。主に大嫌いな相手の意表を突く方向で。

「よし、一当てするとしよう。試作一号の使用許可を出せ」
「かしこまりました。劔冑(クルス)はいかがいたしましょう」
「構わん。予想通りであれば一目で『観測』することだろうが、それはそれで愉快なことになるかもしれんからな。予想を外れるようなら、そのまま羽虫のように死ねば良い」

 従者は今度こそ一礼して、音もなく立ち去る。その存在を海馬の片隅に追いやり、バスティアンは思う。
 賭け。それも限りなく分が悪い。もし『奴』が関与しているなら――いや、九割九分そうなのだが――ここで一当てするという選択は予想されているはずだ。敵の掌中で転がされているというのは決して望ましいことではない。
 ただし、今回は掛け金が少ない。失ってもさして懐は痛まず、成功すれば敵戦力を見極める上での最善手だ。
 そのように思ってひとり頷き、徐に立ち上がって書類を暖炉に放り込んだ。
 蟲に集られるかのごとく熱と光に蝕まれる紙束を閉じた目で見詰め、彼は柔らかに笑む。

「斥候とは消耗品であり、すべからく有効活用すべきなのだ。悪く思うな。まあ――悪く思える人形なぞ、作るわけもないが」

 炎の舌で舐められた可燃物が黒い塵に変わっていくのを横目に窓際へと歩み寄る、その顔にもはや笑みはない。常人が見れば発狂するほど冷たい無表情。

「さあて、愛しき怨敵よ。この程度の苦難は乗り越えてくれよ?」

 幻想の如き少年は、その無表情と裏腹に。
 歌うように言の葉を紡ぎ、全霊の呪詛と愛を呟きに乗せた。










「……む」

 切り替わって最初に見えたのは、門扉。
 よくよく周りを確認したところ、僕は既に聖ジョージ教会の中に入り、礼拝堂の前で覚醒していた。新しい傷や痛みはなく、教会の周辺は静寂に包まれている。なんとか無事に切り抜けたようだ。
 しかしポケットや指輪を確認すると、ルーン石二十八個、松脂爆弾二つ、血文字ルーン紙二十三枚がなくなっている。加えて魔力消費による疲労も全身を襲っているからして、戦闘はかなり激しいものだったらしい。
 餅は餅屋。僕が魔術師なら、彼女――アリスは魔術使いだ。専門家が使うべきと判断したなら迷わずそうするべきだし、この状況下では消耗を惜しむ余裕もない――にしても使いすぎだ。装備を万全に整え直すには一ヶ月ほどの自由時間が必要になるだろう。
 周囲の状況はというと、彼女は主導権が僕に戻る前に索敵を済ませておいてくれたらしく、網の範囲内には誰もいない。教会の中も無人だ。
 全体として見れば、次善の成果といったところか。ただし次の襲撃をこの装備で切り抜けられるかどうかは怪しいので、必死に隠れ潜んでおくとしよう。
 スーツの汚れを大まかに払い落とし、教会に入る。
 軋む扉を思い切って開け放つと、すぐ目の前に礼拝堂が現れた。
 至って普通の礼拝堂だ。長椅子と、机と、十字架。そして十字架の前に、僕に背を向けて立つ男。

「お前は……」

 僕が身構えたのは一瞬のことで、すぐに体の力を抜いた。
 上から下まで統一された赤の服装と、やや古臭い感の否めない堅苦しい髪型は、あの人物を彷彿とさせたからだ。なぜ熱源探査式の対人索敵魔術に反応しなかったのかはわからないが……。
 彼はゆっくりと振り向いて、こちらの考えを確信に変えた。

「貴方がMr.バンクスですね?」
「ああ、僕がバンクスで間違いありません。ところで君は?」

 僕の問いに、赤い宝石が差し込まれた杖を撫でて、彼は答える。
 思えばこの時、僕は完全に間抜けとしか言いようがない醜態をさらしていた。
 そも魔術師たる者、自らの魔術に信を置き、異常が発生したならその原因を一刻も早く知るべきだったのだ。
 助かった要因はたった一つ。
 僕は原作キャラの大半を総じて敵とみなしており、油断などこれっぽっちもしていなかった。

「我が名は――」

 瞬間。
 土下座のような形で、極めて不格好ながらかがみこんだ僕の体の上を、一筋の刃らしきものが通り抜けていった。はっきりとは見えないが、魔術でなく物理攻撃のようだ。
 ――っぶねえ! そう心中で吐き捨てる間があったのかなかったのか。
続いて振り下ろされた第二撃を、あえて突っ込み肉薄することで避ける。よく見ると、ガラスのような半透明のなにかを手にまとっているようだ。それがなんなのかは、やはりわからない。
 しかし、ここは額と額がぶつかるほどの至近距離だ。遠坂は素早く腕を引き戻すが、僕が一手早い。

