注 原作「天のドレス」(セイバールートでイリヤに人形にされるやつ)後の二次創作。ちょいダーク展開やもしれません。
/ いつかの幕間
断絶していた意識がつながる。
ノイズ混じりの光景が、テレビの感度が上がるように段々とクリアになっていく。
「――ああ、朝だ」
寝起きのような胡乱な頭はそんな莫迦なことを考えた。
天蓋つきの豪奢なベッド。ぬいぐるみに溢れたその場所で、ゆっくりと目蓋を開く。
――それも錯覚。もはやこの体は瞬きどころか、呼吸すら必要としない。
手を動かそうとしてみる。当然、それも徒労に終わった。
四肢は文字通り真綿を詰められただけの木偶で、視界すらプラスチックの円盤に固定されている。
この体に、俺の自由になるところなんて何一つない。
「う、ぅーん」
傍らに、気配が一つ。それが身じろぎした拍子に体を倒された。視界が揺れて、目に見える世界が傾く。
「ぅ? ん」
傍らの何者かが身を起こした。
寝ぼけ眼のままキョロキョロと周囲を窺って、何かを探している。
やがて倒れている俺を見つけると、腕を引っ張って俺の身体を抱き寄せた。
「おはよ、シロウ」
小さな体で力一杯抱きついてくる少女。
冗談のように、抱きしめられる感触だけは伝わってきた。
それと同時に淡い芳香が鼻腔をくすぐる。勿論、そちらは気のせいだろう。
動かない口を開いて、挨拶を返す。
――おはよう、イリヤ。
1/
暗い森を抜けると、開けた視界には小ぶりだか精巧で瀟洒な造りの城が聳え立っていた。
場違いな光景に一瞬虚を衝かれ、思わずセイバーの足が止まる。
だが其処が城であろうが東屋であろうが関係ない。己のマスターが捕らわれているという一事のみが問題なのだと、思考から余分を切り落とすと、セイバーはアインツベルンの根城に向けて足を踏み出した。
その一瞬の間にも、凛は立ち止まることなく先に進んでいた。
少女の手によって、重厚な城の扉が重々しい音を立てて開かれ、そして躊躇うことなく城の中に這入っていく。
すぐさまセイバーはアーチャーとともにそれに続いた。
幸いにも侵入者用のトラップはなかった。
それでも此処は魔術師の根城だ。油断は死に直結する。
セイバーは逸る心を抑えて、慎重に辺りに視線を配った。
城のエントランスは広い。
そして外見同様、暗い森の奥には場違いなほど豪奢な造りをしていた。
比較対照が自分の記憶しかないため、セイバーの知る城とはいささか赴きは異なる。
それでも一目で“城”とわかる絢爛さだった。
此処に来るまでに通った薄暗い森との格差のためか、それは一層煌びやかに目にうつる。
そして、そんなエントランスの中央には、場違いな人形が一つ。
無機質な円盤状の目が、じっと侵入者を見つめている。
思わぬ出迎えに先頭を行く凛の足が止まった。
それにつられるようにセイバーも立ち止り、少女の横に並び当惑に顔を見合わせる。
両者が当惑を言葉にするよりも早く、殿を守る弓兵が出し抜けに口を開いた。
「凛、手遅れだ」
「え? なに、アーチャー?」
セイバーと凛が振り返ると、弓兵は視線で前方を示した。
その先には無垢な顔をしたぬいぐるみが鎮座している。
「その木偶が、衛宮士郎だ」
咄嗟に言葉の意味が理解できず、セイバーは戸惑いとともに再度“それ”を見つめた。
何度見返しても、彼女の目にはそれはただのぬいぐるみにしか見えない。
「そんな……人形に魂を転送(アポート)したっていうの? 魔法レベルじゃない!」
「おそらくは、遠見の魔術の応用だろう。転送先を選ばなければ不可能な話ではない」
取り乱し気味の凛に対し、アーチャーは淡々と言葉を重ねる。
セイバーにはその声がひどく遠くに聞こえた。彼女はただ呆然と眼前の人形に見入る。
「――どう? リン。新しいシロウの器(からだ)は気に入ってもらえた?」
不意に、頭上から幼い声が響く。
弾かれるように顔を上げ、視線を人形の背後、二階へと続く階段の踊り場へと向ける。
