輪廻転生。
最近は辞書より先にwikiを開くのかもしれないが、この言葉を聞いてわざわざどちらかを開こうとする中学生以上は日本にいないだろう。
とどのつまりは、仏教などに端を発する生まれ変わりというやつの事だ。
古い話では、神話や仏教のありがたい教えなんかにあるし、某漫画の神様の『火の鳥』シリーズもそういった部分を多く取り入れている。
その場合は大概、動植物に生まれ変わって不幸になったり、もしくは人に生まれ変わっても何らかの理由で不幸になったりするものだ。大抵は自分の欲のせいで。
中には夢オチもあって、これを教訓に日々頑張って生きましょう……というパターンだろうか?
また、最近では特にネット小説なんかでもてはやされつつあるのが『好みの漫画、小説の中に入り込む』だ。前述のように生まれ変わったり、既存のキャラクターに幽霊よろしく憑依したり、ごく普通に入り込んだり。
しかも都合のいい事に、どっかの神様だか悪魔だかに不思議な力を与えてもらっただの、それぞれの作品の中の人気キャラクターと好意的な関係になれる立ち場にいますだのと非常になんというか……前者と比較してかなりアレな感じのする話だ。
読んでて痛々しい、だのと言いながらもついつい読んでしまったりしながら、読者の多くはそれぞれ幾度となく自分も同じような機会に恵まれたい……そう、思うのだろう。
そんな事を思い出しながら、俺は思う。
そんないいもんじゃない。
産まれてこの方、幾度となく心の中で叫び続けた俺は、姓を工藤。
名前は冬弥とかいてふゆひさ。
いわゆる一つの転生者であり、後述のネット小説の主人公のように生まれ変わる前の俗に言う“リアル”の中で知っているとある小説の世界に一度死んで、そして生まれ変わった男である。
今となっては相当に朧の彼方だが、生まれ変わる前の俺はいわゆるオタクという奴だった。
だから幾つも、俺と同じように『現実来訪』なんて目に遇っている人間を描いたネット小説を読んだ事はある。
そして、今の自分と照らし合わせて相当に……嫉妬していたりする。
どうしてそういう奴等は生まれつき天才だったり、美形だったりしているのだろうか。どうして常に大団円が約束されているのだろうか?
そういう話にうまく入り込めたからか。
自分の現在と照らし合わせて、常々思う……替わってくれ、駄目なら仲間に入れてくれ……
今の年齢は18歳。生まれ変わる前の年齢はもう覚えていないが、成人はしていたと思う。そんな年の人間の考えにしてはみっともないが……
もしも、選ぶ権利があるのなら俺はこの世界に生まれ変わる事だけは万難を排して避けたはずだ。
仮に俺が自由に生まれる世界を選ぶとしたら、いっそ馬鹿くさいシナリオのエロゲーの世界にでも生まれ変わりたかった。そこで目茶苦茶な理由で適当に女と遊んでいられればそれがよかった。
そうでなくても、例えばリリカルな世界やマギステルな世界は主人公サイドなら最高だ。
好き放題、やりたい放題やって、何があっても主役補正で許される。天才バンザイ、英雄の息子バンザイ、主人公バンザイの世界だったはずだ。
家族や友人どころか自分の事さえも薄ぼやけてきているくせに、こんな事ばっかり覚えているのは人間失格だとも思うが……この際それは置いておく。
ともかく……なんで俺ばっかり、エロスはたっぷりあるがそれ以上に……それ以上にヴァイオレンス溢れる世界に生まれ変わらなければならなかったのか。
『こんな時に物思いにふけるだなんて……随分と余裕のある坊やねぇ……』
これまでの人生とこれからの自分を慮り、高尚な思索にふける俺の目の前に……非常に大きく形もいいむしゃぶりつきたくなる裸の胸を揺らす極上の絹のような黒い髪を伸ばした絶世の美女がいた。彼女はしなだれかかるようにして、横たわる俺に覆いかぶさってくる。
「……そりゃ余裕もあるだろ? そんなんじゃどこにも入れられねぇじゃんか。幾ら美人に寄りかかられても、これじゃあなぁ」
緊張のしようがないぜ、とぼやく俺に女は優位に立っている者が見せる笑みを浮かべる。
『あらそう? 最後の土産に口でしてあげてもいいわよ?』
「……その蜘蛛の下半身を人に変えて相手してくれないか? それなら大喜びだ」
とある朽果てた廃ビルの地下室……その崩れた壁の瓦礫に真白い糸で拘束される俺はまるでミイラの標本のようだった。そして、そんな俺にしなだれかかる……いや、襲い掛かる女は正に女郎蜘蛛……比喩でもなんでもなく、伝説からそのまま抜け出てきたような下半身が大蜘蛛の化物だった。
