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[37994] 【短編】異説ダーマディウス伝 + その他(Ruina 廃都の物語)
Name: yusaku◆9e7545ec ID:2d21ca32
Date: 2013/07/21 23:06
・枯草章吉様のフリーゲーム「Ruina 廃都の物語」を題材とした短編SSです。

・一応、未プレイの方が読んでもギリ大丈夫なように書いたつもりですので、拙作で興味を持たれた方は、原作も是非に。
 ただ、誤解なきように補足させていただきますが、現在SSの主役に取り上げております「魔将」というのは、ラスボスの配下たちです。人となりや来歴のほとんどが作中資料で断片的に語られるだけなので、人物像やSS内での出来事などは、だいたい私の想像による脚色です。そこは、ご注意を。

・pixivの方にも、ここでの投稿から数日後に投稿しております。あっちは、おまけとか、アンケートとかがついてます。

2013/07/21 鉄鍋のメロダーク 投稿

2013/07/09 ナムリスの意地 投稿

2013/07/04 異説ダーマディウス伝 投稿





[37994] 異説ダーマディウス伝
Name: yusaku◆9e7545ec ID:2d21ca32
Date: 2013/07/09 16:45
 斯くして、怪物は生まれ、都の灯りは消え去った。

 ◆

 その少年は、辛うじてヒトの形を成していた。
 憂いを帯びた緋色の瞳に、透き通る白い肌。無造作に肩口へ流れる黒髪には、カラスの濡羽のような艶があった。未だあどけなさの抜けきらぬ面持ちと相俟って、儚い少女のようにも見える。

 ただし、それは左半身に限ればの話だ。

 外衣の右手側からは、指も掌も肘関節もない、二股に先割れた肉の塊が覗いていた。右目の瞼は爛れたように腫れあがり、満足に開くこともままならない。右頬には老人のような深い皺が刻まれており、その皺に皮が引っ張られるためか、細い右目は崩れるように垂れ下がり、薄い唇は自然と吊り上がって歪な三日月を描いていた。
 近親姦によって生まれた異形の皇太子であった。両親にすらその奇形を疎まれ、生後間もなく墓所に幽閉された少年の下へ、宮殿からの使いがやって来たのは、彼の齢が十を過ぎた頃だった。

 少年の母、タイタス八世は実弟の子を産んで間もなく、毒杯により命を奪われた。帝位を継いだ父、タイタス九世は姉帝を暗殺した者を探して乱心し、多くの臣を殺した末、叛乱を起こした親衛隊によって弑逆された。二代合わせて、十年にも満たぬ御代であった。
 少年が次代の皇帝として祀り上げられたのは、当然の成り行きだった。始祖帝を神と称えるアルケア帝国の風儀に則って考えれば、先帝二代の間に生まれた彼にこそ最も濃い神の血が流れていることになる。加えて、長らく宮廷から遠ざけられていた皇太子は、まともな教育を受けていない。周囲の為政者たちから、容易く御せると思われたことも新帝として推された要因の一つだったのかもしれない。

 果たして異形の皇太子は墓所から連れ出され、すぐさま戴冠の儀が執り行われることになった。
 親衛隊に守られる宮殿の広間には、華美に着飾った大臣や諸王といった国の重鎮が集っていた。明かり窓を閉ざした薄暗い室内では、薄っすらと篝火が焚かれている。壁に掛けられた宝剣、国章たる八葉蓮の紋章を刺繍された垂れ布といった装飾により彩られた空間は、揺らめく炎に照らされて荘厳な雰囲気を醸し出していた。
 その厳粛たる儀礼の場において、墓所から連れだされた着のままの皇太子ただ一人だけが浮いていた。端の擦り切れた黒い外衣を羽織っただけのみすぼらしい姿で広間の壇上に立ち、着々と進んで行く戴冠式を黙って見つめている。
 ニコリともしない美貌と笑みを絶やさぬ醜貌。
 歪なアシンメトリーの主を気にかける者は、一人として存在しなかった。この場の誰もが新たな主を見下し、侮蔑し、嘲笑っていた。もう間もなく訪れる自身の破滅も知らず。

 異変が生じたのは、式が終盤に差し掛かる頃だった。宝冠を被せようと皇太子に近付いた神官が、まずそれに気付いた。
 少年は震えていた。見開かれた円な左眼はあらぬ方を向き、額には夥しい量の汗が浮いていた。

「殿下……?」

 儀式を中座し、恐る恐るといった風に声をかける神官。それが彼の最後の言葉になった。

「……コ……ロ……」

 触手のような右腕が持ち上がり、神官に向けられる。

「コ……レロ……」

 方々を彷徨っていた左眼に得体の知れない輝きが灯る。

「コワレロ」

 不可視の力が神官の胴体を握り潰した。
 押し出された血液が目と言わず、口と言わず、鼻と言わず、体中の穴という穴から溢れ出し、床に敷き詰められた白亜の大理石を見る見るうちに真紅へと染め上げていく。
 唐突に訪れた惨劇を前にして、誰一人として動けずにいた。
 衆人の見守る中、肥え太った神官の身体が拉げ捻れ、林檎の芯の様になった。両の腕は凄まじい圧力で押し付けられて胴体に癒着し、下半身から溢れだした汚物の悪臭が広間に立ち込めた。せり上がった血肉に押されて飛び出した眼球が血に濡れた石畳の上をコロコロと走り、大臣の足先にコツリと当たった。

「ィッ――」

 声にならない悲鳴が上がる。たちまち恐怖が伝搬し、立ち竦み呆けていた面々を恐慌へと駆り立てた。
 虚栄の式典が一転、土壇場へと変わる。広間の出口へ走る者、武器を手に取る者、その場に崩れ落ちて失禁する者。一切の区別なく、不可視の力が振るわれた。

「コワレロ……コワレロ……スベテコワレロ!」

 異形の右手から伸びる魔力の腕が、悲鳴を上げて逃げ惑う者を壁に叩きつけ、武器を持って走り寄る者を殴り殺し、現実を放棄して狂ったように笑う者を握り潰す。

「ば、ばけも――」

 最後に残った一人――腰を抜かして座り込み、恐怖で顔を引き攣らせた衛兵の首が圧し折れると、広間から生命の気配が絶えた。
 嘗ての荘厳な広間は、血の海に沈み、千切れた肉の合間から溢れだした臓物や汚物がすえた臭いを放っている。
 そんな目を背けたくなるような殺戮の現場で、陶然とした面持ちの少年が血に塗れた冠を拾い上げた。
 新帝タイタス十世の誕生を讃える者は、一人として存在しなかった。

 ◆

「閉門」

 刃鳴りのように無機質な声が響くと、奴隷の小鬼たちがあくせくと動きだした。
 門扉の閉時といえば、店じまいを始める露天商や帰途につく人々が行き交い、慌ただしい賑わいを見せるのが常である。だが、帝都アーガデウム西門に限り、その常識が時折覆される。閉門間近になると急に人の往来が遠のき、夕映えに染まる門前広場は静寂の空気に包まれるのだ。門前で腕組みし、仁王立ちする屈強な男を都に暮らす誰もが恐れているためだ。
 都の守人、警邏隊長ダーマディウス将軍。法を犯す者を決して許さず、いかなる罪人に対しても平等に接する執行人である。謀反人、追いはぎ、不正を行う徴税人や商人、不品行を行った男女、主人に口答えした奴隷の少女。いずれも罪の如何を問わず平等に「串刺し刑」であった。