そこには声の主、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの得意げな顔があった。
セイバーの隣で、凛の肩が驚愕と緊張に強張る。
先ほど、森に入る以前、彼女たちはイリヤスフィールを乗せた車が街に向かうのを見ている。
それを確認した上でこの城に忍び込んだのだ。相手が車を使っていたといえ、先回りできるはずはない。
だが、いるはずのない少女はこうして目の前で冷笑している。
隙をついたつもりが、まんまと出し抜かれた。
相手を見誤っていたと、セイバーは自分の読みの甘さに歯噛みする。
そして、そんな塊根の念が霞むほど、少女の傍らに佇むサーヴァントの存在感は圧倒的だった。
今の今までその存在に気付かなかったのか不思議でならない。
巌のように聳える狂戦士はただ其処に在るというだけなのに、それほどまでに強烈な死の気配を放っている。
セイバーが横目でうかがうと、凛はきつい視線で前方を睨みつけていた。
あまり表情には出ていないが、その焦りは見て取れた。
それも当然だ。彼女たちはバーサーカーとの正面きっての戦闘は想定していない。
それは絶対に避けなければいけないことだった。
「悪趣味なものね。魂を封じ込めて人形遊び?」
「シロウは特別よ。リンはちゃんと殺してあげるから、心配しなくていいわ」
凛の挑発のような悪態もイリヤスフィールは意に介さない。少女はただ無邪気に微笑んだ。
その言葉に嘘はないだろう。
一度手を合わせているため、セイバーは狂戦士の力がどれほどのものか身をもって知っていた。
故に今の自分ではまるで相手にならなず、もし出会ってしまったら逃げるほかない。――そう思っていた。
だが、実際に狂戦士を前にして、その考えさえ甘かったと思い知らされた。
今アレに背を向ければ、その瞬間に絶命しているだろう。直感によらずして、セイバーはそのことを確信する。
敗北は必至。状況は絶望的。
――どうするべきか。
少なくとも、士朗の魂を宿すというぬいぐるみは確保しなければいけない。
そう思って、眼前の人形に眼をやる。そうして、何を写すでもない無機質な瞳と眼が合った。
唐突に、認識が追いつく。
眼前のそれが彼女の“シロウ”なのだと、セイバーは今になってようやく理解した。
彼とのレイ・ラインは繋がれていないが、サーヴァントシステムはそれなくしても主従の縛りを教えてくれる。
それは間違いなく目の前のぬいぐるみが己のマスターであることを指し示していた。
そして、それを理解すると同時に心が決まった。
何を為すべきか。それは考えるまでもないことだった。
――マスターを前に、サーヴァントが為すべきことなど決まっている。
足が前に出る。
横に並んだ凛から一歩先へ。剣のサーヴァントは一歩、マスターへと近づく。
「凛、逃げてください」
彼女の口からは自然と言葉が出た。
「ちょっと、どうするつもり?」
ひどく不機嫌そうな凛の声。セイバーはその声で、彼女はとうにこちらの思惑など理解しているのだと気付いた。
それでも尋ねるということは、彼女にも他に術がないということだ。
「ここは撤退するべきです。…わたしが殿を務めます」
わかりきった答えを返す。
――誰か一人を囮に。この場でそれ以外の答えはあるまい。
凛が何かを言おうとして、言葉を詰まらせた。
その気配を背に受けて、セイバーはさらに一歩、歩を進める。
歩みと共に鎧を身に纏う。
たったそれだけのことで、体を襲う希薄感に息が詰まらせる。
魔力不足はもはや眼前のバーサーカーと変わらぬほどの死活問題だ。
――ならば、躊躇うことなどない。
世界から追い立てられているような圧迫感を無視して、セイバーは更に足を前へ進める。
剣を持たぬ手で主を拾い上げ、ベルトに押し込んで固定する。
その間にも、何故かバーサーカーからの攻撃はなかった。
見上げると、イリヤスフィールは嘲笑を浮かべてセイバーの行動を見下ろしている。
それは己が圧倒的優位にあると確信している者の余裕だった。
事実ゆえに、その態度も不快ではなかった。