「最近、警察署の掲示板を飾っている賞金首の鬼蟲によもや偶然会っちまうとは……ついてないよな」
『あらやだ。本当に偶然だったの? 名の売れた賞金稼ぎのあなたが?』
本当に意外そうに言うこの女蜘蛛が、たまたま近道をして馴染みの書店に向かっていた俺に手を出してきたのは体内時計で換算するに昼を回った30分前の事だ。
狙われている最中は一体何の因果でとも思ったが……どうやら相手は俺が自分を狙っていると勘違いしているのだと気がついたのは割とすぐだ。
誤解を解こうにも、お互いの関係を考えれば徒労に終わるのは明らかだ。それでもやらないよりはましと言葉を投げるが聞き入れてはもらえずに……とうとうご覧のあり様、髪より細くて針金よりも頑丈な白い糸にとっつかまってぐるぐる巻きである。
いや、我ながら恰好悪い。
「……売れてたのか? その割にあんまり依頼が……」
『だって、あなた“新宿”警察の依頼しか受けないって有名よ』
「……そんなつもりはない」
っていうか、そんな噂が流れていたのかよ。
「こりゃ帰ったらなんかいろいろアピールってやつをしないとな。俺はけして警察の犬ではないのだよ」
『……まだ、帰れるつもりなのかしら?』
適当な事をうそぶく俺に、鬼蟲が危険な兆候を見せ始める。この絶対的な有利の状況でなめた事を言う俺に腹をたてているのか。
いや、そうではない。
この美女にしか見えない上半身を持つ虫の怪物は、しなだれかかる身体に少しずつ緊張感を持たせている。俺が、この絶対的有利な状況を崩せる何かを持っているのではないか。それを警戒しているのだ。
一寸先は闇。
この言葉を彼女はよく理解している。それが、この街で生きる自分達には常について回る言葉なのだという事を、彼女は骨身にしみているのだろう。
「……さすが、男ばかり三十七人も食い殺してきたと噂されている賞金首の“鬼蟲”だけはあるな。コマンドポリスもその中には十人弱いるって言うし、歴戦の兵ってやつかね」
『古臭い言い方。あなた若い子の割には爺くさい言い方するのね』
「ちぇ」
舌打ちする。それにしても内容の詳細はともかく、流れる空気が随分と和やかな会話だ。
外見も、下半身を除けば俺好みの純和風の美貌だし、せめて人食い蜘蛛でなければねぇ……
『褒めてくれて嬉しいけど、あなたから感じる風は私には不快なの。ごめんなさいね』
ふられた。
『ところで、蜘蛛と人食いとどっちがいやなの?』
「人食いだ。蜘蛛が美女に化けて奥さんに……なんか昔話にありそうだろ? 鶴だっけ」
『………』
軽口だが、言っている事は結構腹の底から出てきた言葉だ。それが伝わったのだろう、蜘蛛は…いや、女は随分と複雑そうな顔をした。
『本当に残念ね。あなたみたい変わり者にもっと早く会っていれば、こんな所で巣を張って、男を誘わなくてもすんだのかしら』
「まだ間に合うぞ? 俺はあんたを狩る依頼は受けてない」
それでも誰かが追うのだろうが……巣さえ張らずに動き回っていれば、この女はけっこううまく立ち回りそうな気もする。人食いの鬼が昨日を忘れて生きる事が出来るのがこの街だ。
『それでも、どこまでも過去が追いかけてくるのもこの街よ。忘れたい過去が絶えず追いかけてきて、こちらがほっと一息ついた時に限って背中にへばりついて離れないのも、この街の姿』
「もっともだ」
うなずく俺の顔に、影がかかる。
『だから私はあなたを食べるの。私を愛して、蜘蛛とわかると捨てた夫に出会うまで、男を食べ続けるの』
「……人妻だったのか。不倫はよくないよな……離婚は成立しているのか?」
唇をいらう真っ赤な舌にぞくぞくとした快感を背筋に覚えつつ、俺は懲りずに軽口をたたく。
『あいにくと、私は戸籍なんてないの。蜘蛛だから。ところで……時間稼ぎは無駄よ。私たちを殺せる力のある青年』
完全に唇が重なって舌が俺の口腔内に侵入しようとするが、さすがにそこまでは許せない。
『あなたが私を殺せる力を持っているのは分かる。術か、業か、道具かもしれないわね。でも、もう何もさせない、それともまだ何かできそうかしら?』
眼だけで笑うのは挑発になっただろうか?
比喩表現抜きで目の前に存在する黒が、元々持っている殺意をより強くしたのがわかる。
『気に入らない、ねぇ……』
怯えるよりはいいような気もするんだが……それにしても、唇を重ねているのにどこから声を出しているんだろう?
