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[38049] 【習作】間桐の幻獣(Fate/stay night×ARMS、間桐慎二魔改造もの)
Name: わにお◆054f47ac ID:32fef739
Date: 2013/07/31 02:52
 つい思いついたので。
 世界観クロスですが、ARMS側の人は回想でしか出てきません。メインはFateです。このワカメはただのワカメではない、WAKAMEだ!ってなレベルで強化しております。
 暇つぶしにでもなれば重畳なり。

 ◇

 男は逃亡者だった。
 より遠い、知の地平線の向こうを目指し、ただ己の論理で行動した。
 堕天使エグリゴリの名を冠す組織に所属し、幾多の超能力者を作り、壊し、作り、壊した。レッドキャップスなどという異能者集団をも作り上げ、なお満ち足りない研究心。
 男は道を外れに外れた科学者達の中においても一際異端だった。成果を出したのち、最早用済みとばかりにその組織から切り捨てられてしまう程に。
 ただ、その異端者、己の命より研究が途絶してしまう事を恐れるような者でも、拾う者は居た。
 キース・レッド。エグリゴリのエージェントにしてキースシリーズ中の欠陥品。己の運命にひたすら抗おうとするその男に、研究者の男は助けられ──
 開示されたエグリゴリの中枢にさえ関わりのある情報、ARMS(アームズ)という存在は男の探求心に激しく火を点けた。
 最高位の物理学者、サミュエル・ティリングハースト博士の秘された研究成果、キース・ホワイトの残した、本来キース・レッドが持ち出せるはずもない資料をも持ち出し、エグリゴリ全てを揺るがす秘密がオリジナルアームズ四体にある事を知り、その確保のために迂遠な手段をも用い──
 全てが瓦解した。

「馬鹿だなあ、あんたは。俺が成果を上げるのを待ってりゃ良かったってのに」

 かつてキース・レッドだった塵の山を前に白衣の男は独白する。口元には蛍のような光、夜の闇に煙草の紫煙が流れる。銘柄は、そう、キース・レッドが苦笑いしていた、希望という意味の煙草だったか。
 レッドキャップス部隊の用いた作戦により、普段は活気溢れるだろう藍空市は騒然とし、そしてそれ以上に蔓延する暴力を恐れるように息を潜めていた。キース・レッドを倒したオリジナルアームズ適合者、新宮隼人はそれを捨て置いたらしい。空恐ろしい程の超科学の産物、エグリゴリの全ての研究の終着点でもあるそれ、放っておかれたアームズのコアチップ、傷ついたものの自己修復されたそれを無造作に白衣のポケットに突っ込み、男は夜空に一息紫煙を吹き付けた。

「こんなモン拾えば、追っ手はすぐに付くだろうなあ。理解のあるパトロンは死んじまったし、ブルーメンだかに身売りでもすっかねえ」

 そんな事を言いながらも男にその気はない。ブルーメンは反エグリゴリに縛られすぎている。自由な研究が出来ないのであれば、それは男にとって死と同義だった。

「ああ、そうだ。この前拾ったガキ共にでも使ってみるか」

 それはただの思い付き。何かの実験にでも使えるかと確保しておいた被検体のうちARMS適性因子を持つ子供達。九割九分以上の確率で使い潰す事になるだろうとも予測し、それでも追っ手が研究室に乗り込むまでのわずかな時間でもアームズの研究を出来るならそれでいいかと考え、男は白衣を翻し、その場を後にした。理解のあったパトロンには結局与えられる事のなかった希望、その名の煙草の燃えかすをそこに残し。

 ◇

 間桐慎二には空白の一年がある。
 穂群原学園に入り、弓道部に所属、じっとりとした梅雨の季節を迎えるようになった頃だ。
 前触れもなく家出をし、一年間行方不明だった。
 誰が知ろう、コンプレックスの裏返しから実の妹を陵辱しようとし、それすら踏み切る事ができず、逃げ惑った惨めな有様だと。狂おうにも理性的に過ぎ、ただ逃げる事を選んだ子供だったのだと。
 魔術師として絶対に在る事のできない自分、魔術師として素養を見せる義理の妹。
 彼はその優れた才覚を他人に認めさせながら、魔術師である自分の家族には決して認めさせる事が出来なかった。
 蔑まれる事すら無い。
 ただ諦念の顔と共に無視される日々。
 間桐慎二は実の家でこそ、ただひたすらに孤独だった。
 折れた心をさらにねじ曲げるように、義理の妹はただ「ごめんなさい」と言う。
 鬱屈した感情のままに乱暴に犯してしまおうとした。
 ただ、間桐桜、彼の義理の妹はそんな時でさえ、無感動な瞳で、ごめんなさい兄さん、と呟いたのだ。
 訳の判らぬ感情を激発させ妹を殴りつけ、そのまま、彼は家を飛び出した。
 ただフラフラと野良犬のように暮らした。
 もう自分の生も死もどうでも良くなってきた頃、何かの組織めいたものに攫われ、監禁され、馬鹿げた手術を受け──

「……んむ」

 まどろみから意識が目覚める。
 冬空の雲一つない清浄な日光は実家の陰鬱な空気に染まっている身には丁度良く。
 慎二は校舎の屋上、タンクらしきものの上で大きなあくびをした。
 ウェーブのかかった髪を適当にかき上げる。

「……まだ昼か。もう一眠りするかね」

 どうでもいいのだ。こんな聖杯戦争など。
 魔術師っぽい気分を味わえるから味わっているだけの事。感傷めいた何か。
 自身はあまりに魔術から離れすぎている。大した意味もない。
 妹は妹で自分が居なくとも立派に衛宮に依存し、生きている。ならば良いじゃないかとも思い、自分の要素がこれっぽっちも含まれていない事に軽い自嘲の笑みを浮かべる。

「ライダー、鮮血神殿の用意はどうだい?」

 慎二が何となくといった感じに懐に入れた本を触りながら言うと、隣に長身美麗な姿を晒した女性が淡々とした様子で喋った。

「三割といったところです、シンジ」

 そうかい、とこれまた淡々とした様子で返し、ひらひらと手を振る。
 姿を消さない借り物のサーヴァントに、少々の疑問を覚え、一秒ほど頭を動かし、ああと首肯した。

「吸っていけばいいよ、どうせ幾ら汲んでも尽きない命だ」
「──では、はい。頂きます」

 魔性を封じる眼帯の下の目はどうなっているのか、慎二はそんな事を思いながら、自らの首筋を露出させ、血を吸わせる。

「どうしてこうも、味は平凡なはずなのに、病みつきになるのでしょう」

 ちゅるちゅると、はしたない音を出し吸い付く唇、時折愛撫するかのように舌が首筋を蠢く。
 これがまったく無意識の動きというからやはり淫婦の性を持っている、と慎二は溜息を吐いた。思春期は過ぎたといえ、本来収まりの効く年齢じゃないのだ。下半身がむず痒い。

「そりゃ、四十五億年前に分化した地球(ガイア)の兄弟姉妹みたいなモノに作られてるわけだしね、組成は僕の遺伝子のコピーとはいえ、起源はとびきりの古さだ。栄養も付くだろうさ」
「タルタロスの血を頂いているようなものですか……なるほど」
「……ライダー、僕は神話の話をしているんじゃないんだけどね」

 まあいいか、と慎二は青い空を仰ぐ。
 アリスの愛したという青い空。
 彼等とは本来全く接点も無かったはずなのに、どんな奇跡か、あるいはジョークか。

「まったく、神様は諧謔がお好きだね」

 慎二は目を閉じ、自分の血を吸うサーヴァントの事さえ忘れ、眠りともつかない、忘とした物思いの中に沈んだ。

 ◇

 始点は少々派手な地獄だった。
 痛く、熱く、焼け付くようで、己の体が違うモノに書き換えられていく苦痛。
 馴染まぬアームズを暴走させ体を崩壊させる、どこから攫ってきたのかも定かではない少年少女達。
 爆発音、地震、乱舞する炎。

「ハハハハ! まさかッ! たったの三十七体、たったこれだけで適合者が見つかるなんて! 驚いたか! 俺も驚いたぞキース・レッド! 調整していないのに適合する、限りない天然モノが見つかるなんて! ハハハハハ! なんて馬鹿な、なんて阿呆な! なんて確率だ! エグリゴリの連中は何をやっていたんだ! こんな素材をみすみす見逃していただと! ハハハハハ! 世界はこうも愉快に出来てやがるのか!」

 科学者は笑う。狂笑をあげる。
 そして次の瞬間、どこからか飛んできた弾丸により脳漿を弾けさせ、目の前で完成した最後の作品に覆いかぶさるように倒れ付した。キースシリーズの出来損ないが残したアームズのコアに完璧に、本来の持ち主以上に完璧に適合してしまった被検体、間桐慎二という少年に。
 科学者の血と脳漿に塗れ、彼は生の叫びを上げた。
 苦痛とえずき、鉄臭い、血の臭いから逃れるように、暴れた。
 襲いかかってくる人とは思えぬ、鉄の巨腕を持つサイボーグ、人の数倍の機能を付加された強化人間、実験により産み出されたであろう発火能力者、研究者の立て籠もる研究所の制圧のため動員されたエグリゴリの工作部隊、そのことごとくをただ生の本能に任せ、赤子が手を振るように暴れるだけで、呆気なく殺し、破壊し尽くし、駆逐し──

 燃え上がる研究所を記憶の端に留め、次に目を覚ました時には、彼はブルーメンという組織に保護されていた。
 そこで明らかになった自身の事。魔術師の家に生まれながら、決定的にそれを扱う才能の無かった間桐慎二という少年は、全く逆方向を向いた、兵器としての才能だけは持ち合わせていた。 
 埋め込まれたグリフォンのアームズ、適応してしまった体。今の身は人間に見えてナノマシンの集合体、群体に近い。傷つけど傷つけど、空気中から窒素を変換し肉にする。死のうと思うまで死ぬことすらないだろう体。炭素生命を模倣した珪素生命。オカルトからSFへの方針転換、そんな壊れた、観客なんて呼べもしないだろう劇の上で惨めに踊るのが自分。
 彼は笑うしかなかった。自嘲するしかなかった。
 ただ惰性のように、ブルーメンの実験にも付き合い、アドバンスドアームズの強大な戦力から幾つかの作戦にも参加し、四人のオリジナルアームズ適合者達、彼等のブルーメン側の協力者ともなった。
 ただ、そこに彼自身の意思は無い、斜に構え、よからぬ態度ながらも協力的、そんな表面は自分すら欺く擬態でしかなかった。ただ、無用の存在と思われたくない、そんな後ろ向きな思考。復讐なり、研究なり、義憤なり、金銭への欲求なり、戦士の誇りなり、それぞれ方向性は違えど、強い思いを持つ者達の中に居て、なお彼だけはぽつんと独りだった。
 それでも救いの手を伸ばしてくれる者が居た。
 ユーゴー・ギルバート。世界で最高のテレパシスト、その高すぎる能力ゆえにただ居るだけで人間の表層意識を否応なく読み取ってしまう存在。人の剥き出しの醜悪さと美しさの中で育った人間。天使(エンジェル)ユーゴーなんて安直な名前で呼ばれる事もある彼女は、間桐慎二のふと漏れた本心を知り、興味を抱き、内面を知ってしまった。
 彼は一度たりとも家族から認められた事が無い。
 彼を認めるのは常に他人であり、それがあまりに家族から受けるそれと違う事から、猜疑心をも育て、やがて他人すら信じられなくなった。
 魔術という「特別」に固執していたのは何故だったか。
 間桐慎二という少年はただ誰かに自分を見て欲しいだけの子供を心にしまいこみ、固く封をした存在。それを──

「私が見ていてあげますから」

 ユーゴーの何気ない言葉は彼にとり、天恵とも言えた。
 彼女はただそのままに間桐慎二という子供を真っ直ぐに見た。そして話して、認めた。
 呆気なく、彼の心は封を解かれ、双眸からは涙が溢れる。
 見守るユーゴーの前で、間桐慎二はやっと初めて間桐慎二となることができた。
 間桐臓硯から見た「魔術師としては意味のない子孫」でもなく。
 間桐鶴野から見た「できそこないの象徴」でもなく。
 間桐桜から見た「兄さん」でもなく。
 記号ではない間桐慎二という人間をそのままに見つけてくれた。
 彼はこの瞬間にきっと、初めて恋というものをしたのだろう。それには饒舌さや、機転、広範の知識、全てが役に立たなかった。ひどく不器用に、ひどく不格好に、彼は意中のユーゴーを追いかけ、彼女だけの盾であろうとした。彼女だけの剣であろうとした。

「──大丈夫ですよ、隼人君も恵さんも、いえ、みんな生きて帰ってきますから」

 子供ながらにして天才科学者、アル・ボーエンを彼女は優しく抱き、そんな事を言って、あやすように、二度三度を頭を撫でた。
 ニューヨークの決戦、核すら取り込み、肥大化したジャバウォックの姿を前に、彼女は行くと言った。テレパシストでしかできない戦い方があると。

「そんなに高槻が大事なのかい?」
「……約束、しましたから。高槻君を殺してあげるって」

 慎二は空を仰ぎ、一つ舌打ちをすると、上着を脱ぎ、アームズを発動させる。コアチップが脈動し、グリフォンのAIが慌ただしく肉体構成を変え続ける。
 半瞬後、半鳥半人とも見える巨体がそこにあった。

「お姫様に乗騎が居なくちゃ格好つかないだろうしね、妬けるけど仕方無い、行ってやるさ」

 そう言い、彼女を抱え上げた。
 その背にアルが声をかける。

「間桐、いいか、お前のような馬鹿はどうなってもいいから体を張ってちゃんと守り抜け。それとユーゴー、帰るのはお前もだ。不本意ながらその鳥人間も……まとめて生きて帰ってくると約束しろ」

 その言葉に、ユーゴーは微笑みを浮かべて返した。

 ◇

 微睡みから冷める。
 朱に染まる空がまず目に飛び込み、慎二はふと意味もなく右手をその空に突き出し、そして思う。
 ──間桐慎二は守れなかった。
 体は傷一つつけさせはしなかった。
 しかしユーゴーは、高槻との約束を果たし、そのまま逝ってしまった。
 突き出した右手が力を失い、額に落ちる。

「昔からそうか、どうでもいい物は手に入るくせに一番欲しいものは決まって手から逃げるんだよな」

 人智を超える、既存の兵器の存在を覆すほどの兵器は未だ慎二の中に息づいている。
 プログラムの大本であるアリスが旅立っても、人為的に作られた形だからか、慎二の中に息づくアドバンスドアームズは消え去る去る事も無かった。無論モデュレイテッドアームズという、適性遺伝子が有れば定着する、量産型のコアも存在したが、ブルーメンの手により回収、破棄されている。
 今の慎二がその気になれば、一分とかからずにこの冬木市を壊滅させる事も造作もなくやってのけられるだろう。そんな意味の無い仮定をぼんやりと想像し、鼻で笑い飛ばした。

 ユーゴーを失い、失意の中、慎二の足はいつの間にか故郷に向けられていた。
 一応捜索願いなんてものも出されていたようで、知り合いに見つかるや、あれよあれよという間に間桐家に戻され、学校へ復学させられてしまっている。
 友人である衛宮士郎からは心配させられたからと一発殴られたが、間桐家の一応の祖父からは、やはり無関心を。義理の妹からは相変わらず兄という枠でのみ見られていた。
 この家の者達にとって自分は興味を引くような存在ではない。相変わらずの空気に慎二は諦めの溜息を一つつき、そしてかつてのように煩悶し、苦しむ自分が無い事に気がついた。
 当たり前の事、人として当たり前の事。
 要するに間桐慎二は成長していたのだ。
 幼児の心をそのままに残し、知性と体ばかり大きくなった少年はもう居ない。
 そこに居たのは相変わらず斜に構え、シニカルな笑みを浮かべつつも、どこか放り出したような言い方をし、人づきあいを面倒臭げに避けるようになった姿だった。
 復学したとはいえ、当然進級は出来ず、義理の妹と同学年となっている。
 やがて蒸し暑い夏を終え、秋が過ぎ、淡々と過ごしているうちに冬となり──
 義理の妹の手に花弁のような模様が浮き上がった。
 聖杯戦争という魔術儀式、七人の魔術師と七騎の英霊を戦わせ、聖杯を争奪するという、そんな儀式が始まっていたのだ。

 日も暮れた校舎の屋上から慎二は校庭で戦う赤と青、色も対照的な二体のサーヴァントの戦いを見ていた。
 無論、魔術など使えない慎二にサーヴァントを通しての知覚共有などは出来ない。肉眼でだ。
 魔術回路を持たない慎二は逆説的に彼等「魔」に生きるものにとって索敵の対象外、戦っている最中なら殊更だったのだろう。少なくとも、露骨に自分を知らしめない限り見つかる理由がない。
 そして青い槍兵が禍々しい赤い槍を構えた時だった。
 露骨に自分を知らしめてしまうような一般人が居たらしく、青い槍兵は飛ぶようにその場を後にし、一瞬遅れて赤いサーヴァントと、夜目にも赤い少女、遠坂凛が続けて走っていった。

「おいおい……まったく。こりゃ間の悪い奴も居たもんだね、こんな夜に巻き込まれてしまうなんて」

 胡座をかき、頬杖を付きながら慎二は独白し、たっぷり五分ほど経ってからふらりと動き出す。

「ま、死に顔でも拝んでやるか」

 慎二は知った顔であれば念仏の一つも手向けてやろうなどと思いながら校舎の階段を降りてゆく。
 二階の廊下でぜえぜえはあはあ息を喘がせながら、まるで証拠隠滅でも図っているように廊下を雑巾掛けしている人影。月に照らされ、青白く映ったその顔は──とても知った顔だった。
 内心でなんてこった、と呆然と呟き、不機嫌そうな顔に変え、階段に腰を下ろしす。
 一連の作業が終わった頃を見計らい、慎二は声をかけることにした。

「それで、証拠隠滅は完了かい? 一体誰を殺したんだよ衛宮はさ」
「あ……え、慎二……? いや、殺してない! むしろ俺、が……げほッ」

 激しくむせ込んでいる。その服にはべったりと血糊が付き、大きな穴が開いていた。後で飛び込んだ第一発見者が何かしたのだろう、と慎二は適当に当たりをつけ、まあいいか、と座っていた階段から腰を上げた。

「まあ、なんか面倒臭そうだし一々聞かないけどね。こんな遅くまで学校に居るのもどうかと思うよ」
「げほ……お前だって、そうじゃないか。こん、な、時間まで何やってたんだよ」
「ピーピングトムの真似事さ、最近クラスメイトから盗撮被害の話がちらほら出ていてね、犯人ならどういう思考をし、どの場所にカメラを仕掛けるのか、なりきって名推理を働かせていたってわけだよ」
「自分で、名推理って言うのはどうかと、思うぞ」

 慎二は答えず一息で笑い飛ばして肩をすくめる。

「……で、そんなに苦しそうなら家に帰るまで肩くらいなら貸してやるけど?」
「む……すまん、頼む」
「血生臭そうだから貸し十で手を打つとするよ、利息はトゴの安心低率。良かったね衛宮、僕が闇金業者じゃなくて」
「闇金……より、ひどい、な」