「ūruz(雄牛よ)!」

 一声叫べば、全身に充実する力。勢いと力に任せて、スーツの襟を掴んで思い切りぶん投げた。
 遠坂――いや、謎の男は机と衝突し、破壊されて木材となったそれと共に十字架のかかる壁まで吹き飛ぶ。
 その隙に身体操作の反射部分をアリスに委ねる。先の精神譲渡による負担はまだまだ回復しきっていない。ゆえに身体の反射のみを彼女に委ね、戦闘思考は僕が行う。
 もう限界に近い身体を騙し騙し使っているのが現状だ。今のうちに逃げ出したいが――

「……ふむ。思ったよりやる。これは主に報告せねば」

 僕の目の前で立ち上がる男は、どうやらちっとも堪えていないらしかった。これはもう駄目かもしれない。せめてもの強がりで、全身に満ちる疲労だけは見せないように振舞ってはいるが、どうせバレているだろう。

「殺されるほどの恨みを誰かから買った覚えはないけど。君が本物の遠坂時臣なのか知りたいし、名乗りくらいは上げてもらえないかな」
「私は遠坂時臣ではない。が、名乗る許可も与えられていない。……我が主からの伝言がある」
「そりゃどうも。なら、さっさと言って帰ってくれ」

 会話の間じりじりと後ろに下がりつつ、後ろ手でイチイの小枝を、相手に見えないように取り出す。これはまだ使っていなかったようで残っていた。さらに足を小刻みに動かし、床にルーン文字をこっそり書いておく。
 これが成功すれば、勝ち目は五分五分。

「我が同胞。運命の悪戯に呑まれなければ、いつか会おう。以上が主のお言葉だ」
「同胞ゥ? 残念だけど電波さんはお断ひぇっ!?」

 返事も待たず、男が突っ込んできた。遠坂時臣の顔と声だから遠坂を相手にしている気分になるが、一歩目の踏み込みと、そこから生み出される初速は常人のものではない。踏み込んだ床が砕け散っているし、初速は初速で頭おかしい。代行者かお前は。
 驚く暇もあればこそ、イチイの枝を投げつける。男は回避する素振りも見せない。

「īhwaz(イチイの木/防御)」

 ルーンの力で、イチイの小枝から根が伸びる。枝が伸び、蕾が咲き、男の足にまとわりつく。魔術強化された木だ、振りほどいても引きはがしても僅かな欠片がまた芽を出し、まとわりつく。成人男性の筋力でも一分ほどで身動きひとつ取れなくなり、絞め殺されて養分に変わる代物だ。
 結論からいうと、それはなんの妨害にもならなかった。ただ走るという行為を人外の筋力でもって行う目の前の男は、伸びても伸びてもそれを砕き、引き剥がしつつ僕に迫ることが可能だったのだ。無残に蹂躙されたイチイの木が空中に舞う。数秒後の僕の姿だ。
 だから、あえて接近した。イチイを物ともせずカウンター気味に突き出された右手を左手で弾き飛ばし――あまりの重たさに、弾き飛ばすというより軌道を逸らすのがなんとかだったが――右の拳を水月に打ち込む。
 だが、かえって僕の右手が痺れた。腹筋を打ったわけでもないのに、まるで岩のような硬度だったのだ。鉄板でも仕込んでいるのか。
 掌底から服を掴み、半身になることで反撃の膝蹴りをかわす。そのまま投げ飛ばそうとするが、やり過ごした膝蹴りが、膝から先を伸ばす蹴りに展開して頭を刈りにきたので、投げを諦めてその場に伏せた。その勢いで男の服のボタンが飛び、上半身がはだける。そこにあったのは間違いなく生身で、つまり先ほどの掌底からすると、こいつの体はくまなく岩のような硬さなのかもしれない。正直、あの感触で生身とは信じたくなかった。

 だが、生身とわかればやりようもある。

 体勢を崩した僕に、半透明の刃による突きが繰り出される。正直かわせる気がしない。
 最初の二撃を偶然にも回避したところで、イチイの木が上手い具合に伸び、男の右腕が伸びきったところで肘を固定してくれた。僕は右の手のひらに水のルーンを書き込みつつ飛び込んだ。左腕による突きが襲ってきたが、僕の左肩をこするだけに終わり、僕は再び男の懐に潜り込む。
 腹部に掌底を繰り出す。先ほどの水月の硬さからするに、人体の限界を超えた耐久力の持ち主だ。だが、たとえば全身を鉄に変えているとか、魔術障壁を張っているとかではない。だから、インパクトの瞬間に水のルーンを発動する。

