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[4733] アホウ少年 死出から なのは  (現実→なのは)
Name: コルコルク◆8f84f3de ID:efa95347
Date: 2008/11/08 02:06
 いつ死んだってかまわないと思っていた。


 生きることに絶望していたわけではない。死に希望を見出したわけでもない。

 僕という人間はたしかに生に無頓着で、死ねば終わりという言葉に肯定的な意味を見出していた。自殺などについても硫化水素や電車への飛び込みなど他人様へ迷惑をかける方法さえとらなければそれも良いと思う。尊厳死にも大いに賛成。

 自身もちょっと辛い期間が続くだけで、空から槍でも降ってきて痛みもなく死ねないかなどと、ろくでもない妄想にふけったりもする。

 しかし、このときの僕は、間違いなく輝いていたのだ。大学三年の学年末テストが終わってできばえもまずまず。これまでに落としていた単位もここで挽回ができた。研究室配属もおおむね希望通りの結果が見えて、四年が始まるまでまだ一ヶ月以上もある。

 満喫しようじゃないか、ハッピーライフ、ナイスホリデー春休み。テストはない、授業はない、宿題もなく、今はバイトもやっていないし、就職活動も院に進むつもりなのでまだ先だ。ゲゲゲなお化けも驚きの麗しきないないづくし。そこにはひたすら生きる喜びが満ち溢れている。


 けれど、それでも、今の僕には死んでもいいかな♪ などと、ほんの微小ではあるが思ってしまっていたことを否定できない。それがこの現状につながっているとも同様に否定することはできなかった。



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アホウ少年 死出から なのは

第0話 みんな文化してる? 
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 [遺書.exe]なるファイルが存在する。

 パソコンとは非常に便利なもので多岐に渡る作業をそれ一つで行える。いまどきの若者がいったいどれだけそれなしに学生生活を営めるものであろうか。レポートの作成にはワープロソフトが必須。得られる情報の信頼性には難があるとはいえインターネットの情報力は紙媒体のそれと比べて比較にならない速さがある。実験データから家計まで、データの編集にいちいち電卓をはじいてなんていられないし。娯楽にも有用だ。オナニーとか、自慰とか、シャドーセックスとか、セルフバーニングとかが代表的なその一部であろう。

 それだけにパソコンにはその使用者のありとあらゆる機密とプライバシーが集約され、その有用度に比例した量の火薬を搭載する恐怖のパンドラボックスとなりえるものである。

 それが暴かれる恐怖とはまさしく人類の共通無意識的な根源的忌避感であるといえよう。雪山で遭難して今にも危険な眠りにつきそうなときには「ハードディスク」強く叫んで睡魔を払う習慣が広くにわたって存在すること。もしくは、一方が死ねば残った者が遺されたハードディスクを破壊する契約を交わした二者が義兄弟と呼ばれることを知れば、パソコンが覗かれる恐怖を理解できるだろうか。ちなみにこの二例は嘘である。


 閑話休題。


 とにかくパソコンを他人に見られるのはいやだ。いやなことにはそれ起きないように対策することこそホモ・サピエンスのしかるべきあり方だろう。

 そこで僕は日常的に存在するパソコンが暴かれる恐怖を[遺書.exe]を導入することをもって対策とした。[遺書.exe]とは要するにハードディスクの消去プログラムで、これをひとたび起動すれば僕のハードディスクに秘められた情報が復元不可能なレベルで全削除されることになる。[遺書.exe]はパソコンの起動とともに表示されるデスクトップ画面をごみ箱と共に占領し、そのアイコンはメモ帳に偽装し、拡張子は隠してある。

 こうしておけば僕のパソコンを僕の不在に覗く輩はまずこれを起動するだろう。パソコンを盗み見られる場合にしろ、僕が何らかの原因で死んで僕のパソコンが遺品となった場合でも、これで僕の守ってきた僕の紳士的な在り方は守られる。


 これを設置したのが昨晩。

完璧だね、HAHAHAHAHA。これでいつ死んでもオッケーさぁ↑


 などと思ったせいだろうか、ホントに僕は死にかけている。


 レンタルしていたDVDを返却しようとしていた。青信号を渡っているさなか右折する大型トラックが僕を大きく弾き飛ばしたのだ。


 ガッシと飛んでボカッと着地、というか叩きつけられゴミくずのように地面を転がった。まだ死んでこそいないが、赤く染まった視界がそのような予感をビンビンさせている。激痛と同時に、妙にふわふわとした心地。人の喧騒が遠く、誰かが強く声をかけているようだが他人事のように感じる。口はだらしなく開き、そのくせまぶたはとても重い。晴れの日のはずなのに妙にシットリぬるぬるとしたアスファルトから急速に熱が奪われている気がした。

 それが走馬灯というものか、そこで頭に浮かんだのが昨日パソコンに仕掛けた[遺書.exe]のことだったからこれまた救えない。

悔いはなく、それどころかここで絶えるのも良いかもしれないと、仕掛けたイタズラが十全に機能するだろう僕のいない未来を想像して面白みさえ感じてしまっていた。


 僕はゆっくりと赤い視界を閉じようとして―――ソコにソレを見た。


 死ねない。ぼやけた心の中でそう思った。
さびた機械のような手を必死に伸ばす。腰をやられたか。下半身の感覚がなくなっていることに気づきながら、それでも痛みをこそ生の実感としながら僕は必死に手を伸ばした。


 だって無念が過ぎるじゃないか。いままでの人生、物心をついて分別を知って以来、必死に隠してきた僕の性質。自身を偽り、外界に対していつも仮面をつけていた僕の本当をどうしていまさら暴き立てられなければいけないのか。

 人は今にしか生きていない。過去も未来もその瞬間ごとの認識に他ならない。故に死後とは想像することによって確かに存在し、その想像が穢れることこそ無念であり未練である。


 立て、立つんだ。死んではいけない。いやだ死にたくない。立って、レディと肩をぶつけたときのように微笑んで落としたものを拾ってさわやかに立ち去らなければいけない。あくまでエレガント。僕のその性質に疑惑の余地すらなく連想のきっかけさえなく歩き去らなければいけない。だってそうしないと僕の一生があまりにも無様じゃないか。


 必死に手を伸ばし、血を吐きながらその手を伸ばして、血に濡れたアスファルトで指を滑らせた。ぐしゃりと体が血に落ちる。壊れたひしゃくから水が流れていく。濡れた体は真っ赤に染まり日光に浴びてさんさんと崩壊する。もう一度、もう一度と試みを穴の開いた胸をたぎらせて震える指を開いた。イタイイタイ、もはや痛くすらない。思考が機能が人間性が頭の裂け目から流出していく。僕という肉体が死体へと近づいていく。血が流れる。命が流れる。思考に闇が入り込んだ。

 そういえば僕は何をしようとしていたのだったっけか?

 それでもついにはソレに手をかけて、

 僕は死んだ。スイーツ(笑)





 彼が最後につかんだモノ。それはこの日、彼が出かけ、事故現場を通ることとなったそもそもの要因であるレンタルDVDの返却袋。

 その中身こそ彼が隠れながらも愛したサブカルチャーのその一端。

 『魔法少女リリカルなのは』

――――――――――――始まります。



[4733] 第1話 我思う故に我在り
Name: コルコルク◆8f84f3de ID:efa95347
Date: 2008/11/29 23:34
 と、いう夢を見たんだ。

 で済まされれば楽なもの。実際はそれですまないから困りもの。

 僕があの時―――トラックにはねられてから眼が覚めると、ソコは真っ白な光の中だった。白い天井を見て僕は思う。


(ああ、生きていたんだ)


 確実に死ぬ予感がしていたのだけれど、今は痛みもありません。なんだか気を失う前すごくばかげたことに必死になっていた気がする。隠れオタクの矜持を示したような示さなかったようなだが、まあ気を失った時点で駄目だろう。きっとあのDVDは家族に見られてしまったに違いない。まあ、それもしょうがないこと。よくよく考えてみると僕はいったいなんであんなに必死になっていたのだろう。とりあえずレンタル期限ギリギリだったあのDVDを気を利かせた誰かが変わりに返却してくれたことを祈るとしよう。

なんにせよ生きているのだ。それならばそれなりのことをするべきだ。この白い天井はきっと病院。まずはナースコールでも押すとしよう。もしくは儀礼的に、知らない天井だとでも呟いてみるのがいいかもしれない。ぼやけた視界でそう考えた。

「おぎゃー」
(ぬわーーーーっ)

 なんだ。なにごとだ。今、僕の口から他人のような声が聞こえたぞ。いや、まった。ちょっと、タンマ。何かの間違いだ。も一回、もう一回トライ。いっせいので、

「おぎゃー」
(ぬわーーーーっ)

 パパスもびっくり。断末魔のような声がでましたヨ。いや、真面目な話、事故でノドをやってしまったのかもしれない。そういえば体の調子が悪いような気がする。視界はぼやけているし、聴覚もどこか変な気がする。手足も動きが鈍いし、何より頭が重い。

 それにしてもノドを傷つけて声が変わるとすれば低い方向に変化するのが普通な気もするが、どういうことか僕の声は高くなっているようだった。どうしてだろう、まあ所詮僕は医者でもなく低くなるのも単なるイメージだ。とりあえず声が変わるほどノドを傷つけたのならあまりしゃべらないほうがよかろうよ。

 僕はとりあえず動かすことはできるらしい手を上げて、

(?)

 ぼやけた視界に映ったのは団子のような手だった。いちいちのパーツが短く、相対的には太いともいえるかもしれない。嫌な予感。とりあえず動かそうとすれば動く。旗を8の字に振るように大きく動かした。握って、開いて、なんともまあ短くなりましたね、僕の指。なんというかファッキン。

「んぁうやぁうぎゃー」
(なんじゃこりゃー)

 ひときわ大きく叫んでみればなぜかソレが連鎖した。

「オぎゃー」「おぎゃー」「おぎゃー」「おぎゃげあー」
「うえっうえっ」「うァーん」

 僕じゃない。ソレらは全てが若い声。若いといっても年にして一桁未満――僕の恐るべき連想を言葉にするなら『赤ん坊』の泣き声だ。

「おんぎゃー」「ふぎゃー」「ぎゃー」「おぎゃあーん」
「ちょぉっ」「おまぁーっ」

 つまり、僕の恐るべき連想をさらに進めるのなら、ここは産院かなにかの新生児を入れる保護カプセルが並んだ一室である。この推理は僕がそこにいるという前提的な矛盾に目をつぶればよく出来ているように思えた。

(って、んなわけあるかっ)

 もう声を出す気にはなれなかった。

 なんでか眠い。寝る子は育つ? いやいや、きっと怪我のせいである。僕はこれを幸いに不貞寝を敢行した。



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アホウ少年 死出から なのは

第1話 我思う故に我在り
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(むぅ)

 夢ならばよかったものを。

僕の居場所およびに肉体はあれから何度起きても変わることはなかった。白い天井、鈍い体、おぎゃおぎゃうっとうしいお隣さんたち。このごろには僕だってわかってきた。おそらく、僕は赤ん坊なのだ。というか妙にでっかい(正しくは僕が小さいのだが)看護士につれられて、うれしそうな母親なる人物に対面させられては僕とて認めざるを得なかった。

 いったい僕はどうしてしまったのか。

幸いというべきか考える時間だけは豊富にあった。

 まず始めに思い浮かんだキーワードが生まれ変わり。いわゆるリーンカーネーション。
僕があの事故でその魂がこの赤子の肉体に入ったという思考。いちおうの仏教国であるこの国の文化にそっているし、しばしば物語の題材にもされていて納得しやすい。ところで魂ってなんだろう?

 次に考え付くのは夢落ちだ。僕は僕が赤ん坊であることが夢ではないかと疑ったが、ここで言及するのはその真逆。僕がかつて大学生までなっていた記憶こそがこの赤ん坊の見た夢だったのではないかと考えた。生まれ変わりなどという非科学的な話とくらべれば、現行の理論だけで説明できるぶん真っ当かもしれないが、さすがにムリがある。

 まあ、ムリといえば、この現象に理由付けるにはどうやったってムリな論理的飛躍を用いざるを得ないのである。なにせこの現象自体がいままでの僕の常識からしたらムリそのものなのだ。結局のところ現段階でこの現象の理由を考えるのは無駄であろうということで僕の思考は落ち着いた。

 重要なのは未来のことだ。

 whyよりもhow。もはやこうなってしまえば僕が前世(あえてこう呼ぶ)の記憶を持っていることは前提だ。その上でいろいろなことを考えていくべきだろう。

 まず僕は男の子。前世で男を二十年以上やったのだから今度は女の子が良かったのだが、残念ながら僕の股間には残念なポークビッツがついていた。

 なんにせよ前世の記憶を持ち越していることは新たな人生を送るにあたって至極有利なことだろう。いわゆる強くてニューゲーム。身体能力こそ持ち越せないものの、記憶だけでも十二分なアドバンテージだ。つまらない一例を挙げれば、よほどサボらないかぎり大学なんかは選び放題だろう。

いや、転生などという超自然的な現象を体験しておきながら何をつまらないこと計算なんてしていると自分でも思うのだが、20年のアドバンテージは本当に有効なのだ。20を過ぎてからとみに時間の有限さを実感しだした僕には本当にありがたい限りだ。

 基本的に俺Tueeeeeeとか大好きな人間である。僕は今から、これから大人になるまで何をして遊ぼう、何を学ぼうとわくわくしていた。


 ただ、気がかりなのは両親のことだ。前世での両親はまあ親不孝をしてしまったが事故だったからしょうがないとして問題はいまの親。

 彼らは自分の子供がまさかこんなとは思うまい。深い愛情とがんばりの果てに生まれ、これから一緒に試練を超えて成長していくはずの純粋で天使のような子供の中の人が実は20も過ぎたヤロウ様だなんて知ったらどう思うだろう。僕だったらいやだ。

(これを知られたら、泣かれるよなあ)

 先ほどおっぱいを飲ませてくれた母親なる人物はかなりの美人さんだった。そのきれいな顔が歪んで憎悪を僕に向けるのを考えるとかなり恐ろしい。そして気がめいる。

 だから隠すことに決めた。

 僕は普通の子。もしくは普通の天才児。

あの二人を心の底から慕うことはできないのかもしれない。

すでにいやな予感がヒシヒシとしているが、それでもせいぜいこの両親にとって良い子であろう。小さなベッドの中、小さな僕はオギャと呟いた。





 4才になった。

 これくらいになると好きなように歩くことができるし。いくら話しても問題がない。本や新聞を読んでも賢い子だと喜ばれるレベルですむだろう。都合の良いことに近所に図書館があったので週に一回そこに連れて行ってもらって本のまとめ借りをしてもてあました時間は何とか潰すことができていた。もっとも、僕とてまだかぶった猫を手放すつもりはないから、借りる本が限定されるのがちょっとしたストレスである。

 この四年間でわかったことがあった。

 僕は僕のままである。生まれてから数ヶ月の声帯が未発達で声もまともに出せなかった頃こそ、実は赤子時代に前世の記憶を持っていることはそんなに珍しいことではなく、成長するにしたがって前世のことを忘れていくため世間はそれに気づかないのではないか、なんて危惧をしていたのだが、そういうわけでもないらしい。先述のとおり僕は本性を隠しつつも図鑑や辞典が大好きなこすっからい子供のままだ。

 あと、どうも転生に伴って過去に戻っているようだった。前の僕が死んだのは21世紀にはいってのこと。なのに今の僕の出生は20世紀末だった。ここから考えられるのは時間の逆行、もしくは前の人生が実は夢落ちだったという説があるが、僕としては時間の逆行よりかは未来予知じみた現象のほうが、まだありえる気がするので後者を推す。しかし、いずれにせよ現在の判断材料だけで確定的に語るのはナンセンスだろう。

 転生の真実は依然として闇の中。正直なところ一生わからないのではないかとも思っている。


 ああそうだ、それと両親が離婚したことも報告しておこう。

 先に言っておくがこれは僕のせいではない。いや、僕が年不相応にしっかりとしていて手間がかからないから母が離婚に踏み切れたというのはあるかもしれないが、僕の責任じゃない、と思う

 主に嫁姑の確執が原因だ。

 両親と僕が住む家は父方の祖父母の家と近所にあったのだがこれがいけなかった。祖母は電話でムリヤリ母を呼びつけては家事の一切を代行させたり、良い土産をくれてやるといっては腐った野菜や肉を押し付けた。連絡もなく家に押しかけ、掃除がなっていないといちけちをつけ、延々ネチネチいびり倒す。教育してやるといって、こんなモノを息子(父)や僕に食わせるのかとせっかく作った料理を流しに打ち捨てた。母は新しい服を買うことも許されず、アクセサリーは捨てられ、時には暴力も振るわれていた。

 そんな鬼婆の息子たる父はというと、母を助けることはなく「お前のためを思ってやっているのだから」と見事にスルー。それどころか母親(姑)に何を吹き込まれたのか自分の嫁(母)に「もらってやった」だのと香ばしい発言をし始め、まるで奴隷に対するような態度をとるようになった。

 これらは後になってに暴露された母の一方的な言い分だが、土産のくだりや父が横柄な態度を取り始めたあたりには僕にも覚えがあった。

 そんなわけで、夫婦仲が冷め切っているのを察知していた僕が「もう我慢しなくていいんじゃない?」とにいってみたところ、いったいどのような心境の変化があったのか母はこれまで耐えてきたのが嘘のように猛然と離婚に向けて動き出した。

トントン拍子に離婚は成立した。

 離婚の際、父と祖母は僕に自分たちにつくよう言ったが僕はあくまで子供らしく「絶対ヤダ。バーちゃんキライ」と突っぱねた。本当にヤなのである。あの婆さん僕には優しくしてくれたが、こっちが子供だと思ってキスしようとしてくるのだ。小さい子に対するそれはスキンシップの一環だと理解できるのだがイヤなもんはイヤだ。顔面を近づけてくるたびにギャン泣きして阻止していたが、それを除いても日ごろのスキンシップ過剰はうざかった。

そんなわけで以来父には会っていない。

 離婚時の慰謝料を元手に僕ら母子は引越した。現在はアパート暮らしだ。僕が幼稚園に行かされている間、母はパートタイムで働いている。

 なんというか我ながら異常な子供であることを自覚して、それでも両親には幸せでいてもらおうとしていた僕の幸せ家族計画は思いもしない――そのくせいやに現実的な理由で早くも破綻してしまった。こうなっては僕の家族は母だけである。

本当のところを言うといまいち僕とは合わない人ではあるが、せめて彼女は幸せであるよう心に祈り、そうあるために僕も協力していきたい。






 8歳、もうすぐで小学校3年生になる。

 母はここ二週間ほど帰っていなかった。

 だがそれは僕にとって特別に心配することではない。今までだって一週くらいなんの連絡もなく留守にすることはあったものである。

 母は働きに出てから変わった。

我慢しなくていい、などと僕にいわれたのがきっかけなのか、仕事場でチヤホヤされて自分もまだ捨てたものではないと悟ったのか、結婚時代の不遇を取り返すように、その美貌にたよった男漁りをし始めた。

 ここのところの留守はおそらく新しい男の家にでも転がり込んでいるのだろう。

 家に男を連れ込んで息子の眼もはばからず昼間っからあえぎ声を上げているよりはいいのだが、そろそろ家に備蓄してある食糧がなくなってきたのが問題だ。家の中をあさって残っているのは米が数キロにしなびたキャベツと即席ラーメンが三袋。

 しょうがなく家捜しをして見つけられたのは現金が5千円と小銭が少しだけだった。それもこの5千円は家具の隙間から見つけたものだ。

 やばくね?

預金の通帳も探したのだがそれらは全てがない。母の通帳だけではない。父からの養育費が振り込まれていたはずの僕名義の通帳もいつも置いてある場所からなくなっていた(養育費の振込みはとっくに止まっていたが)。

 ファック。僕は思い出した。

そういえば最後に母に会った一週間前、彼女は僕に言った。「あー君(彼女は僕のことをこう呼ぶ)は一人でも大丈夫だもんね?」 日ごろからニグレクト上等な母である。そのときは何を当たり前なことをと、即答(もちろんYes)してしまったが、よく考えればそれが最終フラグだったのだろう。

 僕は捨てられたのだ。

「うわ、ひっでえ」

 いやな予感は昔からしていた。

幼稚園児のころから息子の髪を金に染めてピアスをさせたあたりから致命的に僕とは相性が悪い人だと知っていた。いや、いやな予感と言えば生まれたときからだ。そもそも息子に『愛天使』(これでアイリエルと読ませる。ねーよ)なんて名前をつけた時点で頭が沸いてないかと疑っていたものだ。

 命名の際、愛天使が示されたとき僕は大いに泣いて抗議の意識をあらわにしたものだが受け入れられはしなかった。

ちなみにフルネームで『望月 愛天使(もちづき あいりえる)』だ。

イジメじゃね?


 まあいいや。

未来志向が僕の基本姿勢である。

捨てられたのなら捨てられたでそれなりの対応を取らねばなるまい。

 さしあたっての急務は食料の確保だがどうしたものか。

 僕は小学生である。学校に行けば少なくとも昼食は得られそうだが、そのためだけに学校に行くのはいまいち気が引けた。というのも僕は大絶賛登校拒否中なのだ。

すでに常識として知っていいる知識を聞きに行くために毎日何時間も拘束されるのは苦痛である。

 学校には行きたくない。幸い小さな頃から図鑑ばかり眺めていた実績があるから母は僕が賢いことは知っていたし、僕が家のことをするからと言ったら母は学校に行かないことを認めてくれていた。家事の代行に釣られる物分りのいい母に対しては、いいのかよそれで、と当時から感じていた隔意をさらに強めることとなったが好都合ではあった。そんなわけで僕は毎日図書館通い。当初こそ学校の先生も気にかけて学校に誘ってくれたのだが、いずれ諦めた。

そんなわけでいまさら学校になんか行けるかよという気分がつよい。

それにそもそも給食費払ってないっぽいよね。


 この日はとりあえず図書館に行って司書さんに追い出されるまで好きなだけ本を読んだ。帰りがけ、スーパーで安売りの豆腐ともやしを買った。


 醤油をかけた豆腐をパックから直接食べている。じらじらとさえずる切れかけた蛍光灯の明かりが口角が釣りあがるのを照らす。ついに耐えられなくなって僕は笑いを外気に漏らし始めた。

 父と母は別れ、そして母にも捨てられた。これで僕は一人である。

「素晴らしい」

すなわちこれこそ自由。正直、母には複雑な感情もあるが、僕は喜んでいた。

これで何に遠慮することもない。思えば降って湧いたような子供生活は楽ではあったが常に歩む足元には藻草が絡まっているようでもあった。それは僕が普通の子ではなかった両親に対する引け目に由来した。だから両親が軽蔑すべき人間であればあるほど引け目は軽くなる。

ありがとうお母さん。僕を生んでくれて、僕を捨ててくれて。

今、僕は自由だ。

僕が転生していることに対する僕自身への引け目すらもうない。むしろ僕が僕という転生体であることで僕に恩を売れる気にさえなる。だって普通の子をこの環境で生きさせるのはいささかかわいそうだろう。

 人は社会的な動物であると誰かが言った。多少知恵があるとはいえ肉体的、社会的には結局子供。一人でできることなどたかが知れている。

それでも、しばらくは一人で生きたいと思った。

 醤油をかけた豆腐をパックから直接むさぼっていく。

 お父様、お母様、望月愛天使(もちづき あいりえる)は強く生きます。

 フハハハハハハ。



愛天使の日記

3月 4日  晴れ

 一人で生きると決めた以上、まずは食を確保せねばなるまい。お金は5000円しかない。とりあえず偉大な先人の貧乏暮らしに従って、パン屋で100円分のパンの耳を買った。パンの耳をくださいといったとき、オバちゃんがあからさまに気の毒そうな顔をしていたが、気のせいだと思いたい。

ところで何かいいものでもないかといつも行かない道をうろついていたら、駅前に翠屋なる喫茶店を見つけた。

あれ?

この市の名前は海鳴市という。胸騒ぎを感じつつ図書館に行って調べ物。聖祥なる私大の付属小学校の存在を確認した。ついでに制服も。あれえ? 

既視感、というかこれってアレか? リリカルでマジカルなの、なの。海鳴市なる市に引っ越してきた時点では、そんな名前の市もあるだろうと大して気に留めていなかったが、翠屋に聖祥学園。―――あれれー。バーローwwwww

まさか、ねえ。

 パンの耳を水道水につけて生キャベツと一緒に食べた。まずい。



3月 9日  晴れのち曇り

 50円をもって商店街の豆腐屋に行ってオカラをもらった。帰りがけに「くじけるんじゃないよ、油揚げおまけしておくからね」と言われる。暖かい声援に感謝である。でもオカラの袋に油揚げをぶっこむのはどうかと思う。これがオマケか? 袋をのぞいてオカラまみれのキツネ色のぺらぺらを見たときは何事かと思った。でも、感謝。

 先日に引き続き市中を探索。特に新しい発見はなし。その後は図書館で読書。

オカラと探索途中に掘り返したタンポポを洗って食べた。春めいてきたもんだ。



3月 10日  いっつ れいにー

 雨、外に出られないので溜まった洋服を洗う。洗濯自体は珍しくないが、今日は今後を見越して実験的に洗剤と電気を使わないで、手もみ洗いでやってみた。疲れる、が、あまり汚れが落ちない。これからは一セットの上下をヨゴレ作業用にして使おう。

 あとはずっと借りた本を読み進めていた。

 とっておいた油揚げを食べた。あと干しておいたタンポポの根っこを刻んで熱湯に入れて食べた。苦い。我ながら良くぞ腹を下さないものだ。



3月 13日  雨降ってアスファルト輝く

 唐突だが肉分が不足している。なので公園に行ってハトを取ってきた。爬虫類以上の生き物を直接殺すのは完全に初めての体験だった。いつも食べていた肉だって自分が手を下さないだけで間接的には僕が殺していたのと違わないとはいえ、初めて見る首なし姿の平和の象徴さまはちょっとショッキング。血が暖かかった。焼いて、煮て柔らかくした雑草を付け合せにして食べた。ご馳走様。

 ところで今回はガスコンロを使ったがこれも何時までもつだろう? ガス、電気、水道代はもはや振込みは見込めないから、きっと来月には止まってしまう。家賃もだ、僕は一体このアパートに何時までいられることだろうか。今でこそ気候も暖かくなってきたが、さらに季節が巡って冬になったらどうしよう。

 早急な対策が求められる。



3月 17日  サンサン輝くウルトラソウっ!

 大失敗だ。先日に味をしめて公園にハトを捕まえに行ったら「こらー、なにしてるの!」と。

僕と同年代の女の子で茶色がかった髪をツインテールにしていてなかなかかわゆい。聖祥学園小等部の白い制服を着ていた。意志の強そうな瞳がまぶしい。どうみてもなのはさんです。本当にアリガトウございました。

 そっこうで捕まえていたハトを逃がし、謝って逃げた。

 きっと彼女の目に僕は、罠(パイプに輪にした紐を通し、その上にハトが来たところで引っ張り足を捕らえる)を用意してまでハトを苛めていたクソガキさまにしか見えかっただろう。つーか、普通、喰うためだなんて思わんわな。悪いことに悪いといえるのは大切な資質だ。この場はゆずることにした。

けっして魔王が怖くなって逃げたわけではない。ホントだヨ。



3月 18日  どんどこ

 ついに図書館で怪しまれた。借りていた本を返したのだが、その際、毎日のように来ているが学校はどうしたのかと聞かれた。いつものようにどうどうと学校には行っていませんといったのだが、その新任の司書さんは納得してくれなかった。僕としてはこういったおせっかいを試みることのできる人は嫌いではないのだが、それが僕に向けられると不都合だ。穏便に済ませたかった。

とりあえず今日返した大学級の参考書をとりだして、そういうわけだから僕には小学校で学ぶ必要はなく、授業中の無為な時間を過ごすのは苦痛である説明した。だが、司書さんは学力については認めてくれたものの、今度は人に混じってしか学べないことがあるだろうと言ってくる。

それをいわれると弱い。人付き合いは経験だ。多少の学力があっても対人能力の保証にはならず、反論は非常に難しい。学校という社会の縮図の中で人波にもまれることは、まっとうな大人になるために必須とまでは行かないが重要だろう。

とはいえ、僕はもう大人だと言い張るのも恥ずかしかった。その言いようこそ、しばしば子供の証明である。

だからといってこちらの事情を話しても前世系のサイコ君として、都市伝説でいうところのイエローピーポーにお世話になるだけだ。

説得は双方にとって失敗に終わった。

まあ久しぶりに人と長く話して少し楽しかった。

 おから、パンの耳、それと公園で採取してきたミントを中心とした野草をたべた。ところで野草というと雑草よりも健康的に聞こえる。

塩が残り少ない。



3月  20日  知らね

 げりぴー。腹痛い。まあ今までよくも無事だったものだと逆に驚きだ。とりあえず明日までに治らなかったら病院に行こう。トイレで本を読みながらすごした。

22時追記

 治った \(・_・)/



3月 23日  小雨降るもすぐに止む

 自動販売機のおつり口で500円ゲット。ラッキー。

 どくだみウメエ。あと、公園に植えられていた背の低い木から若くて柔らかい葉っぱを大量に採取してサバイバル教本に書いてあった世界標準可食性テストとやらを試してみた。結論、この葉っぱは食べられる。一種食べられるモノが増えた。

しっかしこのテストめんどくさいなあ。



3月 27日  晴れていた、気がする。雨は降っていない

 保健所に行くもお父さんかお母さんが一緒じゃなければ駄目と追い返された。

 愛玩動物として刷り込まれている生物の命を奪うことには抵抗があるものの、放っておいても炭酸ガスで処理されるだけだしかまうまいと自己正当化していたのが無駄になった。

残念なようなほっとしたような。

 帰り道、用水路にてジャンボタニシが群生しているのを発見。持ち帰る。ジャンボタニシはもともと食用として輸入されて野生化したものだ。繁殖力旺盛で育てやすいが、そもそもまずかったためこの国の食文化に定着しなかったという微妙な経緯を持つが、僕にとっては食えるのならば十分だ。火であぶり、醤油をかけて食べた。確かにまずかったが、うまかった。当分、動物性タンパク質には困らない。ただしかなりヤバい寄生虫がつくはずなので、よく熱してから食べることを気をつける必要がある。



3月 30日  ロンドンどんより晴れたらパリ

 図書館にて件の司書さんに遭遇。すでに何度目かになる舌戦を展開した。といっても戦いは常に平行線だ。というかそれぞれの主張とそれに対する反論、再反論、再々反論まですでに言い尽くしているので、それで互いが納得しない以上、もはや強い意思を示す以外やることはない。「学校に行きなさい」「いやですー」の繰り返し。司書さんもなんだかんだで優しくて、僕の図書館の利用を制限する気はないらしい。なので議論はループ期に入ってマンネリ気味。それよりも梅昆布茶うめぇ、と思っていたら妙なことを言い出した。

以下、会話の流れ。

「そうだ、ところでアナタ、一週間後の今日って空いている?」

「ええ、空いていますけど?」

「そう、よかったわ。じゃあ、11時ごろここ(図書館)にいてくれないかしら」

「かまいませんよ。――あれ、とうとう僕が学校行かないこと認めてくれました? 思いっきり授業時間中ですよ」

「まさか。うれしそうな顔をしないの。こうなったら言えた義理じゃないけど、子供は学校で学ぶものよ」

「例外はありますよ。普通の学校は普通な子供に最適化されたものであって、定形外を放り込んでもそこで見込まれる変化は成長じゃなくて歪みです。双方にとって不幸な結果になるだけですよ。普通じゃないものには普通じゃない対応がなされてしかるべきかと思います」

「自分を物みたく言うのはやめなさい。君は子供よ、普通の、どこにでもいるこまっしゃくれたただのクソガキさま。どんなに頭がよくたって、人の中でしか知れないことはある。そして、それこそ人が大切にしている」

「こういう思考実験を知っていますか。箱の中に入った中国人に対して英語で書かれた手紙が送られる。箱の中の中国人は英語を読めないけれど、マニュアルがあって手紙の英文に対応した返答が英語で書いてあり、中国人はそれを頼りに意味を理解しないまま英語の返信を書いてよこす」

「――何を言いたいの」

「あはははは、僕にもわからなくなりました。仮に僕が子供としての姿をさらしていなくて、インターネットか何かで交流しているたとしたら、どれだけ語り合ってもあなたは僕を大人と思い、ましてや10才未満だなんて思いもしなかったことでしょう。先入観を捨てて僕に一個の人格としての裁量を認めてもいいのでは――的な理論展開を考えていたんですけど。いや、失敗失敗」

「はあ――――――」

・・・・・・・

・・

 飽きた。

 とにかく一週間後の11時に図書館に行くことになった。忘れないようにしよう。

 帰りがけにおから、パンの耳を購入。同情的な視線はもうなれた。豆腐屋のオバちゃんに心配されて「うちって貧乏だから」と答えたら目元を濡らしながらハンペンをくれた。いつもオマケでくれている油揚げとは別にである。ありがとうございます。その場では言い足りなかったので、ここに付け足しておく。



4月 2日  晴れてて良かった


 ついに恐れていたことが起きた。

 家のガスが止められた。このぶんだと電気も近い内に止まるだろうことは明白だ。水道はまだしばらく大丈夫だろうが、そもそもこのアパート事態そろそろやばい頃だ。

 そういうわけで、母も帰ってこないようだし、かねてよりの計画を実行。目をつけておいた海鳴市繁華街のはずれにあった廃墟ビルに引っ越しを開始した。布団や服、ナベ、包丁、その他もろもろ荷物が多いため完全に移転が終了するのはもう数日かかるだろう。とりあえず今日はアパートで寝ることにする。

 晩飯には今後の練習としてビルの中で焚き火をして、ストックしていたジャンボタニシを全て焼いた。食べきらなかったぶんは内臓を切り捨て、身を薄く開いて串に通し放置。乾燥させたら保存が利く……ような気がする。

 しっかし、本当に大丈夫だろうか。4月にもなったしだいぶ暖かくなってはいるが、外の風はまだ冷たい。


 追記:唐突に思いついた。最近、塩が足りなくなったと心配してたが、良く考えれば海水があるじゃん。ばかだった。



4月 5日  慢性はらぺこ病

 朝、何枚も重ねた布団の中で起きて最初にすることは焼酎の4ℓボトル2つをもって公園の水道まで水汲みへGo。

 廃墟に越してきたはいいが夜は暗くてできることがない。本すら読めないから寝るしかないのだが、そのぶん次の日に起きるのがやたらと早くなる。そういうわけで本日はカラスたちに混じって燃える日のゴミ争奪戦に参加した。とうとう人としてアレな一線を越えてしまった気もするが、アイアム都市サバイバー。鳥網と哺乳網、ともに脊椎動物亜門の最先端に立つもの同士、譲ることのできない戦いである。ただ、ヤツらと違って僕はこの姿を良識ある大人に見られたらゲームオーバーなのがフェアじゃない。

しかしまあ、実際にゴミ漁りに挑んだら拍子抜けするほど彼らは臆病で僕が近づいたら普通に逃げていった。邪魔しようものなら喰らってやるつもりだったから、もしかしてそれが伝わったのか。街に住むカラスはヤバげな物質が生体濃縮されてそうだからあんまり食べる気にはならないのだけど。それはハトも同じか。

ちゃんと漁った後はきれいにしてから帰りました。

 主な戦利品
骨付きチキンのパック(手付かずで賞味期限3日過ぎ)
芽が出たジャガイモ5個

 明日は司書さんとした約束の日だ。久しぶりにシャンプー、ボディソープを使って体を清めた。明日の朝、行く前にちゃんと歯磨き粉を使って歯を磨いていこう。

 明日の日記は長くなりそう。



[4733] 第2話 名前で呼ばないで
Name: コルコルク◆8f84f3de ID:efa95347
Date: 2008/11/29 23:36
 本日は図書館デイ。学校がある時間に行くといつも苦い顔をする司書のおねーさんだけれど、今日は彼女からお呼ばれしている。なんでも僕のほかにも学校に行っていないお子さんが図書館を定期利用していて、ちょうどいいから僕と引き合わせたいのだそうだ。


「冷蔵庫の余りモノを組み合わせて一品料理を作るみたいな? それはいいけど、その子はなんで学校に行っていないんです。イジメとか、単なるコミニケーション能力の欠如だったら変に学校に行かない環境に慣れさせたりしないで転校させてでも学校には行かせたほうが今後のためだと思いますけど」

「きみが言うな、きみと一緒にするな」

 でこピンされた。ナイスつっこみだ。

 司書さん、額に手を当てて「はあ」とため息。人選ミスだったかしら、なんて呟いた。失礼な。

「その子、ちょっと足が悪くて、ね。学校に行けないのよ。それが結構長引いているみたいで友達も少ないみたいなの」

「なるほど、そこで性格が悪くて学校に行かないこの僕と引き合わせてみようと」

「そういうこと。その子もあなたとは違った形で年不相応に大人びた子だから、きっと気が合うと思うわよ」

「はぁ。わかりました。どうなるか確約はできませんけど、会うだけは会ってみます」

 この時点でフラグ臭がビンビンと香っていた。ここで僕が問いながらも表情を変に動かさなかった自制心は誇っていいものだと思う。

「それで、その子の名前は」

「八神はやてよ」

 あ、やっぱりですか。そうですか。

 とまあこんな感じの会話がなされたのが一週間前。



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アホウ少年 死出から なのは

第2話 名前で呼ばないで 
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 基本的に暇人である僕は調べ物をする時間くらいたくさんあった。

 いつか日記にも書いた海鳴という市名に聖祥大付属小学校、喫茶店翠屋に加えて、さざなみ寮、月村邸、バニングス屋敷といったキーワードについて、いずれもその本物をこの目で確認してある。以前に公園で出会った高町なのはらしき人物については、あくまで声やツインテールなどの特徴がアニメと一致しているだけとして差し引いても、もはやこの世界が魔法少女リリカルなのはの世界となにがしかの関連があることは疑いようがない状態になっている。

 今日、対面する八神はやても、きっとその八神はやてと考えて間違いないだろう。

 アニメのキャラクターに会うなんて悪い――いや、とてもいい夢だ。実際のところ、この世界に対して今際の夢説が力強くなって、微妙にアイデンティティクライシスを起こしそうだが、そこはグッと我慢の子。というか良く考えたら、夢なら勝手に覚めるか終わるかするだろう。人は空が落ちてくる心配などする必要はないのである。ホントはただアイデンティティクライシスって言ってみたかっただけだ、ごめん。

 というわけで僕は八神はやてに会うことを純粋に楽しみにしていた。

 今日のために服だって厳選してある。サバイバル生活に入ってから一度も袖を通していないきれいなものである。

「おはよーございます。来ましたよ」

「あ、よく来てくれたわね。はやてちゃんは先に来てまっているわ。早速だけどついてきてくれるかしら」

 司書さんは僕をみると、カウンターにいた別の男性司書と二、三言を交わして歩き出した。その男性司書は僕にとっても顔なじみなので軽く会釈をしてから追いかける。

 そういえば、いままで気にしてこなかったがこの図書館はバリアフリーが進んでいるようだ。もしかしたら今日び公共施設には当たり前なのかもしれないが、玄関のスロープや障害者用トイレがあるのはもちろんのこと、自動ドアでは溝をなくされ、壁には多くの場所で手すりが設置されている。こういった気遣いが利用者の層を広めているのだろう。僕には縁のなかった気遣いだが、はやてにとってこれらがどれだけ助けになっていることだろう。

「まだ約束には早かったからね、ここで待ってもらっていたの」

 案内された先は、この図書館に設置されている読書室の一つだった。読書室といっても子供向けの読書室だ。柔らかい雰囲気で、テーブルのほかにソファーやぬいぐるみなんかが置かれている。だというのにこの読書室の近くはガチがちの歴史書のコーナーとなっていて、しかも別のところにはコレとは異なった子供向け読書室が童話や漫画本のコーナーの近くに存在することからか日ごろの利用率は低い。だが今日のような目的には打ってつけだろう。

