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[9233] 洋上に誉れ在り【迷い込み 大航海時代もどき世界観】
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:8b7072b8
Date: 2010/02/20 21:00
 “人生”という単語がある。

 読んで文字通り“人の生”を意味する単語。

 人生は最高だ。
 人生は素晴らしい。
 人生は輝きに満ちている。

 ああ、結構。それは大いに結構だ。
 私にはそれを責める資格などないし、そもそもその是非になど拘泥する価値すら見出さない。
 お前がそれをどう捉えようとも、それはお前の自由だ。
 存分に誇り、如何様にも叫べ。
 お前はそれに相応しい程には愚鈍で蒙昧な存在なのだから。

 だが、一つだけ教えろ。
 “幸せ”とはなんだ?
 それはお前たちが“人生”を語る際、頻繁に口にする手垢に塗れた麗句だろう。

 疲れた身体を引き摺りながら帰宅し、安らかに眠る己が遺伝子継承体の顔を目にした時。
 愛する者と出会い、愛するが故の紆余曲折を経て、双務的終身契約を結ぶに至った時。
 己が一生を賭けるに値する大目標へと邁進し苦節数十年、老境にして不十全たる端緒を掴んだ時。

 お前がそんな陳腐な答えを返すのだとすれば、やはり私は酷く失望せざるを得ない。
 違う違う。
 そんなものは“幸せ”などではなく、単なる“小休止”の瞬間を切り取っただけのものだ。
 仮初の“幸せ”、“幸せ”の擬態だ。

 生を送るにあたって絶えず襲い来る艱難辛苦の合間、そこに生じる束の間の“小休止”。
 それを人が“幸せ”と呼ぶのであれば、それはなんと虚しく、なんと愚かであるのだろう。
 “小休止”はあくまでも“小休止”に過ぎず、それは其処に至るまでの道程に対する当然の代価であって。
 天によって授けられたと感謝し、その賜与を神に祈るようなものでは、断じてない。

 私はこう思ったのだ。
 集団としての人の生には意味があったとしても、一個としての人の生には然したる意味はないのではないか、と。
 求められるのは、連綿と続く人間という種に対する一定の寄与。
 詰まるところは生殖の器としてのそれであって、一個としての仮初の“幸せ”は付帯に過ぎない。

 こんなことは思い至らない方が幸せなのかもしれない。
 だが、不運なるかな。
 私の在り方は想定を超えて疑義的で虚無的で退廃的だった、ということだろう。
 それは詮無いことであり、当然のことだ。

 だが、もしそれを理解してしまったとするならば。

 私がそんな味気のない“人生”には我慢がならなくなるのは、これもまた当然の帰結であろう。

 だから、私は求めた。

 本来交わることなどない“異分子”を強引に結合し、儚くも無為な己が“人生”に彩りを添える。
 本来有り得べくもなかった“可能性”を力押しに簒奪し、得難き“幸せ”への乾坤一擲の大勝負に打って出る。

 それでこそ私の“人生”。
 誰に恥じるところなく、誰に慮るところもない――そんな私の“人生”。

 だから、お前はお前の制約された“人生”を生きればいい。
 思う存分、無為に。
 そして、零れんほどの“不幸”をその身に抱えながら――死んでいけ。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 絢爛たる、しかしながら希釈された私の人生の中で、これほどまでに理解に苦しむ戯言を耳にしたことはなかった。

「だから、俺は未来から来たの! もしくは全然違う世界かもしれねぇけど! ああ、クソ! 言葉は通じてんだろ!? アイム・フロム・フューチャー・オア・アナザー・ワールド! オーケイ!? ドゥー・ユー・アンダースタン!?」

 いくら賢明にして聡明なる私といえど、人間未満の言葉を解する術は持ち合わせていない。
 いや、我が国の言葉を流暢に発し、何故かガリアの地に跋扈する彼の新参連中の言葉をも口走る辺り、一応人間ではあるのだろう。寛大なる私にとって、それを渋々ながら認めることくらいは吝かではない。
 それにしても、私の眼前に跪いた少年は随分と興奮しているようだ。

「わけわかんねぇぞ、クソが! なんか喋りやがれ! つーか、いつまでも人の背中を踏ん付けてんじゃねぇ!!」

 人型を象る物体はそう咆哮すると身体を跳ね上げ、彼を床へと縫い付けていたフランシスカの足を強引に外してみせた。

 ほう……。
 私の部下の中でも最強で知られる彼女に対して、あれほどの反抗を示してみせるとは。
 それに立ち上がってみるとよく分かるが、かなり堂々とした体躯の持ち主だ。この島の人間は一般的に本国の人間と比較すると小さい。それは主に食生活の差に起因する避けられぬ問題だ。眼前の男ほどの体格をした者は、恐らく騎士団にもそういないだろう。
 先程の動きを見るに身体能力も非凡なものを有しているようだし、その獣のような眼光も悪くない。

 だが――。

「痛ッ!」

「無礼者が! カタリーナ様の御前だぞ! 静粛にしろ!」

 フランシスカの拳がその頭部を直撃し、再び床へと押し付けられる。

「テメェ……ナメてんじゃねぇぞ!」

「暴れるな! これ以上此方の言に従わぬようならば、不本意ではあるが次は剣を抜かせてもらうぞ!」

 どうやら彼女を以てしても、この蛮族を長時間押し留めておくことは難しいようだ。
 余程のことがない限りは抜剣しないフランシスカがこのように言うということは、相手がそれだけ危険であると認識しているのだろう。守護対象である私ですら、そのような状況は殆ど目にしたことがない。

 中々に興味を惹かれる野蛮人だ。

 ちょうどいい。
 変わり映えのない日常には辟易していたのだ。
 コレは少しばかり気を紛らわせる程度の役には立ちそうなのだから、精々楽しませてもらおう。

「いいわ、フランシスカ」

「カタリーナ様? しかし――!」

「私が構わないと言っているのですよ」

 片膝を少年の背に突き立て、諸手で肩を押さえ込みながら、こちらを訝しげな表情で窺うフランシスカ。
 それに対し掌をひらひらと振るい、彼の上から退くよう指示する。
 彼女は唯々諾々と下知に従い、少年の身体から離れる。しかし、相変わらず警戒は解いていないようで、右手は剣の柄に掛けられた状態だ。少年が不穏な動きを見せるようなことがあれば、迷うことなく斬り捨てるつもりだろう。

 一方の少年は不快感をこれでもかと表情に貼り付けて、ゆっくりと身体を起こす。

「で、なにこれ? 俺はアンタに礼を言った方がいいの?」

 歪んだ薄笑いを浮かべながら、横柄な口調でこちらを挑発するような台詞を吐く。
 それもこの私に対してなのだから、桁外れに思慮の足りない痴れ者なのか、はたまた桁外れに胆の据わった勇者なのか。
 まあ、よい。その辺りはいずれ自ずと知れよう。

「貴方の名を訊かせてもらっても宜しいですか?」

「あァ? てめぇ俺の質問ガン無視してんじゃねぇぞコラ」

「名を訊いているのです。人語を使用していたようですから、当然として人語を解することも出来ようかと期待したのですが、どうやら四足獣並みの知能しか持ち合わせていないようですね。無駄に大きな図体のせいで貴重な糧食を浪費し、解体しても夕餉を賑やかすことすら出来ない分、存在自体はそれらにも遥かに劣ることは確かであるようですが」

「はァ? てめぇ喧嘩売ってやがんのか? 上等じゃねぇか。いいぜいいぜ、やってやる! そのセレブっぽい衣装を引ん剥いて、ボロボロに犯してやるから覚悟し――」

 腕捲りをしながら発せられたその口汚く低俗な台詞が最後まで続けられることはなかった。
 というのも、横合いから伸びた剣の鞘が少年の背を強かに叩き、その身体を再び地に塗れさせたからだ。

「貴様、少しは口の利き方に注意しろ。カタリーナ様の寛大なる御心に感謝するならばともかく、そのように悪し様に罵るなどとは論外も論外。そもそもが総督令嬢の執務室に侵入した時点で、貴様は斬り殺されて当然なのだぞ」

 どうやらフランシスカは少しばかり本気で腹を立てているのだろう。表情から色が消えている。
 普段は温厚で知られる近衛騎士団長も、流石に彼のような無礼者に分け与える情など持ち合わせていない、ということか。

 それにしても……。

「痛ってぇな、この暴力女! そんなことは俺の知ったこっちゃねぇ! 大体俺はそこの高慢ちきな女になんぞ毛ほどの興味もねぇし、お前なんか論外だ。たとえ裸で迫って来られても、丁重にお引き取り願うね」

 無表情で鞘を構えるフランシスカに対し怯むどころか、あまつさえ更に口を極めて罵倒するとは……。
 無能もその最高点にまで到達してしまえば、一種の精神世界を構築してしまうものらしい。恐れ、怯え――人間に内在する弱き感情ではあるが、安寧を得るためには不可欠の自己防衛機能。眼前の少年からはそれが完全に抜け落ちているように見える。
 きっとあまり長生きの出来ないタイプだろう。

「自分としても貴様のような屑に関わりたくはないのだが、生憎とこれも仕事なのでな。貴様が此処にいる目的が分からぬ以上は、不審者として扱うのが当然であるし、お嬢様の御身に危険が及ばぬよう警戒するのは致し方なかろう。それに加え――」

 フランシスカは剣呑な視線を少年に向けたまま、一つ大きく息を吐く。

「先程から黙っていればなんだ、その言い草は。どうやら欠片ほども自らの立場を理解していないようだな。貴様が望むとあらば、自分が身を以て教えてやらんこともないぞ」

「おうよ、やれるもんならやってみろ! その代わり、そのコン畜生なツラがちっとばかし可愛くなっちまうことくらいは覚悟しとけよ」

「口の減らない男だな……。カタリーナ様、抜剣の許可を戴いても宜しいでしょうか?」

「喧嘩一つするのにも飼い主のお許しがいるのか、飼い犬さんよぉ」

 正に一触即発の様相。
 ここで私が許可を与えたならば、フランシスカは一切の容赦をしないだろう。
 彼に待つであろうのは、死か。運が良ければ、両手両足を失うくらいで済むかもしれない。

 それでも少年には些かも臆したところなどない。
 むしろ軽口を叩きながら、いかにも場慣れした雰囲気を醸し出している。

 確かにこの少年には異質なものを感じる。

 風貌一つを例に挙げてみてもそうだ。金髪黒眼という奇怪なほどにアンバランスな組み合わせ。そんな相貌、これまでの人生でお目に掛かったことがあっただろうか。
 ないな。一秒にも満たない時間でその答えは自ずと出る。ブロンドの髪は北の人間に特有の徴であり、漆黒の瞳は逆に南の人間に多い特徴だ。その双方を備えている人間など本来なら存在しないはずなのだ。
 また、非常に背が高いのも驚きだ。確かに背の高い人間というのは、この世の中にはそれなりに存在するだろう。実際に私も恐ろしいほどの大男を何人か知っているし、彼らに比して格段に長身であるというわけでもない。人間の体格というのは所詮は遺伝の為せる業。相応の遺伝子を引き継いでさえいれば、適度な栄養と効率的な運動によって巨躯を作り出すのは難しくはない。
 だが――。

 彼は明らかに平民の出だろう。
 身に着けている衣服は、仕立てこそ相応に良さそうではあるものの、貴族が好んで着るような瀟洒さに欠けている。かといって、成り上がりの大商人の一家が好んで選ぶような、自らの財力を示さんばかりの絢爛さもそこにはない。勿論、武門の威厳を誇示するような清冽さなど欠片も見当たらない。
 とするならば――。

 賭けてもいい。
 これでも職業柄、外見情報から他者の生い立ちや人間性を導き出すことには自信があるつもりだ。彼の外見情報には所々どう処理したものか思案せざるを得ない点も散見されるものの、こと彼の身分を推し量るにあたっては瑣末な違和感として片付けても問題ないだろう。

 彼は平民だ。
 農家の子なのか、航海者の子なのか、浮浪者の子なのか、海賊の子なのか。そんなことは知る由もないし、知る気にもならないが。
 とにかく眼前で悪態を付いている少年は、一般階級の人間であることは間違いない。
 それが私の推論。

「おい、飼い主のお嬢さんよぉ。御宅の御犬様が鎖を外せってキャンキャン五月蠅ぇんだけど、なんとかしてくんねぇかな? まぁ鎖を外したが最後、事故っちまって二度と帰ってこねぇかもしんねぇけど」

 口汚さの限界を軽く突破せんがばかりの言葉遣いに続き、げらげらという下品な哄笑。

 そうなのだ。
 これこそが解せないのだ。

 彼が一般階級の人間であるのならば、なぜ単身総督府に乗り込んで、そこにいる人間に喧嘩を売る必要がある?
 人並みの常識があるのならば、そんなことは己の死を招く愚挙であることくらいは分かるだろう。

 しかも、相手はよりによってこの私だ。
 私だ。
 このカタリーナ・マディエラ・フェルナンデスなのだ。

 この島に住んでいる人間なら皆、私に刃向かうことの意味は知っているはずだ。それこそ、一般市民は私に一声掛けられただけでも震え上がるというのに。
 当然だ。私は慈愛を以て、彼らに接するわけではないのだから。私は統治者で、彼らは被統治者だ。被統治者の分を弁えない者に対し、私が容赦することなどなかったし、これからもない。

「おいおいおい、なぁにトリップしてやがんだ? こっちはワケも分かんねぇままにいきなりブン殴られて、パなくイラついてんだ。だからさ、早くしてくんねぇ?」

 死が恐くない人間がいるのだろうか?
 いるとすれば、それは人間という枠に含めてもよい存在なのだろうか?
 分からない。分からない。分からない。
 人は未知との邂逅・理解を繰り返して成長する生物であるが故、無知を恥じるに非ず。そんな一般論は知っている。己が無知を知るにこそ知の人あり、というのはある意味で普遍的に正しい。
 だが。

 理解に及ばぬことなどあってはならないのだ、私には。
 他でもない、『マディラの至宝』にして『洋上の誉れ』たるべきこの私にだけは。

 面白い……。

 興味が湧いてきた。
 型通りの尋問を為した後に、牢にでも放り込もうかと思っていたのだが、それが些か勿体なく感じられる。

 その存在から発せられる得体の知れない自信。もはや過信であるようにしか思えないそれ。
 ならば、その"根拠"を確かめてみるのも、また一興か。
 それが力にあるのか。知にあるのか。はたまた、それ以外の何物かにあるのか。

「フランシスカ……遠慮は不要です。存分にやりなさい」

「御許可戴き感謝致します」

 軽快な金属音と共に抜き放たれる鈍びた銀色。
 それは数多くの紅によって彩られ、その繰り返しによって獰猛な光を身に宿す――そんな鋼。

 レイピア。
 我が国では一般的な片手持ちの刺突剣。シミターなど両手持ちの片刃剣に比し頑丈さや破壊力の面では劣れど、それを補って余りある汎用性と扱い易さを誇る。無論遣い手の能力が相応のものであるという条件は付帯するものの、身体を覆う防具の隙間を狙って致命の刺突を加えることも可能だ。

 そして、今回の場合。
 遣い手の才には疑いを抱く余地などなく。
 翻って、対手の側は軽鎧一枚すら纏っていない。

 普通に考えれば、蜂巣の果へと至る未来を描き、狼狽し尻込みしてもよさそうなものだが。

「やっとやる気んなったかよ。つか、ヒカリモン? おぉ、結構いい趣味してんねぇ。俺らんトコだと、アンタ間違いなく一発アウトなマジキ○扱いだわ」

 来歴も身元も不明な男はそれを見て怯む気配など微塵も感じられず。
 むしろ爛々と目を輝かせ、これ以上なく好戦的な態度を崩さない。

「貴様が何を言っているのかはよく分からぬが、剣を抜かせたからには相応の報いは覚悟してもらおうか。自分は手加減する気など毛頭ない。運悪く命を失ったとしても、己が浅慮をのみ悔やむことだ。得物は用意してやるから、剣でも槍でも斧槍でも好きなものを選べ」

 フランシスカ・アヴェイロ・ポラス。
 マディラ総督府直属の近衛騎士団の長にして、稀代の天才剣術家。責任感強く、統率力にも申し分のない、そんな完璧な才能。
 元来が世襲制であった近衛騎士団長の地位は、私と彼女の台頭によって改革を余儀なくされた。弁のみに生き実力なき者を疎ましく思う私と、騎士は政争に干渉すべからず、ただ剣であり盾であれ、と捉える彼女。二人が揃っていたからこそ為し得た近衛の掌握。
 だが、私も未だ目にしたことはなかったのだ。

 彼女が本気で人に対する様を――。

「いいねぇ。なんか上品でいけ好かねぇと思ってたんだが、アンタそっちが素かよ。ヤベぇ……ゾクゾクしてきやがった……」

「御託は後だ。得物を選べ」

 硬質な響きに肌が粟立つ。
 フランシスカが私を害しようとしているわけではないことは理解している。理解してはいるのだが――。

「あ? 誰がそんな危ねぇモン好き好んで使うかっつーの。んなモン、俺にはいらねぇよ。俺にゃコイツがあるからな」

 身体が椅子の背に括り付けられたかのような緊縛感。
 肺腑が随意の任を解かれてしまったかのような緊迫感。

「……そうか」

 これが恐怖。
 与えることはあれ、与えられることはなかった。
 齎すことはあれ、齎されることはなかった。
 私は今――それを身を以て学んでいる。

「来いや! 銃刀法違反のキ○ガイ女!」

 ああ、感謝しよう。
 この感覚を私に教えてくれたフランシスカと。
 その為にこそ命を散らさんとする名も知らぬ少年に。

 心の底より感謝しよう。

 私はまた一つ昇ったのだから――。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 単刀直入にその後の結果を述べると――。

「あー、痛ぇー。あー死ぬ、もう死ぬ、マジ死ぬ。血とか超出てるし、出血多量とかで逝っちまうんじゃね? つーか、どうしてくれんの、これ? とりあえず治療費と慰謝料寄こせやコラ」

 フランシスカの完勝だった。
 それはもう、一分の隙も見出す余地なく、一片の異の入り込む余地なく、フランシスカの圧勝だった。

「その程度で死に至るのだと言うならば、自分は既に数え切れぬほど死んでいる。むしろあれだけ一方的に攻められながら、生き残っている己をこそ幸運に思え。精々その計り知れぬまでの生き汚さに感謝するんだな」

「あァ? てめぇコラ、せめてもうちょっと申し訳なさそうにしろってん――痛っ!」

「やはり口の減らない男だな。それだけの口が利けるのならば、命の心配はせずともよかろう。怪我の治療には人を呼んである。暫し地に這い蹲りながら、己の弱さと愚かしさでも噛み締めていろ」

「こんにゃろ……お前いつか絶対犯してやるからな――痛ってぇ!」

 フランシスカは確かに強者だ。この島で対等に遣り合える者など両手に余る程しか存在しまい。
 少年が彼女を叩きのめす、などということは端から考慮の埒外であったし、そういう意味に於いては全く心配に及んではいなかった。

 だが――失望を禁じ得ない。
 正直なところ、私は少しばかり期待していたのだ。
 私の脳内に巣食う靄の中。そこに在るであろうものの片鱗ほどでも、彼が示してくれんことを。

 だが、期待外れ。
 それが結論。
 ならば、もはや用はない。

「フランシスカ」

「なんでしょうか、カタリーナ様」

「その者についての処分は一任します。投獄するなり殺すなり、好きにして構いません」

「はっ! 了解しました!」

「それと私は執務に戻ります。その者の存在は目障りなので、もし治療なりの人道的処置を施す気であれば、廊下なりに運び出してからにしてもらえるかしら」

 重ねて了解の意を告げるフランシスカの言葉を確認し、執務机へと向き直る。
 と――。

「つーか、さっきから随分と偉そうだな、おい。俺はお前が何モンなんだか知らねぇがな、お前みてぇなヤツは反吐が出るほど嫌いだってことだけは言えるぜ」

「貴様っ!」

「よい」

 少年の暴言に対し、激昂するフランシスカを制止し、少年と目を合わせる。
 あれほどの痛撃を浴びせられたにも関わらず、襤褸の如き身体とは不釣り合いな生気が宿った瞳。

「貴方が――惰弱にして無能、その上救いようもなく無思慮な貴方という一個体如きがこの私を批判するというのですか? それはそれは中々に一興ですね。ならば、私も一滴の誠意を以て答えましょう」

 目は逸らさない。
 少年が動揺したのか目を泳がせるのに合わせ、静かに言葉を連ねる。

「貴方は『私が偉そう』であると言いましたが、それは当然のことです。能有る者がそれに見合った態度を取るのは、無能に付き合うことによる時間の浪費を予防するためなのですから。次に、『私は何者か』という問い。それに対しては、私は私であるとしか答えようがありません。そこに付随する不純物など斟酌するは不要です。私は私であって、私には能有るからこそ相応の責を負っている。そう考えていただければ、まず間違いないかと。そして、最後の『貴方が私を嫌い』だという部分。ええ、十全に結構です。どうぞ私をお嫌いあれ。それによって、私が何らかの不都合を被ることなど有り得ないでしょうから。ちなみに『反吐を吐く』のは私の部屋ではやめていただきたいところです。正直、この部屋でそのような不浄行為に及ばれた場合、私には貴方を許す自信がありません」

 一旦言葉を切り、軽く息を整える。
 対象は口をだらしなく開き、目線を虚空に彷徨わせているようだ。その反応から察するに、私の話自体は耳に入ってはいるのだろう。
 私と初めて会話した人間の多くがこういった表情を作ることには、多少の愉悦を感じないでもない。

 ただし、時間は無限ではない。それは厳然として有限だ。
 ならば、そのような下らない愉悦に浸ることで、多くを消費していいものではないだろう。

「さて、私はお伝えすべきはお伝えしました。これ以上なにかあるでしょうか?」

「やべぇ……。コイツやべぇよ、マジやべぇ。いくらなんでも本モンじゃねぇか、これ?」

「要領を得ぬ言に反応するほどに私の時間の価値は低くありません。ということで、さようなら少年」

 フランシスカに視線を送ると、彼女はそれに素早く反応し、今だ何やら呟いている少年の襟首を掴んで強引に立たせる。女にしては桁外れの膂力を誇るフランシスカだからこそ出来る芸当だ。
 そのまま扉の方向へと引き摺られる少年をもう一度見遣る。その顔には未知と遭遇した恐怖のような感情が貼り付いており、彼にとってこの邂逅が無駄ではなかったであろうことを示している。

 一般階級の人間にしては優れた体躯とそれに見合った身体能力。反面、荒削りな戦闘技術と粗暴にして不遜たる態度。そして、救いようのないほどに低い知性と何故か多言語を話すことの出来る知識。
 考えれば考えるほどに不可解な少年だった。両義を身に含む人間というのは、天才か愚者であると相場が決まっている。いや、違う。天才であり愚者、か。惜しむらくは、私にとっての彼が前者ではなく後者であり、“役立たず”の範疇に含まれてしまったこと。

「そういえば名を訊いていませんでしたね。貴方の名は?」

 それは戯れ。

 無駄という無駄を省き、合理に合理を重ね、効率という効率を追求しても。
 好奇心という無駄で非合理で非効率な感情は消せない。
 それが人間の性ならば、敢えてその流れに棹差す必要はなく、時には流されてもいいのではないか、と。

 柄にもなく、そんな考えが脳裏に過ぎったのだ。

「あァ? 俺の名前? そんなん聞いてどうすんの? 悪用されると困るから知らない人に名前言うな、って母ちゃんに習わなかったか?」

「余計なことはいいから、貴様は素直に質問に答えろ」

「ちょ、テメェ……クビ……絞ま……!」

「絞まっているのではない。絞めているんだ。次に不遜な態度を取るようなことがあれば、容赦なく絞め落とす」

 襟元を絞められ、割と本気で苦しそうにしている少年を見下ろしながら、フランシスカは常の如くの無機質さで応える。
 意外なことに、少年とて学習能力の欠片くらいは持ち合わせていたらしい。それ以上の抵抗を見せることなく、自らの名を告げる。

「わーった、わーった! 名前だろ! 名前言やいいんだろ!? ド○えもんだよド○えもん! 未来から来た猫型ロボットリアルバージョンだコノヤロウ!」

 面妖な名だった。
 少なくとも私の膨大なる知識の中に、そのような名の存在は記されていない。
 そもそも名というのは、個人を構成する情報の根幹だ。名の響きからその者の国籍は一目瞭然となるであろうし、場合によってはある程度の出自にも目星を付けることが出来る。

 が。
 今回の場合は――。

「変わった名ですね……」

 このくらいしか言うべきことはない。

「あ? てめぇ人様の御芳名にケチ付けてんじゃねぇぞ。名前は両親からの最大にして最悪の贈り物っつーだろうが」

「なるほど。別に馬鹿にするつもりはなかったのですが、貴方の気分を害してしまったのなら申し訳ありません、ドザエモン」

 謝意を表すこと自体が私にとっては非常に珍しいことではあるが、彼の言も相応に的を射ている。風変わりな名を冠している、というだけで色眼鏡を掛けてしまうのは、確かに理不尽極まりない。
 選択不可な事象の責など、人には負う術がないのだから。

 少年――ドザエモンという名らしい――が憮然たる表情を為しているのも、そう考えると理解できる。

「ねぇねぇ、ちょっとアンタ、俺の名前もっかい言ってみてくんねぇ?」

「ドザエモン、でしょう? 確かに多少耳慣れぬ名ではありますが、それはそれで貴方のような破天荒には似合っているように思えるのだから不思議ですね」

「水死体の俗称とか似合いたくねぇよ! つか、俺はいつのまに溺死したってんだよ!」

 何か気に食わないことでもあったのだろうか?
 ドザエモンが憤慨している。なにやら関連のない語句を並べ立てて抗議している辺り、若干ながら精神疾患を抱えている可能性があるのかもしれない。

「つーかだな、四次元ポケットの中には愛と夢と便利道具が詰まってんだよ! 水水水で身体中パンパンな仏サンじゃイロイロと台無しじゃねぇかクソボケが!」

 意味不明。何を言わんとしているのか、それが毛ほどにも理解できない。
 そもそも名を訊いたこと自体、そこに然したる意図はない。所詮は只の好奇心。
 ならば、これ以上非生産的な時間を増やすことは罪だ。

 私には私の為に為すべきことが山ほどあるのだから。

「それでは今度こそ本当にさようなら、ドザエモン。“幸せ”な“人生”を」

「ドザエモンで確定かよっ!?」

 大声で喚いたとて、フランシスカの拘束から逃れられるわけではない。
 襟首を掴まれながら、まるで引き摺るかのようにして、執務室から摘み出される。

 それを横目に確認しながら、一つ大きく深呼吸し、ゆっくりと意識を切り替える。
 ここからは為政者としての私。私でありながら私ではない公人としての時間だ。

 邂逅。
 退屈なルーティンに唐突に混ぜ込められる異常。

 人と人とは決して解し合わず、人と人とは決して噛み合わない。そうであるからこその"人生"。解り合い、噛み合う"人生"などは存在せず、また仮に存在したところで価値はない。
 相違するを恐れるな。敵を作るを恐れるな。叩かれぬよう息を顰めるなど言語道断。ならば、誰も叩けぬ程の高みにて鎮座するこそ私らしい。
 結局、私は私だった。そういうことだ。それ以上でも、それ以下でもない。

 これが顛末。

 ドザエモンという名の少年は唐突に現れ。
 そして拍子抜けするほど至極呆気なく退場した。

 ただ、それだけの話。 



[9233] Chapter1 Scene1
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:8b7072b8
Date: 2010/02/07 21:03
 喧々とした騒音。
 常ならば気分を害するかもしれない不快音。
 だが、酒場という非日常空間に於いては一種の彩りであり、如何なる名曲を以て代え難いBGMだ。

 粗野でありながらも無軌道な明るさを孕んだそんな空間。
 今日一日の疲れを癒し、常日頃の鬱積した感情を発散するためのそんな時間。
 市民、軍人、航海者、荒くれ者。歌う者、踊る者、脱ぐ者、口説く者。
 そこでは多種多様な人間模様が繰り広られ、しかし皆一様に満足気な空気をその身から発している。

 羨ましい。実に羨ましいことだ。
 彼らはきっと良い上司に恵まれているに違いない。
 でなければ、仕事が終わった直後にあれほどの開放感を持ってバカ騒ぎすることなど出来やしないだろうから。

 翻って今の俺はといえば、彼らとは至極対比的に、そんな気分にはとてもじゃないがなれそうにもない。
 鏡で自分の顔を見れば、きっと苦虫を噛み潰したかのようなツラがそこには顕現していることだろう。

 心中に渦巻く憤怒を抑え付けんと静かに赤紫色の液体を嚥下し、眼前に並んだ料理を摘む。

 この島の地酒は旨い。
 マディラ産のワインといえばちょっとしたブランドになっているようで、この島に寄航する商人の大半はこれの仕入れが目的でやって来るらしい。
 島の南側に広がる広大な葡萄畑には燦々と陽光が降り注ぎ、収穫された葡萄は間を置かずに港町の醸造所へと輸送され、ワインへと加工される。
 そして、保管所で数年寝かされた後、芳醇な香りと奥深い味を併せ持ったこの島の特産品としてお目見えするのだ。

「……で、また今日はえらい不機嫌そうな顔してどしたの? また姫様に罵倒でもされたのか?」

 案の定、俺の不機嫌っぷりは他人からも一目瞭然なレベルに達していたらしい。
 木製のジョッキを呷りながら、ミゲルがそう声を掛けてくる。

 それにしても……。
 字面だけ追えば俺を案じているかのように聞こえるかもしれないが、その実は全く真逆の意図を感じさせる問い掛け。
 その証拠にヤツの表情筋は緩み切っており、顔面の中央に位置した細い眼からは愉悦の光が漏れ出している。

 羊の皮を被った愉快犯。言葉という名の齟齬導入剤を使い、相手の傷を抉らんとする偽善者。
 そんなのにまで真摯に対応してやるほど、俺はお人よしでもないし、平和主義者でもない。

「あァ?」

「おー、機嫌悪いのな、おい。まーまー、そう怒るなって。昔の人は言いました。短気は損気。つか、お前が姫様に罵倒されるのなんて、ここじゃ年中行事だろ。いつもだったら、そんなの歯牙にも掛けず、って感じでクールぶってるじゃねぇか。それがなぜに今日だけそんなに『悲憤慷慨只今絶賛憤懣やるかたなし中』みたいになってんだよ? アレか? アレなのか? それともナニか? ハッ……まさかお前……」

 ヤツは一旦言葉を切り、わざとらしく息を吸い込む。

「もしかして、純情童貞ボーイにはとても消化し切れないようなキッツイ言葉責めでもされちゃったのかよ!?」

 メンドクセ。無視しよう。

 俺が返した低い唸りから察して欲しかったが、この低能に推察などという人付き合いの初級技能を求めてはいけなかったらしい。
 ああ、低能というと少し語弊があるか。脳味噌のリソースを盛大に無駄遣いしているせいで、円滑な人間関係を築くための基本技能の習得が疎かになっているだけだ。
 なんせ年中発情期。寝ても覚めても女のことしか考えていないようなヤツだし。悲しきかな、終わりなき思春期。

「黙秘か!? 黙秘なんだな!? クッソー、一体どんな恥ずかしいこと言われたんだよ!? あれか、『生きる価値すらない童貞の分際でその薄汚い包茎チ○ポを勃起させるなど万死に値するわ。私のごとき麗人を前に男の性が興奮してしまうことは避けられない生理現象なのでしょうけれど、せめて兜を脱いで挨拶するのが礼儀ではなくて?』なんて言われちゃったりしたんだろ!? うおおおぉぉぉ、羨まムズ痒恐えええ!」

 はいはい無視無視。

「それともこうか? 『貴方のような下賤で野蛮な輩が赦しを得ようと図々しくも考えているのならば、無様に這い蹲って私の靴の裏でも舐めることね。そうそう、靴裏の溝の奥は舌先を使って綺麗に汚れを舐め取るのよ』とか!? うひょおおおぉぉぉ、舐めてぇぇぇ!」

 ミゲルの妄想は止まらない。
 耳にするもおぞましいような産廃級の妄言を巻き散らかし、最後には心の叫びにも似た咆哮。

 舐めたいのかよ……。

 まぁ、いい。それはいい。
 こんな変態の性癖に付き合うのも不毛だし、理解に及ばんとすることは更に無駄だ。

 だが、あらゆる忍耐を掻き集めて無視しようと努力はしたのだが……やはり無理だった。
 それが悪意のない児戯のようなものであると理解していても、世の中には敢えて正さなければならない義というものが存在する。
 たとえ、そのことが一人の人間の秘密を白日の下に晒し、その尊厳を極限まで貶めるものだとしても。

「うるせえぞ、カントン。ちなみに俺はズル剥けだ」

「な、おま!? かかか、カントンちゃうわ!」

 なんとも唐突な暴露だが、対面の男に齎した効果は覿面だった。
 気味の悪い恍惚が瞬時にして無様な動揺へと姿を変える。

「あれは半年前のことでした。冬の寒さがまだ僅かに残る春の夜、近衛騎士団宿舎にて私は彼にこう切り出されたのです。『な、なぁ、相談に乗ってくれないか?』と。勿論、聖母に勝るとも劣らない慈愛を有するこの私、彼も誰にも言えない悩みを抱えているのだろうと思い、話を聞くことにしたのです」

「おい、バカ! やめ――」

 おもむろに席を立ち、声を張って語り出した俺に対し、先程までのハイテンションはどこへやら、必死の体で制止しようとするミゲル。
 そりゃそうだろう。あんな黒歴史を暴かれようものなら自殺モンだ。しかも根本的には現在進行形の問題と来た。うん、非常に憐れみを誘うよ、その懸命さ。
 気付けば、近くの客でこっちに聞き耳立ててるのもいるし。

 でも、止めてやんねぇ。
 果は因より生じ、報いにて応えん。自らの業は自ら得るべし。

「彼は言いました。『絶対誰にも言わないでくれよ。絶対だ。絶対だぞ! じゃあ、お前を無二の親友だと信頼して聞くけど……勃起して剥けるとメチャクチャ痛くないか? なんかカリの下辺りがやたら締め付けられてさ……。最近は亀頭が鬱血しちゃったりするし、みんなあれどうやって我慢してんだ? この頃じゃ痛みが酷くてオナニーする気にもならなくてさ……。おう、最近はもっぱら夢精だ、悪いかよ……って、おい、エンガチョってなんだよ!? 近寄るな、って酷くねえか!? 下着はちゃんと洗ってるから汚くはないだろ!?』、と。ある春の日の追憶談これにてお開き。御静聴誠にありがとうございました」

 いつの間にやら静かに話に聞き入っていた聴衆に向けて頭を軽く下げ、木製の椅子へと腰を下ろす。
 同時に耳朶を打つ憐憫のざわめき。それは静かに、しかし確実に場内に伝播し、得も言われぬ気まずい空気を作り出していた。
 真実とはいつも残酷だ。

 目の前では灰になって打ちひしがれるミゲルの姿。なにやらブツブツと呟いている。
 同じ男として気持ちは分からないでもない。なにせ明日からコイツの綽名は"カントン"になるかもしれないのだから。
 それは相当に嫌だな。つーか、絶対に嫌だ。

「ドザエモンを信じてたのに……。友情を信じてたのに……」

 可哀想なことをしたのかもしれない。流石にさっきのはやり過ぎだったような気がしないでもない。一瞬、明日からはもう少しだけ優しくしてやろう、なんてことを思った俺がいた。
 でも、なぜだろう?
 その落ち込む様にすら際限なきウザさを感じてしまうのは。

 なんつーか、そういう星の下に生まれついたのだとしか思えない。
 威勢よく先頭に立って突っ込んでいくんだけど、後ろには誰も続くこともなく、そればかりかその背中を指差して笑われているようなタイプ。
 まぁ、憎めないヤツではあるんだけどな。ウザいけど。割と本気でウザいけど。

 それにしても直視するに堪えない程の凹み様に、俺の仏心が顔を覗かせる。
 ぶっちゃけそんな虚ろな目で見られると、こっちの魂まで汚染されてしまいそうな錯覚に陥りそうだし。
 なので、形だけでも一応励ましてやろうと、我ながら気持ち悪いくらいに爽やかな声でフォローに入る。
 
「そんなに落ち込むなよ。他人の身体的特徴を論って嘲笑するってのは最低の輩のやることなんだから、別にお前が気に病むようなことじゃないさ。大丈夫、もしカントンだという理由でお前を侮辱するヤツがいたら、親友として俺が許さないからな」

「少なくともお前にだけはそんなことを言う権利はないと思うけどね!」

 なんということだろう。
 ヤツは朋友から贈られた暖かい励ましを拒絶しやがった。
 少しでも甘い顔見せれば付け上がりやがって。

「そうか。なんだか余計な気を回してしまったみたいで悪いな……カントン」

「全然理解していらっしゃらない!?」

 やっぱコイツおもしれぇ。
 天性の弄られキャラっているもんなんだな。

「あァ? お前カントン馬鹿にしてんのか? カントンっつったって所詮は包茎のハイエンドに過ぎなくて、一生サクランボウヤでいなきゃいけないくらいのハンデを背負うっつーだけだろ? 確かに男としては情けないし、ぶっちゃけ俺がカントンだったら絶望のあまりに死を選ぶ可能性は否定しないけど、でもそれでも頑張って生きてる人だっているんだぞ。分かったか、カントン?」

「あまりに理不尽な責めにオレの常識が覆りそうだよ! つか、それ以前の問題として、そっちこそ盛大にバカにしてるよね!?」

「ああ、カントンやべぇからな。バカにしてるっつーか、その、なんだ……軽蔑してる、人として」

「うおおおぉぉぉ、存在否定までキター! オレはもうこの島に居たくはありません……」

 薄汚れたテーブルを意に介することなく、ミゲルはガックリと突っ伏す。
 つい先刻までヤツの周囲に漲っていた桃色の覇気は完全に霧散し、代わりに黒灰色の哀愁が漂っている。
 仕方がないので、放置しておくことにする。

 そういえば、バカと遊んでいる間にささくれ立っていた心が落ち着いたような気がする。
 やはりストレス発散ってのは大事だ。上司によって溜め込まれたストレスを同僚に対して発散するというのは些か不健全なようにも思うが、まぁミゲルだし。そんなに気にすることでもないだろう。
 それよりも気を取り直して飲もう。

 今年のワインは出来が良いと聞いていたし、密かに楽しみにしていたのだ。
 『今年のは――』ってのは毎年恒例の定型句みたいなものだけど、そう言われて出されれば確かに悪い気もしない。
 きっとマジトーンでツッコんではいけない部類の様式美なのだろう。

 そんなことを思いながらジョッキに残った分をグイと飲み干し、次の一杯を求めて小樽へと手を伸ばす。
 と。

 タイミングを見計らっていたのだろう。
 対面から手が伸び、樽の栓を抜いて俺のジョッキへと赤紫色の液体を注ぐ。

「サンキュ」

 短く礼を言った俺に対し、ソイツは端正なツラを緩める。
 憎たらしいくらいに整った相貌は確かに町の女どもを夢中にさせるだけの魅力があり、物静かで理知的な雰囲気がそれに拍車を駆けていると言ってもいいだろう。
 あれだ、俗に言うイケメンってヤツだ。

「いやいや、機嫌も直ったみたいで何よりだよ。ま、代わりにミゲルが戦力外になってしまったみたいだけど。それにしても今日はいつにも増したサディストっぷりだね。聞いてて惚れ惚れするような言葉の暴力の数々だったよ」

「俺は真実の徒だからな。嘘が付けねぇんだ」

「この前は嘘付いたせいで、姫様に怒られてなかった?」

「あれは怒られたっつーか、引っ叩かれたっつーんだよ。怒るってのは相手を慮った上での理性的な行いであって、あのクソ女みたいな短絡的で自己中心的な暴力行為とは断じて違うだろ」

「あはは。ま、どっちもどっちだね」

 軽く笑い声を上げるジョルジュを横目にジョッキを傾け、喉を焼く酒精を堪能する。

「今年も旨いな……」

「ああ、それは僕も同感だ。これだけ旨い酒はリスボンにいた頃もお目に掛かったことはなかったよ。マディラ産と触れ込んで出回っていた酒が実は混ぜものだったのでは、なんて疑ってしまうくらいだ」

「そういや、お前は王都の出身だったな。だったら、こんな小さな島で役人やってるのなんて退屈だろ?」

 実はジョルジュは王都出身の歴とした貴族の坊ちゃんらしい。
 姓は小難しい並びだったので正確に覚えてはいないが、それなりに由緒ある家柄だったと思う。
 そんなお坊ちゃんが何故にこんな辺境の自治領で官吏なんてやっているのか。
 まぁ、その辺は本人もあまり語りたがらないので、むやみに聞き出すことはしないが。人には話したくないことの一つや二つあっても当然だろう。

「それがそうでもないのさ。むしろ毎日が充実しているよ。空気も美味いし、酒も旨い。人も魅力的だし、文句の付けようがないね。そういえば、ドザエモンもこの島の出じゃないんだったよね。ここは退屈かい?」

「うんにゃ。そりゃ前いたところと比較すりゃ不便なこともあるけど、総じて悪くはねぇさ」

「前いたところ、ね……」

 一瞬、一体どこから来たのか、と聞かれるかと思い、身構える。
 それを知っているのは、あのクソ姫とカタブツ騎士団長様だけだ。それも自分から話したというわけではなく、否応なく知られる羽目になったってのが正確なところ。
 別に話したくないというわけでもないんだが、恐らくは言っても信じてもらえない。

 そりゃそうだ。
 一体誰が本気になって信じる?
 精々、出来の悪い冗談だと思われるのが関の山だろう。

 どうやら俺は未来もしくは異世界から来たみたいだ、なんて言われてもさ。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「でさ、今年はオレ収穫の手伝いしなくてもよくなったんだよ。いやー、やっぱり近衛騎士の肩書きは違うねー。ウチのお袋なんか、すげー感激してたみたいだもん。あっそうだ、手紙読む? お袋から手紙来たんだよ」

「いや、余所ん家の麗しい親子愛に辟易したくはないんで、それは謹んで遠慮させてもらいたいんだが。つーか、お前アレな。マザコン決定な」

 喧しく騒ぎ立てるミゲルを冷めた目で見つめる。
 それにしても無駄にダウン耐性の強いヤツだ。さっきまでのことは既にすっかり忘れてしまったかのように、いつもの元気を取り戻している。

「ドザエモン、それは良くない。親が子を愛し、子が親を愛するのは、当然のことなんだから。それを揶揄するのはいくらなんでもミゲルが可哀想だよ」

「おお、ジョルジュ! 分かってくれるのはお前だけだ! ご褒美に手紙見てもいいぞ!」

「いや、それは遠慮しておくよ」

 そりゃそうだろう。
 他人の母ちゃんの手紙なんて読んだところで楽しくもなんともない。しかもヤツの言葉を聞く限りでは、恐らく近衛騎士団に入団した息子への期待と激励が綴られているんだろう。
 んなモン、背中が痒くなるだけだ。

「そっかー。残念だなー」

 そういえば、ミゲルの実家は葡萄農家だったな。
 この島で農民といえば、一般的に葡萄農家を指す。温暖な海洋性気候がその栽培に適しているという話を聞いたことがあるが、それが本当なのか俺には分からない。まぁ、でもマディラワインがあれだけ取引されているところを鑑みれば、質が良い葡萄が生産されていることには間違いがないのだろう。

 俺としては、米作って欲しいとも思うんだが……。こっち来て、まだ一度も米を口にしてないし。パンでも腹は膨れるが、精神的な満足感においてはやはり米飯には敵わない。
 あとは醤油。醤油の作り方はマジで勉強しておけばよかったと後悔している。この土地は海洋資源には恵まれている。ぶっちゃけ新鮮な魚を手に入れるには苦労しない。ということは、だ。醤油があれば、刺身なんて食い放題だってことだ。そういう意味でも、原料となるはずの大豆はあるのに肝心の製造法を知らない、というのは歯噛みするほどに悔しい気分。
 なんだかんだ日本人だよなぁ、俺……。

 そんなこんなで食に纏わる由なしごとを脳裏に浮かべながら、ワインを飲み続けていたんだが――。

「……おい、ドザエモンってば! 聞いてんのかよ!?」

「……あァ? なんだ、カントンか……」

 それを綺麗さっぱり吹き飛ばすようにして割り込んできた空気を読まない呼び掛けに、少しばかり不機嫌な返しをしてしまったのは、まぁ仕方のないことだろう。

「だから、それはもういいって! というか心にまで皮を被ってしまいたくなるのでどうかやめてくださいお願いします……」

 おぉ、凄ぇ凄ぇ。
 ブレスレスにて澱みなくも、実に情けない要求を伝えてきやがった。

「しょうがねぇなぁ……ったく、使えねぇ」

「ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待って! おかしいよね心底おかしいよねそのリアクション!?」

「ゴミが」

「うわーすげー。人ってこんなにも傍若無人に振る舞えるものなんですねー。なんか最近ドザエモンが姫様に似てきてる気がするんだけど、どーよ?」

「てめぇコラ今なんつった!?」

 酷く侮辱的で聞き捨てならない台詞が聞こえてきた気がする。
 そんなことはないとは思うし、俺の聞き間違いだとは思うが、万が一、本当に万が一にでもそれが事実であるとするならば……。

 俺はミゲルを殺してしまうかもしれない。

「うぉ、近い近い! つーか、怖い怖い! 今にも人を縊り殺しそうな眼をしてるって!」

「いや、今のはミゲルが悪い。ドザエモンにとってその手の比較はタブーだって知ってるだろうに……。まったく、君はいつまで経っても成長しないね……」

 ジョルジュが呆れたように肩を竦めてみせる。こういう仕草が絵になる辺り、貴族の令息ってヤツは厭味な気品がありやがる。一つ一つの動作が大きくて、でも決して不格好には映らないっつーか。
 こりゃ女が放っとかねぇわけだ。

 まぁ、いいや。
 マトモに取り合うのも疲れるだけだし、ミゲルの言うことは気にしないでおこう。だからといって俺がヤツの言に対し無言の肯定を為したというわけではなく、突飛過ぎて否定する価値すらないというだけだ。いや、マジで。

「ふー、怖かったー。失禁するかと思ったー。にしても、ドザエモンも大概姫様のこと嫌い過ぎだよね? 確かに性格はちょっとキツいけど、見た目は文句の付けようがないし、頭だって良い。それによく考えてみれば、あのツンツンした感じもそれはそれで悪くないし。ぶっちゃけオレだったら喜んで抱くね! あぁ、あの絹のドレスの下に隠された柔肌に思いを馳せると、オレは……オレはっ……」

「いや、まぁ、ツッコミどころを一つに絞ってくれってのは今更なんだろうが、一つだけ言わせてもらうとするとだ。寝言は寝てからほざきやがれ、広東人兼火星人」

「仕方ないさ。ミゲルの妄想癖は今や病気の域に達しているんだから。とはいえ、今の一連の発言は少しばかり不穏当かもしれないね。場合によっては、騎士団除名にプラスして不敬罪で投獄されるくらいには」

 貴人に対する不埒な妄想を語った廉でクビか……。
 間違いなく田舎の母ちゃん泣かせるだろうな。

「ただ、ミゲルの言わんとすることも分からないでもないけどね。確かに彼女は充分過ぎるほどに美人の範疇に含まれると思うよ、客観的には。ま、僕の好みではないけれどね」

 ジョルジュが冷静に分析しているが、そもそも美醜の基準に客観的なそれなんて存在するのか疑問だ。要は『俺にとって、またはお前にとって、その女の見た目が気に入るかどうか』って問題なんだから、どこまでいっても主観以外の何物でもないだろうに。
 百人が美人であると評したところで、俺が気に入らなきゃ、ソイツは俺にとって“美人”でもなんでもない。その他大勢、有象無象だ。

 それは別に女の美醜に関わる話だけじゃない。
 大袈裟に言ってしまえば、常識ってヤツがその最たるところだろう。世には万人に共通する普遍の価値基準があるのだと強く信じ、それに阿りながら生きていくようなヤツだって少なくはない。
 “社会的”に。“道徳的”に。“倫理的”に。
 それが自らのしみったれた生き方の免罪符にでもなっているかのように、クソ詰まらない生を誇るクズ共。
 まぁ、それが自己完結しているのならば俺の知ったこっちゃない。どうぞお好きになさってください、ってなモンだ。

 だけど、ヤツらの一際厄介なところってのは兎角“異端”を排除したがるって部分であって。
 そして、その“異端”の基準がこれまたヤツらによって都合よく定められていることであり。
 結局、つまるところは嫉妬だろう、と。所詮ヤツらは、“社会的”にも“道徳的”にも“倫理的”にも“常識”から外れているはずの生き方をしているくせに、でも自分たちよりも遥かに生を謳歌しているように見えてしまう相手が許せないだけだ。

 ひどく片則的な人生哲学。
 俺はお前を認めない。だが、お前は俺を認めろ――だなんて、滑稽過ぎて吐き気を催す。

 だから俺にとって生きていることは苦痛だったんだ。
 出自が生き方を制限し、その上で懸命に生を紡ぐことは嘲笑の対象にしかならず。嘲笑に耐え続ければ、いつしかそれは攻撃的な視線へと変貌し。視線はそのうちに物理的な質量へと姿を変え。
 結局、“クズ”は“クズ”であることでしか、自分の生を守れなくて。
 そういや、ヤツらは“不公平”なんて言葉も好きだったよな。なんて出来の悪い皮肉なんだろう。

「えぇぇ!? お前、どんだけ涸れてんだよ!? 姫様だぞ! あ、の、姫様だぞ! 俺は隣に座られただけでも射精する自信がある!」

 ああ、そうそう。矛盾しているようだけど、俺も少なからず自分の枠に囚われてるって思うことはある。
 例を挙げるならば、今この瞬間がそうだ。つーか、マジでアホだな、コイツ……。

「いや……君の今の発言に関する是非は一先ず置いておくとして。ミゲル、君は一つ大きな思い違いをしているよ。なぜなら、相手を美しい人と捉える理性的な判断と、相手を愛すべき対象として捉える本能的な感情とは、似て非なるものだからだ。『美人イコール愛する』という式は成り立たない。“愛する”という概念そのものに何らかの絶対要素が包含される必要性、それ自体は全くないと僕は考えるね」

 ネタにマジレス、という煽り文句が脳裏に浮かぶ。
 いや、ミゲルがネタで口走ったのか否かには議論の余地があるかもしれんが、それにしても色んな意味でドストライクすぎる返しだ。
 肉欲という名の未知のロマンに憧れるサクランボウヤを相手に愛のなんたるかを説くなんて、一体お前は何がしたい?

「おおぉぉ、なんか深いぞ! 言ってることは全然意味不明だけど、なんか深い! 流石は愛の伝道師! ドザエモンやオレのようなチェリーズとは一味違うぜ!」

「あ? さりげなく俺をてめぇみたいなゴミと同位に置いてんじゃねぇぞコラ!」

 遺憾というか何というか。
 ぶっちゃけ不快っつーか、屈辱的?

「じゃー聞くけどさ、ドザエモンは女を抱いたことあるのかよ?」

「当たり前じゃねぇか、お前みたいな剥けてない童貞とは違ぇんだよ。俺がちょっと声を掛けただけで、そこらの女はいろんなトコ濡らしまくって、大雨洪水警報発令しちまうっつーの。お陰様で亀頭はすっかり炭化しちまってるよ。てめぇの終身自宅警備員チ○ポと一緒にすんなっつーの」

「嘘だね。ドザエモンは無駄に硬派気取ってる上に口が悪すぎるせいで、町の女の子たちから恐がられてるし。せっかく顔はいいんだから、もうちょっと愛想よくしてりゃモテるかもしれないのに」

「余計なお世話だ、クソボケが。つか、なに上から目線で物言ってやがんだ、あァ?」

「でもオレはそんなドザエモンが大好きだぞ! いや、もうこれは愛してると言ってもいい! オレと一緒にヤラハタ街道を驀進するに相応しい相棒は――ドザエモン、お前しかいない!」

「死ねよカスが」

「二人とももうちょっと声を抑えてくれると僕としては有り難かったりするんだけれど。あまり大声で話すに相応しくない内容のような気がするし……」

 ジョルジュが少し気まずそうな顔をしながら、俺たちを嗜める。

 いつも冷静であり、思慮深くもあり。
 どちらかと言えば周囲を顧みない俺たちの中にあって、この男の存在は一抹の良心であると断言できるだろう。俺とミゲルのような逸れ者が周りから相応に受容されているのは、ジョルジュというフィルターがその枠組みに内在しているからこそだ。
 有難い、なんてことは言わないが、悪いな、とは思わなくもない。俺やミゲルと一緒にいることで、コイツには何か得るものがあるのだろうか、と。
 恐らくそんなものはなくて。むしろ、良家の坊ちゃんが不良騎士とつるんでる、という見方をされるであろうことは容易に想像できる。それでも偶の余暇を俺たちとのバカ騒ぎにわざわざ付き合おうとするのを止めないジョルジュ。そこには彼なりの意図があって、何らかの打算があるのかもしれないが……それでも。

 ミゲルと同様、俺にとって数少ない“仲間”だと信じられる人間。
 そのことに疑いを抱こうとは思えない。

 心の中に広がる、少しだけ場違いな温かみ。
 だけど、それはジョルジュが発した一言によって完膚無きまでに振り払われた。

「ほら、あんまり五月蠅くするから……ガチムチさんがこっちに来てるよ……」

「……俺、帰るわ」

 それは即座に踵を返すに値する発言。
 人生がRPGのようなものであったとして、HP∞MP∞即死攻撃持ちでおまけに獲得経験値ゼロのボスキャラと真っ向勝負するのはバカだ。
 忌避すべきはすべき。三十六計逃げるに如かず。

「ちょ、おま!? 一人だけ逃げるとかなしだろ!? オレたちは一蓮托生、同年同月同日に死ぬるを誓った仲じゃないのかよ!?」

「知らん、一人で死ね」

「切り捨て要員の鉄砲玉!?」

「命までは取られんだろ。せいぜい菊花を散らして俺の逃げる時間を稼いでくれ」

「トカゲの尻尾的扱い!? というか何かおかしな表現が一つ!?」

 ミゲルがオタっぽいリアクションを繰り返しているが、そんなことに構ってる暇はない。ヤツはきっとすぐ傍にまで迫っているはず。
 危機だ。貞操は勿論、それに伴う諸々の社会的喪失の危機。名誉や誇りという無形価値は失うに易く、得直すに難い。男という性は純潔を散らす存在であっても、純潔を散らされる存在ではないのだから。

「おい、ドザエモン! お前マジで帰ろうとしてんじゃ――」

「ミゲルちゃぁん、こんばんわアッー!」

「うわあああああぁぁぁぁぁ!!」

 捕まったな……。
 バカが。早く逃げねぇから。

 その接近を知らされたならば、何を差し置いても俺は逃げる。鉄則だ。
 確かに“逃げる”という行為自体は、俺にとってはカッコ悪いそれではあるけれど。ぶっちゃけ俺の美学には反するものでもあるけれど。
 でも、それほどまでにガチムチさんは恐ろしい相手だってことだ。

 通称『ガチムチさん』。
 本名は知らない。つーか、みんなガチムチさんって呼んでる。
 性別は……一応男。男だよな……? 男だ、うん男。あんな巨漢の女が存在するとすれば、それは生物的原理への反抗だ。
 まぁ、要はこの店の用心棒兼給仕みたいな感じの人。港町の酒場ともなれば色んな土地から来た色んな客がやって来る。そして中にはガラが悪いヤツだってそれなりにいる。古今東西、海の男ってのは短気で喧嘩早い生き物だ。
 だけど、俺に言わせりゃこの店で暴れるのは絶対に止した方がいい。ある意味で犯罪組織に喧嘩を売るよりもタチが悪い結末を迎えてしまうだろうから。
 どんな結末になるか、ってのは言わぬが花ってヤツか? いや、むしろ言わずとも察しろ、ってトコだな。

「やめてくださいやめてくださいやめてくださいっ!!」

 哀れな生贄の断末魔を無視し、颯爽と戸口に向かって歩を進める。まだ勘定が済んでいないことを思い出したが、今は緊急事態。立て替えてくれるであろうジョルジュには悪いが、次の機会にでも払わせてもらうとしよう。

「うふっ。相変わらずカッチコチね~」

「そそそそれ以上触ったら、ししし舌噛んで死ぬぞっ!?」

「もうっ、イケズね~。うふふふふ」

「ドザエモン頼むから助けてくれよっ!?」

 野太い男の嬌声の合間を縫うように背後から響く救援要請は聞こえなかったことにする。
 いい男ってのは、いつだって後ろを振り返らないモンだ。

「えっ、ドザちゃん来てたの? うそ、どこどこ? どこにいるのよ~?」

「あそこにいるじゃないですか! ほらほら、あの女の子四人連れのテーブルの辺りをスタスタ歩いてる後姿! 早く捕まえないと、アイツ帰っちゃいますよ!? というか、さっきからオレの胸板をなぞっている手を早く離してくださいお願いします!」

 あの根性無し。あっさりと俺を売りやがった。鉄砲玉としても役に立たないハンパモンが。
 まぁいい。そのくらいは想定の範囲に収まっていたことだ。俺がヤツに期待したのは、俺が店を出るまでの約十秒間の時間稼ぎ。もっとも、それすら満足にこなせないであろうとは思っていた。そして、案の定ってヤツだ。

 ま、それはそれとして。
 今日はちょっと疲れた。時刻を確認する術など持たないが、恐らくそれなりにいい時間になっている頃だろう。
 よくよく考えりゃ、そもそもストレス発散っつーのが酒飲みに来た目的でもあったし、それは既にクリアしている。なら、これ以上ここに留まる意味もない。
 帰って寝るか……。

 一刻も早くベッドに横たわりたい一心で、陽も沈み暗くなった往来へそそくさと足を踏み出そうとしたその時。

「あら、もう帰るのかしら?」

 声を掛けられる。
 その声はよく知ったそれで。

「ああ、危ねぇのも乱入してきやがったし、今日はもうお開きだろ」

「せっかく遊びに来てくれたのに、私と愛を語り合うことなく帰ろうだなんて。私はドザ君のことを一日千秋の思いで待っていたというのに、それは少し冷たくはないかしら?」

「適当抜かしてんじゃねぇぞ、この年増が」

「どうせなら妙齢の美女、とでも言ってほしいわ。これでもまだ二十も半ばの女盛りなのよ」

 確かにどれをとっても一級品の女ではある。
 顔の造形は言わずもがな。肌の張り、艶。豊満にして無駄のない身体。甘い香り。少しだけ気怠げな口調。芯の強さと甘やかな媚びとが絶妙な塩梅で同居している仕草。
 まるで、世に生きる全ての男を籠絡するために生を受けたかのような――そんな女。

 だけど、それを素直に認めてしまうのも癪だ。

「あァ? どうせサバ読んでんだろうが」

「ふふ、そういう素直じゃないところも大好きよ」

「……いや、俺は嫌いだし」

「答えるまでのちょっとしたラグが乾いた心に潤いをくれるわね。さ、一緒に飲み直しましょ?」

 立ち昇るような色香を存分に振り撒きながら、俺の手を握るひんやりとした掌。
 その力加減も計ったかのように絶妙で、強くもなく弱くもなく。なんというか、少しだけくすぐったいような感覚。

 大きく開いたドレスの胸元から覗く深い谷間が艶めかしい。
 思わず目を落としてしまったことに心中で舌打ちし顔を上げると、すべてを見通したかのような視線とぶつかる。それは俺を責めるでもなく、もちろん恥じらいを浮かべるでもなく。ただ誘うように。自らの領域に相手を取り込まんとするが如き、完璧な上目遣いへと変貌する。
 一瞬、華やかに咲き誇る食虫花を連想した。

「いいでしょ? 私とドザ君の仲じゃない?」

 ずるい女だ。そして賢い女。
 自分の魅力を自覚した上で、それを活用することを厭わない。
 矜持は確固たるが、気位は低い。

「余計なこと口走ったりするなよ」

「ええ、当然。私みたいな女にだって、自分の胸だけに仕舞っておきたい大切な想い出はあるものよ。そして、もし相手も同じように考えていてくれれば……それは本当に素敵なことね」

 嬉しそうに、そして少しだけ寂しそうに微笑む彼女に手を引かれる。
 場違いなほどに無垢で真白なキャンバスに、一滴の寂寞の翳りをスポイトで落としたような、そんな笑み。

 それなりの期間に亘り、それなりの頻度で顔を合わせ、それなりの深度で付き合っていれば、そこにはそれなりの紆余曲折が生まれる。
 例えば、誤解。例えば、過ち。例えば――。
 今更なかったことには出来ないし、しようとも思わない。打たれた楔は確実にそこに残っていて、何かの拍子に不意に顔を覗かせたりする。
 例えば、罪悪感。例えば、悔い。例えば――。

 人を傷付けるための道具。そして、人を抱き締めるための道具。
 掌の柔らかい感触に少しだけ感傷を刺激されながら、ついさっき逃げ出したばかりの混沌へと舞い戻る。

「ったく……しょうがねぇな……」

 自分でも誰に向けたのか分からない、そんな詰り文句を呟きながら――。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「やっぱり若い女はダメです! アイツらは顔や財力でしか男を判断できないんですよ! で、その結果、捨てられた、だなんだと大騒ぎする! オレに言わせりゃ『ざまぁ♪』って感じですね! そもそもアイツらは男ってのをアクセサリーかなにかだと勘違いしてやいませんか!? 愛とは育むものではなく、摘み取るものだとでも思っていやしませんか!? そんな小娘どもに手を出す男も問題です! お前にはプライドってものがないのか、と! 買い替え前提の装身具扱いされてでもセックスがしたいのか、と! ダメですダメです! まったくお話にならない!」

 五人でテーブルを囲む。

 卓上には新しい小樽が運ばれ、開けられた栓口から漂う香りが、それが先程までのものよりも数段グレードの高いワインであることを伝えてくる。
 そして、ツマミ代わりの獣肉揚げ。そもそも、この島では精肉自体が希少品だ。ならば、こちらもきっと相応の値がすることだろう。

「やっぱり時代は大人の女ですよ、大人の女! そこらのションベン臭いガキ共には出せない色気! 人生経験の確かさを感じさせる包容力! さりげなく顔を覗かせる知性! そして何より、外ヅラという虚飾に騙されることなく、その内面を以てこそ男を判断する人間力!」

 そんなプチセレブ臭漂う卓上ではあるが、それを台無しにしてしまう勢いでミゲルが何やら熱く力説している。
 こんだけ忙しなく言葉を連ねて、よくもまぁ舌を噛まないモンだ。

「そうなんです! オレは時と共に衰える泡沫にして刹那たる外見美よりも、時を経ても変わらない永遠にして深遠なる人間美をこそ愛したい! なればこそ、今――」

 やおら真剣な表情で言葉を切るミゲル。うん、きっとコイツ自身はマジなんだろう。なんか目とか血走っててキモいし。
 でも、それを取り巻く周囲の人間にももう少し注意を配った方がいいかと思う。ぶっちゃけ言えば、その、なんつーの、ヒくっつーか。俺やジョルジュは悲しいことにある程度慣れてしまったが、その他二名は――ああ、むしろ煽るかのような笑顔を向けてやがる……。

「ジゼルさん……オレと付き合ってください!」

「いいわよ」

「そうですよね、すみません、ごめんなさい。オレなんかが身の程も弁えずジゼルさんと付き合おうだなんて調子に乗り過ぎてますよね。それはもう、はい、充分に理解はしているのですが、酒の力とは実に偉大なモノでありまして、こう溢れる青春の情動が思わず迸ってしまったといいますか――はい……?」

 予定調和な喜劇の再演に備え、いつも通りの先行入力が行われていたミゲルの返しがピタリと止まる。

「ちょちょちょちょっと待ってください。今『いいわよ』って言いましたよね? オレの耳が正確に動作し、オレの脳が精確に認識しているのならば、オレの一世一代背水の陣の告白に対しジゼルさんが想いを同じくする旨をご返答くださったということになりますが……えーと……ということは……どういうことだ……?」

 告白に対し肯定的な返事が戻って来る、というシチュエーションに慣れていないのだろう。当代有数のモテナイ君はあからさまにキョドり始める。
 それを優しい目で見詰めながら、グラスを口に運ぶジゼル。その様は一瞥すると慈愛に満ちた女神のごとく見えるかもしれないし、ミゲルの眼球はまさしくそう捉えているに違いない。

 だけどな、ミゲル。
 この女はそんな風に一筋縄で行くようなタイプじゃねぇぞ……。
 お前に掛ける言葉は一つ――身の程を知れ。

 ジゼル。
 この酒場の店主兼料理人兼看板娘。最後のはちょっとばかり上限的な意味での年齢制限に引っ掛かりそうな気もするが、ここではギリギリセーフってことにしておこう。
 この女目当てにこの酒場を贔屓にしている常連客もいるくらいだから、まぁ相当に器量は良い。そこらの娘には出せない大人の色香があるっつーか、ぶっちゃけエロっぽい雰囲気もある。どことなく高級娼婦のような妖しい魅力に嵌ってしまう男の気持ちも分からないではない。
 性格も一言で表現すれば“大人”。下心満載で口説きに掛かる酔客を相手に、笑顔を崩さずスマートにあしらっている光景は、この酒場では日常茶飯事だ。
 だけど、それは別に、冷厳な本性の上に柔和な仮面を被っている、というわけではなく。それなりに打算的で人を食ったような性向はあれど、むしろ根は情の深い女であることを窺わせていたりするのがある意味で厄介だ。

 打算には打算で返せばいい。軽蔑には軽蔑で。暴力には暴力で。挺身には挺身で。
 そして、愛情には愛情で。
 それが人間関係の基本。原始の時代からずっと変わらない一つのルール。
 なるほど、彼女は相互主義というものをよく理解している。
 だからこそ厄介で面倒で複雑で。気付けば、いつの間にやら雁字搦めに縛られてしまう。

「告白オーケー……お付き合い……デート……セックス……」

 現在、ミゲル演算中。
 なにやら脳内で一足飛びに階段を駆け上がっているようだが、その飛躍的連関を現実に持ち帰ってこないことを祈りたい。

「セックス!? セックスといえばアレですか!? 屹立した男の証を、ご婦人方の濡れそぼった蜜壺へと挿入し、互いの粘膜部を擦り合わせることによって快楽を得るというアレですか!? 行為の最中、男は無言、女の子はアンアンという喘ぎ声しか出してはならないというアレのことですかうわーすげー脱童貞ですねーオレ一緒にお風呂で洗いっこグヘグヘヘウヒヒヒヒヒヒヒヒ――」

 演算終了。と同時にメイン演算機が激しくブッ壊れた模様。
 つーか、なんという童貞思考。喘ぎ声にまで縛りが掛かってる辺り、どうにも激しく救えない。

 その様を笑顔で見守るジゼル。
 コイツの思惑っつーのは、いつもながら解せない。これっぽっちもその気はないってことは分かるが、一応女だし。耳が腐り落ちるほどの桃色幻想垂れ流しには顔の一つくらい顰めてみても良さそうなモンだ。

「おい、ジゼル。コナ掛けるなら、もちっと相手見てやれや。ただでさえキモいミゲルが変に舞い上がったせいで、直視すら憚られる類人猿へと素敵な進化論的退化を遂げちまったじゃねぇか。つーか、お前今絶対コイツの頭ん中でヤラれてんぞ」

「るいじんえん? しんかろん? 言ってることはよく分からないけれど、つまりは妬いてるってことでいいのかしら?」

「あァ? なんで俺が妬かなきゃなんねぇんだよ?」

 要領を得ない。会話が噛みあわない。
 俺が妬く、だって? アホらしい。

「妬いてるわねん。かわいいわー」

「黙れや、オッサン」

「あ゛!? 今なんつった小僧?」

「すいませんごめんなさいもう二度と言いません」

「あらやっだー。ちょっとした、お・ちゃ・め、じゃない。いやだわーもー」

 ガチムチさん 稀に素が出る 五十路かな   詠み人知らず

 では気を取り直して。
 まぁ、こういう豹変というかインターセックスな回帰現象ってのは時々あることだから、あまり気にしても仕方ない。

「よっしゃオーケイ。落ち着けオレ。来たるべきこの日の為、関連書物を読み漁り、耐え難きを耐えながら卒業生の薫陶に耳を傾け、日々イメージトレーニングに励んできたじゃないか。まずはキス。いきなり舌を入れてはいけないんだったな。最初はそっと触れるように優しく。徐々に啄ばむ感覚を狭めながら、唇同士を絡み合わせるんだ。あとは互いの気持ちを高め合いながら自然な流れで舌を入れて、胸を揉んで、アソコを触って――いや焦るな焦るな。初めてだからこそ、順番はきっちりと守らないと。ちゅっちゅっべろべろもみもみぐちょぐちょぱんぱんどぴゅっ、こそ王道。ミゲル、お前はキングだ。お前はキングなんだ。恐れることなど何もない。なーに、いつかは通る道。これがオレの華麗なる女性遍歴における輝かしい一歩になることだろう。さー唱えよ、ちゅっちゅっべろべろもみもみぐちょぐちょぱんぱんどぴゅっちゅっちゅっべろべろもみもみぐちょぐちょぱんぱんどぴゅっちゅっちゅっべろべろもみもみぐちょぐちょぱんぱんどぴゅっ――」

「で、これどうすんだよ?」

 うんざりするような不思議な呪文をぶつぶつと呟きながら、焦点の合わない視線を宙空に彷徨わせるミゲル。さっきまで背後のテーブルできゃいきゃいと談笑に興じていた女の子グループが、まるで蝿の集った生ゴミを見るかのような視線を向けている。
 同じテーブルに着いているからといって、俺までもミゲル一派としてカテゴライズされるのは心外だ。つーか、心底イヤだ。マジお断り。

「さぁ、どうしようかしら」

 諸悪の根源は相変わらず澄まし顔でアルコールの摂取に余念がない。まるで他人事だと言わんばかりの態度は流石の一言。
 この態度は計算してやっているのか、はたまたそうでないのか。恐らくは前者であろうとは思うが、そこに悪意の一欠片をも感じ取ることができない辺り、俺も随分と毒されてしまっている気がする。

 だけどまぁ、こっちの都合も少しは斟酌してもらいたい。
 このままじゃ、ミゲルの暴走によって俺とジョルジュまでもが風評被害に晒されかねない。

「いっつも言ってんだろ。その気がねぇのに気を持たせるような真似をすんなって。童貞の粘着力舐めんな。おまえ、いつか犯されんぞ、マジで」

「大丈夫。自分の身の守り方くらいは心得ているし、それでもどうしようもない場合にはドザ君が守ってくれるでしょ?」

「あァ? バカ言ってんじゃねぇぞ。そん時は、むしろ放心状態で横たわるお前の顔面に唾吐きかけてやるからな」

「相変わらず口が悪いわね。愛ゆえに、ってことかしら」

「愛なきゆえに、だ」

 なぜだが知らないが、ジゼルはどうにも俺のことを買い被っているような節がある。
 “優しい”だとか“頼れる”だとか、そういう類の形容詞を俺にくっ付けたがるのだ。

 だけど、俺は“優しくする”のも“頼られる”のも御免だ。
 気持ちが悪くて。
 本当に気持ち悪くて、嫌いなんだ。

「でも……そうね。なんだかんだ言ってもここは私のお店だし、あんまり派手にやらかされると困るわね。『変態騎士たちの溜まり場』なんて噂になっちゃうと、女の子のお客さんが来なくなっちゃいそうだし」

「そんなことは隣席の子たちが席を立つ前に気付けよ!」

 はい、巻き込まれ決定。何回目だよマジで。
 明日から暫く、町の娘たちに白眼視される日々がカミングバックだ。こう、年を取るごとにそのインターバルが短くなっているような気がするのは、果たして俺の思い過ごしだろうか?

「いいじゃない。ドザ君には私がいるんだから」

 それもこれも、眼前で微笑む悪女と。
 それにプラスして。

「ちゅっちゅっべろべろもみもみぐちょぐちょぱんぱんどぴゅっちゅっちゅっべろべろもみもみぐちょぐちょぱんぱんどぴゅっちゅっちゅっべろべろもみもみぐちょぐちょぱんぱんどぴゅっ――」

 今もってエンドレスリピートの最中にある、この超絶クソ仕様なイチモツを持つエンガチョ男のせいであって。

 なんだかんだ女に責を問うのに気が引けてしまう紳士としては、やはり後者の側に恨みつらみの情が向いてしまうことは避けられない。

「つーか、ジゼルさぁ」

「なにかしら?」

「いいのか、これで? 本当にいいのか、こんなんで? ぶっちゃけバカでアホでクズでゴミでワキガで水虫でインキンでカントンっていう空前絶後レベルに残念無念なスペック体だぞ」

「おいドザエモン、さらっと嘘言うのははやめてくれよっ! 確かにオレはバカでアホでクズでゴミかもしれないけど、ワキガと水虫とインキンは断固として否定させてもらうぞ!」

 お、なんか知らんが帰って来た。

「おまけに早漏でカリ細で短小でテク無しだぞ」

「おま、ちが――」

「違ぇのか? 本当に違ぇのか? 自信満々に否定できるのか? その根拠は? 反証は? あと嘘を吐く時は多数の真実の中にホンの少しだけ混ぜ込むと、意外とバレないらしいぞ」

「苛烈すぎる追い込みに心が折れそうだよ! そして否定できない自分が悲しい! というか、最後の一言はアレだよね? 確信犯的にオレを中傷しようとしたってことだよね? 『カントンやワキガとは身体的欠陥である』『彼はカントンである』『ゆえに彼はワキガでもあるに違いない』みたいな。一体なんだよ、その歪過ぎる三段論法は!?」

「解説お疲れ、短小」

「だからオレは短小じゃ――」

「中指――」

「うっ」

「の第一関節から先」

「小さっ! それはあまりにも小さっ!」

「違ぇのか?」

「…………」

「…………」

 不思議な静寂が一瞬場を包む。

 それは正しく神経戦の様相を呈し、互いに相手の出方を窺うかのように。そして古来よりその敗者の行動様式は"開き直り"だと相場が決まっており、今回もそのご多分に漏れず――ってメンドクセ。そんな上等なモンじゃねぇし。

「ああ、短小だよ! 短いよ! 小さいよ! で、それがなにか!? 短小だったら何か悪いことでも!? だからお前はセックスが出来ないんだ、って言いたいのか!? はっ笑止! 傑作だよ傑作! お前はオレを笑い死にさせるつもりか!?」

 本気で涙目の男を笑い死にさせるってのは、いくらなんでもハードルの高すぎるタスクだ。つか、マジ泣きしそうになりながら笑ってる姿がなんとも不気味。

「別にいいじゃん、短小でも! ダメなの、ねぇダメなの!? 別に硬くなるんだからよくね!? 硬さには自信あるよオレいやマジで! それとも硬度ってのは体積に劣るのか!? え、なにその指標差別!? それでいいの!? 職業に貴賎はないんだぞ! だったら、指標にも軽重はないだろ!? ジョルジュ、お前も同じ男として思うところがあるだろ!? こんなにも恣意的な暴虐が罷り通っていることについてはさ!」

 どうやらミゲルのナニカがキレてしまったらしい。
 なにやら物凄く必死なのは伝わってくるが、言ってることは支離滅裂。パーペキなまでに不明確にて不明瞭。

 そんな話を急に振られるなんて、ジョルジュのヤツも気の毒だな――なんてことは今更思ったりしない。

「ミゲルの言わんとすることを簡単に要約すると、世に蔓延るアルマダ主義には承服しかねる、ということでいいのかな?」

 そう、この男はどんな時でも冷静さを失わないのだ。
 少し冷めたようないつもの口調で、淡々とミゲルの真意を問わんとする。

「そのナンタラ主義……ってのはなんなの……?」

「イスパニアの海軍みたいな考え方さ。軍艦の巨きさや搭載された火力の大きさこそを至上とし、その根本的な動力である人間については軽視するようなね。僕は個人的にはこれを『アルマダ主義』と呼ぶことにしているんだ。当然そこにあるのは称賛ではなく、皮肉なんだけれど」

「そう、それ! なんかよく分かんないけど、それ! それが言いたかったんだよ!」

「お前絶対分かってねぇだろ」

 間違いない。
 コイツにジョルジュの言っていることの意味を解するだけの知能なんて、あるわけねぇし。

「ドザエモンは全然分かってないなー。理屈じゃなくて感覚なんだよ。頭で考えるんじゃなく、心で感じるんだよ。現在、オレの心房心室は総出でジョルジュに喝采を叫んでるね」

「心不全で逝けや」

「まーいいや。ドザエモンみたいな男には、“当たり前”であることの幸せなんてきっと分からないんだろうよ。年取って不能になってから焦っちゃうタイプだね、きっと。それはそうとしてジョルジュ、そのマチルダ主義がなんだって? というか、もう細かいところは抜きにしていいから、褒めて称えて慰めてっ!」

「僕は別に君を褒め称えてるつもりはないんだけれどね……。あと“アルマダ主義”ね。マチルダ主義だと何処かの色男が提唱するフェミニズムに名を借りた女性蔑視主義みたいに受け取られかねないから。と、それはひとまず置いておくとしよう。ミゲル、君は農作を営む家に育ったから分かると思うけれど、芽吹きの為には地を丹念に耕した上で種を播くという工程が必要だよね。それは愛の萌芽に於いても変わらない、と僕は思っている。『朝に種蒔き、夜に芽吹く』なんて簡単なものではない、と。ならば――」

 どうやらジョルジュ名誉教授によるミゲル更生プログラムが開講された模様。
 生徒の不出来っぷりがハンパじゃねぇし、恐らく十中八九徒労に終わるとは思うが。

 まぁ俺は愛がどうとか女がどうとか別段興味もねぇし、そんな話に加わりたくない。
 かといって――。

「やっぱりお客さんの数が減ってるのが痛いわよねぇ。最近だとカナリアスの辺りにまで私掠船が出没してるみたいだし、こっちまで商船出すにもリスクが大きくなってるんでしょうね」

「そうね。この前ゴンザレスちゃんと会った時にもそんなことを言ってたわ。問答無用で砲撃された、とかなんとか。怖いわよね~」

「あら、ゴンザレスさんって昨日お店に来てた航海士さんよね? 相変わらず気が多くて結構ね。そういえば見習い水夫のジョアン君はどうしたの? 最近あまり見掛けないけど」

「それがね~、聞いてよ~。彼ったら私が浮気してるんじゃないか、なんて怒っちゃってるのよ~。困っちゃうわよね~。私の愛は生きとし生ける全ての男の上に平等に降り注ぐっていうのに」

 こっちの会話にも加われそうにない。
 ガチムチさんがクネってやがるのが、その……非常に何というか……目の毒、みたいな?
 つか、貴方の愛は一撃必中の狙撃銃としてご使用ください。くれぐれも絨毯爆撃のような無差別攻撃は止めていただきたい。生きとし生ける多数のXY染色体を代表してのお願いです。

 別に俺は同性愛者を嫌悪しているわけじゃない。ガチムチさんが嫌いだってわけでもない。
 第三者的な受容は可能だが、当事者的な受容は御免蒙るってだけ。いや、だって俺ヘテロだし。

 そもそもこの国に住む人々は同性愛に対して寛容とは言い難い。
 そりゃそうだ。ポルトガルっつったらバリバリのカトリック教国。同性愛者の存在は、非難と弾圧の対象として真っ先に名前が挙がる。自らをそうであると公言することは社会的には死に等しいだろう。
 だけどまぁ、そこはそこ。表があれば裏があり、理想があれば現実があり、建前があれば本音がある。
 そこが聖堂のお膝元の地ならいざ知らず、この島のような辺境では事実上は黙認状態ってことだ。信仰を自らの寄る辺とはしても、それを他者への攻撃材料にはしないというような、そんな良い意味での大らかさがある。
 稀に原理主義的な狂人もいるみたいだが、ソイツらが束になって掛かっても、ガチムチさんには叶うまい。悲惨にも返り討ちに遭うのが目に見えている。

 と、まぁ。
 こんな具合に、同性愛とその受容スタンスについて思いを巡らせていたんだが――。
 
「そういえばドザ君」

「あ?」

 唐突な呼び掛けに意識を引き戻される。
 見遣ると、ジゼルがなにやら思案気な顔で口を開いた。

「最近、姫様とはどう? うまくやってる?」

「んなわけねぇだろ。無理無理無理無理絶対無理。今でもかなり我慢してんだ。これ以上を求められるようなことがあれば、俺は新大陸にでも亡命するつもりなんで、そこんトコよろしく」

「……本当に相性悪いのね。こういう関係を水と油って言うのかしら」

「姫ちゃんもアレで結構イイ性格しちゃってるからね~。ドザちゃんもドザちゃんで人当たりに難あり、って感じだし、互いに弾き合っちゃうのも仕方ないかもしれないわ~」

「やっぱりそうなのかしら。時が経って互いの価値を認め合うようになれば、むしろ無二の関係になるかもって思ってたりしたけれど……。五年経ってもこうだと、その望みは薄いのかもしれないわね」

「確かにあの姫ちゃんを手懐ける男がいるとしたら、ドザちゃんみたいなタイプかもしれないとは思うんだけどね~。いかにもって感じの毛並みの良いお坊ちゃんなんて姫ちゃんの一番嫌いそうなタイプじゃない」

 人前でいけしゃあしゃあと気持ち悪い話をしてる連中がいる。
 てか、なんすかこれ? 新手の精神攻撃ですか?

「理想が高いというのも考えものよねぇ……。美貌の才媛にして家柄も最高峰――そんな娘があの歳になっても売れ残ってしまっている理由なんて、そのくらいしか考えられないもの」

「あの暴虐姫のことはどうでもいいとして、ジゼル。お前に人の心配をしてる余裕があんのか? 婚期を逃しそうな女の悲哀っつーなら、お前の方がよっぽどヤベェような気がすんだけど。ぶっちゃけヤベェっつーか……手遅れ?」

 話題の転換を図ると同時、仕返しとばかり盛大に嫌味をぶつけてみるが、ジゼルは微塵も気に障った素振りなど見せずに余裕の笑みを浮かべる。
 この女の精神防御力は異常なほどに高いのだ。

「あら、だって私は既に売約済みだもの。それはドザ君が一番よく知ってるじゃない。ね、未来の旦那様?」

 言い終わるのと同機して、艶のある流し眼が飛んでくる。
 まるで背骨代わりとばかり、脊髄の辺りから巨大な氷柱を差し込まれたような感覚。
 ゾクゾクする。とんでもなく昂ぶる。周囲から飛んでくる視線や驚きの声、若干一名の絶望の叫びなど全く以て気にはならない。男という性を酷く激しく揺り起こされ、その奥底にある滾りを酷く乱暴に引っ張り上げられるような――。

 って違ぇだろ!
 問題はそんなことじゃない。全然そんなことじゃない。

「おおお、おい! 今のは一体どういう意味だ、ドザエモン!? ジゼルさんが『旦那様』とか言わなかったか!? 言ったよな!? オレは聞いたぞ! 聞いてしまったぞ! おま、おま、おま――グベッ!」

「うるせぇ、俺だってそんな覚えはねぇんだ! つーか、ちょっと黙ってやがれ!」

 耳聡く食いついてきたミゲルを適当に黙らせ、花咲くように綻んだ笑みへと向き直る。

「さっきのセリフうまく聞き取れなかったんで、もっかい言ってもらえますかね……?」

 うんうん確認は大事だ。
 もしそれが俺の妄想が生み出した幻聴なのだとするならば、それはミゲルと同レベルだってことだ。万が一そうであるならば、脳ミソがゲル状になるまでヘッドバンキングして死のう、潔く。

「私は既に売約済みよ」

「ああ、それはそれはおめでとう。で、続きは?」

「それはドザ君が一番よく知ってるわ」

「知らん、初耳だ。続き」

「ドザ君は未来の旦那様」

「そう、それ!」

 よかった。やっぱり聞き間違いなんかじゃなかった。俺の脳髄は今日も元気一杯正常稼働、不穏な妄想劇の繰り広げられる余地なんて何処を探してもありません。
 これにて一件落着――。

 しねぇよ! 全然落着してねぇよ!
 つーか、とんでもない風説の流布だな、おい!

「なに洒落になんねぇ嘘吐いてやがんだ、テメェは? 言っとくが、俺はお前に入札した覚えも落札した覚えもねぇぞ。とりあえずそこだけは明確にしておこうか?」

 酷い話だ。西洋残酷慕情絵巻。知らない間にボクには年上の婚約者がいました――なんて笑えねぇ。

「私はドザ君のことが好きだと何度も言ってきたつもりだけれど? 私は私の愛情に誇りを感じているし、ドザ君を振り向かせる自信だってあるもの。そういう意味では、嘘を吐いたなどと非難されるのは心外ね。悲しいわ」

「すまん。実は俺、処女厨でガチロリなんだ。ということで、今世ではジゼルの想いに応えられない」

 予想外にマジトーンの言葉をぶつけられ、咄嗟に口をついて出る方便的なナニカ。とりあえず、この場はこれで引いてくれると有難い。
 でも、これを本気にされてしまうとそれはそれで困ってしまう、という複雑な心もち。いや、だって、内容まで精査する余裕なんてなかったし。つーか、それでももう少し別の理由はなかったのか、俺?

「どうしたらいいのか分からなくなって、諸刃の剣を力一杯振り回したね、今。正直良策であるとは言い難いけれど、ある意味で男らしい選択だとは思うよ。すごくドザエモンらしい」

「そうね~。嘘だってことは容易に分かるから明らかに効果は薄いけど、ここまで身を削られちゃうと女としては無理して押せなくなっちゃうのも事実よね~」

 しかもバレてるし。
 じゃあ、なに、今のは俺の性癖が白日の下に晒された、ってだけの結果? しかもハンパなく痛々しくておどろおどろしい『我は変態此処に在り』的な偽の性癖が?
 そう考えるとなんだか吊りたくなってくる……首を。

「同志よっ!」

 お前は知らん。

 それにしても……。
 少しだけ落ち着いて自らを顧みれば、ムキになり過ぎてしまったと思う。そこまでしてジゼルの想いを否定しなければならない理由があるのか、と。

 天井を仰いでいた視線をゆっくりと戻すと、ジゼルの視線と真っ向からカチ合う。
 それはいつもよりも少しだけ寂しげで。いつもより少しだけ儚げで。まるでさっきの告白が本当に本気のそれであったかのようで。そして、それを受け止めてすらもらえない自分を呪っているかのようで。
 キツイ。俺はこの女にこんな目をさせたくはないのだから。

 ジゼルは綺麗になった。
 そう思う。

 最初に出会った五年前からコイツは美人だったけれど、もっと切羽詰まったような表情を浮かべていることが多かった。あの頃はイロイロあった。本当にイロイロとあった。毎日が生存競争で、毎晩が生存闘争だった。
 淡い恋心があった。路傍に咲く一輪の花のような笑顔があった。眩しかった。目の眩むほどに眩しかった。だから、それを手折りたかった。自分のモノにしたかった。
 結局、花は一瞬だけ咲いたけれど、ついぞ実を付けることはなくて――。

 今のコイツは食うものに困ることもない。寝床を探し回る必要もない。仕事をして金を稼いでる。信頼できる仲間がいる。
 あの頃とは比較にならないほどに幸せなはずだ。満たされているはずだ。
 その証拠にジゼルは綺麗になった。元来の整った造形にプラスして、女の色香と巧みな対人スキルまでも手に入れた。今じゃこんな立派な店まで持って、この町でも老若男女問わずの人気者だ。

 だからさ、ジゼル――。

 今更あの頃みたいな目をする必要なんて俺たちにはないだろ……?