 大凡、赤い血の通わぬ冷血漢として知られる彼であるが、果たして、その内心までもが外聞の通り、荒涼たる凍土の有様であったのだろうか。
 徐々に狭まる門扉の合間、遙か遠方の山際へ消え行く夕日を、ダーマディウスは眉間に皺を寄せた険しい表情で凝然と見つめている。その瞳には、恍惚とも哀愁とも言い難い情念の色があった。
 彼が一日の終わりを西門で迎えるのは、決まって多くの罪人をその手に掛けたときだ。

 ダーマディウスは、南方の遊牧民エラカの出身である。赤髪のヘイオ族の長の子として生を受け、幼少のみぎりに従属国の王子として人質に出され帝都へやって来た。当時の皇太子たちと共に育ち、貴族としての教育を受けたダーマディウスは、後のタイタス八世、九世の良き友となり、彼らの母、タイタス七世の御代から忠臣として三代の皇帝に仕えた。
 元より謹厳な気質の男ではあったが、それでも嘗ては常識に収まる範疇であった。彼の精神が現在の狂気的頑迷さへ到った背景には、やはり血腥い出来事がある。

 ダーマディウスが成人を迎えた頃、彼の出自たるヘイオ族が帝国に叛旗を翻したのだ。予てより戦乱の火種は燻っており、事態そのものは、起こるべくして起きたと言えよう。問題は、事の経緯と結果である。
 開戦より数日前、ダーマディウスの下にヘイオ族の密偵がやって来た。叛乱に合わせた内応の打診であったが、彼はこれを一蹴。腰に携えた指揮杖で、召使に扮した同族の少女を打ち殺した。
 そうして帝国の将軍として出撃したダーマディウスは、大戦果を上げた。麾下の軍団を自在に操る用兵もさることながら、何より凄まじきは、彼自身の武勇の冴えだ。騎馬を己の手足さながらに御し、古今無双の槍捌きで並み居る敵を鎧袖一触に蹴散らす姿は、まさに人馬一体。同郷者たちの尽くを殺してまわり、忽ち屍の山と血の河を築き上げると、叛乱の首謀者たる自身の父母を鉄串に刺して帝都へ凱旋した。街道脇に曝した父母の屍を前に顔色一つ変えぬダーマディウスを、民衆たちは悪鬼羅刹の類と恐れ、王に仕える者たちは忠臣の鑑と讃えた。彼を蛮族の出自と蔑んでいた者たちも、以後、面と向かって悪態を吐くことはなくなった。

 この出来事が若き日のダーマディウスにもたらした影響は、極めて甚大と言えるだろう。遠征より帰還して後、彼の罪人に対する裁きの苛烈さは、いよいよもって凄絶なものと化していった。
 不器用で義理堅い男である。血と友を天秤にかけ、友誼にこそ重きを見出したことに何の未練も後悔もなかった。皇太子たちと共に切磋琢磨し、時に遊興に耽りして過ごした輝かしい想い出が彼の心中の大部分を占めていた。だが、その想い出が過去の想い出を消し去るということは、決して有り得ない。幼少の短い間ではあったが、家族と共に過ごし感じた温かな想いもまた色褪せることなく胸中にあった。

 一族の死を以って勝ち得た安寧。決して破らせはしない――呪いにも似た強迫観念がダーマディウスを突き動かしていた。タイタス七世、八世が暗殺され、国中が混乱の最中にあっても彼は変わらず、罪人を捕らえ殺した。九世が乱心し虐殺を命じたときも、友を信じて殺戮を行った。初志を貫く以外の生き方など知らぬ男であった。
 そして、人を殺す度に思い出すのだ。悍馬を駆り剣を携えて襲い来る父母。左手に握ったおぞましき鉄串。肉を抉り、骨を砕く感触。鉄塊を伝う血潮の驚くべき熱さ。
 腹の底に蟠る後味の悪い思いを打ち消すように咎人を、それに自身の心すらも殺し尽くすと、足が自然と西門へ向かうようになっていた。何もかも、人の想いや志すらも変わっていく世の中で、ギラギラと輝く夕日の色だけが自身の想い出と寸分違わぬ姿で、一時の癒しをもたらしてくれる。

 その日もダーマディウスは、多くの咎人を手に掛けていた。血の紅よりも、尚鮮やかな朱の光を浴び、凍えた心に活を入れる。そうやって、今日も一日が終わる筈だった。
 俄に騒乱の気配が膨らみ、ほどなくして息を切らせた伝令兵が走り寄ってきたのは、門扉が半分ほど閉じた頃だった。ひどく狼狽した兵士は、必死に事の仔細を述べようとしているものの呂律が回っておらず、何を言っているのか定かでなかった。

「水を」傍に控える部下に指示すると、伝令兵に向けてダーマディウスは言った。「明瞭に頼む」
「も、申し訳ありません」伝令兵は、渡された水筒から水を一口含み、息を整えて口を開いた。「申し上げます。新帝陛下、ご乱心。道行く先々で民が殺されております。お諌めしようとした神官や儀仗兵たちも、陛下の強大な魔術によって命を落としました」

 周囲の兵士たちが息を呑んだ。前帝の死去から、まだ然程の時も経ていない。不幸が続くなか起きた、更なる想定外の惨状に思考が凍てついたいた。
 誰もが口を閉ざす中、ダーマディウスは、しばし瞑目すると静かに目を見開いて告げた。

「逃げ惑う民を鎮め、混乱に乗じて狼藉を働く者を捕らえよ。俺は陛下を拘束する」
「しょ、将軍……。皇帝陛下ですよ」

 今度は、悲鳴にも似た驚愕の声が上がった。忠臣の中の忠臣とも言うべきダーマディウスが皇帝の意に反すると言ったのだ。もたらされた混乱は、それこそ皇帝の乱心を聞かされたとき以上だった。
 尤も、ダーマディウスからすれば、的外れな驚愕でもある。彼が忠義を尽くしたのは、あくまでも友誼のためであり、皇帝のためではない。友との絆を守るために、彼が行うことは、ただ一つ。

「我は都の守人。都の法を犯す者、許さぬ」

 低く静かな、されど重く通る声で言い放つと、ダーマディウスは、唇に指を当て口笛を吹いた。透き通る高音に低い嘶きが返る。兵士たちが慌てて左右に退けると、二頭の白馬に牽かれた戦車が進み出てきた。
 戦いの気配に荒ぶる悍馬たちの毛並みを一撫でして宥めると、夕映えに朱く染まった白い外套を翻し、ダーマディウスが戦車に飛び乗った。浅黒い無骨な手が手綱を握ると、御者の意思を汲んだ騎馬が自然と歩み出した。完全に閉じきった門扉を背にして戦車が行く。目指すは、騒乱の気配、その渦中である。