「はやてちゃん? 望月くんを連れて来たわよ」

「は、はい」

 ほんのり気を張った声。

 司書さんに促されて入った読書室には銀色に光る車輪をもったイスに座る少女が薄い緊張をまとわせていた。

「望月です。ヨロシクこんにちは」

「八神、はやていいます」

 はやては上目遣いの不安と期待が混じった眼を僕に向けている。どこに視線を向けるかさえ選択を必要とするようなそれは、まるで転入生か何かのようだ。
 もっとも、それは向こうから見た僕も同様かもしれない。

 彼女は確かに『八神はやて』だった。ショートカットに前髪付近のばってんリボン。ぱっちり開いた優しげな瞳。転生してからリリカルなのはの世界観を結びつけるのに10年近くかかったものだから作品の記憶は妖しいところがあるが、彼女を直接見れば、あぁそういえばこんな感じだったなと思い出す。ついでに加えると、メインキャラ補正とでも言うべき、同年代の平均的な女の子からは一歩ぬきんでたかわいらしささが僕の納得を助長した。

「よろしくしてあげてね、はやてちゃん。この望月くんったら、学校にも行かないで図書館に入りびたりで、まったくもう友達もいないから心配で心配で、これからどうなるのやら。友達になってほしいのよ」

 名乗ったきり沈黙した僕らを心配に思ったのか司書さんが仲介に乗り出した。それは良いのだが、なんか言っている内容がヒドくない? まるでプー太郎の息子を紹介する母親のようだ。

 僕のジト眼に気づいたのか、司書さんはこちらにだけ見えるよう小さく舌を出す。

 僕は気を取り直してはやてに向き直った。

「そういうわけで改めてヨロシク、八神さん。ところで、あの司書のおねーさんはうそつき村の人だからあんまり信じないようにね」

「あははわたしこそよろしくや。望月くん」

 少しは警戒を解いてくれたようだ。心を暖かくするような微笑を浮かべてくれた。
 僕は彼女の近くのソファーに座って話しかけた。

「八神さんはココ、よく利用するの?」

「うん、そうやよ。だいたい週に一回くらいかなあ、借りた本を読み終わったらここにくるんや。望月くんは?」

「僕は3日に一度はきてるかな」

「そうなん? だったらわたしらよく今まで会わんかったなあ」

「まったくだ。たぶん読む本のジャンルが違うせいかな。僕はたいてい理工系か教養文庫のコーナーにばっかいるから。はや、あぁん――八神さんは?」

「はやぁん?」

 しまった。つい心の中での呼び方がこぼれでた。

「――失礼、忘れてほしい」

「あ、うん」

「――――ところで唐突だけど君のこと名前で呼ばせてもらっていいかな」

 でないと何時また下の名前がポロリと出てしまうかわかったものではない。
 
「ええけど」

 ヨッシャと内心ガッツポーズ。

けれど次にはやてが発した心無い――何気なく、深く考えるまでもない当然の質問といえば心無いという表現も的外れでないかもしれない――問いかけは僕の心に冷や水をぶっ掛けた。

「ところで望月くん下の名前はなんていうん?」

「えあっ!?」

「エア?」

 はやてがかわいらしく小首をかしげるが僕は首を振った。きっと絶望的な表情をしていたことだろう。

 エア――そんな名前だったらどんなに良かったことだろう。それだってたいがいにDQNネームっぽいがそれでもまだましなはずだ。

(説明しておいてくれなかったのか)

 僕は視線をめぐらしたが、司書さんがいない。僕とはやてで会話が転がり出すのを見届けて安心したのかいつのまにか仕事にもどったらしかった。あとは、若い人同士で、というやつか。

なんていうことだ。わざわざ望月の苗字でだけ僕のことを紹介しておいて、司書さんははやてに僕から直接に名乗らせたいらしい。話題提供のつもりだろうか、何て迷惑な。名前なんて僕のいないところで教えておけばいい。僕のいないところでいくら笑われても気にしないのに。司書さんには先のとがった尻尾でも生えているのではなかろうか。あのおせっかいさんめ。

「どしたん?」

 じぃと見つめるはやてに僕は負けた。

「あいりえる」ぽそっとつぶやいた。

「会いり、得る?」

「違う、アイリエルが僕の名前」

 できる限りいやそうに呟く。こんな名前を気に入っていると少しでも思われたらたまったものじゃない。

 はやてはアイリエルの音の並びが頭の中で僕を表す意味につながらなかったのか目をしばたたかせた。

「えと、ハーフ?」

「純日本人。少なくとも僕が知る限りでは」

 銀髪だったりオッドアイだったりしない、普通の男の子です。

「あいりえる?」

 はやてはプルプルと指先を震わせながらも僕をそれで差した。
 僕はそっぽ向きながらもうなづいた。

「うそやろ?」

「ホントです。ほら、僕の図書館の利用カード」

「――なんか、愛天使とか書いてあるんやけど」

「それでアイリエルと読みます」

 ちゃんとよく見ればルビがふってあるはずだ。愛天使の上にアイリエル、と。

「ぶっ」

 はやてが激痛にもだえるように体を曲げて俯いた。ふるふると背中を震わせている。それは遠足のバスなんかでたまにいる先生から紙袋を渡されて、いつリミットブレイクするかと周りから戦々恐々とされる子供のようでもある。が、その評価は一文字の誤りがある。

 はやてが我慢しているのは、吐くことではなく吹くことだ。痛みがあるとすれば、それは腹筋の軋みだ。

「ぷっ、くくっ」

「笑いたきゃ笑えばいいさ」

 それで決壊した。

「あはっ。あははははは、なんやっ! なんやその名前。アイリエル、アイリエル? あっはははは。愛天使でアイリエル。ぶはははは、あはっおかしい。死ぬぅ、死んでまう。あいりえるぅふふふふ。望月愛天使。もちづきあいりえるぅ。っぷは、なんでそない? そない真面目キャラでアイリエルやねん。愛天使アイリエル。エルって何やねん? どっから出てきたんやあはははははははははっはっは、っげふ、げふ。アイリエルルルルル」

 ひざ掛けが落ちるほどに膝を叩く。ハァハァと息を切らし頬を高潮させて潤んだ瞳で僕を見た。その無防備な表情に僕は不覚にもドキリと――するわきゃない。だれだこいつ。

「望月――愛天使。ぶはっ、だめや。息がー、息がー。死んでまう。殺されてまうわ。もちづきあいりえる、ありえない、ありえんわ」

「ええい、やかましい」

 僕は切れた。

「そうさ、僕はアイリエルさ。愛天使だよ、アイリエルさ。今まで、僕の名前を初見で読めた人なんていやしない、それが当たり前の望月愛天使さ。どうだおかしいだろう。そりゃおかしい。僕だって未だにおかしいんだからな。笑って当然だ。氏名欄では愛天使、フリガナではアイリエル、何じゃあそりゃあ? 病院で呼ばれる時だってアイリエル。それで立ち上がるのは黒髪、黒目の純日本人少年だ。良識あるオバ様方がこしょこしょうわさするんだ。そりゃするさな僕だってする。だってアイリエルだぜ。大人になっても愛天使、就職してもアイリエル、アブラギッシュなおっさんになっても愛天使だよ。狂ってやがる。でも何よりむかつくのがそこらの御ガキ様が本気でカッコいいとかいうことだよ。バーロー、常識を知れば裏切るくせに。知ってるかい? あんまりに珍奇な名前を持つ子供の親は滅茶苦茶である確率が高いってのは最近の教育界じゃもう常識なんだそうさ。読み方がわからないとお受験はその時点ではねられるんだってさ、別にどうでもいいがね。でもそれは当然だよ。親が常識しらずのDQN疑いなら、子も同様だ。子がまともでも親がDQNなら十分にノーサンキュー、やっぱりお近づきにゃなりたくないね。笑えばいい、笑えばいいさ僕だっておかしいんだから。ああ、もうっ、だけどはやては笑いすぎだこんにゃろう!」

「あー、うん、ごめんなあ。ちょっと望月――ぷっ――くんの落ち着いた感じと名前――クプふっ――のギャップが面白くて。決して馬鹿にしたんじゃないんよ。だから許して、な」

「別に、いい」

 僕だって(精神的には)大人(のつもり)だ。実際のところ、本当に怒っていたわけでもない。ちょっとうっとうしかったから逆切れしたくなっただけで。

 僕らはしばらく無言で乱れた息を整えた。僕はソファーに、はやては車椅子に座って沈み弾みする胸をゆっくり落ち着けた。そういえばはやての車椅子ってすわり心地はいいのだろうか、なんて僕は考えていた。

「アイリ――なんてどうや?」

 はやてが深呼吸を終えてから聞いてきた。

「うん?」

「呼び方。アイリは、これからわたしのこと名前でって呼ぶんやろ? やったらわたしだけ苗字じゃ不公平やん」

「そう、かな?」

「そうなんや」

 はやては自信満々に、車椅子が後ろに倒れるのではないかというくらいに胸をそらして答えた。

「アイリはアイリエルって呼ばれるのはいやそうやろ?」

「そうだね」

「だからって、普通読みでアイテンシ、なんて呼ばれるのも抵抗がありそうや」

「うん。絶対にいやだ」

「でも、望月くん、て呼ぶのはわたしがイヤや。不公平やもん」

「そーなのかー」

「だから名前の読みから上の3文字をとってアイリ。これでどうやっ?」

 どうや、のところで僕に指を突きつけて、なぜか勝ち誇った笑みをたたえながらはやてはここに宣言した。

 つーか、どうやもなにもアナタすでに呼んでますよね。いや、かまわないんだけど。短いし、呼びやすいし、聞きやすい。いっそのことこれが本名だったら良いと思うほどだ。まあ比較対照が愛天使じゃありがたみはないけれど。

「いいんじゃないかな?」

「いいんじゃないか、やない。呼ばれるのはアイリなんやから、良いか、悪いかや」

「もちろん良いに決まっている」

 はやては微笑んだ。ここまでですでに彼女がそうするのは何度か見たが、今度のそれは本当に花咲くような、見ている僕まで幸せにしてくれる気持ちのいい笑みだった。

「アイリ、やったら握手や」

「握手?」

「そう。わたしらが名前とあだ名で呼び合うその証」

 スイとはやてが手を差し出す。僕は戸惑った。経験こそ持ち越しているものの、この世界にきてから学校にもろくに行っていないため人と接する機会が極端に少なかった。本当の意味で人と触れ合うなんてひどく久しぶりじゃないか。

 僕も手を出す。手のひらが汗ばんでいないだろうな。

「ん」
「うん。これで友達や」

 小さくなったせいかはやての手が小さいと感じることはなかった。ただ、暖かい。御互いの境界が互いの熱で交わり溶け合っていく。

はやてが微笑む。僕もまた笑い返した。

「よろしく、はやて」
「ううん、こちらこそな。アイリ」

「ふうん。けっこう、けっこう。仲良くやっているようじゃないの」

「うわぁ!」
「ひゃあ」

 突然の声に、僕ははじかれたように手を離した。いつのまに見られていたという気恥ずかしさと、外気に晒された手のひらからぬくもりが逃げていく残念が混じりあう。

「あ、ああ司書さん何時の間にそこに」

「望月くん顔赤いわよ」

「――っ! 何の、御用ですか」

「いやぁ、私としてももう少し小学生純情劇場を見ていたかったんだけどね。でもつい最近振られたばっかの私としては邪魔しないわけには行かないじゃない。空気読めないわけじゃないのよ、読んでたからこそのタイミングってヤツで」

「何の御用かと聞いているんです」

「アイリ、顔赤いで?」

「はやて、君まで!」

 はやてだって赤くしているくせに。くそう、そもそもちょっと握手しているのを見られただけで動揺する必要なんてないのに。何で別に悪いことをしたわけでもないのに追い詰められなくちゃいかんのだ。

「うるさいのよ」
「――あ」

 悪かったかもしんない。

「ここ図書館、わたし司書さん。OK? こんな場所で引き合わせた手前、話をするくらいなら目を瞑るけどね。大笑いしたり、叫び出したり、いくらなんでも、ね」

「――すみません」
「ごめんなさい」

 その日、僕らは友誼を結んだ直後に一緒してバッタのように頭を下げた。

 顔を見合わせる。僕とはやてはなんだかおかしくて吹きだしてしまった。

 そして司書さんに二人して図書館をおん出されるのであった。



時計はもう12時を回っている。さっき図書館を出るときちょうどから鳴り響いていた正午の鐘の残響が消え去ろうとしていた。

 はやてが寂しげに呟いた。

「ちょっと騒がしくしすぎやったなあ」

「そうだねえ」

「おせっかいな魔女さんの魔法が解けてまう時間や」

「昼飯時だしね。休みたくもなるさ」

 しかし、まったくアレくらいで追い出してくることもないのに。はやては怒られたのがショックだったのか図書館を出てからというもの、楽しい夢から覚めてしまったようにいまいち寂しげだった。
そこへふと桜の花びらが飛んできてはやての頬に乗る。なんとなく僕はそれをつまみあげた。

 そういえば今日という日は新聞の週間予報によるともっとも春らしい暖かさが期待できるということだったか。
 せっかく出会ったのだ。このままここでお別れするのも味気ない。

 とりあえずはやての車イスの後ろに回って――よっと、これでいいのかな。車イスを押すのははじめてだ。

「きっと花見でもしてこいってことなんだよ。公園においしいタイヤキの屋台があるんだ。一緒に食べようよ」

「――ええの?」

 首いっぱいに振り返ってはやてが僕を見上げてきた。その瞳には不安と希望が混ざってゆれている。ははぁ、サイフをもってくるのを忘れたのだろうか。だが見くびられては困る。肉体的には同い年でも体験年数ではこちらが上だ。年下にそんな気を使わせるほど落ちぶれちゃいない。

「心配なんかしなくても、知り合った記念ってことで今日くらいはおごらせてもらうさ」

 ホントは惜しいけど、お金。でもこんなときじゃなきゃあんま使わないし。

「うん。ありがと、おおきになぁ――グスッ」

 なぜ泣く?

「ううん。泣いとらん。わたし泣いてなんか、ないよ。ちょっと目にゴミがはいってもうただけや」

 そうだよなあ。タイヤキが食べれるだけで泣くなんてどれだけ感動屋さんなんだ。はやてにそんな妙なキャラ付けはされていなかったはずだ。

 うむと頷いて歩き出す。

「んじゃ行こうか」

 本当にあそこのタイヤキはおいしいんだ。ちなみに僕はチョコ派。あんこでも食べられないことはないけどそれはこしあんに限られる。チーズクリームは個人的には邪道。ただ、食わず嫌いだからもしかしたらいけるのかも知れない。
 ああ、久しぶりに食べるタイヤキが楽しみだ。

 はやてはまだ目を擦っていた。



[4733] 第3話 こんな日がふつう
Name: コルコルク◆8f84f3de ID:efa95347
Date: 2008/11/29 23:37
 4月のある日、そういえば僕ってばいつのまにか小学3年生になっていることに気がついた。まあ、学年云々は相変わらず学校に行っていない僕にとってはしごくどうでも良いのだけれど、リリカルなのはの原作が始まるのもなのはたちが3年生のときだった気がする。僕とはやてがおなじ学年だから、つまり今年だ。

ただ、詳しい時期は何時だったか。A’sの本筋が終わるのがクリスマスなのは覚えているが、無印は何時ごろだろう。梅雨よりも前だとは思うのだけど。

そもそも本当に無印は始まるのか? あれは事件の発端からして偶然の要素が強かったけれどバタフライ現象の影響は? 僕という異分子が混じった状態で本当に世界はアニメと同じように進行するのだろうか。

逆に、僕という存在も含めてアニメのあのストーリーが成り立っているとも現段階では考えられる。アニメでも望月愛天使というはやての友人が本編に絡んでこないだけで実は存在したのかもしれない。あのアニメのバックグラウンドには現実からやってきて、その先の展開を知っており、それでいて画面に映ることもなく、未来に関わることのできないクソのような存在がいたのかもしれないのだ。

リリカルなのはは基本的にハッピーエンドだ。介入しなくては命が危ないなんてことはなく、どうしても変えなくちゃならない未来があるわけではない。だが、どんなにがんばっても僕に目の前でおこる現実に触れることもできないと考えると怖気が走った。

幸いに、これを確かめるのは簡単だと思われる。僕が本編にストーリー上、無視できないほど絡めばいい。




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アホウ少年 死出から なのは

第3話 こんな日がふつう
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 だからというわけでもないが、僕ははやてと友誼を結んで以来、ちょくちょくと顔をあわせるようになっていた。

「よっしゃあ、これでオプション4つ。完璧やあ」

「ちょっ、こらてめ。はやて、今のパワーアップ僕のだろ」

「なにいってるんやアイリ、そんなん早い者勝ちに決まってるやないか」

 悲しいけどこれ戦争なんよね~、とはやてはご満悦だ。くそっ、スピードアップしすぎて壁に激突してしまえ。

 出会って初めの頃はははやてと会うのは図書館が多く、一緒に本棚で本を物色したり、たがいに好きな本をおすすめしあったたりしていたのだが、だんだん外にも出るようになってきた。とはいえはやては足が悪いから他の同年代のように飛び跳ねて遊ぶようにも行かない。僕が車椅子を押して公園なんかを散歩することが多かった。それではやてを送ったりしているうちに家までお呼ばれしたしだいである。最近では待ち合わせはやめて、最初から僕が八神家にお邪魔するようになっていた。

 今日は二人テレビに向かい合ってテレビゲームをやっている。

「よっし、パワーアップ。レーザーゲット」

「ああーっ。それわたしのやん」

「えー」

「だいたいなんや、そのレーザー。なんで輪っこや、攻撃力も弱いし。そもそも何でオプションそろえてからレーザーなんて邪道や」

「ほっとけ。威力より手数で押すほうがすきなんだからいいじゃないか、っとボスかな」

「おお♪ 来た来た。ってあああぁああーっ! なに、なんや今のいきなり後ろから。ずっこ。いまのずっこやあ」

「何という初見殺し。僕も死んだ」

「あかん、残機ない」

 無味乾燥に告げられるゲームオーバーの表示のあと、切り替わったタイトルのデモムービーをはやては納得がいかないといった様子で見つめている。
 
 ちょうどいいタイミングかもしれない。
 僕はかねてから気になっていたような形を装って切り出した。

「ところで、はやての家って親御さんは?」
「――え」

 はやてが表情を失うのを見て僕は言い訳がましく付け加えた。

「いや、こうも毎日のようにお宅に邪魔している身としては、いいかげん挨拶くらいしとかないとだけど……」

 ものすごい悪いことをしている気がする。はやての両親はすでに亡くなっているのだ。わざわざ傷口を撫でて遊ぶような行為にいいようのない趣味の悪さを感じた。だが、知るはずのない者としてこれはここらで聞いておかなければおかしいことだ。

それにアニメ由来でしか知らない情報はできるだけ確認しておかないと、いつかアニメとこの世界の差異に足元をすくわれるかもわからない。

ただわざわざ聞いておいてなんだが、この家ははやて以外の人間がいる雰囲気ではない。例えば台所に置かれている食器の枚数や、洗面所の歯ブラシの寂しさからそれが伺えた。

「はやて?」

 はやての顔を覗き見る。熱のない、感情をそげ落とした能面のような表情だった。前に足がどの程度悪いのか聞いたときはこんなことはなかった。きっと作った苦笑いではあったが、それでも表面上は笑っていてくれた。それがいまの血の気の失せた白さは死蝋のようにすら見えた。

「死んでもうた、二人とも」

「そっか」

 よかった。
いや、ご両親が亡くなっているのもはやてが悲しそうなのも良いことなんてちっともないのだが、ここでわたしのおとんとおかんはいっつも帰りが遅いんや、なんて言われたらいろんな意味でややこしいことこの上なかった。

 さて、極悪人になったようで胸が痛むがもう一歩踏み込ませていただくとする。

「じゃあはやてはどういうふうに暮らして? そういえばキッチンなんかいろいろ手を加えてあったけど。まさか、この家で一人で?」

「そやな」

「はあー、そりゃ難儀だ」

 呆れとも感嘆ともつかないため息をつく。その行為は演技なんかじゃない。

考えれば考えるほどにはやての環境は無理がある。まず小学3年生の女の子が両親をなくして一人暮らしという時点できっついのに、加えてはやては足が悪い。何年こんな生活を続けているのかは不明だが、いまのはやてが極端に臆病になることも、ひねくれることもないなんて奇跡的とすらいえるだろう。

なんの添え木もなくまっすぐに伸びる若木を思わせる彼女のありようはまるで性悪説に対する反証のようだった。

「まあ、なんだ? 困ったことがあったら僕にいいなよ。可能な限り力になるからさ」

「うん、おおきに」

 湿った感じになってしまった。ゲームのデモ画面で機体がやられるのを見届けて僕は新しいゲームを物色し出した。僕はこういう雰囲気が苦手なのだ。こういう白々しい、もとい重々しい空気の中にいるとなにをすればいいのかわからなくなる。

前の人生で、最期になるだろうからと連れられた病床の祖母を前に、なにをしゃべればいいかわからず、ひたすらその濁った瞳を見つめるだけしかできなかったことがあった。今も超魔界村というホラー風で主人公がすぐ白骨死体化するゲームを手に、やっぱ死を連想させるゲームはやめとくかなんて悩んでいるあたり一回死んでも僕は成長していないのかもしれない。


 とはいえ僕らは若い。ずっとうじうじなんてできようはずもなく、

「ディア↑」

「ちょおっ、アイリ。やめてぇな。イタっ、痛いって。わたしにもあたっとるわ」

「フゥハァハァハァハァ、世はまさに世紀末、弱肉強食こそ真理なのだよ。っと、ナイフ痛ぇ、よっしガムゲット」

「敵が吐き捨てたガム食べて回復ってどうなん?」

 新しいゲームで遊んでいれば勝手に会話の切片は得られるし、そうこうしている内に普通に戻っていた。

いやあ、テレビゲームの黎明期なんかはゲームばかりやって外で遊ばないと、子供たちのコミュニケーション能力がちゃんと発育しないんじゃないかとかいわれてたけどそんなことない。子供にとってテレビゲームはコミュニケーションツールにもなりうる。

ときおりゲームのムチャな展開に突っ込みをいれつつストーリーを進めていく。カチャカチャととコントローラーを鳴らして敵を倒していく。

何度かの全滅/コンティニューをはさみ、ゲームの歌舞伎っぽいラスボスを撃破したときにはだいぶ空は暗くなっていた。

「さって、キリもいいしそろそろおいとまさせてもらうよ」

「え、もうなん? もう少しくらいいいやん」

「といっても良い子はお家に帰る時間だしね」

 この地域は夕方遅くになると赤とんぼのBGMとともに、『良い子の皆さん、お家に帰りましょう』な放送が流れる。夏では6時に放送だが、この季節ではまだ5時。現在は5時10分で、さっきまでやっていたゲームのエンディングスタッフロールの最中に聞こえていた。

「良い子はお家に帰ってるで」

 はやてはグッと握りこぶしを作って在宅をアピールした。

「いやいやいや、いるから。もう一人いるから。君の目の前の良い子がお家に帰ってないじゃないか」

「なにいってんのや。世間様は学校いかん子を、良い子いわんよ」

「失礼な。これでも僕はかつて近所ではちゃんと挨拶のできる良い子として通っていてだね」

「そうやな、良い子やな、愛の天使さまやもんな」

「やめい」

「あいたっ」

 でこぴん。はやては大げさに両手で額を押さえ込んだ。うっすらその瞳が濡れているのは気のせいか。

 僕は呆れ顔でソファーにどっかと雪崩れこみ、偉そうに足を組んだ。

「まあ6時くらいまでは大丈夫か」

「うん!」

 残り50分弱。これだけの時間でできることは多いようでもあるし、少ないようでもある。

 とりあえずはやては大貧民を知らなかったので教え込んでみた。
このゲームはローカルルールが山のようにあって、もはやなにが正しいのかは定かではない。

「ちなみに大富豪でも同じゲームをさすからおぼえとくといい。僕としてはあくまで大貧民って呼び方を推すけど」

「ふーん、アイリはお金持ちと貧乏なら貧乏のほうをみるんやな」

「どちらが近いかといえば明らかに後者なもんでね」

 ばさっとカードを4枚出す。コレで上がりだけど、やっぱ2人だけだといまいち盛り上がりにかけるな。以降のカードの強弱を逆転させる『革命』での上がりはまだ戦い続ける人たちが計算を崩されたことで発する怨嗟の声が醍醐味なのに。

始めの何度かは注釈しながらで僕の勝ちが続いていたが、以降は普通に勝ったり負けたりだった。

 そして6時になった。

「んじゃ、帰るわ」

「うん」

 今度ははやても引き止めることもなく玄関までやってきたのだが、

「ほな、また明日、な?」

 ものっそ寂しそうにしていらっしゃるはやて嬢。別れ際に不安をのぞかせる珍しくないが、今日は親のことを話したせいかいつもの比ではない。いや、それとも僕が勝手に意識して深読みしすぎているだけか? わからん。わからんが、ただ、僕の気持ちをひきつけるその強い磁石のような瞳を振り切ることのなんと難しいことか。無理に足を動かして帰ろうにも、ここに心を落としてしまって僕は帰り道にでもノドをかきむしって死んでしまいそうだ。

いや、まじで。そんな枯死寸前のウサギみたいな目で見るのはやめてください。僕だって別にあんな廃墟にどうしても帰る必要なんてないのだから、延々と残っていたくなってしまう。――ん? 帰る必要がないのだから、延々と残ってもいいのではなかろうか。いやいやいやいや、まずいだろ。

 僕は苦し紛れのような声を上げた。

「ところではやてって勉強はどうしてるの」

「うん? 一応やっとるよ。通信教育のやつやけど、あと病院でも教えてもらっとる」

「いいことだ。僕も学校にこそ行っていないけど学ぶことまでやめたつもりはないよ。図書館でよく参考書を借りたりしているんだ」

「はあ」

 はやてが何を言いたいのかわからないといった感じであいまいにうなづく。
察してくれないかなあ、察してくれるはずがない。今の僕の言いようは婉曲というよりむしろ衛星的だ。本題の周りを、つかず離れずで回っているという意味で。

 これではいけない。密かに気合を入れて一気に大気圏に突入した。

「一緒に勉強しないか?」

「はあ?」

 いかん、いかん。今度は唐突過ぎた。摩擦で燃え尽きる前にさらに軌道を微修正。

「だから、一緒に勉強しないかって。はやても僕も学校に行っていないぶん、自分で勉強しなくちゃだろう? だから一緒の場所で一緒に勉強をするようにすれば、お互いモチベーションが維持できていいんじゃないかと思うんだよ。それにわからないところがあったら教え合えると思うし」

 こちとら仮にも元大学生、小学生の範囲くらい教えられないはずがない。しかしこうなるんだったら家庭教師のバイトでもやっておくんだったなあ。同輩に家庭教師やら塾の講師やらをやっている人はたくさんいたが、僕は一回の勤務が長時間とれるのに惹かれて深夜のコンビニでバイトをやっていたのだ。いまさら仕方がないけど悔やまれる。

 と、はやての反応がない。

やっぱり押し付けがましすぎただろうか。無難な断り文句を探しているも、見つかっていないのかもしれない。だとしたらちょっとへこむ。でも、それならここは僕から断る理由を提供すべきだろう。
さも、いま思いつきましたよ、てな感じで言ってみる。

「あ、でもそうなるとはやての家事の邪魔になっちゃうか。ちゃんと勉強するとなると午前中からはやてのトコにお邪魔しなきゃだし。やっぱ……」

「――――! 乗った!」

「うおうっ?」

 はやてが車椅子の上で手を打った。

「遊ぶ時間に勉強しようゆうやないんやな? ただ、アイリがこれまでよりも早くうちに来て、んでいっしょに勉強して、そのあといっしょに遊ぶ。そやな?」

「うん。そのつもりの提案だけど」

 こう言うと望月愛天使とやらはどんだけ偉いんだよという感じだが、ぶっちゃけた話がはやての人恋しさを慰めてあげようとしての提案だ。僕がはやてといる時間を増やすのが前提になる。

「でももちろんはやてが時間的に不都合で、午後しか空いてないならその時間に勉強でもかまわないけど」

「ちょい待ちいや。あかん、それはあかんで」

 ぷるぷるとはやてが首を振る。そのたびに癖のない髪が揺れて、顔に引っかかった髪が面白いことになっている。こほんと一息。はやては髪を軽く整えてから言った。

「とにかく午後からとかそれは悪魔の提案や。アイリが来るのは午前中から。でなきゃ勉強なんてせえへんで」

「あ、ああ。わかった」

「ん。じゃあ指切りや」

差し出された小指に、僕も小指で応える。
はやては絡ませた小指と陽気な歌に乗せて指詰め、ゲンコツ万回、針千本飲ましを契約破棄におけるペナルティとして迫ってきた。冗談だ。

はやてはつながった小指ごしに僕の右手を振り回しながら陽気に明日からの約束を歌い上げた。こりゃ、破るわけにはいかんな、僕はうれしそうなはやてを見ながら思った。
あたたかな指と指。歌いきりと同時に離されるが約束の糸は二人の小指を繋いでいる。

『ゆーび、きった』





[4733] 第4話 闇の書ゲットだぜ
Name: コルコルク◆8f84f3de ID:efa95347
Date: 2008/11/29 23:37
 さて、毎朝のようにはやてのお宅に邪魔をするようになった。このごろはやてと僕は時間にして8時間/日くらいは一緒にいるだろうか。それくらい一緒にいるとどうやっても一日三食のうち一つくらいはかぶるもので、僕ははやての家でお昼ご飯をご相伴預かるようになった。

「んー、うまい」

「えへへ、どういたしましてや」

 ホントにギガ・おいしゅうございます。僕ははやてと一緒に昼食をとるようになる前は、朝昼兼用の一日二食だったのだけど、少しは健康で文化的な最低限度の生活に近づいた。まったくはやて様々だ。

「どうかしたん? 手ぇこすり合わせて。もしかして寒いん?」

 おっと思わず拝んでいたようだ。

「いやあ、それにしても見事だよはやて。普通この年で料理ができるだけでも珍しいのに」

「そんなことないよ。それにアイリかてお料理くらいできるやん」

「だからこそここまでおいしく作れることをほめてるんだよ」

 そりゃ、僕だっていつもはやてに料理を振舞われているのは心苦しい。材料代まで出してもらっているのだ。また、単純にたまには僕が作ってみたいという思いもあって、何度か代わりに作ったこともあるにはあった。

「どうしてもなあ、はやてが作るのには及ばない」

「そらそうや。だってアイリ、おミソ汁平気で沸かすし。それでアイリの作った方がおいしかったらわたしがかなしいわ」

「自分で食べるときは気にしないからなあ」

一応はやてに振舞うときはいつもの五割増しで気合を入れて作ってはいたのだ。だが、かなしいかな。所詮は(元)大学生の男料理、あるいは栄養摂取が第一義のサバイバル料理といったところか。日ごろから料理の味よりも、使うフライパンの数を減らして洗い物の手間を減らすことを追及していた僕にはいまさら丁寧に作るなんてムリだったのだ。

話題にあがったミソ汁からもう一つ例をあげると、僕がミソ汁にカツオダシをいれようと粉末ダシの素のありかを聞いたら、そんなものないといわれて困ったことがある。はやてはいつも自分でダシをとっているということだった。僕には自分でダシをとるという発想すらない。前世のかなた――高校で調理実習をした時に置き忘れてしまった。





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アホウ少年 死出から なのは

第4話 闇の書ゲットだぜ
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「うん。ホントにおいしい」

「アイリさっきからそればっかりや」

「だってしょうがないだろ。それが真実なんだから。いやあ、はやてをお嫁さんにもらう男は幸せだろうなあ。むしろ僕と結婚してくれ」

「はいはい、30まで独身やったら考えたるよ」

 さて、現在進行形で餌付けされてる感がビシバシな僕だが、もらってばかりというのもすわりが悪い。ただでさえかかっている食費は返せないのだから、食べたぶんは労働力として還元せねばなるまい。

「よっし、風呂掃除完了」

 そんなわけでこまねずみのように働く、働く。

 食事につかった食器類を洗い、階段廊下に掃除機をかける。たまった新聞やチラシをヒモで縛ってまとめておいた。

「別にそんなことせんでええのに」

 はやては言ってくれるが、これはけじめだ。人という字は、どちらの負担が大きいの小さいのはともかく、支えあうようにできている。一方的に頼りきりになって、それを当たり前としたときに関係は破綻しよう。



「これは」

 掃除の途中、僕はあるものを見かけて思わず呟いた。

「本棚やな」

 どうかしたん? はやてがそんな調子で首をかしげた。ここははやての部屋。もとから整頓されてきれいなもんだけど、やることがないわけじゃない。

「本だ」

「本棚やな」

 そうだ、せっかくだから本棚の上のほこりも掃おうか。だがそれは後にして僕は気になるものを指さした。

「ところでこの鎖の本は?」

「いやんエッチ、それはわたしの日記帳や」

「――ここで『嘘だッ』と叫ぶにたる推理が3つほどあるけど聞くかい」

「ほほう、なんでや」

「まず、日記のように毎日手にとるものにしては、この本の位置がはやてにとって若干高いこと」

「んー、まあ確かにそうかもな。でも、その日記が今も書いてるのヤツやとはいってないで。書き終わったから遠い位置においたかもしれへんやない」

「第二に、僕ははやての日記を読んだことがあるけどもっと違うノートに書かれていたよ」

「わたし日記つけてないんやけど」

「そうか」

「……」

「……」

「ところでこの本は?」

「ところで3つ目の推理は?」

「思いつかなかった。前にどこぞの大学教授が就職面接やなんかでは『これはどうするか』系の質問をされたら、とりあえず『3個の考えがあります』って前おいて、一つ二つを語りながら三つ目を考えるといいって」

「わからんのや。前からうちにあったみたいなんやけど、最初っからみてのとおり鎖で封されとって」

「……」

「……」

 闇の書、だよなあ。本棚にて異様な雰囲気を発している鎖で巻かれた本をおそるおそる手に取った。

 闇の書。失われた正式名称は夜天の魔導書。

もとは偉大な魔導師の魔法を記録するための主とともに世界を渡る、蒐集機能がそなえられた無害な資料本だったが、幾多の人の手を渡る間に魔改造されただとか。自己と主を万全な状態に維持するための防御プログラムが付加だか改変だかされたはいいが、そいつは暴走状態が当たり前の困ったちゃん。周りの人間全員いなくなれば誰も攻撃してこない、一番の安全だとでもいいたいのか、防衛の名を借りた脅威の予防攻撃ダイスキッ子で周囲に無差別破壊を撒き散らす。で、そんなはた迷惑を続ければ当然、多方から狙われていずれ壊されもするわけだが、ここで効いて来るのが変態機能その2、転生プログラムだ。闇の書は破壊しても転生する。どこぞへ逃げ伸びて新たな主の下で再生、そして破壊を繰り返すのだ。

そんなわけで闇の書はここしばらく十数年スパンで災厄を撒き散らしている。

現在は休止状態だがはやてを主として寄生して魔力を奪い続けている。はやての足が悪いのもこいつが原因だ。近い内に始動し、はやてを更なる過酷へと導くこととなる。

以上、リリカルなのはアニメ原作情報。

 まじまじと闇の書を見つめた。その鎖に巻かれて開くことのできない洋本は、いまどきちょっとお目にかからない重厚な装丁がなされていて、はやてが良くわからないけど大事においているのもうなづけるような、歴史の重みを感じさせた。

 捨てちまおうか、これ? 

 あ、僕は今すごいことを思いついた気がする。ここで書を捨てる、というか燃やすなり壊すなりして、はやてから遠ざけてしまえば、はやての足は治るし学校にもいけるようになる。このまま行けば確実に起こるだろう闇の書による一連の事件にはやては巻き込まれずにすむ。あ、なんかものすごくいいアイデアのような気がしてきた。

「どうしたん? 急に黙りだして」

「うっ、あ、ああいや。そういえば黙るってのは何もしないことなのに、黙りだすっていう表現も面白いよね、止めることを始めるみたいで。あはははは」

「はあ?」

 でも結局そういうわけにもいかんよなあ。アニメ準拠ならはやてはすでに監視されていて、闇の書を永劫封印する手段が講じられているはずだからここで闇の書を逃がせば、いたずらに今後の被害者を増やすことになる――というのはおいといて、この闇の書ははやてを過酷に突き落とす厄介者であると同時に、かけがえのない家族を与えてくれる存在でもあるのだ。それを捨てると言うことははやてから家族を奪うことに他ならない。

だが、それは果たして罪といえるのか? 仮に過去に戻れるとしてヒトラーが赤子のころに暗殺すればそれは英雄か、という問い掛けがある。もしそれが将来に100万の命を奪う大悪党だとしても、そんな未来を知るはずもないその時代に生きる人にとっては赤子を殺すヤツなんてイカレタ犯罪者でしかない。逆説的に、いまのうちに闇の書を焼き捨てて、はやてのもとへ本来現れるはずだった家族が現れないとしてもそれは『奪った』とはいえないのではなかろうか。

 首を振った。

 罪がどうとか観念論など僕らしくもない。重要なのは僕が何を選ぶかだ。はやてにとってのリスクを承知でより大きな幸福を祈るか、はやての平穏を求めて安全策を行き見えないところで闇の書の災厄を野放しにするか。より好みの選択を取るだけだ。


「ところではやての誕生日っていつ」

「6月4日やけど」

「そっか。ところでこの本、あとで見せてくれないかな。どうも気になっちゃって、可能なら鎖を外して中を見てみたいんだけど」

「かまへんけど、封されてて何がなんだかわからん本やし。なんか今日のアイリはもっとわけわからんなあ」

「いやあ、だってこの本こんなに鎖で読めなくされて? まるで封印された魔導書みたいじゃないか。健全な小学3年生の男の子としては中身が是が非でも気になるわけですよ」

「あっはっは。封印を解いた者には強大な力と災厄を与えるみたいな?」

 はやては不審に思う素振りもなく許可をくれた。

家事に一息ついた後、リビングに移って闇の書を調べることにした。鎖をカチャカチャ引いてみるも外れなかった。まあこんなで外れたりしたら逆にあせるけど。

「鍵穴すらないのなあ」

「わたしも前に鎖を外そうとしたんやけどね、ぜんぜんやったわ。ぴくりともせんかったよ」

 はやては闇の書を手にとって電灯に晒すように持ち上げた。

「ペンチで鎖を切ってみようともしたんやけど。傷一つ付かんかった」

 僕が書を求めて手を伸ばすとホイと渡してくれる。引っ張ってみるがやはり鎖は頑丈で外れない。

書を縦にたわませて、本屋でビニールに巻かれているマンガの単行本なんかの中をのぞき見るのと同じ要領で中身を確かめようともしたが、鎖による遊びのない拘束と硬い表紙に加えて本自体の厚みのせいで覗き見できるほどの隙間は作れない。だが幸い拘束は古新聞をヒモでまとめるときのように上下の4辺の中央を通す形で十字で縛られている。角をムリヤリめくり上げるとほんの少しだけ中を見ることができた。
白紙である。

やっぱりこれだけじゃ不十分だ。この封印の鎖、なんとか破壊できないだろうか。

 ムリかな。ムリだろうね。

「あ~、ヤメヤメ。ムリだこんなの」

「諦めんのはっやいなあ」

「そうはいうけどね、図書館で借りてきた本にアンダーラインが引かれてるだけでも殺意を覚える僕としてはこれ以上できることがないよ」

大きな目標を果たすためなら過程の苦痛くらい我慢するが、苦痛は苦痛だしイヤなもんはイヤだ。そうと決断したらはやてから闇の書をパチって、廃墟な我が家でお湯を沸かす燃料にしてしまうのも厭わない――いや、厭いはする。厭いはするが実行してみせよう。

だが、今はまだ目標すら決まっていない状態だ。決断もしていない現状で、いたずらに罪悪感を抱えるのはごめんだ。ムチャをやってはやてに嫌われるのもいやだ。

 だというのに。

「かまわへんよ」

「へ?」

「や、多少のムリとやら。どうせこのままほっといても中身見れへんし、そないにアイリが気になるんやったら好きにしてかまへんよ?」

「好きにって、僕が想定している手段は切るとか燃やすとかだよ」

 あ、なんか手の中にある闇の書が震えた気がする。

「燃やすって……そしたらどうやって中みるんや。まあ、それはともかく気に入ってるなら別にソレあげてもええねん。アイリにはいっつも世話になってるし」

 あっるえー(・3・)

 この展開は正直予想してなかったかな。はにかんだふうのはやてを前に僕、ちょっぴり混乱。

今のところ闇の書は一方的にはやてに寄生しているわけだから、これで霊的な所有権が僕に移ることはないだろうけど。

うーむ。それにしても、世話になってるって僕のほうがお昼ご飯振舞ってもらっているんだけど。はやては一人が寂しいってことだし、これで僕の気を引きたがっているとか? いや、その想像は失礼か、せっかくの善意に。でもなあ、

「依存しちゃ駄目だよ?」

「ほぇ?」

「や、こっちの話」

 気を取り直す。

「それじゃあしばらくの間、借りていいかな」

「うん、ええよ。中身わかったら教えてな」

「うん、ありがとう」

 僕は重ねて礼をいって闇の書をリュックサックにしまいこんだ。




 さてそれから、僕らはいつもどおりに遊んでいたが、トランプをしている途中ではやての動作が鈍くなってきて会話も言葉がなんか重くなってきた。

とろんとした目をこすりながらカードを引くも、残念それは見当違いです。ふにゃふにゃとしたはやての目の前にこちらの手札を全て晒してみたがまるっきりスルー。ふにゃふにゃされ続けた。複数形でふにゃら。
最近はやては遊んでいる内にこうなってしまうことが多い。

「はやて、寝るならヨコになったほうがいいよ」

「寝くないもん」

「ここで問題、10mlの水は何立方メートル?」

「……」

 僕は眠くなると単位換算ができなくなる。

「僕が2手前に出したカードは、なんだか覚えてる?」

「……いじわる」

 何か僕は気に障ることでも言ったのだろうか、はやてはツンと唇を突き出した。でもやっぱり目は半眼、というか半分も開いていない。薄目だ。首もすわってない。

「……ねぇへん」

「そうか、おやすみ」

「ねぇへんもん」

 ねぇへんってなんか漢字の部首にでもありそうだな、示す偏の友達みたいなの。ともかくそれきりではやては寝息を立て始めた。

 んで、6時。

 いいかげんに帰るかなと、ちょっと迷いつつもはやてに声をかけた。はやてが寝入った後、彼女を車椅子からソファーに移して横にしてやり毛布もかけておいたけど、本格的に眠るならベッドのほうがいい。それに何も言わず、書き置きだけして帰ったりしたら次に会ったとき怒られそうだ。というか前にそれをやって怒られた。

「なんで起こしてくれんかったんやぁ」

 どちらにしろ怒られた。

「そりゃ気持ちよさそうに寝てたからねえ。起こすのも忍びないだろう?」

「起こしてくれんほうがひどいもん」

 そうでっか。それはともかく僕はむくれるはやてのほっぺたをつついてみたい欲求に対して、なけなしの自制心で自重しているほうが大変だった。

「ん」

 はやてが両手を突き上げた。万歳アタックのゼスチャーだろうか。つまりここは自重せずむくれるはやてのほっぺをつつきまくれと?