 力無く笑う衛宮士郎。
 そうかい、と慎二は無造作に片腕を肩に乗せ、持ち上げる。
 こんな時間まで何をやっていたのかと気になり道すがらに聞き出せば、何でもまたぞろブラウニーのごとく生徒会の備品の修繕に、所属している弓道部の片付けにとまめまめしく働いていたのだという。

「……相変わらずだね、衛宮は。そんな風に目の前の事だけ考えられるのも馬鹿というより才能のような気がしてきたよ、部活の片付けなんてそれこそ後輩にでも押しつけちゃえばいい話だろう」
「ひどい……言いぐさだ、大体慎二、お前も復学したんだし、また弓をやればいいのに、桜も居るし気安いだろ」
「ハ、僕にとっちゃ過ぎた道だね。ついでに言えば馬に蹴られて死ぬ趣味もないよ」
「……なんで馬が出てくるんだ?」

 慎二は友人の自覚の無さに肩をすくめて軽く呆れた。
 常に暗い瞳で静かに俯いている間桐桜、彼の義理の妹が表情を崩すのなんて、衛宮士郎の前だけだというのに。

 二人がのったりのったり歩いて、衛宮家まで辿り着いた頃には既に日付も変わった頃だった。

「はあ、すまん慎二。やっとこ落ち着いたらしい。茶でも飲んでいくか?」
「衛宮……お前ってば……まあいいけど」

 殺されかけたばかりというのに、暢気な事を言う友人。慎二は呆れの顔を隠さず、その和風の家に上がり込んだ。居間に行っててくれという家主に、慎二は居間ってどこだよ、と返す。

「ん……あれ、もしかして慎二はうちに来るのは初めてだったか」
「さあね、覚えていないって事はそうなんだろ。衛宮ん家は中央から離れすぎてたしね」

 慎二の空白の一年があるとはいえ、四年来の付き合いにもなる二人。ただそれも間桐家に集まるのが常だった。
 気を取り直したように居間に慎二を案内し、お茶を振る舞う衛宮士郎。冬でも暖かい冬木市としては異例の寒さの中を歩いてきたせいか、緑茶なんて……と一言文句をつけそうな慎二も黙って飲む。もっともそれは考え事をしていただけの事でしかなかったのだが。
 突如、屋敷の天井にある鐘が鳴り響いた。

「こんな時に泥棒、いや」
「ああ、そうだよ衛宮。案外頭も働くじゃないか。大体僕が面倒臭い思いまでして送り届けたんだ、お前には死んでもらっちゃ困る」
「慎二、お前、あれが何か知ってるのか」
「質問は後、馬鹿にも判るように説明するのは骨なんだ。まず一番魔術的な守りの固いところに行って立て籠もりが上策だろうね」

 いつもと変わり映えしない調子でそう言い、慎二は衛宮士郎を促した。ふと横を向き口を開く。

「ライダー、追ってきた奴を迎え撃て、時間を稼げばいい、そのうち片手落ちに気付いた奴が駆けつけるだろうさ」
「はい、了解しましたシンジ」

 いつから潜んでいたのか、そこには紫の長く美しい髪を揺らせる影があった。ボンテージと見紛うばかりの扇情的な衣装、視界を塞ぐ眼帯。魔術師ではない慎二には理解できない感覚でも受けたのかもしれない、衛宮士郎は驚きに目を開き、何かを言いかけたかのように口を開いている。
 ライダーがその場から消えると、衛宮士郎は我を取り戻そうというように首を振る。

「土蔵だ慎二、多少は持ちこたえられると思う」

 居間の窓を開け庭を走る。少し離れた場所──玄関口の方からは激しい鉄と鉄を打つ音。すでに戦闘は始まっていた。
 土蔵の扉を開け、駆け込み、扉を閉める。外からは苛立つ男の声と間断なく伝わる剣戟の音。
 真っ暗な土蔵に明かりが灯された。古臭い照明、そこに照らされた雑多なモノの数々に慎二は溜息を吐く。

「衛宮……本当にここが一番堅固なのかい? 物置にしか見えないんだけど」
「う……面目ない、ただ一応、解析した限りじゃ守り系の陣が敷いてあるし、武器になりそうなものも──」

 ふーん、と興味なさげに言いながらその照明に照らされた床を慎二は注意深く見、四方に残る朱色の痕跡を見つけ、指で擦る。

「色からして辰砂……? 硫化水銀か。こんなの御三家の中で使うのは錬金術のアインツベルン、あー。そういえば親父の日記にそんなのがあったような。そーかそーか繋がった。あの爺いがあいつにも異性の友達が必要だとか気持ち悪い事言うはずだね、僕は良い感じに使われてたって事か」

 爺孝行な真似をしてしまったものだ、と慎二は肩をすくめる。
 全く期待もしていなかった一般人の子孫が魔術などとは一切関わりのない所でアインツベルンの魔術師の息子と関わりを持っていたのだ。そうだろう、それは利用するだろう。それが魔術師だ。
 ──そして、と衛宮士郎の左手の痣を見る。
 なるほど、と慎二は納得した。義理の妹が戦いたくないわけだ、と。
 外では戦いの様相が変化している、鎖の音が間断なく響き、さらにはそれを引きちぎるような音。ライダーは善戦しているのだろう、本来のマスターではない為に起こるステータス低下、さらにはほとんど無い魔力供給。実のところまともに戦って勝てるわけがない。
 土蔵の床に描かれたうっすらとした朱を見ながら慎二は思考を纏め、振り返り、真っ直ぐに見返す衛宮士郎の目を見て言った。

「衛宮、賭けだけど手がある、乗ってみるかい?」

 その言葉に、衛宮士郎はどんな事になるかも判っていないというのに、我が身を省みないかのように、些かの揺らぎも見せず、頷いた。
 まったく、ブレーキを壊した車かよ、なんて心の中で呟きながら、慎二はその知識を友人に教えた。
 自分では絶対に使う事のできない知識。
 それでもかつては認められようとして一心不乱に読みふけった魔術書のうちの一冊、聖杯戦争にまつわる三家の取り決め、本来の目的、召喚のルール、支配の仕組みを綴った知識の一片。

「いいか衛宮、一言一句とか考えなくて良い、忘我の淵で復唱しろ、僕には判らない感覚だけどそういうモノなんだろう」

 そして言葉を紡いだ。

「──告げる」

 到底魔術師とすら言えない衛宮士郎の作り上げた魔術回路、それを通しマナが、土蔵に刻まれた召喚陣に繋がり行き渡る。

「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に、聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 常人では知覚できぬ第五要素が渦を巻き集い、衛宮士郎はびっしり汗をかき、慎二はその知覚できない現象を前にただ淡々と言葉を吐き続ける。

「誓いを此処に。我は常世全ての善となる者、我は常世全ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ──」

 乱気流のごときエーテルが集い、形を成し──奇跡は顕現した。
 汗だくで呆然とする衛宮士郎の前に姿を現したのはドレスに甲冑を纏ったかのような衣装に身を包む少女。感情を含まない、ネフライトのごとき瞳で目の前の少年を見据え、言った。

「──問おう。貴方が私のマスターか」

 衛宮士郎は呆然としたまままばたきを二つ。

「え……マス……ター?」

 問われた言葉をそのまま口にする衛宮士郎に、少女は一瞬瞑目した。

「サーヴァント、セイバー。召喚に従い参上した。マスター、指示と、状況を」

 その言葉と共に衛宮士郎の手に刻まれる令呪、彼は痛みに思わず左手を押さえる。その模様と繋がりを確認したのか、少女はこくりと頷いた。

「──これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。ここに、契約は完了した」
「契約、か」

 未だ目の前の光景が信じられないような様子の衛宮士郎を慎二は複雑な感情をもって見る。かつて魂にまで抉り込まれた古傷が疼き、痛み出す。自分が持ちえないもの、求める事さえ無駄と理解してしまった神秘。まざまざとそれを見せつけられ、平気でいられるほど慎二も大人びてはいない。ただ、過酷に過ぎた一年で、危急の時に感情を出す事の愚は嫌になるほど染みついている。一つの大きな嘆息でもって暴れる内面に折り合いをつけた。

「とりあえず、お前のマスターはこの通りだから僕が端折って説明する、現状はサーヴァントに襲われている、こちらのライダーが防戦に回っているけど、多分そろそろ無理」

 魔術師とは思わなかったのだろう、まるで警戒していなかったセイバーの目が一瞬驚きに開かれ、不可視の何かを慎二に向け構える。

「落ち着けサーヴァント、コイツとは友人だ。後で戦う事があるとしても今じゃない」
「──その言は信用できますかマスター?」

 話を振られた衛宮士郎は事態を飲み込めていないなりに理解したのか、首肯した。

「あ、ああ。召喚のやり方を教えてくれたのも慎二だ」
「……なるほど、協力者、一時的な同盟者ですか。理解しました。ではまず──」

 言葉を言い切る前に土蔵の扉を突き破り、轟音をあげて慢心創痍のライダーが飛び込んできた。
 否、吹き飛ばされてきた。
 その後ろ、扉の目前で赤い槍を肩に担ぎ、月に照らされ笑う青い影。

「すいませんシンジ……守りきれませんでした」
「そうでもない。霊体化して休んでいろよライダー」

 空に溶けるように消えゆくライダー。いかなる戦闘だったのか、衛宮家の庭は無惨に荒れ果て、自然を残しながらほどよく手入れされた景色は過日のものとなっている。
 一夜にして庭をそんな光景に変えた下手人は、凶器をとんとんと肩に当て、空いた片手で分かり易く挑発していた。
 お前は来ないのか? と。

「マスター、ひとまず敵を討ちます、詳細は後に」
「待っ……」

 衛宮士郎の制止の一声さえ言い終えぬ間にセイバー、剣の英霊は飛び出し、槍を持つ痩身に打ちかかった。



[38049] 二話目
Name: わにお◆054f47ac ID:32fef739
Date: 2013/07/31 02:53
 遠坂凛という少女にとって、間桐慎二という少年はあまり目を向ける価値のない存在だった。
 魔術の名家に生まれながらにして魔術の才能の根幹、魔術回路が存在しない。魔術師である事を誇りとする遠坂凛にとって、彼は人畜無害の一般人、魔術の家に生まれた以上多少知識はあるのだろうけども、それで何ができるのかというと何もできやしない。そんな存在だった。
 益体のない憤懣は無くもない。
 間桐慎二の魔術の才能が枯れてさえいなければ妹は養子になど行かなくて済んだかもしれない。
 IFの話だった。それに魔術を継げるものは一家に一人、父が妹の才能を惜しんだのであれば間桐でなくとも別の家に養子に行っていた可能性が高い。
 ただ、それは考えても仕方のない事。本人に責めがあるわけでもない。生まれは誰も選べないのだから。
 ──それでも遠坂凛は考えてしまう。もし、間桐慎二に魔術の才能があったならば、と。そして同時に、そんな意味のない感情はそれこそ心の贅肉だと。
 考えないようにしていた。見ないようにしていた。一般人に何ほどの事ができようかと。
 そしてそんな一般人に、自分の不手際のフォローを完璧にされてしまった遠坂凛は、一言で言えば荒れていた。勿論──内心で、だが。

 ランサーに殺されかけた衛宮士郎、その心臓を何とか治療し蘇生させた後、疲れからか、父から継いだ宝石を使ってしまった事への脱力感からか、うっかりと家に帰って休んでしまったのだ。遠坂凛は。目撃者を殺す事をサーヴァント同士の戦いより優先したランサーを失念して。
 むろん、気付けば早い、慌ただしく衛宮家に向かった。
 そこで見たものは、七騎目のサーヴァント、ランサーを撃退し主に微笑みかける少女の姿。
 間違いない、あれはセイバーだ。あんな存在がセイバーでないはずがない。
 その清浄にして美しい輝き、それに見とれてしまったのが遠坂凛の運の尽きだったのだろう。
 一瞬で距離を詰められ、アーチャーは咄嗟に構えるもあっという間に崩され、切り伏せられた。
 思考より早く咄嗟に取り出していた宝石を使い、魔術を放つも全てが効かず──

「止めろセイバーーー!」

 衛宮士郎、赤い髪の少年、夕日の中、懲りずに飛べない高飛びに挑戦していた少年。道を別った妹の思い人、ランサーに殺されかけた不運な目撃者、当たり前に一般人であったはずの彼の声により、ぴたりとセイバーの手は止まった。
 そしてそれが指し示す意味を瞬時に理解し──
 遠坂凛はとてつもなく、そう、漫画で言う所のトホホ、という擬音がふさわしい気持ちに襲われた。
 彼女にとっては割とどうでもいい、細々としたやりとりの後、聖杯戦争という魔術儀式に巻き込まれた事も理解していなさそうな衛宮士郎に、ちょっとした鬱憤ばらしも兼ねて脅かし──否、説明してやろうじゃないか、とずんずん衛宮家に上がり込み、居間に入り、先客と目が合ってしまい、どういう事……とばかりに額に手を当てた。

「ああ、話はついたかい? セイバーが飛び出して行った時は驚いたけどね、ま、命があって何よりだったね遠坂」
「……ええ、とりあえず命拾いしたわ。こんばんわ間桐君、セイバーの名前を口にするって事は貴方も参加者の一人という認識で良いの?」

 言外に、なら容赦はしない、という威圧を含ませた笑みを浮かべる遠坂凛。と,同時に猜疑の目でもって見る。慎二は苦笑し、両手を上げた。

「お爺さまが召喚し、僕が使っているだけさ。今回の異例の周期の聖杯戦争、間桐は見送り。御三家としての義理のみ果たすってとこだよ、そんなに睨まないでほしいな」
「そ、ならいいわ。それで、衛宮君とは……え、あれ? まさか!」
「──ハ、そのまさか、だろうさ。ただ衛宮に説明するつもりなら任せるよ、僕は知っての通り知識だけなもんでね」
「……そう、ええ、まあ。借りにしておくわ、癪だけど」

 こんな男に借りを作るなんて、と内心で荒れつつ──否、少々口からブツブツと漏れ出しもしながら、居間に入り、慎二の向かいの座布団に座る。家主が最後になぜか恐る恐る入って来て、その間に座り、セイバーが斜め後ろにそっと控えた。しばし無言の時間が流れ、遠坂凛の嘆息がその無言の緊張を断ち切った。

「さて、それじゃいつまでこうしていても仕方ないし、話をはじめるけど。衛宮君。自分がどんな立場にあって、どんな状況に置かれているか理解してないでしょ?」
「ああ。慎二が聖杯戦争とか言っていたけど、戦争……ってのもな」

 困惑げな顔でセイバーを見る。セイバーは何か? とでも言いたげな表情で小首を傾げた。

 遠坂凛がまるで知識のない衛宮士郎に説明しているその最中、間桐慎二は退屈そうにその光景を眺めていたが、ふと友人に名前を呼ばれ、意識を向けた。

「慎二、お前の家の事も聞かせてもらった、けど、桜は……その、関係してたりするのか?」
「はあ? そりゃ無用の心配ってもんだよ衛宮。魔術師は一子相伝、僕が知識だけしか持たないモノだとしても同じ事さ。古臭いシキタリって奴だよ、あいつはこんな魔術師達のバトルロイヤルになんか関わっちゃいない」
「そっか……いや、そうだよな」

 うんうんと頷く衛宮士郎。戦いに関わっていないだけで、魔術に関わっていないなどとは言っていない、そんな暢気な友人を茶化す気分になったのか、慎二はさらに続けた。

「ただ、将来的には桜の子供にこの知識も渡る事になると思うのだけどね、どうだい衛宮は、うちの入り婿にでもなってみる気はないかい?」

 びきり、と場が固まった。
 同じ頃、少々衛宮家とは距離の離れた間桐邸、その地下では虫にたかられながらも「兄さんグッドです」と親指を掲げる姿があったかどうかは定かではない。

「──ハ、冗談だよ、衛宮。でもそんなに驚かれると、是が非でもくっつけたくなってくるね。くく、お爺さまに今度話を持ちかけてみようか」
「な、止め、結婚とか俺らの年齢には早すぎるだろ!」
「いえ、シロウ、結婚はむしろ早い方が良いのです。成熟してから雑念が湧くのは当然の事、若いうちの美しい記憶、理想をどれだけ互いに持ちえるかがその後の安定を決めるのですから」

 割って入ったのはセイバーだった。どうも一家言あるらしい。
 なるほど、とさらに話に乗っかる慎二。狼狽える衛宮士郎。
 深刻な話から一転して妙な流れになってしまい、初めは笑顔で取り繕っていたものの、次第に耐えられなくなった遠坂凛が爆発した。

「あー! もういい加減に、今は聖杯戦争中だってのを思い出しなさい!」

 なりふり構わぬ大音声により、取り留めの付かない話は終わった。
 肩をすくめた慎二は、びっくりした様子の衛宮士郎に向き直る。

「どうだい衛宮、この猫かぶり具合」
「……慎二、その辺にしとかないと、何と言うか……お前暢気にしてるけど、横で遠坂の魔術刻印がぎゅんぎゅん唸ってるからな」
「……ねえ遠坂、神秘は秘匿するものじゃなかったのかい?」
「ふふ、大丈夫ですよ間桐君、しっかりきっちり息の根を止めて秘匿しますから。そろそろ貴方も海が恋しいでしょうしね、灰は灰に、海草は海底に」

 そんな事を物騒な笑みで言いながら指を突き付ける遠坂凛。現実への干渉力が高まりすぎ、慎二の目にすら見えるほどの濃密な魔力が指先の周囲を歪ませる。

「……え、衛宮、僕は今平凡な一市民として冷徹な魔術師の生贄にされかけているんだけど、お前ってこういうの許せないんじゃなかったっけ?」
「ごめんな慎二……力不足で」

 人としては歪みを抱えた衛宮士郎でも、怖いモノはあった。
 遠坂凛も溜飲を下げたのか、指先の魔術を消し、その指を天井に向ける。

「ふん、冗談よ。大体ここで攻撃魔術なんて使ったらセイバーにばっさり切られちゃうしね」
「ええ、いずれは剣を交えるとはいえ、今は一時停戦の状態。暗黙のもの──とはいえ約定破りには剣で償わせるのが戦場の習わしです」

 常在戦場を体現しているかのごとく、セイバーは極めて自然な動作で手を元の位置に戻した。

「まあとりあえず、今は衛宮君の問題が先ね。これほど知識が無いなんて思わなかったし……そうね、埒があかないし、行きましょうか、聖杯戦争をよく知っているヤツの所に」

 ◇

 冬木市の東側、新都の少々郊外に行った所に教会がある。
 地方都市には過ぎた、とさえ言える立派な教会。冬木教会とも、神父の名から言峰教会とも呼ばれるそこ。丑三つ時も迫った深夜、四人の人影が建物に続く坂を歩いていた。