そうやってどうでもいい事を思考しながらも、俺は意識の半分で“力”を練っている。この世界に生まれ落ち……どこぞに溢れかえるオリ主とやらのように生まれ持った棚ぼた的な能力がない俺が、修練によって手に入れた力だ。この力によって、俺は状況を打破する。
しかし、距離は詰められている。身体は封じられている。だから、力の練りを感づかれればまずい事になるだろう。それも致死性で、だ。
だから少しずつ、まるで猛獣に近づく狩人のように繊細に、緻密に、ゆっくりと力を練らなければならない。
『私はこれからあんたを殺す。口から卵を送り込んで、腹の中から子蜘蛛達に食い破らせて殺す。あんたは全身の穴から蜘蛛を溢れさせるんだ。眼も、耳も、鼻も! 口から蜘蛛を逆流させて、尻の穴からも垂れ流すんだ! なんでそんなに落ち着いているんだい!』
「そりゃあやっぱり、独り身のあんたがどうして子供作れたんだとか、そんな事が気になって仕方ないからだよ」
平然と返す俺に、鬼蟲は絶句さえした。その一瞬に更に力を蓄える。
しかし、及ばない。俺の経験に基づく計算では刹那、一瞬に満たない時間だけ足りない。高速化した思考でそれを判断する。弱いままの力で解放したくなるが、そんな事をしてしまえばそれこそ最後だ。
これは……腕の一本くらい失う覚悟は決めておこうか。
『おふざけでないよ! 坊や!』
美人が怒ると絵になるタイプとひたすら恐ろしさが増すタイプに分かれるそうだが、彼女は間違いなく後者だ。ここが廃墟であり、まだ子供がおやつを食う時間よりも前だっていうのに薄暗い事も雰囲気を醸し出してホラー映画顔負けの迫力である。
これは……もう時間稼ぎは無理か。覚悟の決め時か!
肚を据えて力を解放しようとした俺の耳を、一発の轟音が貫いた。
『ギャアアアアッッ!?』
俺の眼の前から、鬼蟲……というよりも鬼女の顔が遠ざかっていく。豊満な胸と唇の感触はもったいなかったが、命をかけてそれを味わうほど女に飢えてもいなかった。俺はのけぞる鬼蟲から轟音の源へと首を向ける。
味方だなどと無条件には思えないのがこの街の流儀だ。俺が無力化されているのは相変わらずである以上、新たな存在の情報は必須だ。
「……殺人未遂の現行犯で有罪だ。よくやってくれた」
振り向いた先には硝煙の香りがして、匂いの源はあまりにも大きな銃口だった。形状、大きさともに相当非常識な規格外れのリボルバー拳銃が暗がりからにょっきりと生えているのが見える。それを支えるのは太くたくましい腕だ。どちらも、見覚えがある。
そして、ぞっとするほど低い、鋼の様な声が轟音と甲高い悲鳴にやられた鼓膜を揺さぶった。俺はその声の主に心当たりがある。いや、実は轟音を聞いた時点で確信に近い思いはあったのだ。
「日ごろの行いがいいのか、ね」
痛みに眉をしかめながらつぶやく。鬼蟲にやられたのではなく、先ほどの轟音が腹に響いたのだ。そんな音を出せる拳銃は限られている。
「そんな訳がねぇだろう。まあ、屑やくざどもをぶちのめして回るのはけっこうだがな」
そこには花柄の男がいた。
いや、柄ではなく本物の花。それも押し花だ。
まるで某三代目の怪盗を執拗に追いかける執念の警部を思わせるトレンチコートに色とりどりの花を散りばめた異相の男が、紫煙を立ち上らさせる銃を右手にこちらを眺めている。その顔には窮地に陥っている俺に対する情なんてものは欠片も見つけられなかったが、それは当然だった。
『ひいっ!?』
鬼蟲の顔が隠しようもない恐怖にひきつる。
自分を情け容赦なく銃撃したこの男を知っているのだろう。
当然だろう、この街の有名人だ。更に、名物男と言うには物騒な彼は極めて特長的である。
花柄のコートだけではなく、本場の人間顔負けにがちがちに油で固められたドレッドヘア、カウボーイのように黄金の拍車のついたハーフブーツと特長的なスタイルで決めている。そして何よりも、片側を刀の鍔で隠され隻眼が印象的だ。
これで刑事だなどと主張しても、何も予備知識なくして信じる者はいるまい。
だが、俺は知っている。そして、きっと鬼蟲も。
『……その顔、その服、それにそのおかしな銃……あんた、まさかスパイン・チラー……こ、凍らせ屋!?』
その顔は、まぎれもなくこの世で最も恐ろしいものに出会ってしまった顔だった。
彼は、けして鬼蟲のような輩が出会ってはいけない相手なのだと彼女も百も承知なのだろう。
自分をまるで悪魔そのものであるかのように怯えながら見つめる異形を余所に、彼は何故か俺の方を向きながら鋼鉄のように渋い声で訂正を求めてきた。
「こいつはトレンチコートじゃねぇ。丈は長いがジャケットだ」
「服には疎いもので」
口に出してたか? と疑問に思う俺を余所に彼は一般市民に向けた時とはかけ離れた冷たい声を出す。
「服以外にもいろいろと疎そうだがな。賞金稼ぎが賞金首に捕まってどうする? 高額賞金首のこいつの手口も知らなかったのか」
「…俺がどんなに大物でも女の賞金首を追いかけた事はないって知ってるはずじゃないですか、屍さん」
俺は大して不満そうにもなく、異相の男……屍刑四郎刑事に応える。
この名前に聞き覚えのある人は、この街の住人と警察関係者以外では俺と同じ“現実”を知っている者ばかりではないだろうか?