「だっこ」

 なるほど。はやてはまだソファーだ。車椅子に移りたいということだろう。ちなみに車椅子はソファーの傍らで、別に一人で移れるが、ここは従っておこう。

「はいはい」

「はいは一回や」

「はーい、それじゃ失礼して、お姫様」

 よいしょと脇の下に手を差し込んで持ち上げそのままクルリと90°反転、車椅子の上に着地させた。

「むー、扱いがぞんざいやあ」

 何かが不満そうなはやて。我ながらお姫様といいつつするような持ち上げ方ではなかった気がするが、残念ながらお姫様抱っこは今日のところもう売り切れなのだ。

 あ、そうだ。

玄関までやって来て思い出した。はやてはそこまで見送りに来てくれているしちょうどよい。

「いい忘れてた。明日は僕、ちょっと用事があって来ないから」

 というか、来ないことをいちいち報告するのも変だよなあ。普通逆だ。まあ実際のところ、この頃は毎日はやてのところに入り浸っているから、八神家に来ないほうが例外なのは間違いなく事実ではあるのだけど。

「アイリ、来れへんの」

「うん」

 来れないというか、来ないなんだけどね。

 僕がうなづくとはやてはあからさまに落ち込んだ。それから上目遣いで、というか位置関係的に目をあわせるにはどうしてもそうなるのだが、訴えるように僕を見上げてきた。

「ホントに?」

「はやてにどうしても明日僕がいなければならない理由があるんだったら来るけど、そうでないなら僕の都合を優先したいかな」

「寂しい、いうたら?」

 うっ。ヤバイ今なんかぞくっときた。

 無条件でyesと叫びたい欲求に駆られたが、それをグイと飲み込んで僕は首を振った。

 慕ってくれるのは素直にうれしい。このごろ毎日お邪魔してるから内心ではやてに『げっ、まぁ~たアンのアホがきおった、毎日毎日アキもせず昼飯タカりに卑しいヤツや』なんて思われていないかちょっぴり不安でもあったから、僕が来ないことを寂しがってくれると、いやらしいとは思うが安心する。

「あの本、あげるなんて言わな良かったかも」

 闇の書のことだろう。僕は再度首を振った。

「べつに本のために明日こないわけじゃないよ。近頃、はやての家に入りびたりだったからうちの家事もろもろが溜まってるんだよ」

 僕だってニート未満(ニート:就労可能な年齢で働きも学びもしない者。まず15才以上。つまり僕は対象外)であるとはいえ、遊んでいるだけで生きていけるほどいい身分でもない。

明日は前に見つけた用水路にジャンボタニシをとりに行くつもりだった。それにそろそろまとめて洗濯もしなければはやての家に来る服もなくなってしまう。そこいらで食べられる野草も採取しておきたい。廃ビルの中で燃やす薪も拾っておかなければならない。はやてのと一緒にすごす時間が増えて、身の回りのことがちょっと滞っていた。

「はあ。今日は絶対眠れんやろし、明日はアイリきいへんし」

 しょんぼり肩を落とすはやてはなかなか庇護欲をそそられる。子犬チック? たしかタヌキもイヌ科だったっけか。そんな彼女を見ていたら悪いのだけどイタズラ心が沸きあがった。

 かいぐり、かいぐり。

「んい? なんや?」

 かいぐり、かいぐり。

「頭撫でてみたんだけど……」

「うん」

「ポッとしないね?」

「――アイリはたまにわからんなるな」

 どうやら僕にナデポスキルはないようだ。唐突に頭上に乗せられてスライドする僕の手のひらにをはやてはいぶかしむばかり。

それにしても柔らかくてさらさらした髪の撫で心地はなかなかによいものだ。

嫌がっている様子はなく、どちらかというと心地よさそうにしている気がするのでよしとしておこう。

というか、撫でている拍子にふと目が合うとニコっと微笑まれた。無邪気で愛嬌のある笑顔にどちらかというと僕のほうが赤面しそうだった。なんか、こう――ポッと。

「じゃあお邪魔しました」

「またな。明日はあきらめる、でも明後日はきっときたってな。なるたけ早く、いっぱい遊ぶんやからな」

「了解。でも勉強もちゃんとするからね」

「ん~。まあそれくらいはゆずったる。だから早くに来てな」

「うい」

 お邪魔しましたとはもう告げてある。僕は名残惜しそうに見送るはやてに片手だけ上げてみせて八神家から出て行った。
 
 夜の風はまだ冷える。僕は空を見上げて歩き出した。電灯の光は冴え冴えと輝き、目を細めるとハリネズミのような光線が瞳の中できらめいた。月は高く、満月。春の夜の住宅街はただ静か。アスファルトを踏む音だけがそっけなく僕を包み込む。風呂上りのように火照った心を引き締める心地よい風が吹いた。



[4733] 第5話 案ずるより生むが易し、対極もまた然り
Name: コルコルク◆8f84f3de ID:efa95347
Date: 2008/11/29 23:41
 今日ははやての家に行かない。

6枚重ねの布団をつらぬいて鳴り響く職務に忠実な目覚まし時計によって目が覚めた。

昨日使い切らずに残っていた水を焼酎の4ℓペットボトルから直接口付けて飲み下し、空になったボトルを二つ抱えて廃ビルの一階へ。

このビルの玄関は冷たいシャッターで閉ざされていて、一階部分にはガラス窓もない。そのおかげで不良少年なんかの溜まり場にはもってこいの立地で、実際にお隣にある別の廃ビルにはたまにならず者が出入りしているにもかかわらず、このビルは僕が見つけるまで人の手が入っていなかった。ただ僕だけがふたの外れた換気口から入ることができた。以来、ここは僕の城だ。棟内の移動にたいまつが必要なあたり、城というよりダンジョンといったほうが適切な気もするけど。

 ビルの中から鍵を開けて裏口を出た。

早朝の散歩として僕は自動販売機のお釣り口を漁ってまわる。今朝の収入は40円だった。多くはないが、たまに100円玉をお釣り口に忘れていく神がおられるので平均収入は50円を超える。ちなみに500円玉が手に入ったときは銭湯に行くことにしている。そんな幸運まだ2回しかないけど。

帰り道に公園のトイレで用を足した。それと、もってきた二本のペットボトルに水を満杯にしたら、後は野草を摘みながら帰るだけだ。合計8kgは小学3年生の身にはこたえるがそこはガンバリどころ。それに今日はたくさん水を使うから、もう2回は来なくてはならない。

 今日は燃えるゴミの回収もないのでここらで朝食とする。
おからとパンの耳が主食です。それから採取してある野草を各種湯通ししてから飲み込んだ。なんかビタミンやら必須アミノ酸やら絶対的に足りていないものがある気がするが、まあ生きているということは大丈夫ということだろう。たぶんはやてのおかげ。南無。この恩は体で返そう。ごちそうさま。




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アホウ少年 死出から なのは

第5話 案ずるより生むが易し、対極もまた然り
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 さて食べ終わったら本日のメーンイベントその1、お洗濯だ。たくさん汲んできた水はここで活かされる。廃ビルのもともと水場であったらしいところにステンレスの流し台が設置されている。そこに栓をして水を溜めてジャブジャブと洗濯板(プラスチック製、燃えないゴミの日に回収)で洗う。洗剤の量も心もとないのでできるだけケチる。

「あーあ、どっかに落ちてないもんかね、洗剤」

液体洗剤しか使わない家が御歳暮かなにかで粉洗剤をもらったら、使わないままゴミに出すということもありえると思うのだけど。

む? 1時間近くかけて洗い終えるところだったが、最後のすすぎの途中で問題が表れた。これですすぎは終わりだと思って水を使い切ったのだけど、服に全体的なぬるぬる感が残っている気がする。洗剤が落ちきっていない。やれやれ、僕は調理・飲料用に取っておいた水を使った。そしてもう一度水を汲みにいった。

洗い物を室内物干し(粗大ゴミからゲット)にかけて僕は出かけた。
本日のメーンイベントその2、ジャンボタニシの捕獲である。ジャンボタニシはドブ臭いし、オマケにしっかり熱を通さないと寄生虫がヤバイのだが、はやてに振舞ってもらう食事を除けば僕にとって一番無難な動物性タンパク質の摂取源だ。ただ当然、冷蔵庫なんてないので長期保存はきかない。定期的にちょっと遠出をして用水路まで取りに行く必要がある。

それにしても今日という日に取りに出かけたのは成功だったようだ。いい陽気なのは天気予報のとおりだから特筆に値しないが、帰還途中にビッグなカエルを捕獲したのだ。きっとウシガエル。いずれ世話になるかもと図書館でチェックしておいたから間違いないだろう。むろん可食性である。ジャンボタニシと一緒にランドセルに突っ込んだ。それにしてもランドセルは外側からはもちろん内側からの耐水性にも優れている便利品だ。お母様、今どの空の下にいるとも知れないお母様、あなたはせっかく買ったランドセルを僕がぜんぜん活用しないことを嘆いておられましたね。今はすごく役に立っています、ありがとうございます。タニシとか突っ込んでるせいですごく臭くなってしまったけど許してくださいね。

 野草も採取しながら帰った。途中、警官を遠目に見かけたので遠回りをした以外は問題は起こらなかった。

 廃ビルに帰ると出て行ったときのように裏口から入るのだが、そのまえにドアの開閉部にまいた砂を確認。

よしよし、僕が出ている間の侵入者はいないようだ。

棲み家の安全性は重要な課題である。当然ながら僕としてはこの廃ビルに僕以外の人に入っては欲しくない。基本的に出入り口は全て鍵が閉められているが、所詮は不法占拠者で外からかけられる鍵なんかもっているはずもなく、僕自身が内側から鍵を開いて出かけている間はだれでも出入り可能だ。

はやてのところに行くときなんかは全部の鍵を閉めて、ふたの外れた換気扇から出て行くのだが、今みたいに荷物を持っているとそれもできない。いや、一度ドアから出て荷物を外に置き、僕自身はドアからビル内に戻って鍵をかけて換気扇から外出するという手段もあるにはあるが、時間と手間がかかってめんどくさいし、それに僕はビルのから出入りするところをできるだけ人に見られたくないのだ。

南京錠とチェーンは百円ショップにもあるから、そういうので外出ごとに鍵をかけるというのも考えたが、さすがにそれはやりすぎだ。あくまで僕は不法かつ勝手に住んでいるだけで、本物の鍵を持つ本来の権利者の侵入まで拒むような真似はいかんと思う。廃ビルの持ち主があらわれたら浮浪者は素直に浮浪するつもりだ。

 そんなわけで今日も僕は目立たない裏口で侵入者を警戒しながらこっそり出入りしている。

まあぶっちゃけた話、僕はうら若き乙女というわけではなく金もない。反抗期の少年少女がむやみに敵視する大人でもない。基本的にはだれの得にも損にもならない存在なので、誰かに見つかってもそんなにひどい目にあわないだろうとタカを括っていたりする。

相手がショタコンでなければせいぜい棲み家を取られるくらい。ショタコンだったら後ろの処女をとられる。あと警官だったら僕の自由がとられそうだ。あ、そうだ。だけれど、いまははやてから借りている闇の書があるので、これだけは死守しなければなるまいか。

廃ビルにはいって荷物をおろした。

手製のブロックを組み合わせて作ったかまどにライターで火を入れた。焚き木もそろそろ心もとなくなってきている。引っ越しで持って来た灯油ストーブの燃料はまだあるがあまり使いたくない。後で拾いに行ったほうがいいだろう。

ナベに湯を沸かし、拾ってきたジャンボタニシをまとめて突っ込んだ。並行して取ってきたウシガエルをさばきにかかる。とりあえず息の根を止めて内蔵を取り出した。次に皮をはがす。こんなものだろう。食べられそうな場所を切り分けて干しておく。食べたくなったら煮るか焼くかして食べよう。いや、やっぱり先に熱を通して殺菌しておくか。火にかけておいたナベからジャンボタニシを取り出して鉄串で貝から中身を抜き出す。ナベの水を取り替えて再びゆでた。ジャンボタニシは死に至る寄生虫をもっているのでしっかりゆでておく。十分に火を通したところでナベをザルにあけて回収。

 時間的にもちょうどいい。昼ごはんにしよう。
 水とパンの耳と野草に加えてジャンボタニシをいくつかつまんだ。残ったジャンボタニシは干しておいてまた今度。干しアワビだってあるんだから干しジャンボタニシだっていいと思う。

 さて、本日のメーンイベントその3、図書館に行こう。このごろは図書館にもはやてと行くことが多い。はやてと一緒に本を選ぶのも楽しいし癒されるのだが、今日行きたいのは海鳴大学の図書館で、車椅子に対するバリアフリーも市の図書館と比べて整っていないし見ようとする本のジャンルも違いすぎる。と、思っていたのだけど、しまった。

 図書館に行く服がない。

全ての洋服をさっき洗濯してまだ乾いていない。現在、着ているのはヨゴレ作業用で、まかりまちがっても公共施設にいっていい格好ではなかった。まるでストリートチルドレン――って、そういえば僕は思いっきりストリートチルドレンだった。

 洗濯ですすいだ後に服の水を絞るので、かなり手を抜いて横着し、まだ水がしたたっている状態で干したものだから今日中には乾かないかもしれない。図書館に行くのはムリかな。

 メーンイベントその3をとばしてその4に移る。ちなみにメインでなくメーンなのはそのほうがカッコいい気がしたからだ。

 僕は昨日はやてから借りてきた闇の書をリュックから取り出した。

ビルの中に打ち捨てられていたソファにすわって闇の書をしげしげと見つめた。鎖が相変わらず本を開くのを邪魔する。かろうじて覗ける部分は白紙ばっか。鎖は硬い。相変わらずそれだけちょっと豪奢な本である。飛びも光りもしせず、その中身を見せようとせずに本としてのあり方を否定しているそれは、ただの鈍器か置物だ。

 早速することもなくなって、書を抱えながら背中からソファに沈み込んだ。

「早く芽を出せ、早く芽を出せ、出さんとはさみでちょん切るぞ――なんて」

 実際のところ網で火にかけてみたらどうなるだろう。耐火性はあるのかないのか。なければそれでどこぞに転生でもするのか、それともお手軽に僕を殺すか。まあ借り物で試すわけにもいかないか。

 そういえばこの闇の書およびにその主であるはやては闇の書の完全封印を目指す御方に監視されているはずだが、彼ら的に僕はどういう扱いなのだろう。最近、その御方にあててはやてが手紙を書いた際に、友達ができましたってことで僕のことも一緒の写真つきで紹介されたからご存知のはずなんだけど。

まあうざがっていることは間違いあるまい。彼らはいずれはやてを闇の書ごと封印するつもりなのだ。せっかくうまく身寄りのないガキを飼い殺して、いつでも消せる状態にあったのに、ここにきて友達を名乗るうさんくさいヤツが一匹。しかも勝手なことに闇の書を借りたりしている。

 あれ? もしかしたら僕が消されるかもしれない。

 まあ、ネコさんたちだってニートじゃない。気安くこんな所に来れないし、現時点で闇の書が僕の手の中にあることにだって気が付いているかどうかだ。

 ところではやての両親って彼らに消されたんじゃあるまいな? もし、だとしたら、


 ガンっ


 ! なんだ? 僕は飛び上がった。唐突な音、板金を蹴りつけたような。廃ビル内ではないようだ。僕は窓にとりついてそっと外を見た。

 男が2人、いや、もう1人後ろから来るから計3人。それと、袋?

 2人の男が麻袋のようなものを抱えて小走りにやってくる。もう1人の男はしきりに後ろを確かめながら――なんとなく碌な人間ではない気がする。

 抱えられた麻袋が暴れている。恐らく、いや間違いなく中に入れられているのは生き物だ。さて、その生き物がワシントン条約の指定生物程度ならいいのだが。

「いやあっ。だれか助けっ」

 か細い声がなった。男たちではない。あのようなコワモテどもにどうしてそんな声が出せよう。麻袋の中の人の叫びに違いなかった。

 男の1人が袋を地面にたたきつけた。叫び声がつまる。それから男はあわてた様子で袋を開いた。

 袋の中から少女が現れた。手足は縛られているようだ。口元に帯のようなモノが付いている。ガムテープか何かに見える。もとは口全体をおおっていたのが、袋の中でこすれてはがれかけたのだろう。

「アンタたちなんなのよ、どういうつもり」

「黙ってろっ」

 男たちは少女を取り押さえて口にガムテープを張りなおした。少女は鼻を鳴らすが声はもうでない。

 ここは繁華街から一歩奥まったところにあるちょっとした廃墟区画だ。先ほどまでの叫び声はその場に誰も呼ばないようだった。

 全霊の抵抗もむなしく少女は男たちの力にかなわない。抱えられて連れられていく。

 行き先は――ほっ、このビルじゃない。

このビルではない。このビルではないが。はぁ、いやなものを見てしまった。

ところで浚われていた少女だが、だいたい僕と同年代だろう。んで、金髪。ぶっちゃけ僕はあの少女に見覚えがある。バニングスさん家のアリサちゃん。僕がこの世界について知るためバニングス邸を確認しに行ったときに見かけたことがある。存在の始まりからしてちょっとした被レイプフラグをかかえた難儀な女の子だ。

 ほんとうにいやな現場を目撃してしまった。知らぬが仏とは、僕が血液型性格診断に並んで最も嫌う言葉の一つだが、それでもやはり見なければ気が楽だっただろう。

 やれやれ、僕は窓から身を引いた。




 ワケわかんない!

 アリサ・バニングスはがんじがらめの拘束の中で去来する思いはそればかりだった。

 何故? どうして!? 

 彼女は悪いことなんて何もしていないはずだった。今日も学校で友達に会った。授業はすでにわかっている内容ばかりだけれども真面目に受けていた。積極的に発言をして、うるさい男子には注意してやった。放課後にすこしおしゃべりをしてから家に帰る。

 ことが起きたのはその途中だ。友達と話しながら帰り道を行き、分かれ道で手を振り合った。今日はいつも迎えに来る使用人に用があるだとかでそこからは一人の帰宅だった。べつにかまわない。このごろアリサはいつも家人がついてくることにわずらわしさをおぼえ始めていたから、別の者をよこしてまで送迎を希望することはなかった。

誰にも歩調を合わせない帰路にちょっとした新鮮さを感じていると、向かいから男が近づいて来た。背後からワゴンもやって来た。とくに気にかけることもない。だが、すれ違おうとした瞬間に男に捕まえられ、すぐそばに止まったワゴンのドアが開き車内に押し込められた。

 ワゴンの中でアリサはすぐさま手足を結束バンドで縛られた。さらに口にガムテープで封をされ、大きな袋に詰められた。抵抗の二文字が意思と接続したのは袋の中に入れられてからのこと。事実として聡明であり、本人もそれを自覚しているはずだったアリサは、しかし抵抗らしい抵抗もできぬまま暗く汚らしいビルの中へと連れられていった。

「それにしてもこの娘もついてない」

 ビルに入ったからにはもう安全と判断したのだろう。男たちはあきらかに緊張を緩めていた。

「はっ、優秀すぎる父親を持ったがゆえの悲哀ってやつか。もっともそれで娘をこんな目に合わせてちゃそれも疑問だがな」

「いや、まったく。日本にきたらそこでのやり方に従ってりゃいいものをなあ、機微っちゅうもんがわかってない。ったく馬鹿なヤツだよ。だっから娘がひどい目にあう。かわいそうによ」

「何いってやがる。お前、この話が上がったときに真っ先に立候補したって聞いてるぜ」

「うるせえな。どうせ俺じゃなくとも結果が変わらんのなら楽しめるヤツは楽しむもんだろうよ。だいたいお前はどうよ。何でこんな所にいやがる?」

「そら決まってる、俺とお前が同志だからよ」
「がはははは、ひっでえな、お前らろくな死に方しねえぞ」

「お前もな、兄弟」

 下品な笑い声が響いた。

 フゥフゥとうなるアリサの抵抗などモノともしない。男たちはカツカツとコンクリートの床を響かせて確実にビルを上って行った。

「ここらへんだな」

 先行していた男が言った。何もない、ところどこのに空き缶やタバコの吸殻が散在している広いだけのフロア。窓ガラスは何枚かが欠け、ドアの一枚もなく外へとつながる非常階段が見えた。入り込んだ風がアリサを不気味になでた。

 アリサの口にはられたガムテープが乱暴にはがされた。ヒリヒリと痛む。キッと男の一人をにらみつけた。怖くない、怖いはずなんてない。渦巻く理不尽への怒りが恐怖を押し隠した。きっと、そうしなければならないとアリサは知っていた。

「なんなのよアンタたち、こんなことしてタダですむと思ってるの」

「あ~、うるせ、うるせ」

 口元に何かが当てられた。硬い、丸い。歯を食いしばって拒む。球体が唇に歯にと押し付けられた。舌の先に感じた鉄臭い不愉快はきっと歯茎を切ったのだろう。痛かったが口は決して開いてはならない。
 だが、頬の横から指を押された。ほんの少し口を開いた瞬間に球体は口へ詰め込まれる。そして球体から伸びる紐をアリサの後頭にかけて固定された。

「うるさいのはごめんだが、まったく叫べないってのも、なあ」

「んんっ! んウーッ」

 しゃべれない。身動きがとれず取ることもできない。唸ることしかできない。アリサに球体をはめた男は下品に笑ってうなづいた。

 アリサが知る由もないがその器具の名はボールギャグという。だが名こそ知らぬものの、それが猿ぐつわと同じ用をなすものだとアリサは感じ取ることができた。

「そっちは用意できたか」

「お~――――。おう、画質良し音声良しだ。このガキの親父がないて喜ぶ名作で確定だな」

「っバカやろう。こっちに向けんな俺の顔が映るだろうが」

「安心しろちゃんと編集でカットしてやるからよ」

 アリサは縛られたままの手足を精一杯動かす。1mでも1cmでも逃げようとほこりっぽい地面を這いずった、が、男は一瞥だけしてアリサの背に足を落とした。声も出ない。けふけふとしまりのない咳込みが小さな体を揺らした。

「うし、んじゃいくかね。カメラ回しとけ。へっへっへ、まずは自己紹介からだぜ、アリサちゃんよう。ってそれじゃあしゃべれねえか、じゃああとでいれっか」

 男が二人ニヤニヤと生理的な嫌悪を覚えさせる脂ぎったにやけ顔を浮かべてアリサににじり寄る。そしてその姿をカメラが無機質な輝きにもと見守っていた。

 アリサはこのとき間違いなく恐怖した。

 アリサは幼いながらも聡明で、その耳年増といってもよい知識の集合はこの後何が起こるかをおぼろげながらに理解させざるを得なかった。一歩、一歩ずつ男たちはやってくる。永遠にも引き伸ばされた認識は絶望的だ。彼女の天才はそのバンドで縛られた肉体を自由のかなたへ羽ばたかせてくれない。

 足に触れられる。大きな、暖かい、汚らわしい手はそれだけでアリサの体をすくませた。何で、何で、何で? 賢いアリサ、時に天才とたたえられたその明晰な頭脳は理解している。私は悪くない。私は悪くないのだ。コイツラが悪者で、わたしのお父さまが邪魔で、だからいうことを聞かせるために私を使って弱みを握ろうとしている。私は悪くない。その事実は彼女にとって何の救いにもなりはしなかった。

 イヤだ、イヤだ。汚らしい、怖い。おぞましい。お家に帰りたい。許して。

 アリサは自分が泣いていることにすら気づいていない。太ももと太ももを合わせて足が開かれるのを拒絶する。カメラから顔を隠す。服が引き裂かれようとするのに小さな体を丸めた。頬に触れる他人の気持ち悪さに吐き気すらする。汚い。まだ地面に顔をこすりつけたほうがいい。今の彼女はどうしようもなく惨めだった。

 父、母、友人、使用人、ペットあらゆるものが脳裏に走りそのどれもが手を差し伸べてはくれずに消え去った。


 ――――――――――――――――――――タスケテ。


「英亭ビルです。廃墟の英亭ビル、2条4丁目。ライオンビル向かいの小路を入ったとこの英亭ビル。レイプです、女の子が襲われています。急いで!」

 だからその声は間違いなく希望であった。

 涙が少し引いた。





 僕はアリサが襲われようとしている現場で叫ぶだけ叫ぶと早々に階段に逃げ戻った。


 僕はアリサを追ってきていた。それはもちろん彼女を助けるためである。

 階段を極力足音を殺しながら上る。防御を意識してアホみたいな厚着をして動きづらいのがたたったか、それとも緊張によるものか、いつもより早く訪れた息の乱れをやっとの思いで飲み殺す。階を一つ移動し、そこで待機した。

 さあて、逃げてはくれんもんかねえ。あーあ、くれないものですか。

「おい! 今のは」

「バカやろう、さっさと追え。今のクソガキをとっ捕まえろ」

「あ、ああ。行くぞ」

 隠さない怒号は階を越して響き渡ってきた。3人の内、2人は僕を追い、1人はアリサを見張るらしかった。

「階段っ。クソ、お前は下を探せ。俺は上に行く。いいか、絶対に逃がすんじゃねえぞ」

「おう」

 逃がしてもいいと思うんだけどなあ。彼らからするとすでに警察に連絡はされてしまっているはずなのだからとっとと逃げるのが最善手だ。逃げるのに際してアリサを連れて行くか放置するかはおいといて。

そうすれば僕だって楽なのに。彼らが逃走に使うだろうワゴン車はすでに確認してある。というか、このちょっとした廃ビル区画から繁華街に出入りする唯一の小路をワゴンが通せんぼするようにして見張っていたから、そのワゴンのナンバーでも警察に伝えるだけですんだはずだった。

 まあ、希望と現実がそわないなら、それはそれでそれなりの対応をするべきだ。

 僕は握っていた暗い画面の携帯電話を床に置く。

 代わりに空いた手で棒をぎゅっと握った。階段を上る音が大きくなってきた。まだ出ない、隠れる。来る男は足音なんて隠しもしていない。

もう少し、もう少し。足音がこの階にやってきて、隠れていたダンボールの穴から男の姿が見えた。でもあとちょっと引き付ける。

鼓動が高鳴る。息が荒ぐ。酸素は足りている。いるのはちょっと初めての山を越える覚悟だ。そう。考えれば考えるほど大したことじゃない。

「どこだ、クソガキぃ!」

 今だっ!!

「あん?」

 男がその生の最後に出した声はそんな間抜けなものだった。

 僕は機会と見るや、隠れていたダンボールを弾いて身を突き出した。

 手に持つはモップの柄。ただし先端には料理用のナイフが括りつけてあった。

 狙ったのは男の首、しいてはその命。

 下から上へ、足を意識して突き上げた。振り下ろしは体重に依存する。筋力を常にかけられる突き上げのほうがより強い。かつて山人はこうして槍で熊を射殺していたと聞く。僕と大人の身体能力差も人と熊ほどか。ならば僕とて、

 深々と突き刺さる刃。男から声は出ない。更に一歩踏み込んだ。男も僕に手を伸ばそうとした。だが近づけない。棒を――槍を捻る。男は始めて苦しそうに。でも声は出ない。

 槍を抜く。できるだけ切り裂くように横に押しながら引き抜いた。

 血が噴き出す。

 殺ることができた。

 ごろんと横たわる男はいまだ僕を見つめていた。彼はきっと死んだことにも気づかないままに死んだことだろう。それが良いことなのか悪いことなのか僕にはわからない。

 まあ瑣末な問題であるからして置いておく。さっさと次にいこう。

 僕は完全に死んでいることを確認してから男の懐を漁った。なにかイイモノでもないものか。

 そこで声が聞こえた。殺した男の物では当然ない。階下からの声だ。二人が話し合うといった感じではないのでおそらく携帯電話だろう。おそらく不測の事態が生じたことを誰かに伝えているのだ。急がなくてはなるまい。僕はコンクリートの床に倒れたままの死体を目に焼き付けて、そっと動き出した。

 靴を脱いで階段を下りる。今使っているのは通常の階段ではなくビルの外壁に走っている金属製の非常階段だ。この廃ビルは僕が住んでいるものの隣にあるとあって、それなりに構造は熟知している。この非常階段は足音は気をつけていれば響かない。怖いのは下に行ったはずの男もこの非常階段を使っていてバッタリ顔をあわせることだが、階下からは上の様子は気づきづらいし、連中はまだ一方的な捕縛者でいるつもりだし急いでもいるから足音は隠さないだろうから僕が先に気づけるだろう。

 そろりそろりと階段を下りた。そっと入口から覗くと電話は男はもう終えて、ロープで縛られて寝転がされたアリサの傍らに立っていた。通常階段のほうを見据えておりまだこちらには気づいていない。

 手に持っていた靴をそっと置き、モップの槍を構えて歩き出す。男はまだこちらに気づかない。アリサも僕に気づいていなかった。そっと、そおっと。十分に距離を詰めて、

 えいっ。

 槍を突き出した。

「っち」

 問題が生じた。原因はこの男がこちらに気づかず僕に背を向けていて、しかも猫背気味でもあったため首を狙えなかったことだ。代わりに心臓を狙ってさしたのだが、この槍はしょせん急造のモノ。モップの柄の先端にガムテープで括りつけただけのナイフは途中で耐え切れずに外れてしまった。

 クソっ、だから首を狙いたかったんだ。

 だがこの事態を想定していなかったわけじゃない。僕は槍の損壊を感触で理解した瞬間に、べつにもっていた果物ナイフを手に駆け出した。

 仰天した男が振り返る。いや、振り返ろうとする、が、僕のほうが早い。

 振り返りかけた体のわき腹から持ち上げるように刺した。肝臓。男は何が起こったのかもわからない、それこそ一人目の男と同じ顔をして叫ぶぼうとして血の泡を吹く。一歩、二歩だけどこへともなく進むとドぅと倒れた。受身もなく倒れたその体はコンクリートの床に激突して頭からもどろりと血を流した。

「うぁ、あああうあああああああ!!!!」

 アリサが叫ぶ。

 まあ、いくら気丈な子とはいえしょうがないよな。というか、槍での初撃では彼女の上をまたいで突いたのだ。成功第一でしょうがないこととはいえ申し訳なくもある。もしかしたらトラウマもんかなあ、PTSDとかいわれても賠償金は払えませんが。

「失礼、少しばかり静かにしてもらえないかな」

「いあっ、あああいううううあ」

「僕は君に危害を加えない。縛りも切れないからまず落ち着いて」

「ああ、ああ、いああっ」

 みぞおち殴れば気絶させられるかな。ムリか。もとよりそんな技術あれば男連中を相手取ってももう少し穏便にやれている。

 いまアリサを落ち着かせるのは諦めた。

とりあえず彼女の言葉を制限する口の戒めを取り外す。その際にも彼女は暴れた強引に押さえつけてボールギャグの紐を開放した。

 アリサが言葉を取り戻した。その間に多少の冷静さは取り戻しているようだった。

「アンタ、アンタ一体なんなのよ!」

「とりあえず君をこの場から助けるつもりだよ」

「人殺し、近寄らないで」

「それは了解。でもまずは静かにしてくれるかな」

「ふざけな……」

 僕は駆け出した。アリサの要望に応えてじゃない、足音が下から聞こえてきたからだ。
 間違いなく三人目の男。目を白黒させるアリサを捨て置いて僕はフロアの入口から見えない壁の陰に隠れた。

「おーい、そっちはガキ見つかったか。なんにせよサツが来る前にまずはズラからっってなんじゃおいっ!?」

 気づかれた。

「遠藤どうしたっ」

 僕は壁の陰で男がやってくるのを音だけを頼りにじっと待った。槍はもう壊れている。ナイフでの接近戦は万全の体調の男が相手では不意をつけても危険が大きい。
でも僕には更に強力な武器があった。一人目の男から手に入れた、銃。来たれり銃社会。日本の治安は崩壊だ。

 撃鉄を引いた。リボルバーだから仕組みは簡単だ。

 三人目が倒れている二人目に駆け寄っていく。僕のいるところになんか気にもかけない。僕は男をしっかりと見据え、ゆっくりと引き金に指をかけて、

撃った。

 パァンと盛大に火薬がなった。

 ――まったく、だから銃は使いたくなかったんだ。

 本当は二発連続して撃つつもりだったが思ったよりも反動が強い。両手で打ったにもかかわらず僕の両手はいま上に。

 しかも、外した。僕の弾丸はコンクリートの壁を穿っただけだった。

 男はびくりと固まるがすぐさま振り返り、爆発の音源――僕の手にある銃をみた。粗野な闘争心が本能的に事情を察知させると憤激の表情を浮かべ素早く懐に手を入れる。

 うわっ、コイツまで銃を持っているのか。日本オワタ。

「てぇめええええぇえぇぇぇぇ」

 パァン、パァン

 僕の小さな体は確実に宙に浮き、壁に叩きつけられた。撃たれた。二発。一発は脇の下を掠め、そして一発は直撃。僕の胸元に。

「きゃああああああああ」

 肋骨がきしむ、背中が痛い。気が遠くなる。

 アリサは叫ぶ。男はゼェと肩で息をし、僕はというと――笑った。

パァン。

 銃を取り落とさなかったのが幸いだ。素早く狙いをつけ、撃った。

 とにかく当てるつもりで撃った銃弾の狙いは男の腹だったのだが、今度は良い具合に弾はそれてくれた。

 ヘッドショット。男の頭に真っ赤な花開く。僕の銃弾は花を咲かせすると同時に男の命を確実に刈り取った。屈強な肉体が虚脱し、地面にヒモを下ろしたように至極自然にその場に崩れていった。死してなおその手には銃が握られて、その銃口は奇しくもコンクリートの床に落ちながらも僕に向いていた。

 また人死にを間近で見る羽目になったアリサにはご愁傷様である。


 ふぅ~~。なんとか生き残れたらしい。

僕は銃弾の食いこんな左胸をなでた。もってて良かった闇の書。僕はイケメンが恋人と別れ話をするのとき服の中にジャンプ(マガジン、サンデーも可)を仕込むように、闇の書を胸元にガムテープで固定しておいたのだ。腹にはジャンプ(拾い物)を開いてはってある。その上から生乾きの服を厚めに着込んでからこの廃ビルまでやって来ていたのだ。おかげですごく動きづらいが。

しかし、うん。女の子からの借り物で銃弾をガードするなんて実にロマンチックですばらしいじゃないか。

 まだ少しくらくらする頭を気合でねじ伏せ立ち上がる。僕は銃をズボンに差し込み――あだっ、あっつい。撃ったばかりの銃身が熱くなっている。片手に持ったままにしてアリサに近づいた。

「いやっ、こないで人殺し」

 絶好調取り乱し中。こっちもあんま余裕ないんだけどな。

「だから落ち着けというに」

「やぁ、やだぁ来ないでよお」

 手足は拘束されているのに這ってでも逃げようとする彼女に僕は頭を痛めた。

僕はアリサの近くに腰掛け、パンと彼女の目前で両手を叩いてみる。

アリサの体が一瞬、引き付けを起こしたように硬直した。よし、うまくいくか。このひとまずの凪に言葉を流し込む。

「僕に従え。事態は切迫しているんだ。いつ新手が現れるともしれないし、さっきの銃声を聞いたなら始めから警戒してくることだろう。そしたら僕は今度こそやられる。連鎖的に君もヤられるだろう。だからその前に早く移動したいんだ。そのためには君にまず落ち着いてもらわないと困る。僕は君を助けたい。思うことはあるだろうが、今は僕を信じてついてきて欲しい。声には出さなくてもいい。わかったら、うなずいてくれ」

「……ん」

 アリサの瞳はまだ戸惑いに濡れていたが、小さくうなずいた。

「いい子だ。バンドを切るから動かないで。そう、気をつけて」

 赤く濡れた果物ナイフをアリサに見えないようにしながら縛られている両手の間に通してプラスチックの結束バンドを切った。同様に足のバンドも切った。

「さ、いこうか」

 手を差し伸べたが、アリサは華麗にスルー。自分で立ち上がった。

「……行くなら行くわよ」

「あ、ああ」

 気丈でいいことだ。僕は微妙に傷ついたがそこはグッと我慢の男の子。

 僕はアリサを先導して歩き出す。っと、そうだまずは聞いておくべきことがあった。

「ときに質問、さっき電話をされちゃってたけど内容はわかるかな。それによってこれから取るルートも変わりえるのだけど」

 とはいえさっきまでのアリサの置かれていた状況を考えると、電話内容を盗み聞いておけというのも酷な話かもしれない。少しの沈黙。僕がやっぱいいやと言おうとしたところでアリサは口を開いた。

