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[40420] 【チラ裏より】ある人の墓標(GS美神×ネギま!)
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:ec8582d6
Date: 2015/11/05 22:32
よくあるGS美神とネギまのクロスものです。

独自設定や独自解釈、オリジナルキャラクター等を含みます。

そんなもの認めるものかよ と、いった方はご注意ください。

初投稿なので稚拙な文章ではありますが、楽しんでいただければ幸いです。








11/10

一部不具合が出ていたようなので、修正いたしました。

2015 6/27

ハーメルン様と二重投稿をはじめました。




[40420] 01
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:ec8582d6
Date: 2015/06/28 20:22


「逃亡犯の捕縛任務?」


やる気のない表情で、けだるげに身を起こしながら目の前の客人に視線を向ける。
美しい女だった。
特徴的な長い亜麻色の髪に、しかめ面をつくってはいても隠しきれない美貌。
スタイルのよさも一級品で、およそ欠点らしきものが見当たらない。
もっとも猫背気味に体を倒して、机の陰になっている今はよくわからないだろうが。
女、美神令子はいつもの事務所のいつもの席で、厄介ごとの種を出迎えた。


「そうだ」


短く肯定の返事を返したのは、美神とは違った意味で美しい女だった。
ショートヘアが飾り気のないビジネススーツによく似合っている。
生真面目というよりどこか不機嫌に見える表情を美神に向けて、背筋を伸ばし立っている。
どこにでもいる会社員といった出で立ちだが、正体を知っている美神にしてみれば、
少々意外な姿でもある。


「変装やめれば?ここなら人目も気になんないだろうし」


自分でいれた紅茶を一口飲んで、客人にそう言った。


「そうだな」


客人は頷きながら変装をとき正体である魔族の姿を現す。


「ここに来る前にいろいろ用事を済ませていたのでね」


そう言いながら魔族、ワルキューレは苦笑をこぼした。


「用事ねぇ、まぁいいけど。で、その任務とやらが何だっての?」


美神があまり聞きたくなさそうに尋ねた。
正直なところ事情を聞くだけ聞いて帰ってもらう気満々である。
神族や魔族が持ってくる依頼は大抵ろくでもないものばかりだからだ。
もっとも・・・報酬がよければその限りではないが。


「ああ・・・事の起こりは三週間前、こちらで目を付けていた反デタント派の一派が逃亡をはかった。
全員かなりの力を持った上級魔族で、こちらも確実に証拠をそろえて大規模な捕縛作戦を実行しようとした矢先に、
まるでこちらの情報がもれていたのではないかと疑うほどのタイミングで、いっせいに姿を消した」


何かよくないものを飲み込んだような表情でワルキューレは言った。


「本当に情報がもれていた可能性は?」


「ゼロとは言えんが低いな、作戦が作戦だったし詳細を知っている人間は限られる。私も含めていろいろ探られたよ」


ワルキューレは、いろいろに含みを持たせて顔をうつむかせた。


「結果は全員白。作戦に関わっている者から情報が漏洩した形跡はなかった。
反デタント派の逮捕拘束は続いていたし、連中も警戒していただろうからな。いよいよ自分たちの番かもと
そう思ったのかもしれない」


それでは逃亡のタイミングが正確だった事の説明にはなっていないような気がしたが、美神はそれ以上は聞かなかった。
それよりも気になることがあったからだ。


「何だってそんな話を持ってきたわけ?上級魔族の逃亡犯なんてそっちで捕縛すればいいじゃない」


ワルキューレ達もプロの軍人だ。身内の恥をさらしてまで、こちらに協力を求める理由はないはずだ。


「逃亡先が魔界ならな・・」


「大体予想つくけど、こっち(地上)に逃げてきたわけ?」


そうだとしても民間人の美神に協力を求めるより、政府組織のひとつであるオカルトGメンあたりに
話が行きそうではあるが・・・


「確かに地上に逃亡してはいるのだがね」


若干言葉を濁して、ワルキューレは迷うように視線を美神から逸らした。
言いにくいことなのだろうか?
美神が続きを促そうとしたそのとき、ワルキューレは口を開いた。


「アシュタロスの遺産の撤去がまだ完全に終了していないのは知っているな?」


唐突に思いがけない名前が出てきた。
もっともアシュタロスが反デダント派の急先鋒であったのは確かなので、逃亡犯の話との関わりはあるのかもしれないが。
それでも話が突然変わったことには違いない。


「そりゃ知ってるけどさ、東京に住んでるんだし・・・」


アシュタロスが起こした騒乱の影響はいまだに世界全土に及んでいる。
当初の混乱こそ収まってはいるが、物的人的被害はかなりの数に上る。経済にも少なからず影響を与えているし、
なにより人類に与えた神魔族への不信感は相当なものだった。
もともと神魔族間の問題であった事に加え、被害に対して神魔族ともに何の補償もしなかったためだ。
彼らにしてみれば、これ以上人間界への干渉を避けたかったのだろうが、
一部事情を知っている各国の代表者たちにしてみれば、とんでもない話だ。
アシュタロスを倒した者が人間だった事も事態に拍車をかけた。

魔族が問題を起こし、神々は大した役に立たず、そのくせ後始末は人間にやらせる。
これでは不信感を持つなというほうが無理だ。
実を言えば事態を重く見た一部の神族たちが上層部に掛け合って、ある程度復興に力を貸しているのだが
それもごく一部に過ぎない。
そしてある意味一番の問題であったのが・・・


「アシュタロスの遺産か・・・いまだに寄越せって煩いの?」


何しろ一方はほとんどの神魔族に対抗するべく作り上げた決戦兵器で、
もう一方は宇宙を改変してしまう様なとんでも装置だ。
たとえ破壊されているのだとしても残骸だけでも回収したいと考えている人間は数多い。
そんな事情もあってか残骸の撤去は神魔族の合同で行われている。


「ああ、遺産を補償の名目で欲しがる輩は多い。どことは言わんがよほど戦争がしたいらしい」


ワルキューレは遠くを見るような目でやれやれと首を振った。


「で、逃亡犯とアシュタロスの遺産がどう関わっているわけ?」


「連中が逃げ込んだ先がまさに撤去中のコスモプロセッサの残骸跡地だからだ」


「は?」


思わず間抜けな声が出た。そんな場所に逃げてどうなるというのだろうか、何よりそこは神族魔族共に
人間界で一番注目されている場所だ。


「ちょ、ちょっと待って、警備は?かなり厳重に守ってたんでしょ?」


美神の母、美智恵に聞いた話では相当の人員と装備で警戒にあたっているらしい。
いくら名のある上級魔族とはいえ、おいそれとどうにか出来るはずがない。


「見るか?一週間前のものだ」


そう言って、ワルキューレはケースファイルを美神に渡した。
中身を取り出し見てみる。書類が一式、報告書の形式で書かれていて、事態の推移が簡潔にまとめられている。
それらを適当に斜め読みし、三枚目でピタリと手を止めた。
そこには、逃亡犯がどのようにしてコスモプロセッサの跡地に進入したかが書かれていた。


「皆殺しか・・・。」


添付された写真の一枚には、凄惨な光景が写し出されている。荒事に慣れている美神でも顔をしかめたくなるほどだ。
手を伸ばし紅茶をすする、すっかり冷めてしまっていた。


「とんでもない奴等みたいね」


少なくとも警備していた連中を全員殺せるほどの実力者だ。


「ああ、不意をつかれたとしてもそんな簡単にやられるような奴等ではないと聞いていたんだがな」


被害者達を直接は知らないのだろう、ワルキューレは首を捻っていた。


「それで、何で逃亡犯の連中がそんな所に逃げ込んだのか見当はついてるの?」


どう考えても逃亡先には向かない。現に事が発覚して、場所を特定されてしまっている。


「ああ・・・」


ワルキューレが重く頷き、座っても?と来客用のソファーに視線を向けた。
そこで初めて彼女が立ったままでいたことに気がついた。


「ああ、ごめんなさい。お茶いれるわ、紅茶でいい?」


あわてて席を立ち、台所に向かう。普段ならもう少し気が利くはずなのだが、午前中いっぱいの書類仕事は神経に堪えていたらしい。
同居人のおキヌがいれば、こんな事にはならないのだが、まだ学校から帰っていない。
紅茶を手際よくいれて、おキヌが用意している茶菓子とともに持っていく。
紅茶を差し出すと、ワルキューレは礼をして一口飲み、さて何から話すべきかと前置きを口にしてから話し始めた。


「一月ほど前、コスモプロセッサ跡地を調査中に、調査隊が稼働中の宇宙の卵を発見した。
大本であるコスモプロセッサは完全に破壊されていて、ほかの数多くあった卵は活動を停止していたにもかかわらず、
なぜか一つだけ稼動している卵があったらしい」


宇宙の卵とは、簡単に言ってしまえば別宇宙の雛形の事だ。内部が一つの世界を形成していて、美神自身も取り込まれた事がある。


「何でその一つだけが?」


「さてな、原因はコスモプロセッサを制御していた土偶羅にもわからなかった」


土偶羅は高い演算能力を持った兵鬼であり、アシュタロスの計画をサポートしていた存在だ。
その土偶羅にもわからない・・・?


「土偶羅によれば、その卵はコスモプロセッサと接続されてはいるものの、単独で稼動しているらしい。
しかもほかの宇宙の卵とは違い、コスモプロセッサなしでも宇宙を形成し続けているとか。
つまり、本当の意味で異世界を創造っているという事だ。」


「いっ異世界!?」


なにやら雲行きが怪しくなってきた。少なくとも一週間前に、逃亡犯の潜伏場所を特定していたにもかかわらず、
今さら美神の事務所に依頼を持ってくるという事は・・・。


「まさかとは思うけど、そいつらの逃亡先っていうのが・・・」


「そのまさか、稼動している宇宙の卵の中、異世界だ。」


聞かなきゃよかったと美神は肩を落とした。


「逃亡先が異世界だ、ただでさえ我々魔族は魔界から離れる事でその力を十分に発揮できない。
その上別の宇宙なんぞに行くことになれば、ろくに戦う事もできないだろう。」


戦うどころか下手をすれば、存在を維持できずに消滅するかもしれないと、ワルキューレは言った。


「Gメンは?」


「連中はお上の事情とやらで動けん、日本はアシュタロスの遺産が存在する地だ。世界中から注目されている中、
日本支部のGメンが遺産を直接調査などすれば、いらぬ疑念を抱かれるだけだ。まして異世界の存在など知られてみろ・・・面倒な事になりかねん」


「私達はいいわけ?」


「お前達はアシュタロス事件を解決した功労者だし、どの組織にも属してはいない。強いてあげればGS協会がそれにあたるのだろうが、
あまり関係はあるまい?事が発覚したとしても、魔族側から個人的に依頼を受けたという事にする。依頼内容は伏せたままでな。
各国が警戒しているのは、組織による遺産の隠匿だろう。日本政府と直接関係のない一個人ならそれほど警戒されないはずだ。」


そして一個人ならいざとなれば切り捨てられるというわけだ・・・。
そんな事を考えつつも、美神の頭は高速に回転している。
事が遺産にかかわる以上、ある程度の事情は伏せていたとしても日本政府に話を通しているはずだ。Gメン日本支部も然り。
結局のところ逃亡犯の捕縛任務といっても、魔族同士の内はもめの延長でしかない。日本政府としてはあまり関わりたくないというのが本音ではないだろうか?
いらない藪をつついて蛇を出したくはないというわけだ。美神除霊事務所でかたがつけばそれに越した事はないと考えているのでは?


(外堀が埋められている感じがするわね・・・。気に入らないわ)


「話はわかったけどさ、どうしろっての?異世界にいって逃亡犯をとっ捕まえろって?」


美神はふてくされた表情で、上品に紅茶を飲んでいるワルキューレに尋ねた。


「ありていに言ってしまえばその通りだ。異世界に潜伏している逃亡犯を捕縛、それができなければ倒してしまってもかまわん」


「ていうかそいつら、死んでんじゃない?異世界にいるんならさ。」


先程聞いた話の通りなら、魔界から離れ別宇宙にいる逃亡犯の連中にも影響があるはずだ。


「それはそうなんだが、事情があってな・・・」


こちらの反応をうかがうように見ていたワルキューレは、持っていたティーカップをソーサーに戻し、
ご馳走様と一言言って説明を開始した


「異世界、連中の逃亡先にはある種の特殊な力が存在している。魔力と呼ばれるものがそれで、我々魔族がいう魔力とは根本的に異なる力だ。
そしてその力を利用するもの、魔法使いが存在している。お前達霊能力者の代わりにな。」


「魔法使い?魔鈴がいるじゃん」


知り合いの、個人的にいけ好かない魔女を思い出す。


「彼女とは違う、言ったろう?霊力ではないんだ。少なくともこちらの世界には存在しない力だ。
もっとも私にも詳しい事はわからないが、重要なのは・・・
魔法使い達が持つ”魔力”がある程度こちらの霊力を補完してしまうという事だ。
無論完全ではないし魔力自体を吸収するためには所有者に同化、つまりとり憑く必要があるらしいのだが」


「なにそれ?」


訝しげに美神が尋ねた。


「だから詳しい事は私にもわからん。これ以上詳しく聞きたいなら、異世界を調査している土偶羅にでも聞いてくれ」


少々投げやりにワルキューレは美神に答え、パタパタと手を振った。
もしかしたらワルキューレにとっても不本意な任務なのかもしれない。
異世界に魔法使い・・・確かに夢のある話だ自分が関わっていなければだが。


「いっその事そっちの魔法使いに倒してもらえばいいんじゃない。逃亡犯の連中・・・」


そうすれば美神も、ワルキューレも面倒事から解放される。


「名案だ、魔法使いに連中が倒せるならな・・・」


疲れを感じさせる声音でワルキューレが答えた。


「なによ、弱いのそいつら?」


確かに人間レベルの力で魔族に立ち向かうのは難しいが。


「強い弱いの問題ではない。得意な分野が違うだろうし、簡単には比べられないだろうが、
一部の魔法使い達の純粋な戦闘能力は、こちらの霊能力者の比ではないぞ、下手をすればそこいらの上級魔族以上の力を持っている」


あっさりとそんな事を言う。


「は?なによそれ」


その話が本当ならなおさら任せてしまえばよいではないか、
上級魔族とはいえ異世界に逃亡したせいで弱っているはずだ。魔法使いが本当にそんな力を持っているなら
美神達がでしゃばる必要などないだろう。
美神がそう言うと。


「単純な話だ。彼らに霊力がない・・・依り代を壊すか、本体を破壊すれば死ぬような連中ならば魔法使い達でもどうにでもできる。
しかし、単一で存在を確立する事ができるような上級魔族たちは話が違う。霊基構造に直接ダメージを与えなければな。
霊力を伴わない物理攻撃だけでは効果が薄い。」


なるほど、ろくに霊力を持たない人間が幽霊に触れられないのと基本的には同じだ。物体として存在している魔族とはまた違うだろうが


「とにかく連中が異世界の人間に被害をもたらす前になんとかしなければならない、むこうの世界に奴らを倒せる存在がいない以上
こちらの人間が始末を付けねばならん」


無理やりやる気を出させるような口調で、ただでさえきつめの双眸を危険な角度につりあげている。
その様子は幼児が見れば泣き出しそうだ。


(疲れてんのね)


よくみれば白目は充血しているし、若干の肌荒れがうかがえる。
無理もないかもしれない。少なくとも管轄が違う以上、詳しい事情を知ったのは逃亡犯が異世界に逃げ込んだ後だろう。
自分達の失態で逃亡犯に逃げられ、仲間には疑われ、人的被害を出し、挙句の果てにはターゲットが寝耳に水の異世界への逃亡だ。
彼女でなくともやってられるかといった話だろう。


(まぁ、いろいろと思うところはあるけど・・・金払いはよさそうよね)


美神はふぅ、と一息つき


「細かいところは後でつめるとして、一応事情はわかったわ」


仕切りなおすように真面目な声でそう言った
そして・・・


「それじゃ肝心のお話ね・・・・・・・いくら払う?」


にんまりと目の前の悪魔が急速に霞んでいくような悪魔的な笑みを浮かべた。






[40420] 02
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:ec8582d6
Date: 2015/06/28 20:23
その日の放課後、横島忠夫は久方ぶりの学校でクラスの女子と掃除をするしないで散々にもめ、
最終的に箒による頭部への強烈な打撃を受けた後、ほうほうの体で教室を脱出する事に成功していた。


(段々と手加減がなくなってきとるな、あいつら)


今日の一撃はなかなかに効いた。もっともいつも受けている美神の折檻に比べれば、まるで大した事はないのだが。
そんな事より問題なのは、同級生に時間を取られバイトに遅刻しそうだという事だ。
全力疾走で向かってはいるものの間に合うかどうかは微妙なところだった。


(まあ、仮に遅刻したとしても美神さんの機嫌が悪くなければ大丈夫だよな・・・
急ぎの仕事も確か入ってなかったと思うし)


機嫌が悪ければ、推して知るべしだが。
そうこうしているうちに、バイト先である美神除霊事務所が見えてきた。
勢いを殺すことなく入り口まで駆け込み、扉に手を突いて深呼吸を三回。それだけでだいぶ息が整ってきた。
学校から事務所まで、ほぼ休みなく全力で走ってきたにも関わらずこれである。
普段の仕事と、とある弟子の散歩にほとんど無理やりつき合わされてきた為についた、体力のおかげといえるだろう。
あまりうれしくはないが・・・。


「こんにちは横島さん」


呼吸が正常に戻るのと同時に、声をかけてきたのはこの美神除霊事務所の良心の一人、人工幽霊壱号だった。
なんとかという博士が作り上げたらしい人工の魂を持った、文字通りこの事務所そのものといってもいい存在である。


「おーす、ああなんとか遅刻せずにすんだ」


横島は人工幽霊壱号に軽い挨拶を返し、時間を確認して安堵の息をついた。
そして階段を上り始めた所で、美神と別の誰かが話をしている声に気がついた。


「客か?、おキヌちゃんでもシロタマでもないよな」


事務所の同僚の誰かが美神と話をしているのかと考えたが、どうも違うようだ。
人工幽霊壱号に尋ねようとした時、こちらの独り言を聞いていたのだろう


「ええ、ワルキューレさんが来ています」


質問する前に向こうから答えてきた。


「ワルキューレ?・・・なんでまた」


そういえば二日ほど前にも事務所を訪ねてきたらしいと、仕事仲間のおキヌから聞いていたような・・・。
魔族の現役仕官が理由もなく人間界に来ているとは考えにくい。
またぞろ厄介事を持って来たのではないだろうかと、横島の背筋に悪寒が走った。
だが考えてみれば一番厄介だった輩はもうこの世にはいないのだ。
実際美神を付け狙うような連中はもういないだろうし、
何らかの依頼に来たのだとしてもそこまで面倒な事にはならないのではないか?


(なによりここで逃げても美神さんの事だ、あっさり逃げ切れるとは思えん。
というか、今月の給料をもらうまでここから逃げるわけにもいかん)


運悪く今日が今月の給料日だったのだ。
それを貰わずに仮に逃亡に成功したとしても、まっているのは辛く厳しく飢えに苛まれる逃亡生活だ。
もし逃げなければならないとしても、事情を聞いて給料をもらってからだ。
横島はそう心の中で決め、話し声の聞こえる室内へ足を踏み入れた。


「ちわーす」


なるべく平常心を心がけながら間の抜けた声で美神とワルキューレに挨拶をする。
どうやら応接室のほうにいるようだが、ここからではどちらの姿も見えない。
なんとなく変に緊張しながら、二人の方を覗きこもうと顔を動かした。
その瞬間、いってらしゃーいと、なにやら陽気な声が聞こえると同時に体を強く突き飛ばされた。


「え?」


踏みとどまろうと手足をばたばたと動かす。だがよほど勢いがついていたのか、体を支えられない。
そのまま床に倒れこむと思われたその時、体が不自然な浮遊感に襲われた。まるで落とし穴にはまった様な。
そして真っ暗な空間に落ちていく。
見えているのは扉のような枠の中からこちらを楽しそうに見ている美神の姿だった。


「それじゃ横島君、あとよろしくねー」


人を小馬鹿にした様な声とともに美神の姿が急速に小さくなっていく。


「なんでじゃーーーーーーーーーーーーーっ!!」


わけのわからぬままに絶叫を上げ、いつものように涙と鼻水を垂れ流し、
横島は命綱なしのリアルすぎるバンジージャンプを体験していた。



◇◆◇



「ぶめぎゃっっ!」


奇妙な悲鳴を上げ、横島は見事に顔面を強打して無事に地面に着地していた。おのれ重力め・・・ぶつぶつと見当違いの愚痴をこぼし、
痛む鼻頭をさすりながら、瞳にたまった涙をぬぐう。
なにやら長い間暗い空間を落下していたと思ったが、一応生きているという事はそれほどの高さではなかったのかもしれない。


(というか、ここどこだ?何で室内で自由落下せにゃならんのだ・・・)


きょろきょろとあたりを見渡しつつ、八畳ほどの広さのろくに物も置いていない室内を観察する。
目に付くのは部屋の中央にあるコタツくらいだろうか?
何でこんな所に・・・事務所にいたはずが今は見知らぬ場所にいる。
いろいろと納得がいかない事もあるが、美神の仕業である事に間違いはないだろう。
何でこんな事をするのかさっぱり理由がわからないが。


(どちくしょう、今度という今度は並大抵のセクハラじゃ腹の虫が収まらん。
下着盗んだり、風呂覗いたりするだけじゃあ、決して俺は止まらんぞーあのクソ女ーーーーーーっ!!」


腹のそこから湧き上がる魂の叫びを感じつつ、横島は今度美神にあったら容赦なく胸を揉みし抱いてやると心に誓っていた。
もちろん心の声をしっかりと口に出してはいたが。


「そんなに大声で犯罪行為を堂々と宣言するのは、あまり感心しないぞ横島君」


そんなどこかで聞いたような冷静な声が聞こえてきたのは、
横島の妄想の中で、美神が恥らいつつもその白魚のような手で最後に残った一枚に手を掛け、
濡れたような瞳と色っぽい声音で、横島を誘っていた時だった。
ふんふんと荒い鼻息を漏らしつつも気持ち悪く身をくねらせていた横島は、唐突に聞こえてきたその声に心底驚いた。


「だぁあああっ!おっおまえっジークか!何でこんな所にいやがる」


横島の前にふわりと浮かび、何か可哀想なものを見るような目でこちらを見ていたのは、
魔族の仕官であるジークフリート少尉、通称ジークであった。
なにやらいつもよりもはるかに小さいサイズ、というよりきっぱりと手のひらサイズのミニチュアであったが。


「なんかえらく小さくなってるな、おい」


このような状態の神族や魔族を一度見た事があったが、小竜姫達とは違って男のミニチュアなんぞかわいくもなんともない。
どうでもよさそうに横島は一応なぜ小さくなっているのかとジークに聞いた。


「こちらの世界では魔力の消耗が激しいのでね、おいそれと普通の大きさにはなれない。省エネを心がけなければ」


小さい体であるにもかかわらずハキハキとしたよく通る声でジークは答えた。
なぜかは知らないが、要するに小さくならなければいけないほど霊力が不足しているという事だろうか。


「ちょ、ちょっと待て、てことはまた冥界だか何だかのチャンネルがどうこうしたのか!?」


まったく要領を得ない質問をしながら、横島は慌てて声を上げた。だとすれば、大事である可能性がある。
前回、冥界と地上の霊的拠点とのチャンネルが強制的に閉じられたときは、ほとんどの神族魔族が力を失った。
とするならば・・・・・・




「小竜姫様達も小さくなっとるのかーーーーっ!!」


小竜姫の小さい姿は確かにかわいらしいが横島にとっては全然うれしい姿ではない。軽いスキンシップも、お肌の触れ合いも
ミニサイズではまったく楽しくないではないか。
あ、あかん非常事態だ。なんとかして、せめて小竜姫様だけでも元のサイズに戻るようにしなければ。
横島の胸に熱い使命感が芽生えていた。


「まったく君は早とちりも相変わらずだな。」


何と言うべきか・・・。ジークは久しぶりに会ったまるで変わらない戦友に軽くため息をこぼした。


「横島君いいから正気に戻りたまえ。状況の説明を行うから」


ジークがなんとかやる気を取り戻し、横島が小竜姫様ーと叫びながら部屋を飛び出し、
昼間であったはずが、なぜか夜に変わっている事に気がつき、
見知らぬ場所で若干道に迷いつつも部屋に戻ってきて、ここはどこやーと叫び声を上げて、
それをジークがなだめるまで、たっぷり30分の時間を要した。


「はじめに言っておくとだ、ここは君がいた世界ではない」


無意味に余計な疲労感を覚えながらジークは横島に言った。まずこのことをよく説明しておかなければ。
横島の事だ、どのような面倒事を起こすかわかったものではない。
何の理解も得ることなく気軽に外に出て、ナンパでもして警察に通報され、
留置所で一晩を明かす事などやりかねなかった。
ちなみに先程横島が勝手に外に出て行ったことは、ジークの精神衛生上の問題でなかった事にされている。


「は?何言ってんのお前?」


ぽかんと呆けた表情を見せていた横島だが、あっと何かを察した様子で、ジークをどこか哀れんだように見つめた。
仕事のしすぎで、どこかおかしくなったのかとほんの少しだけ心配になった。なんというか姉が姉だけに。
横島は、まあとにかくゆっくり休めと、優しくジークを諭した。


「何かを勘違いしているようだが横島君、僕は正常だ」


若干額に青筋を立てつつジークは横島に言葉を返す。なんだか自然と名誉を傷つけられたように感じたが、流しておく。
そして、今いる世界の大まかな情報、なぜ横島がこちら側の世界、異世界にいるのかを簡単に説明していった。
しばらくはやさしくこちらを見ていた横島だが、説明が進むにつれて段々と表情を険しくしていった。


「てことは何か、ここはほんとに異世界とやらで、俺にその危なっかしい魔族と戦えってのか?」


最初のうちは長ったらしく説明しだしたジークの言葉を適当な様子で聞き流していた横島だったが、
聞き捨てならない説明が増えるにつれて、眉間にしわが寄っていく。
冗談じゃない、ただでさえ訳の分からないうちに異世界なんてところに来てしまったのだ。
その上おっかない魔族となど戦えるわけがなかった。


「無理無理無理、というか美神さんは?」


実際に仕事を受けた美神はなぜこちらにいないのか?
美神除霊事務所の出張と言う事ならば、美神やおキヌちゃん、シロタマもいなければおかしい。
なにやら事務所で突き落とされたときに聞こえた、あとよろしくねーの言葉を思い出すと、不吉な予感を覚えるのだが。


「美神令子はこっちには来れないそうだ。ターゲットが複数いる以上、長期戦も視野に入れておかなければならないだろう。
GSといっても信用商売だからな、それほど長期間事務所を閉めておくわけにはいかないと言っていた」


美神にしてみればあくまでこちらの世界の事は人事に過ぎない。
逃亡した魔族が異世界で問題を起こそうと、
よく知りもしない世界の人間の心配までして自分の世界の事情をないがしろにする訳にはいかないのだろう。
もっとも、請けた仕事はきっちり最後まで責任を持つのも、美神令子という女性なのだが・・・。


「そんな事言うなら俺にだって学校があるぞ」


出席日数の方はもうよくわからない事になってはいるが、一応真面目に行かない訳にはいかない。
サボり続ければ、ある意味逃亡した魔族などよりはるかに恐ろしい最終兵器彼女が、
世界の壁を越えてナルニアの地から降臨しかねない。不用意に想像してしまったおかげで震える体を抱きしめる。


「そちらの心配なら無用だ」


あっさりと横島の心配を一蹴し、ジークは横島に、学校には横島のドッペルゲンガーが通う事になると告げた。
因みにその事を告げたときの教師や同級生の反応は・・・。
「程度の低いセクハラから開放されてうれしいです」「別に構わないけど貸した金はしっかり返ってくるんだろうな?」
「真面目で授業態度もいい横島なら大歓迎だ」「無理してこっち帰ってこなくていいぞー」
「みっみなさん、ちょっと横島さんが可哀想じゃ」「無常ですのー」「こういうのも青春よね」等々。


「あっあいつらぁぁぁ!!」


予想以上に予想通りの学校関係者の反応に横島はひくひくと頬を痙攣させ、眦を吊り上げ、先程とは違った意味で体を奮わせはじめた。
ひょっとして今日に限って掃除当番を強要してきたのは、今日が最後になると知っていたからなのだろうか・・・。


「どっどちくしょー!、帰ってやる、今すぐ元の世界に帰ってやるー!!」


癇癪を起こした幼児のように地団駄を踏みつつ、横島は今いる世界への脱出を心に決めた。


「どうやって?」


ひとしきり横島が起こしていた奇怪な行動を、まるでサルの実験を観察する科学者のような目で眺めていたジークが冷たい声で告げた。


「え?」


思いもよらない事をいきなり告げられたように、横島は硬直した。
言われてみれば、どのようにしてこちらの世界に来たのか、美神に嵌められ知らないうちに異世界にいた横島には知る由もない。
突き落とされた直後に見た枠のようなものは今思えば扉だったように思うが・・・。


「じっジーク、お前なら元の世界に帰る方法を知ってんだろ。吐け吐きやがれ!」


ぶんぶんと手を振り回し、ジークを捕まえようと奮闘する横島を尻目に、当の本人はスルスルとその手をかわしていった。


「落ち着きたまえ横島君、ほら元の世界へ帰るための扉ならそこにある」


悠々と横島の攻撃を避けていたジークが一つの方向を指し示す。
ぜぇはぁと息を切らせていた横島はその言葉を聞いて、ジークが指した方向を見た。
そこには何故に今まで気がつかなかったのか不思議なほどの存在感を持った、禍々しく瘴気を吐き出す一枚の扉があった。
外装は一言で言えば邪悪?だろうか、一つ一つの意匠は素晴らしいものを感じさせるのだが、ひとたび全体を眺めると悪徳?と怖気を覚える。
中でも一際酷いのが、ドア枠の天辺についているドクロの彫刻だろうか?その下にはなにやら重厚な雰囲気を持った木板に、

「この扉をくぐるもの一切の希望を捨てよ」と書かれていた。因みにドア枠の後ろからは、長大な大鎌が交差するように伸びて、
まるで扉を通ろうとする者の首を、その大鎌ではねてしまうのではないかと連想させた。


「おっおま・・・なんだこりゃ?」


見るからに危なそう、というかきっぱりと致命的なその扉を指差し横島はジークに震え声で尋ねた。


「見てわかるだろう、魔界軍特製の異世界間移動装置だ」


何に怯えているのかさっぱりわからないというように、ジークは横島に答えた。


「わかるかーっ!、ふざけんな、こんなもんで異世界におさらばしたら、俺の首までおさらばするわーーーー!!」


再びジークに掴み掛かった横島は、それでもやはりひらひらとかわされる。


「確かにこちらの許可なく扉をくぐろうとした者は、首を容赦なくねじ切り飛ばされるが・・・。
魔界の基本的なセキュリティシステムの一つだ。そう不思議がる物でもないはずなのだが」


よく見ると扉のドクロが、ゲッゲッゲっと不気味な笑い声を上げている。


「通信鬼の時も思ったけどなぁ、魔界のもんはどこかぶっ壊れとるんじゃー・・・一応聞くけど俺に許可は?」


「あるわけないだろう」


ジークは簡潔にそれだけを告げた。








その晩、その部屋には男性二人による容赦ない無制限一本勝負が行われた。







[40420] 03
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:ec8582d6
Date: 2015/06/29 21:11
その夜行われた死闘は、横島が負った名誉の負傷(コタツに弁慶の泣き所をぶつける)により突然終わりを告げた。


「なかなかやるじゃねぇか。さすがだぜ、戦友」


横島は脛をさすりながら、勝負の相手であるジークに向けてサムズアップした。


「いや、君が勝手に自爆しただけだろう・・・」


勝負も何も、自分は横島が振り回していた腕から逃れ続けていただけだ。
もっとも、正気を失い、魔族である自分などよりもはるかに悪魔らしい表情をした横島に、身の危険を感じたため、全力で逃げ回っていたが。


「とにかく、君の上司である美神令子が依頼を受けた以上、横島君にはしっかり働いてもらわなければならない」


ジークにしても軍から直接指令を受けた身だ。任務失敗は許されない。
異世界という特異な地で、直接的な戦闘能力を失っている以上、横島にどうしても納得してもらう必要がある。


「冗談じゃねぇ、そりゃ美神さんは金貰って満足だろうが、俺に命まで賭ける理由はねーぞ」


いつものように事務所のメンバー全員で行う仕事ならまだしも、横島一人で魔族と戦うなど絶対ごめんだ。
というか無理だ。聞けばものすごく恐ろしい連中らしい、月に行った時のように横島好みの美女が絡んでいるのならばともかく。
今回はそんなおいしいおもいはできそうにないし・・・。
いや、考えてみれば月に行った時もろくでもない目にあっていたような・・・。


「どうかしたのか横島君?」


急にうつむき気味でなにやらぶつぶつとこぼし始めた横島に、ジークが尋ねた。


「いや、目茶苦茶思い出したくもないことを思い出しそうになっただけだ・・・地球の青さなんかクソ食らえや」


横島はシクシクと涙を零しつつ、ひざを抱えていじけていた。
結局月の女の子達にも、なんもできんかったしなぁーと微かに聞こえてきていたが。因みに某魔族とのディープなキスは除く。
その後に、したくもないのに人類史上初の高度から、強制的にスカイダイビングをさせられたから色々帳消しである。
横島は、はぁ、と溜息を一つついて気を取り直し、ジークにもう一度任務を拒否する旨を伝えた。


「なにか勘違いをしているようだが、君一人で任務を遂行するわけではないぞ?」


横島の話を聞いていたジークは、横島が自分一人で、逃亡した魔族と戦わなければならないと、勘違いしている事に気がつき、冷静な声で訂正した。


「そ、そうなんか?」


てっきり自分一人でやらなければならないと思い込んでいたが、ジークの話によると事務所のメンバーが助っ人に来てくれるらしい。
もちろん向こうの世界でも仕事がある以上、それほどの人手をこちらに割くことはできないだろうが、
それでも一人よりは、はるかにましだろう。


「標的に関しても誤解がある、確かに逃亡した魔族はかなりの実力者ではあるが、こちらの世界に逃亡した際、かなりの霊力を失っているはずだ。
おそらく今はどこかに休眠状態で潜伏しているのだろう。こっちに来た直後に設置した霊力探査装置にも何の反応もないしな」


話を聞くと、横島が来る以前から、異世界の調査を進めていた土偶羅と協力して、迅速な任務遂行のために準備をしていたらしい。
どうやら逃亡犯は失った霊力を補完する為に、こちらの世界の”魔力”を必要としているらしいのだが、現在は今いる土地の神木から魔力を得ているのではないかと、
考えられている。


「仮にこちらの世界の魔力により、復活したとしても本調子とはいかないはずだ。勝てない相手ではない」


自信ありげにそう言って、ジークは横島を見た。


「でもなぁ、別に俺がなんかして貰える訳でもねぇし。やっぱり怖いしなぁ」


普段仕事で戦っている悪霊程度ならまだしも、上級魔族と呼ばれる輩は人間などよりはるかに強力な力の持ち主である事が多い。
大抵人間をなめてかかっているので、そこをついて渡り合う事はできるかもしれないが、それでも基本的に美神のサポート役に回る事が多い横島には、
美神抜きで彼らとまともに戦う自信はない。ちょっと前に頑張った事もあったかもしれないが、それは例外中の例外だ。
横島がそんな事を考えていると・・・。


「ふむ、まあ君の心配もわかるが、もう少し自分を信用したらどうだ?君だって歴戦の戦士だ、今まで生き延びてきたのがその証拠だろう」


ジークにしてみれば、横島は人の身でありながら、幾度も各上の相手と戦い勝利してきた男だ。その彼がなぜこんなにも自分に自信を持てないのか
不思議に思うのだ。


「ふん、この世で自分以上に信じられんもんがほかにあるかっつーの・・・」


なにやら褒められた気がするが、過大評価だと横島は思う。自分の弟子を自称する人狼のシロと同じだ。
ジークから顔を背け、例の扉に目を向ける。
だが、正直このままここでジーク相手に駄々をこねても意味などないだろう。
学校にまで根回しが済んでいる以上、あのクソ女は依頼をこなすまで自分を元の世界に帰す気など更々ないとみた。


(くっ、まじか・・・まじでよーわからん異世界なんかで魔族と戦わなけりゃーならんのか。)


しかも今回は美神がいない上に、いつ帰れるかもわからない長期出張ときた。
何故にこんな目にあわなければならないのか・・・何か美神に恨まれるような事をしたのか・・・
心当たりは山のようにあるにはあるが、納得がいかない。
うんうんと横島が唸り声を上げているその時。直視すると怖いので微妙に目線をずらしていた扉のドクロがカタカタと鳴り出した。


「む、誰か来たようだな」


扉の変化に気がつきジークは横島に言った。
不気味に震えていたドクロと連動するかのようにギギギと音を立てながら扉が開いていく。しばらくすると無意味そうに発光現象を起こしていた扉が、完全に開いた。
そして中から現れたのは・・・。


「せっ、せんせーいっ!!」


ぼーっとその様子を眺めていた横島に衝撃が走る。何かがすごい勢いでこちらにぶつかってきたようだ。
横島は体当たりをしてきた何者かと一緒に、ろくに受身も取れないまま、ごろごろと部屋の隅まで転がっていった。
ごつんっと盛大な音を立て壁に後頭部を打ち付ける。


「う、うおーっ!!」


衝撃に目をチカチカさせ、少しでも痛みを和らげるように後頭部をさすっていた横島は、自分の胸元に顔をすりすりと押し付けている銀髪の少女を見つけた。


「シロっ!おまえ少しは手加減しろと何度も・・・」


「だって先生がどこぞの外国人に連れられて、遠い異国の地に旅立っていったと聞かされたでござるから、拙者心配で心配で・・・」


大きな瞳に涙をためて横島を見つめながら、銀髪の少女、自称横島の弟子である犬塚シロはそう言った。
どこをどう勘違いすればそうなるのか、まあ、ある意味間違ってはいないのかもしれないが・・・。
横島は自分から離れようとしないシロの頭を撫でてやりながら、美神さんはこいつになんと説明したのかと考えていた。


「助っ人てのはおまえなのか?シロ」


こんなに早く現れるとは思わなかったが、案外美神も自分を心配してくれているのかと、少しうれしくなる。


「助っ人?なんのことでござるか?」


きょとんとした顔で横島を見て、シロは横島に聞き返した。何の事だがさっぱりわからない様子で人狼の証である尻尾をふりふりと振っている。


「拙者はただ、先生に散歩に連れて行ってもらおうとしたら、美神殿から先生はどこか遠いところへ出張中だと聞かされて、
あわてて何処に行ったのかと尋ねた所、なにやら怪しげな扉の向こうにいると教えてもらったので、取りも直さず駆けつけた次第でござる」


要するに何の事情も聞かずに、とりあえずこっちに来たらしい・・・。シロらしいといえばそれまでだが、もう少し考えて行動しろと思わなくもない。
その時、遠慮がちにこちらに声をかけてきたのは、外国人こと魔族のシークフリート少尉であった。


「あー話し中のところすまないが、君は?美神令子除霊事務所の人間か?」


そういえばたしか、ジークとシロはお互い面識がなかったはずだ。シロと出会ったのはジークと知り合う前だったし、ジークと知り合ってからは、
シロも故郷の人狼の里にいる事の方が多かった。その後シロが事務所に居候してからは、ジークがこちらを訪ねて来た事はなかった。


「えーと、その通りでござるけど、犬塚シロと申します。そちらは?」


声を掛けられ、はじめてそこに誰かがいた事に気がついたのか、自己紹介しつつもジークの姿に驚いているようだった。


「私は魔界正規軍仕官ジークフリート少尉、ジークと呼んでくれ。今回美神令子に仕事を依頼した者だ」


ジークはシロに簡潔に答えた。


「魔界って、ひょっとして魔族の方でござるか?美神殿のお知り合いに何人かいると聞かされていたでござるが」


「そうだ、どうやら美神令子に何も聞かされていないようだが、君が今回の助っ人ということでよいのだろうか?」


一応横島の居場所をシロに教えたのは美神だ。あわてんぼうのシロが勘違いして勢いのままこちらに来てしまった事で、
美神から許可が出ているわけではないような気がするが、正式な助っ人かどうかは怪しいところだった。


「先程も先生が言っていたけど、助っ人って何のことでござる?ジーク殿が美神殿にした依頼とやらに関係が?」


ようやく横島から体を離し、居住まいを正して、シロはジークに質問した。


「ああ」


シロの言葉を肯定し、ジークは横島に話した内容をもう一度シロに説明した。
難しい顔をして真剣にジークの話を聞いていたシロは、話を聞き終わると、こぶしを握り締め、意思の宿った瞳で横島を見つめて、
力いっぱい元気よく横島の力になる事を宣言した。


「いや、シロ、そんなやる気出さなくてもいいんだぞ。俺もまだやるとは言ってないんだし」


この期に及んでいまだに及び腰な横島は、シロにやる気を出されても困ってしまう。いつの間にかなし崩しに魔族と戦う事になりそうで、
嫌な予感がする。


「何を言っているでござるか先生、聞けばこの地にいる人々に危険が迫っているとのこと、拙者たちにしかその魔族を倒せないのならば、
拙者たちがやるしかないでござるよ」


やる気のこもった声を上げ、シロは横島にそう言った。
そうだ、考えてみれば妙に正義感のあるやつだったよなこいつ・・・と横島はシロと出会った時の事を思い出していた。
仲間思いで、天真爛漫、好奇心旺盛で、少々やきもち焼きでもある。
そんな、自分を慕ってくれているシロを、如何にして騙くらかし、どうやら例の扉を自由に行き来できるシロを利用して、この世界を脱出できないかと
ナチュラルに黒いことを考えている横島だった。


「それでジーク殿、その魔族たちは今何処にいるのでござるか?とっとと成敗して先生と散歩に行くでござる」


魔族云々よりも、むしろ横島と散歩に行くことがメインなのではないかと疑うほど散歩を強調して、シロはジークに質問した。


「それなんだが、今現在ターゲットの正確な所在は確認できてはいない。なにぶんおそらく休眠状態で霊力を温存している状態だろうからな・・・
やつらがある程度回復し、こちらの世界の魔法使いを襲撃するために、休眠状態を解除しない限り、こちらから仕掛けることは難しい」


苦い表情でジークはシロに答えた。魔界正規軍で使用している霊力探査装置を、精度を高めるため土偶羅が改造を施して、もし仮に魔族が現地の人間を襲うか、
横島達が今いる土地から逃亡した場合、すぐさま駆けつけられるように準備をしているらしいのだが。
それは逆を言えば相手が動き出すまで何もできないということだ。そんな受身の姿勢ではこの世界の住民に被害が出ることを防ぐのは困難だ。
最もそんなことは、シーク本人が一番わかっているのであろうが。


「ふむぅ、となるとその探査装置とやらの反応待ちでござるか・・・。でもいつになるかはわからないと」


あごに手を添え、さも真剣に考えているという姿勢をとっているが、あまり似合っているとは言いがたい。
なにやら子供が考えた、頭のいい人がよくするポーズを懸命に演じているように見える。
無理すんなといったところか。


「ならば、先生と散歩に行っても大丈夫でござるな」


すると、しばらく悩んでいる振りを続けていたシロが突然そんなことを言い出した。


「「は?」」


唐突なシロの発言に横島とジークは同じ反応を示した。つまり、こいつは何を言っているのだろうか?と唖然としたのだ。


「では、さっそく散歩に行くでござるよ先生、いやー拙者異世界など初めてでござるからして、どんな所なのかとっても楽しみでござる」


ぶんぶんと尻尾を揺らし、耳をぴくぴくと動かして、満面の笑みを浮かべて、固まったままの横島の腕を取り、部屋の外に向かって歩いていく。


「ちょっ、ちょっと待つんだシロ君!」


ジークはあわてて、今にも横島をつれて部屋を飛び出していきそうなシロを呼び止めた。


「何でござるか?ジーク殿」


シロは、ジークが何故自分を呼び止めたのかまるでわからないように、横島をつかんだまま後ろを振り返った。


「何がではない、さっきも説明した通り、ここは異世界で君達は異邦人だ、こっちの世界の常識をしっかりと理解できるまで、不用意に外に出るべきではない」


実はもといた世界と、そう大きな違いがあるわけではないのだが、それでもここは異世界で、少々特殊な土地柄なのだ。
ろくに土地勘もない状態で外に出て行って、もしも迷子にでもなったら、横島あたりが要らぬ騒動を起こしそうな気がする。
その点に関しては横島をまったく信用していない。


「そんな事言われても、拙者今日は先生と散歩に行っていないし・・・」


今日は横島が学校に行く日だったので、朝の散歩は遠慮したのだ。その分放課後横島が帰ってきてから、思う存分散歩につれていってもらうつもりだったのである。


「そう言われても駄目なものは駄目だ。だいいち君達が出かけている途中に万が一敵の反応があったらどうす・・・」


るんだ、とジークが言葉を続けようとしたそのとき、突然部屋の明かりが消えた。
一瞬にして光が消えたことに驚いたのか、つかんでいた横島をシロが離してしまい、横島は本日二度目の顔面着陸を決めた。


「なんだっつーんだ、停電か?」


ブレーカーが落ちたのだろうか、そのわりには、急に電力を消費する様なことはしていないはずだが。
横島が頬をさすりながらジークに尋ねる。


「いや・・・これは・・」


ジークが何かを話そうとしたその瞬間、警告音と共に部屋の隅に置かれていたダンボールが突然ばらばらと分解する。
そして複雑な形に組みあがったかとおもうと、ホログラムのように浮き出た地図が表示され、地図上の一部に紅い円が描かれた。


「っ・・霊力反応だ、分散して配置していた探査機の一部から反応が出た」


ジークはあわてて表示された地図を覗き込んだ。それでも霊力反応が出たのは一瞬だったのか、かなりの広範囲が捜索対象だ。
対象を絞り込むにはもう一度その周辺に捜索範囲を絞って探査装置を作動させなくてはならない。
もっとも相手がもう一度霊力を使わなければ、失敗に終わるだろうが。


「はっ?ちょっ、ちょっと待て、それって・・・」


横島が暗い室内に浮かび上がったジークの横顔を見ながら声を掛ける。




「ああ・・・敵が現れた・・・」







[40420] 04
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:ec8582d6
Date: 2015/06/30 21:06
(実際大したものだ・・・)


学園都市と郊外とを結ぶ橋の上でエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは声を出さずにつぶやいた。
常人では決して到達不可能である超常の戦い、お互いの魔力を力の限り放出した魔法の応酬は一応の決着を見せていた。
自らに掛けられた呪いからの開放を目論み、呪いを施したサウザンドマスターの息子であるネギ・スプリングフィールドの血液を欲して、
戦いを挑んだが、こちらに油断があったにせよ、見事にしてやられた。
もっとも、後もう少し長く大停電が続いていたのならば、自分が勝っていただろうという自負はあったが。
その戦いに勝利したネギ当人は、今は仲間である神楽坂明日菜と、おこじょ妖精のカモと共に素直に喜びを表現している。
その様子を苦々しげに見つめ、エヴァは己の従者である絡繰茶々丸に帰るぞと命じた。


「それじゃあエヴァンジェリンさん、本当に明日からちゃんと学校に来てくださいね」


エヴァが吸血鬼化したほかの生徒の事を思い出したのか、ネギはあわてた様子でエヴァに念を押した。
一応勝負に負けた事にはかわりがない、不承不承頷いてから、適当に手を振る。
自分でしでかした事ではあったが、ネギを手伝う気はさらさらなかった。
久方ぶりの全力戦闘と、再び呪いの影響を受けたために感じる疲労感を鬱陶しく思いながら、エヴァは踵を返した。


その時、エヴァが最初に異変を察知したのは偶然だったのか・・・。


唐突に自分達とは別の気配を感じた。ビクリと体に怖気が走る。エヴァはまるで金縛りにあったかのように動きを止め、視線だけで気配を探ろうとした。


(なんだ?)


尋常ならざる気配だ、殺気とは違う。まるでこちらを絡めとる様な悪意を感じる。
ここが郊外との連結部分とはいえ、れっきとした学園都市の内部である事には変わりがない。
学園都市には侵入者を察知する結界が張られていて、一度侵入者が足を踏み入れれば即座に結界が反応する。
それはエヴァにも伝わり、侵入者を感知する事ができる。
だがこの気配はあまりに突然すぎた。まるで結界を素通りして現れたかのように。
エヴァは横目で隣にいる茶々丸を確認して、その様子を伺った。
内蔵されたセンサーに何も感知されていないのか、いつも通り感情を感じさせない目でこちらを見つめている。
それは、ネギと明日菜、カモにも言えることだ、違和感を感じている様子はない。


(だが気のせいではない)


額に汗をにじませ、エヴァは茶々丸とネギたちに注意を促すために声を掛けようと後ろを振り向いた。


そこには一つの影が存在していた。


いつの間に現れたのだろう。光に照らされ浮かび上がった人影がそのまま直立したかのように、ゆらゆらとその体を揺らしながら、頼りなげにぽつんと一つ立っている。
もちろん影がそのまま両の足で大地に立つことなどありえない。何らかの魔法によるものか?それにしては一切の魔力を感じないが。
ほんの少し影に対して興味を抱かされたが、それは今はおいておく事にする。なぜならエヴァが先程から感じている悪意は、その影から放たれているからだ。
ようやくこちらの様子がおかしい事に気がついたのか、茶々丸とネギたちがエヴァに話しかけてきた。


「どうしたんですか?エヴァンジェリンさん」


帰るといっていたにもかかわらず、一向にこの場所から動こうとしない。それに何か緊張しているようだ。ネギがそう感じて声を掛ける。


「眠いんじゃない?結構いい時間だしさ」


エヴァの様子を伺いながら明日菜は一つあくびを零した。勤労少女である明日菜の朝は早い。
通常ならば、とうに自分のベッドの上で眠りについている時間だった。


「まあいくら吸血鬼とはいえ、あの姿だからなぁ。それも仕方ないのかもしれやせん」


六百年近くを生きている真祖の吸血鬼であるエヴァだが、見た目は十歳前後の少女に過ぎない。
呪いによって魔力や身体能力を封じられているエヴァが、その姿に影響を受けているのだとすれば、体が睡眠を欲しても仕方がないだろう。
ただでさえ先程までネギと全力で魔法を打ち合っていたのだ、疲れていても不思議ではない。
カモは明日菜に向けてそう説明した。


「貴様ら、後ろを見てみろ」


その話を黙って聞いていたエヴァが、なんの感情を浮かべることなく、静かに声を上げた。
後ろ?茶々丸を含め、その場にいた全員が素直に後ろを振り向いた。


「なにあれ?」


明日菜が気味の悪いものを見てしまったという様に顔を引きつらせる。
見た目は文字通りの人影だ。目も耳も鼻も口も無く、体の輪郭すら曖昧で、両手の指がかろうじてわかるくらいだった。
当然のようにすべてが黒で塗りつぶされ、生物なのかもわからない。
ホラー映画でもこんな単純な化け物を登場させる事はないのではないか?
子供がクレヨンで書いた、できの悪いお化けの絵のようだった。


「人影のように見えますけど・・・」


ネギが自信なさげに呟いた。エヴァはそれを見て何かを感じているようだ。
しかし、それが異常な事は見ればわかるが、人影は何をするでもなく、ただ立っているだけだ。
気味悪くは思うが、それ以上の感想は浮かばない。
要するに、その影が突然現れたせいで、エヴァを除く全員がリアクションをとれずに戸惑ってしまっていた。
だから、突然その人影が話しかけてきた時も、一瞬別の誰かが話しかけてきたのかと思ってしまった。


「檻は完成した・・・」


その姿からイメージした通りのジメジメとした陰気な声。
誰に話しかけたのかも、目どころか顔すらないために、まったくわからない。おそらくこの場にいる全員に言ったのだろうが。


「檻だと?」


エヴァがこれまで経験してきた中でも最大級の悪意を放つ存在の言葉に、いやが上にも警戒心を刺激される。
まず間違いなくろくでもないことであろうが・・・。


「檻とは何だ?いやそもそも貴様はいったい・・・」


何者だ?とエヴァが影に向かって誰何の声を上げようとしたその時、いきなり影が両手を振り上げこちらに向かって攻撃を開始した。
影なのだから光の加減によって伸び縮みするのは当然といったように、その体格ではありえないほど両手を伸ばしエヴァたちに向けて振り下ろしてくる。
とっさに体が動いたのは、単に警戒していたからだ。いつ何をされてもいいように重心を偏らせることなく均等に立ち、影の一挙一等足を観察していた。
しかし、ネギたちは違う。まったくの無警戒でぼんやりと立ち尽くしていた。
影の攻撃を紙一重でかわし、目を逸らすことなく対峙していたエヴァは、ネギたちに向かって声を上げた。


「貴様ら、無事かっ!」


今の自分には大した力が無い、自分で自分の身を守る事で精一杯だ。それでも警戒を促しておくべきだったと、後悔を滲ませながらエヴァはちらりと視線を動かした。
どうやら化け物に注意を払っていたのは自分だけではなかったらしい。茶々丸に庇われる形でネギと明日菜が揉みくちゃになるように転がされている。
茶々丸にしては乱暴だ。突然の事でネギたちを突き飛ばす事が精一杯だったのだろう。
いたーいと情けない悲鳴を上げながら明日菜がお尻をさすっている。
無事な姿に安堵しながら、あまりにのんきな反応に胃が痙攣を起こしたかのような焦燥感を覚える。


「馬鹿かお前達はっ!、さっさと立て、殺されるぞ!」


影の攻撃がどのようなものであれ、あれだけの悪意を放つ存在だ。下手をすれば影に触れただけで致命的なダメージを受けるかもしれない。
それほど、この存在は得体が知れない。


「明日菜さん、早く立ってください。この人・・・人?・・・っとにかく危ないです」


ようやく目の前の存在に対して危機感を覚えたのか、ネギは明日菜の体から這い出てそう言った。
ちなみに突き飛ばされたときに、ネギと明日菜によって下敷きにされたカモは、目を回して気を失っている。
そのカモを少々乱暴に抱きかかえながら、明日菜もなんとか立ち上がった。


「殺されるって・・・いったいなんなのよ、こいつは?」


「知るかっ!とにかく敵である事に間違いは無い。ぼーや、まだ魔力に余裕はあるな?口惜しいが今夜は魔法薬を持ってきていない。
結界が作動している今は大した役には立てん」


そもそも大停電のうちにケリをつけるつもりだったのだ。所詮は代替品に過ぎない魔法薬など用意してはいなかった。


「茶々丸をサポートにまわす、神楽坂明日菜にも契約執行で魔力を送れ、とにかくやつの攻撃をまともに食らうな、嫌な予感がする・・・」


早口でネギに指示を送り、自分は目の前の敵を警戒する。先程の攻撃があっさりかわされたにもかかわらず、影は大した動きを見せてはいない。
ゆらゆらと不自然に伸びた両手をぶらつかせ、こちらの様子を伺っているようだった。
一応人型ではあるが、輪郭が曖昧で常にその姿がぶれているために、攻撃の予備動作が読みにくい事この上ない。
体全体が黒一色で、表情も骨も関節もないように見える事も原因の一つになっている。
単発ならばともかく、よほど注意していなければ、連続で振るわれる腕の攻撃は避けられないだろう。
どのみち今の自分は役立たずだ。攻撃役はほかの連中に任せ、敵の攻撃を回避する事に専念するべきだ。


「契約執行30秒間、ネギの従者神楽坂明日菜」


エヴァの指示通り明日菜に魔力を送ったネギは、続けて攻撃のための呪文を唱えるべく意識を集中している。
先程の自分との戦闘により、ネギ本人に残された魔力はそれほど多くはないはずだ。
目の前の敵がどのような存在であれ、油断していては思わぬ不覚を取るかもしれない。
ネギ当人も当然それを認識しているだろうし、得体の知れない相手に対して余裕を見せられるはずもない。
パートナーの明日菜にしても、今日が初めての戦闘と言っていい。無理はさせられないはずだった。
しかもこちらは連戦の上に、相手はまったく見当もつかない不気味な存在だ。できることなら遠距離から一斉に攻撃するほうがよい。
ネギが手に持った杖の先端に、魔力が収束していく。そして少年らしい甲高い声で彼は呪文を唱えた。
魔法が発動する。光が直接意思を持った様に、ネギが放った魔法の矢は29本に分裂し、余すことなく標的に向けて疾走した。
そして爆発したような着弾音と共に、影の姿が光に飲まれる。
それは隣で見ているだけだったエヴァにも意外に思うほど、あっさりと何の回避行動もとらない影に命中した。
しかし・・・


「なに・・?」


エヴァは思わず戸惑いの声を上げた。
ネギの魔法は確実に相手を捕らえていたし、何かの防御手段をとられた形跡もなかった。
にもかかわらず、標的であった影当人は先程となんら変わらない様子で、ただ立っている。
いかに魔法の射手が初級の攻撃魔法で、けん制のために撃ったのだとしても、自分と互角に撃ち合ったネギが渾身の力を込めて放ったのだ、
まともに食らえばさすがに立ってはいられないはずだった。


(練られた魔力も申し分ない。避けたわけでも、防いだわけでもない。直撃したはずだ・・・)


さすがにエヴァでもあの魔法を何の対抗手段も無く受けたくはない。
傷は再生できるとしても、当然痛みはあるし、そもそも避けるか、魔法で防御すればいいだけだ。
だが目の前の存在はそれをしない。まるでこの程度の攻撃は大した事はないとでもいうように。
ネギもそう感じたのか、さらに大きな魔法を使うために魔力を集中していく。
魔法の射手が通用しないのならば、もっと強い魔法を使えばいいというわけだ。実際それは間違いではないのだろうが、
余力の無い今とるべき手段ではない。
いやそもそも・・・


(まともに戦う必要も無い相手だ。ぼーや、力を使い切るきかっ!)


あわててネギを止めるため声を掛けようとしたその時、ネギの魔法は完成していた。


「雷を纏いて吹きすさべ、南洋の嵐、雷の暴風っ!!」


網膜をやく閃光が、夜を照らした。直接標的にされたわけではない、ただ近くにいただけのエヴァ達でさえ、たたらを踏むほどの衝撃が襲い掛かる。
雷が呼ぶ轟音と白光、辺りにあるもの全てを押し流すような強風が、渦を巻き影に向けて殺到していった。
先程エヴァとやりあった際に、最後に使った魔法だ。不完全だったとはいえ封印を解いた自分の魔法にうち勝ったその威力はかなりのものだ。
魔法の射手どころではない。まともに食らえば消し炭になってもおかしくはない。
しかし・・・


それでも、影は棒立ちのままその魔法を受けた。


白い光の乱流が影を消し去るように飲み込んでいく。
まともに目も開けられないほどの光と音の暴力は、ネギが力尽きて倒れるまで続いた。


「ちょっ、ちょっとネギ、あんたねぇ・・手加減ってもんを知らないの?危うくこっちまでやられる所だったじゃない」


ぶつくさと文句を言いながらも、ふらふらと地面にひざをついて転びそうになっているネギを支えるために、明日菜が慌ててネギのもとへ走っていった。
いまだに目を覚まさないカモを潰さないようにしながら、苦労してネギを自分に掴まらせている。
言いたい事はいろいろあるのだろうが、自分達を守るために全力を尽くして倒れそうになっているネギを見れば、そう強くはでられないのだろう。


「あうぅ、すみません明日菜さん。ありがとうございます」


申し訳なさそうにネギは明日菜を見た。


「別にいいわよ・・それよりもっとしっかり掴まりなさいよ。ずり落ちちゃう」


体勢を崩してネギと一緒に倒れこみそうになりながら、明日菜が懸命にネギの首根っこをつかんでいる。
エヴァはその様子を一瞬だけ瞳に写して前方を見据えたまま、己の従者に尋ねる。


「茶々丸、連中を全員連れて飛べるか?」


「推進力不足でまともに飛行できるとは言いかねますが、かろうじて飛ぶ事だけは可能です」


それまで主のそばで事態を見守っていた茶々丸はエヴァの問いに対して簡潔に答えた。


「そうか、ならば奴等を連れてとっととここから離れろ」


エヴァは茶々丸に今まで見せた事も無いほどの真剣なまなざしを向けた。


「マスター・・・?」


何故そのような命令をするのか、茶々丸の思考回路に疑問符が浮かぶ。
あのレベルの魔法を至近距離で直撃させたのだ、仮に生きているとしても、いやそもそも生物であるかも謎であったが、ただではすまないだろう。
魔法を放った当人であるネギも、それを見ていた明日菜や茶々丸にも、脅威はすでに去ったと感じていた。
結局、その脅威そのものが何者だったのかは分からずじまいであったが。
しかし己の主人は茶々丸たちとは違う考えを持っているようだった。
今もネギの放った魔法の影響で、はっきりと見通せない前方を睨み付けている。
するとエヴァの懸念が的中したかのように、無傷・・といっても元が元だけに分かりづらい事この上ないが、再び影が現れた。


「どうせ無駄なのだから、あまり抵抗して欲しくはないのだが。そんな事は言っても無駄か」


やる気の感じさせないうつろな声音で、影はつぶやくように告げた。
声のためか、いまいちはっきりとは言い切れないが、やはりネギの魔法が効いているようには見えない。
そう、効いていないのだ。防御も回避も明日菜のように、妙な力で魔法をかき消したわけでもない。
あの規模の魔法をそのまま食らって平然としている。何の痛痒も感じていないといったかのように・・。


「そ、そんな・・・」


ネギにもそれが分かったのか、呆然としたような言葉がこぼれた。
力を使い果たしてしまった今の自分にはもう魔法を使うことはできない。卓越した魔法使いであるエヴァンジェリンも呪いによって力を封じられている。
明日菜に送った魔力は当に切れているし、そもそも彼女は戦いに関しては自分以上に素人だ。いかに仮契約を果たしたとは言っても、その事実は変わらない。
それに、今度の相手はクラスメイトではない得体の知れない怪物だ。先程茶々丸が自分達を突き飛ばさなければ、どんな目にあったか。
その自分達を救ってくれた張本人である茶々丸が、今この場で唯一まともに戦える人物だ。
しかし、魔力を使い切ってうまく立つ事さえままならない今の自分と、それを支えてくれている明日菜は彼女の足かせでしかない。
この状況は・・・


「茶々丸、何をしているとっととぼーや達をつれて逃げろっ!」


相変わらずゆらゆらと風に飛ばされそうな影に正面から向き合い、エヴァが茶々丸に命令する。
その言葉を聞いて反射的に動き出そうとしていた茶々丸の足が止まる。
エヴァはここに残るつもりだ。自分の飛行能力では全員をつれて逃げるのは不可能だ。
だからこそ、エヴァはここに残って自分達を逃がそうとしている。
だが、どう贔屓目に見積もっても、魔力を封じられているエヴァに勝ち目は無い。
何しろ相手はネギの全力を振り絞った魔法を受けても無傷だった化け物だ。
今ここで自分が離れれば、エヴァがどんな目にあうか。


「何言ってんの、そんなこと出来るわけ無いでしょっ!」


茶々丸と同じ事に思い至ったのか強い口調で明日菜がエヴァに噛み付いた。


「そうです、そんなことはできないですよっ!」


続けてネギが明日菜に同調する。ネギからしてみればエヴァは自分の大事な生徒の一人だ。見捨てることなど出来はしない。


「そのざまで何を言っている。今の貴様らは足手まといでしかない。とっととうせろ」


予想通りの反応が返ってきたことに、エヴァは顔をしかめた。感情論でどうこう言っている場合ではないのだ。
飛行能力を有している茶々丸でなければ、ネギたちを連れてこの場を迅速に離れることは出来ない。
このままネギたちが残っても、役に立つどころか迷惑でしかないだろう。
ふらふらなネギだけをつれて逃げる案もあるにはあるが、正直命を賭けた実戦で素人である明日菜と共闘などごめんだ。
もし明日菜をこの場に残せば、性格上必ず自分も戦うと言い出すに決まっている。
茶々丸には両方を連れて行ってもらわなければならない。
エヴァが強引に連れて行けと茶々丸に命令しようとしたとき、自分達の様子を伺っていた影がエヴァたちに告げた。


「かまわんよ、どのみち用があるのはそこの吸血鬼だけだ」


あっさりと自分の狙いを告白した影は、少しだけ体を傾け、エヴァを指差した。


「私に用だと?」


「そうだ」


「何の用だ?」


「幾度もとっかえひっかえとはいかない・・・今までいた場所はすばらしくはあったが、動くことが出来ないのでは意味が無い。
そんな時、上質の獲物が現れた。君だよ」


「なにをいっている?獲物だと?」


「そうだな・・・獲物というよりは、食材か?いやちがうな、料理のように魚をさばく訳でも下味をつけるわけでもない、手間を掛けるつもりも無い。
ああそうかあれだ・・・・・燃料といった方がいいな。まるで足りないから、君をもらう」


「さっぱり分からん。もっと正確に話せっ!」


「それでも一応言っておこうか・・・・・・・・・・いただきます」


その言葉を告げた瞬間、エヴァ達を闇が覆った。いっせいに数十もの影が湖を割って現れる。
どれもが空を突くほどの巨体であり、月明かりさえかき消すような勢いで、エヴァたちを取り囲んでいた。
今度こそエヴァが呆然とする番だった。この期に及んでこの影達からは魔力を一切感じない。
はじめは違和感を覚える程度だった。自分をこれほどに警戒させる何かを持つ存在にしては魔力を感じさせない。
だからこそ警戒をしていたのだが、うまく隠しているのだろうと無理やり自分を納得させたのだ。
だがこれほどまで強大な何かになっている今も、まったく魔力を感じないとはどういうことだ?
つまり魔法で何かをしているわけでも、そういう姿の魔族でもないということか?
奇怪な姿の魔族や種族は確かに存在する。だが彼らも気や魔力の助けなしにここまで急激な変化がなしえるとは思えない。
だとしたらこの存在は何なのか?もうこの姿で、このような特性を持ったエヴァも知らない何かということだとでも考えるよりほかない。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本当にそうなのか?



(ちがう、本当はもう分かっている。得体の知れない何かの力を、あれから感じる事に私は気付いている)


鋭敏な感覚を持ち、永い時を生きてきた自分だからこそ分かる。
あれは気の力でも、魔力でもない。
心臓そのものをわし掴みにされるような、あるいは存在そのものに圧力を掛けられたような、
エヴァ自身にもうまく表現できないまったく未知の力。



「おまえは、いったいなんだ?」






「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」






それは何も語らない、そしてエヴァたちに・・・・・・












・・・・・・・・・・・・・・・夜が落ちてきた。






[40420] 05
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:ec8582d6
Date: 2015/07/01 21:12
「ぴかぴかどかんと派手にやっとるなー・・・」


二つの小さな人影が空を飛びまわりながら、雷だの氷だのをばしばしと打ち合っている。
遠目の上に今は夜で、しかも町中が大停電の真っ最中だ。
かろうじて月明かりが照らしていることが、救いといえば救いだった。
探査装置の反応を頼りに、魔族を追跡してはみたものの、範囲が広大で正確な居場所がつかめていない事もあって、
外に出てからもふらふらとあちこちを歩き回らされていた。


いい加減横島が帰りたくなってきたころ、ようやく手がかり・・・というか小さな子供が二人、結構な速度で空を飛びながら、
ビームだかなんだかを節操無く打ち合っている場面に遭遇した。
おそらくあれが魔法なのだろう。暗闇の中あまりに目立つその子供達の後ろを、横島たちは隠れるように追跡していった。


ジークによれば逃亡した魔族たちは、こちらの世界に来た際失った霊力を補完する為に、魔法使い達を必要としているらしい。
なにやらたいそうな神木がこの地にあって、その周辺からならば、ある程度力を得る事ができるのではないかと考えられているが、動きを封じられる事にもなる。
しかし魔法使い達は神木ほどの魔力を持ってはいないが、当然動く事ができる。
つまり魔族たちにとって魔法使いは、移動可能な燃料タンクというわけだ。
彼らにとっては、迷惑かつ失礼な話だが。


それはさておき、目に付く範囲で探知機が示した場所に今いる魔法使いは、あの二人だけだ。
あの二人のどちらかが狙われるのは間違いないとジークは考察していた。
そのため、おそらく近くで付け狙っているだろう魔族に気づかれないように、こそこそと隠れて後をつける必要があった。
だが、言葉ほど簡単にはいかない。何しろ相手は空の上にいる。いちいち物陰に隠れながらの追跡では限度があった。
魔法によって生み出される光と、人狼の能力を持つシロがいなければ、あっさりと見失っていただろう。
ようやく目印である魔法の光が止まったときには安堵の息をもらしていた。


「えらい走らせよってからに・・」


横島は荒くなった呼吸を整えながらぶつくさと文句を言った。
何しろ停電の真っ最中である、目立つので明かりをつけるわけにもいかず、途中で木の枝に絡まったり、
つまづいて転びそうになったり大変だったのだ。


「拙者は先生と散歩しているようで楽しかったでござるよ」


シロが能天気な笑みを浮かべながら、横島の背を察すった。


「だが苦労の甲斐はあったようだぞ・・・」


そのサイズにしてみれば大きすぎる簡易型の霊力探知機を見ながらジークがつぶやいた。
探査装置はこの近辺で、よりいっそう強い反応を示している。
間違いなくターゲットは近くにいるはずだった。


それとなくその様子を伺っていた横島はきょろきょろとあたりを見渡し、首をすくめた。
近くも何も子供魔法使い達がいる場所は長大な橋の上だ。ほとんど遮蔽物が無い。
隠れるところが無いために、横島たちは、結構離れた場所から監視をしなければならないほどだった。
同じく姿を見せない魔族がいるならば、このあたりで隠れているはずだ。いつ横島たちとばったり出くわしてもおかしくない。
急激に体温が低くなっていくような錯覚に襲われる。
あまりに緊迫した様子のジークと、やる気に満ちているシロに引きずられてここまで連れてこられたが、
正直横島にはいまだに魔族と戦う覚悟が出来てはいない。なんと言うかモチベーションが無いのだ。


(考えてみりゃ美神さん抜きでの仕事なんて、ほとんどなかったよな?)


仕事以外にもいろいろな騒動に巻き込まれてきたものの、基本的にはいつも美神やおキヌがそばにいたのだ。
このどうにもやる気が出ない感じは、そのことが影響している気がする。
なんとなく近くにいるシロの頭を撫でてみる。
シロは目を瞑りながら、少しだけ顔を上向かせ、気持ちよさそうにしながら尻尾を振っっていた。


しばらくはそんな調子で子供魔法使い達の様子を探っていた。すると、いつのまにか中学生くらいの少女が乱入してきたり、
金髪の女の子の隣にいるのが知り合いの人造人間であるマリアのような存在だったり、、
最後の大勝負なのかやたらと派手な魔法の打ち合いが行われてみたりといろいろあったのだが、
肝心の魔族は一向に現れない。


「なぁジークさんよ・・魔族なんかぜんぜん出てこないじゃねーか」


出来ればこのまま出てこないでくれないかなと思いながら、横島がジークに愚痴を零した。
茂みに隠れながら魔法使い達を覗いていたが、横島好みの美女がいないので覗きも全然面白くない。
途中魔法使いの少女がなぜか全裸になっていたりしたが、あまりの幼児体型に横島といえどさすがに何の反応も無かった。
何故魔法で全裸になるのか疑問に思ってはいたが。


「う・・・ん、間違いなくこの辺りにいるはずなんだが・・・」


ジーク当人も歯がゆいのだろう。ターゲットが近くにいてその狙いもはっきりしているというのに、
姿を現すまでこちらから仕掛けることが出来ないのだ。探査装置では居場所を完全には特定できない。
相手の何らかの行動を待たなければならなかった。


「確かに遅いでござるな・・・とっとと拙者たちに成敗されてくれなければ先生との散歩の時間が・・・」


横島のすぐ隣で座敷犬のようにおとなしくしていたシロから、聞き捨てならない台詞が聞こえてきた。


「おいシロ、まさかとは思うが、まだ散歩行こうとか言い出すんじゃないだろうな」


「えっもちろんでござるよ。いつもの半分も歩いてないし・・・」


さも当然のことといったように、シロがきょとんとした表情で横島を見つめ返してきた。


「あほかっ!俺はさっきまでろくに明かりの無い道を全力疾走してきたんだぞ。その上これからなんかすごく強い魔族と戦う事になるかもしれないっつーのに」


シロの散歩に対する情熱は知っていたつもりだったが、どうやら横島の認識よりもはるかに大きかったらしい。
毎度付き合わされる身としては、勘弁して欲しいものなのだが。


「で、でもほら夜の散歩とか楽しいし・・・」


シロが愛想笑いをしながら大して効果の無い言い訳を口にした。


「異世界くんだりまで来てお前の散歩に付き合えるかー!!」


そんな事言わずにちょっとだけでござるからして。ええい離せお前の言うちょっとがちょっとだったためしがねーじゃねーか。
と、じゃれあうように絡み合っている二人にジークが声を掛けてきた。
一応隠れているので声は落としていたのだが、無視できるものでもないだろう。


「ああ、すまないがシロ君。先程も言ったがこの世界で外に出るのはなるべく控えてもらいたい。少なくともある程度の常識を身につけた後でなければな。
ただでさえこちらの世界は超常的な力が普通の人々から秘匿されているんだ。例えば不用意に霊能力を使っているところを見られでもしたら大変だからな」


とりあえずこのままでは本当に散歩に出かけて行ってしまいそうなので、念のため釘をさしておく事にする。
美神除霊事務所の人間は基本的にマイペースを地でいく人間ばかりなので、まったく油断できない事をジークは経験として熟知している。
すると、若干シロにおされ気味だった横島が意外なことを聞いたとでもいうようにあわててジークに問いただしてきた。


「え?こっちの世界って霊能力とかばれたら駄目なのか?」


「当たり前だろう。そもそもこちら側には霊力という概念が無いんだ。なまじ魔法という力が存在するために、かえって霊能力の異質さが浮き彫りになる恐れがある。
一般人に対してはもちろんだが、魔法使い達にも我々の力は隠しておかなければならない。最悪、異世界の存在まで気づかれてしまうかもしれないからな・・・」


当初の予定では現地の魔法使いに警告を促し、協力を要請するといった構想も、あるにはあったのだが、
魔法が一般的に秘匿された存在だという事情と、異世界の存在を知ったときに、彼ら魔法使い達がどのような反応を示すか予測が立てられなかったので却下したのだ。
それ以前にいつ逃亡犯が動き出すか分からないので、ろくに準備も出来なかったというのが、一番の理由なのだが。
するとこちらの話を黙って聞いていた横島が、あきれたようにジークに言った。


「おまえ、そんな話してないじゃねーか」


「なに?・・・・そうだったか?」


横島がこちらの世界に来たときに、ある程度の事情を説明したはずなのだが、忘れていたのかもしれない。


「してねーよっ!・・・んじゃ何か、これからあのちびっ子魔法使い達に魔族が襲い掛かるんだよな?どうやって助けろってんだ?霊能力ばれちゃいかんのだろ」


「あ・・・・・」


「おまえ・・・まさか・・・何も考えとらんかったんか・・・」


「し、しかたないだろう。そもそもこの作戦は姉上が主導するはずだったのに、いつのまにか現地の監督をまかされて・・・」


「しるかっつーの。んなこと言ったら俺なんか何の事情も説明されんと、いきなり美神さんに突き落とされたんだからな」


「どっちもどっちでござるなー」


いつのまにか自分達が隠れているということも忘れ、ジークまでもが騒がしくなる。いつもならば、おキヌあたりが止めてくれるのだが、
今彼女は世界を隔てた遠い場所にいるのだ。だれもフォローしてくれる人間はいなかった。
しばらく不毛な言い合いを続けていた三人だったが、ジークが持っていた探知機に反応が現れたためにあわてて顔を伏せた。
言い合いに夢中で気付かなかったが、どうやら例の小さな魔法使い達の決着がついたらしい。
声は聞こえないがこちらに負けず劣らず騒がしくしているようだ。


「まずいな・・・相当近くにいる・・・」


探知機をにらみつけるように見ているジークが声を押し殺して横島とシロに告げる。


「どーすんだ?橋の上にのこのこ出て行ったらやばいぞ」


そもそもターゲットの魔族からして、どんな姿をしているのか、どんな力を持っているのか等、一切の情報が無いのだ。
できることなら不意をついて一気にけりをつけてしまいたいところだった。
そうすれば痛い思いをしないで済むし・・・。


「う・・・む・・・」


ジークにしても不意をつく作戦には賛成だが、うかつな事に横島に指摘されるまで、こちらの世界の常識がぽーんと抜けていたらしい。
もともと泥縄式の作戦計画ではあったものの、自分の失態である事には代わりがない。
ほとんど強引に姉に現地入りさせられた為とか、ろくな準備もせずにいきなり目標と戦わなければならなかったり等、いい訳にはならないのだ。
姉のせいにすればえらい目に遭うのは目に見えているし・・・。
かといってうまい考えが急に浮かぶわけでもなく、ジークは額に汗を滲ませ考え込んでしまった。


「先生には何かお考えがあるのでござろうか?」


シロとて名案が浮かぶわけでもなく、というかジークの話を聞く前は、素直に出て行って横島直伝の霊波刀の錆にしてやる、と考えていたくらいだ。


「考えっつーてもだな・・・」


なんとなく頬をかきながらシロに顔を向けたその時、とうとう横島たちの目当てである魔族が現れた。
魔法使い達がいる橋の上にいつの間に現れたのだろうか。
ひょろ長い人間をそのまま黒く塗りつぶしたような、見方によってはひどく滑稽な姿をしている。
何だ弱そうだな、と横島が思うほど、今まで戦ってきた上級魔族たちに比べれば姿かたちはたいしたことがない。
風に飛ばされそうに揺らめいているところなど、何もしなくてもそのまま消えてしまうのではないかと思われた。
そういうわけにはいかないだろうが・・・。


「なんか弱っちそうでござるなー」


シロも横島と同じように感じたのか頼りなげな魔族の姿を意外そうに見ていた。
上級魔族と聞いて警戒していたのだ。
想像では父の敵である犬飼の姿を思い描いていたのだが、肩透かしを食らわされた気分だった。


「いや、あまり油断しないほうがいい・・・。確かに弱っている事は事実だろうが、どんな力を持っているのかも分からないんだ」


一応逃亡犯全員のプロフィールが書かれた資料を預かってはいるのだが、もともと魔界ではかなりの実力を持った者達であるにもかかわらず、
アシュタロスの反乱に加担した際にあえて地下にもぐっていたようで、その実力に反比例して彼らの存在を詳しく知るものがほとんどいなかったのだ。
要するに当てに出来るほどの確証を持った情報は一切無かった。


「で、どうすんだよ、早くしないとあの子らまずいんじゃないか?」


もしジークの言う通り、あの魔族が危険な存在なのだとしたら、このままただ見ているわけにもいかないだろう。
後ろを見せている今なら不意は撃てるだろうが、魔法使い達には気付かれてしまう。
そうなっては確実に魔族にもばれる。本末転倒もいいところだ。


「むぅ・・・不本意だが今は様子を見ているしかないだろう。やつが何らかの行動をとって、橋の外に移動してくれればやりようはあるのだが」


眉間にしわをよせ、悔しそうに影のほうを見ながら、ジークは横島に向き直ることなくそう告げた。


「そんな悠長な・・・」


シロから思わず不満の声がもれた。
ジークの話によれば、こちらの人間には霊力が無いため、魔族に対してろくな攻撃手段が無いらしい。
いや、攻撃手段どころか、霊力が無いという事は、霊力を伴った攻撃に対する抵抗力が無いという事でもある。
自分達の世界の人間でも、ろくに霊力を持たない者が、攻撃を受けた場合、よくて大怪我か運が悪ければ即死する。
だからこそ特殊な才能を持った者達が、さらに過酷な試験を通過して、ようやく悪霊に対抗する事ができる、ゴーストスイーパーと呼ばれるのだ。
それに今の相手は悪霊どころではない、魔族の中でもかなりの力を持った上級魔族と呼ばれる輩だ。
怪我どころで済むはずがない。


「見捨てる気でござるか・・・」


シロが声を低くしてジークにたずねた。
もしそういう事ならば、こちらの事情など関係ない。即座に飛び出すつもりだった。


「そんな気はない・・・だが・・・」


安易に判断するには難しい問題なのだ。今いる魔族を倒してそれで済むのならば、ある程度強引に動けるのだが、そうではない。
今ここで自分達の存在が魔法使い達に気付かれてしまえば、これからの任務に何らかの支障がでるのは間違いないだろう。
下手をすれば、敵対される恐れもある。不用意な行動を取れるわけもなかった。
それに危険というならば、何の作戦も無く戦いを挑む事になる横島たちも心配なのだ。不意を撃つチャンスをみすみす捨てる事になるのだから。
シロの責めるような視線に、ジークはおもわず目を背けてしまった。
そんなジークとシロの二人から感じ取れる空気に、気まずい思いをしながら、横島は注意を前方に戻す。
実際、シロの言うとおり悠長な事をしている時間は無いだろう。助けるつもりなら行動に移さなければならない。


(ようするに、ちびっ子連中とあの影野郎に見つからずに近づければいいわけだ・・・)


「なぁちょっとしたことを思いついたんだが・・・」


頭の中でとっさに苦い記憶がよみがえる。しかし萎えそうになる気力をなんとか持ち直し、横島はジークに言った。


「ちょっとしたこと?」


「何か作戦があるのでござるか先生!」


ジークは怪訝な表情を浮かべ、シロは期待に満ちた表情を横島に向けた。


「作戦てよべるほどのもんじゃねーけど・・・文珠で姿を”隠”しちまえばいいんじゃないかなと・・・」


自分の霊能力の一つである文珠を使えば、隠れながら相手に近づく事ができる。
そうすれば少なくとも最初の一撃は不意打ちで攻撃できるはずだ。
そう二人に説明する。


「そ、そんなことが出来るのか?」


横島の霊能力に対する知識はあったが、詳しく知っているわけではない。
だがそんなことが出来るのならば、言葉は悪いが目的の魔族を比較的安全に暗殺できる。
この世界の住人に霊能力や自分達の存在を気付かれる心配もほぼ無くなるのではないか?
これからの作戦も非常に有利に運ぶ事ができるだろう。
ジークの表情が明るくなる。


「いや、そんな便利なもんじゃないんだよ。駄目なときはすぐばれちまうしな」


「そうなのか?」


「まあなぁ・・・この間美神さんの風呂覗いた時なんか、二秒でばれたぞ。なんかあの時殴られて以来ちょっと身長が縮んだ気がするんだよな・・・」


何とはなしに頭を押さえながら横島がため息をついた。


「小竜姫様の時も覗く所じゃなかったしな・・・死なないように生き延びるのが精一杯やった」


当時のことを思い出したのか自然と涙がこぼれていく。正直生きた心地がしなかった。


「小竜姫様によるとだな、美神さんみたいに霊感が強い人には勘でばれるんだと。
あと小竜姫様には、あらゆる気配が隠れすぎてて逆に不自然だったとかなんとかで速攻でばれた」


姿も見えない相手に殺気を感じたとかで右ストレートを叩き込む美神と、
感覚で自分の周囲の状況をほとんど完璧に知覚できる小竜姫が異常なだけのような気がするが、
あの影野郎が彼女達のようなまねが出来ないとは言い切れない。


「そういえばこの間こっぴどく叱られてたでござるなー」


すさまじい勢いで削られていく横島を見るのは非常に心臓に悪い。
まぁわりとあっさり復活してきたので、すぐに忘れてしまったのだが。
それだけ日常的な光景であるという事なのだろう。


「んなことはいいっちゅーんじゃ。で、どうする?なんかそろそろまずいかもだぞ・・・」


なにやら影が攻撃を仕掛けたようだ。運よく誰にもあたらなかったようだが、次もうまくいくとは限らないだろう。


「よし、その案でいこう。文珠で横島君とシロ君が姿を隠してやつに近づき攻撃する。
見た限りではやはり霊力が弱まっているようだ。おそらく一撃加えれば倒す事ができるだろう」


霊力探知機の反応は確かに大きいが、やはり本来の霊力量を保つことができなかったのか。
上級魔族のわりにはそれほどの力を感じない。
同じ魔族である自分には分かりすぎるほど分かるが、魔界から離れる事は魔族にとって嫌な事なのだ。
ましてここは文字通り世界が違う場所だ。元の世界の地上どころではない。
むしろあそこまで己を維持できているほうが異常といえる。
やはりこちらの世界の”魔力”は霊力をある程度補完できるのだろう。


「はぁ、あんまりやりたくないけどしゃーないか。見捨てんのも寝覚めが悪ぃし」


正直、このまま見捨てて逃げてしまいたい気持ちもある。だが大半が将来有望な美少女達だ。その彼女達が失われる事は横島にとって我慢できない事でもあるのだ。
あとここで逃げたとしても、高額の仕事をふいにした咎で、美神によって処刑される未来が容易に浮かぶ。
それはあそこにいる魔族などより、はるかに恐ろしいことだといえた。


「了解でござる。先生よろしくお願いします」


シロが横島に文珠で自分の姿を隠すように頼む。


「いや、シロには別にやってもらいたい事がある」


横島は意識下に存在する文珠を一つ取り出して、シロに向けて言った。


「なんでごるか?」


「別に二人同時に行かんでもいいだろ。俺がこそこそ隠れていくからさ。通信鬼で合図を送るから、そしたら何かであいつの注意を引いてくれ。
たとえば・・・・・ほら、お前とタマモで西条に協力したとき、遠吠えでタマモにピンチだって伝えてたろ?霊力乗せればいい具合にうまくいくんじゃないか」


なるべくなら敵に直接近づきたくはないが、自分がいくしかないなら、安全に済ませたい。
シロに陽動を掛けてもらえば、もし万が一敵に怪しまれてもごまかせるかもしれない。


「わかりました。先生どうかご無事で」


「おおげさなやっちゃなー」


シロの頭を軽く撫でて、横島は文珠に文字をこめ、発動する。
するとシロの目の前で見る見るうちに横島の姿が薄れていき、やがて完全に見えなくなった。五感に優れているはずの自分にもまったく気配を感じる事ができない。
どうやら、姿だけではなく気配や匂い、足音にいたるまで、一切の存在感を消してしまうらしい。
この状態の横島を二秒で見破ったという美神の勘のよさに感心してしまった。
話に聞くだけでいまだ会った事はないのだが、武神の誉れ高い小竜姫とよばれる神はどれだけの実力者なのか。一度会ってみたいと思った。


「んじゃ、行ってくる」


横島に手渡された通信鬼から声が聞こえる。姿は見えないがこれなら横島の合図を聞き逃す事もないだろう。
シロが頷くのを確認して横島は隠れていた茂みを抜け出し、橋に向かって駆け出していった。
先程までは余裕がなかったこともあって特に気にしてもいなかったが、夜風が気持ちいい。
シロに引きずられる類のものは御免だが、散歩に行くのもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、横島は意識を橋にいる連中へと向けた。
その時ちょうど、子供(男の方)の魔法使いがなにやらすさまじい勢いの魔法を使ったらしい。
標的である影を巻き込んで、局地的な小型の台風のようなものを発生させていた。
危うく巻き込まれそうになるのを、持ち前の反射神経でぎりぎりかわし、橋の欄干に手をついて体を支えた。


(何しやがんじゃあのクソガキ!危うく殺されるところだったじゃねーか)


今の自分の状態を棚において、悪態をつく。彼にとっては、今の横島の姿は見えないのだから、文句を言われる筋合いはない。
というか自分の魔法に巻き込んだという意識もないだろう。
実をいえばこれは”隠”の文珠の欠点の一つでもあった。
使用者の存在をほぼ完全に消してしまうために、姿を隠しておきたい相手以外からもまったく認識されなくなってしまうのだ。
仮に戦闘中に使おうものなら、味方の攻撃に誤爆して、”隠”の効果が切れるまでそのことに気付かれずに放置されるなんてことにもなりかねない。
少なくとも仲間と共闘するような事態のときは使用を控えるべきだろう。
自分の能力の欠点を思い出しながらなんとか移動を再開する。
魔族にばれた様子はないがここからは慎重に行動する必要があるだろう。下手を打ってまた魔法に巻き込まれるのは御免だった。
橋の隅っこをこそこそと移動する。そしてようやく話し声が聞こえる距離まで近づく事に成功した。
横島は深呼吸を一度してから、通信鬼を呼び出した。


「シロ、ジークきこえるか?」


「こちらジーク。聞こえている」


数秒のノイズの後ジークが横島に返答を返した。


「これから攻撃を仕掛ける。たぶん気づかれてないと思うけど、一応シロに準備させておいてくれ」


「了解した。シロ君聞こえているな」


委細承知でござる。というシロの元気な声が通信鬼から聞こえてきた。
通信鬼を持ったまま話し声に耳を傾ける。
するとおそらく影のものだろう。ひどくこもったような聞き取りづらい声と金髪の少女の話し声が耳に届いた。


「私に用だと?」


「そうだ」


「何の用だ?」


「幾度もとっかえひっかえとはいかない・・・今までいた場所はすばらしくはあったが、動くことが出来ないのでは意味が無い。
そんな時、上質の獲物が現れた。君だよ」


「なにをいっている?獲物だと?」


「そうだな・・・獲物というよりは、食材か?いやちがうな、料理のように魚をさばく訳でも下味をつけるわけでもない、手間を掛けるつもりも無い。
ああそうかあれだ・・・・・燃料といった方がいいな。まるで足りないから、君をもらう」


「さっぱり分からん。もっと正確に話せっ!」


「それでも一応言っておこうか・・・いただきます」


少女の言っている通り、横島にもあまり意味が理解できない会話は、一方的に終わりを告げた。
周りにある湖から巨大な影が唐突に出現したからである。
あまりの出来事に一瞬思考が完全に止まる。冗談ではない、何が相手は弱っているだ。
それとも弱っていてこれなのか?
あわててジークに通信を送る。


「こらっ、ジークてめぇだましやがったな!!これのどこが弱ってるってんだ!!」


「落ち着くんだ横島君。よく見てみろ、大半は見せ掛けだ。霊力をほとんど感じないだろう」


むかつくほどに冷静な声でジークは横島に告げた。
なんとなく釈然としない気持ちでとりあえず彼の言う通りあたり一面に広がった影の一部を見てみる。
確かに言われなければなかなか気付けないだろうが、ほとんどの影達からは霊力を感じない。
なるほど、要するにこけおどしというやつだ。


「よし、それじゃシロ一発頼む」


影に攻撃するには、至近距離まで近づく必要がある。
必要ない気もするが念のためにシロに陽動を頼んだ。


「ワオオオオオオオオオオオォォォォォォッッッ!!!」


原始的で雄雄しさを感じる獣の吼え声が夜の闇に響き渡る。シロらしい張りのある元気な声が霊力を伴い何処までも浸透していくようだった。
人狼の生気に満ちた霊力を感じたのだろう。それまで一切の感情を表すことがなかった影に動揺の色が浮かぶ。
もっともそれは横島の気のせいだったのだろう。表情もないただ黒いだけの存在に動揺の色もなにもない。
ストックしておいた文珠を取り出し文字をこめる。ただ相手の消滅を願うその純粋な意思は文珠の力により形となって世界へと現れた。


”滅”


決して神々しくも激しくも力強さも感じない、緑色の光が標的である影の体を突き破ってあたりをやさしく照らし出す。
悲鳴をあげる事もできないのだろう。周りにあった巨大な見せ掛けだけの分身たちを巻き込んで、影は現れたときと同じように唐突に姿を消した。
ふぅ、と心のなかで安堵の息をもらす。本音を言えば文珠の力が効くかどうか不安だったのだが、どうやらうまくいったらしい。
あまりの事態の変化に感情がついていかないのだろう。金髪の少女をはじめ、彼女の周りにいる者達も同じような表情で呆けていた。
まだ”隠”の効果は続いているが、なんとなく気分の問題で横島は彼女達から少し離れたところに移動して、ジークに通信を送った。


「ジーク、どうだ?たぶんうまくいったんじゃないか?」


「こちらジーク。ああ対象は完全に消滅した。霊力反応もない。よくやってくれた横島君」


ジークも緊張していたのだろう。声からその様子が分かった。


「さすが先生でござるな。おみごとでした」


シロがすかさず横島を褒め称える返事をよこした。


「まーなこれくらい余裕だってんだ。うわははははははは!」


基本的に褒められれば調子に乗るのが横島だ。不安から開放された反動もあってか美神が見たら調子に乗るなと少々過激に突っ込みを入れられる位に
笑い声を上げていた。


「いやーこれで心置きなく散歩に出かけられるでござるな。先生も元気一杯みたいだし拙者楽しみでござる」


と、シロが空気を読まずに発言した。


「まだ言ってんのかお前は。行かんと言っとるだろーが」


通信鬼越しに言い合いを再開しながら、なんとかシロを説得し始める。ジークにも協力させようと思いながらなんとなく後ろを振り向いた。
まだ誰も動く気配がない。
事情を説明できないのでなんともいえないが。
金髪の少女に目を向けながら先程の会話を思い出してみる。


(あの影野郎。あそこにいる小さい子を狙ってたよな・・・?まさかロリコンやったのか?)


一応ジークに報告するかと考えて横島は元いた場所に戻っていった。





[40420] 06
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:ec8582d6
Date: 2015/07/02 21:04
寝覚めがいいとは決して言えない。
いつもよりひどく重く感じる体で寝返りを打つ。
浅い眠りから覚めてもベッドから身を起こす気には到底なれなかった。
体を覆うシーツの感触すら鬱陶しく感じる。
寝起きのために乾いた唇を一度なめて湿らせ、目蓋を閉じたまま片手で額を押さえた。

全身をだらしなく弛緩させ、ため息を一つつく。まったく気は進まないがそろそろ起きなければならないだろう。
このまま眠ろうとしても、己の従者が起こしにくるであろうし、先日かわした担任教師との約束もある。
正直そんな約束など破ってしまえばいいとは思わなくもなかったが、こちらの油断が招いた事とはいえ、敗れた事は事実だ。
面倒だからなどといった理由で約束を破るのは、自分の矜持が許さない。
体を寝かせたまま、なんとなく数を数える。

ひとつ、ふたつ、みっつ・・・。
十数えてから体を起こそう。そう心の中で決意して、七つまで数を数え終わったとき、なにやら若い男の奇妙な悲鳴が聞こえてきた。
自分で言うのもなんだが、朝早くからこんな場所に誰かが来るのは意外としか言いようがない。
心地いい静寂の中、ぼんやりとしたまどろみを味わっていた所を、無理やり起こされて、眉間にしわが寄っていく。
せっかく自分で起きようと思っていたというのに、その気がすっかりうせてしまった。
もうこのまま、従者が起こしにくるギリギリの時間まで、ベッドの中にいようと心に決める。
もともと機嫌がいいとは言いがたかったが、
自分の意思で仕方なく起きる事と、他人に無理やり起こされるのとではまったく話が変わってくる。
聞きたくもないのに、悲鳴交じりの怒鳴り声が耳に届いてきた。


「だあああぁぁぁぁ!シロっ、おまえいいかげんに止まりやがれぇぇぇぇぇぇぇ!!」


とうとうかなりの近くまで接近してきたのか悲鳴が段々と大きくなり、
そのままドップラー効果を起こしたかのように小さくなって、あっという間に消えてしまった。
なんだか悲鳴以外にも何かの衝突音が聞こえてきた気がするが・・・・。


(まぁいいか・・・)


単に寝ぼけているのだろう。そう確信し、シーツを被り直した。




◇◆◇




「お、おまえな・・・な、な、何度も言うとるだろーが。ぜぇはぁ、ごほげは、俺が止まれとゆーたら止まってくれ・・・頼むから」


まともに呼吸が出来ない。
自分では逆立ちしても出来そうにないスピードで、木々が立ち並ぶ中を全力疾走していたシロに引きずられ、
横島は息も絶え絶えになりながら、わりと真剣に己の弟子に向かって懇願していた。


「も、申し訳ありません、先生。・・・楽しくてついついハメをはずしてしまって・・・」


本当に悪い事をしたと思っているのだろう。
しゅんとしてうなだれてしまったシロに、若干の罪悪感を感じながら、それでも今甘い顔を見せるわけにはいかないと、心を鬼にする。
そうしなければ、シロの事だ。二日後くらいにはすっかり忘れてまた横島を引きずっていくことだろう。
全身にかいた汗(大半は冷や汗だ)を拭って、目の前の木にしがみつくように倒れこむ。
シロの中では昨日のうちに行く予定だった散歩を、どうにか翌日の朝に延ばしてもらい、
精神的にも疲れていたので早めに休んだまではよかった。

しかし、まだ日が昇って間もないうちから、ほとんど強制的に、ろくに着替えも出来ないまま、
地獄の散歩コースに無理やり連行されたのだった。
はじめのうちはゆっくりと歩きながら、寝起きの横島を気遣う様子を見せてはいたものの、
普段の散歩コースとは違い、シロの故郷である人狼の里を思い出させる緑豊かな場所に、
だんだんとシロのテンションがフルスロットルになっていった。

そこからはよく覚えてはいない。
なんとか木々にぶつからずに、シロのばかげた脚力に、どう振り回されるかを考えなければならなかった。
さながら猛スピードで障害物を避けながら、崖を滑り降りる山岳スキープレイヤーのように、一瞬の判断を要求されていったからだ。


「はぁ、まぁもういいけどさ。ここどこだ?結構遠くに来ちまったけど・・・」


一言で言えば森の奥深くだが、何しろ初めて来た場所なのだ。
道中はいちいち道を記憶している余裕など一切なかったし、目印になるようなものも周りにはない。
完全に迷ってしまっていた。
頼りは横島を先導していったシロだったが、彼女自身も来た道を記憶しているかどうかは微妙なところだった。
もし迷っているのならば、そろそろ飼い犬の称号も近いシロの帰巣本能に期待するしかなくなる。
彼女の帰巣本能が頼りになるかは別物としても・・・。


「うーん、拙者も初めて来たのでなんともいえないでござるけど・・・匂いをたどれば帰る事はできるとおもうでござる」


そういえばシロにはそれがあったかと、少し安心する。
人狼に備わった超感覚で、霊視以上の追跡能力を持っていたりするのだ。
まぁ、それをするには、いちいち地面を這い蹲るようにして匂いを探らなければならないので、結構な労力を必要とするのだが、
今回は自分達の匂いをたどって来た道を戻るだけなので、それほど時間は掛からないはずだ。
正直早く帰って、シャワーの一つも浴びたいので、もう少しここで休憩したらシロに頼もう。
横島がそんなことを考えていたとき、前方にある茂みから、がさがさと音が聞こえてきた。


「おや、こんな所に人がいるとは珍しいでござるな」


珍しいものを見たようにこちらに声を掛けてきたのは、忍者装束に身を包んだ、糸目の女性だった。
その姿を見た瞬間、疲労と眠気で半ば閉じかかっていた横島の目が見開かれる。
酷使されて動かなかったはずの体に急速に血がめぐっていった。


「こ、これはなんちゅーけしからん乳・・・げふんげふん・・・いや、たまらん尻・・・ごほがは・・・
美しいふとも・・・ではなく美しいお嬢さん。
こんにちは僕横島っ!!いやーちょっと道に迷って困っていたところに、あなたのような人とめぐり合えるなんて・・・。
これは奇跡・・・いや運命!!ちょーど人気のな・・・ぐえっほげっほ、自然豊かで開放感あふれる気持ちのいい場所に二人きりだし、
お互いをもっとよく知るために、心も体も開放的になってみるのはいかがでしょうかっ!」


すさまじいほど下心満載の台詞を垂れ流しながら飛び掛りそうな勢いで女性に詰め寄る。
見る人が見れば即座に通報されそうな目の血走りようだった。
仰向けで、力なく木に寄りかかっていた男が、一瞬にして起き上がり、いつのまにかこちらの手をとって挨拶?してきた事に驚いたのだろう。
女性は若干体をのけぞらせ、身を引くようにしながら、男のそばにいる前髪付近を赤く染めた銀髪の少女に視線を送った。


「二人って・・・連れがいるのでは?」


あからさまに存在を無視され、瞳をうるうると潤ませながら、せんせ~い、と横島の方を見つめているシロにやっと思い至ったのか、
はっとした様子で横島は後ろを振り返った。


「い、いや別にお前のことを忘れてたわけじゃないぞ。うん」


「だったら、その手を離して欲しいでござる」


かたくなに手を握り締めたままの横島を、半眼で見つめながら、シロは疲れたように吐息を漏らした。
横島の性格というか性質というかは、よく知っているのだが、あれだけ疲れ果てていたにもかかわらず、
美人を見たとたんに即座にナンパをし始めるのはどういうことなのか。
そんなに元気なら、もうちょっと自分の散歩につき合ってくれてもいいのにと、思わなくもない。
そんなことを考えていると、横島が名残惜しげに掴んでいた手を離した。


「えーと、さっきも言ったけど、俺の名前は横島忠夫っす。それでこっちはシロ、ちょっと散歩してたら道に迷っちゃって」


目の前の人物に向き直り改めて自己紹介をする。
普通は山岳コースでもないのに、散歩に行って森で迷子になどならないだろうが・・・・・なにせ道らしき道もないのだ。
ひとえにシロの脚力の賜物といえる。
横島の紹介にあわせてシロがぺこりと頭を下げ、拙者は犬塚シロと申します、と女性に向かって挨拶した。


「これはご丁寧に、拙者は長瀬楓、こちらも散歩中のようなものでござる」


にこり、と愛想のいい微笑を浮かべつつ横島とシロに向かって挨拶を返す。
そして長瀬楓と名乗った女性は、自分が森を出るまで横島たちを案内すると言った。
横島とシロはありがたくその提案に乗らせてもらう事にして、楓に礼をいい先導する彼女について行くことにした。


「とはいっても、ここからならたいして時間は掛からないでござるよ。寮からもそれほど離れてはいないでござるから」


何でも彼女が寄宿している学生寮が近くにあるらしい。
体感ではかなりの距離を走らされていたと感じていたのだが、同じような場所をくるくると回っていただけのようだった。
近いに越した事はないが、無駄な運動をさせられた気がして、横島はどっと疲労を覚えた。
それでもしばらく休めたのと、楓という横島好みのお姉さんが近くにいることで、何とか気を取り直す。


「でも寮が近くにあるって事は、長瀬さんが通っている大学も近くにあるんすか?出来ればテニスコートの場所とか聞いときたいんすけど」


当然横島にテニスをたしなむ趣味などない。目当てはもちろん人間のほうだ(男を除く)。
もっと言えば更衣室の場所のほうが気になるのだが、さすがにそんなことを直接聞かないだけの分別はかろうじて残っていた。


「大学?拙者が通っているのは中学でござるよ」


さらりと横島の思い込みを訂正する。


「え?」


なにやら思いもよらない発言が聞こえたような気がしたのだが・・・。
耳がおかしくなったのか、もう一度言ってくれと楓に頼む。


「麻帆良学園中等部3-Aでござる。横島殿は高校生くらいでござろうか?先輩でござるな」


前を向いたまま、楓は自分の所属する学校名を横島に告げた。
その言葉を聞いたとたん、横島は愕然としたように、だらしなく口を開いた。
よく見れば確かに年相応の顔をしている。体ばかりに目がいって顔をよく見ていなかったのだ。
なんということなのか・・・。あの美神なみのボディラインが中学生のものだったとは・・・。
こちらの世界の中学生はみんなこんなんなのか?

だとするならばこの世界は横島にとっての楽園である可能性がある。
美神に騙され強制的に異世界なんてところに落とされたが、ひょっとして大当たりだったのではないか?
なにせ中学生で美神に匹敵するほどなのだ。
これが高校生、大学生、働くお姉さま方になればどれだけの戦闘力を秘めているのか・・・。
冷静に考えればそんな事があるはずがないのだが、あまりのことに驚きを隠せない横島には、常識的な思考能力が一時的に欠如していた。

いやまて、ということは、ワイは中学生をナンパしとったのか・・・。
でもこれくらいええ体しとったら、全然問題ないんじゃないか?
いやしかし・・・。だがしかし・・・。

思考の迷路に迷い込んでしまった横島がぶつぶつと零しつつ地面をにらみつけながら器用に歩いている。


「横島殿はどうなされたのか・・・」


「あまり気にしないであげて欲しいでござる。わりといつもの事なので」


シロにとっては見慣れた光景なので、どうというわけではない。
はぁ、と生返事を返しつつ、楓は案内を続ける。
それから、延々と独り言をつぶやく横島を放置して、シロと楓はたわいない話をしながら、歩いていった。
木々に囲まれた景色が故郷を思い出すといった話から、お互いの故郷が似たような場所にあると分かって会話も弾んでいく。
そうこうしている内に、森を抜けたのか舗装された道が見えてきた。


「この道をまっすぐ進めば、先程言われた場所に出るでござる。」


一つの方向を指し示し、楓は後ろを振り返った。
ようやく、といっても楓の言うとおりそれほどの距離を歩いたわけではなかったのだが、森を抜ける事ができた。


「ありがとうございます楓殿」


シロが改めて楓に礼を言う。
その言葉を聞いてようやく我にかえった横島もあわててシロに続いて礼の言葉を口にした。
その様子を見ながら二人に笑顔を向け、楓はパタパタと手を振って、いやいや大した事はしてないでござるよと返事を返した。
そして朝日の方角を見ながら、落ち着いた声で呟く。


「っと、そろそろ拙者も学校に行く支度をしなければ・・・。それではお二方これにて拙者は失礼するでござる」


いくら薄暗い早朝に出発したとはいえ、シロの散歩に付き合ってかなりの時間がたっている。
そろそろ通学や通勤のために、まわりも起き出す時間だろう。
横島たちに小さく手を振って、別れの言葉と共に楓は踵を返して去っていった。
その後姿に勢いよく手を振り返しながらシロと横島は彼女を見送る。


「いやぁ、それにしてもええ体しとったな・・・」


「他に言う事はないのでござるか・・・」


小さくなっていく後姿を見つめながらお互いにぽつりと呟く二人だった。
しばらくはなんとなく楓の姿を目で追っていたのだが、いつまでもこうしている訳にもいかないので、助言通りの道を歩いていく。
まだ土地勘もほとんどない場所だ。ある程度道を覚えるためにも、よく周りを見ていたほうがいいだろう。
今はまだ閑散としているが、この麻帆良という土地は通勤時間になると人であふれかえるらしい。
いや、学園都市というくらいだ、通勤者よりも学生のほうが多いのだろうか・・・。
学生・・・中学生・・・そういえば、と先程別れたばかりの楓の姿を思い出す。


「楓ちゃんとシロってなんかしゃべり方似てたよな。なんちゅーか時代がかった感じで」


シロがいるのですっかり慣れてしまっているが、いまどき時代劇の中でしか聞けないような言葉遣いだ。
着ていた服も時代劇の忍者のようなものであったし。


「確かにそうでござるな。拙者の故郷ではそう珍しいものでもないのであまり気にしなかったけど・・・」


先程二人で話した通り、故郷が似たような場所にあるのならば、話している言葉も似ているのかもしれない。


「案外本当の忍者だったりしてな。むかしGS試験であった、くノ一のねーちゃんはすげーおっかなかったけど」


言葉に出してから姿を思い出す。そういえば彼女も楓に負けず劣らず、いい体の持ち主であった。


「先生のGS試験の話でござるか?拙者ぜひ聞いてみたいでござる」


「そうか?あんときはメドーサっていう巨乳の年増がだな・・・」


シロにねだられるまま、GS試験の話を誇張を混ぜて話していく。
もし他の当事者がいれば即座に嘘をつくなと突っ込みを入れるだろうが、あいにくとここには横島とシロしかいない。
ちょっとしたきっかけで正義の力に目覚めた横島が、
格好良く悪の手先である目つきの悪いバトルジャンキーを叩きのめした話をしていたところで、目的地にたどり着いた。
中では最後まで横島たちを、
(横島達本人というより横島達が起こすかもしれない騒動のほうをだろうが)心配していたジークが首を長くして待っていた。


「なんとか無事に帰ってこられたか・・・」


戦地へ赴いていた兵士の帰りを待っていた家族のように、心底ほっとした様子でジークは横島たちを見つめている。
初めてのお使いレベルを遥かに超えて心配していたあたり、いかに横島の事を信用していないかが伺える。
そんなジークの姿も気にならないのか、ただいまでござる、とシロが元気よく返事を返した。
それから横島とシロの二人は交代でシャワーを浴びて、シロが作った朝から重たすぎる朝食を平らげてから、やっと一息つくことが出来た。


「拙者は一旦むこうの世界へ帰るでござる」


食後に飲んでいた緑茶を注いだ湯飲みをコタツの上において、シロが横島たちに言った。
ほとんど何の断りもなくこちらの世界に来てしまったので、美神やおキヌ、あとついでにタマモが心配しているかもしれない。
標的である魔族を一人倒した事でもあるし、報告を兼ねて事務所に帰るそうだ。
それならばと、夜のうちに書き上げた報告書をジークはシロに手渡した。
シロは報告書を受け取り、横島に向けて別れを告げる。


「それでは先生、しばしの別れでござる。またすぐに会いにくるので、寂しがっちゃ駄目でござるよ」


「あほか、そんなことより俺の活躍を美神さんにちゃんと言っとけよ」


シロに向かって適当に手を振りながら、見送りの挨拶をする・・・・・と見せかけて、
例の悪趣味な扉をシロが通ろうとしたその時、おつかれっしたーと言いながらシロに張り付くようにして横島は扉をくぐろうとした。
実を言えば最初から狙っていたのだ。なんとかこのまま扉をくぐって元の世界に戻り、一時的に美神の目の届かないところまで逃亡して、
後の事は・・・・・・・
まあ、さっきシロに話しをした時に出てきた名前でもある事だし、本人も望むところではあると思うので、
目つきの悪いバトルジャンキーにでも任せてしまえばいい。
そんなことを考えつつ、シロに続いて扉を通りぬけようとした瞬間。


「きええぇっぇぇぇぇっぇぇえぇ!!!」


その姿同様、奇怪な叫び声を上げた扉のドクロが、大鎌を振り下ろしてくる。


「うおあうっ!!」


情けない悲鳴を上げつつギリギリのところでなんとかこちらの首を狙って振り下ろされた凶器をかわす事に成功する。
バクバクとなり続ける心臓を押さえながら、横島はしりもちをついていた。
その姿を冷徹な眼差しで捉えていた、ジークが横島に告げる。


「言い忘れていたが横島君、我が魔界正規軍が開発したセキュリティシステムは完璧だ。こちらの許可なくあの扉を突破できるとは考えない事だな・・・」


その言葉を背中越しに聞きつつ、横島は肩を落としながら、ため息を一つつくのだった。






[40420] 07
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:ec8582d6
Date: 2015/07/03 21:17
その日、近衛木乃香の機嫌はよかった。
少し前から、様子のおかしかった同居人の二人が、元気を取り戻したからだ。
正確には大停電があったあの日以降、なぜか明日菜とネギの二人で、難しい顔をしている事があったのだ。
それでもネギの方は、修学旅行の行き先である京都に行ける事を楽しみにしているようだし、
明日菜は昨日渡した誕生日プレゼントを気に入ってくれたようだった。

結局原因は分からなかったが、笑顔の二人を見ていると、別に聞かなくてもいいかとも思う。
木乃香にとっては里帰りのようなものであったが、仲のいい友達との旅行はそれだけで楽しいものだ。

軽快な足取りで寮までの帰り道を歩く。
明日の準備は大方済んではいるが、今日は早めに眠りにつくつもりだった。
気持ち早足になり、歩きなれた道を進んでいると、ふと赤い光が目に止まった。
なんだろうと、注意深く歩道の脇に植えられている街路樹に近づく。どうやら木の根元あたりに何か光るものがあるらしい。

屈み込みながら光を放つそれを拾い上げてみる。
それは手のひらに収まるくらいの小さな水晶玉のようなものであった。
表面は見事に磨き上げられていて、凹凸のようなものは一切ない。通常のものと違うのは鈍く赤い光を放っている事だろうか。
よく見れば球体の中心に、何かの化石のようなものが収まっているのが見える。
どことなく不気味に見えるそれは、普通の少女が見れば驚いて手を離してしまうだろう。
しかしあいにくと彼女はこの手のものを収集している癖があった。
端的に言えば木乃香にとっては、珍しいオカルトアイテムに見えていたのだ。


(なんやろ、変わった水晶やなぁ。中に何か見えるし)


自分が持っているコレクションの中には、存在しない類のものだ。
誰かの落し物だろうか?少なくとも自然物ではあるまい。少々惜しい気もするが、もしそうなら交番に届けなければならないだろう。
でもその前にもう少しだけ覗いてみよう。
そう思い、彼女が目を凝らし赤い水晶玉の中心にある化石のようなものを見ようとしたその瞬間、
化石の瞳が開いて、こちらを覗き込んでき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のか、木・・・・香・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「木乃香っ!」


「えっ」


肩を強く揺すられ、自分の名前を呼ばれる。
ハッとして顔を上げると、いつの間に現れたのだろうか、目の前で自分の親友である神楽坂明日菜が心配そうにこちらを見つめていた。


「明日菜?」


「明日菜?じゃないわよ。どうしたの?こんなところでボーっとして。呼んでも返事もしないしさ」


しばらく前に、歩道を外れた場所で立ち尽くしている木乃香を見つけ、声を掛けたのだが、一向に返事を返さない。
様子がおかしいので、近づいてもう一度、今度は若干大きめで声を掛けなおしたのだが、それでも何の反応も示さない。
いよいよ心配になり、肩を揺さぶって何度も名前を呼んでいた所でようやく明日菜に気付いたようだった。


「えーと、なにしてんのやろ・・・」


自分でもなぜ道から外れてまでこんな場所にいるのか、よく思い出せない。
ただ普通に寮に帰るところだったのだ。それから・・・・・・それから?
何があったのかを思い出そうとして、頭に鈍い痛みを感じる。おもわず額を押さえる様にしてうつむいてしまった。


「木乃香、ちょっと本当に大丈夫?」


今朝はいつものように元気な姿を見せていたというのに、今は具合が悪そうだ。
体調が悪いようなら、明日からの修学旅行も休ませなければならないだろう。


「うん、ちょっと頭がぼんやりしてるだけ」


大した事はないというように、明日菜に笑顔を向ける。実際体の具合が悪いというわけではないのだ。


「そう?それならいいけど・・・」


まだ心配そうにこちらを見ている明日菜に大丈夫だと告げて、歩道に戻る。
柵をまたいで、今度は明日菜と一緒に帰り道を歩こうとしたそのとき、
高校生くらいの青年が息を切らせながら、走ってこちらに近づいてくるのが見えた。
どれもこれもくたびれて見えるGジャンにジーンズ姿の中肉中背の青年だ。ワイシャツはよれよれで早急にアイロンがけが必要に思われた。
頭にはバンダナを巻いていて、決して洒落ては見えない格好なのに、なぜかよく似合ってもいる。
よほど急いでいたのだろう、こちらにたどり着いても肩で息をしていた。
もっとも数秒で息を整えたあたり、走りなれているのかもしれないが。
青年は膝についていた手を離し、体起こして、木乃香たちに声を掛けてきた。


「あのーちょっとすまんけど、なんかここら辺で変わった事なかった?」


ひどく漠然とした質問だ。要点が定かではないので答えようがない。


「変わった事?」


女子寮への帰り道に突然現れた見知らぬ青年が、訳の分からない質問をしてきたのだ。
隣で見ていた明日菜の警戒心が刺激されていく。


「ああ、何でもいいんだけど・・・こう変わった事というか変わった物というか。変なものを見たりしない?」


自分でもへんなことを聞いていると自覚があるのか、頬を引きつらせ、無理やりな愛想笑いを浮かべている。
すると、明日菜から警戒するような視線を向けられている事に気付いたのだろう。こちらをふりむいてきた。
同時に、意外なものを見たというように、表情を変化させる。


「あれ?・・・きみは・・・・・」


「・・・なんですか?・・・」


明日菜が僅かに硬質的な声を返す。怪しい人を見る視線になるのも無理はないだろう。


「えーと、うちら二人とも何も見てへんけど・・・」


フォローのつもりなのか木乃香があわてたように青年の質問に答えた。


「あ、ああ、そう?見てないならいいんだけど・・・」


ちくしょうジークの野郎、無駄足踏ませやがって。何も起こってないじゃねーか。
青年は急にあさっての方向をにらみつけ、表情を険しくして悪態をついた。


「あの、もういいですか?」


聞きたいことだけ聞いて、ぶつぶつと愚痴を零し始めた青年に、確認を取る。
よくわからないが、声くらいは掛けておくべきだろう。


「へ?ああ、サンキュな」


間の抜けた声で一応礼を言いつつ、青年はもと来た道を戻っていった。


「なんだったんだろ?」


どうやら変質者やナンパの類ではないようであったが、結局何が聞きたかったのか、まるで分からない。
なんというか、聞いている本人も質問の意図が掴めていなかったような・・・。
首を捻りつつ隣にいる木乃香に向きなおる。
当然木乃香にも分からないのだろう。自分と同じように頭に疑問符をつけていた。
まぁいいか、と再び寮へと歩き出す。
二人で明日からの修学旅行の話をしながら道を歩いていると、なにやら青年が去っていった方角から声が聞こえてきた。


そこのあなた、お嬢様にいったい何の用件が?
へ?お嬢様ってなんだ?ワイはただちょっとあの子らに聞きたいことがあって・・・。
聞きたいこと、それはなんです?いや別に大した事じゃー。言えないんですか?怪しいな・・・ちょっと一緒に来てくれませんか。
いっ、なんか知らんけどすんませんっしたー!あっ、逃げた、待てー!待てといわれて待つ馬鹿がいるかー!



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・全力で聞こえない振りをした。



◇◆◇



「京都に行けだぁ?なんやっちゅーんだ突然」


見知らぬ女子中学生に因縁をつけられ、泣きながら家まで逃げ帰った日の二日後。
横島は買いだめした安売りのカップラーメンを啜りながら、珍妙な声を上げていた。
なにやら例の霊力探査装置とやらの前で、難しい顔をしながら延々と装置をいじくっていたジークが、
突然顔を上げて、横島に京都に行って欲しいと告げたのだ。


「何で京都?」


器の底にたまったネギの残りを、器用に箸でつまみながらジークに尋ねる。


「二日前、君に調査してもらった付近を、もう一度徹底的に調べてみたんだ」


長時間モニターと格闘していた結果か、目頭を押さえつつ、ジークは探査装置のある方向を指差した。
二日前、横島がエロ本を見ながらくつろいでいたところに、探査装置が霊力の反応を感知した。
あわててジークが横島に、反応があった地点を調査に行かせたのだが、まるで手がかりが見つからない。
いい加減馬鹿らしくなって帰ろうとした頃、、二人の少女が肩を並べて歩いているのを見つけた。
何か知っているかもと、聞くだけ聞いてみる事にした横島は、本人もなんだかなと思うような質問を少女達にしたのだった。

結局、二人とも何も知らない様子だったので、引き上げる事にしたのだが、その後が問題だった。
一見して人目を引きそうな長い棒のようなものを持った少女が、横島に冷たい声で詰問し始めたのだ。
どうやら、自分が声を掛けた少女の付き人か何かだったようで、やたらと横島に突っかかってきていた。
お嬢様とやらに何を質問したのかと問われたのだが、はっきり言って横島にも答えようがない。
なにしろ横島自身もなんと質問すればいいのかわかっていなかったのだから。
曖昧な態度になるのも仕方がないといえるだろう。

しかしそんなこちらの態度がおきに召さなかったのか、おう、兄ちゃん、ちょっと事務所まで来てもらおうか、
といった様子で横島をどこかへ連れて行こうとした。
あわててその場を逃げ出したのだが、横島の逃げ足をもってしても撒くのになかなか苦労したのだった。


「あんときか・・・、逃げんのに無茶苦茶苦労したぞ。なんかすげー足の速い子でなぁ。まぁシロほどではないにしても」


あらゆる手段を駆使してなんとか逃げ延びたのだが、平安京エイリアンの術(穴掘って埋める)を力技で返されたときには、冗談かと思った。
直後に、服を汚された怒りからか、追跡の様子が容疑者を捕らえるから、狼藉者を成敗いたすに変わったので、本気で身の危険を覚えたのだが。


「君の苦労話もまったく興味がないというわけではないが、今は別の話だ」


ジークが疲れた様子で力なく声をあげる。


「調査の結果、あの地点にはもう何の反応もなかった。だが二日前、君が興味深いことを言っていたのを思い出したんだ」


「興味深い事?なんか言ったっけか?」


あの日は確か何も言う気力がなくて、シャワーも浴びずに熟睡したような気がするのだが。


「ほら、君が声を掛けたうちの一人が、あの停電の日、魔族に襲われた少女だったと」


「あぁ、確かに言ったかもなそんなこと」


ジークに言われて思い出した。自分が質問した少女の顔に見覚えがあったのだ。
例の影野郎をやっつけたあと、呆然としていたメンバーの中に髪をツインテールにした少女がいた。
横島の好みからは些か年齢が足りていないが、それでもめったな事では忘れられないような美少女ではある。
あの時、あれ、と思ったのは顔を覚えていたからだ。


「で、その子がなんだってんだ?」


いまいち話の関連性がよめない。少女と京都に何の関係があるのだろう。


「土偶羅にこちらのシステムをハッキングしてもらっていたんだ。彼女の名前は神楽坂明日菜。
麻帆良学園の中等部に在籍している。二回続けて霊力反応があった場所にいた少女だ。
しばらくの間探査装置を彼女の周辺で重点的に起動していたんだが、昨日駅前付近でわずかな反応が見つかった。
ほとんど誤差の範囲内なので、くわしく解析してみたんだが、どうやらビンゴだったらしい」


「駅前か・・・」


「そう、昨日から修学旅行で京都に出かけているらしいな」


モニターに視線を移し、ジークは横島に告げた。


「その子に魔族がとり憑いて京都に行ったつーんだな」


「どうかな?そもそも彼女が魔法使いだという確証もないし、本当のところは分からない。
何しろ反応があったとはいっても、ごく僅かだったんだ。見当違いの可能性も十分ある」


実際間違いの可能性のほうが高いかもしれない。
しかし本当に神楽坂明日菜という少女に魔族がとり憑いていた場合、取り返しのつかなくなる可能性もあるのだ。
それに、仮に間違いで、こちらに魔族が現れたとしても、横島の霊能力であれば一瞬で京都からここへ戻ってこられる。


「”帰””還”の文珠か・・・まぁどっちかこっちに置いておけばなんとかなるかな」


さすがにそれほどの長距離を試した事はないが、おそらく大丈夫だろう。


「しかし、京都か・・・・・、京都なぁ」


横島が難しい顔をして腕を組みながら黙り込んでしまう。


「京都に何かあるのか?」


「いや、この時代には何もないんだけど・・・・・」


少々前の時代にお世話になった事がある。最後はなんか死に掛けた気がするのだが。
ふぅ、と長いため息をついた横島をジークは不思議そうに見つめた。


「まぁいいや、それで京都に行って、その明日菜って子を見張ってりゃーいいんだな?」


いちいち唸っていても仕方ないので、話を切り上げる。どうせ今から向かうとしても着くのは夜になってからだろう。
彼女が行っている修学旅行の詳しい行動予定表をジークから渡され見てみる。大体どこかの寺を観光しているのだろうが、
団体行動ではなく、自由行動にはいっているならば、探すのに苦労するかもしれない。

そう考えれば、生徒達が必ず帰ってくるホテルを張り込むのが確実か。横島が京都に到着する時間的にはちょうどいいかもしれない。
仕事柄出張には慣れているので、てきぱきと準備を進めていく。もっとも大して日数もないのだし、着替えも少なくて済むだろうが。
横島の準備など簡単なものだった。
もう一度だけ手に取った予定表を見直したとき、何かに気がついた。


「あれ、麻帆良学園の中等部って、楓ちゃんがいるとこか?」


中学生とは思えない姿を思い出す。たしかあの娘もそこに在籍しているはずだ。
ま、ただの偶然か・・・。
あっさりと準備に戻っていく。


「そういえば、今回助っ人っていないんか?」


シロはこの前帰ってしまったし、今回は急な話でもあるので、横島一人でやらなければならないかもしれない。


「いや、昨日の段階で美神令子には事情を伝えてある。まだしばらく掛かるかもしれないが」


「誰だ?シロか?おキヌちゃんは学校あるしな・・・」


自分も学生なのだが、いまさらではある。言ってて悲しくなるが・・・。


「わたしよ」


聞きなれた声が横島の問いかけに答える。
そこには、いつのまに例のギロチン扉から現れたのか、タマモが仁王立ちで佇んでいた。





[40420] 08
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:ec8582d6
Date: 2015/07/04 20:51
「ふぁぁぁあああぁぁぁああ」


あごが外れそうなほど大きく口を広げて、あくびをする。
凝り固まった肩と首をほぐすために軽くストレッチなどを行いながら、自販機で買ったホットコーヒーを口に含んだ。
寝床を気にするほど自分の体は繊細には出来ていないはずなのだが、どうにもよく眠れた気がしない。
いまだに覚醒しきれていない意識を覚ますために、もう一度顔でも洗いに行こうかと思う。
そうすれば少しは頭もすっきりするかもしれない。

そんなことを考えながら、ロビーの端に設置されているソファーから立ち上がろうとした時、ちょうど今回の連れが姿を現した。
待ち合わせの時間にはまだ早いはずなのだが、彼女の方も寝覚めが悪かったのかもしれない。
一見して分かるほど量の多い髪を、後ろ頭で器用に結んでいる。どこかの学校の制服のような格好もいつもと変わらない。
見た目もそれ相応で中学生くらいだ。まぁ彼女の場合は姿を変化させられるので、見たままの姿がそのままの年齢とは限らないのだが。
若干切れ長の瞳を、眠そうにしょぼつかせ、手の甲でこすりながらこちらに向かって歩いてきた。

昨日、ジークの要請で横島の援護に現れたのが、この娘タマモだった。
やる気のなさそうな、あからさまに嫌そうな表情を隠そうともせずにこちらの世界にやってきた。
横島との付き合いは美神除霊事務所のメンバーの中では、彼女がもっとも浅い。
もともと美神が高額の報酬に目がくらみ請けた仕事で退治されるところだったのを、もろもろの事情で保護されているのだ。

正式に雇われているわけでもないので、今回の異世界行きに不満を持っているのだろう。
建前では世間の常識を学ぶために、美神除霊事務所にいるのだから、無理もないことかもしれない。
もっともここ最近では、そんな建前はすっかり忘れて事務所になじんでいるのだが。
彼女はフロントの脇にある自販機から何か飲み物を購入し、一口すすりながら横島の向かい側に座り込んだ。


「おはよう」


お互いに挨拶を交わし、コーヒーを飲む。どうやら彼女も眠気をこらえているようだった。


「あんまり眠れなかったんか?」


目の前で横島とは違いあくびをこらえているタマモに尋ねた。


「そういうあんたも眠そうだけどね」


やはり分かってしまうのだろうか、睡眠時間自体は十分にとっているのだが。


「別に枕が替わって眠れないってタイプじゃねーからな俺は。ただなんかこう、こっちに来てから嫌な予感がするっつーか・・・」


昨夜、京都に到着したのは予想通り夜になってからだった。何しろ急な京都入りだったので、宿泊先も決まっていない。
片っ端から付近の宿に連絡を入れて、どうにか近場のビジネスホテルに部屋を取ることができたのは、幸運だったのかもしれない。
荷物を預けて、監視対象が宿泊している宿を下見に出かける。
外から様子を探る程度だったので、はっきりした事はわからないのだが、なぜか異様なほど騒がしかった様子だった。
危険な感じはしなかったので、放っておいたのだが。

それから宿に帰って、遅めの夕食をとり眠りにつこうとしたのだが、なぜか目がさえて眠れなかったのだ。
緊張して眠れないといったわけでも、体調が悪かったのでもない。強いて言うなら遠足前の子供の心境だ。
そわそわと落ち着かない心がどうにも止まらなかった。
まぁそれは楽しい予感などではなく、まったく正反対のものだったのだが。
結局横島が眠りにつけたのは、日付をまたいだ時間帯だった気がする。


「横島も?」


どうやらタマモも似たようなものらしい。


「ってことは、これって予知ってやつか?」


自分は美神ほど霊感が強いわけではないのだが、何かの予兆を捕らえたときは、その予感があたる事は多い。
しかしそういった場合、大抵ろくでもないことが起こる。


「かもね、はぁ、いくら美神さんやおキヌちゃんの頼みでも、やっぱり断ればよかったかな?」


なんでも高級食材を使って作った油揚げづくしの料理か何かにつられ、横島の助っ人を頼まれたのだそうだ。
いくら彼女の正体が、妖弧だからといっても、餌に釣られるというのは実際どうなのだろう。
少なくとも出会った当初の彼女であったなら、プライドが邪魔をしそうではあるのだが。
要するにすっかり美神たちに慣れてしまったという事なのだろう。


「お前は釣られるだけの餌があってまだいいじゃねぇか。俺なんか問答無用だぞ。どうせなら乳の一つも揉ませろっての」


「そんなんでいいんだ。でも、いつもの事じゃない?気にする必要ないと思うけど」


さも当然の事といった感じで、タマモは横島をあきれたように見つめた。


「・・・・・・反論する気もおきん」


いまさらながら、事務所においての自分の立場といったものを考えさせられるのだが、悲しくなるだけなのでやめておいた。
気分を入れ替えて、軽い朝食をとりつつ今後の予定について話し合う。
ジークから渡された修学旅行のしおりによれば、今日明日菜という少女は自由行動のようだ。
決まった場所を観光するわけではないので、早めに宿に行って見張らなくてはならないだろう。

しかし何が悲しくて女子中学生のストーカーなどしなければならないのだろうか、まぁ男でないだけましといえなくもないが、
せめて高校生か大学生、成熟したお姉さまがよかった。
もっといえば色っぽくていろいろなところが出たり引っ込んだりしていて、もう見ているだけで辛抱たまらんような・・・・・。


「なるほどね、これの相手をしなきゃならないのか・・・・・。割に合わないわね」


疲れたようなしぐさでこちらを見つめるタマモの視線を感じ、横島はわれにかえった。
こっちの世界に来てから、主に一緒にいるのはジークだけだ。よほど自分は前の職場が恋しいらしかった。
あわてて話を戻しながら、横島たちは話し合いを進める。

しかし、どのような魔族が明日菜という少女にとり憑いているのか、いやそもそも本当に魔族はこちらに来ているのか、
両方ともわからないので、まともに対策を立てようがない。
結局、いないかもしれない相手を必要以上に警戒するのも馬鹿らしいということで、監視をするだけして、成り行きに任せることになった。

双眼鏡などの張り込みに必要な道具を持って、ホテルを出る。
一応ジークから簡易型の霊力探知機を預かってきたので、仮に見失う事があっても事が起きれば、探し出す事はできるだろう。
ただし、周囲に探査装置をばら撒いているわけではないので、過信は禁物だが。
昨晩下見に行ったおかげで道に迷うことなく目的地にたどり着くことができた二人は、不自然でない程度に身を隠しながら、明日菜が出てくるのを待つ。

それから十分ほど暇を潰していると、がやがやと周囲が騒がしくなってきた。どうやら生徒達が外に出てきたらしい。
横島は彼女の顔を直接見ているので、間違う事はないのだが、タマモは写真で確認しただけだ。
生徒の数も多い事だし気をつけていなければならない。最初から躓くのは御免だった。
とはいっても、怪しまれないようにしなければならないので、かなりの難題だ。ようやくお目当ての人物が現れたときには二人とも気疲れしていた。
それでもなんとか明日菜を見つける事ができたので安堵していたのだが、一緒にいる人物を見つけた横島の顔がみるみる青ざめていく。
そんな横島を怪訝そうに見つめ、タマモはどうしたのかと尋ねた。


「あ、あかん。モンスターがおる」


おびえたように身を震わせながら、横島は明日菜の隣にいる長い竹刀袋を担いだ少女を凝視する。
見間違えるはずがない。あの少女は少し前に横島を追い回した娘だ。
少女との逃走劇が脳裏によみがえる。最初こそは普通に声を掛けながらこちらを追いかけてくる程度だったのだが、
横島が逃げ延びるために抵抗を続けるたび、背後の気配が尋常でないものになっていったのだ。

人間離れをした脚力と体力、アホかと言いたくなるような馬鹿げた力の持ち主だった。なにせ何の誇張でもなく岩を切断するのだ。
あの細腕で何故そんなことが出来るのかさっぱりわからない。不用意に背後を振り返り追っ手の表情を見たものだから、危うくトラウマになりかけた。
嫌過ぎる文字通りの鬼ごっこだ。

あわあわと意味もなくそこら中に視線を向けながらびくついている横島に、落ち着きなさいと呼びかけながら、タマモはその少女を注視した。
見た目は別に変わったところなどない普通の少女だ。これでもそれなりに修羅場をくぐっている横島がこれほどまでにおびえるような理由は見当たらない。
素直な感想を横島に言うと、彼は真面目な顔でタマモを諭すように言った。


「外見は美少女かもしれんが、正体は化けもんや。危うくちびりかけたんだぞ俺は」


正直見た目が可愛いだけに、いつも相手にしている悪霊などよりも遥かに怖かった気がする。まぁマジギレした美神ほどではなかったが・・・。


「ふーん、普通の子にしか見えないけど」


どう見てもそんな風には見えないのだが。まぁタマモ達の職場では往々にして見た目が当てにならない場合もある。そんなものかと納得する事にした。
そうこうしている内に彼女達が楽しげにおしゃべりをしながら歩いていく。
見失うわけにはいかないので、嫌がる横島を引きずりながらタマモは追跡を開始した。
途中、布でぐるぐる巻きにした身の丈よりも大きいホッケースティックのようなものを背負った小学生くらいの少年(横島によれば魔法使いらしい)
と合流し、彼女達はゲームセンターに入っていった。


「修学旅行で何でゲーセン何や?」


横島がポツリと呟く。別に悪いというわけではないのだが、観光に来てまで行くような場所なのだろうか。
男子高校生の横島には女子中学生の心は読めない。まぁ一箇所にとどまってくれるのならば監視もしやすいが。
ゲームセンターの中には入らずに入り口で待っていると、やがて明日菜が少年と一緒に出てきた。
どうやらほかの子たちとは別行動をするらしい。あからさまにほっとした様子で横島は追跡を再開した。

道中、横島が偶然見かけた着物美人にちょっかいをかけて、しばき倒されたり、
タマモがわさび漬けやレンコン等を刻んだおいしそうないなり寿司を見つけ、買いにいったりと、
監視対象どころか目的すらも見失いそうになりながら、なんとか後をついて行く。
電車に乗ってしばらく進み、やがて目的地にたどり着いたのだろう。明日菜たちは一つの神社の前で立ち止まった。
無数の竹林を貫通するようにして、膨大な数の鳥居が規則正しく立ち並んでいる。めまいを起こしそうな光景に彼女達は呆然としているようだった。

もっとも横島たちも人のことは言えない。
見るからに荘厳な雰囲気をたたえるその佇まいにほんの少し圧倒されていたのだから。
それでもいつまでも眺めているわけにはいかない。なぜかハリセンのようなものを取り出した明日菜が少年と一緒に走り始めたからだ。


「おいタマモ、二人とも行っちまったぞ。早く追いかけないと」


なぜか正面を睨むようにして前に進もうとしないタマモに先を促しながら横島はあわてるように言った。


「待ちなさい。なにかおかしい」


疑うような口調で先を見通す事もできないほど大量に存在する鳥居を見つめながら、タマモは横島を制止した。


「おかしいってなにが?」


「霊力はまったく感じないし、私が知っているのと違うところもあるけど、何か結界みたいなものが張られてる」


タマモ自身が経験したわけではないのだが、この手の術式には心当たりがある。いわゆる前世の記憶というやつで、
殺生石に封じられる前の記憶がいろいろと役に立ってくれるのだ。


「結界って何でそんなもんが張ってあるんだ」


確かに怪しいところもあるが、どう見てもただの神社だ。そんなものが張ってあったら参拝客まで巻き込んでしまうではないか。


「そこまではわからないわよ。でもたぶん間違いないと思う」


術式の効果までは特定できないのだが、不用意に飛び込むようなまねはやめたほうがよい。


「でも、見失っちまうぞ」


「そうね・・・・・しばらく待ってみて出てこないようなら、中に入りましょう」


何も永久にこの中にいるわけでもあるまい。案外あっさり抜け出てくるかもしれない。


「放っておいていいのか?」


「私達には関係ないわ」


本当にそう思っているのだろう、タマモはきっぱりと断言した。
探知機が反応しない以上、何が起ころうともそれはこちらの世界の事情だ。自分達が干渉するいわれはないというわけだ。
言ってる事は間違いではないのだろうが、ここら辺がシロと違うところだよなと、横島は思う。
なんというかクールなのだ。美神除霊事務所に来てからだいぶ変わったようだが、本質はそう簡単には変わらないものだ。

それに、彼女が言う事も間違いではない。好きで厄介ごとに首を突っ込む趣味は横島にはないし、この神社が危険な場所と決まったわけでもないだろう。
ジークに釘を刺されていることでもあるし、ここはタマモの言うとおり待ってみるべきかもしれない。
納得するように一度頷いてから、横島はタマモの隣で入り口を見続けた。
それからしばらくは、特に何が起きるでもない、むなしいだけの時間が過ぎていった。

途中、明日菜の同級生である、おとなしそうな少女が結界の内部に入っていったのを見た横島が、
やめておけと忠告しようと声を掛ける直前でタマモに頭部を強打されたり、
軽めの朝食しかとっていなかった横島が、隣でいなり寿司を食べているタマモに一つ譲ってくれといって断られ、
すごすごと近くのコンビにまで食料を調達に行ったのだが、あっさりと道に迷ってタマモに助けを求めたりして結構な時間がたってしまった。

そもそも横島は、やる事もなくじっとしていることに向いてはいない。
同じ場所で同じ光景を見続ける事にとっくに飽きており、こくりこくりと舟を漕いでいた。
その姿をいらだたしげに睨みつけ、タマモは横島の肩を乱暴にゆすった。


「ちょっと横島、寝てるんじゃないわよ。何で私があんたの分まで見張ってなきゃならないわけ?」


さすがに寝続ける事ができなくなって、横島はあくびをしながらゆっくりと背筋を伸ばす。


「あぁ、すまん。どんぐらいたった?」


「あんたが迷子になったせいで、けっこうたってるわよ・・・三時間くらいかな?さっき急に結界が消えたみたいだから後を追いましょう」


横島を探している間に別の場所に移動されたのだとしたら、とっくに見失ってしまっているはずだが、それは考えても仕方がないことだろう。
まぁ入り口付近からは監視対象の少女が出てきた匂いを感じないから、おそらく大丈夫だろうが。
そんなことを考えていると、後ろから人の気配と話し声が近づいてきた。急いで寝ぼけている横島を引っつかみ物陰に隠れる。
視線の先から現れたのは、見覚えのない顔も混じっているが、先程まで明日菜という少女と共にいた同級生達だった。
再び現れた、横島に言わせればモンスターの女の子も現れたので、横島はあっという間にタマモの背後に隠れている。
それを乱暴に引き剥がしなら、息を静めてやり過ごした。

明日菜のことを追ってきたのだろうか。だとすればこちらにとっては好都合だ。
見つからないように後をつけていけば彼女の元まで案内してくれるだろう。
十分に距離をとって、入り口の鳥居をくぐる。参道は意外なほどなだらかで、その分見通しがいい。前を歩く人間を見失う事もないだろうが、
普通に歩いていればすぐに見つかってしまう。
幸いな事に道の脇には姿を隠すのに都合のいい竹林が立ち並んでいる。音を立てないように気をつけていけば、なんとかなるはずだった。

こちらの世界に来てから隠れてばかりだよな、と思いつつ、横島はもくもくと中学生の集団をストーキングしていく。
その姿は誰が見ても不審者だったが、誰に見咎められることなく、目標の人物までたどり着く事に成功した。
やはり結界内で何かがあったのだろうか。傷だらけの少年を背負いながら、明日菜と同級生達はかしましく騒いでいる。
そしてそのまま境内へ足を踏み入れた。
横島達もさすがにそこまではついていくことが出来ずに、彼女達を見送った。

タマモによれば先程のものとは違う何らかの結界が張られているらしい。しかも一目見ただけで強力だとわかるくらいのものが。
いったいこの神社は何なのかと思わずにはいられないが、はいれないものは仕方ない。
またしても遠目から張り込みする事になってしまった。


「別に魔族の野郎が出てきて欲しいとは欠片も思わんが、こうやる事もないと暇でしょうがねーな」


頭の後ろで腕を組んで、もっともらしい雰囲気を出している正面にある門を見つめる。


「同感ね。探査装置の中継器だけ置いて、帰っちゃ駄目かしら」


一定の間隔で中継器をセットしておけば、霊力反応を見逃す事もないだろうが、いざ緊急事態が起きた場合、
初動の遅れが致命的な結果を招かないとも限らない。
やはりおとなしく見張っているしかなさそうだ。

長期戦になるかもしれないということで、来た道を戻って、コンビニで食糧を買い込み、再び参道を上って門の手前までたどり着いた。
それから、一応境内の様子を見ておくかと、なれない木登りをして、持ってきた双眼鏡で内部を観察する。
門の外からでは分からなかったが、内部は想像以上に広い。
見るものの目を引き付けるように敷地中に桜の木が植えられていて、見事な花を咲かせている。
タマモはその風景に少しだけ見とれているようだった。しかし横島にとってはそれどころではない。
妙齢の美しい女性達が忙しそうに動き回っている姿が眼前に飛び込んできたからだ。
元の世界の同僚を彷彿とさせる巫女服姿で桜などよりもよっぽど横島の目線を釘付けにしていた。


「お、おぉ、綺麗なねーちゃんがいっぱいおる。マジで何なんだこの神社は。ひょっとしてその手のサービスを売りにしてる、いけないお店かなんかなのか?」


なにしろ、ざっと見た感じでも、横島好みの美女がわんさかといるのだ。ただの神社にしては従業員の質があきらかに偏っている。


「そんなわけないでしょう。もしそうなら、中学生が堂々と中に入れるわけないじゃない」


タマモがあっさりと横島の願望が混じった予想を否定した。放っておいたら、この男のことだ、仕事や結界の事など忘れて、境内に特攻しかねない。


「じゃ、なにか?こりゃ神主の爺さんの趣味かなんかだってのか?おのれ、スケベ爺めが。そんな奴は、正義のGSであるこの横島忠夫が天誅を食らわせたる」


横島はギリギリと歯軋りをしながら、自分の想像の中でいたいけな美女達を手篭めにしている、脂ぎった老人に呪いをかけようと、何処からかわら人形を取り出した。


「やめなさいっての。まったく、なんだって私が横島の子守りなんかしなきゃなんないのよ」


いつもならば、美神に突っ込みを入れられるか、おキヌちゃんにたしなめられるかするので、タマモが特に何かをする必要はないのだが、今は自分ひとりだ。
いまさらながらに、一人でこの男を制御しなければならない苦労をかみ締めるのだった。
それから、念のためにもう一度横島に釘をさしてから、タマモは一眠りする事にした。どのみち魔族が現れるか、目的の少女が出てくるまで、やる事はないのだ。
昨日はよく眠れなかった事だし、今のうちに英気を養っておくべきだろう。

横島が真面目に監視しているかは別としても、すごく気持ちの悪い目で、熱心に巫女達を見つめているのは事実だ。
何かあればこれが気付くだろう。そう判断し、本来の姿である狐に戻ってタマモは眠りについた。
そんなタマモの様子には目もくれずに、横島は巫女服姿の美女達を目で追っていた。目ざとく露天風呂の位置を確認しているのはさすがといえる。
この時間から風呂にはいっているものはいないようだが、チェックしておかない理由は横島にはない。
さすがに内部まで見通すことは出来なかったが、外の敷地だけでもかなりの広さだ。そこを動き回る美女達を見ているだけで目の保養になる。

何しろ最近は女っ気がまったくない生活を強いられていたのだ。じかにセクハラできない事と、露出度が足りない事を除けば十分だった。
清楚な感じもいいもんだなと思いながら、時間を忘れて巫女達の観察に戻る。もはや完全に目的を忘れている横島だった。
そうこうしているうちに日も落ち始め、建物の一部が騒がしくなってきた。宴会でも始まったのか巫女さんたちが次々と料理を運んでいく。
コンビニで買った菓子パンをかじっている身としては、うらやましい限りなのだが。美人は見たいが、うまそうな料理は目の毒でしかない。

しばらくそんなもやもやとした思いをしていると、完全に日も落ちてしまったようだ。
神社自体は明るいし、月も出ているのだが、基本ここは山の中だ。ほとんど明かりのない中で不安定な木の上にいることが怖くないとはいえない。
というよりも出来ればとっととホテルに帰ってしまいたいのだが。そこまで考えて、そういえば、と、監視対象である少女のことを思い出す。
彼女達はホテルに帰らなくてもいいのだろうか?
修学旅行できたはずなのだが。とっくに自由時間は終わっているだろうし、そもそもなんで神社でおもてなしを受けているのだろうか?
ひょっとするとこのままここに泊まるつもりかもしれない。そうなれば必然的に自分達はこの場所で野宿することになる。出来れば勘弁して欲しいものだ。
そんなことを横島が考えていると、タマモの目が覚めたのか、がさがさとコンビニのビニール袋をあさる音が聞こえた。


「おう、起きたんか」


「うん、なにか変わった事あった?」


ビニール袋からペットボトルのお茶を取り出し、一口飲む。すっかり温くなってしまったお茶に少しだけ眉を寄せながら、タマモは横島に尋ねた。


「いや、なんもねーな。さっきまで宴会でもしてたみたいだったけど。それより、ひょっとしたら俺達ここで野宿ってことになるかもしれねーぞ」


「なんで?」


心底嫌そうなタマモに向き直り説明する。
自由時間を過ぎてもホテルに帰らないのは何か事情があるのではないか、どうも彼女たちはこの場所に泊まるつもりなのではないか等々。
昼間買ったいなり寿司の残りを口にくわえながら、話を聞いていたタマモがガックリとうなだれた。
美神除霊事務所に居候する前は、ほとんど野宿だったのだろうが、暖かい寝床で眠りたいというのが人情というものだ。それは彼女も同じなのだろう。
横島は横目で、やけになったようにいなり寿司を食べているタマモを見てから、再び視線を神社の内部に戻した。

今はタマモなんぞに付き合っている場合ではないのだ。
なぜなら今回ののぞ・・・張り込みのメインイベントがこれから始まるからだ。普通はご飯の後はお風呂に決まっている。
昼間に露天風呂の位置はバッチリと確認済みだ。ごくりとつばを飲み込み、横島は双眼鏡越しの視線を風呂場へと向けた。


(うっ・・・・)


思わず心の中でうめき声をあげる。予想に反して瞳に映っていたのは監視対象である明日菜という少女だった。
自分をさんざん追い回した例の娘と一緒に、気持ちよさそうに湯に浸かっている。
言ってしまえば、横島にとって中学生は守備範囲外だ。すこしまえにその自覚も揺らぎそうになったが、基本的にはそうなのだ。
いくら仕事上の監視対象であったとしても、覗きなどできるわけがない。

昼間は気付かなかったが、以外にある胸や、お湯のしずくが、なまめかしくも太ももを流れ落ちていく姿など、決して見たくはないのだ。
湯船のふちに腰掛けて、艶っぽく吐息をもらす姿など論外なのだ。
体を覆うタオルが、肉体の曲線を露にしているのだが、できればとってくれんかなぁ」


「落ちなさい」


「どわぁぁぁぁぁ!!」


冷徹な声が聞こえると同時、急激に視界が上下逆転し、一瞬内臓が圧迫される不快感と共に、横島は地面へと熱烈なキッスをするはめになった。
土の味が口内に広がる。痛みにゆがんだ顔を手で覆うようにして、ごろごろと地面を転げまわった。
いくら横島が頑丈だといっても、あの高さから突き落とされれば、洒落ではすまない。まぁ、別に何処も怪我をしてはいないし痛みがあるだけなのだが。
声を出す事もできずに、うずくまって痛みが引くのを待っている横島に、木の上から蹴落とした張本人である、タマモが声を掛けてきた。


「あんたいつからそっちの趣味になったの?」


「ち、ちがうんや。俺の意思と反して体が勝手に動いただけで・・・」


頭上から軽蔑のまなざしを向けているタマモに必死に言い訳をする。今回ばかりはどうかしていたとしか言いようがない。一時の気の迷いというやつだ。
だがこういう場合は大抵、必死になって言い訳すればするほど、疑惑は深まっていくものだ。


「そばにいられると怖いから、あんたそこにいなさい。見張りは私が代わるわ」


案の定、言い訳には何の効果もないようだった。地面にうずくまりながらシクシクと鬱陶しく涙を零している横島を尻目にタマモは監視を続行する。
レンズの向こう側では、いつの間に現れたのか、ほかの同級生たちも一緒になって、大騒ぎしながら、風呂に入っている。
馬鹿らしくなって、タマモは見るのをやめた。

それから、暇をもてあましたのだろう、タマモはロリコン疑惑の横島をからかい始めた。
このままタマモが向こうの世界に帰ってあることないこと触れ回れば、冗談でなく命の危機だ。
横島は全力で下手に出つつ、なんとかタマモの買収に成功した。


「どちくしょう。お前俺の給料がアホみたいに少ない事知ってんだろ。ちっとくらい気ぃつかわんか」


「ちゃんと手加減してあげてるじゃない。きつねうどんで手を打ってあげているんだし」


「量のほうを加減しろっちゅーとるんだ。お前三十杯も食えんのか?」


「まぁ余った分は貸しよね・・・・・・・。って、ちょっと待って何か様子がおかしい」


顔に薄笑いを貼り付けつつ、なかなかの戦果に満足しながら、神社に視線を戻したタマモが真面目な声を上げた。
建物内で人が動く気配がまったくしない。あまりにも静か過ぎる。
急いで手元にあった双眼鏡を覗き込むと、そこには等身大の人の姿をした石像が数多く立ち並んでいた。
先程までは確かになかったものだ。どれもが何かから逃げるように恐怖の表情と仕草をあらわしている。
石像はここの神社の巫女服姿でまるで生きているような躍動感を持っていた。
はっきり言って悪趣味極まりないが、まさか夜になってそんなものを運び出したわけがないだろう。

間違いなく何者かの襲撃を受けているのだ。あわててジークから預かっていた、携帯型の霊力探知機を見るが、まるで反応がない。
どういうことだ?神社と探知機を交互に見比べ、タマモは考えを整理する事にした。
探知機が何の反応も示していない以上、この襲撃はこちら側の人間の仕業だということになる。自分達が追っている魔族のほかにも何者かがいるということか。
頭に浮かんだのは、昼間この神社の入り口に張り巡らされていた結界の事だ。
横島ではないが、あんな場所に結界など敷いては、一般客まで巻き添えになる。どう考えても不自然だ。それに敷地内を覆う結界とはまったく質が違う。
つまり神社側の人間が敷いたものではないのだろう。

ということは、あれは今この場所を襲撃している何者かが仕掛けたものだったのだろうか・・・。だがそれにしては妙なことがある。
なぜ、入り口付近に結界を仕掛けたのだろうか?神社そのものを狙っているのならば、あの場所に結界を仕掛ける理由がない。
仮に救援に対する足止めのつもりなのだとしても、襲撃時間がずれてしまえば意味などなくなる。
現に自分達が参道を登った時には入り口の結界は跡形もなかった。
ならば・・・・・この襲撃の犯人が狙っているのは、明日菜たちということか?
そこまで考えて、タマモは横島を振り返った。焦りが表情に出ていたのだろうか?横島がいそいそと木に登ってタマモと同じように双眼鏡をのぞき始めた。


「な、なんてこった。綺麗なねーちゃん達のお肌が。あれじゃ触ってもぜんぜん気持ちよくないじゃねーか」


ぶるぶると両手を震わせ、口惜しげに顎の上で梅干状の皺を作っている。いつも通りといえばいつも通りだが、もう少し緊張感を持てといいたい。


「そんなこと言ってる場合じゃないでしょうが。誰かが襲撃してるのよ。探知機には反応ないから、私達が追ってる魔族の仕業じゃないでしょうけど。
おそらくあの明日菜って子か、その友達を狙ってきたんでしょうね。昼間張ってあった結界はその連中が仕掛けたんじゃないかしら?」


タマモがさっきの推測を手短に話していく。


「なんだって、明日菜ちゃんたちが狙われてんだ?」


「そこまではわからないわよ。でもまぁ、また静観かしらね。ジークから必要以上の干渉は禁止されているし・・・」


「え、でも、いいのか?それで・・・」


「良いも悪いもないわよ。向こうにこっちの事情を話すわけにはいかないし、下手したら襲撃犯と間違えられて、問答無用で攻撃されるわよ」


「げ、じゃ、じゃあ一応、こっちに害が及ばない程度に遠くから見守っていよう」


へたれたことを言いながら、横島は明日菜の姿を探す。
すると都合よく明日菜と魔法使いの少年、そして横島に軽いトラウマを与えた少女の三人が、あわてたように神社から飛び出してきた。
よほど急いでいるのか、かなりの速度だ。襲撃犯から逃げているのだろうか?顔つきは逃亡しているもののそれではないが。
とにかく、いつまでも同じ場所にとどまっていては彼女達を見失ってしまう。

タマモが身軽に木から飛び降り、続いて横島も、怪我をしないようにゆっくりと滑り降りていった。
タマモの鼻に頼って、ばれないように後をつける。もはやすっかり手馴れたものであるが、夜道の全力疾走は神経を使う。
それでも前を先行しているタマモから離されないように走り続け、なんとか追いつくことに成功した。
どうやら川に出たようだ。川の中央にある大きな岩の前で、明日菜たちは何者かと対峙していた。

最初に横島の目に飛び込んできたのは、眼鏡をかけた、着物姿の美女だった。大胆に肩を出して着崩れた着こなしは、その豊満な胸を強調させている。
その横には学生服姿の少年と、なぜか顔が異様に大きいサルの着ぐるみが、明日菜の同級生の一人を抱えて立っていた。
おそらく人質なのだろう、抱えられている少女は両手を縄で縛られ、猿轡をはめられている。
数日前に声を掛けたうちの一人だ。あの時とは違い、今は顔を赤くして明日菜たちに助けを求めている。


「どうやら、あの捕まっている子が目当てだったみたいね」


夜の山中は驚くほど静かだ。周りは虫が鳴く音くらいしか聞こえない。そのおかげか前で話している彼女達の声がよく聞こえてきていた。
明日菜たちは眼鏡の美女に投降を呼びかけていて、その言葉を聞いた美女が、人質の娘に何かをしたようだ。
次の瞬間、何らかの術式を発動したのだろう。あたりを光が照らし出し、異形の存在が続々と現れた。
隠れて見ている横島やタマモが仰天するくらいの数だ。その数の多さに、阻まれ、明日菜たちは人質の少女を連れ去られてしまった。


「式神かな?異世界だけあって、ちょっと位しか分からないけど」


なんとか気を落ち着けて、タマモはあたり一面に存在している鬼のような者達を観察する。


「式神って、冥子ちゃんとこのあれか?じょ、冗談じゃねぇーぞ。この数が一気に暴走したら、ここら一帯焼け野原になっちまうぞ」


知り合いの式神使いを思い出す。彼女は協力無比な式神たちを使役していて、よく暴走を引き起こすのだが、その被害が洒落にならないのだ。
その彼女でさえ、扱っているのは十二体だ。今この場にいる数はその比ではない。


「さすがに十二神将クラスの奴が、そうそういるとは思えないけど」


それに見た感じ、ちゃんと制御されているようだ。


あわてる横島をタマモがなんとか落ち着かせている間に、明日菜たちに動きがあった。
おそらく魔法なのだろうが、強力な竜巻を発生させ、鬼達の壁を吹き飛ばしながら、魔法使いの少年が、空に向かって飛び出していった。
二手に分かれて人質を助けに行くつもりなのだろう。
この場に残ったのは、明日菜と長い刀を持った少女だけだ。

戦闘が始まる。ハリセンを抱えた明日菜が常人離れした動きで周囲の鬼達を翻弄しつつ、次々と消滅させていく。
刀の少女はもっと単純だ。最低限の動きで鬼達に近づいては、無駄のない一振りでどんどん敵を切り伏せている。
互いが互いの死角をフォローしつつ、背中を庇いあう事で、数の脅威から身を守っていた。


「この調子なら大丈夫そうね。横島がいってる事信じられなかったけど、実際に見てみると、信じるしかないわね」


横島が、自分を追い回した少女の、人間離れした力を、タマモに力説していたのだが、目の前の光景を見れば納得せざるを得ない。
ちらりと視線を横島に向ける。なぜか彼は呆然としたように小刻みに体を震わせ、驚愕の表情を浮かべていた。


「どうかしたの?」


その様子が気になってタマモは横島に尋ねた。


「ば、ばかな・・・・・・。ノーパンだと・・・・・」


ありがたい物を見たというように、目を見開いたまま、彼は両手を合わせて明日菜に向かって拝んでいた。


「目潰し」


言葉に出しつつ横島の目をえぐる。そのあまりに自然な動作は、行為のえげつなさに反して、いっそ美しいものだった。
叫び声をあげながら両目を押さえて、地面を転がっている横島を脇にどけて、タマモは注意を前方に戻した。
横島に見られているからではないだろうが、明日菜がスカートを押さえて逃げ回っている。
今まで倒してきた輩よりも一回り強い相手が現れたことにより、段々と劣勢になってきていた。
いや、たった二人でよく持ったほうだろうが。

さすがに見ていられなくなり、タマモが幻術を使って、明日菜たちをフォローしようとした時、一発の弾丸が明日菜を拘束していた鬼の頭部を打ち抜いた。
そこに現れたのは、褐色の肌を持つ長身の美女と、チャイナドレスを着込んだ、小さな女の子だった。
助っ人なのだろう。二丁拳銃と何かの拳法で次々と鬼達を駆逐していく二人によって、戦況は明日菜たちのほうに傾いていった。


「今度こそ大丈夫かしら、って何、あの光の柱は?」


手助けする必要もなくなったので、安心していたタマモの視線の先で、突如、空を貫くようにして巨大な光の柱が立ち上っていた。
夜だというのに、あたりを昼間のように明るくしている。見ているだけで何かとんでもない事が起きそうな雰囲気だ。


「ちょっと、横島あれ、あれ見て」


「なんだ、タマモ。今ワイはあのエミさんみたいな、ねーちゃんを見てるのに忙しいんだ。おお、パンチラ!いやこの位置からだと、もろに」


目を皿にして、横島は突然現れた助っ人の一人を食い入るように見続けている。


「馬鹿な事言ってないで、あっちを見なさいってば」


横島の首を強引に光のほうへと向けさせる。


「な、なんだぁ、ありゃ!?」


「分かんないけど、嫌な予感がするわ」


異世界の魔法の事など分かるわけもないが、それでもあれだけ盛大に目立っているのだ、何が起きても不思議ではないだろう。
とりあえず驚かないように心の準備だけはしておくべきかもしれない。
そう思ったのだが・・・・・一分も立たないうちに、そんなものは無意味だったと思い知らされた。

それは一本の手から始まった。
光の柱からもがくように長大な腕が伸び始めたかと思うと、次第にその数を増やしていき、頭部が現れ、両肩が出てきて最後に全身が出現した。
あまりにばかげている。どう考えても縮尺が間違っているとしか言いようがないほどの長身。
全身を光らせ、ただ立っているだけで畏怖を感じずにはいられない、その異形は、見るものに恐怖を抱かせる。
いったい何メートルあるのか、自分達はいつから怪獣映画の世界に紛れ込んでしまったのだろうか、タマモはとりあえずあさっての方向を見てため息をついた。


「帰りましょうか?いい加減疲れたからホテルに帰って寝たい」


「だな、見なかった事にしよう」


互いに頷いて、来た道を戻っていく。なんというかこういうのは、どこかの星からやってきた光の巨人の世界でやって欲しいものだ。
ちょっと遅いけど夜食でも食ってくか。あんたのおごりならいいわよ。
と、二人で会話しながら歩いていると、突然通信鬼が目の前に現れ、瞳が光ったかと思うとジークの姿が浮かび上がってきた。


「何で帰ろうとしてるんだ君たちは」


あせったようにジークは横島達に言った。


「いや、だってなぁ。・・・・・っていうか、通信鬼にそんな機能あったんか?」


「土偶羅が改造したんだ。って、今はそんな話はどうでもいい。神楽坂明日菜がこっちに帰ってくるまで、しっかり見張っていてくれ」


「いや無理だろ。あんなんが出てきたら」


「そうよねぇ」


もう一度怪物のほうに顔を向ける。心の中で十数えてから、横島達はジークに向き直った。


「「やっぱり無理」」


「別にあれを相手にしろとは言っていないだろう。君たちの仕事はあくまで、我々の世界から逃亡した犯人の対処だ」


逆にそれ以外を相手にしてもらっては困るのだ。


「はぁ、まぁいいわ。横島、もどりましょう」


「まじでか・・・・・しゃーない。絶対見てるだけだかんな。あんなおっかないの相手にしねーぞ俺は」


ジークに説得されて、二人は仕方なく明日菜の監視に戻ることにした・・・・・・のだが、その明日菜がいない。
さっきまでは、この場所にいたはずなのに。ついでに言えば刀を持っている少女もいなくなっていた。
今この場で鬼達と戦っているのは、助っ人の二人だけだ。


「あの子らも帰ったんかな?」


「そんなわけないでしょうが。・・・たぶんあっちの怪物のほうにいったんでしょ」


現れて以降、何をするでもなく突っ立ったままの怪物に視線を向けながら指をさした。
まず間違いなく、あの怪物と人質になっていた少女にはなんらかの関係性がある。
明日菜たちが人質を解放しようとしているのであれば、助けにいったと考えるのが自然だろう。

やはり引き返してしまいたくなるが、クライアントの意向にそむく訳にもいかず、
というよりも、その背後にいる自分達の上司の機嫌を損ねるわけにはいかないので、二人は仕方なく怪物を目指して歩き出した。
さすがに山の中は薄暗くて歩きにくい。道が整備されているわけでもないので、注意深く歩かなければならない。
いや、それ以上に、得体の知れない危険な存在に向かって進まなければならないのだ、やる気を出せというのが無茶である。
それでもなんとか先に進んでいくと、視界が開けた場所に出る事ができた。

森をくりぬいたように、大きな湖が存在している。中央には何かの儀式で使うような舞台があって、そのあたりから化け物の上半身が生えていた。
舞台の上では、明日菜と魔法使いの少年が、同じ年頃の学生服姿の少年と戦っている。
そしてその上空では、背中に羽を生やした刀使いの少女が、人質になっていた娘を無事救出していた。
どうやらどちらも怪我はないようだ。まったくの部外者である二人だが、ほっと胸をなでおろす。後はあの怪物をなんとかするだけなのだろうが、
どうするのだろう?と、完全に人事のように見守っていたその時、あの停電の日、あの橋の上にいた二人が、突然現れた。

エプロンドレスを改造したような服を着て、手には物騒なライフルを持っているメカっぽい女の子と、黒い服に黒いマントを羽織った金髪の幼い少女だ。
背中と足元から、バーニアのようなものを吹かして空中に浮いていたエプロンドレスの娘が、怪物めがけてライフルを撃った。
何らかの力が働いているのか、怪物はうめき声を上げながらその動きを止める。

お次は金髪の少女だ。上空に飛び上がり、何かの力を両手に集め、大きな声で呪文を発した。
瞬間、すさまじい勢いで周囲の気温が下がっていく、そして怪物の周りで湖の一部が完全に氷結する。
中心にいた怪物自身を巻き込んで無数の氷柱が誕生していた。
怪物自身の大きさはかなりのものだ、それを覆うように展開されている氷柱もとてつもなく大きい。

いったい何なのかと思う。これがこちらの世界の魔法なのだろうか。あまりにも常識はずれだ。
その超常現象をひき起こした当人は、続けて呪文を唱え、怪物自身をあっけなくばらばらにしてしまった。
派手に登場したわりには、あっさりとやられてしまった怪物を呆然と見つめながら、横島とタマモは互いに顔を見合わせた。


「ま、まぁよかったんじゃねぇか?あんなもんと戦わずに済んで」


「そ、そうよね。結果的によかったわよね。あたし達何もしてないけど」


いつもの調子なら、ああいった手合いは必ず自分達がなんとかしなければならなくなるのだ。
さすがは異世界といったところか、自分達の常識などまったく関係ない。
乾いた笑いを浮かべながら、二人はいるかどうかもわからない、異世界の神様に感謝をささげた。
だが・・・・・・・自分達はもっとはっきり自覚すべきだったのだ。京都に来て以降感じていた胸騒ぎが、まったく収まってはいないことを。







高笑いが聞こえる。







完全に凍りつき、ばらばらに砕けて湖に沈んだはずの怪物の顔が醜くゆがんだ。
見るもの全てが顔を背けたくなるような歪な笑みをその顔面にうかべている。
そして・・・・・・湖が爆発した。その膨大な水量を押し上げるようにして、ひどくグロテスクな触手のようなものが次々と現れる。
失っていた下半身は、腐り落ちた獣のような姿へと変わり、所々に鋭い牙を持った大きな口が貼り付けられていた。
その口元からは、思わず耳をふさぎたくなるような哄笑が聞こえてくる。
あの小さな魔法使いに倒される前の面影は、まだなんとか残っていた上半身くらいだ。
それもどこか無機質に感じられた先程とは違い、ひどく人間味が感じられる表情をしている。
言葉を失ってその光景を見ていた横島の腕から何かの警告音が大きく響き渡った。
あわてて腕に巻いていた霊力探知機を見る。そこには膨大な霊力反応が示されていた。



「やっぱりこっちには神様なんかおらんのか・・・・・・・・」



「・・・・・・・・・・・・・・そうかもね」



新たに現れた怪物に向き直り、横島は空を仰いだ。






[40420] 09
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:ec8582d6
Date: 2015/07/05 21:08
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの気分は最高潮に達していた。
全盛期の力を思う存分振るえることへの歓喜、魔力が体中を駆け巡っていく感覚は何物にも変えがたいものがあった。
自分の城の中であるなら、自らを蝕む呪いの影響はほとんどないのだが、作り物の世界でしかないという空しさは抑えようがない。
だが今この瞬間は違う。制限時間という枷はあるものの、思い通りに体が動く、麻帆良という地に縛られる事もないのだ。
仮初めではあるが、本物の自由というやつを味わっている。

夜空を舞い、月の光を存分に浴びて、エヴァは心のそこから笑い声を上げていた。
もっとも戦闘の面で言えば、多少の物足りなさを感じてもいたのだが。伝説の鬼神と聞いて、少しは歯ごたえのある相手かと、期待していたのだ。
いくら強制的に目覚めさせられたばかりとはいえ、これでは拍子抜けの感は否めない。


(まぁ、ずいぶんと久しぶりに、外の世界で思う存分力を振るえただけましか・・・)


完全に凍結し、肉体がばらばらになって湖に落下していく鬼神の成れの果てを、目で追いながら、エヴァはネギの元に向かおうと、方向を変えた。
その時、ふと視界の先に引っかかるものがあった。
鬼神の残骸に掴まるようにして、今回の事件の首謀者である女が、呼吸を荒げながらなんとか引っかかっている。
自分か、それとも不甲斐ない鬼神にたいしてか、なにやら大声で悪態をついていた。

無様なものだ。身の程をわきまえず、自分の力でなんとかしようともせずに、旧世代の遺物なんぞに頼るからこうなる。
あげく、その遺物の復活すら裏の事情など何も知らない木乃香を利用したのだ。
これからあの女がどうなるかは知らないが、相応の罰が与えられるだろう。
まぁその前に、ちょっとした恐怖を味わってもらうつもりではあるのだが。

前髪で表情を隠し、ニヤリと物騒な笑みを浮かべながら、エヴァは今度こそネギたちを目指して降下していった。
だから気にしていたわけでは決してない。首謀者の女に対して関心は失せていたし、くだらない戯言など聞くに値しないのだから。
それでもなぜかその会話は耳に届いていた。


「やってられん。伝説の鬼神がこんなに使えへんとは」


「あらそう?だったらこの子は私が貰うわね」


強烈に女を感じさせる口調で、何者かが首謀者の女、天ヶ崎千草の独り言に応えた。
まさか返事を返されるとは思っていなかったのだろう。彼女は驚きの表情で声のした方向を見た。
瞬間、完全に活動を停止していた鬼神の腕が、湖を割って現れる。
失ってしまった下半身を補うようにして、赤黒い不気味な色をした肉が新たに生み出されていく。

そこからはあっという間だった。もともと巨大だった腕は、さらに大きな巨木のように太く長い触手に変わり、うねうねと気味悪くうごめいている。
下半身は、突然変異を起こしたような、なにか形容しがたい獣の姿へと変貌を遂げ、どれもが醜悪で、直視するのでさえ勇気が必要なほどだ。
かろうじて顔や胸はかつての姿を保ってはいるが、大きく裂けた口元は不快な笑みを浮かべていた。


「あぁん、やっぱり生の身体って最っっ高よねぇ。元の肉体も美しくてたくましいし、いうことないわぁ」


巨人がしなを作るようにして、身悶えている。生え変わった腕で己の体をなぞるようにしながら、悦にはいっているようだった。
一分ほどして満足したのか、不気味なポーズをやめ、呆然とその様子を見ていたエヴァに向かってウインクしてくる。


「ありがと、小さなお穣ちゃん。あなたが一度この子を滅茶苦茶に破壊してくれたから、うまく取り込むことが出来たわ」


言われた本人には、まったく意味がわからない感謝の言葉を告げ、いまだに自分の体に引っ付いていた千草をごみのように投げ捨てた。
あーれー、と、どこか余裕が感じられる悲鳴を上げながら、ポイ捨てにされた千草は森の奥に消えていく。
なんとなくそれを目で追いかけてから、エヴァは復活を果たした鬼神・・・・・いや怪物へと視線を戻した。

完全に死んでいたはずだ・・・・・いやそうでなかったにしても、ほとんど別物になって回復するなどという事がありえるのだろうか。
それに、なぜだろう?なぜかは分からないが、何か違和感を覚える。先程とは決定的に変わってしまった。
外見だけではなく、もっと別の何かが・・・。


「まさか、あれほど肉体を壊されて、蘇ってくるとは・・・・・往生際の悪さは、なるほど伝説級ということか」


皮肉を交えながらエヴァは怪物に向けて声を掛けた。


「あぁ、別にこの子が再生したとかじゃないわよ。一応あの状態でも完全には死んでなかったんだけど、邪魔だったから、私が食べちゃった」


返ってきた言葉は、驚くべき内容であったが、まったく予想できないものでもなかった。
この怪物は、鬼神、リョウメンスクナノカミを取り込んだと言っていたし、姿かたちも別物だ。
それに、今目の前にいる存在から感じるプレッシャーは、エヴァが破壊する前には感じないものだった。
だが、だとすればこいつは何なのだろうか?死にかけとはいえ、伝説級の鬼神をのっとったなどというこの存在は・・・。


「ならば、貴様は何者だ?何の伏線もなく急にわいてきおって」


「うーん。どうせ言っても理解できないと思うわよ。それに、急にってのも違うわね。私はあの子が京都に来る前から一緒にいたんだもの。
タイプじゃないけど、おいしそうだったからね、ちょーっと暗示をかけて連れ出してもらおうとしたんだけど、ちょうどよかったわね。
まさか、こんなに大きなおまけがついてくるとは思わなかったけど」


成り行きに任せてみて正解だったみたい、と、怪物は言った。


「あの子だと?」


「そう、さっきポイ捨てにした、下品な女にさらわれた子」


捨てられた当人が聞けば、怒りそうな事を言いつつ、怪物は背中に羽を生やした少女、刹那に抱えられた木乃香をその太い触手で指し示した。


「つまり、お前は麻帆良にいたというのか?そして近衛木乃香とともに京都に来たと?」


「ええ、そうよ。あそこもいろいろ都合がよかったんだけどねぇ。なーんかいやな予感がしたのよね。あのまま、あそこにいちゃいけないような」


怪物は人間サイズから見れば大きすぎる瞳を薄く閉ざし、エヴァの質問に答えた。
その言葉を聞きながら、エヴァの脳裏には、不愉快な記憶がよみがえってきていた。
あの停電の日に出会った人影の姿が連想される。この得体の知れない存在と話しているような奇妙な感覚。
そばにいられるだけで、自分の体の奥底に眠る何かを威圧されるような不快感。どちらもあの人影に共通するものだった。
あの時は、なぜか襲い掛かってくる直前にその当人が緑色の光と共に、消え去っていったのだが、今回も同じようになるとは限らない。

意識のレベルを切り替える。
今の自分はあのときのような無力な存在ではない。全盛期とほぼ同じレベルで力を使う事ができる。
また襲い掛かってくるというなら、前回の件も含めてたっぷりと礼をしてやらなければならない。


「それで、貴様その鬼神をのっとって何をするつもりだ?じじいとの約束もあるんでな、あいつらの周りにある危険な存在は私が排除しなければならん」


あえて小馬鹿にしたような口調で、エヴァは怪物を挑発した。
乗ってくるようならば、全力で相手をしてやると、目つきを尖らせる。


「特に何もするつもりはないわよ・・・・・でもそうねぇ、慣らし運転もかねて、一暴れっていうのも悪くないかもねぇ。ちょうどいい遊び相手もいることだし・・・・・」


その挑発を軽く受け流しつつ、あえて乗ってやるといったように、怪物はエヴァを見下ろした。


「一応聞いておこうか・・・・・お前の名はなんだ?」


先程のような一方的な戦闘では得る事のできない、強敵との戦いの前に感じる、火薬庫で火遊びするような緊張感が周囲に充満する。
久しく感じていなかった空気だ。己の中の凶暴性を遺憾なく発揮できる期待感に胸が躍る。
せっかく全力を出し切る事ができるのだ、怪物の言葉ではないが、すぐ壊れてしまう玩具では全然物足りないというものだ。
これも私の望みどおりかもな、そう思いながらエヴァは強大な魔力を両手に収束していった。

だが・・・・・その遊び相手である、怪物はなぜか呆然としたように一切の警戒もなく立ち尽くしていた。
目を見開き、口が半ば開いてしまっていて、顔全体で完全に忘我の表情を表していた。全身が弛緩したように気味の悪い触手も垂れ下がっている。
まるでやる気を感じられなくなってしまっていた。
何が起こった?今の今まで戦う気で満ち溢れていたというのに、なぜか今は一切の気力を感じられない。
エヴァが訝しげな視線を向けると、怪物は表情を変えぬまま口を開いた。


「な・・・・・な・・・ま・・え?」


壊れた機械のように同じ言葉を繰り返している。
その様子はまるで、名前がわからないのではなく、名前という単語の意味がわからなくなってしまったようにすら見える。
ただひたすら同じ文字を、順番に繰り返し繰り返し発音し続けていた。
その姿とは違った意味で不気味だ。表情筋が死んでしまったのではないかと、錯覚するするほどの無表情で、何もない空間を見続けていた。


「お、おい」


なんと声を掛ければいいのか分からない様子で、エヴァは戸惑いまじりに言葉を発した。
すると、その言葉が契機であったというように、怪物はうつむいていた顔を勢いよく上げた。驚いたようにエヴァを見る。
しかし実際に驚いたのはこっちのほうだ。あんな反応をされれば誰だってびっくりするだろう。
何だというのだいったい。怪物の意味がわからないリアクションに、エヴァは顔をしかめた。


「なまえ・・・そうよ、名前よ!わ、私のなまえ・・・・・私の名前は・・・・・で・・・みあん。そう、デミアンよ!」


いったい何がそんなに嬉しいのかというほど、さっきまでとはまったく違う喜びの表情を浮かべている。
デミアン、デミアン、と自分の名前を繰り返し呼んでいた。
無邪気な子供のようにはしゃぎながら、全身を動かしている。
だが、その体は湖に浸っているのだ、あの巨体でそんな事をするものだから、当然結構な波が起きている。
舞台の上に立ったままでいたネギ達が、慌てた様子で避難して行くのが見えた。


「あぁ、晴れ晴れとした気分よ。今理解したわ。私はデミアンだったのよ!」


満面の笑みを浮かべ、己を指し示すように器用に触手を顎の下付近に持ってきて大声を上げた。


「ちっ、何か知らんが自分の名前も忘れていたというのか?まさか記憶喪失などというのではあるまいな?」


生死をかけた闘争の空気をかき乱されて、エヴァは少々ご機嫌が斜めなになっている。


「え?いやねぇ。そんなわけないでしょ。まだボケる年じゃないわよ。あなたと違って・・・」


「誰がボケ老人かっ!・・・・・まったく、ついでに聞くがな、その言葉使いはもともとなのか?野太い声で鬱陶しい。おかまというやつか?」


大して興味を引かれているわけでもないのだが、一応聞いてみた。


「いやっ!そんな呼び方はやめてっ!せめて、オネエ様とかデミアン姉様って読んで頂戴っ!」


「呼ぶかっ!」


今度は二本の触手を顎につけていやいやと首を振っている怪物に、エヴァは脱力した様子で疲れた視線を向けた。
こちらはそれなりに緊張していたというのに、緊迫した空気は完全に雲散霧消してしまっている。
もう面倒だから、このままこいつを放って帰ってしまおうかと思う。明日の観光に備えてとっとと寝てしまうかと。
エヴァ自身、日本の文化が色濃く残っている京都という土地には好感を持っているのだ。
外に出ていられる期間もそれほど長くはないのだし、万全の体制で挑みたいところだった。

はぁ、と一つため息をつく。心底面倒ではあるが、もう適当な魔法でとっととお帰り願おう。
登場したときのテンションとはまったく違った様子で、ぼそぼそとやる気のない声をだし、呪文をつむぐ。
一応魔力自体はすさまじいものではあるのだが、肝心のエヴァの表情が空しさを表していた。

魔法が発動する。先程リョウメンスクナノカミを撃ち滅ぼしたものとまったく同じ魔法だ。
150フィート四方の広範囲を絶対零度近くまで凍結させる完全凍結殲滅呪文だ。あの巨体を葬るのに最も適した魔法といえる。
先程の繰り返しであるかのように、怪物の周囲で霜が舞い降り始める。急速に冷やされた空気は、それ自体が白く染め上げられたかのように凝固していった。
呪文が完成する。エヴァ自身の強大な魔力が直接現世に形を成し、怪物を含めて湖の一部を完全に凍結させた。

続けて、どうでもいい感じに呪文を唱える。
一度目はあれほど格好をつけて、指まで鳴らして、ふっ、砕けろ、などと言っていたにもかかわらず、今回はあまりに無気力だった。
だが、その効果はまったく衰えていない。完璧に凍りついたおかまの怪物ごと、巨大な氷柱は一斉に砕けていった。
他愛もない。あれほど、警戒していた自分が馬鹿らしくなる。まったく正体の分からない不気味な存在だったにもかかわらず、あっさりと死んでいった。
強敵だと考えていたのはこちらの勘違いだったのだろう。つまらないにもほどがある。いや、魔力を完全解放した自分と比べてしまうほうが、相手に悪いか・・・。
ばらばらと肉体を崩壊させながら、湖に落下していく怪物の姿を見つめ、エヴァは苦笑を零した。

結局あの相手の厄介なところは性格だけだったな、とエヴァはその光景から顔を背けた。
舞台から避難し、森の中へと入っていったネギを見つけようと、視線をさまよわせつつ、湖の外に向けて進んでいったその時、背後からエヴァに声が掛かった。


「ただの吸血鬼にしては、大した力よねぇ」


低く男らしい声質とは裏腹に、どこか女性らしさを感じさせる柔らかな口調で、感心したように声はエヴァを賞賛していた。
その声を聴いた瞬間、すごい勢いでエヴァが背後を振り返る。そこには、魔法の直撃を食らう前と一切変わらない姿の怪物、デミアンの巨体が存在していた。
耳の辺りに触手をそえ、普通の腕であるならば、ひじのある場所をもう一つの触手で支えて、エヴァの姿を見つめている。
怪我らしい怪我どころか傷一つついていない。あの、違う存在となって復活してきたときのままの姿だ。
そんな馬鹿な、とエヴァは声を出すことなく心の中で驚愕を表した。完璧に殺したはずだ。完膚なきまでに肉体を粉々に破壊し尽くしたはずだ。
にもかかわらず、目の前にいる怪物は、そんな事実などはじめから存在していないといったように、寸分変わらない姿をエヴァに見せていた。


「でも駄目よ、だめダメ。あなたの攻撃には、あれが足りていないわ」


触手を肩の高さまで持ち上げて、ゆっくり首を振る。


「あ、・・・あれ?」


唖然としたまま、素直にエヴァが質問した。


「そう、あれ!・・・・・愛よっ!!あなたには全然愛(霊力)が足りてないの。SMだってパートナーに愛がなければ、ただの傷害よ。事案発生だわ。
そんなものじゃ、私の乙女心(霊力中枢)に全然響いてこないっ!!」


あっさりとさっきまでのやり取りを特殊なプレイへと置き換えて、エヴァにとっては訳の分からない理屈を振りかざしながら、怪物は触手を空に向けた。
自分が夢を見ていたのでなければ、この気持ちの悪い生き物は、死んでいたはずだ。魔法をなすすべなく食らってばらばらになっていた。
だとするなら、何でこんなにぴんぴんとしているのだろう?いまだに驚愕が抜けきっていないのか、うまく働かない頭で、考える。

あの光景は間違いなく現実だった。幻覚を見せられていたなら、それに自分が気付かないはずがないし、手ごたえも感じていた。
ならば、一度目に続いて、再び再生したと考えるのが道理なのか。だが、自分が目を離した時間はごく僅かだった。
ネギたちを探そうと後ろを向いていたほんの僅かな時間で、あれだけ崩壊していた肉体を再生させたというのか。
エヴァ本人にも不死といわれるほどの再生能力は備わっている。だがあれだけの巨体、完全にばらばらになっていた物がそんな簡単に再生できるというのか。
当の本人は、いつのまにか話題を理想のSMプレイについて、にうつし、熱弁をふるっている。
その様子を見ながら、なぜかエヴァは遠慮がちに怪物に向かって質問した。


「いや、・・・というか貴様、ばらばらになって死んだよな?」


「え?えぇ、まあね。そんなことより、大事なのは呼吸よっ!テンポであり、タイミングなのよっ!要所要所に言葉攻めをはさむ事で、より高度な快楽を・・・」


「ええい、そんな事こそどうでもいい。何で死んだはずの貴様が生きているんだ」


「どうでもいいとは何よっ!そんなの再生したからに決まってるでしょ!」


気持ちよく己の持論を披露していたのを邪魔されたからか、怪物はエヴァを睨みつけてきた。
顔が大きい上に、厳ついので迫力がある。その視線を真っ向から受けて立ちながら、エヴァは怪物をにらみ返した。
やはり再生したらしい。容易には信じがたいことではあるが。
先程から、エヴァの隣にいるにもかかわらず一言もしゃべらずにいた茶々丸に向かって確認する。


「はい。驚くほどの速さで再生していました」


「ちっ、やっかいな。ならば次は、こおるせかい、につなげるか?それとも、エクスキューショナーソードで無に返してやろうか・・・・・」


いちいち手間が掛かるだろうが、ストレス解消にはもってこいだ。なかなか壊れないというなら、壊れるまで続けてやればいい。
精魂尽き果てるまで、いくらでもばらばらに砕いてくれる。と、エヴァは瞳に鈍い光を宿らせた。
袖はないが気分的に盛り上げるつもりで、腕まくりをしつつ、エヴァが呪文を唱えようとしたとき、唐突にデミアンが妙な事を言い出した。


「でも、意外に便利かもねぇそれ。私もやってみよう」


気楽な声でそう告げた瞬間、周囲の空気に色がついた。
もちろん錯覚だ。そんなことが起こるわけがないし、エヴァがそう感じたというだけだ。
だが、確かにそう感じた。一瞬強引に空間が捻じ曲がり、同時に何かが投射されていく。
その目に見えない何かがエヴァの体を通り抜けたとき、湖の中に太陽が生まれた。
水中から水面を通してですら、完全には遮る事ができない猛烈な光が、エヴァの眼窩を灼くように突き抜ける。
とっさに目蓋を閉じても、なお明るいその光は、しかし次に起こる現象の、ほんの前触れでしかなかった。