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 漆黒の紗幕に金砂を贅沢に彩ったかのような天蓋。
 闇と光という双極が対峙し、そして手を携えながら作る一枚の大パノラマ。
 こんなにも闇は暗く、こんなにも光は眩い。
 そして空はあんなにも高い。

 矮小な存在を俯瞰しながら高笑い――そんな存在があの向こう側にいるのだとすれば、ソイツを一発ブン殴ってやりてぇ、なんて。
 そんな下らないことを思う。

「五年、か……」

 ジゼルのあの目が焼き付いているせいか、ふと過去の追憶に浸ってしまう。

 長かったのか、短かったのか。
 辛かったのか、楽しかったのか。
 幸せだったのか、不幸せだったのか。

 多分、答えは全部。
 両極併せ呑み、必死に消化しながらの五年間。

 そしてきっと、そうだったのは俺だけじゃなくて――。

「ん? 何か言った?」

「いんや、なんにも」

「そう。じゃあ、気のせいかな」

「コイツがなんか言ったんじゃね? つーか、毎度毎度こんなにグダグダになるまで飲むなんて、ミゲルは学習能力ゼロだな、マジで」

 俺の呟きを耳にしてだろうか。ジョルジュの問い掛けに適当な返事を返し、俺との間で肩を借りながら歩かされているミゲルの様に悪態をつく。

 それにしても酷い有様だった。
 ミゲルは涙を流しながら次から次へと酒を煽り、周囲の人間に一通り絡んだ挙句にぶっ倒れた。
 ジゼルにフラれたことによる傷心がどうだとか言ってはいたが、それは大きな間違い。そもそもミゲルはフラれるための舞台にも上がれていないし、多分これからも上がれない。

「あ゛ぁぁー」

「ゲロるなら前以て言えよ。もし俺らの靴に掛けたら百回殺すからな」

 弱々しい奇声を発しながら、いきなり身体を震わせたミゲルに親切心からの忠言をしてやる。
 ヤツはそれに対し何度か軽く頷きながら、絞り出すようにして言葉を発する。

「……オ○ンコ」

「死ねやお前。マジで死ね。つーかジョルジュ、コイツこのまま放置して凍死させね?」

 小学生は排泄物に、中学生は性器に並々ならぬ関心を示す。世間にはそんな定説があるらしい。
 ならば、ミゲルの精神年齢は中学生相当ってことか。

「流石に今のは……。少しだけドザエモンの提案に乗りたくなったことは認めざるを得ないけれど、この季節だと屋外で寝ても凍死に至る確率は低いだろうね」

 ジョルジュの苦笑が少しだけ引き攣っている。

「そんじゃ、その辺の路地裏にでも放り込むか? 明日の飯の為なら何でもする、ってヤツらがゴロゴロいるから」

「仮にも近衛の人間が浮浪者に討たれたなんてことになると、それはそれで厄介なんじゃない? 少なくとも直前まで一緒に居た人間――この場合は僕とドザエモンに対しては、何らかのお咎めがあるだろうことは想像に難くないよ」

 もちろん端からそんなことをする気はなかったが、ジョルジュは俺の出任せに対しても真剣に言葉を返してくる。

「お前、とことんマジレスなのな……」

 この男はいつだってそうだ。どんな些事にも真摯に対応する。
 良く言えば“真面目”。悪く言えば“クソ真面目”。
 生まれも育ちもいいだけに、周囲に軽口を叩く人間なんて少なかったのかもしれないが。

「ドザエモンが僕という人間をどう感じているのかは分からないけれど……。多分、僕は君が思っているような人間ではないということは言っていいかと思う」

「だとしても、だ。少なくとも悪人にゃなれねぇだろ、お前の場合は」

「さぁ、どうだろうね……。もしかしたら全ての人間は生まれながらに悪としての性を担っているのかもしれないよ」

「あー、そういうのはいいや。俺、頭悪ぃから、哲学論争は苦手なんだよ」

 柔和な表情を顔面に貼り付けたまま口角を少し上げているジョルジュに対し、溜息と共に降参の意を告げる。
 この類の“である論”をコイツと語らうとキリがない。まぁ、居丈高に“あるべき論”を押し売りしてくる輩よりはずっとマシなのは確かなんだが、アルコール摂取によって著しく回転数の落ちたタービンにとっては処理するのが些か困難な命題であることも確かではあって。

「そういや、明日は通常任務なのかい?」

 そんな俺の気分を察したかのように、ジョルジュが話題の転換を図る。
 これだから、空気の読めるヤツってのは、相手するのに楽だ。

「特になんも言われてねぇし、多分そうなんじゃね。普通に訓練と哨戒の時間ローテだと思うぞ、だりぃけど」

「そうか。それにしても随分と飽いているみたいだね、今の生活に。近衛騎士といえば、この島の若い男にとっては垂涎の的、花形中の花形だと思うんだけど、ドザエモンを見てると嫌々やってるように見えるよ」

「少なくとも好きではやっちゃいねぇな……」

 気儘に。気楽に。気軽に。
 そんな生き方を切望していた。
 自分の命を自分でのみ完結し、他人の命には一欠片たりとも手を触れず――そんな人生を渇望していた。

 だけど、今は。
 仲間が出来て。義務が生まれて。心が揺らされ。
 そして――命が重たくなった。

「ったく……単純だよな、我ながら……」

 自嘲気味に呟いて、空を見上げる。
 相変わらず手は届きそうにない。いつまでたっても、俺たちは地上で生きていくしかないんだ、と。

 肩に掛かるミゲルの重みが鬱陶しい。
 ジョルジュとは先の通りで別れた。役人用の宿舎は二つ通りを挟んだ向こう側だ。
 そのせいで大の男を引き摺りながら帰らないといけなくなったわけだけど。明日の昼飯くらいは奢らせようというくらいにはムカツいてはいるけれど。
 まぁ、そういうのも全部ひっくるめて、それはそれで悪くないと思う。

 近衛騎士団宿舎はもう目と鼻の先。
 夜闇の中、その門柱に掲げられた煌々たる明かりが道を示す。それは白亜の外壁に湾曲した不気味なオブジェを形成しつつ、俺たちの帰りを歓迎しているかのようで。
 冷厳で無機質な白の上で、無軌道に踊りくねる橙が安堵を与えてくれる。

 不意に訪れる心のエアポケット。
 高揚が醒めた後に訪れる寂寥感。

 名残を惜しむかのように通りの向こう側を振り返る。
 五年の時が経ったが、そこに存在する町並みは変わらない。煉瓦造りの赤い壁が連なりながら、その内側の団欒を守る。どこまでも無機質な灰褐色の摩天楼なんて“こっち”には存在しない。
 それにちょっとばかり優越を感じた。

 時の頃は宵の口。
 まだまだ眠らぬ洋上に浮かぶ港町。

 俺はこの島で生きている。



[9233] Chapter1 Scene2
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:ccb0e61e
Date: 2010/02/07 21:03
 無色透明の中にホンの少しの碧を幻視してしまうかのような、朝特有の澄んだ空気。
 少しだけ植物の青臭さを孕んだ、でもそれ以上に瑞々しさの満ちている爽やかな香りが鼻に抜ける。
 それは寝起きの倦怠の残る身体へと沁み渡り、末端の細胞に至るまでの悉くを起床へと誘う。水が紙に浸透し、ゆっくりとその全てを浸していくかのように。
 “こっち”には機械仕掛けのアラームなんて、そんな無粋なものは存在しない。だって、必要がないのだから。
 透明なる清冽こそがその代替。

 ゆっくりと身体を起こし。

「……だりぃ」

 と一言。

 お決まりの朝の挨拶を己へと告げ、窓際の遮幕を捲り。
 目に飛び込んでくるのは、光。その眩しさに目を細めながら、窓を開く。
 ふわり、と。
 清涼が吹き抜ける。

 眼下に見える街並。
 未だ以て睡眠の只中にあるそこに人影は疎らで。昨晩の騒々しさがまるで幻であったかのような静けさに不思議な感情を抱く。寂しいような。でも、どこか安心するような――そんな思い。
 水平線ギリギリから光を送って寄越す“日中の支配者”の存在が、『夜は明けた』という事実をこれでもかと街中へと叩き付けていて。

 もう暫く経てば、街は人の息吹を取り戻すだろう。
 時の古今が変わっても、洋の東西が変わっても――それだけは変わらない。人が人として生きるためのルーティンワーク。“朝を迎える”ということは至極当然のようでいて、実は感謝すべきことなんじゃないのか、なんて。
 まぁ、俺なんかがそんな人々のルーティンを守るような仕事をしてるってのは、軽く笑えるところだけれど。

 朝の到来が憂鬱で仕方なかった頃。
 家賃なんて取られるのがおかしいくらいのボロアパートの一室、半分腐ったような木枠に囲われた東向きの四角形。それを覆う真っ黒な布の隙間から淡く漏れる光が憎たらしくて堪らなかった。
 それはまるで『夢の時間は終わり、今この瞬間からはまた現実が始まります』ってな感じの無機質にして無情な宣告のようで。布団に包まりながら抵抗しても、遅かれ早かれ“下らない”時間に再び身を置かねばならないことは変わらなくて。
 だから正直、俺は朝が好きじゃなかった。

 それが変わったのはいつの頃からだったろう――なんて問いは今更だ。
 はっきりと覚えている。忘れられるわけがない。

 そう、あれは俺が“こっち”に来てから初めて迎えた朝のこと。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 あの時は俺も少なからず混乱していて、状況に対する分析なんかとてもじゃないけどする余裕はなかったけれど。
 後々になってよく考えてみれば、俺の"こっち"デビューは最悪極まりないものだったと言っていい。それはもう、思い返すだけでも肌が粟立っちまいそうになる程度には。

 だって、まず何よりトリップ先の選択が悪辣すぎだ。
 いや、別にこの島がイヤだとか、この時代がイヤだとか、そういうことじゃねぇ。
 なんでよりにもよってあの暴虐令嬢の執務室なんかに起点が置かれてたのか、と。誰がやったかは知らんが、その辺は冗談抜きで猛省を促したいところだ。
 あの女の類は、俺にとって一番関わりたくない相手だったわけで。出来れば一生お近づきになることなく、平穏無事に心の安寧を求めていたかったんだが、その目論見は至極呆気なく潰え、そこには一時的とはいえ奇妙な縁が生まれてしまった。

 その縁を確定的なものにした要素が、件のカタブツ近衛騎士団長様の存在だ。
 “こっち”にやって来たあの日、状況も飲み込めないままに食ってかかった俺は、とりあえずフランシスカからボコボコにされた。そりゃもうハンパない勢いで叩きのめされ、純然たる力の差ってヤツを厭と言うほどに思い知らされたのだ。
 だけど、向き合っているだけで膝が震えるような感覚っつーのは、なんだかとても新鮮で。回避も防御も反撃も不可能なほどのスピードで繰り出される剣戟っつーのは、敵ながら心躍るようで。
 ポン刀やドス持った特殊自由業の兄さん達とは“あっち”で何回か遣り合った経験があったけど、そんな三下連中とは技量も格も覚悟も――それを構成する総てが雲泥の差だった。

 俺は多分笑っていたと思う。
 なんつーか、『なにコイツ反則じゃん。こんなん笑うしかねぇよ』みたいな感じで。

 でも、楽しかったんだ。
 手も足も出ないくらい完璧に子供扱いされたけど、あんなに強い人間が世の中に存在することがおかしくて。しかも、それが女だと来た。固定観念の融解現象によって頭ん中ぐちゃぐちゃで、でもアドレナリンの放出は留まるところを知らなくて。一種のコンバットハイってヤツだったんだろうと思う。
 結果、その時点での俺が耐え得る以上の攻撃を受けてしまい、情けなくも当のフランシスカの配慮によって手当を受ける羽目になったんだが。

 そういや、『ドザエモン』なんて不名誉極まりない呼称を頂戴しちまったのも、あの時だった。
 そもそもは単なる聞き間違いに端を発していたわけだが、俺がそれを嫌がってるのを見て取るや、あのクソッタ令嬢は薄く笑いやがった――ように見えた。本当に笑ったのか否かについての確証はないけど、少なくとも俺の心象的にはそう捉えられている。
 で、結果として、俺は今でも日常的にクソ不愉快な十字架を背負わされてるってわけだ。今でも名前を呼ばれる度に、あの苦々しい記憶が蘇っちまう。

 まぁ、そんなことを今更振り返っても仕方ないっちゃ仕方ない。
 別に他意はなかったんだろうし、単純に聞き間違ったと考えるのが自然だ。そもそも『ドザエモン』という音が水死体の意で使われるのは日本だけだろうし。そんで、ここはポルトガル。我ながら、被害妄想も大概にしろ、って話だ。
 そんな自意識過剰の余地を生んでいるのが、件の総督令嬢の日頃の言動に拠るものだというところは否定できない事実なんだけどな。

 話を戻すと、あれからフランシスカ手ずからの手当てを受けて。
 自分よりも強いヤツにそういう情けを掛けられるような真似、普段の俺なら憎まれ口の一つや二つ叩いたところかもしれないけど。でも、あの時の俺はそんな気分にはなれなくて。なんだか夢の中に居るような心地で、傷口を這う白い掌をぼんやりと眺めてた。
 彼女の手つきは慣れたもので、その指の動きには一片の澱みすらなくて。それどころか誠心誠意を以て傷を癒そうというような、そんな慈愛すら感じてしまうほどで。遂先刻まで立ち合っていた強大な暴力の渦――その中心点に居た"彼女"と同一の存在であるとは俄かには信じられないくらいに優しかった。

 俺は優しいヤツってのは嫌いだ。
 人間ってのは表裏一体。“表”が好ましければ好ましいほどに、“裏”がどうしようもなく怖くなるから。
 だから、打算の見えない優しさってのは――大嫌いだったんだ。

 そのまま互いに言葉を交わすことなく傷の手当が終わって。身体中に包帯巻き付けながら立ち上がった俺は、一刻も早くその豪奢で清潔な牢から出て行きたかった。
 俺みたいな生き方をしてきた人間は基本的に捻じ曲がっている。それこそDNAレベルで欠陥があるのか、と疑われても仕方がないくらいには。だから、当然礼の台詞なんて口端にも上らなかったし、それを必要最低限の首の動きによって表すことさえしなかった。
 でも、やっぱりそこには多少なりとも良心の呵責ってヤツがあって。

『おい、少し待て』

 だから、そう呼び掛けられた時に思わず振り返ってしまったのは――。
 我ながら癪に障ってどうしようもないけれど。心の底の底に押し込まれていた――そんな感情の顕現だったのかもしれない。

 でもそれを素直に態度に表すには、俺は生き過ぎていて。泥濘に塗れて生きてきた泥鰌は、清流に住む鮎よりも遥かに早く年を取るのだから。
 だから、これでもかとばかりに不機嫌を貼り付けた表情を作って。

『誰が待つか。俺はオネエチャンのいる店に遊びに行くんだよ』

 なんて。
 一文無しの癖に一人前に遊び慣れてるかのような台詞を吐いて、直視できない優しさから目を背けたんだ。

『……そうか。それなら別に構わぬが、貴様仕事はあるのか? 時代を遡った、などという戯言を本気にするわけにはいかんが、どちらにしても貴様には常識が欠けている。それでは職を探すのも一筋縄ではいかないだろう』

『……だったら、なに? アンタが仕事紹介してくれんの?』

 軽々しい同情はいらないと思ってた。第三者による自己満足の為の偽善に付き合うのは嫌だった。
 だけど、糧を得るための仕事が必要なのも、また事実ではあったわけで。

『うむ……実は自分はこの島の総督府で近衛騎士団長などという身に余る大任を仰せ付かっているわけなのだが……』

『自慢か?』

『驕りはしないが、誇りには思っているな。とにかく、そのようなことは今は関係ないだろう。単刀直入に言おう。現状、近衛は人員が不足していてな。相応の実力を持っている人間は喉から手が出るほど欲しいのだ。生活に困ることは絶対にないだろうと断言できるほどには、給金も十分に支払われる。もし貴様さえ望むのであれば――』

 この言葉は予想外だった。
 だって――。

『俺はついさっきアンタにボコられたばっかなんだぞ。無理無理。アンタみたいな化けモン揃いの職場じゃとてもじゃねぇけどやってけねぇよ』

『直接手を合わせたからこそ、貴様の実力はそれなりに分かっているつもりだ。少なくともそこらの似非剣士には遅れは取らないだろうと私は評価しているのだが。そもそも自分に比肩する剣士など島中探しても居ないだろうしな』

『また自慢か?』

『そうやって逐一話の腰を折るな。それで、どうするのだ……? 自分は提案した。後は貴様が決めることだ』

 正直言って、物凄く魅力的な誘いだった。今になると、その破格さが一段と分かる。
 ただ、当時の俺はそりゃもう半端なく捻じ曲がっていて。フランシスカの言が同情から出たものではないと理解していながらも、それを一種の施しであると錯覚してしまい。

『じゃパスで。そんな堅っ苦しい仕事じゃ餓死する前に狂死しちまうからな』

『……そうか。ならば自分は何も言うまい。息災でな、ドザエモン』

『ああ……迷惑掛けたな』

 結局、『渡りに舟』であったはずの誘いを断って、単身街に出ることにしたんだ。

 街に出た俺を最初に出迎えたのは大通り。街の南端に発し、北端を総督府とする縦走路。いわゆる『目抜き通り』ってヤツだ。
 そして、その上空に広く開けた視界には藍と青とが鉾を交え。その拮抗した戦いは時を経るごとに、青の侵食によってゆっくりと色を変えていき。最後には藍が駆逐されてしまう。

 俺は。
 俺は――その光景をただぼんやりと。
 飽きもせず見詰めているだけで。まるで身動ぎすら忘れてしまったかのように、立ち竦んだままだった。

 綺麗だった。
 途轍もなく。途方もなく。筆舌に尽くし難いほどに――綺麗だった。

 半ば自棄気味になっていた心の中を、すうっと澄んだ清水で洗い流されたような感覚。
 活力というにはおこがましい、だけど確かな力が身に湧いて来るような、そんな気がして。

 多分、俺はあの時に“生きる”ことを決意したんだと思う。

 まぁ本当に大変だったのは、それからで。
 そりゃもう汚れ仕事の繰り返し。時には危ない橋も渡ったし、死に掛けたことも片手の指では済まないくらい。毎朝、無事に起きられることに喜びを感じてしまうような――そんな時を過ごした。
 そんな生活の中で幾人かの人間と出会い。手を結んだ相手もいれば、袂を分かった相手もいて。前者はジゼルやガチムチさん。後者は……まぁ今はいいか。今更思い出しても仕方がないことだ。

 で、奇妙な縁ってのは有るモンで。
 今から二年ほど前。俺はひょんなことからマディラ総督府近衛騎士団員として就職する運びになりました、そして今に至る――と。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「遅い! 今日も貴様が最後だぞ!」

 詰所に到着した俺を出迎えたのは、耳を劈かんばかりの怒声だった。

「いやいやいや普通に間に合ってんだろうが」

「いつもながら自覚の足りない言動だな、貴様は。自らの職務を正確に理解しているのか? 刻限までに到着していれば良し、という問題ではない」

「だったら、どういう問題なんだよ? つーか、そんなん言うんだったら、そもそも刻限なんて設けんな」

 朝一番から説教――なんてのは心底勘弁願いたい。ちょーゴメンナサイ、だ。
 なんつったって、こっちは朝飯すら食ってねぇし、まだ血糖値も上がりきってねぇ。朝からパン一斤をモリモリ食ってきたであろう誰かさんとは、テンションからして違う。

「ほう……自らの責を顧みることすらせず、挙句の果てには責任転嫁か……。相変わらず肝が据わっているようで重畳だな。貴様が所望するということであれば、私が近衛騎士としての心得を説き直すに吝かではないが?」

「アホか。そんなん全力で遠慮の一択に決まってんだろうが」

 洒落にならん。
 体罰なんてのは如何にも時代錯誤な指導法だということを、誰かこの人に説いてくれないだろうか。“時代遅れ”ではないのがポイント。

「ならば、もう少しは責任感を持って行動しろ。我々の仕事というのは、常在戦場の心得を以て当たるべきものなのだ。今の貴様を見ていると、それでカタリーナ様をお守りできるとは思えんぞ」

「いや、別に俺はあんな唯我独尊女を守ろうとか思ってねぇし。つか、そもそもアレは総督じゃねぇだろ。総督さん家の娘ってだけじゃねぇか。俺の仕事はあくまでも総督を守ることであって、その子供のお守りをすることじゃないはずなんだが」

「肩書きを問えば、それはその通りだ。だが、近衛で……いや、この島全体を見渡したとしても、それを文字通りに捉えている者などいないだろうな。カタリーナ様は確かに総督ではない。しかし、あの御方の存在は紛れもなく、それそのものだ。その程度は貴様も分かっているはずだが……」

 珍しく言葉を濁しながら、フランシスカは言葉を紡ぐ。
 まるで自らの罪を吐き出すかのように。自らの咎を絞り出すかのように。

「……悪ィ。ちょっとばかし軽率だった」

 知っていた。知ってるに決まってんだろ、そんなこと。俺が何年この島にいると思ってんだ?
 そして、この話題はフランシスカの傷を抉るに等しい行為だということも、同様に俺は知っている。だからこそ、簡単に口に出していいことではなくて。俎上に載せるのであれば、慎重を期すべきだったんだ。
 いくら寝起きで脳味噌が働いていなかろうと、軽口のように触れていいものではなかった。

「謝らずともよい。あれはもう……終わったこと、だ」

 フランシスカは気を取り直すように、俺の謝罪を撥ね付ける。
 だけど、その顔は強張っていて。こいつ無理してんな、ってのが手に取るように分かるようで。
 だから、彼女にとっては“終わっていない”んだって。それどころか、きっと未来永劫“終わることはない”んだろうなって――そう思ってしまうんだ。

 政変。クーデター。
 立ち上がった有能が無能の地位を簒奪し、成り代わって統治者の座へと腰を掛けること。多くの場合、それは武を伴って為され、人の血が流れる。イメージだけで判断するならば、最低最悪の裏切り行為だ。
 だけど――統治される側がそれを望んだのだとすれば? 暗愚な王に愛想を尽かし、救国の志士を求めたのだとすれば?

 正しい正しくない、で括れるほどに単純な話ではない。
 ある者は父親を裏切り、ある者は恩人を裏切り、またある者は主君を裏切り――その過程にあったであろう苦悩、ジレンマ、自己嫌悪。それは決して二元論などという単純な図式が包括できるものではないのだから。
 民衆に迎合したわけではない。情に絆されたわけでもない。しかし、自身の栄達を欲するなどという俗な動機とは掛け離れていて。では、なぜそんなことを――なんて聞かれても、俺は答えを持ち合わせていない。その当時、俺はまだ“こっち”には居なかったし、なにより――。
 きっとその問いに答えを返すことが出来るのは、当事者たちだけなんだから。

 でも、『総督』ではなく未だに『総督令嬢』であるのは、つまりはそういうことかもしれない。

「あのさ、今更だけど訊いていいか? お前らは何の為にそんな真似をしたんだ……?」

 カタリーナ。フランシスカ。そして、ジョルジュ。
 コイツらとの付き合いはそれなりだけど、少なくとも悪人だとは思えない。いやまぁ、若干一名はかなり怪しいライン上にいるのは確かなんだが……。それにしたって、少しばかり冷血で、少しばかり傲慢で、少しばかり横暴なだけ――あれっ……?
 訂正。ちょっとだけ他人の気持ちが分からなくて、ちょっとだけ独り善がりで、ちょっとだけ自分中心なだけ――あれれっ……?
 あの女ならやりかねない――そんな気がしてきましたよ……。これはまずい。戦車を駆って、群衆を蹂躙しながら進むヤツの姿――という余りにも時代考証を無視した情景が目に浮かんできやがった。
 『全能である私こそ、この島の主に相応しいわ。私の言は神の言です。ならば、私の行く手を阻む者は皆殺しよ』なんて。
 うわ、言いそうだな、こんなこと。いや、言う。絶対言うだろ、アイツなら。

 うん、俺の中では答えが出た。
 この島の住人も哀れなものだ。暗君を排した結果、暴君を戴く羽目になったってオチはあんまりだろう。
 まぁ、救いとしては、その暴君が政治的才能に関してだけは正の方向に傑出している、ということ。人としては色々と終わっているが、為政者としては優れているのは間違いない。火の車であった財政を建て直し、悪化の一途を辿っていた治安を強化し、腐敗に満ちていた役所を引き締め、慣習主義から制度主義への転換を行い――そんな改革を二十歳にも満たない小娘がやってのけたんだ。
 俺はヤツのことは嫌いだけれど。徹頭徹尾嫌いだけれど。完全無欠に大嫌いだけど。
 でも、話を聞いたり、実際に俺の目で見る限り、彼女が“天才”だということについては異論がない。多分、その代償として、人として大切なものを母の胎内にごっそりと置き忘れて産まれてきたんだろう。

 そんなこんな人の選択不可性について思いを巡らしながら、フランシスカの返事を待っていたんだが――。

「貴様に話すことなど何もない」

 返って来たのは、いつにも増したにべもない返答だった。
 予想通りっちゃ予想通りなんだけど、何もそんなに邪険に扱わなくてもいいと思うんだよな。

「ちょっとくらい悩む素振りを見せた方が、年頃の女らしくて可愛いんじゃねぇの?」

「そんな褒め言葉などいらん。私は男に媚び諂うために生きているわけではないからな」

 相変わらずお堅いこって。
 そんなんだから、未だに浮いた話一つ出ねぇんだっつーの。

 近衛騎士団長なる厳粛な肩書きを冠し、またなんともそれに見合った性格をしているフランシスカではあるが、実際のところ容姿はそんなに悪くない。悪くない、というよりも、むしろかなり男好きのするタイプだ。
 鳶色の瞳を中心とした顔立ちは鋭いながらも整っているし、瞳と同色の短い髪は真っ直ぐで滑らかだ。彼女が練兵場で剣を振るう度に控えめに揺れるその様には、多くの男性団員が一度は目を奪われた経験があるだろう。そして、無駄のないスタイルとすらりと伸びた手足。彼女の胸があと十センチ大きかったら、俺は全てを捨てても彼女に告白するだろう――とはミゲルの談。アイツが捨てるものなんて童貞くらいしかないってのに。
 まぁ、それは言い過ぎにしても、恋人一人居ないような女ではないことは確かであって。むしろ多数の男を弄んでもおかしくないくらいに魅力的ではあって。だから噂されている。彼女は男に興味がないんじゃないのか、なんて。

「そんなことを口に出すから、レズ疑惑を掛けられたりするんだぞ。せめてもう少し言葉を選んでだな――」

「別に構わないが。むしろ男に言い寄られることが無いだけ、助かっている」

「つか、お前マジモンなの? 本物のレズなん?」

「そんなことを貴様に答える義理はないな。別にどちらであっても構うまい」

「いやいやいや、構うっつーの! そりゃ確かに恋愛っつーのは自由なモンだとは思うけどな。だけど、ちょっとくらい生産性ってヤツを考慮したって、バチは当たらんと思うわけよ。非生産的な営みがこの島に蔓延してみろ。ただでさえ少ない人口がさらに減っちまうだろうが。少子化問題ナメんなよ! 年金とか貰えなくなるんだからな!」

「貴様が何を言っているのか、よく分からんな……。にしても、この際だから聞いておこう。生産性を考慮して恋愛をすべきだ、と今貴様は口にしたな。ならば、貴様が女を抱く時には、その目的は子を成すことなのか?」

 お、珍しくカタブツ団長様が乗ってきやがった。
 だけど、流石は男性に縁のないカタブツ。言ってることがズレまくってる。

「は? そんなんキモチイイからに決まってんだろーが。ガキなんて邪魔っけなモンはいらねぇよ」

「……貴様は自らの発言が矛盾していることすら理解できない阿呆なのか? 生産性を考えろ、と言ったのは、貴様ではないか」

 ダメだ。コイツ全然分かってない。

「それは俺以外の男の話だ。俺はいいんだよ。子供なんて欲しくねぇし、女房なんて面倒くせぇモンもいらねぇからな。周りが頑張ってくれれば、俺一人くらいはブラブラしてたって問題ねーさ」

「……もういい。時間の無駄だった」

 彼女は一つ大きく嘆息し、こちらへと視線を向ける。
 どうやら俺たちは分かり合えなかったみたいだ。仕方がない。じっくり時間を掛けて、ゆっくりと調――じゃなかった、教育していこう。桃栗三年柿八年――まぁ彼女が生殖機能を失ってしまうまでには何とかしてやりたいところだ。

「そういえば、貴様に伝えなければならないことがあったな」

「あ?」

 突然、団長仕様に切り替わったフランシスカの表情。
 生来の無表情ゆえか、その差異は言葉に表すのが難しいほどに極々僅かではあるのだが、少しだけ引き締まったような顔をすることがある。その多くは治安活動に赴く際に見られるものではあるのだが、今ここでそんな顔をするということは、もしかして――。

「カタリーナ様が――」

「断る!」

「貴様に直々に御話があるとの仰せで――」

「だが断る!」

「執務室まで顔を出すようにと――」

「あーあーあーあーあ゛ー!」

「……貴様ッ!」

 瞬間、視界で火花が散った。いや違う。“散った”のではなく“爆ぜた”。

「痛ってーな、このクソアマ! いきなり何しくさってくれちゃってんだ、この野郎!」

「『アマ』と『野郎』というのは相反しているぞ」

「んな些細なことはどうでもいいんだよ! つか、なんで殴った!? 外交努力という発想がテメェにはないのか!?」

「外交という概念を持たない蛮族国家に対しては実力行使が妥当かと判断しただけのことだ。では、話を戻すぞ。カタリーナ様が貴様をお呼びだ。少しばかり問題が発生したのでな。内容についてはカタリーナ様から直接説明を受けてくれ。以上だ」

 ぐわんぐわんと脳内で釣鐘を撞いたかのような衝撃に耐えている俺に対し、フランシスカは何事もなかったかのように説明する。そこからは一片の反省も見て取ることは出来ず。それどころか、自らの所業を至極当たり前のものであるように肯定しているかのよう。
 当然、俺の憤りは収まらない。

「そんなん俺じゃなくてミゲル辺りに行かせときゃいいじゃねぇか! 俺はただでさえあの暴虐姫とは相性悪いんだからよ! つーか、とりあえず謝れ、お前! 俺に謝れ! 最悪、遺憾の意くらいは表明しろ!」

「ミゲル、か……。貴様、アレが昨晩何をしていたか知っているか……?」

 途端、苦虫を噛み潰したような表情になるフランシスカ。中々にレアな表情だ。
 と同時に、それがあまり良くない感情に起因するものであることもなんとなく分かる。例えるならば……不機嫌?
 本能が警鐘を鳴らし、俺は慎重策を採用する。

「……ミゲルがどうかしたのか?」

「使い物にならない」

「いや、そんなことは今更言わなくても誰だって知って――」

「違う。ただでさえ使えないアレが、今日は輪を掛けて使い物にならない。酒の匂いを撒き散らしながら顔を出したと思ったら、頭が痛いと言い出し、厠に篭って一時間も出てこない。アレは一体何をしにここに来ているんだ? とりあえず、この後事情聴取をして、場合によっては灸を据えねばならん。なので、今回は貴様が行け。命令だ」

 怒っている。
 それは火口深くで蠢くマグマのように。静かにではあるが、確実に――怒っている。

 そういえば、ミゲルのヤツ昨夜はグダグダになってたもんな……。
 一応、部屋に放り込む前に大量の生理食塩水を飲ませておいたんだが。

 にしても、だ。
 これ事情聴取とかでミゲルがゲロっちまったら、俺までとばっちり食らうんじゃねぇのか……。いや、間違いない。一緒に飲んでいた俺にまで累が及ぶだろう。

 となると、背に腹は代えられない。
 ここは大人しくフランシスカの命に従っておいて、少しでも心象を良くしておくのが得策だ。もしかしたら、そのまま街に出る必要が生じる話かもしれないし、そうなれば俺が小言を言われるタイミングは消える。
 仕方ない。そうしておくか……。

「わーったよ。んじゃ俺はちょっくら姫さんのところに行ってくるけど、ミゲルのヤツ最近虚言癖が酷くなってるから気をつけろな。特に他人に罪を擦り付けようとする最悪の傾向が見られるあたり、ヤツの口から出てくる話は全部嘘だと疑って掛かった方がいいぞ」

 一応、予防線は張っておく。備えあれば憂いなし。

「嘘などとは……どこまでも騎士道精神に悖る行いだな……。了解した。そちらはそちらで己が務めを精一杯果たして来い。カタリーナ様が直々に用を言い付けるということは、貴様がそれだけ信頼されているということだ。その信頼を裏切るような真似はするなよ。分かったのなら、早く行け」

 やたら暑苦しい、でもどこかズレた激励の言葉を背に、俺は詰所を後にする。

 にしても――。

「……信頼ではないと思うぞ」

 どっちかと言えば、嫌がらせの類だと思う。言い掛かり、虐め、いびり――まぁ何でもいいんだけど。

 中々前に進もうとはしない足を叱咤しつつ、俺はこの島で一番気が乗らない場所――総督執務室へと足を運ぶことにした。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「呼ばれたんで来たぞ、オラ!」

 勢いよく扉を開くと同時、無駄に豪奢な装飾がガチャガチャと耳障りな音を立て、俺の来訪を告げる。
 本来ならノッカーを叩くことでお伺いを立てるのが礼儀なんだろうが、そこは俺。わざわざ出向いてやったってのに、そんな配慮をしてやる必要なんかない。むしろ、三つ指突いてお出迎えされてもいいくらいだ。あ、やっぱそれはなし。あの女がそんな殊勝な真似をしやがってる姿を想像したら、軽く鳥肌が立った。

 奥にある執務室の方から軽い足音が近付いてくる。
 それは擬音にするなら、とてとてとて、って感じ。決して急いでいるわけでもなく、かといってのんびりと構えているわけでもなく。なんつーか、歩幅の足りなさを回転数で補っている姿が聴覚を通して如実に伝わってくるような足音。
 その音源に向かって呼び掛ける。

「おいコラ、アオムシ! 御客様がいらっしゃってるんだから、もっと急げ! つーか、むしろドアの前で彫像の如く予め控えてやがれ!」

「…………」

 とてとてとて、が、ぼてぼてぼて、へと変化する。ヤロー、回転数で補うことすら諦めやがった。
 だけど、気配は一歩一歩確実にこちらへと近付いてきて――。

「……遅い」

 執務室と応接室とを繋ぐ扉がゆっくりと流れるように開けられ。
 その隙間から一対の恨みがましい視線が俺を射抜く。

 にしても。
 開口一番に『遅い』と言われるのは、今日だけでこれが二度目だ。
 必要以上に時間に厳しいってのは、スピード化が著しい“あっち”特有の悪弊だと思っていたが、どうやらそんなこともないらしい。人という種は結局、いつの時代もいっぱいいっぱいで生きてるってことかね? 多分違うけど。

「俺に言うな、この駄メイド。どうしても不満だというのなら、口角泡を飛ばしながらフランシスカに文句つけて来い」

「モンモンが悪い」

「あァ? なにキッパリと断言してくれちゃってんだ、この寸足らず」

「……今の呼称からは強烈な悪意を感じた。説明せよ、モンモン」

 扉の向こうからこちら側へと滑り込ませるように身体を移し、一人前にも険のある視線を送ってきやがる。

 そこに現れたのは、一人の少女。
 いや、ぶっちゃけると、少女と形容するには些か幼く、発育を見てもそれは顕著であるわけで。こういった場合の形容としては、適切な言葉が他にあり――たとえば蝶が蛹と化するその前段階、成虫である蝶との対比からそれを幼虫と称したりする。人間の成虫が青年期以上で人間の蛹が少年期を指すとするならば、その前段階の人間は幼年期と呼ぶに相応しい。
 そういう迂遠な思考を辿った上での“幼女”なる存在が彼女。

 その幼女の身を守るは黒と白とのモノトーン。
 黒は無垢であるが故の残酷さ。白は無垢であるが故の純真さ。その二色が絶妙な按配で配置され、その有り様は正に“幼女”そのものであるかのよう。
 見た目のコントラストが目に優しきそれは、今クラシカルな調べを携えて――。

「……めんどくさくなった」

 ロリでメイド。以上。

「一人で何を呟いている。遂に人と猿との境界線を越えたのか、モンモン?」

 追加。あと毒舌。

「アオムシ、お前最近益々カタリーナに似てきてるぞ。つか、だいぶ手遅れになりかけちまってるし、いっそ諦めて老後の寂しい人生に備えたほうがいいのかもしんねぇけど」

「私が……カタリーナ様に……!?」

 いや、そこは喜色満面の笑みを浮かべるようなところじゃない。むしろ悲嘆に暮れるべきところだ。
 まぁそんなことを今更説いたところで、彼女が自らの主人に向ける尊敬の念は微塵も揺らがないだろう。いや、それは既に尊敬などという段階は通り過ぎている。あえて当てはまる言葉を探すのだとすれば、それは“崇拝”だ。
 眼前の幼女は、彼女の主人の為ならば、自分の命をも路傍の石へと変えてしまえる。しかも、それを無上の喜びと感じながら。“彼女”という概念は、“カタリーナ”という上位概念に包括されており、その一存によっていかなる形へも姿を変えるのだ。
 これを崇拝と呼ばずして、何と呼ぶんだろう。

 その黒目がちな大きな瞳を輝かせ、俺の憎まれ口に恍惚とした反応を見せる“いと小さき暴君”。恐らくは主人を真似たのだろう、複雑に編み込まれた髪の毛が束になって跳ね回る。
 彼女は名を持たない。これは何かの暗喩でもなんでもなく、本当に名を持っていないんだ。
 俺は『アオムシ』と呼ぶ。カタリーナは『貴女』と呼ぶ。フランシスカは『メイド』と。皆が皆、それぞれに異なった呼称で彼女を表す。
 なぜ彼女に名がないのか――なんてことは考えても仕方がない。
 事実は事実としてそこにあって。そして、過去は過去として動かせない。

 アオムシは誠心誠意を以てカタリーナに尽くす。それは傍から見ていても、かなり異常だと感じるほどに。
 主人と侍従というのは、物語の中で語られるような綺麗な関係では決してない。俺も“こっち”にやって来て初めて知ったことではあるけれど、それは一方的な支配と一方的な隷属だ。それこそ生殺与奪その全てに於いて、その関係が適用される。
 だからこそ、“仮面”を被り、その裏で涙を流す侍従は多いんだ。そして“機会”さえあれば、従来の関係は簡単に破棄される。片方がその価値を認めていないが故に。
 だけど――。

 カタリーナとアオムシとの関係は、俺にはよく分からない。

 極度の人間嫌いと表現してもいいほどに、自らの周囲に人を寄せ付けないカタリーナ。
 彼女が執務室の椅子に腰掛けた時、まず最初に行ったのは総督府における人員の削減だったという。それこそ必要最低限にも満たないと思われる少数のみを残して、あとの者はすべて暇を出されたらしい。
 そんな彼女が、アオムシを自らの唯一の侍従として認めているということ。そこにある思惑は読めない。

 アオムシの側に関しては、言わずもがな。
 彼女に“仮面”は必要ない。

 そう、その主従の在り方は、少しだけ変わっている。いや、違う。かなり“間違って”いる。
 俺の貧弱な語彙では正確に表すことなんて出来ないけれど、敢えて言うのならば“正し”過ぎる。歪が常であるならば、正は異常なんだ。だからこそ引っ掛かりを覚える。得体の知れない気持ち悪さに襲われる。
 でも、俺がいくら考えたところで、その答えを得られようはずもなく。

 まぁ、それを知ったからって俺に何か益があるってわけでもないんだけど――。

「おい、聞いてるのか?」


 不機嫌そうなアオムシの声。
 意識が表層へと引き戻される。

「あ? 聞いてたぞ。あれだろ、アオムシが昨日オナニーを初体験したって話だろ?」

「確かにそれはその通りだが、私がモンモンに言っていたこととは違う」

「……マジか?」

 なんというディープインパクト。藪を突いて蛇が出た?

「マジなわけがないだろう。私の性器は蕾だ。未だ咲き誇る快感を知らない」

 なんだこのセキララな“ちんちくりん”は。

「……お前はアレだな。フランシスカなんかとは逆の意味で男に縁がなくなりそうなタイプだな」

 堅物ではないが、それでも確実に男を退かせる術を会得してやがる。幻想を壊す、という方法もまた、有効な手段であることには間違いないんだから。
 つーか、なんで俺の周りってのは、こうも癖のある女が多いんだか……。

「それでいい。カタリーナ様にお仕え出来てさえいれば、私はそれで幸せだ」

 どこまでも忠誠心に溢れているというか何というか――コイツ実はバカなんじゃないか?
 バカ正直、クソ真面目。そんな類の人間であることは間違いないだろう。その辺、どことなくジョルジュに通じるものを感じないでもない。

「まぁそんなことはどうでもいいか。お前がなんであんなのを慕っているのかは分からんが、破綻者同士にしか築けない絆ってのもあるんだろうしな。で、お前さっき俺になんて言ってたわけ? 正直俺も暇じゃねぇし、やること済ましてさっさとここから出て行きたいんだが」

 そもそもここには呼び出されたから来たんであって、アオムシと話をしに来たわけじゃねぇ。つか、あんまり悠長にしてると、詰所方面から死神がやって来そうだ。ミゲルのヤツ、口の方も早漏だからなぁ……。

 俺の問い掛けを受けて、アオムシは二度三度と目を瞬かせ、何かを思い出したように掌をぽんと合わせる。

「カタリーナ様から『私が来るまで応接室にて待つように』との仰せだ」

「……ハァ? そっちから呼び出しといて、それはちょっとねぇんじゃねぇの。つか、どのくらい待てばいいんだ? それまでは適当にその辺で時間潰してくっからさぁ」

「知らん」

「あ?」

「カタリーナ様がこちらに来られるまで、だ。私などにカタリーナ様の御心が解せようはずもないし、どれだけの時が必要かなど分かるはずがないだろう。だから、モンモンはカタリーナ様がお見えになるまで、そこで待ち惚けていればいい。ただ朽ちるのを待つ案山子のように立ち尽くしていろ」

「……御主人様に宜しく言っといてくれ。『用があるんならテメェから来やがれ』ってさ」

 もうね、なんつーか色んな意味で話にならん。
 こっちは出頭要請に応じてやったのに、その上待たせようとはいい度胸してやがる。しかも、相手は俺だぞ。この俺なんだぞ。だというのに、ご足労戴くことへの感謝の念すら微塵も感じられないってのは、これいかに。

 踵を返して、扉に向かって歩き出す。

「待て」

 無視。

「待て二度目」

 無視無視。

「待て三度目」

 無視無視無――

「もし帰ったら、モンモンの昨夜の所業を余すところなくフランシスカ様に言い付ける」

 期せずして足が止まった。
 ゆっくりと背後を振り返りながら、口を開く。

「……何のことだ?」

「私は知っている。モンモンとジョルジュとその他一名とが、深夜に及ぶまでお酒を酌み交わしていたことを。確か近衛の隊規では、深酒はご法度だったはず」

「……何が目当てだ?」

「さぁ……でも、これをフランシスカ様のお耳に入れれば、きっと何か愉快なことが起こるだろうことは分かる」

 あくまでも淡々とした口調で。でも、その双眸には邪悪な光を湛えながら、チクリ魔予備軍が俺を伺う。
 こんにゃろう、いっちょ前に強請ってきやがった。チビのくせにいい根性してやがる。
 決めた。いつか絶対に泣かしてやろう。洗濯に出したはずの御自慢の一張羅が膝上30センチの超絶ミニになっている日を心待ちにしてやがれ。ついでに彩色バランスを完全に無視したビビッドな先鋭アートに成り代わってしまったとしても、俺は知らんぞ。

 だから、しゃーねぇが、今は負けといてやろう。

「わーった、わーった! 待ってりゃいいんだろ、待ってりゃよぉ! 待っててやるから、かったりぃな様に早く来るように言ってこい!」

「む……今のイントネーションには、どことなくカタリーナ様を愚弄するような響きを感じた」

 いちいち目敏いヤツ。これじゃ、ちょっとした意趣返しすら出来やしねぇ。

「あーもうそんなのはどうでもいいから、とにかく早く仕事を切り上げさせろ。じゃねぇと、こっちの機嫌が悪くなるぞ。言っとくが、俺は人に待たされるのは、マジで嫌いだからな」

 アオムシに催促しながら、応接室にあるソファーの許へと足を進め、どっかりと腰を下ろ――

「ちょっと待て!」

 そうとした瞬間に、制止の声が掛かった。
 
 一体何が起きた? 
 アオムシにしてはあまりにも珍しい荒い語気。コイツがここまで強い口調で喋るのなんて、俺は殆ど見たことがない。頭の片隅から強いて引っ張り出すとすれば、コイツがカタリーナの為に淹れた紅茶にティースプーン一杯分の粗挽き胡椒を豪快にブチ込んだ時くらいだ。あの時は二重の意味で怒られた。うん、香辛料高いからね、この時代。

 いやまぁそんな心温まる過去回想は又の機会に置いておくとして。

「どうした? 天変地異の前触れか? お前、実は伝承の“ふかき者たち”の末裔だったとかってオチか?」

「いいか? そこを動くなよ。絶対に動くなよ」

「ぶっちゃけそれは『動け』と言ってるのと同義……いや、なんでもねぇ」

 なんかさ、ヤベェ目で睨まれた。ポンプ打ってイッちまってるヤツみたいな瞳孔が開き切った目。普段は大人しいヤツがこういう目をする時ってのは、大概が厄介だ。
 と思いきや、アオムシは素早く踵を返し、部屋を飛び出していく。いつものとてとて歩きじゃなく、ダッシュで。

 つーか、一体なんなんだよ、マジで……。

 で、まぁ三分くらい突っ立ってたら、アオムシが息を切らしながら戻ってきた。どうやら本気で全力疾走カマしたらしい。額にはうっすらと汗が滲み、肩が大きく上下している。
 そして、その両手で抱えられている布切れ。布切れっていうか、どっちかというと毛布に近い厚手のもの。しかもデカい。

「どこ行ってたんだ?」

 アオムシは返答を寄越すことなく、その布切れを革張りのソファーに丁寧に掛けて――。

「よし、座っていいぞ」

 一仕事終えたかのような満足そうな表情を浮かべる。
 正直、全然意図が分からんのだが――いや待て、これはまさかそういうことなのか……?

 布切れを捲って、ソファーに直接座ろうとする。
 と、隣から素早く手が伸びてきて、捲られた布切れを元の位置へと整え直す。
 捲る。
 整える。
 捲る。
 整える。
 捲――。

「……いい加減にしろよ、テメェ」

「それは私の台詞だ」

 俺が凄んでみせようと、アオムシは一歩も退かない。それはコイツが鈍いからなのか、それとも俺の迫力が足りないからなのか。
 それはいいとして、ガキに対して本気で張り合ってる自分を客観的に幻視してしまった瞬間、なんだか色々とどうでもよくなってきた。どうやら“こっち”に来て以来、俺の性格が変わってしまっている気がする。昔ならこういった煩わしい遣り取りに身を委ねるような、そんな子供染みた真似はしなかった。

 一つ嘆息して、布切れの上に腰掛ける。
 それを見たアオムシも安堵したように一つ大きく息を吐くが、しかしその瞳に浮かぶ警戒の色は消えない。

「……で、お前は何がしたかったんだ?」

 俺の問い掛けに対し、彼女は少しだけ逡巡するように目を泳がせて――。

「ソファーが穢れ……汚れるから……」

「僅かなニュアンスの違いごときで本質的な悪意までは誤魔化せないと自覚しろ!」

「じゃ、次にここに座った人が変な病気に罹るかもしれない」

「……お前は俺を何かの保菌者だと勘違いしていないか?」

「分かった、正直に言う。掃除をする時に、モンモンのお尻が乗ってたところに触りたくない」

「なんでも正直に言やーいいってモンじゃねぇんだよ!」

 これは屈辱。

 普段ミゲルに対してやってることを自分が食らうとは思わなかった。
 アイツは今まで斯くも大きな屈辱に耐えてきたんだな。あのヘラヘラした笑顔の裏には、きっと泣き顔があったに違いない。三枚目的なひょうきんな言動を隠れ蓑に、一人ひっそりと涙していたというのか……。
 俺はその一点だけに於いても、アイツのことを尊敬――。

「……するわきゃねぇだろ、んなモン」

「どうした? 気が触れたか? ならば良いことを教えてやろう。そこの窓から飛び降りてみるとだな、それはそれは綺麗な花畑の景色が――あぁぁぁ! あ……ぁ……ぁぁ……」

 アオムシが悲痛の声を上げる。

 それもそのはず。
 俺が布切れを撥ね退けて、ソファーに座り直したんだから。ついでに言うと、ズボンを下ろして。もう一つ付け加えれば、パンツも下ろして。分かり易く言えば、ケツでチョクに。

「な、な、なんてこと……。そんな……」

 人には誰しも大切なモノがある。譲れない思いってモンがある。それは一種の聖域のようなもので、他者に踏み込まれるのは自らの身を削られるような痛みを伴う。
 カタリーナの侍従たるアオムシは、この部屋の清掃を決して他人には任せないという。それは自らの責務であると捉えているから。

 応接室とは顔。その在り様が主人の評価へと直結することだってある。
 だから、彼女は他人の手が自らの責の領域に入ってくることを頑なに拒むのだ。そこに存在する全ての物は彼女にとって金で出来ているにも等しく、不可視の塵芥ですらその存在は許されない。

「あ……ぁ……ぁ……ぁ……」

 聖域を土足で躙られたことへの彼女の悲嘆。それは深く。まるで“終わり”を迎えんとするかのような絶望で。普段の彼女からは考えられないほどの生気の抜けた表情は、それが紛れもなく彼女にとっての“痛み”であったことを如実に示していて。

 だから――。

 だから、それを見た俺は思わず――。

「はっははははっ! ざまぁ見やがれってんだ!」

 心底からの快哉を叫ぶ。
 なんと愉快。なんと痛快。超キモチイイ。

「おい、ちったァ気ィ利かせて茶くらい出せや、お茶汲み係」

 その言葉に、アオムシは涙の溜まった瞳でじっと俺を凝視して――。

 次の瞬間、“戦争”が勃発した。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「待たせたわね」

 暫く後、いつものように背筋を伸ばして颯爽と現れた第三者による無言の介入により、“戦争”は和平を余儀なくされた。
 アオムシのヤツもいつもの調子に戻り、カタリーナの背後で彫像のように直立している。もっとも、その心中は推し量るに容易ではあるのだが。

「普通はその後に連なるべき文言があると思うんだが、どうよ?」

「悪かったわ。謝罪します」

 俺を一瞥し、存外に素直な形で謝罪の意を表すカタリーナ。まぁその表情は誠心誠意謝っている人間のそれではなく、あくまでも事務的なそれではあるが。
 だけど、それだけでも驚きには値する。なんとなく『許さん』と言える雰囲気ではなくなってしまった。

「アンタも他人に謝ったりすることあんだな。多分その方が周りからの受けは良くなるんじゃねぇの?」

「興味がないわ。不毛な押問答に時間を費やしてしまうのは避けたいだけよ」

「そういうことは心に秘めるものであって、わざわざ面と向かって直言するべきじゃないと思うんだが……。まぁいいや。俺だってアンタと長時間の会話は避けたいし、遅れたのは許してやっから、さっさと用件を言え」

 あ、今アオムシのヤツがピクッてした。
 大方、『カタリーナ様に何たる無礼な――』みたいなことを考えているんだろう。そして、そんな憤りが数知れず積み重なり、俺との関係はより一層悪化していく、と。昨日よりも今日、今日よりも明日――なんて言葉だけなら矢鱈と前向きなんだけど、この場合には全然ロクなことじゃない。

 でも、カタリーナ本人は俺の言を気にする素振りもなく。

「それは同感ね。ならば、用件を告げましょう」

 表情を微塵も動かさず、ただいつも通りの無味乾燥な声色で。

「ドザエモン、貴方には本日より港湾地域の警邏及び入港船舶の検査を命じます。必要なのであれば一隊を編成して当たっても構いません」

 俺にそう命じる。
 その内容は簡潔にして明瞭。『5W1H』のうち、『Why』以外の全ての要素について網羅した内容。俺にしたって、彼女の命の内容は理解した。
 だけど――。

「港の巡察と船舶検査? おいおいおい、そりゃ近衛の仕事じゃねぇだろ。思いっきりシタのヤツらの管轄じゃねぇか。俺らが出張ってったら、また要らん軋轢とか生んじゃうんじゃねぇの?」

 そう、近衛とは本来『近きにて衛るもの』。至上にして唯一の任を請け負ったその組織は、他の軍組織から一種独立し、であるが故に己が分を踏み越えることは禁忌。そして、それはこの島においても変わらず。近衛の運用に関しては、その“本来”の姿に則っていたはずで。

 ならば、なぜ――という問いが口を突くのは避けられない。

「答えの分かり切っている問いを為すのは愚者の業よ、ドザエモン」

 カタリーナは少しだけ口角を上げて、どうしようもなく“らしい”返答を寄越す。まるで『こんなことすら分からないの?』とでも言いたげな挑発的な態度。相も変わらず刺々しい女だ。
 この程度の遣り取りには大分慣れたとはいえ、それでも思わずムッとしてしまう。

「ああもう! 愚者だろうがバカモンだろうがそんなんは何だっていいから、とりあえず理由を教えろ、理由を! じゃねぇと、そんな曖昧な命令が聞けるわきゃねぇだろうが!」

 アオムシが再び小さく反応し、でも堪える。いつものことながら、その一連の葛藤が面白い。

「頭髪の色は変わったのに、察しの悪さは少しも変わらないわね……」

「いやそれ全然関係ないから。ただ、ブリーチしてたのが伸びちまっただけだから」

 見事にプリンっちまってることに気付いた時には流石に凹んだ。そして、即刻髪を切った。今じゃ思いっきりブラッキーだ。『あなたはどこのお坊ちゃんですか?』っつーくらいに黒々してる。
 いや、そんなこと、今この瞬間には全然必要ない情報なんだけどな。

「で、なんでシタの縄張りをわざわざ俺が荒らしに行かなきゃなんないって? アイツら、弱ぇくせにプライドだきゃ人一倍なんで、あんま関わりたくねぇんだけどさ」

 流石に手を出してくることはないだろうが、ねちねちと絡まれるのも精神衛生上宜しくない。思わずブン殴ったりしちまった日には、きっと俺がこっぴどく説教される。

「ま、んなわけでシタの連中じゃ都合が悪いって話でもなきゃ、正直アイツらにやらせといた方がいい。その方が面倒も少ねぇし、なにより俺も気が楽だ。アンタだってこの島のトップなんだったら、シタの連中にも少しくらい気ぃ遣って――」

「私が信頼しているのは私自身と近衛のみだから、よ」

 相も変わらぬ豪奢な美貌。ジゼルやフランシスカも余裕で“美人”の範疇には含まれるだろうが、彼女らと比較してもカタリーナのそれは群を抜く。
 卵型の綺麗な輪郭の中央に位置するライトブラウンの瞳は、寒気を生じさせるような一種独特の怜悧を湛え。鼻、口、耳、眉――その他考え付くばかりのパーツはその各々が一つの造形美とも表現してしまえそうで。それらが完璧なバランスで配置されている様は、まるで意匠を凝らした一枚の芸術だ。その芸術は軽く波打った輝くアッシュブラウンの額縁に納められ――静かなる苛烈さを以て見る者を威圧する。
 すらりと伸びた手足。絹のドレスを押し上げる豊かな双丘の膨らみ。男という男を虜にし、そしてその全てを吸い尽くしてしまわんかのような身体。
 ある者は彼女を“聖母”に例え。また、ある者は“魔女”に例える。そんな危うい両義を身に宿した女。

 その彼女――カタリーナの口から飛び出した言葉は俺にとって些か意外なもので、思わず虚を突かれてしまう。

「はぃ?」

「理由よ。それで必要十分に達していると思うけれど」

 まるで吐き捨てるかのように。滲む不愉快の色を隠そうともせず。
 カタリーナはそう告げる。

「……どういう意味だ?」

 ああ、“そういうこと”か……。
 一瞬、面食らってしまったけれど、よくよく考えれば、これ以上なく端的な答えだ。
 理由は分かった。彼女の言を逆説的に捉えるならば、きっと“そういうこと”なんだろう。
 だけど、それは俺の口から言っていいものなのか憚られて――。

「つまり、それ以外の人間を私は一切信用していない」

「……言い切ったな」

「ええ。この私が、一体誰に対して、遠慮する必要があるというの?」

 取り立てて声を潜める素振りもなく。
 ただ日常会話を交わすような気軽さで。
 だけど、そこには少しばかりの苛立ちを含みながら――。

 彼女は“断言”した。

「それで近衛に、か……」

 強い女だ。
 強すぎる女だ。

 一つ大きく息を吐く。
 肺臓から口腔へ、口腔から大気中へ――そんな呼気の流れ。ゆらゆらと漂う呼気は、この部屋の大気と一体化して“薄まる”のだろう。流れた末に大勢に同化するんだ。

 息を吸う。
 それは先の呼気と変わらぬものに見えるけれど、厳密に捉えればそれはやはり“違う”もの。その行程を繰り返せば繰り返すほどに、その“違い”は際立っていき。そして、最終的には酸素の含有量の少ない濁った空気へと姿を変える。それは、部屋の大気そのものが変質してしまう、ということだ。

「理由は理解できたかしら?」

「まぁ、な」

「頼んでもいいかしら?」

 その変質を避けたいならば――含まれる酸素量を取り戻したいのならば、どうすればいい?
 簡単だ。“換気”をすればいい。より上位の大勢に同化させて“薄めて”しまえばいい。厳密にはやはり最初の状態とは異なるけれど、その“違い”を感じることはない程度には元に戻るのだから。

 つまりがそういうこと。
 そして、彼女が俺に任せようとしている役割は“窓を開く”ことだ。

「しゃーねぇなぁ。やりたくねぇってのが本音のトコなんだけど、アンタがそれを許すとも思えねぇし……。そもそもが“依頼”じゃなくて“命令”じゃねぇか、白々しい。とりあえず、近衛からミゲルやら何人かは俺が借りるぞ。フランシスカに文句言われたら、アンタの許可を得たって言っとくからな。あ、頭脳労働担当できるヤツも必要ってことで、ジョルジュも借りてくけどいいか?」

「必要ならば構わないわ」

「あっそ。じゃ借りてく」

 しゃーねぇなぁ……俺も。
 マジで救いようがない。本気でどうしようもない。

 だって、なんでこんなにワクワクしちまってるんだっつーの?
 なんでこうも自分のニヤケ面が想像できちまうんだっつーの?

「私は命令を為したわよ。貴方は結果を見せなさい」

「バッカ、テメェ誰に向かってモノ言ってんだ? 俺に泣きながら『抱いてくれ』って言っちまうくらいの結果を投げてやるから、アンタは邪魔になんねぇようにここでジッとしてやがれ!」

 結局、俺は変わってない。
 どれだけ歳を重ねても、どれだけ立派な仕事に着いても、どれだけ多くの仲間が出来ても――根元のところは全く一緒。だからこそ、こんな話を聞かされて、こんなにも血を沸き立たせてる。暴力の予感に震えるほどに歓喜してる。

 そして――。
 俺は、こんな俺のことが――反吐が出るほど大好きだ。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「あの……カタリーナ様……わた、私のこと……信頼……」

「あら、どうしたの?」

「私……近衛じゃなくて……だから……その……」

「言葉を濁しては、貴女の意図は伝わらないわよ」

「おいおい、アオムシが泣きそうになってんじゃねぇか。ひょっとしてアンタ、案外鈍い?」

「どうして私が貴方ごとき愚物から斯様な物言いをされなくてはならないのかしら?」

「『私が信頼しているのは私自身と近衛のみだから、よ』。さっきアンタが言った台詞だ。アオムシはアンタの後ろでずっと涙目になってたぞ」

「それがなんで……ああ、そういうこと……」

「カタリーナ様……私は……」

「貴女のことは当然信頼しているわ。でなければ、私が傍に置くはずもないでしょう? そんな下らない思考で頭を悩ます時間があるのなら、もっと有意義に時間を使いなさい」

「はいっ! お飲み物を用意して参りますっ、カタリーナ様!」

「いい具合に調教されてんなぁ、アレ……」



[9233] Chapter1 Scene3
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:c7183ae6
Date: 2010/02/07 21:04
「で、こん中から怪しい船を特定しろって……? ぶっちゃけ絶対無理だろ……」

 舌打ちしたい気分を抑えながら、独り言を口走る。

 今、俺がいるのは、この島唯一にして最大の商港。
 今年蔵出し分のワインの貿易が解禁された今日この日、その味に儲けを見込んだ数多の商船が海原を越えてやって来ている。マディラ港が一年で最も忙しくなる一日だ。
 実際、ここから視認できるだけでも、その数は三桁を下らない。立派な服を纏った商人たちが舳先から大声で指示を出し、その声に応えるかのように雇われ水夫たちが荷を担いで走り回っている。運んで来た荷を捌き、その空いたスペースに樽詰めされたワインを次々に運び入れていく様は圧巻の一言。

 商人たちが先を争うようにワインを買い付けているのには、実は理由がある。
 カタリーナの施策により、その年間取引量に制限が掛けられているのだ。つまりは取引量が上限に達した段階で、それ以上この島から名産品を持ち出すことは適わない。だからこそ、解禁日の港は常に怒号が飛び交い、戦場に匹敵するのではないかと思われるほどの殺伐感が場を支配するのだ。

 なぜ、カタリーナはそんな施策を打ったのか――それをジョルジュに訊ねたことがある。
 答えは至ってシンプルで的を射たものだった。
 彼女はマディラワインのブランド価値を高めたかったのだ。価格とは商品の品質のみによって決定されるわけではない。そこには付加価値という要素が関わり、それは時として商品自体の質を超越するほどに大きく価格を左右するのだ。その付加価値の一つとして挙げられるのが、稀少性。つまりは入手が困難である、というハードル。
 だからこそ、カタリーナは二年を費やして綿密に市場を調査し、需要に対する供給を絞ることにしたのだ。勿論絞りすぎれば、それはそれで本末転倒。ワインは喉に流し込まれてナンボではあるし、そうでないとマディラ産の優位性はアピールできない。現状、そのバランスは絶妙とも言える按配で定められており、取引量を制限したにも関わらず、その純利益はここ数年右肩上がりを続けている。

 つくづく才に恵まれた女だと思う。
 『この島は彼女の存在で持っている』なんて揶揄を耳にすることはあるが、それは強ち間違っているとも思えない。
 政治、商業、軍事――その何れに於いても、カタリーナにはセンスがある。万能であると言ってもよい。
 そして、このマディラはその『万能の天才』の手によって動かされている。島全体に関わる大きな決定が為される時、その全ては彼女の手に委ねられ。最後に何かを動かす際には、その独断に頼り切る。それは問題が起こった際にも同様で。

 独裁者――そんな言葉が脳裏に過ぎってしまうくらいには。
 マディラという名のこの島は、なるほど彼女の実質的な“所有物”であるに違いない。その存在そのものが動力源であること――それは疑うべくもないのだから。

「だからこそ、ヤツが際限なく調子に乗っちまうんだけどな……」

「ん? どうした、ドザエモン? なんか暗い顔しちゃってさぁ……ハッ! お前まさか姫様に――」

「それはもう聞き飽きたぞ、零細葡萄農家の三男坊」

 この島の現状を憂う俺の独り言に対し、バカの一つ覚えとばかりにツッコもうとするミゲルを切って捨てる。
 ミゲルの借入については、スムーズに話が通った。つーか、貸出主に軽く感謝された。それくらい、今日のコイツは最悪だったみたいだ。なんせ俺が詰所に戻った時には、フランシスカが素で頭を抱えてたくらいだから、後は推して知るべし。

「なんか家族単位ですげー悪く言われてる気がする……」

「気のせいだ。で、例の件なんだが……ミゲル、何か気付いたことはあるか?」

「うんにゃ、全然。むしろ、潮の匂いのせいでまた吐き気が……」

「帰れおまえ」

「ひどっ!」

 酷くはない。俺からすれば当然の言い分だ。
 つーか、流石にここまで酒が残ってるとは思いもしなかった。そんなになるまで飲むな、ってのは今更なんだろうが、せめて次の日の職務に差し障らない程度のアルコール分解酵素は所有していて欲しかった。

「にしても……こりゃ結構メンドイぞ。いくらなんでも虱潰しに全部に当たっていくってのは無理だろうし、仮に可能だったとしてもやりたくないしな……」

 そんなボヤキが出てくるくらいにはお手上げ状態。そもそも取っ掛かりすら見えない状況で、一体何に頭悩ませればいいのかすら分からない。

 積荷を抱え、目の前を行き来する日焼けした顔、顔、顔。あちらでも、こちらでも。そちらでも、どちらでも。まるで働き蟻のように休むことなく運び続ける。
 “海に生きる男”なんて響きだけはカッコイイが、その実は額に汗する陸生生物。肉体労働で日銭を稼ぎ、その金を『飲む・打つ・買う』によって寄港先へと還流し、次の港で再び同じタームを繰り返す。
 刹那的で享楽的で退廃的に――彼らは自らの生を彩る。そう、現実ってのは所詮“その程度”のモンだってことを、男たちはその身を以て示しているのかもしれない。

「うぇっぷ……おぇ……」

「……最悪飲み込めよ」

 顔面蒼白で俯くミゲルに釘を刺す。
 近衛の制服を着た男が街中で嘔吐した、なんて噂がフランシスカに知れた日には、きっと彼女は怒髪天を突かんばかりの怒りを現出させるだろう。その怒りの矛先が当人のみに向くのなら構わないが、俺までその荒れ狂う奔流に巻き込まれちまう公算が高いってトコが問題だ。

「分か……うぅ……」

「誰だよ、こんなになるまでコイツに飲ませたバカは?」

「いやそれドザエモンだから……あぅ……」

「テメ、嘘コイてんじゃねぇぞ。俺は積極的に飲ませるような真似をした覚えはねぇぞ。どっちかってーと、『あーコイツ明日やべーなー』と思いながらも、少し離れた場所で他人のフリして傍観するスタンスだった」

「そういう消極的肯定は、加害の一形態であることを胸に刻んでいただきたい。てか、ちょっと待って、ねぇ、なんで他人のフリ!?」

「いやさ、困るじゃん?」

「何が!?」

「聞かないほうがいいと思うが……知りたいのか? 俺も無為に人を傷付ける趣味はないんだが……」

「そんなこと言われると余計に気になるから! ねぇなに、何が困るの!?」

「……一緒にはしゃいだりしてると、お前と友達だって誤解されそうでなぁ」

「いやそれ誤解じゃないから! 誤解だとしても甘んじて受けるに値するそれだから! ぶっちゃけオレとドザエモンは親友じゃんか!」

「…………え?」

「えぇぇぇ、なになになんなの!? まるで『ヤベ、コイツ俺のことを友達だってマジで思ってやがる。予想もしなかった勘違いっぷりにリアクションが取れねぇよ。俺は一体どう返せばいいんだ?』みたいなリアクションはさ!?」

「よく分かってんじゃねぇか。お前サトリの才能あるぞ」

「うわあああぁぁぁん! ドザエモンのせいでオレは傷付いた! 深く深く傷付いた! というわけで、オレは厠で泣いてくる! ついでに粘性のある白濁液を大量に撒き散らかしてくるんだから、他人のお前は着いてくるんじゃねーぞ!」

「あっそ。バイバイ」

 そこは親友であったとしても、絶対着いて行かないと思う。
 それ以前の問題として、公務中にヌクのは如何なモンかと。

「くっそー、こうなったら説教中の団長の香りを思い出して――」

「早く行きやがれ!」

 まぁミゲルにそんなことを言っても今更だ。昨晩分の日課がこなせなかった分、色々と溜まってるものもあるんだろうし。
 オカズの選択については、なんつーかレベルが高すぎるような気がするが、そこはミゲル。『弘法筆を選ばず』ってヤツだ。その道を究めた人間にとっては、五感を刺激するその全てが有用な道具となるってことだろう。

 というわけで。

 ミゲルを送り出した後、相変わらずの狂騒を奏でる船着場を見ながら、一人佇む。こうしていると、その情景が一枚の絵画のように思えてくるから不思議だ。
 俺の記憶の中にある港ってのは、リフトが所狭しと駆け回り、クレーンで吊り上げられた荷が巨大な鉄鋼体の内と外とを行き来する――そんな光景で。だから、五感が捉える情報の中に只一つの機械の姿もなく、駆動音も聞こえず――ってのは今でも割と新鮮だ。
 その原風景は、なんとなく俺の心を安らぎに誘うような、そんな気だってするんだ。

「結局、今んトコ収穫なしか……」

 木を隠すなら森の中。人を隠すなら人ごみの中。そして、船を隠すなら船の中。
 単純ではあるが、その効果の程は高い。少なくとも俺やミゲルを幻惑してしまえるほどには。

 だけど――。

「あれ、ドザエモン一人なんだね。ミゲルも一緒だって聞いてたんだけど」

「ミゲルなら人としての限界に向かって果敢にアタック中だ。まぁヤツのことだから、もう少しすりゃスッキリした顔して帰ってきそうだけどな」

 それによって全ての人間の目を欺けるのか、と問われれば、当然そんな甘いモンではなく。

「……よく分からないけれど、もう少ししたら帰って来るってことでいいのかな? だったら、ご飯でも食べながら作戦会議と洒落込もうか? 時間は少し早い気もするけれど、ジゼルさんの所だったらもう開けてるだろうしね」

「……もう特定できたのか?」

「ああ、船主の名前を一通り洗う程度の作業に、一日なんて掛けていられないからね。姫様から貰った情報と照合しながら辿ってみたけど、思いっきりビンゴだったよ。ま、僕は前線で剣を振るうことが出来ない分、せめてこのくらいは役に立たないと」

「すげぇな」

 その程度の偽装は、それを見破るに長けた人間の手に掛かれば、あっさりと看破される。
 人類史上、数多く演じられてきた騙す側と騙される側との知恵比べ。その帰趨を左右するのは総体ではなく、いつだって突出した一人だ。

 どうやら前哨戦の軍配は俺たちに上がったらしい。
 勿論、相手方もその可能性を考えていないわけではないだろう。“そうなった”場合の次善の策だって用意はしているはずだ。

 だけど、これで向こうも腹を括る必要が出て来た。陰から、裏から、搦め手から――そんな安全地帯はなくなったのだから。ここから先、ヤツらも否応なく俺たちと対峙しなければならなくなるんだ。
 それがこの局所戦に於ける勝利の意味。

「あ、ミゲルが戻って来たみたいだよ」

 ジョルジュが堆く積まれた荷の陰から這い出てきた影を指差し、つられて俺もそちらへと目を向ける。

 ミゲルのヤツが気持ち悪いほどに爽やかな笑顔を振り撒きながら、気持ち悪いほどの綺麗なフォームで、こちらに向かって駆け始めるところだった。
 どうやら厠まで保たなかったらしい。つっても、積荷の陰で――ってのは何ともはや。通報されたら確実にアウトだったはずだ。

「犯罪者になる危険を冒してでも、スッキリしたかったのか、アイツは……」

 水平線の向こうから世界を橙に染める夕陽をバックに、憑き物が落ちたような微笑を浮かべるミゲル。
 その姿はまるで後光の差した伝統彫刻のそれを想起させるかのようで――。

「アイツ死ねばいいのにな、マジで」

 思わず口を突いて出たその台詞は、紛れもなく俺の本音だったに違いない。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 どうやらミゲルの二日酔いも、この時間になってかなり落ち着いてきたらしい。明らかに辛そうだった顔色も、大分いつもの血色を取り戻していた。

 さて、ジゼルの店――『莫連の黄昏亭』なんていう洒脱なのか自虐なのかよく分からない看板が掲げられている――に到着した俺たち。
 ジゼルとガチムチさんの二人と軽い挨拶を交わし、二階にある個室へと足を進める。この個室は、お偉いさんが来た時、もしくは常連が内輪で楽しみたい時くらいにしか貸し出されない。まぁ、一種のVIPルームみたいなモンだと言っていいだろう。
 今回の件については色々と面倒な絡みも出て来そうなので、現状では関係者のみで共有するに留めておくのが好ましい。本来ならば、詰所に戻って団長室辺りで人払いの上話すべきなんだろうけど、それはそれで些か“あからさま”に過ぎる。
 ということで、俺らの行きつけであるジゼルの店が選ばれたってわけだ。その理由の一つに飯と酒が出て来るっつー横着な思惑があったことも、まぁ否定は出来ないけど。

「貴様らは真面目に務めを果たそうという気があるのか……?」

 やって来るなり、開口一番に叱責を飛ばす我らが団長サマ。
 なんとも予想通りのリアクションだ。頭が固いっつーか、むしろ思考が旧時代の遺物と化してしまっているフランシスカにとって、大事な情報共有をこんな街中の店で行うってのは、どうにも理解がし難いらしい。

「遅れて来やがった分際で随分な言い草だな、あァ? 朝っぱらから俺に説教しといて、いきなりこれはねぇんじゃねぇの。いいこと教えてやるが、言行不一致ってのは人の上に立つ人間が一番やっちゃいけねぇことなんだぜ」

「これでも呼び出しを受けてから直ぐにこちらに向かってきたのだが。そもそも、このような場所にまで自分を呼び付けた意図が知りたいものだ。一応確認しておくが、自分は貴様の上役なのだぞ。そのような上下関係に拘泥するつもりは更々ないが、『早く来い』の一言で片付けるのは、やはり礼を失していると言わざるを得んだろう」

「あー、それ? そんなことで怒ってんの、アンタ? 意外と器小せぇなオイ」

「違う。その程度のことで怒ってしまうようなら、自分は今日の日までに数百回は憤死している。自分が気に病んでいるのは、大任を仰せ付かったにも関わらず、緊張感の足りない貴様の態度でだな――」

「じゃあ、一体どうすりゃ御満足いただけるんでしょうか、エライエライ団長閣下は?」

 売り言葉に買い言葉。刺々しい言葉の応酬。
 別にフランシスカのことは嫌いってわけじゃないんだが、顔を合わせると口論になってしまうことが多い。それはきっと互いの価値観ってヤツが真っ向から食い違っちまうせいだろう。

 フランシスカは礼を重んじ、義を貫くを良しとする人間だ。滅私を体現し、ストイックなまでに立場に忠実。何を為すにも、相応しからん形式に従うタイプ。そして、そんな己の価値観を無意識的に他人に押し付けてくる傾向がある。
 俺なんかにとって、そんな彼女の態度は傲慢とは言わないまでも、やはり煙たく感じるのも確かではあって。だって、実を取れればそれでいいだろ? 形式云々なんてのは煩わしいだけの虚飾だ。

 明らかに気分を害した様子で黙り込むフランシスカを見兼ねたのか。
 ジョルジュが俺を軽く肘で小突きながらフォローに入る。

「真に受けることはないさ、フランシスカ。ドザエモンのこれは子供の憎まれ口みたいなものだから。それより悪かったね、忙しいだろうに急に呼び付けたりなんかしてさ。近衛の中にも彼らの息の掛かった連中がいないとも限らないから、念には念を入れて、ということだったんだけど、その辺りは予め説明しておくべきだったね」

 よくもまぁ、そんな爽やかな喋りが出来るもんだ。いつもながらに感心してしまう。口調は柔らかく丁寧でありながら、相手が気にするだろうポイントはちゃんと押さえている。
 流石はマディラでも三本の指に入る論客。ちなみに残り二本のうち一本は例の暴虐姫だ。理詰め理詰めで容赦なく相手を追い込むカタリーナの弁舌とは丸っきりタイプが異なるが、細やかな気を回しながら場に和やかな空気を齎すジョルジュの弁は、厄介な相手を前にした時には最も有用かもしれない。

「……自分も些か過剰な言い様であったかも知れん。その点については反省する。すまぬな。ただ、私とて理由なく街中を動き回れるほど余裕があるわけではないのだ。その辺りも多少は斟酌し、こういう際にはその意図を伝えてくれれば、私としては助かる」

 俺の分析を裏付けるかのように、フランシスカは彼女にしては珍しくあっさりと態度を軟化させる。
 多分、この場にジョルジュがいなかったとしたら、もう暫くはグダグダの泥仕合が展開されていたに違いない。
 そういう意味ではジョルジュに感謝。流石にクーデターの首謀者同士だけあって、俺らには入り込めない信頼みたいなもんが醸成されているのを感じる。

 あ、でもミゲルはいらね。いや、マジで。
 だって、さっきから一言も話さず、完全に空気に同化してやがる。
 説教を食らった手前、藪を突いて蛇を出したくないのか、はたまた一人遊びの材料にしてしまったことからの罪悪感で身の置き所がないのか。どっちもありそうだと思うけど、なんにしても借りてきた猫みたいになってやがる。
 コイツはもう放っといていいか……。

 というわけで、やっとこさ本題へと話を進める。

「あー、その、なんだ、こういう作戦会議みてぇなのって慣れてねぇから何から話していいやらよく分かんねぇんだけどさ……。とりま、怪しい船は特定したっぽいっつーことで――」

「もう特定したのか。予想以上に早いな……」

 思わず漏れたって感じのフランシスカの呟きは、素直に感嘆の色を示していて。
 正直何もしていない俺としては、少しばかりむず痒い。

「ま、こっちにゃ優秀な頭脳労働者がいるからな、ジョルジュ?」

「うん?」

「存分に説明して差し上げてくれ」

 経緯や何やらの説明は俺からは無理。つか、自分がこれっぽっちも噛んでねぇのに、十分に説明できるわけがない。
 そういうわけで、そこらについてはジョルジュの方に全フリさせてもらうことにした。

「あぁ……なるほど」

 その辺の意図が上手く伝わったようだ。
 ジョルジュは一つ大きく頷くと――。

「今回の問題について、まず一つ前提として共有しておくべきは、例の動きは昨今に端を発したものではない、ということかな。これはフランシスカには同意してもらえると思うけれど、既に在る権力の形を覆すというのはそう生易しいものではない。そうだろう?」

「ああ、確かに“そうだった”な……」

 飄々とした問い掛けに対し、フランシスカは少しだけ渋面を作りながら頷く。言葉に実感が篭っていることが傍から見ていても分かるくらい、彼女の同意は弱々しくも確かだった。
 ジョルジュはそれを確認し、なんでもないような調子で説明を続ける。

「勿論、今のマディラの権力構造が完璧だとは僕だって思っていない。そのままで固定化するには歪すぎるし、何より十分な時間を経ていない弱みもある。だけど財政面で一定の成果を挙げ、民衆からの受けだって悪くはないのも事実なんだ。少なくとも、誰かが声を上げれば簡単に倒れる、なんてほどに脆弱ではないと思うし、それはあちらさんだって理解しているだろうね。だとしたら、だ。彼らにとっては、やはり時を掛けるのが上策――いや、ちょっと違うね、時を掛けざるを得ないんだよ」

 いつも以上に持って回ったジョルジュの表現。こうまで回りくどい物言いをしているのは、彼なりの警戒の現れなんだろうか。
 だとすれば、こっちとしてもその意図するところを読み解く為には、一言一句聞き漏らさないようにしなければならない。さっきの言を自分なりに咀嚼しながら、もう一段階気の張り具合を上げる。
 それはフランシスカもミゲルも同様のようで、場は緊張に満ちた静寂に包まれていた。

「そして、そこを踏まえての質問。今年のワイン解禁日――つまり今日、マディラの港に訪れた商船は何隻だと思う、ミゲル?」

「うぇ!? あ……え、オレ……?」

「さっきまで港にいたんだから、大体の目算で構わないよ」

「……百隻くらい?」

「残念ながら、もっと多い。入港許可を申請しているのは、大体三百隻くらいかな。勿論、その全てが現在停泊しているわけではないにしても、少なくとも二百五十は下らないと見ていい」

 ミゲルのヤツは一体何を見ていたんだ? 俺の目算でも少なくとも二百近くはあったぞ。
 つか、うん、きっとナニ的妄想に耽っていただけなんだろう。本気でどうしようもねぇな、この海綿動物は。

「二百五十か……。昨年よりも一割近く多いな。それはそれで結構な話ではあるのだが……だとしても、そんなに多数の中からこんなにも速やかに問題のそれを特定できるものなのか?」

 フランシスカの疑問も尤もだ。
 寄航中の『二百五十隻』というのは言葉に出せば只の数字に過ぎないが、その中から“探し物”を見つけ出すには少しばかり骨の折れる数字でもある。“二百五十分の一”はパーセンテージに直せば中々に厳しい確率だし、対象が二隻であればそこから更に二百四十九分の一を乗算して“六万二千二百五十分の一”なんていう半ば天文学的確率に達する。これが三隻、四隻と増えた場合のことなんて、とてもじゃないが考えたくない。

 と、まぁこれは飽くまでも理論値であり、バカ正直にも虱潰しに当たっていった場合の話で。
 ジョルジュは恐らく全く別のアプローチを採ったのだろう。それくらいはいくら俺だって容易に想像が付く。

「じゃあ、続けてもう一つ質問しようか。入港許可を申請した三百隻の商船の船主の中で、一昨年まで遡った延べ三年間、その全ての年でマディラに寄航している人間は何人いると思う? ここはフランシスカの勘を試させてもらおうかな。あ、当然だけど、船団を組んでやってきている商隊も何組かあるからね。船主の総数だけでいくと、大体二百人ってところだよ。というわけで、はい、どうぞ」

 柔らかい笑みを浮かべながら、フランシスカへと問いを投げるジョルジュ。相も変わらず飄々として、自らの設定した回答に向かい粛々と俺たちを導こうとしている。
 フランシスカは少しだけ黙考し――。

「百人……というのは少し多いか。いや、しかしこの島まで船を動かせる商人がそう次から次へと現れるわけでもなかろうし……。完全に当て推量なのだが、七十から八十人といったところではないのかと自分は思う」

「うーん、それが実はさ――」

 彼女の自信なさ気な返答を受け、ジョルジュは少しだけ意地の悪い笑みを作って。

「十二人、だったりするんだよね。いや、実際これは僕にとっても意外だったし、少なからぬ驚きではあったんだけどさ。まぁそれはそれでこっちの仕事が楽になったから有難くもあったけれどね。さて、ここまで絞れれば後はそう難しくはない。だよね、ドザエモン?」

「あ? あ、あー、でも十二人っつっても、その全員がクロってわけじゃねぇだろ? そりゃそんくらいの人数だったら、逐一当たってもそれほど手間じゃねぇのかもしんないけど、今日の今日でそこを振り分けられるとも思えねぇぞ」

「うん、そうだね。だから、もう一つだけ峻別基準を用意した。正に“最終関門”ってやつだね」

 そう軽口を叩きながら、俺に向かって『当ててみろ』とばかりに回答を促す視線を送ってくる。その目は活き活きと輝いていて、まるで自分が解いたゲームを他人にやらせて楽しんでいるかのようで。なんつーか、コイツもなんだかんだ百戦錬磨なんだよな、なんて。そんな事実を再認識する。
 かといって、俺が答えに辿り着けるかというと、全く以てそんなわけがなく。大体ここまでの論理展開自体がジョルジュの脳内空中戦に近いものがあって、そんな戦いに俺が割って入れるはずもない。

「あーもう、今更俺の脳味噌の程度なんか確認しなくていいから、勿体振らずにさっさと話を進めろ」

「じゃあ、ヒント。“三年間欠かさず”この島に寄航歴が有ることと、”毎年欠かさず三度”この島に寄航歴が有ることとはイコールで結ぶことが出来るかな? そこに他のパターンはないのかな?」

「……ああ、そういうことか」

 そこまで聞いて、初めて理解した。
 隣ではフランシスカが得心したように首を縦に振っている。
 ミゲルは……仕方ない。だってミゲルだし。

 それにしても――なるほど、その両者は確かに等記号では結ばれない。そこに在るのは歴とした包含関係。
 “三度”は“三年間”に包含される。それは一目瞭然。少し考えれば、誰にだって分かる。
 じゃあ、三年間欠かさず延べ“四度”は? “五度”は? “それ以上”は?

 盲点だった。
 言われてみれば当たり前。だけど、全然気が付かなかった。
 それは、この島に寄航する商船はその全てがワイン交易を目的としている、という先入観からのミスリード。それを然も自明のこととして捉えていたなんて、自らの想像力の欠如を思い知らされる気分だ。

「どうやら解答に至ったみたいだね。改めて考えてみると本当になんてことない話なんだけど、だからこそ陥りやすい問題だったってわけさ。こういう言い方をしては実も蓋もないけれど、ワイン以外にこの島から持ち出す価値のある品目はないからね。かといって、逆に品を持ち込むだけでは、航海のリスクに見合うだけのリターンは得られない。まぁ、これはその他の船主たちの寄航歴を鑑みれば大体分かるよね。というわけで、前述の十二人の船主の中で一年に複数回の寄航歴のある人物を洗ってみると――」

 ジョルジュはそこで一旦言葉を貯めて――。

「該当者はなんと一人だけ。しかも、彼は三年間で七回もの寄航歴が有るうえに、更に遡ると七年間で延べ十五回もマディラに船を送っていたんだよ。七年前といえば例の政変が起こった年だし、それ以前の時期に彼の寄航歴は一切残っていなかった。それを見て、流石に限りなくビンゴだって思ったんだけどね」

「ああ、確かにそれは訝るに足る経歴ではあるな」

「つか、もうクロだろ、ソイツ」

 ジョルジュが披露した鮮やかともいえる推量に対し、フランシスカと俺は相次いで賛同の意を示す。“あっち”風に言えば、『状況証拠は出揃ってる』というところか。
 その人間がどんなヤツなのかは知らないが、こんな辺境の島に目的もなくやって来るような酔狂な人間がいるとは思えないのだから。

「とりあえずソイツの名前を教えてくれ。明日、朝一でシメてくるから」

 見えなかったはずの敵が、明確な姿を以てイメージ出来るようになったってのは喜ばしい。すげぇすげぇ喜ばしい。だって、姿が見えればブン殴れる。日頃の鬱憤晴らしにこういった機会は打って付けだ。

 そう思って、興奮気味に対象の名を訊ねる俺の横から――。

「うーん、でもさ、巧く言えないんだけど、今のって全部が理論上の話に過ぎないんじゃないか? いや、確かにジョルジュがそういう結論に至った過程は分かるし、なんとなくだけど筋が通ってるような気もするけどさぁ……。明確な証拠もないし、それだけでオレたちが動くのは、微妙にマズイ気がするんだよねぇ……」

 思いっきり冷や水をブッ掛けてくれちゃったヤロウがいた。
 さっきまでは全然話に着いてこれなかった分際で、いっちょ前に分かったような口を利きやがる。実に生意気だ。

 だけど、そんなミゲルの言に対してのジョルジュの返答は、それを肯定するようなもので。

「そうだね。ミゲルの言っていることは正しいと僕も思うよ。理論は所詮理論であって、単純に可能性が高いか低いかというだけの話でしかないからね。もしかしたら、彼は単に僕らの想像を越えるほどの酔狂な人間だった、という可能性だってゼロじゃない。もっとも、その可能性は限りなく低いとは思うんだけどね。ただ、手前勝手に定めた可能性のみに基づいて軽率に動くのは確かに得策ではないと思うし、そういう意味では暫くは証拠を固める時間に当てるのがいいかと思う。大丈夫、明日いきなりマディラを離れるなんて忙しない真似はしないだろうし、じっくり構えていこうじゃないか」

「そうだろうな……。焦りは失敗を生む、とも言うし、なにより近衛騎士であるからには失敗は許されん」

 どうやら直近の方針は“証拠固め”という名の様子見で決まってしまったみたいだ。
 俺からするとかなり不満ではあるが、団長であるフランシスカまでもが慎重論に傾いてしまった以上、それを無視して突っ走ることは出来そうにない。まぁ、確かにミゲルの言ってることも分からんではないしな、頭では……。

「では、方針も決まったところで解散でいいか? ドザエモン、ミゲル、ご苦労だった。貴様たちは今日はもう休んでいいぞ。明日からは色々と忙しくなるだろうからな」

 時間も時間。どうやら秋の陽も釣瓶落としに沈んでしまい、街頭では人々が家路を急ぎ始める頃合になっていたようだ。窓からは微かに瞬き始めた黄金色の数々が確認でき、その只中で冴え冴えと照り差す弓形が一際目を惹く。

 椅子から立ち上がりながら、フランシスカは俺たちに労いの言葉を掛け、場を後にしようとする。
 流石は非物理的石頭。仕事が終わった後のささやかなパーティータイムを満喫する気はないらしい。

 だけど。

「ちょちょちょ、ダメダメダメ! なに考えてんですか、ボス!? これからオレたちはこの島の命運を左右する一大プロジェクトに参画するんでしょうが! だったら、まず最初にやることはなんですか!?」

 そんな『我が道を行く』態度が常に許容されるってわけがなくて。
 さっきまでは大人しかったミゲルが、まるで水を得た魚のように躍動し始める。

「そのようなことを問われても、自分たちがやるべきは鋭気を養うことに決まっているだろう」

「そうなんです! いや、分かってらっしゃるじゃないですか! そうです、鋭気を養うことこそ肝要なんです! だったら、今からやることは決まってるじゃないですか! 分からない、なんて言わせませんよ!」

「ふむ、一刻も早く宿舎に戻り、しっかりと栄養を補給し、十分な睡眠を取ることだと思うが」

 うん、フランシスカは恐らく素でそう答えている。恐らくっつーか、絶対?
 だけど、彼も然る者。その程度で尻込みするようでは、ミゲルという生物を名乗る資格はない。

「違います! 全然違います! 完膚なきまでに間違っています! いいですか、団長!? 鋭気を養うのは結構、大いに結構! だけど、そんな時間を皆で分かち合えれば素晴らしいことだと思いませんか!? オレたちはチームなんです! 運命共同体なんです! 表裏一体なんです! それでもって……えーと、えーっと……凸と凹なんです! アダムとイヴなんです! 男根と蜜壷なんです! というわけで――」

 いや、最後の方は意味不明っつーか、勢いだけで押し切ろうとしてるのが丸分かりっつーか、言葉に詰まったら出てくるのは下ネタなのなオマエっつーか。
 そんなこんなではあるけれど、前半部は俺やジョルジュも同意ではある。ぶっちゃけフランシスカのヤツを一回グデングデンに酔い潰してみたい。溜まりに溜まった私怨を晴らすって意味でも。まぁ恐いモノ見たさって部分もあるんだけど。

 ってなわけで。

「――壮、行、会、だあああぁぁぁ!!」

 と、ミゲルの魂の咆哮《シャウト》と共に壮行会という名のチキンレースの幕が――今切って落とされた。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「どうして、こうなった……?」

 呟きながら周囲を見回す。
 そこには食い散らかされた跡の残った大皿と、床に投げ捨てられた空の酒樽が数個。それは、色濃く残る“狂宴”の爪痕。

 そして、壁に寄り掛かった状態で静かに目を瞑るジョルジュの姿。
 その顔は安らかで。本当に穏やかで。まるで、自らの歩んできた旅路に一点の後悔も曇りもないと、そう誇っているかのような柔らかな表情で。

 だからこそ、俺は胸が詰まるような気分に襲われて――。

「ドザエモン、おかわりぃ♪」

 でも、そんな感傷は舌足らずな催促の声に掻き消される。

「つか、何モンだよ、テメェは……」

「おかわりぃ、おかわりぃ♪」

「いや、だからこれ以上は止めとけって――」

「おっかわりぃ、おっかわりぃ、おっかわりぃ♪」

 甘えた声色でそう連呼しながら無邪気な笑みを浮かべ、俺へと向かってグラスを突き出す――我らが近衛騎士団長様。
 そこには普段の厳格な雰囲気など欠片も感じられず。まるで、父親に甘える小娘のようですらあり。人格が入れ替わってしまったかのではないかと疑ってしまう程の豹変っぷりだ。

 酒を飲むと人格が変わる人間ってのは、確かにそう少なくはない。
 笑い上戸、泣き上戸、怒り上戸。そういった表現が存在するということは、そのこと自体は太古の昔から周知の事実なんだろう。俺だって飲んでりゃ少しばかりアップ入る自覚はあるし、ミゲルみてぇな超絶アッパー野郎だっている。ただ、ヤツの場合にはアルコール摂取の有無はそんなに関係ないのかもしれないが。

 まぁ、とにかく酒が入るとテンションが妙な方向に振り切れるってのは、別段驚きを露わにするような珍しいことでもなく。
 むしろ、煽るだけ煽って呷らせた上で、他人のそういった姿を生温かく見守りながら記憶に焼きつけ、翌日ことある毎にその記憶を引っ張り出して周囲の人間に吹聴し、当事者の尊厳を粉々に破壊する――ってのが由緒正しき酒飲みの流儀だとも言えるだろう。
 その程度のことは俺だって分かっているつもりだし、無粋な真似なんかしたくもないし、する気もない。

 だけどな、そこに一つだけ注釈を加えさせていただけるとするならば――。
 今日のこの場は、既にそんなに甘っちょろい道理が通じる空間ではなくなっているってことだ。

 そりゃ確かに『壮行会』なる名目の“バカ騒ぎ”を企てたのは俺たちで、乗り気ではなかったフランシスカをその場に引っ張り込んだのも俺たちだ。その動機も、お堅い近衛騎士団長様に浴びるほど飲ませた挙句、その醜態をせせら笑ってやろう――なんていう悪辣な思惑に基づいたものでもあって。誰が悪いって聞かれりゃ、俺たちの責任が全くない、なんてことは言えない。そんなこたぁ、こっちだって承知している。
 なんつーか、今更ながらに後悔の念がひしひしと込み上げてくるのも、自業自得って言われりゃ返す言葉がねぇ。

 でもさ……いくらなんでも、ここまで酷いなんて前以て想像できると思うか……?

「物事には限度ってモンがあんだろ、バカヤロウが! なんだこれマジで? 脳が全力で認識を拒否してやがるぞ、クソッ! つか、これはもう完璧にネタの域だろ……。おいミゲル、テメェさっきから他人事みてぇなツラしてシカトこいてんじゃねぇぞ!」

「ドザエモン、オレは夢を見ているんだな……。いや、だって酔っ払った程度であの団長がこんな姿を晒すわけないし、あまつさえあんな甘えた声でおねだりしちゃってるなんて……。おねだり……なんて耳に心地よい響きなんだ……。あぁぁ、だ、団長、そんな……スゴイィ……ハァ……ハァ」

 ミゲルは案の定使えなかった。
 どうやら、ヤツは現実逃避を決め込んだらしい。その上で、普段は決して見ることの出来ないフランシスカの姿に欲情する、という何とも難度の高いタスクを遂行中のようだ。
 そのポジティブながらもキモすぎる思考回路にファック・オフ。

「ドザエモン、ドザエモン……あたしね、お酒のおかわりが欲しいの。一緒に飲も? だめ……?」

 そうこうする間にも、俺の肘の辺りをクイクイと引っ張りながら、上目遣いのフランシスカが更なる酒の催促をする。つーか、言葉遣いから表情からその全てが、いつもの凛々しい姿とは似ても似つかない有様。程度によっちゃ可愛らしいモンとして捉えられるかもしれない幼児退行だが、ここまで来ると俺にとっちゃドン退きだ。
 更に加えるならば、周囲の人間にも自らと同等の酒量を求めてきやがる辺り、どうしようもなく迷惑な存在と化している。

「ダメに決まってんだろが! つか、テメェ自分の状態を全然自覚してねぇだろ!」

 それでも、最初の頃はジョルジュと二人で宥め賺していたんだが、ヤツは断続的に襲い来る返杯の餌食となって先に逝ってしまった。そういうわけで相棒亡き今、俺一人でなんとか対処している状況なのだ。
 とはいっても、事此処に至っては、正直段々ムカツいてきているのは否めない。何しろ本気でメンドクサイ。そもそもなんで俺たちの側が気を遣わなきゃいけないんだ、という理不尽に対する憤りだとか。このままじゃ俺もやられる、って危機感とか。そんな多岐に亘る負の感情のミックス値がそろそろ臨界点を越えちまいそうだ。

 そもそも耐え忍ぶっつーのは、どこまでも俺の性には合わねぇし。
 むしろ一発食らわしてお眠りいただくっつー方が、俺にとっては遥かに楽だ。俺に関しては『女子供にも容赦しない男』だという自己評価もあることだし、実際そう遠くない過去には纏わり付いてくる物乞いのガキを蹴り飛ばしながら裏通りを闊歩していた時代だってある。まぁ、あれはあれで事情が特殊っつーか、どうにも止むを得なかったって言っちまえば、その通りなんだけど。

「お酒さんはどこですかぁ? あたしのお酒さんはどこに隠れましたかぁ? ドザエモン、ドザエモン、大変です! お酒さんがいなくなりました! どこに行ったのか探さないと!」

「さっきから何やってんだテメェはよぉ……」

「……?」

「いや、そこでキョトンとすんじゃねぇよ! だ、か、ら、俺は何をしてるんだテメェは、って聞いてんの! そんなに俺に引っ付きながら一体何をしてるんだ、って聞いてんだよ!」

「ん……? お酒さんを探してるんですが、手伝ってくれるんですか?」

 あああぁぁぁ! うぜぇ、うぜぇ、うっぜぇ! ああ、もうどうしてくれよう!

