“人生”という単語がある。
読んで文字通り“人の生”を意味する単語。
人生は最高だ。
人生は素晴らしい。
人生は輝きに満ちている。
ああ、結構。それは大いに結構だ。
私にはそれを責める資格などないし、そもそもその是非になど拘泥する価値すら見出さない。
お前がそれをどう捉えようとも、それはお前の自由だ。
存分に誇り、如何様にも叫べ。
お前はそれに相応しい程には愚鈍で蒙昧な存在なのだから。
だが、一つだけ教えろ。
“幸せ”とはなんだ?
それはお前たちが“人生”を語る際、頻繁に口にする手垢に塗れた麗句だろう。
疲れた身体を引き摺りながら帰宅し、安らかに眠る己が遺伝子継承体の顔を目にした時。
愛する者と出会い、愛するが故の紆余曲折を経て、双務的終身契約を結ぶに至った時。
己が一生を賭けるに値する大目標へと邁進し苦節数十年、老境にして不十全たる端緒を掴んだ時。
お前がそんな陳腐な答えを返すのだとすれば、やはり私は酷く失望せざるを得ない。
違う違う。
そんなものは“幸せ”などではなく、単なる“小休止”の瞬間を切り取っただけのものだ。
仮初の“幸せ”、“幸せ”の擬態だ。
生を送るにあたって絶えず襲い来る艱難辛苦の合間、そこに生じる束の間の“小休止”。
それを人が“幸せ”と呼ぶのであれば、それはなんと虚しく、なんと愚かであるのだろう。
“小休止”はあくまでも“小休止”に過ぎず、それは其処に至るまでの道程に対する当然の代価であって。
天によって授けられたと感謝し、その賜与を神に祈るようなものでは、断じてない。
私はこう思ったのだ。
集団としての人の生には意味があったとしても、一個としての人の生には然したる意味はないのではないか、と。
求められるのは、連綿と続く人間という種に対する一定の寄与。
詰まるところは生殖の器としてのそれであって、一個としての仮初の“幸せ”は付帯に過ぎない。
こんなことは思い至らない方が幸せなのかもしれない。
だが、不運なるかな。
私の在り方は想定を超えて疑義的で虚無的で退廃的だった、ということだろう。
それは詮無いことであり、当然のことだ。
だが、もしそれを理解してしまったとするならば。
私がそんな味気のない“人生”には我慢がならなくなるのは、これもまた当然の帰結であろう。
だから、私は求めた。
本来交わることなどない“異分子”を強引に結合し、儚くも無為な己が“人生”に彩りを添える。
本来有り得べくもなかった“可能性”を力押しに簒奪し、得難き“幸せ”への乾坤一擲の大勝負に打って出る。
それでこそ私の“人生”。
誰に恥じるところなく、誰に慮るところもない――そんな私の“人生”。
だから、お前はお前の制約された“人生”を生きればいい。
思う存分、無為に。
そして、零れんほどの“不幸”をその身に抱えながら――死んでいけ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
絢爛たる、しかしながら希釈された私の人生の中で、これほどまでに理解に苦しむ戯言を耳にしたことはなかった。
「だから、俺は未来から来たの! もしくは全然違う世界かもしれねぇけど! ああ、クソ! 言葉は通じてんだろ!? アイム・フロム・フューチャー・オア・アナザー・ワールド! オーケイ!? ドゥー・ユー・アンダースタン!?」
いくら賢明にして聡明なる私といえど、人間未満の言葉を解する術は持ち合わせていない。
いや、我が国の言葉を流暢に発し、何故かガリアの地に跋扈する彼の新参連中の言葉をも口走る辺り、一応人間ではあるのだろう。寛大なる私にとって、それを渋々ながら認めることくらいは吝かではない。
それにしても、私の眼前に跪いた少年は随分と興奮しているようだ。
「わけわかんねぇぞ、クソが! なんか喋りやがれ! つーか、いつまでも人の背中を踏ん付けてんじゃねぇ!!」
人型を象る物体はそう咆哮すると身体を跳ね上げ、彼を床へと縫い付けていたフランシスカの足を強引に外してみせた。