続いて起こったのは下から這い上がってくる尋常ではないほどの熱だ。
水中からマグマが噴出してきたように、凄まじい水蒸気が下から立ち上ってくる。
視界が完全に遮られてしまうほどの規模だ。慌ててエヴァと茶々丸は湖の外まで避難した。
急激な温度変化により対流が起こっている。湖に生息していた生物は無残な屍をさらし、水面へと浮かび上がっていた。
いったいどれほどの熱量が一瞬にして水中で生まれたのか、冗談ではなく、この広大な湖全体の水温が上昇しているように見える。
もうもうと立ち込める水蒸気を触手を使って鬱陶しげに払いのけながら、デミアンは首をかしげた。


「うーん失敗しちゃった。向こうと違って、こっちはエネルギーの流れが素直だから、うまくいくと思ったんだけど」


間違いなくこの現象の中心にいたというのにもかかわらず、どうという事もないといった様子で、残念そうに首をすくめていた。
それを視界に収めながらエヴァは隣にいる茶々丸と言葉を交わした。


「茶々丸、私から離れるなよ。奴が何をするか見当がつかん」


「了解、マスターもお気をつけください」


無表情の中で若干こちらを心配しているように見えるのは、こちらの気のせいだろうか。
エヴァ隣にいる茶々丸の姿を見て、そんな事を思う。
すぐにデミアンへと向き直り、表情を引き締める。先程まであったどこか相手を侮っていた空気が一変している。

不発に終わったとはいえ、とんでもない威力だった。
魔法を使ったのだろう、おそらく。魔法が発動した直後のエネルギーの流れを感じた。
水中で発動したからまだよかった。あれが地表で発生していたなら、自分以外の人間は確実に息の根が止まるだろう。
下手をすれば、原形をとどめないかもしれない。防御云々の話ではない。あれは自分が使う魔法と同じだ。問答無用で相手の命を奪いかねない。

もしまたあれをお遊び感覚で使われたら・・・・・。ぞっと背筋が凍る気配を覚えた。
だが、本当に脅威なのは魔法の規模ではないかもしれない。
急に魔法が発動しせいで、エヴァ本人も詳しく見えたわけではないのだが、あの時奴は・・・・・。


(魔法発動体も呪文も魔力すらも使っているようには見えなかった)


まるで万物に宿るエネルギーを何かで直接操ったような・・・・・。
いや、ありえない。おろかな妄想を振り払うように、勢いよく首を振る。
仮にそんなことが出来るというなら、奴は魔力容量など一切気にすることなく、思い描いた規模でいかなる魔法も使い放題だという事になる。
さすがにそんなばかげた事があるはずがない。
顎に触手を添えて上目遣いで、空を見上げているデミアンを見る。


「やっぱり、地道にこつこつやるべきよね。小麦色の肌も捨てがたいけど、美白のほうが私的には大事だもの」


なにやら寝ぼけたことを言っている。
美白云々以前に、まともな皮膚すらないように見えるのだが、そんな突っ込みはするだけ無駄なのだろう。


「やはり貴様は危険だ、早急に排除させてもらう」


またあの魔法を使われる前に、ケリをつけておかなければならない。もう一度あれをやられて、成功してしまったら目も当てられない。
しかし、相手のペースに巻き込まれないように、殺気をこめて宣言したエヴァの言葉を無視するようにデミアンは言った。


「はぁ、でもなーんかまだ足りない感じよね。目覚めたばかりで、ガス欠だったのかしら・・・・・しょうがないから、またあの子に協力してもらいましょうか」


デミアンがそう言葉に出したと時を同じくして、湖から離れた場所にいたネギたちの方から叫び声が上がる。
いつの間に現れたのだろうか、湖の外側の地面から、複数の触手が這い出してきていた。
そのうちの一本が、木乃香の体を巻きつくようにして捕らえている。


「ひゃあぁぁぁっぁぁあぁなんでウチばっかりぃぃぃぃい!!!」


触手に巻かれ、空中に連れ去られている木乃香が不条理な現実に抗議するように、悲鳴を上げている。


「木乃香っ!」


「木乃香さん!」


「お嬢様っ!」


明日菜とネギ、そして刹那が三者三様の声を掛け、巨木が直接命を持ったように見える触手を見上げた。
三人の中でいち早く体が動いたのは、やはりと言うべきか、刹那だった。
背中に生やした翼を羽ばたかせ、凄まじいスピードで触手の後を追う。やっとの思いで、天ヶ崎千草のもとから救い出したばかりなのだ。
再びあんなわけの分からないものに、木乃香をさらわれるわけにはいかない。

空中に飛び出した勢いそのままに、いやさらに加速して、木乃香をめがけて猛追する。
触手の動きはそれほど速くなかったので、刹那は簡単に追いつく事ができた。
追いつきざま背中に背負った愛刀夕凪を、木乃香を縛る触手めがけて振り下ろす。
だが・・・・・。
見た目以上に硬いのかまったく刃が通らない。渾身の力をこめて幾度も幾度も振り下ろし、切り上げ、薙ぎ、突いて、我武者羅に刃をつきたてようとする。
しかしそのどれもがまったく通じない。あっさりと刹那の刃を押し返してきた。


「くっ」


焦りが刃を鈍らせる。理想の角度、速度、タイミングで打ち込んでいるのだ。それが一切通じないとなれば、刹那にはどうする事も出来ないという事になる。
木乃香を助ける事が出来ないという事に・・・・・。


「せっ・・・せっちゃ」


木乃香の苦しそうな声が聞こえる。よく見れば、木乃香の下半身が触手の隙間に挟まっているように見えた。
やがて、刹那の見ている前で、木乃香の腹、胸、肩、顔、腕、最後に刹那に助けを求めるように懸命に伸ばしていた手の平が、
触手の肉の裂け目にずぶずぶと埋まっていき、完全に見えなくなってしまった。


「あ・・・・・・・・・・・・・・」


言葉を失い、ただその光景を見続ける。自分の目の前で大切なものが奪われてしまった光景が目蓋の奥に焼きついて・・・・。


「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!」


その悲痛な叫びは、そのまま刹那の力となった。自分の体内をめぐる気の力を手にとるように感じられる。
叫びは力であり、心の痛みは敵を切り裂く刃であった。
激昂状態の刹那の肉体は、しかし彼女を裏切る事はなかった。
心がざわめき正気を失ったとしても、その動きは一切ぶれることなく、何百、何千、何万と繰り返してきた、己の最大、最速の動きをなぞっていく。


「このちゃんを、返せええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!」


それは間違いなく刹那の生涯において最高の一撃であった。自分の身体に宿る力、魂そのものを叩きつける、文字通り魂身の一撃。
己の肉体から、握った刃を通してあふれる力は、まばゆい光の輝きのようであった。
だが・・・・・・・・・・・・・・。



澄んだ音が聞こえた。



戦闘中にしては、あまりに場違いな綺麗な音。限界まで瞳を見開いて刹那はその光景を見ていた。
きらきらと刹那の周りで、光が踊る。夜空に輝く月の光を反射して、それは幻想のように美しい光景だった。


同時に


刹那の魂が砕け散っていく音でもあった・・・・・。
夕凪が折れていた。木乃香の父である詠春により譲り受けた愛刀が根元からぽっきりと折れている。刹那は不思議そうにそれを見つめた。
折れた刃の先は、くるくると空中を回っている。思わず慌てるようにしてそれを掴んだ。
痛みが襲う。握りこんだ掌から血が滴り落ちていく。掌から腕を伝わり・・・・・。

同時に頬を熱い何かが流れていく。腕を流れるものとは違い、澄んでさらりとしたもの。ただ感じる熱さだけはまったく同じで。
涙が流れていた。刹那は自覚することなく泣いていた。声を上げることなく、感じる痛みだけがどくどくと波打っている。
それは体の痛みなのかそれとも・・・・・。
何も考える事ができずに、空に浮いていた刹那に声が聞こえた。


「あなた、さっきから邪魔よ」


室内に侵入した虫を振り払うように、それはあっさり刹那を地上へと叩き落した。
飛び上がったときとは比べ物にならない速度で刹那が森の奥へと消えていく。

ネギはその光景をただ見ていた。瞬く間に次々と自分の生徒が巻き込まれていった事態に思考が追いつかない。
だってさっきまでは、全てうまくいっていたのだ。
助けに来てくれたみんなの力で、さらわれた木乃香を救出し、あれだけ大きな鬼神を倒し、敵の企みは全て潰えたはずだった。
なのに・・・・・。力なく刹那が消えていった方向を見ているネギに向かって声が掛かった。


「兄貴!ボーっとしてる場合じゃねぇ!刹那の姉さんのところに早くっ!」


いち早く忘我の状態から立ち直ったのは、意外な事にネギの肩に捕まっているカモだった。
小さな体を懸命に動かしながら、ぺしぺしとネギの頬をたたいている。
そのおかげでネギは我に返った。大急ぎで今だ呆然としている明日菜を掴んで、杖にまたがり空を飛んでいく。
二人と一匹は、刹那が消えていった方角に全速力で向かった。そして刹那を探すために周りを見渡す。
彼女はあっけないほど簡単に見つかった。何かがすごい勢いで、突っ込んできたように、木々の一部が倒壊して無残な姿をさらしている。
刹那はそのうちの一本にもたれるようにして倒れていた。

ネギと明日菜が慌てて駆け寄る。そして次の瞬間には絶句して動きを止めてしまった。
刹那は生きていた。かろうじて息をしてもいた。だが、ただそれだけの事であった。右足と左腕があらぬ方向へと曲がっている。
皮膚を突き破り、夜においてなお白い骨が見えてしまっている。
全身が傷だらけで、尋常でないほどの出血量だ。ショック症状を起こしてないのが不思議といえた。
顔色は驚くほど真っ青で、完全に血の気が引いている。
うつろに開いた瞳は、ほとんど生気を感じられなった。口元からはごぽごぽと、血が流れている。
医者でもない限りは、彼女がまだ生きているとは思えないだろう。もしくは彼女を大切に思っている人間以外には。


「せ・・・・・せ・・・つ・・な・・・・さ・・ん」


明日菜から呟くような力ない声がこぼれた。現実にこれほどまでに壊れた人間を見るのは初めてなのだろう。意識を失って倒れそうになっている。
それはカモも同じだった。いつものように口が回らない。調子のいい言葉が出てこない。何も考える事ができない。
その場にいるだれもが何も出来ずにただ立ち尽くしているしかなった。ただ一人を除いて・・・。


「うわあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっぁあ!!!」


狂ったような叫び声をあげながら、ネギが刹那に向かって駆け出していく。刹那の傍らにしゃがみこみ、杖をかざして少ない魔力で治癒を行った。
ネギは強大な魔力を有してはいても、回復魔法の専門家ではない。出来る事といったらかすり傷を直せる事くらいだ。
先ほどからの戦闘の連続で、魔力もつきかけている。だが、そんなことは関係ないのだろう。
目の前で自分の生徒が、大切な仲間が、死を迎えようとしている、命を失おうとしている。そんなことは断じて許容する事ができない。
己の全存在を注ぎ込むように、力を入れすぎて白くなるまで握り締めている杖に向かって、魔力を注ぎ込んでいく。
同時にネギの右手から肩にかけて急速に石化が進行していく。ネギと戦った白い髪の少年の置き土産だ。


「ネギっ、あんた体が!」


「む、無茶だ兄貴。このままじゃ・・・・」


その光景を見ていた明日菜とカモが、矢継ぎ早に声を掛ける。しかしネギにはまったくその声が聞こえていないようだった。
それでも自分の体の状態を押して懸命に治癒魔法をかけ続けたのだが、その甲斐もなく、刹那の命の火は消えかかっていた。
かろうじて行っていた呼吸が、完全に止まる。心臓の鼓動が止まるのも時間の問題かと思われた。
だ・・だめ・・・・・。
明日菜が空中にいるエヴァに向かって涙まじりに悲鳴のような叫びを上げた。


「え・・・エヴァちゃぁぁぁん。せ、刹那さん、い、息してない・・・・・い・・いきしてないよぉぉぉ!」


その声を聞いたエヴァが息を呑む。駆け寄りたいのはやまやまなのだ。
だが、今自分が目の前の化け物を警戒していなければ、こいつは何をするかまったく分からない。
ぎりっと奥歯をかみ締めてエヴァは両手を握り締めた。


「行っていいわよ・・・・・あなたと遊ぶのはもうちょっと後にしといてあげる」


その様子を見ていたデミアンはそれだけをエヴァに告げて、一切の興味をなくしたように彼女から視線をはずした。
やっぱり若い子はいいわねぇ。こっちまでお肌の艶がよくなっちゃいそう。と、独り言を言っている。
殺意のこもった瞳でデミアンを睨みつけてから、急いで明日菜たちのもとに向かう。後ろから茶々丸もしっかりとついてきていた。
地面に降り立つと同時に刹那へと駆け寄る。状態の悪さに怯んだのは一瞬だった。すぐさま刹那に人工呼吸を施す。
同時に茶々丸が脈拍を確認する。単純な心肺蘇生の手順だが、自分には効果的な回復魔法を使う事はできない。
不死であるがために、そんなものを必要としてはいなかったのだ。

思わずそんな泣き言を口にしてしまいそうになる。心肺蘇生の効果か、刹那の息が戻った。
同時に口内にたまった血が喉の奥に詰まったのだろう、すぐに苦しそうに顔を歪めた。
その姿を見たエヴァが口から血を吸い出してやった。そうしてようやく刹那は正常に呼吸をすることが出来た。

しかし、エヴァの顔はまったくはれなかった。
所詮今の状態は、一時的なものにすぎない。顔色が真っ青なのは、なにも血液を大量に失ったからだけではない。呼吸困難でチアノーゼを起こしているのだ。
おそらく折れた肋骨が、片方の肺に突き刺さっている。意識がないのは幸いだったといえた。痛みで暴れてしまえば、それが原因で死んでいたかもしれない
弱弱しい呼吸も、もうじきまた途切れるだろう。
本当は刹那を一目見た瞬間にもう分かっていたのだ。


これは・・・・・・・・・無理だ。
今この場にいる者では、どうする事もできない。刹那は・・・・・・・・死ぬ。


「もういい、ぼーや。もうやめろ」


血に濡れた唇を手の甲で拭い、何の感情も感じさせない声色でエヴァはネギを制止した。


「・・・・・」


確実に聞こえているはずだ。それでもネギはエヴァの言葉をかたくなに無視して、一心不乱に治癒魔法をかけ続けていた。
エヴァはその姿に一瞬顔をしかめ、そのままネギを殴り飛ばした。


「なっ!」


「なにしやがんだ!」


後ろで様子を見ていた明日菜とカモが抗議の声をあげる。それを一睨みで黙らせてから、エヴァはネギの胸倉を掴んで起き上がらせた。


「いいか、ぼーや。おまえがこれ以上何をやっても、刹那は救えん。今の自分の状態を見てみろ。体内の魔力が尽きればお前の石像が一体完成するだけだ。
まだ、あんなわけの分からない敵がいる状況でな。これ以上足手まといを増やすな、迷惑だ」


「で、でも・・・僕は、僕は・・・刹那さんが・・・・・」


ネギも混乱しているのだろう。何を伝えたいのかはっきりと言葉にならないようだった。


「その事は、今は後にしろ。刹那の事は・・・・・・・・・もう・・・・・」


エヴァがうつむき、表情を隠した。、ネギと明日菜、カモの息を呑む音が聞こえる。


「そ、そんな・・・・・」


「うそ・・・・・・」


「くそったれめ・・・・・・」


その言葉を聞いて、エヴァは顔を上げた。


「・・・・・私はやつを殺す。この借りは必ずやつに返してやる。闇の福音と呼ばれたこのエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの名にかけてだ」


胸の奥深くから湧き上がってくる激情が、言葉に出した事で、決して破られる事のない約束へと変わる。
あの怪物、デミアンは確実にエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに殺されるだろう。それはもはや決定事項だった。
刹那が感じた恐怖、絶望を何十倍にして返してやる。心の中でそう誓い、エヴァは彼女に視線を落とした。
限界だったのだろう。ただでさえ弱かった呼吸は小さくなり、間隔は次第に長くなっていった。そしてゆっくりとその音も小さくなってい・・・・・・。

そのとき、唐突に、どわぁぁぁあぁ!もうあかん!どちくしょー!といった悲鳴のような怒声交じりの声と共に森の奥からガサガサと茂みをかき分ける音が聞こえてきた。
それは次第に大きくなっていき、やがてエヴァ達の目の前に一人の男が現れた。
貧相な男だった。体中を泥まみれにして、頭に枯れ枝が刺さっている。着ている服は所々が破けていて、ただでさえ貧乏くさいその雰囲気に輪をかけていた。
よほど急いでいたのだろう。顔中を汗みずくにして、肩で息をしている。それでも頑張って顔を上げたとたん、その男は力尽きたのか、ぐったりとその場にへたり込んだ。


「さ・・・・・さんそー・・・」


その男は目的地に到着したと同時になぜか助けを求めたのだった。





[40420] 10
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:ec8582d6
Date: 2015/07/06 21:24
横島達はその光景を、湖から少し離れた森の奥で呆然と眺めていた。
湖が燃えている。正確には炎が出ているわけではないので、燃えている訳ではないのだが、そう錯覚してしまうほどの強烈な光が放たれている。
気流にも影響を及ぼしたのか、生ぬるい風が横島の頬を撫でていた。
湖に立っている巨人の背丈を越える水柱が立ち上り、僅かな間雨を降らせる。
その直後に猛烈な水蒸気が発生し、周辺を霧が覆っているようにも見えた。

あまりに馬鹿げている。一目見ただけで、一介のGS見習いである自分には手に負えない事態だと理解できる。
隣で自分と同じように、だらしなく口をあけて間抜けな顔をしているタマモに視線を向けた。しばらくの間無言で見つめ合う。
それだけで意思の疎通が出来たのか、二人は真剣な顔でお互いに頷きあった。くるりと湖から背を向ける。
そして早足のまま、前傾姿勢でその場を後にする。いまだに背後から吹き付けてくる、生ぬるい風がその背を後押ししていた。


「ちょ、ちょっと待つんだ二人とも。だから何で逃げようとする」


突然湖で起こった常識はずれの光景に、通信鬼ごしで絶句していたジークが、その様子を見て慌てて横島達を引き止めた。
どのようにして操作しているのかは分からないが、器用に通信鬼が回りこんくる。


「なんでもクソもあるかい。いくらなんでもあんなのは無理だっつーの」


歩みを止めないまま、ジークの顔も見ることなく、すたすたと先に進む。さすがに今回ばかりは、もうどうしようもないだろう。
そばに美神がいるのならまだしも、この場にいるのは、見習いに過ぎない横島と、GSですらないタマモだ。
明日菜たちが気にならないといえば嘘になってしまうが、彼女達も、まさかあんなものとまともに戦おうなどとは考えまい。
すぐに逃げてくるはずだ。

ジークに言わせれば、このままあの魔族を放置する事はできないのだろうが、何事も限度というものがある。
小山ほども大きい魔族に自分達だけでどう対処しろというのか。
横島とは縁もゆかりもない世界の事とはいえ、この後の京都の住人には気の毒に思うが、さすがに命を懸けるだけの義理はない。
いやそもそも自分程度の命を懸けたところで、どうにかなるわけがないのだが。
横島の目の前を鬱陶しく飛び回り、なんとか引きとめようとしていたジーク(正確には通信鬼だが)が急にその動きをやめる。
そして、素直に横島達に並びながら、神妙な顔で言った。


「いや、そうとは言い切れない」


もしその台詞を苦し紛れに言ったのだとしたら、横島もタマモも、普通に無視していただろう。
だが、ジークの言葉からは僅かに自信のようなものが感じられた。
二人がそろって歩みを止める。馬鹿正直にジークに付き合うつもりなどは一切ないが、それでも話くらいは聞いてやるかという気分にはなる。
このままでは後味が悪いし、なによりこの後で自分たちを待っているだろう上司の説教(物理)が恐ろしい。
聞くだけ聞いてなんとかなりそうなら、もうけものだ。もちろん極力危険はなしの方向でお願いしたいものだが、無理なようなら逃げればいい。


「どういうこった?」


こちらが話を聞くつもりだと察したのだろう。ジークはほっとしたように息を吐いて、言葉を続けた。


「今なら・・・・・そしてやつ自身が言ったように、その正体がデミアンなのだとしたら、勝機はある」


ジーク本人も自分に言い聞かせているように、胸の辺りで拳を握り締めている。


「意味が分かんないんだけど・・・」


横島の隣でその姿を見ていたタマモがジークに懐疑的な視線を送った。
少し前、目標の魔族が、金髪の小さな魔法使いに、自分の名前を聞かれて、デミアンと名乗っていた。
なんだか最初は様子がおかしく、名前を聞いたほうが戸惑っていたのだが、突然顔を上げて嬉しそうに名乗りを上げたのだ。
規格外のサイズが子供のようにはしゃぐ姿は、率直に言えば気持ちの悪いものでしかなかったが、タマモにとってはそれだけだ。
当然聞き覚えのない名前だったし、姿に至っては記憶のそこから消去したいほどの相手だ。
一度でもあんなものを見てしまえば簡単には忘れられない。きっぱりと初対面だった。

そういえば、とタマモは思う。あの時ジークは、なぜかひどく驚いている様子だった。小さな声で、馬鹿な・・・ありえない、と言っていた。
一人だけ何かに驚愕し、怖いほど真剣な視線を魔族に向けて送っていた。
そのことと何か関係があるのかもしれない。タマモはジークの話に耳を傾けた。


「おそらく奴は、まだあの体を完全には制御しきれていない。
ただでさえ、相手に取り付くようなタイプの能力ではないからなあれは。
自分の能力で、強引に体の不足部分を、補っている状態なんだろう。
その証拠に動かしているのは上半身の触手が主で、今いる場所からはほとんど動いていない」


説明している本人も、頭の中で状況を整理しているのか、額を片手で押さえている。
正直な所今から語るのは、全部推測だ。希望的観測と言い換えてもいいかもしれない。
本来、現場の指揮官がそんなものを振りかざし、実際に動く兵士(この場合は横島達だ)を巻き込むなど、論外だったが、
それでもどうしても脳裏に浮かんだ着想が頭から離れない。


「そして制御するための霊力も、依り代自身の”魔力”から得ているはずだ。だとすれば、その供給源を絶ってやればいい」


もしそれに成功すれば、霊力を失ったデミアンは、おのずと崩壊する。なにしろ依り代自体はすでに死んでいるのだ。
後は残ったデミアン”本人”を倒せばいいだけだ。
しかしそこまでジークの話を黙って聞いていたタマモが異を唱えた。


「簡単に言うけど、どうするつもりなの?はっきり言ってあいつの霊力は私たちの比じゃないわ。生半可な攻撃じゃ全然通じないわよ?」


転生前はどうだか知らないが、今のタマモは上級魔族と戦うなど初めての経験だ。
それでも近くにいるだけで魂を圧迫されるような威圧感は肌で感じ取れる。
とりあえず話しだけは素直に聞いてはいるが、本音は一刻も早くこの場から逃げ出したいのだ。
単独で狩りを行う狐の本能が全力で反応していた。
あれは危険すぎる・・・・・近づくべきではないものだと。
知らずに震えていた両腕を、抱えるようにしてさすっているタマモに、ジークは言った。


「そうだな・・・・・本来なら絶対に不可能だ。だが、横島君の能力なら、なんとかなるかもしれない」


そう言いながらジークは、落ち着きなく、その場で足踏みしていた横島に視線を送った。
それにつられてタマモも横島を見る。二人の視線にさらされ、急に注目された横島が素っ頓狂な声を上げた。


「へ・・・俺?」


思わず、横島は自分を指差して確認する。急に背筋が寒くなってきた。猛烈にいやな予感がしてくる。


「そうだ。術式や弱点をつくなどの工夫次第で、補える場合もあるが、通常の悪魔祓いは、基本的に、術者が悪魔の霊力を上回るしか方法はない。
だが横島君の文珠は話が別だ。そうだな・・・・・綱引きを想像してみてくれ。
依り代を制御しようとする力と、それに反発する力だ。その二つが今、奴の体で拮抗している。
普通は反発する側に霊力を注ぎ込んで、悪魔を追い出すんだが、上級魔族が相手では、そもそも霊力の絶対量に差がありすぎる。
片方に、幼児が加わったところで、拮抗状態は破れないだろう?だが、仮に文珠で魔族を直接”分””離”したらどうだ?
綱引きの例えなら、全力で引き合っている縄を、中央でいきなり切断するようなものだ。まったく別ベクトルの力が発生する。」


しかしそれも絶対に成功する保証などない。横島の霊力で構成されている以上、単純な力負けで、文珠が作用しないといった可能性も十分ありえる。
それでも、奴が己の体を完全に制御しきれていない今なら、少ない力でも通用するかもしれない。
結局のところ、これは賭けなのだ。ルールも曖昧で、倍率も知らされていない、普通なら誰もが避けるであろうギャンブルだ。
そして賭ける物は自分の命・・・・・。


「どうする?横島君。タマモ君。説明しておいてなんだが、無理にとは言わない。
実行するのは君達だ、分の悪い賭けだといわれても、しょうがないからな」


このまま魔族を放置しておくリスクを考えれば、今の内に叩いておきたい所ではある。
遠からず、奴はあの肉体を完全に制御下に置くであろうし、今を逃せば、倒す機会を失ってしまうかもしれない。
それでも、命を懸けるのはジークではなく横島達なのだ。軍人なら当然覚悟しておくべき事でも、民間人である横島達に強制は出来ない。


「ど、どうするって言われてもだな・・・・・」


横島の立場としては、きっぱりとお断りしたい。話を聞く限り、自分の役割が一番危険な気がする。
まともに近づく事すら困難に思えるし、仮に近づけたとしても、うまくいくとは限らないというのだ。
横島には進んで命を賭ける理由はないし、ここは素直に撤退するべきだろう。
後の事は美神にでも任せてしまおう。うん、それがいいね。そうしよう。
心の中で二度頷いて、横島はジークにそんなのは御免だ、と伝えようと口を開いた。
すると、その言葉を発する前に、難しい顔でタマモが口を挟んできた。


「ちょっと待って、もしかして、あんたあのデミアンって魔族の事知ってるの?」


タマモがジークに向かって、疑わしげな視線を向ける。まるであの魔族が、デミアンだからこそ、この作戦を思いついたというような言い草だ。
それに、名前を聞いたときのジークの反応も気になる。そのことを告げると、別段隠すことでもなかったのか、意外にあっさりと白状してきた。


「ああ、知っている。私と横島君は奴と一度戦ったことがある。だから、その能力もある程度理解しているし、弱点も把握している。
もっとも、あれが本当にデミアンだったらの話なのだが・・・・・」


なぜか、言葉尻に声を落として、ジークはタマモに告げた。


「は?俺はあんな、出来れば関わりになりたくないようなのは知らんぞ。おっかないオカマには、心当たりがないでもないけどな」


戦ったと言われても、横島にはまったく身に覚えがない。あれだけ大きな敵なら、さすがに忘れる事はないと思うのだが。


「覚えてないのか?君と初めて出会ったときのことだ。妙神山で美神令子を襲った刺客がいただろう?」


そう言われてもぴんとこない。確かあの時は、ワルキューレに事務所を追い出され、雪之丞に付き合って一緒に妙神山へ向かったのだ。
その後命からがら修行を生き延びて、その後・・・・・。


「ああそういやいたなそんなの・・・・・。蝿野郎の事?」


「子供の方がデミアンだ」


確かにあの時、美神を狙っていた魔族と戦った。
言われてみれば、なるほど、あの時の気味の悪い子供は、今の気持ちの悪いオカマに似ていなくもない。
サイズのことを気にしなければ、どちらも、同じようにグロテスクな姿をしている。
横島は記憶の中のデミアンなる、子供の姿をした魔族を思い描きながら、思わず納得しそうになったのだが、すぐにおかしな事に気がついた。


「いや、あのガキなら美神さんにしばかれて、死んじまったじゃねーか。それに性格も全然違ってたぞ?」


あまり長く覚えておきたい姿でもないし、横島達に襲い掛かってきた魔族でもある。
なにより男の事なので、もはやおぼろげにしか横島の記憶に残っていないのだが、すくなくとも、あんな性格ではなかったはずだ。
それに、なんで死んだはずの魔族が生きていて、しかも異世界なんて所にいるというのだろうか。
あまりに脈絡がなさ過ぎる。これならまだ同姓同名の別人だと考えたほうが、理屈に合うというものだ。


「そうだ、奴はとっくに死んでいる。だから、あれはデミアン本人ではないのだろうな。
だが、名前と能力が一致しているのは、あまりに不自然じゃないか?」


名前を名乗ったとき、偽っている様子は見られなかったし、能力も特に隠している訳ではない。ジークたちを警戒しているわけでもおそらくはない。
ならば、あれがありのままだという事になる。ジークも、もし共通点が一つだけなら、奇妙な偶然だと、単純に割り切っていただろう。
だが、偶然の一致が二つ重なれば、疑いたくなるというのが人情だ。本物のデミアンと同じような力を持った、まったくの別人。
この段階で推測できるのは、そんな所だろう。

名前については、本名なのか、あえてデミアンと名乗っているのか、だとしたら何故そう名乗っているのか、それは分からないが。
しかし今重要なのは、能力のほうだ。あの魔族がデミアンと同じ能力ならば、ジークが立てた作戦が通用するかもしれない。
ジークが頭の中の考えを横島達に説明していく。すると・・・。


「つまり、明確な根拠は一切ないわけね。成功率云々の前に、作戦の前提自体が疑わしいと・・・・・」


ジークの説明を聞きながら、横目で魔族のいる方角を眺めていたタマモが、ため息混じりに呟いた。
あれだけの巨体に戦いを挑むとしたら、ある程度の不利な条件は飲まなければならないだろうが、これは論外だとタマモは思う。
あてずっぽうで、命をかけるなど出来るはずがないではないか。


「やめましょう。リスクが大きすぎる。ジーク、あんただって本当は分かっているんでしょう?自分の考えが単なる思い付きだって・・・」


「それは・・・・・」


タマモの指摘を受けて、ジークは表情を暗くする。もっともな話だった。彼女を否定する言葉を、ジークは何一つ持っていない。
どうやら自分は、思っていたよりも焦っていたらしいと、心の中で反省する。冷静になって考えれば、無茶もいいところだった。
作戦に参加するかの是非を、二人に問う事すら、してはいけない事だった。
本来なら、現場の指揮官であるジークが、真っ先に、この思い付きを否定しなければならなかったはずだ。
口に出すべきではなかった・・・。

そう後悔しながら、タマモに向かって口を開こうとしたその時、なぜか隣にいる横島が、唖然として、湖を見ていた。
何かあったのかと、ジークとタマモも慌てて後ろを振り返る。
すると、二人の目に飛び込んできたのは、デミアンの触手で逆さ吊りにされた少女の姿だった。
甲高い悲鳴を上げながら、なすすべなく、空中に引き寄せられている。


「女子中学生の触手プレイとは・・・・・ずいぶんとマニアックだな」


腕を組みながら、うんうんと頷きつつ、横島が的外れな感想を口にする。
その後ろ頭にタマモが全力で突っ込みを入れつつ、ジークに向かって疑問の声を上げた。


「どういうこと?何だって今更あの子が狙われるわけ?」


恐怖に顔が引きつってはいるが、あの娘は先程、こちらの世界の何者かにさらわれてしまった少女だ。
結局傍観者であるタマモたちには事情がまったく分からなかったが、何故魔族までが彼女を狙うのか、さっぱり見当がつかない。


「そ、そんなことを言われても・・・・・・・・いや、まてよ、さっき奴が言っていたな。あの娘と一緒に京都に来たと。
つまり、そもそも奴が依り代に選んだのは神楽坂明日菜ではなく、彼女のほうなのか?
という事は、彼女は魔法使い?少なくとも奴が目を付けるほどの”魔力”を持っている事になるのか、そうだとしたら・・・・・まずい!」


タマモの疑問に答えるため、状況を整理していたジークが焦りを顔に出して、横島達に説明しだした。


「奴は、自分の体を制御するための霊力を、彼女から得る気だ。そうなったら、今度こそ手がつけられなくなるぞ」


元々、今の依り代である怪物自体死にかけていたのだ。
その影響かは分からないが、おそらく、デミアンが思ったほど、霊力を獲得する事が出来なかったのだろう。
そのため、完全に己の肉体を支配下に置くことが不可能だった。
それならば、足りないものは、ほかで補えばいい。そう考えて、再び最初の候補である少女を狙った。
そうして力を完全に取り戻す気だ。


「ここまでだ二人とも。気にするなといっても無理かもしれないが、急いでこっちに戻ってくるんだ。
これ以上はもうどうしようもない。美神令子と連絡をとって・・・」


通信鬼を通した映像の中で、力なく首を振りながら、ジークは二人に撤退の指示を出した。
横島達が京都から離れた後、どれほどの被害があるか、想像もつかないが、迷っている暇はない。
美神令子と軍の上層部に連絡を取って、一刻も早く対策を協議しなければならないだろう。ここからは、時間との勝負になる。
時がたてばたつほど、京都の被害は激しさを増すだろう。眉間に力を入れて、奥歯をかみ締めつつ、ジークはこれからのことを考え始めていた。
ジークの言葉を聞いて、後ろめたさを感じながらも、内心ほっとしていた横島だったが、捕まっている少女の様子を見て、戸惑いの声を上げた。


「おい、何してんだあの子?」


見れば、彼女を縛っている触手に向かって刀で切りかかっている、別の娘がいた。数日前に横島を追い回した少女だ。
身の丈ほども長い刀を懸命に振りかざし、触手を切断しようとしている。だが幾度切りつけても、効果がないのか、触手が切れる様子はない。
泣き出してしまいそうに、顔を歪め、焦燥感をあらわにして、何度も何度も、助けを求めている女の子を救おうとしていた。
しかしそうしているうちに、とうとう捕まっていた少女の姿が、触手に埋もれて完全に見えなくなってしまった。

その光景を目の当たりにして、刀の少女が、悲痛な叫び声を上げる。己の魂を絞りつくすような、聞いているこちらの胸が苦しくなるほどの叫びだ。
激昂し、全力の一撃を触手に浴びせる。だが、そんな少女をあざ笑うかのように、非常な現実が彼女に訪れていた。
刀が折れていた。握り締めている柄付近から、綺麗に折れてしまっている。
目の前の現実が信じられないのだろう。彼女は呆然としながら、それを見ていた。
だがそんな事情は魔族には関係ない。邪魔者を追い払うように、勢いよく触手が振り下ろされる。
そして横島の見ている前で、少女の小さな体は尋常ではない速度で消えてしまった。

それを見た瞬間、ドクンと横島の心臓が跳ねる。体を流れる血流が全て止まってしまった錯覚を覚える。
瞬きすらも忘れて、一切が停止し、体は硬直して動かない。頭の中は当然のように真っ白で、何も考えられなかった。
それでも、するべき事を分かっていたのかもしれない。
白濁した思考を裏切って、いつのまにか横島の両足は、機械的に交互に地面を踏みしめていた。
頭の後ろで横島を呼ぶ声が聞こえる。そのことに気がついても、歩みを止める気にはなれなかった。そう、自分は走り続けなければならない。
何があっても足を止めてはならない。全力で目的の場所までたどり着かなければ・・・・・・。

規則的に耳に入ってくる自分の呼吸音を聞きながら、夜の森を全力で走りぬける。
ろくに視界がきかない中で、ほとんど速度を落とすことなく進むのには限度がある。
途中、木の根に躓き、枝に引っ掛かれ、藪に足を取られて、前方の木に激突しそうになった。
突然の段差で足を踏み外し、勢いよく地面に転がる。体中が泥にまみれ、口の中にまで入ってきた。
乾ききってしまっている口内で、無理やり唾と一緒に土を吐き出す。
心臓が口から飛び出しそうなほど、激しく鼓動を刻んでいる。一度立ち止まってしまった事で、余計に疲労を覚えてしまったようだ。
両足が無様に震え、立つ事も困難だった。それでも無理やり、近くの木にすがり付き、懸命に体を起こす。
己を叱咤し、勢いをつけて、掴まっていた木から手を離した。

再び走り出す。月は出ているはずだが、その光は森の中までは届かない。横島は特別夜目が利くわけでもない。
転び、倒れ、そのたびに立ち上がりながら、一心不乱に走っていた。
それでも、どれだけ横島が頑張っても、夜の森で大した速度は出ない。転倒しながらでは、なおの事だ。
だからそれは、偶然や奇跡と呼べるものだったのかもしれない。
茂みをかき分け、泣き言を口にしながらでも、横島はギリギリ間に合う事が出来たのだから。

視界が開ける。月明かりが、疲労で倒れこみそうになっている横島を、やさしく包み込んでくる。そこはちょっとした広場のような場所だった。
柔らかそうな草花が、夜風に揺らめいて、美しい光景を作り出している。もっとも今の横島にとっては極上の羽毛布団にしか見えないが。
寝っ転がりたい・・・・そんなことを思いながら、震える足を強引に押さえ込み、膝に手をついて、荒い呼吸を繰り返す。
頭を上げるには、あと少しの時間が必要だった。体力自慢の自分がこれだけ疲労したのは久しぶりだ。いつぞやのシロの散歩どころではない。
やはりろくに道幅のない、夜の森の全力疾走は無理があったか・・・・・。
しばらくは疲労回復に努めていたが、まだ休むわけにはいかない。うつむいていた顔を上げ、背筋を伸ばそうとしたところで、めまいが横島を襲った。
ふらふらとその場に倒れ付す。そして、霞んだ視界で、こちらに驚いた表情を向けている者達に助けを求めた。


「さ・・・・・さんそー・・・」


「え、えっと、あの・・・・・」


一番近くにいた、少年が戸惑いの声を上げた。緊迫した状況で唐突に現れ、
なぜかいきなり倒れこんだ男に助けを求められて、おろおろと狼狽している。
そのほかの人物も似たようなものだ。登場してすぐ、退場しそうな、横島に対して、的確な反応が取れずにいた。

まぁそうだよな、と横島も思う。どう贔屓目に見ても今の自分は遭難者だ。体中泥まみれだし、所々、枝に引っ掛けて血が滲んでいる。
不振人物と思われても仕方ない。ため息をつきそうになりながら、横島はなんとか立ち上がろうと体に力を入れた。
倒れこんだことが、逆に功を奏したのか、かろうじて立ち上がる事はできそうだ。
呼吸もだいぶ正常に戻ってきたことだし、本当ならこんな風に倒れてる暇などないのだ。
急がなければ。
まだ少女の様子を見てはいないが、怪我をして危ないようなら横島が助けなければならない。


(これでもし、ここにいる連中が魔法でとっくに治してました、なんて事になってたら、アホもいいとこだな俺・・・)


めまいが起きないようにゆっくりと体を起こし、魔族によって吹き飛ばされた少女を探す。
すると横島の視線の先で、血にまみれ、今にも死に掛けている刀使いの女の子を見つけた。
軽くスプラッタな光景に、若干ビビリながらも、横島は慌てて少女の元に近づいていった。
本来なら、誰かが横島を制止していただろう。突然現れた、ズタボロの男が、死にかけている仲間に無造作に近づいているのだから。
それでも誰も横島に声を掛けなかったのは、やはり驚きがまだ抜けきっていなかったからだろう。

横島にとっては好都合だが、それもいつまで持つか分かったものではない。
少女のそばに近寄り、膝をつく。幸いな事にまだかろうじて生きている。魂が離れている様子もないし、これならば、横島でもなんとかなる。
意識下にしまわれている文珠を取り出し文字をこめた。
そしてそのまま、少女の体に文珠を押し付け・・・・ようとしたところで、ふと、傍らに転がっている折れた刀が目にとまった。
なにげなく、刀を手に取り、文珠に刻んだ文字を書き換えて、今度こそ使用する。

光があふれた。夜の最中でもまぶしさを感じる事もない、優しげで、柔らかな光。そして少女の体に変化が訪れる。
あらぬ方向へと折れ曲がり、皮を突き破って外に出ていた骨が、見る見るうちに正常な位置へと戻っていく。
所々が断絶していた筋繊維も元の形に繋がり綺麗なピンク色を見せている。
そして、それを包み込むように新しく皮膚が再生し、体中についていた傷が跡もなく塞がれていった。
血の気を失い、蒼白だった顔色も、健康的な色合いを取り戻している。
断続的で今にも止まってしまいそうだった呼吸は、穏やかな正常なものへと変わっていった。
少女を照らし出した緑色の光が収まると、あれだけの重症、というよりも確実な致命傷が、嘘のように消え去り、
傷をおった痕跡すら残ってはいなかった。

横島は念のために、少女の様子を確認する。ある程度見回したところで、納得したのか満足げな笑みを浮かべた。
よかった。素直にそう思う。苦労してここまで来た甲斐があったというものだ。
ぎりぎりの所だったが何とか間に合った。いやーよかった。
うん、よかったなー・・・・・・・・・。そんな事を考えながら、横島の額に一筋の汗が浮かぶ。
事が無事に済んで、胸をなでおろしたのはいいのだが、冷静になってみると、
あれ?今の自分は結構やばいのではないか?という疑問が心の中に浮かんでくる。

ジークからは、この世界の住人の前で、霊能力を使うなと口がすっぱくなるほど言われていた。
一般人はもちろんの事、魔法使いという超常の技を使う人種にも、秘匿しなければならないのだと。
だからこそ、今日は朝からなれない尾行の真似事なんかをしなければならなかったのだ。
前回、魔族と戦った時も、文珠で姿を隠してまで、素性がばれないようにしたというのに・・・・・。
最悪なのは、この事が、美神とジーク達依頼者との間で結ばれている契約事項にしっかりと明記されているという事だ。
違反した場合、確か報酬から差し引かれるのではなかったか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

横島の汗が尋常でないほどの量に変わる。思わず想像してしまった美神の笑顔が、明確な恐怖となって横島の脳髄を侵していった。
恐る恐る後ろを振り返る。そこには、先ほど横島が現れたときよりも、遥かに驚愕の表情を浮かべた、明日菜たちの姿があった。
慌てて顔を少女に戻して、横島はなんとかこの場をごまかす方法を考え始めた。
深呼吸を一度し、意識して表情を真面目なものに変える。そのまま勢いよく振り返り、右腕を上げて、挨拶をした。


「それじゃー僕はこれで、いやー、おつかれっしたー」


「茶々丸、その男を捕らえろ」


「了解しました」


「あぁぁ、やっぱりか、こんちくしょー!」


滑らかな動きで、茶々丸と呼ばれたエプロンドレスの少女があっさりと横島を捕縛する。と同時に、しっかりと関節を固めてきた。
一応暴れなければ、それほど痛みを感じない程度に、力加減をしてくれているようなのだが、まったく身動きが取れない。
膝裏をけられ、強制的に、膝立ちにさせられた。何処で習ったのかと疑問に思うほど、見事な捕縛術だった。


「ぼーや、刹那はどんな様子だ?」


油断なく、横島に睨みを利かせている金髪の少女が、少年に尋ねた。


「え?はっ、はい。・・・・・・あっ!な、治ってます。折れた腕も脚も全部!」


指示を受けた少年が、慎重に刀使いの少女の体を調べていく。
最初は触れる事で、傷を悪化させないように、躊躇しているように見えたその動きも、段々と大胆になっていく。
ざっと見ただけでも、少女の体がまったくの健康体である事に気がついたのだろう。しだいに声の調子が、嬉しそうな響きへと変わっていった。


「ほっ、本当なの!ネギっ。せ、刹那さん、治ってるの?もう大丈夫なの?」


いまだに状況がつかめずに、おろおろとしていた明日菜が、少年の歓喜の声を聞くと同時に、彼のもとへと突進していく。
そして、そのままの勢いで、少年の胸倉を掴み上げ、ぶんぶんと振り回す。


「ちょ、あ、明日菜さん、お、おちついて~」


「あ、姐さん。お、おちつけって。首、しまってる。しまってるから」


よほど強く握り締めていたのか、少年の顔色がみるみる悪化していく。
明日菜の肩に乗った、なぜか喋る事ができる小動物が懸命にその動きを制止していた。
それからしばらくして、明日菜が正気に戻った時には、件の少年は目を回して地面に倒れこんでしまっていた。


「ご、ごめん。でもほんとなの?刹那さん、無事なのね?」


明日菜が目じりに涙を浮かべて、必死な様子で、げほげほと咳き込んでいる少年に尋ねた。
なにせ、死ぬか生きるかというほどの重症だったのだ。
そんな大怪我をおった人間があっさりと回復したなどと、にわかには信じられないのだろう。


「はい。顔色も全然良くなっているし、ほら、明日菜さんも見えるでしょう?腕も足も元に戻ってます」


よろよろと、なんとか立ち上がる事に成功した少年が、刀使いの少女に視線を向けた。


「えーと。さっきまでは、慌ててたから、気にしてる余裕がなかったんだけど。大丈夫だって分かったら、気が抜けちゃって・・・・・
まともに見れないかも・・・・・」


視線を少年に向けたまま、明日菜が自分の肩を掴んだ。
無理もないかもなと、関節を極められ、情けなく地面に押し倒されたままの横島は思う。
なにせ、完全に回復したとはいえ、いまだに周りは血だらけなのだ。
臨場感がスプラッター映画の比ではない。生の現実は、もれなく血のにおいまで、空気に乗って運んできてくれる。まったく嬉しくないサービスだ。


「あ・・・・・・と、とにかく、刹那さんはもう大丈夫そうです。・・・・・・たぶん、この人が何とかしてくれたんじゃないかと」


少年、(ネギというのか)は横島のほうに視線を向けて、自信なさげに呟いた。
つられてその場にいる全員が横島を見つめる。誰もが、突然現れ、自分達の仲間を救ってくれたこの男に、どう反応していいか分からなくなっている。


「あー、とりあえず、刹那が無事でなによりだ。それで・・・・・この男なんだが」


金髪の小さな魔法使いが、戸惑いを見せつつ横島を指差す。
そして、ゆっくりと近づき、見下ろしながら、胡散臭いものを見るような目つきで質問を開始した。


「おい貴様。いったい何者だ?どうやら刹那を治してくれたようだが、何をしたんだ?」


性格なのだろう、無意味に高圧的な態度で、こちらを睨みつけてくる。
最初に相手を威圧して、必要な情報を得ようとする様は、何故か慣れ親しんだある人物を彷彿とさせられるのだが、
外見の問題で、小さな子供が、精一杯強がっているようにしか見えない。
それに、地面に伏している横島の目の前で、踏ん反り返っているものだから、下着が丸見えになっている。


「うーむ。アングルはいいんだが、なにぶん年齢がな・・・・・十年後に期待だな」


「?・・・何を言っているんだ?」


「へ?・・・・・あ、いや、こっちの話で・・・うわははは」


男の本能に従って、スカートの中身を見てました、ともいえないので、ごまかすようにして視線をそらし、笑い声を上げる。
体勢的に辛いものがあるのだが、ごまかし笑いは、得意な方だ。まったく意味はないが。


「えーと俺が何者かって言われても、たんなるGS見習いの高校生なんだけど・・・・・」


横島が地面に押し付けられたまま、僅かに苦しそうな声で答える。
まさかまともに答える訳にはいかないし、全力で嘘をでっち上げる気なのだが、
この状況で整合性のある嘘をつくには、自分のおつむでは無理な気がする。
とりあえずは、適当に会話を継続しつつ、なんとか打開策を考えなければならないだろう。
ひょっとしたら、その間にタマモが助けに来てくれるかもしれない。


「GS見習い?何だそれは?」


意図的に眉毛の角度を吊り上げ、横島に尋ねてきた。こちらの世界にはGS協会もないのだから、当然の疑問だろう。


「な、何だって言われてもだな。その・・・・・」


質疑応答開始一分で、話が途切れる。どの程度自分達の情報を渡しても差しさわりがないのか、横島にはわからない。
あからさまな嘘はすぐにばれてしまうだろうし、何より横島は、この手の女王様タイプの押しには弱いのだ。思わず従ってしまいそうになる。
結果的に曖昧な態度で接する事しかできなくなり、段々と、目の前の魔法使いは機嫌を悪くしていった。


「なるほど、まともに話す気はないわけか・・・まぁいい、そっちがその気なら・・・」


「あああ、なんか猛烈ににいやな予感がするぅぅぅ!!」


目じりの角度が急速に跳ね上がっていくにつれて、凄惨な未来が頭に浮かんでくる。
どうか、この子の折檻が美神程ではありませんように、と頭の中で横島が祈りをささげていたその時。


「待ってください」


少年の姿をした救世主が金髪の少女を制止した。


「エヴァンジェリンさん。その人は刹那さんを助けてくれたんですよ。あんまりひどい事は・・・」

続けて、ネギ少年のすぐそばに立っていた明日菜が、彼に加勢してくる。


「そうよ。私達、まだまともにお礼も言ってないし」


彼らにしてみれば、横島は大切な仲間を、危ないところで助けてくれた恩人だ。
横島の素性を気にはしているだろうが、ひどい事をしてまで、無理やり聞きだす気もないのだろう。


「そうは言うがな、お前達は、この男が怪しいとは思わんのか?まるでこちらの様子を伺っていたといわんばかりに、都合よく登場しおって」


実際その通りなので、まったく反論できない。ついでに言うと朝からずっと、明日菜をストーキングしていたりする。
自然と横島の口元がひくひくと痙攣し、こめかみに一筋の汗が流れた。


「そ、それは、気にはなりますけど、それとこれとはまったく別の問題ですよ。
茶々丸さん、とにかくこの人の拘束を解いてください。これじゃまともに話も出来ないですし」


ネギがエヴァンジェリンと呼んだ少女の指摘に、僅かに怯みながらも、反論する。
話を聞くにしても、拘束したままである必要はない。確かに横島の今の体勢は少し辛いものだった。


「ちっ、茶々丸、離してやれ。ただし、また逃げようとしたら、もう一度押さえ込め。今度は手加減抜きでな」


ネギに説得されたためか、横島を押さえつけていた圧迫感がなくなる。
ずっと同じ体勢でいたので、凝り固まった体をほぐすように、なんとなく肩をまわしながら、横島は立ち上がった。
後ろを振り返ると、知り合いのマリアに何処となく雰囲気が似ているエプロンドレスの少女が、感情を感じさせない瞳をこちらに向けていた。
どうやら監視しているらしい。
何処となく居心地の悪さを感じて、佇んでいた横島に、ネギと明日菜、ついでに小動物がお礼の言葉を口にする。


「あの、どなたかは知りませんが、ありがとうございました」


「刹那さんを助けてくれて、ありがとうございました。本当に助かりました」


「ありがとよ兄さん。どう見ても大した奴には見えねーのに、あんたずいぶん凄い治癒魔法使うんだな」


頭を下げ純粋な感謝を横島に向けてくる。
もとの世界では、そんな経験がほとんどないために、なれない様子で横島は、慌てて二人に頭を上げさせた。


「あ、いや、別にそんな大した事じゃ・・・・・あと、そこの動物。誰がぼんくらや誰が」


「動物って言うな!俺っちにはアルベール・カモミールっていう名前があるんでぇ!あとぼんくらとまでは言ってねー!」


「長いなぁ。動物で十分じゃないか?」


しばらくの間、パタパタと手を振りつつ、アルベールなんちゃらの抗議を軽く受け流していた横島だったのだが、
そのうち、明日菜が自分の顔を凝視している事に気がつく。何か忘れている事を思い出そうとしているように、眉間にしわが寄っている。
そんな彼女の様子にネギも気がついたのか、どうしたのかと明日菜に質問した。


「どうかしましたか?明日菜さん」


「うーん。なんかこの人に見覚えがある気がするのよね・・・最近どっかで会ったよーな」


横島は己の心臓が一度跳ね上がるのを感じた。考えてみれば自分は数日前にこの娘に声を掛けているのだ。
幸いな事にまだ気がついていないようだが、早々に思い出してしまうかもしれない。
このままではいかん、なんとか話をそらさなければ。とっさにうまい言葉が出てこないが、それでもなんとかしようと横島が口を開き掛けた時。
アルなんちゃらが、まともに取り合おうとしない横島に業を煮やしたのか、言葉を荒げて、ふてくされた声を出す。


「だいたいだな、こっちが名乗ってるのに、まともな返事も返さないとはどーゆー事だ。
凄い治癒魔法が使えるからって、お高くとまってんじゃねーぞ」


フンフンと鼻息荒く、一気に言葉を続けて文句を言ってくる動物(アなんとか)だったが、
言葉を返したのは横島ではなく、エヴァンジェリンの方だった。


「ふん。治癒”魔法”ね・・・・・」


決して大きな声ではなかったにもかかわらず、その呟きは森の中に響き渡った。
腕を組み、投薬実験中のラットを観察する研究者のように、冷静で冷徹な眼差しを横島に向けている。


「刹那の方をよく見てみろ。こいつが刹那を癒したのは間違いないだろうがな、同時に折れたはずの刀も元に戻っている。
お前達が話をしている間に調べてみたが、折れた箇所も継ぎ目一つなかったぞ。
人体の回復と物質の修復を同時に行ったわけか・・・・・それにな、こいつが刹那に何かをしたとき、魔力を感じたか?ぼーや?」


魔法使いであるネギに対して、エヴァンジェリンが質問する。
突然話を向けられたためか、一瞬戸惑っていたようであったが、すぐさまネギは彼女に答えを返した。


「すみません。とっさの事で自信はないんですけど、言われてみれば確かに魔法が発動したときの感覚がなかったような」


何しろあの時は、突然現れた横島に驚いていたために、じっくり観察する余裕がなかった。
それは、ネギ以外も同じだろう。その時の事を思い出そうとするように、彼は夜空を見上げた。


「まぁいい、疑問はまだあるぞ。私もさっき思い出したんだがな、あの緑色の光。大停電の夜、あの影が消えた時も似たような光がなかったか?」


「あ・・・・・あった!あの気持ち悪い人影がいなくなった時も、緑色に光ってた。綺麗だったからよく覚えてる」


その場にいた明日菜が大きな声で、肯定の言葉を返す。あの夜の事はそう簡単に忘れることができない。
何しろ一度はもう駄目かと思ったくらいなのだ。


「おかしいとは思っていたんだ。あの時、奴が撤退する理由はなかった。ぼーやの魔力が尽きた時点で、こちらはほとんど詰んでいたんだ。
結局明確な目的は分からんままだったが、私が狙いなら、あのまま目的を果たせばよかったはずだ。にもかかわらず奴はいなくなった。
つまりあれは奴自身の意思で消えたのではなく、何らかの干渉を受けた結果なんじゃないか?そしてそれがあの緑色の光なのでは?」


一言一言に意味を持たせるように、何らかの含みを感じさせる口調で横島に言葉を投げかける。
そのたびに横島は視線をあらぬ方向へと飛ばし、額から汗を流して、落ち着きをなくしていく。


(あ、あかん。この子鋭すぎる。まるで美神さんみたいやないか・・・)


エヴァンジェリンが、向こうの世界にいる上司級の鋭さを発揮して、横島を追い詰めていく。正直自分の手には余る事態だ。
まさかこんな子供にしか見えない娘が、これほど厄介な存在だったとは・・・・・。
周りを見てみると、ネギや明日菜も横島を見ている。
一応の恩人に、あからさまな疑惑の視線を投げかけるのは、躊躇しているのか、それほどの強い視線は感じないが、
こんな話を聞かされて、不信感を抱いていないはずがない。
本音では、このまま横島がエヴァンジェリンの追求に負けて、素直に事情を話してくれることを願っているはずだ。


「出来れば納得のいく回答が欲しいところなのだがな・・・・・まぁまずは貴様の名前から」


追い詰めた獲物をなぶるようにエヴァンジェリンが僅かに魔力を放出して、横島に問いかけようとしたその時、
彼のすぐそばの茂みから何かが勢いよく飛び出してきた。


「何をしとるか、あんたはぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


「ぶべらっ!」


飛び出した勢いをそのままに、猛烈なとび蹴りが横島に向かって放たれる。
その場にいた者が思わず拍手をしてしまいそうなほど、そのとび蹴りは見事に横島の顔面を捕らえていた。
空中で華麗にトリプルアクセルを決めつつ、重力に従い地面に向かって顔面から着地を決める。
ツッコミに対する反応としては見事な技術点と芸術点だった。


「なにしやがんだこら!危うく首から上が吹っ飛ぶところだったじゃねーか!」


横島が普通に考えればありえないほど元気に起き上がり、とび蹴りを食らわしたタマモに抗議の声をあげた。


「やれるもんならやってみなさいよ!・・・・・あんたねぇ、朝から私達が何のために苦労してたか忘れたわけじゃあないでしょうね」


こめかみに青筋を立てつつ、犬歯をむき出しにしてタマモが横島に詰め寄ってくる。
その様子にビビリながらもなんとか横島は弱弱しく反論を返した。


「だ、だってしゃーないやんかー。不可抗力ってやつや」


蹴られた頬を押さえながら、涙目でいまだに目を覚まさない刹那という少女に視線を送る。
横島の視線の先で、大量の出血跡が残っている場所に、横たわる彼女の姿を見つけ、いろいろ察したのだろう、タマモが深いため息をついた。


「はぁ、なるほどね、まぁこの際しょうがないか。でも美神さんに怒られるのはあんた一人でやってよね。私は関係ないから」


「いっ、そ、そりゃねーだろ。ちっとくらいは庇ってくれてもいいじゃねーか。報酬減っちまったら美神さんになにされるか」


その未来を、想像力豊かな横島の脳内が、高画質で再生してくれた。背中に氷柱を入れられたかのような悪寒が走る。
映画にすれば確実にR指定の残虐ファイトだ。いや、一方的な殺戮なので、戦いですらない。
何しろ前金だけでも目玉が飛び出るほどの高額な報酬を貰っているはずだ。当然損失額も横島の想像のはるか上をいく。
いったい自分の給料何か月分なのだろうか?考えたくない・・・・・・・・・。


「まぁ、あんたの言う通り、仕方がなかったのも事実だし、美神さんもそこまで怒らないんじゃない?」


「お前は、あの人との付き合いがまだ浅いから、そんなのんきな事が言えるんや、
こと金が関係している時の美神さんの恐ろしさがまったくわかっとらん」


確かに美神にも意外に優しい所はあるのだが、今回は額が額だ。横島の言い訳が通じるかどうか知れたものではない。
タマモは必要以上に自分を庇ってはくれないだろうし、シロは純粋に役に立たない。
ここは、やっぱり最後に残った砦である、おキヌちゃんの背後に全力で隠れつつ、全身全霊で土下座するしかないかもしれない。
横島の土下座が、どれほどの効果があるかといえば、すずめの涙程度だろうが・・・・・やらないよりはましだ。

ちなみに、ほとぼりが冷めるまで逃亡生活を送るというのも考えたが、即座に却下した。
何処に逃げようと美神の手からは決して逃れられないだろう。間違いなく見つかる。
余計な事をして、怒りに油を注いでしまえば、本当に命の危機だ。最初から素直に謝ったほうが何倍も生還の確率は高いだろう。
とにかく言えるのは、これ以上自分達の情報を、明日菜達に渡してはいけないという事だ。
なんとかしてこの場を離れて、ジークに合流し、彼に泣きついて今回の事をなかった事にしてしまえば・・・。


「あの・・・・・えっと、その人はいったい・・・・・」


ぶつぶつと、今後の対策を考えていた横島に、ネギが遠慮がちに声を掛けてきた。
横島に続き突然現れた、タマモの事が気になるのだろう。ちらちらと視線を送っている。


「あー・・・・・こいつは俺の仲間で・・・」


「ストップ、そこまでよ」


一応差し障りのない程度に、タマモの事を紹介しようとした横島をタマモが制止した。


「悪いけど、あんた達にこれ以上話す事はないわ。こいつが勝手に飛び出したせいで、
仕方なく回収しに来たけど、本当なら姿を見せるつもりもなかったしね」


背中越しに親指で横島を指しながら、タマモはきっぱりと断言した。
ここに来る前、ジークに言い聞かされていたのだろう。迷いを一切見せていない。
そして横島の襟首を掴み、遠慮のない力で引きずっていく。


「お、おい、もうちっと優しくしてくれ!首が絞まってるっての!」


「だったら自分で歩きなさいよ」


「後ろ向きで引っ張られてるから、うまく立てんのじゃー!」


ぎゃーぎゃーと騒がしくしながらこの場を離れようとしていた二人を、エヴァンジェリンが慌てて呼び止める。
場の空気に流されて、何も言い出せなかったが、このまま二人を返すわけにはいかないのだろう。


「ちょっと待て、何をいきなり帰ろうとしている」


その言葉を聞いて、タマモが面倒そうに振り返った。


「なによ」


「何じゃない。貴様らいったい何者なんだ?突然現れて、何の説明もなしに帰るつもりか?」


「だから言ってるでしょ、これ以上は話せないって。こっちにも都合があるの」


それだけを言い終えて、タマモは横島を引っ張っていく作業に戻った。


「だからいったん手を離せー!」


再び首を絞められながら、横島は苦しそうに文句を言った。もっともタマモはあっさりその抗議の声を無視していたが。


「ちっ、逃がすか。茶々丸!」


「了解」


エヴァンジェリンの声が聞こえると同時に、茶々丸が横島達の進路をふさいだ。機械仕掛けの瞳がどことなく、鈍い光を放っている。
一瞬にして辺りに一触即発の緊迫した空気が流れる。横島とタマモは否応なくその場に立ち止まる事を余儀なくされた。


「悪いがはいそうですかと、貴様らを逃がすわけにはいかん。何しろ大停電の夜から起こっている不可解な出来事に、説明がつくかもしれんのだからな」


物理的に周囲の温度が下がっていく。よく見るまでもなく、エヴァンジェリンの周辺から物騒な気配が漂っていた。
このまま横島達が帰ろうとすれば、ひと悶着ありそうだ。タマモが横島をつかんでいた手を離し、瞳を細める。
急に支えを失ってしまったために、本日何度目かも分からない地面への接触を果たした横島も、あたふたと慌てて立ち上がった。
正直、この魔法使いの少女の物騒さは、あそこにいる魔族とどっこいどっこいだ。まともに戦えばえらい事になる。
かといって逃げるのも難しそうだ。

拘束されていた横島にはわかっている事だが、茶々丸と呼ばれている、おそらく人造人間の少女も一筋縄ではいかない。
なんとか、戦いが始まる前に、彼女達とタマモを説得しなければならない。
横島がなけなしの勇気を振り絞ろうとしたその時、別の場所から彼女達を止める声が聞こえた。


「ま、待ってよエヴァちゃん。そんな事してる場合じゃないでしょ。何かすっかり忘れてるみたいだけど、あの怪物に木乃香が捕まってるのよ!」


身振り手振りを交えながら、焦った様子で明日菜が大きな声を上げた。


「そりゃ私もこの人たちのことは気になるけどさ。でもこれ以上、木乃香を放っておけないよ。それに一応刹那さんの恩人なんだし」


ちらりと横島を一瞥し、すぐにエヴァに向き直って明日菜は彼女を説得した。


「そうですね、急いで木乃香さんを助けないと」


すかさずネギもそれに同調する。口には出していなかったが、ネギも明日菜もずっとそのことが気になって仕方がなかったのだ。
刹那の無事が確認できた以上、どれだけこの謎めいた二人連れが気になったとしても、仲間を助ける事を優先したい。


「う・・・しかしだな・・・・・ちっ、仕方ない。まずは近衛木乃香の救出が先か・・・」


二つの真摯な視線にさらされ、さすがにこれ以上の追求をあきらめたのか、エヴァがたじろいだ様子で頷いた。
到底納得しているようには見えないが、それでも優先順位ははっきりしているのだろう、
一度だけ口惜しげに横島達を睨みつけ、ネギ達と相談を開始する。


「だが、救出とはいっても簡単にはいかないぞ。何しろ奴の体内に取り込まれているのだからな。
あれをバラスのは簡単だが、さっきのような大規模な殲滅呪文を使えば、近衛木乃香まで巻き添えにしてしまう」


「どうにかして木乃香さんの位置を特定できませんか?」


「そいつは難しいんじゃねーか。いくら闇の福音とはいえ魔法も万能じゃねーし、出来る事と出来ない事があるぜ、兄貴」


「黙れ小動物。しかし確かにこの獣の言うとおりだ。あらかじめこちらで、位置を特定できる物を持たせていれば、話は別だが」


「彼女の魔力をたどるのはどうですか?」


「さっきからやってはいるが、まったくわからん。何らかの妨害が働いているのかもな、それに魔力感知はもともと大雑把なものでしかない。
それにだ、仮に位置の特定に成功したとしても、生半可な攻撃は通じないだろう。奴の再生能力は異常だ、やるなら相応の攻撃力がいる」


「でも、そんな事したら木乃香が危ないんじゃないの?」


「そうですよ、木乃香さんまで傷つけてしまったら・・・」


いつのまにか横島達をそっちのけで、ネギ達が頭を寄せ合い知恵を絞っている。
好都合ではあるのだが、別れの挨拶もなくこのまま消えるのに、少しだけためらいを覚えてしまう。


「なぁ俺達帰っちまっていいのかな?」


「なによ、むこうが無視してんだからおとなしく帰ればいいじゃない」


せっかく、揉め事を起こすこともなく穏便に済ませそうなのだ。これ幸いにと撤退してしまえばいい。


「でも、あの子らだけで、その、木乃香っていうのか、その子を助けられると思うか?」


「何が言いたいのよ」


「いや・・・・・・ジークの作戦がもし成功したら、全部うまくいくんじゃないかって・・・」


頬をかきながら、横島が気まずげな視線をタマモに向けた。ここに来る前、ジークが横島達に提示した例の作戦。
文珠を使った魔族本体と依り代の分離が、もし成功すれば、囚われている木乃香も同時に魔族から切り離せるのではないか。
少なくとも、いま明日菜たちが相談している、木乃香がいる部分を探知し、
魔法で切り離すという案より安全に人質を救出できるのではないか。
たどたどしい口調で横島は自分の考えをタマモに話していく。


「あんたねぇ。そのことはさっき結論が出たでしょう?ジーク自身が認めたじゃない、ただの思い付きだって」


「そりゃまぁ、そうなんだが・・・・・俺らが帰っちまったらその子は・・・」


タマモが腰に手を当てながら、聞き分けのない子供に言い聞かせるようにして横島を説き伏せる。
ジークが立てた作戦の成功率自体、相当低く見積もらなければならないだろうし、そもそもの根拠も当てにならないときてる。
タマモには自殺願望などない。命を掛けなければならないほど、その木乃香という少女と関わりを持っているわけではないし、
好き好んで死地に立とうとするほど、博愛精神にあふれてはいないのだ。
それは横島も同じだろう。何しろこの男は、この世で一番大事なものは、自分の命だと公言しているのだから。


「私達、その子の事、ほとんど何も知らないのよ?それに仮にやるとしても、一番危険なのは、横島、あんたじゃない」


なにしろ文珠を使えるのは横島だけなのだ。しかもその使用には、ある程度あの怪物に近づく必要がある。魔族に気付かれてしまえばアウトだし、
もし接近できたとしても、本当に文珠が効くという保証もない。一撃加えて効果がなければ、待っているのは確実な死だ。
この世界で自分以外の霊力を感じたら、デミアンは間違いなくその能力者を生かしてはおかないだろう。真っ先に殺しに来るはずだ。


「そんな事は言われんでもわかってるけどな・・・・・・・・・俺は・・・・・」


顔をうつむかせ、葛藤している横島を、しばらくの間タマモは見つめ続けた。そして、今日一番の深いため息を盛大につく。


「要するに、その子を助けたいのね。あんたは」


付き合い自体はそれほど長いとはいえないが、それでも、この分かりやすい男の考えている事は、なんとなく分かる。
どこか甘いのだ、こいつは。結局のところ、その娘を見捨てる事ができないのだろう。
かといって自分から命を掛けると言えるほど、勇気があふれているわけでもない。


(本当はこんなのは、私の役目じゃないんだけど)


横島の背中を後押しするのは、自分ではなく、美神の役目だ。
うつむいたまま動こうとしない横島を引っ張って、タマモはネギ達の方へと向かっていった。
突然自分の腕を引っ張って、ずんずんと進んでいくタマモに驚きながら、されるがままにされていた横島の耳にネギ達の声が聞こえてくる。


「やはり、やってみるしかあるまい。多少の危険に目をつぶらなければ、何も出来ん」


「でも、せめて木乃香さんが何処にいるのか位は把握しないと」


「そうだぜ、いきあたりばったりで失敗するわけにはいかねぇんだ」


「そんなものは戦いながらでも探るしかない・・・・・言いたくはないがな、時間がたつほど、あいつは」


「聞きなさい」


不意にネギたち以外の声が、その場に響いた。
事が魔法に関することなので、ほとんど口を出せずにいた明日菜が、声のした方向を振り向く。
そこには、刹那を助けてくれた男と、自分と同い年くらいの少女の姿があった。
鋭い目つきで、明日菜たちを見つめ、本当はこんな事を言いたくないといわんばかりに、不本意そうな顔をこちらに向けている。
そして、その表情のまま一方的に話を開始した。


「あんた達だけじゃ、その木乃香って子を助けるのは無理よ。分かってるでしょう?人質が傷つくのを恐れて、ちまちま攻撃しても埒が明かないって」


いきなり会話に割り込んできた上に、そんなことを言われれば、当然反発する人間がここにはいる。


「余計なお世話だ。関係ないものが口を挟むな」


「確かに関係はないわね。でも、それでもこいつはその子を助けるつもりみたいよ」


ぐいと横島の腕を引っ張り明日菜たちの前に出す。


「何?」


「いいから黙って聞きなさい。詳しくは説明しないけど、私達はあの怪物を倒す手段を持ってるし、その子を助ける事もできる。
木乃香って子の無事を願うなら、私がこれから言う作戦に協力して頂戴」


タマモがまったくの無表情で、立て続けに言葉を並べていった。協力を請うているにも関わらず、愛想の一つも見せてはいない。
それも当然かと横島も思う。タマモは最初からジークの作戦には乗り気でなかったし、それは今も変わらない。横島に付き合ってくれているだけなのだ。
だがそんなことより聞き捨てならない事を口にしなかっただろうか?


「お、おい。作戦に協力しろって、この子らも巻き込むんか?俺らの事は・・・」


「分かってるわよ。私達の事情を話す気はないわ」


その心配は当然理解していると、タマモが横島に向けて一度頷く。


「ちっ、何を言うかと思えば。・・・ろくに自分達の素性も明かす気がない輩を信用しろというのか?」


「無理に信じる必要はない。あなた達も私達を利用すればいい」


「だから!利用するにも、貴様らの事が何一つ分からんのでは、無理だと言ってるんだ!」


「わかった。最低限のことだけ言うわ」


相手の剣幕を受け流すように、タマモは冷静な声で説明を続ける。


「あのデミアンって奴を倒すには、本体をたたく必要がある。
今見えているのはあいつが操っている死肉みたいなもので、どれだけ攻撃しても意味がないのよ。
だからまずはあいつの本体を表に引きずり出さなきゃならないわ。それはこいつの力があればなんとかなる。
そして、その過程で木乃香って子も怪物から切り離されるはずだから、
あなた達はその瞬間に備えて欲しい。空中で飛び出してきたら、誰かが受け止めないといけないから」


本当に最低限の事を早口で説明していく。なぜデミアンの正体を知っているのか、本体を引きずり出す具体的な方法など一切説明していない。
もちろんそれらを話すわけにはいかないのだが、そんな説明で一方的に協力させようとしても、怒らせるだけなのではないかと、横島に一抹の不安がよぎる。
案の定その説明を聞いたほとんどの人間が、渋い顔を見せた。黙って聞いてみればあまりに都合のいい話だ、疑いを持たないわけがない。


「あの・・・ちょっといいですか?」


「なに?」


「その本体を引きずり出すってどうやって?」


「答えられない」


「そもそもあのデミアンって怪物に、本体があるってのを何であんたが知ってんだ?」


「それも答えられないわ」


遠慮がちに質問してきたネギと、その肩に乗っているカモの疑問をきっぱりと却下して、タマモは続きを話し始めた。


「でも問題がないわけでもない。ある程度の距離までこいつをデミアン近くに連れて行かなければならないの。それをあいつが黙ってみているとも思えない」


この作戦の一番のネックは間違いなくそこだろう。一応”隠”の文珠を使えば、なんとかなるかもしれないが、今回の標的は湖の中にいるのだ。
そこまで歩いていくわけにはいかないし、タマモに頼んで空から行くという案もあるにはあるが、ちょっとした事情でそれが出来ない。
一度”隠”れてしまうと横島を掴んでいる感触すら失われてしまうのだ。互いが互いの居場所を見失ってしまうので、綿密な連携が取れなくなる。
そして一番の問題は、文珠の力で”隠”れても何故か水や鏡には姿が映ってしまうという事だ。横島自身もその事に気が付いたのは結構最近だったりする。


「つまり、この人をあの怪物にばれないように近づけさせればいいってこと?」


なんとか話しについていこうとして、明日菜が難しい顔でうんうんと唸っている。


「確かにあれだけの巨体なら、うまく死角をついてやれば、接近できるかも知れねぇが」


小動物であるにもかかわらず、こちらも明日菜と似たような顔で、うまく表情を作っている。


「でも、それなら囮が必要なんじゃないかな?湖の上じゃ隠れる事もできないし、近づくのが一人だけだと目立ってしょうがないよ」


大きな杖を握り締めながら、ネギが意見を出していく。
いつのまにか、すっかりタマモが話していることを前提にして、作戦会議を進めている。
なんというか順応能力が高い子供達だ。こんなにあっさり信じられてしまうとこっちとしても釈然としないものがあるのだが。
横島が苦笑しながらタマモと顔を見合わせた。


「ちょ、ちょっと待て、お前ら。何故いきなりこいつらの言っている事を信用しているんだ?」


この中で一番横島達を疑っているだろうエヴァンジェリンが、慌てて仲間達に警告を発する。


「だって、考えてみたら、この人たちが私達をだます理由が思いつかないし・・・・・」


「まぁ確かに素性を話さないのは気になるけど、それはこっちもお互い様だしなぁ・・・」


「それに、刹那さんを助けてくれた恩人ですし、一刻も早く木乃香さんを助けるためにも、やれる事をやらないと・・・」


二人と一匹が互いに頷きあって、目的を一つにする。何処からか、一人はみんなのために、みんなは一人のために、と聞こえてきそうだ。


「お、おまえら・・・」


いつのまにか少数意見の側に立たされたエヴァが力なく呟いた。いつまでも疑り深く警戒している自分が馬鹿らしく思えてくる。


「えぇい、わかった、わかった。私も協力すればいいのだろう!?協力してやるとも!」


今でも、この怪しい二人を信用しているわけではないが、ネギ達の言う事にも一理ある。
年長者である自分がしっかりと警戒していればなんとかなると、エヴァはやけくそ気味に自分を納得させた。


「苦労してんだな・・・エヴァちゃんて言うんか?」


「同情するな!それと、なれなれしいぞ貴様っ!」


なんとなく親近感を感じた横島が、生暖かい視線をエヴァへと向けたのだった。




おまけ




「そういや、ネギっつたっけ、おまえ。片腕が石ってのは、あれか?変わった体質かなんかか?」


「んなわけあるか!ってそうだ兄貴。石化の魔法も早いとこなんとかしねーと」


「あん、それ魔法でそうなったんか?だったら、ほれ」


「あっ、すごい!治ってる」


「んじゃ、とっとと行くかー。なんか知らんが、あのエヴァって子、すげーおっかねーし」






◇◆◇






夜空を照らす月を眺めながら、デミアンは湧き上がってくる笑いの衝動を抑えることができなかった。
体内を循環する霊力の脈動が、今も心地よく感じられる。
霊力が存在しないこの世界では、デミアン自身も詳しく理解できてはいない”魔力”を己の中で霊力に変換しなければならない
確かに霊力の代替品としては、かなりの物だったが、それでも、完全に自分の霊力を補完できているわけではないのだ。
簡単に言えば無駄がある。”魔力”を霊力に変換する時点で一定量の取りこぼしが発生するのだ。

そのため、燃料タンクである魔法使いの魔力は多ければ多いほどいい。上級魔族である自分の腹を満たすまでには程遠かったが、
それでも今回の獲物は特上級の大当たりだった。器自体は長い間封印されていた事も影響してか、魔力自体は大して残っていなかったが、
それでも、自分の霊力で肉体を再生しきってしまえば、相応の魔力を取り込めるだろう。
今は都合のいい”予備タンク”もある事だし、このまま、もう少しの間待っているだけで自分は完全に復活を果たす事ができる。

そうなったらまずは何をしようか?デミアンは頭の中で少し先の未来を夢想する。
何しろ今までは蝉のように暗い地中で、己の霊力を温存する生活を強いられていたのだ。
待望の自由をこの手にした今、少しくらいの無茶は許されるだろう。
そうだ、とりあえず京都の町を廃墟にしてしまおう。そこに存在する人間をおもうさま蹂躙し、阿鼻叫喚の地獄絵図を現実にしてしまおう。
どのみちこの世界では、自分を傷つける可能性を持つ存在はいないのだ、なぜなら霊力を持っている者が一人もいないのだから。
頭の中で、か弱い虫けら共が、哀れな悲鳴を上げて逃げ惑う姿を想像し、デミアンは一人満足げに口元を吊り上げた。

その時、視界の隅に動くものを見つけた。顔を動かし見てみると、
先ほど少しだけ遊んであげた吸血鬼の娘が、一人ゆっくりとデミアンの眼前に浮かび上がってくる。
どうでもいい事なので、すっかり忘れていたのだが、そういえば、この娘とは遊ぶ約束をしていたのだった。
ただの吸血鬼にしては御大層な力を持っているようで、調子に乗ってデミアンの体をバラバラにしてくれたのだ。
もっとも、あれはこちらの茶目っ気で、わざと抵抗しなかったからなのだが・・・・・。


「あら、もうさっきの娘と、お別れは済んだの?それなら約束通り遊んであげてもいいのだけど・・・」


うつむき加減でこちらを睨みつけてくる吸血鬼の娘を、なぶるように見つめる。この様子ではさっき自分が叩き落した娘は苦しんで死んだのだろう。
特に手加減したわけでもないので、即死していなかっただけ運がよかったのだろうが、その分苦痛は長引いたのかもしれない。
心地よい敵意が、デミアンの体に注がれていった。


「なによ、返事くらいしたら?それとも、すぐに始めるつもり?せっかくの情事なのだし、
じっくりと愛撫から始めてほしいものだけど。せっかちなのは嫌われるわよ?」


わざとらしく、くねくねと体を動かしながら、挑発するように言葉を口にする。
しかしそれでも彼女は一向に返事を返さない。ただ暗い瞳でこちらを眺めてくるだけだ。
さすがに、違和感を感じて、いぶかしげな視線を目の前の相手におくる。
その後もいろいろな言葉でさまざまな挑発を繰り返したのだが、一向にまともな反応を返さない。
さっきまでとは、まるで別人のようだった。


「あのねぇ、私も暇じゃないから・・・・・いえ、今は結構暇なんだけど・・・そういう事じゃないのよっ!
とにかく、やる気がないなら帰ってくれないかしら、目の前に辛気臭いのがいると、せっかくのハッピーな気持ちが沈んでいっちゃうのよね」


これから自分が行うはずの殺戮を想像して、ほっこりと胸と股間を熱くしていたというのに、
こんな不景気な空気をばら撒かれてはたまったものではない。
いろんな意味で消ちんしてしまう。しかし・・・・・それでも返事を返さない。

いい加減イラついたデミアンは、眦を吊り上げ、警告なしで攻撃を開始した。
両腕の触手から、凄まじい威力の霊波砲が放たれた。月明かり程度の光源しかない山間の景色が昼間のように照らされる。
垂直に走った稲光のごとく、その攻撃は尋常ではない速度で標的を滅ぼさんと、直進していった。
吸血鬼の娘が慌てて回避行動をとるべく動き始める。
きっぱりと遅すぎる動きだったが、どのみち最初の一撃を当てるつもりはなかったので、霊波砲は彼女のすぐ脇を高速で通り抜けていくだけだった。

デミアンとしても、遊び相手をいきなり失ってしまうのは、少し残念なのだ。
いかに強力な力を持っても、その力をふるう相手がいなければ、面白みがない。
その点この吸血鬼の娘は、合格だ。霊力がないので、闘争の相手としては不十分だったが、遊びの相手くらいは務まるだろう。
出来るだけ抵抗してくれればその分楽しめる。警告は今の一撃で十分だろう。

これからどんな反撃を行うのか楽しみだと、デミアンは舌なめずりをして待っていた・・・・・・のだが。
肝心の遊び相手は、今の一撃に肝を冷やしたのか、先程より遠く距離をとって、こちらを観察してくるだけだった
たかだか山を削ったくらいで、何を情けない事をしているのか。本当にさっきとは別人のように臆病だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・別人?
何かがデミアンの心に引っかかる。姿かたちは先程の吸血鬼とまったく同じなのだが、何かがおかしい。
どちらかといえば、好戦的な相手で、こちらの悪ふざけにもツッコミを入れてくるタイプだったはずだ。
それが、一度姿を消して、再び現れたこの娘は、お世辞にも戦いを楽しむタイプとはいえない。
それに・・・・・そういえば、さっきから一度も喋っていないのじゃないだろうか?


「・・・・・・・・・なるほどね。どういうつもりか知らないけど、あなた・・・・・ってそこよ!!」


会話をするつもりで言葉を発しつつ、周囲の気配を探っていたデミアンが、
吸血鬼とは反対側の湖を、滑るようにして、高速で接近してくる影を見つけた。
その影に向かって霊波砲を放つ。湖全体が振動を起こしたような轟音とともに、デミアン本体よりも大きな水柱があがる。
実際に地盤にも影響を及ぼしたのか、僅かの間地面がぐらぐらと揺れていたような気さえした。
着弾した箇所の水を完全に蒸発させ、しばらくの間、スコールを降らせる。文字通りの局地的な災害だった。


「なーにかおかしいと思ったら、あんた偽者ね?そういえば、さっき殺した子の他にも、うろちょろと誰かがいたみたいだけど、
その子のうちの一人でしょう?
まったく、あの吸血鬼の子は小細工が苦手なタイプかと思ったけど、意外に仕掛けてくるわね。でも残念。
私って力押しも得意だけど、別にこういう駆け引きが苦手って訳でもないのよ。
今の攻撃で本命も蒸発しちゃっただろうし、別人なら、あなたに用はないわ
私って優しいから、・・・・・・苦しまずに殺してあげる」






                  「いいや、死ぬのは貴様だ」






手品師のトリックを見破って、得意げに自慢する子供のように、はしゃいだ声を発したデミアンの足元で、絶対零度の声が響く。
その巨大すぎる姿と比例して、相応の大きさを持つ影の中から、ずるりと、小さな人影が這い出してくる。
そしてその傍らには、半分泣き出しそうな顔をした、貧相な姿の横島がいた。
エヴァにとっては、なんと言う事もない影を使った転移魔法。それを使って一気に標的へと接近したのだった。
転移前から、準備していた二つの文珠に霊力をこめる。そしてありったけの願いと共に、巨木のように大きな怪物の足元で、文珠の力を解放した。




”分””離”




横島の霊力を受けて膨大な光が湖を照らし出す。
文珠から放たれた緑色の光が照らし出すその光景は、まるで妖精が踊る幻想の世界を演出するように美しく光り輝いていた。
同時に不気味な怪物、デミアンの体がビクリと震える。
完全に硬直し、その動きの一切を停止して、次の瞬間にはその醜い口元から、禍々しく紅い光を放つ小さな水晶玉が飛び出してきた。


「あれ?」


間抜けな声が聞こえる。空中に投げ出されキラキラと光り輝くその姿は、月明かりを反射して夜空の中で盛大に目立っていた。


「タマモ!!」


「・・・大声出さなくても大丈夫よ」


先ほどから一切の言葉を話さずに、空中にたたずんでいたエヴァの姿が、別の存在へと変わる。
そこには、大きな杖にまたがるネギと、その背につかまって、顔色を青くしているタマモの姿があった。
彼女の瞳が一瞬緋色に変化する。そして次の瞬間には、空中をくるくると回転しながら落下していたデミアンの本体が猛烈な炎に包まれていた。
その様子を最後まで見届け、腕に装着した霊力探知機に視線を送る。そして膨大な霊力反応が消えたのを確認すると、タマモはようやく緊張を解いた。


「あぁ・・・・・・・・・・・・・・・しんどい」


がっくりと肩を落とし、器用に杖の上で膝を抱える。正直、自分達に向かって霊波砲が放たれたときには、死を覚悟した。
幻術を使ってエヴァに変装したまではよかったものの、声を出せば別人だと気付かれてしまう可能性が高い。
声色はなんとかなっても、性格まではコピーできないからだ。実はタマモは演技がそれほど得意ではないのだ。
昔一度美神親子にあっさりと見破られた事がある。・・・その時はおキヌちゃんに化けたんだっけ。


「た・・・・おし・・・たんですか?」


震える声で、前に座っているネギが声を掛けてきた。タマモ同様生きた心地がしなかっただろう。何しろあの威力を一番近くで見ているのだ。
いまでも、ほんのすぐ傍を通っていった光を思い出すだけで、身がすくむ。大気自体が怒りを表したかのようにびりびりと震えていったのだ。
霊力をまったく持たないネギにしてみれば、威力もさることながら、その異常性に文字通り魂を握りつぶされるほどの悪寒が走ったはずだ。


「えぇ、ケリはついたわ・・・一応ね」


しばらくの間、動く事ができずに、タマモとネギの二人はその場に居続けていた。
しかし、いつまでもそうしている訳にもいかない。
声が震えないように気をつけて、なんとか言葉を搾り出したタマモが、今も森で待っている明日菜の元に向かうように指示をだす。
その言葉を聞いて、ネギは素直に高度を下げていった。
心配そうにこちらをうかがっている明日菜の姿が、次第にはっきりと見えてくる。
再び転移魔法を使ったのだろう、そこにはすでに横島達の姿もあった。


「おかえり」


「ただいま」


言葉少なにお互いの無事を確認し、安堵の息をついた。横島自身も緊張が完全には解けていないのかもしれない、この男にしては驚くほど静かだった。
そして、すぐさま違和感に気がつく。自分達と同じく仲間と無事を喜び合っていいはずのネギ達の様子が、何かおかしい。
気になって、その事を横島に尋ねると。


「木乃香ちゃんが見つからないんだ」


声を低くして、横島がタマモにそう答えた。
綺麗な形の眉を寄せて、どういうことかと質問する。


「わかんねぇ。分離の文珠は確かに成功したんだ・・・そう思うんだが・・・・・・
つーか本体が出てきたのに、ただ巻き込まれただけの木乃香ちゃんが出てこないってのは・・・」


横島自身も分からないのか首を捻っている。
一応、水中に投げ出された可能性も含めて、エヴァと一緒に周囲を探索したらしい。
文珠を使用してまで、調べたらしいのだが、彼女の姿は見つからなかったそうだ。
少し離れた場所で、ネギに、木乃香の姿を見ていないかと尋ねる明日菜の声が聞こえた。

確かにあの瞬間空中にいた自分達が、一番彼女を見ている可能性が高い。
にもかかわらず、まったくそれらしい姿が怪物から出てきた所を見ていないのだが。
ネギもそうなのだろう。明日菜の問いかけに弱弱しく首を振っている。
その姿を眺めながら、もう一度湖に視線を移した所で、急に首筋に氷を押し当てられたかのような寒気が走った。
最悪の想像が頭をよぎる。本体が死んでも、いまだ健在の化け物の姿がタマモの瞳に映っている。


「もしかしたら・・・・・いえ、まさか、そんな・・・・・」


「お、おい、どうした、タマモ?」


大きな瞳を目いっぱい広げ、口元を震えさせているタマモに横島が尋ねた。


「横島、分離は確かに成功したのね?」


怖いくらいに真剣な声でタマモが横島に確認する。


「あ、ああ。・・・手応えはバッチリだった。実際本体も出てきてたし・・・」


その言葉を聞いてタマモが黙り込む。顎に手を置いて何かをじっと考えているようだ。


「おい、タマモ、いったいなんだってんだ?なんか思いついたのか?」


そんなタマモの様子に不安を覚えたのか、横島らしからぬ表情を見せている。
何度かタマモに問いかけ、それでも彼女は答えない。
しかたがないので、しばらくの間おとなしく黙っていた横島に、やがてタマモがゆっくりと重い口を開いた。


「・・・・・木乃香ちゃんは戻らないかもしれない」


表情を暗くして、タマモがうつむく。


「・・・・・何だって?」


聞こえてはいたのだが、その言葉があまりに不吉だったので、聞き間違いかと、横島がタマモにもう一度、確認するように尋ねた。


「・・・・・だから、彼女はもう戻ってこないかもしれないって言ったの・・・」


「どういうことですか?」


突然聞こえてきたその声に、慌てて横島とタマモが声の聞こえた方向を振り向く。
そこには、いつの間に現れたのか、横島達のすぐ近くにいる明日菜の姿があった。
木乃香を見ていないか、横島達にも確認に来たのだろう。
顔面を蒼白にして、タマモを見ている。


「・・・・・どういうことですか?・・・・・もう木乃香が戻ってこないって・・・」


タマモが思わず舌をうつ。話に集中していたせいで明日菜の接近に気がつかなかったのだ。


「・・・それは・・・・・・」


「答えてください!!」


血の気が引いたまま幽鬼のようにタマモを睨みつけてくる。嘘やごまかしは許さない、その瞳は無言でそう告げている様だった。
タマモはしばらくその瞳を見つめ、やがて、根負けしたように、途切れがちに説明を開始した。


「さっきも言ったけど、こいつの力はあの怪物から本体を分離させる事ができるの。それは本体に限った事じゃなくて、
怪物に囚われた木乃香ちゃんにもいえる話で、予定ではどちらもうまくいくはずだったのよ・・・だけど直接怪物を操っていた本体は出てきたのに、
巻き込まれただけの木乃香ちゃんは出てこなかった。そこで私は一つの仮説を立てた。出てこなかったんじゃない、初めからいなかったんじゃないかって」


「い・・・いなかった・・・?」


「詳しい説明は省くけど、あの怪物が木乃香ちゃんをさらったのは、彼女が凄い魔力を持っていたから。
奴にはそれが必要で、そのために彼女を吸収した。
・・・・・いい?吸収したの。人質として使うなら、そのまま捕らえていればいい。何も体内に彼女を入れる必要はないわ。
でも実際は木乃香ちゃんを体内に取り込んでしまった。それはおそらくその方が彼女の魔力を吸収するのに都合がよかったから。
そしてこいつの力が効いているはずなのに、彼女が出てこなかったのは・・・・・・・・・・・・・・奴が・・・彼女を・・・」


「やめて!!!」


明日菜が大声でタマモの説明を遮り、耳をふさいで、その場にしゃがみこむ。
力を入れすぎて両手が白くなるほど、かたくなに耳を閉じていた。もうこれ以上は聞きたくないと全身で表している。


「おい・・・・・今の話は本当なのか?」


明日菜の様子がおかしかったので、見に来ていたのだろう。タマモが視線を向けるとエヴァやネギが不安げに尋ねてきた。


「こんな事で嘘なんていわないわ。こっちも聞くけど、誰も木乃香ちゃんを見てないのね?」


確認するようにタマモがネギたちに質問を返す。
・・・・・・・誰もが力なく首を振るだけだった


「そう」


それだけを呟いてタマモも口を閉ざした。
重い沈黙が流れる。横島は呆然として、うずくまったまま動こうとしない明日菜を見ていた。
・・・・・実際、思っても見なかった結末だった。文珠がうまく発動した瞬間は、作戦の成功を微塵も疑っていなかったのだ。
デミアンは倒され、木乃香も無事に助け出される。あの刀使いの少女もなんとか助ける事ができたし、このままめでたしめでたしで終わるはずだと。
しかし現実に訪れた結果は全然めでたいものではなかった。怪物は倒されても肝心の少女の命は守られなかった。






・・・・・・・・・・・・・・・死が・・・・・非情である事を、横島は知っている。





一度経験した。





死が非常で容赦もなく、こちらの感情などあざ笑うように唐突に訪れる事を、横島はここにいる誰よりも理解している。
だからこそ嫌だったのだ。どうしても、見過ごす事ができなかった。あの刹那という少女が、怪物に吹き飛ばされた時、
心臓が凍りつく感じがした。鼓動は止まり、自分自身も死んでしまったのではないかと思えるほど、頭の中が真っ白になった。
絶対に救わなければならない。大して知りもしない他人事?・・・しったことか。
感情が肉体を支配して、足が勝手に動き出す。何故そんなことが起こったのか、理解したのは走り始めてからだった。
あの時、心の中を占めていた感情はたった一つだけだった。


・・・・・結局・・・自分は・・・・・・・・・・・・・。


どうする事もできなくなって、やけくそ気味に、湖の怪物を睨みつける。
本体はとっくに死んでいて、消えてなくなってもいいはずなのに、いまだにその巨体を水に浸している。


(くそいまいましい、何だって、てめぇの方が生きてるみたいに突っ立ってやがんだ)


木乃香ちゃんは居なくなってしまったというのに。歯がゆい思いをしながら、鋭い目つきで怪物、デミアンを睨みつけていたその時、
何故か、横島の頭の中でジークとの会話が思い起こされた。


(ああ、知っている。私と横島君は奴と一度戦ったことがある。だから、その能力もある程度理解しているし、弱点も把握している)


何でこんなことを思い出す?


(覚えてないのか?君と初めて出会ったときのことだ。妙神山で美神令子を襲った刺客がいただろう?)


・・・・・いったいなんで。


(あのガキなら美神さんにしばかれて、死んじまったじゃねーか)




・・・・・まて



(死んだ?)


急激に体温が低くなっていくような、錯覚を覚えた。何か大事な事を自分は忘れてしまっている気がする。


(なんだ?何を忘れてんだ?・・・・くそ、思い出せん。ちきしょう、このポンコツ頭め。
あのガキが美神さんに倒されたからって、それがなんだって・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これか?)


慌てて怪物の姿をつぶさに観察する。
最初からまったく変わってない。違うのは本体を失ってこれ以上動く事がないということくらいだ。


(いや待て、落ち着け。仮に俺が思う通りなんだとしても、だからってどうすりゃいいんだ?)


自分には出来る事と出来ない事がある。しかも、どちらかといえば、できない事のほうが多いくらいだ。
どれだけなんとかしたいと願っても、絶対的な現実に抗う術を横島は持っていない。


・・・・・だが。


うつむいて拳を握り締めた横島の耳に、かすれてほとんど聞くことの出来ない、小さな、今にも消えてしまいそうな儚い声が聞こえた。



「・・・・・たすけて」



・・・・・・・・ああ・・・・・・・・・・聞いてしまった・・・・・・・・・・・・・・・。



現実を否定し、それでも何とかしたいと、誰かに助けを求める声だ。
自分の力が及ばないから、泣きたくなるほど情けない気持ちになって、でも、それでも、こんな現実は認められないと、
心の奥底、魂の深くまで、自分自身を投げ出すような、そんな、命そのものの声だ。


一度だけ、きつく、きつく、目を閉じる。


本当は方法はあるのだ。


反則じみた、切り札ともいえないような、やけくその一手が。


ジークは今回の作戦を話すとき、賭け事の例えを言っていた。ルールも曖昧で、倍率も知らされない、誰もが避けるだろう賭けだと。
思わず笑ってしまう。これから横島がしようとする事は、そんな生易しいものではない。
ルールや倍率など初めから存在しない。賭ける物が命というのは同じだが、結果がどう転ぼうと同じ事でしかない。
そう、成功も失敗も同じなのだ。自分にとっては。しかし、ひょっとしたら、木乃香や明日菜にとっては違うかもしれない。



だから、これからそれをするのは、彼女達にそうするだけの価値があると、自分自身で思ったからだ。



声を殺して泣きながら、今もまだ、うずくまったままの明日菜を見る。
大声で泣いてしまえば、木乃香が居ないという現実を認めてしまいそうで、必死になって我慢しているのだろう。
横島はそんな彼女の前まで来ると、ゆっくり膝を曲げて、明日菜の視点に顔を合わせた。




「名前、教えてくれないかな」




横島らしからぬ、ひどく優しい声だった。
明日菜が涙で濡れた瞳を横島に向ける。
急に名前を尋ねられて、戸惑いもあったはずだ。
それでも彼女がその問いかけに素直に答えたのは、涙でぼやけてよく見えないその顔が、とても優しかったから・・・・・。



「・・・・・あ・・・すな。神楽坂明日菜です」



本当はとっくに知っていた。京都に来る前から、ジークに名前を聞いていたし、今日は朝から隠れてつけまわしていたのだ。
だから、これは儀式のようなものだった。横島が覚悟を決めるための、独りよがりの勝手な儀式だ。
目を閉じて俯きながら、一度だけその名前を反芻する。



かぐらざかあすな



そして、今までの暗い雰囲気を全て吹き飛ばすような、明るい笑顔を彼女に向けて、その男はこう言った。





「俺の名前は、横島忠夫。・・・・・明日菜ちゃん、君の友達は、俺が助ける」







[40420] 11
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:7044d248
Date: 2015/07/07 21:08
あれはいつの頃だったろうか・・・・・。

美神の命令で、妙神山へ、使いに行ったことがあった。
緊急性のあるものではなく、美神自身が忘れていたほど、
用件自体が、大したものではなかったのもあって、横島に白羽の矢が立った。
当時抱えていた仕事が、一段落した後、顔を見せるついでに行って来て欲しいと頼まれたのだ。
そう言われれば、横島に断る理由はない。

あの一件以来、会ってなかった、パピリオの顔も見ておきたかったし、何よりあそこには小竜姫が居る。
たどり着くまでの道が険しいので、自ら進んで行きたい場所ではないのだが、用事があるならばちょうどいいと、快く引き受けたのだ。
今思えば、あの時美神は、気を使ってくれたのかもしれない。
一緒に行くと駄々をこねたシロに仕事を押し付けて、横島一人を使いにやった。
妙神山まではかなりの距離がある。
交通機関を利用し、険しい山道に息を切らせながら、やっとの思いでたどり着いた横島を、小竜姫達は歓迎してくれた。
ひとしきり再会を喜び合ってから、とりあえず美神の用事を済ませた後、
互いの近況や、思い出話に花を咲かせて、楽しい時間をすごした。


たしか、その時だった気がする。


いまでも、何故そんな話になったのか、いまいち思い出せない。
たまたま、普段は引きこもっている、ゲームマニアの猿神がその場に現れたからなのか、妙神山が人間の修行場であるためか、
単に当時の話題が場に出ていたからだったのか。とにかく言えるのは、
いつのまにか話題が、横島の霊能力についてに移っていたのだった。


霊基構造という言葉がある。


大雑把に言ってしまえば、個人個人が持つ、魂の設計図のようなもので、人によってまったく違った作りをしている。
それは、指紋や網膜認証などより、はるかに正確な、個人の特定を可能にする。
例えば、SF世界のように、横島のクローン人間が生まれたとしても、霊基構造はまったく違ったものになる。
所々似ている部分があったとしても、全体を俯瞰すれば、やはり違ってしまうのだ。


そしてそれが、目に見える形で表れるのが、霊能力だろう。
普段人は、魂の力など意識しないしできないが、特殊な才能を持った一部の人間は、それを可能にする。
大抵は、生まれや体質で、ある程度、使える力の系統は、決まるものなのだが、
中には、世界で数人しか使い手がいないレベルの、レアリティを持つ能力者も存在する。
そういった人間が、どのようにして生まれるのか、今現在も、明確な解答を知るものはいないらしい。
だが、一つだけ確実なのは、その能力が、霊基構造に、しっかりと書き込まれているものだという事。
発現するプロセスを正確には理解できなくとも、魂に刻まれた設計図が、
確かに存在しているという事は、はっきりしている。
逆に言えば、一度発現してしまえば、それはどんな形であれ、その人間の一部であるという事だ。



それが、他人の魂を取り込んだ末の、歪にゆがんで生まれた結果なのだとしても・・・・・。



◇◆◇



「俺の名前は、横島忠夫・・・・・明日菜ちゃん、君の友達は、俺が助ける」


横島は、泣いている明日菜を安心させるように、優しい笑顔を向けて、そう言った。
驚いてこちらを見つめてくる明日菜の頭を、なんとなくいつもシロにやるように、
ポンポンと軽くたたいてから、ゆっくりとその場で立ち上がる。
これですっきりした。
彼女自身から名前を聞き、自らも隠していた名前を名乗った事で、見ず知らずの他人ではなくなった。
つまらないこだわりなのかもしれないが、横島にとっては必要な事だった。

視線を湖へと向ける。そこには何回見てもなれる事のない怪物、デミアンの巨体が存在している。
しばらくその巨体を見つめながら、横島はこれからするべき事を頭の中で整理していった。
先ほどの思い付きが、もし当たっているなら、
そして横島がこれからする事に成功しさえすれば、木乃香は明日菜の元に戻ってくる。
今言った言葉は、横島自身の覚悟を決めるために必要な言葉ではあったが、同時に自分を追い込むための言葉でもある。
言ってしまったからには、失敗はゆるされない。確実に成功しなければならなかった。
いつもの弱気癖が頭を掠めていく。これからする事を思えば、恐怖を覚えないわけがない。
無意識に震えそうになる体を強引に押さえて、横島は再び明日菜に向き直った。
すると、横島が振り返るのを待っていたわけではないだろうが、タマモが声を掛けてきた。


「横島、ちょっと来て」


声の調子が僅かに強張っている。
視線を厳しくさせて、タマモは明日菜達から少し離れた場所まで、横島を誘導した。
話が聞こえないようにするためだろう。頭を直接ぶつけてまでして、横島に押し殺した声で質問してくる。


「どういうつもり?」


「・・・・・・・言ったまんまだ。木乃香ちゃんを助ける。あの子のあんな姿を見て、黙ってられるか・・・」


明日菜はまだ立ち上がる事もできてはいない。感情が凍りついて、立つ事すら思いつかないのだ。
そんな彼女を仲間達が心配そうに見ている。誰も彼女に言葉をかける事ができないでいる。
横島はそんな光景を見たくはない。
本当・・・・・冗談ではない。


「そういう事を言ってるんじゃない。ごまかさないで」


語気を鋭くしてタマモは言葉を続けていく。


「あんたが何をした所で、どうしようもないでしょうが・・・・・死んだ人間は絶対に生き返らない」


本当は口に出したくないのだろう。タマモは目線を下に落として、それでもはっきりとした口調で、横島に告げた。


「そりゃ違う」


「違うって・・・・・まさか本当に生き返らせる事ができるっていうの?」


「いや、そっちじゃない。死んだ人間って方だ。木乃香ちゃんは生きてるからな」


なんでもないかのように、あまりに簡単に言い切ったせいか、その言葉が耳に入ってこなかったのかもしれない。
タマモは唖然とした表情を横島に向けた。


「は?」


彼女にしては貴重な表情だ。口元をだらしなく広げて、目を丸くしているタマモなど、めったに見られるものではない。
・・・・・いや、今夜に限って言えば、そうでもないかもしれないが。


「い、生きてるって・・・だって、あんたの”分離”は成功したんでしょう?なのに、木乃香ちゃんが出てこないのは・・・」


ついさっきの話では、というかタマモ自身の思いつきに過ぎない事ではあるが、・・・木乃香は死んでいるはずだ。
デミアンの体内で吸収されてしまったからこそ、文珠が正常に機能していたにもかかわらず、木乃香が表に出てこなかった。
最初からいない人間を分離させる事はできない。そういう結論だったはずだ。


「それなんだけどな。俺もさっきまで忘れてたんで、偉そうな事は言えんのだが、ちっとおかしいんだ」


「おかしいって・・・何が?」


「あのデカ物だよ。あいつがまだあそこで暢気に突っ立ってやがることが、すでにおかしいんだ」


湖に佇むデミアンの姿を指差しながら、横島はタマモに言った。


「ジークが言ってたろう?俺はあいつと・・・つーか、あいつじゃないデミアンと戦った事があるんだ。
そいつは、あんなでかくもなかったし、無駄にキャラが強い性格でもなかったんだけどな・・・。
気持ち悪い姿はそっくりだったし、
それとは別に本体が存在して、そいつを何とかしない限り、攻撃が効かないってのも一緒だった。」


今思い出しても、結構厄介な相手だった。
修行の成果で身につけた文珠の使い方も、あの時はほとんど分かっていなかったし、偶然に助けられた部分も大きい。
まぁ、美神も含めて、事務所の人間は、なんだかんだで悪運が強いので、なるべくしてなった結果と言えなくもないのだろうが。


「そいつは例によって美神さんにしばかれたんだが。そん時な、本体を倒したら操ってた偽もんの体も一緒に消えちまったんだ。
あんな風に無傷で残ってなんかいなかった。」


美神がデミアンを倒した瞬間を、正確に覚えているわけではなかったが、少なくともそれほど長時間、偽者の体が残っていた記憶はない。
というか、ほとんど同時に本体も偽者も消滅したはずだ。


「・・・・・なぁタマモ、あんだけ特徴が似てたのに死に際だけが別って事あるんか?
確かにあいつは美神さんが倒した奴じゃないけどさ、結局本体もちゃんといたし、そいつを倒したら、偽もんの体も動かなくなってる。
これって本当にただの偶然なんか?」


「そ、そんな事私に言われても・・・その・・・美神さんが昔倒したデミアンを知ってるのは、あんたとジークだけでしょ?
そいつの姿も知らない私じゃ、判断のつけようがないわ」


「まぁ、・・・そりゃそうか」


タマモの言っている事ももっともだ。当時の詳しい状況も知らないのに、、意見を求めたところで無理があるだろう。
後ろ頭をかきつつ、視線を空中に向ける。
タマモにも分かりやすいように、これから話すことを整理して、しっかりと説明しなければならない。
いってみれば、横島の思いつきなのだ、これは。それなりの確信があるが、願望が混じっている可能性も否定できない。


「・・・・・俺は、あのデカ物が、まだあそこに立ってるのには、ちゃんとした理由があるんだと思う」


見上げていた視線をタマモに戻し、努めて冷静さを意識して、落ち着いた口調で話し始める。
事が事だ。できれば彼女には、自分の考えをきちんと理解してもらい、その上で協力してもらいたい。


「理由って何?」


眉根を寄せ、瞳を細めて、タマモが横島に尋ねた。


「例えば・・・・・死んだはずの肉体に、別の魂が存在しているから・・・とかな」


「・・・・・それって木乃香ちゃんのことを言ってるの?」


タマモが腕を組みながら、まっすぐに横島を見つめてくる。
風もないのに髪の毛がゆれたように見えたのは、やはり気のせいなのだろうか?
タマモの正体は九尾の狐だ。
人間の姿でも、その特徴は、髪形に表れていたりするので、ひょっとしたら、自力で動かせるのかもしれないが。
そんな余計な事を考えつつも、視線だけは逸らさずに、真っ向から彼女を見返して、横島は続きを話し始めた。


「ああ、あいつの本体は、さっきタマモが燃やした赤い水晶玉で間違いない。
だったら、今いる偽もんの体が無事なのは、たぶん木乃香ちゃんがいるからだ。そいつのおかげで、あのデカ物は崩壊してないんだ」


「待ちなさい。だったらあんたの文珠が効かなかったのは何故?
木乃香ちゃんが生きているなら、文珠の力で出てこなかったのはおかしいじゃない」


組んだ腕はそのままに、鋭く横島に待ったをかけてくる。
素早く冷静に疑問点を指摘してくるあたりがタマモらしい。シロでは、こうはいかないだろう。


「そいつはたぶん・・・タマモが言っていた事が半分正解なんだと思う。
木乃香ちゃんは生きてはいても、木乃香ちゃんの形を保っていないんじゃねぇかな」


「どういうこと?」


言っている意味が分からなかったのか、それともなんとなく察してはいるのか、懐疑的な視線を横島に向けてきた。
それに怯むことなく、横島は言葉を続ける。


「文珠の認識を受け付けないほど、デミアンと一体化しちまってるんだ。
だから、”分離”が発動したとき、”木乃香ちゃん”として”デミアン”と分離できなかったんだ」


出来ればそんな事にはなっていて欲しくないのだが、状況的に見ておそらくこの考えで間違いないはずだ。
少なくともこれ以上納得のいく説明を、横島は思いつけない。


「な!・・・・・・・・・ま、ちょっと待って、なんか一気に言われてうまく理解できない。落ち着かせて頂戴」


「ああ、俺もお前の意見が聞きたい。本音を言えば、自信満々って訳でもないんだ」


なれない説明役をした事で、若干頭がゆだっている。落ち着かなければならないのは横島も同じだった。
下唇を押さえながら、タマモがなんとか気持ちを落ち着けようとしている。
無意味につま先で地面を蹴っている姿は感情の表れなのだろうか。
それでも、大した時間は掛からず心の準備を終えたのか、
うつむき気味の顔を上げたときには、すっかり普段の冷静な表情を取り戻していた。


「一応・・・あんたの言ってる事は理解できた。
明確な証拠は一切ないし、疑わしい部分がないではないけど。
でもそれを言うなら、木乃香ちゃんが、すでに死んでるって意見も、同じ事だしね。
心情的にもあんたに賛成したいって気持ちはある。でも・・・・・あんたの言う通りだとして、いったいどうする気なの?
文珠が効かないほど、一体化してるって言ってたけど、木乃香ちゃんを助ける手段があんたにあるの?」


疑わしげ・・・というよりは、こちらを心配するように目じりを下げて、タマモは横島に尋ねた。


「ああ、それについちゃ、あてがある。切り札・・・とも言えねぇくらいの馬鹿げた手だけどな・・・」


まるで苦い薬を一気に飲み干したかのように、横島が顔をしかめながらタマモに答えた。
実際、切り札や奥の手どころではないのだ。強がりもまともにいえないくらいの代物だ。


「横島・・・?」


顔色を青くして、懸命に何かに耐えている横島の様子に気がついたのだろう。
タマモが訝しげな視線を向けた。
はっとして無理やり表情を変える。
勘のいいタマモの事だ、もしこれから横島がやる事の危険性に感付かれれば、絶対にこちらを制止してくるだろう。


「いや、なんでもない。・・・で、だな。そいつをやるにはちょっと準備が要るんだ。
これ以上明日菜ちゃん、つーかあそこでこっちを睨んでるエヴァちゃんに、疑われるのも心臓に悪いし、
あの子ら連れて離れててくれないか?」


「・・・・・確かに、美神さんの事を考えれば、そうした方がいいでしょうけど、あんたなんか隠してない?」


「ふぇっふ!いや・・・そんな、ばか、おまえ、俺は、えーと、そんな事あるわけないじゃないっすか!うはははははは!」


「怪しすぎて、何とも言えないわね、そのリアクション」


挙動不審もここに極まってしまっている横島が、両手を奇妙に曲げつつ不思議な踊りをしている。
ごまかすにしても、もうちょっと何とかならなかったのだろうか?


「まぁいいけど・・・いい加減その変な踊りやめなさいよ。
なんかこっちの精神力が削られていくみたいで、地味にいらっとくるわ」


無意識に拳を固めて、重心を落としたタマモの言葉に、即座に直立不動になった横島が、イエスマムと敬礼を送る。
なんというか最近のタマモは美神に似てきた気がする。主に横島の対処という意味において。


「それじゃ、私はあの子達を見張ってるから、その準備ってやつができたら、呼んで頂戴」


本当は横島の様子が気になって仕方がないが、聞き出そうとしても無駄だろう。
馬鹿な態度はいつもの事だったが、目だけはいちいち真剣なのだ。まったくらしくもなく。
横島に隠れるようにしてため息を零したタマモが、後ろを振り返りそのまま明日菜たちの元へと歩いていく。
横島はその背中に、なんとなく声を掛けた。


「すまねぇな」


その言葉は思ったよりも小さく、彼女に聞こえることなく地面に落ちた。
明日菜たちのもとにたどり着いたタマモが、早速エヴァに絡まれている。
タマモはそれを適当に受け流しながら、一方的にこの場所から離れる事を告げて、
返事を聞くこともなく、すたすたと歩き去っていった。
その態度に腹を立てているエヴァを、ネギとカモがなんとかなだめながら、後についていく。
その後ろでは、刹那を背負った茶々丸に手を引かれて、明日菜が歩いていた。
うつ向き気味に視線を落としながら横島を振り返る。
幼子のような無防備な視線を横島に向けていた。不安なのだろう。なにせ自分の親友の命が掛かっているのだ。
助けると言った横島の言葉だけで、その不安が解消されるわけがない。
それでもそんな顔を見たくなくて、横島はなるべく彼女が安心できるように、満面の笑みで、小さく手を振った。


「大丈夫。なんとかすっからさ・・・」


森の木々に隠れて、姿が見えなくなってしまった明日菜に呟くように告げた。
誰もいなくなったその場所で、瞳を閉じ、大きく深呼吸をする。山の中だけあって、空気がとてもおいしい。
昼間からこっち、いろいろあったせいで、今更そんなことに気がついた。
森林浴などするガラではないか、苦笑を一つ零して、表情を引き締める。
いつまでも躊躇しているわけにはいかない。

さっきはあえてタマモに説明していなかったが、時間が立てばたつほど、木乃香の状態は悪くなっていく可能性がある。
元々自分の体ではないものに一体化しているのだ。魂が肉体の影響を受けるとするならば、健全な状態とはとても言えない。
次の瞬間には魂が肉体を離れていてもおかしくない。すなわち死だ。
同僚に幽体離脱が得意な娘がいるが、そんなレベルの話ではない。
木乃香の場合は戻るべき体がない状態なのだ。もしそうなったら、横島でも、どうしようもないだろう。
急ぐ必要がある。
呼吸を整え、精神を集中させ、もう一度頭の中で手順を確認してから、



横島はストックしてある文珠を六つ取り出した。



◇◆◇



今思えば、あのときの自分はあまりに浅慮だったと言わざるを得ない。考えなしで、あまりに気安く、馬鹿な行動を取っていた。
危険性を十分に説明され、絶対にやるなと言われたにもかかわらず、好奇心に負けてしまった。
禁止されればされるほど、行動を起こしたがる子供かとも思うが、
悲しい事に横島の印象を知人に尋ねれば、否定の言葉は返ってこないだろう。
自覚もしているのだ、一応は。
だが、その説明を詳しく聞いているうちに、どういうわけか、試してみたいという欲求に、歯止めが掛からなくなってしまったのだ。


美神の用事で妙神山を訪れた日の事だ。
その日は話が長引いて、いつのまにか夜になってしまい、ろくに明かりもない中、、あの道を帰る度胸はなかったので、
小竜姫に頼んで客室の一つに泊まらせてもらった。
元々、ある程度、長期間の修行が想定されている妙神山には、客室があまるほど存在する。
美神や横島が経験した修行コースは、かなり特殊な部類だし、
極短期間で終了したために、その客室を利用するのは初めてだったのだが、居心地はかなりよかった。
普段自分が住んでいるアパートとは比べるのも失礼なほどだ。室内が広すぎるせいで、落ち着かなかったのを覚えている。


その夜、少年の純粋な冒険心を満たすために、小竜姫のお部屋にお邪魔した横島は、
さっくりと彼女に殺されかけ、ほうほうのていで自分にあてがわれた部屋に戻ってきていた。
一度の失敗程度では、めげない横島だったが、何らかの対策を取られたのか、
小竜姫の部屋に近づく事すらできなくなってしまい、仕方ないので寝る事にしたのだ。
万年床に敷いた横島の布団などとは、まったく違った感触に、あっさりと眠気を刺激されるかと思ったのだが、
布団に包まっても何故か眠れない。
自分はいつのまにかここまで貧乏暮らしが染み付いてしまったのかと、若干悲しくなりながら、横島は寝返りをうち続けていた。
次第にそんな行為にも飽きてきた頃、いつのまにか、昼間に小竜姫達と話した会話の内容が、頭の中で思い出された。


それはこんな内容だった。


横島の霊能力。文珠。
汎用性が高く使い勝手もいいが、その特性のために乱発する事ができない。
その欠点すらない特殊な文珠が一つ存在するのだが、今の横島には使えなくなっている。
元々、例外中の例外だったので、話しても意味のない事だったが、
ちょうどその特殊な例外を知っていたパピリオが、その場にいた猿神にその事を説明した。
猿神はくわえていたキセルの灰を落とすと、あっさりと言った。
そんなことはないと。
猿神は霊基構造と、魂に刻まれた設計図の話を横島にした。
そして設計図に記された内容を読み取る手段と、作成方法の手順を横島に教えてくれた。最後にその危険性も。


そんな話を思い出した横島は眠る前の暇つぶしにと、心の中で誰にも聞こえない言い訳をして、なんとなくそれを試してしまった。



そして・・・・・・死にかけた。



◇◆◇



取り出した文珠のうち、二つを右手に握り締める。
最初に使用しなければならないのは、まず二つだ。握り締めた文珠に文字をこめる。
イメージが複雑になればなるほど、想定した通りの結果が得られるとは限らないのが、
文珠の厄介なところだが、一応文字は横島の願い通りに刻まれている。
右手の中で淡い光を放っているそれに視線を向ける。これは劇薬だった。あるいは単純な毒だった。
これの効果を知っている横島にはまぎれもなくそうだ。
自然とそれを持っている右手がぶるぶると震えていく。思わず視線を逸らし、投げ出してしまいたくなる。
何もしていないのに、後から後から顎を伝って脂汗が流れていく。
心臓はさっきから、冗談のように鼓動を速めている。緊張は最高潮に達して、脳が思考を捨てていた。
己の血流の速さすら感じられるように、感覚は鋭敏になっている。


(びびっちまってる・・・くそっ、怖い、恐い、コワイ、こわいっ!!)


あの時感じた恐怖が、横島に襲い掛かる。仕事が仕事だ、死ぬような目には何度もあってきた。
いや、実際死に掛けたことも一度や二度ではない。
それでも、あのときの恐怖とはまったく比べ物にならない。
隣に美神がいない。おキヌちゃんもシロもいない。タマモに頼るわけにもいかない。
全て横島一人でやらなければならない。あの恐怖に、苦痛に、絶望に、立ち向かわなければならない。
限界まで力を入れて、目蓋を閉じる。
そのまま硬直して動く事ができない横島の目蓋の奥、その暗闇の中で、明日菜の泣き顔が浮かんだ。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


ゆっくりと、目蓋を開き、月を見上げた。本当に見たかったものは別のものだったが、この際仕方がない。
もうとっくに日は落ちてしまっていた。
頬に当たる風の感触が心地いい。固まった体をほぐすように、ぐるりと首を回し、胸の内にたまった重い空気を一気に吐き出す。
そして、湖にいる怪物に視線をやって、気合を入れる。
そのままそっと目蓋を閉じて、視界を閉ざした。別に恐怖に負けたわけではない。単純に目を閉じる事が必要なのだ。


深呼吸を一度・・・・・・そして今度こそ右手に握った文珠を発動した。



◇◆◇



覚えているのは苦痛を感じたという事だけ。


尋常でない苦痛。馬鹿げた激痛。冗談のような重苦。
生を受けてから、今まで感じてきた痛みを全て凝縮したような痛苦が一気に襲い掛かってきた。


脳はとっくに意識を手放し、世界は暗闇に染まっていった。それでも、痛みはやまない。
なぜなら、それを感じているのは脳そのものだからだ。
痛点がないはずの脳が痛みを訴えている。時間が無限に引き延ばされ、悪夢は現実を凌駕する。
意識はとうに意味を成していないのに、自意識過剰な苦痛が自分の存在をアピールし続ける。
舞、踊り、舞踊、ダンス、ワルツ、タンゴ、サルサ、ルンバ、サンバ、ポルカ、フラメンコ、ヒップホップにブレイクダンス。
脳内で全てが情熱的に、苦痛というパートナーを振り回している。


限界は何処だったのだろうか・・・時間の概念など最初の瞬間に失われたので、知る由もなかった。
それは永遠に続いていき、終わりがないものだった。
自分の脳が作り出す世界こそが真実であり、苦痛こそが全てであり、現実など最初からなかった。
自分など何処にもなくて、存在が許されるのは痛みだけ。
そして最後はその感覚すら薄れていき、やがて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


自分が脳死しかけたという事を、横島が知ったのは、妙神山を訪れた日から数えて三日たってからだった。
最初の夜に意識を失って、目覚めるまでの間、延々と生死の境をさまよっていたらしい。
死ぬところだったんですよと、小竜姫にかなりきつめのお灸をすえられ、パピリオには、アホ呼ばわりされた。
いや実際はもっとひどい感じに、こき下ろされたのだが。それこそ精神的な死を迎えてしまいそうなほどに。
あきれながらそんな横島を見ていた猿神が、再度の忠告をした。
自分の限界を超えて作用するものを己の体に使えば、制御しきれなくて当然だと。
どうやら横島を助けてくれたのは、この神様だったらしい。
長時間寝ていたせいか、それとも死にかけたからなのか、
いまだに痛みが残る頭を押さえながら、ぼんやりと横島は猿神にお礼を言った。
その言葉を適当にあしらって、猿神は部屋を出て行った。
その後姿を見送って、小竜姫は横島に体が動くまで養生するように告げ、薬と食事を取りに台所へと消えていった。


結局まともに体が動くまで、そこから二日ほどかかってしまった。
予定外に長引いてしまったために、美神から妙神山に連絡が来た。
一応小竜姫が事情を説明してくれていたので、言い訳を考えなくてすんだのはいいが、
仕事があるんだから、とっとと返って来いと、結構な調子で怒鳴られてしまった。
慌てて、帰り支度を始めて、小竜姫達に、世話になった礼と、別れの言葉を告げて、横島は帰路についた。


その後、報告に向かった美神除霊事務所で、案の定美神に叱られ、おキヌちゃんには、涙目で諭された。
シロは話を聞いても実感がわかなかったのか、尻尾を振りながら素直に横島の無事を喜んでいた。
もっとも、一分後には、買ってきたお土産に、興味が移ったようだが。
タマモは無関心におキヌちゃんが作ったきつねうどんを食べていた。
実を言えば横島も自分が死にかけた事について、ほとんど実感がなかった。
猿神に聞いた方法を試した瞬間、意識を失ってしまったからだ。
ただ、何か凄まじい痛みを感じた事と、とんでもなく恐ろしい経験をしたという記憶だけが、僅かに残っているだけだった。
むしろ目覚めた後の方が、しんどい思いをした。
立って歩けるようになるまで、起きている間中、倦怠感と頭痛、吐き気に悩まされ続けていたのだ。
正直もう二度と経験したいとは思わない。自分から試さなければ済む話なので、大丈夫だろうが。


だから横島はそんな経験をあっというまに忘れ去った。
まさか異世界などという所にまで来て、再び試す事になるとは夢にも思わなかった。



◇◆◇



閉じた目蓋の奥、黒く塗りつぶされた視界の中に、次々と白い線が浮かんでくる。
最初は途切れ途切れだった、か細い線が一本だけ。しかし次第にそれが太く、長くなっていき、数を増やしていく。
直線や曲線、直角に折れ曲がったものや、螺旋を描いているもの、それが暗黒を塗りつぶしていき、全てが白く染まった。
横島の脳を光が光速で飛び回っている。
頭の中、頭蓋に閉じられた物は切り開かれ、脳の皺一本一本に、白い光が伝っていった。


そんな錯覚を感じるほど、その文珠の効果は絶大だった。
視覚を除いた五感が収集したあらゆる情報を、脳が勝手に理解する。
横島の耳が捉えた、周囲から聞こえてくる環境音。
昆虫の鳴き声や動物が動く音、風の音やそれによって奏でられる葉のこすれる音、
その基本周波数、ご丁寧に音階や音域まで伝えてくる。
嗅覚は空気中に漂ってくる香りを成分別に分類し、
腐葉土に混じっている微生物の種類と数を勝手に予測し、腐敗具合を推測する。
湖の水の匂い、空気の匂い、木々や草花の匂い、獣の匂い、人の匂い。
さまざまな匂いの成分の科学的な分析が無作為に行われていた。
無意識に倒れこんで、掌に接触した地面から、温度や湿度、倒れこんだ際に感じた圧力等、どうでもいい情報が脳内で溢れてくる。
比較的ましなのは味覚だろうか、それでも噛み締めすぎて切れてしまった下唇の血の味を、
基本味の甘味、酸味、塩味、苦味、うま味別に分類していた。
横島の意識など置き去りにして、脳が任意に複数の思考を展開している。
最悪なのは、それらを科学的に解釈するため、単語や数式、元素記号などといった本来の横島には知る由もない物まで使って、
強制的に収集した情報を”解析”し、そしてそれを横島に理解させてしまう事だ。


そう、この”解””析”の文珠は横島には使いこなせない。
人体において最大の受容器である瞳を閉ざしてすらこの有様だ。
初めてこの文珠を使ったのは、妙神山の客室だったが、密閉された室内ですら、視覚がもたらした情報の数は桁外れだった。
文珠を発動した瞬間に、頭蓋が割れるような痛みを感じ、なすすべなく気絶してしまったほどだ。
この方法を考案した猿神も、その危険性について言及していた。
出来うる範囲で、あらゆる原則を無視し、術者の願望を具現化する文珠は、
使用者の予想を悪い意味で上回ってしまう場合があるのだと。
例えばそれは単純な肉体強化などにも言える。
筋力を強化し、通常以上の速度で走ろうと、自分が普段動かしている感覚で体を動かして、
盛大に転倒するなどといった例もあるそうだ。
だから文珠を使うときは、その危険性を十分に認識している必要がある。特に己自身にそれを使う際には。


「ぐぐぐぁぁぁあああああ、うぁあ、ぎぐぅぅぅ!!!」


意味を成さない呻き声があがる。食いしばった歯の間からギシリと異音が鳴った。そしてその音すら文珠の力は”解析”する。
あらゆる角度から情報を嘗め回し、横島の脳をこねくり回す。
意識を保っていられるのは、間違いなく目を閉じているせいだろう。もし目を開ければその場で失神する自信が横島にはあった。
だが、こんなところで意識を失うわけにはいかない。最初で躓いてなどいられないのだ。
頭の中を溢れる情報の波に意識を持っていかれそうになりながら、必死に作成手順を思い出す。


手順その一、”解析”によって己の霊基構造に刻まれた、特殊な文珠の制作方法を検索する。
瞳を閉じたのは得られる情報を制限するためではあったが、
ほかにも意味がある。霊視によって自分の霊体を視るのに都合がいいからだ。
自分の魂を霊視し、設計図を理解する、それが第一段階。

横島は地面に這い蹲り、爪を立てて、目を回しそうな苦痛に耐えながら、慎重に霊視を行った。
暗闇の中に深く落ちていく感覚。”解析”で必要な情報だけを取捨選択する自由はないが、それでもやらなければならない。
例によって不必要な情報まで一緒に取り込んで、頭痛を悪化させながらも、横島は何とか第一段階を突破した。
普段の横島には分かっていなかった、あの文珠の制作方法が理解できる。ああ、こうやって作るのかと。
本来、設計図は自分の魂に眠っていたわけだから、思い出したというのが正解なのだろうか?
だが、とにかく作り方はわかったのだ。あとはそれを実行するだけだった。


手順その二、一つの文珠を三つの文珠によって”再””構””成”させる。
その際には作り方を明確に理解している必要がある。適当なイメージで実行しても失敗してしまうらしい。
だが、ここでも問題はあった。横島が自信を持って制御できる文珠の文字数は二文字までだ。
文珠は文字を連結させる事で、その汎用性と効果が増すのだが、その分制御に莫大な霊力を必要とする。

正直に言えば、三文字の同時制御を行う自信が横島にはなかった。試した事すらあまりない。
一応成功した事はあるのだが、それはベストなコンディションと極度の集中が出来うる環境が揃っていたからだ。
今はお世辞にもそんな物は望めない。ともすれば痛みで失ってしまいそうな意識をギリギリのところで押さえているのだ。
だが・・・・・それでもやらなければならない。
痛みをこらえるために、硬く握り締めたまま硬直している左手から、強引に文珠を一つ引き剥がした。
爪が掌をえぐり、血があふれ出す。しかし、今更その程度の痛みはどうでもよかった。むしろ幾分か気がまぎれたほどだ。
もっともその痛みも”解析”されていたが。
えずくように咳き込みながら、左手に残った文珠に文字をこめる。
目蓋を閉じているために見ることはできないが、成功しているはずだ。
あとはこの文珠を使って、右手に握った文珠を再構成すればいい。


(あ・・あ、で・・・でも、し・・・失敗し・・・たら・・お・・おわ・・り・・・だな・・・)


制御に失敗すれば、単純に何も起こらないか、あるいは運が悪ければ、霊力が暴走を引き起こし、自爆・・・なんて事もありうる。
そのどちらだとしても、失敗した時点で木乃香を救う事はできなくなってしまうだろう。
明日菜に名乗った時、覚悟を決めたつもりだった。
それでも、自殺のスイッチを自らの手で押すことになるかもしれないのだ。横島は震える手を止める事ができなかった。


(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)


閉じた目蓋に力を入れ、握った両手を地面に叩きつける。そして心の中で雄たけびをあげながら、左手を右手に押し付けた。
光が溢れる。目蓋を通して眼球に光が差し込んでくる。両掌を祈りの形に組み合わせ、反動を押さえつけようとする。
自分が扱える限界まで霊力を注ぎ込んで、強引に文珠の力を制御し続けた。


どれくらいの時間がたったのだろうか、極限まで集中していたために、時間の感覚を忘れていた。
記憶は曖昧で途切れ途切れだった。
ハッとして思わず握り締めた文珠に視線を送ろうと・・・・・・した所で、ぎりぎり目蓋を押さえつける。
危なかった。何の心の準備もなく、無防備に目を開けていたら、どうなっていたか。
元々汗まみれの頬を、新たに一筋の冷や汗が流れていった。
恐る恐る組み合わせた両手を広げる。丸い形、暖かくも冷たくもない、硬い感触。普段使っている物よりも一回り大きい気がする。

成功した・・・はずだ。見た訳ではないので、はっきりとした確信はないが、”解析”結果はそう出ている。
ホッとして横島は体の力を抜いた。自然と草花のベッドに横たわる。全身が弛緩して意識のタガは外れそうになっていた
そのまま、痛みからの解放を願い、欲求にしたがって、眠りに落ちそうになった所で、強く唇をかんで、気付けを行った。
眠るわけにはいかないのだ。まだやるべき事が残っている。
むしろ、ここからが本番だと言える。木乃香を救うために・・・・・・・・・・・・・・・・・



眼を開けなければならない。



”解析”の力を使い、怪物に融合してしまった”木乃香”を視るのだ。
もし横島の予想通り、木乃香の魂がデミアンの体の中に存在するなら、ある程度木乃香自身の原型は残っているはずだ。
文珠の力で分離する事はできなかったが、肉体が完全に失われてしまったとしたら、そもそも木乃香は生きていない。
ならば後は木乃香の体の状態を”解析”し、肉体を”再生”してしまえばいい。
無から有を生み出すほどの力は、横島にはないが、デミアンの中には木乃香の体を構成する全てがある。
”解析”で必要な部分を選別し、この特別な文珠で再構築を行う。それが横島が考えた策だった。


「はぁ、はぁ、はぁ」


知らず荒い呼吸が繰り返される。
その呼吸音も頭痛の元でしかないので、今まで声を出す事を懸命に堪えていたのだが、耐えることができない。
怖いのだ、どうしようもなく。目を開けて桁外れの情報が脳内に侵入してきたら、自分はどうなってしまうのか。
ここは閉ざされた空間内ではない。目に飛び込んでくる情報量も尋常ではないはずだ。
そんなものに晒されて、脆弱な自分の精神はもつのだろうか?


(く、くそ、ちくしょう。だ、だめだ、め・・・・・目を開けなきゃ・・・目を開けなきゃ、木乃香ちゃんは・・・)


何度も何度も、自分に言い聞かせる。
木乃香を救うために、あんな化け物に飛び掛っていった刹那、
友達を失った事を認められずに涙を流していた明日菜、二人のことを思い出す。
必ず助けると心に誓った。自分の力、全てを使って、二人の所に木乃香を返してやるのだと。
だがそれでも、それでも横島は、十三階段の最後の段を上る度胸がない。命綱なしで崖から飛び降りる勇気が湧いてこない。
自分の命を投げ捨てるだけの覚悟がどうしても出来ないのだ。
痛みが、恐怖が、絶望が、横島の心を捉えて離さない。それらと戦う強固な意思が横島には・・・・・・・・・・・。


(俺は、・・・結局駄目なのか?木乃香ちゃんを助けられないのか?・・・・・俺は・・・)


諦めが横島を覆いつくし、心が折れてしまうその瞬間。
過剰な情報がもたらす騒音と苦痛、閉じた目蓋により何も見えないはずの暗闇の中で、誰かがそっと微笑んだ気がした。
小さな光を感じる。緑色の暖かな光だ。黒い世界を舞うようにして、ゆっくりと飛んでいる。
それはやがて薄ぼんやりとした人の姿に変わり、穏やかな視線を横島に向けた。
そしてそのまま彼へと近づき、優しい声で言う。


大丈夫。あなたは・・・あなたならできる。


人影・・・・・”彼女”はそう断言し、柔らかな笑顔で横島の頬を愛おしげに撫でた。


(・・・・)


冷たい感触が頬を伝って、朧ろげな意識がはっきりとした。いつのまにか気絶していたらしい。うつ伏せで地面に倒れている。
頭痛は治まることなく、相変わらずで、ほとんど体に力がはいらない。なけなしの根性でどうにか上体を起こす。
近くにある木の根元まで這いずりながら近づき、なんとかそこに腰を下ろした。

夢を・・・みていた気がする。
それほどの時間、意識を失っていたとは思えないし、実際そうなのだろうが、何かが頭の隅っこに引っ掛かっていた。
自分にとって重要な何かが、その夢に現れたような・・・。
少しだけその夢の内容を思い出そうとした横島だったが、結局何も思い出せなかった。
極限状態により、頭の中で勝手な妄想を作り上げたのかもしれない。
実際そんな事をしていたとしても、おかしくないのだ。今の横島は。

早くケリをつけなくてはならない。そう決心し、湖の方角に目を向けようとした時、ふと気がついた事があった。
あれだけ感じていた恐れや焦燥が心の中から消えてなくなっている。
何故か知らないが、今の自分は、目を開けることに関して、恐怖を覚えていないのだ。
なにか・・・・・うまくいく気がする。どうしてかはまったく分からないのだが。しかしそんな確信がある。
根拠のない自信が全身にみなぎって、横島は思わず笑っていた。
痛みを感じながらなので、その笑いは引きつっていたが、これから廃人になるかもしれないというのに、
やけくそではない、確かな笑いの衝動があった。
声に出しそうになるそれを、頬の内側で押さえながら、前を向く。方向はこちらであっているはずだ。
”解析”の力がそう示しているし、よもやあの巨体を見過ごす事もあるまい。
不思議と穏やかな気持ちに包まれて、閉じていた瞳を開いていく。今度こそ暗闇に本物の光が差し込んでくるのを感じながら、



横島はその場で、昏倒した。



◇◆◇



・・・・・こ・ま・・・・・・よ・・ま・・・・・・・しま・・・・


誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。


・・・・・・し・・・・・ま・・・・よこ・・・・・・ま・・・・・


焦りが声に出ていて、必死な様子が手に取るように分かった。


・・・・よ・・ま・・・・・・しま・・・・・・よ・・・ま・・・・


本当はまだ眠りについていたかった。
何日間も徹夜をした後、ようやく眠る事ができた直後のように、ひどく頭が重たいのだ。


・・・し・・・・・・ま・・・・あ・・・い・げ・に・・いと・・・


それでもその呼び声があまりに真剣だったので、横島はなんとか目蓋を開いて、声の主を見た。


「う~ん、そこの美人で巨乳のおねーさま。なんか知らんけど死にかけてる可哀想な僕に、愛をください」


横島は霞んだ視界ではっきりと見通すことが出来ない、その姿めがけて、体を倒した。


「・・・・・あれ、そんな大きくない・・・・・」


むにむにと胸を揉みし抱きながら、寝ぼけた声を上げる。


「~~~~~~~~っっ死ねっ!このあほぉぉぉぉ!!」


「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


地を這うすれすれから、天を突くように見事なアッパーカットが放たれる。
凄まじい衝撃が横島の顎に走ったと同時に、重力を強引に突破して体がふわりと浮き上がった。
そしていろいろと揉みくちゃになって、あちこちに体をぶつけながら、
数ミリ程地面にめり込んで、ようやくその動きを止めた。


「あんまり遅いから心配してきてみれば・・・・・遠まわしな自殺がしたいなら、最初に言ってくれないとねぇ。
あんた、こっちじゃ戸籍ないから身元不明で処理されるでしょーけど。安心しなさい、火葬はサービスしてあげるわ・・・」


「あぁぁ本気だぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


バキバキと指を鳴らしながら、瞳を緋色に変化させているタマモがゆっくりと近づいてくる。
地面に転がったまま、必死に後ずさりして、横島は命乞いを開始した。


「ち、ちがうんやっ!
いまちょっと、あれだ。本調子じゃないんで、寝ぼけちまってただけなんだ!お前だって気付かなかったんだってば!」


意識を取り戻しても、ふらふらと頼りない己を叱咤しながら、懸命に体を起こす。頭痛は一向に治まっていない。
なんだか体はだるいままだし、軽くめまいもしている気がする。まともに会話が出来るだけましなのかもしれないが。
ただ・・・・・一つだけはっきりしているのは、いま自分は気絶することなく目を開けていられるということ。
ある程度、”解析”の方向性を絞る事に成功しているという事だ。
意識を向けたものにだけ、力が働いているようである。
それでも目から入って来る情報はかなりのものだが、何とか己を保っていられる。
もっともギリギリの所で、かろうじて踏みとどまっているに過ぎないが・・・・・。

しかしこれならば、何とかなりそうだった。木乃香の救出に希望が湧いてくる。
だが、今はとにかく目の前の脅威に対処しなければならない。放っておいたら、自分が上手に焼かれてしまう。
思考を目の前で横島を殺しに掛かっているタマモの対処に切り替えて、視線を彼女に向けた。


「あれっ?お前今、変化したか?なんか胸のサイズが2cmほど大きくなっとるんだが・・・」


「死になさい」


極寒の地を連想させるほど、恐ろしく冷たい声とは裏腹に、灼熱の塊が横島めがけて放たれた。
まったく容赦を感じないその炎は、タマモの殺意を具現化したように、オドロオドロしく、あっという間に横島の元まで迫ってくる。
そして、悲鳴を上げて、その場に屈み込んだ横島に着弾する直前、右手に握った文珠が光り輝き、力場を形成した。
薄く緑に輝いているそれは、かなりの強度を持っているようで、
なめるように辺りを燃やしている、タマモの炎をまったく寄せ付けていない。
炎が発する熱からも完全に遮断されているようだった。


「ちっ、文珠か。やっかいね。・・・横島!!今素直に燃やされれば、体表面の40%程度を黒焦げにするくらいで許してあげるわよ」


「死んでしまうやないかっ!」


「一回くらい死んだほうが、世の女性のためでしょうが!・・・・・って、あれ?あんたが持ってるその文珠・・・」


タマモが目ざとく横島が持っている文珠の変化に気がついたようだ。目を細めて、横島の右手を観察している。
その訝しげな視線に気がつき、横島もまじまじとその特殊な文珠に注目した。
通常のそれよりも一回りほど大きい。見た目も変わっていて、いわゆる陰陽紋を彷彿とさせる。
・・・よかった。やっぱり成功していた。ホッと一息つきながら、横島はその文珠を握り締めた。


「ひょっとして、それがあんたの切り札って奴なの?なんかいつも使ってるのと違うみたいだけど」


「ああ、こいつがあればたぶん何とかなる。後は明日菜ちゃんに協力してもらって・・・っとそういえば、あの子らは?」


「離れたところで待機してもらってる。
あのエヴァンジェリンって娘が、かなりイラついてたから、早くしないと向こうから来るかもね」


些かげんなりとした様子で、タマモは小さく息をついた。
横島が準備をしている間、木乃香の命が掛かっている緊迫とした状態で、延々と待たされて苛々としている彼女の相手をしていたのだろう。
さすがにご愁傷様としか言えない。タマモは一つ首を横に振ると、気を取り直し、横島について来るように言った。
一応の準備が整った以上、ここでまごついている場合ではない。横島は頷いてタマモの後についていこうと足を踏み出した。
直後、その一歩目を踏み外し、無様に転倒する。手を突くことにも失敗して、肩から地面に激突した。
柔らかな草花が若干のクッションになったとはいえ、痛みと衝撃に、息が詰まる。どうやら思ったよりもかなり消耗しているらしい。
何とかいつも通りに振舞っていても、ちょっとした事でぼろが出てしまう。
舌打ちを一つして、力が入らない両手を震わせながら、何とか立ち上がろうとしている横島に気がついたのだろう。
タマモが慌てて駆け寄ってきた。


「よ、横島。あんた大丈夫なの?顔色、真っ青よ・・・」


横島が目覚めた直後のごたごたのせいで、彼の調子に気がつかなかったタマモが心配げに声を掛けてくる。
自分の顔色を客観的に見ることはできないが、タマモの表情を見るに、かなり悪いらしい。
体調が悪いのは自覚しているので、驚く事ではないが、木乃香同様、自分の状態もあまり長く持ちそうもない。
次の瞬間には再び気を失っているかもしれない。
急がなくては。片膝を突いて、息を整えながら、横島はタマモに手を貸してもらおうと頼んだ。
真剣な表情で頼み込まれ、黙って頷き返すと、タマモは横島の手を引っ張り上げ、肩に担いだ。
そのままゆっくりと明日菜達がいる場所まで進み、一息をついた。


「わるい。待たせちまったな・・・」


開口一番、謝罪の言葉を口にした男の、あまりの消耗具合に、
文句の一つも言おうと口を開きかけていたエヴァが、結局何も言えずに視線を逸らす。
他の者も同様、横島の様子が明らかにおかしいことに気がつき、不安な表情を見せている。
タマモに肩を借りつつ何とか立っている状態に見える。
足元はふらふらと覚束なく、顔色は薄暗い夜の最中にあってさえ、はっきりと分かるほどすぐれていない。
ネギ達と離れている間に何があったのか、そう思わずにはいられないほど、横島は疲れ果てていた。


「あ、あの・・・横島・・・さん。そ、それで、その、木乃香は・・・」


木乃香を助けると言った男が、何らかの準備を終えて帰ってきた事で、
真っ先に木乃香救出の方法を尋ねたかったのか、明日菜が遠慮がちに声を掛けてきた。
ほとんど病人のような横島を急かす事は避けたかったのか、途切れ途切れで、要領を得ていない。
だが言っている事はよくわかる、横島の首尾を尋ねたかったのだろう。


「ああ、ここに来るまでに、ちらっと”視”てきたんだけど、たぶん何とかなりそうだ。
木乃香ちゃんの体も俺が予想した範囲でちゃんと残ってるしな、後は俺の力で木乃香ちゃんの体を作り直しちまえば・・・」


デミアンの肉体に半ば融合していたが、大本はしっかり残っている。足りない部分も全て把握していた。
痛む頭を押さえながら、かろうじて笑みの形に唇を吊り上げる。
自信ありげに見えただろうか?少しでも明日菜が安心してくれればいいのだが。
そんなことを考えつつ、明日菜の表情をうかがっていた横島に、エヴァが疑問を投げかけた。


「ちょっと待て。それは何の事を言ってるんだ?木乃香を作り直すだと?
人間の体を粘土みたいに・・・いや、それ以前に死んだ人間をどうやって」


鋭い視線に疑惑の感情をこめて、横島に詰め寄る。
小さい体を必死に怒らせている姿は可愛らしくもあったが、その表情はひどく険しい。
それは、ほかの者達も同じだった。あまりに突拍子もない事を言っている横島に戸惑いを覚えているようだ。
彼女達の反応に驚いて、横島はタマモに視線を送る。


「お前、全然事情を話してないんか?」


「あんたの考えが何処まで正しいのか確証はなかったし、駄目でしたじゃすまない話でしょ?
ぬか喜びさせるのも悪いと思ったから、準備とやらが終わるまで黙ってた」


別段悪びれる様子もなく、あっさりと言葉を返してくる。
言われてみれば確かにその通りなのかもしれないが、木乃香は彼女達の身内なのだ。
今の今まで木乃香が生きている可能性がある事を、まったく知らされていないのでは、不安になっても仕方がない。
要するに彼女達はタマモの予想を聞かされて、木乃香は死んでしまっていると思い込んでいるのだ。

そんな状況で、木乃香の体がどうのと言っても通じまい。
慌てて横島は自分の考えを彼女達に話していく。
木乃香の体がデミアンの体と中途半端に一体化してしまっている事、だからこそ分離に失敗した事、
それでも木乃香はちゃんと生きている事等、とても分かりやすくとは言えなかったが、何とかあたふたと説明していく。


「じゃ、じゃあつまり、木乃香さんはあの怪物になってしまっているって事ですか!?そ、そんな、ど、どうしようカモ君!
あんなに大きかったら、寮の部屋に入らないよ!それに、帰りの電車にも乗れないし!」


「驚くとこそこかよ!お、落ち着けって兄貴!だから横島の兄さんが何とかしてくれるって話なんだろ!」


横島の言葉にパニックを起こしているネギが、場外ホームラン並みに的を外れた言葉を口にする。
そんなネギ少年を必死になって諌めながら、カモが片手を器用に操って、横島を指差した。
それを見返しながら横島は思う。
なんというか、普通に人の言葉を話す動物に心当たりがないではないが、こいつは妖怪か何かなのだろうか。
そうした知り合いは大抵、物の怪や神様なので、この小動物もそうなのかもしれない。別に詳しく”解析”しようとも思わないが。


「別に木乃香ちゃんが、あのデカ物になったわけじゃねーよ。ただちょっとだけ混ざりあっちまってるだけだ。
だからこれから必要な部分だけを使って、木乃香ちゃんの体を新しく作り直そうって話だ」


疲れたように肩を落とし、ため息をついた横島が、ネギをなだめる言葉を口にする。
いつもは大抵自分が諭される役割なので新鮮といえば新鮮だ。
少年の小さなおでこに、でこピンを一発くれてやり、落ち着かせる。叩かれた部分をさすりながら、ネギはすみませんと素直に謝った。


「おい、貴様。横島といったか・・・ずいぶんと簡単に言ってくれるが、何故そんな真似が出来る?
重症の刹那を治したどころの話ではないぞ。先ほどの分離といい、貴様の力はいったいなんなんだ?」


そんな二人にエヴァンジェリンが再度質問をした。いや声の調子から詰問に近い。
横島の顔を睨みつけながら、冗談を許さない雰囲気をかもし出している。
そんな彼女に静かに寄り添っている茶々丸も、心なしか首を傾げているように見えた。
確かに彼女の立場で考えれば、横島の言動は怪しすぎる。

そもそも、脈絡なく突然現れ、いつのまにか状況の全てを把握していて、その解決策も持っている。
その方法も明らかに既存の魔法技術とはかけ離れた代物で、まったく得体が知れない。これでは怪しむなというほうが無茶だろう。
しかし、どんなに詮索されても話すわけにはいかない。
それを話せば、今も感じている頭痛などより遥かに強大な苦痛が横島に襲いかかってくる。
若干、今更の感は否めないが、こちらの生存が掛かっているのだ。
死ぬ思いまでして何とか生き延びたというのに、事が終わった後で、己の上司に殺されるなど嫌過ぎる。
絶対に秘密は死守しなければならない。


「わりーけど、そいつを話す訳にはいかねーんだ。冗談でもなんでもなく、こっちの命が掛かっちまってるから・・・」


元々青かった顔色をさらに青くさせ、もはや群青色に変化している。
あまりに真に迫った横島の台詞に、エヴァは思わず後ずさりしてしまった。


「い、命だと?し、しかしだな・・・」


死にかけの人間に命の話を持ちかけられれば、躊躇せずにはいられなかったのか、もごもごと口の中で言葉を探している。
そんなエヴァに明日菜が真剣な声で訴えかけた。


「もういいよ、エヴァちゃん。横島さんが何者とか、今はそんな事どうでもいい。
木乃香を助けてくれるって言ってるんだよ?だったらこんな事してる場合じゃない」


硬い声音でそう言って、祈るように両手を組み交わし、口元を覆いながら、大地の一点を見つめている。ほとんど感情を感じさせない。
それどころか、横島が来てからほとんど身動き一つしていないのは、気のせいではないはずだ。
付き合いどころか、まともに会話をしたのは今日が初めてであるが、明日菜という少女はこんなにも、物静かだったろうか・・・。

この様子では、横島が来る前からずっとこんな調子だったのかもしれない。
詳しい事情は知らなかったが、明日菜にとって木乃香という存在は、ことのほか大きいものなのだろう。態度がそう示している。
そんな彼女が心配でないわけがないが、彼女の言う通り、木乃香を助ける事が出来れば、それが一番の薬になるはずだ。
横島はタマモを一瞥し、明日菜に向き直った。


「明日菜ちゃん、たぶん俺は木乃香ちゃんを助ける事ができる。でも、そのためには君の協力が必要なんだ。
木乃香ちゃんの体を作り直すって言っても、彼女の事を俺はよく知らないからさ・・・」


優しい声で呼びかけ、視線を明日菜と合わせる。
大本の木乃香の身体から、身体データの予測も出来ているのだが、例えば正確な顔の形やスリーサイズなどの情報は曖昧にしか分からない。
全て元に戻すというなら、木乃香と親しい者の協力が絶対に必要になってくる。
そこらへんは横島の好みに合わせてやってもいいのだが、そんな事をすれば、
間違いなく木乃香とかけ離れたプロポーションの美女が生まれてくるはずだ。
・・・・・案外本人も喜ぶかもしれないが、してはならない事というのがこの世にはある。


「えっ・・・・・でも、協力って私は・・・どうすれば」


突然の協力要請に戸惑いの表情を浮かべ、横島を見返す。明日菜自身は何の力も持たない一般人でしかない。
ネギと会ってから、かなりとんでもない経験を積んでいるとはいえ、
人間をどうこうするなどと、そんな大それた事に協力できるほどの物を何も持っていないのだ。


「んな無茶な事を言うつもりはねーんだ。ただ・・・そうだな、俺の右手に玉があるだろ?
そいつに手を重ねて、出来るだけ正確に木乃香ちゃんの姿を思い浮かべてくれ。そうすれば、俺にも伝わってくるから・・・」


そういって横島は何かを握っていた様子の右手を開いた。
そこには彼の言う通り玉があった。ビー玉にしてはそこそこ大きく、透き通っている。
中央に曲線が描かれていて、全体が薄く輝いている。見ているだけで吸い込まれてしまいそうな、そんな不思議な印象を与える玉だった。
よく見れば、玉の中に文字が書かれていた。漢字・・・だろうか、見間違い出なければ、”伝達”と書いてあるような・・・。
頭に疑問符を浮かべながら、明日菜は素直に横島に従った。木乃香のことを思い浮かべる。長い間ずっと一緒にいた自分の親友の姿を・・・。
明日菜が真剣な表情で、必死に集中していると、突然、手を合わせている玉・・・文珠が光を放った。
まばゆい光が夜空を照らす。あまりに綺麗な緑の光が横島と明日菜、二人の顔を暗闇に浮かび上がらせていた。
横島の脳裏に木乃香の姿が送られてくる。本当に真摯に思い描いていたのだろう。さまざまな木乃香がそこにいた。

寝巻き姿で寝ぼけている表情、制服を着て微笑んでいる表情、
明日菜に勉強を教えている所なのだろうか、二人が机をはさんで唸っているのが見えた。
木乃香は料理が得意らしい、明日菜がおいしそうに彼女が作った料理を食べている。そんな明日菜をとても優しく木乃香が見つめていた。
・・・そして、最後。どこかの広場でネギ少年と一緒に明日菜に何かを渡している木乃香の姿が見えた。
プレゼント・・・なのだろう。おそらく。照れくさそうに、しかしそれ以上に嬉しそうな明日菜が、それを受け取っている。

見ているだけの横島まで、穏やかな気分にさせるほど、その光景は優しい空間だった。
しらず笑みを浮かべていた横島の手元で文珠の光がやんだ。なんとなく名残惜しく感じながら横島はそれを見つめていた。
・・・とにかく十分すぎるほど、木乃香の情報が手に入った。
これで、準備は全て整った。あとは明日菜を無事な木乃香と会わせてやるだけだ。
呆然とした表情で文珠に視線を送っている明日菜を、優しげに見守りながら、横島は言った。


「身長152cm、スリーサイズは上から、73、54、76・・・か、まだまだ発展途上だけど、なかなかの美乳やな。
後は、もちっと大きくなれば、言う事ないな。顔も可愛らしいし・・・それと体重が・・・・・」


さらりとセクハラをかましつつ、目の前の明日菜に向かって礼を言う。表情と言動が一致していない。
その言葉を聞いたとたん、明日菜は重ねていた手を凄まじい勢いで離しながら、体全体で距離をとっていた。
なにか、目の前の男から猛烈に黒い気配を感じる。今まで気付かなかったが、なにやら世の女性にとってのよくないなにかのような・・・
そんな明日菜をきょとんとした表情で見返しながら、横島は急に離された右手で頬を掻いていた。


「よし、とにかくこれで全部OKや。後はあのデカ物のところまで行って、木乃香ちゃんを引っ張り出すだけだな」


「どうでもいいけど、息をするようにセクハラすんのはやめなさいよ。私はまだしも、この子達はあんたに慣れてないんだから・・・」


タマモが横島の頭を軽く叩いて注意する。横島はよく分からなかったのか叩かれた箇所を撫でながら、とりあえず移動を開始した。
先程よりはだいぶ体調がマシになっている。それでも、油断すれば、無意識に周囲の情報を”解析”しかねないので、気が抜けないのだが。
うつぶせ気味に足を引きずりながら、額に汗して懸命に歩いている横島を見かねたのだろう。タマモが半ば強引に肩を貸していた。
ぞろぞろと連なって、夜の森を歩く。ここからでは、怪物、木乃香がいる場所まで微妙に距離がある。
目の前に見えてはいるのだが、何しろサイズがサイズだ。
目印に事欠かないが、横島が歩く速度に付き合っていては、かなりの時間が掛かってしまうだろう。
その事実を指摘し、エヴァが横島を運んでやると、若干嫌そうにしながら提案した。言われてみれば、空を飛べる者達が何人もいるのだ。
無理して歩く事もないかと。横島はエヴァに礼を言った。
その言葉を口にしたと同時に、ふわりと体が浮かび上がる。

重力に逆らい、身体が浮かび上がる感覚は、あまり慣れていないのだが、楽である事には変わりない。
夜風を気持ちよく受け止めて、エヴァと横島はデミアンの残骸の元まで一気にたどり着いた。
その後ろでネギたちが降り立つ。
あれだけ暴れていたというのに、湖の中にある舞台はしっかりと無事なままだった。足場に困らないのは重畳だ。
下手をすれば、湖の中で作業をしなければならなかったのかもしれないのだから。
全員がその場にいることを確認し、横島は怪物の体に視線を送った。
”解析”の効果はまだ切れていない。
意識を集中することで、怪物の内部、その奥底、構成されている、血、肉、内臓、筋肉、関節、骨など全てを見通す。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いた。


人間で言う所の心臓付近。その場所に木乃香の体はうつ伏せで、怪物の肉に沈み込んでいる。
表情は分からない。完全に肉の一部に隠れてしまっている。
グロテスクな赤いそれに、彼女の美しい黒髪が、ふわりと広がっている。おそらくとっくの昔に意識を失ってしまっているのだろう。
かろうじて息をしているが、それも何処まで持つか分かったものではない。一度視線を切って、明日菜達に声を掛けた。


「これから、木乃香ちゃんを助ける。
俺はちょっと集中しなけりゃならんので、木乃香ちゃんが出てきたら、そっちで何とか引っ張りあげてやってくれ」


「心配しなくても、しっかり見てるわよ」


タマモが請け負い。ネギと明日菜が真剣に頷きかけた。
エヴァは何も言わないが、しっかりと監視しているだろう。茶々丸がいち早く空中に上がっていた。
皆のその様子に一つ返事を返して、横島は表情を引き締めた。
右手に握った文珠に文字を刻む。明日菜から伝わってきたイメージは、すでに”解析”してある。
今の横島は木乃香本人も知らないであろう彼女自身のデータを、手に取るように理解しているのだ。
ふらつく体で怪物の下まで進む。酔っ払いの千鳥足のように心もとない足取りだったが、横島は何とかたどり着く事ができた。


一度目を閉じ霊力を集中させる。そして、渾身の力で、文珠を握った右手を怪物の足に叩き付けた。


今夜その場所で起こった全ての力より遥かに大きな奇跡が具現化される。
空間がうねりを上げて、膨大な光が天空へと上っていった。
変化は突然起こった。
微動だにせず立ち尽くしていた、怪物の成れの果てが、その事実を自ら思い出したかのように、ゆっくりと崩壊していく。
硬質化して、奇妙な形に捻じ曲がっていた触手が先端部分からゆっくりと形を失って、
形容しがたい獣の姿をした下半身も徐々にその身を分解していった。
どこか凛々しさを感じさせる鬼面がバラバラと朽ちていき、首の支えを失い瓦解していく。
目に見えてその巨体が次々と体積を小さくしていった。
さらさらと、砂が積もっている。

元々本体を失った時点で怪物、リョウメンスクナノカミと呼ばれ、デミアンに身体を乗っ取られた存在は、死滅しているのだ。
この砂、塵は、その象徴だった。横島は眉間に皺を寄せながら文珠の制御に集中している。
木乃香を構成しているもの、その全て、一片たりともこの崩壊に巻き込んではならない。
やがて、怪物の体が完全に倒壊していく頃、その砂の山の中に、一筋の黒が現れた。
長く、美しく、艶がある。柔らかさを感じさせるそれは、再生した彼女の黒髪だった。
明日菜が涙を流しながら、彼女の名前を呼ぶ。


「木乃香!!」


砂の足場に苦労しながら、両手でそれをかき分け、一心不乱に彼女の元へと進んでいった。
気が急いているのだろう。一刻も早く辿り着こうと懸命に両足を動かしている。
不安定な砂の山に足を取られ、転びそうになりつつ、彼女はその場所にたどり着いた。
明日菜の目の前に、木乃香がいる。瞳を閉じて、穏やかに寝息を立てて、ゆっくりと胸を上下させていた。
その頬に一滴の涙がこぼれる。明日菜は木乃香を抱き上げて、周りをはばからず大声で泣き崩れていた。
何度も何度も木乃香の名前を呼んでいる。力いっぱい抱きしめて、決して離さないと全身で表していた。
やがて、それが苦しかったのか、小さく声を上げながら木乃香が静かに瞳を開いた。


「あ・・・・・明日菜?」


その一言を聞いて、言葉にならなくなってしまったのだろう。
何も言う事ができない明日菜は、ただただ木乃香を抱きしめていた。


「あれ?・・・・・・えーと、ウチ何してたんやろ・・・なんか凄く怖いめにあって・・・それで・・・」


自分の置かれた状況がまるで理解できていないのか、
ぼんやりとした表情で、木乃香は自分を抱えて涙を流している明日菜を見つめていた。
そんな二人にもらい泣きしていたネギが、泣きながらカモと一緒に歓喜の声をあげている。
一人と一匹は手に手を取り合ってクルクルとその場で回っていた。
その光景を見ていたエヴァが、腰に手を当てて呆れている。もっとも彼女の目の端もしっかり赤くなっていたが。
そんな主の姿を、どことなく優しげに茶々丸が見つめていた。全員が木乃香の無事を喜び、言葉を掛けあっている。

タマモはそれを一瞥し、深く深く胸の内側に溜まっていた空気を吐き出した。
そして砂の地面を踏みしめ、今回一番の功労者を掘り起こしに行く。
倒壊したデミアンの真下にいたため、真っ先に砂に埋もれてしまったのだ。
砂の山に一本の腕がぴくぴくと痙攣しながら突き出ている。
気合一閃、腕の力だけでそれを掘り起こし、タマモは彼にねぎらいの言葉を掛けた。


「おつかれ」


「・・・・・・・・あぁ」


互いにひどく、くたびれた視線を向けあって、直後に笑顔を浮かべあった。
タマモがそっと突き出した拳に、自分の拳を合わせてから、彼女に手を引かれて立ち上がる。
ひどく疲れていた。霊力のほとんどを使い果たしてしまったので、まともに立つのにも苦労する。
このままここで眠ってしまいたい衝動に何とか耐えながら、横島は砂の山を慎重に下っていった。

砂の山を下りきって、しっかりとした地面に足をつけたところで、明日菜たちに視線を向ける。
なんとなく声を掛けずらい。横島達が目に入っていないくらいに喜んでいる。
一応役目は終わったのだし、このまま挨拶抜きで消えてしまってもいいのかもしれないが、多少気後れを感じてしまう。
どうしようか?そんな意味をこめてタマモを見つめるのだが、彼女は肩をすくめるだけで、何も答えてこなかった。
まぁいいか。別段支障があるわけでもないし、さすがに今夜はこれ以上の問題も起きまい。
いったんジークの所まで帰還し、それから文珠で麻帆良まで帰ってしまおう。
そう横島が決心し、明日菜たちに背を向けて、歩き出そうとしたその時、
そんな彼らの姿に気がついたのか、慌ててネギが声を掛けてきた。


「まっ、待ってください。横島さん!」


カモを肩に捕まらせ、大きな杖を振りながら、横島の所まで駆け出してくる。息を整えてから、ネギは言葉を発した。


「何処に行くんですか!?まだちゃんとしたお礼もしてないのに」


「何処って、まぁ帰るんだけどな。いい加減疲れちまったし、とっとと帰って寝たいんだ。
お礼の方は・・・別にいいだろ。普段の俺なら飛びつく所だが、さすがに中学生相手じゃなんもできん」


助けたお礼に色々してもらうというのも望むところなのだが、中学生相手では横島の食指が動かないし、
仮に手など出そうものなら、間違いなく美神に殺される。そんなあほな事になるくらいなら無報酬のほうが全然ましだ。
さすがに金を要求するのは、はばかられるし・・・横島に純粋な感謝を捧げてくるネギを見ながら、彼は一つため息をついた。


「えっと、それじゃ、連絡先を教えてもらえませんか?後日改めてお礼に伺わせてもらうという事で」


「だから、言ってるでしょーが。私達のことは必要以上に話せないのよ。もうお礼とかいいから・・・
・・・いえ・・・そうね・・・・・
それじゃあ私達の事を、というか今夜起こった事を全部忘れなさい。それが報酬って事でいいわ」


隣で見ていたタマモが、さらりと無茶な事を口にする。
確かに横島達にしてみれば、その方が都合がいいのだが、今回の騒動でネギの身内が二人も死にかけたのだ。
それを全て忘れろなどと言っても、絶対に出来ないだろう。案の定、口元をひくひくと痙攣させ、ネギは何ともいえない様子だった。


「姉さんも無茶言うなぁ。
まぁ要するに詮索無用って事なんだろうが・・・あんたら二人の事はともかく、あの怪物の事まで忘れろってのか?
そういや、最初からあいつと関わりがあるみてぇな事を言ってたが、そっちの筋か?」


ネギの代わりに口を出しながら、カモが皮肉げに頬を吊り上げた。それに冷たい視線を浴びせかけ、タマモが返事をする。


「ノーコメントよ。その手には乗らない。まぁ確かに忘れろといっても無理でしょうけど、それでも努力しなさい。
その方があなた達のためよ。一応忠告しておく」


それだけを告げてネギに背を向け歩いていく。横島もその後姿に急いでついていった。一度振り返りネギに挨拶する。


「それじゃな。明日菜ちゃんには、よろしく言っておいてくれ。
それとエヴァちゃん、何も説明できんですまんけど、勘弁してくれ」


「ふん。貸しにしておいてやる・・・・・と言いたい所だが、今回は借りのほうが遥かに大きいか・・・ちっ、とっとと行ってしまえ」


「翻訳しますと・・・・・とても感謝してる、ありがとう。と、マスターは言っています。私からもお礼を申し上げます」


ネギに別れを告げた横島が、いつの間にか現れていたエヴァに謝罪し、
彼女がとても、らしい言葉を返して、その言葉を茶々丸が勝手に翻訳し、何故か頭にあるネジを巻かれていた。
そんな彼女達の様子に笑顔を浮かべながら、今度こそ横島はタマモの背中を追いかけていった。























それで・・・・・・・・・終わっていればよかったのだが・・・・・・・・・。













「横島殿?・・・・・何故こんな所に?」



「か、楓ちゃん?・・・・・・・君こそなんで・・・・」




何故かその場に現れた楓の姿を見つけ、横島は間の抜けた返事を返すのだった。







[40420] 12
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:1733bd69
Date: 2015/07/08 21:08


一つ、恐ろしい話をしよう。


横島は、闇に包まれていた。
薄暗く、じめじめとした不快感で精神の奥底が腐敗していくような闇に、体と心が蝕まれている。
そこは孤独の極致だった。あるいは人が最後に訪れる終着地だった。横島のほかには誰もいない。
孤高を気取る隙間もないほどの絶望の世界。
自らの人格は否定され、思考は石へとなりつつある。それに伴い体は一個の固まりになり、内宇宙の神は死滅する。


そう信じるべきものなど何もない。


死の願望は甘美な夢へと彼を誘い、神秘は奇跡を起こす事もない。ただそこには静寂があった。そしてそれだけしかなかった。
そこには万に一つの進歩もない。時間の流れすら、可逆的なものへと変わってしまっているように思われた。

もっとも、そんなことは起こりえない。進んだ時間は未来永劫巻き戻らない。
時計の針はクルクルと回転し続け、失った願いは何一つ取り戻せないのだ。




・・・・・自分はもう終わってしまっている




狂う事すらできずに、横島は闇を見続けた瞳をそっと閉じた。




◇◆◇




目蓋に光が感じられる。カーテンを閉め切っていないせいだろう。顔の半分が無粋な日の光に照らされているため、熱を帯びている。
横島はうめき声を上げながら、夢うつつなまどろみの中で、身体ごとその場所から逃げ出した。
もう少しだけこの至福の時間を味わっていたい。掛け布団を両足で挟み込み、顔を押し付けて、くるりと回転する。
先日の一件以来、なかなか疲れが抜けきらないのだ・・・・・という言い訳をしてみる。
本当はとうに完治している。しばらくは、以前のように頭痛や倦怠感に悩まされたが、それも過去の話だ。
あのとんでもない目にあった京都からこっち、何事もなく平和なものだった。

ぼんやりとした頭でそんなことを考えつつ、再び夢の世界に戻ろうとしていた横島の耳に、何かが聞こえてくる。
とんとんとん、かたかたかた。ひどく懐かしい音だ。聞いているだけで気持ちが落ち着いてくる優しい響き。
何かを切っている音だろうか?定期的にまな板を叩く音が聞こえる。カタカタと鳴っているのは、おそらく鍋を火にかけている音。
大昔・・・と言えるほどではないが、母親が台所で立てていた音と同じ・・・・・台所?
完全には目覚めていない頭の中に疑問が生じた。
何でそんな場所から音が聞こえてくるのだろうか?まな板何ぞで何を切っているのか?いや、そもそもこの家にそんな物があっただろうか?
まともに自炊が出来るわけでもない自分には、ほとんど不要なものなのに・・・・・。
とうとう、味噌汁の匂いが漂って来るようになった時、そこで意識が覚醒した。

ぱちりと目を開ける。絡まるように体に巻きついている布団を力任せに引き剥がし、腹筋を使って起き上がる。
そのまま視線をキッチン側に向けて、横島は違和感の正体を突き止めた。
こちらを背にして誰かが立っている。腰の辺りまである長い髪が日光を受けて天使の輪を作り上げている。
狭い空間内を器用に行き来しながら、具材を刻み、火加減を調節し、目分量で味付けをしていた。
薄いピンクのエプロン姿が、神々しい。家庭的という言葉を絵に描いた様な姿がそこには存在していた。


「・・・おキヌちゃん?」


寝ぼけたまま半分ほど閉じた瞳を向け、あくび交じりの声を掛ける。
間違いなく横島の仲間で、仕事の同僚でもある、氷室キヌだ。元の世界にいるはずの彼女が何故か台所で料理を作っている。
横島が目覚めた事に気がついていないのか、お玉で鍋の中身(おそらく味噌汁だ)をすくって味見をしている。
満足げに一つ頷きながら、魚でも焼いていたのだろう、焦げ具合を確認していた。
食欲をそそる香りが胃袋を刺激する。
こちらの世界に来てから、ずいぶんとご無沙汰であった、おキヌの手作り料理の味が舌の上で再現された。
自然と唾が出てくる。腹の音も鳴っている。
しかし、それでも横島は、なんとなく忙しそうに動いている彼女の姿を、しばらくの間見つめていた。


(あぁ、やっぱり、ええなぁ。何ちゅーかこう、やすらぐとゆーか・・・ここ最近ろくな目にあってなかったからなぁ。
こーゆーほのぼのとした感じが心にしみるよなぁ)


てきぱきと効率のよいその動きは、熟練の技を感じさせる。
彼女の場合は身体年齢と実年齢にけっこうな差があるので、驚くには値しないのだが。
こちらに来る前までは、横島もよくお世話になっていた。
料理がうまいだけではない。
家事全般が得意な家庭的な女の子であり、控えめで優しい性格もあいまって大和撫子という言葉が頭をよぎる。
巫女服姿がよく似合う清純派の美少女というところもポイントが高い。大抵の男が嫁さんにしたいタイプの女性だと言える。


(そーだよなぁ、美神さんじゃなくて、おキヌちゃんが俺の上司やったら、有無も言わせず異世界なんぞに叩き込んだりしないよなぁ。
最近全然疑問を感じなくなっちまってたけど、こんな調子で美神さんの所に居続けて、今までの元が取れるんか?
あのクソ女が俺になびくとは到底思えんのだが・・・。
いくらいい女だからって、このまま犬みたいに女王様の命令に、ただ従っていたとしても、いい思いなんか絶対できん。
ここはやっぱり高校生は高校生らしく、同じ高校生同士で清い交際ってやつをやるべきなんじゃないか?
・・・・・・・おキヌちゃんが相手だと、いまいちそれ以上の行為が、うまい事考えられんが、まぁそこらへんは時が解決するはずや。
よし、決めた。こーなったらもう、おキヌちゃんでいこう!」


布団の上に胡坐をかいて、腕を組みつつ思い悩んでいた横島が突然大きな声で決意表明した。
因みに本人は、それを頭の中で行っているつもりなのだが、当然のように口に出していた。


「・・・こーなったら・・・・・で・・・いこう・・・?」


したり顔でうんうんと頷いていた横島の頭上から、押し殺した声が聞こえてくる。
台所に立っていたわけだから、なんら不思議な事ではないのだが、
潤んだ瞳を半分ほど前髪に隠し、プルプルと震えながら包丁を持っているその姿は、控えめにいっても恐ろしい。
いいタイミングで太陽に雲がかかったのか、台所に薄暗い影が生まれている。


「あぁっ、しまった。声に出てたぁぁぁ!」


その後・・・・・。
拗ねてしまった彼女の機嫌を取りつつ、どうにか許しをもらい、食事にありつけたのは、十分程たってからの事だった。


(危ない、危ない。いい加減思った事を口に出す癖は何とかせにゃならんな)


そういう場合のほとんどが、人に聞かせたくない想像をしている時だったりするので、厄介なのだ。
心の中で一応反省してから、パリッと香ばしく焼けたアジの開きを、炊き立てのご飯の上に乗せて、一気に頬張る。
ふっくらと炊き上がった白米の食感と、熱々に焼けたアジの旨みが口の中で唾液と一緒に混ざり合う。
奥歯を使って豪快にかみ締め、飲み込みながら、茶碗片手に次々と料理を口に放り込んでいく。
若干薄味に感じられる味噌汁の味は、その分出汁がしっかりととられていて、横に添えられているキュウリの漬物との相性が抜群だった。
くどく感じさせない絶妙な甘さの卵焼きも、以前食べた時のままで、箸を動かす手が止まらなくなってしまう。
湯飲みに注がれた玄米茶を一口すすり、焼き海苔をご飯に乗せて、再び料理の攻略に挑んでいく。
この家にあるはずもない綺麗な皿に盛り付けられた、味がしっかりと染み込んでいる煮物は、
わざわざ向こうの世界から持って来てくれたのだろうか。
とにかくここ最近味わう事ができなかった、最高の朝食が横島の目の前に存在していた。


「こらうまい!こらうまい!」


口の周りにご飯粒をつけたまま、素直な感想を口にする。
素朴で家庭的な味わいは、ほとんど一人暮らしの横島が最も欲していたものでもある。
こちらの世界に来てから同居しているジークは、まともな食事を取っているとは言いがたく、
いつも、味気ない栄養調整食品か、そうでなければ、見た感じ全くうまそうには見えない軍用食のようなものを食べている。
一度ためしに食べてみるかと勧められた事もあるのだが、全力でお断りした。
バランスが取れた健康食だろうがなんだろうが、あれを食うくらいなら、多少健康に悪かろうが、カップラーメンの方が遥かにましだった。
なんというか、魔界製というだけで、遠慮したくなるのである。
一瞬脳裏に浮かんできた映像を、すぐさまシャットダウンし、ひたすら無心で、眼前の料理に没頭していく。
これ以上余計な事を考えながら食べるのは、よくない結果を生み出しそうだった。

最終的に炊飯器の中身まで綺麗に空にして、満足げに箸を置いた横島は、
ご馳走様と笑みを浮かべながら、料理を作ってくれたおキヌに礼を言った。
微笑を浮かべ、お粗末さまでしたと言いながら彼女がお茶のおかわりを注いでくれる。
ありがたくそれを受け取り、湯飲みに息を吹き付け冷ましながら、食後のお茶をゆっくりと味わう。
購入した覚えもないので、これも元の世界から持って来てくれたのだろう。ついでに言えば急須もそうかもしれない。
そこまで考えて、今更ではあるが、彼女がここにいる理由を尋ねる事にする。


「そういえば、何でおキヌちゃんがこっちにいるんだ?学校があるから来れないんじゃなかったっけ?」


「今日は日曜日でお休みでしたから。・・・シロちゃんやタマモちゃんに色々お話も聞いていたので、気になっちゃって」


どうもこの間の京都の一件で、横島の事が心配になり、わざわざ顔を見に来てくれたらしい。
美神からも様子を見てくるように言われていたので、仕事も一日休みをもらったのだそうだ。


「美神さんも心配してましたよ?」


「それ本当?あの美神さんが?こっちの人間の前で霊能力使っちまったから、報酬減らされて怒ってるんじゃ・・・」


結局、報告書には事実をあるがまま記載して、美神に提出されているはずだ。
消耗していた横島は京都から帰ってくるなり、気絶するように眠りについてしまったので、それからの事をほとんど知らない。
事後処理についてはタマモとジークがやってくれたらしいが、連中は偽りなくそのまま美神に報告したらしい。
慈悲の心はないのかと、問い詰めたいものだが、タマモはとっくに向こうの世界に帰ってしまっていたし、ジークも今は魔界に行っている。
報告のついでに、魔力を補充してくると言っていた。
いかに省エネモードとはいっても、霊力のない世界での長時間の活動には限界があるのだそうだ。
文句を言うまもなく二人ともいなくなってしまったので、その後の美神の様子を聞き出せなかった。
下手をしたら自分は彼女に殺されるのではないかと、戦々恐々としていたのだが・・・。


「大丈夫ですよ。ジークさんも状況的に仕方なかったって美神さんに言ってました。美神さんもある程度の減額は承知の上だったみたいで」


話を聞くと、どうも多少の損失を、計算に入れていたらしい。
金に関しては、とことん汚い美神らしくない。何しろ彼女からしてみれば、ないに等しい横島の給料にまでこだわる人なのだ。
今回の依頼でいくらもらうか、正確な額を知らされている訳ではないが、異世界なんて所で魔族と戦う仕事だ。
依頼主が、いまいち金の価値を理解していないと思われる魔族である事をかんがみても、途方もない金額であるはずだ。
その損失額も桁外れなのではなかったのだろうか。
横島が気になっておキヌに尋ねると、彼女は苦笑を浮かべながら、それも計算の内だったみたいで・・・と言った。

どうやら美神は、この依頼を無傷で終わらせる事の困難さに初めから気付いていたらしい。
標的が何処にいるのかも分からないから積極的にこちらから仕掛ける事ができない。
状況的に対象の魔族が現地の人間を襲うのを事前に食い止める事は難しい。

事が起こった後に何とか対処するのが関の山だろう。そうなれば当然取れる手段も限られてくる。
横島をこちらに送ったのは、美神自身が事務所を長期間離れられなかったからだが、
文珠という汎用性の高い能力を持っている事も理由のひとつだった。
だがそれにも限界があるだろう事は容易に想像がつく。何度かはうまく対処できるかもしれないが、それが長続きするとも思えない。
そう考えた美神は、ワルキューレとの契約の段階で、現地の人間に霊能力が発覚した場合の報酬の減額について、かなり綿密な交渉を行ったそうだ。
なんでも、何事もなく速やかに任務を達成した場合、魔族一体につき通常の料金とは別に成功報酬が上乗せされるのだとか・・・。
その他、減らされる金額自体も、当初想定されていたものより、かなり抑えられたらしい。


「それでも、もらえるお金が減るのは、胃がきしむみたいに嫌だけど・・・って言ってました」


「さすが美神さんや・・・隙がない」


どうやらこちらが考えている以上に、彼女は上手だったらしい。
無事に済みそうなので、よかった事はよかったのだが、そんな事ならもっと早く教えてほしかった。
ここ最近の夢見の悪さをどうしてくれる、と思わないでもない。まぁ胸のつかえが取れた事にはかわりないのだが。


「・・・まぁいいか。それじゃあ、おキヌちゃんは今日いっぱい、こっちにいれるの?」


「はい。お邪魔じゃなかったらですけど」


「邪魔なわけないって。でもこっちこそいいのか?貴重な休日だってのに」


「横島さんがいる世界ってどんなのかなって興味もありましたし、あっ、お掃除とお洗濯もやっておきますね」


食器を片付けながら、おキヌが言った。
掃除?・・・・・そう言われて横島は室内を見渡す。そこには向こうの世界の自室とほとんど変わらないほど薄汚れた光景が広がっていた。
脱ぎ散らかした衣服や、食べたままそこらに放置しておいたカップ焼きそばの容器。空き缶やゴミ箱までが横倒しになっている。
横島のすぐ目の前に、片方しかない靴下が丸まったまま転がっている。
思わずこめかみから一筋の汗が滴り落ちる。きっぱりと年頃の娘さんを招き入れるような状態ではない。
まぁ、おキヌは横島の部屋の惨状をよく理解しているので、驚いてはいないし、嫌悪しているわけではないようなのだが。
問題はそこではないのだ。

こちらの世界に来てから生活費をジークが負担していたので、食費など一切気にする事がなくなり、無駄遣いも増えていた。
向こうにいる間は生きていくための最低限の金が必要不可欠だったが、今は多少の無理がきく。
だからといって貧乏性の横島は、むやみに外食をするような人間ではないのだが、命の心配をしなくてよいのは間違いない。
しかし腹が満たされれば、別の欲求が芽生えるというのが人間というものだ。
つまり何が言いたいかというと・・・・・。


この部屋にはエロアイテムが散乱しているのである。


しかも、向こうの世界の時と比べて、他人が見ればちょっと引いてしまう類のものが・・・・・。


全てはDVDプレーヤーが悪いという事ははっきりとしている。実に充実したラインナップがこの部屋にはあったりするのだ。
額に滲んでいた汗が嫌なものに変わる。幽霊の時とは違い生身のおキヌちゃんに、あれを見られるわけにはいかない。
グラビア系のアイドル雑誌などとは訳が違うのだ。
実は今気がついたのだが、さっきまで彼女が座り込んでいた座布団の下にたしか女子高生ものがあったような・・・。


「いっ、いやーそんなのしなくてもいいって!せっかくおキヌちゃんの休みだってのに、
俺の部屋の、そ、掃除なんかで潰しちまうわけにはいかないし」


「そんな、気にしなくてもいいですよ。すぐにやってしまいますから」


「ちょーっ!!まっ、だっ、大丈夫だから、そ、それより、外に出かけよう。て、天気もいいしさ。俺がここら辺案内するから・・・」


食器を片付け終えたおキヌが、座布団に手をかけたのを見た横島が、慌てて彼女を制止する。
今は運よく気付かれていないようだが、もし事が発覚したらえらい事だ。いかに横島でも羞恥心というものはある。
特におキヌのような娘が相手では、この手のセクハラは気が引けてしまう。とにかく彼女の意識を逸らさなければならない。


「い、急いで着替えちまうから、先に外で待っててくれ、すぐ行くからさ」


「?・・・わかりました」


釈然としない様子で首をかしげながら、おキヌは言われた通りに部屋の隅に置かれたショルダーバッグを手に取って、部屋を出て行った。
その後姿を見送りながら、横島は安堵の息をついた。ぐいっと袖で額の汗を拭う。
・・・・・とりあえず時間は稼いだ。いまだ予断を許さない状況ではあるが、とにかく当面の危機は乗り切れた。
真剣な表情で、座布団の下に敷かれたDVDを回収する。それをとりあえず押入れの中に叩き込み、着替えを始めた。
本当なら、今のうちに部屋中の危険物を除去しておきたい所だが、おキヌを待たせたままという訳にもいかない。
出かけている間に何らかの策を考える必要があるだろう。
いつもの服に袖を通し、ぎゅっと拳を握り締めながら、横島は過酷なミッションへと挑む決意を新たにした。




◇◆◇




何とか無事に部屋を脱出する事に成功した横島だったが、その後は別段何事もなく穏やかな時間が過ぎていった。
適当に辺りを散策しながら、色々な店を見て回る。
この麻帆良の地は学園都市というだけあって、学生が好むような施設が結構な数存在しているし、
ちょっとした観光にはうってつけの場所でもあった。町並み自体も洋風でこじゃれた印象を見るものに与え、
鐘楼や、ばかげた広さの図書館島、世界樹と呼ばれる巨大な神木等、一日で見て回るには大変なほど、面白そうな場所がいくつもある。
ここ最近の日課で霊力探知機を持ちながら色々と見て回っていたので、ある程度何処に何があるかは把握している。
いちいち解説できるほど、この土地に詳しいわけではないのだが、散歩がてらのちょっとした道案内ぐらいはできるのだ。
さまざまな場所を見て回り、歩き疲れれれば、学生が集まるコーヒーショップや公園で休憩しながら、互いの近況を話し合った。
といっても、横島には話す事があまりないので、もっぱら向こうの世界の話を、おキヌに聞かされていたのだが。


例えば、横島に散歩に連れて行ってもらうために、シロがこちらの世界に来たがっている事や、小笠原エミや六道冥子といった商売敵の話。
ドクターカオスがくだらない発明品を美神に売りつけに来て、あっさり追い返された事。
唐巣神父が空腹でまた倒れた事、横島の代わりで学校に通っているドッペルゲンガーの話や、おキヌのクラスメイトの話などなど。
相も変わらず賑やかな面々が美神の周りで騒動を起こしているらしい。
話を聞くだけでそれらの光景が目に浮かんでくる。なんというか、どいつもこいつも変わりなく結構な事だ。

多少げんなりとしながら、それでもなんとなく懐かしさを覚えて、彼女の話を聞いていく。
すると、お互い時を忘れて話し込んでいたので、だいぶ時間がたってしまったのか、いつのまにか日がかげりを見せ始めていた。
いつまでも彼女を、こちら側に引き止めておく訳にもいかないので、少々早いがそろそろ部屋に戻る事にする。
ついでに、いつも利用している近所のスーパーで夕食の食材を買い込んでから、帰宅する事になった。
夕飯は横島の好物を作ってくれるらしい。それを聞いて嬉しそうな彼の様子に、おキヌは優しい微笑を浮かべた。


横島がカートを押しながらおキヌが食材を選んでいく。
傍から見れば夫婦のような二人だったが、当人達はまったくそんな意識もなく談笑しながら買い物を続けていった。
いつも食べているカップうどんが、安売りしているのを見た横島が、自然と手を伸ばしそうになって、慌てて引っ込める。
せっかくおキヌが料理を作ってくれるのだ。今日のところはインスタントから脱却しなければならない。
強引にうどんから視線を引き剥がして、店内を見回っていく。
こちらの世界に来てから、こんなに穏やかな気持ちになったのは初めてかもしれない。
そんなことを考えつつ、ただおキヌの後ろついて行くだけだった買い物も終盤に差し掛かる頃。

生鮮食品コーナーに真剣なまなざしを向けたまま、動かなくなってしまった彼女に、
若干の手持ち無沙汰を感じていた横島が、ふと、何か自分の心に引っ掛かりがある事に気がついた。
違和感・・・と言ってもいい。あるいは焦燥感だろうか・・・むずがゆく、手が届きそうで届かない感覚。
横島本人にもよく分からない、奇妙なささくれが心のひだを突いている。
レジを通し、清算を済ませ、買い込んだ食材を、袋に詰め込んでいく段になって、そののもやもやは徐々に加速していった。


・・・・・何だろう・・・自分は・・・何か大切な事を忘れている気がする。

とても重要で、やらなければならなかったことがあったような・・・・・・・・・・。


自分も荷物を持つと言うおキヌの言葉をやんわりと遮り、すべての袋をぶら下げた横島は、
なんとなくざわめいている心を落ち着かせるようにして、ゆっくりと歩いていく。
何かを忘れているのは確かなのだ。そこはかとなく重大な問題だったような気がしないでもない。
それでも具体的な内容が頭に浮かんでこない。
おキヌと一緒に自分の部屋へと向かっている途中、どうにかして忘れている事を思い出そうと頭を悩ませていると、
そんな彼の目に止まるものがあった。
それは道のはずれにある、一軒のコンビニだった。
出口付近から菓子パンを咥えた男が、袋から雑誌を取り出しつつこちらに向かって歩いてくる。
・・・別にその男自身に注意を引かれたわけではない。しかし何かが横島の心に触れた。
咥えているのはやきそばパンだろうか?飲んでいる缶コーヒーもありふれたものだ。
脇に抱えているのは漫画雑誌の類か、表紙でグラビアアイドルが笑顔を浮かべている。


・・・・・グラビア・・・アイドル?