それに余裕は常に油断に繋がる。この一瞬がセイバーたちにとって有利に働いたのは確かだ。
たとえ僅かでも目的に適うのならば否やはない。
「出来る限りバーサーカーを引き付けます。そのうちに凛は…」
「――わかった。ここは貴女に任せる。…貴女も適当なところで逃げなさい」
ことさら平淡な声色の返事。セイバーはそれにあわせるように無表情で頷きを返す。
「ええ。…後ほど、シロウの屋敷で落ち合いましょう」
おそらくその時は訪れないだろう。
互いにそれはわかっていた。
交わされる言葉に意味はなく、それは単なる儀式だ。
セイバーは自分の行動さえも、それと大差のないことをわかっていた。
だが儀式であるからこそ、意味はなくとも為さなければならない。
そう思い、彼女はまた一歩前へ踏み出す。同時に凛が背後へ下がる気配を感じた。
だが動くのは凛の気配は一つだけだ。彼女の従者は未だ其処にある。
「アーチャー」
凛が促す。それでもアーチャーの気配は動かず、かわりに声が投げかけられた。
「老婆心ながら忠告させてもらうがね。セイバー、それは捨てておけ」
凛が絶句する気配を感じる。「それ」とは勿論ベルトに差し挟んだマスターのことだろう。
「…あんた何言ってんの?」
凛の声に怒気がこもる。だがセイバーはその暴言に対しなぜか冷静でいられた。
彼女自身がその理由に思い至る前に、背中にアーチャーの淡々とした声が降りかかる。
「わからんのか、凛。あれは既に衛宮士郎ではない。アインツベルンの傀儡だ」
その言葉に再度凛が言葉を失う。
セイバーは彼女の探るような視線を感じたが、その後にもアーチャーの指摘を否定する言葉は出てこなかった。
沈黙する凛に追い討ちをかけるように、感情を欠いたアーチャーの声が続く。
「それを持っていれば、バーサーカーのマスターに居場所を知らせているようなものだ。最悪、寝首をかかれることにもなりかねん」
その言葉にセイバーは心の中だけで嘆息する。
理屈によらず、彼女はそのことを直感していたのだろう。
だからアーチャーの言葉にはそれほど衝撃を受けなかった。
だが、たとえそうであっても直接指摘されると気が滅入る事実でもある。
「重ねて言う。それは捨てておけ」
静かに叩きつけられる声。
アーチャーは既に衛宮士郎をセイバーのマスターとして見ていない。
イリヤスフィールの使い魔として、排除すべき敵として認識している。
それをしないのは、近づきさえしなければ今の衛宮士郎は限りなく無力だからだろう。
だからといって、彼はセイバーが士郎を後生大事に抱えることも許すわけにはいかない。
囮であるセイバーが敗北する時間が早ければ早いほど、アーチャーのマスターの身が危険に晒される可能性も高まる。
セイバーはアーチャーの言葉が正しいことを理解していた。
そして、ここまで付き合ってくれた彼女らに報いるつもりなら、その言葉に従うべきこともわかっていた。
その胸に一瞬だけ迷いが生じる。だが次の瞬間に口から出たのは謝罪の言葉だった。
「…申し訳ないがアーチャー、それは出来ない」
間を置けず弓兵の嘆息が聞こえる。まるで彼はその答えを予想していたようだった。
「忠義心は結構だがね、それを持ち帰ったとしても、凛にはどうすることも出来んぞ」
その行為に意味はない。アーチャーはそう言っている。
その言葉にセイバーは安堵する。
ここで「囮としての役割」について言及されたら、彼女は再び思い悩んでいただろう。
だが彼はそれをしなかった。
「すみません」
セイバーはただ謝罪の言葉を繰り返す。
アーチャーは処置なし、というように再度ため息をついた。
「謝るくらいならその木偶を手放したまえ」
疲れたようなその口調にセイバーは思わず苦笑を返した。
弓兵の憮然とした表情が眼に浮かぶ。
だが、同じ立場であれば彼も同様のことを言ったであろう。セイバーはそれを確信していた。
皮肉の一つでも言いながら、彼もこう言うに違いないと。
「…シロウは、わたしのマスターですから」