「にしても、慎二が一緒に来るなんて意外だったな。てっきり、こんな寒い中、何が面白くてそんな辺鄙な場所にハイキングしなきゃいけないんだ、とか言って帰るかと思ったけど」
「……衛宮、暗に僕に帰れと言っている?」
「ええ、衛宮君の後は任せてもらって、間桐君は帰って頂いて構いませんよ、魔術師でもない貴方には堪える寒さでしょう?」

 遠坂凛はにっこり笑って辛辣な言葉のナイフを刺し。

「いやなに、ご心配どうもと言いたいけど、これでも鍛えているんでね。そちらこそそんな薄着で大丈夫かい? そんなにイライラする日に冷えは禁物なんだろ?」

 慎二は揶揄を込めた迂遠な一撃を返し。

「おあいにく様、外れよ。にしてもそんな下品なことを言うなんてね、貴方に優雅の文字は遠いものかしら」
「外れね。ああ、つまり普段からそんな余裕無くカリカリしているんだ、いや大変だね色々逼迫してて、同情するよ心の底から」

 衛宮士郎は後ろで繰り広げられる舌戦をどうすればいいか途方に暮れ、流れを変えようと友人の言葉の中でふと覚えた疑問をそのまま口にした。



「な、なあ慎二、鍛えてるって何か新しくやり始めたのか? 復学してからお前帰宅部だろ」
「ん……ああ。まあ、ね」

 どこか歯切れ悪く頷く慎二に、遠坂凛が攻める隙を見つけたとばかりに目を細めた。

「あら、鍛えてるって聞こえたけど空耳だったかしら、ねえ、間桐君は弓道もすっぽかして何をやり始めたの?」
「……古武術を少々ね」

 苦虫を噛みつぶしたような微妙な表情をし、饒舌な彼にしてはひどく控えめな言葉を吐いた。
 それは師──と呼べるかどうかは判らないものの、間違いなく間桐慎二を変化させた男性の口癖を真似たもの。
 上り坂も終盤に差し掛かり、教会の姿が見えてくる、その一番の高所に据え付けられた鐘も──
 慎二は目を細め、束の間思い返す。
 かつて「人類に福音をもたらす鐘」チャペル計画などというものがエグリゴリ内に有った。人工的な天才を生み出す実験だ。それにより生まれた子供、チャペルの子供達。エグリゴリへの叛旗を掲げようとし、それすらも出来なかった。
 ギャローズ・ベルでの戦いの後、地下通路を経てグランドキャニオンまで逃げたまでは良かった。ただ、そこに待っていたのは、キースシリーズの中の最も若い存在、チェシャ猫のアームズを身に秘めたキース・グリーン。そしてエグリゴリ旗下の殲滅部隊。
 慎二はこの時まで力に酔っていた。元々欲しかった力でないにしろ、人より遙かに強く、呆気なく他を滅ぼせるアームズという力に酔わないわけがなかった。ただ、ある一点。人臭い……とも言えるのだろう。ユーゴーという惚れた女性を守るという事が重要だったために暴走せずに居られたに過ぎなかった。
 守れると思っていた、守りきれると思っていた。それだけの力を得たと思っていた。
 キース・グリーンに、まるでついで、といったような扱いで、いともたやすく解体されるまでは。
 次に目が覚めた時、協力していたはずの四人の姿、天才児や一番守りたい人の姿は無く、アメリカの雄大で荒々しい大地には妙に似合っているような似合っていないような、スーツの男の姿があった。
 何、単身赴任のしがないサラリーマンさ、などと人を食った事を言う男は、とても物知りだった。アームズの事を知り、エグリゴリを知り、間桐慎二の突き当たった壁の事すら知っていた。
 二人はしばらく共に旅をした。
 旅の最中、慎二は様々な話を聞き、とんでもない冒険をくぐり抜け、あるいは男の使う技を教わった。
 その技は表に出すようなものではない。技というよりは業。魔術のように歴史の影で在り続けた技。忍術なんて古臭い技。
 何故行きずりの自分に教えてくれるのかと聞けば、素養が有る、それに私に教えられるのはこのくらいしか無いからねと笑っていた。何より、そのままでは異能の力に飲まれるかもしれない、そんな危惧からだと言う。最後まで語らなかったが、男には悔いがあるようだった。
 一度、心が折れた経験があったからだろうか。反復につぐ反復練習、慎二が普段あまり価値を置かない事をやれと言われてもどうにも逆らう気分にはならない。
 無論全てを教えられたはずはない、そんな時間もなかった。ただ自身の鍛え方については詳しく教えられたのだろう。全ての技術の根本となる体の使い方、精神の有りようさえ成っていれば、極論すれば後は我流でも十分、などとも言っていたものだった。
 ──彼は一体あの男のどこに惹かれたのか、と後になって何度も思う事となった。
 それはあるいはもしかしたら、慎二自身では絶対に認めないであろうけれども、それは既に死んだ実の父、鶴野に、見向かれもしなかった時間を埋め合わせようと……父性を求めていたものだったのかもしれない。

「シロウ、私はここに残ります」

 坂を登り切り、教会のある広場に出るとセイバーがそう言った。
 衛宮士郎が説得しようとするが、テコでも動きそうもない。

「良いんじゃないか、衛宮、遠坂と二人で行ってくればいい。僕もここで待つとするよ」
「え、慎二もか?」
「ああ、僕はこれからお前がどういう決断を下すか、聖杯戦争に乗るのか、乗るとしたらどうしたいのか、その答えを確認しに来たんだよ、教会にも神様にも用は無いんでね」

 寒いんだからあまり待たせるなよ、なんて言い、しっしと追い払うような仕草で教会に消える二人を見送る。
 しばらく無言の時が過ぎた。慎二はぼんやりと星空を眺め、澄んだ夜空に白い息を吐く。
 ふと、セイバーは着せられた雨合羽の下からどこか困惑の目で慎二を見、話しかけた。

「マトウシンジ、貴方は──サーヴァントを連れてきていないのですか」
「ん? ああ。そういえばサーヴァント同士は感知出来るんだっけね、その反応からすると霊体でも近ければ知覚できるって事か」
「はい、そして貴方の素振りや話しを聞くに正確に聖杯戦争を理解しています。こんな一時停戦など本来はまやかしそのものでしかない。貴方は私に斬り殺されるとは思わなかったのですか?」

 ふむ、と首を傾げ。慎二は指を二本立てた。

「理由の一点は、ライダーもまた傷を負っていた上、ちょっとした特殊事情でね、能力も落ちている。君と戦わせても絶対に勝てないってのは判りきっているからだ」

 正規マスターではない慎二はサーヴァントの能力を見る事は出来ない、ただ、ライダーを追い詰めたランサーをあっさりと追い払ったのだ。力の差は歴然だった。

「もう一点は、遠坂を殺さないからだね。あの時衛宮が止めたにしろ、間に合わなかった事にする程度は出来ただろうに。最序盤においてマスターとの関係を悪化させたくないという計算が働いたにせよ──まあ、見た目通り正規の英霊。堂々たる戦いを良しとする騎士さんって所かな、君はきっと自分が有利にある状態でなお卑怯な真似はしないし出来ないんじゃない?」

 ついでに言えば金髪は正義だ、とも慎二は内心で思ったものだが、それはさすがに口には出さなかった。

「まあ、聖杯戦争のついでぐらいに覚えておいて貰えれば良いんだけど、衛宮の家で言った通りうちは今回やる気が無いんだよね。ライダー自身も聖杯より別のモノに惹かれたみたいだし」
「……聖杯は求めていない、のですか」

 そうそう、と慎二は軽く流して話を続ける。

「ま、そんなわけでこの地に根を張る家の義務として、外来から入ってくるサーヴァント目当ての魔術師だの、柳洞寺で魂喰いやらかしてる魔女対策がメインなのさ、できれば戦いはその後にして欲しいかな」
「魂喰いを──! それは……マスターの意向次第ですが」
「ちょっと、間桐君、それは本当? いえ、でもそうすると学校の辻褄が……」

 いつの間にか教会から出てきたうちの片方、遠坂凛が聞きつけたのか、声を上げ、ついでブツブツとあーではないこーではないと呟いている。
 もう片方の少年、衛宮士郎は顔色が悪いようだった。表情もどこか固いものとなっている。
 妙な話でも吹き込まれたのかね、と慎二は「心に突き刺さる説法をする神父」の噂を思い出し、苦笑を一つ。無意味に髪をかき上げた。四年来の友人を前に問いかける。

「──それで、衛宮。お前はどうするんだい?」

 赤髪の少年はフッと息を吹き、呼吸を整え気分を落ち着かせると、慎二を真っ直ぐに見、言った。

「マスターとして戦う。聖杯戦争のせいで十年前の火災のような事が起きるというなら絶対に止める」
「あくまで魔術儀式によって起こる被害を無くすため? 聖杯は……まあお前のサーヴァントはともかくお前は欲しがりそうにないね」
「ご明察、だな」

 まったく、衛宮らしい、と慎二は肩をすくめた。
 四人で夜の町を歩き、帰る。慎二はここの所の昏睡事件を引き起こしているものと見られる柳洞寺の魔女対策の同盟をどう切り出したものか考えていた。
 魔女──と断定したのには理由がある。
 メドゥーサは元大地の女神だけあり、地脈の乱れには敏感だった。むろん、それだけではなく、使われるヘカテーの魔術による絞り込み、そして何より顔見知り程度には知っていたのが大きかった。
 慎二がライダーから聞き出したところによると、何でもポセイドンのパーティに誘われた時、紹介されたのだとか。ミノタウロス退治で有名な英雄テセウス、その時はまだ少年だったらしいのだが、ポセイドンの実子の彼は、アテナイの王、アイゲウスの養子となったらしい。そのアイゲウスの後妻に入った美人妻がかのコルキスの王女メディアだったという。のちにテセウスを毒殺しようとして失敗し、また他の国に逃れていったと伝え聞いたらしい。

 新都と深山町を隔てる橋を渡る、馴れ合いはお終いという事だろう、遠坂凛はセイバーと距離を取って歩いていた。ふと顔を慎二に向け、誤魔化しは許さない、とでも言いたげな瞳で睨みながら言う。

「間桐君、学校の結界は貴方?」
「お、ようやく気付いたかい遠坂、じゃあその意味も推理してみてくれる?」

 あまりに呆気なく認める慎二に肩すかしを食らった形の遠坂凛は何か妙なモノでも食べてしまったような顔をした。

「そりゃ、魔術師じゃない貴方が使っているんだから魂喰い以外の何があるってのよ……」
「遠坂、君はやっぱり魔術師からの見地ばかりだね。だから見逃しが多い。物騒な結界の中に魔術回路を持たない一般人と同じマスターが混ざり込んでるなんて誰が思う?」
「──隠れ蓑?」
「釣り餌でもある。悪目立ちするものは目立つというだけで策の一つなんだ。秩序を重んじる者はそれを何とか正常に戻そうとし、一般的な魔術師でもそれだけ目立てば気になって仕方無い、一度は結界の境界くらいは見に来る」
「周到ね──でも生徒が巻き込まれる可能性は考えてないの?」

「少なくとも一般人は早く帰りたくなるような暗示をライダーがかけてたはずだけどね。それに遠坂、間桐の通う学校なんて、魔術師からすれば怪しくて仕方無い場所だよ、人質も取りやすい。なら最初に抑えるのが筋だろう。外来の魔術師がうちの桜の安全と引き替えにサーヴァントを求めたらどうする?」

 あまり愉快な想像が浮かばなかったのか、眉をひそめる遠坂凛。
 それでも、と土地を管理するセカンドオーナーとしての義務もあり言う。

「それでも、よ。いかなる説明をされても、それが魂喰いの手段になり得る以上見逃すってわけにもいかない」
「──はあ、面倒臭いヤツだね遠坂。いいよ、アレの使用命令を出せないように強制(ギアス)でもかけるといい。こちとら魔力抵抗はないし、容易いだろうさ」
「ん……そうね。そうしておけば、って。えーと、衛宮君の目が痛いんだけど」
「当たり前だ遠坂、強制(ギアス)なんて魔術、なんで慎二が掛けられなくちゃいけないんだ」

 納得できないぞ、といった目で睨む衛宮士郎。逡巡し、ああもうしょうがないわね、と自棄になったように言い、溜息を吐く遠坂凛。

「……いいわ、見逃すわよ。こんなもので誤解されるのも癪だし。間桐君も私達に知られた時点でまな板の上の鯉って事は確かなんだし。でもね、あの結界の悪辣さを知れば衛宮君も理解ると思うわ。あんなモノ見せられたら二重三重の保険が欲しいに決まってるじゃない」
「結界内の人間を溶解して吸収なんて酷い結界だしね」

 さらりと言われた事の内容に衛宮士郎は始め理解が及ばず、やがてそれがどういうモノであるか朧気ながらも想像すると、慎二を厳しい目で見た。

「慎二、どういう事なんだ、それはさっき少し話してた魂喰いってのとも関係しているのか」
「んー、関係してるっちゃ関係してるさ。ま、その辺は自分のサーヴァントにでも後で聞いてみればいい。僕は説明が苦手だし何より面倒だ。ついでに僕の立ち位置も軽く話しといたから聞いておくんだね」

 話し込んでいるうちに交差点に辿り着く。
 坂道の上の交差点、三人の帰路への分岐点。

「さて、ここでお別れね。義理も果たしたし、曖昧な一時停戦はこれで終了。これ以上一緒にいると何かと面倒でしょ、きっぱり別れて明日からは敵同士ね」
「……む?」

 遠坂凛の言葉が衛宮士郎の琴線のどこかにひっかかったらしく、朴訥な顔を不思議そうにさせた。
 やがてなるほど、と言うように一つ頷き、どこか嬉しそうに言う。

「なんだ、遠坂っていいヤツなんだな」
「は? 何よ突然、おだてたって手は抜かないわよ?」

 慎二は面白いモノを見たという風で目を細める。あれは照れている、絶対照れている。遠坂に衛宮をぶつけるという発想が無かったものの、こういう事になるのか、なんて思いニヤニヤと眺めていた。

「ああ、知ってる、けどできれば敵同士にはなりたくない。俺、お前みたいなヤツは好きだ」
「──な、え」

 言葉を探し、結局見つからなかったようで、遠坂凛はそっぽを向いて黙り込んだ。
 慎二は腹を抱えて笑いたいものの、ガンドが飛んでくるのは間違いなく、それこそ盛大に下痢、嘔吐、頭痛に神経痛までまとめてセットで呪いを送られそうなのでそれはもう力を込めて笑いを堪えていた。もっとも呪いから症状に変わった時点で慎二の体にはあまり効かないモノでもあるのだが。
 遠坂凛は誤魔化すように、第三者、慎二から見ればそれはもう動揺しているのが丸わかりの様子で言い立て、その場を去ろうとし──
 その足が止まった。

「──ねえ、お話は終わり?」

 冷たく輝く月に照らされ、幼い少女はふわりと一歩を踏み出した。その後ろには圧倒的な暴力の具現。力そのものを体現したかのごとき存在。

「バーサーカー……」

 遠坂凛が呟いた。
 ライダー、セイバー、ランサー、キャスターは判明している、ならば遠坂凛のサーヴァントはアーチャーであり、眼前の巨体はアサシンにはまず見えない。簡単な消去法。

「……ふん、威容だけなら魔獣といい勝負だな」

 慎二の漏らした小さな呟きは誰の耳にも入る事が無く、また注意もされていなかっただろう。魔術師でもない一般人、それもサーヴァントすら引き連れていない。警戒される事もない路傍の小石。

「こんばんわ、お兄ちゃん。こうして会うのは二度目だね」

 衛宮士郎に微笑みかけ、遠坂凛に、こんな夜にはふさわしからぬお辞儀をちょこんとし、名を告げる。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン、と。
 そして、夜の妖精のような微笑みのまま、物騒な言葉を続けた。

「──じゃあ殺すね。やっちゃえ、バーサーカー」

 巨体が弾けるように飛び出した。
 坂の上から数十メートルを何ほどもないかのように跳び、超重量の斧剣を振りかざし──

「シロウ! 下がっていてください!」

 その着地点にセイバーが飛び込み、迎え撃った。
 さらに続いた二撃、押し飛ばされたセイバーの足元で削られた路面が埃となり舞い散る。
 追撃する巨人は勢いそのものを剣打と変え、打ち付ける。
 嵐、触れれば呆気なく散り飛ばされる巨剣の嵐。
 遠坂凛も衛宮士郎もその圧倒的な光景に飲まれ、それでもなお、遠坂凛は魔術師としての矜持からか、一秒にて持ち直し、魔術でセイバーを援護する。

「──くッ、なん……ってデタラメな!」

 魔術などものともせぬ、とそんな魔弾を無視し、セイバーに迫る巨剣。
 最優のサーヴァントと呼ばれるセイバーをもってすら真っ向から力でねじ伏せる規格外の存在。最初から劣勢ではあったものの、何とか食らいついていた彼女の全力の守りも──

「■■■■■■■■■■■──ッ!」

 言葉ですらない雄叫び、獣の猛る声と共に繰り出された斬撃で切り伏せられた。
 舞い散る鮮血、切り伏せられ、遠くに飛ばされるセイバーの姿。

「あは、勝てるわけないじゃない。わたしのバーサーカーはね、ギリシャ最大の英雄なんだから」

 勝ち誇る銀色の幼い少女。
 完全に蚊帳の外、認識さえされてないのではないか、というくらいに置いてきぼりにされている慎二は、顎に手を当て、それでも良いか、などと考えていた。これで呆気なくサーヴァントを失えば、衛宮士郎はある意味安全だ。この儀式に必要なのは英霊の魂であり、マスターではないのだから。聖杯戦争が終わるまで冬木から離れていればいい。アインツベルンも、まさかそこまでして執拗に追いかけはしないだろう。
 サーヴァントがやられた後、どう離脱しようかなんて考えていた慎二だったが。
 その思考の埒外の事が起きた。
 四年来の友人、度が過ぎるお人好し。
 衛宮士郎が全速力で駆け出し、自分のサーヴァントを押しのけ、バーサーカーへの盾となり──

「──は? お前……何、何やってんの衛宮?」

 腹をごっそりと断ち割られていた。
 あれは死んだな、と理性は言う。
 あれは致命傷だ、助からない、と思考は回る。
 感情は──

「なあ、サーヴァント、お前、さあ。僕の友達に……何をしてくれやがったんだ?」

 ──アームズ、と小さく呟き、久しく動かしていなかったグリフォンのコアに火をくべる。目前の魔術とは起源を同一とし、それでいて位相の違う、方向性さえ違う、科学により統べられた産物。生きる兵器にして生物とさえ言い難いそれへ我が身を置き換える。否、人という擬態を脱ぎ捨てる。
 慎二の変貌、その異様にバーサーカーの直感が告げたのか、斧剣を振りかぶり、慎二に飛びかかり、その巨剣を振り下ろし──
 その場にいる誰もが死を予感しただろう。ただの一般人があの音すら置き去りにした超重量の一撃、に耐えきれるはずがない。ミンチになる以外の運命があるはずがないと。