そう……廃墟に女郎蜘蛛が住まい男を食い散らかすような街。
そして、屍刑四郎という男の生きる街。
どこかで聞いた事はあるだろう、ここは“新宿”。
人に魔界都市と呼ばれる……生まれ変わった俺の生きる街だ。
『動くな! 動くんじゃないよ!』
鬼蟲は必死の形相で俺につかみかかる。
『なんで…なんで、凍らせ屋がここに……あんたが呼んだのかい!』
俺の首を締めながら、屍に向けて盾にする。そんな事で止まるような刑事がこの魔界都市にいると思っているのだろうか? こいつも、男とこじれなければ実にいい女であったのかもしれない。いずれにせよ、この街にはあまり向かない、つまり真っ当な気質な女だ。
そして、真っ当な女でもちょっとしたきっかけで簡単に人を殺すのが、心の苦いところだ。
心の何もかもが苦い部分でできてそうな刑事は、そんな感慨にふける俺(人質)まで含めて鼻で笑ってくれやがったが。
「人質…ふん、罪状が追加だ。つくづく、よくやってくれる」
『あ、あんたはこいつと知らない仲じゃないんだろ!? 何を笑って……』
「それがどうした? 賞金首に捕まるような間抜けな賞金稼ぎは死んじまえ」
嘲りさえ込めてむしろ楽しそうにさえ語る刑事(失格だと言い切りたい)に絶句する鬼蟲。首から上だけ見れば、凶悪な殺人鬼と哀れな被害者にしか見えない。もちろん、眼帯刑事が殺人鬼だ。どこまでも違和感がない。
再度轟音が廃墟に響く。
『ひぃっ!』
鬼蟲がまるで強姦魔に襲われた哀れな淑女のように身をすくめる。だが、強姦魔が襲ったのは彼女ではなかった。
「さっきから聞いていれば、人を殺人鬼だの強姦魔だのと……いい度胸しているな、真っ当な刑事様に向かって」
「……真っ当な刑事は“区民”に銃を撃ちませんよ」
「ここは魔界都市だ」
「それで全部が済むわけないでしょうが!」
……実際には結構それで済んでしまうのがこの街だ。俺は頭のすぐ上に空いている風穴を意識しながら怒る。刑事だろうが年長者だろうが、ここは殴ってもいいような状況だろう。実際にそんな真似をするならば全面的に殺し合う覚悟がいるだろうけれども。
「大体、なんで考えてる事がわかるんです?」
「顔に丸だしだ」
これまで生きてきて、そんなにわかりやすいと言われた覚えはない。このおっさんが、何か特殊な道具か術でも仕込んでいると考えた方が自然だ。
そう考えていると、鬼蟲が金切り声を上げる。
『あ、あんたら……なんで撃てるんだい、なんで撃たれても平気な顔しているんだよ! 今、よけなきゃ間違いなく当たってたじゃないか! 知った顔なんだろ!? 幾ら魔界都市だからって……おかしいじゃないか!』
「………」
「………てめぇ、クソの割には随分と……」
ぬけぬけと言うろくでなしよりも、よっぽど人格者のように思える。それにしても、彼女は本当に“区民”なんだろうか? いや“区民”だからこそか。
この魔界都市は天使と悪魔が極端に、そして同時に一つの心に住まう街であるのだから。
「賞金首って人違いじゃないのか?」
「殺されそうになってるてめぇがぬかせる台詞か」
それもそうだとわざとらしくうなずく俺の喉首が鬼蟲にひっつかまれる。大の男を力づくで持ち上げるあたり、やはり彼女の細腕には白い皮膚の下に人あらざる何かがたっぷりと詰まっているのだろう。
そう言えば、虫の類は大きささえ同じなら人間はおろか地上のどんな哺乳類も手も足も出ないとか。
『いい加減、おふざけじゃないよ!』
確かに、彼女にしてみれば馬鹿にしているとしか思えない会話だったろう。ひょっとすれば撃たれた事さえその延長と思われているのかもしれない。
無理もない事だが、それでも昔懐かしいネックハンキングツリー(だったと思う)からコンクリートの床に叩きつけようとするのはやり過ぎだ。ましてや人外の怪力で……となれば、俺の頭蓋は卵のようにあっけなく砕け散るだろう。
ぶんぶん、とまるで幼児が振りまわすぬいぐるみのように二回、三回と空中遊泳を他動的に行わされる俺は高速で移ろう視界の中で、鬼蟲に向かって超大型リボルバー拳銃、ドラムを撃とうとする屍刑事を見た。その顔ははっきりと語っている。
よくやってくれた
つくづく、こういう刑事なのだ。魔界都市でなければやっていけず、魔界都市はこの男がいなければやっていけない。