「laguz(水)」
「ぐぼぁッ!?」

 水のルーンが掻き消え、男は目を見開きながら悶絶し、吐しゃ物をまき散らして後退した。大腸と小腸が、渾身の掌底をぶち当てられたのと同じ量の衝撃を受けて苦悶しているのだ。
 これは、接近戦が苦手な僕なりに「一撃の火力を高めよう」と試行錯誤した結果生まれた小技で、水のルーンの効果により、肉体の水分を経路として衝撃を内に伝播させ、臓器全体にダメージを与えるというものだ。中国拳法の発剄と同じ発想だが、あちらは技術によって物理法則を誤魔化すだけの不完全な打撃であるのに対し、こちらは文字通り、水分に直接干渉することで威力を減損させることなく体内にダメージを与えられる。マジカル☆八極拳のような脳筋技能ではなく、魔術師らしい頭脳的攻撃だと自負している。もし僕の属性が水だったなら、敵の体内の水分をフルに利用して脳まで衝撃を伝えることもできるのだろうけど、残念ながらこれが限界だ。
 実は某錬金術マンガのように炭素硬化してました、なんてカラクリだったなら術理そのものが通用しなかっただろうが、肉体の組成を多少変えた程度では防ぎきれまい。

「まだまだっ!」

 今の一撃で消えた水のルーンを書き直し――恐ろしい風切り音を伴って繰り出された回し蹴りを、右腕で防御する。
 研究肌の細腕だけで、この人外めいた蹴りを防ごうというのは流石に楽観的すぎたようだ。肉が潰され、骨が軋み、思い切り吹き飛ばされた。転がりながら即座に起き上がるが、右腕に走る激痛に顔をしかめてしまう。よくわからないが、骨にヒビでも入ったのだろうか。

「ぐ、ォお……痛っぅう……ひぃっ!」

 悲鳴が出るほど恐ろしかった。男は嘔吐しながらも足を動かし、高速でこちらに迫ってくる。イチイの木も既に振り払われており、もはや足止めにはならない。吐瀉物と苦悶の混じる表情は、まさに悪鬼の如き形相だ。思わず顔が引きつる。
 化物め、悲鳴と呪詛が混じった悪態を言う暇もない。もう二秒で互いの間合いだからだ。
 だが。ここは僕の結界内だということを忘れているようだ。
 男が、幸運にも最初の仕込みを踏みしめた。それを僕は見逃さなかった。

「þurisaz(棘)」
「ぐぅっ!?」

 木の棘が飛び出し、男の足を貫いて縫い止めた。棘には返しもついており、無理にはずせば移動に支障が出るレベルで足が削げる仕組みだ。最高速に達したところで突き刺さったため、停止しきれずに慣性で派手に抉れていた。右手の手刀で素早く棘を切断し、残った部分は気合かなにかで引き抜いているが、もう遅い。その間に僕は十分な距離を確保していた。

「isa, þurisaz.kaun(氷/槍、棘、炎)」

 小さめの氷の槍衾を射出してフクロにし、そちらに気を取られている隙をついて松脂爆弾を投げ込む。即座に起爆すべくルーンを唱えたが――不発。
 魔力と回路が万全なら即座に起爆できたのだが、ついにここで限界が来た。最後に唱えた炎のルーンに魔力が通っていなかったのだ。

「――Er anderen eine Grube gräbt, fällt selbst hine(人を呪わば穴ふた)」
「kaun!(炎!)」

 男の詠唱が終わる直前に、こちらの詠唱が割り込んだ。今度はしっかりと魔力を込め、力を入れて叫ぶ。炎が解放され、男の姿がかき消された。
 お互いに相手を視認することができなくなったところで、教会外の草むらに飛び込んで隠蔽魔術を行使し様子を伺う。
 死んでいればよし。もし生きていれば、負傷具合によっては戦わなければならない。普通に逃げてもあの速度では追いつかれるし、機動力を削げたと確信するまでは迂闊に逃げ出せない。そして残念なことに、あれで殺せた気がしない。なんの詠唱かは知らないが、ドイツ語のなにかだ。あれがギリギリで間に合ったのなら、あの爆発も防御されている可能性が高い。
 やがてひとつの影が、煙を振り払ってゆっくりと歩を進めてきた。
 迎え撃つべくそれに焦点を合わせ――

「!?」

 息が止まったのか、思わず吐き出してしまったのか、自分でも定かではなかった。いま見えている物についての理解が、脳の処理能力を凌駕したからだ。
 一言で言うと鎧。
 白銀の全身鎧を纏い、長大な突撃槍を携えた重装歩兵の姿がそこにあった。背中には巨大な筒らしき物を縦に背負い、胸部の鎧には逆十字(アンチクロス)が刻印されている。鎧の表面には煤が付着しているところを見ると、爆発の寸前にどうにか装着して防ぎ切ったようだ。
 一歩ごとにガシャガシャと音を立てるそれは、フルプレートメイルどころではない。もっと仰々しく、華美で、ごてごてしている。さながら儀礼用の大鎧のようだ。実用性には欠けるレベルで俊敏さが失われるが、防御力だけは確かという類のものだ。もし、あれがただの鎧なら、僕でも楽勝できる。
 僕の乏しい語彙で説明しきれないそれを一言で表現すると、とどのつまり。