 頭皮やら耳の横やら首筋やら手の甲やら、とにかく身体中のありとあらゆる箇所が痒くなったかのような不快感。爪を立ててガリガリと、力の限りに掻き毟りたくなる衝動に駆られる。

 本当に厄介な酔っ払いだ。コミュニケーションがまるで取れない。こっちがどんな言葉を吐こうが、暖簾に腕押し。邪気のない笑顔と共に、毒のない答えが返ってくるんだから。

 こんなにも虚仮にされたことが、今までの俺の人生であったか? これはちょっと許し難いレベルの屈辱だろ、マジで?
 うん、決めた。コイツが俺の上司だとか、生物学的にはXX染色体を保有しているとか、そんなことは関係ない。こちとらナメられたら終わりだ。フザケた真似コキやがる女は、早めに一発シメとかねぇと。

 眉を顰め、顔はやや俯き気味に。そこから正面に対し角度を付けて睨み上げる。視線は逸らさない。ガンの飛ばし合いってのは、目を逸らした方の負けだ。
 さらに少しだけ声にドスを利かせて、相変わらず陽気に微笑んでいるフランシスカへと言葉をぶつける。

「おい、いい加減にしとけよ、テメェ。俺をナメてんのか、あァ? さっきまでは酔っ払いってことで大目に見てやってたが、俺の忍耐にも限度ってモンがあるんだぜ。テメェ、その辺分かってんのか、えェ?」

「あたしはドザエモンのこと、舐めたりしてないよ。男の人を舐めるなんて、そんなことしたら汚いもん。そんなことよりお酒さん、どこぉ?」

「お酒さんは既にお亡くなりになりました。あー大変に残念ですねー。惜しい人を亡くしてしまいましたー。と、これで満足か、このウワバミ女! つーか、ちったぁ会話の機微ってヤツに気を遣いやがれ!」

「お酒さん、お酒さん……どこぉ?」

 全然俺の話を聞いてやがらねぇな、このクソアマは。

 つか、さっきまで散々飲み散らかしておいて、その上でまだ飲み足りないとでも言うつもりか? 
 信じられないことに、フランシスカは既にワインの小樽を五つくらい開けている。小さいとはいえ樽は樽。一つに一リットルくらいは優に入るだけの容積はある。となると、五リットルだぞ、五リットル。
 まぁ“こっち”のワインのアルコール度数が“あっち”のそれに比べてかなり低いとはいっても、普通の人間じゃそこに至る遥か手前でブッ潰れるし、メチャクチャ酒に強ぇヤツだったとしても気分が悪くなっちまうような量だ。

「なのに、なんでオマエはそんなにピンピンしてんだよ……?」

 ある意味で平気であるとは言い難いのも確かだが、それでも目が据わっちまってるわけでもないし、呂律が怪しくなっちまってるわけでもない。身体的には何ら変調は生じていないように見受けられるし、テンションに至ってはアガリっ放しのやりたい放題。
 そこらの酒飲みとは明らかにレベルが違う。底なしだ。

「ドザエモン、ジゼルさんからお酒貰って来てぇ♪」

 空になった樽を次々に引っ繰り返し、その中身が残っていないことを確認しながら、俺に更なる注文を要請するフランシスカ。
 今、酒の供給を断ったら暴れ出すんじゃなかろうか、コイツ……。流石にそれは色々とマズイ。フランシスカが暴れたとしたら俺ではとても止められないし、なにより店主のジゼルに対して非常に申し訳ないことになってしまう。
 となると、俺はその要求に素直に従うしかないわけで――。

「おいミゲル!」

「あぁ、そんな、舐めるだなんて……そのチロチロ覗いている朱くてかわいいベロベロでオレのコロコロをレロレロと……あぁ……スッゴイィ……すごすぎます団長っ……ハァハァ……。お返しにオレのマラマラで団長のビラビラをオラオラして差し上げ――」

「おい、そこで脱童貞の妄想に耽っている惨めで哀れな包茎ボーイ!」

「うるさいよ、ドザエモン! オレは包茎じゃね……ぇょ……」

 威勢よく切り出された否定の言葉は、肝心なところで語尾が消える。
 跡に残ったのは、夢から覚めた悲しき男。彼の者の名はミゲル。

「あ? オマエ、自分は包茎じゃねぇ、なんて今更言い張るつもりのか?」

「違……ぅょ」

「ん、そうだったのか? だとしたら、今まで悪ぃことしたな。そうだよな、二十歳も間近になって包茎なわきゃないよな。そんなんだったら、パーペキ人生終了してるしな。うん、だとしたら『ミゲルは包茎』だって俺が言ってたのは、人として最大級の侮辱の言葉を故なくお前にぶつけてたってことになるのか。いや、マジですまん。俺だったら『包茎』なんて言われたら、本気でキレるっつーか、それ以前に生きる気力をなくしちまうだろうし、ぶっちゃけ『痴漢』呼ばわりされる方がまだマシだと思うだろうし。それにミゲルが包茎じゃねぇって分かったし、この際だから正直に言うけど、俺さぁ包茎ってのは男として最低だと思ってたんだよ、常々。なんつーか、包茎ってのはチ○ポのうちに入んねぇだろ、ありゃ。存在意義としちゃ、盲腸か包茎のイチモツか、って感じだしな。いやぁ、本気で悪かったなミゲル、今までお前のイチモツをそんな最低なモン呼ばわりしちまってさ――」

「うわあああぁぁぁん! 許してっ! ぜひとも許してくださいっ!」

「だったら、さっさと下行って酒貰って来いや!」

「おいおい、まだ飲もうってつもりかよ、ドザエモン? オレはこれ以上は無理だぞ」

「俺んじゃねぇよ。そこで樽ん中覗き込んでるアホタレの分だ。オラ、分かったら早く行きやがれ、このカビ付きブナシメジ!」

 ミゲルはなんだか釈然としない表情をしながら、それでも素直に階下へと降りていった。
 とにかく、これで当面の補給には目途が立った。だが、それは同時に“狂宴”がまだ暫く続くことを意味する。

 でもって、その諸悪の根源である大トラは――。

「あー、今ミゲルが酒貰いに行ってっから、もちっとそこでジッとしてろ」

「ほんと!? ありがとー♪」

 極上の笑みを湛えながら、生贄の到着を待っている。
 俺はここまで頑張って相手したんだ。後のお相手に関しては、今お使いに出ている誰かさんにブン投げても構わねぇだろ。

 そんな風に心中で自己弁護を繰り広げながら、壁際に寄って背をもたれ。
 大きく息を一つ吐いて、目蓋を閉じる。

 俺はもう疲れた。
 怒りとか何とかはもうとっくに超越してる。
 むしろ、最後の方は切なくて泣きが入りそうな気分になってたからな、マジで。

 一応、最後に確認を一つ。

「言っとくがオマエが金払うんだぞ、フランシスカ。いいか、俺はビタ一文出さねぇからな」

 迷惑料代わりにそのくらいはしてもらっても、バチは当たるまい。
 むしろ、差し引きは思いっ切りアカだっつっても過言じゃない。

「じゃ、俺は暫く寝ちまうから、後はミゲルと思う存分酌み交わしてくれ……」

 『おやすみぃ♪』という跳ねるようなイントネーションを耳朶に感じながら。
 俺は静かなる安息の地へと旅立つことにしたのだった。

 頑張れよ、ミゲル。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇

 



「――わね……」

「――ましょう」

 どこからともなく声が響いてくる。
 それはまだ半覚醒状態にある俺の耳介を通過はするが、脳髄にて噛み砕かれることはなく。その意味を不明なものとしたまま、単なる“音”として消えていく。

 暫く耳に心地よい音のシャワーに身を晒し、微温湯に浸っているかのような不思議な安堵感に身を任せる。
 ぼんやりと思い返してみれば、最近は中々に忙しくて身体の疲れを自覚する暇すらなかったことに思い至る。だが、自覚の有無に関わらず、身体的疲労というのは蓄積していくものだ。そして、それを最も如実に感じるのが、目覚めの手前にあるその一瞬。
 手足の駆動がままならず、脳髄は再起動を拒否する――そんなバグへと姿を変えて、疲労という名の内憂は俺を蝕むんだ。

「それにしても、みんなしてこんなになってしまうなんて――」

 ああ、この声はジゼルだ。
 高くもなく、低くもなく。まったく耳に障ることのない絶妙な音階。そのリズムも間延びしているわけでもなく、かといって鋭さに溢れているわけでもなく。少しだけ訛りの効いた一言一句を、まるで慈しむように丁寧に紡ぐ彼女独特の喋り方。
 たとえ視力を失おうとも、この声を俺が聞き分けられない、なんてことはないだろう。そのくらいには慣れ親しんだそれだ。

 そして、その聞き慣れた声に呼応する、もう一つの音。

「よっぽど疲れちゃってたのね~。フランシスカちゃんやジョルジュちゃんまでこんなに――」

 一度耳にすれば誰もが忘れられないであろう、独特というには程度の過ぎるオネエ言葉。それはバスよりも遥かに低い音律のしゃがれ声で紡がれ、そのミスマッチがこれまた“彼女”をよく体現している。
 まさしく、身体と精神に相反を有する“彼女”の在り方そのものだ。

 それにしても、どうやら思いの外に深く寝てしまっていたらしい。時間の感覚が完全に飛んでしまっている。
 耳に届く寝息の数、それにジゼルとガチムチさんの会話内容からして、多分俺たちは全滅したんだろう。とんでもない体たらくだ。にしても、あのフランシスカも此処で潰れている以上、それによってお咎めを食らうってことは流石にないと思うが。

「きっと近衛騎士という仕事は毎日大変なのよ。今日だって来店して暫くは、顔突き合わせてなんだか難しい話をしていたみたいだし。それにここ最近はお店に来る頻度だって落ちてるでしょう?」

「寂しいわね、ジゼルちゃん」

「ええ……寂しいわ……本当に」

 からかうような調子で紡がれたガチムチさんの言葉に対し、返されたのは短い呟き。だけど、そこには情念とでも表すべき深い想いが込められているようで、夢現にいながらにして少しだけ気が持って行かれる。

 だって、俺は彼女のそんな声は聞きたくないんだ。
 だから、なんでだよ、って。半分は無意識下のうちに、そう思ってしまう。

「それにしても、こうやってドザ君の寝顔を見るのも、本当に久しぶり……。相変わらず可愛い寝顔してるのね……」

 くすり、と。声を立てずに笑うような音を交えながら、ジゼルがそんな言葉を吐き。
 同時に昏い視界の中、確かに誰かの視線を受けているのを感じる。刺すようなそれではなく、さりとて観察するようなそれでもなく。目蓋に感じるその視線は慈しむようにして、只ただ自然にそこに貼り付く。

 変わらない。
 本当に、変わらない。

 暦は捲られ、場所は移った。
 互いの顔からは幼さも抜け、飢餓感に目を光らせるようなこともなくなり。文字通りのゴミの山に塗れて眠ることもなくなり、代わりに人ゴミの中に居場所を見つけて。薄かった胸は豊かになり、細かった手足に肉が付き、絹布のような肌には少しだけ小皺が見え始めたけれど――。
 それでも彼女は相も変わらず、俺の近くにいる。俺なんかの近くにいて、昔と同じ優しい瞳で俺を見詰めているんだ。

「そういえば、最近ドザちゃんとは御無沙汰なの? 実はだいぶ前から訊こう訊こうって思いながらも、訊けなかったのよね~。ほら、ここに来てから、二人ともなんだか余所余所しくなったじゃない? 別に嫌いあってるわけでも、暗に関わりを拒否してる感じにも見えないけど、それでも線を引いて付き合ってる感じがして、ね。そして、二人のオネエサンとしては、その辺がちょっとだけ心配だったりなんかして、ね」

「ここに来る前は、そんなに仲睦まじく見えてたのかしら、私たち?」

「ジゼルちゃんったら、な~に言ってんのよ。確かにドザちゃんは照れ屋さんだから、直接的な言葉で想いを告げるなんてことはしなかったでしょうけど、でもその分態度はあからさまだったじゃない。それはジゼルちゃんが一番よく分かってるはずでしょ?」

「……そうかも、しれないわね」

 ああ、そうだった。思い出した。
 いや、端から忘れてなんていなかった。忘れられるわけもない。ただ、心の奥底に鍵を掛けて仕舞っていただけだ。汚れてしまうのが嫌だったから、取り出さないようにしようって決めてたんだ。
 そんな大切な想い。大切な思い出。

 幸か不幸か、それは今以て綺麗なままで。
 手垢の一つすら加えられることなく、仕舞われた時の状態そのままで完璧に保存されている。

「感傷に浸ってるところ悪いんだけど、話を戻すわね~。大切なのは今、よ。思い出語りはまたいつか……そうね、お互いもうちょっと年を取ってからにしましょ。で、ジゼルちゃん……最近ドザちゃんとは仲良くしてるの?」

「仲良く、はしてるわよ……」

 そうだな。
 近衛の規則を破って飲みに来たり、店の仕事放っぽりだして話に華を咲かせたり、とかな。ベクトルがほんの少しだけ以前とは異なっているだけで、むしろ総和にすりゃ増えてるかもしれないよな。
 それがガチムチさん的な“仲良く”してるって意味なのかどうか、俺にはよく分かんねぇけど。それでも、ジゼルが近くに居やがるモンだから、必然的に接触の機会は増えていることは間違いない。

「誤魔化すのが相変わらず下手ね~」

「あら、そう? これでも界隈じゃ名の通った『悪女』らしいわよ? 気を持たせるだけ持たせて、相手の恋慕の情はクズ籠にポン、だとかなんとか。ホント失礼しちゃうわよね」

 確かにジゼルのヤツの風評には、少なからずそういう部分があるのは事実。
 男にモテやがるからな、ジゼルは。何せ彼女は紛れもなく美人。それも極上の部類のそれで。更には仕事柄なのか、はたまた元来の性向なのか、愛想に関しても申し分なし。最近じゃこの店も流行って色んな種類の客が来るようになったせいか、そこから仕入れた各種の話題にも事欠かない。
 これでモテないって方がおかしい。
 しかも、ジゼルの場合には、カタリーナやフランシスカのような『高嶺の花』というイメージもなく、どちらかというと『器量も気立てもいい町一番の美人』って感じの雰囲気でもあって。男にとっては、夢を見る余地が十分に残されるタイプの女でもあるんだ。

 だから、彼女に恋情を抱く男ってのは後を断たない。
 それこそ、騎士連中から船乗りまで、様々な連中の告白を受けているはずだ。俺自身、その現場に遭遇したことも片手の指では足りないほど。

 だけど、その全てに共通する結末は、『あら、冗談がお上手ね』なんて一笑に付されてしまう、というものであり。
 男たちの中には、自らの想いを踏み躙られたと苦々しく思うヤツだっていたんだろう。店の売上を稼ぐために色目を使った、なんて陰口を叩かれるってのは、つまるところ悪意へと転嫁してしまった“そういう”類の想いがあったってことだ。それはジゼルの責任なのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
 どっちにしても、彼女はそんな風聞なんて歯牙にも欠けず、飄々と日常の波の中を泳いでいる。その辺、昔とは大違いで、強くなったことを認めざるを得ない。境遇は人を変える、ってことなんだろう。

「確かにそんな下らないことを吹聴して回るおバカさんたちもいるわね~。でも、いいんじゃないかしら、それで。だって、気のない男に言い寄られる手間を考えれば、そんな面倒が最初からなくなる方がジゼルちゃんにとっては楽なんだから、ね。ま、尤も今のジゼルちゃんがその程度のことを気に病むようにも見えないけど」

「ええ、まったく気にならないわ、そんなこと。自分のことながら、随分と冷めた女になってしまったと思うわよ」

 その自嘲気味な言葉は、果たして誰に向かって投げられたものか……?

 少しだけ覚醒し始めてきた頭でぼんやりと、そんなことを考える。

「とまぁ、こんな感じで誤魔化し誤魔化し話を逸らすのが最近のジゼルちゃんの十八番なのは、オネエサンにはお見通し~。仕方ないわね~、ホントに。この際、埒が明かないから、単刀直入に訊くわ」

 そこでガチムチさんは一度大きく息を吐いて――。

「ジゼルちゃん……今でもドザちゃんと付き合ってるのよね?」

 ……ん?

 なにやらキナ臭い方向に話が展開しているような気がする。
 今だ以て胡乱な頭でぼんやりと、そんな危機感を覚える。そもそも、それはわざわざこの場で取り上げるべき話題なのか? ぶっちゃけ俺は目を覚ましちまってるわけで、目の前でそんな話をされると何だか身の置き所がなくなってしまう。
 つーか、俺起きた方がいいんじゃね――なんて一瞬思ったものの、やはり寝起きの判断力の低さってのはバカにならない。

 ジゼルがガチムチさんのその問いに対して、どんな答えを返すのか――それに少しだけ興味が湧いてしまったんだ。
 それは本当に純粋な興味本位であり、別段その返答如何によって何がどうなるといったものではないけれど。過去は過去、今は今――そう割り切れていたとしても、ジゼルがそのことをどう考えているのかが気にならないといえば嘘になる。

「付き合っていないわ」

 そして、その答えは明瞭にして簡潔だった。
 事実関係に対して忠実で、そこに関しては一片の疑問の余地すら挟み込ませないとばかりの断定口調。曖昧口調でのらりくらりと相手を幻惑するいつものジゼルとは違って、はっきりと否定の意のみを表に出した言葉。

 どうやら心の奥底に鍵を掛けているのは、俺だけではなかったようで――。

「でも好きよ、ドザ君のこと」

 はい……?

 否定の後に続いた思わぬ注釈に、ピクリと身体が動きそうになる。いや、ひょっとしたら実際に少しは動いてしまったかもしれない。そのくらいには動揺し、狼狽した。
 だけど、それも仕方ないだろう。まさか、ジゼルがそんなことを口走るなんて思ってもいなかったんだから。

「ジゼルちゃん、まさか情婦にされてたりとか……ないわよね……? いえ、でもあれでドザちゃんはそれなりに義理堅いところもあるし、疑ってるってわけじゃないわよ。ないんだけど……ねぇ?」

「あら、もし私が情婦に収まっているとしたら、どうするつもり?」

「……うふっ♪」

 こわっ!
 実際にそんな事実は有り得ないからいいんだが、そんなことは分かっていたとしても問答無用で背筋が凍ったぞ、おい。

 にしても、情婦ねぇ……。ま、確かに“こっち”じゃイケてる男は複数の女を囲って当たり前みたいな風潮はあるけど、俺にとってはそう惹かれるモンでもない。そもそも、一人を愛することすら出来なかった俺みたいな男が、複数人の女を愛せるはずもないし。かといって欲望を捌けるだけなんだったら、そこらのプロのネーちゃんを一晩いくらで買った方が面倒もない。
 なんだかんだ言って、そこら辺は“あっち”にいた頃の価値観が未だに強く残っている部分でもあって。ミゲルあたりに言わせれば、『変なところで潔癖』に見えるらしい。

「安心して。私はきっと情婦にすらしてもらえないと思うから」

「どういうこと……?」

 自虐の色濃いジゼルの台詞に対して、すかさずガチムチさんの突っ込みが入る。

「この『好き』は私の一方的な押し付けなの。いい年した女が、いつまでも未練がましく初恋の男の子の背中を追い掛けてるようなものなのよね……。ドザ君は優しいから、そんな私を拒絶はしない。でも、きっと受け入れてはくれないわ。そんなことは一度終わった時から分かっていたことだし、それに私はね、それでいいって思ってるの。むしろ今の関係に満足してる、本当に……」

「でも、それだと……ジゼルちゃんが辛くなるわよ……? だって、それはどんなに『好き』だと伝えても、決して報われることがないってことじゃない」

「ええ、辛いわね。辛くて、悲しくて、泣きたくなる時だってあるわ。私がどんなに願おうが、私がどんなに祈ろうが、私の『好き』が報われることはないんだから。近付けば近付くほどに思いが募って、語り合えば語り合うほどに切なくなるわ。でも、離れることだけは絶対に出来ないから。だから、私たちはこれでいいの。私はこれで十分に幸せなのよ」

 聞かなければよかった。そう思う。
 血を吐くかのようにしてジゼルの唇から紡ぎ出される告白。
 俺はそれをずっと恐れていたんだから。
 俺はそれが一番恐かったんだから。

 あんなことがあった後も、ジゼルは俺の傍にいた。
 それまでと変わらずあれやこれやと俺の世話を焼いてくれて、俺が困っている時にはごく自然に手を差し伸べてくれて、俺が疲れている時には黙って遠くから見守っていてくれて。とにかく、ありとあらゆる瞬間、気が付けば俺の傍にいてくれて。
 だけど、俺に触れようと手を伸ばすことだけは絶対になかった。本当に一度たりとも、なかった。今にして思うと、それは多分彼女なりの、自らの愛情に対する意地だったんだと思う。

「だってね、私嬉しいのよ。本来は二度と声を交わすことも、顔も見ることも出来ないはずなのに、それでもこうやって私の前で眠ってくれる。私が寝顔を見ることを許してくれてる。これで不満なんて言うほど、私は贅沢な女にはなれそうにもないわ……」

「なんでそんなに悲しいことを言うのよ……。触れ合いたければ、触れ合えばいいじゃない。抱き合いたければ、抱き合えばいいじゃない。愛し合いたければ、愛し合えばいいじゃない。ジゼルちゃん、おかしいわ。アタシには全然理解できない。なんでそうなるための権利すら放棄してるみたいなことを言うのよ……?」

 ガチムチさんの声が僅かに怒気を孕んでいる。それは特定の誰かに対する怒りではなく、最も身近な妹分に貼り付く理不尽への怒り。そして、それに対して抗すべき手段を持たない自らへの憤りだ。
 少しだけ嬉しい。ジゼルには彼女のことをちゃんと見てくれている人がいる。

「ありがとう、私なんかのことをそんな風に言ってくれて。でもね、やっぱり私には無理。踏み込んだ瞬間に、このささやかな幸せまで踏み潰してしまいそうで恐いから。知ってた、私ってすごく臆病なのよ?」

「……そうね」

 ガチムチさんが沈黙する。
 きっとジゼルの台詞に込められた諦念の深さに気付いてしまったに違いない。必死に覆い隠そうとしている哀切を垣間見てしまったに違いない。しかし、彼女の言う『ささやかな幸せ』が、紛れもなくジゼルの本心であることにも思い至ったんだろう。

 聞かなければよかった。再度そう思う。今度はさっきまでよりも強く。
 俺はどうすればいい? どうするべきなんだ?
 そんなことを考えたところで、その最適解が導き出されるわけもなく。ただ思考が渦を巻くばかり。

 過去は過去。今は今。
 だけど、今は確かに過去と繋がっていて。
 本質的にその二つを切り離すなんてことは出来っこない。

 ジゼルはイイ女だ。本当にイイ女だ。
 でも、それは今に始まったことじゃない。彼女は“あの頃”からずっとイイ女だったんだ。
 二人してボロ布に包まりながら、互いの腹の音を笑い合っていた“あの頃”からずっと――。

「答えなんて要らないから、このままにしておいて欲しいわ……。私にできることなら何だってするから……お願いだから……」

 万感込められたジゼルの呟き。
 彼女が決して口にすることのなかった“見返り”を求める響き。
 誰に向けられたものなのか――なんて考える必要すらない。
 それは自惚れではなく、自負として。思い上がりではなく、誇りとして。

 ジゼルにそこまでの愛情を向けてもらえる男なんて、俺以外にいるはずがないんだから――。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 朝が来た。

 俺は――眠れなかった。
 身体は更なる睡眠を欲していたにも関わらず、なんだか妙に目が冴えてしまって。まるで、オーバルコースを延々と走り続けるかのように、ひたすらに思考のループを繰り返していた。

 昨晩は結局、深夜になって復活したフリを装い、ほぼ同じ時間に目を覚ましたミゲルと共に宿舎へと帰ってきた。
 その際に、フランシスカの処遇に於いて意見が衝突した。すなわち、連れ帰り策を主張したミゲルと、置き去り策を唱道した俺。説教食らったばっかりのせいでビビリモードに入っているミゲルと、ぶっちゃけ“それどころじゃない”俺の意見との相違は、然して激しくもない論戦の末、ミゲルへと軍配が上がることになった。

 で、なんやかんや、交互に背中に負ぶせながら宿舎までフランシスカを運んで帰ったわけだが。そこでも軽い一悶着があったりして、徒労感は倍増だった、と言っていい。
 思い出すのも面倒なんで、詳しいことは置いておくが……。
 とりあえず、男の背中に負ぶさったくれーでガキなんか出来るわけねぇだろうが、あのカマトトめ。そんな世迷言を盾にキラキラした上目遣いでゴネられたとしても、そんなんは単なる時間の浪費にしかならなかった。横でなにやらミゲルが悶え転げていたが、アレはそういうイキモノだから仕方ない。

 で、宿舎へと帰り着き、疲れた身体をベッドに横たえ、目を瞑り――そこでなぜかジゼルの顔が脳裏に浮かんだんだ。
 そして、それは意識すればするほどに、鮮明な表情を以て俺を苛み。像を消そうとしても、頑として消え去ってはくれなくて。

 そういえば店を後にする時にも、俺はジゼルの顔を直視できなかった。なんだか酷く気拙くて、自嘲が避けられない程にはぎこちない受け答えをしてしまったような気がする。
 それが盗み聞きのような形でジゼルの内心を耳にしてしまったことに起因する罪悪感なのか、もしくはその聞いてしまった内容自体に対する気まずさだったのか。答えはきっと両方であって、両方でなく。

 自分でも情けない、と思う。
 こんな蛆の涌いた思考回路は俺のモンじゃねぇ、なんて大声で叫びたい衝動にも駆られる。

 “こっち”に来て五年。
 『光陰矢の如し』なんて格言の通り、いつの間にかそれだけの時間が経っていた。それは“あっち”で過ごした時間の半分以下でありながら、それでもその倍以上には濃い時間でもあって。
 そんな時間の中で、俺自身もきっと少し変わっていったのかもしれない。それが良きにせよ、悪しきにせよ、人の隣で過ごすことの価値を知ってしまったんだから。

 まぁいい。
 ジゼルの件に関しては、今すぐにどうこうしなければならない問題ではないだろうし、出来る問題でもない。アイツの想いを知ってしまった以上、いつかはキチンと枷から解放してやらなきゃなんないというのも桎梏ではあるけれど。

 ただ、俺の双肩に圧し掛かっている直近の問題ってのは、それじゃない。
 カタリーナ直々に申し付けられた、もう一つの問題ってのがある。

 アベル・アドローヴァー。
 彼の名を冠した『アベル・アドローヴァー商会』、通称『AA商会』の総帥であり、一代で莫大な財を成したイスパニア国籍の商人だ。元は象牙取引を中心としたアフリカ交易を主にしていたが、最近では新大陸交易にも手を出し、己の商会の規模を着々と大きくしていくことに成功しているらしい。
 とにかく計算高く、酷薄。それでいて、相応の冒険心を持ち合わせているという、ある意味で優秀な商人のテンプレートに則ったかのような性格をしており。その故か、マドリードの貴族たちの信を得ることにも成功し、彼らを後ろ盾として大洋方面の一大勢力として君臨しているらしい。噂では、リスボンの貴族連中の一部とも親交があるとか、ないとか。

 と、ここまではジョルジュの談。
 あれだけの時間でよくもまぁこんだけ調べたな、と言いたくなる。流石に有能な官吏という評価は伊達じゃない。恐らくは以前から注視していた部分があったのだろう。でなきゃ、こんなにも速やかに相手方の情報が割れることは有り得ない。

 にしても――。

「厄介だよなぁ、やっぱ……」

 そこらの商人だったら、適当にパクって踏ん縛っちまったところで、大した問題はねぇんだろうけど。ただ、そういう見切り発車を敢行するには、今回の相手はどうにも分が悪い。
 なによりも、背後に見え隠れするイスパニアの影が大きな圧力になっている。そこにある思惑が今一つ読めない以上、無茶をカマスのは禁物だろう。

 イスパニア。
 言わずと知れた、ウチの本国のお隣さん。でもって、ポルトガル程度じゃ太刀打ちの難しい大国。特にその艦隊は『アルマダ(無敵艦隊)』と呼ばれるほどに精強で、大洋地域の覇者の座を巡り『陽が沈まない帝国』と明に暗に鍔迫り合っている。
 新大陸に逸早く入植し、今ではその地におけるイニシアチブは完全に彼らの手にあると言っても過言ではない。
 圧倒的な海軍力を背景に、その版図を絶賛拡大中の超大国――簡単に要約すると、こんなところか。

 そんなのがバックにいりゃあ、ぶっちゃけ本国だって手出しを躊躇するかもしれない。なんてったって、こちとら辺境の一自治領。恫喝されりゃ頭下げるしか、生き残る道はねぇわけだし。かといって正論を説いたところで、圧倒的な力の前ではそんなのは丸っきり無用の長物。道理を引っ込め、無理を押し通すだけの力。それが、アドローヴァーの野郎にはある。
 考えれば考えるほど、腹立たしい。思えば思うほど憎たらしい。
 だが、俺たちとしては、やはり現実を無視するわけにもいかず。力の差は歴然だ。

 ただし――。

「あの唯我独尊女がそんなことにビビっちまうタマかねぇ……?」

 カタリーナのヤツが、そんないけ好かない野郎に対し簡単に膝を屈する姿ってのも、これまた想像が付かないってのも確かではあって。
 むしろ、ヤツの反骨心をふんだんに刺激してしまうことになりそうな気がしないではない。流石に正面切ってドンパチやるのは避けるだろうが、嬉々として暗闘の準備に取り掛かる可能性を否定はできないのだ。アイツ、そういう跳ねっ返りみてぇなトコがありやがるからなぁ……。

 まぁ、俺としちゃ、それはそれで大歓迎なんだが。
 そういう権力をカサにやりたい放題なヤロウってのは、いかにも殴り甲斐がありそうだし。むしろ、同情の余地が一欠片として見受けられない分、こっちも心置きなく大暴れできるってモンだ。

 今頃、総督府の応接室では、フランシスカがカタリーナに事の次第を報告している頃に違いない。
 そこでどんな会話が繰り広げられ、どんな結論が導き出されるのか。俺にはまったく読めないけれど、それがこの島の行く末を少なからず左右するだろうことは理解できる。

 マディラは小さな島だ。それこそ、地図上では汚れと見紛わんほどの、極小の黒点。ある日、いきなり消え失せたところで、世情に疎い大貴族の御令嬢なら『あら、地図を掃除したのね』なんて一言で終わらせてしまいそうなほどに。
 だけど、俺はそんな島で生を営んでいて。それは、俺の人生に於いて、一番幸せな時間を送った場所でもあって。俺にとって少なからぬ縁を感じる人たちの息吹を感じられる場所でもあって。

 だから――。

「どっちに転ぼうが、やるこたぁ変わんねぇよな……」

 どういう結論が下されようが、俺の行動原理は変わらない。
 この島を守る――その思いだけは不変だ。動かしようがないほどに磐石で、破りようがないほどに強固だ。

「ダセェな、俺……」

 こんなクソみてぇにアツイこと考える人間じゃなかったはずなんだがなぁ……。
 どうやら、知らぬ間に周囲に感化されて、郷土愛なんていう鳥肌が立つくらいにキモチワリィ感情が俺の中に芽生えてしまっていたらしい。それが俺自身にとってプラスになんのか、マイナスになんのか――それはちょっと判然としないけれど。

 まぁ、それでも。

「『AA商会』なんてダセェ名前の連中から好き勝手牛耳られるわけにはいかねぇだろ、カタリーナよぉ?」

 あの女がどんな結論を出すのか――俺はそれをなんとなく確信していて。アイツがそんな俺の期待に応えないことがあるなんて、端から疑ってなんかやらねぇ。
 だからこそ、俺も。次の一手をスムーズに出すことが出来るよう、今は自分の役割を果たそうと思う。

 まずは、ミゲルと連れ立って港で情報収集でもしておくか?

 なんて考えながら、軽く手足の関節を解して立ち上がり、手早く制服に着替える。
 『肩肘張った』なんて表現があるが、近衛騎士の制服なんてのはまさにそれ。肩とか肘の辺りが妙に突っ張る作りになっている。仕事柄、見栄えよりも機能性を重視した方がいいような気はするんだが、そんなことに文句を付けても意味はない。

 もう一度、今度はさっきよりも入念に関節を解す。手首、肘、肩、首、腰、股関節、膝、足首と順序良く。然る後、一つ気合を入れながら、部屋の扉を開けて廊下へと。

 対面にはミゲルの部屋。
 まだ少し早い時間だし、なにより昨夜はお疲れだった為か、今だ以て静寂に包まれているその部屋の扉を――。

「オラァ、カントン! テメェいつまでも寝こけてんじゃねぇぞコラ!」

 右の拳で力の限りノックした。



[9233] Chapter1 Epilogue
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:c7183ae6
Date: 2010/02/07 21:05
「――以上、報告終了致します」

 背筋を伸ばして、そう話を終えたフランシスカに対し、鷹揚な頷きを返す。

 時刻は早朝。
 鳥たちは今だ樹洞にて惰眠を貪り、秋の陽も未だ境界の向こうに在って待機中。
 街も人も、その殆どが眠りに付いている、そんな時間。

 私はフランシスカと二人、応接室のソファーにて差し向かいに腰を掛けていた。
 彼女がこの部屋を来訪したのは、今から一時間ほど前のこと。たとえそれが深夜であれ、私の耳に入れるべき件があれば、一切の遠慮なく部屋の扉を叩くように――そう彼女には言い含めてある。融通が利かない程に真面目で勤勉な彼女のこと、きっと私のその言に従い、律儀にも夜の明けるを待たず、私の下へと参じたのであろう。
 実に殊勝で、讃えるに足る心がけだ。

「そうね、その情報の信憑性については別途判断を必要とするとして……これだけの短時間でよく探り当てたわね」

 そうなのだ。
 私の予測では、この件についての報告が上がってくるのは、早くても明夜、遅ければ明々後日になるだろうというものだったのだ。それがまさか、こんなにも早く片付くとは、些かの驚きであり、望外の喜びでもある。

 “あの男”は予想以上に使える。
 私の脳内にての序列――その位階を少しだけ変動させる必要がありそうだ。

 彼の勝因はジョルジュを陣営に組み込んだこと。
 あの能吏は、限られた情報を並列に処理し、そこにある矛盾を見出して結論に結び付ける、という作業に長けている。それが如何にも『机上の空論』然としてしまうのは否めないが、それは彼が役所畑の人間であるが故の一種の不可逆として受け入れねばならない部分でもあるのだろう。
 それに、その論理展開に疑問符が付くことはあれど、私個人としてはああいった動態的な思考は嫌いではないのだ。己の知るをその全てとして、ひたすらに守りの論陣を張る有象無象と比すれば、それには段違いの価値がある。

 このところの睡眠不足で荒れ始めた唇を軽く摩りながら、フランシスカに対し祝意を含んだ視線を送る。
 肝心な局面で力を発揮できる部下の存在は貴重だ。普段は愚鈍で蒙昧なれど、要諦ではその在り様を反転させる――そんな人間は少なからぬ価値があるのだから。

「あの男は面白いわね、フランシスカ。言動は粗野、品性は下劣、教養は無知でありながら、大事な局面になるといつだって巧く立ち回るわ」

「ドザエモンにはその程度しか褒めるところはありませんので……。唯一の取り柄がなくなってしまえば、アレはただの粗大ゴミです。処分されるを肯んずるわけにもいかねば、廃物にも瀬戸際の意地というものがありましょう」

「貴女にしては珍しく言葉に棘があるわね。あの男と何かあったのかしら?」

「……いいえ、なにも」

 明らかに気分を害したような顔をして、口篭るフランシスカ。私の眼前でそのような態度を見せること自体、彼女にとって非常に稀有なことだ。少しだけ昔のことを思い出して、心が仄かに温まる気分。
 にしても、この部屋に入ってきた時から気にはなっていたのだが――。

「顔色が優れないわね……」

「……それは、自分の顔色が、ということでしょうか?」

「此処に居るのは私と貴女の二人のみ。己の顔色を己が両眼で観察するは能わない。とすれば、答えは自ずと導き出されるのではなくて?」

「……そうですね」

 フランシスカは観念したかのように、一つ大きく息を吐きながら首肯する。
 その両の眼は充血し、頬には薄紅というには些か強い紅色が差しており、しかし肌はそれに反するかのように不自然に白い。白いというよりは土気色。俗に『血色が悪い』などと表されるような色だ。
 理想的な健康優良体と称しても不足はない彼女であるだけに、その様はやはり気に掛かる。

「貴女が病に臥せるようなことがあれば、私にとっては代えが利かないくらいの損失よ」

 近衛騎士団という戦略的レベルでも、個人の武勇という戦術的なレベルでも、彼女の存在は要。今の私が動かし得る駒の中で、それは最強にして最優なのだ。もし、駒落ちで臨まねばならぬとするならば、描いていた青写真は完全に崩壊すると言っていい。
 それにフランシスカの存在は、私に対する重石としての役割も大きい。それは幼少の頃から不変。彼女を除いて、私に諫言できる存在など、この小さな島になど存在しない。そこらの無能者の弁など、私が聞き届けようはずもないのだから。

 そういった隠れた不安に対し、フランシスカは決まりの悪そうな苦笑を浮かべる。

「いえ、これは病などという重大な問題ではありませぬ故、そのように御気になされぬよう。はっきり申し上げますと、この体調不良は一過性のそれでありまして、少なくとも本日のうちには収まることをお約束できるかと」

 少し気怠そうな身体。血の気のない青白い顔。そして、恥じらいの見え隠れする態度。
 今更ながらに一つの可能性に思い至る。

「ああ、ひょっとして『月のもの』なのかしら? 私としたことが、どうにも配慮の足りない物言いだったわね。ごめんなさい。でも、その類の生理現象というのは女として生を受けた以上不可避なものなのだから、貴女もそのことを気に病む必要などないのではなくて?」

「いえ、それが……そういうことでもなく……」

 私の素直な謝罪の言葉を受けて、フランシスカはなぜか余計に恐縮している。
 彼女にしては珍しく、言葉に覇気がないというか、歯切れが悪いというか。まるで、なにか言い辛いことでも私に隠しているかのように見受けられる。

「はっきりしないわね……。毅然とした在り方こそが貴女の美点の一つなのだから、詰まらない煩悶如きでそれを打ち消してしまうのは、実に勿体ないと思うわよ」

「……そうですね。確かに仰る通りです。煮え切らない言動を取ったこと、陳謝致します」

 少し強い語調で言い放った私に対し、フランシスカはその双眸を以て決意を表し。一呼吸ついた後、しっかりと背筋を伸ばす。

 そう、それでこそマディラの――つまり私の守護神として相応しい振る舞いというものだ。
 彼女はどんな時も俯くべきではない。しっかりと前を見詰め、常に堂々と。そうあって初めて、守られるべき者たちは心安らかにいられるのだから。

「それでは、一つだけお聞き届け頂きたい話がございます」

 彼女は常の通り凛々しく。しかし、その色のない相貌に宿る一種凄絶な悲壮感。それは彼女らしくも、彼女らしからぬ――そんな矛盾を抱え込んだ表情で。
 思わず、私の側も身構えてしまう。

「……言って御覧なさい」

「それでは謹んで奏上奉ります。私は――」

 フランシスカはそこで一度気を落ち着かせるかのように言葉を切って。
 然る後――。

「私――マディラ総督府近衛騎士団長フランシスカ・アヴェイロ・ポラスの解任を上申致します」

「…………」

 一瞬、頭が真っ白になった。
 余りにも突拍子のない上申内容に対して、脳の機能が追い着いていかない。

 そもそも彼女は今、何を言った?
 自分で自分の解任を要求する――なんて、そんな前代未聞の戯言を口走らなかったか?

 もう一度、フランシスカの表情を窺う。
 そこに在ったのは、眦決した壮烈極まる騎士の顔。不退転の決意を以て、彼女がその決断を為し、そしてその決意を言の葉に載せて私へと投げ付けた――その一連の流れを否応なく意識させられるような、そんな顔。
 だけど――。

 私は知っている。誰よりも理解している。
 フランシスカは己が任に大いなる使命感を感じており、それに見合うだけの能力を血の滲むような努力で築き上げてきた、ということを。

 “誇り”と“誉れ”――人間が最終的に拠って立つべきは、そこだ。
 であるからこそ、彼女以上に近衛の旗頭に相応しい人間などいないし、私も問答無用で彼女を信頼してきた。
 その信頼を彼女が裏切ったことなど、これまでにはない。一度も、ない。いつだって、私の意を正確に忖度し、それに従って精確に遂行してきたのだ。私の期待以上の結果を出すことはあれ、期待値を下回るような無様を晒したことなど皆無。

 優秀な部下にして、私の片腕。
 そして――幼少の砌よりの無二の同胞。

 なのに。
 そうであるはずなのに――。

「なぜ……?」

「…………」

 私の口蓋から漏れたのは、私らしくもない弱弱しい呟き。
 まるで、恐れ、怯え、縋り、請い、頼り、願い、祈るかのような――そんな力なき稚児の嘆き。

 私――カタリーナなる存在を、人は『万能の天才』と呼ぶ。
 それはあながち間違いではない。独力で万事を賄うことが可能――その言葉がこういう意味で使われているのであれば、それは私の為に誂えられたようなものだろう。政治、軍事、経済、外交、謀略、人事――そういった類の事柄ならば、過はあれど不足なし。この程度の小さな島ならば、船頭は私一人で必要十分だ。

 だけど。
 そこに一つだけ注釈を付け加えるとするならば、私は『万能の天才』などでは断じてなく。

 空を支配する猛禽も片翼を捥がれれば、飛べない。
 海を支配する巨魚も片鰭を剥がされれば、泳げない。
 地を支配する獣王も片足を奪われれば、走れない。

 そして、それと同様に――私とて彼女を失えば、歩けない。

 依存。そう、依存だ。
 私――カタリーナ・マディエラ・フェルナンデスは、彼女に依存している。彼女の存在に依拠しながらに、今の“私”を保っている。それは“あの時”から現在に至るまで依然として続く、厳然たる事実。
 感情を毀棄し、人情を唾棄し、愛情を放棄しても――それでも友情だけは棄てられなかったのだ。

 だから、私は『万能の天才』などでは断じてない。
 所詮は一人の人間だ。限界まで人間味を廃した上で、それでもなお――力なき一人の人間だ。
 天才ならば、独りでも生きられる。独りで生きて、独りで死ねる。
 だけど、私は人間だから――独りでは生きられないし、独りでは死ねない。

 ならば、彼女を失ってしまうことなど、“人間”に過ぎない私に耐えられようはずもなく。
 外面を繕いながら、内心を覗かせ。表層の冷静を装いながら、深層の興奮を吐き捨てる。

「理由を……そんな突飛な上申に及んだ理由を訊かせてもらえるかしら……? でなければ、そのような身勝手な願いを聞き届けるわけにはいかないわ」

 今しがたまで微動だにせず、私を凝視していたフランシスカが、その言葉に瞳を揺らす。そこに見え隠れするのは強固な意志と、それに相反する躊躇。権力の座への執着などではないだろう。彼女の魂はそんな下賎には染まらない。
 ならば、それは己が務めに対する“責任感”の重み。辞すると決してなお、衰えることなきその愚直。それがあまりにも眩しくて、なんだか笑えてさえくる。

 フランシスカが口を開く。
 恐らくは、自己の解任理由を述べるのだろう。針の筵にて転がるような、そんな痛みを伴いながら。
 それが彼女なりの“けじめ”であるのなら、私には遮る理由などありはしない。
 だが――。

 結論は決まっている。
 議論の余地なく、決まりきっている。

 私は、フランシスカを近衛の任より解き放ってやるほどに――優しくなどはない。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「呆れたわ……。貴女、そんな理由で自らの職を辞するつもりだったの……?」

 溜息。
 少しばかりの感嘆と少なからぬ呆甚とが同居したその吐息が、ふわふわと眼前を漂いながら消えていく。
 もう一度、溜息。今の私の心境をこれ以上に的確に表してくれるリアクションはないだろう。

「そんな理由、とは仰いますが――」

「貴女は馬鹿ね、馬鹿。それもとびきりの。“そんな”という表現が気に入らないのなら、“その程度”と換言してあげても宜しくてよ」

「しかし、自分が団規違反を犯したのは明白。『千丈の堤も蟻の一穴』という言葉にもあるように、些細な瑕疵によって組織全体が瓦解してしまうことは決して少なくありません。それに自分は団長という身であるわけですし、本来ならば他の団員に対し模範を示さねばならない立場であるわけでして――」

「もういいわ。貴女はやっぱり馬鹿よ。とんでもない大馬鹿。それなりに長い付き合いではあるけれど、貴女のその性格をこれほどまでに腹立たしく感じたのは初めてよ」

 前触れもなく、近衛騎士団長を辞すると言い出したフランシスカ。
 その理由を問い質した後に、私の心中を埋め尽くした感情は中々に名状し難いものだった。腹立たしさ、恨めしさ、やるせなさ――そういう類のモヤモヤした情動の奔流が一気呵成に押し寄せてきた、とでも言おうか。
 私にしては珍しく下品な言葉を彼女にぶつけてしまう程度には、その流れは激しく、荒々しいものだった。

「貴女、正気? そんな取るに足らない理由で投げ出す程に、近衛の務めは軽いものだとでも思って?」

「滅相もありません。カタリーナ様をお守りするという使命が重くないわけがないではありませんか。であるからこそ、自分はその任に相応しくないのです。遵守すべき掟を破った者が上に立つことが許されるほど、甘い組織であってはならないと――」

「軽いわね」

 思わずフランシスカの言を遮って、口を挟む。
 彼女の言い分は四角四面にして杓子定規。正論染みた逃げ口上の羅列。固陋極まる世迷言の連続。
 そんな申し開きをいつまでも悠長に聞いているほどに、私の気は長くなどない。

「そうは申されましても、自分は……」

「自分は、なに?」

 苛立ちが募るにつれて、段々と自らの声に険が篭り始めていることを自覚する。今の問い掛けには、自分でも驚くほどの低い声が乗った。
 まったく、それもこれも――。

「近衛たる者、その心身の頑健にして廉白なるを至当とし、外れし業は厳に慎むべし――私が定めた団規です。これに則れば、深酒に及ぶなど、その一員として有るまじき行い。自らが定めた掟を自ら破るようでは、部下に範を示すことすら出来ていない、と言ってもよいでしょう。であれば、せめて頂門の一針としての役割くらいは果たさねばならないと考えました」

 辟易してしまわんばかりの、この度を越えた潔癖ぶりに原因がある。これはもう清廉だとか禁欲的だとか、そういった甘いレベルではない。
 ここに至れば、それは単なる神経過敏――ある種の病気だ。

 大きく息を吐く。
 なんで、彼女はこうなのだろう、と。確かに、幼少の時分から人一倍義理堅く、また人一倍謹厳であったフランシスカではあるが……。それでも、以前はもう少しまともであったような記憶があるのだが。この歳でこれでは、齢を重ねればさぞ口うるさい年寄りへと華麗な逆説的進化を遂げるであろう。

「少し酒を飲みすぎる程度、別に全然構わないと思うのだけれど。さすがに毎晩そうであっては困るけれど、偶に羽目を外すくらいで目くじら立てる必要なんて、本当にあるのかしらね? 少なくとも、貴女は毎晩酒に溺れているわけではないでしょう?」

「当たり前です! 生を受けて此の方、酒精など口にしたのは昨晩が初めてのことでした」

「それで? 生まれて初めてのワインの味はどうだったの? 満足いくものだったかしら?」

「それが……恥ずかしながら、よく覚えておりませんで……。気が付いた時には、宿舎の部屋で横たわっておりました……。酒を勧められる前に受けた報告内容を記憶していたのは不幸中の幸い。それすら忘却していたかもしれないと考えると、背筋の凍る思いです……」

「ふーん……なんだか有りがちで詰まらないオチね」

 剣術・格闘術に類稀なる才を有する女傑も酒には強くないらしい。
 身体の頑健さと対アルコールの強さとの間に特段の相関関係が存在するわけではないが、それでもなんとなく意外だ。私の中では、フランシスカは次々に杯を空ける酒豪のイメージが勝手に出来上がっていただけに。

 今度、確かめてやろうかしら――なんてことを思う。
 私だってマディラ生まれのマディラ育ち。ワインなら幼い頃から飲みつけているし、それを口にした後の鼻へ抜ける香りは大好きだ。執務室の戸棚の中には、数本の秘蔵のワインが眠ってもいる。
 今回の面倒が片付いたら、関係者を集めて酒宴を開くのも面白いかもしれない。

 なんて、少し先の未来へと思いを馳せるが、その為には眼前で項垂れている頑固者を何とかして翻意させなければならない。

 面倒の解決を命令したのに、それが新たな面倒を運んでくる――なんて、実に不毛。
 思惑というのは、いつだって当初の予定通りには進まない。その過程では必ず計算外の要素が生じ、それが時に事の成否に関わるような問題へと発展することもある。そうなった際に取るべき行動は、その計算外の要素を速やかに潰すこと。

 今回のそれは、フランシスカによる短慮極まる申し出だ。

「それで、貴女の話を聞く限り、ドザエモン、ミゲル、ジョルジュの三名もその場に同席し、共に飲み交わしていた、という理解で間違いないのよね? だとすれば、貴女が団規違反で責任を取る、というのは大いに拙いのではなくて? ジョルジュは近衛の所属ではないから除外するにしても、残りの二人は貴女の部下でしょう? 貴女が責任を問われる段に至れば、その二名のみが不問、というわけにはいかないでしょうから」

「……いえ、団規違反は団規違反。彼らとて近衛に名を連ねる者たちならば、その程度のことは理解しておりましょう」

 毅然たるその内容とは裏腹に、私にそう告げるフランシスカの表情が曇る。
 恐らくは、自らと共に罰せられることになる部下の身を案じたのだろう。

 彼女は非常に気遣いの出来る人間だ。むしろ、必要以上に気を回すタイプであると言っていい。
 そして、それは自分の部下たちに対しても同様。
 第一優先は『この島にとって』、同列首位に『主君にとって』。だが、その次あたりには『部下にとって』が来て、『自分にとって』は断トツの最下位。それは建前上のものではなく、本音で。なんとも歪な優先順位だ。

 だからこそ。
 彼女にとって部下の“首”というカードは有効になり得る。

「貴女はそれでいいの? 貴女のみならず、手塩に掛けて育てたはずのあの二人が、こんな些細で詰まらない理由のせいで、一つの武功も挙げられぬままに騎士の座を剥奪されるのよ? 貴女ならそれがどういう意味を持つのか、くらいは理解できるでしょう? ああ、ちなみに私の言う『些細で詰まらない理由』というのは、フランシスカ――貴女が張り通そうとしている“ちっぽけな”意地のことよ」

 これは説得ではないな、と思わず自嘲の笑みが零れそうになる。よりにもよって、フランシスカに対し、このような脅迫染みた言葉をぶつけるほど、私は悪辣な人間だったのか、なんて。
 だけど、私にも私の立場と。そして私なりの思惑がある。眼前の“分からず屋”を覆う氷を溶かす為には、火付けの場所を選んでなどいられないのだ。

 心中にて鎌首を擡げ始める良心の呵責はひとまず捨て置き、言葉を連ねる。

「それにね、フランシスカ。私は“あの男”に命令したのよ。『この島を脅かすかもしれない“騒乱”の芽を潰せ』と、そんな命令を為したの。それは“あの男”への命令であると同時に、近衛全体に対しての軍令よ。その結果を見ぬままに近衛を去るというのは、非常に無責任なのではなくて? 貴女にとって、このマディラの未来は、自身の意地よりも劣るものだ、とそう言っているようなものなのだから」

「いえ、そういう意味では……。私の意図がそのような場所にないことくらい、カタリーナ様なら分かっておられるでしょう?」

「分からないわね。万が一の際の責任を恐れて、安全地帯へと一人逃げ出そうとしているようにしか見えないわ」

「…………」

 フランシスカが押し黙る。
 今の一言はきっと彼女の“誇り”を傷付けた。誰よりも“騎士”たらんとした一人の女――その矜持に対し、泥を投げ付けたようなものなのだから。
 他ならぬ私が。そのことを誰よりも理解しているはずの、この私が。

「あのね、フランシスカ……」

 自責の念は今は必要ではない。
 今、必要なのは、容赦ない追い込みだ。彼女を翻意させるに足るだけの、苛烈で痛烈な理屈責めなのだ。

「貴女は間違いを犯した。私にとってはそんなのは取るに足らない些事だけど、貴女がそう考えているのならばそれでもいいわ。だけどね、一つの小さな間違いを犯したからといって、組織に大きな不利益を生む決断を“責任”だなんて考えているのなら、それは見当違いも甚だしいわよ。貴女の言っていることは、単なる自己満足。得をするのは、貴女だけ。その自尊心を守る為だけに私に首を縦に振れ、と貴女は言うの?」

 フランシスカは無言。
 その口は真一文字に結ばれ、瞳の奥では私を食い殺さんばかりの暗い炎が揺れている。まるで地に伏し、泥に塗れ、屈辱に耐えているかのような表情。落魄しているかのような、痛々しい顔。

 だけど、それもそうだろう。
 私は“そういう”言葉を選んでいる。“そういう”言葉を選んで、彼女を挑発しているのだから。そうやって罠を張って、手薬煉引いて待ち構え、ここぞとばかりに引き摺り出してやるのだ。

 フランシスカは、私の知る誰よりも高潔で、誰よりも廉潔な“騎士”。
 私は――そんな彼女の“誉れ”を信じている。

「いい、フランシスカ? 貴女個人の自分勝手な行動で、この島を――そして私を危険に晒そうというの? 貴女はそんな未来を希望しているの?」

「…………」

 この無言は否定だ。
 そう見做して、話を続ける。

「貴女は“責任”を取りたいのよね? 近衛団規を裏切り、マディラの民を裏切り、そして私の信を裏切った――そう思っているからこそ、それに相応しい“責任”を取りたいと考えているのよね?」

「…………」

 これは肯定。
 判定基準としての言葉などは無用。
 その眼を見れば十分。双眸は、その程度には物を言う。

「ならば、“責任”を取りなさい。存分に、十分に、思うさまに、その“責任”を取りなさい。ただし――」

 “女王”の逃げ場は盤面から消え失せた。
 さぁ、チェックメイト――。

「その形は、私が決めるわ。私には、その権利があるもの。ねぇ、そうでしょう?」





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 いつの間にか、夜はすっかり白んでいた。

 一仕事終えた後の疲労とは、いつだって心地よいものだ――なんてことは思わない。身体を蝕む倦怠感は不愉快だし、頭脳を侵す無気力感は腹立たしいだけだ。
 それが本来無用であるはずであればあるほど、その不快感は倍化し。それに伴って、更なる無気力を生むという、負の螺旋構造に嵌る。

 一度大きく首を回して、背もたれに身を預ける。
 腰椎が自重からの解放を喜び、腹筋が緊張を解く。まるで浮遊しているかのように身体が軽い。どうやら、私は中々に緊張してしまっていたようだ。心身の脱力感が、そのことを如実に物語る。

 それにしても――。

「あの二人には何らかの仕置きが必要なようね……」

 彼らが軽い思惑でフランシスカを酒宴へと誘ったせいで、私がどれだけ肝を冷やす羽目になったか……。あれほど生真面目な人間は滅多に居ないのだから、その取り扱いには細心の注意が必要だというのに、彼らはそれを怠った。なによりも、私が――この私が彼らの失敗の尻拭いをさせられたという事実が全く以て面白くない。
 大体、私とてフランシスカと酒の席を共にしたことはないというのに……。

 決めた。
 “八つ当たり”という名のストレス発散行為に興じよう。
 言葉の刃で切り刻み、言葉の槍で刺し穿ち、言葉の槌で叩き潰し、言葉の矢で射竦めてあげましょう。“あの男”の悶え苦しむ様を目にすれば、多少は溜飲が下がるかもしれない。

 机上に据え付けられた呼び鈴を鳴らす。
 その残響も消えぬ間に、恭しく一礼しながら侍従が姿を現す。

「お呼びでしょうか、カタリーナ様」

「ええ、一つお願いしたいことがあるのだけれど。近衛の詰所まで行って、ドザエモンに出頭するよう伝えてきてはくれないかしら? もし、まだ詰所に到着していないようなら、適当に言付けておいてくれればいいから」

「モンモンですね。承りました」

 彼女は私の指示を把握すると、その矮躯を翻し。
 私が次の句を紡ぐ暇すら与えずに、極限までの早足で部屋から退出していく。

「ついでにお茶も頼もうと思ったのだけれど……。本当にせっかちね」

 相変わらずといえば相変わらずのその様に、思わず軽い苦笑が漏れる。

 あの調子では、きっと近衛の詰所まで全力疾走していくのだろう。途中で誰かにぶつからなければ良いのだけれど、なんて心配をしてしまうくらいには、彼女のそそっかしさは変わらない。
 まぁ、それでも、私の命を一刻も早く遂行する、という意志の下で動いてくれるのだから、不満なんてあるわけもなく。むしろ、その愚直さが愛おしい。
 少々面倒ではあるが、偶には手ずから茶を淹れるのも悪くはないかもしれない。

 にしても。

 懸案が一つは片付いたものの、それは突発型の降って沸いたものであったわけで。
 片付けるべき最重要事項に関しては、“保留”という名目の先送りの決定が為されたことも事実。

 “あの男”とミゲル、それにジョルジュはよくやってくれている。私の想定以上のスピードで動いてくれているのだから。
 朧気にしか見えなかった“敵”の形が、姓と名を冠することでよりはっきりしたことについては、間違いなく喜ばしい。明らかにプラスの要素だ。
 だが――。

 イスパニア。
 私たちにとっては不倶戴天の敵。仇敵とまでは行かなくとも、本来相容れることのない相手だ。
 そんな者共と手を結ぶとは……。そんな者共の力を借りてまで……。

 そこに“誉れ”はない。影も形も窺えない。
 能はなかったけれど、優しかった。才は追い付かなかったけれど、強かった。力は弱かったけれど、その背は大きく。
 口には出さなくとも、確かな愛を与えてくれた。

 なのに。
 そうであったはずなのに――。

 今の貴方はそれほどまでに娘のことを恨んでいらっしゃるのですか、お父様……?



[9233] Interchapter01
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:72a68d39
Date: 2010/02/07 21:06
 嵐の前の凪いだ波に身を任せ、ただゆらゆらと揺られている――そんな錯覚を覚えてしまいそうなほどに、ここ数日は穏やかそのものだ。

 状況は楽観視できるものではない。いつ急変するか分からない。それに備えてやるべきことも皆無であるとは言えないし、現に連日の聞き込み調査は続行中。各々が各々の立場で、その役割に応じた動きを取りながら、来たるべき“開戦”――その喇叭が吹き鳴らされる瞬間を待っている。
 心構えは出来ている。まだ緊張でガチガチになる段階には早いけれど、いつか“その時”が来るという準備は万端。覚悟も万全。そのことから目を背ける人間はいないし、日々を無為に過ごすような愚者もいない。

 だからといって、俺たちが小さく縮こまりながら暦の進むに任せているかっつーと、当然そんな殊勝なマネをしているわけがなく。
 今――この『嵐の前の静けさ』に満ちた日常を、存分に楽しんでいるんだ。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 デッドラインが迫っていた。

 時とは無情だ。
 どんなに止まれと願っても、どんなに戻れと祈っても、そんなことは聞く耳持たず。ただ、ひたすらに、進む。機械的な正確さで未来へと漸進する。一秒一秒、ゆっくりと着実に――定められた場所へと歩みを進めるんだ。

 だから――。

「ドザエモン、オレをナンパに連れて行ってくれっ!」

 “ヤラハタ”という輝かしき称号の獲得を三日後に控えたミゲルが、そんなことを俺に言い出したのは――確実に敗北へと近付いていることに対しての、心中の焦燥の具現だったのだろう。

「……あァ? いきなりなに抜かしてんだ、テメェはよ?」

「ナニをヌイてくださいと頼みに行こうって言ってるんだよ!」

「いや、んなこと訊いてんじゃねぇし――」

「オレには時間がないんだよ、ドザエモン! 感じるだろ、この余命幾許たる重篤人の叫びを! 見えるだろ、死の淵に手を掛けて尚諦めるを良しとしない、そんな好漢の最期の煌めきが!」

 常にテンションがおかしな男ではあるが、今日は一段と振り切れている。つか、ぶっちゃけ何言ってんのか、全然分かんねぇし。
 でも、ミゲルの表情は真剣そのもの。まるで、今この時より死地に赴かんとする戦士の如く、鬼気迫った顔をしている。

「そりゃあ、オレだって“はじめて”くらいは十代のうちに迎えたいわけですよ! この際、贅沢は言わない! 愛なんてものはなくたっていい! だけど、一晩だけ相手してくれてもいいじゃんか、ねぇねぇねぇ!?」

 顔が近い。唾が飛ぶ。
 つーか、汚ぇな、おい。

 ツラが汚ぇとか、唾が汚ぇとか、そういう次元じゃなくて。なんつーの、その総体が唾棄すべき対象としての存在っつーか?
 ぶっちゃけ、あんまり相手したくない感じだ。

 だが、俺の心中を埋め尽くしている嫌悪感など、当の本人が知る由もなく。
 勢い込みながら、腐った言葉を唱え続ける。

「あと三日だぞ、三日! ホンの三日後には、オレはある意味で『一つ上の男』になっちまうんだって! その十字架の重みがドザエモンには理解できるか!? いいや、お前には分からないはずだね! セックスの気持ち良さを知っている悪魔のような男なんかに、日々オナニーに耽る汚れなき天使の苦悩が分かって堪るか! クッソ、オレはオレは――」

「いいから、落ち着けや、ボケがっ!」

「――あぐべっ!」

 殴ろうかと一瞬考えて、やっぱり蹴り飛ばすことを選んだ。
 いや、だって今のミゲルにはチョクで触れたくはねぇし。なんか変な菌を移されたりしそうだしな。

 まぁ、事情は分かった。
 要はあれだろ? “ヤラハタ”とか言われんのが嫌だから、なんとか駆け込みでヤッちまいたいってことだろ? で、身近にヤラせてくれそうな女がいないから、数打ちゃ中るで調達したいと。

 下らない。実に下らない。あまりにも下らなすぎて、何が下らないのかすら分からなくなってくる。
 大体、そんなカッコワリィ悩みを人前で叫ぶこと自体が情けねぇし、この期に及んで足掻こうとしている精神性も落第点だ。つか、元を辿れば、全てが『自業自得』の一言で片付いちまいそうなのは、単なる俺の気のせいなのか?

「何も蹴ることないだろ!?」

「うっせぇぞ、カス。だったら、ナンパでもなんでも好きにすりゃいいだろうが。それがダメでも娼館行って金払えば、一発くらいヤラせてもらえんだから、ウダウダウダウダ御託並べてんじゃねぇよ」

「いやだ! “はじめて”はシロウトがいい!」

「あ? なんだそのツラはよォ?」

 ミゲルのヤツが『言ってやったぜ』的な得意気な顔をしているのが、甚だ解せない。つーか、えらくムカツく表情だな、おい。思わず殴り飛ばしたくなるじゃねーか。
 うん、もうちっと身の程を弁えやがれ、と言いたい。お前に相手を選んでいる余裕があるのか、と問いたい。もうさ、そんなに選り好みするんだったら、一生童貞でいやがれ、と諭したい。

「ちっちっち、甘いよ、甘すぎるよ、ドザエモン! プロじゃダメなんだよ! オレが求めているのは、そういうビジネスライクな一夜じゃなくてさ、なんというか、こう……いつか振り返った時に甘酸っぱい思い出になるような、そんな初体験なわけで――」

 童貞の妄想ここに極まれり。
 ナンパして持ち帰るっつーのも、ある意味じゃビジネスライクな関係だろうに。むしろ、物質的価値を伴わず、精神的な割り切りがその下地に存在する以上、もしかすると金で買うよりも痛々しいかもしれないってのに。

 つーか、それ以前に――。

「ミゲルのカントンチ○ポ挿れられても、女は満足しねぇだろうなぁ……」

 おまけに短小だし。カリ細だし。テクないし。多分早漏だろうし。
 いいとこなしだな、おい。恐るべき逆スペックだ。三重苦どころの騒ぎじゃない。ある意味、雁字搦めの多重債務だ。

 だが、俺の呟きはミゲルの耳朶を打つことはなかったらしい。
 ヤツは恍惚の笑みを浮かべながら、俺に向かって話し掛ける。

「というわけでだ、ドザエモン。一緒にナンパ行こうぜ」

「一人で行け」

 だから、なんで俺を引っ張り込もうとする?
 硬派な俺はそういうのお断り――。

「よし、決まり! 行こう! 今すぐ行こう! 頼むよ、今度十年マディラ奢るからさぁ」

「オラさっさと着いて来いや、クソヤロウ!」

 ジゼルの店の最高級ワインの誘惑には勝てず、あっさりと買収され。二人して暮れなずむ街角へと歩を進めることになる。
 つか、十年マディラは別に成功報酬ってわけじゃねぇよな……?





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「オネエサン、オネエサン、オネエサン! ねぇ、今ちょっとだけ時間ある?」

 西日照り差す大通りを、人の群れが行き交う。多くは家路を急ぐ者。その中にちらほらと華美な装いをした夜の蝶たちが飛び交う。
 いつも通りの夕刻の情景。

「ちょっと待ってってば! マジですぐ終わるからさぁ! いや、ホントホント! ちょっとお話して、あわよくば一晩お付き合い頂くだけだから――ってクソッ! 死ね、ブス!」

 そんな寂寥滲む光景の中、人々の波を縫うようにして、一匹のコバエが飛び回っている。

「わお! いいねいいね、グッドプロポーション、おーいえー! 凹凸を是とする時流に何ら媚びることなく、その平坦こそに磨きを駆けた潔さに、オレ脱帽! お、お、おぉぉぉ! 顔を上げれば、これまたビックリ! その貧なるプロポーションに誂えたかのような、幸の薄い御尊顔! いいねぇ、今夜オレのベッドで幸せを分けてあげよ――」

 一息に喋り捲るミゲルを制するかのように、乾いた打撃音が響く。
 ビンタ一閃。平手打ちとも言う。振り抜いた右手のフォロースルーまで美しい、実に教科書通りの一発だ。
 食らった側は左の頬に小さな紅葉を拵えながら、俺の方へと戻ってくる。つーか、今の一連の流れの何処に疑問を差し挟む余地があったのか分からないが、頻りに首を捻りながら。

「ドザエモン、見たか今の女!? オレの口説き文句の流麗さに照れるあまり、可愛い一噛みを残してくれちゃったぜ」

「あぁ、まるで噛み殺さんばかりの怒りの形相だったな」

「これだから、並の女は……。オレに声を掛けられる栄誉に浴して、我を忘れるなんて……まぁそれもこれもオレが罪な男だってことか……」

 ミゲルは物憂げにそう宣うと、ナルシスチックに髪を掻き上げようとする――が、如何せん長さが足りない。角刈りの限界点を思い知れ。

 にしても、一つハッキリと判明したことがある。
 いや、こうなる前から薄々は感じていたことではあるんだが、いざ実地に出てみるとそれがいよいよ現実感を伴って押し寄せてきたというか、なんというか――。

 ぶっちゃけ、ミゲルにナンパ成功は見込み薄。
 見込み薄っつーか、無理。無理っつーか、不可能。

 確かに積極性は買う。その厚顔無恥ぶりは素晴らしい。マイナスのベクトルへと針路を取った上での一種の到達点を垣間見たことは否定しない。
 だけどな、ミゲル……オマエ決定的に――。

「キモイんだよなぁ……」

 そう、キモイのだ。
 声、言説、動作、視線、態度――その全てがキモチワルイ。
 なんつーか、必死さをひた隠しにしようとしているけど、全然出来ていなくて。一つ一つの所作から粘り付くような欲望の塊が透けて見えるっつーか。ついでに言えば、マエが明らかに膨らんでるのが、遠目にも見て取れるあたり、どうにも救いようがない。声を掛けられた女からすれば、いつ暴発するか分からない銃を突き付けられているようなモンだ。
 そんなんじゃ、第一印象でアウト扱い、謹んで『ごめんなさい』されてしまうのは避けられない。

 で、問題は本人がそれをまったく理解できていないところにあって。

「さっきの子は惜しかったんだけどなぁ……。オレが彼女の手を一瞬早く引いておけば、今頃前戯真っ最中だったってのに。紳士を貫き過ぎるのも考えものだな……。よし、次は少しだけ強引に迫ってみるか」

 こんなことを繰り返させていたら、そのうちマジで通報されてしまう。
 そうなったら、このナンパ行為はフランシスカの知るところとなるわけで。
 つーか、さっきからシタの制服着たヤツらがちらほらと視界に入って来ているし。

「いやいやいや、それはヤバイだろ、マジで……」

 ボコボコで済めば御の字。だが、そんなレベルでは済まされないであろうことが容易に想像できる。
 となれば、ここらが潮時だろう。

「ミゲル! 一旦退却するぞ!」

「なんだよドザエモン!? やっと調子が出てきたってのに、なに言ってんだよ!? さては、お前……実はオレの脱童貞が現実味を帯びてきたせいで、嫉妬の炎を燃やし始めたんだな!? 安心しろって! オレは経験者になっても、ドザエモンとは良き友達でいるからさ!」

 その根拠のないうぬぼれに満ちたツラが鬱陶しい。張り倒したくなる衝動に駆られる。なんでオレがテメェなんかにジェラるんだよ、わけ分かんねぇ。
 つか、なんだってんだよ、その『ヤバッ、今オレに吹いてる、風吹いてる』とでも言いたげな、自信満々な表情はよぉ。

「一つだけ世の真実を教えてやる、ミゲル。女共の瞳に映っている今のお前は、箸にも棒にも掛からない、取るに足らない、詰まらない、そんな路傍の雑草だ。しかも、立小便多発地帯にてアルコール混じりの水分を糧に逞しく生える、触れるのも汚らわしい雑草だ。分かるか? オマエ、割と……つか、全身全霊でドン退きされてんだよ」

「はっはっは! 過ぎた嫉妬は見苦しいよ、ドザエモン。いいからちょっとだけ黙って見てろって。そう待たせはせずに――って、ちょっとそこのイケてるオネエサン! そう、乳首は推定干しブドウって感じのそこのカノジョ! 違うよ、そっちのカノジョじゃないって! お前の乳首は生食サイズだろうが! 引っ込んでろ!」

 矮小で猥雑な生物ほど生命力と繁殖力に長けているというのは、世の摂理なんだろうか?
 ゴキブリ然り、コバエ然り。そして、ミゲル然り。

「……付き合ってらんねぇ」

 どうせ、あと一時間もすれば、己の限界を悟るはずだ。
 そうなって泣き付いてきたヤツの相手をするのも面倒といえば面倒なんだが……。

「なんてったって、十年マディラだしな……。値段分くらいはいい思いさせてやんねぇと、哀れっちゃ哀れだし」

 とりあえずナンパは断念しよう。ミゲルのテクニックじゃ十年経っても、一人の女も釣り上げられねぇ。

 となると――。

「久しぶりに娼館に顔出しとくか……」

 必死に運命という名の枷に抗う友の為。
 そして、なにより自分の為に。

 俺は大通りの脇道に入り、その外れの外れ――魑魅魍魎と化した女怪たちの舞い遊ぶ伏魔殿へと向かって、歩を進めることにした。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「というわけで、だ」

 一度息を吸い込んで、正面からミゲルの目を見据える。
 その瞳に映っているのは、落胆と失意と悲観と諦観。しかし、それでもなお焦燥の色はしぶとく残っており、昨日と比べてもより色を濃くしている。つまり、惨憺たる釣果を突き付けられ、どうしようもなくネガりながらも、一縷の希望を捨て切れない――そんな諦めの悪さに満ち満ちた感情。
 だから、そんなミゲルを眼前に、俺は――。

「お前には面識のないシロウトを口説くなんて到底無理だっつーことが判明したわけだが、なんか異議あるか?」

 とりあえず、『縋り付くべき“蜘蛛の糸”なんて存在しない』という現実を認めさせることから説得を開始する。

「…………」

「なんか言えや、おい」

「……なんか」

「ガキかテメェは!?」

「…………」

 どうやら、俺の予想以上にミゲルの心的外傷は深かったらしい。
 傷付いて、凹んで、そして拗ねる――腐敗への三段活用をものの見事に体現している。普段なら良くも悪くも内に篭ったりするようなヤツじゃないんだが、それがこんなになっちまってるってのは……何気にマジだったんだろうな、昨日のナンパ。誰かしら引っ掛けられるって本気で考えてたんだろう。

 やっぱ、自分の身の程くらいは知っておいた方がいい。
 じゃねぇと、いざ自分の丈が足りねぇってことに気付いた時に、形容し難い気恥ずかしさとそれに伴う衝撃をマトモに食らうことになる。
 今のミゲルなんて思いっ切り、そうだ。

 自分では『モテのセンターレーンにはいねぇけど、その隣のレーン辺りを疾走してる』つもりだったのが、実は『栄光の第一レーンを無条件に割り振られ、しかも号砲前から逆走を続けていた』ことに今更ながらに気が付き、しかも明らかに手遅れというか、取り返しが付かないというか、『逆走のままゴールテープ切っちまってね、俺?』状態であることにも思い至ってしまったわけで――うん、何を言いたいのか分からんな、この例え。
 まぁ、つまり脳内に花咲いていた幸せな二十年間の残滓――それが今になってミゲルを苛んでいる、ということだ。

 そして、そんな時に周囲の人間が出来ることなんてタカが知れている。

「俺も他人の傷口に塩塗り込むようなマネは趣味じゃねぇし、あんま言いたくはねぇんだけどさ、まぁ極力オブラートに包んで言わせてもらうとすれば、だ……ミゲル、どうやらお前は恋愛ヒエラルキーにおいて最下層に位置しちまってるみてぇだ――」

「いやいやいやいや、おかしいおかしい! ねぇねぇちょっと待ってみようか!? それのどこがオブラートに包んでるんだよ!? これ以上なく直截というか、どこからも婉曲の香りが漂ってこないというか、思いっきり傷口に塩塗りたくってるよね!? しかも粗塩なんてレベルじゃなく岩塩で!」

「お望みならオブラート吹っ飛ばしてやっても構わんけど?」

「それは是非に御容赦願いたいです!」

 俺にツッコミを入れるミゲルの姿は、なんだかすっかりいつもの調子を取り戻している。どんなに凹んでいても、それが持続しないってのは、ある意味悲しい芸人の性だ。
 ミゲルを引っ張り上げるには、数百の応援や激励なんかより一つの誹謗の方が遥かに効果的だということも、決して短くはない付き合いの中での発見の一つ。なんつーか、基本甘ったれだしな、この農家の三男坊は。うっかり慰めの言葉でも掛けようものなら、『オレって可哀想』的思考に陥りやがるし、それはそれでウザイことこの上ない。

「まぁ、とにかく盛大に玉砕できただけ、何もしねぇよりはマシだったんじゃねぇの? それが“勇気”じゃなく“蛮勇”として俺たちの記憶に刻まれたってのは否定できねぇけどな」

「“蛮勇”って悲しい響きだよなぁ……」

「二十歳とは大人の煌き――おめでとさん」

「だからオレはまだ諦めてないんだってばっ!」

「あ?」

「いや、なんでそこでそんな顔するんだよ!? あと二日あるじゃん!?」

「……えええぇぇぇ」

「なにその嫌そうな声! ていうか、リアクションがあからさま過ぎだろ!?」

 だって、なぁ?

 あそこまで派手に打ちのめされたんだったら、普通そのまま寝てるだろ? これ以上やるとトラウマになるぞ、マジで。
 つーか、それ以前に俺は報酬目当てだったわけだし。極論すれば、ミゲルが『ヤラハタ』の栄冠を手にしようがしまいが、別にどっちだっていいし。うん、両者を秤に掛けて楽そうな方であれば、それでいい。

「お前は頑張った、ミゲル。今のお前が持てる全てを動員して難局に立ち向かい、それでも力及ばず一敗地に塗れたってトコだ。俯く必要はねぇし、誇ってもいい。戦わずして負けるよりは、ずっと男らしい最期だったぜ。俺が証人になって、お前の勇姿を後世に語り継いでやる。だからさ――いい加減観念しろや、メンドクセェ」

「壮大に持ち上げられて、盛大に叩き落とされたっ!?」

「アゲてオトすのは基本だろ?」

「ドザエモンのサディスト! 嗜虐思考の倒錯者! 悪逆非道! 冷酷無比! ぶんぶく茶釜!」

「いや、最後のは意味分かんねぇからな」

 どうやらミゲルの気を紛らわすことには成功したらしい。
 あのまま腐っていられても、それはそれで鬱陶しかったし、何よりミゲルはこうしてバカやってる方が“らしい”と思う。シリアスな顔が致命的なまでに似合わねぇ男だからな。

 ついでに『ヤラハタ』なる冠を頭に乗せる未来までスッパリと受け入れてくれれば、言うことなしなんだが……。
 まぁ多分、今の感じじゃリミット一杯まで諦め切れないって感じだし、それを説得しようとすれば結構骨が折れそうだ。普段なら物事に拘泥するようなヤツじゃないんだが、今回の件に関してはマジ度の桁が違ってそうだしな。

 となれば――。

「やっぱ、アレしかねぇよな……」

 俺だって一応人の子ではあるし、ミゲルの窮状を見るに忍びない思いだってある。俺にとって親密な人間ってのは“あっち”でも“こっち”でも決して多くはなくて、ミゲルの場合はそんな数少ない中の一人だ。何とかしてやりてぇっていう情の部分はやはりある。
 だけど、ミゲルのスペックを鑑みるに、その解決策ってのは無数に存在するわけではなく。つか、ぶっちゃけ俺には一つしか考え付く手段はなくて。

 一応、それは最終手段の予定だったんだが、事態は俺の想定より遥かに早く最終局面へと突入してしまったみたいだ。

「ん? どうしたドザエモン?」

 問い返してくるミゲル。

 その瞳の奥に光る錬鉄の如き意志を、俺は見た。
 脱童貞への渇望を糧に、今日この日に至るまで鍛え続けられた鉄《くろがね》は、今まさに活躍の場を欲して狭き眼窩を飛び出さんとしている。広く明るき未来への道を自らを以て切り拓かんとしているのだ。

 ――と、俺の中ではそういうことにしておく。
 じゃねぇと、なんだか色々と可哀想な気もするし。

「黙って着いて来いや、童貞。俺がなんとかしてやるから」

「おま、ちょ、どこ行こうとしてるんだよ!?」

 部屋の扉に向かって踵を返した俺を追うように、少し焦ったかのようなミゲルの声が背後から響く。
 だけど、俺は振り返ることはしない。その代わりとして、人差し指と中指を曲げ、その根元から親指を突き出す――いわゆる『にゃんにゃんサイン』を肩越しに強調しながら、歩を進める。

 絶望的に察しが悪いヤツじゃなけりゃ俺の言わんとすることくらいは理解できるはずだ。
 つまり、これは――。

「あー、お前がオレのことをその……なのは、まぁその、なんだ……想い自体まで否定しようとは思わないけどさ……。オレにはソッチの趣味はないっていうか、初めてが男のケツってのは想像するだにおぞましいっていうか――いや、もうこの際だからハッキリ言うと、ホモ行為はいくらなんでもゴメンだからな! マジで勘弁してくれ! っていうか、ドザエモンそっちの人だったの!?」

 ミゲルの場合、絶望的に察しが悪いというより、視覚情報の処理機能に絶望的な障害が生じているみたいだ。

 とりあえず渾身のヤクザキックを一発叩き込んでおいた。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 色街――そこは人類史上最古の職業に従事する女たちと、人類史上最古の取引を敢行する男たちとの世界。

 “こっち”であろうと“あっち”であろうと、そこに集う人間の欲求には大差ない。
 片や金銭欲、片や性欲。男たちの原初の欲求――その昂ぶりを静めることで、日々の糧を得る女たち。彼女らは厭味な程に艶やかな装飾に身を包み、原色の世界の隙間から肌色を覗かせる。通りを行き交う男たちは、此処其処から匂い立つ色香に惑わされつつも、その肌色を楽しげに品定めし、望欲の捌け口とすべき一時の相手を決めるのだ。

 人間が己の出発点へと回帰する場所――大袈裟ではあるが、そう解釈してもいいだろう。

 そんな忙しない通りの真ん中に――。

「ないないない! これはないってドザエモン!」

 大声で不満の意を示す童貞がいた。

「なにが“ない”ってんだよ、あァ?」

「いやそこで凄む意味が分かんないし、そもそもオレ娼館はNGだって言ってたよね!?」

「……差別主義者か?」

「違う違う、そうじゃないよ! 別に娼婦なんて抱きたくないとかそういうことを言いたいわけじゃなくて、初めての相手くらいは金銭的な遣り取り抜きで愛を交わしたいってことなんだよ! 分かるだろ、“そういうの”はしっくり来ないっていうか、仄かに良心が咎めてしまうというか――」

 ミゲルが熱く力説してるみたいだが、そんなの聞く耳なんて持ってやらねぇ。
 つか、そんなにも純愛に夢抱いてるんだったら、焦って童貞捨てようとすんなって話だ。そんなことを言うと『ふりだしに戻る』感じにはなってしまうが、そもそものスタートラインはそこに在るということをミゲルは自覚すべきだろう。

「うっせぇぞ。じゃあ、一度の過ちに目を瞑って女を知るか、それとも下らない主義に拘泥した挙句に後ろ指を指され続けるか、どっちか選びやがれ。あ、言っとくけど、お前がもし後者を選んだ場合、俺からの言葉責めは苛烈を極めると思うんで、よろしく」

「二択が理不尽すぎるっ!」

「人生の岐路ってのはいっつも不条理なモンなんじゃねぇか?」

 そう、人生を左右する局面ってのは、いつだって横暴で法外で没論理で没義道で。
 そこで“選べる”余地が在るということは、本来すげぇ幸運なことなんだ。たとえ、それがいずれも好ましからざる道であったとしても、自分で選択することが出来るんだから。
 自らの未来に対し、自らが責任を負うことが出来ないヤツだって沢山いるんだ。泣きながら否を叫ぼうとも、一本道の悪路しか目の前には在り得ない――そんなヤツだっているんだから。

 思わず感傷に浸り掛けた自分に気付き、目蓋を閉じて嘆息する。
 悪い癖だ。こうやってグチグチと理屈を捏ねたところで、何が変わるわけでもないんだから。

 そんな女々しい己に喝を入れるかの如く、ミゲルに対し話を続ける。

「大体、今夜誰と寝たとしても、それは明日になれば綺麗さっぱり過去になんだから、そんな拘るようなトコじゃねぇだろ。別に嫁サン探してるわけでもなし、抱ける女抱いときゃいいんだよ。金だったら、ちょっと高い店でちょっと高い酒を一緒に飲んだとでも思や、そんな大して気にもなんねぇだろうに」

「うーん、そういうもんなのか……?」

 ミゲルのヤツ、少しばかりグラつき始めたらしい。道の端で色気を振り撒く女たちへと、ちらちら視線が走っている。なんだかんだ意識し始めてるって証左だろう。
 これはあとちょっと押してやれば落ちるな。

「そんなもんだ。つか、お前が重く考えすぎなんだよ、マジで。周り見てみろって。お前と歳がそう変わらないヤツら、どうかすると指の数くらい下のヤツらだって、ごろごろしてんだろ」

「まぁそう言われてみれば、そういう気もするけど……」

「そういうマセたガキ連中から見下されてもいいってんなら、ここで尻尾巻いて帰るっつーのも有りだと思うぜ。ま、俺はそれでも一向に構わねぇし、その辺りはテメェで決めることだとも思うけど、『童貞』の前に『チキン』やら『ヘタレ』っつー文句がくっつくのは避けられねぇだろうな」

「…………」

 俺の単純に過ぎる挑発の言葉を受けて、ミゲルはじっと何かを考えるように押し黙る。まるで、これまでの人生を振り返り、それを彩って来た“なにものか”との決別を惜しむかのように。
 そして暫くそうして黙考した後――。

「ドザエモン、オレは……前に進むぞ! 思えば、オレに足りなかったのは、その一歩を踏み出す勇気だったのかもしれない! さぁどこへなりとも連れて行ってくれ!」

 どうやら俺の思惑通りの結論へと至ったらしい。

 憑き物が落ちたかのように満面の笑みを浮かべ、下心満載の下卑た視線で周囲を睥睨し、だらしなく緩み切った口元からは昂奮の息遣いが漏れている。
 まさに“正しき”ミゲルの在り方だ。

 だったら、俺としても最大限の助力はしてやろうと思う。

「んじゃ、幾つか候補は用意しておいたんだが……ミゲル、その中からテメェで選べ」

「……ああ、分かった」

「最初の候補は、その筋の方々には大変にウケのいい名店だ。従業員十名の総年齢四百歳オーバー、欲求不満な女たちによる胸焼けレベルのサービスが話題の『斜陽亭』――」

「いきなりディープなのキター! てか、ちょっと待って、それどう見ても熟女専じゃんか! ないないない、それは流石にないから!」

「やるなミゲル……。まさかお前がそこまでレベルが高いとは思わなかったぞ。じゃあ、満を持して二つ目の候補だ。従業員十名の総体重二千ポンドオーバー、女体の柔らかさを堪能できるという点については並ぶ店なき『豊満なる女神三号店』だ。ちなみにこの店は今サービス期間中ってことで、ポンド当りの価格が二割引になってるらしい――」

「いやそれも待って! 『ポンド当り』とか言ってる時点で普通じゃないだろ!? 豚肉の量り売りかよっ――みたいなさぁ! そこって、どっからどう見ても“ふくよか”な女性を好む紳士御用達の店だろ!? てゆーか、『三号店』ってなに!? 繁盛しちゃってるのかよ!? とりあえずオレは断じてパスだからな!」

「ったく、初めてだって割には贅沢過ぎだろ、ミゲルよぉ。俺に究極の切り札を切らせやがるとは、やるな。この店は滅茶苦茶レベル高ぇから、あんまり他人に教えたくはないんだが――」

「レベル高いところがいいんだよ! せめて初めてくらいは相応の相手を選ばせてくれよ!」

「まぁミゲルにそこまで頼まれちゃ仕方ねぇよな。そんじゃ三つ目にして最後の候補――」

 緊張した面持ちでミゲルが唾を飲み込む音。
 そのゴクリッという嚥下音に被せるように言い放つ。

「馬小屋だ!」

「……は?」

「いやだから馬小屋だって」

「そこ、どんな女の子がいる店なの? 店の名前だけ言われても、色々と判断できないんだけどさ」

「馬小屋なんだから馬がいるに決まってるだろ。いやー初めてから人外相手とは、お前の業の深さには恐れ入ったな」

「…………帰る」

 俺の完璧なチョイスに不満でもあったのか、ミゲルはそそくさとその場を離れようとする。

 流石にからかいが過ぎたか?
 初めての娼館を前にミゲルの緊張を解してやろうという親切心から出た冗談――というわけでもなく、単にミゲルのリアクションが面白くて興が乗ってしまっただけだったんだが……。

 まぁ、でもせっかく一大決心をした友をこのまま手ぶらで帰すほど、俺は根性捻ん曲がってない。
 そりゃ、マトモな店――つーか、マディラでも有数の高級店にだって予め渉りを付けてある。そこで働いてる女の何人かは、昔ひょんなことから関わる機会があって、今でも顔見知り程度の仲。その伝手を利用して、ミゲルの為に最高の卒業式を手配してある。

「あーわりぃわりぃ。さっきまでのは冗談だぞ、流石によぉ。つーか、あんなん真に受けてんじゃねぇよ。オラ行くぞ!」

 それでも、あーだこーだと駄々を捏ねるミゲルを半ば引き摺るようにして、雑踏の中を目的地に向かって歩く。どうやら、ミゲルの脳に俺への不信感がしっかりと刻み込まれてしまったらしい。
 まぁでも、それも店の前まで行けば、綺麗に消えてなくなるんだけどな、多分。

 ならば、差し当たっての心配事は唯一つ。

 つーか、いくらくらい金掛かるんだ、娼館って……?






   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「そういや、ドザっちがお店来てくれたのって、何気に初めてじゃない? わざわざアタシに会いに来てくれるなんて、お姉さん嬉しくて涙出ちゃうわ。さては溜まってんのか、このこのこのっ♪」

「るせ。ただの付き添いだ。つか、テメェ俺より年下だろうが。あと気安く触んな、気色わりぃ」

「相変わらずイケズよねー、ドザっち。ま、そんなトコにアタシは惚れちゃってんだけど。でも、そんなこと他の娘に言ったりしちゃダメよ。きっとすっごく傷付くからさー。あ、でもアタシにだったら、ガンガン言ってくれていいからね♪」

「んなこと、わざわざ言われなくても、テメェくらいにしか言わねぇよ」

「それってアタシは特別だってこと? 嬉しいわ、いっぱいサービスしちゃおっかなぁ♪」

「ああ、確かに特別だな、悪い意味で」

「じゃ、久方ぶりの再会を祝してってことで、とりあえず一発ヤッときますか♪」

「前後の連関がまったく意味不明な世迷言は置いといて、だ。マジでそういうのは要らねぇから、二時間くらい時間潰しに付き合ってくれや」

 異様なテンションを振り撒きながら、そそくさと着衣を肌蹴ようとする女――その行動を制止する。

 ファナと名乗るこの女とは、以前にちょっとしたことから知り合いになった関係だ。その際にまぁ色々とあって、結果的に彼女を助けるような形になり。んでもって、なんか知らんが一方的に好意を持たれているっぽい。
 夜の街での仕事をしている関係上、そう頻繁に顔を合わせるわけでもないが、休みの日なんかにはジゼルの店に顔を出し、なんやかんやと俺に纏わりついてくる。
 その光景を目にしたジゼルの反応まで込みで、実に迷惑な話だ。

「うわーアタシってばそんなに魅力ないかなー? へこむー。触ってもいいんだぞ、ほらほらほらっ♪」

 言葉とは裏腹に意地の悪い笑顔を見せながら、胸を強調するようにシナを作ってみせるファナ。男の本能としては、その深遠なる谷底への探究心を掻き立てられなくもないのかもしれないが、生憎そういう色仕掛には慣れっこだ。なんてったって、こっちはとんでもねぇ美人連中と日々接しているわけだし、一々反応してたらキリがねぇ。

 つっても、それはファナ自身の魅力がないというのと同義ではなく。
 彼女は確かに魅力的だ。カタリーナやフランシスカとは違って、男の性そのものにダイレクトに訴えかけるような、そんな直情的な魅力がある。

 店のナンバーワンを張ってるってのは、どうやら伊達ってわけじゃなさそうだ。
 オツムの程度が残念な女ではあるけれど、それはある意味での爛漫さにも繋がっていて。こういう場所の女ってのは、もっと陰のあるヤツが多いんだけど、そういう部分を微塵も感じさせない。太陽の光をその身一杯に溜め込んで、光のない夜にその輝きを放出する――そんな印象を抱いてしまうほどに明るい。底抜けに快活だ。

「むードザっちが冷たい。どうせアタシは汚れた商売女ですよー。そんな金で股開くような女は抱きたくないってことなのね、よよよ」

「よく分かってんじゃねぇか。俺ビッチ嫌い。お前ビッチ。抱く抱かない以前に、人としての受容ラインの問題だろ、これ」

「あ、今の酷い! グサッときた!」

「だから、触るなっつってんだろうが、この売女」

 言葉だけ額面通りに捉えれば、我ながらメチャメチャ酷いことを言っているとは思うけれど――。

「アタシだって偶にはストレスのないイチャイチャがしたいのよー。そりゃこんな仕事だから、イイ男なんてそうそう相手できるモンでもないって分かってるけどさー、少しくらいはそんな役得があったっていいと思わない? それがさー、ってちょっと聞いてよ、さっき付いたオヤジが本気で最悪でさ――」

 こんな感じで本人は全然堪えていやがらない。
 この程度の台詞なんて言われ慣れて、感覚が麻痺しちまってるのか。はたまた、他者の偏見や悪意に鈍感な性質ってだけなのか。
 まぁその辺はよく分からねぇけど、彼女がそうであるからこそ、俺もこういう心にもない物言いを安心して出来るってのも事実。

 実際、俺には娼婦という職業、そしてそれに従事する女たちに対する偏見なんてモンはない。
 彼女たちは彼女たちで精一杯生を紡いでいることを、俺は知っているから。

 その日の糧を如何にして得るか――社会的下層の家に産まれ付いた者にとって、それは物心ついた時分からの至上命題だ。何もしなければ、死ぬ。たとえ小さな手と足しか持たないとしても、それを最大限に動かし続けなければ生きていけないんだ。当然、学を修めるのに費やす時間なんか有るわけもなくて。
 で、そんな日々の果てに直面するのが『学がない』ことによる壁。実に皮肉だと思う。笑っちまうくらいに滑稽だとも思う。だけど、それが現実で。紛れもなく厳然と横たわる事実であって。

 それでも、彼女たちはそんな容赦のない世界で生き続けることを選択したんだ。
 その為の手段について、周囲から向けられる好奇や軽蔑の視線も込みで、生きていくことを決めたんだ。
 他者を傷付ける道を選ぶことなく、ただ自分のみを傷付ける道を選んで。

 素直に強いと思う。
 娼婦として生きることを称賛はしない。それは彼女たちにとって、どんな非難よりも痛い言葉だろうから。
 だけど、強い、と。その一点だけは認めるべきだと、俺は思う。

「ん、ちょっとドザっち? アタシの話聞いてた?」

「あァ?」

「なんで普通に『なーに?』って聞き返せないかなー、ドザっちは。喧嘩腰みたいに聞こえるし、なんかちょっと感じ悪いもん。知ってた? 近衛騎士のドザエモンといえば、街では不良騎士の代名詞になってるって。ま、実際、当たらずとも遠からずってトコよねー。でも、そんなハードボイルドなところも大スキなんだけどっ♪」

 一頻り言いたい放題言ってくれちゃった後、ケタケタと笑い声を上げるファナ。
 品なんてものはないけれど、とにかく楽しそうな声で笑う。この女は生きてること自体が楽しくて、心配事なんて欠片ほどもありゃしないんだろうな――なんて。そんなことを思ってしまうくらい、屈託なく笑うんだ。

「ま、ドザっちに手出すとジゼルっちに怒られちゃいそうだし、そもそもアタシの入り込む隙間もなさそうだし。すっごく惜しいんだけど、今日のところは大人しくお話相手に徹するとしますか♪」

 彼女は明朗な調べを響かせながら、長い亜麻色の髪を掻き上げる。赤い傘の色に染まった蝋燭の明かりの中で、艶のある絹糸が生きているかのように波打った。
 話しているだけだとそんなではないけれど、注視すればやはりファナは綺麗な女だ。さすがに自分を“商品”としているだけのことはある。

 だけど、それが俺に劣情を催させるか、といえば、それはまったく別の話で。
 どちらかというと、悲哀染みた感情が先に立ってしまう。大上段から同情するなんてこと、俺にそんな資格があるとは思えないけれど、それでも――世の中ってのはままならねぇなぁ、なんて。

 心中の蟠りを振り払ってしまえるように、俺は少々露骨な強引さを以て話題を転換を図る。

「そういえば、ミゲルのヤツの相手って、どんな娘なんだ?」

 そんな俺の意図を察してかどうかは判然とはしないが、ファナは目を輝かせながら、その下世話な話題に乗ってきた。

「ドザっちが『シロウトっぽい娘を用意してくれ』なんて言うモンだから、アタシ張り切っちゃったよー。ちょうど最近入りたての娘がいて、ノエリアっていうんだけどね、もうすっごいカワイイの♪ カワイイだけじゃなくて性格もいいし、あの娘だったらミゲルっちも気に入ると思うわよ。まだ、あんまりお客さんに付いた回数も多くないから、テクニック的にはそんなでもないとは思うけど、でもそんなところがシロウトっぽくていいんじゃないかな、ってねー♪」

「いいチョイスなんじゃねぇか。アイツなんだかんだで無駄にプライド高いトコありやがるから、一から十まで手解き受けるってのは嫌がりそうだしな。それに店に入ったばっかなんだったら、そこらの遊んでる女よりは全然マシだろ」

「そうなの! さすがドザっち分かってるぅ♪ ノエリアってば、このお店に入るまで男の子と付き合ったこともないんだって。それどころかキスすらしたことないって言ってたから、さすがにちょっと焦ったけど。それでね、お仕事関係のいろんな話をすると真っ赤になっちゃって、またカワイイのよ、これが♪」

 ノエリアなる新人について語るファナには、まるで可愛くて仕方のない妹をこれでもかと自慢するような熱っぽさがある。もしくは、娘を自慢する母親に宿る慈しみのような。
 きっと、彼女のことが本当に気に入ってるんだろう。

「こんなこと言うと変かもしれないけど、あの娘はこんな場所で働くべきじゃないのよね。だって、目はキラキラしてるし、受け答えはハキハキしてて素直だし。もっと普通に恋愛して、普通に幸せになるべき娘だと思うわ。今引き返せばまだ全然問題ないんだけど、私みたいにこの世界にどっぷり浸かっちゃったら、もう無理だからねー」

「あー確かに元娼婦の嫁ってのは、男としては絶対嫌だな」

「ドザっち酷い! 鬼っ!」

「慰めの言葉でも掛けて欲しかったのか?」

 ぎゃあぎゃあと喧しく騒ぐファナに、そんな軽口を返し。
 ドザマギで抱きついて来た身体を引き剥がす。その得も言われぬ柔らかさに少しだけ、ホンの少しだけ焦ったのは、気のせいだと思いたい。

「まさか。アタシだって一生独身ってのは覚悟の上だし。でも、ドザっちに言われると、ちょっと悲しいっていう乙女心。いいもん、このお仕事でお金いっぱい稼いで、若いツバメを三羽くらい飼ってやるんだからっ♪ そしたら、きっと老後だって寂しくないし♪ あ、でも子供は欲しいよね、やっぱ。カワイイ女の子と、カッコイイ男の子が一人ずつ♪」

 頬を軽く膨らませ、立て付けの悪いベッドをカタカタと揺らしながら、そんな無謀な人生設計を朗々と語るファナ。
 そこには悲壮感はなく。ただ未来への希望がある。
 その希望ってのが如何に荒唐無稽な夢物語であるかは、他ならぬ彼女は一番理解しているはずだ。こんなちっぽけな島で娼婦やってたって手取りはタカが知れてるし、そもそも長く続けられるような仕事でもない。それどころか、病気やなんやで早死にするリスクだって大きな職業だ。

 だから――。

「ホントそうなればいいなー。頑張らなきゃね、アタシ、オー♪」

 満面の笑みで自分に気合を入れるファナに対して、いつもの如く混ぜっ返すようなマネは――俺にはどうしても出来なかったんだ。

「というわけで、アタシの明るい将来のために、性技を磨くテスト体になってくれないかなー、ドザっち♪」

「それは断る」





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 『また来てねー』なんてファナの送り文句に、『二度と来ねぇよ』と返し。
 そそくさと退店してから、はや数十分。

「遅ぇな、あのヤロウ……」

 ミゲルは未だ戻って来ていない。

 イライラが募る。
 こんなことなら、もう少しファナのヤツとバカ話でもしてりゃよかった。そうすりゃ少なくともこんなに暇することはなかったわけだし。

 通りの端に座り込み、周囲を観察しながら時間を潰す。
 今夜は完全無欠なる私用のため、近衛騎士の制服なんて着ていない。そりゃそうだ。もし近衛騎士の二人連れが色街にたむろってた、なんて話がフランシスカの耳に入った日には想像を絶する惨劇が待ち構えている。
 ってなわけで、平服を身に纏ってやって来ているためか、いつもとは違い、この街の様々な側面が見えてくる。

 明らかに貴族っぽいナリをしたオッサンが、店員にイチャモン付けてたり。
 犯罪組織の下っ端臭をプンプンさせたヤロウ共が、周囲を威嚇しながら徒党を組んで歩いていたり。
 立ちんぼの娼婦と客だろうか、裏通りからは辺りを憚らぬ嬌声が響いていたり。

 どれもこれも制服を着ている時には、決して出くわすことのない連中だ。
 だけど、多分これがこの通りの“普通”なんだろう。人間の暗部を根こそぎ集めて抽出したような――そんな光景こそが、色街の色街たる所以であり、また役割でもあるのだから。

 これをあの独裁者が目にすれば、一体どんな言葉を吐くんだろう?