それが屍刑四郎だった。
だが、今回に限りその銃を使う機会はない。
『ぎいいぃっ!』
繊手のままでありながらも怪力を発揮した鬼蟲は回転でたっぷりと蓄えた力をそのままに、俺をコンクリートに叩きつけようとする。もしもこれが常人であるならば、骨の砕ける形容しがたい音と肉の潰れる汚らしい濡れた音を生み出して果てるだろう。
だが、鈍い音はしなかった。
「きいいぃぃええええぇぇぇーっ!」
大喝一声、気合いの声を張り上げて俺は女郎蜘蛛の拘束を抜けだして猫のように着地を決めた。散々に振り回されても平衡感覚を失わないのは我が事ながら一重に鍛錬の賜物である。だが、鬼蟲もそこでただ俺を逃がすほど間抜けでもなければ隙があるわけでもない。
屍と自分の間に俺を挟むようにして地面に叩きつけようとしていた彼女にとって、俺が肉の盾になっている事は変わらない。改めて俺を捕まえようと手を伸ばす彼女だが、それは二重の意味で下策だ。
第一に、屍は決して躊躇しない。
彼の愛銃ドラムにとって人体など幾らでも貫通できるシロモノだ。そして、である以上無力な女子供と言うのならばともかくも、俺の身の安全を考慮するような男ではない。
そして第二に……
『っ! 何!?』
鬼蟲の顔に驚愕が貼り付けられている。視線は、自分のすぐ目の前をふさぐ茶色い何かにそそがれている。
それがいったい何なのか、咄嗟の反応で大きく飛びのいた彼女は、驚愕と共に俺を見ている。
『……あ、あたしの糸から逃げた!?』
「でなけりゃ、音もなく着地なんて事はできないんだな、これまた」
とぼける俺の足元にはまるで清流のように艶やかな銀色がこんもりと溜まっている。べたつかないのは自分が俺に密着する事を考えて縦糸を使っていたのだろう、それは鬼蟲が俺をからめ捕るのに使った蜘蛛糸だった。
そして、解放された俺の両腕が正眼の構えで握り締めているのは……
『木刀? そんな、何も持っていなかったはずよ。それも、そんな長い物を一体どこに隠していた!?』
彼女にしてみれば、いつの間にやら俺の手に白い木刀が握られているのだ。腕よりも長い大太刀を一体どこに隠していたのか、鬼蟲の脳はその疑問に埋められている事だろう。 俺の服装はいたって平凡なブルージーンズにポロシャツだ。こんな長物、持っていれば一目でわかる。しかし、それも一言で説明できる。
「そいつは念法使いのお約束だよ」
俺に密着していた事も驚愕をより強くしているのだろう。そして俺の言葉に彼女の驚愕は更に深まっていく。
『念法!? あ……あんた、念法使い!』
「へえ、博識。知ってたのかい」
にっ、と笑う俺はきっと会心の笑みを浮かべている事だろう。
そう、念法。
かの十六夜弦一郎。
かの十六夜京也。
そして工藤信隆。
そして工藤明彦。
偉大なる先人たちの名前だ。
二つの魔界都市において、練り上げられた十六夜念法。
かつて平安の御世に、京の闇に潜む邪怪鬼畜より御所を守る為に生み出された由来を持つ工藤流念法。
遠く霊峰ヒマラヤで、あるいは日本十三大霊場の一つ大雪山で常軌を逸した修行で鍛え上げられる霊的器官チャクラを使い精神を昇華して、思念を練り上げ物理現象にまで奇跡を起こす神秘の剣術。
「工藤流念法、名を工藤冬弥。愛刀の名は仁王」
かの世で死に、この世に生まれ、工藤流の門を叩いて弟子となる。やがて養子に迎えられて早、十と八年。
「さあ、やろうか」
不敵な笑みを浮かべながら、人あらざる妖物に威勢よく名乗れる程度に、俺は強くなっていた。
白樫の木刀が、薄暗がりの中で映える。うっすらと輝いて見えるのは俺の思念の故だ。
それはあたかも鋼の白刃の様でもあり、俺の気勢を乗せるのに一役買っている。
自身の背骨にそって成り立つ霊的器官、チャクラ。それが俺の内側でモーターのように勢いよく音をたてて回転し、俺の精神を昇華し念を全身に、そして俺の愛刀たる仁王にまで張り巡らせている。それをはたしてどう受け止めたのか、三十人の男を食い殺した妖物、鬼蟲が俺の気迫に押されたかのように一歩下がる。
彼我の距離はおよそ三メートル。
そして俺の背後二メートルに魔界刑事がいる。その名も高き極悪刑事の凍らせ屋だ。