「──嘘」

 それは誰の呟きだったものか。
 バーサーカーはその斧剣を振り抜く事さえ出来ず、ただの素手、少なくとも見た目は。によって受け止められ、掴まれた剣身を動かす事さえ出来ず、その大木のごとき腕が震える。
 ばきりと、いとも容易く、素手で巨大な斧剣を握りつぶし、粉砕した。
 そして次の瞬間、黒い、翼を連想させる剣によってバーサーカーの腹は貫かれ──
 巨体が弾け飛んだ。跡形すらなく、散り散りに。

「間桐……君。何よその腕……」

 遠坂凛が呆然として呟く。
 そうだろう、間桐慎二という少年は当たり前の、何ももたない一般人だったはずなのだ。
 そのはずだった慎二の右手は黒々とした人のモノでは有り得ぬ形、強いていうなら剣、だろうか。幅広の、翼に似たブレードの形となっていた。

「──バーサーカー!」

 少女の叫びと共に、何も無かった慎二の眼前の空間から再び具現するサーヴァント。
 慎二が彼の主であるイリヤスフィールという少女に目を向けると、一飛びに距離を置き、主を守らんと、慎二と少女を結ぶ線上にその身を移す。
 その後ろでイリヤスフィールは赤い目を細め、初めて慎二を意識の中に置いた。

「あなた、何者? 実体をあれだけめちゃくちゃに壊したくせに霊体には傷一つ無い。マキリは肉体に成果を帰すっていうけど、そんなにまで……なってしまうのかしら」
「……ああ、やっぱり霊には干渉できないか、ま、解っちゃいたけど」

 アームズが霊体に効かないのは予測していた。科学では霊体を捉えきれないというだけでなく、四十五億年も昔に別たれた星の兄弟。言わばそれは最早異星系の力と言っても良く、神秘の在り方すら違うものだろう。法則が違い過ぎて噛み合わない。言うならば位相が違う。物質となっている肉体は壊せても霊核は壊せない。
 ただ、問題はなかった。位相の違う存在とするなら、こちらが決定的に霊体を倒せないと同時に、サーヴァントの切り札たる宝具、神秘の塊そのものもまた擬態を捨てたアームズには効かないという事でもある。ならばこそマスター殺しとしてはこれ以上の存在はない。
 その時、慎二は間違いなく殺すつもりだった。
 美しい、見た目は幼い少女だとしても関係がない。
 聖杯戦争などどうでもよく、ただ目の前で友人を殺されたから殺す。衛宮士郎はそんな事を望んでいなくともだ。
 その死体を視界の端に留め、驚きに目を見開いた。
 呆然としたセイバーの腕の中で、腹の傷が再生しだしている。少なくとも内臓は出来、顔色は夜目にも死人のそれではない。
 ならば、と地面に腕のブレードを突き刺し、超震動を発動させた。
 そして後ろに大きく跳び離脱。

「バーサーカー! 追いなさい!」

 というイリヤスフィールの声に応えようとし、バーサーカーは足場そのものが無くなっている事に気付き、その直感からか後ろに飛んだ。

「やれやれ、やりにくいね。正解だ。この辺りは未遠川が昔流れていた場所でね、少し揺さぶってやるとこの通り」

 ブレードを突き刺した部分を中心にアスファルトが割れ、しみ出た水、泥が流れ出る。地下を通る配水管でも外れたのか、ごんという重い音がした。

「半径40mに渡り液状化を起こさせた。底の無い泥を泳いで渡ってみるかい? その時はケンタウロスをなぞらえ君の守りたいものでも狙うとでもしようかな」

 ネッソス、ヘラクレスの妻を川渡り中に犯そうとし、ヒドラの毒矢で射殺されたケンタウロスの話だ。弓兵でもないヘラクレスに少女は守りきれない。

「さて、ここは分けとしよう。もうじき人の起き出す時間だ。セイバー、衛宮と遠坂を」
「マトウシンジ……はい、了承しました」

 何かを言いかけ、今言い出す事ではないと思ったのか、セイバーは衛宮士郎を抱え、遠坂凛を連れて衛宮家への道を走って行く。
 そして慎二は最後に坂の上で眼光鋭く睨み付けるイリヤスフィールに向かい、答礼するかのごとく、右足を引き左手を横に出し、手品師が場を後にする時のごとく演技めいたお辞儀を一つした。体にぴたりとつけた右手は既に人のものとなっている。口元には挑発するような笑み。

「さて、それじゃ僕も失礼させてもらうよ。手品は種が割れないうちに退場するものだしね」

 人の形ではあれど、人の身体能力では有り得ぬ速さでその場を後にした。



[38049] 三話目
Name: わにお◆054f47ac ID:32fef739
Date: 2013/07/31 02:56
 呵々、と笑う声が地下室に響く。
 モルグを思わせる無数の死体、それを囓り、滋養とし、蠢く無数の虫。
 その中心部の石畳で愉快そうに、さも愉快そうに翁は笑った。
 一年間行方不明であった子孫の一人、間桐の血を絶やさぬためだけに生かしておいた子孫。魔術師としての素養が一切無い間桐の末裔。
 元より翁には彼に対して興味もない、失ったら失ったでよく、戻ったなら戻ったでよい。既に精通時より胎盤に対し用いるために十分な量の精気は抜き取ってある。次代に生まれる者の世間体としての父親役さえやってくれるならば四十ほどまでは面倒を見、後は虫の苗床にでもすればよい。そんな程度にしか考えていなかった存在。
 それがなんと──
 カカカカと際限なく笑い声が響いた。
 老人の声、人の声でありながらそれはどこか虫の鳴き声を思わせる。
 足元ではきちきち、きいきいとその笑いに唱和するかのようにそぞめく虫達。

「なんとのう、なんとのう。あ奴、血を継ぐのみにしか使えぬと思っていたが、よもやまさかあのような体になっておったとは。カ──一年の間に何に巻き込まれたものかのう。まあよい、まあよい。理解できぬものなどには用は無い。じゃがあの力、駒とするならほどよいかもしれぬ。ふむ──」

 翁は、翁の姿をしたそれはつと地下室の一画、腐臭の漂う魔の洞でもひときわ濃い瘴気の漂うそこを見、少し趣向を変えるかのう、という呟きと共に──
 官能の呻きを漏らす鎖に吊られた少女が、一層身を悶えさせ、苦悶と悦楽の叫びを高々と上げる。得体の知れぬ膿のごとき汁気を吐きながら顔を振りしきり、四肢を泳がせ、やがて意識を消失したのか力を失い、ただ鎖に揺られるのみとなった。その力無く開いた口から、少女が飲み込んだとはとても思えぬ大きさの百足に似た虫が這い出、翁の体にじぶじぶと沈んでゆく。
 いかなる情報を得たのか、翁は、ほう、と感嘆を含んだ息を吐いた。

「ふむ、ふぅむ、こちらも中々に馴染んでおる。次回にはこやつも間に合うまいしの、胎盤は別に用意するとして、ここで使い潰すもまた良しか。なれば、綻びが欲しい所じゃが、むう、衛宮の小倅、遠坂のアレを使えばよいか」

 思案に暮れている翁の耳に突如として、その場に絶対に有り得ぬはずの声が届いた。

「お爺さま、あまり場を引っかき回さないで欲しいな。次の聖杯戦争に賭けるんじゃなかったっけ?」
「──慎二。有り得ぬ、ワシが知覚出来ぬと?」

 翁の声は警戒感が溢れ、虚ろな眼はぎょろぎょろとその姿を探すかのように蠢く。

「いや、本当魔術師って裏をかきやすいね。自分が特殊だと思い上がって技術を知ろうとしないからそうなるんだよ」

 声のみが地下室に響く。それなのに地下室全体、否、間桐邸の敷地全てにさえ張り巡らした翁の知覚に一切かからぬ異常。

「ハハ、悪役の間桐家らしいお約束の種明かしといこうか。その地下室に入るための通路、その天井裏にはお爺さまが留守の間にちょっとした無線設備を付けてあってね」

 無論、本来無線などが通じる場所ではない。魔術師の工房というもの以前に、密閉された地下室、石造りの空間、これほど無線の通りにくい場所もないのだ。科学は地下に対して地上ほど万能ではない。
 ただそれもデジタル無線の技術が進むにつれ、解決されていった。現在ではトンネル工事など、地下作業では欠かせない技術だ。
 地下へと続く通路と慎二の大きい窓のある部屋、二点を有線で結び慎二の部屋に中継器を、蟲倉には受信し、発信する端末をどこへでも隠しておけばいい。魔術的存在で無いからこそそれは異物とさえ感知されない。種を明かせば少々学生には厳しいとはいえ、金があれば作れる子供騙しの単純な仕掛け。

「──むう、驚かせおるわ。電信が始まったのは二百年程も昔となるか。その雑音を嫌い地下へと篭もったものも多かったが、もはや地下の石倉ですら安息が無いとはのう」

 妙な感慨でも感じたのか、どこか疲れた溜息を漏らす翁。

「ま、本当はこんな事のために使うつもりは無かったんだけどね。全く予想外だったよ。見ていたんだろ? 衛宮の奴とんでも無い奴でさ、まさかサーヴァント庇うために命張るとは思いもしなかったよ」

 苦笑する慎二。翁は眉をひそめてその言葉を聞く。ほとんど意識の隅にさえ無かった子孫、間桐桜の調教にでも役立てば十分、マキリが一般人としての体面を取り繕うための擬態になれば十二分、翁からすればそんな風に無造作に分類していた無力な子孫のはずだった。
 その上、用心深い翁はそのまったく無力なはずの慎二にさえ、いざとなれば殺せるよう、虫を仕込んでいる。本人すら知るまい、破裂させれば毒となり、瞬く間に人を死に追いやるものだ。
 あの妙な力を使うために首をすげ替えてもよい。人の支配など翁にとっては造作もない児戯だ。再び間桐家に戻ってからも、数度、本人の知らぬ間に魔術で眠らせ、虫を作る触媒を抽出した事もある。抗魔力はやはり一般人のそれであり、魔術回路は一本たりとも通っていなかったはずなのだ。
 優位に立っている。何代目か以前に交わった薄い混血の先祖返りでも起こしたか、多少サーヴァントを凌駕する身体能力があったところで、翁には、間桐臓硯にはまず問題など有り得ない。
 ──なのに何故、こうも悪い予感がしてくるのか。蟲の翁、五百年を生き抜いた魔術師だからこそ、抱けたモノ。到底認められない予感。

「ところでお爺さま、この声が届くって事は誰かがスイッチを入れなければならないんだけど、その意味するところは……さすがに解るよね?」

 考えてみれば当たり前の事。電気器具とはそういうものだ。そしてその意味する事を理解する前にその声は響いた。

「ライダー、書を破棄する。本来のマスターを守り、全力で離脱しろ」

 紫の影がこれまでにない力強さで顕現し、無造作に縛めを断ちきり、大事そうに本来のマスターである桜を抱える。一瞬の間に蟲倉の扉を突き破り、どんな獣でも追えないだろう迅さで離脱した。

「有り得ぬ……慎二よ、令呪まで無くしてわざわざ桜を出すじゃと? 狂うたか?」
「さあね、ただまあ、僕にこういうのを仕込んでくれた人はどうも容赦が無くてね、やるなら圧倒的に、迅速に、隠密に事を運ぶのが良なんだそうだよ?」

 読めない思考に、困惑を、それ以上に薄気味の悪さを翁は感じ──次の瞬間、思考する間もなく、地下室の遺体諸共に、不可視にして魔術でも捉えきれない現象、超震動により分子の域まで崩壊した。

 時代を刻んだ洋館、巨大な邸宅が轟音と共に倒壊した。
 当然だろう、地下を念入りに、一階部分と敷地一帯を幅広く広域震動によって壊したのだ。支えの無くなった建物が耐えられるはずがない。
 倒壊は実際にはわずかの時間だった。その音を聞きつけ、何事かと近所の人間が駆けつけるまでまだ時間があるだろう。
 深夜も更け、地面に近づいて来た月に照らされた、間桐邸であった瓦礫の中心にあるは、どこか鳥を模倣したかのような巨人の姿。
 グリフォンのアームズの最終形態。グリフォンのAIにプログラムされた取るべき形。震動、波長への干渉能力を最大限に発揮できる姿。兵器としての形。
 かつて自分が欲しかったものの残骸。一面の残骸を黒い影は見つめる。
 この屋敷で、自分は何も与えられず、義理の妹は苦痛のみを与えられた。
 この屋敷で道具でないものなど無かった。魔術への研鑽すら忘れ、歯車の壊れた止まれない狂った老魔術師の為だけにある虫の巣。
 結局はその使役されるべき道具により壊されてしまった老人の箱庭。

 ◇

 イリヤスフィールとの邂逅、バーサーカーの戦闘を経て、衛宮士郎の体が無事に再生した事のみを確認した慎二が次に思考した事は、己の家、間桐家──その地下に潜む影の当主の存在だった。
 既にライダーには霊体化し、蟲倉へ行かせ端末のスイッチを入れてもらっている。
 魔術での通信手段を持たない慎二なりに一応聖杯戦争に参加するにあたって形だけでもと設けておいたものだ。
 あの戦いを物見高い間桐の翁、臓硯が見ていた可能性が高い事は慎二とて承知の上だった。だからでもあるまいが、慎二は別に聖杯戦争においてアームズを使う気などはさらさら無かったのだ。
 セイバーや遠坂凛に説明した間桐慎二の立ち位置は別に嘘でも何でもない。彼自身は聖杯に託す思いなど無いし、ひとまず手の届く範囲で静穏を保とうとしていただけに過ぎない。鮮血神殿も囮であり、餌であり──二人には語っていない部分では実効性のある罠でもあった。むろんいざという時の手段ではあったが。かつて旅路を共にしたこともあるオリジナルアームズ適合者達と天才少年アル・ボーエン、その出会いを聞いた事もある慎二は、学校という閉鎖空間の危険性は最初から頭にあった事だ。
 聖杯戦争の帰結も、それなりに興味はあった事だが、そう大層なものではなく、十年前の火災のようになっては困る、という程度だ。そもそも魔術を感じ取れない慎二には英霊も聖杯も書物にある第三魔法もあまりに意味がなさ過ぎる。かつて燃え尽きた執着、魔術師の真似事、自嘲と少々のおかしみを含めて、この魔術士達の宴に臨んでいたはずだった。
 友人が巻き込まれ、あろうことか呆気なく死にかけるまでは。

「あー、冷静さを失ったら負けは決まりだ、なんて言ってたな。確かに。僕もホントまだまだ青いね」

 怒るなら冷静に怒れば良かった。そうすれば衛宮士郎の容態をもっとよく確認してから別の手も打てただろう。アームズなんて異能の力、目立ち過ぎればブルーメンが飛んで来てそれはもう面倒な事になるだろうし、また目立たなくとも選択肢を狭める事になる。
 そして案の定、と言うべきか。
 無線機から聞こえてくる間桐臓硯の声、まず聞かれる事など無いとタカを括り習性のようになっている独り言。魔術では有り得ぬ奇怪な力を見せた子孫をどう用いるかを思案する声。その後ろから聞こえる義理の妹の嬌声。苦悶の叫び。やがて鎮まり、ぼそぼそと呟かれる翁の声。
 胎盤は別に用意するか、と思案していた。此度で間桐桜は使い潰そうと。
 その言葉、その意味を理解し、一瞬悩んだ。間桐桜は自身の殻に閉じこもっている。慎二と最初に会った時からそうだった。最初はそれの意味する所がわからず、ただ哀れな奴、可哀想な奴として手をとってやろうとした事もある。ただそれも、三年前、偶然地下室を発見してからというもの、変化した。彼女の言う「ごめんなさい」の意味が逆転した。もっとも──今現在、冷静に物事を見れるようになってからは、それこそ自分の思いこみでしかなかった、とも理解しているが。
 彼女に対する慎二の複雑な感情は今もなお燻っている。
 自分を持ちえなかった間桐慎二と、殻の中に篭もったままの間桐桜。兄と義理の妹という関係でありながら、おそらく本来の意味では二人は顔を合わせてすらいない。慎二は自分を持ちえたけれども、桜は殻に閉じこもり、衛宮士郎の前でのみ、わずかに顔を覗かせる程度なのだ。
 それでいいのか? と慎二は自問し、良くは無い、と自問に答えた。こんな中途半端なままに終わるのは嫌だと。
 ならば、と一息の間に思考を回し、慎二は皮肉に自分を笑う。多分これが初めての兄らしい行動になるのだろう。彼女の義兄となり十一年、本当にグズだったのはどちらだったのか。
 彼が間桐邸に近づくための時間稼ぎ、その一連のやり取りを終え、燃える偽臣の書を投げ捨てた。間桐邸の地下室から桜を抱えて飛びだしてきたライダーの眼前に飛び降り、念のための処置を伝える。理があると認めてくれたのか、静かにライダーは頷いた。

「シンジ、貴方はこれから?」
「──ん、何、ちょっと先祖の後始末をさ。ライダーはそうだな、衛宮ん家にでも行っててくれ、セイバーが出てきたら距離を置いてね」

 相変わらずどこか放り投げたような調子で言い、ライダーに背を向ける。服の繊維が破ける音、まばたき一つの後、ライダーの眼前には人から幻獣に身を変えた、黒々とした半人半鳥、アームズという兵器の背中が存在していた。
 慎二は地に穴を穿つ程の力で蹴り、グリフォンの名の通り飛翔とも言える跳躍を見せ、間桐邸の中庭に着地する。アームズの完全開放状態であるならば、もはや身を縛る法則そのものが違う、重なりながらもずれていた位相が完全に外れる。珪素生命はこの星のモノでは無いがゆえに、魔術という神秘からは認識されず、慎二からもまた認識することが出来ない。物質を以てのみ干渉できる互い違いの影法師。
 両腕の震動子(トランジューサー)はすでに励起状態、範囲を補足、空間内に超震動を発生、外縁部に波形の違う、打ち消す震動を用いる事でより精細な破壊とする。
 地に両腕を抉り込ませ──発動。破壊は一瞬だった。
 かつてのグリフォンの適合者、キース・レッドがより広範囲、高出力、無造作な破壊者のそれであるならば、慎二の力の用い方は研究者のそれだっただろう。より精緻に、より精密に。必要な場所に必要な分の力のみあれば良い。足りなければ増幅すれば良く、震動を得意とするグリフォンならそれを機能的に制御すれば良い。その思考の在り方、それが魔術師とよく似たものになっていったのはどのような世の皮肉か。

「──ハ、はは、ハハハ!」

 振りしきる瓦礫を前に、一日前まで住んでいた我が家を前に、間桐慎二、この町の誰もがその異形を慎二だとは理解できないだろう姿でもって、笑う、嗤い、嘲う。
 ぴたりとその笑いも止め、陰鬱げな声を出した。