何かが引っ掛かり、もう一度その言葉を心の中で唱えた瞬間、電撃にうたれたかのように、横島の脳に衝撃が走った。
唐突に朝の出来事が脳内で再生されていく。
何でこんな重要な事を忘れていたのだろうか。部屋に散乱している危険物は何一つ処理されていないではないか。
このまま和やかに部屋に戻っても、あのブツが発見されれば、急転直下の結末がまっている。
あ、あかん。・・・すっかり忘れとった。
疲れから来るそれとは違う、焦りから来る嫌な汗が再び額に滲んでくる。
出かけているうちに何とか作戦を考えるつもりだったというのに、まったく何にもこれっぽっちもいい考えが浮かんでいない。

視線は落ち着きなくふらふらと周囲をさまよい、体の動きもぎこちなくなっていく。
自然と歩みの速度も遅くなり、前を歩いているおキヌとも距離が離れていった。


「どうしたんですか?横島さん」


その事に気がついたおキヌが横島を不思議そうに見つめてくる。


「い、いや、なんでもないよ。うん、なんでも・・・・・」


明らかになんでもないわけがない様子であたふたと慌てている横島に、おキヌは体調でも崩したのかと気遣わしげな視線を向けた。
視線が定まらず、小刻みに体が震えているように見える。脂汗で額が光っているのは気のせいなどではあるまい。
おもえば、異世界に出張だと聞かされ、事務所で横島の姿を見なくなってから、おキヌはずっと彼の事を心配していた。
いつもそばにいるのが当たり前だった横島が、突然姿を消してしまった事で、なんとなく不安な思いをしていたのだ。
任務自体も大変なものだと聞いていたし、実際京都では、相当な無理をしたらしい。
何かのきっかけで、具合が悪くなったのだとしてもまったく不思議ではない。
そう考えたおキヌはとりあえず横島が持っている大量の荷物を、自分が引き受ける事に決めた。


「横島さん、気分でも悪いんじゃないですか?とにかくその荷物を貸して下さい。私が持ちますから」


「へっ!?・・・い、いや違うんだ。全然元気だって。そ、それよりおキヌちゃん。お願いがあるんだけどいいかな?」


おキヌに顔を見られないようにしながら、頼みごとをする。どうにかして彼女を、暫くの間だけでも足止めしなければならない。
そして自分だけいち早く部屋へと戻り、ブツを回収し、おキヌの目の届かない所へと片付けてしまわなければ・・・。
本心から自分を心配してくれているであろう、おキヌを騙すようで心苦しい思いはあるが、これもお互いのためだ。
せっかくのおいしい夕食なのだ。できる事なら平穏無事にすませたい。
そんなことを考えつつ、何か都合のいい言い訳を考えていた横島だったが、
どれだけ見回しても、それらしい理由になりそうなのは、コンビニくらいしかない。
横島の頭では、あそこで彼女に適当な買い物を頼み、時間を稼ぐくらいしかとっさに思いつかなかった。


横島が首を横にしてコンビニに視線を向ける。


「ちょっとあそこで買い物してきてくれないかな。・・・出来ればそれなりに時間をかけて・・・」


「買い物・・・ですか?何か買い忘れたんですか?」


「い、いや、えーと。と、とにかく、これで出来るだけお菓子とか何か適当に買っといてくれないかな。
俺はとりあえず荷物を置きに先に帰ってるからさ・・・っと帰り道は分かるよね?」


「それは大丈夫ですけど・・・あっ横島さん・・・」


「そ、それじゃ、わるいけどよろしく!」


財布に入っていた三千円をおキヌの手に握らせ、困惑の表情を浮かべて、
こちらを見つめてくる彼女から顔を背けつつ、踵を返し自分の部屋へと全力で駆け出す。
我ながら無茶だと思える強引さだったが、今は一分一秒が惜しい状況だ。
食材を満載した袋を両手に持ちながら、落とさずに素早く移動するのは、なかなかの難易度であったが、それでも大した距離ではない。
自分の部屋まで、もてばいいのだ。出来るだけ腕を振り過ぎないように気をつけて走りながら、横島は歩道を疾走していった。

ほとんど息を切らせることなく走り続け、見慣れた玄関の前まで到着すると、大量の荷物に四苦八苦しながら、何とか部屋の鍵を取り出し扉を開ける。
靴を脱ぐのももどかしく、転びそうになりながら、室内へとあがりこみ、とりあえず持っている食材を、台所に置いておく。
出来れば生鮮食品くらいは、冷蔵庫に仕舞っておきたい所だったが、時間稼ぎがいつまで持つか分かったものではないのだ。
とにかく急いで部屋を片付けなければならない。呼吸を整え、汗を拭きながら、横島は散らかり放題の自分の部屋へと向き直った。


だが一口にお片づけとはいっても、一つ一つ危険物を確認しながらの作業では時間が掛かりすぎる。ここで有効なのは単純なローラー作戦だろう。
そう考えた横島は、収納ボックスに入れておいた、半透明のゴミ袋を片手に、目に付くものを片っ端から放り込んでいった。
可燃ごみとプラスチックごみ、空き缶と古雑誌、脱ぎ捨てられたままの靴下、ワイシャツなど等。
ごみの分別どころか、必要なものとそうでないものまで一緒くたにしながら、僅かな時間で持っている袋はどんどん膨らんでいく。
そうして満杯になってこれ以上入らなくなったものは、とりあえず押入れの奥深くに保存しておく事にする。
後で整理するのに苦労しそうではあるが、それも仕方のない事だった。背に腹は代えられないのだ。
新たなゴミ袋を取り出し、再び隠蔽作業に没頭する。そうこうしながら床に転がっている物を黙々と拾い上げていくうちに、段々と目当てのブツも姿を現してきた。
プラスチックのケースに入れられたそれを袋の中に叩き込む。その度に心が軽くなっていくのを感じながら、室内を歩き回り、障害物を取り除く。
やがて、何度か同じ事を繰り返していると、整理整頓とは程遠い後片付けは、終わりの時を迎えた。


曲げたままの体勢でウロウロしていたからか、若干痛みを感じる腰をグッと伸ばし、改めて室内を見渡す。
塵や埃で汚れている事を除けば、さっきと比べて驚くほど”綺麗”になっていた。
足の踏み場もろくになかったことを考えれば、上出来と言えるだろう。おキヌがこの世界にいる僅かな期間、誤魔化し通すのには十分だ。
ぽきりと関節を鳴らしながら、台所に放置していた食材を冷蔵庫に収納しにいく。
もう少したてば、おキヌも帰ってくる事だろう。今のうちにお湯を沸かしておき、帰ってきたらお茶の一つでも入れてあげよう。
そう考えて、やかんに水をいれ、コンロに置き火にかけた。お湯が沸くまでの間、室内へと戻りテレビを見ながら暇を潰す事にする。
さほど興味を惹かれないニュースに欠伸をかみ殺しながら、横島はテーブルの上で頬杖をついた。
何とかなってよかった。口元を緩めながら、生真面目な表情でこちらに語りかけてくるキャスターに視線を送った。

そんな事をしながらおキヌの帰りを待っていたのだが、お湯が沸いてニュースが終わっても、なかなか彼女が帰ってこない。
あのコンビニから横島の部屋までは、そう遠くないのだ。買い物の時間を計算に入れたとしても、こんなに時間が掛かるのはおかしい。
彼女は大丈夫だと言っていたが、道に迷ったのだろうか?それとも、まさかとは思うが彼女の身に何かあったのか。
そわそわと落ち着かなくなり、不安が頭の中をよぎり始める。とうとう我慢できなくなって、横島が部屋を出て行こうとしたその時、玄関のチャイムが鳴った。
安っぽいありふれたチャイム音だ。だがこの部屋でその音を聞いたのは初めての事だった。なぜならこの部屋に人が訪ねてきた事はないからだ。
おキヌが帰ってきたのかと、ホッと安堵しながら、急いで玄関に向かう。ドアの鍵は掛かっていなかったので、そのまま扉を開けて彼女を出迎えた。


「おかえり。ちょっと遅かったね、おキヌちゃ・・・・・ん?」


「あっ・・・・・」


ドアノブに手をかけたままの姿勢で、笑顔を見せていた横島の表情がピシリと固まった。目の前に自分の予想とは違う人物が立っている。
どこか凛々しさを感じさせる少しだけ切れ長の瞳を、今は丸くしてこちらを見つめている。
どこかの学校の制服姿は最後に見た時と変わっていない。艶やかな黒髪を片側で縛り、どう見ても小柄な体格とはつりあっていない長さの竹刀袋を持っている。
硬直し動かないままの横島と同じく、何故か彼女のほうも身動き一つしていない。
お互い見つめあったまま、数秒の時間が過ぎていった。


「・・・・・・・・・じ」


「・・・・・じ?」


「銃刀法違はーーーーん!!」


「だ、誰がっ!・・・ってあなたは、あの時の不審者!!」


止まった時が動き出したと同時に、横島が全力で後ろに跳ね飛び、少女は竹刀袋を片手に油断なく身構える。
袋から中身を取り出す事まではしていなかったが、彼女にしつこく追い回された経験を持つ横島は、
あれの中身が竹刀などではない事をよく知っている。
なんだか物凄く切れ味のいい代物なのだ。どこかの大泥棒の仲間が持っている、ざんなんとか剣と同じくらい物騒な凶器だった。


「な、何だって君がこんな所にいるんや!」


「そ、それはこっちの台詞だ!何であなたがここに・・・」


お互いに指差ししながら、一方は表情を険しくし、もう一方は怯えた様子で牽制しあう。


「まさかあの時から、つけられとったのか?・・・ハッ、しまった。これじゃ袋の鼠やないか!助けて、美神さーん!」


混乱したまま、部屋の隅でガタガタと震えながら、必死になって逃げ道を探している横島に少女とは別の声が掛かった。


「あの・・・横島さんのお知り合いなんじゃ・・・」


コンビニのロゴか描かれているビニール袋を抱えて、ドアの隙間から、おキヌが顔を出しつつ横島と少女を交互に見返している。


「し、知り合いと言えば知り合いかもしれんが、そんな和やかな感じじゃないんやー!」


いつのまにか帰ってきていたおキヌに言葉を返しつつ、視線は竹刀袋の少女に向けたまま、限界まで後ずさる。
夢に見てしまいそうな追跡劇の記憶は、今だ色あせる事無く横島の記憶の中に存在しているのだ。
中学生位の女の子に泣かされて逃げ帰った思い出は、そう簡単には消えてくれない。


「ちょ、ちょっと待って下さい。この人が横島さんなんですか!?」


驚愕の表情を浮かべながら、焦った様子で少女がおキヌに確認する。


「えーとそうですけど・・・」


「そ・・・そんな・・・・・」


呆然としたまま、僅かによろめいた少女の横からおキヌとは違う別の娘の声が聞こえてくる。


「せっちゃん。どうかしたん?」


どこかのんびりとした印象を与える柔らかな声だ。
どういうわけかショックを受けた様子の少女の肩を支えながら、不思議そうに見つめている。
腰まである長い黒髪が印象的な女の子だった。
大きな瞳で瞬きしつつ、竹刀袋の少女をうまく支えきれていないのか、一緒になって足元をふらつかせている。


「ちょっ、ちょっと何やってるのよ・・・前が詰まってるんだけど」


そんな二人に戸惑うようにしてツインテールの少女が横島の視界に現れた。前にいる二人と同じ制服を着ている。
学生鞄を肘の辺りにぶら下げ、両腕を組みつつ呆れた様子で声を掛けていた。


「あっ、君は・・・・・」


「・・・こんにちは」


ツインテールの少女、神楽坂明日菜が横島に向かってぺこりと頭を下げ、挨拶してくる。
少しだけ緊張しているように見えるのは、こちらの気のせいだろうか?京都の夜以来だがどうやら元気そうだ。
あの時、親友を抱きかかえながら涙を流していた、明日菜の姿が思い出されて、横島は優しい表情を浮かべた。
・・・よく見れば、長い黒髪の女の子にも見覚えがある。あの時横島が助けた木乃香だ。
どのような経緯でこの場所にいるのかは分からないが、何故か京都での一件に関わっている少女達がこの場に集まっていた。

さすがの横島でも、明日菜や木乃香が現れたことで、この訪問がただのお礼参りではない事に気がつく。
とにかく玄関先でいつまでも騒いでいるわけにもいかないので、横島は彼女達にむかって部屋に入るように促した。
怪我の功名と言っていいのか分からないが、とりあえず全員が入ってこられるだけのスペースは確保してある。
人数分の座布団を用意しながら、お茶でもいれるかと台所を振り返った。
すると、そんな横島の視線に気がついたのか、おキヌが私が用意しますからと台所に向かっていく。
その言葉に一つ頷き返し、まだ室内で立ったままの少女達に適当な場所に座るように言った。
素直に横島が用意した座布団の上に腰を下ろした明日菜と目を合わせ、
おキヌがお茶を用意してくれるまでの間に簡単な自己紹介だけでも済ませておくことにする。


「それじゃあ私から・・・改めまして、神楽坂明日菜です。この間はろくにお礼も言えなくて、すみませんでした」


「ん?あぁ、いや、あん時は俺も慌しかったからなぁ。タマモの奴にもせっつかれてたし、別に気にしなくてもいいって」


実際木乃香を助けた後も、一悶着あったのだ。
何故かあの場に突然現れた楓と横島が、ちょっとした顔見知りである事が周りの人間に伝わり、彼が麻帆良に住んでいる事が露見してしまった。
極力自分達の素性を隠しておきたい横島達は、慌しく彼らと別れ、ジークの元へと逃げるように去っていった。
木乃香が無事だった事に喜んでいた最中の明日菜は、それ所ではなかったのだろうが。


「じゃあ、次はウチが。はじめまして近衛木乃香っていいます。
ほとんど覚えてへんけど、危ない所を助けてもらったみたいで、ありがとうございました」


座ったまま体を器用に折り曲げて丁寧なお辞儀をした木乃香が、横島にお礼を言った。


「うん。あれから体調とか大丈夫か?変わった事とかない?」


「あはは、おかげさんで。全然元気ですー」


にこりと穏やかに微笑んで、返事をしてくる彼女の姿を見れば、言葉通り問題はなさそうだ。
文珠を発動した時の手応えは十分だったし、、彼女が解放されてから一度だけ”解析”していたので、
あまり心配してはいなかったのだが、こうして目の前で無事な姿を見ることが出来て、肩の荷がおりたような気がした。
ホッと一息ついた横島が、最後の一人に視線を送る。ある意味、一番反応に困る人物の自己紹介だ。いやが上にも緊張してしまう。
向こうの様子も似たようなもので、横島相手にどういった反応を取ればよいのか、戸惑っているように見えた。

無理もないなと自分でも思う。互いに第一印象が最悪だったのは、言うまでもない事だし、それが尾を引いているのも間違いない。
大怪我をおった彼女を横島が助けたのは事実だが、そもそも意識を失っていた彼女がそれを覚えているわけがないし、
人伝に聞かされただけでしかない彼女には、実感など一切ないだろう。
なんとなく気まずい思いをしてしまうのも、納得といった所だった。
それでも、このまま黙っている訳にもいかなかったのか、意を決したように少女が目つきを鋭くする。それだけで、横島はかなりビビッているのだが。


「は・・・はじめまして、桜咲刹那と申します。京都ではお嬢様と自分を助けて頂き、感謝の言葉もありません」


語気を強めて一気に言い放った言葉と同時に、機敏な動作で頭を下げる。
いちいち、大仰なその仕草に、思わず横島まで姿勢を正し、これはご丁寧にどうもすんませんと、何も悪くないのに謝ってしまった。


「・・・うーんと、君も具合が悪いとかないかな?あん時は俺も焦ってたから・・・」


「はい。何の問題もありません」


「そ、そう?それはよかった。あ、あは、ははは」


乾いた笑いを零しながら、横島はあさっての方向に視線を逸らした。まっすぐにこちらを見つめてくる刹那と、なんとなく視線をあわせ難い。
横島にとって、いまだに彼女の印象は恐怖の一文字で固まっていた。
向こうの自己紹介が一段落した所で、丁度いいタイミングでおキヌがお茶と茶請けを持ってやってきた。
各々にお茶を配り終え、彼女が席に座るのを待ってから、こちらの自己紹介を始めることにする。


「なんかもう知ってるみたいだけど、俺の名前は横島忠夫。で、こっちにいるのが同僚の・・・」


自分の紹介をおざなりに済ませ、おキヌに視線を向けた。


「えっと、それじゃあもう一度。氷室キヌと言います。よろしくお願いしますね」


この家に案内する時に一度自己紹介は済ませていたのだろう。
一旦ことわりを入れてから、おキヌが綺麗な所作でお辞儀し、穏やかに微笑んで、丁寧な挨拶をする。
全員分の挨拶が終わり、おキヌの入れてくれたお茶で喉を潤してから、一息ついた所で、
横島はどうしても気になっていた事を明日菜たちに質問した。


「明日菜ちゃん達はどうやって俺がここにいる事が分かったんだ?」


何しろ横島達は異世界の人間だ。出来る限り自分達の痕跡は隠していたし、ジークに聞いた話では色々不穏な手回しも行われているらしい。
具体的には土偶羅の存在や、押入れの隅に仕舞われている怪しげな魔界製の鬼械がそれに当たる。
横島としてもなるべく知りたくはなかったので、詳しくはないのだが、普通に調べただけでは、この場所に行き当たるわけがない。
だから、明日菜達がここにいる事が純粋に不思議だったのだ。


「横島さんが麻帆良にいるって事は聞いてたから・・・大体の場所も見当がついてたし、当たりをつけて聞き込みしたんです」


「楓ちゃんか・・・・・つっても具体的な場所は全然教えてなかったし、目茶目茶苦労したんじゃないか?」


「今日は下見のつもりやったんですけど、たまたま声を掛けたのが氷室さんで、横島さんの知り合いやって言うから、案内してもらいましたー」


どうやら本当にただの偶然でここまで来たらしい。
楓に大体の場所を聞いていたとしても、逆に言えばそれだけしか分かっていなかったのだ。
この近辺で横島の目撃情報を聞き込んだとしても、本来ならこの場所を探し当てるのは、かなりの時間が掛かっていたはずだ。
運よく横島を知っていたおキヌに声を掛けたからよかったものの、あまり計画性があるとはいえない。
行き当たりばったりもいい所だった。


「無茶な事考えるなー。わざわざお礼言いに来るのに、そんな大変な思いする気だったのか?」


「お嬢様の命の恩人なのだから当然の事です。・・・・・正直、あの時は何もかも終わってしまったと思いましたから・・・」


刹那が己の腕を抱え、爪を立てながら、思いつめた様子でうつむく。ほんの少し震えているようにも見えた。
彼女にしてみればあの時の事はあまり思い出したくない記憶だろう。自分の大切のものを失ってしまう恐怖は横島にも身に覚えがある事だった。
なんとなく全員が言葉を発する事無く黙り込み、無言の時間が流れる。しばらくお茶をすする音だけがその場に聞こえていた。


「まぁ、なんにしても皆元気そうでよかったよ。俺もあの後すぐに帰っちまったから、ちょっと気になってたんだ」


場の空気がこれ以上暗くなるのを嫌った横島が、無理やり明るい声を上げた。
言ってしまえば、京都で暴れたデミアンは横島達の世界の住人なのだ。
魔族の逃亡に直接関わっているわけではないし、自分が悪い訳ではないと分かってはいても、
目の前で落ち込んでいる女の子を見ていると、なんだか罪悪感のようなものを感じてしまう。
結果的に何とかなったにしても、目の前に命を失いかけた人間がいるとなれば、なおさらだ。


「・・・・そうですね」


横島の言葉を聞いた明日菜が少しだけ陰を感じさせる笑顔で頷いた。
どうもまだ本調子とはいかない様子だった。京都でタマモと一緒に監視していた時に感じた印象とずいぶん違う。
どちらかと言えば、年相応に活発で元気のいい娘だったはずなのだが・・・。
あの鬼だか式神だかと戦っていた時の彼女の姿がなんとなく思い出された。


「そういえば、ほかの連中は元気か?ネギつったっけ、あいつやエヴァちゃんとか茶々丸ちゃんは?」


話題を変えるため、この場にいない共通の知り合いである彼らの話を明日菜に尋ねる。


「・・・・・ネギは、ここ最近ずっとエヴァちゃんと一緒にいます」


明日菜はなんとなく拗ねた様子で唇を尖らせ、お茶菓子に出された京都土産の八橋を手の中で弄びながら横島に答えた。


「エヴァちゃんと?・・・・まさかとは思うが、あいつらできとったのか。だとしたらキッツいお仕置きをせにゃならんのだが」


べつに本気であの二人が付き合っていると思ってはいないが、もしも本当にあの年で彼女持ちなのだとしたら、
子供だろうが関係ない、おませなガキにはえげつない手段を講じて、身の程をわきまえさせなければならない。


「あはは、ちゃいます、ちゃいます。ネギ君今修行中なんです」


木乃香が湯飲みを片手に、パタパタと手を振りつつ横島の言葉を否定した。


「修行・・・・・ってなんでまたそんな物騒な事してんだ?」


「物騒・・・ですか?そこまで言うほどではないと思いますが・・・」


刹那が、細く整えられた綺麗な眉を僅かに歪めて、怪訝そうにしている。


「いや、だって、修行だろ?一発勝負に命がけで挑んで、成功すればいいけど失敗したら死んじまうってやつ」


「・・・・・・・・・・・・・・・・何処の世界の修行ですか?」


ある意味真実の一端を突いた刹那から、何故か疲れた視線を向けられた横島が、おかしな事を言ったのかと首を捻った。
自分の経験から出た言葉を素直に告げただけなのだが、別段変なことを言ったつもりはなかった。


「横島さんと美神さんがやったのは、あまり一般的とは言えないんじゃ・・・」


それまで黙って話を聞いていたおキヌが、苦笑を浮かべながら横島に口添えする。
その言葉を聞いた横島の頬が僅かに引きつった。言われてみれば確かにその通りだ。
GS試験に合格し、便宜上美神の教え子になってはいるものの、彼女からGSとしてのまともな教育を受けた覚えがほとんどない。
美神除霊事務所は実にさまざまなケースの依頼が舞い込んでくるが、
強いてあげればその時々に彼女がしてくれる解説がそれに当たるのか。
それはそれでためになる事ではあるのだが、要するに美神が横島にしてくれる教育は全て実戦形式なのだ。
唯一の例外は妙神山で雪之丞と一緒に行った修行だろうが、あんなものが一般的であるはずがない。
おキヌに言われるまで、そこらへんの常識がスコーンと抜けていたらしい。


(なんちゅーか最近の俺は、あの連中に毒されとるんじゃなかろーか)


心の中で冷や汗を流し、今一度己の常識について考えさせられた横島だったが、
もし美神達が今の横島の心を読んでいたら、全員でお前が言うなと突っ込みを入れているだろう。
美神の周りにいる人間の中では、横島が一二を争う変人である事は間違いない。本人にその自覚はないのだろうが。


「・・・しかし修行なぁ。あいつ十歳くらいだろ?俺があいつくらいの頃は遊ぶ事しか考えとらんかったけどな」


自分が小学生の頃を振り返り、当時の記憶を思い出していると、明日菜がポツリと呟いた。


「ネギには目標があるし・・・それに今回の事で責任感じちゃってるらしくて」


詳しく話を聞くと、京都で明日菜達が巻き込まれた騒動について、自責の念を覚えているのだそうだ。
あと少し何かが狂っていれば、木乃香も刹那も死んでしまう所だった。あんな思いはもう二度としたくない。
もっと自分に力があれば。誰かを守れる力が欲しい。

要約すればそういう事らしい。なんというか全然子供らしさを感じられない。
真面目そうな奴だったからなぁ、と煎餅を噛み砕きながら横島はネギの姿を思い浮かべた。


「あいつも横島さんにお礼が言いたいって、本当は一緒に来る予定だったんですけど、まさか一日で見つかるとは思ってなくて」


「ネギ君忙しいから、ウチ等で場所だけでも特定しようって考えてたんです」


どうもあの性格のきつそうなエヴァにこってりと絞られているらしい。口では面倒だと言いながら、よく世話を焼いているそうだ。
あの年であんな女王様タイプの人間に攻められるのは、修行自体はともかく教育にはいいのだろうか?
所詮人事だけど、と横島はそんな疑問を抱いた。


(妙な快感に目覚めないといいけどな・・・)


・・・などと考えている横島だったが、完全に自分のことを棚に上げている。
もし女王様度なる数値が存在していたら、彼の上司は軽くエヴァの上をいくだろう。
きっぱりと人事ではない。実際に横島の性癖が特殊かどうかは、おいておくとして・・・。


「でも、ちょっと心配なんです。この間なんて疲労で倒れるくらい頑張っちゃってて・・・何か思い詰めてるみたいで」


明日菜が伏し目がちに視線を落とし、小さくため息を零した。


「そうやなー。もうちょっとくらい自分の体を気遣ってくれたらえーんやけど・・・」


木乃香も同意見なのか、憂いを帯びた表情で、己の頬に手を添えた。
どうやら横島が考えているよりも、京都での一件がネギ少年に与えた影響は大きいものらしい。
だが考えてみれば、そのくらいの反応をしてもおかしくないのかもしれない。
魔法使いがどういう存在かは分からないが、あの年齢で人が目の前で死にかける所を見る事など、そうそうありはしないだろう。
正直、血塗れの刹那を見た時など、仕事柄大抵のショッキング映像に免疫があるはずの自分でも、ギョッとした。
他人である横島でさえそうなのだ、身内であるネギにとっては、なおさらだったはずだ。トラウマになっていたとしても、おかしくはない。


「・・・まーなぁ。強くなろうとするのは悪い事とも思わんが、別にあいつのせいってわけじゃないんだし、そんな気にせんでも」


話を聞いた限りでは、ネギが自分を責めすぎているように感じる。だが、真相を知っている横島からしてみれば、京都のあれは不慮の事故みたいなものだ。
木乃香を狙っていた魔族の傍に、たまたま強力な力を持った怪物が現れため、手が付けられない事態が起こってしまったという事にすぎない。
それに言ってはなんだが、相手が横島の世界の上級魔族である以上、どれだけネギが強かったとしても、どうしようもなかったはずだ。
言うなればあれはこの世界の住人にとってのイカサマのような存在なのである。
それを知らせる訳にはいかないので、もどかしいのだが、出来ればすっきり忘れてしまった方がいいのだ。
横島がなんとなく、ばつの悪い思いをしていると、刹那が真剣な表情で、口を開いた。


「・・・・・・・・・・私は、間違ってないと思います」


それほど大きくはなかったが、その声は不思議と全員の耳に響いた。膝の上でギュッと拳を固めたまま言葉を続ける。


「自分の未熟のせいで、大切な誰かを失うくらいなら、どれだけ自分を痛めつけても強くなりたいっていう気持ちは」


まるで自分に言い聞かせているように聞こえる。よく見れば彼女の体のいたるところに包帯が巻かれていた。
気のせいでなければ、湿布の匂いもしている気がする。
両手に細かい傷がついているように見えるし、心なしか顔色も優れていないような・・・。
横島はそこでようやく気がついた。刹那は木乃香がデミアンにさらわれた時、迷いなくあの怪物に切りかかった少女だ。
木乃香を助けるために、誰よりも早く命をかけた人間だ。
その彼女が、いくら全員無事に事態が収束したといっても、責任を感じていないわけがないではないか。
思わず刹那の顔を見つめる。その横顔は彼女の愛刀同様、鋭く、美しく、けれど、どこか儚い印象をあたえた。


「でも、それで人に心配掛けてちゃ何にもならないじゃない」


語気を強くして明日菜が刹那の言葉に反論する。


「ですが、もしまたあんな事が起こったら、今度こそ取り返しがつかないかもしれないんですよ!」


「だからって、自分を傷つけていい理由にはならないよ!」


互いを睨みつけながら、動きを止める。どちらも引くつもりがないのか、瞳の中に硬い意思が宿っているように思えた。
そんな二人に挟まれて、木乃香がおろおろと狼狽していた。助けを求めて横島に視線を送ってくる。
木乃香の望みは察しているが、かといって横島がどうこう言える話ではない。刹那の意見も分かるし、明日菜の言葉ももっともだ。
どちらも間違った事を言っているわけではないので、仲裁の仕様がない。出来れば横島も木乃香と一緒におろおろしていたかった。


しかし、それでも一つだけ言える事があるとすれば・・・・・それは・・・。


「おキヌちゃん。ちょうどジークの野郎もいないことだし、ちょっとくらいならいいよな」


「え?」


突然話を振られたおキヌが、困惑したように顔を上げた。事情もよく知らない自分に何故声を掛けてきたのか頭に疑問符を浮かべている。
しかし、落ち着いた表情の横島を見ているうちに、なんとなく彼が言いたい事が分かったのか、すっと席を立ち、静かに刹那の隣に腰を下ろす。


「え、あ、あの」


「少しの間、じっとしていてくださいね」


急に近づいてきた彼女に、どう対応していいのか分からなくなっていた刹那だったが、おキヌの優しい口調におとなしく従った。
そんな刹那に笑顔を向けて、おキヌは彼女の傷だらけの両手を包み込むように、そっと触れ、そして、意識を集中した。
淡い光が二人を照らし出す。おキヌの手から、刹那に向かって注がれていく霊力は、癒しの力となり、彼女の傷を治していく。
おキヌの心霊治療能力だ。仕事を終える度に傷だらけになる事が多い横島も、よくお世話になっている。
傷口に僅かな熱を感じて刹那が声を上げる。しかしすぐにその痛みも消え、心地のよい暖かさを感じていた。


「私の心霊治療は、そんなに強くはないので、完全に癒すのは難しいんですけど・・・」


申し訳なさそうに、おキヌが刹那を見た。


「い、いえ、そんなことないです。ありがとうございます」


そんな彼女に慌てて刹那が礼の言葉を口にする。
実際、謙遜するほど弱くはない。痛みは段々と和らいでいるし、なにより、何故だろうか、とても心が落ち着くのだ。
ささくれだっていた精神が、無理なく穏やかになっていくのである。


「私は部外者ですし、何も言うことは出来ませんけど、でも、明日菜さんが刹那さんを心配しているのはよく分かります。
それに、あなたがこんなに傷だらけになっても守りたいと思っている人が、同じくらいあなたを守ってあげたいと思っていることも」


治療を続けながら、おキヌは柔らかな口調でそう告げた。
はっと何かに気付いた様子で刹那が木乃香に視線を向ける。そこには刹那を心配そうに見つめる彼女の姿があった。


「せっちゃん・・・」


「お嬢様・・・」


見つめ合う二人に、微笑みながら、おキヌは刹那の治療を終えた。
最後に彼女の肩をそっと撫でて、どこか悪戯っぽく言った。


「ふふっ、こういうのって一人で頑張っちゃいけないんです。きっと」


「・・・・・・・・そう・・・ですね・・・そう・・かもしれません」


その言葉を噛みしめながら、自分の未熟を恥じ入るように俯いていた刹那が顔を上げる。


「ごめんなさい、明日菜さん」


「えっと、こっちこそごめん。ちょっと言いすぎたかも」


刹那のあまりにもまっすぐな謝罪の言葉に、明日菜は多少うろたえつつ謝った。
直後にくすっと笑いがこぼれる。京都からこっちずっと心に溜まっていた憂鬱が少しだけ晴れた気がした。


「なんだかうらやましいよなー、こういうの。ワイの上司なんて俺のために頑張るどころか、率先して厄介事を押し付けているようにしか思えん」


ぼやくように溜め息交じりの泣き言を口にしつつ、横島は大げさに肩を落とした。


「み、美神さんも、ちゃんと横島さんの事を考えていますよ」


「それ、本当にそう思ってる?おキヌちゃん・・・・・」


「・・・・・・・・えっと・・・・・たぶん・・・・・きっと・・・ひょっとしたら・・・」


不自然に顔を背けて、妙に途切れの悪い言葉で、しどろもどろに横島を励ますおキヌだった。


「・・・・・まぁ、あえて否定はせんでおこう。正直、俺も信じたいしな」


世界を隔てて美神が西条と飲みに出かけている事を知らない横島は、なんともいえない曖昧な表情で頷いた。
いつまでも、愚痴を言っていても仕方ないので、視線を明日菜たちに戻す。
この家に来たばかりの時に比べて、だいぶいい表情をするようになった彼女達にホッと安堵の息をついた。
やはり、落ち込んでいる美少女達の顔を見ているよりは、笑顔の美少女達を見ているほうが断然目の保養になる。
緊張していたらしく、妙にこってしまった首をくるりと回しつつ、明日菜たちに話しかける。


「そうだ、よかったら、一緒に飯でも食べていかないか?
買い物した時、調子に乗って食材を買い込んじまったから、ちょっと減らすの手伝ってくれると有難いんだが・・・。
明日菜ちゃん達は寮暮らしだっけか?門限とかあるから駄目か?」


おキヌとの買い物がなんとなく新鮮で楽しかったので、気がついたら結構な量の食材を買い込んでいたのだ。
おキヌの料理ならいくらでも食べる事ができる気がするが、せっかくわざわざ明日菜たちが訪ねて来てくれたのだ。
多少のおもてなしはしてあげたい。


「えっと、連絡しておけば、ちょっとくらい遅くなっても大丈夫だと思いますけど・・・。いいんですか?」


「もちろん。・・・つっても俺は料理なんか出来ないから、作ってくれるのはおキヌちゃんなんだけども」


「ふふっ、少し待ってて下さい。腕によりをかけて料理しますから」


快く横島の申し出を引き受けてくれたおキヌが席を立ち台所に歩いていく。その背中に自分も手伝いますと、木乃香が声を掛けた。
狭い台所に二人並んで、楽しそうに談笑しながら料理の下ごしらえをしていく。
京都で明日菜の記憶を覗いた横島は、木乃香の料理の腕がすばらしい事をよく知っている。安心して見ていられるというものだ。
しばらくは、他愛のない話をしながら、料理が出来るのを待っていた横島達だったが、ふと台所にいる木乃香から声が掛かった。



「あ、そうだ。横島さん、天気予報見てもえーですか?明日の天気がちょっと心配で・・・」



思えば、この一言が、闇への誘いだったのだろう。



















そう、この話は、恐怖の体現なのだ




「え?もちろんいいけど。リモコンは何処いっちまったかな」




悪夢は何気ない日常から唐突に現実を浸食する。




「ちょっと探すの手伝ってくれないか?」




何が悪かったのだろうか?




「わかりました。刹那さんは向こうをおねがい」




木乃香が洗濯物が溜まっている事を思い出したから?それとも横島が無茶な部屋の掃除をしたからだろうか・・・。




「はい、えーと。・・・あ、あった。これかな?」




横島が横着せずに自分でリモコンを探していればよかった?




ポチッ




テレビのリモコンとDVDデッキのリモコンがほとんど同じ形をしていたのがいけないのか・・・。




ただ言えるのは、やはりこの世界には、神様(神族)など居ないという事だ。
そして、DVDを見終わったら、必ずケースの中に仕舞って置きましょうという事。




大画面いっぱいに肌色が表示された。妙齢の女性が艶のある声を上げている。
どこか水っぽい音と共に、肌と肌がぶつかり合う音が、無機質なスピーカーから臨場感溢れて聞こえてくる。


空間が凝固した。


先ほどまで流れていた穏やかな空気が一変している。横島の虚飾が取り除かれ真実が現れる。













少女達の悲鳴が聞こえてくるまで、後三秒。




◇◆◇




結論だけ言おう。




消費されるはずだった大量の食材は、ほとんど無傷のまま、冷蔵庫に安置されている。




その日横島は、涙を流しながら一人で買い置きのカップラーメンをすすった。








[40420] 13 横島の休日 前編
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:1733bd69
Date: 2015/07/11 20:25


「これは・・・・・夢か何かか・・・・・」


さんさんと降り注ぐ太陽光の下、一定周期で規則正しく波音が聞こえてくる。
踏みしめた砂の地面から、結構な熱気が感じられた。
海風が運んでくる潮の香りが鼻腔を刺激し、コバルトブルーの透き通った水の色が目に優しい。
首を横に向けると、波打ち際にビーチボールが転がっている。向こう側にあるのはビーチバレーのコートだろうか?
周囲の景観を壊さない程度に設置された真っ白なビーチチェアが、所々に生えているヤシの木と共に、
絶妙なアクセントとなって、南国の雰囲気を盛り上げていた。


そう、自分は今、常夏の楽園にいる。


ただ立っているだけでも、こめかみから汗が滴り落ちてくる。頭頂部が太陽熱のせいでやたらと熱い。
さらさらと、きめ細かい砂の上を蟹の親子が横切っていた。
足元を見れば、自分が履いている薄汚れたスニーカーが目に留まる。
なんだか物凄く場違いに感じた。猛烈にビーチサンダルが欲しくなってくる。
長時間履いていると指の付け根が痛くなる、ゴム製の安物のやつ・・・・・・・・・・。

そこまで考えて、ふと我に返った。あれ?何で自分はこんな場所にいるのだろうか?
たしか、近所のスーパーに立ち寄り、安売りしていたカップラーメンを大量購入して、ホクホク顔で帰宅していたはずなのだが・・・。
右手に持っているビニール袋がかさりと音を立てる。欲張って入れたせいで今にも破けてしまいそうだ。
表面に描かれているスーパーのロゴが、皺になって限界まで横に広がってしまっていた。

ため息を一つ零して、腕を組み考え込む。あの時、道を歩いていた自分に、誰かが声を掛けたのだ。
後ろを振り返ると、黒服の男が数人、道幅いっぱいに広がって立っていた。
そして懐から何かを取り出し頷くと、こちらの名前を確認してきた。
あまりの事に驚いて条件反射で肯定すると、何か袋のような物を被せられて、そのまま・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






「拉致されてるじゃねーかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」







人類が陸上生物として進化したその過程で旅立った母なる海に、悲しい叫びがこだましていった。




◇◆◇




(ちっきしょう。いったい何がどうなっとるんだ・・・)


状況から考えて、自分が何者かに誘拐されたのは間違いない。
誰が、何の目的で、自分をこんな場所に連れ去ったのか、全然見当はつかないが・・・。
何しろこちらの世界に来てから、まだそれほどの時間がたっている訳ではないのだ。
元の世界と違って、ろくに知り合いもいないというのに、横島個人が狙われる理由があるとは思えない。


(って事は、無差別な誘拐なのか?・・・これ)


血の気が引いていく音が聞こえた気がした。
もし仮に自分が何らかのトラブルに巻き込まれている渦中なのだとしても、それに気付いてくれる人間が今はいないのだ。
同居しているジークは、横島の世界の魔界に行ったまま、まだ帰ってきていない。
よって、横島がいなくなってしまったことに気がつくとしても当分後になるだろう。
つまり助けはまったく期待できない。何とかして自分の力だけで切り抜けなければならない・・・。


(じょ、冗談じゃねーぞ。俺一人でどうしろってんだ)


あの黒服の連中が何者かは知らないが、個人の犯行でない事は確かだ。組織的な犯行だとしたら、どのくらいの規模になるのか。
いずれにしても厄介である事には変わりない。頬を伝っている汗が、冷や汗に変わっていく。
南国の暑さなど感じている場合ではなくなってしまった。


(・・・いや、ちょっとまてよ、なんかおかしくないか?)


ふと頭に疑問が浮かんだ。
・・・誘拐するにしても何故こんな場所なのだろうか。わざわざ日本から連れて来られたわりには、周りの雰囲気が明らかにおかしい。
普通は・・・もっとこう、じめじめとした薄暗い場所に監禁したりするのではないのだろうか。
炎天下の屋外、それもビーチのど真ん中に誘拐した人間を連れてくるというのは、あまりに不自然なのではないか。

今いるビーチ自体も、人の手できちんと手入れされているのが見て取れる。
チラッと視界の隅に見える、おそらくは宿泊施設の一部なのだろう建物も、潮風を浴び続けているわりには風化している様子は見られない。
というよりも、この海岸自体が高級リゾートのように改造されているのだ。
それに人を連れてくるだけ連れて来ておいて、あっさり開放したうえ、放置し続ける理由とはいったい何なのだろうか。
横島を強引に拐かしたあの黒服連中も、今は何処にも姿が見当たらない。・・・・・それはそれで不気味ではあるのだが。


(・・・つっても、ここで考え込んだところで埒が明かんな。
ホテル・・・いや、コテージか?あっちに人がいるかもしれんし、ちょっと行ってみるか)


日除けもなく砂浜の上で直射日光を浴び続けたせいで、すっかり喉が渇いてしまった。できれば飲み水も確保したいところだ。
人を探すついでにでも気にかけておこうと、頭の隅で考えながら、海に背を向け歩き出そうとしたその時、横島の背後で声が掛かった。


「あの~」


「だぁぁぁ、堪忍やー!命ばかりは・・・・・って、あれ、お前は」


唐突に聞こえてきたその声に、心の底から驚きつつ、慌てて振り返りながら、
変な格好で固まってしまった横島が、見覚えのある少年に視線を向ける。
そこにいたのは、京都の夜以来会っていなかったネギ少年だった。なんだかあの時見た姿よりも、かなりくたびれている。
顔に大きな絆創膏を貼り付け、本来なら年齢的に見れば、やんちゃな印象を与えるだろうそれが、
なんというか仕事で疲れ果てた中年サラリーマンの悲哀を感じさせるような、なんともいえない雰囲気になってしまっている。
お前は本当に小学生かと言ってしまいたい程、ネギの姿は可哀想なくらいに、ズタボロであった。


「なんちゅーか、明日菜ちゃんに聞かされて知っとったけど、・・・エヴァちゃんにやられたんか、それ?」


「・・・えーと、まぁ、はい」


「・・・あんまり詳しくは聞かないであげてくれよ、横島の兄さん」


言葉少なく、力ない様子で項垂れつつ、ネギと彼の肩にぶら下がっているカモは虚ろな瞳で空を見上げた。
そんな二人に色々察した横島が同情の視線を向ける。・・・彼らの姿が美神に無茶を言われた時の自分と重なってしまったのだ。


「あー・・・っと、ひさしぶり・・・ってほどでもないし、元気そ・・・うでもないけど、ネギ・・だったよな」


「あっ、はい。こんにちは。横島さん」


気を取り直して、互いに挨拶を交わす。
こういう場合何事もなかったかのようにスルーしてあげるのが、大人の対応というものだ。
頬の傷を痛そうに庇いつつ、引きつった笑みを浮かべているネギの顔を眺めながら、横島はそんな事を思っていた。


「しっかし、お前も捕まってるとはなぁ。マジで何者なんだ?あの黒服連中・・・」


眉間に皺を寄せ、腕を組み考え込む。
自分だけならまだしも、魔法使いであるネギまで拉致するとは・・・犯人はその事を知らなかったのか?
一応魔法関係は秘密という事になっているらしいので、まったくの偶然でネギを誘拐した可能性もあるのだろうが。
しかし仮に、あらかじめネギの素性を知っていた人間の仕業だとすると、犯人像はまったく変わってきてしまう。
すなわち魔法関係者同士のいざこざに横島が巻き込まれた・・・という事になるのか?
・・・・・まぁそうだったとしても、自分がとばっちりを受ける理由はやっぱり分からないままなわけだが。

結局何も分かっていないのと同じ事かと、小さく溜め息を零し、横島は組んでいた腕をほどいた。
・・・・・・・なんにせよ、知り合いに会えたのは幸運といえるかもしれない。
実を言えば、見知らぬ場所に一人放り出されて、ほんの少し不安だったのだ。
出会ったのが、あまり頼りになりそうではない子供というのは、若干あれだが、一人でいるよりは幾分かましだ。
それに横島とは違い、ネギが行方不明になれば、誰かしらが気付いて助けに来てくれるかもしれないではないか。
それが気休めだとしても、ちょっとだけ心が軽くなった気がした横島だった。


「捕まる・・・って何のことですか?黒服?」


目の前でブツブツと何かを考え込んでいる様子の横島に、ネギがきょとんとした顔で尋ねた。


「あん?だから俺たちをここに連れてきた奴らの事だよ。そろいも揃って暑苦しそうな格好してだだろ?
・・・ん、いやまてよ、犯人の事もそうだけど、そもそもここって何処なんだ?見た感じどこかのリゾート施設っぽいけど」


「えっと、その人たちの事は分かりませんけど、ここがどこかって事なら・・・」


難しい顔で、宿泊施設らしい建物がある方角に視線を向けていた横島に、少々困惑した様子でネギが答えようとしたその時、
少年の背後から彼を呼ぶ声が聞こえてきた。


「ネギ先生ー」


「あっ、いいんちょさん。こっちですー」


大きな声でネギの名前を呼びながら、誰かがこちらに近づいてくる。
ガサガサと生い茂った植え込みを掻き分け、やしの木の陰から姿を現したのは、
太陽の光を艶のある長く美しい金髪に反射させて、キラキラと輝いて見える一人の少女だった。
すらっとした均整のとれた肢体が、なかなかにきわどい水着に包まれている。
どこか日本人離れして見える整ったその容姿は、南国の雰囲気を感じさせるこの場所によく似合っていた。
少女は横島達・・・というよりもネギの姿を視界にとらえると小走りにこちらに駆け寄ってきた。


「こちらにいらっしゃいましたか。びっくりしましたわ、急に走って行かれるんですもの」


「すみません、知り合いの姿を見かけたものですから。でも本当に招待してくれてたんですね、ありがとうございます。」


ネギはぺこりと少女に頭を下げて、明るい笑顔を彼女に向けた。


「いいえ、そんな、大した事ではありませんわ・・・あら、という事はこの方が?」


ネギの笑顔にうっとりとした視線を向けつつ、胸の辺りに手を置いて、謙遜したそぶりを見せていた少女が、横島の方を振り向いた。


「はじめまして美しいお嬢さん。僕は横島といいます。わけも分からず、こんな場所に連れて来られて、さぞかし不安だったでしょう。
でも、安心してください。この僕がいるからには、あんな黒いだけのさもしい連中は、指一本あなたに近づけさせませんから」


いつのまにか恭しく少女の手を取った横島が真剣な顔を向けつつ、じりじりと体ごとにじり寄っている。


「え、あ、あの・・・」


「いやーそれにしても、お美しい、綺麗だ」


「きゃっ、ちょっ、ど、何処を触っているんですか!」


「胸です」


「あら、正直。・・っっではなくっ!!ええい離しなさい、この痴れ者!!」


「どわぁぁぁぁぁ!!」


さりげなく少女の体に触れながら、鼻息荒く目を血走らせていた横島の体が、くるりと見事に空を舞った。
一瞬周りの景色がぼやけたかと思うと、次の瞬間には地面へと頭から突っ込んでいる。
尻を突き出したまま無様な姿で砂に埋まってしまった横島が、危うく波にさらわれそうになって、あたふたしながら、逃げまどっていた。


「いったいなんなんですか、あなたは!!セクハラで訴えますわよっ!」


「だってしゃーないやんかー、上向きで生意気に自己主張しとるもんだから、もう、かたっぽくらいワイのもんなんかなと思って」


「どんな理屈ですかっ!!ネギ先生!本当にこの方がそうなんですの!?」


「えっと、まぁ、・・・いちおう」


怒りの感情をあらわにした金髪の少女が、両手を腰の位置に当てて軽蔑の眼差しを横島に向けている。
なんだかひどくお怒りのご様子だ。
口元をひくひくと痙攣させている彼女の問い掛けに、何故か疲れた様子のネギが言いずらそうに肯定していた。
そんな二人を、ようやく立ち上がった横島が、不思議そうに見つめた。どうも知り合いらしいのだが、こちらを指差して何かを言い合っている。


「なぁ、いったい何がどうしたってんだ?俺が何だって?」


「いえ、べつに・・・・・あの、ひょっとしてなんですけど、横島さんは、何で自分がここにいるか分かってないんですか?」


「いや、というかそもそも、ここが何処なのかも分かっとらんのだが。俺はなんか変な黒服の連中に無理やり・・・」


「あーーーーーーっと、そ、そうですわ、ネ、ネギ先生、むこうで皆さんがお待ちですわ。早く行かないと心配させてしまいますわよ」


「え、わっ、い、いいんちょさん」


ネギの質問に答えようとしていた横島の言葉を遮るように、少女が大きな声を発した。
早口で一方的にまくし立て、そのまま少年の小さな手を握り、一緒になって砂浜を走っていく。
突然の事に困惑した様子でうろたえていたネギは、されるがまま抵抗できず、あっという間に連れ去られてしまった。

ぽつんとその場に横島ひとりが残される。あまりの早業にまったく反応が出来なかった。
そのまましばらくの間、ぽかーんと彼らの走り去った方角を見ていた横島だったが、
このまま置いて行かれてはたまらないと、我に返って少年達の残した足跡をたどり、後を追う事にした。
幸いな事にここは砂浜で、足跡はくっきりと残っている。追跡は容易だった。
すぐ横で聞こえてくる波音をBGMにして、てくてくと歩いていく。

何がなんだかいまだに状況の把握が出来ていないが、先ほどのネギ達の様子を鑑みるに、
ひょっとしたら自分が想像していたような事態は起きていないのかもしれない。
横島のように、何者かに強制的に拉致されて、ここに来たというのなら、もう少し焦りが顔に出ていてもいいのではないだろうか?
二人とも別段命の危機を感じているようには見えなかったし、何らかの余裕さえ感じられた。
あの水着姿なんかがいい例だ。まさか、水着のまま拉致されるなんて事はありえないだろうし、こっちに来てから着替えたのは明白だ。
因みに男の方はどうでもよかったので、はっきりと見ていなかったが、ネギ少年も着ていたパーカーの下は水着だったように思える。
要するに二人とも海に遊びに来たような格好をしていたのだ。

ここが見た目通りのリゾート施設で、彼らが自分達の意思でここに来たのだとすれば、あの格好もなんら不自然ではない。
しかしそうすると、横島だけが、わけも分からずここに連行されてきた事になるわけだが・・・。
再度答えの出ない疑問で頭の中が混乱しそうになっていたその時、横島の耳に複数の楽しそうなはしゃぎ声が聞こえてきた。

太陽のまぶしさに目を細めつつ、片手でひさしを作り、声のした方向に視線を向ける。
そこには健康的な肌を惜しげもなく晒して、笑いあう大勢の少女達の姿があった。
色とりどりの水着に身を包み、波打ち際で泳いだり、ビーチボールで遊んでいたりしている。
ビーチチェアに寝そべりつつ、トロピカルジュースを飲んでいるものもいれば、
砂の上にシートを敷き、日焼け止めを塗りあっている少女もいた。
そこにいる全ての人間が南国の太陽とコバルトブルーの海を満喫している。
横島は突然目の前に現れたその光景を、しばらくの間我も忘れて呆然と眺めていた。

そう、その情景はまさしく夏の海。久しく忘れていた、横島にとっての決戦場。
己の本能のままに戦いを挑んでは敗北し、それでもあきらめきれずに強大な敵に立ち向かっては、辛酸をなめさせられてきた因縁の地でもある。
思えば海にはろくな思い出がない。人魚の不倫騒動に付き合わされたり、持たざる者達の妄念が生み出したコンプレックスの塊に共感したり、
海中深くに生息する、精神を病んだ海蛇女に、人違いで監禁されそうにもなった。
今ざっと思い出しただけでも、これだけの騒動に巻き込まれてきたのだ。思わず砂の上に文字を書いて遠くを見つめたくなる。

自然と膝を抱えてうずくまりそうになっていた横島だったが、そんな事をしている場合ではないと、慌てて強引に嫌な思い出を振り払う。
事ここに至って横島がするべき事は、過去に囚われて鬱になる事なんかでは決してないはずだ。
命とは燃やすべき時に燃やしてこそ価値が生まれる。事の経緯はともかく、今自分が戦いの場にいることは確かなのだ。
ならばやるべき事は決まっている。
横島が拳を握り締め、気合を入れつつ、目標に向かって突撃しようとしたその時、先ほど少女に連れて行かれたネギの声が聞こえてきた。


「あっ、横島さん。よかった、ちゃんとついてきてくれたんですね」


ホッとしたように横島を見ながら、手を振りつつ駆け寄ってくる。


「なんだ、ネギ。悪いけど後にしてくれ。ワイは今からやらなきゃならん事があるんだ」


声を掛けてきたネギのほうを見もせずに、視線を海で遊んでいる少女達に向けたまま、横島は怖いほど真剣な表情で答えた。


「やらなきゃ・・・いけない事ですか?」


「そうだ。男として生まれたからには避けて通ることが出来ない、重要なことや」


「そ、そんなことが・・・・・いったいそれは・・・?」


あまりに熱のこもったその言葉に、ネギまで緊張しながらゴクリと唾を飲み込んだ。
横島は表情を崩さず、緊迫した様子で答えを返す。


「それはな・・・・・ナンパだ」


「・・・・・・え?」


「だからナンパだナンパ。目の前に水着姿のねーちゃんがあんなにいるのに、ナンパのひとつもせんでどーする。
最近トンとご無沙汰やったからなー。いっちょ気合を入れてかからんと・・・」


口元に黒い笑みを貼り付け、溜まりに溜まった何がしかの不気味なオーラを体中から放出しながら、
目の前の楽園に向けて足を踏み出そうとする。
するとそんな横島に危機感を覚えたのか、ネギが泡を食って止めに入った。小さな体で横島の前方を遮るようにして塞いでいる。


「ま、待ってください!な、ナンパってまさか、僕の生徒をですか!?」


柔和な表情を精一杯強張らせて、横島に厳しい視線を向けた。


「あん、何言ってんだ?生徒?」


「そうです。いくら横島さんでも、僕の生徒に手を出すのは・・・」


「・・・いや、本当に何言ってんだ。僕の生徒って、その言い方じゃまるでお前が先生やってるみたいに聞こえるんだが」


「そうですよ、だから!」


「・・・・・あー、横島の兄さん。
いきなりこんな事言っても信じてもらえないかも知れねぇけど、確かに兄貴はあそこにいる子達の先生やってんだ」


言っている事の意味が分からず困惑している横島にむけて、ネギの肩越しでカモが事情を説明した。
それによると、どうやらネギは本当に麻帆良で教師をやっているらしい。
なんでも、なんとかという魔法学校の最終課題が日本の学校で教師をやる事で、ネギはそのために日本に来たのだそうだ。
言っては何だが、かなり無茶苦茶な話に聞こえる。
どう見ても小学生にしか見えないネギを、学校の教師として働かせるなど、法律的に問題がないのだろうか。
異世界の事なので詳しく断言できないが、横島の常識では、きっぱりとアウトだ。
児童労働だの、労働基準法だのという単語が、頭に浮かんだ。


「えーと、それって、大丈夫なのか?・・・なんかほら、いろいろと、もん・・だい・・・も・・」


横島が頭の中にある単語を実際に言葉に出そうとして、途中で歯切れ悪くしりすぼみになる。


「なんですか?」


「いや、なんか盛大にブーメランが帰ってくるような気がしてな。
俺が悪いわけでもないんだが、結構なブラックジョークになるというか・・・」


最低賃金という言葉が、重くのしかかっていた。


「・・・まぁそれはいいや。
というかだな、たとえお前があそこにいる子達の教師だとしてもだな、俺の情熱を妨げることは決して・・・・・あれ?」


これ以上都合の悪くなりそうな話題を早々に放棄し、
ネギに向かってナンパを行う意思を強く訴えようとしていた横島の脳裏に、ある疑問が浮かんだ。


「・・・・・あのさ、もしかして、明日菜ちゃんや木乃香ちゃんも、お前の生徒だったりするんか?」


「え、はい、そうですけど」


「・・・って事はさ、あそこにいる子達は全員、明日菜ちゃんの同級生になるわけだよな」


「・・・?・・・そうですね」


「明日菜ちゃんは中学生だったよな!じゃ・・・・・じゃあ、あの子達も」


「何が言いたいのか分かりませんけど、皆さん同じクラスの生徒さんですよ」


その言葉を聞いた瞬間、横島は膝から崩れ落ち、砂の上に両手をついた。全身の力が抜け、表情筋は感情を表現できない。
浮ついていた意識は、眼前に突きつけられた事実に急降下し、盛大に地面へと激突していた。
ぽたり、と頬を流れ落ちた汗が砂に染み込み消えていった。それは次第に数を増やしていき、横島の視線の先で次々と大地に雨を降らせる。
口元にも流れ落ちてきたそれをペロリと舐めてみた。あまり塩辛さを感じない、さらりとして透明感のある汗だった。
そう、これは汗だ。心の汗だ。決して涙などではない、俺は絶対に泣いてなんかいないのだ。・・・・・自分はこんな事くらいで。

とうとう膝を抱えてシクシクと海を眺めだした横島に、ネギが若干引いている。
何がなんだか分からないが、いつのまにか横島が男泣きに泣いている。
思わず声を掛ける事さえ躊躇わせるほど、彼の周辺だけ空気の色が変わっているように見えた。


「・・・・・あ、あの」


それでも何か言わなければと、ネギが勇気を出して横島に声をかけようとしたその時、背後から彼自身を呼ぶ声が聞こえてきた。


「ネギせんせーーーっ!」


「なにやってるのー?こっちに来て一緒にあそぼーーー!」


「史伽ーはやくはやくーー!」


「ま、待ってーお姉ちゃん」


「ほら、のどか、私達も行くよ!」


「え、え?」


「ここで後れを取るわけにはいかないですよ、のどか」


「お待ちなさい、皆さん!抜け駆けなんてさせませんわよ!」


「まあまあ、落ち着いて、あやか」


「あれ?あそこにいるの誰だろうね、ちづ姉」


「知らない人がいるアル」


「ん~、私も見た事ないなぁ。ネギ君の知り合いかね」


涙を流しながらこの世の無常さについて、延々と愚痴を零していた横島だったが、
近づいてくる気配を無視するわけにもいかず、ゆっくりとその場で振り返った。
ネギを取り囲んでいるのが半分、こちらを興味深そうに眺めているのが半分といったところか、ビーチで遊んでいた少女達が目の前にいる。
遠目で見ていた時から分かっていた事だったが、近くで見ると、ますますその可愛らしさが引き立って見える。
かなりの粒ぞろいだった。

なかでも、一人。
左目の下に泣きぼくろがある、どこかおっとりした印象を与える娘が目に入った瞬間、横島の全身を雷に打たれたかのような衝撃が走った。
そこには太陽の光と大地の恵みを存分に受けて育った、二つの大きな果実が存在していた。
夢、希望、未来、人が信じるべき、さまざまな善なる可能性が、見るものに勇気を与えてくれる。
胸の奥、心の奥底から湧き上がって来る感情が喝采をあげていた。
人間とは、命とはこうあるべきだと言わんばかりに、重力に逆らい、堂々と太陽を目指している。
その身にかかる相応の負荷に抗いながら・・・。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


どこか、いってはいけない場所まで意識を飛ばし、横島は何も言えずに、ただ呆然としていた。
視線が、この世に光臨した奇跡の具現に固定したまま動かない。
全身が瘧のように震え、瞳孔は開き、口元はしまりなく脱力していた。・・・・・信じられなかった。
まさか再び美神クラスの肉体を持つ中学生に出合う事になるとは。
いや、自分の目に狂いがなければ、その豊満なバストは美神よりも・・・。


「な、・・・・・なんという事や・・・・・
俺という魚群探知機はビンッビンに反応しとるというのに、この海域では漁をしたらあかんと言うのか・・・。
釣り糸を垂らしても駄目、網を投げても駄目、素潜りなんてもってのほか。
いや、仮に釣り上げたとしても、食べてはいけないキャッチアンドリリース・・・・・これは・・・これは拷問やないか!!」


おがーん!ちきしょー!海のばっきゃろーーーー!俺の青春は死んだーーーーーー!!


海に向かってありったけの呪詛を垂れ流す。そのどす黒く濁った思念は、それだけで周辺の海域を汚染し生態系を破壊しそうであった。
その男の周りに発生した、物理的に歪んでさえ見えているような尋常ならざる空間に、その場にいる全員が数歩後退して距離をとる。
情け容赦ないほどの、ドン引きであった。


「・・・・・あ・・・あの・・・その・・・あの・・・よ・・横島さん?・・・ちょっと落ち着いて・・・」


ネギとしても出来れば今の横島には関わりたくはない。何がなんだか分からないが、もの凄くいやな予感がするのだ。
しかし、この場にいる中で唯一の知り合いである自分がきっかけを作らなければ、彼はこのままずっとこうしているだろう。
一応ここにいる皆に紹介しておきたいのもあって、ネギは意を決して、なけなしの勇気を振り絞り、震えた声で横島に話しかけた。
だがそんな健気な少年の決意は、現実の前にあっさりと踏みにじられてしまった。


「お・ち・つ・け・だあぁぁ?」


くるりと邪神が振り返る。そして、まるで瞬間移動したような速度でネギの前に到達すると、彼の襟首を掴みあげ、ぶんぶんと振り回し始めた。


「お、お前に、俺の気持ちが分かるとでもゆーんかーーー!!
俺はなぁ、こっちに来てからジークに監視されてるせいで、ろくにナンパもできんかったんだぞ!
そんな可哀想な俺にやっと巡って来た千載一遇のチャンスやったというのにーーーっ!!
この盛り上がっちまった気持ちをどうしたらええんや、こんちくしょー!お前に、子供のお前に、この無念さが分かるかぁぁぁぁぁ!!」


「ちょ、ちょ、よ、よこ、横島さん。れ、れ、冷静になってぇぇぇぇぇ」


がくんがくんと首を上下左右に振り回されつつ、ネギがか細い悲鳴を上げる。
しかし、邪神と化した今の横島に、そんな事は露ほども関係がない。身の内を焦がす、やり場のない激情を目の前の少年にひたすらぶつける。
彼の頬を伝う悲しみの雨は降り止まず、ただただ大地を潤していった。
その時・・・。


「ネ、ネギ先生をはなせーーーーーっ!!」


「えっ、えーーーーーーーいっ!!」


小さな二つの人影が、捕らえられたネギを救出しようと、横島に向かって体当たりした。
ぐらりと僅かに横島の背中が揺れる。体重が軽いせいだろう、相応の勢いをつけたのだろうが、ほとんど何の痛みも感じない。
だがそのささやかな衝撃は、彼に残されたほんの少しの理性を取り戻す契機となった。


「ハッ俺はいったい何を?・・・って、あれ?君達は・・・」


恐怖に潤んだ瞳を懸命に見開き、横島を睨みつけている少女と、その陰に隠れるように震えている少女が二人。
髪をツインテールにしたほうの娘が、あまり似合っているとは言いがたいファイティングポーズを取りながら、横島と対峙している。
周りにいる少女達と比べても、かなり小さいサイズ、というよりもまったく中学生には見えない。
おそらく後ろにいる子と双子の姉妹か何かだろうか。
髪型を除けば、顔の形までほとんど同じに見えるほどよく似ている。
小動物が威嚇しているかのように、どこか愛らしい姿のまま、険しい表情で、その場に立ち続けている。


「えと、なんかよう?」


「な、なんかよう?じゃなーい!ネギ先生をいじめるなー!」


「いや、・・・というか」


横島は一度、視線を先ほどの奇跡の体現者へと向ける。そして真剣な目をして観察した後、今度は自分の前に立っている双子を見つめた。
右手で顎を撫でつつ、首をかしげた。間違い探しのような違和感を感じる。
かたや雄大なる大自然、地球に現存する秘境、動植物の楽園である大山脈。
もう一方は、なんというかもう、これ以上は何をしても作物が育たないような荒涼とした砂漠。
あるいは、何処までも見通すことが出来そうな、眺めだけはいい大平原だろうか。
横島は無遠慮な視線で、中学生の胸をガン見しながら、凄まじくくだらない事を考えていた。


「・・・・・・・・・・・・・・・そんな装備で大丈夫か?・・・」


言葉にしてしまえば同じ意味であるはずなのに、あまりにも違いすぎるその二つを見比べながらそんな事を呟く。


「どういう意味ぃぃぃぃぃぃぃ!!」


「意味ですかぁぁぁぁぁぁ!!」


自分達の胸を見ながら、好き勝手に訳の分からない事をぬかしたその男に天誅を下すべく、双子、鳴滝姉妹が地味な嫌がらせを開始した。


「わっ、おっ、いてっ、ちょっ、やめっ、脛を蹴るなっ、足の小指を的確に踏むなぁぁぁ!地味に痛いやろがっ!」


「わーっ変態が怒ったーー逃げろーーー!」


「待ちやがれ、こんちくしょー!」


横島達三人が、他人からしてみれば不毛でしかない追いかけっこをしながら、砂浜を走り去っていく。
傍で見ていた者達は、何がなんだか分からない様子で呆然としていた。
横島から開放されたネギが、目をまわしながら、げほげほと咳き込んでいる。
両手を突いてへたり込んでいるその背中に、麻帆良のパパラッチを自称している朝倉和美が声を掛けた。


「だいじょーぶ?ネギ君」


「げほっげほ。へ、平気です」


「ていうか、あの人誰なの?ネギ君の知り合い?」


「えーと、はい、知り合いというか恩人というか。あっ、そうだ、皆さんに紹介しようと思ってた所だった。
横島さーん。ふーかさーん、ふみかさーん。喧嘩してないで、こっちに帰ってきてくださーい。皆さんに紹介しますからー」


何とか体勢を立て直したネギが、大きな声で横島達を呼んだ。
状況がめまぐるしく動いていたせいで、有耶無耶になってしまっていたが、もともと横島の紹介をしようと思っていたのだ。


あっ、お姉ちゃん。さっき掘った落とし穴にはまってるよ。


やったチャンス。埋めちゃえー


ぐぁぁ、へ、平安京エイリアンの術だと、やめろぉぉぉ





意外に楽しそうだった。





◇◆◇





「・・・・・・・と、いうわけで横島さんには、僕や明日菜さん達が京都で凄くお世話になったんです」


体にある擦り傷や、湿布に絆創膏など、最初からどこかぼろぼろに見えたネギだったが、今はいっそう憔悴しているように見える。
疲労を隠しきれない様子で、無理をして疲れた笑顔を生徒達に向け、隣に立っている横島を紹介した。

あれから、砂に埋められてしまった横島は何とかネギに救助され、
髪の毛や服の中にまで進入してきた砂を振り払いつつ、彼女達の元までたどり着いたのだが、全部は払い落とせなかったのか、
体中、どこかごわごわとした肌触りに眉をしかめていた。

いくらこのビーチの砂が比較的さらさらとした材質の物だったとしても、身動きするたびにざらつく感触は不快感を伴う。
できる事ならこの場で服を脱ぎ捨て、海に飛び込んでしまいたかったが、
水着を着ていない自分が女子中学生の前でそれを行ったら、きっぱりと事件発生なので、横島はギリギリ自重した。
話しても差し障りのない部分だけを、うまく要点にまとめて紹介を済ませたネギが、
落ち着かない様子で体を小刻みに動かしていた横島に視線を向けた。
何か言えといいたいのだろう。
ごほんと一つ咳払いをして喉の調子を確かめると、横島は笑顔を浮かべながら簡潔に挨拶した。


「よろしくな」


一応今は何とか気持ちの整理をつけ終わっている。
確かに直接手が出せないのは、残念極まりないが、所詮は降ってわいたような話だ。
すっきり気分を入れ替えて、目の保養をしていた方がいくらか建設的といえる。
そんな事を考えながら、横島は思わず零れそうになる溜め息を我慢した。


「へ~、そんな事があったんだ」


パチリと瞬きしながら、ネギと横島を交互に見ているのは、新体操部の佐々木まき絵だ。
修学旅行の自由時間では、ネギと別行動をしていたので、そんな事があったのかと目を白黒させている。


「何か意外やなー。全然そんな強そうには見えへんけど」


まき絵の隣で、横島を若干疑わしげに見ているのは、彼女のルームメイトである和泉亜子だ。


「・・・う~ん」


「どったの?ゆえっち」


何かを思い悩んでいる様子の綾瀬夕映に朝倉和美が声を掛けていた。


「いえ、この人どこかで・・・・・あのとんでもない夜の最後に見かけたような・・・」


両サイドの三つ編みの先端をくりくりと弄りながら、難しい顔をしている。


「・・・あの日って、それじゃー」


「ええ、ひょっとしたら、魔法関係の人かもしれないです」


「へえ」


顔を近づけながら周りに聞こえないように小声で話していた和美が、意地の悪い何かを思いついたとでもいうように、にやりと笑う。
どう見てもただの高校生くらいの青年にしか見えない横島と名乗ったこの男が、魔法に関係している人間ならば、その素性には興味がわいてくる。
後でそれとなく探りを入れてみようと、不気味な笑みを深めていった。間近でそれを見ていた宮崎のどかが、おびえた様子で視線を逸らしている。


「横島さん、先ほどの事はともかくとして、ネギ先生や明日菜さん達を、お助けくださった事。
クラスを代表して御礼を申し上げます。本当にありがとうございました」


横島を取り囲む少女達の輪から一歩前に進み出た雪広あやかが、丁寧にお辞儀をしながら感謝の言葉を口にした。
そしてそれに続くように、その場にいる全員が横島に礼の言葉を告げる。
事前に示し合わせていたわけでもないのだろうが、その言葉は一切の乱れなく足並みが揃っていた。


「い、いやー、そんな。ぜんぜん大した事じゃないっすよ」


これだけの人数から一斉に感謝される事など、自分の人生の中で経験した事があっただろうか。
普段の横島ならば調子に乗ってしまう所だろうが、そんな態度も取れないほど、変に緊張してしまっていた。


「ただちょっと、筋肉もりもりマッチョマンのオカマの変質者に襲われてた所を助けただけっすから」


照れたように頭をかきながら謙遜した彼の言葉に、周りの少女達、それもごく一部の娘が特に反応を示した。


「な、な、それは本当ですの!?ネギ先生!!」


髪の毛を振り乱し、凄まじい速さで首を動かしてネギを覗き込んだあやかが、彼の両肩に指を食い込ませる。


「えーーーーーーっ!!だ、大丈夫だったのネギ君!」


続いてまき絵が慌ててネギに駆け寄った。
二人とも、ネギと明日菜達が何者かに絡まれていた所を、横島に助けられたとしか聞いてなかったのだ。
それが、オカマの変質者に襲われていたなどと、青天の霹靂もいい所だった。
まさかとは思うが、自分の知らないところでネギが傷物にされていたとしたら・・・・・ぞっとした予想が二人の脳裏を掠めていった。


「えっ、あ、あの、その、目、目がま~わ~る~」


再び両肩をすごい勢いでがくんがくんと揺さぶられ、ネギが力なくふらふらとその場で膝を突いた。
因みにカモはいち早く危険を察知していたので、難を逃れている。
心の中でネギを応援しつつも助けようとしないあたり、いい性格の持ち主なのだろう。
もっとも、小動物の彼にはどうしようもない事なのも、また事実なのだが。


「ネ、ネギ君とオカマの変態がっ!?少年と筋肉による夢の共演っ!?ど、どうしよう、今私何か無性にスケブにむかいたい衝動が!!」


「ハルナ、ちょっとは自重するです!」


「ネ、ネギ先生が・・・う~ん」


「のどかまで!」


両手をワキワキとさせ、空中に向かって己のパトスを全力開放している早乙女ハルナと、
ショックのあまり気を失いそうになっているのどかを交互に見ながら、夕映はひたすら混乱していた。


「・・・なんかまずい事言っちまったか?」


パニック状態に陥ってしまった少女達を見ながら、横島は気まずそうに頬をかいていた。
するとそこに、横島にとっても聞き覚えのある女の子の訝しげな声が聞こえた。


「もう、みんなして何処行ってたのよ。ていうか、どうしたの?なんか騒がしいけど」


特徴的なツインテールの長い髪を揺らしながら、水着姿の神楽坂明日菜が姿を現した。
普段から騒がしいクラスメート達ではあるが、今は何か集団ヒステリーのような状態になってしまっている。
いったい何があったのかと、明日菜は比較的冷静に見えた古菲の背中に声を掛けた。


「私もよく分からないけど、あの横島って人が何か言ったらこうなったアル」


「へ?横島って・・・」


とりあえず騒ぎの中心を見てみようと、クラスメイト達の隙間を器用に通っていた明日菜だったが、
古菲の言葉を聞いて、ピクリと眉を吊り上げた。
そして遮られていた視界が開けた瞬間、タイミングよくこちらを見ていた横島と目が合った。


「や、やは」


「いやーーーーーへんたーーーーーい!!」


「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


明日菜が無意識のうちに握り締めていたハリセン状のアーティファクト、ハマノツルギが高速で振るわれる。
風を切り裂く音と共に、鈍い鋼鉄の色が残像を残す。逆袈裟に切り払われた一閃は、見事に体重を乗せ、横島の顎めがけて疾走していった。
ゴキャリという重い音が彼の耳に響く、浮遊感は一瞬だった。ぶれた視界の中で脳が痛みを感じ取る前に、体は海の中に放り込まれていた。


「ぶはっ、ちょ、やばっ、まともに食らったせいで、足腰ガガガ」


「きゃーっ!ご、ごめんなさい、つ、つい」


海水を吸って重くなってしまった服に苦労しながら、何とか岸へとたどり着こうと、もがいていた横島が、無常な荒波のむこうへ消えていく。
その姿を見て我に帰った明日菜が、慌てて救助のために海に飛び込んでいった。
見事な泳ぎで横島の元にたどり着くと、うまく立てない様子の彼を強引に引っ張り上げ、何とか足がつくところまで誘導した。


「本当にごめんなさい」


「い、いや、いいんだ。なんちゅーか気持ちは分からんでもないし、それに慣れとるといえば慣れとるし」


正直思い出したくもないが、前回が前回だったので、無理もない話しだった。
あの後、一人で大量の食材を処理した辛さを思えば、この程度の事。かすかに滲んだ涙が水の上に落ちて、海の一部になる。


うみはひろいなおおきいな。


人は本当につらい事を思い出す時、雄大な何かに思いを寄せてしまうものらしい。
明日菜に肩を支えられ、砂の地面に足をつける頃には何とか平衡感覚も戻ってきていた。
もう大丈夫と笑顔を向けて、横島は明日菜から体を離し礼を言った。
実はまだ少しふらつく体で無理をしながら、ネギの元に歩いていく。
こちらが起こしていた騒動など目にも入っていなかったのか、彼らはいまだに喧々囂々とやり合っている。
なんだかなと苦笑を零しつつ、いい加減に取り成してやろうと歩みを進めた横島だったが、
再び聞き覚えのある声が聞こえてきて背筋を凍らせた。


「ほら、せっちゃん。みんな集まっとるで」


「お、お待ちください、お嬢様。そんなに慌てると、転んでしまいます」


楽しげに砂浜を走りながら、木乃香と刹那が級友達のいる場所に視線を向けた。


「あー、横島さんやー」


「え?」


互いが偶然にも騒ぎの発生源であるネギに近づいていたからだろう。
意外なほど接近してこちらに手を振っている木乃香に横島は声を掛けられた。
当然その隣には彼女の守護者が存在している。
刹那の瞳が大きく見開かれ、水着姿であるにもかかわらず、何故か傍らに存在している愛刀を神速で抜き放った。


「悪霊っ退散!!」


「のわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


今度こそハリセンどころではない銀色の剣閃が横島の股間めがけて放たれた。
居合いの要領で繰り出されたそれは、殺意が滲み出ているのではないかというほど、勢いに情け容赦がない。
体をくの字に折り曲げて、間一髪その一撃をかわした横島は、
後もう少しの所で、生き別れになりかけた自分の息子を両手で押さえながら、全力で背後に飛び退った。


「はっ、しまった。ついうっかり」


「さすがに嘘だろこんちくしょーーーーーーっ!!」


痛みはないか、取れてはいないかと何度も確認しながら、声の限りに突込みを放つ。
大量の涙と鼻水、そして海水で濡れそぼったジーパンの裾から、出してはいけないものまで出しそうになりながら、
横島は抗議の言葉を口にした。


「い、いくら俺でも、そんなもんで切られたら、洒落にならんわ。あと、悪霊ってなんや悪霊って」


「も、申し訳ありませんっ!本当に悪気はなかったのです。条件反射といいますか何といいますか」


珍しく動揺した様子で、あわあわとうろたえていた刹那が、いそいそと刀を竹刀袋にしまっている。
どうでもいいが海に来てまで、そんな物騒なものを持って来ていたのかと、横島の頬に冷たい汗が流れていった。


それから、何とか皆の誤解を解いたネギと、何度も謝り続けている刹那の頭を上げさせる事に成功した横島だったが、
とりあえず濡れたままの服をどうにかした方がいいということで、あやかに案内され、ホテルの一室を借りる事となった。
元はレンタル品なのか、サイズの合う水着を用意され、改めてビーチに降り立つ。
落ち着いて見てみれば、とてもすばらしい場所だった。
青い海、白い雲、金色の砂浜を地でいっている。まさにリゾート、金のない横島には、ほとんど無縁の場所だった。
ビーチのそこかしこでは、水着姿の少女達が、思い思いにバカンスを楽しんでいる。

着替えに向かう途中で説明されたのだが、横島をこの場所につれてきた黒服の男達は、あやかの家の者らしい。
どうも彼女は相当な資産家のご令嬢で、このリゾート施設、というか島そのものを所有しているのだそうだ。
詳しい事情は後ほど説明致しますが、と前置きし、誘拐紛いの事までして無理やり連れてきた事を丁寧に詫びてきた。
どうやら連絡段階で、情報伝達に齟齬があったらしい。言い訳にしか過ぎませんけれどと、すまなそうにしていた。

確かにもうちょっと何とかならなかったのかと思わないでもないが、美少女に直接謝られては、許さないという選択肢は横島にはない。
何故自分が連れて来られたのかという疑問はまだ残っていたが、それも些細なことでしかない。ただでバカンスを楽しめるというのだ。
そんな疑問は棚に上げて、美少女達と存分に過ごすつもりだった。


(こっちに来てから色々あったし、休暇のつもりでのんびりさせてもらうか)


そんなことを考えながら、横島はビーチバレーをしている少女達に自分も混ぜてもらおうと声を掛けるのだった。




◇◆◇




「ゲームセット!古菲チームの勝ちね」


自ら審判役を買って出ていた釘宮円が、大きな声で試合終了の合図を発した。


「やったネ。またまた私達の勝ちアル!」


心の底から嬉しそうな笑顔浮かべ、健康的な褐色の肌をスポーティーな水着に包んだ古菲が、ガッツポーズで勝ち名乗りを上げた。


「やったーウチ等の勝ちー!」


いえー!!

ハイタッチをかわしながらパートナーの和泉亜子が彼女と一緒に勝利を喜んでいる。


「あーん。負けちゃったかー。もうちょっとだったのになー」


僅かに肩で息をして、チアリーディング部の椎名桜子がポツリと呟いた。
台詞自体は残念そうに聞こえるのだが、それを笑顔で話しているのでちっとも言葉通りには見えない。


「なかなかナイスファイトだったよ」


長い黒髪をポニーテールに結んだ大河内アキラがぱちぱちと小さく拍手をした。


「よーし、それじゃーまた、チーム分けね。んーと、次は横島さんと・・・」


「ちょっとまてーーーーーーーいっ!!」


地面に埋もれて、体中を砂まみれにした横島が、疲労困憊の中、無理をしてかすれた声を出す。


「ぜぇ、はぁ、ぜぇ。な、なんで俺だけ二十回連続なんや」


「えー、だって、ねぇ」


「私達も最初は交代でやるつもりだったんだけど・・・・・」


「途中から、あれ?この人どこまでいけるのかなって、ちょっと気になっちゃって」


チアリーディング部の柿崎美砂と円、そして桜子が三人で顔を見合わせつつ、目を逸らしながら、横島に告げた。


「あほかぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


体力の限界に近い体を根性で起こして、横島は三人の少女に文句を言った。
仕事柄体力に自信がある横島だったが、さすがに二十回連続でビーチバレーをするのは無理がある。
ルール自体もそれほど厳格に設定されていたわけではないし、人数を回すために通常よりも少ない点数で勝敗を決定していたとはいえ、
炎天下の砂浜で、ほとんど休みなく動きまわされるのは、ある意味苦行に等しかった。
いつ熱中症で倒れてもおかしくはない。一応こまめに水分を取ってはいたが、この暑さの中では焼け石に水だ。
いい加減ここらで休憩を挟まなければ、本当に命に関わるだろう。
倒れこんだ際についた頭の上の砂を乱雑に払いのけ、膝に添えた両手で体を支えつつ、荒い呼吸を整えていく。
そして、とにかくいったん交代してくれという旨を伝えるために、息を吸い込んだところで、無常にも試合開始の笛の音が周囲に響き渡った。


「えっ?ちょっ、まっ」


「それじゃー、試合開始!」


いつのまにか横島以外のメンバーは交代を終えていたらしい。




結局、横島が解放されたのは、それから二試合後のことだった。




◇◆◇




「あはは、それは大変だったねー」


対面に座っている朝倉和美が、くすくすと笑い声を零す。
手元にあるデジカメのストラップをクルクルと弄びながら、机の上で撃沈している横島をおかしそうに見つめた。


「大変だったなんてもんじゃないっつの」


顔を上げる事無く、視線はかたくなに机の木目に向けたまま、横島は力なくそう答えた。

あれから、とうとう限界に達してしまった横島は、見事にKOされ、
さすがにやりすぎたと反省した数人の手によって、この、海を一望できる洒落た休憩所に連れてこられていた。
日陰越しに感じる海風は、火照った体に心地いい。延々と直射日光にさらされていた体を休めるのにはもってこいの場所だった。

とにかく水分補給と、ついでに腹にも何か入れておくかという事で、横島は偶然そこで同じように休憩していた和美達と食事をとることにした。
目の前にあるパスタにフォークを突き刺し、クルクルと無意味にまわし続ける。
正直まったく食欲がわかない。
とうに昼食の時間を過ぎているので、腹自体は空いているのだが、疲れ果てているために、食材を口に運ぶのさえ億劫だった。

元はレストランなのだろう。貸しきり状態のためか、客の気配は自分達を除いて一切ない。
どうしても空席が目立ってしまうため、本来なら賑わっているだろうその場所も、がらんと殺風景に見えてしまっていた。
溜息をつきながら、目の前にあるトロピカルジュースを音を立てつつ一気に飲み干す。
普段飲み慣れていないものだが、見た目と味は悪くない。
ただグラスの端に刺さっている果物は、どうしても必要なのだろうかと、なんとなく疑問には思っていた。


「でもさ、無理して付き合う必要もなかったんじゃない?いやだって言えば、連中だってそれ以上つき合わせたりはしないでしょ」


「・・・・・いや、まぁ、そう言われたらそうかもしれんけど・・・」


確かに和美の言う通り、もっとしっかり断っておけば、彼女達もそこまで強要したりはしなかっただろう。
ただ、なんとなく拒否しようという考えが思い浮かばなかったので、自分の限界に挑戦してしまったのだ。
何でだろうか・・・首を捻りながらすっかり冷めてしまったパスタをすする。
ようやく食欲も戻ってきていた。
壁越しに立ったまま微動だにしていないウエイターに追加の注文をして、横島は、まぁどうでもいい事かと食事を再開した。


「付き合いいいなー横島さん」


綺麗に盛り付けてあるケーキを、崩さないように慎重に口に運んでいた木乃香が感心したように言った。
一口ごとに味を確かめつつ、幸せそうな笑顔を見せている。どうやらとても美味しいらしい。
隣にいる刹那が口元についたクリームを拭うようにと、紙ナプキンを差し出していた。


「別にそんなんじゃないけどな・・・・・・・・・っと、そういや・・・」


かいがいしく世話を焼いている刹那と、
せっちゃんも一口食べる?などといって自分のケーキを勧めている木乃香を見ながら、ふと横島は先ほどあやかに聞いた話を思い出していた。


「俺をここに連れてくるように、あやかちゃんに言ったのって、木乃香ちゃんなんだって?」


ビーチに行く前にちらりと聞いたのだ。横島をここに招待したのは雪広あやかだが、そもそもの発案者は木乃香だったらしい。
どういう経緯でそんな事になったのかは教えてもらってはいないのだが、ちょうどいい機会だし、気になる話しでもあるので聞いておきたかった。
むぐむぐと口の中にあるケーキを咀嚼し、手元にある紅茶を流し込んで、一息ついた木乃香は、うんと一言頷いて、横島の言葉を肯定した。


「いいんちょに頼まれたんよ。元気がないネギ君を、どうにかしてここに連れてこれないかって」


「・・・?・・・えっと、話が見えないんだが、その話と俺に何の関係があるんだ?」


困惑した様子で木乃香に尋ねた横島に彼女は事の成り行きを説明した。

どうやら元々今回の旅行は、あやかがネギを誘うために企画されたものらしい。
最初は彼だけを誘う予定だったのだが、最近何かと忙しかったネギはあやかの申し出を丁重にお断りしたのだそうだ。
だが、それでも収まりがつかなかったあやかは、何とかならないものかと、ネギと親しい木乃香に相談を持ちかけた。
それならばと彼女が提案したのが、横島もその旅行に誘う事だった。
京都での出来事を脚色し、当たり障りのない所だけをあやかに話した木乃香は、
恩人である横島を一緒に連れて行けば、さすがにネギも断れないだろうとあやかに説明した。

そんな出来事が修学旅行中にあったのかと驚いていたあやかだったが、
ネギの恩人であるなら、自分にとってもそうであると言わんばかりに、自分の思惑を脇においてその提案を呑んだらしい。
何かと疲れた様子のネギを癒し、その恩人である横島にも楽しんでもらうという、一石二鳥の作戦だったのだそうだ。


「・・・・・なんちゅーか、だしに使われた気がせんでもないのだが・・・」


「あはは、そんな事ないんよ。いいんちょも横島さんには、すっごく感謝してるみたいやったし」


どうやらあやかにとって、ネギの存在の大きさは、かなりのものなのだそうだ。
それを助けた横島にも、相応に感謝しているのだとか。
クラスにいる奴らなら誰でも知ってるよと、横で話を聞いていた和美が一言補足した。


「ふーん、あんな可愛い子になぁ。ガキの分際でやる事やっとるじゃないか、あんちくしょう。
やっぱりここは、早めに一発警告の意味もこめて身の程ってやつを教えておくべきかもな・・・・クックック」


黒い笑みを浮かべながら、机の上に肘をつき、両手を組み合わせて口元を隠した横島が物騒な事を言い出した。


「・・・・やめときなよ」


呆れた様子で和美が横島を窘めた。


「いいや、このままほっとくとあいつの為にもなんねーぞ。
あーゆー真面目なタイプはだな、成長したら手当たりしだい女を食い物にするような奴になっちまうもんなんだ。
俺の周りにも似たような奴がいてだな。妙に紳士ぶっとる嫌味な野郎なんだが、それがまぁ、ひどい野郎で・・・」


顔をしかめながら、延々と特定の人物の悪口を並べ立てている横島の言葉を、木乃香がふむふむと頷きながら聞いていた。
そんな彼の様子を気付かれないように観察していた和美だったが、どう見てもただの一般人にしか見えない横島に、ほんの少し落胆していた。
先ほどの夕映の推測が正しかったなら、この男は魔法使いの一派である可能性がある。
隙を見てその事について探りを入れようと企んでいた和美だったが、そもそもまったくの勘違いなのではないかという疑念が芽生え始めていた。


(うーん。こりゃ夕映っちの予想ははずれかな?どうみても大した奴には見えないんだよねぇ)


あいつは息が臭いワキガ野郎でだな。たぶん水虫もある筈や。


なんか私情が入ってないん?


本人がいないのをいい事に、真剣な表情で根も葉もない嘘を撒き散らしている横島を見ながら、和美はやれやれと首を振るのだった。






[40420] 14 横島の休日 後編
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:1733bd69
Date: 2015/07/12 21:06



和美達との食事を終えた横島は、さすがにもう激しい運動をするつもりはなかったので、一人で砂浜を散歩していた。
このリゾート島は人の手が入っているとはいえ、極力自然を破壊しないようにと心がけられているのか、
島全体の環境に配慮がなされている。
観光施設として整備されているのはごく一部で、一度そこから離れると、
ごつごつした岩場やら原生林が立ち並ぶ、光も差さない深い森などが存在していた。
もっとも、開発段階で立ち入り調査は徹底的に行われていて、
島の生態系のリサーチや、危険区域への進入を防ぐための防護柵の設置など、さまざまな安全性の確保がなされているのだそうだ。
自分からそんな場所に踏み込みでもしない限りは、そうそう妙な場所には迷い込んだりはしないので、食後の軽い運動に丁度よかった。
特に目的もなく歩いていても、退屈しない程度に眺めは悪くないのもあって、横島は気楽に足の赴くまま歩みを進めていた。

そんな調子で鼻歌交じりに散策していたのだが、とりあえずの目的地に設定してあった岩盤が近づいてくるにつれて、
通れそうな道が途絶えている事に気がついた。
どうやら島の反対側まで歩いてきてしまったらしい。
今から引き返すのも面倒だし、いっそ泳いで岩場のむこうに行ってしまうかと横島が迷っていたその時、
どこからか何者かが激しく運動しているかのような荒い息遣いが聞こえてきた。


(・・・なんだ?)


人っ子一人いそうにないこんな所で、一体誰が、何をやっているのかという疑問が脳裏を掠めていく。
気になって声の聞こえてくる方向に進んでいくと、そこには鋭い動作で拳法のような動きを何度も繰り返しているネギの姿があった。
横島に見られている事にも気付いていないのか、熱心に自分の動きを確認しつつ、ぶつぶつと何事かを呟いている。
その後ろでは、カモが欠伸をしながら、退屈そうに毛づくろいをしていた。


「なにやってんだ?おまえ」


「え?」


声を掛けた事でさすがに気がついたのか、ネギが驚いてこちらを振り返ってきた。


「何か見かけないと思っとったけど、こんな所にいたのか」


器用に片側の眉を吊り上げ、周囲を見渡す。
横島が目印にしていた巨大な岩盤と、デコボコとした岩礁地帯に挟まれて、不自然に開けた砂地があった。
その場所はちょっとした運動をする位なら十分なスペースがあって、岩場と岩場の間にうまく隠されていた。
わざわざ覗き込みでもしなければ、誰も気がつかないだろう。人目を避けるにはもってこいの場所だ。


「は、はい」


ネギが曖昧な表情を浮かべ、呼吸を整えつつ、岩場においてあるバッグからタオルを取り出し汗を拭っている。
傍らにあるのは、スポーツドリンクの類か、この様子では結構前から同じことを繰り返していたようだ。


「みんな探してたぞ。特にあやかちゃんと、・・・まき絵ちゃん、だったか」


「そ、そうですか」


「・・・で、なにやってんの?かくれんぼか?」


「えーと、ちょっと型の練習を・・・」


ネギはどことなく気まずそうにしながら、横島から視線を逸らし、タオルで顔を隠している。
横島はそんな彼に呆れたように、一つ溜め息をこぼした。


「おまえなぁ、俺が言うのもなんだが、せっかくあやかちゃんが誘ってくれたっつーのに、一人で何やってんだよ。
南の島のバカンスやぞ、一生に一度あるかないかの経験やないか」


美神除霊事務所の仕事というなら、可能性もあるかもしれないが、
個人的にこんな場所までバカンスに来る事などおそらくもう二度とないだろう。
だからこそ、横島は全力で楽しむつもりでいたのだ。
だというのに、ネギはこんな人気のない場所で一人寂しく拳法の練習をしているのだという。
この年頃の子供が、南の島に来て遊びもしないというのは、横島には信じられない事だった。
それに、せっかく誘ってくれたあやかにも悪いではないか。
どちらかといえば、ついでに過ぎないであろう自分でも、せっかくなので楽しませてもらおうという気概はあるというのに。


「・・・・・すみません」


ネギは小さい子供が親に叱られた時のように、俯きながら唇を噛んでいる。


「いや、分かればいいんだけどさ」


殊の外素直に謝られたからか、横島はバツが悪そうに頬をかいた。
少しくらいは反発してくるかとも思ったのだが、あまりにも聞き分けがよすぎる。
本気でクソ真面目なやつだなと思いながら、ネギの小さな頭に視線を落とした。


「まぁ、そんなに怒らないでやってくれよ、横島の兄さん」


寝ぼけた顔で、ぐいっと伸びをしつつ、トコトコとネギの足元まで近づいてきたカモが二人を取り成すように声を掛けてきた。


「なんだいたのか。小動物」


「最初っから気付いてただろうが!」


興味なさそうに半眼を向けてくる横島に、カモはその場で地団駄を踏んでいる。
小動物の人間らしい動作は、見る人間によっては可愛らしく映るのかもしれないが、
生憎とこのおっさんくさい喋りをする動物には、微塵もそんな感情は抱かない。
まぁ、それでも思わずからかってしまった自分が悪い事にはちがいないので、横島はおざなりに謝罪の言葉を口にした。


「まったく。・・・とにかくだな、兄貴にも色々事情があるんだ。横島の兄さんだって京都での事は知ってるだろ。
兄貴はそれを気にして強くなろうとしてるんだよ」


だから少しくらいは大目に見てやってくれとカモは説明した。


「京都って、おまえ。・・・そんなに気にしてたんか?」


前に明日菜達がそんな事を言っていたが、まさかこんな場所にまで来て、隠れて訓練するほど京都での出来事を気に病んでいたとは。
いや、本音を言えばネギの後姿を見かけたときから、そんな所ではないかと当たりをつけていたのだが。


(違うか。もっといえば・・・)


一番最初に絆創膏やら湿布やらを体中にくっつけているネギを見た時から、予想していた事でもあった。


(・・・・・どうすっかなぁ。こいつあれだ。同じ真面目君でも、ピートとかと違って冗談が通じないタイプや。
俺の周りにはあんまりいないタイプだよなぁ・・・)


特に今回の事は根が深そうに見える。下手に茶化すのもまずい雰囲気だ。
少なからずあの魔族に関係している自分としても、何か諭すような事を言ってやりたいところだったが、
慣れない事が、急にできるようになる訳でもなし、ろくにうまい言葉が浮かんでこない。
俯いたまま落ち込んでいる少年の体は、普段よりもずっと小さく見えた。
しばらくの間、誰も言葉を発する事無く、無言の時間が続いていたのだが、
ふと何かを考えていた様子の横島が、右手に意識を集中し文珠を一つ取り出した。


「おい、ネギちょっと来い」


「え?」


横島は手招きしながらネギの名前を呼び、素直に近づいてきた彼の頭に文珠を押し付けた。
横島の霊力に反応し、緑色の輝きが文珠から放たれる。至近距離でその光を見たネギが眩しそうに瞳を閉じた。
その輝きは数秒間の間続き、やがて光がおさまったのを確認すると、横島はネギに声をかけた。


「もう目開けていいぞ」


その声を聞いたネギがおそるおそる目を開ける。


「どうだ?まだどっか痛い所あるか?」


「え?」


少年の頭から手を離し、確認するように傷の具合を聞いてきた横島の言葉に、ネギは慌てて自分の体をぺたぺたと触りだした。
違和感に気がついたのだろう。肘に貼っていた大き目の絆創膏を慎重に剥がし、擦り傷があったはずの箇所をまじまじと見つめた。


「・・・・・治ってる」


「あの体じゃ、まともに海にも入れなかったろ?せっかくこんな綺麗なんだし、あやかちゃん達と一緒に遊んでこいよ」


「あ、ありがとうございます!」


「別に気にすんな。京都から帰ってきてから、妙に力が有り余ってるからな。前に使った分も、すっかり取り戻しちまったし」


「・・・?」


右手に視線を向けつつ開いては閉じるを繰り返していた横島を、ネギが不思議そうに見ていた。
そんな少年の様子に気付いた横島が、頭を振りながら忠告する。


「それとな、これだけは言っとくけど、お前はもうちょっと肩の力抜いとけ。真面目すぎなんだよ。
タマモも言ってたろ、この間の事は気にすんなって」


「で、でも・・・僕は・・・」


瞳を伏せつつ拳を握り締め体を震わせている少年の様子に、横島は小さく息をついた。


「だーもうっ!わかったよ。でもな、頑張るのもいいけど、周りに心配かけすぎんじゃねーぞ。女の子に心配かけるのだけは俺が許さん」


鼻息荒く無意味にふんぞり返った横島が、腰に手を当てネギを睥睨する。
たんなる知人に過ぎない横島にはこれが限界だった。
それに口ではネギを制止するような事を言ってはいるが、本当のところは彼の気持ちが分からないわけではないのだ。
もうこれ以上後悔したくないという気持ちは、横島にも身に覚えがある。


「ほら、もう行けよ。あと、心配かけて悪かったって、ちゃんとみんなに伝えておけよ」


岩場に置いてあるカバンを乱雑に掴み上げ、横島はネギに軽く放り投げた。
そしてそのまま彼の肩をぐいっと押しつつ、適当に手を振る。
勢い余ってよろめいていたネギは、一度横島を振り返り、深々とお辞儀をしつつ、カモを連れて、皆がいるだろう場所に向かって走り去った。
そんな少年の後姿を見送りながら、横島は難しい顔をして、眉間に皺を寄せていた。

あのネギの頑なな態度は、一体何が原因なのだろうか。
確かに自分の親しい人間が死に掛けた京都の事件は、大きな要因の一つなのだろうが、どうもそれだけではない気がする。
まったくの勘に過ぎないが、もしかしたら何か他にも理由があるのではないかと、横島は感じていた。


「まぁいいか、別に俺が心配せんでも、気に掛けてくれそうなのは、周りにたくさんいるもんな・・・・・むかつく事に」


脳裏に綺麗どころをはべらせているネギの姿が浮かび、横島のこめかみに一瞬青筋が浮かぶ。
やはり呪いの一つもお見舞いしてやろうかと、暗い事を考えていた横島だったが、ふと視界の隅に映るものがあった。
巨大な岩陰の隙間に誰かがすっぽりと納まっている。こちらに背を向けて、声を殺してうずくまっている様子だった。
きっと本人は隠れているつもりなのだろう。しかしツインテールの片側が風に揺られて随分と目立っていた。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なにやってんの?」


「ひゃっ!!」


まさか声を掛けられるとは夢にも思っていなかったのか、心底びっくりした声を上げながら、何者かが岩陰から飛び出してきた。


「明日菜ちゃん」


あまり驚かせないように、注意深く声を掛けたつもりだったのだが、失敗してしまったようだった。


「・・・えっ・・・と。す、すいません!立ち聞きするつもりじゃなくって、その、あの・・・」


おろおろと狼狽しながら、視線をあちこちに飛ばしている。
その度にツインテールの長い髪がぺちぺちと左右から体を叩いているので、横島は思わず笑ってしまった。


「別に、んな事気にしてないって。大した話をしてたわけでもないしさ」


横島は明日菜に笑顔を向けながら、丁度よさそうな岩場に腰を下ろした。
硬い感触が水着を通して伝わってくる。お世辞にも座り心地がいいとはいえなかったが、別段不自由も感じない。
むしろ日中から太陽の光を浴び続けて、熱を帯びている岩の暖かさは、なかなかに具合がいいものだった。
ゆっくりと目を閉じ、体の力を抜いて、頭の中を空にする。そうして横島は少しの間ここで日光浴をすることに決めた。

後ろに手を突いて背筋を伸ばす。降り注いでくる日光の熱が体全体で感じられる。
こうしていると海に来て体を焼いている人間の気持ちが分からないでもない。
横島が海に来てする事といえば、除霊作業か、あるいはナンパばかりなので、
わざわざ海に来て自分から日焼けしようという発想はなかったのだ。


まぁ、仕事の場合は大抵面白くない目にばかりあってきたし、ナンパにしても一度も成功したためしがないのであるが・・・。


「よ、横島さん!なっ、泣いてる!?」


その場で胡坐をかき、ボーっとしていたかと思えば、いきなり泣き出し始めた横島に明日菜がビクリと体をのけぞらせた。


「い、いやすまん。何か海には、ほんっっと、ろくでもない思い出しかないなと、しみじみ思い返しちまって」


零れ落ちそうになっている涙を指の先端で拭いながら、横島は明日菜に声を掛けた。


「それよりここにいていいのか?明日菜ちゃんはネギを探してたんだろ。あいつ行っちまったぞ」


たぶん横島が来るより前に、明日菜はここにいたはずだ。
ネギの態度からは明日菜の存在に気付いていた様子は見られなかったので、ずっとあそこに隠れていたようだ。
まぁ、そうだとすれば隠れなければならない理由があったという事になるのだろうが。
この二人の関係は横島にも推し量れない所がある。


「えっと、それはそうなんですけど・・・・・」


何かを言い難い様子で、明日菜は言葉を濁した。
そして、何も言わずにもじもじとしたまま、その場に立ち続けている。


「あー・・・と、どうかしたのか?さすがに、おしっことか言われても俺にはどうしようもないんだが」


何かを察した様子で横島が気まずそうに目線を逸らす。


「ちがいますっっ!!」


肺に目一杯空気を吸い込んだ明日菜が大声で突っ込みをいれた。


「・・・まったくもう・・・そうじゃなくて・・・その、横島さんに、ちょっと相談に乗ってもらいたい事があるんです」


「相談?・・・明日菜ちゃんが俺に?・・・」


顔を赤くして怒ったかと思えば、急に気弱な態度で意外なことを言い出した明日菜に、横島は目を丸くした。
正直何かの聞き間違いではないかと思う。
明日菜と知り合ってからほとんど間もない横島を相手に、いったい何を相談するというのか。

正直、自分などを頼るより、他にふさわしい人間がたくさんいるのではないかと思う。
見た感じ明日菜には友達も大勢いそうであったし、相談相手には事欠かないはずだ。
そんな事を考えつつ不思議そうに明日菜を見ていた横島だったが、
返事がない事で、若干不安そうな表情を浮かべはじめた彼女に、慌てて返事を返した。


「いや、そりゃもちろん構わないけど。・・・でも本当に俺なんかでいいのか?」


「はい。ありがとうございます」


自信がなさそうに己を指差して確認した横島に、明日菜が嬉しそうな笑みを浮かべ、礼を言った。
そのまま、彼の隣に腰を下ろす。そして海に視線を向けながら、考え事をしているようにじっとしていた。
何から話すべきかと頭の中を整理しているのだろう。

そんな調子で押し黙っている彼女の横顔を眺めながら、横島は落ち着かない様子で己の前髪をいじり続けていた。
実際、明日菜が何を言い出すにしろ、横島が思いつくような単純な悩みでない事は、間違いないだろう。
思春期真っ只中にいる女子中学生の心理など、それこそ難解な数式などより複雑怪奇だ。
妙に気構えをしてしまうが、下手な考えなんとやらともいう。
横島は強張ってしまった肩の力を抜こうと、すぐ隣にいる彼女に聞こえないようにして細く長い息を吐いた。


「・・・・・横島さん」


僅かに緊張が滲んでいる声を発して明日菜が横島の名前を呼んだ。


「・・・なに?」


こちらの返事も似たようなものだ。明日菜の態度が真剣なものだからなのか、周りに漂う緊張感が横島にも伝わってきていた。


「横島さんは・・・・・その、この間みたいな事って、よくあるんですか?」


明日菜が伏目がちにしてきた質問に、横島は呆然と目を見開いた。
握り締めた掌に、ジワリと汗が滲み出す。

やはり、やはりこちらの予想などあてにならなかった。・・・・・まさかこんな事を聞いてくるとは。
あまりの驚愕で、知らず知らずのうちに固まってしまった顔を両手でこすり、口元を覆う。
目蓋に力を入れ、早鐘を打つ心臓の鼓動を何とか制御しようとする。
そして、唇を噛み締めつつ、横島は苦渋に満ちた声をなんとか絞り出した。






「・・・・・いや、さすがの俺も自分の恥ずかしい秘密を、女子中学生に見られるのは、初めてだったけど」




「あーーーーーーっもうっっ!!」






アデアット


その掛け声が聞こえると同時に、明日菜の右手が光を発した。そして次の瞬間には彼女の身の丈よりも大きな剣が生成される。
重量感のある片刃の大剣。華麗な装飾など一切存在しないそのデザインは、無骨で実戦的な印象を見る者に与えた。
もっともその大きさや重さを想像すれば、容易に扱う事ができるとは到底思えなかったが・・・。
しかしそんな事は関係ないといわんばかりに、明日菜は片手で軽々と刃をふるって横島に突きつけた。
そして押し殺した声で告げる。


「私、真面目に話してるんですけど」


「え、えーと、一応ワイもまじめに・・・・・・・すんまへーん、すんまへーん。悪気はなかったんやー」


ぎろりと横島に睨みを利かせ、刃を危険な角度で押し付けようとする明日菜に、横島は全力で土下座していた。







その後・・・互いに落ち着きを取り戻すために、三回ほど深呼吸し、再び明日菜の相談が開始された。


「この間っていうのは、京都での事です。その、横島さんってあんな怖い怪物と、いつも戦ってたりするんですか?」


「へ?」


予想外というならこの質問も思い掛けないものだった。
目を見開き、意外そうに明日菜に顔を向ける。


「いや、ないない、あるわけないって。さすがにあんなおっかないのと戦ったことなんて・・・・・・・・まぁ、何回かはあるけど」


自分の記憶を思い返しつつ笑顔で明日菜の言葉を否定した横島だったが、記憶の再生が過去に遡るごとに顔色を悪化させていった。
よくよく考えてみれば、似たような化け物とも何度か戦っていたりする。
あれだけ巨大な相手との戦闘自体はほとんどないが、厄介な相手というのは、なにもも大きさだけで決まるものではない。
正直、能力という観点から見れば、あのデミアンという怪物は、まだおとなしい方だったかもしれない。
なにせ過去に横島が戦ったものの中には、本気で馬鹿なんじゃないかと疑うレベルの能力を持った、一癖も二癖もある化け物がいたりするのだ。
まぁ、それでも、あのデミアンが過去に戦ったやつらの中で、上位に食い込むほどの強敵であるのは事実だったが。


「・・・やっぱり」


何かを納得した様子でこくりと頷いた明日菜が表情を暗くした。


「明日菜ちゃん?」


そんな彼女が気になり、横島がどうしたのかと尋ねようとしたその時、明日菜は顔をあげて震えた声で言った。


「・・・・・横島さんは、怖くないんですか?」


自らの両腕を抱えて小さく体を丸めている。
海の向こうに視線を向けたまま、どこか遠くの一点をじっと見つめていた。
水着姿のままだから寒さを感じて震えているなどと、さすがの横島でも勘違いはしなかった。
怯えているのだ。おそらく京都での出来事を思い出しているのだろう。

見る者に嫌悪感を抱かせる醜悪な姿。人間を虫けらのように扱う容赦のなさ。そして圧倒的な力。
程度の差こそあれ、悪魔とはつまり、人を恐怖させる存在なのだ。
想像力を働かせれば大抵の人間が行き着く邪悪の根源。恐怖の源泉。原初の悪夢。
魂の深くまで、拭いきれない畏怖を与え、心を凍らせる。
だからこそ、それに触れたものは、どんな形であれ、変わらずにいられない、考えずにはいられない。



もし・・・・・・・・・・・・・・・・



結局のところ、あの時は誰も失う事はなかった。だが、誰も傷ついていないかといえば、そうではなかった。
ネギにしても、刹那にしても、たぶん木乃香にしても、そして横島の目の前で怯えているこの少女にしても、
何がしかの傷を抱えてしまったのだろう。
それを癒す事はとても難しい。文珠を使ったところで、不可能だった。


「・・・なんでそう思うんだ?」


意識してそうしたわけではない。ただ、彼女に対してどんな表情を見せればいいのか分からなかっただけだ。
だから力の抜けた無表情で、感情を映さない眼差しを向け、硬い声で答えた事に他意はなかった。
むしろ内心では彼女の問いかけに、質問で返した事の罪悪感があったくらいだった。
決してはぐらかそうとしている訳ではないのだが。
それでも、そんな横島の態度に驚いたのだろう。明日菜は一度、彼の顔に視線を送り、すぐに逸らして俯いてしまった。


「だ、だって、あんな事があったのに全然平気そうに見えるし、
それに横島さんは凄い力を持ってるし、その、あの・・・・・怒ってますか?」


早口で一息に言い切り、こちらの顔色を伺うように見つめてくる。


「・・・ああ、いや、そうじゃない。別に怒ってるわけじゃねーんだ。・・・でも、うーん、凄い力・・・か」


後ろ頭をガシガシとかきながら、空を見上げる。なんというか、彼女は自分の事を買いかぶっているらしい。


「俺の力なんて、そう大したもんじゃないよ。たとえば京都の時だって、一人じゃどうしようもなかったしな」


とりあえず誤解を解いておこうと、横島はわざとおどけた調子で、苦笑を零した。
明日菜のような美少女に勘違いされるのも悪くはないかもしれないが、度を越えた過大評価が面倒である事は、己の弟子が証明している。
後々がっかりさせるのも悪いので、今のうちに真実を話しておくべきだろう。
しかしそんな態度を謙遜と受け取ったのか、彼女はまったく信じていないようだった。
強い視線を向けながら、横島の言葉を否定してくる。


「でも、あの怪物を倒したのは横島さんだし、それに木乃香を助けてくれたじゃないですか」


「そりゃ、運がよかっただけだよ。・・・・・今だから言えるけど、どっちも失敗する可能性だってあったんだ。
あんにゃろを倒す作戦考えたのも俺じゃないしな。木乃香ちゃんの事についても、状況が味方してくれたってのが大きいな。
彼女が頑張って生きててくれたから、何とかなったんだ」


実際、目隠しで綱渡りを成功させるような細い可能性でしかなかった。もう一度同じ事をやれといわれても不可能だろう。
まさか自分達の世界から追っ手が来ているとは思っていなかったからか、あの魔族がこちらを舐めきっていたというのも好都合だった。
まともに相対したとすれば、たとえ美神でも勝ち目がなかったかもしれない。
まぁ彼女の場合は、信じられないような裏技を使ったりするので、安易に判断できないのだが。
木乃香の救出にしても、運よく横島の予想が当たっていたから何とかなったのであって、
タマモが最初に言っていた可能性だって十分にありえたのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・多少は自分が頑張った事も否定しないが・・・・・・・・・・・。


「それにさ、仮に力があったとしても、それだけでまったく怖くなくなるってわけでもないだろ?
正直俺だってあんなのとは二度と会いたくねーし」


「それはっ・・・・・そうかもしれませんけど」


明日菜が唇を尖らせ、一瞬瞳を険しくさせる。納得がいかないのだろう。
否定の言葉を口にしようとしていたのか、何かを言いかけて、結局言うべき事を思いつかなかったらしい。
無意味に口をパクパクと開閉していた。そして憮然とした表情で黙り込む。
その姿はまるで語彙表現の未熟さから自分の感情をうまく伝えられずにいる幼子のようだった。


「大体なんだってそんな事聞くんだ?ネギにも言ったが、あんなのとっとと忘れちまうに限るぞ。夢見が悪くなっちまう」


頭を振りながら言い聞かせるような口調で呟いた。
確かにショッキングな事件だったろうが、ネギにしても明日菜にしても考えすぎて、よくない方向に進んでしまっている気がするのだ。
そうした不安を何とかしてあげたいと思った所で、どう考えても、がさつな自分では役不足だ。
どちらかといえば、そういった心のケアはおキヌのような心優しい者の役目だろう。
もっとも彼女は遠く世界を隔てた場所にいるので、ないものねだりになってしまうのだが。


「・・・・・・・・な・・て・・れ・んです・・・・・・」


「え?・・・すまん、ちょっと聞こえなか・・」


「関係ないって言われたんです、ネギに」


自分で思っていたよりも語気を荒げてしまったのかもしれない。彼女本人が驚いていた。
見えない何かに苛立ちをぶつけるかのように、空中を睨みつけ、自分の髪を一房、ギュッと強く握り締めていた。


「もともと関係ない事だからって・・・
魔法とか魔法使いの事に関わっていると、危ない目に遭うかもしれないし、
明日菜さんにこれ以上迷惑をかけられないからって・・・そう言われて・・・」


理性的に話そうとして、逆に失敗してしまったようだ。
イライラを押さえ込んでの話し声は、妙に低く聞き取りずらい。
似合わない渋面を作った明日菜が、途切れ途切れの言葉を紡いでいく。


「私、腹が立って!今更何を言ってるんだって。・・・・・・でも、何も言えなかったんです。
ムカついて、ぶっ飛ばしてやろうかと思ったけど・・・・・こ、怖くて・・・。
もしまたあんな事があったら・・・今度は木乃香も刹那さんも助からないかもしれない。
ううん、次にあんな風になるのは、私の番かもって・・・そう思ったら・・・怖くて声が出なかった」


だから、同じことを経験しているにもかかわらず、平然としているように見える横島に、聞いてみたかったのだそうだ。
・・・・・・・怖くないのかと。

横島は黙って彼女の言葉に聞き入っていた。
真剣な表情を浮かべ、思い悩んでいるように、口元に手を置いている。
だが実は、明日菜の悩みについて、答え探しをしているようで、まったく違った事を考えていた。

ただひとつのことを心配していたのだ。・・・・・この子が泣き出してしまうのではないかと。
涙を見せているわけではないし、どちらかといえば不機嫌そうにも見える。
落ち着かないのか、しきりに自分の指を組み替えている。
頑なに前方を見据えて、横島の方を見もしないので、全体の印象は曖昧なものでしかなかったが、
それでもなぜか、彼には彼女が泣き出しそうに見えていた。

湿った潮風が二人の間を通り過ぎていく。
並びあって座っているにもかかわらず、思い思いの方向に視線を向けあい、
むっつりと押し黙っているその様子は、第三者が見れば喧嘩をしているように見えるかもしれない。
当の本人達にとっては、互いに何を口に出せばいいのか分からず、ただ沈黙しているに過ぎないのだが。

何か言わなければ、そう思ってはみても、横島には彼女の悩みについての的確な助言がまったく浮かんでこなかった。
自分の不甲斐無さに思わず溜め息の一つも零してしまいそうになるが、そんな事をすれば明日菜が傷つく。
横島は、うむぅと一つ唸り声を上げながら、必死になって彼女に掛ける言葉を考えていた。


やがて、思い悩んだ末にかろうじて彼が口に出したのは、考えた本人もなんだかなと落ち込んでしまいそうな、そんな他愛のない話だった。


「・・・・・・・・最初は、ただの荷物持ちやったな」


小さな声で話し始める。
こちらが言葉を発した事に驚いたのか、やっと明日菜が横島に顔を向けてきた。


「俺がバイトしてるとこの上司が、アホみたいに美人なんだけど、結構無茶な人でさ。
多少の危険なんか報酬がよければ知った事じゃないって人で。・・・そんなだったから、最初の頃は仕事のたんびにえらい目にあってさ」


当時の事を思い出して、苦笑いをこぼす。今思い出しても相当無茶な事をした。
美神の色香に釣られてしてきた事とはいえ、よくもまあ付き合っていたと思う。


「一番初めの頃は、何の力もないただの高校生だったからな。
できる事といえば、せいぜい荷物持ちと雑用と、後ろのほうで、くだらんボケを言うくらいで・・・要するに単なる賑やかしだよな」


「・・・横島さんがですか?」


「ああ」


意外そうに横島を見ながら明日菜が確認してきた。
こちらの顔をまじまじと見つめている。


「でもそんなんじゃ・・・・・その、やめようとか思わなかったんですか?危険な・・・仕事なんですよね」


「そりゃ何回も思ったよ。つーか今でもたまに思ってる」


特に今回のように、一人で異世界などという未知の世界に、
半ば強制的に連れて来られた時などは、本気で自分の人生について考えさせられてしまった。
なにせ相手にしなければならないのは上級魔族で、特別なご褒美が貰える訳でもおそらくない。
美神が受け取る予定の報酬にした所で、実際に働いているのは自分だというのに、
横島に入ってくる金は、いつも通り、確認する度に空しくなる給料だけだろう。
考えるのも馬鹿馬鹿しくなるほど、理不尽だ。ちょっと位いい目を見せてくれてもいいじゃないかと思ってしまう。
まぁ今回ばかりは横島も、黙ってやられっぱなしになっているつもりはないのだが。
具体的には、下着とか、下着とか、乳を揉ませて貰うとか、尻を揉ませて貰うとか、風呂を覗かせて貰うとか、一発やらせて・・・。


「・・・・・横島さん?よだれ出てますよ」


「うおっ」


急に黙り込み、目じりを下げて下卑た表情を浮かべながら、妄想に耽っていた横島に、明日菜がそっとティッシュペーパーを差し出した。
ハッと我に帰った横島が礼を言いつつ口周りを拭う。
知らずにいつもの癖が出てしまったらしい。なにやら半眼でこちらを見つめてくる明日菜から顔を逸らし、横島は話を続けた。


「・・・まぁ、だから明日菜ちゃんの気持ちが分からないでもないんだ。あーゆー意味不明なのを相手にするのって怖いよな」


「でもやっぱり、そんな風には見えないですよ。それにお仕事、辞めるつもりもないんですよね」


「いや、まぁ、うん」


「・・・・・なんでですか?」


明日菜がまっすぐな目をして横島に尋ねた。
どうしても聞いてみたいのだと、そんな感情が見え隠れしている。
横島は僅かに悩んだ様子を見せて、きっぱりと告げた。


「男には馬鹿を見ると分かっていても、立ち向かわなければならん事があるんや・・・・・」


「本音は?」


「今ここで辞めたら、あの乳や尻や太ももが、ワイのもんにならんやないか!!」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・相談相手・・・・・間違えた・・・・・・・・」


ガバッと立ち上がりながら、海に向かって咆哮をあげた横島に明日菜が後悔の呟きをもらす。
虚ろな瞳で膝を抱えつつ、そこに顔をうずめていた。
溜め息を零しながら、ぐりぐりと自分の膝頭に額を擦り付けていた彼女だったが、頭上から聞こえてきた声に、力なく顔を上げた。


「・・・ってのが、ちょっと前までの俺の考えだ」


「・・・・・今は違うんですか?」


些かどうでもよさそうにして、明日菜が聞いてくる。
その言葉に一つ頷いて、横島が答えを返した。


「なんつーか、あの連中の中に俺がいないってのが・・・いまいち想像つかないんだよな。
うまく言えないんだけど、俺にとっちゃーあそこにいるのがあたりまえというかなんというか・・・」


言葉尻を小さく濁し、照れたようにそっぽを向く。
こんな事を深く考えた事はなかったのだが、言ってみてなんとなく納得してしまった。
どれだけ理不尽だろうが、辞めようという気がこれっぽっちもわかないのは、あの場所が自分にとって居心地のいい場所だからだ。
仕事上これからも危険な目にはあうだろうし、正直給料の方はどうにかして欲しいものだが、
そういう不満を口にしつつも、横島はあそこに居続けるだろう。
明日菜と話していて、その事を改めて再確認した。


「・・・・・つまり、その場所が横島さんにとっての居場所ってことですか?その場所があるから怖くない?」


「いや、怖くないってわけじゃないよ。でも、俺一人でビビッてなきゃいけないわけでもないしさ。
周りにいる連中も、なんだかんだで助けてくれるし」


「でも、そんな事・・・そんな事言われても、私には・・・」


そんな風に思える居場所なんてない・・・。


再び表情を暗くした明日菜が俯き加減で、もごもごと独りごちた。


「それとさ、そもそもなんで明日菜ちゃんはネギに関わろうとしてんだ?
俺からしてみると、そんな怖いなら、あいつの言う通りにしちまえばいいと思うんだが」


「えっ?だ、だってそれはその、あ、あいつ、平気で無茶な事するし、抜けてる所もあるし、
放っておくと何しでかすか分からないって言うか・・・」


明日菜が急に顔を上げて狼狽し始めた。ぶつぶつと早口で何かをまくし立てている。
ありていに言ってしまえば、それは何かの言い訳のように聞こえた。何に対しての言い訳なのかは本人も分かっていないのかもしれないが。

横島はそんな彼女の様子を隣で見ながら、おかしそうに笑みを零した。結局彼女はネギが心配なのだ。
だからこそ、ネギが言い放った言葉に腹を立てたのだろう。
心配している人間から、あんたは関係ないから引っ込んでろと言われれば、怒りを覚えてもしかたがない。
それが、同じ危険を共にした相手なら、なおの事だ。

ただ、それでも素直にその感情を表現できないのは、やはり恐怖を感じているからだ。
自らの想像力で足がすくんでしまっている。身動きが取れないから誰かに悩みを聞いて欲しかったのだ。

そういった意味では横島はちょうどいい相手と言えた。
最低限事情を話せる相手でなければ、相談自体が出来ないだろうし、明日菜と同じような悩みを抱えている者には容易に話せない事でもある。
同じ物を怖がっている人間に、怖いから何とかしてくれと言っても、有意義な話し合いになるとは思えない。
エヴァ辺りなら微塵も恐怖を覚えていないかもしれないが、彼女がそういった悩み相談に向いているかといわれれば、正直疑問を感じる。


「ネギの事が心配なんだよな?」


声の調子を落として、優しい声で彼女に語りかける。
明日菜は顔を赤くしながら静かにこくりと頷いた。


「ネギも同じなんだと思うよ。明日菜ちゃんの事が心配だから、そんな生意気なこと言ってんだ」


「それは・・・分かっているんですけど、でも・・・」


「あいつは、変に真面目な奴だからなぁ。うまく隠しちまってるけど、たぶん明日菜ちゃんと同じくらい怖がってる」


「え?」


「強がってるんだよ。あいつも一応、男だからな・・・」


なんとなく気持ちは分かるなと、横島は言った。
心配だとか、迷惑になるからだとか、そういった言葉は本心ではあるのだろうが、それだけではない。
おそらく自分が怖がっていることを悟らせないための隠れ蓑なのだ。
少なくとも誰かを心配しているときは、自分の姿を真っ向から見つめずにすむ。
そうした方がある意味で楽なのだ。


「あいつ・・・ばか・・・それならそうと素直に言えばいいのに・・・」


明日菜が口を尖らせた。


「いやーどうかなー。明日菜ちゃんだってあいつに言えたか?怖いって」


「・・・・・・・・」


にやけ顔の横島の指摘に明日菜は黙ってそっぽを向いた。


「とにかくさ。一回腹を割って話してみたらどうだ?
おキヌちゃんも言ってたろ?こういうのは一人で頑張っちゃいけないって。
明日菜ちゃんの気持ちを素直に話して、あいつに分かってもらいな。そんであいつの話も聞いてやりゃいい。
それでも怖いってんなら、二人で怖がりゃいいんだ。一人で抱え込む事なんてねーよ」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・はい」


小さく頷いた明日菜の頭に手を置いて、ポンポンと軽く叩いた。
猫のように目を細めた明日菜が、黙ってされるがままになっている。
それから二人は、他愛ない話をしながら一緒にすごした。
都合の悪い部分は避けて、横島が自分の仕事の体験談を話していく。
場所柄か、ほとんどの話が海にまつわる内容だったが、明日菜は面白そうに聞いていた。

やがてそうこうしているうちに、結構な時間がたったのか、日が陰りを見せ始めた。
一日のうち太陽がもっとも赤く空を染め上げる時間帯。
先ほどまで、見事な青色を見せていた海が、紅い光に照らされている。見渡す限りが真紅に彩られていた。
ここが海のど真ん中にあって、視界を遮るものがなかったからだろうか、
その様子は見慣れているはずの光景であるのに、ちょっとした感動を覚えるほど美しいものだった。


「・・・・・きれい」


うっとりとした明日菜が思わず独り言を零した。
眩しそうに目をしばたたかせている。
不意に隣に居るのが、同じ年頃の男性だという事を意識した彼女がドギマギしながら横島に視線を向けた。
彼は明日菜と同じように夕日を見ていた。顔が赤く照らされている。眩しそうに目を細めているのも同じだ。

ただ、一つだけ彼と彼女で違うところがあった。
青年は少女のように美しい光景に感動を覚えているといった様子ではなかった。
どこか悲しそうに、苦しそうに、切なそうに日が沈むのを眺めている。

やがて彼は、力ない声でポツリと呟いた。






「・・・・・・・・・あぁ、そうだ・・・・・・一つだけ・・・海にいい思い出があったな」






◇◆◇






それから、ネギと明日菜の二人に何があったのか横島は知らない。
気にはなっていたが、いちいち首尾を尋ねるほど、おせっかいではなかったし、
なんというかこれ以上自分が首を突っ込んではいけないような気がしたのだ。
ただ、帰りの飛行機に乗り込む前、二人が揃って深々とこちらに頭を下げたのを見た時、どうやらうまくいったらしいと安心していた。
誘拐まがいの手段で連れて来られた時とは違い、帰りは高価そうな自家用の飛行機での送迎だ。
手荷物をほとんど持っていなかった横島は、新品同様に洗濯されたいつもの服に身を包み、
飛行機の座席から、名残惜しげにリゾート島を見つめていた。


結局、なかなかの骨休めにはなった。


今回の旅行では、めったに行く事が出来ない場所で、穏やかな時間が過ごせたし、ただでたらふく美味い物が食べられた。
ナンパはできなかったが美少女達とお近づきになれたし、幾人とは連絡先も交換している。
あと一年ほど過ぎれば、正々堂々と粉をかけられる横島好みの美女が結構いるのだ。
なかなかの戦果といえた。

そんな事を考えながら、うきうきとした気分で自宅の扉を開く。
ただいまー、と誰もいないはずの部屋に気のない挨拶をし、靴を脱いでいた横島に、
南国の思い出を一気に吹き飛ばす、冷めた視線の持ち主が、低い声でお帰りと挨拶を返した。


「ジ、ジーク。お前帰ってたんか・・・」


「ああ、昨日からな。・・・ところで横島君。早速だが、何の連絡もなしにいったい何処に行っていたんだ?
本来なら、敵前逃亡は銃殺刑なのだが・・・・・」


冷徹な眼光で、視線を美神に提出する報告書に送りながら、ジークは死刑を宣告する裁判官のように、無表情でそう言った。






その後、横島はしどろもどろになりながら事情を説明し、何とか彼に許しをもらったのであった。





[40420] 15
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:00e7dda1
Date: 2015/04/27 00:35


「あっ・・・落としましたよ・・・」


思わずといった様子で小さく声を掛ける。
視線の先で、今しがた横を通り過ぎていった高校生くらいの青年が、ポロリと何かを落としていった。
コンクリートの路面に、ケースに入れられた新品の歯ブラシが一つ置き去りになっている。
一定間隔で立ち並ぶ街路樹が、規則正しい光と影のコントラストを描いていた。
その隙間、木漏れ日に照らされてプラスチックがきらりと光を反射させている。

実を言えば、すれ違う前から気にはなっていたのだ。
買い物帰りなのか、些か乱暴に扱っていたコンビニの袋から、荷物が落っこちてしまいそうだなと。

なんとなく気にしながら、横を歩いていく青年に視線を向けていたのだが、案の定自分の心配は的中してしまった。
しかし、本人はまったく気付いていないのか、振り返りもせずにすたすたと歩き去ろうとしている。
だから、咄嗟に彼を呼び止めていた。条件反射みたいなものだ。
意識してそうしたわけではなく、ただ注意を払っていた事柄に対して反応してしまっただけ。


そんな行為が無駄でしかない事を思い出したのは、言葉を発した後だった。


自覚すると同時に、軽い後悔と憂鬱が胸のうちに溜まっていく。
沈んでいく気分と共に、自然と頭も下がっていった。
そう・・・意味のない事なのだ、これは。
落し物をした人に親切心から声をかける。そんなごくあたりまえの行為が自分にとっては徒労でしかない。
それは声が小さくて聞こえないからなどといった、常識的な理由ではなく、
もっと根本的に、その行為自体が無意味なのだった。


自分はそれをよく知っていたはずなのに・・・・・。


考えたくない事を、また思い出してしまったというように、表情を暗くする。
一つだけ弱々しい溜め息を零した。
そして、声を掛けた青年のほうを見ることもなく、ゆっくりと背中を向けてその場を去ろうとする。


・・・・・・その時だった。


「ん?あ、本当だ。ありがとな。全然気付かなかった」


「・・・・・・・・・・・・・えっ?」


そんな感謝の言葉が聞こえてきた。
青年はくるりと振り返り、地面に落ちていた歯ブラシを拾い上げ、
こちらに向かって笑顔を向けながら、礼の言葉を口にした。
どこか人好きのする笑顔でこっちを見ている。
ガサガサと音を立てながら、拾った歯ブラシをビニール袋にしまいこんでいた。

一瞬何かの間違いではないかという考えが頭をよぎった。
自分の勘違いかもしれない。そう思い、何度も何度も周りを見渡す。
前後左右、ありえないとは分かっていても、上下にまで鋭い視線を向ける。
そうして周囲に自分以外の人影がないか、入念に確認し終わった後で、ようやくおそるおそる自分の顔を指差した。


「うん?」


何をしているのか、とでも言いたげに青年は首をかしげている。
互いが互いに向き直り、まっすぐ視線を合わせた。
礼を言われた自分と、礼を言った青年。
当たり前のようにお互いを”認識”しあっている。




「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」





無言の時間が流れる。


それから二人はしばらくの間、なぜかじっと見つめあっていた。




◇◆◇




「・・・・・ってわけなんだよ」


「・・・・・そうなんです」


室内においてあるコタツの前で胡坐をかきながら、横島は目の前で渋面を作っているジークに説明した。
もぞもぞと足の位置を置き換えながら、居心地悪そうに頬をかく。
前方から感じられる無言のプレッシャーに耐えかねて、
視線をコタツ用の掛け布団の上に落としながら、ぼんやりと考える。

いい加減これも、片付けてしまわなければならない。
なんとなく膝に掛かっている僅かな重みの感触が好きだったので、今まで放置していたのだが、
これから気温も上昇し、ますます暑くなってくるはずだ。鬱陶しくなる前に押入れの中に仕舞っておくべきだろう。
そんな風に思考をあさっての方向に飛ばしながら、頑なにジークと目を合わす事を拒否していた横島だったが、
腕を組みながら苛々と眉間の皺を深くしていく彼に、次第に落ち着きをなくしていった。


「・・・・・つまり」


一応こちらの説明を黙って最後まで聞いていたジークが、重々しく口を開いた。
冷徹な眼差しで、横島とその隣にいる人物に向かって視線を行き来させている。
普段よりも一段階は低い声が、彼の機嫌の悪さを表しているようだった。


「君は言葉巧みに彼女を自分の部屋まで誘導したという事か。
・・・・・悪いがこの事はありのまま美神令子に報告させてもらう。
情状酌量の余地はないものと思っていたほうがいいぞ」


「ちょっと待てい!」


何処からか取り出した報告書になにやら書き込み始めたジークを止めるべく、横島は慌てて彼を制止した。


「人聞きが悪すぎるだろ。ちゃんと話を聞いてたのかお前は!」


「事実は事実だ。それに話を聞かないのはお互い様だろう。
何度も言っているが我々はこっちに遊びに来ているわけではないんだぞ。
現地の人間とは極力接触を控えるべきだというのに、君ときたら・・・・・」


「だからこの間のは不可抗力だって言っとるだろーが!」


「先週末の事もか?なぜ神楽坂明日菜達がわざわざ食事など作りに来るんだ?」


「それはっ・・・いや、お前は知らんのだろーが、ちょっと前によんどころない事情があって食事会が失敗しちまったから、
そのリベンジがどーたらこーたら・・・」


「君たちが食事をしている間中、ずっと押入れの中に隠れていなければならなかったんだぞっ、こっちは!」


「んなもんてめーが勝手に隠れたんだろーが!いやなら出てくりゃよかったじゃねーか!」


「そうはいかない。幸いな事に彼女達は私の存在まで気付いていないようなのだからな。用心に越した事はないだろう。
だから君がしっかりと現状を認識してだな」


「お前そんな事言ってるけど、あの後自分も飯食ったの忘れてねーだろうな。
うまいうまい言いながら、残ったやつ全部独り占めしやがって」


互いに険しい表情で顔を突き合わせ、目尻の角度を急上昇させながら、相手を言い負かそうと文句を言い合う。
別に今に始まったわけではないが、ジークはこちらの行動をいちいち制限しすぎていると思う。
任務が任務だ。
横島もある程度の不自由は仕方がないとあきらめているが、
事あるごとに美神へ告げ口すると脅しを掛けられるのでは、たまったものではない。
ここらで一つ、いつまでも言いなりのままではいないのだと、釘をさしておくべきだろう。
指の関節をぽきりと鳴らせながら、目一杯肺に息を溜め込む。
そして思いつく限りの言葉で抗議しようと、机の上に両手を叩きつけようとした所で、自分の隣にいる少女が大きな声を上げた。


「あっ、あのっ!」


発声練習に失敗したような甲高い声が狭い室内に響き渡る。
何かに祈りを捧げるように両手を組み合わせながら、横島達に潤んだ瞳を向けていた。


「けっ、喧嘩しないでください・・・その・・・私が悪いなら、謝りますから」


気弱な態度で、それでも自分の意見を通そうとしている姿は、どこか健気に映る。
客を前にして身内で言い争いを始めた自分達が、とたんに恥ずかしくなってしまった。
横島は一度、目の前にいるジークと視線を合わせ、ばつが悪そうに頭をかいた。
当人達にしてみれば、本当に喧嘩をしているといった意識は、ほとんどなかったのだが。
この程度の言い合いは日常茶飯事といえる。


「いや、えっと、・・・すんません」


「・・・すまない。どうやら熱くなっていたようだ」


それでも、客をないがしろにしていた事は事実なので、二人は喧嘩を仲裁した彼女に、揃って素直に頭を下げた。
少女はそんな二人の謝罪に恐縮したのか、目線を下に向けて、顔を俯かせている。
落ち着かない様子で両肩を落として、こじんまりと縮こまっていた。
なんとなく所在なげに見えているのは、この場所に慣れていないからなのだろう。

何しろまだお互いの名前さえ知らない。
買い物帰りに荷物を落としたことを指摘され、その事に礼を言ってそのまま帰宅しようとした横島の後を、何故か彼女がついてきたのだ。
疑問符を浮かべながら自宅にたどり着いた横島だったが、
玄関の前で、それでも帰ろうとしない少女の姿を見て、よく分からないまま部屋に上げた。
そんな事情を知る由もないジークは、押入れに隠れることもままならず、室内に入ってきた彼女にあっさりと見つかってしまった。
驚きの表情を浮かべ、一体どういうことなのかと説明を求めてきたジークだったが、
そう言われても、何故彼女が自分にくっついてきたのか、横島にもまったく心当たりがない。
なので、事の成り行きをそのまま話すしかなかった。


・・・・・まぁ、当然というべきか、彼には納得してもらえなかったわけだが。


「とにかく、まずは自己紹介からだな。俺は横島、横島忠夫。で、こっちの無愛想なのが・・・」


「・・・・・ジークフリート。ジークと呼んでくれ」


いつまでも無言のまま顔を突き合わせているわけにもいかないので、
横島はこのおとなしそうな少女を怯えさせないように、なるべく柔和な表情を心がけつつ、意識して笑顔を作り上げた。
・・・・・僅かに口元が引きつっているような気がしないでもないが、無視する方向で話を進める事にする。
こちらが気を使っていることが分かったのかもしれない。
少女は俯いていた顔を上げて、恥ずかしそうにしながら、横島達に向き直り姿勢を正した。


「わ、私は・・・相坂さよと言います。その・・・幽霊・・・やってます」


ふわりと浮かんだまま、物理的に透けて見える体を折り曲げて、丁寧な挨拶をしてくる。
どこか古めかしさを感じさせる制服姿で、少しだけ下がって見える目元が、優しげな、あるいは奥手な印象を与えていた。
綺麗に整えられた腰まである長い髪は、見事な白髪で、瞳の色は淡い赤色をしている。
色合い的なものか彼女自身の仕草から感じられるものなのか、なんとなく小さなウサギの姿が連想された。
ぺこりとお辞儀した後、こちらの顔をじっと見つめて、様子を伺っているようだ。
警戒心・・・といっては大げさかもしれないが、見知らぬ人間の前で緊張しているように見えるのは、ごく当たり前の反応だろう。


(・・・・・幽霊か)


横島は頭の中でポツリとその単語を呟いた。
こちらの世界で見るのは初めてだったが、むこうの世界では日常的に相手をしていた存在だ。
仕事でもそうであったし、プライベートでも色々と関わりを持っていた。
だから一般的には、十分超常現象の類なのだろうが、今更驚きはしなかった。
仕事柄そのような存在には慣れてしまっているし、目の前にいる少女は、普段相手をしている奴等のように恐ろしい姿もしていない
美神除霊事務所の近所にいる浮遊霊達に雰囲気が似ている気がした。
態度や仕草がいちいち人間臭いのである。
出会ったばかりの頃の、おキヌの姿が頭の中で浮かんできていた。
そのまま彼女と初めて会った時の事を思い出しかけて、そんな事をしている場合ではないと
過去に飛んでいってしまいそうだった意識を元に戻す。
今はとにかく、さよと名乗ったこの少女に聞かなければならないことがあった。


「えっと・・・さよちゃん。ちょっと聞いていいかな?」


一応、全員の挨拶が終わった頃を見計らって、横島はどうしても気になっていた事を彼女に質問することにした。


「はっ、はい、なんでしょうか」


さよは、こころもち強張ってしまっている表情で返事してくる。
どうも自己紹介した程度では、緊張がほぐれていない様子だった。
これは言葉を選んで事情を聞く必要がありそうだと、横島は気を引き締めることにした。


「あのさ、何で俺についてきたんだ?君とは・・・その、顔見知りってわけでもないし」


間違いなく彼女とは今日が初対面のはずである。
むこうの世界でならいざ知らず、こっちに来てからの知り合いは、そう多くはないのだ。
これが男だというなら、忘却していたという可能性もあるのかもしれないが、
彼女は幽霊とはいえ、美少女なのだ。
一度見たなら忘れるはずがない。
その事について、横島は自分の記憶力を信用していた。


「あ、あの、その、あの」


その質問が自分を疑っているように感じたのか、彼女は何か言おうと必死になっている。
だが、とっさに都合のいい弁解の言葉が出てこなかったのか、無意味に口を開閉していた。
その様子を見て、誤解させてしまったかと、内心で舌打ちする。
横島は慌てて彼女を落ち着かせようとした。


「い、いや、ちょっと待ってくれ。別に迷惑とかじゃなくて単純に理由が聞きたいだけだから」


「はっ、はい」


幽霊である彼女はそもそも息をしていないので、その行為にどの程度の意味があるのか知らないが、
何回も深呼吸して、冷静さを取り戻そうとしているようだった。
瞳を閉じて肩を僅かに上下させながら、胸に手を当てている。
やがて、そんな事を繰り返しているうちに、緊張もほぐれていったのか、さよは遠慮がちに口を開いた。


「・・・・・・・・・」


ぼそぼそとよく聞き取れない声で何かを話している。
目元を隠すように前髪が垂れ下がり、表情がよく見えない。
一見してみると独り言を言っているようでもある。少なくとも相手に聞かせるような声量ではない。
それでも何とかその呟きを聞くために、横島は耳をそばだたせながら、上半身を彼女に近づけた。


「・・・・・気付いてもらえたから」


僅かにそれだけが横島の耳に入ってきた。


「・・・え?」


思わず疑問を声に出していた。
気付いてもらえたから・・・・・確かにそう聞こえた。
こちらが必要以上に接近していたのを見て取った彼女が、慌てて距離をとっている。


「気付いてもらえたって・・・何に?」


「えっと、その・・・私にです」


「さよちゃんに?」


「はい」


部屋の隅っこにぺたりと正座しながら、こくんと頷く。
なんとなく可愛らしいその姿を眺めて、横島はテーブルに置いてあったお茶で喉を潤した。
湯飲みを元の位置に戻しつつ、体勢を変えるために座りなおしながら、さよが言った事を考えてみる。
素直に受け取るなら、横島が彼女の存在を認識したためにここまでついてきた、という事になるだろう。
自分には当たり前のように見えていたので思いもしなかったが、考えてみれば彼女は幽霊なのだ。
霊能力がない人間には彼女の姿が見えていないとしても、まったくおかしくない。

そう考えてさよに尋ねてみると、どうやら横島の見込みは当たっているようだった。
どうも彼女は幽霊という性質上、何年も話し相手がいない事にずっと寂しい思いをしていたらしい。
幽霊になってからすでに六十年近くたっているのだが、ほとんど自分の存在を認識してはもらえないという事だった。
私、存在感がないって言うか、幽霊の才能がないので・・・。
そう儚げに微笑む彼女は確かに今にも消えてしまいそうに見えた。


「あの、勝手に憑いて来てごめんなさい。でも、その、私嬉しくって、つい」


「いや、それは別にいいんだけど」


今更彼女のような幽霊の一人や二人で驚くこともなかったので、
横島は申し訳なさそうにしているさよを安心させるために、意識して表情を和らげた。
そして自分でよければ、いつでも話し相手になるからと、軽い調子でそう言った。
その言葉を聞いたさよが嬉しそうに微笑む。
花が咲いたような笑顔は、出会ってからこっち、
俯き加減で暗い雰囲気を漂わせていた少女の印象を、180度変えるものだった。
こちらに近づきながら元の位置に戻ってきた彼女と、なんとなくお互いに見つめ合って笑顔を浮かべる。
そのままほのぼのとした空気で、室内が満たされようとしたその時、
今まで一言も喋らずに、ずっと押し黙ったまま、話を聞いていたジークが、困惑したように独り言を呟いた。


「・・・妙だな」


しかめっ面はわりといつもの事であったし、特に気にする事ではないのだが、
顎を撫でながら真剣に考え事をしている様子は、目を引かれる。


「何が?」


顔をジークがいる方向に向けて、覗き込みながら尋ねた。
魔力消費を抑えるために小型化している彼は、当然座布団との対比もおかしな事になっている。
長期的にこの世界に滞在する必要がある以上、
自分のサイズにあった家具の一つも用意しておけばいいと思うのだが、彼は頑なに拒否した。
どうもこの間、おキヌが持ってきた玩具の寝具が気に入らなかったらしい。
まぁ、見た感じ小さな女の子がおままごとで使うような、
フリルのついた少女趣味全開の物を持ってきた、おキヌもおキヌなのだが。
それを渡されたときのジークの反応を思い出し、くすりと笑いがこぼれそうになった。
そんな横島に気がつくこともなくジークは話を進める。


「こちらでも怨霊や悪霊といった類の存在は確認されている。
GSとは組織としての在り方が異なるが、退魔組織のようなものもある位だしな。
しかし彼女のように生前の意識のまま、まったく変質していない幽霊というのはおかしい」


「いや、別に変なことでもねーだろ。向こうにはいっぱいいるじゃんか。」


「横島君、忘れていないか?こっちには霊力が存在していないんだぞ。
霊的に未成熟といっていいこちら側で、自我崩壊もせずに六十年以上もの長い間、己を保ったままなんて事は・・・信じがたい」


ジークが疑いの眼差しで、さよに鋭い視線を向けている
そこそこ付き合いのある自分には、彼が悪意を持って彼女を見ている訳ではないと理解できているが、
初対面のさよにそんな事が分かるはずもない。
ただでさえ目つきがいいとはお世辞にも言えないジークの鋭い眼光に射竦められ、さよは可哀想なほど萎縮していた。


「おい、ジーク。とりあえずその怖い顔を何とかしろって。さよちゃんが怯えちまってるじゃねーか。
それにお前もこっちの事、全部分かってるわけじゃねーんだろ?
お前が知らないだけで、さよちゃんみたいな幽霊もいっぱいいるかもしれんだろが」


「む・・・それは・・・そうかもしれないが。
・・・・・すまない。どうも疑り深くなってしまっているようだ」


「い、いえ。だ、大丈夫です」


横島のとりなしを、しぶしぶ納得した様子のジークが、さよに頭を下げた。
まだ怖いのだろう。問題ないといいつつ、さよはジークと目を合わせることが出来ないでいるようだった。
もじもじと服の袖を引っ張って顔を上げられないでいる彼女に、横島が何か言葉を掛けてあげようとしたその時、
意外な事にさよの方から何かを話し始めた。途切れがちの小さな声だったが、今度はちゃんと聞き取る事ができた。


「・・・あ、あの。私からも質問していいでしょうか?」


「え?そりゃまぁいいけど・・・」


なんとなく彼女のほうから話しかけてくるとは思っていなかったので、言葉尻が跳ね上がった素っ頓狂な返事をしてしまった。
それでもそんな事はどうでもよかったのか、僅かに勢い込んだ調子で言葉を重ねてくる。


「さっき、ジークさんが言ってましたよね。神楽坂明日菜さん達が料理を作りにきたって。
あの、お二人は明日菜さんのお知り合いなんでしょうか?」


「えっと、一応知り合いだな。前にちょっとあって最近知り合ったんだが・・・
・・・ん、あれ?何でさよちゃんが明日菜ちゃんのことを知ってんだ?」


目の前の少女から、こちらの世界にいる数少ない知人の名前が出た事に、少しだけ驚きながら尋ねる
先週末、木乃香と刹那、ついでにネギやカモと一緒に、この部屋を訪ねてきた明日菜の顔が頭をよぎった。

確かに見た目は、明日菜とさよ、二人とも同じくらいの歳に見える。
実は友人同士でしたと言われても、あまり違和感はない。
・・・しかしそれは、彼女が生きていればという前提に立っていえる話なのだ。
いくら見た目の年齢が、同年代に見えていたとしても、実際は横島をはるかに越える年長者でもある。
彼女の正体が幽霊である事を鑑みても、二人がすでに知り合っているとは考えにくい。
それにさよ自身も言っていた。話し相手がいなくて寂しかったと。
やはり明日菜達に、さよの姿は見えていないはずだ。

とするならば、さよが一方的に明日菜を知っているという事になるのだろうか。
しかしそれはそれで、外見上の年齢くらいしか共通点が見当たらないのだが。
横島が首を捻っていると、さよが少しだけ明るい声で質問に答えた。


「私、明日菜さんとはクラスメイトなんです。
・・・・・・・一度も話したことはありませんけど」


前半部分は元気に言っていたのだが、余計に付け足した語尾で、自分自身を傷つけていた。
どんよりとした空気を放ってくる。
正直、幽霊がそれをやると、見ているこっちまでひんやりとしたように背筋が寒くなるので、できる事ならやめて欲しいのだが。


「クラスメイト?いや、ちょっと待ってくれ。こういっちゃなんだけど、幽霊がクラスメイトって何か・・・・・
・・・・・あれ?そこまでおかしいってわけでもないのか?」


横島の頭の中に、一瞬常識的な考えが浮かびそうになって、すぐさまそれが打ち消される。
よくよく思い返してみれば、元の世界にいる自分のクラスにも、机の妖怪がいたりする。
別段変でもないのかもしれない。


「そんなわけがないだろう。
前から言おうと思っていたが、君は自分の周りを一般的な基準と考えないほうがいいぞ。
・・・・・しかしまぁ、さよ君に関しては、クラスに在籍している時点で、
学校関係者が、彼女の存在を認識しているという事になるのだろうな」


横で話を聞いていたジークが、呆れたように言った。
聞けばクラス名簿にも、ちゃんと名前が記載されているとの話だった。
どういった経緯でそうなっているのか、彼女自身も詳しい事情はわからないのだそうだが。


「私、今年こそクラスのみんなとお友達になりたいと思っているんですけど・・・」


だがそれも、まず自分の存在をクラスメイトに認識してもらわなければ話が始まらない。
そのための方法に頭を悩ませている時、偶然に横島と出会ったという事らしい。
そんな話を聞けば、何とかしてあげたいと思うのが人情というものだ。
美神除霊事務所にある霊視ゴーグルでも持って来れば、おそらく霊感のない人間でもさよの姿を見る事は可能だろう。

・・・・・だが。

思わせぶりな視線をジークに向ける。
彼は横島を真っ向から見返し、難しい顔で首を振った。

さよ自身がどうこうといったわけではないだろうが、
学校関係者、おそらく魔法使いかそれに相応する何者かが彼女の存在を認識している以上、
余計な事をして、横島達の素性を知られると言った可能性もゼロではない。
うかつな行動は慎まなければならなかった。


「うーん、まぁそっちは俺も何とか方法を考えてみるよ。今すぐにどうこうは出来ないけどさ」


横島の言葉を聞いたさよが僅かに残念そうな表情を見せた。
しかし、今まで一人ぼっちだった事を思えば、普通に会話ができて、相談する相手がいるという現状はそう悪いものではない。
さよは柔らかい笑顔を向けて、改めてよろしくお願いしますと頭を下げた。
こちらこそと、軽く返礼した横島だったが、ジークは複雑そうな顔で口を開閉していた。
弱く唇を噛んで、何かを思い悩んでいた様子の彼だったが、結局何も言わない事にしたのか、深い溜め息と共にそれを飲み込んでいた。
そんな二人に、もの問いたげな視線を向けたさよが、もう一つだけ聞いていいですかと尋ねてきた。


「ジークさんは妖精さんですか?」


真面目な表情を浮かべ、真剣な眼差しを向けている。
どこか興奮しているように見えるのは、たぶんこちらの気のせいではない。
この様子では、最初から聞きたかったのではないだろうか。
慣れてしまえばどうという事ではないが、よくよく考えてみれば、こんな小人サイズの、
しかもまったく人間には見えない存在がいれば、事情を知らない者は間違いなく注目する。

確かにサイズだけを見れば妖精・・・・・で通じるかもしれない。
ジークの正体を知っている横島にしてみれば、そんな可愛いもんでもないよなと、思わず口元が引きつってしまうのだが。

・・・・・いや、そういえば妖精という存在自体、ろくでもないやつだったような・・・。
ふと頭の中で、事務所に勝手に住み着いている忌々しい姿が浮かんだ。

妖精かと問われた本人もなんと言って否定するべきかと苦慮しているようだ。
苦しい言い訳すら出来ずにいたジークだったが、何も思いつかなかったのか、
もごもごと口ごもりながら、何かをさよに頼んでいた。

ここに来る事については・・・まぁ、ある程度認めるとしても、我々の正体に関しては、なるべく詮索しないで欲しい。
そんな事を言いつつ曖昧な表情を浮かべているジークと、
こくりと頷きながら、それでも何かを期待しているように目を輝かせているさよに、
横島はやれやれと首を振るのだった。




◇◆◇




それからさよは、よく横島達を訪ねてくるようになった。
彼女は昼間、ちゃんと自分が所属している学校に行き、授業を受けている。
六十年以上も学生をやっているという事は、同じ内容の勉強を繰り返ししている事になるので、
嫌にならないかと不思議なのだが、彼女自身の性格と、賑やかな空間が好きという理由で真面目に登校しているらしい。
そういうわけで、横島と一緒に行動するのは、学校が終わってからの事だった。

放課後の時間帯、横島はたいてい近所をぶらぶらと歩き回っている。
建前上、この地に潜伏している上級魔族を探さなければならないので、調査の一環として周辺を調べ回っているのだ。
もっとも本人にやる気はほとんどないので、ただの散歩に成り下がっているのが現状といえる。

元の世界でも高校生をやっている横島は、この学園都市でも特に目立つ事なく行動できる。
異邦人として異世界で潜伏している身には、好都合なのだが、それにはいくつかの制限があった。
こちらに住んでからしばらくして気がついたのだが、まず朝から昼間にかけてはろくに外を出歩けない。
休日に限って言えばそうではないのだが、
平日に学校にも行かず、ぶらぶらと高校生がうろついていれば、間違いなく補導されてしまうだろう。
そうなってはこちらの活動に支障をきたす。
そのため、放課後の時間まで、家の中でじっとしていなければならなかった。
それに夜は夜で、あまり遅くまで外出していれば、今度は別の理由で同じ目にあってしまう。
よって、夜の活動にも注意が必要だ。
だから横島が怪しまれる事なく、周辺を調べられるのは、明け方から学校が始まるまでと、放課後から夜の時間帯だった。

そういったわけで、どうしても不規則な生活になってしまいがちなのだが、それは別に苦ではなかった。
GSの仕事で深夜まで起きている事などざらだったし、多少の無茶で体を壊すほど、自分の体はお上品には出来ていない。
問題なのは、むこうの世界と違って、急に出来てしまった空いた時間をどのようにして過ごすかといった、人によっては贅沢な悩みだった。
なにしろ給料が給料だ。必死になって働かなければ、普通に餓死してしまう生活を送っていたので、一ヶ月のほとんどをバイトに当てていた。
たまの休みには学校に行ったり、シロの散歩に無理やり連れて行かれたりしていたので、はっきり言って横島は、暇の潰し方があまりうまくない。

美神の所でバイトを始める前は、いろいろ遊び回ってはいたが、家で何かをするというよりは、ほとんど外を出歩いていた気がする。
なので謹慎処分を受けたかのような今の状態は、精神的につらいものがあった。
同居人のジークは基本無口で、一日中妙な装置でこちらの世界の情報を調べ回っている。
暇つぶしの相手にはならない。

だから横島にとっても、さよと知り合いになれた事は、ありがたい事なのだった。




◇◆◇




「ご飯・・・ですか?」


いつものように、放課後さよと合流した横島が、軽い調子で言った言葉に、彼女は小さく首をかしげた。


「ああ、朝倉和美って子知ってるだろ?その子が言ってたんだけど、何か学校の近くで屋台が出てるんだってさ。
彼女のクラスメートがやってるらしいんだけど・・・さよちゃんも知らないか?」


「あ、はい、知ってます。超さん達のお店ですよね?確か名前は・・・」


「超包子。中華の店らしいんだけど、安くてうまいって評判らしくってさ、一回行ってみようかと思ってたんだ」


あの南の島の一件以来、和美とはちょくちょく連絡を取りあっていた。
どうも最初は横島の正体に探りを入れている節があったので、それなりに警戒していたのだが、
今ではそんな事を気にしないでメールなんかをやり取りしている。
なんとなくお互い波長が合ったというか、横島にもよく分からないうちにそうなっていた。


「学校の近くなら、さよちゃんも一緒に来れるだろ?」


最近になって知ったのだが、さよは浮遊霊ではなく、地縛霊なのだそうだ。
活動できるのは学校周辺に限られるのだとか。
そのため、さよと会っている時の調査は、彼女の通う中学校の周辺に限られていた。
もっとも、探査装置と各所に配置されている中継器のおかげで、霊力反応があった場合、
即座に対処できるようにはなっているので、それでも別に支障はなかった。
もともと気休め程度の意味しかなかったので、横島にとっても気楽なものだ。


「はい、ご一緒します」


こくりとさよが頷いたのを確認し、目的の場所に向けて移動を開始した。
和美からのメールで、ある程度場所の見当はついていたので、迷う事無く歩みを進める。
温かな日差しに目を細めながら、さよと一緒に横断歩道を渡った。
ここ数日、快晴の日が続いたためか、ただ歩いているだけでも肌が汗ばんでくる。
時期的にはまだ早いはずだが、すっかり初夏の陽気になっていた。


(そういや夏物の服とか、あの部屋にあったっけか?なかったら取りに戻るか、新しく買わねーと・・・)


着の身着のままこちらの世界に送り込まれた横島は、その手の準備が一切出来ていない。
もともと服装にこだわるたちではないため、別段不自由を感じてもいなかったのだが、
そろそろいつもの格好ではきつくなり始めている。


(今度明日菜ちゃんか和美ちゃんにでも、服を買う場所聞いとくか)


金はジークに払わせればいいしな・・・。
そんな事を考えながら、テクテクと歩道を歩いていると、やがて目的の場所にたどり着いた。
ざわざわとした喧騒が、こちらの耳に届いてくる。
ちょっとした広さを持つ空間に、何人もの人間がひしめき合っていた。
野外に直接設置されているテーブルに数々の料理が並び、彼らはそこで賑やかに食事を取っている。
とうに昼の時間帯を回っているにもかかわらず、まったく人の波が途切れていない。
すみの方で一列に並んでいるのは、おそらく順番待ちをしている連中だろう。
人気のラーメン店でもあるまいに、凄まじい数の人間がおとなしく自分の番が来るのを待っていた。


「・・・・・なんだこりゃ」


思わず呆然とした言葉が横島の口から零れた。
和美から繁盛しているといった話は確かに聞いていた。だが、いくらなんでもこれは想像の範囲外だった。
テイクアウトした肉まんを咥えた二人組みの女の子が、楽しそうに談笑しながら、横島の脇を通り抜けていく。
どうやら席に着くのをあきらめて、買い食いをする事に決めたようだ。
よく見れば、似たような袋を抱えた人間があちこちに見られる。
席に着くための順番待ちとは別に、テイクアウト用に並ぶための場所があるようだった。


「これ、本当に中学生がやってる店なんか・・・?」


どう見てもただの屋台に集まる人数ではない。これはもう予約制が必要な規模ではないだろうか。
正直、従業員の数と客の総数が、まったくかみ合っているようには見えないのだが・・・。


「えっと、いつもはもうちょっと少ないですよ。でも、もうすぐ学園祭があるので」


幽霊であるのだからそこまで気にしなくてもいいはずなのだが
さよは通行人の邪魔にならないように、せわしなく体を動かしながら横島の呟きに答えた。


「本当は準備期間も、もうちょっと後なんですけど。予行演習なんでしょうか?学祭中も超さんのお店は凄い人気ですから」


「いや、それにしたって・・・」


明らかに全て埋まってしまっているテーブルに眉根を寄せる。
これから並んだのでは、自分の番が回ってくるまで、かなりの時間が掛かるはずだ。
うまい料理のために、昼食を抜いてきたのがあだになった。
はっきり言ってそんな悠長には待てないくらいに腹が減っている。口惜しいがここは日を改めるべきだろう。
もっとちゃんと和美に話を聞くべきだったかもしれない。がっくりと肩を落としながら、横島は残念そうに溜め息を零した。

しかし、そうと決めた以上、ここに立っていても通行の邪魔になるだけだ。
横島は、漂ってきた食欲を刺激される香りに未練を引き摺りながら、それでもすごすごとその場を離れる事にした。

ついでにすぐ横を通り過ぎて行った女子大生の後をつける事にする。
食欲が満たされないのは、もうこの際仕方がない。だがしかし、それならば別のもので、欲求を満たしてやればいい。
大勢の人間がいるだけあって、横島好みの年上の女性が、ちらほらと目に留まっていた。
一瞬ジークの気難しい顔が頭に浮かんだが、すぐさま振り払う。そんな未来の心配するくらいなら、目先の欲望を優先する。
それが横島忠夫という人間だった。
人の波から離れたところで声を掛けるべく、不審者まがいの追跡を開始しようとした横島だったが、
その時、そんな彼の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。


「おーい!よーこーしーまーさーん!こっちこっち!」


大声を上げながら、こちらに向かってぶんぶんと手を振っている。
屋台のすぐ脇、順番待ちが長蛇の列を作っているその中に、見知った少女が手招きしていた。
横島は意外な人物を見かけたというように、目を丸くして小走りで彼女に駆け寄る。


「和美ちゃん?・・・なんだってここにいるんだ?」


「そりゃ、ここの点心を食べに来たのよ。学祭準備期間中は、こんなだから大変なんだけどさ」


和美は、にやりと口元に笑みを貼り付け、指を立てながらそう言った。


「メールに横島さんも来るって書いてたでしょ?人の多さに呆然としてるんじゃないかと思って、待っててあげたんだよ」


「えっ?じゃーわざわざ俺のためにか?
くぅぅ、さすが和美ちゃん!えー女やなぁ。あと一年くらいたったら、俺と付き合わないか?」


「あはは、それは遠慮するけどさ。それに横島さんのためだけってわけじゃないよ、私達もここのファンなんだ」


さらりとしかけた横島のモーションをあっさりとかわしながら、和美はすっと立ち位置をずらした。


「どーもです」


「あ、あの、こんにちは」


額の上で短く切りそろえた前髪と、両サイドを緩く三つ編みにした特徴的なロングヘアの少女が、眠たげな半眼をこちらに向けていた。
その隣では、長い前髪で目元を隠している少女が、もじもじとしながら和美の背中に隠れている。
あまり感情がこもってるとは言いがたい声と、おどおどとして聞き取り難い声が揃って挨拶をしてきた。


「あれ?君たちは確か・・・夕映ちゃんとのどかちゃん、だったよな」


「ええ」


「は、はい」


確認するように名前を呼んだ横島の言葉を、短く肯定し、こくりと頷く。


「君たちもここに食べに来たんか?」


「ええまぁ、本当はテイクアウトしてすぐに帰るつもりだったのですが、朝倉さんに半ば強引に誘われまして・・・」


夕映は小さく溜め息をつきながら、僅かに眉をひそめた。


「まーまー、別にいいじゃん。肉まん一つおごってあげるからさ」


「小龍包でお願いします」


夕映が素早く己の希望を口にしながら、グビリと喉を動かし何かを飲む。
ちらりと見えただけなので、はっきりとは言えないのだが、抹茶コーラという字が書かれていたような・・・。
思わずなんだそりゃと突っ込みを入れそうになった横島は、慌ててその言葉を飲み込んだ。


「OK、宮崎もそれでいいかい?」


「え?あ、はい。大丈夫です」


ほんのり顔を赤くしながら、のどかは小さく頭を動かした。


「いや、そういうことなら俺がおごるよ。待っててくれたお礼にさ」


そんな二人の会話に横島は口を挟んだ。
ちょっと前までの自分なら、他人に物をおごる事など物理的に不可能だったが、今は違う。
ジークから若干多めに生活費をもらっているので、年下の女の子の優しさに報いる位の事は出来るのだ。
小龍包がいくらなのかは知らないが、屋台で出すものだ、そこまで高いものでもあるまい。
それに、ちょっとは彼女達にいい格好をしておきたい。
そう考えた横島は、小鼻を膨らませながら、きらりと歯を輝かせ、親指を立てて自分を指差した。


「えっ、いいの?」


「いいって、いいって、全然問題ない。何ならラーメンと餃子もつけるぞ。わはははは」


「いや別にそれはいいけどさ。っていうかそんなのメニューにあったかね?」


えらそうに高笑いしている横島に呆れたような視線を向けながら、和美は肩をすくめた。
そんな話をしている間に、どうやら順番が回ってきたらしい。
チャイナ服に身を包み、髪を二つのお団子状に結い上げた古菲が、いらしゃいませーと声を掛けてきた。


「おーす。来たよー」


「どーも」


「お、お疲れ様です」


和美達による三者三様の挨拶を聞いた古菲は、にこりと微笑んだ。


「おお、みんな来てくれたアルか。それに、えーと、えーと。・・・よ・・・よ・・・よごれさんも」


「誰がよごれや!!よしか合ってないじゃねーか!!・・・・・忘れてんなら無理して呼ばなくてもいいからさ。
横島、横島忠夫な。・・・ったく・・・南の島以来だな古菲ちゃん」


両手に持ったお盆の上に、空の中華蒸篭を山積みにしながら、器用に首をかしげている古菲に、横島はツッコミを入れた。
どうも名前を覚えてもらってはいなかったようだ。別に難しい名前でもないと思うのだが。
というか、何がしかの悪意のようなものを感じるのは、こちらの気のせいであってほしい・・・。
古菲が、横島、横島と、確認しながら頷いている。何度かそれを繰り返し、やがて納得がいったのか、もう大丈夫と顔を上げた。


「そうアルなー。また今度、一緒にビーチバレーでもするアルか?挑戦ならいつでも受付中アルよ」


にやりと不敵な笑みを浮かべている。


「いや、さすがに勘弁してくれ。それにビーチないだろ。いくらなんでも」


口角を釣り上げて、再戦を提案する古菲の言葉を、横島はウンザリとした表情で辞退した。
仕事でもないのに、命がけで自らの限界を超える趣味など持ってはいない。
そういう汗臭いのは、どこかのバトルジャンキーにでもやらせておくべきだろう。
もっともあいつがビーチバレーをする姿は、まったく想像できないのだが。
なんというかまるで似合っていなかった。


「そんな事よりほら。案内、案内」


いくら知り合いだからといっても、この混雑している状況下で、いつまでも話し込んでいては、店にも客にも迷惑になる。
僅かにあわてた様子の和美が、古菲を急き立てた。


「おお、スマンかたアル。それじゃ、四名様ご案内ネ。あちらの席でちょっと待ってるアルよー」


両手がふさがっているからだろう、古菲は顔を動かして、空いているテーブルに座るよう横島達を促した。
接客業においては、些か行儀が悪い態度かもしれない。だが、これだけの数を相手に、数人の従業員でさばいているのだ。
むしろよくやっているほうだろう。

そんな事を考えつつ、歩き出そうとした横島だったが、
ふと自分の背後にいるさよが気になって、彼女に視線を送った。
実際は四名ではなく五名なのだ。

もともとは横島だけで、ちゃちゃっと食事を取る予定だったので、彼女にも付き合ってもらったのだが、
和美達と合流している今はそうもいかない。
わざわざ自分の事を待っていてくれた和美達の好意を、無碍にするのもどうかという話しだし、
会話の流れとはいえ、おごると約束をしてしまった。

だが、彼女達がそばにいる間は、さよと会話することも出来ないだろう。
何しろさよの姿が見えているのは自分だけなのだ。いつものように気軽に声を掛ければ、問答無用で危ない人になってしまう。
どうしてもさよの事を無視してしまう形になるので、横島は和美達に見えないところで、
小声で彼女に話しかけ、申し訳なさそうに、頭を下げた。


「ごめんな、さよちゃん。つき合わせたのはこっちだってのに・・・。もし退屈なら先に戻っててくれても」


「え?いえ、そんな、仕方のない事ですし、それに見ているだけでも結構楽しいですから」


そんな彼の姿を見たさよが、あわてて自分の顔の前で手を振る。
にこりと笑って、気にしないようにと横島を気遣った。
そして先に行っていますからと言いながら、席に向かってふわりと飛んでいく。


(・・・気を使わせちまったかな)


心の中で、ポツリと呟いた。
本当はさよも和美達と話をしたいはずだ。
口では気にしないと言ってはいても、周りが賑やかに会話をしている中で、
自分だけ、その輪の中に入れないというのでは、どうしても疎外感を感じてしまうだろう。
彼女はそんな寂しさを長い間ずっと感じてきたのだ。

横島はぎゅっと拳を握り締めた。
そして、さよの姿を目で追いながら、なるべく早く何とかしてやろうと心に決めた。

視線を空中に向けながら、なにやら難しい顔をしている横島に、早く来いと和美が声を掛けてきた。
いつのまにか自分以外は、席に向かって歩き出している。
その呼び声で我に返った横島は、急いで彼女達の後を追った。
配膳や片付け、注文を聞くために、せわしなく働いている古菲達の邪魔にならないように注意しつつ、
指定された席に向かって通路を進む。
途中で、安価、激旨、迅速などと書かれている店の看板に、体をぶつけそうになりながら、横島はどうにか座席に腰を落ち着けた。
ふぅ、と安堵の息をつきながら、改めて周りを見渡す。

それにしても凄い人数だ。人気のあまりテレビが取材に来ていたとしてもおかしくない。
それに客層を見る限り、どうもさまざまな人々から支持を得ているようだ。
学校帰りの中学生グループや、おそらく大学生の少し大人びて見えるおねーさま方。
制服を着たまま休憩中の清掃員やら、学園祭が近いからだろうか、
何を勘違いしたのか、いまいち何の生物かも分からない着グルミを着込んでいる連中までいる。
古菲達の接客の様子から、彼らが一見ではなく、この店の常連である事が伺えた。
それだけここの料理を気に入っているのだろう。

これだけのリピーターがついているという事は、料理のほうも相当期待できるはずだ。
周囲の喧騒にまぎれて、横島の腹がグゥと一つ音を立てた。


「いやー楽しみだ。中華料理なんて、あんまり食べる機会がねーからなぁ。
おキヌちゃんは、どっちかってーと和食専門だし、魔鈴さんの店は洋食だしな。」


カップラーメンなら、ほぼ毎日食べているが、あれを料理というのは、なんというか・・・はばかられる。
自分の食生活に、ほんの少しだけ、わびしさを覚えるが、今はそんな事より何を食べるか決めるべきだろう。
うきうきとしながら、テーブルの上に置いてあるメニューを開く。


「とりあえずラーメンと餃子は決定だろ。そんで後は、エビチリとホイコーローと・・・」


頭の中に浮かんできた中華料理の名前を口に出しながら、ページをめくる。
表情をほころばせつつ、何を注文しようかと視線を走らせていた横島だったが、さらりと夕映が口を挟できた。


「・・・何か勘違いしてるようですが、一応ここ屋台なので、基本は点心しか売っていませんよ?」


「へ?そうなんか」


「まぁ、一口に点心といっても、さまざまな種類があるので、初見では何を注文するか悩み所でしょうね。
もっとも外れはないので、何を選んだとしても、満足するとは思いますよ。ちなみに私はゴマ団子が好きです」


横島が持っているものとは、別のメニューを手元に引き寄せ、夕映は自分の好みを口にした。


「この間食べた、えび餃子もいけてたよ」


「・・・・・春巻きもおいしいです」


和美とのどかも夕映の言葉に乗ってきたようだ。
次々と自分の好きな物の名前を言い合っている。


「うーん。んじゃ今言ったの、一通り頼んどくか。昼飯抜いてきたからな。残しちまうって事はないだろうし」


とりあえず目に付いたものを片っ端から注文する事にした。
タマネギとヤモリさえ入っていなければ、食べられないという事はないはずだ。
横島は片手を挙げながら、すぐ傍で配膳作業をしている店員に声を掛けた。


「すんませーん。注文いいっすか?」


「はい、ただいま参ります」


静かで落ち着いた声が、横島に答えた。
くるりと振り返り、感情を映さない無機質な瞳をこちらに向ける。
一際目立つ緑色の長い髪から、特徴的なアンテナ?が飛び出している。
この店の制服なのだろう。彼女も古菲と同じようなデザインのチャイナ服を着込んでいた。


「茶々丸・・・ちゃんか?え、君もここの従業員なんか?」


パチリと瞬きし、瞳を大きく見開く。
京都以来会っていなかったが、まさか飲食店で普通に労働しているとは思わなかった。


「はい。こんにちは、横島さん」


ぺこりと挨拶しながら、伝票を取り出し近づいてくる。


「へーえ。でもまぁ、考えてみりゃ、マリアもカオスのおっさんと一緒に、よくバイトしてるもんなぁ。
茶々丸ちゃんがここで働いてても、別に変じゃねーか。」


横島は感心したように頷きながら、知人の女性型ロボットを思い出し、一人で納得していた。


「そういや今日は、エヴァちゃんと一緒じゃないんか?」


「はい。マスターは茶道部に出席後、今はもう帰宅していると思われます。何かご用件がおありでしょうか?」


「ん?あぁいや、そうじゃないよ。ちょっと元気かなって思っただけ」


「そうですか。・・・・・あの、一応マスターの健康状態は良好かと思われます」


茶々丸は空中を見つめ、僅かに思案した後、念のためにとでもいうように、ポツリとエヴァの調子がいい事を付け足す。
世間話のつもりで何気なく質問しただけだったのだが、それでも彼女はしっかりと回答してくれた。
思わず、横島は苦笑を零す。
元の世界のマリアにも言えることだったが、彼女達はどこか生真面目な性格をしている。
姿形はまったく似ていない二人なのだが、それでも共通点はあるものらしい。
何かを懐かしむ様子で自分を見ている横島に、茶々丸は不思議そうに首を傾げていた。

そんな彼女の態度に、少しだけいたずら心を刺激された横島が、唐突に茶々丸の服装を褒めだした。
無表情の中で、それでも感情を感じさせる、彼女の鉄面皮を、なんとなく崩してみたくなったのだ。
それに、間接部分がメカメカしいデザインなのは確かに残念ではあったが、
もともとスタイルのいい茶々丸には、チャイナドレスがよく似合っている。全てが嘘というわけでもない。

一度も成功した事のないナンパをしている時のように、薄っぺらい表現で、本心の混じった感想を口にしていく。
急にそんな事を言い出した横島に、茶々丸は戸惑った様子で、おろおろとうろたえていた。


「おーい、お二人さーん。そろそろ注文いいかい?」


「あっ、す、すみません。ただいまお伺いします」


ニヤニヤ笑いを貼り付けた和美が、からかい混じりの声を掛けてくる。
どうも、彼女にとっては、面白い見世物だったようだ。
その言葉に、あからさまな安堵をみせた茶々丸が、普段の冷静さを取り戻していく。
そして、手際よく横島達の注文を取って、逃げるように去っていった。


「まったく、まだまだだね、横島さんも。からかうにしてもさぁ、もうちょっと考えていじらなきゃ」


「そうですね、もう少しデリカシーというものを意識すべきかと」


「うーん、ちっとやりすぎたかな。別に嘘言ってるつもりはねーんだけど・・・」


呆れた様子の和美の苦笑と、夕映の無表情に諭され、横島は気まずそうに頭をかいた。
それからは特に何をするでもなく、世間話しながら、おとなしく料理が到着するのを待つことにした。
椅子に座りながら、改めて人気の屋台を見てみようと体を動かした横島が、一風変わった店の外装に目を丸くする。
人の多さにばかり気を取られて、特に意識していなかったのだが、
落ち着いて見てみると、どうも一般的な屋台とは、かなり違っているようだ。
電車かバスの側面を切り開いて、カウンター席を作っている。おそらく内側は料理を作っている厨房部分だろう。
妙にレトロな雰囲気を崩さずに、なかなか洒落た改装を施している。中央上部には、大きく店の名前が書かれた看板が設置されていた。

そんな店の様子が気になって、前の座席に座っている和美に尋ねてみる。
彼女は、詳しくは知らないけどと前置きしつつ、それでも丁寧に解説してくれた。
その内容によると、やはりあれは横島の予想通り、路面電車を改装して作られたものらしい。
元は展示品として、学校に寄贈されていたものが、長年の雨風にさらされ、すっかり老朽化してしまっていたのだそうだ。
処分を検討されていた、その電車を引き取ったのが、この店のオーナーである超という娘らしい。
彼女は建築学科の学生を巻き込み、ボロボロだった路面電車を屋台として改装し、今の形に落ち着いたということだった。


「へー、凄いなその子」


中学生にしては、かなりの行動力だ。思わず感心した声で呟く。


「ちっちっち、それくらいで驚くようじゃ、まだ甘いよ。あの子は・・・」


「お待ちどうアルー!」


人差し指を振りながら、何事かを解説しようとした和美の台詞を遮り、
両手に持ったトレーの上に、湯気を立てた蒸篭を満載にした古菲が、笑顔と共に現れた。
中華蒸篭はもともと積み重ねられるように出来ているものだが、
それでも重ねすぎだと一目で分かるくらいの高さを、危なげなく運んでいる。
一つ一つは軽いのだろうが、これだけの量となると、総重量はかなりのものになるはずだ。
それを一人で持ち運んでいる古菲は、華奢な見た目よりも、ずいぶんと力持ちであるようだった。
絶妙なバランスで積み上がっている蒸篭を、機敏な動作で次々とテーブルの上に置いていく。
見た目からして、とてもおいしそうだ。空腹の身としては、すきっ腹にずしんと響く光景だった。


「おっ、来た来た。うーん、やっぱり、うまそうやなぁ」


横島の目の前で、熱々の肉まんが、ほこほこと湯気を立てている。
思わずゴクリとつばを飲み込んだ。
全ての料理を配膳し終えた古菲が、テーブルの上に視線を落としながら、伝票を確認している。
そして全てが注文通りであることを確認し、ごゆっくりどうぞと言いながら、足早に去っていった。
どうもまだ、客足に衰えはなさそうだった。


「それじゃ、頂くとしましょうか。これ全部横島さんのおごりだから、心して食べるように」


「ご馳走になるです。あ、朝倉さん、そこのゴマ団子取ってください」


「え、えっと、すみません」


軽い調子で会計の全てを横島に押し付けた和美に、夕映がさらりと同調し、のどかが遠慮がちに謝ってきた。


「いっ!確か小龍包がどーのって話だったんじゃ・・・・・ま、まぁ、べつにいいけどさ・・・」


いつのまにか全額支払う事になってしまっていたが、所詮は他人の金である。
自分の懐が直接痛むわけでもなし、このくらいは必要経費として、依頼主に払ってもらう事にした。

さて何から手をつけようか。
そんなことを思いつつ、備え付けの箸を手に取り、とりあえず手前に置いてあるエビ餃子を口に放り込む。
前歯で噛み千切り、奥歯ですりつぶし、舌の上で転がしつつ、最後にゴクリと飲み込む。
そして間髪いれずに二つ目を箸で掴み上げ、口内に投入、同様に咀嚼し嚥下する。
次第に箸を動かすスピードは上がり、一つ目の器があっという間に空になった。


「こらうまい!!こらうまいっ!!」


中身の具が透けて見えるほど薄いモチモチの皮が、プリプリとした食感のエビを包み込んでいる。
噛み砕くほどに味が舌に染み込んでくるのは、おそらく豚の背油か。
薄く切った筍もちょっとしたアクセントになっている。
若干濃い目に味付けされたそれらの具材は、口内でうまい具合に調和を作り上げていた。


「いや、すっごいうまいな、これ」


二つ目の器、シュウマイを引き寄せながら、素直な感想を口にする。
空腹は最高の調味料とは言うが、自分がそうである事を除いても、素晴らしい味だった。
粗食に慣れてしまっている横島は、えらそうに解説できるほど、上等な舌を持ち合わせているわけではないが、
それでも、この料理はかなりの物だと断言できる。これだけの人間が集まってくるのも頷けるというものだった。


「ふふーん。でしょう?なにせ、大学生から教師連中にまで人気の店だからねー。
手ごろなお値段で、この味が楽しめるってんだから、人気も出るってもんだよ」


烏龍茶で唇を湿らせながら、和美が自分の事のように自慢する。


「もともと人気のお店でしたが、また人が増えた気がしますね。噂が噂を呼んで、と言う事なんでしょうけど」


ゴマ団子の攻略を手早く済ませた夕映が、口周りを拭っている。
そして彼女は、黒酢トマトなる得体の知れない飲料を何処からか取り出し飲み始めた。
店への持込がどうのというつもりはないが、それは本当においしいのだろうか。
横島は視線を逸らした。


「ま、まぁとにかく。俺も常連になりそうだ。和美ちゃん、ありがとな。いい店紹介してくれて」


「別にいいよ。でも当たりだったでしょ?」


「大当たりだな。昔、香港で食った中華もうまかったけど、ここも全然負けてねーよ」


「へー、横島さん香港に行った事あるんだ」


「まー、仕事でちょっとさ。成り行きっつーか、どっかの馬鹿がしくじった後始末に巻き込まれたというか・・・」


今思い出しても、原始風水盤の一件は、トップクラスの厄介ごとだった気がする。
正直あのゾンビ集団に襲われた時には、死を覚悟したものだ。
遠い目をしながら、過去に思いをはせた横島が、気持ちの悪い姿を想像してしまい、慌てて頭を振って、記憶を消去しようとした。
少なくとも、こんなにうまい飯を食べている時に、思い出すことではない。

しかし・・・・・。

それでも、何かが引っ掛かり、横島は首をかしげた。
少し前に京都で戦ったデミアン。あの怪物。あいつの言動は、どこか香港で倒したオカマの姿を思い出させた。
むしろ、ほとんど本人そのものであったような気さえする。
実力もさることながら、無駄に強力なキャラクターをしていたので、よく覚えている。

ただ香港で戦った奴の姿と、京都で戦ったデミアンの姿は、まったくかけ離れたものだった。
仮にあのオカマが、京都のデミアンと同一人物であったとするならば、奴に一体なにがあったというのか。

しかも自分のことをデミアンと名乗っていたのだ。なぜそんな勘違いをしたのだろう。

逆にあいつが本物のデミアンだったとするなら、なぜ性格があんな風に変わっていたのか。
しばらく見ない間に新宿の二丁目にでも遊びに行ったというのか。・・・・・いや、いくらなんでもそれはない。

どいうか、そもそも、どちらもすでに死んでいるはずだったのだ。
こんな仮定を考える必要はないはずだった。

手元においてあるお絞りで、ごしごしと顔を拭う。
いい加減、脳の許容量を超えてしまいそうだった。

一息ついて落ち着いた横島が、そういえば、と思い出す。
タマモにもジークにも今感じた疑問を話した覚えがない。
京都では、そもそも話す暇自体がなかったし、帰ってきてからも色々あったせいですっかり忘れていた。

オカマ・・・どうしても正確な名前が思いさせないのだか、二人とも奴とは面識がない。
両方を知っているのは、あの場にいた者の中では、自分だけだった。
ジークはデミアンの存在を疑っていたようだが、この事も話すべきなのだろうか・・・。

眉間に皺を寄せた、難しい顔で考え込む。
そんな横島の態度に、和美と夕映は不思議そうに疑問符を浮かべていた。

・・・その時。


「あっ、あの!」


口数少なく、押し黙ったままだったのどかが、急に大きな声を上げた。
勢い込んで身を乗り出してしまったのだろう。テーブルに腕をぶつけている。
ガツンといった鈍い音がなると同時に、置いてあった料理が、僅かに振動した。


「そっ、そのお仕事って、どんな仕事だったんですか!?」


それでも、そんなものは瑣末な事だったのか、ぶつけた箇所を気にするでもなく尋ねてくる。
長い前髪から僅かに覗く瞳は、とても真剣な色をしていた。


「へ?あ、いや、仕事っつーても、たんなるバイトなんだけど・・・」


まさかそんな所に食いついてくるとは思わず、横島はオタオタしながら、言葉を濁した。
立場上ジークには口止めされているし、色々と誤魔化しながらではうまく話せる自信がない。


「ふーん・・・・・なんか意外だねぇ。興味あるの宮崎?」


「どうしたですか?のどか」


のどかの態度に不審なものを感じたのか、二人は、訝しげに問いかけた。
おとなしい印象の彼女が、突然大声をあげた事に驚いているようだ。
のどかはそんな二人の言葉に、ハッと我に返ったのか、ビクリと体を震わせた。


「あっ、あの、わ、私・・・・・・・・・・・・ご、ごめんなさい!!」


おろおろと視線をさまよわせ、分かりやすいほど動揺していたのどかが、
突然何かに謝ったかと思うと、急に席を立って逃げるように走り去っていく。
勢いが強すぎたのか、蹴飛ばした椅子が後ろ側に倒れて、大きな音を立てた。
そしてあっという間に、彼女は通行人の陰に隠れて見えなくなってしまった。


「・・・・・・・」


「・・・・・・・」


「・・・・・・・」


あまりの早業に呆然としていた横島達だったが、そんな事をしている場合ではないと気付いたのだろう。
のどかの去った方角を見つめながら、放心していた夕映が、慌てて彼女を追うように席を立った。


「のどかっ!!」


「えっ?ちょっ、ちょっとゆえっち・・・綾瀬っ!ああ、もう!ごめん横島さん。
お金ここに置いとくから・・・待ちなさいって!」


「へ?いや、和美ちゃん!?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・俺がおごるって話じゃ・・・」


のどかに続いて、駆け出していった夕映を呼び止めながら、最後に残った和美も、横島の視界から消える。
騒ぎを耳にした客や通行人達の好奇の視線にさらされ、彼は聞き手のいなくなったその場所で、ポツリと呟いた。
思わず立ち上がっていた体を、椅子の上に深く沈める。
何がなんだか分からなかったが、あっという間に取り残されてしまったようだ。
なんとなくテーブルに残ったままの料理を眺める。
ほとんど自分で食べるつもりで注文したものだったが、かなりの量が残っていた。


「俺・・・なんか悪いことしたかな?」


自分の真後ろを振り返り、尋ねる。
横島の肩に寄り添うように浮かんでいたさよが、困惑した様子で、小さく首を振っていた。
溜め息を零しつつ、テーブルの上に落としてしまった箸を拾い上げる。
どうあれ、注文した料理は食べなければならないだろう。
もともと一人で食事を取る予定だったが、予期せぬ知人との食事は、なかなか楽しいものだった。
一抹の寂寥感を感じつつ、食事を再開する。
何一つ味は変わっていないはずだが、それでも先程よりはおいしく感じられなかった。
むぐむぐと、少しだけ冷めてしまった、シュウマイをかじり、やるせない思いを噛み締めていた横島だったが、
そんな彼の背後から近づいてくる影があった。