アーチャーはもはや何も言ってこなかった。それは凛も同じだ。
だが、その一言は、思いがけない反応を引き起こした。
「シロウはわたしのサーヴァントなんだから!」
唐突に、イリヤスフィールが苛立たしげに声を震わせて叫んだ。
それまでの余裕が嘘のように、彼女は眉を吊り上げて感情を露にした。
高潮した顔に浮かんだのは、驚くほど激しい憤りの表情。
過剰なまでの反応に呆気にとられるセイバーをよそに、イリヤスフィールは感情を持余すように体まで震わせて激昂する。
「バーサーカー!」
唐突な開戦の合図だった。
呼びかけに従い、鉛色の巨人が跳躍した。
雄たけびを上げ、地響きとともにホールの中央に降り立つ。
勢いを落とすことなく、巨人は砲弾のごとくセイバーに迫った。
迎え撃たんと騎士は剣を構える。その背後では、凛とアーチャーが走り出す。
バーサーカーの剛剣が空を割く。
セイバーが覚悟を決める。敗北の瞬間を刹那でも遅らせるのが務めと、剣を握る手に力を込めた。
――だが、斧剣がセイバーに届くよりも、その体を呪いが縛る方が早かった。
『俺の魔力、全部持っていけ!』
唐突に脳裏に響いた、声。
もう何年も聞いていなかったように感じるほどの懐かしさ。
驚きにセイバーの思考が停止する。
そして言葉の意味を理解するより早く、呪いが形を成す。
今まで閉ざされていたマスターに繋がる魔力の道が音を立てて接続された。
叩きつけられるように流されてくる魔力。
決して豊潤とはいえなかったが、それでも枯渇しかけた体を仮初の生命で満たしてくれる。
同時に別の繋がりが失われる感覚。――令呪だ。セイバーがそう気付いた時には次の呪いが発動していた。
再び脳裏に響く、声。
『俺を置いて逃げろ!』
途端にベルトに挟んでいた士郎が転げ落ちた。
そして足はセイバー自身の意思とは関係なく、限界以上の魔力を吐き出して身体を強引に後方へと運んでいく。
眼前に迫っていたバーサーカーの振るう岩塊は唸りを上げて空を切った。太刀風にあおられて、士郎の体が勢いよく床を転がっていく。
――そうして、セイバーを縛る最後の令呪が失われた。
一瞬だけ流れ込んできた主の思考も途切れる。
自分の浅慮に対する後悔。不甲斐なさへの悔恨。無力に対する無念。続けられる闘争への憂苦。マスターに逆らうことへの苦痛。少女に対する心痛。最期までマスターたらんとした決意。
そんな彼の想念が消えていく。
残るのは、身を縛る最後の令呪の強制力だけだ。視界に移る景色が高速で前方に流れていく。
「くっ」
歯を食いしばり、セイバーは全力で最後の命令に抗った。
補充されたばかりに魔力が何割か抜け落ちていくが構わなかった。
足を床に突き刺すように、なおも後退しようとする体をその場に押し留める。
令呪本体が失われているためか、その抵抗はそれほど難しくはなかった。
床に足と剣の爪あとを残しながら、セイバーの体は城の外へ飛び出す前に止まった。
バーサーカーを前して絶望的な隙であったが、何故か追撃はなかった。
我に返って狂戦士を見ると、敵は追撃の姿勢で止まっている。
彼にそんな真似を強要できる者は一人しかいない。
視線を巡らすと、アインツベルンのマスターは階下に降りて、転がる士郎を拾い上げているところだった。
少女が立ち上がると、ぬいぐるみを抱きしめながらセイバーを睨みつける。
凍てつくような視線がセイバーに突き刺さった。
「あら、逃げないの? シロウはそう命令したんでしょ?」
氷点下の笑みを浮かべたまま、イリヤスフィールが嘲笑する。
その言葉でセイバーは漠然と理解した。軽く睨み返しながら答える。これもまた儀式だ。
「見くびるな、イリヤスフィール。確かに令呪は失われたが、私の誓いは顕在だ。シロウは私のマスターだ。この身がある限り、私は彼の剣となり、盾となる」
案の定、その言葉をイリヤスフィールは頑なに否定した。
譲れぬと、自分こそが正しいのだと厳かに告げる。
「違うわ。シロウはわたしのサーヴァントなのよ」
それが戦闘再開の合図だった。