〈区外〉だったらかき氷屋と間違われそうなものだが、この街でそんな愉快な間違いをするなど子供でもいないだろう。いつだったか、彼と俺に追われた賞金首が下品ながなり声で余計な事を口走った。
「変な髪と悪趣味な格好しやがって、アイス屋もどきがよぉ」
そいつが蜂の巣になりながらも死ぬ事さえできず、どうか殺してくださいと言ったのはきっちり三十分後。その間中いたぶられ続けていたわけである。
ちなみに、その後もなぶり続けられて気が狂った後も更に彼の修めた古代武術『ジルガ』の秘術で下手くそながらも治療されてまたもや延々と……
気分の悪い物を見せつけられた俺も途中でうんざりして帰ったが、いくら区外の観光客(女限定)を誘拐して薬漬けにした挙句風俗を中心に売りさばくようなろくでなしの屑とはいえ、全くもって気の毒である。
更に、そいつを捕まえる為に丸一日使った挙句凍らせ屋に横取りされ、とどめに気色の悪いスプラッタを見せつけられた俺も気の毒である。あんまり気分が悪くなり、そんな俺に同情したのか、応援に駆け付けた新宿警察指折りの美女刑事、金髪碧眼でスタイルも抜群のシャーリイ・クロスにおごってもらった焼き肉も一人前がせいぜいだった。ちなみにどうにか経費で落としたらしい。
ともかく、古来より妖物相手に練り上げられた念法使いに加えて、そんな極悪人まで背後に控えているのだ。ここは自首の線もありではないだろうか?
「そうは思いませんかな? ご両人」
「誰がご両人だ、阿呆。大体なんで、そんな御大層な念法使いにして賞金稼ぎのお前が賞金首の妖物女に捕まってんだ」
『……私が元々捕まえていた男を逃がしたからだよ』
「ほう?」
屍刑事の隻眼が面白そうに丸くなる。俺を擁護するような彼女の発言を面白がっているのは言うまでもない。こう言うゴシップに盛り上がる所があるとは思えないが、偽者と言う事もないだろう。
「と、言う事は罪状追加だな。他に何かした事はないか? そろそろ〈民衆の敵〉リストに追加してやれそうだが」
〈民衆の敵〉とは特に凶悪な犯罪者を示す言葉で、それに認定された犯罪者を殺害するのは区民の義務である、とさえされている。こう言う事を面白そうに言う所は確かに本物だと思える。
「むしろ、警察に協力した事になりませんかね? 相手は犯罪者のサイボーグでしたよ」
元々別件の賞金首を警察に引き渡し、悠々適当な漫画でも買ってのんびりとした休日をこれから過ごそうか……としている時にまた一人、見おぼえのある別口の賞金首を見つけてつい色気を出したのがけちのつき始めだった。後をつけて見れば、糸に捕まったそいつが情けない悲鳴を上げており、彼女に殺される寸前だったのを邪魔したら……あとはまあ、ミイラ取りがミイラになったわけだ。
今となってはどうでもいい事なのかもしれないが、問題のサイボーグは腕から鋼鉄の刃を出して糸を切り裂き逃げて行った。どうやら鉄人の類であったらしい。どちらにせよ、あいつは俺が捕まえて新宿警察の独房に叩きこんでくれる。
「むしろ、間抜けに輪がかかったんじゃねぇか。賞金稼ぎが賞金首に出し抜かれた揚句に別口の賞金首に捕まっちまうなんてよぉ」
「やっぱり凍らせ屋だな。血も涙もない事を平気で言う」
そう言いながら、俺は握りしめた仁王を無造作に振り回す。
「吻! ……鋭ぃ!」
まずは、右に切り上げ。そしてそのまま真下に振り下ろす。
何も起こらなかった。
風を切る以外に音もせず、仁王はけして鬼蟲を打ちすえた訳でもない。俺の顔に、動きに気迫が満ちていた分だけ傍目にはいっそ滑稽だったろう。
だが、ここにいる三人のうち俺の剣舞を見た二人は笑わない。それどころか、鬼蟲ははっきりと緊張を見せた。
『……見えているのかい』
「ま、ね」
「こいつを切りたけりゃ、西新宿のせんべい屋にでも糸の使い方を習ってこい」
そうすりゃ簡単な話だ、などという殺人教唆の刑事にちらり、と眼をやる鬼蟲に顔は悔しそうだった。俺だけではなく、屍刑事も自分の行動を見切っているのだと教えられたからだ。
俺を切り裂こうと送り込んだ不可視なほどの細さの蜘蛛糸が、仁王にあっさりと撃墜された彼女にとっては不本意な現実を。
『それでも、私の糸は鉄でも切り裂ける。それを木刀で受け止めるなんてね……それが念法なのね』
「企業秘密。種と仕掛けはあるかもね」