「は、ここまで悲しくも虚しくもないのか。本当に僕は──ここに何も置いていなかったんだな」

 倒壊の轟音も鎮まり、ただ月夜に照らされる間桐邸だった瓦礫をしばし眺める。
 その残骸の光景を目に焼き付け、慎二は音もなくその場を後にした。

 ◇

 ──坊やは子供なんだねえ。
 聞きようによってはとても腹立たしい事を言われた事がある。
 ただ、言った当人が既にベッドから起き上がる事さえできない、老婆だとしたらどうだろう。
 年齢差を比較すれば、なるほど子供と断じられても仕方がない。
 ──ふふ、そういう事じゃないよ。坊やは坊や自身を見つけたばかりさ。うんうん、それで喧嘩して泣かされてしまったのだろう?
 グランドキャニオンのあの戦闘を喧嘩なんてレベルで言うならば、まあ。その通りと言わざるを得ない。間桐慎二はあれだけ人並み外れた力を得て、なお強い力で呆気なく、本当に呆気なく負けてしまった。泣いてはいないけれども。
 ──そういう所が坊やだってのさ。いいかい、坊やは未だ無色のまま。何にでもなれるんだ。この年で、この大きさでそんな何にでもなれる子なんて滅多にいやしないよ。
 なりたいものなんて決まっている。欲しくて守りたいものが出来てしまった。不覚ながら。
 ──剣と盾。坊やの欲しいモノはそれかい? 本当に子供だね、でもだからこそ精一杯走りなさいな。ただね、本当に欲しいものを掴みたいなら何も持たずに素手で一生懸命掴み取りなさい。坊やが欲しいのは常に人なのでしょう。人は好きな人を両手で抱くものなのだから。
 ママ・マリア。ハーレム地区の聖母と呼ばれる、盲目の老婆。心の奥底まで読むというリーディング能力を持つ存在。
 キース・グリーンにあたかもついでであるかのように刻まれ、失意の中、しがないサラリーマン、なんて怪しい名乗りの男に付き従い、訪れたのだ。
 思えばその通りだった。
 力なんて世界を何度滅ぼせるほど持っていても、意中の女性を振り向かせる事だって出来ない。
 そんな事、あまりに判りきった事。判ったつもりになっていた事。それでもその時はやっぱり判っていなくて──
 ユーゴーは、最後に、ごめんなさい、と本当にすまさなそうに言った。
 藍空市の白く輝く凍り付いた世界、アリスと共に去ったらしいオリジナル達。アザゼルの木。
 そんな神話もかくやという光景の中、最後にぽつんと、言葉が響いたのだ。失ったと思っていた、彼女の声。そして、これが本当の喪失だと理解した。
 義理の妹には何度も同じ言葉を言われ、一度は間違えて、一度は思い込んで──そしてその時ばかりは間違えずに正しい意味でそれを理解できたと慎二は思っている。
 だから彼も、震えて泣きじゃくる内面を必死で押しつぶして、精一杯の虚勢を張って言い返したのだ、いいさ、と。ちっとも良くなんてない、納得なんてしていないのに。
 男の意地なんてさもしいものを張ってしまったのだ。

 日差しが顔にかかり、軽く酩酊していたかのような頭が動き出す。
 細く開けた目に飛び込んできた風景は見慣れた洋室のものではなく、梁がわたされた日本建築、体の下の固くざらついた感覚はいつものベッドでなく畳のそれ。
 慎二は長くなった髪を鬱陶しそうに後ろに撫でつけながら欠伸をした。
 居間に据え付けられている時計を見れば時間はどうやら昼には届いていないようだ。
 適当に引っ張り出して勝手に着用させてもらっている友人のジャージを野暮いなあなどとも思いながら伸びをし、体をほぐす。

「──おはよう、間桐君。起きぬけの所悪いんだけど、結局何がおこったのか、分かり易く、明確に、四百文字以内で説明してくれないかしら」
「こりゃ、朝からご機嫌だね、遠坂」

 明らかにどんよりと濁った笑み、ニコリというよりニゴリと背景に映りそうな凄まじい笑みを浮かべ、遠坂凛はその笑みのまま無言で指を突き付けた。しかしさしもの慎二も一年前の慎二ではない。己の立つ場所を探しもがいていた慎二ではないのだ。なまじの男ならばここで根をあげるだろう、腹を晒してみっともなく尾を垂れるだろう。だがしかし、だがしかし──
 どん、と銃弾に撃たれたかのような衝撃が額を襲い、慎二はもんどり打って倒れた。

「痛い! 痛い!」
「──返事が遅い」

 おにがいた。
 軽く体内のナノマシンにお仕事をしてもらい、通常なら致死していてもおかしくない程の症状を取り除く。強烈過ぎる、この女猫被りとは思っていたけど、久留間恵並に強烈かもしれない、慎二もそんな感想を抱き、両手を上げて降伏宣言をする。

「──で、家に帰ったら間桐の家がサーヴァントに襲撃されてて、桜を連れてここに逃げ込んだと」
「そういう事だよ、少なくとも僕とも桜とも親しい衛宮くらいしか頼みの伝手が無いし、いずれは戦うとしてもひとまずはマスターの意向を確認してから敵対します、ってセイバーも言ってくれたしね」
「ああ──それで。衛宮君の様子を確認して戻ってみたら居間でグースカ他マスターと桜が寝ているし、見つけた瞬間今回の戦争用に持ち出した宝石でばっさりやりそうになったわよ」
「何とも……らしい判断だよ。で、衛宮の方はどうだい?」
「傷口は完全に再生。意識はまだだけどね。信じられないレベルの蘇生魔術よ、あんな自動治癒なんてかけられるならそれ以前死にかけないし、どうなってるんだか」

 とはいえ、慎二もマキリの魔術は頭に入っているとはいえ、他は基本的な知識のみ。そちらは専門外とばかりに肩をすくめる。

「ま、それはそれとして、衛宮が起きてくる前に桜の左手隠しておいてくれない? 対価はその情報で」
「──ああ、やっぱりね。今更聖杯がそんな古い老人を選ぶかと言うと微妙だし、やっぱりそうだったんだ」

 眠そうな顔で、それでもどこか嬉しげな様子で、間桐桜の左手の浮かんだ花弁のごとき令呪の上に、さらさらと模様を描き、ポケットから取り出した小粒のルビーを取り出し、小さく呟く。
 魔力を持つ他人の体に干渉するには大変なのだという。少し疲れを感じたように、遠坂凛はふう、と小さく溜息を吐いた。
 慎二は多分気付いただろうなと思い、言う。

「で、何か聞きたい事が出来たんじゃない?」
「そうね、二、三あるけど……とりあえず疲れているから一つにしておくわ。なんでこの子は夢魔の眠りなんかに入っているの?」
「良い所をついているけど、それはライダーの宝具。体内の魔を封じてもらってるのさ、眠りや夢は副次的なモノらしいね」
「そう、毒林檎でも食べたの桜は?」
「さあ、もっと悪いものかもしれない。一応一般人と思われてたはずの僕にさえ毒虫が仕掛けられていたしね、これは念のための処置ってわけ。一つ聞くけど医療系の魔術が得意な知り合いとか居ない?」

 慎二がそう聞くと、酷く嫌なものを食べたような渋面になり、遠坂凛は黙り込んだ。
 別に狙っていたわけでもないのだろうが、居間の障子がゆっくり開き、酷く調子の悪そうな衛宮士郎が
壁にもたれかかるように入って来て、先程の嫌な顔をしれっと押し隠し、取り繕った笑顔に戻した遠坂凛が声をかけた。

「おはよう、勝手に上がらせてもらってるわ衛宮君」
「……な」
「や、衛宮、勝手に上がらせてもらってるよ、桜も一緒だけど、まあこいつは忘れておいてくれよ」
「……え、いや、慎二それは」

 と、そこで遠坂凛がにっこり笑い、衛宮士郎に待ったをかけた。

「話の前にまず謝ってくれない? 昨夜の一件についての謝罪を聞かないと落ち着けないわ」
「昨夜──の、あ、え?」

 衛宮士郎が自らの腹に手をあて、顔を歪めている。

「ヘンだ、何だって生きてるんだ俺」

 慎二はここまでボケる友人にもはや笑いがこみ上げてきた、蜜柑貰うぞ、と宣言して食器棚付近に置かれている箱から冬の名物を一つ出す。
 性格からか、妙に丁寧に剥いた蜜柑を一かけ口に放り込み、遠坂凛と衛宮士郎の漫才に似たやりとりを見物──していると、急に慎二に二人の顔が向く。

「……なんだい?」
「慎二、お前、慎二だよな」

 衛宮士郎がこれまたストレートなようで別の意味でストレートな言葉を放つ。
 相変わらずの調子に、慎二はくつくつと笑った。

「そりゃ僕は慎二だよ、間桐慎二だ。四年来の友人を見忘れるなんて酷い奴だよ」
「あ、いや、そうじゃなくてだな」
「いいわ衛宮君、そういうのはもっと限定して聞かないとはぐらかされるだけだから」

 横から遠坂凛が慎二を厳しい、嘘は許さないぞ、と言いたげな目で見る。

「貴方生身でバーサーカーみたいな規格外の攻撃を受けて見せたわね。あれは何?」
「ふーん、それは先の頼みの代価って事で良いかい?」

 慎二の返した言葉が考えの外だったのか、遠坂凛はきょとんとした顔をした。ついで、そんな顔を晒した事を恥じたのか、少々頬に赤みを乗せ、頷く。
 ふむ、とどう自分の事を話したら良いのか、と考え、慎二は再び蜜柑を一かけ口に放り。

「一言で言っちゃえば改造人間」

 と一瞬言おうとしたものの、さすがにこれではふざけすぎているかと思い、普通に説明する事にした。別段改造人間でも嘘ではないのだけども。
 そして、エグリゴリだのブルーメンだの、検索すると危ないキーワード、ギャローズベルの戦いや、暗い事、悲しい事を避けて第一形態への変化も含めて説明すると──

「……おお、なんかすごいな慎二、変身ヒーローそのものか」

 などと小さく興奮を見せ、ブレードをコンコン叩いてくる衛宮士郎。信じる信じられないより、まずその手の感情が上回ったらしい。
 ただ、一息ののち、きっと慎二もこうはなりたくなかったんだろうな、とでも思ったのか、表情が沈む。その横には。

「ナノマシンって何、ケイソセイメイ? 何でプログラムで人が居られるの? 第三要素と第二要素はどこいったの?」

 などと頭を痛そうにさすりながらブツブツ呟く遠坂凛の姿があった。
 ひとまず、そちらには疎そうな遠坂凛に、血を吸わない死徒のようなモノと説明すると、すっきりと納得してしまったのは慎二としても少し首を捻らざるを得ない。

「まあ、世の中表に出てる紛争とか戦争の裏ではこういう科学技術が生まれていたらしいよ。ハハ、魔術も肩身が狭くなったものさ」
「でしょうね、バーサーカーなんてとんでもない力を受け切っちゃうくらいなんだから」

 遠坂凛がどこか呆れたような調子で言葉を挟んできたので、慎二は思い違いを正しておこうか、と頬杖をついて、蜜柑をもう一かけつまんだ。

「あの時は別に力で力に対抗したわけじゃない。このアームズの特性でね、準備さえしておけば触れる以前の距離から分子結合を緩ませる事ができる。特にサーヴァントは実体化させる際に非常に綺麗に分子を編むんだろう、均一に固められた砂をばらけさせるがごとく簡単だった。まあ、霊体に触れない以上、無理やり霊体化させるようなものだろうさ、そういう意味では僕自身には絶対にサーヴァントを殺せないね」
「──なによ、それでもサーヴァントが盾にならないとしたら、マスター殺しとしてなら反則に近い強さじゃない」
「まあ、そりゃね。でもまあ。多分そんな事やろうとすると、口うるさいのがいる、ここに」

 ひょいと慎二が赤毛の友人を見る。

「ああ、当然だ。慎二に人殺しなんてさせないし、止めるぞ」
「ほら? まあうちも完全に潰れて寝泊まりする場所探してる都合上、家主の心証は悪くしたくないしね」
「……ん? 慎二、何か凄い言葉が挟まってなかったか?」
「そう何度も言わせるなよ衛宮、昨日間桐の家が襲撃受けてね、丸ごと損壊しちゃったんだ。今の間桐邸はただの瓦礫の山だよ」

 衛宮士郎は驚きで固まり、真面目な顔になって慎二に言う。

「怪我人……とかは大丈夫だったのか?」
「大丈夫大丈夫。お前も知っての通り、あそこには僕と桜の二人しかいないから。爺さんは別の管理地に行ってたしね」

 ひらひらと手を振る慎二、衛宮士郎は眠りにつく間桐桜を見て、腕を組む、心配症だねえと心で呟き、さらに言葉を続ける。

「ライダーによる睡眠だよ、こいつは荒事には無縁なんでね、家を出るときに眠らせておいたんだ」

 しれっと誤魔化す慎二に、なるほどと頷く衛宮士郎の後ろで、白々しい、と言いたげな目を作る遠坂凛。

「ま、それでどうかな、衛宮。聖杯戦争の間、僕と桜をちょっと泊まらせてくれないかい? 正味の話、僕は特殊な体をしてはいるものの、魔術とは縁遠いし、結界の一つも張れない。おまけに妹もできれば近くに置いておきたい。遠くにやったつもりで人質にでも攫われたら本末転倒だしね。この家に置いてくれるなら同時に聖杯戦争の同盟者としての協力も約束するよ、何だったら──」

 ふむ、と一泊置いて慎二は考え深げに顎を撫でる。

「桜が体で払うから是非置いてくれと、念話が来た」
「あんた、魔術使えないでしょうがーーッ!」

 かつての妹を売り渡そうとする男に懲罰を与えんがため、あまりに早い瞬速のガンドが慎二の頬に炸裂し、襖に汚い花を咲かせた。
 遠坂凛、慎二を死徒のようなもの、と分類してから突っ込みに容赦がなくなったものらしい。



[38049] 四話目
Name: わにお◆054f47ac ID:32fef739
Date: 2013/07/19 00:31
 それは異例と言っても良い。
 どこかぐだぐだとした、なし崩しと言っても良い形のまま、遠坂、衛宮、間桐の同盟が作られてしまっていた。遠坂凛については慎二に情報の代価として、医療魔術を使える知り合いへの仲介の労をとるまで、そんな一時的な停戦に近い形ではあったけれども。
 この殺し合いの最中にあって、本来同盟という形すら難しい。あるとしても疑心の中に探り合い、共通の敵対者を滅せば次の瞬間からは敵対するようなもののはずだった。
 少なくとも十年前に起こった四回目まではそうだったはずだ。
 暗闇で暗闇を覆い隠すような聖杯戦争という魔術儀式、魔術士達の狂った宴。そんな中、闇の中の灯籠のように、ただぽつんと、場違いのようなお人好しが居る。
 慎二が行方不明になってから、できれば毎日の手伝いでもして不安を紛らわせたいと言い、二年弱にも渡って衛宮家に通っていた間桐桜、そして元から友人であった間桐慎二を泊めさせる事には、家主の衛宮士郎もそう抵抗はなかったようだ。
 離れにある客間を使ってくれとの事なので慎二はありがたく使わせてもらう事とし、崩れた間桐家──どうやらガス爆発したという事になったらしい、その瓦礫の中から必要な品を回収して運び込む。教会に被害報告を先んじて入れていたせいか、大きな事件にはなっていないようだった。
 一通りの打ち合わせをし、昨夜から一睡もしていない遠坂凛は実家で少々の休息を取り、のち合流。昨夜は歩いて行った冬木教会へタクシーで到着したのは日も暮れかけ、夕日に町が染まる頃だった。

「まさか、連日でここに来る事になるなんてね」
「僕は会った事がないが噂ではかねがね。ただ治療魔術の心得のある神父とはね、ゲームのキャラかい?」
「……はっきり言っていいわよ間桐君、私もアレはエセ神父だと思っているし」

 自らの師をずたぼろにけなす遠坂凛、その嫌そうな口ぶりとは裏腹に動作はきびきびと、躊躇いなく扉を開ける。
 礼拝堂は広く、席も多い、荘厳と言っても良いかも知れない。地方都市にはもったいないほどの教会と言えるかもしれない。
 無人の礼拝堂を過ぎ、奥まった私室のドアをノックする。
 やがて扉を開け、姿を見せたのはどこか不吉さを覗かせる、カソック姿の神父だった。

「ふむ、このような時間に珍しいものだな、凛。夕の礼拝には少々早いが」
「どちらかというと用は私じゃなくてね、こっちよ」

 そう言い、慎二を押し出す。ただ神父の目はその背中の少女に向けられていた。

「──ほう、これはまた。変わった患者を連れて来たものだ」
「ええ、見て欲しいの、この子の体を」
「……遠坂、それは僕が言う台詞じゃ」
「ごめんなさい間桐君、その台詞だけは奪わせて貰うわ」

 慎二はまじまじと遠坂を見、言峰神父はいかなる性根を刺激されたか、口角が吊り上がりかけ、いかんいかんとばかりに真面目な顔に戻した。ふむ、とばかりに間桐桜を預かると、奥まった部屋の診療台に横たえる。

「して、患者の容態はどうなのかな? 私も暇では無い、すぐに済むなら済ませ、務めに戻りたいのだがね」
「ああ、それなんだけどね神父さん。うちの爺さん、間桐臓硯の事はどれだけ知ってるかな?」
「ふむ、凛が間桐君と呼ぶならば、君はマキリの嫡子、という事で良いのかな。質問に答えるとするならば、かの翁の事は通り一般の事と、五百年もの昔より生息しているという事だろうか」
「へえ──調べたね神父さん。話が早くて良い。昨夜うちが何者かに襲撃されて家潰れたのは連絡した通りだけど、そうなると、うちの爺さんの事だけに色々心配があってね」

 言峰神父はうっそりと頷き。さもあろう、と言った。

「かの翁が滅ぼし尽くされた……とも思えんが、なるほどつまりその心配とは、少女の中の異物かね?」
「慧眼恐れ入るよ、本当にどこまでうちの術について調べたのだか。まあ、今はこいつの意識もろとも、体内の魔を宝具で封じてる状態なんだけど、肉体のどこかに、体内の虫、刻印虫が多いかな、それに指令を下す中枢、あるいは爺さんの命令を受ける受信部があると思うんだ。多分どこかの肉か神経と一体化していると思うんだけどね、診てもらえないかな」
「なるほど、魔術師として枯れても知識は継承されていたという事か。かつ、実家が壊滅的な被害を受けてなお予定調和のごとく泰然としている。ふむ、師殺しでもしたのかね?」
「……こちらに興味持たなくていいから、どうか教会の監督役として治療を頼まれてくれないかな?」
「監督役──という立場であるなら見返りを求めるぞ。聖杯戦争のマスターを治療するのならば公平でなくてはならん」