ほう……。
私の部下の中でも最強で知られる彼女に対して、あれほどの反抗を示してみせるとは。
それに立ち上がってみるとよく分かるが、かなり堂々とした体躯の持ち主だ。この島の人間は一般的に本国の人間と比較すると小さい。それは主に食生活の差に起因する避けられぬ問題だ。眼前の男ほどの体格をした者は、恐らく騎士団にもそういないだろう。
先程の動きを見るに身体能力も非凡なものを有しているようだし、その獣のような眼光も悪くない。
だが――。
「痛ッ!」
「無礼者が! カタリーナ様の御前だぞ! 静粛にしろ!」
フランシスカの拳がその頭部を直撃し、再び床へと押し付けられる。
「テメェ……ナメてんじゃねぇぞ!」
「暴れるな! これ以上此方の言に従わぬようならば、不本意ではあるが次は剣を抜かせてもらうぞ!」
どうやら彼女を以てしても、この蛮族を長時間押し留めておくことは難しいようだ。
余程のことがない限りは抜剣しないフランシスカがこのように言うということは、相手がそれだけ危険であると認識しているのだろう。守護対象である私ですら、そのような状況は殆ど目にしたことがない。
中々に興味を惹かれる野蛮人だ。
ちょうどいい。
変わり映えのない日常には辟易していたのだ。
コレは少しばかり気を紛らわせる程度の役には立ちそうなのだから、精々楽しませてもらおう。
「いいわ、フランシスカ」
「カタリーナ様? しかし――!」
「私が構わないと言っているのですよ」
片膝を少年の背に突き立て、諸手で肩を押さえ込みながら、こちらを訝しげな表情で窺うフランシスカ。
それに対し掌をひらひらと振るい、彼の上から退くよう指示する。
彼女は唯々諾々と下知に従い、少年の身体から離れる。しかし、相変わらず警戒は解いていないようで、右手は剣の柄に掛けられた状態だ。少年が不穏な動きを見せるようなことがあれば、迷うことなく斬り捨てるつもりだろう。
一方の少年は不快感をこれでもかと表情に貼り付けて、ゆっくりと身体を起こす。
「で、なにこれ? 俺はアンタに礼を言った方がいいの?」
歪んだ薄笑いを浮かべながら、横柄な口調でこちらを挑発するような台詞を吐く。
それもこの私に対してなのだから、桁外れに思慮の足りない痴れ者なのか、はたまた桁外れに胆の据わった勇者なのか。
まあ、よい。その辺りはいずれ自ずと知れよう。
「貴方の名を訊かせてもらっても宜しいですか?」
「あァ? てめぇ俺の質問ガン無視してんじゃねぇぞコラ」
「名を訊いているのです。人語を使用していたようですから、当然として人語を解することも出来ようかと期待したのですが、どうやら四足獣並みの知能しか持ち合わせていないようですね。無駄に大きな図体のせいで貴重な糧食を浪費し、解体しても夕餉を賑やかすことすら出来ない分、存在自体はそれらにも遥かに劣ることは確かであるようですが」
「はァ? てめぇ喧嘩売ってやがんのか? 上等じゃねぇか。いいぜいいぜ、やってやる! そのセレブっぽい衣装を引ん剥いて、ボロボロに犯してやるから覚悟し――」
腕捲りをしながら発せられたその口汚く低俗な台詞が最後まで続けられることはなかった。
というのも、横合いから伸びた剣の鞘が少年の背を強かに叩き、その身体を再び地に塗れさせたからだ。
「貴様、少しは口の利き方に注意しろ。カタリーナ様の寛大なる御心に感謝するならばともかく、そのように悪し様に罵るなどとは論外も論外。そもそもが総督令嬢の執務室に侵入した時点で、貴様は斬り殺されて当然なのだぞ」
どうやらフランシスカは少しばかり本気で腹を立てているのだろう。表情から色が消えている。
普段は温厚で知られる近衛騎士団長も、流石に彼のような無礼者に分け与える情など持ち合わせていない、ということか。
それにしても……。
「痛ってぇな、この暴力女! そんなことは俺の知ったこっちゃねぇ! 大体俺はそこの高慢ちきな女になんぞ毛ほどの興味もねぇし、お前なんか論外だ。たとえ裸で迫って来られても、丁重にお引き取り願うね」