「……騎士?」

 それも、おとぎ話でしか見たことがない、重装の聖騎士のようだった。
 鎧からはしっかり魔力を感じることだし、ただのアホな装備ではないだろうけれど。アトラス院あたりの作品だろうか。もしそうだとすれば、見かけからでは戦闘能力を測りきれない。あそこの人間はどんなキチガイ作品を生み出していても不思議ではないのだ。なにせ、魔道式のパイルバンカーを作るような連中であるからして。
 さて。あの鎧がどんな能力を持っているのかは知らないが、あれだけ巨大な鎧を着こんでいる以上、これまでのようにダメージを与えることはできないだろう。幸い、動きは鈍いようだから、翻弄するのは容易そうだが。
 不安なのは、「いけそう」「容易そう」という曖昧な仮定しかできない点だ。万全ならヒット&アウェイで様子を見るのだが、今は長期戦ができる状況じゃあない。魔力だってほとんどを使ってしまったし、装備もこれまでにないくらい貧弱だ。おまけに敵があいつだけとは限らないのに、僕の味方は今のところ僕しかいないのだ。だから、戦うにしても逃げるにしても、短時間で完遂しなければならない。

《Mr.バンクス。どこにいる?》
「……」

 鎧によってくぐもった声に、僕はもちろん応えない。あれがどんなキチガイめいた代物かは知らないが、わざわざ居場所を知らせてまで試したいとも思わない。好奇心が刺激されないと言えば嘘になるが、まず考えるべきはそいつが僕の命を狙っている現状に対する策であり、この際探究心など路傍に捨てるべきなのだ。
 さて、男は、なぜかこちらの隠れている方向を正確に見つめ――

《私の任務の都合上、ひとつだけ教えておく――この劔冑(クルス)なる装備には熱源探査能力がある。這いつくばったままでは死ぬだけだ》
「クソッタレェッ!!」

 近場にある自動車の陰まで飛び退る。自動車如きでどうにかなるかは別として、動かないよりは百倍マシだ。
 そして次の悪態を叫ぶ間が与えられることはなく、離陸直後の飛行機のような轟音が轟いた。振り返ってみて、我が目を疑った。騎士の背中にあるブースターが火を噴いている!
 騎士はクラウチングスタートの姿勢を取り、アンカーで体を地面に固定して、十分な推力が得られるまで待っているようだ。ブースターから出る炎は少しずつ大きくなっており、鎧込みで数百キロはありそうな巨体が浮き始めていた。この世界はいつからロボット物になったのか、我が身の破滅も気にせず宝石翁に問い質してみたい。
 そして恐ろしいことに、あいつは突撃槍をこちらに構えているじゃないか。思うに、馬上槍と同じ使い方を、あの謎めいた鎧型パワードスーツでやろうというわけだ。馬がいなけりゃロケットエンジンを使えばいい。まったくもってロマンがあるが、冗談きついというものだ。

 僕には四つの選択肢がある。回避か、防御か、迎撃か。大穴は投降だ。平和主義者である僕の嗜好にも実に合致するので、相手が問答無用で僕を殺そうとしていなければ名案とさえ呼べるかもしれない。
 そんな現実逃避をしている暇もなく、巨大な騎士が接近してくる絵図が脳裏に浮かんだ。駄目だ。考える時間も対処する余裕も全くもって足りていない。あの構えは明らかに突進だということはわかる。なら、ここはどうにか耐えて、距離と時間を稼ぐしかない。
 残り装備はイチイの木が三、役に立ちそうもないルーン石が数個、血文字ルーン紙が各種数枚ずつ。

「alg,isa,geb id est þur(護りのイチイ、停滞の氷、合わさればすなわち氷の巨人が護りし門なり)」

 超高速詠唱で車とイチイを核にした『氷巨人の門』を作成。最大の防御力でここを凌ぐ。魔力の枯渇で倒れそうになるが後回しだ。いま倒れたら二度と起きられない。
 確実な退路を探すべく周囲を見回すが、ここはどうも開けた場所だ。上手い具合に見つかるわけも――
 そして時は来る。アンカーが格納され、白銀の巨体が空間を軋ませながら突進してきた。『氷巨人の門』が抱きしめるかのように突進を受け止め、壮絶な衝撃音が響き渡った。
 巨人はその体に大きな亀裂を走らせたが、突進は止まった。しかし、僕が安堵したのを見計らったかのようにブースターの炎が勢いを増す。おいまさか、と呟く暇もあればこそ、巨人は粉雪のように打ち砕かれてしまった。
 僕は咄嗟に左に飛び、男の進路から退避した。ここから曲がって僕に衝突するのはどうやっても不可能だ。しかしながらこいつはまたも僕の上を行った。大きくひしゃげた突撃槍を棍棒のようになぎはらい、衝突面積を増やしにきたのだ。
 猛スピードの中で行われた一連の攻防は、お互いに著しく精細さを欠いていたが、それでも僕の脇腹は突撃槍の先端に掠り――浮遊感――