「お、ドザエモン!」

 考え事の最中、聞き慣れた声にそちらを振り向いてみれば、ミゲルの姿。

「いやー遅くなってゴメンゴメン!」

 なんだかやけにスッキリした顔に見えるのは、果たして俺の錯覚だろうか?
 いつもは煩悩を腹いっぱいに抱えているような、常に女という性に飢えているような、隙あらば食いつかんばかりのギラつきを見せているはずの男が――人が変わったかのような爽やかな笑みを浮かべている。

 ま、溜まってるモン出して。ついでに生まれてこの方付いて回った称号ともオサラバして。
 色々とスッキリしたことには違いないんだろう。それだけでも、わざわざこんなトコまで引っ張ってきた甲斐があるってモンだ。

「遅ぇぞ。緊張して中々勃たなかったのか?」

「いやーそういうわけじゃないんだけど……」

「じゃあ逆か? 初めて触れる女の肌が気持ちよすぎて、離れ難くなっちまったのか?」

「あーそんな感じはちょっとだけあるかも」

「んだよ、ハッキリしねぇなぁ、おい。まぁそんなんはどうだっていいんだけど。で、どうだった? 脱童貞の感想はよぉ?」

 俺の問い掛けにミゲルは一瞬だけキマリ悪そうな表情を作り。
 そして――。

「いや、それがさ……できなかったんだよねー」

「は? なにショボイこと言ってんの、お前?」

 ミゲルはどうやら脱童貞に至らなかったらしい。ヤツの言を引っ張れば、『できなかった』ということらしいが、その理由が分からない。
 つーか、それだったら今日ここに来たことにも全然意味がなくなってしまうわけで。自然、語気が厳しくなってしまうのも仕方ない。いや、だって苦労したんだぜ、あの店で融通利かせてもらうのにさ。

「まさか、女の側に拒否られたのか?」

「いや違う違う。そうじゃないよ、ドザエモン。オレがオレの意志で抱かなかったんだ」

「恐くなったとか言わねぇだろうな。そんなことヌカシた日には、お前の部屋に毛を全部毟り取った鶏を投げ込んでやるからな」

「なんだよその猟奇的なシチュエーション!? ってそうじゃなくて、まぁ、なんというか……相手の娘がさ――」

「好みじゃなかったと? ミゲルの分際で?」

「ドザエモンの中でのオレの位置付けに甚だ疑問を覚えたんだけど今! そりゃオレにだって好みくらいあるし、あったっていいだろ!? でも、その娘に関してはハッキリ好みだったよ。目も大きくて、肌も白くて張りがあって、まぁ胸が少し寂しかったけど、でも総じて言えばすごく可愛い娘だった」

「じゃあ、なんでそうなる?」

 ワケが分からない。
 女が好みじゃなかったわけでもないのに抱かないってんじゃ、そもそも娼館行った意味がなくなってしまう。つーか、そもそも二十歳になる前に童貞捨てたいと言い出したのは、ミゲル本人のはずなんだが。

 俺の表情から考えていることをある程度読み取ったのだろう。
 ミゲルは一つ大きく息を吐いて、正面から俺を見据える。その瞳には、俺が今まで見たことがないほどの決意が見て取れる。どうやら完全に『なにもなかった』というわけではないらしい。逆説的に言えば、何かしらミゲルに影響を与えるような出来事があったようだ。

「俺の相手してくれた娘――ノエリアって言うんだけど、彼女がイイ娘過ぎてさ。最近お店に入ったばっかりらしいんだけど、なんだか凄く一生懸命で、気を遣ってくれて。普通に酒場で会ってたら、間違いなく口説きにかかるくらい出来た娘だったよ――」

 ミゲルはそこで一旦言葉を切って、そしてなぜか悲しそうに目を伏せる。

「でもそんな可愛くて気立ての良さそうな彼女が、今まで恋はしたことがないって言ったんだ。働くのに必死で、自分の時間なんてなかったって。そんな余裕なんてなかったって。そんな悲しいはずの話を、すごく明るい笑顔で話すんだ。それを見てたらさ……なんか純粋であるべき存在を金にモノ言わせて汚そうとしているような気分になっちゃってさ……手を繋ぐのが精一杯だったよ……」

「そうか……」

 俺がファナとの会話で感じたのと、同じような――いや、それよりも強さというベクトルに関しては遥かに上回るような感情を、ミゲルも同じ時間に違う相手に対して抱いてしまったってわけだ。
 身体を鬻ぐ女を否定しようとは思わない。『生きる為』という前提がある行為の善し悪しについて、当事者以外が手前勝手な倫理観に基づいて判定するのは、単なるエゴだ。
 ただ、やるせないと――俺らはそう感じてしまっただけ。

 そういう相手の背景が気に掛かってしまうなら、娼館なんて行くべきじゃないし、娼婦なんて抱くべきじゃないんだろう。
 俺もミゲルもまだまだ青い。青臭すぎて、バカみたいだ。
 だけど――それでもいいんじゃないか、って。なんとなくだけど。確たる理由はないけれど。

 そう、思う。

「というわけで、オレは今だに清い身体のままだ。わるいな、ドザエモン。せっかく、色々と手配してもらったみたいなのに。どうやら、オレはそう簡単に童貞を捨てることはできないみたいだ」

 ミゲルが自嘲気味な言葉を吐く。
 だけど、口から出た音とは裏腹に、その顔はなにかが吹っ切れたかのように晴れやかで。
 つい最近まで『ヤリたい』連呼してたヤツとは別人であるかのように澄んでいる。

 そんなミゲルに俺が掛けてやれる言葉なんて一つしかない。

「ああ、気にすんなよ……ヤラハタおめ」

「最後の一言で色々と台無しだからっ!」



[9233] Chapter2 Prologue
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:72a68d39
Date: 2010/02/07 21:06
 世の中に“悪人”なんていません。

 一の悲劇を産出する犯罪者も。
 百の惨劇を招来する殺人鬼も。
 それらを万の統計へと昇華させる英雄も。

 世の中には“悪人”なんていないのです。

 人は善を究めるのに弱すぎて、でも堕ち切るのにも弱すぎて。
 だから、時々思い出したかのように踏み外し、迷いの末に回帰する。
 それを繰り返し、繰り返し、数え切れないほどに繰り返しながら、でも終わりの瞬間まで繰り返すのです。
 悪としての性を貫徹するには、人はきっと惰弱で脆弱で薄弱で柔弱に過ぎる存在なのでしょう。

 ならば、と。
 弱すぎる単体は寄り集まって、“社会”という名の複合体を築きます。
 相互補完を前提として、他人同士で手を繋ぐのです。
 それは無数の利己が折り合いながら紡がれる、巨大で強大な共同幻想。

 だけど、幻想とは脆いもの。
 その中で暮らす人はそれを理解していながらも、同時にその崩壊を危惧し。
 巨大化した枠組みはいつの間にやらその維持こそが目的化され、その題目の下で個人を監視し、制限するようになります。
 城壁に浮かび上がる罅割れは放置されることなく塗り込められ、場合によっては外縁部を切り捨てながらその堅牢を保つのです。

 “社会”は“悪”を許容しません。
 徹底的に忌避し、排除し、拒絶します。
 その“破城槌”が楔を打ち込む――そんな可能性を恐れるが故に。

 皮肉。
 それらの一連の対応こそが、より深く憎しみの情に凝り固まった“悪”を生み出します。

 切り捨てられたはずの外縁は、それでも完全に切り離されたわけではなく。
 社会機構の隅の隅――陽の当たらない場所にひっそりとぶら下がった状態で、それでも確かに根を張って。
 “悪”と称される存在の受け皿としての役割を担いながら。

 そうしなければ、今度こそ零れ落ちるということを知っているが故に。

 だったら、やっぱり“悪人”なんて世の中には存在しないのです。

 在るのは、そう。

 “悪”や“悪人”をそれであると規定する視座だけなのですから――。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 母なる海の息吹。
 たとえ今の私がどんなに暗くて、どんなに寂しい場所にいようとも――確かに感じることのできる、その胎動。

 ゆらゆら、ゆらゆら、ゆらゆらと。
 疲れきった私の身を慈しまんとするかのように、優しく。
 冷えきった私の心を安らがせんとするかのように、穏やかに。

 “おかあさん”――。

 私がおかあさんのお腹の中にいた頃、おかあさんはこんな風に包み込んでくれていたのかな?
 “繭”の中で眠る小さな命を優しく揺らしながら、その“孵化”を穏やかな心で待ってくれていたのかな?

 心地よい揺らぎに身体を任せながら、ぼんやりとそんなことを夢想してしまったりなんかします。
 そんなことを考えると、久しぶりに心が温かくなって、なんだかちょっぴり嬉しくなっちゃったりもするんですけど。
 でも、そんな時に限って――。

 胎動に呼応して揺れる“箱”の動きに反応し、踝に巻かれた鎖がじゃらじゃらと耳障りな音を立てるんです。
 これは幸せな想像に浸った私への罰。生意気にも自らの分を踏み越えようとした私に対する罰なのでしょう。
 なぜならば、足に絡み付いて離れないこの鉄球付きの鎖も、左の肩にくっきりと押された焼印も――それが今の私を雄弁に語る全てなんですから。

 自分の境遇について嘆くことは許されない。御主人様に忠誠を誓い、ただその命ずるままに生きなさい――おかあさんはそう言いました。嫌なことが綺麗さっぱり消えてなくなったみたいなすごく明るい顔をして、とっても嬉しそうな声で、私にそう言いました。
 だから、私は一人で遠いところに行くのはすごく悲しかったんですけど。おかあさんとサヨナラするのは泣きたいくらい寂しかったんですけど――笑いながら『はい』って。
 そしたら、おかあさんはもっと嬉しそうな顔で、私の頭を撫でてくれました。偉いって、いい子だって。
 そんな風に褒められたのは初めてだったから、どうしていいのか分からなくて、ただ黙って為されるがまま突っ立っていることしか出来ませんでしたけど。おかあさんが嬉しそうにしていたんだったら、それはやっぱりいいことなんだと思います。
 だからこそ、私が今の自分を直視するのを避けて、そこから逃げ出すような思考を巡らせたりするのは――きっと悪いことなんでしょう。

 船の倉庫に一人転がされたまま、何をするでもなく。
 ただ、積荷の箱を数えながら、退屈な時間を潰します。

 お掃除も、お料理も、お裁縫も、お洗濯も――そういうことをしない時間というのは、どう使っていいものか分かりません。
 私が置かれている今は紛れもない“非日常”であると理解していながらも、日常の残滓にその理由を求めているのは滑稽だとは思いますけど。

 決して恵まれていたとは思いません。
 それは拡大解釈された自虐ではなくて、第三者的な客観性に基づいて、私の家――私とおかあさんとの総計二名――は裕福であるとは言えなかったでしょうし、どちらかというと貧困家庭の範疇に含まれていたと思います。おかあさんが毎晩遅くまで働いても、日々の糧を得るのが精一杯。雑穀の粥が御馳走――そんな生活でした。
 でも私はそのことに不満なんてありませんでしたし、屋根のある住処があるだけで幸せでした。隙間風に雨漏りと、お世辞にも住環境として優秀とは言えませんでしたけど、それでも。そこに私とおかあさん――二人だけの生活が確かに存在することに何よりも喜びを感じていたんですから。

 だけど一方で、おかあさんの表情が日に日に精彩を欠いていくのを目の当たりにするのは、辛かったです。
 毎月、“取立て”の時期が近付くにつれて、どんどん顔色がなくなっていき、柔和なはずの笑顔が苛々しているようなしかめっ面に取って代わり。他愛無い親子の会話までもが、刺々しい怨嗟の声に彩られ。
 それが本当に歯痒くて。悲しくて。辛くて。

 だから、私がこうなることで、おかあさんが心安らかに暮らしていけるんだったら――それはきっといいことなんだろうと思います。
 私は笑っているおかあさんが好きだから、今おかあさんが笑っていれば嬉しいんです。
 それがたとえ、この鉄鎖と焼印との引き換えに齎されたものであったとしても――それはそれでいいと思います。

 でも、です。

 こうしていると時々。
 本当に時々。

 こう思ってしまいます。
 私は悪い子だから、考えてしまうんです。

 会いたいよ、おかあさん――って。

 助けてよ、おかあさん――って。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 海上に於ける睡眠というのは、その個体のその時点に於ける生の不確定性と同様に、非常に不安定で担保が為されていないものです。こと陸上にて長きを過ごした者にとって、その兆候とそれに伴う弊害は如実に現れます。
 眠る――その単純にして根源的な行為が自身に寄与していたものの大きさ。それをその身を以て味わうことになるんです。

「おい、そこの! 生きてっか?」

 しわがれた野太い声が耳朶を打ち据えます。
 その問い掛けは、内容とは裏腹に淡白な義務感に満ち溢れていて。その相手が死んでいようが、生きていようが、そんなことはどちらだって構わない、と。まるで、そう言いたげでもあって。

 だから、一瞬だけ反応するのを躊躇してしまい――。
 でも、一瞬だけ考えた末に、僅かながらの首肯を返します。

「んだよ、生きてんなら紛らわしい真似してんじゃねーよ。おらメシの時間だ。さっさと起きて、準備しやがれ!」

 不機嫌そうなその声色。
 彼にとって、私の食事の世話を言い付けられたという事実は、余計な面倒を一つ身に負わされたという以上の何物でもないんでしょう。
 それが証拠、私に与えられる食事は明らかに貧相なもので、表面に黴の生えたパンが一つだけ。本来はそれに加えられるであったろう萎び掛けた林檎は、面倒役を命ぜられた水夫の手の中で歪な歯形を晒しながら、こちらを見下し嗤っています。駄賃代わりに戴かれちゃいました、残念ね――なんて、そんなことを言いたげに。

 鉄の擦れ合う耳障りな音を響かせながら、のろのろと身体を起こします。
 運動不足を強いられている現状の故でしょうか、そんな他愛もない動き一つで身体が軋むかのような痛みを感じました。

「おう、起きたんなら、さっさと食え。てめぇがキチンとメシ食い終わるまでは見張ってろってお達しだからよお」

 水夫はそう恨みがましく吐き捨てて、林檎をもう一口齧ります。決して瑞々しいとは形容できない乾いた咀嚼音が、それでも私の胃を刺激して。
 眼前の埃塗れの板張りに無造作に投げ捨てられたパンに向かい、黙ったままで手を伸ばします。
 と――。

 視界の外から伸びてきた節くれ立った手が、その糧食を無慈悲にも掻っ攫い。

「おうおうおう、てめぇは礼儀ってモンを知らねえのか? 自分じゃメシも用意できねえ穀潰しの為にこのパンを用意してくれた優しいお方は、一体誰だと思ってんだ? まずは、それに対する感謝の言葉から入るトコだろうがよお」

 まるで弱者を甚振ることに楽しみを感じているかのような視線が、私を射抜きます。

 こんなことにはもう慣れました。
 私は人形です。心のない人形。だから、感情も情動も一切の起伏でさえも存在はしないのです――そう自分に言い聞かせながら、鉄鎖を引き摺って彼の眼前に跪き、頭を垂れます。
 乾き切った喉から発せられるのは、ひゅうひゅうという空気音。喉の内壁が裂ける痛みを我慢しながら、空気音を指向性を持った発生音へと無理矢理に変換します。食道を通って、胃へと流れ落ちる血の味にだって、もう慣れました。

「私ごとき下賎にお慈悲を賜りまして、ありがとうございます」

 私は無力です。
 だから、どんな理不尽を突き付けられたとしても、それを甘受するしか、道はありません。屈辱だとか、恥辱だとか――そんな上等な感情を発露する資格なんて、私にはこれっぽっちもないんですから。
 できるのは、ただ従うことだけ。この身以外の全てを殺して、唯々諾々と。

 でも、そうしてさえいれば、この身を永らえることが出来たんです。
 少なくとも、昨日まではそうでした。この一言さえ忘れなければ、再び空中からパンが降ってきていたんですから。

 だけど、今日は昨日までとは少し違っていまして――。

「おい、てめぇ。感謝する相手が違えだろうが。なんでオレに礼なんか言ってやがんだ? そこは、お偉い神様に対する感謝のお祈りの言葉だろうが、バカヤロウ。そんな不信心な人間に食わせるもんなんてねえよ。鼠にでも食わせた方がまだマシってもんだろうよ。ってなわけで、おらよ――っと」

「あ……」

 私の命を繋ぐ唯一の希望が、無造作な動きで倉庫の隅へと投げ放たれ。暗闇に慣れ切った瞳で、曲線的なその軌跡を追います。だけど、動体を捉えるのに麻痺した私の眼では、その動きを追い切ることなどできなくて。
 かつん、と。そんな硬質で無機質な残響が積荷に溢れた通路の向こう側から聞こえてきました。

 なんで――だなんて、今更訊いても仕方のないことでしょう。
 彼らにとって、私の生死の如何だなんて、文字通り頓着する価値すらないんでしょうから。

 だから、結局。

「ほらほら、ぼうっとしてていいのかよ、チビ? 早くしねえと、せっかくのメシが鼠の餌になっちまうぞ? 次は明後日なんだから、それまで空きっ腹に耐えるってのも、辛えだろ? ま、オレとしちゃあ、どっちだっていいけどな、ギャハハハハッ!」

 私の生は私自身が守るしかないんです。本当にそのことに価値があるのか否かすら、最近は判然としなくなってきましたけど。だけど、問題はそんなことじゃなくて。
 やっぱり死ぬのは怖いから。だって、死んじゃったら、二度とおかあさんに会えなくなってしまうから。

 心底愉快そうに響くしわがれた哄笑を尻目に、私は鉄球を引き摺りながら、這い始めます。
 生への渇望からではなく、死からの逃避欲求に促されて、ひたすらに這って。下腕部の皮がささくれ立った木片で切り裂かれ、結わえられた鉄の重みが足首を軋ませようとも、何かに追い立てられるようにして、這い続けるんです。

 背後からの笑い声が、より一層高さを増しました。
 きっと私の無様は、彼にとって退屈な海上生活を紛らわせる、そんな痛快な見世物なんでしょう。地を這う一匹の蟻を一欠けのパン屑であちらこちらへと誘導し、その必死な足掻き様に滑稽を感じる――それに似た愉悦を感じているのかもしれません。

「旦那も物好きだなあ、まったくよお……。こんな貧相なチビじゃ、そうそうロクな買い手なんて付かねえだろうに。せめてこれがもうちっと発育した娘だったら、こっちだって別の楽しみようがあったってのによお――」

 背後からそんな捨て台詞が聞こえますが、今の私にとってそれは単なる音の連なりに過ぎません。その意味も、意図するところも、そんなものはどうだっていいんです。
 今の私が求めるのは、この広大な倉庫のどこかに転がっているはずの命の欠片――それだけなんですから。

 そして、大丈夫。
 私はまだ人を信じていられます。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 心というのは壊れやすいものです。
 他者からの容赦ない言動によって壊れることもあれば、自身の言動によって壊れることだってあります。
 それはある特定の一面から鑑みれば、人間誰しもが持つ“弱さ”の現われではありますけど。
 でも、真逆の視点に拠ってみれば、それは一種のセーフティーネット――どんな状況に置かれても、その身を生かそうとする“強さ”であると換言できないこともありません。

 ならば、今の私はそんな矛盾した二律――その隙間を漂い、流れ、飛沫いているのかもしれません。

「おい、チビ」

 今日もまた、機嫌の悪そうな声が聞こえてきます。
 まるで、目に付く全て――いや思考を掠める万物に至るまでに苛立っているかのような、その響き。問い掛け自体には意味がなく、心中に渦巻く苛立ちを音に変換することで緩和しようとしているような、そんな声。

 どういう人生を送れば、こうまで世界に失望できるんでしょう?
 どういう辛酸を舐めれば、こうまで人間を嫌悪できるんでしょう?

 そんな益体もない疑問を胸中に留めながら、黙したままで顔を上げ、視線を合わせます。
 目に飛び込んでくるのは、見慣れた顔。伸ばし放題の黒い髭の隙間から、日に焼かれた浅黒い肌が覗いています。口蓋からは黄色がかった歯列がその姿を誇示し、その面貌に獰猛の光を付加しているかのよう。

「あァん? なんだテメェその目はよぉ……」

 どうやら何か気に食わないことでもあったのでしょう。
 水夫はこちらを一瞥すると同時、攻撃嗜好を言の葉に載せ、私のことを威圧します。

「大体テメェが生きてんのは、誰のおかげだと思ってんだ、あァ? こんな喫水線の下にある暗くて汚ぇ倉庫までわざわざメシ運んでやってんのは、一体どこのどなたサマだってんだ、えェ?」

 だが、その程度の視線や言葉にはもう慣れました。それもそうでしょう。この場所に繋がれてどれだけの時間が過ぎたのかは定かではないですけど、それでもかなりの長きに亘って、このような扱いを受け続けているんですから。
 今更、少し脅された程度でビクつく程に、人間の適応力は低くないんです。

 そう、麻痺です。麻痺させるんです。
 心に麻酔を打って、感情の麻痺を促し。象に対する因のリンクを断ち切ります。
 そうすれば、在るものを在るがまま、成るものを成るがままに受け入れることは出来るのですから。
 “なぜそうであるのか”についての理解には及ばなくとも、“なぜかそうである”ことを理解するのは然して難しいことでもなくなります。

 となれば、眼前で腹立たしげに舌を打つ男についても、それは同様で。
 それは所詮“そういう”一個体なんだ――と割り切ってしまった方が楽です。遥かに容易なのです。

「最近妙に反抗的になってきやがったな、おチビちゃんよぉ。ちったぁ甘い顔見せりゃあ調子ん乗りやがって……。オレがテメェにメシ持って来なかったらどうなんのか、そこんとこよぉく考えてみやがれってんだ」

 甘い顔?
 一体誰が、いつ、どのように、私に“甘い”顔を見せたと言うんでしょう?
 そこにあったのは、自らを優位にあると信じて疑わないが故の酷薄だったはずで。どこをどう切り取って、どう好意的に解釈したところで、そんな正方向の表現にはそぐわないものでした。

 それが証拠に。
 私に与えられる食事は、このところ三日に一度のペースにまで落ち込んでいて。この船に乗せられた当初、一日一度の食事が与えられていた頃と比べれば、正直なところ肉体的な厳しさは徐々に増して来ています。
 パンを口にする為に口を開くのも億劫で、咀嚼するのも億劫で、嚥下するのも億劫で。

 でも、生きる為に。
 その為だけに、私は今日も投げ捨てられたパンを口にします。
 異物を吐き出そうとする臓腑の不随意運動を必死に押さえ付けながら。

 自分の生に対する拘泥がこんなに強く激しいものであることを、私はこの数日で改めて思い知りました。

「ったく……。なにが悲しくて、こんなガキの御守りをしなきゃいけねぇってんだ。胸クソわりぃな……」

 本当に心底から私を疎んでいるかのような、そんな呟き。
 それを向けられたとて、今の私は傷付いたりなんかしません。
 彼にとって、私が厄介な存在であるだろうことは、それはそれで間違いのないことでしょうから。

 だけど。

 私は私の視座を以て、彼への感謝をすべきなのでしょう。
 彼の人格や品性などは所詮視座の違いに根差すもの。受容の可否もそれに応じている以上、そこを問題にするわけではなく。
 彼が私に生きる糧を与えてくれているという、確かな事実。
 そこにある思惑や感情は考慮の埒外に置いた上で、その黒くてごつごつした手によって私の生が今も紡がれているということは紛れもないのです。

 だから、口を突いて出るのならば、やはり感謝の言葉が相応しく。

「あり……がと、ございます……」

「……あァ?」

「ごはん……ありがと、ございます」

「…………」

「……?」

 私はなにかおかしなことを口にしたのでしょうか?
 今までずっと不機嫌を貼り付けたような表情を崩さなかった男が、なんだか少しだけ顔を歪めたような気がします。
 一瞬だけ視線を中空に彷徨わせ、一つだけ大きく嘆息し。
 だけど、その変化はすぐに元の不機嫌の色に塗り潰されて。

「なぁおい、チビ? テメェは恨んじゃいねぇのか?」

 そんな要領を得ない質問へと取って代わられました。

「恨む、ですか……?」

 彼に答えを求められる質問を投げられるなんて初めてのことで。
 おまけに、その問いの意図するところが、私には理解できなくて。

 だから、ぼんやりと『恨む』という言葉を反芻します。

「おーそうだよ。そんなちっこいナリして、こんな暗い場所に繋がれて、ロクなメシも食えねぇってんだから、オレたちや商人の旦那方を恨んでも当たり前だろうよ? ついでに肩には奴隷の焼印だ。一生マトモな暮らしは出来ねぇって、決められちまったようなモンだぜ」

「えと……それは仕方ないです。私を売ったのはお母さんで、私は買われただけですから。あなた方を恨んでしまったら、お母さんのことも恨まなければならなくなりますし」

「自分のガキを売るようなオフクロなんだ。恨まれたって当たり前だと思うがねぇ……」

 どうしたんだろう……?
 なんで、この人は私にこんな話をするんだろう……?
 今日に限って、いつもみたいに私を罵倒するだけ罵倒して、足音高く立ち去ってくれないのは、なんでだろう……?

 頭の中には疑問符がたくさんです。
 だけど、一つだけ確信を以て答えられることがあるとすれば。

「私がお母さんを恨むことはありません」

 そう、それは絶対。
 それが血の縛りに起因するものか、自己防衛の一端なのか、その理由は分からないですけど。
 それでも、そんなことは当然のこととして――。

「お母さんを恨むなんて、そんなことあるわけないじゃないですか」

 言い切る。
 きっぱりと否定の意思を言葉に載せて。

 その様が眼前の水夫には意外なものとして映ったのでしょうか?
 彼は再度大きな溜息をついて、座り込んでいる私を見下ろして。

「チビ、テメェはバカだな……。とびっきりの大バカだ。それこそ見てるのもイヤんなるくらいにな……」

 酷いことを言われています。
 だけど、この程度の謂われようなら、然して珍しいことではありません。普段はもっと悪し様に罵られていたのですから。

 いつもとの違いがあるとすれば、そう。

「悪いことは言わねぇ。テメェのオフクロとオレたちくらいは恨めるようになっておけ。じゃねぇと――」

 まるで、この場にこれ以上居残ることを拒否するかのように、いつにない早足で出入り口へと歩を進めながら。

「そのうちテメェが生きてんのかすら分かんなくなっちまうぞ」

 吐き捨てられた一言。
 それはいつもと殆ど同じような口調で、でもいつもとホンの少しだけ異なる語調で。

 だから、なんだか……。
 そこに言葉にはならない感情のようなものが載っているような――そんな気がしたのです。

 あの水夫が伝えようとしたことの意味は、私には分かりませんでしたが。
 次の日から再度、私の食事は毎日与えられるようになりました。
 そのことにどういう意味があるのか、僅かな時間で交わしたあの会話と関係があるのか――そのことも私には分からないけれど。

 でも、一つだけ言えることがあります。

 そう――。

 やっぱり世の中には“悪人”なんていないんです、って。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 大きく荒々しかった波のうねりが、弱々しい凪へとここ数日で変化しています。
 出来うる限り維持されていた最大船速は、その労苦をねぎらうように速度を落とされ、船体への負荷を極小のそれへと緩和していて。

 だから、なんとなく予想がつきます。
 きっと目的地への到着が近いのでしょう。

 それは長く続いた“揺らぎ”の終わりを意味していて。
 それは本当の意味での“終わり”ではなく、新たな“始まり”を告げるもので。
 今と未来のどちらが幸せで、どちらが不幸せなのか、なんて現時点で計る術はないですけど。

 この黴臭くて、湿気に満ちて、真っ暗な船倉で、過ごした日々。
 それが終わることが、少しだけ寂しい気になります。

 それでも、航海がいつか終わるというのは、最初から定められていたことで。
 人間というのは本来的には陸の上で生きる存在。
 海上での不確かな生に、いつまでも身を委ねているわけにはいかないのでしょう。
 それはきっと私だって一緒で。

 だから、せめて“終わり”を迎えるまでは。
 せめて“始まり”を告げられるまでは。

 『テメェのオフクロとオレたちくらいは恨めるようになっておけ。じゃねぇと――』

 そんな不明確な投げ掛けは心の片隅に仕舞っておいて。

 『そのうちテメェが生きてんのかすら分かんなくなっちまうぞ』

 そんな不明瞭な謎掛けも頭の片隅に置いておいて。

 ただ今は。
 もう少しだけ。

 何も考えず、この不安定な“揺らぎ”に身を預けていたい、と。

 そう思います。



[9233] Chapter2 Scene1
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:00cfbba9
Date: 2010/02/07 21:07
「嘆かわしきかな。人の業は谷よりも深く、その魂は汚れ、世界は退廃に満ちている。神は悲嘆をお創りになり、慨嘆を我々に与え賜うた……」

 人間の特性ってヤツの一つは、その多様性にある。
 肉体を構成する元素は同一で、感情を発露する回路に大差はなかったとしても、そこには全く違う形が現れたりするもんだ。

「ああ、だからこそ人は戦い続けなければならない! 己を取り囲む全ては、本質的には敵なのだから!」

 まぁだから、それは至極当たり前に。

「そうだ、争闘だ! 抗争だ! 反抗だ!」

 自分と同一種である事実すら全霊で拒否したくなるような――そんな存在を垣間見せられてしまうことがある。
 理屈ではなく感情で、理性ではなく感覚で、理論ではなく感傷で――否を叫びたくなるような“怪物”。
 そんな一から十まで間違いだらけの物体が、時折罷り間違って産み落とされる不条理な世界。

「剣を取れ! 顔を上げろ! 鬨を叫べ! 進め、進め、進め! 討て、討て、討て! 敵たる万象を打ち砕き、裡なる己が覇を唱えよ!」

 ちょっとばかり分かり難かったかもしれない。
 もう少し噛み砕いて説明しよう。

 生物とは普く成長するものだ。
 蹴り飛ばされて泣いてたガキが一人前に蹴り返すオトナに。そして、そんなオトナは蹴られた程度じゃ動じない老成しきったジジババに。そんなジジババは蹴られたところで痛くも痒くもない物言わぬホトケサンへと。
 それは前提にして絶対なるルールであって、例外は基本的には存在しない。存在し得ない。
 勿論、描く成長曲線は悉く異なり、それが最終的な異相を生むのだが、だとしても――。

「ここまでなだらかな曲線ってのは問題だよな……。つか、あれだろ? 相変わらず人生の緩和曲線を究めすぎだろ、あのバカは。一体どうやったら――」

「今は余計なことを口にする場面でもないんじゃないか、ドザエモン?」

 思わず口を突いて出た呟きに対し、隣に立つミゲルが嗜めるように遮ってくる。
 その表情には珍しいほどの真摯が貼り付いていて、同一存在に於ける多相性をこれでもかと教えてくれる感じ。
 やる時はやる、抜く時は抜く――なんだかんだ言っても、ミゲルのヤツは家柄の助けなしにこの場所へとのし上がった男。それだけの実力を確かに持ってはいるんだろう。

 だけど。

「よくあんなアホな煽りに耐えられんな、オマエ。俺には無理だわ、それ。つーかさ、あれってなんか意味あんのか? ただ、それっぽいこと言いたいだけだろ、毎度毎度」

 決して気が長いわけでもなく、何より人並みの羞恥心を備えている俺にとって、これは苦痛に他ならない。
 はっきり言えばさ、聞いてるだけでパなく恥ずいんだよ、マジで!

 ミゲルは俺の言葉を受けて、少しだけ決まり悪そうに返す。

「仕方ないだろ。オレたちの中じゃ一番の先輩なんだからさ」

 いや、おかしいだろ?
 全然仕方なくねぇし、そもそも理屈にもなってねぇ。
 縦割りという社会の構図を盾にするには、あれは既にはみ出しすぎだ。

「大体よぉ、なんで今んなって帰って来やがったんだよ。よりにもよって、今頃によぉ」

「そんなのオレに言われたって分かるわけないだろ」

「……まぁ、な」

 まぁその人となりは一端置いておくとしても、だ。
 戦線に復帰してきたタイミングが悪い。悪すぎる。
 半月近くを費やした内偵の甲斐あって、これから例の一件に近衛総出でケリつける――まさにそんな時だし。
 最悪だとも言っていい。

 そのことについて別にミゲルのヤツに責任はない。これっぽっちも見当たらない。
 でも、かといって俺にも責任はない。あって堪るか、そんなもん。

 で、結局は、やり場の見つからない靄掛かった感情がうじゃうじゃ湧いて来るわけで。

「なぁ……アイツに一発食らわしてきてもいいか?」

 解決法として、最も安易で、最も単純で、それでいて最も効率的な――そんな原初のそれが提示されるに至る。
 暴力ってのは時機と程度さえ弁えていれば、結構優れた万能薬だ。四肢は人間が生まれながらにその身に有す武器であり、それを撃ち合わせるってのが歴史の端緒であったわけで。
 手っ取り早く且つ確実に俺の意思を伝える、一種のコミュニケーションツールでもある。
 分からず屋には身体で覚えさせろ――ってのは極論ではあるが、まったくの悪論でもない、ってことだ。

「壊れた機械も叩けば直る、って言うしなぁ……」

「おいおいおいドザさんドザさん、それはダメだから! てか、絶対にやめてくれよ頼むからさ!」

 ミゲルの声は既に制止ではなく、哀願の色さえ滲ませている。
 まぁ自分に火の粉が飛んでくることへの危惧がそうさせているんだろうが、だとするならば――。

「じゃあ、テメェがあの『厨二センパイ』を黙らせて来いや」

「お前はオレにどうしろと!? あの人がああなのは今更なんだから、そろそろ適当に聞き流すことを覚えたっていいじゃんか」

「いやそれ無理。ヤツの声が耳を通るだけで、身体痒くなってくるから」

「その理屈も十分に理不尽極まりないと思うぞ」

 俺とミゲルの視線の先には、一人の男の姿がある。

 体躯を誇示するかのような威風堂々たるその立姿。
 整った相貌の中心、碧い瞳から放たれる鋭利な眼光。
 整然と並んでいる近衛の連中の眼前で、拳を振り上げながら熱弁する姿は、彼がそれなりの地位にあることを示している。

 ヤツの名前はエクトール。
 近衛騎士副団長エクトール・アレシャンドレ・ボレゲーロ。
 簡単に言ってしまえば俺らの上司で、フランシスカの次に偉いヤツだ。
 つまり団長であるフランシスカのヤツがカタリーナ直々に命じられたらしい別件で出払っている現在、この男が近衛を指揮する立場にあるということ。

「つーかさ、前から疑問だったこと訊いてもいいか?」

「だから今は副団長の訓示中だろ。あとで聞いてやるから、今は静かにしてた方がいいって」

「なんであんな弱っちいヤツが近衛の副団長なんてしてんの?」

 ミゲルの言葉は意に介さず、素直な疑問をぶつけてみる。
 そりゃ副団長なんて地位にいるってことは、ヤツの持つナニカがそれなりに認められてのことなんだろうけど、俺の見てきた限りでは限りなく微妙っつーか、何が凄ぇのかよく分かんねぇっつーか。
 ぶっちゃけ力不足だと思うんだよな。
 なにしろ――。

「だってアイツあれだろ? どうしようもなくショボイ理由で怪我してたんだろ?」

 ここからは噂に訊いた話。

 非番の日にジゼルの店でメシを食ってたエクトールは、酔客の喧嘩に居合わせたらしい。まぁそれ自体は酒場では珍しくもない、それこそ毎日のように出くわすシチュエーションだ。
 ヤツも近衛としての責任感に囚われたのかどうかは知らないが、喧嘩の仲裁に入ったらしい。これもまぁ当然っちゃ当然。立場上見て見ぬフリってのも、それはそれでカンジワリィだろうし。
 で、問題はここから。

 結論から言うと、ヤツは負けた。
 前後不覚に陥っている酔客のパンチをマトモに食らって、膝から崩れ落ちた――らしい。
 そんでもって、後は推して知るべし。調子に乗ったバカ共から殴る蹴るの暴行を受け、顔を腫らして、骨は折れ――結局は二ヶ月間の療養生活を送るハメになった、という話。

 まぁ自分の目で見たわけじゃないから、それがどこまでマジなのか分かんないけど、それが本当だとしたらしょっぱい。
 いやだって、その辺の酔っ払い相手にボコられて、重傷を負わされる近衛騎士ってどうよ?
 しかも、それがヒラじゃなくてナンバー2。

「ぶっちゃけ普通にありえねぇだろ」

「まぁ副団長はな……」

 その話になると、近衛のメンツはみんなキマリの悪そうなツラして、こうやって言葉を濁す。
 自分たちの上役がその辺のヤロウにノされたって事実をどう捉えていいものか困惑している――そんなところだろう。あからさまな不信を口に出すわけにもいかないし、かといって事実を肯定的に捉えるわけにもいかない。そんなアンビバレントな感情に苛まれているんだろう。
 まぁ実にご立派な心がけだとは思う。

 でも、俺はそこまで殊勝な人間じゃねぇし、地位やらなんやらに必要以上に縛られるのもゴメンだ。
 ウザイもんはウザイし、しょっぱいもんはしょっぱい。

 それに、だ。

「イスパニアの蛮民共がこのマディラを侵さんとしていることは諸君も知っての通りだ! ヤツらの下賎なる足跡を、この煌く大地に一つたりとも許してはならない! ヤツらに思い知らせてやれ。ヤツらがこの地で得るものは我らが賜りし豊穣の一房ではなく、彼を生涯苛ませる紅き記憶であろうことを!」

 この際、“いかにもな”語の選択から来るムズ痒さは大目に見よう。うん、それはヤツが今以て『終わりなき思春期』を謳歌しているということで構わない。マジメに突っ込んでもメンドクサイだけだから、それはもうそれでいい。
 だけど、だ。

「誇れ、我らは強きを! 照らせ、我らの道行きを! 倒せ、我らを阻む敵を! イスパニアなど恐れるに足らず――」

「酔っ払いにボコられた分際で、イスパニアに勝てるわけねぇだろ」

 うん限界。
 イロイロと我慢できなかった。
 わりぃ。

「…………」

「……………………」

 場を包むのは静寂。
 完璧なまでに無音の空間が、瞬く間に顕現した。

 左右を見る。
 誰も目を合わせようとはしてくれない。どいつもコイツも『あーやっちまった』的な表情を浮かべながら、息を潜めて次の展開を待っている感じ。
 薄情だな、おい。俺は団員を代表して、率直な所感を述べただけだっつーのによぉ。いわば、場におけるサイレントマジョリティーの代弁者だ。

 隣に立つミゲルに目を遣る。
 ヤツもまた周囲に同じく、正面を向いたまま、俺と視線を合わせようとしない。
 とりあえず、その横顔を見詰め続けることにする。

「…………」

「…………」

「……………………」

「……頼むからオレを巻き込むのは止めてくれよ、ドザエモン」

 蚊の鳴くような声で、これまた他人行儀な反応が返ってきた。
 友達甲斐のないヤツだ。

 意に介さず、熱い視線を送り続ける。
 つか、多分絵ヅラ的には相当キモイな、これ……。

「……いやだからゴメンやめてくれよ頼むから」

 ミゲルのヤツ、心底困ってるっぽい。
 なんかデコに汗浮いてるのが見えるし、やたら目瞬きの回数多いし、口元がわなわな震えてるし。
 端的に纏めるなら、すげぇ楽しいリアクション。

 とはいえ、いつまでもミゲルを弄って遊んでるわけにもいかない。
 一応、出陣式ってのはそれなりに厳粛に執り行われるべきものだ。それは兵が死地に向かう覚悟を決める場であり、その覚悟を共有する場でもある。
 今回の件は文字通りの戦争というほど大袈裟なものではないけれど、危険を伴う大捕物に発展する可能性もないわけではなく。
 だからこそ、こうやって作戦に参加する人員が一堂に会し、その士気を高めていたわけなんだけど――。

 つか、ひょっとして俺が台無しにしたのか……?

 いやいやいや、ちょっと待て。
 それを言うなら、そもそもが士気高揚の題目で行われた『厨二センパイ』の煽り文句がツッコミ待ちの様相を呈していたわけで。俺はそれに律儀にも乗ってやったに過ぎないような気がしないでもなく。詰まるところ、誰が悪いかっつーと――。

「テメェ大概にしとけよ! 厨二のクセによぉ!」

 眼前で一段高い場所に立って、俯きながら肩震わせる美丈夫へと、その責が行き着くのは避けられないわけだ。

 うん、俺は何も間違っちゃいない。
 苦し紛れの逆ギレだと言われようが、そんなのは知ったこっちゃねぇ。

 隣でミゲルが身体を震わせたのか、小刻みな空気の振動が伝わってくるが、そんなのを気にしたところで仕方ない。
 気まずい空気が周囲に張り詰めているのは、俺の責任じゃない。単に動揺を鎮めるべき指揮官が情けないせいだ。
 とりあえずヤツが再起動しないことには、固まった空気は解き放たれない。

「で、いつまで固まってんの? ああ、さっきの俺の台詞だったら、別に気にすんなよ。あんなんは常日頃胸に抱いていた思いが、ホンのちょっと口を突いたってだけだし――」

「それ以上煽ってどうすんだよ、ドザエモン!?」

 逸早く復帰したミゲルが悲痛の声を上げるが、それは遅きに失したってヤツで。
 吐いた唾は飲み込めないっつーか、覆水盆に返らずっつーか、まぁそんな感じ。
 我らが『厨二センパイ』の心に刻まれた傷は、きっと元通りになることはないだろう。
 めでたしめでたし。

 てな感じで、心中でハッピーエンディングに喝采を叫んでいたタイミングで、ようやくエクトールが顔を上げる。
 その表情を染める色彩は、憤怒と哀切と殺意との混合色。やや憤怒強めな具合にミックス。
 響いてくるのは重低音にも似た怨嗟の声。

「ドザエモン……」

「なんすか、センパイ?」

「だから、これ以上煽らないでくれよ、頼むからっ!」

 俺のぞんざいな返答に、ミゲルが悲嘆に満ちた合いの手を入れる。

 つーか、なんでミゲルのヤツがここまでキョドるのかワケ分からん。
 だって、アレだぞ? 酔っ払い以下のヘボ騎士だぞ、この人。そりゃ肩書きだけなら近衛の副団長だし、権力はそれなりに持ってるかもしれんが、実力が伴っているわけでもなく。だったら、恐れるに足りないというか、むしろ『かかってこいや、このヤロウ』って心意気を生じるのも自然っちゃ自然なわけで――。

「上官への著しき反抗により、今回の件が片付いた翌日から一週間の営巣処分を命ずる」

「……はァ?」

 なんだそれ?
 つか、テメェにそんな権限は――

 あ……。
 そういやフランシスカがいないってことは、団長権限がエクトールに一時的に委任されているってことで。
 つーことはつまり、ヤツが俺を処分しようとすれば出来なくもない――というか、ヤツが営巣って言やぁそれが通っちまうわけで。
 あーなんだ……ひょっとして……。

「俺、マズったか?」

「だから、さっきからやめろって言ってたじゃんか!? オレは知らないからな! 無関係だし、巻き込むなよ!」

 ミゲルがあんなにビクビクしてやがった理由がようやく分かった。
 そういうことだったわけだ。だったら、もう少し早く言って欲しかった。ああやってビクつかれてるだけじゃ、そこまで思い至るのは不可能だし。

 というわけで、ミゲルも同罪。
 罪ってのはそれを幇助したヤツも問われるモンだしな。今回は消極的幇助ってわけで。

「一緒に営巣入ろうぜ、ミゲル」

「いやだ! 断る!」

 コイツの意志は別に最初から考慮するに値しない。
 足の引っ張り合いってのも、また人間関係に於ける一つの形だと教えてやろう。

「――ってな感じのことをこの前ミゲルが言ってんだけどさぁ、厨二センパイ」

「いまさら言責転嫁かよ!? 酷すぎるだろ!?」

 『死なば諸共』ってのはよく出来た言葉だ。本当によく出来た言葉だ。
 人は死の淵に立つと、きっと仲間が欲しくなるんだ。うん、それは仕方ない。誰だって自分一人がワリを食うのはイヤだってこと。

 てなわけで。
 これ以上なくグダグダな形で幕を閉じた出陣式を終え。

 半月間に及ぶ地味なタスクの総仕上げ――その待ちに待った瞬間がいよいよ目前へと迫って来る。

「これ片付いたら営巣かよ……。マジだりぃな……」

「ドザエモンは自業自得だろ!? なんでオレまで巻き込まれてるんだよ!?」

 俺とミゲルのモチベーションは底突いちまってる状態だけど。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「多分結構いい時間になってるよな? もうそろそろお越し下さってもいい頃なんじゃねぇか?」

「うーん、そうかもな。確か宵の口あたりには来るって話だったし――うおっ、ピンク! お花のリボンまでピンクだぞ、ドザエモン!」

「つーかさ、すげぇ今更なんだけど、俺らなんでこんなトコに隠れてんの……?」

「そりゃ人目を忍んで行われる裏取引を摘発するた――ちょ、黒っ! ブラック! しかもTだぞ、T! なんだよこのケシカラン切れ込みはっ!? うっわあぁぁエロー!」

「…………」

 とりあえずバカ狭い。
 そんでもってクソ熱い。

 今の俺の心境はこんな感じ。

 営倉処分の衝撃を振り払い、本題の作戦に取り掛かったはずの俺らに命じられたのは、理不尽ともいえる任務だった。

 今回の一件はそれなりにデカイ山でもあり、いきなり本丸に踏み込むのはリスクが大きい。であれば、とりあえずの取っ掛かりとして、別件の摘発からその戦端を開こうというジョルジュの提案が為された。それ自体は“あっち”でもよくある話なので、まぁ特段間違った方法論ってわけでもない。
 ちっぽけな辺境の自治領とはいえ、そこには相応の統治機構が存在し、それを統括する形の政府も正常に機能している。誰かが何らかの目的を持って転覆しようと企てたところで、そう簡単に横倒しにはならない程度にはマンパワーも優秀。

 もし権力を引っ繰り返したいと願うのならば、しっかりとした準備が必要なのだ。
 その最たるものが資金。実も蓋もないように感じるが、それが一番必要となる部分。
 疑義があるのならば、思考を逆しまに辿ってみればいい。目的の達成には事を起こす必要があり、事を起こすには人が必要で、人を動かすには金が必要なのだ。つまり、行き着くところは、そこで。
 ならば、必要となる資金の調達は、彼らにとって無視できない問題になる。そりゃそうだ。何もせずに金が降ってくる、なんて夢みたいな話はありゃしねぇんだから。

 てなわけで、見知らぬ誰かさんたちもまたそのご多聞に漏れず。
 要は金を作ったり、移動させたりするために、諸々の経済活動を行う必要があったってことだ。
 もちろん自分たちがある程度後ろ暗いマネしてるってことを自覚してる以上、『陽光の下大手を振って』ってわけにもいかなかったらしい。ジョルジュに言わせると、相手がそのくらい鈍感だと逆にやり難かったらしいんだけど。皮肉っちゃ皮肉だ。
 まぁハンパに知恵持ってるばっかりに開き直るわけにもいかなかった――そんなヤツらの選択する行動様式なんてのは、俺にだって容易に想像が付く。

 裏取引だ。
 規制が掛けられている品の持ち込み、持ち出し。
 下手打ちゃ手が後ろに回るが、巧くやりさえすればリスクの分だけリターンも大きい。最小の動きで最大の利益を得られるという、そんな禁断の果実。
 あちらさんにとっちゃ願ったり叶ったりって按配の取引だろう。

 今回の一連の作戦に於ける参謀役のジョルジュは、手始めとしてその摘発を選択した。
 前提として、あっちの黒幕が出張ってくることになり全面対立の様相を呈する――という未来は避けなきゃなんない。これは彼我の国力を客観的に分析した場合、明らかだ。図体デカイやつに文句付けられないよう配慮してるみたいでカッコワリィし、なんか腹立たしいのも確かだけど、勝算のない喧嘩をしても仕方ない。プライドを捨てて実利を取る――時にはそんな選択も必要だ。
 だったら、俺らマディラ側としては、アクションを起こすに当たって、それに足る正当性が必要になってくるってことで。要は、第三者的に認められるだけの理由がない行動は起こせないってわけだ。
 本丸部分は流石に守りが堅く、崩すのは困難。現状でそこを陥とそうと欲するならば、それこそ見る人が見ればアクロバティックな脳内理屈の付加しか出来そうにない。
 だからこそ、ジョルジュは証拠の提示が簡単な部分――いわばヤツらの外堀を埋めることを優先した。

 ヤツらにとって生命線であるだろう資金の流れを止められることは、少なからぬダメージ。
 さっきは『外堀』と表現したが、ある意味で『兵糧』に置き換えたほうがシンプルで分かり易いかもしれない。相手方の補給を確実に断った上で、その瓦解を気長に待つ――いわゆる兵糧攻めと同じような手法だ。
 だとすれば、その結末もきっと似通ったものになるはずで。
 ある時点まで時計の針が進めば、飢えて死ぬるを良しとしない城兵はやぶれかぶれの特攻を仕掛けざるを得なくなり。でまぁ包囲側としてはそれを手薬煉引いて待ち構えているわけで。
 最終的な帰趨は、推して知るべし――そういう流れだ。

 さすがに俺だってそんなに理想的な展開で推移するなんて思ってないし、ジョルジュだってきっとそうだろう。最終責任者である暴虐姫サマだってゴーサインを出してくれたものの、ヤツの頭だったら不安な要素なんて数え切れないくらいに挙げられたはずだ。
 だけど、それでも――。

 カタリーナが決断したんだ。
 マズった場合の責任なんて、アイツも含めた俺ら全員で被りゃいいだけの話。
 やるべきことはやって、考えるべきことは考えて。
 だったら、後は動くしかないんだから。
 『人知を尽くして天命を待つ』ってほど殊勝に構えてるわけじゃないけど、まぁそれに近いような気分ではある。

 というわけで。

 現在、俺とミゲルの二名は今回の取引場所として想定される中所得者用住宅の一室、その部屋に置かれたクローゼットの中に張り込み中だったりする。

 何の変哲もない住宅街の、これまた何の変哲もない家。
 デカイわけでもなく、部屋数が多いわけでもなく、意匠を凝らした調度が置かれているわけでもなく。
 それこそこの町の平均的な家族が暮らすに過も不足もない――そんな家だ。

 逆にだからこそ後ろ暗いヤツらが選んだとも言えるのかもしれない。
 アイツらにとっちゃ周囲に埋没することが、自らの仕事をやりやすくする上で必要だったんだろうから。

 住宅の持ち主である商人とその家族とは、秘密裏のうち既に拘束されている。俺もちらっと覗きに行った程度だが、どこにでもいるような気の弱そうなおっちゃんにしか見えなかった。なんでも仕事で付き合いのあった船長から頼まれ、ワリのいい儲け話として深く考えずに乗ってしまったらしい。
 ある意味で被害者と言えなくもないのかもしれないが、罪は罪。彼には然るべき罰と、その前段階としての苛烈な聴取が待っていることだろう。

 というわけで、ある程度の事情は既にこっちも把握している。
 これから行われる取引の内容――その情報までは流石に俺には下りてきていないが、そこはそれ。『Need to Know』ってヤツだ。別にヤツらがどんな物品を取引するつもりだろうが、そんなことは知ったこっちゃないし、そもそも俺たちのやるべきことに何の変化も齎さないんだから。

 なぜなら、俺らに課された任務は一つ。
 現場で取引に関わっていた関係者全員の拘束――そんなシンプルなもの。
 もしかしたら荒事に発展するかもしれないし、実力をもって取り押さえなければならなくなるかもしれない。
 だとしても、問題はない。

 だからこその人選で。
 だからこその俺とミゲルだ。

 ミゲルが相方だってんなら、俺は少なくとも味方を気にしながら戦う必要はなくなるし、それはヤツにとっても同様だろう。
 人間性に関しては欠片程しか信用は出来ないが、こと対人戦闘に関してはミゲルの腕を信用している。それなりに腕利きの護衛を引き連れていたとしても、何の問題もなく一瞬で畳んじまうだろう。
 家柄の助けなく剣のみで近衛まで這い上がった男だ。その程度の実力はある。

 だからこそ、事が起こってから後のことについては、何も気に病むことはない。
 事が起こってからのことについては、だ。

 つーか、問題は、だ。
 今、俺の眼前で、飛び交っている薄布と。
 この狭苦しく空間で、その布たちと満面の笑みで戯れている、そんな相方の姿であって。

 ヤツの蕩けるような恍惚ボイスが耳朶を打つたびに、あまりのキモさに身が震えるような気分だ。
 いつもだったら一発カマシて眠らせるんだが、さすがにここまでの惨状を目の当たりにするとそんなエネルギーは湧いて来ない。むしろ、やるせないっつーか、情けないっつーか、それらと同時に俺らしくもない慄きの情さえ浮かんでくるっつーか。
 ザックリまとめると、放置一択。相手になんかしたくねぇ。

「にしても、女の子ってのは結構分かりやすいんだなー。あの辺のシンプルなヤツらは、適当に洗いざらしてクシャっと纏めてあるだけだし、明らかに普段着用って感じだもんなー。色も地味だしさー。こっちのエロっちいのとは手触りからして違ってそうだもん」

 ツッコまねぇぞ、絶対ツッコまねぇぞ。
 こんなに真っ暗なのにどうして色が分かんだよ――なんて口が裂けても言ってやらねぇぞ。

「でもさ、興奮するよな! だって見知らぬ女がこのパンツ穿いて生活しちゃってたりするんだぞ! 走ってムレムレ、イケメン見てムラムラ、とかさー! たまんないよねー、なんかメスの匂いとかさ、するじゃん!?」

 最後に疑問符つけられても答えたりしねぇぞ、絶対にしねぇぞ。
 つか、テメェが顔に押し付けてるその布の持ち主が、既に閉経して久しいババァのモンだったらどうすんだよ――とか思ったとしても口には出さねぇぞ。

「にしても女の子のパンツってこんなに小さいんだな。お尻の肉とかはみ出したりしないのかな……うーん……あ、そっか!」

 なにやら勝手に自己完結している模様。
 つーか、抱いた疑問に対し、どういった思考の変遷を経て、いかなる結論に辿り着いたのか?
 ミゲルの頭ん中は相変わらずすげぇ謎回路を収納している。

「もういいや。かーぶろっと!」

 いやだからツッコまねぇんだって!
 つーか、随分とフリーダムだな、おい!?
 いつもとは明らかに一線を画したテンションだ。思いっきりヤバイ方向に限界突破の勢いで振り切れてやがる。

 ふと隣に目を遣ってしまう。
 と、そこにはパンツをマスク代わりにした怪人が狂喜乱舞している。両手に握った色取り取りの織布を宙に放り、落下してきたそれを身体中に浴びながら、終わることのない絶頂に酔いしれている。

 確かに暗くて視界が利かない場所だけどさ――。

 分かっちまうんだよ!
 気配とか、声とか、音とかさぁ……。
 目を瞑って、耳を塞いだってさ、空気の流れとかが超不穏なんだって、マジで!

 なんだか悪酔いしたフランシスカに絡まれた時と同じような気分を味わう。
 あの時もこんな感じで、自分の力及ばなさを痛感させられたなぁ、なんて。

 いや、もういい。
 放置の方針を固めたんだから、ミゲルのヤツは好きに任せておこう。時々、俺の方に布の一枚や二枚が飛んできたとて、弾き落とせばいいだけの話だ。
 キチガイ触れるべからず。触っちゃいけない。精神が汚染されるから。

 つーか、取引のヤツら早く来いよって感じ。
 非常に理不尽で物凄く不条理でなんだかとても申し訳ない気分にはなるのだが、今夜の敵には手加減なんて出来そうにない。顔の形変わるまでブン殴っちまいそうな気がする。
 まぁそれはそれで任務の一環ってことで許してもらえるだろう。

「すーはーすーはー、すぅーはぁー!」

 すぐ隣から聞こえる深い深呼吸の音。
 それを不可聴音であるとひたすら自分に言い聞かせながら。

 俺はクローゼットの中でその瞬間を待っていた。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 ここに身を潜めてから、どれくらいの時間が経過しただろうか?
 腕時計など世界中どこを探しても存在せず、また懐中時計なんて洒落たモンを身につける習慣など持たない俺にとって、それを知るのは体感に頼るしかないが、恐らくは二時間程度そうしていたように思う。

 物音が、した。

 木の擦れるような微かな音が階下から響き、やや置いて足音が二つ階段を昇ってくる。

「おいでなすったみてぇだな……」

「ああ、二人……か……?」

 多分これはビンゴ。
 今回の裏取引の当事者の片方――船主側の人間だと考えてもいいだろう。
 その相手方である商人が既にこちらの手の内に落ちているという情報については、まだヤツらの耳には入っていないみたいだ。そんな情報をキャッチしているんだったら、こんな罠の中に自分からのこのこやってくるわけがない。

「二人みてぇだな」

 さっきまで無邪気に下着の海で戯れていたはずのミゲルもいつの間にやら真剣な表情で状況の把握に努めているようだ。相変わらずその辺りの切り替えのスイッチがどこにあるのか謎。
 声を潜めて飛んできた問い掛けに返答し、もう一度慎重を期して耳を澄ませる。

「――――――」

「――――――」

 何を言っているのか、その内容までは不鮮明でよく聞き取れはしないが。
 人間が二人、歩きながら会話を交わしている雰囲気を確かに感じる。

 やがて足音が部屋の前に差し掛かる。
 俺たちが潜んでいる部屋は、商人夫婦が寝室として使用していたそれであって、直接的な取引の場所ではない。そりゃそうだろう。寝室なんかで商売やるような商人なんていねぇだろうし。
 物事には、その用途に応じた場ってモンがある。

 そして、この家に関して、その場ってのはこの部屋の隣――目算で十畳程のスペースのある部屋で。

 クローゼットに潜む前、一通り全ての構造を見て回ったが、寝室の隣にあるその部屋は明らかに他の部屋とは雰囲気が違った。
 抽象的に表現するのならば、生活感の欠落だ。人が生活する場というのは、どうしてもそこに生きる人間の息吹が残るもの。それはその場所の役割を暗に規定する家具だったり、普段使っている諸々の日用品だったり、そこで営まれる活動の残滓だったり――そういうものが散見されて然るべきところなんだ。
 だけど、俺たちの現在地から壁一枚挟んだその部屋だけは、その様相を異にしていた。

 まず一目瞭然なのが、その殺風景な内観。
 純粋な面積だけを鑑みれば決して広いというわけでもないが、中に入ってみると不思議と広く感じたもんだ。
 周囲を見渡せば、その所以はこれまた明白で。
 要は家具や調度といった内装品の類が殆どなかったのだから。
 あったのは、無機質ささえ感じさせる“がらんどう”な空間で、その中央に派手さはないが頑丈そうな角テーブルと椅子が四つ。そして、テーブルの上に羽ペン立てや文鎮などの小物が数点。もう一つ特徴的だったのが、部屋の角にひっそりと置かれた金属製の箱。鍵付きだったところから推測するに、恐らくは金庫の類だろう。
 ある意味で他の居住空間から意図的に隔離された、ある種の目的に特化した空間の匂い。隣にある部屋からはそんな香りが嗅ぎ取れた。

 そして、そこを取引場所だと考えた俺らの直感はそう捨てたもんでもなかったらしい。
 なぜなら――。

「どうもこの部屋の前は通り過ぎたみたいだな。こっちに入ってこなくてよかったー。にしても心臓に悪いなーこれ、バクバクなんですけど……」

「家主不在の間に夫婦の寝室に用があるってのは、どう考えても変態の類だろうからな。大目に見ても、下着ドロが関の山だ」

「変態と下着ドロって変態の方がハイクラスなんだ? なんか気になるから、そこのところの力関係について詳しく」

「あ? 今はんな下らねぇ話してるヒマはねぇだろうが。つか、もうちょい声抑えやがれ。ここで勘付かれたらオジャンだぞ」

 狭苦しいクローゼットの中、顔突き寄せ合ってヒソヒソと会話を交わす俺とミゲル。
 第三者的には相当に不審な絵だと思うし、俺としても冷静に考えるとこれは“なし”のような気がしてならない。なんつーか、もう少しマトモな場所に潜んでもよかったんじゃね、って感じ。体勢を整える度に足元でふぁさふぁさする下着の群れもウザイし……。

 とはいえ、こんな良識を疑われるような場所に身を置いていることにも、それなりの理由がないわけでもなく。

「ベルエトの旦那はまだ戻ってないみてえだな」

「んーみたいですねー。いつものあれじゃないですか? ほら、取引の日はいつも奥さんや娘さんを食事に連れ出してるらしいじゃないですか? おおかた中座するタイミングが掴めなくて難儀してるってとこじゃないですかねー」

「ふんっ。家族には悪事に手を染めていることを気取られず、あくまでいい父親を気取りたい、ってことか。それで待たされるこっちの身にもなれというんだ。あほらしい」

「まーまーそう薄情なこと仰らずに。こうやって相手が来るのを待つのも、それはそれでオツなものですよ?」

「待ち人が男じゃなく、待ち合わせ場所がこんな何もない部屋じゃなければな」

「そこはそれ。わたしは両方イケるクチですので……」

 壁に耳をつけると、隣室での会話が鮮明に耳に飛び込んでくる。
 まぁ別になんのことはない。クローゼットの背板を予め外し、壁に直接耳を当てられるようにしておいただけの話だ。
 中所得者向け住宅の壁なんて、防音性まで考慮して作られているような上等なモンじゃない。仕切りとしての役割を果たせばそれでよし、というなんともシンプルな建築設計に基づいているに過ぎないわけで、こうやって盗み聞きしようと思えばいくらだって可能なんだ。
 逆にこちらの物音も向こうに伝わりやすくなってしまう分、慎重さがより求められることにはなってくるが、その程度の代償は致し方のないところではあるだろう。

 さっきから耳に入ってくるのは二つの声。

 一つは、涸れたような低いそれ。喋り口調もぞんざいで、いかにも海の男って感じだ。
 おそらく彼が今回の納品業者である船長なんだろう。
 潮風に吹かれて掠れ切った声と、会話の端々に滲む威圧するような響きは、“こっち”の水夫特有のそれだ。

 問題はもう一つの声の方。
 順当に考えれば、彼は船長の護衛役ということになるのだろうが……正直そんな雰囲気を微塵も感じることができない。
 紡がれるファルセットは柔らかで穏やかな響きを有していて、その独特の抑揚は情緒を謳う詩人のよう。不思議と引き込まれる魅力がある。油断していれば、そのままぼうっと耳を傾けてしまいそうなほどに。
 正直、相手が男なのか女なのかすら、その声からは判別が付かない。会話の内容から察すると多分男なんだとは思うんだが、それはあくまで推測であって、確信には至らない。
 というか、俺の経験則から来る護衛役のイメージというのは、寡黙で無駄口は一切叩かず、それでいて主人の命には絶対服従、口答えなどもっての外――そういったものだったわけで。
 その点、隣室にてべらべらとくっちゃべってるヤツは、護衛なんて在り方とは対極に位置しているようにも思える。

「そういえばですねー、“あれ”ってどうなんですか?」

「“あれ”とはなんだ? 主語を省かれても分からん」

「やだなー、“あれ”ですよ、“あれ”。新大陸から運んできた今回の積荷のことですよー」

「……それがどうした?」

「いやね、わたしとしてもね、商売に口を出すのは自分の仕事じゃないことくらい分かってるんですけどね。だからちょっとした興味本位だと思ってもらえればありがたいんですが、“あれ”がいくらくらいの値段がつくのかなーとか少しだけ気になったりもするわけでして、はい。あとは“あれ”を買うお客さんってのは、どんな方なのかなーとかですね――」

「そんなこと、雇われ船長ごときに訊かれても分からんな。なんにせよ余計な詮索は止めておけ。命を縮めるだけだぞ」

「おお、こわいこわい。好奇心猫を殺すってヤツですか? 殺される猫は堪ったもんじゃないですがねー」

 なにやら積荷についての会話が交わされていたようだが……。
 正直これだけの情報では要領を得ない。

 可能ならば、出来うる限りの情報を引き出せ、という命を受けてもいたが、どうやら取引自体についての会話はそれっきり打ち切られたようだ。
 今はどこの店のメシが美味いとかいう世間話へと、そのお題が切り替わっている。

 まぁいい。
 取引の内容がどうこうなんて、そんなんは今考えたって仕方ないことでもあるし、実際にふん縛って吐かせちまえば簡単に分かる部分だ。
 俺らに求められているのは、拙い思考ゲームではなく、示威行動による明瞭な結果。
 舞台は既に整って、あとは役者の登場を待つばかり――そんな段階なのだから。
 ここまでくれば、もう余計な小細工は必要ない。そもそもが俺やミゲルみたいな肉体労働の専門家にそんなものは求められていないんだから。

『……出るか?』

 壁の向こう側に向けて顎をしゃくりながら、ミゲルに視線で合図を送る。
 それに対して、ミゲルは特段の躊躇もなく頷き、こちらへと視線を返してくる。

『どっちやる?』

『別に、どっちでも』

 そんな無駄な遣り取りを一つ挟んで。

 俺はクローゼットの扉に体当たりするようにして、勢いよく部屋の中へと飛び出した。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 そのままの勢いで寝室を出て、隣室までの数メートルを疾走する。
 背後にミゲルが続いてきているのを感じながら、恐らく商談ルームとして使われているその部屋の扉を引き剥がすようにして開き。

「マディラ総督府近衛騎士だ! 抵抗するな! 武器を捨てて、両手を上げろ!」

 そんなこっ恥ずかしい台詞を叫ぶ。
 江戸時代の御用改じゃねーんだから、そんなテンプレいらねぇよ、というのが偽らざる気持ちなわけだが、決まりは決まり。なんかこういう場合は、最初に自分の身分と権限を明らかにしておかないとマズかったりするんだと。よく知らねぇけど。
 つーか、『抵抗するな』ってのは本心じゃないし、むしろ抵抗してもらった方がありがてぇんだけどなぁ。さすがに丸腰で降伏している相手を殴ったりしたら問題になりそうだし、それだと折角のストレス発散の機会がご破算になってしまう。

 無遠慮に踏み入った室内は数時間前に目にしたそれと比較して、目に見えるような変化はない。
 いや、二人の人間の存在は先刻までは確認できなかった大きな変化といえなくもないのだが、俺が想定していたのはそういうことではなく。

 押収するべき積荷が場に存在しないのだ。

 裏取引の証拠としては絶対にして最上級であるはずのブツがない。
 これは少しばかり厄介だな、と考えながら、急いで思考を働かせる。
 証拠不十分、不問に付して解放――なんてのは論外。
 最悪、別件でっち上げてしょっぴけば、商人との面通しで身元も割れるし、裏取引への関与だって芋蔓式に引っ張れるとは思う。そうすりゃブツの在り処だって自ずと判明するだろう。
 まぁちょっとばかり『公権力の濫用』という言葉が脳裏を過ぎったりもするんだけど……。

 しょうがねぇ、それでいくか……。
 罪状は不法侵入あたりくっつけときゃ問題ねぇだろうし。

「というわけで、テメェら二人、不法侵入の疑いで連行ってことになったんで、よろしく」

 とりあえず、自分会議の結果導き出された結論を告げる。

「なに言ってやがる!? オレたちはこの家の主人の知り合いだぞ! 騎士だかなんだか知らねえが、ふざけたこと言ってんじゃねえ!」

「あ? 知るか、んなもん。つーか、その辺含めて調べっからさっさと諦めろ、一般市民。ああ、抵抗したいんだったら、してくれてもいいぞ。それはそれで大歓迎だ」

「この島じゃあ、そんな杜撰なやり方が認められてるのか、えェ!?」

 ガタイのいい中年オヤジが口角唾を飛ばして抗議してくる。
 日に焼けた顔と鍛え抜かれた太い二の腕から見るに、コイツが雇われ船長の方か……。

 にしても、ぎゃあぎゃあうるせぇな、おい。
 いい大人なんだったら、権力にゃ勝てねぇってことくらい学んでやがれ、と。
 まぁ、叩けば埃の出る身体なんだから是が非でも俺らの世話にはなりたくない、ってことなんだろうが、それにしても見苦しい。

「まーまー、そう騒いだって仕方ないでしょう? 彼の言い分を聞くに、どうやら何がなんでもこの場でわたしたちを捕まえたいみたいですし」

「お、物分りいいじゃん、アンタ」

「お褒めに預かり恐悦至極に存じます」

 おどけた調子でぴょこんと一礼した男は、雇われ船長の片割れ――ファルセットの方だ。
 その声から連想されるような中性的な顔立ち。それだけではなく、かなり気合の入った化粧までしてやがる。唇を染める紅がなんだか無性に艶かしい。
 そして、なによりも目を惹くのが、その体形。
 ここまでの長身には“こっち”に来て初めて会った。目算だけど、多分二メートル以上あるな、これ。
 で、その割には、身体つきは貧弱っつーか、筋肉の絶対量が不足気味っつーか。それが化粧によって白さの際立つ顔立ちと相俟って――。

「モヤシっ子だなぁ……」

 “こっち”にそんな表現があるのかは知らないが、“あっち”で耳にしたそんな形容が嫌になるほど当てはまる。

「……?」

「もうちょい筋トレしろ、筋トレ」

「ああ、この体形のことですか? よく言われますよー、痩せすぎだって。でも、太れないから仕方ないんですよねー」

 嘆くように顔を歪めてみせるが、その目には全然そんな色はなく。
 むしろ、この状況を楽しんでいるかのような愉悦が浮かんでいる。

「おい、ドザエモン。コイツなんかヤバい感じがするぞ」

 その表情に何か感じるところがあったのか、隣に立つミゲルが俺に対して注意を促す。
 ミゲルの場合、この手の感覚は非常に鋭い。それは、いわゆる『野生の勘』とか『動物的勘』とか言われる第六感。
 その言に従うのは癪ではあるが、丸っきり無視するというのも、この場合はまた下策。

 なぜなら――。

「つーか、いい加減ハッキリしてくんねぇかな? 武器捨てて俺らと一緒に来るのか、それとも武器抜いて俺らと一緒に遊ぶのかさ。俺らとしちゃどっちでもいいんで、早く決めて欲しいんだけど」

「うーん最近運動不足なんですけどねー。いやいやその解消にはむしろ運動するのが一番じゃないですか。だけど久しぶりに動くと次の日がキツイんですよねー。おお、なんというジレンマ!」

 俺もさっきからヤバイ気配をビンビンに感じているからだ。
 頭の芯にアラートが鳴り響いていて、すぐにでも殴りかかりたい衝動を抑えるのに必死だ。そして、その攻撃欲求は裏を返せば自らの身体的危機を本能的に察知してしまっているからに他ならず。

 つまり、眼前で朗々と芝居がかった台詞を転がす男――ソイツは、強い、と。

 とんでもなく、ハンパなく、有り得ないほどに――強いのだ、と。

 臨戦態勢。
 両の拳を握り込む。
 力を込めて、いつでも第一撃を放てるように。
 スクエアだった足並びを是正し、右足を軽く引いて半身を取る。
 いつ第一撃が来ても対処できるように。

 その上で。
 戦闘開始の銅鑼の音を誘発する。

「で、どうすんの? 結局のとこさぁ」

「そーですね……。なんだかそちらのお二方はその気になっておられるようですし、せっかくのお誘いですしねー」

 痩身長躯の男はそこで一拍言葉を区切り、目を細め、蛇を想起させる長い舌を唇上で蠢かせる。
 それはまるで大蛇が鼠に向ける示威行動。

「では、一緒に遊ばせてもらいましょーか」

 その言葉が終わるか終わらないかの、その一瞬。

 右足に溜め込んでいた力を一気に解放し。
 俺は躊躇なくヤツの間合いの内側に向け跳躍した。



[9233] Chapter2 Scene2
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:00cfbba9
Date: 2010/02/07 21:08
 裂帛の気合と共に繰り出された右拳。
 “あっち”ではストレートパンチと類別されるそれ。

 必中を期して放ったはずだった。
 それは殆ど不意打ちにも近いタイミングで。
 相手の防御体勢が整うのを待たず、『先の先』を意識して振るわれたはずだった。

 そのはずなのに――。

「クソッ!」

「おー危ない危ない」

 俺のパンチはヤツの頬っツラを掠めるに留まり。
 捉えるべき座標をロストした大砲は、ただ惰性に従う軌跡へと姿を変える。

 信じられない。
 至近に存在する血の気のない相貌を目にし、一瞬だけ愕然たる気分に襲われる。
 そこに余裕の色はなくとも、焦燥など浮かんではおらず。ましてや恐怖や恐慌の陰など見るべくもなく。
 つまりは、ごくごく自然な挙動に則って――。

 俺の、この俺のパンチをかわしやがった。

「へー格闘術ですか?」

 間延びした声が這う。
 耳を舐めるような距離で。心の動揺を舌で押し広げんというように。

 癪だ。
 どうしようもなく癇に障る。

「ナメんなコラッ!」

 問い掛けには答えずに。
 返礼代わりとばかり、左のオープンパンチを叩き込む。
 目標点はヤツの即頭部――俗にテンプルと呼称される人体急所。
 そこを打たれてしまえば、人間が直立しているのは難しい。
 脳ミソが思いっきり揺らされて、平衡感覚を失ってしまうからだ。

 水張ったボウルに浮かべられた豆腐――それを想像してみればいい。
 ボウルが頭蓋骨、水はその中を満たす体液。そして、豆腐が脳ミソだ。横向きの衝撃を加えられたボウルは、それ自体に甚大なダメージを負うことはない。外郭には見た目上のダメージは残らないのだ。だけど、問題はその中に存在する豆腐の方で。元来が水に浮かべられていることにより、その位置が厳密に固定されているわけでもない。ならば、横向きに強い荷重を掛けられれば、どうなるか?
 揺れる。当然ながら、元の位置に留まり続けてなどいられない。そして、実に間の悪いことに、そう離れていない距離で周囲をボウルに囲まれている。
 何が起こるか?
 激突だ。衝突だ。
 豆腐はボウルの内壁に叩き付けられ、その身を強打するハメになる。当然、その衝突は一度で終わるものではなく、次は逆向きの荷重を生じ、それに従って反対側の内壁へ。そして、ぶつかった衝撃は更に逆向きの荷重を生じ――まるで二点間で繰り広げられるピンボールのように。
 そうなれば、豆腐は在るべき形を保ってなんかいられない。場合に寄ってはボロボロに崩れるだろうし、そうでなくとも表面に、また内奥に大小の亀裂を生じるのは避けられないわけで。

 即頭部を打つという攻撃。
 それ自体が、最小の動きで脳に最大級のダメージを与えるのに最も適したものである、ということ。

 そして、俺にはそんな打撃を可能とするだけの身体能力と技術と、そして経験がある。
 それを無効化したいのならば、やはりそれに足るだけの身体能力と技術、そして経験が必要になってくるわけで。
 だから、“こっち”の世界の人間の場合は――。

「おいおいマジか……?」

 かわされるはずがない、と。
 そんな確信を抱いて繰り出したはずの一撃は――。

「いやはや少し驚きましたよ。相手と対峙しているのに剣を抜く素振りすらなく、あまつさえ殴りかかってくるなんて、あなた本当に騎士ですか? その堪え性のなさと喧嘩っ早さも、どちらかといえば悪党の類のそれですよ?」

 瞬時に軌道から身を逸らした男の残像をすり抜けて。
 思いっきり振るった左の拳は、俺自身の右の脇腹に巻き付くようにして、その動きを止める。
 その意味するところは、この俺が綺麗にパンチを空振ったって事実に他ならず。

 有り得ない。
 いや、これは驚きだ。

 不意打ちの右ストレートに、超至近距離での左フック。
 普通ならば最悪どっちかはヒットして然るべき連撃。
 それが二発ともに無効化された。ストレートは標的の支点――つまり首を傾け、皮一枚でかわし。フックに至っては、パンチの始動と同時、その軌道を見切っていたかのごとく、バックステップでその外側に逃れやがった。
 屈辱感やなんやらの前に、驚愕の感情が湧いて出る。

「すげぇな、アンタ。ジムにいた頃だって、俺のパンチ見切れるヤツってのは、そう多くなかったぜ」

「いえいえ、たまたまですよ、たまたま。偶然、奇跡、期せずして、ってヤツです。次同じことされても避けられるか分かりませんし、なによりわたし自身恐がりなのでもう殴ったりするのは止めてください」

 あくまで飄々として、淡々と。
 そして、どことなくふわふわと、頼りない立姿を晒しながら。
 眼前の男は、それでも目の奥に獰猛の光を宿している。

「よく言いやがる。少なくとも、その辺のチンピラ風情じゃ今頃立っちゃいらんねーよ」

 “こっち”は“あっち”に比べると、街中でのちょっとした諍いは多い。
 だからといって、それが俺にとって不快なことだったのかと問われると、それは全然そんなことはなく。むしろ、キツイ練習やらで鍛え上げた自分の能力を思う存分発揮できる環境でもあったわけで。“あっち”で喧嘩して人殴っちまったら、その度にジム出禁になってたもんな……。
 まぁそんなわけで、マディラで過ごしたこの五年間、喧嘩沙汰になればボクシング技術をいかんなく使って、相手をノシてきたんだ。

 そんな日々の中で気が付いたことがいくつかあって。
 その一つに“あっち”で教わったボクシング技術ってのは、実はかなり洗練されていて、それ自体が一つの理論体系にまで昇華していたんだってことがある。
 ボクシングなんてのは、突き詰めればシンプルなスポーツだ。相手に殴らせずに、自分が殴る――極限まで単純化すると、それが究極の命題として浮上する。そして、積み重ねられた歴史の研鑽を経て、一つ一つの挙動がその命題に添う形で定石化され、それを志す人間に“基本”という形で刷り込まれる。
 例えば、パンチの打ち方一つ取っても、そうだ。
 脇を締めろ――あの余計な世話が大好きなおっさんトレーナーが口酸っぱくして繰り返していたお題目は、しかし一度実践の場に出てみればこれ以上なく的を射ていたことを思い知らされる。余計な軌道を削ることで最速を。余計な分散を避けることで最大を。脇を空けた力任せのテレフォンパンチと相打てば、先に届くのはいつだって俺の拳だ。
 他にも足捌きやパリー、ヘッドスリップなど、一から十までその調子。
 最先端の格闘技理論ってのは、それを知らない喧嘩番長ごときには屈しないのだ。ヤツらが俺の拳を相手取ろうなんて、それこそ『四百年早い』って話なわけで。
 そんなこんな“こっち”に来てから、フランシスカのような例外的怪物は別としても、俺はほぼ負け知らずだった。
 そうだったんだが――。

「ちょっとばかり調子ん乗ってたかもしんねぇなぁ……」

 驕っていたのかもしれない。
 限られた範囲での相対的な強さに酔ってしまっていたんだろう。
 『井の中の蛙、大海を知らず』なんて格言が身に染みる。別に『大海』を知りてぇとはこれっぽっちも思わねぇけど、ひょっとしたら間違って迷い込んでしまうことだってあるかもしれない。
 その時に、自分のデカさを見誤るのは、やっぱりマズイ。

「そういえば、わたしの最初の質問にまだ答えてもらっていなかったような気がするんですが? あなたは格闘術を修められてるので?」

「格闘術ってほど大したモンでもねぇけどな」

 そう、格闘“術”ではない。
 あくまでも格闘“技”であって、それはルールという制約に縛られた中での技術の粋だ。
 俺が学んでいたのは、全てそう。ボクシングに始まり、キックボクシング、ムエタイ、MMA(ミックス・マーシャル・アーツ)。それに加えて、ちょっとだけ我流の喧嘩殺法。
 それらは、古武術や柔術、コンバットサンボという歴史の陰で磨かれたような殺人術とは一線を画す。技術的に大差はないとはいえ、前提となる理念の違いは天と地ほどに異なるのだから。

「剣術や槍術は修められてないので?」

「ヒカリモンは手入れがメンドクセェんだよ。そりゃ一応、鉄パイプ代わりくらいには使えるけどな」

「てつ、ぱいぷ……ですか?」

「あーなんつったらいいかな……? 棒だよ、棒。硬い棒みてぇなモンだ」

「それはまた、どう答えればいいのやら……。いかにも騎士然とした上役なんかに怒られませんか?」

「あーそうなんだよなぁ……。大体、馬に乗ってねぇ時点で、『騎士がどうたら』なんて言い出すのは間違ってると思うんだけどさ、なんか拘る人いるよな、そういうの」

 フランシスカとか団長とか融通利かない独身女とか。
 『いらねぇ』って言ってんのに、無理矢理剣の稽古つけようとしてくるからな。そのお陰で基本の型くらいなら、なんとかなぞれるようにはなったけど。今の調子じゃ実戦で剣を振り回せるようになる日は遠そうだ。

 なにより俺自身が剣を使う必要性をあまり感じてないってのもある。
 この時代の刃物って、“あっち”にあったようなモンとは根本からして違う。簡単に言ってしまえば、切れ味が悪い。イメージだと袈裟懸けにバッサリってな感じだけど、実際には“叩き斬る”って形容がピッタリだ。鉄の荷重に膂力のそれをプラスして力任せにぶっ叩く――そうやって腕がよければ人一人くらいなら両断できるかどうか、ってトコ。
 それにそういう使い方が出来るのは、カトラスみたいな片刃の湾曲剣くらいで。
 騎士団に支給されるレイピアなんかじゃ“斬る”という戦い方自体が無理だ。そんなことしたら、刃が曲がるし、最悪根元からポッキリ逝っちまう。
 なんで、騎士団の剣技ってのは相手を“突く”ことと、相手の突きを“払う”ことに重点が置かれている。“あっち”でいうところのフェンシングを想像すりゃいいのか? まぁフェンシングなんて実際にお目に掛かったことはなかったし、なんとなくのイメージだけど、そんな感じ。

 だったら、面倒だし、無理して身に付ける必要はねぇのかな、と。
 突くだけなら拳で代替可能だし、その無力化の過程が失血なのか衝撃なのかの違いくらい。リーチの差は出てくるけど、それは必要な挙動の少なさで相殺できる。相手がヒカリモン持ってた時の防御が多少問題にはなるけど、そこはそれ。その辺の剣だったら、触れただけでバッサリ斬られることもなし。根元の辺りで受ける分には、ちょっとした切り傷で済むし。

 いや、剣ってのはもっとロマンに満ちたモンだと思ってたよ、俺も。
 だけど、実際には使い勝手もあんまり良くないし、なにより手入れも面倒でストレス溜まるし。
 正直あまり心震わされるものがない。

 むしろ、殴ったり蹴ったり絞めオトしたりって方が、なんか戦ってる感じで気分がいい。道具使うよりも自分の身体使った方が、いかにも自分の力で戦ってる気になるし、パンチが綺麗に入った時に手に残る感触ってのは多少のリスクを背負うだけの価値があると思う。
 それになにより、“あっち”で得たもので“こっち”の連中をボコるってのは、ロマンがある。なんつーか、現代人代表みたいな気分で。

 そんなこんなで、意図してか、意図せずか。
 俺の戦闘スタイルは、時代が変わっても同一のままってわけだ。

「つーか、なんでアンタと仲良く喋ってんだ、俺?」

 気が付けば、互いに向かい合ったまま、少なからぬ会話を交わしていた。
 その事実に思い当たり、少しだけ落ち込む。
 せっかくの緊張感が台無しだ。

 つーか、完全に相手のペースに巻き込まれてる。
 やり合ってる最中にも関わらず、目の前のモヤシっ子には緊張の色がない。目を細めて笑う顔は、威嚇のようでありながら、親愛の情を滲ませているように解釈できなくもなく。
 どうにも捉えどころがない。気が削がれる。

「そういえば、そうですねー。まーまー別にいいじゃないですか? そんなに時間がないってわけでもないんでしょう?」

「アンタと悠長に会話してるほど時間に余裕があるってわけでもねぇけどな」

 この部屋で繰り広げられている、もう一つの剣戟を横目に捉える。
 そこでは雇われ船長たる中年オヤジが、ミゲルの素早い連撃をどうにかこうにか凌いでいた。

 どうやら、あの体格も雰囲気も、ただの見かけ倒れってわけでもなかったらしい。
 ミゲルのヤツは剣技に関して評すれば、近衛の中でもトップクラス。それこそ、フランシスカが別次元にいるとして、その次あたりに位置しているくらいの腕前なのだ。少なくとも俺だったら十合打ち合わないうちに剣を飛ばされる自信がある。
 ただし、オヤジがどれだけ頑張って凌いでいるとはいっても、その力量の差は歴然。なにより防戦一方になってしまっている時点で、その趨勢が決するのは時間の問題だと判断してもいいだろう。
 現に、オヤジの身体には、ミゲルの剣によって付けられた傷跡が刻一刻と増えてきている。

「それにアンタとしても相方倒されちゃ困るんじゃねぇの? 二対一だぜ?」

 俺の言葉を受けて、男は僅かに首を傾げる。
 この期に及んで何を考えているのかは不明だが、何かしらを考えてはいるのだろう。
 だが思考に没頭しているように見えるくせに、俺に不意を討たせるような隙は残していない。その辺り、かなりしたたかなヤツだ。

 ヤツは暫くそうしていた後、息を荒げながら最後の抵抗を試みている相方を一瞥し。

「そうですねー。一応雇い主ですものねー。ここで見捨てれば、わたしの評判は地に落ちますしねー。そうなったら、明日からどうやって御飯を食べていけばいいんですか?」

 なにやらぶつぶつと呟いている。
 つーか、『どうやって御飯を食べていけばいいんですか?』なんて訊かれても、俺にはコイツのメシの心配をしてやる筋合いなんかねぇし。

「もったいないですねー。いやはや本当にもったいない。せっかくお知り合いになれて、仲良くできそうだったのに――」

 男が顔を上げる。
 俺を射抜く一対の瞳には、なんだか憐憫とも取れるような、そんな弱者に対する色が滲んでいて。
 どうしようもなく俺の反骨心を刺激し、苛立ちを煽る。

 確かにテメェは強いよ。それは認める。癪だけど、どうしようもねぇから認めてやる。
 だけどな、たかがパンチ二発かわした程度で、俺の底を見たような気になってんだったら、それは間違いだ。
 そんなことも分かんねぇなら、さっさと掛かってきやがれ。
 思いっきり、返り討ちにしてやる。

 再度拳を握る。
 だけど、力一杯握り込むことはしない。掌と指との間に空間を維持し、力を抜いて待ち構える。
 ボクシングの技術だけじゃ捕らえられないとするならば、そこから柔軟に次へと繋げられる体勢は作っておかないと。
 今度は『先の先』じゃない。『後の先』を取る。

 俺の空気の変容に対応してか、ヤツは懐に手をやって、一対の刃物を取り出す。
 ナイフ――“あっち”でも粋がったガキのオモチャになってた、片刃の短刀。喧嘩沙汰で目にすることも多かった。
 だけど、あれはそんなものじゃない。そんなものとは比較にならない。

 決して鋭利でもなく、業物などではないだろう、そのナイフではあるが――禍々しさに身が震える。
 数多の血を吸った末に、獰猛に鈍びた光を身に纏ったそれは、まるで一種の呪物のようだ。

 男は両の手で一対のそれを弄びながら。
 視線を下げて呟く。

「楽しく言葉を交わした相手を傷つけなきゃならないなんて……世の中悲しいものだと思いませんか?」

 呟く。

「神様なんて、ちっともわたしの都合を考えてなんかくれないんですよねー」

 呟く。

「だから、わたしは――」

 呟いて――。

「無神論者なんですよ!」

 動いた。

 銀の軌跡が逆袈裟に疾る。
 かろうじて視界の隅にそれを捉え。

「筋金入りの無神論者に無神論説いても今更じゃねぇか!」

 一つ大きな咆哮と共に踏み込む。

 こんなフザケタ野郎に負けるわけにはいかねぇ。
 絶対に負けてなんかやんねぇよ、ボケが。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 格闘技――俺が“あっち”にいた頃は、その興行が華々しくメディアに取り上げられ、球技に勝るとも劣らない人気を博していた時代だった。
 人間と人間が鍛え上げられた肉体――その機能性を競い合う様に観客は熱狂する。
 振るわれた拳の衝撃に膝から崩れ落ちる屈強に。独楽の回転と共に風を切り裂く脚線に。人体のメカニズムと不可避の陥穽が計算し尽くされた関節技に。

 ファナティックな歓声。昂奮の坩堝。残酷性の発露。
 それは古代ローマのコロッセオ――その絵図の焼き直しで。
 リング上で戦う戦士はいわば人々の代理人。殴れない彼の代わりに殴り。蹴れない彼女の代わりに蹴り。極められない子の代わりに極める。
 そんな一連のドラマが、人間という種の持つ本能的な性向を曝け出し、増幅し、消化する。

 スポーツというのはルールに縛られた上での競争だ。
 所定の規則に従って、二者あるいは多数間の勝敗を決する――それがスポーツの本質なのだから。
 そして、それは多くの人々の考えるだろう“社会”の在り様とも極似していて。
 法や倫理という“規則”の中で、その枠内に収まる諸々の活動によって得た幸福の相対値によって“人生”の優劣を決する。

 ならば。
 無理を承知で暴力的にこじつけてしまうならば――。

 俺が“あっち”で志していた煌びやかなリングの上ってのは“それ”の一種の縮図であり、また代替でもあったんだろう。

「いやはやわたしは驚きましたよ……」

 余裕に溢れていた相貌を歪ませながら素直に感嘆してみせる男に対し、問答無用とばかり前蹴りを叩き込む。
 顎先から喉元辺りを狙ったはずのそれが標的を外れたのも束の間、間髪入れずに飛び膝狙いの飛び込み。俺の数少ない足技のコンビネーションを見舞う――。

 が。

「おおっとぉ! 危ないじゃないですか!? 当たったらどうしてくれるんです!?」

 眼前の敵はその長躯に相応しからぬ敏捷性を発揮。サイドステップで難を逃れ、胸撫で下ろしながらすっ呆けた非難を投げ付けてくる。
 つーか、こっちはマジメに当てるつもりでやってんのに、そんなこと言われても俺には答えようがない。

 なんにせよ――。

「オラ逃げんなテメェ!」

「逃げなかったら痛いじゃないですか!? なんでそんな理不尽なことが言えるんですかね!?」

 さっきから打撃中心の攻勢を仕掛けているが、一向に会心の手応えが返ってこないことに苛立ちが募る。
 身体がデカイ分、的もデカイはずなんだが、紙一重で回避されているというか……。こう届きそうで届かない距離感にイライラさせられる。

 それにヤツが回避に専念しているか、と問われれば、それはその限りではなく。
 回避行動に合わせて踊る刀閃が薄くではあるが俺の肌を切り裂き、流れる血がじわじわと俺の体力を削っていっている。その蓄積が自分でも意識しないうちに体捌きを乱れさせ、打撃から鋭さを奪うのだ。

 攻めると思わせては退き、守ると思わせておいて攻め。
 相手を焦らし、幻惑しながら、しかし確実に己の優位を確立していく。

 まぁなかなかに賢い戦い方だと思う。自分の特徴を活かし、相手の長所を消すってのは、古来よりの必勝法だ。
 だが、そんな堅実極まる方法論が俺にとって愉快なモンかというと、それは当然そんなわけはなく――。