「警察に通報された。アンタを探しているけど、見つからなくても撤収する、って」

「そうか。相手の人数とかはわかるかな」

「3人で全部」

「その他にも。君を浚った車とかには他に人はいた?」

 アリサは顎に指先をあてた。

「多分、いえきっと運転手がもう一人」

 実に良し。それなら増援が来るのはまだ時間があるだろう。

僕はアリサにちょっとまってと声かけて、ぬいだ靴や折れたモップの槍にくくりつけてあったナイフなどフロアから通常階段にかけてすばやくアイテムを回収した。

「行こう。非常階段からだ。急ぐけど、できるだけ足音は消して」

「うん」

 金属音を響かせながら階段を下る。非常階段は正面玄関の側からは死角になっているので誰かがこの廃ビルに来たとしてもうまくやればすれ違うことができるだろう。足音を気にして、走るでもなく歩くでもない微妙な速度で進んでいるとアリサが聞いてきた。

「ねえ、そのペットボトルはなんなの?」
「これかい?」

 透明な液体の入った2ℓボトルをあげて見せるとアリサはうなずいた。これはもしかしたら役に立つかもと思いもってきて、連中に姿を見せる前に隠しておいたものだ。結局、使わなかったが。

「これは灯油だよ」

「はあ? アンタ放火でもするつもりだったわけ」

「失礼だな。そんなわけないじゃないか。でも陽動につかえるかもって思っただけだよ。火事になったとしても、それは結果で、目的とは程遠い。まあ、実際に火事にでもすれば消防もこっちに来て、連中もひとまずは手を引くだろうから、わりといい手法なんだけどね」

 でも、それはもうちょっと切羽詰ってからの手段だろう。

 そう最後に良識家らしく付け加えたのだがアリサの目はどうにも醒めている。

「わかったわ。アンタ、バカなのね」

 まったく失礼なものだ。むしろ僕の周到さをほめてほしい。わざわざ生乾きの服を着てきたのもコレを想定して耐火能力をあげるためでもあるのだ。というかさっきまであれほど怯えていたのに、よくもこうはっきり言えるものだ。この金髪ツン娘にちょっと感嘆する。デレ期でもこないかな。

 誰にも遭遇することなく地上に降りられた。そのままこっそり移動して僕の住処の廃ビルの裏口へ到着。

なんとか帰ってこれた。

 扉を開けてアリサを連れ込んだ。あとは鍵を閉めて……これで一安心。

「ちょっと、ここどこよ」

「とりあえずはここで待機だよ。少し移動しよう、暗いから足元に気をつけて」

 手を差し出すと、今度は握り返してくれた。始めて猫が手ずからエサを食べてくれたときみたいな、小さな手の暖かさにちょっと感動だ。

 三階に移動した。僕の主な生活空間である。アリサにソファーを勧めて一段落。

 僕もここにきてようやく落ち着くことができそうだ。

「ってなんで服を脱ぐのよ。まさかアンタも、アンタもなのね。このケダモノっ」

「違うって」

 いったいなにを勘違いしているんだ。
 僕はさっさと上着を脱ぎ捨てた。

「あ、アンタ撃たれてるんだったわね。そっか、その本で」

 ご理解いただけたようでけっこう。ページを開いて腹にガムテープで止めていたジャンプを取り外した。心臓を守ってくれた闇の書も取り外して、

「うっわ、なんじゃこらぁ」

「っ!」

 闇の書には血がべったり。返り血ではなく僕の血だ。いや、血が出ているのはわかっていた。僕が撃たれたのは2発で、一発は闇の書で受け止め、もう一発は脇の下を掠めた。この血は後者に由来するのだろう。痒みのようなものは感じていたが大した傷ではないと思っていたのだけど、案外深かったらしい。服のシミなどから考えるにかれこれ50mlは出血しているだろう。まだ止まってはいないようだった。

 おそるおそる傷口に指を伸ばしてみる。

「qぁwせdrftgyふじこlp!!!!」

「ちょっと、アンタだいじょうぶ?! ねえったら」

僕はコクコクと涙眼でうなずいた。

でもダメかもしんね。銃弾の軌跡に沿って刻まれた肉の凹痕に指が触れたとたん電流が走った。気づいたとたんに痛くなるというやつだろうか、それともアドレナリンの異常分泌で痛みが緩和されていたのだろうか。いずれにせよスーパー愛天使タイムは終了のようだ。

僕は立ち上がるのも億劫で膝立ちになってタオルを取った。できれば熱湯消毒をしておきたかったが、洗いたてなだけでもよしとしよう。さらに転がしてあったガムテープをとって、傷口に当てたタオルを固定

「あたっ」

 できない。そもそも場所が悪い。左脇の下、より正しくは4番肋骨の横あたりの傷は両手での処置ができなかった。しようがないので一度きったガムテープを床に敷き、その上にタオルを乗せてから大きな絆創膏のように貼り付けようとする。だが今度は左手を動かすだけで傷が引きつって痛くなってきた。

「ああっ、もう。見てらんないわねっ」

 アリサがおこった。

 ソファーをおりてズンズンやってくる。不機嫌な形相だ。もしかしてアレか、ここで傷口にトゥーキックでもえぐりこんでくるのか。今までの仕返しか。アリサ、怖い子。

 そう思っていた時期が僕にもありました。
 アリサはやっぱり不機嫌そうにタオルを拾うと僕にいった。

「ほら。傷、見せなさい」

「え?」

「え、じゃないわよ。手伝ってあげるって言ってるの。さっさとだす!」

 ツンデレ入りました? プイとそっぽを向き、頬を赤くしている。ふむぅ、愛い奴よのう、などといいながらわっしゃわっしゃと撫で回したくなる姿だ。もしかするとこの子は電車で老人に席を譲るときも、声には出さず(出せず)すまし顔でいかにももう降りますから的な格好をつけて無言で席を立つのかもしれない。

 僕的好感度急上昇。やっぱりがんばって助けてよかった。

「……アンタ、何なの」

 タオルを傷口に当てながらアリサはポツリと問うた。

「あんな急に現れて、それでいなくなったと思ったらまた現れて…………人を、殺して」

「なに、か」

 それはなかなかに難しい質問だった。

「べつにただの隣人だよ。ちょっとワケあり――でもないか。見てわかるかもしれないけど僕はここに住んでいる。それだけでさ、たまたまそこの窓から君が拉致られて来るのに気づいたから、まぁ輪姦されるのを無視するのも後味が悪いし、助けようかと思っただけだよ。とくに妖しげな組織に所属しているわけでもないし、カッコよさげな何でも屋さんとかでもない」

「うそ。だったら警察に連絡した時点でもういいじゃない。だから、あんなに人を、殺さなくたって。ううん、あんただって殺されるかもしれなかったのに」

 しかしその殺人によって助けられた身としては強く責められないと見える。アリサはいまにも折れてしまいそうにうつむいていた。

「ああ、あれ僕の演技。僕みたいなストリートチルドレンが携帯なんかもっているはずないだろう。向こうで叫んだときにもっていたのは、前になんかに使えないかと思ってリサイクルボックスからパクった契約の切れたヤツ。なかなか充電もできないから放置してたけどね。オマケに直接警察に行こうにもこの一画から出るための小路は、あからさまに妖しいワゴン車に見張られていたからね。警察なんていくら待っても来なかったんだ。なにせ今だってまだ事件が起きていることすら知らないだろうからね。だから、だよ。僕にあんな連中に正面からかかって勝てるはずがない。分散させて、一人ずつ確実に行動を封じる必要があった」

 殺したのはあくまでその手段であり結果だ。

 ただ、ついでにいうと連中は僕にとって死んでも心が痛まない類の人間ではあった。例えばニュースか何かで彼らの死を知っても僕は何の感慨も得なかったことだろう。思うことがあるとしたら、これで少しは世界がすごしやすくなるとかそんな感じに違いない。

それでも人を殺したのは前を含めても初めてだった。だからコトを終えて僕自身どう思うのかちょっと興味があったのだが、あっけないほど何も感じていなかった。そりゃ、まったくの平常心というわけでもないが、その揺れ幅は想定の範囲内だ。穢れている気がしてひたすら手を洗いたくなる衝動とか、素敵なフラッシュバックとか、そういう心理状態もちょっと体験してみたかったのだけど、僕にはその手の繊細さとは縁がないみたいだ。

 治療が終わるとアリサはソファーに戻った。僕は近くにしいてある布団の上であぐらをかく。

「やっぱりアンタ、バカだわ」

「環境が環境だ。多少変わっているのは自覚するがね、でも実を言うとそんな変でもないと思うんだけどなあ。みんなそれを前面に出す機会がないだけで、多かれ少なかれその属性はあると思うんだけど」

「種をもっているのと実際に花を咲かせるのは違うわよ。わざわざ危ないトコに乗り込んで、人殺しなんて、正気の沙汰じゃないわ。――でも、まあ、たしかに助けられは、したけど。あなたがいなかったら、きっと、いまごろこうしてはいられなかったし?」

「や、そこで恥ずかしがらないでくれ。僕まで照れくさい」

 アリサの顔がぼっと赤くなる。

指先で服の端をつまんでいたのが振り下ろされた。

「っ、うるさいわねっ」

 太陽が雲に隠れたようだ。照明のないビルの中はそれだけで薄暗さを増した。

「ねえ、これからどうするの。というかまっても警察こないんだったら、なんでこんな所にいるのよ」

「僕が疲れたから」

「殴るわよ」

「わりと本当。そういう要素もあるって程度にはね。でも一番大きな理由は正直なところ動きかねているからだ。先にもいったとおり、この区画から抜ける小路は監視があって抜けられない。一度頭を休ませつつじっくりと情報を整理してみようかなと」


 ただ、いまごろは三人の男たちが戻らないのをいぶかしんだワゴンの運転手が、隣の廃ビルまで覗きに行って死体を発見していると見ていいころだろう。そろそろ行動しなくてはならない。ここだって本当に安全だとうわけではない。

「さっきの灯油だけど本気で使っちゃおうか。屋上あたりで盛大にものを燃やせば煙に気づいただれかが消防に通報してくれるかもしれない」

 そうすれば僕らは消防に保護してもらえるだろう。アリサがヤクザに捕まることはなくなる。

「そんな火を起こして周りに燃え移ったらどうするのよ。いくらなんでも危なすぎでしょ!」

「それが問題だ。江戸時代じゃここで助かっても死罪だしね」

「だからそれは最後の手段よ」

 あ、最後だったらやるんですか。

「ねえ、君は携帯電話持っていないか。要するに外部に連絡さえ取れれば万事解決なんだけど」

「あるわけないじゃない。そんなものあいつらが取り上げないと思う? わたしの持ち物なんて全部あいつらの車の中で……あーーーーっ、そうよ、そうだったわ。あれがあったじゃない」

「わっ、えーと、いいことかグハッ」

 叫びだしたアリサが感極まったのか僕に抱きついてきた。痛い、痛い、傷口が焼ける。

「あ、ごめんなさい」

「い、いや、それより内容は?」

 照れくさそうにしていそいそと僕から離れる。それでも興奮は冷めやらぬといった様子でアリサはまぶしい笑顔を浮かべて話し出す。

「いいことよ。これ以上なく……ってほどでもないけど、確実にいいことだわ!」

「シーっ、シーっ。ちょっとトーンダウン、外に漏れる」

「あ、ごめんなさい。でも思い出したの」

「……何をかな」

「連中に取られた荷物。わたしの通学カバンだけど発信機がついてたのよ。いまごろわたしが帰らないのを心配した家の者が発信機を頼りにきっとわたしを探しているはずなの。だから」

ガンっという音。

それは奇しくも僕が始めにアリサが浚われてきたのを気づいたときの音に似ていた。僕とアリサは弾かれたように窓の近くに張り付いた。

そっと外をのぞき見る。そこには遠目からわかるほどにボコボコにされた柄の悪い男が、一人の紳士によってまるで朝のゴミだしのようにして引きずられていた。紳士は男を引きずりながらも隣の廃ビルへ急ぐ。紳士も憔悴していた。

「鮫島っ!」

 アリサが窓からありったけの声でその人の名を叫んだ。アリサのその晴れ晴れとした様子と、階下から見上げる紳士の安堵に満ちた表情は彼が何者なのかも知らない僕にでも、危機は過ぎ去ったことを理解させるに足る。

 雲間から太陽が顔を出した。
 事件は一応これで終息したとみてよいだろう。僕は手をぶんぶんと振るアリサを横目にほっと息をつきつつ、今後のことを考えた。

この廃ビルにゃあもう住めんよなあ。
はあ、笑顔でため息なんて器用な真似をしてしまった。



[4733] 第6話 アキラメロン
Name: コルコルク◆8f84f3de ID:efa95347
Date: 2008/12/13 23:35
 さて、アリサ・バニングス誘拐事件は何事もアリアリで、それでも何とか終了したが、はいそれでさようならというわけにも行かなかった。

 アリサを鮫島さん――バニングス家の執事らしい。聞いたことがある気がする、原作キャラか?――のところまで連れて行ったあと、僕は『じゃ、そういうことで』なんていってさわやか雲隠れをしようとしたのだが見事にとっ捕まっていた。

曰く、「鮫島、絶対に逃がさないで」とのこと。

 君、今の今まで緊張の糸が切れて大泣きしてませんでした? なに、その上位者然とした強制力を感じさせる語調。正直カリスマチックで怖いんすけど。

 そして忠臣なるかな鮫島さん。彼は僕をこの拉致事件の悪い意味での関係者と見取ったらしい。哀れ僕は初老の執事の見事なアイアンクローにさらされ、頭をつかまれて宙に浮くという貴重な体験をした。

 まあ、すぐにアリサは誤解を解いてくれて、鮫島さんも謝ってくれたから問題ない。でも僕が消えるのはダメらしい。ケチ。

 んで、アリサは帰宅。僕にとっては連行なノリでバニングス家にお邪魔した。

 なお移動の車の中でやっと僕とアリサは名前を交換して、僕は彼女をアリサと、彼女は僕をアイリと呼ぶようになった。僕が下の名前を語った際のリアクションは割愛したい。
 ちなみに鮫島さんに引きずられていた男は、鮫島さんがアリサを発見した時点で気を失わされ、トランクに入れてバニングス家まで運ばれた。先に言っておこう、ご愁傷様である。




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アホウ少年 死出から なのは

第6話 アキラメロン
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 で、バニングス家。

 鮫島さんもここまでのアリサの態度から彼女には大事ないことを読み取ったらしく、いいかげん事情を知りたがっているようだったが、そこに待ったをかけたのがアリサだった。

 彼女は僕の傷のちゃんとした治療を訴えた。忘れてた。ろくに消毒すらしていなかったからありがたいかぎりである。

 バニングス家のかかりつけらしい医者は僕の傷を診ながら、こりゃ銃創じゃないかと言って場を凍らせたが、鮫島さんが耳打ちをすると、以降は不満そうではあったが静かに処置してくれた。幸い肉を削っただけで、骨は逝っていないらしい。よきかな、よきかな。

 治療が終わるころにアリサの父親が息を切らせてやってきた。高級感漂うスーツと柔和な顔立ちを散々に乱しながら駆け込んできて娘を抱きしめる姿はそれはそれは感動的でハリウッド映画のクライマックスのようだった。いいお父さんなのだなあと、まったり見つめていたらアリサが僕に水を向けた。

「お父さま。この人、アイリがわたしを助けてくれたの」

「望月です」

「そうか、君が助けてくれたのか。ありがとう。本当にありがとう望月くん。本当に、本当に……」

「もう、お父さまったらはずかしいわ」

 そんなこんなでバニングスさん家の皆さんへの説明タイム。

 始めはアリサからの下校途中に拉致られてあの廃ビルに連れ込まれたという説明だったが、だんだんと彼女の語調がよどんできたから僕が引き継いだ。まあ何事もなかったとはいえ輪姦ビデオを撮られそうになりましたなんて女の子からはいいにくいだろう。

 僕からの視点での説明に移った。

「僕はいわゆるストリートチルドレンでして、たまたま棲み家の隣の廃墟ビルにアリサが拉致されてくるのを見かけました。警察に連絡しようと思いましたが、途中で連中に拘束される可能性が高かったので、自分で動くことにしました。連中のビルに忍び込んで、動きを確認したところ、一刻を争う状況と判断されたため、その場にいた誘拐犯三名を殺害。アリサを開放して、僕の棲み家にしている隣の廃ビルに移動しました。その後、どうやって人目のあるところまで移動するか頭を悩ましていたところに、そちらの鮫島さんが近くにいらっしゃったのを見つけて現在に至ります」

 僕の口から『殺害』が出た瞬間の反応は見ものだった。アリサの父――デビット氏は愕然と目を開き、鮫島さんは緊迫した表情で息を呑み、アリサは悲しそうにうつむいた。

「今の話は、本当かい」

 デビット氏の問いかけに言葉で応じたのは僕ではなくアリサだった。

「事実よ、お父さま。アイリは、殺したわ。わたしは二人しかその場面を見ていないけど、きっとアイリがそういうなら三人なのよ」

「……そうか」

 デビット氏から何事か耳打ちを受けると、鮫島さんがこの場から立ち去った。

 これ以上は現段階では無意味としたのかデビット氏はしかめつらしい表情で、今日は泊まっていくよう告げてこの場での話を打ち切った。慈しみの表情を浮かべてアリサの頭をなでると颯爽と仕事に戻っていった。

 いやはやいい男である。

「もう少し居てくれてもいいのに」

「いいお父さんじゃないか」

「そんなことわたしが一番知ってるわよ。でも、今日くらいはワガママ言ってもいいでしょ」

 いや、ワガママってのは本人にいってくれなきゃただのグチでは?

 そのあとアリサは鬱憤を晴らすように僕をバニングスの屋敷の中で連れまわした。屋敷には犬いっぱい。すっげー癒されました。わふわふ、もふもふ。大型犬とか大好きです。前に食べようともしたけれど。

 アリサの母親も帰宅した。ハイヒールのまま走りよって、安堵に涙しながらアリサを抱きしめる彼女もやはり愛に満ちていた。落ち着くとアリサの母は僕に丁重に礼を告げた。

 晩もいい時間になると夕食を振舞われた。久しぶりに食べたパンの耳が主食ではない夕食は感動的だった。はやての料理もうまいが、さすがに作っている年季も材料も違う。これがブルジョワか。『勝ち組だ』ぽつりと呟いたらアリサに鼻で笑われた。ガッデム。

 バニングス家の客人になったことで何気に楽しみにしていたことがあった。久しぶりに風呂に入ることができると思っていたのだ。が、よくよく考えてみれば僕はけが人だ。バニングス家のかかりつけ医は処置を終えるとそそくさと帰ってしまったから聞いてはいないが、常識的に考えて今日は風呂はダメだろう。

 結局タオルで体を拭くだけでいつもとほとんど変わらない。それでも、タオルを濡らすのにはお湯を使えたし、髪は水を使わないドライタイプとはいえちゃんとしたシャンプーを使えたからいつもよりましではあったのだけど。でもやっぱり湯につかりたかったなあと残念。

 22時を過ぎたころ、僕は読書にいそしんでいた。何種類かの身分証明に加えて、闇の書と図書館で借りていた本は肌身離さずもってきていのだ。ベッドに寝転んで電灯の下で眠くなるまで本を読めるなんて、ちょっと前まで当たり前のことがひどく新鮮で幸せだった。

 一冊のあとがきを眺めつつ、もう本を閉じるか考えていると、与えられた客室の扉が叩かれた。デビット氏が仕事にキリをつけて帰宅したらしい。僕からの詳しい話を望んでいた。

 いいだろう。僕にも話しておくことがある。


 呼び出された書斎に行くとアリサはいない。夜の顔とでもいおうか、貴腐の香りをたたええたデビット氏が僕を油断なく見据えている。

 与えられた席に着く。

「お願いできるかい」

「ええ」

 僕はあのビルで自分が具体的に何をしたのか、その経緯を殺害の順番・手段を含めて詳細に説明する。

 途中で何度か入るデビット氏からの質問に答えながらも全ての説明を終えると、氏はそばに控えていた鮫島さんに視線を向けた。

「どうだ?」

「はい。件のビルで確認してきた状況と矛盾はありません。連中がお嬢様を撮影しようとしていたビデオカメラを回収しましたが、そこに入っていた内容も望月くんの証言を裏付けています。信じがたいことではありますが、おそらくは事実かと」

「そうか」

 デビット氏がにがいものでも食べたように顔をゆがめた。そりゃ悩むだろうなあ。

「アリサも、娘も見ているのかい。君が、人を殺す姿を。人が死ぬ光景を」

「余裕もなかったですしね。その点については申し訳ないとしかいいようがありません」
 特にアリサをまたいで槍を刺すとかどうよと思わざるをえない。改めて考えたら、よく彼女は僕を怖がらないな。

「僕としてもせっかく助けた子がそれで心に傷を残してほしくなんかないですから、これについては彼女の心のケアに気を使っていただくようお願いするとして……」

「当然だ、アリサはわたしの娘だからな。それで?」

「僕からもお聞きしたいのです。つまるところ彼女はなんで狙われたのですか?」

 どうでもいいような気もするが、まあ好奇心だ。デビット氏は言葉を詰まらせたが、僕だって巻き込まれたんだから聞く権利くらいあるだろう。

「――私の経営している建設会社が県の公共工事に手を伸ばそうとしているが、既得権益にしがみつく輩のせいでひどく排他的でな、新規参入者には不当に厳しかった。そこで連中の談合の証拠を集めて――いや、すでに証拠は手に入れたんだ。あとはカードを切るタイミングを待つだけだったんだが」

「なるほど」

 焦ったその既得権益にしがみつく輩とやらが強硬手段に出たというわけか。アリサにとっては見事なとばっちりだ。

 デビット氏は歪めるというに相応しい自嘲の笑みを浮かべた。

「私は父親失格だと思うかい」

「それはアリサに聞くことです。僕に答えられることではありませんよ。まあ、しようとしていることに対して守りが甘かったのは事実でしょうね、結果論ですが。ただ、それでも僕はあなた方ご両親がアリサを抱きしめているのを見て親御さんだと思いましたよ」

「――ありがとう」

 どういたしまして。

「つきまして今後どのような対応を取るおつもりですか」

「ああ、娘は当分送り迎えをつける。談合の件も早め決着をつけることにしよう。もう絶対にアリサを危険な目にはあわせんよ」

 や、それは良いけど当たり前すぎる。僕が聞きたいのはそれじゃないのですよ。

「警察には? これをどうするかで僕の進退もかなり変わってくるので早めに聞いておきたいのですけど」

「ふむ――――――君はどうすべきだと思う」

「はあ?」

 もしかして僕、試されてる? 

 デビットさんを見るがその真意は読み取れない。いくつもの企業を運営する彼と比べて、しょせん僕は前の人生をあわせても30年生きた程度。しかもここ10年近くはぬるま湯につかり続けて、成長があったかといえば疑わしい。変な事象に対する適応力はともかく、海千山千の抜け目ない隣人たちと常に切磋琢磨を続けているデビット氏の対人スキルには比べることすらできない。

 そも、日本から出たことのない僕には外人さんの顔から細かい機微はわかりづらいのだ。
 しょうがない。嫌われてもいいから本音でいこう。実際、嫌われたからどうだということもないし。

「僕はデビットさんにお任せしようと思っていました」

「ほう?」

「正直に申し上げて、今日僕が殺害した3人は僕にとって死んでも心が痛まない人たちで、僕は今日行った一連の行動について、罪を償っていこうなんて殊勝な意思は持ち合わせていません。だからといって死体を3体も生産しておきながら放置して、いたずらに警察の仕事を増やすのも申し訳ないです。過剰防衛すら認められるかは怪しい案件ではありますが、僕はいろんな意味で身軽だし、いいかげん行政の保護下に入るのも良いかもしれない。デビットさんがたがアリサを襲った連中の中の人たちをけん制したいというのであれば僕は自首したってかまわないと思っています。しかし一方で、未遂とはいえ襲われたというのがアリサにとって醜聞になりかねないのも懸案事項です。僕が警察に捕まれば絶対的にアリサのことも知れるわけですからね。それに今日の一件はそれを表に出さないことこそデビットさんたちにとっての武器になるのかもしれない。そちらが僕が警察の厄介になるのはまずいとお思いになるのでしたら、今日のことは隠していこうと思います。彼らを殺したからって僕の生活が侵されるのは不愉快でもありますし。もっとも、それができるのは今日のことがまだ警察にもれていない場合に限りますけど」

 さすがに僕も警察の追跡から逃げるほどの体力も熱意もないし、バニングスといえど殺人事件の捜査にまで介入する権力はないだろう。

 紅茶でノドを湿らした。うん、いい葉っぱを使っている。味なんてわからないけど、ここで出てくるということはきっとそうなのだろう。

「まあ、3:7で後者がうれしいといったところですね。基本的にデビットさんのお好きなようにどうぞ。あ、でも警察に突き出すとしてもちょっと時間をくださいね。明日は朝から人と合う約束があるんで。最低でもお別れくらいはしなくちゃいけない」

 なんだかデビットさんはさらに難しい顔をしてしまった。僕は選択肢をあげたつもりなのだけど。

 まあ、自由なんて苦しいモノかもしれない。自らの選択で他者の運命が決定付けられるのならなおさらだ。

 デビット氏、鮫島さん、それに僕、だれもがじっと沈黙を守り、時計の秒針ばかりが響いた。

「……死体はこちらで片付けておく」

 ほう、僕は表に出さぬように一息ついた。これでまた当分は僕の日常が確保されたわけだ。

 もう眠い。今日はずっと動いていて、久々の夜更かしだ。そろそろお暇させてもらうかな。

「今更だが望月くん。君はなんで殺したんだい」

 唐突にデビット氏が言った。

 本当に今更だ。たぶん今の僕はそうとう間抜けな顔をしていると思う。だがデビット氏はきわめて真面目なようだった。

「殺害があの場所で思いつく限りの最善手だったからです。正面から割って入っても勝てるはずがない。よって不意打ちによる各個撃破が前提でしたが、それには相手が警戒していてはどうしようもない。不意を打ったなら即座に黙らせる必要がありましたが、僕は相手の意識だけを一瞬で奪う方法なんて知りません。うまく手足の腱を切れたとしても騒がれたらおしまいだ。速やかに抵抗と口を封じて、次につなげるには殺害が一番現実的だと判断しました」

「なぜ殺せたんだ」

 なんか省略されたな。連中が油断していたからだと答えそうになったが、デビット氏の深い碧色の瞳が求めている回答はもっと別の、精神的なことだろう。しかし難しい質問だ。

 だいたい彼は何が不思議なんだ。正義でパトリオットなアメリカ人だったらか弱い婦女子が襲われているのを目撃すればファック叫びながらぶっ殺すのがスタンダードじゃなかったのか。汚物は消毒だ~って。

「僕は身軽ですからね。それにこういうとイヤに計算高いガキじみていていやなのですけど、捕まってもまず少年法が守ってくれますから。ようするに気分と損得の勘定ですよ。たぶん、あんまり珍しい思考法じゃないと思います。僕と同じように考える人はきっとたくさんいます。ただ普通に暮らしていると、いろんなしがらみに縛られたり、そもそもの機会がないとかで、その思考が行動に発露しないだけで。繰り返しますが僕は身軽ですから」

 僕は彼らの死を悼まない。死んでもいい人間だから、それよりも大切なものを優先させるためには殺すこともある。じつに明快だ。

「君は思想を実践してしまったのだな。この国では、無くてこそ倫理とされる秘めるべき凶器を」

「そういえば種をもっているのと実際に花を咲かせるのは違うとはアナタの娘さんから聞いた言葉でした」

 大麻だって種を所持しているだけなら違法じゃないんだったっけか。いやはやアリサもいいことを言う。

 デビット氏は責めるでも諭すでもなくただ苦しそうに僕を見た。そういう目はやめて欲しい。なんか対応に困るのだ。

 新しい話題も無く静寂が場を満たす。

 そのむっつりとした沈黙はいいかげん眠気に耐えかねた僕が部屋に上がらせてもらうまで続いた。







「はあー、いやされるなあ」

「なんや、やぶからぼうに」

 たったの一日ぶりだったのにはやての家がひどく久しぶりな気がする。やっぱりさあ、思うんだよね。世の中平和がいちばん。殺伐なんてだめだ。ホント。今朝、眠そうなはやてに迎えられて思ったね。

 こう、お茶をすすってへけーと宙を見るときの幸せがまさしく最高だ。

「アイリの用事は昨日でちゃんとおわったんか」

 はやてが算数のドリルから顔をあげて、宿題を見張る先生みたくいった。

「んー、どうだろ。やることやったといえばやったけど、逆にしなくちゃいけないことが増えたというか」

 少なくとも当分は僕の廃ビルには危険が付きまとう。デビット氏はうまく処理してくれると言ったが、それがどこまで本当かはわかったものじゃない。警察が事件を知らなくても、拉致の指示者は3ないし4の行方不明者が出たことに気づいているだろう。

 新しい住処に移動したほうがいいだろうな。候補地は何個かある。でもやっぱり今の廃ビルよりどうしても何ランクか下がるんだよなあ。しばらくは候補地のどれかで暮らし、ほとぼりが冷めた頃に今の廃ビルに戻ればいいかな。いやはや今が秋や冬でなくてよかった。

「ちょっと引っ越し作業がしばらく続きそう」

「な! そんな、アイリ引っ越すん?」

「うん、ちょっとね」

「そんな……わたしそんなんイヤや」

 なんだか意気消沈した声。どうしてはやてはそんなに深刻ぶって――あ、そっか。はやては関西から越してきたから引っ越しといったら会えなくなる距離が前提なのか。

「あ~~、うん。だいじょうぶだよはやて。引越しっていってもすぐ近くだし、もう会えなくなるわけでもないから」

 なんか光るものをためているはやてのすがるような瞳はそれだけで僕をイエスマンにしかねない引力がある。

 ぐす、と鼻をすすってか細い声で聞いてきた。

「ホント?」

「ホント、ホント」

「引っ越してもちゃんとうちにきてくれる?」

「うん、うん。まあ引越し期間中は忙しくなるけど」

 とりあえず現状の第一候補地は国守山の麓。第二、第三の候補地も壁がないのは確定だからまずは楽しいダンボール工作の時間になるだろう。製作にはちょっと時間がかかりそうだ。

「わかった」

 はやてはしぶしぶうなづいてくれた。善き哉、良き哉。

 でもちょっと言っておくことがあるか。

「なあ、はやて。べつに僕ははやてが来て欲しいっていうからこの家に来ているんじゃないからね。たださ、友達だから遊びにきてるんであって、どっちがほしいとかそういうんじゃなくてさ」

 はやてがちょっと湿った瞳で僕を見上げてくる。

 まいった、えらく恥ずかしい。一体、前の人生で僕が『友達』なんて言葉を吐いたことがどれだけあっただろうか。べつに友人がいなかったわけじゃないが、わざわざ言葉で友誼を確かめたことなんて数えるほどしかなかった。

「あーなんていえばいいんだろ。とにかくさ、卑屈にならないでくれよ。僕らはどっちが上とか下とかじゃなくて友達なんだから。いや、まあ僕が餌付けされてる感は否めないけどさ」

 友達なんてたまたまその人と同じ道を行くとき、互いの暇を紛らわすために歩調をあわせる程度の関係がちょうどいい。ちょっと転んだとき手を差し伸べあうくらいのもので、それに対してなくてはならないもののように頼り切るのはどうかと思うのだ。

 いるとちょっとうれしい。でもいなくなったて、一人でやっていけるような。だからこそ一方にかしこまる関係はよろしくない。

 ……とは思うが、そんな酷なことをはやてにいえるはずがない。一般論からして8才の女の子なんて甘えたい盛りなのだ。だがはやてに親は亡く、おまけに足まで悪くて友達を作るのも難しいときている。僕との関係に比重が偏るのも無理はない。

 やはりはやてには家族が必要か。

 ヴォルケンリッターの皆さん。僕は闇の書のことを思い出した。闇の書はいまもココに持ってきてある。

 いや、しかし、はやてに闇の書を返すのにもちょっと勇気が必要だなあ。銃弾を受けても傷一つ付いていなかったけど、拭いても洗っても僕の血のシミが落ちないのだ。

 ……返しづれぇ。だいたいあんなべっとりついた血液、気にならないはずもないが理由を聞かれても答えられるはずがない。

(まあ、はやての誕生日にはまだ日があるし)

 適当な言い訳が思いつくまでは預かっておこう。

「さぁさ、勉強勉強。飽くなき知識の蒐集の果てに道は開かれるよ。わからないことがあったらなんでも聞いていいからね。あと1ページくらいはちゃっちゃと片付けてしまおう」

「うん。――――じゃあ、なんでアイリは引っ越すん?」

「え」

「ううん、それだけやない。わたし、今までアイリのこと聞いたことがなかった。お父さんのことも、お母さんのことも、なんで学校いってないのかも。なあアイリ。わたしアイリのこともっと知りたい」

 あ、やぶ蛇だったかも。はやてには、いや、はやてに限らずだれに対しても、あんまり僕の家庭事情とか話したくないんだよなあ。たぶん引かれる。武士は食わねど高楊枝を信条とする僕としてはあんまり同情だって買いたくないが、その一方で客観的に考えて僕は同情されてしかるべき身の上だ。だからこそ知られないのが一番なのだが。

 それに僕のことを良識のある人が知ったらすぐにでも孤児院的な施設にぶち込まれるだろう。その行為の道徳性に僕自身が納得できるだけに厄介だ。

「そうだね。でもちょっと長くなるからその前にやることをやってしまおうか。それからお昼を食べてからにでもゆっくり話そう」

「わかった」

 ちょっと納得いかなそうにだけどはやては了解した。

 僕も手元に視線を落とした。はやても勉強しているのだから僕だってしないと不公平にうつるだろう。本を読んで雑多な知識を仕入れるのも勉強だが、ここはいかにもな『勉強』を。せっかくだから大学で単位こそ取れたものの身についたとはいいがたい応用数学の演習問題に手をつけた。

 それにしても全部言っちゃっていいもんかなあ。

 昼食は僕とはやての合作だった。勉強に集中できなかった僕が気分転換をかねて作ろうと思っていたのだが、はやてもまったく同じように昼食作りに名乗り出た。お互い今日のノルマは終わったし、ならば仲よく作りましょ、と。

 僕はタコと大葉のペペロンチーノ、はやては付け合せのサラダを作った。

 全てを胃に収めて食器を洗い、リビングに戻った。

 はやては、忘れてないよなあ。さっきからどことなく張り詰めた表情で僕を見ていた。
 こりゃある程度は話さなきゃ許してくれないか。べつに僕はどうも思っちゃいないんだけど、はやてはきっと自分の環境と重ねて心揺れるだろう。だから話しずらいのだ。もっとも、前提(転生)を話さない時点で、これについて他者から理解を求めるのは間違いだってわかるけどさ。

 まあ前世の記憶はともかく生まれてからの身の上は隠していたわけじゃない。自分から言う気はなかったが、聞かれれば偽ることでもないだろう。

「それじゃあ話そうか」

 電車での旅番組を流していたテレビを消した。

 さて、語るぞ。イヤだけど。大きく息を吸い込んで、後ろ向きな意気込みが最初からクライマックスに至る。

「うん。教えて、アイリのこと」

ピンポーン。

 間抜けな音が鳴り響いた。

 気が抜ける。それはいつも僕が家の外から押して聞く音で、玄関のチャイムである。僕は一息で言い切ろうとしていた空気の塊を吐き出す。はやても似たような気分だったようで顔をあわせて二人苦笑いをもらした。

「出て来る?」

「はあー。――行ってくるわ」

 なんとも弛緩した空気が流れる。

 ピンポーン。

「はいはい。いまいきますわ~」

 はやてが車椅子を発進させる。ついていくかな。車椅子の持ち手に手をかけて僕も玄関へと向かった。

 ドアを開けた瞬間、まるで地獄の底から搾り出されたような声がした。

「あんたぁ~、勝手にどこいってんのよ」

 あーー、なんか選択肢間違えたかもしんね。僕を見つけてはガーっと指差してプリプリしているお嬢さんを見て思った。

 戸惑ったはやてが僕の袖をクイと引く。

「アイリ、この人んチあがっていきなり怒り出した人知り合い?」

「知らない人です」

「ああん?」

 仏千切るぞ的な凶視線をアリサに照射されて僕は振る首の向きを90°変えた。

「ごめん。知ってる。すごく良く知ってる」

「……ふーん」

 なんかはやて不機嫌? そりゃこれから重大な話ってタイミングで水差されたらそうもなるか。

「で、この人はなんでこないにおこっとるんや。アイリ、この子のプリンでもとった?」
「いや、虫のいどころが悪いんじゃないかな。もしかしたらもち米に小豆を混ぜて食べる時期かもしれない」

「アンタら人を無視してんじゃないわよ」

 突然の来客がほえた。その人物は、いうまでもない僕のことを知っている人なんてすごく限られている。アパートを出てからはなおさらだった。

 僕は秋の小麦畑のように黄金の髪をゆらす勝気な少女を見つめた。

「君もねアリサ。人の家にやってきて家主を無視して話を進めるものじゃないよ」
「うっ」

 アリサがひるむ。唐突に常識を思い返したのかバツの悪い顔をしてはやてにむきなおった。

「ごめんなさい。ちょっと頭に血が上っていたみたい。コイツの顔を見たらなんか言いたいことがあふれ出ちゃって」

「うん。ええよ」

「改めて自己紹介するわ。わたしはアリサ・バニングス。聖祥大付属小学校の3年生よ」
「わたしは八神はやてや。3年やったらうちらとおんなじやな。立ち話もなんやし、とりあえず上がらん?」

「ええ。お邪魔させてもらうわ」

「アイリもそれでええね」

 もちろんだ。

 アリサをリビングへ連れて行く。電気ポットの湯で入れた番茶を出したら『雑ねえ』と顰蹙を買ったがブルジョワの意見は聞かん。その際に僕がはやての家の食器棚をフリーダムに漁って湯飲みを出し入れしているのを訝しげにしていたがスルーした。

「アリサさん、んー、カタカナっぽいからバニングスさんやな――バニングスさんがうちにきたったのはアイリにようがあってってことでええんやな」

「アリサでいいわ。今日は身体測定だけだったから早く帰ってきたってのにコイツは」

 キッと威嚇してくるアリサ。僕、なんかしたか。

「約束かなんかしてたっけ」

「してないわよ。だいたいアンタわたしが学校行くまで寝てたじゃない」

「じゃあ何事さ。用があるならメモを残すなり使用人に言付けるなりすればよかったじゃないか」

「だから約束なんかないっていってるでしょ。わたしは屋敷に帰ってからアンタに用ができたのよ」

 なんじゃそりゃ。ふと見るとはやても苦笑している。昨日のことがトラウマになってなければいいと思ったけどいくらなんでも元気すぎやしないか。

「わたしはアンタに言ってやらなきゃ気がすまないの」

 [東映]そんなロゴがでてきそうな荒波のイメージをバックに僕に指を突きつけるアリサ嬢。その指先に僕の指も合わせればETだななんて思っていたらはやてが助け舟を出してくれた。

「なんかようわからんけど。ちょう察するにアリサちゃんはアイリと一緒に暮らしてるんやな」

「ちがうわ。昨日からの客人ね」

 アリサも押しかけた弱みがあるのかはやてにはちゃんと答えてやる。

「なのに愛天使ったら勝手に飛び出して」

 愛天使ゆーな。

「そりゃ出るさ。今日ここに来るのはおとついからはやてとの約束だからね。それともバニングスの御屋敷には客と呼ぶ相手を決して外に出してはならない特殊なしきたりでもあるのかな」

 そういえば鮫島さんに捕獲されてバニングス家まで連行された誘拐犯の一人は元気だろうか。彼のことを考えるとしみじみとなる。

「でも昨日の今日よ。一人で出たって言うし、危ないじゃない」

 ハイ、アウトー!!!