「お茶のおかわりはいかがですか?」


唐突に、声を掛けられた。
透き通るような透明感のある声だ。
店の内装に合わせているのか、アンティークのような陶磁器の茶器を持っている。
黒を基調とした、人民服に身を包み、柔和な表情を浮かべていた。
横島におかわりを勧めてきたのは、落ち着いた雰囲気を漂わせた一人の少年だった。
こちらで知り合ったネギよりも、いくらか年上だろうか?
中肉中背、特に特徴的でもない一般的な体格をしている。
よく手入れされているのか、ふわりと風に揺れている髪の色も、よくある黒色だった。
少なくとも見かけだけは何処にでもいそうな少年だ。
唯一つ、横島にとっては気に食わない、その整ったイケメン面を除けばだが・・・。


「いや、別にいらん」


嫌な顔をしながら、そっけなく断る。
何が悲しくてイケメン予備軍の相手などしなければならないのか。
ただでさえ和美達がいなくなったことで、両手の花が散ってしまったというのに。
子供が店員をしている事に、一瞬疑問が浮かんだが、ネギの例もある。特殊な土地柄というものなのだろう。
そう無理やり納得し、横島は少年から顔を背けた。


「連れの人たちはどうしたのかな?」


つれなく無下にされたというのに、その少年は空気を読まずに再び横島に声をかけた。
むっとしながら、それでも適当に言葉を返す。


「さーな、俺にもわからん。トイレじゃねーか?」


「化粧直しにしては慌てすぎだと思うけどね・・・。それに方向が違うよ」


のどか達が去っていった方角とは別の向きを指差し、少年は苦笑を零した。


「痴話喧嘩?」


「んなわけあるか!急用かなんかだろ?・・・・・・まぁ、確かに様子がおかしかったけど」


自分に向けられたのどかの真摯な瞳を思い出し、横島は複雑な感情を抱いた。
いったい彼女は、自分に何が言いたかったのだろうか?
横島の言った仕事の内容に興味を持ったのか。
だがそうだとしてもあれだけ真剣に尋ねてくる理由が分からない。
興味本位というには、彼女の態度は、なにか・・・・。


(まるで切羽詰った何かがあるみたいだった・・・)


うまくはいえないのだが、何かに追われていたというか・・・・・。
むっつりと真面目な顔で押し黙った横島に、少年は仕方ないなとでも言いたげに、微笑を浮かべつつ忠告を口にした。


「謝るなら早くしたほうがいいと思うけど・・・」


「だから違うといっとるだろーが!というかお前には関係ねーだろ!」


「まぁ、それはそうだね」


手に持った茶器を軽く振りながら視線でもう一度横島に確認を取る。
横島は鬱陶しいものを追い払う仕草で、いい加減にその意図を遮った。
それだけ確認したかったのか。肩をすくめながら少年が去っていく。
横島はその背中に視線を向けつつ、何故かとっさに彼を呼び止めていた。


「おまえ、ここの店員なのか?」


何故そんな事を尋ねたのか、横島本人もよく分からないままだった。
別に気になって質問した訳ではなかったからだ。ただ意識するでもなく自然と口が動いていた。
背中越しの質問を受けた彼が、ちらりと半分だけ振り返る。
そして、意味ありげな視線を横島に向けたまま、こう答えた。


「ええ、一応。出来れば今後ともご贔屓に。・・・・・・・・・・・・・・・そちらの娘さんもね」


最後の一言を横島の背後に向けて、少年はゆっくりとした足取りで、屋台の方に歩いていった。
横島は思わず後を振り返り、さよと顔を合わせた。


「・・・・・・見えていたんでしょうか?」


「・・・・・・・・・・・・・・・さぁ?」


困惑した様子で互いの顔を見つめ合ってから、二人は同時に首を傾けた。





◇◆◇





しとしとと雨が降っている。
ここ数日、連続して働きづめだった太陽は鳴りを潜め、発達した低気圧が前線を伴い、
広範囲にわたって雨を降らせていた。
窓枠越しに、じっとりとした湿気が部屋の内側に侵入してくる。
窓ガラスの表面には結露によって浮き出た複数の水滴が付着していた。
部屋の中にいるというのに、湿気によって着ている服まで、どこか重たい感覚を覚える。
昼間だというのに薄暗い室内で、横島は己の鬱屈とした精神をもてあましていた。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・暇だ」


「・・・・・何回目だ。その独り言は」


同居人であるジークが、手元にある雑誌のページを乱雑にめくり上げ、
些かうんざりとした様子で、吐き捨てるように言う。
ここ最近のお気に入りである漫画雑誌に視線を固定したまま、横島のほうを見向きもしない。
横島がこちらの世界に来てから、購入し始めたものだが、
何故か買ってきた当人よりも、彼のほうが気に入ってしまっていた。


「しゃーねーだろ。実際に暇なんだから」


長時間同じ姿勢で横になっていたために、鈍痛を感じる腰を思い切り捻る。
ゴキリという音と共に僅かな快感を脳が知覚した。
そのまま、簡単なストレッチを行い体のコリをほぐした後、横島は力尽きたかのように、再びゴロンと寝転んだ。


「まったく。・・・だったら、少しは勉強でもしたらどうだ?君の本業は一応学生だろう?
こっちに来てから、一度もそれらしい姿を見かけていないのだがな」


「あほか。ただでさえ、じめじめして気分が沈んでるっつーのに、そんなんするわけねーだろ。
それに教科書の一つも持ってないしな」


その手のものは、今頃自分のドッペルゲンガーが有効活用しているはずだった。


「えらそうに言う事でもないと思うが・・・・・ならば、さよ君の特訓を手伝ったらどうだ?」


眉間を片手で揉み解しながら、ジークは疲れた声音で提案した。
急に名前を呼ばれたさよが、ピクリと反応する。
横島はその姿を片側だけ開いた瞳でとらえ、むくりと起き上がった。


「特訓ってまたロウソク使ったやつか?」


「違う。さすがに火を使うのは懲りたろう」


「あぅぅ、ごめんなさい」


申し訳なさそうに首をすくめたさよが、部屋の隅へ移動する。
体の半分以上を床に沈めながら、頭だけをひょっこりと覗かせていた。
幽霊の特性を生かして、身の置き所がないという状況を、実際に表現しているらしい。
もしくは穴があったら入りたいか・・・。
首だけが床に転がっている有様は、詳しい事情を知らない人間が見れば、あらぬ誤解をしそうな状況であったが、
今は横島達しかいないので、問題はなかった。
なんとなく怖かったので横島は片手を動かして、彼女を手招きする。彼女は案外あっさりと近寄ってきた。

少し前からさよは自分の存在感を増すための訓練を開始していた。
ふと昔に似たような事があったのを思い出した横島が、物は試しにと彼女に提案したのだ。
仕掛けは至極単純なもので、燭台に突き刺したロウソクに火をつけて、その火を彼女が揺らめかせれば成功、といった具合だ。
幽霊である彼女は、ある意味物理的な法則の外側にいる存在でもある。
息を吹きかけても、手で扇いで風を起こそうとしても意味がない。要するに己の霊力を使って物質に干渉するという訓練なのだ。

とはいっても、ジーク曰くこの世界には霊力がないらしいので、容易にはうまくいかない。
正確にはまったくないわけではないのだが、極端に弱いのだそうだ。
当然その世界の住人であるさよも、影響を受けている。
横島の同僚には、元幽霊という経歴を持つ娘がいるが、彼女は300年間も幽霊をやっていた大ベテランでもあった。
あまり参考にはならない。
己の霊体を維持するだけでも精一杯であるはずのさよが、すぐには彼女の真似事を出来るはずがないのだ。


そのはずだったのだが・・・・・・。


「まさか、ロウソク置いた机ごと吹っ飛ばすとはなぁ」


それでもやるだけやってみようという事で、訓練は開始されたのだが、
キリッと表情を引き締めた彼女が、いざっと気合を入れて、ロウソクの火を消そうとした瞬間、土台のコタツ机が一回転した。
どうも彼女の気合が強すぎたせいで、ポルターガイスト現象を引き起こしてしまったらしい。
横着して収納を保留していた例のコタツ布団は、見事に全焼してしまった。綿はよく燃えるのだ。


「うぅぅ、すびばせん」


身体を丸めたさよが、鼻にかかった声で謝罪した。


「本来ならありえないはずなのだがな。やはり彼女は興味深い」


思案顔で、顎を撫でながら、ジークが横目でさよを見つめている。
その熱心な視線から彼女を庇いつつ、横島はジークに問いかけた。


「ロウソクじゃなかったら、何すりゃいいんだ?」


「ふむ。彼女の場合、物質に干渉する力は既に持っているようだしな。
後はそれを手加減して出来るようになればいい。
・・・そうだな、トランプでもしてみたらどうだ?暇も潰せて一石二鳥だろう」


「トランプなぁ。いいかもしんないけど、二人じゃ出来るゲームが限られちまうぞ。お前も付き合えよジーク」


「・・・了解した」


何だかんだといって、ジークも暇をもてあましていたのだろう。
意外にあっさりと読んでいた漫画雑誌をパタリと閉じた。


「さよちゃん。トランプって知ってるよな」


「さすがにそれ位は知ってますよぅ。あ、でもばば抜きとかしか知りません」


「ふむ。じゃーまぁ、とりあえずそのあたりから始めるか」


そういや、そもそもトランプなんてあったかな、そう思いながら押入れに向かって歩き出そうとした横島だったが、
その時、彼の尻ポケットから、安っぽいメロディーが流れてきた。
携帯電話の着信音だ。
初期設定のまま放置してある合成音が、一定の間隔で流れている。

この世界では戸籍をもっていない横島は、それを入手するのに、なかなか苦労した。
彼にしてみれば、携帯電話など、贅沢品以外の何ものでもなかったが、人付き合いのツールとしては便利である事も否定できない。
そう考えた横島はジークに頼み込んで、何とか携帯電話を手に入れようとした。
最初は渋い表情で、断り続けていたジークだったが、
横島の、子供顔負けな買って買って攻撃に、いい加減根負けしたのか、最後には疲れた様子で許可を出していた。
それくらいで横島のやる気が買えるのなら、安いものだと判断したようだ。

それから携帯を手に入れるまではあっという間だった。
どうやら土偶羅がうまくやってくれたらしい。

そんな経緯を思い出しながら、中腰のまま尻ポケットに手を入れ、携帯電話を取り出す。
そして、画面を見て着信の相手を確認した。

朝倉和美。画面にはそう書かれている。

先日、変な形で別れてしまった彼女から連絡があった。
慣れない手つきで携帯を操作しながら、通話ボタンを押し、耳に当てた。


「もしもし、和美ちゃんか?どした?」


軽い口調で呼びかける。
和美からの電話は都合がよかった。あの時、のどかに何があったのか、彼女なら知っているかもしれない。
そう考え、耳を澄ませながら、返事を待つ。
しかし、いつまでまっても携帯電話からは何の返事もなかった。


「和美ちゃん?」


さすがに不審に思って、横島が訝しげな声をかける。
すると、受話器の向こうから、何者かの荒い息遣いが聞こえてきた。
低く、小さく、呼吸の間隔が短い。幼い子供が無理をして苦しげに押し殺しているような声。
その音が横島の耳に直接響いてくる。


「・・・・・・・・・和美・・・ちゃん?」


妙な気配を感じた横島が、低い声で尋ねた。
自然と心臓の鼓動が早まっていく。携帯を握った掌が急速に汗ばんでいった。


(・・・・・・なん・・・だ?・・・何か・・何か・・・嫌な予感が・・・)


焦りが表情に表れ始め、何か言わなければと息を吸い込んだその瞬間。





”彼女”は水が染み込んでいるような濡れた声で言った。





「・・・・・・・・・・・・・・・・・横・・島・・・さん」





擦り切れて、霞んで聞こえる頼りない声だ。
口ごもりながら、懸命に言葉を発しようと努力している。
その震えを聞いているだけで、不安をかきたてられるような、身がすくんでしまうような錯覚が、脳を痺れさせていく。



「・・・・・君は・・・夕映・・・ちゃんか?」



思考の濁りを洗い流すように、強く頭を振って、横島は声の主を確認した。
自信があったわけではない。それでも少し前に話しをしたばかりだ。
声色が変わって聞こえたとしても、かろうじて判断できる。

おそらく夕映であろう通話相手は、何度も唾を飲み込み、不規則な呼吸を繰り返しながら沈黙している。
横島は、焦って問いただそうとする心を、強引に押さえつけながら、辛抱強く、彼女が何か言うまで待っていた。


「・・・・・・・・け・て・・・・だ・い」


気のせいだと流してしまいそうなほど、その声は小さく脆い。
意識して聞こうとしていなければ、間違いなく聞き逃していただろう。
感情を凍らせたかのように、抑揚を感じない硬く無機質な声だった。
それでも反応があった事で、僅かに勢いづけられた横島は、もう一度彼女の名前を呼ぼうと・・・。





「たすけてください」






ふしぎとそれはとてもよくきこえた。






同時に室内に設置してある霊力探査装置が、けたたましいアラームを発する。
音に導かれて背後を振り返った横島は、条件反射のように、その場所を見た。

胸を悪くさせる赤が、室内を照らしている。

緊迫感を煽るように、次々とさまざまな情報がディスプレイに表示されていた。
何かの演出ではないかと疑うタイミングで、規則正しく聞こえていた雨音が、勢いを増す。
天に轟く轟音と共に峻烈な稲光が残光を残した。
それは、誰かの悲鳴にも聞こえた。
ここにはいない、それでも必死になって何かを伝えようとしている彼女の絶叫。





「・・・・・お・・・おねがい・・・します。・・・・・のどかを・・・私の友達を・・・どうか・・・・・」




たすけてください。




耳朶を刺激するその願いは、横島の思考を止めた。

微弱に痙攣した唇から、吐息がこぼれる。

無意識のうちに視線をやったその先で、ぎゅっと拳を握り締めた。










・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・雨は・・・・・・やみそうもない。


















[40420] 16
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:00e7dda1
Date: 2015/06/21 20:47

曇天の空、厚い雲に覆われたその場所で、光が生まれる。
一瞬だが鮮烈な強い光だ。僅かな雲の切れ間に帯電している稲妻が、青白い輝きを放っている。
そこには太陽の暖かさも感じられない。
薄暗く周囲の色さえ滲ませて見える景色は、まるで世界が灰色のカーテンに包まれているようだった。
そして、天空からは無数の雨が降り注いでいる。それらは無秩序に盛大な音を立てていた。

それを耳障りだと感じるかどうかは、人それぞれなのだろう。
当然のように自分の身にも落ちてくる雨粒を見ながら、ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマンはそう思った。

なぜなら今、自分はその雨音に静寂を感じているからだ。
人通りの全くないその場所には、普段いくらでも聞こえてくるだろう、人々の生活音がまったくしない。
雨音がそれ以外のすべての音を、飲み込んでしまっているようだった。

ひどく印象深い風体の男だ。
年は六十歳から七十歳前後。かなりの長身で、背筋が曲がっている様子もない。
外国人然とした体格と容貌の持ち主で、
丹念に手入れされた長い髭と、奇妙な形に整えられた白髪は、どこかの貴族のようでもあった。
夏場も近いこの時期に、レインコートではなく、丈が膝下まである厚手のロングコートを着込んでいる。
つば広の帽子を目深にかぶり、頑強なブーツを履き、手袋までしている。
そのどれもが黒一色であり、男の長身と相まって、変に目立ってしまっていた。
もしこの場に、彼を目にする者がいたとしたら、間違いなく注目を集めていただろう。
彼にとって幸いにも、そういう事態にはならなかったのだが。

そんな幸運を意識することもなく、彼はこの大雨の中、傘も差さずに道のど真ん中で、ただ突っ立っていた。


「・・・首尾は?」


男は相応の年齢を感じさせる、口元の皺を深くしながら、ポツリと呟く。
まるで近くに話し相手がいるような、気やすい口調だ。
しかしその場には男以外の気配が一切なかった。
それでも男は、その言葉を聞いている者がいるのだと確信しているかのように、返事が来るのを待っていた。


「・・・対象は一人を除いて全員監視中。
例のガキは、おっさんにやられて気絶してた所を、まったく関係ないやつに拾われたみたいダナ。
場所は特定してあるから、あとは捕まえるだけだゼ」


「京都での一件で、能力を封じられている今なら、どうとでもできるはずデス」


鈴を転がすような二つの幼い声が聞こえてくる。
一方がいささか乱暴な言葉使いで報告し、もう一方が丁寧な口調でそれを補足した。
肉声ではなく念話の類なので、耳に直接響いているわけではない。
相も変わらず聞こえてくる雨音の中にあっても、クリアな音声として認識できている。


「・・・ふむ、一人を除いてというのは?」


顎鬚を撫でつつ、片側の眉を吊り上げる。
かぶっている帽子のつばから流れ落ちる水滴に視線を向けて、ヘルマンは聞こえてくる声に問い返した。


「監視対象の中に、見つけられなかったのがいるんダ」


「一応今も探しているんですけどネ」


言葉自体は言い訳に近かったが、一切悪びれている様子もない。
その事に苦笑しながら、それでも最低限聞いておかなければならない事を尋ねる。


「・・・まさか、神楽坂明日菜君かね?」


これから自分達が行うことを考えれば、最優先で確保しなければならない少女の名前を告げる。
彼女だけは見つかりませんでしたではすまないのだ。計画に支障が出てしまう。
しがない雇われの身としては、依頼の完璧な遂行のために、万全の準備をしておきたい。
彼女自身も調査依頼の対象に含まれていることもあるが、なにより本命の相手である彼に対する切り札としてだ。


「いんや違う、そっちの心配ならいらねーヨ。GOサインがあればいつでも行けるゼ」


「彼女なら今、近衛木乃香と一緒にいマス。厄介そうな剣士は確保済みなので、それほど手間でもないはずデス」


どうやらこちらの心配は杞憂で済みそうだと、ヘルマンはわずかに口元を緩めた。


「ふむ、それならばいいだろう。ある程度の人質さえいれば、彼は動く。
・・・そうだな、私はこれから小太郎少年の方を片付けてくる。君たちはそのほかの対象を確保してくれたまえ」


「ラジャー」


威勢のいい返事を聞きつつ、ヘルマンはとりあえずの目標に向かって歩みを進めた。
犬上小太郎本人に、それほど興味があるわけではないが、彼が持って逃げた封魔の瓶には用がある。
不安要素の一つを消しておくといった意味でしかないが、必要な事でもあった。
頭の中に送られてきた少年の居場所を、記憶している地図と一緒に参照しながら、大通りを通り抜ける。
今いる場所から、そう遠くは離れていないようだった。長い足を交互に動かしながら、雨の中を歩いていく。
その時、ふと自分が見つかっていない監視対象の名前を聞きそびれていることに気が付いた。
正直なところ、ネギの関係者を誘拐するというのは、彼に本気を出させるための方便でしかないので、
神楽坂明日菜の居場所がはっきりしている以上、それほど重要な問題というわけではない。
だが、それでも一応聞いておくべきかと、ヘルマンは自分の協力者に、再び問いかけた。


「それで、見つかっていない一人というのは誰なのかね?」


「うん?あぁ、そいつカ。名前はえーと・・・ナンダッケ?」


「これから誘拐する人間の名前も忘れてるですカ?まったくやれやれデス」


「ケッ!別にいいだろ名前なんテ。顔さえ覚えてれば問題ねーゼ」


「まぁ、すらむぃが大雑把なのは、今に始まったことではないですケド・・・」


虚勢を張るように声を上げた一人に対して、もう一方が何かを諦めた様子でポツリと呟く。
そのまま不毛な言い争いが発展しそうな気配を感じたヘルマンは、慌てて二人を止めるべく声をかけた。


「すまないが、言い争いなら後にしてほしいのだが・・・」


一応のボスでもある自分の問いを、あっさり無視してのける二人に、呆れた口調で呟く。
別に敬えとまで言うつもりもないが、もう少しくらい気を使ってくれても罰は当たらないはずだ。
ボスとしての威厳が足りないのだろうかと、ヘルマンは僅かに肩を落とした。
すると、声の調子からこちらの意図を正確に読み取ったらしい。
彼の制止を無視して、言い争いを始めた二人とは別に、最後の部下である三人目が、
いようにテンションの低い平坦な声で、報告してきた。


「見つからないのは、宮崎のどか。・・・ネギ・スプリングフィールドの仮契約者デス」


記憶にある名前が耳に届く。
確か少々特殊なアーティファクトを持っている少女だ。
ごく最近まで裏側の事情とは、全くの疎遠であった一般人であり、ネギと契約を交わしたことで、
ほんの半歩にも満たないだろうが、裏の世界にに足を踏み入れている。

だからこそ人質候補の一人に選んだ。
さすがに何も知らない一般人を巻き込むのもどうかといった話だし、
彼女はネギとの関わりも深い。
彼に対する人質として使うなら、効果的な人物と言える。

・・・だが逆に言えば、そんな理由でしかないのだ。
言葉は悪いが、せいぜいネギに対する良い餌になってくれれば・・・その程度の意味しかない。
自分にとって、宮崎のどかという少女の価値は、ネギの仮契約者ということくらいなのだ。
固執するほどの理由もなかった。
彼女が見つからないからといって、計画自体には何の影響もないだろう。


(・・・・・ふむ)


ヘルマンは心の中で一度頷くと、次の瞬間には今聞いた報告を忘れたかのように、歩みを再開した。

どうでもよいことだと思ったのだ。





・・・・・・・・・・・その時は。




◇◆◇




はるか先の空から遠雷の音が聞こえていた。重く腹に響く音だ。
聞いているだけで、否応なしに不安をかきたてられるような、思わず身がすくんでしまいそうになる、そんな音。

まるで今の気分を表しているようだ。

すっきりとしない空模様に眉をしかめ、そう思う。
自分が寄宿している寮の廊下を歩きながら、綾瀬夕映は、そんな益体もない事を考えていた。


最近、彼女には、思い悩んでいる事が二つあった。
一つは自分の担任教師であり、現代に生きる魔法使いでもあるネギ・スプリングフィールドから、
魔法を習うという計画が、全く進展していないこと。

京都での事件以降、自分の常識とはかけ離れた世界があることを知り、当たり前の退屈な日常に飽き飽きしていた夕映は、
現状を打破するための切っ掛けを、ネギに求めた。
つまらない学校の授業などより、はるかに興奮する非日常の体験が自分を待っているはずだと、そう期待して。
しかし、なかなかうまくはいかないもので、どれだけ夕映が頼んでもネギは首を縦には振ってくれなかった。

曰く、生徒を危険な世界に関わらせたくないだとか、自分の都合で迷惑をかけたくはないとか、
夕映がそんな事は百も承知だと、いくら告げても全くの無駄だった。
少し流されやすい所があるネギだったが、この件に対しては頑なな態度で、こちらの要求を拒否し続けていた。
それは自分だけでなく、すでに仮契約という形で魔法に関わりを持っているのどかに対しても同じ事で、
最近では魔法関係の話をしようとすると、いち早く気配を察知して、逃げ出してしまう始末だ。


同じ立場であるはずの明日菜は受け入れているというのに・・・・・。


思わず愚痴めいた言葉が頭をよぎる。
そう、なぜか彼女だけは、あちら側の事情に関わる事を、ネギに認められている節があった。
どういう経緯でそうなったのかは知らないが、あの南の島のバカンス以降、二人の態度が何やら親密になっている気がするのだ。
放課後、ネギは授業が終わった後に、明日菜と木乃香、そして刹那を連れて消えることが多い。
同じクラスの佐々木まき絵から聞いた情報によると、ネギは今、自分の生徒であるエヴァンジェリンに何かの教えを受けているらしい。
まき絵自身は、彼がエヴァから何を教わっているのか詳しくは知らないようなのだが、京都で特別な夜を経験した夕映は知っている。
エヴァが凄腕の魔法使いであることを・・・。

おそらくネギは彼女から魔法を教わっているのだ。
そしてそれに付いて行っているという事は、明日菜や木乃香も彼女から何らかの教授を受けている可能性がある。
もともと魔法関係者が家族にいるらしい木乃香はともかくとしても、本来明日菜は自分たちと同じで魔法とは無縁の存在であるはずだ。
にもかかわらず特別扱いを受けているというのは納得がいかない。
それに魔法云々を置いておくとしても、必要以上にネギと明日菜が接近するのは好ましい事ではない。。


なぜなら、自分の親友はネギに対して特別な感情を持っているのだから・・・。


そこまで考えて、夕映は小さく嘆息した。
二つ目の悩みを思い出して、気分が重くなる。その悩みとは、親友であるのどかの事だった。
最近、のどかは夕映に対して、妙に距離を置くようになっていた。
いや、正確には自分だけでなく、クラスメイトに対しても壁を作っているように感じる。
修学旅行中や、南の島では、以前と変わらない様子だった。
だが、そこから帰ってきてしばらくしてから、どこかよそよそしさを感じるようになったのだ。

本人は、いつも通りに振る舞っているつもりなのだろうが、夕映にしてみれば無理をしているのが丸分かりだった。
もともと愛想がいい方とは言えなかったが、それでも自分や早乙女ハルナには、だいぶ心を開いてくれたと実感していたのだ。
しかし、夕映がどれだけ、何かあったのか、悩み事があるなら相談に乗るからと尋ねても、
のどかは、大丈夫だから気にしないでと、曖昧な表情で作り笑いを浮かべるだけだった。

それにここ数日の間、彼女は体調がすぐれないのか学校も休んでいる。
心配で様子を見にいっても、遠まわしに放っておいてくれと言われるだけだった。
一人になりたい時もあるのだろうし、しばらく様子を見ようと、ハルナは言っていたが、気になるものは気になる。
たとえお節介と言われようが、親友の悩み事には親身になって相談に乗るべきではないのだろうか・・・。

答えの出ない問いに頭を悩ませる。
再び憂鬱なため息をついて、夕映は自分の部屋へと、重い足取りを引きずって行った。
階段を上り、曲がり角を曲がる。
うつむき気味で、足元に目線を落としながら歩いていた夕映だったが、
いつの間にか自分の部屋がすぐ近くである事に気が付いて顔を上げた。
すると、自室の前で、今まで頭を悩ませていた心配事の中心人物が、扉を背にして佇んでいた。
学校を休んだにも拘らず、いつもの見慣れた制服姿で、長い前髪に目元を隠し、頭を垂れている。
僅かに覗く瞳はじっと一点を見続け、何の感情もうかがえない無表情で、ただ静かに立ち尽くしていた。


「・・・・・のどか?」


のどからしくない・・・。
とっさに浮かんできたのは、そんな思いだった。
親友に訝しげな声を掛け、その場で立ち止まる。

おとなしい性格をしているのどかは、基本的に物静かだ。
本を読むのが好きで、集中している時などはこちらの呼びかけにも応じない事もある。
だが今、夕映の瞳に映っている彼女からは、そういった静けさを感じ取ることはできなかった。
むしろ、なにか妙な緊張感さえ漂っているように思える。


「・・・・・」


声が聞こえたのだろう。
のどかは伏せていた顔を上げ、ゆっくりと近づいてきた。
こちらに返事をすることもなく、無言のまま夕映の前に立つ。
いつもとは違う雰囲気を漂わせている少女に、夕映は思わずたじろいだ。


「ど、どうしたですか?」


上ずった声がこぼれる。
気圧され、こわばった表情で無理やり笑顔を浮かべた。顔を背けずにいるには注意が必要だった。
それほど今ののどかには表情がない。

数秒ごとに瞬きをしている。小さな呼吸音も聞こえている。
それによってわずかに上下している胸も、観察すればよくわかる。
だがそれでも、ほとんど身動きもせずに、ただ立っている彼女には人形じみた無機質さがあった。


「あ、あの、その、えっと・・・・・そ、そうだ!何か話があるんですよね。
立ち話もなんですし、な、中で話しましょう・・・」


能面のような無表情に耐えられなくなった夕映が、のどかから目を逸らせ、自室の扉に近づく。
挙動不審になりながら、自分でもどんな表情をしているのか分からない中途半端な笑みでドアノブを掴んだ。

・・・その時。

最初に感じたのは首筋を撫でる熱だった。
敏感な部分を刺激され、ビクリと体が上下する。
それが息遣いだと気付いたのは、背後から自分を抱きしめる、のどかの体温を感じ取った直後だった。
嗚咽交じりの、吐息が聞こえてくる。
ギュッと夕映を抱きしめる腕の力を強くし、ぐずる子供が親に甘えるように、額を押し付けていた。


「の、の・・・どか?」


締め付けられて、少しだけ苦しげな声で、のどかの名前を呼ぶ。
それでも彼女は何も答えずに、ただ体を震わせていた。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


いや、ちがう。無言ではない。のどかは何かを言ってる。
あまりに小さな声なので、気が付かなかった。
嗚咽だと勘違いしていたそれは、低い声で何事かを繰り返している彼女の呟きだった。
夕映はその呟きを聞こうと、耳を澄ませた。


「・・・な・い・・んな・・・め・・・・・・・・さ・」


うまく聞き取ることができない。
それほどその囁き声は小さいものだった。
埒が明かない。
そう考えた夕映は、真正面からのどかと向き合うために振り返ろうとした。

・・・だが。

全く体を動かせない。強い力で固定されてしまっている。
もともと10センチ以上の身長差がある二人だったが、のどかはこんなにも力持ちだっただろうか?


「・・・・・・ご・・・・い・・ん・さ・・・・な・・」


夕映が微かな違和感を覚えている間も、彼女の繰り言は変わらずに行われている。
身動き一つできない己の体に内心で舌を打ちながら、夕映は必死になってその言葉を聞き取ろうとした。
途切れ途切れに聞こえてくる文字を注意深く拾い集めながら、頭の中で組み立てていく。
クイズ番組で似たような問題があったな・・・そう思いながらも、夕映の頭は高速に回転し答えを導き出す。
バラバラだった文字は、やがて意味を持つ一つの単語になった。



ごめんなさい




親友は自分の背中に体を預けながら、延々と何かに向けて謝罪の言葉を繰り返していた。


「のどか!どうしたですか?何を、何を謝ってるですか!?」


肌が粟立ち、背筋に悪寒が走る。
夕映は慌ててのどかを問いただした。自分自身にも説明できない不安が脳裏をよぎっていた。


(な・・・んだろう。なにか・・・なにか・・・このままじゃ・・・このままじゃ・・・まずいっ!!)


予感・・・などという生易しいものではない。もっと確信めいたものが、心の奥底を圧迫している。
詳しい話を聞かなければならない。
どれだけのどかが嫌がっても、今この場で今度こそ彼女の話を聞かなければならなかった。


「のどか!のどか!答えてくださいっ!いったい何がっ!!」


じたばたと暴れつつ、自分を拘束するのどかの腕を振りほどこうともがく。
だが、やはりそんな行為は無意味だった。どうしても彼女と向き合うことができない。
まるでそれを彼女自身が望んでいるかのように。


「のどかっ!!お願いです!お願いですからっ!!」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・夕映」


ぽつりとのどかが夕映の名前を呼んだ。


「・・・・・・・・のどか?」


名前を呼ばれ、夕映は暴れるのをやめた。
自分の希望がかなった。そう思ったのだ。今度こそ自分に相談してくれるのだと。
今までのどかが何を悩んでいたのか、夕映は知らない。
でもこれからは違う。どんな悩みを打ち明けられたとしても、夕映は全力でのどかに協力すると決めていた。


「・・・のどか。話してください。何か、何か悩みがあるんですよね?
私、ちゃんと聞きますから。だから・・・」


自身も動揺した心を落ち着かせるために、極力冷静さを意識した声音で話しかける。
幼い子供に言い聞かせるような口調だったが、これは夕映の懇願だった。
すると、その願いに答えるように、重い吐息交じりの震え声が紡ぎだされていく。


「・・・・・・・・・・・ごめん。ごめんね夕映・・・・・わ、私・・・私が悪いの・・・・・。
・・・・・・私のせいで・・・・・こんな・・・・・」


「・・・・・・のどか?」


「・・・全部が手遅れになっちゃった。
・・・そうなる前に何とかしようとしたけど・・・・・・・・・・・・できなかった」


背後ですすり泣く彼女の表情は見えない。
口下手な少女の説明は、全く要領を得るものではなかった。
中途半端で夕映の問いかけにまるで答えようともしていない。
ただ自分の感情の赴くままに語っているかのようだった。


・・・・・・・だが、だからこそそれは、限りなく何の偽りもない、のどかの本心だった。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい・・・・・・私はあなたを助けられなかった。
・・・・・・・・でも・・・だから・・・・だからもう、こうするよりほか・・・・・ない」


どんっ、と体に衝撃が走った。
強い力で突き飛ばされ、数歩ほど前につんのめる。
危うく自室の扉に激突しそうになりながら、夕映は反射的に両手をついて回避した。
それでも完全に勢いを殺すことができずに、肩を扉にぶつけて膝をつく。
のどかの言葉に集中していたために、僅かに反応が遅れた。幸い怪我らしい怪我はなかったが。
その事に安堵の息をつく間もなく、慌てて背後を振り返る。
体勢を立て直した夕映の瞳に映ったのは、すごい速さで走り去っていくのどかの後姿だった。


「のどかっ!!」


その声は悲鳴に等しかった。
大きく口を開き、声帯が引き攣ったような声が、喉の奥から絞り出される。
だがそんな夕映の叫びを無視して、のどかは曲がり角を曲がって見えなくなってしまった。


「くっ!」


足に力を入れ、すぐさま起き上がる。
そして蹴躓き、転びそうになりながら、夕映はのどかの後を追い始めた。
いつもよりも大きな靴音を立てて、廊下を走る。
踊り場へと続く曲がり角でスピードを落とさないように飛び出した。
そのままの勢いで階段を駆け下りようとした夕映だったが、
丁度階段をゆっくりと登ってくる人影が目に移り、慌てて急制動を掛けた。
たたらを踏み、危うく体ごと落下しそうになりながらも、何とか階段の手前でギリギリ踏みとどまる事に成功する。
心臓が飛び出してしまいそうなほど驚いたが、それは階下にいる者も同じだったらしい。
目を丸くしながらこちらを見ている。
学校帰りなのだろう。制服を着たまま学生鞄を肩に担いだ朝倉和美と古菲が口を開いて呆然としていた。


「あっぶないなぁ。どったの?ゆえっち」


「あんまり急ぎすぎると怪我するアルよ?」


下からこちらを見上げ、声を掛けてくる。
同時に夕映の様子がおかしい事にも気が付いたらしい、小さく首をかしげていた。


「あっ、朝倉さん!の、のどか、のどかを見ませんでしたか!?」


暴れるように鼓動を刻む心臓を抑えながら、口早にのどかの行方を問いただす。
もしのどかが階段を通って下に降りたのだとすれば、和美たちが目撃しているはずだった。


「宮崎?ああ、そういえばあっちも何か慌ててたみたいに、走ってったけど・・・」


「どこに行きましたか!?」


「いや、どこって・・・分かんないよ。声かける間もなくすれ違って行ったからさ」


「なかなかの速さだったアルな」


和美が困惑したように返答し、隣にいる古菲が、うんうんと頷きながら感想を口にしていた。


「でも、すれ違ったのは玄関の近くだったから、多分外に行ったんじゃないかな?・・・それより何かあったの?」


必死になってのどかの行方を尋ねる夕映に違和感を覚えたのか、和美が真剣な視線を向けてくる。
夕映は今すぐにでものどかの後を追いたい気持ちを抑えながら、手早く事情を伝えていった。
ここ最近、のどかの様子がおかしかった事。何がしかの悩みを抱えているようなのだが、自分には相談してくれなかった事。
ついさっき自分の部屋の前で、のどかと話した事。その時ののどかはいつもと違い、どこか危なげな雰囲気を持っていた事等。


「とにかく、このままのどかを放っておく事なんてできないです。絶対に見つけなければ・・・」


気がはやり、イライラが抑えきれない様子の夕映が、体を小刻みに動かしつつ、唇を噛む。
こうして話しているだけの時間も、勿体ないとでもいう態度だった。
そんな夕映の姿を見た和美は、一度隣にいる古菲に顔を向けてから、表情を引き締めた。


「・・・分かった。とにかく宮崎を探せばいいってわけね。
緊急事態みたいだし私たちも探すの手伝うよ。くーもいいでしょ?」


「もちろんアル!クラスメイトの危機は見過ごせないアルよ!」


ぶら下げていた鞄を抱えなおした和美と力こぶを作った古菲が、頼もしい声を上げて夕映に協力することを約束した。


「・・・朝倉さん、古菲さん。ありがとうございます!」


「べつにいいよ。それにちょっと気にはなってたんだ。この間ご飯食べた時も、何か様子が変だったし」


小さく手を振り、和美が夕映に頷きかける。
そういえばそんな事があったか・・・・・こくりと頷き返しながら思い出す。
しばらく前、夕映とのどかと和美、そして知り合ったばかりの横島を含めた四人はクラスメイトの屋台で一緒に食事をとった。
他愛のない談笑をしながら、おいしい料理に舌鼓を打っていたのだが、そんな時、唐突にのどかが大きな声をだしたのだ。
あまり男性に免疫があるとは言えないない恥ずかしがり屋ののどかが、
知り合いとはいえ、ほとんど一緒に話した事もない男に自分から声を掛けた事に、和美と夕映は驚いた。
そして、その事を指摘した二人にのどかは動揺し、慌てて逃げるように席を立ってしまった。
結局、それで食事はお開きになり、戸惑った様子の横島をその場に残して、二人はのどかの後を追いかけた。
その後、何とかのどかに追いついた夕映達だったが、どうかしたのかと尋ねても、彼女は何も答えず愛想笑いをするだけだった。

夕映はその時のことを思い出し、眉をひそめた。
言われてみれば、確かにあの時ののどかの態度はおかしかった。
他人と距離をとるとか、それを誤魔化すために愛想笑いを浮かべるとかではなく、もっとわかりやすい差異だ。
そういえばあの時、のどかは何と言ったのだったか・・・。たしか和美と横島が何かを話していたのだ。
仕事で海外に行ったとか、そんな話をしていたように思う。
それ自体は別に不審な話題でもなんでもない・・・・・はずだ。だが、その話題にのどかは反応した。いったいなんでだろう。


「それでゆえっち。どこから探す?外に出てるなら、心当たりでもないと見つからないんじゃない?」


難しい顔でむっつりと押し黙って考え込んだ夕映に、和美が声を掛けてきた。
夕映はその言葉にハッとした様子で顔を上げた。
今はおとなしく考え事をしている場合ではないのだ。気にはなるが、そんな事は後回しにして、のどかを探しに行かなければならない。
頭の中でのどかが行きそうな場所を検索する。彼女は、どちらかといえば人気があまりない静かな場所を好む。
そんな場所で本を読むのがお気に入りらしい。だが今、外は結構な勢いで雨が降っている。
屋外の施設は軒並み使えない状態だろうし、雨を避けるために屋内にいると考えるのが自然だ。
だが、普段の様子から、雨の日にわざわざ外に出て何かをするのどかというのが、なかなか想像できない。
そもそも、それほど活動的な性格ではない彼女は、一人で外出する事自体があまりない。
たいていは自分か、ハルナ、あるいは部活つながりで木乃香などと一緒にいることがほとんどだ。
しかもさっきののどかは精神状態が不安定だった。普段通りならばともかく、今の彼女がいそうな場所の予測を立てる事は難しい。
次々と候補が浮かんでは消えていく。


「・・・・・・・すみません。
よく二人で利用する公園とかカフェなら浮かんでくるんですが、あんな状態ののどかがいそうな場所となると・・・」


「分からないか・・・。まぁ、それじゃ手当たり次第に探すしかないかね」


「はい。・・・あの、朝倉さんと古菲さんは寮の近くを探してくれませんか?私は一応図書館島に行ってみようと思います」


「なるほど、本屋だもんねぇ。図書館探検部繋がりか・・・」


「はい。部活でよく行く場所に行ってみようかと」


「OK。それじゃ手分けするとしますか!っと、そうだゆえっち、一応宮崎の携帯にかけてみなよ。
聞いた様子じゃ、でてくれるかはわからないけどさ・・・」


和美に言われてそんな事に気が付いた。
慌てて携帯電話を取り出し、のどかの番号をコールする。
しかし、十回ほど呼び出し音が鳴っても、のどかが電話に出る気配はなかった。


「・・・・・ダメみたいです」


「う~ん。一応定期的にかけ直してみなよ。着信に気が付いてないだけかもしれないし」


「・・・はい」


小さく嘆息しながら夕映は携帯電話を仕舞った。
それから三人は、時間を決めて連絡を取り合うことにし、寮を飛び出した。
打ち合わせ通り、和美と古菲に寮や学校周辺の探索を任せ、夕映は図書館島へと一直線に向かった。
小さなコンパスを懸命に動かし、息を切らせながら、歩道を疾走する。
走り始めて気付いたが、この大雨の中で全力疾走すれば、ほとんど傘が役に立たない。
前から降ってくる雨水が制服を濡らしていく。肌に張り付き、動きを阻害する。
走る分には大して問題ではないが、それでも微かな違和感が、夕映をイラつかせた。
靴の中はとっくに水が染み込んで、不快な感触が足裏に伝わっていた。
びしゃびしゃと音を立てながら、大きめの水たまりをやけくそ気味に踏み抜く。
広範囲に水滴が飛び散り、歩道の脇に植えてある紫陽花の葉が微かに揺れていた。


「はぁ、はぁ、はぁ」


周りはこれだけ湿気であふれているというのに、喉がヒリついて水分がほしくなる。
肺が酸素を希求し、横っ腹が痛み始めた。それでも速度を落とすことをせずに足を交互に動かす。

夕映は顔を歪めながら、あまり知られていない図書館島への近道を使うべく、大通りから脇道へとそれた。
この道は図書館探検部の活動中に、みんなで発見した道だった。
狭い路地に入るため邪魔になった傘は、結局折りたたまれて、今は何の役にも立っていない。
心持ち勢いを増して感じられる雨を、片手で作った日差しで遮る。
顔中を濡らす雨水に目を細めながら、夕映は慎重に、それでもなるべく急ぎ足で進んでいった。

・・・・・そして。

唐突に、あまりに突然に、夕映はのどかを見つけた。
左右を壁に囲まれ、大人三人が横に並べば、それだけでいっぱいになってしまうような、狭い道幅。
その道の真ん中で、のどかは夕映に背中を向けて佇んでいた。


「のどかっ!!」


雨音にかき消されないように、大声を上げる。
吹き付けてくる風と共に、まつ毛にたまった水滴が目に入ってきたため、瞬きする。
一度、二度、三度。そのたびに視界から消える彼女は、それでもいなくなる事なく夕映の目の前に存在していた。


「よ、よかった。・・・いてくれた」


安堵のあまり、疲労していた足の力が抜けて、その場で屈みこみそうになる。
無意識のうちに力が緩んでいたのだろう、握っていた安っぽいビニール傘が、パシャリと音を立てて倒れた。
そんな事にも気が付かず、夕映はのどかの元に駆け出した。覚束ない足取りで転ばないように注意しながら、彼女の前に立つ。


「の、のどか、はぁ、はぁ、ご、ごめんなさい。
のどかの事は心配ですけど、もう無理やり聞き出そうなんてしませんから、
だから、だからもう逃げないでください。お願いしますから・・・・・・・」


とりあえず、のどかを落ち着かせる事が先決だと、自分の感情を一時封印して謝罪する。
本当は・・・今でも彼女が直面しているであろう深刻な事態を、一刻も早く把握すべきだと思っている。
だが先程の様子から、のどかが素直に事情を話してくれるとは思えなかった。
ならばいったんこちらから引いてみる必要がある。
夕映はそう考えながら、声を掛けても振り返ろうとしないのどかの肩に手を置いた。


そして、そのまま彼女に触れたその手は、肩を通り越し、ずぶずぶと背中までめり込んだ。


夕映がふれている部分から、のどかの輪郭が形を失う。
不定形に揺らめくそれは、前にテレビで見た、無重力中の水の塊のようだった。
彼女の着ている制服、いや、露出している顔、首、腕、手、太もも、ふくらはぎ、人体までもが色を無くし、透明になる。
水桶に手を沈めたように波紋を作っていた。そう、のどかを形成している全てが、何もかも変質してしまっている。
そして次の瞬間、彼女の身体が一斉に”はじけた”。


「ひっっ!!!」


全身に鳥肌が立つと同時に、引き攣った声で悲鳴が上がる。
いや、それはもはや声でさえなかった。
驚きのあまり肺から絞り出された空気が、痙攣した喉を通って口から出てきたに過ぎない。
硬直した体、そして一切の役目を放棄した思考は、全く働こうとせず、逃げることも思いつかなかった。
彫像のように固まってしまった夕映に、うねうねと形容しがたい動きをしている水の塊が、
無理やり顔らしきものを作り、にやりと笑う。


「・・・・・・自分から人気のない所に来てくれてありがとうございマス。
それでは、パーティー会場までご案内しますネ」


その部分だけは、童女のように愛らしいまま、それは夕映を覆い尽くした。
暗転した視界。動かない身体。真っ白な思考。それらがすべて水流に流される。
意識を失うその前に、夕映がやっと思いつくことができたのは、この中でも呼吸をする事はできるのだろうかといった、
そんな、あまりに場違いな、くだらない考えだった。

・・・そして。

とぷん。

何かが沈み込んだ小さな水音と共に、その場所から誰もいなくなった。




◇◆◇




・・・半ば夢のような微睡に包まれている。
覚醒しきれていない意識は、ふわふわと浮いているようで心地いいが、その分不安定だ。
今自分がいるのは夢なのか、それとも現実なのか、そんな事を考えながら小さく声を上げる。


「・・・・・う」


頭も体も鉛のように重い。どちらもまともに働きそうもなかった。
関節の節々から鈍痛を感じる。まるで体中が錆びついて、ギシギシと音を立てているかのようだった。
目蓋を開くのも億劫だ。だがそれでも、目を開けなければならない。夢と現実、その狭間から抜け出さなければ。
瞳の表面に油膜が張り付けられているのかと勘違いするくらいに、視界はぼやけてしまっている。
かすんで見える光景では、見えている物が何なのかもうまく理解できなかった。
何度も瞬きを繰り返す。そうしているうちにようやく、まともに周りが見えるようになってきた。
同時に休暇中だった頭が、職場復帰を果たす。意識を失っていた直後なので、寝起きのように鈍かったが。
それでも、とりあえず自分の今の状況を把握しようと、上体を起こす。
うまく力の入らない身体で何とか起き上がり、きょろきょろと周囲を見渡した。


「あっ、起きたアル」


心なしか痛む頭を抱えながら、声の聞こえた方を振り向く。
するとそこには、見知ったクラスメイトが心配そうにこちらを見ていた。


「やっとお目覚め?まったく、何度も呼んだのに全然起きないから心配したよ」


「あ・・さくら・・さん。くー・・ふぇー・・・さん・・も」


うまく口が回らない。舌足らずな口調で、話しかけたことに、僅かに頬が紅潮する。
そんな自分の様子を見て、和美が呆れたようにやれやれと首を振っている。
それでも夕映が目覚めたことに安堵したのだろう。
表情が和らいで見える。
寝ぼけ眼で目尻を擦っている自分に声を掛けてきたのは、寮を出るときに別れた朝倉和美と古菲だった。


「おーい、綾瀬が起きたよ」


和美が近くにいるもう一人の人物に声を掛ける。


「えっ、あっ!ホンマや。も~心配してたんよ。夕映」


「え?・・・木乃香さん?なんで?それにあっちにいるのは明日菜さんと・・・」


自分たちと少しだけ離れた場所で、なぜか下着姿のまま拘束されている明日菜に視線を向ける。
どうも気を失っているようだ。天井から垂れ下がったひも状の何かに両腕を吊るされ、ぐったりとしている。
その背後には、両手を後ろ側で縛られている桜咲刹那がいた。明日菜と同じく意識を失っているのか両目を閉じている。
そして、不思議なことに・・・本当に奇妙な事に、なぜか彼女は宙に浮いていた。
いつか見たイリュージョンのごとく、支えもなしに重力にケンカを売っている。
何かの見間違いかと夕映は両目を擦った。しかし現実に彼女はふわふわとその場に浮かんでいる。

そんな馬鹿なと思いながら、もう一度よく観察してみる。すると、どうも空中に浮かんでいるわけではないようだ。
何と言うか、例えるならプールの中でプカプカと浮かんでいるときに近い。彼女は水の中にいるようだった。
なんだそういう事かと納得して頷いた夕映だったが、次の瞬間ハッと息をのんだ。


(水中?水の中?そんな場所に長時間いたら・・・)


もし・・・・・もし自分が意識を失っている間もあの状態だったのだとしたら・・・。
ぞっとしながら、慌てて彼女の元まで駆け寄ろうとする。
そして、自分たちもまた、得体のしれない何かによって囚われている事に気が付いた。

見た目はプールの底から水面を仰ぎ見ているようだ。透明でありながら、光の加減でゆらゆらと風景を歪めている。
形は夕映達を囲むようなドーム状のもので、ありのままを簡潔に言ってしまえば、
天井を含めた四方を、水でできた壁のようなものに囲まれている。
それは見るからに異常な光景だった。
一見すると何かのアトラクションのようでもあったが、ガラスで覆われているわけでもないのに、水が重力に逆らって檻を作っている。
警戒心が刺激されたが、興味が先に立って、夕映はその水の壁にそっと触れてみた。
冷たい。肌を刺すほどとは言えないが、少なくとも常温ではある。
しかし感触は明らかに違っていた。ブヨブヨと弾力性があって、それなりの厚みがあることもわかる。ゴムの感触に近いかもしれない。
ためしに力いっぱい叩いてみたが、結果は予想通りで、素手で叩いた程度ではどうしようもなさそうだ。


(・・・・・もしかして)


夕映は刹那に注意を戻した。
自分たちが囚われている場所は、確かに水中のようであったが、少なくとも正常に呼吸はできている。息苦しいという事もない。
だったら、似たような場所にいる刹那は・・・・・。そう思い、もう一度彼女の様子を調べることにした。
一定の間隔で、胸が上下している。苦しそうにしている様子もない。
顔色が悪くなっているというわけでもないし、寝顔も穏やかなものだ。
どういう原理かさっぱりわからないが、一応あの中でもまともに呼吸は可能らしい。
ほっと安堵の息をつく。どうやら刹那は無事なようだった。

ふと気になり、木乃香に視線を向ける。考えてみれば親友である彼女が落ち着いているのだ。
そうそうめったな事になっているはずがなかった。

なんだか異様に疲れた。そう思いながら、そっとため息をこぼして、周囲を見渡す。
そこで、ようやくここはどこなんだろうという疑問が芽生えた。なにか劇場の舞台のような場所に自分たちはいる。
夕映たちがいる場所を中心として、扇状に広がった客席が囲むようにして設置されている。
頭上では複数の鉄骨が複雑に組み合わさり、要所要所に照明器具が取り付けられていた。
いや、普通に外の景色が見えているという事は、劇場というよりは野外コンサートのそれが近いのだろうか。
うろ覚えだが・・・・・学園祭で使う予定のステージが確かこんな感じだった気がする。


「あの皆さんは何でここに?私は?」


「いや~、私たちもよく分かんないんだけどさ。くーと一緒に宮崎を探してたらいきなりへんなのに・・。
っと、そうだ。ゆえっち!宮崎もここにいるんだよ!」


「えっ!!」


首をかしげながら事情を話そうとしていた和美が、慌てて何かに気が付いた様子で夕映を手招きする。
彼女たちの体に隠れて気が付かなかったが、もう一人誰かがそこにいるようだ。
和美の言葉に導かれ、夕映はいまだにうまく動かない体で、彼女が示す場所に視線を向けた。
小さく体を折りたたんで膝を抱えながら、誰かがこちらに背を向けて座り込んでいる。
後ろ向きでもすぐにわかるその姿は、和美の言うとおり、夕映の親友である宮崎のどかだった。

彼女の姿が目に入った瞬間、状況が理解できないまま、無意識のうち体が動いた。
膝立ちのまま彼女の元まで這いずるように進む。
そして背後から肩をつかもうと腕を上げたところで・・・夕映はぴたりと動きを止めた。


「・・・・・・本当にのどかですか?」


恐る恐るといった様子で声を掛ける。
ようやく普段通りに頭が働きだしていた。意識を失う直前の記憶が脳内で再生される。


「ははっ。ゆえっちもやられたのか」


隣でそれを見ていた和美が、片目を瞑った半笑いで、こめかみを掻いている。
台詞から察すると、彼女も夕映と同じように何者かに騙されたようだ。


「大丈夫だと思うよ。一応ちゃんと触れるし・・・まぁ、いくら呼んでも全然返事してくれないんだけどさ」


「のどか・・・どうしたんやろ?」


どうも夕映が起きる前から、何度かのどかに声を掛けていたようだ。
胸の前で両手を組んだ木乃香が、心配そうに目じりを下げている。
木乃香はのどかと比較的仲のいい友達でもあった。図書館探検部として部活でも、夕映やのどか、ハルナと一緒に活動している。
だからもちろん木乃香も、ここ最近のどかの様子がおかしかった事に気が付いていた。
気遣うように、夕映とのどかを交互に見ている。


「のどか?」


夕映が遠慮がちに声を掛けた。皆と顔を合わせないように背を向けているのどかに近づく。
そして彼女の顔を覗き込んで・・・・・言葉を失った。あの時、自分の部屋の前で話した時と全く同じ無表情だ。
虚ろに開かれた瞳は、まるで焦点が合っていないかのように、遠くを見つめている。
目の周りが落ちくぼんだように見えるのは、黒いクマができているせいだろうか。
荒れた肌や、かさついた唇からも、満足な睡眠がとれていないのだろうと推察できた。

・・・こんな、こんな状態だったのか。夕映は絶句したまま後ずさる。これではまるで病人のようではないか。
まともに食事もとっていないのかもしれない。雨に濡れて張り付いた制服姿は体のラインを強調させている。
彼女は少しだけ痩せたように見えた。

・・・・・もっと、もっと早く彼女と話しておくべきだったと夕映は後悔した。
放っておいてくれという、のどかの言葉を真に受けて、彼女を一人にした。素直に従うべきではなかったのだ。
たとえ嫌われたとしても、強引に彼女と一緒にいるべきだった。
のどかの様子がおかしかった事は、とっくに気づいていたというのに・・・。
唇を噛みながら俯いた夕映を和美たちが心配そうに見つめていた。
自己嫌悪に押しつぶされそうだったが、今はそんな場合ではないと思い直す。


「・・・あの、誰か今の状況を詳しく説明できる人はいるですか?
私の場合、突然何かに襲われて意識を失ってしまったので、ほとんど状況がつかめなくて」


とにかく現状を把握しようと、夕映はのどかの背中を優しく撫でながら、クラスメイト達に尋ねた。
のどかの様子は気になるが、今は一刻も早く彼女を温かい場所に連れて行きたい。
夕映自身もそうであるが、雨に濡れた制服が肌に張り付いて気持ちが悪いのだ。
それに生乾きのままでは体温が奪われてしまう。時期的にいくら暖かくなってきたとはいえ、この雨では気温もそう高いものではない。
このままでは風邪をひいてしまうだろう。ただでさえのどかの体調はあまり良いとは言えないのだ。


「う~ん。さっき言いかけたけど私らも同じだよ。なんか水みたいな変なのに騙されてさぁ」


「うー。面目ないアル」


「あっ、ウチも同じや。明日菜と一緒にいた時にぐわわーって」


どうやら夕映のように、皆同じ何かに襲われてここに連れてこられたようだ。
あの時は一瞬の出来事だったので、あまりよく覚えていないのだが、とにかく言えるのは、自分を襲ったあの・・・生物?
よく分からないが、あれがまともなものではないという事だろう。
人間に擬態し、言葉を話す水のような軟体生物など見たことも聞いたこともない。
となればだ・・・・・連想されるのは、あの京都での夜。この非日常に足を踏み入れたような感覚はあれに近い。
また魔法関係のいざこざだろうか。それに巻き込まれたという事か?
だが、もしそうだとしても、どうして魔法使いでもなんでもない自分たちが狙われたのだろうか?
いくつかの疑問が頭をよぎり、顎に手を当て思い悩んでいると、唐突にこちらをからかうような声が聞こえてきた。


「お前らは単なる人質だよ。ネギっつーガキをおびき寄せるためのな」


夕映が声の聞こえた方向を振り返ると、そこにはよくできた人形のように愛らしい姿の小さな子供が、
顔に全く似合わないいやらしい笑いを貼り付けて、にやにやとこちらを見つめていた。


「まぁ、これも魔法使いに関わったが故の不幸だと思ってほしいデスゥ」


二人目、いや三人目も一緒に現れる。
屈託のない笑顔を向けながら声を掛けてきたのは、夕映が意識を失う直前に見たあの幼い女の子だった。
猫の耳のように両端が尖った特徴的な帽子をかぶり、メガネをかけている。
無表情で明後日の方向を向きながらぼーっとしている、異様に髪の長い三人目の手を引っ張っていた。


「ネギ先生に対する人質?・・・・・どういう事ですか?」


「どういう事も何もそのままさ。あそこにいるおっさんが立てた作戦に巻き込まれたんだよ」


髪を両サイドで縛った生意気そうな娘が明日菜がいる方を指さす。
するといつの間に現れたのか、そこには黒コートに黒い帽子の老紳士が、見知った少女を抱えて佇んでいた。


「あれは・・・那波さん?」


季節外れの格好をした老紳士に抱えられて現れたのは、クラスメイトの那波千鶴だった。
脱力した両腕は、腰まである長い髪と同じく、だらりと垂れさがっている。両目を閉じて意識を失っているようだ。
何となく直視しがたい胸は、規則正しく上下しているので、本当に眠っているだけなのだろうが。
老紳士は三人娘に何かを命じて、夕映達を閉じ込めている物と同じ水牢を作らせ、
その中に千鶴を入れると、落ち着いた足取りで、こちらに近づいてきた。


「やぁ、お嬢さん方。不自由な思いをさせてすまないね」


好々爺然とした、柔和な笑顔・・・あるいは裏表を含んだ詐欺師の仮面だろうか。
かぶっていた帽子を脱ぎ、その老人は笑っている。あの小さな誘拐犯たちの言葉が本当なら、
おそらく彼こそがこの状況を作った張本人なのだろう。否応なしに心拍数が上がり、緊張で顔がこわばる。
夕映はごくりと唾を飲み込んだ。とにかくファーストコンタクトを試みるべきだ。少なくとも外見上は話が通じるタイプに見える。


「あの、あなたは誰ですか?なぜこんなことを・・・」


「ふむ・・・私はヘルマンという。昔は伯爵などと言われていたが、今はしがない雇われの身でね。
まぁ、ちょっとした調査依頼を受けて、この麻帆良に来たのだが・・・。っと、お姫様がお目覚めのようだ」


ヘルマンと名乗った老人の背後で、微かな声が聞こえた。身じろぎのたびに両腕を縛る拘束が音を立てずに揺れている。
閉じていた目を半分ほど開き、寝起き特有の聞き取りずらい言葉で小さく呻いていた。
どうやら明日菜が目を覚ましたようだ。ぼんやりとした表情で周りを見渡しながら、首をひねっている。
一度目をぱちくりとさせてから、困惑の表情で今度は自分が置かれている状況を確認しようとして・・・。


「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!」


当然のように甲高い悲鳴が上がった。とっさに体を隠そうとしたのか、両腕を動かそうとして、拘束に阻まれている。
力を入れるたびに体が回転し胸が上下する。下着姿と相まって何というか・・・・・妙に扇情的ですらある動きだ。


「な、なによこれっ!何でこんな恰好で!!」


「はっはっは。これは元気なお嬢さんだ。初めまして、神楽坂明日菜君。
囚われのお姫様が味気ない姿ではどうかと思ってね。
本当は君に似合うドレスを用意したかったのだが、まぁその姿もなかなかに似合っているし・・・・・」


「黙れこの変質者ーーーーーーっ!!」


何やら得意顔で説明しだしたヘルマンに、強烈なキックがお見舞いされる。
身長差を物ともしないで放たれたその蹴りの軌道は、美しい弧を描いて、彼の顎に吸い込まれていった。
おぶぅっ!、という風船の空気が抜けていくような濁音を発しながら、ヘルマンの首が背後にまわる。
彼は鼻から赤く切ない液体を噴出しながら、それでもなんとか笑顔を維持していた。・・・若干引きつってはいたが。


「あんたいったい誰よっ!何のつもりか知らないけど、とっととこの・・縄?
よく分からないけど、放しなさいよ!警察に突き出してやるから!」


「う、うむ。すまないがそれはできない。まだネギ君が到着していないのでね」


「ネギ?・・・えっ、ネギがどうしたって」


「明日菜ーーーっ!こっちこっち」


ヘルマンの言葉を聞きとがめ、険しい表情で問い返した明日菜に木乃香が声を掛けた。
周りを囲む水の壁を、両手で叩きながら、大きな声で呼びかけている。
この水壁は物理的な力をある程度遮断しているようだが、防音性はそれほど高くない。
木乃香の呼び声が聞こえたのか、明日菜が首だけを動かして、夕映達の方に視線を向けた。


「み、みんな!なんでここに」


「彼女たちはネギ君をここに呼ぶための人質として招待させてもらった」


ヘルマンが、強烈な蹴りで脱げてしまっていた帽子を深くかぶり直し、表情を隠しながら落ち着いた声音で説明する。


「人質って、なんでそんな・・・。あんたいったい何者なの?何が目的っ!?」


「それは・・・・・・・」


ヘルマンが真剣な表情で何事かを話そうとしたその時、薄暗い空が眩く光った。
上空から撃ち込まれた幾条もの光が、彼自身に突き刺さらんと雨風を巻き込みながら直進してくる。
黒を塗りつぶしていく純白のエネルギーは、しかしその役目を果たすことなく、標的に着弾する寸前あっけなく霧消した。


「あぅ」


小さな悲鳴が上がる。僅かな痛みを感じた明日菜が身をよじるようにして視線を下げた。
彼女の胸元、その場所に自身も身に覚えのない、ネックレスが掛けられている。
首筋を流れる細身の鎖は、繊細にして緻密な細工を施された装飾に繋がり、中央にある宝石が淡い光を放っていた。


「ふむ、上出来だ」


それを眺めていたヘルマンが、実験結果に満足した観察者のように、こくりと一つ頷いた。
そのまま視線を空から降りてきた少年達に向ける。舞台を囲む客席の入口に二人の少年が立っている。
一人は身の丈よりも長い木製の杖を槍のように突き出し、真剣な色を浮かべた瞳を今は険しくさせていた。
もう一人も同じような年齢の少年だ。些か量の多い髪がつんつんとはねていて、どことなくやんちゃな印象を与える。
そしてその隙間から、何故か獣の耳のようなものがピョコンと飛び出していた。
アクセサリーの類ではないのか、時折ぴくりと動いている。こちらの少年も表情を険しくしながら前方を睨み付けていた。


「みなさん、無事ですかっ!!」


「約束通り来てやったでおっさん!!」


そこに現れたのは、夕映や明日菜たちの担任教師でもあるネギ・スプリングフィールドと、京都で知り合った犬上小太郎だった。


「ネギ!」


「あっ、おーいネギくーん!」


ネギの姿を見つけたクラスメイト達が次々と大きな声を上げる。
両手をぶんぶんと振りながら、自分たちの存在をアピールしていた。
夕映はそんなクラスメイト達の様子を尻目に、目線を落とした。
自分の足元で虚ろな瞳のまま、膝を抱えて少しも動こうとしない親友を見つめる。
彼女の背中に軽く触れながら、目を伏せる。ほんの少し期待してしまっていたのだ。
のどかの思い人であるネギになら、彼女は何らかの反応をするのではないかと。
夕映はのどかの背中を温めるように優しく撫でながら、ネギたちの方に視線を戻した。


「何でこんなことをするんですかっ!あなたは一体」


「私の目的について語るなら・・・・・」


自分の生徒たちに視線を向けて、その姿から無事だという事を察したネギが少しだけ口元を和らげた。
それでも、すぐに元の表情を取り戻し、ヘルマンに向けて真意を問いただそうとする。
その言葉を半ば遮るように、冷たく硬い調子の声が聞こえてきた。


「それは単純なものだよ。言ってしまえば、この麻帆良の調査だ。だが・・・」


こきりと首の関節を鳴らしながら、自身の顎髭をしごいている。
ネギの瞳を見返しながら、ヘルマンは意味ありげに口元を釣り上げた。そのまま告げる。


「だがまぁ、本音を言えばそちらにはあまり興味がなくてね。だから君達の方を優先させてもらった」


「どういう事ですか・・・?」


「依頼内容の中には君と、そこにいる神楽坂明日菜君の事も含まれていてね。
君たち二人がどの程度の脅威になるか調べてこいと・・・まぁそんな内容だ」


「・・・・・なんでそんな事、いったい誰が」


「依頼主に関して話すことは何もないな。
・・・あぁ、先に言っておくと君の生徒たちにはこれ以上何かするつもりはないよ。
あくまで君をここに連れてくる事と、他の者達に邪魔されないための措置だからね」


「・・・それなら、みんなを解放してください」


「それはできない」


簡潔にただそれだけを告げて、ヘルマンはわずかに腰を落とした。半身の体に拳を隠し、重心を前方に移動させる。
幾度か手袋の感触を手に馴染ませるように開閉しながら、瞳の色を薄くさせ、感情が凍りついたように表情を消した。


「彼女たちを助けたいなら、私を倒すことだ。言ったろう、君の力が知りたいのだと・・・」


ネギは明確な戦闘態勢に入ったヘルマンの姿を見て、顔をこわばらせた。
額に汗がにじみ、息遣いが変わる。実戦の空気が漂い始めるにつれて、否応なしにネギの表情も引き締まっていく。
緊張しているのか何度も唾を飲み込むように口元を動かし、それでも決意したのだろう。彼はこくりと頷いた。


「分かりました。お相手します」


「それでいい」


長大な杖を脇に抱え、ネギが身構える。つま先を相手の方向に向け、足元を確かめるようにギュッと靴音を鳴らした。
そのまま、舞台の中央にいるヘルマン目掛けて突撃しようとした彼だったが、目の前の小さな背中がそれをさせなかった。


「いや、俺の方が先約や。散々殴られたからな。倍返しにせんと・・気が済まん!」


尖った犬歯をむき出しにし、不敵な笑みを浮かべた小太郎が、指を鳴らしながら階下を見下ろす。
そして突然現れた背中に目を丸くしたネギに、有無も言わせず駆け出して行った。
四段跳びで階段を下りながら、背後にいる彼に向かって、声を掛ける。


「ネギ!わかっとるな!」


鋭く投げかけられた言葉にネギがハッとした様子で身動ぎする。
確認するように背後に隠してあった物を握りしめながら、先行した小太郎に追随した。
雨が降っているために滑りやすくなっている地面を注意しながら踏みしめ、呪文を唱える。
小声で呟くように発せられた言葉が意味を持ち、それに込められた意思が現実となる。
バチバチと帯電しながら空気を震わせ、術者の魔力が形を変えて、思うままに暴れだそうとしていた。


「小太郎君!」


発射タイミングを意図的に遅らせて待機させた魔法を右手に宿らせ、ネギはすでに戦闘を始めた小太郎に合図を送った。
こちらの意図を理解したのだろう。張り付くように近接戦闘を行っていた小太郎が距離をとる。
明日菜たちがいる舞台中央で、動きを封じられていたヘルマンがネギに視線を向けた。
その顔を真っ向から見返しながら、力ある言葉の最後を紡ぐ。


「白き雷っ!!」


短く吐かれた呼気と共に、純白の稲妻が解き放たれた。波打つように発せられたそれは、見る者の網膜に鮮やかな軌跡を残す。
空気中でも全く減衰することなく直進し、標的を貫かんと牙をむいた。
・・・だが。
先程、空中で奇襲を仕掛けた時と同じく、ネギの魔法は見えない何かに衝突したように、あっさりとかき消されてしまった。


「また、なんでっ!?」


「アホっ!ぼーっとしてんな!」


雷の閃光に目を灼かれないために、腕で顔をかばっていた小太郎が、消滅した魔法の後を埋めるため、再びヘルマンへと対峙する。
限界近くまで身を沈めて接近し、ほとんど四つん這いの姿勢から掌底を放つ。
全身のばねを使い、浮き上がるようにして打ち込んだそれは、威力を期待してのものではない。
絶望的なまでの身長差があるため、効果的な部位に、直接打撃を当てることは難しい。だからこれは単なるけん制だった。
防ぎにくい下側からの攻撃で、両腕を使わせるための・・・。
鳩尾を狙ったそれを防ぐため、ヘルマンが交差するように腕を使ってその打撃を防御した。硬い感触が掌に伝わってくる。
舞踏会で踊るパートナーのように接近した二人は、互いの腕で、一瞬視界がふさがれる。
その瞬間を待っていた小太郎が、接触していた袖口をぐいっと掴みながら、ぶら下がるようにして体重を掛けた。
そして飛び出した勢いを利用し、つかまったままの腕を支えに相手の股下をするりと通り抜ける。
背後に回り込んだ小太郎は、背中を向けあった姿勢で、そのまま足を使って相手の膝裏を蹴り抜いた。
さすがにそんな動きは予想できなかったのか、ヘルマンは驚いて目を見開いたまま、がくりと膝をつく。


「いまやっ!ネギ!」


してやったりと会心の笑みを浮かべながら叫んだ小太郎に答えるようにして、ネギが背後に隠し持っていた瓶のふたを開ける。
表面に五芒星が描かれたそれは、もちろんただの瓶ではなかった。早口に唱えた呪文に呼応して、瓶に込められた魔法が発動する。
一瞬にして空中に魔方陣が展開し、まばゆい光を放つ。それはそのまま標的を吸い込もうと鈍い音を立てながら振動し、
そして・・・・・


「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


苦悶の声を上げる明日菜の悲鳴と共に、発動しかけた魔法が霧散する。
触媒となった瓶本体は重力に従い地面へと落下して、空間に投影された魔法陣は光の残滓すら残さず消え失せた。


「言い忘れていたが・・・・・」


その様子を確認し、ヘルマンがゆっくりと立ち上がった。
驚愕の抜けきっていないネギにポツリと告げる。


「そこにいる明日菜君の魔法無効化能力は、こちらが利用させてもらっている。
放出系の魔法は通じないと考えた方がいい。まだ、試してみるかね?」


「くっ」


思わず言い返そうとした言葉を飲み込み、ネギが悔しそうに歯噛みした。


「だが、気をつけたまえ。その力が強力であるほど彼女に負担がかかる」


ヘルマンがネギから視線を外し隣を見る。
ネギが誘導されるように視線を向けたその先で、両腕を釣り上げられた明日菜が苦しそうに息を荒げていた。


「明日菜さん!!」


白い肌に玉のような汗を浮かべ、顔をしかめながら苦痛に耐えている。
微弱に震えた唇から小さな呻き声がこぼれた。心配そうに名前を呼ぶ声が聞こえたのだろう。
彼女はそれでも気丈に頷き、片目を瞑りウインクしながら答えた。


「だ、大丈夫。こっちの事は気にしなくていいから・・・」


明らかに強がりだと分かる。
痛みを堪え、喘ぎながら何とか言葉を紡いでいる様子だ。全く平気そうには見えない。
ネギが何も言えずに明日菜に向かって気遣わしげな視線を送っていると、その姿を隠すようにヘルマンが彼女の前に立った。


「状況は理解したかね。ならばあとは・・・拳で語り合うとしようか」


黒い手袋をはめなおしながら、ヘルマンはネギ達に鋭い視線を向けた。









[40420] 17
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:00e7dda1
Date: 2015/06/27 21:09

「あーあー。はりきっちゃってまぁ」


欠伸しながら呑気に観戦していたヘルマンの部下の一人(仲間からは、すらむぃと呼ばれている)が、呆れたように呟く。
小さな手を使って耳の後ろを掻きつつ、眠そうな半眼で主人が戦っている姿を眺めている。
ポップコーンを齧りながら退屈な映画でも見ているように、やる気のない態度だった。


「おいおい、手からビームみたいのまで出しちゃったよ。ガキ相手に大人げねーなー。そう思わないか?」


夕映は先程から何かと話しかけてくるその人物に苛立たしげな視線を向けた。
戦闘が始まり、担任教師の奮闘をハラハラしながら見つめている時も、
この小さな子供は、どうでもいい事を延々とベラベラ喋り続けていた。
新製品のクッキーが粉っぽくて好きになれないだの、今朝見かけた猫の柄がすぐそこの看板の色に似ているだの、
こちらの都合などお構いなしに、自分勝手に言葉を投げかけてくる。
最初の方はおざなりにでも相槌を打っていたのだが、いい加減我慢ならなくなったのか、誰も相手にしなくなった。
それは夕映達人質どころか、彼女の仲間達にさえいえる事で、
誰からも無視されているにも関わらず、そんな事など気にも留めていない様子で小さな口を動かし続けている。


「なぁなぁ、そこのちびちゃん」


そんな彼女に手招きしながら声を掛けたのは、今も戦っている最中のネギ達を心配そうに見守っていた木乃香だった。
水牢の壁に手をつきながら、膝立ちになって顔を覗き込んでいる。


「ウチらをここから出してくれへん?」


「あん?」


眉をへの字にして頼んでいる木乃香に、あからさまな侮蔑の視線を投げかけ、すらむぃが小さく鼻を鳴らす。
顔を隣にいるメガネ帽子の女の子(あめ子と言ったか)に向け、どーする?と視線で問いかけた。


「ダメに決まってマス。あなた達は人質なんですカラ」


無表情で先程から一言も言葉を発しない娘
(ぷりんと呼ばれているのは名前なのだろうか)の長い髪に触れながら、あめ子が呆れたように答えた。
彼女も退屈なのかもしれない。
身長を遥かに超えて地面に垂れ下がってしまっているぷりんの髪を、三つ編みにしたり、ポニーテールにしてみたりと、
本人が何も言わないのをいい事にいろいろと弄んでいた。


「一応言っておくと、その水牢はちょっとやそっとの事では破れませんヨ。強力な魔法でも使わない限りはネ」


「だってよ。まぁ、おっさんはこれ以上あんた達には手を出さないって言ってんだ。おとなしくしてなよ・・・」


後ろ頭で腕を組んだすらむぃが、気楽な様子で投げやりに答える。
そして、いい加減喋ることもなくなったのか、あめ子と共にぷりんの髪を弄り始めた。
三つ編みのやり方を聞きながら、難しい顔で不器用に短い指を操っている。

結局できる事など何もないのかもしれない・・・。
夕映は顔を伏せて、ギュッと拳を握りしめた。もやもやとした形容しがたい熱さが胸の内にあふれてくる。
思わず爪を噛んでやりたいくらいに口惜しい気持ちで一杯になった。
なすすべなく捕らえられ、人質として利用されている今の状況。
自分の見通しが甘かったせいで、親友をここまで追い詰めてしまった事も含めて、あまりの無力感に泣きたくなる。

夕映は目を瞑り、大げさな動作で深呼吸して、限界まで肺に空気をため込んだ。
そしてそのまま息を止める。一秒、二秒、三秒。声を出さずに二十秒まで数え終わってから、一気に肺の中の空気を吐き出す。
心持ち強めに己の両頬を叩いて、気合を入れる。
過ぎてしまった事は仕方ない・・・とは言いたくないが、後悔するのは後回しだ。
何が悪かったかと考えるのも後回し。今はとにかく、自分の現状を正確に把握して、解決策を見つけだすことだ。
際限なく落ち込んでしまいそうな心を強引に奮起させて、夕映は表情を引き締めた。


(・・・とはいっても)


難しい顔で目の前を覆っている水牢に触れる。
あの、あめ子が言っていることが本当なのだとしたら、自力でここから脱出することは非常に困難だろう。
なにしろ拳法の達人である古菲が、渾身の力で殴り掛かってもビクともしないほど、この壁は強固なのだ。
ほかの皆で一斉に体当たりしたところで、焼け石に水だ。これを突破する手段は今すぐには思いつかない。


(後回しにするしかないか・・・)


触れていた水の壁から手を放し、戦闘中のネギに視線を向ける。
言うまでもなく苦戦を強いられているようだ。なにしろ最大の攻撃手段を封じられてしまっている。
真っ向から挑むにはあまりに相手が悪すぎるのだ。身長差や体格がどうのというより、圧倒的にリーチに差がありすぎる。
魔法を使えないネギ達は接近して攻撃を当てるしかないが、そのためにはヘルマンが放つ大砲のような一撃を何度も躱す必要がある。
威力が威力だ。どうしても大げさな動きで回避しなければならないので、容易には近づけていない。
遠距離から一方的に攻められ続けている。あれでは被弾するのも時間の問題かもしれない。


(攻め手に欠いてますね。・・・魔法が使えるようになれば話は違うのでしょうが)


そこまで考えてから、今度は明日菜に視線を向ける。
彼女は夕映以上に悔しそうな顔をしていた。無理もない話だ。
何しろネギ達が苦戦している原因を作っているのは、間違いなく彼女なのだから。
本人が意図してやっている事ではないが、そんな事は慰めにもならないだろう。


(魔法無効化能力ですか・・・やはりあれを何とかしないといけませんね)


ちらりと明日菜の胸元で光る宝石を見る。
おそらくあれが元凶だ。ネギの魔法を無効化するとき、すべての場面であのネックレスが光を放っていた。
多分あれを使って明日菜から能力を奪っているのだろう。・・・と、すればだ。


(あのネックレスさえどうにかしてしまえば、ネギ先生たちにも勝機があります)


少なくとも魔法は復活する。
そうなれば今のように一方的に攻められ続けるという事はないはずだ。


(となれば後はどうやってここを出るかですけど・・・)


再び答えの出ない難解な問題にぶち当たり、夕映は溜息をこぼした。
ぐりぐりと眉間をほぐしつつ、唇を噛む。仕舞いには唸り声をあげながら、やけくそ気味に頭を掻き毟っていた。
すると、そんな彼女の肩を、誰かがとんとんと指で軽くつついてきた。
集中していた所に突然触れられたせいで、ビクリと体が震える。反射的に背後を振り返った。
そこにいたのは、人差し指を口の前で立てつつ、もう片方の手でこちらを手招きしている木乃香の姿だった。
声を出すな・・・と言いたいのか、無言のまま目配せしてくる。
気付けば夕映以外のメンバー全員が、のどかを中心として車座に集まっていた。
疑問が喉元まで出かかって、慌てて口を塞ぐ。足音を立てないように輪の中に近づいて行った。


「みんな、ちょっと聞いて」


押し殺した低い声で話しながら、木乃香が服のポケットから何かを取り出す。
それは安っぽい子供の玩具のような小さなステッキだった。
装飾・・・と言えるのは、先端についているハート型の部分だけで、他には一切ない
アニメのグッズにしてはあまりにシンプルすぎて、商品にはならないだろう。
彼女は指先でそれを摘み上げながら、真剣な表情で説明を始めた。


「あんな、今ウチ少しだけ魔法を習ってるんよ。
そんでな、さっきちびちゃん達が言ってたやろ。魔法を使えばここから出られるって」


正確には、強力な魔法でも使わなければ水牢を破ることはできない。
そう言っていたはずだが、細部にはこだわっていないのか、木乃香は特に気にした様子もなく
玩具のステッキ・・・いや、魔法の杖を振っている。
円陣を組む一人一人の顔に意味深な眼差しを向けながら、口の中でぼそぼそと呟いていた。


「練習用にってちょうど持っててん。これ使って魔法を使えばもしかしたら・・・」


「ここから出られるかもしれないってことですか!?」


「おお、本当アルか!?」


「いいじゃんいいじゃん!なら、早くやっちゃおーよ!」


思いがけず訪れたいいニュースに、
頭をゴリゴリとこすり合わせながら相談していた全員が喝采を上げる。(もちろん小声でだが)
胸の手前で小さくガッツポーズを取り、早くやるようにと木乃香を急き立て始めた。


「ちょ、ちょっとまって、ちゃうねん。ウチも練習中やからみんなに手伝ってほしくて」


にわかに勢いづいて笑顔を浮かべた皆に、言い出した張本人である木乃香がストップをかける。


「いや手伝えって、何すりゃいいのさ」


「う~む。気合ならありあまってるアルけど」


「あの、曲がりなりにも魔法を習っている木乃香さんができないなら、何も知らない私達では無理があるのでは・・・」


和美、古菲、夕映の三人が顔を見合わせながら、自信がない様子で目を逸らす。


「いやいや、ウチもホント習い始めたばっかりやから。呪文教えてもらっただけやし」


「・・・それって、ほとんど何も分かっていないのと変わらないんじゃ?」


夕映がジトリとした半眼を向けると、今度は木乃香が明後日の方向を見て顔を背けた。
要するに彼女も夕映と変わらず、魔法に関しては初心者と名乗るのもおこがましいレベルなのか。
ネギに魔法を習っているとしたら、もう魔法使いの仲間入りを果たしたのではと、
内心うらやましく思っていた彼女の実態を知り、
安心したのか失望したのか、もやもやとした複雑な感情が胸中であふれた。


「で、でもほら、ひょっとしたら誰かが成功するかもしれんし・・・」


「・・・・・・・・・・・・まぁ確かに駄目で元々とも言いますし・・・」


「そ、そうそう、だから、みんなでやってみて・・・」





「何をやるんだ?」





それが決定的な瞬間であるなら、そうなのだろう。
突然現れた第三者の問い掛けに、その場にいた全員がギョッと目を剥く。
驚きは数秒間の間呼吸を忘れさせ、先程から聞こえてきていた破壊音すら、耳から遠くなる。
夕映達の後ろにすらむぃがいる。
ニヤニヤした薄ら笑い。人を小馬鹿にしているような軽い口調。軽薄な仕草で両手を肩の高さで開いている。
小学生の平均身長にも届いていない小柄な体を、水牢の壁に押し付けている。
水面に映った表情が不気味に歪んで見えた。
誰もが身動き一つもできずに硬直する。そしてその間隙を縫うように、水牢の一部が不自然に伸びた。
水でできた触手のような物は、鞭のようにしなり、木乃香が持っている魔法の杖を瞬時に絡め取る。
ベキリと鈍い音を立てて、杖が折れた。
それほど頑強にはできていなかったのだろう、あっという間に粉々になるまで粉砕されていった。


「おとなしくしてろっていったよなぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああ!!!」


幼い高音が耳に痛い。
突然別人のように豹変したすらむぃが、口の両端を目元近くまで釣り上げて、ヒクヒクと頬を痙攣させる。
唾を飛ばしながら薄汚い言葉で、聞くに堪えない罵声を喚き散らした。
限界近くまで開かれた瞳が、ジワリと悪意の色を灯す。憤怒の表情を浮かべ、彼女は感情を爆発させた。
拳を水牢の壁に叩きつけ、何度も何度も蹴りつける。
指、拳、甲、肘、頭、膝、脛、足刀、爪先、踵、硬い部分、鋭利な部分、自らが作り上げた檻に己の身体を激突させる。
動作は子供の癇癪のそれだ。ただひたすら原始的で美しさのかけらもない。
自分をかばう動作も一切見せず、痛みなどまるで感じないとでもいうように、全身を投げつけていた。
突然始まった奇行に、それを見ている全員の背筋が寒くなる。
そばで見ていた彼女の仲間すら、不審な目を向ける間もなく顔を強張らせている。
目を背けることを思いつきもしない。その空間は完全に彼女に支配されていた。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・そうだな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・よし、これにしよう」


始まりと同じく終わりも突然だった。
ピタリと暴れるのをやめたすらむぃが、空を仰いで無感動に呟く。
雲の隙間に雷光が走り、周囲に轟音が鳴り響く。雨はやまない。やむ気配がない。
水音が煩いくらいに耳に響く。




そして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・灰色の世界が始まる。




「お前らを使う」


暗い瞳を夕映達に向け、すらむぃが短く宣言した。
そして、戦闘中のネギ達に顔を向けて、絶叫を上げる。


「ガキどもぉぉぉぉおおおおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」


ただ一つの叫びで声帯が破壊されるのではないかと錯覚するくらいの大声だ。
声が届く範囲にいるすべての者が、一切の動きを停止し、彼女を振りかえる。
全員の注目を集めた彼女は、再びいやらしい薄笑いを浮かべて、こう言った。


「これからお前らが、三分以内におっさんを殺せなければ、ここにいる人質を一人殺す。
そこからは、二分毎だ。二人目、三人目と順番に殺していく。まずは・・・誰にするか」


一方的に話しながら、嬲るように目線を夕映達に向ける。
一人一人を指さし、やがて彼女は一人の少女の前で、その動きを止めた。


「おまえにしよう。理由は・・・そうだな、おっぱいが大きいから」


「わ、私!?」


冗談のようなふざけた理由で殺害予告をされた和美が、呆然とした表情を浮かべたまま己を指さす。
すらむぃは水牢の周りをぐるぐると回りながらその表情を楽しむように、下側から上目づかいで眺めている。
そこだけは不自然に長い舌で、べろりと口周りを舐めて、彼女は和美に言った。


「そうだよ。ガキどもがおっさんを殺せなかったらお前は死ぬ。
せいぜい一生懸命に応援しな。それとも、神様に祈るか?」


「ちょ、ちょっと、やめてよ。じょ、冗談でしょ!?」


「あいにくと、冗談は好きだが、嘘は嫌いなんだ。約束してやるよ。もし奴らが失敗したら、お前は確実に殺してやる」


すらむぃは愉悦に歪めた顔で指切りをする時のように小指を立てた。
声は真剣そのものだ。まるでその声音こそが、嘘も偽りもないことの証明であるかのようだった。
和美が後退りしながら、あちこちに視線を彷徨わせる。その目が理解しがたい物を見たように恐怖で濁っていた。
その視線から逃れたかったわけではない。それだけは確信できる。それでも夕映は自然と顔を伏せて俯いていた。


「な、何言ってんのよあんた!」


背中越しに聞いていたのだろう。無理やり動揺を抑え込んだまま明日菜が叫んだ。
何とかして振り返ろうと努力している。首筋を痛めそうな姿勢でギロリと目付きを鋭くさせて抗議の声を上げた。
そんな彼女に対して気を使ったのか、すらむぃがぺたぺたと足音を立てながら、明日菜の前に回り込む。
威勢のいい態度の彼女にへらへらと笑いながら答える。


「あん?何が?」


「ひ、人質には手を出さないって、さっき言ってたでしょ!?それが何だってそんな事になるのよ!」


「そいつはあのおっさんが言った事だろう?俺は約束した覚えはねーぞ」


「あんた、あのエロ爺の手下なんでしょ!?だったら・・・」


「あーーっ!うるせうるせっ!んなこたぁどうだっていいんだよ!
犯人の気が変わって人質を殺すなんざ、よくある事だろーが!」


「ふ、ふざけないでよ!そんな理由で・・・」


「もういい黙れ」


明日菜が言葉を言い切る前に、業を煮やしたすらむぃが腕を伸ばして彼女の頭部に触れる。
軽く撫でたようにしか見えなかったが、明日菜は唐突に言葉を途切れさせ、がくりと項垂れた。
さらりとした髪がむき出しの肩から滑るように落ちる。完全に脱力した姿勢で倒れこみそうになっていた。
もっとも両腕に巻き付いている支えのおかげで、かろうじて立ってはいるが。


「てめーにはまだ用があるんだよ。いい子だからおとなしく寝てな」


瞳を閉じて意識を失った明日菜の額を軽く弾きながら、すらむぃが言う。
そしてすぐに興味を失ったのか、まだうまく事情が呑み込めていない様子のネギ達に向かって声を張り上げた。


「おーい!そんじゃ、はじめるぞー!三分だからなー!」


まるで遊び仲間に呼びかけるように命がかかった殺人ゲームの開始を告げる。
その様子はとてつもなく楽しそうだった。無邪気な笑みは内心の邪悪さを覆い隠してしまう。
彼女は天使のように愛らしかった。そしてそれがとてつもなく不気味で恐ろしい。
その仕草一つ一つが恐怖を助長し、悪意を伝染させていた。


「待て」


そしてそんな彼女を、張りのある短い言葉でヘルマンが制止する。眉間に皺を寄せた厳しい表情で口を挟んできた。


「なんだよ」


水を差されてふてくされた声を発したすらむぃが、唇を尖らせる。


「なんだよではない。どういうつもりだ、すらむぃ。明日菜君の言う通りだ。
これ以上、人質に危害を加えるつもりはないと言ったろう」


「だからそれはあんたが約束した事だろ?俺が守る義理はないね」


「そうはいかない。君は私の部下だ。命令には従ってもらう」


「断る」


あまりにあっさりと言い切ったせいで、その場の空気が凍ったような静寂が支配する。
ヘルマンは信じられないものを見るかのように、目を見開いた。


「なんだと?」


「聞こえなかったか?断ると言ったんだ。この女共を死なせたくねーなら、あんたが殺されなよ。
そうすりゃ、誰も死なない。ハッピーエンドだ」


「・・・ふざけるなよ」


「至極真面目だよ、こっちは。それにこれはあんたの意に沿う事でもあるだろ?
こいつらの命がかかってれば、ガキ共もさぞかし真剣に戦ってくれるだろーぜ」


人を小馬鹿にしながら鼻を鳴らして告げてくる。不躾な態度は少なくとも上司と部下のそれではなかった。


「そういう事ではないだろう。脅しで強制するようなやり方など、誰も望んでいない」


「あくまで、自分からやる気出せってか?ハッお優しいことで・・・」


すらむぃがうんざりとした表情で吐き捨てる。大げさな仕草で額を押さえ、かぶりを振っていた。


「てめーの流儀がどうだろうと知ったこっちゃねーな。
とにかく、これ以上あんたに何を言われようと、止めるつもりはないね」


その宣言と同時に、すらむぃが指を鳴らす。
すると、夕映達を囲んでいる水の壁から、いくつもの鋭利な棘が飛び出してきた。
無数の槍が自分たちに突き付けられている。
刃物のような先端は、触れるだけで怪我をしそうなほど鋭く尖っていた。
そこからポタポタと水滴が流れ落ちていなければ、とてもそれが水でできているとは思えない。
首筋や心臓などの急所を目指して伸びているのは、間違いなく脅迫の意味合いを含んでいるはずだ。
すぐそばで誰かの短い悲鳴が聞こえてきた。音が聞こえた方を振り向けば、木乃香が口元を押さえて瞳を潤ませている。
いや木乃香だけではなかった。明るい笑顔とおバカな態度が常である古菲すら、嗚咽を堪えるように何度も喉を動かしている。
ふと、足元を見ると、呆然自失とした和美が膝をついていた。誰もが恐怖に支配され、身動き一つできない。

そしてそれは自分も同じだった。
知らぬ間に微弱な震えが体を駆け巡っている。極度の緊張で胸が押しつぶされてしまいそうに感じる。
呼吸ができないわけでもないのに、息苦しさで溺れてしまいそうだ。
鼻の奥をツンとした何かが刺激している。目頭が熱い。耳を澄ませばドクドクと血の流れる音が聞こえる気がした。
口の中が乾いて、唾を飲み込む。寒さを覚えて肌が粟立つのを感じる。
薄暗くなっていく視界で、今、自分は気を失いそうになっているのだと気が付いた。


「逆らえば全員殺す。分かるだろう?てめーらは素直にこっちの言う事を聞いてりゃーいいんだよ」


にんまりと口を広げたすらむぃが水牢に蹴りを入れる。そのまま水壁に寄り掛かると勝ち誇った様子で手を振った。
すると、その姿を見ていたヘルマンが目を細めて腕を組む。そして、すらむぃ以外の部下たちに向けて、短く叫んだ。


「あめ子、ぷりん。すらむぃを止めろ!」


その言葉が聞こえた瞬間、気付かれないようにすらむぃの背後にまわっていたあめ子とぷりんの二人が一斉に躍り掛かる。
足音を全く立てずに走りながら俊敏な動作で接近する。
獣のように素早く跳躍し、両腕を伸ばしながら、すらむぃを拘束しようとした。
・・・だが。
体の向きはそのままに首だけを百八十度回転させたすらむぃが、顎の骨を外したように大口を開ける。
そして何かが彼女の口から勢いよく飛び出してきた。空中をくるくると回転している。
それは、表面に五芒星が描かれたどこにでもあるような瓶だった。だが同時に特殊な魔法が封じ込められた瓶でもあった。
先程ネギがヘルマンに対して使用した封魔の瓶。それが何故かすらむぃの元にあった。


「ラゲーナ・シグナートーリア(封魔の瓶)!!・・・だったか?」


若干自信がなさそうに発せられた呪文は、それでも正しく作用する。
微弱な振動が瓶全体に伝わったかと思うと、表面の五芒星が眩い輝きを発する。
それは光と共に実体化し、空中で魔法陣を描く。
鈍い音が辺りに響き渡り、今度こそ正確に発動した魔法は、目を見開き驚愕の表情を浮かべた二人をそのまま瓶の中に封じ込めた。
役目を終えた封魔の瓶から光が消える。魔法の効果が切れると、空中に浮いていたそれは、カランと音を立てて地面を転がった。
その様子を見ていたすらむぃが、ひょいとそれを拾い上げる。
耳をほじくり、中に詰めてあったコルク栓を取り出すと、瓶のキャップにぐいっと押し付けた。


「うまくいくもんだなぁ。どさくさに紛れて回収しといてよかったぜ」


ぐるりと肩を回しながらヘルマンに顔を向ける。目元を意味ありげに歪めて、からかうように笑みをこぼした。


「思惑通りにいかなくて残念だったな。あの二人の事を忘れてると思ってたのか?」


「む、むぅ」


口惜しそうにヘルマンが唸り声を上げる。奇襲のタイミングを計っていたようだが、それもすらむぃにはお見通しだったらしい。


「ボケた頭でも理解できたか?抵抗は無駄だってことがよ。さっさと殺し合いな。
どーせそれしか手はねーんだ。あっ、そーだ、一応あの連中にも言っとくか」


言い聞かせるような口調でヘルマンを挑発していたすらむぃが、突然明後日の方向に向き直った。
そして・・・。


「てめーらにも言ってんだぞ!覗き屋どもっ!!」


はるか遠くに見える森の一角に視線を固定し、怒鳴り声を上げる。


「こっちはとっくに気付いてんだよ。さっきからうっとーしーくらいに熱い眼差し向けてきやがって。
なめた真似しやがったら、女の命はねーからな。分かったか!!」


ここにはいない何者かに向けての言葉だろう。呼びかけに対する反応を探っている様子でじっとしている。
やがて、彼女は納得したように頷くと、森に向けていた視線を切った。


「・・・・・・何のことを言っている?覗き屋だと?」


直前まで会話していたヘルマンが訝しげに声を掛ける。
すらむぃはなんでもないと言いたげに手を振ると、片眉を吊り上げた。


「ああ、気にすんな。邪魔するようならこっちで対応するからよ。それより・・・いいのか?」


「?・・・何がだ?」


「もうすぐ三分経つんだけどな。呑気にくっちゃべってていいのかって聞いてんだよ」


目線をいまだに座りこんだまま動こうともしていない和美に向けてくる。
平坦な語調は呆れを含んでいるように見えた。視線を向けられた和美がビクリと体を震わせる。
ただその眼差しから逃れたい一心で、腰を下ろしたまま後退りし、周囲を囲む棘の一つに腕を突き刺して悲鳴を上げた。
浅く切ったその場所から血の玉がプクリと膨れ上がる。それはやがて腕を伝う一筋の流れとなり、地面へと落ちた。
自身を抱きしめるように両腕を回し、何度も何度も小さく首を振っている。
それはまるでこれから訪れる現実を認めたくないと拒絶しているかのようだった。


「ちょっ、ちょうまてや!さっきから勝手に話すすめよって!まさか本気でその姉ちゃん殺す気やないやろな!?
それに三分てなんや三分て、短すぎやろ!!」


ヘルマンにやられたのか、随所に傷を負った小太郎が、憤懣やるかたない様子で一歩踏み出す。
そのまま中央の舞台に向けて走り出しそうになったところで、警告のつもりだろう、夕映達を囲む棘が一斉に伸びた。
頭の上、腋の下、股の間や、指の間にまで、傷つけないように細心の注意がなされた悪意が、何もない空中をえぐっている。
もう何度目かもしれない悲鳴が喉にこみ上げてきて、夕映は涙目で口を引き結んだ。
そんな彼女たちの様子を見た小太郎が慌ててその歩みを止める。
本気・・・だと悟ったのだろう。グッと何かを飲み込んで、彼は奥歯を噛みしめた。


「ひ、卑怯やぞ、こらぁ!!」


「うるせーぞ、こんだけ人数いるんだから、三分でも長い方だ。いいか、猿みたいなおつむしてそうだから、もう一回言ってやる。
おっさんを殺せ。じゃなけりゃ、この女は・・・ん?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三分経った」


その細腕に腕時計をつけているわけでもないのに、何で正確に時間がわかるのだろう?
放心状態の夕映の頭に浮かんだのは、そんな事だった。目の前の光景を信じることができない。
視覚が脳を裏切り、幻覚を見せているのではないだろうか。
今度こそ堪えようもない悲鳴を上げた和美に、すらむぃがゆっくりと近づいてくる。
全てがスローモーションのように引き伸ばされていた。
口を押えて、涙を流している木乃香。どうすればいいのかわからない様子で視線をそこかしこに彷徨わせている古菲。
制止の声を上げるヘルマンと小太郎。そして裏返った声で叫びながら、懸命に手を伸ばしているネギ。
誰もが、それを止めようとして、叶わずにいる。

夕映は・・・・・夕映も何もできなかった。目の前を通る死神の鎌をなすすべなく見送ってしまう。
拒絶と哀願の視線を無視しながら、すらむぃが紐状に変化した右手を水牢に突き入れる。
背後の壁に限界まで後退した和美に、それはそっと接触した。胸の中央、胸郭によって守られたその場所にずぶりと沈み込む。
瞬間。和美が白目をむきながらその場に頽れた。支えを失った操り人形のように、力を失った彼女はぐったりと地面に横たわる。
瞳孔が開き、だらしなく開かれた口元からは唾液がこぼれていた。水に濡れた前髪が、怪しく目元にかかっている。
いつもどこか余裕を感じさせていた彼女の表情はもはや死に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「きゃあああああああああああああああぁぁぁ!!!!!!!」


悲鳴が上がる。
熱に浮かされたような朦朧とした意識の中で、空白を埋めるかのごとく、ただ言葉の羅列が延々と紡ぎだされていく。
意味をなさないその繰り言は、肺の中に残った最後の空気が絞り出されるまで続いた。
こみ上げた熱が喉を詰まらせる。ゲホゲホと咳き込んで、目尻に涙が浮かんだ。
力を失い体重を支えれれなくなった膝が、ぺたりと床についてしまった。湿った冷たい感触が肌を伝わる。
そこでようやく悲鳴を上げていたのが自分である事に気が付いた。


「あ・・・・・あさ・・・くら・・さん・・・・・・?」


喉を傷めてしまったのか、しわがれた声が口からこぼれる。
涙でかすんだ視界にもう一度和美の姿をとらえた。彼女は一見眠っているようにも見えた。
胸を突き刺されたように見えたのだが、外傷の類は一切見当たらない。出血もないし、衣服が破れているわけでもない。
湿った制服が肌に張り付いているのでよく分かる。それでも彼女は死んでしまったのだと確信できた。
眼球の奥に映る虚が見えてしまっていたから。


「ハッハハー!!いいねぇ!やっぱりこうでなきゃーなぁ?
こんだけ人質がいて、誰も死なないってんじゃ、つまんねーもんなぁ!
悲嘆に濡れた悲鳴も慟哭もいいスパイスになってるしよぉ!くくくクッククくけけキャきカキきゃキャけキャ!!」


喝采を上げながら腹を押さえてすらむぃが笑う。
その言葉の意味を無視してしまえれば、愛らしくすらある。邪悪まみれの無邪気な笑い。
・・・・・・本物の悪意。夕映はそんなものを初めて見た。


「あ、あ、ああ、あああ、あな、あなたは・・・ほんとうに?」


舌がもつれてうまく話せないのか、舌足らずな口調でネギが言った。
自分の生徒に起こった出来事が信じられないのだろう。ふらふらと足元をふらつかせている。
夕映にはその気持ちがよく分かった。だってあまりにも突然すぎたから。
世界が入れ替わったような違和感があった。映画のフィルムに入り込んでしまったような。
あるいは夢にうなされているのだろうか。自分は本当はベッドの中で眠りについていて、悪夢を見ているのでは?
本当の現実では和美はちゃんと生きていて、普段の退屈な日常がまた始まるのではないのか。
しかしそんな浅はかな願望は、あっさりと裏切られた。
いまだに笑いの衝動が収まらないのか、口元を厭らしく歪めながら、すらむぃが話し始める。


「さーて盛り上がってきたところで、次のゲームだ。次に死ぬのは、だ~れ~か~な~?」


くるくると回し、夕映達をなぞるように動かした指を止める。
クイズ番組の司会のような仕草で彼女が選んだのは・・・。


「お前だ、褐色肌。理由はアルアルうるせーから」


「ひぃいゃぁ」


細く限界まで引き絞られた悲鳴は、およそ古菲らしくないものだった。
涙と鼻水で汚れた顔を恐怖に引き攣らせている。死刑が確定した罪人の気分だろうか。
あるいはこめかみに銃口を押し付けられて、無理やり最後の祈りを捧げさせられている哀れな犠牲者か。
想像もつかない恐怖が彼女を襲っているのだろう。ネギ達がヘルマンを殺さなければ、数分後に彼女は死ぬのだ。
和美の姿をみれば、すらむぃの言っている事が、もはや冗談でもなんでもないのがよくわかる。
結果いかんでは本当に古菲は殺されるだろう。


「すらむぃ・・・きさま」


「そんじゃ、はじめよう。制限時間は今から二分後だ」


炯々とした眼光で睨み付けるヘルマンをあっさりと無視して、すらむぃがゲーム開始の合図を送る。
その姿にネギと小太郎が制止の声を上げるが、彼女は水壁に寄り掛かり、にやにやと笑うだけで何も答えなかった。


「ちっ、やるしかないんか・・・」


「こ・・・小太郎君?」


「腹くくれネギ。あのおっさんを・・・・・・やらんと、あのガキ、姉ちゃん達をまた殺すで?それでええんか?」


「で・・・でも・・だからって・・・」


「・・・そんな顔すんな。俺かてやりたないわ、そんなん。けど、しゃーないやろ。
俺らが手ぇ汚さんと、あのガキいく所までいってまう。そうなってから後悔しても手遅れや」


「うぅぅ・・・」


「時間がない・・・行くでっ!!」


覚悟の決まった瞳で、小太郎がヘルマンへと接近する。
短い距離で何度もステップを繰り返し、狙いを外しながら距離を潰していく。
ただの一度まともに食らっただけで、戦闘不能になりかねない砲撃魔法のような一撃を躱しながら近づくには、
こういった小細工が必要になるのだろう。
だが・・・そんな警戒は無用だったのかもしれない。
先程までなら、矢継ぎ早にすさまじい威力の攻撃が飛んできていたのだが、
ヘルマンも勝手が違う戦闘に戸惑っているのか、手を出してこなかった。
好機だと思ったのか、小太郎が観客席の一つを蹴飛ばしながら、鋭い跳躍をみせる。
一足飛びにヘルマンへと近づくと、全力で殴り掛かった。


「ま、待つんだ小太郎君!これでは、すらむぃの思うつぼだっ!!」


「へっ!そんな事はわかってるけどな!人質取られてるんやから、しゃーないやろっ!!」


ヘルマンの忠告を無視し、小太郎が彼の左足に張り付くように移動した。
容易に懐に入る事には成功したが、腕の長さ、リーチの違いは如何ともしがたい。ただでさえ体格に文字通り大人と子供の差がある。
低身長の小太郎が高身長の相手と戦うなら、互いの息遣いが聞こえるほどの超接近戦に活路を見出すほかない。
スピードで撹乱しつつ、相手に距離を取られないように、ぴたりと張り付き、一撃を加える隙を伺う。
本来なら体重の軽さは致命的なものであったが、幸いな事に小太郎には気の力がある。
急所を狙うことは難しくとも、いくらかやりようはあった。

頭部を狙って振り下ろされた一撃を、前に出ることで何とか躱す。
じりっと焦げるような音を頭の後ろで聞きながら、小太郎は股の間に小さく丸めた体を滑り込ませた。
下側から相手の鳩尾を狙って足を振り上げる。変則的な回し蹴りの形だが、体幹のバランスは崩れていない。
極度の集中と特殊な呼吸法で、体内に練り上げた気の力を接触と同時に爆発させる。
防御のためだろう。蹴りの軌道上に置いたヘルマンの腕が、軋んだ音を立てて僅かに歪んだ。
一般的な成人男性を軽く上回っている体格の持ち主が、ふわりと体を浮き上がらせる。
地面と接していない状態では、まともに受け身をとることもできないはずだ。
チャンスに目を光らせながら、小太郎は追撃の蹴りを見舞った。足刀が相手の胴にまともに決まる。
くぐもった苦悶の声を上げながらヘルマンが客席の一角へと突っ込んでいった。


「おっしゃー!手応えありっ!」


小太郎が大げさにガッツポーズを取った。今のは効いたはずだと、顔をほころばせる。
だが、すぐに表情を引き締めると、小太郎は警戒しつつも素早くヘルマンへと近づいていった。
あれで勝てるならもっと早くけりがついている。確かに会心の一撃だったが今ので沈むほど甘くはないはずだった。

その慎重さが小太郎を救った。
ピクリと髪の間で揺れる耳が、標的の息遣いをとらえていた。
慌てて急制動を掛けてその場で踏みとどまる。
ヘルマンは倒れこんだ姿勢から、バネ仕掛けのように立ち上がると、背中が見えるほど体を捻った。
弓のように引き絞られた体が、ギリッと鈍い音を立てる。腕の位置は体に隠れて見えない。
それでも小太郎には彼が拳を握っている光景がしっかりと見えている気がした。
軸足を支点にくるりと体が回転する。
膨大な破壊力を秘めた一撃が地響きを立てながら直進していった。ガリガリと地面を削りながら小太郎に迫る。
咄嗟に体を捻ることができたのは、奇跡だったかもしれない。それでも完全には躱すことができずに、わき腹をえぐられる。
傷つけられた部分に灼熱が襲い掛かった。小太郎は反射的にあげかけた呻き声をギリギリ抑え込み、バク転の要領で地面に両手をついた。
気の力を使って体を押し上げ、ヘルマンから距離をとる。・・・どうやら中途半端なダメージを与えたせいで怒らせてしまったらしい。
帽子のつばから覗く瞳が、鈍い怒りをたたえていた。


「ち、やっぱりあかんか。ネギっ、手を貸せ!悔しいけど俺一人じゃどーにもならん!二人でやらなきゃ・・・」


「そ、そんなこと言っても・・・で、できないよ!こ・・・殺すなんて!!」


少年の叫びは、心の迷いを表すように震えていた。
体の前で杖を抱き、怯えたように後退る。階段の段差で転びそうになり、慌てて座席をつかんで体を支えた。
ネギがうるんだ瞳を小太郎とヘルマン・・・そして壇上で拘束されている生徒たちに向ける。
その表情は少年と同じく混乱し、傷つき、憔悴していた。
涙を流してはいても、泣き叫んでいないのは、この状況に理解が追い付いていないからなのかもしれない。
なぜなら知らないからだ。
・・・・に・・・気づいていないから。


「あほゆーな!!んな事言っとる場合とちゃうやろ!」


「小太郎君はっ!!・・・小太郎君は、何でそんな風に簡単に割り切れるの?なんでそんなに・・・」


「割り切っとるわけやない!!そんなわけないやろっ!!
頭ん中もぐちゃぐちゃやし、終わった後で死ぬほど後悔するかもしれん。
せやけど俺はな、俺は・・・自分の都合で迷惑かけた千鶴姉ちゃんだけは・・・死なせるわけにはいかんのや!!」


「・・・・・小太郎君」


「お前にまで、受け入れろとは言わん。とどめも俺がさす。せやけど、今は力を貸してくれ。姉ちゃん達を助けるために」


口元を引き結び、俯き加減で長い前髪に目元を隠した小太郎が、拳を震わせている。
ネギはそれを見て小太郎もまた自分と同じように葛藤しているのだと気が付いた。
涙腺が緩んでいた瞳を袖口で強引に拭い、大事な杖を肩に担ぎなおす。
そして大きく深呼吸をした後、頼りない足取りで、それでも小太郎の隣に並び立った。


「サンキュな」


「僕の方こそゴメン。・・・小太郎君の言う通りだ。割り切れなくても、それでも・・・やらなきゃ」


殺意を向けるには覚悟がなかった。納得するには理由が足りない。信念と呼べるほど強い意志を持ち合わせてもいない。
それでも似たような思いはある。ネギは守るべき生徒の顔をもう一度見ながら、口の中だけで呪文を紡いだ。
直撃させたとしても、明日菜の力によって、無効化されてしまう。だが、目くらましと牽制くらいにはなる。
そんな事を考えつつ、隣にいる小太郎に目配せする。彼はしっかり頷き、ネギの考えを理解したようだった。
足の爪先に体重をかけ、重心を移動させる。そして、力強く床を踏みきろうとしたその時、呆れた様子ですらむぃが声を掛けてきた。


「やる気になってるとこ悪いけどなぁ。あと十秒で二分だ。・・・グダグダと余計な事喋りすぎなんだよお前ら」


「なっ!嘘やろ!?もうそんなにたってたんか!」


「古老師っ!ちょ、ちょっと待ってください!!」


「駄目だ待たない・・・八、七・・・・・・」


すらむぃが耳の穴を掻きながら一つ一つ数を数える。引き伸ばすことも、早口になることもなく、彼女は正確に秒読みを続けていった。



そして、またしてもあの瞬間が訪れる。



「二、一、ゼロ。んじゃ、あばよ」


非常な宣言と共にすらむぃは右手を変化させた。ウネウネとしたその動きは海洋生物の触手を思わせる。
その部分だけは色を無くした透明であり、水流が直接意思を持ったように自由に軌道を変えている。
引き攣ったしゃっくり声が断続的に聞こえていた。
嫌々と首を振りながら拒絶している古菲にそれは容赦なく突き刺ささろうとした。
その瞬間。猛烈な風切り音と共に、17の風の精霊が空中を飛翔する。
収束地点から無秩序に枝分かれしたそれは、様々な角度から標的を捕らえようと直進していく。
気配を感じたすらむぃが首だけを回しギョッと目をむいた。そして慌てて明日菜の背後に体を滑り込ませる。
ギリギリのところで隠れることに成功したその直後、
キーンとした高周波音が鳴り響き、所々に光の帯を残した魔法は、一つの例外もなく消滅した。
確認するようにそれを見ていたすらむぃがギロリと魔法を放った人物を睨み付ける。そして押し殺した声で唸り声を発した。


「てめぇ・・・やりやがったな。ガキがぁぁあ」


明日菜の背中から顔を覗かせ、ネギに怒りの視線を向けたまま、すらむぃが右手を変化させた。そして中断された処刑が再開される。
矢のように飛び出した右手が、混乱したままの古菲に突き刺さる。
彼女は一度きょとんとした瞳でそれを見つめ、そのまま意識を失い昏倒した。


「く、古菲さんっ!!」


咄嗟にその体を受け止めた夕映がくぐもった悲鳴を上げた。
脱力した体は異様な重さを持っている。
非力な夕映では古菲の体重を支えきれない。二人の少女は、ステージの床に折り重なるようにして転倒した。
もつれあったままの姿勢で、何とか脱出しようと試みる。
眉をしかめながら、懸命に古菲の体から這い出ようとしたその時、彼女と目が合った。

古菲は和美の時と同様に、作り物のようなガラス球の瞳で、顔を近づけた夕映の姿を映していた。


「あ・・・あぁ・・・」


夕映はぐったりとしたまま、なんの力も感じられない古菲を抱えなおした。空虚な言葉がただ口からこぼれ続ける。
暖かい。重ねあった肌はまだ温もりを持っている。しかしそれもおそらく時間の問題だろう。
・・・・・なぜならもう”彼女”はここにいないから。


「はい、二人目完了。邪魔が入っちまったが、まぁだからなんだって話だな。
こっちには魔法を無効化してくれるありがたい女神がいるんでね」


ふざけた調子で両手を組み合わせたすらむぃが、明日菜に向かって祈るような仕草で膝をつく。
キラキラと瞳を輝かせ、愛してるぜ女神様などと呟いていた。


「で・・・次に行きたいところだけど。その前にだ、俺の処刑を邪魔しやがった事へのペナルティーを科さないとなぁ」


「・・・え?」


呆然としたまま成り行きを見守るしかなかったネギに、追い打ちがかかる。


「そうだな・・・おまけでもう一人殺そう。うん、そうしよう。
それじゃ、あのクソガキのせいで死んじゃう、かわいそうな女の子は誰かな~」


すらむぃが語尾に星でも付きそうな口調で次の犠牲者を選んでいる。
ステップを踏みつつ夕映達の前を通り過ぎ、やがて彼女が歩みを止めたのは、刹那が捕らえられている水牢の前だった。


「こいつだ。たまには別の檻にいるやつにしないとな」


「いっ、いやああああああああああああああああぁぁぁ!!!」


すらむぃを目で追っていた木乃香が金切り声を上げる。
思わず耳を塞いでしまいたくなるほどその声は大きく、そして悲哀に満ちていた。
神の奇跡などない事を悟った狂信者のように、末期の息を吐いて死にゆく者の最後を看取る家族のように。
或いは全財産を賭けて挑んだギャンブルに惨敗した者の末路のように、彼女はとうとうそれを知った。
行き止まり。どん詰まり。袋小路。終局。終幕。全ての果ての果て。
行き着くところまで行き着いてしまった者が感じる最後の感情。

それは・・・絶望といった。

髪を振り乱し、錯乱したかのように両手を水壁に叩きつけた木乃香が必死にすらむぃに懇願する。


「いやぁ!いややぁ!お願い、お願いします!!せっ、せっちゃんを、せっちゃんを、殺さんといてくださいっ!!」


「え~どうしようかなぁ。でもオイタしたガキにはお仕置きしなきゃなんないしな~。
・・・・まぁ・・・でも、そこまで言うなら考えてあげない事もねーぞ」


「えっ!?・・・ほ、ほんとうですか!?」


「ああ、そうだ。だから・・・・・・・代わりのやつ選べ」


どす黒く、どこまで行っても見通すことのできない闇を宿した二つの穴が、木乃香を見ている。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」


「だ・か・らっ!お前の大事なせっちゃんの代わりに死ぬやつを選べっつってんだよ」


極上の料理の前で、食欲を抑えきれないようにすらむぃが舌なめずりをする。
彼女がどんな選択をするのか楽しみで仕方がないといった様子だった。


「ま、待ってください!そんなの、そんなの選べるわけないやないですかっ!!」


「あっそ。だったらべつにいいよ。こいつ殺すから」


これ見よがしな態度で、変化させた腕を眠っている刹那に突き付ける。


「やっ、やめてっっ!!」


「なら、とっとと選びなよ。・・・こっちも暇じゃないんでね。あと十秒やるから、その間に決めな」


「そ、そんな・・・」


木乃香が泣きながら縋り付くような目ですらむぃを見ている。
しかしそんな事はどうでもいいとばかりに、無情なカウントダウンは開始された。
木乃香がおろおろと辺りに視線を彷徨わせ、指で自らの髪を引き抜くように梳いている。
どうしよう。どうすれば。そんな感情が明確に見え隠れしていた。
両手の爪で皮膚が破けそうになるまで、露出している腕を掻き毟る。
呼吸はたった今まで長距離走をしていたかのように荒く乱れていた。

そして・・・じっと刹那の顔を凝視していた木乃香が突然背後を振り向いた。血走った目を夕映と合わせる。

お互いの間を息が詰まるような緊張感が漂った。両者とも一歩も動けない。身動ぎ一つすることができない。
金縛りにあってしまったかのごとく、瞬きすらもできずに眼球が乾いていく。
今この瞬間だけは、その世界に夕映と木乃香だけがいた。真っ白な空間。静寂。
そんな時間が永遠に続いていくのだと、頭の中でそれだけを確信していた夕映だったが、
現実の世界で、時計の針は変わらず時を刻み続けていたようだった。

・・・あと数秒。最後の時を数える声が聞こえる瞬間。木乃香は何もかも諦めたように目を伏せ、そのまま泣き崩れた。


「ゼロ」


淡々と・・・淡々とその言葉を発したすらむぃが、白けた態度で半眼を木乃香に向けた。
取るに足らないくだらないものを見る目付きで、嘆息する。


「ま、そんなもんだよな」


慈悲も容赦もなく、遠慮も戸惑いもなく、躊躇も狼狽もなく、ただ静かにすらむぃが言葉通り刹那にそれを突き入れた。



木乃香の慟哭が響き渡った。



「あは、あはは、ははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!」



狂っている。その凶笑を見ながら、夕映が思った事は、ただそれだけだった。
雨の中を幼い子供が笑いながらクルクルと回っている。瞳を凶悪に吊り上げ、口を裂けるくらいに開いて哄笑している。
楽しいのだと、愉悦を感じるのだと、心の底、魂の奥深くから、感情の赴くままに殺人者が破顔している。
夕映は古菲の体をギュッと強く抱きしめた。そして悲しくなって目を伏せた。


・・・・・彼女の体は、やっぱり少しだけ冷たくなっていた。


「ひはははははははははははははははははははは、うあははは、くっくはあはははは!!いやーいいね!やっぱりいい!
まー俺もよく覚えていないんだけど、こういうのは、たぶん久しぶりだからさー。脳内麻薬がすげーよ!
もうちびっちまいそーだ!かはははははははは!おい小娘、どんな気分だ?大事なお友達が死んじまったのはよ~。くはは」


すらむぃが床に頽れたまま号泣している木乃香に、煽りながら話しかける。
笑いすぎて呼吸困難を起こしたように言葉を詰まらせながら、それでもその行為をやめない。
夕映は何もできずにその光景を見続けた。感情が枯れ果てて、何も浮かばなかったからだ。


・・・・・・・その時。


「すぅらぁぁぁむぅうううううううういぃぃぃぃぃっ!!!」


怒号が聞こえた。
般若の形相で絶叫したヘルマンが突然その姿を変貌させる。筋肉が膨れ上がり、骨格が歪む。
紳士然とした表情が浮かんでいた場所は、つるりとした凹凸の少ない仮面のようなものに変化していた。
後頭部から左右に長い角が生える。歪に捻じ曲がったそれと共に、背中からは蝙蝠のような羽が、そして臀部には長い尻尾が生えた。
両手の先に鋭い鉤爪がついている。
両目があった部分には、瞳をくりぬいて眼窩をさらしたような穴があり、鋭角に尖った牙のような上顎と下顎の間から怪しい輝きがこぼれていた。
肥大した体積はあるべき場所に収まり、一つの形を作り出す。その異形の存在、それは見る者にある空想上の生物を連想させる。


古来より人はそのような存在を・・・悪魔と呼んだ。


「がああああああああああああああああああああああああ!!!!!」


雄叫びが全方位に響き渡る。


「げっ、やべぇ!あのおっさん切れやがった!おっ、おいっこら!下手な真似しやがったら人質は・・・」


その台詞を最後まで言わせずに、悪魔はその体躯に宿る力を限界まで使用し、盛大な音を立てて大地を蹴った。
爆発物が起爆した後のような被害を踏み抜いた足元に残し、恐怖をかきたてる姿のそれが凄まじい速度で疾走する。
そして、体勢を立て直し、夕映達に水の槍を突き立てようとしていたすらむぃの前に、素早く舞い降りた。
ほとんど視認できないほどの速さで彼女の細い首を締め上げ、宙吊りにさせる。
抵抗するようなら一切の容赦はしないと、空いている方の鉤爪を突き付けながら悪魔は言った。


「・・・残念だ。本当に残念だ。なぜ・・・なぜこんなことをしたんだ・・・すらむぃ」


大型の肉食獣が威嚇するかのような唸り声を上げる。
喋りやすくするためだろう、僅かに締め上げている力を弱くして悪魔は自分の部下に尋ねた。


「・・・へっ・・・へへへ・・・そんな事は決まってるだろ?やってみたかったからさ。
退屈でつまらない仕事でも、こういう潤いがあれば楽しくできるだろ?あんたはそうじゃないのか?悪魔さんよ」


「・・・・・・わたしは・・・・・」


挑発的な視線で質問を返したすらむぃに、結局ヘルマンは何も答えなかった。
心底がっかりとした表情で顔を背けたすらむぃが、苦いものを飲み込んだ様子で眉をしかめて小さく舌を出す。
ヘルマンはそれを見つめ、ため息をついて首を振る。そして何かを諦めたように言った。


「・・・・・・君を許すわけにはいかない。ここまでやってしまった以上、けじめはつけてもらう」


「ハッ!!けじめときたか。どこまでも悪魔らしくないな。あんたはよ」


「・・・何か言い残すことはあるかね?」


その言葉を聞いたすらむぃが悩む様子で眉根を寄せる。
そして、空を見上げながら、言葉を発した。


「それじゃ、お言葉に甘えて一つだけ」


ニコリと天使のような微笑みを悪魔に向けて・・・。














「約束の時だ。役目を果たせ」













意味の分からない言葉を口にした。



疑問に思ったヘルマンが、どういう意味かと尋ねようとしたその時、とんっ、といった軽い衝撃と共に微かに視界がぶれる。
背中に何者かの体温を感じた。
驚いて振り返る。そこには何故かすらむぃの檻に囚われているはずの一人の少女がいた。
長めに伸ばした前髪から、虚ろな瞳が片方だけ覗いている。
水に濡れて張り付いた制服を、肉付きの薄い体に纏わせ、風が吹いただけで倒れそうな頼りない足でひっそりと立っていた。
半袖のため、むき出しの両腕が肌寒そうに露出している。そして作り物のような無表情で、艶を失った唇を僅かに震わせた。



ごめんなさい。



少女、宮崎のどかはただ一言、謝罪の言葉を口にした。



突然、燃えるような熱がヘルマンの背中を襲った。先程衝撃を感じた部分に、何かが刺さっている。
首と背中を限界まで捻り、彼はそれを確認した。それは一振りの小さなナイフだった。
地味なデザインは決して華美な印象を与えるものではない。装飾の類は最低限に省かれ、観賞用とはとても言えない。
そのくせ戦闘に使われるとは思えないほど、全体のバランスは歪だった。まず柄が短すぎる。あれでは取り回しに苦労するだろう。
グリップ部分は凹凸がほとんどないほど平坦であり、滑り止めが付いているわけでもない。
鍔は不自然なほど長く、途中で柄の方に奇妙な形で捻じ曲がっていた。僅かに覗く刃元は何故か血のような深紅であり。
そこには、サバトで使われる呪物のような、瞳を表す文様が描かれたいた。
そんな奇妙なものが、ヘルマンの背中に刺さっている。

・・・とはいっても、所詮は少女の非力な力で押し込んだものに過ぎない。刃はほんの少し肉を抉って浅く刺さっているだけだ。
痛みは全くと言っていいほどないし、血が出ているわけでもない。
なぜあの少女がこんなことをしたのかという疑問が脳裏をかすめたが、ヘルマンはとにかくそれを抜こうとナイフに手を掛けた。


結局、最後まで彼は気づけなかった。
何故、非力な少女の力で、ほんの少しでも悪魔の頑強な肉体に傷をつけることができたのか。
その疑問を解消する機会を永遠に失ってしまった。


柄を握りしめ一気に引き抜こうとしたその瞬間。
例えようもない違和感が思考をかき乱した。強烈なめまいが襲い掛かり、平衡感覚をかき乱す。
立っている事さえできなくなって、ヘルマンはがくりと膝をついた。

そして、悲鳴が上がった。恐れを多分に含んだそれは、およそ生物が発するようなものではない。
意識が天空に突き落とされ、地上に向かって飛び立っていく。
バラバラに零れ落ちるパズルのピースのように”ヘルマン”という存在が猛烈な勢いで欠けていく。
視界は閉ざされ闇に放り投げられる。精神と肉体に決定的なズレが起こっていた。
自分という魂が脆弱になっていく感覚。弱り、衰え、朽ちていく有様。
もはや恥も外聞もなく、彼は縋り付くように自分を抱きしめ絶叫を上げた。


「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


「う~ん、いい悲鳴だ。よくやった、のどか」


同じ言葉が延々と滑り落ちていく。消失はとどまる事を知らずにヘルマンという人格を壊していく。
記憶が再生され、破壊される。その揺り籠の中、なぜか頭に響く声だけはクリアに聞こえた。


「楽しんでるか?壊れていく感覚を。この体はなかなかいいぜ。やっぱり同じ”悪魔”だからかね」


「ああぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁっぁぁぁぁああああぁぁ」


「まぁそうはいっても、俺以外の意識はやっぱり邪魔だから、同じ悪魔といえど消えてもらうんだがな」


「あ・・・ああああ・・ああ・・・・・・・あああああああ・・・」


「結局おまえは何がしたかったんだ?
大げさに人質取って、ネギ・スプリングフィールドの魔法を封じて、そのうえで本気の力試しなんて、矛盾してると思わなかったのか?
本気で戦いたいなら小細工なんて抜きでやりゃあいい。
どれだけ脅威になるか調べろ?
馬鹿が。邪魔になるっつーなら容赦なくぶっ殺しちまえばいいじゃねーか。
なんかずれてんだよなぁ、おまえら」


「ぁ・・ぁぁぁ・・・・・ぁ・・・・・・・ぁぁ・・・・」


もはや自分が何であるのかさえ分からなくなってきたその時、その声は、”ヘルマンの口”で”ヘルマン”に最後の言葉を告げた。


「それじゃ、あばよ。おまえは”魔”を冠するにはぬる過ぎる。続きは俺がやってやるから。
まぁ、地獄で楽しくやんな。・・・つってもおまえ、悪魔らしくないから行くのは天国かもしれないがね・・・」


その言葉を聞いた瞬間、ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマンはその意識を消滅させた。


・・・永遠に。


「・・・さて、と」


膝をついたままの姿勢で蹲っていた悪魔が、ゆっくりと立ち上がりながら、グッと伸びをした。
体の動きを確認する様子で、首や手足を動かしている。しばらくそんな事を繰り返していた悪魔だったが、
やがて納得がいったのか、ストレッチを止めると表情がうかがえないその顔を、自分の足元に向けた。
そこにはすらむぃが首をさすりながら、ニヤニヤと笑いつつ立っている。二人は互いに顔を向けあい、そして言った。


「やあ、俺。体の調子はどうだい?」


「やあ、俺。やっぱり排気量が大きいと最高だな。スピードメーターがぶっ壊れそうだぜ」


首をゴキリと回し悪魔が答える。
そして、何が起こったのかいまだに理解できていない面々に向かって、貴族風の丁寧な仕草で挨拶した。





「初めまして皆様方。俺の名前はベルゼブル。どうかよろしく」






黒い眼窩の奥に鈍い光を宿らせた顔のない悪魔が、厭らしく嗤った。







[40420] 18
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:dc1e18e0
Date: 2015/07/16 22:00


湿った空気をかき乱しながら、肌寒さを感じさせる風が通り抜けていく。
雨水が風に翻弄され、夕映を打ち付けていた。反射的に目を閉じ、顔を拭う。
水に濡れて額に張り付いた前髪に、むず痒さをおぼえて片手で払いのけた。
首元に息苦しさを感じて、制服のリボンの結び目を乱暴な手つきで無理やり解く。
連続して起こる予想もできなかった事態に呆然としていたからだろう。だらしなく開いていた口元から一筋の涎が滴り落ちた。
普段なら赤面しながら慌てる場面だ。しかし今の夕映にはどうでもいい事だった。そんな無駄な事に脳細胞を使う余裕が一切なかったからだ。

夕映の瞳にのどかが映っていた。
黒い悪魔の隣に親友が立っている。顔から表情が失われ、目には光がない。虚ろに開かれた瞳は倦み疲れ果てていた。
力なく垂れ下がった両腕が、ぶらぶらと風に揺られている。頼りなげなその姿にそのまま倒れこんでしまうのではないかと心配になる。
彼女はまるで怪談に出てくる幽霊のように、生気を感じさせない姿でそこにいた。


「の・・ぉ・か」


そんな彼女の名前を呼び掛けて失敗する。喉が詰まってまともに声を発することができなかった。
意識して何度も唾を飲み込む。咳き込みながら呼吸を整え、今度こそ夕映はのどかの名前を呼んだ。


「・・・のどか」


蚊の鳴くような声が口からこぼれる。
自分の耳にさえ僅かにしか響いてこなかった。

動揺している。

頭の中の冷静な部分がそう判断していた。混乱して戸惑っている。訳が分からない事が多すぎて、叫びだしてしまいたくなる。
そんな自分を持て余して、夕映は両手で胸をギュウと押さえつけた。
少しでも冷静さを取り戻そうと頭を振って、激情を追い払う。
そして、フワフワと地に足がついていない精神状態で辺りに視線を向けた。

自分たちを取り囲んでいた水の檻は、きれいさっぱりなくなっている。
先程突然消失した。ヘルマンとすらむぃが何事かを話していた時、急に壊れたのだ。
緊急の事態に慌てていたため誤って消失させたのか。それとも、もう人質を必要としてはいないのか。
とにかく言えるのは、再び檻を作って夕映達を閉じ込めようとはしていないようだ。

ふと気になって隣を見ると、刹那に縋り付き木乃香が泣いている。その横ではいまだに意識を取り戻していない那波千鶴が倒れている。
どうやら夕映達を捕らえていたものだけでなく、すべての水牢が一斉に消えたようだった。


「しかし、よくやってくれたな、のどか。お前のおかげでなかなか上等な体を乗っ取れたぜ」


声が聞こえて、夕映は視線をのどか達に戻した。悪魔が彼女を労っている。
鉤爪のついた大きな手でグリグリと頭を撫でていた。些か力が強すぎるためか結構な勢いで左右に揺れている。
それでも彼女は嫌がる様子もなく無表情でされるがままになっていた。
そんな態度がお気に召さなかったのか、悪魔は首を傾げて訝しげに声を掛けた。


「おいおい、ちょっとは喜んだらどうだよ。お前の望み通りなんじゃないのか?この展開は。
結局親友は死なずに済んだし、思い人も生きてる。万々歳だろ?」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「ちっ。おい、のどか!・・・・・わらえ」


突然機嫌を損ねた様子で不機嫌に吐き出された言葉に、ビクリとのどかの身体がのけ反った。
そして彼女は悪魔に言われるがまま、無理やり口元を動かし歪な表情で壊れた笑みを浮かべた。


「よしよし、やればできるじゃねーか!・・・まぁ、ちょおっと目が死んでるし、笑顔も引き攣ってるけどな!OKOK!」


のどかの顔を覗き込みながら悪魔が笑った。
のっぺりとした質感の表皮に不気味に光る二つの丸い穴とギザギザに尖った口しかないので表情はまるで読めないが、それでも声の調子は笑い声のそれだ。
よく言えば豪快な、悪く言えば下品に口元を震わせている。
夕映はぼんやりとうまく働かない頭でそれを聞いていた。延々と同じ言葉が頭蓋骨に反響して繰り返される。


・・・親友は死なずに済んだ。

・・・思い人も生きている。

・・・万々歳。


(・・・・・死なずに・・・済んだ?)


ふと何かが引っ掛かり、霞がかった思考が少しだけクリアになる。
恐れや躊躇が一時的に吹き飛び、気が付けば夕映は悪魔に問いただしていた。


「どういうことですか?」


ほとんど無意識だ。頭の中に浮かんだ疑問が勝手に口から飛び出していた。
それでも疑問を直接口に出したことで、夕映は何が引っ掛かったのか、ほんの少しだけ分かった気がした。
今の言葉は聞き捨てならない。のどかの望み。親友。思い人。死なずに済む。
具体的な事は何一つわからないが、断片的なそれらの単語だけでも不穏な気配が漂っている。

のどかが何らかの形でこの悪魔と関わりを持っているのは、今の二人の様子からするともはや疑いようがない。
しかし考えてみれば何故そんな事になっているのか、事の経緯が全く分かっていないのだ。
それに、あの悪魔の様子も何か変だ。妙に親しげで馴れ馴れしくのどかに接している。
まるで突然別の人格にでもなってしまったかのように性格が変わっている。

目の前にいる悪魔はヘルマンと名乗った老人が変貌した姿のはずだ。夕映はそれを両の目でしっかりと見ていた。
確かにあの老人は夕映達を浚ってここに監禁した張本人であったが、少なくとも紳士的ではあった。
何らかの目的があってネギ達と戦っていたらしいが、夕映達人質には手を出すつもりはないとも言っていた。
現にすらむぃが暴走した後もヘルマンは彼女を止めようとしていた。実際あと少しで彼女の凶行は抑えられたはずだ。
だが・・・。

水牢が破壊されたあの時、のどかが彼に何かをしたのだ。
あまりに急な出来事だったのではっきりとは見えていなかったが、その後だ。彼が突然苦しみだし、今のように人が変わったのは。
それからの事は混乱のさなかにあったためか記憶が曖昧としているが、確か妙な事を言ってはいなかったろうか?


(のどかのおかげで上等な体を乗っ取れた・・・?)


そんな言葉を聞いた気がする。・・・体を乗っ取る。もしそれが言葉通りの意味なら。


(信じられませんが、ヘルマンさんと目の前の悪魔は・・・・・別人?)


夕映は緊張のあまりブルブルと震えそうになる体を両腕で抱きしめながら口を開いた。


「教えてください。のどかに何をしたですか?それにあなたはヘルマンさんじゃ・・・」


「あん?そんな事が気になるのか?綾瀬夕映」


「私の名前を・・・」


「当然知ってるさ。のどかの親友だからな。お前だけじゃない。お前らのクラスにいるやつなら全員の名前を言えるぜ」


まるでそれが当たり前の事であるかのように言い放つ。
そして指折り数えながら、本当に出席番号順に名前を呼び始めた。
悪魔の口から、クラスメイトの名前が次々と呟かれる。軽い調子で一切のよどみがない。本当に記憶しているようだ。
やがて、クラス全員分の名前を言い終えると、あっているかと確認してきた。
夕映が思わず首を縦に振ると悪魔は満足そうに頷いた。


「な、なんで・・・?」


「あ~、そこら辺の事情を教えてやってもいいんだが、その前にする事がある。綾瀬夕映、朝倉和美の携帯で横島を呼び出せ」


「え?」


「朝倉和美の携帯なら番号が登録されているはずだろ?ちゃちゃっと呼び出してくれ」


「ちょ、ちょっと待ってください。横島って・・・横島忠夫さんですか?」


唐突に最近知り合ったばかりの知人の名前が出てきたことで、夕映は思わず聞き返していた。


「ああ、そうだ。奴に用があるんでね」


「よ、用って・・・何であの人が・・・」


「まぁいいじゃねーかそんな事は。そいつも後で話してやるよ。
それに質問も結構だが・・・早くしないと、思わず肩に力が入っちまうぜ?」


悪魔が夕映に顔を向けながら、これ見よがしにのどかの肩に手を置いた。
鋭く伸びた鉤爪が首筋を撫でている。分かりやすい脅しだ。しかしそれが分かったからといって、どうすることもできなかった。
夕映は悔しそうに唇を噛みしめ、それでも言われた通り和美に近づく。そして怖くなってピタリと動きを止めた。
あまりにその姿が静かすぎたからだ。床に横たわる彼女は表面的にはただ意識を失って倒れているようにも見える。
しかしよく見ればそうでないことは明白だった。

だらりと手足が投げ出され、血の気を失った肌は不自然なほど青白かった。
大きめの胸は、規則正しく上下することもない。
よくできた人形のようだ。心のどこかでそう思った。いつもしているヘアピンが外れ、前髪が顔の上半分を覆い隠している。
どんな表情を浮かべているのか、ここからではよく見えなかった。その事が幸運だったのかそれは分からない。
だがもし和美の顔が見えていたら、夕映はいつまでも尻込みしたまま、彼女の体をまさぐって携帯を探す事はできなかっただろう。

覚悟を決めて身を乗り出し、和美の体にそっと手を伸ばす。ひんやりとした感触が掌に伝わり、夕映は泣きそうになった。
眉間に力を入れて、緩んだ涙腺に活を入れる。
震えて思う通りに動かない体にやきもきしつつ、なるべく余計な事を考えないように心掛けた。
和美が着ている制服のベスト。その脇についているポケットから探すことにして、ガサガサと遠慮がちに手を突っ込み有無を確認する。
服が雨に濡れて湿っているせいでなかなかうまくいかない。
どこか固くなっているように感じる彼女の体に触れながら、夕映はひたすら捜索に没頭した。
しばらくはそんな調子で探していたのだが、思いつく限りの場所を探しても彼女の携帯は一向に見つからなかった。
そもそも探すべき個所がほとんどない。ポケットの類は全部探したし、念のためスカートの中にまで手を入れた。それでも見つからない。
のどかを探し回っている時に携帯で連絡を取り合っていたので、寮に置いてきたという事はないはずなのだが・・・。

焦りで変な汗が額に滲む。いつあの悪魔がヒステリーを起こすか気が気でないのだ
短気を起こして、あいつがのどかに何かをする前に携帯を見つけなければならなかった。
とにかくもう一度最初から探そうと和美の体に向き直る。だがその時、ふと思いついてステージの床に視線を落とした。
ざっと周りを見回す。そして夕映はぽかんと口を開けた。
誰かが蹴とばしたのか先程いた場所から遠く離れたところに和美の携帯があった。これではいくら探しても見つからないはずだ。

長時間座りこんだままだったためうまく動かない膝に力を入れて立ち上がる。バランスを崩して倒れそうになりながらも夕映は足を動かし前に進んだ。
携帯の元までたどり着き、拾い上げる。多少雨に濡れてはいるが壊れてはいない。問題なく使えそうだった。
液晶画面を見ながら携帯を操作し、登録してある番号から横島の名前を探して通話ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。頼むから出てくれと空中を睨み付けて念じながら、夕映は重い空気を吐き出した。


「もしもし、和美ちゃんか?どした?」


少し眠たそうな間の抜けた声が電話越しに聞こえる。
寝起きだったのかもしれない。まだそんな時間ではないはずだが、昼寝でもしていたのか。
こちらの状況など一切分かっていないのだろうし責めるのはお門違いなのかもしれないが、耳に聞こえてくる無自覚なその呑気な声に夕映は眉をしかめた。


「和美ちゃん?」


押し黙って無視していたからか、訝しげに名前を呼ぶ声が聞こえた。
和美の携帯電話を使っているので当然だが、夕映の名前ではなく和美の名前を呼んでいる。
その事を意識した時、不意に夕映の心に悲しみがあふれてきた。


和美は・・・・・もういないのだ。


和美と過ごした思い出が脳裏をよぎる。彼女にはなにかと世話になっていた。
修学旅行では学生服を着た白髪の少年に襲われたところを、体を張って庇ってくれた。今日だってそうだ。
のどかの事で頭に血が上っていた自分に協力して、探すのを手伝ってくれた。
いつもカメラ片手にスクープを探していて、ときどき妙な事を企んでは騒ぎを大きくさせたりもしていたが、意外に分別がある事も知っている。
なんだかんだで優しい性格をしているのだ。そんな事を本人に言えば否定するかもしれないが・・・。


(・・・否定・・・・・・する・・・かも・・・)


ポロリと涙がこぼれる。
慌てて止めようと目元を押さえて、握っていた携帯を落としそうになった。
視界が歪み、声が震えそうになる。呼吸するたびに肺の奥が熱くなり、その空気が喉を通って口から出ていく。
俯いた顔を伝って、次々と涙が地面に落ちていった。
悲しい・・・とても悲しい・・・何でこんなことになったのか、答えの出ない疑問で頭がいっぱいになる。


「・・・・・・・・和美・・・ちゃん?」


こちらの様子がおかしい事に気付いたのか、困惑したような低い声が聞こえてくる。
夕映はその言葉に答えようとして、涙声で彼の名前を呼んだ。


「・・・・・・・・・・・横島・・・さん・・・」


途切れ途切れで、聞き取り難い。こんな声量では相手に伝わらないかもしれない。電話越しならなおさらだ。
しかしこれが今の夕映にできる精一杯だった。本当は顔を押さえて蹲ってしまいたかったのだ。何も考えずに感情のまま泣いてしまいたかった。
それでもそんな贅沢が許される状況でないのは、よく理解していた。今ここで自分が折れてしまえば、のどかを裏切ってしまう。
その気持ちだけが夕映を支えていた。


「・・・・・君は・・・夕映・・・ちゃんか?」


少しだけ驚いて顔を上げる。横島はたった一言で話しているのが和美ではない事に気が付いたらしい。
時間がない状況でいちいち説明しなくて済むのは正直助かる。それでも確信が持てているわけではないのか若干自信がなさそうだ。

夕映はとにかくもう一度何か言おうと口を開きかけて・・・何も言い出せずに声を詰まらせた。
・・・・・・・何と言えばいいのか分からなかったのだ。

悪魔は横島をここに呼び出せと言っていた。彼に用があるのだとも。
それがどんなものなのか理由を知らされてはいないが、どうせろくでもない事のはずだ。
問答無用で命を奪われるかもしれない。そんな状況に何も知らない彼を巻き込んでいいのだろうか?
持っている携帯を握りしめる。

・・・だが、だがもしここで悪魔の言う事に逆らえば、のどかがどんな目にあわされるか分かったものではない。
一応、彼女と悪魔は協力関係を結んでいるようにも見える。しかし、それが唯一無二であるという保証はどこにもないのだ。
万が一にでものどかが傷つけられる可能性がある限り、あの悪魔に逆らうわけにはいかなかった。

夕映は唇を噛んで、心の中で電話の向こうにいる横島に何度も頭を下げた。
そんな事をしたところで許される訳がないのは分かっていた。友達を助けるためと、綺麗事を口にしても意味などないのだと。
それでも、夕映はどうしてものどかを助けたかった。たとえそれで無関係な人間を巻き込むとしてもだ。

・・・・・・・・・・・・・・・それに、実を言えば、頭の中である考えが浮かんでいた。

夕映が初めて横島を見た時のことだ。常識と現実が揺らぎ、空想と非日常が溢れていた京都の夜。
すべてが終わって誰もが安堵していたその場所に、何故か横島がいた。彼はひどく調子を悪そうにしていて、連れの女の子に肩を借りていた。
そして慌ただしく帰ってしまったので、その時は結局何も話せなかったのだが、考えてみればあの場に彼がいた事自体がおかしいのだ。
夕映のようにただ巻き込まれただけの一般人である可能性もある。だが、南の島で魔法使いであるネギが言っていた。
・・・京都で横島に助けられたと。

もし、・・・もしそれがあの時のことを指しているのだとすれば。


「・・・・・・・・・けて・・・だ・い」


乾いた口の中で舌が張り付き、うまく発音できなかった。
自分は勘違いをしているのかもしれない。そんな思いが頭に浮かぶ。
彼は本当に何の力もないただの一般人で、夕映が考えているようなことはないのかもしれない。
絶望的な状況で藁にも縋りたい思いが、取るに足らない願望を生み出しているのかもしれなった。

それでも、それがどんなに僅かな可能性だったとしても、夕映はどうしてもその考えを捨てることができなかった。


「たすけてください」


胸の奥はドロドロと熱いのに出てきた声は冷たかった。
もっと必死になって助けを呼ぶべきなのに、自分の感情をうまく言葉に乗せられない。
その事に焦ってみても、どうしても感情と口調に齟齬があった。


「・・・・・お・・・おねがい・・・します。・・・・・のどかを・・・私の友達を・・・どうか・・・・・」


自分の言葉は彼に届くだろうか。こんな事をいきなり言い出して悪戯だと思われないだろうか。
そんな不安が頭をよぎっていた。祈るような気持ちで横島の返事を待つ。


「・・・・・・・夕映ちゃん。・・・君は・・・」


彼が何かを言いかけて夕映が思わず息を止めてその言葉を聞こうとしたその時、突然頭の上から伸ばされた太い腕が持っていた携帯を奪い取った。


「聞こえたか?横島忠夫」


悪魔が鉤爪を器用に操って、携帯を挟み込んでいる。窮屈そうに耳に当てながら横島に話しかけていた。


「なっ、なんだ!?夕映ちゃんの声がいきなり野太いおっさん声に!」


「・・・・・・・おっさんで悪かったな」


「お前誰だ!?夕映ちゃんはどうした!?」


「綾瀬夕映は隣にいるよ。俺が誰なのかは・・・まぁ、だいたい想像がつくんじゃねーか?」


「・・・・・・・夕映ちゃんのお父さんじゃねーよな」


「違うわっ!!ったく、めんどくせーなお前は。・・・もういい、用件だけ言うぞ。
今から言う場所に一人で来い。なるべく急いで来いよ。あんまり遅いようだと、どんどん死体が増えていく・・・」


「し、死体って・・・ナチュラルに物騒な事言いやがって・・・」


「物騒な話だからな。いいか、必ず一人で来い。もし仲間を呼んできやがったら、人質の命はねーと思え」


「人質?ちょっ、ちょっと待て!一体何が起こって・・・」


悪魔は簡潔にここの場所だけを告げて会話を切り上げると、乱暴に携帯を放り投げた。
放物線を描き地面に落下しそうになるそれを、夕映が慌てて受け取ろうとする。
掌の上で二回ほど跳ねた携帯電話をかろうじてキャッチして安堵の息をつく。悪魔が皮肉まじりの声を掛けてきた。


「もう持ち主もいないのに、そんな大事にすることはないだろう?」


その言葉を言い放った悪魔を夕映は反射的に睨み付けた。
悪魔は大げさに、おお怖い怖い、などと言って肩をすくめている。そして舞台を降りると、客席の一つに腰を下ろした。
メキリと音を立てて椅子がきしむ。そして夕映に向き直り、こう言った。


「それじゃあ、答えてやろうか。何が聞きたい?」


「・・・え?」


「約束したろう?事情を説明してやるって。横島忠夫が来るまでの暇つぶしだ。答えられることなら答えてやるぜ」


確かにそんな事を言っていたような気がしたが、まさか本気だとは思わなかった。
あまりの都合のよさに驚いて目を見開く。疑心に心がざわついていて夕映は表情を曇らせた。

今の言葉を素直に受け取るべきだろうか・・・。正直、この悪魔の人格を信じる気には到底なれないのだが。
取引の基準を明確にせず、一方的にこちらに事情を説明した後で無理やり何かを要求する・・・そんな事も普通にありえそうだ。
しかしこれが好機だという事も確かだった。向こうが勝手に説明してくれると言うのなら、素直に聞いておくべきだ。

夕映はそう心に決め、まず初めに一番気になっている事から聞くことにした。


「・・・あなたは、のどかに何をしたですか?」


「そんな大した事はしてないさ。ただ人探しを頼んだだけだ」


「人探し?」


「ああ。俺はちょっとした事情で元いた場所からここに逃げてきたんだが、ご苦労な事にわざわざ追いかけてきた連中がいてね。
一緒に逃げてきた仲間はそいつらに殺された。そんなわけで、ただ逃げ回っていてもいずれは見つかっちまうと思ってな。
こっちからそいつらをあぶりだしてやろうと考えたんだよ。つまり、のどかには追跡者が誰なのか探してもらっていたんだ」


膝に肘をついて、手の上に顎を乗せた悪魔が淡々と説明する。
どこかけだるそうに見える。のっぺりとして表情がないので、気のせいかもしれないが。


「そんな・・・でも、なんでのどかに」


「別に最初から目を付けていたわけじゃない。こいつを選んだのは偶々だ。
つっても、全くの偶然って訳でもないけどな。俺はお前ら、麻帆良学園中等部3年A組に注目していたわけだから・・・」


「わ、私のクラスに?一体なんで」


「正確に言えば、ネギ・スプリングフィールド。神楽坂明日菜。エヴァンジェリンA・K・マクダウェル。絡繰茶々丸。
この四人だな。ほかの連中は・・・まぁ念のためってところか」


「どういう・・・ことですか?」


「今言った四人は俺の仲間が死んだ時その場にいたからさ。ってことは、追跡者も間違いなくそこにいたはずなんだ。
ネギ・スプリングフィールド達がその姿を見ていたかどうかは分からなかったが、二回も仲間の死に関わっているからな。
うまくすれば追跡者と直接接触した可能性すらあった。注目しないわけがないだろう?
・・・っと、重要な奴を忘れてたぜ。近衛木乃香もだ。こいつは俺の仲間に狙われた張本人だからな」


「狙われた?」


「俺たちはこっちに逃亡する際に、力の大半を失っちまってたんだよ。それを補うためには莫大な魔力が必要だった。
それが潜在的なものであっても、魔力量さえ多ければそれでいいからな。
未熟な魔法使い。力を封じられた吸血鬼。魔法の事なんざ全く知らないただの素人。
そんな奴らでも、・・・いやそんな奴らだからこそ、狙いやすかったわけだが。
・・・心当たりがあるだろう?ネギ・スプリングフィールド」


「えっ!?こ、心当たりって言われても・・・」


突然話を振られたネギが、ビクリと肩を震わせる。戸惑う仕草でモゴモゴと口ごもっていた。
実は先程から何度かこちらに接近しようと試みていたネギと小太郎だったが、そのたびにすらむぃの妨害にあっていた。
と言っても直接邪魔されているわけではなく、人質を盾にされてだが。
もはや涙すら枯れたのか全く動こうとしない木乃香の近くに、すらむぃが陣取っているのだ。あれでは迂闊に手が出せない。
それに夕映達の会話にも全く興味がないというわけではないだろう。
生徒たちの事は気がかりだが、この訳の分からない状況を説明してくれるのなら、話を聞くべきだと思っているのかもしれない。
悩むように俯いていたネギだったが、やがて何かに気付いたのか慌てて顔を上げた。


「まさか、大停電の時の!」


「京都の時もだ。お前らは俺の仲間に会っている。おそらく追跡者にもな。
ま、その事はある程度予想できていたんだが、それでも確信は持てなかった。
確信が持てないまま、お前たちに不用意に接触すれば、逆に追跡者に俺の存在が発覚する恐れもあった。
そこで俺は、なるべく自分の気配を消したままでお前らに近づくことにしたのさ」


長々と話していても、その語調に乱れはなかった。声の調子にも淀みがない。
論旨にも筋が通っているように聞こえたし、矛盾があるわけでもなさそうだ。
少なくとも嘘をついているようには見えなかった。
もっとも、しっかりと表情を作れる程、顔の造形に起伏がないので断言はできないのだが。
そんなこちらの考えなど一切関係なく悪魔が話を続ける。


「都合のいい事に俺の能力はそういう諜報向けの仕事に打って付けだった。
それでも一応警戒して、関係者と直接接触することは控えて、その周辺にいるやつらから探りを入れることにしたんだが・・・。
そこで偶々俺の目に留まったのが・・・のどかだった」


悪魔がのどかのいる方向に顔を向ける。彼女は相変わらずの無表情だ。ただ静かに遠くを見ている。
自分の名前を呼ばれ、自分の事が語られようとしているのに、そんな事にはまるで関心がない様子だった。


「・・・・・あるところに。一人の女の子がいました」


突然、悪魔が語り口を変えて話し始めた。低いバリトンボイスで紡がれていく言葉は、妙に響いて耳の奥にこびり付く。
昔話の定型句から始まった物語は一定のリズムで語られていった。


「その女の子は内気で引っ込み思案な性格をしていました。
恥ずかしがり屋な女の子は、わざと前髪を伸ばして、なるべく人と目を合わせないようにしているくらいでした。
静かな場所で本を読むのが好きで、クラスメイトからは本屋なんて呼ばれてもいました。
けれど本当は、内向的な自分の性格を何とかしたいと常々思っていました。
そんな時です。女の子の前に一人の男の子が現われました。
その男の子は自分の目標をしっかりと持っていて、それに向かって努力する事を惜しまない人でした。
自分とは違う。まるでキラキラと輝いているように見えるその男の子の事を、女の子はいつしか好きになっていました。
ある時、女の子は決心します。男の子に告白する事を。
なけなしの勇気を振り絞り、おろしていた前髪を上げて、男の子を呼び出した女の子はドキドキしながらとうとう自分の気持ちを彼に伝えました。

結果は・・・・・・・よくある先延ばしというやつでした。好きでも嫌いでもない。

何ともはっきりとしないその結果に、それでも女の子は満足していました。なぜなら自分の気持ちを彼に伝える事ができただけで満足だったからです。
けれど・・・・・・・けれど本当は、とてもとても気になっていました。男の子が自分の事をどう思っているのかを。
そんな風に心の奥ではずっとヤキモキしながら日々を送っていた女の子でしたが、肝心の男の子は一向に明確な返事をしてはくれませんでした。
それどころか、別の女の子とどんどん仲良くなっていく始末です。
自分の告白は忘れられてしまったのか。男の子にはもう別に好きな女の子がいるのか。
不安に胸を締め付けられていた女の子は、とうとうしてはならない事をしてしまいます。
人の心を読む事ができる魔法の本を使って、男の子の心の中を覗き見てしまったのです。
普段はそんな事を考えもしない女の子でしたが、その時はどうしても我慢が出来なかったのです。魔が差してしまったのでした。

それを・・・・・・・本物の悪魔に見られているとも知らずに・・・・・・・」


それこそ本の内容を読むように、のどかの心を暴いていく。悪魔は静かに語り終えると元の口調に戻って再び口を開いた。


「いどのえにっき・・・って言ったか?あの本。随分と便利だよなぁ。表層意識しか読む事が出来ないって縛りはあるが、それも使いようだ。
まぁそんなわけで、俺はのどかを利用する事を思いついた。俺があいつにした頼み事は二つ。一つは追跡者の正体を突き止める事。
そしてもう一つは、俺が憑代を得るために協力する事だ」


「憑代?」


「さっきも言ったが、力を失っていた俺達には膨大な魔力が必要だったんだ。そいつを得るには魔力の保有者に憑りつく必要があるのさ。
候補者はいたんだが、俺が自力で接近した場合、力を失った状態では下手をしたら霊力が一切ない奴にも殺されかねなかった。
本命に近づくためには、まず協力者が必要だった。のどかにはそれを頼んだんだ」


「待ってください!」


ただ相槌を打ってなるべく話の腰を折らないようにと心がけていた夕映だったが、その言葉だけはどうしても流す事ができずに思わず声を張り上げていた。


「憑りつくって言いましたか?じゃ、じゃあやっぱりあなたは・・・」


「ヘルマンじゃあねーぞ。あのおっさんはもういない。体だけ頂いて俺が食っちまったからな。
でもまぁ、本当はこいつの体を乗っ取る予定じゃなかったんだけどな。俺とのどかが誘拐されたのは、あくまで偶然だしよ」


「え?」


「本来の憑代候補は別にいたのさ。俺がのどかにプレゼントして貰うはずだったのは・・・誰だと思う?ネギ・スプリングフィールド」


背中にある蝙蝠羽を羽ばたかせ、矢印のような先端をしている尻尾をプラプラと揺らしている悪魔が、再度意味ありげな視線をネギに送った。


「・・・え?、だ、誰って・・・」


またしても急に話を振られたネギが、うまく答えられずに聞き取りずらい声を上げる。


「分からねーかなぁ。すげー簡単な話だぜ」


「そ、そんな事言われても・・・」


「それじゃヒントをやろうか?
一つ、憑代候補は莫大な魔力を持っていなければならない。
一つ、そいつはできるだけ、すっとろい奴の方がいい。のどかの手におえる位のな。
最後に、すげー分かりやすいヒントをやる。そいつは・・・・・・10歳のガキだ」


困惑した様子で悪魔のヒントを聞いていたネギが、限界まで目を見開いた。
唇が震えて、持っていた杖がカランと音を立てて床に転がる。そして呆然としたまま、視線を舞台にいるのどかに向けた。


「わかったか?お前だ。お前こそが本来の憑代候補だった。そいつをのどかに告げた時、あいつは泣いて懇願したぜ?
どうかやめてください、お願いしますってよ。でもなぁ、お前みたいな優良物件は、なかなかいなかったんだ。
強大な力を秘めてる割に、精神年齢は年相応。 ユルユルに油断していて隙だらけ。
そういった意味じゃ、力を封印されているエヴァンジェリンの方が遥かに厄介だった。
あいつはちゃんとその事を自覚していて、なかなか隙を見せなかったからな。
なもんで、俺はのどかのお願いを却下しようとした。あの吸血鬼はのどかの手には余る。無理だってな。
だが同時に少し可哀想にもなってね。
ネギ・スプリングフィールド。お前はのどかの思い人だ。そいつをのどか自身の手で、俺に差し出させるのは流石に心が痛む。

だから・・・・・賭けをした」


「・・・・・・・賭け?」


「ああ、もう一つの目的。
追跡者の正体を俺が設定した期限以内に暴くことができれば、ネギ・スプリングフィールドの身体は諦めてやるってな。
それからののどかは見物だったぜぇ。今までタブー視していた覗き見を、誰彼構わずやっちまった。
俺が追跡者は3年A組の近くにいるかもしれないと言えば、クラスメイトの心を覗いた。
それから段々と怪しい人物を絞り込んでいき、僅かな可能性でも拾っていく。そんな事を繰り返していくうちに、のどかは弱っていった。
心優しいのどかには負担だったんだな。
クラスメイトと距離を置き、心配してくれる親友を拒絶した。
だってどの面下げて接すればいいんだ?勝手に心の中を覗き見てるんだぜ?そりゃ、いつも通りではいられないだろう?
だがその甲斐あって、のどかはとうとう見つけたんだ。追跡者をな。
そいつは意外にものどかと面識のある男だった。そいつの名は・・・・・横島忠夫といった」


呆然としながら、夕映はそれを聞いていた。
ポタリと雨に濡れた髪から、雫が滴り落ちる。首筋を濡らし、背中まで伝っていく。
眩暈を起こしたように、クラクラと足元がふらついた。頭の中が真っ白になり、その空白を悪魔の言葉が埋めていった。
次々と語られていく言葉の意味を、うまく理解する事ができない。
役立たずの脳は耳から入ってくる文字をひたすら記憶するレコーダーのようなものだった。

のどかが・・・・・夕映にとってかけがえのない友達が、悩んでいる事には気が付いていた。
話し掛けてもいつもどこか上の空で生返事をしていた。教室でも気が付けば下を向いていて、気分がすぐれない様子だった。
そんな彼女が心配だったから、何度も相談に乗ると声を掛けた。それがどんな悩み事であったとしても力になれるつもりだったのだ。
しかし、そんな風に思い上がって言葉を掛ける度に、のどかは傷ついていたのか。
クラスメイトを、友達を騙している事に、自責の念を抱いていたのか。


「そうだ。お前らも知ってる、あの間抜けだよ。
綾瀬夕映。お前この間あいつと飯食った時の事を覚えてるか?実はあの時、のどかは横島の心を読んでたんだぜ?
こっちで会話を誘導する前に余計な事を考えていたみたいで都合がよかったんだがな・・・。
あれで確信できた。あいつこそが追跡者だった。のどかは見事に俺の期待に応えてくれたよ。
だからご褒美に、お願いを叶えてやる事にしたんだ。ネギ・スプリングフィールドの身体からは手を引く事をな。

まぁ・・・・・・・・・代りに、別の憑代を要求したんだがね」


椅子に深く座り直し悪魔は言葉を続ける。


「俺がネギ・スプリングフィールドの代わりに選んだのは・・・」


そして視線を絶望に沈んでいる木乃香に向けた。


「おまえだ、近衛木乃香」


雨が強くなっていく。灰色のキャンパスに白い線を書き殴ったような光景が悪魔の姿を朧にさせた。
強風に煽られて、周囲にある木々がザワザワと不吉な音を立てる。天空に光が生まれる度、身が竦むように轟音が鳴り響いた。
それらの音の中にあっても全くかき消される事なく、悪魔の囁きはその場にいる者たち全員に平等にもたらされる。


「そう、のどかのクラスにはもう一人、与し易そうな奴がいた。
凄まじい力を持ってはいるのに、それを全く生かし切れていない娘がね。
女の身体ってのが少々気に入らなかったが、それも我慢出来ないほどじゃない。
でもなぁ、のどかはまた俺の要求を拒否しやがったんだ。そんな事は無理だ!絶対できない!!・・・てな。
泣いて縋り付き、仕舞いには自分の体を明け渡すとまで言いやがった。
ははっ、まぁそれがのどかと近衛木乃香の違いだ。大好きなせっちゃんの代わりに自分が死ぬとは言えなかったもんなぁ?
木乃香ちゃんよぉ」


その言葉を聞いた瞬間、自分が悪魔に狙われていたと聞いた時も全く反応しなかった木乃香の肩が、ピクリと揺れた。
自分自身を抱きしめ、刹那の体に額を押し付ける。声を出さずに泣きながら、彼女は全身を震わせていた。
その姿を鼻で笑い悪魔は再び語りだす。


「のどかの体も悪くはないが、それでも他の連中に比べりゃ見劣りする。
今度ばかりは、いくらのどかの頼みでも受け入れる訳にはいかなかった。
あっちもダメ、こっちもダメってんじゃ、俺はいつまでたっても体がないまんまだからな。
心を鬼にして、要求を突っぱねようとした・・・んだが。
まぁ、ここまで頑張ってくれたからな。大サービスで選ばせてやったんだ。・・・・・どっちにするか」


労いの後に、さらりと口に出したその言葉は途轍もなく軽いものだった。
軽薄で綿毛のようにフワフワと空中に浮かんできそうだ。夕映は、この悪魔が冗談を口にしているのではないかと本気で疑った。

・・・・・選ぶ?選ぶってなんだ?悪魔に差し出す?好きな人と、友達を?

ぞっと背筋が凍る気がした。伝えられた事実に拒絶反応が起こる。辺り構わず叫びだしたい衝動があった。
胸が苦しくなって、体を丸め呻き声を上げる。濡れた制服が皺になり、ポタリポタリと水が滴った。
目の奥がどうしようもなく熱くなる。瞳に水の膜が張り、視界が霞んで何も見えなくなってしまう。
込み上げた思いが眼球を通して溢れ出てくる。とうとう堪えきれなくなって目の縁から零れ落ちていった。
泣きすぎて荒れてしまった頬に涙がしみる。パシャリと微かな水音が耳に届いた。いつのまにか足元の小さな水たまりに膝をついている。
立っている事もできなくなって、夕映はその上に両手をついた。


そんな・・・そんなのは・・・・・・・・・・あんまりだ・・・・・・・・あんまりではないか・・・。


(・・・・・のどか・・・)


喰いしばった歯の間から、小さく嗚咽がこぼれる。伏せたまつ毛から次々と落ちてくる涙が、床の水たまりに落ちて一体となった。


「のどかは・・・どっちを選んだと思う?綾瀬夕映・・・」


「・・・・・・・・・・・・・・・」


「ちなみに期限は今日まで。ここ数日、のどかは学校を休んでたろ?食事を取る事も、満足に眠る事も出来ずに、あいつは苦悩し続けたんだ」


語る言葉が止まらない。不快で汚らわしいその声がただその場に流れ続ける。


「悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで・・・そして・・・・・・・・・・選べなかった」


その苦悩こそが聖人のそれであるとでも言いたげに、のどかを見ながら悪魔が優しい声で呟く。
座っていた椅子から立ち上がり、ゆっくりとした足取りで、再び壇上に登った。
そしてのどかの元まで歩いて行き、隣に並び立つ。


「そう、のどかは結局どちらを俺に売り渡すか選べなかった。それが何を意味するのか、本人が一番よく分かってたのにな」


呆れた様子で苦笑している。頭の上から降ってくるそれに反応し、夕映は力なく項垂れていた顔を上げた。
視線が交差する。いつの間にか悪魔がこちらを見つめていた。顔を合わせ目が釘付けになる。

蹲った姿勢で見上げると、余計にその姿は大きくそして恐ろしく感じられた。
生物的な質感を持った甲冑のような胴体と、体型に比べて不自然なほど長く伸びた手足を持っている。
人間の姿だった時もかなりの長身だったが、今は二回り程全体が大きくなっているように見えた。
節くれだった指先が鋭く伸びた鉤爪と一体となっており、軽く撫でられただけでも傷を負ってしまいそうだ。
精巧な作りの仮面をかぶっているような顔立ちは、ある意味機械のようでもある。
本来目や口があったその部分が、時々明滅するので余計にそう思えた。

その姿を視界にとらえ、夕映は暗い目をしたまま口を引き結んだ。
正直に言えば、もうこの悪魔の言葉を何一つ聞いていたくはなかった。
それでも脱力した両手では満足に耳を塞ぐ事もできない。
勝手に届いてくる言葉によって、自分の魂が削られていく錯覚を感じながらここに居続けるしかなかった。
その事に失望を覚えて、細く息を漏らす。見られていると自覚するだけで、何かが失われていくような喪失感があった。
思わず目を伏せ再び俯く。後頭部に視線を感じたまま、夕映は小さな自分の両手を握りしめた。


「・・・全く、単純な計算だろうに。一人見捨てれば、二人は助かるんだぜ?
にも関わらず、どっちも選ばねーってんじゃ、誰も救われねーのになぁ」


その言葉を聞いた途端、何かが引っ掛かって突然夕映の心がざわめき始めた。
焦りが動悸を速めて血の巡りが速くなっていく。背中に寒気を覚えて体が僅かにふらついた。

・・・今、目の前にいる悪魔が妙な事を言わなかったろうか?

疲労しきった頭では満足に考える事も出来ない。それでも、薄い霧がかかったようなその思考で、無理やり答えを導き出そうとする。

一人見捨てれば二人助かる・・・・・・。


(・・・え?)


動揺が夕映の精神をかき乱す。混乱し、思わず声を上げそうになる。
一人・・・二人?なぜ?そのままフリーズしてしまいそうな意識をかろうじて繋ぎ止める。
夕映は何度も落ち着けと心の中で念じながら、ゆっくりと頭の中を整理した。
先程の悪魔の言葉を脳内で再生する。

悪魔は言っていた。自分の憑代にネギと木乃香のどちらを選ぶか、のどかに決めさせたと。
選ばれた方が悪魔に食われるのだとすれば、助かるのは選ばれなかったもう一人だけのはずだ。

・・・・・何故悪魔は二人が助かると言ったのか。


「二人・・・ってどういう事ですか?」


「あん?」


「今、二人助かるって言ったですよね」


「ああ、気付いたのか、綾瀬夕映」


顎を撫でながら、悪魔が笑う。この悪魔と向き合うたび、慣れる事のない恐怖に心臓が跳ねあがる。
真綿に包まれるような圧迫感に身が竦みあがった。
心が委縮し思わず下を向きそうになるが、なんとか耐える。どうしても聞かなければならないのだ。
湧き上がってくる嫌な予感に怯みそうになりながらも、夕映は何とか踏みとどまった。


「のどかが・・・」


悪魔がチラリとのどかに視線を送る。彼女は相変わらず無言のままそこにいた。
雨に濡れて重くなった髪は、吹きさらしの風にもなびくことはない。陰になってこの位置からでは顔がよく見えなかったが。


「のどかが、なぜこんなに俺の言う事に従順なのか・・・不思議じゃないか?」


質問に質問で返される。はぐらかされたのかと一瞬頭に血が上りかけるが自制する。
表情がないので考えている事をほとんど読むことができないが、どうもそうではないらしい。
話し掛けてくる悪魔の口調は、いっそ穏やかと言ってもいい程だった。試すように見つめてくる。
それもただの勘違いなのかもしれなかったが、とにかく悪魔はこちらの答えを待っているように思えた。
あんたがそれを言うのかと唇が吊り上りそうになる。夕映は頭に浮かんだ答えをそのまま返した。


「それは・・・あなたに脅されていたからでしょう?殺されると思えば誰だって・・・」


いまさら何を分かり切ったことをと不快に感じて目元を険しくさせる。自分の命をつりあいに出されれば従うしかないではないか。
悪魔は納得したのか一度こちらに頷きかけると、それでも夕映の言葉を否定した。


「確かにな。だが俺は一度ものどかを殺すと脅した覚えはないぞ?・・・少なくとも直接的にはな」


「え?」


それは意外な事のように思えた。今までの経緯から当然そんな事を繰り返しているのだとばかり思っていたのだが。


「考えてもみろ。好きな奴と友達を天秤にかける事が出来なくて、自分の体まで差し出そうとした女だぞ?
てめーの命惜しさで俺に服従すると思うか?別の理由があんだよ」


「別の・・・理由?」


「まぁ、実際に見せるのが手っ取り早いな。おい、”俺”。・・・起きろ」


その言葉が聞こえた瞬間。項の辺りで何かがゾワリと蠢いた。
無理やり脊髄を引きずり出されるような、途轍もない悪寒が肌を粟立たせる。
脳神経が焼き切れてしまいそうな衝撃が、チカチカと目の奥で火花を散らす。胃が収縮し、体温が上昇する。
微かな痛痒感が、抑えきれない吐き気と熱を伴った恍惚を同時に引き起こす。
自分の体に突然起こった変化に耐えられなくなって、夕映は小さく悲鳴を上げた。
何かが・・・異常な何かが自分の中から這いずり出てくる。
黒く不吉で邪悪なその気配が急速に高まり、そして・・・・・それが現われた。


「ああ、出番か。よう、夕映。こうやって話すのは初めてだな」


耳の後ろから明るい声で話し掛けられる。いや正確には後ろの方からとしか分からない。
方向性は不明瞭で、距離感がつかめない。すぐ近くであるような気もするし、すごく遠くであるような気もする。
ただ一つはっきりしているのは、その声が目の前にいる悪魔と全く同じものであるという事だった。


「わっ!わああぁあ!!いぃぃいいやぁ、あああああああああ!!!」


例えようもない違和感に、全身の産毛が逆立った。こめかみから頭頂部にかけて引き千切るような勢いで髪をかき乱す。
血の気が引いて眩暈がする。胃液が逆流し、喉を通って吐き出される。生理現象で目元に涙がたまり、鼻の奥が熱くなる。
夕映は蹲ったまま、止める事も出来ずにひたすら嘔吐し続けた。その様子を”頭”の中にいる声が嘲笑う。
おいおい、いきなり失礼な奴だなと、呆れた様子で嘆息していた。


「つまりそういうわけだ。のどかの親友であるお前が人質だったんだよ。
俺のクローンは、本体のように体を完全に乗っ取れるわけじゃないが、一時的に肉体を操る位の芸当はできる。
綾瀬夕映。お前は眠っていたから知るわけないだろうが、俺はちょくちょくその体を操っていたんだぜ?
のどかの脅しにお前ほど効果的な奴はいなかったからな。
俺がちょいとカッターナイフを首筋にあてがってやると、のどかは面白いように言う事を聞いてくれた。
ネギ・スプリングフィールドと近衛木乃香。
どちらかを俺に差し出せば、残った方とお前の命は救われる。一人を失い二人が助かる。単純な計算と言ったのはこれさ。
選べなかった時点で、お前は死ぬ・・・・・・それをのどかは知っていたんだ。だから、あの時謝っていたのさ。ごめんなさいってな」


悪魔が肩をすくめる。
何事かを言っているようだが、夕映はそんな話を聞くどころではなかった。自分以外の意識が頭の中に巣くっている。
その異常に悶絶していたからだ。脳髄が震えて、精神の均衡が崩れかかる。恐怖が・・・恐怖だけが思考の全てを覆い尽くしていく。
強く胸を打った時のように、うまく呼吸ができない。視界が黒に染まりかけ、失神しかけていた。


「あ・・・あ・・・・あ・・・・・・ああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」


自分を構成する細胞の一片が、強制的に書き換えられている錯覚に、夕映の嫌悪感が限界を迎えた。


「ははっ、大げさな奴だな。”俺”がいるからって、肉体には大して影響もないはずだぞ。
実際あのスライム女も、今は気を失っているだけで、意識を取り戻せば操られていた事自体覚えていないだろうしな。
しかしあいつも間抜けだよなぁ。よりにもよって、俺を取り込んでいたのどかを食っちまうんだから。
何となく面白そうだったんで、しばらく成り行きを見守っていたが、まさか旨そうな獲物が自分から食われに来るとは思わなかったぜ。
ある意味じゃ、どんなものよりも相性がいいかもしれないな。同じ”悪魔”の身体ってのは・・・」


悪魔が自分の体に爪を這わせ、物理的に目を光らせる。
そして叫び続ける夕映の声が耳障りだったのか、それとも単純にこのままでは会話にならないと思ったのか、自分のクローンに引っ込んでいろと命令した。
なんだよ出て来いっつったり、引っ込めっつったりよ~と、ブツクサ文句を言いながら夕映の中から不快な感覚が消えうせた。
突然苦痛から解放された事で、全身の力が抜けてガクリと床に倒れ伏す。涙を流しながら荒い呼吸を繰り返した。
そのまま頭を抱えて蹲る。目を閉じ、耳を塞いで、口を引き結ぶ。夕映は胎児のように丸くなったまま一切の動きを止めた。
無理だ。もう無理だ。何も考えられない。考えたくない。考えてはいけない。
少しでも気を緩めれば再びあれが出てくるような気がして、夕映は恐怖に怯えながら思考を放棄した。
・・・・・それでも、悪魔の言葉からは逃れられない。


「これも日ごろの行いがいいせいかね。幸運ってのは突然降ってくるものらしい。
ああ、これはのどかにもいえる話だな。ヘルマンのおっさんが現われたおかげで、誰も失う事がなくなったわけだからよ。
ははっ、これで死ぬ必要はなくなったな・・・のどか」




あまりに・・・あまりにサラッと吐き出されたその言葉に、壊れかけた意識が再び目を覚ました。




「の、のどかが・・・・・・・し・・・ぬ?・・・・・な・・・なんで・・・」


「うん?あぁ、さっき期限は今日までって言っただろ?
結局どっちも選ばなかったから、俺はお前を殺すつもりだったんだが・・・のどかはな、お前と一緒に死のうとしたんだよ。綾瀬夕映」


「・・・・・・・・・・・・・・・え?」


「いわゆる後追い自殺ってやつだ。・・・ちょっと違うか?まぁいいか。
のどかは最後にお前に会って、お前を助ける事が出来なかったことを詫びて、その後に死ぬつもりだったんだ。
死に場所を求めて飛び出していったところに、ちょうど誘拐犯が現われたって話さ」


「・・・・・そ・・・・・そ・・・んな・・・」


力ない言葉が口からこぼれた。ゆっくりとのどかに視線を送る。

あの時・・・自室の前でのどかに出会ったあの時。もう既に・・・彼女は死ぬもりだったのか。
夕映を・・・自分を助ける事が出来ないから・・・だから、自らの命を捨て去るつもりだったというのか。

抱きしめられた時、背中に感じた体温を思い出す。ぐずりながら首筋に顔を押し付けていたことを思い出す。
震えながら、涙声で何度も何度も謝罪の言葉を繰り返していた姿を思い出す。

どれだけ・・・・・・怖かったろうか。

恐ろしい悪魔に人質を取られ、好き勝手に利用され脅迫されていた。
自分の行動いかんで大切な人たちを失ってしまうという恐怖に・・・さらされ続けていた。

そう・・・のどかは、誰にも相談する事ができないまま、ずっと戦っていたのだ。
自分達を必死になって守ろうとしてくれた。
他人の心を暴くという罪に、心を押し潰されそうになっても・・・それでも彼女は何も言わずに・・・たった一人で・・・。


「全く・・・人間ってのはどうしてこんなに愚かかねぇ。所詮他人の命だぜ?
どうでもいいじゃねーかよなぁ。自分が死ぬ理由なんて一つもねーじゃねーか。
それなのに、守る事が出来なくてごめんなさいだとよ。
はっ・・・・・・・・・・くっだらねぇ」


笑う。悪魔が嗤う。のどかを、のどかの苦悩を、のどかの思いを、嘲笑う。
愚かだと、くだらないと、好きな人を、友達を・・・夕映を守ろうとしてくれたその心を・・・踏みにじる。
お前のしてきた事に価値などないのだと・・・見下し、貶め、蔑んで、侮辱した。



笑う、嗤う、ワラウ、わらう、笑う、嗤う、ワラウ、わらう、笑う、嗤う、ワラウ、わらう。



頭の中が空白で満たされて、何も考えられない。



何かが・・・・・・・解放された気がした。



「ぁぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!!!!」



灼熱した視界が何もかもを歪ませる。錆びついて軋んだ関節が、委縮し役目を放棄していた筋肉が、唸りを上げた。
屈服し、腐りかけていた意思に炎が灯る。全身の細胞がただ一つの事だけを叫んでいた。

許せない・・・・・許す事ができない。
あれを・・・目の前でのどかを嗤うあれを・・・・絶対に・・・絶対に許してはいけない。

心が暴れだし、雄叫びを上げる。そして夕映は・・・・・・・。


気が付くと目の前の悪魔に全力で殴り掛かっていた。


「あああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」


もはや・・・もはやどうでもよかった。
なんの力もない非力な自分が、悪魔に殴り掛かったところでどうせ無駄な事だとか。下手をすれば、虫けらのように殺されるとか。
頭の中に巣くう悪魔が、自分の身体を操ろうとするかもしれないだとか。
そんなものは・・・・・本当に、心の底からどうでもよかった。

夕映の心を占めているものはたった一つだ。恐怖も、プレッシャーも、今この瞬間だけは全てが吹き飛んでいた。
血液が沸騰するような赤が、ドロドロとして何物にも染まる事のない黒が、夕映の中から止めどもなく溢れてくる。
そこには、ただ一つの感情しかない。ただ一個の塊でしかない。自分という存在が、明確な一つの意思によって統制されている。

怒りだった。
夕映は生まれて初めて、気が狂うほどの怒りを味わっていた。
純粋で、混じりけのないもの。どこまでも透き通っている鈍く暗い輝き。

いまここであの存在を許してしまえば、自分は一生のどかを親友とは呼べなくなるだろう。
二度とあいつの口からのどかの名前を呼ばせないようにする。触れる事も、同じ場所で呼吸する事さえできないようにする。

それは・・・或いは殺意と呼べるかもしれない。相手の存在を亡き者にする。消えてくれと全身全霊で願う行為。
そんなものを殺意と呼ぶのなら。今、自分を支配しているものはまさしくそれだった。

たとえ何もできずに終わる事になったとしても・・・。

目の前の敵を・・・。

力を入れ過ぎて、震えるまで固めた拳を握りしめ、夕映は悪魔に向かって特攻した。


・・・そして。


見えない何かに押され、あっけなく空中を弾き飛ばされた。

眼前にいたはずの敵の姿が、掻き消える。景色が歪み、視界が上下した。
平衡感覚が失われると同時に、一瞬くるりと体が宙を舞う浮遊感を感じ、直後に冷たい床の上に落下する。
身体が叩きつけられる鈍い音を耳ではなく全身の骨によって感じながら、フロアシートを滑っていく。
衝撃に肺の空気が押し出され息が詰まった。自分の喉から無理やり絞り出されるような、か細い声が聞こえてくる。
不思議と痛みはあまり感じなかった。ただ・・・幕が閉じるように暗転していく光景にぞっと背筋が凍りつく。
自分は今意識を失いかけている。何もできずに床を転がされ、なすすべなく気絶しようとしている。
のどかを・・・・・あんな状態の彼女を置き去りにしたままで・・・。


「か・・あぁ・・・・ぐ・・ぅ」


襲い掛かってくる闇に必死で抵抗する。強制的にこちらの意識を奪おうとするそれは、甘美な感覚を伴う麻薬のようなものだった。
心地よい眠りに夕映を誘おうとしている。辛い現実を・・・親友を忘れて、痛みのない世界に連れて行こうとしていた。
抗う事は困難だった。なぜなら夕映自身そうしてしまいたいという欲求を、心のどこかで持っているからだ。
肉体も精神も限界に近かった。次々に訪れる悲しい出来事に、我を失いそうになっている。消耗し、疲弊している。
抵抗すること自体が無意味な事のように思えた。

しかし。

ちっともこちらの言う事を聞かない体に悪態をつきながら、立ち上がろうと肘に力を入れる。
体重を支えている両腕が震えながら悲鳴を上げていた。がくりとバランスを崩して再び床に転倒する。
・・・もう一度。霞がかった頭でそれだけを考える。何度倒れても、その度に立ちあがって、そして・・・。
失神しかけながら、羽を毟られた蝶のように、もがき、足掻いている夕映に悪魔が言葉を投げかけた。


「弱さってのは・・・・・・哀れだねぇ。お前今、俺に何をされたかも分かってないだろう?
デコピンだぜ。しかも当てないように衝撃だけ飛ばして、滅茶苦茶手加減したやつ。そんなカスみたいな攻撃でお前は前後不覚の有様だ。
理解できるか?要するに、お前がどれだけ俺を殺したいと願っても、そんなものは俺のデコピン程の価値もないってことだ。
お前の感情も存在も、弱いってだけで無価値になる。まったく・・・惨めなもんだ。人間は・・・」


耳でその声を聴いていた。頭でも理解していた。それでも夕映は止まらなかった。止まろうとも思わない。
弱くて、哀れで、惨めだったとしても・・・どうしても、やらなければならない事があったからだ。
膝が笑ってうまく立てない。目が霞んで前がよく見えない。気付いていないだけで強く頭を打っていたのかもしれない。
クラクラとして今にも倒れてしまいそうだった。這いつくばるように腰から体を起こしていく。そして深呼吸を一回。
長い髪が顔にまとわりついて気持ちが悪かった。だがそれを振り払う余裕がない。

震えている膝を擦るように押さえながら、渾身の力で立ち上がる。フラリと体が傾いた。覚束ない足で何とか踏みとどまる。
そして、そのままゆっくりと悪魔に向かって歩き出した。
眠りながら歩いているかのように、虚ろに開いた瞳は焦点が定まっていない。当然のようにその足取りも安定性を欠いていた。
あと数歩進めば何もしなくても勝手に倒れてしまうと、それを見ていた誰もが思った。
しかし・・・全員の予想に反して、夕映は転びもしなければ倒れもしなかった。

老人のように遅い歩みは、それでも呆れた視線を向けてくる悪魔の元まで続いた。
面倒そうに腕を振って、悪魔が纏わりつこうとする夕映を払い除けようとした。

・・・しかし。

彼の腕は身を屈めた夕映の頭上を空しく空振りした。ギョッとして悪魔が振り返る。
そこには先程までと違って、機敏な動作で明日菜の元に走り寄る彼女の姿があった。
蹴躓き、転びそうになりながら、夕映は意識を失ったまま眠りについている明日菜の首飾りを強引に掴んだ。
そして、力任せに引き千切る。
見た目に反してあまり頑丈にはできていなかったらしい。鎖の部分からバラバラと壊れていった。

やった・・・と僅かに笑顔を浮かべた夕映がその場に頽れる。これで少なくともネギの魔法は無効化できなくなった。
怒りのままに殴り掛かってなすすべなく吹き飛ばされた時、これを閃いた。あの首飾りを破壊する事を。
確かに悪魔の言う通り、夕映の存在など彼にとっては取るに足らないものでしかないのだろう。
仮にあのまま拳を当てる事が出来たとしても、何のダメージも与えられなかったはずだ。
しかし、それならば別の誰かに頼めばいいのだ。自分の、和美たちの、そしてのどかの無念を晴らす事ができる人物に後を託せばいい。

たとえそれで死ぬことになったとしても夕映は満足だった。あの悪魔を出し抜いた。自分にできる精一杯をやった。
のどかと同じように戦ったのだ。諦めずに最後まで。
膝をつき、前のめりに倒れこむ。とうとう限界が来てしまったらしい。全身が弛緩し、徐々に目蓋が閉じていく。
口元を綻ばせたまま・・・。


夕映は今度こそ甘い眠りに落ちていった。





◇◆◇





絶え間なく降り注いでいる雨音だけが規則正しく聞こえていた。
夕映の行動に誰もが意表を突かれ、身動き一つできずに佇んでいる。
そこには、ある種の空白が生み出されていた。

だがそれもほんの一瞬にすぎないだろう。
幾度が瞬きするだけで壊れてしまうような儚い緊張でしかない。

・・・はずだった。

彼女が生み出した間隙に唯一反応し、飛び出した者がいた。
小さな人影がコンクリートを蹴りつけ、雨の中を疾走している。
ほとんど飛ぶように跳躍したその影は、標的に接近しながら愛用の杖を振りかざし呪文を唱えた。


「魔法の射手!戒めの風矢!!」


甲高い声と共に、風を纏った捕縛属性の魔法の射手が杖の先端から発射される。
舞台中央にいた悪魔の横をすり抜けて、驚きの表情で目を見開いていたすらむぃに接触した。
瞬間。見えざる風の拘束具が全身をその場に縫い付ける。
身動き一つ取れないほど雁字搦めにされた彼女は、口を動かす事すらままならない。
人影・・・ネギ・スプリングフィールドの目の端にチラリとその姿が映りこんだ。

・・・そして。



「うわあああああああああああああああああああああ!!!!!」



彼は絶叫した。


今までため込んできた鬱憤を晴らすように、全身から発せられた魔力の奔流が渦を巻いている。
暴風が周囲にいる人間を僅かにぐらつかせ、風のカーテンが視界を遮った。
ネギはそれに紛れながら小さな拳を握りしめた。体を捻りこみ力をためる。呼気は短く鋭い。自分自身を一振りの武器として突き上げる。

踏込と打ち込みは、ほとんど同時に行われた。凝縮した魔力が圧力を伴い暴れだす。拳が接触した瞬間それは標的の肉体にばらまかれた。
体格差などものともせずに、重力など知った事ではないと悪魔が空に飛び立っていく。
そのまま馬鹿げた速度で天井に激突し、鉄骨を歪ませ、周りの照明を破壊した。残骸と複雑に絡み合い、完全に固定されている。

ネギは続けざまに呪文を唱えた。


「雷を纏いて吹きすさべ、南洋の嵐!雷の暴風っ!!」


自然現象を無視して局地的に発生した竜巻が、膨大な力となって解き放たれていく。
大気を吹き飛ばし、破壊が創造される。雨水が吸い寄せられ、暴風雨となって雷撃と共に突き進んでいく。
瞬間的に発生した白光が悪魔を飲み込んでいった
完膚なきまでに天井を壊しつくし、空の彼方へ吹き飛ばす。

ネギは杖に跨りそのまま空中に飛び上がった。魔法の直撃を食らって落下していく悪魔を追撃する。
組み合わせた両手の先にバチバチと物騒な音を立てながら魔力が収束していく。無防備な敵の頭部にそれを全力で振り下ろした。
硬い物体を鈍器で殴りつけたような鈍い音と共に、悪魔が大地に墜落する。
その姿を上空から睨み付け、ネギは呼吸を整えた。心の内側が沸き立つように熱くなっている。
少年は冷静になる事を諦めていた。むしろ意図的に無視していたと言っていい。これからする事にそんなものなど必要ないからだ。


きつく目蓋を閉じ、拳で心臓を叩く。ネギは二つの事を覚悟した。


「があああああああああああぁぁぁ!!!」


再度絶叫が上がる。体全体を覆う魔力が吹き上がり、威力を伴った数条の光線になる。
最初は数えるほどしかなかった光の束が、十本、二十本と増加していき、見る間に五十を超えていく。
発光。収束。射出。着弾。切れ間なくそれが繰り返され、地表を丹念に削り取っていった。
数十台の削岩機を同時に起動したように、凄まじい破壊音が鳴り響く。湿った土砂があちこちにまき散らされ、衝撃が周囲を揺るがせた。
標的の姿は破壊の連鎖に飲み込まれて姿形も見えなくなる。逃げ場など何処にもないのだと、その場に釘付けにしていた。
だが、無限にも思える弾幕の嵐は急速にネギの心身を消耗させていった。
骨の形がくっきりと浮かび上がり、頬がこけ、目の周りが落ちくぼむ。ただでさえ肉付きの薄い少年の体に尋常でない負荷がかかっていた。

それは代償だった。本来なら不可能な量の無詠唱魔法を、限界を超えて使用しているからだ。
それも己に宿る魔力をそのまま打ち出すといった不完全なやり方で。
いかにネギの魔力容量が強大であろうとも、呪文による術式の選定が明確でない無詠唱魔法は、術者に対して疲労以上の衰弱をもたらす。

感情の高まりが潜在能力を極限まで引き出していたとしても、そんな事を続けていればまっているのは確実な死だろう。

本人も十分に理解していた。だからこれが一つ目の覚悟だ。自分の命を顧みない術の行使。
そんな無茶どころか無謀でしかない暴走を、ネギは実行していた。


「ぐぅああああああぁぁぁぁぁぁ・・・」


怒りを表す雄叫びが苦悶の悲鳴に変わっていく。肉体以上に精神が蝕まれているため、まともな思考能力さえほとんどなかった。
それでもやるべき事だけは分かっていた。・・・もう一つの覚悟。
のどかを苦しめ、夕映達を傷つけ、何より自分の大切な人たちを殺したあの怨敵を、完全な形で消滅させる事。
ネギにはその手段があった。日本に来る前に修めた戦闘用呪文の一つ。過去の悪夢に対抗するための切り札。
もはやあれを使うのに躊躇いなどなかった。たどたどしい口調で呪文を紡いでいく。

失われていく魔力は水道の蛇口を目一杯捻っているように放出されている。
途中でフッと意識が遠のきかけて、気付け代わりに唇を噛みきった。
錆びた鉄の味を舌の上で転がしながら、ネギは最後の一息を口から絞り出そうとした。


・・・・・だが。


最後の呪文を唱え、魔法が発動するその瞬間。何故か視界が反転していた。


(・・・え?)