無表情で鞘を構えるフランシスカに対し怯むどころか、あまつさえ更に口を極めて罵倒するとは……。
無能もその最高点にまで到達してしまえば、一種の精神世界を構築してしまうものらしい。恐れ、怯え――人間に内在する弱き感情ではあるが、安寧を得るためには不可欠の自己防衛機能。眼前の少年からはそれが完全に抜け落ちているように見える。
きっとあまり長生きの出来ないタイプだろう。
「自分としても貴様のような屑に関わりたくはないのだが、生憎とこれも仕事なのでな。貴様が此処にいる目的が分からぬ以上は、不審者として扱うのが当然であるし、お嬢様の御身に危険が及ばぬよう警戒するのは致し方なかろう。それに加え――」
フランシスカは剣呑な視線を少年に向けたまま、一つ大きく息を吐く。
「先程から黙っていればなんだ、その言い草は。どうやら欠片ほども自らの立場を理解していないようだな。貴様が望むとあらば、自分が身を以て教えてやらんこともないぞ」
「おうよ、やれるもんならやってみろ! その代わり、そのコン畜生なツラがちっとばかし可愛くなっちまうことくらいは覚悟しとけよ」
「口の減らない男だな……。カタリーナ様、抜剣の許可を戴いても宜しいでしょうか?」
「喧嘩一つするのにも飼い主のお許しがいるのか、飼い犬さんよぉ」
正に一触即発の様相。
ここで私が許可を与えたならば、フランシスカは一切の容赦をしないだろう。
彼に待つであろうのは、死か。運が良ければ、両手両足を失うくらいで済むかもしれない。
それでも少年には些かも臆したところなどない。
むしろ軽口を叩きながら、いかにも場慣れした雰囲気を醸し出している。
確かにこの少年には異質なものを感じる。
風貌一つを例に挙げてみてもそうだ。金髪黒眼という奇怪なほどにアンバランスな組み合わせ。そんな相貌、これまでの人生でお目に掛かったことがあっただろうか。
ないな。一秒にも満たない時間でその答えは自ずと出る。ブロンドの髪は北の人間に特有の徴であり、漆黒の瞳は逆に南の人間に多い特徴だ。その双方を備えている人間など本来なら存在しないはずなのだ。
また、非常に背が高いのも驚きだ。確かに背の高い人間というのは、この世の中にはそれなりに存在するだろう。実際に私も恐ろしいほどの大男を何人か知っているし、彼らに比して格段に長身であるというわけでもない。人間の体格というのは所詮は遺伝の為せる業。相応の遺伝子を引き継いでさえいれば、適度な栄養と効率的な運動によって巨躯を作り出すのは難しくはない。
だが――。
彼は明らかに平民の出だろう。
身に着けている衣服は、仕立てこそ相応に良さそうではあるものの、貴族が好んで着るような瀟洒さに欠けている。かといって、成り上がりの大商人の一家が好んで選ぶような、自らの財力を示さんばかりの絢爛さもそこにはない。勿論、武門の威厳を誇示するような清冽さなど欠片も見当たらない。
とするならば――。
賭けてもいい。
これでも職業柄、外見情報から他者の生い立ちや人間性を導き出すことには自信があるつもりだ。彼の外見情報には所々どう処理したものか思案せざるを得ない点も散見されるものの、こと彼の身分を推し量るにあたっては瑣末な違和感として片付けても問題ないだろう。
彼は平民だ。
農家の子なのか、航海者の子なのか、浮浪者の子なのか、海賊の子なのか。そんなことは知る由もないし、知る気にもならないが。
とにかく眼前で悪態を付いている少年は、一般階級の人間であることは間違いない。
それが私の推論。
「おい、飼い主のお嬢さんよぉ。御宅の御犬様が鎖を外せってキャンキャン五月蠅ぇんだけど、なんとかしてくんねぇかな? まぁ鎖を外したが最後、事故っちまって二度と帰ってこねぇかもしんねぇけど」
口汚さの限界を軽く突破せんがばかりの言葉遣いに続き、げらげらという下品な哄笑。
そうなのだ。
これこそが解せないのだ。
彼が一般階級の人間であるのならば、なぜ単身総督府に乗り込んで、そこにいる人間に喧嘩を売る必要がある?