 爆音。
 衝撃。
 暗転。
 浮上。



「……ぅ…………ぁ…」

 なんだ、耳がおかしいな。喋っているはずなのに聞こえない。
 いや違うな。声がそもそも出ていないのか。そういえば口も動かしづらい。
 あれ……空って、あんなにぐにゃぐにゃネジ曲がっていただろうか。太陽がまるでストーブの上に置いておいた飴玉みたいに溶けている。溶けて広がってへばりついて、その上焦げ付いた最悪のあれだ。

 状況の判断に費やしたのは数秒か、数十秒か。
 まず感じたのは脇腹の激痛だ。脳内麻薬の分泌である程度は抑え込んだが、肉が削がれているので視覚的に痛い。第七肋骨が見えてしまっているじゃないか。心が感じる痛みは、いわゆる錯覚の一種なのだろうが、脳内麻薬では消せない。次は上手く動かない肺を必死に動かし、酸素を取り込む努力が必要だった。呼吸をすればするほど意識がクリアになり、死の恐怖が克明になる。パニックを起こさなかったのは、自分をこんな目に合わせた外敵がすぐそこにいるはずだと知っていたからだ。そうでなければ今頃は過呼吸を起こしながら震えて転げまわっていただろう。

「……ぐ、う、お……ッ!」

 臍の下に気を込め、震える足腰に芯を入れてゆっくりと起き上がる。
揺れる視界に定まらない意識、よろめく体だけでも十分だ。その上、眼前に致死の敵手と来れば気分は最悪極まりない。
 騎士は起き上がる僕をじっと見つめているが、攻撃の気配はない。ついさっき意識を失っていた時に追撃してこなかったのも変だ。なにか、攻撃に条件があるのだろうか。それとも、主とやらの命令か。考えたくない可能性としては、目の前のこいつが嗜虐趣味の持ち主だというものもある。

《状況対応力C。引き続き戦闘を続行する》

 これは実力試験だったのか。前世を合わせてもここまで嫌な試験は受けたことがないが、これを計画した輩はよほど悪趣味と見える。
 それっきり敵は黙り込み、ゆっくりと歩み寄ってくる。
 あの金属の塊が人を内包したまま突き進んでくるとは思わなかった。この世界の法則に従うならば、超一流の魔術師であってもあれだけの出力を単騎で発揮することは非常に難しいからだ。
 つまり、敵手は十分すぎる魔力と、空気抵抗、摩擦、重力、加速減速の全てを計算するだけの超高度な術式か頭脳を持ち合わせている。その結果、当たれば戦車であろうとも粉砕できるだけの威力を持つ突進(チャージ)が、空間を軋ませるほどの速力で襲い掛かってくるということだ。これが最悪でないという奴がいるならお目にかかりたい。きっと英雄候補だ。

 現実逃避を重ねながらも打開策を必死に探す僕の目に、マンホールが目に入る。
 迷わず松脂爆弾を投擲し、爆炎で煙幕を張った。熱源探知ということなら、炎の熱で一時的に無効化できるはずだ。

「……こっからだ、クソッタレ」

 爆炎と煙に乗じて手近なマンホールの蓋を吹き飛ばし、中に飛び込む。
 敵は来る。すぐに来る。だから、ここで完封する。奥の手を使ってでも、殺しきる。僕と、我が友人のささやかな幸せを破壊するやつは殺して殺して殺しつくしてやる。

 ――後から考えると、本当に秘していた切り札を使わなくてもどうにかなったのかもしれないと思う。あれだけのエネルギーを消費する魔術なら、普通に考えてもすぐ稼働限界を迎えるはずだし、そうでなくても人目に付きすぎるからだ、でも、この時の僕は、恐怖と怒りと生存本能で頭がブッ飛んでいて、とても冷静に判断できるような状況じゃなかった。だから、時が巻き戻せても同じやり方を使ってしまうのだろう。

 僕はボロボロのスーツとシャツを脱ぎ捨て、上半身を露わにする。そして自らの胸部に手をやり、そこに刻まれた『紋』を起動する。
 『紋』の起動と同時に、胸全体に及ぶ『紋』を覆い隠していた魔術染料が剥がれていく。
 これこそが我がバンクス家の秘奥、根源の渦に至るために受け継がれてきた秘中の秘――に、僕にしかできない改造を施した最大、最速、そして最高の魔術。
 もし時計塔に認識されれば封印指定は免れない、空前にして絶後の大魔術。見るのはこいつで二人目だったが、片方は死人で、もう片方はすぐそうなる。