地面を睨み付けていたはずなのに、空が見えている。その事に疑問を感じるより前に、視界が猛烈な勢いで”回転”を始めた。
眼球自体が万華鏡になってしまったようにクルクルと世界が回っている。空の灰色。木々の緑。土の茶色。人工物の白。人の肌色。
そして自らの体から流れ落ちている血の紅が全て混ざり合い、虹のような曲線を描く。そんなありえない光景がただ流れていく。
ネギの体に無秩序な回転が加えられていた。
遠心力によって内臓が圧迫される。三半規管が役目を放棄し上下感覚が消失する。
落下しているのか、それとも浮き上がっているのかもわからなくなり、ただ引き裂かれるような強烈な痛みが襲い掛かってきた。
泣き叫ぶことさえできない。肺の空気は残らず搾り取られている。
何が起こったのか。何をされたのかも理解できなかった。最後の一息を吐き出す瞬間。おそらく何かに吹き飛ばされたのだろう。
正体不明のそれに巻き込まれ、呆然としたまま死にゆく己を止める事が出来ない。
ほとんど失神しかけたままネギは地面に墜落していった。


「ネギ!!」


まどろんだ意識の中で、誰かの悲痛な叫び声が聞こえた。
目に霧のような白いもやがかかっている。その中を小太郎が必死の形相で走っていた。
視点が定まらず、暗闇に沈んでいく。








・・・・・暗い。

・・・・・・・・・暗い海の底に沈んでいる。

一切の光が届かないその場所は、誰もが孤独で独りぼっちだ。
何一つ変わり映えしない停滞した空間。個々の認識さえ曖昧で、己の感覚も闇に溶けている。
静寂。その一言に尽きる。何もない世界では自我すら必要ではない。
自分は、闇と、世界と、同一のものであると、存分に錯覚する事ができる。
完成された空間。完結した世界。何一つ欠けることなく満ち足りた宇宙。

それは一つの完全な・・・・・・・・・。









(何を考えているんだ僕はっ!!)




危うく消失しかかっていた自我を無理やりかき集める。全身を襲う痛みに縋り付くようにして己を保つ。
生と死の境界に引き寄せられていた。気を失っていたのはおそらく一瞬だ。それでも重力のくびきから逃れられていたわけではない。
地表は目の前に迫っていた。とにかく地面への激突を避けなければと、不明瞭な意識のまま杖を引き寄せようとして、絶句する。
右手があらぬ方向へと折れ曲がっていた。手首が折れ、爪を剥がされ、幾つもの裂傷を負っている。
当然杖など持っていない。このまま自由落下していく自分を止める事が出来ない。
背骨の代わりに氷柱を入れられたような悪寒がした。


・・・・・死・・・ぬ・・・。


最悪が脳裏をよぎり、それが現実になりかけた時。落下中のネギの体は横合いから飛び出してきた小太郎によって受け止められていた。
よほど勢いをつけたのだろう。飛び上がった姿勢のままバランスを崩して客席に突っ込んでいく。

小太郎の体越しに振動を感じた。どうやら着地の衝撃から庇ってくれているらしい。
痛みを堪えるような呻き声が聞こえてくる。だが、間近で聞いているはずのその声が、段々と遠くなっていった。
目蓋が閉じかかり視界が半分になる。急激な眠気が襲い掛かってくる。抱きしめられているはずなのに何も感じない。
ただ凶悪な寒さだけが全身を覆っていく。心臓がドクリドクリと脈を打っている。
それは次第に弱くなっていき・・・やがて・・・。

小太郎が泣きそうな表情で何かを叫んでいた。だがそれももう聞こえない。
ネギは自分がこれで終わってしまうのだと理解した。

泣いている小太郎。死にゆく自分。
そんな二人に影が落ちた。いつのまにか悪魔が間近に迫っている。

あれだけの魔法を打ち込んだにもかかわらず全くの無傷だった。ニヤニヤとこちらの胸を悪くさせる薄笑いを浮かべている。


嗤う。嗤う。嗤う。


落ちかけた意識が怒りで復活する。ネギは全く力が入らない体を強引に起こそうとした。
だがそれはかなわなかった。なぜなら足が両方とも折れ曲がっているからだ。
しかし、そんな事などどうでもいいとネギは小太郎の腕の中で、必死にもがいた。
それはあまりにも弱々しいものだったが、少年は鬼のような形相で悪魔に近づこうとする。
小太郎が慌ててネギを制止した。これ以上の出血は生命の危機に直結する。危険だと。

悪魔はその様子を眺め、一つ溜息をついた後、右腕を上げて力を注ぎこんだ。
不穏な光が眼球に突き刺さる。見ているだけで自分の魂が震えてくるようなそんな光だった。
そしてそれは絶望の光でもあった。あれが解き放たれれば間違いなく自分たちは死ぬ。そう確信できてしまうような。
膨れ上がった光が限界を迎える。もうすぐそこまで死が解き放たれようとしていた。


なすすべなくそれを見送りながら・・・。


それでもネギは、目を瞑らなかった。


怯えた表情も見せない。そんなものを見せてあいつを喜ばせるのは我慢が出来なかった。


終わりが訪れる最後の瞬間。


目を見開いたまま光を睨み付けていた少年はそれを目撃した。





いつの間にか目の前に一人の男が立っている。





何の脈絡もなく、突然その場に現れた。
草臥れたジージャンとジーパン。皺のあるワイシャツに薄汚れたスニーカー。頭には燃えるような赤いバンダナを巻いている。
中肉中背のどこにでもいるような高校生くらいの青年。
彼はポケットから何かを取りだし、迫ってくる死にそれを掲げた。
直後。猛烈な光がネギ達に襲いかかった。地響きを伴い白い炎が燃え上がる。
だが、不思議な事に何も感じなかった。そよ風のひとつも感じない。熱と衝撃、破壊と絶望。何もかもが目の前にある緑色の壁に阻まれている。
呆然としたまま、瞬きする事も忘れてネギはそれを見続けていた。
やがて光と爆発音が収まると、青年は掲げていた腕を下ろし悪魔に向き直った。
眉を歪め、唇を引き結び、険しい表情で睨み付けている。




自分たちを助けてくれた人。




横島忠夫がそこにいた。






[40420] 19
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:dc1e18e0
Date: 2015/07/20 22:16


赤い光に照らされた室内で、窓枠から覗く降りやまない雨を睨み付ける。
緊張で乾いてしまった唇を舐めて湿らせ、横島は汗ばんだ掌で携帯電話を握りしめた。
猛烈に嫌な予感がしていた。心臓が早鐘を打つように動悸を速めている。


「人質?ちょっ、ちょっと待て!一体何が起こって・・・」


唾を飛ばしながら問いかける。だが台詞の途中で携帯電話から切断音が聞こえてきた。


「くそっ!!」


悪態をついて携帯を仕舞い、警告音を発している探査装置に視線を走らせる。
電話で一方的に告げられた場所と、表示されている霊力反応とを見比べながら、横島は頭に地図を叩きこんだ。
正直何が起こっているのか全く理解できないが、先程の会話の様子から夕映達が何らかの危機的状況にあるのは間違いない。
そして原因はおそらく自分たちが追っている魔族だろう。電話と警告音。あまりにタイミングが良すぎる。
踵を返して玄関口に向かう。慌てているからか靴をうまく履く事ができずに苦戦していた横島だったが、そんな彼の背中に鋭い声がかかった。


「待て横島君!これは罠だぞ!!」


霊力の消耗を防ぐために小さくなった体で、ジークが懸命に手を伸ばして横島を制止しようとしていた。
チラリと目の端でその姿を確認した横島が、声を荒げて返事をする。


「んな事言ってもしゃーないだろが!俺が行かなきゃ、あいつが夕映ちゃん達に何するか分かったもんじゃねーぞ!!」


「それでもだ!!いいから一旦落ち着くんだ。君を名指しで呼びつけた意味を考えてみろ。
これまでとは立場が逆なんだ。どういう方法を使ったのかは知らないが、奴は間違いなく我々の素性をつかんでいる。
人質もそうだが他にも何かあるかもしれない・・・」


ジークの言葉を聞きながら、横島は悔しそうに唇を噛んだ。
頭では彼の言う事を理解しているのだ。それでも感情は違う。
電話越しに聞こえた夕映の震え声を思えばすぐに飛び出していきたかった。
一瞬ジークを無視してしまおうかとも考えたが、何度も深呼吸して心を落ち着ける。


「・・・・・・・どうすりゃいいんだ」


力なく玄関口に座り込みながら振り返る。
こちらが話を聞こうとしている事が分かったのか、安堵した様子でジークが言葉を続けた。


「・・・悠長に作戦を立てている暇はなさそうだ。君は先行してくれ。その間にこっちで何か対策を立てる。
だが、いいか!くれぐれも先走るんじゃないぞ!現地に到着してもこちらの許可があるまで踏み込んではいけない」


「・・・・・・・分かった」


「・・・とにかく美神令子に連絡を入れる。彼女ならこういった事態にも的確な・・・その・・・対応をしてくれるだろう」


対応の部分で何を想像したのか、ジークがあからさまに顔を背けた。


「美神さんが来てくれるんか!?」


「いや・・・事情を話せば来てくれるとは思うが、何しろ事は急を要する。間に合うかどうかまでは・・・」


「期待できねーか」


GSは電話一本あればすぐに駆け付けられるような職業ではないのだ。美神令子の場合は特に。
それにもし除霊作業の真っ最中ならば。連絡を取る事自体が難しいかもしれない。
表情を暗くさせ、ジッと床に目を落とす。横島は難しい顔をしたまま俯いた。
そんな彼を何とか元気づけようとしたのかジークが無理やり声の調子を上向かせて話し掛けてくる。


「なんにせよこれで最後なんだ。あまり無理をして失敗したら元も子もないぞ」


「ああ、そうだな・・・・・・・・・・・・・・・・え?」


納得した様子で頷いた横島の脳に、何か些細な違和感が突き刺さった。
ボタンを掛け違えたままそれに気付いていないような、そんな気持ちの悪さがある。
ギギギと錆びついた動きで首を回す。横島はジークに問いかけた。


「今・・・なんて言った」


「む?だから無理をしてはいけないと・・・」


「違う!その前だよ!!」


「・・・?だからこれが最後なのに無理をしたら・・・」


「それだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


大声を上げながら横島は全力でジークを指さした。
玄関口からバタバタと慌ただしく駆け寄り、両手で彼を掴みあげる。


「最後って、今回が最後なんか!?これが終わったら帰れるのか俺は!?」


「う・・ぐぅ、横島・・く・・ん。少し落ち着いて・・・」


「いいから答えろっちゅーんだ!マジなんだな!」


苦しそうな表情を浮かべたままジークが無言で首肯する。
真剣な眼差しでそれを見ていた横島はパッと両手の力を抜いて拘束を解いた。
フラフラとコタツ机に着地したジークが苦しそうに喘いでいる。
横島は彼に半眼を向けて言った。


「お前、何だっでそーゆー大事なことを黙ってるんだ。わざとか?」


「ゲホゲホ。い、いや、そんなつもりは・・・言ってなかったか?」


「言ってねーよ!!」


吐き捨てるように言葉を返しながら心の中でブツクサと文句を言う。
ど忘れもいい所だった。前にも一度あった気がするが、何故ピンポイントで肝心な事を伝え忘れるのだろうか。
何らかの悪意を疑いそうになる。
そんな疑心をジークに向けた横島だったが、いつまでも愚痴を言っている訳にもいかないので、思考を切り替えることにした。

今は緊急事態なのだ。具体的な対応策ができるまで手を出さないとしても、一刻も早く現場で待機しておく必要がある。
一つだけ嘆息をこぼし、横島は玄関に戻った。いつも履いているスニーカーに足を引っ掛け、ドアノブに手を掛けようとする。
すると、この部屋にいるもう一人が声を掛けてきた。


「・・・横島さん」


不安そうに名前を呼ばれて思わず振り返る。そこには目じりを下げてこちらを見つめてくるさよの姿があった。
しまったと思わず眉をしかめそうになり、何とか堪える。
急展開すぎてすっかり忘れていたが、ここには夕映達のクラスメイトであるさよがいるのだ。
電話越しに話を聞いていただけでも、不穏な気配を感じ取っていたのだろう。彼女は俯き加減で何かを言いたそうにしている。
横島は反射的に言葉を掛けようとして、慌てて口を噤んだ。詳しい事情を説明する事はできないし、その暇もない事に気付いたからだ。
口をパクパクと開閉したまま無言の横島にさよが遠慮しながら質問してきた。


「いったい朝倉さん達に何があったんですか?それに・・・人質って・・・」


「いや、それは、え~っと・・・すまん!さよちゃん!俺は行かなきゃならんのであとはそこの仏頂面に聞いてくれ!」


さりげなくさよへの対応をジークに丸投げした横島が猛スピードで部屋を飛び出していく。


「な、なんだと!?」


「あっ!横島さん!」


背後から聞こえてくるジークとさよの台詞を置き去りにして、横島は雨の中を全力で走った。
部屋にいた時よりも強く感じられる雨が、あっという間に全身を濡らしていく。
一瞬傘を取りに戻ろうかと迷ったが、これからの事を考えたらそんなものは邪魔でしかないと思い直した。
目を細めながら先に進む。途中傘もささずに爆走している横島を何人かの通行人が訝しげに見つめてきたが、知った事ではないと走り抜ける。
記憶している地図を参照して大通りを曲がり、道路脇の植木に足を取られそうになりながら横島は足を速めた。

・・・すると。


「あれ?」


反対方向からこちらに向かって歩いてくる見知った顔に出会った。
黒のワイシャツに黒のスラックスといった全身黒ずくめの格好で、傘を持っている方とは逆の手にビニール袋をぶら下げている。
いかにも買い物帰りといった様子で、ゆっくりと歩いていた。
年相応に幼い容貌のくせに、どこか彫りの深い日本人離れしたイケメン面が意外そうにこちらを見ていた。
少し前に和美たちと食事をした店で出会った従業員の少年が、テクテクと近づいてくる。
互いの距離が縮み、二人は顔を合わせた。


「やあ、奇遇だね」


少年が無駄にさわやかさを感じさせる声で挨拶してきた。湿気まみれの空気すら清浄に変えてしまいそうな透き通った声だ。
もっとも横島にはそのいけ好かない顔と合わさり、不快なものでしかないのだが。


「おまえ、こんな所で何してんだ?」


「何って・・・見ての通り買い物帰りだよ。雇い主の人使いが荒くてね。雨の中を使い走りさせられている」


両手がふさがったまま器用に肩を竦めて少年は微笑を浮かべた。


「こっちの事よりお兄さんこそどうしたんだい?・・・なにか急いでいるみたいだけど」


雨宿りもせず全身ずぶ濡れになりながら走っていた横島に疑問を覚えたようだ。
もの問いたげな視線を感じる。


「いや俺は・・・っとそうだ!なぁお前、大学部が学園祭で使う予定のステージってどこにあるか知ってるか?
できれば近道とか教えてくれるとありがたいんだが・・・」


返答に困って言葉を濁した横島がふと思いついて少年に尋ねた。
一応だいたいの見当はついているが、初めて行く場所であるのには変わらない。
霊力探知機の反応をたよりに進むにも、道を詳しく知っていた方が早く現場に到着できそうだ。
真剣に頼み込んでくるこちらの態度に、多少困惑しながらそれでも何か事情があると察したのだろう。
一切無駄な質問をせずに、少年は素直に道を教えてくれた。


「でも、あんな所に行っても何もないと思うよ・・・たしかまだ建設途中だった気がするし」


「ああ、まぁ、ちょっとな。道教えてくれてサンキュな」


てきとうに誤魔化しつつ礼を言った横島が返事を聞くこともなく急ぎ足で少年と別れた。
水しぶきを飛ばしながら教えられた横道に入って、再び駆け出していく。


だから横島はその言葉を聞くことはなかった。


後ろからジッと自分の背中を見ていた少年の視線に気が付かなかった。


しばらくその場所に佇んでいた少年が口元を釣り上げ静かに微笑む。そして誰に向けるでもなくこう言った。





「さて・・・・・どっちが勝つかな?」





◇◆◇





膨大な熱に温められた生暖かい空気が、頬を撫でていた。
同時に蒸発した雨粒が水蒸気となってモウモウと辺りを覆っている。鬱陶しげにそれを振り払い横島は安堵の息をついた。
ギリギリだったが何とか間に合う事が出来た。実を言えば、今しがた到着したばかりだったのだ。
冷や汗か雨だかも分からない液体を拭いながら、横島はすぐ後ろで倒れているネギに視線を向けた。
見るからにボロボロの姿だ。全身に裂傷を負い、着ている服は血にまみれている。
出血量はかなりのもので、降り続く雨が赤い流れを作り大地に浸透していた。
投げ出された手足はありえない方向へとひん曲がり、所々で関節が増えていた。
左手の小指が第一関節から切断され、短くなっている。正直いつ呼吸が止まってもおかしくないほどの重症だ。
虚ろに開かれた瞳はまったく焦点が合っておらず、うわ言を繰り返すように唇が僅かに痙攣している。
横島は厳しい表情を浮かべたまま、ネギに近づいた。倒れている彼の元で膝をつき耳をそばだてる。
先程の破壊音がもたらした耳鳴りからようやく解放されつつある。ネギが小さく囁いた。




「・・・・お・・・とう・・さん?」




「誰がお前のお父さんか」




即座に死にかけている少年の頭を殴りつける。
バブゥという何となく赤ん坊を連想させる声と共にネギが地面に激突する。
横島は容赦なく倒れている彼の胸元を掴みあげると、ぶんぶんと振り回し始めた。


「そりゃあれか!?俺が老けてるっつー遠まわしな嫌味か何かか!?嫁さんどころか恋人もおらんのに、お前みたいなでっかいガキをこさえてたまるか!!」


「え?え?え?ちょっ、よこ、横島さん!?や、止めてください!死んじゃいますよ!!」


「独りもんで悪かったな!こんちくしょーーー!!」


「そ、そんな事ひとっ言も言ってないじゃないですかぁぁぁ!!」


見苦しい・・・しかしあまりに切実な僻みの声と、宙吊りにされ苦しげに呻いている声とが混ざり合う。
互いに違った意味の涙を目の端に浮かべながら、二人はギャンギャンと喚き散らしていた。


・・・すると。


「おっ、おいそこの兄ちゃん!あんた何やねん!!いきなり現われよって。ネギは大怪我しとるんやぞ!!怪我人相手に・・・」


突然の出来事に呆けていた小太郎が、ふと我に返り横島に詰め寄ってくる。
強引にネギを横島から奪い取り、背後に庇いながら鋭い目付きで威嚇してきた。


「怪我人?そんなもん何処にいるんだ?」


すっとぼけた返事をしながら横島が首を傾ける。


「何処って・・・ふざけんな!!ネギは!!・・・・・あれ?」


あまりに非常識な返答に、こめかみで青筋を浮かべていた小太郎だったが、何かに気付いた様子で背後を振り返った。
そこには首を押さえながらゲホゲホと咳き込んでいるネギの姿があった。確かに苦しそうにはしている。
しかしさっきまで身動き一つできないほどの重傷を負った人間が、苦しそうに咳き込めるわけがない。
ぽかんと口を開けながら、小太郎が目を丸くする。そしてポツリと力ない声でネギに質問した。


「ネ・・・ネギ・・・お前、体は大丈夫なんか?」


「ゲホゲホ・・・え?体って・・・あれ、そういえば、僕何で・・・あっ!!横島さん・・・」


振り回されて目が回ったのか頭痛を堪える様子で額を押さえて蹲っていたネギが、小太郎の言葉を聞いて慌てて自分の体を確認する。
そして横島に視線を向けた。彼は照れた様子で鼻の頭を掻いていた。


「まぁ、あのまま死なれたらさすがに寝覚めが悪いしな。
それよりそっちのガキは誰だ?頭に獣耳のアクセサリーなんか付けてるけど。
そういうのは本人はいいかもしれんが周りは結構ドン引いてるぞ」


「なっ、何やアクセサリーって!これは自前や!!」


「あん?ってことはお前、妖怪か何かか?おっさんになってもそれ付けてるとしたら、ちょっとあれやなー」


「ひ、人が密かに気にしとることを!!」


サックリと心の傷を抉った言葉に小太郎が涙目になった。横島はそれを適当な仕草であしらいながら深く息をついた。


・・・そして。


「で、あんたが俺を呼び出したんか?」


「随分とタイミングのいいご登場だな・・・横島忠夫」


皮肉を交えつつ名前を呼ばれる。
大柄な体格に見合った長い腕を組んで、偉そうにこちらを睥睨していた。
見るからに”らしい”姿をした悪魔だった。節くれだった長い角に、背中からは蝙蝠の羽。そして尻から長い尻尾が生えている。
ただこちらに顔を向けて立っているだけなのに、威圧されているような圧迫感がある。
もし街中で出会ったら、顔を伏せつつ無言で来た道を引き返すだろう。そんな恐ろしい姿をしていた。
まぁ、間違いなく街中で会うような事にはならないだろうが。
そんな事を考えつつ、横島は強い視線で悪魔を見返した。

・・・すると。


「・・・・・横島さん。あいつは」


背後にいるネギが声を掛けてきた。どこか震えて聞こえるその声は、しかし怯えからきているものではない。
背中越しにチラリと視線を向けると、案の定今にも襲い掛かっていきそうな剣呑な表情を浮かべていた。
小さく拳を握りしめ、足の爪先に力をためている。
半身になって重心を安定させた何かの拳法のような構えは、いつか見た時の事を思い出させた。


「ちょっとは落ち着けよ・・・・・事情が事情だし、無理かもしれんが」


「え?・・・事情って・・・知って・・・?」


「夕映ちゃんがな、機転を利かせてくれたみたいだ。携帯、かけ直してくれてさ」


横島はポケット越しにギュッと携帯電話を握りしめた。
ここに来る途中で気付いた。こちらに状況を理解させるつもりだったのだろう。和美の携帯から再び着信があったのだ。
通話状態のまま放置されていたのか、雑音交じりで夕映達の会話が聞こえていた。
だから、横島はある程度の事情を知っていた。のどかの事も。夕映の事もだ。
チラリと視線をステージにいる女の子たちに向ける。彼女たち一人一人の顔を目に焼き付ける。
一度目を伏せ俯いてから、横島は悪魔に向き直った。
相手に負けないように胸を逸らせながら、体を大きく見せようとする。
貧弱なぼーやに過ぎない横島がやっても、子供が見栄を張っているようにしか見えなかったが。


「で、何の用だ?こんな雨の中呼び出すっつーことは、よっぽど大事な用件なんだろうな?」


「ああ、そうだ。お前ににどうしても聞きたい事があってね・・・」


「聞きたいこと?なんだそりゃ」


腕を解いた悪魔が低い声で尋ねてくる。


「お前の他に何人来てる?」


「・・・・・へ?」


「だから、こっちにはどれだけ正規軍が来てる?部隊の規模は?装備は?」


「え?部隊・・・って言われても・・・」


こちらがとぼけているように見えたのか、チンピラが脅しをかけるような仕草で睨み付けてくる。


「隠し事ができるような立場だと思うなよ?人質の事を忘れているんじゃねーだろうな」


「い、いや、ちょっと待ってくれ!マジで何言ってんだ?なにがなんだか」


「のどかの能力で分かったのは、お前が京都で俺の仲間を倒すのに協力したって事くらいだ。
だが、人間風情が上級魔族を殺せるわけがねぇ。仮にできたとしても相応の装備がなきゃ無理ってもんだ。
そいつを貸し与えた奴らがいるか、もしくはお前を囮にして別働隊が動いているのか・・・」


ブツブツと考えながらしゃべっている様子の悪魔を横島はポカーンとした表情で眺めていた。
初めは何を言っているのか理解できなかったが、それでも段々と分かってきた。
要するにこいつはとんでもない勘違いをしているのだ。
自分たちを追ってこっちの世界に魔界の正規軍が来ていると本気で思っているのだった。
確かに奴の視点で考えれば、ただの人間が単独で上級魔族を倒したなどと、
そう簡単には信じられないのかもしれないが、だからといってこれは深読みしすぎだ。
もし魔界の軍隊が来ているのなら、そもそも横島がこっちの世界に来る必要はなかっただろう。
アホを見る目で悪魔に半眼を向ける。そのまま勘違いを正そうと口を開きかけた時、ふと思いついた。


(まてよ・・・この勘違い・・・利用できねーかな)


追っ手の数を勝手に多く見積もってくれているのなら、それを逆手に脅しを掛けられないだろうか?
ポーカーで例えるならブラフで相手をビビらせて、勝負を下ろさせるような事が出来ないか?
咄嗟にそんな事を思いついた横島が前髪をかき上げながら格好をつける。


「フッ、そこまでばれてちゃー仕方ねーな。確かにお前の言う通り、そらもーすごい仲間が俺にはついてる」


「くっ、やはりか」


「もーあれだ。かなりすごいぞ。ゴ○ラとかキ○グギ○ラとかそういう怪獣にも勝てるくらいすごい感じだ。
百・・・いや、二百人はいるね!すげー強いのがそんくらいいる。だからおとなしく・・・」


「だったらせめてお前を道連れに・・・」


「スンマセン嘘っす。僕とあと使えないヤローが一人いるだけっす」


熱い掌返しで下手に出る。
ぺこぺこと頭を下げながら、笑顔でごまをするようにもみ手を作った。


「嘘?どういう事だ。軍は・・・」


「だからこっちに来てるのは俺を含めて二人だけっす。たまに助っ人が向こうから来ることもあるけど大体は二人っす」


「そんな馬鹿な話があるか!!だったら俺の仲間は・・・」


「そんな事言われても本当の事っすよ。一応連れは軍人っすけど、こっちじゃ霊力不足でほとんど役に立たないし・・・」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・マジで?」


「マジっす」


瞳に真剣な光を宿らせて、横島は悪魔を見つめた。向こうも呆然とした様子でこっちを見返してくる。
互いの間を寒々しい空気が流れる。


「ちっ、このベルゼブル様も舐められたもんだな・・・・・本当に本当だろうな?」


「本当っすよ!いくら俺でも人質取られてんのに嘘なんて、だあああああぁぁぁ!!!」


会話の途中で奇声を発した横島が耳を押さえて蹲る。その場にいた全員が突然の事にビクリと体をのけ反らせた。
横島が硬いもので頭部を強打されたようにクラクラ揺れている。しかめ面で苦痛を堪えるようにジッとしていた。
やがて何とか立ち直ると、目尻を釣り上げながら何かに向かってブツブツ文句を言い始めた。
ベルゼブルが胡乱なものを見る目付きで訝しんでいる。
その気配に気が付いた横島がハッとして誤魔化し笑いを浮かべ、後頭部を押さえながらお辞儀した。


「いや~すんません。たまに持病が悪化するんすよ・・・それで、ちょっと俺も聞いていいすっかね?」


媚びへつらう仕草で言い訳していた横島が遠慮がちに質問する。


「あんた、月旅行したことあるっすか?」


素っ頓狂な事を言い出した。


「何?」


「月っすよ月。地球のでっかいお隣さんっす。行った事ないですか?」


「・・・・・・・あるわけねーだろ。何でそんな空気もないようなとこに行かなきゃなんねーんだ」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・そっすよね」


真面目な表情を浮かべた横島が何事かを考えている様子で押し黙る。
空中の一点をじっと見つめて動かなくなった。
そんな彼の様子に疑問符を浮かべていたベルゼブルだったが、やがて馬鹿らしくなったのか溜息をこぼすと面倒そうに言った。


「一応のどかに心を読ませるか。まぁ、本当だとしたらこいつを殺せば当面の間は安心ってわけだし好き放題できる」


「いや~、そいつは無理だと思うっすよ」


眉間に皺を寄せながら考え事に没頭していた横島が、耳聡く悪魔の独り言を聞いていたようでへらへらと笑いながら口を挟んだ。


「何だと?」


「なんつーか。前から思ってたんだが上級魔族ってのは人間相手だと油断しなきゃならんっちゅーお約束でもあんのか?」


「・・・・・何を言ってやがる」


「お前のことを言ってんだよ間抜け。時間稼ぎはもういいってさ」


横島がそんな台詞を鼻で笑いながら言った瞬間。
突然周囲一帯にジャングルが現われた。先を見通すにも苦労するほど生い茂った原生林が視界一杯に乱立する。
先程まで立っていた観客席が青々とした植物群に変化し、ステージが存在していた場所には30m以上の樹木が無数に立ち並んだ。
つる植物が木々の間で複雑に絡み合い、緑の壁を作っている。
顔を上げても天辺が見えないほどの大木が、足元まで根っこを伸ばしていた。
ホーホーという鳥の鳴き声がどこからか聞こえ始め、昆虫の合唱がそれに追随する。
ムワッとした熱気を伴った空気が辺りに漂い、汗腺を刺激した。鼻孔に植物の青臭さと土壌の匂いが充満し、思わずむせ返りそうになる。
まるで瞬きの間に日本から熱帯地方へテレポートでもしてしまったかのようだった。


「な、な、な」


口をあんぐりと開いたベルゼブルが呆然としながら吐息を漏らす。
いや彼だけではなかった。横島がネギ達に視線を向けると二人そろって同じような表情で唖然としていた。
思わずクスリと笑みがこぼれる。何となく懐かしさを覚えてしまう。まぁ、こんな目に合えば大抵の人間は驚いて自失してしまうだろう。
あの美神だってそうだったのだから。
そんな風に昔を思い出していたその時、懐かしいクラスメイト達の声が丁度人質が拘束されている辺りから聞こえてきた。


「はい、ピート君これ呪縛ロープ」


文珠の力で姿を隠していた愛子が抱えていた呪縛ロープを隣にいるピートに渡す。


「ありがとう、愛子さん。タイガー!!」


「ガッテン!!」


同じように誰もいないはずの場所から突然姿を現したピートとタイガーが呪縛ロープを片手に夕映とすらむぃに突進していく。
あっという間に二人をロープで雁字搦めに拘束した。


「なっ、なんだおまえら、どこから!!」


夕映に憑りついていたベルゼブルのクローン体が苦しげな声を上げて表に出てくる。


「あ、出てきた」


まるで、タンスの裏から大して気にも留めていなかった失せ物を見つけた時のようなトーンで愛子が呟いた。


「ダンピール・フラッシュ!!」


有無も言わせずピートが全力で必殺技を放つ。


「ぎゃああああああああああああ!!!」


「案外間抜けねぇ」


絶叫と共に醜い姿を消失させていく悪魔の最後に、愛子が感想を口にした。


「タイガーそっちの女の子は?」


注意深く消滅を確認していたピートが隣にいるタイガーに視線を向ける。


「こっちの娘からは出てこんのー。縛ったらこの通りですけん」


気絶したすらむぃの小さな体を、その巨体の上で抱え上げたタイガーがピートに言った。


「予想より深く潜られているのかもしれない。あとで悪魔祓いをする必要があるな」


顎に手を当ててピートが思わしげに呟いた。


・・・そして。


「な、なんだ綾瀬夕映に憑りついていた俺のクローンが!?」


自分の分身が滅ぼされたのが分かったのだろう。
ベルゼブルがさっきまでステージがあった方角(今は密林でしかないが)を振り返った。
焦った様子で木々の間に目を凝らしている。
そんな隙だらけな背中に、横島は笑顔で近づきながら朗らかに声を掛けた。


「へいパース」


「え?」


”閃”


閃光の力を秘めた文珠が無防備な悪魔の眼前でその力を解放する。
次の瞬間。直視すればそれだけで失明してしまうような猛烈な光が放たれた。
太陽の光もほとんどささない密林に鮮烈な輝きが生み出される。


「ぎゃああああぁぁ!!め、目があああああああぁぁぁ!!」


両目を押さえながらベルゼブルが絶叫をあげた。苦しげに全身を振り回し、ゴロゴロと大地に転げまわる。
意地悪そうにそれを眺めていた横島だったが、やがて満足したのか人質を助けている最中のピートたちの方へと歩いて行った。


「おーいお前ら、俺も何か手伝う・・・って、あああああああああ!!タイガーてめー、なに千鶴ちゃんを抱っこしてやがる!!その巨乳は俺んじゃー!!」


「ふっふっふ。早い者勝ちですけんのー」


「う~ん、でも絵面がかなり犯罪チックよ。タイガー君」


気絶している那波千鶴(巨乳)をお姫様抱っこしたタイガーに向けて、目を血走らせた横島が叫び声をあげた。
その隣では愛子が何か見てはいけないものを見てしまったように顔を引きつらせている。
そんな面々に一人だけ黙々と救出作業をしていたピートが呆れた様子で声を掛けてきた。


「み、みなさん。もうちょっと緊張感持ちましょうよ」


「そんな事言いつつ下着姿の明日菜ちゃんに何をやっとるかー!!天誅ぅぅぅ!!」


「ぐわぁぁぁ!ご、誤解です横島さん。ぼ、僕はそんなつもりは・・・」


「でもちょっとは役得だと思ったろ?」


「それは、まぁ・・・ハッ!?」


「正体を現しやがったなこのムッツリがあああああ!!!」


「だあああああぁぁぁ!!!」


僅かに本性を垣間見せたピートに横島が全力で突っ込みを放つ。
二人がそんな漫才をやっている間にタイガーは気絶した少女たちを次々と愛子の前に連れてきていた。


「それじゃー、お願いするけん。愛子さん」


「おっけ~。うふ、うふふ。中学生の学校見学なんて、なんだかとっても青春っぽいわ!!任せといて!!」


「愛子さんは時々はっちゃけるのー」


にやけた顔で喜びを抑えきれない様子の愛子とそれに若干引いているタイガーだったが、
そんな二人の背後から困惑した様子で誰かが話し掛けてきた。


「あ、あの。皆さんは横島さんのお知り合いですか?」


いつの間に来ていたのか、どことなく不安そうに見える気弱な態度でネギが尋ねてくる。
その後ろには警戒心を隠そうともしない小太郎が控えていた。
初対面の少年達に話しかけられた愛子が瞳をパチクリとさせる。


「あら、あなた達は中学生じゃない・・・わよね。う~ん。まぁいいわ見学者の付き添いってことにすれば設定上は問題ないし」


「何の設定かのー」


きっぱりとネギの質問を無視しつつ脳内で勝手に青春ストーリーを作りあげた愛子が一人で納得して頷く。
ネギはわずかに頬を引きつらせて、それでもなんとか口を開いた。


「えーと、すみません。何を言って・・・」


「ああ、ごめんなさい。私たちは横島君の友達よ。助っ人を頼まれてここに来たの。
これから安全な場所まであなた達を運ぶから、ジッとしててね。」


魅力的な笑顔と共にウインクした愛子が長い髪をかき上げて言った。


「・・・安全な場所?」


ネギが困惑した様子で僅かに首を傾けた瞬間。
目の前の少女が座っている、なぜこんな所にあるのか分からない古臭い学校机から、オドロオドロしいグロテスクな化け物が現われた。


「え?」


「へ?」


ネギと小太郎があまりの事に脳内のブレーカーを落としている間に、化け物は一息で彼らを飲み込んだ。
ゲフッという些か下品な音を立てて、げっぷをすると、机の引き出しに戻っていく。


「相変わらず、ショッキング映像じゃのー」


それを見ていたタイガーが視線を逸らせながらポツリと呟いた。


「ほらーそこの二人、いつまでもじゃれあってないでこっちに来なさいよ」


愛子が手招きしながら横島とピートを呼んだ。


「ひ、久しぶりに会ったのにこれですか」


「ふんっ。イケメンだからって何しても許されると思っとったらあかんぞ」


明らかに先程よりもズタボロになっているピートと、腕を組んで鼻息を荒くしている横島が、素直に愛子の元へとやってきた。


「久しぶりね、横島君。元気だった?」


「おかげさんでな。そっちはどーだ?”俺”はちゃんとやっとるのか?」


「あー、ドッペル君の事?評判いいわよー。礼儀正しいし、勉強もできるし、先生や生徒たちの受けもいいし。
あんまり帰ってくるのが遅いと居場所がなくなっちゃうかもね」


「ま、まじか!?くぅぅ絵の具の分際でうまいことやりやがってぇぇぇ!!」


ぐぬぬと下顎に力を入れつつ唇を噛みしめて悔しがる横島の頭を、愛子が優しく撫でながら慰めていた。
鬱陶しそうにその手を払った横島が、溜息を一つこぼして何とか気を取り直す。
まぁ今回の事件が片付けば、晴れて自由の身になる。元の生活に戻るのもそう遠い未来ではないはずだ。


「しかし、いきなり連絡入れたのによく来れたなお前ら」


「まぁ、ちょうど三人とも学校にいましたし。教室にいきなり変な扉を持ってこられた時は驚きましたけど」


ピートが苦笑交じりの声で言った。
どうも話を聞くと一旦向こうの世界に戻ったジークが、例の扉を持って学校に乱入したらしい。
美神と連絡が取れずに困っていた所、ふと横島の学校を思い出し、ピートたちに協力を要請したという事だった。
直前までピートたちが来ることを知らされていなかった横島は、
ほとんど打ち合わせをする事も出来ずに、ぶっつけ本番で夕映達の救出作戦を決行する事になった。
横島が時間を稼いでいる間に、用意しておいた文珠でピート達が姿を隠しつつ夕映達へ近づく。
耳の穴に入れた超小型の通信鬼を使ってリアルタイムで連絡を取り合いながら、計画は進められた。


「ちゃんと報酬も出るみたいだし、何買おうかしら」


語尾に音符でも付きそうな声音で愛子が言う。


「ああ、これで先生が生きて夏を越えられるかもしれない!」


神よ感謝しますと、胸の前で十字を切ったピートがどこか遠くを眺めながら涙を流した。


「相変わらずギリギリで生きてんのか、あの人は・・・」


腕はいいのにそれ以上に人柄が良いせいで清貧を地でいっている神父の姿を思い出し、横島はこめかみから汗を滴らせた。


・・・そして。


心の準備をするように唾を飲み込んで表情を引き締めた横島が、愛子の傍らにいる少女たちに視線を落とした。
見知った顔は、見る影もなく憔悴している。普段の彼女たちの姿を知っているだけにショックは大きかった。
電話から聞こえてきた会話は断片的なものでしかなかなかったので、詳しい事情を知っているわけではなかったが、
ついさっきまでここが地獄のようであったのは彼女たちの姿を見れば容易に想像できた。
ギュッと拳を握りしめる。
とにかくこのままにしておくわけにはいかないので、横島は声を掛ける事にした。

ほとんどが意識を失っているので、会話ができそうなのは二人だけだ。
どこか遠くを見ながらただ座り込んでいるのどかと、刹那の体に縋り付き涙を流している木乃香。
どちらも、横島の方を見ようともしていない。心が凍りついてただ一つの事しかできなくなっているのだ。
痛ましげなその姿に唇を噛んで、横島は比較的安定しているように見える木乃香に話し掛けた。


「・・・木乃香ちゃん」


緊張して上ずった声が喉からこぼれる。
聞こえなかったのか、それとも意図的なものなのか、一度目の呼びかけは無視された。
内心でくじけそうにもなったが、それでももう一度声を掛ける。
そっと肩に触れながら、木乃香の名前を呼ぼうとした時。彼女はビクリと体を震わせ涙に濡れた瞳を横島に向けた。
泣きすぎて目の端が赤くなっている。眼球自体も白目部分が充血していて、頬を伝っている涙の跡がいたたまれなかった。
彼女が怯えた視線を向けてくる。ワナワナと唇が震え両腕で自分自身を抱きかかえていた。


「・・・・・よ、よご・・じま・・・ざん」


グスグスと幼子のように泣きじゃくっている。
目と目が合った瞬間。彼女は横島の胸に飛び込み号泣した。


「よ・・・よごしまざん・・・ぜ・・ぜっちゃ・・・が・・・ぜっ・・・ぢゃん・・・がぁぁぁ」


「こ、木乃香ちゃん」


彼女の声を聴くたび胸の奥が締め付けられた。
何度も刹那の名前を呼び、横島の胸に顔を押し付ける。ワイシャツのボタンが千切れそうになる位強く握りしめ、感情を爆発させていた。
横島はそんな彼女を抱きしめ返し、優しく髪を撫でながら何とか落ち着けようとした。


「木乃香ちゃん。時間がないから詳しく説明できないけど刹那ちゃんは大丈夫だ。
いや刹那ちゃんだけじゃない。和美ちゃんも古菲ちゃんもみんな死んでないんだ」


精神様態が不安定になっている彼女にも分かりやすいように力強く言い切る。
その声を聞いて木乃香が俯いていた顔を上げる。


「・・・・・・・・・・・・・・・・え?」


「俺も昔バットで殴られて宇宙まで行かされた事があるんだけどな。本当に死ぬかと思ったけど何とか無事に帰ってこれたよ。
だから刹那ちゃん達も大丈夫だ。ちゃんとナビゲーターもついてるしな」


言われた当人にはまったく理解できないだろうことを自信満々に断言し、
安心させるようにニカッっと微笑みながら(歯磨き粉のCMのイメージ)、横島は何度も大丈夫大丈夫と木乃香の頭の上で呟いた。


「愛子。木乃香ちゃん達を案内してやってくれ。おまえの”学校”に」


「任せて!しっかり案内役を務めさせてもらうわ!!」


「・・・・・・え?・・・・・えぇ?」


両腕でガッツポーズをした愛子が戸惑いながら視線を彷徨わせていた木乃香・・・いや、その場にいるGSチームを除いた全員を強制的に連行していく。
驚きで目を見開いた木乃香を押し流すように浚いながら、”学校案内”は開始された。


「よし。それじゃ、後は任せたぞ。これ使って部屋に戻っててくれ」


タイガー曰くショッキングな光景に何となく懐かしさを感じていた横島がピート達に向き直り、
あらかじめ用意しておいた”帰”の文珠を手渡した。
素直に受け取った愛子とタイガーが、文珠を使用し一瞬にしてその場から消え失せる。
だがピートだけは何事かを思いつめる様子でその場にとどまっていた。
目を伏せて俯き、躊躇っている様子だ。それでも意を決したのか横島に話し掛けてきた。


「横島さん・・・本当に一人で大丈夫ですか?やはり僕も・・・」


気遣わしげなその言葉を最後まで言い切る前に、ピートはビクリと体を上下させ後退りしていた。

横島の顔を見てしまったからだ。

彼には・・・驚くほど表情がなかった。

あの感情豊かな横島が、機械的な無表情でピートを見ていた。
鉄面皮という言葉がこれほどあてはまる事もあるまい。ピクリとも動かず、瞬きすらほとんどしないで、ただ視線を向けていた。

ピートの背筋にゾッと悪寒が走った。
何かが・・・決定的な何かが変化している。霊感が危機的状況を迎えている時のようにビリビリ反応している。
種族的な本能が警戒心を剥き出しにしていた。まるで、恐ろしい敵と遭遇してしまったかのように。
肌が粟立ち、体が硬直する。異様な緊張感に押しつぶされそうになる。
ピートはごくりと喉を動かし、何とか声を絞り出した。


「よ・・・横島さん?」


上ずった声は、小さく聞き取りずらい。それでも聞き逃していたという事はなかったようだ。
横島が背中を向けながら、ポツリと言った。


「・・・行けよ」


声のトーンすら平坦で特徴がない。抑揚がなくただ音を発しているようにしか聞こえない。
汗ばんだ掌で文珠を握りしめ、ピートは無言で頷いた。
言われた通りに横島の部屋へ帰還しようとした時。

その背中に声がかかった。


「ピート。さよちゃんに伝えておいてくれ。初めて友達と会うからって緊張する事ねーぞってさ」


その言葉だけは彼らしい優しさがあった。


「・・・はい」


ピートが柔らかく微笑んで横島に返事を返すと、今度こそ文珠を使用してその場から消え去った。


横島だけが残される。


鬱蒼としたジャングルは姿を消し、元の光景を取り戻している。
天井が完全に倒壊したステージ。半壊している観客席。鉄骨の残骸や、熱によって溶解した資材がブラブラと垂れさがっている。
横島は顔を彼へと向けた。視線の先で悪魔が嗤う。足止めを狙った小細工からはもう立ち直っているようだ
悪魔・・・ベルゼブルが言った。


「やってくれたな」


苦笑交じりに呟かれた言葉は、あまり悔しそうには聞こえなかった。
実際本体が憑代を得た以上、夕映達はおまけ程度の意味でしかないのだろう。
大げさに肩をすくめて話を続ける。


「あの助っ人ども、どうやって現れた?直前まで気配ひとつなかったぞ?」


それだけが不思議だというように首を傾げている。
横島は表情を無くしたまま、唇を動かした。


「・・・・・それをあんたに教えて俺になんか得でもあんのか?」


「なんだよケチくせぇ。・・・だがまぁ、どうせなら隙をついて奇襲でもすりゃよかったんじゃないか?
全員でかかれば勝てたかもしれないぜ?人質の救出を優先したのか?だったら人間らしい甘ちゃんな考え方だな」


「まぁ・・・・・それが一番の理由だな」


「・・・一番?他に理由があんのか?」


悪魔の言葉を聞きながら横島はポケットから文珠を取り出した。
普段使っている物より一回り大きい。中央で曲線を描いた太極型の特殊な文珠。
掌で転がしながら面倒くさそうに言い放った。


「そっちは別に大した理由じゃねーよ・・・」


背筋を伸ばし、爪先を悪魔に向ける。


「ただ・・・俺が・・・・・」


身構える事もない。ただ視線だけを標的に固定する。


「ただ俺が、お前を真正面からぶん殴ってやりたいと思っただけだ・・・」


血管が浮き出るほど強く握りしめた文珠を携えて横島は宣戦布告した。


悪魔が嗤う。おかしな奴だと嘲笑う。


いつの間にか雨が上がっている。


雲の切れ間から優しい月が顔を覗かせる。


始まりを告げる鐘はない。


横島に・・・。







三度の死が襲い掛かった。





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Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:dc1e18e0
Date: 2015/08/26 22:20




咄嗟に閉じていた目蓋を恐る恐る開いていく。
突然の出来事に強張ってしまった体で、きょろきょろと周りを見渡した。

気が付くと、ネギ・スプリングフィールドは全く見覚えのない・・・けれど見慣れた風景の中に佇んでいた。

規則正しく並べられている学校机。所々チョークの粉で白くなっている黒板と、古めかしい色艶の教卓。
掃除用具を入れるためのロッカーは半分ほど開かれていてそこから箒の一部が覗いている。
後ろ側に配置されている生徒たちの荷物入れの上では、様々な字体で”夢””希望””未来”と書かれた半紙が張り付けられている。
おそらく習字の授業で書かれたものだろう。中央で一際大きく書かれた”青春”の文字がとても目立っていた。

自分が普段教鞭をとっている場所とは全然違っているが、見るからに学校の教室である。
ついさっきまでいた場所からいきなり変化した景色に目をパチクリとさせながら、ネギは呆然としたまま口を開けていた。


「・・・えーと?」


「なんや・・・ここ?」


隣で自分と同じような表情をしている小太郎に視線を向けて力なく首を振る。何でこんな場所にいるのか分からないのはネギも同じだった。
ここに来る直前まで話していた横島の仲間だと名乗った高校生くらいの少女は、安全な場所に自分たちを連れていくと言っていたが・・・。
頭に疑問符を付けたまま、もう一度周囲を見渡してみる。たしかにこれ以上ないくらい安全そうな場所でもある。
人の気配は自分たちを除いて一切ないし、何よりネギにとっては教室というのは日常生活における平穏の象徴のような場所だ。
見知らぬ場所には違いないが、何となく落ち着いてしまうのはそういった心理状況からくるのだろう。

さっきまで続いていた緊迫した雰囲気からやっと解放された気分だった。溜息を一つついて肩の力を抜く。
事態の把握ができていないのにもかかわらず警戒を解いてしまうのはいけない事なのかもしれなかったが、どうやら自分で思っている以上に疲労しているようだ。
肉体もそうだが精神はそれ以上に・・・。
そんな事を自覚してしまえば立っているのさえつらくなる。
ネギは何となくばつの悪い思いをしながら一番近くにある備え付けの椅子を引いて座り込んだ。
そのまま力尽きたように上半身を学校机の上に投げ出す。少しだけ・・・ちょっとの間だけこうしていよう。そんな事を考えつつネギは目蓋を閉じた。


「お、おいネギ!なにいきなり寝とるんや!」


小太郎が慌てて肩を揺すってくる。ネギはされるがままになりながら億劫そうに返事した。


「いや、さすがに寝てはいないよ。でも、なんだか力が抜けちゃって・・・」


「まぁさっき一回死にかけとったわけやし無理ないかもしれんけどな。ここが何処か分からんうちは気ぃ抜いたらあかんやろ」


気遣わしげにこちらの顔色を覗き込んだ小太郎が、すぐさま警戒する様子で周囲に鋭い視線を走らせている。
ネギはそんな彼に顔を向けると、疲労で重くなった目蓋が自然と閉じかかってくるのに抵抗しながら力なく呟いた。


「危険はないと思うよ。・・・たぶん」


「何でそんな事が分かるんや?」


「さっきの人が言ってたでしょ。安全な場所に連れて行くって。あの人は横島さんの仲間みたいだったし・・・だったら信用できる」


正直な所、断言できるほどの根拠は持っていない。
あの少女とは初対面だったし、横島にしても素性を含めて知らないことが多すぎる。
疑おうと思えばいくらでも疑える。だが、それでもネギは横島を信用していた。
京都では刹那や木乃香を助けてくれた。明日菜と仲直りできたのも彼の仲介があってのことだし、今となっては命の恩人でもある。
むやみに疑心を向けるのは失礼だった。


(でも・・・)


目頭を揉み解しながら考える。彼があの悪魔にかんして何かを知っているのは確かだろう。
話を聞いた限りでは横島と悪魔は対立していて、麻帆良に逃げてきた悪魔を横島が追ってきたというような事情らしい。
それも今回に限った話ではなく、大停電と京都の事件、その二つにも関係しているようだった。


(出来れば詳しく事情を聴いてみたいところだけど・・・)


詮索無用と釘を刺されている手前、なかなかこちらからは頼みづらい。
命を助けてもらった恩もある事だし、あまり強くは出られそうになかった。

だが・・・だがそれでも今回ばかりは何も聞かずに済ます訳にはいかないだろう。
あの悪魔の言っていた事が本当なら、明確な目的をもって自分たちを狙っていたという事になる。
自分だけならともかくとしても、生徒まで標的にされているのだとしたら黙っているわけにはいかない。
知らないうちに当事者になってしまっている。少しでも事情を聴いておくべきだった。

難しい表情を浮かべて少々行儀の悪い姿勢で伏せていた顔を上げる。ネギは一度だけ未練がましい視線を机に向けてそれでも起き上がった。
自分だけいつまでも体を休めているわけにはいかない。あの場に残されている生徒たちが心配だったし、悪魔が倒されたわけでもないのだ。
とはいっても、何をどうすればいいのか見当もつかないのだが・・・。
隣にいる小太郎と一緒に草臥れた視線を向けあって、お互いに溜息をこぼす。
さてどうするかと頭を悩ませていたその時・・・。


突然黒板が妙に明るく輝きだした。ビカビカと目に痛い発光現象が起こり、ゴゴゴと奇妙な音を立てている。
驚きのあまり体が硬直するのを自覚しながら、何が起こったのかとネギは片手で作った庇の下から注意深く事態を見守った。
やがて光も音も収まり再びあたりに静けさが戻ってくる。するとそこにはいつの間にか何人もの人影が現われていた。
黒板と教卓の間にある台の上で窮屈そうにひしめき合っている。見慣れた制服姿の少女たちが横たわっていた。


「みなさん!」


眩しさのあまり半分ほど閉じていた目蓋を目いっぱい開いてネギが声を掛けた。
慌てて駆け出し少女たちの様子を伺う。大半の生徒がぐったりとした姿勢のまま気を失っていた。
ネギの呼びかけに反応したのは、呆然として顔を強張らせている木乃香と痛々しい表情を浮かべたまま小さくなっているのどかだけだった。

そののどかと目が合った。疲れ果て僅かに充血している瞳がゆらゆらと揺れている。
心配そうに覗き込んでいるこちらの視線に耐えられなくなったのか彼女はそっと目を逸らした。
ネギは思わず彼女の名前を呼びながら肩に手を掛けようとして・・・そのまま思いとどまって伸ばした手を引っ込める。
何と声を掛ければいいのか分からなかったからだ。
自分の不甲斐なさに唇を噛む。何か・・・何か言葉を掛けなければと思っても何も浮かばない。
ネギは無意味にパクパクと口を開閉しながら何も言えずに佇んでいた。


「おいネギ、ぼーっとしてんな!」


「え!?」


唐突に肩を揺さぶられて、ネギはビクリと体を震わせた。反射的に隣を見ると小太郎が呆れた様子で息をついている。


「こんな狭い所で姉ちゃん達をほったらかしにしとったらあかんやろ。とにかくスペース作るからお前も手伝え」


「あ・・・う、うん」


ぎこちなく返事をしたネギが言われるままに少女たちの居場所を作っていく。
掃除をする時のように邪魔な机や椅子を後方に下げて、ついでに教卓も移動させる。
床に直接寝かせるのもどうかといった話なので、黒板の下にある台の上に気絶している少女たちを並べていった。
些か窮屈な有様だったが贅沢を言っている場合ではない。
途中で和美や古菲の体に触れた時、思わず手を止めてしまったネギを小太郎が心配そうに見ていた。
そんな視線に気がついてはいたが、黙々と作業に没頭する。やがて何とか全員を無理なく寝かせる事が出来た。
一度深く息をついて様子を確認したネギだったが、不意に気分が滅入ってきてその場にしゃがみ込んだまま両腕で顔を覆った。
納得できない思いが胸中で溢れていた。

・・・なんでこんな事になったのだろう。そんな疑問で頭の中がパンクしそうになる。
いったい彼女たちが何をしたというのか。どうしてこんな事に巻き込まれなければならないのか。
疑問は答えが出ないままグルグルと頭の中を回り続ける。胸が苦しくて息が詰まりそうだ。
そんな様子でどこまでも落ち込んでいきそうなネギだったが、ガラリと扉が開く音が聞こえて、伏せていた顔を上げた。


「遅くなってすみません」


申し訳なさそうにしながら教室に入ってきたのは金髪の青年だった。
外国人然とした甘いマスクの持ち主で、どこの学校の物かは分からないが、いわゆる学ランを着込んでいる。
海外からの留学生なのだろうか。こういっては失礼になるが詰襟姿があまり似合ってるとは言い難い。
彼は何か大きな荷物を脇に抱えたまま苦労して扉を通ってきた。


「これを準備していて遅くなりました。本当はベッドか布団を用意できればよかったんですが、保健室に備え付けてあるのでは数が足らないので」


そんな事を言いながら筒状に巻かれた物体を空いているスペースにクルクルと広げていく。
それは体育の授業で使う体操マットだった。


「今残りを仲間が運んでいます。床にそのままではつらいでしょうから」


チラリと気絶している生徒たちに視線を向けて青年は体操マットの上に少女たちを寝かせていった。
どうやら気を利かせてわざわざ運んできてくれたらしい。意図を察したネギが慌てて立ち上がる。
手伝いますと声を掛けると青年は柔和な笑顔でありがとうと返事をしてきた。
やがて協力しながら作業を続けていくうちに、彼の仲間も教室に入ってきた。同じように体操マットを抱えている。
ここに来る前に見た二人組だ。一人は些か古めかしさを感じさせるセーラー服姿の女学生。
もう一人は天井に頭をぶつけそうなほど大柄な体格をした男子学生だ。二人は気安げに会話しながら金髪の青年の指示通りに動いていた。
そんな調子で気絶している全員をマットの上に寝かし終えると、お互いに自己紹介をする事になった。


「初めまして。僕はピートと言います。こちらの二人は愛子さんにタイガー」


「よろしくね」


「よろしくですじゃー」


「えと・・・僕はネギと言います。ネギ・スプリングフィールド」


「・・・・・犬上小太郎や」


にこやかな笑顔で名乗ってくるピート達にネギは少しだけ戸惑う様子で挨拶した。
見た目でいえば、どこかちぐはぐな印象を受ける三人組だ。聞けば全員同じ学校、同じクラスの同級生だという。
彼らは改めて自分たちが横島の関係者であることを告げ、少々強引な手段でこの場所に連れてきてしまった事を詫びた。


「何しろ緊急でしたので、事前に事情を説明できなくて・・・すみません」


「い、いえ。そんなことは・・・ちょっと驚きましたけど・・・」


いつの間にかここにいたので、何をされたのかはほとんど覚えていない。
何かとんでもないものに巻き込まれたような気はするのだが・・・。
曖昧になっている記憶を掘り起こそうとして首をひねっていたネギだったが、横にいる小太郎が些か棘のある口調でピート達に話し掛けていた。


「で、あんた達は何者やねん。あのけったくそ悪い悪魔野郎が何なのか知っとるんか」


小太郎が鋭い目つきで不貞腐れたように尋ねた。あからさまに警戒している。
どうも何も分からないままいつの間にか事態が進行している事について機嫌を損ねている様子だった。
助けてもらっておいてその態度は如何なものかとも思うが、あの悪魔と彼らの関係はネギも知りたかった事だ。

もし教えてくれるのならぜひ聞いてみたい。そう考えてピートに視線を向ける。
彼はすまなそうに目じりを下げながら、それでも小太郎の質問に回答する事をきっぱりと拒否した。
丁寧な仕草で頭を下げながら口を開く。


「すみません。それは僕の口からは話せないんです」


「どうしてですか!?」


ピートの言葉を聞いた瞬間。ネギは反射的に問い返していた。
荒くなってしまった語気に自分自身が戸惑う。こんな風に大声を上げるつもりなどなかった。
突然の剣幕にピート達が驚いて目を丸くしている。
だがその事に怯んだのは一瞬だ。
むしろずっと感じていた疑問を口に出したことで、何とか抑えていた疑心が膨れ上がっていく。


「どうして何も教えてくれないんです!?あなたも横島さんも!!今回だけじゃない、京都の時だって!!」


本当はずっと不満だったのだ。横島は間違いなく何かを隠している。
自分や生徒たちが巻き込まれた事態について、何らかの情報を持っているはずなのに何故かそれを話してはくれないのだ。
自分たちの素性も怪物の正体も全てひた隠しにしている。それが彼らの事情に起因している事も何となくだが察している。
おそらく話したくても話せないような理由があるのだろう。
だがそれでも、もう自分たちは部外者ではないのだ。命を狙われ、生徒に犠牲者まで出ている。
にも拘らず何も話してくれないというのでは納得できる訳がないではないか。


「お願いします!知っている事があったら教えてください!!あいつは・・・あいつはいったいなんなんですか?なんで・・・何でこんなことに」


知らず目尻に涙が浮かんできて、ネギはギュッと目蓋を閉じた。拳を震わせ、やり場のない激情を何とか押さえつける。
自分自身、感情の整理がつかなくなっている。心が制御できない。
恩人である彼らを疑いたくはないのに、それでも黒い疑念が溢れてきて止まらなくなっている。
もしかしたら彼らさえいなければこんな事にはならなかったのではないか・・・そんな事まで考え始めている。


「ネギ君・・・」


ピートが眉根を寄せて俯いた。罪悪感を覚えているようだ。
落ち着かない様子で、口を開きかけては何も言えずに黙り込むのを繰り返している。
それは先程自分がのどかに対して行った仕草と同じだった。言うべき言葉が見つからないのだろう。
しばらく無言の時間が流れる。やがて彼は呻くように告げてきた。


「すみません。やはり何も言えません。僕個人の判断で話していいような内容ではありませんから。ですが一つだけ・・・」


「・・・え?」


「今回のような事は二度と起こりません。あの悪魔さえ倒せればあなた達が危険な目に合う事はもうないでしょう」


「それは・・・」


どういう事なのかと、ネギが言葉を続けようとしたその時。


「あっ、あの!」


突然背後から声が聞こえてきた。
口を挟んできたのは先程から無言のまま俯いていた木乃香だった。似合わない険しい表情を浮かべながらこっちを見ている。
タイミングを計り損ねたのか無理やり割り込む形で声を掛けたことに何となく気まずそうにしながら、それでも彼女は意を決して口を開いた。


「あの・・・さっき横島さんが言うてた事はホントですか?」


服が皺になる事も気にしていない様子で胸の辺りをギュウと押さえつけている。
眉を八の字の形に歪め、瞳に真剣な色を宿していた。


「せっちゃんもみんなも・・・死んでないって。大丈夫だって・・・」


台詞の途中から声が涙で滲んでいた。縋るようにピートを見つめ口元を震わせている。ネギは驚いて木乃香に視線を向けた。
真っ白になった頭の中に彼女の言葉が浸透してくる。

今・・・木乃香は何と言っていた?

刹那もみんなも・・・・・死んでない!?


「そ、それは本当ですか!?木乃香さん!!」


気が付くとネギは木乃香に詰め寄っていた。よほど慌てていたのか途中で学校机に勢いよく脛をぶつけて思わず涙ぐむ。
反射的に座り込みそうになったが、それでも何とか痛みを堪えて片足を引きずりながら彼女の前に到着する。
中腰のまま脛を擦りつつ回答を待つ。
木乃香はそんなネギの質問にコクコクと頷きながら僅かにかすれた声で言った。


「う、うん。さっきここに来る前に横島さんが言ってたんよ。せっちゃんもみんなも大丈夫だからって」


「だ、大丈夫って・・・いったい・・・」


答えを求めるようにピートに視線を送る。彼は真面目な表情で頷くと落ち着いた口調で話し始めた。


「おそらく、奴は最初から彼女たちを殺すつもりはなかったのだと思います。
僕も詳しくは知らないのですが、あの悪魔は自分の分身・・・クローンを幾つも持っていて、それを他人に寄生させる能力があるようです。
どうも”本物”ともまた違った能力の持ち主なようで、推測になってしまうのですが」


「・・・分身?じゃ、じゃあ夕映さんやあのスライムの女の子も・・・」


ネギが呟きながら眠ったままの夕映を見る。
たしかに夕映との会話の中で、あの悪魔が言っていた事とも一致する。自分の分身を使って彼女たちを操っていたという事なのだろう。


「奴は彼女たちを利用しようと考えていたんでしょう。そのためには寄生先に死んでもらっては困る。
だから強引な手段で魂を肉体から切り離し、仮死状態にしたんです」


「魂を肉体から切り離す?」


「ええ、いわゆる幽体離脱というやつです」


こちらを安心させるように、ニコリとさわやかな笑顔で答えてくる。
しかし内容が内容だけにそんな風に笑いかけられても胸の内にある不安は一切解消されない。
思わず口元を引き攣らせてネギはピートに尋ねた。


「いえ、その・・・幽体離脱って・・・大丈夫なんでしょうか・・・」


「はい、魂の尾が切断されているわけではありませんから。離れてしまった魂がうまく体に定着すれば問題なく意識を取り戻すはずです。
誘導係もいますので安心してください」


「誘導係?」


「あなた達とも縁のある子です。初めて顔を合わせるので緊張していたみたいですが頑張ってくれています。だから大丈夫ですよ」


そこまで言ってピートは顔を上向けて天井付近に視線を送った。
つられてネギも同じ場所を見てみる。だが特に変わった様子はない。多少汚れているが何の変哲もないただの天井だ。
不思議に思いながらも首を元の位置に戻し、彼にどうしたのかと尋ねようとした瞬間。
ふと何かが聞こえた気がしてネギは再び顔を天井に向けた。





あ、朝倉さん!!違います!違います!そっちはくーへさんの体です!!


ちょっ!!くーへさん、待ってください!!勝手に教室の外に出ないでください!!


わーーーっ!!!せ、刹那さん!!だめです!!だめです!!そっちに逝ったらだめぇぇ!!戻ってこれなくなっちゃうぅぅぅ!!!





よく分からないが誰かが必死になって何かを訴えている気配がする。・・・一生懸命に何かを引き留めているような?
顎に手を当て思い悩むように首をひねっていたネギだったが、そんな彼にしばらく無言のまま天井を見続けていたピートが声を掛けてきた。


「大丈夫だと・・・思います・・・・・・・・・・・・・たぶん」


頑なに笑顔を維持したまま念を押すように言ってきたピートの額から、一筋の汗が滴り落ちたのを、ネギは見逃さなかった。





◇◆◇





それを見る事が出来たのは単なる偶然だった。


戦うための準備をしていた最中にたまたま目撃したに過ぎない。


切り札である特殊な文殊を作成していた時の話だ。あれの生成には一定の手順を踏む必要がある。
一度は何とか制御する事が出来たが、二度目も成功する保証などどこにもなかった。
緊張で喉が渇き、何度も唾を飲み込みながら覚悟を決めて文殊を使用した。
いつかのように尋常でないほどの情報が脳内を駆け巡り、ひどい頭痛が襲い掛かる。思わず悲鳴を上げかけて自らの首を両手で絞めつけた。
口の中で震える舌を上下の歯で噛んで止めながら身動き一つせず蹲る。どれだけそうしていただろう。
無限にも思えた拷問のような時間は、それでも終わりの時を告げた。無作為に収集していた情報が一つの方向に収束し苦痛が和らぐ。
重い頭を抱えながら体を起こし、額を押さえて呻き声を上げる。そして荒くなった呼吸を整え顔を上げた。


見慣れた姿の少年が空中に浮かびながら徹底した破壊を行っている。
病的に繰り返される光弾の雨がヒステリックな破壊音と共に延々と大地を穿っていた。
標的である敵の姿が光に飲み込まれて、そのまま影も残さず消え去ってしまいそうになっている。

・・・しかし。

”解析”の効果によって見える景色は全く違ったものだった。
一見すれば少年が一方的に悪魔を打倒しているようにしか見えない。だが真実は違う。
霊力が一切ない攻撃ではどれだけ苛烈であったとしても上級魔族を滅ぼす事はできない。
打ち据えられている悪魔の体から異様な霊力が膨れ上がっていた。
文珠で姿を隠しているにも拘らず思わず警告を発しようと口を開きかけた時・・・それを見た。


いや、正確に言えば見えたわけではなかった。


膨張した霊力が限界を迎えた瞬間。こちらの知覚をあっさりと振り切って悪魔の姿が消失したからだ。
直前まで戦闘を優勢に進めていたはずの少年が、一瞬でぼろ雑巾になって空中を落下している。
呆然としながら体が硬直した。全てが終わった後、理解したことがあった。

あれには勝てない。何をどうしようが真っ向から相対すれば1%の勝ち目もない。

ただ、事前に一度でも見る事が出来たのは紛れもない幸運だったのだろう。

なぜなら・・・。





・・・・・・・・・・・・何をされたかも分からず即死するという事態だけは、免れたのだから。





◇◆◇




・・・・・一度目。


横島の視界一杯に黒い壁が立ちはだかっていた。夜の闇を数倍濃く深くしたような漆黒が周囲を覆い尽くしている。
それはどこまでも屹立し際限がなかった。海中深く光さえ届かない深海の世界はこんな光景なのかもしれない。
心の内側で思いながら闇の中に溶け込んでいく。虚ろな表情のまま抵抗する事を止めた。

湿った感触が体を打ち付ける。闇の正体は横島と共に空中に打ち上げられた土砂だった。
雨に濡れて重くなっているはずのそれが大量にばらまかれている。瞬間的に発生した暴風が衝撃となって周囲一帯を吹き飛ばしたのだ。
まるでハリケーンの中に叩き込まれたようだった。こちらの意思など無関係に何もかもを巻き込んでいる。
原型がなくなるまで破壊された人工物。根っこごと掘り返された木々や草花。黒ずんだ土の中から鋭い石礫が襲い掛かってくる。
当然のように呼吸もできない。陸にいるはずなのに溺れている。空気が固い波となってぶつかってくる。
なすすべなく空中を漂流するしかない。

抵抗は無意味だった。
世界そのものが敵になっている。中ほどから千切れている鉄骨の残骸が右足を浅く切り裂いた。
チラリと傷を負った場所に顔を向けて、すぐに元の位置に戻す。いちいち気にしても仕方がないからだ。
もう既に無傷な個所を探すのが困難なほど全身傷だらけになっている。重要な臓器がある場所を除いて大小さまざまな傷が体に刻まれている。
中には骨にまで達するほど深いものもあった。今現在五体満足なのはただの結果でしかない。それほどこの攻撃は激しいものだった。


衝撃波というものがある。


物体が音速を超える際に、空気が発生し続ける圧力変化を伝えきれずに固まりながら一緒に進んでいくといった現象で、
膨大な力が一か所に集中するため、それに接触した場合には大きな衝撃を受ける事になる。

その威力は凄まじく生身の人体が至近距離でまともに食らえばバラバラになって吹き飛んでいくだろう。
下手をすれば形も残さずただの赤い染みになっているかもしれない。
そんなものを・・・今まさに自分の身をもって体験している真っ最中であった。


(・・・・・・出来れば体験なんぞしたくなかったけどな。そんなもん)


愚痴の一つも言いたくなる。
上級魔族と呼ばれる輩は、どいつもこいつもでたらめな存在であったが、こういうのはなんか違うのではないかと思うのだ。
いくらなんでもそうホイホイ音の壁なぞ突破してほしくはなかった。
まぁ、身内に時間の壁やら何やらいろいろ突破したりする人がいるのでいまさらなのかもしれなかったが。
空中でいいように翻弄されながら、敵の姿をとらえる。どうやら体勢を立て直し、再び突進してくるつもりらしい。
まともに目を開けられなくとも正確に状況を把握できているのは”解析”の効果あってこそだ。
だから直接敵に顔を向ける必要もなかったのだが横島は何となく首を動かした。


(まずいな。このままじゃ二秒遅い)


敵の攻撃タイミング。落下コースと地表までの到達時間。
そこから導き出されたのは空中で身動きが取れないまま突進を食らって苺ジャムのようになる自分の未来だった。
頭の中で勝手に行われている計算にうんざりしながら、文珠を握りしめる。
このままでは死ぬ。


・・・・・だから横島は無理やり間に合う事にした。


こちらの意思を受け文珠が輝くと同時に、頭から大地に落下していた体が不自然にクルリと回転する。
腹筋を使って勢いをつけたわけでもないのに直立不動の体勢から急に上下が逆転した。
足を地面に向かって伸ばしながら、再び奇妙な変化が起こる。まるで横島の周囲だけ重力が違っているかのように落下速度が増加した。
二秒先の未来に強引に滑り込んで、最初の攻撃で折れてしまった足を使って地表を蹴り抜く。



・・・・・二度目。



すぐ横を通り過ぎた死の具現が猛烈な衝撃の波を起こす。空間が踊り軋んで歪む。
突進そのものを避ける事が出来たとしても、その余波から逃れるすべはない。
まるでミキサーの中に突っ込まれてバラバラに撹拌された食材のような気分を味わった。
ジェットコースターに乗っているわけでもないのに体が上下左右に振り回され、そのうえ回転まで加わる。
平衡感覚はとっくに失われているだろう。体が感じる苦痛も想像しがたい。
どちらが空でどちらが地面なのかも分からなくなり、痛みによって悶絶してるはずだ・・・・・本来ならば。
最初の段階で感覚器官から受け取る外的刺激はすべてシャットアウトしているので別段不都合もなかった。
どれだけ転がされようが打ちのめされようが何一つ感じない。

再度宙に放り投げられつつ横島は思う。本当にあらかじめ視る事ができてよかった。
もし何も知らずに戦っていれば、あっさりと敗北していただろう。
この攻撃の厄介な所はいくらでもあったが、特筆すべきは何の事前動作もなく瞬間的にトップスピードが出せるというところだ。
重心移動も筋肉の強張りもない。極端な話、普通に立っている状態で一瞬にして音速を超える速度で襲い掛かってくるのだ。
しかも地面に対して垂直方向にではなく真っ直ぐ水平方向にだ。でたらめにもほどがある。
仮に最初の一歩目で超音速が出せるほど強く地面を蹴る事が可能だとしても普通は盛大に土を掘り返すだけだろう。
地盤が耐えられるわけがないのだ。
もっと言えば空気抵抗を避けるのに適した形状を全くしていないので、正確に標的を狙えるだけの精度が得られるはずがなく、
さらに言えばそれは攻撃した本人に対しても衝撃波が襲い掛かっている事の根拠になる・・・・・・。


(いかんいかん。俺らしくない事を考えてるぞ・・・)


知らず知らずのうちにしていた小難しい考察を慌てて振りほどく。これも”解析”の弊害だった。
制御されているうちはまだましだが、無作為に情報を拾ってはこちらの意思に関係なく解析するので、
何処から何処までが自分の思考なのか判別が難しくなるのだ。
あまり余計な事を考えない方がいい。努めて頭の中を空っぽにしながら再び敵がいる方向に顔を向ける。
さすがに慣性を消し去るほどでたらめでもないのか、攻撃を外したにもかかわらず勢い余ってかなり離れた場所にいた。

もう一度来るかと身構えた横島だったが敵が動く気配はない。
どうやら確実にしとめるはずだった攻撃を二度も躱され警戒しているようだ。好都合ではあるのでそのまま普通に落ちる事にする。
スタリと地面に着地し向き直る。こちらの体勢が整うのをわざわざ待ってくれたのか悪魔が話し掛けてきた。


「・・・なぜ・・・死なねぇ?」


そんな事を呟いたのだろう・・・おそらく。
とっくの昔に両耳とも鼓膜が破れてしまっているので音声として聞くことができない。解析の力で察しただけだ。
まぁ、別に間違っていたところでどうでもいいが。


「なんでだ!?何故生きてる!?」


こちらを指さしながら喚き散らす。顔が顔なので表情を伺う事が出来なかったが態度から狼狽が伝わってくるようだ。
横島は面倒そうに息をつきながら小さくしわがれた声を発した。


「んなもん避けたからに決まってんだろ」


なにしろ一時的なショックで声帯がうまく機能していないので、蚊の鳴くような声量しかない。
ちゃんと聞こえたかどうかわからなかったが、そこまで心配してやる義理はなかったので言い直しはしなかった。
それでも一応相手には届いていたらしい。大げさな身振りで言い返してくる。


「避けただぁ!?ふざけんな!!人間に避けられるはずねーだろ!!そんなぬるい速度じゃねぇ!!仮に直撃を免れたとしても、衝撃波が・・・」


「うるせーよ。面倒だからとっとと掛かって来い。こっちも暇じゃねーんだ」


相手の言葉を遮り、鼻を鳴らしながら文珠を握った無傷な方の指を使って手招きしてやる。
誰がどう見てもこちらの方が劣勢だろうが、そんな事は知った事ではないと余裕の笑みを浮かべた。


「ぐっ!!・・・・・きさま・・・殺してやる・・・」


あからさまなこちらの挑発はそれでも効果覿面だったようで、静かに激昂した悪魔が押し殺した声で呻く。
横島は冷めた視線を向けながら何の感情も感じさせない平坦な声音でポツリと呟いた。




「やってみろ」




直後、相手の霊力が急激に増加した。魂そのものを圧迫するような威圧感がこちらを押し潰そうとしている。
目で見なくとも、肌で感じなくとも伝わってくる。
次にやってくる攻撃は間違いなく今までの比ではない。本気でこちらを殺しに掛かっている。


次が最後になる。横島は理解していた。まともに食らえば間違いなく死ぬ。そんな事を頭の片隅で考える。
そう・・・よく理解できていた。


次の攻撃はどう足掻いたところで防ぐことも躱す事も不可能だろうという事を。


ただ立っているだけでも困難なほどの圧力を感じるのに、周りの情景は驚くほど静かだった。風の一つもたたない。
だが横島には見えていた。”解析”の力を通してとてもよく視えている。
自分と悪魔の間に霊力を使って作られた二本のレールが繋がっていくのを。

これこそが音速を超える速度で標的に攻撃を直撃させる事が可能な理由だった。
そもそも普通に考えれば、大気中で人間の形に近い物体がそんな超スピードでまっすぐ飛ぶわけがない。
例えば銃弾のように空気抵抗を最小限に抑える形・・・つまり流線形をしていて、
発射時に螺旋状の回転を加えられ貫通力を増しているというのならばともかく(射程距離という制限はあるが)
あんな形状の物体がまともな命中精度を得られるわけがないのだ。

それでも強引に空気抵抗という壁を突破しようとするなら、こういった工夫が必要になる。要するに電車の線路と同じだ。
自分と標的とを結ぶ線を作り、その中で霊力を爆発させ推進力を得ている。
銃の例えでいうならば奴自身が弾丸で、レールこそが銃身であり、照準を定める行為でもある。
銃身をそのまま相手に押し付けてゼロ距離射撃をするようなものなので狙いを外さないというわけだ。

しかも厄介なのはそんな無茶苦茶な方法を使って音速の壁を突破しているというのに、自分は全く傷一つついていないという事だ。
自身にも衝撃波が襲い掛かっているのにもかかわらず、それを無理やり耐えてしまうほどの硬質な外皮を持っている。
あの防御を貫くための手段を用意する事は困難だった。少なくとも”爆発”程度ではかすり傷も付けられないだろう。

眼前で加速度的に高まっていた霊力の塊が凝縮していく。照準が定まり撃鉄が下りる。
あとは引き金が引かれるだけで自分は何一つ残らずこの世から消え失せるだろう。それでも横島は一歩も動かなかった。
心のひだに何のさざ波も起きない。全くの無表情でそれを見送った。



無音の世界に銃声が響く。



・・・・・最後の死が襲い掛かった。



その瞬間を見ていたわけではない。
発射タイミングを正確に理解してはいたが、知覚の外側から襲ってくる攻撃そのものをとらえることはできない。
だから何ができる訳でもなかった。ただそこに立ち尽くしていただけだ。


横島が次に悪魔の姿を見つけたのは、敵が棒立ちの自分を通り過ぎ、明後日の方向に吹き飛んで行った後だった。


丸い塊が無茶苦茶な軌道を描きながらゴム毬のように飛び跳ねている。
樹木を倒壊し丹念に地表を削り取り、凄まじい勢いで視界の外に消えていく。
おそらくものすごい轟音が周囲に鳴り響いているだろう。耳が聞こえないのは幸運だった。何しろ煩くない。
横島はしばらくの間その場に立ち尽くすと、溜息をついて折れた足を引きずりながら歩き出した。
ギクシャクとした頼りない歩みだったが、無言のまま交互に足を動かしていく。
無残な姿でへし折れている樹木達が目印となって、森の中に一本の道を作り上げていた。
若干苦労しながらその中を分け入る。淡々と進み、やがて横島は悪魔がいる場所に到着した。

倒れた木々の間に埋まるようにして、悪魔が逆さの状態で大地に押し付けられている。
いや押し潰されていると言ってもいい。ミシミシと嫌な音を立てながら周囲の地盤ごと徐々に陥没している。
それは不思議な光景だった。悪魔が沈んでいく場所だけが奇妙に歪んで見えている。
強大な重力が力場を形成し周囲の光を屈折させているのだ。視界の端にその姿を捕らえると横島はゆっくり近づいて行った。
そして暗い瞳を向けながらストックしてある文珠を取り出し、顔を俯けて囁いた。


「重いっていう字は重なるとも読める。知ってたか?」


相手に聞こえるはずがない。それは分かっていたが何となく口に出していた。
文珠に文字を刻み、もはやただの黒い塊にしか見えない重力渦にヒョイと投げ入れる。


”軟”


すると・・・ベキボキというような何かが潰れる音が聞こえた気がした。
或いはあの悪魔の断末魔がだ。もちろん錯覚だろう。そんなものが聞こえるはずがない。
だが、現実に見える光景はそれを裏付けている気がした。
放り投げた文珠の効果が失われると同時に、見ているだけで気分が悪くなるような重力場が一斉に消失する。
そしてあとにはもう何もなかった。
周囲にあるのは一部分を不自然に抉られた倒木と、同じくごっそりとすり鉢状に削られた地面だけだ。
死体どころか肉の一欠けら、血の一滴すら残されていない。
あの悪魔がここに存在していたという痕跡はもうどこにもなかった。


これが・・・卑劣な手段で少女たちを苦しめた悪魔・・・ベルゼブルの最後だった。


全てを見送り目を瞑る。
そして横島は糸の切れたマリオネットのようにその場に頽れた。
体の感覚を遮断しているので痛みも地面の冷たさも感じない。
感覚のない世界で目を閉じると、自分がまるで何の寄る辺もない宇宙にたった一人で放り出されている気分になる。
閉じていた目蓋を開け、唇を動かす。


「結局・・・殴れなかったな」


せめて一発くらいはのどか達のために殴っておきたかったが、それも叶わなかった。
まぁ・・・最初から分かっていた事ではあるのだが。
肺にたまった空気を吐き出し口を噤む。
もうしばらくこうしていたい気持ちはあったが、そういうわけにもいかない。
横島は起き上がろうと体に力を入れて・・・失敗した。僅かに身動ぎした程度で立ち上がる事が出来なかった。

実を言えば自分の体は限界に近かった。騙し騙し使用していたがそれももう無理だ。
いくら感覚神経を遮断して痛みを誤魔化そうが、負傷そのものがなかった事になるわけではない。
一刻も早く治療する必要がある。
意識下にため込んでいる文珠を取り出し文字を込める。
そのまま自分に押し付けようとしたところで、横島は持っていた文珠をポロリと落としてしまった。
慌てて拾い上げるために手を伸ばし・・・絶句する。
右腕が動かない。いや、もはや異常をきたしているのは右腕にとどまらなかった。
体全体が己の意思に反して全く動こうとしない。どれだけ命じても無駄だった。金縛りにあってしまったかのようにピクリともしない。


(く、くそっ!)


焦りが心を覆っていく。原因は分かっているが止めようがない。それをすれば自分は死ぬからだ。


「・・・・・・っ・・・」


悲鳴を上げる事も出来ない。胸の内側に絶望の影が忍び寄る。
何度も何度も動かない手を伸ばして、落ちてしまった文珠を拾おうとする。だがそれは叶わなかった。
芋虫のように這いずる事も出来ずに横島は目の端に映る文珠を睨み付けていた。

・・・すると。

突然文珠が視界から消えた。誰かの手がヒョイと拾い上げる。
落ち葉を踏みつける綺麗に磨かれたスニーカーが目に入った。
そいつは、”解析”の力が働いている最中の横島に全く気付かれる事なく、いつのまにか・・・そこにいた。


「まさか勝つとは思わなかったな。あなた本当に人間?」


変声期を迎える前の少年の声が悪戯っぽく質問してくる。
耳が聞こえない状態ではデータとして伝わるだけで肉声そのものを認識できるわけではない。
それでもその声は何故かクリアな音声として横島の脳裏に刻みこまれた。
少年は何がおかしいのかクスクスと笑いながら、その場にしゃがみ込むと横島の手元を覗く。
握りしめられている文珠に視線を向けて、目を細めながら言った。


「”操作”・・・か。なるほどね。
こんなに傷だらけなのに、何で血の一滴も流してないか不思議だったんだけど、肉体そのものを操っているわけか・・・すごいな」


感心した声で少年が呟く。何も言い返す事ができないまま、聞こえてくる。
これだけ肉体が損傷しているにも拘らず、即死していない理由がそれだった。
人間が外傷によって死ぬ理由はいくつかあるだろうが、
大量に血を失った場合、血圧の低下から来るショック死か血液が酸素を運べなくなり酸欠を起こす。
それを防ぐために横島は自分の体をリアルタイムで”解析”しつつ血流を”操作”していた。

骨が折れても歩行できる理由もそれだ。足を動かしているのではなく足を操っている。
脳による命令ではなく文珠の力で無理やり”操作”しているのだ。
それは言うならばゲームの中の登場人物をコントローラーで動かしているようなものだった。
感覚神経が遮断された横島忠夫という人型を操る。

最大HPが失われる、つまり死亡するまで基本的なスペックを強引に維持し続ける。
神経が切断されようが、関節が破壊されようが、筋肉が断絶しようが、関係ない。
生命維持に不可欠な重要な臓器と脳さえ無事ならば、即死を免れる。そして即死さえしなければ文珠の能力で操る事が出来る。
そんな普通では考えられないようなことを横島は実行していた。


「でも、それだけじゃないよね。思うに衝撃波を避けるための気流操作と擬似的な空間操作までしていたんじゃないかな?」


どう、合ってる?と無邪気に聞いてくる。だが、今の横島には答えられない。


「例えば衝撃波が来る直前に自分の周りに真空を作るんだ。それを空間操作で固定したんじゃないかな。
エネルギーが段違いだけど結局衝撃波といっても空気中の圧力変化に過ぎない。空気という触媒がなければ波を伝える事が出来なくなる」


模範解答を言う優等生のように次々と言葉を発する。


「まぁ、さすがに大気中で完全な真空なんてものは作れなかったみたいだけどさ・・・」


傷だらけのこちらを見ながら、眉をひそめる。横島は答えられない。


「それに最後のあれだ。悪魔が地雷でも踏んだみたいにいきなり吹っ飛んで行ったけど・・・あれも何かの仕掛けでしょ?」


(だから答えられないって言ってんだろうが!!)


声を出す事も出来ないので心の中だけで絶叫する。いい加減うんざりだった。こっちはそれどころではないのだ。


「さっきのお兄さんの台詞からすると、刻んでいた文字は両方とも”重”いかな?」


首を傾げて人差し指を顎に当てていた。
美少年のそんな仕草は見る人間が見ればたまらないものなのかもしれないが、あいにくと横島は不快に感じるだけだ。
できる事なら顔を背けてしまいたかったが、相変わらず身動き一つできない。
歯がゆい思いを噛みしめていると、ふと先程の決着の瞬間が頭をよぎった。別に目の前の少年に問われたからではないのだが。

確かに少年の言う通り横島は戦いが始まる前にある仕掛け・・・罠を設置しておいた。
音速を超えて動くような奴が相手では、まともな戦闘も出来ない。こちらの攻撃動作そのものが致命的な隙になるからだ。
だからタイガーの精神感応により場が混乱している間に、こっそりと文珠を仕込んでおいたのだ。

あらかじめ作り上げていた例の特殊な文珠に”重”という字を二つ刻み、
”隠”の文珠で見えないようにしてから適当な場所に放置した。

”解析”の効果が発動している横島だけがそれを見る事が出来る。あとは単純だ。
こちらの罠にかかる位置に敵を誘導し、それを踏ませればよかった。

彼我の距離を計算し、敵の挙動を予測し、こちらの位置を調整する。最適な場所に敵を誘い出すために必要だった回避が二回。
三回目に罠を踏ませることで文珠が発動した。超重力の渦が加速した相手をそのまま大地に激突させる。
要するに超音速で頭を地面にぶつけたわけだ。奴にしてみれば何が起こったか分からなかったろう。
全力で駆けるために足を踏みしめた瞬間、標的に向かうはずが地面に向かって特攻していたわけだから。
”重”いの文珠には”重”なるの効果も付与してあった。踏んだらそれまでだ。どれだけ速く動こうが接触者を起点に効果が発動し続ける。
幾度も大地に激突しながら敵の姿は森の奥に消えていった。

勝つには勝ったが、実を言えばひやひやものだった。
文珠を踏んでもそのままレールをたどって横島に激突する可能性もなくはなかったからだ。

結局のところ人間が上級魔族に勝とうとするなら、どこかで賭けに出ざるを得ない。
罠を張り巡らし、背後から奇襲し、はったりをかます。
そこまでやっても命を賭けなければならないほど、人と悪魔には明確な差があった。


「身体操作、気流操作、空間操作。一つの単語で複数の効果を得ている」


指折り数えながら少年が囁く。


「”重”いにしてもそうさ。一つの文字で全く異なる意味の効果を同時に得ていたわけだ・・・」


掌を上向けて呆れたようにこちらを見る。そして言った。


「もう一度聞くけどさ・・・君、本当に人間かい?」


「・・・・・・・・・・・」


当たり前だと文句を言いたくても口が動かない。もはや瞬きすらも覚束なくなっていた。
”解析”の力が暴走し始めているのだ。自分の制御を離れようとしている。
もしもそんなことになれば、まっているのは血流の操作を誤っての出血多量による即死か。
感覚神経の遮断に失敗し、痛みによってショック死するか。或いは単純に情報過多による精神崩壊か。
・・・どう転んでもろくな未来が見えない。


(あ、あかん。まじでやばい。このままじゃ・・・)


自我が消えかけるように意識が朦朧となっていく。しかしそれでも止まらない。
脳髄が悲鳴を上げようが、好き勝手に情報を解析していく。

実を言えば最初から懸念はあったのだ。
京都から帰ってきてからこっち、何故か不自然に増大している自分の霊力を扱いきれないのではないかと。
そんな状態で、ただでさえ難易度の高い文珠の使用法を・・・・・。


(・・・・・あれ?)


そこまで考えて、ふとある疑問が頭をよぎった。


そういえば・・・自分は何であんな使い方ができたのだろう?


まるで当然のように扱っていた。できると信じて疑わなかった。自分はまるで当たり前のように・・・。


白く濁った思考の中に、その疑問だけがグルグルと繰り返されていく。
どれだけ己に問いかけても答えは出ない。それでも疑問は湧水の如くこんこんと溢れていった。
呆けた表情のまま、横島忠夫という人格が消滅していく。弛緩し始めた肉はどんどん死体のそれに近づいていく。
締まりのなくなった口元からタラリと睡液が滴り落ちる。その事を自覚する事も出来ない。
もはや止める事が出来ないほど霊力は増大し続け、何も考えられなくなる。

そして・・・・・とうとう終わりが訪れようとしたその瞬間。




「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」




目の前に・・・無言のままこちらの瞳を覗く邪悪な虚があった。
目と目が合う。ただ見つめられているだけなのに、裸のまま極寒の地に放り出されているような悪寒が心を凍えさせる。
少年は大きな瞳を見開いたまま、何の表情も浮かべることなく横島を見ていた。
顔を上げさせるためだろう。髪の毛を掴まれ無理やり上体を起こされる。


「・・・・・まだ・・・死ぬな・・・」


奴隷に命じる主のように。家来に下知する王のように。尊大な物言いで彼は横島に命令した。


「やはり伝えておくとしよう」


少年が口の端を厭らしく吊り上げながら、言葉を紡いでいく。


「これから三週間後、超鈴音という娘がある行動を起こす。それは君にとっても見過ごせない事で、重要な意味を持っている」


途切れつつある意識に言葉の羅列が次々と埋まっていく。


「それが何なのかを知って、どうするかは君に任せる。協力しても、妨害しても、あるいは無視しても・・・それは君の自由だ」


力なく目蓋が落ちかけ、暗闇が視界を覆い尽くしていく。


「・・・最後に、忠告しておこうか」


黒い世界の中に優しい声が囁かれる。


「君にとっての仲間がこの世界にとっての味方であるとは限らない・・・せいぜい気を付ける事だ」


その言葉を最後に、何もかもがわからなくなって・・・。





横島は意識を失った。





◇◆◇





目の前の人間に視線を落とす。どうやら今度こそ完全に気絶してしまったようだ。
意識もないのに肉体を”操作”し続けていられるのは賞賛に値する事なのかもしれなかったが、それが当人のためになるかは甚だ疑問だった。


なぜなら、異常だからだ。


素直に言わせてもらえば、ただの人間がこんな無茶をするべきではない。
心臓を・・・その持ち主が意識して動かせないように、出来るはずのない事を無理やり行えば必ずどこかに歪みが生じる。
こんな事を繰り返せば近い将来必ず命を失ってしまうだろう。


まぁ、今も死にかけている事には変わりないわけだが。


そんな事を考えながら、手の中にある玉をクルクルと転がす。
大きさはせいぜいビー玉と同じくらいだったが、金属の冷たさは感じられない。
ゴムのような柔らかさもなく、かといって硬すぎもしない。不思議な感触だった。
何となく掌の上で弄んでいたその時、ふと誰かが近づいてくる気配を感じてそちらを振り向いた。


「なんだ、やっぱり来たのか」


「・・・・・立場上、捨て置くわけにはいかないのでな」


視線の先にいたのは一人の幼い女の子だった。傍らにメカメカしい従者を連れている。
さらりとした金髪が月の光に反射してキラキラと輝いて見えていた。まるで森に住む妖精のようだ。
見ているだけで相手を殺しそうな、その目つきを除けばだが。


「立場上ね・・・まぁ、いいけど。彼を回収しに来たのかな?それならやめておいた方がいいよ」


一応、忠告してみる。


「・・・・・・・・・・・・どういう事だ」


少女は厳めしく歪めた眉をピクリと動かし問いかけてきた。


「今下手に動かすと、それだけで死んじゃうからさ。
ギリギリのところでもってはいるけど、それももう限界だね。見たところあと数分ってところか・・・」


地面に倒れてピクリともしない体に視線を向ける。いくらなんでもこの状態で、そう長くはもたないだろう。
今生きているだけでも十分奇跡と言えるくらいなのだ。


「僕としてはどっちでもよかったんだけど、わざわざ君が来てくれたことだし渡しておこうかな」


こそこそと隠れていたのはお互い様だったが、こうして顔を合わせた以上、これも何かの巡り会わせかもしれない。
そう思い、右手に握っていたものをヒョイッと放り投げた。
危険物とでも思ったのか、少女は受け取らずにそのまま見送った。
地面に落ちたそれに鋭い視線を向けている。


「・・・これは」


「それを彼に押し付ければいい。体の傷が治ったところで助かるかは五分五分だろうけど、やらないよりはましだろうしね」


彼が暴走している力を抑え込めるかは・・・自分にも分からなかった。


「それじゃ僕はもう行くよ。これでも買い物を頼まれている最中なんだ」


肘の上にかけてあったビニール袋がカサリと音を立てる。
いい加減遅くなりすぎているから、いまさらかもしれなかったが、雨の中を使い走りさせるような雇い主にはちょうどいい嫌がらせだろう。
クルリと背中を向けて歩き出す。


「ま、待て!」


「なんだい?」


「お前はこの男の仲間ではないのか?このままにしておくきか?」


そう問いかけられて、思わず吹き出しそうになった。


仲間・・・なかま・・・実に面白い冗談だ。


「あいにくとそんな関係ではないよ。どちらかと言えば敵だろうね」


「敵・・・ならばお前は・・・」


「だからといってあの悪魔の味方でもないよ。ああいう下品な輩と好き好んで付き合う趣味はない」


「・・・・・」


「それよりお兄さんを気にしてあげた方がいいよ。そろそろほんとにまずそうだ」


その言葉を聞いて、少女が地面に落ちている玉を見つめながら唇を噛んだ。
どうやらこちらの言っている事が本当かどうか迷っているようだ。
まぁ、罠だと警戒して使わないとしてもそれは少女の自由だ。気にしない事にして歩き始める。


「おっ、おい待・・・」


「ああ、そうだ。一応言っておくね」


立ち去ろうとする背中に少女が制止の声を上げた瞬間、それを遮るようにして少年は言った。


「僕を追おうとは考えない方がいい。もしついてきたら・・・・・殺すよ」


穏やかな声で告げると、少年はゆっくりと歩きだした。背後で息をのむような音が聞こえていたが振り返る事もない。
足元を照らす月明かりは森の中というのもあって、少し心もとなかったが気にせず進むことにする。
下草についていた雨の名残が膝を僅かに濡らした。
やがて森を抜け視界が開けてくるとほとんど更地のようになっているステージが目に入った。

これは修理するより新しく作り直した方が早いな。

そう思いながら無残に抉られている地面を歩く。

そしてたった今出てきたばかりの森を振り返ると、唇を皮肉げに釣り上げこう言った。




「・・・・・運命・・・か」




だとしたらそれは何者の手による采配なのだろうか。




優しく地上を照らしている月に一度視線を向けてから、少年は今度こそその場を後にした。






[40420] 21
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:73709a19
Date: 2015/11/05 22:31


目蓋越しの薄闇を見続ける事にも飽きて、綾瀬夕映はゆっくりと目を開けた。
長時間閉じていた瞳はどことなくぼんやりと濁っているように感じる。
目頭を揉み解し溜息をつく。何とか寝るための努力をしていたのだが結局無駄になってしまったようだ。気分が高ぶっているせいか、一向に眠気が訪れる様子はない。
見慣れない天井に気怠い視線を送り、周りにいる者達を起こさないようにして立ち上がる。このまま横になっていてもどうにもならなそうだ。
そう思い、なるべく音を立てずに教室の扉を開ける。そしてシンと静まり返っている廊下を歩きだした。


今から少し前に夕映は一度目を覚ましていた。


覚醒した直後は何が何だかわからずにぼんやりとしていたのだが、眠っていた脳が活動し始めるにつれて自分が置かれていた状況を思い出し、軽いパニック状態になった。
引き攣った悲鳴を上げる夕映を落ち着かせてくれたのは、担任教師のネギだった。
彼は辛抱強く現在の状況を説明し、今いる場所が安全である事や死んでしまったはずの和美や古菲達が実は生きていた事を夕映に教え、安心するようにと諭した。

彼らが助けてくれたんです。

そう言いながら紹介されたのは、見知らぬ金髪の美青年と聞きなれない言葉使いをした巨漢の男、そしてセーラー服姿の美少女だった。
どうも彼らは横島の友達で、助っ人として麻帆良に連れてこられたらしい。

夕映の中に潜んでいたあの悪魔も彼らの手によって除去されたそうだ。
こちらを気遣う様子で話し掛けてくるピートと名乗った青年の言葉に耳を傾けながら、夕映はしだいに気分を落ち着かせていった。

それからピート達は、眠ったままの和美たちが目覚めるまでの間はここに留まっている方がいいと告げて、外にいる者(どうやら彼らの指揮官らしい)と連絡を取るために席を外そうとした。

まだ全てが解決したわけではなく、横島が一人で戦っているのだそうだ。状況次第では自分たちも彼を助けに行くのだと言っていた。
その話を聞いてネギと小太郎が自分たちも連れて行ってほしいと訴えていたが、疲労を理由にやんわりと拒否された。
何か分かり次第あなた達にも伝えに来ますから・・・。そう言い残し彼は教室を出て行った。

その後の事は・・・よく覚えていない。
心身ともに疲労していたためか、それとも安堵のあまり気が緩んでしまったのか、意識を失ってしまったからだ。
ただ眠りに落ちる直前に見たのどかの姿だけがひどく印象に残っていた。

夕映が再び目を覚ましたのは、それからしばらくした後だ。
寝ぼけ眼で周りを見渡すと、いつの間にか部屋の明かりが消され、自分のほかに起きている者はいなかった。
誰もが思い思いの姿勢で眠りについている。
周囲が優しい闇に包まれ、静寂の中で穏やかな寝息の音だけが聞こえていた。

誰かに話し掛ける訳にもいかずに、目を閉じて無理やり眠ろうと努力していたのだが結局意味はなかった。
少し出歩くくらいはかまわないだろうと夕映はそこらを散歩する事にした。リノリウムの床を静かに歩く。

どこにでもある学校の廊下そのままだ。・・・少なくとも見た目だけは。
一定間隔で教室が並び、反対側には何故か先を見通す事が出来ない窓が階段の向こうまで備え付けられている。
廊下全体が薄暗く、天井に設置されている蛍光灯は点灯していない。
光源らしきものは見当たらないが、どういうわけか不都合にならない程度の明るさがある。
少しだけこの場所について聞いていたが、妙に不思議な場所だった。


(・・・ちょっとだけ好奇心を刺激されますね)


許されるならいろいろと調べて見るのもいいかもしれない。


もっとも・・・今は到底そんな気分にはならないが。


小さくため息をついて先を進む。水飲み場を通り過ぎ、踊り場から階段を下りていく。
昇降口の辺りまで行ってみるつもりだった。
転ばないように注意して、一段一段足元を確認しながら夕映は一階に到着した。
キョロキョロと視線を彷徨わせ、靴が一足も入っていない下駄箱に目を向ける。
外はどうなっているのだろうかと玄関の方まで歩いていく。
そして先の見えない景色に目を凝らしていたその時、ふと違和感に気が付いた。
廊下の先、プレートに保健室と書かれている扉の隙間から、僅かな明かりがこぼれていた。

薄暗い廊下に一室だけ明かりがついているので妙に目立っている。
耳を澄ませると、ボソボソとした誰かの話声が聞こえてきた。
小声で話しているようだが、無音の廊下は耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。
扉を閉め切っていないせいもあってか、大した注意を払わなくても自然と耳に入ってきた。


(誰でしょうか?)


声を押し殺しながら会話しているようで、詳しい内容までは聞き取れない。何を話しているかを理解するためにはもう少し近づく必要があるだろう。
そう考えて、夕映は足音を立てないようにゆっくりと歩き始めた。そして唐突に何気ない事実に感付いて、頬を引くつかせた。


夜の学校。静まり返っている廊下から聞こえてくる何者かの話声。闇の中にたった一つだけ明かりがついている保健室。


自分は今、そんな場所にたった一人でいる訳だ・・・。


ゴクリ。


夕映は喉を動かし唾を飲み込んだ。意識すると同時に心臓が早鐘を打ち始める。
体が緊張で硬直し血の気が引いているせいか、凄い勢いで体温が下がっている気がする。むろん錯覚だろう。
もしそんな急激な体温変化が起こっているのならば、まともに歩いていられるはずがない。
足がうまく動かないのでギクシャクと斜めに移動している気もするが、それも当然思い込みにすぎない。
先程から首筋を撫でてくるように感じる冷気もきっぱりと気のせいだ。そうに違いない。


(・・・こ、ここは安全だってピートさんも言っていましたし、だ、大丈夫なはず・・・)


両手で心臓の辺りをギュウと押さえつけて、無理やり自分を納得させる。
怖いからといってこのまま教室に戻ったところで、気になって余計に眠れないだろう。
もともと好奇心が強い事もあってか、夕映は話声の正体を突き止める事にした。
極力足音を立てないように気を付けながら明かりがこぼれている扉の前まで進む。
息を殺して内部の声に耳を澄ませた。


「それはどういう事ですかっ!?」


心当たりのある人物が、鋭い調子で言葉を発している。ピートの声だ。
昼間話した時とは違い些か語気を荒くして何事かを尋ねている。
声が響いてしまう事を警戒しているのか、声量自体はそう大きなものではなかったが、
それでも感情がそのまま言葉に乗っているかのように真剣身を帯びていた。


「答えてください。本気・・・なんですか?」


「ああ」


そんなピートの質問に答えたのは、まったく聞き覚えのない声だった。
押し殺した低い声はそれでもハキハキとして聞き取りやすくはある。
謎の人物が言葉を続けた。


「彼女たちは知るべきでない情報を知ってしまった可能性がある。機密保持の観点から言っても妥当な措置だろう」


「しかしそんな勝手な!!」


ピートは声の主に不満を感じている様子だった。記憶にあるような穏やかな印象とはかけ離れた、激しい調子で非難している。
扉越しでも険悪な雰囲気が伝わってくる。室外にいる自分にも胃を鷲掴みにされているような重圧が感じられた。
何となく落ち着かなくなり、辺りに視線を彷徨わせていた夕映だったが、その時女性らしい柔らかな声が二人の会話に口を挟んだ。


「確かに勝手よね。でもあの子たちはベルゼブルって悪魔に酷い目にあわされたのよね。もしそんな事が出来るなら・・・」


確か愛子と名乗った女子生徒だ。彼女が言い辛そうにして沈んだ声で囁いた。


「そ、それは・・・」


ピートが動揺して言葉を濁す。そして呻くように言葉を絞り出した。。


「たとえそうだとしても納得できません。・・・記憶の改ざんなんてまね」


(記憶の改ざん!?)


思わず悲鳴を上げそうになって、夕映は慌てて口を噤んだ。両手で口元を覆い、なるべく呼吸音も立てないようにする。
驚きのあまり表情がこわばった。ゆっくりと膝を曲げその場に蹲る。目を瞑って今聞いた情報を整理した。
愛子が言っていた悪魔に酷い目にあわされたというのは、間違いなく自分達の事だ。


(機密保持・・・って言ってたですよね・・・だったら記憶の改ざんって・・・)


固く閉じていた口元が緩み呆然としていると、その間も謎の人物とピートの会話は続いていた。


「やはりそんな行為が正しいことだとは思えない」


「事の善悪を問えるような立場に我々はいないだろう。所詮は異邦人だからな。ならばせめて任務に忠実であるべきだ」


「そんなものは詭弁です!こっちの事情に彼女たちは関係ないでしょう!」


「ではどうすべきだというんだ?この機密が双方にとって重要な意味を持つという事は君も理解しているのだろう?」


「そ、それは・・・だ、だったらせめて彼女たちの了承を得てからではいけないんですか?このままではあまりに一方的すぎる」


「そんな事をして彼女たちが許可を出すと思っているのか?
詳しい説明ができない以上、得体の知れなさでは我々もあの悪魔と似たようなものだ。
仮に全てを話したうえで忘れるようにと協力を要請しても、こちらの言い分をのんでくれるかどうかは分からない」


「・・・うぅ」


「今しかないんだ。関係者全員がそろっている今しか機会はない。
全員同時に記憶の改ざんを行わなければ、記憶を持つ者とそうでない者の間で齟齬が出来てしまう」


話を聞きながら夕映は内容を理解しようと必死になっていた。
今回の事件について自分達が知った何らかの情報を、彼らが隠蔽したいと思っている事は、おおよそ察しが付く。
具体的な情報の内容までは見当がつかないが、彼らも夕映達がどこまで知っているのか、分かっていない様子だった。
もし記憶の改ざんなんてまねが本当にできるのだとしたら、事件そのものを消し去るつもりかもしれない。
それに機密がどうのと言うからには彼らが何らかの組織に属している可能性もある。個人で使うには言葉が大げさすぎるからだ。


(もしかしてピートさんと話しているのが指揮官なんでしょうか?)


ピートは反対しているようだが明らかに押されている。このままでは彼らは本当に実行するだろう。


(と、とにかく皆に知らせないと・・・)


少しでも冷静さを取り戻すようにと軽く頭を振ってから、夕映は静かに立ち上がった。
なんにせよ今聞いた話を皆に伝えなければならない。
下手をすればピート達が敵に回る恐れもあったが、このまま黙って記憶を消されるつもりはなかった。
己を鼓舞するように一度頷いて扉の前から離れようとした時、再び彼らの指揮官?が口を開いた。


「私もこれが正しい事だとは思っていない。だがな、彼女たちは本来関わるはずのない者の手によって心身ともに傷を負った。
ならばそれをなかったことにするのが、ベストではないにしろベターな選択ではないのか?我々にその手段があるのなら迷うべきではない」


声のトーンを落として言い聞かせる彼に愛子が聞き返す。


「手段って・・・どうするの?」


「文珠を使う。こんな時のために備えはしてある。私と横島君とで実験済みだ。後遺症もない」


あらかじめ用意していた答えだったのか、口調に乱れがなく淡々としている。


「・・・本当に・・・そうするしかないんですか?」


まだ迷っているのだろう、ピートが途切れ途切れに問いかけた。


「無理に納得しろとは言わない。だが、彼女たちの多くが魔法使いとその関係者である以上、常に最大限の用心はしておくべきだ。
万が一にも異世界の存在を知られては・・・」


その言葉を聞いた瞬間ビクリと夕映の体が震えた。そして・・・。



ガタッ・・・・・。



思わず振り返ってしまったとき扉に肘が触れてしまったらしい。そのことを認識し、慌てて離れるがもう遅い。
室内から複数の息をのむような音が聞こえてきて、ピタリと話し声が止んだ。
緊迫した空気が無音の静寂をもたらす。心臓が煩いくらい飛び跳ねているのに体は固まったままだ。
頭の中が真っ白になり、瞬きを忘れた瞳が乾き始める。
いつの間にか忘れていた呼吸に夕映が限界を感じたころ、勢いよくドアが開かれ薄暗い廊下に光が差した。
背中を照らされ、長く伸びた自分自身の影が床に映る。
夕映は無意識に唾を飲み込んで、全身を小さく丸めた。それこそ何らかの魔法にかかってしまったかのように身動き一つできない。


「君は・・・」


背後からピートの呆然とした呟きが聞こえてくる。
続いて建て付けがよくないのかガタガタと扉を通る音がして、室内にいる全員が廊下に飛び出した。
姿勢はそのままに首と目を動かして恐る恐る様子を伺う。誰もが驚いて目を丸くしていた。


「・・・綾瀬夕映・・・聞いていたのか・・・」


ピート達の指揮官が低い声で苦々しく唸る。
逆光でいまいち姿がうかがえないのだが、タイガーと名乗った大柄な男子生徒の陰にでも隠れてしまっているのかもしれない。
限界まで首を捻じ曲げている姿勢に無理を感じて、夕映は仕方なく背後を振り返った。

悪戯を見つかって叱られた子供のように、しゅんとしながら佇んでいると、とにかく部屋に入るようにと促された。
こうなってしまっては逃げる事もままならないので、おとなしく従う事にする。
それにピートがいる限りそうそう乱暴な事はされないだろうという打算もあった。
長時間暗い場所に居続けたせいか、光が必要以上に眩しく感じる。しばらくすると目が慣れてきたので室内を観察した。
保健室というだけあって清潔感のある部屋だ。簡単な医療器具と備え付けのベット。
体重計や身長計、ボードに張り付けられた視力検査表や保険だよりが目に留まる。
キョロキョロと辺りを見回していると、ピートからさりげなく椅子を勧められた。頷いて腰を下ろす。

ここに至って夕映は何となく開き直ることにした。
いまさらジタバタしたところでどうしようもないし、考えてみれば他人の記憶をどうこうしようなどと考えている方が悪いのだ。
いくら彼らが命の恩人だとしても、好き放題していい理由にはならないはずだ。
叱られでもしたら文句の一つも言い返してやると心の中で思っていると、頭の上から声がかかった。
ゆっくりと顔を上げて前を見る。


・・・そこには酷く顔色の悪い妖精がいた。


(・・・・・・・・・?)


一瞬訳が分からなくなる。何でこんな所に妖精がいるのだろう?
保険医が患者を診るために座る椅子の上で、腰掛けるでもなくふわふわと空中に浮いている。
手のひらサイズの小柄すぎる体で、腕を組みながらジッとこちらを見据えていた。
ピートとは違ったタイプの精悍な顔つきをした美青年で、ファンタジー小説にでも出てきそうな尖った耳をしている。


(変わったタイプの妖精さんですね。ひらひらの服も来てないし、何より羽がないのがマイナスです。
確かにステレオタイプの妖精でなければならないという法はありませんが、斬新さを狙えばいいというものでもないでしょう。
表情も固いし、これではメイン層の子供を取り込むことができないのではないですか・・・)


表面上は冷静そのものの無表情で頭の中がパニックを起こしていた。思考回路が明後日の方角で盛大にから回っている。
夕映は何故かこの妖精のキャラクターイメージとマーケティングについて真剣に思い悩んでいた。
互いが渋い表情で無言のまま見つめあっていると、やがて妖精が重々しく口を開いた。


「初めまして・・・だな。私はジークという」


「精悍な顔つきはグッドです。切り口としては間違いではないでしょう。ただやはり子供受けを考えると・・・」


「・・・・・何を言っているんだ?」


「へ!?あっ、す、すみません!!別に子供が見たら泣き出しそうな顔だなとかは思ってないです」


「ぐっ!!」


何やらいらないところでクリティカルヒットを出してしまったらしい。妖精が胸を押さえて俯いた。


「い、いや、違うです!!ちょっと目つきが鋭すぎて一般人に見えないなぁとか、インテリヤクザ?とかも思ってないです!!」


「うぐはぁ!!」


珍妙なうめき声が聞こえると同時に、妖精がよろよろと椅子の上に墜落する。そのまま膝を抱えてブツブツとこぼし始めた。


「た、たしかに僕の人相は悪いかもしれない。しかし姉上にしてもあの顔つきだ。これはもはや遺伝子レベルの問題であって・・・」


膝に額をグリグリとこすりつける妖精を止めるべく、夕映は何度も頭を下げて謝った。


・・・その後。


互いに冷静さを取り戻すまで、それほどの時間はかからなかった。向かい合いつつ改めて自己紹介する。
妖精の名前はジークフリートというらしい。確かどこかの国の英雄譚に同じ名前の登場人物がいたような気がしたが、まぁ関係はないだろう。
夕映が思っていた通り、ピート達の指揮官であるとのことだった。

まさか彼らの指揮官がこんなに小さな妖精・・・本人曰く妖精ではないらしいのだが、
とにかくこんなに小柄な人物だとは思わなかったので、夕映は少し驚いた。
物珍しさからか不躾な視線を送りそうになって、慌てて目を逸らす。

何を口に出していいのか分からずにもじもじとしていると、何処からか愛子が湯気を立てたマグカップを持ってきた。
熱いから気を付けてねと言いながら手渡してくれる。夕映は礼を言ってそれを受け取り一口すすった。
暖かな液体が喉を通って腹部を温めていく。程よい甘みが緊張をほぐしリラックスさせてくれた。
味自体はどこにでもありそうなインスタントココアだったが、肉体的にも精神的に疲労している自分には、何より有難いものだ。
息を吹きつけながらゆったりとココアの味を舌で転がす。胸の内側にたまっていた悪い空気を思い切り吐き出して、夕映は肩の力を抜いた。
するとこちらが落ち着くのを待っていたのか、ジークが話してもいいかと確認を取ってきた。
彼に頷きかけて夕映は意識を切り替えた。


「では、本題に入ろうか。話しを聞いていたのなら分かっていると思うが、我々としては君が今聞いたこと・・・いや君たち全員にあの悪魔に関する全てを忘れてもらいたいと思っている」


「・・・盗み聞きした事は謝るです。でも、そう簡単に記憶を消させてくれって言われても納得できないです」


「もっともだ。しかし、こういった言い方はなんだが・・・・・君は今のままで元の生活に戻れると思うか?
君たちは恐怖を・・・絶望を知った。そんなものを心の中に植え付けられて、平和な日常にかえれると本心から思えるか?」


「そっ、そんな言い方は卑怯です!!結局あなたは思惑通りに話を進めたいだけでしょう!?」


「確かにその通りだ。君たちの弱みに付け込んでいる事も承知している。しかし考えてみてくれ。
これが無視できる問題でない事も、また事実のはずだ」


「だからって・・・」


夕映は悔しげに唇を噛みしめた。膝の上に置いた両手を強く握りしめる。
ジークを否定するような台詞を言ったが、結局のところ夕映自身もわかっているのだ。彼の提案は無視できない。
問題なのはそれを強行しようとしたことであって、話の内容自体は夕映達にとっても利益がある事なのだ。
感情的には拒否してしまいたい提案。だがそれは簡単に捨て去る事が出来ない魅力的な果実でもある。
今のままでは確実に悪夢を見るだろう。そしてそのたびに思い出す事になる・・・あの惨劇を。

・・・・・自分の想像に吐き気を覚えて口元を覆う。いやな味の唾液が舌にへばりついて吐き捨てたくなった。
刹那的な衝動を堪えつつ考えてみる。
幸運な事に夕映はまだ誰も失っていない。だがそれで全てが元に戻るかといえばそうではない。
あの時感じた様々な激情は、今も生々しく頭の中にこびり付いている。



もし、それを忘れる事が出来るなら・・・。



(・・・いいえ、違いますね。そういう事じゃない。今は自分の心配をしている場合じゃない。
彼らがどういう意図を持っているのか。彼らが得る利益はなんなのか・・・それを考えないと)


相手の利を説き自分の要求を通そうとするのは健全な交渉といえる。
こちらに判断をゆだねている現状をかんがみれば、駆け引きを仕掛けているようにも見えない。
そう、彼はあえて夕映の方に主導権を渡しているように見える。なぜそうしているのかまでは分からないが・・・。


(無理やり記憶の改ざんをしようとしたことがばれて下手に出ている?・・・そんな殊勝な人物とは思えませんが)


夕映は唸るように喉を鳴らし、伏せていた顔を上げた。安易に判断するには早すぎると思った。情報が足りない。


「結局あの悪魔は何者だったですか?あなた達とどんな関係が?」


「奴は我々の世界の犯罪者だ。こちらの世界に逃亡したため、やむを得ず我々も奴を追ってこちら側にきた」


「我々の世界って・・・あ、あなた達は本当に異世界の人なんですか?」


「そうだ。こちらとは宇宙の構成からして全く異なる世界からやってきた」


「・・・・・・・・信じられないです」


「だろうな。だが、その方がいいんだ。君にとっても、互いの世界にとってもだ」


「・・・どういう意味ですか?」


「危険だからだ。一つの世界においてさえ、文化、風土、宗教、思想 人種や言語もそうだ。様々な差異が存在する。
個人であるうちはまだいい。我々の世界と君たちの世界にそう違いはないからな。
だが国や組織といった枠組みの中では話が変わってくる。互いが異世界の存在を認識する事で、どんな問題が起こるか想像がつかない。
ならばそんなリスクを抱えるべきではないというのが我々の考えだ。
今回の一件、こちらの不手際に巻き込まれた君達には詫びのしようもないが、できる事なら協力していただきたい」


ジークが真摯な態度で頭を下げてくる。心からそう思っているのだろう。
だが夕映自身の本音を言わせてもらえば、簡単に信じられる話ではなかった。

どこか現実味がないのだ。
嘘を言っているとまでは言わないが、今いる世界と異なる世界が存在するというのを信じ切れていない。
だから危機感がない。ところ構わず触れ回ったりしなければそれでいいのではないかと思ってしまう。
まぁ、ジークたちにしてみればそんなわけにもいかないのだろうが。

くしゃりと渋面を作り頭を抱える。魔法が実在すると思ったら今度は異世界ときた。
ついこの間までは退屈で何の変哲もない日常に不満を感じていたというのに、続けざまに非日常の方から夕映の前にやってきた。

ちょっと前の自分なら諸手を挙げて歓迎していたかもしれない。だが、今はどうだろうか。
目の前にやってくるのが必ずしも善良な存在ではないと知ってしまった今なら?

人と人が必ず分かり合えると信じるほど自分は無垢ではない。
異世界からやってきたのが犯罪者というのも極端な例なのだろうが、ジークの心配も理解できる話だった。
自分は、明確な否定の言葉を持ち合わせていない。

彼に従うべきかもしれない。自然とそんな考えが浮かんできた。
間違いなくその方が楽なのだ。
いまいちピンとこない大きな世界は脇に置くとして、自分の小さな世界を守るためにも。
だが、同時に思う事もあった。


本当にそれでいいのだろうか・・・そんな疑問だ。


胸の内側が鉛を飲み込んだように重くなる。
自分の都合が悪いから・・・そんな理由で起きてしまった出来事を無理やり忘れて、なかった事にしていいのか。
それがたとえ受け入れがたい現実だとしても、全て飲み込んだうえで足掻いていくべきではないのだろうか。
忘れるという行為がただの逃避に過ぎないなら、それを選ぶことが本当に正しいのか。
目を閉じて自問自答を繰り返す。迷いに拍車がかかり押し潰されてしまいそうだった。


(信念・・・なんて偉そうな台詞を言うつもりはありませんが・・・)


結局、子供じみた強がりなのかもしれない。
いつの間にか寄っていた眉間の皺を指先で揉み解し、夕映は力なく認めた。
あの場所であったリアルな現実は、頭の中でこね繰り返す正論を簡単に洗い流していく。
こんな経験をする前の自分なら、間違いなく否定していただろう。

だが、例えばとんでもない悲劇に見舞われた人間にとって、そんな正論がどれほどの役に立つ?
藁にも縋りたいほど打ちのめされた人間から、藁を取り除く行為が本当に正しい行いなのか?
特に今回は世界のためというもっともらしい建前がついている藁束だ。

全ての人間が”正しさ”に耐えられるほどの強さを持っているわけではないだろう。
もし記憶の忘却がその人間にとっての救いになるなら・・・。

鬱屈した感情が胸の内にたまっているのを自覚して、夕映は肺の中の空気を根こそぎ吐き出した。


(ジークさんの事をとやかく言えないかもしれませんね)


いつのまにか、また自分の事ばかりを考えている。夕映は皮肉に口元を歪めて自嘲した。


(結局私にわかるのは、自分の事と友達の事・・・)


遠い世界に思いをはせるより、身近な人たちの事を思う。どうやら自分はそういう人間だったらしい。
そんな風に自嘲していた時、ふと何かが頭をかすめて夕映はピタリと動きを止めた。
手持無沙汰で梳いていた髪を、力任せに握りしめる。脳の奥が痺れるような刺激と共に、突然思考が急加速した。
どうやら危地から解放されたおかげで本当に寝ぼけていたらしい。自分は真っ先に考えなければならなかったことを見事に忘れていた。

思わず爪を噛みそうになり、理性の力で強引に捻じ伏せる。
ただ足元までは気が回っていないのか、小刻みに膝が動いていた。
しばらく黙り込んでいたと思えば、突然焦った様子で落ち着きを無くし始めた夕映を、ジークたちが訝しげに見ている。
視界に入っていたが、彼らに注意を払う余裕がない。

おぼろげに浮かんできた疑問が形になった瞬間、夕映は伏せていた顔を勢いよく上げた。


「一つだけ教えてください。仮に全てを忘れたとして・・・何かの切っ掛けで再び思い出すという事はありえますか?」


まるで親の仇を見るような鋭い視線を向けて質問する。
ジークがビクリとたじろぎつつも、何とか動揺を抑えて回答した。


「い、いや、おそらくそれはない。あれは記憶を消去してそれで終わりという代物ではないからな。
対象者の記憶に矛盾が生まれたとしても、ある程度までなら脳が都合のいい記憶を勝手に捏造する。
自己正当化・・・現実に添うように自分を騙すわけだ。ただ・・・」


「ただ?」


「それはあくまで対象者自身の視点のみである場合に限る。事実と乖離した記憶を第三者から復元するという可能性も僅かに存在する」


「つまり、真実を記憶している者と接触する事で、忘れていた記憶が呼び起される・・・と?」


「そうだ。だから記憶の改ざんを行うなら一度に全員を済ませてしまった方がいい。
それに、改ざんされた記憶を持つ者が多ければ多いほど、互いに記憶の補完も行いやすいしな。
たとえ捏造された嘘でも、一定数以上の人間が同じ記憶を持っていれば、対象者はそれを真実だと思うだろう」


その言葉を最後にジークが口を閉じた。夕映は彼から視線を逸らし無言のまま口元を手で隠す。
体を丸めるように蹲り、身動き一つせず難しい表情で考え込んでいる。
そんな彼女の雰囲気にのまれたように、室内にいる全員が息を殺していた。
しばらくは時計の秒針が進むの音と、僅かな呼吸音だけがその場を支配した。
時が止まったような冷たい緊張が続き、そしてそれは唐突に破られた。
重苦しい空気の中心人物が言葉を発する。乾いた唇を舐め、夕映はジークに向き直った。


「・・・・・あなたの言い分はわかりました。ご心配も、もっともだと思うです」


「それは我々に協力してくれるということか?」


「イエス。でもノーです」


「・・・・・・・どういう意味だ?」


ピクリと眉を吊り上げたジークを見つめ、夕映は自分の考えを語っていった。


「普通に考えれば私の個人的な見解だけでみんなを巻き込めないです。でも・・・」


膝の上で手を組み僅かに思案する。そう、これは自分一人の判断で答えを出していい問題ではない・・・本来ならば。


「あなた方の考えを素直に話せば私たちの中でも協力してくれる人はいると思うです。
ただ反対する人もいるでしょう。少なくとも必ず一人は拒否するはずです」


「それは誰だ?」


「のどかです。私を人質にとられていたからといっても、のどかはヘルマンさんを・・・」


最後の言葉はどうしても口に出す事が出来なかった。


「あの子は絶対忘れない。自分が犯した罪をなかったことにできるほど器用な子じゃない」


それは容易に確信できる事だった。のどかはおそらく一人で背負い込むつもりだ。
彼女自身の罪は、もはや誰にも裁くことができない。ヘルマンはもういないし、まともな司法の手で解決できるような問題ではない。
夕映やネギがどれだけ彼女を庇っても、本心から救われることはもうないだろう。
ずっと背負い込むつもりなのだ・・・自分自身が擦り切れるまで。


「そんな事は私が許さない。のどかは幸せにならなきゃいけないんです」


噛みしめすぎた奥歯が鈍い音を立てる。
彼女が罪を負ったのならそれは自分も同じことだった。なぜなら・・・。


「のどかは私を守ってくれた。あの子の代わりは私がやるです」


これから言う事は間違いなくエゴだ。他の誰かに言われたからではなく自分自身で決めた夕映の我儘だった。
でも、たとえそれが信条に反する行いなのだとしても、夕映はのどかを失いたくなかった。


「私が皆を騙します。だから私の記憶だけは消さないでください」


「なんだと!?」


「仮にのどかの記憶だけを消したとしても、うまくはいかないでしょう。あの子は必ず違和感に気付く。
ネギ先生を筆頭に嘘がうまくない人たちが多すぎますから・・・」


愛すべきクラスメート達の顔が頭をよぎる。みんな善良を絵に描いたような人たちばかりだ。


「あなた達としてもそんな多くの人間が記憶を持ったままでは都合が悪いはずですし・・・」


「それなら君も忘れたほうが確実だろう?」


「駄目です。これは保険の意味もあるです」


記憶の改ざんができるという事は、ある意味過去に遡って事実を好き放題にでっちあげられるという事でもある。
無条件で信用できるほど彼らを知っているわけではないし、監視役として全てを記憶している人物が必要なはずだ。
これだけは譲れないと夕映はジークを睨み付けた。ジークが渋い表情でむっつりと押し黙る。
しばらくは互いに無言の時間が流れた。
すると、先程から一言も話さずに壁際に控えていたピートが悲しげに眉を歪めながら話し掛けてきた。


「本当に・・・それでいいんですか?忘れるというのはある意味で救いでもあるんです。
あなた自身も相当つらい目にあったはずだ。皆の記憶が消えれば、あなたの痛みは誰にも理解されなくなる。
それなのに・・・たった一人でずっと覚えているつもりなんですか?」


そう問われて夕映は僅かに俯いた。あの時の記憶が脳裏をよぎる。
悲しかったし苦しかった。胸の中心に大きな穴が開いているような気さえする。
おそらく一生忘れる事は出来ないだろう。あの時感じた恐怖も悲哀も怒りもなにもかも・・・。
だが、それは夕映にとっても望むところだったのだ。


「・・・私が忘れたくないんです。確かにとっても辛かったですけど、でもそれだけじゃない。のどかが命を懸けて守ってくれたこと。
あの子の勇気も私が覚えてなければ・・・もしそれで苦しい思いをしたとしてもみんなを騙す罰だと思う事にするです」


「綾瀬さん・・・」


俯いた夕映が力なく笑う。やせ我慢が見え透いてしまっているのだろう、ピートが心配そうにしている。
そんな二人を複雑な表情で見ていたジークが、深く嘆息した。大げさに首を振ると夕映に向かって頷く。


「わかった・・・どのみち見つかってしまった時点で、強引な手段を取るわけにはいかなくなってしまったからな。
君が協力してくれるというなら、後の処理もスムーズに運ぶだろう」


「・・・いいんですか?」


思いのほか簡単に自分の要求を受け入れたジークに、思わず確認した。


「そのかわり君が都合のいい記憶をでっちあげてくれ。何しろある程度の日数を記憶操作するわけだからな。
稚拙な内容では改変後に混乱が起こるだろう。そう言った意味でも彼女たちと長く接してきた君が適任だ」


そう言いながらジークが作業用デスクの脇に置かれた鞄に視線を送り、ピート達に指示を出した。
ピートが鞄の中から黒いケースを取り出し中身を確認する。
夕映にはそれが何なのか分からなかったが、どうやらケースに入れられたものを使って記憶の改ざんを行うらしい。
先程盗み聞きした話では何の後遺症もなく安全だという事だが、どういったものなのだろうか・・・。


「具体的なやり方はピート君たちが知っている。あとは彼らの指示に従ってくれ」


「・・・・・・はい」


訳の分からぬまま、ゆっくりと頷く。そのままピートに促され、出口に向かって歩き出す。
こちらから言い出しておいてなんだが、あまりに拍子抜けだった。彼らの立場からすればもう少し反対してくると思っていたのだが。
心に奇妙な引っ掛かりを覚えて、夕映は背後を振り返った。先程まで会話をしていた人物を探す。
彼はこちらに背中を向けて何かをしているようだ。もともと姿が小さい事もあって、ここからでは手元がよく見えないが。


(・・・なん・・でしょうか。・・・なにか)


「綾瀬さん?」


神妙な顔つきのまま出口付近で動きを止めた夕映にピートが声を掛けてきた。ハッと我に返り何でもないと小さく笑う。
不思議そうにこちらを見るピートの視線から逃げるように、夕映は保健室を出て行った。





◇◆◇





静かである・・・というのが必ずしも集中力をかきたててくれる訳ではないらしい。
手元の端末を気のないそぶりで操作しながらジークは思った。
先程までと違い静かになった室内に一人でいると、益体もない考えが頭に浮かんでくる。

端末に爪を立てて苛立たしく舌打ちする。
軍の技術部が今のジークに合わせるようにわざわざ再設計した代物だったが、妙にレスポンスが悪く扱い難かった。
最初は小型化による弊害かとも思ったのだが、機能性を犠牲にしてデザインに凝ってみた・・・というのが、これを作った技術部に所属している知り合い(アホ)の言葉らしい。
とりあえずそいつは殴っておいてくれと姉に頼んでおいたので、報復の方は問題ない。
まぁ、確かに人間サイズの物よりは遥かにマシであるのも事実なのだが。

表示された文字列を適当に読み飛ばす。実を言えば先程から何回も見直しているので内容自体は覚えてしまっている。
それでもこうして繰り返し読んでいるのは、何かの間違いなのではないかと疑っているからだ。

先程ここに来る前に届いたばかりの指令書だ。
ジークが所属している情報部の室長と、最高指導者直々の判が押されたその指令書には一つの命令が記されていた。
内容自体は難しい事でも非常識なものでもない。ごくありふれた任務の一つだ。ただ・・・その命令が下された意図が分からない。

指の動きを止め思案する。コツコツと画面を叩きながら、眉間の皺を深くする。
やはり集中できそうもない。些か乱暴に髪をかき上げジークは深い溜息をついた。
すると、ガラリという扉を開く音が聞こえて先程綾瀬夕映と一緒に教室へと向かったピートが帰ってきた。


「言われた通りにしてきました」


硬い表情で簡潔な報告をする。
内心の不満を言葉に乗せないように気遣っているのだろうが、感情を表すまいとすればするほどかえって不機嫌さが強調されるものである。
彼には分らない程度に肩をすくめて、ジークは首肯した。


「ありがとう。彼らについては・・・」


「適当な場所まで連れて行って、目覚めてからは綾瀬さんにお任せしようと思います」


「そうか・・・ではそのように頼む」


文珠の記憶操作を受けた直後は一定期間意識が不鮮明になる。
目覚めた彼らが不自然に思わない程度に、状況を整える必要があるのだ。
どんな記憶を植え付けたかは知らないが、極端に変なものでもない限り問題は起こらないだろう。
そう考えてピートから視線を外し、今度は報告のための書類を作成すべく端末に向き直ったジークだったが、
ふと彼が壁に寄りかかったままこちらを注視している事に気が付き声を掛けた。


「なにか?」


言いたいことがあるのか・・・後半部分を省略し尋ねる。
おそらく今回の一件についての不満だろうと予想してジークはピートに目線を合わせた。
一応立場的には雇い主であっても、彼らは軍属ではない。
ほとんど無理やりこちらに連れてきてしまった手前、文句の一つは聞いてやるつもりだった。
一応こちらの指示にも従ってくれている事だし、少しばかり心労が増えたところで今に始まった話ではない。
何かを諦めたような心地で待っていると、ピートが押し殺した声で言った。


「なぜ嘘をついたんです?」


その言葉が狭い空間に反響して聞こえたのは、動揺していたからなのか。
立ち位置を変え、足を組み直したピートが試すような瞳でこちらを見ている。
語調が鋭いわけでもなく、無理に冷静さを意識しているわけでもない穏やかな声だった。


「・・・嘘?」


聞き返しながら表情を消す。さりげなく目を逸らし顔を背けた。
我ながらもう少しまともな言葉が浮かばなかったのかとも思うが、意表を突かれた人間の反応などこんなものかもしれない。
あからさまに不審な態度のジークをピートが探ってくる。


「あなたは扉の外に綾瀬さんがいたのに気付いていた・・・違いますか?」


音を立てずに呼吸を整える。余裕を演出している裏側で心拍数の上昇は抑えきれない。
無意識に心臓を撫でていた手を止め、ピートを見返す。


「なぜ、そう思う?」


「愛子さんです。あの時、彼女が驚いていた」


「それがどうしたというんだ。別におかしな事では・・・」


「この場所は愛子さんの空間だ。彼女が気付いていないはずがない。
それなのに彼女は驚いていた・・・そういう演技をしていたんです」


「・・・・・・・」


無言は肯定と同義だったろう。それは分かっていたが咄嗟に言葉が出てこなかった。
今から何か言い訳をしてみても即答できなかった時点でピートの言葉を認めたようなものだ。
悪あがきに無表情を貫いたジークだったが、彼は既に確信を持った様子で断定してくる。


「愛子さん本人にそんな事をする理由があるとは思えない。あなたが頼んだんでしょう?」


自分を見つめてくる視線に耐えきれなくなって、ジークは深く嘆息した。
観念して独り言のように呟く。


「まったく・・・目ざといな。まぁ、全くの無反応ではおかしな事になっていただろうし、仕方がない事だが」


「やはり、あなたが愛子さんに頼んだんですね?何故そんな事を?」


こちらが認めた事に勢いづいてピートが語調を鋭くする。
もはや黙っている意味はないので、ジークはあっさりと白状した。


「横島君と連絡が取れない」


「は?」


その返答が予想外だったのだろう。ピートがぽかんと口を開けていた。
だがそれも仕方がない。わざとはぐらかすように話しているのだから。
もっとも、別に驚かされた仕返しをしたいというわけでもない。彼の質問に直接関係のある話だった。


「ベルゼブルの霊力反応が消えてから連絡を取ってみたんだが、応答がない」


「ちょ、ちょっと待ってください!!それはどういう・・・」


理解が追い付かない様子のピートを置き去りにして、早口でまくしたてる。


「考えられる可能性は三つだ。一つはベルゼブルが横島君を殺し、再び姿を隠した可能性・・・だがその可能性は低いとみている。
せっかく手に入れた憑代を放棄してまで奴が姿を隠す理由がない」


奴がこちらの補足を振り切るには再び休眠状態になるしかないが、そう簡単にできる事ではない。
一度でも憑依してしまえば別の肉体への移動は困難だし、大量の魔力を保有した候補者がそうそう現われる訳でもない。


「二つ目は彼らが相打ちになった可能性だが・・・これもおそらく違う。
霊力反応が消えた時点で横島君の生体反応はモニタリングできていた」


正確に言えば霊力反応が消える直前まではなので断言できないのだが、今それを言っても仕方がないだろう。
内心の不安を悟られないように目を伏せ、浅く握った拳で口元を覆う。


「三つ目・・・横島君はベルゼブルを倒したが、こちらの連絡に応えられない状態にある・・・」


言葉尻を濁し沈黙する。黙ってしまったジークにピートが言葉を掛けようとして躊躇している。
目蓋越しにその気配を感じて、目を開けた。


「君は現場で同族の気配がしたと言っていたな?」


「え、ええ。僕らともまた違った感じではっきりとは言えませんが・・・それが?」


質問の意図がつかめないのか戸惑う様子でピートが質問してくる。
そんな彼の姿を観察し、ジークは言った。


「横島君は魔法使いたちに捕らえられているかもしれない」


「えっ!?」


「魔法使いの中に吸血鬼がいるのさ。おそらく横島君を拘束したのは彼女だ。
そしてそうなっていれば、まず間違いなく魔法使い達は横島君から情報を得ようとするだろう。
一応プロテクトを仕掛けているが、通用するかは分からない。
何しろ彼らにとって我々の技術は未知だろうが、それはこちらも同じだからな。案外あっさりと情報を抜き取られているかも・・・」


最悪拷問を受けている可能性も否定できない。
情報部に所属しているジークは、ある程度そちらの知識も持っている。
本物の苦痛を与えられれば、専門的な訓練を受けていない横島が耐えられるわけがなかった。
もちろん薬物や魔法による自白の強制もあり得るだろう。
一応麻帆良に所属している魔法使いたちは比較的温厚な部類に入るようなので、あくまで最悪の予想なのだが。
どちらにせよはっきりしているのは、何らかの手段で横島から情報が漏れてしまった場合・・・。


「当然異世界の存在を知るだろうな。・・・信じるかどうかは別として」


「だ、だったら早く横島さんを救出しないと!!」


「どうやって?」


「どうやってって・・・それは・・・」


消沈した様子でピートが唇を噛んだ。現状で横島の救出が困難であることに思い至ったのだろう。
ジークの予想では横島を捕らえたのはエヴァだったが、彼の身柄が今も彼女の手にあるかどうかは疑問だった。
吸血鬼であるエヴァは一般的な魔法使いたちとは立場が異なるようではあるが、協力関係を築いているのは確かだ。
あれだけの騒ぎが起きたのだから、当然魔法使いたちに報告しているだろう。
騒動の当事者である横島もエヴァ個人ではなく、組織の手によって拘束されているとみるのが自然だ。
そうなっては居場所の特定すら難しい。壊れたのか紛失したのか横島がしていた霊力探知機からは何の反応もなかった。


「本当に横島君が捕まったのか、だとしたらどこにいるのか、救出手段は・・・。
考えなければならない事は山のようにあるが、一つだけ試してみたい事がある」


「それは?」


「君の質問に関係がある話さ。現状我々と繋がりのある魔法関係者はネギ・スプリングフィールド達だけだ」


「どういう・・・ことですか?」


こちらの言葉を受けてピートの表情が険しくなる。
ジークは努めて感情を殺すように淡々と告げた。


「全ての事情を理解している者からしてみれば、ある日突然大勢の人間が事実とは違う記憶を持って現れる訳だ。
そしてそのなかで、唯一記憶を保持している人物を発見する。
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは甘い相手じゃない。間違いなく綾瀬夕映の存在に気が付くだろう」


「まさか、綾瀬さんを・・・」


「横島君を捕らえている後ろめたさから何らかの意図を邪推するかもな。
しかしそれでもエヴァンジェリンは綾瀬夕映に接触しないわけにはいかない。そうなって初めて交渉の芽が出てくる」


「最初からそのつもりで・・・」


「・・・・・・・・・・・・」


ジークはピートの呟きを無視するように顔を俯けた。


「おかしいとは思っていたんだ。
いくら疲弊していたとはいえ、ネギ君達が眠りについてからそれなりの時間がたっていたのに、何で誰も目が覚めないのか。
綾瀬さんだけが目覚めたのも、あなたが・・・」


「彼女はあの年齢にしては非常に聡い娘だ。感情にとらわれず、記憶が改変される危険性に気が付くだろうとは思っていた。
だがこちらの提案を全て蹴る事もできない。・・・親友の事を思えばな」


「あなたはっ!!綾瀬さんがどんな気持ちで仲間を欺こうとしているのか、分かっているんですか!?
誰とも共有できない記憶を持って、自分一人で耐えようとしている彼女を利用するつもりですか!?」


「横島君を助けるためには、まず交渉相手と接触しなければ話が始まらない。
それに私は彼女に嘘をついたわけでもないし、記憶操作については彼女自身が望んだことでもある」


感情的に叫ぶピートを冷めた瞳で見返す。冷徹な指揮官の仮面を被り、突き放すように告げた。
確かに嘘をついたわけではない。だが意図的に情報を隠蔽して利用しようとしているのは事実だ。
中途半端にこちらの情報を持っている夕映に、交渉のためのパイプ役を務めてもらう。
現状でジーク本人が魔法使いと接触するのは危険だからだ。
彼らのメンタリティは基本的に善良であるが、これだけ長期にわたって一つの地域を実質的に支配している組織だ。
用心するに越したことはない。
こちらの意見が変わる事はないのだと悟ったのだろう、ピートが憤りを抑えきれずに吐き捨てる。


「あなたが・・・横島さんを助けるために最善を尽くそうとしているのは分かりました。
けれど、こんなやり方を僕は認めない!!」


「ならば今聞いた事を綾瀬夕映に話すか?」


「・・・・・・・・・・・・」


ピートがこちらの問い掛けに反射的に頷こうとして・・・結局何も言えずに黙り込む。
唇を噛んだまま拳を震わせて必死に何かを堪えている様子だった。
その姿を見ながらジークは胃の辺りに重苦しさを感じて、そっと嘆息した。
結局自分はピート達をも騙していたわけだ。決して呑み込めないようなこの苦味は、罪悪感なのだろうか。
心の中だけで弱音を吐きつつ、表面上は鉄面皮を貫く。


「こうなってしまった以上、我々にできるのは一刻も早く横島君を取り戻し、速やかに撤収する事だけだ。
彼さえ戻れば世界同士の干渉を断つことができる」


「・・・・・横島さんの事が心配なのは僕も同じだ。だけど・・・」


「君が責任を感じる必要はない。愛子君にしたところで詳細を知っていたわけでもないしな。
君たちがこれ以上協力できないというなら、無理にとは言わない」


「今さら自分だけ抜けようとは思いません。横島さんを助けるまでは付き合います。
ですが、それが終わったらもう二度とあなたの頼みを聞くつもりはない」


「ああ、それでいいさ」


「・・・・・・・・・・・・・失礼します」


急ぎ足で立ち去るピートの後ろ姿を目で追いながら、ジークは力尽きたような心地で机の上に墜落した。
再び誰もいなくなった室内で、目頭を押さえながら深呼吸する。
ピートに指摘されるまでもなく、ジーク本人が一番分かっていた。こんなやり方は最低だろう。
横島を取り戻すためとはいえ、高々十数年しか生きていない娘を利用しようというのだから。

際限なく落ち込みそうになり、慌てて暗い考えを振り払う。
前々からわかっていたが、自分はこういった仕事に向いていないのかもしれない。
本心がどうであれ、それが任務であるなら従うが、その度にいちいち心痛を感じていたのでは兵士は務まらないだろう。

今回の任務が片付いたら、姉上に仕事を押し付けてでも休暇を取ってやる。
そう決心しながらジークは八つ当たり気味に持っていた端末を放り投げた。
内部の機能性を犠牲にした結果か、外部は非常に頑丈にできているらしい。
追及するべき方向性を間違っているとも思うが、一応そのおかげで壊れずに済んだようだ。

画面を横目で確認しながら、表示されている任務内容に思いを巡らす。
要約すると指令書にはこう書かれている。


《引き続き異世界における調査任務を継続すべし》


素直に見るなら今までと変わらず異世界の情報を集めて報告しろという意味だ。
ジークは端末に視線を向けたままジッと動きを止めた。厳めしく顔を歪め思索に没頭する。
この任務が通達された時からどうしても気になる事があった。
別段内容自体がどうということではない。問題なのは時期だ。
どうして本来の任務がすべて片付いたこの時期に、いまさら調査の継続を命じられたのか。

ジークがこちらの世界に来る前から、土偶羅によって異世界の調査は進められていた。
それは現在も行われていて、随時経過を報告している。
だがそれはあくまで追跡任務のために行われた副次的な意味合いでしかない。
異邦人である自分たちがこの世界にうまく溶け込めるようにという、その程度の話だったはずだ
もともと不必要な干渉を避けるという方針であったから、深い所までは調べていないのだが、なぜここにきて本格的な調査を依頼する?

それに命令自体が通達されたタイミングも妙だ。
最後の逃亡犯であるベルゼブルの霊力反応が消えてからほんの数十分の間に指令書が届いた。
これではまるで、こちらの状況を逐一観察しているかのようではないか。


(偶然か?・・・いや、それでもなぜ今さら異世界の調査をしなければならないのかという疑問は残る)


ジークは凝り固まった肩を押さえながらグルリと首を回した。ここでこれ以上考えても答えは出なさそうだ。
それよりも今は横島の身柄を取り戻す事を考えなければならない。


「まったく上層部は一体何を考えて・・・」


ここにはいない上司の顔を思い浮かべて、愚痴をこぼしそうになったジークだったが、ふと頭上に気配を感じて天井を見た。


「・・・あ、あの~」


うすぼんやりとした人影が目尻を下げてこちらを見つめている。
天井の隅にふわふわと浮かび、奇跡のような存在感のなさで、申し訳なさそうに身を竦ませていた。


「さ、さよ君?・・・いつからそこに?」


「え~と、たぶん最初の方から・・・」


「さ、最初から?・・・ずっと?」


「す、すみませ~ん。皆さん無事に元の体に戻る事が出来たので報告しようとしたんですけど、
お邪魔できないような雰囲気だったので・・・」


さよが空中で何度も何度も頭を下げてくる。ジークはただ何も考えられずに呆然とするしかない。


「・・・・・・・・・・・・・・」


「・・・・・・・・・・・・・・」


二人は無言で見つめあい・・・そして・・・。






愛が生まれるはずもなく・・・ジークは土下座も辞さない覚悟で、必死になって彼女に口止めを頼んだ。





◇◆◇




きつく閉じた目蓋の奥で眼球が灼熱を帯びている。
指先の末端から頭の天辺に至るまで、表皮の中に野太い大蛇が身をくねらせて蠢いている。
血管が脈動し、四肢が強張る。折れるほどに背骨を仰け反らせ、石のように固く蹲る。
壊れた蓄音機さながらに、ひどく耳障りな音を断続的に叫びながら、舌を痙攣させる。
目の端から涙がこぼれ、唇の端が裂けて血が噴き出した。滲んだ脂汗は身体を犯しドロドロに溶かす猛毒だ。
涙、血、汗が全身を汚し、拭い去る事の出来ない決定的な刺青となる。
頭を掻き毟り髪の毛を引き千切る。毒の中を泳ぎ、強酸の海に沈んでいく。深く、暗い所まで・・・。


苦痛には際限がない。終わりが見えない。壊れてしまっても、多分ずっと続いていく。


そこは極限の闇に次々と白熱が差し込む騒がしい世界だ。
安らぎも、穏やかさも、光年の彼方にすら存在しない。どんちゃん騒ぎのお祭りだった。


そんな場所に一人でいる自分は本当に生きているのだろうか。


ふと、不鮮明な意識の向こうで誰かが呟いた。
本当はもうとっくの昔に死んでしまっていて、これは魂の残り香ではないのか。

幽霊になった自分は終わりの来ない”ここ”を、ただ繰り返すだけの装置なのでは・・・。

自縛された魂に、祝福など来ない。延々と死を繰り返し、それを見続ける。
続きがない終わりを認識できずに、終わる瞬間だけをただ繰り返して、そして・・・。


「ちっ、発作を起こしたか!?茶々丸!!」














そこは・・・金髪の美女が優しく介護してくれる祝福された世界(天国)。


「好きじゃああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」


「うわああああああああ、な、なんだいきなりっ!!!」


直前まで今にも死に絶えてしまいそうだった男が、仰向けの体勢から突然バッタのように飛び跳ねて目の前にある豊満な胸にダイブし、グリグリと顔を押し付けた。


「これや!!これなんやぁ!!俺が求めてたのはこれだあああ!!!
こっちきてから何かしらんが知り合う女の子がみんな手が出せん年齢の娘ばっかりやったから、俺の煩悩もすっかり引っ込んでたけど、
本当にほしかったのはこれじゃあああああああああああ!!!!!」


「やっ!ちょっ、ど、どこを触って!わっ、顔を押し付けるな!!匂いを嗅ぐなあああああ!!!いい加減にせんか!!!」


「ぎゃあああああああああああああああああああああああ!!!!!」


熟練された動きで本人の意識を超越した何がしかの・・・こう・・・いろいろと・・・あれな感じのエロ技を繰り出していた男が瞬間冷凍される。
お世辞にも見目麗しいとは言えない間の抜けた氷像が一体その場に生み出され、ゴトリと鈍い音を立てて倒れた。


「さ、寒い!痛い!!動けん!!あああ、ちくしょー!!目の前に辛抱たまらんほど美味しそうな美女がおるのにぃぃぃ!!!」


全身が氷漬けにされているにも拘らず、ジタバタと手足を動かしながらその男・・・横島忠夫は涙交じりで絶叫した。


「な、なんだというんだまったく!貴様さっきまで死に掛けてたんじゃないのか!?」


「へ?そう言われりゃそうだった気もするけど。そんなことよりそこの美味しい乳!!いや美しい人!!名前はなんていうんですか!?俺は横島っす!!」


身動きが取れないまま謎の動きで腹這いに近づいてくる横島に本気でゾッとした視線を向けながら、
金髪の美女・・・エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル(大人バージョン)はさりげなく距離を取った。


「き、キモい動きをするなっ!ちょ、わ、わかったから近づくな!!なんか生理的に怖い!!」


彼女の制止を聞かずにカサカサと接近していた横島だったが、結局その二秒後に再び全身を氷漬けにされた。





◇◆◇





「う、うぅぅ、ちくしょ~。こんなん詐欺やないかぁぁぁ」


部屋の隅っこでえぐえぐと涙をながしながら膝を抱える。
信じたくない事実を突き付けられて横島の心はポッキリと折れてしまっていた。
先程まで目の前にいた美女の姿はもうどこにもいない。いや、最初からそんなものは存在しなかったのだ。
豊満な乳、揉み応えのありそうな尻、ピチピチとしたふともも。全てが虚構に塗り固められた偽りだった。


「せ、せっかく合法的にセクハラできる美人と巡り合えたと思ったのにぃぃ!!あの巨乳がまさかの虚乳やったなんてぇぇ!!」


「ええい、うるさい!!セクハラに合法もくそもあるかっ!!」


「ぶほぅっ!!」


グシグシと袖口で涙を拭っていた横島の後頭部に鉄拳が振り下ろされた。
変な悲鳴を上げながら床に倒れ伏す。
その背中に足を乗っけて、エヴァが鼻息荒くグリグリと踏みつけ始めた。


「まったく、仏心なんぞ起こすものではないな。看病も茶々丸に任せてしまえばよかった」


「へ?ひょっとしてエヴァちゃんが看病してくれてたんか?」


床に押さえつけられながら、バタバタと手足を動かして脱出を試みていた横島が意外そうにエヴァを見つめる。
うつ伏せから無理やり首をひねっているので相当苦しい体勢だったが、ギリギリの角度でエヴァの顔が見れた。
目が合うと彼女は顔を真っ赤にして、渾身の力で床(横島)を踏み抜いた。


「ぶぅむぎゅ・・・」


潰れたカエルのように押し潰される。そのままエヴァがテンポよくステップを踏むたび、横島忠夫という楽器から奇妙な音が鳴っていた。
しばらくはそんな調子で仲睦まじいコミュニケーションが行われていたが、あっさりと飽きてしまったエヴァが最後に勢いをつけて飛び降りた。
ぴくぴくと痙攣しながら横島は何も言えずに撃沈した。


そして・・・。


なんとかまともに話ができる位には回復した横島だったが、茶々丸の手によって半ば無理やりベッドに寝かしつけられた。
そのまま目付きの角度を急上昇させたエヴァによる楽しい楽しい尋問タイムが開始される。
右手には茶々丸。左手には口の悪い小さな茶々丸と左右をかためられ、どこにも逃げ場がなかった。
さすがに今回は、何も聞かずに横島を解放するつもりはなかったようだ。
どうやら死にかけていた所を助けてもらったらしいので、断るわけにもいかず、横島は観念してしどろもどろに説明を始めた。

自分たちが魔族を追って麻帆良にやってきた事、そいつは普通の魔族とは違って特殊な能力がないと倒せない厄介な存在である事、
自分はそういった魔族を狩るためのエキスパートである事、今回の一件が片付いたので似たようなのはもう現れないだろうという事等、
虚実ないまぜにしつつ語っていった。


「魔力を持たない悪魔・・・ねぇ?」


女王様の視線が横島を見下す。
舐めるようにこちらを観察し、嘘がないかを表情からチェックしている。
物理的な圧力が伴っているような視線を注がれ、横島の頬からダラダラと汗が流れた。
その度に隣にいる茶々丸が冷えたタオルで丁寧に拭ってくれる。

キョロキョロとあちこちに目を泳がせながら、なんとかエヴァの追及から逃れようとする。
一応嘘をついてはいないので、内容が破綻しているわけではないはずだ。
ただ、異世界の話だけは避けているため、魔族の素性について詳しく語る事が出来ない。
それがエヴァの疑いを招いてしまっているようだった。


「私も長いこと生きているが・・・そんな奴らの話など聞いたこともない」


「い、いやぁ、べつに有名な奴らでもないからさ。なんちゅーかほら、売れない演歌歌手みたいなもんで、ごく一部で知られてるみたいな」


引き攣った愛想笑いを浮かべる。エヴァにしてみれば苦しい言い訳にしか聞こえないのだろう。
結局、話が終わっても疑惑はさっぱり晴れなかったようだ。
ただそれ以上の追及をする気もなかったようで、彼女は大げさに嘆息すると、せいぜい安静にしていろと横島に告げた。
そして座っていたベットから腰を上げて、部屋を出ていこうとしたエヴァだったが、何を思ったのかピタリと歩みを止めた。


「念のためもう一度確認するが、本当にこれで最後なのか?」


問い掛けと共に横島を見つめる彼女は、驚くほど真剣な目をしていた。


「あ、ああ。俺が聞いた話だと今回の奴でもう終わりだって・・・どうかした?」


「・・・・・いや・・・」


こちらの質問には答えず顔を伏せる。何か腑に落ちない表情を浮かべている。
そんな彼女を見ているうちに、横島の脳裏にひらめくものがあった。


「ひょっとしてエヴァちゃん。あのガキに会ったのか?」


「それはお前の近くにいたガキの事か?」


「俺は気絶してたからはっきりとは言えないけど、たぶんそいつだ。なんか妙に大人ぶっててむかつく感じの」


「ああ確かに小生意気でいけ好かないガキだったな。やはりあいつもお前らと関係があるのか?」


エヴァが片眉を吊り上げつつ尋ねてくるが、横島は力なく首を振った。


「うーん、それなんだけど正直俺にもさっぱりわからん。名前も知らねーし、チラッと会って話しただけの奴だし」


「そうか・・・」


二人そろって難しい顔で黙り込む。
お互いあの少年について思う所がある様子だったが、具体的に何が心に引っかかっているのかうまく言葉にできなかった。
しばらく腕を組んだまま悩んでいた横島だったが、ふとある事を思い出した。


「なぁエヴァちゃん、超鈴音って子・・・知ってる?」


「・・・なに?」


「いや、意識を失う直前にあいつが言ってたんだよ。もうすぐ超って子が何かするとか、俺にとっても関係がある事だとかなんとか・・・」


あの時は意識が朦朧としていたからはっきりとは思いだせないが、確かそんな話を聞いた気がする。
比喩でなく本当に死にかけていたので自信はないのだが。

横島が眉間に皺を寄せながら記憶の糸を辿っていると、何故かエヴァがこちらを物凄い目つきで睨み付けてきた。
思わずビクリと体が仰け反る。彼女の折檻は美神よりも単純なものだったが、命の危険度はそれほど変わらない。
全身氷漬けは二度と御免だった。反射的にシーツを被り、おそるおそる顔を覗かせる。

彼女は相変わらず怖い顔で睨んでいる・・・と思ったのだが、微妙に横島から焦点がずれていた。
どうもこちらに顔を向けていただけで、特にどこかを見ているわけではないらしい。
ただ深く考え込んでいるのは確かなようだが。


「超だと?なぜここで奴の名前が出てくる?あのガキが計画を知っているのか?こいつと関係があるだと・・・」


一点を見つめてブツブツと呟いている。気軽に言葉を掛けられるような雰囲気ではない。
何となく不安になって茶々丸に視線を向けるが、彼女はいつもよりも冷たい無表情で横島を無視していた。
仕方がないのでもう一人に話し掛ける事にする。
正直こういうあからさまに人形めいた輩には嫌な思い出しかないので、先程から意識して視線の外側に置いていたのだが。


「なぁ、エヴァちゃんどうしたんだ?」


「アン?御主人ガ何考エテルカナンテ分カルワケネーダロ。マァ知ッテテモオマエニ教エル義理ハネーケドナ」


身体のサイズには不釣り合いの大きな鋏をシャキンシャキンと小気味よく鳴らせているパチ丸(茶々丸のパチモン)がケケケと厭らしく笑っている。
毛色は違うが昔人形に髪を丸々剃られた過去があるので、横島は頭を押さえつつパチ丸から距離を取った。
そんな調子で何となく気まずい思いをしていると、エヴァが小さく舌打ちした。


「ちっ、これ以上ここで考え込んでも埒が明かんか」


「・・・?」


訳が分からずに首をひねる。結局横島の質問には答えてくれないようだ。
一応エヴァに頼らずとも、超という人物には心当たりあるから何とかなりそうではあるのだが。
確か前に食事した屋台のオーナーが超といったはずだ。日本では珍しい名前だし、おそらく本人で間違いないだろう。
あそこはネギのクラスの人間がやっている店だと聞いていたから、彼に頼めば本人と接触できるかもしれない。

本当は名前も知らないガキの言う事を素直に聞くのはしゃくなのだが、無視するにはあまりに思わせぶりなので気になって仕方がないのだ。
それに奴が近くにいる以上、超という娘自身も心配だった。
これはあくまで勘に過ぎないし何の確証もない話だから、エヴァには黙っていたのだが、あの少年は・・・。


「どうした?」


今度は横島の方が黙りこくってしまったので、不審に思ったのかエヴァが尋ねてきた。


「ああ、うん」


横島は気のない生返事をしつつ。


「もしかしたらなんだけど・・・」


自信なさそうに呟いた。





◇◆◇





「お邪魔しとるよ」


地下室の階段を上りきった先で目に入ってきたのは、後頭部が不自然に伸びた皺だらけの禿げた髭爺だった。
伸ばし過ぎて垂れ下がった眉毛の下から、僅かに開いた瞳をのぞかせ、茶目っ気たっぷりの笑顔を向けてくる。
手土産のつもりだろうか、傍らには綺麗に包装された和菓子の箱がぶら下がっていた。
おそらく中身は羊羹だろう。最近二人で囲碁を指している最中によく食べている店と柄が同じだ。


「ちっ、用件は・・・察しが付くが、訪ねてくるなら前もって連絡くらい入れろ」


「なーに、冷たい事を言うでない。わしとおぬしの仲じゃろ?」


「気色の悪い事を。短い寿命をここで終わらせたいのなら、手伝ってやらんこともないぞ」


「やれやれおっかないのう。不機嫌の理由は下にいる彼かね?」


目線で地下室の方向を指して尋ねてくる。
エヴァは小さく嘆息すると茶々丸にお茶の用意をするように指示を出した。
彼女は一度頷くと、髭爺・・・麻帆良学園の学園長兼、関東魔法協会の理事長でもある近衛近右衛門に黙礼し、台所に向かった。
その姿を確認したエヴァが手近の椅子を引き寄せ、ドカリと音を立てて座る。
対面の椅子を顎で示し、近右衛門に座るよう促した。
素直に従い席に着いた彼が、さっそくといった様子で口火を切った。


「それで、彼に話は聞けたかの?」


「ああ。お前が手荒な真似はするなと言うから面倒だったがな」


全身を氷漬けにしたりはしたが・・・まぁ無傷であるようだし問題はないだろう。
都合の悪い事実は即座に忘れつつ、横島に聞いた話をそのまま伝えていく。


「一応嘘はついていない様子だったが、まだ何か隠しているのは間違いないな」


当初は無理やり記憶を覗いてやろうかとも考えていたのだが、一応横島には借りがあるうえに目の前の爺には色々と釘を刺されていた。
そしてなにより当の本人が尋常でないくらいに衰弱していたので結局強行案は見送る事にしたのだが・・・。


「あの様子じゃ多少強引に聞き出したところで問題はなさそうだぞ」


「そうもいかん。彼は木乃香達の恩人なんじゃろ?それに魔法でもない妙な力を使うとか。
万が一下手を打ってこちらと敵対なんて事になれば面倒じゃ」


「ふん、慎重なのもいいがな。そんな調子では足元をすくわれかねんぞ。今回の件がいい例だ。貴様がもっと真剣に私の言う事を聞いていれば・・・」


「・・・返す言葉もない」


ただでさえ開いているのか分からない目を伏せ、小さく体を丸めている。
エヴァはわざと聞こえるように舌打ちし、そっぽを向いた。

実を言えば近右衛門にだけは前々からある程度の事情を説明していた。
大停電の時はエヴァ自身何が起こったのか状況をよく理解していなかったので、説明のしようがなかったのだが、
京都で再び似たような怪物と邂逅したため、近右衛門に相談を持ちかけた。
恐ろしい怪物とそれを倒した魔法でも気でもない妙な力を持った人間の事。
その人物が麻帆良に住んでいるのも説明した。

得体のしれない人間が麻帆良にいる。
それだけで学園を統括している近右衛門は警戒せざるを得ない。実際スパイの可能性を疑って監視もしていた。
だが当の本人はブラブラと外を出歩きそのまま家に帰るといった、何をしたいのかよく分からない行動をとっていて、
単なる囮である可能性も捨てきれなかったため、不用意に接触できなかった。
囮を拘束した途端に危険を察知した本命が脱出するというのもよくある話だからだ。

結局積極的にスパイ活動をするでもなく、一応ネギ達の恩人でもあるので、わざと泳がす事になった。
念のため監視と背後関係の洗い出しは継続して、時期を見て事情を知っている数人が接触する手はずになっていたのだが・・・。


「後手に回ったの。結界が反応せんのがこれほど厄介だとは・・・」


近右衛門が悔恨の表情を浮かべ黙り込んだ。
こんな事になるなら素直に横島を拘束・・・いや協力を求めるべきだったという所か。
こちらが味方であるかもしれない彼を疑っている間に、水面下で最悪の事態が進行していたわけだ。
都市防衛の要である大結界が通用しない以上、敵の侵入を事前に察知するのは不可能に近い。
せいぜい見回りの人員を増やすか、監視カメラの数を増設するかだがそうしたところで・・・。


「事が超常の類である以上、一般人を巻き込むことはできない。麻帆良中の魔法関係者を動員したとしても・・・無理だな」


エヴァがあっさりと言い切った。
何しろこの麻帆良学園はあまりに広大すぎる。常時監視の目を光らせるにも限界があった。


「まぁ、侵入した悪魔とやらは今回で全員倒したらしいしな。
それにその悪魔自体の絶対数も、下手な絶滅危惧種より少ないそうだ。横島の話ではもう二度と麻帆良に現れる事はないだろうとさ」


落ち込んでいる近右衛門を慰めるためではないが、声の調子を幾分か柔らかくして言う。


「それは本当か?」


「一応な・・・・・ただ」


言葉尻を濁し目を細める。さっきまで一緒にいた男の言葉を思い出していた。


「ただ・・・なんじゃ?」


「いや、最後にあいつが妙な事を言っていたのを思い出してな・・・なんでも・・・」


その言葉を伝えてきた男と似たような表情のままエヴァは口を開いた。





◇◆◇





「四人目?」


品のいい紅茶の香りが仄かに漂っている。時刻は三時を少し回った所か。
仕事帰りに立ち寄った有名店のスイーツを口にしつつ、美神令子はピクリと眉を動かした。
片方の手でケーキを攻略しながら、もう一方の手で先程届いたばかりの書類をめくり上げる。
他人には本当に読んでいるのかと疑わしいらしいが、一応これでも頭に入っている。
自分でも少々行儀が悪いと思わなくもないが、それを咎めそうな人物は、既にここにいなかった。

少し前に、今読んでいる書類と妹であるひのめを預けて、仕事に向かってしまったからだ。
ちなみに現在屋根裏部屋では、シロとタマモのタッグが決して勝つことのできない無謀な挑戦(育児)を強いられている。


居候の義務というわけではないが、まぁひのめが疲れて眠るまでの辛抱だ。
せいぜい犠牲になってもらうとしよう。そう思いながら書類に目を通す。
すると最近お気に入りの小物店で購入したらしい紅茶ポットを手にして、おキヌがお代わりを注いでくれた。
透き通った綺麗な朱色がティーカップを満たしていく。
零さないように最後の一滴まで注ぎ込み、彼女は言った。


「はい。詳しくは知らないんですけど、横島さんが見つけたかもしれないって」


「依頼が終わったってのに、まだ向こうにいるのはそれが原因か・・・」


ナプキンで口周りのクリームを拭きながら呟く。


「どういう事なんでしょう?」


遠慮がちに問いかけてくるおキヌに視線を向けながら答える。


「うーん。依頼された悪魔は全員倒したんだし、普通に考えれば横島君の気のせいなんでしょうけど・・・」


口の中でモゴモゴと呟きながら読み終わった書類をケースファイルに仕舞う。
そして別の書類を新しく取り出して読み始めた。


「四人目ってのは知らないけど、ちょっと気になる事があるのは確かなのよね」


「気になる事・・・ですか?」


向かいの席に腰を下ろしたおキヌが首を傾げている。
コクリと頷きながら、美神は彼女のいれてくれた紅茶に口を付けた。
おキヌが専門店で仕入れてきた良質の茶葉だったが、香りも口当たりも相当なものだ。
最近ではいれ方にもこだわっているようで、洋食屋を経営している魔鈴にこっそり師事しているのを美神は知っていた。
こちらには内緒にしているつもりのようで、追及はしていない。
師匠の方は気に入らないが、おキヌの腕が上がればこちらにもメリットはある。
彼女が入れてくれる紅茶を一番飲んでいるのは間違いなく自分だからだ。
そんな事を考えながらケースファイルを指さし、美神は言った。


「まぁ、これを見るまでは半信半疑だったんだけど・・・」


「えっと、何の書類なんですか?」


「例の悪魔が異世界に逃亡した当時の状況が書かれたGメンの内部資料」


「えっ!!」


何でもないように言った言葉を受けて、おキヌが目を丸くする。
警察関係者でもない美神がこんなものを読むのはキッパリと違法行為だったが、そういう常識的な判断はとりあえずどうでもよかった。


「で、今読んでるのが最初にワルキューレが持ってきたやつ」


口に出しながら目線を落とす。
書類には例の悪魔が異世界に逃亡したと思われる当時の状況が書かれていた。
侵入された時間帯の警備状況。侵入経路と具体的な侵入方法。
そして幾つかの現場写真と共に被害状況が記されていた。


「どっちも同じ日の同じ時間、同じ場所であった事について書かれてる。
さすがにGメンの方だと内部の詳しい状況まではわからないけど、その代りちょっと面白い事が書かれてるわ」


「面白い事・・・ですか?」


「コスモプロセッサの管轄は神魔族にあるから、あそこは一種の空白地帯だったのよ。
ただ日本国内でもあるし、何らかの取引が行われているんじゃないかと、余計な心配した人たちも大勢いてね。
で、当時あの場所はいろんな国の諜報機関が、頼まれてもいないのに常時監視してくれていたわけ。
日本の警察も当然警戒していて、結局撤去作業が終わるまでそんな調子がしばらく続いたみたいなんだけど・・・」


そこで言葉を切った美神はファイルからGメンの資料を取りだし、おキヌに渡した。
頬をひくつかせた彼女が僅かに躊躇し、それでも好奇心が勝ったのか資料を受け取る。
ペラペラと頁をめくる音を聞きながら美神は説明を再開した。


「悪魔が侵入したと思われる時間帯、どの国の諜報機関にも全く動きはなかったそうよ。
なかには大掛かりな霊体センサーまで持ち込んでたのもいたらしいけど、そいつらも反応なし」


「え・・・?」


「もしコスモプロセッサに侵入した不審者がいたんだとしたら、内部の警備云々よりまず最初に外部が反応したでしょうね。
でもそんな騒ぎは起こらなかった」


「ど、どういうことですか?」


「ワルキューレの資料を全面的に信じるとすれば、逃亡した魔族は監視している全員の目を盗んでコスモプロセッサに侵入し、
警備を担当していた魔族のエリートを、やっぱり誰にも気付かれる事なく皆殺しにして異世界に逃亡したことになるわ・・・大した悪魔よね」


「そんな事・・・可能なんでしょうか?」


「間違いなく無理よ。警備を排除するまではできるかもしれない。
ただ、それをあの晩あそこにいた全ての目から逃れて実行するなんてできる訳がない。もしもそんな真似ができる奴がいたとしたら・・・」


厳しい表情で資料を睨み付けた美神が意味ありげに言葉を切った。
緊張したおキヌがゴクリと生唾を飲み込む。


「・・・いたとしたら?」


「間違いなくアシュタロス級の魔神でしょうね。横島君が勝てるわけないわ」


実際には横島が全員倒している。ならばそんな魔族はいないという事だ。
だがそうだとすれば・・・。


「ワルキューレの資料は嘘ってことになる。彼女自身がその事を知っていたのかは分からないけど」


言葉に出しつつ考えてみる。
資料が作成されたのは誰の意図によるもので、その目的はなんなのか。
自分たちを巻き込んだのも誰かが仕組んだ必然だったのか。
一応ワルキューレ本人に問い質してみるつもりはあるが、美神の勘ではおそらく彼女は何も知らない。
もっと特別な策謀の匂いがする。
美神は喉の渇きを覚えて紅茶を飲みほした。僅かな苦みが脳を刺激する。


「四人目・・・か」


湿らした唇から吐息がこぼれた。
横島が見たという、いるはずのない悪魔。
こうなってくるとその四人目が謎を解く手がかりなのかもしれない。


「なんにしろ・・・私をコケにしようとしてる奴がいるなら、思い知らせなきゃなんないわよね」


犬歯を尖らせた美神が不敵に微笑んだ。
その笑みを見たおキヌが体を震わせて椅子から転びそうになり悲鳴を上げる。
そんな彼女を見返しつつ美神は言った。


「おキヌちゃん。もしこれから依頼が来ても、しばらくはお休みですって言っといて頂戴」


「え、なんでですか?」


体勢を立て直したおキヌが、椅子のヘリにつかまりながら問いかける。
美神は肩にかかった亜麻色の髪をかき上げて宣言した。




「私たちも行くからよ。異世界にね」







[40420] 22 夕映と横島 前編
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:73709a19
Date: 2016/03/20 22:33

「夕映さん、ちょっとよろしいですか?」


うららかな午後の教室。
五月の名残を感じさせるポカポカとした陽気になごんでいた夕映は、
さらりとその言葉を聞き流しつつ窓から差し込んでくる木漏れ日に目を細めた。
目蓋越しに暖かさを感じて思わず頬が緩んでいく。
梅雨入りをとうに果たした今の時期には貴重な日差しだった。
午前中のお日様だけではたまりにたまった湿気をなくすことはできなかったようだが、晴れ日であることには変わりない。
授業中眠気を堪えるのに苦労したものだ。
教師が黒板の前で延々と睡眠効果のある呪文を唱えていたのも相まって、なかなかの苦戦を強いられた。
あれも魔法の一種だと言われれば納得できそうに思える。


「あの、夕映さん?」


周囲からワイワイガヤガヤと喧騒が聞こえてくる。皆同じ戦いを潜り抜けた戦友だった。
何人かは被弾(教師による情け容赦のない教科書攻撃)したようだが今日も無事に生き延びる事が出来た。
生還した喜びからか、放課後特有の解放感からか彼女たちは一様に笑顔を浮かべている。
ああ、平穏とはかくも素晴らしいものなのだ。





ほんと・・・・・公園の土鳩に豆鉄砲を全力投球したくなる。





「ちょっと、聞いていますの?」


バッティングセンターで初体験と洒落込むのもいいかもしれない。
やった事がないのでボールに当たるかどうかも分からないが、とりあえずバットは振り回せるだろう。
思わず鬼気迫る表情を浮かべてしまっても、あの場所ならそうそう変な目で見られたりはしないはずだ。


「だ・か・らっ!!」


もしくは陸上部で砲丸投げの練習をさせてもらうというのはどうだろう。
鉄球を顔面にぶち込めば、いくらあの男が信じられないほど頑丈にできているとはいえ、足止めくらいにはなるかもしれない。


「夕映さん!!」


強い口調で名前を呼ばれ、肩をつかまれる。
そのままガクガクと全身を揺さぶられて、とうとう現実逃避が不可能になった夕映は疲れた視線を目の前にいるクラス委員長に向けた。
訝しげにこちらを見つめ、雪広あやかが口を開く。


「どうかしたんですの?なんといいますかその・・・・・熟年離婚でも考えてそうな顔をしてますわよ?」


「中学生相手にその例えはどうなんですか?」


覇気が感じられない声で突っ込みを入れつつ、夕映はあやかの手をそっと肩からどけた。


「それで何か御用ですか?」


「ええ。あなたを訪ねてお客様がお見えになっているようで、ネギ先生に伝えてほしいと頼まれまして・・・」


「ああぁ、やっぱり来ちゃったですか・・・」


その言葉が耳に入った瞬間、夕映の全身から力が抜け机の上に突っ伏した。
両手で頭を抱え、ぐしゃりと髪をかき混ぜる。放課後、彼が自分を訪ねて来ることは前もって知らされていた。
だから驚くような話ではないのだが、何かの間違いで来られなくなることを願っていたのだ。
だがそんな期待はするだけ無駄だったらしい。
ひんやりとした机の表面にゴリゴリと額を擦りつけつつ、胃の辺りを押さえて呻く。
何となくお腹が痛くなっているような気がした。ストレス性の胃痛が発症したのかもしれない。


「だ、大丈夫ですか?」


あやかが突然奇行に走り出した夕映を心配そうに見ている。
後頭部に彼女の視線を感じながら、片手をあげて問題ないという意を示した。頑なに机から顔を上げないままだったが。


「平気です平気。もう少し自分の胃が弱ければと思わなくもないですけど・・・」


そうすれば今頃保健室のベッドで惰眠をむさぼる事が出来たかもしれない。
心の中で己の強靭な胃に対して恨みがましい愚痴をこぼしてからゆっくりと体を持ち上げる。
結局いつまでもこうしてはいられないので仕方なく夕映はあやかに尋ねた。


「それで、ネギ先生は何と?」


「え、ええ。とりあえず応接室でお待ちいただいているそうなので迎えに行ってほしいと」


心底いやそうに尋ねるこちらに、あやかが少々たじろぎつつも答えてくれる。
夕映は溜息をつきそうになるのをグッとこらえ、こくりと頷いた。席を立ち身体を丸めてずるずると足を引きずっていく。
そのままゾンビのように教室の扉まで進み、一度振り返りると困惑した様子のあやかにポツリと告げた。


「それじゃ行ってくるです。ひょっとしたら皆さんにも多大な迷惑をかける事になるかもしれないですが、
犬にでも噛まれたと思って忘れてしまうのが一番だと思います」


「ちょ、なんですかそれは!?」


さりげなく告げられた不吉な言葉にあやかが慌てている。そんな彼女にどこか諦めた笑顔を向けて夕映は教室の扉を開い・・・。










「うおおおぉぉ!!男子禁制の女の園!!なんという甘美な響きや!!最高に燃えるシチュエーションやないか!!
手がだせんにしても、手がだせんにしてもおぉぉぉぉ!!んはああぁあぁぁあ!!なんかええ匂いがするぅぅぅぅぅ!!」









閉じた。





「・・・・・・・・・・・・・・さて」


くるりと背後に向き直る。
後ろ手に掴んでいたドアノブからゆっくりと指先を引きはがし、夕映はにこやかな笑顔で話し始めた。


「学園祭の準備を始めましょうか。うちのクラスだけ極端に進んでいませんから効率よくやらないと」


「え?い、いえ、それより今扉の外に・・・」


「ただでさえお化け屋敷なんて手間のかかりそうな出し物に決まったんですから頑張りましょう!!」


「あの、だから今・・・」


「私もできるだけ協力するです。釘打ちなどは自信がありませんが、雑用仕事なら私にもできますし」


「いえですから!!今廊下に横・・・」


「委員長さん」


会話を拒否するように一方的にまくし立てていた夕映が穏やかにあやかを呼んだ。
笑顔で塗り固めた顔面を向ける。
彼女は廊下に指を突き付けた姿勢のまま何故か体を硬直させていた。
自分の表情を見たからか、或いは目の奥に宿る感情を覗きこんでしまったからだろうか。
夕映は口元だけを動かして、冷たい声を発した。


「あの不審者を教室に入れたいですか?」


二人の間を無言の時間が流れる。それは何かの確認作業だったのかもしれない。
当たり前の道理を当たり前に受け入れるための心の準備期間だったに違いない。
やがてあやかに理解の色が浮かんだのを確認すると夕映は同意するように頷いた。


「気のせいですわね」


「はい、気のせいです」


うすら寒い白々しさは、この場合むしろ心地がいいものだった。
今度は正真正銘の笑顔を向けあって、夕映とあやかは互いにサムズアップした。


「では学園祭の準備を始めましょうか」


「そうですね」


とにかく学園祭までそれほど時間があるわけでもない。
クラス全員でかかっても当日までに準備が終わるかどうかきわどい所にいるのだ。
気合を入れてかからねばなるまい。
教卓に向かっていくあやかの後に付いて行きながら夕映が気持ちを引き締めていると、
バタンと勢いよく扉が開かれ招かれざる闖入者が現われた。


「ちょっと待てい!!なんか初めからいなかった事にされてるけど、そうはいかんぞ夕映ちゃん!!」


「ぢぃっ!!!!!」


鉄やすりを重ねて思いきり擦り合わせたような舌打ちが辺りに響く。
些かうんざりしながら夕映は扉から現れた男に目を向けた。
ずかずかとこちらに詰め寄ってきたのは、もはやすっかり見慣れてしまったある一人の男だった。
あまり手入れされていない黒髪に赤いバンダナはいつもと変わらなかったが、上下に何処から調達したのか黒い学ランを着込んでいる。
焦った表情で夕映の前に到着すると彼はひそひそと小声で話し掛けてきた。


「どういうつもりや夕映ちゃん」


「も~おとなしく帰ってくださいよ」


男の背中を押しつつ、廊下に追い出そうとする。


「ちょ、打ち合わせと違うやないか。ここに来れば超ちゃんと話ができると聞いたからワイは」


「だったらちょっとは気を付けてください!!なんなんですかさっきのは!?」


「い、いや、なんちゅーか最近いろいろと溜まってたもんで煩悩の抑えがきかなくなっとるとゆーか」


「知りませんよそんな事!!う~・・・来ちゃったものは仕方ありませんが、せめてもう少しおとなしくしてください。
ただでさえ男性の部外者がここにいるのは物凄く不自然なんですから」


何しろここは女子中等部の教室だ。仮に警備員にでも見つかろうものなら問答無用で捕まりかねない。
一応いろいろと根回しは済んでいるはずなのでそれほど警戒する必要はないのかもしれないが、
先程のような言動を繰り返しているようでは、夕映自身が無意識のうちに通報してしまうかもしれないのだ。
まぁそうなっても自分は痛くもかゆくもないわけだが・・・。
薄情な事を考えつつ隅っこで体を寄せ合い話していると、あやかが声を掛けてきた。


「あのー」


「おお、あやかちゃん!!南の島以来やな。水着姿も可愛かったけど制服姿も捨てがたい」


「そ、それはどうも。いえそうではなく!!なぜ横島さんがここに?」


テンション高く手を握ろうとする男・・・横島忠夫からうまく逃れつつあやかが質問した。


「へ?夕映ちゃんから聞いてないんか?俺は学園長の爺さんに頼まれて来たんだけど」


「学園長にですか?」


意外な話を聞いたというように、あやかが目を丸くしている。目の前にいる男と学園長との繋がりに疑問を覚えているらしい。
まぁ確かにあまり想像がつかない組み合わせだろう。
物問いたげなあやかに、夕映は事の経緯を軽く説明してあげた。あまり気のりはしなかったのだが・・・。

横島の両親と学園長が旧知の間柄である事。
たまたま横島が学園長に会いに来ていた時、二人の世間話でこのクラスが話題に出た事。
学園長が孫娘から学園祭の準備状況について、いろいろと話を聞いていた事。
それなら俺が手伝いましょうかと横島が言い出した事。学園長が面白がって許可を出してしまった事等。
話しているうちにやっぱり設定に無理があるよなと思いつつ何とか最後まで説明していく。
顔色を窺うと、案の定あやかは腑に落ちない様子で戸惑っていた。


「えーとつまり、横島さんはこのクラスの手伝いに来たと?」


「そうそう、いやぁ俺も暇だったしあやかちゃん達の役に立つなら一肌脱ごうかと思ってさ」


軽く胸を叩きながら横島が言う。夕映は白けた目を向けながら誰にも聞こえないように小さくため息をついた。
もちろん今話した内容は真っ赤な嘘だ。ただの建前に過ぎない。
横島達が追っている例の魔族に関して、学園長と協力関係を結んだという話でしかない。
本当の目的は・・・。