 令呪一画を貰い受ける、という交換条件を飲み、二人は教会を出る。何でも日曜の夕方礼拝がこれから始まるそうで、間桐桜も危急の事態というわけでもない事から、施術は夜、という事になったのだ。
 聖杯戦争中という危険さを鑑み、神父は礼拝が終わるまで教会に残っていたらどうかね、などとも言っていたが、遠坂凛が渋面を隠さずにまさか、と言い外出する事になった。
 教会の広場を抜け、朱に染まる夕暮れの中、礼拝に訪れた人々に逆らうように坂を下り、小さな喫茶点を見つけると、遠坂凛は、時間潰ししましょと言い、そこに入る。
 からんころんというどこか鈍い音、古い映画に出てきそうな鈴の音が鳴る。店内はあまり際だった飾り付けなどもなく、素朴な木の風合いを生かした、洒落てはいないけれどもゆったりと落ち着ける空間だった。
 にこやかにいらっしゃいませ、と声をかけてきてくれた初老のマスターに聞き、新都のビル群が見渡せる北側のテーブルに席を取る。慎二はコーヒー、遠坂凛は紅茶を注文し、互い違いの香りのそれが運ばれるのを見計らい、ことりとテーブルの上に小指大の水晶を置いた。
 慎二はまるでそれを感じ取れないながら、何となく察しをつけて、コーヒーをのんびり啜る。

「その様子からすると結界?」
「ええ、席の仕切りを使った簡易的な。見られるのはどうしようもないけど、音は漏らさないし、それを異常とも感じさせない。急ごしらえだけどね」

 そして言葉を途切れさせ、どこか誤魔化すかのように遠坂凛は紅茶を一口含んだ。

「──で、桜は結局どうなってるのよ」
「迂遠な質問だね、遠坂。遠坂と間桐は不可侵、古い盟約を破るのがそんなに気になるかい?」
「……安い挑発はしないでちょうだい、間桐君。魔術師だからこそっていうものもあるのよ」
「確かに、僕に判らない感覚には違いない」

 慎二は肩をすくめた。芳醇な香りを放つコーヒーをブラックのまま一口飲み、時間を確認する。礼拝が終わるまで時間はある。なら、取り留めのない話をするには十分だろう。

「遠坂、君にちょっとした身の上話をしてやるよ。いつの間にか養子に貰われてきた妹の話も含めてね。ハハ、退屈はしないだろうさ。鬱屈はするかもしれないけどね」

 そして慎二は話しだした。古い盟約など最初から自分には無関係、とでも言うように。
 いつしか間桐の家に入ってきた養子、彼が最初は見下し、次いで容認し、最後は全てが自分の独り相撲であった事を気付かされた妹、桜の間桐家での日々を交え。
 慎二自身も三年前までは気付きもしなかった蟲倉での鍛錬。
 繰り返される拷問じみた鍛錬。魔術師としての資質の高さゆえに、壊れず、自らを守るために殻の中に閉じこもる以外すべがなかった間桐桜。
 魔術師を育て上げるためのものなどでは決して無く、ただ次代へ繋ぐ間桐の胎盤への調整作業。

「──ま、僕もその辺の詳細は頭を冷やしてから調べた時に判った事なんだけど。全く困った話さ、間桐家は巨大な飼育箱、生まれるものも育つものも全て臓硯という飼い主のために生きるっていうね」
「……そう」

 遠坂凛の呟いた言葉は簡潔にして静か。
 ただそこに押し込められた感情は余人には知れないものだっただろう。
 その全てを、もう冷めた紅茶と共に一飲みに下し、言った。

「それで、それだけじゃないんでしょう? 刻印虫、とか言っていたわね」
「耳ざといね、人工的な寄生虫、爺さんお手製の魔力を食う寄生虫が桜の体内に潜んでいる。魔術刻印と化し、全身の神経に絡みつく形でね。で、問題はこいつが寄生してる対象の魔力が尽きると、その肉を食らい始めてしまうって事さ」
「なによそれ……いえ、ということは普段は活動していないのね」

 慎二は無言で頷き、肯定する。
 相変わらず好きに覗いても良いとされていた書庫には間桐臓硯の記録した桜の教育記録も存在し、無論慎二もそれに目を通した事はある。十一年にわたり淡々と記録されたそれを、目の前の静かに目の奥で憤怒を燃やす少女に見せつけたらどんな顔をするだろうか。ふとそんな嗜虐心のような悪戯心のようなものが湧いて出そうになり慌てて蓋をした。

「それそのものの根本的な部分は僕も判らない。桜をマキリ寄りに作り替える過程で偶然そうなったかもしれないし、必要があったためにそういう風になったのかもしれない。ま、問題はそれがある以上、常に爺さんの手の平に命が乗ってるって事だね」

 腕を組んで頷く遠坂凛。ふと何か疑問を覚えたのか、ねえ、と切り出した。

「その肝心の間桐臓硯はどこに居るのよ、衛宮君に説明したのは嘘なんでしょ?」
「うん? ああ、そうだね。多分家と一緒に潰されて死んだとは思うけど……ね」

 肉体を失っては魂は形を保てない。いかに慎二の攻撃手段で魂や魔術などといったものに干渉できなくとも、問題はないはずだった。通常の魔術師であるならば、だが。
 義理の妹に次いで、間桐臓硯という異様な存在の近くで生きてきた慎二には、一抹どころではない不安がある。それについては言峰神父と慎二の意見は同じだった。あの程度で間桐臓硯という存在が滅ぶはずがないと。

「まあ、いいさ。まずは目先の事だ、桜の体内の魔を封じられたのもライダー有っての裏技だしいつまで使え──」

 慎二の言葉が不自然に途切れた。
 遠坂凛がどうしたのよ、と不思議そうに言い、慎二は諦めた様子で溜息を漏らし、後ろを見ろ、と促し、振り向いた遠坂凛は、固まった。

「綾子……」
「お、気付かれちゃったか、遠坂。ふふ、楽しい時間を邪魔しちゃったみたいで悪いね」

 いつの間にか、と言って良いだろう。遠坂凛の後ろの席で快活そうな笑みを浮かべた少女が、スポーツバッグを無造作に席に投げ出し、ココアをふーふー冷まして飲みながら珍しい二人組を眺めていた。
 無論若年ながら優れた魔術師である遠坂凛の事、慎二に注意された時点で結界は瞬時に停止している。
 さらには一瞬で固まった顔を取り直してみせると、髪をかき上げ言った。

「あのね、綾子、多分その、勘違いしているだろうけど」
「いいっ! みなまで言わなくていい、いいから遠坂! くうーッ! 燃えるじゃないか、一年間失踪していたかつての同学年とのロマンス、あー、こりゃあ賭けは私の負けかな」
「……綾子、判ってて言っているでしょ?」
「そりゃ勿論。間桐と遠坂、珍しい組み合わせではあるけどね、色気のある話じゃないんでしょ?」
「──ハ、そりゃそうだよ美綴、僕の好みは金髪なお姉さんで、遠坂の好みは赤髪の同い年なんだからさ、全く噛み合いようもないね」
「間桐君、口は災いの元……なんていう言葉は貴方の辞書に無いのかしら?」
「ハハハ、なるほど弓道部によく顔見せていたのはそんな理由かい、いや得心した得心した。でもあいつは誰がどう見ても100%朴念仁で出来てるから難関だよ? うちの部自慢の大和撫子のアプローチだって、どこ吹く風だしね。まあ遠坂なら何とかしちゃいそうだけど」

 弓道部の主将を務める美綴綾子、女丈夫という言葉がぴったりな少女はどうやら日曜の部活帰りのようで、時間が余ったために郊外に繰り出していたらしい。颯爽と掻き回し、颯爽と去ってゆく。
 ただそれだけだったのだが、彼女が去った後、妙に陰鬱になっていた空気は吹き散らされていた。

「……毒気抜かれちゃったわ。さすが綾子ね」

 微苦笑、というのが正しいだろう、ほのかな笑みを浮かべ遠坂凛は窓の外を眺め、すっかり暗くなっているのを確認すると、振り返り時計を見やった。

「礼拝も終わる頃だね。さてと、そろそろ恒例の名物、冬木のサバトの時間だ、友人としては美綴にも一言注意してやった方が良いんじゃない?」
「ふん、私が言ったって綾子の性格だもの、聞くわけ無いじゃない……ん、まあ。そのうち言っておくけど」

 小声で何ぞや言い足した遠坂凛の言葉を聞き流し、慎二は難儀な性格だね、と心で呟いた。

 ◇

 冬木市らしく、どこか暖かい、冬らしくない風の吹き抜ける夜。
 高台の上にある教会の礼拝堂、少し時間を遡れば多くのものが神に祈りを捧げたであろう場所で二人──遠坂凛と間桐慎二は長椅子の端と端、という奇妙な座り方をしながら神父の見立てが済むのを待っていた。
 その沈黙を打ち破るかのように、遠坂凛がなにげなく声を出す。

「そういえば間桐君、曖昧なままに済ませて来ちゃったけど……間桐邸潰したのは貴方なんでしょ?」
「面白い冗談だね遠坂。無力な学生、いや、ただの留年生にそんな大それた事出来るわけないじゃないか」
「……白々しいわね、大して隠そうともしてない癖に。まあいいけど。それで、貴方の家のお爺さまの縛りが無くなったら、その後はどうするつもりよ?」
「さてね、その後は桜に聞いてくれよ。今の僕は仮のマスターですら無いんだぜ。ま、あいつの事だから衛宮の事だけは最後まで守るように、なんて言いそうなもんだけど」

 自分がどうしたいかを最後まで出さない慎二に遠坂凛は溜息を吐く。

「あんたみたいに、何考えてるか判らないくせに干渉するだけの力はあるっていうのもまた厄介なのよね……いつ横槍を入れられるか判らないし。大体ね、遠坂の家には昨夜アーチャーが居たのよ? 鷹の目を持つ、ね。自称死徒もどきさん」
「……あー、なるほどね。突っ込みに容赦が無くなってるわけだよ」

 どこまで見られていたかはともかく、慎二が適当にはぐらかしてきた事は遠坂凛には既に知った事であったらしい。その上で知らない振りを続けていたのだからこれはまた──

「ハ、なーるほど、誰それが女狐なんて口癖のごとく言うはずだ」
「……その誰それ君には、今度よくお話をしておく必要があるわね」

 にっこりと完璧な微笑みを浮かべる遠坂凛。それは別に友人なわけでもなく、どちらかというと彼とは疎遠な関係にある慎二すらも、小声で南無三と呟くがごとく笑みだった。
 会話も途切れる事しばし、祭壇の裏の扉が開き、大柄な、影を纏ったかのような姿の神父が姿を現した。

「綺礼──桜は?」
「ふむ、まず落ち着け凛。診た結果を言おう。もっとも……間桐慎二、だったか。君は可能性の一つとして考えていたものかもしれないが」

 言峰神父は礼拝堂の中程に立ち、手を腰の後ろで合わせると、一泊置き、話し始めた。

「さて、簡潔に言ってしまえば、間桐桜の内部には情報通り、無数の魔術刻印とも化した刻印虫が存在していた。この説明は要るかね凛?」
「待ってる間に聞いたから結構よ」
「なるほど、では続けよう。この刻印虫が活性化するには恐らく宿主である間桐桜、主人である間桐臓硯、そして簡単な命令による自動活性があるはずだ。そして間桐桜の体内では心臓と脳髄、その二方を中心とし、刻印虫が全身に根を張り巡らしている」
「……脳髄は宿主の桜から伸びるモノだとして、心臓? 外部から命令を受けるには微妙ね」
「ああ──そう」

 慎二がどこか不吉に頬を歪めながら、吐き捨てた。
 彼には思い当たりがある。否、似た事例を見た事がある。
 魔術とはまるで無関係ながら、アームズの特性を介してクローンであるものの、我が息子の肉体を乗っ取った男。進化の幻想を追い求め、最後にその幻想に踊らされていた自分を知り滅んでいった男。

「その通りだ、外部から命令を受けるならば、心臓は最も不適切と言える。肉体の中でも外部からの加工が難解な部位だ、如何にかの老人と言えども操り人形の糸を結びつける事は難しかろう。ならばこそ、自ら潜り込めばどうだ?」

 遠坂凛はその言葉を理解し、絶句した。それは既に人の身すら捨てた業ではないか、と。

「位置は巧妙、左心室の肉壁に一体化する形で寄生している神経瘤の塊だ。封じられていなければ見つける事も困難だっただろう。これを摘出するだけなら容易い。だが、摘出した後を埋める肉が必要となる。そこで凛、お前の助けがあれば十全に救えるだろう。魔力の馴染みやすさも変質したとはいえ群を抜いて馴染みやすいはずだ」
「回りくどい言い方は要らないわよ綺礼、手伝えばいいんでしょ」
「ふむ、試みに聞くが、本当に良いのか、凛。相手は聖杯戦争のマスターだぞ?」
「良いって言ってんでしょ。もう一人も二人も同じ事なんだし、ぱっぱとやっつけて桜には盛大に高い貸しを作ってやるわよ」

 ずんずんと祭壇の奥へ歩いて行く遠坂凛と、どこか不味いものを食ってしまったような顔をした神父がその後を追うように姿を消し、再び礼拝堂は静寂が戻る。
 そして施術に赴いた二人と入れ替わるように、慎二の前に長身の美女の姿が現れた。

「──シンジ」
「ん? ライダーか、桜の傍に居た方が良いんじゃないの?」
「いえ、治療中はかえって私が邪魔になりかねませんから。実体化したのは……鮮血神殿の解除をしても良いか聞こうと思いまして」

 慎二はまじまじと目前の女性を見る。その不思議そうな様子にもライダーは何か? とでも言いたげに沈黙を保っていたが。

「律儀だね、お前は。僕にはもう支配権は無いってのに」
「サクラの事で最も良い道筋を作ったのはあなたですから。指示を仰ぐとするなら他にいません」

 その言葉に慎二は何か捻った言葉でも言おうとして結局何も言えず、小さい溜息で代えた。

「リスクだらけだったし、本当に良い道筋かどうかなんて、判ったもんじゃない。まあ、鮮血神殿についてはもういいよ、使ってる魔力が勿体無いんだろ」

 慎二は手をひらひらと振って答えた。
 そして数分してなお霊体化しないライダーの顔を見て言う。

「霊体化して桜の魔力消費抑えた方が良いんじゃ?」
「……シンジはつれないですね」

 不満げに唇をそばめてふわりと影は消える。
 再び静かになった礼拝堂の高い天井を何となく眺めながら、慎二はただぼんやり、これからどうしようかと先行きに思いを馳せていた。
 そして時間は少々経過し──
 たまに郊外に足を伸ばすのもまた良し、面白いモノを見れたとホクホク顔で帰路に着いていた弓道部の主将、スポーツバッグを下げた少女が新都中央のベンチで、ふと……うたた寝から目を覚ました。
 覚ましたかと思えば真っ赤になった顔で口を抑え、信じがたいとでも言うかのようにきょろきょろと周囲を見回す。恥ずかしさに耐えかねるかのように自宅に向かって、力の入らぬ足で走り去った姿があったのは、また、余談というものだったかもしれない。

 ◇

 間桐桜は全てを諦めきっていた時があった。
 腐った泥のような臭いのする地下室、痛みと苦しさと痒さと気が狂うような気持ち悪さばかりの魔術の鍛錬。すり潰し、すり込むような体への調練。
 なまじ魔術の素養があったからこそぎりぎりで心は留まった。
 精神はいつしか防衛のためか殻を作るようになり、全てを諦め、何も感じない、無感動に生きるだけの存在となっていた。
 間桐桜の心の殻に罅が入ったのはいつからだったろうか。
 四年前、夕暮れの中馬鹿みたいに高跳びに挑戦する少年をただ見ていた時だろうか。
 しばらく経ち、兄の紹介でそんな馬鹿みたいな挑戦を続けていた先輩と再び会った時だったろうか。
 義兄が行方をくらました事を引き合いに、衛宮士郎に同情心を誘うように根気強く呼びかけ、初めて合い鍵を手の平に渡された時だったろうか。
 眩しくて。
 そんな眩しい先輩に触れたくて。
 間桐桜はいつしかその人の前でだけはおっかなびっくり、自らの殻から心を覗かせるようになっていた。
 それは酷くちぐはぐな存在だったのかもしれない。人並みの知性もあり、理性もあり──ただ心だけは過去にぴったり閉じた、養子に出されたばかりの間桐桜だったのだから。
 万全無欠であった殻は無くなり、再び痛みも苦しみも間桐桜を苛むようになった。ただそれでも、彼、衛宮士郎と一緒に居る間だけは、それを忘れ、人として生き、人として育ち、人として笑える事すらできるようになっていった。
 ただそんな、人として生きていけた二年間も、時期外れの聖杯戦争などというものにより陰りが見えた。
 マスターは全員殺せ、サーヴァントは全て奪え。執念、もはや怨念とまで化したかのごとき翁はそう言う。
 しかし──彼女にも、何もかも諦めていた間桐桜も。一つだけは諦められないものが出来ていた。
 衛宮士郎、彼女の先輩の腕に浮かび出した令呪となるべき痣。彼とだけは戦えない。
 間桐桜は再教育の恐怖、ともすれば聖杯戦争が終わる時までずっと耐え続けなければいけないソレへの恐怖心を堪え、怯えて萎えて居竦んだ心を精一杯張り詰め、小さく抵抗した。自分は戦えない、義兄にサーヴァントは譲る、と。
 一年間姿を眩ましていた義兄は以前とは違い執着心が薄くなっていた。魔術に対するこだわりすら薄れたようで、サーヴァントを使い、聖杯戦争に参加せいという翁の声にもどこか張り合い無く返すのみ。
 それならそれでいいだろう。きっと義兄の事、早々に退場するに違いない。そうして監視役に保護されればきっと生き残れる。
 そんな自分すら騙せない欺瞞をもまた感じながら──

 間桐桜が目覚めて最初に感じたのは違和感だった。
 日常的にその身を縛っていたもの。幼い時から繰り返しすり込まれた服従すべき存在。
 無意識に胸に手を当てる。
 おじいさま、と口は動いたかどうか。
 間桐家における絶対。
 逆らってはいけないもの。
 間桐桜の心臓に潜む、間桐の本当の当主。
 それが消えていた。跡形もなく。マキリの業として体に叩き込まれた虫達の支配権は全て宿主である間桐桜に渡っている。
 その事への喜びもなく、ただ困惑と、それが新たに施される調教の前ぶれなのではないかという予測に、いつものように静かに諦め、小さく息を吐く。お守りのようにそっと、先輩、と呟いた。

「……あーハイハイ、桜。衛宮君が大事なのは分かったから、起きたのならとっとと目を開けなさい。夢は覚えてないでしょ」

 有り得ない声が耳を打った。
 蟲倉では絶対に聞こえてはいけない声。聞こえるはずのない声。
 間桐桜は一瞬の硬直ののち、錆びたおもちゃのようにゆっくり瞼を開ける。
 目に映ったのは薄暗い石壁ではなく、まず見た事のない天井。無表情に佇む黒い長身の神父。そして──

「遠坂……先輩?」

 震えの混じる声に遠坂凛は苦笑し、一体何年ぶりになるのだろうか、などという感慨も抱きつつ、そしてその感慨をおくびにも出さぬよう細心の注意を払いながらその、何てことのない言葉を口にした。