木刀ではなく仕込みをしているのかもしれない、と匂わせてみたが引っかかった様子はなかった。実際、鋼以上の高度を白樫に与えているのは日々の鍛錬の中で仁王の繊維一本一本にまで入り込んでいる俺や、俺の師匠たる工藤信隆の聖念である。
「でもまあ、糸を見きったのは自分で言うのも口はばったいが俺の技量の賜物だ。どうだ? いい加減ホールドアップする気にはならないか?」
『ここにいるのが凍らせ屋以外なら、それもいいかもね』
「なんだと? 屑」
犯罪者であれば老若男女区別しないのが俺の背後ですごむこの男のモットーだ。それにしてもたち込めてくる殺気がどうしようもなく心臓に悪い。
『こんなおっかない刑事に捕まったんじゃ、どんな目にあわされるか知れたものじゃないわ。だったら、逃げる方を選ぶわよ』
「……さすがに、逃がすつもりはない」
それもそうだろうな、と彼女の言い分に深く納得しつつチャクラを回転させると、聖念の力が全身に行き渡る。俺の力はまだまだ未熟であり、至高とされる頭頂のチャクラを回転させる事が、例え生涯全てをかけたとしても出来るかどうかは分からない程度の才能だ。だが、それでもこの場をしのぎきれるだけの力は生み出せる。
それを敏感に感じ取った鬼蟲が身構えるのに応じ、切っ先を上段に構える。
基本的に俺はあまり特殊な構えは好まない。
あれこれとけれんを持つ器ではないと、自分を知っているからだ。
「だから……斬らせてもらおう」
意識は失っていても呼吸は常に一定に整えられているよう訓練しているが、それでもどこか息苦しくなる。俺と彼女の間に生まれた凍土の様な緊張感の故だ。
俺の間合は上段構えの場合はおよそ4メートル半。師匠達には及ばないが、その距離ならば俺は雷光となれる。そして彼女との距離はたった3メートル……いつでも切っ先は彼女を捉えるだろう。
だが、ここは彼女の巣。
慎重すぎるかもしれないが、例え俺と凍らせ屋の二人掛かりでも出し抜かれるという実力を前提に行動するべきだろう。
彼女と俺の間に、命を燃料とした火花が散る。
鬼蟲の威圧はまるで舞い散る花のように俺を包み込むようだ。いや、これはまるで糸のようだ。俺をからめ捕る為の蜘蛛の巣がいつの間にか編み込まれているような錯覚を感じさせる。それはつまり、彼女がこちらの一挙手一投足をまるで三百六十度全ての方向から見ているかのように察している証明に他ならない。
対して、俺はその糸を切り裂く白刃となった己をイメージして念を仁王に籠める。
イメージに従い、武器と己の境目が消えてなくなる。元々俺の念を十二分に籠められた、半ば分身の仁王の間の境界線がどんどんと小さくなり、しまいには消えてなくなる。そうすると、俺は自分の相棒の中にどこか頼りがいのある強く優しい物を感じ取る事が出来た。
師匠達の念だ。
未熟な弟子の為に、師匠達がこの仁王を振るった際に込められた念。そして、打ちあえるだけの腕を身に付けた俺と太刀をぶつけ合い、その際に流れ込んだ師と兄弟子の聖念が感じられる。
俺は山のように静かな心持で、全霊の一歩を踏み込んだ。
「ええぇぇぇいっ!」
鋭、と言う。
この一刀、何よりも鋭くあれ。
心とは裏腹に、俺の一歩は疾風となって妖物の眼前へと入り込む。踏み込むと同時に振り下ろされた仁王が理想的な一打を鬼蟲の肩に振り下ろされる。しかし、その一瞬に鬼蟲が笑うのが見えた。
してやったり、と笑っている。
「!? ……っ!」
一刀に込めた心が違和感にとらわれ、剣筋が鈍る。それでも、仁王は鬼蟲を確かに打ち据える。だというのに、鬼蟲はかすかにひるんだだけだった。
俺の常人よりもはるかに広い視野の片隅で、ほぼ背後にいる屍刑事がいぶかしげな顔をするのが見えた。
今の一刀、確かに必殺の念を籠めていた。腕に伝わる感触も確かに命中を示している。錯覚ではない。
例え術にかけられようとも、仁王を通したこの感触は間違えない。
かつて、幻惑に紛れて忍び寄る、呪術も、超感覚も機械的なセンサーも全てごまかしきる事に長けた暗殺者を倒した際に手に入れた自信だ。
幻惑に攻撃をさせて、相手が油断した際にカウンターを打ち込むのを好んだ相手だが、俺は仁王の感触から幻を見破った。それ以来、幻術を見破れなかった事はない。
ならば、これは俺の一撃が効いていないという事なのか!?