「また、殺さねばならぬのか……」

 苦悩により刻まれた眉間の皺をいっそう深くしながら、ぽつりと漏らしたダーマディウスの呟きは、馬蹄と車輪の音に掻き消された。

 ◆

 また、一人死んだ。誰もがそう思った。

 その化け物が宮殿から現れて、まだ幾ばくも経ていない。にも関わらず、宮殿前の広場は、阿鼻叫喚の地獄図と化していた。往来を行き交っていた人々は既に逃げ去り、或いは足元に転がる死体の仲間入りを果たし、不気味な沈黙が場を支配していた。辺り一面に転がった肉片は、不可視の暴力が振るわれる度に混ざり合い、千切れ飛び、貴人も賤人も一緒くたな有様だった。
 残ったのは、宮殿付近を警護していた儀仗兵が数人。それも最早、片手で数えるのみだ。誰もが血の気の引いた青白い顔で、その場に立ち竦んでいた。
 彼らは理解していた。宮殿から蹌踉とした足取りで現れた少年がこの上なく偉大な存在であることを。みすぼらしい格好をした怪奇な容貌であっても、外衣に刺繍された蓮の国章や左手に携えた冠、そして何よりも、色濃き始祖帝の血により放たれる圧倒的な存在感が少年を貴人たらしめていた。
 一兵卒にとって手を出し辛い存在であった。それでも騒ぎを聞きつけ、狂った皇帝を包囲するまでは、今ほどの悲壮感は漂っていなかった。タイタスの差し出した右手の先で、同僚たちが爆裂四散する姿を見るまでは。
 皇帝の御身を守護する筈の儀仗兵が一変、処刑を待つ罪人の様である。僅かな動きでも見せた者から、恐ろしい魔術の標的にされて死んでいった。
 何よりも兵たちの恐怖を煽るのは、人体を容易く破壊する威力そのものよりも、不可視である一点に尽きるだろう。迫り来る炎の弾丸なら回避できる。降り注ぐ氷の槍なら防ぐこともできよう。だが、発生する場所もタイミングも分からない強烈な魔術の力場を、どうして察知することなどできようか。魔術の教養でもあれば、魔力の痕跡を捉えることも出来たのだろうが、ないものはどうしようもない。
 進むことも、退くこともままならず、じりじりと照りつける西日の中、極限の緊張状態を強いられ続け、また一人脱落者が出た。歯の根をガチガチと鳴らし、震えながらその場に崩れ落ちたのは、中背の若い男だった。栄誉ある宮仕えを仰せつかり、人生これからという矢先に突きつけられた理不尽な死だった。

「かあさん、ごめんなさ――」

 先立つ不孝を懺悔する言葉は、半ばで途絶えた。
 幼帝の伸ばす死の右腕が哀れな兵士の身体を捉える間際、横薙ぎに払われた石突の一撃が胴を打ったのだ。
 鎧を着込んだ成人男性の身体が軽々と宙を舞い、民家の壁に叩きつけられた。盛大に砂塵が舞い上がる中、崩れ落ちた壁から這い出した兵士は、ゲホゲホと咳き込みながら、些か乱暴な命の恩人を見やった。
 徐々に砂埃が晴れ、二頭の白馬に牽かれる戦車と雄々しい巨躯を備えた偉丈夫の輪郭が露となる。凍てつく氷の眼光に、燃え立つ炎の様な赤髪。鍛え抜かれた鋼の肉体は、重厚な鎧の上からであっても、その存在を強固に主張していた。

「将軍だ……。ダーマディウス将軍だ!」

 冥府の獄吏が如き串刺し将軍も、生き地獄の中では、救世主さながらであった。
 歓声を上げる兵たちに「下がれ」と短く告げ、ダーマディウスは戦車を進ませた。唐突な闖入者に気を取られたのか、小首を傾げ、やや呆然とした風のタイタスと相対し正面に位置取ると、鋭い視線で牽制しつつ、儀仗兵たちの撤退を待つ。一人また一人と方々に散って行き、脇腹を押さえた最後の一人がこちらに向けて頭を下げて退いて行くのを確認してから、幼帝に向けて言い放った。

「陛下、宮殿にお戻り下さい」

 凄惨たる光景を一顧だにしない、抑揚のない声音であった。
 その一言が引き金となったのか、呆然と立ち尽くしていたタイタスが再び動き出す。差し出された右腕から伸びる魔力の奔流が巨大な腕の形に収斂し、鎌首をもたげた蛇のようにダーマディウスの下へ這い寄る。
 だが、その恐ろしい光景をダーマディウスの目では、捉えることが出来ない。魔術とは、絶えず変化する精神に基する、物理法則の揺れを利用した技術である。一種病的なまでに偏屈な男には、無用の長物であり、終生学ぶことのなかった技術であった。
 如何な武芸の達人といえども、感知不能の一撃を凌ぐことなど叶わない。ダーマディウスに残された道は、王の裁きに身を委ね、死の運命を受け入れるのみ。
 常識の内で生きる者ならば、そうなる筈であった。
 斯くして、不可視の五指が厳つい相貌へ迫り、忽ち胡散する。大上段から振り下ろされた一閃。魔槍の蒼刃が幼帝の魔力を斬り裂いたのだ。
 無表情を保っていたタイタスの左眉が怪訝げにぴくりと動いた。凡そ魔術師からかけ離れた容貌の男が発動前の魔術を捉え、消し去ったことに些か驚かされたのかもしれない。

「致し方なし」

 冬神の槍を左手に携えたダーマディウスが、右手に握った手綱を操り戦車を走らせる。
 タイタスを中心に据え、反時計回りに旋回しながら、馬の歩み足に緩急を付けることで迫り来る魔術を躱し、或いは槍の一撃で打ち払い、徐々に距離を詰めて行く。
 対手の視線、身体の強張り、己に向けられる殺意、そして何よりも、戦場で培われた戦人の勘で以って、不可視の力を辛うじて脳裏に映し、致命の一撃を尽く外しながら、ダーマディウスは、好機の訪れる瞬間を待った。

 ◆

 一撃、一撃、また一撃。幾度も攻防が繰り返される度に、回避と防御の比重が少しずつ後者へと移っていた。タイタスが戦車の動きに慣れてきた証拠だ。そのくせ、ダーマディウスは、未だに決定打を打てずにいた。
 夕日は疾うの昔に山向こうへ消え去り、夜空には青白い月が登っている。もう既にかなりの魔力が消費されている筈であるが、タイタスの行使する魔術に陰りが出来るような気配はなかった。
 一方で限界が近いのは、ダーマディウスの方だった。鋼の精神と強靭な肉体には、未だ生気が満ち溢れ、愛馬たちも十分に調練された成果をここぞとばかりに発揮している。問題は戦車だ。鎧を着込んだダーマディウスの巨躯と多数の武器、合わせて五百キロ近い重量がある。そんな物を乗せた状態で、魔術の余波と撒き散らかされた死体とで荒れに荒れた悪路を右に左にと動きまわったのだ。サスペンションもステアリングも備わっていない戦車は、その度にドリフト走行を強いられ、損耗していた。最早、いつ空中分解してもおかしくなかった。

 斯様な劣勢の中で、次第に回避出来た筈の一撃すら凌ぎきれなくなり、遂に決定的な瞬間が訪れた。襲い来る魔術の腕を立て続けに斬り払った反動で、戦車の車輪が外れてしまったのだ。忽ち体勢を崩したダーマディウスの身体を不可視の力が襲う。四方八方から殺到する魔力の腕が戦車を包囲し、発生した力場が砂塵を巻き上げて炸裂した。

「コ、コワレ、コワレ、ハ、ハハハ……」

 もうもうと立ち上る砂埃を前にしてタイタスの左顔は、奇形の右顔が如き狂喜の形に歪んだ。この日初めての笑みだったかもしれない。勝利の味を噛み締めるように笑う様は、いっそ歳相応の可愛らしい姿に見えなくもなかった。
 だが、それも束の間、崩れた相好が忽ち驚愕に彩られる。