人並みの常識があるのならば、そんなことは己の死を招く愚挙であることくらいは分かるだろう。
しかも、相手はよりによってこの私だ。
私だ。
このカタリーナ・マディエラ・フェルナンデスなのだ。
この島に住んでいる人間なら皆、私に刃向かうことの意味は知っているはずだ。それこそ、一般市民は私に一声掛けられただけでも震え上がるというのに。
当然だ。私は慈愛を以て、彼らに接するわけではないのだから。私は統治者で、彼らは被統治者だ。被統治者の分を弁えない者に対し、私が容赦することなどなかったし、これからもない。
「おいおいおい、なぁにトリップしてやがんだ? こっちはワケも分かんねぇままにいきなりブン殴られて、パなくイラついてんだ。だからさ、早くしてくんねぇ?」
死が恐くない人間がいるのだろうか?
いるとすれば、それは人間という枠に含めてもよい存在なのだろうか?
分からない。分からない。分からない。
人は未知との邂逅・理解を繰り返して成長する生物であるが故、無知を恥じるに非ず。そんな一般論は知っている。己が無知を知るにこそ知の人あり、というのはある意味で普遍的に正しい。
だが。
理解に及ばぬことなどあってはならないのだ、私には。
他でもない、『マディラの至宝』にして『洋上の誉れ』たるべきこの私にだけは。
面白い……。
興味が湧いてきた。
型通りの尋問を為した後に、牢にでも放り込もうかと思っていたのだが、それが些か勿体なく感じられる。
その存在から発せられる得体の知れない自信。もはや過信であるようにしか思えないそれ。
ならば、その"根拠"を確かめてみるのも、また一興か。
それが力にあるのか。知にあるのか。はたまた、それ以外の何物かにあるのか。
「フランシスカ……遠慮は不要です。存分にやりなさい」
「御許可戴き感謝致します」
軽快な金属音と共に抜き放たれる鈍びた銀色。
それは数多くの紅によって彩られ、その繰り返しによって獰猛な光を身に宿す――そんな鋼。
レイピア。
我が国では一般的な片手持ちの刺突剣。シミターなど両手持ちの片刃剣に比し頑丈さや破壊力の面では劣れど、それを補って余りある汎用性と扱い易さを誇る。無論遣い手の能力が相応のものであるという条件は付帯するものの、身体を覆う防具の隙間を狙って致命の刺突を加えることも可能だ。
そして、今回の場合。
遣い手の才には疑いを抱く余地などなく。
翻って、対手の側は軽鎧一枚すら纏っていない。
普通に考えれば、蜂巣の果へと至る未来を描き、狼狽し尻込みしてもよさそうなものだが。
「やっとやる気んなったかよ。つか、ヒカリモン? おぉ、結構いい趣味してんねぇ。俺らんトコだと、アンタ間違いなく一発アウトなマジキ○扱いだわ」
来歴も身元も不明な男はそれを見て怯む気配など微塵も感じられず。
むしろ爛々と目を輝かせ、これ以上なく好戦的な態度を崩さない。
「貴様が何を言っているのかはよく分からぬが、剣を抜かせたからには相応の報いは覚悟してもらおうか。自分は手加減する気など毛頭ない。運悪く命を失ったとしても、己が浅慮をのみ悔やむことだ。得物は用意してやるから、剣でも槍でも斧槍でも好きなものを選べ」
フランシスカ・アヴェイロ・ポラス。
マディラ総督府直属の近衛騎士団の長にして、稀代の天才剣術家。責任感強く、統率力にも申し分のない、そんな完璧な才能。
元来が世襲制であった近衛騎士団長の地位は、私と彼女の台頭によって改革を余儀なくされた。弁のみに生き実力なき者を疎ましく思う私と、騎士は政争に干渉すべからず、ただ剣であり盾であれ、と捉える彼女。二人が揃っていたからこそ為し得た近衛の掌握。