「随分とセコイ戦り方だな、おい。そっちはヒカリモンで、こっちは素手だぜ? チ○ポ付いてんだろ? 相打ち覚悟で来いや!」

 なんつーの?
 野球で言うところの『バントヒット→盗塁→バント→スクイズの流れで一点取られそうになってるピッチャー』の気分。胸クソ悪いこと、この上ない。これがホントに野球だったら、帰塁するランナーの頭に向かって全力で牽制球を投げ込んでいるところだ。

「あなたと私じゃ体格が違いすぎますし、正面からぶつかったら跳ね飛ばされますって! そんなふざけた提案はもうちょっと筋肉削ぎ落としてからにしてください!」

 俺の安い挑発如きに乗ってくるほど、相手もバカじゃないらしい。
 “人を食った”というよりは単純に“すっ呆けた”と形容した方が中りそうなヤツの態度。それは場の緊張感すら薄れさせるほどのそれで。今この瞬間、俺たちが殺し合いをしている、という事実すら仄かに霞ませてしまいそうになる。
 かといって、俺としては精神の弛緩状態にお付き合いしてやるわけにはいかない。
 絶対にいかない。

 なぜなら――。

「ハッ!」

 短い呼気の響きと前後して、二つの刀閃が俺の首筋――そこにある左右の頚動脈を狙う。人間にとって致死の的を容赦なく切り裂こうと、そのタイミングを虎視眈々と窺っているのだ。
 今は咄嗟にダックして事なきを得たが、少しでも緊張を解けば反応は出来ない。紅い間欠泉が生温い水分を噴出することになるだろう。

「アンタ結構えげつねぇな……」

「いえいえ、あなたほどじゃありませんよ」

「いや俺は何一つアンタに傷付けちゃいないんだが?」

「ふふふっ、おもしろいですねー。いやはや本当に変わってらっしゃる。普通は刃物で斬りかかられたらですね、後ろに飛び退いて避けるんですよ、人間の習性として。だけど――」

 “敵”がその表情を歪ませる。
 先刻までの愉悦にのみ支配されたそれではなく、その支配地の中枢に“嫌悪”という楔を打たれたかのように見える表情。
 自分の理解の範疇を超える事柄に我慢できない性質なのか、血色の悪かった顔色に少しばかりの紅の色が混じり始めている。

「あなたは怖くないんですか? わたしが伊達や酔狂で首筋を狙っている、と思っていらっしゃるのなら、それは大いなる勘違いというやつですよ?」

「あっそ、で?」

「分からない人ですねー。人一人殺すくらいのこと、今更躊躇ったりなんかしませんよ、と言ってるんですよ?」

 これまでヤツの表層として姿を現すことのなかった攻撃性――そいつがやっとこさ身体の中から這い出てきた。
 引っ張り出したのは俺だ。

「おう、ならお望みどおり俺の首筋切り裂いてみりゃあいい。わざわざ相手に断ることはねぇぜ。早くやってみろや、モヤシっ子」

「ああ、あなたはそういう人なんですね。残念です。実に――」

 虚影を残しながら、実像が動く。
 純粋な速度に任せて自らのレンジへと滑り込み、これまた何の工夫もなく二双の煌きをぶつけようとする。そこには衒いはない。命を刈り取る――その意志のみを単純に具現化した攻撃だ。
 しかし、それは俺を脅かすものなどには成り得ず――。

「甘ェッ!」

 狙いどころが特定できるならば、なんのことはない。
 対処パターンなど幾通りでも浮かんでくるし、それこそ目を瞑っていても避けられる。

 視覚の外縁を沿って襲い来る死神の鎌。遠心力による荷重によって破壊力を増したそれは一見脅威に映るのかもしれないが、それは違う。
 ことヒカリモノを用いる場合には、最小のモーションでの最速の斬撃こそが恐ろしい。余計な荷重の助けなど借りなくても、皮膚直下の血管の一本や二本切り裂いてしまえる――刃物ってのはそういう武器だからだ。

「――ッ!」

 迫り来る刃を知覚すると同時、素早く頭を沈み込ませる。
 頭上を通過する風の嘶きが耳朶を打つ瞬間、頭髪が幾本か持って行かれた感触がした。

 頭を起こし、前方を見据える。
 刃を返し、再度襲い来る銀色。

 身体を起こした勢いそのままに上半身を後方へと反り返らす。
 スウェーバック――ボクシングにおける基本的な防御技術の一つだ。
 鼻先を掠めるようにして通過していく閃光。

「あああっ、もうっ!」

 ヤツが苛立ったような叫びを上げる。恐らくは、手に伝わってくるべき感触がないことに焦っているのに違いない。
 道化の仮面に押し隠されていたはずの本性を剥き出しに。そこに在るべき闘争本能によって取って代わられながら。

「いい加減中ってくださいよ!」

 そんな聞き届けられる筈もない願いと共に、始動する三度目の正直。
 さっきまでよりも一層力の篭められた――しかし、それ以上に大回りで雑な斬り返しを放ってくる。

 そうだ、苛立て。
 もっともっと不快感を鬱積させろ。
 思い通りに行かないことに業を煮やしやがれ。

 そうなって初めて“お互い様”だ。

 大きく腕を振るうってのは、その直後に少なからぬ隙を生み出してしまうことにも繋がる。それは人間という生物の身体構造上避けられない現実だ。
 そういう意味では、さっきまでのカウンター気味の削り攻撃には、俺が渾身の打撃を狙えるタイミングなんて存在しなかったのに――。

「んなもん、自力で中ててみやがれ!」

 不要な昂ぶりがヤツの剣速を鈍らせる。
 先程までの二発とは違って、『視認イコール回避』という行程を選択する必要もないほどに。

 よく見ろ。
 見て感じろ。
 限界まで引き付けろ。

 両眼を通して得られる視覚情報はコマ送り。限界までの集中が世界をスローモーションへと変ずる。
 一対の銀色が獰猛な顎を開く。その中に感じるのは、磨ぎ立てられた二本の牙。

 まだ大丈夫だ。
 精神的余裕も時間的猶予も問題ない。

「ああああああああッッ!」

 悪魔染みた咆哮が耳に飛び込む。
 仮面などとうに脱ぎ捨て、あるがままの猛りを乗せて。
 敵は俺を喰らわんと吼える。

 牙の表面を彩っているのは黒ずんだ紅の名残。
 吸われた血の量は刃に濁った呪法を施し、新たなる血化粧の上塗りを求め怨嗟の唸りを上げる。
 贄の首筋に突き立てられる瞬間――その時を今や遅しと待ち受けているかのように。

 目は――逸らさない。
 視覚に求められる役割は一つ――生と死との分水嶺を見極めること。
 だから、逸らさない。逸らせない。

「――ッ!」

 牙が剥かれる。
 次の瞬間を待ち切れぬかのように、顎が咀嚼への準備を終える。
 近付いてくる。命を食らう獣の荒い息が頬を撫でる。

 歯を噛み締め、拳を握り込む。
 奥歯が不快な音を立て、拳の骨が軋むかの如き擬音を幻聴する。
 あと少し耐えろ、と。
 溜め込んだ力を放出するのは、今この瞬間じゃなく。

 それは――。

 その瞬間は――。

 寸秒後の刹那に訪れるべき――。

「らああああああぁぁぁぁぁ!!」

 ――今。

 一足だけ。
 たった一足分だけ。
 しかし、可能な限りの最速を以て、踏み込む。

 背後で顎の重なる澄んだ金属音が響き。
 全力で振られていたであろうヤツの両腕――その手首の辺りが俺の首筋を強かに打つ。
 一瞬血流が停滞したかのような感覚に意識が飛ばされそうになるが、そこは我慢。別に血の流れを刈り取られたわけじゃない。ほんのちょっとの時間だけ塞き止められただけだ。
 そして、その程度の堤では、俺の流れを留めておくことなんて出来るはずもなくて――。

 次の瞬間、全てを飲み込まんと溢れ返るのが必定であり。

「――ッ!」

 眼前に捉えた硬直の表情が楽しくて堪らない。
 散々澄ましたツラして俺を翻弄していた相手と同一だとは思えないが、しかしようやく捕らえた。
 二本の腕を全力で前方へ振るうというのは、どういうリスクを孕んでいたか? それが空振りに終わった瞬間にどういう結果を生むものであったか?
 己の愚策を今更悔やんでも遅い。後悔なんてもんは、先に立たず、愚にも付かない。

「ようやっと“俺の距離”だな」

 相手の懐の内側――超至近にて言葉を投げる。
 俺の顔面にはきっと、我ながら獰猛な笑みが浮かんでいることだろう。捕食者と被食者との立場の逆転――その事実を転落した被食者へと叩き付けるかのような、そんな強者の勝ち名乗りにも等しいそれが。

 俺が発した一言を受けて、対手は身を捩じらせる。
 身長差のせいもあってか、まるで俺を抱き止めているかのような体勢。それがヤツにとっていかに危険な状況であるのか――そんなことは考えるまでもなく思い至るだろう。
 ヤツの腕の筋肉――その強張りが俺の首筋へと伝導される。この体勢であれば、逆にリーチを利して、背後から刺し貫かんと考えたのに違いない。

 だけど、そんな暇は与えない。
 与えるわけがない。

 なんつったって俺は相当に我慢していたんだ。
 その顔面をぐちゃぐちゃにしてやりたい、という欲望を抑えに抑え付け、守勢に甘んじていたんだから。
 そう易々と再度の攻守交替を許してやるわけにもいかない。

「相当痛ぇと思うが、歯ァ食い縛って耐えてみせろや!」

 拳を振るうには間合いが近すぎる。
 蹴りに行くにも、スペースがなさすぎる。
 組むには、ヤツの両腕――そこに握られたナイフの存在が邪魔だ。

 ならば、選択は一つ。

「食らえやオラァ!」

 ヘッドバット。和訳すれば『頭突き』。
 細工も工夫も衒いもない――そんな原始的な打撃を相手の顎に叩きつけるようにしてブチ込む。
 見た目には華々しさなどなく、達人の凄みなんてモノとは掛け離れているだろう。
 だけど――。

「――ッ!!」

 痩身長躯のモヤシっ子の口から、言葉にならない苦悶の呻きが漏れる。
 俺の前頭部にも、ヤツの顎の骨がイッた甘美な感触が如実に伝わってきた。きっと意識が飛んじまうほど痛いはずだ。痛点という痛点に針を差し込まれるのと変わらないほどの痛みのはずだ。
 だけど、ヤツは倒れない。両足を床に踏み締め、意外なほどの根性を見せている。

「やるじゃんアンタ。んじゃもう一発だオラァ!」

 もう一撃。
 今度は口元へと突き上げるかのようにして。
 脳天に稲妻が走ったかのような痺れを感じるが、それはお互い様。つーか、多分あっちのが遥かに痛ぇはずだ。

 ヤツの顔面を見上げる。
 中世的な色気を纏っていたはずのそれは、もはや見る影もなく。かなりの痛みに苛まれているのか、ひたすらに苦痛に歪んでいて。
 下顔部は無様なほどに腫れ上がり、唇はまるで破裂したかのように裂けている。
 そして、大量の血と共に口蓋から吐き出される大小の石灰塊。

 でも、倒れない。
 斃れない。

「いつまでも意地張ってっとアレだぞ? マジで顔面ぐちゃぐちゃにしちまうぞ?」

「…………」

 俺の軽口にも無言。
 その目は何を見ているのか、焦点の合わないまま揺れて。
 まるで、現実には存在し得ない“なにか別の世界”を幻視せんと開かれているかのようで。
 それは一人の血の通った人間の様ではなく、糸が切れ毀れた操り人形であるかのように感じる。

 “斃れない”というよりは“斃れられない”のか?
 それがコイツの“縛り”だというのなら。

 人間は縛られる。
 言霊という呪いに。
 守るべき存在に。
 奪ってきた命に。
 色んな柵《しがらみ》に取り囲まれて、身動きが取れなくなるまで縛られる。

 ヤツが何によって“縛り”を受けているのかは知らないが、それ故にこそ“斃れるわけにはいかない”んだろう、と。
 そんなことを薄々と理解する。

 じゃあ、そんな愚かながらも悲しい敵を眼前に捉えて、俺はどうするべきか――なんて、そんな問いの答えなんて余裕で決まりきっていて。
 単純明快にして複雑怪奇なこの“世界”を渡り生きていくのに、難解な思考なんて必要がない。
 必要なのは簡潔にして凝縮された“方程式”だけだ。

 その式に則れば、俺のやるべきことなんか決まっている。
 考える余地もなく、憐憫の情なんて上等なモンを傾けるより先に身体が動く。

「あー分かった分かった。んだオイ上等じゃねぇか。アンタがそのつもりなら、こっちだって心置きなくやってやんよ」

 “縛り”なんて力づくで引っ剥がすように。
 “斃れられない”のならば、斃れるまで何発でも、何時間でも――。

 ひたすらにブチのめす。

 俺がやるべきことなんて、それだけだ。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「そろそろ止めとけって、ドザエモン!」

 背後から羽交い絞めにするようにしながらの制止を受けて、自分が極度の興奮状態に陥っていたことを認識し。
 正気を取り戻さんと周囲の状況を確認する。

 俺は例のモヤシっ子に馬乗りになった格好で拳を振るっていたらしい。どうやら前後不覚になるほど昂っていたんだろう。散々殴りつけたせいか、両の拳が痛む。
 いや、この痛みは単なるそれというだけじゃなく、自分の拳までクラッシュしちまってるな……。

 倦怠を覚えながらのっそりと身体を動かし、転げ落ちるようにして相手の腹の上から身体を退ける。
 と同時、背後に立っていたミゲルが相手のツラを覗き込みながら、呆れたような声を上げる。

「あーあ、よくやるよなーおまえも。コイツの顔ボッコボコじゃねぇか。ひっでー」

「ワリィ、なんかトンじまってた……」

 さっきまで俺と丁々発止やりあってた敵さんの顔面は、ミゲルに言われるまでもない惨状を呈していた。
 目蓋は塞がり、鼻は曲がり、唇は裂け。顔面全体が大きく腫れ上がり、至る所に大小の裂傷が走っている。血溜りの上、無造作に転がった身体はまるで枯れ枝のよう。意識も完全に失っているようで、一見すれば死体と見紛わんばかりの姿。

「にしても、ここまでやるかねー。オレは時々おまえのことが心底怖くなるぞ。意識のない相手に跨って殴りつける、なんて人でなしな所業、オレにはとても真似できねーよ」

「いや、俺もここまでやるつもりじゃなかったんだが……」

「ま、辛うじて生きてはいるみたいだし、問題ない問題ない。あちらさんの生き汚さに感謝ってトコだな、ドザエモン」

 轟沈した敵さん、その脈拍を手際よく確認しながら、ミゲルが殊更軽い調子でそんな冗談を飛ばす。まぁ相手が死んじまってたら流石に洒落になんねぇし、そういう意味では一安心。なんとなく胸撫で下ろすような気分だ。
 生き死に賭けて闘り合ったとは言え、相手を殺してしまったとなれば、それはそれで気分悪ィし。

「で、随分余裕カマシてくれちゃってるみてぇだが、テメェの方はどうなったんだ、ミゲル?」

「ん? あーオレの方なら、ほら――」

 そう。
 この場は俺とヤツとのタイマンじゃなくて、本来的には二対二の捕物劇だったはずだ。
 その首尾如何を確認する俺の問い掛けに対し、ミゲルはなんでもないような様子で部屋の隅を指差す。

 そこには、ガタイのいい日焼けした男が、まるで蓑虫のような体《てい》で雁字搦めに縛り上げられ、床へ転がされていた。ご丁寧に猿轡代わりの布まで口に咬まされている。
 どこからどう見ても、完膚なきまでに捕縛された犯罪者って感じの絵面。

「厄介な方はドザエモンが片付けてくれたからさ。オレの方はオマケみたいなモンだったし、まぁあんな感じ」

「テメェぶっちゃけ楽勝だったろ? なんで俺の方に加勢しなかった? お陰様でこっちはちっとばかり骨が折れたんだが?」

 比喩的な意味だけじゃなく、直接的な意味でも暫くは拳が使い物にならなくなった。
 眼前で暢気に構えている相棒にそのことを認識させんと、変形した両拳を摩る。

「いや、だってそんなことしたらドザエモン怒るだろ? 『オレの相手を取るな』とか『男の勝負に無粋な横槍を入れんな』とかさ。そんなのオレが怒られ損じゃんか?」

「俺はそんなに暑苦しいキャラじゃないと思うんだが……」

「いいや、そんな暑苦しいキャラだよ、ドザエモンは。まぁこういうの久しぶりだったし、相棒の腕が鈍ってないのかどうか見たかったってのもあるけどさ」

 つーか、どんだけ世代を超越したオールドファッショネイトな男だと思われてんだ、俺……?
 まぁ自分でもそれがあながち間違いだと言い切れないあたり、周囲からすればそんな風に見えちまってるのも仕方がないのかもしんねぇけど。

 己で自覚している悪癖っつーのは、他者から見れば数割増に増幅した形で受け取られるものだってことは、これまでの人生の中で得た教訓の一つ。
 態度の悪さも口の悪さも手の早さも――結局自分で思っている以上に第三者から認識され、中にはそれに対して不快感を催し、忌み嫌う人間がいるんだ、ってことも分かってる。他者の暴力的な性向が受容できない、というのは人間の持つ本能的な危機意識の発露でもあって、それは至極当然の傾向だ。
 だけど――。

「まぁ俺は俺なんだから仕方ねぇだろ」

 俺なんてそんなもんだ。
 極限に置かれれば置かれるほど、自分ってヤツは誤魔化せない。どんなに用心深く偽りの衣を纏おうとも、一枚剥げば現れる棘だらけの本性。
 だったら、それはそれとして素直に認める他ない。

「お、哲学の深き扉でも開いたのか? なんか渋くてカッコイイじゃん。ねーねーオレにもイケてるキメ台詞考えてくれよ」

「アホか。そんなことは一皮剥けてから言え」

「え、それまだ引っ張るの!? つか、やめて! 痛い、精神的に痛い!」

 祭りの後の感傷をブチ壊すギャアギャアと喧しい抗議の声。
 それは俺の自虐思考を寸断し、“いつも”の世界へと存在を引き戻す。そう、“いつも”の相棒がいる世界は、ここだ。俺の世界はここなんだ、と。

 感謝している。
 心の底から有り難く思っている。
 でも、そんなクソ恥ずかしい赤面モノの吐露なんて、俺ができるはずもなく。ついでに言えば、男同士で汗臭く友情を確かめ合う、なんてのは互いに御免蒙りたいところでもあって。言葉に出さずとも、暗黙の了解で繋がるのがヤロー的なサムシングクールだとも個人的に思っているわけで。
 だから――。

「つーか、なに? テメェまた剣の腕上げやがっただろ? そろそろフランシスカのヤツも叩き据えられたり――はしねぇか、いくらなんでも」

 こうやって原型を留めないくらいに婉曲した称賛を送ることしかしない。出来ない。

「おいおいおい、おまえはオレを殺す気か、ドザエモン!? 自殺教唆か!? 団長に勝てるわけがないだろ! あの人は鬼だよ、鬼! 一刺突《つき》浴びせる間に三倍返しで刺突殺される――って女の子と突き合うってのは、そこはかとなくイヤらしい響きだねー」

「幸せだな、テメェの頭」

「おうよ! 夢ある限り、オレはいつだって幸せだぞ!」

「ああ、テメェはそういうヤツだよ、根っからな」

 変わらねぇな、と思う。
 進歩がない、と換言できるかもしれない。

 ミゲルとの付き合いもなんだかんだ長いけれど、コイツは初見からこんなヤツだった。
 一見道化の仮面を被っているようで、でもそれは仮面なんかじゃない。文字通り、生まれついての『道化』役なんだ、と。
 楽天的で積極的、未来志向で短絡思考――それらがミゲルの在り方だ。
 そんなヤツの性格は、俺のそれとは真逆とは言わないまでも、かなり距離を置いた場所にあったのは確かであって。

 最初に会ったのは、まだ俺がプーだった頃。いわゆる『住所不定・無職』の王道をひた走っていた時代にまで遡る。
 あの頃のミゲルはまだ近衛騎士なんて大層な肩書きは持ってなくて、警邏隊に配属されたばかりの新米に過ぎなかった。街中の小さな揉め事や諍いに首を突っ込み、その解決や解消を図る、ってな感じのお節介な仕事――そんな退屈極まりないであろう仕事を毎日楽しそうにこなしていたのがコイツだ。
 島の治安を守るって名目の仕事であれば、遅かれ早かれ俺とカチ会うのも必然ではあったんだろう。

 あの当時の俺は、この島にとって癌みたいなモンだった。
 生きる為――日々の糧と寝場所を得るためだったら何でもやっていた。他人から奪うことを厭いもしなかったし、その過程で他人を傷付けることも同様で。それによって泣く人間が居ることを分かっていて、でも力の論理を盾に自分とそれに連なる一人の生存を優先していた。
 善悪や正邪という二元論なんて僅かばかりの力すら持たず、強弱や生死という二元論こそが幅を利かせる――そんな殺伐たる世界。
 そんな世界を闊歩し、踏破し、徘徊するのが、俺にとって当然の日常で。そのこと自体に諦念こそあれ、呵責なんてご立派な情は跡形なく踏み躙られる、その一歩手前の時期に――。

 俺はミゲルと初めて顔を合わせたんだ。

 あの時のことは今でも忘れない。
 忘れられるわけがないし、事実は寸毫として揺るがない。

 それは屈辱の記憶と。
 そして、それ以上の爽快な印象として。

 あの時の鮮やかな剣閃と的確な身体運用は、今思い出しても寒気が走るほどに圧倒的で。その中に見え隠れする粗さや雑さは未熟の証ではあるが、逆に対手の潜在能力を誇示するかのように感じられ。
 俺は身体中に無数の傷を拵え、ヤツは顔面を腫らしながら――思う存分その存在をぶつけ合った。
 まぁ結果としてはドローってことになってるけど、ぶっちゃけ俺の判定負けだったような気がしないでもない。

 で、二人してボロボロになりながら、裏路地に大の字になって。
 あの時の空はいつもより明るい満月の光に照らされて。それは星の瞬きを霞ませてしまうほどに不条理な存在感を放っていて。
 そんな夜空を眺めながら、話をした。
 冗漫で散漫で取り留めもない――ただの雑談。
 俺はアンダーグラウンドな商売の話や喧嘩自慢を。ヤツは実家の葡萄農園の収穫や恋人ができないことについての愚痴を。
 話した内容には取り立てての意味はなく。だけど、その時そこでソイツとそんな話をした、という事実に意味があるような――そんな時間だったことを覚えている。

 あの時、ミゲルが最後に口にした台詞が、今の俺を形成する端緒になっていると言っても過言ではないのかもしれない。

 で、それから街で顔を合わせる度に、詰まんない話を二つ三つ交わすような間柄になり。時を経るに従って、たまに酒酌み交わすようにもなって。
 今考えれば、警官と犯罪者が懇意にしているような感じで実に妙な取り合わせではあるけれど、それでもミゲルのヤツとは不思議と気が合ったんだろう。
 騒がしいのは珠に瑕だが、それでも――楽しい、と。
 そう思えるほどには、気の置けない相手になったんだから。

 だから、何の因果か紆余曲折を経て俺が近衛騎士として雇用され、それと前後するようにミゲルが同僚として抜擢されたのは、俺にとっては幸いだった。
 相棒としての実力も申し分ないし。
 なにより限られた範囲の話とはいえ俺が周囲にこれだけ溶け込めているのは、ミゲルの無駄に社交的ともいえる性格のお陰も小さくないんだと思う。

 俺はミゲルという無二の相棒に出会えた幸運に――。

「改めて蒸し返すとキモチワリィな、こういうの……」

 なんだろう?
 血ィ流しすぎておかしくなってんのか、俺?
 男同士の友情を熱く回想するとか、我ながらキメェ……。

「ん、なんか言ったか?」

「気にすんな、こっちの話だ。で、コイツらノシたのはいいとして、だ。外にいる厨二センパイらに連絡しなきゃなんねぇだろ? ミゲル行ってきてくんねぇ?」

 思わず口から漏れた俺の独り反省の弁を耳聡く拾ったミゲルの問い掛けに対し、軽く頭を振って。
 任務の完了報告を促す。

「いやだからたまにはドザエモンが自分で――あー了解」

 改めて俺へと視線を向けたミゲルが意を得たりってな感じで首肯。
 表情が少しだけ翳りを帯びている辺り、俺の現状も正確に理解してくれたらしい。

 相手の得物が小振りなそれであったとはいえ、刃物は刃物。斬られりゃ血が流れるのは自明の理。
 んでもって、俺の方としても少しばかり斬られすぎた。戦り合っている最中は放出されたアドレナリンが痛覚を誤魔化してくれるし、身体も動くが、一息ついて昂奮が沈静化してしまえばそういうわけにもいかない。正直、立ち上がるのが億劫な程度には、血液が足りなくなっていると自覚する。
 それになにより自爆した両手が痛い。多分、中手骨が何本かイカレてるんだろう。手の甲が気持ち悪いほどに盛り上がり、間断ない疼痛が襲ってくる。

「悪ィな、ちょっと楽しみ過ぎたみてぇだ」

「まぁいつものことだよね。血塗れになりながら、思いっきり相手の顔殴りつけ続ければ、そうなるに決まってるじゃん。にしても、これ過剰防衛だとかなんだとか怒られそうな気がするんだけど」

 ミゲルが改めて床に目を遣る。
 ボロ雑巾の如く打ち捨てられ血を流し続ける痩躯と、その隣で顔を返り血で染めた俺。
 うん、間違いなくやり過ぎた。
 そのこと自体に異論も反論もない。

「別に構わねぇよ。俺らはどうせこれ片付いたら営倉行きなんだ。厨二センパイが下らねぇイチャモンつけてくるようだったら、『弱小死ね』って言っとけ」

「いやいやいや、それは無理だから! てか、なにその脈絡のない究極ゼリフ!?」

「別に『童貞死ね』でもいいぞ」

「思いっきりブーメランになるだろ!? オレに自傷癖はないから!」

 それを認めること自体が既に自傷に等しいような気もするんだが、まぁいいか。
 ミゲルはなんやかんや喚きながらも、任務完了を伝えるべく部屋を後にし、階下へと降りていく。

 聴覚が拾う情報からそれを確認し。
 ごろりと床に横たわる。大の字に四肢を伸ばし、自重の呪縛から身を解放。大きく一つ息を吐くと、一瞬だけ白い光が視界に溢れ、意識をどこかへ持っていかれる感覚がする。
 徒手空拳でヒカリモンとやり合えば、余程の技量差がない限り、手傷を負うのは避けられない。だからいつも『肉を切らせて骨を断つ』ってな不恰好を地で行かざるを得ないわけで。
 でも、そのリスクこそに遊心を感じているあたり、俺はきっと救えない欠陥持ちなんだろう。

 耳を澄ませれば、夜の静寂。
 でも“静寂”とは決して無音をのみ指す言葉ではなく、そこには“静寂”ゆえの音が存在することを、俺は“こっち”に来て初めて知った。

 意識がぼやける。
 手が痛い。
 斬り付けられた箇所から身体全体へと熱が回る。

 今回の件で俺が関わるのは、きっとここまで。
 事後の部分は負うべき責任がデカくなる分、俺やミゲルのようなヒラの出番はないだろう。
 カタリーナやフランシスカに投げときゃ後はきっと上手くやる。アイツらなら下手踏んじまうような愚は犯さないだろうし、俺としても安心して後を任せられる。
 その程度には俺も自らの“上役”を信頼しているし、それに足るだけの能力は過去に幾度も目にしてきた。

 ってなわけで、御役御免。
 欲求に任せて、少しだけ休ませてもらうことにしよう。
 意識の引止めを諦め、脱力。抗えぬ流れに心身を預ける。

 にしても、だ。
 いつものことながら、なんだかんだで――。

「……締まらねぇよなぁ」

 なんて。

 意識が断線する刹那の瞬間に吐き捨てたのは、そんないかにも“締まらない”呟きだった。



[9233] Chapter2 Scene3
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:00cfbba9
Date: 2010/02/07 21:08
 街中の民家でドンパチかました翌日。
 任務達成の褒美と怪我の療養という名目で暫くの休暇を手に入れ、暇を持て余して部屋で惰眠を貪っていた俺のところに、ミゲルが息せき切って飛び込んできたのは、夕刻に差し掛かる頃だった。

「で、俺は得難い休暇を満喫している最中なわけだが、テメェは何しに来やがった? 詰まんねぇことヌカしたら海溝に沈めんぞオラ」

「なんでいきなり脅迫口調!? ていうか、どこからどう見ても休暇を楽しんでるようには見えないよね!?」

「るせぇ、余計な世話だコノヤロー! つーか、なに? おまえ営倉処分の真っ最中じゃなかったの?」

「いやーそれがさー今回の働きと相殺って形で団長が取り成してくれてさー、助かるよね――ってちょっと待って! え、なに? 元はと言えば全部ドザエモンが悪いのに、オレ一人が営倉入ればいいとか思ってたの!? それはちょっと酷くないか!? いや、酷い酷くないって次元じゃなくて、むしろ人でなしの域に達してるよね!?」

 やって来て早々、相変わらず騒がしいヤツだ。
 俺のアンニュイな黄昏時を返せ、と言いたくなる。
 こう、沈んでいく夕陽を己と重ね合わせて落日の嘆を詠い、毎日繰り返されるその嘆きの普遍に浸りながら人生という名の見果てぬ旅について考察を巡らし、深奥なる思索の世界へと身を躍らせて――うん、もういいや。無理があった。

「で、マジでなにしに来た?」

 まぁ大方酒でも飲みに行こうって話なんだろう。お互い一仕事終えて解放感に浸るには悪くねぇし、俺としてもやることなかったから酒の誘い自体は歓迎しないでもない。
 つーか、ミゲルが来なかったとしても、多分ジゼルの店には顔出しに行ったとは思うし。

 だけど、ミゲルの口から発せられた言葉は、俺の予想通りのようでいて。ある一点に於いて予想通りではなく。
 つーか、ある意味予想を越えていたという形容が当てはまるような話で。

「……慰労会?」

「そうなんだよ。今回の一件なんだけど一応粗方の片が付いたみたいで、姫様が関係者を是非に労いたいってことらしいんだけど」

「てことは、当然あの独尊女もご参加あそばされるってことか……?」

「当たり前だろ。むしろ主催者が姫様なんだからさ」

「まぁいい。それは百歩譲って許容するとして、他のメンツは……?」

「姫様、団長、ジョルジュに、えっと……姫様のお世話役のちっちゃい子だろー。あと呼ばれるとすれば、副団長あたりじゃないか? あ、それとジゼルさんの店の個室借りるらしいから、ジゼルさんとガチムチさんもいるかも」

「悪ぃ。傷が痛んでそれどころじゃねぇから、療養に専念するって伝えといてくれ」

 酒は飲みたいし、美味いメシも食いたいが、針の筵の上でとなると話は別だ。
 つーか、なんだよそのメンツはよぉ? 天敵が多すぎて、聞いただけで食欲がなくなる。大体、参加したと仮定したところで、悪い意味での混沌極まる未来予想図しか描けないのは、慰労会としてどうなんだ?

 というわけで、今回はパス。
 そりゃもう惑いも迷いもなく『ご招待頂きありがとうございます。誠に申し訳ありませんが――』という枕詞に始まる一連の台詞を口に出来る。
 ぶっちゃけメチャクチャ行きたくない。

 でも、どうやら俺の見通しは甘かったらしい。

「あーそれ無理。だって俺、姫様からドザエモン連れて来るようにって頼まれたし。来ないって言った場合には、腰に縄付けて引き摺ってでも連行しろ、との仰せ」

「あァ!? なんだよそれ? つーか、やれるもんならやってみろ! 俺は梃子でも動かねぇから、腰に縄付けて連行するでもなんでも好きにすりゃあいいさ。そん代わり、マジにやりやがったらブン殴ってやるからな」

 もうね、意味不明。なんだよその絶対不可避のエンカウントは! 超絶クソ仕様にも程が有るだろ!
 つーか、なに? 何なのマジで? 嫌がらせか? イジメか? どっちにしても趣味悪ぃなオイ!

 俺は抵抗した。
 それこそ宥め、賺し、脅し、乞い、強請り――考え付くありとあらゆる方法論を以て対抗した。

 が、それも力及ばずして――。

「わーったわーった! 行くよ行く行きゃあいいんだろバカヤロウが! 行ってやるから俺から離れろ、気色悪ぃ! つーか、あれだろ、要は顔出しゃいいんだろ!? そこまで言うんならお望みどおりにしてやるさ。だから離れろって言ってんじゃねぇか、ボケ!」

 マジで俺を引き摺って行こうとするミゲルに軽い膝蹴りをかまし、半分自棄になりながら会への参加を承諾する。
 つか、ここまでしつこいとなんだかどうでもよくなってきた、ってのが本当のところ。逃げる手立て考えるほうがよっぽどメンドクサイし。

 まぁ最大の誤算は両手が死んでたこと。
 いつもなら一発食らわしてからでも場を後にするところなんだけど、今はミゲルから逃れようにも逃れられる状態じゃない。これも広義での自業自得の範疇なんだろうか?

 というわけで。

「姫様主催ってことは多分いつもは食べられないような料理が出てくるんじゃないか? それに綺麗どころが勢揃いって感じで、男冥利に尽きる! いやー頑張ってよかったー!」

 こんな感じでテンション上がってるミゲルと二人して、斜陽の通りに歩を進める。
 赤と黄の混合色に感じるのは、温度。生の象徴たる赤色と命の象徴たる黄金色――その二色が織り成す人生模様の縮図。
 そして、それに相反するようにして沸き上がる寂寞。
 橙はいつだってそう。それは、ちっぽけで不細工なセンチメンタリズムを刺激する。

「テメェはいいよな、お気楽で」

 夕陽に影を伸ばしながら、少しだけミゲルのことを羨ましく感じた――そんな死地への途上だった。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「はい、あーん」

「いやスプーンくらいは自分で持てる――」

「あーん」

 眼前へと迫り来る匙。
 いつもの木製のそれではなく、高級感溢れる銀の輝きの上には、丁寧に解された白身魚の身が鎮座ましましており。胃袋を刺激する芳香を発しながら、俺の口へと運ばれる瞬間を待っている。

 卓上を埋めるのは、目にも鮮やかな色取り取りの大皿の数々。その一つ一つが素材から吟味され、細心の注意と熟練の業とを以て、晩餐に供されるに相応しい艶姿を施されており。
 そんな大皿の傍らには、硝子製の丸みを帯びた高足のグラスを満たす深みのある赤紫色。芳醇な香りは、まんま丘へと照り差す陽のそれのようで。オーガニックだとかなんだとかって安っぽい次元ではない、自然の恵みを体現している。

 そんな絢爛にして豪奢な宴席の中――。

「だから、自分で食うっつってる――」

「……あーん」

 観念して、差し出された匙を咥える。
 人としての大事な尊厳の一つを奪い去られたような気がした。

「ふふっ……よくできました」

 虚脱に襲われる俺の隣席、花綻ぶような満面の笑顔が弾ける。
 その余りにも残酷な対比構造に世の無常を実感する。等価交換という世界の理は、いつだって集団単位で辻褄を合わせるように出来ていて。失う者と得る者という対極を単位の中に内包し、機械的にその彼我を選り分ける――とかいう繰言はなし。どう考えても不出来なそれだ。

 それ以前に言うべきことが俺にはある。

「つーか、テメェはテメェの仕事しろよ、ジゼル」

 そうなのだ。
 店主でありながら、なぜか俺たちと一緒に卓を囲んでいるジゼル。
 本来ならば、料理作ったり酒運んだりと幾らでもやるべきことがあるはずなんだが。多分そこいらを全部ガチムチさんに投げて、こっちに加わってるんだと思われる。
 あまり感心できる態度ではない。

「いいの。今日は総督府ご一行様の貸切にしてるし、料理だって手間掛かるものは作り終えてるから。それに――」

 ジゼルの整った相貌に翳が差す。

「ドザ君、また怪我してるじゃない。あんまり無茶なことはしないで欲しいわ」

 それは多分心底から俺の身を案じる言葉。
 彼女はいつだってそうだ。俺が少しでも傷を負えば、まるで自らの一大事であるがごとくに心配し、あれやこれやと世話を焼こうとする。
 そのこと自体は気恥ずかしくとも有難いとは思っているし、寄ってくるジゼルを邪険に扱おうなんてのはいつだってポーズだけ。なんだかんだコイツが気に病むようなマネはしたくねぇし、それが自ずと制御棒になってる部分だってある。

 だけど。
 それは確かにそうなんだけど――。

「これはちょっとやり過ぎだろ? つか、おまえ俺のことをガキかなんかと勘違いしてやしないか?」

「だって、自分で食べられないんだったら、誰かに手伝ってもらわないと大変でしょう? だったら私の出番じゃない。ね、ドザ君? はい、あーん」

 前提条件からして大いなる誤解に蝕まれていた。
 そして、その誤解塗れの前提は“思い込み”という捻りを加えられることによって、なし崩し的に仮初の“真実”へと姿を変じてしまっている。

「誰も自分で食えないとまでは言ってねぇし、そもそもこんなん大した怪我でもねぇよ。つか、お前もうちょい離れろ、暑苦しい」

「あら、ごめんなさい。はい、あーん」

 ジゼルに反省の色はなし。謝りながらも身を寄せてくる辺り、俺の言は一片なりとも彼女の心には通じていないらしい。
 昔は少し声を荒げただけで怯えていた女が、よくもまぁ随分と図太くなったもんだ。

「ったく、うぜぇ」

 憎まれ口を叩きながらも差し出された匙に合わせて口を開いてしまうあたり、俺もジゼルから世話焼かれることを不快に思っちゃいないってことらしい。
 この前、期せずして耳にした独白すらまだ咀嚼できていないにも関わらず、それでもこうやって好意を差し出されてしまえば、やはり――俺にはそれに甘んじることしか出来ない。
 それがジゼルにとって本当にいいことなのか否か――きっとその答えは、俺の感情次第によって如何様にも形を変える。まさにマスターピースとでも呼ぶべきは他でもない。
 ジゼルに対する俺の気持ち――それこそがそうだ。
 だけど、その肝心の部分が見えてこない。見ようとしても靄が掛かっているかのように。曖昧模糊として判然としない。

 だから、情けない話だけれど。
 その辺は一度棚上げしておくしかないのだろう。

「そういえば料理の味の方はどうかしら? 顔見知りの騎士さんたちの奮闘を称える席だってことだったから、私としても今日は腕に縒りを掛けたつもりなんだけれど?」

 湯気を立てるシチューを一匙分掬って。唇を窄めて息を吹き掛けることで、その熱を冷ましながら、ジゼルが俺を上目遣いに窺う。
 その瞳に浮かんでいるのは期待。であれば、彼女が望んでいる答えだって明白だろう。

「あー味ねぇ……。そういうのは俺みてぇな貧乏舌じゃなくて、あそこら辺のグルメなお歴々に訊いてみた方がいいんじゃねぇの?」

「私はドザ君がどう感じたのかが気になるのよ。ねぇ、どうかしら?」

「十分に美味いんじゃねぇか。つーか、あれだぞ。俺なんかは食いモンだったら大概は美味いって言うタイプだぞ。全然参考になんねぇだろうに」

「いいの。私が知りたかったのは“そういうこと”じゃないから。ドザ君が美味しいって言ってくれるのなら、頑張った甲斐があったわね」

 悪戯っぽい微笑を浮かべながら、でもどこか照れを隠すかのように。
 そんな仕草一つに目を奪われる自分が恨めしい。つーか、俺はどこの純情中学生だよ、って感じだ。

「あ、そうそう。ドザ君が前に食べたいって言ってた『イカスミのパスタ』のソースを作ってみたんだけど食べてみる? 詳しい調理法が分からないということだったから、とりあえず私なりに試行錯誤してみたんだけど」

「お、マジか? つーか、よく覚えてたな、そんなこと」

「あんまり期待はしないでね。ひょっとしたらドザ君が知ってるものとは似ても似つかない味になっているかもしれないし」

「ま、そういうのは食ってからの話だ。というわけで早速だが持ってきてくれや」

「分かったわ。じゃあ、手早く用意してくるから少しだけ待っててね」

 ジゼルは一つ嬉しそうに頷きを返し。
 俺のリクエストに応えるため、階下の調理場へと降りていった。

「アイツもどんだけ世話焼きなんだか……」

 以前――とはいっても、ジゼルがこの店を持って間もない頃だったから、かなり昔のことにはなるが、なんとなく思いつきでリクエストしたことを思い出す。
 “こっち”のメシは美味いけど、時には“あっち”で食ってたような味が恋しくなることもある。とはいえ、この島では米が常食されているわけではなく、むしろ完全な小麦圏でもあって。パンなんて多少工夫して調理したところで大して代わり映えもしないし、元々あまり好きじゃない。口が渇くというか、ボソボソしてるというか。
 なので、もっぱらパスタ中心の食生活になっていたわけだが、限られたソースをローテーションしていれば飽きが来るのも早かった。そんな時にジゼルに提案してみたのが今話題に上がっている『イカスミのパスタ』だ。

 別に是が非でも食いたいというわけじゃなく、本当にただの思いつきだったため、さっきジゼルがその話を出すまでは、当の俺自身でさえ忘れていたような話だ。
 それを逐一覚えていて、時間を掛けてでも実現しようと頑張ってしまうあたり、俺としてもアイツの前で軽々しいことは言わないほうがいいかもしれない。俺が米食いたいってリクエストし続ければ、そのうちアイツは本気で大海原に漕ぎ出してしまいそうだ。

 赤紫の液体が並々と注がれたグラスの足――それを右手の親指と人差し指の股の部分で引っ掛けるようにして持ち上げる。固定しているのであまり自由は利かないが、それでもその程度ならなんとかなる。
 喉を通る酒精の熱が心地いい。
 逸品として名高いマディラワインは、それを口にする都度毎に最高の満足感を運んでくれる。葡萄の酸味と渋みと甘み――その全てが渾然一体となって溶かされたその味は、どんな美辞麗句を尽くしても表現し切れるもんじゃない。
 あっという間にグラスが空く。

「あれ? ジゼルさんは仕事に戻ったのかい?」

 そんなタイミングを見計らったかのように、ジョルジュのヤツが俺の近くに寄ってくる。
 グラスの足を抓む右手の角度すら計算しているかのように繊細で、なんつーかいかにもって感じの伊達っぷりだ。まぁ本人は特段意識してやってるってわけじゃなく、普段通りの所作のつもりなんだろうけど。

「ああ、特注品の準備中だ」

「へー、それは僕も興味があるなぁ――おっと、グラスを貸してくれるかい、ドザエモン? その怪我だと手酌は少し厳しいだろう?」

「おーサンキュ、助かった」

 よくもまぁ気が利く男だ。
 こういう時にさりげなく気を回せるのがジョルジュという人間で、それを老若男女問わずにやってのけるからこそ、コイツの人気は高い。
 あまりにも出来が良過ぎて、やっかむ気にもなれやしないくらいだ。

「それにしてもジゼルさんは最近一段と調理の腕を上げたんじゃないのかい? さっき頂いた仔牛肉の煮込みなんて完璧だったよ。一つ一つの食材を丁寧に下処理しているのが分かるし、その辺の細やかな気遣いがしっかり味に出ているしね」

「俺にはそんな細かいことなんか分かんねぇんだけど、アイツのメシが美味いのなんて今更だろ? 別に昨日今日の話じゃねぇさ」

「そうかもね。僕もジゼルさんの料理は好きだよ。毎日でも食べに来たいくらいだ」

 多分それは素直な称賛の言葉。
 現在を純粋に評価して、アイツはその位置にいるんだ、と。

 昔は料理なんて一つも出来なかった女が、今では貴族の坊ちゃんから認められるほどの料理を作っているという事実。
 だけど、それは決して一朝一夕で成し遂げられるようなことではなくて。むしろ長期間に亘るアイツの努力の賜物であることを、俺は誰よりも知っている。

 だからこそ、ジゼルのヤツが褒められてるってことが、なんだか自分のことのように嬉しい。

「まぁそういう褒め言葉はジゼルのヤツに直接言ってやってくれや。アイツもきっと喜ぶから」

「もちろん彼女には感謝の言葉を伝えるつもりさ。でもドザエモンだってジゼルさんが褒められれば、そう悪い気はしないだろう?」

「あ? 何が言いたいんだ?」

 俺の問いに対し、ジョルジュは意味深な笑みを浮かべ。

「そういうことさ。おっと、ジゼルさんが戻ってきたみたいだから、僕はこの辺で席を外すとするよ。あと特注品に関しては、僕の分も取り分けておいてくれると嬉しい」

 明確な回答など寄越さぬまま、壁の花になって退屈そうにしているフランシスカの方へと歩いていく。
 掴み所のないヤツだ。俺には見えないことがたくさん見えているくせに、俺だからこそ見えているはずのことまでも勘の良さで察しやがる。いつだってそうだ。
 ジョルジュには敵わない――そんなことはとっくの昔に承知済みだが、それでも。

「悔しいって思っちまうのは仕方ねぇよな?」

「……ん? どうかしたの、ドザ君?」

「あーこっちの話。つか、俺なんだかんだで腹減ってんだよ、マジで。手がこんなんだと流石にパスタは厳しいし、悪ィけど食わせてもらってもいいか?」

「ええ、もちろん構わないわ。当たり前じゃない」

 俺の頼みを二つ返事で了解し、黒色の麺を器用にフォークで巻き取るジゼルの横顔を眺め。
 トマトの爽やかな酸味とイカスミの濃厚なコクとの融合体を今や遅しと待ち構える。

 ジゼルはそんな俺を見ながら、声を立てずにくすりと笑って――。

「はい、あーん」

 結論だけ言うと、ジゼル謹製イカスミパスタは墨が勝ち過ぎて生臭く、若干の改善の必要性が認められた。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「にしても、かなり奮発してんな、これ。さすがは島の最高権力者。下々の民草とは懐具合が違いすぎる。搾取バンザイだな」

 視線を送った卓上には、まだ十分な量の料理の数々が並んでいる。
 実際には、贅を尽くした高級食材ばかりというわけではない。仔牛のシチューのような家庭料理もあるし、ツマミの定番である干し肉だってある。
 まぁだけど全体的な質と量からすれば十分に豪華と呼べるのも確かであり、それに託けてカタリーナに厭味の一つでも飛ばしてみたかっただけだ。

 カタリーナの方を見遣る。
 流石に彼女は慣れたもの。俺のこういった類の揶揄など一顧だにせず、粛々と綺麗な所作で海鮮パスタを口元へと運んでいた。溜息が出るほどの上品さは場をどこかの晩餐会場であるかと思わせるほどで、一枚の絵画として切り取っても不足はないような気がする。『邦題:淑女の晩餐』とか普通に嵌りそうだ。
 まぁそんな感じでお姫さんはいつも通りなんだが――。

「おい下郎。オマエ言葉に気を付けろ」

 厄介なのが噛み付いてきやがった。
 いつも通りっちゃそのまんまなんだけど、相変わらずカタリーナ関連だと沸点が異常に低い。いきなり『下郎』呼ばわりときやがった。

「アオムシも来てたのか。わざわざこんなトコまでお茶汲みに来たのか? ご苦労さん」

「本日はカタリーナ様の御厚意に預かり、私も同席を許されている。であるからこそ、この席でのカタリーナ様に対する不遜な物言いは許さない。モンモンはそこで静かに餌付けされるがままにしていろ」

 相変わらず可愛くねぇヤツ。

「あーじゃーせっかくだからアオムシにも食わせてもらおっかな。テメェも『はい、あーん』ってやってみろ」

「はいあーん」

 実に無感動で無気力な『あーん』だった。
 語の調子に抑揚が微塵もないことは当然として、スプーンの上には炒め物に入っていた小さな豆が一粒だけ。むしろ、その一粒だけを選り分けること自体の難度が高そうな気がする。そのくらいに完全無欠の嫌がらせ。
 つーか、今更だけどコイツ本気で俺のこと嫌いなんだろうな。心当たりはありすぎて困るくらいだけど。

「ふざけんなよ、ちんちくりん。肉寄越せ、肉」

「オマエは豆でも食っていろ」

 にべもない返答。
 俺の感情を逆撫ですることにかけては、コイツは超一流だと言ってもいいと思う。つーか、むしろ無二の天才の域だ。

「テメェ最近調子に乗りすぎてねぇか? 島の安寧を守るために名誉の負傷を負った騎士様を労うことすら出来ねえってか?」

「うるさい男だな。傷口から細菌に侵入されて三日三晩死の淵を彷徨え」

 いきなり予想もしなかったレベルの罵詈雑言が返ってきた。
 段階を踏んでエスカレートしていくのが、こういう場合の様式美。そんな暗黙の了解など完全に無視したアグレッシブすぎる一の太刀に対し、驚嘆の念を禁じ得ない。

「直接的に『死ね』とさえ言わなけりゃ何言ってもいいみたいな切り分け方は安易に過ぎると思うんだが、そこんトコどうよ? もしアオムシが俺から同じこと言われたらどう思うか――そこのところを一人の人間としてよく考えてみようか」

「仮定の話など知らん。実際に試してみればどうだ?」

 なんでこのお子様は俺に対してだけこんなにも挑発的なの?

「アオムシ、テメェ膣穴から食人魚に侵入されて三日三晩生死の境を彷徨いやがれ」

「黙れ。モンモンこそ尿道を黴菌に犯されて男としての生を永遠に終わらせてしまえ」

 あーコイツはダメだ。もうダメ、なんか色々と手遅れ。
 女としての恥じらい以前に、人としての倫理観が壊れてる。

「おい、カタリーナ! お前んとこのメイド、口が悪すぎるぞ! せめて最低限の情操教育くらいは施してやってくれ!」

 下人の粗相は主人の粗相。
 というわけで、カタリーナへと矛先を転じる。

 唐突に話を振られた令嬢は、しかし些かも慌てる素振りなどなく。
 グラスを静かに傾けて、喉の渇きを潤しながら、こちらへと落ち着いた視線を向ける。液体を嚥下する喉の蠢動が無性に艶かしい。こういう何気ない仕草にまで違いを感じさせるあたり、彼女はやはり生粋の上流階級なんだろう。

「貴女」

「なんでしょうか、カタリーナ様?」

 なんでもない呼び掛けに対して、アオムシが強張るようにして姿勢を正す。
 そこには二人の関係性が見て取れる。厳然にして絶対なる上下関係。特筆すべきは、それが命ずる側によって強制されたものではなく、従う側の心酔によって形成されている点だ。
 カタリーナの言葉は穏やかだが、アオムシにとっては欣然として従うべき天の声なんじゃないか――そんなことすら思ってしまうほどに、小さな身体を目一杯伸ばして続く一言を待っている。

「今宵は私も細かい注文は付けません。なので存分に宴を楽しみなさい。ドザエモンとの罵り合いに興ずるも随意。だけど、せっかくの時間をそのような無為へと浪費してしまうのは勿体ないと思うわよ」

「はい、ありがとうございます」

「硬いわね。私がなぜ貴女をこの場に連れて来たのだと思う? 楽しみなさい。そして、ここにいる全ての人間と言葉を交わしてみなさい。きっと貴女にとって有意義な時間がそこにはあるわ。ああ、さっきから赤子の如き無様を晒しているそこの輩は除いて、だけれどね」

 アオムシへと真摯な視線を送りながら諭すような言葉を投げたカタリーナは、最後に俺を一瞥しながらそんな余計な一言を付け加える。

 今分かった。
 アオムシの人格形成に於ける最大の悪影響はこの女だ、と。
 ヤツの歯に衣着せぬ暴言悪口、それを忠実に引き継いだのがアオムシという人格で。要は、諸悪の根源はコピー元であるカタリーナの方なんだ、と。

 可哀想だが、アオムシのヤツの人格矯正は諦めざるを得ない。
 齢若くして戻れぬ旅路に足を踏み入れた悲劇――あと何年か経つと、彼女の主人と瓜二つの人格破綻者が爆誕するに違いない。

「ふんっ!」

 ほら。
 勝ち誇った顔しながら正確に他人の足の小指を踏み抜くようなガキが、将来まともな大人になれるはずがない。
 そんでもって相手のリアクションすら待たず、当たり前のように踏み逃げを決め込むようなヤツも、他者に尊敬される人間には成り得ないだろう。

 つーか、痛ぇ。
 思いっきり踏みつけてきやがったな、あんにゃろう……。

「てかアンタさぁ、なんでわざわざこんな会を開いたんだ?」

 ずっと俺の隣に貼り付いていたジゼルがいつの間にやら階下へと降りてしまっていたため、手持ち無沙汰になった俺はカタリーナに話しかける。
 コイツと会話を交わすってのは普段なら意地でも忌避してるとこだろうが、いい具合にアルコールが入っているせいか、なんだか絡んでみたくなったんだ。

「なんで、とは?」

 双眸には相変わらずの怜悧を携えながら、逆に俺の意図を確認するかのような逆質問。

「まぁなんつーの、俺なんかから見りゃアンタこういう騒がしい席とかあんまり好きじゃなさそうに見えるし、実際今まではこういうことなかったろ? で、こうも唐突に宗旨替えされちまうと、裏になんかあるんじゃねぇかって勘繰っちまうのも、アンタの日頃の言動を鑑みれば仕方のねぇことだと思うが?」

「下衆の勘繰りね」

 俺の懇切丁寧な説明を一言で両断し、カタリーナは言葉を続ける。
 その口調はいつもと同じで穏やかな響きを有しながら、その奥底には燻るような熱量を確かに感じるというか。
 同一でありながら異形――そんな両義を思わせる。

「私だって酒を嗜みたい時もあれば、他人の歓声に耳傾けたい時だってあるわ。それこそこういう喧騒の中に身を置きたいことだってあるの。それはおかしなことかしら?」

 周囲を色のない視線で睥睨しながら、カタリーナは静かに俺に問い掛ける。

「そんなことを俺に訊いてどうすんだ?」

「貴方が問うてきたから、私はありのままに答えたにすぎないわ」

「あっそ」

 会話が途切れる。
 マディラという名を冠した一島を統べる人間の気持ちなんて、俺には分かりっこねぇ。分かるつもりになったところで、それは所詮自分の物差しで作り上げた虚像に過ぎない。
 だけど――。

「こういうのも悪くねぇだろ?」

「ええ、確かに“悪くない”わね……」

 静かな呟きの声はお世辞にも万感篭ったものであるとは言えないが。
 それでも、彼女の本音ではあるんだろう。
 だからなんだ、と問われても、俺には返す言葉はないけれど。

「ま、いつもは食えねぇような美味いメシも出てくることだし、その他諸々引っ包めて一応礼は言っといてやる。サンキューな」

 きっと俺らの間には埋め難い断絶が存在している。
 それを構成する要素の大部分が生まれついてのものである以上、俺とカタリーナはどこまで行っても平行関係。二つの線が交わる未来なんて見ることは出来ないだろう。そういう風に定義付けられているのだから、それはそれで受け入れるべき事象。

 ならば、たまの会話が噛み合わないのだって当然のこと。

「貴方に礼を述べられる筋合いなんてないわ。私が、私の意志に基づいて、事を為した――それだけの話よ」

 そう、むしろこれが在るべき形で。
 これこそが“正しい”在り方だ。

 広くもない部屋の中。
 黙って視線を這わせるカタリーナに倣って、俺も此処彼処の喧騒に身を浸す。

 ミゲルがジゼルを口説いている。
 その隣ではジョルジュとフランシスカ、それに近衛の副団長エクトールの三人が料理の品評に興じている。
 更に向こう側では、アオムシが見知らぬ少女と意気投合している風に見えて。

 それぞれが各々思う通りに、今この場を楽しんで――ん……?

 いやちょっと待て。
 今なにかが引っ掛かったっつーか、明らかな異分子の混入が発覚したっつーか、なにこの唐突な急転直下?

「無粋なマネだっつーのは分かっちゃいるが、俺は至急アンタに質したいことが一つ出来たんだが?」

 カタリーナは無言のまま、肩を竦めることで続きを促す。
 視線は彼方へと貼り付けたまま、此方を一瞥することすらしない。

「まぁ俺もよく事情分かってねぇし、ひょっとしたら変なこと訊いてるのかもしんねぇけどさ――」

 視線を四角の対角上、離れた場所で談笑しているアオムシとその傍らで遠慮がちに笑みを浮かべる見知らぬ少女へと固定し――つーか、まどろっこしいな、おい。
 “見知らぬ”少女単体へと意識と視線とを固定して。

 脳裏に浮かんだ疑問をそのままに。
 端的な形に整えて、口端へと上らせる。

「どっから湧いて出たんだ、あのちっこいの……?」





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「まぁ事情はなんとなく分かった。要は――」

 視線の向こうには、どこか硬さの残る表情でおずおずと料理を口に運んでいる少女。その姿は急に場違いなところに放り込まれた緊張に溢れ、まるで迷子になってしまった子供のようだ。
 心細さ、いたたまれなさ、気詰まり感――見てるこっちが可哀想になっちまうくらいには、身の置き場のなさを挙動の一つ一つから感じ取ることができる。落ち着かない視線を周囲の情景に彷徨わせ、あちらこちらを窺うようにしている。

「あのちっこいのが今回の裏取引に於ける“商品”だったってことか」

 そんな少女にアオムシが果物のパイを取り分けている。皿の上に載せられたそれを指差しながら何らかの言葉を連ね、食べてみるようにと促しているようだ。
 それに対し、少女は戸惑ったような控えめな笑みを形作り。然る後、フォークで一口分の小さな塊を切り分けてゆっくりと口へと運び、慎重に確かめるかのように顎を動かす。
 そして次の瞬間、顔が綻ぶ。さっきまでの挙動と一緒で控えめではあるが、意図されたものではない自然な笑み。

 傍らでそれを見たアオムシが得意気なツラで再び何かを話し掛け、別の料理を求めて移動しようと少女へと手を伸ばす。今度は少女の側もしっかりと頷き、躊躇しながらも伸ばされた手を握り、アオムシに引かれながら自らの足を動かした。
 チビっこい二人組が手を繋いであちらこちらへと動き回り、頬をメシで膨らませている姿ってのは、まるで幼い姉妹のようでなんとなく微笑ましいものがある。

 実際、俺の隣に立つフランシスカのヤツなんてその一連の光景を凝視しながら、頬緩めるような表情をしてやがるし。
 あ、カタリーナはいつも通り。コイツには人間の血が通ってないから仕方ない。

 そして、そんな冷血クリーチャーは乾いた声色で、俺の理解を肯定する。

「そういうことになるわね。尤も奴隷取引自体はマディラでも許可されているのだけれど、売買の際には役所の承認が義務付けられているわ。奴隷に権利なんてものはなくとも、為政者の立場からすると総体としての管理は必要なのよ。その点を鑑みれば、今回のケースはこの島の法に反しているわ」

「この島に法律なんて存在してんのか?」

「私が法よ」

「……そんなことを悪びれもせずに口に出来るアンタはすげぇよ」

 まぁカタリーナの傍若無人な言動はいつものこととして置いておくとして。
 それにしても――。

 “こっち”に馴染めば馴染むほど、今自分のいる場所についての感覚が薄れるのは仕方ない。放り込まれた当初に感じていたはずの違和感はいつのまにか磨り潰されて姿を消し、まるで自分が生まれた時から“こっち”で暮らしていたかのように“当然”を当然と受け止めるようになる。
 だけど、有って然るべき“あっち”の名残――価値観の残滓が不意に顔を覗かせるような時もある。

 今この瞬間なんてのが、まさにその時だ。

 奴隷――その単語を耳にしてどんな感情を抱くのか。
 その点において、俺はやはりカタリーナやフランシスカとは異なるのだと認識する。彼女らにとって“奴隷”という存在は極々当たり前に世界に存在するものなんだろう。その認識が間違ってるってわけでもないし、そのこと自体の責を問われるべき対象なんて存在しない。
 ただ、俺には到底受容できない、ってだけの話。

「奴隷、ねぇ……」

 呟く。

 それがどのように扱われるのか――その程度は俺だって知識としては理解しているつもりだ。
 馬車馬のように働かされ、主人の気紛れ一つで生死すら左右され、それこそ人間が持つべきあらゆる権利を剥奪された存在――それが奴隷というものだ。

「ええ、既にあの子の肩には焼印も入っているわ。正真正銘、彼女は奴隷よ」

 カタリーナがそう断定する。
 そこに見て取れるのは、機械的な冷酷さ。
 そんな態度に少しだけ苛立ちを感じるが、カタリーナに当たったところで何の益も生まない。彼女はただ事実を事実として列挙しているだけだ。

 事実というのは、いつだって理不尽で不条理で無慈悲で無遠慮だ。
 “そうである”ことには感傷や温情の関与する余地なんてなくて、どんな理屈を持ってきたところで変えるなんてことはできない。
 世界を定める乱数表は、神の造りし最上級の失敗作。

 名状し難いモヤモヤを抱えている俺の隣からフランシスカが口を挟む。

「事の詳細については自分の方から説明しよう。当事者たちに事情を確かめたのも自分だしな。カタリーナ様はどうかごゆるりとお寛ぎになっていてください」

 その後のフランシスカの説明を簡単に要約すれば――。

 やはり少女は奴隷として買われてきたらしい。なんでもこの島の名士の家のドラ息子が、幼い少女の奴隷をいたくご所望だったとかなんとか。
 で、今回の裏取引の大事な“商品”として港に停泊中の船に監禁されていたらしいんだが、俺とミゲルが派手にやらかしてる裏で秘密裏に船内の捜索を命じられたフランシスカが無事保護した、と。
 そんな顛末だったみたいだ。

 にしても、まぁなんと言っていいのやら。

「金持ちん家のボンボンの嗜好ってヤツはよく分かんねぇなぁ。まぁ、んなもん分かりたくもねぇんだけどさ」

 一言で表せば、超絶に胸クソわりぃ話だった。

 それは一連の作戦に於いて俺らがダシに使われていたという役割分担への不満に起因するもんなんかとは当然違って。
 感じるのは、気軽に他者の生を弄ぼうとするヤツらに対しての生理的な嫌悪感。

「つか、買い手側のアホタレはきっちりカタに嵌めといただろうな?」

「当然だ。人倫に悖る行いには相応の報いが返ってくることを、自分がしっかり教え込んでおいた」

 フランシスカのヤツがそう言ってるんなら間違いない。きっと世間知らずのお坊ちゃんは自分の知らない“世間”の厳しさを身に沁みるほどに教わったんだろう。彼女以上の適任者はいない。身内の贔屓目を抜いても――いや、むしろ身内であるからこその経験則に学べば、そういう場合のフランシスカは最高の“教官”役だ。
 だからといって、今回の件に関わった人間に同情は一欠片も必要ないだろう。
 なんせ――。

「で、件のボンボンからは一体どこのどなた様に繋がったんだ?」

 違法を承知で裏取引に手を染めていた以上、仲介役の商人たちの素性をまったく認識していなかったってことは有り得ない話。
 なんらかの情報――この場合には氷山の水面下に隠れた部分についても、ある程度の繋がりを引き出せる可能性が高い。というよりは、そもそも今回の摘発の主目的自体はそこにこそあったんだから、俺らが気に掛けるべきはその先だ。

「夜が明ければ尋問を開始する予定だ。貴様が案じずとも、その辺りは自分がきっちりやらせてもらう。なに、三日も責めれば、それなりに有用な情報を得ることが出来るだろう」

 フランシスカが自負に満ちた顔で断言した。
 コイツはどこまでも自らの役割に忠実な人間だ。必要とあらば、いかなる手段を用いることも厭わないだろう。それがたとえ口に出すのを憚られるようなものであったとしても、彼女はきっと表情筋一つ動かすことなくそれを為す。
 フランシスカってのはそういう女だ。

 だったら、そっちの仕事について俺がしゃしゃり出る幕なんてないだろう。

「さすが拷問のプロフェッショナルは言うことが違ぇな」

「人聞きの悪い表現をするな。それではまるで自分がそういったことを頻繁に行っているような誤解を与えるではないか。自分は断じてサディストではないし、貴様のように箍が外れた暴力主義者でもない」

 フランシスカはそこで一度息を継いで、表情を険しくして俺の目を睨み付ける。
 これは説教が来るな、と経験則から直感した。

「昨夜の所業についてはエクトールから報告を受けているぞ。無力化し無抵抗となった相手に対して不要の追撃を加え、瀕死の重傷を負わせたそうだな? 自分は何度も貴様に説いたはずだ。『騎士とは民に恐怖を与うるに非ず、安寧をこそ与うべき存在である』と。貴様にこういう話をするのは、今回で何度目になるのか分かっているか? なぜその程度のことを理解しようとしない?」

 うん、案の定。
 そのうち注意を受けるだろうな、とは薄々思っていた。

 だけど、フランシスカの説教を全部が全部素直に受け入れるわけにはいかない。
 俺にだって、俺なりの言い分がある。

「テメェはその場にいなかったから好き勝手言えんだろうさ。そりゃアンタの言ってることは正論かもしんねぇけど、こっちはこっちで余裕なかったし、手加減なんてしてたら俺の方がやられてたんだよ。チンケな理想論を語りたいんだったら、相手を選んでやってくれ」

「確かに自分は現場を見ていたわけではないがな、治療室で寝かされていた男の顔面を見れば、それがどのようにして作られた傷であるのかくらいは想像がつく。一体どのくらい殴られれば、あの惨状へと至るのか、ということもな」

「そりゃアイツの自業自得であって、別に俺が悪いってわけじゃねぇだろうが。そもそも大人しく従わなかった時点で隔意ありってことだろ? それに、そもそもの選択を為したのはアイツらの方だ。だったら、意識吹っ飛ぶまでブン殴られようが、ツラがちっとばかしキモカワ路線に走っちまおうが――そんなんは全部アイツらの自己責任で、俺のせいじゃねぇよ」

 他人に危害を加えようとした人間は、自分もまた危害を加えられる可能性を承知してなきゃいけない――当然の論理だ。
 多者間の関係性ってのは相互的であるべきだし、片則的なそれなんて語るにも値しない。

 俺だって実際に何箇所もナイフで斬られた事実があるわけだし、それを笑って水に流すほど人間が出来てるわけもなし。狭量と罵られようがなんだろうが、そんなことは知ったこっちゃない。
 やられた分はキッチリ三倍返しが俺の流儀で。今回もそれに則っただけの話だ。

 そう心中で自分を弁護する。

 が。
 そんな理屈が潔癖な上司を納得させられるはずもなく。

「貴様は本当に理解できていないのか? それとも、わざと論点をずらしているだけなのか? 私が問題にしているのは、程度の部分だ。任務の一環として本当にそこまでやる必要があったのか、ということを確認しているんだぞ?」

「必要があったかどうかなんて、それこそ俺じゃねぇと分かんねぇ話だろうが。じゃあなんだ、そんな風に言うんだったら、最初からテメェでやりゃあよかったじゃねぇか。そしたら、誰も文句言わねぇんだろうしよォ」

 本当はちょっとやり過ぎたという自覚はあった。
 自制を完全に失ってしまっていたことについての秘かな反省だってある。

 だけど――。

「つーか、何様だよアンタ? いっつもいっつもさぁ。そんなに俺が気に食わねぇの?」

 こうも頭ごなしにモノ言われると、素直に『はい、そうですね。ごめんなさい』って気分にはなれない。思わず反論したくなってしまう。
 そして、フランシスカと話す際には、驚異的な高確率で負の袋小路へと会話が迷い込んでしまうんだ。

 そもそも正論と理想論ってのは違う。
 フランシスカのそれは、己が理想論をいかにも正論であるかのように偽装しているだけで。にも関わらず、それを他人に押し付けようとしているように、俺からは感じられる。
 それを傲慢と呼ばずして何と呼ぶんだろう?

「開き直っているのか拗ねているのか知らんが、貴様のそういう態度が自分にとって好ましからざるものに映るのは事実だ。だがな、それを以て貴様の全てであるなどと判断してはいないし、であるからこそ貴様は近衛に所属しているんだ。そこを誤解されるのは少々心外だ」

 真摯な視線が俺を貫く。
 鳶色の瞳には一点の曇りも翳りもなく、自らの信念に対する自負が色を成している。コイツはきっとこれまでもこうやって真っ直ぐ王道を歩いてきたんだろうな、なんて――そんなことを感じさせるほどには力強い光。

 思わず目を逸らす。
 劣等感とか、敗北感とか、挫折感とか――そんなものとの無縁を誇示する煌きが、あまりにも俺を卑屈にしてしまいそうだったから。

 きっとフランシスカには分からないだろう。
 殆どの人間ってのは真円になんて成り得ない。日々歪に形を変えていく楕円を、少しでも真円に近い形に保とうと必死に足掻く――それが精一杯なんだ。諦め、妥協し、折り合いをつけながらってのが、多くの人たちの生き方だ。
 でも、きっと彼女はそれじゃ納得しない。なぜ最善を期さないのか、と不信を抱くだけだろう。

 だったら。
 最初から求めるものが違うんだから、建設的な議論なんて不可能で。

「あーなんだ、これからはもうちっと気ィ付けるようにするんで、とりあえず今はここまでにしといてくんねぇか? アンタだって俺と押問答しているよりも別に考えることあるだろうし、なによりせっかくのメシが不味くなっちまう」

 結局、俺が曖昧な形で妥協して。
 でも実のところは明確な妥協点なんて定めることの出来ないまま幕を引く結果に終わる。
 あとに残るのは徒労感だけ。

 人間同士ってのは、どこまでいっても他人だ。
 互いに繋がっているつもりでも、実際には断絶し、隔絶し、孤立している。

 操縦不能な部下の扱いに頭を悩ませているのか、困ったように眉を顰める苦労性の団長サマを残したまま、そそくさと踵を返して場を後にし。

「……ふぅ」

 気分転換に溜息を一つ。
 そうしたあとで賑やかさの増した周囲を見回す。

 視界に飛び込んでくるのは、奴隷としてこの島に連れて来られた少女の姿。
 アオムシのヤツとはかなり打ち解けたようで、目を輝かせながら色取り取りの料理を堪能しているみたいだ。時折屈託のない笑顔が零れているあたり、それなりにこの宴席を楽しんでいるんだろう。
 それはそれでいいことなんじゃないかと思う。

 彼女がこれから先、どういう身の振り方を強いられるのかは分からない。
 だが、少なくともこの宴席に呼ばれたってことは悪い方向には転がらないだろう。その程度の情はカタリーナだって有しているはずだ――と信じたいが、やっぱりそこまでの確信は持てない。
 まぁでも、その辺の未来を選び取るのはカタリーナの仕事じゃなく、フランシスカやジョルジュの仕事でもなく、もちろん俺なんかの仕事でなどあるはずもなくて――。

「……ま、後でちょっくら声掛けてみっか」

 別に訊きたいことがあるわけでもなく、話したいことがあるわけでもない。
 だが、あのチビの境遇は“こっち”に来たばかりの頃の俺となんとなく似通っている気がして。
 そのことが少し意識の片隅を掠めただけ。

 テーブルの上に放置された誰のものとも知れないグラス。
 そこに半分ほど残っていた赤紫をグイと一息に飲み干して、俺は再び喧騒の中に自らの身を躍らせた。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「は、はじめまして……。あ、あの……わたしの、名前は、その……ロ……」

「あ? ロ? つか何? もっとハッキリ喋ってくんねぇと分かんねぇよ。それともお前マジで『ロ』なんてファンタスティックな名前してんのか?」

「えと、ロじゃなくて、えっと、その……ロ、ロサです。よ、よろしく……お、お願いします……」

「あいよ。しゃーねぇから、よろしくしてやるよ、ロロサ」

「あの、ロ、ロロサじゃなくて……ロサ、です……」

「紛らわしいなオイ。自分の名前くらいしっかり言えよ。つーか、なんでそんなに怯えてんだテメェ?」

「ご、ごめんなさい……」

「おい、やって来て早々ロサを虐めるとは、オマエは本当に見下げ果てたクズだな。さっさと窓から身を投げて、街路の石畳に頭部を強打したうえで、明日の朝にでも冷えた身体となって発見されろ」

 おどおどと言葉を紡ぐ新参の少女に円滑なコミュニケーションの基本を教えようとしていたところ、メイドの横槍に妨げられた。つーか、口が悪いにも程がある。よくもまぁこう次から次に口汚い台詞を思いつくモンだ。
 まるでロサなる少女を守らんとしているかのように、俺と彼女の間――その狭いスペースに小さな身体を捻じ込ませ、こちらを威嚇するような視線を向けてくる。

 そして、肝心のロサの方はといえば。
 アオムシの背後に隠れるかのように身を縮こまらせ、上目遣いで俺の様子を恐る恐る窺っている。身体の小ささとは不釣合いな大きな瞳には今にも零れそうなほどの涙が溜まっていて――。

「おいおいおい、なんでいきなり涙目になってんだ? 俺がなんかしたってのかよ?」

 思いがけないリアクションに接し、少し焦ってしまう。
 いやさ、構図的にどう見ても俺が悪人の絵ヅラだし、これ。名前訊いただけで泣かれるとか、いくらなんでも理不尽すぎる。つーか、俺ってそんなに人相悪いのか……?
 まぁ確かに初対面の人間から好感を持たれるようなタイプじゃねぇってことくらいは自覚しているが、ここまで派手に怯えられることはそうそうない。

「モンモンとはよろしくしなくてもいいぞ、ロサ。加虐嗜好持ちの小児性愛者というヘドロのような男だ。そんな変質者と仲良くする必要はどこにもないからな」

「人聞きの悪すぎるデマを吹聴すんな! つかアオムシ、テメェいい加減にしとかねぇとマジで処女膜ブッコ抜くぞオラ!」

 アオムシの背中の向こうで、ロサがびくりと身を震わせる。
 あーあれだな、思いっきりドン退かれてんな、これ……。

「聞いたかロサ? これがこの男の本性だ。こいつの視認圏内に入ってしまわないように細心の注意を払って生活したほうがいい」

 で、それに追い打ちをかけるようにして、クソメイドの毒舌が冴え渡る。
 コイツ普段は猫被ってるのかそこそこ人当たりいいクセして、俺に対してだけはリミッターを迷うことなく解除してきやがる。俺を貶めている時の瞳の輝きは悪い意味で特筆すべきそれだ。
 つーか、これ以上コイツに茶々入れられてたら、それこそまともな話なんて出来そうにない。

 というわけで。

「喉乾いたぞ、使用人。グラスにワイン注いで持ってこい」

 とりあえず一旦この場から御退場いただきたい。

「…………」

 ガン無視。まるで俺の声など聞こえなかったかのようにシカトを決め込む。
 いや、分かってたけどな? アオムシが俺のために飲み物持ってくるなんて有り得ないことくらいはさ。

「あーあー寂しいなー」

「…………」

「――ってカタリーナ様が言ってたら、どうすんだ? 一人寂しく飲んでる主人を放ったらかして自分はお喋りに興じてる辺り、お前も見上げた侍従だなぁオイ?」

 俺の厭味ったらしい一言に、アオムシはすかさず反応し、カタリーナの方向を見遣る。
 その辺はもう一種の条件反射みてぇなモンなんだろう。『カタリーナ』という響きに対しての反応速度がいつもながらに異常過ぎる。

 でもまぁカタリーナがこの宴席の雰囲気に乗れてないように見えるのは事実。性格的なものもあるだろうし、アイツが大声出して騒いでたりしたらそれはそれで不気味だけど。でも、傍から見ると、少しばかり心配にはなるはずだ。
 もっとも俺はカタリーナのことなんか微塵も心配なんてしてねぇけど。さっき話した分じゃ、ヤツはヤツなりに場を楽しんでいるみたいだったし。

 とはいえ、アオムシがそこまで割り切ってアイツのことを考えられるかと問われれば、それはそんなわけがない。この小さな暴君にとっての最優先はいつだって敬愛する主人なのだから。
 アオムシは少しだけ逡巡するように視線を周囲に巡らして。

「すぐ戻っているから、ちょっとだけ待っててくれ」

 そうロサへと言い残すと、どこかへと走り去る。
 つーか、狭い部屋なんだから走ったりなんかしたら危ねぇってのに、相変わらず落ち着きのないヤツだ。

 場に残されたのは、俺と――ロサ。
 なにはともあれ、やっと落ち着いて話が出来る環境が整っ――。

「待たせたな、ロサ」

 本気で“すぐに”戻ってきやがった。
 俺らはまだ会話の一つすら交わしちゃいない。

 うん、まぁそれは別に構わない。今じゃなきゃ話が出来なかったってわけでもないし、多少タイミングが違ったところで問題なんて何一つない。だから、それはいいんだ、別に。
 でも、だ。

「ドザちゃんがアタシを御所望と聞いて駆けつけてきたわよん♪ 労働のあとのドザちゃんはこれまた格別ね~」

 余計な荷物を引っ張ってくるのは、心底勘弁して欲しかった。
 つーか、ガチムチさんと直接言葉を交わすのはなんだかんだ久しぶりだが、相変わらず歪みねぇなアンタ。

「私はカタリーナ様のお相手を務めてくるから、すまんがロサの面倒を見てやってくれ。もし、そこの変態がロサに不埒な真似をするようなことがあれば、懲罰棒を注入してやって構わない」

「了解よぉ~。おね~さんに任せときなさいって」

「アオムシお前意味分かって言ってんのか……?」

 分かってやってるならば、悪質なことこの上ない。
 なんせ本気で怖気が走った。

 そんな俺の声振り絞っての問い掛けは完璧に無視され、アオムシは任務完了とばかり意気揚々とカタリーナのところに向かっていく。寸前に嘲るような一瞥だけ残して。
 うん、そろそろマジであのチビをシメなきゃならない頃合かもしれない。

「にしても、話には聞いてたんだけど、ホントかわいいわね~。まるで子供の頃のアタシを見ているみたいで守ってあげたくなっちゃうわぁ。あらやだ、これが母性ってやつかしら? ね~どう思うドザちゃん?」

「アンタがそう言うんなら、そうなんだろ」

 ツッコミ所が多過ぎてメンドクサイ。
 一々正直に反応するのも疲れそうなんで、適当に流しておく。

「んもうッ! 久しぶりだっていうのにつれないわね!」

「えと……」

 案の定、ロサが困ってる。
 ガチムチさんの言葉をそのままの意で解釈するなんて芸当は、年端もいかないお子様にとって難度が高すぎるに決まってる。俺にだって無理だし。

「あーこのオッサ――オネエさんのことは気にしないでいいぞ。ちょいと頭が緩いだけだから」

 物理的な質量をも感じさせるような強烈極まりない無言の圧力にあっさりと屈する。強大なプレッシャーの前では、言葉の力なんて微々たるモンだ。
 うっかり口を滑らせた挙句、人類の発声の限界の外にあるような悲痛の叫びを上げる羽目になった野郎共を、俺は何人か知っている。

「『頭が緩い』だなんて、ちょっと酷いんじゃない、ドザちゃん?」

 ガチムチさんは頬を膨らませながら俺へと恨みがましい視線を送ってくるが、残念な真実としてその顔はミジンコほどにも可愛くない。いや、むしろ敢えて直言するのであれば、キモイ。

「それで、お嬢ちゃんのお名前はなんて言うの?」

「ロサです。よろしくお願いします」

「あら、イイ子ね~。私のことは『おね~さん』って呼んでくれていいわよ。このお店で働いてるから、なにか困ったことがあったらおね~さんを頼ってきなさい」

「はい、ありがとうございます」

 思いの外、スムーズな会話をやり取りしている二人。
 筋骨隆々の大男と痩身矮躯の幼女との交流は、見る者に心温めるかのような感動を運び――。

「って、おかしいだろうがよっ!」

 いやいやいや、これはない。いくらなんでもこれだけはない。
 なんでさっきみたいにモジモジしてねぇの? なんでさっきみたいに怯えてねぇの?
 相手は明らかに挙動不審なオッサンだぞ。怖くないのか?

「つーか、俺はこれ以下ってことかよっ!?」

 俺の魂のシャウトは、少女が浮かべていた爛漫な笑顔を一瞬にして凍りつかせ、まるで痙攣しているかのようにピクリと身体を戦慄かせる。
 その瞳は再び潤みを帯び、まるで逃げるかのようにしてガチムチさんの巨体の影へと身を隠す。
 悪気がないのは分かるんだが、なんか妙に腹立つヤツだなぁ……。

「いくらドザちゃんでも『これ』呼ばわりは許せないわね~」

 んでもって、冷静さを欠いていた挙句、いつの間にやら地雷を踏んでいた。いや、これは地雷ってレベルじゃない。機雷だ。
 死んだ――瞬間にして脳裏を走馬灯が走り抜ける。

「お互いの誤解は早めに解いておいた方がいいわよね~。ちょっと奥に行って話し合いましょ」

「話し合うために奥に行く必要はねぇだろ! 別にここで不都合はねぇだろうが!」

「ドザちゃんがそう言うのなら、それでもいいわよ。衆人環視の中、っていうのはちょっと恥ずかしいんだけど、ドザちゃんがそう言うのなら、ね。それで本当に、こ、こ、で、い、い、の、ね……?」

「いやもう本気でマジすいませんでした!」

「あはッ!」

 それは唐突だった。
 まるで予期していなかった音が耳朶を打つ。

 弾けるような笑い声に俺は期せずして目を瞠り。
 正面を向き直れば、それはガチムチさんも同様で。

「えと、ごめんなさい……笑ったりして……」

 俺ら二人の時間を止めた音――その出所はこの場を共有する残り一人の口元で。
 ガチムチさんの背後から観念したかのようにゆっくりと姿を現し、恥ずかしさと申し訳なさの混ざったような真っ赤な顔で俺たちに向かって頭を下げる――そんな一人の少女の口元だ。

 自然と場の空気は弛緩し、俺ら三人の周囲を柔らかな雰囲気が取り囲む。

「いいんじゃねぇの、そんなちょっとしたことで謝んねぇでもさ。おかしけりゃ笑うってのは当たり前のことだろ?」

「そうそう、むしろドザちゃんはロサちゃんに感謝するべきね~。捨てたはずの貞操が繋がってるのはロサちゃんのお陰なんだから」

 ロサは俺たちの言葉にもう一度頬を赤く染めながら、俺の方へと近づいてきて。
 触れ合うか触れ合わないかの微妙な距離から見上げるようにして、俺の顔を凝視する。濃茶色の虹彩に呆気に取られたような俺のツラが映っていて。そこから目を離すことができないまま、ただ時間の過ぎるのに任せる。
 暫く経ったあと、その鏡像は訪れの時と同様、前触れもなく去っていき――。

「えと……よろしくお願いします」

 俺の眼前でペコリと一礼する少女の姿に取って代わられた。
 そこには怯えはなく、怖気もない。
 あるのは純粋にして純然たる親和を求める、そんな色。

 街が眠りに就き始め、この部屋も先刻までの喧騒が収まり始めた、そんな時刻。
 だけど、俺にとってマディラの今宵は――まだまだ長くなりそうだった。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「――フッ……フハハハハハハハハハッ! 見るがよい、この優美にして洗練された銀閃をッ! 選ばれし者にのみ許され、極めし者のみに与えられる究極の一《いつ》! 覚悟するがいい、黒き精霊王《スヴァルトアールヴァル》よ! 敗れ去った者たちは皆、貴様の異形に恐れを成したのやもしれぬが、それが如き児戯――総てを知る者《スットゥング》の知慧や侏儒の鍛冶《ニダヴェリール》の秘技の前には稚児ほどの力も与えられぬと知れッ! 神々の黄泉《エインヘリャル》への旅路が穏やかならんことを――オェッ! ォウェエェェェ――!」

「あら、これはまた随分な真似をなさってくださるのね、エクトールさん。汚した床はご自分できっちり磨いておいてくださいね……?」

 余談にはなるが、宴席の片隅でイカスミパスタと対峙し、ひっそりと敗北を喫した男の姿があったとか、なかったとか。
 うん、まぁ心底からどうでもいい話だけど。



[9233] Chapter2 Epilogue
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:00cfbba9
Date: 2010/02/07 21:09
 この街でも人気のレストラン兼酒場である『莫連の黄昏亭』。
 店名の由来はよく分からないですけど――以前なんとなくドザに訊いてみたことがあるけど、その時は隣でセスカが『そんなこと教えてはダメだ』と言ったせいで訊きそびれてしまいました。セスカはいい人なんだけど、時々ちょっとだけ理不尽だと思います――お店の中は毎日たくさんのお客さんで繁盛しています。
 お昼の時間には御飯を食べに近所の常連さんたちが。夜になると、お酒を飲みに来る船乗りさんや色気たっぷりの大人の女の人たちが。
 あとは、わたしの知ってる人たちも毎日のように顔を出しに来てくれます。

「おーい、ロサの嬢ちゃん! 注文いいかい!?」

 まだお客さんも疎らな開店直後、ぼんやりと益体のないことを考えていたわたしの耳に飛び込んでくる野太い声。
 ふと現実に引き戻され、呼んでいるテーブルの方へそそくさと小走りするようにして向かいます。

「あ、こんにちは、セバジョスさん。ご注文はお決まりですか?」

「おう、おはようさん! ロサちゃんもだいぶ仕事に慣れてきたみてぇで、結構なことじゃねーか!」

 セバジョスのおじさん――このお店の近くの路上で食料品を商っている人です。わたしも時々お店のお遣いに出ることがあるのです――はいつものように豪快に笑いながら、私へと挨拶を返してくれます。でも、もう午後になったこの時間に『おはようさん』はどうなんだろう、とは思いますが。
 常連さんにはすっかりわたしの顔と名前が覚えられているみたいで、ちょっとだけ気恥ずかしいですが、でもなんだか嬉しい気分なのも確かです。

「今日はなに食うかなー? なんかお勧めあるかい、嬢ちゃん?」

「えと、今日はいい鱸《スズキ》が入ったから常連さんが来たらお勧めね、ってジゼルが言ってました。パンとスープのセットがついて銅貨九枚です」

「おいおい、嬢ちゃんもすっかり商売人になっちまったなーオイ! 高ぇ品勧めやがって! しがない行商の野菜売りに晩の酒を一本諦めろってか!?」

「でも、美味しいですよ? それにお酒を飲んだ次の日には、あっさりした白身魚がお勧めです」

 最初はこうやって大声で話しかけられる度に恐くて泣きたくなっていたんですが、最近ではすっかり慣れました。何度か同じような経験を繰り返すうちに、そこには別に害意が篭っているわけではないと分かったから。
 だからわたしも負けじとばかり、自分のお勧め品をイチ押しします。

「チクショーそこまで言われちゃ敵わねーな。そんじゃあ今日のところは嬢ちゃんの言葉を信じてやろうじゃねーか。その鱸のセットを三つ! もうすぐ連れが来るんで、そいつらの分も合わせてな」

「はい、ありがとうございます!」

「もし不味かったらデート一回だってジゼルの嬢ちゃんに言っといてくれ。俺とデートしたくないんだったら、美味く作るようにってな」

「分かりました。でも、大丈夫ですよ? きっと美味しいですから」

「そいつぁ楽しみだ!」

 楽しそうに大声で笑うセバジョスのおじさんにペコリと一つ頭を下げて、わたしは厨房へと向かいます。
 厨房の中は冬なのにも関わらず熱気が充満しています。
 その熱の中、ジゼルが物凄い速さで緑色の野菜を切り分けていました。手元には少しの迷いもなく、常に一定のリズムで。でもその『一定のリズム』が視認の限界に迫らんかというようなスピードです。
 素直に凄いなぁという思いと、手を切りそうで怖いなぁという思いとの二つが同時に浮かんできて、ジゼルの手元から目を逸らしてしまいます。

「ロサちゃん……?」

 手は休めず、こちらに視線を向けることすらなかったにも関わらず、ジゼルはわたしが来たことに気付いたみたいです。最初の頃はそれが不思議だったりもしたのですが、この頃ではそんな疑問すら感じなくなりました。
 忙しい時間帯の厨房は戦場です。それを一人で切り盛りしているんですから、ジゼルの感覚の鋭さはきっと軍人のそれみたいなものなんだろうなって。

「セバジョスのおじさんが鱸のセット三つだって。美味しくなかったらジゼルとデートだって言ってたから、美味しいから大丈夫ですって言っといたよ?」

「しっかりお勧め品の注文を取ってくるなんて、ロサちゃん偉い。任せときなさい、とびきり美味しく作るわよ」

「うん、料理が出来たら呼んでね。わたしはフロアを見てるから」

「はい、よろしく。笑顔よ笑顔、せっかくかわいいんだから。ね?」

 一瞬だけわたしの方を見て悪戯っぽく笑ってみせたジゼル。
 彼女を見ていると、自分もああいう女性になりたいな、と思ったりします。
 綺麗だし、優しいし、料理も上手で、話も巧いし、お仕事も頑張ってる――大人の女の人って凄いなぁって素直にそう感じるんです。
 わたしも頑張ればいつかああいう風になれるのでしょうか?

 ジゼルが再び手元へと視線を落とし、魚の身を焼き始めたのを確認して、厨房からフロアへと出ます。
 さっきまで熱い場所に身を置いていた反動でしょうか、冬の冷たい空気をなんだかいつも以上に実感しました。とはいっても、この島の冬はそんなに厳しい寒さを伴うものではありません。一年を通しても比較的温暖で穏やかな気候だと聞きました。

 わたしがこの島にやって来た切欠は決して良いそれではありませんでしたが。でも、今になって思うと、結果的にはこの島に来られて幸運だったな、と思ったりします。
 もし別の場所に連れて行かれてたとしたら、セスカがわたしを助けに来てくれることやお姫様がわたしを自由にしてくれることもなかったんでしょうし、ジゼルとおねーさんがわたしを雇ってくれることもなかったんでしょう。
 そう考えると、やっぱり今のわたしは幸せです。

 あの日。
 お姫様がわたしを奴隷という身から解放してくれて『今後の身の振り方は自分で決めなさい』と言ってくれた直後。
 本当のことを言うとわたしは少しだけ困ったんです。

 故郷に帰っておかあさんに会いたいという思いはあったんですが、そのためにはここに来た時みたいに長期間の航海が必要になります。わたしみたいな非力な子供が船乗りとして雇ってもらえるはずがないし、航海中役立たずのわたしを乗せていってもらうだけのお金なんて持っているはずもありません。
 それなら、とりあえず暫くこの島で暮らそうと思っても、わたしには身寄りもなければ住む家もありません。一人で生活をするということは自分でお金を稼がなければいけないということで、お金を稼ぐためには仕事をする必要があります。だけど、技術も経験もないわたしみたいな子供を雇ってくれる奇特な職場なんて、そう簡単に見つかるとは思えなくて。

 枷が外れたことによって、わたしは自由を得て。
 それと並行するように、自らの生を紡ぐこと――それに関わる諸々の責任を背負うことになったんです。
 現状への歓喜と未来への不安――その二つが同時にわたしに降りかかってきて。
 お姫様が言うように今後のことについては自分で決めなければならないとは理解していても、眼前には現実的な選択肢は少なくて。

 だから、おねーさんが一緒に働かないかと提案してくれた時、まるで夢を見ているかのように信じられない気持ちでいっぱいでした。
 そして、店主のジゼルまでもが二つ返事で了承してくれた時には、わたしは心から安堵し、嬉しい気持ちで満たされました。
 わたしみたいな何の取り得もない子供にとって『賄いつきで住み込み、それに加えて給金も出る』という条件は破格のものであるように感じられ、それが夢なら醒めないようにと祈るような気持ちで首を縦に振ったことを思い出します。

 あれからもう一月以上。

 最初は勝手が分からなくて失敗することもありましたが、今では大抵の仕事には慣れました。お料理に関してはまだ知り合い相手の場合にしか作らせてもらえないですが、このお店のお客さんたちの多くがジゼルの料理に期待して足を運んでいる以上、それは当然のことだと思います。
 それにこうやってフロアに立っていると、常連の人たちが声を掛けてくれるし、わたしみたいに人の優しさに飢えていた人間にとって、それはすごく素敵で充実した時間です。

「ロサちゃんロサちゃん! こっち、注文ー!」
「おーいロサちゃん、こっちも頼むぜー!」
「今日は時間ねーから、早くしてくれ!」
「ロサ嬢ちゃんの今日のお勧めってなにー!?」

 ほら、こんな具合に次から次へと。
 たくさんの聞き知った声と、たくさんの見知った笑顔に彩られた空間――。
 我先にと私の名前を呼ぶお客さんたちの熱気に圧倒されてしまいそう。

 だから、わたしも――。

「はーい、すぐ行きまーす! 順番なので少し待っててくださーい!」

 なんて。

 自然と零れる快活な笑顔を感じながら、今日も元気な声を張り上げるんです。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「お疲れさま、ロサちゃん」

 柔らかく暖かい労いの音色と共に、眼前に置かれたお皿。
 その上には今日のランチ営業でのお勧め品だった『鱸のムニエル』が美味しそうに鎮座ましまし、出来立てを誇示するかのように濛々とした湯気を立てています。

「ジゼルもお疲れさま」

 昼食時の営業も終了し、これからジゼルは夜の営業に向けた仕込みに入るんでしょう。それを毎日のように行うことは相当にきついはずなんだけど、ジゼルはそんな様子はオクビにも出さず。
 わたしの対面に腰を下ろすと、綺麗としか形容できない笑みを漏らします。

「最近は昼も厨房に専念できるようになったから楽でいいわ。ロサちゃんが働いてくれる前って、ランチタイムは私一人だったから本当に大変だったのよ。時々非番のドザ君をヘルプに駆り出したこともあったわね。ロサちゃんもフロア上手に回せるようになってきたし、安心して任せられるようになる日も近そうだし。私の仕事は減る一方ね」

「わたし上手に回せてるかな?」

「ええ、予想以上に飲み込みが早くて助かったわ。人手が増えた分、売上も伸びてるし、ロサちゃん雇ったのは大正解だったわね」

 嬉しそうに笑うジゼルを見て、なんだかわたしまで嬉しくなります。
 この店で働き始めた頃から、ジゼルやおねーさんに迷惑だけは掛けないようにしようと決めていましたし、その為に努力だってしてきたつもりです。
 それがお店の売上増という形で恩のある人たちに跳ね返っているのであれば、わたしにとっても好ましいこと。

「でも、そうすると近いうちにロサちゃんのお給金の額も考え直さないといけないかしら。最近跳ね上がった分の儲けは、ロサちゃんの力ですしね」

「えーいいよ、そんなの。ご飯と寝床だって付いてるんだから、今貰ってるお金でも十分余るよ?」

「それはロサちゃんが普段全然お金を使ってないからでしょう? それにロサちゃんが今のままでいいと言っても、経営者として相場を無視するわけにはいかないわ」

「でも、時々はお金使ったりもしてるよ? この前も買い物に行ったし――」

「それで何を買ってきたのかしら?」

「……お皿とか」

 わたしが口篭るように答えると、ジゼルは心底呆れたような溜息を吐いて。
 伝えるべき言葉を思案しているかのように少しだけ中空に視線を投げた後、わたしの目を真っ直ぐに見詰めます。
 そこには不思議な迫力のようなものが宿っているように感じられて、思わず怯んでしまうような気分。

「最近、見覚えのない食器類が厨房に増えたと思っていたら、そういうことだったのね……。あのね、ロサちゃん、店に必要なものについての支出は、ちゃんとその用途の為に貯めてある分があるの。従業員の自腹でそんなことをされてしまうと、私の立場がなくなってしまうわ」

「だけど、服も買ったりしてるよ?」

「だったら店の備品を買うお金を上乗せして、もっと見栄えのする服を買いなさい」

 そんなことを言われても、わたしには服飾関係についての拘りなんてないし、正直普通に着こなすことさえ出来るのならそれでいい。煌びやかな装いをしている人をみて『綺麗だな』という感慨を抱くことはあっても、自分がああいう格好をしてみたいとは思わないのです。
 それに食器類については、入店直後にわたしが破損した分に少しイロをつけて返しただけでもありますし。
 自分のためにお金を使え、と言われても、何に使うのが自分のためになるのか、が分からないのだから、せめてお世話になっている相手のために使うことは間違っていないような気もします。

 だけど、今のジゼルにはそんなことを言える雰囲気ではありません。
 怒っているわけではないでしょうけど、いつもより厳粛な空気を纏っているように見えます。

「ロサちゃん、いい? 私があなたに渡してるお金は、あなたが頑張って働いたことに対しての正当な報酬なの。あなたにはそのお金を自由に使う権利があるのよ。服に興味がないのなら美味しいものを食べに行ってもいいし、食べ物にも興味がないのならメイドさんやドザ君たちと一緒に遊ぶのに使ってもいい。それでも使い道が見つからないのだとすれば、それこそ本当に欲しいものが見つかった日のために貯めておいたっていい――」

 そこで一度言葉を切って、わたしの理解が彼女の言葉に追い付いているのか――それを確認するかのように軽く首を傾けてきます。
 わたしが黙って頷くと、ジゼルは慈しみに溢れた視線で優しくわたしを包み込むようにして。

「それに私が本当に言いたいのは別にお金の使い道なんかではなくて、それに連なってのもっと単純な話なの」

 まるでおかあさんみたいだ――ジゼルの声を聞いて、なぜかそんなことを思います。
 わたしのおかあさんは自分の娘を奴隷商に売り捌くような人だし、普通に考えてロクな親ではなかったのかもしれませんが。でもわたしのことを愛してくれていたと思いますし、そう思いたいです。
 わたしが売られたのは、わたしがおかあさんにとって重荷になってしまっていたからこそで――。

「あのね、そんな風に私たちに気を遣ったりしなくても、私たちがロサちゃんを追い出すようなことは絶対にないの。そんなに必死になって居場所を作ろうなんてしないでいいのよ。この店は既にロサちゃんの職場であり、家でもある。私たち三人は一種の家族みたいなものなのよ。だったら、家族に気を遣うのはおかしいし、家族に気を遣われるのは悲しいでしょう?」

「…………」

 やっぱりジゼルは尊敬に値する女性だと思います。
 わたしですら気付いていなかった深層心理を引き出してしまうんですから。

 居場所。
 そう多分、わたしはそれを欲しています。
 お金は要りません。でも、本来的には部外者であるわたしがそこに居ても誰からも咎められもせず、疎まれもしないような――そんな空間が欲しかったんです。そして、今のわたしにとってその可能性があるのは、このお店の中しかなくて。

 だから、いつの間にか無意識下のうちに、まるで捨てられるのを恐れているかのような卑屈な態度を取っていたのかもしれません。自分で自分のことについて客観的な認識をするのは不可能ですし、ならばこんなことについて頭を巡らせても結局は答えは出ないんでしょうけれど。
 一番近くでわたしのことを見ている人に悲しい思いをさせてしまっているのだとすれば、そんなことをわたしが望むはずもありません。

 でも、だとしたら――わたしはどうすればいいんでしょう?