「勝機、来たり」

 砂塵の中から騎馬に跨ったダーマディウスが飛び出してきたのだ。
 戦車の故障と放たれる致命の一撃。罠に掛かった得物を前にして狩人が舌なめずりをする瞬間こそ、ダーマディウスの待ち望んだ好機であった。
 炸裂する魔力を己の勘だけを頼みに紙一重で躱したダーマディウスは、騎馬に向かった魔術を斬り払い、巻き上がった砂塵の中で戦車から馬上へ飛び移った。そして、手綱も鐙もなしに腿の締め付けだけで馬の挙動を自在に御すると、タイタス目掛けて突進したのだ。
 狼狽した幼帝が狂ったように不可視の力を放つが、尽くが目算を外して虚空で炸裂してしまう。
 動揺だけが原因ではない。先ほどまでのダーマディウスは、横の動きを意識して騎馬を駆っていた。それも、なるべく馬の体力を温存させ、さらに最高速度を誤認させるために馬の力を抑えた状態でだ。対して戦車を放棄し、幼帝目掛けて突き進む動きは、全速力の一直線である。矢や火球のような進行上の物体に作用する攻撃手段であれば、横の動きよりも捉えやすいが、魔力の腕で補足し、炸裂させるという不可視の力の性質上、ただでさえ片目が開いていないタイタスにとって、焦点を合わせ難い縦の動きは鬼門と言える。
 魔術の炸裂範囲を後方へ置き去りにして接近するダーマディウスの姿を見て、ようやく術の欠点を悟った幼帝は、矢の呪文を唱え文字通り矢継ぎ早に放った。
 だが、魔法の矢は『不可視』の力ではない。凄まじい速さ、驚くべき威力を備えていようとも、目視出来る攻撃である以上、人馬一体となったダーマディウスにとっては、ただの矢と何ら変わりなかった。打ち払うまでもなく、掠りすらしない。
 見る見る間に彼我の距離が縮まり、ダーマディウスが馬上で槍を構える。全身に闘気を漲らせ、玉散る氷の刃を振り翳し、薄い胸板目掛けて一突きを見舞おうとした。
 だが、それは、両者の間に展開された無数の魔法陣によって阻まれた。

「ヒ、ヒィハ、ハ、コワレロ……コワレロォォォオオオ!」

 天雷陣――脈々と受け継がれる始祖帝の血と魂に刻まれた雷の魔術だ。本日、幾度目かも知れぬ危機が幼帝の知り得ぬ魔術をまた一つ、精神の深淵より呼び起こしたのである。
 魔力の集約する複数の魔法陣が俄に光り輝くと、地上に雷が走った。蔓延る夜陰を真昼さながらに照らす白雷が地表を舐めるように暴れ狂い、光の奔流に飲み込まれた有象無象の尽くを灰燼に帰して行く。
 ありとあらゆる有形の存在を許さぬ天の怒りが収まると、最早そこには、生きる者の痕跡など欠片もなくなっていた。魔術の効果範囲上に存在した民家も広場の彫像も、何もかもが塵一つ残さず焼失していた。乾いた空気にじりじりと死臭が流れ込む。空虚な広場に残ったのは、辛うじて術の範囲外にあった地表の瓦礫と物言わぬ屍たちぐらいだった。その中には、嘗てのダーマディウスの愛馬も転がっていた。胴から上の首が消し飛び、傷口は炭化して血の一筋も流れていない。横向きに倒れ伏した胴体には、圧し折れて骨の露出した四肢が繋がっている。
 その姿を認めた瞬間、タイタスの顔に死相が浮かんだ。雷の直撃を受けたなら、馬の胴体諸共消し飛んでいる筈なのだ。慌てて周囲を見回し、次いで上空を仰ぎ見た幼帝の目にそれが映った。

 天頂に達した月を背に、純白の外套を翻した巨漢が夜空を舞っていた。

 次々と大魔術を展開して、尚疲れの色を見せぬタイタスは、まさに化け物と言っていい存在だったろう。しかし、それ以上に怪物じみていたのがダーマディウスだった。前方に展開された魔法陣を察知するや否や、何ら躊躇うことなく馬上で立ち上がり、騎馬の背を蹴って飛び上がったのだ。馬の四肢が圧し折れていたのは、跳躍の反動であり、首だけが消し飛んだのは、前記の理由によって胴体の位置が下がっていたためである。
 凄まじい果断さであった。一歩間違えれば、確実に死ぬ。対手の魔術がブラフであった場合もまた死ぬ。だが、何より凄まじきは、行動の根拠が戦場の勘であるところだ。

 斯くして、総身から立ち上る気炎を燻らせ、青白い月光を歪めながら、ダーマディウスが飛来する。
 今度こそ驚愕に目を見開いたタイタスが迎え撃たんと異形の右腕を振り上げるが、全ては遅きに失した。
 上空で体勢を整えたダーマディウスは、外套の裏に縫い付けてあった鉄串を手にして、次々と投じた。闘気を纏い、遺憾なく勢いを増したおぞましき鉄串が五月雨のように降り注ぎ幼帝の身体を襲った。
 先手から一転、後手に回ったタイタスは、矢の呪文の弾幕で負けじと迎撃を試みる。

「ヌゥゥン!」「オォォォ!」

 咆哮と咆哮が交差し、威力と威力が激突し、ギシリギシリと形容し難い音色を奏でる中、遂に鉄串の一本が弾幕の包囲を抜けて幼帝の左肩を掠った。直撃こそしなかったものの、唸りを上げて飛来する鉄串の余波で、外衣の肩口が大きく裂け、容易に煽られた華奢な幼帝は、背中から地面に叩きつけられた。
 そこに、着地したダーマディウスが跳びかかる。空中では満足に捌くこともままならず、数発の魔術を身体に受けていた。決して軽傷とは言えない体であるが、自身の怪我などお構いなしであった。左腕で痩身のタイタスを抑えこみ、馬乗りになると、右手で鉄串を逆手に握り、振りかぶった姿勢でピタリと動きを止めた。
 先までの死闘が嘘のように、夜の静寂が二人を取り巻く中、荒く息を吐く幼帝の喘ぎだけが生々しく木霊していた。心音すら感じ取れる近間で、ダーマディウスは、組み敷いた相手をまじまじと見つめる。肌蹴た肩口から覗く胸板は、年少であることを考慮しても薄すぎた。皇帝の血筋に基する色素の抜け落ちた白い肌は、断続的な緊張により薄っすらと朱が差している。非対称の奇怪な相貌には、涙の跡が走り、その軌跡を追っていくと、得体の知れない感情の光が緋色の瞳の中で不規則に揺れているのが見て取れた。
 ダーマディウスは、タイタスの……少年の拘束を解いて立ち上がった。卒然と理解したのだ。
 少年は、狂ってなどいない。