だが、私も未だ目にしたことはなかったのだ。
彼女が本気で人に対する様を――。
「いいねぇ。なんか上品でいけ好かねぇと思ってたんだが、アンタそっちが素かよ。ヤベぇ……ゾクゾクしてきやがった……」
「御託は後だ。得物を選べ」
硬質な響きに肌が粟立つ。
フランシスカが私を害しようとしているわけではないことは理解している。理解してはいるのだが――。
「あ? 誰がそんな危ねぇモン好き好んで使うかっつーの。んなモン、俺にはいらねぇよ。俺にゃコイツがあるからな」
身体が椅子の背に括り付けられたかのような緊縛感。
肺腑が随意の任を解かれてしまったかのような緊迫感。
「……そうか」
これが恐怖。
与えることはあれ、与えられることはなかった。
齎すことはあれ、齎されることはなかった。
私は今――それを身を以て学んでいる。
「来いや! 銃刀法違反のキ○ガイ女!」
ああ、感謝しよう。
この感覚を私に教えてくれたフランシスカと。
その為にこそ命を散らさんとする名も知らぬ少年に。
心の底より感謝しよう。
私はまた一つ昇ったのだから――。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
単刀直入にその後の結果を述べると――。
「あー、痛ぇー。あー死ぬ、もう死ぬ、マジ死ぬ。血とか超出てるし、出血多量とかで逝っちまうんじゃね? つーか、どうしてくれんの、これ? とりあえず治療費と慰謝料寄こせやコラ」
フランシスカの完勝だった。
それはもう、一分の隙も見出す余地なく、一片の異の入り込む余地なく、フランシスカの圧勝だった。
「その程度で死に至るのだと言うならば、自分は既に数え切れぬほど死んでいる。むしろあれだけ一方的に攻められながら、生き残っている己をこそ幸運に思え。精々その計り知れぬまでの生き汚さに感謝するんだな」
「あァ? てめぇコラ、せめてもうちょっと申し訳なさそうにしろってん――痛っ!」
「やはり口の減らない男だな。それだけの口が利けるのならば、命の心配はせずともよかろう。怪我の治療には人を呼んである。暫し地に這い蹲りながら、己の弱さと愚かしさでも噛み締めていろ」
「こんにゃろ……お前いつか絶対犯してやるからな――痛ってぇ!」
フランシスカは確かに強者だ。この島で対等に遣り合える者など両手に余る程しか存在しまい。
少年が彼女を叩きのめす、などということは端から考慮の埒外であったし、そういう意味に於いては全く心配に及んではいなかった。
だが――失望を禁じ得ない。
正直なところ、私は少しばかり期待していたのだ。
私の脳内に巣食う靄の中。そこに在るであろうものの片鱗ほどでも、彼が示してくれんことを。
だが、期待外れ。
それが結論。
ならば、もはや用はない。
「フランシスカ」
「なんでしょうか、カタリーナ様」
「その者についての処分は一任します。投獄するなり殺すなり、好きにして構いません」
「はっ! 了解しました!」
「それと私は執務に戻ります。その者の存在は目障りなので、もし治療なりの人道的処置を施す気であれば、廊下なりに運び出してからにしてもらえるかしら」
重ねて了解の意を告げるフランシスカの言葉を確認し、執務机へと向き直る。
と――。
「つーか、さっきから随分と偉そうだな、おい。俺はお前が何モンなんだか知らねぇがな、お前みてぇなヤツは反吐が出るほど嫌いだってことだけは言えるぜ」
「貴様っ!」
「よい」
少年の暴言に対し、激昂するフランシスカを制止し、少年と目を合わせる。
あれほどの痛撃を浴びせられたにも関わらず、襤褸の如き身体とは不釣り合いな生気が宿った瞳。