「Quid faciam? Quo eam? Nudus ara, sere nudus. Superanda omnis fortuna ferendo est quod abyssus abyssum invocat. Amat victoria curam. Aspirat primo Fortuna labori. (私はなにをすればよいのか? 私はどこへ向かえばよいのか? 裸で耕せ、裸で種を撒け。全ての運命は耐えることで克服されなければならない、なぜなら地獄は地獄を呼ぶ。勝利は労苦する人を好む。幸運は我らの最初の努力に微笑むのだ)」

 魔術回路が回転、回転回転回転回転回転――ギアチェンジ――回転回転回転回転回転回転。
 この励起は『紋』を使うためのものじゃない。『紋』による魔術行使に僕が巻き込まれないための楔を作るために、僕の全魔術回路を、ほんの一瞬とはいえ、限界を超えて稼働させることが必要になるだけだ。
 これで魔力は尽きる。アリスを起動している余裕なんてとっくになくなった。ここからまだ敵が追加されるようなら大ピンチ間違いなしだが、今の僕にとってそれは重要だろうか? 今、この瞬間にもミンチにされかねない状況下で、狂気の沙汰以外のなにが役立つだろうか。
 戦闘とは、冷静に狂えるやつこそが勝利する。僕は「冷静に」の部分はともかく「狂う」ことに関しては一家言持ちだ。

「Citius, altius, forties!(より速く、強く、高く!)」

 天井がぶち抜かれ、崩れる煉瓦とコンクリートをかき分けて銀の騎士が下りてくる。衝撃のせいか下水道の明かりが消えると、鎧の逆十字が光と異彩を放ち始めた。さながら異教徒をドブに追い詰める聖騎士だ。胸にある逆十字が実に皮肉げに目立っている。
 猶予は与えた、ということなのだろうか。着地と同時にまたも突撃槍を構え――ひどく折れ曲がってはいるが、鈍器としては実に有用だと僕の脇腹で証明済みだ――アンカーを刺して背中から火を噴く。じきに猛加速で僕に迫ることだろう。構えられた突撃槍の切っ先は、かのディルムッド・オディナを殺した猪とまではかずとも、人を肉片に変えて余りある威力に違いない。

「この門をくぐる者、一切の希望を捨てよ」
「……神曲か」

 僕は答えず、そっと左手を差し出した。
 そして、手招き。

「来い」
「参る」

 今まで戦ってきた中で初めて感情のこもった声が返ってきた。
 鎧の下の顔が、笑っているような気がした。
 関係なく、殺すのだけど。

「オォッ!」

 短い雄叫びと共に、鎧騎士がアンカーを格納する。
 地面に縫い付けられていた超重量の死が浮遊し、空気の壁と戦いながら僕の眼前へ――
 差し出した左手に、槍の切っ先が触れる。
 左手の皮膚がひしゃげ、破け、肉に届き――騎士の姿が、吸い込まれるように消えた。さながら左手に食われたかのように。
 実際、食われたと言っていい。

「……ふぅ」

 騎士は消えた。
 破壊の爪痕と、ブースターの余熱だけが彼の存在を証明する。だが、彼はもうどこにもいない。
 安堵と疲労から尻餅を着き、魔術回路をゆっくりと減速させる。僕の裸体に詳しいやつがいれば、その『紋』の一角が消えていることに気付けただろう。普段は染料で隠しているから、知る奴がいるはずもないのだが。
 アリスが僕のエースだとすれば、『紋』はジョーカーだ。使い捨て、回数制限ありの札だが、命中さえすれば確実に殺しきることができる。僕の最高の財産にして最後の手段である『紋』の一角と引き換えに消えた彼は、二度と現れることもない。あれはそういう魔術だ。たとえ「魔法」を用いようとも、彼の蘇生は不可能だ。並行世界から別の同位体を連れてくることも復活と定義されるのであれば、話も変わってくるが。
 そして、魔術回路がオーバーヒートしてしばらく使い物にならなくなる。この上さらに魔術を行使すれば、待っているのはケインと同じ末路――魔術回路のショートによる致命傷だ。
 とにかく、僕はようやく気を抜くことができた。地上からは消防車や警察のサイレンがひっきりなしに鳴り響き、近づきつつあるからだ。この状況で再度の大規模襲撃は流石に不可能だ。やるにしても日を改めるに違いない。

 荒い息をゆっくり整え、ローブを着込みつつ、僕の脳裏は先ほどの騎士について考え始めていた。
 最初、彼の言葉は謎だらけで、こちらをからかっているのかとすら思うところもあったが、今にして思うとなんとなく心当たりがあったのだ。

 そもそも、僕に対して「同胞」などと仰々しい呼び方をできるような存在は、たった二種類しかいないではないか。
 たった二種類――魔術師と、転生者との二択だ。そして、敵がわざわざ遠坂時臣の姿を使ってきた以上、もはやどちらからの刺客だったのかは九分九厘明らかだ。なぜ命を狙ってきたのかは知らないが。
 しかし遠坂時臣の身柄の安全を確認しないといけないし、あの訪英の知らせは偽物だったのか本物だったのかも調べないといけないし、どこから僕が転生者だとバレたのかも調べないといけないしで、色々な仕事が山積して――