 僕ははやてに見えないようにウィンクを連射連射連射。気持ち悪い片目バチバチ行動にアリサは察してくれたのかモゴモゴと口を閉ざした。

 おそらくアリサは護衛をつけてここまできたのだろう。そして僕はつけてこなかった。このあたりについても怒っているのだ。

 だが誤解がある。僕は連中に顔は割れていない。そもそもそんなもの必要ないのだ。

 それでもちゃんと防犯ブザーは頂いたし、尾行がないことは来る途中に何度も確認した。出る前には行き先としてこの家の住所は告げてある。だからアリサもここがわかったのだし。

「ん? どゆことや。アイリとアリサちゃんは一緒に暮らしてて、外に出るとあぶない。昨日なんかあったん」

「一緒に暮らしているわけじゃないよ。昨日、アリサが年上の男連中に絡まれているところをたまたま見つけてね。困ってるみたいだったから、後ろから不意打ちしてアリサをつれだしたのさ。それで彼女を家まで送ったんだけど、もう遅かったしね、泊めてくれるっていうお誘いにのったんだよ。ただちょっと心配なのは、今アリサが言った通りにその連中っていうのがこれまた粘着質な感じでね。また見つかったりしたら厄介かもしれないんだ」

 アリサがよく言うわって感じの呆れた視線を送ってくるのは華麗にスルー。嘘はいってないぞ、嘘は。オブラートをちょっとたくさん重ねたけど、おおまかに真実だ。いや、オブラートって表現も変かな。あれは薬の全てを包みこむけど、こっちは大切な薬効成分が抜けてそうだ。

「ほおー、アイリえらいなあ。それでアリサちゃんはアイリを心配してここまできてくれたんか。でもアリサちゃんも出歩いてだいじょうぶなん?」

「大丈夫よ。ちゃんと信頼できる人についてきてもらったし」

「僕も大丈夫。僕はアリサを連れてさっさと逃げたから顔も見られてないしね」

 ちゃんと全員の口を封じてあるから危険があるとすれば基本的にアリサだけなのだ。

 そういえば、とアリサは神妙さと腑に落ちた感の混じった複雑な表情で納得した。

 よしよし。アリサを見たときはいったいなんだと思ったが。なんでもなかったらしい。

「そっかあ。じゃあアイリが引っ越さなきゃいけなくなったゆうのはまた別のお話なんやな」

「ちょっと、それどういうことよ!」

 あれ?

 なんで怒ってる?

 片目をバチバチバチーっとサインを送ってみたがアリサ大明神は鼻息で蹴散らした。釈明せよと? はやての前で? そもそも何が気に食わない?

 あ、わかった。アリサは僕がこのままバニングス家に引っ越してくる。そりゃ怒る。だが僕はそんなことしません。

「どういうもなにもただの引っ越しだよ。今住んでいるところはちょっと騒がしくなりそうでそうだからほとぼりがさめるまで出て行くんだ。場所はまだ決まってないけど、今日からでも何軒か確かめてみる予定」

「っこの――ヴァカ!」

 ヴァカ?

「あんたウチを出ていったい何処にいこうっていうのよ」

「いやいやいや。何を言っているんだ、君は。ずっと君ん家の世話になっているわけがないだろう」

「そうやなあ、アイリかてずっと泊まってたら、いくら放任主義な親御さんかて心配するやろうし」


 あ、なんか時間止まった。


 はやて、援護してくれるのはありがたいんだけど。ソレちがう。地雷。もしかしてわざと?

 というかアリサ、むしろバニングスはもう僕のことを調べきったんだろうなあ。だからってソレをアリサにまで伝えなくても良いのに。

 ほら、アリサったらぷるぷる肩を震わして『親、放任主義……』とかなんとか呟いちゃってるし。ちなみに笑いを我慢しているのでは決してない。

 さぁ来るぞ。3,2,1――

「ふざけないで、コイツに心配してくれるような親がいればわたしだってこんなこと言わないわよっ」

「――え」

 静寂がうるさい。アリサは苦虫を噛み潰したように眉をしかめた。はやては表情を凍らせてひたすらアリサの言葉を反芻しているようだった。

「アリサ」

「何よ」

「ちょうどはやてにそのあたりについて話すところだったんだ。せっかくだから君もいるかい」

「……ええ」

 アリサの口から語られるよりは僕が自分で説明したほうが良い。

 しかしこうなったら虚偽はもう通じまい。偽るどころかボカすことすら許してもらえないだろう。はぁーと深呼吸のようなため息をついて戸惑うはやてを見た。

「そういうわけだから、はやてちょっと寄り道したけど話を戻そうか」

「ん」

 感情が波立ってはいるようだが前を向いている。いいことだ。

 僕は説明を始めた。

「とはいえ大した話じゃないんだがね。とりあえず、話そう。まず僕の両親は僕が4才の頃に離婚している。親権は母がとって、それから母との二人で暮らしていた」

 ちなみに離婚前の旧姓は紅竜院。ただのサラリーマンの家系である。

「しかし先日、3月半ばに母が失踪。僕は独り暮らしをすることになったけど、お金がなく家賃も払えないから適当な廃墟ビルを見つけてそこに暮らしていた、以上。あれ? ホントに語ってみると短いなあ」

 はやても何もいわない。特にコメントすべき点が見つからないのだろう。そりゃそうだ。裏でどんな大変そうな事情があったって、はやてはこれまでに僕が普通に生きていたことを実際に触れて知っているんだ。ふぅん、難儀やなあ、の一言で済む話だ。

「こんのっ、どアホぉ! なんでそういうこと、もっとはよ言わんの」

 へぁ。

「いやいや、べつに言う必要のないことだろ?」

「なんで、なんでや。友達が困ってても知らなきゃ助けられへんやないか」

「そもそも困ってないし」

「宿無しが何いっとる!」

「ちなみにコイツの住んでた家? というか廃ビルには水道も電気も通ってなかったわね。ウチのものが見てきたけど、パンの耳やおからとそこら辺の雑草とかを主食にしてたみたい。あとリンゴガイの貝殻や、さばいたカエルとかもあったらしいわ。吊るして干し肉にして、すごいわね」

 雑草じゃない野草だ。つーかアリサ、裏切ったか。勘弁してください。そういえばウシガエル食べてなかったなあ。まだ試したことがなかったから楽しみにしてたんだけど。

「それに、それにお母さんが失踪って。アイリ心配じゃないん?」

「いやあ、男の所にいるだけだと思うし。たぶん生きてるんじゃない?」

「そんな」

「――生きてるわよ。隣の県で男性と一緒に暮らしてるそうよ」

「へえ、そりゃいいことだ」

 それにしてもバニングス家の情報は速いな。母には僕の知る限りでは借金はなかったし、身を隠しているわけではないだろうとはいえ、昨日から調べ始めてもうそこまで。デビット氏もそれだけ僕のことを怪しく思っていたのか。

 でもわざわざアリサに教えなくてもいいのに。それとも帝王学の一環だろうか。

「なら会いにいけば」

「おいおい、どう好意的に見ても僕は捨てられたんだよ。どんな顔して会いに行けって言うんだい」

 僕なんかが行ったって、双方(+母の恋人)ともに不幸を増やすだけだ。あっちはあっちで幸せになってもらいたい。

「でも」

「それにね僕はこれでも現状をわりと好意的に見てるんだ。母が憎いわけじゃないよ。見た目上の若さと美しさを武器に男をとっかえひっかえで、おまけにスイーツ(笑)をこじらせてはいたけど、これで親子仲は良好だったんだ。でもね、なんというかソリの合わない人でさあ。まあ生んでくれたんだからある程度は尽くす気だったけど、これでその必要はなくなった。捨てるってことはソレとの関係をすべて破棄するってことだろ。僕の感情云々はおいといて子捨てをする母に人間的に呆れつくしたってこともある。とにかく、これで一つの枷が消えたんだ。せっかく捨ててくれたことだし、しばらくは一人で生きていこうかなあ、なんて」

 だから心配しないで。なんて言おうとしていたら――――しまった。なにを調子に乗ってペラペラと僕は。はやてが泣きそうになっているじゃないか。

「なんでそんなふうに笑えるんや。なんで、だって、わたしはお父さんもお母さんも死んじゃって、すごく悲しいのに」

 知っている。だからはやてにはできるだけ言いたくなかったのだ。死別と生別の違いはあれど僕とはやての境遇は一見して似ている。

 ついにはポロポロとなみだを零し始めたはやてのあたまを撫でながら僕は言う。

「はやて。はやてはそれでいいんだよ。子が親を惜しんでいけないはずがないんだ。それでいい。でも、ただね、ただ人にはちょっと人それぞれの感じ方があるだけなんだ。君が君のご両親を大切に思えるのは素晴らしいことだよ。それを僕は否定しない」

 鼻を鳴らすはやての背をゆっくりなでる。胸にもたれかかる重さをやさしく抱きとめた。

 脇でアリサは気まずそうにしていたが、知るもんか。僕だってものすごく恥ずかしいんだ。それでも僕は湯気の上がりそうな顔で、はやてが落ち着くまでなで続けた。



「で、結局ウチから出て行くってどういうことよ」

「だから、出るも何も昨日たまたま泊まっただけだろう? デビットさんはまだ聞きたいことがあるらしいから今日はまた泊まるかもだけど、どちらにしろ長居はしないよ。だいたい犬や猫じゃあるまいし、ちょっと拾ったからってずっと泊めるなんて発想のほうがおかしいだろう」

「あのね、アンタは一応わたしの恩人なのよ。それを家がないってわかってるのに放り出すなんてできるわけないじゃない」

「居場所なんてあるもんじゃない、作るもんだ」

「うるさい、なにちょっとカッコよさげなこと言ってるのよ。作るったってどうせダンボールででしょ。だいたいアンタお金あるの? ご飯は?」

「大丈夫。このあたりに生えている可食性の野草はだいたいチェックしてあるから」

「――――ねえ、はやて。こいつやっぱバカなの?」

「いままでは頭ええ子や思ってたけど。――いかん、わからんなってもうた」

 口元を隠してこそこそとやる二人。聞こえてる。聞こえてるよ二人とも。なんつー失礼な。

「いいんだよ。これだって貴重な経験なんだから。伊達と酔狂のストリートチルドレンだ。好きでやってるんだから、ほうっておいてくれ」

「そんなことできるわけないでしょ」

「できれ。いいか、二人とも。日本はいい国だよ。僕程度の年のいたいけな子供が助けをもとめれば、個人なり行政なりまず誰かが確実に助けてくれる。いつでもどうにかなる手段があるのにソレをしないってことはつまり好きでやっているからだ。本人が好きでやってるなら周りがどうこう言うことじゃあないんじゃないかな」

 そう。助けを求めればきっと与えられる。だから僕はストリートチルドレンをするにあたって悪質な盗みなど直接的かつ多大な迷惑行為は働かないと決めていた。まあ僕のような浮浪児がいることで治安悪化を心配させるといった間接的な迷惑は棚上げさせてもらおう。人の負感情全てを背負っていたらキリがない。

「あかん。どうしよアリサちゃん。アイリが真正のアホやぁ」

「処置なしね。こうなったら首に縄つけてでもウチに連れて行こうかしら。こいつには一度徹底的な教育が必要だわ」

 失礼な。

 アリサが呆れたように首を振る。少し遅れて金髪が揺れた。

「わかった。アンタがだいじょうぶだっていう理由は一時的に保留しとくわ。納得はしないし、まだ言い足りないけど。で、アンタは何がイヤなのよ?」

「イヤって?」

「ウチの世話になること」

 理由は二つある。僕はそのうちの小さいほうを一口に言った。

「借りを作るのがイヤだ」

 つまるところ僕が母に捨てられてむしろ喜んでいるのは『借り』を気にしなくてよくなったということに尽きる。これまではどんなにソリの合わない人であろうと産んでもらった恩と自分が普通の子ではないという負い目によって見捨てるわけには行かないと思っていたが、逆に向こうから捨てられることによって精神的な束縛から体よく解放された。

 どうせだったらこの自由をもうしばらくは享受していたいのだ。

 とりあえず一冬くらいは無頼の生活で挑戦してみたいし、できれば1,2年ほどはこのままでいたい。

 あんまり年をくったら『いたいけな子供』としての同情収集能力にもかげりが出てきて行政もあんまり気にかけてくれなくなるだろうから、中学期へ上がる前には適当な施設に庇護を求めるつもりだ。それからはバイトでもして進学費用をためつつ、普通人のレールに戻る予定だから、こんな生活できるのは今だけだ。だからこそ今しかできないこと経験してみたいのだ。

「国とかならその借りにたいして、いずれ相応しい税金を納めればいいと納得できる。でも個人にはダメだ。その借りは一生を縛る枷となりえる」

「バカらしい。そんなのカッコいいと思ってるわけ」

 ふん、こちとら人生二回目だからな。全クリこそしなかったとはいえ、普通のプレイはもうだいたい理解したから、二週目は縛りプレイとか奇抜なプレイスタイルを求めるのは当然だろ――とはいえない。

「だいたいわたしはアンタに助けられた、アンタは間違いなくバニングス家の恩人なのよ。その恩を返して、やっとそれで貸し借りゼロじゃない。一方的に貸し付けて返済を求めないなんて、それこそフェアじゃないわ」

「ちがうな。デビットさんにはすでに違うことをしてもらっている。ちょいと――後片付けをね」

「―――っ」

 あえて含みのある言い方をすると、アリサは僕が始めて話しかけた時の色が浮かんだ。瞳孔が拡大し、息が止まる。両の手を胸の前に引いて僕から身を守るように身構えた。理解できない相手に対する畏れ。自分が大切にするナニカをあっさりと踏みにじった僕への不可解。そして自身もあっさり切り捨てられるのではという疑念と信頼がせめぎあう戸惑いの表情だった。

 昨日話した印象ではデビット氏は僕に感謝しつつ、同時に強く警戒している節がある。確かにアリサを助けた経緯があるからある程度の尊重はしようが、娘に悪影響を与えること間違いなしの存在を長期に留まらせることなどないだろう。

 僕も同感だ。アリサが今何を思って僕の前に立つのかは知らないが、僕を受け入れるということは、多かれ少なかれ殺人を認めるということだ。僕は人を殺したことに大して感慨をもたなかったが、彼女がそうなるにはまだ早い。いずれアリサが成長して、広い世界観を持ってから一部の殺人を是とするならそれも良いだろう。だが、僕をそばに置くことで、なし崩し的に認めるのではダメだ。昨日の件については僕からは距離をとって、冷静に振り返ってほしかった。

 これから僕が何処へ行くにしてもアリサの家だけは避けるつもりである。



「つまりアイリはウチにすめばいいんやな」

「はい?」

 あの、はやてさん? いったいどういうつながりで『つまり』になるんでせうか。
 こりゃあ名案やぁ、じゃなくて。ぽんと手を打ってなくて――え?

「ないないないない。ありえんですよ」

 僕にヒモになれと申されるか。

「えー、でも今だってほとんど毎日いっしょにいるやん。わたしももっとアイリといたいし、アイリもいちいちアイリん家と往復する手間が省けて、屋根と壁とお布団とあったかいお食事げっとや。お得やろ」

 こてんと愛嬌のあるしぐさで首をかしげる。だけど僕は同意できない。

「いやいやいや、いまだって毎日のようにお昼ご飯を頂いているんだ。人一人養うってのは簡単じゃないよ。そうだ食費はどうするんだい」

「大丈夫。わたし、働かなくても一生食べてけるだけのお金はあるから」

 くそう。忘れていたがはやてもブルジョワさんだった。このブルータスめ。アリサに驚きがないのは、僕がバニングスの使用人にはやての存在を漏らした時点ではやてのことも調べられていたからに違いない。

「借りが云々ゆうんやったら、アイリはそのぶんわたしを助けてくれればええ。わたしの家政夫さんで家庭教師さん。その分お家賃と食費はなし。ぎぶ・あんど・てーくや」

「なるほど住み込みの使用人ってわけね。いい考えじゃない」

「ちゃんとお小遣いも上げるで」

 うわっ、なんか傷ついた。はやては善意からの提案なんだろうけど、うっわ。9才の女の子から御小遣いもらう約30才(精神の経過年数)ってどうよ。そりゃ戸籍的、肉体的には同い年でも、ちょっと絶望的じゃね? 

 僕の懊悩を違ったふうに解釈したアリサが口を出す。

「あのねえ、アンタここらへんで折れておかないとチクるわよ。警察にでも児童保護施設にでも、ストリートチルドレンがいますって。」

 彼ら公的機関のおせっかいぶりはアリサの比ではないだろう。僕なんかいくら反抗しようと組織はしかるべき強制力とオトナの責任をもってその施設へ連れられてゆくに違いない。それは僕個人の意志や性質に関わらず社会的には明らかに正しいことなのだ。

「まあまあ、アリサちゃん。それでどうや、アイリ。べつに使用人ゆうてもそないに気にせんでええんよ。ただ一緒にいて、ちょっとウチには大変なこと助けてくれて、それで一緒にいてくれればええねん。な、だから一緒にくらそ?」

 はやては僕の手をとると柔らかく微笑んだ。太陽のように暖かでつつみこむ少女に僕は抗うすべを知らない。ただ不承不承だぞとアピールする仏頂面を守ることが精一杯だった。

「ん、お世話になる」

 押し殺した渋い声ははやてのパァと咲くような喜びようを見るに果てしなく無意味だったようだ。

 ああ、何で僕はこんなツンデレじみたことをやっているのだろう。自分の頭に沸いた疑問がおかしくて僕も笑った。

 そんな僕らの様子がおかしいのかアリサもけたけたと笑っていた。



[4733] 第7話 すごくあったかいなりぃ
Name: コルコルク◆8f84f3de ID:efa95347
Date: 2008/12/27 23:22
 玄関にはスロープ、ドアでも段差なし、トイレや風呂には手すりがある。そんなバリアフリーが行き届いたとある一軒家。いわずもがなはやての家にて、いつもならばすでに帰って棲み家で採取した野草を焚き火で煮込んでいる時間にあって僕は帰り支度をすることもなくソファーに深く腰を下ろしてぼんやかと天井の明かりを見つめている。


 アリサはすでにいない。僕ももう一度デビット氏と話しておく必要があったから、一緒にバニングス家までいった流れで彼女も自宅へ帰てっいった。

 バニングス家では、昨日のこともあってか早くに帰ってきていたデビット氏によって、今回の事件の落としどころを聞かされた。

 まず、僕が生産した3体の死体については外部に漏れることなく、うまく片付けることができたので事件になる心配はないらしい。それと今回、裏で手ぐすね引いていた連中にも早速わたりをつけたので、今後このようなことはないだろうから安心していいとのこと。喜ばしい限りだ。

 僕がこれからはやてのところに世話になると伝えたら、そこでの世話賃にするようにと300万円を渡された。今回の件の謝礼らしいが、手切れ金のつもりでもあるかもしれない。まあ実際問題、はやてのもとで世話になるにあたって何から何まではやてにたかるわけには行かない。これで定期的な収入でもあれば、当然のことをしたまでとカッコ良さげに断る選択肢もあったが、現状では背に腹は変えられない。ありがた~く頂いた。

 帰り道で周囲をやたらと気にしてしまったのは僕の小物さゆえだろう。







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アホウ少年 死出から なのは

第7話 すごくあったかいなりぃ
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 はあー、まったりまったり。はやてがはりきって作ってくれた晩ご飯は実においしかった。使用人としてこの家に世話になるはずだったのに、いきなり宿主に晩飯作らせてどうよ、ってところもあるが実際に僕が作るよりもおいしいのだから反論なんてできない。しっかし、洗い物まで自分でやろうとするのはいかがなものか。もちろん強奪したが。

「むう」

「ん、アイリ食器洗い終わったん。どしたんや、難しい顔して?」

「うん。どうしたらはやてにご主人様としての自覚を持ってもらえるか考えていて」

「ごごごごごごご主人様ぁ。な、なんやなんやそのいかがわしい呼び方わぁ」

 ぶんぶん指差しで慌てるはやて。やっぱり自覚が足りない。

「僕は君の使用人だろう? 変なんかじゃないよ。アリサの家でも執事さんはアリサのお父さんに旦那さまとか言ってたしね。でもはやては女の子だからご主人様の分類」

「にゃ! ないわぁ。ご主人様て、そらなんか」

「どうしましたご主人様。あ、お嬢様のほうが良かったか」

 あ、なんかはやての顔の赤さが危険域だ。言葉も出ない様子でわなわな口を震わせてるし。なんかツボに入ったのだろうか。怒っているようすでもないが、なんか僕にパンチを繰り出してきた。

 いや、しっかし我ながらソファーで足組みながら『ご主人様』はないと思う。

「ああ! わらったぁ。ひどい。からかったんや!」

「いやいや、からかってなんていないさ。ただあまりにもご主人様が微笑ましくて」

「むぅ~~。ええよ、わかったもん。やったらアイリには徹底的に働いてもらうからな」

 ほっぺたを膨らませていかにも拗ねてますと主張するはやて。ちょっと静止してやわらかそうなほっぺたに指先を当てながら考えること数秒。こちらに指を突きつけて尊大に命令を下した。

「う、わたしをソファーに移すんや」

「はいはい、ただいま」

 よいしょと掛け声とともにはやて小さな体を持ち上げる。小さな体といっても僕も十分に小さな体だったりするからちょっとした重労働だ。はやての脇の下に両手を通して抱き寄せるように持ち上げる。必然、はやての胸の辺りに僕の顔がうもれて柔らかい。

「わっわっアホぉなんで正面から」

 いや、車椅子の向き的にこうするのが一番でしょうに。前に話しながら眠ってしまったはやてをお姫様抱っこでソファーに移したことがあるがかなり難儀したし。

「ちゃう、車椅子の肘掛は立てるようにできるからそうやって」

 おお、なるほど。素晴らしい気遣いだ。
 はやてはソファーにおろされるとふにゃと崩れたアイスクリームみたいになった。僕も隣に腰掛ける。深くすわると僕らの小さな体はソファーに埋まるようになる。

 それはそうといつも車椅子に座っていることの多いはやてが、こう隣にているとなんだか新鮮だ。あと温かい、それに良いにおいがする。

「えへへへへ」

 両手ではやてが組み付いてきた。僕の片手をぎゅっと抱きしめて満足そうに笑っている。あれか、僕ははやて的にペットみたいなものなのか。はやてが僕に抱きつくのは、前世で友達の飼い猫のおなかに顔をうずめて首を振っていた僕に似ている気がする。そのときはおこった猫にムチャクチャに顔面をかきむしられたが、僕が同じことをするわけにもいくまい。

「あったかいなあ、アイリは」

 目を細めて僕の胸元にほお擦りしてくる。あったかいものと軟らかいものは基本的に好きだ。
 とろけた表情でじゃれてくるはやては抵抗されないのをいいことに僕の背中にのしかかったりとやりたい放題だ。

「そうやアイリ。一緒にお風呂はいろ」

「ブぼっ!」

 何いってやがります。僕は吹いた。聞き間違えだろうか、そうあるべきだ。そうに違いない。なぜかにわかに増えたまばたきを抑えて、調律の外れた声でなんとか言った。

「ふはは、あんまり上手なジョークじゃないな。知っているかい、冬なんかに震えが出るのは筋肉に熱を生産させて寒さに耐えるための機構なんだ。オジサン一寸驚いてしまったヨ」

「ほぇ? そんなことより早くお風呂入ろ。ゴーやゴー」

「いやいやいやいや? レディーたるもの常に恥じらいを持たなければならないと思うのですヨ。男女七歳にして席を同じうせず。節度を持った付き合いをだな」

 はやては僕の膝の上にねっころがって仰向けに見上げると、チッチッチと指を振ってニンマリ不敵に笑う。形のいい薄桃色の唇を滑らかに開いた。

「アイリ? わたしはアイリのなんや」

「…………ご主人様」

「んー、わたしとしては『お嬢様』のほうが好みやなあ」

「……おぜうさま」

 後悔先に立たずとはいったもの。いつだってそうだ、泡に滑ってコップを割るのだってガラスのかけらを見てからもっと気をつけていればよかったと思うもの。先にしていたら、それは定義からして後悔ではない。覚悟だ。

 とかなんとか、僕は気が遠くなりながらも思う。

「さて使用人さん。一人でお風呂に入るのが大変なわたしをお風呂場まで連れてってくださいな」

 はやては信頼のこもった微笑を浮かべた。

――助けてくれるんやろ。

 なんと悪しきブルジョワ。革命が起きれば真っ先に狙われるに違いない。しかし貧弱極まりないプロレタリアートはその万金の価値ある微笑みとともに下された命令に逆らうことができないのだ。

 おあつらえ向きに僕の膝の上で膝枕というわけでもなく背中を反らしながら仰向けにねっころがっているはやてをお姫様抱っこで抱えて車椅子にのせる。ドナドナを口ずさみながら風呂場に向かった。

 風呂には入るつもりだった。ひさしぶりだし、実はかなり楽しみにしていた。そのためにバニングス邸から戻ってくる途中ででっかい防水絆創膏を買って、風呂を洗うときから傷には直接着かないようにガーゼをかませて貼っていた。だから昨日の怪我もたぶん問題ない(ということにしている)のだが、いやはや、この展開は想定の範囲外だわ。

「やっぱ問題じゃないかな。お嬢様」

「ん? なーんも問題あらへんやろ、アイリはわたしを助けてくれるんやから。あ、もうお嬢様はええで」

 洗面所に着くなりさっさと服を脱いでいくはやて。それでいて少し恥らっている様子なのは気のせいか。

 つーかこれ犯罪じゃね? あーでも今の僕も同い年だし、スーパー銭湯でも一けたの年齢だったら性別とか気にせず入れるよなあ。しかもこの場合は足の悪いはやての補助をすると言う理由まである。なるほど、はやてが気にしていないことだし、こんなふうに躊躇するほうがよっぽどイヤらしい。そうだ、そうに違いない。

「ま、いっか。それじゃ入ろ」

 決まったことを悩む繊細さは僕にない。

 とは言えタオルを腰に巻いておくのが紳士のたしなみ。服を脱ぎ終えたら、はやてをさっき習ったように車椅子の肘掛を持ち上げてから抱っこする。はやてもバスタオルを体に巻いていた。銭湯や温泉で見かけたらぶん殴りたくなる所業だが今はいい。でなければ僕は逃げていたかもしれない。

 しかし実際に抱き上げてみると生身で接する肩と肩がなまめかしい。つるりとうまく剥いたゆで卵みたいな肌が体温をもって僕につながってくる。ちょっと開いて見える唇の隙間の暗闇が僕の平静を吸い取った。

「ごふっ」

「どないした。また変なってもうた?」

「いや、鼻血か吐血でも出ないかとおもって。この際こういった状況におけるアーキタイプに従うしかやれることが思いつかないんだ。虚構とはいえ先達がいるのはありがたいことでね。そういう場ではそうするものとしての認識が、自力では抗いがたい停滞を打破する唯一の楔となりえる。全ては条件反射さ。状況に対して学習した内容で応答する。それは時に感情さえ反射によって作り上げる。たとえ物語であろうとあまりにも形が合致する特定条件下においては、読者はその主人公の感情を追体験しこの場において読み返る。ところで、『また』って失礼だな」

「――んーー、つまり沈黙に耐えられなかったと?」

「……うん」

「いるんやね。動揺すると多弁になる人。でも、なんかいろいろ上塗りしてるで」

 僕という条件において躊躇はむしろ自制であるかもしれない。

 なんというか、あれだ。なぜなら僕は前世においてロリコンの気があったから。

 先に言っておくがロリだけにしかその気になれないガチなホンモノさまではなかった。ただ、数多あるエレクチオン対象にロリっ娘も含まれていただけだ。たわわなおっぱいも大好きである。でもAカップだって素晴らしいと思うのだ。

 チラリズムというものがある。これはスカートやなにかからたまーに見える下着の影にしみじみ萌へるという日本人らしいわびとさびの精神だ。僕は前世では反抗期の息子をなだめる触媒をえる手段として主にインターネットを用いていた。ウェブスペースにおいて、需要と供給とリスク管理の関係から、そこに立つ女性は20代が圧倒的に多い。30代以上も探せばいくらでも見つかるが、その一方で20才を切る女性の画像となるとなかなかそうはいかない。そこで僕は立ち上がった。チラリズムだ。わびとさびだ。多くの人が持つレアリティへの憧憬がここで活きてくる。珍しいものへの憧れと好奇心が性欲と単純明快に絡み合って僕の検索力は少女の裸体へと向いたのだ。僕は探した。そして、見つけたのなら本来の用途を果たすべきだろう。僕はそれらの希少な画像や動画で、致した。告白しよう、僕ははやてよりも年下の女の子のエロで果てたことがある。ソゥデンジャー。いっつくれいじー

 ムリヤリ泣いている女の子を……といった写真や動画のお世話にはならなかったが、この際それは自慢にならないだろう。というかそんなの、女性の泣き顔を見てると、それまで元気だった息子がしょんぼりしたからそうなっただけだ。

 だがこれだけは強調しておく。僕ははやてに対してそういう気持ちで接したことはない。

 これ重要。テストに出る。

 そもそも僕は前世からして顔見知りはオカズにしない性質であった。いやホントに。

 それに第二次性徴にも達していない現在の体では性欲が非常に弱い。好奇心から今の状態でもできることは確かめたが、あんまりそういう気分にはならない。よほど暇でなければセルフバーニンはしない。

 あと繰り返しになるが僕はロリもいけるだけでロリオンリーというわけでは決して決してないのです。

 ここでエレクチオンなぞしようものなら僕は終わりだ。まあ、少女の裸といっても僕はそこまでのホンモノさまではないので、エロ目的で探したものでなければそういう対象にはならないと思う。

 はやてを風呂イスに座らせて努めて冷静に背中を流した。

「具合はどうだい」

「もちょっと強くしてやー」

「りょーかい」

 泡立てたスポンジで無心にこする。それにしてもあったかい風呂場はいいなあ。心が洗われる。癒される。

「よーし流すよ」

 はやての背中へ湯桶をひっくり返す。

「わぷ」

「うむ、んじゃ、つぎ頭」

「あ、ちょいまち」

 はやてが振り向いた。腰にタオルをかけておいてよかった。ひまわりのように太陽に向いてはいないが、小さいのは小さいので見られるのが恥ずかしい。男の子とはつくづく難儀な生き物である。

「アイリも。ほら」

「うん?」

「だからアイリも向こうむいてや。今度はわたしが背ぇ流したるから」

「あ、ああ」

 クリーム色の壁を向く。スポンジを渡すとはやては僕の背をこすり始めた。

「あれ、アイリここ?」

「痛っ痛っ突付くなっつーの。昨日アリサを助けたっていっただろ。そのときちょっと引っかいちゃってさ。そこまでひどくないけど、その絆創膏は防水用だからあんま触んないでくれ」

 場所が胴体の横側だからあんまり気にしないですむが、左手を思いっきり上げると痛いし、石鹸水なぞ入ろうものなら多分もだえる。

「どうや?」

「ん、もちょっと強くできる?」

 ああ、気持ちいいなあ。風呂は心の洗濯とはよく言ったものだ。これだけでもはやてのところに来てよかったと思えてくる。やっぱり絞りタオルで体を拭くだけじゃ足りないよ。ビバ文明。ぬくい、じつにぬくい。

 換気扇の音が風呂場に響くなか、僕の背中に向けてポツリとはやてが言った。

「わたしな、お父さんもお母さんもいないやろ」

「うん」

「後見人ちゅう人はよくしてくれるけど会ったことないし」

「うん」

 はやてが持つスポンジの動きが止まる。僕ははやての声に耳を傾けた。

「足も、こんなやから友達もあんまできへん」

「はやてはいい子だよ」

「ありがと」

 後ろで微笑む気配がする。それからはやては少しためらうように黙ると、僕の背に手の平をあててその心の内を打ち明けた。

「ほんまにうれしいんや。アイリがうちに来るようなったのはアイリのお母さんとのこともあるし、ホントはよろこんだらあかんのかも知れんけど。それでもな、アイリが来てくれてな、うれしいんや。病院の先生も図書館の司書さんも気にかけてくれるし、ほんまによくしてくれるけど、やっぱ一人の部屋はイヤやねん。さびしくって。冷たくって。ねぇ、だから、出て行かんでなぁ」

 したたる水滴のように途切れ途切れで語るはやての声は悲哀でもなく言葉のとおりにすがるようでもない。ただ見上げる者を不安にする動きのない曇天のごとき薄暗い情念が感じられた。

 あるいは八神はやてという少女はそうだったのかもしれない。ときたま捕らえきれなくなった水滴をポツリと落とすだけの鉛色をした曇り空のような心で毎日の孤独を過ごしてきたのかもしれなかった。

「はやて、向こうむいて。髪洗ってあげる」

「え、うん」

 おどろいたなあ。ただのいい子かと思えばいろいろ読まれすぎている。

 シャンプーボトルを一回と半分プッシュして手に取り、はやての髪を洗い始める。そういえば人の髪なんて洗うのは初めてのことだった。

 はやての白くて小さな背中を見下ろしながらぼんやりと髪を揉む。

「かゆいとこない?」

「ぅん」

 床屋でこう聞かれてあるって答えたことがない。

 髪をごしごし、頭皮をワシワシ。ついでに耳の裏もキュっキュとやる。

 僕は言った。

「だいじょうぶだよ。はやてに家族ができるか、一人でも平気になるか――とにかく僕がいなくてもだいじょうぶになるまでは世話になるからさ」

 なんていうか住まわせてもらう側が言うセリフでもないよなあ。あれか、僕は世話をするだけでもその家の名誉か幸福にでもなる座敷童子型自宅警備員かなにかだろうか。んなこたぁない。

 しかし、それでもはやては「ほんと?」と振り返ってうれしそうに微笑んだ。

 って、バカ、いま目開けたら。

「いた、いたた染みるぅ、染みる、うれしいけど。あぁ口んなか泡入ってニガ。うやぁぺっぺ」

「はあ。流すよ」

「あぁっ、いまアイリバカにした。ひどぉわぷっ、ちょ湯かけるならちゃんといっわひゃぁ」

 聞く耳は持たないことにしてシャワーを頭にぶちあてる。水ではないけど湯に流す。指先を軽く立ててムチャクチャに髪をかき混ぜれば出来上がり。ついでにしみじみとした空気も流れて行った。


 それからはやては仕返しとばかりに僕の髪を泡まみれにして好き勝手に遊び、洗い終わって僕らは湯船に入ることにした。

 このとき当然の流れとして僕ははやてを抱き上げて湯船に入れたのだが、湯船の中でまでバスタオルを巻くはずはないので、素肌と素肌をくっつけて抱っこする。背中から脇の下のおっぱい(予定地)のふもとにかけてと、お尻にほど近い太ももの付け根に手を回して持ち上げたさいの肌触りはなんというか危険域。そして、

――ヤバ、乳首見えた。

 やばいぞ、いままで変に見まい見まいとしていたせいか、いまちょっと見えたおっぱいがすごく不意打ち的にチラリズム。

 いかん。いかんぞ。萌えるのはいい、しかし目の前の9才の女の子相手に性欲をもてあますのはあかんです。モニターの向こう側ならともかく。

「どうしたんや。むつかしい顔して」

「い、いやっ。これはもともとの顔のつくりだぁよ」

 そうだ、真面目なことを考えよう。元素でも数えよう。

 H,He,Li,Be,B,C,N,O,F,Ne,Na,Mg,Al,Si,P,S,Cl,Ar,K,Ca,Sc,Ti……Ti,Ti,Ti…………ティクヴィ! Ti☆Ku☆Vi! ちくび!!!!

 日に焼けていない白いまっさらな肌のなかにつつましくぽつんと桜の花びらを落としたようなTi☆Ku☆Vi! 目に焼きついて離れない。つるりとした平原に指を落とせば、なめらかさをほんのわずかに否定するその微小な隆起の感触とはいかなるものか。

 かつてモニターの向こうに見て、(妄想の中で)ハァハァとよだれをたらしながらむさぼりついた日の感慨がいまっ、ここに黄泉返るっ……!

 ……よし、僕死のう。どう考えてもそのほうが良さげだ。

「どうしたん、もうのぼせてもうた?」

 つーかさ、何で僕はこんなどぎまぎせにゃならんのかね。情動を理性で制御しての生き方こそ僕の歩みだったはずだ。何にも揺るがされずつねに感情にはリソースを残して。

 たかが視覚情報。たかがタンパク質。たかが電気信号。なにも揺り動かされるモノなんてない。

「アイリ~?」

 僕は自分で自分を見る。心が遠のく。瞳の奥が冷たくなる。この僕の一つ上にもう一人の僕を置いて、そこから肉体を操作するイメージ――――――よし。世界は所詮情報。なんにも慌てることはない。あるがまま。ただそれだけの形だ。

「えいっ」

「ぬっふぉい!」

 はやてが組みついてきた。素肌がぁ。素肌が僕の腕に合わさるっ、こすれるぅっ……!
 これはっ、触れているモノはB地区ッ……! あと太ももに腰もだっ。

「ざわ‥ざわ‥」

「ムシせんといてやー」

「あ、ああ。わかった。でもちょっと近すぎるんじゃないかな」

 はやてはきょとんと目を丸めて僕の顔と触れ合っている肌の間で視線を上下させる。それから本当にわからないという様子で聞き返してきた。

「なんで?」

「なんでもだよっ」

 ああ、まて。おちつけ。

 頭の中に野党系の某大物悪人面政治家を召喚した。そして国会でつまらなそうに質問をするときの目で僕のミラクル・サンを見つめさせた。

 ふぅ…まったく、そんないきり立ったらせっかくの風呂の心地よさが逃げちまうぜ。

「女の子は恥じらいをもって魅力的になるのさ。はやては将来有望なつぼみだがだからこそ慎みを忘れちゃいけないよ」

「ふーん」

 ぎゅっ。

「くぁwせdrftgyふじこlp☆!$%!!!!」

「あっ、もしかして恥ずかしいん?」

 手を口元に当てて小悪魔的ににやける。

 わかってるなら、するなや。こんクソガキゃあ。

 などとケタケタ笑う彼女にこのへたれがいえるはずもなく。

 くそう、復讐してやる。明日の洗濯ではやての下着も洗ったる。しかもホームレス中に鍛え上げた丁寧で丁寧な手もみ洗いでしっかりヨゴレを落としてやる。乾かしてたたんだ洗い物の上に自分の下着が綺麗に折りたたまれているのを見て、はやてが顔を真っ赤にして怒る姿が目に浮かぶってもんだ。フハハハハハハハ。

 楽しそうに声を上げるはやてを僕はがちがちに筋肉を硬直させ体育座りにて不動を貫く。ときおりうりうりとわき腹をつついてくるのを耐えて天井の水滴の数を数える作業はプロジェクトX級に難航した。

 だれか、僕をたたえて欲しい。いや、やっぱ見ない振りをして欲しい。

 その茹だるようなプチ地獄ははやてがのぼせるまで続いたのだった。




 風呂からあがってリビングに戻った。防水絆創膏はあんまり長時間つけているとよろしくないらしく四苦八苦しながらはがして捨てた。傷の上から新しいガーゼを張って固定する。なおこの怪我については、バニングス家のかかりつけ医が勤める病院で僕の名を出せばちゃんと彼に診てもらえる手はずになっている。診察料はバニングス持ちだ。ありがたい。

 くいくい。

 着替えはないからしょうがない。昨日バニングス邸で洗ってもらえたから一日くらいはこのままで余裕だろう。お金はもらえたことだし明日にでも買いに行こう。一応決着らしきものがついたとはいえ、廃ビルの区画には当面の間できるだけ近づかないほうがいいとデビット氏も言っていた。それに僕からもお願いして、あの区画から望月愛天使という少年がいた痕跡は死体と一緒に消してもらって何にも残っていないし、しばらくは放置がいいだろう。

 つんつん。

 ああ、そうだ。それと、そろそろ髪でも切ったほうがいいかもしれない。これは自分で切れば良いか。

 今後の身の振り方はどうしよう。さすがに金が減る一方なのはよろしくない。居候の身分だからなおさらだ。でもこの年で僕にできる仕事は非常に限定される。小説かマンガでも書くか? 