 数百年の長きに渡るアルケア帝国の治世に、一時の幕を下ろす切っ掛けとなったタイタス十世の狂乱。墓所に幽閉された積年の恨みが彼の精神を蝕んだのだと、後年では多くの人々がそう解釈している。果たして、本当にそうなのだろうか。
 嫉妬や羨望という感情は、比較によってもたらされる衝動である。隣人に舞い込んだ些細な幸せを妬むような機会は、誰にだって往々に訪れ得るだろう。だが例えば、異国の名も知らぬ王が何処とも知れぬ遠方に出向いて領土を拡大したというような、それこそ住む世界の違いすぎる話を聞いて嫉妬するようなことが有り得るだろうか。
 生まれて間もなく墓所に幽閉された少年にとって、世界とは闇と静寂に包まれた安らぎの空間であった。
 加えて、少年は、墓所の生活に何ら不満など持ち合わせていない。墓所とは言え、王族のための施設である。鍾乳洞に手を加えて形作られた無数のドーム状の空間は、一日かけても端から端まで移動できないほど広大であり、上層には星座や神話の掘られた壁画、中層には驚くべきことに小規模な地下都市、下層には清澄な地下水を湛える泉があった。身の回りの雑事は、始祖帝の代より帝国に仕える不死の魔将ク・ルームが世話してくれたし、退屈なときは、地下都市に暮らす「白子族」が相手をしてくれた。あと、泉で釣りをすれば、針にかかった女神さまが「ちくわ」や「かまぼこ」をくれた。
 そんな閉じた世界で生きてきた少年にとって、外の世界とは、光と喧騒に苛まれる秩序なき人外魔境であった。最初こそ、探検のつもりで使者に従いて行ったが、次第に彼は恐ろしい事実に気付く。
 自身にとってのマジョリティが周囲にとってのマイノリティだったというのは、笑い話としてよくある類の物だ。少年にとっての常識は、墓所での常識。即ち左右非対称(アシンメトリー)だった。少年自身は勿論のこと、地下都市に住む白子族たちにも奇形が多かった。彼らは、始祖帝に近似した存在を生み出すことだけを目的に近親姦を繰り返す一族だった。その状況下では、ク・ルームのような左右対称(シンメトリー)な四肢を持つ者たちこそが異形だったのだ。
 少年からすると、笑い話ではなかった。逃げ場のない密閉された広間に連行され、周囲を異形の化け物たちに囲まれ、しかも自分に向けられるそいつらの視線は、決して好意的なものではないときた。ただ一人、不思議の国に放り出された少年の混乱は、忽ち極致に達した。
 斯くして、周囲を拒絶し自己に埋没した少年は、己の魂に蔓延る始祖帝の闇に潜り込んだ。『我に従え』と囁くタイタス一世の声を振り切り、もがき苦しみながらも現状を逃れ得る手段を渇望した彼の手中には、果たして恐ろしい魔術の力が握られていた。

 いずれも、ダーマディウスには、与り知らぬことであった。目の前の少年が墓所に幽閉されていたことも、死産であったと伝え聞いた親友たちの実子であることも、彼は知らない。
 だが、久方ぶりの死闘により、この上なく研ぎ澄まされた彼の洞察力は、少年の瞳の奥で揺らぐモノの正体をたちどころに看破していた。
 それは、恐怖だった。目の前の新帝は、殺戮を好む狂帝などではなく、ただ単に異郷に迷い込んで泣き出しそうになっている子供に過ぎなかったのだ。
 それでも常のダーマディウスであれば、情状酌量の余地なく殺していただろう。しかし、そうはならなかった。
 激闘の昂ぶりが引いて感傷的になっていたのも理由の一つだが、それ以上に、少年の姿にシンパシーを感じていた。赤髪のヘイオ族・ダーマディウス。属国の王子として人質に出され、遠い異郷の地で泣きながら夜を明かした幼き日の自分が目の前にいた。

「恐れるな」恐怖に慄く少年の脇にそっと手を差し込み、小さな身体を軽々抱き起こすと、ダーマディウスは揺れる瞳を凝然と見つめて言った。「お前は、強い」

 無骨な男なりの不器用な慰めだった。言われた方は、訳が分からないといった風で半ば呆然としていたが、いつの間にか震えは収まっていた。死闘を繰り広げる中で、両者の間に芽生えた奇妙な繋がりを通じて、閉じきった少年の心にダーマディウスの想いが通じたのだ。
 その様子を見やり、勝手に満足したダーマディウスは、少年を地面に下ろして口笛を吹いた。低い嘶きを響かせて、生き残った愛馬の片割れが歩み寄って来る。ノシノシと迫る悍馬の巨体に、左眼を見開いて驚く少年。その頭を乱暴に撫で付けると、ダーマディウスは騎馬に跨った。

「行こう。友よ」

 馬上から手を差し伸べ、ダーマディウスが言う。
 眉間に深い皺の刻まれた精悍で無愛想な顔は、清けき月光の影で、心なしか笑っているようでもあった。
 差し出された手を握り返し、少年が答える。

「ウン」

 地上で見せる二度目の笑顔だった。

 ◆

 斯くして、怪物と少年は、戦いの果てに友情を育んだ。
 その友誼は固く、帝国が一時の終焉を迎えた後も、決して途絶えることはなかった。
 幽鬼と化して、尚帝都を守護するダーマディウス。彼を打ち滅ぼす宿命の御子が帝都の門をくぐるその日まで。


あとがき 2013/07/04
 久しぶりにRuina熱が燃え盛り、血が滾ってやった。二年ぐらい前にやったフリゲですが、今でも時々プレイしてます。事前情報なしに突っ込んでダーマさんにボコられたという話をよく聞きますが、私はダーマディウス伝読んで色々準備したのにボコられました。いい思い出です。

追記
2013/07/05
 ちょこちょこ誤字の修正とか、表現の変更をしました。大きく変えたのは、戦車の積載重量を一トンから五百キロに変えたのと「かまぼこ」を追加したくらいですが。
 あと、pixivの方にも掲載しようかなと思ってます。ただ、普通に同じのを載せるのも芸がないなので、あっちの方には、初期プロットとか、次回予定とかも蛇足で付け足そうかなと、いらんこをと考えとります。
 
2013/07/06
 こっそりと板移動。



[37994] ナムリスの意地
Name: yusaku◆9e7545ec ID:2d21ca32
Date: 2013/07/21 23:10
 兄は、棍棒で打たれ、死んだ。

 ◆

 巨大な竜の白骨が横たわる大空洞。大地の底に埋もれ、壁面の亀裂より湧き出す地下水に侵されて湖と化した封印の地。嘗て竜の塔と呼ばれたその場所で、長きに渡る悪夢の一つが今終わりを迎えようとしていた。
 湖水に浮かんだ小島の一つ、周縁に環状列石が立ち並ぶ丘陵は、ふもとに侍った小鬼たちの燃やす篝火で薄明るく照らされている。その湖面のステージ上で、二組の影が対峙し、死闘を繰り広げていた。一人の騎士に対する四人の冒険者が小島の上で鎬を削り合い、形勢は徐々に冒険者たちの方へ傾いていた。

 その激闘の最中、漆黒の衣に身を包み、騎馬に跨った騎士は、久方ぶりに感じる痛痒をどこか他人事のように感じていた。
 魔将ナムリス。古代王朝アルケア帝国の王タイタス一世に魂を囚われ、不死の幽鬼と化した哀れな人間の一人である。帝国に仕えて千年余、幾度も繰り返される戦乱を経て、碌な手傷一つすら負ったことのない筈の彼は、今まさに生命の危機に瀕していた。如何なる名工の打った剣を以ってしても薄皮の一枚より他に傷付けられたことのない皮膚には、大きな裂傷が走り、都を襲った大火の中、煙の一筋すら上がらなかった体は、所々が焼け爛れ、重度の熱傷を負っていた。

「……そうか、そやつ、竜の子か……」

 妙な既視感を抱かせる神官の少女、寡黙な傭兵風の男、暗殺者と見紛う身ごなしの女中。その三人に守られるようにして立ち竦む幼子を見遣り、ナムリスは言った。そして、悟った。
 彼女こそが己の死であると。長きに渡り待ち続けた、魂の解放者であると。