視線を鋭くさせて彼女を観察する。どうやら級友である葉加瀬聡美や四葉五月と談笑しているようだ。
この距離では何を話しているのか聞こえないが、ほとんどいつもと変わらないように見える。

ここ数日、夕映と横島は幾度となく超の尾行を試みていた。彼女と繋がりがある・・・らしい悪魔を発見するためだ。
しかしなかなか芳しい結果は得られず、いつも途中で見失ってしまい追跡は失敗した。
まるでテレポートでもしているかのように、いきなりどこかにいなくなってしまうのだ。

結局まともに話ができそうなのは教室くらいしかなく、
夕映一人で接触するのも不安だったので悪魔退治の専門家である横島を招き入れる事になった。
それでもいろいろと無茶な話ではあるのだが、
どういうわけか真っ先に反対しそうな教職員達は驚くほど素直に賛成してくれたらしい。
おそらく正攻法ではない手段も使われたのだと思う。


(エヴァンジェリンさん達が協力してくれればこんな苦労はなかったですが・・・)


この一件に関して、彼女たちは非協力的だった。超と何かがあるらしいのだが詳細は不明だ。
本当はもっと過激な意見も出ていたらしい。超を拘束し悪魔との関係を吐かせるといった乱暴な手段も検討されていたようだ。
しかしそもそも悪魔だとおもわれている少年の姿を目撃したのはわずか数人で、
肝心の横島にも明確な根拠があるわけでもないらしく、そういった事情から強硬策は見送られた。
とにかくまずは悪魔の実在を証明する事から始めなくてはならないわけだ。
そのためにこんな回りくどい方法を取っているのだが・・・。


(どう考えても一番割を食っているのは私ですよね)


本来無関係であるはずの自分がこうして矢面に立たされているのには色々と理由がある。
その中でもこうなった一番の原因は、横島の監視役兼世話役でもあるエヴァがたった数日で音を上げてしまったためだ。
代わりに自分がお守りをする羽目になっている。
本当なら断ってしまいたい所なのだが、今現在綾瀬夕映はエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに逆らえない事情があった。


(・・・世知辛ぇ世の中です)


どんよりと暗い気分のまま、窓の外を眺める。
やはりバッティングセンターに行くべきだろうか・・・。
ブツブツとこぼしながら脳内でバットを振り回していると、いつの間にか横島との会話を終えたあやかが話し掛けてきた。


「あの・・・夕映さん」


「なんですか?」


「いえ、一応事情は伺いましたが大丈夫なんですの?その、彼は色々と・・・」


「あ~・・・たしかにちょっと普通とは違うかもしれませんが、学園祭の準備が終わるまでの期間限定、放課後の数時間に限った話ですし、
本人も今の状況が例外的なものだとは分かっているはずですから」


「はぁ」


「それでも心配なようでしたら、一応こういったものも用意していますが」


そんな事を言いつつ夕映は傍らに置いてあったケースからあるものを取りだし、あやかに渡した。


「え?あの、これは?」


「強制真人間矯正用器具だそうです。命名者はエヴァンジェリンさんですが、”きょうせい”がかぶっているのがポイントですかね」


「まにんげん?いえそうではなく、これは・・・バット?」


「見た目はそうですね」


「なにか妙にでこぼこしてるし、所々に赤黒い染みが・・・」


「使用済みですから」


さらりと事実だけを告げる。
本来の所有者であるエヴァから譲り受けた物だが正直持て余していた感はぬぐえない。
いい機会だしこのままあやかに押し付k・・・もとい預けてしまうべきだろう。
何しろ彼女はクラス委員長なのだから。


「まぁ、手先は器用なようですし雑用仕事はバイトで鍛えられていると言っていたので少なとも邪魔にはならないのではないかと」


どうしていいのか分からずおろおろとしているあやかに、夕映は苦笑しながら告げた。すると・・・。


「・・・・・・・・・あれで?」


どこか呆然とした表情であやかが何かを指さしている。
素直に顔を向けた夕映の目に映ったのは、数人の女生徒相手にカメラを向けつつ写真撮影をしている横島の姿だった。


「いいよぉ、千鶴ちゃん。すごく色っぽい。もうちょっと胸元はだけてみようか」


「うふふ。あまりオイタしたら駄目ですよ?」


お化け屋敷用の衣装合わせをしていたらしい那波千鶴が年下の子供を叱るような優しい口調で諭している。


「楓ちゃん楓ちゃん。もっと千鶴ちゃんに近づいて!胸をくっつける感じで!!」


「むぅ、そうはいってもこれ以上は近づきようがないでござるが」


眉根を寄せた長瀬楓がそれでも横島の指示に従おうと千鶴に近づいていく。


「真名ちゃんはちょっとサイドにずれる感じで・・・そこそこ!!あ~そんなに冷たい目で見られるといけない何かに目覚めてしまいそう」


「どうでもいいがこれ以上は料金が発生するぞ?」


長い髪を押さえつつ龍宮真名が呆れたように呟いた。


「うははははははは!!!たーのしーなー!!こっちに来てからこんなに楽しいのは初めてかもしれん!!」


もはやただのカメラ小僧と化した横島が様々な角度からデジカメを構えてはシャッターを押している。
そこには本来の目的をスコーンと忘れて、欲望に流され続ける男の姿があった。
しかしそんな彼の至福の時間は、そう長くは続かなかったようだ。


「あーっ!!バカ島だー!!なんでここにいるのー!!」


左手にトンカチを構え、右手にニッパーを携えた鳴滝風香が喉を鳴らしつつ唸り声を上げる。
まるで天敵を見つけた獣のような有様だが、姿が愛らしいせいで見た目は小動物のそれである。
バカ島呼ばわりされた横島がきょとんとしながら後ろを振り返った。


「へ?あ、お前ら断崖絶壁シスターズ!!」


「だだだ、誰のどこが断崖絶壁だーこの悪者めー!!」


聞き捨てならない言葉を聞いた風香が顔を真っ赤にしながらジタバタと手足を振り回している。
そしてそんな彼女の背中に隠れていた鳴滝史伽がなんとか姉に加勢しようと口を開いた。


「そうですー!!えーと、えーと、わる、わる・・・臭い虫ー!!」


「だだだ、誰が臭い虫だこんちくしょー!!」


斬新な悪口に敏感に反応した横島が双子を追い回す。


「待ちやがれ!!」


「いーっだ!!白くてべたつく何かを食らえ!!」


「な、なんやその卑猥な感じの・・・ってただの糊やないか!!ああぁでも確かに白くてべたべたするぅぅ!!」


「えーい紙ふぶき攻撃!!」


「や、やめろぉぉ!!紙が髪に!!」


横島が情けない悲鳴を上げつつ髪の毛を引っ掻き回している。
するとその様子を面白そうに眺めていた明石裕奈がニヤニヤしながら近づいてきた。


「まったくしょうがないなー横島さんは。ほれほれ取ってあげるから屈んで屈んで」


「うぅ、すまんなーゆーなちゃん」


横島が素直に身を屈めて前傾姿勢を取る。


「私たちも手伝うよ」


「うーん、これは濡れたハンカチかなんかでふいた方がいいかも」


「じゃー私行ってくるー」


思い思いの台詞で釘宮円、柿崎美砂、椎名桜子のチアリーディング部三人娘が横島の世話を焼き始める。
頭をわしゃわしゃと撫でられつつ、横島は感動に打ち震えていた。


「み、みんな優しーなー」


「ははっ、まぁもうちょっとジッとしてなよ」


「でもやっぱり素手じゃ取りづらいね」


横島に張り付けられた折り紙の欠片を取ろうと悪戦苦闘している面々に、水場でハンカチを濡らしてきた桜子が走り寄ってきた。


「おーい。濡らしてきたよー」


「おお、桜子ちゃんありがと・・・え?い、いや、待って、それハンカチじゃなくて」


「うん雑巾だよ。今日ハンカチ忘れてたの忘れててさー。ちょうどいいのがあったから」


水を汲んで雑巾を引っ掛けたお掃除スタイルのバケツ片手に、桜子がニコリとほほ笑む。
普段から笑顔が常の彼女だが、どこかしら影を背負っている気がした。
横島もそれを感じ取ったのか、頬を引きつらせて僅かに後退している。


「え、えっと、できれば雑巾は遠慮したいんだが・・・」


「えーでもハンカチないし・・・」


笑顔を維持したまま器用に眉をひそめている桜子の肩を美砂と裕奈がガシッと掴んだ。


「そうだねー掃除道具の方がかえって綺麗になるかもねー」


「ですにゃー」


こいつは面白れぇーやとでも言いたげに目を光らせた二人が逃げ腰の横島にじりじりと近づいていく。


「ちょ、落ち着け二人とも!」


「そいつはできない」


「相談だぜっ☆」


そして再び追いかけっこが開始される。
狭い空間をうまく使って何とか走り回っていた横島だったが、
悪ふざけパワー全開の二人からは逃げられなかったのか、あっさりと教室の隅に追い詰められていた。
少女たちが不気味な笑みを深くする。
横島が逃げ道を探すように辺りをキョロキョロと見回していたその時、教室の入口から救いの神?が現われた。


「あれー、横島さんじゃん。どうしてここにいるの?」


「おお、横縞さん。久しぶりアルなー」


視聴覚室に積んであった資材の一部を運搬していた朝倉和美と古菲が目を丸くする。
微妙に名前を間違えられた横島だったが、それでも第三者の登場に顔をほころばせていた。


「和美ちゃん!古菲ちゃん!助けてくれ!!ゆーなちゃんと美砂ちゃんが・・・」


そんな風に助けを求める横島の背後で、裕奈と美砂が怪しげなボディーランゲージで何かを伝えている。
それを見た途端、いち早く意図を察した和美が聖母の笑みで横島を拘束した。


「あー駄目だよ横島さん。いくら我慢出来なくても不法侵入はいかんでしょ。記事にしちゃうよ?」


「う~む。これは逮捕アルな」


何処からかサイレンが鳴り始め、横島に手錠がかけられる。どうやら誰かが玩具のなりきりセットを持ってきていたらしい。


「え?ちょ、く、古菲ちゃん!?腕、腕極まってる!!」


いつのまにか神速の動きで背後を取った古菲が横島に関節技を仕掛けている。
彼女はそのまま妙に押し殺した低い声で囁いた。


「マァマァ、詳しい話は事務所で聴こうアルか。なぁニーチャン」


「あれ?何か設定が変わってないか!?」


ジャパニーズマ○ィアのようにドスのきいた声を発した古菲から逃れようと横島が必死になっている。
そのままワーワーギャーギャーとやかましい喧騒が聞こえ始め、夕映は一つ嘆息した。
疲れ果てたような仕草で隣に立っているあやかに向き直る。


「委員長さん出番です」


彼女の顔と、手に持っている強制真人間(略を交互に見る。
無感動な台詞を聞いたあやかが呆然としたまま口をポカンと開けた。







「・・・・・・・・・・・・・・・え?」






◇◆◇






「・・・・・・・・で、何のつもりですか?」


強制真に・・・金属バットを肩に担いだ夕映が目の前で正座をしている横島を睨み付ける。
足の爪先で苛立たしげにリズムを取りつつ顔をしかめた。


「い、いや違うんや夕映ちゃん。俺はただお化け屋敷の入り口に飾る等身大パネル用の写真を撮っていただけで・・・」


小さく縮こまりながら反省のポーズをとった横島が、手に持ったデジカメを前に掲げ必死になって自らの無実を主張している。
その様子を胡散臭げに眺め、夕映は隣にいるあやかに確認した。


「そんな物を使う予定はあるですか?」


「いえ、初耳・・・ですけど」


自信がないのか他のクラスメイトの反応を伺いつつあやかが答える。
夕映達を中心として周りを取り囲むように集まっている少女たちが一斉に首を振った。
横目でそれを確認した夕映が再び半眼を向ける。


「だ、そうですが」


「そ、そうだっけ?で、でもさ、そーゆーのがあった方が客も集まってきそうだろ?だから俺は自分用に写真を撮っていたわけではなくてだな・・・」


形勢が不利になってきたからなのか慌てて言い訳を始めた横島だったが、
そんな彼の心中など知った事ではないとばかりに傍聴席から次々と新たな証言が飛び出してきた。


「えー、だけどそのわりにはいろいろ要求してたよね」


「うんうん。上目遣いでこっち見ろーとか」


「胸の谷間に霧吹きで水かけようとしてた」


「不自然なほど下からのアングルで撮ってたよねー」


何の他意もない無邪気な声で致命的な事を言ってくる少女たちに横島の頬が引き攣る。
夕映は口を半開きにしたまま硬直している彼を一瞥し、ニコリと微笑んだ。
そしてデジカメをそっと奪い取り、中にあるメモリーカードを抜きとると本体を思い切り叩き落とした。


「えい」


ガシャンと嫌な音を立ててデジカメが床に激突する。


「あー!!ワイの・・・ワイの青春メモリアルがあああああぁぁ!!!」


「やかましいです!!!」


両手をワキワキとさせつつ横島が絶叫している。夕映はそんな彼の胸ぐらを掴みながら怒鳴り声を上げた。


「いい加減にしてくださいよ!!おとなしくしてってさっき言ったばかりじゃないですか!!」


「い、いや俺も一応気を付けてはいたんだけども」


ガックンガックンと首を前後に揺さぶられつつ横島が答えてくる。
その言葉を聞いて夕映のこめかみにクッキリと青筋が浮かんだ。
あれのどこが何を気を付けていたというののだろう。どう見ても自分から騒ぎを起こしていたようにしか見えない。


「だいたいなんでデジカメなんて持ってきてるですか!?」


「えーと・・・・・・記念撮影のため?」


「何処の世界にスカートの中を盗撮する記念撮影があるですかあああああぁ!!!」


情動はそのまま握力に直結していたらしい。握りしめた襟首がミシミシと嫌な音を立てる。


「うぐ、ご、誤解だ夕映ちゃん!!さすがの俺も盗撮まではしとらん!!・・・はずだ」


断言できずに言い逃れている横島の言葉を受けて、
夕映は手に持ったメモリーカードを和美に渡した。中を調べるように頼む。
はいはいと気軽に請け負った和美が保存されている画像を調べていく。


「うん。アウトだね」


「やっぱり逮捕アルか~」


指先をせわしなく動かしながら確認していた和美があっさりと言った。
彼女の隣にいる古菲も残念そうに首を振っている。
横島が拘束されながらもなんとか無理やり声を絞り出した。


「ま、まってくれ!別に狙って撮ったわけやないんや!!
なんかこっち側の女の子は無意味に露出度が高いとゆーか、見せパンなのかと疑わしいくらいに下半身が無防備とゆーか・・・」


「何訳の分からない事を言ってるですか」


「い、いや、でも、漫画で例えるなら単行本一冊につき必ずパンツが・・・」


「そんな事実はねーですっ!!!」


「ゆ、夕映ちゃん・・・くび・・首が絞まってる・・・」


気が付くと、夕映は本人にもよく分からない危機感を覚えて、ぐぎぎと奥歯を噛みしめながら前後左右に横島を振り回していた。





・・・・・・・・それから。





何とか冷静さを取り戻した夕映と横島は、些か置いてけぼり状態のクラスメイト達に改めて詳しい事情を説明した。
いち早く夕映の話を聞いていたあやかの助け舟もあって、一応全員が納得できたようだ。
普通に考えれば女子校に無関係の男がホイホイやって来るなどありえない話ではあるのだが、
クラスメイトの大半がすでに横島を知っていた事と、
もともと面白ければ別にいいやといったわりと大雑把な3年A組の気風も合わさって、実にあっさりと彼の滞在は認められた。
それに人手がほしいのも事実なのだ。
出し物がお化け屋敷に決定するまでさまざまな紆余曲折があり、
実際の作業を開始するまで遅れに遅れてしまっているので、学園祭当日に間に合わせるためにも男手があった方が何かと都合がよかった。
そんなわけで一部横島の事を知らない女生徒の・・・なんだって男が?学園長もノリで許可出すとかおかしいだろ。教師どもは何やってんだ?
といったまっとうな疑問はさらりと無視され、学園祭に向けての準備が開始された。





◇◆◇





「横島さーん。ゴメンそこの板取ってくれない?」


「ん、これか?今持ってく」


「横島さーん。釘打つの手伝って、人手が足んなーい」


「おっけー、ちょっと待ってて」


「横島さん。視聴覚室に材料を取りに行くので手伝ってくれませんか?」


「あー重そうだもんな。荷物持ちなら任せとけ!」


「横島さーんお腹すいたー喉渇いたー」


「えっと、パンとジュースでいいか?」


「よーこーしーまーさーん!今週のマ○ジン買ってきてー」


「うむ、じゃーコンビニでも行って・・・って待てい!!何でパシリまでせにゃならんのだ!!あとどうせ買うならサ○デーにしとけ!!!」


「「あちゃーばれたかー」」


他愛ないやり取りはそれだけ彼がこの場所に馴染んでいるという証明なのだろうか。
様々な頼みごとをされては器用にこなしていく(一部騙されそうにもなっていたが)横島を視界の端に収め夕映はそう思った。
もっとも彼自身が人見知りとは無縁の性格をしているし、
このクラスも基本的には騒がし・・・もとい気取らない温かな気質を持っているので、もともとそれほど心配もしていなかったのだが。

仕事の方もこちらが思っていたより、ちゃんとお手伝いしてくれているらしい。
本人が豪語していた通り、力仕事から細かい作業まで八面六臂の活躍を見せている。
これならばいちいち自分が監視していなくても大丈夫そうだと、夕映は手元に視線を戻した。

雑多な資材の山とクラスメイトのほとんどが集まっている空間は思ったよりもせせこましい。
数人のグループに分かれ、限られたスペースの中で場所を確保し作業が進められる。
夕映はその一つに身を寄せ、黙々と単純作業を繰り返していた。
図面通り、木材の隅に印をつけ線を引いていく。これをもとに釘打ちやらのこぎり引きやらをするわけだ。

この後には備品チェック等の雑用仕事が待っているため、できることなら早めに済ませておきたかった。
とはいっても最終的な組み合わせの段階でバラバラになってしまっては元も子もないのでなかなか手が抜けない。
そんな事を考えつつ夕映が木材相手に奮闘していると、すぐ隣でトンカチ片手に作業していた早乙女ハルナが手を止めて苦笑をこぼした。


「しっかし相変わらずだねー横島さんも」


眼鏡の位置を調整しつつ、騒ぎの中心にいる男を面白そうに眺めている。


「見ている分には飽きないんでしょうけどね。じかに接しているとそんな呑気な事を言ってられないですよ」


実際それがここ一週間程彼と一緒にいる夕映の感想だった。
こちらが目を離すと何をしでかすか分からないので気が気でないのだ。
幼稚園児か!!・・・と思わなくもないが、邪念がない分彼より園児の方がましかもしれない。


「はは、かもね。でもその割には最近よく一緒にいるらしいじゃん」


言外に何か含みを持たせてハルナがこちらを覗き込んでくる。
うぐっと言葉に詰まり、夕映は藪蛇だったかと後悔した。


「朝倉が言ってたよ。放課後二人で歩いてる姿を見かけるって」


ハルナがニヤリと不気味な笑みを浮かべる。獲物を追い詰めたハンターのようにジリジリとこちらに迫ってきた。
どうやら彼女のラヴセンサーに引っ掛かってしまったらしい。


「言っておきますが、ハルナが思っているような事は何もないですよ」


このままでは横島と恋人同士にされかねないので、夕映は予防線を張っておくことにした。
じと目でハルナを見つめ、念のため釘を刺しておく。


「またまたぁ、照れる事ないじゃん」


「照れてないです」


「えー、でもさぁやっぱりあやしいと思うなー。のどかもそう思うでしょ?」


アニメキャラのような含み笑いをしつつ、ハルナが自分の隣で一生懸命鑢掛けをしているのどかに話し掛けた。
突然水を向けられた彼女が目をパチクリとさせる。会話に参加せずとも一応話は聞いていたのか、戸惑う様子で口を開いた。


「え、えっとどうなのかな」


のどかの返事は曖昧ではあったが、眺めに伸ばした前髪の中で瞳が爛々と輝いている。
どうやら彼女もこの話に興味があるらしい。こちらの否定の言葉は届いていない様子だった。
のどかまで・・・と思わず溜息をつきそうになるが、よくよく考えてみれば彼女とネギの話で盛り上がっている時の自分もこんな調子なのかもしれない。
過去の自分を振り返ってみても、よく思い出せなかったが。


「いやぁとうとう夕映っちにも春が来てしまったかー。おねーさんは置いてけぼりくらったみたいでちょっと複雑・・・」


首を俯かせ何となく反省していると、ハルナがたわけたことを言い出した。


「違うと言っているでしょう。私にだって好みのタイプというものがあるです」


「だから横島さんがそのタイプなんでしょ?」


「ありえないです」


即答しながら作業に戻る。このままではろくな展開になりそうもない。
気分的には耳せんでもしているつもりで手元に集中する。
これ以上何か話し掛けられても相手にするつもりはなかった。


・・・・・のだが。


「でも、夕映があんなに大きな声をだすのってめずらしいよね」


自然と口からこぼれたその言葉は純粋な疑問だったらしい。首を傾げたのどかがポツリと呟いた。


「何が言いたいですか?」


「え?う、うん。気に障ったらごめんね。ただ横島さんと話してる時の夕映って全然気兼ねしてないっていうか、なんだかすごく自然に見えて・・・」


こちらの顔色をうかがいつつ、のどかが答えてくる。すると・・・。


「そうそうそれだよ!!私がひっかかってたのは!!」


「な、なんですかハルナまで突然」


「いやさ、普段の夕映だったら年上の男相手にあんな感じで食って掛からないじゃん。襟首掴んで怒鳴り声上げてーって。
それなのに全然遠慮してるように見えないし、だからそういう関係なのかもってさ」


ハルナが身を乗り出して力説してくる。勢いに負けて夕映は身体を仰け反らせた。


「あの人相手に遠慮したってこっちが馬鹿を見るだけですよ。ホントびっくり箱みたいな人なんですから」


何とか体勢を立て直し、目の前にある興奮気味の顔を押しのける。
横島をよく知らないハルナには分からないだろうが、こちらが遠慮して消極的になっていると彼はどこまでも調子に乗ってしまう。
多少強引でもこっちでブレーキを掛けなければならないのだ。
それにわざわざ言うつもりもないが、自分の対応などまだまだ可愛いものでしかない。
エヴァが横島にするツッコミなどもっとぶっ飛んでいる。
例の金属バットが入っているケースを見ながら夕映はそう思った。
こちらが特に照れる様子もなく淡々と告げたからか、ようやくただの勘違いだと気付いたのかもしれない。
ハルナがつまらなさそうに唇を尖らせた。


「ちぇー。せっかくおもしろそうな事になってるとおもったのになー」


「ちょっとは本音を隠してください。あと人の色恋沙汰で遊ばないように」


「あはは、ごめんごめん。・・・・・ん?でもそれじゃ何で横島さんとつるんでんの?」


「別に・・・あの人の探し物に協力しているだけです」


不思議そうな顔をしているハルナから目を逸らし、夕映は口ごもった。
詳しく話すわけにもいかないので慌てて話題を変える。


「私の事よりのどかの方はどうなんですか?聞いた話だとネギ先生の学園祭の予定、ほとんど埋まってしまっているらしいですけど」


「あ~~それ聞いちゃう?」


「えへへ」


ハルナがわざとらしい笑みと共に目を細め、のどかが照れた様子で赤面する。
妙な態度を訝しく思いながら夕映は二人に尋ねた。


「な、なんですかその反応は?」


「うっふっふっ。いやぁ、なんかついさっきネギ君の方から誘ってきたらしいよ、学園祭一緒に回りませんかーって」


手に持ったトンカチを器用に回しながらハルナが答えてくる。
何となく意外に感じて夕映は目を丸くした。


「それ、本当ですか?」


「う、うん」


のどかがこくこくと頷く。


「・・・こう言ってはなんですが少し意外ですね。自分からそんな誘いをするタイプには見えませんでしたが」


ネギはそっち方面に関してかなり疎い方だと思っていたので、軽い違和感を覚えていた。
それに年齢が年齢であるため、人一倍教師らしく振る舞おうと努力している彼が、なぜ特定の生徒をデートに誘うようなまねをしたのか。
正直に言えばネギらしくないというのが夕映の感想だった。まぁ、事実だとしたら大変喜ばしい事ではあるのだが。
難しい顔をしながら悩んでいると、ハルナがビシリと人差し指を立てつつ言った。


「まーねぇ。私もびっくりしたけど。でもさ、これはひょっとしてネギ君もとうとう覚悟を決めたって事じゃない?」


「それはつまり・・・ネギ先生がのどかの告白に答えるつもりだと?」


「そうそう」


こちらの言葉に同意しながらハルナがのどかを振り返った。
つられて夕映も彼女に顔を向ける。二つの視線にさらされてのどかはますます顔を赤らめた。


「そうなのかな?もしそうなら、う、嬉しいけど・・・」


「あーーもうちくしょう!!なんなんだこの可愛い生き物は!!」


はにかみながら体を小さくして俯くのどかの頭を、ハルナがグリグリと撫でまわす。
あっという間にぼさぼさになっていく髪に隠れてよく見えなかったが、それでも彼女は嬉しそうに微笑んでいた。
幸福そうなその姿に、胸の内側があたたかくなっていく。夕映は自分でも気が付かないうちに口元を緩めていた。


「よかったですね、のどか。・・・・・本当によかった」


言葉に詰まりながらもそう告げる。こちらの意思とは無関係に目頭が熱くなって、夕映は何度も瞬きした。



今なら・・・自分がした選択が誤りではなかったと確信できる。
この笑顔を守るためにしたことが間違いであるはずがない。



まるで子供を慈しむ母親のように夕映はのどかを見つめていた。
するとそんな態度を不審に思ったのかハルナが不思議そうに首を傾げた。


「どしたの?なんか修学旅行の時見た大仏みたいな顔してるよ?」


「だ、大仏!?べ、べつになんでもないです」


慌てて顔を背ける。ハルナの指摘にちょっとだけ傷つきながら、何とか素の表情に戻ろうとグリグリ頬をこね回した。
平常心を取り戻すために夕映が努力していると、のどかが小さな声で礼を言った。


「ありがと、夕映」


耳の後ろをくすぐられるような軽やかな声。夕映は何となく照れくさくなって鼻の頭を擦った。


「横島さんの事は別としても、もし夕映に好きな人ができたら私も協力するね」


「そう・・・・・ですね、その時はお願いします」


互いの瞳を見つめながらにこやかな笑みをかわす。
周囲がほのぼのとした空気に満たされ、二人がいる空間が別世界になり始める。
すると何故か焦った様子でハルナが口を挟んできた。


「ちょ、ちょっと何二人だけの世界を作ってんの?夕映に好きな人ができたら、もちろん私も手伝うって!!」


置いてけぼりはたまらないと情けない声でこちらの腕にぶら下がってくる。
子供が親にほしいものをねだっているような態度だったが、そんな彼女に夕映は冷淡な声で告げた。


「いえ、のどかだけで十分です」


「そ、そんな事言わずに私にも手伝わせてよ~」


「ふふふ」


仕舞いにはおんぶするようにハルナが背中にのしかかってきた。
夕映は転ばないように彼女の体重を支え、腰に力を入れる。
バランスを崩しかけ、ギリギリの所で踏ん張っていると、自分たちを見ながらのどかが笑っていた。
なんの屈託もない無邪気な笑み。

他愛ないやり取りのなかで彼女が笑っている。
夕映は普通の日常が戻ってきたことを実感してゆっくりと目を閉じた。
結局のところ自分はこれを守りたかったのだ。
友人を騙し横島たちに協力しているのもそれが理由だった。

一週間ほど前、魔法使いとジークたちとの橋渡しを頼まれた時の事を思い出す。
当時はなぜ自分がと思ったものだが、今では夕映にも彼らの思惑が何となくだが分かってきていた。

双方とも四人目の魔族を捜索するという目的は一致している。
ジーク側から必要な情報が提供され、学園長は今回のように捜査の融通をする。
一見すると健全な協力関係を結んでいるように思えるが、おそらく内実は違っているはずだ。

魔法使い側は、一応の協力者でも得体のしれない人物に好き勝手してほしくないというのが本音だろうし、
ジーク達も必要以上に干渉されたくないと思っているに違いない。
そういった事情があって、自分が選ばれたわけだ。

二つの組織の正体を認知し、どちらの側にも属しておらず、肝心な事はほとんど知らされていない。
都合よく利用するにはうってつけの人材だったのだろう。

要するに緩衝剤のようなものだ。
両者の間を取り持って、衝突を避ける役割を期待されているのだと夕映は思っていた。

思えばエヴァが横島の監視役を外れたのも、意図的なものだったのかもしれない。
互いの関係に軋轢をもたらすような要素は極力排除しておきたかったのではないだろうか。
もっとも彼女が横島にうんざりしていたのも事実だろうが。何しろ本人直々にあんなスポーツ用品まで用意する始末だ。

野球しようぜ!!お前ボールな!!・・・・・というやつを実際に見たのはあれが初めてだった。

あまり思い出したくない記憶が蘇りそうになって夕映は強く頭を振った。


「どったの夕映?」


突然顔色を悪くして俯いた夕映をハルナが怪訝そうに見ている。
何でもないと小声で言いながら夕映は空しく笑った。
傍に置いてあるバットの入ったケースを足でどかしながら、ボール役をやっていた人に視線を送ってみる。
彼はまた何か騒ぎを起こした様子で那波千鶴の所にいた。


「千鶴ちゃん助けて!!なんもしとらんのにあの双子がワイを、ワイを!!」


「あらあら、しかたないわねぇ」


自分よりも年下の少女にいじめられて、自分よりも年下の少女に泣きついている。
彼は千鶴に優しく頭を撫でられながら鼻の下を伸ばしていた。
その顔を見ているうちに、何故だか知らないが先程のどか達が言っていたことが脳裏をよぎっていた。


(横島さんと話してる時の夕映って全然気兼ねしてないっていうか、なんだかすごく自然に見えて・・・)


(全然遠慮してるように見えないし、だからそういう関係なのかもってさ)


横島に冷めた瞳を向けながら頭の中で彼女たちの台詞を反芻する。
しばらくそんな事を繰り返してから、夕映は一つ嘆息すると心の中で呟いた。


(やっぱり、ありえないですね)


泣きついた先で再び双子にからまれている横島から目を逸らし、夕映は今度こそ作業を再開した。







[40420] 23 夕映と横島 後編
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:73709a19
Date: 2016/06/18 21:54




エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの別荘。


城・・・と呼ぶには些か不自然な形をしているが、広大さはそう呼ぶにふさわしい規模を持っている。
円筒形の基本構造は塔のように縦に長く伸びていて無駄に眺めがいい。
周囲一帯が海で囲まれ、微かな波音が遠くから聞こえてくる。
気候は常に一定であり、一足早く訪れた夏日のように暖かく、さんさんと降り注ぐ太陽光が海に反射してキラキラと輝いている。
頂上に立っている建造物は白を基調とした宮殿のような外観で、
プールやスパまで完備しているらしく、もはやセレブが利用する高級リゾートと言っても差支えない。
もっとも、それらはあくまで表層的な物の見方でしかなく、この場所の本質は別に存在している。
本来の持ち主がどのような意図をもって作成したのか定かではないが、すくなくとも自分にとってはもっとストイックな意味を持っていた。


即ち、魔法の修業場である。


魔法とは何か・・・現代においてその答えはほぼ解明されていると言っていい。
ごく一部の人間だけが持っていた魔道の知識や儀式は簡略化されて、実戦的な運用に耐えうる術式や魔法具として実用化されている。
魔力を込め、杖を振り、呪文を唱える。それだけで魔法は発動する。
難解な知識も、複雑な手順も、膨大な時間も、生贄や供物も必要としない。
もはやそこには神秘や奇跡が入り込む余地などなく、理はあまねく詳らかにされていた。
マスターである彼女も魔法を単なる技術だと称した。
世界の根源に干渉する術を人の理論で法則化し、行使しているにすぎないと。

だが、自分はその話を聞いた時、まったく別の感想を抱いていた。
少し子供っぽいなと我ながら赤面しそうになるほど単純な思いつき。





魔法とは・・・・・まるで世界からの贈り物みたいだな、と。





◇◆◇





「プラクテ、ビギ・ナル、アールデスカット(火よ灯れ)!!」


空間に溶け込んでいるエネルギーを体内に取り込み、練り上げ、自らの力とする。
魔力の流れを一極に集中し、魔法発動体に注ぎ込む。
呪文の末尾に思いを込め、己の内に秘められた理想を現実のものとする。

熟練の魔法使いならばそれこそ一呼吸の間に実行出来るプロセスだ。
その工程にたっぷりと時間をかけて、綾瀬夕映は呪文を唱えた。
いつの間にか目を閉じてしまっていたらしい。暗闇の中で杖の重みが指先に引っかかるのを感じる。
緊張によって震えている先端を見るために、夕映はおそるおそる目を開けた。


結果は・・・。


「また・・・失敗ですか・・・」


杖には何の変化も起こっていなかった。炎どころか僅かな光も熱も発していない。
がっくりと肩を落とし、スポーツバックに入れてあったタオルで汗を拭う。
浅く唇を噛んで、そのまま近くにある大理石製のベンチに腰を下ろした。

この場所を使わせてもらうようになってから、もう数えるのも面倒なほど同じ魔法を練習しているというのに一向に成果が得られていない。
成功する兆しもなく、ただ失敗を繰り返していた。
夕映自身そう簡単に魔法が使えるようになるとは思っていなかったが、努力が徒労に終わるのはなかなかにこたえる。
通常は成功までに何か月もかかる場合もあるそうだし、順当な結果と言えるのかもしれないが、それでも悔しいものは悔しい。
手に持ったおもちゃのような魔法の杖を恨めしげに睨む。

少し前から夕映はエヴァに魔法を習い始めていた。
名の通った大魔法使いである彼女に師事するなど通常なら無理な話だったのだが、
横島の世話係を交代するという条件で弟子入りを許されたのだ。

若干面倒くさそうな彼女に手渡されたのが初心者用の杖と一冊の魔道書だった。
ごく初歩的な練習用魔法の呪文を教えられ、それができたら本格的に修業をつけてやると言われた。
以来、延々とチャレンジし続けている。一応コツのようなものを教わっていたが、あまり理解できているとは言い難い。
魔法の発動には魔力が不可欠だが、そもそもその魔力自体が何なのかさっぱり分からないのだ。
大小の違いはあれど、どんな人間にも魔力は宿っていると聞いているので自分にもあるはずなのだが・・・。


(正直・・・成功するイメージがわかないです)


どれだけ精神を集中しても、座禅や瞑想の真似事をしても魔力を認識する切っ掛けすらつかめない。
ほんの僅かでもいい、何かしらの希望さえあれば頑張れるのだが・・・。
夕映は膝に額を押し付けて渋面を作った。


(それでも、諦める訳にはいかないです。何としても魔法を使えるようにならなければ)


懇切丁寧にアドバイスしてくれるような優しい師匠ではないが、自分には強力な魔法使いが付いていて、修行に適した場所まで与えられている。
少々の失敗でへこたれるようでは申し訳ない。夕映は心の中で気合を入れ直し、椅子から立ち上がった。
すると室内へ続く階段から誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。


「おーい、夕映ちゃん。ちょっと休憩にしないか?」


そんな事を言いながらお盆の上にケーキとティーセットを乗せた横島忠夫がのっそりと現われた。
慣れないていないのか、カチャカチャと食器同士を接触させながら危なっかしい手つきでこちらまで歩いてくる。


「いえ、結構です」


チラリと目を向けて、彼の顔を確認すると夕映はつれなくその提案を断った。
せっかく誘ってもらったのに悪い気もするが今は練習を続けておきたかったのだ。
精神を集中するために神経を尖らせていく。何もない空間を睨み付け、杖を握った手に力を込める。
腕力がどうという問題ではないがこれも気合の表れだ。
何度か深呼吸を繰り返し、夕映は意を決して呪文を唱えようとした。


・・・・・のだが。


いつのまにか目の前に美味しそうなショートケーキが突き出されていた。
新雪を思わせる純白のクリームに、ふわふわとした柔らかなスポンジ生地。
みずみずしく熟れた苺が何層にも重なり、黄色と白と赤のコントラストを描いている。
出来立てなのだろう。甘い香りがほのかに漂ってきていた。
三時のおやつを目前にして、魅惑のスイーツが鼻先でゆらゆらと揺れている。


ごくりと・・・夕映の喉が音を立てた。


「ほんとにいらんのか?茶々丸ちゃんが作ってくれたケーキ、滅茶苦茶うまいんだが」


そう言いながら銀製のフォークを摘み上げ、横島が自分のケーキを凄い勢いで平らげている。
口周りをクリームまみれにして、頬を膨らませていた。


「・・・・・・・・・」


まるで見せつけてくるようにケーキを食べている。その姿を見ていた夕映の眉がピクリと吊り上った。
いろいろのっぴきならないものを堪えるように体を震わせ始める。
何というか、ここで簡単に前言を撤回しては、あきらかにこちらの負けのような気がする。
だがしかし、あの光景を目の前にして集中力を持続させるだけの自信が、今の自分にあるとは思えない。


(な、なんという卑劣な・・・)


茶々丸はどうやらかなりの量を作ってくれたらしい。綺麗にカットされたホールケーキがテーブルの上に鎮座している。
横島は早くも一つ目を攻略し、二つ目を自分の皿に乗せていた。
まさかとは思うが、もしこのペースで彼が食べ続けたとしたら・・・・・・・。
最悪が脳裏をよぎった。



そして。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


「ハッ!!」


突然、どこか遠くに行っていた意識が戻ってきた。
気が付けば杖の代わりにフォークを握っている。
夕映が我を取り戻した時、ケーキが置いてあった皿の上はすっかり空になっていた。


「い、いつのまに・・・」


驚愕に声が震える。指先からフォークが滑り落ちていった。
眼前にある現実を信じる事が出来ない。
まるで時間でも消し飛ばされたかのように、”美味しかった”という結果だけがその場に残って・・・。


「なんちゅーか・・・夕映ちゃんがそういうボケをするのは新鮮なんだが、とりあえず口は拭いた方がいいんと違うか?」


「そうですね」


頷きながら、わりとあっさりいつもの表情に戻った夕映が口周りをナプキンで拭う。
ティーポットから紅茶を注ぎ喉を潤した。
向かい側の椅子に座っている横島に言い訳がましく弁解する。


「すみません。なんかいろいろとうまくいかなくって・・・」


「いや、別にいいけどさ。うまくいかないって魔法の事か?」


紅茶にミルクを入れるかレモンを添えるかで若干悩んでいた様子の横島が軽い口調で尋ねてくる。


「ええまぁ。でも、どこが悪いのか原因が分からないので、改善のしようがないんです」


「エヴァちゃんは教えてくんないの?」


「・・・これができないようなら才能がないと思ってスッパリと諦めろって言われました」


魔法の発動自体が感覚的なものなので、他人が教えるにも限度があるのだそうだ。
初めて自転車を操縦する時のように、失敗しながら徐々に慣れていくしかない。
それに今練習しているのは魔法を初めて習う者が扱うごく初級の呪文だ。
これ以上難易度の低い魔法はないのだから、他の呪文を試してもおそらく無駄になるだろう。
結局、魔力を扱う感覚を体が覚えるまで愚直に何度も試行錯誤していくしかないという事だ。


「ふーん。魔法ってそんなに難しいのか?エヴァちゃんやネギなんか結構簡単そうに使ってるけど」


「あの二人と一緒にしてほしくないです。横島さんも習ってみればわかると思いますよ」


「うーん。まったく興味がないってわけでもないけど・・・面倒くさいしなぁ」


「現在進行形でその面倒な事を頑張ってる私に、そういう事言わないでほしいです」


横島にとってはしょせん他人事なのだろうが、もう少し空気を読んだ発言をしてもらいたいものだ。
ただでさえちょっとだけ落ち込んでいるというのに。
夕映はティーカップで口元を隠しながら、横島に向けてほんの僅かに舌を出した。
すると・・・。


「・・・ん、でも待てよ・・・魔法・・・魔力・・・」


不意に何かに気付いたように横島がブツブツと独り言を言い始めた。
何もない空中に視線を向けて、バンダナを巻いているこめかみを指先でこすっている。
様子が気になって夕映は素直に聞いてみる事にした。


「どうかしたんですか?」


「・・・・・・・・」


こちらの声が耳に入っていないのか横島は何も答えてこなかった。
眉間に皺をよせ目を細めて宙を睨み付けている。
この会話相手が突拍子もないのはよく知っているが、どうにも様子が変だ。
たいていは女性がらみで素っ頓狂な事を始めるのがセオリーなので、いつもと違って反応が読めなかった。
何も言葉が出ないまま夕映が見守っていると、横島がクルリと振り返った。


「なぁ夕映ちゃん。その魔力ってのはさ、そこら中にいっぱいあるんだよな?」


「へ?あ、はい。厳密に言えば空気や水とか万物に宿るエネルギーが・・・」


「いやいや、別にそこまで詳しく聞きたいわけじゃないからさ。でも大体そんな解釈でいいんだろ?」


「ええ、まぁそうですけど・・・何が言いたいですか?」


「う~ん。正直自信があるわけじゃないから断言できんのだが、ちょっと試してみたいことがあって」


そう言いながら横島は意識を集中するように目を閉じた。
すると彼の手が急に光を放ち、真正面にいた夕映は眩しさに目がくらんで慌てて顔を隠した。
目蓋越しにも眩しい光はあっという間に収まって、一つの形を作り出していく。
手のひらにすっぽりと隠れてしまうくらい小さな球体にまで収縮し、美しい宝石のように緑色に輝いていた。


「あ!それってたしかピートさん達が持っていた」


「ん?ああ、そういや夕映ちゃんは知ってんだっけ、これ」


のどか達の記憶を書き換える際にピートから借りたものだ。確か名前は・・・。


「文珠・・・でしたっけ。記憶の上書きができる魔法の道具」


「いや、べつに記憶をどうにかするための道具じゃないんだけどな」


言葉尻を濁しながら横島は手に持った宝石・・・文珠を握りしめた。
そして再び綺麗な光が溢れだしていく。
思わず見とれてしまうような美しい輝きだ。


「よ、横島さんいったいなにを・・・」


「ん、ちょっとまって・・・お!ああ、やっぱり・・・」


横島が一人で納得したように頷きながら、きょろきょろと周りを見渡している。時々何かに触れるような仕草で指先を動かしていた。


「いやぁ、本格的な”解析”はこっちでやったのが初めてだったからただの勘違いかと思ってたんだが、これがそうなのか」


「だ、だから何を言って・・・」


「はい、夕映ちゃん。これ持ってみな」


こちらの言葉を無視して横島が手を差し出す。何が何だが分からずにおろおろとしていた夕映は素直に彼の手元を覗きこんだ。
突き出された右手に先程の文珠が置かれている。ただひとつだけ違っていたのは玉の中央部分に何か文字が刻まれている事だ。
漢字で一文字”視”ると書かれている。


「あの、これは?」


「魔力が何なのか分からないって言ってたろ。だったら”視”えるようになればいいんじゃないかと思ってさ」


そんな事を言いながら横島は躊躇している夕映の手を取り、持っていた文珠をヒョイと乗せた。
その瞬間・・・夕映の身に劇的な変化が起きた。
一瞬、眩暈を起こしたように意識がブラックアウトし、それが戻ると同時に目に映る情景が彩りを増した。
例えるなら、さっきまでが原色のクレヨンで描かれた絵なのだとしたら、今は美術館に飾られるような極彩色の絵画になっている。
眼球そのものを洗浄液に浸したかのように、一切の濁りが消えうせていた。
視界に入るものすべてが輝いて見える。比喩的な表現ではなく実際に光を放っていた。
噴水から流れ落ちていく水や、観葉植物を揺らしている風、
踏みしめた下草の間からキラキラとした何かが現われ夕映の周りで踊っている。


「う、わ・・あぁ」


吐息が口からこぼれていく。呆然とした表情のまま一切の思考が急停止した。
それは幻想的な光景だった。ファンタジー小説に出てくる精霊のようなものが実際に見えて、そして触れられる。
粉雪よりも頼りない輝きが夕映の肩に落ちてふっと消えていった。


「な・・・なん・・・なんで・・すか・・・これは?」


あまりの驚愕に呼吸が整わず、途切れ途切れの声しか出ない。
体が完全に硬直したまま、目だけを横島の方に向ける。彼はあっさりと言ってきた。


「だからそれが魔力なんだろ。たぶん」


「ま、魔力・・・なんですか?・・・これが?」


「いや、”解析”中は俺も他に気を配る余裕がないから気付かなかったけど、今思うと訳分からんのがちらちら見えてた気がしてさ。
夕映ちゃんの話でそうなんじゃないかと思って・・・」


説明のほとんどが理解できない内容だったが、夕映は横島に聞き返すことなく目前の光景に目を凝らしていた。
ただ漠然と眺めていた時には気が付かなかったが、この視点を得た今では全く印象が異なって見える。
世界とはあまりに生気に満ちたものだったのだ。存在するというだけでこれほどのエネルギーを内包している。

指先で空気をかき混ぜるように動かす。すると微かな風が起こり、煌めきが指に絡みつきながら渦を巻いていく。
天井から降り注いでいくる黄金の雪は、際限などない様子で大地に積り浸透していた。
ブルリ、と体が震える。寒さを感じてではない。ただ圧倒されているだけだ。
知らずにいただけで、自分はこんな世界で生きていたなんて・・・。


「おーい、夕映ちゃん。話聞いてるか?」


「え?」


名前を呼ばれてボンヤリとしていた意識が覚醒した。心配した様子の横島が自分の前で手を振っている。


「大丈夫か?なんかボーっとしてるけど」


「あ、あぁはい、大丈夫です・・・」


若干舌足らずな声でそう言いながら、少しでも正気を保とうと強く頭を振る。
気をしっかり持っていないと再び我を失ってしまいそうだった。
目を瞑り胸に手を当てて、心臓の鼓動に意識を集中する。
闇の中で心拍数を数えながら夕映は心を落ち着けていった。


「もう平気です。ご心配をおかけしました」


「うん、それならいいんだけど。で、どんな感じだ?魔法使えそうか?」


「え?」


「いや、だから魔力が見えてんなら魔法も使いやすくなるんじゃないかなと思ったんだが」


「・・・あ」


言われて初めて気が付いた。
空間内に充満するほど魔力が溢れていて、それを認識できている今なら、たしかに魔法が成功するかもしれない。
どうやらさっきの文珠は夕映に魔法を使わせるための物だったようだ。
なんでこんな真似ができるのかはさっぱり分からないし、
それならそうとあらかじめ教えておいてほしいものだったが、今はそんな愚痴を言っている場合ではないのだろう。
彼の言う通り魔法が使えるかどうか試してみるべきだ。
傍らに置いてあった杖を握りしめる。落ち着けと心の中で念じながら、夕映は意識を集中していった。

目に映る光の粒子を、できる限り取り込めるように大きく深呼吸する。
とはいっても呼吸運動とは違うので、あまり意味はないのかもしれなかったが。

夕映は瞳を大きく見開き、呪文を唱えるために口を開いた。
体内に魔力を循環させるイメージで、一言一言思いを込めていく。

するとこちらの言葉に反応するように、鼻先で踊っていた光がクルリと一回転した。
肺を膨らませ、喉を動かし、口から声が発せられるたび、周囲に存在している魔力が一斉に反応していく。
思わず笑みがこぼれてしまう。己の行動で世界が動いているような妙な高揚感がある。

それはたんなる気のせいというわけでもなかったらしい。夕映は自分の体に僅かな熱が生まれたことを実感した。
肉体の中心、鼓動を打ち続けている心の臓。ひょっとしたらそれよりもさらに奥深くで何かの灯が生まれようとしている。


「火よ灯れ!!」


そして呪文が完成する。
力強い響きを伴った声は、その瞬間意味を持って世界に具現化された。

杖の先に炎が灯っている。
魔法の効果が正しく発揮されて、温かな感触がこちらまで届いていた。
周囲の魔力が自分の中に吸い寄せられ、腕を通り持っている杖の先端に導かれていく。
まるで自分自身が魔力を通す管になっているようだった。


「で、できた・・・せ、成功しました・・・」


蚊の鳴くように小さな声が喉を震わせる。杖を握っている手にもその震えは伝染していた。
嬉しいはずなのに、もっと喜んでいいはずなのに、心が現実についていかない。


「おー、おめっとさん」


向かいの席からお気楽な言葉が聞こえてくる。軽い拍手と共に横島が夕映を祝福していた。


「あ、ありがとうございます」


惰性のように返礼をしながら、目だけは自分の初めての魔法に釘付けになっている。
もともとが初心者向けの呪文だ。
炎自体もたいした大きさではないし、こんなものコンビニに行って百円ライターを購入し、新聞紙でも丸めて火を付ければ同じような事が出来てしまう。
だがたとえ結果が同じだとしても、その過程は全く異なっている。
ライターに入っている燃料の代わりは魔力であり、可燃性の物質である新聞紙も必要としない。

実にクリーンなエネルギーだ。環境にも配慮し地球にやさしい。限りある資源は大切にしなければならないのだ。
夕映は先日のどか達と一緒に駅前でエコバッグを購入していた。
もともとバッグの表面に描かれていたキャラクターが気に入ったから買ったものだったが、なかなか具合がいい。
今ではスーパーに買い物に行くとき、それを愛用している。
自分ができる心がけなどそんな小さなものでしかないが、ちりも積もれば何とやらともいう。
一人一人ができることをよく考えて行動すれば、それがいずれは大きな流れになって・・・。


(って、いやいやいや、違うです。そういう事じゃないです。環境問題は重要ですけど、今は考えてる場合じゃないです)


いつの間にか変な方向に行ってしまった思考を慌てて元に戻す。
あれほど苦労していた魔法があっさりと成功したせいで、どうやら軽く混乱していたようだ。


(成功・・・したですよね・・・魔法・・・)


瞳を赤く照らしている火を見ながら、何度も確認する。
今もまだ杖は燃え続けている。自分の魔力を消費し煌々とした明かりを灯し続けていた。
あまり実感がわかないが難題をクリアする時など、そんなものなのかもしれない。
何も言わずに呆けている夕映を横島が不思議そうに見ていた。
彼と視線が交差する。二人はよく分からないまま見つめあって、やがて頬に嬉しそうな笑みを浮かべた夕映がポツリと呟いた。


「私・・・やったです」






◇◆◇






「なぁ、夕映ちゃん。ちょっと聞いていいか?」


初めての成功に気をよくして魔法を使う感覚を忘れないため、反復練習を繰り返していた夕映に横島が声を掛けてきた。
さっきまで眠そうに欠伸をしながらこちらの様子を見ていたのだが、いい加減退屈になったのかもしれない。
彼の言葉に短く頷きながら向かいの席に腰を下ろす。
高揚していた気分のまま魔法を使い続けたせいか、少しだけ体がだるい気がする。
考えてみれば失敗も含めて半日も訓練を続けていたのだ。そろそろ限界なのかもしれない。


「なんですか?」


汗を拭いながら聞き返す。すると横島が肘をついていた姿勢からムクリと起き上がって尋ねてきた。


「夕映ちゃんはどうして一人で練習してるんだ?どうせだったらネギ達と一緒にやればいいんじゃないか?」


いまさら・・・と言えばいまさらの質問だった。だが彼にとってみれば当然の疑問だとも言える。
おそらく前々から不思議に思っていたはずだ。なぜ夕映がネギ達と離れて魔法の修業をしているのかと。
この場所を使うようになってから夕映は一度もネギ達と顔を合わせていない。
理由は簡単だ。彼らと会わないように、わざと修業の時間をずらしているからだ。
エヴァの別荘は元いた場所とは位相のずれた空間に設置された、いわば別世界のようなもので、通常の空間とは時間の流れすら異なっている。
外の世界における一時間がこちら側では丸一日分に相当する。
だからちょっと工夫すれば彼らと会わないようにすることも簡単な話だった。


「それは・・・ですね・・えっと・・・」


モゴモゴと要領の得ない言葉を口の中で転がしながら顔を俯ける。
そんなこちらの態度を訝しく思ったのか横島が僅かに首を傾げた。


「なんか深い理由でもあんのか?」


「別にそういうわけでもないんですが・・・」


横島と目を合わせる事ができずにテーブルの上に視線を落とす。
言葉通り本当に大した理由などないし、少々後ろめたいというだけの話なのだが、なんとなく言い辛い。
それでもずっと黙っているわけにはいかないので、夕映は観念して口を開いた。


「実はまだネギ先生に言ってないんです。マスター・・・エヴァンジェリンさんに魔法を習ってるって」


「そうなの?」


「はい」


横島からは見えない位置で組み合わせた両手の指をせわしなく動かす。
まるで叱られている子供のようだと頭の片隅で考えていた。


「何で言わんの?」


「いえ、その、あれだけ危険だかって魔法に関わるのを反対されたのに、
ネギ先生を飛び越えて師匠であるエヴァンジェリンさんに修業を付けてもらっているのは・・・どうなのかなと思いまして」


「あー要するにそれが気まずいんか・・・」


「・・・です」


もともとはネギに魔法を習うつもりだったから夕映は何度も彼にその事をお願いしていた。
だが京都で大変な目にあったらしいネギは自分の生徒が危険にさらされるのを恐れているようで、頑なな態度を崩さなかった。
当時はそれを不満に思っていた夕映だったが、自身も命の危機に直面した経験から今では彼の気持ちが痛いほど理解できてしまっている。
魔法を習っているのはそれなりの考えがあっての事だったが、ネギの気持ちを無視してしまっている事実は変わらない。
だからまともに顔を合わせられないのだ。


「気にしすぎなんじゃないか?あいつもそんな事を根に持つタイプじゃないだろ」


「そう・・・ですね。私もそう思うですけど、こちらの気持ちの問題と言いますか、うまいこと整理できないと言いますか」


「うーん、だったら俺が一緒についてってやろうか?ちょっと会って話せば、元通りになるだろ」


「ま、まぁ別に喧嘩しているわけではないですから元通りも何もない気がしますが・・・そうですね、お願いできますか?」


「おっけーおっけー。そんじゃ、善は急げって言うし、あいつが来るまで待ってるか。どうせ今日も来るだろうし」


「え?あ、いえ、ひょっとしたら今日は無理かもしれないです」


「なんで?」


「木乃香さんからメールをもらったんですが、ネギ先生と明日菜さんが二人でお出かけしているらしいです。
もしこっちに来るのが遅いようなら時間が合わないでしょうし」


今朝ここに来る前に届いたメールの内容を思い出す。
何でも明日菜が思い人である高畑教諭をデートに誘うため、本番に向けてネギを相手に模擬練習を行っているらしい。
それがたとえ真似事だったとしても経験しているのとそうでないのとでは大いに違ってくるはずだ。
とりあえずやるだけやってみるかといった話らしいので、本当のデートと言うわけではないのだが・・・。


「な・・・なん・・だと・・?今なんて言ったんだ夕映ちゃん!?」


なぜか夕映の話を聞いていた横島が、かなり動揺した様子でこちらを食い入るように見つめてくる。
何か驚愕の真実を知ってしまったとでもいうように、わなわなと唇を震わせていた。



結論から言おう。自分は相当迂闊だったらしい。もしくは、横島という人間を甘く見ていたのが原因か。
いずれにせよ、ここでほんの少しでも慎重になっていれば、間違いなくのちの悲劇は避けられただろう。
それを・・・・・夕映は三十秒後に知る事になる。



「え?ですから明日菜さんとネギ先生がデート・・・」


の練習を、と横島に伝えようとしたその瞬間、圧倒的な嫉妬力が彼を中心に吹き荒れた。


「デェェェァトォオオオゥだとおおおおおおおおお!?やっぱりできとったんかあの二人!!!」


そんな事を叫びながら固く握りしめた拳をテーブルに振りおろし、横島が勢いよく立ち上がる。
ガチャンと食器が音を立てて、危うく地面に落っこちてしまいそうになった。
反射的に手を動かしそれらを確保する。何とか事なきを得たようだ。
安堵した夕映が、いきなり何をするんだと抗議しようとすると、
横島は炭火のような暗い情念を燃やしつつ低いうなり声をあげていた。


「うぐぐぐぐぐ。今までガキだと思って大目に見てやっていたというのに、十歳にして彼女持ちだと!?しかもあんな可愛い子と!!
お、俺が十歳の時なんて、スカートめくりやった女子に吊し上げ食らった思い出しかねーぞ!!!」


彼を取り巻いている空間が尋常でない緊迫感をはらんでいる。まるで導火線に火が付いた爆弾を火薬庫に放り投げたかのようだった。
それはもはや破裂寸前までいっていたようだ。くわっと目を見開いた横島が咆哮を上げる。


「ゆゆゆ許さぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!こうなったら最・終・手・段だ!!エミさんも認めた特大の呪いを!!!」


横島がもの凄まじく物騒な台詞を吐き出しつつ、血の涙を流している。
呆然とその様子を見ていた夕映は、慌てて彼を問いただした。


「ちょ、いきなり何を言ってるですか!?呪いってなんですか!!!」


勢いのあまりつんのめりそうになってしまったが、どうにか体を支える。
横島は瞳に危険な色を宿したまま夕映を振り返ると、ニヤリと笑いながら口を開いた。


「安心しろ夕映ちゃん。なにも殺すつもりはない。ただ・・・死ぬような目にはあってもらうがなぁぁぁ!!!」


「きっぱりと安心できねーです!!!なにをするつもりですか!!!」


「大丈夫だ。せいぜい十年ほどED(勃○不全)になってもらうくらいだからな、日常生活に支障はない」


「ぼ!?って、何が大丈夫なんですかぁぁぁ!!!お願いですからやめてください!!!」


「ふははははははは!!!やりたい盛りの思春期に一人遊びも出来ん苦しみを味わうとよいわぁぁぁぁぁ!!!!!!」


「ああああああ、やっぱり滅茶苦茶ですこの人!!!」


とうとう懐から藁人形を取り出しつつ近くの木に打ち付けようとした横島を止めるべく、
夕映は何故かすぐそばに置いてあった強s・・・金属バットを彼目掛けてフルスイングした。
中身が詰まっていないのではないかというほど軽い音がする。


気が付くと夕映は血まみれのバットを抱えながらその場に佇んでいた。
足元に大の字になったまま動かない横島の姿がある。
色彩を失った白黒の世界で、どこか遠くからひぐらしのなく声が聞こえた気がした。


カランと音を立てて、力を失った右手からバットが滑り落ちる。

全てが終わってしまったあと・・・空っぽの頭にある考えが浮かんでいた。


ああ、やっぱりバッティングセンターに行っておけばよかったと・・・。






◇◆◇





「おいちちちちち。何もあそこまで殴らんでもいいんじゃないか夕映ちゃん」


「ぴんぴんしてる癖に何言ってるですか・・・あれだけやっても傷一つ付かないなんて」


慣れない武器(スポーツ用品)を振り回したせいか、掌からじんじんとした鈍い痛みが伝わってくる。
軽い殺人現場のような有様から、僅か二分後に横島は復活を果たしていた。
エヴァと彼のやり取りを散々見ていたのでこの結果は驚くようなものではないのだが、
それでも本当に人間なのかという疑問が頭を離れない。
まぁ、考えるだけ無駄なのだろうが。


「とにかく、もう一度言いますがあくまで練習なんです。本当のデートではないですから呪いとかは絶対にしないでください」


瞳を物騒に光らせて横島を睨み付ける。
今ここで煩いくらいに釘を刺しておかないと、彼は先ほど言った呪いをほんとうに実行しかねない。
ネギ少年の青春は本人も知らないところで夕映の手にゆだねられていた。


「わ、わかってるって。だからそのバットしまってくれ」


ゴリゴリと先端を地面にこすり付けながら威嚇する夕映に、横島が怯えた視線を向けている。
どうやら本気で反省したようなので、夕映は彼の懇願に従ってバットをケースの中にしまった。


「やっぱり最近性格変わってきたんと違うか?」


「誰のせいですか!!」


断言できるが、少なくとも自分のせいだけではないはずだ。
もしこの先ストレスで胃の粘膜が傷つきでもしたら、真っ先に慰謝料を請求するつもりだった。
ギヌロと彼を睨みつけると、横島がすぐさま目を逸らす。
誤魔化すような愛想笑いを浮かべながら頬を掻いていた。


「で、でもあれやな。明日菜ちゃんも水臭いよなぁ。そういう事情ならあんなガキに頼らんでもここに適任者がいるのにさ」


そんな台詞が耳に入って、夕映は眉をしかめながら嘆息した。あからさまな話題転換だが仕方ないので乗ってやることにする。
いつまでも怒ったままでいると自分のキャラを忘れてしまいそうだったからだ。


「何が適任者ですか。年齢差を考慮に入れたとしても、あなたよりネギ先生の方がデートの相手に相応しいはずです」


「む、見くびってもらっちゃ困るぞ夕映ちゃん。俺があんなガキに負けるはずないだろ」


僅かに気分を害した様子で横島が抗議してくる。
あれだけ非常識な言動を見せておいて、今さらどこにどんな自信があるのか知らないが鼻息を荒くしていた。


「それじゃ聞きますけど、例えば明日菜さんとデートするとして、どんなエスコートをするつもりですか?」


疑わしい視線を向けながら夕映が尋ねると、
その言葉を挑発と受け取ったのか横島はニヒルな笑みを張り付けて髪をかき上げた。
正直さっぱり似合っていないのだが・・・。


「ふっ、そうか。どうしても聞きたいか。そういう事なら教えてあげよう。ワイのとっておきのデートプランを!!」


「い、いえ、べつにそこまで聞きたいわけじゃないですけど・・・」


大げさな態度で目を輝かせ始めた横島に、夕映は若干腰が引けた。
うわぁ、これ面倒くさいやつだと心の中で後悔する。
しかしそんなこちらの思いは伝わらなかったようだ。横島が懐からメモ帳を取りだし咳払いをする。
そして彼曰く最高のデート計画とやらが開陳された。


「つっても初めてのデートだからな。遠出するのは避けて駅前で映画でも見るところから始めるべきだろ」


「たしかに緊張させないという意味でも、お互い見知った場所を選ぶのは都合が良いのかもしれませんが」


「だろ?あとここで重要になるのは見る映画のジャンルやな。相手に興味がないのを選ぶと気まずい思いをする事になりかねん」


「ふむふむ」


「明日菜ちゃんの場合は濃厚なラブシーンがありそうな恋愛ものと、頭使いそうなサスペンス系は除外した方がいいな。
何も考えんでも見れる感じのアクションかコメディーがいいと思う」


「ふむぅなるほど」


「んでもって映画を見た後は昼飯だな。
俺と明日菜ちゃんは学生同士だし普通にファミレスとかでもいいが、あーゆーとこは子供連れの団体客が多いからな。
出来れば避けるべきだろう。和美ちゃん情報だが駅前にうまいパスタを出す店があるらしい。
むかつくカップル共の巣窟らしいから雰囲気的にもあってるはずだ」


「色々と考えてるですね。ちょっとびっくりですが」


「ふっふっふ。まだまだ驚くのは早いぞ夕映ちゃん。飯の後は近場の公園を一緒に歩くかウインドウショッピングだな。
そこでデート記念に何かプレゼントでも選んでやれば好感度も稼げて一石二鳥だ!!」


「へぇ」


「続いて三時のおやつ!!これまた和美ちゃんから聞いた話だが、何やらパンケーキがうまい店があるんだそうだ。
ぶっちゃけた話うまいといってもホットケーキなんぞたかが知れとる気がするが、女子供には受けがいいだろう!!」


「ちょっと言い方が引っ掛かりますが、まぁいいでしょう。それで?」


「そのあとはカラオケかボーリングか・・・まぁ明日菜ちゃんは体動かすのが好きそうだし、ボーリングかな」


「あの、それならバッティングセンターなどは・・・」


「ん?なんか言ったか夕映ちゃん?」


「いえ、なにも」


こちらのさり気ない提案は横島に届かなかったらしい。その事をちょっとだけ残念に思いながら、小さく手を振って続きを促す。
彼は僅かに戸惑った様子を見せながらそれでも素直に話を再開した。
正直に言えば、何かアホな発言があったら即座に止めるべく身構えていた夕映だったが、今では横島の事を少しだけ見直していた。
デートコース自体は特に変わったところなどない無難なもので、ありきたりと言ってしまえばそれまでなのだが、
彼はちゃんと相手の・・・明日菜の事を考えて計画を立てている。
相手の性格や好みを考慮に入れてエスコートするつもりなのだ。その一点だけ見ても評価に値すると夕映は思っていた。
感心しながら耳を傾けていると、しだいに調子がのってきたのか横島の声が大きくなってきた。
熱く拳を握りしめて力説してくる。


「よし!それじゃ最後にデートの締め、ちょっと豪華な晩飯だ!!
ここで失敗したら今までの全てが水の泡になっちまうからな、気合入れてかからんと!!」


「おぉ」


彼の気合が伝染したのか聞いているだけの夕映にも熱い何かが込み上げてくる。
横島は機敏な動作で格好いいポーズを取りながら断言した。







「デートにおける最終段階!!その攻略に必須なのはズバリ夜景の綺麗なレストランや!!もちろんホテル付き!!
飯食った後にさりげなくルームキーを出して口説き文句の一つも言うわけだ!!
実はここに部屋をとってるんだ。よかったら一発やっていかないか、と!!!」





「アウトです!!!!!」







突き出した親指で首を掻き切るポーズをとりながら最高の笑顔で切って捨てる。
もし持っていたならレッドカードを力の限り横島目掛けてぶん投げていただろう。
するとこちらのジャッジが不満だったのか横島が驚愕の表情で振り返ってきた。


「な、なんだと!?どういうつもりや夕映ちゃん!!」


「どういうつもりも何も、ああもう、真面目に聞いて損したです!!なんだったですかこの無駄な時間は!!」


横島の問いには答えず机に突っ伏したまま頭を抱える。
感心していた分、落差によっていろいろと心にダメージを負ってしまった。
自分が言い出した話であったが、聞くんじゃなかったと夕映が項垂れていると、横島が拗ねた口調で抗議してきた。


「ちょっとまて、納得いかんぞ!!俺のデートプランは完璧だったはずや!!」


「ううぅ、途中まではそうだったかもしれませんが最後で全部台無しです。何なんですかあの口説き文句は。
あれでおちる女性がいる訳ないじゃないですか」


「な、なぬ!?」


「いえ、何でびっくりしてるのか、こっちの方が驚きなんですが・・・あと明日菜さんが相手だってこと忘れてましたよね」


よほど自信を持っていたのか動揺して口を大きく開いている横島を見ながら嘆息する。
まったく・・・中学生をホテルに連れ込んで何をするつもりだというのか。
おそらく調子に乗って言い出した事で本心ではないのだろうが、どちらにしても最低な発言であることは確かだ。

夕映は机の表面に頬を擦りつけて小さく喉を鳴らした。
まだ起き上がるまでには精神的な疲労が回復できていない。
疲れから、いっそこのまま意識を手放してしまいたくなったが何とか抵抗する。
脱力した姿勢から顔だけを傾けて夕映は言った。


「まぁ、よくよく考えたらまともに恋人もいた事がなさそうな人に、完璧なデートを期待したこちらも悪いのかもしれませんが」


自分も彼氏などできた事がないのはこの際おいておくとして、
今までの言動から察するに、横島も彼女いない歴と実年齢が符合するタイプのはずだ。
やはり何事も初めからうまくいくことの方が少ないのだろう。男女交際もしかりだ。
まぁ、彼の場合はそんな次元の話ではないのかもしれないが・・・。
瞳を半分だけ閉じたまま、ぶつぶつと頭の中で考えていると横島が弱々しく反論してきた。


「い、いや、ワイにも彼女くらいいた事あるぞ」


気まずそうにしながらそんな事を言ってくる。


「別に私相手に見栄を張る必要はないですが」


「み、見栄とちゃうわい。俺にもちゃんと・・・」


「脳内彼女が?」


「な、なんだ脳内彼女って!?ちゃんと実在しとったわ!!」


「二次元にですか?」


「三次元じゃああああああああ!!!」


最初は控えめに抗議していた横島が、焦れた様子で叫び声をあげている。
興奮しながらいちいち体全体でこちらの言葉に反応していた。


「はぁはぁ、ちょっと前に実体を持った生身の彼女がちゃんといたっちゅーねん」


荒く息をつきながらほんの少し涙目になっている。
最初はただこちらにいい恰好をしようとしているだけなのかとも思えたが、
彼が自分相手にここまで虚勢を張る意味などおそらくないはずだ。理解が追い付くと同時に瞳をパチクリとさせる。
意外な事実が脳に行きわたり、夕映は勢いのまま体を起こした。


「え・・・?本当にいたんですか、彼女?」


「だ、だからいたと言っとるだろーが」


眉をへの字に傾けながら夕映を見返してくる。基本的に横島は嘘がうまくない。
いや正確に言えば嘘が発覚した時の言い訳がものすごく下手だ。
こちらが強く詰め寄ればたいてい根負けして謝ってくるので、
今回のように動揺せずに真っ直ぐ視線が合うという事は・・・本当に付き合っている女性がいたのかもしれない。
俄かには信じがたい話ではあるが・・・。
何となく腑に落ちない心境のまま横島を見ていた夕映だったが、ふとある事に気が付いた。


「あれ?でも、いたってことはその、過去形・・なんですね」


「ま、まぁそれは・・・」


「あの、こういった事を私が言うのもなんですが、ふられたからといってあまり落ち込まない方が・・・」


「何で俺がふられたって前提で話が進んどるんだ?」


「え?まさか身の程知らずにも相手をふったと?」


「・・・夕映ちゃん。ひょっとしてなんだが、俺のこと嫌いだろ」


「ごめんなさい。さっきの仕返しに調子に乗ったです」


若干の計算と共にぺこりと頭を下げつつ上目づかいで相手を見る。
最近気が付いたことなのだが、横島はこちらかが下手に出るとあまり強く出られないようなのだ。
もっとも、からかい過ぎたという自覚はあるので本心ではあるのだが。
夕映が謝罪すると、横島はかぶりを振りながら別にいいと苦笑していた。
そのまま体を椅子の背もたれに預けて空を見上げる。


「べつにふったとかふられたとかじゃないんだ。ただ、その、なんちゅーか・・・」


そう言いながら答え難い様子で頬を掻いている。ボンヤリと遠くを見て言葉を探しているようだった。
何か話しかけるべきだろうかという考えが頭をよぎる。
話の流れで偶発的に発覚した事実だったが、ここで会話を終了させるにはあまりにも惜しい話題だった。
一般的な乙女の例にもれず、夕映自身もこういった他人の色恋沙汰に興味がないというわけでもない。
それにこれは予想もしていなかった横島忠夫の恋バナだ。いやが上にも好奇心を刺激される。
こちらから無理やり聞き出す気は毛頭ないが、相槌を打ってむこうが話しやすくなるように会話を誘導するくらいなら許される気がする。
そんな考えに押されて夕映は口を開いた。


「その・・・ふったわけでも、ふられたわけでもないなら自然消滅というやつでしょうか」


言ってしまった後で少し突っ込み過ぎたかと後悔したが、気になるものは仕方がない。
もし気分を害しているようなら、すぐに謝ろうと夕映が横島を観察していると、
彼は特に怒っている様子もなく、ただ何とも言えない曖昧な表情を浮かべていた。


「んーと、まぁそういうのでもないんだけどな。なんというか、あれも一応別れたって事になるんかな・・・」


・・・に別れとも言うしなと、無理のある笑顔のまま、かすれた声で呟いている。
何を言ったのかよく聞き取れず、もう一度尋ねるべきかと夕映が迷っていると、
その間に横島は椅子から立ち上がり体をほぐすようにググッと背伸びをした。


「うーん。もうそろそろ茶々丸ちゃんが飯の支度するころだな。食ってばかりってのもなんだし、何か手伝ってくるか」


「え?あ、それなら私も」


「いいっていいって、夕映ちゃんは疲れてるだろうし、ここは俺がやっておくからさ」


「で、でもその」


夕映が口ごもっているうちに、背中越しに手を振りつつ横島が去っていく。
さーて今日の晩飯は何かなぁと軽い口調で言いながら、廊下の向こうに消えてしまった。
その場に一人残された夕映は、上げかけた手を所在なさげにぶらつかせたまま、深く椅子に座りなおした。
ずるずると体を滑らせ、三つ編みに縛った髪を弄ぶ。何かを失敗した気分だった。
地雷を踏んだというか、他人が触れてはならない部分に触れてしまったというか。
そんな後悔が心を重くさせている。
横島が見た事もないような表情をしていたからなのかもしれない
苦い思い出を飲み込んでいるような・・・でもそれをとても大切に思っているような・・・そんな複雑な顔で空を仰いでいた。
頭の中で先程の横島の姿が浮かんでくる。夕映は彼と同じようにぼんやり遠くを眺めてみた。
いつの間にか日が陰りを見せている。眩しいくらいに目をやく西日が海の向こうに沈もうとしていた。


(・・・綺麗ですね)


口には出さずに囁く。ここはいわばエヴァが造った偽物の世界だ。空も海も太陽も本物ではない。
だが、それが分かっていても、夕日の赤と夜の黒が交じり合うこの瞬間はとても美しい。
呆けたまま薄闇に覆われていく景色に目を細める。
夕映は段々と弱くなっていく日の光を最後まで見届けてから、その場をあとにした。





◇◆◇





ぺたぺたと音を立てて石造りの床を歩いていく。
辺りを見回しながら横島は茶々丸がいるであろう厨房に向かっていた。
足の裏に感じるひんやりとした冷たさが心地いい。
日中は石畳を裸足で歩くことなどできないが、日が落ちた今はサンダルなど必要なかった。
鼻歌を歌いながら目的地へと続く階段を下りていく。
妙に高い天井と似たような扉が延々と並んでいる建物の内部はかなり道に迷いやすい。
ここに来てからまだ日が浅い事もあって、何も考えずに歩いていると、どこにたどり着くか分かったものではないだろう。
もっとも、初日に案内されたトイレと食堂の位置だけは覚えているのだが。


(ほんと無駄に広いよな。いったい俺のアパート何戸分になるんだか)


空しい思いを噛みしめつつ目印にしていた赤色の絨毯が敷かれた道を歩いていく。
ゆっくりとした足取りで進んでいると、やがて目的地である食堂の前にたどり着いた。
観音開きの扉を開けて中に入る。まず目に入ってくるのは部屋の奥まで続いているほどの長テーブルだ。
厚手のテーブルクロスの上に品のいい調度品と季節の花が飾られている。
来客用を含めたとしても明らかに大げさな数の椅子が並び、数えるのも億劫な程だった。
部屋は全体的に薄暗く、照明は燭台に刺さっているろうそくの火に頼っている。
主の趣味かあるいは生態的な意味でそうなのか、どこかあやしい雰囲気を持っている場所だった。

食堂とつながっている扉から調理された食材の芳香が漂ってくる。どうやらタイミング的には当たっていたらしい。
夕映相手に咄嗟に出てきた言葉ではあったが、料理が出来上がるまでの間、茶々丸を手伝うというのもいいだろう。
食器を並べるくらいはできるしなと、そんな事を考えながら厨房に向かって歩き出した横島の背後から誰かが声を掛けてきた。


「おい」


短く呼ばれる。声の質にあっているとはいえない尊大な物言いは、この別荘にあってただ一人しかいない。
背中を向けたままでも、誰かを言い当てる事が容易にできる。


「エヴァちゃんか?」


振り返りつつ名前を呼ぶ。そこには予想通りの人物が立っていた。
昼間見た時は外見年齢的にあまり嬉しいとは言えない水着姿の彼女だったが、今は胸が開いた黒色のドレスを纏っている。
白い肌によく映える高級感のある様相で、やや険のある目付きをこちらに向けていた。
正直子供のおしゃれにしては露出度が高すぎる気がする。面と向かって言えば、恐怖のお仕置きが待っているので黙っていたが。
横島がそんな失礼な事を考えながら口を開いた。


「なんか用?」


「いや、書斎から帰るついでに寄っただけだ。今夜はテラスで食事をすると伝えにな。お前はこれから食事か?」


「ああ。たまには茶々丸ちゃんの手伝いでもしようと思ってさ。いろいろ世話になってるし」


「ふん。いい心がけだと言いたい所だが、やめておけ。邪魔になるだけだ」


エヴァが手に持っていた本を軽く振りながら忠告してきた。
たしかに言われてみれば料理している茶々丸の手伝いなど難易度が高いのかもしれない。
自分ができることなど芋の皮むきがせいぜいだし彼女の事だ、その程度の仕込みはとうに終わらせているだろう。
納得して頷き返す。


「だな。おとなしく待ってるか」


「そうしろ。・・・ん?そういえば綾瀬夕映は一緒じゃないのか?」


エヴァが何かに気付いた様子で尋ねてくる。


「夕映ちゃんならまだ上にいるんじゃないかな。なんか疲れてたみたいだし」


「ふ、おおかた魔道書片手に奮闘しているのだろうな。
一週間かそこらで魔法を使えるようになる訳がないし、しばらくは私も楽できそうだ」


横島の言葉にエヴァが皮肉を交えた笑みを投げかけた。
昼間夕映からそんな話を聞いていたが、それならもう少し優しく教えてあげればいいのにと思わなくもない。
まぁ、やっぱり口には出さないが。


「どうかな。ひょっとしたらもう魔法使えるようになってるかもしれないぞ」


文珠による補正ありきとはいえ、夕映は魔法を成功させている。
あれはたんに周囲に存在する自然エネルギーを使用者のイメージによって視覚化しているに過ぎないので、
夕映自身は既に魔力を扱う感覚を掴んでいるのではないだろうか。


「随分自信ありげに言うじゃないか・・・貴様何かしたんじゃあるまいな」


エヴァが訝しげに覗き込んでくる。どうもこちらの態度をあやしく思ったらしい。


「い、いや別に何もしとらんけどさ」


答えながらさり気なく目を逸らして横島は言った。焦りから額に汗が滲んできたが無視する事にする。
身長差のせいで顎のあたりに突き刺さってくる無言の圧力を出来る限り避けながら横島は話題転換を試みた。


「そ、そういえばエヴァちゃんに聞きたいことがあったんだけど」


口に出しながら必死になって言葉を探す。
よくよく考えてみれば別に誤魔化す必要もなかったのかもしれないが、それも今さらだ。
心の中にある棚を引っ掻き回して、エヴァが興味を引きそうな話題を選んでいたその時、
ふと本当に気になっていた事があったのを思い出して横島はエヴァに質問した。


「なぁ、エヴァちゃんは何で夕映ちゃんを弟子にしたんだ?」


「なんだ突然」


「いや、確かネギの時は条件付けたんだろ?でも夕映ちゃんの時はそういうのなかったみたいだし、なんか特別な理由でもあるのかと思ってさ」


ネギのクラスにいる佐々木まき絵から聞いた話なのだが、ネギがエヴァに弟子入りする際には何か試験のようなものがあったらしい。
なんでも茶々丸と壮絶な殴り合いをしたのだとか。
魔法の修業を受けるための試験なのに何で殴りあう必要があるのかいまいち理解できないが、それが異世界の常識というやつなのかもしれない。
横島がそんな風に考えていると、彼女は呆れた視線をこちらに向けつつ気の抜けた声で返答した。


「お前がそれを言うのか?そもそも綾瀬夕映を巻き込んだのはお前の指揮官だろうが」


「へ?」


「お前に綾瀬夕映を付けたのはおそらく監視の意味合いもあるのだろうがな。
おかげで私は面倒事から解放されたが、その代りに弟子がまた一人増えたというわけだ」


「えっと、ごめん。つまりどういう事なんだ?」


言っている意味が分からず困惑している横島に、エヴァは若干不機嫌そうにしながら説明してくれた。
もともと自分の監視役に選ばれていたのはエヴァだったのだが、それに横槍を入れて夕映を推薦したのがジークらしい。
秘密を知っている人間を協力者と言う名目で監視しておきたかった・・・というのが真相なようだ。
それでも本来無関係の夕映に手伝わせる道理もないものだが、
なぜか当の本人が拒否しなかったという事情もあって、今の状態に落ち着いたようだった。
ただしっかりと見返りは要求されたらしいが・・・。


「協力の条件は綾瀬夕映に魔法を教える事。とはいっても貴様らの事情を知っている魔法関係者は私とじじいを除けばタカミチくらいのものだ。
じじいが直弟子を取れば他の教師連中が煩いし、タカミチは魔法自体が使えん。それに麻帆良を離れている事も多いしな。結局私がやるしかないわけだ」


やれやれと首を左右に振ってエヴァが小さく嘆息した。それを眺めつつ横島は何となく釈然としない心地で眉根を寄せた。


「うーん、話は分かったけど。でもそれって断ろうと思えば断れたんじゃないか?
例えば俺らの事は何も話さずに、夕映ちゃんをただの魔法を習いたがってる生徒として他の先生に任せちまえば・・・」


詳しいことは知らないが、この麻帆良という土地には、それなりに大勢の魔法使いがいるようなのだ。
中には夕映と同じ年頃の学生もいるらしい。
確かに自分達の事や夕映が関わった事件について説明するわけにはいかないのだろうが、それでもこちらには学園長が味方に付いている。
いくらでもやりようはある気がするのだが・・・。
横島がそう言うと、エヴァは鼻を鳴らしながらそっけなく答えた。


「ふん。私が誰を弟子にしようがお前には関係ないだろうに」


「いや、まぁそう言われるとそうだけどさ」


頭を掻きつつ近くにあった椅子に座る。何となく気まずくなって横島は目を伏せた。
もともとどうしても聞きださなければならない類の話でもなかったし、拒否されればそれだけで終わってしまう程度の話題だ。
言葉に詰まって黙りこんでいると、そっぽを向いたままのエヴァが独り言のように小さく呟いた。


「なにも特別な理由があったわけじゃない。正直、綾瀬夕映にはたいして興味もないしな」


「なんちゅーか、こう・・・・・随分とはっきり言うんだな」


「事実なのだから仕方ないだろう。奴は父親が英雄というわけでも、生まれつき強大な魔力容量を持っているわけでもない。
専門的な訓練を受けている戦闘者でもなければ、魔法無効化能力といった特殊スキルがあるわけでもない。
吸血鬼や妖怪のハーフでもないし、氏素性はごく普通の人間だろう。一般人に過ぎないただの素人にどんな魅力があるというんだ?」


「いや、そんなの真顔で聞かれても困るんだが・・・今の話聞いてたら夕映ちゃん泣いちまうんじゃねーかな」


「ふっ、そんな事は知らんな」


エヴァがサディスティックな笑みを浮かべている。もう少し優しくしてやればいいのにと横島は夕映に同情した。
ここを出たらなにか奢ってやろうと考えつつ口を開く。


「でもさ、だったら余計に他の奴に任せちまえばよかったじゃんか。何で断らなかったんだ?」


口では色々と文句を言いながらもエヴァは意外と面倒見がいい所がある。
一度弟子にしたからには最後まで責任を持つつもりなのだろう。だからこそ気になってしまうのだ。
興味がないと断言した夕映を何で弟子にしたのかと。
横島がジッと返事を待っていると、やがて彼女は淡々とした口調で話し始めた。


「別に・・・ただ危なっかしくて見ていられなかっただけだ」


「危なっかしいって・・・夕映ちゃんが?」


「ああ。弟子にしてくれと言ってきたときのあいつの目がな、馬鹿みたいに真剣だった。
あれだけの事があった後だ。思い知ったんだろうさ。
のほほんとした日常なんてものには、何の保証もありはしないんだとな。
要するに自分の無力をこれ以上ないくらいに味わって危機感を持ったんだ。
その点、魔法は実にわかりやすい力の象徴だからな、小学校も卒業していないガキが生身で兵器のような破壊を生み出したりする」


そう言いながらこちらを見つめる彼女の眼差しは大人びていた。一つの心理を語る学者のように落ち着いた雰囲気を漂わせている。
愛らしい姿をしているせいでいまいち忘れがちになっているのだが、彼女は何百年と生き続けている吸血鬼なのだ。
外見に騙されていては本質を見失う。


「ただそんな理由で力を求めるような輩は、大抵周りが見えずに暴走するものだ。
己が振るう力の危険性を・・・一歩間違えば他人の命をあっさり踏みにじってしまえるものだと理解しないで禁忌に手を出したりもする。
誰かが手綱を引いてやらんとな」


そのままエヴァは億劫そうにしながら口を噤んだ。喋りすぎたとでも言いたげに渋面を作っている。
そんな彼女の様子に横島は小さく笑みを浮かべた。
つまりエヴァは夕映を心配しているのだろう。少なくとも他人任せにしないで自分で面倒を見ようと思うくらいには。
何となく微笑ましい気分になって吐息交じりに呟いた。


「エヴァちゃん・・・ツンデレやったんか」


「誰がツンデレか!!」


即座にエヴァが顔を赤くさせながらツッコミを入れた。反射的に何か物を掴んで投げつけようとしている。
しかし手に持っているのが自分が書斎から持ち出した書物だと気付いたらしく、憮然とした表情を浮かべた。
小さく毒ずくと横島から顔を逸らす。落ち着かない様子で苦々しげに唇を歪めて話を切り上げようとした。


「ふ、ふん。私はもう行くぞ」


そう言い残し不機嫌そうに足音を立ててエヴァが去っていく。ドアを背にしていたからかあっという間に姿が見えなくなった。
咄嗟に呼び止めようと手を伸ばした姿勢のまま小さく嘆息する。
別にからかうつもりもなかったのだが、どうやら怒らせてしまったらしい。少し迂闊だったと口が滑ってしまった事を後悔した。
慌てていたせいでさっきは別の事を聞いたのだが、本題は他にあったのを思い出したのだ。


(うーん、こりゃ後で謝った方がいいかもしれん)


協力を断られている手前なかなか言い出せなかったが、エヴァには超の事を相談するつもりでいた。
夕映に付き合ってこの別荘にいるのもそれが理由だ。
もっとも夕映に言わせれば目を離している隙に自分が何をするのか気が気でないので、
一緒に引っ張り込んだらしいのだが・・・・・まぁそれは置いておくとして。

実を言えば首尾よく超のクラスに入り込んだはいいものの、いまだに彼女とまともな話が出来ていなかった。
作業中は何かと周りに人がいるし、聞かなければならない話の性質上、あまり人目には付きたくない。
そうなってくると超本人を呼び出さなければならないのだが、
女子中学生がひしめく教室内で男の自分が面と向かって彼女を呼び出せばろくな展開になりそうもなかった。


(やっぱり夕映ちゃんに頼むしかないか)


夕映から超を呼び出してもらえば、スムーズに話を聞くことができるだろう。
本当は先日の悪魔の件もある。出来ればあまり彼女を巻き込みたくはなかったのだが。


(そうも言ってられないかもな・・・)


学園祭当日までにはまだいくらか日にちがあったが、それでも余裕があるわけではない。
学園祭中に超が何かを計画していて、それにあの少年が関わっているのなら早めに対処しておくべきだった。
それに超自身がのどかの時のように脅されている可能性もある。
普段の様子からそういった気配はないように見えたが、それでも用心するに越したことはない。
ただそうだとすると不用意に話を聞くだけでも、少年を刺激する事になりかねないわけだが。


(やっぱり俺一人が悩んでてもいい考えなんて浮かばねーか)


軽く頭を振って座っていた椅子から立ち上がる。やはりエヴァの意見を聞いてみたかった。
超との間に何があるのかは知らないが、彼女に危険が迫っている可能性がある事を話せば協力してくれるだろう。

そう考えて遅ればせながらエヴァを追いかける事にする。テラスで食事をとると言っていたのでそちらの方にいるはずだった。
ついでに夕映や茶々丸を誘って、皆で食事をとるというのもいいかもしれない。
奇妙な縁と言ってしまえばそれまでだが、せっかくこうして知り合いになれたのだ。
親睦を深めてみるのも悪くない。横島は無意識に頬を緩ませながら、先ずは厨房にいるはずの茶々丸に声を掛けようと歩き出した。


結局その日の夕食はなんやかんやと騒がしいものになった。












翌日・・・超鈴音が麻帆良から姿を消した。










[40420] 24
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:73709a19
Date: 2016/07/30 21:00



粉塵と騒音のただなかにある。


その部屋はお世辞にも快適な環境ではなかった。
とうの昔に廃棄された地下鉄跡を拡張し、突貫工事で掘られた空間は全体的に埃っぽく蒸し暑さが付いてまわる。
換気など望むべくもなく、濁った空気が室内を満たしていた。
簡易設計されたブロック型の建築構造は、単純であるぶん使用されている建材の割にそこそこ頑丈に出来ているようだが、
地下空間に半ば無理やり詰め込んだ形で設置したため、部屋の四隅が奇妙な形で歪み天井の一部に穴が開いている。
コンクリートと鉄骨で、ある程度の補強はしてあったが崩落の危険は常に付きまとっていた。

戯れに床を蹴ってみれば足元が砂埃で煙って見える。
地鳴りのような衝撃が頭上を通り抜ける度、目深にかぶったフードの上に天井からパラパラと砂が零れ落ちてきた。
電力を節約しているため、照明は常に薄暗く乏しい。光の届かない場所に幽霊でもいそうな影を落としていた。

それでも、これはかなり上等な部類だ。
後方とはいえ基地司令部から外れたこの場所に、研究設備を一通り用意出来ている時点で優遇されているとみるべきだろう。
設営の際、工兵には随分と協力してもらったものだ。その分かなり嫌味も言われたが。
彼らに言わせると、どうやら自分の頭はどうかしているらしい。
研究員としての身分がありながら、何故こんな戦地にわざわざ出張してきたのか全く理解できないのだそうだ。
その嘲笑を思い出し口の端を釣り上げる。彼らが被っている迷惑を考えれば、まぁ無理からぬところではあった。

砂塵から身を守るための防護用マスクの中でかすれた口笛を吹きつつ、ヘッドマウントディスプレイを兼ねたゴーグルに視線を走らせる。
空間投影型のキーボードに切れ間なく指先を滑らせて、次々と移り変わっていく文字を目で追い続けた。
集中しだすと周囲の騒音も室内全体を覆う微弱な振動も、なにもかもが気にならなくなっていく。
まるで世界が数字と文字の羅列に変化していくようだった。
そんな錯覚の中にあると、時々自分の置かれている現状も忘れてしまいそうになる。
誰もかれもが命を安売りしている戦場という名の現実をだ。
それが単なる逃避だと思わなくもないが、いちいち気を張り続けても疲れるだけなので無視していた。

たが、そんな現実逃避も今回は長く続かなかったようだ。乾燥し、かさついている唇を舐めながらそう思う。
どことなく砂の味が感じられる口内で唾を飲み込み、喉の渇きを誤魔化した。
どうやらこの体は水分を欲しているらしい。集中が切れると汗のべたつきによる不快感も気になり始める。
長時間部屋に閉じこもっていたため、時間の感覚もかなり曖昧だった。この機会に一度休息を取るべきか。
コリをほぐすために肩を回しながら考えていると、立てつけの悪い扉を強引にこじ開けて、顔見知りの兵士が慌てた様子で飛び込んできた。


「ちっくしょう!!」


悪態をつきながらヘルメットと装備一式をかなぐり捨てている。ほこりまみれの頭をかき混ぜて首元を緩めていた。
目の周りにクマの浮きあがった顔を向けて、わざとらしく足音を立てながらこちらに近づいてくる。


「奴らどうかしてやがる!!」


戦場特有のすえた臭いが、防塵マスク越しにこちらまで漂ってきそうだ。
今の今まで戦っていたのだろう。脳内麻薬でハイになってますと言わんばかりに早口で罵倒してくる。
うまく聞き取れないがどうせ敵方の悪口だと仮定しておざなりに相打ちを打っていると、
そんな気配を敏感に察知したのか怒りの矛先をこちらに向けてきた。


「他人事みたいに言うな!!もうじきここも空爆で吹っ飛んじまう。そうなったらお前の研究室も丸ごとおしゃかなんだぜ!!」


唾を飛ばして喚き散らしてくる。いくら体が乾燥しているとはいえ、そんなもので潤したくはないので大げさに距離を取る。
どうやら会話に付き合ってやらないと収まりがつきそうもない。
仕方がないのでゴーグルとマスクを外し、何十時間ぶりに声を出した。


「あ~、という事はこっちの航空戦力は・・・」


「派手にやられてるし、ついでに言うと地上も押されてる!!トラップで足止めしてるがそれも長くは続かんだろう!!
どういうつもりか知らねーが連中こっちに戦力を集中し始めやがった!!」


「そんなに大声出さなくても聞こえているよ。・・・・・でもまぁ、それも予想の範疇じゃないか。
こっちの拠点構築を連中は見逃さない。所詮物量が違うんだ。あっちが本気になれば・・・」


「んな事は分かってるがな!!それでも勝算があるつって兵を呼び寄せたんだろう!!」


「市街地を要塞化するってあれは建前だよ。司令部の目論見としては補給線を確保するまでの時間稼ぎをしてほしかったって所かな?
目的は概ね達成しているだろうし、上も兵を無駄死にさせるほど馬鹿ではないだろうから、たぶんすぐにでも基地放棄の命令が下るよ。」


それは配備されている兵たちを見ればよく分かる。
もともと市街戦を想定していたため車両の類が少ないのはまだわかるとしても、
歩兵や砲兵、魔法使い達も含めた戦闘に特化した部隊に比べ、工兵や支援兵科の部隊が少なすぎる。
魔法が一般的になっている現在では、そういった築城の手間も大幅に軽減できてはいるが、
それでも基本的に魔法使い達が得意とするのは純粋な破壊だ。
本格的な陣地構築にはあまり向いていない。
それに百年ほど昔はどうだったか知らないが、もはや魔法使いの数もそれほど多くはなくなっている。
うまく地球側に”適応”した一握りの者達を除けば、そのほとんどが長すぎる戦争の犠牲になっていた。


「こっちはあくまで囮なんだ。ある程度の足止めができればそれでいい。まぁ、末端の兵士には伝わってないのだろうけど」


「その口振り、お前は聞かされてたってのか?」


「まさか、現状から推察される単なる予測だよ。私も末端の研究者だからね」


「研究者ねぇ。戦場で夢物語を追い続ける大馬鹿だろ?或いは妄想狂か」


「ふふ、ひどい言われようだ。でも環境は劣悪だけど、一応ここにもメリットはあるんだよ。
恒久的に物資が不足しているこの世界で、中央を除けば豊富な資材を獲得できる場所は戦場だけだ」


「資材ってのはぶっ壊れて使い物にならなくなった魔道兵器の残骸か?」


「私にとっては宝の山だがね」


「整備兵をこき使って訳の分からん装置を組み上げてはそれをぶっ壊してな。連中がノイローゼで倒れなかったのが不思議だぜ」


「彼らは私が連れてきたスタッフだし、君たちの迷惑にはならなかったろ?」


「連中の愚痴を聞かされるのが何故か俺だったって事を除けばな。何で俺が苦情係みたいな真似を・・・」


そのままブツブツとこぼし始める兵士にそっと微笑む。
ここに送られてきてから仲良くなった彼は非常に面倒見のいい男だった。
自分のような浮いた存在にも何かと気を配ってくれる。
もともとの性格もあるのだろうが、生き死にのかかった戦場において、
出会ったころのまま変わらずに接してくれる彼のような存在はとても貴重だった。
このまま別れるのが残念におもえるくらいには。


「でもまぁ、私もそろそろ中央に戻らなければならないかな。
ここも慣れてしまえばそれなりだったけど、研究設備に限界があるからね」


「つーかお前さん、そもそもなんで戦場なんかに来たんだ?後方でロジスティクスにまわるならともかく・・・意味が分からん」


「簡単に言えば実戦データを取得するのが目的かな。本命のための資金集めに別の研究をしていてね。ここに来たのはそちらの成果を見るためだ」


「別の研究?そっちも夢物語の類か?」


「いいや、こちらはもっと即物的なものさ。低コストで良質な兵士を作るというプランでね。被験者に呪文処理を・・・」


そのまま言葉を続けようとしたその時、一際大きな轟音と共に部屋全体が大きく揺れた。
天井から零れ落ちてくる砂の量が増加し、周囲に土煙を立てる。椅子に腰かけていたのは幸いだったろう。
立ったまま会話していたら、研究資材に体をぶつけていたかもしれない。張りつめた空気が一瞬にして室内に満たされた。
そのまま呼吸すら止めて経過を観察する。


「っち。まぐれあたりの砲弾が近くに落ちたか?」


「いや、射弾観測にしてもこんなに近くには落ちないだろう。いくら戦況が不利といっても早すぎる」


「じゃあ地震でもあったってのか?」


「それこそまさかだよ。たぶんこれは・・・」


眉根を寄せながら押し黙る。すると再び大きな衝撃が起こり、同時に基地全体に非常事態を告げる警告音が流れた。
向かい合っていた兵士が素早い動きで放置してあった装備に飛びつき、無線機を取り出す。
チャンネルを合わせ司令部に状況を確認した。しばらく険しい表情でのやり取りが行われ、それが終わるとこちらをクルリと振り返る。


「敵側が戦略兵器級の魔法使いを出しやがったらしい。こっちの部隊も応戦してはいるが・・・」


無意識の動作なのか顎に生えた無精ひげをしきりに撫でつつ、押し殺した声でそう言う。
顔色が悪く見えるのは先行きの暗さを想像して血の気が引いているからだろうか。
戦略兵器級の魔法使いと一口にいってもその実力はピンきりだが、一つだけ確かなのは彼らが一個人で戦況を左右するほどの力を持っているという事だ。
戦闘ヘリよりも小回りが利き、戦闘機並みの速度で飛び回り、その一撃は戦車の砲弾など比べ物にならないほどの威力を秘めている。
酷いのになれば町一つ破壊してしまえるほどの力を持った魔法使いも存在する。
今現在こちらを攻めてきているのがそんな化け物とは限らないが、ただでさえすり減ったこちらの戦力で対応するのは難しいだろう。


「あらかじめ航空戦力を削ったうえで、戦略兵器級を投入か。セオリーだね」


「んな事言ってる場合か!!このままじゃ全滅だぞ!!」


鋭く言いながらこちらを睨み付けてくる。すっかり余裕を無くしてしまったようだ。
やれやれと嘆息しながら兵士が握りしめている無線機を指さす。


「それを貸してくれないか?」


「なんでだ?」


「本当は部隊が撤退するまでの時間稼ぎに使うつもりだったが、こうなっては仕方がない。
戦略兵器級の魔法使い相手に実戦データを取るのさ。基地内の対空装備と連携させて迎え撃つ」


本来の運用方法とはお世辞にも言えないが、逆に考えればこれはチャンスでもあった。
もし戦略兵器級の魔法使いを撃退できれば、上層部に対してこれ以上ないくらいのアピールになる。
呪文処理を施した兵士は活動時間と魔法の使用回数に限りがあったが、そこは数で補えばいい話だ。
理論上、瞬間的な爆発力は戦略兵器級の魔法使いとほぼ変わらないスペックを引き出せるはずだった。
本命の研究が滞っている現在、せめて実験サンプルと研究資金確保のための捨石程度にはなってもらわなければならない。
無線機で整備班を呼び出し”人型兵器”の出撃準備をさせる。口元に不敵な笑みをにじませ、部屋の主は速足で扉の向こうに消えていった。
その姿を唖然とした様子で眺めていた兵士も、このまま置いていかれてはたまらないと慌てて後を追いかける。
途中先程の振動で床に落ちてしまったらしい研究レポートを拾い上げ、律儀に机の上に戻していった。

いまどき紙媒体のそのレポートは数字と文字とグラフで埋め尽くされている。
余白部分にも汚い文字で走り書きが記され、一見すると子供の落書きのようにも見えた。

部屋の主が行っているメイン研究のレポートだ。
それは誰もが一度は思い描くだろう夢の研究だった。

紙面の一枚目、表題の部分にはそっけなくこう書かれている。


時空震発生における時空間転移の可能性と。







◇◆◇







「ってことは一応学校には連絡あったのか?」


「はい。親戚の法事で外に出ているという話です」


内緒話のように低い声で質問する横島に弱々しく夕映が答える。
普段見回りの最中によく利用していた公園で二人は真剣に話し合っていた。
木陰に設置してあるベンチは風通しも良く、日差しにさらされた体の火照りを程よく鎮めてくれる。
隣にいる夕映が汗ばんだ額や首筋をハンカチで拭いながら、時折通り抜ける風を気持ちよさそうに受け止めていた。
そんな彼女から視線を外し、今聞いた話を整理してみる。

数日前から超は行方が分からなくなっていた。担任教師であるネギに連絡だけはしていたようで表向き騒ぎにはなっていない。
ただ彼女自身が相当な有名人であることに加え、失踪状況もかなり特殊だったらしくこちらに情報が流されていた。
理由は聞かされていないが、超は自分達とは別件で魔法使い達に監視されていたようだ。そしてそこから突然姿を消してしまった。

失踪現場は日中の大通り。当時その場所は目前に控えた学園祭の準備に追われて大勢の人間がごった返していた。
一見すればすぐに見失ってしまいそうな状況だが、担当者は幾人かで死角を潰し、魔法までつかって高所から追跡していたらしい。
正直中学生の女の子一人に大げさすぎると思わなくもないが、結果的にみればそこまでしても超の尾行は失敗したわけだ。
まるで神隠しにでもあったように突然視界から消えてしまったという話だった。しかも一人ではなく全員の目から一斉に。


(俺達と同じか・・・)


少し前に超をストーキングしていた時の事を思い出す。あの時も彼女はこちらが目を離したわけでもないのに、いつの間にか姿を消していた。
今思い返してもあの消え方は妙だった。自分たちが尾行に関して素人であるという事実を考慮に入れたとしてもだ。
だからてっきり何らかの魔法が使われているとばかり思っていたのだが。


「魔法が使われている形跡はなかったみたいです。現場にいた人たちにも何が何だかわからなかったと」


絶妙な距離感を保ったまま隣に座っている夕映が身動ぎする。
お互い小声で話しているために離れる訳にもいかず、しかし近づきすぎるのは気恥ずかしいらしい。
その様子に苦笑をこぼしてから、横島は自動販売機で買った缶コーヒーを口に含んだ。
体温でぬるくなってしまったそれは苦味も合わさってもはや飲めたものではなかったが無理やり喉に流し込む。
一瞬息が詰まってむせ返りそうになりつつ、何とかこらえて夕映の話に集中した。

超がそんな消え方をしたため現場付近は魔法使い達によって入念な捜索がされたらしい。
たが結局手がかりの一つも見つけられずに超の足取りは完全に途絶えてしまった。
その後一応本人から学校側に連絡があった事と、彼女だけに構っていられるほど魔法使い達も暇ではなかったようで捜索は打ち切られることになった。
ただ横島たちの事情を知っていた学園長は何やら不穏な気配を感じたらしく、こうして夕映を通して情報を伝えてきたわけだが。


(魔法使いが調べても何も分からなかったって・・・つまり超ちゃんは魔法を使ってたわけじゃないって事だよな)


超を監視していた魔法使いたち全員が事前に何の兆候も感じられず、消えた直後の現場にも魔法が発動した痕跡を見つけられなかったのだ。
専門家が言うならそういう事なのだろう。


(だとしたら・・・もしかして霊能力か?)


ふと頭の中でひらめいた単語に眉をしかめる。
例えば超が何らかの霊能を使って、監視から逃れていたという可能性はないだろうか。
状況的に見て彼女が普通の方法で尾行をまいていたとは考えがたい。もっと非常識な手段を持っているはずだ。
そしてそれが魔法ではないのだとしたら、もはや思いつくのは霊能力くらいしかない。
実際、横島自身も文珠を使えば似たような真似ができてしまう。ただ、もしそうなのだとすれば別の疑念が浮かんでくる。


(つまり・・・あのガキが超ちゃんに協力してる?)


こちらの世界に霊力という概念が存在しない以上、超が単独で霊能力を扱える訳がない。
自分たちのような異世界人の協力が不可欠なはずだった。
そしてそう考えた場合、彼女の近くにはもっとも疑わしい人物が存在している。
横島に思わせぶりな台詞を吐き、超の存在を匂わせた例の少年が。
そこまで考えて横島は手に持った空き缶を無意識に握りしめた。

あの少年が超と何らかの関わりを持っている事は想定していたが、
もし二人が積極的な協力関係を築いているのだとすれば事態は少々厄介になる。
思わず心の中で舌打ちしながら、横島は夕映に話しかけた。


「念のために聞くけど、ほんとにただ親戚の家に行ってるだけじゃねーよな」


「それならいきなり消えたりせずに一般の交通機関を使うでしょう」


「う・・・まぁそれもそうか」


「そもそも超さんに親戚がいるかどうかも怪しいですし・・・」


「どういう事?」


片眉を上げて尋ねる横島に、小さく首を振って夕映が答えた。
彼女によると超は自分の経歴を操作している疑いがあるのだとか。


「年齢、経歴、国籍、その他諸々ほとんど不詳って・・・なんじゃそりゃ」


「前々からいろんな意味で普通の人じゃないとは思ってましたけど、でも超さんなら納得できなくもないというか」


呆れた声で呟くこちらからあからさまに視線を逸らしつつ夕映が言った。
超に関しては優秀だけど変な人という認識があるためなのか、いまさらそんな事実を知った所でそれほど驚いてはいないようだ。
文字通り世界が異なる場所から来た自分が言える立場ではないのだが、何故そんな正体不明な人物が学園に入学できたのだろうか。
横島が疑問を口に出すと。


「いえ、ですから魔法先生たちも超さんを要注意生徒として特に警戒していたそうなんです。
今回の件も彼女の妙な動きを牽制するつもりだったみたいですし」


「妙な動き?」


「ええと、私も詳しくは知らないんですが、魔法先生たちの会合を盗み見てたとか」


「なんでそんな事したんだ?」


「・・・さぁ」


互いに首を捻りつつ黙り込む。
超については殆ど何も知らないに等しいので、彼女の思惑が全く見えてこなかった。


(たぶんエヴァちゃんが言ってた”計画”とやらが関係してるんだろうけど・・・)


超が学園祭で何かするつもりだという事はエヴァも言っていた。もっとも具体的な内容までは把握していないそうなのだが。


(まぁ本人がいないんじゃ考えてもしゃーないか)


そこらも含めて色々と話を聞いておきたかったのだが、それも今さらだった。
嘆息しながら近くにあったゴミ箱に向かって飲み終わったコーヒー缶を放り投げる。
何度か縁にぶつかった後、カランと音を立てて缶が箱の中に収まった。
それと同時に公園のスピーカーからチャイム音が鳴り時刻を知らせてくる。どうも知らない間に結構な時間話し込んでいたようだった。


「そういや夕映ちゃん、まだここにいても大丈夫なのか?これからエヴァちゃんの所で魔法の練習だろ?」


先程までエヴァの事を考えていたからなのか、ふとその事を思い出した。
確か今日からネギ達と合流するという話を聞いていた気がする。


「え、あ、はい。でもその、超さんの事もありますし、行ってもいいのかなって」


モゴモゴと口ごもりながら上目づかいでこちらを見てくる。どうも超の事を放っておくことに気が引けている様子だった。
名称からして明らかに微妙そうな紙パックジュースを、飲むでもなく手の中で弄んでいる。
何となくその動きを目で追っていた横島は、とりあえず何か言ってやろうと口を開いた。


「つってもネギ達と一緒に練習するの今日が初めてなんだろ?行かなくていいんか?」


「それは・・・そうなんですけど、でもやっぱり心配ですし」


「まぁ、気持ちは分からなくもないけどさ。
でも聞いた話じゃ超ちゃんは自分からいなくなったんだろ?誰かに誘拐されたとかじゃなくて」


状況からみて超が誰かに操られているとか脅されているというのは考え難いように思える。おそらくは自らの意思で姿を消したのだろう。
たしかにどうしてそんな真似をしたのか理由が判明していない以上、出来るだけ早く見つけるべきだとは思うが、
夕映が考えているほど深刻な事態にはなっていないのではないかと横島は考えていた。


「一応俺もこれから現場に行ってみるからさ。超ちゃんの事は俺に任せてエヴァちゃんとこに行ってきな」


なるべく明るい口調を心掛けながら表情を和らげる。夕映は先の魔族が起こした一件を唯一記憶している人物だ。
失踪したクラスメイトを心配して必要以上に神経を張りつめているのかもしれない。
そう思い、気になって横目で確認すると、案の定どこか硬い雰囲気を漂わせている。
強張って見える彼女に何か励ます言葉を言ってやるべきかと横島が迷っていると、ジッと押し黙っていた夕映が小さく呟いた。


「確かに超さんの事も心配なんですが・・・それより私が目を離したすきに横島さんが何をしでかすか分からないと言いますか」


「そっちかい!!」


思わず全力で突っ込む。自分が想像していた事の斜め上を心配していた夕映に横島は口元を引きつらせた。
椅子からずり落ちたままブツブツと独りごちる。


「べつにそんな心配せんでもこんな時くらい真面目に仕事するっつの」


「じゃあ言っときますけど、一人になるからって絶対羽目を外したりしないでくださいよ。ナンパとか覗きとか公然わいせつとか」


「やるかっ!!いくら俺でも人前でチ○コ出したりせんわ!!」


「・・・・・・・ナンパと覗きは否定しなかったですね」


そう言いつつ夕映が半眼で見つめてくる。横島は目が合わないように顔を背けた。
そのまましばらくの間無言の時間が流れたが、やがてバカバカしくなったのか背中越しに圧力をかけ続けていた夕映が諦めたように嘆息した。


「ハァ、まぁいいです。確かに合同練習の初日からサボるわけにもいかないですし」


「そうそう。それに向こうとこっちじゃ時間の流れが違うし、後で待ち合わせればいいだけだって」


向こうが根負けした気配を察して、横島は話を切り上げようとした。
そんなこちらの思惑を見透かしているのか、夕映ががじっとりとした目を向けてくる。
もちろん気付かないふりをして白々しい笑顔を向ける。これ以上こじれるのは勘弁してほしかった。
そんな風に心の中で冷や汗をかいていると、夕映はベンチから立ち上がりスカートのすそを手で払った。
一度姿勢を正し表情を引き締めて念を押すように言ってくる。


「それじゃ私は行きますけど、くれぐれも面倒を起こさないでくださいよ」


「わかってるって、大丈夫大丈夫」


まったく真剣みが感じられないまま気軽に請け負う横島に不安を感じたのか、夕映が表情を曇らせる。
しかしネギ達との待ち合わせの時間が迫っていたのもたしかなようで、結局何度もこちらを振り返りつつ公園を出て行った。
横島はそんな彼女を見送った後、こっそりと嘆息した。

何と言うか、できればもう少しこちらの事を信用してくれてもいいのにと思わなくもない。
はたから見れば今の自分は過保護の母親に心配されている子供のようなものだ。
というか既に2‐A組の一部の生徒はそう思っている節がある。自分の方が夕映よりも年上だというのに。

僅かに口をとがらせながら、座っているベンチの背もたれに両手を投げ出す。そのまま体重をかけつつ横島はそっと目を閉じた。
気分を変えるつもりで頭の中を空にする。リラックスしようと体の力を抜いて耳を澄ませた。
涼やかな風と共に、頭上にある木の葉がさわさわとした心地よい音を奏でている。
少し離れた所から聞こえてくるのはどこかの部活動の掛け声だろうか。
遊具で遊ぶ子供たちのはしゃぎ声とは別に誰かの声援がこちらまで届いていた。
学園都市内の公園だけあって年齢層はかなり低いようだ。
特に放課後の時間帯は学校終わりに遊びに来る子供たちや、設備の行き届いた陸上トラックやテニスコートを利用する体育会系の連中も増える。
横島も薄着の陸上選手目当てにここにはよく来ていた。もっとも最近はご無沙汰だったが。


(まぁ、ここんとこ忙しかったもんな)


少し前まではいろいろと暇を持て余していた気がするが、今は一応やらなければならない事がある。


そう・・・やらなければならない事があるにはあるのだが・・・。


(何なんだろな・・・この感じは)


口に出さずに呟き、呆けた表情のまま目を開ける。
視界に入ってくるのは抜けるような青さ・・・ではなく、そこかしこに雲がかかった中途半端な空模様だ。
何となくそれが今の自分の心境を表しているようで、横島は皮肉に頬が引き攣った。もやもやとしたまま小さく頭を振る。


(超ちゃんを探しにいかねーとだよな)


夕映にああ言った手前、何もせずにいるという訳にもいかないだろう。
正直な話、自分が現場に行ったところでそんなに都合よく手掛かりが見つかるとは思えなかったが、
夕映が帰ってきたときに備えて言い訳の材料くらいは集めておくべきかもしれない。


(頭では分かってんだけどな・・・)


空中に半眼を向けたままボンヤリと雲が流れる様を見続ける。
どうにもやる気が起きないのだ。
超の事は心配だし、あの少年にはもう一度会う必要があると分かっているのに、どうしても自分から動く気になれない。
例えるなら全く宿題に手を付けていないまま、夏休みの終了を目前に控えた小学生の気分だろうか。
放っておけば余計に面倒なことになるというのに、頑張ろうという気力がわいてこないのだ。


(いっそのこと見つからない方がいいのかね)


そんな事を考える。
もし仮に超も少年も見つからなかったらどうなるだろう。
何事もなく時が過ぎて学園祭が終わり、結局全てが自分の勘違いだったという事になったら、元の世界に帰れるだろうか。
また美神に理不尽な目にあわされたり、おキヌちゃんに慰められたり、
シロに振り回されたり、タマモにおごらされたり・・・・・・・とにかくそんな元の日常に戻れるのではないか。


「誰も見つからなかったら・・・か」


憂鬱といえるほど暗澹とした気分ではなく、さりとていつも通りというわけでもない微妙な心境のままポツリと呟く。
意図して口に出したその声は、心中を表したかのようにあまりにも力ないものだった。
言葉を発した本人にさえ虚ろにしか聞こえないような。


だから次の瞬間横島は心底驚いた。まさかこんな意味のない独り言に返事があるとは思わなかったからだ。




「誰かお探し中カナ?」




からかうように問われる。にこやかな笑みを口元に浮かべ、片目でウインクをしてくる。
背中に後ろ手を組み、こちらを見下ろしていた。
中華服とエプロンドレスを掛け合わせたような服装の中央には、超包子という刺繍が施されている。
両サイドをシニョン風にまとめた髪型は綺麗に結い上げられていて、髪飾りの間から短い三つ編みが風に揺れていた。
身長はそれほど高くない。体格も一般的な少女のそれだ。
彼女のクラスメイトには同年代の娘たちに比べ規格外な者もちらほら見かけるので、
そう言った意味ではあまり目立っていないかもしれない。
ただ、彼女が纏う雰囲気は独特なものがあると横島は思っていた。
聞けばそれなりに変わりものの多いクラスの中でもトップレベルの変人だそうだ。
天才的な頭脳の持ち主であり、行動力も並はずれていて、なぜか屋台のオーナーをやっていたりする。
そして、今は絶賛行方不明中の人物だった。魔法使い達の監視からまんまと逃げうせ、どこかに消えてしまったはずの・・・。


「・・・・・・超ちゃん?」


ポカンと口を開けたまま少女を見やる。前に教室で見かけたままの姿だ。どこもおかしなところなどなく全くの健康体。
自分が探し求めていたはずの人物が目の前で笑っていた。


「どうしてここに?」


「どうしてもなにもただの散歩ネ。くら~い研究室にこもってばかりだと美容にもよくないしネ。横島さんも散歩カナ?」


「い、いや、俺は・・・」


まさかあなたを探していましたなどと本人に言うわけにもいかず、横島はしどろもどろになった。
いろいろと聴くべき事も言うべき事もあったはずなのだが、咄嗟に言葉が出てこない。


「隣、座ってもいいカ?」


「あ、ああ、もちろん」


自分が座っているベンチを指さしてそう言ってくる彼女に慌てて場所をあける。
必要以上にかしこまったままこくこくと頷いた。
そんな横島の様子を可笑しそうに見ながら超が隣に座る。そのまま伸びをするように体を仰け反らせた。


「う~む、やっぱり体が凝ってるネ。今度マッサージ器でも開発するカナ。どう思う横島さん?」


「へ?えっと、急にそんな事言われても・・・好きにすればいいんじゃないか?」


「ん~駄目だよ横島さん。そこは、だったら自分がマッサージする!!って言って襲い掛かってくる場面だヨ」


「な、なんじゃそりゃ。君は俺をどーゆー風に見とるんだ?」


「う~ん・・・・・・痴漢?」


「ストレートすぎるわ!!せめてもうちょっとオブラートに包んでくれ!!」


「ちぇっ、残念だヨ。せっかく作ったはいいけど試す機会がなかった痴漢撃退用の防犯グッズが使えると思ったのに」


「・・・・・まさかとは思うが、今ちょっとだけ見えた違法改造っぽいスタンガンを使うつもりだったんじゃなかろーな」


何処から取り出したのか、何やら怪しい道具をガサゴソと弄っている超に脅威を覚えながら距離を取る。
まさかそんな物騒なものを本気で使うとは思わないが、それでもこちらが対応を間違えれば何となくノリで使ってきそうな気配もする。
いまいち考えが読めない少女なのだ。チラリと横目で確認すると悪戯っぽく僅かに舌を出していた。


「ったく。だいたい散歩っていうけど、外に行ってたんじゃないんか?親戚の法事がどうとか聞いてたぞ」


「え?あ、ああ、なるほどそういう理由になてたカ。ウンウンソダヨ、ホウジオワタネ」


「・・・・・・・・・・・・・・何でカタコトなんだ?」


唇を尖らせながら棒読みで話す超に対して、胡乱なものを見る目付きで訝しむ。
あからさまに嘘をついている様子だったが、詳しく追及するべきなのだろうか。
もっとも、彼女が真面目に話してくれるかどうかは怪しいものだったが。


「まま、そんな事はどうでもいいネ。気にしちゃ駄目ヨ」


「いやまぁ、突然学校サボりたくなる気持ちは分からんでもないけどさ。
なにも学園祭の準備で人手がほしい時に休まんでもいいんじゃないか?」


説教臭くならないように気を付けながら探りを入れてみる。
失踪時の状況からして特殊だったし、
彼女が率先してクラスメイトに迷惑をかけるようにも見えないので何か特別な事情があるのは明白だったのだが・・・。
もはやサボっていた事を断定して話す横島に、超は反論してこなかった。
ただ乾いた笑みを浮かべながら気まずそうに頬を掻いている。


「う~ん。たしかにクラスの皆には結果的に悪い事をしたネ。準備終わりそうカ?」


「ん、ああ、だいたい終わってる。すくなくとも徹夜でやんなきゃいけないって事にはならないんじゃねーかな」


「そうか、それは良かた。後で何かお詫びをしなけれならないネ。超包子の料理全品半額っていうのはどうカナ」


「そいつは喜ばれると思うけど、それ俺も半額でいいんか?」


「ふふ、もちろん・・・・・といいたい所だが、横島さんには別のお詫びを用意しようカナ」


「別のお詫び?」


聞き返す横島に超は意味ありげな視線を向けてこう言った。


「横島さんの質問に答えてあげよう。何か私に聞きたいことがあるのではないカ?
数日前から熱烈なアプローチをしてくれているみたいだしネ」


薄く目を閉じた超が口角を釣り上げる。その言葉は鋭いナイフのようなものだった。
油断していたこちらを貫くように突き刺さってくる。
彼女は口をパクパクとさせて硬直している横島に冷たい笑みを向けてきた。


「ん?どしたネ」


言葉と共に首を傾げた超がわざとらしく促してくる。
獲物を前に舌なめずりしているライオンのようだ・・・とは言い過ぎだが、
蜘蛛が巣にとらえた標的を狙ってじわじわと近づいてくるようには見えた。
短く嘆息し呼吸を整える。もはや弁解の余地もなく横島は白旗を上げた。


「やっぱり、尾行してんのバレてたって訳か」


ニヒルな笑みと本人は信じているそれを浮かべながら、映画俳優のように含みを持たせて大物ぶってみる。
そんな横島に超は面倒なものを見る様子で半眼を向けてきた。


「まぁ、それはそうだヨ・・・というかそれ以前の問題ネ。
尾行中に何回もナンパして、その度に騒ぎを起こしてたし、あれじゃ気付かない方がどうかしてるネ」


「だってしゃーないやんか。あのねーちゃん、めっちゃ美人やってんもん!!」


僅か十秒ほどしかもたなかった演技をかなぐり捨てつつ理解を求める。
それをあっさりとスルーして超は呆れた声で嘆息した。


「それ言い訳になってないヨ。あれじゃ相棒が可哀想ネ」


「た、たしかに夕映ちゃんには悪い事したけども・・・」


「途中から他人のふりしてたしネ~。一回警察に追われてた時なんか、よく逃げおおせたとは思たが」


「あ~、あん時か。暴徒鎮圧用装備で追いかけられた時はさすがに死ぬかと思ったな」


驚異的なチームワークでもって包囲を狭めてくる特殊部隊に、何とか対抗して逃げ回った時の事を思い出す。
当たると塗料が付くカラーボールなど可愛いもので、ゴム弾を発射する重火器や、何を勘違いしたのか投網漁の真似事までしてくる奴もいた。
というか途中から明らかに警察とは無関係な者達にまで追いかけられていた気がする。
賞金首がどうとか言っていたあれは何かの冗談だったのだろうか・・・。

いやな記憶を思い出して気分が悪くなってきたので脱線していた話題を元に戻す事にする。
超もいろいろと理解してくれたのか異存はない様子だった。


「で、何が聞きたい?」


仕切り直すように真面目な声音で超が話し掛けてくる。横島は少しだけ緊張しながら何を聞くべきかを思い浮かべた。
関心事は大きく分けて二つある。一つは超が学園祭でやろうとしている”計画”についてだ。
エヴァから聞いた話では、彼女が企てている計画はかなり大規模なものらしい。以前から秘密裏に準備を進めていたようなのだ。
それがどんなものなのかは分からないが、もしその計画とやらに例の少年が関わっているようなら、場合によっては自分が止めなくてはならない。

そしてもう一つは少年の正体についてだ。
明確な根拠はないが、あの子供が横島と同じ異世界人である事はほぼ決定事項のように思える。
だとしたら、超は奴の正体についてどこまで知っているのだろうか。
全てを知ったうえで互いに協力関係を結んでいるのならば、その事について言及しておかなければならない。
無言のまま心の中で箇条書きにしていた疑問を彼女に確認する。


「超ちゃんはあの子供を知ってるか?」


「子供・・・とはどの子供の事カナ?」


内容が漠然としすぎていたためか、首を捻った超が質問に質問で返してくる。
とぼけているのか、それとも本当に知らないのか、見ただけでは相手の考えを読むことができない。
どうにも自分一人では荷が勝ちすぎている気がした。
これは勘に過ぎないが、こういった心理の駆け引きにおいて、超は自分よりも遥かに優れているのではないだろうか。
とにかく慎重に質問するべきだと、気分的には大金のかかったポーカーでもするつもりで言葉を選んでいく。


「超ちゃんの屋台で働いてたガキだ。なんか妙に偉そうでむかつく感じの」


「超包子で?それは古や五月ではなく?」


「ああ。ちゅーかそもそも男だしな。なんか黒っぽい服着て、髪も真っ黒で、ネギよりちょっと年上くらいだったかな」


「ふぅむ」


口元を隠しながら小さく唸り、彼女はそのまま黙り込んでしまった。俯き加減の前髪が大きな瞳を隠している。
思い出している・・・というよりは情報を出し渋っているように見えるのは、こちらの穿った見解だろうか。
しばらくはその静寂に付き合っていた横島だったが、いい加減痺れを切らして口を開いた。


「超ちゃん?」


短く呼びかけると、超はそれを待っていたかのようにゆっくりと顔を上げた。
こちらと目を合わせながら答えてくる。


「そうネ。もし横島さんが言っているその子供が、今私の考えているアレと同一人物だとしたなら・・・まぁ、知ってはいる」


「なんか随分と回りくどい言い方だな」


「う~ん、そこは大目に見てほしいヨ。例えば横島さん、アレの名前を知ってるカナ?」


「へ、名前?・・・そういや聞いてねーな」


そう問われて、横島は自分が追っている者の名前も知らない事を思い出した。
あの子供とは何回か会っていたが、互いに名乗りもしていなかった気がする。
まぁ、イケメン予備軍の生意気なガキの名前など、たとえ教えられていたとしても覚えられたか怪しいものだったが。
そんな事を胸中で考えていると、こちらの顔色から何となく察したのか超が投げやりに両手を広げた。


「私も似たようなものだヨ。アレに関してはほとんど何も知らないのと同じネ。ある日突然訪ねてきてそのまま居ついてるだけだからネ。
有用である内は追い出す必要もないから放置しているが・・・」


「って事はやっぱりあいつ超ちゃんのとこにいるのか!?」


「いいや、今はいないネ。ちょっと前に出て行ったきり姿も見せていないヨ」


自分はアレの保護者ではないからと、そう言いながら小さく首を振っている。
どうも超はあの少年をそれほど重要視していないようだ。というよりもまったく興味がないと言った方がいいか。
あれだけ特異な雰囲気を持った子供がいなくなったというのに、飼い猫が家出した程度にも感じていない様子だった。
だが、それは逆に言えば超が彼に関して全く警戒心を持っていないという事でもなる。
彼女が本心を語っていないだけなのかもしれないが、それでもこれはかなり危険な状態だと横島の目には映った。
脅すつもりもないが注意するようにと忠告する。


「超ちゃん。君たちがどういう関係なんだか知らんが、とにかくもうこれ以上あのガキに関わらない方がいい」


難しい顔のままジッと超の顔を見つめる。不安を煽るような形にはしたくないが、それでも万が一のことがあってからでは遅すぎる。
低く押し殺した声で言う横島に彼女は簡潔な言葉で尋ねてきた。


「なぜカナ?」


可愛らしい仕草でそう問うてくる。その忠告を純粋に不思議だと感じている様子だった。
だがそれは横島にとって、なかなかに答え難い疑問でもある。
ある程度少年についての推測は立っているものの、それをそのまま彼女に話すわけにもいかない。
超が異世界についてどれだけの情報を持っているかは見当がつかないし、もし何も知らないのだとしたら藪蛇になりかねないからだ。
言葉に詰まりながらなんとか声を絞り出す。


「いや、なぜって、えっと・・・理由は説明しづらいんだが、とにかくあのガキは危険なんだ。その何と言うか」


しどろもどろになりながら言葉に窮していると、彼女は片手をあげ横島を遮った。
全てわかっているとでも言いたげにゆっくりと頷く。そして、こちらの顔色をうかがいながらこう言った。


「それは、あれが異世界の人間だから・・・カナ?」


まるで品定めをするように見てくる。そんな視線にさらされて横島は再び息をのんだ。
別にその言葉が全くの想定外だったというわけではない。
だが、実際に彼女の口から異世界という単語を聞くと、自分の考えが正しかったのだと嫌でも認めざるを得なくなる。
超が異世界について知っている時点で、少年の正体がほぼ確定したという事になるからだ。
それはつまり自分が漠然と感じていた不安が、だんだんと形になってきているという事の証明でもあった。
ごくりと生唾を飲み込み、首筋に流れてくる嫌な汗を袖口で乱暴に拭う。言いようのない気持ち悪さを感じて横島は唇を噛んだ。

隣でジッと黙ったままこちらを待っている超が恐ろしい。
いまさら無駄かもしれないが、一応否定はしておくべきかと横島が振り返ると、そこには意外な表情を浮かべた彼女がいた。

愕然としている・・・といった表現が的確だろう。目を見開き、僅かに唇を震わせ、身動き一つせずに硬直している。
瞬きもしていないので瞳も乾き始めているだろうに、それすらも忘れているのではないかと思われた。
まるで命のない彫像のようだ。表情筋に一つのひび割れさえなく呼吸を止めている。
絵に描いたような驚愕の表情だ。そのまま卒倒して倒れてしまうのではないかと心配になるくらいの・・・。

だが、言わせてもらえるなら、むしろ驚いたのは横島の方だった。
彼女から言い出した事だというのに、まるでこちらの反応が全くの予想外だったとでもいうような態度だ。
不気味なほど静まり返っている超を訝しんでいると彼女はようやく動きを見せ始めた。
感覚を確かめる様子で何度も両手を開閉している。


「あは、ははははは、まさかまさか、本当だたのカ!?アレの冗談とかではなく!?」


喉に詰まった余分な酸素を無理やり吐き出すかのように、一気にまくし立ててくる。
こちらの胸ぐらを掴みとる寸前まで接近しながら身を乗り出してきた。その勢いにのまれながら、自然とベンチの端の方まで追い込まれる。
尻の半分が空中にはみ出すまで詰め寄られて、ようやく超の動きは止まった。
つんのめりつつ無言で頷く。ほかにどうしようもなかった。今の彼女にうまく嘘をつく自信が欠片もなかったからだ。
そんな横島の様子に満足したのか彼女は鷹揚に構えると、人を食った笑みを浮かべて質問してきた。


「という事はあなたも異世界人なのカ。横島忠夫さん」


すっかりいつもの余裕を取り戻したようだ。声の調子に張りが出ている。


「くすくすくす。そうかそうか、なるほどなるほど。
ならば、私が横島さんに会う事もアレにとっては予定調和なのカ?
くっくっく、いやはやまったく・・・・・・・・これだから油断できない」


低い声で言いながら瞳に真剣な色を宿している。それだけで彼女の笑みが、ひどく物騒に見えてくるほどだった。


「でも、そうネ。ということは、あの話も全くの嘘という訳ではないのか。
う~ん、アレに踊らされるのは業腹だが・・・それでも横島さんには聞いておくべきなんだろうネ」


彼女はそう言い終えると、あまりの事態に付いて行けないまま停止状態であった横島に向き直った。
そのまま体を摺り寄せて、耳元でささやいてくる。
蛇の如く瞳を細め、まるで誘惑するような甘い吐息を唇から零しながら告げる。横島にとって重要な意味を持つその一言を。







「ねぇ横島さん・・・過去を変えてみたいと思わないカ?」







◇◆◇







すっかり遅くなってしまったと、携帯電話で時刻を確認しながら綾瀬夕映は待ち合わせ場所に向かっていた。
速足で歩道を進み、目的地の公園へと急ぐ。
別に待ち合わせの時間を決めていたわけではないし、遅くなった理由を話せば横島はそれほど怒らないと分かってはいたが、
それでもゆっくり歩いていく気にはなれなかった。
横島の事が心配で仕方がないからだ。いや、正確に言えば彼が何をしでかすか気が気でないというだけなのだが。

確かにあの時横島は真面目に仕事をするというような事を言ってはいた。だがそれを鵜呑みにして信用する気には到底なれなかった。
そんな儚い幻想は遥か昔にぶち壊されている。
また何か面倒事を起こしているような気がして、夕映は両足に力を込めた。
心に感じている不安に後押しされるようにして進んでいく。前傾姿勢をとりながら横断歩道を渡った。
最後には、もはや走っているのと変わらない速度で公園の入り口へと滑り込む。
キョロキョロと周りを見渡し、横島の姿を確認する。

意外な事に彼はあっさりと見つかった。夕映にとっては昨日の出来事だが、別れた時と同じベンチに一人で座っている。
荒くなった呼吸を整え、手櫛で髪を梳きながら横島の元へと向かう。
日も落ち始めた黄昏の時間帯。公園内はすっかり人気も消えて、そろそろ街灯がつき始める頃合いだった。
何となく寂しさを覚える光景だ。あるいは逆に美しさを感じる情景かもしれない。
赤い光が誰もいなくなった遊具を照らし、お日様が本日最後の暖かさを届けてくれている。
砂場に刺さった小さなスコップは誰かの忘れ物だろう。鎖の部分が妙に捻じ曲がっているブランコは利用者のいたずらか。
それらの脇を通り過ぎ、夕映は横島のすぐそばまで近づいた。
しぜんとその姿が鮮明になる。彼はいつも以上に呆けた表情を浮かべ空を見上げていた。


「横島さん」


短く名前を呼ぶ。とにもかくにも無事合流する事が出来てよかったと夕映は安堵した。
特に断りを入れることなく隣に座る。
少しだけ疲労を感じる体を落ち着けて、とりあえず遅れたことを謝ろうと口を開きかけて・・・ふと違和感を覚えた。
隣が妙に静かすぎる。こちらの呼びかけに全く答えようとしていない事もそうだが、それよりも何と言うか気配がおかしかった。

何故か言葉が出てこない。周囲が重い空気に包まれている気がする。
あらゆる会話を拒絶するような雰囲気がその場を支配していた。


(や、やっぱり遅くなってしまったことを怒っているのでしょうか)


そんな事が心に引っかかり、夕映は顔を俯けた。零れ落ちた長い髪が横島と自分をうまい具合に隔ててくれている。
髪でできた黒い壁をジッと見つめながら考えてみる。
こちらの勝手な想像で許してくれるものだとばかり思っていたが、本当は待ちぼうけを食わされてイラついていたのだろうか。
だとしたら早目に謝ってしまうべきだろう。夕映はゴクリと喉を鳴らしつつ言葉を発しようとして・・・。


「なぁ、夕映ちゃん」


「は、はひ!」


唐突に名前を呼ばれ、全身がビクリと上下した。
妙な所から声が出て思わず赤面する。胸元を押さえつけると心臓が嫌になるくらいドキドキしていた。
深呼吸しながら心の中で何度も落ち着けと命令し、何とか自分を制御する。
少しはましな状態になったのを確認してから、夕映は声の主に顔を向けた。
横島はそんな夕映の姿など目に入っていない様子で前を見続けている。
そして相変わらずぼんやりとしたまま、ぽつりと言った。


「変な事聞いていいか?」


「え?」


唐突に尋ねてくる彼の様子はどこかおかしかった。
夕日に照らされて眩しそうに顔をしかめるでもなく、ただやる気のない無表情を貫いている。
夕映はそんな横島を訝しく思いながら無言で頷いた。とりあえずどんな事を聞かれてもいいように心の準備だけはしておく。
だが、そうやって身構えていても、彼はなかなか続きを話そうとはしなかった。
ひょっとして目を開けたまま眠っているのかと夕映が疑い始めたその時、横島はようやく口を開いた。


「もし・・・もし仮にさ、夕映ちゃんが自分で選んだ事で、大切な何かを無くしちまったとして・・・」


顎の関節を無理やり動かしているように、その言葉はぎこちない。
声音だけに限って言えば、言い辛い事を無理やり話しているようにも聞こえる。
しかし彼の顔からは、その声に反して何の緊張も感じられなかった。
妙にアンバランスな印象のまま言葉を続けてくる。


「もし、もしさ、その選択をやり直す事が出来るんだとしたら・・・君ならどうする?」


突拍子もない事を尋ねてくるわりに、初めから返答など期待してないとでも言いたげに夕映の方を見向きもしない。
言いたい事だけを告げて、白昼夢を見ているように放心している。
そのまま黙り込んでしまった横島に、夕映は何となく苛立ちを覚えた。
せめてこちらを振り返る位はしてもいいのにと少しだけ頬を膨らましつつ、一応答える事にする。


「えっと、よく分かりませんけど・・・もう一回選べるならそうすればいいんじゃないでしょうか?」


質問の意味は理解できるが、そんな事を聞いてくる横島の意図は不明だった。
だから深く考えずに思ったことを口にした。
するとそのセリフが意外だったのか横島は目をパチクリとさせて、ようやくこちらに顔を向けてきた。
そして妙に納得した様子で顎の下を押さえ何度か頷くと、椅子の上でズルズル体を滑らせる。


「はは、たしかにそうだよなぁ。気に入らねーならやり直しちまえばいいって話か。・・・・・・・つってもなぁ」


そのまま小さな声でブツブツと独り言を言い始める。夕映はいい加減腹が立って少しだけ棘のある視線を向けた。


「というか、なんでいきなりそんな事聞くですか?」


「ん~~。あ~~ごめん。ちょっと聞いてみたくなってさ。考えてみりゃ他人にこんな話したことなかったかなって」


「意味分かんないです」


「うん。まぁ、そだな。そう・・・だよな」


くぐもった声でそう言い、横島は無理のある体勢から腕力だけで上体を起こした。
座ったままの夕映に視線を送り、力の抜けた笑みを浮かべる。


「わりぃ夕映ちゃん。俺今日帰るわ」


肺にたまった空気を吐き出してそんな事を一方的に告げてくる。
そしてこちらの返事も待たずに椅子から立ち上がると、本当に歩き出してしまった。


「へ?い、いやちょっと待ってください!!」


唐突に帰宅しようとする横島を慌てて呼び止める。
速足で駆け寄り、うつむき気味で猫背になって歩いている彼の前に回り込んだ。
鋭い視線を向けると、横島はこちらの剣幕に戸惑っているように見えた。しかし困惑しているのは夕映も同じだった。
明らかにおかしな態度で妙な質問をしてきたと思ったら、突然こちら都合などお構いなしに立ち去ろうとしているのだから。
そもそもこれから超を捜しに行くという話ではなかったのか。
夕映がそう問いただすと、横島は若干腹が立つほどお気楽な調子で言った。


「ああ、超ちゃんなら見つかったぞ」


「は?・・・って、見つかったんですか彼女!?」


「うん、さっき会った。明日から学校にも顔出すってさ」


「あ、会ったって・・・なんでそんな急に」


「さぁ?なんかわざわざ俺に訪ねて来たみたいやったけど・・・ひょっとしたらワイに惚れてるのかもしれんな」


「いや、そんなんあるわけねーです」


バッサリと切り捨てながら低く唸る。超の型破りな性格は百も承知だったが、
行方をくらませた人間が真っ先に横島に会いに来るというのは、何か意味深な気がする。
惚れてる云々の戯言は置いておくにしても、何らかの思惑があったのではないだろうか。

そう考えれば横島の態度が妙だった事にも説明がつくように思えた。
態度や言動はいつもと変わらない様子だったが、夕映には彼が無理をしてそうふるまっているように見えていた。
自分がいない間に何があったのか・・・できれば直接問いただしておきたい所だが、
話を早急に切り上げようとした態度から見るに、おそらく素直に答えてはくれないだろう。
心の中で考えつつ、それでも一応問いかけてみることする。


「それで、ちゃんと話を聞き出せたですか?」


「ん?あぁ、まぁな。こっちの予想は当たってたみたいだ。例のガキは超ちゃんの所にいたんだってさ」


「いた・・・って事は、つまり今はいないってことですか?」


「うん。超ちゃんにも居場所はわからないんだって」


「彼女が嘘をついている可能性は?」


「そりゃ疑おうと思えばいくらでも疑えるけどさ。ぶっちゃけかなり胡散臭いし。
あのガキとつるんでたのは本人も認めてたから、かくまってても不思議じゃない」


だが、少なくとも自分には本当の事を言っているように見えたと横島は言った。
夕映も超が嘘をついたのだとして、それを見破る自信はなかったので、横島を責めようとは思わなかった。
だだ、成果を期待していた分落胆が大きいのも事実だ。横島と二人で顔を見合わせながら同時に嘆息する。
ある程度予想していたことだが、やはり彼女を相手にするのは一筋縄ではいかないようだ。


「でも、これからどうします?正直、もう超さんからは情報を引き出せないと思うですが」


「それなんだよなぁ。つっても今更あてもなくあのガキ探した所で見つかるとは思えねーし。どうしようか」


互いにどうするか意見を求めても、いい考えは浮かびそうになかった。
そもそも麻帆良全体を統括している学園長の捜索から逃れ続けているような奴が相手だ。
手がかりだった超から所在が聞き出せなかった以上、闇雲に探し回っても到底見つかるとは思えなかった。
そのまま黙り込み夕映が難しい顔で考えていると、横島が小声で何かを呟いた。


「こうなったらいっその事、誘いに乗ってみるのも手かもしれねーな」


「何か言ったですか?」


「へ?あ、いや、こっちの話」


尋ねるこちらの言葉を下手な笑いで誤魔化して横島が顔を背けた。
わざとらしく空を仰ぎ、話を切り上げようとしている。
どれだけ追及してものらりくらりと言い逃れて真面目に答えてはくれない。
そうこうしているうちに日も暮れはじめ、結局その日は解散することになった。
どこか様子のおかしい横島の態度を気にしながら、夕映は落ち着かない気持ちのまま家路についた。





◇◆◇





自分は未来人だと彼女は言った。
タイムマシンを使って未来からやってきたのだと。

過去に遡って歴史を改変し、都合の悪い未来を書き換えるのだそうだ。
例の計画とやらも、要するにそれを実行するための手段であるらしい。
それがどんなものなのか具体的な内容を教えてはくれなかったが、準備は既に終わっているのだそうだ。
楽し気に語っていた彼女の姿を思い出す。瞳に不敵な色を浮かべ、こちらを試すかのように覗き込んでいた。

なぜそんな話を自分にするのかと尋ねた時、彼女は口元の笑みを消し優しい声で答えた。
貴方になら私の気持ちがわかるかもしれないと思ったからと。

何のことか分からず困惑していると、彼女はベンチから立ち上がり自分に向けて仲間にならないかと誘ってきた。
もし協力してくれるならタイムマシンを提供してもいいとまで言ってきた。
あまりのことに何の返事もできないまま固まっていると、そんな自分に悪戯っぽく微笑んで彼女はその場を去っていった。
最後に、私の話を信じるかどうかは貴方に任せると言い残して。


(どこまで本気なんだろうな)


自宅に帰る道の途中、横島は憂鬱な気分を引きずったまま機械的に両足を動かしていた。
大通りから狭い路地に入り、一定間隔で並ぶ街灯の光を見つめながら何度目かもわからない溜息をつく。
あれから超の提案についてかなり頭を悩ませていたのだが、彼女の話をどこまで信用するべきか決めあぐねていた。
あんな荒唐無稽な話、普通なら語った相手の頭を心配するところだったが、
残念なことにその手の話に耐性がある横島は、彼女を一笑に付す気にはなれなかった。


(過去を変えるか。できんのかねそんなの)


自分も何度か時間移動を経験した手前、未来人だという超の主張を頭から否定するつもりはないが、
だからといって好きなように歴史を改変することが可能かと問われれば、正直疑問を覚える。
あの娘の事だ。勝算は十分にあるのだろう。だがそうだとしても心のどこかで懐疑的にならざるを得ない。


(う~ん。やっぱあんまり首突っ込まないほうがいいかもな)


タイムマシンが実在したとして、それが手に入るのなら十分魅力的な話なのだが、どうにも気分が乗らない。


(タイムスリップにあんまいい思い出ねーからなぁ)


中世では魔女狩りにあい、平安時代では危うく死ぬところだった。
どうしてもそれらが頭に残ってよいイメージが浮かばない。


(まぁ、超ちゃんの事はジークの奴にも相談してみるか・・・こっち帰ってきてっか分からんけど)


しばらく前から向こうの世界に帰還している小さな同居人の姿を思い出す。
今現在、彼は向こうの世界とこちらの世界を忙しそうに行き来していた。
どうも急にあわただしくなったらしく、最近ではまともに顔も合わせていない。


(そういや近頃あいつもどっかおかしいよな。最初は四人目の話なんて全然信じてくれなかったってのに)


彼が忙しくなったのは横島が四人目の話をした後からだった。それ以来捜索を横島に任せて世界間を飛び回っている。
だが当初、ジークはその話を一顧だにしなかったのだ。
四人目など存在するわけがないだとか、君の見間違いだろうとか、取りつく島がないありさまだった。

にも拘らず、しばらくしてからどういうわけか急に手のひらを返して、四人目捜索の依頼が美神除霊事務所に正式に提出された。
それについてジークに問いただしてみても、彼にも事情がさっぱりのみ込めていないらしい。
どうも依頼を出したのはジークでもワルキューレでもなく、彼らの上司なのだそうだ。
自分達を飛び越し、情報部の室長が美神に直接依頼したことについてはジーク本人も不信感を抱いているようだった
ただ彼も軍人であるため、あからさまな態度には見せなかったが。

最近どうにも自分の周りがきな臭くなっているような気がして横島は力なくうなだれた。
路面の状態を確認しつつ欝々としたまま歩いていると、考え事に没頭していたせいか、気が付けば自宅の前まで到着していた。
ジーパンの尻ポケットから家のカギを取り出し、ドアを開ける。
そのまま誰もいないであろう空間に向かって、ただいまと気のない挨拶をしたところでふと違和感に気付いた。

居間の電気が点灯している。アパートを出る前、ちゃんと消灯を確認していたので誰かが部屋にいるのは明白だった。
一瞬泥棒の存在を疑ったが、直後にジークが帰ってきている可能性を思いつき強張った体の力を抜く。
そのまま彼に声を掛けつつ居間に入ろうとドアを開けた瞬間、猛烈な勢いで何かが自分に向かって飛びかかってきた。
態勢を維持できずに狭い廊下をゴロゴロと転がる。そのまま玄関の扉に強かに頭を打ち付け、横島は悲鳴を上げた。


「いっっっっっってぇぇぇぇ!!な、なんだ!?敵か!?特殊部隊か!?賞金稼ぎがとうとうワイの自宅まで!?」


痛みを誤魔化すためにぶつけた箇所を高速で摩りつつ、混乱した頭で何とか状況を理解しようとする。
すると自分の胸元から甘えるようにのどを鳴らす見知った人物の頭が見えた。


「せ、せんせ~い。お久しぶりでござる!!」


心の底からうれしそうな声をあげて銀髪の頭が揺れる。自らの匂いを擦り付けるように横島に顔をぐりぐりと押し付けていた。


「お、お前、シロッ!!何だってここに!!」


慌てて少しだけ懐かしく感じられる弟子の名前を呼ぶ。すると彼女は元気いっぱいの笑顔を返してきた。
予告もなく現れたシロに横島が戸惑っていると、そんな彼女をたしなめる声とともに今度は優し気な顔立ちの少女が小走りで駆け寄ってくる。


「し、シロちゃん、いきなり飛びかかったりしたら駄目だよ」


パタパタとスリッパの音を立てて、同僚の氷室キヌが心配そうにこちらを見つめていた。


「まぁ、仕方ないんじゃない。シロのやつずっと横島に会いたがってたし」


居間に続くドアのむこうでは、あきれた様子のタマモがどんぶり片手にきつねうどんを啜っている。
横島は仕事仲間が三人そろって異世界にいることに言葉が出ないまま呆然とした。
突然現れた彼女たちにただ目を丸くする。

するとそんな彼のもとに事務所メンバー最後の人物、リーダーである彼女がスラリとした美脚を見せつけて近づいてきた。
倒れたまま起き上がれないでいる横島に、若干照れくさそうな様子で声を掛けてくる。




「久しぶりね。その・・・元気してた?」




完成された美貌。非の打ちどころのないプロポーション。
名は体を表すを文字通り体現している美の女神が、相変わらずの美しさでこちらを見下ろしていた。






[40420] 25
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:73709a19
Date: 2018/05/14 22:55


白は静謐な色であるらしい。

純潔で清廉な色であるとも。


白く染め上げられた廊下を歩きながら女はそんな言葉を思い出していた。
地下にある研究室へ向かう通路は構造上窓もなく、
日の光に焼かれることもないため壁が病的な白さを保っている。
ご丁寧に照明も昼光色なので余計に目立っていた。
まるで無菌室のようだと苦笑しながら一定の間隔で足を動かす。

一言でいえば地味な女だ。

年齢は二十歳前後。
無個性なタートルネックとタイトスカートの上に、よれよれの白衣を羽織っている。
体格は痩せぎすで、よく言えばスリムだが素直に見れば枯れ枝のように貧相な体つきだった。
ぼさぼさの髪を無造作になでつけて、なんとか体裁を保っている。
やる気のない瞳は半分だけ開かれ、こけた頬には化粧っ気の一つも見当たらない。
唯一特徴的といえるのは薄い唇に挟み込んだ電子タバコだろうか。
根元をガジガジと噛みながら上下に揺らしている。
猫背気味に体を丸め、両手をポケットに突っ込みながら歩いている姿は遠目から見れば老人と間違えられそうだ。
女はどことなくすねて見える目元をしょぼつかせながら欠伸をかみ殺した。


(なかなか疲れが抜けないな。近頃研究漬けだったし仕方ないことだけど)


心中で愚痴を零しつつ長い廊下をひたすら歩く。
途中で無駄に図体のでかい清掃ロボットに道を譲ったりしながら目的地にたどり着いた。
パスを通し研究室へと入る。
最初に目につくのは雑多な研究資材と実験器具の山だ。
保管庫にしまってあるような重要なものではなく、以前にいた場所から持ってきた私物だったが、
何となく処分するのも気が引けて、とりあえず引き取っていた物だった。
物置にでも積んでおけばいいと同僚によく言われるが、研究所の物置に私物を保管するのはいろいろと問題がある。
そんな事情もあって結局自分の研究室にこうして積んであるわけだ。
なるべくそちらを見ないようにしながら奥へと進んでいく。
デスクのわきを通り実験室へと入る。そこに目当ての人物がいた。

女と一緒に、ある研究を共同で行っている人物だ。
こちらに小さな背中を向けて、強化ガラスの向こうにあるシリンダーをじっと見つめている。
年相応に可愛らしい外見をした少女で、年齢は確か十二か十三だったか。
いわゆる天才というやつで卓越した知識と頭脳を持っている。勤勉で貪欲でもあり探求心を併せ持つ。
正直、全く子供らしくない人物ではあるが一応大切なパートナーだった。
少女はこちらに気付いた様子もなく身動ぎ一つしていない。
女は何となく悪戯心を刺激され、足音を立てないようにしながらゆっくりと近づいていった。
ポンと肩を叩き、わざとらしく声を掛ける。


「やっぱりここにいたね」


背後からそれとなく様子を伺う。しかし彼女は予想に反してまったく驚きもしていなかった。


「何か用?」


冷めた瞳のまま短くそれだけを告げる。どうやらこちらの魂胆など初めからお見通しであったようだ。
女はその事を少しだけ残念に思いながら僅かに肩をすくめた。


「まぁちょっと話があってさ。しかしそんなに気になるのかい?あの”剣”が」


剣の部分を多少揶揄してそう言うと、彼女は特に気にした風でもなく無表情に頷いた。
そのまま視線をシリンダーへと戻す。あの中にはとある研究素体が鎮座している。

見た目はただの古びた剣だ。
太刀ごしらえはシンプルで、平べったい先端と肉厚の刀身を持っている。
程よく古色がついていて素人目に見ても相当な歴史的価値を持っているのは間違いないが、
あいにくとここにいるのは考古学者ではないため、そういった方面には欠片も興味を持っていなかった。
それはこの少女も同様だろう。アレにはもっと特別な意味があるのだ。


「素体ナンバー07。そうだねこれは我々の研究の要だ」


少女と同じように視線を向ける。この研究所における最重要機密。
実態を知らない人間には自分の道楽としか映っていない骨董品だ。
だが、この素体があるからこそ時空転移の研究は順調に進んでいた。
逆に言えばこの素体なくして研究は一歩も進まないだろう。
多少の感慨を込めて見つめていると、隣に佇んでいる少女が強化ガラスに触れていた手を下しこちらに顔を向けた。


「そういう意味で気にしているんじゃない」


「え?」


意外なことを言われた気がして思わず振り返る。少女は言葉に真剣な色を載せたまま静かに唇を動かした。


「ここにいると期待と失望を同時に味わうことができるから」


ぽつりつ呟く彼女はどこか大人びて見える。それが何となく気なって、女は少女の額をぐりぐりと指先で押しつけた。


「期待と失望?およそ対極に位置する感情だと思うけど」


眉の形をハの字にしたりへの字にしたりしながら弄んでいると、
大して気にもしていないのか少女はされるがままになりながら言葉を続けた。


「そうでもない。あれを見ていると科学に限界はないのではないかと錯覚することがある。
そして同時に科学では決して手の届かない領域が存在しているようにも思えてくる」


「なるほど・・・戒めか」


何となく意味を察して呟く。
確かにあの”剣”はある意味において神の御業を再現するための神具であるといえる。
それを利用しようとしている自分たちは、言うなれば神を冒涜しているようなものか。
その借り物の力に酔い、自分が万能であるなどと錯覚してしまえば、冗談ではなく人類どころか世界が破滅しかねない。
畏敬の念と自戒の気持ちは常に持っているべきだ。


「まぁ、それでもこれのおかげで我々の理想はもはや夢物語でなくなったわけだ。
君の協力で時空震の制御にも目処が立った。いよいよだ」


女が雰囲気を変えるために若干オーバーアクションに貧弱な胸をそらした。
しかしこちらの配慮など全く気にもしていない様子の少女は、相変わらず冷ややかな目線のまま押し黙っている。
一人でから回った格好になってしまった女は、口元を引くつかせてから慌てて話題を変えた。


「そ、そういえば聞いたかい?例の新兵器トライアル。われらのパトロンは魔道兵士を出すらしい」


女は多少つっかえるようにそう言った。
魔道兵士というのは体に呪文処理を施した兵士の事で、
先天的に魔力容量が低いものであっても条件さえそろえば絶大な魔力を操ることができる。
魔法使用時にかかる身体的負担とそれに伴う継戦能力の不安定さが欠点ではあるが、
被験者に対する個人レベルの調整を行うことでその問題もある程度クリアすることが可能だった。
理論構築から技術開発、運用テストにまでかかわっている女にとっては、ようやく自分の研究が結実したというわけだ。
もともと時間転移システムの開発資金を得るために始めた研究だったが、それでも何の感慨もわかないわけではない。

研究資金を捻出するため軍の研究所に潜り込み、隣国との戦争継続に異を唱える講和派の幹部連中に取り入り、
やりたくもない軍事技術の開発をさせられていた日々が脳裏をよぎる。女は鬱屈した感情を噛みしめるように暗い笑みを浮かべた。
すると薄気味悪いその姿を特に気にした様子もなく少女がぽつりと呟いた。


「・・・・・たぶんそうはならない」


「どういう意味?」


女が言葉の意味を図りかねてそう尋ねると、少女はいくばくかの逡巡の後、開きかけた口を閉じて黙り込んでしまった。
一瞬、疑問符が脳裏をよぎったがこうなっては何も語らないだろう。そう思い女は世間話でもするように軽い口調で話し始めた。


「まぁ・・・いいか。そうそう魔道兵士といえばね最近ちょっと妙なことがあったんだ。処置室に何者かが侵入したらしいんだよね」


横目でチラリと相手の様子をうかがう。しかし少女は特に何の反応も示していなかった。
どうやらあまり興味を引くような話題ではなかったらしい。その事に少々の落胆を感じながら話を続ける。


「君も知ってると思うけどあそこは一見無防備に見えてそれなりの警備態勢を敷いている。
強引な手段を取ればセキュリティを突破することも不可能ではないだろうが、そんなことをすれば必ず何らかの痕跡が残る。
だが扉がこじ開けられた形跡はないし、ハッキングでパスを抜き取られたわけでもないらしい」


元々が軍の研究所であるため周囲の内壁や扉の構造は堅固の一言だし、
扉を通るためにはカードキーとパスワード、いくつかの生体認証が必要とされる。
セキュリティシステム自体にも女が直々に手を加えているため、
扉を直接爆破でもしない限り、生半可な手段で突破することは不可能なはずだった。


「だからちょっと考え方を変えてみたんだ。ひょっとしたら侵入者なんて初めからいなかったんじゃないかって」


「それって結局あなたの気のせいだったってこと?」


それまでむっつりと押し黙ったままだった少女が呆れた様子で嘆息する。
何となく馬鹿にされているような気分を味わいながら、それでもまるっきり無視されるよりはましなので女は早口にまくし立てた。


「いや違うよ。あの部屋に何者かが入ったのは間違いない。
ただね、そいつは無理やり侵入したのではなく普通に入ってきたんだ。
正規の手段でね。ごく普通にパスを通し中に入った。そして後で入室記録を書き換えたんだ。
室内の監視映像から何から全部ね。ほら、この方法なら不要な痕跡を残すこともないだろ?」


「考え方がおかしい。何の痕跡もないなら処置室に入った人間はいなかったと考えるのが道理」


「簡単だよ。私はなにも入室記録の改ざんに気付いたから侵入を察知したわけじゃない。
種を明かせばね、呪文処理のプリンターにはちょっとした細工が仕込んであるのさ。
シャーペンの芯を処置台の隙間に挟んでおくんだ。
その事を知らないで使用すると気付かないうちにそれが折れてしまうっていう原始的な罠でね。
犯人はデータベースに侵入して入室記録まで操作しながらそんな単純な罠には気付けなかったわけだ」


資源植物の減少が叫ばれるこの時代においても、紙媒体の書物などが完全に消えてなくなってしまったわけではない。
もともとそういったアナログ的な懐古趣味を持ち合わせている女は、
システム手帳や大学ノートから万年筆ボールペンなど、各種筆記用具を私物として取り揃えていたりする。
罠に使ったシャープペンの芯もその一部だった。
まぁその罠自体は狙ってやっていたことではなく、ほとんど遊び半分の代物だったのだが、それは置いておくとして・・・。


「誰かが入ったのは間違いないんだ。とすると犯人像もいろいろと絞られてくる。
まず第一にあの場所にプリンターがあることを知っている人物。
そして正規のパスを持っていて、なおかつそれが使用されたことを隠しておきたい人物。
さらにプリンター自体を使用することができる人物だ。そう考えた時、私の心当たりは一人しかいなかったよ」


この研究所の情報自体が一般には公開されていないうえに軍のデータベース上でもかなりの機密レベルを持っている。
それに加えて魔道兵士の開発は中央議会の思惑が絡んでいるため研究所内でも極秘事項とされている。
当然研究にかかわる人間はごく少数だし、呪文処理を刻印するためのプリンターを操作できる人間に至ってはたった二人しかいない。
即ち・・・。


「なぜ私に黙ってプリンターを使った?」


女の顔から表情が消える。隣にいる少女の肩にそっと触れながら声だけは穏やかに問いかけた。
するとそれがトリガーだったかのように、少女は女がこの部屋に入って初めて真正面からこちらに向き直った。


「さっきの話だけど・・・」


「え?」


「新兵器のトライアル。私たちのバックについてる講和派が魔道兵士を使わない理由」


「あ、ああそれが?」


予想していた答えとは全く別の返答であったことに女は若干の戸惑いを覚えた。
しかしそんなことはお構いなしに少女は感情の読めない淡々とした口調で言葉を続けていく。


「幹部会はあなたが魔道兵士開発の予算を時空転移システムの研究に流用していることにずっと前から気付いていた。
今まで見過ごされていたのはそれなりの成果を上げていた事と、
彼らがあなたの弱みを握ることで精神的優位にたっていたつもりだったから。
でもその情報が主戦派側に漏れて圧力をかけてきた。次の議会で必ず問題になる」


「・・・つまり敵対派閥に追及を受ける前に私を切り捨てて研究成果だけ奪おうとすると?」


現在、魔道兵士の開発は最終段階を迎えていると言っていい。
データの収集が終わり調整段階に入った今、開発主任がいなくなったところで大した痛手ではないと考えているのだろう。
元々議会では少数派に属している連中だ。自分たちの首が危ぶまれれば急いでトカゲのしっぽを切ってくるはずだった。
己の考えにうんざりとしながらため息をこぼす。まぁ所詮利用し利用されるだけの関係だ。
向こうが一方的にこっちを切り捨てたとしても文句を言える立場ではない。
・・・・・少々腹が立つのは確かだが。


「それで、その事と君の処置室の無断使用がどうつながるのかな?」


「私たちの最終目的は時空転移システムの開発。そのためなら取り入る先が主戦派でも講和派でも関係ない」


「回りくどいな。つまりどういう意味なんだ?」


「主戦派にとっても魔道兵士の開発技術は、ただ捨て去るには惜しかったという話」


「ああ、寝返ったのか」


納得しながら手のひらをポンと叩く。
今現在、議会の大半を占める主戦派は旧兵器製造を主軸とした軍産複合体を形成している。
派閥に属している者たちにとって、魔道兵士の開発は邪魔でしかない。
なにしろ制限があるとはいえ、魔道兵士は戦車一台よりもはるかに少ないコストで同等以上の戦果を期待できるのだ。
ただでさえ乏しい資源を大量に食いつぶしている既存の軍事技術に対してブレイクスルーを起こしかねない。
戦況の悪化を鑑みて、これを主力とした新たな部隊が作られるといった噂も出ている。
このことは戦争を利用し更なる軍拡を狙っていた彼らの出鼻をくじくことにもなるだろう。

要するに次の主力を担う製品競争の前にライバルを潰しておきたいと考えた主戦派が、
議会に予算管理の問題を提起したというのが本来の流れか。ただ、思惑はもう一つあったわけだ。

自分たちの管理下にない兵器が主力になるのは困る。だがもしそれが手に入るのなら?
そう考えた一部の人間が彼女に接触したという話らしい。


「ん?でも待てよ。話は分かったけどそれだけじゃ呪文処理の一件の説明にはならないだろ?」


「彼らが欲していたのは魔道兵士開発の”完全”なデータ。それには完成品の提出が絶対条件だった。
あなたが危険視していた全身処理のデータもそれに含まれる。・・・他人では試せない」


「まさか・・・君自身が使ったのか?」


「なすべきことをなすためなら私は戸惑わない。たとえそれがどんなに危険なことであったとしてもね」


そう語る少女の顔色は何一つ変わっていない。氷壁のようにすべてが凍り付いて動かない。
だがその氷の仮面の裏に潜む激情は隠しきれるものではなかった。
決意や信念と一言で断じるには到底足らない、薄闇の中にくすぶり続ける蓑火のような情念が感じられた。
女は心の中でそっと息をつき首を振る。
最初は処置室の無断使用を咎めるつもりで来たのだが、こうなってしまってはもはや相方を止めることなど不可能だろう。
それに彼女の言うこともわからないではないのだ。自分たちは決して歩みを止めることはできない。
この世界を根本から変革することになったとしてもだ。
そう無理やりにでも納得し、幾つかの懸案事項とこれから起こるであろう様々な厄介ごとに思いを巡らす。
先程よりも若干老けたようになりながら女は再び眼前にあるシリンダーへと目を向けた。





◇◆◇





「ところで今日は何でそんな口調なんだい?っていうか君そんなまともな話し方ができたのか」


「さすがの私でも軍部のお偉方にいつもの調子で話しかけないヨ。これからスポンサーになってくれる方々だしネ~」


「・・・普通に話せるなら普通に話しなよ」


「いやネ。肩がこる」


「・・・・・・」





◇◆◇





その場所は男にとってまぎれもなく戦場だった。
銃弾や砲火が飛び交うそれとは違うが、一瞬の油断が死に直結し極度の集中を強いられ精神は摩耗する。
息を殺し身を潜め、影のように目立たず、そうやってひたすらに忍耐を試される。
そう、言うなれば狩りのようなものだ。獲物を仕留めるために個を抹消し全に溶け込む。
そうする事でじりじりと前へ進むことができる。目的地に向かって少しづつ。
ごくりと喉が鳴る。緊張で目がかすむ。できることなら心臓の鼓動や呼吸音も止めてしまいたかった。
薄い皮膚の下を流れる血管の脈動すら煩わしく思いながら、蛇のように床を這って行く。
気付かれればすべてが終わる。筆舌に尽くしがたい苦痛を受け、恐怖によって魂まで汚染されかねない。

だがたとえそうだとしても、男は前進をやめようとは思わなかった。
絶対にたどり着く必要があるのだ。
彼にとって幾億の財宝や贅の限りを尽くした美食などより、はるかに価値のあるあの禁断の聖域に・・・。










(ぐふ、ぐふふふふ、ふはははははは!なんせ久しぶりのお宝拝見やからなぁ!絶対覗いちゃる!!)