 ふにふに。

 前世では僕は絵が壊滅的に下手だった。しかし生まれ変わって脳が換装されたことで空間認識能力あたりが向上したのだろうか。絵がなんかうまくなっていたのだ。このあたりには更なる考察の価値があるが、ともかく練習すれば伸びることが見込める程度には絵が描けるようになった。幼稚園のお絵かきのとき、これに気づいたとき僕は感動のあまりに一晩中絵を描き明かしたものだ。たくさん練習して、うまく将来性を感じさせることができればどこか拾ってくれるかもしれない。

 むいむい。

 また、小説ではケータイ小説という手もある。まだこっちの世界でははやっていないようだから、極限まで読者の想像力にゆだねた新たな表現形態として前世と同じように若い世代にウケるかもしれない。儲かるぞ、そしたら。ガッシ、ボカって感じで。なんにせよ時間はあるのだからやる価値はありそうだ。いや、べつにケータイ小説じゃなくてもいいのだけど。小説の執筆なんかは元から興味あったし。

 ぎゅっ。

 でもどちらにせよ僕はまだ表に出れないからムリか。やっぱ素直に勉強でもしてるかな。3年くらい待って、はやてと同居生活を送ってきたという実績を積んでからなら、役所に戸籍関係の相談をしていろいろバレてもムリに施設へ連行されることもあるまい。それから新聞配達のバイトなり、奨学金をとるなりすればいい。まあ、これはその時もはやてがこの家に住まわせてくれるようだったらに限られるが。

 ぎゅう~。

 なんにせよ僕にはパソコンがいる。でもこれは買う前に、はやてに僕が300万をもっていることは教えておいたほうがいいか。彼女のお人よしからするといらぬ心配かもだけど、急に大きな買い物なんかして僕がはやてのお金をちょっぱったなんて少しでも疑われたら悲しすぎる。

「無視せんといてや~」

「ああ、居たんだ」

「ずっといたもん」

 はやてはことさら存在を主張するように僕を抱きしめる手を強めた。ふふん、だが僕は動じない。聖闘士に同じ技は二度と通用しない。というか今はちゃんとお互い服を着ている。こんなのちょっと柔らかくて温かくていい匂いがして、総じて気持ちいいだけだ。

「そんな拗ねんでもいいやんか」

「拗ねる? いったい何のことさ。それともはやては僕に拗ねさせるようなことでもしたのかい」

 すっごくしましたね。この恨みはらさでおくべきか。はやてのほっぺたに手を伸ばして引っ張った。うむ、もち肌。やわらかくてよく伸びる。

「にゅわぁ」

 首をプルプルと振って脱出される。逃げられた。

 はやてはソファーの隣に止めていた車椅子に乗るとゴロゴロ走らせていった。トイレか、と思ったらすぐに戻ってきた。手にはドライヤー。コンセントを挿して鼻でメロディーを奏で、ヨイショなんていいながらまたソファーに帰還した。

 スイッチオン。ドライヤーがはやての柔らかい髪を踊らせ始めた。つーか温風と毛先が僕にかかってます。あったかくすぐったいです。そのしてやったりって感じの笑みはわざとですか、わざとですね。そうですか。

 はやては自分の髪を乾かし終えると今度は僕の頭を引っ張った。

「ぬお」

 床屋とかで店員に髪とかグィーって引っ張られると、どの程度抵抗するか悩むよね。というわけであえて僕はまったくはやてに抵抗しない。はやての膝の上にころんと転がった。

「髪長いなあ」

「ん~、そろそろ切りどきかね」

「そろそろ、ちゃう。切りごろはだいぶ前やな。今切っても遅すぎや」

 はやてが僕の湿った髪を梳る。ドライヤーを当てながら指先で髪をぐるぐると巻いてもてあそぶ。クシで髪の流れとは逆向きに持ち上げてみたり、前髪を僕の唇にまで引っ張ってきたり。後ろ髪をポニーテールみたく指で束ねてピコピコとふった。

「こんどわたしが切ったろか」

「だね、お願いしようかな」

 転がったまま手を伸ばして、はやてが束ねた尻尾髪を触ってみると確かに長い。僕は実はポニテ萌えでもあったりするから少し名残惜しい。だが、ヤロウのポニテなんざ執着しても意味があるまい。

「でもはやて、任せてだいじょうぶだろうね。終わったら髪と一緒に耳までなくなってるとかごめんだよ」

「あ、ひっどいなあ。だいじょうぶや。ちゃぁんと片耳は残しといたる」

「それって違くない。ねえ、違くない」

「なぁに、法一さんよりも100人以上や。安心してまかせぇ。ほら反対側」

「むぅ」

 いま僕の体勢ははやての膝の上で耳かきをされるみたいに寝転んでいるからドライヤーを当てようにも温風は頭の片側にしか届かない。だからもう半分を乾かすには180°ほど回転する必要がある。ちなみに今は膝から外を見ている感じの向き。

 半回転すると僕の顔ははやてのおなか側に向いた。

「もう夜おそいなぁ」

 僕にもドライヤーをかけ終えると、はやてはそのまま膝に乗っている僕の頭をなでながら少し緊張したような声で言った。

「そうだね。もう寝たらどうだい?」

「アイリはまだ起きてるん?」

「いや、そろそろ寝るつもり」

 太陽にあわせた生活をしている内に僕はめっきり朝型になっていた。もう眠い。正直なところこのまま寝てしまいたいという願望さえわずかながら存在した。

 はやても目がとろんとして眠そうだ。
 
「だったらな――」

 横目でちらりと見上げたはやての顔はわずかに上気しながら幼い母性をにじませている。それと恥じらいにも似た戸惑いの感情が見え隠れしていた。

「一緒に寝えへん?」

 はあ? またか。これは僕に甘えているのかからかっているのか。膝枕の体勢にいながら何だけど、それはさすがにいけないと思います。

 はやては慌てて両手をふった。

「ち、違うんよ。ただ、な。最近、夜なかなか寝られなくて。だからアイリと一緒ならよく寝られるかな、思うて」

 釈明の声は先に行くにしたがってだんだん小さくなっていった。

「――だめ?」

 そういえばと思い当たる。最近一緒にいるとき眠そうにしていることが多かったっけか。

 無理もないか。10にも満たない女の子で、両親が亡くなっていて足まで悪く、ただでさえ手厚いケアが必要なところなのに。冷たい家の中に一人置かれてどれだけ不安なことだろう。

 生育環境の異常は発育の異常を呼ぶ。

 不眠だといわれて信じられないことなんてなかった。

 あえて理屈付ければ、常に強いストレスにさらされていた中に、お気に入りの友達(つまり僕)を見つけたことで、それまで低い位置でフラットだった精神状態が相対化された。これによってはじめてはやては自分が抑圧されていることに気づき、孤独のストレスは不眠という形で顕在化した。んで、最近眠そうだったのは友達と一緒にいる気分良好のときに寝不足のツケがやってくるようになった、といったところか。

「わかったよ、一緒に寝よう」

「うん!」

 鬼畜道に足を踏み入れてしまった気がするのは気のせいか。欲情なんてしてない。下心なんてない。そもそもそんな可能性を考えること事態が間違いである。ゆえに断らない。うん、まったくもって理屈だっている。けどなぜか心臓の裏側にざわめきのようなものを覚えた。

 それでもはやてのうれしそうな顔を見ていると何もいえなくなってしまうあたり我がことながら度し難い。

 洗面所で未使用の歯ブラシを一本もらって一緒に歯を磨いた。流石に僕のパジャマになるものはないから今着ているので我慢する。

「ほらほら、はいりい」

 はやては先に布団に入ると、ベッドの横で居心地悪く立ち尽くしていた僕に布団の端をあげてくれた。なんだかいまさらだかすごくマズイ気がする。

 やましいことはない、けど、なんとなく。持ち上げられて開いた布団の端から覗く空洞はまるで禁忌の洞窟のようだった。

 ここにきて圧倒的なリアルに僕は気おされるが、いまさら怖気づくわけにもいかない。
「それじゃ、失礼して」

 ひそかに唾を飲んだ。

 片足からゆっくり布団の中に入っていった。暖かい。重ねられた布の中ははやての体温がこもっていてまるで抱きしめられているようだった。

 これがはやてが毎日寝ている……。染み付いたはやての柔らかで幼い香りが全身を包み込む。

「電気消してな」

 それだけのセリフをいやらしいイメージに結び付けてしまったのはやっぱ僕の脳が腐っているからだろう。僕の脳内IMEさんはうんこです。ほんと自重しろ。僕はなんとか言われたとおりにすると、あとは座布団を折った枕に頭を乗せ、油の切れた機械のようにガチガチに固まって暗い天井を見ている。

 くそう、顔が近い。はやてが僕を見ているのだろう、湿った息遣いが頬に当たるのが気になってしょうがなかった。

 不意に震える。何のことはない、はやてが僕の手を握っただけだった。

「寝よか」

「うん、おやすみ。はやて」

「ん、おやすみな。明日も天気なるといいなあ」

 軽く握り返す。

 はやてが微笑むのが気配で伝わった。

 なるほど、それでいいのか。僕は体から力を抜いて今度こそベッドに沈み込んだ。

 まぶたの裏に焼きついた照明の残滓もやがて掻き消える。それと同じように僕の意識は世界に拡散してやがて溶け落ちた。

 あしたは庭掃除でもするか。

 やっぱり、あったかいなあ。








 未明

 闇夜を謳歌し天頂に至った月も落ち始めたころ、はやては目を覚ました。

(しまった。ぜんぜん眠れんやないか)

 ふと目が覚めてからもうどれくらい経過しただろうか。10分? 20分? 時計の数字を見てしまえばさらに眠気は遠ざかるとわかっていたから確認はしていないが、おそらく30分くらいはたっただろうか。はやての眠りはいまだ帰ってこない。それどころかさっきから思考がしっちゃかめっちゃかグルグルあっとこっちに回っていて、まどろみをぶっちぎって、頭の中はなかば覚醒状態になりつつある。

 ありていにいえばアイリに抱き締められていた。

 なんという予想外。一緒に寝るのだから蹴飛ばされることくらい考えていたはやてだったが、これはどうしよう。

 力は強くない。だが両手がしっかり絡み付いて起こさずに脱出するのは難しい。

 自然と寄せられたはやての頭はアイリの胸元へ。自分とは対照的に落ち着き払った心臓の鼓動がひどく憎らしい。

(あ~ん、不公平やぁ)

 だいたいこの男、布団に入るまで散々ぐずっていたくせに横になったとたん速攻で寝息を立て始めた。そのとき自分はすぐそばの横顔とつながった手のぬくもりにどぎまぎして眠れそうにないなあ、なんて思っていたのに、その全てを置き去りにしてだ。

 そして、やっと眠れたと思ったらこうやってまた起こされて眠れない。何事かむずかって彼が手指を動かすたびにはやてはピクリと震えた。小さな体をさらに小さくしてアイリの中に埋没する。そうして伝わってくる体温、呼吸のたびの胸のふくらみと収縮にひどく懐かしい感情が去来して彼の服を濡らしてしまわないのに精一杯だった。

 一人だと眠れないからアイリを誘ったのに、返って睡眠時間が減りそうな気がする。

(わかっとるんか。眠れないのはアイリのせいなんやで)

 だというのにこんなあどけない寝顔をさらして。いっつもどこか張り詰めた表情でいるのが嘘みたいだ。

 はやては彼をわからない。

 はじめは必ずしもいい印象を持っていなかった。図書館の新任司書から学校にいっていない子がいる、会ってみてほしいと言われたとき、自分は行きたくても行けないのにと少なからず反感を抱いたものだ。また、自分から学校に行かない子というのに人格面で不安も感じていた。だが実際に会って、はやての不安は消え去る。どこか気難しそうながら時折見せる笑顔は驚くほど柔和だった。壁を作っているようで、その人となりは暖かい。司書が彼の行動について苦言を呈しながらも、決して嫌な顔はしなかったことがうなづける。彼はこんなめんどくさい自分の友達になってくれた。

 一緒にいる時間が長くなってわかった。なるほど確かに彼は頭が良い。はやてが足が悪くて学校に行けないように、彼は頭がいいので学校に行かない。はやてとて嫉妬することはある。それは必ずしも心を波立たせずには受け入れがたい理屈ではあったが、そのおかげで自分と長い時間一緒にいてくれるならそれでよいとも思えた。

 そして知ることとなったアイリの事情。はじめは突然現れたアリサという自分の知らないアイリを知る少女にアイリを取られやしまいかとも思ったが、そんなつまらない不安はアリサの口から出た言葉に掻き消えた。

 アイリに家族がいない。

 自分と同じ。そういったらアイリは違うという。いや、アイリの家族はまだ生きている。だから自分よりもましとも言えるし、だがそれで捨てられたというのはより厳しいかもしれない。しかしアイリはそれにも違うといった。

 彼は悲しそうな顔を見せない。ただ皮肉げに笑いながら淡々と事実の羅列を口にしていた。

 はやてにはそれが理解できなかった。改めてもう一度問うても、違う人間だからそりゃそうだとアイリは言った。やはりわからない。

 ただ彼を一人にしてはいけないと感じていた。

 一緒にいて欲しいと思った。

 だから、きっとこれは必然である。


 明日も一緒に寝よう。


 あと、これから寝てもきっと朝起きれないと思うけど、今度は自分が抱きついて逃がさない。はやてはアイリの服の端をしっかり握ると、胸元に頬をこすり付けて再び目を閉じた。一つだけ心の中で呟いて、

(だいすきや)



[4733] 第8話 無印開始
Name: コルコルク◆8f84f3de ID:efa95347
Date: 2008/12/27 23:24
 僕がはやての家に住み着いてから少しばかりの時間が流れた。少しばかり、というのは具体的に何日かあんまりよく覚えてないからだ。というのも学校を始めとした義務らしいものが存在しないダメ人間臭のただよう僕には曜日感覚が非常にあいまいで、あれからもう何週間とかそういう時間の測り方を忘れてしまうのだ。

 はやてとの日々は平穏そのものだった。リリカルなのは原作中でヴォルケンリッターの皆さんがずっと静かに暮らしていければそれでよかった的な発言をしていたのも納得だ。朝起きて、まったり遊び、適度に学んで、メシ食って寝る。なんて温かな毎日。それはあまりにもささやかな幸せで、僕までもがガラでもないのに、このまま穏やかに腐っていく結末を夢想してしまう。

 つまる話がニート万歳。

 働きたくないでござる。絶対に働きたくないでござる。

 とはいえ、僕らが止まっていても、周りは止まらない。永遠を立ち止まろうにも、常に進み流れてゆく世間様の中ではいつだって摩擦され続けるのだ。そんな中で留まり続けることは、流れに身を任せるよりもよほど難しい。擦れて削れ、いつかは割れる。

 人は社会的動物だと誰かが言った。

 社会を捨てることのできない僕らは、結局、人とともに歩まざるを得ないのだろう。


 めんどくさいなあ。人、やめてえ。




――――――――――――――――――――――
アホウ少年 死出から なのは

第8話 無印開始
――――――――――――――――――――――




 はやての家に移ってきて必要なものはいろいろあった。

 廃墟に置いたまま回収できなかった靴や洋服をまず買い揃えなければいけなかった。それにバスタオルや歯ブラシなんかもそうだ。ごっちゃになりやすいこのあたりの物は、ちゃんと相談して、僕が青や緑の寒色系のもの、はやてがピンクや黄色なんかの暖色系のものを使うということで決定した。僕に割り当てられた部屋には始めからベッドはあったので、ちゃぶ台と棚を追加して買った。洗濯物のたぐいはちゃんとたたんでベッドの脇にでも積んでおけばいいや。それから必要そうなその他の小物と、さらには奮発してノートパソコンも購入した。あとは必要に思ったら適宜買い揃えていけばいい。

 僕の八神家移住計画はこのあたりで一段落して、残っているお金を確認した。

 まだある。

 銀行口座もないからデビット氏にもらったお金は全部現金のまま手提げ金庫に入れてあるのだけど、そこには依然として生前の僕は手にしたことのない金銭単位――札束が2つ収まっている。

「どうしたんや、むつかしい顔して」

 僕がベッドに転がって考え事をしていたらはやてがあらわれた。

「そんな顔してた?」

「そやな、まゆ寄せてう~ん唸っとった。眉間にシワつくからやめといたほうがええで」

 僕のおでこに指をあてて言うのは、昨日一緒に借りてきて見た映画のDVDからの受け売りだ。微笑ましいものを感じながら、それまで眺めていたノートの表紙を示した。そこには私的収支表と書かれている。

「小金持ちだなあって」

「なんやそれ?」

 普通逆やん、といった感じのニュアンスで聞き返してくる。もっともなことだと僕は苦笑いを浮かべた。

「なんていうんだろうねえ、中途半端に余裕が出てきたもんだから逆に考えるべきことが増えてしまったというか。衣食足りて礼節を知るというか」

 悩めるのはブルジョワの証ってトコかな。まあいいことだが。

「僕の母がアパートを出て行って、僕はしばらく廃墟のビルで寝泊りしてたのはいったろ」

 言ったっけ? 言ったはずだ。うん、言った言った。

「僕までアパートを出たのは、僕じゃアパートの家賃を払っていけないからなワケだけど、それでも僕はしばらくアパートに住んでたし、アパートを出たのは家賃の支払期日をすでに超過してたころなんだよね。それに残した家財の処理にもお金使わせちゃっただろうし」

「ようは今からでもお家賃を払ってこようかゆうこと?」

「うん。まあ、踏み倒した家賃を云々いえば電気ガス水道の料金だってそうなんだけど、アパートの大家さんは特別僕を気にかけてくれたし。さすがに恩を仇で返すのもなどうかなって」

 とはいえ、よ~く考えよ~お金は大事だよ~♪ というのもやっぱり本音。また、捨てられっ子の僕がそんなこと考える必要もなくね? なんて思ってしまうところもあるのだ。都合のいいときだけ子供を良しとするのもアレだけど。

 そんなわけで僕はここ5分ほど考え込んでいたわけだが、我が主はやてお嬢さまはすっぱりと僕の迷いを両断なされた。

「いったほうがええよ」

「そっかー」

「うん。だってその大家さんアイリのこと気にかけてくれてたんやろ。だったらきっといなくなったアイリのことを心配しとるよ。なんにせよ元気な顔は見せてあげたほうがええ」

「そっかぁ」

 いいとこを言う。今度の相づち自然と真摯なものになった。

 さらにはやてはふにゃっと相好を崩して冗談めかして続けた。

「それでお家賃請求されて、アイリのお金がのうなっても、安心しとき。ちゃーんとわたしが養ったるから」

「おいおい」

 乾いた笑いがもれる。小さな唇から発されたそれはひどく甘美な提案だったが、はやてはこれに結構マジな節があるからちょっと恐ろしい。

 そういえばはやては、この家に僕が越してくるにあたって必要な家財道具を購入するさいには『アイリはうちの執事さんなんやから、必要なもんはわたしが買うたるよ』なんてお金を出そうと太っ腹なところを見せる反面、個人的なパソコンの購入などで僕がデビット氏からもらったお金を散財してしまうことにはむしろ肯定的なところがあった。

 ものすごーく失礼な想像なのだけど、もしかしたらはやては、僕のお金がなくなればそれだけ僕がはやてから離れられなくなると思っているのかもしれない。献身的というか、支配的というか、いつかダメな男にはまったりしないか心配だ。いや、ぜんぶ僕の想像に過ぎないわけですが。

 そっと表情を盗み見る。はやての無邪気なほほえみの奥底には油断ならない仔ダヌキが隠れているような気がした。

「でも、まあ、そうだな。はやての言うことも一理あるか」

 よし決めた。どうせ揺れていたのだ、ならばはやての甘言に流されるも一興か。

 腹筋にえいやと力を入れて起き上がる。手ぶらでお邪魔するのもなんだし、途中でなんか手土産でも買って行くかな。そうだ、この際だしうわさの翠屋にでもいってみよう。

「ありがと、参考になった。それじゃちょいと行ってくるよ。帰りはそんなに遅くならないと思うから」

「ほんなら車に気ぃつけてな。いってらっしゃい」

 とは言いつつもはやては玄関までついてきた。そこでもう一度いってくれる。

「いってらっしゃい」

「ん、いってきます」

 ポケットにいれた財布の小銭入れの中にある鍵の感触が妙に鮮やかだった。はやての髪を一撫でして僕は家をでた。

 さてと、急な来訪だけど大家さんがちゃんと家にいてくれればいいなあ。





「お久しぶりです」

 なんて捻りのないのが第一声。

 それなりに緊張して押したインターホンは、恰幅のよい、いかにも優しげなオバサマを呼び出してくれた。この人こそ(元)我がアパートの大家さんだ。

 とりあえず手土産として途中で買ってきたケーキをお渡しして、書置きを残して急に消えてしまったことを謝罪した。まあ、立ち話もなんだからと上げていただいた大家さんの部屋の中で近況報告。

 とはいっても母親が消えたこと、現在は親切な人のところでお世話になっていることくらいだが、さらっと話すと大家さんは目にハンカチを当ててしまわれた。しみじみと曰く『なんで早く言わなかったんだい、バカだねぇ』とのこと。

 これには困った。僕の身の上が大家さんの心中にいかなる機微を与えたのかは計り知れないが、僕はといえば大家さんがあけてくれた手土産をパクつきながら『翠屋ケーキうめぇ』とはやてのお土産に帰りもよって行こうなんて心算してたところだった。

 何とか落ち着いてもらって、踏み倒してしまった分の家賃と部屋の整理費を払いたいと申し出るととんでもないと首を振られた。

「なんのために敷金と礼金をもらってると思うんだい」

 いや、敷金はともかく礼金に関してはこんなことのためではないと思いますが。

「だいたい払うとしたらあんたのお母さんだろ。アンタみたいな子供が気にしなくていいの」

 それはごもっとも。悪いのは基本的に我が母上です。

 ともかく大家さんは社交辞令や儀礼的なものではなく、本当にお金を受け取る気はないようだった。大家さんマジいい人。でもそれだったら手土産のケーキ、もっと増量してくればよかったかなあ、なんて思っていると大家さんは迷うような素振りを見せつつも僕にあるものを手渡した。





「それが、これ?」

「ん」

 大家さんのお宅を丁重に辞して八神家。僕ははやての確認にたいしてイチゴをふんだんにつかったケーキを口に入れながら首肯した。うむ、甘い、しかしその中に感じられるほのかな酸味が素晴らしい。

「うわぁ、アイリちいちゃいなあ」

 はやてが捲りながら一枚ずつに感想を述べるそれは僕のアルバムである。僕ら親子がいなくなって部屋に残されていたものを処理した大家さんだったが、これだけは捨てがたくとっておいたとのことだった。

「せやけど、なんか破れたりしてるの多いなあ」

「ああそれ? 母さんが父さんの写ってる部分切り捨てちゃってさ」

「アハハハ――ゴメン」

 やっちまった感を漂わせる空疎な作り笑いをするはやて。こうも地雷原を駆け抜ける彼女に僕は敬意を表したい。地雷まみれの僕の人生にも乾杯。

 まあ、はやてとていまさらコレくらいではへこたれない。すぐさま新たな興味の対象を見つけ出した。

「あー、けどちっちゃい頃のアイリかわいいなあ。アイリにもこんなころあったんやねえ」

「失礼な」

 つーか、今だって十分に小さいわい。かわいいかはともかく。

「うわ、赤ちゃんのころの写真全然泣いるのないんやな、逆に引くわあ」

「ひどいな、僕は赤子の頃からカメラが前に来るとちゃんと作り笑いをしてくれる子だって評判だったんだから」

 よくよく考えるとそらへんが母に捨てられた遠因のような気もするけど果敢にスルー。それよりも僕は最後のイチゴケーキの欠片をほうじ茶で流し込んで、アルバムに釘付けなはやての隣に移った。

「うーん。思うんだけど、生まれたての赤ちゃん見てかわいいなんてやっぱ嘘だよね」

「それは言ったらあかんよ、みんなわかっててお約束でゆうとるんやから。でも……アイリのお母さん、綺麗な人やねえ」

「まあねえ」

 モンキーな僕を抱いて微笑む我が母はたしかにちょっとみないレベルの美人さん。こんな優しそうな人が子供ほっぽって男漁りに狂うなんて、いやはや人間わからないもんだ。

 おめでとう! 母はビッチに進化した! Bボタン連射していればこうはならなかったかも。それともやっぱ離婚直後に『大丈夫。母さんならもっといいひとを見つけられるよ』なんて励ましたのがまずかったか。

 楽しげにページを捲っていったが、アルバムの半分以上の厚みを残したところで写真はなくなり何も挟まっていないページが続くようになった。はやてが物足りなさそうに聞いてくる。

「これで終わりなん?」

「これだけ。最近は写真なんて撮ってなかったしねえ」

 僕の写真は生まれたてのころをピークに減っていって、最後で最新の写真は幼稚園の運動会だろうか。写真特有のテラテラした紙の中の僕は、園児みんなが踊る出し物でネズミの格好をしていた。それ以降の写真は皆無である。

 なお、これについては母は関係ない。僕が学校に行っていないものだからイベントやなにかで撮る機会がなかったのだ。そもそも前世からして、僕は写真に興味がうすく、修学旅行なんかでは27枚撮りのインスタントカメラのフィルムさえ余らせて、あまつさえめんどくさがって現像すらしないことがあった。

 いやはやしかし、小学校からが空白なアルバムには『え、コイツ死んだの?』と思わせるような寂しさがある。しぶとく生きてるわけですが。

 はやても同じように感じたのか、ケーキをほおばりながらも、本来写真が入っているべき空のビニールのポケットをじぃと見つめていた。

「ちょっとまっててな」

 言って、はやては車イスを転がしていった。どうしたのかなとその背中を見つめる僕。
 テーブルにははやての桃のタルトが残ったままだった。食べないのだろうか、こんなにおいしそうなのに。



 しばらくしてはやては膝に木製で上品な感じのする小箱を乗せて戻ってきた。目的のモノはそれか。満足そうな表情でやってきたのだが、席に戻るなりどこか迫力のある笑顔を浮かべた。

「なんかわたしのタルトから桃が一枚消えとる気がするんやけど」

「そんなことあるはずないだろ、もっと良く探すんだ」

「そうやね、とりあえずアイリのお腹かっさばいてええ?」

 はやては口だけで笑いながら、僕のお腹に指を食い込ませてくる。ちょ、痛いっす。体重かけないでください。さらに唇が触れるほどに近づいてくると、おぞ気のする、それでいてどこか色気のある抑揚を殺した声を僕の耳孔へ直に注ぎ込んできた。

「アイリ、なんかわたしにゆうことない?」

 金玉がキュンとした。

「麦飯おいしゅうございましたったイタイイタイイタイってば」

 ヘソをグリグリすな。ヘソのゴマでも掘削しとるんですか、止めてください。結構ホンキに痛い。

「いえば一枚くらいちゃんと分けたるんやから、勝手に取ったりしちゃあかんよ」

「サーセン」

 つまみ食いだからおいしいんじゃないか、とは言わない。腰に両手をあててプンスカ怒るはやてに微笑ましいものを感じてしまったがこれも言わぬが吉。ヘコヘコすることで保たれる和もあることを僕は知っている。

「もう、しゃあないなあ」

 嘆息してはやてはタルトと僕の口元のあいだでチラチラと視線を往復させた。それからちょっとためらいながらフォークでタルトを切ると、恥らうように頬を染めて言った。

「ほら、あ~ん」

「え、あ、ああ」

 これは――アレだろうか。

『あ~ん』ってやつ。つーかはやて自身がそういってるんだからそれ以外ないか。フォークの下でノドの高さに添えられた手のひらも決して地獄突きを狙っているのではない。

 ゆらゆらと揺れるフォークに乗っかったタルトの切れ端に一寸戸惑っていると、はやては不安げに僕を呼んだ。

「アイリ?」

「あ、うん」

 たまの茶目っ気を発揮した結果がごらんの有様だよ!! なんというハズカシ返し。はやて怖い子。

 おずおずと口をあけて顔を出し、フォークからタルトを受け取ると不意にはやてと目があった。うむ、甘い。そしておいしいに違いない。しかし今の僕に味覚の存在感は弱く、不自然にならない程度の最高速で出した顔を引き戻すだけだった。

 もくもくと咀嚼。二人の間にこそばゆい空気が流れる。あたたかなほほえみをたたえてはやては問うた。

「おいしい?」

「麦飯おいしゅ――」

「それはもうええっちゅうねん」

 するどいツッコミが僕の胸元に決まった。


「それで、その小箱は?」

 なんとなく急ぐような雰囲気でもなくなった。僕ははやてがタルトを食べ終わるのをまって問いかけた。するとはやては、空いた皿をわきにどけ、うれしそうに小箱を正面に置いた。

「ふっふ~ん。これはやなあ」

 オーバーアクションでふたを開ける。そして中から数十枚の紙切れを取り出して僕に見せ付けた。

「写真やっ」

「ああ、そういやそんなのもあったっけか」

 その写真に写るのは僕とはやて。ソファにすわっていたり、僕がはやての隣で中腰になっていたりと構図はさまざまだ。

 はやてが後見人のグレアムおじさんに僕を紹介したいだとかで一緒にとった写真だった。

 そうだ、二人しかいないもんだから、一緒の写真がひどく撮りづらかったのを覚えている。結局、現像した写真の出来にはやては満足せず、外まで行って親切そうな人にお願いして撮ってもらったのを送ったんだったけか。

 はやてはごきげんに鼻を鳴らして写真を仕分けていった。

「これと、これと。ん~、アイリ写真うつり悪いなあ」

「失敬な。とゆうかこれははやてが不意打ちで撮ったんじゃないか」

「え~でもアイリ仏頂面ばっかやん」

「地顔です。ほっといてください」

 とは言いつつ、たしかに写真の中の僕ときたら微妙な顔をしていることが多い。セルフタイマーがないもんだから、カメラを持った手を前に伸ばしながら撮ったりしたのだが、そのとき二人で必要以上にひっつくのが正直恥ずかしかったのだ。はやてとほお擦りするみたいにして撮ったヤツなんて、満面の笑みを浮かべるはやてに対して僕の顔は真っ赤だ。

「で、これを入れていく。アイリ、ええ?」

 ここまでくればいくらなんでもわかる。「もちろん」と僕は迷いなくうなずいた。

 はやては僕の写った写真から比較的見栄えの良いモノを選んでアルバムに挿していく。手の中が空になるとはやてはふぃーとわざとらしい息をついて僕に差し出した。

「ん。こんなもんやな」

 パチパチと拍手で返す。

これで空白期はあるものの小3までの生存証明ができた、めでたい。しっかし、厚みを増したアルバムだが、新規ページのほとんどがはやてと一緒の写真ばかりだなあ。食器を洗っている後ろ姿なんかもあるけれど、いつのまに撮られたんだろう。

「ところではやてのアルバムはないの?」

「え、わたしの?」

「そう、はやての」

 僕の幼少期ばかりをさらし者にしていたら不公平だ。

 はやてはちょっと困ったふうに笑んで首を傾けた。

「うちはアルバムないかんなあ」

「んじゃあその箱の中のは?」

 小箱の中では、はやてと僕が写ったのとはまた別の写真が厚みを作っている。

 もしかしたら地雷かなあ。はやてもまた僕と同じようにデンジャラスワードの多い子だ。しかも踏んでも偽爆弾の僕と違って、彼女の場合ホンモノの地雷だからやっかいだった。

 でも、まあ、一緒に暮らしていくんだから、いちいちそんなこと気にしないのはもはや暗黙の了解である。地雷だったらマッピングでもして、もうそこを踏まなきゃいいだけのお話。あからさまなモノでもないかぎり、むしろバンバン足で踏み固めていく所存だ。

 つーか今回に関しては、聞かれたくないモノなら、そもそもココまで持ってこないでしょと推測していた。

 はやては小箱から新たな写真を取り出すとはにかんだふうにそれで口元を隠した。

「――笑わん?」

「それはわからんなあ。そも、僕だって散々バカにされたんだから」

 僕がいやらしく笑ってやると、はやてはほっぺを膨らせた。

「ならええよ。ふんだ、アイリには見せてやらん」

「おいおい、なんつう不公平な」

 胸に隠すようにしてかき抱かれた写真を折ったりしないように気をつけながら手を伸ばす。抵抗はなく、あっさりと写真の束は僕の手の中に納まった。

 どうやら一番下から時系列順に並んでるようだ。

「うん。やっぱ新生児なんておサルみたいなもんだよね」

「一言目がそれかいっ」

「あ、いや、でも毛が生えそろってからは美人さんじゃないか」

 もう見せてやらんとでも言い出しそうなはやてに、手早くフォロー。ジト目で見つめるはやてを極力スルーして僕は写真をめくっていった。

 実際、なかなか興味深い。

 赤ちゃんを中心に微笑むご両親は、なるほどはやてのご両親だというのが納得させてくれる。幸せいっぱいで穏やかな表情を浮かべていた。

「優しそうな人たちだね。目元なんかはお父さん似なんだ」

「え? そうかな、えへへ」

 どことなく照れたようにはやてが問い返すのに、僕は自信たっぷりにうなづいた。

 まあ目元が似てるとかは、さしたる共通点を見つけられないときの常套句だったりもするけど――いや、はやてたちの場合、ちょっと垂れて柔らかい印象を与えるところとか本当に似通っていた。

 ちなみに耳も似ている。耳は遺伝しやすく、DNAや血液型による鑑定が広まる前は、親子鑑定に用いられていたらしい。だがここで、おめでとう君は不義の子じゃなさそうだ、なんていっても仕方がないので、黙って写真を捲った。

 あ、昔はちゃんと歩けたんだ。

 2才ほどだろうか、はやてが畳の上を歩く姿を母親らしき人がはらはらと見守っていた。このころにはまだ闇の書は憑いていなかったのか、それともまだ悪影響がでていなかったのかもしれない。

 健やかな日々が続いて行くにつれ、親御さんの記録熱も冷めていったのか、写真の枚数が減少するのはお約束。

 それでも保育園の入学式、運動会と要所ごとの成長の記録が続いていき――そして写真にご両親が写ることはなくなり、いつしかはやては車いすに乗って儚い笑みを浮かべるようになっていた。

 ところどころ感想を交えながら一枚ずつ見ていったが、ほどなくして僕の手にある写真はほとんどなくなってしまった。あと残っているのは、僕とはやてが一緒に写っているヤツで、僕のアルバムに収められなかった分だけだ。

「おしまいやな」

 困ったようにはやてが笑む。

「なんとゆうか、お互い負けず劣らず少ないね、写真」

 僕もはやても客観的不幸選手権U-15日本選抜でちょっとしたところまでいける境遇なのはわかっていたけど、こんな形で見せ付けられると苦笑いしかわいてこない。

「これでもアイリと一緒に撮ってだいぶ増えたんやで」

「でも、こんなにいっぱい僕のアルバムに分けてくれなくてもいいのに」

 好意の行いに対してなんだが、僕は写真とかあんま興味がないんだから、もっとはやてがもっていてもいいと思うのだ。

「これなんか、すごく――なんだ、そう、すごくかわいく写ってるじゃないか。僕よりもはやてがもっていたほうがいいよ」

 アルバムから抜いて渡そうとする僕の手をはやてはそっと押さえつけた。

「これはええんや。アイリがもっててな」

「良く写ってるのに」

「えへ、ありがとな。でも、だからこそや」

 う~ん、わからん。とりあえずはやてに受け取る気がなさそうなのは確かのようだ。

「じゃあ、これなんかは? 僕にしては比較的真っ当に写ってると思うんだけど、お返しに」

「ううん。せっかく良い出来なんやから、これはアイリが自分でもっとったほうがええ」
 いや、だったらさっきのヤツははやてがもってたほうがいいってことにならんの?

 なんかはやての論理には致命的な矛盾がある。

「アイリはわかっとらんなあ」

 しようがないんだから、そんな呆れとも諦めともつかないため息をつかれた。それでいてはやては不機嫌そうでもないあたり、小さな子に対するお姉さんの仕草のようで、なんとなくくやしい。

「よし、きめた。はやて、写真いっぱいとろう」

「うん?」

「明日は病院の日だったよね。帰りにアルバムでも買ってさ」

「なんや、唐突やなあ」

 唐突なもんかい。たくさん写真があれば、焼き増すまでもなく、一枚や二枚の分け方なんかで悩まないですむんだ。

 それにしばらくすればヴォルケンリッターが現れる。闇の書もさくっと解決して足を治してしまえばはやても学校に行くだろう。だったら写真を撮る機会くらいいくらでもできて、小箱なんかではすぐあふれてしまうはずだ。今のうちにアルバムを買っておくのはいいことのはずだ。

「石田医師や司書さんなんかにもいっしょに写ってもらってさ」

「あはは、ええなあ。でもアイリが石田先生に会ったらまた学校に行けゆうて怒られてまうよ?」

「う゛っ。まあ、そこは何とか」

 石田医師――はやての主治医だが、あの人、図書館の司書さん以上に僕が学校に行かないことにきびしいのだ。しかも、司書さんと学生時代の先輩後輩関係らしく、僕が平日の図書館を利用する限り嘘も通じない。

 はやては僕の苦手意識がおかしいのかくすくすと笑っていた。

「でも――そやな。先生に頼んでみよ。きっと一緒に写ってくれる」

「そりゃ一緒に写ってはくれるだろうさ。でも、そのあと僕はまたお説教かなあ。ね、やっぱ僕はいつもどおり病院のロビーで待ってるから、はやてだけでいってこない?」

「ダ~メ。明日は先生のとこまでアイリも一緒やで」

「うへぇ」

 まあ、いいか。明日はせいぜい写真映えのよさそうな服を選んでいくとしよう。

 あ、そうだ、しまった。写真はともかくアルバムについてはまだ言わなけりゃ良かった。黙っていれば、だんだん近づいてきたはやての誕生日プレゼントの有望案になったのに。

 小さなため息を隠れて一つ。しょうがない。また別の案が出ることを期待しよう。

 楽しそうに明日へ想像を膨らませるはやてを視界において、僕は明日の石田医師への対策を立て始めた。





 その夜のことである。

 風呂、食事と一日のイベントを順調にこなして僕らは床についた。大人用のベッドは幼少の身にはまだ広い。はやてと並んで布団をかぶっても、余裕とはいえないまでも窮屈な思いをせずに寝ることができていた。

 いや、しかし、なんで僕ははやてと当たり前のように一緒に寝ているか? 初日や次の日のようなドギマギとした感情はさすがに落ち着いたが、慣れてくると慣れてきたで今度はしみじみとした疑問が湧いてくる。

 なんかやばくね、と。

 そういえば僕ってば、この家に越してきてからまだ僕の部屋のベッドで夜を過ごしたことがないんだよね。昼寝につかったことはあるけど。

 ところで僕は寝ていると抱きつきグセがあるらしい。はやてに指摘されてからは自己暗示を使って抑えているが。

 なお自己暗示は学生時代、授業中なんかに居眠りするとき事前に『寝言は要らない寝言は要らない寝言は……』『歯軋り立てない歯軋り立てない歯……』なんて唱えている内に習得した技術だ。

 んで、昼寝だし一人で寝るつもりだったから暗示はかけていなかった。目が覚めたら腕の中ではやてが寝息を立てているもんだからホント驚嘆したっけ。思いっきり抱きついて、僕はコアラかっつーの。

 あ、ちなみに風呂も一緒に入ってます。こちらもやっぱり慣れてくると心臓さんだって慌てない。一緒の湯船につかりつつ、手で水鉄砲を飛ばして遊んだりしているわけだけど不意打ちで顔射された。

 いやあ、やばいでしょ。

 うん? でもこれこそ良いのかも。風呂やら布団やらべたべたしててももう心はざわめかない。性的な衝動なんて感じるはずもなく、それを感じてしまうのではないかという危惧すらなくなった。それこそ紳士が小さな女の子に対してもつ慈しみだ。兄が年の離れた妹に持つべき純粋なるいとしさだ。やっぱ慣れは重要。余計は削げて僕は真人間になっている。フハハハ―ハハ――ハぁ――――

 取り留めのない思考になってきた。これはうたた寝、真に眠る前の意識が散逸していく過程である。すでに明日の記憶には残るかも曖昧な領域だ。

 すでに寝むっているはやてにつないだ左手から伝わる体温に淡く溶け去ってしまいそうな。

 その時、僕は聞いた。


(誰か、僕の声を聞いて。力を貸して。魔法の、力を……)

「――うっさい。……ぐぅ」


 僕が改めてその声の重要性に思い至るのは次の日のことだった。

 



[4733] 第9話 種
Name: コルコルク◆8f84f3de ID:efa95347
Date: 2009/01/31 06:37
「なんや、変な夢やったなあ」

 夢ですか、そうですか。偶然ですね、僕も変な夢を見てしまいましたよ?