 ◆

 遥か昔、ナムリスは、シバの地、ウーの都に生を受けた。王族の一人として、余人からすれば何ら不自由ない生活を送ったように見える彼であるが、一つだけ大きな不満があった。双子の兄、ナリスの存在である。
 兄は、非凡な男であった。書を与えれば、瞬く間にその内容を己が物とし、金子を与えれば、それを元手に忽ち一財産を築き、剣を与えれば、誰にも負けない戦士になった。特に剣術の才能には、眼を見張るものが有り、初めて剣を手にして半年ほどで師を打ち負かし、残り半年で都一の剣士になっていた。その上、己の才を他者にひけらかすような素振りも見せず、人柄も良かったため、他人の妬み恨みの対象となることもなく、都の誰からも好かれていた。
 弟は、そんな兄といつも比較されながら育った。愚鈍ではないものの、飛び抜けて優秀という訳でもなかったナムリスは、両親や家庭教師を始めとした家中の者から落伍者のレッテルを貼られていた。ナムリスの努力が報われることはなく、彼に浴びせられる言葉は「まったく、ナリスと比べて」の決まり文句から始まる心無いものばかりだった。
 ただ、そんな不遇の幼少期を過ごした弟ナムリスであったが、決して兄ナリスのことを嫌ってはいなかった。そう、ナリスは、誰にも好かれる人柄である。それは、弟のナムリスも例外でなく、むしろ召使たちからも陰で誹られるようなナムリスにとって、家中で唯一、自分のことを認めてくれるナリスは、憧れを通り越して信仰の対象ですらあった。

 だが、兄が都の民から統領に選ばれた頃より、全ては一変してしまった。弟を見る兄の瞳の中に、ただならぬ暗い輝きが灯るようになったのだ。その不穏な兆候は、日を重ねるごとに増して行き、ある日、ナムリスは、ナリスの命令で都から追放された。
 屈強な兵たちに引き立てられ、門の外に放り出されたナムリスは、暫しの間、何が起きたのか理解できずに呆然としていた。そして、漸く自身に降りかかった事態を認めると、これは何かの間違いだと門前の兵士に食って掛かった。だが、悲しいかな。人並みの武才しか持ち合わせぬナムリスは、忽ち周囲の兵たちに取り押さえられ、気絶するまで杖で打たれると、ウーの都から遠く離れた荒野まで引きずられて行き、そのまっただ中に置き去りにされてしまった。
 ポツリポツリと頬を打つ雨粒で目を覚ましたナムリスは、蝸牛のように緩慢な動作でのっそりと起き上がると、蹌踉とした足取りで歩き出した。徐々に雨脚が強まる中、弟は呆然と考えていた。考えて考えて、それでも兄の心が理解できなかった。

 それから、どれほど歩いたのだろうか。不幸中の幸いと言うべきか、暫くの間、生きていけるだけの旅食だけは持たされており、飢え死ぬことはなかった。着のままだった白い外衣をボロボロにして、気が付けばウーの都より遥か東方、アーガの都に辿り着いていた。未だ今後の展望も定まらぬナムリスであったが、とにかく人のいる場所が恋しく、都の門をくぐろうとした。
 その時だった。不意にナムリスは、誰かが耳元で囁くのを聞いた気がした。

「兄ハ、オ前ヲ恐レタノダヨ。王位ヲ奪ワレルト思ッタノサ」

 抑揚のない、妙に心を揺さぶる声音であった。まるで、ポッカリと空いた心の隙間を埋め尽くすように言葉が浸透し、気が付けば腹の底に熱いマグマが沸き立っていた。

「兄さんは……、兄さんは、そんなことで僕を……」

 自己の保身に走った兄を恨めしく思ったのではない。信じていた兄が自分を恐れたことに、神のように崇めていた兄が俗物に落ちたことに腹を立てたのだ。
 そこから先のことを、ナムリスはよく憶えていない。何故そうしようと思ったのかも、その時は分からなかったし、考えようとすら思えなかった。ただ、全ての出来事が予め定められていたかのように進んだ。

 アーガの魔術王は、前触れもなく訪れた素性も定かでない自称ウーの都の王族を快く宮殿に招き入れると、故郷を襲うように捲し立てるナムリスの話を微笑を浮かべて聞いてくれた。更に、話が一段落を迎えると、ナムリスに温かな食事と身を清めるための湯、それに清潔な衣服と快適な寝所を与えた。そして、驚くべきことに将軍の地位と軍勢を与えることまで約束すると、ナムリスの青い瞳を覗きこむようにして言った。

「君の思う通りにするといい」

 蓮の綻ぶような笑みだった。男色の気などないナムリスでさえ、一瞬心奪われほどに妖艶な物腰であった。
 慌てて目を背けたナムリスを見遣り、喉を鳴らして心底可笑しそうに笑うアーガ王タイタスは、「だが」と前置きをして更に続ける。

「君の兄君は、こう予言されているね。『この子供は、刃で殺される事はない』」
「ど、どうして、そのことを……」

 皇太子の生誕の際に、三人の魔女たちが告げた予言であった。近親者しか知り得ぬ筈の予言を何故アーガ王が知っているのか、その問には答えず、タイタスは尚も続ける。

「予言が事実なら由々しき事だが……なに、大事なかろう。なにせ君は『この子供は、人間の手で殺される事はない』そう予言されているのだからね。君が兄より優秀な証拠さ」

 兄と比較されながら育った弟にとって、抗いがたい呪いの言葉だった。ナムリスの心中の僅かな疑念を蕩かす悍ましい呪文だった。

 果たして、アーガの軍勢がウーの都に攻め入り、タイタスの言葉通りになった。
 瞬く間に要所を制圧したものの、百人の強者が囲んでもナリスを殺すことは叶わなかった。屯する兵の中心でナリスが剣を振りかざすと、忽ち屍の山が出来上がった。
 そこでナムリスが棍棒を持って進み出た。漆黒の外套に身を包み、棍棒を振り上げる弟を、兄は血走った目で睨みつけ、剣閃を送る。彼我の実力差は明白であった。ナムリスの棍棒は空を切り、ナリスの剣は袈裟斬りに走った。兄の手には、確かな手応え。だが、弟の身体からは、一滴の血も零れ落ちなかった。
 驚愕に眼を見開く兄ナリスを弟ナムリスの棍棒が襲う。頭部への一撃でナリスの巨躯は崩れ落ちるように沈み、もう一撃で頭蓋が割れて鮮血が迸り脳漿が零れ落ちた。それでも弟は、手を休めずに棍棒を振り翳した。狂喜に彩られた赤ら顔で、物言わぬ兄の屍を滅多打ちにして、頭部が原型を留めぬ血肉の塊になったところで漸く我を取り戻した。

「……どうして、僕は兄を……」

 返り血に染まる棍棒を取り落とし、ナムリスが震える声で呟いた。確かに、追放されたことを悲しみはした。兄に対して怒りも感じた。だが、果たしてそれは、敬愛していた兄に殺意を抱く程の物であったろうか。いや、そもそも、兄に対して怒りを抱いた根拠は何だったのだろうか。