「おはよう桜、よく眠れた?」

 間桐桜は二度三度とまばたきをすると、まったく状況の掴めぬ困惑は困惑のままに置いておき。どこか懐かしい気もするその言葉にぼんやりとした頭で、はい、と返した。

 遠坂凛の説明で間桐桜も現状を理解するも、まるで感覚が追いつかない。
 一夜にして何もかもがひっくり返ったのだ。
 十一年の時にかけて間桐桜を縛り続けた老人は小さな虫、螺旋を描く胴体を持った小さな脳虫としてガラス瓶の中で身を震わせている、苦痛を与えられ続けた暗い部屋は間桐の家ごと瓦礫と化したのだとか。
 一体、間桐桜の十一年間は何のためにあったのか。

「すいま……せん。私まだ、上手く頭で整理……できなく、て」
「──ええ、そうでしょうね。理解るなんて言えないけど。ただ、それでも桜には決めて貰わないといけない事があるの。判ってるんでしょ? ライダーとのラインも通常のそれに戻っているはずだし」
「はい。でも私は戦い、は……」
「間桐君がすでに衛宮君に同盟申し込みしちゃってるけどね、聖杯戦争中、自分と桜の居候先になる代わりに力を貸すって」

 な、と絶句した。聖杯戦争とは別の部分で間桐桜は顔を赤く染め、恐る恐るといった感じで遠坂凛を見上げる。

「そ、それで、せ、先輩は……」

 遠坂凛は、潤んだ瞳に紅潮した頬、不安げに胸の前で結んだ手を震わせる血の繋がった妹の姿に、思わず心の中であざとい、でも可愛い、なんて駄目な思考を走らせつつ、そんな内心は表面には出さないよう、こくりと頷く。

「客間の片付けをして待ってるみたいだから早く戻って安心させてあげる事ね」

 遠坂凛は、ああもう嬉しそうな顔しちゃって、と頭の中で言い、表面上は目を細めるのみに留めた。
 その空気をどこか鬱陶しがるように、言峰神父は無機質な声をかける。

「さて、問題も解決したならば、服を着、行くのだな。代価としての令呪一画は確かに受け取った」

 ◇

 夜の新都を歩く。
 間桐桜と慎二の間に会話は無い。元々屋敷では慎二の方から声を掛けない限り、間桐桜の方から話しかけてきた事すらほとんど無い。一年の空白の後の慎二は気紛れに声を掛けてみる事もあったが、やはり反応は淡々としたもので、自分を閉ざしたものでしかなかった。
 自然と会話も遠坂凛と慎二とのものになり、それはどこか緊張感を胎んだものになりがちで。例えばそれは未遠川にかかる冬木大橋を渡りながら。

「この橋のアーチなんて限定空間と切り札を使うに易しい幅の大きい川。へえ、なるほど考えてみりゃ、騎兵の狩り場に案外良いのかもしれないな」
「狙撃の良い的でもあるわね。良い事を教えてあげるわ、アーチャーの射程は1キロメートルは優に越すわよ」
「なるほどね、ただ遠坂邸からじゃちょっと距離が有りすぎるんじゃない?」
「間桐君、私はサーヴァントを同伴させずに出歩ける程剛胆じゃないの、それにサーヴァント同士が反応する距離なんてアーチャーの射程範囲からすれば小さいものだしね」

 暗に、常に自分を含めアーチャーの射程内に置いていたと言う。
 無論の事ただのブラフ。セイバーの一撃で重傷を負ったアーチャーは遠坂邸で休ませている。咄嗟の守りとして使うためには令呪が必要となるだろう。
 ただ、慎二はそんな所には反応しない。

「剛胆じゃない、ねえ? 確かに、確かにその通り……くく」
「言いたい事ははっきり言った方がストレスにならないわよ間桐君」

 そして間桐桜はというと、急激にすぎる状況の変転と、何故か会話のことごとくが妙に緊張感の走る義理の兄と実の姉の間に挟まれ、目を白黒させていた。
 やがて工事中の看板と、間桐桜が今着せられている服のような虎柄のポールで閉鎖された交差点に差し掛かり、遠坂凛は、さて、と仕切り直すように髪をかき上げ、二人に向き直って言う。

「じゃあ、ここでお別れとしましょ。明日からはお互いにすっぱり敵同士──ただ、そうね。霊地を管理するセカンドオーナーとして許せない相手、好き勝手してくれてる連中を相手にする分にはその時に限ってだけは協力してあげるわ」
「ふうん、気付いていたかい。じゃあ補足しておくと、ここの所の事件を引き起こしている魔女は柳洞寺に巣を張っているよ。学校の結界、ライダーのモノはさっき解除させたし、明日から学校が始まるけど、魔女に親しい人でも狙われないように自前の結界でも張っておく事だね」
「そう、ま、情報提供は感謝するわ。勝手に言い出した事だし代価は出さないけどね」

 貧乏性だねえ、と慎二は頭の中でふとよぎったが、自らのデッドエンドを招きかねない言葉を出す愚行はさすがにしなかった。

 ◇

 夜もそう更けていない時間帯のせいか、他の聖杯戦争参加者からの襲撃を受ける事もなく、慎二と間桐桜、二人は何事もなく衛宮邸に到着する事ができた。
 武家屋敷のごとく重厚な門の前で、間桐桜は逡巡し、どこかおどおどと慎二に話しかける。

「その、兄さん。私の事……あの、先輩には?」

 慎二は思わず呆れの溜息を吐きそうになってしまいそうにもなったが抑えて、ちょいちょいと腕を指した。

「令呪、見えなくされてる事にそろそろ気付けよ桜。マスターと悟られないように魔力抑えるくらいは出来るんだろ」

 やがてその顔に理解の色が広がると、それでも言葉ではっきり言って欲しかったのか、慎二に問うような目を向ける。衛宮が絡むとこれだ、と慎二は頭を掻き、面倒臭そうに言った。

「衛宮はお前の事を全く知らないよ。聖杯戦争で家が襲撃受けて、一般人のお前を眠らせて運んだ事になってるはずさ。ただ、そういうのはどうやったってボロは出る。衛宮だって馬鹿だけど頭の回りが悪いわけじゃない。魔術師である事を明かすなら早いうちだろうね」
「……はい、あの……兄さん」
「礼を言うなら遠坂だね、何だかんだで過剰なまでに肩入れしてったわけだし。ほら、衛宮の家に入るならそれよこせ、妙なもの抱えてたら怪しまれるだろ」

 慎二はそう言いながら間桐桜が持っていたガラスの瓶をとりあげる。乱暴に動かされたせいか、瓶の中から情けない声が上がった気がした。
 五百年を生きた老魔術師、その本体である脳虫が入れられたものだ。こうなっては長年間桐を支配した爺さんも形無しだなと慎二は指でガラスを弾く。
 結局のところ、間桐桜は怨み骨髄と言っていいはずの間桐臓硯すら殺さなかった。
 無表情ながらどこか微笑を含ませ「そんな事すると正義の味方が怖いですから」などと言って。
 虫も殺さぬような顔をして、本当に虫を殺せなかった。
 あるいはそれが迂遠な間桐桜の復讐か。
 今度は飼育箱で飼うのは間桐桜であり、飼われるのは間桐臓硯という。逆転した主従関係。
 いずれにせよ慎二に理解できる感情ではない。
 一つ肩をすくめ、玄関のチャイムの前で自分の中のスイッチでも切り替えるように、大きく深呼吸する義理の妹の姿を見る。
 ふとどこからか香ばしい煮物の香りがした。

「あ、これは肉じゃがですね。そっか、もう藤村先生も来てるんだ」

 ふわりと、口調まで変わった間桐桜が独り言半分にそう言い、えい、とチャイムを鳴らす。
 特に鍵もかけていなかったらしく、無造作にドアを開け、お邪魔します、と言って上がり、どこか楽しそうに、脱ぎ散らかされた教職の誰かの靴を丁寧に揃え、何か一つ思いついたものか、慎二に微笑みかけ、言った。

「いらっしゃいませ、兄さん」

 慎二もそれには軽い驚きを覚える。次いでなるほど、と。きっと慎二の見た事のない間桐桜がこの家ではずっと存在していたのだろう。

「……ハ、お前もなかなか言うね、桜。じゃ、お邪魔するよ」

 はい、と頷く間桐桜は慎二の記憶にある衛宮士郎と共に弓道部の練習に向かう楽しげな姿とはまた違う、生きた姿だった。間桐の家では見た事のない顔。
 兄として……なんてやっぱり今更だったかね、などと無粋な真似をしてしまった気分にも囚われながら、慎二は義妹の後に続くように廊下を歩く。
 強くなる料理の香りは和。そして聞こえる居間の賑わい。
 こういう席に慣れない慎二も思う。なるほどこういうのもたまにはきっと悪くない、と。



[38049] 五話目
Name: わにお◆054f47ac ID:32fef739
Date: 2013/07/31 02:54
 週の始まり、月曜日。
 ライフスタイルも多様化しているとはいえ、この日が週の働き始めになる、という人は多い。
 朝食をとる時間も無かったのか、商店街で買ったらしいサンドイッチをバス待ちの時間の中に食べる会社勤めの壮年。
 前日が休みだったからと羽目でも外しすぎてしまったのか、アルコールの抜けきらない欠伸を漏らす青年。
 会社での休憩時間に皆で食べるつもりなのだろうか、大判焼きを朝から一人では食べきれない程注文する女性。
 未だ小学生にも満たない、遊びたそうにうずうずしている子供の手を引きながら、保育園の送迎バス、その待ち合わせの場所に歩いて行く若い母親。
 どこか気怠げに始まる、何てことのない週明けの風景。
 ──そんな風景に、ひどく人の目を引く存在が混ざり合っている。
 外国人比率の高い冬木市では色の違う髪を見かけたとしてもそう珍しいものではない。
 美しく、そして可愛らしい容姿。それもまた、これほどまでに整っている容姿の持ち主はそう居ないだろうけども、それもまた本質ではない。
 それは一度目にしたら目を離せぬようになるような存在。
 その身をサーヴァントシステムの枠などというもので括られ、貶められても、なお隠せない、存在としての輝き。
 彼女の名は未だ誰にも語られていない。主に対してすらも、申し訳なさをその顔に表しながら、なお主の魔術の腕前ゆえに伏せている。
 アルトリア・ペンドラゴン。夜のように暗い日々、と言われた戦乱の時代を駆け抜けた古きブリテンの王。国のために己の、性別、家庭、私心、全てを捨て、その身を捧げた名高き騎士王。
 そんな身が穂群原学園の制服を着、通勤通学途中の人の流れに混ざっているとは誰が知ろう。

「……シロウ、どうもその、人の目が」
「あ、ああ。そうだな……」

 目立つような服装ではないはずなのですが、と内心で溜息を吐くセイバー。胸の部分がだぶつくブラウスを指で引っ張り、着方の問題でしょうか、などとずれた思いを抱く。

「セイバーさんは綺麗ですし、目立つのは仕方ありませんよ」

 衛宮士郎を挟む形で歩いている間桐桜が微笑を含んでそう言うと、セイバーはどこかきょとんとした表情をし、さしたる事でもないと思ったのか、ふむ、と曖昧に返した。
 両手に花、多分にあちこちで用いられている言葉だったが、この時の衛宮士郎もまたその状態だった。右手にセイバー、左手に間桐桜。いつもより若干遅い時間に家を出たため、通学路に人の通りは多い。そして人とすれ違うたびに振り向く者がいる。通学時でこれなら、一緒に校門をくぐったらどういう事になってしまうのか──

「うん、やめよう。考えまい」

 衛宮士郎は頭を振り、名物生徒会長として有名な友人の真似をして、喝、と雑念を払う。

   ◇

 天ぷらの盛り合わせ、ほろりと角のとれた肉じゃが、刻み葱のソースがかかった鶏の唐揚げ、サラダ仕立てのカツオのたたき、出汁のかかった菜っ葉のおひたし、カボチャの煮物、香の物。
 用意されていた料理の量と品数に慎二は呆気にとられていた。
 間桐桜の快気祝いを兼ねて、という事だろうか、言峰神父に治療を受け、目を覚ました義妹と共に衛宮家に戻ると、待っていたのは取り留めのない献立ながら、十分ご馳走とも言える食事と、それを前に「待て」をさせられている穂群原学園名物の冬木の虎、藤村大河の姿。そして説明は既に済んでいたらしい、隣にはセイバーも静かに座っている。

「きたーっ! おかえり桜ちゃん! 士郎、桜ちゃん帰ってきたわよ! ほら頂きます……じゃなくて桜ちゃんも、慎二くんもほらほら座りなさい、事情は聞いてるから、さあ、食べよう、早く食べよう」

 料理を前にテンションの上がっている藤村大河、そんな光景も割と日常茶飯事なのか、台所から姿を現した家主は一つ呆れの溜息を漏らす、気を取り直すように居間に顔を見せた二人に言った。

「今、シメのお吸い物作ってるから、もう少し待っててくれるか。あ、桜用の部屋は一応整えといた。離れの三部屋並んでる棟の真ん中、桜は判るよな」
「はい。ええと、布団の収納に使っていた和室ですよね」

 ならば、と昼間ざっと間桐邸から回収していた荷物を慎二は思い出し、口に出す。

「ふうん、なら出来るまでに桜の荷物だけ移しておくかね」
「いいけど慎二、あと五分くらいだぞ」
「早ッ」
「麩が戻るのを待ってるだけだしな」

 肩をすくめて離れに歩いて行く慎二、その後を追いかけようとする間桐桜に、衛宮士郎は少し照れを含んだ声を掛けた。

「おかえり桜。具合が悪かったらしいけど、もう大丈夫なのか?」
「──あ。はい! ここに来るまでちょっとぼんやりしてましたけど、先輩の顔見たら元気になりました」

 力こぶをつくるように腕を曲げて見せ、健在をアピールする間桐桜。
 彼女が居間の障子を閉めた後、数秒経って、そんなに面白い顔だったか、と首を捻る様子はさすがの朴念仁っぷりであったかもしれない。

 賑わう食卓、今か今かと期待に胃袋をわななかせていた猛虎が次々と料理を平らげ、その横で黙々食べるセイバー、何やら妙に機嫌の良い間桐桜、藤ねえ……と食べっぷりに若干呆れつつ、作り手としてやはり嬉しいのか甲斐甲斐しく世話を焼く衛宮士郎。そんな光景を目にしつつ、慎二もまたしいたけの天ぷらを取り、天つゆと大根おろしで頂く。
 傘の裏側のみについている衣はさくりとほどよい噛み応え、肉厚の椎茸の中からは旨みと汁気が飛び出し、辛めの天つゆと混じりほどよい味に。
 一通りを食べ終え、慎二はうん、と一つ頷き、四年来の友人に向かって言った。

「美味しいじゃないか、衛宮はプロの専業主夫になれるね」
「プロってなんだプロって、お代わりは要るか?」

 慎二は言葉の代わりに茶碗を渡した。それを慣れた様子で受け取り、御飯をよそいに行く家主。
 ようやく食べ方にも落ち着きを見せ始めた藤村大河が、ふーん、と興味ぶかげに慎二を見る。

「家の事は大変だったらしいけど、ここに居ついて自堕落になっちゃ駄目よ、慎二くん。料理は勝手に出てくる、お風呂はいつの間にか入ってる、気付くと掃除と洗濯も終わってる、なんて怖いぐらいに素敵な家なんだから」
「藤ねえはもう少し自堕落から抜け出してほしいんだけどな」
「……うう、士郎がお姉ちゃんをいじめるよぅ」

 よよと泣き崩れる冬木の虎。もしかしなくても嘘泣きなので誰も心配していない所が一つ悲しいところであったかもしれない。
 間桐家とはまるで違う食卓の風景。考えてみれば皆、血が繋がっていないんだよな、などとも思いながら、慎二は団欒とした食卓に感心するものを覚えていた。こういった雰囲気は誰が中心になっているかといえば、藤村大河であり、衛宮士郎であり、間桐桜であり、もっと言えば部屋に染みこんだ先代の風でもあるのかもしれない。
 いずれにせよ──と内心で笑う。家政婦の作ったまともな料理でさえ魔術師としての調整のために毒を入れられる料理と比べたら天と地だろうか。出汁のよく効いたお吸い物、かまぼこと三つ葉と手鞠麩のそれを一口吸い、実家では一度も見た事のない表情を表にする義妹をちらりと見て、慎二は密かに長い息をついた。

 やがて、じんわりとした暖かさが伝わるような食事の時間も終わり、藤村大河も家へ戻った。間桐桜は荷物の整理のため、と自室に戻り、居間には家主が入れたお茶をすする三人のみが残り、話の流れも自然、鉄と血の香りの漂うものへと変化した。

「さてと、そういえばお前のセイバーから話は聞いたかい?」
「俺の──って、慎二、そういう言い方はどうかと思うぞ。ただ、お前の立ち位置っていう事なら昼間聞いたよ」
「柳洞寺の魔女については?」

 そう聞けば、衛宮士郎は真剣な顔でこくりと頷いた。

「聞いた、ただ本当なのか慎二。魂喰いなんて事させるような人間があの寺に居るなんて」
「信じられないかい? まあ、本心からでないにせよ、抵抗力を持たない人の心を表向き変えずに操る事なんて、一流の魔術師なら造作もないと思うけどね」

 ましてや古代の魔女、コルキスの王女なら尚更だろう、と慎二がさりげに言うと、黙っていたセイバーが瞠目する。

「既に真名も把握しているのですか?」
「ああ、その名を呼ぶのはちょっと怖いから言わないけどさ」

 聞きつけられたら面倒、とばかりに肩をすくめる。
 アルゴナウタイ、ギリシャ神話を囓ったものなら大抵は知っている話。数々の名のある英雄達が集った一大冒険。その主役とも言えるイアソンと神の悪戯により結ばれた、古くはエウリピデス、新しくはグリルパルツァーにより語られる悲劇の王女。
 セイバーもそれは聞きかじった事があるようで、深く頷く。あるいは聖杯からの知識かもしれないが、それは見ている慎二にも衛宮士郎にもわかり得ぬ事だった。

「ならば予測されるのは──」
「神話通りなら策を用い、毒を使い……ってところかな。火を吐く雄牛を連れ、竜の牙を畑に撒いて骨だけの戦士を作るかもしれない」
「手兵があるとすれば分断を図った上でのマスター狙いとなりそうですね」
「は、正面からなんて戦っちゃくれないよ、きっとね」
「はい、幾たびもそのような敵とは相まみえました。覆すなら相手の盤上に乗らず、予測を超える速さで一気呵成に切り裂くのが良いでしょう」

 今にも攻め込もうという姿勢を見せるセイバー。
 ただ、彼女のマスターである衛宮士郎はいきなり戦いとする事に乗り気ではないようで、待ったをかける。

「駄目だセイバー、歯がゆいかもしれないけど今は待ってくれ。マスターが誰か知っておきたい。明日、学校で一成に当たってみるから」
「……イッセイ? シロウの友人ですか」
「ああ、その柳洞寺の住職の息子なんだ。最近のことを聞くだけでも分かる事はあると思う」
「なるほど、シロウにそんなつながりがあるのでしたら理解できます。明らかにできる情報は明らかにしておくべきでもありますし」