「貴方が――惰弱にして無能、その上救いようもなく無思慮な貴方という一個体如きがこの私を批判するというのですか? それはそれは中々に一興ですね。ならば、私も一滴の誠意を以て答えましょう」
目は逸らさない。
少年が動揺したのか目を泳がせるのに合わせ、静かに言葉を連ねる。
「貴方は『私が偉そう』であると言いましたが、それは当然のことです。能有る者がそれに見合った態度を取るのは、無能に付き合うことによる時間の浪費を予防するためなのですから。次に、『私は何者か』という問い。それに対しては、私は私であるとしか答えようがありません。そこに付随する不純物など斟酌するは不要です。私は私であって、私には能有るからこそ相応の責を負っている。そう考えていただければ、まず間違いないかと。そして、最後の『貴方が私を嫌い』だという部分。ええ、十全に結構です。どうぞ私をお嫌いあれ。それによって、私が何らかの不都合を被ることなど有り得ないでしょうから。ちなみに『反吐を吐く』のは私の部屋ではやめていただきたいところです。正直、この部屋でそのような不浄行為に及ばれた場合、私には貴方を許す自信がありません」
一旦言葉を切り、軽く息を整える。
対象は口をだらしなく開き、目線を虚空に彷徨わせているようだ。その反応から察するに、私の話自体は耳に入ってはいるのだろう。
私と初めて会話した人間の多くがこういった表情を作ることには、多少の愉悦を感じないでもない。
ただし、時間は無限ではない。それは厳然として有限だ。
ならば、そのような下らない愉悦に浸ることで、多くを消費していいものではないだろう。
「さて、私はお伝えすべきはお伝えしました。これ以上なにかあるでしょうか?」
「やべぇ……。コイツやべぇよ、マジやべぇ。いくらなんでも本モンじゃねぇか、これ?」
「要領を得ぬ言に反応するほどに私の時間の価値は低くありません。ということで、さようなら少年」
フランシスカに視線を送ると、彼女はそれに素早く反応し、今だ何やら呟いている少年の襟首を掴んで強引に立たせる。女にしては桁外れの膂力を誇るフランシスカだからこそ出来る芸当だ。
そのまま扉の方向へと引き摺られる少年をもう一度見遣る。その顔には未知と遭遇した恐怖のような感情が貼り付いており、彼にとってこの邂逅が無駄ではなかったであろうことを示している。
一般階級の人間にしては優れた体躯とそれに見合った身体能力。反面、荒削りな戦闘技術と粗暴にして不遜たる態度。そして、救いようのないほどに低い知性と何故か多言語を話すことの出来る知識。
考えれば考えるほどに不可解な少年だった。両義を身に含む人間というのは、天才か愚者であると相場が決まっている。いや、違う。天才であり愚者、か。惜しむらくは、私にとっての彼が前者ではなく後者であり、“役立たず”の範疇に含まれてしまったこと。
「そういえば名を訊いていませんでしたね。貴方の名は?」
それは戯れ。
無駄という無駄を省き、合理に合理を重ね、効率という効率を追求しても。
好奇心という無駄で非合理で非効率な感情は消せない。
それが人間の性ならば、敢えてその流れに棹差す必要はなく、時には流されてもいいのではないか、と。
柄にもなく、そんな考えが脳裏に過ぎったのだ。
「あァ? 俺の名前? そんなん聞いてどうすんの? 悪用されると困るから知らない人に名前言うな、って母ちゃんに習わなかったか?」
「余計なことはいいから、貴様は素直に質問に答えろ」
「ちょ、テメェ……クビ……絞ま……!」
「絞まっているのではない。絞めているんだ。次に不遜な態度を取るようなことがあれば、容赦なく絞め落とす」