下卑た笑みを浮かべながら男が向かっているその場所は・・・バスルーム(美神令子使用中)だった。


・・・二分後。





「横島ああああああああああ!!!!」


「のわあああああ!!ち、違うんすよ美神さん!!!」


美神の驚異的な勘の良さにより、横島の覗きはあっさりと露見した。





◇◆◇





その日の帰宅途中、朝倉和美は奇妙なものを目撃していた。

どこかに寄り道でもしていくかと特に目的もなくブラブラとしていた時、それは突然視界に入ってきた。
遠目に何かがフワフワと浮遊している。歩道にある並木の間を器用に飛行していた。
一瞬、鳥か何かだとでも思ったのだがそれにしては挙動がおかしく、
色合いもこんな街中ではついぞ見かけないような見事な藍色をしている。
蝶にしてはサイズが明らかに大きいし、おそらく昆虫の類でもない。
いったい何だろうと好奇心に押されて、和美はその飛行物体にゆっくり近づいていった。
片手にデジカメを構えながら固唾を吞む。すると次第にその姿が鮮明になっていった。


「・・・・・・・えぇ?」


ポツリと疑問の声を上げて和美は自分の目を疑った。肩にかけてある鞄が肘のあたりまでずり落ちる。
奇妙な物体の正体は温泉街の土産物屋にでも売っていそうな小銭入れだった。
藍染の布地に格子模様、白いより糸で花が刺繍されている。
太陽光を反射して鈍く光っているのは金色の留め金部分だろう、こぶし大に膨らんでいるそれが呑気に空を飛んでいた。


(・・・なんでやねん)


思わず関西弁でつっこんでしまうほど、それは脈絡もない光景だった。
左右にゆらゆらと揺れたかと思うと、回転を加えて上昇と下降を繰り返している・・・がま口がだ。
本物の超常現象にしてはあまりにおまぬけであり、誰かのいたずらにしてはシュールすぎる。
和美は何となくリアクションを取り損ねて、ぼーっと道の真ん中で立ち尽くしていた。
すると、そんな和美に気付いたのか空飛ぶ小銭入れが突然急接近してきた。


「朝倉さーん!」


明るく呼び掛けられる。嬉しそうに自分の名前を呼ぶその声には聞き覚えがあった。
最近、とある知人の紹介で知り合ったばかりの友人だ。彼女は透き通った手にがま口を握りしめ和美の前までやってきた。


「こんにちは!」


「あ~うん、こんにちは・・・さよちゃんだったのね。・・・一応納得」


優し気な目元に色合いの薄い髪、古めかしい制服姿でこちらをのぞき込んでいるのはクラスメイトの相坂さよだった。
若干かすれているその姿に微妙な脱力感を覚えつつ、鞄を掛けなおす。
そして和美は無理やり笑顔を浮かべながらさよに質問した。


「えっと、どっかにお出かけかい?」


「はいっ!ちょっとすーぱーまーけっとまでお買い物に」


「す、すーぱーまーけっとね。だから今日は財布持ってるのか」


「あ、これですか?えへへ、なかなか可愛いですよね」


「う、うん」


そう言いながら大切そうに持っているがま口を、掌に載せて見せつけてくる。
勢いに押されて相槌を打ってやると彼女は嬉しそうにほほ笑んだ。
無邪気に笑いかけられて、和美はある事実を指摘するべきかどうか真剣に悩んだ。
なんというか妙に罪悪感を刺激される。
だが、このまま何も言わずにさよを見送れば、買い物客でにぎわっているであろうスーパーがえらい事になる。
和美は心を鬼にしてさよに向き直った。


「ねぇ、さよちゃん。楽しそうにしてるとこ悪いんだけど。
一人で買い物するのはさすがに無謀じゃないかい?さよちゃん幽霊だし・・・」


「・・・え?」


「いや、え?じゃなくてさ。私が相手だったらいいけど、さよちゃんを見えない人はびっくりするんじゃないかな。
その、財布とか商品が勝手に動いてたらさ」


「はうあ!」


和美が遠慮がちにそう告げると、さよは発作でも起こしたように胸を押さえた。
そのままへなへなと地面に両手をつきうなだれる。
まるで素人演劇のように大げさな仕草だったが、どうも本人は本当に落ち込んでいるようだった。


「た、確かにそうですよね。私がお買い物なんてできるわけないですよね・・・」


「う、うん、たぶんね。というかなんでできると思ったの?」


「うぅ、最近普通に私とおしゃべりしてくれる人が増えたので、ひょっとしたらいけるんじゃないかと思って」


「いや、そこはもうちょっと慎重にいこうよ」


あきれながらそう言うと、さよはますます重たい影を背負い始めた。
ようやく梅雨を抜けたというのに、周囲一帯がじっとりと澱んだ空気をはらんでいく。
そんな調子で深い溜息を吐いている彼女に、和美はやれやれと肩をすくめた。


「ほらほら、あんまり落ち込まないで。買い物くらい私が付き合ってあげるからさ」


励ますようにそう言ってやると、さよは目の端に涙を浮かべながらこちらを振り向いた。
驚いた様子で確認してくる。


「え?いいんですか!?」


「まぁね。どうせ私も暇してたし、大した手間でもないしさ」


実際、学園祭の準備も終わっているので当日まで自分の出番はない。
今はちょうど準備期間と本番に挟まれた空白の時間帯というやつだ。
知り合って間もないとはいえクラスメイトが困っているのだし、自分で助けになるなら助けてあげたいと和美は思った。


「う、うぅぅ。あ、あさくらさ~ん。ありがとうございます!」


「はは、おおげさだなぁ」


今度は感動の涙をにじませてお辞儀をしてくるさよに、和美は若干照れた様子で顔を赤くさせた。


それからは特に問題らしい問題もなく買い物を終えることができた。
店内はそれなりに込み合っていたので、さよに話しかけるときは周りを警戒したものだが、
幸いなことに買い物客から奇異な目でみられるような事態にはならずに済んだ。

今は二人で次の目的地である横島忠夫の家に向かっているところだ。
どうやらさよは普段からお世話になっている横島に料理を作ってあげたいらしく、
そこそこ重くなった買い物袋の中には様々な食材が入っている。
彼女に持たせるわけにもいかないので荷物は全て和美が運んでいるのだが、
先刻からその事を気にしているようで、ちらちらとこちらの手元を見ていた。
一応気にしないでと伝えてはみたものの、あまり効果はないようだ。
和美は申し訳なさそうにしているさよの視線に居心地の悪さを感じて話題を変えることにした。


「そういえばさよちゃんって料理作れたんだ」


なるべく気負わないようにして話しかけると、さよは大げさに首を振った。


「い、いえそんなことないです。幽霊になってから初めての挑戦ですし」


「まぁ、そりゃそうか」


「はい。ですから献立はカレーにしようかと思って」


簡単に作れるほうがうまくいくでしょうしと彼女は少しだけはにかんでみせた。


「だね。よっぽどのことがない限り失敗はしないか」


何しろ食材を切って、煮て、カレー粉を入れる。大まかに言えば作業工程はこれだけだ。
本格的に作るとなるとそれなりに手間のかかる料理だったが、さよの口ぶりから推察するにそんな面倒な事はしないのだろう。
隠し味にコーヒー牛乳を入れたり、出汁がでるからとナマコをぶち込んだりしない限りはおそらく健全なカレーができるはずだった。


「あと一応特訓も兼ねてるんです。細かい作業を繰り返すことで力のコントロールがうまくなるらしくて」


「力のコントロール?」


「はい。あんまり気合を入れすぎるとポルターガイストが起きちゃうから、いろいろ練習してるんです」


「ポルターガイストって・・・」


可愛いなりをしていても幽霊には違いないようだ。一度練習中に火事を起こしかけた事もあるらしい。
その時から比べるとだいぶ上達したようなので心配はいらないといっているが。


(・・・ほんとかね)


何となく不安になる。
別に彼女が見栄を張っているとまではいわないが、うっかりしてミスを犯しそうな気配はする。
料理中はさり気なく自分も見張っておこうと心に決めて、和美は気付かれないように一度頷いた。

そうやって二人で談笑しながら歩いていると、横島が住んでいるアパートが目に入ってきた。
見た目はそこそこ頑丈なつくりの二階建てアパートで、
間取りを多くとっているのか建物の大きさに比べて部屋数自体はそれほど多くない。
建設からあまり時間もたっていないらしく外観はなかなかきれいなようだ。
裏側に設置してある駐車スペースを通り抜け正面に回る。
さよに横島の部屋番号を訪ね、和美は呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばした。

するとそんな自分をしり目に、さよは幽霊の特性を生かして勝手に室内に侵入してしまった。
そのまま内側から鍵を開け、扉を開いて和美を招き入れる。
あまりにもナチュラルな不法侵入だったが、本人は気にも留めていないらしい。
どうやら幾度もこの部屋を訪れているため、感覚がマヒしているようだ。

スリッパを用意しながらどうぞと呼び掛けてくるさよに和美は乾いた笑みを返した。
遠慮がちに玄関を通り靴を脱ぐ。
勧められるがままに部屋に上がり、一応自分だけは挨拶しておこうと和美は奥に向かって声を掛けようとした。
すると次の瞬間。バカン!!という派手な音とともに通路側に面している扉の一部が破裂したような勢いで開かれた。
そこから何かがすごい勢いで転がり出てくる。


「ご、誤解っす、誤解なんすよ美神さん!!」


上ずった悲鳴のような声でそう言ったのは、顔を真っ赤にして必死に弁明している横島忠夫だった。
いつも額に巻いているバンダナが首のあたりまでずり落ち、
熱湯でも浴びせかけられたかのように全身びしょ濡れであちこちから湯気を立てている。
まるで服を着たまま風呂に入っていたかのような有様だった。水滴を廊下中にまき散らし小さな水たまりを作っている。
いきなり飛び込んできたその光景に和美は目を丸くさせた。
部屋の住人である横島がここにいるのは少しもおかしなことではないが、
呼び鈴も鳴らしていないのにどうやって自分たちの来訪を知ったのだろうか。


(ってそういう問題でもないか。いくら横島さんでもこんな歓迎はないよな)


横島が相当な変人であることは認識しているが、さすがに水浸しで客を出迎えることなどないだろう。
それに先程から自分たちなど目にも入っていない様子だ。理由はさっぱりわからないが何かに怯えているらしい。
首をひねりながらさよと一緒に成り行きを見守っていると、そんな横島の視線の先から一人の女が現れた。
輝くような美貌が濡れて重くなった髪の間に見え隠れしている。
抜群のプロポーションをバスタオル一枚巻いただけで惜しげもなくさらし、シミ一つない上気した肌はあまりにきめ細かく滑らかだった。
長いまつ毛の下で伏せられた瞳が妖しい色気をたたえて愁いを帯びている。
均整の取れた強くしなやかな肉体はある種の美術品を連想させた。
ただ、全身から発散されている生気のせいで間違っても作り物には見えなかったが。
彼女は瑞々しさに満ちた唇を動かしポツリと言った。


「あんたねぇ、せめてバレた時くらい潔く死になさいよ」


「死ねるかああぁ!!だから違うんすよ!俺は美神さんの風呂を覗こうなんてこれぽっちも思ってなくてですね!!」


「ふ~ん。じゃあなんでコソコソしながら洗面所にいたわけ?」


「そ、それは、えっと・・・そ、そうだ!!
ほ、ほら美神さんこっちに来たばっかで着替えとか用意してないんじゃないすか?だから俺が替えの下着を・・・」


そう言いながら横島がどこからか女性用下着を取り出し両手で押し広げる。
レースをふんだんに使った洗練されたデザインは見るからに高級そうではあるが、
手にしているのが横島なのでもはや弁明の余地もなくキッパリと犯罪めいている。
美神と呼ばれた女性もそう思ったのだろう。重苦しい溜息をつくと額に青筋を立てながらニコリとほほ笑んだ。
つられて横島もひきつった笑顔を浮かべる。
白々しい静寂はけれどもさほど長くは続かなかったようだ。美神が何気なく触れていたドア枠がミシリと音を立てる。
見ているだけの和美にも脳内でけたたましく危険信号が鳴り響いた。
そして・・・爆発した怒りは周囲の空気すら押し流す勢いであちこちに噴出し始めた。


「だ・か・ら、なんであんたが私の下着を持っとるかあああああ!!!!!!」


「はっ、し、しまった!!掘らんでいい墓穴を自分から!?」


その後どのような報復が行われたのか和美は知る由もない。なぜなら声が聞こえた瞬間、後ろを向いて目を閉じていたからだ。
ただ、何かがすり潰されているようなぐちゃっとか、ねちゃっとかいう水っぽい音と、
断末魔にしてはあまりに弱々しい男の悲鳴が時折聞こえてくるだけだった。





◇◆◇





「あわわわわ、せ、先生の顔が潰れたトマトみたいに」


「まぁここ最近八つ当たりできる相手がいなかったせいでストレスたまってたみたいだしねぇ」


「だ、だからやめたほうがいいって言ったのにぃ。ひ~ん横島さは~ん」


半死半生の横島の傍で前髪だけ赤く染めた銀髪の少女がオロオロとうろたえている。
そんな彼女にやる気のない声で相槌を打っているのは、長い金髪を頭の後ろで無造作に縛っている学生服姿の女の子だ。
血生臭い匂いから少しでも遠ざかりたいのか部屋の隅っこで顔をしかめている。
救急箱から包帯やら消毒液やらを取り出し、どこかさよに似ている印象の女性が懸命に手当てをしていた。
いつもより三割増しで死にかけている横島の命を半泣きになりながら救おうとしている。
三人とも先程軽く紹介されたばかりだが色々と個性的な面々らしい。
さすが横島のお仲間といったところか。
なんだかよく分からないうちに勧められた座布団の上で和美は静かにお茶を啜った。


「う、うぅ、わ、ワイはただ再会の喜びを素直に表現しただけなのに」


氷室キヌと名乗った女性に膝枕をされながら横島が力ない声でうわ言を口にする。
体だけは頑丈な彼も今回はなかなか復活することができないでいるらしい。
しかしそんな独りよがりの言い訳は何の感慨も呼び起こさなかったようだ。
覗きの被害者であり私刑の加害者でもある人物・・・美神令子は呆れたように溜息をついた。


「あんたの愛情表現はたいてい犯罪行為なの。いい加減自覚しなさいよ」


「だからって久々に会ったっつーのにこんな殴ることないじゃないっすか!」


「久々の再会でいきなり殴られるようなことするからでしょうが!!
まったく・・・色々頑張ってくれたからちょっとくらいは給料上げてやろうかと思ったのに」


「へ?なんか言ったっすか美神さん。まだ頭がくらくらするんで大きい声で言ってくれないと聞こえないんすけど」


「うっさい。こっち見んな」


犬を追い払うような仕草で手を振りながら美神はそう言った。拗ねたようにそっぽを向きブツブツとこぼし始める。
そんな彼女の様子にばつが悪いのか、横島は頭をかきながら和美のほうに向き直った。


「そ、そういえば和美ちゃん、今日はどうしたんだ?何か用事?」


どうも話題を変えてお茶を濁したいらしい。仕方がないので和美はその思惑に乗ってあげることにした。


「ん~にゃ、私は単なる付き添い。なんかさよちゃんが横島さんにカレー作ってあげるんだってさ」


「カレー?」


こたつ机の上で肘をついた少々だらしない姿勢で和美が台所を指さす。
横島がきょとんとしながらその誘導に従って視線を向けた。今さよは調理の真っ最中だ。
最初は和美も傍について見ていたのだが、彼女は意外にもそこそこ慣れた手つきで包丁を握っていた。
まだ所々危なっかしさは残っているものの、あれならばなんとかなりそうだとこちらに戻ってきていたのだ。


「力の使い方の練習だって。横島さんが言ったんじゃないの?料理してみればって」


「いや、別にそんなこと言った覚えはないんだが」


そう答えながら横島は台所にいるさよを不思議そうに見た。どうも本気で身に覚えがないらしい。


「でも横島さん昔幽霊の女の子にお世話になってたんでしょ?だから自分も頑張ってみるって、さよちゃんが言ってたよ」


「あ・・・あぁそういやしたかもしれないなそんな話」


そう言いながら横島はなぜか自分の隣に座っているおキヌを見た。彼女も横島と顔を合わせてくすくすと笑っている。
美神たちにも通じる話題らしく、彼らはそのまま身内で盛り上がり始めてしまった。
その事に少しだけ疎外感を感じて、和美は何となくこの部屋にいる最後の人物に視線を送った。


「それで君はなぜこんな所にいるのかね夕映きちくん」


「大した理由はないんで放っておいてくれませんかね朝倉さん」


部屋の隅っこで小さな体をさらに小さく丸めてなぜか綾瀬夕映がそこにいた。
どことなく不機嫌そうに眉をひそめて、彼女は和美から視線をそらしている。
実を言えばこの部屋に入った時から気付いていたのだが、
本人が自分にかまうなというようなオーラを発していたので声を掛けそびれていた。
制服姿なので、どうやら学校が終わったその足でここに来ていたようなのだが。


「いや、放っておけって言われてもさ、どう考えてもこの面子で綾瀬だけ浮いてるじゃん。気になるって」


「そ、それは、その、そうかもしれませんけども」


語尾を濁しながら夕映がもじもじと三つ編みに縛っている髪をいじり始めた。
見るからに言い訳じみた様子で言葉を続けてくる。


「わ、私はただ昨日横島さんの様子がおかしかったから・・・」


「気になって来てみたと?」


「まぁ、そうです」


夕映はそう言って力なく頷き返してきた。こちらの視線から逃れるためか手に持った大きなマグカップで顔を隠している。
そんな夕映の姿を観察しながら、和美は何となく早乙女ハルナの言葉を思い出していた。
彼女が言っていたあの噂は、ひょっとしたら間違いではないのかもしれない。
昨日の横島がどんな様子だったかは知る由もないが、
普通いくら心配だったとしても一人暮らしの男の家をわざわざ訪ねてくるだろうか。
しかも誰かと一緒にではなく一人だけで。


(ふ~ん綾瀬がねぇ。綾瀬ってもっとこう真面目というか落ち着いた感じの人が好きなんだと思ってたけど)


最近夕映と横島がよく一緒にいるという話は聞いていたし実際に見てもいたが、それでも冗談半分な話だったのだ。
ここに来てその冗談話に真実味が増してきた。まぁこの様子では本人も自分の気持ちを自覚していないようではあるのだが。
そんなことを考えつつ口元を緩めていた和美だったが、目ざとく気付いたのか夕映が眉間にしわを寄せながら詰め寄って来た。


「何か失礼なこと考えてませんか朝倉さん」


「え~まさか~パルもあれで結構鋭いんだな~とか思ってないよ~」


「何ですかそのわざとらしい言い回しは。言っておきますけど朝倉さんが考えているようなことは微塵もないですよ。
わざわざ訪ねてきたお客さんをほっぽり出して女性のお風呂を覗くような人の事なんて私は全っ然これっぽっちも!!」


「い、いや分かった。分ったからちょっと離れて。鼻息がこそばゆいから」


夕映が耳元から首筋にかけてねっとりと訴えかけてくる。
和美はその押し殺した迫力満点の声から逃れるために座布団に座ったまま器用に距離をとった。


「別にそんな照れることもないと思うけどなぁ。ほら、蓼食う虫も好き好きっていうじゃん。
人の好みなんて千差万別なんだから世界のどこかにはスケベで女好きの色情狂で何度かトラブルを起こして警察に捕まりそうになっては
ゴキブリ並みのしぶとさで逃げ延びてる変質者を好きになる人も、きっとひょっとしたら万が一にもいっぱいいるかもしれないって」


だからそんなに気に病むなと言外に含めて肩をたたいてやると、夕映は心底いやそうにその手を払った。


「私が言うのもなんですが、朝倉さんって横島さんの事嫌いなんですか?」


「へ?なんで?見てて飽きないし面白い人だと思ってるけど」


意外なことを言われた気がして和美は首を傾げた。若干引き気味な夕映を不思議そうに見つめる。
彼女はなぜか疲れた様子で溜息をついていた。


「・・・いえ、なんかもういいです」


そう言って会話を切り上げた夕映がどことなく悲哀のこもった表情を浮かべる。
色を失った黒い瞳が前髪の奥に隠れ、口元で何やらブツブツとこぼし始めた。
小さな手を膝の上で握りしめ、顔を横島達がいるほうに向けている。
俯き気味であるためこの角度からでは誰を見ているのかわからなかったが。

そんな風に黙り込んでしまった夕映に、和美が何となく声を掛ける事を躊躇していると、
突然ガチャンという食器同士が接触するような音がキッチンのほうから聞こえてきた。


「ひゃぁ!!た、大変、鍋が噴きこぼれて・・わぁ!!な、なんで急に火力が上がって、このままじゃ火事になっちゃう!!
と、とにかくみみ、みずをかけないと!」


続いてそんな丁寧な状況説明が悲鳴交じりに発せられた。居間で呑気に会話を楽しんでいた面々が一斉に台所を振り返る。
そこにはせわしなくあちこち飛び回っているさよがいた。右手にキッチンバサミを左手には菜箸を握っている。
慌てすぎてまともな対応もできないのか、蒸気が吹き上ているためにすごい勢いでカタカタとなっている鍋のふたを、
手に持った菜箸で強引に押さえつけていた。


「ふぇぇ誰か助けてくださ~い!」


そんな情けない声で助けを求めてくるさよにいち早く反応したのは意外なことにおキヌだった。
どことなくおっとりしたように見える印象を裏切って、素早くコンロの火を止め鍋のふたを手前に傾けて蒸気を逃がしている。
中身が噴きこぼれたシンクを手早く濡れタオルで拭い、最後に散乱していた調理器具を流し台の上に置いてからさよに微笑みかけた。


「さよちゃん大丈夫?」


「お、おキヌさんありがとうございます!!」


あまりの手際の良さに呆然としていたさよだったが、声を掛けられたことで落ち着きを取り戻したのか涙目のままお辞儀を繰り返していた。
そんな彼女に優しげな視線を向けておキヌは言った。


「あんまり気にしないで。たぶん料理に集中しすぎたせいで無意識に力を使っちゃってたんだと思う。
慣れていくうちにそんなこともなくなるだろうからリラックスして頑張ろ?」


「は、はい!よろしくお願いします」


さよが胸の前で両手を組み感動した面持ちでこくりと頷いている。それから二人は協力しながら料理を進めているようだった。
おキヌが付け合わせのサラダを作るために手早くレタスを千切って水に浸し、
こぎみよい包丁さばきでキュウリやらトマトやらをちょうどいいサイズに切断している。
そのかたわら手作りらしいドレッシングの作り方を教え、
さよは嬉しそうにしながらどこからか取り出した小さなメモ帳にレシピを書き記していた。
なんというか早くも打ち解けている様子だ。どことなく印象も似ている二人だったし、別に驚くことでもないのだが。
そんなことを思いながら何となく二人の様子を見ていた和美だったが、
ふと隣で同じようにキッチンを眺めているシロとタマモに気付き声を掛けることにした。


「えーと、料理得意なんだね。おキヌさんて」


らしくもなく少しだけ緊張しながらそう言うと、二人は訳知り顔で頷いた。


「炊事だけでなく掃除や洗濯もプロ級でござるよ。事務所の家事全般を一手に引き受けているでござる」


「実際おキヌちゃんがいないとうちの事務所なんか三日ともたずにゴミ屋敷になるわよね」


しみじみとした口調でそんなことを言っている。和美は冗談だと思って軽く否定の言葉を口にした。


「いやいやゴミ屋敷っていくらなんでも大げさでしょ」


「ところがそうでもないのでござるよ。拙者たちがいくら片付けてもいつの間にか部屋中が書類の山で埋まってるんでござる」


「たまに美神さんもわざとやってるのかと思うけど。一番困ってるのが本人だからそんなことないんでしょうし」


不思議よねぇと朗らかに笑いあっている。どうやら何の誇張もない事実らしい。
話ぶりから推察するに部屋を散らかしているのは主に美神のようなのだが、見た目とのギャップに意外性があり過ぎると和美は思った。
何せ絶世の美女といってもいいくらいの人なのだ。
そんな人が実はずぼらなのだと聞かされてもにわかには信じられなかった。


(わざわざ私に嘘つく理由もないだろうから本当の事なんだろうけど)


人間誰しも欠点の一つはあるという事なのだろうか。まぁ容姿と性格が必ずしも一致しないというのは理解できないことでもないが。
半信半疑のまま和美が無理やり納得していると、話題の当人である美神が引き攣った笑みを浮かべながら口をはさんできた。


「あんたら・・・好き放題言ってんじゃないわよ」


押し殺した低い声が威圧感をにじませる。鋭い視線を向けられたシロとタマモがびくりと体を震わせ、即座に白旗を上げていた。
彼女たちの力関係が如実に表れているようだ。どうも美神には頭が上がらないらしい。
目を泳がせながら必死になって弁明している二人のために、和美は心の中で彼女たちの命運を祈ることにした。

そうこうしていると、だんだんキッチンからカレーの匂いが漂い始めてきた。
同時に、さよの小さな歓声も聞こえてくる。どうやら無事料理が完成したようだ。
夕食にはまだ早い時間帯だったが、それでもカレー独特の香りは食欲を刺激する。
和美が思わず唾を飲み込んでいると、隣にいる横島も鼻をひくつかせながら腹を撫でていた。
部屋の隅にいたはずの夕映も、先程よりテーブルに近づいている。
やはり成長期の体にあの匂いは格別なようだ。
その事に気付いて和美が苦笑していると、美神から追及を受けていたシロとタマモが好都合といわんばかりに席を立った。
おそらく手伝いを口実におキヌのもとに避難するつもりなのだろう。
まぁ、これだけ大所帯だと人数分の食器を並べるだけで一苦労だし、人手が多いに越したことはないのだろうが。
一瞬自分も手伝うべきかという考えが脳裏をかすめたが、
いちおう客として来ている手前、必要以上にでしゃばるのも失礼な気がして和美はおとなしく待っていることにした。

しばらくすると完成した料理を持ってさよたちがキッチンからやってきた。
サラダやカレーライスを盛りつけた大皿がテーブルに並べられる。
しかし元々大人数を想定していないこたつ机ではスペースが足りなくなってしまい、
最終的になぜか横島だけがミカンと書かれた段ボールの上で食事をすることになっていた。


「なんか納得いかん。もともとさよちゃんはワイのためにカレーを作ってくれたはずなのに、
なんで俺だけミカン箱で一人寂しく飯食わなきゃならんのだ」


「え、えーと・・・大丈夫です、横島さんには私がついていますから!」


一人だけ団らんの輪から外された横島がブツブツと独り言をこぼしている。
そんな彼の隣でさよが甲斐甲斐しく世話をしつつ懸命に慰めていた。


「さよちゃんはほんまにええ子やなぁ」


「そ、そんなことないですよ。それより味はどうですか?美味しくできてますか?」


「ん?ああもちろんうまいぞ。はじめてにしては上出来だと思うよ。まぁカレーをまずく作れる奴もそうそうおらんだろうが」


横島がもぐもぐと口を動かしながら感想に余計な一言を付け加えている。
さよは喜んでいいのか悲しむべきか本人にもわからない様子で味のある絶妙な表情を浮かべていた。


「うぅ、美味しいって言ってもらえてすごく嬉しいですけど、なんか複雑な気分ですぅ。
こうなったらもっとおキヌさんに料理を教えてもらって、いつか横島さんをぎゃふんと言わせるしか!!」


「いや、ぎゃふんて。まさかわざとまずいの作るとかじゃなかろーな」


横島がそう言っている隣で、さよは話も聞かずに謎の闘志を燃やしている。
何をやっているんだかと和美が呆れていると、夕映が自分と同じようにちらちらと彼らを見ていた。
どうやら横島たちの様子が気になっているようだ。


「そんなに気になるなら綾瀬も向こうで食べてきたら?」


「ふぇっ!?な、なんですかいきなり!」


「いや、さっきから落ち着かないみたいだからさ」


「べ、別にそんなことないですよ。何言ってるですか」


「だって、なにか横島さんに話があるんじゃないの?食べながらでも聞いてくれば?」


「い、いいですよ。もともとそれほど大した話じゃなかったですし」


もごもごと口ごもりながら夕映が手に持ったスプーンを手の中で弄んでいる。
あからさまに動揺しているようで、食器とスプーンがカチャカチャと触れ合っていた。
それを指摘してやると今度は自棄になったのかカレーを口いっぱいに詰め込み始めた。
頬を膨らませ、ろくに噛みもしないで胃の奥に流し込んでいる。
途中、喉を詰まらせ顔色を青くさせた夕映に水を手渡してやりながら和美はやれやれと肩をすくめた。

結局その後も夕映は横島と会話らしい会話をすることはなかった。
和美も彼女が話しやすいようにいろいろと水を向けたりしたのだが、結果はあまり芳しくなかったようだ。
まぁ緊急性のある話ではないようだし、本人も明日また聞いてみると言っていたのでそれほど気にすることでもないのかもしれないが。

そうこうしているうちに門限が近くなりその日は解散することになった。
玄関口まで見送ってくれた横島やおキヌに別れの挨拶を交わして和美は部屋を出た。
初夏の夜、日中とは違って夜の空気を纏った涼やかな風が吹き付けている。
それを受け止めながらどこか遠くに感じられる空を見上げて和美はそっと深呼吸した。

偶然とはいえ面白い人たちと知り合いになれた。
彼女たちは横島の上司と同僚だそうだが、仕事でしばらくの間麻帆良にいるらしい。
仕事内容を尋ねた時、学園都市の郊外に生息している害獣の駆除を行うのだと言っていた。
なんでも都市として整備されていない外延部の山狩りをするのだとか。
正直、女性ばかりの美神たちが行う仕事とは思えなかったが、本人たちにしてみればよくあることなのだそうだ。
ハンターの仕事とはどんなものなのか少し興味がわくし、
今度会う時には質問の内容を吟味して本格的に取材をしてみるのもいいかもしれない。

学生寮までの帰り道、自分たちを送ると言って途中まで憑いてきているさよの横顔を見ながら和美はそんなことを思った。





◇◆◇





和美たちが帰った後の横島宅。
先程から比べれば人口密度は減ったのだが、それでもいつもに比べれば少々手狭な室内で、
美神除霊事務所の面々は各々自由な様子でくつろいでいた。
美神はこたつ机に仕事関係の書類を並べつつおキヌが入れてくれた紅茶を飲んでいる。
この部屋で一番大きなクッションを占領し、ノートPCの前で眉間にしわを寄せていた。
おキヌは台所でエプロン姿のまま手際よくお片づけをしている。
機嫌がよさそうに口ずさんでいる軽やかな鼻歌がここまでかすかに聞こえていた。
シロとタマモは先程からテレビの前でチャンネル争いをしている。
シロは時代劇を見たい様子なのだがタマモは料理番組を見たいようだ。どうもうどんの特集が組まれているらしい。
このままではらちが明かないとジャンケンをし始めた二人を見ながら横島は胸中で呟いた。


(なんちゅーか・・・相変わらずやな)


しばらく顔を合わせていなかったが、みんな全く変わっていない。
自分がよく知る通りの仲間たちだった。
湯呑に残った緑茶を啜りながら苦笑を零す。どうやら自分はその事にどこかほっとしているらしい。
横島がそんなことを考えていると、仕事がひと段落したらしい美神が半眼を向けてきた。


「何笑ってんのよ」


「え、いや、別に何でもないっすけど・・・」


「・・・ふーん」


どことなく疑わしそうな美神に横島は首をすくめた。汗ばんだ手のひらを握りしめ愛想笑いをする。
そんな横島をじっとりとした視線で観察していた美神だったが、やがて馬鹿らしく思ったのか小さくかぶりを振った。
ノートPCの電源を落とし、ポキリと指の関節を鳴らす。額にかかった前髪を気だるげにかき上げ紅茶を口に含む。
細く形の良い喉がゆっくりと上下していた。

何となくボーっとしながらその様子を眺めていた横島だったが、
不意に自分が美神の何気ない仕草にまで注視していたことに気付いて柄にもなく照れ臭くなった。
美神の所で働くようになってからこれほど長期間彼女と離れていたことはなかったせいか、どうにも目を引かれてしまうようだ。
誤魔化すように咳払いをする。


「えっと・・・美神さん、ちょっと聞いていいすか?」


「あによ?」


片眉を器用に釣り上げた美神が短く問い返す。
自分に対するぞんざいな態度は相変わらずなようだが、一応許可は下りたものと解釈して横島は話を切り出した。


「いや、いまさら聞くのもあれっすけど、美神さんたち何でこっちの世界にいるんすか?
確か事務所閉めらんないからって、こっちには来れないはずだったんじゃ・・・」


こちらの世界に来たばかりの頃、ジークによって説明された内容を思い出す。
当時、美神の事務所は急ぎの仕事こそなかったものの、幾つかの企業から定期的に依頼が来ている状況だった。
そんな状況で事務所の所長が長期出張するわけにはいかないからという理由で横島が代わりに異世界に来たわけだが、
あの時はまさかこんなに長く居座ることになるとは思わなかった。
つまり結果的に見れば美神の判断は間違っていなかったということなのだろう。
従業員の都合をまるっと無視して異世界に叩きこんだ所業をなかったことにすればの話だが・・・。
そんな風に横島が思わず暗い影を背負い込みそうになっていると美神が居住まいをただしてこちらに向き直った。


「そりゃ私だってできれば来たくなかったけどさ。いろいろ気になることがあんのよ」


「気になることってやっぱり四人目の事っすか?」


「うーん・・・まぁそれはそうなんだけどそれだけじゃないというか・・・」


美神が歯切れ悪く言い淀む。
頭の中で話すべき内容を整理しているのか、指先でテーブルをコツコツと叩きながらやがて彼女は口を開いた。


「そもそも横島君が倒した魔族ってどうやってこの世界の事を知ったんだと思う?」


「え?」


唐突に思いがけないことを聞かれて横島は言葉に詰まった。
瞳をパチクリとしながら聞かれた内容を反芻する。


「いや、どうやってって・・・そりゃ奴らの親玉に聞かされてたんじゃないっすか?だってこの世界を作ったのは・・・」


「アシュタロス。まぁ普通に考えればそうなるわよね・・・」


異世界を創造したかの魔神は、神族と魔族のトップが推進していたデタント政策に真っ向から反対していた勢力の筆頭でもあった。
逃亡犯である魔族も反デタント派に属していたらしいので、双方に繋がりがあったとしてもおかしくはないはずだ。
横島がそう言うと美神はわずかに顔をしかめて唇をかんだ。


「そうね。でも、ちょっと見方を変えるとおかしな点が出てくる」


「おかしな点?」


「アシュタロスの計画のほとんどをサポートしてた土偶羅でさえしらなかったのよこの世界の事は。
それなのにあの最終決戦のときも魔界に引っ込んでたような連中にアシュタロスがわざわざ教えると思う?」


「それは・・・」


「まぁ百歩譲ってあらかじめ聞かされてたんだとしてもよ。
逃亡犯の連中が魔界を追われて地上に降りてきた時、真っ先に異世界を逃亡先に選んだ理由は何?
どんな問題が起こるかわからないのよ?実際霊力の大半を失って休眠状態にまで追い込まれてたわけだし」


魔族や神族は霊体・・・つまり魂が肉体という皮をかぶって存在しているようなものなので霊的な環境の影響を受けやすい。
その性質上、霊力がほとんどない世界では存在を維持する事さえ困難になる。
それ故に彼らは基本的に己のテリトリーから離れることを嫌う。環境次第で自らの力の上限が変わるのだからそれも当然だ。
逃亡犯の連中も、もちろんその事を理解していただろう。だがそう考えると彼らの行動自体が不自然なのだと美神は言う。

霊力が存在しないという異世界の環境について彼らがあらかじめ知っていた場合、まず逃げ込もうなどとは考えないだろう。
逆にその事を知らなかったのだとしても、
よほど追い詰められでもしない限りは全く未知の環境に自ら飛び込んだりはしないはずだ。
要するに彼らを主体にその行動を追っていくと細かな矛盾点がいくつか見つかるらしいのだ。


「え?でもそうだとすると・・・あいつら何でこっちの世界に来たんすか?」


「さぁね、そこまでは私にもわかんないわよ。ただ・・・」


芝居がかった仕草で美神は肩をすくめた。皮肉を演出するように口元にはわずかな笑みが形作られている。


「一連の流れから考えて逃亡犯の連中とは別に何らかの思惑が絡んでいるのは間違いないと思う。
だからその辺のことを私もいろいろと調べてたんだけどね。正直手詰まりだったのよ。
で、そこにきてあんたが四人目を見つけたっていうから・・・」


「気になって来てみたと」


「そういうこと」


些か投げやりにそう言うと美神は台所にいるおキヌにお茶のお代わりを頼んだ。
ハイというこぎみよい返事とともにティーポットを持ったおキヌが現れる。
どうやら片付けは終わったようだ。美神のティーカップにお代わりを注ぎエプロンを脱いで一息ついている。
先程までくだらない理由で相方と真剣勝負をしていたタマモも、いつのまにか子狐の姿でおキヌの膝の上に座り込んでいる。
どうやらジャンケンに負けたらしい。不機嫌さを隠そうともしない彼女の背中をおキヌが慰めるようにやさしく撫でていた。
一部いまだ時代劇に夢中になっているワンちゃんがいるが、
各々やるべき事がひと段落したらしいのでとりあえずこれからの事について話し合うことにする。


「といってもさっき言った通りこっちにたいした進展はないわ。横島君のほうはどうなの四人目の調査は?」


「いや、あのガキについて話せることはほとんどないっすよ。でも最近まで一緒につるんでた子がいるらしくて」


美神に尋ねられた横島がこれまであったことを説明する。
お世辞にも要領がいいとは言えないその説明をそれでも黙って聞いていた美神達だったが、
四人目の協力者である超の話に差し掛かった時、僅かに驚きの声を上げた。


「未来人?」


横島に対してアホを見るような目つきでタマモが口を開く。


「なんなのそれ?あんたそんな話信じたわけ?」


「まぁお前のそういう反応もわからんではないが、
俺と美神さんに関しちゃ未来人だのタイムトラベルだのは馬鹿げた話だっつって笑い飛ばすわけにはいかんのや」


「・・・どういう意味?」


可愛らしく首を傾げたタマモが訝しげな声を上げる。
彼女の問いに対してなんと説明するべきか迷っていた横島だったが、話が進まないと思ったのか美神が強引に口をはさんだ。


「そっちは後で私が説明してあげるわ。
それより横島君、その超って子に四人目が協力してるのは間違いないのね?」


「そうだと思うっす。俺は四人目のガキから超ちゃんの話を聞いたし、彼女も否定はしなかったっすから。
ただ、ちょっと前にあのガキが出ていっちまったらしくて、もう一緒にはいないみたいなんすけど」


「出て行った?」


「超ちゃんのほうでも行方がつかめないみたいです。学園長の爺さんも見つけられないっていうし」


学園長が情報を秘匿したうえで相当数の人間に探させているらしいが色よい成果は得られていない。
ジークのほうでもかなり綿密に霊力探査を実行しているようだが、それでも網に引っかからないらしい。
唯一の手掛かりだった超からもたいした情報が得られなかったため、現状四人目の捜索に関しては難航しているといえる。

そんな横島の報告を聞いた美神が何事かを考えるように口を閉じる。
よほど集中しているのか眉根を寄せながら身動ぎ一つしなくなった。
進行役だった美神が黙ってしまったので何となく場の空気が弛緩し始める。
真面目な話をしていたせいか横島が何となく肩のあたりに疲れを感じていると、
おキヌに慰められて気を取り直したらしいタマモが欠伸交じりに呟いた。


「でも、その超って子が本当に未来人だったとして、そんな簡単に過去を変えるなんて事ができるの?」


「まぁ・・・なぁ。本人はけっこう勝算があるみたいだったけどな」


昨日自信ありげに話していた超の姿を思い出す。
何年かかけて周到に根回ししているというようなことを言っていたので相当な自信があるのだろう。
横島がそう言うと、皆の話を黙って聞いていたおキヌが遠慮がちに口を開いた。


「でもそういう歴史に干渉するような事ってできないはずですよね。たしか・・・」


自信なさげにおキヌが美神に顔を向ける。その視線を受け止めた美神が一つ頷いた。


「宇宙意思。歴史の修正力。因果律の収束。言い方なんてどうでもいいけどね。
過去を変えようとするとこいつの妨害にあう。
前に横島君が魔族に殺されかけた時、過去に戻って助けた事があったんだけど、
とある神様に言わせれば、それは現在でも助かる可能性が残ってたから出来た事らしいわ。
要するに過去を変えられるって言っても、変えられる過去しか変えられない。
・・・いえ、一度確定した結果は変えられないというべきか」


その説明なら横島も一度聞いたことがある。実際にそういった普通では考えられないような力の恩恵を受けたこともあった。
確かその時美神は自分たちを風に例えていたか。あの魔神が宇宙意思に反抗したために起こった反作用だと。


「やっぱり・・・そうっすよね・・・」


言いながらなんとなく胸のあたりにもやもやとしたものを感じて横島は小さく嘆息した。
するとそんな様子が目に入ったのか美神が試すようにこちらを見た。


「当ててあげましょうか?横島君。
あんたひょっとしたら過去を変えることができるかもしれないってそう思ってるんじゃない?」


悪戯っぽくそう言う美神におキヌとタマモが目を丸くする。
横島は俯いた姿勢から顔を上げると美神に問い返した。


「美神さんも気付いてたんすか?」


「可能性の問題だし、検証するわけにもいかないから確信があるわけじゃないけどね」


美神が肩をすくめてティーカップの縁をなぞる。どうやら自分が思いつく程度の事はとっくに気が付いていたようだ。
横島は妙に納得して口元を緩めた。


「ちょっと二人で納得してないで説明してよ」


話についていけずにタマモが抗議の声を上げる。口には出さないがおキヌも気になっている様子だ。
突っかかってくるタマモを自分の膝に乗せて美神は説明を再開した。


「さっき言ったけど基本的に過去を変えることは不可能よ。
いくらか過程は変化するかもしれないけど、それでも結果が変わることはない。宇宙意思が妨害してくるからね。
ただ・・・それはあくまで私たちの世界での話なのよ」


「どういう意味?」


「異世界・・・こっちの世界はね、その宇宙意思に反逆しようとしたある魔神が作った世界なの。
あいつは宇宙処理装置なんてものを作って宇宙の法則そのものを作り替えようとした。
そんなたいそうなこと考える奴が一から作り上げた世界なのよ?
ひょっとしたら私たちの宇宙とは根本的な構造からして全く違うのかもしれない」


「話についていけない。魔神?宇宙処理装置?なんなのそれ」


「昔そいつといろいろあったのよ。詳しく話すと長くなるんだけど・・・。
っていうか今回の依頼の資料に概要が書いてあったじゃん。あんた読んでないわけ?」


「あんまり興味なかったから読んでない」


バッサリと切り捨てられた美神の頬がピクリと痙攣する。
膝の上にいたタマモが背中をワシャワシャとかき回されて悲鳴を上げた。
慌てておキヌのもとに避難しながら威嚇するように唸り声をあげている。そんな彼女の様子を無視して美神は話を続けた。


「まぁそういう可能性の話をしてても仕方ないわ。それより今は四人目の魔族をどうやって探すかを考えましょう」


「でもさっきの横島さんの話だと見つけるのは難しそうですよね。一応見鬼君とか道具はいろいろ持ってきてますけど」


おキヌが部屋の隅に置いてあるリュックに視線を向ける。
本格的な登山でもするのかというような大荷物だが、これは元の世界で横島が担がされている馴染み深い物だ。
どうやら普段の除霊仕事で使う道具は一式持ってきているらしい。
とは言ってもその手の霊体検知器などを使った捜査はジークがとっくに行った後だ。
美神除霊事務所にある霊具はどれも一級品ばかりだったが、
それでも魔界の正規軍が正式採用しているような大掛かりな探査装置に勝てるとは思えない。


「私たちの鼻を当てにしてもらっても困るわよ。匂いを探るための手掛かり一つないんじゃさすがに無理」


再びおキヌの膝の上を占拠したタマモがあっさりと告げる。
人狼や妖弧の鼻は人間など比べ物にならないような精度で匂いをかぎ分ける事が可能だが、
それでも匂いのもととなる何かが存在しないのでは標的を追跡しようがない。
時間がたつにつれて匂いが薄まってしまうことも考えれば、
少年と出会った場所まで連れて行ったとしても無駄足になるだけだろう。
結局有効な手段が思いつかず、横島たちは顔を見合わせて嘆息した。
四人目の捜索に関しては散々試行錯誤していた後だったので、解決策が見つからなくても仕方のないことかもしれない。
行き詰った気配がその場を支配し始める。
しかしそんな中で美神だけは建設的な意見が出されない事にもさほど動じた様子を見せず、うむうむと頷いていた。
そんな彼女の様子が気になったのかおキヌが美神に質問した。


「あの美神さん。何か思いついたんですか?」


その言葉を待っていたとばかりに美神が得意げな様子でビシリと人差し指を立てる。


「そうね一番手っ取り早いのは・・・超って子を拉致って吐かせる」


ニコリと魅惑的な笑顔を浮かべながら美神が自信満々に犯罪計画を提案した。


「み、美神さん。あの、さすがにそれはどうかと」


何ら悪びれもせずに堂々としている美神におキヌの顔が引きつる。


「いつも相手にしてるヤクザじゃないんだから中学生の女の子にそれは・・・」


タマモが狐の姿をしていてもわかるほど、うんざりとした表情を浮かべた。


「いくら異世界の事といえど拙者犯罪者にはなりたくないでござる」


どうやらテレビを見終わったらしい。シロがしれっと会話に混ざりこんできた。


「な、なによあんた達。いきなり全員で反対する事ないじゃん!っていうかシロあんたいつの間に!?」


自分の意見を即座に全否定された美神が抗議の声を上げる。


「えっと・・・でも・・・」


「だって、ねぇ・・・」


「うむ。だってでござる」


一部会話についていけているのかどうかもわからない者を含め、三人が顔を見合わせた。
何とも言えない味のある表情を浮かべている。


「くっ、そ、それなら、横島君は!?横島君はどう思う!?」


形勢の不利を悟った美神が自らの事務所における最古参のメンバーに意見を求めた。
最後の希望を託すように熱い視線を向ける。
急に矛先を向けられた横島が一瞬動揺を露わにした。
しかしそれでも美神の期待に添うべく、なんとか平静さを装い瞳に真剣な色を浮かべた。
背筋を伸ばし居住まいを正す。そして尊敬する己の上司に向けて自分が正しいと思う意見を発表した。


「俺は女の子を拉致監禁するなら大学生くらいがベストだと思います」


「真面目な顔して何を言ってるかああああああああ!!!!!」


顔面に対して垂直に放たれたその打撃は目標を完全に沈黙させた。





◇◆◇





「まったく話の腰を折らないでよね」


「は、半分くらい美神さんのせいやないですか~」


「あ、あははは、私も久しぶりの突っ込みでいまいち力加減が働かないのよね~」


「そんな理由で毎回半殺しにされてちゃ割に合わんですよ」


「まぁ大体感覚取り戻したし次からは平気なんじゃない?」


「ほんと頼んますよ。いくら俺でもそのうちマジに天国行きっすからね」


そう言いながら横島がサラリと美神の乳を揉みしだく。


「言ってる傍からいきなり何するか!!」


「ぎゃあああぁぁぁ!!!」


こちらの動体視力を軽く凌駕するほどの速さで放たれた一撃により横島は再び轟沈した。
それでも何とか体を引きずって起き上がる。


「やっぱり加減なんかちっともできとらんじゃないですか!!」


「何の脈絡もなく胸もまれて手加減なんかできるかああああぁ!!!」


その後再び訪れた惨劇の饗宴において、ある者は血に塗れながら逃げまどい、ある者は血を纏いながら追い回し、
ある者は血を止めるために奮戦し、ある者は血に狼狽え放心し、ある者は血生臭いのが嫌だから逃げ出した。
結局、色々とめちゃくちゃな騒ぎの後、何とか事態の収拾がついたのは夜半過ぎになってからだった。


「・・・次はないわよ」


首を掻き切るポーズをとりながら美神が淡々と告げる。横島は背筋に冷たいものを感じながら直立不動で敬礼を送った。


「はぁ、まったく無駄に疲れたわ。今後の事は明日に相談するとして今日はもう寝ましょう」


「そうですね」


「賛成」


「了解でござる」


美神の提案に全員が力なく頷く。色々な意味で気力も体力も消耗したのか誰もが瞳に空虚な色を映していた。
各々が洗面所に歯を磨きに行ったり、来客用の布団を敷いていたりする。
そんな彼女たちの様子を何気なく見ていた横島だったが、ふと心に疑問が生じた。


「あの美神さん」


「あによ・・・」


心底どうでもよさそうな美神に多少気後れを感じながら、それでも横島は聞いておかなければならないことを口にした。


「ひょっとして美神さんたちもここに泊まるんすか?」


昨晩も一度この世界に来ていた美神たちだったが、色々と荷物やら何やらを置いて夜には元の世界に帰還していた。
しかしおキヌたちの様子から見て、どうも今日はここに泊まるつもりのようだ。
テーブルを片付け布団を奇麗に並べていく彼女達を見ながら横島は首を傾げた。


「まーね。簡単そうに見えるかもしれないけどあの扉を使うのも色々制限があるのよ。
異なる世界の位相同士を接続して時間軸を合わせてどうのって。
緊急事態に対応するためにも常にこっちの世界にいたほうが都合がいいし」


「でもそれって美神さんと俺が一つ屋根の下で同居するって事っすよね。
いや、もはやこれは同棲といっても過言ではないのでは!?
一緒に飯食ったり、一緒に風呂入ったり、一緒の布団でくんずほぐれつ・・・。
はっ!!ま、まさかいつの間にか知らんうちに美神さんは俺に惚れとったんか!?
だとしたら・・・美神さんそんな遠回しに言わんでも俺ならいつでも準備万端で!!!」


妄言を口にしながら横島が身悶える。その姿にフッと笑みをこぼした美神が無言で神通棍を取り出した。
類い稀な彼女の霊力が神通棍に行き渡りその形状を変質させる。
鞭へと変化させた神通棍を片手に美神は横島に最後通告を行った。


「あんたの寝床はバスルームよ。こちらの許可なく一歩でも外に出たら・・・わかるわね?」


「・・・・・・ハイ」


地獄の底から響いてきそうな一切の容赦がないその脅しに横島は抵抗することなく全面降伏した。







------------------







今回投稿が遅れに遅れてしまい拙作を楽しみになされていた読者様には大変申し訳なく思っております。
色々と理由はあるのですが全て私的なものですので言い訳にしかなりません。すみません。
次回からはもう少し投稿スピードを上げていきたいと考えておりますので、よろしければ気長に待っていていただけると有り難いです。







[40420] 幕間
Name: 素魔砲◆e57903d1 ID:73709a19
Date: 2018/05/27 12:53



広い空間の狭い一室。
この研究室をクラスメイトである葉加瀬聡美はそう表現した。
実際の広さはそれなりにあるのだが縦横無尽に張り巡らされたケーブル束のせいで足の踏み場もない上に、
PCデスクと研究機材に挟まれて通路は狭い。
実験器具が室内の大部分を占めているため居心地がいいとはとても言えなかった。

在籍しているロボット工学研究会や大学にある量子力学研究会の研究室ではなく私的な目的に使用している隠れ家だ。
都市開発の黎明期、区画整理によって中心部から追いやられた物件の一つで郊外に位置している。
元は自然公園の管理ビルか何かだったようで、周囲に人家もなく多少の騒音を立てても問題はない。
秘密裏に事を進めるための前線基地としてはうってつけの場所だった。


(もっとも、そのせいで気軽にコンビニにも行けないが)


長時間見続けていたモニターから目を離し、超鈴音はリクライニングチェアの上でゆっくりと伸びをした。
頭脳労働後の糖分補給は研究者にとって必須といえる。
最近はコンビニスイーツも馬鹿にできない味と品質を持っているため、気軽にとれる甘味として愛用していた。
下っ端一号・・・名前を知らないので勝手に命名した少年がいた頃はよく買い出しに行かせたものだ。
今は理由も告げずに雲隠れしているため、そういう訳にもいかないが。
その事を思い出し、短く嘆息する。

ある日突然、何の切っ掛けもなくアレは姿を消した。自らの痕跡を一切残さず消息を絶った。

別にアレがいなくなったところで特に痛手があるわけではないし、
むしろあんな得体のしれない人間は永久に帰ってこないでくれたほうが都合がいい。
元々自分一人でも計画を実行できるように準備を進めていたのだし、偶然拾った少年を当てにしなければならない理由はなかった。

ただ・・・。


(結局、アレが何のために私に近づいてきたのか理由がわからないままカ・・・)


アレと初めて顔を合わせたのは春先の事だ。
とある事情でタイムマシンのエネルギー供給に問題が生じ、頭を抱えていた矢先にフラリと現れた。
そして戸惑う自分に向かって彼はこう言った。

貴方の正体を知っている。手伝わせてくれないかと。

唐突に現れ、そんなことを言った少年を超は当然警戒した。
すぐさま身柄を拘束し尋問を行った。
少年は何の抵抗もすることなく捕まると、こちらが拍子抜けするくらいにあっさりと質問に答えた。
いや、質問に答えたというよりはたった一つの事を勝手に宣言したといったほうがいいか。
自分の目的は超鈴音に協力することなのだと。

もちろんそんな少年の言い分など超はまったく信用しようとは思わなかった。
何しろ素性の一切が不明であり、麻帆良にあるどのデータベースからもそれらしい人物の記録は見つからなかったのだ。
そんな身元も定かではないうえに名乗りもしないような不審人物の言葉など信じられるわけがない。

少々強引な手段で口を割らせようともした事もある。
しかしただの子供にしか見えないその少年には薬物や催眠術の類が通用せず、魔法にまで耐性を持っていた。
精神操作系の魔法に対抗する術式を使用しているのかとも思われたが、魔法による防御効果は一切見られない。
まるでこちらには理解できない何かが少年を守護しているかのように思われた。

結局、最後まで少年からまともな情報を得ることはできなかった。
後日、彼の処遇をどうするかが問題になったが、最終的には手元に置いて監視することにした。
できることなら放逐してしまいたかったのだがそういう訳にもいかなかった。
彼が自分の正体を知っていたためだ。

どういう手段を使ったのか、彼は自分が未来から来た人間であることを知っていた。
どの時代から来たのか正確な年代を特定していたわけではないし、どうやってこの時代に来たのかも分らなかったらしいが、
二年前に大きな時空震が発生したことにだけは気付いていたらしい。
いずれにしろ明確な目的が定かではない以上無視するわけにもいかずしばらく様子を見ることになった。

だが、ただ監視するためだけに手元に置いていたはずのその少年は、意外なことに本当に超に協力的だった。
当時、超の頭を悩ませていたタイムマシンの小型化によるエネルギー供給と制御の問題の解決に一役買ってくれたのだ。
一定量の魔力と結合することで時空転移を可能にする素体。
未来から超が持ち出してきたあの”剣”は特定の条件下で強力な時空震を発生させる。
その反面、発生した時空震の制御にはかなりの精密性を求められた。
当初は素体から切り離した欠片を航時機・・・カシオペアに組み込み、
バッテリーのように蓄積した魔力と反応させることで時空震を生み出していたのだが、
時空震の制御のために内部機構が複雑化したことで携帯性を損なうほど装置自体が肥大化してしまった。
戦闘用にと開発していたカシオペアだったがこれではとてもではないが実戦で運用することはできない。

このままではナノ秒単位の瞬間的な時空転移をあきらめるか、
あるいは魔力を蓄積したバッテリーを縮小させ継戦時間を犠牲にするかを選ばなければならなかった。
だが件の少年は全く別の方向から解決策を模索した。
少年は”剣”と魔力が結合して時空震が発生する際に、
”剣”本体と分断された”欠片”がある特殊な波長によって共振していることに着目した。
その共振は通信可能な領域に部分的な制限があるものの、
発信元である”剣”と発信先である”欠片”に時空震の規模と転移先の座標をほぼ一瞬で送受信させることができた。
つまり研究室に置いてある剣を通して携帯型のタイムマシンであるカシオペアにエネルギーと情報を同時に転送することが可能になったわけだ。

これによりカシオペアへのエネルギー供給と制御の問題は解決し、それどころか幾つかの弱点を克服するまでに至った。
まずエネルギーを外部から供給することが可能になったため、
麻帆良にいる限りバッテリー残量を気にせず、ほぼ無制限に時空転移を行うことができるようになった。
そして時空震の制御を”剣”の本体がある研究室で行うことで、カシオペア内部に複雑な制御機構を組み込む必要がなくなったため、
より構造が単純化し突発的な故障が起こり難くなった。
複雑な内燃機関を搭載する必要もないので重量は軽くなり、その分外部の素材をより強固なものに変えることができた。
ざっとあげるだけでもこれだけの利点が生まれたわけだ。

もちろん今あげた利点を持ったカシオペアを改造したのは超自身だったが、それでもそのアイデアをもたらしたのは正体不明の少年だ。
それだけで彼を信用するほど超も甘くはなかったが、功績は認めなければならなかった。
つまるところ信用ならない監視対象から信用ならない協力者へと見方が変わったといえる。


(まぁ、だからどうなるものでもなかったわけだが・・・)


嘆息し軽く首を振る。あの少年の正体についてはこれ以上詮索しても無駄になるだけだ。
まさか本人が冗談のように言っていた異世界人という答えが真実だとは思わなかったが、
それも横島忠夫の反応からそう推察しただけに過ぎない。明確な根拠があるわけではなかった。
思考を別の方向へと切り替える。
素体は安定しカシオペアにも問題は起きていない。
あの少年が消えたことについて気にならないわけではないが今考えるべきなのはこれから始まる”計画”についてだ。
数十年単位で活性化を繰り返す世界樹の魔力を利用した強制認識魔法。
その魔法を使って世界中の人間の認識を改変する事が超の最終目的だった。
具体的には全世界に魔法が実在することを暴露し、それを認めさせること。
そのための下準備もすでに完了している。ネットへの情報拡散や重要拠点を制圧するための兵器の準備等々。
そしてある意味最も重要なこと・・・。


(・・・まほら武道会)


強制認識魔法・・・その認識改変を誘導するための核となる部分だ。
ここ麻帆良に集う超越者たち。武道大会では彼らが持つ超常の技をいかんなく発揮してもらう必要がある。
その映像は拡散させた情報群に説得力というアクセントを加えてくれることだろう。
大多数の興味を煽るための撒き餌と言い換えることもできるか。


(いずれにしろすべては順調に進んでいる)


そこまで考えると超はゆっくりと目を閉じ全身の力を抜いた。深呼吸を繰り返し頭の中を空にする。
闇の中で空調とPCの冷却ファンが鈍く響いてくる。人によっては不快に感じるかもしれないその音は超にとっては慣れたものだ。
いっそこのまま眠ってしまおうかと考えたその時、部屋の扉を開ける音が聞こえて超は気だるげに瞼を開けた。


「超さ~ん。いらっしゃいますか~?」


ドアを半分だけ開き葉加瀬聡美がひょっこりと顔をのぞかせる。
いつもと変わらない白衣姿の眼鏡少女だ。ひっつめ髪を三つ編みに縛って後ろに垂らしている。
本人曰く一番寝癖が誤魔化せる髪型なのだそうだが、まぁよく似合ってはいた。


「ここにいるネ~」


やる気のない声でそう呼びかけると葉加瀬は足元のケーブル束を踏まないようにしながらこちらに近づいてきた。


「火星ロボの最終調整が終わりました。
大型のものは結界が働いている今は大掛かりな試運転も出来ませんけどデータ上では問題なく運用できます」


「足回りの問題は解消できたカナ?」


「さすがにあの重量だと完全には・・・。でもバランサーの改良で足首と関節部の負担はかなり軽減できてます」


その口元にはニコリと笑みが浮かんでいた。己の仕事に満足しているのだろう。
ここ数日準備に追われてあまり寝てないはずだがそれでも自信にあふれたいい顔をしている。
超は傍らに置いてあるクーラーボックスからミネラルウォーターを取り出すと彼女にそっと手渡した。


「ハカセの仕事だ。信用してるヨ。整備関連を任せきりにしてしまってすまなかたネ」


「いえいえ、おかげで実に充実した時間を過ごせました」


ふんすふんすと鼻息を荒くしながら葉加瀬はそう言った。
ある意味嫌味に聞こえるその言葉も彼女に関して言えば混じりっけなしの本音だろう。
超は大きな感謝と若干の呆れを含んで苦笑した。


「超さんのほうも最終確認ですか?例の素体の」


葉加瀬が声を落として問いかけてきた。
この部屋にいる限り盗聴に関しては心配ないので意味がない事なのだがそれでも警戒しているのだろう。
なにしろあの素体は超一味のとってのアキレス腱になりうる。そういった慎重さは好ましかった。


「うん。一通りチェックしたが何の問題もなかたヨ。B.C.T.L(強制時間跳躍弾)の方にもバッチリ転用できる」


「え?でもあれって時空震の規模が安定しなくて運用が難しかったはずじゃないんですか?
下手したらうっかり千年後とかに飛ばしちゃうかもって・・・」


「それは共振現象が発見される前の話だヨ。
一発単位で情報を弾丸に保存して接触後に共振で”剣”に伝達させて時空震発動って手順ネ。
もっともそのせいでライフル弾に収めるのが大変だたガ」


「へ~、でもそういう事なら竜宮さんにとっても切り札になりますね。彼女の狙撃能力と合わせれば戦力がかなり強化されます」


「うん、そうだネ・・・」


超は葉加瀬の言葉に頷くと視線を素体が設置されているシリンダーに向けた。
あの素体の扱いには散々苦労させられたが、時空震の制御方法さえ確立してしまえば、その利用法は多岐にわたる。
利便性においても当初に比べれば天と地ほども違う。
超専用の強化スーツに仕込んであるカシオペア壱号機も安定した使用が可能になったし、
担任教師に渡すはずのカシオペア弐号機も既に調整が終わり運用試験もクリアしていた。
おそらく彼ならばカシオペアを使いこなすこともできるだろう。
そんなことを考えていた時、ふとあることに思い至って超の唇は皮肉に歪んだ。
一応事情を説明し仲間に勧誘するつもりではあるが、おそらくあの生真面目な少年は自分の誘いを断るだろう。
それどころかほぼ間違いなくこちらの計画を妨害してくるはずだ。
結局自分は自らの手で計画の進行における最大の障害を作り出す事になる。
今更ながらその自己矛盾に超は面白みを感じた。
声に出さずに笑っているとこちらの視線を追ってシリンダーを見つめていた葉加瀬が遠慮がちに声を掛けてきた。


「あの超さん」


「ん?」


「一度聞いておきたかったんですけどあの素体っていったい何なんですか?
人工物なのは確かみたいですけど機械的じゃないし、まるでどこかの遺跡から発掘された出土品みたいな・・・」


強化ケースの奥を透視するように葉加瀬が真剣な瞳を向けている。
確かに彼女の言う通りあの”剣”は一見するとただのがらくたにしか見えない。
歴史の教科書にでも乗っていそうなほど古ぼけた遺物だ。


「う~ん。実を言えばアレに関しては私もよく分かってないネ。いつどこでだれが作ったのか、
研究所で色々調べたが構成要素すら不明だヨ。
魔力が発動条件だからアーティファクトの可能性が高いがそれも予想でしかない」


「超さんでもわからないんですか?」


「アレはもともと私が持っていたものではないからネ。私のパートナーだった人が持っていたものだヨ」


「パートナー?」


「時空転移を一緒に研究していた人ネ。もっともその人に聞いてもはぐらかされるばかりで何も教えてはくれなかたガ」


元々の持ち主には何度も素体の出所を尋ねたのだが、本人は真面目に答える気がなく、
ジャングルの奥地に生息するとある部族が祭っていた聖器物であるだとか、
チベットの山奥にある寺院の高僧から譲り受けた寺宝であるだとか、
挙句の果てには実家の物置にしまってあったものだとか、聞くたびに由来が変化した。
面白がって答えをはぐらかしていたのか、案外本人にもわかっていなかったのかもしれない。
超が当時を思い出して渋い顔をしていると葉加瀬が目を輝かせて質問してきた。


「どんな人だったんですか?超さんのパートナーって」


そんな瞳を向けられた超はあっけらかんと簡潔に答えた。


「子供みたいな人ネ」


「え?」


「好奇心旺盛で色々なことに手を出す癖に飽きるのも早い。興味があることに一度集中しだすと周りの事なんか二の次ネ。
生活能力も皆無だたから一度食事もとらずに研究に没頭しすぎて干からびたこともある」


「ひ、干からびるって・・・」


「まぁその辺はハカセも人のこと言えないかもしれないガ」


「さすがに私でも干からびたことはないですよ!」


研究に集中しすぎて他がおろそかになるという事には多少の自覚があるのか葉加瀬は唇を尖らせてそっぽを向いた。
そんな可愛らしい仕草にほほえましさを感じながら超は言葉を続けた。


「ただその頭脳は天才的だったネ。なにせ素体を持っていたにせよ時空転移理論を一から組み上げたのだカラ」


「え・・・時空転移理論って超さんが考えたんじゃないんですか?」


「まぁね。といっても技術的なサポートは全部私に押し付けてたガ」


実際タイムマシンを実用可能なレベルにまで完成させたのは超だった。
特定の年代と場所に時間跳躍するためには安定した時空震の制御が必要になる。
そのための装置を開発しなければならなかったのだが、それがなかなかに難題だった。
共同開発者であった彼女はアイデアをいくつも持ってきたものだったが、
そのたびに技術開発や実証実験を超が主導しなければならなかった。
役割分担ができていいじゃないかというのは本人の弁だったが、今思えば単に面倒くさがっていただけなのかもしれない。


「まぁ当時は色々と面倒事があったせいで研究だけやっていればそれで済むという状況ではなかったからね」


時空転移研究の資金調達兼隠れ蓑になっていた魔道兵士の開発には軍閥と政財界の思惑が複雑に絡み合っていたため、
開発主任であった彼女は一研究者としての立場を超える役割を求められていた。
そういった面倒ごとの矢面に立っていたことを考えれば無理からぬことでもある。
そんな風に超が当時の出来事を振り返っていると葉加瀬がしみじみとした口調でぽつりと呟いた。


「でも、できることなら一度会ってみたいですねぇその人に・・・」


未来の人だから無理でしょうけどと、葉加瀬が冗談のように言うと、
その言葉を聞いた超がゆっくりと首を振った。


「いや、そう決めつけるものでもないヨ」


「え?」


驚きを表情に浮かべて葉加瀬が目を丸くする。
超は口元に苦笑を浮かべて言った。


「こういう言い方は妙なのだが、あの人は今未来にいないヨ。少なくとも私がいた未来ではいなくなっていたネ」


「え?え?どういう意味ですか?」


言葉の意味が分からないのか早口にまくし立ててくる。


「どういうもなにも言葉通りの意味ネ。ある日突然消えてしまったのだヨ」


「消えたって・・・」


葉加瀬が呆然とそれだけを口にする。超は目を閉じるとその時の事を思い返した。
あの時・・・タイムマシンが完成し、過去への時間跳躍を数日後に控えたあの時、彼女は忽然と姿を消した。
前兆らしきものは一切なく、周囲の人間に失踪をほのめかした様子もない。
身辺整理をした形跡もなく、前日まではなんらいつもと変わらずに過ごしていたことは証言が取れている。


「それって・・・もしかして誰かに誘拐されたとかなんじゃ」


「そうだね、当然私もそう思ったネ」


自らの意思で失踪したにしてはあまりに状況が不自然だったし、
なにより奇妙だったのは研究者にとってある意味命よりも大切なはずの研究データをそのまま置いていったことだ。
その一点だけ見ても第三者の意思が介在していることは容易に想像がつく。
当時魔道兵士の開発をめぐって政・官・財界・軍閥と様々な勢力が利権争いを行っていた。
その当事者の一人である彼女が何らかの陰謀によって誘拐、あるいは暗殺された可能性も確かに存在していた。

しかしそもそも彼女が消えたのは強固なセキュリティを誇る軍研究所の中においても最高レベルの安全性を持っていた彼女自身の研究室だった。
仮になんらかの手引きがあって外部から何者かが侵入してきたのだとしても、
あの場所から彼女を何の痕跡もなく連れ出すのは不可能に近い。
誘拐犯が実在していたとしても、その動機はいくらでも推測できるものの肝心の実行手段がわからなかった。
要するに失踪後の状況や証言から判断すると何者かによって誘拐されたとしか思えないのに、
失踪時の状況を考えるとそんなことはあり得ないわけだ。


だが、それでもたった一つ可能性をあげるとすればそれは・・・。


「たぶんあの人はカシオペアを使ったんだと思う」


「カシオペア・・・タイムマシンですか?」


「どの時代に飛んだのか、なんで誰にも告げずにいなくなったのか、自分がなしたことを全部捨てていったのはなぜなのか・・・。
結局私には何一つわからないままなのだけどネ・・・」


その事を寂しく感じないかといわれれば嘘になる。
しかし元々突拍子もないことを平然と行う人物であり、そのたびにさんざん苦労させられてきた身としては今更といえば今更なのだ。
それに自分と彼女はたった一つの事において今でも確かに繋がっている。それは過去を改変する事で未来をあの地獄から救うという事。
彼女と交したあの約束を忘れない限り自分たちは再び巡り合うのではないかと超は思っていた。


「まぁだからひょっこりこの時代に姿を現してもおかしくないヨ。人を驚かせるのが好きな人だったし」


「そう・・・なんですか?でもそれって結構悪趣味ですよね」


「そうね。今度会ったら助走をつけて全力で殴ってやるネ」


「いえ、えっと・・・ほどほどにしてくださいね」


強化スーツの出力を上げて拳と手のひらを打ち付けた超に葉加瀬は冷や汗を流した。









そして・・・運命の学園祭が幕を上げる・・・。






[40420] 26
Name: 26◆732ced34 ID:73709a19
Date: 2023/01/28 22:33


やはりこういった場所は慣れないな・・・。
そう思いながら魔界正規軍士官ジークフリード少尉はそっと溜息をついた。
その部屋は十畳ほどの空間で全体的に可愛らしい印象を見る者に与えていた。
柔らかさを感じさせるアイボリーホワイトの壁紙。
中央に置かれた一枚ガラスの丸テーブル。
アール・ヌーヴォー風の装飾が施されたランプは暖色系の暖かな光を放っている。
広めにとられた窓はフリル付きのカーテンで覆われ、窓辺には高級感あふれるインテリアが飾られていた。
隅に置かれた観葉植物はよく手入れされていて目に優しい。
アンティーク調のコンソールテーブルの上で、細やかなレースが刻まれたワンピースに白手袋、編み上げブーツを履いた古風な人形が微笑んでいる。

ここは知人のゴーストスイーパーが経営しているレストラン『魔鈴』の一室だ。
オーナーである魔鈴めぐみは魔女として天賦の才があり、異空間に独自の空間を形成できる。
本来は団体客の予約が入った時などに利用される部屋らしいのだが、今回はこちらが無理を言って使わせてもらっていた。
なにしろ現世とは隔離された空間なのである種の目的のためにはうってつけなのだ。


(そう、例えば今回のような密談の場としては・・・)


対面に座っている人物・・・いや同族であり自らの姉でもある魔界第二軍所属特殊部隊大尉ワルキューレの横顔を見ながらジークはそう思った。
チクタクチクタクと先程から一定の間隔で時計の針が時を刻んでいる。ジークがこの部屋に到着してから姉は何故かじっと黙り込んでいた。
任務に対しては即断即決を常とする姉にしては珍しく何かに悩んでる様子だ。
それでもわざわざこの場所を指定し、忙しい中時間を作ってきたという事は何か重要な話があるのだろう。
こちらから声を掛けるべきかとジークが考えているとワルキューレがゆっくりと口を開いた。


「ベスパと土偶羅が拘束された」


「・・・は?」


突然切り出されたワルキューレの言葉を飲み込みこめずにジークの口から間の抜けた声が漏れた。
アシュタロスが引き起こした騒乱の後、正規軍に入隊したベスパは現在ワルキューレの部下として軍に帰属している。
本来なら士官教育どころかまともな軍事教育も受けたことのない彼女が、いきなり軍の特殊部隊に配属されるなどありえないことだがこれにはいろいろと訳があった。
元々が強力な霊力を持つ上級魔族であるために扱いにくく、反乱を起こしたアシュタロスの幹部であった経歴から彼女の引き取り手がなかなか見つからなかったのだ。
それならばと手をあげたのが彼女の事情をよく知っているワルキューレだった。
慢性的な人手不足が解消できるというもっともらしい理由を聞かされたが、おそらく姉は彼女に少しだけ同情していたのではないかとジークは推測していた。

ちなみに明確な意思を持つとはいえ基本的には兵鬼である土偶羅は比較的簡単に引き取られていった。ほとんど備品扱いだったが本人は気にしていないようだった
そこまで思い出してようやく気持ちが落ち着いたジークは訝し気な表情でワルキューレに質問した。


「拘束?どういうことです?なぜあの二人が・・・」


「理由は・・・説明されなかった。機密事項だそうだ」


「機密?ベスパは姉上の部下でしょう。直属の上官を無視して特殊部隊の隊員を拘束するなんていったいどこの部署がどんな権限で」


「落ち着け。軍警察の監査程度の話なら情報部に所属しているお前も事前に何らかの兆候くらいは掴んでいたはずだ。
それもなく突然私に事後報告してきたという事はな、これはおそらく警告だ」


「警告ってまさか・・」


「我々に動くなと言いたいのさ、お前の上官殿は」


そう言ってワルキューレは皮肉に笑った。
ジークは喉の渇きを覚えて目の前にあるティーカップを手に取った。
先程魔鈴が入れてくれた紅茶はすっかり冷めきってしまっている。


「例の三体の魔族・・・余程調べられたくないという事ですか?」


口に出しながらここに来るまでに軍のデータベースで調べていた内容を思い出す。
三体の魔族・・・言わずもがな異世界に逃亡したあの魔族たちの事だが今更になって改めて調査し始めたのは美神令子の指示によるものだった。
どうも今回の一件にきな臭さを感じたらしい美神が、最初に依頼を持ち込んだワルキューレに色々と調査を頼んだのだ。
その一つが横島が倒した逃亡犯のデータを洗い出すことだった。魔力の回復も兼ねて魔界に戻っていたジークも当然巻き込まれた。
姉に捕まった時点で拒否権はないも同じだったが、ジーク自身も興味があったので手分けして調べることになった。


「情報部のデータも洗ってみましたが不自然なほど何も出てきませんでした。
ただ偽装の痕跡もなかったので、ひょっとしたら最初から何も入力されていなかったのかも」


口に出しながらそんなことがあり得るのかと自問する。
特殊部隊に捕縛命令まで出た魔族のデータが情報部のデータベースに何の記載もされていないなどと通常では考えられない。
自然と眉間にしわが寄ってくるのを自覚しながらシークは喉の奥で小さく唸り声をあげた。


「ふむ、お前の報告も気になるがおそらく本線はそちらではないな」


「どういう意味ですか?」


「私が・・・というかあの二人が調べていたのは別の事だからさ」


「別?」


「ベスパと土偶羅にはあの世界の事を調べさせていた。正確にはあの卵の出所だな」


卵・・・それは一つの世界を内包した文字通りの異世界そのもの。
そして一連の事件の発端であり、いまだに謎に包まれた存在だった。
ティーカップの受け皿に載せていたティースプーンを手に取りワルキューレは自分の紅茶をくるくるとかき混ぜた。


「報告書では、あれは軍の調査チームが発見したという事になっていただろう」


「え、えぇ」


「最初は私も気付かなかったんだが少し妙だと思わないか?」


「妙ってなにがですか?」


「調査チームが卵を発見したのは私が美神令子に依頼を持って行ったひと月ほど前の事だ。
そのころ倒壊したコスモプロセッサの残骸は解体処理と撤去作業が進められる直前だった」


「はぁ、それが」


「立ち入り調査の段階ではなにも見つからなかった。それなのにわざわざ調査チームを組んでまで軍は何を調べたかったんだ?」


そう姉に問われてジークは一瞬思考が止まった。
言われてみれば確かにおかしいかもしれない。事前調査で何も問題が見つからなかったからこそ残骸の解体と撤去作業が開始されるはずだった。
その後の過程で卵が見つかり調査チームが派遣される・・・この流れならば理解できる。
だが何も見つかっていない段階でいきなり調査チームが派遣されるというのはまるで・・・。


「軍は初めからあそこに卵があることを知っていたというんですか?」


「断言はできんがな・・・。だがあの場所には何かがあると確信していたはずだ。でなければあのタイミングで神族連中が姿を消した意味が分からん」


「神族たちはやはり?」


「ああ、全く動きを見せていない。お前の話ではないが不自然なほどにな」


今回の一件・・・卵の発見から魔族の逃亡。事態が一応の収束を見た今になっても神族側には一切のリアクションがなかった。
その事に疑問を覚えていた姉は秘密裏に神族側の動向を調べていたらしい。
とは言っても魔族である姉が天界の軍の内情を調査するのは容易ではない。個人的な伝手を使って何とかやっていたようだ。


「ヒャクメは?」


「あののぞき屋とは相変わらず連絡が取れん。全くどこで何をやっているのかあの極楽とんぼめ」


「小竜姫様は?」


「一応考えたがあいつは良くも悪くも妙神山の管理人にすぎん。天界にある軍の内情を調べるにはむいていない・・・それにあそこには猿神もいる。
下手に藪をつついて蛇が出たらそれが致命的なものになりかねない」


結局細々とやるしかないわけだとワルキューレは渋面を作った。


「しかしなぜ神族はあの場所から手を引いたのでしょうか。一応警備の指揮系統を一本化するといった目的はあったようですが当然監視はしていたでしょう?」


「どうだろうな私にはむしろ神族たちは・・・」


そこで言葉を切ってワルキューレは再び黙り込んだ。思索に没頭するように一切の動きを止めている。
ジークが姉の邪魔をしないようにじっと言葉の続きを待っていると、しばらくしてワルキューレは小さく首を振った。


「いや、やめよう。情報が出そろっていない段階で結論を出すべきではない。今はもっと情報を集めるべきだろうな・・・突破口があるとすれば卵の方か?」


「そうだとするとベスパと土偶羅がいないのは痛手ですね。アシュタロスの側近だった二人です。何か手掛かりを見つけられたかもしれないのに」


特に土偶羅の方はもっとも古くからアシュタロスのサポートをしていた唯一の存在だ。
アシュタロスの行動をある程度読むこともできるだろうし、彼のデータベースを調べることも可能だったろう。


「いや、あの二人は優秀だぞ。捕まる前にきっちり仕事をしてくれていた」


そう言ってワルキューレはウエストポーチから一枚の紙片を取り出した。
メモ帳の一部を無理やり引きちぎったような小さな紙片だ。手渡されたそれにジークは視線を落とした。


「E・・・P?何ですかこれは」


そこにはただアルファベットが二文字だけ書かれていた。急いで書かれたようにインクが少しかすれている。
意味が分からすジークが尋ねるとワルキューレは簡潔に答えた。


「名前だそうだ、あの卵の」


「名前・・・名前があったんですか?あの世界に」


「アシュタロスが残したデータベースから見つけ出したものらしい。もっともデータはほとんど消去されていてそれは辛うじてサルベージできたものらしいがな。
元々が壊れたデータだ。この文字がイニシャルなのか、はたまた文字列の一部なのかは定かではないが、とにかくこれで一つはっきりしたことがある」


「それは?」


「あの卵はコスモプロセッサ製作の過程で偶然生み出されたものなんかじゃない。意図的に作り出されたものだ」


ワルキューレはそう言うと冷めた紅茶を一気に飲み干した。




◇◆◇




その瞬間、横島忠夫は自分が狡猾な罠にはまり込んでいることに気が付いた。



本当の危険とは自分の意思とは無関係な場所から突然降ってくる。
いや、降ってわいてくるものではなくその危険のただなかにいる事にある日突然気付いてしまうものなのだ。
そしてそれが決定的なものであるほど逃げ道などない。
あがけばあがくほど底なし沼のような深みにはまり込んでいく。
抵抗は無意味であり、自らに待つ結末をただ粛々と受け入れる事しかできなくなる。


(なんて・・・こった・・・)


愕然としながら目を見開く。
体に微弱な震えが走り緊張で喉が渇いていく。目をそらすことはできない。
進むことも引くこともできはしない。立ち止まることしかできない横島の瞳に眼前の光景が写真のように焼き付いていた。


(ちく・・・しょう・・・罠だってわかっとるのに・・・体が動かん!!)


今すぐに逃げるべきだと理性は叫んでいる。しかし横島の大部分を占める本能がそれを拒否している。
拮抗状態は延々と維持され続け、本人にはどうしようもなくなっていた。


(や、やっぱりここは危険を冒してでも前へ進むべきなんじゃないか?
攻撃は最大の防御とかえらい坊さんの言葉にもあった気がするし・・・ん?坊さんの言葉だっけ?
いやいやいや違う違う落ち着け!!さすがに今回ばかりは何も考えずに突っ込んだらマジでやばいかもしれん。
仮にここを生き延びられたとしても、事がバレようもんなら美神さんに必ず殺される・・・)


横島の目の前で魅惑の桃尻がぷりぷりとおいしそうに揺れていた。
世界樹広場を眼下に一望できる小高い丘の上で龍宮真名が先程からずっと狙撃体勢を維持しているのだ。
体にぴっちりと張り付いたボディースーツのミニスカートがいろいろな意味で目に毒だった。
時々姿勢を変えるためにうつ伏せ状態から少しだけ腰を動かすのだが、
そのたびにスカートの奥が見えそうで見えなかったり・・・ちょっと見えてしまったりする。


(いかん!いかんぞ!!横島忠夫!!いくらそうは見えないといっても彼女はれっきとした中学生!
ここで本能に任せて手なんぞ出そうもんならワイは中学生に手を出したロリコン野郎として一生十字架を背負うことになる!!
そんなことになったらもう二度と平気な顔してお天道様の下を歩くことなどできん!!
ここは何とか耐え忍んで・・・。いや、でもまてよ、真名ちゃんが中学生っつっても年齢的には俺とそうたいして変わらん。
二、三歳くらい違う恋人なんか世の中にはいっぱいいるよな。
ってことは今ここであの尻めがけて突貫したとしても世間的にはいろいろと合法なんか?
なんちゅーかよく分からんうちに中学生に手を出すのはまずいと思っとったが合法なら合法だし全部オッケーだよな。何しろ合法なわけだし!!)


本人の気付かないところで次第に理性と本能の天秤に釣り合いが取れなくなってきていた。
年齢にかかわらず付き合ってもいない女性の尻に飛び込んだ時点で合法もくそもないものなのだが、
性的欲求の権化と化した今の横島にはもはやそんな理屈は歯止めにすらならなかった。


(思えばこっちに来てから気持ちよくセクハラ出来る人がいなくてストレスもたまっとった。ちょっとくらいなら・・・。
いや、いやいやいや・・・まて。こっちに来たばっかで調子を取り戻してない美神さんの突っ込みは今の俺には命にかかわるぞ。
なにしろ俺も美神さんの突っ込みは久しぶりだからな。ここで一時の感情に任せたら俺はロリコンの罪によって美神さんの制裁を食らうんか?
い、いやじゃ、そんな理由で死ぬのだけは・・・ああ!だがエサはうまそうだ!!)


と、いうように横島の思考はループから抜け出せなくなっていた。
すると、真後ろで気持ち悪い・・・いやもう本当にキモイ感じでハァハァしていた横島にもめげずに淡々と仕事をこなしていた真名がさすがにうんざりしたのかくるりと振り返ってきた。


「横島さん。狙撃というのはこれでもかなりの集中力が必要なんだ。
手伝う気がないならせめて邪魔にならないようにあそこにあるちょうどいい感じの木の枝で首でもつっていてくれないか?」


「それ遠回しに死ねっつってるよな真名ちゃん」


投げやりに木の枝を指さす真名に横島は引き攣った笑みを返した。


「ま、まぁ俺としたことが少しだけ我を忘れてたみたいだな」


「アレで少しなのか?」


「うん、まぁそのなんだ、それより真名ちゃんちょっと聞いていいか?」


冷気さえ漂ってきそうな軽蔑の眼差しを受けて横島は慌てて話題を変えようとした。
彼女の返事を待たずに早口で問いかける。


「あのさ真名ちゃん。さっきからいったい何をやってんだ?遠慮なしにバカスカ人撃ってて、はたから見てても怖いんだが」


横島が来る前から真名はこの場所に陣取りひたすら銃を撃ち続けていた。
狙われた標的は撃たれてから大した間もなく立ち上がっているので実弾ではなく模擬弾の類なのだろうが、
それでも黙々と冷静に人を狙撃し続ける姿には何というか近寄りがたいものがある。


「ん?超から聞いていないのか?」


「ああ。なんか電話でここに行けって言われただけで他にはなんも聞いてないな」


「・・・あいつめこちらに体よく押し付けたな」


真名が顔をしかめて忌々し気に舌打ちした。


「私はただ学園側からの依頼をこなしているだけだよ。横島さんは世界樹の活性化についてどれだけ知っている?」


そう言って真名が前方を指さした。つられて横島も視線を送る。
そこにはある意味においてこの麻帆良という土地を象徴している大樹が存在していた。
見た目は何の変哲もないどこにでもありそうな木に過ぎないが、とにかくその巨大さが尋常ではない。
樹齢何千年だか何万年だか素人には判断がつかないような見事な樹木だ。


「世界樹ってあそこにあるでっかい木の事だろ?なんか魔力をたくさん持ってるとかなんとか」


「まぁその理解で概ね間違いじゃない。あの世界樹は二十二年に一度活性化して内に溜め込んだ魔力を外側に放出してしまうんだ。
その影響で世界樹周辺に特殊な魔法が形成される。
そいつが意外に厄介なものでね。学園の魔法使いたちはその魔法から生徒たちを守ろうとしている」


「魔法?それってどんな魔法なんだ?」


「ある種の催眠魔法だな。世界樹周辺の特定のポイントで告白すると相手はその告白を百パーセント受け入れる。
生徒の間でも噂になっていてね。学園祭の雰囲気と合わさって愛の告白をしようとする生徒が後を絶たない。
本来なら他愛のない都市伝説のようなものだが今回は時期が悪すぎる」


「は!?い、いや待ってくれ。それってつまりあの木の下で告白するとどんな女でもワイにメロメロになるっちゅーことなんか!?」


「メロメロになるかどうかは知らないが・・・そうだな。だから私たちがこうやって阻止しているわけだ」


言いながら真名は狙撃銃を抱えなおした。指先を銃身に滑らせながら言葉を続ける。


「とにかくあなたもこちら側についた以上、ちゃんと協力してもらう。
まぁ差し当たっては私の邪魔にならないように十メートルほど離れたところで首をつっていて・・・」


真名は溜息とともに呟くと横島に向き直った。そして目をパチクリとさせる。
いつの間にか先ほどまでいたはずの横島の姿は影も残さず消え去っていた。





◇◆◇





「いやよ」


「へ?」


簡潔にそれだけを告げて美神令子は横島から視線を外した。
ここは大通りから少し離れたところにあるカフェの一つだ。
古き良き洋食屋さんといったこじんまりとした佇まいで、日当たりのよいテラスには季節の花々がそこかしこに飾られている。
学園祭が開催されているためなのか道路沿いに臨時のテーブル席が増設され、美神除霊事務所の面々はその一つを占拠していた。
アイスコーヒーやメロンソーダを飲みながら、みんなが思い思いの姿勢でくつろいでいる。
パンフレットの案内図を広げながら、おキヌやシロとタマモがどの場所を見物するか話し合っていた。
そのまま美神も会話に混ざりそうな気配を感じて横島は慌てて彼女を呼び止めた。


「ちょ、ちょっと美神さん!!」


「あによ。まだなんかあんの?」


いかにも面倒そうな面持ちで美神が振り返ってくる。


「ありますよ!そんな一言でバッサリ断ることないじゃないっすか!」


「だって嫌なものは嫌だし。その・・・世界樹広場だっけ?なんでそんなとこにあんたと出かけなきゃなんないのよ」


「そ、それはほら美神さんこっちに来てまだ日も浅いじゃないっすか。だから俺が案内しようかなって」


「ふ~ん。でもやっぱり嫌」


「なんでっすか!?」


「午前中におキヌちゃんたちと大体見てまわったからよ。だから地図見れば迷わないくらいには実際の地形を把握できてる。
そういう訳で今更横島君と出かけなきゃならない理由はないの」


おざなりにそう言うと美神は話は終わったとばかりに後ろを向いてひらひらと手を振った。


「い、いやしかしですね。もうちょっとちゃんと・・・」


全く話を聞く気がない美神を横島が何とか引き留めようとする。
美神はそんな横島に疑わし気な半眼を向けた。


「なんか怪しいわね。なんでそんなにしつこいわけ?」


「え?や、やだなぁ美神さん。そ、そんなことないっすよ」


美神の言葉に横島の挙動がみるみるおかしくなっていく。
視線はあちこちにさまよいだし、落ち着かない様子で無意味に足元を蹴っていたりする。
額から顎の先まで汗がしたたり落ち、それを拭う事すら忘れているようだった。
そんな横島の様子に美神がプレッシャーを強くする。


「あんたなんか企んでるんじゃ・・・」


「うっ・・・あっ!!そ、そうだしまった!!そういや超ちゃんから色々頼まれてたんだった!!
そういう訳なんで美神さん俺はここで失礼しまっす!!そんじゃっ!!」


形勢不利を悟った横島が挨拶もそこそこに迅速な撤退を開始する。
土煙を上げる勢いであっという間にその場からいなくなった。
しばらくポカンとしながら横島が走っていった先を眺めていた美神だったが、
それほど気にする必要もないと思ったのかやれやれと首を振っておキヌたちの話し合いに参加した。





◇◆◇





「ちっくしょう、もうちょっとで美神さんを俺のものにできるとこやったのに」


ぶつくさと小声で愚痴をこぼしながら横島は来た道を引き返していた。
龍宮真名に聞かされた世界樹の魔法とやらで美神を自分の虜にする予定だったのだが、やはり彼女は一筋縄ではいかないようだ。
今のまま欲望にまかせて突っ走ったところで先程の二の舞になるだけだろう。
急いては事を仕損じるともいう。ここは一旦腰を落ち着けてから慎重に作戦を練り直そうと横島は表情を引き締めた。

とりあえず無味無臭の睡眠薬かしびれ薬を用意しようかと横島が考えながら歩いていると、危うく前にいる子供を蹴飛ばしそうになった。
どうやら考え事に夢中になっていたせいで足元がお留守になっていたようだ。
慌てて母親らしい女性と女の子に頭を下げてから、そそくさと道の端に避難する。
小物か何かを売っている店の軒先に寄りかかって横島はそっと安堵の息をついた。

この麻帆良という土地はもともと活気にあふれている場所だったが、今日のそれはちょっと次元が違うらしい。
単純な人口密度だけでも普段に比べて数倍は膨れ上がっているのではないだろうか。

改めてメインストリートを行き交う人々に視線を向けてみる。
まるでどこぞのテーマパークのような有様だった。

家族連れの一般客を相手にメイドのコスプレをした生徒たちが一生懸命客引きをしている。
一見しただけでは何の動物かもわからないような珍妙な姿の着ぐるみや
管楽器と打楽器などを抱えた楽隊が様々な演奏をしながら規則正しく行進していた。
ふと空を見上げると、ゲームに出てきそうなモンスターの形をしたアドバルーンや、
宣伝用の垂れ幕を張り付けた気球と飛行船が上空を飛んでいる。
周囲にあふれる笑い声や歓声に紛れて、
親とはぐれてしまったらしい子供の泣き声やそれを何とかしてなだめようとしている係員の声も聞こえてきていた。


「なんちゅーか話には聞いとったけど、これもう学園祭とかってレベルじゃねーよな」


呆けた表情のまま口の中でもごもごと呟く。
いくら学園都市全域で一斉に行われている祭りなのだとしても、ここまでの規模は横島の想像の範疇を超えていた。
シロとタマモがきらきらと目を輝かせていたことを思い出す。
あの二人はなんだかんだこういったイベントが好きなので、午前中に美神やおキヌを振り回していたのかもしれない。
そう考えると超の所に出かけていた自分は幸運だったのか。


(つっても結局なんも情報掴めなかったけど)


横島は四人目の情報を聞き出すために超の所でスパイをして来いと美神に命令されていた。
美神たちがこの世界に来てから皆で色々と作戦を考えてはみたのだが、
結局何も思いつかなかったために取り合えず相手の出方だけでも探っておこうとそういう話になったのだ。
もともと超からは仲間になるように勧誘を受けていたので、そこまでは結構スムーズにいったのだが、
彼女が企てている計画の具体的な内容を知ることはできなかったし、四人目の少年についても謎のままだ。


(なにしろ最初の指示が真名ちゃんのサポートだったしな。あれは超ちゃんの作戦がどうのってより魔法使い達の手伝いって感じだったし)


極力メインの計画にはかかわらせないようにしているのだろう。要するにまるで信用されていないという事だ。


(というかそもそもなんで俺を仲間に誘ったんだ?)


なにげなく空中を見つめながら自然と浮かんできた疑問を考えてみる。
正直なところ学園祭本番を迎えたこの時期にいきなり部外者を招き入れるのは彼女にとってデメリットでしかないのではないか。
ぼんやりとしたまま横島がそんなことを考えていると、突然周囲の喧騒が激しさを増した。
どうやらメインストリートでこれから盛大なパレードが開かれるらしい。
道路わきに設置されているスピーカーから交通整理のアナウンスが流れ、パレードの開始時間が告げられた。
あと少しすれば今よりはるかに人通りが多くなるだろう。
ただでさえ人込みにうんざりとしていた横島はぐったりとしながら顔をしかめた。
これ以上ここにとどまれば満員電車のように人の波に押しつぶされたまま、
大して興味もないパレードを終了時間まで延々と眺めていなければならなくなる。
横島は小さくため息をつくと寄りかかっていた壁から身を起こした。


(ちょっと人気のないところでも探すか)


口に出さずに呟いて、横島は思い描いた地図の上でゆっくりと休めそうな場所に丸を付け始めた。





◇◆◇





遠慮なく降り注ぐ初夏の日差しから逃れるため、木陰に設置してある木製のベンチに避難する。
どさりと背もたれに身を預けて横島はようやく人心地つくことができた。
深呼吸すれば植物や土の匂いが風に吹かれてこちらまで届いてくる。
森の香りと表現できそうなその空気は自然を強く感じさせた。
背後には古い映画にでも出てきそうな雰囲気のログハウスが周囲の景観を崩さずにひっそりと建っている。
静かな場所を求めてブラブラと歩いていた横島がたどり着いたのは、ここ最近毎日のように通っていたエヴァの家だった。
まるで人目を避けるように都市の中心地から離れた場所に建っているこの家は、ゆっくりと思索するのに最適な場所だったのだ。
学園祭期間中といえど、さすがに何もない森の中にまで来るようなもの好きはいないようで、人々の喧騒も遠くからわずかに聞こえてくる程度だった。
横島はここに来る途中で購入した缶コーヒーを飲みながら早速作戦を考えてみる事にした。


(さてと、どうやったら美神さんを騙くらかして世界樹広場まで連れていけっかな。
やっぱり一番手っ取り早いのは薬を盛る事だろうけど、あの美神さんにそんな正攻法が通じるとは思えんし)


正攻法という言葉の意味をまるっと勘違いしている横島がうんうんと唸っていると、玄関の方に誰かが近づいてくる気配がした。
視線を送ると玄関わきにいる小さな人影が呼び鈴を鳴らそうと指を伸ばしている。いつもと変わらない制服姿で肩にかけた学生鞄が若干重そうではあった。


「夕映ちゃん?」


短く呼び掛ける。
逆光になっているため顔の輪郭までははっきりしないがぼんやりと見えるシルエットからそう判断すると、訪問者は驚いた様子で小走りに駆け寄ってきた。
長い髪を風に煽られないように抑えながら綾瀬夕映が尋ねてくる。


「横島さんどうしてこんな所にいるですか?」


「夕映ちゃんこそなんでだ?学園祭中だってのにこんなとこにいていいんか?クラスのお化け屋敷は?」


「そっちは午前中で当番が終わってますし、研究会の方でも特に何かを発表するわけではありませんから」


夕映が呼吸を整えつつそう答えた。


「それで横島さんはどうしてここに?」


「いや、別に大した理由はないんだ。ただちょっと考えたいことがあってさ。
今日はどこも人込みだらけで落ち着かないからゆっくりできるところを探してて」


「考え事・・・ですか。それってやっぱり四人目や超さんのこと?」


「へ?あ、ああうん。まぁそんな感じ」


こちらの言葉をまじめに受け取った夕映が真剣な瞳を向けてくる。
まさか美神を陥れるための作戦を考えていましたなどとは正直に言えるわけもなく、横島は露骨に目を泳がせながらそっぽを向いた。
するとそんな態度に違和感を覚えたのか夕映が訝しそうにしながら覗き込んでくる。


「・・・横島さん?」


「な、なんだ!?別にワイはどうやったら睡眠薬が手に入るんかなとか考えてたわけやないぞ!!」


「睡眠薬?それって何のことですか?」


「い、いやだからそんなことはちーとも考えとらん!」


強引に話を打ち切って横島はかたくなに夕映から顔を背け続けた。
そんな横島をじっとりとした半眼でしばらく観察していた夕映だったが、やがてあきらめたのか隣の席に腰を落ち着けた。
夕映が追及をやめたことに心中でほっと安堵しつつ横島は再度彼女がここにいる理由を尋ねてみることにした。


「それで夕映ちゃんは何でここに?」


「えっと何でも何も私はただ魔法の練習をしに来ただけですけど」


「魔法の練習?いや、つってもこんな時くらいちょとはさぼっても罰は当たらんのじゃないか?
せっかくなんだしハルナちゃんとかのどかちゃんとか誘って学園祭回ってくりゃいいのに・・・」


夕映がことのほか真剣に魔法を習得しようと頑張っているのは知っているが、
せめて学園祭の時くらい友達と遊んでもいいのではないかと思う。横島がぼやくようにそう告げると、夕映は少々ばつが悪そうにしながら苦笑した。


「一応日課にしていることですから練習をさぼろうとは思いませんし、それに二人とも色々と忙しそうにしてて・・・」


「忙しいって部活の出し物かなんかか?」


「ハルナの方はそうですね。結構忙しくしているみたいで。のどかの方は今ちょうどネギ先生と一緒にデー・・・」


そこまで言うとなぜか夕映はピタリと口を閉ざした。時間すら止まってしまったかのように身動き一つしていない。
不審に思って横島が何度か名前を呼んだり眼前でパタパタと手を振ってみたのだがそれでも何の反応も示さなかった。


「夕映ちゃん?」


友達の行動予定について話していると思ったら突然硬直してしまった夕映に横島が戸惑っていると、彼女は焦った様子で爪を噛みながらポツリと呟いた。


「や・・・やっちまったデス」


ダラダラと脂汗を流し、手元がどこかをさまよっているように落ち着きをなくしている。


「我ながら何といううかつな事を!この前の事を考えたら横島さんにだけは絶対に知られるわけにはいかないというのに!!」


押し殺した声でそんなことを言いながら夕映が鋭く舌打ちしている。横島は彼女に気付かれないようにさり気なく距離を取った。


(えーっと・・・夕映ちゃんはいったい何を言ってんだ?ネギの奴とのどかちゃんがどうとか)


最終的には悔恨の表情を浮かべ髪をぐしゃぐしゃとかき回している夕映をなるべく見ないようにしながら考える。
すると横島の脳裏に思いつくことがあった。


「そっか、そう言われりゃ今日だったっけ。ネギとのどかちゃんがデートするのって」


横島がポンっと手のひらをたたきながらそう言うとその言葉を聞いた夕映が猛烈に焦った様子で問いただしてきた。


「な、なんでその事を知ってるです!?」


「へ?なんでって」


「どういうことですか?このことはごく限られた人しか知らないはず。ま、まさか私たちの中に裏切り者が!?」


「いや、よく分からんがたぶんそれは違うんじゃねーかな」


「くっ、どのみち知られてしまったからには私にできることは一つだけです。横島さんを亡き者にしつつ隠蔽工作を行わなければ」


「まてまてまて!何サラリと怖いこと言っとるんだちょっと落ち着け!!」


「これが落ち着いていられますか!!どうせこれからのどかたちのデートを邪魔するつもりですよね!なんかもうすごくえげつない感じで!!」


「な、なんじゃそりゃ、そんなことしないっての!」


「ふっ、今更そんなごまかしが通用するとでも?ただの練習に過ぎなかった明日菜さんとのデートの時ですらネギ先生の股間を焼け野原にしようとしたくせに!!」


「したけども!!」


しばらくの間互いに息を切らせながら言い合いを続けていた二人だったが、いい加減埒が明かないので横島は夕映に事情を話すことにした。
出来るなら隠しておきたいことではあったのだが。


「俺がネギ達のこと知ってるのはそもそもの切っ掛けが俺だからだ」


「え?」


「だから誰かに教えてもらったとかじゃなくて初めから知ってたんだよ。あの二人がデートするって」


「う、嘘です!もし初めから知ってたなら絶対に阻止していたはずです!!横島さんが他人の幸せを見過ごすはずがないです!!」


「まぁ確かにあんなかわいい子が十歳のガキなんかとデートするのはどうかと思うが・・・これには事情があるんや」


「事情?」


まだ疑わしそうに眉根をあげている夕映を見ながら、横島はなるべく分かりやすいように説明を再開した。


「えっとほら、いくらのどかちゃん本人が覚えてないって言ってもさ、あの魔族野郎のせいで彼女がひどい目にあわされたのは事実だろ?
だからまぁ、なんかしてあげられないかなって思ってさ」


「え?」


「つっても俺があの子にしてあげられることなんてなんもないし、だからネギの奴に頼んだんだ。
のどかちゃんの事もう少し気にしてあげてくんないかって」


それがいらないおせっかいだと言われてしまえばそうなのだろうし、
のどかに対する罪悪感を紛らわせているだけなのかもしれないが、横島はどうしても何かせずにはいられなかった。


「で、でもあれは横島さんのせいってわけじゃ?」


「んーまぁそうなんだけどさ、でもこっちの世界に厄介ごと持ってきたのは俺たちの世界の都合だろ?だから何となくな」


我ながら言い訳じみているなと思いながら横島が苦笑していると、夕映が神妙な表情を浮かべた。


「・・・ごめんなさい」


そう言いながら居住まいを正しこちらに向けて頭を下げてくる。


「そんな事情も知らないで横島さんに失礼なことを・・・」


「あーまぁなんちゅーかそんな気にせんでもいいって。我ながららしくないなと思ってるしな」


なにやらいたたまれない様子で意気消沈している夕映を、横島がなんとかフォローしていると彼女は一応納得してくれたようだった。


「言われて見れば確かにそうですね」


「そんな簡単に納得されるとそれはそれでアレなんだけどな」


横島がじっとりとした半眼を向けると夕映が慌てて弁解してきた。


「い、いえ謝罪の気持ちに嘘はないですよ。ほんとに」


「・・・まぁ別にいいけどさ」


夕映の自分に対する信用度はいったいどうなっているのだろうか。
横島が心の中で溜息をついていると、そんな態度が目に入ったからなのか夕映が声を大きくした。


「あ、あの横島さん!」


「ん?」


上ずった調子で名前を呼ばれる。
彼女はどこかしら落ち着かない様子でもじもじと体をゆすっていた。


「トイレか?」


「ちがいます!!」


色々と察した横島がエヴァの家を指さすと、夕映は即座にその言葉を否定した。


「わ、私はただその・・・横島さんにお礼が言いたくて・・・」


「お礼ってのどかちゃんの事か?それなら別に礼なんて必要ないぞ。
俺はちょこっとネギの奴に口添えしただけで今日のデートやら何やら色々考えて行動したのはあいつ自身だしな」


「い、いえもちろんその事にも感謝はしているですけどそれだけじゃないというか・・・」


「どういう意味?」


要領を得ない言葉に横島が戸惑っていると、やがて夕映は何かを決心した様子で俯いていた顔を上げた。


「あの突然こんなこと言うのはあれなんですが・・・その、私と付き合ってくれませんか?」


「・・・・・・・・・・はい?」


上気した顔をこちらに向け潤んだ瞳でそんな事を言ってくる夕映に、横島はしばらくの間ただ茫然と彼女を見返していた。





◇◆◇





金属で硬いものを叩く音がそこかしこで響いている。
なかなか広いグラウンド内に幾つかの防護用ネットが設置され、
バッターボックスに立った打者がピッチングマシンから放たれるボールをバットで打ち返していた。
見物客の中には一般生徒たちに紛れて幾つか家族連れの姿も見られ、
子供にいいところを見せようとしていた父親が勢いよくバットを振って空振りしている姿が横島の目に入ってきた。

この仮設されたバッティングセンターは麻帆良大学の野球部が企画した展示物の一つだ。
電飾や紙製品の飾りなどで装飾した練習用機材を一般客にも開放して、希望者にはバッティングやピッチングの指導をしていたりする。
球数を制限して当たりによってはホームラン賞や猛打賞などの特典が付くといったゲーム性を取り入れた色々な工夫を凝らしていた。
多少興味をひかれるのは九枚のパネルがはめ込まれたボード目掛けてボールを投げ込むといった遊びだ。
別段投球に自信があるわけでもないが試しにやってみようかと横島が考えていると、隣にいる夕映がバットを手に取り真剣な眼差しで素振りをしていた。


「ずいぶん気合が入ってるな」


「ええまぁ。実を言うと興味があったんです。バッティングセンターに」


「夕映ちゃんって野球が好きだったっけ?」


「いえ、別にそうではないですが、最近なぜかバットを振り回す機会が増えたのでこれを機にバッティングの仕方を勉強しようと思いまして」


「・・・え?」


ニコリと眩しい笑顔を貼り付けて夕映が生き生きとバットを振り続けている。
その姿を見た横島の背中に一筋の冷や汗が伝っていった。
夕映はそんな横島の様子など気にも留めずに空いているバッターボックスに入るとそのままの勢いでバッティングを始めた。

・・・5分後。


「おかしいですね・・・」


不可解な現象に遭遇したとでも言わんばばかりに夕映が呟く。
あれから夕映は意気揚々とバットをフルスイングしていたのだが、結局一球もかすらせることすら出来なかった。
どうやらその事が本人にとっては予想外だったようで彼女はしきりに首をひねっている。


「いや、夕映ちゃんってバッティングセンターに来たの初めてだったんだろ?初心者なら無理もないと思うけど」


「いえ確かにこういうやり方は初めてですが、ほぼ毎日あれだけバットを振っていたんですから全くの初心者というわけではないはずです」


「・・・そ、そうかな」


あいまいに言葉を濁しながら内心横島はそれは違うだろと突っ込みを入れたかった。
確かに夕映はここ最近、主に自分への制裁のためにあの凶器を振り回してはいたが、
だからといってそれでバッティングが熟達するかといえばそんなことはあり得ない。
なぜなら彼女は逃げる獲物を追いかけて仕留める経験は積んだかもしれないが、向かってくる標的に得物を命中させる経験はまるでなかったからだ。
というかボールが向かってきたときに目をつぶってバットを振っていたようなのでそれ以前の問題だと言えなくもない。


「これはやはりあのピッチングマシーンに何らかの仕掛けがあるのではないかと。例えば手元でボールが曲がってくるとか」


「それってただの変化球じゃないんか?」


どうしても納得がいかない様子の夕映に若干の呆れを感じながら横島は自分もバッターボックスに立った。
傍にあるケースの中からてきとうにバットを選び、手に馴染ませるようにグリップの握りを確認する。
何度か素振りを行った後で横島はボールを待ち構えた。


「よっと」


気の抜けた掛け声とともにバットを振る。カキンと甲高い金属音が鳴って打球は見る見るうちに遠くへと飛んで行った。
それを見た夕映が目を丸くする。


「んなっ!なんで当たるです!?」


「いやなんでっつーても100キロの棒球だしなぁ」


ぼやきながら次々と大きな当たりを連発する。
結局一球も外すことなく横島のバッティングは終わった。そんな横島に向けて夕映が感心したように賛辞を贈る。


「なんというか誰にでも取り柄ってあるものなんですね」


「それ一応褒めてるんだよな夕映ちゃん」


いまいち素直に夕映の言葉を受け取れない横島が懐疑的な視線を向ける。
彼女は特に気にした様子もなくうんうんと頷いていた。


「横島さんって野球が得意なんですか?」


「別に自慢するほどでもないけどな。でもまぁ中学まではバイトもなかったし、たまに行ってたんだバッティングセンター」


「そうなんです?」


「ああ、つっても高校入ってからはこんな贅沢な遊びする余裕がなかったからずいぶん久しぶりではあるんだが」


「贅沢ってそんな大げさな」


「ふっ、十円単位に命かける生活しとったらそんなもん大げさでも何でもなくなるんや」


「どんな生活ですかそれは・・・」


こちらの姿を見た夕映が若干引いた様子で後ずさっている。横島はどこか哀愁を感じさせる笑みとともに遠くを眺めていた。
それから二人は何回か打撃練習をした後、大学内にある休憩スペースで休むことにした。
スポーツドリンクでのどを潤し一息つく。


「そういやさっきはちっと驚いたぞ。いきなり付き合ってくれっていうから」


先程の夕映の台詞を思い出す。
どうやら彼女は少し前に悪魔から助けてもらった時のお礼がしたかったようで、
あの唐突な付き合ってくれという発言は一緒に学園祭を回ってくれないかという提案だったらしい。
その際、出店などでかかった費用は自分が出しますからと熱心に誘われたのだが、それはさすがに遠慮することにした。
いくらなんでも年下の女の子に金を出させるわけにはいかないし、今は向こうの世界にいた時ほど金に困っているわけではない。
横島がそんなことを考えていると、夕映が恥ずかしそうにしながら話し始めた。


「え、えと、すみません。その・・・まだちゃんとしたかたちでお礼ができてなかった事に気が付きまして。
も、もちろんこんなことがお礼になるとは思ってませんが、私にも横島さんに何かできることがないかって・・・」


一言一言考えながら話しているようで夕映にしては言葉の内容が明瞭ではなかった。
だがその分彼女の真剣さは余計に届いてくる。


「さっきも言ったけどさ、ほんとに気にしなくていいんだぞ。
むしろ夕映ちゃんたちは被害者なんだからジークになんかほしいもんでも要求していいくらいだ」


「い、いえそれとこれとは話が別ですから。命の恩人に対して礼を失するわけにはいかないです。
ほんとはもっと早く行動に出るべきだったですが、どういう訳かそういう空気にならなかったといいますか、その、なかなか言い出せなくて・・・」


「い、いやまぁそれはなんちゅーか俺の自業自得という気がしないでもないな」


夕映と行動を共にし始めてからこちらが彼女にかけた迷惑を考えれば仕方のない事だろうとは思う。主にナンパ的なあれだ。
互いが気を遣いながら話していたせいか次第に言葉数が少なくなっていく。
何となく気まずい空気になりかけたその時、夕映が言いづらそうにしながら口を開いた。


「あの横島さん・・・ちょっと聞いていいですか?」


「うん?何?」


「えっとこの前、横島さんが超さんに会った日の事なんですけど・・・その、超さんと何かあったですか?
あの時、様子がおかしかったから少し気になってて・・・」


夕映がチラチラと遠慮がちに見つめてくる。
こちらの顔色をうかがうその仕草が何となく叱られた後のシロを連想させて横島は自然と小さな笑みを浮かべていた。


「な、何か変なこと言ったですか?」


「ん、ああ違う違う。単なる思い出し笑いってやつだ。で、えっと超ちゃんの話か・・・」


そう言いながら横島は超との会話を思い出していた。
超が未来からやってきたこと。未来を変えるためにこの時代で何かをしようとしていること。仲間にならないかと勧誘を受けたこと。
どれも美神たちには既に伝えている内容だが、夕映にはまだ話していなかった。別に隠しておきたかったわけではないのだが何となくタイミングが合わなかったのだ。
この機会に彼女にも話しておくべきかもしれない。若干の逡巡の後、横島は夕映に超から聞かされた話を伝えることにした。


「・・・って訳なんだよ」


「タイムマシン?未来人?ほんとなんですかその話」


「まぁ本人がそう言ってるだけでほんとなのかどうか確認したわけじゃないんだけどな」


「信じるですか?超さんの言ってる事」


「うーん・・・正直半信半疑ってやつだな。
なんか証拠でもない限り簡単に信じるのはまずい気がするんだが、超ちゃんがいきなり姿を消したりするのは俺たちの方でも確認してるだろ?
時間移動だか空間移動だかは知らんが、あの子が特別な何かを持ってるのは確かだ」


「で、でも、もしその話が本当なんだとしたら超さんは・・・」


「たぶん未来を変えるためにこの時代でやらなきゃならんことがあるんだろうな。何するつもりなのかはさっぱりわからんが」


そういった情報を調べて来いと美神に命令されているわけだが、なにしろ超が二年以上かけて準備していた計画だ。
そう簡単に尻尾はつかめないだろう。調査に対するとっかかりすら思いつかず、横島はぐったりとため息を零した。
ふと隣を見ると夕映が神妙な面持ちで何事かを考えている。
無意識の仕草なのか重ね合わせた手の甲に指先でリズムを刻んでいると、やがて夕映は俯き気味だった顔をゆっくりと上げた。


「それで横島さんはどうするつもりなんですか?」


「何が?」


「超さんの話を聞いたうえで横島さんは彼女に対してどう行動するつもりなのかなって」


「う~ん、どうって言われても俺は美神さんの指示に従うだけだからなぁ」


夕映の質問にあいまいな返答をし、横島は誤魔化すように頬をかいた。
基本的には四人目が現れるまで超に張り付いていろと言われている。
その過程で超の目的や、四人目が彼女とどういった形で関わっているのか、それを調査してこいとも。
とは言ってもだ、現状を振り返るまでもなくうまくいっているとは言い難い。なにしろ超が今どこにいるのかすら分っていないのだ。
一応仲間に入れてもらっているはずなのだが、超からは電話で連絡があるだけでアジトがどこにあるのかすら不明のままだった。


「まぁなんにせよあのガキが出てくるまでは美神さんも動く気はないと思うよ」


「で、でもそれじゃ超さんの歴史改変を見逃すってことですか?」


「いや見逃すっつーか俺らがこっちの世界の事情に積極的に首突っ込むわけにもいかんだろ?」


「それは・・・そうかもしれませんけど」


消化不良でも起こしたような顔で夕映が黙り込む。理屈では理解できるが感情はそうもいかないらしい。
何かを言いたげな様子で俯く彼女にどう声を掛けるべきかと横島が頭を悩ませていると、ふと夕映の表情が変化している事に気が付いた。
先程までは眉間にわずかなしわを寄せながら口を閉ざしていた彼女だったが、今は何か信じられないものでも見たように顔一面に驚きを張り付けている。
横島も気になって彼女の視線の先を目で追ってみると、そこには到底信じられないような光景が広がっていた。
しばらくの間二人はポカーンと口を広げたまま微動だにせずその場に固まっていた。
しかしそれも長くは続かず、何やら形容しがたいどす黒い感情が横島の腹のうちからじわりじわりと滲み出してきた。
隣にいる夕映も同様であったらしい。信じていたものに裏切られたとでも言うようにショックを受けた表情から怒りの表情に変化していた。
横島が夕映にそっと目配せを送ると彼女は承知したようにこくりと頷いた。
相談らしい相談もせずに二人は素早く行動に移った。人込みに紛れるようにして標的のもとまで接近する。
極限まで気配を消したまま横島は近くの物陰に身を潜めた。すぐそばで楽しそうな声が聞こえてくる。


「あの、刹那さん。今日は色々フォローしてくださってありがとうございました」


「そんな、お礼を言われるようなことではないです。
ネギ先生は他の魔法先生たちと協力して作戦を行うのは初めてですし、私はこういった大規模な合同作戦も何度か経験していますので」


「いえ、それでも作戦の段取りや連携のしかたなんかで助けられたことは確かですからお礼を言わせてください」


「は、はい」


そこにはにこやかに微笑むネギ・スプリングフィールドとそんな彼の言葉に恐縮している桜咲刹那がいた。
二人は仲睦まじい様子で・・・そうまるで初々しいカップルがデートでもしているかのように談笑している。
すぐ近くにいるこちらには全く気付いている様子がない。


「それにしても話には聞いていましたけどすごい盛況ぶりですね」


「この時期は関東圏の観光客も増えますから。年々規模が拡大されている傾向にあります」


「皆さん本当に楽しそうにしていますよね」


「ネギ先生も色々見て回ってはいかがですか?」


「で、でもまだ世界樹周辺の警備もしなきゃいけませんし」


「ネギ先生にとっては初めての学園祭ですし準備期間中もずっと忙しそうにしていたでしょう?少しくらいなら早めに交代してもらってもいいと思いますよ」


「そ、そうですかね。実は僕行ってみたいアトラクションがあるんです!あと飛行船にも乗ってみたくて!!」


「ふふ、じゃあ一息ついてから一緒に行きましょうか」


「ほう、そいつは面白そうだな。俺も行っていいか?」


「もちろんです!ぜひ一緒に・・ってあれ?」


刹那との会話に夢中になっていたネギが突如割り込んできた男の声にピクリと反応する。
少年の背後から静かに接近した横島は彼の肩にポンと手を置いた。


「ようネギ。これまた意外なところであったなぁ」


「「よ、横島さん!!」」


ネギと刹那が同時に驚きの声を発する。横島はそんな二人を無視してネギの耳元に顔を近づけた。


「ずいぶん楽しそうにしてるじゃあないかぁ」


ねっとりとした粘着質な声で囁かれネギの首筋に鳥肌が立っていく。


「よ、横島さん何でこんな所に・・・ってあれ!?か、体が動かない!!」


声だけですぐにわかるほどおどろおどろしい何かを感じて反射的に横島から離れようとしたネギが、己の体に異常を感じて叫び声をあげた。


「ふっふっふ無駄だよネギくぅん。今貴様の肉体は完全に俺の支配下にある」


横島はネギの肩に手を置いたとき、抜け目なく文珠を仕込んでいた。


「よ、横島さん何でこんなこと・・・」


「なんで・・・か。よりにもよってそれを俺に聞くかぁ!?ガキのくせに女にモテモテのイケメン君は言うことが違いますなぁ!!」


「ちょ、ちょっと待ってください!僕には何が何だか。と、とにかく一旦落ち着いて説明を・・・」


肩をギリギリと締め付けてくるとんでもない握力に恐怖を感じながらネギが必死に横島をなだめようとした。


「説明だぁ!?そんなんこっちがしてほしいわ!!お前今日はのどかちゃんとデートじゃなかったんか!?何で刹那ちゃんとデートしてるんだ!?」


「え?・・・あっ!!」


「あっ!!じゃねぇぇぇ!!やっぱりお前!!」


「ち、違います誤解です!!僕はただ・・・」


ネギが何とか動かせる首を限界までひねって背後にいる横島に必死に弁明しようとしたその時、
初夏の気温から比べると温度差で風邪をひきそうなほど冷え冷えとした声が聞こえてきた。


「そうですか・・・なら納得のいく説明をしてもらいましょうか」


事態の急展開にいまだついていけていない様子の刹那の肩をポンと叩き夕映が現れた。


「ゆ、夕映さん!!」


呆然としていたとはいえ何の気配もなく背後を取られたことに驚愕して刹那がびくりと体を震わせた。
夕映は動揺を露わにする刹那を無視してじっとりとネギを見つめていた。


「ネギ先生、慎重に言葉を選んだ方がいいですよ。
私としてはネギ先生にそんなひどい事はしたくありませんが、そこにいる人はもう色々と滅茶苦茶な人なので」


冷然とした眼差しを向けたまま夕映が横島を指さす。横島は心底楽しそうにしながらネギの頭を鷲掴みにしていた。


「フゥーハハハ、さぁてどんな呪いがいいかなぁ!!」


「の、呪い!?呪いって言いましたか今!!何するつもりですか!?」


「そうだなぁ、例えば全身の体毛が異常発達して着ぐるみみたいになるってのはどうだ?
緑とか赤とか色付けてリアルガチャ〇ンとかリアル〇ックとか」


「い、嫌ですよそんなの!!」


「因みに毛を剃り落とそうとしても無駄だ。そんな事をすれば貴様の毛はより強靭になって帰ってくるだろう。
さぁ観念してこれから3年A組キグルミ先生としてみんなに親しまれるがいい!!」


「いやだぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


首を左右に振りながら全力で拒絶の意思を示すネギを邪悪な瞳で見下ろして、横島は鼻歌を歌いながら懐から藁人形を取り出した。
・・・その時である。


「まてぇぇぇぇい!!!」


どこからともなく妙に男くさい掛け声が聞こえてきた。


「何奴っ!!」


声が聞こえてきた方角に鋭い視線を向ける。横島は思わず似たような感じで誰何した。


「ふっ俺っちがいないのをいいことに兄貴に面白おかしい事をしようとするなんて、天が許してもこの俺っちが許さねぇ。神妙にするんだな横島の兄さん!!」


そんな事を言いつつテーブル席の下からニュッと現れたのは、ネギの周りをいつもうろちょろとしている小動物だった。


「あれ?お前たしか・・・アルなんとかだっけ?なんか久しぶりに見た気がするな」


「アルベール・カモミール!いい加減名前覚えてくれよ横島の兄さん」


「あぁ、すまん。興味がない上に名前が偉そうだからいまいち覚えられんのだ」


「はっきり言いすぎだろ!!ったく・・・」


ブツブツと零しつつ、カモは器用にテーブルの上に駆け上った。そしてジロリと睨みをきかせるように横島達を見まわす。


「とにかく先にこっちの話を聞いてもらうぞ。あとその藁人形しまってくれ。なんか怖いから」


それからカモは自分たちの身に起こった出来事を話し始めた。
ちょっとした切っ掛けで、ネギの生徒である超鈴音から一風変わった時計をもらったこと。
その時計はただの時計ではなく信じられないことにタイムマシンだったこと。
そしてタイムマシンを使って学園祭初日の今日を何度も繰り返し経験していることを。


「だからネギの兄貴はのどかの嬢ちゃんとの約束をすっぽかしてなんかねぇんだ。
きっちり最後までデートを終わらせてから今日の朝に再び戻ってきたってわけよ」


テーブルの上に置かれた時計を小さな手でぺしぺしと叩きながらカモは満足げに説明を終えた。


「タイムマシン・・・これが?」


先程まで夕映と真剣に話し合っていた件のブツが突然目の前に現れて、横島は少々驚いた様子でその時計に視線を落とした。
ぱっと見はどこにでもあるような懐中時計だ。一般に出回っているそれより一回りか二回りほど大きいだろうか。
金属製の外郭と表面にガラスのフレームがピタリとはまっている。
文字盤はかなり変わったデザインでおそらく月と太陽を模しているのだろう。
時刻を表示するための数字に限っても、0、1、2といったアラビア数字のほかにローマ数字や星座に使われる記号のようなものも見て取れた。
確かに懐中時計としては凝った作りだ、しかしそれがタイムマシンだと言われてもいまいちピンと来ない。
そんな感情が顔に出ていたのか、はらはらとしながらこちらを見ていたネギが懸命に言い募った。


「あ、あの信じられないかもしれないですけど本当なんです!
僕もどうしてこんなことができるのかわからないですけど、で、でも僕は・・・」


「いや分かったからちょっと落ち着け。別に疑ってるわけじゃねぇから」


「・・・信じてくれるんですか?」


「あー・・・まぁ一応な」


あいまいに言葉を濁し横島は軽い溜息をついた。視線を別の方向に向ける。
そこにはカモの説明の途中から席を外していた夕映がいた。携帯電話を耳に当てて誰かと話している様子だ。
通話先の相手に何度か頷いた後、会話を切り上げた夕映がこちらに歩いてきた。


「確認が取れました。確かにネギ先生は今のどかと一緒にいるみたいです。隣で射的をやっていると」


どうやらのどかに電話をかけていたようだ。確かにカモの話の確証を得るためには一番手っ取り早い手段だろう。
夕映の言葉を受けてネギは思い出したように何度も頷いた。


「あっ、は、はいそうです確かにのどかさんと一緒に屋台巡りをしました。その時に射的も」


ネギは身動きの取れないまま背中越しにそう言った。夕映は僅かに逡巡した後横島に目線で合図を送った。


「悪かったな。疑ったりして」


横島は謝罪の言葉を口にしつつネギの頭にポンっと手を置いた。同時に文珠の効果を消失させる。


「あ、体が動く」


ストレスや心身の疲弊によって起こる金縛り・・・とはまた違うが似たような状態から復帰したことによりネギは安堵の息をついた。


「でもどうしてそんな簡単に信じてくれるんですか?自分で言うのもなんですけど随分突拍子もない話だと思うんですけど」


「それはだな・・・なんちゅーか・・・」


疑問を投げかけるネギに何と答えるべきか横島は頭を悩ませた。
別に超本人から彼女の事情に対して口止めされているわけではないが、それでもホイホイと人に話すような内容ではない。
超の周辺に四人目の影が見え隠れしている以上、下手に詳しい話をして興味を持たれても困る。
先日魔族に襲われた記憶を持っている夕映には話しておいた方がいいと判断したが、
その記憶を持たないネギや刹那には出来ればこちらの事情にこれ以上関わってほしくなかった。
結局、無難に当たり障りのない内容だけ語ることにして、横島は近くの席から椅子を引き寄せて腰を下ろした。


「実はちょっと前に超ちゃんから話だけは聞いてたんだよ、タイムマシンの事」


「そうなんですか?」


「ああ、つっても実物を見せてもらったわけじゃないし、ただの冗談かもとは思ってたんだが・・・」


そう言いながら横島はテーブルに置いてある懐中時計を指先で突いた。
なんとなくその仕草を目で追っていたカモと刹那も同感だと言わんばかりに深く頷く。


「まぁ最初は俺っちも全く信じてなかったしなぁ」


「時間移動は東西を問わずどんな魔法使いにも不可能だと言われている技術の一つですから」


実際に経験した今でも完全には疑念を払拭できていないようだ。


「しかし何だって超ちゃんはお前にタイムマシンなんか貸したんだ?」


「それは僕にもわかりませんけど、前に超さんが魔法先生たちに追われてたとき助けた事があってこれはそのお礼なのかも」


「お礼にタイムマシン渡すんか?」


「そのあと学園祭の予定が詰まっててちょっと困ってるって話をしたんです。だから・・・」


「それでタイムマシンで時間をさかのぼって何とかしろってか?なんちゅーか随分おおざっぱな話やなぁ」


確かにそんな反則技が使えれば問題も力尽くで解決できるだろうが、それにしたってほかにやりようはありそうなものだ。
いくら超でもそう簡単にタイムマシンを貸与できるほど量産できているとは思えないし、このことには何か重要な意味があるのかもしれない。


(つってもなんか深読みしすぎてドツボにはまってる気はするんだよなぁ。超ちゃんのやる事いちいち怪しんでもかえって話が進まんかもしれん)


今はあれこれと悩むよりも情報収集に専念するべきかもしれない。本人に直接事情聴取するというのが難しい現状、周囲の人間から聞き込みをしてみるのも有効だろう。
そう考え、横島はネギたちに超と出会った時の様子を聞いてみることにした。


「超さんの様子ですか?えっと・・・特に変わったところはなかったと思いますけど」


「まぁ怪しいのがデフォルトみたいな嬢ちゃんだし、いつも通りといやそうかもしれねぇが」


「いえ、さすがにそれで済ませるのもどうかと・・・。私もどういうつもりかと問い詰めてみたんですがうまくはぐらかされてしまって」


刹那が超を捕まえて正体を探ろうとしたらしいが、のらりくらりとかわされるばかりで何も聞きだすことはできなかったらしい。


「やっぱり単純に兄貴に対しての感謝の気持ちだったんじゃねぇか?それかタイムマシンの起動試験がどうとか言ってたし都合よく実験台にされたか」


「カモ君せめてモニターとか別の言い方してくれても」


歯に衣を着せないカモの言葉に、ネギが疲れたようにガックリと肩を落とした。
そんな一人と一匹の様子を見ながら、横島はそれは何となくありえそうだなと思っていた。
ネギには悪いが超という少女にはそういうことをやりかねない雰囲気があるのだ。
まぁさすがに命の危険があることまでさせているとは思えないが、タイムマシンの調整のために担任教師を利用するくらいは平気でやりそうだ。
横島が何となく納得しそうになっていると、難しい表情で隣に座っていた夕映がポツリとつぶやいた。


「たぶん違うと思います」


「どうして?」


「もしも超さんがネギ先生をタイムマシンの実験だ・・・もとい、モニターにするつもりならもっとうまくやると思うからです」


テーブルに置いたスポーツドリンクで唇を湿らせ、夕映はネギに問いかけた。


「ネギ先生、超さんからタイムマシンのほかに何か預かったりしていませんか?」


「え?いえ特に何も」


「何か指示を受けたという事は?」


「ありませんけど・・・」


急に質問され目を丸くしているネギから視線を外し夕映は横島に向き直った。


「私も詳しいわけではありませんが、こういう精密機械をテストする場合、普通はもっと細かくデータを取るものなんじゃないですか?
例えば同一条件で何度も使用して数値上の誤差を測るとか、でもネギ先生は測定器の類を受け取ることもタイムマシンを使用する際の具体的な指示もなかったんですよね。
だからタイムマシンのモニターという線は消えるんじゃないでしょうか」


夕映は落ち着いた口調でそう説明するとその場にいる全員の顔を見回した。


「あ~まぁ確かにそう言われるとそうかもしれないな」


「ってことはやっぱり兄貴への純粋なプレゼントか?」


「うん、きっとそうだよ。学園祭の予定で困っていた僕を超さんが助けてくれたんだよ」


無邪気に自分の生徒を信じている様子のネギが笑顔を見せている。


「待ってください。超さんがタイムマシンなんてものをどうやって作ったのか、何に使うつもりなのかも謎のままですし、
とにかくもう一度会って詳しく話を聞いてみるべきじゃないでしょうか。
それにタイムパラドックスの問題もありますし、あまり不用意にタイムマシンを使わないほうがいいんじゃ・・・。」


その笑顔に対しての遠慮かどうかは知らないがどことなく気後れしながら夕映がネギを止めようとした。


「タイムパ・・・って何だっけか。どっかで聞いた覚えがあるんだが」


「SF小説なんかで時間移動に関する話をする時、だいたい一緒に語られる思考実験の一つですね。親殺しなんかが有名でしょうか」


「なんか物騒だなおい」


「あくまで例えです。タイムトラベラーが過去に戻って自分の両親を殺したらどうなるかという問題提起ですね。
そんな事をすれば当然未来でタイムトラベラーは生まれなくなりますが、そうなると過去に戻って両親を殺したという事実そのものがなかったことになるわけです。
因果関係に矛盾が生じて論理の破綻が起こります」


「そうなるとどうなるんだ?」


「いろいろ言われてますけど、違う歴史に分岐するパラレルワールドが発生するとか量子力学の多世界解釈なんかに話が発展しますが・・・聞きたいです?」


「いや、なんか面倒そうだからいい」


何となく生き生きとして見える夕映の提案をそっと遠慮して横島はネギに話しかけた。


「つー訳であんま使わん方がいいらしいぞそれ」


「でもこれがないと学園祭の予定が・・・」


「あ~・・・というかそもそもなんでそんな消化できないほど予定を詰めたんだ?」


「いえ、それがいつのまにか身に覚えのない予定で手帳が埋まってまして」


困惑している様子で頬をかいているネギをカモがからかい半分ではやし立てる。


「兄貴はモテモテだからなぁ。みんな兄貴と一緒に学園祭をまわりたいんだろ」


「そ、そんなことないよカモ君!」


若干顔を赤くしながら慌てているネギに横島は暗く澱んだ瞳を向けた。


「くっこのガキ、やっぱり一度きっつく呪われといた方がいいんじゃねぇか?」


「やめてください」


わりと本気で再度ネギに呪いを掛けそうな横島を夕映が軽くどついた。
そしてネギに対して諭すような口調で穏やかに語りかける。


「まぁクラスのみんながネギ先生と学園祭を楽しみたいと考えているのは間違いないと思いますけど、
ネギ先生がいろいろと忙しくしていることはみんなもわかっているはずですし、無理をさせてまで一緒にいたいとは考えていないでしょう。
だからせめてもう一度超さんに会って彼女の真意を聞くまではタイムマシンの使用を控えてみてもいいんじゃないですか?」


「うぅん、そうですね。皆さんをがっかりさせるのは申し訳ないですけど」


「まぁちっともったいない気もするが、それが妥当かもしれねぇな」


「冷静になって考えてみれば大まかな原理すらわからないものをそう簡単に使うべきではなかったかもしれません」


三者三様の反応で納得している二人と一匹を見ながら横島と夕映は気づかれないように頷き合った。
超が何のためにネギにタイムマシンを渡したのか不明な以上、あまり積極的にタイムマシンを使ってほしくないというのが本当の所だ。
いずれにせよ超の動向の一部をつかんだことには変わりないので美神に連絡しておくべきかと横島が考えていると、
テーブルからネギの肩に駆け上がってきたカモが何かを思い出した様子で両方の前足を器用にポンと打った。


「そうそう、なんかいろいろあってすっかり忘れちまってたが、そもそも俺っち兄貴に話があったんだった」


「話?それってどんな?」


「ほら、今日の夜に予選があるって言ってたろ。例の格闘大会」


「え?ああそれ・・・うん、そうみたいだね」


カモの呼び掛けに答えながら、ネギは懐からチラシのような物を取り出した。
鼻の頭にかけた小さなメガネを指先で押さえながら読み始める。
何となく気になって横島もネギの肩越しにちらりと視線を向けてみた。
そこには中央部分にどでかくまほら武道会と書かれていた。軽く流し見ただけでも印象に残るほど色合いやレイアウトが強く自己主張している。


「まほら武道会?なんだそりゃお前そんなもんに出んの?」


目の前にいる少年が見た目に反して妙に武闘派・・・というか好戦的・・・というと意味合いが違うが、
とにかくあちら側の世界にいる知人のツリ目マザコンとなんとなく波長が合いそうなことを思い出した横島は呆れ半分でそう聞いた。


「はい一応。最初は出るつもりなかったんですけど小太郎君に誘われたりマスターからも出場するように言われたり、いろいろありまして」


軽く頬をかきながらネギは苦笑を浮かべた。どうやら彼には彼なりの事情があるようだ。
横島はふぅんと相槌を打ってネギから一歩離れた。率直に言えばそこらの事情には大して興味がわかない。
美人のねーちゃんが水着でキャットファイトするというのならともかく、
常識的に考えれば格闘大会などという汗臭そうな大会に出てくるのは筋骨隆々のむさくるしい男どもだろう。
そんな連中の殴り合いなど見たいとは微塵も思わなかった。
まぁ余程暇だったら散歩のついでに顔を出すくらいはしてみてもいいかもしれないが・・・。
などと横島が考えていると、突然ネギが名案を思いついたとでもいうように瞳を輝かせた。


「そうだ、横島さんも一緒に出ませんか?武道会」


「は?なんで俺が」


「ほら横島さんはかなりの実力者ですし、優勝だって狙えるかもしれませんよ」


「あほか、仕事でもないのに何が悲しくて自分から痛い目にあいに行かなきゃならんのだ。それに優勝つってもどうせ大したメリットもないんだろ?」


こちらの力量に対して何やらネギが勘違いしているのはどうでもいいとして、
そのまほら武道会とやらがどの程度の規模なのかは知らないが、所詮は学園祭の出し物に過ぎない。
優勝賞品もせいぜい学園都市内で使える食券が一か月分とかその程度だろう。そんなもののために殴り合いをしなければならないほど血の気は多くなかった。


「いや、ところが今回はそうでもないみたいだぜ横島の兄さん」


渋面を作りながらネギの提案を拒否した横島に不敵な笑みを浮かべたカモが待ったをかけた。


「あん?どういう意味だ?」


「たしかに去年までは学園内の格闘関係者が各々企画してたせいで一部の例外を除いて小規模な大会がいくつかあっただけらしいんだが、
今年からそいつを一つにまとめた立役者がいるらしくてな、優勝賞金も相応にでかくなっててその額なんと一千万円」


「い、一千万!?」


思いもしなかった大金を提示されて横島は目を丸くした。
どこの誰が企画したものなのか知らないが、素人がやる学園祭の一企画にしては賞金の額が大きすぎる。
それだけ大規模な大会なら会場設営や運営にも材料費や人件費が大量にかかるだろうし、宣伝効果を当てにした投資と考えても元が取れるか怪しいものだ。
それとも大会の運営をしているものの中に優秀な人材がいて複数の企業がスポンサーについたのだろうか?
麻帆良の学園祭が一般的なそれとは一線を画すほどの規模であることを考えればありえない話ではないかもしれない。
横島がそう言うとカモは短い指を口元で振りながらあっさりと否定した。


「いいや有名企業がスポンサーについたわけじゃねぇ。大会を企画し大量の資金を投入して実現にこぎつけたのは一個人だ」


「なんじゃそりゃ、どこの金持ちがそんな事・・・」


口に出しながら一瞬ネギのクラスの財閥令嬢が頭をよぎったが、そんな横島の予想は外れていた。


「超鈴音」


「・・・へ?」


「まほら武道会の発起人は超鈴音らしい」


動物にしては表情豊かにそう言ってカモはネギの肩からテーブルの上に降りた。
そしてどこからか煙草を一本取り出すと口にくわえ、今時珍しいマッチを擦って火をつけ、うまそうに紫煙をくゆらせている。
一般的に見れば愛くるしい姿をしている小動物のオヤジ臭い仕草に内心辟易しながら横島はカモに質問した。


「その話マジなのか?マジでそのまほら武道会ってのに超ちゃんが関わってんの?」


「俺っちが調べたところじゃそうらしいぜ。なんでも二十年位前に開催したきり廃れちまってた武道会を復活させて学園祭の目玉イベントにするんだと。
宣伝の方も大々的にやっててこの分じゃ、出場者もかなりの人数になるんじゃねぇか」


麻帆良は血気盛んな連中がわんさかいるからなぁ、そう言いながらカモはくわえタバコを揺らしながら笑った。
横島はそんなカモから視線を外して溜息をついた。どういうつもりか知らないがはっきり言って超の行動は意味不明だ。
貴重品であるはずのタイムマシンを無関係の人間にあっさり譲渡したかと思えば、大金を出資して格闘大会なんてものを開こうとしている。
行動に一貫性が見出せず予測がつかない。
超の考えが読めないのは単に情報が不足しているだけかと思ったが、どうやらそんな単純な話ではないらしい。


「どう思う?」


横島は隣にいる夕映に小声で話しかけた。


「・・・分かりません。武道大会自体に何か意味があるのか、それとも本命の計画を実行するための囮か・・・」


「陽動ってことか?まぁ結構大きなイベントみたいだし目立つっちゃ目立つんだろうが、ちっと派手過ぎじゃないか?」


「どういう意味です?」


「いや、だって今のところ超ちゃんの素性とか目的を知ってそうなのって俺達くらいだろ?
俺たち相手にこんな大掛かりな仕掛けを用意するとは思えんし、かえって怪しまれるだけじゃないか?」


「それは・・・」


眉間にしわを寄せたまま夕映は言葉を飲み込んだ。唇の先をほんの少しとがらせて熟考しているようだ。
横島は夕映の横顔を見ながら似たような表情で黙り込んだ。
そんな調子で二人そろって思い悩んでいると、どことなくにやついた笑みを浮かべたカモが夕映に話しかけてきた。


「なぁ、夕映っち。ちょいと質問していいかい?」


「・・・なんです?」


カモの口調になんとなく嫌なものを感じたのか夕映が若干警戒の色をにじませている。


「いやね、兄貴の誤解を解くのに忙しかったんで今まで聞けなかったんだが、なんで横島の兄さんと一緒にいるんだい?」


「・・・?」


「いや、だからさ、見たところ今さっき合流したって感じでもねぇんだろ?ってことはひょっとして二人で学園祭デートってやつを楽しんでたのかってな」


「んなぁ!!」


夕映の表情がカモの言葉で引き攣ったように硬直する。
ほんのりと紅潮した頬の下でわなわなと唇が震えて、突き付けた人差し指が明後日の方向を示してまったく狙いが定まっていない。
そんな夕映の態度から確信を深めたのかカモの口角がにゅっと吊り上がっていく。


「なぁぁるほどなぁ、やっぱり噂は本当だったってことかい。親友のデートの裏で自分もよろしくやってたと」


カモがしたり顔でそんな事を言いつつ腕組している。
夕映は荒い呼吸を何とか整えると勢いよくカモに詰め寄っていった。


「な、な、な、何を言ってるですか!!私と横島さんはそんなんじゃ・・・」


「べつに隠すこたぁないだろ?悪いことやってるわけじゃないんだからよ。何なら今度は兄貴とのどかの嬢ちゃんも誘ってダブルデートでもすりゃいいじゃないか」


「ぐぬぬぬぬ」


もはや酔っ払いのオヤジが若い子に絡んで悦に入っているようなカモと、
その姿を悔し気に睨みつけている夕映を見ながら横島はそっと溜息をついた。放っておくのも後が怖いので仲裁に入ることにする。


「おいおっさん。自分に浮いた話の一つもないからって僻むなよ。みっともねぇ」


「なっ!なんだと!!こう見えても俺っちの女性遍歴は・・・」


「いや、別におっさんがどのハムスターと付き合ってたとか興味ないし」


「は、ハムスター?ハムスターだと!?オコジョ妖精の俺っちに、言うに事欠いてハム野郎がとっとこしただとぉ!!」


「いや知らねぇよ。つかほんとに酔ってんのか?」


関わり合いになりたくないばかりにおざなりな仲裁をしたせいで何かがカモの逆鱗に触れたらしい。
地団駄を踏みながら唾を飛ばし、刻一刻とオヤジ妖精が面倒くさくなっていく。もはや直視するのも嫌なので横島は首を傾けて空を見上げた。
するとそんなこちらの態度がますます気に障ったらしく、カモは怒り心頭な様子で怒鳴り声をあげた。


「そんなん言うなら横島の兄さん!!あんたはいったいどうなんでぇ!!
あんたこそ生まれてこの方一度だって女に縁があったようには見えねぇぞ!!」


「ふっ、まぁたしかにそうだな。ちょっと前までの俺がそのセリフを聞いていたら、貴様の生皮をはがして油をそぎ落とし、
丁寧に水洗いしたうえでミョウバンなどを加えたなめし液に浸し、一週間ほどたってから日陰で乾かしつつ石でたたいてなめし皮を作り、
襟巻なんかに加工して女の子にプレゼントしてやるくらいには激怒していただろうが・・・」


「ぐ、具体的になんちゅう恐ろしい事を・・・」


「ちなみにプレゼントした後で原材料を報告してごみ箱に捨てられるまでが貴様の末路や」


「追い打ちがえげつないぞこんちくしょう!!」


真顔でここまで言ってのけた横島に戦慄した様子でカモが震えている。
さすがに脅し過ぎたかと・・・まぁ大して反省はしないで横島は言葉を続けた。


「だがな今の俺はそんな誹謗中傷なぞ屁とも思わん。なぜならちょっと前まで俺には美人の彼女がおったからな!!」


親指を立てて己を示しながら横島は小鼻を膨らませてニカリっとわざとらしい笑みを浮かべた。
はたから見たら確実に気味悪がられる表情で勝利の余韻に浸る。
そんな調子でしばらく勝利者の余裕を見せつけていた横島だったが、ふとなにやら周囲に違和感を覚えた。
意外な事実を聞かされたはずの一同は一様に動揺を露わに・・・してはいなかった。
何やら気まずそうに互いを見やり、どうすればいいかわからないといった様子で押し黙っている。


「お、おいなんやその態度は」


「だってなぁ・・・」


「えっと・・・」


「その・・・」


訝し気なこちらの問いかけに言葉尻を濁していたネギたちだったが、やがて仕方なくといった様子でカモが代表して口を開いた。


「いや、なんかさ百パーセント嘘だってわかる見栄を聞かされると馬鹿にしたくなるよりも悲しくなるんだなって」


「なんで嘘だと決めつける!!全部ほんとの事や!!」


「えっ!本気で言ってたのか!?ま、まさか横島の兄さん、女にもてなさ過ぎて幻覚を見るようになっちまってるんじゃ・・・」


横島の心からの言葉はしかし相手には全く届かなかったらしい。
こちらを信じるどころか危険な薬物に手を出しているのではないかなどと、事実無根な妄想を真剣に話し始めた一同に横島の怒りが限界に達した。


「こんハム吉妖精がぁぁあ!!もはや貴様なんぞ加工製品にするまでもない!!直接土に返してやるぅぅぅ!!」


「うわぁぁぁ!!に、逃げるぞネギの兄貴!!」


「え!?あ、わ、わかった。横島さんよかったら格闘大会見に来てくださいねぇぇぇ!」


「そ、それじゃ、私も失礼します!」


目の端が眉毛に届かんばかりに吊り上がるほど激怒している横島の剣幕に、ネギたちが脱兎の如く逃げ出していく。
見事な足さばきで人込みを避けつつ一瞬で視界から消えた。
横島は彼らがいなくなった方角を睨みつけ、一度舌打ちをしてから何度か深呼吸を繰り返した。いつまでもくだらないことで怒っているのも馬鹿らしい。
とりあえず今度あのおっさん妖精にあったら首をキュッとひねってやると心に誓いながら横島は隣にいる夕映に顔を向けた。


「・・・・・・・・」


彼女は何故かぼうっとしたまま考え事をしているようだった。


「・・・夕映ちゃん?」


様子がおかしい夕映に横島が戸惑っていると、彼女は表情を変えないままポツリと呟いた。


「横島さんの彼女ってどんな人だったですか?」


「へ?」


横島は思わず夕映の顔を凝視して間の抜けた声をあげた。予想もしていない角度から投げかけられた質問に思考が空回りする。
歯車がかみ合わず無限に空転している状態は、突然我に返った夕映が慌てて言葉を掛けるまで続いた。


「い、いえその違うです私は別に横島さんの彼女がどういう女性だったのか知りたいわけではなくてですね
ただ横島さんがその女性とどのような交際をしていたのか興味があるわけでもなくあくまで一般的な統計として情報を収集しようとしたわけでして
もしこれからのどかとネギ先生が交際することになったとしたらのどかの相談に乗る際にも何かと役に立つのではないかと愚考した次第で
もちろん横島さんが答えたくないというなら答える必要はないのですけれども」


ものすごい早口で言葉を発しながら夕映はリンゴのように顔を赤くしていた。
これだけ一気にまくし立ててよくもまぁ舌をかまないものだと感心するが、それも時間の問題な気がする。
横島はとにかく夕映を落ち着かせようと両手をあげて制止した。


「ス、ストップ!夕映ちゃん一旦落ち着いてくれ」


「え!?い、いえでもそのあのこれはべつに私はあのえと」


「わ、分かったから。とにかく統計がどうのってやつなんだろ?参考になるかは知らんがちゃんと話すからさ」


「は・・・はい、すみません」


恐縮したように項垂れる夕映の後頭部を見ながら、横島はさて妙なことになったぞと苦笑した。
夕映を落ち着かせるために彼女の質問に答えることを了承してしまったが、
改まって他人に話したことなどないせいかうまい言葉が浮かんでこない。
それでも話すといった手前いつまでも黙っているわけにいかず、横島は久しぶりに『彼女』の姿を出来るだけ鮮明に思い出していた。
そして語りだす。自分の中に今も眠っている『彼女』のことを・・・。


「俺の彼女はだな・・・」


「・・・はい」


固唾を呑んでこちらの言葉を待っている夕映に横島は重々しく告げた。





「尻がよかった」


「・・・・・・・・・え?」





頭の中に思い描いた『彼女』は相変わらずいい尻をしていた。
真面目な表情でそう言い切った横島に夕映は目を丸くした。


「・・・えっと、あの・・・」


「背中から尻にかけてのラインが驚くほど芸術的でやな。こう一目見ただけでわかるほどプリっとしとって思わずむしゃぶりつきたくなる感じやった」


そう、下からのアングルで見上げたらおそらくご飯三杯はいけるだろう。それほどあの曲線は美しかった。


「太ももも最高やったなぁ。細すぎず太すぎずムチムチしとってハリがあってだなぁ。まぁ、胸はなかったけど」


「・・・は、はぁそうですか。でもその私が聞きたいのはそういう事ではなく・・・」


「顔はお姉さま系の美人やったんやが、たまに年下の女の子みたいに可愛い時もあってだな。
基本的にコスプレしとる時がデフォだったんだが、その分地味な普段着でもかえって魅力的というか。あと、胸はなかった・・・」


「横島さん。これはあくまで私見ではなく一般論ですけど、
身体の一部分をあえて強調するような表現の仕方は一定の女性に殺意を抱かせるには十分ですので気を付けたほうがいいですよ」


「あ、はい。なんかすんません」


地面に置いてあった金属バットが収納してあるケースを何故か手元に引き寄せて夕映は優しく微笑んでいた。
横島は背筋に冷たいものを感じながらゴクリとつばを飲み込んだ。


「私が聞きたかったのはその・・・彼女がどんな性格をしていたとか、人柄とかそういう事です」


「はぁ、そんなんでいいのか?えっと・・・」


夕映にそう言われて横島は頭に浮かんできたことを素直に話すことにした。


「う~ん。なんちゅうか普通に真面目というか常識的な奴だったな。たまに妙に暴走する時もあったけど」


「暴走・・・ですか?」


「ああ。一途っつうか思い込みが激しいというか。一回その性格のせいでベス・・・ええと姉妹でシャレにならんレベルの喧嘩をしたことがあってな」


「ふむ」


「まぁ生い立ちとか生活環境とか結構特殊な奴だったんで、今思えばそこらへんも関係しとったのかもしれんが」


「なるほど」


「あとは・・・そうだななんて言えばいいかな・・・」


思ったことをつらつらと話しているだけなので当然スムーズに言葉が浮かんでくるわけではない。
もともとこういったことに対して弁が立つような人間ではないので、このくらいで勘弁してもらおうかと横島が考えていたその時、夕映が真剣な目をして質問してきた。


「横島さんは彼女をどう思っていたんですか?」


「へ?どうって?」


「た、例えばその・・・す、好きだったとか。あ、愛してたとか・・・」


「あ、あいいいぃいい!?」


俯き、顔を真っ赤にしながら蚊の鳴くような声で夕映はそんな事を言ってきた。
横島の思考が再びクルクルと空回りする。なんというかあまりにド直球な質問だ。
好きだの愛だのそんなもの、当時の自分だって真面目に考えたことはなかったのに・・・。
苦笑してその事を夕映に伝えようとしたところで・・・ふとあることに気が付いた。




(そうか・・・そういやそうだった・・・)




自分は彼女に対してやらせてくれだのなんだの、そんな事ばかり言っていて肝心の・・・自分の気持ちを一度も話したことがなかった。




彼女を大切に思っていたことは事実だ。
そうでなければ、世界を改変しようとするほど強大な力を持った魔神と戦うことなんてできはしない。
それでも彼女の気持ちに対して本気で真正面から向き合ったのかと問われれば、たぶんそんなことはなかった。

夕映に言われて思い出した。彼女を失った時にも感じた思い。
吹っ切ったつもりでいても、こういうきっかけですぐに胸の奥から湧き上がってくる。




これは・・・この感情は・・・間違いなく・・・自分にとっての・・・。




「横島さん!!」


「え?」


強く肩を揺さぶられて横島は我に返った。
目の前で何やら心配そうな表情を浮かべて夕映がこちらの様子をうかがっている。


「大丈夫ですか?」


「えっと・・・なにが?」


「なにがって・・・さっきから何度も呼んでるのに突然黙ったまま動かなくなったから・・・」


「あ・・・そ、そう?わるい、なんか考え事してて・・・」


愛想笑いで誤魔化すように横島はそう言った。
そんなつもりはなかったのだが、いつの間にか夕映の呼びかけに反応できないほど物思いにふけっていたらしい。
今もなお胸の中でざわめいている感情を自制しながら、こんなのは自分のキャラではないと自嘲する。
どうにかしていつもの調子を取り戻そうと四苦八苦している横島に、夕映が怪訝そうな表情を浮かべていた。
そんな彼女に大したことではないからと告げて横島はワイシャツの首元を緩めた。
どうもすぐには冷静になれそうもない。ここは彼女の追及を受ける前に離脱した方がいいかもしれない。
そう判断して横島は少し無理のある苦笑を浮かべながら夕映に話しかけた。


「えーと、すまん夕映ちゃん。今日はこれくらいで解散しないか?
ほら、夕映ちゃんも日課の魔法の訓練があるし、俺もネギたちの話を美神さんに報告しなけりゃならんからさ」


「え?あ、はいそれは・・・そうですけど・・・」


唐突な発言に多少の無理を感じたのだろう。夕映はすっきりしない様子だった。
それでも提案自体は一応妥当であると感じたのか、結局は何も言わずにこちらの言い分を受け入れてくれた。
そんな彼女に心の中で感謝しつつ横島はとりあえずホッと胸をなでおろした。

最後に明日も予定がなかったら闘技大会にネギの応援をしに行くと約束を交わしながら二人は椅子から立ち上がった。
互いに手を振りながら別れる。

一人になったとたん、もやもやとしたものが胸の奥を支配しそうになって横島は強く頭を振った。
出来れば熱いシャワーでも浴びたい気分だった。いやこのうだるような天気の中では水風呂にでも飛び込んだ方が具合がいいか。
そんな風に余計なことを考えないようにくだらないことで頭の容量を埋めながら、横島はとぼとぼと美神たちのもとに帰っていった。












[40420] 27
Name: 27◆e74f10e0 ID:73709a19
Date: 2023/01/30 22:16





「お腹が空いた」


それが二時間前に倒れているところを発見した女の、目覚めてからの第一声だった。

消毒薬よりも機械油の匂いの方が濃くなってしまった室内で、正確に餌の匂いを嗅ぎつけたらしい。
ここは女が無断で占拠している彼女の引きこもり場所の一つだ。
もとは医薬品を保管していた倉庫で、軍が基地の一部を改装工事した際、
保管場所が移され空き部屋になったのをいいことに女が私物を大量に運び込み自らの私室にしてしまった。
いまではもう誰もがその事を半ば既成事実として認めている。
周囲を見渡せばドライバーやレンチ、バーナーや電動のこぎりなどの工具と、ビーカーやシャーレ、ピンセットにスポイトなどの実験器具がごちゃ混ぜに放置されている。
一目見ただけで部屋の主は明らかに片付けとは無縁だと分かるのが、今現在のこの部屋の惨状だった。


そんな室内の一角で女はベッドに転がるような姿勢で横になっていた。
一応清潔さだけは保っている(洗濯しているのではなく単に新品というだけだが)シーツに絡まりながらぐぅぐぅと腹の音を鳴らしている。
そんな有様を半眼で見下ろしながら超鈴音は呆れた声で言った。


「・・・おはよう」


「ああ、おいしそう。ではなくておはよう超」


そんな挨拶を交わしながら、女がまだ寝ぼけているのか微妙に判断しづらい表情で餌を待つひな鳥のように口をパクパクと開閉していた。
どうやら手に持っている器の中身を所望しているらしい。ハァと深く嘆息しながらスプーンを口に突っ込んでやる。
すると、あっつぁぁぁと奇怪な悲鳴を上げながら女がベッドから転げ落ちた。
どうやら彼女の口内の耐熱温度はそれほど高くなかったようだ。
しばらくの間ヒイヒイ言いながら苦悶している女の様子を観察して、超は何となく溜飲を下げた。
いい笑顔でミネラルウォーターの入ったボトルを女に向かって放り投げてやる。
見事に頭でキャッチしながら女は切羽詰まった様子でそれを拾い上げ、キャップをひねりごくごくと水を飲みほしていった。


「はぁはぁ、ひどいじゃないか。ちょっとしたお茶目だろう?」


「いい年した大人にあ~んなんてされてもまったく可愛げがないし、あなたが倒れるたびに介抱させられる身にもなってほしいネ」


そう言いながら超は疲れたように肩を落とした。
こんな風に彼女が突然倒れるのは珍しい事ではない。
これで体が病弱だからというならまだ可愛げがあるが、彼女の場合はそんな理由ではなかった。
おおかた、また趣味のがらくたいじりに没頭しすぎて寝食を忘れていたのだろう。
普段の生活も規則正しいとは言えないが、それでもここまで不健康ではない。
正直この奇行だけは何とかしてほしいものだが、超がいくら言ってもどうにもならなかった。


「まぁ今更その悪癖をどうこう言うつもりはないが、せめて水と睡眠くらいはまともに取るネ」


「まぁねぇ、そうするつもりがあっても、興が乗ってくるとすっかり忘れてしまうものなんだなぁ」


まるで他人事のように言って来る女にデコピンでも食らわせてやろうかと超が内心で悪態をついていると、
女は口にスプーンをくわえて顔をほころばせた。


「だけど本当に超は料理がうまくなったねぇ。これはあれかいお粥?」


「中華粥。すきっ腹に固形物を入れると大変なことになるし・・・」


食物を消化するのにも体力がいる。内臓に負担を掛けないために味も薄めにして水分を多くしていた。


「なんというか、最初に君が作ってきた泥水みたいなものに比べると雲泥の差だね。ほんとに」


「いつの話をしてるネ。確かに自分でも料理が上達しているとは思うが、その理由がいい年した大人の世話というのが悲しくなるヨ」


本来、超も食事や家事に時間を取られることをあまり好まないたちだったが、
身近にいる人物のあまりのダメ人間っぷりに仕方なく世話を焼いているうちに家事の技術が急上昇した。
特に料理は意外と己の趣向にマッチしていたようで、もともと凝り性な性格も相まって今ではそこらの料理人顔負けの技術を有している。
まぁしかし、これは改まって言うことではないが料理が熟達した一番の理由は、食べてくれる人が心から美味しいと言ってくれるからだろう。
目の前で日光浴中の猫のような表情を浮かべている女を見て超はそう思っていた。


「それにしても休暇がとれたならこんな所に引きこもってないで、私に挨拶の一つでもするべきだったんじゃないカ?
最近のあなたを見てると本来の目的を忘れているのではないかと心配になるネ」


超は最近研究室はおろか自室にまで姿を見せないでいる女の事を内心案じていた。
連絡は取れていたので無事は確認していたのだが。


「いやぁ、一応研究室には顔を出したんだよ。でもその時、君はなんだかんだ忙しくしてたみたいでさ。
挨拶は後にするかってこの部屋に来たら、やりかけの改造を思い出して・・・」


その後は作業に没頭していたらしい。それで結局いつもの有様になったようだ。
すまないねぇと軽薄に笑う女に若干苛立ちを感じながら超は再び大きなため息をついた。


「忙しそうにしてたって・・・別にそんなのいつもの事ネ。普通に声を掛ければよいではないカ」


「ああ、そりゃまぁ君一人の時ならそうしていたけど、ほらあの時は珍しく同僚と何か話していただろう?邪魔しちゃ悪いと思ってね」


「同僚と話?」


そう言われて超は自分の記憶をさかのぼった。そしてすぐに何日か前の出来事を思い出す。


「ああ、あのときか。あれは別に楽しく会話していたわけではないヨ。むしろ腹を立ててたネ」


「どういうこと?」


「見かけない職員がいたから声を掛けたら、魔道兵士の被験者に薬物を投与するとか訳の分からないことを言ってたので追い出しただけヨ」


偶然気付いたからよいものの、下手をすれば無許可の人体実験が行われていたかもしれない。
あの顔もろくに知らない職員はミリタリーポリスに引き渡したので安心だと思うが。
一応身分証を確認したところこの基地の所属だったことは判明している。
どういった経緯でこんなことをしでかしたのか、今は取り調べを受けているだろう。
超がそう説明すると、なぜか女は額に手を当てて苦笑した。


「ありゃりゃそんな事になってたのか。まったく先走って動くから馬鹿を見る。
正式に許可が出たといっても責任者の立ち合いがなければまずい事になると、それくらいの想像力もないのかね」


「正式な許可?いったい何を言ってるネ」


「ああ、だから薬剤投与の件だろう?あれの許可を出したのは私だ」


平然とそう言いながら女は粥をすべて平らげ、空の食器を近くにあったテーブルの上に置いた。
ごちそうさま、美味しかったといつものように微笑んでいる。
超はその笑顔を見ることが好きだったが、今はそんな場合ではなかった。


「・・いったいどういうことか説明するネ」


声を低くし目つきの鋭くする。しかし女は大した動揺も見せなかった。


「まぁざっくり説明すると、ある企業の薬品メーカーからセールスがあってさ。
なんでもその薬物を使うと魔法を使用した際の反動を二割ほど軽減できるんだって。
刻印による人体への影響は個人レベルの調整である程度抑制可能だけど、それでもまだまだ完全じゃない。
もしそんなことが実現できたなら大変喜ばしいだろ?」


「ふざけるのも大概にするヨ。
魔法を使った際に反動が起きるのだとすれば、それは術者が制御できないほどのエネルギーを使ったために起こった魔法の反作用ネ。
魔力容量そのものを増大させでもしない限り、人体への負担を抑えることなど不可能ヨ。
それができなかったからあの刻印を作ったのではないのカ?」

魔道兵士に刻まれた刻印。あれは人体に取り込んだ万物のエネルギーを効率よく魔力に変換するための計算式のようなものだ。
変換効率を増やせばエネルギーが魔力に代わる際のロスをその分軽減できる。
それは同時に魔力容量が少ない者であっても、ある程度強力な魔法を行使できることを意味していた。
魔道兵士は人体に手を加えることで生まれるが、人体そのものを変質させるわけではない。
あくまでも魔法というメカニズムにそって行われる改造だ。
薬物投与などによる生理的なアプローチでは限界があることは目の前にいる女が一番よく理解しているはずなのに・・・。


「もう一度聞くよ。いったい何のつもりで許可したネ・・・」


自然と眉間に力が入ることを自覚しながら超は女に詰問した。
すると女は降参とでもいうように両手を上に向けた。


「なんでだと思う?」


降参はしていないようだった。


「・・・誤魔化すつもりカ?」


「ちがうね。よく考えてみろと言ってるんだ。おかしいと思うことはいくらでもあるだろ?」


「・・・・・・・・」


生徒に設問する教師のように女は超を試しているようだった。
腹立たしい事だが女がこのような言い回しをする時、たいていよく考えれば答えがわかるようになっている場合が多い。
超はしばらく沈思黙考していたが、ふと頭にひらめくものがあった。


「あなたに接触したセールスマン。なんで魔道兵士の事を知ってる?」


一部では公然の秘密となっている魔道兵士のプロジェクトだが、それはあくまでも軍内部での話だ。
正式に配備が完了していない現状、魔道兵士はテストケースに過ぎない。その間は外部に情報が漏れないように徹底的に管理されているはずだった。
もちろん人の口に戸は立てられないものだが、それでも民間企業が介入してくるまで噂が拡散しているとすれば事前に何らかの兆候くらいは聞き及んでいてもおかしくない。
それに・・・。


「なんで初めに接触したのが軍の広報ではなく開発主任のあなたなんだ?」


窓口にアポイントメントを取るでもなく、直接開発主任に接触したという事は相応の情報を握っていて軍内部にも顔が利くという事だ。
だがそれにしては超が拘束した職員はミリタリーポリスにその存在を知られていないようだった。
つまり末端までは情報が行き届いていないわけだ。下の人間に隠れて秘密裏に事を運ぶ必要があったという事は・・・。

そこまで考えて超は分からなくなった。苛立たし気に髪をかき上げる。
するとその様子を楽し気に観察していた女が声を掛けてきた。


「降参かい?」


「ぐぬぬ」


予想してたよりも悔しさがこみあげてくる。超がそうして低い唸り声をあげていると、女は今度こそ声に出して笑った。


「なにも唸ることはないじゃないか。充分及第点だよ。これ以上は分からなくても仕方ないさ。何しろ君は事情を知らないんだから」


「事情ってどんな?」


「そうだねぇたとえば・・・」


若干不貞腐れたように尋ねる超の顔を女はにやにやと見つめていた。
そのまま重力に耐え切れずに勝手に目蓋が閉じたとでもいうような不器用すぎるウインクをして、人差し指を立てながら説明を始める。


「例のセールスマンが所属している企業がとある政治団体に多額の献金をしていて、
その団体の構成員の一人が軍部の主戦派に顔の利く人間で、そいつが私を紹介したというのは?」


「なんのために?」


「利権目当て・・・と簡単に言ってしまえればよかったんだが事態は少々複雑でね。
そもそも利権の整理は上の人間がとっくに済ませた後だろうし、いまさら食いつこうとするには遅いきがするが、
まぁ魔道兵士が扱うのは物ではなく人だからね。そこを突けば何とかなると思ったのかな?
人間相手の利権関係は複雑になるし手間もかかるから。
例えば軍に卸されてる民間のレーションの調達に関してリベートを取る、なんて簡単な図式にはならない」


「・・・・・・」


「いずれにしても私としては彼らが本気で利権を狙っているとは思えなかったがね。だって売り込んでくるにしても製薬会社はないだろ?
ただでさえ薬事法なんかでめんどくさい手続きがあるのに。そんなことするくらいならNPO法人の人権保護団体がでてくる方がまだあり得そうだ。
あぁそういえば君が懸念してた薬物に関してだけど、成分分析の結果、あれは民間に出回ってるものよりそこそこ強力な向精神薬程度の物だったよ。
もちろん魔法使用時の人体の負担を減らす・・・なんて効果はなかったけど、負担がかかっても気にならないくらいの効果はあるかもね」


「その話はもういいヨ。それよりその企業の目的が利権ではないならなんだというのカ?」


「というより企業側と政治団体側の思惑が別にあると考えたほうがいいように思うね。
製薬会社の方は本当に利権目当てだったのかもしれない。でも政治家の方はちょっと調べると面白いことがわかる」


「なにが?」


「その政治団体の主要人物の一人にある大財閥のご子息が含まれていてね。君も名前くらいは知ってると思うよ」


そして女は小さな声で具体的な人物の名前を挙げた。


「それってたしか大手通信会社の会長カ?」


「それは表向きの肩書の一つだね。ありていに言えば彼の正体は武器商人だ」


「武器商人?」


「第一次魔法大戦以降、急速に力をつけた勢力の一つさ。
当時はアメリカが本土攻撃を受けて軍需工場のいくつかを外部に移したなんて噂もあったくらいだしね。その受け皿というか仲買人となったのが彼らだ」


第一次魔法大戦。魔法世界(ムンドゥス・マギクス)による旧世界(ムンドゥス・ウェトゥス)への侵攻。
地球人類が初めて経験した異界の住人からの侵略戦争である。
開戦当初はまだ魔法に関して何の予備知識もなかった人類側が圧倒されていたらしいが、それもそう長くは続かなかったと言われている。


「魔法世界側の主要都市であるメガロメセンブリアが比較的簡単に陥落したからねぇ。
まぁ正確に言えばアレは内部から瓦解したようなものだけど」


魔法力の枯渇による世界崩壊が現実に迫っていた数年間で、メガロメセンブリアは地球侵略に先駆け急速な軍国化を進めていた。
それは国民を手っ取り早く兵士へと変貌させるために必要なプロセスだったのだろうが、
これに反対する国民はメガロメセンブリア元老院の予想をはるかに上回っていた。
もともと彼らの国是は無私の心で世界に尽くすというマギステル・マギ(立派な魔法使い)を目指すものだった。
それが突然、生存権を確保するために魔法を使って人を殺せ、に変われば反発を招くのは当たり前だった。
そう言った声を憲兵による監視体制によって封じ込め、反乱分子を摘発し、洗脳や見せしめのための処刑を行い。
情報規制、言論統制、政府にとって都合のいいプロパガンダを行う事で国民感情を操作した結果、
とりあえず戦争を行うことができる状態までには持っていくことができたらしい。


「とはいえ潜在的にはかなりの不穏分子を抱えたままで行われた戦争だったわけだ。
自国内ならともかく戦場に出てしまえば監視の目も緩くなるからね。進んで捕虜になるものや亡命者が大量に出たそうだよ。
地球側も魔法の情報は欲しかっただろうし、未知の技術を得る事にもつながる。
表向きは異星人として排斥しながら裏では積極的に技術者なんかを確保していたんだな」


最終的に自国内のレジスタンスが外部の連合軍を手引きし、メガロメセンブリアは陥落。
こうして魔法世界は崩壊した。


「とまぁここまでが歴史でいうところの第一次魔法大戦だ。
彼らがなぜかたくなまでに国体を維持しようとしたのか諸説あるけどまぁそこはいいだろう。
メガロメセンブリア陥落後、連合軍の攻撃を生き延びた魔法使いたちは難民となり世界中に散っていった。
そうやって魔法技術が世界中に拡散した結果、各国の技術競争が激化し、人類は否応なく魔法革命とでもいうべき新たな産業革命を迎えて・・・」


「な・が・い・ヨ。話が脱線しすぎ。武器商人の話はどうしたネ」


「ん?ああそうかすまない。件の武器商人は大戦以降この国においても多大な影響力を持ってきた。
ただ魔法技術の浸透により以前のようには商売がうまくいかなくなってきたのさ。
彼らが所有する兵器工場の多くは旧兵器、魔法技術が導入される以前のものがほとんどでね。
兵器産業に使われる工場のラインは、なかなか他の物に転用がきかない場合が多いんだ。
戦車の砲塔を作っている工場のラインを人口精霊触媒の生産ラインに変えるのは無理があるだろ?
そんな風になかなか方向転換に苦労しているとき、既存のそれとは異なったアプローチの魔法技術が導入されたわけだ。
まぁ私が考えた魔道兵士だけど。これはほとんどコストがかからない上に主な材料は人間だからね。
彼らにとっても面白いと思ったんだろうな・・・」


「ということはそいつの目的は利権ではなく魔道兵士の技術そのものカ?」


「というより私に接触したかったんだろう。
こんな回りくどい手を打ってきたのは、商売敵に尻尾をつかまれたくなかったからか。
軍部の主戦派と一口に言っても決して一枚岩ではないからね。自分たちの息がかかった軍人に仲介させるつもりだったのだろう。
まぁ君のせいで失敗したみたいだけど・・・」


「私があなたの共同研究者だったから話が通っているとでも勘違いしたのか。どおりで素直にペラペラと話すと思たネ」


ミリタリーポリスに連行される際、裏切り者を見るような目でこちらを罵倒してきた男の表情を思い出し超は小さくため息をついた。


「いずれにせよ、これから私は少々忙しくなる。申し訳ないけどカシオペアの方はしばらくの間君に任せきりになってしまうな」


「まったく面倒ネ。あなたはただの研究者なのになんでこんな・・・」


「軍の協力を得ている以上、ある程度政治にかかわるのは仕方ないさ。厄介なことだがね。そんなに言うなら、きみ私の代わりにやってみるかい?」

.
疲れた顔でやれやれと肩をすくめる女に超は苦笑して首を横に振った。


「わるいけどそれは私向きの仕事じゃないネ。馬鹿にされるのがおちだヨ」


「まぁ、たしかに。内実がどうあれ君の見た目が小娘であることに変わりはない。ただ、それだけが理由じゃないだろ?」


目がかゆかったのか、あるいは単に寝不足なだけか、しきりに目蓋をこすりながら女は超に問いかけた。


「どういう意味カ?」


「君の性質に由来する問題さ。政治的な駆け引きに限らず、君は人を軽く見ているところがある」


そのことを窘める・・・というよりは単に事実を指摘しているといった口調で女はあっさりとそう言った。


「忌避しているわけでも侮っているわけでもないけどね。ただ軽く見ている」


女は気だるそうな動きでベッドから降りると、先程まで自分がくるまっていたシーツを名残惜しそうに見つめた。
そして反論することもできずに押し黙っていた超の頭を優しく撫でた。


「いつか君にも大切に思える繋がりができるといいね」





◇◆◇





夢を見ていた。

目覚めた瞬間そう実感できたのは、夢に出てきた人物が懐かしかったからだろう。
撫でられた時の手のひらの温かさまで感じた気がして、わずかに頬が緩んだ。
来るべき作戦をまじかに控えたこの時期に何の誇張もなく当時の記憶をただ再現する夢を見た事は、
自らの目的を再確認するのに都合がよいのかもしれない。
リクライニングチェアの背もたれに体を預けたまま超鈴音はそんな事を思った。
ちょっとした仮眠をとるつもりだったのだが、想定以上の時間眠りについていたらしい。
椅子のわきに置いてあるクーラーボックスからミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、中身を半分ほど飲み干す。
若干重く感じる頭をはっきりさせようと、顔でも洗ってくるかと思い立ったところでふと違和感に気付いた。


「やぁ」


短い挨拶が聞こえてくる。


慌てて超が振り返ると、そこにはついこの間までこの隠れ家にいついていた少年の姿があった。
視界を遮らない程度に伸ばされた黒髪、日本人離れした彫の深い顔立ち、本人の趣味なのか全身黒ずくめの姿は相変わらずで、シンプルなワイシャツとジーンズを着込んでいる。
少年はこの部屋に常備していたパイプ椅子に座りながら柔和な笑顔を浮かべていた。


「おまえ・・・いつの間に・・・」


表面上は冷静さを装いつつ、激しくなっていく心臓の鼓動を何とか抑えようと胸に手を当てる。
不意を突かれたなどという話ではなかった。寝込みを襲われたようなものだ。


「どうやってここに来た?セキュリティには何の反応もなかった」


警備システムは今も正常に稼働している。センサーにも異常はなく外部からハッキングを受けた形跡もない。
魔法による何らかの干渉があった場合でもすぐさまそれに対抗できるように、この隠れ家には幾重にも仕掛けが施されている


「どうって言われてもね・・・」


「答えろ!!返答次第では・・・」


言葉尻を濁す少年に超は目つきを鋭くさせていった。
すると・・・




「いや、普通に玄関から入ってきただけだけど。セキュリティパスは君にもらったのがちゃんと使えたし。
ひょっとして君、僕のパスを失効し忘れてたんじゃない?」




ジト目でこちらを見やる少年から顔を背け、超は残っていたミネラルウォーターを飲み干した。


「・・・そうか」


「・・・まぁ、別にいいんだけどね」


白々しく咳払いなどする超にむかって少年は小さくため息をついた。


「で、何しに来た?言っておくがこっちは今更お前に用などないネ」


「ご挨拶だね。手ぶらで来るのもなんだし一応お土産も買ってきたんだけどその様子じゃいらないかな?」


手に持っているコンビニの袋を揺らしながら少年はそう言った。


「ふっ、用はないといったが歓迎しないとは言ってないネ」


だからそれをさっさとよこせと超は手を差し出した。少年はやれやれと肩をすくめながらそれでも素直にビニール袋を超に渡した。
超がガサゴソと袋をあさってシュークリームとプリンを確保していると、少年は落ち着いた声で言葉を続けた。


「実のところ何か特別な理由があってここに来たわけじゃないんだ。
今更君の計画を邪魔しようなんて思っているわけでもないから安心していい」


「まさか私に会いに来たとでも言うつもりカ?」


「それが理由でもよかったんだけど残念ながら違う。君は麻帆良に大量の監視カメラを設置していただろう?
この場所はこれからの成り行きを見守るには一番適した場所といえる。だから来たんだ」


「成り行きを見守る?要するに暇という事カ?」


「そうとも言えるかな?『剣』の調整がまだなら手伝おうかとも思っていたんだけど、その様子じゃ心配いらないみたいだしね」


計器類に向き直り数値に目を通しながら少年は一つ頷いた。
超はシュークリームの袋を開けながら目を細めた。


「以前ははぐらかされたがもう一度聞くヨ?」


「なんだい?」


「なぜおまえに剣の調整ができる?」


「さぁ、なぜかな・・・」


初めて聞いた時と全く同じ答えだった。
ごまかしにすらなっていない稚拙な返答。要するにこちらの問いに答える気が全くないのだろう。
一瞬無理やりにでも聞き出すべきかと物騒な考えが脳裏をよぎる。拘束すること自体はおそらく可能だ。
彼は抵抗しないだろう。だがそれ以上の行為、例えば脅しや懐柔で口を割らせることができるかと問われればたぶん答えは否だった。
もうすでに何度か試したことだ。舌打ちしてシュークリームにかぶりつく。
甘いホイップクリームとカスタードに癒されながら超は気持ちを切り替えた。


「まぁいいネ。好きにすればいい」


見方を変えれば不安要素の一つを手元で監視できるということでもある。
少年の思惑が何にせよ目の前にいれば対処も可能だろう。そう考えて超は端末を操作して少年が言っていた麻帆良の監視システムを起動した。
まもなく麻帆良武道会の本戦が始まる。





◇◆◇





「来られない?え、でも昨日の話だといっしょに行けるって・・・」


耳元をくすぐるような声が携帯電話から聞こえてくる。
こちらを非難しているというよりは単に疑問を感じたのか少々驚いているようだった。


「すまん、夕映ちゃん。俺もネギたちの応援に行くつもりだったんだけど、今朝になって美神さんが今日は近くで待機しろって」


周囲の客に迷惑にならない程度に声を押さえながら横島忠夫は綾瀬夕映に事情を説明した。
ここは昨日美神たちが居座っていた喫茶店の店内だ。学祭期間中だからなのか早朝といってもいいこの時間でも店は開いている。
入口から一番奥まった場所に位置するテーブル席で美神除霊事務所の面々は各々くつろいでいた。


「待機って・・・何かあるですか?」


「分からん。美神さんはなんも説明してくれないし。でも今日で学園祭二日目だろ?いい加減何か起こるかもしれないって警戒してるのかも」


横目でチラリと美神の姿を観察する。夏らしく全体的に露出度の高いファッションだ。
黒のベアトップに薄手のショールを首にかけ、ショートパンツからスラリと長い足が伸びている。
思わずむしゃぶりつきたくなるような丸出しの太ももに視線を奪われたまま、横島は夕映と話していた。


「ちゅうわけでネギの奴に行けなくなってわるいなって夕映ちゃんから伝えてくれないか?」


「えっと・・・その・・・」


「どうかした?」


あいまいに言葉を濁している夕映に横島が尋ねると彼女はためらいがちに答えた。


「あの・・・私もそっちに合流していいですか?」


「へ?」


意外なことを言われて思わず間の抜けた声が漏れた。
頭に疑問符を浮かべながら聞き返す。


「合流って・・・武道会はどうすんだ?のどかちゃんたちと一緒に試合見に行くんだろ?」


「それは・・・その・・・一応マスターから横島さんの事を任されてますし、もし何か事態が動くんだとしたら傍にいたほうがいいと思いますし・・・」


言葉を慎重に選んでいるのか夕映にしては歯切れが悪い返答だ。
もじもじとしている姿が何となくビジュアルとして浮かんでくる。


「いやまぁ夕映ちゃんが来たいっていうなら止めはせんが、なんもないかもしれないぞ?下手したら一日中喫茶店で過ごす羽目になるかも」


「いえ大丈夫です。それぐらいは覚悟していますから」


どうやら本気でこちらに来るようだ。
とりあえず喫茶店の場所を夕映に教えてから、待っていると告げて通話を終えた。
隣に座っているおキヌに夕映が来ることを伝える。


「え?でも今日格闘大会があるんですよね」


「うん。俺もそう言ったんだけど・・・」


何か夕映なりの考えがあるのだろうがわざわざ友達との約束をキャンセルしてまでここに来るとは思わなかった。


「まぁ夕映ちゃんは俺たちの事情を知ってるわけだし四人目の事とかいろいろ気になってるんだろうな」


先の事件を考えれば夕映が必要以上に警戒心を持っていたとしてもおかしくない。
そう言うとおキヌは表情を曇らせた。彼女の事を心配しているのだろう。
気休めでも何か安心できるようなことを言ってやるべきかと横島が悩んでいると、こちらをからかうような口調でタマモが話しかけてきた


「案外あんたの事が好きなだけかもよ。最近よく一緒にいるんでしょ?」


「昨日も似たようなこと言われたけどな。その割にゃ金属バットで殴られたりするんだが」


「それはあんたが馬鹿な事するからでしょ」


「まぁそこは否定出来んなぁ・・・」


さすがに夕映に美神たち並みの理解を求めるのは無理があるだろう。これでもセクハラのレベルには気を付けているのだが。
女子中学生が許容できる範囲のセクハラとは何だろうと、実に難解な問題を横島が考えていると注文していた朝食が届いたようだった。


「今更言うのもなんだけど、よく朝っぱらからステーキとかハンバーグとか食べられるわね」


ジュウジュウと鉄板の上でいい音を立てている肉を見ながらタマモがうんざりとしていた。偉そうに鼻を鳴らしてシロが口をはさむ。


「ふん。拙者はお前と違ってやわな鍛え方してないでござるからな。胃袋も甘やかさないでござる」


「肉ばっか食べてると体臭きつくなるらしいわよ」


「な、なんだと!?」


ショックのあまり愕然としているシロはさておいて横島はにこにこしたまま肉にかぶりついた。


「うぅん。やっぱり金の心配をせんですむ肉の味は格別やなぁ。向こうに帰ったら当分食えなくなるだろうし食いだめしとかなきゃな」


「やめときなさいよ。店に迷惑だから」


この時間に午後のランチメニューを快く提供してくれた店長の顔を思い出し、横島は午前中の間は自重することにした。
そんなこんなで朝食も終え、各々が食後のお茶を楽しんでいた時、扉を開けて制服姿の夕映が店に入ってきた。
走ってきたのだろうか僅かに息を切らして、ハンカチで額の汗を拭っている。きょろきょろと店内を見回しこちらを探しているようだった。
横島が声を掛けて手を振ってやると、夕映は息を整えながらゆっくりと近づいてきた。


「すみません急に」


「んにゃこっちは別に気にせんでいい。それよりのどかちゃん達にはちゃんと話したのか?」


「ええ。なにか若干間違って解釈されたような気がしますが、一応納得してくれたみたいです」


何をどう間違っているのか説明しないまま夕映は苦い表情を浮かべていた。
横島もあえて追及するようなことはせず、夕映に椅子をすすめた。
美神をのぞいた全員が挨拶を交わし、朝食は済ませてきたらしい夕映が飲み物を注文する。
オーダーを済ませたウエイトレスがいなくなったのを見計らって夕映が声を潜めて聞いてきた。


「それで美神さんは?」


「あそこにいる。なんかここに来てからずっと通信鬼で話しててさ」


一人だけ別の席で何やらメモを取りつつ、衛星携帯電話かトランシーバー並みの大きさの通信鬼に話しかけている美神を指さして横島はそう答えた。


「誰と話してるです?」


「さっぱりわからん。俺も聞いてみたんだがあっちに行ってろって答えてくれなくて」


時折苛立たし気にテーブルを指先でたたいているあたり、何か仕事上のトラブルでもあったのかもしれない。
触らぬ神に祟りなしともいうのでそれ以来彼女には近づかないようにしている。


「どっちみち何かあったら向こうから指示がくるだろ?それまでここでぐうたらするのが俺らの仕事やな」


「仕事なんですかそれ。まぁ待機っていうのはそういうものかもしれませんけど」


些か微妙な表情で夕映が首をひねっている。
現場の仕事を知らない彼女にはピンとこないのかもしれない。
基本的に待つことも除霊仕事のうちなのだ。
限定された場所にしか現れない地縛霊や憑代を起点に呪いが具現化するような呪物が相手ならともかく、
中にはよく分からない条件でよく分からない場所と時間によく分からない霊障が発生するケースもある。
その場合発生する条件を調査し、現場の痕跡などから原因を特定して、霊障が起こるまで根気強く待っていなければならない。
野外にテントを張って寝袋にくるまりつつ夜を過ごすなどという事もままあるので、
そう言った意味では屋根があり雨風をしのげるこの待機場所はなかなかの好条件だった。


「おまけにうまい飯も食えるしな。というわけで夕映ちゃんももっとなんか注文したらどうだ?費用は全額シークが持つらしいしおごるぞ」


「はぁ。まぁジークさん相手なら多少は許される気がしますね。何故かはわかりませんが」


もう一度メニューに目を通し始めた夕映に相槌を打って、横島は自分も追加でクリームソーダを頼むことに決めた。





◇◆◇





熱気というのはこういうものを指す言葉なのだろう。
控室にまで届いてくる歓声を聞きながらエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルはそう思った。
もともとかなりの敷地面積を持っている龍宮神社の一部を改装して作られたこの武道会の会場は、
観客の収容人数も相当なもので予選の戦いを目撃した人々が口コミやネットで情報を拡散させた結果、かなりの人数が来場しているようだった。
噂では大会のチケットをめぐって熾烈な争いが起こるまでになっていたらしい。まるで人気アイドルグループのコンサートのようだ。


(まぁ物珍しさという点だけで言えば、そんなものの比ではないだろうがな)


昨夜の予選を突破し本選出場を決めた十六名が控室に待機している。
出場者のほとんどが顔見知りであることを考えれば、この大会がいかに特殊であるのかよく分かるというものだ。
ふと目について弟子の姿を見てみれば緊張をほぐすためか幾度も深呼吸している。
半ば成り行きで参加することになったこの大会の前回優勝者が己の父親だったと知らされて心に期するところがあるらしい。
おそらく自分も優勝を狙うつもりなのだろう。

実際のところひいき目を抜きにしても、ここ数か月であの少年はかなりの成長を遂げていた。
退屈でつらいはずの基礎練習を文句も言わずに耐え抜き、呑み込みも早く勤勉でもある。
面と向かって言うつもりはないが、なかなか優秀な弟子だった。


(さて、どこまで勝ち抜くか・・・)


相手があのタカミチ・T・高畑であることを考えれば初戦突破も危ういかもしれない。
まぁ、たとえ敗北したとしてもいい経験にはなるだろう。もっとも本人は勝つ気満々のようだが。

タカミチに声を掛けられ、手加減抜きの勝負を申し入れているネギの姿を見ながらエヴァは苦笑した。
ニヤニヤしながらその様子を眺めていると、運営の人間から会場の入口に待機するよう言われた。
どうも試合開始前に出場者全員のお披露目があるようだ。
いちいち面倒なことをするものだと呆れながら戦いが行われる能舞台まで歩いていくと、聞きなれた声で大会開始の宣言が聞こえてきた。
どういう経緯でそうなったのかは知らないが、朝倉和美がこの大会の司会を担当するらしい。
舞台度胸はなかなかのもので、この人数に注目されても物怖じ一つしていない。


「それではこれよりまほら武道会本選出場者をご紹介します!!」


完成されたにこやかな営業スマイルを浮かべ、超包子とスポンサーロゴが入ったコンパニオン衣装に身を包んだ和美が出場者を紹介していく。
一人一人インタビューされるようなことはなかったが、それでも見世物にされているような気分にはなる。
特に外見的には女子供でしかないエヴァはより一層の注目を集めていた。
いちいちそんな事に苛立ちを感じるほどウブではなかったが、
退屈なのでさっさと終われとエヴァが欠伸をかみ殺していると、何やら観客席の方から歓声とは違ったざわめき声が聞こえてきた。
先程までは会場に向かって応援や冷やかしを送っていた人々が背後を振り返り指をさしている。


「ん?」


違和感を覚えてエヴァも声の発生元に視線を向けてみた。すると、そちらの方向に巨大な雲が発生していた。
夏の入道雲を何倍にも大きくしたような白い靄の塊が遠くからこちらに迫っている。
先程までうっとうしいくらいに感じていた太陽の光が遮られ、心地よい日影を作り出していた。
吸血鬼の身には好ましくはあるが、それでも明らかにおかしな光景だ。
ただの雲にしては地上に接近しすぎている気がする。
エヴァがそんな疑問を覚えたその瞬間、それはあまりにも突然会場内に侵入してきた。
何かの演出を疑う余地もなく一瞬にして周囲が白く染め上げられる。
十メートル先を見通すのも困難な程、それは濃密な霧となって視界を覆いつくしていった。


「うわっ!なんやこれ!?」


「何がどうなって・・・うぐっ!ちょ、こ、コタロー君暴れないで肘が当たってる」


「もうなんだってのよ!何にも見えないじゃん!」


「あ、アスナさん落ち着いてください。慌てたら危ないですから」


「お、お姉さま~どこですか~」


「愛衣!?私はここです!って誰ですか!今お尻触ったの!!」


「うわっ危ないアルなぁ~。転んじゃうアルよ?」


「ふむふむ。なんとも面妖でござるな」


一部を除いて出場者も混乱しているのか罵声やら悲鳴やらが聞こえてくる。
表面上は冷静ではあったがエヴァも困惑しているのは同じだった。


(何だ・・・これは・・・)


異常気象と一口に片付けられるほど単純な話ではない。
霧の種類や発生原因はいくつかあるが夏の都市部、明け方を過ぎたこの時間帯に町全体を覆うほどの濃霧が自然発生するなど通常では考えられない。
つまり人為的な要因が関係していると考えるよりほかないわけだが、これだけ大規模な自然現象を操作するとなると考えられるのは魔法くらいしかない。
だが・・・。


「エヴァ」


エヴァが表情を硬くしながら考え込んでいると、こちらの名前を呼びながらのっそりとした人影が近づいてきた。
白く煙った視界の先から、シンプルなデザインの眼鏡をかけ無精ひげを生やしたスーツ姿の中年が歩いてくる。


「む、タカミチか。お前まだここにいたのか。明らかに異常事態だぞ」


「ああ、わかってる。たぶん非常招集がかけられるだろうからすぐに行くよ。
でもその前に聞きたいことがある。エヴァ、これは横島君が言ってた例の四人目が?」


「さぁな、私が知るわけないだろう。一応今から確認を取ってはみるが・・・」


「そうか。だったら何かわかったら僕の方にも教えてくれないか?」


「なぜそんな面倒なことを私がしなければならないんだ。本人に直接聞けばいいだろう」


「はは、まぁできればそうしたいところだけど、ほら、僕は何故か横島君に嫌われているみたいだし」


「・・・そういえばそうだったな」


横島とタカミチの二人が初対面でいきなり殴り合いになりそうになった時の事を思い出してエヴァは顔をしかめた。
なんでも横島曰く、俺がこの世で一番嫌いな人種は女にもてそうなスカした中年・・・らしい。


「わかった。何か情報を得たらお前にも連絡してやる」


「ありがとう。今度お土産に高級和菓子でもプレゼントするよ」


「ふん。もういいからとっとと消えろ」


ぞんざいな手つきでタカミチを追い払い、エヴァは携帯から横島の番号を探して入力しようとした。
だがすぐに手元に携帯がない事に気が付いて舌打ちした。
命の危険のないお遊びだろうが戦闘を行う以上さすがに貴重品の類はロッカーに預けてある。
電話を掛けるなら控室まで取りに戻らなければならなかった。
ひとつ溜息をついて和美がいる方向に顔を向ける。さすがにこの期に及んで選手紹介もあるまい。
というかこんな状態が続くようなら大会自体が中止になる可能性も大いにあった。
大会の主催者である超にはご愁傷さまだが、自分にとっては暇つぶしの一つが潰れたに過ぎない。
とにかく今は横島に連絡を取ることを優先すべきだった。
そう考えてエヴァは控室に続く廊下に向かって歩き出そうとした。
だがその時、いなくなったと思っていたタカミチがいまだにこの場所にとどまっていることに気付いて怪訝な表情を浮かべた。


「何をやっているんだお前は」


関東魔法協会の最大戦力の一人であるこの男がこんな異常事態にいつまでも油を売っていていいはずがない。
普段ならすぐにでも近右衛門のもとに駆け付けているだろう。それがどういう訳か何かを考え込んでいる。


「おい、聞いているのか?」


「エヴァ」


「なんだまだ何かあるのか?」


「いや、実はもう一つ質問するべきかどうか迷っていたことがあったんだが・・・やっぱりどうしても気になってね。
ちょっと変な事を聞いていいかい?」


「変な事?」


妙に真剣なタカミチの様子にエヴァが戸惑っていると、彼にしては歯切れ悪く話し始めた。


「この霧だけど・・・魔法によって引き起こされたものだと思うか?」


その質問の意味が理解できると同時にエヴァの表情が険しくなっていった。


「・・・それを私に聞くのか?魔法だと?そんなことがあり得るか!今もこの身を縛る忌々しい結界はいきている。
その結界内にある学園都市で、これだけ大規模な魔法が正常に機能すると思うか?お前自身初めからわかっていることだろうに!」


エヴァが睨みつけながらそう言うと、タカミチは軽く頷いただけで言葉を続けた。


「そうだな。じゃあ仮にその学園結界がなかったとしたらどうだ?」


「なんだと?」


「大掛かりな魔法を使えば都市を丸ごと霧で覆いつくすようなことは可能かな」


「・・・・・・」


質問の意図が理解できずにエヴァは押し黙った。なぜタカミチはこんなことを聞いてくるのか。このたとえ話に何の意味がある?


「・・・エヴァ?」


「・・・可能か不可能かでいえば・・・可能だ。
その用途に特化したアーティファクトとそれを正しく運用できる手練れの魔法使いが二、三万人ほどいれば」


「そんなに?」


「ただ力を解き放てばいいというわけではないからな。この場合、霧というのが問題だ。
これが冬場で霧が発生する条件が整っているというならばもう少し違うが、
気候や大気の状態で簡単に変化するようなものを長期間維持し続けるとなるとエネルギーもさることながら制御が極端に難しくなる。
ましてやそれが都市一つとなると・・・」


「実行するのは困難・・・か」


一応裏技がない事もない。
例えば結界術のように術者の設定した別世界を作り上げることで結果的に現実に干渉する。ということもやろうと思えばできる。
ただそれは基本的に小規模に限定された空間内だからこそ可能な手段であり、
これだけ大規模な範囲を丸々結界で覆いつくすとなればそれこそ学園結界以上の設備と人員が必要になる。


「今言った条件もあくまで私が考えた試算にすぎん。実際にやってみるまでどうなるか分からん。
だが私ならこんなことしたいとも思わないがな。明らかに労力と成果が釣り合っていない。・・・というか何なんだこの質問は!」


実際に今も学園結界が作用している以上、この質問自体が無意味だ。この霧は明らかに魔法によって引き起こされたものではない。
タカミチが何のつもりでこんなことを聞いてくるのか知らないが、とにかく真意を問いたださなければならない。
そんなエヴァの心境を察したのかタカミチは苦笑を浮かべた。


「実は君に話を聞きに来る前に、ある人物から忠告を受けてね。
普段は冗談ばかり言ってる・・・というか存在そのものが冗談みたいな人なんだが、珍しく真面目に忠告してきたものだから・・・」


「なんだそれは。誰の事を言ってる?」


「え?あぁ、いやそれは僕の口からは言えないかな。とにかくその人が言うには・・・」


こちらの追及を愛想笑いでごまかしていたタカミチだったが、すぐにその笑顔が強張った。


「もしこの霧が人為的に発生したものなら・・・そいつには絶対に関わるな」


「なに?」


「そしてもう一つ。この霧は確かに魔法によって引き起こされたものじゃない。だが、魔法そのものではある。彼はそう言っていた」


タカミチがそう告げた瞬間、彼の懐から面白みのない電子音が聞こえてきた。
どうやら近右衛門からの呼び出しがあったらしい。タカミチはエヴァに改めて礼を言うとそのまま霧の向こうに去っていった。

エヴァは何故かしばらくの間その場を動くことができなかった。









[40420] 28
Name: 28◆e75ff09d ID:73709a19
Date: 2023/02/01 21:35





「ちょっと前にこんな映画を見た気がするなぁ」


濃霧から避難してきた人々でにわかに騒がしくなってきた喫茶店の店内で、窓から外の風景を眺めていた横島がそう呟いた。
窓はそれそのものが色を付けられたかのように白一色になっている。
どれだけのぞき込んでも時折人影らしきものが見えるだけで、その人影が男か女かもほとんどわからない有様だった。


「映画・・・です?それってどんな?」


隣で同じように窓を見つめていた夕映が小首をかしげながら聞いてくる。


「なんか主人公が住んでる町が突然霧で覆われてさ、そんで息子と買い物途中だった主人公がショッピングモールに逃げ込むわけ。
んで避難した先にはすでに町の住人がいっぱいいておとなしく皆で救助を待っていたら、突然霧の中から得体のしれない化け物が襲ってくる・・・って感じの導入」


「パニック映画というやつです?」


「そうそう。暇つぶしに見始めたやつだったんだけど妙に引き込まれてさ」


タイトルは忘れたが、内容は非常に記憶に残っている。
評論などできるほど映画に詳しいわけではないが、よくできた作品ではあった。

・・・まぁ、二度と見たいとは思わないが。


「横島。それって事務所に置いてあったやつ?」


向かいに座っているタマモが会話に参加してきた。何とも形容しがたい微妙な表情を浮かべている。


「あぁそうだけど・・・。って、お前も見たの?」


「まぁね」


「お前映画とか見るほうだっけ」


「別に特に映画好きってわけじゃないけど。あれ、美神さんに勧められたのよね」


「どゆこと?」


「ほら、私って一応人間社会の勉強するために美神さんの事務所にいるわけじゃない?
だから色々一般常識とか勉強してるんだけど、たまに美神さんが教材渡してくるのよ」


「教材って・・・あの映画がか?」


「なんでも極限状態における人間の集団心理を学ぶのに最適な教材って触れ込みだったけど、
今思えば単なる嫌がらせな気がするわ」


暗い目をしたタマモがどんよりとした空気を纏う。


「ほらファザコンぎみのシロなんか軽くトラウマになってるし」


「あ、あれは・・・キツかった・・・で・・・ござる」


もらい事故を起こしたような様相のシロが身悶えていた。


「ぱ、パパ上殿が・・・あれでは・・・あまりにも」


「はいはい大丈夫よ。あれはフィクションだから。現実じゃないからね」


ラスト十五分にノックアウトされたらしいシロをタマモがおざなりに慰めていた。
まぁ、気持ちはわからないでもないが・・・そう思いながら横島が再度窓の外に視線を向けていると、少し怯えた様子のおキヌが服の裾をつかんできた。


「で、でも本当にその映画の中みたいですよね」


町全体を覆う視界が閉ざされるほどの濃密な霧。
原因不明で得体のしれないこの状況は確かに記憶の中にあるあの映画の光景とほとんど変わらないものだった。


「所詮は映画の話だ・・・って、笑い飛ばせればよかったんだがなぁ」


これが四人目の仕掛けた何らかの作戦である可能性も当然ある。というか事情を知っている横島からしてみればもはやそうとしか思えない。
一瞬、超がやっているのかとも考えたが、例の武道大会が開催されるタイミングで主催の彼女が自らそれを妨害するような事をしでかすとはとても思えなかった。


「で、でも、もしそうならこれからどれだけの被害が出るか・・・。今は学園祭期間中なんですよ!」


霧の中から大量の化け物が現れる。そんな光景を想像したのか夕映がゾッとした表情を浮かべた。
たしかに普段より遥かに人口が増加している今の学園都市でそんな事態が引き起こされたら、とんでもない惨劇が繰り広げられるだろう。
そしてそうなったらもはや対処など不可能だ。警察はもちろん魔法使いたちにもどうにもできないだろう。


「い、いやあくまで映画の中ではそうだったってだけだからな。実際に化け物が出てくるとは限らないんだし・・・」


そう励ましながら横島は映画の話などしなければよかったと後悔した。どうやら無駄に怖がらせてしまったらしい。
これ以上不安にさせないために何かできることはないかと横島が考えていると、少し離れたところから未だに誰かと通話中の美神の声が聞こえてきた。


「だからそうじゃないってば、基本的にはその方向であってるのよ」


周囲のざわめきに紛れてよく聞き取れなかったがどうやら誰かと口論しているらしい。
通話中に話しかけるのも悪い気がするが、緊急事態でもあるので横島が美神に相談するために近づいていくと彼女の会話がよく聞こえるようになった。





「わっかんないやつね!だから今よりちょっと加減してくれればいいんだって!
は?台風?いらないわよそんなの!!風神には引っ込んでろって言っといて・・・。
え?我の出番はないのかって雷神が拗ねてる?ほっときなさいよ!だいたい雷なんてうるさいだけじゃん。
もう霧だけで十分だから・・・」


「犯人はあんたじゃああああああああああああああぁぁぁ!!!!!」





力の限り人差し指を突き付け、横島が魂の告発をした。
その瞬間、店内にいる全員が驚きの表情を浮かべ皆の頭上に『!?』マークが点灯する。
そして厨房の隅で何やらガサガサと作業をしていた全身黒タイツ(おそらく学祭中のコスプレだろう)で妙に体格が細っこい三白眼の人物が、
ハッとこちらを振り返りすぐさま逃亡を開始した。その背中を黒縁眼鏡に赤の蝶ネクタイ、ブレザー姿の小学生くらいの少年が待てぇと言いながら追いかけていく。

・・・何か別の所で別の事件が発生していた気がするが、そんな事には構わず横島は美神に詰め寄っていった。


「ちょ、ちょっと美神さん!!」


「何ようるさいわねぇ。電話中よ」


「電話中とかそんなこと言ってる場合じゃないっすよ!外のアレ!美神さんがやってるんすか!?」


通信鬼を押さえながら迷惑そうにこちらを見てくる美神に横島は顔を近づけつつ声を落として質問した。
すると美神は横島の顔を押しのけ簡潔に答えた。


「違うわよ」


「い、いやしかしですね。今確かに霧がどうとかって・・・」


「ふっ・・・ねぇ横島君」


「な、なんすか」


横島の追及を鼻で笑った美神が妙に色っぽくこちらを見てくる。
思わずドキリと心臓を高鳴らせた横島はどぎまぎしながら言葉の続きを待った。


「私たちってさ。これまで神族だの魔族だのの無茶な頼みをさんざん聞いてきたわよね」


「へ?まぁそうっすね」


「そうなのよ。ほら元始風水盤の時とかさ、月に行った時もそうだし、アシュタロスの時とか今回だってそうじゃん。
いい加減あいつらにこれまで貸してた分を返してもらってもいいと思わない?」


「はぁ」


ニコリと魅力的な笑みでそう言ってくる美神の言葉に、横島はなんとなく疑問を覚えた。


「いやでも風水盤の時も月の時も、いつも美神さんあいつらに法外な報酬を請求してるじゃないっすか。
それにアシュタロスの時はもともと美神さんの前世の因縁が関係してたわけだし、貸しってのもちょっと違くないっすか?
それに今回の一件だってほとんど俺ばっか働いてて、美神さんはたいしたことしてない・・・」


「貸!!し!!が!!・・・あるわよね。たっぷりと」


「うぐっ!!そ、そうっすね。もう滅茶苦茶あると思うっす!!」


美神に己の頭部を捕まれ、ミシミシと頭蓋骨が軋んでいく音を聞かされて心底ビビった横島は即座に前言を撤回した。


「そうなのよ。だから今回あいつらに色々協力してもらったってわけ」


「えっとつまりどういうことっすか」


横島がそう尋ねると美神は鷲掴んでいた横島の頭部をペイっと捨てこう答えた。





「小竜姫の知り合いの天気の神様に霧の出前を一丁って♡」


「ピザの宅配頼む感覚で異常気象を呼び込まんでください!!!」





何一つ悪びれない純粋な笑顔の美神に対して横島は全力で突っ込みを入れた。


「なんでよ。別にいいでしょ」


「別にいいって・・・。で、でもなんか聞いた話じゃここの学祭って三日間でうん億だかって金が動くらしいっすよ。
こんな状態じゃ下手したら学祭そのものが中止になるかもしれないし。損失額も相当でかくなるかも・・・」


「私がお金損するわけじゃないしどうでもいいじゃん」


「・・・・・・」


キッパリとそう言い切った美神の言葉にしばらく呆然としていた横島だったが、
よくよく考えてみると確かにそれはその通りかもしれないという気がしないでもないかなと思い始めてきた。


「言われてみるとたしかにそうっすね」


「でしょ?」


「いやぁなんか規模が規模なだけにちょっとビビってたんすけど、別に魔族が暴れてるってわけでもないんだしこのままでもいいんかな」


「そうそう」


「はぁ、なんか安心したらまた腹減ってきたな。すんませーん注文いいっすか?カツ丼とクリームソーダ一つ」


テーブルからメニューを引き寄せウエイトレスを呼ぼうとした横島の手を後ろにいた人物がガシリと掴んだ。


「な・に・が・カツ丼ですかぁぁぁぁぁぁ!!!」


地獄の底に引きずり落そうとするような恨みがましい声で夕映がそう言ってくる。


「うおっ!な、なんや、夕映ちゃん。夕映ちゃんもカツ丼食いたいんか?」


「カツ丼の話じゃないです!!それより外!!美神さんがやってるっていうのは本当なんですか!?」


「あ~まぁ美神さんがっていうか美神さんの知り合いの知り合いの神様のせいというか」


「そんな遠くの親せきがどうのみたいな話はどうでもいいです!!美神さんが原因っていうのは間違いないんですよね!」


「うんまぁそれはそう」


「だったら止めてきてください」


「え!?止めろって俺が?美神さんをか?」


「他に誰がいるですか!!」


「い、いやしかしだな、蟻んこ一匹で象を倒してこいって言われてもそりゃ無理な話というか。
水滴は石を穿つかもしれんがそれだけでダムは決壊させられんよなぁというか」


「何言ってるんだかわかりませんけど、とにかく早く行ってきてください!」


「うわっ!ちょ、お、押さないでくれ夕映ちゃん!」


問答無用で無理やり背中を押される。気付けば横島は再び美神の前に立っていた。
情けない表情で背後を振り返れば目を三角にした夕映が仁王立ちしている。もはや何もせず撤退するという訳にはいかないようだ。
一つ大きな溜息をついて気を引き締める。横島は強大な敵に立ち向かおうと勇気を振り絞った。


「あ、あの~美神さん」


「なによ」


「いや、その、できればでいいんですけど。あの霧何とか止めてもらう訳にはいきませんかね?」


「あぁ?」


「すんませ~ん。なんでもないで~す。失礼しま~す」


胸の前でもみ手を作り最大限の低姿勢で挑んだ横島は、その姿勢のまま迅速なバックステップで見事な撤退を決めた。
安全圏まで退避が完了したところで額に浮かんだ汗を拭う。


「ふう。近年まれにみる激闘だったが何とか生き延びることができたな。
惜しくも戦いには敗れたが、まぁ勝敗よりも全力を尽くした事の方が重要な気がしないでもないからとりあえず許してください夕映ちゃん」


「な・に・が・全力ですか!誰がどう見ても瞬殺だったじゃないですか!!」


「そうは言うてもだな、モ〇ルスーツの性能が戦力の決定的な差だって有名なセリフもある事だし、
戦闘力5のゴミがサ〇ヤ人に挑んでもそりゃ返り討ちにあうよなというか」


「もういいです!!」


鼻息荒く憤慨していた夕映が瞳に真剣な色を宿す。彼女は決意に満ちた声で宣言した。


「私が行くです」


「な、行くって美神さんの所にか?」


「?当り前じゃないですか」


「死ぬ気か夕映ちゃん!!例えるなら君と美神さんはミッ〇ィーとシン・ゴ〇ラ!!強さ以前にジャンルが違うぞ!!」


「そんな大げさな」


横島の心からの忠告も夕映には届かなかったらしい。
苦笑を浮かべている彼女に、しかし美神の事をよく知っている事務所のメンバーはこう言った。


「まぁ死ぬまではいかないかもね・・・運が良ければ」


「時に人というのは肉体的なものより精神的なものの方が苦痛を感じるでござるからなぁ」


「や、やめといたほうが・・・いえ、でも、大丈夫かな・・・たぶん・・・きっと」


タマモ、シロ、おキヌが表情を暗くして夕映を見つめる。
本気で心配されている事に気付いたのか夕映は少したじろいでいた。
しかし決意のほどは固かったようで、一度気合を入れるために己の頬を叩くと美神のもとまで歩いて行った。


「み、美神さん!!」


「何よまだなんか・・・ってあれ?あなた確か夕映ちゃんだっけ」


握りこぶしを、というか膝を震わせながら自分の名前を呼ぶ夕映に美神はきょとんと目を瞬かせた。
美神にとっても予想外の人物に声を掛けられたようで些か驚いているようだ。


「えっと・・・何か用?」


「単刀直入に言います。あの霧を止めてください」


「え?やだけど」


「や、やだって何でですか!今もあの霧に迷惑を掛けられている人が大勢・・・」


「あのねぇ私だって伊達や酔狂でこんなことやってるわけじゃないのよ。ちゃんと考えがあってやってんの」


「考え・・・です?それってどんな」


「まぁ、もうちょっと待っててよ。私の勘が正しかったらそんなに時間はかからないと思うからさ」


困惑している夕映にウインクを一つして美神は再び通信鬼へ向かって通話を始めた。
そのまま放置されてしまった夕映が、首をひねりながらこちらに戻ってくる。


「何か体よく誤魔化されているような気がするですけど」


「う~んどうなんだろうな。よくよく考えりゃいくら美神さんでも何の意味もなくこんな大掛かりな事するとは思えんし・・・」


考えがあるということ自体は間違っていないのではないかと横島が言葉を続けようとしたその時、
尻ポケットの携帯電話から呼び出し音が鳴った。誰からだろうと思いながら表示された番号を見てみる。


「うげっエヴァちゃんだ」


思わずそんなうめき声をあげてしまうほど、今この時に限っては電話に出たくない人物だった。


「ま、マスターからですか?」


「ああ、たぶんこの状況を説明しろとか何とか言われるんだろうけど」


「ど、どうするですか!馬鹿正直に美神さんがやってるなんて言ったら・・・」


「ああ。最悪、両世界の二大巨頭が夢の対決!!ってな事になりかねん」


それは想像するのも恐ろしい未来だった。そんな事になればどういう経緯をたどろうが間違いなく一番被害を被るのは自分だろう。
だがしかし、このままエヴァの電話を無視するのもそれはそれで恐ろしかった。
横島はゴクリと生唾を飲み込み、背筋が寒くなる気分を味わいながら携帯の通話ボタンを押した。


「も、もしもし」


「横島か」


「あ、はいそうっす」


「この霧について何か情報があれば教えろ。包み隠さず全て話せ」


現在の心境ゆえかエヴァの声がいつもより冷たく聞こえる。
横島はとにかく何とかして誤魔化そうと脳みそをフル回転させた。


「えぇそう言われましても当店といたしましてはご期待にお応え致しかねますというかぶっちゃけ仕様なのでどうしようもないというか」


「今からそちらに行く。逃げるなよ」


それだけ言うとブツンと回線が切断された。


「何してるですか!!ふざけてるですか!!」


「違うんやあああぁぁぁ!!切羽詰まって何言ったらいいか思いつかんかったんじゃああああぁぁぁ!!」


夕映にポカポカと背中を叩かれながら横島は頭を抱えた。
このままでは本当にこの喫茶店で怪獣大決戦の戦端が開かれてしまうだろう。
そうなったらこんな耐久力の低そうな店など簡単に崩壊してしまう。
あの気のいい店長を悲しませるのも忍びないので、せめて被害を最小限に抑えるために場所を移動しようかと横島が考えていると再び携帯電話が鳴った。
表示を確認することなく素早く電話に出る。


「ええと、すまんエヴァちゃん。ちゃんと説明はするから店を壊すのだけは・・・」


本人が不在である以上、見えはしないだろうがそれでもペコペコと頭を下げながら横島がそう言うと、通話相手が口を開いた。


「・・・横島君」


「へ?」


明らかにエヴァとは違う声で名前を呼ばれ一瞬頭が混乱する。しかしすぐにその声がよく知っている人物のものであると認識した。


「おま、ジークか?」


「ああ」


「なんか久しぶりつーか。お前どこで何してたんだ?まだ魔界にいんの?」


懐かしいと言うにはまだそれほど時間がたってはいないが、それでも似たような気分にはなる。
当初の予定では魔界で魔力を補充したらすぐにこちらの世界に戻ってくると言っていたはずだが
なにやら用事が出来て帰れなくなっていたらしい。
しばらく顔を合わせていない友人に接するように横島が近況を尋ねるとジークは不愛想にこちらの質問を遮った。


「そんなことはどうでもいい。確認するぞ、今君の近くに美神令子はいるか?」


「なんだ突然」


「いいから答えてくれ!!時間がないんだ!!」


語気を荒くしてジークが返答を急かしてくる。何かを焦っている様子が電話越しにも伝わってくるようだ。
横島は当惑しながらそれでもジークの質問に答えた。


「すぐ傍にいるけど・・・」


「事務所のほかのメンバーは?」


「全員いる・・・って何なんだよいったい!」


事情も説明せず矢継ぎ早に質問してくるジークに横島が苛立っていると、彼はそんなこちらの様子など無視して安堵しているようだった。


「そうか。なら聞いてくれ横島君。いいか、今すぐに、その場にいる全員を連れて元の世界に戻ってくるんだ」


「お前急に何言ってんだ?戻ってこいって依頼はどうすんだよ。四人目の調査が・・・」


はっきり言って、あの子供の調査はまだほとんど何も成果を得られていない。
調査期限に関して明確にされていなかったとはいえ、中止の指示が来るにしてもあまりに突然だ。
横島がそう言うとジークは皮肉気に笑った。


「四人目・・・四人目か・・・」


「お、おいジーク?」


様子がおかしいジークに横島が戸惑っていると彼は一言こう言った。





「四人目などいない」


「は?」





尋ね返す言葉が浮かばない。その間にジークは繰り返し断言した。


「四人目などいないと言ってるんだ」


「い、いや、ちょっと待てよ。じゃあ俺が会ったガキは何だってんだ?それにあのガキの調査を正式に依頼してきたのはお前らの軍隊・・・」


「ならもっと言おうか?四人目だけじゃない。一人目も二人目も三人目も!!魔界から異世界に逃亡を図った魔族など初めから存在しなかったんだ!!」


吐き捨てるようにそう言うとジークは激情を押さえるように荒く息をついた。
横島は・・・ただ混乱していた。ジークの言葉の意味が何一つ理解できない。
逃亡犯である魔族が初めから存在していないというなら、そもそも何で自分はこの世界に来ることになったのか。
今まで散々苦労しながら倒してきたあの魔族達はいったい何だったというのか。
この世界に来てから少なくない時間を共に過ごしてきたジークから、その経験自体を否定されたような気分になって横島は呆然としていた。
ジークは冷静になろうとしてそれが叶わなかったようだ。先程より語気を強めて再度警告を発した。


「もう一度言うぞ!!とにかく今すぐ全員でこちらの世界に戻ってこい!!そっちの世界には・・・」


ジークの言葉が途中でぶつ切りになる。
耳に届いてくる電話の切断音が妙にザワザワと心の奥を揺さぶってきた。


「お、おいジーク!!もしもし!!もしもし!!」


無駄と分かっていながらそう呼びかける。だがやはりというか電話には何の応答もなかった。
チッっと舌を打ってジークの番号にかけなおす。だが何度かけても電話は全くつながらなかった。


(くそ、何だってんだ)


心の中で悪態をつきながらジークの話について考える。
四人目がどうのという話は理解できなかったが、詳しい事情説明もなく事務所メンバー全員の所在確認と早急な元の世界への帰還を促してきたという事は、
何かしらの危険がこちらに迫っているという事ではないか。要するに今すぐ逃げろと言っていたのだジークは。


(逃げろっつたって・・・)


思わず近くにいる夕映に顔を向ける。先程からこちらの様子がおかしい事に気付いていたのだろう。
何かを言いたげに不安そうな顔を向けてくる。
ジークの警告はこの世界を離れろだった。『この場を離れろ』ではなく『この世界を離れろ』だった。


(それってつまり・・・俺はともかく美神さんでもどうにもできない何かがこれからこの世界で起こるってことなのか?)