「……ごめんなさい。あと、ありがとう」

 どんな反応をするべきなのか分からなかったので、とりあえず謝っておくことにしました。かといって、その謝罪は形だけのものだというわけではなく、わたしの態度がジゼルの心情を傷つけてしまっていた――その可能性に対する気持ちです。
 それと、わたしのことを“家族”だと――そんな風に言ってくれたことに対する感謝の言葉。

「なんだか根が深くて大変そうだわね」

 わたしを見ながらジゼルが複雑そうに苦笑を浮かべます。
 また困らせてしまっているのでしょうか……?

「あれね、ロサちゃんはドザ君の横柄さを見習うくらいがちょうどいいのかもしれないわね。本当にあんな感じになられてしまったら困るけど、少しくらいの自己中心性があったって周りの人たちはロサちゃんのことを嫌ったりしないわ。むしろ、もっと仲良くなれるんじゃないかしら?」

 ジゼルが引き合いに出した人物――わたしにとって数少ない知り合いの一人であるドザのことを思い浮かべます。
 確かにドザは色んな意味で鮮烈な印象を他人に与えるタイプではあるでしょうし、私には到底真似出来ないようなバイタリティーを感じます。それこそ周囲の顔色を気にすることなく、自分の意のみに忠実に――そんな生き方を選択できる人でしょう。
 傍から見ていてその強さが羨ましいと感じることもありますし、その欠片ほどでもわたしも強くなりたいと思わないでもありません。だけど――。

「でもドザ、街の人たちから嫌われてるよ?」

 わたしは周囲に敵を作ったとして、独力で何とかすることなんて出来ません。
 そんな単純な危惧。

 しかし、それは思いの外、ジゼルの笑いのツボを刺激してしまったみたいです。いつもは口元の微かな動きで感情を表現している彼女にしては珍しく、声を上げて笑っています。
 呆気に取られているわたしの眼前、暫くして落ち着いたジゼルはまだ少し声を震わせながら――。

「今度ドザ君に会ったら、そのまんまドザ君に忠言してあげてね。どういう反応をするのか見ものだわ……ッ……!」

 心の底から愉快そうにそんな無茶なことを口走って。

「久しぶりに笑ったら、なんだかお腹が空いたわね。冷めると魚の身が硬くなってしまうし、そろそろ食べることにしましょうか。ちょっとした話だったら、ご飯食べながらでも出来るでしょうし、ね?」

「いただきます」

 ジゼルを覆っていた雰囲気の唐突にして不明瞭な流れの変化には少しだけ釈然としませんが、彼女の言っていること自体に間違いはありません。せっかくの料理を美味しいうちに口にしないというのは、食材に対する冒涜にも等しいのですから。
 両手にナイフとフォークを握って、立ち昇る湯気の量を落ち着かせ始めた魚の切り身へと挑みかかります。

 ナイフを入れるとまるで解けるようにして身が分かれ、魚の脂がじわりと滲み出てきます。焼き加減が絶妙であるからこその芸当ですが、これを当然のようにこなしてみせるジゼルの料理の腕はさすがです。
 滲み出した脂がトマトソースの赤色と絡んでその水面に濃淡を彩り、視覚から胃袋へと向かって甘美な刺激が送られます。

 もう我慢は必要ありません。
 一口大の身に十分にソースを絡ませて、口の中へと運びます。
 最初に感じたのは、外縁に塗された粉の香ばしい食感と内側から溢れ出る旨味、それに加えて爽やかなトマトの酸味。そして遅れること少しして、バジルやパセリといった香草の苦味と鼻に抜ける独特の香りが襲い来ます。
 それらのすべてが渾然一体となって、わたしの味覚を喜ばせて――。

「……美味しいかしら?」

 わたしの食べる姿を嬉しそうに眺めているジゼルに言葉を返すこともせず、ただ首を縦に振ることで肯定の意を表します。
 ジゼルはそれを確認しながら満足そうに微笑んで。

「そう、よかったわ」

 そう一言だけ零して、自分の目の前のお皿に手を付け始めました。

 それにしても、これは本当に美味しいです。
 白身魚の淡白な味わいを濃厚ではあるが品のあるソースが補強して、食べ進む手を止めさせてくれません。
 つけ合わせのアスパラガスも箸休めには最適。口の中を埋め尽くした旨味を青野菜特有の清涼感で洗い流し、味覚をリセットしてくれます。
 そして、そうすることで次の一口に対する飽きを和らげ、再度新鮮な喜びを提供してくれるのです。

 気がつけば、お皿の上には一片の身すら残ってはいませんでした。
 わたしは特に食欲が旺盛な方だとは思いませんが、これだけの料理を残す人はきっといないと思います。
 まるで魔法にかけられていたような不思議な感覚。これがいわゆる美味しい料理の魔力というものなんでしょう。

 私もいつかこういう料理を作れるようになりたい、だなんて――。

 分不相応にも思ってしまうような幸せな“家族”の食卓でした。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 ジゼルの店で仕事を始めてから分かったことが一つあります。

「ごちそうさーん!」

 皿を綺麗に空にしたお客さんがわたしに向かってそう声を掛けます。

 今日のお勧めは『豚のアレンテジャーナ』でした。
 わたしは初めて耳にした料理ではありましたが、本国のアレンテージョ地方というところの名物料理なんだとジゼルが言っていました。ひょっとして、ジゼルの出身地なんでしょうか?

 ニンニクとパプリカのペーストをたっぷりと擦り込んだ上、ローレルや白ワインと合わせて一晩寝かせた豚肉。それをラードで炒め、砂を抜いた新鮮なアサリもそこに投入して強火で手早く炒め合わせます。
 アサリが開いたら、乾かないよう直ぐにお皿へと移し、カリカリに揚げられたサイコロ状のフライドポテトを隣に盛り付けます。
 そしていかにも濃厚そうな唐辛子ペースト入りの特製ソースで味付けし、コリアンダーのみじん切りを振り掛けて、最後にレモンのスライスを添えて完成――作っている姿を横目に見ていた限りでは、そういったシンプルな料理みたいです。

 配膳をする度に、お皿から立ち昇るニンニクの香りに中てられ、胃が我慢の限界を訴えてしまっているのは、これはもう仕方のないことでしょう。
 身体の大きな男の人などはパンを追加注文して、残ったソースを絡めて美味しそうに食べていましたし、そういった光景が店内の至るところで繰り広げられている様は、空腹に苛まれているわたしにとって正直目の毒でした。
 これはもう賄いの時間に期待するしかないでしょう。

「……じゅるり」

「おーいロサちゃん? 会計いいかい?」

 いえいえ、今はこういう話ではありませんでした。

「失礼しました。少々お待ちくださいね」

 お客さんにそう告げて、わたしは厨房に向かって声を上げます。

「ジゼル~! お会計だって~!」

 そうなのです。
 わたしは計算がよく分からないので、会計作業が出来ないのです。
 料理を一度中断したジゼルが厨房から出てきて、お客さんからお金を受け取り、笑顔でお礼を言いながら幾らかのお金をお客さんに返しています。
 わたしは隣でニコニコしながら見ているだけ。

 このままではいけません。
 計算を覚えないと!

 というわけで――。

「自分に白羽の矢が立った、ということか」

「うん、セスカ頭良さそうだし、お願いしてもいいかな?」

「だが自分の場合、基本的には常時警戒を緩めてはならない類の仕事なのでな……。所定の時間に決まった余暇を設けられるようなそれではないし――」

「ダメかな? わたしはお昼の営業が終わったあとはすることないから、セスカが手の空いた時に教えてくれればいいんだけど……?」

 セスカはこの島の近衛騎士団長らしいです。つまりは、ドザやミゲルの上司の偉い人ってこと。
 彼女の仕事は多岐に亘り、その分量自体も膨大なものであるらしく、のんびりと過ごしているような姿など確かに一度も見たことがありません。
 やっぱり無理なのかな……。

「えと、お仕事が大変なんだったら、自分で頑張るよ?」

「そうやって泣きそうな顔をされると、なんだか自分が悪いことをしている気分になるではないか……。あー了解だ了解した! だからそんな悲しそうな顔をするな!」

「ほんとにっ!?」

「ああ、だがあくまでも任務こそが優先だ。手が空いた時にだけしか相手は出来ないので、十分な時間が取れるか否かについても保証はできないが、それでも了承してくれるか?」

「うん、ありがとう! セスカはやっぱり優しいね!」

 素直なお礼と称賛の言葉に対し、セスカは照れ隠しをするかのように曖昧な微笑を浮かべます。普段は凛々しくて強くて格好いいセスカだけど、時々こんな反応をすることがあるのです。そういう時のセスカはわたしから見ても可愛いなって思います。
 きっとそんなところもセスカの魅力なんでしょう。

 なにはともあれ――。

「まぁ将来的にどんな仕事をするのであれ、簡単な算術程度は修めておいた方が、ロサの為にもいいだろうからな。ただし自分が教える以上、中途半端に手を抜くようなことはしないぞ。ロサにも相応の向学心と努力を求めるし、本当に意欲があるのならその程度は当然のものとして覚悟しておいてくれ」

「うん分かったよ」

 先生役の確保には無事成功しました。
 自分で言うのもなんですが、これ以上ない見事な人選であるような気がします。セスカに断られた場合、ジョルジュに頼もうと思っていたのですが、やはりセスカに比べると日頃の付き合いがない分、頼みにくいことは確かだったでしょうし。

 拳を握り締めて、一つ大きく頷き、自分の中にある甘え心を追い出します。
 大事なのはむしろこれからです。一刻でも早くジゼルの負担を減らしたいのであれば、セスカの言うとおり努力をたくさんしないといけません。
 わたしはこれまでの人生で勉学というものをしたことがありません。なので蓄積されたものは何もなくて、本当にゼロからのスタートになるのです。
 だから、その分――。

「わたし頑張るよセスカ! よろしくお願いします!」





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「――で、チビは最近フランシスカと一緒になにしてんだ? よく二人でなんかしてるとこ見んだけど、それなに?」

 鋭い眼つきをした男の人が現れ、わたしの手元を覗き込みます。
 しかし一瞥したあとは完全に興味を失ったように椅子の背に凭れ、背筋を伸ばすようにしながら呆れたような声を上げました。

「んだよ、ここのメニューの一覧表じゃねぇか。そんなん見て楽しいのかよ、お前? あれか? 鉄道時刻表見ながらニヤニヤするようなノリか?」

「おいドザエモン、貴様は邪魔だ。ロサの勉学を妨げるつもりがないのなら、向こうのテーブルに行っていろ。望むなら何らかの任務を与えて強制的に排除してやろうか?」

 この男の人はドザ。本当の名前はドザエモンというらしいのですが、なんだか変な名前なのでわたしは『ドザ』と呼んでいます。
 セスカの部下の近衛騎士で、ジゼルの友達らしいです。が、ジゼルとは本当に単なる友達なのかどうか少し怪しいところがあります。そのことをおねーさんに訊いても、意味深に笑うだけで何も教えてくれませんでしたけど。
 体格が立派で、眼差しが鋭利で、喋り方も乱暴。
 なので最初はすごく恐かったのですが、最近では実はいい人なのかもしれないと思うこともあります。街の人たちやお店のお客さんたちからの評判はあまり良いとは言えませんが、ジゼルやおねーさんからの評価の方がわたしにとっては信頼できるものですし。

 だけど『てつどうじこくひょう』とは一体なんのことなんでしょう?
 ドザの出身はこの島からは遠い国らしく、時々よく分からない言葉を使ったりします。
 生まれ育った土地から離れて暮らしてる、というわたしとの共通点には、奇妙なシンパシーを感じていますが、それは多分わたしの一方通行でしょう。

「あァ? 勉学だァ? なにチビおまえ勉強なんかやってどうすんの?」

「計算を教えてもらって、お会計が出来るようになりたいの」

「会計つったって簡単な足し算と引き算が出来りゃあ問題ねぇじゃねぇか。わざわざこんな鬼教官殿にご教授いただくまでもねぇだろ?」

「……それもできないから教えてもらってるの」

「はァ? マジか? 足し算と引き算も出来ねぇとかトシ幾つよ? つーか、おまえマジモンのバカだったんだなぁ」

 ひどいです。
 そこまで言う必要はないと思います。
 確かにわたしの頭はお世辞にも良いとは言えないけれど、だからこそ今頑張って学んでいるのに……。
 少しだけドザのことが嫌いになってしまいそうです。

 しかし、そんなわたしの心中をセスカが強烈な形で代弁してくれました。
 拳という身体機関を用い、惚れ惚れするほどの身体運用を伴って――。

 ぐしゃり、という粘質な破砕音。
 それと共にドザが脳天を押さえて蹲ります。口から漏れ出るのは、声にならない苦痛の呻き。
 痛そうです。

「今のロサは自分の教え子だ。教え子への限度を越えた暴言を看過することなど、自分には出来ん」

 セスカが怒りを押し殺すようにしながら言葉を紡ぐ。
 なんだかすごく格好いい。

「それに今、貴様はロサを馬鹿にするような発言をしたが、自らを高めるための努力に打ち込んでいる者を馬鹿にする権利など誰にもないのだぞ。先程の物言いは、単に貴様自身の心根の卑しさを周囲に喧伝するだけのことだ。近衛としての品格以前に、一個の人間としての良識を疑わざるを得んな」

「痛ってーなオイ! 相変わらず人サマの頭をポンポンポンポン殴りやがって。アンタは冗談とそうじゃねぇものの区別もつかねぇのかよ、えェ?」

「仮に冗談だとしても、その対象としていい事柄としてはならない事柄とがある。貴様の冗談とやらが後者のそれであったのは明白だ。それが欠片程にでも理解できるのならば、ロサに対して謝罪しろ」

 二人の間で諍いが勃発してしまいました。
 目の前で知り合い同士が喧嘩するところなんて見たくないです。大きい声を出されると、それが自分に対してのものではないと分かっていても、身体が竦んでしまいます。

 だけど、このままだと罵り合いはエスカレートする一方でしょう。
 なけなしの勇気を振り絞って、場の取り成しを試みます。

「えと、わたしは怒ってないからもういいよ、セスカ。それより続きしよ?」

 全く気分を害することがなかったかと問われれば流石にそれはないけれど、でも腹を立てているかと訊かれればそこまでのことではありません。この程度の言われ方はこれまでにも散々されてきましたし、なによりあの光のない船倉での罵りとは文字通り比較になりません。
 むしろ、これによってセスカの貴重な空き時間が消費されてしまうこと――つまりその分の勉強の時間が失われることへの危惧の方が遥かに上を行きます。

「ほぉら、ロサだってこう言ってんじゃねぇか。アンタ大概アタマ固すぎだろ?」

「もう結構だ。貴様は一刻も早く何処へなりとも失せろ」

 セスカは憤激の余韻を漂わせながら厳しい口調でぴしゃりとドザに言い放って、それを受けドザが悪態を吐きながらわたしたちのテーブルから離れていきます。

「んなもんこっちのセリフだバカヤロー! つーか、あれだ。フランシスカみてぇなカタブツに教えを請うのは大変かもしれねぇが、まぁ……せいぜい頑張れやチビ。教官がイヤんなったら、俺だって加減乗除くらいは教えてやるから」

 最後にわたしへの激励を加えてくれたあたり、ドザは心底悪い人ではないと再確認できました。
 多分、素直に他人を励ましたりするのが恥ずかしくて、ああいう風に逆のことを言ってしまうんでしょう。なんだか子供みたいで可愛い気がします。

「すまなかったな、ロサ。自分の監督不行届きで不快な思いをさせてしまって。ロサが勉学の続きを求めるのであれば、当然自分の側にも否《いな》はない。出来得る限りの手助けをさせてもらうぞ」

「うん! お願い!」

「では早速だが問題だ。『メインはアンコウのリゾットで前菜にオーヴォシュ・ヴェルデシュ《緑玉子》。あとは付け合せに青大豆のサラダ』――こんな感じの注文をした客が会計を頼んできた。さて合計の代金は幾らになる?」

「デザートはいらない?」

「……甘味が好きではない客であったと仮定しよう」

「そっか。それだと、えーと――」

 アンコウのリゾットは銅貨五枚と鉄貨五枚で、オーヴォシュ・ヴェルデシュが銅貨二枚と鉄貨二枚。あとは青大豆のサラダが銅貨四枚と鉄貨四枚だから、全部で合わせて――。

「銀貨一枚に銅貨二枚、それと鉄貨一枚?」

「正解だ。ではロサがそう伝えると、客は銀貨二枚で支払いを行おうとした。その場合の釣銭はどうなるか分かるか?」

「えっと銀貨二枚は銅貨二十枚で……それで銅貨二十枚は鉄貨二百枚だから……えっと……うぅ……」

 まだまだ先は長いのかもしれないけれど、でもそれはわたしが自分で望んだこと。
 当初の意志は絶対に変わりません。

 だって、こうやって自分のための知識を身につけるという境遇は、わたしにとっては得難いそれであると思っていますから。
 あの暗くて寒い船倉の中、日々の生を必死に繋いできたことに対する報賞として、今の環境があるのだとすれば――わたしは神様に感謝したいです。
 確かに辛く苦しく寂しく厳しい――そんな時だったけれど、そんな時でも生きていたからこそ今があります。

 この島は優しくて温かくて。
 ここの人たちも優しくて温かくて。
 肩に残った忌むべき徴は消えないけれど――そんなわたしでも受け入れてくれています。

 だから、今までの人生では埋め損ねていた“穴”が数え切れないほど有ったとしても――。
 これからのわたしは、誰よりもたくさんの“土”を集めて、それを一つずつ埋めていきたいと思います。

「銅貨七枚と鉄貨九枚!」

「正解だ。この調子だとそう掛からずに会計程度は問題なくこなせるようになりそうだな」

「ほんとに!?」

「ああ、自分は嘘は言わないぞ」

 ――おかあさん、わたしは元気にしています。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 これはセスカの都合がつかず、代役としてドザに先生役を頼んだ――そんなある日の一幕です。

「よっし、そんじゃ問題出すぞ!『ロサは今月の給金としてジゼルから金貨を十枚受け取りました――』」

「えー多すぎるよぉ! そんなにたくさんくれなくていいよ?」

「あくまで例えなんだから無粋なツッコミはすんな。『金貨を十枚貰ったロサは買い物に行き、金貨五枚をスラれて帰ってきました――』」

「全然使ってないのに半分になっちゃったよ?」

「お、それくらいは分かるようになったのか? その調子だ。じゃあ続きな。『さらには計算を教えてくれる先生に対し、ロサは月に金貨七枚と銀貨五枚の授業料を支払わなければなりません――』」

「セスカはお金取ったりしないよ?」

「だから、喩えだっつってんだろ。次で最後だから黙って聞いてろ。『さらにロサには年利27.375%で金貨二十枚の借金があり、月極で利息を返済しなければなりません。さて、ロサの借金額の合計は全部でいくらになるでしょう?』 ほい考えろ」

「ねんり、ってなに?」

「なんなんだろうなぁ……」

「ドザも分かんない?」

「ああ」

 その日以降、わたしがドザに先生役をお願いすることは、二度とありませんでした。



[9233] Interchapter02
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:00cfbba9
Date: 2010/02/07 21:09
 季節も秋から冬に向けて移り変わり、マディラの空気も徐々に透明感を増してきている。
 確かに“あっち”で目にしていたような紅い落葉の風景は目にすることなんて出来ないし、粉雪が舞い踊り始めるというわけでもない。赤道が近いせいか、常夏というか、感覚的には年中温暖なイメージもある。
 だが、暦は日一日と捲られ、それに従って島の南側――見渡す限りの葡萄畑を染めていた紫色の情景は姿を消す。
 そう、この島での冬の訪れは、葡萄の収穫期の終わりと同義。

 そんな初冬のある日、非番だった俺は同じく休暇日であるジョルジュと役人用宿舎の一室で顔突き合わせていた。

「ポルトガルの新大陸進出は現状イスパニアの後塵を拝している格好だね。しかも時を経るごとにその影響力に押され始めている。それ自体が本国の無能ゆえなんてことは言わないんだけど、それでも交易の中継地たるマディラにとっては死活問題であることは確かだ。姫様も頭が痛いところだと思うよ」

「あーなんかフランシスカあたりがそんなようなことを言ってたな。イスパニア人は恥知らずだとかなんとか」

 目の前で世界情勢を憂うジョルジュの言に対し、そういえば我らが騎士団長様がイスパニアを『不倶戴天の仇敵』であるかのように口を極めて罵っていたことを思い出す。彼女は普段は温厚であり他人へ故なき攻撃的な言動を向けることなど殆どないが、イスパニアの名を冠するものについては殊の外容赦がない。
 俺の口から漏れた響きを耳にしたのか、ジョルジュが苦笑を浮かべる。

「彼女の立場であればそれも仕方のないことさ。実際、新大陸交易もアフリカ航路に関しても、その利権のかなりの部分をイスパニアに食べられてるのは事実だからね」

「イスパニアってそこまで強ぇのか?」

「現状では彼らに単独で抗することが出来るのは大英帝国くらいだろうね。僕らの祖国は残念ながら彼らの脅威にはなり得ない。まぁだからこそ過剰な敵視を免れ、ある程度の利権を他大陸に残しておけているとも言えるんだけどね」

「なんか想像つかねぇなぁ……」

 だって、イスパニアって言やぁスペインのことだろ?
 “あっち”では先進国の一角ではあれど、決して超大国ではなかったような気がする。サッカーやらのスポーツの世界においてはある程度の存在感はあったが、政治的なプレゼンスに関しては他の先進諸国と比較すれば大したことはなかった。
 だけど、ジョルジュの口ぶりからすると、まるで“あっち”での“米の国”の話を聞いているかのような気分になる。

「新大陸から齎される富というのはそれだけ大きいものなのさ。それが人を呼び、金を呼び、国を富ませることに繋がるんだから。そして、その利権を守るために軍事力が増強され、それは同時に他国の利権を削り取る力にもなる」

「やっぱ戦争なんかってのはよく起こってんのか?」

「国の旗を掲げての直接的な戦争はここ暫くは起こっていないよ。だけど、水面下での暗闘は至るところに散見される。ドザエモンは『私掠船』の話を訊いたことはないかい?」

「あーなんか耳にしたことならあるが、よくは分かっていねぇな。ジゼルの店で酒飲んでるオッサンたちの会話に出てきてんのを小耳に挟んだ程度だ」

 確かガチムチさんの愛人のなんとかってオッサンが『私掠船に追いかけられた』とかヌカしてた気がする。
 興味を惹かれない話ってわけでもなかったが、さすがに猛獣の檻のような男色空間に身を置く気にはならなかった。

 なのでジョルジュから教えてもらえるならちょうどいい。
 俺も“こっち”に来て長いし、騎士なんていう大層な職に就いている以上、世界情勢なんかにまったくの無関心ってのもそれはそれでマズイだろう。海を隔てた場所での動きがこの島やそこに関わる人間にどういう影響をもたらすのか――その程度は知っておいて損はない。

「せっかくなんで軽く説明してもらえるか? なんか海賊みてぇなヤツらってことくらいしか俺は知らねぇし」

 俺の言葉を受けて、ジョルジュは我が意を得たりとばかりの顔をする。
 キホン説明好きなヤツだからな。本音では、自らの知識を開陳する機会を得たことが嬉しいんだろう。
 だけど、そこで一つからかってみせるのもお貴族サマ流ってトコか。ジョルジュは爽やかながらも意地の悪い笑顔を湛える。

「ドザエモンがそういうなんてどういった風の吹き回しだい? 姫様に勉強しろと怒られでもしたのかい?」

「んなわけねぇだろ。アイツにそんなこと言われたところで俺が素直に聞くはずねぇし、なによりあのお高い女は俺みたいなバカにそんなものを求めたりしねぇよ。バカに下手な知恵つけるくらいならバカのまま踊ってくれてりゃいい、なんて本気で思ってそうなヤツだからな」

「姫様も普通にしてればそこまで悪い人ではないんだけどね。まぁドザエモンと合わないのは傍から見てても明らかだし、お互いの頑固な部分が反発してるんだろうさ」

「俺は自分では『柔軟性に富んだ現代っ子』だって自己認識を持ってるんだが……」

 『頑固』という響きに愕然たる心持ちに襲われ、自分でもどうかと思う無茶な反論をするが、ジョルジュは意外な言葉を聞いたかのように乾いた笑い声を上げる。

「まぁ自分では自分のことは分からない、というのは一種の真理みたいなものさ。ドザエモンがそういう自己認識を有しているんだったら、それはそれでいいと思うよ。他人の評価を気にしすぎるこそ、いかにも君らしくはないからね」

「なんか仄かにバカにされてねぇか、俺……?」

「そんなことはない。そういう部分こそ君の長所だと言ったまでさ。さて――」

 そこでジョルジュは一度言葉を切って、俺の方に向き直る。
 瞳には真剣とまではいかないまでも、真摯とくらいには表現できそうな色が乗っており。
 それは今から本題を切り出すぞ、というサイン染みたものに見える。

「私掠船についての話だったね。私掠船団が何をするのかという点については、さっきドザエモンも言っていた通りの海賊行為だ。商船を追撃し、拿捕し、略奪し、場合によっては沈没させる。まぁ見事なくらいに『海賊』そのものだよね」

「行為は海賊でも、中身はそうじゃないって?」

 口ぶりからすると、そういうことなんだろう。元来が回りくどい説明を好むヤツではあるが、その程度のニュアンスは俺にだって理解できる。
 コイツとの付き合いだって伊達じゃない。

「いや、海賊であるか否かと問われれば、彼らは紛れもなく海賊さ。所属を掲げた誉れある軍船はそんな野蛮な真似はしないし、仮にそんなことをしたと明るみに出れば、彼らが軍人たり得る所以を失ってしまう。かといって船団を組んで他の商船を襲うような商人もまぁいないだろう。となると、やっぱり彼らは海賊なのさ」

「何が言いてぇのか意味分かんねぇぞ。海賊が海賊行為をするなんてのは海賊として当たり前――海賊海賊言ってるせいで何が言いたいのか自分でも分かんなくなってきやがった……」

 とにかくだ。

「海賊だってんならそれで終わる話なんじゃねぇのか? 俺はてっきり軍人が海賊に扮してるとかいうオチなんだと思ってたんだけど?」

 話の流れからすれば、そういう風に落とし込まれるのが妥当なところだった気がする。
 一応今の俺も軍人っていう扱いになるんだろうが、露店の品をくすねるくらいのことは今でも日常茶飯事にやっている。だから、その延長線上で海賊やってる軍人がいると言われても、それ自体には大した違和感がなかった。

 だが、俺の疑問を受けたジョルジュは一つ微笑を浮かべる。

「その認識は概ね正しいと考えていいよ。ただし、ある一点において大きな誤りがあるとも言える」

「だからそういうごちゃごちゃした言い方はいいから、サクっと結論を言え。俺を混乱させて楽しいのか?」

「ああ、ごめんごめん。そんなつもりはなかったんだけど癖でね。それで私掠船がどういうものなのか、ということについてなんだけど、説明自体は単純だ。だけど、それだと趣向としては詰まらないし――」

 ジョルジュは笑いながら俺の非難を受け流し、おもむろに立ち上がると部屋の書架から一冊の本を引っ張り出し、それを手に持ったままこちらへと戻ってくる。
 そして、その本をテーブルの上で広げ、俺の表情を窺う。

 果たして眼前に開かれた本――そのページに記されていたのは、俺にとってまったくの初見ではない形。

「地図か……?」

「そうだね。大洋地域全体の版図を示した地図さ。さて、ドザエモンに質問だ。僕たちが今いるこのマディラはこの地図上の一体どこにある?」

 その意図を測りかね怪訝な視線を向けているであろう俺へとその解消を図る説明はなく。
 ジョルジュは自然な調子で、俺に地図上での現在地を確認する。
 意味が分からない。が、コイツのやることなんだから、まったくの無意味ということではないんだろう。

 黒のインクで描かれた、縮小された俯瞰世界――その上に目を這わせ、目的の黒点を探す。

「確かこのあたりだったような気が――ああ、これだこれ」

 そこはポルトガル本土から西南西の方角。
 ジブラルタルと大体同程度の緯度線(まぁもう少し南寄りだが)とアフリカ大陸西端と同程度の経度線(これは少し西寄り)が交わる点――本土との距離にして一千キロメートルほどの洋上。
 そこにまるでインクの跳ねのような大小四つの黒点がある。

 マディラ。纏めた形で『マディラ諸島』という呼称を戴く四島だ。
 政治・経済・産業その他諸々の中心であるマディラ島。
 その東、前述の要素ではマディラ島に従属し、人口・面積ともに下回るが、白い砂浜に代表される海岸線の美しさでは遥かにマディラ島を上回るポルト・サント島。
 あとの二つ、デゼルタスとセルヴァジェンスの二島はともに住人のいない無人島であり、漁師たちの避難所や補給用の小屋などが垣間見られる程度。
 俺たちが居を構え、日々の生活を営んでいるのはマディラ島の中心都市フンシャルだ。

 そんな地図上の黒点群を指で押さえながら、ジョルジュに確認を行う。

「ここで合ってんだろ?」

「ああ、正解だ。アゾレスあたりと間違えることを秘かに期待していたけれど、さすがに自分のいる場所くらいは把握しているみたいだね」

「テメェ俺のことバカにしてんのか?」

「おっと怒らない怒らない。ただの冗談だよ。じゃあドザエモンがマディラの位置を把握したところで次に行こう。件の私掠船の出没多発地域というのは、この地図上でどのあたりだと思う?」

 質問の難度が一気に倍化した。
 つーか、そんなもん予備知識もなしに答えられるようなもんじゃねぇ。

「具体的な場所訊かれても分かんねぇな。少なくともマディラ周辺の海域じゃねぇことだけは分かるが……」

 さすがにここの近海でそんな物騒なヤツらが暴れまわってれば、俺の耳にも噂くらいは入って来ているはずだ。それすらもないんだから、ここらあたりには『私掠船』なんてもんは出張ってきてないってこと。
 ただし、『ならばどこに?』なんてことを訊かれても、一介の軍人風情が把握しているようなものじゃない。

「まぁ有りそうなのは、新大陸だろうな……」

「なんでそう思ったのかな?」

「いや、だってよ――」

 俺自身新大陸に行ったことなんて当然ねぇが、その話については結構頻繁に耳にする。マディラに入港するような商船ってのは、ワインの交易目的じゃなければ、新大陸交易やアフリカ回り交易の途上に補給や休息の名目で立ち寄るものが殆どだ。酒飲みに行きゃあ、その手の船乗りたちがゴロゴロしてる。
 でもって、そいつらの話を聞く限り、新大陸の治安の悪さってのは俺らの想像を越えてるらしい。こっち側ではあまり御見掛けしねぇような旧時代的な海賊連中が跋扈し、そいつらが取り締まり側と癒着している場合も多く、まぁ中々に混沌とした状況があるという話だ。
 そして、ゴミはゴミ溜めに集まる習性を持っている。それは“ゴミ溜め”こそが“ゴミ”にとって過ごしやすい環境であるからこそ。
 ならば、ジョルジュの言うところの『私掠船』とやらいう連中が活動するのに、新大陸以上の場所はないだろう。

 含み笑いを浮かべて俺へと続きを促したジョルジュに対し、そんな手前味噌な推論を説明する。
 ヤツはそれを受けて楽しそうににやりと笑った。

「ご名答。新大陸は確かに私掠船出没地域の最たるものの一つだよ。理由自体も今ドザエモンが言ったようなものでそう間違いはない。ただ僕が答えて欲しかったのはそちらではなく、もう一つの方でね――」

 ジョルジュはおもむろに地図上へと手を伸ばし、その中のある地域を指でなぞる。
 指の先が指し示す場所は、アフリカ大陸西岸部――その沖合百から数百キロメートル前後の海上に浮かぶ幾つかの島々。

「北はカナリアスから、南はガーボ・ヴェルデまで。この地域がもう一つの私掠船出没地域さ。そして、姫様やフランシスカ、更には僕が懸念しているのは、こちらに顔を出している連中の方でもある」

 表情を引き締める。
 ジョルジュもさすがに先刻までのような軽薄な表情は改めていた。

「随分とご近所さんで暴れ回ってんだなオイ」

「ああ、特にカナリアスはマディラにとっては目と鼻の先さ。直線にして五百キロメートルほどの距離しかないし、そもそもが同じマカロネシア圏内だ。向こうはスペインの自治領で、こちらがポルトガルの自治領という違いはあるにせよ、ね」

 それはつまり。

「彼らがいつマディラの近海で暴れ回り始めるか、それは時間の問題になっている、ということだよ。それでもまぁその辺の単なる海賊崩れの連中だったら、面倒ではあれどそんなに心配する必要はない。だけど、そこでこのアフリカ西岸地域に出没している私掠船の素性が問題になるんだ」

 話が本題へと戻ってきたらしい。
 つまりは『私掠船』を動かして商船を襲い、金品を強奪している連中が一体何者なのか、という部分に。

「結論から言おうか。彼らは大英帝国《ブリテン》の庇護下にある連中だ」

「よりによってイギリスかよ……」

 大英帝国ってのは“あっち”でのイギリスだ。こちらはイスパニアとは違って“あっち”でも“こっち”でもスーパーパワーの一角を占めている。
 そんな由緒正しい大国が、あちらこちらで海賊みたいなマネをして回っているという事実。ジョルジュがそういうなら、それはそうなんだろう。
 だけど――。

「なんだって大英帝国はそんなフザケタ真似してんだ? 自分らがそんなことやってるなんてバレちまえば、国家の威信も元首の声望も地に堕ちるだろ?」

 そうなのだ。
 “あっち”に比べりゃまだ情報網も発達していないし、国家に対する倫理観についても若干の差異があるとはいえ、こういうことを繰り返していればいつかは相手国側の怒りを買うことは必定。そうなると自国に対する報復行為すら覚悟しなければならなくなる。
 現にジョルジュがこういった情報を持っているということは、きっとポルトガルの本国だってとうに承知であるということだろうし。

 そこが今一つ引っ掛かる。

「ドザエモンの疑問は当然のものさ。だけど、大英帝国がここまでの無法を行い、かつ悪びれるところがないのには、相応の理由がある」

「理由、ねぇ……」

「ああ、理由さ。それも至ってシンプルな、ね。私掠船を動かしている連中というのは、大英帝国の軍人じゃないのさ。彼らの過去を辿れば、それは正しく海賊だ。今の状況というのは『大英帝国本国から海賊行為の許可を与えられた海賊たちが自分たちの利益を求めてやっていること』に過ぎないというのが題目だ」

「オイオイオイそりゃちょっと無理があるだろ? 大英帝国さんはそれでいいかもしらんが、やられた方がその理屈を受け入れるのか?」

 そんな一方的な言い分が通るとは思えない。
 そもそも『許可を与える』ということは間接的な攻撃意図がなければ行われないことだろうし、それは一種の宣戦布告に等しいようにも思える。

「受け入れるはずがないさ。ただ、受け入れざるを得ないだけで」

 意味深な言い回し。

「そもそも大英帝国がこんなことを始めた理由は、彼らが新大陸交易競争に出遅れてしまったことに端を発している。そのせいで新大陸の富はスペインと我が国の二国で総取りに近い状況なんだ。あちらさんとしては、当然快くは思わないさ」

「まぁそうだろうな。今更入り込もうとしても、こっちからすりゃあ謹んでお引取り願うことになるだろうしな」

「だったら、その富を運ぶ船団が本国へと帰還する前に、洋上で掠め取ってしまえばいい――これが大英帝国側の思惑なのさ。表向き『彼らはいかなる国籍をも有さない海賊である』という体裁だけ整えて、実際には強奪した利益の大部分が国庫へと入れられている」

 ジョルジュの言によると、私掠船による活動は単体で見れば、異常な利益率を叩き出しているらしい。
 それもそのはず。国家としては“許可”を与えただけなので、失敗した場合のリスクを負う必要がない。しかも、成功した場合には“許可”を与えたことへの対価として、実に半分以上の割合を国庫へと還元させる。
 風俗街を取り仕切るヤー公並に悪辣な手口だ。

 得をしているのは大英帝国本国とその威光にぶら下がっている海賊連中のみ。
 商船が襲われたポルトガルやスペインを始めとする他国は丸損だ。座して黙するわけにもいかないだろうし、なんらかの積極的対抗策に打って出るというのが当然だと思うんだが――。

「ドザエモンの考えは分かるし、私掠船単独の問題で見れば僕もそれが妥当だと思う。だけど、国家間の軍事バランスという問題が絡んでくれば、それはその限りではなくなるのさ、困ったことに……」

「説明してくれや」

「つまり有体に言ってしまえば――」

 大英帝国が小国であり且つ軍事力に於いて劣勢であるならば、当然イスパニアもポルトガルも報復措置を取っただろう。
 だが、問題は相手が大陸有数の大国であり且つ非常に精強な軍を擁している、ということ。少なくともポルトガルがまともにぶつかって勝てる相手ではなく、もし選択を誤れば逆に大きな損害を被るであろう。現状に対する歯痒さはあれど、大きなリスクを背負った上で勝算の低い対応をするわけにはいかない。
 なので、現時点では都度現場レベルの対応を選択せざるを得ないのだ。

 ――と、ジョルジュの言葉を簡単に要約すれば、大体こんな感じだった。

「なんつーか情けねぇなぁ……」

「それについては返す言葉もないし、被害に合った商人たちにはご愁傷さまとしか掛ける言葉もないね」

 国と国――そこに生まれる関係というのは、いつの時代も変わらないのかもしれない。
 つまりは“搾取”する側とされる側――超大国と大国。大国と中小国。中小国と零細国家。零細国家と国家未満。
 富はより上位へと向かって転々と流れ、下位には何も残らない。
 一極集中、独占、寡占――富という概念はここらの単語と実に相性よく付き合う。そして、均等化、平準化、水平化――こういった単語とは決して相容れずにその歴史を紡いできた。

 結局、“こっち”も“あっち”と変わらない。
 ただ、その手段がより直接的で、より暴力的であるだけだ。

「世知辛い話だな、どこもかしこも」

「ああ、その通りだ。力に抗することができるのは、やはり力のみということなのさ」

「そういう意味じゃイスパニアはどうなんだ? ここら辺りじゃ最強の海軍を誇ってるって話だったが――」

「お、ちゃんと聞いてたんだね。ちょうどこれからその話に移ろうかと思っていたところだ」

 ポルトガルが大英帝国に比して軍事的に劣っている――再三の説明からそれは動かしようのない事実であり現実であるのだろうことは分かった。
 だけど、イスパニアに関しては、また別の話だ。ヤツらは当代最強の軍事力を誇り、その軍事的アドバンテージこそを活かして己の版図を拡大してきたのだから。当然、敵国の無法に黙っているはずがないだろう。

 ジョルジュは俺の言葉を受けて、嬉しそうに顔を綻ばせる。まるで出来の悪い学生が奇跡的にも回答に辿り着いたことを喜ぶかのような――そんな表情だ。
 見下されてんのか俺、と微かな疑問符が頭を過ぎるものの、それもまぁ仕方のないことだと納得する。ジョルジュはこの島でも有数の知識人であって、俺みたいな純肉体労働者とは脳ミソの詰まり具合からして違うのだ。

「僕も内部の人間ではないので細かな部分の真偽の程は不明であることを断った上での話にはなるけれど、どうやらイスパニアは大掛かりな報復措置の検討段階にあるみたいだ。地中海地域と大西洋地域に展開していた軍艦の多くがセビリアに集結しているとの情報もあるし、恐らくなんらかの軍事行動に打って出る可能性は高い。そこで問題は――」

「それによって世界情勢がどう動くのか、ってことか?」

「当然それもある。だけど、もっと直近の問題としては、うちの本国がイスパニアの軍事行動に対していかなるスタンスを採るのかということだ。場合によってはイスパニアと組むかもしれないし、そうでなければ静観するかもしれない。まぁイスパニアも実際には仮想敵国に変わりないし、後者の可能性が非常に高いのは確かではあるけれどね」

 国際政治というのは複雑だ。
 森羅万象――まさに世界を構築する様々な要素を紐解きながら俎上に載せ、それらを一つ一つ吟味し、利益の多寡や可能性の大小を比較検討しながら、その逐次的な有り様を定める。
 俺程度の頭では、その過程で生ずる無限のパターンを網羅することは叶わないし、そんなのはそもそも俺の仕事でもない。
 そういうのはカタリーナやジョルジュのような選ばれた人間の仕事だ。

 だから。

「俺としちゃあ『戦争だ』って言われりゃ喜んで敵をぶっ飛ばしに行くだけさ。なんたって合法的に人を殴れるんだ。願ったり叶ったりってトコだな」

 俺の不遜に過ぎる物言いを受け、ジョルジュは困ったように苦笑する。

「軍人として頼もしいのは確かなんだけど、血の気の多さは少しばかり心配になるね。それになによりドザエモンは近衛だ。攻め込む側ではなく、守る側なんだってことを忘れないようにね」

「あーそういやそうだったな……。カタリーナのヤツが戦場に出張ることがなけりゃ、俺もこの島にお留守番ってことか……」

 テンションが急降下した。

「まぁ先のことを言っても仕方ないさ。だけど、近いうちになんらかの決断が下され、それによって何がしかの行動が起こされる可能性は否定しない。それは本国レベルだけというわけではなくて、このマディラという自治領レベルでもね。だからこそ、今日はドザエモンを引っ張り出して、休みの一日を有効に活用してもらったというわけさ」

「ったく……これ以上ないほど充実した休日だぞ? 陽も高いうちから、地虫みてぇに家ん中篭ってんだからな」

「ははっ、そんな風に感謝されると背筋の辺りがムズ痒くなるから止めてくれ」

 これでもかと陰湿な厭味を詰め込んだ俺の言葉を軽く受け流し、ジョルジュはテーブルに広げていた地図を畳むと、書架へ戻すために立ち上がる。
 そして、こちらに背中を向けたままの体勢で、俺に向かって提案の言葉を発した。

「確かに日がな一日、室内に篭っているというのはドザエモンの言うとおり不健康だし、せっかくだから街に出てお茶にでもするかい?」

「ああ、いいなそれ」

「最近なかなか風変わりで面白い茶を出す店を見つけたからね。いつか誘おうと考えてはいたんだけど、どうやらその“いつか”は今日のことを指していたみたいだ」

 相変わらずの回りくどい表現で『今から茶ぁシバキに行こうぜ』という誘いをかけてくるジョルジュ。
 俺の側にも別段の否はない。

「おう、薄給の騎士に高給取りの官吏が奢ってくれるっつーんなら行かねぇわけにもいかねぇだろ」

「じゃあ準備してくるから少し待っててくれ」

 男のくせに丹念な外出の準備に入るジョルジュを一瞥し、視線を窓の外側に向ける。
 遠く葉を失った街路樹の下には、露店に群がる豆粒のような人の群れ。雲霞のようなその集合体は、構成する個々人の動きに応じて複雑怪奇に形を変える。
 人の流れをぼんやりと眺めていれば、究極的には人の集合体である“国家”とはどうあるべきか、なんて似合わない概念論へと飛んでいきそうになり、慌てて頭を振りそんな埒のない思考を追い出す。

 ただ、一つだけ確かなのは、この時の俺が嵐の予兆を感じていたってことで。

 そして、もう一つ付け加えるならば、俺の勘はよく当たる――そういうことだ。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「お! おおおォォォ!?」

 目抜き通りから一本入ると、そこには露店の立ち並ぶ光景が目に飛び込んでくる。
 通称『屋台通り』なんて呼ばれてるその通りは、今日も安価な品を買い求める市民の群れで賑わっていた。

 そんな人の波を縫うようにして目的地へと歩を進めていた俺たち。
 その歩みを素っ頓狂な声が縫い止めた。

「おッおおおおォォォォッ!? ジョルジュさまッ!?」

「うっせぇぞクソアマ。テメェちっと黙らねぇと犯して殺《ばら》すぞ、鬱陶しい」

「あ、ドザもいたんだ。ドザいらない」

「あァ? オイいい度胸してんじゃねぇか――」

「ジョルジュさまぁ、お久しぶりですッ♪」

 うわ、クソうぜぇ。
 俺とジョルジュに対する態度が天と地ほどに違っている。確かにジョルジュは市民にも好かれていて、俺の風評はその真逆であるとはいえ、ここまで露骨にそれを表すヤツも珍しい。
 つーか、この女はそういう意味では第一人者であるとも言える。なんせ声の質からして変容するんだから。

「ああ、お久しぶりだね、ブレンダさん。今日は仕事かい?」

「はいッ! ブレンダは毎日お仕事頑張ってます!」

 ジョルジュの『気取った』とも表現できそうなほどに爽やかすぎる挨拶に対し、大きな瞳を輝かせながら媚びるような返答をする若い女の姿に、胸焼けしそうなほどの気味悪さを感じる。

 彼女の名はブレンダ。
 屋台通りに店を出している雑貨商の一人娘だ。
 裕福な家庭の出というわけではないので、ジョルジュと並ぶとそこらの平凡な町娘に見えてしまうが、容姿自体はまぁそれなりのモン。年齢相応に発達した肢体を鑑みれば、そこそこにイイ女といっても過言ではないだろう。
 が、問題はその裏表のあり過ぎる性格の方にあり――。

「相ッ変わらず気色ワリィ声出しやがって。テメェは発情期の猫かっつーんだ」

「だからドザいらない。あっち行ってて」

「んだオイ、調子乗ってんじゃ――」

「それでジョルジュさま、今日はどうされたんですか? もしかしてお買い物に来てくださったとかッ!?」

「偶然にもドザエモンと休日が重なったからね。午後のティータイムとでも洒落込もうかと思っていたところだよ」

「ああッ! 窓辺のテーブルに腰掛け、優雅に紅茶をお召し上がりになるジョルジュさま。差し込む陽射しがその面差しを薄らと染め上げて――なんという素敵空間ッ! ブレンダも仕事さえなければ是非にご一緒しとうございましたッ!」

 恍惚とした表情で口から妄想を垂れ流す姿は、正直言って直視に耐えず。ぶっちゃけ頭がイッてるとしか思えない。
 こういうのは最早ファンとは言わない。そんな生温い存在では断じてない。こういう輩は鍛え抜かれた信者――狂信者と呼ぶべきだ。

 そんでもって、その狂信っぷりを助長しているのは、もう一方の当事者であるジョルジュの態度。
 基本的に女に甘い、というか男女問わず他人に優しいところがあるジョルジュは、そんなブレンダの姿を見ても決して否定するような言葉を吐かないのだ。
 だから、きっと女側が勘違いしてしまうんだろう。

「おい、ジョルジュ。うざったいならハッキリ言ってやった方がコイツの為だと思うぞ」

「いや、そんなことを思うわけがないさ。市民に親近感を持ってもらえるというのは、役人冥利にも尽きるところだ。こうして町の人たちと直に触れ合うことも、僕にとっては立派な仕事の一つだよ」

「……実にご立派なこって」

 ある意味、ジョルジュも真性だ。
 コイツの場合、それをそれと意識しないままに周囲に好印象を与える言行を取っている部分がある。ジョルジュくらいの高級官吏であれば、普通は町の人間も恐れ多くて話し掛けてなんて来ないだろうし、相応に偉ぶった態度を取るのも珍しくない。
 例えば、カタリーナやフランシスカあたりはその典型。彼女らが好むと好まざるとに関わらず、周囲は自然と距離を置くし、アイツらもわざわざそこへ降りていくような真似はしない。そのためか、そこには一種の畏怖のような感情が存在し、住民にとっては遠い存在として認識されているんだ。
 だが、ジョルジュはその辺特殊なヤツでもあって、自分から好んで市井の人間と関わろうとしている。

「それでブレンダさん、最近景気はどんな感じかな?」

「そうですね……。悪いとは言いませんけど、決して良くもないですね。それでも生活に困る程ではないですけど」

「だったら、こんなトコで油売ってねぇで、さっさと店戻って働けや。それとも通りすがりの男に尻尾振って、メシの種恵んでもらうってのがテメェの仕事か?」

「黙れホモ。口を開くな。空気が汚れる」

「ちょっと待てコラ! ホモは否定させろホモは! なんならテメェ抱いて身の潔白を証明してやろうか、あァ?」

「粗○ンに抱かれるのは時間の無駄」

「オイオイオイ上等じゃねぇか。ちょっとそこの物陰までツラ貸せや。艦砲射撃で快楽の海に沈めてやっからよォ」

「二人ともここが公衆の面前であることを忘れてないかい? 声を張り上げて話すような内容ではないし、そもそもTPOに照らし合わせて妥当な話題であるとも思えないよ」

 俺の横槍に端を発し、徐々にエスカレートしつつあった罵り合い。
 それは実力行使に至る一歩手前の段階において、中立的調停者の介入によって危機の回避に成功した。

「ごめんなさいッ、ジョルジュさまぁ!」

 そして、恐怖すら覚えるほどの変節を見せるブレンダ。
 ジョルジュを潤んだ瞳で見詰めながら素直に謝罪している様は、つい今し方俺に対して尊厳を奪わんばかりの暴言をぶつけたヤツと同一人物だとは思えない。
 つーか、軽く解離性人格障害入ってるだろ、これ?

 ジョルジュは誠心誠意の謝罪の言葉を並べている(ように見える)女に柔らかな笑顔を見せ、気にしてないとばかりに首を左右に軽く振る。
 それを見て更に瞳を潤ませるバカ女。
 つかなに、この予定調和? しかも俺だけ蚊帳の外かよ?

「別に僕は怒ってるわけでもなんでもなく、ブレンダさんとドザエモンの評判を案じていただけだから、そう気にされると逆に困ってしまうよ。それよりも気を取り直して話を仕切り直そう。最近の売れ筋の傾向なんかを教えてもらえると嬉しいんだけど――」

 なんだかんだで官吏という立場では、市井の経済状況が気に掛かるものらしい。
 どんな品の人気が高いか。その人気の要因はどこにあるのか。それは一過性の人気なのか、はたまた半永続的なそれとなり得るのか。その品が島の外から持ち込まれたものであれば、その産地はどこか――これまでに何度もチェックしていたであろう幾つかの事柄を、今日も飽きずに問い掛けている。
 マメなヤツだ。実にマメマメしいヤツだ。

 商売人でもなく官吏でもない俺からするとあまり関心を惹かれない話題。それが二人の間で粛々と交わされている。
 まぁプロってのはそれでメシ食ってるわけだから、こういう小さな努力ってのが大事だったりするんだろう。俺の筋トレ癖と一緒だ。

「にしても退屈だなオイ」

 喉元に込み上げた欠伸。
 それを噛み殺しながら、周りの露店に目を走らす。食料品、服飾関係、雑貨、酒――数え切れないほど沢山の商品を扱う店がこの通りには集結し、マディラに住む一般市民の生活を支えている。

 小さな子供を抱いた家族連れが楽しそうに子供用の服を選び。
 仲睦まじそうな恋人たちが装身具を吟味しながら嬉しそうに微笑み合い。
 老夫婦が酒屋の店主と懐かしそうに昔話に耽り。

 視界に映る全てが幸せな光景で、それが俺の知るこの島の全てではないけれど、でも。
 今目にしている情景も、それが現実であることは確かであって。
 だったら、こういう風にぼんやりと人の息吹に身を曝すのもあながち悪いモンじゃない、なんて。

 そんな埒もない感慨を抱いた冬の日の昼下がりだった。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 悪口雑言の粋を尽くした別れの台詞をブレンダと交換した後、ジョルジュに連れて来られたのは飲食店が立ち並ぶ一角。
 その通りから横道に逸れた場所にひっそりと佇む喫茶店だった。“こっち”には珍しい純喫茶風の外観と、美しくも柔らかな木目調のインテリア。
 そのセレクトがいかにもジョルジュ好みな感じの店だ。

「……これは葡萄か?」

「ご名答。赤葡萄のフレーバーティーだね」

 目の前に供された赤銅色の液体に口をつけるのと同時、爽やかな香りが鼻に抜ける。
 仄かに口腔に感じるのは、この島の名産品特有の甘みと酸味、そして渋み。それらが茶葉の滋味と混じり合い、より上品で洗練された味わいへと昇華されている。

「なかなか凝ったモン出してんだな、この店」

「店主が一風変わった方でもあるからね。なんでもこの紅茶のために自家栽培した葡萄の皮を使っているとかなんとか。そこまで拘っていれば、自ずと味は保証されるというものさ。茶葉自体もセイロンの厳選品のみに限っているらしいとのことだよ」

「相変わらず美食家《グルメ》なヤツだな」

「出来得る範囲での最善を期して今生を謳歌しているだけさ」

 カップ一杯の紅茶――そこに纏わる来歴をここぞとばかりに解説しようとするジョルジュに皮肉染みた言葉を投げるも、それはあっさりと肯定される。

 この一連の会話だけ切り取ってもそうだが、貧乏が身に染み付いた俺やミゲルなんかとは異なり、ジョルジュはいかにも貴族の出らしい享楽性を垣間見せる瞬間がある。
 たとえば料理や酒に対して。たとえば服や装飾品に対して。はたまた――。

「生を謳歌すんのはいいが、痴情の縺れだなんだで女に刺されねぇように気をつけろよ」

 その享楽性が無機物や意思を持たない有機物へと向かっている分には問題ない。それらはただ消費され、使い潰されるだけの存在なのだから。
 ただし、問題は意思を持った有機物――女という対象もジョルジュの享楽性を示す一端になっているという事実であり、この男がそのことに対して些かの疑問をも感じていないという部分だ。

「まさか。痴情の縺れなど生んでしまわないように気を遣うことも、男にとっては恋愛の一部さ。自分でこう言うのも僭越かもしれないが、僕はその辺りに関して抜かりなく対処していると思うよ」

「お前いっぺん刺されりゃ面白ぇのにな」

「ははは、自分が播いた種から生じた災いであれば、それはそれで受け入れるさ」

 やっかみ成分と呆れ成分とを混合した感じの俺の返しも意に介さずとばかり、ジョルジュは爽やかな笑い声を上げる。こうやって一笑に付している姿を目にすると、コイツの“遊び”とやらが健全な類のそれとして認識されそうになってしまうのが不思議だ。
 いや、言ってること自体は紛れもなく最低なんだけどな。

 だけど、遊びの巧いヤツってのは、概してこういうもんなのかもしれない。
 己と他者――二つの生の交錯についての割り切りがある。
 普通なら一度絡み合った糸ってのはそう簡単には解けなくなってしまうもんなんだろうが、ジョルジュなんかはいとも容易く結び目を解く。爪を立てて糸を傷付けることもなく。まるで、それが永久に続くものではない、というのが事前の決定事項であったかのように、極々当たり前に。

「まぁ俺にはどうやってもお前の真似は出来ねぇなぁ……」

「そうかい? そんなことはないと思うけれど?」

「超フェミニストなんだよ、俺は。なんなら、テメェんとこの官舎の前で抗議のデモ行進でも動員してやろうか? 女を弄ぶな、女性の人権を守れ、とか言ってよォ」

「ハハッ、面白い冗談だ。是非に見てみたいね」

 そんな軽口の応酬を交わしながら、カップを持ち上げる。
 怪我を負っていた両拳は完治が近いというお墨付きを医者から貰ったばかり。流石にもう骨はくっついたんで、大袈裟に布巻いて固めておく必要もなくなった。
 だけど、こうやって何かを握る時になると、違和感が残っていることも確か。多分握力が落ちちまってるんだろう。
 出来る限り速やかに元のレベルに戻すためには、自主トレを少しばかり増やす必要があるかもしれない。

 そんなことを考えながら口を窄め、赤銅の液体に息を吹きかける。水面に穏やかな波紋が生じて、それは方円状にゆっくりと広がりながら揺らぎ。細く棚引く湯気と一緒に立ち昇り鼻腔を刺激したのは、過ぎ去りし秋の残り香。
 カップを傾け、唇を湿らすようにしてゆっくりと紅茶を口に含む。俺の舌レベルでは紅茶の味なんて高尚なモンが判別できるわけもないが、しかしリラックス効果があることくらいは現在進行形で実感する。なんつーか、気分が穏やかになるっつーか、まぁそんな感じ。

 でもって、そんなリラックス気分に誘われたってことだろうか?
 対面で優雅に茶を楽しんでいる優男に対し、普段より少しだけ踏み込んだ恋愛絡みの話題を切り出したのは。

「つーかジョルジュ、お前そうやってフラフラ女替えて遊び回ってていいのか? 本命に愛想つかされたらどうすんだ? アイツそういうの大嫌いだろ多分」

「……ん?」

 俺の意外な切込みを受けてか、ジョルジュのヤツが一瞬だけ素の表情を形成した。まるで、問われた事柄の意外性に着いていけないとでも言いたげな、心中の疑問符がそのまま表に出てきているかのような表情。
 だが、そこはさすがにジョルジュ。一度だけ目瞬きして、あっという間に応戦準備を整えたみたいだ。

「いかにもドザエモンらしくないね、こういうのは。一瞬君にミゲルが憑依しているのかと疑ってしまった」

「想像するだにおぞましいから冗談でも止めてくれ」

「いや、君が他人の恋愛事情に首を突っ込むなんて、実に珍しいことじゃないか。これは僕との間に友誼あるからこそだと考えてもいいのかい?」

「ダチかダチじゃねぇか、の二択で訊かれたら、そりゃダチだって答えるだろうな。つーか、んなことはどうでもいいんだよ。男同士で友情を確かめ合うなんてのは普通にキモイだろうが」

 俺にとってジョルジュが友人だってのは当然の話だ。
 ただ、だからといって、チョクで口に出して相手に伝えるようなことじゃない。

 ジョルジュは俺の言葉を受けて、黙って机上の陶器に手を伸ばし。
 優美にして滑らかな挙措を以て口元へ静かに運び、ゆっくりとカップを傾け穏やかな仕草で茶を一口飲み下す。
 然る後、一つ小さな息を吐き、中空へと視線を彷徨わせながら――。

「君が誰を指して僕の『本命』と称しているのか確実ではないけれど、それがもし“彼女”のことを指しているのだとするならば――」

 そこで一度言葉を区切り、視線の照準を俺に向けて合わせる。

 眼光は穏やか。
 語調も穏やか。
 だけど両者に共通するのは、その深奥に潜んだ荒ぶる情熱。

「率直に言って、僕の女性関係は軽蔑に値するものであると認識されているだろう。“彼女”は少しばかり潔癖症の気があるし、軽佻浮薄な男なんて大嫌いだろうからね。それは僕が改めて証言せずとも、君もよく知っているだろう?」

「まぁアイツはそういうヤツだろうな」

「そこが彼女の魅力でもあるし、欠点でもある。僕はね、ドザエモン……確かに“彼女”のことを愛しているんだと思うけれど、それは僕のような男に靡かない、という“彼女”の強さも有ってこその情なんだ。だから世間一般に言うところの『本命』とは意味合いが少し違うし、ドザエモンが想像しているものとはかなり形が違うものなんだと思うよ」

「ダリィことになってんなぁ、お前らも……」

 ジョルジュの言葉を耳にして、どんなリアクションをすればいいってのか?
 そんなの俺には分かるわけもなくて、とりあえず素直な心情を口に出す。

 だが、そんな俺の“らしくない”気遣いとは裏腹に、ジョルジュには然して気負った様子もない。
 たった今の会話はコイツにとっては相当な痛みを伴うものであったろうと推測されるにも関わらず、常の如くに淡々とした表情で、粛々と言葉を紡ぐ。
 紡がれたのは、逆質問。

「その『お前らも』の『も』はドザエモンとジゼルさんのことかな?」

 半ば確信を抱いているかのような問い掛け。純粋な疑問ではなく、明確な念押し。
 まぁジョルジュのヤツには少しだけその辺のことを話したことがあるし、それを憶えてさえいれば推測するのは容易だったろう。
 だから、俺も変に誤魔化したりせず、首肯する。

「そうだね。確かにジゼルさんの位置付けはドザエモンにとって特別というか特殊というか、他の女性とは一風変わった場所に在るのは、傍から見ていてもなんとなく理解できる気がするよ。正直なところ、二人が恋人関係にない、というのが不思議でならないくらいだ」

「事情があんだよ、事情が。それも究めつけレベルにメンドクセェのがな」

 少しばかり声が荒れたのを自覚する。
 ジョルジュにはそれを気にした様子はないが、あまり好ましい態度ではないのは確かだろう。俺の悪いクセだ。納得するよう何度も自分に言い聞かせてきたってのに、こうやって改めて口に出すと心がささくれ、不機嫌を隠せなくなるってのは。

 煩悶を吹っ切るかのように、カップに残っていた紅茶を一気に喉奥へと流し込む。
 多少時間が経ったとはいえ、まだ十分に熱を保っていた液体が食道を落下していくのを感じ、胃への到達と同時に腹の中心の辺りが一瞬だけ焼けるように燃えた。
 その熱が少しだけ冷静さを取り戻させ、気を取り直すように顔を上げる。

「相変わらず無茶なことが好きだね」

「本当に好きでやってるわけじゃねぇけどな」

 微笑むようにして此方を見詰めるジョルジュの口から出た問い。
 それは紅茶を一気飲みしたという行為に対してのものか。それとも、なにか別の事柄に対してのものか。
 正直そんなのは俺にとってどうでもよくて。

「まぁ確かにお互い難儀な相手に惚れてしまったみたいだね。だけど、運がないとは思いたくないし、思うべきでもないだろう」

 殊更軽い調子で笑い、茶の堪能へと意識を切り替えたジョルジュ。

 俺はそんなジョルジュに対し――相手に悪気なんて全くないことを理解していながらも、自分でも制御の利かない妬みの情すら覚えてしまう。
 俺とジョルジュの“本命”事情――確かにどっちも難儀な相手だし、一筋縄でいくような関係でもない。
 だけどな、ジョルジュ――。

 心の裡で眼前の男に語りかける。
 声に出さないのは、俺が“愛した”女に纏わる“その事情”を他人に知られるわけにはいかないから。
 それがたとえ友人であっても、“そのこと”を聞かせるわけにはいかないから。

 お前の本命の“彼女”とジゼルとの間には決定的な違いがあるんだ、って。
 それは深くて暗い河が二者の間に隔たっているようなもので。つまりはそのくらいには二者の在り様は違っているということ。
 そして、より悲惨でより決定的でより救いがないのは――後者だ。

 過去は過去、今は今――だけど、本質的には過去は今と繋がっていて切り離せず、過去の出来事が現在進行形で反映されてしまう事柄もある。
 取り返しようのない失敗を過去の俺はやらかしてしまっていて、それがいつまで経っても消えない傷跡をアイツに残してしまっている――それだけが明確な事実だ。自らの無策が、無力な一人の人間に重たすぎる十字架を背負わせているんだ。

 相手が“運命”なんて曖昧な存在ならば抵抗することができる。否定することができる。拒絶することもできる。
 だけど“過去”とはそんな曖昧な存在ではなく、それは既に確定した事実に他ならず。
 だからこそ抵抗できない。否定できない。拒絶できない。
 “過去”なんて呪具を突き付けられてしまえば、俺らは屈服せざるを得ない。肯定せざるを得ない。受容せざるを得ない。

 なぁジョルジュ、お前らは気付いてたか?

 俺が今までおまえらの前ではジゼルの姓を一度たりとも口にしたことがないってことに。
 ジゼルも同様に人前では自らの姓を一度たりとも名乗ることがなかったってことに。

 そりゃあそうだ。
 あんな忌まわしい綴りを口に出したくなんかねぇ。絶対にゴメンだ。
 そして、その思いは俺だけじゃなくジゼルだってきっと同様。彼女にとってのそれは呪われし枷に他ならない。
 だって、それは。
 その、響きは――。

 俺らが絶対に認めたくない事実を端的に突き付けてきやがるんだから。

 そう、ジゼルが“他人《ヒト》の妻《モノ》”であるという、そんな受け容れ難い現実を――。



[9233] Chapter3 Prologue
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:8b7072b8
Date: 2010/02/07 21:10
 海面の凹凸が陽光を反射しながら眩い点滅を繰り返している。それは舳先で水面を眺めていた自分の両眼を灼き、視界に感じるのは鮮烈な明滅。
 白、黒、白、黒――短い間隔で交互に訪れる両極は、膨大な水量と強烈な光量とが相討ち、鍔迫り合りあった結果としての産物だ。

 暫し目蓋を閉じて、闇の世界へと己の意識を閉じ込める。
 五感の一つを遮断されたことにより、残された四感の機能が上乗せされ、それらは様々な情報を自分の中に取り込まんとばかりに稼動する。

 潮の香り、潮騒の音、海鳥の声。
 口蓋に飛び込んでくる飛沫からは強烈な塩の味がして、我知らず眉を顰め。
 そして、自分の身体を足下から揺り動かす大自然――そこに宿る生命の胎動に、期せずして童心を躍らせる。

 そのまま海風を感じながら、暫し自ら作り出した闇の中に佇んで。
 然る後、ゆっくりとその世界への別れを告げ、光の国との境界線を跨ぐ。

 まず最初に感じるのは、眼窩を刺すような白の奔流。光の粒子が視界一杯を無数に飛び交い、自分の世界を余すところなく塗り潰す。敵国を蹂躙する尖兵たちのように、その版図の全てを電撃的に侵略せんと。
 その苛烈な攻勢に耐えながら、徐々に自らの内へそれらを取り込んでゆく。白一色だった世界が鮮烈な色化粧を纏い、その原風景を取り戻し始めた。

 青。
 視覚を取り戻した自分の世界を埋め尽くしたのは、それ。先刻までの眩いばかりの白に取って代わったのは、一面に広がる青色だった。
 いや、正確には単一色ではない。それは二種類の“青”だ。

 天蓋を彩る紺碧。水面《みなも》を色づける薄藍。
 前者の碧《あお》には透明感を。後者の藍《あお》には力感を。
 それぞれに抱く印象は異なれど、それらはやはり双方共に“青”なのだ。

 水平線の彼方――視界の果てでその両者が溶け合っている。
 それを凝視しているうち、自分でも意識せぬままに溜息が漏れた。それは慨嘆の息ではなく、驚嘆のそれであり、また感慨のそれだ。
 ただ、美しい、と。
 眼前に広がるパノラマ――人工的に作り出すこと能わぬ情景に、己が身の矮小を実感する。

 今この瞬間。
 俯瞰した刹那を切り取れば、自分たちは世界に於ける“異物”なのだろう。
 やはり、ここは本来的には自分の領域ではない。我々は常に一時《いっとき》の訪問者。叡智を結集して組み上げられた木の板へ身を乗せ、主人の望むままにたゆたい、時にその逆鱗に触れ翻弄されるのだ。
 家人の姿――波間に踊る銀鱗を眺めながら、そんな埒もないことを思った。

 海の上は自由だ、と船乗りたちは言う。
 そこでは陸《おか》の論理も倫理も通用せず、それらに縛られることなく生を謳歌し、実感できるのだ、と。
 なるほど彼らにとっては、そうなのかもしれない。多数の人間が集う場所には例外なく規則や慣習が存在し、それに馴染めない者たちを容赦なく爪弾く。その論理に適合できない者たちからすれば、それらの及ばない場所を居心地よく感じるのは当然だ。
 翻って、ここでは――洋上では、彼らこそが規則の制定者であり、慣習の口伝者なのだから。

 ならば、自分は――武の誉れ高きフランシスカ・アヴェイロ・ポラスはこの世界を如何に評そう。
 在るべき正答に、自分は未だ辿り着けないでいる。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「ご報告致します!」

 舳先にて思索に耽っていた自分を現実へと引き戻したのは、唐突に耳に飛び込んできた連絡役の部下の注進の声だった。
 海上の方へ向けていた身体を船尾の側へと反転させ、一つ頷くことによって続きを促す。

「見張台よりの報告! 左舷後方約三海里の海上に国籍不明な複数の船影を確認! 指示を願います!」

 部下の口から齎された内容は、自分の予測の範疇に含まれていたものではあった。
 今の自分たちは“彼ら”にとってさぞ非常に魅力的な餌に映っているだろう。その為の出帆であったし、その為の偽装でもある。
 予期していたタイミングよりも遅かったが、相手も愚者ばかりではない。ああいう輩は損得や利害に関して本能的な聡さを有している。遠間より観察しながら彼我の力関係を推し量り、それに応じた対応を選択するくらいの知恵はあるのだ。

 相手が己より強いと見れば、一戦交えることすらなく見切りを付け、次の標的を探しながら洋上を再び彷徨うのだろう。
 しかし、相手が自分たちより弱く、そのうえ莫大な利を抱えていると見て取れば、彼らは容赦なく牙を剥く。傷ついた獲物に対する猛禽の如く、勇躍して襲い掛かり、その全てを我が物にせんと考えるのだ。

 それが海に生きる賊の論理。
 強きに諂い、弱きを挫く――倫理としては落第だが、論理としては及第点。
 彼らが彼らとして生きるため、という前提がある以上、そのことを遮二無二否定しても致し方あるまい。

 だが、自分たちは――自分たちだけはそんな無法に迎合し、また屈するわけにはいかない。
 なぜなら、我々はマディラ総督府直属の近衛騎士団であるからだ。

 片膝を着いて、自分の判断を仰いでいる部下に対し、静かにゆっくりと言葉を紡ぐ。聞き漏らしや聞き違いなど万一にも起こり得ないよう、噛んで含めるようにして。
 焦るにはまだ早い。猛るにもまだ早い。
 為すべきは、現時点での最善を選択し、それを集団として共有すること。

「総員に戦闘準備、乗船中の非戦闘員には船室への退避を指示。見張役には引き続き船影の動きを注視し、情報収集に当たるように。後続の軍船や商船に対しては、狼煙を上げて警戒を促せ。以上速やかに周知しろ」

「総員戦闘準備、非戦闘員の退避、見張役は任の継続、後続船団へは狼煙にて警告――以上を速やかに周知伝達」

「よし。急げ」

「はッ! 畏まりました!」

 自分の命《めい》を復唱する部下に対してその内容を肯定し、事態への対処を急がせる。
 一礼と共に足音が速やかに遠ざかっていく。必要以上に焦った風でもなく、ただ単純に己に課せられた役割を過不足なく果たそうとする後姿。それを見ながら頼もしさを覚え、確信に至る。

 自分たちは精強だ、と。
 そこが陸上であれ海上であれ、どんな場所でどんな相手と鉾を交えようとも、最後に勝鬨を上げるのに相応しいのは、自分たちだ、と。

「近衛騎士団総員、戦闘準備ッ! 海兵団総員は戦闘態勢を整えた上、現在の任を継続ッ!」

 船尾の方向から部下の大声が響き渡る。
 それに呼応して、あちらこちらから上がる了解の声と、此処其処で金属の擦れる不協和音。そこには若干の慌しさを含みながらも、決して焦燥や恐慌といった類の色は載っていない。
 これでこそ自分の部下たちだ。あの御方にお仕えし、その安全を守るという栄誉に浴するに相応しい。

「非戦闘員は総員速やかに船室へと退避せよ! 手隙の海兵団員は後続船へ警戒の狼煙を上げろッ! 繰り返す! 近衛騎士団総員、戦闘準備ッ! 海兵団総員は――」

 命令を復唱する響きを耳朶に感じながら、自分もゆっくりと船尾へと歩を進める。

 速やかに帯剣と着鎧を終え、静かに事態の推移を窺っている部下たちの姿。無駄口を叩くことなく、所定の警戒態勢を確実に守っている。漂う緊張は決して負の意味でのそれなどではなく、完璧な按配で正のベクトルに向いていて、自分の確信をより一層補強してくれた。
 頭上を仰ぎ見れば、海兵団員たちが操帆の任を交代しながら、着鎧に入り始めている。彼らはこの航海の期間だけ一時的に自分の指揮下に入っている連中だが、そのことから生じる下手な危惧はどうやら文字通りの杞憂に終わりそうだ。

「狼煙点火ッ!」
「点火を確認ッ!」

 海風に流されて掠れ気味の遣り取りから暫く。
 船尾より燻るような白煙が立ち昇り始める。左右に揺らぎながら、ただ天頂を指向して不可視の螺旋階段を駆け上がる模糊とした白灰色。
 上空に逆巻く強風に煽られ、時に掻き消されながらも、遠くない未来にそれらは量の論理で以て空に己の存在を誇示するだろう。

 陸と海では勝手が違うとはいえ、この船の多くは戦うことの専門家。
 ならば、こういった際にどのような行動を取り、どのように平静を保つべきかも理解している。
 自分が叱り付けなければならないほどに未熟な人間など、この航海に臨む者たちの中には一人たりとも居ないのだ。

 眼窩に飛び込んでくる光景に満足を覚えながら、自分も船尾へと向かう足を少しだけ速めた。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「先の伝令が聞こえなかったのか、貴様? そのような場所で一体何をしている?」

 恥ずかしながら、前言に関しては速やかに撤回させてもらうとしよう。いや、撤回ではなく注釈で寛恕いただけるならば、そちらの方がより正確かもしれない。
 一人だけ――船内にただ一人だけそのような不逞の輩が存在した。

 “その者”は船縁の上で外向きに腰を掛け、大洋の上空で両足を所在無く揺らしながら、水平線の彼方へと視線を這わせていた。
 常識で考えれば、そのような危険な行為自体が言語道断。横波を受け、船舶が少しでも大きく揺れてしまえば、確実に海中へと落下。そのまま海の藻屑と消えてしまうだろうことは想像に難くない。
 そして“その者”がこの航海に同行している理由が、そのようにして無駄に命を散らすためでないことだけは少なくとも確実だ。

 思わず詰問調になってしまった自分の言に反応したのだろうか?
 “その者”――ドザエモンなる名の近衛騎士は、首から上だけを捻って自分の姿を視界に捉えようとする。船縁と彼の臀部――その不安定な接触面が更に面積を小さくし、まるで無謀な曲芸を見せられているような気分だ。

「つーか、あんだけ大声で喚かれて聞こえないわけがねぇだろうが。アンタは俺の耳がイカレてるとでも思ってんのか?」

 いつも通り。
 そう、いつも通りに横柄で。いつも通りに不遜で。
 そして、いつも通りに尊大な応答。

 その言葉からは真摯や真剣などといった事に臨んでの武人らしさなど微塵にも感じられず。
 そこに在るのは、周囲を睥睨しながら、そこで動いている者の様を卑下するかのような無関心。
 己と他の間に防衛線を引き、外側の干渉を頑なに拒むかのような――そんな無頼染みた反抗心。
 瞳は見るべき物を本来的な形では映さず、耳は聴くべき音を本質的な意味には解せず、身体は動かすべき動作を根本から拒絶して行わず。
 それらから透けて見える彼の本質は――我在る、のみ。

 その在り様を解することなど、とうの昔に諦めたはずだ。
 打てども打てども響かない――そんな鉄石を鍛える努力など無駄なのだ、と。
 磨けども磨けども輝《ひか》らない――そんな金剛石を削る努力も無駄なのだ、と。

 だが、頭では理解していようとも、心がそれに納得しない。
 理の部分を肯んじたとて、情の部分がそのことを否する。
 認識の狭間で揺れ動く相克《アンビバレンツ》――それに相応しい対応を今でも模索し続けている。
 飽くることなく、性懲りもなく。

 だから、自分は口にする。
 それが不毛であると、何物をも生まないと薄々分かっていながらも、ドザエモンなる“部下”に対して“上役”たる毅然を貫いてしまう。

「聴こえていたのならば、なぜそのように手持ち無沙汰な体《てい》を晒している? 状況が理解できていないというわけではないのだろう?」

「敵さん発見、てとこだろ? そりゃ分あってるよ、そんくらい」

「ならば、その事実と自らの立場を鑑みた上で、如何なる行動を取るべきかも分かっているな?」

「分かってるから、こうやって海風に当たりに出て来てんじゃねぇか。じゃなけりゃ、わざわざ寒い思いしに船室から出てきたりはしねぇって」

「それが貴様の為すべきことだと? 同輩が即応体制で待機している姿を横目に、我関せず風に吹かれていることが貴様の今為すべきことだと? まさか本気でそのような戯言を口走っているのではあるまいな?」

「おう。そうだけど、なんか悪ィのか?」

「――愚か者がッ!」

 忍耐の限界に達し、激情が噴出した。
 その激情は怒声へと形状を変じ、眼前の対象へと突き刺さる。
 自分でも情けないとは思う。感情の抑制とは、軍人にとって必要不可欠な心得の一つ。それを容易く覆してしまった辺りに、自身の未熟を痛感せざるを得ない。
 しかし――。

「冗談を言っているつもりなら口を慎め! 自分への中て付けのつもりならば、今この時だけでも改めろ! 本気で口にしているのならば、貴様は最早救いようのない屑だ!」

 彼にとって肩を並べてきた同僚――自分にとっての大切な部下たちを危険に曝すような真似だけは、自分には決して看過できない。そのような無道が許容される世界など自分は知らない。軍人としての在り方以前に、人間として吐いてはならない言葉や取ってはならない態度というものがある。
 自分が他人に比べて頑なな性質《たち》であることは確かではあろうが、しかしこの場合には自分の言い分こそが絶対に正しい。

 我知らず――剣の柄に右手を掛けていた。
 一瞬だけ、本気で斬り捨ててやろうか、という思いが頭を過ぎる。
 今までこの男と接してきた中で、何度も憤激し、幾度も鉄拳を振るったことがある。しかし、剣を抜いたことは一度しかないし、心底からの殺意を抱いた記憶など皆無。
 だが、今回は――今回ばかりは通常の制裁行為では不十分だ。こんな身勝手を許せば組織などいとも容易く瓦解してしまうであろうし、なによりも自分の怒りが収まらないだろう。

 一種の脅迫とも表現できる示威行動――剣の柄を握り締め、憤怒の視線を送っているだろう自分に対し。
 ドザエモンは何を思ったのか、一つ見下したような笑みを浮かべる。自分の気持ちを逆撫ですることを第一目的にしているかのような、そんな下劣で悪辣な笑み。
 そして、理性の決壊寸前でなんとか踏み止まっていた自分へと、投げ遣りな言葉を投げ返してきた。

「外敵とのドンパチ前に内ゲバってのは、由緒正しき負けフラグだぜ? 指揮官のアンタがそんな真似してんだったら世話ねぇな。さっさと尻尾巻いて逃げた方が百倍マシだ」

「自分の非才は十分に認識しているが、貴様に指揮官としての心得を説かれる道理はない」

「ま、そりゃそうだろうなぁ。俺だってそう思うし。軍略家《タクティカー》としても煽動家《モチベーター》としても一流のアンタに俺がこんなこと言うってのは、僭越を通り越して傲慢。つーか平たく言やぁ『身の程知らず』ってなトコだろうさ」

「過分な賛辞など要らん。だが仮にそうであると貴様が認識しているのならば、なぜ――」

「だけど、だ。アンタ最近ちょい勘違い入っちまってねぇか? 勘違いが嫌なら、若年性健忘症とでも言ってやろうか?」

 眼前の男が纏っていた緩い雰囲気。
 それが、その一言と同時に霧散し、内側から淀んだ澱のような瘴気が吹き出してくる。彼の本性であり、本質であり、最後に目にしてから久しい“それ”が、自分に向けて放たれるのを幻視した。

「“あの時”にお姫さんとアンタは俺に向かってなんつった? 忘れてるってんなら、思い出させてやってもいいぜ?」

「…………」

「そりゃあどっちのダンマリよ?」

「…………」

「俺はアンタらとの約定に従って、与えられた権利を行使してるだけだ。いつの間にかアンタが勘違いしちまってるみたいだから釘刺しておくけどさぁ、アンタにゃ俺に“命令する”なんて権利はなかったはずだろ? 勿論カタリーナにもそんな権利はねぇよ。アンタらと俺の関係ってのは相互利用でしかねぇんだから、“便宜上”を勝手に“実質上”に置き換えられんのはちょっとばかり困るぜオイ」

「…………」

「俺は、俺だけのために、俺の思うように生きる――それが気に食わねぇし、あんな約定は反故にしたいってんなら、好きにすりゃあいいさ。わざわざ本番前に剣の錆を増やす必要なんてねぇ。両手で軽く突き飛ばすだけで、すぐにアンタの望みは叶うだろうよ」

 それっきり興味を失ったかのように外海へと向き直った背中が遠い。
 遠くて、遠すぎて、届かない。彼が薄紺の海を凝視しながら何を考えているのか、そんなことも分からなくなった。

 反駁の言葉は出て来ない。探す気にもならない、というのが、正直な気持ちだ。
 剣の柄から手を離し、呪わしい気分に苛まれながら、眼前で剣呑を隠さない“部下”の姿を双眸にて射る。
 そこに見たものは、棘。そこに在ったのは、針。

 甘かった、と。
 最初に浮かんできたのは、そんな心情。
 これまでにも何度も何度も、それこそ数え切れないほどに期待して裏切られ――であれば自分がこの男に対して向けてきた全ては一握の砂粒ほどにも意味を成さなかったのか、と。

 諦観など生易しい。
 それは紛れもない無力感。

 人にとって獣とは理解の及ぶ外側にあり、それを飼い慣らそうと足掻いても――結局獣は獣でしかない。
 人語を解することはなく、人情に絆されることもない。その行動原理はいつだって自らを中心とし、他者に譲歩することなど有り得ない。
 組織に帰属意識を覚えることなどなく、都合が良いという理由だけで漫然とその場に籍を置いているだけで、結局のところそれ以上でもそれ以下でもなく。所属組織の維持という他人事などに心砕くような脾肉は身体中どこを探しても見当たらない。

 自分はそんな“獣”を変えたかった。
 至難であると分かってはいながらも、少しでも。本当に少しでもいいから、変えたかった。
 努力を惜しんだつもりはないし、最近では僅かずつでもその成果が上がっているようだ、と。
 そんなことを思ってすらいたのだ。

 朝早く起床して、毎日規定の時間には詰所へ顔を出すようになった。
 友と呼べそうな仲間たちとつるみ、楽しそうに騒いでいる姿を見た。
 自ら進んで、というわけではないが、気付けば人の輪の最外縁へと身を置いているようになっていた。
 口調は相変わらずぶっきら棒なそれではあるが、ふとした瞬間に隠された優しさを感じさせる言葉があった。
 態度は素直ではないが、カタリーナ様の命令に従い、マディラという島を守る任を身体を張って成し遂げた。

 ならば、仮初の“部下”を覆っていた分厚い氷は溶け始めており、遠くない未来には近衛という役割に誇りを持ってくれるのではないだろうか、と。自らの意志で同僚たちと轡を並べ、慈しむべき民の安寧を脅かす敵を打ち払うようになってくれるのではないか、と――。
 そんな風に無邪気な喜びに浸っていた自分は愚か者だ。
 自分に都合のいい妄想を現実に重ね合わせ、一人悦に入っていただけの大馬鹿者だ。

 瞼を閉じる。
 あらん限りの力を篭めて。眼球が圧迫され、瞳の奥が痛みを覚えてしまうほどに。
 唇を噛む。
 歯が皮を突き破り、不快な鉄錆の味が咥内に広がり、吐き気を催してしまいそうであったとしても――今はそうせねばならないのだ、と。

 自分はフランシスカ・アヴェイロ・ポラス。
 マディラの民を守る者。偉大にして敬愛たるカタリーナ様の一の部下にして右腕。強きにして、より強く在るべき者。
 ならば――。

 “この程度”の思い違いで稚児染みた感情の発露は許されない。
 “その程度”の見込み違いで涙を流すなど以ての外だ。

「…………」

 言葉を振り絞ろうとしても、やはり何一つとして相応しい台詞は見つからず。
 ただ黙したままで踵を返し、内心の葛藤を振り切るように紺碧の空を見上げながら、その場を後にすることしか出来ない。

 天蓋を染める碧。
 その手前では不安定で不確定な白が曖昧な有形を以て流れている。
 二つの色が空という一枚絵に多彩な表情を与え、画布上に描かれる情景は間断なく姿を変じ、一時たりとも同形に留まることはない。
 そんなあやふやな対比が目に沁みて、滴が一つだけ頬を滑り落ちたのは――。

 きっと自分の裡に残っている“弱さ”なのだろう。

「ああ、それと言っとくが、いざドンパチ始まったら俺もいつも通りの仕事はしてやるから、心配すんな。なんせどんだけ人ブン殴ってもお咎めなしって得難いシチュエーションなんだ。むしろいつも以上に働いてやるさ」

 船尾への歩みを再開した自分に対し、背後から掛けられた声。
 そこには幾許かの高揚が含まれており、戦力上の都合を考慮すれば、そのこと自体は指揮官として歓迎すべき事柄であったのかもしれないが。
 今の自分にとって僅かばかりの喜色すら齎さず、微塵たりとも士気に繋がることもない――そんな単なる“音”にしか成り得なかった。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「……セスカ?」

 肉眼でも存在を視認できる距離へと接近しつつある船影に絶えず目を配りながら。
 火力皆無な現状から導かれる選択可能な戦術の少なさに臍《ほぞ》を噛んでいた――そんな自分の意識を引き上げたのは、聞き覚えのある声による一つの遠慮がちな問い掛けだった。
 
 反転し、視線を下向きに落とす。
 そこにあったのは予想に違わぬ少女の矮躯だった。

「非戦闘員は船室へと退避するよう勧告が為されていたはずだが?」

「えと……ごめんなさい……」

 彼女がどんな思惑を持って自分に声を掛けてきたのかはいざ知らず、この状況で甲板をうろうろしているのは流石に拙い。
 一度戦端が開かれてしまえば、戦闘員と非戦闘員の別は問題にならず、傷付けられる可能性が皆無であるとは断言できないのだから。ましてや今回の相手は、理性的な思考をするわけでもなく、弱者を慈しむ情などは持ち合わせていない。むしろ嬉々として襲い掛かってくるような類の人種だ。

 ならば、自分の返答に険が篭ってしまったのは、至極当然のことで。
 心中の煩悶を処理し切れぬまま、他人と顔を合わせることへの忌避感に発したものではないはずだ。

 そんな自己弁護を繰り広げる自分の眼前、少女は身を縮こまらせながら頭《こうべ》を垂れる。
 そのような反応をされてしまえば、自己弁護は自己嫌悪へと姿を変えてしまい、しゃがみ込んで目線を合わせながら慰めの言葉を掛けてしまうのは、仕方のないところだろう。

「いや、自分は怒っているわけではない。ロサの身を案じているだけなのだと理解してくれるか?」

「うん。セスカは正しいことをする大人だから」

「正しい、か……」

「そうだよ。セスカはいつも正しいし優しいんだよ?」

 少女は邪気のない笑顔で、邪気のない言葉を紡ぐ。
 黒茶の瞳に浮かんでいるのは、自分に預けられるには不釣合いに思えるほどの、全幅の信頼。
 それが少しだけ罪悪感を刺激する。

 ロサは随分と自分に懐いている。
 その理由は自分にも判然としないが、ひょっとしたら師弟の絆のようなものを感じているのかもしれない。彼女に計算法を教える授業は未だ継続中なのだから。

 少し浅黒い肌をした黒髪黒目の少女。それは純真無垢の体現者であり、自分にとって秘かな癒しの対象でもある。
 筆舌に尽くし難いほどの過去を負いながらも、ささやかな夢と希望を未来へと追い求め、屈託のない笑顔で現在を生きているロサ。
 その生き様は齢《よわい》など関係なく尊敬に値するものであろうし、妹分としての愛着すら最近の自分には沸いてきている。
 彼女のような存在が再び泣くようなことがあってはならない。そんな理不尽は認めるわけにはいかないし、いざとなれば自分の力を以てでも払い除ける覚悟すらある。

 だからこそ、今回の航海にロサが着いて来ることについて、自分は最後まで反対の立場を崩さなかったし、その過程に於いて危険性を懇切丁寧に説いてみせたつもりだった。外洋へ漕ぎ出すというのは只でさえ難破の危険が付き纏うのに、今回のそれは海戦に発展する可能性すら孕んでいるのだ、と。
 しかし、ロサは頑として譲らず。挙句、自分が知らない間に周囲の人間を味方に着けて、済し崩し的に自分が首を縦に振らざるを得ない状況を作り上げたのだ。それは見た目の無害さからは想像も付かないような、実にしたたかで鮮やかな手際だった。 
 結局、彼女には二点三点言い含めることと引き換えに同行を許したのだが、そこには自分の手の届く範囲にいるのならば守り切れるという自負あったからこそ。自分の関知しない領域であちこち徘徊されてしまっては、守れるはずのものも守れなくなってしまう。

「にしても、よくも自分のところに来るまで誰にも見咎められることなく辿り着いたものだ。船室周りの連中は一体なにをしていたんだ……」

「あ、それだったら、みんなちゃんとお仕事してたよ。だから色んな人に見つかっちゃった」

「ならば船室に連れ戻されるのが必定であり、ロサが自分の傍にやって来ることなど出来ないはずだが?」

「そうかなぁ……? 『セスカに会いに行く』って言ったら、みんな笑って見逃してくれたよ?」

「…………」

 なるほど、部下連中に対しては後ほど説教が必要のようだ。

 ロサはこの航海の中で、騎士団員にとっての『無条件での庇護対象』という地位を確立してしまっている。それは彼女の爛漫な性格や愛嬌のある仕草に拠るところも大きいが、なによりも一人の人間としての魅力が他者の心を動かしたからであると思う。
 それ自体は自分にとっても非常に好ましいことでもあるし、彼女の師としても誇らしいことは確かではある。
 が、しかし、ロサがそういった周囲の環境に逸早く適応し、意図してか意図せずか自らの人気を活用し始めた現状を思えば、少しだけ頭の痛い気分になるのも確か。現にこうやって自分の下へと出歩いてきたことが何よりの証左だ。