「やはり、君を選んで正解だった」

 自問自答を繰り返すナムリスの耳に、ゾッとするほど蠱惑的な声が届いた。倒れ伏した屍の合間から、まるで春の野山に繰り出すような気軽さでタイタスが歩み寄ってきた。

「予言に力をもたらす呪いをかけたのだが、上手くいったようだ。君も宿願を果たせて満足だろう」

 あくまでも清廉な風に笑うタイタスは、蒼白な顔で立ち竦むナムリスの両肩を抱き、耳元で囁いた。

「コレカラモ頼リニシテイルヨ」

 抑揚を欠いた、抗いがたい呪詛の言葉だった。

 踵を返し去って行くタイタスの後方で、膝から崩れ落ち、地面に手をついて蹲るナムリスは見た。
 兄の剣に映った自身の双眸には、嘗て兄の瞳に見た不吉な光が宿っていた。

 ◆

 斯くしてウーの都は滅び去り、魂を囚われたナムリスは、アーガ王タイタスに仕える不死の魔将になった。
 呪いのような予言に守られたナムリスは、泥と腐肉から成る「夜種」の軍勢を与えられて、各地で転戦し、それはタイタスの身体が滅びて墓所を漂う御霊と成り果てた後も続いた。
 そして、今日この日、竜の塔の新たな守護者とするべき古竜の裔の捜索を命じられたナムリスは、魔将になって初めて手傷らしい手傷を負い、自身の死期を悟った。
 人に殺されぬという利点は、相手に人外がいるという時点で無いも同然だった。ナムリスの不死性は、七つの命を持つク・ルームと比べれば「偽りの」と形容して然るべき物だ。加えて、ヴァラメアの魔女アイビアの持つ膨大な魔術の知恵も、小人の党を管理するラァグの如き強靭な竜の身体も、そして、幻の帝都を守護する新参者の魔将ダーマディウスのような圧倒的武才も、そのどれもナムリスは持ち合わせていない。残されたのは、槌を振るうだけの木偶の坊と、忽ち蹴散らされる卑小な小鬼たちのみだった。

 致命に至らぬ細かな傷であれば、既に全身を覆うほどに刻まれていた。白骨の仮面で覆い隠した顔などは、二目と見られぬ醜貌と化している。それほどに長い間、戦いに明け暮れていながら、早々に自身の敗北を認める潔さがナムリスの長所だった。長らく理不尽な境遇にあり、すっかり卑屈に育ったナムリスは、物事に自身の主観を挟まず、合理的な答えを出せる男だった。ともすれば、その慎重さにこそ、タイタスは目をかけてナムリスを重用したのかもしれない。

 だが、それでもナムリスは、眼の前の冒険者たちに、ただ敗北することを良しとしなかった。
 望まぬ生ではあった、策略により下僕となった我が身ではあった。されども、己は将である。帝国の未来を双肩に背負い、人外の軍団を率い戦ったのは、紛れもなく自身の意思だった。
 魔将ナムリス、此処に在り。
 それがナムリスの意地だった。

「来い……。その命、皇帝陛下に捧げよう……」

 地の底に響く亡者の声でナムリスが告げると、短刀を手にしたうら若い女中が透かさず斬り込んできた。身を沈ませることで生じる落下の運動エネルギーを、移動に利用した縮地だ。黒毛の騎馬目掛けて放たれたれる二連撃を手綱捌きによって己の脚に受けると、ナムリスは猛然と騎馬を走らせた。
 墨を垂らしたような暗黒の鎧を鳴らし、夜の夕闇を写した漆黒の外衣をはためかせ、竜の子目掛けて直走る。
 眼前には、自身と同様に黒尽くめの傭兵が待ち構えていた。相手が横薙ぎに剣を振るうのに合わせて、槌の一撃を加える。その直前、傭兵の男の前方に光り輝く法陣の盾が形成された。白髪の神官が唱えた盾の呪文だった。だが、ナムリスは、構わずに銀の聖槌を振り下ろした。脳裏に描いたダーマディウスの一突きが俄に現実のものとなり、魔力の盾諸共、傭兵の身体が宙を舞う。
 しかし、ナムリスもただでは済まなかった。騎馬の歩みが止まったところに、凄まじい火炎が浴びせられた。竜の少女が放った灼熱の吐息である。炎に焼かれ棹立ちになった馬から、ナムリスの身体が放り出され、もんどり打って地面に叩きつけられた。身を焼く炎は、致命となりうる一撃であった。それでも、ナムリスは立ち上がる。アイビアの放つ爆炎の投射、ラァグの吐き出す紅蓮の業火を想えば、これしきの熱傷など屁のようなものだった。

「ォォォオオオ」

 竜の少女が愛らしい顔いっぱいに驚愕を浮かべて更なる息吹を吐き出す中、雄叫びを上げるナムリスが燃え盛る火炎に逆行して駆ける。何度も崩れ落ちそうになる身体に鞭打ち、不死身のク・ルームのように幾度も持ちこたえ、ジリジリと竜に迫る。
 巻き上がる火の粉が地下の暗闇を明るく照らす……まるで地獄の様な光景の中、光を吸う黒尽くめとは対称的に、白く浮かび上がる骨の仮面の下で、ナムリスは壮絶な笑みを浮かべて竜の少女に肉薄した。

「エンダちゃん――!」

 誰かが、叫んだ。
 その途端、竜の少女――エンダは、灼熱の吐息を止めて、槌を振り上げるナムリスの懐に飛び込んだ。槌の一閃は空を切り、地を蹴って飛び上がったエンダがナムリスの胴体に縋りつく。
 既に限界を超えていたナムリスの身体は、少女一人の重さすら支えきれず仰向けに倒れた。強かに背中を打ち、苦悶の呻きを漏らすナムリスの隙を逃さず、鎧の隙間から覗いた首筋にエンダは、鋭い犬歯が沈ませた。
 鮮血が吹き出すことはなかった。が、張り詰めていた糸が切れるようにして右手から槌を取り落し、ナムリスの身体から力が抜けた。
 もう立ち上がることはなかった。

 ピクリとも動かなくなったナムリスの上から降りると、エンダは骨の仮面を凝然と見つめる。そして、まだ息があることを認めると、ナムリスの頭の横に座り込んだ。

「塩味が足りない」

 纏ったボロ布の端を弄びながら、白い仮面を覗き込んで言う。

「……すまぬ……この身は、幽鬼が故に……」

 霞のかかる意識の狭間、苦笑いと共に吐き出すと、ナムリスの身体は、青白い炎を上げて燃えた。
 既に実体のない身体は、塵一つ残すことなく消え去り、骨の仮面と黒い外套だけが、抜け殻のように転がった。

 ◆

 弟は、竜の炎に焼かれ、喰い殺された。


あとがき

 pixivの予告通り、ナムリスの話でした。
 バイオケーキで倒されると思った人、正直に挙手。
 ……うん。本当は、そうなる筈だった。

 今回は、一気に書き上げたので、後から一心不乱の超絶加筆大改訂をやるかもしれませんが、その前におまけの話「鉄鍋のメロダーク」をpixivの方に上げることになると思います。何故、ナムリスがバイオケーキで倒せるのか……。誰もが一度は思い悩む永遠の命題に、私なりの解答を用意してみました。



[37994] 鉄鍋のメロダーク
Name: yusaku◆9e7545ec ID:2d21ca32
Date: 2013/07/21 23:03
 想像を絶する苦痛であった。
 腹腔を抉る寸鉄、身を焦がす酸の嵐、嘗ての罪業を掘り起こす魔術。過去に受けた如何なる責め苦とも異なる痛痒が総身を蝕んでいた。