 コツリ。

 いまや崩壊した下水道に、明らかな足音が響く。なんとなく、ヒールや革靴のコツコツという音の気がする。
 しかも、もはや身構える体力すら残っていない僕の方向に歩み寄ってくるのがわかる。魔術警報がなくとも嫌な予感しかしないが、身構えるどころか立ち上がって逃げる力も残っていない。座して待つしかなかった。
 暗がりの中、音だけが進んでくる。

「目標を確認。当該状況、魔力波長、外見からベンジャミン・バンクスと断定します」

 暗がりから現れたのは、驚くほどの美女だった。ネイビーのジャケット、タイトスカートにピンヒールの靴と、ただのビジネスウーマンと変わりない服装だ。白い肌と白い髪と赤い瞳、という明確なアインツベルン産ホムンクルスの特徴を備えてさえいなければ、僕は彼女に跪いて愛を奉げてもよかったのだけど。
 息も絶え絶えの僕は、必死になって口を動かすことにした。ひょっとしたら通りすがりのただのOLで、僕を助けてくれるかもしれないという妄想に縋ったのだ。すでに最低の現実に襲われているのに、頭の中まで最低の想定をすることはない。

「これ、は……すごい美人さん、だね……会えて嬉しいよ」

 僕の言葉を黙殺した彼女は、軽く手を振る。すると、まるで魔法を使ったかのように、その両手がナイフと拳銃を握っていた。袖口にでも仕込んでいたのだろう。拳銃は骨董品のワルサーPPK。師匠が見たら「ファシストの銃なんぞ使いおって!」と激昂すること間違いなしだ。ナイフも、刃渡りは30センチ程度だが、刀身の分厚さと柄のゴツさからして明らかに軍用だ。この時点でこの美女が通りすがりの一般人という奇跡は完全に否定された。そして、なお悪いことに、ナイフに限っても、僕の肉と骨を断ち切るのになんの不備もなさそうだ。

「そのナイフがなけりゃ、もっと嬉しいんだけどね」

 無言。賢いのか、それとも心をインプットされていないのかは知らないが、少なくともお喋りに時間を使ってくれることはないようだ。だから、情報を喋るだけ喋ってチャンスを逃すというハリウッドのお約束を守ってくれそうにもない。
 彼女はゆっくりと、しかし隙のない動きで近寄ってくる。なんらかの格闘技は記憶させられているのだろう。そのあたりは向こうのお家芸だ。

「なんでアインツベルンが執拗に僕を狙うのか、冥土の土産に教えてほしいんだけど」

 黙殺。ダメだ、これは本当に話が通じない。人形相手に与太話で場を繋ぐなんてコメディアンのやることだ。そう遠くない未来に自分の首が柱に吊るされる状況で、酒の席の笑い話を作る必要を全く感じない。
 ホムンクルスは僕から7メートルの地点で立ち止まり、ワルサーを突きつけた。照準は明らかに僕の額だ。
 ひくっと喉がひきつる。嫌だ、こんなところで抵抗もできずに殺されるなんて絶対に受け入れられない。僕はまだなにもしていない。遺してもいない。まだ生きていたいんだ。こんな人形に殺されて、下水道のネズミに死体をかじられる最期なんて耐えられない。
 僕はぎゅっと丸まり、両腕と足を盾にした。頭部と胴体さえ守れれば致命傷は避けられるはずだ。たとえそれが苦しみを長引かせ、たった数秒しか僕の寿命を延ばさないとしても、そうせずにはいられなかった。
 そんな惨めな姿にも、ホムンクルスは眉ひとつ動かさず、ひどく冷静に引き金を引いた。乾いた音とほぼ同時に右ひじが痺れ、弾丸が跳ねて下水に落ちる音がした。ローブの繊維を強化している魔術は非常に低レベルなのだが、入射角がイマイチな小型拳銃弾が相手ならどうにか弾いてくれることもあるらしい。これは朗報だ。もちろん弾いてくれないこともあるだろうが、ひょっとすると数秒の余命が十秒くらいにはなるかもしれない。
 次は右上腕に衝撃。コートを貫通して体内で止まったらしく、熱した炭を押し付けられたような灼熱を感じる。魔力がないから痛覚遮断もままならないのが嫌なところだ。右腕がだらりと垂れさがりそうになるのを左腕で押さえつけ、こらえる。
 三発目はコートに覆われていない左拳を狙われた。これは小指の肉を削り取ったが、骨に掠って逸れてくれたらしい。あらぬ方向に飛んで壁石を削った。正直、これが一番痛かった。あまりの痛みに鼻水と涙が出てくるが、目を瞑ればその場で死ぬ予感しかしないので、目を瞑って歯を食いしばることもできない。
 四発目は脇腹。これは抉れた部分を狙ったらしいが、ちょうど肋骨に直撃してそこで止まってくれた。弾丸を受け止めた第八肋骨が粉々になった以外は非常に幸運だったと言える。
 五発目と六発目は連続して左拳のど真ん中に命中した。ついに腕がダラリと地に着き、頭部が露わになる。
 この時点で僕はなにも考えられなくなっていた。左拳から走る激痛が思考力というものを根こそぎ奪っていたのだ。死の恐怖すら忘れ、僕は泣き叫びながらその場に蹲った。
 そして七回目の衝撃。脳をじかに掴まれて思い切り揺さぶられている、と言われても信じられるレベルの振動を食らい、そこで僕の意識は途切れた。