 それにしても。

「こんな状況で一体何をしに来たんだ、ロサは? 見ての通り、自分は決して手隙ではないのだぞ。まさか、本当に顔を見に来ただけ、ということはあるまいな?」

 逆説的に問うてはみたが、普通にその可能性が高いというのが恐ろしいところだ。
 でなければ、この年頃に特有の好奇心の発露といったところか。
 どちらにしても少しばかり灸を据える必要があることに違いはない。

 だが、ロサの口から語られた理由は、自分の想像だにしないものだった。

「ドザから、セスカのところに行って来い、って言われたの。ジョルジュも、行って来ていいよ、って言ってくれたし」

「ドザエモンが、だと……?」

「うん、行かなきゃ部屋から叩き出す、って言われたよ?」

「一体何を考えているんだ、あの男は……」

「うーん、訊いてないから分かんない。でも、わたしもセスカに会いたかったから、その辺はどうでもいいかなって」

 混乱する。
 ロサを単身で甲板へ送り出すというドザエモンの短慮への憤りや、それに同意したジョルジュの無責任さへの不信もあるが――なによりもその根底にある意図が読み取れない。全く以て理解不能だ。
 そもそも、あの男が自分について言及した事実が俄かには信じ難い。なにせつい先刻に険悪な口論を交わしたばかりなのだ。日頃の行いから推し測れる性格に鑑みても、その一件を引き摺っているであろうことは想像に難くないというのに。

「……解せんな」

「お仕事忙しいから、迷惑だった?」

 気付けば、ロサが居心地悪そうに俯き加減に立ち尽くしていた。その様子からは申し訳なさと自責の念とが感じられ、自分の意識を否応なく切り替えさせる。
 こんな小さな子にまで気を遣わせて、何が武の誉れ高きマディラの守護者か、と。

 自嘲気味の息を一つ洋上に向けて吐き出し。
 ちょうど自分の胸の高さ辺りに位置する頭部――それを覆う少し癖掛かった黒髪を梳くようにして撫でる。
 その手触りは柔らかく、掌を滑るようにして流れた後、指間から零れ落ちて波打つ。まるで絹糸のような感触が、ささくれ立った私の心まで滑らかにしてくれるかのように。

「そんなことはないぞ。ロサが来てくれて少し気分が楽になった。ありがとう」

「え、えと……ど、どういたしまして! お役に立てて、こ、光栄です?」

 素直な感謝の言葉に面食らってしまったのか。
 ロサは必要以上に取り乱しながら返礼の言葉を口にする。
 剥き立ての果実のように瑞々しい頬を仄かに赤く染めながら、しかし両の瞳には隠せない歓喜の色を湛えながら。
 そして、不意に自分の胴に手を回し、抱き着いてくる。

「あのね、わたし、本当は少しだけ恐かったの……」

「……ああ」

 そうだろう。恐くないはずがない。
 形を為した悪意と対峙するには、その小さな手足では不足している。一度直接的に見《まみ》えてしまうようなことがあれば、それは終焉と同義なのだから。忌まわしい記憶が蘇ってしまうのも仕方のないこと。

 だが、ロサは心配する必要などない。
 小指の爪の先ほどにも身の安全を疑う必要などない。
 なぜなら――。

「大丈夫だ。この船には自分がいるのだから、ロサが恐い目を見ることなど有り得ない」

 このフランシスカ・アヴェイロ・ポラスがその存在を守るのだから。
 守りたい者すら守れないほどに零落《おちぶ》れたつもりなど、毛頭ない。守るべき者を守り抜くことなど、自分にとっては当然のことだ。
 ましてや海賊風情を相手取ってのそれなのだから、造作もない。呼吸するよりも容易く、発語するよりも簡単に、余裕綽々の体《てい》を以てロサを守ろう。

 自分の思いが伝わったのだろうか。
 ロサは抱き着いた腕の力を強めながら、首だけを後方に仰け反らせるようにして、満面の笑みを見せてくれた。まるで一輪の可憐な花――そんな陽性の生命力が愛おしい。

「うん、セスカが守ってくれるんだったら、わたし恐くなくなるよ?」

「当然だ」

 いつまでも煩悶し、懊悩し、停滞しているわけにはいかない。そのような日陰の思考は如何にも自分という存在にそぐわないし、自分にとって“据わりの悪い”理屈を無理矢理に納得しようと試みることは、無様にも逃げの算段を練っているのと同じだ。
 やはり人と人の間に結ばれる絆とは強固なもの。邂逅は縁を生み、遭遇は縁を補強し、蓄積された縁こそが絆へと変ずる。同じ釜の飯を口にし、同じ樽から注がれた酒を摂取した仲に、微塵の絆も有り得ないことなど考えられない。
 それがない、と強弁する者は、そう信じたいが故に、そう思い込んでしまっているだけだ。
 ならば全てを諦めるのは、決定的な破綻が訪れてしまってからでも遅くはないのだろう。

 自分にしがみ付いたままの体勢で、船室へと向かって引き摺られながら、喧しく抗議の声を上げる少女――その存在から改めて大切なものを教えられたのだ、と。

 そう、思った。

「ちなみに事後の説教は避けられぬということについては覚悟しておけよ、ロサ」

「あわわわわぅ……」



[9233] Chapter3 Scene1
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:8dda37f3
Date: 2010/03/17 00:52
「あああああぁぁぁぁぁ、あのカスがッ!」

 船室の壁を思いっきり殴り付ける。
 拳に走る鋭い痛みと同時に鈍い衝撃音が耳介を通り抜け、それが更に怒りを加速。まるでバカにしているかのような間抜けな音のように感じてしまい、やり場のない鬱屈が込み上げてきた。
 足を後方へと引き上げて、サッカーボールを蹴るかのようにして、壁面へと叩きつけ。
 それでも晴れない気を、最後には額に乗せてブチかます。

「だから俺はこんなアホみてぇな御旅行になんざ付き合いたくねぇって言ったんだッ! ふざけんなよクソがッ!」

 頭を揺らす衝撃に耐えながら、怒りに任せて声を張り上げる。

「大体よぉ、テメェは何様だってんだよ、クソ忌々しいッ! なんだあの上から目線はッ!? 俺はアイツの家来か!? 奴隷か!? 家畜か!? ふざけんな、マジふざけんな! 調子に乗るのも大概にしやがれってんだ! 絶対ェいつかブッ殺してやっかんなッ!」

 怒りが収まらない。
 さっきは他の騎士たちの手前、冷静な対応を演じてみせたものの、心中は完全に荒れ狂っている。あれは、戦闘前に士気を下げるまい、という俺なりの配慮の成せる業で。それこそ俺にとっては最高レベルの忍耐を動員した結果でもあって。
 だけど、それが限界。そこが極点。
 理不尽に責められて平静を保つことができるほど、俺の気は長くない。そんな聖人君子になったつもりはないし、なれるとも思わない。

 視線を左右に巡らし、そこにある角卓と椅子が目に入った。年代を感じさせるような黒ずんだ木製のそれ。
 考えるより先に身体が動き、椅子を手に取って頭上へと振り上げる。コイツを壁に投げ付けてしまえば、背や足の部分はきっと木っ端微塵に砕け散るだろう。それは公共の財産を一つ棄損する行動に外ならず、一人の人間としては下の下、それこそ最低の行いなのかもしれないが――。

「んなこと俺の知ったこっちゃねえっつーんだよ、ボケがッ!」

 投擲。
 激突。
 反響。
 破砕。
 落下。
 そして――静寂。

 跳ね返った木片がはらはらと。薄汚れ黒ずんだ白にはその残滓がこびりつき。
 処女航海へと旅立った時代には、染み一つない白亜を纏っていたであろう船室。今は手垢に塗れ疲れ果てた老境の如き内壁に、枯れ果てた樹木の寿命が描かれてしまっている。
 そこに垣間見えるは、時の流れの儚さ。

 その無常溢れる様が、突沸状態にあった思考を少しだけクールダウンさせた。
 隔絶された個の世界――その外縁に存在していた不可視の障壁が、不可聴音を伴い崩落する。

「さてと……そろそろ気は済んだかい、ドザエモン?」

「あーそういやお前居んの忘れてたな……」

 その瞬間を待っていたかのように背後から掛けられる平坦な音。その響きに何とないバツの悪さを覚える。
 ジョルジュの存在を完全無欠に失念していた。良識の残り滓を振り絞りながら船室へと辿り着いた時点で、思いっきり意識が反転しちまってたんだろう。
 自身の未熟を曝してしまったようで気恥ずかしくもあり。また、眼前で悲惨な様を晒している椅子の残骸を見て、罪悪感にも似た情が涌き上がる。

「……王都着いたら、新しい椅子買ってくるわ」

「そうしてもらえると出納役を預かっている僕としても幸いだ。公儀からの資金も決して余裕があるわけではないしね。それにしても、これまた随分な荒れ具合だったじゃないか」

「悪ィ。自分で言うのもなんだが、パーペキ周り見えなくなっちまってたな……」

「まぁ確かに物に当たる行為というのは決して褒められたものではないけれど、それでも人に当たるよりはずっといいさ。ロサちゃんに場を外させたのも、悪くない判断だったよ」

「あーチビいたっけか?」

 こんな姿を年端も行かないガキに見せてしまうのは、いくらなんでも忍びない。こういう暴力的な所作がロサのトラウマを刺激する行為だと知っているだけに尚更だ。
 だけど、さっきまでの俺にその辺を判断する余裕があったとはとても思えず。とにかく自らの鬱憤を爆発させることが第一優先事項であったわけで。
 であれば――。

「ジョルジュが避難させてくれたんだろ? サンキュ。助かった。さすがにこんな光景をチビに見せるわけにはいかねぇからな」

「ははは、本当に記憶から抜けてしまってるんだね。いや、むしろ無意識下の制御が働いたとでも言うべきかな。『フランシスカのトコに行かなきゃ叩き出す』なんて怒鳴りつけて追い出してたじゃないか。ロサちゃんが一目散に逃げ出しても無理がないくらいの鬼の形相でね」

「マジか……? 全然覚えてねぇや……」

 そんな記憶はまったくない。
 リミッターが完全にぶっ壊れた――そんな極限の興奮状態の中で、それだけの賢明な判断を俺が下せた、というのも俄かには信じ難い話だ。なんせ分別なんてモンはどっか吹っ飛んじまってただろうし、そのことは拳と額に残る痛みと床に散乱した木片とが圧倒的な説得力を以て証明している。

 いつものことといえば、いつものこと。
 そう割り切れてしまえる程度には、俺は“俺”という存在と付き合ってきたし、理解もしているつもりだ。

「いや、ロサちゃんを外に追い出したのは、確かに君さ。血走った目をして、爆発寸前といった感じの体《てい》ではあったけれどね。残念だけど、僕にまで気を遣ってくれる余裕もなかったみたいだ」

 軽い含み笑いを浮かべるようにしながら、少しだけ揶揄するかのような調子でジョルジュが告げる。
 それは俺の心中に渦巻く疑念を払拭せんかの如くに染みて、ひたすらに重苦しかった気をちょっと軽くしてくれた。

 が、そんな安穏も長いことは続かず――。

「それにしても……ドザエモン、君は『一蓮托生』という言葉を知っているかい?」

 きっと俺が荒れていた理由なんて、この男にはお見通しなんだろう。
 半ば呆れたような、諌めるような――しかしながら、いつもの通りに迂遠な問いが飛んでくる。

「ああ。なんとなくだけどな」

「そうか、それは幸いだ。だったら、その意味を踏まえて現状を考えてみてくれないか? 君やフランシスカや僕、その他大勢の人間が一隻の船の上で航海の途上にある、ということ。そして、その船がこの瞬間にも私掠船の攻撃に晒されるかもしれない、ということ。ならば、航海を守る、という一点に関してのみは、個人の情や利は後回しにされても仕方ないと思うんだよ」

「どっちかっつーと『一連托生』よりは『呉越同舟』って方がぴったり当て嵌まりそうな現状だけどな」

「どちらにしても変わらないさ。ここは大地の上じゃない。船が沈むようなことがあれば、誰も彼もが等しく同じ運命を辿ることになるんだから。その中に協力的関係が築かれていようが、敵対的関係が築かれていようが、ね」

 船室の中、ジョルジュの朗々たる調べが響いている。

「で、結局、お前が言いたいのは、あれか? 海賊連中と一戦やらかす時くらいは黙ってフランシスカの言うこと聞いとけ、ってことか?」

「命令形ではないさ。一人の無力な同船者としての懇願であり、一人のマディラ人民としての請願だよ」

「……あっそ」

 相変わらずにして物腰柔らかなジョルジュではあるが、今回の一件についてはどうやら譲歩する気がないらしい。それだけ俺の態度が目に余ってしまったってことだろう。
 そのくらいのことは俺だって薄々理解している。自分の態度がいかに周囲から浮いてしまっているのか、ということなんて、ずっと前から重々承知しているんだ。
 俺を諭しているジョルジュの言葉――その一片一片は、それこそ正論も正論なんだろう。

 だけど、だ。
 フランシスカに関して言えば、それこそ決定的に“合わない”のだから仕方がない。
 決して嫌いだというわけではないが、その“合わない”部分ってのが“人間同士”としての相性だったりするから始末が悪いんだ。

 喩えるならば、白い衣をとことんまで漂白し、更に白くしようとするような潔癖症持ち。
 『清濁併せ呑む』ことを肯んじず、『清』のみを純粋抽出しようと試みる完璧主義者。
 “正しい”ことが“正しく”行われることによってのみ“正しき”世界が保たれるのだ、と本気で信じてしまっている夢想家。

 そんなの傍にいるだけで息が詰まるし。
 それになにより“あっち”での忌むべき人間とオーバーラップしてしまう。
 だったら、そんな相手を俺が在りのままに受け入れられる、なんてことはなくて――。

「まぁなんだかんだ理屈をつけているけれど、結局のところ僕は二人に仲良くしてほしいだけなのさ。フランシスカもドザエモンも、どちらも僕の大切な友人であることは間違いないんだから」

 ジョルジュにしては珍しい直截な吐露ですら、俺の心には届かない。
 言葉一つで翻意し、引っ繰り返るような関係であれば、俺とフランシスカの仲はここまで拗れていたりしない。
 それは細かな擦れ違いの蓄積の発露であって、決して昨日今日に始まった問題ではないんだから。

 だから、俺にはジョルジュに返す言葉なんてないし――。

「…………」

「まぁそうだろうね……。いつぞやのフランシスカとまったく同じ反応だ。ある一面から見れば、君たちはよく似ているよ。双方共に強情で頑固で融通が利かず、その上で有能と来ている。これが神の思し召しだとすれば、まったく意地の悪いことをしてくれるものだ」

 ジョルジュとしても、その辺の軋轢は承知の上だったんだろう。
 嘆息しながら紡ぐ台詞の端々から、予定調和の香りが匂い立っている。

「僕程度が何を言ったところで効果なんてないだろう。明日から肩組んで歩け、なんて言ったところで、無理なものは無理なんだとも思うよ。だから、過ぎたことは言わない。ただ――」

 言葉が切れると同時。
 ジョルジュの双眸が俺の瞳を射貫き、その深層へ潜り込まんと試みる。心理を引き出し、誘導し、その形を確かめんか、とでもいうように。

 俺としても、そんな不躾な視線に甘んじるわけにはいかず。
 視線を逸らす、という一種の反則業によって、その侵入を水際で阻止。内心の自由と尊厳は守られるべきだ。

「つーか、俺になにを期待してんのか分かんねぇが、人間同士の相性ってのは如何ともし難いモンだって思うぜ。それこそ個人単位での世界の在り様を変えようってな話だ」

「……みたいだね。とはいえ、大切な友人二人がいがみ合う姿を見たくない、というのも紛れもない僕の本音さ。君にも彼女にも譲れない一線が存在するのは分かる。だけど、その線を互いに一足分だけでも相手方に近づける努力――その意味を検討してもらうくらいはして欲しいと切に願うよ」

 あくまでも中立的な立場で。あくまでも他者の内心を尊重して。
 でも、自らの希望を極小化した形で申し添えて、ジョルジュは軽く肩を竦める。

 どこまでも人に優しく。
 どこまでも人に温かく。
 そして、どこまでも人を信じている。
 そんな思いが如実に伝わってくるような台詞と仕草。

 それと、同時。
 まるで相反する要素として。
 コイツは一体なんなんだ――これまでに幾度も抱いたことのある思いが改めて頭を過ぎる。

 王都の貴族の令息であり、マディラが誇る能吏。
 そこまではいい。こんなのは記号的な情報に過ぎず、その所以を問うても詮無い“事実”だ。
 だけどその事実を鑑みれば、ジョルジュのヤツが俺みてぇな気性の荒い人間に慣れているとは思えず。どちらかといえば、対極に位置しているタイプであり、貴族の連中からすりゃ眉顰められてもおかしくはないと思うわけで。
 だったら、やっぱり釈然としない。
 上流階級出身の人間が何の目的も打算もなく付き合うほどの価値が、こんな粗暴な振る舞いをしてしまう男にあるんだろうか、と。

 思い悩むのは性に合わない。堅苦しいのは苦手だ。腹の探り合いなんて面倒な遊びに興じる気もあまりない。
 だから、直截に。それはオッカムの剃刀を模した問い。

「つーか前から疑問だったんだけどさぁ、お前が俺と仲良くする理由はなんなんだ? ジゼルやミゲルあたりはまだ分かるぜ。アイツらは多かれ少なかれ俺と同じだ。だけど――」

 一旦言葉を切って。
 一つ息を吸って、視線を合わせる。そこに像を結ぶは、茫洋と笑む二枚目のツラ。
 その捉えどころのない表情を意に介すことなく、言葉を口端から撃ち出す。

「お前は俺とは全然違うだろ? 生まれも育ちも、それこそ人間としての出来ってヤツすら雲泥の差があるはずだ。それはお前だけじゃなくて、カタリーナやフランシスカもな。なんでそんなご大層なヤツらが皆して俺に構おうとする? 意味不明っつーか、理解不能っつーか、ぶっちゃけ気持ち悪ィんだけど?」

 そう、“あっち側”と“こっち側”は違う。
 世界の向こう側――それは社会的な階層という不可視の隔壁によって区切られる。乗り越えることは容易くないし、打ち壊すことは非現実的だ。そして少なくとも、そんな行為を“あっち側”が仕掛けてくるのは一層の矛盾を孕んでしまう。
 だからこそ、俺はその答えが知りたくて。わざわざ壁を乗り越えてまで“こっち側”に入り込んできた貴人たちに訊いてみたい。

 『そんなことしてお前らに何の益があるんだ』って。

 俺の注視の先、ジョルジュが薄らと目を細める。綺麗な二重瞼が重なるようにして織り込まれ、常よりも面積を減じた瞳からは愉悦に似た光が漏れ出している。
 少しだけ言葉を探し思案していたのだろうか。
 一瞬の静寂が場を支配し。だがそれは数瞬にも満たない時間を置いて、明朗なる調べに支配権を奪われた。

「奇貨置くべし――」

「……はァ?」

「と姫様は仰っていたね。彼女は多分君が思っている以上に、君のことを買っている。そして、それは僕にしても同じだ。君が自分で正確な認識をしているのかは分からないけれど、君の知識は僕たち為政者側の人間にとっては色々な意味で有用であり、また様々な意味で恐ろしいものだ。僕は時々、君が高名な哲学者か政治学者なんじゃないか、と疑ってしまうことすらある」

「いや余計意味分かんねぇし……。つか、知識以前に常識すらない野郎だぞ、俺は」

「鏡像の自分は真実の自分とは異なる、ということさ。認識上の自己は合わせ鏡の中に在る、とでも言おうか?」

「いよいよ以て訳分かんねぇじゃねぇか……」

 その言い回しは回りくどいというよりも、いっそ曖昧であると評してしまいたくなるほどの代物で。
 俺程度の頭じゃ大意を読み取ることすら至難だ。一連の示唆に含まれる意図を読み解く行程になど、とてもじゃないが至らない。

 俺のそんな反応も想定の内にあったんだろう。
 ジョルジュは一つ頷いて、埒もない思考実験へと俺を誘《いざな》う。

「耳にした状況を鑑みるに、接敵には今暫くの時間がある。僕が今、君に訊ねたいことは一つだ。良ければ付き合ってもらえるかい?」

「あー、まぁヒマっちゃヒマだからな。ホントはヒマしてちゃいけねぇらしいんだけど、別に構わねぇぜ。何が訊きてぇんだ?」

 俺の諾を受けて、ジョルジュは複雑そうな笑みを浮かべ。
 然る後、意を決したようにして問いを紡いだ。

「ドザエモン、君は“今”をどういう風に捉えている? この“時代”をどう解釈しているんだろう――その俯瞰した視座を以て、さ」





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 大航海時代――人類史の中にあって、その時代は『グローバリズムの端緒』として評価されている。
 簡単に言ってしまえば、世界の距離が縮まった時代だ。

 ボスフォラスに於いて東西に分割されていた世界は、喜望峰回り航路の発見とその発展によって直接的に結ばれることになった。それは架け橋的役割として存在していたアラビア商人たちの存在意義を大きく損ない、常に東洋の後塵を拝する形であった西洋経済の地位を押し上げたんだ。
 東高西低――それまで変わることのなかった文明的優位と劣位。それが西高東低へと逆転したのは、人類史の中で大航海時代が果たした一つの役割だろう。

 聖書と帆船と大砲。
 多神教的な曖昧や鷹揚ではなく、道徳的で倫理的で排他的――よくいえば“分かり易い”一神教の経典。それは東の一神教の実利的寛容とも一線を画しているが、特にアフリカや新大陸の入植に関しては絶大なる統治の道具となった。
 一方、それまでの大陸沿い航路の壁を打ち破ったのが、外洋での長距離航海が可能な大型帆船の出現。特にキャラック船の登場は、新大陸との搾取的交易をより効率的なものにし、莫大な富を西洋世界に齎したんだ。
 そして、西洋文明の優位を決定的にしたのが、鋳造大砲の存在。接舷しての白兵切り込みから、砲撃を主体とした海戦戦術への転換だ。軍事力というのは、いつの時代もその帰趨に関する最終決定権を持つ。そして、この“今”を牛耳るのは砲門と砲弾、そして優秀な砲兵の数だ。

「姫様から軽く聞いてはいたんだけど、やっぱり解釈としては最上級に面白いね。現在をそういう視点で眺められる、ということ自体が、それは一種の才能だよ」

「いや俺んトコじゃ、ちょっと勉強したヤツなら誰だって知ってるぞ。つーか、別に俺が考えた論でもねぇのに、そんな風に感嘆されても困る。身体痒くなってくるじゃねぇか」

 実際、俺の理解ってのは、学校で習った知識の受け売りに過ぎない。
 落書きだらけの教科書に並んだ文字――その焼き直しに“こっち”での諸々の経験からの実感を足してアレンジしただけの話だ。

「にしても『グローバリズム』か……。それは効率追求を試みた上での、多様から一様への切り換えだと理解してもいいのかい?」

「まぁ概ね間違っちゃいねぇんじゃねぇか。正確なトコはよく分かんねぇけど、俺もそんな感じの意味で使ってる言葉だし。ただまぁアレだな……。どっちかっつーと『モノカルチュラリズム』とでも表現した方が当たってるかもしれねぇな」

 文明は高きから低きへと流れる――それは厳然たる歴史法則の一つだ。
 俺が生きている“今”はその高所と低所とが位置を逆したばかりともいえる、そんな歴史の転換点。
 その趨勢は、大西洋、インド洋、地中海――そんな数多の大海の波に乗って流れ、地球上あらゆる場所の海岸線へと伝播する。

 “こっち”も“あっち”も変わらない。
 人は社会共同体の中で生きる存在であり、その中で経済活動を行う。当初は街単位や地域単位、広くなっても国家単位で満足できるのかもしれないが、人はより大きな利潤を産む方策をいつだって模索する。
 経済活動の最大効率を鑑みて、その最大単位を探ろうとすれば、やはり最終的にグローバリズムへと行き着くのは避けられない。

 確かにそれは悪いことではない。領域は広大化し、恩恵という名のパイは増加する。
 だけど、それは激ヤバイ陥穽と隣り合わせに存在する論理でもあって――。

「ドザエモンの歯切れが悪いのが気になるね。言葉通りの理解をすれば、メリットの大きい話だと受け取れるんだけれど……」

「メリットってのは、いつだってデメリットと表裏一体だ――と心の中じゃ思ってるくせによく言いやがる」

「まぁね、理想論を通すにはどこかで無理が生じるものさ。それが表にて燃え盛るのか、裏で燻るのかの違いは別としてね」

 ジョルジュの言は当たっている。
 “あっち”にいた俺は『グローバリズム』の名を借りた『モノカルチュラリズム』――その行き着く先にある世界市場経済の危険性を少なからずは理解している。
 そして、“こっち”の経済はまだ健全性を保っているものの、少なからず“あっち”の世界が陥った経済の落とし穴に近い部分もあるように思うんだ。

 その存在が――。

「投機マネー、ね……。僕の理解では少し厳しい。説明してもらってもいいかい?」

「ああ……」

 痛い話だ。
 ある意味で俺にとっては過去を抉られるのにも似た――そんな説明を求められ。
 刹那の躊躇を間に挟んだ後、極力の平静を装って頷く。

 投機マネー。
 “あっち”の経済を下支えしていたのは、それだ。
 それは正にグローバル経済の権化であって、実体経済に関与しない大量の金。インフラ関連等の実需に根差したものではなく、あくまでも虚需。
 そして、その総額は地球上から掻き集めた原資のそれを遥かに超越してしまっていた。

 預金、証券、債権――不確定性を有した“金《マネー》”が地球上全ての人間と密接に絡み合い、人々はそれに立脚して生活を営んでいたんだ。それを担保していた頼みの綱は“信用”というこれまた曖昧な概念であって――。
 であれば、だ。
 海の向こうのどこかで債権が焦げ付けば、どうなるか?

 答えは簡単だ。
 焦げ付きは連鎖し、不確定な“金《マネー》”はケツ拭くくらいにしか使えない単なる紙切れへと変じてしまう。
 国家もしくはそれに準ずる共同体が公的資金を注入しようとも、それには最終的な限界がある。どんなに誠実な政府機関であろうとも、原資を超える保護は不可能。仮に国家という存在の信用を担保にして保護したとて、結果としては潜在的な焦げ付きを乗じているのに他ならない。
 それが信用頼みの市場経済の限界なんだ。

 経済単位をグローバル化することは、リスク管理の点から鑑みれば決して良策であるとは言い切れない。
 そして俺が憂慮しているのは、“こっち”の世界でも似たような現象が起こっていること。“あっち”とは規模も違えば、動く額も違っているが、やはり手形の乱発が気に掛かってしまう。

 “こっち”での投機マネーはその大半が香辛料へと投じられている。丁子とニクズクを求め、マルク諸島へと向かい出航する船団に多額の金が投じられるのだ。
 ジェノヴァやヴェネツィアの商人たちに端を発したその傾向は、いつしか各国の元首や貴族たちの間にも広まってしまっていて。その投資が現金で行われるのならば、問題はない。
 だが実態を紐解けば、その大半は信用取引。長距離航海を伴う交易という、それ自体多大なリスクを孕むゼロサムゲーム的な投機先に、成功を前提とした利益の先食いで手形を切る。船団が帰ってこなければ利益は文字通りゼロで、その可能性が極めて大きいにも関わらず。
 端的に言って、異常だ。そんな無茶苦茶な循環がいつまでも続くわけがない。

 だが、こんな杜撰な経済活動が、西洋の有力な海洋国家では日常茶飯事に行われているのが現状で。
 だとすれば、遠からず――。

「金《マネー》そのものが完全な幻想になっちまうだろうな……」

 俺が生きていた“あっち”のように。

 そして、いつか“崩壊”する。
 そうなった時に人は嘆き、悲しみ、失望し、絶望するんだ。
 自身の財産のみならず、生命まで飲み込まれてしまうんだから――。

 所々に妙な熱が篭ってしまった俺の説明――それをジョルジュはどう聞いていたんだろうか?
 少し気拙い感じで、対手へと目を走らす。そこにあったのは、驚くほどに真剣な表情。緊張感に満ち、しかしながら興奮を隠さない瞳の輝きがそこにあった。

「驚いたよ、ドザエモン……。ああ、驚いた。それしか言葉が出てこないよ。姫様が君に拘る理由が完全に理解できた気がするさ」

「気持ち悪ィから、そういうのやめてくんねぇ?」

「ああ、ごめんごめん。にしても――」

 一転して何かを考え込むように思索の海へと飛び込んだジョルジュ。眉間に寄った皺が、その悩みの厄介さを物語っている。
 俺の話のどこにジョルジュが頭悩ます要素があったのかはしらないが、きっとどこかしら引っ掛かったんだろう。

 少しして、顔を上げたジョルジュ。
 俺へと視線を合わせ、真摯な声で問い掛ける。

「姫様に株式会社の設立を進言したのは、君だよね?」

 それは質問ではなく、確認のニュアンス。
 懐疑ではなく、確信のそれ。

「うんにゃ。いろいろ訊かれたから、こういうのあるぜ、ってレベルで答えはしたが、それを判断するのは俺の仕事じゃねぇさ。そんなのはあくまでアイツの仕事だ」

「いや、それだけ分かれば十分だ」

 要領を得ない言葉を一つ返し、ジョルジュは再度考えに耽り始める。
 その双眸は眼前の俺を捉えることなく、ただ独り何かを脳内で反芻しているかのように無貌で。

 確かに、俺は株式会社というシステムについては、カタリーナに説明したことがある。
 それはアイツが財政の遣り繰りに悩みを抱えていたように見えたから、そのスパイクとしての一つの形を示しただけで。特段に薦めもしなかったし、強要なんて出来るはずもない。

 マディラというのは小さな島だ。自己資本のみで域内経済を発展させようと試みても、かなり低い場所で限界点へとブチ当たる。であれば、それを解消するには、島の外から金を引っ張ってくるしかない。分かり易く換言すれば『外資の導入』だ。
 そのための手段の一つとして口端に上ったのが、株式会社というシステム。
 体裁としては民間だが、実質的には半官の交易会社を設立すりゃあいいじゃん、という単なる思い付きに過ぎない。

 株式というのは投機マネーの代表選手ではあるが、しかし現状の運用に比較すれば出資者個々人のリスクは分散され、逓減される。ということは、焦げ付きのリスクも多少は小さくなるし、本国の貴族からの出資も募り易いだろう。
 実体経済オンリーでは最早世が成り立たない以上、多少の投機リスクには目を瞑り。しかし、その低減化の努力には最善を尽くすべき。
 そういう軽い机上の空論に基づいて口に出したつもりだったんだが――。

「つーか、マディラって島はそんなに金に困ってんのか……?」

 まさか本気で検討しやがるとは思ってもみなかった。
 確かにマディラの人民は豊かではないが、俺がいろんな噂を耳にした限り、自治領の中ではかなりマシな方だと思う。ワインというデカイ輸出品もあり、その需給の調整もヤツは上手くやっている。実際、財政自体に余裕があるとは言わないまでも、赤い数字が並んでいる惨状とも程遠いはずだ。

 疑問。
 カタリーナが何を欲し、何を求め、何を望んでいるのか?
 少しだけ背筋が凍るような気分に襲われたが、気のせいだと飲み下す。

 仮に彼女が何を企んでいたとしても、今はまだ俺が関わることじゃない。
 否応なく巻き込まれる未来がいつの日にか来てしまうのかもしれないが、それはそれでその時に考えればいい話だ。然るべき材料が出揃ってから、並列のうえ比較検討する時間くらいは与えられるだろう。
 だから、それはそれでいい。
 少なくとも今は――。

 相変わらず彫像の体《てい》を晒している島一番の能吏へと視線を遣って。
 俺は時間潰しの腹筋運動を始めることにした。最近は航海の準備なんかで忙しく、日課の回数こなせないことも多かったんで、とりあえず暇さえあればその分を埋めないといけない。
 ただし、そういった個人的な満足とは別に、この場違いな筋トレ運動には身体を暖めるって意味合いもある。

 なんせ俺がまず片付けるべきは、直近に迫った命の遣り取りなんだから――。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 その後、暫くを置かずしてフランシスカが船室へとやって来た。身体にはロサが纏わりついていたが、それを意に介することもない力強い足取り。
 彼女は入室するなり、ジョルジュに対して詰問を向ける。それは始めから『弁解の余地なし』とでも言いたげな厳しさに溢れていた。

「どういうことか説明してもらおうか?」

「なにがだい?」

「なにが、と訊いたか……? 自分が何に対して説明を求めているのかが分からないほど、貴様は愚かな人間ではないだろう?」

 軽く肩を竦めて問いをはぐらかそうとしたジョルジュだが、二人の長年の付き合いはそんな白々しい演技が通用するほどに浅いものではないんだろう。返って来たのは、憤怒の視線と棘を増した言葉。
 どうやら結構イイ感じにお怒りモードらしい。
 多分、開戦前にチビが甲板をうろちょろしてたことが、怒りの導火線に火をつけたんだと思われる。

 日頃の姿から見ても、フランシスカがロサを可愛がってるのは確かだ。共通点が特にあるわけでもなく、どっちかっつーと対極にも近いように見受けられる二人だけど、それでもなぜかよくツルんでいるのを見掛ける。
 ジゼルの店の一卓を占領してオベンキョーに励むロサと、その傍らで似合わないくらいに優しい教師役を演じているフランシスカという組み合わせは、最近じゃ見飽きるほどに目にした光景だ。
 それは、なんとなく歳の離れた姉妹のような、そんな情景でもあって。

 だからこそ――。

「先刻は幸いにして自分がロサを保護したが、それは結果論に過ぎない。回頭中に突風に煽られる可能性だってあるのだし、そうなってしまえば不安定な足場で踏ん張るのは子供には不可能だ。もしかすると海へ投げ出されていたのかもしれないのだぞ。貴様ともあろう者が、その程度の危険を予期できぬわけがなかろうに――」

 その大事な妹分を危険に晒すような“短慮”が許せなかったんだろう。そして、それはジョルジュの判断力を信用していたからこそ、尚更で。
 ジョルジュに対してこうまで荒い語気を向ける、というのは、彼女にとっては珍しい。いや、俺やミゲルなんかは毎日のように食らってんだけど……。

 それにしても、一方的に責められているにも関わらず、ジョルジュはいつも通りの落ち着いた表情を崩さない。むしろ、フランシスカらしからぬ感情的な言葉の弾丸に晒されて尚、薄い笑みを浮かべているようにさえ見える。
 パンピーならその迫力にビビっちまっても当然だし、近衛のエリート軍人ですら身構えてしまうことも少なくはない、フランシスカによる精神的圧力。
 だけど、ジョルジュは『慣れたこと』と言わんばかりな態度で涼しげに受け流している。

 相変わらずここら辺の肝の据わり具合はハンパない。
 度胸があって頭も良いヤツってのは、相手方が理不尽な暴力に訴えてこない限りに於いては、最強の一角だ。

「あーとりあえず少し落ち着いてもらえるかな、フランシスカ? 君があまりにも恐い顔をしているせいで、ロサちゃんが泣き出してしまいそうだよ」

「いつからそのように卑怯な物言いをするようになったんだ、貴様は? 悪い仲間の影響か?」

「僕は以前からこんな男さ。ドザエモンと知り合う前と比較しても寸分の変わりなく、ね」

 いけしゃあしゃあと、まるで立て板に水を流すかのようにして滔々と。一言一句を詠うかのようにして朗々と。
 ジョルジュはフランシスカの言に則る形で、自らを規定してみせた。そこには些かの羞恥もなく、さりとて僅かながらの萎縮を感じさせることもない。そして、その一言はまるでフランシスカによる反駁の機先を制するかのようにして、場の潮目を逆転させた。

 食えないヤロウ。なんだかんだ器用で如才ないヤツだ。
 二者間で繰り広げられる会話――それを傍観者として眺めながら、そんなことを思う。

「そもそもが君の普段の観察眼を以てすれば、僕がなぜロサちゃんをこの場に留め置かなかったのかは解ってもらえると思うんだけれどね。いくら怒りに震えているとて、この惨状にまで気が回らない君ではないだろう、フランシスカ?」

 にこやかに微笑みながら、指先で小さな円を描くようにしながら床を指すジョルジュ。
 フランシスカも船室に散らばる椅子の残骸に目を遣って、少しだけ気拙そうな表情に変わった。
 それもそうだろう。そこに残されているものは、ジョルジュの判断が決して間違いではなかった、ということを示す動かぬ証材。

 であれば、元来が公正を重んじるフランシスカとしては、渋面を作りながらも自らの非を認めざるを得ない。
 一本気で真っ直ぐってのは美徳ではあるけれど、殊こういう局面では損をする。詭弁家の舌先三寸で丸め込まれ、鋭い舌鋒のベクトルを簡単に逸らされてしまうんだから。

「……なるほど。ジョルジュの判断が必ずしも誤りではなかったということは理解した。先刻の先走った言動についても謝罪しよう。自分の浅慮により不愉快な思いをさせ、本当にすまなかった」

 そう、こんな感じで素直な謝罪の言葉を吐き出すしかなくて――。

「しかし、だ。船室のこの状況については、詳細な説明を求めたいところだな」

「ああ、そのことについてなら僕の方で把握しているし、器物の弁済についても一応の話がついている。君の心配には及ばず、王都に着いたら新品の椅子がお目見えすることになっているよ」

「自分が訊ねているのは、そのような瑣末ではない。この状況に至るまでの過程的事実だ」

「それを求めることに特段の意義があるのかい?」

「意義の有無など問題ではない。この船を一時的に預かっている身として、目を瞑るわけにはいかないというだけだ」

 ……ン?
 なにやら雲行きが怪しくなってきてねぇか?

「進水から長きを経ているとはいえ、この船は紛れもなくマディラ人民の財。調度の一つ一つに至るまでが、彼らの血と汗の結晶から成っている。自分たち軍属の者はそれを正確に理解し、常に感謝の念を忘れてはならないのだ。決して豊かではない人民の労苦を無に帰すような所業など、いかなる理由があるとて到底許されるものではあるまい」

「ああ、実に立派な心がけだと思うよ。いかにも君らしいね」

「そのような歯の浮いた世辞は求めてなどいない。自分は公共財を棄損した“ならず者”の名を尋ねているのだ」

 『ならず者』の響きと同機して俺へと視線を送ってきやがった辺り、フランシスカも事の次第を薄々察してはいるのだろう。状況を鑑みりゃそんなアホなことやるのは俺以外いないことくらい分かってるはず。
 それでも、きっちり確認取ろうとしているのが、律儀というか何というか。そういう四角四面な性格が、ぶっちゃけ凄ぇメンドクサくてイライラする。

 フランシスカに対する苛立ち。
 さっき椅子一脚の寿命と共に発散され霧散したはずのそれが、再び心中で鎌首を擡げ始める。
 自分の公正明大を誇示したいのなら、どっか他所でやってくれ、と。俺をテメェの自己マンのダシに使ってんじゃねぇよ、と。
 そんなどこまでも不条理ではあるが本能的な嫌悪が理性という名の網の目をすり抜け、自然の成り行きとして俺の口を開かせる。

「俺だよ。俺がやったんだよ、誰かさんの調子ブッ扱《こ》きまくった態度にムカツいて思わず、な。アンタもいい加減分かってんだろ?」

「貴様などには何一つ問うてはいない。いいから口を噤んでいろ」

「お、なに? シカト路線に宗旨替えか?」

「……それでジョルジュ、自分の問いは未だ満たされてはいないのだが?」

「マジかよ? やっぱアンタいい度胸してんなぁオイ――」

「貴様を相手にする気などない。そこから一足でも踏み出してみろ。今度こそ容赦はしない」

「改めて眼前で見せ付けられると、これはこれで実に嫌な光景だね……」

 俺の開き直った自白をフランシスカは歯牙にも欠けず黙殺。あくまでもジョルジュに事の次第を質そうと言葉を続けるが、当の対象は溜息を吐きながら冷めた視線を場に送っていた。
 まるで呆れているかのように。そして一回転した清々しささえ感じてしまっているかの如き薄笑いがその面貌には浮かんでいる。苦笑というわけではなく、嘲笑とも少し違う。かといって諦観でもないし、やるせなさを感じるわけではない。じゃあなんだ、と訊かれても、その薄笑いの意味を言葉にして表すことは、俺には不可能。俺の語彙では不十分だ。

 と、埒のない思考の海に潜っていたのは、ホンの僅かな時間。
 意識が再び海面上に浮上した時には、ジョルジュの相貌を彩るのは陽性の笑みへと変じていた。繕った感は否めないが、他人に安心感を与えんとばかりの柔らかな表情。
 椅子に腰掛けた態勢のままで右手を翳し、それをひらひらと前後に振り動かす。

「ロサちゃん、こっちにおいで」

「…………」

 その右手の指向を辿った先にあったのは、単身痩躯で黒髪黒目の少女の姿。
 船室に入って来た時にはフランシスカの腰の辺りにしがみ付くようにしていた彼女だが、今は姉貴分の背後少し離れた場所に所在無く立ち尽くし、恐々として場を窺っている。
 視線は忙しなく中空をあちらこちらへと彷徨い、口元は何かを言わんとするかのように小さく震えていて。だけど言葉が発せられることはなく、床に根差した小さな足が一歩を踏み出すこともない。
 だから、そこにいる少女はただ黙って、膝を震わせながら立っている。

 ロサがこういう諍いを苦手としていることは知っている。いや、苦手などというレベルではなく、それこそ全身全霊で逃げ出したい気分に襲われていることも間違いないだろう。
 なんせ諍いの元凶も当事者も自分の知己で、彼女の狭い狭いコミュニティーに属する人間たちであり。であれば、そんな仲間割れなんて見たくない、と。そう思うのは分からない話ではないし、むしろ容易に想像がつく。

「…………」

 場に暫しの静寂が訪れる。
 ロサを基点にして築かれた一種の結界。場の人間の一切が言動を放棄して、彼女の挙動を注視しているかのような異常な空気。
 それは錘が吊るされた天秤が傾く前の一刹那にも似ていて、人はただ“揺らぎ”を待つのみ。

 重苦しい緊張感が船室に満ち、それは当然ながらロサの身にも伝導する。
 彼女は身体を強張らせたままで無言。ジョルジュの誘いに乗るべきか否かを迷っているのだろう。視線は先程からフランシスカの後頭部辺りへと注がれている。
 まるで答えを欲しているかのように、切実な表情をして。
 だけど――。

「…………」

 きっとフランシスカは振り向くを潔しとしないだろう。今の彼女は普段の優しい姉貴分とは別物だ。
 そして、それくらいはチビにだって理解できたんだろう。というか、ロサの場合、これまでの境遇が境遇だ。自分の命を守るために他人の内心を推し量る必要が付き纏うような経験をしてきた以上、そこら辺りの機微については人一倍通じているはずで。
 だから、ロサは――。

「おいで」

「…………」

 ジョルジュによる再度の手招きに素直に応じるしかなかったんだろう。
 少し寂しげで、少し儚げで、まるで自らの無力を呪うかのような――そんな表情を浮かべながら、室内を対角に移動する。足取りは重く、まるで後ろ髪を引かれるような歩みではあるが、大好きな姉貴分からの距離を一歩一歩離していく。

 対するフランシスカは無言。視線はジョルジュに固定したまま、逸らすことはない。
 俺やロサは最初から勘定に入っていないとでも言いたげな、その頑なな在り様。そこに居るのは一人の謹厳な軍人だ。
 そして、それこそがフランシスカという人間の一つの顔であることは間違いのないところで。

 それが良いとか悪ィとか、正しいとか正しくねぇとか――そんなん俺になんて分かんねぇし、分かってやる筋合いもねぇとは思う。俺は俺で、コイツはコイツで。要は他人同士が互いの利益に基づいて手を握っているに過ぎないし、だとしたら一方的な関係性は御免蒙りたい。
 だけど、ただ一つだけ確かに言えることってのがあって。

「アンタのそういう無理してスカシてるみてぇな態度は割と本気で気に食わねぇなぁ」

 そりゃ俺の短気と堪え性のなさってのが一因になってることくらいは理解してる。一因っつーか主因って言われても仕方ない部分もあるかもしれない。
 だけど俺だって、いつでもどこでも誰にでも噛み付いているつもりなんてない。さっきみたいに前後不覚に熱くなっちまうのは、融通の利かない近衛騎士団長サマにイラついた時ってのが圧倒的に多いんだ。

「つーか、わざわざジョルジュに確認しなきゃ何も出来ねぇのか? 俺が自分でやったってゲロってんのに、それには聞く価値すらないってか?」

「…………」

「立派だなアンタ。マジでスゲェ立派だよ。自分の言うことを俺に聞かせようとするクセして、俺の言うことはシャットアウトか? オイオイそりゃあんまりにも自己チューってモンなんじゃねぇのか――」

「――ジョルジュ」

 俺の挑発的な言葉に被せるようにして、フランシスカの口から鋭い呼び掛けが発せられた。そのベクトルは俺に対してのものではなく、あくまでもジョルジュの方向にあって。
 結局、俺の言など相手にはしないと。信じる信じない以前の段階として、聴覚信号の解読――その努力にすら値しないと、彼女はそう言外に示しているかのようで。それはつまり、俺を見下している、と。俺はこの女に見下されているんだ、と。
 種火になって燻っていた激情に再び火を付けんとするかのような、フランシスカの態度。

 思わず拳を強く握り込む。
 分かり合うことなんて不可能だとは思うし、その必要だってないとも思う。そういう意味では、眼前でジョルジュへと強い視線を送る女騎士の方法論自体には、そこまで大きな異論はない。互いに不快な思いをしないために極力直接的な接触を避ける、ってのは一つの正解ですらあるだろう。
 だけど問題は、俺がそんな正答に対してこれ以上なくムカツいているってことで。それを抑え付けるべき理性すらスッ飛ばしてしまいたいと、そんな気分にまで襲われているってことだ。
 身勝手な理屈だってことくらい分かってはいるけれど、この際とことんやっちまうのもありか、なんて思ってしまうんだ。

 そんな俺らの姿を見てだろうか?

「もう僕から言えることは何もないね。少なくとも今の君たちに対しては、何を言っても無駄だろう。ただし――」

 フランシスカの詰問に対してジョルジュの口から放たれたのは、投げ遣りな返答だった。
 あまりにもヤツらしくない冷たさを内包した、その言葉。それは俺とフランシスカの両名に向けて、無造作に投げ返されたそれであり。
 続けざま、袈裟懸けの一刀の如き言葉の刃が振るわれる。

「感情に任せて相手を否定するのは、それ自体が近視眼的な行いであるということを君たちは理解するべきだね。二人の関係が単純な上司と部下のそれではない、ということは僕にだってなんとなく分かる。だけど、必ずしも対立項のみによって成立している関係だとはどうしても思えないし、実際にそうではないはずだよ」

「それを貴様が知る必要はないだろう。武には武の、文には文の領域がある。こちら側の問題は、こちら側の論理に従って、こちら側の領袖たる自分が決めることだ」

「過ぎたセクショナリズムは往々にして総体としての評価を棄損するものだよ?」

 いつの時代もそう。
 文と武という統治機構の両輪は、愛憎相半ばにも似た関係性を持つ。

 なぜ両者共に不可欠な二つのセグメントがぶつかるようなことが起きるのか?
 一義的には利益相反だ。文に取っての武は“金食い虫”で、武にとっての文は“虫食いの金”なんだ。互いが互いの存在意義を認識しながらも、その上位に自らの意義を位置づけていたい。そんな子供染みた競争意識の究極形。
 その辺は“あっち”での大企業――特に総合商社なんかのセグメント間対立を想像すれば分かりやすい部分があるのかもしれない。標榜するものは同一の合目的な活動の過程に於いてなぜか感情的な軋轢が生まれる――簡単に言葉にして纏めるとそんな感じだ。

 だけど利益相反以前の段階でもっと大きな問題があるのかもしれない、と最近の俺なんかは思い始めるようになってきていて。
 結局それは至極単純に前提となる思考の違いであり、論理の差異に起因するモンなんじゃないか、と。
 まぁどっちにしろ俺みたいなペーペーがどうこう出来るような問題でもないし、そのために骨折りたいとは微塵にも思わないわけで。別にそれはそれとしてどうでもいいや、ってのが俺の今のスタンスだ。

「自分たち武人は自分たちの最善を、貴様たち文官は貴様たちの最善を。そんな当然の理屈が、マディラが本来持つポテンシャルを減じるなどということはあるまい。独自の理屈を捏ねたいのであれば、それは一向に構わん。しかし、分を踏み越えてそれを押し付けようとするのは文の増長だと思わんか?」

「なぜにそうまで凝り固まるんだい、フランシスカ? 僕らの仕事は確かに君たちのそれとは違うし、時には君たちにとって首に括られているような縄のように感じられることを言っているかもしれない。だけど、それは必要に駆られているからこその提言であって、決して幼稚な主従関係を求めるものでないことくらいは理解して欲しいよ」

「ならば、せめてこちらの権限に関わる事象へと踏み込むのは、そういった最小限に留めておいてくれ。自分だってジョルジュにこのようなことは言いたくないのだ」

「つまりドザエモンは近衛の一員なんだから、お前は関係ないだろう、と、そう言いたいのかな? だったらその考えは根本から間違っているよ、フランシスカ。この場合の僕は近衛内での争いに介入しているわけじゃなく、友人同士の諍いを仲裁しているんだ」

「公の任に着いている以上、今現在の自分と貴様は『近衛騎士団長』と『内務最高責任者』という公的身分に則っていると捉えるべきだと思うが――」

 どうやら対立軸は完全にフランシスカとジョルジュの中間点へと移動してしまったらしい。
 傍から見ている限りでは、どうしようもなく不毛な論戦。
 なんたって互いの立ち位置がどうしようもなくずれている。フランシスカは近衛騎士団という軍組織のトップとして言葉を吐いているのに対し、ジョルジュは俺とフランシスカ双方の友人として言葉を紡いでいるんだから。
 そんなんが議論として噛み合うわけもない。ただ互いの精神を磨り減らすだけの水掛け論にしか成り得ないだろう。

 と、まぁそんな感じで安全地帯で独り和みながら、場で繰り広げられる茶番を眺めていたわけだが――。

「…………」

 目が合った。
 合ってしまった。
 誰と?

 ロサと。

「…………」

「……どうしたってんだ?」

 フランシスカに正対するジョルジュの背後。
 そこに在るのは、潤みすら見て取れる黒檀の瞳。まるで俺を縋るかのようにしてこちらへと向けられている。
 とりあえず口パクに限りなく近い小さな掠れ声でチビの意図を確認しようとする。音になるかならないかの断続的な吐息は声と呼ぶには不十分なそれではあるが、俺を注視しているロサにはその言わんとする内容は伝わったはずだ。
 伝わった、はずだ――。

「…………」

「いやいやいやなんでそんな目で俺を見るよ……?」

 全然伝わっちゃいなかった。
 相変わらず俺を真っ直ぐに射抜かんとする黒い光。まるで俺が責められているような気分になるほどに、その瞳が寂寞の色を湛えて、ただ静かに固定されている。
 なんとなく気拙い。つーか、罪悪感?
 なんでそんな感情を抱かなきゃなんないのか承服しかねるところはあるけど、俺だって人の子ではあるわけで。涙目のガキを放っておくってのは、あんまり気分の良いモンじゃない。

 泣き落としってのは、弱者の戦術としては手垢がこびり付くほどに使い古された手ではあるけれど。
 でもまぁ時と場合によっちゃ、それなりの効力を発揮しちまうってことだ。

「でもなぁ――」

 ロサのヤツは俺に対して、眼前で繰り広げられる言葉の鞘当てを終わらせるタスクを期待しているんだろう。そのくらいは容易に想像がつく。
 ただ、問題は――。

「俺が割って入ると多分もっとメンドイ感じになるぞ、これ」

 フランシスカの心中では『諸悪の根源』扱いされているはずの俺が介入するとなると、きっと今以上に収拾が付かなくなるんじゃないか、ということだ。それこそ三竦みならぬ三つ巴――変則バトルロイヤルの様相を呈してしまう可能性は否定できない。
 その程度には“軍人”としてのフランシスカは頑なで退くを潔しとしないし、その程度には“友人”としてのジョルジュはマジでガチなヤツだ。そして、俺についても短気で激し易いという傾向は自覚するところ。

 正直気は進まない。つーか、このまま暫く放っておいて好き放題言い合いさせとくのが、最も速やかに場を収める方法のような気がする。
 せめてこの場に他の人間がいれば、こんなことにはならなかったんだろうが。
 カタリーナのヤツがいればそもそもこんな下らない諍いは即座に切って捨てるだろうし、ミゲル得意の脱力系ツッコミを受ければ否応なく厭戦感情を煽られるはず。
 だけど残念ながら、今回の王都行きに於いてその二人はマディラ居残り組だ。

「人選ミス、だよなぁ……どう見ても」

「……?」

「いやお前に言ってるわけじゃねぇ。独り言だ」

 いつの間にやら傍らへと距離を縮めてきていたロサが、俺の独り言の意図を測ろうとするかのような上目遣いでこちらを見上げながら小首を傾げていた。
 ジョルジュの背後に居続けると、正面からフランシスカの舌鋒に晒されるようで身の置き所がなかったんだろう。コイツは臆病気質であるがゆえ、変にその辺りの要領が良かったりする。自らの行動圏内で最も戦火から縁遠い場所を無意識下に探り当てるっつーか、そういう本能的な防衛意識は卓越したものがあるんだ。

 俺の『独り言だ』という返しを受けて、ロサは二つ小さく首肯する。どこか小動物を思わせる控えめな仕草でコクコクと。
 そして頷き終わった後、再び――。

「…………」

 俺を見詰めてきやがる。
 何かを求めんとするかのような、何かを望まんとするかのような、何かを促さんとするかのような――そんな視線。
 先刻までとは違い、そこに微かな抗議の色まで乗っかってるように思われるあたり、なんだかんだイイ根性してやがる。この少女も一筋縄では括れないタイプ。怯えや恐れという所作の合間、ふとした瞬間にそれらと合わせ鏡の関係にあるかのような強《したた》かさを垣間見せることがあるんだ。

「お前は一体俺にどうしろと?」

「…………」

「ちっと声出したところで別に取って食われたりはしねぇよ。つか、そもそも今のアイツらは俺らなんて眼中にねぇんだからさ」

 僅かな身振り手振りさえも自らに禁じているように縮こまっているロサに対し、少しばかりの苛立ちを装って分かり易い形式でのアウトプットを促す。
 ガキが多少我が儘なのは仕方ないっつーか当たり前のことだし、それについて責めようとは思わない。だけどその我が儘をハッキリ口に出すこともせず、言外にその意図を汲み取って欲しい、なんて態度は俺に言わせりゃ好ましくない。端的に言っちまえば、甘ったれた態度だ。
 ジゼルが可愛がっている手前、ある程度はチビの言うことを聞いてやるのも致し方なしとは思っているが、なんでもかんでも譲歩してやるつもりはないんだ。少なくともわざわざ先回りして世話焼いてやるほどに俺は優しくないし、人間が出来てもいない。

 だから――。

「他人様に何かして欲しいってんだったら、テメェの言葉で頼みやがれ。フランシスカやジゼルなんかは意を汲んで動いてくれるのかもしれんが、誰も彼もがそうやってくれるわけじゃねぇんだぞ」

 とりあえず主張しろ、と。
 人見知りでもいいし、ビビリでもいい。引っ込み思案だろうが内気だろうが、そんなのは別に構わない。
 だけど、テメェの声帯は飾りじゃねぇんだろ、と。
 求めるものは最低限。
 だけど、その最低限がなければ他人は動いてなんかくれないし。逆説的に言えば、その最低限さえあれば動いてくれる他人だっているかもしれない。
 まぁ俺みたいに何でもかんでも主張しちまうと、それはそれで周囲から壁作られちまう悪循環が待ってるけど、ロサの場合にはその心配はないだろうと思う。

 詰まるところ、俺がロサに伝えたかったのは、そういうことで。
 言葉足らずな要求が正確に伝わったのか否かは判然とはしないけれど、少なくとも耳介を通ってロサの脳髄に叩きつけられただろうことは間違いない。
 あとはロサ本人がどうしたいか、だ。

「……えと」

「あ?」

「…………」

 何かを言おうとしたんだろう。
 口元を引き攣らせるようにしながらも、懸命に動かそうとしていたのは分かる。だけど、ごにょごにょと口篭るようにして吐かれた吐息が必要十分なレベルの空気の波を作り出すことはなく、“音”としての体裁を整えられないままで消えていくだけで。
 挙句の果てには黙り込んで俯くロサの姿がそこに在る。

 普段フランシスカやジゼルと話してる時にこんなことはなく、もっと自然な感じで言葉が出ているようには思う。それこそ年相応の快活な態度だってよく目にしたりした。
 だけど、こういう少し構えたシチュエーションになると話は別なんだろう。
 ひょっとすると今以て俺との距離感を測りかねている部分だってあるのかもしれない。

 ただし、それはあくまでもロサ側の都合であって、俺の都合ではなく。
 だったら、やっぱりロサはそこら辺の躊躇や恐怖なんかを全部吹っ飛ばして、少々不躾なくらいでもいいから自分の意思を表さなきゃいけない。
 あの聞くに堪えない口喧嘩を止めさせてくれ、と。
 ロサがそう口にすれば。言葉にして頼んでくれさえすれば、俺にとっても――。

「渡りに舟っつーか、十分な大義名分になるってトコだろ……」

「……?」

「だぁからイイ加減ダンマリは止めろって。俺だって鬼じゃねぇんだ。チビが多少生意気なことヌカシたところで、ブン殴ったりはしねぇよ」

「……ドザはいい人?」

 ロサの口から漏れたのは疑問。
 これ以上ない程に端的で、贅肉なんて一欠片も見当たらない、まるでガリガリに痩せ細ったような問い。
 俺を見る真摯な視線が直截すぎて、逆に答えに詰まってしまう。

「それを決めるのは俺じゃねぇ。テメェの認識の問題だ。ロサが俺のことをイイ奴だって思うんなら、少なくともテメェにとっちゃ俺は善人だろうよ」

「……なんだかよく分からない」

「ああ、そういやお前バカなんだったな」

「……ドザ嫌い」

 俺の軽口を受けて、ロサは頬を膨らませる。唇の尖り具合は気分を害しているというアピールにも見て取れて。
 つーか、あれか? 実は地味に傷付いちまったりしてんのか、一人前に? バカの分際で?
 ――とか言ってしまうと、本気で泣き出してしまいそうな気がするから、それ以上の言葉は飲み込むことにする。ガキを宥め賺すなんて無駄なことに時間や労力を費やしたくはない。

「で、だ」

「……なに?」

「テメェはめでたく言葉という道具を獲得したわけだが、それを以て俺になにか言うことは?」

 今度は俺が問いを投げる番だ。
 ロサは少しだけ考え込むようにして、視線をフランシスカへと送る。ただし恐らくは俺に伝えるべき内容について思案しているわけではなく、単純に言葉として口にする際の体裁について頭悩ませているんだろう。
 数秒ほど経過して、色々と纏まったんだろうか?
 俺へと視線を戻し、たどたどしくもしっかりとした口調で、自らの望むところを告げてきた。

「セスカとジョルジュがわたしのことで喧嘩しちゃってるのは嫌だから、『喧嘩やめろォ』って言ってきて欲しいな?」

「よっしゃ任せとけ」

 その台詞を待っていた。
 それは一つの契機にも成り得る免罪符。迷いを祓い、背中を押す神託。
 巫女は、期待に満ちた目で俺を見上げている少女だ。彼女は神託が正しく為されることを望み、代理人たる俺の働きに僅かばかりの疑念すら抱いてはいないのだろう。俺が『諾』と答えた瞬間から光度を増した黒檀が、その事実を如実に物語っている。
 だけど――。

 ロサの期待に反してしまうのは悪いが、俺には平和的調停者を気取るつもりなんて端からない。
 こういう時に最大の効力を発揮するのは、武力介入一択だ。腕力にモノ言わせて強引に相手を従わせるってのが、一番手っ取り早くて分かり易い。
 最悪は血を血で洗う泥沼の消耗戦に突入する可能性なんだろうが、まぁそれはそれで良し。つーか、むしろ調停人の仮面を被ろうとしているだけの俺としては、そっちの方が望ましかったりもする。

 まぁとにかく行動指針さえ決まってしまえば、後は早い。
 ソッコーで袖を捲って、指の骨を鳴らしながら関節部を解す。一撃必殺、鍛えに鍛え上げた両の拳を握り込んだ後、その場で軽く飛び跳ねるようにして弾みをつけて――。

「いつまでも下らねぇ暇潰ししてんじゃねぇぞオラッ!」

 形だけの仲裁の台詞を叫びながら、前方へと跳躍するようにして飛び込む。

 背後でロサが息を呑む音が聞こえた気がするが、それを意に介することはない。
 俺の視界に捉えられた標的は一つだけ――麗人という形容がぴったりと嵌りそうな横顔を無防備に晒している女。つい先刻、俺に対して剣を抜こうとしやがった“形式上の”上役。

 最近、自分でも忘れかけていた。なんとなく流されて馴染んでしまっていた、と言ってもいい。
 そのことに改めて気が付いたのは、広大にして茫洋たる大海の絵を目前にした時で。その中に描かれた自分の矮小さに思わず愕然としてしまったんだ。
 そんなのは俺じゃねぇ、と。自己同一性の喪失は得体の知れない恐怖感を呼び起こし、自分でもどうしていいのか分からなくなっちまった。そして、それは一種の強迫観念にも似ていて――。

 今の俺は俺なのか?
 “こっち”に染まっちまうことを、本当に俺は俺に許したのか?
 これが“生きてる”ってことなのか?
 俺は“生きてる”んじゃなく“生かされてる”んじゃないのか?

 そんな数々の疑問が脳裏を過ぎっては消え、過ぎっては消え、でも答えは分からない。答えには辿り着けない。
 でも、だからこそ――。

 確かめなきゃなんない。
 “俺”という存在の現在地をいつまでも曖昧にしておくわけにもいかない。航路図というのは出港地と入港地、そしてその二点間を結ぶ線から成る。その線上での自らの位置は常に計測され、その確認は一日たりとも欠かされることはない。
 今の俺を船に喩えるならば、行き場もなく現在地すら不明のまま、“こっち”という大海《せかい》を彷徨う“幽霊船”だ。いつの日か船体は朽ち、後には何も残らないだろう。その存在の痕跡自体が海中深くに水没し、永遠に失われてしまう。
 そんな未来は断固として御免だ。絶対に肯んずることはできない。

 だったらまずは現在地を知ることが必須で。
 俺なんかが知っているその為の方法論なんて一つしかなく。
 だから俺は――。

 その嫌味なくらいに整った横っツラに向けて、一切の遠慮なく真っ直ぐに――全力の拳を突き出した。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 俺らが船室に篭ってた間に、海上では風が強くなっていたようだ。枚数を減ぜられた帆布が乾いた音を立ててはためいている。
 海面の様子も先刻までの穏やかな凪の様相が嘘のよう。波濤は白く泡立ちながら舷側板へと次々に襲い掛かってきて、時折その跳ね返った飛沫を俺の顔面にまで叩きつけてきやがる。
 しかし、眼前で大きくうねり曲がる膨大で不定形な水のオブジェは決して騒がしさを感じさせることはなく。むしろ、静けさの中に想像もつかないほどの野生の荒々しさを潜ませているかのようで、実に不気味だ。

 そして、そんな海上の情景を『嵐の前のなんとやら』だとするならば、今の俺は一足早く『台風一過』といった体《てい》で船縁に身体を預けていた。

「痛ッてーな、本気でやりやがってクソアマが……」

 鳩尾周辺の腹部に走る疼痛。ズキズキというよりはシクシクした感じの地味な痛み。
 それを少しでも和らげようと背を丸めるようにした前傾姿勢を取り、左の掌で患部を撫で摩りながら毒づく。

「その『クソアマ』とは自分のことか?」

「アンタ以外に誰がいるってんだ、えェ!? 他人様の腹に思いっ切り鞘突き立てやがって」

「先に手を出してきたのは貴様だろう。ならば反撃される可能性を予見して然るべきだったと思うが? そもそも本気で抜かれなかっただけでも胸撫で下ろすべきところだろう」

「ふざけんな! 大体、俺は一発殴って全部チャラにしてやるつもりだったんだよ。それが見ろ、アンタのせいで俺の私怨は雪がれねぇまんまじゃねぇか。そのうちガッツリ倍返ししてやるから、精々背中に気を付けてやがれ!」

「そこで闇討ちを予告する精神性は気に入らんが……まぁいい、その時には再度返り討ちにしてくれよう」

 フランシスカは涼しい顔をして、当然のように俺の恨み節を聞き流す。自分には一片の非すらない、とでも言いたげなその表情。アンタどんだけの暴君だよ、と文句を付けたくなる。

「そもそもがあの程度の突きでどうにかなるほど柔な貴様ではあるまい。自分とて指揮官の端くれだ。開戦前に自戦力を損う愚を犯さない程度の分別はある」

「しらっとトンデモねぇ嘘コイてんじゃねぇよ! アンタ目が超マジだったじゃねぇか! つーか、鳩尾っつーのは歴とした人体急所の一つだろうが!」

「……力を加減したのだ。現に今の貴様は自分に喚き散らすことが出来る程度には元気ではないか? きっと何も問題はなかろう」

「アホか! カウンターで突き食らって問題ないわけねぇだろうが! 『俺の腹が痛い』って問題がリアルタイムで発生中だ!」

「ふむ……やはり特筆するべきほどの問題ではないな」

「あーもう、うっせ! 反省しろ反省! つーか土下座して謝れオマエ! とりあえず俺に『ごめんなさい』と言いやがれ――あーやっぱもうどうでもいいや……」

 言葉の途中で急速に気分が萎えた。
 加害者《フランシスカ》に見受けられる罪の意識の無さに憤りを覚えているのは確かではあるけど、大声を出す度に腹が痛むのがアホらしい。すげぇ惨めな気分になってしまう。

 まぁそれに俺は短気ではあるけれど、それに反比例しているかのように怒りの感情の持続時間が短い。なんつーか、思う存分声張って文句をつけて。そんでもって思いっ切り殴りかかって殴り返された。だったら、今回の一件はとりあえずこれでいいじゃん、なんて思ってしまう。いつまでもウジウジ恨み言を吐くよりは、こういう決着の方が性に合う。
 そして、その性向はフランシスカだって少なからず共通するところだろう。彼女は生物学上は女ではあるが、軍人の中で育ってきただけあって比較的竹を割ったような性格をしているタイプだ。『サバけた女』っていうと語弊があるかもしれんが、軽くじゃれ合った程度で次の日まで引き摺るような軟弱な精神はしていない。
 逆に言うと、性格的な共通点と相違点とが絶妙な按配で噛み合ってしまうからこそ衝突が絶えないのかもしれないけれど、基本的には互いの気分さえ晴れれば一件落着という具合に落ち着くはず。

 というわけで。

「自分は貴様に対して謝罪の必要が生ずるような行いなど一切してはいないし、そもそも順を追って事を鑑みれば責めは誰に向けられるべきであるかは一目瞭然だと思うがな。そもそも――」

「だぁから、もういいって。分かった。許す、許すよ、許してやんよ。許してやっから、いつまでもしつこく過去を掘り返すのは止めろ。それとも、こんな水掛論で時間潰すほど今の俺らには余裕あんのか?」

「己の不利を悟った途端に話の内容を摩り替えるとは卑怯だな。大体なぜ自分が貴様に許しを貰わねばならんのだ? とはいえ……今の我々には無駄な議論に費やす時間など許されないのも確かだ……。ただし、一つだけハッキリさせておくぞ。自分は貴様から許しを得る必要など欠片もないし、もちろん貴様の言を承服したわけでもない。そこは絶対に勘違いするなよ」

 不服を訴えるフランシスカの言葉を遮って差し挟んだ俺の捨て鉢な台詞は、どうやら思いの外フランシスカの感情を逆撫でするものだったらしい。まぁそれを分かった上で語句の選択をしてるんだから、当然っちゃ当然なんだけど。
 ただ、向こうサンもなんだかんだで一軍の将。
 今為すべきこと――それを置いてまで自らの正当性を主張することには拘らなかった。最後の念押しの辺りが怪しいといえば怪しいんだが、とりあえず話の本題は在るべきそれへと舞い戻ったようだ。

 フランシスカは一つ大きく息を吐きながら反転し、船尾へと足を向ける。
 その背中は凛々しい。月並みで手垢のついた表現ではあるけれど、その姿を表すのにそれ以上に嵌る形容句ってのを俺は知らない。
 男と比較すりゃ線も細いし、筋肉の隆起も見られないけれど、それらに優るしなやかな強さのようなものを感じる。撓んだ枝のような、引き絞られた弦のような――そんな効率的な力の源泉。そして、その背にはちゃちな“プライド”とは格が違う確固たる“誇り”が宿っているように思う。

 きっとそれこそがフランシスカの強さなんだろう。
 それは認めざるを得ない。俺にとっては彼女の後塵を拝している現状は甚だ気に食わないものではあるけれど、でも実際の力量を無視して強がっても意味はない。
 島を、主を、民を守護するマディラ最強の女騎士――武名の誉れ高きポラス家が生んだ今代の俊英は、その誉れに相応しい存在感を以て今この船上に君臨する。

 見惚れた。
 気付けば見惚れていた。
 目が離せなかった。
 自分でも訳が分からないままにその姿を目に焼き付けていた。

 よく見ておけ、俺。
 あれが――あの姿こそが“強い”ってことだ。
 俺はああいう風にはなれない。あれは背負うべきを背負わない人間には到達できない高みだ。正直少しだけ嫉妬を感じることもある。その理不尽にして不条理な強さに。
 だけど。
 だけど、俺は――。

「何をしている? 状況の説明をするから着いて来い。貴様に好き放題動かれても困るのでな。自らの役割というものを貴様の頭に叩き込んでおいてやろう」

 ヤツの背中を見ながら決意を新たにしていた俺に向け、フランシスカが振り返らないままに移動を促した。
 その声にはいつも通りの毅然とした色が乗っており、彼女も彼女でさっきまでの諍いを引き摺る気はないと、そう言外に告げているようにも思える。ただし、それは必ずしも俺の言い分を認めることと同義ではなく、それどころか自身の正しさについての疑念なんてものはどこを探しても見当たらない。
 でも、それは俺だって似たようなモンで。

 だから、それでいいんだ。
 そう思う。

 ジョルジュのヤツはあんなことを言ってたけど、俺にもフランシスカにも“譲歩”という選択肢は似合わない。
 互いに一歩も退かず、互いの主張をアホみてぇにぶつけ合って、挙句には互いが衝突して――そんなのはこれまでにも何度も繰り返されてきたことだし、それが俺とあの女とのデフォな関係だ。蟠《わだかま》りを腹の奥底に仕舞いこんで付き合うよりは遥かに健全なそれだと、俺は思う。
 まぁ実際その辺のトコをフランシスカがどう思ってんのかは分かんねぇけど、少なくとも俺は──こうやって面と向かって罵り合っているうちはアイツを認めてるつもりだ。

「動けと言っているのが聴こえないのか? 時間は有限なのだ、早くしろ」

「あーうっせぇなぁクソ。行きゃあいいんだろ行きゃあ」

「なんだその投げ遣りな言い様は? 貴様は軽く考えているのかもしれんが、これから始まる戦いには我が近衛騎士団の名誉が掛かっているのだぞ? ついでにもう一つ念押ししておくが、やはり貴様は自分の“部下”だ。なので助力を冀《こいねが》うような真似はしない。自分が貴様に告げるべきはただ一つ――」

 フランシスカは一度足を止めて、流れるような仕草で俺の方を振り返る。
 そして強者の強者たる所以を示すかのように、似合いすぎて不釣合いだと錯覚してしまうほどの尊大な口振りで俺に“命令”した。

「身の程を知らぬ賊風情、何の苦もなく蹴散らしてみせろ」

「たりめーじゃねぇか! つーか、いつだってハナ切んのは俺のワリだって決まってんだよ!」

 だから、俺も返してやる。
 船上のざわめきを切り裂かんとばかり、ヤツに負けない不遜な“了解”を――。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 いよいよ戦火の匂いがしてきやがった。

 船尾から大洋を見渡せば、随分とハッキリした船影が二つ近付いてきているのが分かる。所属を示す旗を掲げていないことからして、あれが件の私掠船とやらだろう。
 応戦の意思を示し、僚船を先に出して帆の数を減らしているこっちとの距離は、見る見るうちに縮まってきている。

 目視した限りでは、あちらさんの船自体は俗にブリガンティン級と呼ばれるそれだろうか?
 縦帆と横帆が一枚ずつの二本マストで、全体としてはそれほど大きなものではない。俺らが乗ってるキャラックと比較すれば、サイズに関しては大人と子供って感じだ。
 それにあのサイズだと甲板を砲台として使うってのは、スペース的にも無理があるだろう。対して、こっちでは海兵団の連中が二門の備え付け大砲の発射準備に掛かっている。

 戦力だけ見りゃ俺らの有利は揺るがないだろう。

「にしても、随分とまた貧乏くせぇ船に乗っての参上だな。つーか、あれなんか自分らで漕いでねぇか? 今さら人力かよダッセェ! オイオイオイ海賊ってのは儲かる職業なんじゃねぇのかよ? ぶっちゃけ楽勝だろ、これ?」

「……そういえば貴様には海戦の経験がなかったんだったな」

「あ? いや、確かに海の上で戦うっつーのは初めてだけどさぁ。俺なんか変なこと言ったか?」

「ああ、途轍もなく的外れなことを言っているぞ。あれは見た目には地味ではあるが、敵に回すと中々に厄介な船だ。それなりの操帆技術さえ持ち合わせていれば、サイズの小ささも相俟って進路の取り回しにかなりの融通が利く。機動力に関しては、キャラックではどう足掻いても太刀打ちは出来んな」

 海戦戦術の知識なんてないし、彼女の危惧を理解できずに首を捻っていた俺に対し、フランシスカがご丁寧にも簡潔な説明を入れてくれた。表情は『なんで今頃になってこんな基本を教えなきゃなんねぇんだ』的な呆れの感情を大いに乗っけてはいたけれど。
 で、まぁ細かいことなんて理解したって仕方ねぇから、超それなりに要約すると――。

「アイツらのブリガンティンは俺らのキャラックよりも小っこい分、鬱陶しく動き回れるってことか。そんでもって奴《やっこ》さんらの狙いはこっちに接舷しての切り込みだ、と」

「そういうことだ。操船技術に関して言えば、海兵団の連中が海賊共に劣るとは思えんが、それでも彼我の船体の重量差は如何ともし難い部分ではあるな。奴らによるボーディング自体は避けられないものとして考えておいた方がいいだろう」

「切り込んでくるっつーなら、それはそれで手間が省けて有り難ぇんだけどさ……そもそもこっちには大砲があんだろ? 近付こうと射程に入ってきやがった途端に大砲炸裂、ハイおしまい、って感じで片付くんじゃねぇの?」

 少し離れた舷側、そこで砲弾を抱えて立っている海兵団の連中を見遣りながら、フランシスカに訊ねる。
 パッと見だけど、あの砲弾自体はかなりの重量があるだろう。なんせ大の男が二人掛かりだ。“こっち”のそれが火薬を搭載していない実体弾であるとはいえ、着弾の衝撃は相当のものがあるはず。ついでに言えば帆船の多くは木製なわけで、金属製の装甲なんて上等なモンは備えられていない。
 つまりは船体がまともに衝撃を食らうハメになるのだから、木の板を数枚貼り合わせて補強したところで一発で風穴が開いちまうことは間違いないだろう。

 と俺のシロウト考えでは、大艦巨砲主義の萌芽を見ていたわけだが。
 まぁ現実はそんなに甘いはずもなく、フランシスカという慈悲のない冷酷女によってあっという間に生えたばかりの芽を刈り取られることになった。

「貴様は大砲に幻想を持ちすぎだな。確かに命中すれば甚大な被害を与えることが出来るが、波に揺られ標的も定め難い環境下に於いて敵船に中てること自体がそう簡単なことではない。ここに居る砲手の腕が悪いとも言わんが、決して優秀というわけでもない以上、撃沈までの期待は出来んな」

 フランシスカは少し声を顰めるようにして、自戦力への率直な評価を付け加えた。大声で吹聴しない辺りは、指揮官として当然の配慮というヤツだろう。なんとも気疲れしそうな立場でご苦労さんだ。
 とはいえ、まぁコイツがそう言うんなら多分そうなんだろう。俺はその分析を否定する材料なんて持ってないし、躍起になって否定する必要性も感じていない。ただ、そうなのか、ってそれだけしか思わない。
 だって。

「要はあれか? こっちのガンナーがヘタクソ揃いだから、的に弾当てんのは無理だってことか? んでもって、そうなるとあっちのが足速ぇから遅かれ早かれこっちの船に乗り込まれる、と?」

「馬鹿者! 声を張るな! まったく……開戦前に堂々と味方を貶す軍人がいるかッ。もう少し周囲に気を配ることを覚えろ」

「あーすまんすまん。正直は美徳なお国の人間だからさ、俺。腹芸は苦手なんだよ、困ったことに」

「そういう問題ではないだろうが……。まぁいい、以後気をつけろ。とにかくここまでの話で不明瞭であった部分はないか?」

「あぁっと……まぁ大丈夫なんじゃね?」

「その軽薄な答えがこれでもかと不安を煽ってくれるな……」

 フランシスカは不信に満ちた瞳を俺に向けてくるが、とりあえず適当に視線を逸らしておく。つーか、俺にどうしろと? そもそも俺が戦略やら戦術やらと縁遠い種類の人間だってことは、彼女だってよく知ってるはずだ。
 俺の反応に対してだろうか。フランシスカは一つあからさまな溜息を吐いてみせて、気を取り直したように毅然たる口調へと装いを帰す。

「とりあえず大砲は撃たせる。ここで出し惜しみしていては、それこそ宝の持ち腐れに等しいのでな。ただし、狙わせるのは舷側ではなく帆だ。人的被害を与えることよりも、大きな標的を狙って敵の機動力を多少なりとも奪う方を優先する。強風も鑑みて風下に位置することを決めたのは、その為だ」

 海戦戦術の基本は風上を取ることだ。それは俺でも知ってる当然の理。
 だけど今回に関しては、フランシスカは敢えて風下に位置することを決めたらしい。それは勿論彼我の機動力の差から来る致し方ない側面もあるが、大きな理由は強風だ。先刻から勢いを増した風は、西から東に向けてかなりの強さで吹いていて、北に船首を向けているキャラックが左肩上がりに傾くほど。
 左舷から大砲を撃ち出す以上、下手に風上へと回り込めば、標的を捉えることは至難となる。海面に対して平行より小さな角度では射程すら制限されるし、下手すれば砲身が波を被ってしまう可能性だってあるんだ。
 それらの事情を鑑みると、フランシスカの決断自体は正解の一つではあると思う。

 だけど、問題は――敵船が風上に位置することにより只でさえ勝っているであろう機動力を増してしまうことと、こっちは風下から切り上げる形のせいで機動自体に大きな制約を課せられること、という二点であって。
 仮に砲弾が見事帆を貫いたと仮定しても、あっちには人海戦術で漕ぎに漕ぐという手段があるわけで。
 だったら、結局は白兵戦が避けられないということだ。

「今更言い含める必要はないのかもしれんが、近衛の人間にはあくまでも独力で敵を無力化するつもりで戦ってもらわねばならんのだ。つまりは接舷されることは予め想定した上で、如何に攻め如何に守るか――それが重要だということだな」

「ま、アンタならそう言うだろうなぁ。で、肝心要の役割分担とやらはどうするつもりなんだ?」

 砲弾が敵船に突き刺さるか否か、なんてのは実のところ、どうだっていい。風向きと位置関係の有利不利なんて端から知ったこっちゃない。
 俺がどこでどんな相手とどんな風に暴れられるのか――俺にとっちゃそれこそが大事なトコだ。船室を守れ、なんてシケたこと言われたとしても、従う気なんて毛頭ない。

 そして、フランシスカとしても俺の性格くらいは知り尽くしてくれていたんだろう。良きにしろ悪しきにしろ、相応の付き合いを積み重ねてきた結果として、俺は『攻めのコマ』として使った方がマシだという判断が下せる程度には。
 彼女は少しだけ渋面を作りながら、告げる。

「貴様に守りを命じるなど危なっかしすぎて、とてもではないが任せられんな。ロサをはじめとした非戦闘員を守る任については自分が引き受けよう。ならば、指揮官たる自分が貴様に要求するべきは一つ──」

 フランシスカはそこで一旦言葉を切って、掛けるべき言葉に最後の推敲を行っているかのようにホンの僅かな間を置いた。
 複雑で流動的な凹凸のある水面に乱反射した光を映し込み、陰影を生じた赤褐色の瞳。それが俺を正面から射貫く。

「敵を殺すを厭わぬことだ。今から貴様が身を置くのは“遊び”などではない。我らが旗の名誉を掛けた“死合”だ」

 それは実にお節介な“要求”。俺の戦り方を明に暗にと知り尽くしているからこその忠告。
 これから始まる戦いは、酒場や裏路地で喧嘩するのとは訳が違うんだ、と。衝撃によって意識を刈り取ることが終わりではなく、完膚なきまでの生の収奪こそをそう呼ぶんだ、と。

 武人として軍人としての在り様──フランシスカが俺に伝えたいことってのは、そういうものなんだろう。
 思えばこれまでに幾度となく口酸っぱくして言われ続けてきた。生まれた時から軍人として生きることを定められた女には、俺の想像なんかが及びもつかないほどに無数で煩雑な“主義主張”があるんだ、ということくらいは十二分に理解している。
 剣を交えた相手へ敬意を表せよ──そんな言い回しもその一つであって。要は騎士道精神ってヤツか?
 相手を尊重するからこそ、手加減はするな。敵の尊厳を守るためにこそ、命を奪え。

 正直意味が分からない。理解不能にも程がある。
 それは前時代的な価値観に対する俺の中での拒絶意識のせいなのかもしれないけど、それでも──。

「そりゃ殺しちまえば向こうサンは楽になるだろうよ。死んじまえば、痛みも屈辱も何もかも感じなくて済むんだろうしな。でもわざわざご丁寧にそんなことしてやったところで、俺にはなんもいいことなんてねぇじゃんよ。だったら他人の命なんてメンドクセェモン背負いたくねぇな、俺は」

 俺は殺すことを目的に殴るわけじゃない。
 衝撃《インパクト》の瞬間に拳に伝わってくる感触──その快感を味わいたいからこそ拳を振るっているだけだ。敵サンの名誉やら尊厳やらそんなことは全然関係なく、単純に俺が気持ちよくなるためだけに。単純に人間を殴ることがブッ飛んじまうくらいに楽しいからブン殴ってるだけだ。
 だとすれば、俺にとって戦場も裏路地も大した違いはないし、やることは唯の一つも違わない。

 ヤツらを一人でも多く殴り飛ばす――それだけが俺の行動指針。
 その為の効率を思案する段になれば、不思議なくらいに頭が冴え渡る。
 どんなタイミングで、どんなルートで、どんなターゲットを――無数のシミュレーションをしながら、脳汁全開の妄想を楽しみ、その瞬間を舌なめずりしながら待つ。
 この時間はいつだって甘美で堪らない。これがあるから今の俺は近衛なんていう仕事を続けていられるんだと思う。

「貴様の考えは『殺す』ことを厭わない軍人とは比べ物にならないほどに性質《たち》が悪いな。自分としてはそのような享楽的な暴力性向など断じて認める気はないが、どうせ言っても聞く耳など持たぬのだろう?」

「殺そうが殺すまいが結果としちゃ俺らが勝つんだから問題ねぇだろうよ。俺が相手を殺さねぇってのが不満なんだったら、トドメ役を一人俺の後ろに引っ付けといてもいいぜ。息の根止めんのが俺の拳じゃなくてソイツの剣だったとしても、俺にもアンタにも何の不都合はねぇだろ?」

「貴様のそのずれた割り切りには未だ理解が及ばんな……」

 フランシスカが軽く肩を竦めてみせるが、俺にとっちゃ単純な話。
 俺は人を殺したくはない、ってだけだ。それは“あっち”で培われた最大の倫理観であり、背中一面に彫られた墨みたいなモン。後から消そうと必死コイたところでもどうにもならない。
 だけど、だ。
 ホンの少しだけ角度を変えてやれば、それは――俺“が”人を殺したくない、へと容易に変容するわけで。
 俺に殴りつけられて意識トんじまった敵が他の誰かに刺されて死んじまったとしても、そのこと自体は俺の倫理からは外れない。別段罪の意識を感じることもないし、死者に心動かされるわけでもない。その事象は既に俺の責任の範疇から外れたと見做せるからだ。
 要は利己的な思惑から他人の死に関わる直接的な責を避けているだけ。これまでもずっとそうしてきたし、これからもずっとそうしていくだろう。別に悪いことだとも思わない。

 そもそも倫理観なんて他人と共有するようなモンじゃない。
 自分という単位まで矮小化された世界でのみ通じるルール――それが倫理であり、道徳だ。それを単なる“自分ルール”であると認識しないままに、適用される世界の範囲を共同体にまで広げようとするのはエゴイズムの最たるもの。他人の“自分ルール”に自己のそれを上書きしようなんて、そんなことを考えるのは精神的な拡張志向に他ならない。
 だから俺は“俺イズム”を他人に理解してもらおうなんて期待はしていないし、他人の“イズム”も理解する気はない。

 それを言葉にして説明するのも面倒で、頭をガリガリと掻き毟る。
 “あっち”に居た頃には髪の色抜いて伸ばしていたんだが、“こっち”に来て以来短いのがすっかり板に着いてきた。

「あーなんつーか喧嘩の前のお楽しみタイムを満喫したいんで、他に言うことないんだったら俺のことは放っといてくれね? 心配しなくても、余裕で三桁はブッ千切ってやるから」

「戦果についてはそれほど心配はしていない。貴様が己を見失わぬか案じてはいるがな」

「大丈夫だって。海賊相手なら通常進行で何の問題もねぇだろうし」

「貴様の言を鵜呑みにするわけにはいかないが、自分もまだ周知すべき相手が残っているのでな。いつまでも貴様に着いているわけにもいくまい」

 そう口にすると同時。
 フランシスカは剣を抜き、払うようにして一閃。俺の胸の前――右手から左手へと流れるようにして刃が流れ。
 鮮やかに過ぎる銀の剣閃を俺の網膜へと焼き付けた後で、柄を握る右拳を眼前へと差し出してくる。

「我ら近衛騎士団に誉れを」

「クソッタレな俺らに祝福を」

 短い台詞に戦いの誓いを篭めて。
 俺はフランシスカの拳へと自らのそれを打ち合わせた。

 いよいよ時は来たれり。



[9233] Chapter3 Scene2
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:8b7072b8
Date: 2011/05/17 19:14
「――それでは皆集まっているか?」
「おおおおォォォォ――!」

 仄暗い宵闇の中、それを切り裂くようにしてフランシスカの涼しげなアルトが甲板に響き渡る。
 そして間髪入れず、野太い野郎声が呼応。どうしようもなくムサい空気を場に蔓延させる。

 戦は終わった。
 結果的に見ても、内容的に見ても、まさしく完勝だったと言っていいだろう。
 今回に関していえば、戦術なんて要素は大勢を決するにそれほど寄与しなかった。敢えて言うなら戦術レベルでの“個”の違いこそが勝敗を分かったってトコだ。即ち人的な“質”の部分の差異は、付け焼刃の戦術云々じゃ埋まんねぇって証左。
 俺も思う存分縦横無尽に大暴れできたってんで、久しぶりに大満足だ。拳に残ったスマッシュヒットの感触は三桁に迫る。

 揚々たる体《てい》で杯を天に掲げる軍人たちの姿。
 その身体に細かい傷を受けている者くらいは散見されるけれど、逆にいえばその程度。命に関わる重傷を負った人間など一人たりともいないし、殉職なんて言葉には一片の縁すら感じられない。
 要は、ほぼ無傷のままで、俺ら近衛と海兵団の混合隊は私掠船を撃退したってことだ。

 めいめいが解放感に満ちた顔で、規則性などなく思いのままに陣取った甲板上。そこにはいつもの堅苦しさや緊張感など微塵も見受けられない。今この場を占めているのは警戒態勢下の“軍人”ではなく、一仕事終えた後の“労働者”たちだ。
 眼前で子供のような姿を晒す己の部下をゆっくりと眺め回し、それらを束ねる女団長は呆れたかのような、それでもどことなく満足そうな溜息を一つ零す。一つだけ、零してみせる。

「その様子を見れば、余計な言葉は要らぬのであろうな――」

 だけど、フランシスカのヤツだって安堵の色は隠せていない。
 一つ一つの呼び掛けはいつもの鋭さに欠けているし、なにより部下の無事を喜ぶかのように頬が下がっている表情までは誤魔化せていないんだ。
 彼女は一度息を大きく吸い込んで。
 その後、一言一言を噛み締めるようにして――。

「皆よくやってくれた。我々の勝利だ」

 そう、告げた。

 一瞬遅れて、湧き上がる歓声。鬨の声。
 勝者が勝者として正当に享受すべき歓喜が爆発する。それを心中に押し留めておこうとする者など見当たらない。身体全体で心からの解放感を表現するこそ、鉄と血に生きる人間の流儀。そこがどんな場所であろうが、それがどんな戦いであろうが、今この時をこそ喜ぶのが軍人って生き物なんだ。
 流石に俺はああいう風にまでは乗れないけど、アイツらの気分自体は解らないでもない。

 鎧を脱ぎ捨て、屈強な肉体を海風に晒した数人の同僚が、一目散にフランシスカの方向へと突進する。未だ高い波による足場の不安定さなど意に介さず、手に持ったジョッキから酒精を撒き散らかしながら。
 周囲で座り込んでいる連中も大声で煽り、場は一瞬にしてフランシスカを中心とした狂乱状態へと変じる。

「こらちょっと待て! 王都に到着するまでは気を抜くな、ついでに羽目を外して飲みすぎるなよ、と自分は言おうしていたのだが――おい聴いているのか、貴様ら!?」

「我らが鉄の処女《おとめ》にカンパーイ!」
「我らが鉄の処女にパイパーン!」
「団長の、ちょっとイイトコ、見てみたい♪ そぉれイッキ、イッキ、イッキ、イッキ――♪」
「イッキ、イッキ、イッキ、イッキ♪」
「剃毛、剃毛、剃毛、剃毛♪」
「無礼講だ無礼講だ無礼講だぁ!」
「誰かこいつを飲ませろ」

 こういうの、なんつーの? 収拾不能?
 さりげなくえげつない下ネタを混ぜ込んでるヤツがいるあたり、清々しいほどに最低だ。

 殺到した野郎共に取り囲まれながらも、気の緩みを諌めようとする怒声が人の壁の向こう側から響いてくる。
 が、その言葉に従う者など誰もいない。いつもなら連中全員が一も二もなく姿勢を正すところなんだろうが、緊張状態からの解放というのはそんな当たり前を忘れさせるほど人をハイにしてしまうらしい。
 なんつーか打ち上げコンパなんかでの学生ノリに近いモンがあるが、まぁアルコール入れる時ってのはそのくらいの方が楽しかったりするし、普段抑圧されてるマジメな騎士連中にとってはちょうどいいストレス発散の機会にもなるんだろう。

「つっても、アイツに飲ませんのだけはやめといた方がいいと思うんだがなぁ……」

「同感だね。あの日の返杯地獄は僕にとって忘れられない惨劇の記憶だ」

「それは俺もだっつーの。お前が逝っちまったあと、俺がどんだけアレの相手しなきゃなんなかったと思ってんだ? ミゲルなんて全然役に立たなかったしよォ……」

「それは災難だったね。なんにせよ僕らは過日の轍を再度踏むわけにはいかない。そこについてはドザエモンも意見を同じくすると考えていいかい?」

「たりめーじゃねぇか。絡み酒の無間地獄に引き摺り込まれるくらいなら、船室に鍵掛けて篭ってた方がナンボかマシだ」

 俺が漏らした独り言に敏感な反応を見せたジョルジュと言葉を交換。互いの思惑がほぼ一致する。ある意味、俺もコイツも被害者の会のメンバーなんで、その辺は当然といえば当然だ。
 例の惨状を目の当たりにした人間ならば、アイツに酒を飲ませようなんて二度と考えないはず。酒癖悪いヤツってのは世に溢れているのかもしんないけど、フランシスカのそれは『よくあること』として一般化するには度を越え過ぎていた。
 そのくらいには、あの日のあの女は酷かったってこと。

 あの直後は本人も結構凹んでたからなぁ、ありえねぇ醜態を晒したってことで。実際に例の慰労会では壁際に突っ立って一滴の酒すら飲もうとしてなかったし、ジゼルの店にもロサ絡みで頻繁に足を運んではいるが酒を注文している姿は見たことがなかった。
 まぁ向こうでの騒ぎを見るに、アイツが自らに課していた“禁酒令”は今日を以て解除という運びになりそうだけど。

 隣のジョルジュが遠い目をしながら溜息を吐いた。
 気持ちは分からなくはない。
 なんだって人って生き物は死に急ぎやがるのか――向こうの方で繰り広げられている光景を見ると、そんな無常観すら抱いてしまうんだ。

「つっても、まぁアイツらだってテメェのケツはテメェで持ってくれんだろ。まさか性質悪ィ酔っ払いを他人に押し付けるようなことはしねぇだろうし、俺らは俺らで適当に楽しんでりゃいいだろうよ」

「そうだといいんだけどね……。あんな理不尽は二度と御免被りたいところだよ……」

 俺が披露した希望的観測を受けても口振りが芳しくないあたり、ジョルジュにとって例の夜の出来事はトラウマ染みたものになってしまっているのかもしれない。
 まるで観察するような視線で騒ぎの中心点にいる女を見遣っている。

 そこでは勝宴という単語の持つ勇壮を体現するかのように、杯が舞っていた。これは比喩表現じゃない。木製のジョッキが本当に宙を舞ってるんだ、物理的な意味で。
 大声出しながら互いの身体をぶつけ合う野郎共。その意識からは手に持っているものを保持するなんてことはとっくに外れてしまっているんだろう。当然、杯の中身が全て空ではない以上、中身も派手に周囲に撒き散らかされているわけで。酒塗れになっていないヤツなんて多分あそこにはいない。
 そこだけ切り取れば、酒場の喧嘩のようにすら見える光景。酔っ払い同士が因縁を付け合って、互いに手を出すタイミングを窺っているかのような――そんな場面にすら見える。

「にしても、やけに弾けてやがんなぁ連中。ラムってのはああやってカッパカッパかっ食らうような酒じゃねぇだろうに」

「きっとそれだけ鬱屈しているものがあったんだろう。近衛の騎士たちにとっては慣れない海上生活だ。普段存在しない制約に縛られた生活というのは、知らず知らずのうちに精神に負荷を与えるものだからね。もちろん一仕事したあとで気分が高揚しているという要因もあるんだろうけど」

「そんなもんなんかねぇ……」

「ああ、そんなものだよ。近衛騎士がいかにエリート中のエリートの集団だとしても、彼らだって個々は一人の男であり人間なのさ。むしろ市井の人々に比べても本来の血の気の多さという意味では上を行っているわけだしね」

「俺にはあそこまで弾けまくる気持ちは分かんねぇな。海上生活のストレスとやらもこれっぽっちも感じてねぇしよォ」

「ドザエモンの場合、ストレスの源泉たる制約自体を無視しているわけだからね。言ってみれば、毎日をあんな感じで過ごしているようなものだよ」

 俺を揶揄するような笑みをうっすらと浮かべながら、いよいよ以て狂乱の色合いを濃くしていく爆心地を顎でしゃくるジョルジュ。
 コイツあそこのド真ん中に投げ込んでやろうか、なんて思いが少しだけ頭を過ぎるが、それは自重。ジョルジュが居なくなれば、俺の話相手が消えてしまう。

 宴の火蓋が切られた今。
 甲板上では海兵団員の一部を除いた船内全ての人員が思い思いに小さな車座を作って、話に花を咲かせ酒を酌み交わしている。きっと仲のいい連中同士で固まって、互いの無事を喜び合っているんだろう。
 肴はフランシスカとそれに群がる屈強な騎士連中との攻防戦。まるでコント染みたそれを遠巻きに見ながら、笑い飲み歌い踊る。

 今、この瞬間。
 船上を支配するのは、歓喜。

「俺らも飲もうぜ。本当に来るかどうかも分かんねぇ『恐怖の大王』に脅えてたって仕方ねぇ」

「そうだね。そうしようか」

 ジョッキを右手に持って、宵闇の空へと突き上げる。
 棚引いた薄紫の雲の向こう、仄かに輝きを放ち始めた星々――その幾光年の歴史が俺らを見下ろしているかのよう。
 ゆっくりと前後左右縦横に揺れ、暗闇を切り裂いて大海を進む船の上、煌々と焚かれた篝火――それはあの星々が存在する遠き宇宙の向こうから見れば最低の等級にすら満たないだろうが、それでも洋上《ここ》にいる俺らにとっては月にすら勝る存在だ。

「うっし、乾杯」

「ああ、乾杯だ」

 互いに突き出したジョッキが木独特の乾いた音を立てる。
 口腔に含んだラムのダイレクトなアルコール感に少しだけ顔を顰めながら、俺は一気に杯を煽って、腹腔に酒精を流し込んだ。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「ジョルジュ様って恋人とかいらっしゃるんですかぁ……?」

「バッカ、あんたねぇ……ジョルジュ様みたいなイイ男に女の一人や二人いないわけないじゃない」

「えぇぇぇっ!? やっぱり素敵な殿方は概ね売約済み、所詮は他人《ひと》のものだってことかぁ……」

「世間というのはそういうものよ」

「うぅぅぅ……恋破れし乙女はいったいどこに行けばいいというの……? 私の王子様はいつになったら迎えに来てくれるというの……? いくらなんでも遅刻しすぎよぉ……」

「はいはい、女だてらに軍人なんて職業に就いてる時点でその辺は大人しく諦めなさい。それなりの年になれば、きっとあそこで酒かぶってるようなガサツな連中の誰かとそれなりの恋をして、それなりの形に収まるのが私たちの人生ってものよ。っていうか、あんた飲みすぎ。だいぶウザくなってるわ」

「ウザイなんて言わないでぇ……。それにあれらと結婚するなんてありえないぃぃぃ……」

 未だフランシスカを囲んで大騒ぎしている連中を見ながら、涙目で訴えている女がいる。かなり酔っているんだろう。上半身が休むことなくゆらゆらと揺れている。その隣には、彼女のジョッキを取り上げて溜息を吐いている女が、これまた一人。
 ハッキリ言おう。

「お前ら邪魔。女クセェし、存在自体が目障り」

 男同士で飲んでる時に横入りしてくる女ってのは、大概がロクなヤツじゃない。空気を読む読まない以前の問題として、ちやほやされたいっつーナメた思惑を腹に抱えてやがる場合が大抵だ。
 ご丁寧にもそんな女の相手をしてやるほど、俺はフェミニズムに傾倒してはいない。
 よって、言葉は自然と厳しいものになったりするわけで。

「えっ……えっと……」
「あんたねぇ……」

 女共が輪を掛けたように意気消沈しやがった。いい気味だ。
 若干一名は俺に何かを言い返したそうにしているが、そんな暇は与えてやらない。続けざまに言葉を紡ぐ。

「つか、どこから来た? 何しに来た? それよかお前ら何モンだよ?」

「いやいやいやドザエモンドザエモンそれは些か酷すぎるよ。彼女たちも航海を共にする仲間じゃないか。であれば、宴の席で互いの健闘を称え合うくらいのことは不自然ではないさ。そうだよね、海兵団のエステファニアさんとヘシカさん」

 俺の詰問を遮るようにして、ジョルジュが穏やかなフォローを入れやがった。いつも通りの爽やかな笑顔を浮かべながら。
 つーか、なんかこの一連の流れがやたらと定型化しちまってるように感じるのは、俺だけか?