 そう、なんか少年が切実に助けを求めてくる。魔法の力を貸せとかいう電波な感じなの。

「あ、そうそう。そんなんやった。二人してけったいな夢見るもんやなあ」

 はやてはベッド上で体だけ起こして頭を捻らせた。寝癖頭がなかなかに面白いことになっており、はやてが身じろぐと飛んだ髪がふわふわ揺れて面白い。

「こないな夢になるようなこと昨日あったかなあ」

「どうだろ。フロイトおじさんだったら適当に理由付けてくれるかもだけど、まあ偶然じゃない?」

「むぅ~、そやなぁ。でもせっかく一緒の夢見たんやからもっとおもろいのでもええのに」

 はやてが甘えた仕草で抱きついてくる。僕はそれを当然のものとして受け入れ、彼女の体を背中に誘導した。

「ま、ええわ。それよりも、おはよアイリ」

「ん、おはよーさん」

 細っこい腕が両の肩ごしに絡みつく。クセのない絹布のようにもたれかかる体を背負って僕は立ち上がる。

いつもどおり僕の朝はお姫さまを車イスに乗せることからはじまった。

 今日も、いい天気だ。




――――――――――――――――――――――――――
アホウ少年 死出から なのは

第9話 種
――――――――――――――――――――――――――




 さて、僕だけだったら幻聴か夢とするのも現実的な判断ではあったが、はやてまで同じものを聞いたとなれば無視は出来まい。昨日聞こえた声はやっぱりと言うべきかユーノと考えてよいだろう。

 僕はこの世界とリリカルなのはの関係に思い至った時点でこそ原作の展開なんてあいまいになっていたが、それからひたすら記憶をスコップし続けたかいあって、今ではちゃんと話の流れは把握している。

 昨日の眠る直前に聞いた声、アレはアニメ・リリカルなのはの開幕を告げる声。あの声を主人公であるなのはが聞いて、それを切片に彼女は激動の物語へと巻き込まれてゆくのだ。

 いやはや、バタフライ効果とか考えていたのがバカみたいである。物語は僕の知るとおりに進行しているらしい。それとも僕の存在という微小な変化では他の次元世界での動向には影響を与えないのだろうか。それもありうる。まあ、なんにせよコトの真偽はこの地球で物語が進行していくうちに判明するだろう。

 それよりも僕としては、本当に魔法なるものが存在するっぽいことに驚きだった。

というのも、超常現象なんて転生以来、昨日が始めてなのだ。いや、あえてあげるとすれば闇の書が銃弾を受けても傷一つ付かず、水洗いをしてもたわまないなんて不思議もあったが、それはあの本が防弾チョッキのような超高強度ポリマー繊維で構成されていたとすれば納得できないこともない。

 一緒にすごした時間が増えるにしたがって、アニメのキャラクターとしての物珍しさではなく、一個の人格として僕の中におけるはやての存在感が増し、それにつれて魔法なんて本当にあるのかという疑問が改めて高まってきた矢先のテレパシーである。

 正直なところ、はやてと同じ夢を見ておきながら、まだ僕にはこれがただの偶然ではないかと疑うところがある。

 だが、仮にこれが偶然だとしても、魔法があるとした仮定の下で行動して損があるわけでもない。空振ったら、空振ったで魔法なんてなかったと判断を収束させることができて、これはこれで有益だ。僕は期限付きで魔法の存在に対し肯定的であろうと思う。

 その上で僕はいったいどう行動したもんだろう。

 ちなみに僕、魔法すごく使いたいです。

 だいたい魔法なんてそんな面白そうなモノ、気にならないわけがない。基本的に俺Tueeeeeとか大好きな人間である。前世からそういうのが好きだった。その存在こそ信じるはずもなかったが、それ自体にはすごく憧れていたもんだ。現実にそれがあるとすれば学術的な興味もある。

 この際強くなくたってかまわない。指先でライターの代わりがかろうじて出来る程度の魔導師適性だとしても万々歳だ。
 や、もちろん強いほうがうれしいけど。ホントはSSSSSランクだけどめんどくさいからBとか、そういうのかっこいいし、やりたいし。まあ、今だってホントは30才台の精神経過年数のくせに、めんどくさいから9才児とか犯罪臭いことやってるのだけど。

 そんなわけで、僕はヴォルケンリッターの皆さんが現界したら土下座してでも魔法を教えてもらおうと思っている。そこには、闇の書の問題を穏便に解決させるという目的もあるが、それがなくたって僕は自分の願望で魔法を学ぼうとするだろう。

 もちろん魔法を教えてくれるならユーノでもかまわない。というか、本音を言えば彼のほうがうれしいかもだ。というのも、ヴォルケンズの皆さんに教えてもらうとなるとベルカ式の魔法になるだろう。僕としてはベルカ式のどことなく戦闘を偏重していて脳筋なイメージ付きまとう魔法体系より、ユーノが使う汎用性の大きそうなミッドチルダ式の魔法のほうが好みなのだ。

 その点から考えると、助けを呼んでいるユーノのもとへ駆けつけるのは悪くない。彼を助ければセットで高性能熱血インテリジェントデバイス、レイジングハートさんもついてくる大変お得なお買い物なんだけど――

 でもなあ、無印の事件で僕が出来ることってなによ?

 無印なんて、事件自体はアースラ組に任せておけば解決するんだから、問題は人の心だ。

 金髪美少女と殴り愛を育むなんて器用な真似僕にはできません。子を失った母の心を人形に向けさせるなんてもっとムリ。僕には利害調整はできても人の心を変えさせるなんてできやしない。そういうことができるのは、それができると信じる人だけだ。

 なんというか、僕がいて原作以上に良くなる展開が想像できない。

 己が野望のために他者を犠牲にするというのも状況次第ではありだが、少し待てば別の先生が現れるはずなのだから余計な真似をすることはなかろう。

 ミッドだのベルカだのの好みは、あくまで欲を言えばにすぎず、僕の主目的はとにかく魔法を学ぶことだ。そしてそれだって、その過程ではやてに著しい悪影響を与える公算が高いのなら、闇の書ごと焼き捨てるつもりの――所詮はただの憧れだ。

 ああ、闇の書といえば、そのことを考えると今はまだ管理局とは接触しないほうがいいか。レイジングハートもなのはに渡ったほうが決戦時の戦力面からみても好都合だろう。

 うん、やめやめ。

 ほうっておこう。

 まあ、なんかの間違いでなのはがユーノと接触しなかったらダメだから、今日の夕方にでも槙原動物病院に行って、適当な言い訳でもでっち上げてフェレットが連れられてきていないか聞いてみよう。

 きていないようだったら、その時こそ僕がユーノの捜索をしてみるってことで一つ。やっぱレイジングハートには心惹かれるものがあるし。
 だいたいここでなのはがユーノに出会わなかったら、フェイトがこの世界にやってくるまでに街が廃墟になりかねん。木とか、原作を鑑みるに。


 後に僕はこのときの楽観を強く後悔することになる。





 そんなわけでやってきました海鳴大学病院。

 昨日あれから考えたところ僕は見事に石田医師との接触を回避する方法を見つけていた。それすなわち僕もケガ人だということ。前に撃たれた傷の経過を診てもらいたい。バニングス邸で見てもらったときの医者というのがこの大学病院の医師なのだ。

 普通の診療時間中によびだされてのこのこ現れるくらいだから、なんとなく小じんまりとした病院の先生かと思っていたのだけど、そうでもないらしい。いや、しかし、僕が言えた義理でもないが銃創って当局への報告義務があるんじゃないのかなあ。

 彼の医師を名指ししたバニングス家からの紹介状を提出すると、受付のお姉さんはいぶかしげに受話器を持ち上げた。内線でなんらかのやりとりをしたあと、やたらと丁重な態度で『少々お待ちください』。おいおい、直前にはやてが診察券を出したときは、普通に気のいいお姉さんな対応だったのに、なんなんだこの落差。

「……ずるっこや」

「奇遇だね。ものすごく同感だよ」

 人ごみを避けながら車イスを押して適当なところまでやってくるとはやてが唇を尖らせていった。

 なんというか恐るべしバニングス。ただちょっと金とでかい家を持っているだけじゃなかったのね。それ相応の権力もお持ちのようで。

「まあバニングスさんとしても自分チの娘に関連して怪我人がでたのはやっぱ気が咎めたってことだろうさ」

「せやけどやっぱアイリはずるっこや。せっかく途中でカメラもかってきたのに」

 膝に乗せたカメラに手を添えて拗ねた声を上げるはやて。そうは言うけど一枚目は来る途中にもうとったんだけどなあ。

「ほら、僕もケガがあるしさ。ちゃんと治したいじゃないか。いやあ残念だな。僕だって石田先生と一緒の写真に撮りたいんだよ?」

「だったらアイリの診察はわたしのが終わったあとでええやん」

「いやあ、残念。時間は有限かつ希少でさ。二人が別々でコトを進められるのに引っ付いてちゃあタイムイズマネーだよ。貧乏暇なし残念無念」

「アイリ、石田先生キライなん?」

「んなこたぁない。はやてがお世話になってる先生だよ? 熱心でいい先生だし、キライなはずないじゃないか。むしろ好きな部類さ」

 ただ苦手なだけです。会ったら学校に行けとお説教されるのが、はやてが風呂で左手から洗い出すのと同じくらい確実だから会いたくないだけで。

 はやての恨みがましい視線を白々しく避けていると、そこで声が上がった。

「望月さーん。望月愛天使さーん」

『ぶっ』

 このとき噴き出したのは誰だかわからない。いや、そのなかの一人が僕の目の前で急に腹筋を引く付かせたはやてであることは間違いないが。だが彼女以外にもゲフゲフとわざとらしい咳払いを立てる人が複数いた。その他にもわざわざ読んでいた本から顔を上げる患者さんとかならその数倍はいる。

「アイリ、お呼びやで。でも、くく、やっぱ他の人から改めて聞くとおもろいなあ。その名前」

「うっさいやい」

 待合席を立つ。微妙にへばりつく視線を引き連れて、僕を呼ぶ看護士さんのもとへ。

「すみません。それアイテンシじゃなくてアイリエルです。や、漢字は間違ってないんですが読みはそうなんです。すみません」

 ゲフン、ゲフン。僕の声を拾える位置にいた見知らぬ兄ちゃんが一人喘息の発作を起こしたようだった。いやだなあ、彼は腕を吊っているあたり病気ではなさそうなのに、病人ではなかろうに。院内感染だろうかファック。

 看護士さんは非常にしょっぱい顔をしたまま読み間違えを詫び、自分についてくるよう言った。

 医師のところまで連れて行ってくれるらしい。この病院、ふつうだったら放送でそれぞれの診察室まで呼び出されるのだが、待ち順すらすっとばしか。いやはや、まっこと至れり尽くせりだ。今度来るのに躊躇してしまうくらい。


 んで、そんな至れり尽くせりは僕にとってなーんもいいことなんてなかった。


 簡単に言えば本日の診察の目的なんて経過観察なわけである。僕自身ごっついかさぶたをみては、これを剥がす日を楽しみにしている傷なんて、いまさら医者が診たってすべきコメントなんてない。『化膿もしてないし良好だな、前にあげた化膿止めは残ってる? そ、じゃあもう来なくていいですよ』とまあ、ものの5分もかけずに診察は終了。

 待合所にもどった僕を迎えたのははやてのニンマリとした笑みだった。

「お早いお帰りやな」

「いや、まったく」

 もとが不正規な診察だからってあの先生手抜きが過ぎないか。それともこれでバニングスへの筋は通したってところか。

「ちなみに聞いとくけど、もうはやての診察も終わってたりなんか」

「せんなあ」

「ですよねー」

 石田医師とのご対面が決定したっぽい。あからさまに頬を緩ませるはやては、別に僕が怒られるからうれしそうなわけではあるまいが、その内情まではわからない。提案しておいてなんだけど写真なんてそんなに重要なのかねえ。幼さゆえのこだわりか。昔は僕にもそんなところがあった気もするが、きっと今の僕には理解しがたい情緒である。いやはや、どんなに頭の中で愚痴じみた思考を垂れてみても結果は変わらないんだろうなあ。




「そうは言いますけど、学校に行くとなると朝8時には出かけて帰りには15時を過ぎる。これだけで週5日として毎週30時間消費するのに、もろもろの準備時間とかを足せばさらに増えるんですよ。それだけの時間を使っていまさら忘れようもない情報のおさらいにいくなんてムダが過ぎます」

 このセリフを吐くのももう何度目だろうか。対象は様々、相手によっては何度も語った答弁だが、僕の説得を理によって認めてくれた人なんて今まで母しかいなかった。そういう意味では我が母は稀有なお人だったなあ。認めたのは理ではなく利によるものかもしれないが。

 今回このセリフを受けた人物――石田医師はこれまでの多くの人と同様にコメカミのあたりをヒクヒクとさせて言い返した。

「君が同年代の子達よりも多少賢いのはわかってるわ。でもだからって学校に行かなくていいわけじゃないのよ。学校は勉強を教わりに行くだけじゃないんだから」



 はやての原因不明の足の麻痺の診察ですること、というか出来ることはいえばいまのところ定期的な経過観察くらいだ。診察を終えてはやてが一緒に写真をとってくれるように頼むと、『なるほど、だから珍しく望月君が逃げてないのね』となにやら含みのある笑みを浮かべて快く了承してくれた。

 はやてを中心にすえて、三人ならんだところを看護士さんに撮ってもらう。うれしそうに微笑むはやてに僕と石田医師は満足に目をあわせた。

 時刻は折り良くというべきか悪くと言うべきか、ちょうどお昼時になっていた。

「おっと、もういい時間じゃないか。道理でお腹減ったと思ったよ、そろそろ帰ってお昼にしないか」

「ん、もうそんな時間かいな?」

 そわそわと棒読みな声を上げる僕の心の内に気づいているのだろう、はやてはしょうがなさそうに笑うと石田医師に『ほな――』と言い掛けて、

「そうね。お腹もすいたことだしご飯にしましょうか。私も休憩時間だしご馳走するわ」

 見事に出鼻をくじかれた次第であった。




 そして病院の食堂にて、薄味のスパゲッティをフォークで巻きながらお説教を食うわけである。

「いや~、おっしゃられることはわかるんですけどね~」

「だったら学校にいきなさいよ」

「いえいえ、論旨をつかめたからこそですよ。やっぱ僕は学校に行く気にはなりません」
 ちなみに石田医師が認識する僕の設定は、親に育児放棄くらって友人であるはやての家に入り浸る学力の高い少年といったところだ。育児放棄のレベルが子捨てに達したこととか、既に家はないこととかは伝えていない。

 あ、なるほど。だから、だれもいない自分の家ではなくはやての元に居つく僕をなんだかんだで人恋しがっていると医師は思っているのかもしれない。

「今まで僕を学校に行くよう促した人、みんな同じことをいうのですよ。別にこの手の問題にオリジナリティを交える必要はないからそれでいいのですけど、その上でここまで学校にいっていないのですから、今更同じことを言われても変わりませんよ」

 そう、変えることができるとすればそこに求められるのは説得力ではなく、強制力だ。その強制力に近いものをはやてが若干持っていたりするけれど、はやてはこの問題に対して中立を保っている。それを石田医師がヘンに自陣へ引きずり込もうとしないあたり、僕は医師に好感をもっていた。

「ああ言えばこう言う」

「だからもう入力に対する出力のパターンができてるんですってば。打てば響きますよ?」

 はあ、とため息をついて石田医師は首を振った。まだ今日の仕事は半分以上残っているだろうにご苦労様だ。そんななら僕のことなんて見逃せばいいのにとも思うのだが、それをしないのが彼女の美点なのだろう。ちょっと申し訳ない。

「ね、アイリ。それ一口くれん?」

「ん」

 話が一段落したところではやてが言ってきた。僕はスパゲティの皿を差し出した。

「んー、こっちもおいしいなあ。アイリも一口ええで」

「ちなみにそのニンジンは?」

「これはダメー」

 はやてが行儀悪くフォークでニンジンの一切れを隠す。ちなみにはやてのメニューはハンバーグ。そうだよなあ、どうしてこういうやつの付け合せの野菜は妙においしいんだろ。

 フォークで切ったハンバーグの切れ端を口に運ぶとはやてがどこか心配そうに言う。

「んとな、アイリ。言っとくけど、アイリはわたしのこと気にせんでもええんやからな」

「んあ? なにをさ」

「ん……アイリがわたしのこと気にして学校いかへんのやったら、そんなこと気にせんでええんよ、って」

 上目遣いに僕を見やってたどたどしく語るはやての様子は、その言が心からのものではなく義務感に突き動かされて出たことは明らかだった。

その横で石田医師が今度は『これであっさり学校に行くなんていったらブッ千切る』みたいな険しい目つきで僕を見る。どないせーちゅーねん。

 まあいずれにせよ答えは明快だ。

「気にするも何も、僕ははやてと知り合う前から学校に行ってないんだけどね」

「あ」

 苦笑いをたたえて言う僕にはやてが間の抜けた表情でポカンと口を開いた。

「あれは小学校はいって二日目くらいだったかなあ。ひらがなの書き取りで、ノート1ページを『あ』で埋めているときにこりゃムリだって確信したんだよね。その日、家に帰って即行で母に明日から学校行きたくないって言ったよ」

 わりとダメもとだったんだが、意外にも説得は通った。実は、母からは却下されることが前提で、次善策として授業をろくすっぽ聞かずに本を読みふける問題児になる覚悟も完了していたのに肩透かしを食った形だった。登校拒否児とどっちが問題なのかは知らんが、先生には申し訳ない限りである。

「その頃からそんな調子だったのね」

「すみませんね。その前から成長してないもんで」

 精神の変化がなくなり、良さも悪さもひっくるめてあり方が磐石になったとき、その精神は成長を止めている。すなわち大人なんだと言外に匂わせてみる。

「じゃあそれ以来学校にいってないんか?」

「そだね」

「まさか、これまで学校に行っていないから、いまさら行き辛いとか思ってるんじゃないでしょうね」

「まあ、そういう思いもないわけでもないですけどね。今となっては自分のクラスや自分の席どころか、籍さえあるかどうかわからないわけですし。でも、それによる行きたくないっていうのは、先に説明した部分と比べればほんの瑣末なものですよ」

「でも、せやったら友達とか……」

 はやてが僕の学校事情に口を出すのは珍しい。この件に関してはいつもどことなく遠慮しているようだし、僕も取り立てて話す必要はないとしていた。

「友達とかねえ、僕はいなくても大丈夫みたいだよ。もちろんいるならいるでうれしいけど、必須と言うわけでもない」

 これは前世でもそうだった。学校に行けばしゃべる人は何人かいたし、たまに誘い誘われて連れ立って遊びに行ったりもしたけど、長期休暇なんかは平気で一月以上誰にも会わなくても苦にはならなかった。それは今生でも変わらずだ。

「まあ悪くないものだとは思うけど、そのために学校にいくほどの美点は見出せないかなあ」

 というか行っても友達作る自信なんてないね、僕は。前世での自分を振り返るに、小学生男子なんて『うんこ~!』なんて叫んではゲラゲラ笑うノリだ。さすがについていけません。

 あ、ふと気づいた。

「そうだ。良く考えたら、僕がこの世に生まれ落ちて始めての友人がはやてだった」

「ん~、そこ喜ぶとこ?」

「……おそらく」

 はやてはなんともいい辛そうに愛想笑いを浮かべた。まあこんなしょうもないこと言われてもこまるよな。

 僕は医師に向き直る。時間も頃合、そろそろ休憩時間も終わるだろう。

「そう言うわけで学校に行こうとは思いません」

「そう」

 石田医師からの反論の声はない。

 ふう、つかれた。新たな発見のない議論は疲れる。それでも、こんなガキの意見をちゃんと聞いてくれるあたりいいひとだとは思う。だからこそ僕も聞き流せばいいお説教に対して熱心に反論してしまうのだけど、会うたびに同じ会話と言うのも不毛なものだ。それともこれが重なると一種のコミニケーションになっていくのか、いや過ぎる。


 時間も限界になったようで、僕らはなんとなく席を立った。代金は予告どおり医師のおごり。はやてと並びぺこりと頭を下げてごちそうさまを言うと、医師は微笑ましいものでも見たようにちょっと表情を緩ませた。

「それじゃあね、はやてちゃん。また次の診察日にね。それと望月くん、ちゃんとはやてちゃんを守ってあげるのよ。それと、たまにでいいからちゃんと学校に行きなさい」

 じつはちょっぴり時間がやばいらしい、女医は『じゃあね』と片手だけあげると返事を待たずに白衣をひるがえす。僕らを視界から外したその横顔は、おせっかいで気苦労の多いおばさ――もとい、おねえさんから、凛々しく厳しい医者のそれへと変わっていた。張りのある足音を立て、颯爽と肩で風を切りながら石田医師は医局へと去っていった。



 ざわめく喧騒。病院の中では何割かがパジャマを着たままで堂々と闊歩していたりと、ほかの場所にはない独特の雰囲気が感じられる。薬品臭く、エレベーターにはちょっとした腰掛まで備え付けられている。清潔ではあるがどこか空疎。人間はたくさんいながらも、そこに線としてのつながりはなく、点が散らばっているような印象を受ける。

「要するにアイリは病院嫌いっちゅうことやな」

「端的にいうとね。小さい病院はいいんだけど、どうも大きくなるとどうも」

 はやての車イスを押しながら受けこたえる。病院にいるとこんな何気ない動作まで不健康じみて感じてしまうからダメだ。

 とっとと出て行こう、そう思ったときのことである。個別の波が平均化されたざわめきの調和を打ち破る館内放送が流された。

『お呼び出し致します。望月愛天使くん、望月愛天使くん。いらっしゃいましたら――』

 ぶっと吹き出す音がなる。逆に雑談をやめる者が出る。新聞が不規則に折りたたまれて、スピーカが見上げられた。ちなみに愛天使はちゃんとアイリエルの読みになっていた。

「? なんやろ」

「わかんね」

 というか何故いまさら? 僕に用事でも、今はたまたま石田医師と食事をしたからここに残っているだけで、本来だったらもう帰っているはずなのだ。

「まあ、いいや。いってくる」

「うん」

 車イスから手をはなしてカウンターへとむかう。


 カウンターで名を告げると一枚のカードを渡された。


「診察券?」

「うん」

 はやてのところに戻り、再度車イスを押し始めた。はやては進む車イスに座りながらカードをもの珍しそうに見つめていた。いっちゃ悪いが見飽きてるだろうに。

「いちおう作ってくれたらしい。診察料はバニングスさんから出るんだけどね」

 保険証はちゃんと診察前に提出していたけど。そういや照会とかされたら大丈夫かな。
「ふーん。あ、やっぱ名前が愛天使になっとる」

「そりゃそうだ。そうじゃなきゃ逆に困る」

「ルビもアイリエルやな~」

「だから当たり前だといっとろうに」

 はやては何が面白いのかひっくり返したり、光に透かしてみたり、僕の出来立ての診察券をいじくった。しかし、怖くないのかねえ。僕が押しているとはいえ、車イスで前を見ないのって。

 病院の出口。口の広い自動ドアを出て、玄関スロープを下っているとはやてが叫び出だした。

「あーーーーーっ」

「うん、どうした? 実は名前が海鳴太郎にでもなってたかい。そりゃあいい、今日から僕はその名前で生きていこう」

「アイリ、これなんやっ」

 シカトかい、まあいいけど。それはそうと僕ははやてが差すものを見つめた。

「――診察券だけど」

 いや、それをいいたいんじゃないのはわかってるけど。

「ここや、ここっ」

「ここじゃほかの人に邪魔だし危ないからスロープ下りてからね」

 ひとたび手をはなそうものならはやては車体ごとまっ逆さ――なんてことはないが。今は僕が信頼されてグリップを任されている以上、僕は安全を守らなければなるまい。

「そういえば診察券って、神を殺す拳ないし剣ですごく強そうだよね。名付けて神殺拳(剣)」

「――これ」

 ないすスルー。

 スロープを下り終えて車イスを近くのベンチにつけると、なにか湧き上がるものを抑えるふうのはやては邪気眼でもうずくのだろうか、プルプルと震わせながら腕を伸ばして僕に向けた。そして突きつけられた診察券の、指が添えられているところを確認した。

「なに、生年月日? 5月の――――ああ、今日じゃん」

「アホーっ。なんで言ってくれなかったんや!」

 ガーっとはやてが叫びを上げる。なんか最近一日に一回は怒られてる気がするなあ。

「いやあ、忘れてた」

「あほぉ、忘れてたやないよ。教えといてくれたってたらちゃんと準備しとったのに。だいたい自分の誕生日忘れるのがあるかい」

 怒りから急転、はあ~と深いため息をつくはやて。

 そういえば僕もこれくらいの頃は誕生日は本当に重大なイベントだったっけなあ、一週間前からその日を楽しみにしたりしていたもんだ。

 そんな誕生日だけど十何回も経験している内に、いずれどうでも良くなった。特に前世の我が家では誕生日プレゼントをもらわなくなるのが早かったからなおさらだった。

 今生では言わずもがな。まじどうでもいいです。

「そういえば三日ぐらい前に一度思い出したんだけどね。言おうかとも思ったんだけど、いや、なんとなく忘れてた」

「な・ん・で、忘れるんや。アイリが生まれた日なんやろ、もっと大切にしてやらなあかんよ」

「生まれた日つってもねえ、たかが太陽と地軸の相対位置が同じになっただけでしょうに。火星にでも行けば公転周期も変わるし、そもそもだからどうしたってわけでもなし」

 誕生日になると一齢を重ねて脱皮でもするんだったらそりゃ忘れないけどね。

 と、はやてがしらーっとした眼で僕を見ている。

「アイリ、わたしの誕生日おぼえてる?」

「6月4日だろ」

忘れるはずがない。

「そろそろだよね、どうしよっか。ケーキとか、翠屋で買う? それとも一から作ってみるのもいいかな。そうすると味は保証できないけど。あ、プレゼントはまだ秘密だよ。それともはやてほしいものとかある? 近頃の子の好みはいまいちわからないし僕が勝手に考えるよりも一緒に見て回って決めたほうがいいかもしれない」

 加えてはやての誕生日はヴォルケンリッター――はやてに新しい家族があらわれる日でもあるはずだ。それだけでも期待は大きくなるというものだけど、さらに彼女らは僕の魔法の先生(予定)でもあるのだ。

 それにしても誕生日プレゼントは何がいいだろうか。今言ったとおり、基本ははやての意向に沿うことにしても、それならばもう一品くらい小物を用意してサプライズしたいところだ。写真立てなんてどうだろう。

「ねえアイリ、たのしそうやね」

「え、そうかい?」

 言われて、ぺたぺたと顔に触れてみる。若干いつもより口角の位置が上がっているかもしれない。思い返せば声は少し弾んだ調子だったか。

 はやてを見る。彼女は真面目くさった表情でうなづいた。その取るに足らない動作は、言葉にならない説得力をもって真夏の霧雨のように僕にしみこんだ。

 なるほど、僕ははやての誕生日を思った以上に楽しみにしているらしい。

「ちょっとこっち来て」

 もはや僕もはやての言わんとすることが薄々と感じ取れていた。その言葉に諾々と従う。ちょいちょいと手招きされるとおりに近寄ると、同じ顔の高さ、吐息さえ感じ取れる距離になる。はやての瞳の奥に映った僕の間抜けそうな面が見えた。

 はやては一瞬呆けたようになるが、一転、怒り顔で僕の両頬をむんずと掴み、外側に引っ張った

「だ・か・ら、わたしだってアイリのお誕生日をちゃあんとお祝いしたいに――決まってるやろがー!」

「いひゃい、いひゃい、いひゃあ」

 学級文庫、学級文庫、学級文庫。

 細い指が僕の頬をつまみあげては上へ下へ左へ右へ。いや、大して痛くないんだがね。むしろうにょんうにょんと適度な刺激が心地よいくらい――じゃなくて深く反省して僕はその罰を厳粛に受け入れた。

 病院帰りのオバちゃんがなにやってんだコイツラ的に僕らを見ていた。



「1ペナやからな」

 ひとしきり僕の頬をもてあそんで満足したのか、指を離すとはやては言った。

「ごめんよ。誕生日ってことでまけといて」

「だ~め」

「ケチ」

「ケチやあらへんもん」

 勝ち誇った表情でツンとそっぽむく。するとその目線の先になにかを思いついたらしい。くるりと顔を戻してご機嫌に僕を見た。

「ええよ。許したげる」

「それは僥倖。はやてお嬢様の御慈悲与れるなら、この望月め、火の中水の中笑ってゆくつもりで御座い」

「だから公園いこ」

「公園? いいけど、なんで」

「写真、撮りいくんや」

 はやてはうれしそうにそう言って、一歩分車イスを転がした。さわやかな風の中にショートカットの髪が揺れる。その頬はほんのりと紅潮していて、湧きあがる楽しみを抑えきれないといったふうだった。

「アイリ~、いくでー」

 ちょっと振り返った元気の良い声は僕がついてこないような不安はまるでないように思われた。そのとおり、僕ははやての専属使用人である。はやてが行くのなら僕が行かないはずがない。

 僕はヨッコイと一歩を踏み出した。飼いならされたかな、なんて微妙な危機感を抱きながら。これだからM気質は困る。



 公園に向かう道すがら、どうしてはやては公園なんていいだしたのか、瑞々しい緑をたたえた木々を目にしてやっと思いついた。

「早いもんだ。もう二月がたつ」

 車イスに座ったはやてが振り返り、しっとりと微笑んだ。

「覚えててくれたんや」

「そりゃ、ね」

 かゆくもない頬を指先で軽く触れ、頭上を塞ぐ緑の天井を見上げた。

 そう。この公園ははじめてはやてと会った日にやってきた場所である。僕ははやての車イスを慣れない手つきで押し、どこかお互いに探るように会話を続けていた。屋台で買ったタイヤキをほお張りながら、一緒に満開の桜の花を見上げた。強い風が吹くとザァと花びらが舞い散り、二人してその壮観な出来事に目を奪われたものである。

 この季節の木々は風が通るたびにまだ柔らかい葉を鳴らす。周囲に他の人気は少なく、穏やかな雰囲気が僕らを包み込んだ。

「けど二月はちょう早すぎやな。まだ一月と半分くらいしかたってないで」

「四捨五入ってことで。――ああ、でも当たり前だけどもう花は散っちゃったね」

「けど今は葉がついとる。わたしはこの時期の桜もええと思うよ」

花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは――ってやつだろうか。あれって花が散りきって葉がたくましい時分もカバーしてるのかね。

「ちょう押していってくれん?」

 はやてが指を伸ばす。その先には一本、他と比べて一際大きな木が立っていた。そのあたりはちょっとした芝生の広場になっていて、舗装された道が通っていなかった。

 そうだ、たしか前にもあの木まで行った。あの木がこの公園で一番大きな桜で、その下から見える景色が気になった僕ははやてを誘い、車イスを押して芝生の上を行ったのだ。

 そこで僕はまた明日も会わないかとはやてに持ちかけたんだったけか。打算はなく、その時ばかりは頭を埋めていた記憶のアニメに対する考察さえ忘れていた。僕といて楽しそうにすればするほど、その一方どこかで別れのあとを思ってか、悲風をにじませて微笑みの中に淡く儚いものを浮かべようとする少女の寂しさを埋めてあげたかった。また、一緒に桜を見たいと思ってしまったのだ。

 なるほど。ならばあの場所は僕らにとって何番目かの始まりの場所だ。そこで写真を撮っておくのは悪くない。

 芝生のゆがんだ地面を間違えても車イスを倒したりしないように慎重に歩く。

「ここでええかな」

 木の幹にはまだあるところではやてが言った。

 今日、病院に行く前に電気屋によって、はやてはデジタルカメラを買っていた。前のインスタントカメラとは違って、セルフタイマーの機能が備わっている。さすがに三脚なんかはもってきていないが、カメラは車イスにでも置いて、はやてと僕は木の根元にでも座っていればちょうどよく写るだろう。

「よし、それじゃあ」

 車イスのひじ掛けをあげて、はやてを持ち上げる。僕はもちろん、はやてもなれたもので自然に体重を移動させて、僕の首に腕を巻きつけた。

「――っしょっと」

 小さな掛け声とともはやてのお尻を地面に軟着陸させて、絡めていた腕を抜き取った。離れる間際に頬にほぅと息がかかる。

「あんがと」

「どーいたしまして」

 カメラははやてがもっている。彼女は違和感があるのかもそもそと木の根元ですわりを整えながら、ほいとだけ言って僕に受け渡した。

「セルフタイマーの使い方、わかる?」

「んーん」

 首を振られる。

 まあ適当にいじっていれば、向こうだって使いやすさには気を使って作っているだろうし、セルフタイマーの使い方くらいはわかるだろうが、ここは素直に先生に頼ることにしよう。

 僕が車イスからデジカメの取扱説明書を取りに行くと、はやてはいまだになにやら地面をまさぐっていた。

「アリでも潰してるの? 一説によるとアリにも人の20分の1ほどの魂があるそうだから、あんまり潰したら祟られるかもよ」

「ちゃう。もうなんちゅうかいろんな意味でぜんぜんちゃうよ。五分は五分でも、五分五分のやし五分やし」

「昔は分が10分の1だったらしいね。この場合の五分ってのも数的な指定よりも、『それなり』って意味合いでの数にまつわるイメージ的なもののほうが強いらしいよ。んで、どうしたの」

「えへへ、ひみつー。アリはイジメておらんよ」

 そうか、僕の小さいころはイジメまくったけどな、アリ。今の若い子はそんなことしないのか。いいことではあるが、ジェネレーションギャップが激しいなあ。ああ、いかんいかん、この思考こそオジンへの第一歩だ。

 説明書の索引で撮影の項からセルフタイマー撮影のページを引く。ほうほう、こうやるのか。指示のとおりピコピコとボタンを操作。うむ、出来そうだ。

 無人の車イスを位置調整して、カメラを載せてやる。角度良し、高さ良し。デジカメの液晶画面の中でははやてが手遊びしている。とりあえずその姿を何も言わずに一枚撮ってから、撮影メニューからセルフタイマーを選択する。

「はやてー、いくよー」

「あ、もうかいな。うん、いつでもええよ」

 ボタンを押して素早くはやてのところへ移動する。肩が触れ合うほどに近づいて座れば見切れることはあるまい。

 笑顔は――大丈夫、自然と浮かんでくる。そういえばポーズはどうしたもんだろう。何もなしでは味気ないが、あと4秒弱。迷っている時間はない。思いつくのはピースだけ。日本人コレしかポーズ知らんのかってくらい個性はないが、まあいいか。

 と、そのとき、ぬくもりが僕を包み込んだ。

 なにがどうしたと反射的に振り返る、その途中ではやてしかいないことに気がついた。

 そしてカシャと電子音がなる。情けなくカメラに向き直ると撮影は終了していた。

「はやて~」

「んふふー。驚いた?」

 なにがそんなにうれしいのかニコニコ笑いながらはやては僕に絡めていた両手を解く。

 んにゃろうめ、僕はご満悦なはやてに軽いチョップを入れてからカメラを回収してきて、二人で液晶を覗き込む。ちゃんと撮れていた、撮れてはいるけど。

「あはは、アイリすっごいおどろいとる」

「君が驚かしたんだろうが。――もう一枚だ。いいね」

「ええよ。でも、あはは、けったいな顔してたなあ」

 再度、セルフタイマーをセットしてからはやてのもとへ。今度のはやては最初から僕に抱きついてきていた。負けてなるものか、いや、勝つ必要はないんだけどなめられたままではいられない。僕もはやての細い肩に手を置いて時を待つ。

 3、2、1――カシャ。

「うん。今度はまずまずかな」

 回収したカメラの液晶画面を覗いて僕は満足にうなずいた。画面の僕は若干顔が変な気もするが、そんなの僕的にいつものことだ。はやてもかわいく写っているし、これで十分だろう。

「こんなもんでしょ」

 僕がカメラを手渡すとはやても首肯した。

「ええね。うん、きれいにうつっとる。ちょっとアイリの顔が固いけど。ん~そういう意味では、さっきのヤツのほうが良かったかもなあ」

「いや、それはない」

 だいたいなにがいいというのだ。あんな目ん玉ひんむいて、背をそらしている絵。おまけにピースサインは出しかけのまま固まって、みっともないったらないもんだ。いま撮った写真のほうがあらゆる面でいい。

 このまま地べたに座っていたら腰を冷す。僕ははやてを抱けあげて車イスに移した。

「それじゃそろそろ帰ろうか。それとも、もう少し見てまわる?」

「ううん。はよ帰ってご馳走とケーキ作らなあかんから。それと途中で材料も買わな」

「そか」

 ケーキか。作ってくれるのだろうか、まいった、恥ずかしいぞ。これはありがとうと言うべきなのだろうけど、気管の裏側がくすぐったくって出てこない。さらりと礼を言えなかった時点で、タイミングを逸してしまった。

 それでも再度機会がないか計りつつ車イスを押し出したところではやては叫びを上げた。

「そや! ちょっとまって」

「どしたん?」

 はやてはポケットをまさぐると、見とれるような笑みを浮かべてそれを差し出した。

「さっきそこの木で落ちてるの見つけたんやけどね。綺麗な石やろ。今日、誕生日やし、これアイリにあげよう思って」

 そう言ってはやてが手のひらに載せて差し出したのは菱形をした青の宝石。

 ジュエルシード――単語が僕の中で明瞭な形をとったとき、

 それはまばゆく輝きだした。

「え?」
「手を離せっ!」

 はやての手を打ち払う。輝きを放つ宝石は少女の手のひらから放物線を描いて地に落ちた。

 ジュエルシード。暴走がちの願望器。願いをかなえるというふれこみだが、実際のところは勝手に触れた者の願いを受け取っては斜め上の回答を押し付けてくる危険物である。

 どうしてこんなところにという疑問とともに、どこにあってもおかしくないという納得があった。

 はやてが僕の暴挙を信じられないように見るが、芝生に落ちた宝石の輝きを目にして僕を責めることはしなかった。

「なんや、あれ――光って?」

「わからん。わからないけど」

 判断は早かった。僕ははやての車イスのグリップに飛びつくと素早く反転。

「ちょう、アイリ?」

「しっかり捕まって」

 なにがなんだかというはやての調子。たしかに落ちてた宝石が光っただけにしては僕の反応は過剰だろう。はやての視点からは現状、あんなの光る宝石のおもちゃと見るのが妥当だ。だがそんなものあとでチェレンコフ光だと思ったとでも言えばいい。ビビリの汚名など安いものだ。

 とにかく光り輝く宝石から離れようと全速力で駆け出した。

「ひゃっ、ちょ、アイリ危なっ」

 はやての抗議など知らない。とにかくここを離れなければならない。芝生で揺れる車イスを強引に制動する。

 よし、もう少しで舗装路に入る。

 これで逃げ足も上がるだろう。とにかく人のいるところへ行かなければ。

 その時のことである。

 僕とはやては薄闇に飲み込まれた。背筋に冷たいものが走ったかと思うと視界が暗くなる。愚かにも足すら止めて認めた世界は、まるで急速に風船が膨らむよう暗いものに飲み込まれていった。

 芝が暗い。空気がよどみ、太陽が重々しく歪められる。青々としていた桜の木々がまるで落葉寸前のように生気のない色に染められていた。

 なにが起きたか理解する間もなく、驚愕に止まった息を再開するときには僕の景色の全てがその『闇』に包まれていた。

「……封鎖領域」

 ようやくたどり着いた解が口を割る。

 それは対象を選択的に領域内に閉じ込める魔法だ。もちろんこれが僕の記憶にある封鎖領域の魔法とまったく同じであるかは知りようもないが、その効果が僕とはやてを元の世界から隔離するものであることだけは本能的に悟らされた。