そこまで考えて強く頭を振る。ジークの言葉だけで結論を出すのは早すぎる。
とにかく今聞いた話を美神に伝えるべきだろう。そう思って横島が美神の方に振り返ると彼女は何か得心がいかない様子で通信鬼を眺めていた。


「ったく何だってのよ。そりゃ無茶なこと言ったかもしれないけど途中で切ることないじゃない」


美神がブツブツとばつが悪そうに何かを愚痴っている。
今彼女はなんと言ってた?


「美神さん。今なんて?」


「小竜姫のやつがさ。話してる最中にいきなり通信を切ったのよ。何回か掛け直しても繋がらないし。なんかトラブったのかな?」


ひょっとして故障した?そう言いながら通信鬼を叩いている美神の前の座席に横島は素早く滑り込んだ。
先程ジークから聞かされた話を出来るだけわかりやすく伝える。美神は最初怪訝そうににその話を聞いていたが、終わりに差し掛かるにつれ表情が険しくなっていった。


「確認するわよ。ジークは四人目だけじゃなくほかの逃亡犯もいないって言ってたのね」


「えっと正確には、一人目も二人目も三人目も魔界から異世界に逃亡を図った魔族なんて最初から存在しなかった・・・だったかな」


「それで元の世界に帰ってこいって話をしている最中に電話が切れた・・・と」


「はい」


「・・・・・・」


ウォールナットのテーブルの木目に指先を這わせながら美神は何事かを考えているようだった。
横島はその思考を邪魔しないようにじっと身動きもせず押し黙った。
途中から何事かとこちらに近づいてきた夕映やおキヌたちも、二人の様子から言葉を発せずにいた。
やがて僅かに唇を噛んでから美神がポツリと呟いた。


「やってくれるわね・・・」


一度だけカツンと指の爪をテーブルに打ち付け、美神は立ち上がった。
事務所のメンバーを全員見つめ簡潔に指示を出す。


「帰るわよ」


横島はその言葉に反応し反射的に立ち上がっていた。


「み、美神さん!帰るってまさか元の世界に帰るって事っすか?」


「そうよ」


「で、でも四人目は・・・」


「その調査を依頼してきたやつが帰れって言ってんだから素直に帰ればいいじゃん」


「い、いやしかし、これじゃほとんど何もわからないままじゃないっすか」


四人目の正体もジークが言っていた言葉の意味も何一つ分からないまま帰還することになる。
これでは消化不良もいいところだ。


「美神さん。ほんとは何か気付いたんすよね。だったら教えてください」


付き合いの長い自分には分かる。美神は先程の会話で間違いなく何かに気付いていたはずだ。
そう言うと美神は横島の方をじっと見つめて小さく頷いた。


「気付いた・・・っていうか予想が当たったって感じかな」


「予想?」


「ねぇ横島君。前に私が言ってたこと覚えてる?逃亡犯の魔族がなんで逃亡先に異世界を選んだのかって話」


「は、はい覚えてるっすけど」


数日前の出来事だ。忘れるわけがない。
たしか霊力の存在しないこの世界は逃亡先には向いていないはずなのに、なぜ逃亡犯の連中がこの世界に逃げ込んだのか理由がわからないといった話だったはずだ


「答えは簡単。あいつら自分で逃げてきたんじゃなかったのよ」


「え?」


「おそらく無理やりこの世界に送り込まれたんじゃないかしら」


「お、送り込まれたって・・・なんすかそれ!いったい誰に・・・」


「今回の一件の発端を作ったやつら。魔界の正規軍でしょうね」


その言葉に横島は絶句した。だって意味が分からない。
美神の言う通り魔界の正規軍があの魔族達をこの世界に送り込んだんだとしたら、なぜその退治を美神の事務所に依頼したのか。
これでは筋が通らないではないか。


「たぶんワルキューレは何も知らないで私たちに依頼を出したのよ。彼女の所属する部署とは別に、魔族を送り込んだ連中がいるんじゃないかな」


「だ、誰なんすかそいつら!何のためにそんな事!」


「そこら辺の事情をワルキューレが調べてたんだけど・・・このタイミングでジークから帰れって指示が来たってことはタイムリミットが来たってことよ。
これ以上はこの世界にとどまるべきじゃない」


これで話は終わりだ。そう宣言するかのように美神はテーブルの上の伝票を手に取った。
会計を済ませるためにレジの方に向かっていく。
横島は納得がいかずに美神を追いかけた。話が半分も理解できていないだろう面々も後に続く。
横島がテーブル席をまたぐようにしながら歩いていると、その時ふと違和感に気付いた。


(なんか・・・さっきより人の数が減ってきていないか?)


外の霧から避難するために店内にはかなりの人数がいたはずだ。どこも満席でなかには相席になっている人達もいた。
だが今はそれほど混雑しているわけではない。通路もスムーズに通ることができる。
横島がその事に疑問を覚えていると、後ろで窓を見ていたシロが無邪気に感想を口にした。


「おぉ、ちょっと霧が晴れてきたみたいでござるな」


その言葉を聞いて横島も窓に視線を向けてみた。すると確かに霧は晴れてきているようだった。
ついさっきまでは店の前の道路を見る事すら困難だったが、今は向かいの店舗の様子が見える。
人通りも増えてきたようで、みな突発的な霧の発生を不思議に思いながらもまた学園祭を楽しんでいるようだった。
ただ一人美神だけはその光景に何か焦った様子で速足になり、レジで会計を済ませると同時に外に飛び出した。
横島も慌てて後を追う。彼女は周囲を睨みつけながら小さく囁いた。


「・・・まずい」


その言葉の真意を尋ねる暇もなく美神は再び店の中に戻っていった。どうやらおキヌたちを急かしているようだ。
横島が自分も戻ろうかと考えていたその時、背後から声がかかった。


「そこにいたか横島」


いつもとは違うゴスロリ服姿のエヴァがそこに立っていた。
格闘大会に出る予定だったからなのか、フリルも少なく体の動きを阻害しないように工夫された衣装を纏っている。
ただ妙に靴底の厚い編み上げブーツだけは、あまり戦闘には向いていないようではあったが。


「エヴァちゃん。そういやここに来るって言ってたな。でもどうして俺がいる場所が分かったんだ?」


「ふん、貴様の居場所などどこにいようと分かる」


得意げにそんな事を言ってくるエヴァに、まさか発信機でもつけられていたのかと横島が不安を覚えていると、
エヴァの背後から聞こえてきた声がその疑惑を否定してくれた。


「えっと、武道大会の会場にいたのどかさんたちに夕映さんの事を聞いたんです。夕映さんは横島さんと一緒にいるからって、その時にこの場所のことも」


そう言いながらネギがペコリと挨拶してきた。
エヴァの別荘で修行している時に着ている動きやすそうな中華服に、体全体を包み込むようなゆったりとしたローブを羽織っている。
その手には少年が普段から愛用している杖が握られていた。どうやらエヴァに足代わりとして連れてこられたらしい。


「ネギ、お前も来たのか?大会の方はいいのかよ」


「霧の騒ぎで予定が変更になったんです。出場者の何人かが欠場しちゃったみたいで、今後どうするかを運営の人たちが今協議しているみたいです」


少なくなった人数でこのまま試合を続行するか、あるいは予選敗退者から敗者復活戦を行うか。大会の運営もごたついているらしい。


「そんな事はどうでもいい。それより横島お前この霧について何か知ってるだろう。早く話せ」


「あぁ、そういやそんな話だったっけ」


正直今の今までエヴァの事をすっかり忘れていた。
それだけジークや美神の話が衝撃的だったという事だが、やはりまだ頭が若干混乱しているようだ。


(ん?でもまてよ。霧の事って言われてもなんつって説明すりゃいいんだ?)


自分のアルバイト先の上司が異世界の神様のつてで異常気象を発生させていましたなどと言っても、ふざけるなと一蹴されるだけだろう。


「どうした?とっとと説明しろ」


様子をうかがっていたエヴァが眉をひそめる。
何も言ってこないこちらの態度に焦れているようだった。


「あ~とあれだな。なんちゅうかその・・・」


尻の谷間に変な汗をかくほど狼狽えている横島が、もういっそのこと全て暴露してやろうかと諦めかけていたその時、本日最後の電話が鳴った。
しめたと思わず笑いそうになりながら電話に出る。問題の先送りにしかならないだろうが時間を稼ぐことはできるはずだ。
横島はエヴァ達にちょっと待っててとジェスチャーを送りながら通話相手に声を掛けた。


「もしもし?」


「横島さんですか!?」


「へ?」


それは全く予想していなかった人物からの電話だった。
若い女の子の声だ。聞き覚えがあるような気がするが思い出せない。


「えっと、すまん。誰かな」


「あ、あの、すみません。私です。じゃなかったそのハカセです。葉加瀬聡美」


「あぁネギのクラスの。あれ?俺ハカセちゃんにこの番号教えたっけ?」


「いえ、それは超さんに教えてもらって・・・。って、違います!こんなこと話してる場合じゃないんです!!その、今から一緒に来てくれませんか!?」


「え?」


唐突にそう言われて横島は首を傾げた。葉加瀬は何やら慌てた様子で、言ってることも若干支離滅裂だった。


「どういうこと?一緒に来いって何処へだ?」


「あ、いえ、その、龍宮さんが横島さんを呼べって言ってて、超さんがそのあの」


ここで息が続かなくなったのか葉加瀬は一度深呼吸をした。
そして早口に言葉を続ける。


「超さんがいなくなっちゃったんです!!」


声を上ずらせた葉加瀬が悲鳴のようにそう言った。


横島は・・・次々と訪れる事態の変化についていけなくなり、空を見上げた。


空はいまだ晴れていなかった。










[40420] 29
Name: 29◆a9ab1baa ID:73709a19
Date: 2023/02/03 22:01



「何だこれは!?」


手元にあるキーボードに両手を叩きつけ超鈴音は声を張り上げた。
モニターパネルに映り込んでいる光景は、完全に白濁していてまるで先を見通せない。
まほら武道大会の会場に設置してある監視カメラは、まるで本来の役目をはたしていなかった。
舞台中央でクラスメイトの朝倉和美が出場選手の紹介をしようとしていた時だ。
突然スモークがたかれたように映像が乱れた。
一瞬何者かの妨害工作かと疑ったが、異常事態はそれだけにとどまらなかった。
麻帆良全域に設置してある監視カメラの映像全てが同じ光景を映し出していたのだ。
もしやと思い衛星軌道上に存在する偵察衛星で麻帆良上空の気象画像を確認したところ、学園都市全域がそこだけ不自然に白く塗りつぶされていた。
二つの情報を照らし合わせて考えればおのずと答えは導き出される。


「・・・霧?」


そうとしか考えられない。地下にある研究室からでは自分の目で直接確認できないが、外は間違いなく霧で覆われていることだろう。


(いったいどういう事ネ・・・)


学園祭開催の何週間も前から麻帆良周辺の気象状況の正確な予測は済ませていた。
武道大会の会場を屋外に決めたのも、そういったデータから天気が荒れる事はないだろうと予測していたからだ。
いや、もっと言えば・・・。


(学祭期間中が晴天であることは、カシオペアを使って直接確認してる)


天気の確認をするために極短い時間だけ時空転移を行ったに過ぎないが、それにしてもこのような現象の前兆らしきものは一切なかった。


(いやそもそもこれだけ急激な気象変化など自然に起こるはずがない)


だとすればやはり何者かの妨害なのだろうか?だが、どうやってこんな事をしているのかその方法が分からない。
今はまだ学園都市の結界は正常に稼働している。結界の範囲内でこれだけ大規模な異常現象を引き起こすのは不可能なはずだった。
少なくとも魔法では・・・。そこまで超の思考が進んだその時、突然室内にいた少年が声をあげて笑い出した。


「あははは、あははははは、ま、まさかこんな手を使ってくるとはね。
くっくっく、あまりに非常識ってやつだな。ふふ、ふふふふふ。い、いやでもこのやり方はあのお兄さんのものじゃないか。
という事は・・・くく、そうかこっちに来ているのか・・・美神令子」


そう言って少年は面白そうに映像を眺めていた。
愉快だとでもいうように目じりの端から笑いの感情が見え隠れしている。


「お前・・・何か知ってるのか?まさかこれはお前が?」


「いやいや、僕は何もしていないよ。これをやってるのは美神令子だ」


大袈裟に首を振って少年は超の疑惑を否定した。呆れたように肩をすくめてみせる。


「お世辞にもスマートなやり方とは言えないがね。まぁあの女らしくはある」


「美神令子?誰だそいつは」


「君にもわかるような言い方をするなら、あのお兄さんの仲間だよ」


「・・・お兄さん?横島さんの事を言ってるのか?」


「そうだね」


笑いの衝動は収まったのか声に出すことまではしていないが、それでも口元に張り付いたニヤニヤ笑いは消えていない。
超は少年から視線を外し、今聞いた話を整理してみた。
真偽のほどは定かではないが、学園都市を霧で包んだ犯人は横島の仲間である美神令子という女らしい。
という事はその美神令子も異世界の住人なのだろう。霧を発生させている方法も異世界がらみの技術を用いて行っている可能性が高い。
だが分からないのはなぜその女がこちらの計画を邪魔してくるのかという事だ。
横島とは暫定的にではあるが一応の協力関係を築いている。それがこうも積極的に妨害行動を起こすという事は・・・。


「横島さんたちが敵に回った・・・という事か?」


だとすれば厄介だ。正直イレギュラーという点では彼らもここにいる少年と大差ない。
何をしでかすか予想がつかなかった。超がどうやって計画を修正するか悩んでいると少年が口をはさんできた。


「そうじゃないよ」


「なに?」


「別にあのお兄さんたちは君の敵になったわけじゃない。これはね、たぶん嫌がらせだ」


少年がなめらかな動作で自分の顎先を撫でている。不可解に歪んでいるこちらの表情を楽しんでいるようだった。


「嫌がらせだと?」


「そうだ。彼らの目的はあくまで僕の方であって君じゃない。
だが、彼らにしてみれば僕と君が手を組んでいる可能性もゼロじゃない。
ところがここに至ってその事を判断できるような情報がほとんどない。
せいぜい学園祭で君が何かをしようとしているらしいとかそんな程度だろう。だからこんな方法を使ったんだ」


「どういう・・・意味だ?」


「つまりね、君が学園祭期間中に何かするつもりなら・・・学園祭そのものをできなくさせてやればいい」


「・・・・・・・・・・・・・・・・は?」


相手の驚く表情は悪戯を仕掛ける側にとっては愉悦だろう。
少年はしてやったりといった様子で破顔した。


「学園祭を中止させて君の反応を見るためだけに、学園都市を霧で包んだんだ」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


超は何も言えずにただ茫然としていた。
まともな感想が浮かんでこない。だってどうすればいいのだ?
もし少年が言っていることが本当なら、
その美神令子とやらは殆ど何の情報もないまま、まともに成果があるのか確証もなく、学園都市全体を巻き込んで自分一人に壮大な嫌がらせをしたことになる。
普通はそんなこと思いつかないだろうし、思いついても実行できないだろうし、実行しても失敗するだろう。
あまりにも滅茶苦茶で常軌を逸している。


「超、君も一般的な基準で考えればかなり常識外の存在だが、こと非常識といった側面だけで考えると美神令子は君の上を行く。
あの女はね、こちらの予想外の所からこちらの都合など関係なく、こちらにとって致命的なことを平然とやらかしてくれるんだ。
あいつは君が何のために武道大会を開いたのかも知らないだろうし、当然君の最終目的もさっぱり分かっていないだろう。
それでもこの霧のせいでもはや格闘なんか出来るわけがないし、何らかの襲撃を警戒して世界樹周辺は魔法使い達が防備を固める。
君が当初予定していた奇襲作戦は失敗に終わるだろうね」


そう結んで少年は口を閉ざした。
超は・・・頭を抱えそうになってすんでの所で自制した。そんな姿をこの少年に見せるのはプライドが許さない。
落ち着けと心の中で念じながら深呼吸する。まずは冷静になって事態を把握する必要がある。
何度か深呼吸を繰り返すうち、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
自分が置かれた状況と目的達成までの道筋を考える。現状はシンプルだ。まず霧のせいで武道会が開催できない。
仮に無理やり強行したとしても、視界不良でまともな映像が撮影できない。

武道会の戦闘映像は強制認識魔法発動後に魔法と魔法使いの実在を証明するための手段として、役割を果たしてもらうつもりでいる。
魔法が実在するかもと思わせるだけでは根拠が足りないからだ。そのために前もってネットに魔法使いや魔法世界の情報を流しておいた。
その情報の信憑性を補強するため、そして大多数に情報を拡散させるための撒き餌として、実際の魔法使い達の戦闘映像は必要となる。
そのためにはこの霧を晴らさなければならない。
つまり美神令子とやらと交渉しなければならないわけだ。


「・・・なるほど」


現状の把握は完了した。そして目的のために何が必要なのかも。
超は自らが身に纏っている強化スーツの安全装置を解除した。同時にカシオペアを起動する。
時空転移が一瞬で完了して、超は少年の目の前に移動していた。そして少年が座っているパイプ椅子を後方に蹴り飛ばす。
超重量のハンマーで殴られたようにパイプ椅子がひしゃげて歪む。猛烈な勢いで室内の壁に激突していった。
少年は急に支えを失いバランスを崩したように前のめりになった。その顎に下から突き上げた掌底をぶちかます。
顎の砕ける感触を掌で受け取るとともに、上下の歯で噛み切られた舌の破片が視界を横切った。
空中で血の線を描きながら体重が軽い少年の体が限界までのけぞる。
その薄い肋骨に指先を這わせると、超は輪郭がぶれて見える程の速度で自身の重心を沈下させた。
同時に軸足で床を思い切り踏み抜く。
反発力が肉体を固定し、拳を通って流れるように押し出された運動エネルギーは少年の肉体にぶちまけられた。
少年があちこちにぶつかりながらシートを張られた機材の山に突っ込んでいく。
派手な音を立てながら少年の姿は散乱した機材に埋もれて見えなくなった。


「要するに・・・美神とやらと交渉するためにはお前の身柄を引き渡すのが最良という訳カ」


敵対しているのが自分でないなら話は簡単だ。相手の要求するものを素直に与えてやればいい。
超は打ち込みに使った己の拳を撫でながら少年が埋もれている場所を観察していた。
手応えは十分だった。飛ばした勁は間違いなく相手を無力化させているはずだ。・・・普通なら。


「まったく・・・いきなりはひどいな」


口内が血で溢れているのか、くぐもった声でそう言いながら少年がはいずり出てきた。
吹き飛ばされる途中で切ったのかあちこちから出血している。
右目の周りは打撲によって赤黒く変色し、もしかしたら眼球自体が損傷しているのかもしれない。
不自然に曲がった左手首を支えにして少年はゆっくりと立ち上がった。
黒い服装はあまり血の色を目立たせなかったが、改めてみるまでもなく重傷を負っている。


「子供相手に容赦ないね」


「子供?図々しいネ。そんな姿で平然としているくせに」


「まぁそれはそうだけど。たとえ中身が別物だと分かっていても子供の姿をしていれば躊躇するものなんだよ、普通は」


神経を痛めているのか体をぐらつかせながら少年は苦笑した。


「さすが戦場を経験しているだけあって認識に差があるかな?僕くらいの少年兵は珍しくなイヴッ!?」


話の途中で背後に転移した超が少年の背中に手刀を突き立てた。脊髄から少しずれた位置で内臓をかき回す。
やわらかな肉と臓器の感触が直に伝わり超は顔をしかめた。
突き入れた手を引き抜き、そのまま大量に出血した背中を思い切り蹴りつける。

本来曲がるはずのない方向に折れ曲がった少年の体が弧を描きながら反対側の壁に激突した。
血がビシャリと壁を汚し、半ば潰れかかったマネキンのようなオブジェがその壁に寄りかかっている。


「・・・・・・」


もう一度冷静に観察する。
今度は明確に致命傷を与えた。


「だからさ話の最中に攻撃してくるのはやめないか?いちいち会話が途切れてしまう」


壊れたマネキンがそう言ってくる。
先程とは違い妙に流暢だ。顎が砕け舌がちぎれ飛んでいるにしては。


「話をするのに不便だから回復させたんだ。肺や腹筋、喉や舌がないとまともに話せないからね」


笑顔を見せながら少年が無造作に立ち上がる。
本来なら立つことはおろか、動くことすらままならないはずの重症、いやキッパリと致命傷を受けながら何事もなかったかのように平然としている。
どんな手を使ったのか大量にばらまかれた血の痕跡すらも一瞬で消え失せていた。
まるで時が巻き戻ったかのようだ。粉砕された器物や漂ってくる血の匂いさえなければ。
超は軽い溜息をついた。ここまでやってよく分かった。どうやら当たってほしくない予想が当たってしまったらしい。


「私ではお前を倒せないみたいネ」


「それは降参という意味でいいのかな?」


調子を確かめるように手首をくるくるとまわしながら少年が尋ねてくる。
超は僅かに首を振ってその言葉を否定した。


「いいや」


ウエストポーチに収納している起動スイッチを押す。


「お前を捕らえる」


その瞬間部屋全体が鳴動した。
『剣』本体が設置されている大型時空転移装置カシオペア零号機が重低音を発し、床に描かれた魔法陣からバチバチと稲光に似た閃光が放たれる。
足元から地鳴りのような振動が感じられた。装置の起動に必要な電力を賄うための発電機はこの階の真下に設置してあるため衝撃が直に伝わってくるのだ。
超はバランスをとるために足を踏ん張った。しばらくそうしているうちにシステムが正常に稼働し始めた。
先程まで少年がいた場所に視線を送る。


「な・な・な・な・な・な・な・な・な・な・な・な・な・な・な」


「に・に・に・に・に・に・に・に・に・に・に・に・に・に・に」


「を・を・を・を・を・を・を・を・を・を・を・を・を・を・を」


「し・し・し・し・し・し・し・し・し・し・し・し・し・し・し」


「た・た・た・た・た・た・た・た・た・た・た・た・た・た・た」


少年はこちらの想定通り『檻』の中にいた。映像をコマ送りしたように少年の声が途切れ途切れに聞こえてくる。


「私は何もお前のセキュリティパスを失効し忘れていたわけじゃないネ。
私がこの場所に居続けたのはお前を待っていたからだヨ」


学園祭が始まってから超は一度もこの隠れ家を出ていない。
自らが主催したまほら武道大会で舞台挨拶すらしなかったのもそれが理由だ。
全てはこの場所にこの少年をおびき寄せるためだった。


「お前は今ミリ秒ごとに0.5秒先の未来へ飛んでいる。連続して発生している時空震の中にいるネ」


そう言っても彼には聞こえないだろう。今あの少年の時間に対する感覚はこちらとはまったく違っているだろうから。
強制的に標的を時空転移させ続け、結果的に時空震の中に閉じ込める。
『剣』本体が存在するこの部屋限定で使用できるこの檻こそが超が少年に対して持っていた切り札だった。
発生した時空震の内側と外側は時間的にも空間的にも全てが断絶している。
これは内部からも外部からも一切の干渉ができないことを意味していた。つまり時空の檻のようなものだ。

以前から茶々丸の記録映像でこの麻帆良に何か得体のしれない存在が侵入していた事は知っていた。
そして同時期に自分に接触してきたどれだけ調べても過去の記録が全く出てこない少年。この二つに関連性がないはずがない。
京都での事件で茶々丸が接触した横島忠夫という人物がその怪物たちと敵対している事も分かった。
その時から、超は横島を利用しこの少年を排除することを検討していた。

横島を仲間に引き込んだのもそれが理由だ。剣の制御が軌道に乗り少年の利用価値がなくなった時点で横島に始末させる。
その点でいえばこの結果は概ね予定通りだった。
多少のイレギュラーはあったが大本の計画もまだ十分修正可能な範囲だ。
後は横島と美神令子をここに呼び、少年を引き渡して交渉すればいい。


(私は絶対にあきらめない。必ず目的を達成するネ)


それは今ここにいない共同研究者に誓った事でもある。
超は目を閉じ大きく息をつくと横島に連絡するために通信端末に向かおうとした。

・・・その時。



「超鈴音」



呼び声が聞こえた。


即座に振り返る。
今聞こえてきたのは先程のような断続的な言葉の羅列ではなかった。
名前としてはっきり認識できる。
声が聞こえた先には少年がジーンズのポケットに手を入れながら立っていた。


「なっ!」


引き攣った声が喉奥から絞り出される。
ありえない光景に体が硬直した。
あの『檻』を物理的な手段で突破するのは絶対に不可能だ。にも拘らずこちらがほんの少し目を離した隙に少年は檻の外側に・・・。
いや違う・・・よく見れば少年を包んでいた時空震そのものが消失している。

グッと奥歯を噛んで驚愕を無理やり押しのけた。
何らかの故障かと正面モニターに素早く目を通し、システムエラーを確認する。結果システムは正常に稼働していた。
唯一、時空震発生の動力源である『剣』の反応をのぞいて。


(どういうことネ。まさか時空転移の連続使用で制御システムに負荷をかけすぎた?
だがテストの段階では目標物を三時間は転移させ続けていた。システムに問題は・・・。
いや、いやいや、まて・・・。そもそも動力そのものが落ちているという事は・・・)


頭の中が混乱をきたしていた。
航時機を開発していた時でさえ『剣』の動力が完全停止することなど一度もなかったというのに。
訳が分からず超が口の中で小さくうめき声をあげたその時、少年がもう一度超の名前を呼んだ


「超鈴音」


ピタリと混乱が収まる。
まるでこちらの脳をハッキングして分泌物を直接操作しているかのように、その言葉だけで超は冷静さを取り戻していた。
少年は冷めた瞳でこちらを見ていた。そして淡々と告げる。ゆっくりと虚ろに。


「君は未来が過去に対して絶対的な優位性を持っていると考えているのかもしれないが、本来未来なんてものはひどく曖昧なものでしかないんだ。
蝶の羽ばたきを例に挙げるまでもなく些細な切っ掛けが大きな変化をもたらしかねない」


動作すらも緩慢で覇気がない。だが正確にカシオペア零号機を指さし問いかけた。


「そのカシオペア・・・君のカシオペアではないと言ったらどうする?」


訳もなく喉が渇いてゴクリと唾を飲み込む。
超はこぶしを握り締め丹田に力を入れた。目の前の相手を睨みつける。


「まさかお前が偽物とすり替えたから動作不良を起こしたとでも言いたいのか?
そんな事はありえないネ!!カシオペアを作れるのは私だけだし、さっきまでは正常に動作していた!
それに時空転移の制御システムは私の承認がなければ絶対に機能しない。
承認には私の生体認証が必要だしあれは間違いなく私が作った私のカシオペア・・・」


「そうだね」


超が全てを言い切る前に少年は素直に頷いた。
肩透かしを食らったように息をのむ。その隙に少年は言葉を続けた。


「あれは確かに君が作った『君の』カシオペアだ。でもね『君のカシオペア』・・・ではないんだよ」


重々しく告げる。







「あの剣は僕が作ったんだ」











[40420] 30
Name: 30◆173cb38f ID:73709a19
Date: 2023/02/05 20:35





「今・・・何と言った?」


「あの剣を作ったのは僕だと言ったのさ」


室内の気温が下がったように感じるのは、単に自分の血の気が引いているからかもしれない。
ガシャンと派手な音を立ててデスクの上に置いてあったマグカップが床に落ちた。無意識のうちに立ち眩みを覚えて肘か何かが当たってしまったようだ。
カーペットでも敷いておけばマグカップは無事だったかもしれない。クラスメイトの四葉五月からもらって大事に使っていたものだったのだが。
体を支えるためにさり気なくデスクの上に手を置く。ゆっくりと息をして超鈴音は気持ちを落ち着けた。


「何を馬鹿なことを」


「信じられないかな?」


「当たり前ネ。あれは私が未来からこの時代に持ってきたものだヨ。それがどうしてお前が作ったなんて話に・・・」


「そう。いつどこで誰が作ったのか、来歴はおろか構成要素すら不明なオーパーツ・・・だったか」


そう言いながら少年はどこか座れる場所を探しているようだった。
もともと整理されているとは言い難かったこの研究室は先程の戦闘(殆どこちらが一方的に暴れただけだが)のせいで足の踏み場にも困るようになっている。
壊れてバラバラになったパイプ椅子に名残惜し気な目線を向けてから、少年は結局立っていることに決めたらしい。
残念そうにしている姿には同情よりもいい気味だとしか感想が浮かばなかったが。


「まぁ、分からないのも無理はないんだ。そもそもあれはこの世界の技術で作られたものではないからね」


肩をすくめながら少年はそう言った。
どうやらどうしても『剣』を作ったのは自分だと言いたいらしい。
超はとりあえずそのまま彼の説明を聞いてやることにした。


「君はあれが何故剣の形をしているのか不思議に思っていただろう?」


確かにそんな話をしたような記憶はある。時空震を発生させる素体が剣の形をしている事に超は前々から疑問を感じていた。
自然物ではなく人工物として形を持っている以上、製作者の何らかの意図があるはずだが、それが何故剣なのか理解できなかったからだ。

剣とは武具であり武具は主に戦闘で用いられるものである。
一部、祭祀などで使われるような例外も存在するがそれにしてはあの剣には何の装飾も施されていなかった。
デザインは武骨で実戦的であるように思える。つまり製作者は戦うためにあれを作ったのだろう。

だがそうだとすると、なぜわざわざ素体を剣に加工したのか意味が分からなかった。時空転移を実戦で使用するなら剣である必要はないからだ。
剣での戦闘方法はそれこそ色々あるだろうが、ただの道具として考えた場合その利用法はそれほど多くない。
せいぜい叩くか切るか突くか相手の攻撃を受けるかその程度だろう。
だがどの方法にしても敵に向かってそれを行う限り道具は必ず摩耗していく。刃が欠けるか折れるかあるいは戦闘中に紛失してしまう可能性だってある。
そんなリスクを負うくらいなら、初めから単純に使用者が身に着けられるような形にすればいいのだ。それこそカシオペアのように。

そこまで思い出して超は少年にこくりと頷いた。
確かその時は結局製作者は本来の用途に気付かないまま素体を剣に加工したのだという無難な結論に落ち着いたのだったか。


「実を言えばあれが剣の形をしている事に大した意味はないんだ。たまたま僕の記憶の中にいる魔族の一人が、時空に関して似たような技を使っていてね。
あの剣は彼女たちの一族が使う武具を模倣したものだ。
まぁ本来は韋駄天の技なんだが、さすがにタンクトップやらTシャツやらをオーパーツにするわけにはいかなかったし・・・」


言い訳のようにそう言って少年は乾いた笑みを浮かべた。
その笑いにどんな意味があるのか分からなかったが、別に知りたくもなかったので超は続きを促した。


「要するにお前はこう言いたいのか?あの剣はお前がこの時代で作ったもので、それが私の時代で世に出たのだと」


「概ねその理解で間違いないかな」


「ありえないネ」


超は即座に否定した。


「なぜだい?」


「簡単だヨ。もしお前の言う事が本当だったとしたら、あの剣はたまたま私のいた時代で発見され、それがたまたま科学者の手に渡り、
その科学者がたまたま利用法を思いついて、たまたま私と出会い一緒にタイムマシンを開発し、たまたまこの時代に持ち帰ってきたことになる。
そんな偶然が何度も重なるものか!!」


早口でそう言い切って超は少年を威圧した。
何故かはわからないが息が切れたように呼吸が荒くなっている。感情を自制しきれない。
目の前の少年に対して怒りがあふれそうになる。それが何故なのか超は自分を分析しようとは思わなかった。
冷静になろうとも思えない。

あるいは・・・その時にはすでにある可能性に気付いていたのかもしれない。
本人にとっては絶対に認められない真実に。

少年は一つ頷き返すと超の言葉を認めた。こちらが拍子抜けするくらいにあっさりと同意してくる。


「そうだね。確かにそんな偶然はない」


「お前!!からかっているのか!?」


激高しそうになり、超は寄りかかっていたデスクに拳を叩きつけた。
強化スーツの人工筋肉によって威力が倍増されたその一撃はあっさりとデスクを粉砕した。
少年はそんな超の怒りを受け流すと小さく肩をすくめた。


「だからちゃんといたじゃないか。案内人が」


「案内人だと!?」


癇癪を起こした子供を宥めるようなその口調が腹立たしかった。
もういい。話を聞くまでもない。どのみちこいつは敵なのだ。敵の言う事を真に受けるほうがどうかしている。
そう思い、超は少年に掴みかかろうとした。
打撃ではこの少年にダメージを与えることはできなかったが、絞め技などで意識を失わせれば横島たちが到着するまでの時間を稼げるかもしれない。
カシオペアでの時空転移が使用できなくとも強化スーツによる踏み込みにこの少年は対応できないだろう。

超がつま先に力を込め、一歩目を踏みだそうとしたその瞬間。
少年が僅かに瞳を細めた。唇を吊り上げ酷薄に笑う。
鏡のように澄まされた悪意がそこにはあった。ただ一つだけ・・・相手を崖から突き落とすような。
人を破滅へと導く悪魔が問いかける。





「最初に・・・あの剣を持っていたのは誰だ?」





ピタリと動きが止まる。


「時空転移理論を考案したのは?」


肌が粟立つような冷気がざわりと首筋を撫でていく。


「君とともにタイムマシンを開発したのは誰だ?」


目が見開かれる。思考が止まり、空白の中にいる。


「君にこの時代に戻るように言ったのは?」


衝動が殺されればそれまでだった。あるいは意志の力が。心の声すら沈黙し・・・。


「君に・・・」


心臓に刃を突き付けられたように一切の動きを止めた超に少年は最後の一押しをした。





「君に完成したタイムマシンを渡し、まるでそれこそが目的だったかのように、ある日突然姿を消したのは・・・いったい誰だ?」





逃げてはならなかった。
立ち向かわなければならなかった。
それができないなら、せめて認めなければならなかった。


だからこんな風に引き攣った表情で悲鳴のような叫びをあげるべきではなかった。


「嘘だっ!!!!!」


瞳が血走ったように赤くなる。
肺の中の空気が一息でなくなるほど言葉を強く叩きつける。


「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!!うそをつくなああああああああああああぁぁ!!!!!!
あの人はっ!!あの人はっ!!!!!」


「あれは僕が作った人形だ」


「にっ!!?」


「君に『僕のタイムマシン』を作らせるために僕が作った人形なんだ」


嗚咽に似た声がこぼれた。
銃で撃たれたように体が一瞬硬直する。
そしてすぐに脱力し、立っていられなくなる。超は床に膝をついた。
眼球が固定されたように呆然と前を見続ける。瞳に色はなかった。少なくとも何かを思う意識のようなものは。
呼吸は続く機械的に。胸が膨らみしぼむだけの簡単な動作がただ繰り返されていた。

少年はそんなこちらの反応などとるに足らないものであるかのように超を見下ろしていた。
口元を歪め深い声で告げる。


「二年前・・・この麻帆良の地に大きな時空震が派生した」


カシオペア零号機・・・いや自らが作り上げた『剣』に歩み寄り少年は大型のシリンダーに手をついた。
表面を撫でながら語り始める。


「もちろんそんなものが自然発生するわけがないから人為的なものだったんだが・・・その時ね僕はこう思ったんだ。あぁこれは使えるかもしれないなと」


鉄の冷たさを、あるいは滑らかさを確かめるようにシリンダーに触れていた手を止め、少年は超に向き直った。


「発生した時空震を解析した結果、その何者かは今から百年ほど先の未来からきていることが分かった。
でも残念なことにその何者かが発生させた時空震は僕が思っていたより周囲の時空間にあまり影響を与えるものではなかったんだ。
これでは利用するにしてもこちらに大した利点がない。そこで僕は特定の条件下で強大な時空震を発生させる『剣』とそれを正しく運用できる『人形』を作った。
もちろん僕の要求を満たすだけの性能を備えた物をね」


淡々と語る解説は一切のよどみがない。言葉に詰まることなく続いていく。


「僕は剣と人形を百年先で目覚めるようにセットして眠りにつかせた。あとは君の方がよく知っているんじゃないか?
人形は百年後に君と出会って『僕のタイムマシン』を作り上げた。そして君が剣を持ってこの時代に戻ってくるように誘導した」


劇の役者と言えば大袈裟だった。大仰な身振り手振りや表情の変化があるわけではない。感情をこめた台詞回しもない。
ただ妙にその仕草も言葉も印象深い。言葉を語るその姿がこちらの頭に入り込んでくる。


「けどまぁ、さっきから偉そうに『君のカシオペア』だの『僕のタイムマシン』だの言ってるけど、実はそれほど確信があるわけじゃないんだけどね。
少なくとも二年前の時点では、僕は麻帆良に時空転移してきたのが誰なのか、どうやって時空転移してきたのかその方法さえ知らなかったわけだし。
まぁあえて調べなかったからだけど。なぜかわかる?」


「・・・・・・・観察者効果」


「正解だ。君という存在を観測した結果、未来が確定してしまう可能性があった。
実際は二年前時空震の発生を僕が観測した時点で、ある程度未来は変わっていたんだろうけど」


少年はそう言って剣が設置されているシリンダーに背中を預けた。
砕けて散乱している機材の破片を蹴飛ばしながら満足げに頷く。
超は何かを言おうとして自分の唇が震えていることに気付いた。喉が詰まったように言葉が出てこない。
気力は萎えて立ち上がることができなかった。それでも何とか声を絞り出す。


「お、お前は・・・未来を変えることで・・・過去を・・・」


「改変された未来に君自身は絶対に気付くことができない。なぜなら改変された未来こそが君にとっての過去と地続きになるからだ」


目をそらすことはできなかった。息が荒くなり額から汗がにじみだす。
心臓の鼓動は早鐘を打つようだ。自分の体に起こる変化に対処しきれない。


「百年先の未来で僕の人形は目覚める。時空転移を可能にする剣とともに。
その情報は特定の人間だけに伝わるように一定のバイアスを掛けられ世界中に伝播する。
そしてたどり着くわけだ。心の底から過去を変えたいと願う人間だけが僕の人形のもとに・・・」


刺すような冷気があった。それが錯覚だとしてもそう感じた。
吹雪の中で聞こえる寒風のように空虚で頼りない己の心がか細い悲鳴を上げているようだった。


「あれに初めに接触したのは君の方からだったんじゃないか?」


「・・・う・・・うぅ・・・」


少年が笑みを浮かべている。
常人とは一線を画す超越者の笑みを。超はここに来てようやく本当の意味でこの少年を不気味に思った。
奇妙で奇怪でこちらの理解など遠く及ばない別次元の存在。


「な、なぜこんな事を・・・」


「ん?」


「なぜだ?お前が剣を作ったのなら当然タイムマシンだって自分で作れたはずだ。未来に干渉するなんてそんな回りくどい事をする必要は・・・」


「僕自身が動くわけにはいかなかったんだよ。あくまでこの世界の人間が自発的に行動を起こさなければならなかったんだ。
そうでなければ・・・気付かれてしまう」


「き、気付かれる?誰に?」


「君には関係ない話だ。知る必要はない」


そう言って少年は寄りかかっていたシリンダーから体を起こした。
そして一歩一歩足元を確かめるようにゆっくりとこちらに近づいてくる。


「く、来るなっ!!」


尻もちをついたまま必死に少年から遠ざかる。
バタバタとうまく動かせない手足で懸命に後ろに下がろうとする。


「何を怯えているんだ?超・・・」


少年が優しい声音で語りかけてくる。
怯える・・・そう問われて超は自分がこの少年に恐怖を抱いていることに気付いた。
その事を恥じ入るだけのプライドさえ粉々になっている。全てが否定された気分だった。
生きてきたことの全てが。始まりから今に至るまで自分の人生はこの少年に操作されていたようなものだった。
釈迦の手のひらで踊らされる孫悟空のように。自分がどんな思いで何を成してきたか、それすらも手の届かない場所で予め何もかも決められていた。

運命を・・・弄ばれていた。

その事が何より恐ろしい。

ドンと背中が壁にぶつかる。無様に逃げ続け、それも限界に来たようだ。

少年が近づいてくる。いまだに名前すら知らない。未知の怪物が・・・。





「お前は・・・いったいなんだ?」





少年は唇を吊り上げた。
言葉もなく、しばし見つめ合う。


「超・・・最後にいい事を教えてあげよう」


耳元まで顔を近づけて彼は囁いた。恋人達の睦言のように甘く・・・そして絶望的な言葉を。


「君が命を懸けてでも避けようとしていた未来は決して訪れない。なぜなら・・・」


その言葉が聞こえた瞬間、痛みに反応したように超の体がビクリと震えた。容赦のない盛大な恐れに彼女の顔が歪む。





瞳に絶望を宿したまま・・・超鈴音は消失した。







[40420] 31
Name: 31◆6a5320fa ID:73709a19
Date: 2023/02/07 22:35





大きく息をついたのは気持ちを落ち着かせるためだった。
汗ばんだ手のひらを上着で乱暴に拭って横島は葉加瀬聡美に尋ねた。


「ハカセちゃん。超ちゃんがいなくなったってのはどういうことだ?」


「私霧が出た後、すぐに超さんに連絡を取ってみたんです。
でも電話に出てくれなくて・・・それで龍宮さんと一緒に研究室に向かったんですけど、超さんはどこにもいなくて」


「それって単に出かけてるってことじゃないんか?学祭なんだしどこか見学にでも行ってるんじゃ」


「それはないと思います。超さん言ってました。今は研究室を離れられないって。理由は教えてくれませんでしたけど」


どうやら超の失踪は本人の意思とは無関係であるらしい。
となると彼女は何らかの事件に巻き込まれた可能性が高いわけだが。


「・・・誘拐されたとか、そういうことか?」


「それは私にもわからないです。一応研究室にいた男の子に事情を聴いてみたんですけど」


「え?ちょ、ちょっと待ってくれ!ハカセちゃん今なんて言った!?男の子って言ったか!?」


「は、はい・・・言いましたけど」


突然のこちらの剣幕に驚いた様子で葉加瀬が短く息をのんだ。
ためらいがちに肯定してくる。


「それってどんな感じのガキだった?ひょっとしてネギよりちょっと年上で、いけ好かん感じのイケメン面したガキだったか?」


「は、はぁ。えっと性格の方はどうか知りませんけど見た目は確かに横島さんが言っているような感じです。
私もよくは知らないんですけど、少し前まで超さんの私的な助手みたいな事をしていた子で」


超に止められていたため葉加瀬自身は少年に直接関りを持っていなかったらしい。
それでも面識はあったので一応超の行方を聞いてみたのだそうだ。


「私超さんがどこにいるか知ってるかって聞いたんです。そうしたら超は今はどこにもいないって」


「今は・・・どこにも?」


何かが引っ掛かって横島はそう聞き返した。
訝しげな口調から正確に質問の意図を推し量ってくれたらしい。葉加瀬がすぐに同意した。


「何か妙な言い回しですよね。私も気になってどういう意味か聞いてみたんですけど、同じ事しか答えてくれませんでした。
でも・・・そうしたら・・・」


そこまで言って葉加瀬は言葉を濁した。何か口に出そうとしてそれをためらうような息遣いが耳元から聞こえてくる。
横島は続きを促すべきか一瞬迷ったが、彼女が何か言うまで辛抱強く待つことにした。
急かしたところで彼女を困らせるだけだろうし頭の中を整理する時間は必要だ。それに情報は出来るだけ正確に欲しい。
そうして一分ほど沈黙に付き合った後、若干上ずった声で葉加瀬が口を開いた。


「男の子が質問に答えてくれなくて私が困っていたら・・・そ、その、た、龍宮さんがいきなりその子を銃で撃って・・・」


電話越しでも緊張感が伝わってくるような声で葉加瀬はそう言った。
真名は正確に手足を打ち抜き、少年は床に倒れたらしい。銃創から流れ出した血によって辺りは真っ赤に染まっていたそうだ。
真名が普段使用している銃器は基本的に実弾を使用しないものばかりだったので葉加瀬は驚いたようだ。
突然の凶行に葉加瀬の思考が完全に停止していたその時、真名が横島を呼べと言ったらしい。


「龍宮さんすごく怖い顔してて・・・。わ、私何が何だかわからないまま逃げるみたいに研究室を飛び出して・・・」


「い、いやもういいよ。よく分かった。真名ちゃんが撃ったガキもたぶん無事だからハカセちゃんは気にしなくても大丈夫だ」


たぶんどころかほぼ間違いなく無傷だろうが、事情を知らない葉加瀬には同級生が突然発砲事件を起こしたようにしか見えないだろう。
横島はなんとか彼女を落ち着かせようと四苦八苦しながら、状況を確認した。


「ハカセちゃん。真名ちゃんは研究室に一人で残ったんだな?」


「は、はい、そうです」


こちらを名指しで呼びつけた以上、真名は少年の危険性に気付いているのだろう。
だが同じ理由で彼女は少年の足止めをしようとしている可能性が高い。
正直に言えばそれはあまり得策だとは思えなかった。真名には悪いがおそらくあの少年は彼女の手に余る。
となれば一刻も早く真名を助けに行くべきだが・・・。そこまで考えて横島は研究室がある場所と葉加瀬が今いる現在地を尋ねた。
すぐに合流するからその場で待つようにと告げて電話を切る。


(しかしよりによってこのタイミングか・・・いや、このタイミングだからこそか?)


今では横島にも美神の考えが何となくだが理解できていた。
あの霧は閉塞していた状況を打開するために美神が仕掛けた作戦だったのだろう。
まぁ、事態は好転せずにむしろその逆を行っているようではあるのだが・・・。
携帯をしまい横島が小さくため息を付いていると固い声で名前を呼ばれた。


「・・・横島さん」


普段とは明らかに違う表情でネギがこちらを見ている。
眉間に寄ったしわから深刻さが浮き彫りになっているようであった。


「今の電話・・・葉加瀬さんですよね。超さんが行方不明ってどういう意味ですか?誘拐って聞こえましたけど・・・」


「あ・・・い、いやそれはだな・・・」


あからさまに狼狽した横島が目を泳がせる。
馬鹿か俺はと舌打ちしたくなる衝動をこらえながら、横島は引き攣った笑みを浮かべた。
電話だったので断片的にしか情報は伝わっていないはずだが、それでも不穏な単語をいくつか口走っていたのは間違いない。
超や葉加瀬の担任教師であるネギとしては看過できない話だろう。かといって詳しい状況を説明すればネギを巻き込むことになる。
何とか彼をごまかすしかないわけだが、脳をフル活用しても煮立った頭ではうまい言い訳が何も思いつかなかった。
時間が経過するごとに段々とネギの表情が厳しくなっていく。
もはや半分のっぴきならない状況であることを自白したようなものだがそれでも何か言おうと横島が口を開きかけた時、
ネギの後ろでこちらの様子を観察していたエヴァが口をはさんできた。


「答えろ横島。今の話・・・例の四人目が現れたんだな?」


「う、いやまぁそのなんだ」


「マスター?四人目って何です?何か知ってるんですか?」


「・・・後にしろ。今はお前にかまっている暇はない」


「マスター!!」


詰め寄ってくるネギを鬱陶し気に押しやりながらエヴァが瞳を細めた。
ゾクリと背筋に冷たいものが流れる。
横島がどないしようと心の中で頭を抱えていると突然強い力で腕をつかまれた。


「何やってんのよ横島君!とっとと行くわよ!!」


「わっ!み、美神さん?何すか突然」


「何すかじゃないっての。一旦アパートに帰るわよ。ちょっとまずい事になってるかもしれないから確認しないと」


そう言って美神は軽く唇をかんだ。その仕草から焦燥感が見て取れる。


「何かあったんですか?」


横島が周りに聞かれないように小声で尋ねると、美神は横島にヘッドロックしながら道路の端っこに引っ張っていった。
仲良くその場にしゃがみ込み、内緒話をするように耳元に口を近づけて話し始める。


「さっき小竜姫とジークの通話が同じタイミングで切れたでしょ?それと同時に霧も晴れ始めた。
あれって例の扉使ってこっち側に力だけ流してもらってたのよ。
その二つが同時に切断されたってことは扉自体に何かあったか、下手したら空間の接続の方に問題があるのかもしれない」


「それってつまり?」


「最悪向こうの世界に帰れなくなるかもしれないってこと」


「んなっ!?ま、まずいじゃないっすか!!」


「だから焦ってんでしょうが!!とにかく早くアパートに戻って扉が無事か確認しないと・・・」


「い、いや待ってください!こっちもこっちで厄介なことになってんすよ!」


「何よ?」


不審そうに尋ねてくる美神に横島は先程かかってきた電話の内容を伝えた。
超の所に四人目が現れたこと、超に何かがあったこと。そして今真名がその少年の足止めをしているらしい事も。


「~~~~~~~っ!!んぁぁ面倒くさいことになった!!」


「たぶんタイミング的にあの霧が原因だと思うっすけど」


「わ、分かってるわよ。でもいきなりこんな急展開になるなんて思わないじゃん!!」


さすがにこの状況は予想していなかったのか、美神が思わず頭を掻きむしりそうになり・・・ギリギリのところで自制したらしい。
単純に髪が傷むのを嫌がったのかもしれないが。


「まぁなるようになっちゃったもんはしょうがないわ。こうなったら二手に分かれるしかないわね。
戦力の分散は避けたいところだけど、さすがに退路の確保はしておきたいし」


「しゃあないっすね。振り分けは?」


「扉の方は私が行かなきゃダメでしょ。何か不具合があったとしても私以外じゃ対処できない」


「まぁそっすね。俺は?」


「あんたは四人目の方!ハカセって子と面識あんのあんただけでしょ?」


「いや確かにそうなんすけど、せっかく久しぶりに美神さんと一緒だってのにまた離れ離れになんのもなぁ」


「甘ったれたこと言ってんじゃない!・・・ったくどうせだったら私に成長したところを見せてやるくらいは言えないの?」


「因みに成長したところを見せられた場合、何かご褒美的なものはあるんでしょうか?内容によっちゃ俺のやる気も急上昇するんですが」


「・・・時給二百五十円にしたげる」


「下がってんじゃないっすか!!」


そんなあほなやり取りをしている二人の背中に声が掛かった。


「おい横島、私を無視するとは言い度胸だな」


腰のあたりに手を置いたエヴァがこちらを見下ろしている。高圧的な態度は彼女の常ではあったが今は多少の苛立ちも感じさせた。
エヴァが視線を横島の隣に移し、美神に向けて不機嫌そうに言ってくる。


「それとそこの貴様、横島は私と大事な話があるんだ。誰だか知らんが引っ込んでろ」


「は?」


そのセリフを聞いた美神が瞬間的に臨戦態勢を取る。
空に浮かびあがるのではないかと錯覚するほど急に立ち上がると、エヴァに負けない位の女王様的な不雰囲気を身に纏った。


「私が私の所のバイトと何話そうがあんたに関係ないでしょ。そっちこそ子供は子供らしく公園でままごとでもしてれば?」


ピクリとエヴァの頬が痙攣する。あからさまな侮蔑に対しエヴァが反射的に怒鳴りつけようとして・・・ふと何かに気付いたように眉をあげた。


「バイトだと?ということはお前が噂の美神令子か。横島から話だけは聞いているぞ。
なんでも労働基準法という言葉を知っているのか疑わしいほどの低賃金で部下をこき使い、
自分は夜な夜な金を数えて不気味に笑っている浅ましい性根のいけ好かないくそ女だと」


ビキィッと音を立てるような見事な青筋が美神のこめかみに発生する。おどろおどろしい怨念じみた殺意の波動が横島へと向けられた。
身震いするほどビビった横島が折れよとばかりに全力で首を横に振る。
確かにエヴァには給料の話をしたような気がするが、美神に対して浅ましいだのいけ好かないくそ女だの間違っても言った覚えはない。
しばし復活した魔王のような恐ろしいオーラを発しながら横島を睨みつけていた美神だったが、
今は眼前の敵を殲滅するほうが先だと思ったのか鋭い舌打ちをしてエヴァに向き直った。


「・・・そういえば私も横島君から報告を受けてたわね。
なんでもここには人間風情に呪いを掛けられて、うん十年だか小学生やらされてる間抜けな吸血鬼がいるって。
五百年近く生きてるらしいけど、何百年もサバ呼んで小学生のコスプレしてるって恥ずかしくないのかしら」


ブシィッとあらゆる血管から血を噴き出しそうなほど、エヴァの体に力みが増していく。
逆鱗を大根おろしで丹念に削られたような凶相が横島に向けられた。
小便を漏らして部屋の隅でガタガタ震えそうになるほど総毛だった横島が周囲に風を起こしそうな勢いで首を横に振る。
これまた確かにエヴァの事を多少は報告した気がするが、間抜けな吸血鬼だの小学生のコスプレだの言った覚えは断じてない。
バチバチと青白い燐光を放ちそうなほど憤怒していたエヴァだったが、
やはり直接敵対している者への対処を優先したのか、尖り過ぎて大型の肉食獣のようになっている犬歯を光らせながら美神に向き直った。

おうコラ?やんのか?上等だよ。てめぇどこ中だよ?
・・・とでも聞こえてきそうなほど互いにメンチを切り合っている二人から離れて、横島はおキヌや夕映がいる場所に避難した。
美神たちの様子を見て、半ば呆然としているおキヌの名前を呼ぶ。


「おキヌちゃん」


「え?よ、横島さん?なんですか?」


「いや、美神さんもエヴァちゃんもああなっちまったら暫くどうにもならんだろ。だから俺ちょっと行ってくる」


「行く・・・って何処にですか?美神さんがアパートに帰らなきゃって」


「まぁそれはそうなんだが、実はちょっと事情があってさ」


そう言って横島はおキヌに手早く現在の状況を説明した。おキヌの隣で聞いていた夕映が目を丸くする。


「超さんが行方不明って本当なんですか?」


「ああ、ハカセちゃんの話じゃどうもそうらしい。たぶん四人目が関係してると思う」


息をのむように夕映が硬直する。いやなことを思い出したのかもしれない。
横島はそんな夕映の頭をポンポンと軽くたたき安心させるように頷いた。


「だから今からハカセちゃんの所に行ってくるよ。大丈夫何とかなるって」


そう言って横島が笑いかけると夕映は何故か顔を赤くして視線をそらした。
感触が気持ちよかったのでそのまま頭を撫でていたのが気に入らなかったのかもしれない。
若干ばつが悪くなって横島が手をどかすと横で見ていたシロがうらやましそうにしながら口を開いた。


「先生。ならば拙者も連れて行ってほしいでござるよ」


「お前とタマモはここに残んの。んでいざとなったら体張ってあの二人を止めろ」


いまだ眼を付け合っている美神とエヴァの両者を指し示し横島はそう言った。
その言葉を聞いた瞬間、シロの顔が露骨に引き攣りタマモが猛抗議してくる。


「何サラッと無理難題を押し付けようとしてんのよ!できるわけないでしょそんなの!」


「んなこと言ったってしゃあないだろが!つうか揉めてる時間もないんだっての!悪いが聞き分けてくれ」


そんな横島の説得に納得は出来ずとも妥当だと感じたのか、ものすごくいやそうな顔でタマモが了承した。


「グギギギギ、わ、分かったわよ!でもあんた今度絶対きつねうどんおごんなさいよ!あと、いなり寿司百個!!」


「拙者は牛丼と・・・あと、いっぱい散歩に付き合ってほしいでござる!!」


「うぐ、お前らこんな時だからって足元見やがって。わあったよ、ったく」


今持っているものではなく、向こうの世界にある己の財布の中身を心配しながら横島はため息を付いた。
そんな横島の服を掴みながらおキヌが心配そうに言ってくる。


「横島さん。一人で大丈夫ですか?私も一緒に・・・」


「いやおキヌちゃんはここに残ってくれないと困る。いざとなったら美神さんを止められそうなのはおキヌちゃんくらいだし」


ある意味においておキヌは美神に対する最終兵器だと言える。
美神もおキヌを本気で悲しませるようなことはしないだろう・・・まぁ、そう判断できる理性が残っていればの話だが。
信頼しながらおキヌの肩を叩くと彼女は真剣な眼差しでこくりと頷いた。
横島はおキヌに頷き返し心の中で安堵した。とりあえずこれで何とかこの場は収まった。・・・収まった事にして次に進める。


「夕映ちゃん」


「ふぇ!?な、なんですか?」


自分の髪を手で梳きながら夕映が素っ頓狂な声をあげる。不意打ちを食らった猫のような仕草でその場に飛びあがった。
どうも声を掛けられて驚いたらしい。そんな彼女の態度を不思議に思いながら横島は言葉を続けた。


「電話してる時ネギの奴が俺の話を聞いてたらしいんだ。んで超ちゃんが行方不明だってことがバレちまってさ。
俺に事情を聴きたがってるみたいだから夕映ちゃんは何とかしてネギの奴をごまかしてくれないか?」


「え!?そ、それはその、かなり難しいと思います。・・・あのネギ先生ですよ?」


「うんまぁ分かっちゃいるんだが、それでも何とか頼めんか?できればこれ以上あいつらを巻き込みたくないんだよ」


「横島さん・・・」


夕映にそう言って横島はネギがいる方向に視線を送った。するといつの間に来ていたのかネギと一緒にアスナや刹那がいた。
おとなしいと思っていたら二人と何か話していたようだ。どうも霧が晴れてきたことで武道大会の方に何か進展があったらしい。
ネギもエヴァも連絡手段を持たずにここまで来ていたようで、アスナ達がわざわざ追いかけてきたようだ。
横島はこれぞ好機とほくそ笑んだ。あの様子ならこの場をいなくなってもすぐには気付かれないはずだ。
横島はおキヌたちにもう一度よろしく頼むと告げてから、素早く周りの群衆に溶け込んだ。そのまま狭い方の路地を使って一気に駆け出す。
葉加瀬から告げられた場所はここからそこそこ距離があったが、全力で走ればすぐにたどり着けるだろう。
今もあの少年を足止めしている真名に向かって無理はしないでくれよと心中で話しかけながら横島は足を速めた。





◇◆◇





「だああぁもうめんどくさい!!こうなったら拳で決着付けようじゃない!!」


「上等だっ!!無様に地面を這わせてやるっ!!」


「はっ!!笑わせんじゃないわよ!!言っとくけど私は見た目がガキでも一切容赦しないからね!!」


「それはこっちのセリフだっ!!そのすました面をケチョンケチョンにしてくれるっ!!」


上から下から相手の顔を嘗め回すように睨みつけて互いに牽制し合っていた美神とエヴァだったが、
いい加減らちが明かないと思ったのか直接的な手段をとることにしたらしい。
一触即発の空気が流れ今まさに決戦の火蓋が切られようとしていた。
その様子をハラハラしながら見ていたシロとタマモが慌てたように騒ぎ出す。


「こ、これはいかん!タマモっ!こうなったらもう覚悟を決めるでござる!!」


「ああぁっ!分かったわよぅ!やってやるわよっ!くうぅ後で絶対横島に油揚げのフルコースおごらせてやるぅぅぅ!!」


顔色を悪くしたシロと半泣きになったタマモが決死の覚悟で特攻を仕掛けようとしたその瞬間、待ったを掛けるようにネギが叫んだ。


「マ、マスター!横島さんがいません!!」


「なにっ!?」


ネギの呼びかけに反応してエヴァが周囲を見渡す。人がそこそこ戻ってきている大通りに横島の姿はなかった。


「ど、どこに消えた!?」


「わ、わかりません。僕も今アスナさんたちと話してて・・・」


焦った様子で横島を探しているネギがそう答えた。エヴァが癇癪を起こしたように地団駄を踏む。


「あ、あいつめどさくさに紛れて逃げるとは・・・」


普段のエヴァなら感知できたのかもしれないが、よほど美神とのやり取りに集中していたようだ。
憤懣やるかたないその表情を見ながら綾瀬夕映はホッと胸をなでおろしていた。
エヴァの注意が横島に向けられたことで、どうやらいい感じに場の空気が弛緩したらしい。
先程のような剣呑な雰囲気からは解放されていた。美神もエヴァの様子にしらけたような顔でこちらに戻ってきた。


「はぁ、なんか馬鹿らしくなったわ。帰りましょおキヌちゃん」


「美神さん。横島さんがどこに行ったか気にならないんですか?」


「どうせハカセって子の所でしょ。さっきチラッと今後の予定について話してたのよ」


「横島さん大丈夫でしょうか・・・」


「ま、あいつも素人じゃないんだし一人で無茶はしないでしょ。
こっちはこっちで例の扉を確認しに戻らなきゃならないけどシロとタマモはあっちに送るから」


横島を心配しているおキヌを慰めるように美神はそう言った。
その言葉にタマモが顔を歪め、シロが力強く頷く。


「うげ、私嫌よ。絶対めんどくさい事になるし」


「拙者は望むところでござるよ。臆病風に吹かれた狐など頼らなくても先生と拙者がいれば何も問題ないでござる!」


「むっ、誰が臆病だってのよ」


「お前以外に誰かいるでござるか?」


そんな言い合いをしながら美神たちが何事もなかったかのように歩き出す。
夕映もその背中に付いて行こうとしたその時、一行の行く手を遮るようにエヴァが立ち塞がった。


「ちょっと待て」


ネギの首根っこを掴んで無理やり引っ張ってきながら美神を睨みつけている。
美神は真正面からエヴァの瞳を見返した。


「何よ。まだなんかあんの?」


「横島はどこに行った?」


「なんでそんな事あんたに教えなきゃならないのよ」


「教えられないという事は・・・つまり行き先を知ってはいるんだな?」


「・・・まぁね」


それから暫くの間二人は視線を交錯させながら沈黙を守っていた。
お互いの思考を読み合おうとするような緊張感が先程とは違った重苦しい空気を漂わせている
夕映は息苦しさを感じて制服の襟を緩めた。すると背後から何者かに手首を掴まれた。


「ユエちゃんユエちゃんちょっといい?」


「あ、アスナさん?」


耳打ちされながら手を引かれる。美神たちから少し離れたところまで誘導されるとそこには刹那が待っていた。
明日菜と刹那は互いに頷き合うと夕映を囲むように移動した。


「な、何か用ですか?」


「ユエちゃんて超さんがどこにいるか知ってるの?」


唐突にそう聞かれた。
明日菜にしては珍しく表情が強張っている。


「な、なんですか急に・・・」


「ネギのやつが言ってたの。ハカセが横島さんに電話してきてその内容がどうも超さんの事らしいって。
急にいなくなったとか、誘拐されたとかそんなこと言ってた」


「だ、だからってなんで私に聞くですか?」


どことなく妙な雰囲気だ。いやな汗が首筋を伝っていく。


「夕映さんは今日本当はのどかさん達と武道会に行く予定だったんですよね。でも今朝になって急にその予定をキャンセルしてここに来た。
つまり今までずっと横島さんと・・・あそこにいる人達と一緒に行動していたという事になる。何か情報を持っていませんか?」


夕映の上ずった質問に明日菜ではなく刹那が答えた。
鋭い刃のようだ・・・とは彼女の愛刀から連想される印象だが、質問の内容は実にいい所をついている。
もはや追及を受ける犯人ような心境で夕映が口ごもっていると刹那は幾分声の調子を柔らかくしながら質問を続けた。


「何でもいいんです。例えば・・・四人目の事とか」


目をそらした瞬間まずいと思った。先程から刹那は質問しながらこちらの表情をうかがっていた。
これでは半ば自白したようなものだ。刹那もそう判断したのだろう。こちらが情報を持っていると確信を強めたようだった。
どうするべきかと夕映は迷った。本音を言えばネギや明日菜たちに隠し事はしたくない。
彼らの心情は理解できるつもりだし横島の言葉がなければ今すぐに自分が持っている情報を話してしまいたいところだ。
だがそうもいかない。


(あああぁぁこれが板挟みというやつですか。あちらを立てればこちらが立たず)


笑ってごまかせるような雰囲気ではもちろんない。
それでも進退窮まった夕映の口から乾いた笑いが洩れそうになったその時、美神と睨み合っていたエヴァが明日菜たちに呼びかけた。


「おいお前たちこっちに来い!こいつらを拘束する!」


どうやら膠着状態にしびれを切らしたらしい。
若干目が据わっているエヴァに対してネギがたどたどしく反論した。


「マ、マスター落ち着いてください。拘束するって言われても僕たちには何の権限もないですし、横島さんの知り合いにそんなことできませんよ」


「何を甘っちょろい事を言っている!こいつらが超の情報を持っていることは間違いない!
横島に逃げられた以上、こいつらから情報を聞きださなければ取り返しのつかないことになりかねんぞ!」


「それは・・・」


「横島ならともかくこいつらに気を使う必要などないだろう。
この機会に春先から起こっていた一連の騒動に関しても、情報をはかせるべきだ」


断定的にそう言ってエヴァは明日菜達を手招きした。
もはや実力行使も辞さないとその瞳が言っている。ネギ達はためらいながらもエヴァの周りに集まっていった。
まさか問答無用で暴力に訴えるような真似はしないだろうが、エヴァの言葉に若干引きずられているようだ。
自然と両陣営が向き合う形となる。期せずして夕映はその真ん中にポツンと取り残されていた。
皆の視線が一斉に集まってくる。


(ああぁまたしても板挟みが!!)


別にやましい所などないが、それでも向けられてくる視線に心が痛みを感じている。
どっちつかずの蝙蝠という単語が頭に浮かんできて、夕映は慌ててその思考を振り払った。
そんな夕映を哀れに思ったのかは知らないが、美神が挑発的な笑みを浮かべて言ってくる。


「別にそっちがそのつもりなら付き合ってやってもいいけど。
ホントにいいの?一度始まったらとことんまでやるわよこっちは。・・・たとえ衆人環視の中だろうとね」


最期にそう付け加えながら美神は周囲を見渡した。それは明確な脅しだった。
霧がなくなったことで人通りはすっかり回復している。
美神を筆頭に一風変わった面々が揃っているこの集団は、何もせずとも人目を引いているようだ。
そんな中で仮に本気の戦闘が行われたとしたら被害もさることながら魔法の秘匿性にも問題が生じる恐れがある。
美神の一言にはそういった意味も含まれているのだろう。そして当然エヴァにその事が理解できないはずがない。

エヴァのいる方向からギリギリと歯噛みする音が聞こえてくる・・・と思いきや意外にも彼女は冷静さを保っているようだった。
激高していた今までの態度は全て演技だと言わんばかりに冷めた表情を浮かべている。
美神もその事に気付いたようだ。


「やめましょ。本気とは思えない」


「だとしても、私はこのまま貴様らを黙って行かせる気はないのだがな」


「でしょうね。でもそう言われてもこっちはあんたたちに話すことなんか何もないのよねぇ。さてどうしようか・・・」


美神は悩むようなそぶりを見せつつ(あからさまに演技臭かったが)やがて何かに思い至ったかのようにポンと手を打った。


「だったらさ、こういうのはどう?互いの望みを賭けて一勝負するってのは」


「賭けだと?」


「そう。お互い引くに引けない状況でしょ?でもちんたら時間をかけている暇もない。だったら手っ取り早く白黒はっきりさせましょ」


相手を騙す前の詐欺師・・・というには些か愛想が足りなかったが自社製品を勧めるセールス並みのにこやかさで美神はそんなことを提案した。
エヴァが胡散臭いものを見るような目付きで美神にじっとりとした視線を送っている。


「賭けの内容は?」


「できるだけシンプルな方がいいわ。勝敗がはっきりと分かるように」


「具体的には?」


「そうねぇ賭けを持ち出したのはこっちなんだし、あんたたちの得意分野でいいわよ」


「なに?」


「魔法を使って賭けるってのはどう?例えば・・・夕映ちゃんこっち来て!」


急に名前を呼ばれて夕映はビクリと体を震わせた。
見た目だけはさわやかに笑っている美神にひしひしと嫌な予感を感じる。
ドナドナと売られていく子牛の気分を味わいながら夕映は美神のもとまで歩いて行った。


「な、なんです?」


「魔法の中で一番簡単なやつって何?」


「か、簡単なやつ・・です?えっと杖の先に火を灯す呪文がありますけど、初心者が魔法を習う時に初めて教わる魔法なんですが」


「ふぅん、いいじゃん。じゃあそれでいきましょ」


美神は小さく頷くと成り行きを見守っていた面々を見渡しながら説明を始めた。


「今夕映ちゃんが言ってた魔法を十回連続で成功させられたらあんたたちの勝ち。私が持ってる情報をあんたたちに渡す。
けど一度でも失敗したら私たちの勝ち。あんたたちは私たちを黙って行かせる。こんなのはどう?」


美神の話を聞いていた皆が一様に困惑した表情を浮かべた。
何か話がトントン拍子に進み過ぎている気がするし、それに賭けの内容自体にも少々疑問が残る。
確かに美神が提示した賭けはシンプルであり勝敗の結果も分かりやすいだろうが、実際にそれを行う人物によって難易度が著しく変動する。
熟練者ならばほぼ間違いなく成功するだろうし、初心者ならば全く逆の結果になるだろう。
誰を選ぶにせよ公平性を維持するのは難しいしそれにもう一つ問題がある。


「仮に我々が勝ったとして貴様らが正しい情報を話すという保証は?」


エヴァのその指摘に美神は落ち着いてこう言い返した。


「私たちが勝った場合あなたたちが後を追ってこないという保証は?」


無言のままエヴァと美神が見つめ合う。そう結局のところ両者ともに不信感を払拭することなどできない。


「・・・なるほど。お互いを信用しなければ成立しない賭けなわけだ」


「そういうことね。で、どうすんの?やるの?やらないの?」


決断を迫るように美神がそう言った。
しかしエヴァは内容を検討するためか即答を避けたようだ。美神もこれ以上追及する気はないのかしばらく時間を与えるつもりのようだった。
会話を主導していた二人が沈黙したために何となく気まずい空気が流れ始める。
夕映がもじもじしながら何か話すべきかと迷っていたその時、傍らで静かに話を聞いていたネギが意を決したように口を開いた。


「ちょっと待ってください。そもそもそんな賭けとかそういうことをしている場合じゃないんですよ!
超さんの行方が分からなくなってて、何か危険な目にあってるんだとしたら急いで助けに行かないと!
だからお願いします、知っていることがあるなら教えてください!超さんは僕の大切な生徒なんです!」


ネギが美神に対して丁寧に頭を下げた。真摯に語り掛けるその姿勢は見る者の同情心を刺激せずにはいられない。
特に夕映の場合は事情を知っているだけに罪悪感も後押しして彼の事を直視できない程だった。
しかし頭を下げられている当人はどこかしらけた様子で小さくため息を付いた。


「なによ、要するにタダで情報を貰おうってわけ?」


「え?いえその、ぼ、僕はそんなつもりじゃ」


「あのねぇ、あんたにはあんたの都合があるんでしょうけど、こっちにはこっちの都合があんのよ。
別に私たちはあんたらのお仲間でも友達ってわけでもないんだし、無条件で協力してやる義理も義務もないでしょ?
ところがそれでも納得できないってそっちの吸血鬼が駄々こねるから仕方なくこんなことしてんじゃない。
いちいち話をまぜっかえさないでくれる?」


「あ・・・うぅ・・・」


バッサリと切られ、ろくに反論出来ずにネギが口ごもった。情に訴えるその行動も美神には全く通用しなかったらしい。
まぁネギの場合、打算ではなく本心だったのだろうがどちらにしても結果は同じだ。
狼狽えながらもなんとか言い返そうとしているネギだったが、そんな彼に対して美神は何かを思いついたようだった。


「ちょうどいいわ。だったらあんたがやんなさいよ」


「へ?」


「だから賭けよ賭け。そんな杖持ってるってことはあんたも魔法使いなんでしょ?」


「えっと・・・それは・・・そうですけど」


「なによ、まさか自信ないわけ?だったらしょうがないけど」


「べ、べつにそんなことありません」


美神の挑発を反射的に否定したネギがどうするべきかとエヴァを見やった。
そんな弟子に対してエヴァはプイっとそっぽを向いた。
まるで自分の知った事かと見捨てるような態度だったが、見方を変えれば好きにしろと言っているようにも思える。
結局暫く迷った後ネギは賭けを受けることに決めたようだ。勝算は・・・もちろんあるだろう。
ネギは初心者とは程遠い、あの年にして一線級の魔法使いなのだから。


「分かりました。お受けします」


「おっけ。じゃそういう事でいいのね。あとになっていちゃもんつけんじゃないわよ。特にそこの吸血鬼」


後半部分はエヴァに向けて美神はそう言った。
それからなるべく人目につかないように全員で大通りから離れた場所に移動し、ネギを囲むようにして人の壁を作ってから賭けは始まった。
皆の注目を一身に受けながらネギが意識を集中している。目を閉じ息を整えて魔力を体内で循環させ精神を制御する。
本来ならそんな事をする必要などないだろう。何しろ初級の魔法だ。ネギならば片手間でやったとしても容易に成功させられるはずだった。


「・・・行きます」


若干の緊張をにじませネギが開始の宣言をした。
小さな声で短い呪文を唱え一度目の魔法が成功する。杖の先に火が灯されあたりを照らしている。
当たり前と言えば当たり前の結果だ。
それでもホッとしたのかネギは安堵しているようだった。
それからは早かった。一度成功して緊張もほぐれたのかネギは次々と魔法を成功させていく。
夕映は複雑な感情を抱えたままその光景を見続けていた。このまま行けばネギが勝つだろう。
その事が不満なわけではない。祝福したい気持ちもある。それでもその場合横島との約束が果たせなくなる。


(仕方ないです・・・ね。こうなったら私にはもうどうしようもできないですし)


横島は許してくれるだろうか。それが気掛かりだった。
おそらくきちんと謝罪すれば気にするなと笑ってくれるだろう。元々かなり無理のある要望ではあったから。
それでもふがいない結果になってしまった事には変わりないので失望させてしまうかもしれない。

夕映が思わずため息を付きそうになっていると、ふともう一つ気掛かりがあったことを思い出した。
美神の事だ。彼女は何故賭けの相手にネギを選んだのだろうか。
自分ならまずネギを相手には選ばない。理由は当然彼が優れた魔法使いだからだ。
つまり素直に見れば美神はネギの事をよく知らなかった可能性が高い。だがそう考えると疑問が出てくる。
先程の会話から察するに美神はエヴァの情報をある程度持っているようだった。
横島が近況を報告していたからかだろうが、しかしそれならそれでネギの事だけ報告しなかったなんてことがあり得るのか。


(美神さんがあらかじめネギ先生の実力を把握していたのなら、この賭けには彼女なりの勝算があるということになる。でもどうやって・・・)


もうすでにネギは八回目の呪文を成功させ九回目に差し掛かっている。
夕映が気になって美神の方を見てみると、彼女の唇は薄く笑みの形を作っていた。
九回目。ネギが呪文を唱え杖を振る。その先端には今までのように小さな炎が点灯して・・・いなかった。


「え!?」


「は!?」


「な!?」


ネギと彼を見守っていた明日菜と刹那が同時に声をあげる。
ありえないものを見たとでもいうように全員がポカンと口を開けていた。
結果に頭が付いて行かない様子の彼らに向かって美神が落ち着いた声で告げる。


「私の勝ちね」


あっさりとした勝利宣言の後、美神は仲間たちとともにゆっくりとその場を去っていった。
夕映は呆然と佇んでいるネギに後ろ髪をひかれながらも速足で美神のあとを追った。


「美神さん!」


美神の背中に追いつき声を掛ける。小走りで彼女に並びながら端的に尋ねた。


「何をしたですか?」


「何って?」


「とぼけないでください。最後何かしたですよね。じゃなかったらネギ先生が魔法を失敗するなんてありえないです」


「・・・まぁね。さすがに何も打つ手がなかったらあの子を指名したりなんかしないわよ」



「やっぱり・・・」


苦笑する美神に向かって夕映は再度何をしたのかと質問した。
美神は思いのほか素直に種明かしをしてくれるようだった。


「切っ掛けは京都で横島君が戦った魔族の報告書を読んでた時の事よ。その魔族が魔法を使ったって書いてあったのよね」


「魔法・・・です?」


「そ。もちろんそんなもの成功するはずがないから盛大に自爆したみたいなんだけど。一応発動だけはしたみたいなのよ。
ねぇ夕映ちゃん。魔法が失敗した時ってなんか起こったりする?」


「うぅん。私も初心者ですから断言はできないですが失敗の種類によるとしか。少なくとも私の場合は何も起きませんでしたけど」


「ふうん。まぁそれはそうか。術式の構築に失敗したかエネルギーの制御を誤ったかでも内容は変わってくるでしょうし」


腕を組みながら美神は納得したようにこくりと頷いた。
そのまま講義でもするように解説を続ける。


「その魔族は魔法使いじゃないから、当然魔法のシステムに則して魔法を行使する事は出来ない。
となると既存のシステムとは異なるやり方で同様の結果を導き出したと捉えるしかない。
そう考えると、一つ思い当たることがあってね」


「思い当たる事?」


「この世界でいうところの魔力って、なんでか知らないけど私たちの世界の霊力と性質が似通ってるらしいのよ。
実際逃亡犯の魔族はこっちの世界の魔力を使って失った霊力を補完してた。
たぶん京都にいた魔族はこれの逆をやったんじゃないかと思うのよね」


「逆?」


「そう、魔力で霊力を補完したのではなく、霊力を使って魔力を偽装した・・・ってところかな。
厳密に言えば違うかもしれないけど」


あくまで推測でしかないと美神は笑った。
ただその報告を読んだ時ひらめくものがあったらしい。


「こっちの世界に来る前、私も色々と魔法について勉強してきたのよ。
魔力、万物のエネルギー、術式、言霊・・・あぁこの場合呪文の事ね。とにかく魔法はそれらが連動することによって発動する。
それならその中のうち何か一つでも妨害することができれば魔法は使えなくなるんじゃないかと」


「妨害って・・・それじゃさっきのは」


「自分の霊波を周囲に飛ばして、あのネギって子が魔力を使って術式通りにエネルギーを操作するのを妨害したって感じかな。
私は魔法使いじゃないし術式を構築したりその術式に魔力を通す事もできないけど、霊力を使ってエネルギーに干渉することはできるみたい。
魔法っていうシステムにとらわれずエネルギーに直接的に干渉できる点は魔法使い達にはない利点かもね」


「利点・・・って、つまり美神さんは術式も呪文も魔力すら必要とせず万物のエネルギーを操れるってことですか!?」


だとすればそれはとんでもない事だ。そんなことはエヴァンジェリンにだって不可能だ。
魔法使いである以上、魔法のシステムから逸脱することはできない。
仮にそれが可能だとして、似たような結果を生み出すことができたとしても、それはもはや魔法とは別の何かだろう。
しかし夕映の驚愕に対して美神は肩をすくめるだけだった。


「そんな便利なもんじゃないわ。あくまでちょっと干渉できるってだけ。それに前提条件が割に合わないからあんまり使いたくない手段だし」


「どういう意味です?」


「遠距離からの狙撃を防げる位に霊波を広範囲に放射するとなると精霊石っていうかなり高価な霊具を触媒に使わなきゃならなくなる。だからそんな乱発できないのよ。
それにあくまで魔力によるエネルギーへの干渉を断つってだけだから、体内で魔力を練り上げる強化系統の魔法は防ぎようがない。
加えてこっちも延々と霊波を放出し続けるわけにはいかないから、効果的に妨害を行うなら相手の動きを見てタイミングを計らなきゃならない。
正直戦闘に利用するにはあんまり実用的じゃないわ。さっきみたいによーいドンでだまし討ちを仕掛けるくらいにしか使い道がない」


「そ、そうなんです?」


「そうなの。それにさっきまで実際に試した事なんかなかったから所詮机上の空論だったし。
まぁだから今回はいい機会だったのよね」


「はぁ、いい機会ですか。・・・ん?ち、ちょっと待ってください!試した事がないってさっきのが初めてだったですか!?」


「当り前じゃない。ついこの間こっちの世界に来たばっかなんだし試しようがないでしょ」


「そ、それはそうかもしれませんけど。じゃ、じゃあ美神さんはさっき妨害が成功するかもわからないのにぶっつけ本番であんな賭けをしたですか?」


「そだけど?」


「負けるかもって思わなかったですか!?」


「・・・変な事聞くのね。賭ける前から負けの心配なんかするわけないじゃん」


心底不思議そうにこちらを見てくる美神に夕映は絶句した。頭の中で以前に横島が言っていたことを思い出す。


「あの人のすごい所はな。どこまでも自分を信じて突っ走っていく所や。正直俺には到底真似できん」


そう言っていた横島は若干呆れつつもどこか誇らしげだった。
当時はその言葉の意味もあまり理解できなかったが・・・。
美神と並びながら歩いていた夕映が足を止めた。少し先まで行ってから美神が振り返る。夕映はしみじみとしながらポツリと呟いた。


「横島さんが美神さんはすごいって言ってた意味が何となく分かった気がします」


「あいつが夕映ちゃんに私の事をなんて説明したか確かめる必要があるかもね・・・今のあんたの顔を見るに」


お互いに半眼で顔を合わせてから、二人は再び一緒に歩き出した。





◇◆◇





消沈している弟子の横顔を見ながらエヴァは賭けが決着した瞬間を思い返していた。
あの時ネギの魔法には何の不備もなかった。術式の精密さも魔力の練り具合も申し分なく言霊による事象変化の宣言も滞りなく行われた。
失敗する要因がネギの側にない事は明白だった。つまり相手が何か仕掛けたとしか思えない。
だがあの瞬間、エヴァの目から見ても美神令子には何の動きもなかった。少なくともこちらの警戒心を刺激するようなものは。


(得体の知れなさはさすがに横島の同類だな。そう簡単に尻尾は見せんか)


美神があの賭けを言い出した時点でこちらが敗北するだろうという事は予想できていた。
一見すればこちらが有利すぎる条件だったが、あの女が何の対策もなくそんな条件を提示するわけがない。
相手に勝てるかもと思わせてから罠にはめるのは詐欺師の常套手段だが、そういった意味では今回の美神の誘導はかなり強引だったと言える。
エヴァが勝算のない賭けに反対しなかった理由は単純に美神の仕掛けに興味があったからだが、
ひょっとしたら美神の側にも賭けの勝敗とは別に何らかの思惑があったのかもしれない。


「ネギ、失敗しちゃったのはしょうがないじゃん。落ち込んでないで元気出しなさいよ」


顔を俯かせている少年を何とか立ち直らせようと明日菜が懸命に励ましている。
はたから見ても不器用としか言いようがない有様だったが本人は必死だ。
その気持ちが伝わったのかネギがゆっくりと顔を上げた。力ない声で相槌を打つ。


「はい・・・」


「ほら、ちゃんと背筋伸ばして!あんたがそんなだとこっちの調子も狂っちゃうでしょ」


取り落としていたネギの杖を少年に手渡しながら曲がった背中をバンバンと威勢良く叩いている。
その様子は完全に年下の弟を気遣う姉のそれだった。
ネギが一度せき込みながら明日菜に向かって礼を言う。心なしか顔色もよくなったようだった。


「ありがとうございます。アスナさん」


「超さんの事は何か別の方法をみんなで考えましょ。大丈夫何とかなるって。
っとその前に武道会に連絡入れないとまずいか。さすがにこの状況で参加するわけにはいかないし」


携帯を取り出した明日菜が電話を掛けようとして運営につながる番号など知らない事に気が付き慌てだす。
その様子を見ていた刹那が落ち着くようにと苦笑を浮かべた。


「不参加の連絡は私の方で入れておきました。私たち以外もほとんどの人が欠場しちゃったみたいで運営の人に泣きつかれましたが」


「あ、やっぱりそうなの?高畑先生もどっか行っちゃたみたいだし」


「それとネギ先生は一度戻ってちゃんと説明した方がいいかもしれません。大会で戦うっていう男の約束忘れたんかって結構怒ってましたから・・・彼」


「コ、コタロー君ですか?どうしよう確かにこのままじゃ約束破ることになっちゃう」


「まぁ事情を話せばわかってくれるんじゃない?それでもグダグダ文句言うようなら私がぶっ飛ばしてやるわよ」


動揺しているネギを安心させるように明日菜が笑顔でそう言った。
これ以上ネギに心労を掛けたくないと気遣っているのかもしれない。
ネギはありがとうと感謝を伝え、アスナは些か照れくさそうにしていた。
誤魔化すように話題をそらす。


「で、でもさぁ、別に責めるわけじゃないけどネギの魔法なんで失敗したんだろ?途中まではずっと成功してたじゃない?」


「確かにそうですね。やっていることもごく初級の呪文だったわけですし今更ネギ先生が失敗するとは思えないです」


「それは・・・そうなんです。言い訳をするつもりじゃありませんけど、集中はしていましたし成功の手応えもあったんです。
それなのになぜか魔法が失敗して」


三人が顔を寄せ合いながら思い悩むように首をひねっている。
それを見ていたエヴァがいい加減じれったくなって口をはさんだ。


「馬鹿かお前ら。そんなもの美神令子が何かしていたに決まっているだろう」


「何かって何よ?」


「そんなもの私が知るか。だが私から見てもぼーやの魔法には何の落ち度もなかった。となれば相手が何かしていたと考えるほかあるまい」


「それってつまりイカサマされてたってこと?」


「分かってるとは思うが今更何を言ったところで負け犬の遠吠えにしかならんぞ。イカサマを見破れなかった時点でこちらの負けだ」


難しい顔で唇を尖らせている明日菜にエヴァはそう忠告した。
イカサマのネタが割れていない以上、追及をしたところで無駄なことだし証拠は何一つないのだ。証明する手段がない。
それでも納得がいかないのかブツブツと文句を零す明日菜だったが、それを諭すようにネギが首を振った。


「その事はもういいんです。賭けを了承したのは僕ですし、何かされていたにせよ結果は結果として受け入れています。
それより僕は超さんの事が心配で・・・」


ネギが顔を俯かせ悔恨の表情を浮かべている。責任を感じているのだろう。自分のせいで情報を得ることができなくなったと考えているに違いない。
再び暗い雰囲気になりかけて明日菜が慌ただしく咳払いなどしている。
横目で刹那に助けを求めているようだったが彼女にもどうしようもなかったのか無理だとジェスチャーを送っていた。
エヴァは一つため息を付くと落ち込んでいるネギに声を掛けた。


「後悔してみたところで何もなるまい。顔を上げろぼーや。
それと前々から思っていたことだがお前は真面目すぎる。まったく父親と息子でなぜこうも違うのか」


戦闘中には驚くほど柔軟な発想をするくせに、こういった状況では変に頭が固かったりする。
律儀で融通が利かないのは生来の性格によるものか。それは見方によっては美徳ともとれるが欠点にもなりかねない。


「美神との賭けの条件は連中の後を追わないというだけだろう。ならば別の人間から話を聞けばいい」


「別の人・・・ですか?」


「そもそも横島は誰から超の情報を得ていた?」


「あっ!!」


そこまで言われてようやく気付いたのかネギは勢いよく顔を上げた。アスナや刹那もその手があったかと頷いている。


「いま超について一番詳しいのはハカセだろう。だったら当人から直接事情を聴けばいいだけの話だ。
それに状況から考えて横島はハカセと合流している可能性が高い。ハカセの所に行けばあいつも見つけられるだろうよ」


「エヴァちゃん、ひょっとして最初から全部気付いてたのに美神って人に突っかかってたの?」


「連中から情報が欲しかったというのは本当だからな。素直に話すわけがないから様子を見ていたんだが、おかげで面白いものが見れた」


「面白い物って何よ」


「何でもない気にするな」


タネは分からなかったが手品は見れた。美神が何らかの方法で魔法を妨害できるという事実が分かっただけでも一応の収穫だ。
明確に敵対していないとはいえその可能性がある以上、警戒はしておくべきだった。


「で、でもマスター、仮にハカセさんと連絡が取れて事情が聴けたとしても、
このまま横島さんと鉢合わせしたら美神さんとの約束を破ることになってしまうんじゃ・・・」


「はぁ、だからお前は真面目過ぎると言ってるんだ。これくらいの駆け引きは当たり前のことだ。
いちいち気にするんじゃない。まったく・・・」


弟子の頭の固さに内心辟易しながらエヴァは再びため息を付いた。
やはりこの性格を強制的にでも修正した方が本人のためなのかもしれない。
取り合えず泣いたり笑ったりできなくなるほど修行させれば少しは変わるかとエヴァが物騒なことを考えていると、その顔を見ていたネギが怯えたように後ずさった。










[40420] 32
Name: 32◆64d3f0f4 ID:73709a19
Date: 2023/02/09 22:07





虫よけスプレーでも持ってくればよかったかと後悔しながら横島は目の前を飛んでいる羽虫を手で追い払った。
歩道のわきに群生している低木の茂みの中から横島は超と真名、そして四人目がいるであろうビルを眺めていた。
もはや使う者もいなくなって久しい旧自然公園に建設された管理ビルが今の超の研究室兼隠れ家になっているらしい。
公園の入り口で葉加瀬と合流した横島は彼女を伴ってビルが見える位置の藪の中に潜んでいた。
外観は特筆するだけの特徴もない平凡な二階建てのビルで出入り口は二か所。
来客用の正面玄関と職員や業者が利用するための裏口がビルを挟んで設置されている。
見通しはそれほど悪くはなく、見える範囲での内部の様子はどこかの役所や銀行の待合スペースを彷彿とさせた。
おそらく受付の奥には職員用のオフィスがあるのだろう。あいにくとここからでは見えなかったが。
ビル内の構造を葉加瀬から聴いた範囲ではこちらの想像もあながち間違いではないようだ。
変わったところがあるとすればあのてのビルには珍しく地下が二階まであるところか。
超が利用しているのは地下一階部分が主で地下二階は大型の発電機があり、地上階部分はほとんど荷物置き場になっているそうだ。


(超ちゃんと真名ちゃんが捕まっているとすれば研究室と生活スペースがある地下一階か。いやまだ真名ちゃんは捕まったって決まったわけじゃないが)


連絡を取ろうにも彼女の携帯は全くつながらなかった。
今もまだこちらが到着するまで時間稼ぎをしているのだとすれば、早く合流するべきなのだろうが内部の状況が分からない以上うかつには飛び込めない。
先行して偵察するという考えもなくはないが、バックアップもなしに突入するのはなるべくなら避けたかった。
やはりここは美神たちの応援を大人しく待っているべきだろう。そう考えつつ隣で表情を曇らせている葉加瀬を見つめる。
四人目の少年に超や真名が囚われている可能性がある事を話したため不安に思っているようだ。


(あんまり詳しく説明するわけにもいかなかったからいろいろ端折っちまったが、その分かえって嫌な想像が膨らんじまってるのかもな)


何とかしてやりたいが現状ではどうしようもない。
せめて何か話題を振って気を紛らわせてやろうと横島は葉加瀬に話しかけた。


「しかしこの公園使われなくなったって割には歩道の整備とかは結構しっかりしてんだな」


「・・・管理者が変わった後も年に二回ほど業者の手で草刈りなんかはしているみたいですから。
ただ遊具の類は撤去されていますし、散歩コースも半分ほど立ち入りができないようになっているのでそれもいつまで続くかわかりませんが」


「まぁわざわざこんなとこまで散歩に来るもの好きもそうそうおらんだろうしな。
学園都市にゃ陸上トラックやらテニスコートなんかもあるでっかい公園がいっぱいあるし」


「前は深夜にゴミを捨てに来る人達がたまに来ていたらしいんですが、
一度超さんの警備ロボットに追い払われた事があって、その後はとんと人気がなくなりましたね」


「なんちゅうか自業自得なんだろうが、ちょっと気の毒かもなそりゃ」


真夜中に警備ロボットと追いかけっこをする羽目になったポイ捨て犯を想像して横島は乾いた笑いを浮かべた。
そんな風に暫く雑談をしながらビルを見張っていた横島たちだったが、ふと正面玄関に人影が見えたことでピタリと口を閉ざした。
何者かが自動ドアを通って外に出ようとしている。その手には何か細長い筒状の物を抱えていた。
目を凝らしよく見てみるとそれは真名が愛用している狙撃銃だった。銃身が太陽の光を鈍く反射している。
四人目の少年が真名の狙撃銃を肩に担ぎ入口から歩いてきた。
思わず息をのむ。それは葉加瀬も同様であったらしい。身動き一つせずただその光景を見続けている。

少年は玄関アプローチを通り歩道まで出てくると担いでいた狙撃銃を丁寧に地面に置いた。
そしてまっすぐに横島たちが隠れている茂みに顔を向けニコリと笑った。
目と目が合う。この距離だ。それは気のせいなのかもしれなかったが・・・。


(いや違う。あいつこっちに気付いてやがる!)


明確にこちらを認識している。どうやって探知したのか見当もつかないが。
少年は声には出さず何かを告げると地面に置かれた狙撃銃を指さした。
そして何事もなかったかのようにクルリと振り返り玄関まで戻っていく。再び自動ドアを通り少年はビルの中へ帰って行った。
その後ろ姿を最後まで見送った後、横島と葉加瀬は同時に顔を見合わせた。


「横島さん。あれって!」


「ああ、ありゃ真名ちゃんの銃だ」


先程よりも小声で喋りながらこくりと頷く。
先日一緒にいた時にチラリと見たに過ぎないが、状況を考えれば真名の物としか思えない。


(あのガキどういうつもりだ?)


それが気にかかる。普通に考えればあれは警告だろう。
こちらの接近を察知したため、真名の狙撃銃を見せつけ人質の存在をアピールした。
突入を牽制するための手段としてはなかなかうまい手ではある。


(でも・・・本当にそうなのか?)


何かが引っ掛かる。うまく言語化できないほどの小さな違和感が横島の胸中を満たしていた。
玄関から一人で出てきて外に狙撃銃を置き再びビルの中に戻っていく。
少年の行動を挙げるとすればこんな所か。


(・・・いやちょっとまてよ。たしかあいつ銃を置いた後こっち見ながらなんか言ってたよな。それで銃を指さして・・・)


そこまで考えた直後、横島は勢い良くその場で立ち上がっていた。
ガサリと大きな音を立て目の前の草木をかき分ける。隠れていた藪を飛び出し、横島は道路に置かれた狙撃銃目掛けて突進した。
何も警戒せず無防備な姿を晒すことに一瞬躊躇を覚えたが、あえてその気持ちを無視する。
全力で走り横島は玄関まで到着した。周囲に危険がない事を確認した後、狙撃銃を拾い上げる。
ざっと銃全体を見渡すとすぐにそれに気付いた。銃身にセロテープで何かが張り付けられている。
それはノートのページを切り取ったような折りたたまれた紙片だった。紙が破れないように慎重にテープを剥がし押し広げる。
そこには数行の文章が書かれていた。


『ゲームスタート。制限時間は十分』


たったそれだけが書かれている。
横島はその紙片を力任せに握りしめた。


(あの野郎っ!!)


警告などではなかったのだ。
あれは十分以内に真名を助けなければ彼女を殺すという脅迫だった。


(くっそ!どうする!?)


これで応援を待つという選択肢はなくなった。
今すぐにビル内に侵入し真名を助けなければならない。
だがわざわざこんな事をしでかすくらいだ。内部には確実に罠が待っているはずだった。


(それでも行かにゃならんわな。ちっきしょう。今朝まではあんな平和だったってのに何でこんな事に)


世の無常を噛みしめつつも無理やり気を取り直す。
横島は先程まで隠れていた場所に急いで戻っていった。一人で突入するのは仕方ないにしても保険はかけておきたい。
横島が近づくと葉加瀬が我慢出来なくなったのか藪から飛び出してきた。


「よ、横島さん。どうしたんですか!?いったい何が!?」


「すまんハカセちゃん。時間がないんだ。俺は今からあそこに行って超ちゃんと真名ちゃんを助け出す」


「助けるって・・・。で、でもさっきは応援を待つって」


「そのつもりだったんだけどな。そうも言ってられなくなった。だからハカセちゃんに頼みがある」


「頼み?」


「もうすぐ俺の仲間がここに来ると思う。そしたら俺があそこに入ったって伝えてほしい」


背後のビルを指さし横島はそう言った。


「ただ、突入するのは俺があのビルに入って十分経ってからにしてほしい。それまでは絶対にビルに入るなって」


「ど、どうしてそんな事を?」


「わるい。悠長に説明してる時間がないんだ。じゃあよろしく頼む!」


半ば一方的に会話を中断し、横島は再びビルへと接近した。
全力で駆けながら考えをめぐらす。


(正面からの突入は避けるべきだよな。ってことは裏口から入るか?)


それも危うい気がする。普通に考えればどちらにも罠が仕掛けられている可能性が高い。
相手の裏をかく必要がある。横島はビルの正面を迂回し壁面に沿って走り出した。そしてすぐに目当ての物を見つける。
屋上付近まで雨樋がまっすぐに伸びていた。ビルに設置してあるような雨樋は排水機能を高めるため大型で頑丈な造りのものが多い。
足場として十分に使う事ができる。横島は排水管に飛びつき二階の窓目掛けてスルスルと登って行った。
窓枠から多少離れた位置で止まると文珠を取り出し使用する。

『静』

瞬時に文珠が発動し周囲一帯から音が消えうせた。
耳鳴りがしそうなほどの静寂が辺りを包み、その事を確認した横島は二階の窓目掛けて思い切り蹴りを入れた。
ガシャンとガラスが割れる音は鳴らない。文珠の効果範囲にいる限りその心配はなかった。
細かな破片を踏まないように気を付けながら窓を通って二階に侵入する。
話に聞いた通り二階部分は倉庫になっているようだった。雑多な荷物がそこかしこに置かれている
前の管理会社は備品の類までそのまま超に売却したようで、パイプ椅子やら折りたたみ式の業務机などが奇麗に並べられていた。
中身までは調べる気にならないが日用品か事務用品が入っている段ボールも大量に積まれている。
それらのわきを通るようにして横島は廊下に出た。エレベータホールまで近づくとホッと一息つく。
わざわざ二階から侵入したのは罠を避けるためだったが、何とかここまでは無事にたどり着けたようだ。


(ハカセちゃんの情報だと真名ちゃん達は地下にいる可能性が高いって話だったよな。
つっても階段もエレベーターも馬鹿正直に使う訳にはいかんし・・・どうすっか)


暫く考えた後、横島はエレベーターの呼び出しボタンを押した。そしてエレベーターが到着する前にホールを移動し階段へ向かう。
本丸が地下なのだとしたら二階から一階に下りる階段はそこまで警戒されていないはずだ。
そう仮定して階段に足を掛けたその時、ふと自分がまだ『隠』の文珠を使用していないことを思い出した。
あれは一定の実力者には通用しないが、侵入に際して効果的であることも事実なのだ。念のため使っておいた方がいい。
どうやら焦り過ぎて周りが見えていなかったらしい。落ち着けと心の中で呟きつつ『隠』の文珠を使用する。
スウッと自分の姿が消えていくことを確認し、横島は今度こそ慎重に階段を下って行った。
階段を下りた先で一階の様子をうかがう。見た限りでは罠を仕掛けられている様子も人の気配もない。
来客用の受付スペースや職員のオフィスがある一階は視界を遮るような衝立や障害物がそこそこ多かった。
これはいっその事『解析』の文珠を使うべきだろうか・・・。


(・・・いや、あれは確かに便利だけど一回使っちまうと情報の処理に手一杯になって派手な動きができなくなる。
それにもしこの状況で制御に失敗したらシャレにならん)


一階を素通りし素直に地下への階段を下りるという考えが一瞬浮かんだが慌てて頭を振る。
ここはやはり当初の予定通りに行動すべきだろう。なるべく障害物の影に入るようにしながら横島はコソコソ移動を開始した。
受付スペースを通りエレベーターへと向かう。ドキドキと心臓の鼓動がうるさい。
喉の渇きを覚えてペロリと唇をなめてみればひどく塩辛い味がした。
どうやら自分で思っているより緊張しているらしい。数メートルの距離も遥か彼方に感じられる。
時間制限による焦りで駆けだしてしまいたくなるのを何とか自制しながら、横島は一階のエレベーター前まで到着した。
深く呼吸しながら額に浮かんだ汗をぬぐいエレベーターの表示に目をやる。
当たり前のことだが先程二階でボタンを押したのでエレベーターは二階に止まったままだった。
横島は文珠を取り出し『開』と文字を刻んだ。そのままエレベーターの扉に押し当てる。
すると本来は到着してから開くはずの扉がスウッと音も立てずに開いた。エレベーターシャフトが丸見えになる。
目に入ってくるのはむき出しのコンクリートと赤茶色の鉄骨、そして先を見通すのも難しい闇だった。
横島は鉄とオイル、そして若干のカビ臭さが感じられる穴の中に入り、ガイドレールと鉄骨にしがみつきながらゆっくりと地下へ下って行った。
何度か滑落しそうになり、その度にひーこらと心の中で悲鳴を上げながらも、横島はなんとか最下段の地下二階にたどり着いた。
汗で湿り気を帯びている両手をゴシゴシと上着に擦り付け呼吸を整える。
再び『開』の文珠で扉を開き地下二階に侵入する。地下だからという訳ではないだろうが照明が点灯していないので廊下は薄暗い。
若干の息苦しさを感じるのは窓がないからか、単に緊張しているからなのか、どちらにしろ錯覚だろうが。


(よ、よし。何事もやってみりゃ何とかなるもんだな。あとはこっから地下一階に上って真名ちゃん達を探すだけだ)


そして四人目の少年を捕まえる。戦いになるならその時はその時だ。こればかりは出たとこ勝負を挑むしかない。
さすがに地下から侵入されるのは想定していないはずだと無理にでも楽観する。うまくいけば奇襲を仕掛けられるかもしれない。
そんな事を考えつつ廊下を進む。情報によれば地下二階は大型の発電機があり、それ以外は空室が一つあるだけらしい。
途中でその部屋の様子を見てみるも無人どころか荷物一つなかった。完全な空き部屋だ。
少しだけ真名たちがいる事を期待していたのだがどうやら無駄だったようだ。溜息を付いておとなしく階段へ向かう。
ここからが本番だった。地下一階が今通ってきた地下二階と同じ構造なら、部屋数自体はそれほど多くない。
事前に構造を把握できたことは有利に働くだろうが、人質がどこにいるかまでは分からなかった。
研究室か・・・休憩室か・・・。どのみち通り道から順番に調べていくしかないだろう。覚悟を決めて階段を上る。
『隠』の文珠で足音が立たないことが有り難かった。いちいち余計な気を遣わずに済む。
階段を登り切り地下一階にたどり着く。素早く周囲を見渡したがやはり誰もいない。
地下二階とは違い、明かりがついている廊下は見通しがいいがその分発見されるリスクも高まる。
透明化している今の自分には関係ないかもしれないが・・・。


(とはいえ、あのガキが美神さんクラスの勘の持ち主なら意味ねぇだろうしな。慎重に行こう)


『隠』の文珠で透明化しているため正確な時間を確認しようがないが、体感的に制限時間の残りは三分ほどだろうか
警戒しながら調べるならほとんど余裕はない。ごくりと喉を鳴らしながら横島は廊下を進んだ。
元々それほど距離があるわけでもないので早速一つ目の部屋にたどり着く。
ご丁寧に女の子らしい文字で休憩室と書かれたプレートが扉の前にかかっていた。
一応聞き耳を立ててみたがかすかに聞こえてくる空調の音以外は何も聞こえてこなかった。
結局中の様子を確認するなら扉を開けなくてはならない。次の瞬間攻撃を受ける可能性も大いにあるが。


(んなリスク抱える必要ねぇよな。おとなしく文珠使っとこう)


限りがあるので乱発は避けたいが奇襲を受けるよりはましだ。横島は『覗』と文字を刻み文珠を使用した。
ぼんやりと部屋の中の様子が視界に映し出される。テーブルにソファー、二段ベッドとテレビにパソコン。
後は何やら工具の類や救急箱、裁縫道具にアイロンとミシンまである。
テーブルの上に置かれた雑誌類は横島の目から見てもよく分からない科学系の論文か料理の教本か何かだった。
いずれにしてもこの部屋には誰もいない事は明らかだった。つまり真名たちは研究室にいる。

休憩室と同様に研究室と書かれたプレートが掛かっている部屋はすぐに見つかった。扉の前まで行き目を凝らす。
『覗』の文珠の効果で異なる景色がダブって見えるような視界は些か気持ちが悪かったが、我慢して中の様子をうかがう。
一目見た部屋の惨状はなかなかにひどいものだった。
大きな力で粉砕されたPC機材やデスクの破片があたりに散乱し、足元を伝う電源ケーブルは無理やり引きちぎられたように中の配線をさらしている。
フロアシートは半ばめくれ上がったまま皴を作っており、倒れたリクライニングチェアがその上にゴロリと転がっている。
まるで台風にでも見舞われたのかと勘違いするような有様だった。
横島が思わず眉をしかめていると、倒れた机に隠れるようにして何か人影のようなものが目に入ってきた。
注意深く見てみればそこには目当ての人物の姿があった。
室内の中央付近に設置された大型の円筒形の装置に龍宮真名が寄りかかっている。
腰まで届く長い黒髪と黒のボディースーツに包まれたしなやかな肢体は見間違えるはずがない。
その姿は力を失った人形のように脱力していた。
ここからでは正確な診断ができないが、僅かに上下する胸の様子から気絶しているだけのようだ。


(見つけた・・・けど、やっぱり超ちゃんはいないな)


ざっと見た限りでは真名以外に人の姿はなかった。
文珠による透視で隠れられそうな場所は全て調べたが超の姿も少年の姿も見当たらない。


(ここにはいない・・・ってことなのか?でもだったらどこにいるんだ?)


今まですべての階を通ってきたがどこにも二人の姿はなかった。
となれば最初からこの建物内にはいなかったのか、あるいは文珠の透視すら効かないような手段で隠れているのか。


(どっちにしろ悩んでる暇はないな。突っ込むしかねぇ)


こちらが人質を確保して安心した直後に襲い掛かってくるというのはあり得そうなことだ。
奇襲を受ける事を前提として防御の手段を用意するしかない。
横島は文珠に『防』と文字を刻み、一呼吸置いてから扉を蹴破った。
素早く内部に侵入し真名の所まで走り寄る。同時に透明化と透視を解除し襲撃に備えた。
真名を庇う様にしながら時を数える。一秒二秒三秒・・・。
たっぷり三十秒数えてから何も起こらないことを確認し、横島は倒れている真名に向き直った。
何かおかしなことをされている様子はない。膝をつき首筋に手を当て脈を確認する。弱々しいが確かな感触があった。


(よかった。とりあえず真名ちゃんは無事だ。でも・・・これからどうする?)


てっきり何らかの襲撃があると思ったのに、この期に及んで敵側には何のリアクションもなかった。
これでは警戒していたこちらがバカみたいではないか・・・。


(まさかとは思うがあんな風に脅すだけ脅して、本人はとっくの昔に逃げちまってた・・・なんてことはなかろうな)


だとしたらあのガキは許してはおけない。草の根分けても探し出し、たっぷりとお仕置きをしなければならない。


(超ちゃんの手掛かりもあいつが持ってるんだとしたら、やっぱりあのガキは捕まえなけりゃな)


逃げられているとしても先程までここにいたことは事実だ。
もうすぐ捜索のエキスパートである人狼と妖狐が到着する。そうなれば少年を見つけるのは時間の問題だろう。
僅かに肩の荷が下りた気がして横島はホッと安堵の息をついた。どっこいせと心中でおっさん臭く呟きながら立ち上がる。
気絶している真名は当面の間は休憩室のベッドで寝かせておけばいいだろう。
そう考えて横島が彼女の肩に手を回そうとしたその瞬間、突然背後に気配を感じた。

反射的に振り返る。そこで横島の意識は一瞬途絶えた。

死んだのか。

そう思えた。

永遠の空白の中に閉じ込められたように意識が真っ白になる。
何も感じない。何も考えられない。何をすればいいのかわからない。
自我の境界が曖昧になるほどその光景は横島にとって衝撃的だった。





彼女がいた。





首元で切りそろえたショートボブの黒髪。前髪から昆虫の触角のようなものがピョコリと飛び出している。
西洋兜と鉢金の中間のようなバイザーが額に装着されていて、その下から黒曜石を思わせる大きな瞳がこちらを覗いていた。
うっすらと微笑む口元。ほんのりと赤みを帯びた頬。細い首筋。
甲殻類を思わせる赤色と白黒のボディースーツは彼女のトレードマークのようなものだ。


目の前に。

触れられるような距離に。

彼女が存在している。


質の悪い冗談だった。白昼夢を見ているようだった。
ゆっくりとこちらに近づいてくる。

硬直し動けない横島の頬を彼女が撫でた。冷たい手で鼻筋をなぞるようにして額に触れてくる。
次の瞬間、横島の視界は急速に狭まって行った。暗幕が下りるようにすべてが黒く染まっていく。

同時に心の奥底で悔恨の情が湧き上がった。

失敗した。失敗してしまった。

これが・・・これこそが罠だった。

どうして気付かなかったのか。自分だけは絶対に気付かなければならなかったのに・・・。

抵抗するために意志の力を総動員する。だが横島にできたことは僅かな呻き声を上げる事くらいだった。
垂直の壁が迫ってきてドンと体にぶつかった。それが床だと気付く頃にはすべてが手遅れだった。

ぼやけてよく見えない視界の中で女が笑っていた。彼女とは似ても似つかない酷薄な笑みを浮かべて・・・。

おやすみなさい。

子供を寝かしつけるような優しげな声が聞こえてくる。


息が詰まるような感覚と共に横島は意識を手放した。





◇◆◇





「なんであんた達がここにいんのよ」


「貴様に言う必要があるか?」


不機嫌な表情で互いに憎まれ口をたたく。
タマモとシロが現場に到着し、葉加瀬と共にビル内に侵入してからしばらく後、ぞろぞろと招かれざる客が現れた。
この吸血鬼とは京都でも顔を合わせたが、無意味に偉そうなところは相変わらずだ。


「美神さんとの賭けに負けたくせに、なんで私達の後を追って来てんのかって聞いてんの!」


「それは勘違いだな。我々はハカセから連絡を受けてここに来た。たまたまそこにお前達もいたというだけの話だ」


「・・・そんな下手な言い訳が通じると思ってるの?」


「見解の相違というやつだな。私は言い訳しているつもりはない」


しれっとそう言い張るエヴァの顔から視線を外し、タマモは鋭く舌打ちをした。
これ以上何を言っても無駄だろう。関わるだけこちらが損をする。
美神の命令で横島の応援に来たのはいいが現地に到着してみれば当の本人はどこにもいなかった。
人質を救出するためにビル内に一人で突入し、結果として横島は犯人と共に姿を消していた。
残されたのは人質になっていた龍宮真名という少女だけだ。それもいまだに意識を取り戻すことなくビル内の休憩室で眠りについている。


(あのバカ。ミイラ取りがミイラになってんじゃないわよ)


ともにここに来ているシロは横島がいなくなったと知って、何か手掛かりを探そうと躍起になっている。
だがいまだに何の手掛かりも見つけられていなかった。人狼と妖狐の嗅覚ですらなにも感知できない。
横島の侵入経路を辿ってみたがこの部屋を最後に突然匂いが途切れた。
室内に入った形跡が残っていてそれでも部屋にはいない以上、外に出ているのは間違いないがその気配がない。
明らかに不自然だった。まるで煙のように消えてしまったようだ。


(煙のように・・・か。案外当たりかもね。テレポートでも使って逃げた?)


咄嗟の思い付きだがありえない話ではない。文珠を逆に利用された可能性もある。
だが逃走手段はそれで説明できるとしてもそれとは別に気になることもあった。
この部屋で感知できた人物の匂いは葉加瀬を除いて三人。
一人は今も休憩室のベッドで眠りについている龍宮真名。二人目は横島。そして三人目が横島と同様姿が見えない超とかいう少女らしき匂いだけ。
つまりこの部屋には犯人と思わしき匂いが全くしない。


(仮にテレポートで横島を連れ去ったとしてもこの部屋にいたことは確実のはず。なのに匂いがどこにも残ってない。
妖狐と人狼の嗅覚をすり抜けるなんて普通はできないわ。・・・四人目ってやついったい何者なの)


こんな事は初めてだった。正体を探るための糸口すらない。この調子では霊体探査を行っても無駄だろう。
重苦しい圧迫感を感じてタマモは思わず胸に手を当てた。何かとてつもなくいやな予感がする。
動物の本能が危険を感じているのか、もしくは霊感が働いているのか。気のせいであってくれるのが一番いいが。
深呼吸し心を落ち着かせる。とにかくこれ以上ここにいても得るものは何もないだろう。
タマモは床に這いつくばりながら横島の匂いを探しているシロに声を掛けた。


「シロもう行くわよ。これ以上は意味がないわ」


「行きたければ一人で行け。拙者はここに残って先生を探すでござる」


かたくなにそう言い張るシロにタマモは溜息を付いた。
もう何度も説得を続けているが全く聞き耳を持っていない。
横島に対する忠犬っぷりはよく知っていたはずだがここまでくると半ば病気のようなものだ。


「あのねぇ。私だって別に横島を見捨てようなんて思ってないわよ。私は自分の力と・・・不本意ながらあんたの力も信じてる。
私たち二人が散々手掛かりを探したのにそれでも見つからないってことは、ここにはもう手掛かりなんて何一つないってことよ。
だったら一旦美神さんの所に戻って対策を考えたほうがよっぽど横島を見つけられる可能性が高くなるでしょ。それともあんたは自分の力を信じられないわけ?」


「それは・・・」


シロは悔し気に俯きながら歯を食いしばっていた。言い返す言葉が見つからないのかジッと押し黙る。
しばらくそうやって何かに耐えている様子のシロだったが、やがて握りしめていた拳の力を抜いた。しゅんと項垂れたまま小さく頷く。


「・・・分かったでござる」


「そ。んじゃ帰るわよ」


シロの沈黙に辛抱強く付き合っていたタマモが何でもない事のようにそう言った。
シロはその言葉にもう一度頷いてからポツリと呟いた。


「拙者もお前の力を信じてるでござる」


「・・・・・・」


タマモは何も言わずに踵を返した。そのまま出口へ向かって歩いていく。
すると背後からエヴァンジェリンがこちらを制止してきた。


「待て」


「何よ?まだなんかあるっての?」


今はこいつの相手をする気分じゃない。そう考えつつタマモはうんざりしながら振り返った。


「これから私たちは龍宮真名を連れて私の家に移動する。あいつが目を覚ましたら連絡を入れてやるから話を聞きに来い。
ちなみに家の場所は綾瀬夕映が知っている」


意外なことを言われてタマモはきょとんとエヴァを見返した。そしてすぐに疑いの眼を向ける。
確かに意識を失っていたとはいえ、彼女は四人目の情報を持っているかもしれないがそれを素直にこちらに渡そうとするとは思っていなかったからだ。


「どんな裏があるわけ?」


「こちらの情報を渡す代わりにお前らの情報をよこせ・・・か?疑いたくなる気持ちはわかるがそういう事じゃない。
これはぼーや達が言い出した事さ。横島には散々世話になっていたからなあいつらは。その横島がいなくなったと知って少しでも協力したいという事らしい。
まぁその言葉を信用するかどうかはお前ら次第だが」


「・・・あの子たちが?」


今ネギたちは休憩室で真名のそばについている。真名に目立った外傷はなかったが何故か極度に衰弱していた。
タマモの見立てではその疲労は肉体的なものではなく多分に精神的な・・・もっと言えば魂に対して何らかの危害が加えられたように見えた。
霊的に未成熟なこちらの世界の住人は霊力による攻撃に対してほとんど耐性がない。
ましてや攻撃を仕掛けてきたのがタマモたちの世界の上級魔族クラスなら、肉体ごと魂を消滅させられていたとしてもおかしくなかった。
そういった意味で彼女は運がよかったと言える。おそらく四人目は最初から彼女を殺すつもりがなかったのだろう。
しばらくすれば問題なく目を覚ますはずだ。タマモがそう言ってやるとネギたちは心の底から安堵していたようだった。


「確かにあの子たちの言葉なら信用できるかもね。あんたと違って性根はまっすぐ見たいだし」


「ふん。奴らは単に甘いだけだ」


そう言ってエヴァはタマモたちを追い越し部屋を出て行った。
残された二人は顔を合わせた後、互いに頷き合った。とにもかくにも今は美神との合流を急ぐべきだ。
横島の事もそうだが異世界へと繋がる扉の事も気になる。タマモとシロは競うようにしてアパートへの家路を急いだ。





◇◆◇





例の扉は紛失したわけでもなく故障したわけでもなかった。だが、どうも空間同士の接続がうまくいかないらしく現在は使用ができない状態だった。
文珠の能力でその問題も強引に解決できるかもしれなかったが、肝心の横島はここにいない。

アパートに帰ってきたタマモから横島が行方不明だという話を聞いた時、美神は思わず爪を噛みそうになった。
あまりにタイミングが悪すぎる。様々な問題が悪意を持ってこちらに襲い掛かってきていると錯覚しそうなほどだ。

それから数時間。杳として行方が分からない横島の捜索に限界を感じ始めた頃、エヴァから真名の意識が戻ったと報告があった。
停滞していた状況を打ち破るための僅かな希望にかけて美神たちはエヴァの家に移動していた。


「あんた意外に辺鄙なとこに住んでんのね」


「確かにここは中心地から離れた森の中にあるが、そこまで言うほどの事か?」


玄関で出迎えてくれたエヴァの言葉を聞きながら、美神はそうねと軽く相槌を打った。
道中の道が荒れ果てることなく整備されている時点で辺鄙は言い過ぎたかもしれない。
そっけない態度に毒気を抜かれた様子でエヴァは無言のまま家の中に入って行った。
代わりに扉から出てきたアンドロイド(たしか報告書には茶々丸と書いてあった)が部屋へと招き入れてくれる。


「ようこそいらっしゃいました。どうぞこちらへ」


無表情に頭を下げてくるその姿に知人のアンドロイドを重ね合わせながら美神はエヴァの家に入った。
外観は映画にでも出てきそうなログハウスだったが、内装はそこそこ凝っているようだ。
フローリングに敷かれたカーペットやら窓にかかっているフリル付きのカーテン。
ぬいぐるみなんかが飾られているのを見るに若干少女趣味が強く感じられるがセンスは悪くない。
美神は勧められるままヒノキの丸太ベンチに腰を下ろした。あらかじめ用意していたのか丸太テーブルの上に茶々丸が紅茶を運んできてくれる。
香りを楽しんだ後口をつけてみると味もなかなか美味しい。おキヌが普段入れてくれる紅茶に比べても何ら遜色ないほどだ。


「で、真名って子の意識が戻ったって話だったけど、どこにいるわけ?」


「二階の寝室だ。もっとも話を聞くのは無理だがな。目覚めたとは言っても短い間だけだ。またすぐに眠ってしまった。
まったく・・・傷つけもせずにどうやって奴をあそこまで疲弊させたのやら」


紅茶を飲みながら上階を指さしエヴァは嘆息した。
美神は隣にいるおキヌに様子を見てくるように指示した。彼女は簡単な心霊治療ができる。
どこまでできるかわからないが普通の医者に見せるよりも効果的だろう。

おキヌが席を立つとエヴァの指示で茶々丸が案内をしていった。二人がいなくなった後、改めて簡単な自己紹介が行われる。
悠長なと思わなくもないが焦ったところでどうにもならない。
テーブルを挟むようにしてこちら側に座っているのは、美神、シロ、タマモ、立場上は向こうに座っていてもおかしくない夕映ともう一人。


「あ、相坂さよです。その、ゆ、幽霊やってます」


緊張した面持ちでさよがペコリと挨拶した。
さよはアパートから美神たちに憑いてきていた。どうも横島の事が心配でいてもたってもいられなかったようだ。
本来地縛霊であるさよはあまり広範囲を自由に活動できないのだが、なぜか最近になって行動可能な範囲が増えてきたらしい。
今では麻帆良ならばどこに行っても問題はないとのことだった。


「さよちゃん・・て朝倉が言ってたクラスメイトの?」


明日菜がふよふよと空中に漂っているさよを指さした。


「アスナさん。知らなかったんですか?」


ネギがそう言って小首をかしげる。


「う、うん。話だけは聞いてたけど会ったのは初めて。っていうかネギあんた知り合いなの?」


「はい。とはいっても僕にも姿が見えたり見えなかったりだったんですが。さよさん美神さん達と一緒にいたんですか?」


「は、はい。朝倉さんが司会の仕事で忙しくなっちゃって、横島さんを探してたら美神さんたちと会って・・・」


申し訳なさそうにこちらを見てくるさよに美神は苦笑を零した。
危険だから付いて来るなとは言ったのだが意外なところで強情さを見せてきた。気弱な態度ではあったが引くわけにはいかないという強い意志が感じられた。
本人には言ってないが心情的に幽霊の女の子の頼みを断り辛い事情がこちらにはあった。おキヌの場合は特にそうだ。


「まぁ、あのアパートにさよちゃん一人残していく方が危ないかもしれないしね。それより次はあんたたちの番よ」


美神がそう促すとネギが姿勢を正しながら名前と年齢、職業と趣味等を話していった。そこまでは聞いていないのだが緊張しているのかもしれない。
向こう側の顔ぶれは喫茶店の前で会った時とあまり変わっていなかった。
おキヌに付き添っている茶々丸を除けば、横島に電話してきた葉加瀬という少女と二階で治療を受けている龍宮という少女が新顔だろうか。
実は報告書で事前に名前と顔を知っていたため特に紹介の必要はなかったのだが、そんな事はおくびにも出さず美神は話を聞いていた。
そうして全員の自己紹介が終わり、真名の治療を終えたおキヌと茶々丸が上階から戻ってきた頃、
突然部屋の隅に置かれた特大の登山用バッグ(普段の除霊仕事で横島が担いでいるものだ)から緑色の光が溢れ出した。
サイドポケットの内側に何かが入っているらしい。ハッとして美神はバッグに飛びついた。チャックを開けて中に入っているものを取り出す。
掌にあったのは文珠だった。文字は刻まれておらずおそらく横島がストックしてあったものだろう。
淡い光が点滅を繰り返し、まるで何かを伝えたがっているように見える。美神は文珠に向かって念を込めた。具体的な効果ではなく製作者である横島の事を思って。
すると次第に文珠の光が強まり中央に文字が刻まれていった。『達』の文字だ。
美神が一瞬どういう意味なのかと疑問を浮かべると、文珠は空中に何かの映像を投影した。暗い部屋に人影が二つ映っている。
照明がないためぼんやりと輪郭が浮かび上がっているだけだが、一人は子供ほどの大きさでもう一人は床に座り込んでいるようだった。
人影の一人が口を開く。


「君にとっても興味深い話題を色々用意したんだ。ゆっくり話そう」


「興味だ?・・・ひょっとして麻帆良大女子水泳部のセキュリティを突破する方法が分かったんか!?
あの更衣室のセキュリティは俺の力をもってしてもどうすることもできなかったというのに!!」


バカの声がした。

とりあえずは無事のようだ。


美神は首の辺りにドッとした疲れを覚えて深い深い溜息を付いた。
どうやら横島は敵に拘束されながら文珠でこちらに情報を送ろうとしているらしい。先程の文珠の文字は『伝』『達』だったのだろう。
室内に何とも言い難い空気が流れた。当の本人があまりにいつも通りなので喜び半分呆れ半分といったところか。
それでも無事を確認できたことには変わりないので、各々が安堵した様子で会話し始めたのを美神は鋭く制止した。唇の先に人差し指を当てて静寂を促す。
横島が無事といってもそれがいつまで続くかわからないのだ。
会話の内容から横島の居場所を特定することができたなら救出に行くことも可能だろう。そう思い美神が耳を傾けていると横島ではない少年の声が映像から聞こえてきた。


「そっち方面の期待には応えられないけど、たぶん面白い話だと思う」


「何だよ面白い話って」


「そうだねぇ例えば・・・」


少年は横島だけでなくこの部屋にいる全員に語り掛けるように言葉を続けた。





「なんでこの世界が生まれたのか・・・とかかな」









[40420] 33 真実(前編)
Name: 33◆2be0c5cd ID:73709a19
Date: 2023/02/11 22:35



柔らかく温かな感触が唇に押し当てられた。背骨に電流が流されたように全身が硬直する。
頭で理解する前に甘い刺激が一気に押し寄せ脳髄を痺れさせた。本能が目を閉じるべきだと騒ぎ立てる。
だがそんな簡単なことができなかった。まるで自分だけ時間が止まったようだ。
ぼんやりとそんな考えが頭に浮かんだ瞬間、そっと唇からその感触が離れていった。
彼女の顔が見える。夕日に照らされているという理由だけでは済まないほどその頬には赤みがさしていた。


「な、何か言ってよ。恥ずかしくなるじゃない」


「え?あ、いや、そのなんだ」


動揺しながら言葉を探すが何も浮かんでは来なかった。
あまりに唐突過ぎたというか直前にこちらから迫った時にはあっさりと拒否されたので、てっきり嫌なんだとばかり思っていたのだが。


「横島が言い出したん・・・というか飛びかかってきたんじゃない。キスしようと」


「その言い方だとまるで俺が変質者みたいに聞こえるんだが」


心外だという意味を込めて視線を送ると、彼女は僅かに苦笑を零した。


「実際の行動だけ切り取ると大差ない気もするけど」


「かもしれん!!かもしれんがだからこそ!!そこに愛があるかが重要なんや!!ちゅう訳でもう一回チューを!!」


力説した勢いのままもう一度キスを迫る。それこそ変態のように。だがその襲撃を彼女はあっさりと躱した。


「だめ。あんまりやり過ぎるとありがたみがなくなるでしょ。思い出にするなら一回一回を大事にしなきゃ」


「ぐあああ!こんな不完全燃焼のまま家に帰れと言うんか!」


「そのくらいの方が横島にはちょうどいいかも」


「こんなおあずけされまくったら俺はいつか獣になるかもしれん」


ふてくされて後ろを向く。目に入ってくるのはごみごみとした雑踏とライトアップされる前のビル群。
さすがにこの高さの東京タワーからの眺めはなかなかいいものだったが、それだけと言えばそれだけだ。
夕日に照らされたその光景を彼女は綺麗だと言っていたが、そんな事より今は自分の下半身に抱えた爆弾をどう処理するかを考えなければならない。
思わず悲しげな溜息を付いていると背後から胸元に手が回ってきた。背中越しに微かな重みと体温を感じる。
首筋にかかる吐息と漂ってくる甘い香りに再びドキリと心臓が高鳴った。こちらからのアプローチは躱す癖になぜこうも不意打ちを仕掛けてくるのか。


「すこしかわいそうだったから。今日はこれで我慢して」


心を読まれたかのような回答が聞こえてくる。我慢・・・するのはなかなかに難題だったが。
暫くの間、二人は一対の双樹のように佇んでいた。彼女がポツリと呟く。


「日が沈んじゃった」


ビルの間に赤い夕陽が消えていく。暗闇の時間が訪れ人工の光が次々と目に入ってきた。


「帰ろう。横島」


優しく囁くと彼女は離れた。振り返り見つめ合う。
夜景と共に目に映る彼女の姿は夕日なんかよりもずっと綺麗だった。





◇◆◇





「気分はどう?」


目が覚めると同時にそう聞かれた。二日酔いでもしたみたいに頭が重い。
目蓋を開けるのも億劫だった。眠りが癒しなのだとしたら今自分に必要なものはまさしくそれだった。
放っておいてくれと思う。いい夢を見ていたのだ。とてもいい夢を・・・。

彼女の夢はここ最近全く見ていなかった。環境の変化でそれどころではなかったという事なのか。たんに薄情だからか。
それともずっと情けない気持ちを引きずり続けて、それを見ないふりでごまかしているからなのか。


「気分はどう?」


もう一度聞かれる。同じことを。
気分?気分だと・・・?


「最高で・・・最低だ」


自分の物とは思えない程その声はしわがれて暗かった。
脱力していた体に鞭を打ち無理やり頭を上げる。

彼女の姿が目に入ってきた。

正確には彼女の顔と同じ顔をした女の姿が。


「どっちなの?」


女が苦笑を浮かべている。笑い方までそっくりだった。一瞬でも自分が見間違えるほどに。


「現実でもう一度あいつの姿を見られるとは思ってなかったからな。そういう意味じゃいい気分だ。・・・でもなぁ」


ガラガラ声で言ってやる。猛烈に喉が渇いていた。前歯を舐めて懸命に唾液を出そうとする。
体中にかいた汗が不快感を増幅させ、自然と目つきも悪くなる。
横島は反吐をはくような気分のまま唸るように言葉を叩きつけた。


「その姿が偽もんだってわかってるから最低の気分なんだよっ!!いい加減元の姿に戻りやがれっ!!」


かすれた叫びに喉が傷んだ。だがそんな事はどうでもいい。
横島は攻撃性の塊のように目の前の女を睨みつけた。


「分かったよ」


そう言って女が肩をすくめる。こちらが瞬きをしている間に女の姿が変化していた。
女がいた場所に四人目の少年が立っている。黒髪に黒ずくめの服装。顔立ちこそ整っているが全体的には印象に残りにくく地味な見た目だ。


「僕なりの歓迎はお気に召さなかったようだ。これでも気を使ったんだがね」


「本気でそう思ってんだとしたらお前とは絶対に気が合わん!!」


腹の奥にぐつぐつと沸き立つような怒りがあった。できる事なら今すぐにでもぶん殴りたいところだが・・・。


(体が全く動かねぇ。体調の方は回復してきてるが・・・こいつは結界かなんかか?)


床に座り込んだ姿勢のまま何らかの術で体が拘束されている。それもかなり強力なものだ。強引に振りほどくのは難しいだろう。
文珠を使っても無理かもしれない。横島は臍を噛む思いで顔をしかめた。
まんまとしてやられた。不意を突かれたとしても自分なら気付くことはできたはずなのに。


「お前・・・なんであいつの事を知ってる?」


そう問いかけても少年は答えなかった。ただニヤニヤとこちらの無様を笑うだけだ。
カッとなり再び声を荒げさせる。


「あいつはなんだかんだ言ってアシュタロスんとこの幹部だったし、お前が知ってんのもおかしくないかもしれんがなぁ。
だからって何であいつの姿で俺の前に現れた!?あいつと俺の関係なんてあの事件の当事者くらいしか知りようがないのに!!」


アシュタロスが引き起こし、世界中を巻き込んだ大霊障。
あの事件は対外的には美神令子を筆頭とした日本のGSとオカルトGメン日本支部、そして神族と魔族が協力して解決したという事になっている。
その裏でアシュタロスの陣営から寝返った魔族がいた事や、正式なGSですらないただのアルバイトが主導し事件を解決した事などほとんど知られていない。
それは体面を気にした政治的な判断だったり、事件を早く鎮静化させたい勢力の工作だったりするのだが、理由の一つに横島の個人的な希望も含まれていた。
あの事件のことでこれ以上騒がれたくなかったのだ。できればそっとしておいてほしかった。
そういった心情を理解してくれた人々が奔走してくれたおかげか、事件が解決した後も横島の周りは静かなものだった。
特に矢面に立ってくれた美神には感謝してもしきれないくらいだ。
本人は事務所のいい宣伝になるから気にするなと笑っていたが、しばらくの間彼女の目の下にクマが浮かんでいたことを横島は知っていた。


「敢えて調べでもしない限り知るわけがねぇんだ。お前・・・いったい何者なんだ?」


ジークの言葉を思い出す。四人目などいない。
美神は異世界に逃亡した魔族は魔界の正規軍によって送り込まれたのだと予想していたが、この少年もそうなのだろうか。


「僕が何者か・・・か。教えてもいいけど、それはもう少し後になるかな」


「ずいぶんと勿体つけるじゃねぇか」


「順序だてて話さないと混乱するだけだよ。それに・・・」


含みを待たせるように間を作り少年が口を開く。


「君にとっても興味深い話題を色々用意したんだ。ゆっくり話そう」


「興味だ?・・・ひょっとして麻帆良大女子水泳部のセキュリティを突破する方法が分かったんか!?
あの更衣室のセキュリティは俺の力をもってしてもどうすることもできなかったというのに!!」


会話に付き合ってやるふりをしながら横島は後ろ手に文珠を発動していた。
アパートに置いてある登山バッグには予備にと保管しておいた文珠があったはずだ。
あれとうまく連携できればこの会話が美神たちに伝わるかもしれない。向こうから情報を話してくれるというなら好都合だった。
出来るだけ会話を引き延ばし美神たちに情報を届ける。それと同時にこの監禁場所の具体的な位置を調べる。
照明がないせいで周りが薄暗く視界は悪い。近い範囲に窓がないせいで外の景色も見られない。
場所を特定できるようなものは何も見つからなかった。
こちらの思惑を悟られないように注意しながら横島は少年との会話を続けていた。


「・・・一応断っておくけど覗きは犯罪だよ」


「そういうことを直球で言うたらあかん!!もっとぼかせっ!!」


昨今の世間の情勢を考えながら発言しないと、いつどのような苦情がもたらされるか分かったものではない。
こちらの真剣な訴えかけに何らか感じるところがあったのか少年はこくりと頷いた。


「そっち方面の期待には応えられないけど、たぶん面白い話だと思う」


「何だよ面白い話って」


「そうだねぇ例えば・・・」


少年が形の良い顎に触れつつ軽薄に笑った。


「なんでこの世界が生まれたのか・・・とかかな」


「あん?」


言っていることの意味が理解できず間の抜けた声がもれた。
眉根を寄せて質問する。


「・・・哲学の話?」


「違うよ。そのままの意味さ。この世界が生み出された理由」


「なんだそりゃ?」


横島はバカにしたように鼻を鳴らした。これのどこがおもしろい話だというのか。
世界なんてものは当たり前のようにそこに在り続けているものだ。発生した事に過程や原因は存在するだろうがなぜ生まれたかなど考えても無駄なだけだ。


「そんなもんに理由なんてないだろ?」


「この世界はコスモプロセッサに繋がれた他の小宇宙とは違い、君たちが住んでいる世界と変わらない独立した世界だ。
そんなものが伊達や酔狂、ましてや偶然に生み出されるはずがないだろう?製作者の明確な意図が存在しているのさ」


「製作者・・・って」


「もちろんアシュタロスだ」


当然のようにそう答える。表情が消えてしまえば少年とは思えないほどにその顔は大人びて見えた。
両手をポケットに入れながらこちらを見下ろすその姿にはある種の威厳のようなものさえ感じさせる。
横島は僅かに気圧されて息をのんだ。明らかに雰囲気が変わってきている。


「君はアシュタロスについてどこまで知っている?」


これで眉間に皴の一つでもあればまだ可愛げがあったかもしれない。
実際は精巧に作られた仮面が口を開くときに多少崩れるくらいの印象だった。
横島は意識して気を張ることにした。相手に飲まれてはいけない。気付かれないように横島は呼吸を整えた。


「大したことは知らん。仲が良かったわけでもねぇしな。
あいつに関して俺が言える事はいい年したおっさんの長髪ヴィジュアル系メイクはなかなか目にくるなってことだけだ」


「・・・・・・別に外見の感想を聞きたかったわけじゃないんだけど」


「んなこと言われても基本あいつ敵だったしなぁ」


はっきりといけ好かない奴だったのでそれ以上に大した感想はない。あとは恨み言くらいか。
こちらが本心からそう言っているのだと気付いたのだろう。少年は少し悲しそうにしていた。
気を取り直すように咳払いをする。


「ごほん。なら彼の目的については?」


「目的?目的ってあれだろコスモプロセッサ使って神様になり替わろうとしてた」


「まぁ新たな世界の創造主になろうとしていたという点では概ね間違いではないけど、それはあくまで手段であって目的ではないかな。
コスモプロセッサも究極の魔体もある目的を達成するための手段でしかない」


学生に講義している教師のように、滑らかな口調で語っていく。
そのうちホワイトボードでも出してくるのではないかと横島は疑った。そうなれば話の途中で再び眠ってしまうかもしれない。


「アシュタロスの目的はただ一つ。神魔の最高指導者たちが仕掛けたデタントからの脱却だ」


少年は意味ありげな様子でそう言った。ゆっくりと間を持たせてから尋ねてくる。


「君も話くらいは聞いたことがあるだろ?」


「あ、ああ。たしかマジもんの戦争を回避するための政策だったっけ。神族と魔族で仲良くしましょうっていう」


「そうだ。互いに潰し合い滅ぼし合う戦争に一定のルールを設けようとしたわけだ。
天界と魔界の霊力バランスが崩れればその影響を最も強く受けるのは人間たちが暮らす地上だ。
神魔の争いを制御することで高度に発達した地上の文明を守ろうとしたんだな。だが、結局のところそれは愚策でしかなかった」


「愚策ってお前・・・」


「そうとしか言いようがないだろ?神がもたらす絶対の秩序こそを是とする天使どもならともかく、所詮魔族の本質は闘争と破壊だ。
本能を鎖で縛り付け、都合よく操ろうとしたところでそんなものうまくいくはずがない。
結果としてアシュタロスのような凶悪な魔神が反旗を翻し、地上どころか天界魔界を含めた全ての世界を滅ぼしかけた」


少年の口調には明らかな侮蔑があった。眉を寄せ口元をひきつらせたその表情は鋼鉄を無理やり引き延ばし顔の形に取り繕ったようなアンバランスさがあった。
或いは単純に嫌悪していただけなのかもしれない。穢れなき乙女が無理やり生臭い情事を見せつけられたかのようなそんな不快感が見て取れた。


「アシュタロスはそれが許せなかったのさ。
人間どもの文明を守るというだけの理由で一方的に悪という役割を押し付けられ、
勝利することも敗北することもできないまま、延々と下らない茶番を演じさせられ続ける事がね」


感情を乗せた言葉というのはそれがどんなものであれ人間味を与えてくれるものだ。
先程まで畏怖しかかっていた少年に対して、横島の心にほんの少し余裕が生まれた。


「で、結局この世界が生まれた理由ってやつとその話にどんな関係があるんだよ」


「意外にせっかちだな。別に話を脱線させているつもりはないよ。ちゃんと本筋に関わることだ。
さっきも言ったがアシュタロスの目的はデタントから抜け出すことだった。そのために彼が用意した策は二つ。
一つはコスモプロセッサによる世界の改変。そしてもう一つが・・・」


「あの究極の魔体とかいうやつだろ?」


怪獣のように大きな姿をした化け物を思い出す。
一撃で島を粉砕し、なおかつ全く減衰することなく宇宙空間へ飛び出すほどの強力な砲撃を有し、
あらゆる攻撃を別の世界に逃がす事で無効化するという反則じみたバリアを持つ、まさしく無敵の怪物だった。
あれを倒すことができたのはバリアが未完成だった事とベスパが弱点を教えてくれた事。
そしてもう一つ最大の要因はあいつがバカだったからだ。当時の記憶を横島が呼び起こしていると少年は小さく首を振った。


「いや違う。アシュタロス本人が死ぬことだ」


冷然と告げる。それが事実であることを確定するかのように。


「アシュタロス程の強大な力を持つ魔神となると、天界と魔界の霊力バランスを維持するために自らの意思で死ぬことすらできなくなる。
仮に死ぬことができたとしても強制的に同一の存在として復活させられてしまうのさ。
そうならないためには自分の死を認めさせるほどの名目が必要だった。天界魔界への反逆はそれを得るためでもあったんだ。
要するに反逆が成功しようが失敗しようが望みを叶えることができるようにアシュタロスは計画を立てていたという事になる」


「そんな話は・・・誰かから聞いたような気もするけどな。俺には信じられん。だって死んじまったら何もかもおしまいじゃねぇか」


「それはたかだか百年程度しか生きられない人間の考え方だな。アシュタロスがいったいどれだけの時を生きてきたと思う?」


「・・・・・・」


そう言われれば黙るしかなかった。想像すらできない認識の差だ。
それでも横島にとって、まるでアシュタロスが勝ち逃げしたかのようなその言い分を認めるのは抵抗があった。
不機嫌に顔をしかめ口をつぐむ。我ながら子供じみた感情だったが自制するのは難しかった。自分が拘束されている立場だとしても。
室内に静寂が訪れる。そんな気まずい沈黙を嫌ったわけではないだろうが暫くして少年が再び口を開いた。


「ただ・・・そんな彼にもたった一つだけ懸念があった」


「懸念?」


聞き返す程度の愛想は見せてやるべきだろう。大人ぶるつもりもないがいつまでも拗ねていては情報源に機嫌を損なわれる恐れがある。
そんなこちらの考えを知ってか知らずか少年が冷静に続けた。
感情がないような、あるいはあふれ出る激情をあえて押し殺しているような力ない声で。


「彼はね、よく知っていたんだ。神というものがどのような存在なのか。悪魔というものがどのような存在なのかをね」


おまえの・・・・・・。


「そう、誰よりもよく理解していた。悪魔の恐ろしさと・・・」







お前の罪を許そう。アシュタロス。







「神の畏ろしさを・・・」







唇をただ震えさせるように淡々と告げて・・・。


「故に備えた」


そう結んだ。


「備えた?」


今度の問いかけは愛想からではなく単に疑問を感じたからだ。少年がコクリと頷く。


「もし神が本当にアシュタロスの罪を許してしまったとしたらどうなるか・・・彼は正確に予測していたんだ」


「予測・・・ってどんな?」


「アシュタロスの存在は世界の維持にとって貴重だ。簡単には滅ぼすことができないほどに。
アシュタロスは考えたんだよ。そんな自分を神々は本当に手放すのだろうかとね」


少年は記憶を想起するように目を閉じていた。黒い服を着ているせいだろう青白い顔だけが暗闇に浮かび上がる。
体温の低そうなその顔は幽霊のようだった。下顎だけを動かしながら話をするその様子も含めて気味が悪い。


「仮にそうなった場合どうなるか。アシュタロスはシミュレートした。
神々に反逆したアシュタロスという存在は、表向き必ず滅ぼされていなければならない。だから利用するにしてもそれは裏で行う必要がある。
となれば従来のように元の存在に復活させるわけにはいかない。それに、もしそんな事をすれば再び反逆されることは目に見えている。
ならば反逆など企てられないように魂の姿のまま利用するのはどうか。
死後、復活させることなく輪廻に囚われた無防備な魂をそのまま利用するのだ。世界を維持するために」


詩でも諳んじるように少年が語っていく。


「アシュタロスにとってこれを実行されることだけは避けなければならなかった。
自我。思考。意志。すべてを無視されたうえで延々と搾取され続ける。まるで世界を廻すための燃料のように。
そんなことは絶対に許せない。彼はそう考えた」


目を開けてこちらを見つめてくる。黒色の瞳。
長時間男と見つめ合う趣味などないが、横島は少年から目を離すことができなかった。
肌寒さを感じて身震いする。熱いシャワーを浴びたい。そんな欲求が湧き上がった。


「アシュタロスはコスモプロセッサ計画と並行しもう一つの計画を立てた。それは自分の死後に発動する計画だった。
計画名は・・・『epitaph』」


「え、えぴたふ?」


「墓碑銘という意味さ。それがその計画の名前だった」


僅かな給与額が記載された明細書を見るかのように少年はため息を付いた。
単純に一呼吸開けたかったのかもしれない。喋り疲れただけかもしれない。
そんな少年の様子に横島は一つ疑問が浮かんだが黙って続きを聞くことにした。


「その計画は自分の部下、腹心、いやアシュタロス本人さえ知らないまま秘密裏に遂行されていった」


「は?い、いや待てよアシュタロスも知らないままってどういうことだ。その計画とやらはアシュタロスが立てたんだろ?」


「彼は計画を立案し実行可能な段階まで進めた後、自らその記憶を消したんだ。下地だけ作ってあとの事には一切関与していない」


「な、なんだそりゃ」


「自分が死んだあと神々から記憶を盗まれたら意味がないだろ?必要な防衛措置さ」


取り立てて語るまでもないとその表情から見て取れた。
しかし横島にとってはそこまでして隠さなければならない計画とはいったい何なのか全く想像もつかなかった。


「計画は三つの段階に分けられる。一つ目は・・・」


人差し指を立たせて少年が解説する。


「新世界の創造。いやこの場合は新たな輪廻の創造と言った方がいいかな」


「世界の・・・創造?そ、それって」


横島は思わず周囲を見渡した。目に入ってくるのは相変わらずの闇だ。
だが頭に浮かんでくるのはもうずいぶんと馴染んできたアパートの外観。そしてこちらの世界に来てから知り合った人々の姿。


「コスモプロセッサを起動するために作っていたものとは全く別物さ。アシュタロスが一から創造した完全なる新世界だ。それが必要だった」


「お、お前何でそんな詳しいんだ?さっきの話じゃアシュタロス本人すら知らない計画だったんだろ?それなのになんで・・・」


先程感じた疑問をとうとう口にする。
明らかにおかしいのだ。この少年が美神の推測通り魔界から送り込まれた先兵だとしても、それはそれでおかしい。
アシュタロスが神々に対抗するために徹底して情報を隠蔽したというなら、なぜこの少年はその事を知っているのだ?







「知りたいか?」







ゾクリと肌が粟立った。


目が泳ぐ。血の気が引き蒼白になる。脈拍は早くなり、呼吸も浅くなる。
隠しきれない感情が表面に浮かび上がってきた。歯の根が合わなくなり慌てて奥歯を噛みしめる。
目を逸らすことができない。睨み付けることも。背筋を毒蛇が這い回るような悪寒に横島は戦慄した。





「知りたがっていただろ?僕の事を・・・。教えてやるよ」





悪魔が囁いた。



「第二段階・・・完全同一体の創造。これは見せかけだけの分身やクローンではだめだ。霊基構造すらアシュタロスと同一のものでなければならない。
アシュタロスはこれを創造するために自らの魂を二つに割った」


何を言っているのか・・・分からなかった。


一瞬以上の時間、思考が止まる。恐怖を超える程の驚愕が横島の大部分を占めていた。
じわじわと語られた事実が浸透していく。煮立った脳内がそれを理解した瞬間、横島は悲鳴を上げていた。


「はあっ!!!?ちょ、ちょっとまて!!そ、それじゃお前はつまり!?」


間の抜けた道化のようなその姿を見ても、少年には何一つ感じ入るものがなかったらしい。


混乱の極みにいる横島を置き去りにして、少年・・・アシュタロスは最後の爆弾を投下した。



「そして最終段階。世界の崩壊。コスモプロセッサ計画が失敗し、なおかつ同一体が生き残っていた場合のみそれは発動する。
新世界に送り込んだ同一体をその世界ごと完全に消滅させる。本体と同一体は魂の縁によって強固に結ばれている。
世界を隔てようが輪廻に囚われようが関係ない。一方が消滅すれば必ずもう一方も消滅する」



終末のラッパが吹かれる。
ただ『ヨハネの黙示録』とは違い七つの段階などない。
一瞬にしてそれは訪れる。



「これが答えだ。この世界が生まれた理由」



文字通り世界の創造主により神話の終わりが語られていく。



「この世界はアシュタロスが自殺するためだけに創り上げた世界。この世界は・・・・」










「彼の墓標だ」












[40420] 34 真実(後編)
Name: 34◆69853df7 ID:73709a19
Date: 2023/02/14 00:00





横島忠夫にとってこの世で最も大事なものは自分の命だ。

厄介ごとを煮詰めたような除霊仕事の後、熱い風呂に入って鼻歌を歌う事や和服の似合う清純派美少女が手ずから作ってくれるうまい料理を食べる事。
辛抱たまらんほどの肉体美を誇る絶世の美女(上司)の着替えを覗くことができるのも命あっての物種だと思っている。

だから余程の事がない限り命なんぞ張りたくないし、逃げられる状況ならとっとと逃げるに限る。
主役は別の誰かに任せて後方でギャグ要員になっている方が性に合っているし、その方が楽だ。心からそう思っている。

けれどそれができない場合もある。
自分が主役にならざるを得ず、覚悟を迫られる時が。


選択の時だ。


血の涙を流し苦悶で心が引き裂かれても何かを選ばなければならない時、横島は一つの決断を下した。

今でもそれが正しかったと胸を張って言える自信はない。
ずっと心の奥で何かがくすぶっている。言葉にすればひどく単純なその感情を引きずったまま生きている。

別の形で、別のやり方で、なくしたものを取り戻すことができると今では理解している。
前を向かなければならないことも。でも、それでも、どうしても考えてしまう時があるのだ。





もしあの時、違う選択をしていたら・・・いったいどうなっていたのだろう。





◇◆◇





嵐のようだと思った。
連続して語られた真実そのものより自分の心の中が。


「お、お、お、おま、おま、おま」


「少し落ち着いたらどうかな?」


うまく口が回らない程、横島の心は千々に乱れていた。
思考がクルクルと空回りし続ける。壊れた蓄音機のようにただ同じ音を延々と繰り返すしかなかった。
だってどうすればいいというのだろうか。こんなことを知らされて。
落ち着けと言われても落ち着けるわけがない。動揺は収まらず、このまま過呼吸でも起こしてしまいそうなほどだ。


(く、くそ。どうなってんだこりゃ。なんだっちゅーんだこんちくしょう。
め、目の前にいるガキの正体が、あ、アシュタロスで?そんでもって、そんでもって、えーとえ-と、自殺するために世界を滅ぼそうとしてる?
そ、そりゃいったいどこのゲームの話だ!?)


魔王によって世界が崩壊の危機に立たされる。いかにも古典的なロールプレイングゲームに出てきそうな設定だ。
現実に持ち込んできたらダメなやつだ。


(お、落ち着け俺!落ち着かんでも無理やり落ち着け!と、とにかくもう一回確認しよう)


実は全部冗談でした・・・などという落ちにはならないだろうが。
ゴクリと意識して唾を飲み込んでから横島は少年に尋ねた。


「も、もう一回確認させてくれ。お前本当に・・・ア、アシュタロスなのか?」


「そうだ」


少年が即答する。横島は眩暈に襲われた。


「い、いやしかし全然似てねぇじゃねぇか!あってるのは性別くらいで顔も年齢だってかけ離れてるし!」


「つまらない事を気にするんだな。それならこの姿ならいいのか?」


そう言って少年は再び己の姿を変化させた。
細身の身体がグングンと伸びていき筋骨隆々の逞しい肉体へと変貌する。腰まで届く長い髪。その間から大きな角が二本、天を突くように飛び出している。
猛禽を連想させる鋭い目つきと端正な顔立ちに刻まれた隈取のようなタトゥーが印象的だった。
宗教画に描かれそうな神秘性と見る者に畏怖を抱かせる荘厳さが風貌の中に同居している。
その姿を一度見れば忘れる事は難しい。それだけこの魔神は特異な存在だった。
横島は心臓が飛び出るほどに驚いた。息が詰まる。目の前に立っているのは記憶の中にいるアシュタロスそのものだった。


「アシュ、アシュ、アシュ、アシュ」


「だから落ち着き給えよ。私にとって姿形などいくらでも変えられるものに過ぎない。この姿も大した意味はないんだ
だがまぁ君と話をするならこれが適切かもしれないな」


そう言って少年・・・いやアシュタロスは笑った。
緊張するこちらを気にも留めず言葉を続ける。


「もっとも私と君の知っているアシュタロスは違う存在とも言えるがね」


口調が少し変わっていた。一人称も僕ではなく私になっている。


「ど、どゆこと?」


「そうだな。私ともう一人の関係をわかりやすく説明するなら・・・映画のようなものだ」


「映画?」


「そう。言うなれば私は観客で、君たちの世界を舞台とした映画を見ていたようなものだ。
主演はアシュタロス。敵役は君たちだな。私は向こうの世界のアシュタロスの記憶を持ってはいるが、実際の経験をもとにした実感はない。
彼が何を思い、戦い、そして敗れたのか。私には想像するしかない。まぁ、多少の感情移入はしているが・・・」


そう言ってアシュタロスは横島に意味ありげな視線を送ってきた。
ゾクリと背筋にもう何度目かもわからない悪寒が走る。


「とは言っても所詮はそんなものさ。コスモプロセッサ計画を潰した君たちに思うところがないではないが、
今すぐ君をどうこうしようなどとは考えていないから安心するといい」


「ほ、本当か?」


「殺すつもりならとっくにそうしている」


疑いの眼差しを向ける横島にアシュタロスは簡潔に答えた。その言葉を信じられるかどうかは正直微妙なところだ。
普通に考えれば悪魔の言葉など信用できたものではないが、拘束されているとはいえ今のところ危害を加えられたわけでもない。
この状況がいつまで続くかわからないが、すぐには殺されることはないかもしれない。
冷や汗が頬を伝う。崩れる寸前のジェンガを前にしたような心地で横島はアシュタロスに質問した。


「もう一つ聞かせてくれ。さっき世界の崩壊がどうとか言ってたよな。あれってマジなのか?」


「この状況で私が嘘を付く必要があると思うか?
神々がもう一人の私を滅ぼさずにいる事は、私がこうしてここに存在している時点で証明されている。
私たちが神々の謀から解放されるためには死を迎えるしかない」


「だ、だからってそれがなんで世界を滅ぼすなんて話になるんだよ!?死にたいなら勝手に死ねばいいじゃねぇか!!」


「それができるなら最初からそうしている。自分の霊力で自分を完全に消滅させることはできないんだよ。
そして私はこの世界で私の存在を滅ぼせるほどの霊力を持つものを創りだせなかった。残る方法はただ一つ。世界ごと自分を消滅させることだけだ」


「んな話・・・納得できるかよ!自分が死ぬために世界を巻き添えにするなんて、あの美神さんだって言いそうにねぇぞ!!」


「あの女は自分が死んだ後に世界がどうなろうと知ったこっちゃないとか平気で言いそうだが」


「へ?あ・・・うん。いやそれはその、どうやろな・・・」


思わず納得しそうになって横島は慌ててそんな考えを振り払った。


「そ、そんなこと言われたって俺は騙されんぞ!!美神さんみたいな人は例外や例外!!」


「君が持ち出してきた話だろう」


呆れたようにアシュタロスがため息を付く。
ぐうの音も出なくなって横島は露骨に視線を逸らした。


「どのみち何を言われたところで考えを変えるつもりはない。この世界は間違いなく滅びる。それもそう遠くないうちにな。
まぁそれはそれとして・・・。ごほん。という訳で今御説明した通りですよ。納得していただけましたか?」


アシュタロスが最後の部分だけ口調を変えて丁寧に声を掛けた。
明らかにこちらに対しての呼びかけではない。視線もこちらを見ているようで微妙に焦点が合っていなかった。
横島がその事に疑問を覚えたその瞬間、上着のポケットに入れておいた携帯電話が突然虹の如く七色に輝きだした。
暗闇にいたせいで光がビカビカと目に突き刺さってくる。瞼を閉じても光量のせいでジワリと涙が浮かんできた。
拘束されているこの身が恨めしい。手で顔を覆う事ができないため横島は光が収まるまで懸命に耐えていた。
するとどれくらいたったのか次第に光が弱まってきた。恐る恐る目を開くと自分の携帯電話が宙に浮いている。
魔界の通信鬼を彷彿とさせる蝙蝠のような羽が携帯電話に取り付けられていた。


「な、なんだ・・・こりゃ」


横島が突然の出来事に呆然としていると、アシュタロスが携帯電話に向かって声を掛けた。


「お久しぶりですね。閣下」


「さよか。久しぶり言うたら久しぶりやな。こうして直接話するんは。元気にしとったか?」


「皮肉ですか?まぁ元気と言えば元気ですが」


「ちゃうちゃう。こんなんただの挨拶みたいなもんや。そう目くじら立てんな」


あのアシュタロスが形式的なものと言えど下手に出ている。
横島は驚いて関西弁が聞こえてくる自分の携帯をポカンと見つめていた。


「神は・・・不在ですか?」


「あーまぁ。キーやんとこはしゃあないやろ。うちらと違ぉてあちらさんはガッチガチやからなぁ。
公式には跡形もなく消滅しとるはずのオノレが生きとるなんてことがもし露見したら、神が嘘を付いたことになる。
神族連中は端からこの件には関わっとらんし何も知らん。・・・ちゅうことになっとる表向きはな」


「その割には先程多少の介入があったように思いますがね」


「あれは事情も知らん下っ端が跳ねっ返っただけの話や。今頃上司によぉ言い含められとるやろ」


慇懃無礼に笑うアシュタロスに多少のやりにくさを滲ませながら携帯電話が取り繕うように話題を変えた。


「それにしてもオノレの魂が半分しかあらへんと分かった時にはしてやられたと思うたもんやけど、随分大層なこと考えたな」


「あなた方と相対すると決めた時点でこの程度の備えは当然していますよ」


「言うやないか。時空の乱れが強うなっとったのもオノレの仕業か?」


「こちらの世界に都合の良い手駒ができましてね。考えなしに時空転移を繰り返してくれたおかげでいい牽制になりましたよ。
あなた方が卵を発見した時点で、ある程度の下準備は終えていました。介入するには慎重にならざるを得なかったでしょう?」


「そんなんなくても下のもんは二の足踏んどったがな。むやみにオノレの世界に飛び込むんは自殺行為やって」


「その結果があの連中ですか?」


「使い捨ての急造にしてはそこそこよくできとったやろ?」


「探り針にしても露骨ではありましたがね。釣り餌の出来もよくない。もう少し何とかできなかったんですか?」


「あれくらいでちょうどええんや。どのみち霊力を感知された時点で警戒されるのは目に見えとったからな。あとはどうオノレの興味を引くかやったんやが・・・」


「無駄でしたね。興味というならそこにいる小僧の方がよほど面白みがありましたよ」


そう言ってアシュタロスは蚊帳の外に置かれていた横島を指さした。
空飛ぶ携帯電話がクルリと振り返ってくる。どうやら人間でいうところの顔があるのは表側であるらしい。


「誰やこの兄ちゃん?」


「憑りついた相手の事も知らないんですか?」


「オノレに接近でけた人間がおる聞かされて憑いてきただけやからな。大して興味もあらへん」


呆れた様子で嘆息するアシュタロスに向かって携帯電話があっさりと答えた。


「この小僧は私を殺した人間ですよ」


「ほう?そら難儀なやっちゃなぁ。宇宙意思の傀儡か」


愉快そうに笑って携帯電話がパタパタと羽ばたいた。
横島は何も言い返すことができなかった。ただ近くにいるだけなのに強大なプレッシャーに押し潰されそうになる。
少しでも気を抜いた瞬間、意識が遠くなりかけた。圧倒的な存在などアシュタロスで慣れたと思っていたがこの携帯電話はそれ以上かもしれない。
横島が歯を食いしばって耐えているとその様子に気付いた携帯電話が再び背中(裏側)を向けた。
形容しがたいプレッシャーから何とか解放される。横島は咳き込むように呼吸を繰り返した。


「分霊とはいえ閣下の存在は人間には毒ですね」


「せやな。あんまり長々と話はできひんようや」


二柱の強大な悪魔が互いに頷いた。しばし言葉もなく見つめ合うと、携帯電話が尊大な声音でわざとらしく称賛の言葉を口にした。



「見事だ。アシュタロスよ」


「お褒めに預かり光栄ですよ」



アシュタロスはその言葉を軽く受け流した。大した感慨もなく皮肉に笑っている。


「ふん。ほなな」


ほんの少し気分を害した様子で携帯電話は短く別れを告げた。そして力を失ったように元の姿に戻り床に落ちる。
大した高さではないとはいえコンクリートの床に直接ぶつかったのだ。壊れてしまったかもしれない。
横島がそんな事を思いながら落ちている携帯電話を見て呟いた。


「・・・なんだったんだありゃ」


「あれは魔界の最高指導者だ」


「なに?何だって?」


「魔族のトップだよ。数多いる悪魔どもを束ねる魔王たちの中でも最大規模の戦力を有する魔界の帝王だ。
人間が彼の方と対面するのは稀有な事だぞ」


「な、なんでそんな奴が俺の携帯電話に?」


「君に餌を悉く潰されたせいでとうとう本人が登場してきたのさ」


「餌?」


「君が倒してきた模造品どもだ。あれは私を釣り出すための餌だったんだよ。
この世界に自分以外の霊力を探知したら私が何らかの反応を見せると予測したんだろうな。
餌どもが私の部下を模倣していたのは少しでも私の関心を引くためだったのだろう。まぁ無意味だったがね」


鼻で笑いながらアシュタロスは肩をすくめた。


「君に憑いていた理由もさっき本人が説明してくれた通りだ。あちらの世界の人間で君だけが唯一私に接触できたからだろう。
つまりこれで私は君を殺さなければならなくなったという訳だ」


「はぁそうなんか。・・・・・・・・・・・・は?」


生活スペースに害虫がわいたのでとりあえず駆除しようと、そんな気軽さで突然アシュタロスが横島に殺害予告をした。
横島はアシュタロスを見返し、拘束されている己の姿を確認した。スゥっと肺に大きく息を吸い込んで最大規模の泣き言を口にする。


「うそつきぃぃぃぃぃぃ!!!さっきは殺さん言うとったやないかぁぁぁぁぁぁ!!!こん悪魔がぁぁぁぁぁ!!!
いやじゃあぁぁぁぁぁ!!!死ぬのはいやじゃあぁぁぁぁぁ!!!ちくしょぉぉぉっ!!!末代まで呪ってやるぅぅぅぅっ!!!」


涙と鼻水に塗れながら横島が赤子の如くギャン泣きする。もはや知り合いには見せられないくらい情けない姿だったが本人は真剣だった。
何とか拘束を解こうと暴れる横島を見下ろしながらアシュタロスが呆れたように嘆息した。


「仕方がないだろう。君は私の魂の回収役になっている可能性がある。そんな奴を捨て置けるか」


「回収役だぁ!?なんやそれ!そんなもんになった覚えはねぇ!!」


「この場合君の意思は関係ない。現に君は自分の近くに彼の方がいる事に気付いていなかっただろう?
自覚があろうがなかろうが危険分子は排除するに限る」


「そんな理不尽認められるかぁぁぁぁぁっ!!!なんで巻き込まれただけの俺が殺されなきゃならんのだ!!
ちきしょおおお!!たすけてぇぇぇ美神さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!!!」


横島が上だけでなく下からも水分を放出しそうなくらいに取り乱しているとアシュタロスが宥めるように口を開いた。


「だがまぁそれも君が私に敵対するならの話だがね」


「へ?」


「君がこのまま大人しく自分の世界へ帰るというなら何もするつもりはない」


「それって・・・このまま俺を見逃すってことか?」


銃口を突き付けられたまま賭けポーカーでもやっているような気分で横島は慎重に言葉を選んだ。
今や自分の命は風前の灯火だ。相手の気が変わった瞬間、命のろうそくが吹き消されてしまったとしても何らおかしくはない。


「そうだ。私にとっての最悪は君に殺されることだからな。君がこの世界から尻尾を巻いて逃げるというならそれはそれでいいのさ。
今ならまだ文珠を使えば一時的に時空を超える事もできるだろう。生き延びたければ仲間を連れてとっととこの世界から消える事だ」


その提案はとても魅力的だった。命が助かるなら万々歳だ。
手に負えないような敵から逃げる事は恥でも何でもない。少なくとも自分にとっては。
横島はギュッと両手を握りしめた。


「え~と俺たちが逃げた後、この世界ってどうなるんすかね?」


「滅びるな。跡形もなく。まるで最初から存在しなかったかのように」


見栄や虚勢の類は一切なく、ただ事実を語るようにアシュタロスはそう断言した。


「ちなみに気が変わったりは・・・」


「するわけがないだろう」


淡々とこちらの言葉を否定する。その顔には躊躇も慈悲もついでに容赦もなかった。
大仰に肩をすくめて言ってくる。


「この世界を救う方法があるとすれば、それは設定した期限以内に私を滅ぼす事だ。
世界終焉のトリガーは私自身だ。私という存在を完全に消し去ることができれば『epitaph』の最終フェーズは発動しない」


「そう・・・なのか?ホントに?」


告げられた言葉に横島は息をのんだ。
この情報が真実かどうか判断する材料は少ないが、一応筋は通っているように聞こえる。
アシュタロスの目的が自殺することだというのなら、その方法は世界を巻き添えにすること以外でもいいはずだ。
アシュタロスの命を絶つ。それがこの世界を救う唯一の方法・・・らしい。


(いやぶっ倒すだけじゃダメなのか?魂ごと消しちまわないと。でもそんなんどうやってやりゃいいんだ?)


向こうの世界でアシュタロスに勝利することができたのは様々な要因が重なり合ったからだ。
世界改変による宇宙意思の反作用。アシュタロスがコスモプロセッサ起動のためにエネルギー結晶という分かりやすい弱点を抱えていた事。
アシュタロス自身が死にたがっていた事もその一つかもしれない。
だがそういった条件が揃っていてもアシュタロスを完全に滅ぼすことはできなかった。
いやそれどころか一つ間違えばこちらが敗北していたとしてもおかしくはなかったのだ。そして今回は・・・。


(コスモプロセッサなんてないから当然エネルギー結晶もないし、宇宙意思が味方に付いてくれるわけでもない
美神さん達はいるけど他のゴーストスイーパーもオカルトGメンもいないし、神族も魔族も協力してくれそうにない。
ほとんど孤立無援でアシュタロスと戦って、勝ったうえであいつを完全に滅ぼさなきゃならないと・・・。無理やないか?)


勝てるビジョンが全く浮かんでこなかった。状況はほぼ詰んでいるように見える。
海から陸に上がった魚のように口をパクパクと開閉しながら横島は呆然としていた。
怒涛のように告げられた真実と今の自分の現状。それらが整理されたことで横島は途方に暮れていた。
ガクリと首の力が抜ける。気力が萎えるというのはこういう事なのだろう。
絶望的な状況を前に心折れた自分を自嘲する気にもなれない。

横島は無言のまま俯いた。ただ自らの息遣いだけが聞こえてくる。暫くの間そうしていると後頭部に注がれている視線に気づいた。
顔を上げてみるとアシュタロスがジッとこちらを見つめている。
実験動物を観察するように冷徹な眼差しを向けていた。横島は居心地が悪くなり身動ぎした。
結界で拘束された肉体は殆ど動かせなかったが気分的なものなので自制しようがない。
同時に再び心の中で恐怖心が顔を出し始める。やはり気が変わったので死んでもらうなどと言われたら今度こそ下半身のダムが決壊してしまうだろう。
横島がそんな事を考えているとアシュタロスが小さく呟いた。


「気付いていないのか?」


こちらの返答など期待していないようだった。
石像のようにただその場に佇んで何かを考えている。
気になった横島がアシュタロスに声を掛けようとすると、再び小声で何かを囁いた。


「それとも気付いているのに気付かないふりをしているのか?」


ブツブツと口の中で独りごちている。言葉の意味は全く分からない。
横島が困惑していると、やがてアシュタロスが正気に戻った様子で話しかけてきた。


「なぜ私がこんな話をしたと思う?」


「え?」


「目的を達成するだけならこんな話を聞かせてやる必要などなかった」


そう言われて横島は思わず同意しそうになった。そういえばそうだ。
何故アシュタロスはわざわざ自分を誘拐してまで真相を語って聞かせたのだろうか。
明らかに意味がない。それどころか敵を作る可能性だってある。
真実など告げずにそのまま時を待っていればアシュタロスは簡単に望みを叶えることができただろう。


「南極でのことを覚えているか?」


「な、南極?」


突然飛躍した話に横島が素っ頓狂な声を上げた。


「南極で私と戦った時の事だ。君はメフィストと面白い技を使っていただろう?」


「面白い技って・・・」


こちらの疑問や驚きも全く意に介さないアシュタロスに当惑しながら横島は考え込んだ。
大した時間もかけずに思いついた事を口にする。


「メフィストって美神さんの事だろ?美神さんと使った技って・・・合体技の事か?」


内容は理解できるが質問の意図が分からない。横島の答えを聞いたアシュタロスがこくりと頷いて見せた。


「あれは人間が到達し得る最高の技術の一つだろう。完全に近い形で他者と霊波を同期させることで莫大な出力を得る。
だが同時に危険な力でもあるな。シンクロが完璧に近づけば近づくほど一方がもう一方に引き寄せられ最終的には取り込まれる」


「それが・・・どうしたってんだよ。なんでそんな事聞くんだ?」


相手の思惑が読めないまま会話を続けるのは単純なストレスだった。
こちらの命を握られているような状況では特にそうだ。横島は腹に何か詰め込まれたような重さを感じて眉をしかめた。
それが不安からくる錯覚だと気付いていてもどうしようもない。


「気付いていないはずがないと思うのだがな。君自身の事だ」


「は?俺自身の事って何だよ。お前さっきから何言ってんだ!?」


理解できないものに対して攻撃的になるのは人間の性だ。語気を荒げた横島に対してアシュタロスは憐れむような視線を向けた。


「君の霊力はある時を境に急激に増大したな?」


答えを尋ねるというよりは確認するような口調でアシュタロスがそう言った。
不意を突かれて横島は一瞬言葉に詰まった。


「え?あ、い、いやそりゃその・・・な、なんでお前がそんな事知ってんだ?」


「答えを教えてやろうというのさ」


アシュタロスの言葉を聞いて横島は思わず己の身体を見た。霊力が増加したのは確かにその通りだ。
自分でも制御しきれないほどの霊力が引き出されることも何度かあった。
何故そんな事になったのか理由はさっぱりわからなかった。
誰かに相談することも考えたが、後回しにしているうちに結局誰にも話せずじまいだった。


「君は同期現象を起こしている」


「え?」


「君が合体技と呼んでいるものと基本的には同じだ。君は他者と霊波を同期させ莫大な霊力を得ている」


「は?な、なんだそりゃ?どうしてそうなるんだよ。俺は合体技なんか使った覚えはねぇし、そもそも誰と合体してるって・・・」


今度こそ本当に意味が理解できなくなって横島は早口に反論した。
霊力が増大したことの説明にしても全く納得できる内容ではない。横島がアシュタロスを強く睨むと魔神は冷静に指摘した。



「いるじゃないか。そこに」



こちらを指さしてそう言う。
横島は頭に疑問符を浮かべて己の背後を見ようとした。
直後それが間の抜けた行為だと気付いて首を元に戻す。


「い、いるってどこに・・・」


「君の最も近くにそして最も遠くにいる他人。君と同質であり異質でもある存在がすぐそばにいるだろう?」



そこで初めてアシュタロスは口元に愉悦を浮かべた。





「ルシオラがいるだろう?」





突如悪魔の哄笑が響き渡った。


「お前はルシオラと同期している!!切っ掛けはお前がルシオラの力を使った事だ!!
自我を保てないほど弱り切っていた魂をお前が目覚めさせた!!文珠使いは力の流れを完全にコントロールする!!
お前は無意識のうちにルシオラの力を引き出し、制御し、行使し続けている!!同時に消費し続けているとも言えるな!!
中途半端に目覚めたままお前に引きずられたルシオラの魂はやがて限界を迎えるだろう!!そして最後は本当の意味でお前と一つになる!!」


巨躯を揺らしながら悪魔は心底楽しそうに笑っていた。
辛苦を糧とするように悲嘆を血肉とするように他者を傷つけ踏みにじり嘲笑う。


「お前に真実を語って聞かせた理由はお前に資格があるからだ。
お前とルシオラの行き着く先がどこになるのか。上級魔族程度にとどまるのか、はたまた魔神クラスの高みへと到達するのか。
いずれにせよこれだけは言える。お前だけだ。この世界においてお前だけが唯一私を滅ぼせる可能性がある!!」


痛みを感じる暇もない。
時間の流れさえ鈍くなったように思考は濁り精神は爛れる。


「だがそのためにお前は全てを失う事になるだろう。中途半端な同期では私を滅ぼすことなどできないからだ」


思い出を大事にしたいと彼女は言った。
儚いものが好きだったのは、命や生きるという行為そのものに価値を見出していたからなのか。



「わかるか?」



緋色と茜色に染まった情景が脳裏をよぎった。
鋼鉄の塔に佇み二人一緒に夕陽が沈むのを見た。







昼と夜の一瞬のすきま・・・。







「お前は選ばなければならない」





・・・・・・・・・・。





「ルシオラのためにこの世界を見捨てるか」





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ろ。





「この世界を救い・・・」





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・め・・・・・・・・・・・ろ。










「今度こそ永遠にルシオラを失うかっ!!」





「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉっっっっっ!!!!!!!!!!」










狂ったように叫ぶ。或いは獣のように。
炸薬に火が灯った。鬱積が一斉に吹き飛ばされていく。
肉体という外郭に覆われた心魂から膨大なエネルギーが放出され、突き破るように乱反射する。
衝撃が身体を貫く。それは苦痛を伴うものだった。しかし感じない。感覚を凌駕する激情が器を満たしていた。
抑えきることはできなかった。むしろ思いつきもしなかった。圧倒的な流れのままにそれはとうとう解放された。
数十、数百といった扉が一斉に開け放たれる。横島の身体から霊力の煌めき迸った。

大量の鎖を同時に引き千切ったような金属音が鳴り響く。尋常ならざる霊力は雷となって周囲を打ち据えた。
制御からは程遠い力の奔流が破壊を伴いばら撒かれる。床、壁、天井問わず連鎖するように伝わっていき、あらゆるものを消滅させた。
漆黒を割く純白。深闇を祓う極光。それはやがて柱となり天を穿った。


熱も衝撃も波紋一つ残さない純粋な消滅の意思。


どれだけの時が経ったのかすべてが収まると横島は一人その場に佇んでいた。
ぼんやりと靄がかかったように思考が定まらない。虚ろな瞳を辺りへ向ける。先程とは光景が一変していた。
自分を中心として巨大なクレーターのようなものが形成されている。
火山の噴火口のように円状に窪んだその地形はあまりにも奇妙なものだった。表面は傷も凹凸もなく丁寧に研磨されたようにつるつるとしている。
断面は石材や泥、砂といったものが幾重にも重なって地層になっていた。まるで水で濡らした砂場の土をお椀で綺麗にくり抜いたようだ。

知らない間に夜になっていたらしい。月明かりに照らされている。
今まで自分は地下にいたようだった。空井戸の底から見上げたように空が丸く囲われている。
横島は寒さを覚えて体を震わせた。立っていられなくなって膝をつく。
そのまま呆けたように月を見るしかなかった横島に声が掛かった。


「今・・・無意識にその文珠を作ったな」


辛うじて残っている影の中から悪魔の声が聞こえてくる。
闇に潜み姿は見えない。悪魔は何かを楽しんでいるようだった。


「その結界は人間レベルの霊力では絶対に破れない。つまりは・・・そう言う事だ」


導かれるように視線を落とす。いつの間に持っていたのか右手に文珠を握っている。
一定の工程を踏むことで生成される陰陽紋が刻まれた特殊な文珠。


彼女の・・・ルシオラの力の結晶。


「戦うか逃げるか決めるのはお前だ。だがそう長くは待てんぞ」


そう言い残し悪魔は去って行った。
横島は文珠を見つめたまま何の反応も示さなかった。
疲労していたせいかもしれない。


「は・・・はは・・・・」


掠れた声が零れる。無意識のうちに笑っていたようだ。


何も面白くないのに。


「はは・・・ははは・・・」


震えた手で胸元を力一杯掴み上げる。爪が皮膚を突き破りシャツに血が滲み出す。


「ははは・・・はははは・・・」


視界が不鮮明になる。涙が零れていた。


「はは、あははは・・・はは・・・は・・・」


痛みが心地よかった。このまま心臓を抉り出せればもっと気持ちいいかもしれない。


「ふふ・・・ふは・・・はは・・・くくく・・・うふはは・・・」


どうしようもないほどの空虚が心を満たしている。正気でいる事に苦痛を感じた。いっそ狂ってしまえば楽になるかもしれない。


「あはははははは・・・ははははははははは・・ひひ・・・ふひあはは・・・あはははははははははハハハ!!」





でも、そんな事は出来ないから・・・。

















「嗚呼アアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああァァァァァぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」





横島は叫んだ。











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