 そして、その後の流れもご多聞に漏れず。
 人を安心させるような柔らかな笑みと半ば詐欺染みたものさえ感じるほどの優しい言葉に絆された女が感激することになるわけで。そんでもって、調子に乗ってこの場に居座ることになる。
 居座ることになる、っつーかこの場合は既に半分“なってた”んだけどな。

「私たちの名前覚えていただけてたんですか!? 多分そんなにお話もしたことなかったのに!」

「さすがに優秀な官吏というのは違うんですね。うちの団長なんて私が入団してから一月は名前覚えてくれませんでしたから」

「私ひょっとして目立っちゃってました!? もしかしてお眼鏡に叶っちゃったりなんかしたりして!?」

「あんたはもうちょっと落ち着きなさい。ごめんなさいジョルジュ様、この娘少し酔ってるせいか舞い上がってしまっているみたいで」

「ああ、気にしなくてもいいよ。僕としても無闇に畏まられるよりは、こうして気軽に接してもらえた方が嬉しいところだから。っと、忘れてた」

 眼前で繰り広げられる予定調和な会話。
 それを辟易するような気分で聞き流していた俺の腕が、急に何かに掴まれる。視線を下げてみれば、ジョルジュの手が俺の下腕部をしっかりと捕らえていた。
 一体なんのつもりだ、と視線に険を乗せて訊こうとはしてみるが、ジョルジュの目線は明後日の方向。こちらを向いていない以上、効力はない。

「紹介が遅れたね。こっちは僕の友人のドザエモン。近衛騎士の職に就いている。人当たりは悪いが、心根は優しい男だよ。だから二人とも必要以上に恐がらないでくれると嬉しい」

「オイてめぇ、なに勝手なこと言って――」

「まぁまぁいいじゃないか。こうして座を同じくしたのも何かの縁。内輪で固まるのもいいけど、偶には他の人たちと盛り上がるのも悪くないだろう?」

 軽い調子で。
 だけど、その実は強引なやり方で、ジョルジュが俺を巻き込む。

 こういうことはこれまでにも度々あった。
 周囲からすりゃ、俺はちょっとした“人見知り”にでも見えるらしい。人付き合いの少なさを心配してくれるヤツは結構いる。ジョルジュだけじゃなく、ミゲル然り、フランシスカ然り。まぁジゼルのヤツは半分諦めてるっぽいけど。
 そんなこんなの理由から、こうやって俺を引っ張り出そうとしてくるんだ。余計な世話だが、悪意がない分、始末に困る。

 と、ぼんやりと考えているうち、二人の女軍人の片割れ――背がちっこくて赤毛の方が俺に対して座ったままで器用にぺこりと一礼し、口を開く。

「えっと……私はヘシカといいます。海兵団所属の三年目です。はじめまして、ドザエモンさん……でいいんですかぁ? なんだかヘンテコな名前ですけど――」

「あァ? なんか文句あっかコラ」

「あああぁぁぁ、ごめんなさいごめんなさい! そんなつもりじゃなかったんですぅ! バカにするつもりなんてなかったんですよぅ!」

「その言い訳が既にバカにしてんだろうがよ!」

「だから違うんです! そうじゃないんです! うわぁぁん、テファ助けてぇ!」

「今のはあんたが悪いでしょ、ヘシカ。そうやってよく考えずにモノを言う癖は直した方がいいんじゃない?」

 凄まれて同僚に泣きついたヘシカって女の頭を軽く小突きながら、もう一人の方が俺に向かって視線を向ける。
 座っていても結構背の高い女だということが分かる。姿勢が綺麗に伸びている分、そう感じるだけなのかもしれないけど。赤銅色の瞳は気の強さを示しているかのようにどこか肉食獣的な獰猛を秘め、同色の髪は背中の方へと潔く掻き上げられている。
 なんとなくフランシスカと似たような雰囲気の女だ。アイツから高貴さを引いて、蓮っ葉さを足したような感じ。

「私の名前はエステファニア。名前が長いっていう失礼な理由でテファなんて呼んでくる連中もいるから、その辺はご自由に。この娘と同じく海兵団所属の一年目よ。とりあえずこんなところで大丈夫?」

 身に纏った空気をそのままに具現したような声で、エステファニアなる女が自己紹介を終える。
 なんつーか、年頃の女らしいキャピキャピした様子が全然ない。あくまでも淡々と事務的に話すべき内容を過不足なくピックアップして告げました、って感じだ。
 それに自己紹介を耳にして疑問に思ったんだが――。

「そっちのヘシカって女の方がセンパイなのか?」

「ええ」

 俺の問いに間髪入れず頷くエステファニア。
 いや、『ええ』じゃなくてだな……もっと言うべき言葉があるんじゃねぇの、と。

「そんでお前はルーキーなんだよな?」

「ええ」

 いやだから『ええ』じゃなくてさぁ、もっとこう、ほら――。

「それにしちゃあ随分と態度デカイなオイ。ひょっとしてイイとこの出だったりすんのか?」

「いえ、由緒正しい中流階層の出身ですが、なにか?」

「いや別になんでもねぇ。お前とソイツがそれでいいってんなら、俺がとやかく言うことでもねぇだろうさ」

「ふぅん、そう」

 実際、年上に対する態度やらについて、俺は他人のことを言えたモンじゃない。ぞんざいなそれが悪いとは最初から思ってもいないし。
 どちらかというと周囲の連中がそういうとこに几帳面すぎるせいで、海兵団の二人の関係が歪に映ってしまっただけだ。

「なにはともあれ、互いの面通しは終了ということでいいかな?」

「はいっ!」
「ええ」
「ま、いいんじゃねぇの」

 ジョルジュの問いに呼応するのは、溌剌が一《いち》、淡々が一、無関心が一。なんともバランスが悪いというか、どこまでも足並みが揃ってない。
 だけど、ジョルジュはそんなことを気に掛けた様子すらなく。むしろキザっぽ過ぎて食道を込み上げてくるかのような台詞を吐きながら、涼しげな顔でジョッキを掲げる。

「今日の出会いは明日の宝。互いに親睦を深められるよう祈念して、乾杯」

「かんぱーい!」
「乾杯」
「……ほらよ」

 俺にとって本日二度目の乾杯。
 統制など全く取れていない掛け声が宵闇に木霊し、甲板のあちらこちらの喧騒に紛れて消えていく。
 まだまだ夜は始まったばかりだ。この四人で共有する時間もまだ十分に残されているんだろう。
 つーかなんですかこの合コン展開?

「せっかくだから軽くツマめるものがないか訊いてこよう。ラムのストレートにツマミなしというのは胃にも良くないし、なにより宴の趣に欠けるからね」

「あ、だったら私も一緒に行きます! ていうか一緒に行っていいですか、ジョルジュ様!?」

「とはいえすぐそこまでなんだけど、それでいいんだったらヘシカさんも一緒に訊きに行こうか」

「やたっ!」

 あーなんなんだろうな、この和気藹々空間。
 見てて身体が痒くなってくるっつーか、聴いてて恥ずかしくなってくるっつーか。

 気分を誤魔化すようにして杯を煽る。
 やっぱりラムのアルコールは効く。『海の男の酒』というイメージがあるだけあってそれなりに度数が高い。味にもモロコシ独特のクセがあって、不味いとまでは言わないまでも葡萄や麦に比べて飲みづらいことは確かだ。せめてラムコークにすりゃもっと飲み易くなるんだろうが、と“あっち”で飲んだことのあるカクテルの味を思い返したりする。
 未成年の飲酒は法律で禁止されてはいたものの、それは文字通りにあくまでも法律的に禁止されているだけの話で。顔馴染みにさえなりゃあ酒の一杯や二杯普通に出してくれるような店も珍しくなかった。
 と、色々回想するにはしてみるが――。

「つってもコーラの製法なんて知ってるわけでもねぇしなぁ……」

 あれは確か大手のボトリング会社によって秘匿されていたはずだ。俺なんかが知ってるはずもない。せめて炭酸水の作り方くらいは知っておくべきだったと後悔しても後の祭り。水にドライアイス突っ込みゃ簡単に作れるとは分かっていても、今度はドライアイスの作り方が分かんねぇ。
 つーか、炭酸飲料の製法知ってりゃこんなトコで騎士なんてやってないで、独占企業立ち上げて大儲けしていたことだろう。“あっち”でデフォだった炭酸入りのビールなんて、“こっち”に持ってくれば飛ぶように売れそうだ。

「まぁ今更んなって『あん時に勉強しときゃよかった』なんてのも癪っちゃ癪だよなぁ」

「さっきから独り言が気になるんだけど、それクセなの? それとも私に対して何か言いたいことでも?」

「いんや、そんなんじゃねぇよ」

「そう? ならいいけど」

 場に取り残された俺とエステファニアはそれ以上の会話をするわけでもなく、互いに無言のままで杯を傾ける。会話がないと場が持たないってわけでもないが、少しばかりの気拙さはやはり存在するわけで。
 『早く戻ってきやがれ』とばかりに視線を送った先には、ヘシカに抱きつかれて困惑するロサとヘシカを宥めに入っているジョルジュとの姿があった。

「なにやってんだアイツらは?」

「ほんとにね。ま、あの娘可愛いもの大好きだから。ロサは海兵団の若い女の子たちの中でもキャラクター的な人気があるし」

「あのチビはホントいつの間にか色んな場所での市民権を確立してやがるなぁ……」

「そりゃあ仕事の休憩に入った時に笑顔で水持ってきてくれるような子を嫌いになるはずがないわよ。さっきまでだってあちこち走りながら、食べ物を配って回ってたみたいだし」

 エステファニアはそう言って、ロサの方を指差す。
 その指の先――ロサの左の肘の辺りには身体とは些か不釣合いな大きさの籠が下げられている。どうやらパンやら干し肉やらを詰めて持ち歩いていたんだろう。

 こんなトコに来てまで給仕気分でいなくてもいいと思うんだが、表情を見る限り嫌々やってるってわけでもなさそうだ。つーかあれ、本人には特段の意識はないんだと思う。当然の仕事だと認識しているんだろう。
 とはいえ、宴の席でまで額に汗して駆けずり回るのはやり過ぎだ。

 そして、そう思ったのは俺だけじゃなかったらしい。
 ジョルジュが二つ三つ何事かを話しかける様子が見えた後、三人連れ立ってこっちに向かって戻ってくる。

「どうやら一人増えるみたいね」

「みてぇだな」

 エステファニアは一つ息を吐いて身体をずらし、俺との間にあった距離を狭める。恐らくロサの座るスペースを作ってやろうという配慮だろう。
 見た目には人間味の見え難い女ではあるが、丸っきり冷淡なヤツってわけでもないらしい。

「あードザとテファがいる!」

 ロサがこっちを指差して嬉しそうな笑顔を浮かべる。
 天真爛漫、純粋にして無垢な感情の発露。在るべきものを在るがままに出せるのは、アイツの強いところだ。
 ヘシカと二人してジョルジュを引っ張るような格好で、こちらに向かって駆け出そうとしている。

「元気だなぁどいつもコイツも――ってオイオイ勘弁してくれよ……」

 視線を少し逸らした先、そこにあった光景に期せずして呪わしい声が漏れてしまった。
 デキアガり掛けたフランシスカが猛烈な勢いで部下の口に杯を宛がっている姿が目に入ってきたからだ。押し倒した上、己の両膝で相手の両腕を地に固定して、身動きの取れない部下の口に次から次へとジョッキの酒を流し込むという、恐ろしいまでの徹底ぶりだ。
 思わず目を背ける。あれは返杯という名の処刑だ。周囲で喝采している連中は、その矛先が自分に向く可能性というものを失念している。遠からず全滅の憂き目に遭うことだろう。
 そうなっても俺は知らないし、関係ない。とにかく、あれとは関わりたくないんだ。

 だけど、同時に――。

「お待たせ、お二人さん」

「ロサちゃん捕獲してきたよぉ」

「えと、干し肉食べる、ドザ?」

 ロサというピースがこの場に嵌め込まれたことによって、“あれ”の襲来条件を満たしてしまったかのような悪寒がして堪らない。周辺の人間を食い尽くした後、周囲を見回して目に留まる――そういう観点からすると、この席は十二分にその条件を満たしている気がしてならないんだ。にこにこと笑みを浮かべているジョルジュの姿には危機意識の欠如すら感じるほど。
 とにかく目立たず騒がず、その上で注意を逸らしてはならない。

 心中で秘かに警戒レベルを上げながら、俺はロサが差し出したパサついた干し肉の塊に齧り付いた。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 干し肉を素手で引き千切って、口の中に放り込む。
 保存性こそが最優先、味なんて端から考慮の埒外だ、とでもいうかのような強烈な塩味。もし俺が繊細にして優美な美食家だったら即座に吐き出しているだろう。なんせ軽く舌が痺れるレベルだ。
 そんな天然の昇圧剤ではあるが、慣れてくるとこれはこれで癖になっちまうってんだから、人間の味覚ってのはよくよく当てにならない。
 と。
 適当にもう一切れ摘み上げて再度口内へと投入したところで、隣に座っているエステファニアが呆れたような声を上げた。

「よくもそんなに次から次へと食べられるわね。こう言っちゃなんだけど、そんなに美味しいものでもないし、なにより喉乾くでしょ?」

「まぁそりゃ、な。こんな塩っ辛ぇモン食ってんだから、喉乾かないわけねぇじゃん。そん時ゃこうすんだよ」

 答えながら、ラムが並々と注がれたジョッキを口元に運んで。
 その中身を一息ながらに身体の中に流し込む。ラム独特の仄かな甘味――それが口の中に残留する塩の味を洗い流し、一種の爽快感みたいなモンを運んできて。
 一瞬の後、胃が焼けるような熱と脳を蕩かすかのような快感が襲い来る。
 まったく、これがあるから酒ってヤツは止められない。平衡感覚の喪失やら短期記憶の忘却やらとんでもねぇ気持ちよさやらその辺を全部引っ包めて、飲酒ってのは会心の一発を顔面に食らうのに似ている。

「あんた、さっきから悪酔いの階段を一足飛びに駆け上がってない? 目が危ないわよ」

「ちっとくらいそうなんのも当たり前だろ、酒飲んでんだから。で、なんか文句でもあんのか?」

「別に取り立てて言いたいことがあるってわけじゃないけど……」

「だったら無駄に話し掛けてくんなっての。めんどくせぇ」

「私だって好んで愛想なしに話し掛けたくなんてないわよ。でも一つだけ確認させて」

「あー、んだよ?」

「あんたって酒強いのよね? もし自信の程がないというんだったら、悪いことは言わないから少しペースを落としなさい。私はいやよ、酔っ払いの相手しなきゃいけなくなるなんて」

「うっせぇなぁ……。ぐちぐち小言垂れたいんなら、どっか他所《よそ》行ってやれや」

 宴もたけなわ。
 疲労困憊の末なのか、単に酔い潰れただけなのか、甲板上で横になり始めるヤツらがちらほら見受けられ始めた頃。
 開幕ダッシュに出遅れていた俺らの一角はちょうど折り返し地点に差し掛かった感じなのか、適度に酒も入ってようやく場が暖まり始めてきたタイミングだった。

 ヘシカって女はさっきからジョルジュにべったり。大袈裟な身振り手振りを交えながら留まることなく喋り倒している。
 多分、話題は恋愛ごとの愚痴なんだろう。さっき、『見合いがどうの』って話が漏れ聴こえてきた辺りから推測するに十中八九間違いないと思う。まぁその手のネタに関してならば、確かにジョルジュは適任なのかもしれない。アイツならヘシカが欲しがっている回答を汲んだ上で、巧く立ち回るはずだ。
 どっちにしても俺がクビ突っ込むような話じゃないし、それ以前にあちらさんもお呼びじゃないだろう。

 ってなわけで、俺は談笑の輪の外側で一人ちびちび飲《や》ってようという心積もりだったんだが――。

「本当に口が悪いのね。仮にもうら若き乙女が心配してあげてるんだから、もう少し違う反応が欲しいところだったりするんだけど?」

 現状はこんな感じで、口煩い女に絡まれてしまっている。
 どうやら、他人の恋愛トークに食傷を感じてしまったのは、俺だけって話でもなかったらしい。エステファニアっつー名前のこの女も立派に恋愛はぐれ組だったようだ。年頃の女ならああいう浮いたネタには一も二もなく食い付きそうなイメージがあるんだけどなぁ…。

「うら若き乙女なんだったら、それらしく酌の一つでもしてみやがれってんだ。そんな辛気臭ぇツラなんかしてねぇでよぉ」

「それはそれはお生憎サマ。この顔は生まれつきだし、あんたのご期待には添えそうにもないわね」

「はァ? 誰が何に期待してるだって? アホも休み休み言え」

 俺が意地の悪い皮肉を飛ばそうとも、彼女には臆するところはまったくない。むしろ冷笑を湛えながら、間髪入れずに言葉を返してくる。
 その返答に対して俺がもう一度皮肉を投げれば、今度は片側の口端を吊り上げながら鼻で笑ってみせる。
 気の強い女だ。
 確固とした自負を備えているからこそ、自分に対する他人の評価など気にする程でもない、と。私の価値を真の意味で不足なく理解することができるのは、世界中で私だけ――以前カタリーナが吐いていたそんな台詞を思い出した。

 一息ついて、隣に座る女を改めて観察する。
 女にしては上背がある方だとは思うが、やはり男と比べれば身体つきは華奢だ。二の腕は細ぇし、胴回りだって足りてねぇ。それでよくも海兵団の仕事に耐えられるもんだ。

 海兵団ってのは、海上の安全を確保することを目的とした組織だ。そして、その目的達成の手段として武力を有している。“あっち”で言うところの海軍を一回り小さくしたような――敢えて相応しい表現を探すならば“海上警察”のような位置付けかもしれない。
 マディラが島である以上、洋上航路の安全確保ってのは死活問題。それ故に、海兵団に所属する人間には相応の能力が求められている。当然、勤務の殆どが洋上でのそれであって、なにかあった場合には海の藻屑と消える可能性だって孕んでいる職業だ。
 女が積極的に関わりたがる職場だとは思えない。

「アンタも変わってんなぁ」

「脈絡もなく失礼なこと言わないでくれる? 変わり者呼ばわりなんて心外よ」

「いや、だってそうだろ」

「仮にそうだとして、少なくとも理由も分からないままに受け入れたくはないわね。言葉が足りないのよ、あんた」

 エステファニアは俺の言葉に正面切って反論してくる。
 とはいえ、その語気が荒れているわけでもないあたり、特段気を悪くしているというわけでもなさそうだ。本人としても多少の自覚はあるんだろう。ひょっとしたら、そんな風に言われた経験も二度や三度ではないのかもしれない。

「大体が海兵団なんて男臭ぇ仕事に就いてる時点で、年頃の女としちゃどっか間違ってんだろうよ。体力的にもキツイだろうし、それこそ長期の仕事だったらテメェの男とも会えねぇしで、普通の女だったらストレス溜めまくっちまうと思うぞ」

「まるで、私がストレスに鈍感な女みたいな言い様ね」

「違うのか?」

「当たらずとも遠からず、ってトコだけどさ。これでも体力はそれなりにある方だと思うし、男縁にも恵まれないから色気のある悩みってやつとも無縁だし。ま、それでも面と向かって口にするにはデリカシーに欠けた言葉なのも確かだと思うわよ」

 淡々と紡がれた肯定と、最後に加えられたちくりとした皮肉。達観と諦観の狭間から“女”としての矜持がぴょこりと顔を覗かせる。
 両眼のルビーは篝火《かがりび》を照り返して、より紅く。磨かれる前の原石であったとしても、それは紛れもなく宝玉なんだ、と。隠せない輝きを纏いながら宵闇の黒を駆逐せんとしているかのようで、爛々とした野生的な光が俺の目を惹き付ける。

 嫌いじゃない。
 世界に在りながら、世界を俯瞰し。
 世界を過大評価することなく、さりとて過小評価するわけでもなく。
 世界に要求することはないが、世界の要求を甘受することも拒絶する。
 俺はこういう女は嫌いじゃない。

 似ているからだ。
 波長ってのは逆しまに辿り辿れば、源に行き着く。
 規定するのは、根。茎も、葉も、花も、実も――それらは全て後付けだ。形は果であって、因ではない。

 赤銅の下で三日月形に弓引く朱肉にそこはかとない共感を覚えながら、そんな益体もないことを思考する。

「私ってさ、好き放題言われて大人しく引き下がるタイプじゃないのよね。知ってた?」

「俺とアンタは今日が初対面だ。過ぎた理解を期待すんのはどうかと思うぜ」

「それもそうね。ま、そんなことはどうでもいいといえば、どうでもいいわ。で、あんた――ドザエモン、だっけ? あんたが私を含む女性を海兵団“らしくない”と言うのであれば、私を含めた大勢――そうね、恐らくあんたを除いたこの船上の全員が、あんたは近衛“らしくない”って言うと思うんだけど?」

「今更だな、それは」

 そんなことは百も承知だ。つーか、「近衛らしいね」なんて言われちまった方が困る。そんな風に答えられた日には、俺は今にも首縊りたい気分になるだろう。
 俺のあっさりとした首肯。だが、それはどうやら眼前の女の御気には召さなかったらしい。予測値と期待値ってのは非なるもの――予想していた答えと欲しかった答えが違っている、ってのはよくある話だ。

「そう返されるだろうと思っていたけど、実際にその通りになるとつまらないわね。願望含みで間違いだらけの自己認識をちくちく突《つつ》いて修正してあげるのが楽しいのに。精一杯膨らませた反発心を少しずつ針で刺して萎《しぼ》ませる楽しみすら味あわせてくれない、なんてのは、いかがなものかと思うわよ」

「性格悪ィな、アンタ――あーエステ、ファニア、だっけ? とにかくアンタはサドの気質十分って感じだ。少なくとも初顔合わせの人間にも伝わるようなレベルでな」

「よく言われるわ」

「そりゃそうだろうよ」

「別に否定はしないわよ。認めようが認めなかろうが、事実は変えられないんだもの。それだったら、道化染みた労苦を為すのは無駄にしかならないものね」

 彼女はそこで一呼吸の間を取って。

「あと、テファでいいわよ、私の呼び名。正直そんなにたどたどしく紡がれると、私の名前じゃないみたいで複雑な気分になるから」

「知るかよ、んなこと。テメェの名前が長ぇのが悪ィんだろ?」

「正確には、そんな長ったらしい名前をつけた私の両親が、だけどね」

「面倒ごとの責を全部親におっ被せるってのは、正解だな。親の存在意義なんて、突き詰めちまえばそんなもんだ」

 互いに一度目を合わせて、鏡写しのようにしてジョッキを口元へと。灼けた熱が腹の中へと滑り落ちて、ほうっと一つ息を吐き出す。いつのまにか結構飲んじまってたのか、その息は我ながら酒臭かった。
 主観時間にして僅か、沈黙が静寂を呼ぶ。喧騒の只中に生じたエアポケットが俺とテファ(ぶっちゃけ俺もメンドイ名前だと思ってたんで、彼女の提案は渡りに舟だった)を包んで。

 そして、また少し。
 時計の針は何事もなかったかのようにして、再度時を刻み始める。

「でさ、話は変わるんだけど、さっきの戦闘のことについてちょっとだけ訊きたいんだけど?」

「憶えてる範囲で良ければな」

 正直、逐一憶えてる自信がない。それは『自信がない』という確信。
 脳ミソはアドレナリンの生産・放出にイッパイイッパイ、プラントの煽りを食った海馬が処理落ちするのはいつものことだ。

「それでいいわ。どうせ大したことでもないから」

 軽く首を竦めるようにして、チェシャ猫の笑み。
 琥珀の酒を嘗めて艶やかに濡れた唇が、音に連動しながら瞬間ごとに異なる形として編まれる。

「あんたって本当に近衛騎士? 自船の安全は他人任せ、わざわざ敵船に乗り移って暴れ回る軍人なんて、初めて見たわ。同じようなことする海賊連中だったら、厭と言うほど見てきたけどね」

「この船に乗ってて且つ海兵団員じゃねぇ。だったら、消去法で近衛にしかなんねぇんじゃね? それともテメェにゃ俺が官吏サマにでも見えるってのか? 自慢じゃねぇが、そんなに頭は良くねぇよ」

「なるほど。なんだか妙な説得力があるわね」

「だろ?」

 探るような視線を受けて、軽く鼻を鳴らしてみせる。
 挑発に理由はない。挑発に理由は要らない。
 なぜなら、俺はそういうものだからだ。そして、恐らくは――。

「納得したわ。理性では、ね」

「是が非でも裏返してみたくなる言葉だな」

「お生憎様。他人に触られる前に自分で引っ繰り返すのが流儀なの――私はその事実が気に入らないわね、ものすごく。これ以上なく。虫唾が走るほどに」

「別にアンタが何を思おうが自由だが、そこまで言うことか? 相応しからぬ人物が相応しからぬ地位にある、なんて現象は古今東西一里百里に亘ってゴロゴロしてる事例だと思うけど?」

「だとしても、よ。まるで世界で一番嫌いな男に三日三晩陵辱された直後のような気分だわ。最悪ね」

 なんかすっげぇ喩えがキタ。

「それで忌むべき事実をネタに脅されて、その後一生クソ男の性欲処理に甘んじる運命を悟らざるを得なかった級だわね。ありとあらゆる希望を取り上げられて、ありとあらゆる絶望を押し付けられた気分よ」

「あー失望するも絶望するもアンタの好きにすりゃあいいが、もうちょい声を抑えろ。視線が痛ぇ」

 主にジョルジュとヘシカからの。
 さっきまで学園恋愛モノみたいな桃々しい時空を形成していたお二人さんが、今は困惑と非難の眼差しを携えて俺らの方を注視しておられる。ちなみに説明するまでもないかもしれないが、前者がジョルジュで、後者はヘシカな。

 そりゃ『陵辱』やら『性欲処理』やらっつー物騒極まる単語が耳に入ってくりゃあ、そうなるに決まってる。
 そんでもって、こういう場合は男の側が“やらかした”ことにされ、ぐしょぐしょに濡れそぼった衣《ころも》を着せられるっつーのが、悲しいかな性差に基づく逆差別の典型例。
 状況は必ずしも真実を語らない、という好例だ。人の口ってのは嘘をつく為に創られた器官。

 とりま、望まぬ介入を許す前に事態を速やかに収拾するのが最優先だと判断した。
 バカ女の軽挙妄動が産んだハンパない理不尽だが、本人に解決を委ねられない以上、被害者になる公算が非常に高い俺としては座して黙するわけにはいかないってのが、人生のクソッタレなところだ。

「つーか、テメェ黙れ。とりあえず黙れ。なんか知んねぇけど、テメェのせいで俺は性犯罪者一歩手前みたいな目で見られてんだろうが。次にわけ分かんねぇ寝言吐きやがったら、そのムダに高い鼻頭を百十回デコピンしてやっからなコラ」

 とりあえず制止の台詞には、ふんだんにドスを利かせておく。

「つーか、なに? なんなのオマエ? 俺が近衛だったら何か不都合でもあんのかよ、意味分かんねぇな」

「最悪……最悪ね、最悪。あああぁぁぁ、最悪よ、最悪。ホント最悪。前代未聞空前絶後徹頭徹尾に最悪だわ」

 今、最悪って何回言った?――そんなことは超どうでもいい。
 些事に関ずらってる猶予はない。余裕もない。
 つーか、この態度の急変はなんなんだ? なんなんだよ? なんなんですか? なんなんでせう?

「とりあえずさぁ、何が最悪で、誰が最悪で、どうなって最悪なのか、ちっとも分からん。もちっとキャッチボールしようぜ。今のアンタは超絶ノーコンピーで、大暴投のワイルドピッチ連発状態だ。でも記録員連中はなぜか全部が全部俺のパスボールだって認識してやがる。この状況はおかしいと思わんか?」

 通じるはずのない野球用語を使って意思の疎通を図ってしまったあたり、降って沸いた突発事態に俺の頭は置き去りにされているみたいだ。
 いや、むしろ理由も不明なまま『最悪』だと連呼されて動じない鋼の精神持ちの御方がいれば、是非にお目通り願いたいモンだ。

 というよりも、だ。さっきまでのニヒルなまでの落ち着きはどこに消えた?
 なにがトリガーになって発狂したのか皆目検討がつかない。ぶっちゃけ怖ぇよ、コイツ。ひょっとしたらジキル・アンド・ハイドな女じゃないだろうか。

「万に一つの可能性を敢えて問わせてもらうが、そもそもこの場合って俺が悪かったりすんのか……?」

「いや別にあんたが悪いってわけじゃないけど――」

 釈然としない気持ちを抱えての自責染みた俺の呟き。
 それが耳に入ったのか、テファが久方ぶりに平静を取り戻した――かのように思えたのは一瞬だった。

「でもやっぱりあんたが悪いっていうか、すごく気に入らないってのも確かなのよ。ということは、よ。最終的には『あんたが悪い』って結論になるかもしれなくて……あーもうっ! すっごくモヤモヤする! 誰のせいよ!?」

「知るかよ。少なくとも俺が悪くねぇってことは確実だけどな」

 煩悶した挙句に逆ギレされたところで、俺にはどう返したもんか分からない。分かるわけがない。
 むしろ、状況の理解が追いついてないのは俺の方だ、と言いたい。言い放ちたい。

「で、なんだっていきなり最悪づいたんだアンタ? きっちり説明しろ、せめて俺を謂れのない中傷対象一歩手前にまで至らしめた代償分くらいは」

「あんたにだけは絶対に教えないわ」

「なんでだよ?」

「悔しいからよ」

「なにが? つか、肝心要《かなめ》の主語が抜けまくってんだろうが、さっきからよぉ」

「ご自由にご推察くださいな」

 ムダに遜《へりくだ》った口振りは、興奮の沈静化を表し。他方、それ以上の追及を倦厭する意図を含んでいた。どうやら色んな意味で底は打ったみたいだが、テファの機嫌は相変わらず低位で横這い。
 俺の近衛騎士らしからぬ振る舞いに文句があるらしいことくらいは分かるが、じゃあなんで部外者であるはずの彼女が気を損ねているのかは依然として不明のままだ。一連の会話から察するに、それを説明する気もないらしい。
 『察しろ』と言われても他人の心中なんて理解できようはずがないし、そのことはテファだってよく分かっているだろう。

 火のないところに煙が立って、さらにその煙に巻かれてしまった気分だ。俺に出来ることなんて首を捻ってみせるくらいしかない。
 判然としない現状と、釈然としない感情――跡に残るのは、二つだけ。

「別にいいじゃない。あんたの場合、今更悪評の一つや二つ増えたところで困ってしまうような善人には見えないわよ」

「まぁそれは確かにどうでもい――いやいや、やっぱあんま良くはねぇんじゃねぇかと思うんだけどさ……まぁつくづく変で妙な女だなオマエ。極力っつーか、むしろオモクソ関わり合いになりたくなかったタイプだぞ」

「それはそれはご愁傷様。残念ながら、関わり合っちゃったわね」

 テファは底意地の悪さすら感じさせる微笑を浮かべながら、ジョッキに残っていたラムを一息で飲み干した。
 行為は拒絶だ。これ以上の踏み込みをシャットアウトする意志表明――彼女の直近の動作は代替行為に他ならない。
 嚥下に伴って、小刻みに蠢動する喉元。体内を流れる電気信号の中継地は、白くて細く、そして滑らかな円筒だ。
 脳髄は命令し、筋肉が付随する。筋肉はフィードバックし、脳髄がリコマンドする。

「わっかんねぇなぁ……。一体なんなんだよマジで……」

 なにが本音で、なにが建前か。
 どれが本物で、どれが擬態か。
 他者の心はいつだって零と一の論理の適用外だ。
 だからこそ読めないし、解《ほど》けない。絡み合い、縺《もつ》れ合い、重なり合った、集積回路の究極形。

 酒を煽った。木のジョッキを傾ける。
 下品で無作法な仕草も構いやしない。ここは華美で絢爛なパーティー会場なんかじゃなく、粗野で武骨な宴の一席。口元に溢れ出したアルコールの滴に夜の海風が吹き付けて、少しばかり刺激のある涼感を運んでくる。
 それを振り払うようにして手の甲で乱暴に拭って、手酌で樽からもう一杯。

「く、れ、ぐ、れ、も、飲みすぎないようにね」

「誰に向かって言ってんだ、あァ?」

「私にも貰える?」

「……さっさとジョッキ出しやがれ」

 俺の悪態を完璧にスルーし、こちらへとジョッキを差し出してくるのは、エステファニアなる名を身に冠せられた女。
 単純極まりないのか、複雑極まるのか――少しだけ頬を上気させた顔に微笑を浮かべているのは、直感的には彼我の距離を測らせなかった女。

 まだまだ馬鹿騒ぎが続いている船の上。
 そんな移り移ろう場にあって――。

 甲高い音を立て、芳《かぐわ》しい香りを発しながら、杯に注ぎ込まれていく酒精の流れ――それだけが確かに淀みない存在を主張していた。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 酒がだいぶ回り始めてきた。
 “ほろ酔い”と表現するには些か深いが、“泥酔”と表現するにも多少浅い――そんな半端な酩酊度合い。
 なんにせよ、気分的には悪くない。宴に興じる周囲の熱気に中てられた部分もあってか、顔面が火照って熱持ってるのを自覚する。

「ああ、そういやチビいたんだったな。忘れてた」

「え、わたしそんなに存在感なかったですか?」

 そんなタイミングで。

 俺らの直近と言ってもいい場所に座を設けていながら、さっきまでの遣り取りの間中、不思議なほどに“消えていた”少女が目に留まった。
 空気扱いしてしまっていたことへの罪悪感みたいなもんを一瞬感じてしまったが、どうやら本人的には特段の不服はないみたいだ。小首を傾げながら、普段通りのお気楽トーンで言葉を返してくる。

「いや、そういうわけじゃねぇんだけど、新参のバカ女が前に出たがりだからなぁ。アレだよアレ、相対的にってやつ?」

「その『出たがりの新参』とは、ひょっとして私たちのことを指しているつもり?」

「なんだ自覚あんじゃねぇか」

「そんな風に皮肉たっぷりに揶揄されれば、よほどの鈍感でない限りは気付くわよ。それよりロサみたいな幼い子にまで適当なことばかり言わないでくれる?」

「お、幼っ……」

 あーうっせ。口が減らねぇっつーか、なんつーか。
 たまにはロサとの会話を楽しんでやろうと思っていた矢先、図々しくも横槍を入れてきやがったテファの面貌を睨み上げる。

 が、敵も然《さ》る者。
 まったくもって意に介した様子すらなく、むしろ嬉々としてガン飛ばし返してきやがる。酒入って気がデカクなってるのかもしらんが、まぁキホン好戦的な性格なんだろう。
 とはいえ、互いにそこまでマジになってるわけでもなく、どっちかっつーと軽口の応酬の延長線上としての視殺戦。

「…………」
「…………」
「……幼くはないよ。小さいかもだけど、幼くはないよ」

 傍らではチビ助が哀切に満ちた抗議並びに自己弁護をひっそりと繰り広げていた。
 どうやらテファの一言が反駁せずにはいられないツボにジャストミートしちまったらしい。
 素晴らしきかな、自我の芽吹きの瞬間。

 ロサは乾いた杯を琥珀色の液体で満たす。
 中々に堂に入った手酌だ。

「つか、オイ……」

「……?」

「なんでテメェまで酒飲もうとしてんだ? あまりのナチュラルっぷりのせいで普通に流しそうになっちまったじゃねぇか」

 急に矛先が自分に向いてきたことに驚いたんだろうか。ロサは双眸を丸くしながら、上目で窺うようにして俺と目を合わせる。
 仄暗い夜闇に紛れて今一つ判然とはしないが、よくよく観察してみれば顔が少し紅潮しているかのような気がしないでもない。

「つーか、オマエ飲んだな? とっくに飲んでんだろ?」

「うん、飲んでたよ」

 渦中の被疑者は実にあっけらかんと未成年飲酒の罪を白状した。

「…………」

「えと……ドザもおかわり欲しいってこと?」

「違ぇ違ぇ、誰もそんなことは言ってねぇ。なんで酒飲んでんだっつってんだよ、俺は。まだ毛も生え揃ってねぇようなガキが飲むようなモンじゃねぇだろうが」

「え? だって、お祝いの席だよ?」

 ロサは心底疑問そうにきょとんと首を傾げてみせる。自分が咎められている理由そのものがまったく解らないとでも言いたげな上目遣い。
 身体の前で合わせられた両手――握り締められた杯からちゃぷんと液体が波打つ音がした。

「そりゃ一応はめでたい席じゃあるけどな、だからってそれとこれとは別の話っつーか、子供が酒かっ食らうってのは何か違くないか?」

「違うかなぁ?」

「間違ってんだろ」

「間違ってるかなぁ?」

 うーん、この場合は俺の感覚こそがずれてるんだろうか?
 対面のロサが浮かべる作為のないリアクションを見てるうち、なんだか自信がなくなってきちまった。
 それこそ“こっち”と“あっち”の慣習的差異の一つに過ぎないんじゃなかろうか、と。“こっち”じゃ年齢一桁レベルのガキでも普通に酒を嗜むのかもしれないな、と。

 しかし、俗に称される“良識”って概念は時代や場所を隔てていても、ある一定の普遍性と不変性を有しているものらしい。
 テファが顔に苦笑を貼り付けながら、まさかの俺側陣営で参戦した。もっとも“苦笑”とは表現しているが、それは文字通りの“苦々しい笑み”であり、また常の能面から僅かに変化した程度の表情ではあるけれど。

「えーと、幼――いえ、あまり身体的に成熟しないうちからの飲酒は褒められたものではないのは確かよ、ロサ。その点に関してだけは、この男の忠告は正しいかもしれないわ」

「ほら見ろ、俺が言ったとおりだろ。ガキはイキって晩酌なんかしてねぇでさっさと寝なさいってことだ」

 先刻までの懐疑はどこへやら、これ幸いとばかり尻馬に乗ってみたが、返ってきたのはテファによる冷笑だった。もっとも“冷笑”とは表現しているが、それは文字通りの“冷え冷えとした笑み”であり、また先刻の“苦笑”から僅かに変化した程度の表情ではあるけれど。

「だったらあんたも早く寝なさい、ってことになるわね」

 難癖メンドクセ。無視無視。

「ってなわけで、お子チャマは酒禁止な。そのジョッキは置いといて、チビは水でも貰ってこい」

「えー」

「いやいやいや、なんでそんな嫌そうっつーか不服そうな反応なんだよ? 酔っ払って海に落ちたりしたら危ねぇだろうが。冗談じゃなく死んじまうぞ」

「大丈夫だよ」

 ロサについて最近分かってきたことがある。
 コイツは普段は素直なクセして、時たま妙に強情になるところがある。そして一旦そうなってしまうと、他人の忠告を聞き入れなくなるんだ。
 年齢相応っちゃあ相応かもしれないが、この性質《たち》にはジゼルも微妙に手を焼いているみたいだ。

 にしても、だ。
 陸の上ならそれはそれで微笑ましくて結構なのかもしれんが、これ以上酒飲ませんのはさすがに拙いんじゃないかと思う。ナリがちっこい分、酔いが回るのも早ぇだろうし――あ、一口飲みやがった。

「大丈夫じゃねぇから言ってんだよ」

「らから、らいりょうぶらよ」

「全然ダメじゃねぇか!」

 たった今、許容量をオーバーした。
 つーか、他人の呂律が回らなくなる瞬間をハッキリ認識できるってのは、中々にレアな体験だなオイ。

「あァ? らいりょうぶらっつってんらろ!」

「…………」

「あ? ぁにィ?」

 乱暴極まる口調と険悪極まる視線と粗野極まる表情――を必死で作ってみせている少女が一人。いかにも無理してんなって感じとか、本人的に楽しいのかこれと思わなくもないが、まぁそれはそれでいい。
 ああ、それはそれでいいんだ。

「……まさかとは思うが、それ俺のマネのつもりか?」

「…………」

 もう一回訊こう。
 大切なコトだから。

「今のは俺の口真似なんつー超絶クソ舐めた思惑に則って行われた言動であるか否かをとっとと正直に応えやがれやクソガキ」

「……ドザの真似ーあはっ!」
「あはっ――じゃねぇよ」
「痛らららららっ! ごめんらさいごめんらさいごめんらさいーっ!」

 とりあえず弁論なしの脳内即決裁判を経て、ウメボシの刑を即時執行しておいた。キチンと手加減はしておいたけどな、それなりに。
 掴み上げ、絞り上げていた顔面から手を離すと同時、ロサは自らのこめかみ辺りを擦りながら恨みがましい涙目で俺を見上げる。

「ドザ嫌い……」

「あっそう」

「帰ったらジゼルに言いつけるよ?」

「……好きにしろよ」

 その場合、まずはテメェが飲酒の事実を咎められるであろうことを、ロサは理解しておく必要がある。
 ジゼルのヤツはあれで中々厳しいところがあるからだ。それは巷で頻繁に用いられる『優しさの裏返し』としてのそれなんだろう。アイツ今じゃすっかり保護者気取りだからなぁ。
 であるにも関わらず、チビのヤツの俺への態度がどんどん悪くなってるっつーか、日一日《ひいちにち》と生意気になってきているような気がするのは、これいかに? ジゼルのヤツの情操教育は一体どうなってやがんだ?

 本人的には酒席でのちょっとしたお茶目のつもりだったかもしれんが、生憎と俺はネタにされるのが苦手っつーか嫌いだ。ネタにされることに慣れてないってだけかもしれないけど、ミゲルのような芸人根性は俺には備わっていないってこと。
 というわけで、これ以上の狼藉を避けるため、今度こそチビから酒を取り上げることにする。

「ハイ酒禁止な。つべこべ抜かさずにその酒こっちに寄越しやがれ」

「えーやらよー」

 だから呂律回ってねぇだろうが。

「ちょっとあっち見てみ。お前はあんな醜態を晒したいのか?」

 顎でしゃくった先に存在したモノについての言及は避けたい。敢えて表現するのならば『ひどい』の一言で済むとだけ。

「らいりょぶらいりょぶ。わらしはらいりょぶ」

「だーから、今の受け答えからして全然大丈夫じゃねぇんだよっ!」

 なんか段々イライラしてきた。

「わらしはげんきー!」

 『元気ー!』じゃねぇよ!

 思わず横目に隣席を窺う。
 俺の視線に気が付いたのだろうか、テファは失礼なくらいに大きな嘆息を一つ。

「ロサがいくら年少とはいえ、さっきからの頭ごなしな物言いで他人に行為を強要できると思ってるあたりに、あんたという人間の傲慢さが知れるような気がするけど――」

 そして、直截に過ぎて皮肉にすらならない当てつけを一つ挟んで、最終的にはロサ説得に際しての援軍的役割へと転じる。
 その瞳には慈愛と真摯が半々。さっきまで俺に悪態をついていた女と同一人物だと俄かには信じ難いほどの変貌っぷりだ。

「ただまぁ、今回について言わんとしている内容については、私も同意。ロサ、悪いことは言わないから、そろそろ止めときなさい。水を貰ってきてあげるから、それで酔いを醒ませばいいと思うわよ」

「……えー」

「……やめときなさい、ね?」

「あぅ」

 笑顔だった。
 すっげぇ笑顔だった。
 『にっこり』という擬音や『太陽のような』という形容がこれ以上なく似合いそうな笑顔だった。
 菩薩や聖母に喩えることにすら一寸の呵責も伴わないであろうと断言してしまえるような――それはもう神々しいまでの笑顔だった。

 結論――コイツ、激恐ぇ女かもしれん。

 俺の眼前ではロサのジョッキが沈黙のうちに返還される。テファが所有者ではないので“返還”と表現するのは些か齟齬があるのかもしれないが、一連の流れにはなぜかその単語がぴったり当て嵌まるんだ。
 テファは満足そうに一度頷きながら、ロサの頭を軽く撫で。
 そのまま静かに立ち上がると、船室の方に向かって歩いていく。
 恐らくは、先言の通りに酔い醒ましの水を分けてもらいに行ったんだろう。

 しかし、その気遣いは恐らく必要ではない。
 なぜなら――。

「……こわかったね」

「恐かったか?」

「こわかったよ」

 気分よく紅潮していたはずのロサの顔も既に色を失くしてしまっていただろうから。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





「そういえばですね、ドザさんに一つだけ訊いてみたかったことがあるんです」

「あ?」

 時刻もかなり遅い段階に差し掛かり、宴もお開きといった感が強まってきていた――ちょうどそんなタイミングでヘシカが俺に向かってポツリと呟いた。
 ロサは既に船室へと引き上げていった後だ。あれはオネムの時間ってよりは、先の遣り取りで盛大に精神を削られた結果としての退却だったように思う。
 まぁチビの件については、ここでこれ以上触れる必要はねぇか。

 ともかく今の今までジョルジュに夢中で俺なんて眼中にないといった感じだったヘシカの言葉に対し、意外性に伴う困惑からか、思わず険の乗った返事を為してしまったのは仕方のないことだと思う。少なくとも悪気はなかった。
 つーか、こっちの女は俺のことを敬遠したがってるんじゃねぇかと思ってたし、まさか今になって会話タームを開始してくるなんて予想しちゃいなかったわけで。

「そそ、そんな恐い声出してもダメですよぉ……。ここ、恐くなんてないんですから! ええ、全然っ!」

 俺としても別に脅し掛けようとしてるつもりなんてねぇし、そのクセしてめちゃくちゃビビってんじゃねぇかよ。

「そんなに構えなくて大丈夫よ、ヘシカ。この男は単に態度がデカイだけで、実際には大したことなさそうよ」

「そうそう。ドザエモンのこういう態度は多分に照れが入ってしまってる結果だから、気にすることはないのさ。普段から他人と気安く話すことが少ないから、人に慣れていないんだ」

 コイツら……。
 なんつーか、えらいバカにされてるような感じがするのは気のせいか?
 特にジョルジュの取り成し方だと、俺が動物かなんかみたいじゃねぇか、と。

「あ、なーんだ。安心しました。単なるコワモテ気取りさんだったんですねぇ。『オラ、ぺしぺし』とかしてみても大丈夫なんでしょうか?」

「誰が『コワモテ気取り』だ、あァ? あんま調子乗ってっと魚の餌にすんぞテメェ」

「やや、やっぱりアブナイ人じゃないですか! テファ適当なこと言わないでよ! ジョルジュ様もっ! 思わず信用しちゃったじゃないですかぁ!」

 速攻でジョルジュの背後へと身を潜めるヘシカ。涙目で身体を細かく震わせている姿に小動物の命乞いがオーバーラップする。
 一つ理解したことは、このヘシカって女は悪意なく舌禍を引き起こしてしまうタイプだろうってこと。周囲の誰かが指摘して矯正してやらないと、そのうちカタリーナ辺りにナマ吐いて、マディラ追放なんて憂き目に遭いそうだ。
 まぁ俺には関係ない話だから、どうでもいいっちゃどうでもいいけど。

「で、アンタさっき俺に訊きたいコトがあるみたいに言ってたけど、なに?」

「ああぁ、いいですいいです! ドザさんの聴き間違いですっ!」

 『言い間違い』ではなく『聴き間違い』と主張するあたり実に素敵な根性をしている。
 しかも、いつの間にやら俺のことを勝手な愛称で呼び始めやがってるし。

 しかし、ここで話を切られてしまうと妙に気に掛かってしまいそうというか、実に据わりの悪いことになりそうだ。わざわざご指名で話しかけられた以上、用件を吐き出させたくなるのは人間の性だと思う。
 というわけで、とりあえず聞き出すことにした。

「御託はいいから、用があんだったらさっさと言え」

「……じゃあ言いますけどぉ、怒らないでくださいね」

「怒られるようなこと訊かなきゃいいと思うぜ」

 それ以前に、俺の催促に負けて仕方なく言います、みたいな雰囲気になってるのが釈然としない。
 そもそも会話(と呼称することが適切なのか否かは大いに疑問符がつくが)の口火を切ったのは、コイツの側だったはずだ。

「分ぁった分ぁった。怒んねぇよ」

「絶対ですよ! 絶対怒らないでくださいね! 約束しましたからねっ! 怒ったらダメですよ! 怒ったら怒りますよぉ!」

「……早く言え」

 既にテンパって逆ギレ手前みたいな感じになってるじゃねぇか……。

 俺の返答を耳にしたヘシカは気持ちを落ち着かせるようにして深い吐息を一つ。
 そうして、邪気など微塵も含まれていない明るい声色で――。

「えっと……ドザさんが今日の戦いで用いてた徒手空拳の技――あれって体術でいいのかな。見ててなんだかすごく気持ち悪く感じたんですけど、あれはなんでかなぁと?」

「死にたいか?」

 しかし彼女の口端から撃ち出されたのは、まるで悪意を純粋抽出しているかのような台詞であり、思わず呪詛めいた言葉を返してしまうレベルの悪口雑言の類だった。

「いきなりの約束破りっ!?」

 ヘシカは臙脂がかった両の瞳を大きく見開きながら、一足でジョルジュの背後へと半身を潜める。
 上擦った声で紡がれるリアクションはどこかミゲルを彷彿とさせ――そういやマディラ居残り組の連中は元気でやってるんだろうか? カタリーナにいびられてそうだな、ミゲルのヤツ。ただまぁフランシスカっつーお目付け役が留守にしてるのを幸いにはっちゃけてそうな気がしないでもない。ジゼルを口説きにかかってガチムチさんにカウンター食らってる姿が目に浮かぶ。

 とか、そんなこんな適当に思考を逸らしてみながらも、一方で先だっての無礼千万な問いの意味を考えていたりする。

 彼女は『体術』と表現していたが、恐らくは俺の戦闘スタイルのことを指していることは確実だろう。
 軍人ってヤツは武器を持って戦うのが一般的だ。これは“こっち”でも“あっち”でも大差はない。所持する武器が刃物か銃器かの違いはあるにせよ、一般的に無手に対するアドバンテージが信奉されている部分は同様だ。
 俺のスタイルが妙に映ること自体は、一般論的に当然かもしれない。

 問題は『気持ち悪い』の方だ。
 仮に純粋に『キモイ』の意で使ってたんだとしたら、イロイロと論外だが――。

「私もあんたが暴れ回ってるところを見てたけど、ヘシカの言に同意するわ。あんたの動き……動きでいいのかしら、殴ったり蹴ったり組んだり投げたり――それぞれの動作には特別なものはないと思うんだけど、一連として見ていると不思議な感覚があったのよね。なんとなく気味が悪いというか……そうね、私からすると“違和感”という表現が一番しっくり来そうな気がするわ。喩えるならば、限りなくシンメトリックなアシンメトリーを見せられた感じ……」

「テファ! それ! 私も違和感があるって言いたかったの!」

 感覚という主観を言語という客観へと正確に過不足なく置換することは至難の業。厳密を期するならば、それは不可能であるとすら断言してもいいかもしれない。
 テファはそのことを理解しているが故に、先刻得た視覚情報とそれ以前からの既知情報との間に認識された差異を指して“違和感”と表現したんだろう。そして、ヘシカはそれが“差異である”と認識できなかったが故に“気持ち悪い”という主観表現に頼らざるを得なかったのかもしれない。
 詰まるところ、両者の言語化能力の差が如実に反映されました、ってなトコだ。

 まぁ、ただし――。

「違和感、ねぇ。つっても、そんなこと考えたことすらねぇからなぁ……」」

 そんな風にQを平易化したところで、期待されるAを返すことが困難であるのは変わらない。
 彼女たちの認識の上では違和であっても、翻っての俺の認識上では違和が存在しないからだ。それは当然であり、必然であり、自然である――そう認識されているが故に“認識されない”し“認識できない”事象。

「知らぬを識り、識るを知らぬ――この場合はそういうことなのかもしれないね。ドザエモンにとっては特別なことをしている意識がなくとも、周囲の人間の視点では十分に異常に見えてしまうんだろう。僕にも同じような経験があるから、ヘシカさんとテファさんの気持ちはよく分かるよ。とはいえ、やはり当の本人がそれを汲んで答えを返すこと、それ自体が至難だろうとは思うけれどね」

 相も変わらぬ勿体をつけた言い回し。
 さっきから聞き役に徹していたジョルジュが口を開き、小刻みに軽い首肯を交えながら彼女たちの言を肯定すし、その上で更に言葉を連ねる。

「ただ、ドザエモンの体術――本人的には格闘技の方がいいのかな? それについてはかなり以前にフランシスカがおもしろい考察をしていたのを耳にした記憶があるよ」

「近衛の団長が、ですか。少し興味を惹かれますね」

「うんうん、フランシスカ団長なら武術の知識も豊富そうだし、是非とも訊いてみたいよね」

「二人とも武人だね、やはり」

 興味深々の体で食いついてきたテファとヘシカに対し、ジョルジュは一つ笑顔を浮かべる。どことなく満足感や充足感のようなものが感じられる笑みだ。
 それはマディラ島民の一人として守り手を頼もしく感じたことに発したものかもしれないし、また別の意味が含まれているのかもしれない。その辺りは本人以外には不明なところだ。

 兎にも角にも、渦中であるはずの俺を半置き去りにした状態のまま、そろそろ話題が本筋へと踏み込み始める様相を呈してきた。

「フランシスカが言っていたには、“回転”の違いなんだそうだ」

「回転……?」

「僕は武門についてはからっきしだし、彼女の説明を正確に理解できているのかは怪しいところだが、そうだね……テファさん、今の体勢のままでいいからドザエモンに対して素手の連撃を繰り出してみてくれないかな」

「お安い御用よ」

 平板な語調とは裏腹にそこそこスピードの乗ったパンチがテファから三つ飛んで来た。
 左ジャブから右のフックに繋げて、そこから返しの左フック。脇が開き気味なのが少し気になるが、彼女の体格を鑑みれば中々に悪くない拳打だと言っていい。

「危ねぇなオイ」

 とはいえ、俺にとってはこの程度のパンチは不意打ちでももらう方が難しいってレベル。初っ端のジャブは軽くかわして、続く二つのフックはパリーで叩き落す。
 にしても、中てる気満々で打ってきやがったな、この女……。

「その余裕そうな表情が腹立つわ」

「実際、余裕だったからな」

「……ッ」

 テファが悔しそうに唇を噛む。
 負けず嫌いっぽい、という第一印象はどうやら正しかったみたいだ。

「まぁまぁ、ドザエモンも挑発しない。テファさん、ありがとう。素人目にも鋭さが伝わるいいパンチだったよ」

「そうだよテファ! 私が受け手だったら、今頃気絶してたかも」

 ジョルジュとヘシカから発せられたフォローの台詞は、しかしながら多分に彼らの本音を含んでいただろうし、そこに込められた称賛が嘘や誤魔化しの類ではないことも明白だった。
 実際、“こっち”で拳を交えたチンピラ連中の大部分とは比べるべくもないパンチだったと思う。

「というわけで本題に戻ろうか。今のテファさんの一連の動きなんだけど――最初に左のパンチを出してから、次は右、最後に左と交互に繰り出されたように見えたけれど、それで間違いないかな?」

「ええ、立ってる状態なら、あそこから右の蹴りに繋げる選択をしていたと思いますよ。そして本来ならば、それこそが本命の打撃だったはずです」

「負け惜しみか?」

 綺麗に防がれた悔しさを引き摺っているのか、仮定のフィニッシュへの未練を覗かせるテファに対し、からかいを一つ。
 切れ長の双眸からの刺すような視線が返礼代わりとばかりに飛ばされてきた。

 それにしても、なるほど。
 仮に彼女が起立状態であれば、オーソドックスだが手堅い――俗に言う『オランダ式コンビネーション』の完成だったってわけだ。

「最後に右の蹴りを持ってくるつもりだったというのは、過日のフランシスカの説明を補強する材料になりそうだね。つまりは左右の手足を交互に繰り出すのが、一般的な打撃の基本であるというわけだ」

「そうですね。たとえば右のパンチの後に右のキックというような流れは非常に窮屈ですし、恐らく十分に体重が乗らないので威力自体も大したことがなくなるのではないか、と」

 ここまで来た時点で、話の結末には凡その検討がついた。
 最初にジョルジュが引用したフランシスカの説明――その中で取り上げられていた“回転”の意味を理解する。

「先述のとおり、僕自身はその辺りの技術論に明るくないから完全にフランシスカの受け売りになってしまうんだけどさ、打撃に限らず体術の基本は腰を支点にしての横回転らしいね――」

 そういや、そういう理論を耳にしたことがあるような気がする。
 格闘技ってヤツの歴史がボクシングから始まったのかどうかは知らないが、俺が通ってた“あっち”のジムでは基本の位置にボクシングが収まっていたのは確かだった。

「あー、違和感だなんだってのは、つまり勁道の話だったわけな」

「勁道……ってなんですか?」

「改まって説明しろって言われるとそれはそれで難しいんだけどな、まぁつまりは――」

 ボクシングでの打撃――すなわちパンチを繰り出す一連の動作ってのは確かに横回転系の動きが大半を占める。一番分かり易いのはフック軌道だが、ストレート系のパンチも軸に対する背筋の横回転により遠心力を利用しなければ十分な荷重は生み出せない。
 キックボクシングや空手の蹴りはもっと分かり易い。俗に称する『回し蹴り』ってのは横回転を最大限に利用して破壊力を生み出す技だ。

 それに対し、縦回転の勁道を用いる格闘技もいくつか存在する。
 代表的な存在としてはタイ式ボクシング――ムエタイだ。ムエタイはキックボクシングと近似のものと見做されることもあるが、その根底にある技術体系はまったくの別物だと言っていい。
 前蹴りやテンカオという基本技が縦回転形であることは言うに及ばず。パンチよりリーチ面では劣るものの、軌道のロスが少なく点の破壊力が大きいエルボーを多用することも特徴の一つだ。
 ムエタイでは左右に身体を切り返すコンビネーションはあまり用いられない。首相撲で相手の軸をずらす際やジャブで牽制する際には横回転を使ったりもするが、同じ側の足でのローから膝、ミドルからの膝、膝からエルボーなど同一側の手足を使ったコンビネーションが好まれる。
 ボクシングやキックに比べてムエタイが優れている、というわけではない。両者の技術体系とそれに伴う身体運用には明らかな違いがある、ってだけの話だ。

 そもそも本職の格闘家でも縦系の身体運用を主体にする人間は多くなかった。
 それは単純な習熟難易度の問題だ。
 俺は周囲の人間よりタッパもあったし、手足のリーチも長かった。打撃系に不可欠な中て勘にも自信があったし、動体視力や反射神経も他人に遅れを取ることはないと思う。
 それでも縦系の筋肉つけるのにはそれなりの時間が掛かったし、直線的な点の強打を相手の急所に打ち込めるようになるまでにはかなりの鍛錬と経験が必要だったんだ。それが示すのはとりもなおさず、縦回転かつ実効的な身体運用とは誰もが扱えるわけではないってこと。

 とはいえ、俺の場合もムエタイがベースだってわけでもなく、あくまでベースはボクシングとキックボクシング。
 その上にムエタイの縦系の動きやコンビネーションだったり、柔術系の組みやら投げやら締めだったり、試合では反則になる禁じ手だったり――興味の向くままに好き勝手組み入れてきたし、実際に事に臨む時ってには感覚の赴くままに戦うタイプだ。

 ただ、“こっち”の体術は殆どが横回転だからこそ、俺が時折挟む縦回転コンビネーションに“違和感”を覚える連中がいるんだろうと思う。

 ってな感じで、そんなこんなの一連の解説を終了。
 一息つきながら、話を締める。

「――ざくっと説明するとこんな感じか。まぁ本気で詳しく解説しだすとキリがなくなっちまいそうだけどな」

「ほぇー」

「なんて言えばいいのかしら? あんた、ひょっとして……体術オタク? ぶっちゃけちょっとヒクものがあったわ」

 生徒役共のリアクションは酷いモンだった。
 ヘシカは脳がオーバーヒートかかったのがマトモな反応が返ってこないし、テファのヤツに至っては言わずもがな。『慣れたコト』とばかりに一人薄笑いを浮かべているジョルジュが憎々しい。
 どうやら人間、好きな事柄について話をする時は、知らず知らずのうちに余計な熱が篭ってしまうものらしい。

「とはいえ、あんたの体術が予想以上に優秀そうってことはなんとなく理解したわ。理論は正直全然解らないんだけど、『習うより倣え』って言うしね」

 一見正しい気もしないではないが、なんか違くね?
 つーか――。

「倣うこと自体が難しいって今説明したばっかりなんだが……。つーか、それ以前に習わせる気なんてねぇしよ」

「あら残念。小さい男」

「言ってろ」

 まったく残念ではなさそうに俺を罵倒するテファに軽口を返して、手元の酒を喉に向かって流し込む。
 柄にもなく話しすぎたせいだろうか、ラムのアルコールが声帯に染みるような感覚が抱いた。
 まぁそれでも――。

 こういう時間も
 こういう機会も。
 こういう一幕も。

 たまには団欒や会話も悪くはないのかもしれない。

 リスボンまでの旅路も残りは数日。
 ひたすらに広い洋上――その只中を漂う木板の集合体。あやふやで曖昧で、そして小さい。
 甲板上には命を賭け札《チップ》に旅をしているバカがたくさんいて。笑ったり、騒いだり、歌ったり、喧嘩したり――世界中でここにしかない喧騒を醸し出していて。
 今この瞬間に“生きている”――なぜかそのことを強烈に意識する。

 たまには旅も悪くないのかもしれない。

 ふとジゼルの顔を思い出す。
 土産は何がいいだろうか?
 都に着いたら、ロサあたりとも相談してみよう。

 それにしても――やはり本当に悪くないかもしれないな、と。
 なぜだか、そう思った。





   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇





 宴は終わり、静寂が訪れる。
 甲板上のあちらこちらでは戦い終えた者たちの寝息が穏やかに響き、無音の支配に対する精一杯の抵抗を為していた。

 倒れ伏す大小の身体の間を縫って、また時にはその上を跨ぎ越えながら、舳先へと向かって歩を進める。
 自分で考えてた以上に酔いが回っていたんだろうか? 千鳥足で足元がおぼつかないってほどではないが、なんとなく身体がふわふわと軽くて。
 左舷後方から吹き抜けてくる潮風が火照った頬に気持ちいい。燻る余熱を収奪し、煙《けぶ》る微熱を劫掠する。

 祭りの後。
 興奮と高揚と熱狂と狂乱は既に去った。
 膨満の感と寂寞の情とが互い違いに去来しながら、その色を綯い交えている――そんな現在と。
 そして、ここからの時間を喩えるならば、そう――。

 それは“予定されていた延長戦”に外《ほか》ならない。

 舳先に佇む人影。

 黙して語らず、微動だにせず。
 先方はこちらの接近を察知しながらも、その程度など先刻承知の上で。

 初手は無言の応酬。
 視殺戦を挑み掛かるも黙殺され、返す刀で神経戦へと引き摺り込まれる。
 鳶の宝玉が月光を照り返さんとばかりに存在を誇示し、さりとて一個の生命体としての有り様は決して周囲から隔絶しているわけでもなく。夜闇に同化し、夜風に同機し、夜陰に同調しているかのように――隙がない。

 焦れるかのように――。
 むしろ焦らされてしまったかのようにして、俺の側から口を開く。

「この場合は、こんばんは、でいいのか?」

「ああ、いい夜だ。貴様もそうは思わんか?」

 間髪を入れずに投げ返された言葉が、夜凪に乗って耳朶に入り込んでくる。
 女性にしては背の高い身体を海上へと正対するよう反転させ、彼女は洋上を吹き抜ける風に全身を晒しながら。
 両の腕《かいな》はその最大限を以て左右へと広げられている。まるで、海を抱き抱《いだ》かんとでもいうかのごとく。

「この前みてぇにブッ壊れてねぇから変だな、とは思っちゃいたが……なんのこったない。アンタ大して飲んじゃいなかっただけなんだな」

「勇敢に剣を振るってくれた皆への礼儀として、多少は口にしたがな。航海を預かる者としては、必要以上の酒精を摂取するわけにはいかんだろう」

 途中から「何かおかしい」とは思っていたんだ。さっきの話じゃないが、それこそ“違和感”とでも評すべき不明瞭感を抱いてはいた。
 それを皆の前で詳《つまび》らかにしてみせるほど大人気なくはなくも、従容として受忍するほどにも大人びてなどいない。
 まぁ一定の配慮に根差した態度であろうことくらいは容易に想像が付いていたってのもあるが、一方でその性格を鑑みると、これほどまでに周囲に迎合する姿ってのが不審でもあった。進んで道化役に甘んじるなど、それはもはや配慮ではなく“憂慮”の産物なんじゃないのか、と。

「それにしてもヘッタクソな演技しやがって。まぁ他のメンツはアンタがマジで酔っ払ったトコなんて見たことないだろうから、それなりに面食らっちゃあいたみたいだけどな」

「元より腹芸など苦手だという自覚はあるが、それを貴様に見抜かれていたというのは些か心外だな」

「いや、マジ酔いしてるアンタはもっと酷いっつーか、本気でどうしようもねぇ感じだったし。あんなヌルイ乱心っぷりじゃ全然足りねぇくらいにな。多分ジョルジュも気付いてたと思うぜ」

「…………」

 彼女――フランシスカは眉を顰め、まるで苦虫を噛み潰したかのような表情で黙り込む。
 心底思い出したくない過去を蒸し返されてしまったかのように。既に忘却過程へと送り込んだはずの忌むべき記憶が思いがけぬサルベージの憂き目に遭ってしまったかのように。
 まぁ気持ちは分からないでもない。あの醜態は当事者がそんな“らしくもない”リアクションを浮かべてしまうに値する程度には惨憺たるものだった。

「まぁ過ぎたことは過ぎたこと。今更ショボくれたってどうなるもんでもねぇだろ」

「……そうかもしれんな。自らの犯した過ちを今後の縁《よすが》とするこそ、今取るべき最善なのだろう」

「だぁから、そういうトコが一々堅っ苦しいんだって、アンタは。別にいいじゃねぇか、酒に飲まれることくらいあってもさ。別に酔って誰かに迷惑かけたところで、アンタの人生が終わるわけでもないんだしよ」

「貴様はつくづく気楽な男だな」

「アンタとは対照的に、な」

 憎まれ口にも似た数条の遣り取りを経て、不意に会話が途切れる。
 洋上を奔る風が唸りを上げながら沈黙を喰らい、喰らわれた沈黙が胎内で更なる怨嗟を唸らせる。荒々しく、猛々しく、そしてどこか寒々しい――そんな激越なる自然の威嚇。微妙な空間を挟んで対峙する俺たち――その間を吹き抜け、逆巻く。
 赤銅色の頭髪を風に棚引かせ、篝火を照り返して一層の赤きを燃やしながら、フランシスカがぽつりと漏らすかのように呟いた。

「王都への途もそろそろ終わるな」

「そうだな。明後日の今頃はしっかりした宿で熟睡していたいモンだ」

「初の船旅は堪えたか?」

「別に船の旅自体は初めてってわけじゃねぇけど……ああ、でもよくよく考えりゃ初めてみたいなモンなのかもしんねぇわ」

 “あっち”で客船に乗ったり、“こっち”来てからもポルト・サントには所用で何度か出かけたりもしたが、そういった経験と今回の船旅は丸っきりレベルが違うものだろう。

 “航海”――。

 マディラとリスボンの間に隔たる広大な“水の版図”は。
 自然の助けと先人から蓄積された知慧に依拠する帆船という名の“風受け船”は。
 海上で一旦遭遇すれば、即ち落命の危機に晒されたことを意味する“賊なる民”は。

 ――それらは、きっと“船旅”という呼称を先述の単語へと置換するのに十分だ。

「航海、ねぇ……」

「どうかしたか?」

「うんにゃ。別に何でもねぇさ」

「……そうか」

 特に感傷なんてものはない。そんな上等なモン抱くほど世慣れしてないわけじゃない。
 ただ、やっぱ随分と変わっちまったんだな、と。電気やガスのない場所で生活してるってだけでも一種の驚きなのに、挙句の果てには航海者の真似事までかよ、と。
 そんな風な思いが胸を去来したってだけだ。

「何はともあれ、無事にリスボンまで到着できそうで良かったじゃねぇか」

「当然の前提ではあるが、一応の祝意を表さないわけにもいくまいな」

 この種の煩悶に付き合うのは際限がない――そんなわけで意図的に別の話題へと話を逸らしてみようと試みる。

 が、眼前の女騎士の返答にはどうにも煮え切らないものを感じてしまう。
 奥歯に物挟まったような物言いと、安堵の一欠片すら見受けられない面貌。
 気掛かり、気詰まり、気患い――そんな暗鬱な情が見え隠れしていて、それが今回の航海の目的に関係しているのだろうことは朧気ながらに理解する。

 今回の航海の目的――表面的なそれは『商船の護衛』と『海賊連中の拿捕もしくは討滅』であり、つまるところは『自国権益の保護』であるとされていた。そのこと自体は主権国家として当然の措置であり、またマディラという自治領レベルであったとしても、交易活動によってもたらされる恩恵を鑑みれば、そこに参画することは不自然というわけではない。
 だけど、表があれば裏があり。
 建前があれば本音があり。
 ならば、顕わにされた目的があれば――秘された目的が存在してもおかしくはない。

 別に訊き出してまで、その目的を知ろうとは思わない。
 現状での俺の立場は“部外者”であり、この先も“部外者”であり続けたいと望んでいる。マディラという島には愛着を抱いているが、総督府という組織への恩義は微塵も感じてなどいない。
 であれば――不要な深入りによる受益など皆無であり、むしろ避けるべきだという結論へと帰納するのが必然だ。

 だけど――。

「――取り戻さなければならない」

 俺の制止は間に合わなくて。

「自分は――慣れていた。慣れすぎていたのだろう」

 フランシスカの唇が開かれる方が早く。

「“在る形”に甘んじ、漠然と、漫然と、それで足れりとばかりに受容していた」

 その声が独白を紡ぐことを妨げる手段なんて俺は持ってなくて。

「失策だった。歪を貫くことは不可能であると――そう気が付いていながらも、変化を恐れていたのだ」

「…………」

「“それ”を逃避ではない、と言い訳することは可能だろう。極大の多面体の一面に過ぎない、と矮小化して押し込めてしまうことも決して不可能ではないはずだ」

「…………」

 俺は――返すべき言葉を持たない。
 相槌すら打つことを憚られる。
 ただ、沈黙を以て返答と為すのみが限界線。

「安定を保持する“邪道”と、混乱を招来する“正道”――択一として提示されるには両者ともに意地の悪いオプションだ。そうだろう?」

「かもな」

 フランシスカの問い掛けが、俺に首肯を促すかのようにして投げられる。
 俺は――軽く肩を竦めてみせるだけ。それ以上の答えが求められていないだろうことも薄々とは感じていたから。
 そして、それはその通りだったのだろう。フランシスカは意に介すことなく、更なる抽象を描かんとばかりに口上を連ねる。

「結局は弱さだったのだろうな。脆弱で薄弱で柔弱な意志が、為すべき選択を先送りしただけの話だ」

 赤い女騎士は溜息を一つ。
 彼女にしては珍しく、心の底から倦厭しているかのような――そんな仕草。
 吐息は滞留することなく、舳先から海上へと速やかに流される。

「だからこそ――そう、だからこそ。今こそ我が主君の下知を汲み、“在るべき形”を取り戻さなければならない時なのだ」

 フランシスカの双眸に光るのは、意志。
 まるで磨き抜かれた刃のような――見るものを惹き付け、魅了し、然る後に両断する輝き。危うさと美しさとがギリギリの按配で同居しているかのような煌き。

 それにしても……“在るべき形”と来たか――。

「まぁそりゃ、なんつーか……実にご愁傷サマなことだな、みんなして」

 嬉しくも、哀しくも、怖ろしくも、激するも――ない。
 歓喜も、悲嘆も、恐慌も、憤懣も――俺には生じない。

 なぜなら、俺は“部外者”だから。
 そうであるという事象を観察するだけで、そうでない理由を探ることなどしてこなかったから。
 俺にとっては“在る形”と“在るべき形”に差異はなく、それどころか後者の姿形自体がないものに等しいわけで。

 そうであれば――。

「アンタはアンタでやりたいようにやりゃあいいさ。それがあの姫サンの意向ってんだったら、アンタがそれを違《たが》えることなんて出来っこねぇだろうしな。ただし、だ――俺は最終的には俺の意志だけを尊重するってことは忘れないでくれ」

 巻き込まれるのは御免だ。
 引き入れられるのも勘弁だ。
 取り込まれるなんて冗談じゃない。

 カタリーナ・マディエラ・フェルナンデス――ポルトガル王国自治領マディラ総督代理の椅子に腰掛けている女。有能を喧伝され、実際にそれを成果として実証し続けてきた女。
 大西洋を行き来する航海者たちは彼女をこう呼ぶらしい――曰く、“洋上の誉れ”と。

 だけど、俺は知っている。理解している。
 アレはそんなに可愛らしい女でも、品の良い女でもない。船乗りたちが思い描く『良家の子女』という名の偶像など一笑に付してしまってもいいだろう。
 あの女は性質が悪い。とにかく性質が悪いのだ。そして本当に厄介で危険極まりない。
 その様を形容するならば――そう、女傑にして女怪とでも。
 アレは世界を――自らの生きる世界そのものを敵視し、憎悪し、あわよくば破壊してやろうと考えているんじゃないかと思ってしまう。
 そう形容してしまえる程度には――その在り方は孤高にして隔絶している。

 過去の全てを破棄し。
 現状の全てを毀棄し。
 未来の全てを唾棄し。

 カタリーナなる名を親から賜り、“洋上の誉れ”なる二つ名を周囲に冠せられた“彼女”は――。

 絶えず、変わらず。
 常に歪みなく、始終澱みなく。
 絶え間なく全身全霊で、切れ目なく全力全開で。

 餓えに餓え――そして、渇きに渇いているのだから。



[9233] Chapter3 Scene3【Part1】
Name: 裏地見~る◆12fb9f99 ID:8a0531c3
Date: 2011/05/17 19:11
 リスボン――。

 ポルトガル王国最大にして中枢であり、国際的な貿易都市としてもその存在を洋の東西に誇示する港湾都市。
 湾にはテージョ川の流れが注ぎ込み、その両岸にはなだらかな丘陵が続く。市街地がその丘陵の上――河岸に沿うようにして建設されており、今は降り注ぐ陽光を受けて明度の高い反射光を空中へ海上へと照り返している。
 同じ港町でもマディラとは一味も二味も違う――それは正しく王の住処に相応からん壮麗なる佇まいを有し、望眺を向けてくる航海者たちへと自らの威風をひけらかすかのようにして。
 及びも付かないほどの大洋に面しながら、それでも一歩陸《おか》に上がればそこは人の領域であるということを明示し、ならば彼方と此方とを切り分けんと――リスボンなる都市それ自体その全体が、その象徴物《ランドマーク》であるかのようにして存在する。

 ベレンの塔――人の営みの守り手たる要塞は、白亜の重鎧を己が衣とし。
 ジェロニモス修道院――人の信仰の寄る辺たる神域は、聖骸なる十字を己が任とす。

 逆風を突いて流れてくるのは、生の息吹。
 人間が人間として生きている――そこに生じる鼓動が寄り集まって独特の喧騒へと変じ、容赦なく鼓膜を打擲《ちょうちゃく》する。
 それは静謐ではない。無機ではなく、有機。
 生とはそれ自体として一つの極点であり、終末であり、完結した何かである――なんて、そんな似合わない修辞で飾り立ててみたくなる程度には。
 なんつーか、名状し難い安堵と形容し難い解放感とで心満たされるような気分だ。

 いよいよリスボン入港の日の午前中。
 太陽もいまだ天頂への途上にあり、海鳥の鳴き声が波音を切り裂くようにして響き渡っている、そんな中で。
 俺は船縁に肘を突き、波の揺らぎに身を委ねながら――眼前に広がる景色に見蕩れていた。

 “こっち”に来てから約五年間。
 ほとんどマディラから出たことのなかった俺にとって、王都は桁違いの場所に映る。
 それは街の巨大さも一つではあるけれど、もっとこう……巧くは表現できないけれど、都市としての“質的”な違い――つまりは高格さを感じさせるような。
 それでいて、遠目ではあるが比較的コンパクトに都市域が纏まっているように見受けられるあたり、機能性にも配慮した作りであると思う。そもそも都市開発などまったくの門外漢だし、リブアビリティーやビジタビリティーを云々するなんてのは更に畑違いだとは思うけれど。

 まぁ色々と捏ね繰り回してみても、結局のところ。
 有体に、手垢の付いた言葉で表すのならば、やはり眼前に姿を見せている街並は、その有様は、存在は――美麗である、という視覚概念に最終的には収斂されてしまうんだろう。

 そんなこんなといった感じで、わけもなく埒もない思索を乱雑に掻き回す一人遊びに興じていたんだが、それは背後から聞こえてきた涼やかなバリトンによって中断を余儀なくされた。

「そろそろ到着の運びと言ったところかな?」

「んァ? ああジョルジュか、おはようさん」

「ああ、おはよう、ドザエモン。澄み渡るような晴天に恵まれるのは、やはり気分が良いものだね。まるで、僕らの旅の成功を祝福してくれているみたいだ」

「旅の成功っつーには、帰途がまだ残ってるけどな」

 背を向けたままでも、そうであると分かるキザったらしい台詞回し。聞いてる分には、まるで脚本を朗読する舞台俳優のような印象。
 かといって、いざ振り返ってみると、その印象は的外れどころか、むしろ仮初の脳内ロールプレイングを補強せんがばかりの二枚目ヅラがあるわけで。
 なんつーか、つくづく天に愛されてる男だ。

 世界の森羅万象に総量《アマウント》に係る規制が存在するとするならば。
 たとえばの話だけど、世に遍《あまね》く『男性』という個体群――その総体に与えられる知力、体力、魅力あんどそーおんが所定の総量の枠内で個々人に分配されているのだとするならば、コイツはとことんまでの業突く張りっつーか、そのせいで生まれながらに減益の憂き目に遭っちまってる連中が相当数いるんじゃねぇの、みたいな。
 なんか自分でもよく分かんないけど、そんな妙ちきりんな人生図式を真剣に考えてしまった。

 しかし本当に厄介なのは、件の当人が才に驕るようなタイプではなく。それどころか、自らの才を自覚しながらに才なき者に対しても同列位階に自身を置いてみせるような人間性を有しているって点で。
 どうやら俺の表情に芳しくないものを見出したのか、ジョルジュは純粋な疑問を湛えて俺に問うてくる。

「なんだか機嫌が宜しくはなさそうだね。またフランシスカと口論でもしたのかい?」

「うんにゃ全然。むしろ機嫌は悪くねぇよ。つーか、あの女だったら、昨日の朝から一目たりとも見掛けてすらねぇぞ」

「そうなんだね。フランシスカについては、色々と難しい立場だからね。彼女なりに思うところもあるんだろう」

 ジョルジュはなんでもないかのように言葉を紡ぐが、その表情に浮かんだ僅かばかりの懸念の色は隠せない。
 元来がポーカーフェイスが巧みっつーか、役職上必要な素養でもあるんだろうが、ジョルジュってヤツは意外と涼しい顔をして嘘を吐く。その嘘が利己的な思惑によるものではなく、利他的なそれに根差しているあたりは、らしいっちゃらしいんだけど。

 ただ、その鉄面皮は――殊《こと》、俺に対しては通用しない。
 それはジョルジュとの付き合いの長さ、深さも一因ではあるけれど、そういう相互関係性の深度に関わらず俺は他人のそこら辺の機微を見抜く勘には自信がある。
 “あっち”でも“こっち”でも妙な連中とばっかツルんでたせいか、表層を繕ってるヤツってのは余裕で見抜けちまうんだ。ブルってんの隠してハッタリかましてみたり、動揺してんの隠して平静装ってみたり――まぁそういう猿芝居なんてモンに引っ掛かるほど青臭い生き方はしてきてねぇってこと。

「この前の宴会の後でちっとだけ話したんだけど、アイツやたら気負ってる感じだったな。『取り戻さなければならない』とか何とか言って、人でも殺しに行きそうな目ェしてたぞ」

「……取り戻す、ではなくて、取り戻さなければならない、か」

 俺の言葉を受けて、ジョルジュの口振りが鈍る。
 自らの裡に痛痒を生じているかのように。そして、それを堪えんとするかのように――瞼を閉じて。
 男にしては長く生え揃った睫毛が、目元に陰影を落としている。

 溜息。
 まるで『嘆息』とでも表現できそうな吐息がジョルジュから漏れる。

「彼女という人間を鑑みれば、そんな些か過剰ともいえる思い込みが生じてしまうのも無理はないのかもしれないね。誰よりも忠誠に富んでいて、誰よりも義理堅く、それでいて誰よりも信に篤い――そんな彼女にとって、状況はまさに相克《アンビバレンツ》を孕んだものだろうとは思うよ。だけど選択が為された以上、それを遂行するこそがフランシスカの務めでもある。彼女は近衛の長であり、姫様の無二の朋友でもあるわけだからね」

「随分と他人事みたいに言うんだな。お前だって無関係ってわけじゃねぇだろうし、実際には一枚も二枚も噛んでんだろ?」

「まぁね。それを立案し、奏上したのは、僕だ。当然ながら僕にも相応の責任はあるし、だからこそ今回の旅路にも同行したって具合さ」

「それにしちゃあ随分とイイ感じに力抜けちまってるように見えるが」

「策士というのはそんなものだよ。僕らに求められるのは、戦略目標とそれに至るまでの大枠の策定までだ。手を離れた案件の最終的な成否は、つまるところ現場レベルでの奮戦如何に委ねられるものだからね。今更になって僕が力んでみせたところで、何の意味もないってわけなんだよ。だったら、久方ぶりの故郷をゆるりと楽しむくらいの心持ちでいる方が、精神衛生上得策だろうね」

「相変わらず楽しそうな人生送ってんな」

 淀みなく紡がれる言葉の奔流。
 あくまでも舞台上に存在する演者であるにもかかわらず、その節々に滲んでいるのは観客的な論評で。まるで袖から通し稽古を見詰める舞台監督や演出家のような立ち位置で、自陣営を俯瞰する。
 でも決して冷めたヤツってわけじゃないんだ。一見クールとも捉えられるだろう言葉の裏には、軽々に触るのを憚られるくらいの熱情がある。

 ミゲルか誰かに聞いたんだけど、ジョルジュとフランシスカは十年来の付き合いだって話だ。
 王都の貴族の令息が幼少の時分にして遠隔の自治領へと送られた理由は知らないが、恐らくはジョルジュが来島して間もない頃から二人の交友は始まったんじゃないかと思う。
 片や中央政界の一翼を担う貴族。片や武門の誉れ高きマディラの守護家。
 釣り合いが取れているとは言えないかもしれないが、それでも他の田舎貴族に比較すれば天秤の傾きは小幅に留まるだろう。
 まぁその辺りの複雑で微妙な事情は脇に置いておくとしても、ジョルジュとフランシスカとの間の親宜ってのは俺なんかには推し量れないような重みがあるんだろう――そのことは漠然ながらに理解しているつもりだ。

 だったら、ジョルジュの性格上、アイツの懊悩を横目に放置しておく、なんてことは考え難い。
 たった二年程度の付き合いしかない俺を相手にしても、明に暗にと気遣ってくれ、時には力を貸してくれるような男だ。
 フランシスカとの場合は互いの政治的立場もあるだろうし、何より付き合いの長さに生じる気恥ずかしさみたいなものもあるのかもしれない。
 どちらにせよ、そこら辺のことに俺がクビ突っ込むのは野暮ってモンだろう。

「まぁいいさ。王都に一歩入っちまえば、俺は単なる随行員――平たく言やぁ単なる付き添いだからな。気の向くままに、適当に時間潰しでもさせてもらうさ」

「ああ、リスボンは時間潰しには最適な街だと思うよ。故郷を自賛するようで少し面映くはあるんだけど、とにかく見るべき物や場所が多いからね。そうだな……僕としては歴史的な建造物を巡ることをお勧めしたいところだね。それだけで自らが現在進行形の歴史の一部であることを知覚できると思うし、それはきっと日々抱くべき大切な認識でもあると思うよ」

「わざわざ旅先でまで勉強みたいな真似は勘弁してくれ」

 この王都行きが決まった時、俺の心中に浮かんだのは「面倒だ」という倦厭が半分と「楽しみだ」という歓迎が半分だった。
 前者は言わずもがなだけど、後者についてはマディラでの肩書きを外して思う存分羽伸ばせるんじゃねぇかって期待があったわけで。
 できれば、普通に観光気分に浸りたい。

 そんな俺の考えに思い至ったんだろうか。
 ジョルジュは薄い笑いを浮かべながら、言葉を連ねる。

「それもそうかもしれないね。であれば、王都の繁華街あたりはどうかな。酒場もいくつかあるけれど、極端な外れは少ないと思うよ。最高級との触れ込みでマディラ酒だって置いてあるし、ドザエモンの舌が不満を訴えるようなことにはならないはずだけど」

「島の外まで来ておきながら高い金出して島の酒を飲む、ってのはなんかご苦労サンな感じじゃねぇか? まぁ酒場で一暴れすんのも悪くねぇから、一応考えとくわ」

「羽を伸ばすのはいいけど、羽目を外しすぎないようにね」

「それは周囲の連中次第ってトコだろうなぁ。てか、俺の話はいいんだよ。お前はこっちで何すんだ? 久しぶりに里帰りって感じなのか?」

 リスボンの方角に目を向けると、いよいよもって街の全景が明瞭な形を持ちながら、目に飛び込んでくる。
 どこへ向かうのだろうか、船倉に仕舞いきれなかった積荷を甲板に堆く積載した幾隻かの商船と擦れ違いながら。海兵団の連中も入港へ向けて最後の一仕事に掛かっている。
 波濤は随分と穏やかになり、飛沫もそれと同様で。風はまだ少し強いが、刻一刻と弱まってきているのは確かだ。

 そんな慌しくも心弾むような、今この時。
 待望される瞬間へ向けて確実に漸進しているという事実に根差す浮ついた期待感が船上を支配している――そんな空気。
 だからこそ――。

 俺の何気ない問いかけと同機して、ジョルジュの面貌に差した翳り――それはあらゆる意味であまりにも似つかわしくなかった。
 不似合いで不釣り合いで、不作法で不調法で、いっそ不恰好で不細工であると――そんな風に評してしまいたくなるくらいに周囲から隔絶し、浮いていた。

「里帰り、か。実家に直接顔を見せに行くというわけではないけれど、それに近いものかもしれないね。とはいえ、僕も僕でやるべきことがあるから、恐らくは後回しになってしまうだろうけど」

「……そか。ま、久しぶりの帰郷なんだ。ちっとくらい仕事サボったところで、声高に文句つけるようなヤツはいねぇだろうさ」

「声高に罵られるより、陰で謗られる方がずっと怖いじゃないか」

「違いないな。面と向かってナメ腐ったこと言われたら普通に殴れるけど、陰口の場合はそうはいかねぇし」

「同意はしないが、否定はしないよ」

 さりげなく軌道修正を図った会話の流れは、しかしながらどこか先刻までとは異なり。
 今ではジョルジュの表情はいつもの柔和な笑みに戻り、一瞬垣間見せた影はどこにも見当たらないけれど。
 俺の立場からすると、その自然さの裏には不自然な作為の介入が存在していることを悟らずにはいられない。

 だけど。
 腑に落ちない諸々を飲み下して、釈然としない色々を飲み込んで、割り切れない様々を飲み干して。
 ただでさえ、他人の事情に深入りすることは責任を伴うんだから。
 それが頼まれての助力であれば惜しむ気はないが、本人的に秘しておきたい隠し事なんだったら好奇心本意で掘り返すようなマネはすべきじゃない。

 友人ではあるが、友人であるからこそ――。

 哨戒の任に当たっている軍船からの誰何の声。
 王都の守り人たちの野太い響きが舳先の方向から流れてくる。

 衝突と邂逅と逡巡と――そして最後の最後に一波乱。
 そんなこんなの人生航路を過去という名の海図に残して――航海はもうすぐ終わりを告げる。









~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



   あとがき

作者の裏地見~るです。
新話投稿しました。
更新を再開して以降、どうにも文章がすんなり出て来ず…。
そろそろストーリーを加速させなきゃマズイかなとも思うので、微力を尽くして頑張ります。

ではでは、読んでくださった皆様ありがとうございます。
また次回、お目通しいただければ幸いです。


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