 だから、ここから後のことは、他人から聞いた話と僕の想像だ。



 僕は不幸中の幸いというものに縁があったらしい。というのは、左拳をずたずたにされた痛みがあまりに激しく、ついに僕は蹲って泣き叫んでしまったのだが、それが良かった。僕の額を狙っていた七発目は、亀のように動かなかった僕が急に動いたせいで微妙にズレ、頭頂部から後頭部にかけての丸みを帯びた部分に当たったのだ。弾丸は僕の頭皮と頭蓋骨の表面を削りはしたが、その威力を伝えきることなく逸れてくれたのだ。尤も、その衝撃は僕が脳震盪を起こして意識を失うには十分すぎた。

 さて、ホムンクルスが持っていた拳銃はワルサーPPKだ。おそらく装弾数は七発のタイプ。だから、最後の一発が外れた時点で、彼女はナイフを構えて僕に近寄ってきたはずだ。そして、僕が狸寝入りからの逆転を狙っているわけではないのか、少し慎重すぎるくらいに確かめたのだろう。後から時計塔の検死官に聞いた話だが、彼女は魔術が行使できない個体だったらしく、死に体とはいえ、魔術師に迂闊に近寄ることのリスクを大きく見積もったのだ。
 僕の意識が完全に失われており、トラップも仕掛けられていないことを確認した彼女は、念のために僕の背中を押さえつけて動きを封じ、首元に狙いを定める。おそらく一太刀で確実に動脈と神経を断ち切れるだけの技量を有していたのだろう彼女は、確実に任務を遂行するべく、そこを狙うはずだ。

 そして彼女は、天井の崩落部分の穴から銀色の触手が伸びていることにとうとう気付けなかった。

「Scalp!(斬ッ!)」

 ナイフを振り下ろさんとしたまさにその時、彼女と僕の直上の天井が銀の閃光に寸断された。
 瓦礫にまじって落下してくるのは銀色のぷよぷよした球体と、それに体を隠した青い服の男だ。球体からは無数の細い触手が伸び、切れ味鋭い鞭となって彼女に襲い掛かる。
 そこは流石のホムンクルス。予想外の事態に一瞬は硬直したが、自分の命よりも任務を最優先し、ナイフを振り下ろそうとして――

「愚か者め」

 まず届いたのは三振りだったらしい。
 音速にも迫る水銀の刃は、ナイフを持つ手首を一振りで切り取り、ナイフが僕の体に当たらないよう、宙を舞う手首ごと二振りで下水に弾き飛ばして、三振りで頭部を斜めに両断した。
 そして、そのコンマ数秒後、残る鞭刃が肉塊と化した彼女に殺到し、残る体を完全に解体した。血の雨が降り、眼球の片方がケインの足元に転がる。
 アーチボルト家の諜報網を用いて――なぜそこまで遠坂を疑っていたのか、理由を教えてはくれなかったが――偽報に気付いた我が友ケインは、足元に転がるホムンクルスの眼球を踏み潰し、僕の体を水銀で保護しながらこう吐き捨てたそうな。

「刺客風情が、我が友人を害するのみならず、亡き者とするなど……この私が許すとでも思ったか」








 そして、僕は目覚めた。
 目覚めて、なにがなんだかわからず混乱する僕の目の前に、おそらくは護衛役を務めていたのだろう男の魔術師が顔を突き出してこう言った。

「お目覚めですか、Mr.バンクス。一命を取り留められたようで、なによりです」

 こうして、僕は丸二日の昏睡を経て、優雅な入院生活と相成ったのである。










9/22
一部納得いかなかったので削除し、修正してアップしました。

 本当にお久しぶりです。
 海外に行ったり部活したり就活したりで死ぬほど忙しかったのもあって、普通に忘れてました。
 完結までプロットは作ってるけど肉付けする心のゆとりと気持ちが追い付かない感じですね。

 今後も不定期更新になりますが、よろしくお願いします。

 そうそう、剱冑に関してはわざと出してます。名前だけパクったとか、偶然被ったとかじゃないです。でも装甲悪鬼村正はなかなかマイナーな気もするので、fateだけ知ってれば普通にわかる書き方をしていきたいと思います。


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