襟元を絞められ、割と本気で苦しそうにしている少年を見下ろしながら、フランシスカは常の如くの無機質さで応える。
意外なことに、少年とて学習能力の欠片くらいは持ち合わせていたらしい。それ以上の抵抗を見せることなく、自らの名を告げる。
「わーった、わーった! 名前だろ! 名前言やいいんだろ!? ド○えもんだよド○えもん! 未来から来た猫型ロボットリアルバージョンだコノヤロウ!」
面妖な名だった。
少なくとも私の膨大なる知識の中に、そのような名の存在は記されていない。
そもそも名というのは、個人を構成する情報の根幹だ。名の響きからその者の国籍は一目瞭然となるであろうし、場合によってはある程度の出自にも目星を付けることが出来る。
が。
今回の場合は――。
「変わった名ですね……」
このくらいしか言うべきことはない。
「あ? てめぇ人様の御芳名にケチ付けてんじゃねぇぞ。名前は両親からの最大にして最悪の贈り物っつーだろうが」
「なるほど。別に馬鹿にするつもりはなかったのですが、貴方の気分を害してしまったのなら申し訳ありません、ドザエモン」
謝意を表すこと自体が私にとっては非常に珍しいことではあるが、彼の言も相応に的を射ている。風変わりな名を冠している、というだけで色眼鏡を掛けてしまうのは、確かに理不尽極まりない。
選択不可な事象の責など、人には負う術がないのだから。
少年――ドザエモンという名らしい――が憮然たる表情を為しているのも、そう考えると理解できる。
「ねぇねぇ、ちょっとアンタ、俺の名前もっかい言ってみてくんねぇ?」
「ドザエモン、でしょう? 確かに多少耳慣れぬ名ではありますが、それはそれで貴方のような破天荒には似合っているように思えるのだから不思議ですね」
「水死体の俗称とか似合いたくねぇよ! つか、俺はいつのまに溺死したってんだよ!」
何か気に食わないことでもあったのだろうか?
ドザエモンが憤慨している。なにやら関連のない語句を並べ立てて抗議している辺り、若干ながら精神疾患を抱えている可能性があるのかもしれない。
「つーかだな、四次元ポケットの中には愛と夢と便利道具が詰まってんだよ! 水水水で身体中パンパンな仏サンじゃイロイロと台無しじゃねぇかクソボケが!」
意味不明。何を言わんとしているのか、それが毛ほどにも理解できない。
そもそも名を訊いたこと自体、そこに然したる意図はない。所詮は只の好奇心。
ならば、これ以上非生産的な時間を増やすことは罪だ。
私には私の為に為すべきことが山ほどあるのだから。
「それでは今度こそ本当にさようなら、ドザエモン。“幸せ”な“人生”を」
「ドザエモンで確定かよっ!?」
大声で喚いたとて、フランシスカの拘束から逃れられるわけではない。
襟首を掴まれながら、まるで引き摺るかのようにして、執務室から摘み出される。
それを横目に確認しながら、一つ大きく深呼吸し、ゆっくりと意識を切り替える。
ここからは為政者としての私。私でありながら私ではない公人としての時間だ。
邂逅。
退屈なルーティンに唐突に混ぜ込められる異常。
人と人とは決して解し合わず、人と人とは決して噛み合わない。そうであるからこその"人生"。解り合い、噛み合う"人生"などは存在せず、また仮に存在したところで価値はない。
相違するを恐れるな。敵を作るを恐れるな。叩かれぬよう息を顰めるなど言語道断。ならば、誰も叩けぬ程の高みにて鎮座するこそ私らしい。
結局、私は私だった。そういうことだ。それ以上でも、それ以下でもない。
これが顛末。
ドザエモンという名の少年は唐突に現れ。
そして拍子抜けするほど至極呆気なく退場した。
ただ、それだけの話。