 やっとの思いで車イスの車輪を舗装路に戻す。逃げなければならない。なにがなんだかわからないけれど、ここにいてはならないことだけは絶対的な真理として明らかだった。

「アイリ、うしろ。アレ、なんなんやアレ」

 同時にギシャァァァと爬虫類がするような細い口から風が抜ける鳴き声に寒気のするダミ声を重ねた音がなった。

 いやな予感をヒシヒシと感じながら振り返る。

 果たしてそこ――ジュエルシードがあるはずの芝生には異形が存在した。

 それは漆黒。おぞましく毛玉のごとき凹凸のない体型は知りうるあらゆる生物にも似るところがなく、その生存の成り立ちは生命に対して冒涜的なものすら感じさせた。気色の悪い、直径1.5mを超えるまあるい肉塊の全体から、光の恩恵を否定する醜悪な暗黒色の体毛を生やしている。そのくせ、汚らわしい体毛以外に認められるたった二種の器官である目と口は、鳥肌の立つようなぬめりてかった赤色をしていた。浜辺で腐った海草と魚類の臭いがする。ドロドロとした、いかにも不健康そうな空気が暗い空間に蔓延して吐き気を催した。

『ギシ…キシシしぃぃぎギギグァ』

 いかなる仕組みか、目と口の刻まれた漆黒の肉塊は動き出す。音波を介して脳髄を汚染するかの鳴き声を立てて、踏んだ芝生を無残に枯らしながら進むその直線は明らかに僕らに向いていた。

 これは、良くない。

「行くよ」

 車イスを押すのに今まで出したことのない安全度外視の全力を発揮して駆け出した。

 だが、おぞましい存在に追われて、おぞましい世界のどこへ行こうというのだろう。

 カラカラと音を立てる車輪。駆ける足は50歩も行く前に遮られた。

「ぐぁっ!」

「アイリ!?」

 なにが、起こったというのか。

 背に受けた衝撃とわずかな浮遊感の後に僕は地面に叩きつけられた。

「アイリ、アイリッ。大丈夫かいな、なあ」

 はやての声がとおい。なにがなんなんだ。かろうじて僕は地面に倒れていることを認識し、アゴを地面に擦り付けながら前を見ると、垂直に立ったゴムとアルミの車輪が見えた。

 ああ、ということは、車イスは倒れていないらしい。

 それは僥倖。立ち上がり、振り返る。後方には変わらず漆黒の肉塊がこちらへと進み寄り、大きな血色の瞳で僕を強く見つめていた。ただ、まだ距離はあり、僕が転ばされたのは遠隔的な何かによるらしい。

「アイリ、大丈夫?」

「ああ、大事無い」

 不安そうなはやての髪をそっと撫で付ける。

 実は、かなり痛い。ただ立つだけにも痛みのない姿勢を気遣う必要があって涙ちょちょ切れそうだ。衝撃こそ痛みにはつながらなかったが、転倒のさいに強く体を打ったようで、右足からは血が流れていた。

『ギギギギギッギ、ィギキキシャアッァァァァ』

 見れば周囲の木々のところどころが、重油でもぶちまけられたかのように黒く濡れていた。そして肉塊の咆哮に呼応するように、それらの黒色がうごめき、意思を持つかのごとく肉塊へと吸い寄せられた。

 それは僕の背からも起こり、服が引かれるような感じを覚えると同時に黒いものが肉塊へと飛んでいった。なるほど、先ほどの衝撃はヤツがあの黒色を飛ばしてきたと考えるのが妥当だ。

 肉塊はズリズリとゆっくり寄ってくる。その様子は急ぐでもなく、焦るでもない。ただひたすらに僕を見つめる真紅の瞳から感情を見出すことはかなわないが――――――嗚呼、なんというか、むかつくなあ。

「アイリ、はよう逃げな」

「悪いけど、はやてちょっと一人で行って人を呼んできてくれるか」

「なに言って。一緒に行かんでどうす――」

 はやては途中で言葉を詰まらせ、やっとのことで「まさか」と言った。

「その足、怪我、走れないんか」

 僕はにじり寄る肉塊から視線を外さないままに苦笑した。

「違うよ。痛みはあるけど走るくらいは出来ると思う。そうじゃなくてアイツ、僕が目当てみたいでさ」

 言って、僕は数歩横へ移動した。

 やっぱりだ、ヤツの赤い目の焦点は僕にのみ合わせられている。進路も微妙に修正されて僕に向いていた。

「そういうことだからさ。僕は僕でなんとかするから、はやては人を探してきて」

「でも――」

 震える声で反意を示すはやての言いたいことはわかっていた。

 こんな世界のどこに助けてくれる人などいるというのか。ここはさっきと同じ公園でありながら、同時にどんな外国よりも遠く離れた土地であるように思える。事実、先ほどまでちらほらと見かけた通行人は、世界がほの暗いものに包まれてからまったく存在しなくなっていた。

「それだったら、でも、アイリも一緒に」

「だめだよ。あれの対象はあくまで僕のようだ。一緒には行けない」

 今でこそその接近は巨躯を引きずる鈍重なものだが、また僕が走り出すとなるとどうでるかはわからない。先ほどのように背を撃たれるかもしれない。

「せやけど!」

「足手まといなんだ」

 切なげに訴えるはやてを僕は言ってはならない言葉で切り捨てた。

「僕はいざというとき君を守ることはできない」

 それは真実だ。だが――いや、だからこそ慰めにはなるまい。

 足の障害ゆえだろうか、はやてが誰かに迷惑をかける極度に恐れることを僕は知っている。

 はやては一瞬傷ついたような表情を浮かべるが、すぐに諦めるような感情を押し殺した顔でうなづいた。

「そやな。わかっとる。わたしはアイリの足はひっぱらん」

「ごめんな」

「ええんよ」

 はやてが浮かべたほほ笑みはまさしく自嘲というに相応しい。このほの暗い封鎖された世界においてなお深い闇をひそませていた。

 はやてのこの暗黒じみた懐の広さ。深い諦念に基づいたそれこそ僕が偉そうにも振り払ってあげたいと思っている彼女の闇の一端であった。

「さあ」

「――うん。アイリも気をつけてな」

「ああ、帰ったらケーキを作ってくれるんだろう。だから大丈夫だよ」

「あは、そやね。ほなら、また、な?」

 言ってはやてが操作レバーを入れると車イスは動き出す。

 僕ははやてが行った向きと90°別向きに軽く移動してヤツがちゃんと僕を向いていることを確認した。

 よかった。これではやてのほうへ向かおうものなら嫉妬してしまうところだった。

 じわじわと迫ろうとする黒い肉塊との距離を後ずさりで後退し維持する。感情の見通せない赤い瞳を負けてなるものかとにらみつける。


 そういえばはやて、なにを願ったのだろう。



[4733] 第10話 運命
Name: コルコルク◆8f84f3de ID:efa95347
Date: 2009/01/31 06:46
 生物としての強さはだいたい重量に依存する傾向がある。ガチンコで殴りあい殺しあった場合、重い生き物ほど強く、軽い生き物ほど弱い。そんな一般則のなかで人間はどちらかというと例外で、例えば体重60kgの平均的な成人男性が40kgほどの野犬にガブガブやられちゃったりもするもんだ。

 ぶっちゃけ弱い。

 もっとも人間という種の基本にして奥義は武器を使うことであるのは周知のことで、いまさら素手で勝ち得ないことを恥じる者なんていないだろう。鉄砲を持たせれば逆に十倍以上の体重を持つ生き物だって指の動き一つであっさりと殺れてしまうのが人間の脅威だ。そういう意味では人間は二重の意味で例外に属していると言えよう。

 さて、そんなわけで、今もズリズリと擦り寄ってくる黒き毛玉と僕の戦力を大まかに比較してみよう。

 大きさ
僕:高さ1.3 m 弱、棒状
毛玉:1 m 強、球形

 重さ
僕:約25 kg
毛玉:500 kg超(体積あたり水と同じ重量比として概算)


ポケットをゴソゴソ、周囲をキョロキョロ。
もちろんどこにもナイフなんて落ちていないし、銃だってもってない。あるのはそこらの木切れくらい。

 つまる話が……無理っぽくね?




――――――――――――――――――――――――――
アホウ少年 死出から なのは

第10話 運命
――――――――――――――――――――――――――




 にじり寄ってくる気色の悪い毛玉を観察して僕の判断は一瞬だった。思考力の割り振りを『毛玉の打倒』から大幅に削減し、それらを『毛玉からの逃走』に再分配した。

 いやはやしかしどうしたもんだろうかねえ。

 僕は毛玉のでかい血色の瞳をしっかりと見据え、牛歩の進行に合わせて後ずさる。

 急に走り出したりしなければ、いまのところは襲い掛かってこないようだったが、ここまでの数分は今後の数十分を保障してくれるものではない。
 だが、そもそもヤツは何を目的として僕を追っているのかも不明瞭で、僕は思い切った行動をとりかねていた。

 あの目をそらしたくなるような醜悪な毛玉はジュエルシードによって作られたモンスターだ。そのジュエルシードは腐っても願望器で、ヤツの発生起源は出現の直前までシードに触れていたはやての願いにあると思われる。

 ここまではいい。

 ではそのはやての願いとは何なのか。そのときはやてが願っていたことさえわかれば――いや、ちがうか。はやてが何を思っていたか、わかったとしてもどうしようもないだろう。なにしろジュエルシードは願望器として本当に腐れきっている。原作を思い返すに曇りガラス越しに雑多な願いを見てから、ごく一面的な解釈で針小棒大するといった感じだ。

 大きくなりたいと願った子猫を巨大怪獣にする宝石である。

 愛くるしい小型犬を飼い主の前でみるからに獰猛そうな暗黒不思議生物に作り変えて牙をむかせる宝石である。

 そんなだから、たとえはやてが単純に僕の誕生日を祝っていただけだとしても、

  誕生日はめでたい。
   ↓
  めでたいことがずっと続けばええなあ。
   ↓
  これよりも年を重ねなければ毎日が誕生日的な?
   ↓
  ぶっ殺す!

 くらいの斜め上をかましても不思議はない。

 とにかくしばらくは時間を稼ぎつつ――って、

「ぬわっ」

 急速に目の前で黒いものが広がって僕は反射的に首を振った。

 四方八方に黒い弾が打ち出され、その一つが泥団子をたたきつけるような音を立てて背後の木幹に着弾した。風が触れたほほに手を添える。その軌跡は間違いなく数瞬前まで僕の顔があった空間を突き破っていた。

 僕は心中で安堵と驚愕をないまぜにして毛玉を見やる。

 距離は保っていた。毛玉の牛歩の接近に合わせた僕の後ずさりは、近づきもせず遠ざかりもせず。一本の棒をはさんだように一定だった。

 では、なぜ? 痺れを切らしたのか。片目だけで探れば、はやてはすでに見えなくなっている。だからか? いや、やめよう。現段階でヤツからルールを読み取るのは早すぎる。いま重要なのは『どうして』ではなく『いかにして』だ。

 他者からの介入は見込めない。ユーノは力を使い果たしてダウン中。なのはが魔法に目覚めるのは原作どおりで今夜。フェイトがくるのはさらにしばらく経ってから。

 ゆえに誰からも助けは来ない。よって、全ては自らの意思と力で――

『ギギギッギッギィィぃ、アシッギィギキキシャァァァァ』

 爬虫類の威嚇音に汚濁を溶かしこんだように病的な鳴き声はこの歪んだ太陽を掲げる封鎖領域にあってなおおぞましい。だが先ほど打ち出された無数の黒い泥弾は、それこそ我が故郷とでも言わぬばかりに狂的な意思すら感じさせて我先に吸い寄せられていく。

 その有様はアリが角砂糖に群れるよう。または麻薬中毒者か、蜘蛛糸の罪人か。

 僕は地獄を振り切るように駆け出した。

『ギジィ?』

 黒い弾丸を回収している毛玉はその全身をコロリと傾けることで、僕の突然の行動に対する疑問を表現して見せた。

 まずは太めの木の一本に目星をつけた。僕の姿が木の陰になって見失ってくれれば僥倖だ。

 全速力である。つま先が地面を強く突き放し、心臓が全力で血を回転させる。肺のガス交換には限界があり、それでも口は新鮮な酸素を要求した。

 勢いよく腕を振るう。高くひざを上げる。行き来する空気に気道が乾くのを感じながら僕はなおも加速を求めた。

 汚らしい鳴き声とともに泥弾が僕の横を飛び、地面に着弾して黒いシミになるも、僕に当たるものはなかった。良し良し。僕と毛玉を結ぶ線分上に立つ太い幹がしっかりと僕の身を泥弾から遮ってくれているようだ。泥弾は重力の影響を受けるようだし射程は有限。ならばこのままいけば逃げられるだろう。あとはなんとかはやてと合流すればいい。封鎖領域は晴れなくても、最悪、数週間もすればフェイトあたりがシードの回収に現れるだろうしそれまでの辛抱だ。

 ――――そんなふうに考えていた時期が僕にもありました。

『ギキィィキャィァァギ、ギッギシャアァアァィィィィィィぁぁぁぁぁ!!!』

(日本語しゃべれ毛玉やろう)

 逃亡成功が見えてきて気の大きくなった僕は負け犬の遠吠えを鑑賞してやるつもりで振り返り、そこに信じられないものを見た。

 毛玉が自身のおぞましさに耐えかねたようにひときわ大きい鳴き声を上げるとともに破裂し、四方八方にその断片を撒き散らす。いや、それ自体はかまわない。僕も攻撃の気配を察した時点で、再度横にずれたから攻撃は毛玉と僕の間に立つ木の幹で阻まれる。
問題はその量だった。今までの体表の一部を飛ばして周囲のベンチや木々を所々汚していたのとは規模が違う。まるで公園の全てを汚染しつくすような黒の拡散が巻き起こっていた。

 振り返れば重油のような汚れでまだらに染まった地面。
 僕は恐る恐る逃げる足を止め、毛玉がいた場所をまじまじと見返すと、そこには黒々としたシミのみでもはや毛玉と呼べるモノは存在していなかった。

 嗚呼、これで毛玉が死していたのならどんなに良かったことか。けれど重油のようなシミの全ては確実にうごめいていて、僕は背後で蠢動する異様な気配に釣られて半ば強制的に振り向かされた。

「おいおい、こりゃいったいどういう……」

 飛び散った黒い泥の断片が再び一点に集合する。ただ、そのリユニオンの座標は破裂した場所とは変えており――つまりは僕のすぐ近く、先ほどまで僕が逃げようとしていた経路をふさぐようにその黒い泥たちが集まりつつあった。

『ギギ、ギギ、シシギィィギヒィ』

 いまだ拡散した構成断片は集まりきっておらず、今もナメクジが這うようにそこへ泥がよってくる。今、黒い球形は30 cm以下のサイズに縮んでいたが、それでも腐ったトマトのような汚らわしい赤色をした目と口の再構築はされており、それらの端をニィとつり上げて僕のことを嘲っていた

「な、ぁ――」

 本能的に背を向けて走り出す。その方向は今来た道を逆走するもので、もしやするとこのまま同じ場所でいたちごっこを続けることになるのではないかと一片の冷静な思考で危惧したが、その心配は図らずも杞憂に終わった――より都合の悪い結果を伴って。

『ギシァァァア!』

「ぐぁッ」

 よくわからない衝撃に体が吹き飛んだ。ずいぶんと長く感じられた浮遊感がなくなると、僕の体は地面をゴミくずのように転がった。全身に封鎖領域の枯れ色の芝生をまとわせながら僕は爪で大地を引っかく。

 こんなときに思い出すのは、もう主観において10年近くの彼方。前世の僕が死したときのこと。あのときの地面はアスファルト。今は芝生であるあたりずいぶん恵まれているじゃないか。

 だが、内面に渦巻く感情については大きく異なる。恵まれているかなんて知ったことではない。

 衝撃は毛玉の体当たりだったらしい。見れば毛玉がすぐそばで鞠でもつくように飛び跳ねて、うれしそうにギィギィと鳴いている。なんと憎たらしいことか。何がそんなに面白い。嘲りに対する正当な怒りは僕の中で半ば故意的に増幅され、そうでなければこの身を支配しかねない恐慌へのアンチとして燃え盛った。

『ギジッ』

 痛む体を抑えつつ地面に手をついて立ち上がる――いや、そうしようとしたところに再び毛玉が飛び掛かかってきた。体を支えていた手を肩からはじかれて僕の体はまたもや無様に転がった。カサカサの芝生が頬をこする。僕の瞳にはすぐそこの醜悪な影が映っていた。今度の攻撃では、毛玉は僕を転ばせても、そのまま離れずに僕の肉体に取り付いていた。

 そして、

「いっ――だああぁぁああぁぁ」

 獰猛な笑いを浮かべて僕の肩にとかぶりついた。

 血が噴出する。

 その泥のような体でどうしてと思うほどの鋭く固い牙が服すら貫いて僕の肌へと食い込んだ。

 痛い、痛い、痛い。

 ギィ、ギィ、ギィと黒い毛玉は肉の抵抗を楽しむような唸りを上げながらその肉体を振るわせる。

 なにが、なんなのか。

 それは間違いなく恐怖である。生きたまま喰らわれる。意識を保ったまま、直前までの自身の構成要素が他者の栄養となる。どのような声も慟哭も哀願も届くことはなく、ただただソレは自己の本能を満たすべく牙を突き立てる。赤い紅い朱い血のような口の中、そこで咀嚼/啜られる肉片は僕の皮膚でした。ああ、なら今はなんと言うべきか。物理的な自己の拡散。いったいいつまで僕という意思は保たれるのか。指がなくなればソレは僕か。腕がなくなったときソレは僕か。足を落とし、髪を失し、心の臓をえぐられて、いつまで僕は僕といえるのか。もしかしたら千切れてもパーツごとの意思があるのかもしれない。そして化け物の腹の中で僕は再び僕になる。あるわけがない。

 もしや意識を絶ったほうが楽なのでは? 頭のどこかで諦念からくる提案がささやかれ始めたとき、それよりも耳にこびりつくのは下品な咀嚼音だった。くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ、くちゃと音を立てながら満足げに僕の肩肉を食らう毛玉。

 不意に目が合った。

『ギシィ?』

「口をとじて喰えトンチキがっ!」

 かじられたのは左肩。ならば僕は右手で殴る。

 下から無理な体勢で突き上げられる一撃は決して強力なものではなかった。けれど僕の拳は毛玉の無駄に大きな真紅の瞳を打ち抜いた。

 毛玉が化け物らしい悲鳴を上げて吹き飛ぶ。つかの間の空中浮遊をお返ししたが、毛玉はいまだ再集結の過程にあるバスケットボール大の肉体で三度地面をバウンドするとつつがなくこちらをにらみつけた。

『ギジャァァァアァァァァア』

 おうおう怒っているのか――いい気味だ。

 僕は今度こそ立ち上がる。靴の中、親指を地面に突き立てる、上がらない左肩に風が触れる痛みに耐えながら腰を落として眼前の化け物と相対した。

 武器。とにかく武器が要る。毛玉は反撃に警戒してか、瞳に怒りを宿しながらもかかっては来ない。けれど先ほどの大破裂で巻き散らかされた黒の断片は今も刻一刻と集合しつつあった。再構築が完了するのにはあと1分もかかるまい。だからこの毛玉を叩き割ることのできる凶器が必要だった。

 その場を見渡す。しかし辺りには拳の中に握りこめる石ころさえ見当たらなかった。
 公園なんてそんなものか。小さな子供も利用するのだから危険物なんてそうありはしない。見つけた一番マシそうなものでさえ殴りかかれば折れてしまいそうな木切れだった。

『ギシシシシ』

 毛玉がさえずる。化け物語の素養なんてない。だがそこに嫌みったらしい意図がこめられているのはどうしようもなく理解できた。事実、順調に断片を再吸収し続けている毛玉はすでに1 m近くにまで膨れ上がり、最初の姿を取り戻そうとしていた。『その時』がくるのも時間の問題だ。故に、

――くたばれっ。

 完治とともに襲い掛かってくるだろう。確信した僕はそれよりも早く襲い掛かった。底なし沼を連想させる黒い泥溜まりを踏み荒らし、毛玉の本体へ。何が意外か驚愕の鳴き声をあげるがもう遅い。僕は未熟な身体機能の限りをつくして疾走し、そのまま靴に守られたつま先で目玉を蹴りつけた。

『ギジャァァァ』

 それは苦痛か。だったらいいなあ。けれど毛玉の化け物は身もだえして盛大に鳴き声をあげながらもその瞳はつぶれていない。瞬膜のようなもので守られているのだろうか。ほんとうはその汚らわしい肉塊を尻からストローで息吹き込んだカエルみたいに爆破四散させてやるイメージで放った一撃だったが、ゴムのような感触で押し返されていた。

(よしムリ!)

 やっぱあんなの倒せません。もしかしたら、という僕の希望的憶測は打ち砕かれ、その下から揺るぎのないリアルが現れた。すばやく転心。それならばそれなりの行動をするべきだ。

 僕はまたもや反転、節操なく逃げ出した。やっぱり打倒はムリという最初の判断は間違えていなかったのだ。

 聞けば全力疾走というのは一歩ごとに身長と同じ高さから飛び降りるのと同じくらいの衝撃を受けるらしい。連続する振動に左肩が痛み、同時に服を赤く染めてゆく。
腕を振ることのできない現在の全速力はベストよりも数段劣るが、それでもここで戦うよりは生存の可能性は高かろう。

 とにかくこんな開けた所ではまずい。なんでもいいから建物の中に逃げ込まなければならない。そうすれば、それが有効打になるかはともかく、使えそうな道具や案はいくらでもある。

 一瞬でも早く公園を抜けるべく疾走する。その背中にもはや聞き飽きた感のある鳴き声がぶつけられた。

『ギシイイイイィィィィ、ギジジイィィ、ギギギッギギ』

 逃げ足をとめずに後ろを見れば、迫り来る飛来物。反射的に体を捻ると、それは僕のわき腹を掠め、黒いツバメが飛び去るような影を残して消えていった。そして走る灼熱感と遅れて流れるジンワリとした感触。触れてみてみるとその手は新しい血に濡れていた。

 これまでの泥弾ではありえない類の創傷に驚愕し、そしてそれに気がついた。

 どうやら僕の攻撃は毛玉を倒すことこそ出来ずとも、その不遜な行いに怒りを覚えさせるには十分だったらしい。

 毛玉がうねる。鋭く、その体毛が槍の形へ生まれ変わろうとしていた。

 怒髪が天を突くとアピールでもしたいのか、肉塊は先までのストレートヘアをかなぐり捨てて、急速にうごめきながら、まるでウニのような形態をとろうとしている。赤の中で攻撃色を強めた瞳で僕の命を狙っていた。周囲にはたった今の攻撃で発射したのであろう、黒色の短槍がいくつも突き立っている。

 その中の一本、僕の太ももほどある木の幹に深々と突き刺さっているものを見て僕は思う。

(あ~、こりゃ死ぬかもなあ)

『ギアアァァァァァアァァァ――』

 咆哮とともに発された次の一撃をよけることが出来たのはただの偶然だった。眉間に飛来した必殺の黒槍に対して足の力を虚脱し、その場に崩れ落ちることで回避する。髪の二、三本をさらって飛び去る刺殺。偶然はそこで品切れだった。

『シイッ』

 黒槍の発射でわずかに身軽になった毛玉がボールのように飛び跳ねて襲い掛かってくる。その襲撃を、僕は目でこそ認識しながらも、崩れた体制でかわすことは出来なかった。相撲取りのぶちかましがこんな感じなのか。踏ん張ることもできずに僕の両足は地面から離れていた。

 地面に倒れこむ。息が詰まり、不意の苦しさに咳き込んだ。毛玉は今度こそ逃がす気はないらしく、先ほどのように目玉を殴ろうとした僕の手は、微妙に体の向きをずらされて届きそうになかった。

 ただひとつ幸いなことといえば、毛玉の全身を覆っていた黒い短槍が事前の攻撃で全部発射されていたおかげで、体当たりを食らっても串刺しにはならなかったことか。それも今後の展開しだいで、さらに不幸なことだったと嘆くことになるかもしれないが。

『ギシイィ』

 捕まえたぞ、とでも言っているのか、大きな口の端を嗜虐的に吊り上げる。僕も唯一動かせそうな右手でひとしきりの抵抗をしてみるものの、いかんせん現在の毛玉は十分な質量を持っていて動きやしない。

 毛玉の化け物の血色をした口がゆっくりと近づいてきた。

「っグアッ」

 まるで飲み込まれたみたい。噛み傷の残る左肩に口付けて再度牙を突き立てられた。牙を突きたてたままジュルリジュルリと音を立てている。

 痛みに明滅する思考を叱咤して現状を分析。どうやら、この化け物は傷口から僕の血を吸っているらしい。

 おぞましい。怒りを込めて右手で押す、殴る、ブリッジで跳ね除けようとする。しかしあらゆる抵抗は無意味だった。僕の肉体は圧倒的な質量にかなわない。

「あ――」

 痛――――――――い。

 この汚らわしい化け物は僕の苦痛でも栄養としているのか、それとも単に流れ出る血が少なくなって新しい吸い口を作る程度の気持ちなのかもしれない。またも左肩に噛み付かれた。

 どくどくと流れ出ていく血液。心臓にあわせてなくなっていく。ジュルリジュルリと音を立てて吸い取られていく。ザラリとしたが舌が僕の傷口をなめると僕の体は跳ね、そのたびに毛玉の化け物は真っ赤な血のような瞳の喜色を濃くした。

 死――圧倒的な予感が僕を包み込む。

 嗚呼、武器がほしい。このクソ毛玉を真っ二つに断ち切るような、そんな刃。この物理的にも魔導的にも心情的にも閉塞した現状を打ち壊し、高笑いとともに飛び立てるような。今も僕の血を吸っては酔いしれるこの毛玉に鉄槌を。貫く弓を、導く石を、打ちつける鉄甲を。僕の気に入らないありとあらゆる存在を灰に出来るような素敵な道具がほしい。

 そう、僕だったらそれがありえるはずだったのだ。僕は魔力を持っている。昨晩、ユーノの声を聞けたのがその根拠だ。高町なのははレイジングハートを手に入れたその直後からジュエルシードの化け物を打倒して見せた。フェイト・テスタロッサはその魔導の閃光で自身の胴回りほどもありそうな木の根を易々と切り裂いた。ならば僕とて。彼女たちの半分の、そのまた半分でもいい。魔力を使えればこんな毛玉なぞに遅れをとるはずがないのだ。


 だからこそ武器を、――――――――――デバイス魔法の杖を。


 妄想の飛躍は状況の悪さに比例する。ないものに思いをはせている間にも状況は悪くなっていく一方だった。身動きの取れない体。何度も牙をつきたてられてぐちゃぐちゃになった傷口。十分に柔らかくなった肉をざらついた舌でなでられるたびに激痛が走り思考にノイズが混ざってくる。血が足りない、それでもさらに抜けていく。口は既に意味ある言葉を吐かず、僕の血が啜られる不愉快な音と、同じくらい汚らしい僕の叫び声ばかりが耳につく。指が反り返る。散々に振り回したせいで爪の中には草やら土やらが詰まっている。毛玉に引っかかり薬指の爪が剥げた。

 ジリ貧――いや、もう既に詰まれているか。

 意識の中に、急速に闇が広がっていくのがどこか他人事のように感じ取れている。


 いつ死んだってかまわないと思っていた。

 生きることに絶望していたわけではない。死に希望を見出したわけでもない。

 ただ僕という人間はたしかに生に無頓着で、死ねば終わりという言葉に肯定的な意味を見出していた。自殺などについても硫化水素や電車への飛び込みなど他人様へ迷惑をかける方法さえとらなければそれも良いと思う。尊厳死にも大いに賛成。

 自身もちょっと辛い期間が続くだけで、空から槍でも降ってきて痛みもなく死ねないかなどと、ろくでもない妄想にふけったりもする。

 生きるも死ぬもニュートラル。

 故にこの現状で早急な死を求めてしまうのも一貫しているし、

 そして僕はすでに人を殺している。

 あの廃墟ビル。昼でも薄暗いあの空間ですでに僕は手を血に染めていた。それも三人分。
 贖罪の意識があるわけではない。そのときの殺人は僕にとって死んでもかまわない人間を必要に応じて殺しただけだから罪の意識なんてあるはずがない。

 ただ、それでも僕は思うのだ。

 人を殺す人間は、また自らも殺されることを覚悟すべきである。

 べつに倫理や法則としてその言葉を信じているわけではない。だが、その瞬間まで自らの死なんて考えてもいなかった人間に襲い掛かって殺害した僕が、いざ自分の番になって死にたくないと喚きたてるのは、そう――いささか『かっこ悪い』

 そういうわけだから、まあ、かまわんだろう。さすがにこんな形で終わるとは思ってもいなかったが、だからこそ世界は面白いともいえる。

 そもそもあるとは思ってもいなかった第二生。うたかたの夢としては長すぎたくらいだ。

 痛みにも耐えかねてきたことだし、僕はゆっくりと黒い視界を閉じようとして


――アイリ。


 そのなつかしい声に目が覚めた。

 彼女はすでに逃がしたはずだ。だから今際の幻聴なのかもわからない。だがそんなことどうでよかった。それで思い返された彼女のことこそが、ただひたすらに重要なのだ。

 八神はやて。今生ではじめての友人。大人びていて、そのくせさびしがり屋の女の子。

 そういえば、彼女はどうだろう。僕は、まあ、死んでしまってもいい気分ではあるのだけど、はやては僕が死んでしまったらどう思うか。

 決まっている。彼女は泣くだろう。

 きっと彼女は泣き崩れる。僕にとってのはやては数少ない友人であるが、同時にはやてにとっての僕も似たようなものなのだ。八神はやてという少女のもともとの性質からして情が深い。それまでろくな交流のなかった闇の書の管制人格が逝くというだけで泣いてすがるのだ。僕も思い上がっていいのなら、それくらいには悲しんでくれるだろう。

 少し、胸が痛んだ。

 そもそも八神はやてという少女は僕にとって、ほかのいかなる知り合いと比べても趣が異なる。庇護対象とでもいうべきか。僕はこれまで彼女と友人として付き合いながら、漠然と彼女が陰のない笑顔を浮かべてくれればいいと思ってきた。

 それがこのざまか。

 頭がジンと痛む。僕は死に、彼女は泣く。もとより親がなく、足が悪く、知人も少なく結局のところで幼い彼女にとって、住まいさえ共にした友達の死はいったいいかほどの傷を残すだろうか。中途半端な救いは、持ち上げたぶんだけ叩きつける。それくらいなら僕ははやてにとって、もとからいないほうが良かったのだ。

 なるほど――――――気に入らない。

 ピシリと骨がなる。限界が近いのだろう。過剰に重いものの乗った体はもはや呼吸さえ苦しく、視界は狭まる。土の湿った感触ばかりが感じられ今でも熱が抜けて行く。血行か欠損か、いかなる問題か今では左手には感覚すらないが、いまも取り付き肉を食む毛玉によって傷は深まるばかりだ。額が痛い。目の奥が霞む。身動きが取れない。赤い色が清潔を蝕んで、それでいて僕の脳は高速で回転を続けていた。

 どうしてこんなことになってしまうのか。僕ははやてに屈託なく笑っていてほしかった。いつ消えてしまうかも不安になる儚げな微笑を晴らしてあげたかった。なのにその結果がこれか。なんと情けない。その僕が一番彼女を苦しめようとしている。

 崩壊の予感がする。しかし認められるはずがなかった。

 そうだ、認められないとも、こんなばかげた結末。

 気に喰わないのだ。彼女が泣くのも、彼女が笑わなくなるのも。なによりその原因が僕にあるということも。

 つまりそれはどういうことか?

 あまりにも安直すぎる問いかけに対する、なんの捻りもないその解答は斜面を下り落ちるよう自然に僕の手の中に納まった。その解はきっと正しいという直感がある。だからこそ見てはいけない、知ってはいけない。僕が僕であるためには認めてはいけない禁断の真実が手の中にあった。けれど、その解は覆い隠す僕の手の中で勝手に花を咲かせ、押し隠す指をこじ開けて燦燦と真実を訴える。

 もはや認めざるを得まい。


 僕は、死ねない。


 決定的に何かが壊れる音がした。

「ははは、は。――あはっ、あははははは、はははっははっはあっはっははははあ、はっはははっはははははハハハハハハハハハハハハハッハハハアハハハッハハハハ――――――」

 狂笑が踊る。化け物が肩から血と肉を啜るのもおいて僕はかまわず笑い続けた。

 なんという無様、なんという皮肉、そしてなんという禁忌か。

 死にたくない――それだけは僕が僕であるために思ってはならないことのはずだった。

 いつ死んだってかまわない。僕という人間は常にそう思うことによって、いままでやってこれた。飄々と、超然として、とらえどころなく、何よりもただあるがまま自由に。いかなる苦難がわが身に降りかかろうとも、耐え難いほどに辛ければ死ねばいいと、常に逃げ道を用意することで心に余裕を持つことが出来た。

 苦しさ、悲しさ、憎しみ、満たされない欲求がどんなにに内面で吹き荒れようとも、死に向かって開かれたドアから風は抜ける。死に向かって流れる柳こそ僕だった。


 それを否定してしまった。


 非常口にシャッターが落ちた。こうなれば僕はもう生きたままに焼け崩れるしかないではないか。

 死ねない。

 死ぬわけにはいかない。

 ああ、死にたくないとも。

 これを笑わずして何を笑う。僕が――いままでずっと死を許容することで己を維持してきた僕がいまさら死にたくないと? 馬鹿らしい、くだらない。何たる自己矛盾、何たる不合理か。まるで道化だ。あまりの無様さに自分で自分をくびり殺したくなる。しかしそれでも僕という人間が前世も含めて後生大事にとっておいた最強の逃げ道は、今、ほかならぬはやての存在によってふさがれている。

 肺を押しつぶされて声など掠れたものしか出ない。それでも僕の喉は愉快で不愉快でひたすらクツクツと跳ね続けた。

『ギジィ?』

 狂態を見かねたのか毛玉が肩から口を話して僕の目を覗き込む。――目が合った。

「いつまで乗ってんだよファック野郎!」

 とりあえず呆けた横っ面をぶん殴る。すると毛玉は殴られたところから自身の腐った泥のような構成要素を盛大にぶちまけて奇声をあげながらごろごろと転がっていった。

 ああ愉快だ。歪んだ封鎖領域の大気の中にいて、まるで青空と太陽の全てが祝福してくれているようではないか。うす雲から月の覗く程度の穏やかな夜が好きだというのに実に不愉快だ。

 まったく不自由なこと極まりない。

『いギジャァァァキシジジギギギギャァァイァァァァァ』

 収まらない笑いの衝動に身を任せたまま立ち上がれば、転がっていた毛玉もよたよたと姿勢を直して向き直っていた。その思った以上に感情の読みやすい真っ赤な瞳には、すでに抵抗の力が果てていたはずの捕食対象になぐり飛ばされたことへのわけのわからない戸惑いと焼き尽くすような怒りがあった。

 毛玉の黒い肉体が再び作り変えられていく。皮の下に別の生き物がいるかのように肉体の表面がうごめき、無数の短槍が形成されていく。許さない、殺してやると血走った瞳が告げている。憎しみの迸る咆哮は不遜なエサがこれから迎える残酷な運命を天地に知らしめんとしているようだった。

「ハハ――でもなあ化け物。悪いけど、今の俺は強いぜ」

 そう、不自由だからこそ強い。銃はその爆発を限定されることでこそ突破力を持つ。槍は乗せられた力を穂先の一転に集約させるからこそ貫ける。

 逃げ道のない世界。ならば前に行くしかないだろう。

 痛む体、拡散する視覚の全てを手のひらにのせて握りこむ。わかりきったことだ、俺はこの化け物を殺すだろう。

 一歩、体の中で肉と骨が軋む音を聞きながら歩き出す。すでに死に体の進行がどう見えたのだろうか。毛玉は一度たじろぐように震え、そして直後には自身の反応を打ち消すようにひときわ高く叫びを上げる。

『ギギギィィキキキイィィィィィ――ッァアアアアァぁ嗚呼アァッァァァァァアァッァッァァアッァ』

 全身から放たれる無数の短槍。一本一本が十分に引き絞った強弓の威力を持つ殺意の弾幕がドームとなって広がっていく。逃げ場などない360°全方位に向けた刺突の爆心地。その傍らにあって、この身に向いた必殺の数は十と三。漆黒の残像を引き連れた槍襖にかわす隙間などあろうはずもなく――だから無理矢理こじ開けた。

 半身になって振り下ろす右腕。空虚な白い光をまとった一閃は大気に焼け付くような軌跡を伴って殺意の黒壁をたやすく引き裂いた。

 毛玉が今度こそ悲鳴のような声を上げる。俺はかまわず、壊れかけたからくりのように足を踏み出した。

 そうだ、デバイスなんて要らなかったのだ。ないものを無策に願うなどくだらない。ないならば、それを用いずに目的を果たせばいいだけの話だ。そも、デバイスなど例外を除けば術者が蓄えている魔力を吸い上げて指向性と機能性を与えているに過ぎない。つまりエネルギーはすでにあるということになる。

 死に近づいたせいだろうか。俺はここにきて思い出していた。前世の最後、冷たいのか熱いのかもわからないアスファルトで灯火が消えていく記憶。ぬるい太陽の中で終わっていった。刻まれた裂け目から血液とともに命が流れていく感触。大切なものが肉体を抜けていった。

 あれが魔力だ。

 今の俺は死への扉が閉じられている。故に高められた内圧は後ろに逃げることは出来ない。一点を開放すればただひたすら前へ。己が意思、己が命を叩きつければいい。

『ギギァイキッキキィッィィィオォァァッァァァアキイキキイキジギギギィィィィ』

 にわかに毛玉の球形が潰される。それは大地に叩きつけられたボールが跳ね返るために歪みを蓄える工程と同一だ。

 毛玉はおぞましくも決死の狩り声を上げる。それは捕食存在としての意地なのか、毛玉は短槍の射出を破られてなお退くことはしなかった。飛び掛る毛玉。咆哮とともに迫る速度はまさしく大砲というにふさわしく、それをまともに受ければこの身はばらばらになり、もはや生きながらにして喰われることすら叶わないだろう。

 ああ、本当にありがたい。もうそっちに行くのも億劫なところだったんだ。

 迫り来る毛玉。俺はその軌道に拳を乗せるだけだった。

「じゃあな化け物、お別れだ」

 魔力を放つ。

 極光が毛玉を包み込んだ。

 毛玉の突進と迎え撃つ魔力。拮抗したのは一瞬だった。月白の奔流が空間を荒れ狂い全てを無味乾燥に塗りつぶすなか、毛玉は叫びを止め、ただただ呆と自身が白に侵されていくなかで俺の瞳を見つめていた。

 白く崩れ落ちていく。洪水のような魔力を受けて毛玉は磨耗するように削れていき、ついに線香花火が落ちるよう光の中に消えていった。






 空を見上げて嘆息をひとつ。光は肺の中の空気を全て絞りきったような虚脱感とともに終息した。もはや僕の前に毛玉はいない。ただ、その代わりに芝生に刻まれた大小無数の傷跡と青い宝石が一つ残されていた。

 勝った、のだろう。僕はいつしか空に眩しいまでの青さが戻ってきていることに気がついていた。

 とりあえず億劫なのをこらえて膝を折るとくしゃくしゃのハンカチでジュエルシードを包み込んでポケットに突っ込んだ。んで、もう一度立ち上がるのにも一苦労――って、うおゎっ。やっばい、いまものすごい立ち眩みが襲い掛かった。

 あぁ~~~~~~~~血が足んね。つーか今もちょっぴり流失中。というかなんか眠いんだけど普通にやばくね?

 まあ、いいや。とりあえずはやてを探そう。

 胡乱な思考を抱えて僕はふらふらと歩き出すのだ。

 僕は生きている。


 故に、この日はまだ終われないのであった。


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