 セイバーはふむ、と頷き、お茶を一口飲む。
 衛宮士郎はほっとした様子で続けた。

「だから明日は、俺が帰るまで待っていてほし……い、んだけど、さ」
「──シロウ」

 言葉を言い切る前にあからさまに文句の有りそうな顔でセイバーは詰め寄っていた。

「まさか私を連れずに学校に行くつもりだったのですか?」
「だ、大丈夫だ。セイバー。日中はよほど人気の無い場所にでもいかない限りは仕掛けてこないだろうし、ほら、慎二のライダーは霊体化できるしさ」

 セイバーの迫力に押され気味の衛宮士郎に味方するわけでもなく、慎二はにやりと笑った。

「それなんだけどさ、僕は明日学校は休むつもりなんだ。間桐の家から本格的に物を回収したいしね」

 薄情者、と目で語る衛宮士郎。その通りさ、と頷く慎二。
 やがて寸劇に飽きたのか、慎二は小さく溜息を吐いて言う。

「大体さあ衛宮、多分、明日は遠坂が高い確率で学校に居るよ? サーヴァント無しで登校なんてしてたら肩を震わせて、舐められたものね、なんて言いながら追いかけてくると思わない?」
「……ああ」

 化けの皮が剥がれてそう時間も経っていないというのに、その想像は衛宮士郎の中で確かに、と思わせるものだったらしい。どこか遠い目をして、ゆっくりと頷く。

「しかしまあ、馬鹿だね衛宮。セイバーに桜の制服でも着せて普通に学校に行けばいいじゃないか。身長似たようなモンなんだし。さすがに授業を受けるわけにはいかないだろうけど。学校についたら人目を忍んで校舎の側面、非常階段側あたりから登って屋上で待機すれば良いんだし」
「……慎二、そこに至るまでの過程で俺はどれだけ誤魔化しつづけなけりゃならないと思う?」
「方便で命が助かるなら頑張って口を動かす事だね」

 む……と言葉に詰まる衛宮士郎。

「確かに、その通りだった。俺だけじゃない、桜や藤ねえも居るんだしな」

 どうやらまた自分を度外視した思考が回ったらしい、と慎二は肩をすくめる。
 セイバーも微妙な違和感を感じ取ったものらしく、不思議そうに小首を傾げていたものの、結果良ければ、と思ったのか、一つ頷き、慎二に向かい、言った。

「助言を感謝します慎二。学校での守りはお任せ下さい。貴方の妹、桜もまた必ず守りましょう」

 生真面目なセイバーに対しても慎二はひらひらと手を泳がせ適当に応対し、席を立つ。じゃあ、僕もそろそろ荷物を片付けたいんでね。と居間を後にした。
 長い廊下を渡り、突き当たりの大きな離れ、その中庭に面した部屋が慎二に割り当てられた部屋だ。
 明日、間桐家跡から回収すべき物のリストを頭で作りながら障子を開け、照明をつけようと下がった紐を手で探った時だった。
 暗さに慣れた目が微かな輪郭を捉える。
 その自らの内に沈んだ目はこんな暗がりこそがふさわしいと、慎二もふと思わないでもない。
 とはいえそんな感傷も一瞬。
 かちかち、と紐を引き、容赦無く明かりで照らし出した。
 急に明るくなったせいか、座卓の前に座っていた少女は我に帰ったかのように少し驚いた顔で、目をしばたたかせている。
 慎二は半眼になってそんな少女のつむじにチョップをかました。

「……痛いです兄さん」
「そりゃすまないね、あまりにもホラー風味だったんでつい手が出ちゃったよ」

 そして、どう返せば良いのか判らなくなったのか、視線を伏せる間桐桜の対面に座る慎二。
 沈黙がしばし広がり、時間だけがただ過ぎる。
 やがて、やむなし、とばかりに慎二は頭を掻くと、話を促した。

「で、桜。何の話だよ。あまりグズグズしてると──」

 言いかけ、何も考えてなかったのか、言葉に詰まってしまい。ふと思いついた事を言う。

「ライダー、セイバーはとりなしてやる。衛宮をつまみ食いしていいぜ」
「──だ、だだ、駄目、駄目よライダー!」

 慌て出す義妹をにやにや眺めつつ慎二は矛先を緩めない。

「なーに、あの鈍すぎる奴にはそのくらいの刺激は必要さ、上手く行けばお前、明日は衛宮がお前を意識しちゃって仕方ない、なんて事になるかもしれないよ」
「あ、え? 先輩が……意識……あぅ」
「手の一つ、ではありますね。食事の時の様子を鑑みても、サクラと彼の仲は近すぎて逆によく見えていない。そう、この時代ではショック療法と言うのでしたか、夢とはいえサクラの豊潤な体を堪能させれば──」
「ほ、ほうじゅ……たた、たんのー、う、先輩……駄目、駄目わたし」

 いつの間にか実体化していたライダーが口を添える。
 顔を真っ赤に染め、かたかた震える間桐桜。その目は潤み、ただの羞恥のみではない含みがある。しかし、何かを振り払うように首を振り、様々な感情の入り乱れたそれを追い払った。
 ふう、と息を吐いて落ち着くと、慎二を真っ直ぐ見て──気が負けたように視線は下がってしまった。
 まったく、と慎二は髪を乱暴にかき上げて言う。手を差し伸べる、などは自分のキャラじゃないのに、なんて思いながら。

「自分の事情を明かすかどうか、か?」
「……はい」

 明かりを点けるのを忘れるくらいに思い悩んでいたのだろう。ただ……と慎二は違和感をも同時に感じる。なにせ四年間隠し通した秘密。もっと長く思い悩み、相談に来るとしてものっぴきならなくなった後、と予想していたのだ。

「ふうん。なるほどね、何か事情があるとしたら、桜じゃなく、衛宮か?」

 間桐桜はおずおずと顔を上げ、こくりと頷き、話し始めた。
 かつて衛宮士郎の鍛錬風景を見てしまった事。
 魔術回路を毎日毎日、最初から作り直していた、半ば自殺行為の鍛錬。
 見なかった事にしてしまった、間桐桜の心にいつまでも残る後悔。

「止めなくちゃ、って思ったんです。でも、魔術師とは思われてないわたしの言葉じゃ先輩は止まらない。あんなに毎日続けて固まった魔術回路……大きな魔力で動いてない回路を動かして、切り替えを覚えさせようとしてもわたしの魔力なんて刻印虫にみんな食べられてるんです。他のやり方なんてわたしがお爺さまにされた事くらいしか知らない……そんなの、そんなの先輩にするなんて出来るわけない」

 一度口が動き始めれば、後は堰を切ったように言葉が溢れた。
 自殺紛いの鍛錬法、そんな事を誰に言われるでもなく自発的に毎日繰り返し行う。
 それは何と愚直で、衛宮らしい事だろうか、と慎二は内心妙に腑に落ちるものをも感じる。
 間桐桜は、大きく息を吐くと、自嘲げに微笑み、静かに頭を振った。

「……いえ、それもわたしが逃げるための理屈かもしれません。先輩には普通の後輩、魔術師じゃない当たり前の人間として見て貰えたから……それを、放したくなくて」

 でも、と小さく呟き、一呼吸の間を置き、続ける。

「先輩は……戦うつもりなんですよね」
「被害が出れば真っ先に戦うだろうさ」
「魔術も、使うんですよね」
「そりゃ相手も魔術師だしね」

 慎二はどこか放り投げるように返答を返す。
 間桐桜は俯き、無意識か胸の前で手を揉み絞り、黙り込む。
 まだ自発的に動く事は難しいか、と慎二は思った。間桐家に入る以前の義妹の性格は判らない。ただ、間桐臓硯の調教によるものか、根本のところからして他動的だ。
 もしかして、幼い頃に別れた姉の話をすれば、負けじと動くだろうか──と、ふと頭によぎり、慎二は自身の思考に辟易する。それこそ方向性は違えど、間桐臓硯と同じ頭の巡らし方だろう、と。

「あー……やだねぇ、これも遺伝か」

 口の中で小さくぼやく。
 ただ、そんな爆弾を抱えたまま魔術行使をしていたのだとすれば、衛宮士郎は危ないというレベルではない。実感こそ湧かないものの、慎二もまた知識として魔術回路の暴走、暴発がどういう事態を招くかは知っている。
 いざとなれば勝手に借りに思ってくれているらしい遠坂に衛宮士郎の魔術的な部分を丸投げ──そんな事も頭の片隅で考えながら、思考がぐるぐるループしているらしい義妹に向かって言う。

「明日、衛宮は学校に行くつもりらしい。聖杯戦争まっただ中だってのに。ま、お前も何食わぬ顔で一緒に登校すればいい。家の始末の方は僕一人で十分だ。それで一日考えるんだね」

 慎二は話は終わり、とばかりに腰を上げ、無造作に部屋に摘まれているダンボールの整理にとりかかる。
 どこか自失の体で静かに部屋を出て行く間桐桜、その背に向け、ふと思い出したかのように声をかけた。

「桜、お前はさ、もう自分で決めてもいいんだぜ?」
「……兄さんは……厳しいです」

 細い嘆息と共に出された微かな声、それを当然のように慎二は黙殺し、人の気配が離れたのを見計らい、独り言でも言うかのようにライダー、と、サーヴァントの名前を口にする。と、話の途中で霊体となっていたライダーがふわりと実体化した。

「……気付いていましたかシンジ」
「いや、気配なんて判らない。何となく居るかなとカマをかけてみたら当たったわけさ」

 あまりに適当なその言い様に、せめてもう少しもっともらしい屁理屈でもこねてくれないか、とも思いつつ、そんな内心などおくびにも出さず、ライダーは誤魔化すように長い髪を一房かき上げた。
 和室にしばし沈黙が訪れ、慎二が荷物を整理する音のみが響く。
 その手を休めないまま、ぽつりと言った。

「陳腐な表現ながら、篭の鳥ってやつだね、あいつは」
「……自由が怖いのでしょうかサクラは」
「さあ? あいつの気持ちはあいつにしか解らないけどさ、ただ戸惑ってるだけじゃないかね。何せ十一年、あの爺さんの命令で動くように仕込まれてきたんだから」

 口ではそう言いながら、慎二は未だに迷うものを覚えている。
 あの流れのままでは間桐桜が死ぬ事は確実なようだったので、ああいう手段をとった。
 だが、肝心の本人がそれを望んでいなかったらどうなのだろうか。
 馴染んでしまった虫の住み処で息絶えた方が楽、今更白日の下に出ても身を灼かれ苦しむばかり、そんな事を思っていたとしたら──

「は、それはそれで、ま、いいか」

 その時は自身がただの道化であったというだけだろう、そんな事を思い、慎二は密やかに笑った。

   ◇

 朝の衛宮家はそれは慌ただしかった。
 いつもより人数が二人も増えた分、それはそのまま作る者の負担となる。
 とはいえ質を落とすのも衛宮士郎の沽券に関わるというもの。
 結局どういう形になったかといえば、衛宮士郎と間桐桜の師弟でもって、台所を忙しなく動く事となっていた。
 衛宮士郎は右のフライパンで炒め物をし、左の小鍋で野菜に火を通し、グリルで魚を焼きながら、レンジで様子を見ながら野菜を蒸す。
 その横で投入される具材を、そのおっとりした見た目からは想像もできない器用さで皮を剥き、さくさくと切りそろえ、合間を見ては完成した品を盛りつける間桐桜。
 最初から最後まで分担して食事を作るという事はあまりしない二人だったが、その効果は大層なもので、わずかな時間にも関わらず、お弁当にも詰められる、九種類のおかずが食卓に並ぶ事となった。
 これにより朝からご満悦の藤村大河の姿があったのだとか。その効果かは定かではないが、珍しくその日はHRに余裕を持って間に合う事ができたらしい。

 学園の制服を着ても、どこかオーラのようなものを放つセイバーと、内心の不安でか、いつもに増して寄り添いたがる間桐桜。そんな二人に挟まれ、困惑を含んだ目で助け船を求める衛宮士郎。
 慎二はそんな友人の無言のヘルプを一笑に付し、ひらひらと手を振り、交差点で別れる。向かうのは学校とは別方向、南の間桐邸、遠坂邸のある道だった。
 住宅地の坂の上、雑木林が目立つようになり、閑静、というより幽霊でも出てきそうな鬱蒼とした感じが強くなる。
 教会の手配なのだろう。どこの工事現場だというのか、立ち入り禁止の看板がついたフェンスと布で敷地は囲われ、外からは見えないようにされている。古びた門を開け、敷地の大量の間桐邸の残骸、そして地面が柔らかくなったせいか、根から倒れている木々をぐるっと眺め渡す。

「……うっわ、やれやれだ、こりゃ手間だなあ」

 文字通りに自業自得であるのだが。それでもなお、慎二の口から呆れたようなぼやきが出た。せめて崩れの少ない二階より上の蔵書や魔道の品、日常生活には欠かせない証明書や実印、でも掘りだそうと、廃墟じみた瓦礫の山に手をかけ、普通の人間には持ち上げるのも難しそうな石材をひょいと何でもないように放り投げる。その光景は、知らないものであれば思わず目を剥き、見間違いだったかと首を振ってしまいそうなものだった。
 オリジナルと違い、兵器として調整されたアームズを移植された体は、たとえナノマシンが人体の擬態をしている状態、いわばスイッチを切っている時においても、その身体能力は人間が持ちえる最高水準のものでバランスを保たれている。
 むろんそれは肉体情報を構築するプログラムに手をいれる事により改変も可能なものだったが。言ってみればそれはエグリゴリにかつてあった猟犬部隊のごとき強化人間(ブーステッドマン)の能力にすら近いものとなる。並外れた反射神経、反応速度、それに十分応えるしなやかな筋繊維、頑丈極まりない骨格。
 バーサーカーを止めたのは力ではない、と慎二は衛宮士郎と遠坂凛に説明をした。
 勿論それも嘘ではない。ただ、全てでもまたない。
 その説明の違和感に気付いたのはきっとセイバーのみだっただろう。
 一撃一撃が音を置き去りにするほどの速さ、それはいくらフェイントすらない直線的な動きとはいえ、人が反応できるものではない。
 さらに──もしかしたら優れた直感をもつセイバーは感じ取ったかもしれない。
 日常では相対することのまずない速さを持つ敵、そんなものを相手どる事に間桐慎二は慣れていたのだと。

   ◇

 冬のどこか力弱い日も、雲一つない青い空に高々と上がり、暖かくなった事を喜んでいるのか、ヒヨドリがどこかで井戸端会議でもするかのように数羽で鳴きさざめく。

「あー。陽気が良すぎる、何か色々どうでもよくなってくる。太陽の馬鹿め、爆ぜろ」

 スポーツバックを背負い、空に向かって無茶な事を言う慎二。
 瓦礫の山と化した間桐邸の中から必要と思われる様々なものを掘り出し、即日で動いてくれる運送業者と貸倉庫を手配、二ヶ月の短期契約を結んで荷物を運び入れ、当座必要なものだけ選り分け──などとやっているうちに、時間は昼も過ぎた頃になってしまっていた。
 深山町の中心部にほど近い場所を歩きながら、慎二はふと目に入った看板を見て思い出す。

「そういえば新しく健康ランドが出来たんだったっけ、新都ならともかくこっちじゃ珍しいな」

 何でもレジャー施設と見紛うばかりの豪勢なものらしく、各種の湯に加え、思いつかないものがないというくらいに充実した場所なのだとか。日本では珍しい中東風というのがウリらしい。

「確か、わいわいどぼーんだったっけ。作った奴のネーミングセンスを疑うね」

 慎二はどうでもよさげに毒づきながら足を向ける。服は途中で適当に買い込むか、と考えつつ。人から遙かに外れた体とはいえ、重労働をすれば汗はかくし、まとわりつく埃は不快だ。丁度一風呂浴びたい気分でもあったのだ。
 そして、ゆっくりと歩を進める慎二、そのはるか後ろで異常が存在していた。

 ──少女がいる。
 幼い、とさえ言える少女。
 どこからどう見ても目立つ少女だった。
 日本ではほとんど見る事のない、月に照らされた雪のような銀色の髪、アルビノのごとく白い肌、ルビーのような赤い瞳。
 どこからどう見ても目立つのが当然の少女は、なぜか人の目につくこともなく、悠然と深山町の通りを歩いている。平日の昼過ぎということもあり、人通りはそう多いわけではなかった、それにしても深山町の中心部分に近い道、歩いている人が皆無、というわけでもない。
 少女の方を何故か誰も見ないのだ。誰一人の視界にも入らず、視線も受けない、そしてそれを不思議にも思わない。そんな異常、もし監視カメラなどで観測している者がいればその違和感に気付いたかもしれない。
 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。バーサーカーのマスターであり、聖杯戦争の参加者の一人。
 彼女は幼い容姿には似合わぬ冷徹な目で慎二の背中を追っていた。
 とはいえ、それは本来の目的とは程遠いものだっただろう。彼女の目的となる人物は、背丈は同じくらいでも、まるきり違う赤毛の少年だったのだから。
 調べさせておいた限りでは学校の帰りに彼は商店街を通る事が多い、土地をよく見知っておく事も兼ね、お目付役の目を誤魔化し、初めて触れる外のセカイというものを堪能していた矢先の事だった。
 バーサーカーを一方的にやり込めた、ただの人間が歩いていた。
 そう、あれだけの事をして、魔術の世界からの目で見れば相も変わらずただの人間そのものなのだ。
 手が変化した時などはそれすら薄れて、もはや大気のマナすら通り抜けているのではないか、というくらいに、それは魔術の目から見れば存在がなさ過ぎた。
 得体が知れない。
 ただその一言に尽きる。
 バーサーカーがいれば、多少の策やイレギュラーは力でねじ伏せられるはずだった。自分のちょっとした私怨、おまけにアインツベルンの千年の悲願も今度は成功に至るはずだった。
 砂上の楼閣のごとくその自信、自負が崩れ去る。
 何よりも──あの時、あの夜。バーサーカーは初めて命令に直接逆らったのだ。

「わたしは……追いなさいって言ったのに」

 バーサーカーは、退いたのだ。結果的にそれが正しい判断だったとしても、どこかわだかまりが残る。
 相手が、ヘラクレスと並び立つような大英雄であればまだ納得もできただろう。ただ、相手は吹けば飛ぶようなもの──とイリヤスフィールが判断していた存在だった。
 自分の判断が決定的に過ちだったという事を理性においては理解しつつ、なお心に引っかかりを覚える。
 それが何なのか、イリヤスフィールはその人生において、知った事がなかった。
 雪空の中、過酷な環境に投げ出されてもなお、アインツベルンを統べる翁の手の平の上で厳重な管理をされていたイリヤスフィールは、知る事がなかったのだ。

「あなたは、わたしが殺してあげるんだから」

 ふと口から漏れた自分の言葉に気付き、銀の少女は意外そうな面持ちで手をぽんと打つ。
 これが敵意なんだ。とあらためて理解した感情の名前を口に含み、イリヤスフィールは嬉しげに頷いた。


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