 呪詛と予言で雁字搦めにされ、望まぬ隷属と歪な不死とを与えられた千年余。兄殺しの悔恨を引き摺りながら、いずれ訪れるであろう己が死に、恋焦がれる乙女のような想いを抱いてはいた。痛みと苦しみの波濤に遮られた遥か向こう岸。置き去りにされた死の感触が波間を抜けて手中に収まるとき、この世のものとは思えぬ苦痛の下で自分は死ぬのだろう。そしてそれは、きっと碌でもない死に方なのだろう。
 自刃すらままならぬ魂の囚人が夢見た、たった一つの贖罪であった。

 ナムリスの願望は、果たして現実のものとなる。だが、それは彼の納得いくものであったのだろうか。

「……馬鹿な」

 頭部から立ち昇る不気味な黒煙をよそに、ナムリスは呆然と呟いていた。

 ◆

 水没した竜の塔を彷徨うこと幾許か、新たな守護者とすべき竜の子を求める探索の果てに、その冒険者たちと対峙することになったのがつい先程のことだ。
 三者三様、異なる戦い方を見せる彼らは、荒削りながらも今後を期待させる才気を宿した連中だった。
 自身が持ち合わせぬ才覚に、長らく忘れていた劣等感を刺激されたものの、歴戦の魔将ナムリスは戦局を始終有利に進めていた。
 人の手によって死ぬことのない肉体。呪いのような予言の言葉に縛られ、そして守られる身体を持つナムリスの前では、如何なる才覚も等しく無力である。故に彼の心中に油断とも言えぬ隙があったとしても、それは是非もないことだったのだろう。

 不利を悟り退却の隙を伺う冒険者たちの放った、やぶれかぶれの一投。緑色のゲル状物質に覆われる極彩色のスポンジが仮面で覆われたナムリスの顔面に炸裂した。その行動自体は、目眩まし以外の意図などなかったに違いない

「くっ、自信作のケーキが……」
「あ、あれって、ケーキだったんですか!?」

 閉ざされた視界の向こう側から、黒衣の傭兵の嘆きと神官の少女の驚く声が聞こえた。白骨の仮面の隙間に詰まった汚泥のような物質は、どうやらケーキらしい。
 腐ったザリガニのような臭いを放つケーキを何とも言えない心境で仮面の下から掻き出しつつ、ナムリスは思った。

 ――地上世界の食糧事情は、自分の知っている頃の物とは異なる、悍ましい変遷を遂げたらしい。

 長らく生きてきたナムリスが初めてケーキを口にしたのは、いつの頃だったろうか。まだ幼い頃、城壁の上によじ登り、大好きだった兄と一緒に食べたナッツ入りの甘いパンがそれだったのだろうか。それとも、良品質の小麦、いわゆる一等小麦が高騰を続ける時代、パンすらまともに食べられない貧民たちが安い二等小麦で作っていた焼き菓子がそうだったのか。
 幽鬼と化し、曖昧な時の流れに身を置くナムリスにとって、判然としない些細な記憶であった。だが、少なくとも腐乱臭や自然発光とは無縁の食べ物であったことは間違いない。

 不意にナムリスの胸に痛みが走った。実感した時の流れの残酷さがナムリスの胸を焦がしたのだ。戦いの最中、感傷に浸るなど愚行も甚だしい行為であるが、止めどなく溢れる感情の波を止める術などナムリスは持ち合わせていなかった。
 胸を締め付けるような痛みが徐々に全身へと広がり、手足が震え、目が霞み、内側から弾けるような痛みが頭部に走り、腹の底からせり上がる何かが口から溢れだした。
 仮面の隙間から、吐瀉物の混じったドス黒い血が滴っていた。
 騎馬に跨ったナムリスの身体がグラリと大きく揺れ、青毛の馬首に縋りつくようにして地面に崩れ落ちた。
 仮面の隙間からは、黒い血と煙が交互に吹き出し、ケーキの腐乱臭に混じって肉の焦げる臭いが辺りに広がっていく。
 無論、精神的要因に基する現象ではなかった。
 長らく命の危機から遠ざかり、苦痛に対して鈍くなっていたナムリスは、馬上から落ちたところで、初めて己が身の異常に気がついた。
 紛れもなく毒物による症状である。

「……馬鹿な」

 自然と口を吐いていた。
 久方ぶりに感じる死の気配は紛れもなく本物である。ならば苦痛の原因として考えられるのは、燐光を放つ不気味なケーキ以外に存在し得ない。
 人の手で死ぬことのないナムリスだ。確かに、毒蛇に噛まれるなり、ヤドクガエルに触れるなり、人為的要因を排した形であれば全身に毒が回って息絶えることも十分に有り得るだろう。
 だが、そこに僅かなりとも人意が挟まれてしばえば、忽ち予言の力が彼を生かしてしまう。
 それ故に、ナムリスは、自分の身体を苛む痛痒が信じられなかった。
 これまでも、毒物に触れる機会はあった。盃に一服盛られたことや、毒矢を受けたこともあったが、いずれもナムリスの命を脅かすような事態には至らなかったのだ。
 ならば、このケーキを作ったと思しき黒衣の男は、人外だったとでも言うのだろうか。それとも、ケーキを投げた神官の少女が――。しかし、それならば何故、先の戦いでナムリスは打倒されなかったのか。

 この場にいる誰も、それこそ、この事態を引き起こした当人たちすら知らなかった。不気味な燐光を放つケーキ、通称バイオケーキ。ホルム近郊で捕れる虹色魚をすり身にし、ニョロと呼ばれるアメーバ状生物を混ぜ合わせ、低音で焼き上げることで完成する一品である。元々ニョロは、環境適合能力が高く、条件が揃うことでフナットと言う危険生物に変性する特質を備えている。それが虹色魚の色素成分と出会うことで、また新たな変性を遂げた結果生まれたのが、その生物兵器であった。ゲルとスポンジの間の子様のケーキは、それ自体が一つの生命体であり、原始的ながらも意思を持った生ける猛毒である。
 あくまでも人に対する加護しか持ち合わせていないナムリスでは、人の意思とは関係なしに毒を作り出す、この恐るべき生物に抗うことが出来なかったのだ。

 極彩色のスポンジから分泌される粘性の毒素は、瞬く間にナムリスの身体を侵していた。強酸性の粘液が顔の皮膚を焼き焦がし、粘膜から体内に侵入した様々な有害成分が血流に乗って全身を巡った。
 最早助かるべくもない、無残極まりない最期であった。

「メロダークさん……料理は勝負ってやつですか」
「マナよ。料理は心だ」
「寝言は、寝て言って下さい」

 霞のかかる意識の狭間、聞こえてくる他愛ないやり取りを聞きながら、ナムリスは焦点の合わぬ瞳で虚空を見つめている。毒素によって混濁した脳裏には、彼の最も幸せだった頃の一幕が映し出されていた。紺碧の空の下、兄ナリスと共に食べた甘いケーキの想い出だ。
 毒液に塗れた仮面の端から一筋の涙が零れると、ナムリスの身体は青白い炎を上げて燃えた。
 既に幽鬼と化した肉体は、灰すら残すことなく燃え尽き、主を亡くした騎馬の傍らには、異臭の染み込んだ仮面と外套だけが転がった。


あとがき
 十行くらいのおまけになる筈が……。
 短編にしても短すぎなので、小ネタということで。


お知らせ
 前々から書こう書こうしていたオリジナルの方のネタがまとまってきたので、しばらくそっちに注力することになるかもしれません。
 RuinaのSSを期待しておられる読者様方には、申し訳ありませんが、こっちは、しばらく休止すると思います。


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