自身の腕に不信を持ちそうになる俺だが、皮肉にも幸いと言うべきなのかすぐさまそれどころではなくなった。
果たして、何が見えたというわけでもないのに、俺は背筋にひんやりとする物を感じ、まるで土下座をするようにしゃがみこみ、そのまま腕の力だけで右斜め後ろに蛙のように飛び下がる。何故か、そうするべきだと全身が考えるよりも先に訴えたのだ。
音もなく着地する俺は、自分の一瞬前までいた空間に何かが四方八方から集中するのを感じた。どうやらいつの間にか蜘蛛糸を張り巡らせていたらしく、避けきった俺に鬼蟲が忌々しげに鼻を鳴らす。
『よく避けれたね。今のはさすがにかわせないと思っていたのに……見えない糸に八方から狙われて綺麗にかわしきるなんて、あんた本当に人間なのかい? どっかに機械のセンサーでも仕込んでるんじゃないだろうね』
「あいにくと、それは違うな。というか、技を舐めたような発言は好ましくない」
体勢を整えて、再び上段に構える。
先ほどの焼き増しのような状況であるが、未だに俺には彼女に念を籠めた斬撃が通じなかった理由がわからなかった。
「あんたと似たようなカウンターを好んで使う相手とやった事があるんでね。生憎と一撃喰らわせてからも思い出せなかったけれど、何とか身体は反応してくれた」
『結局は勘、て事? 自信をなくすわね』
自信をなくしそうなのはこちらだ。そう言いたいがそんな暇も隙もない。なんで俺の渾身の一刀が効かなかった?
術をかけられた? 違う。
防がれた? 違う。
感触は防がれた物ではない。確かに当たったていたのだから、やはり通じないと考えるのが妥当。念を失敗した? いや、それは現在も俺の背骨を通して全身を駆け巡っている。
だが効かない。まるで、影を踏みつけているように思える。
「……そうか、そう言う事か」
「ふん、やっと気がついたか。そもそもそっちが専門の癖に、ぼんくらめ」
見物人になり下がっているような刑事がよくも言う。ふん、と鼻を鳴らして剣を握り直すと、意識を切り替える。
「あんたがどういう存在なのかは、よくわかった」
チャクラを回転させ、意思を昇華し念となす。
奇跡を起こすその力の根本は、使い手の意思だ。俺の意識が切り替わり、彼女を切る為の念を生み出す。
先ほどまでとは違う種類の念であり、技だ。
切っ先は天を指し、全身と仁王を炎のように念が覆うのまでは一緒。だが、込められている念が違う。
「工藤流念法……活殺剣!」
一飛びで踏み込むのは先ほどと同じだ。だが、その先には鬼蟲が仕込んだ糸が十重二十重と待ち構えており、今の俺はまさしく蜘蛛の巣に飛び込む獲物だろう。間違っても蝶に例えられない程度の見てくれなのが玉に傷だが。
それは大量の蛇か、あるいは斬撃の濁流か。
不可視のはずの糸が霞か水のように銀色の死となって襲い掛かってくるのだ。産み出す為に込められた力はどれほどか、彼女がこの後に待っている凍らせ屋との一戦を潜り抜ける方法を考えていないのは明らかだった。まずは全力で相手をしなければ俺には勝てないと踏んだらしい。
過大な評価はいたみいる所だ。
ならば、それに応え全身全霊の一刀を送ろう。
「きいいぃぃぃぃいぃいえええぇぇぇぇぇえぇいっ!」
意味をなさない気合いの声が胎の底から自然と出てくる。俺の全身をくまなく守る聖念が襲いくる糸を悉く弾き、その向こうにいる裸体の美女を顕にする。こんな形で逢わなければ是非とも可愛がっていただきたい感じのお姉さまなのだがな!
「一刀……両断!」
風さえも置き去りにし、音もなく振り下ろされた念の刃は今度こそ鬼蟲を肩から袈裟がけにばっさりと切り裂いた。
断末魔の声さえも上げられない、むしろ我が身に何が起こったのか分かっていないという顔をする鬼蟲に俺は声をかける。例えどういう存在でも女を切るのはやはり気分が悪いが、そんな事を表に出す権利を、自分の意思でやった俺にあるはずもなくただ平坦な声で彼女に告げる。
「痛くないだろ? 霊体だからな…力技だけど浄化したからこれで彼岸へ逝ってくれ」
『………気がついたの? 私が死霊だって』
「念法にはそういった相手専用の技もちゃんとあるんだ」
一太刀振り下ろした際からずっと変わらず、まるで地面に槌を打ちつけるような姿勢のまま下を向いていた俺は、ようよう顔を上げる。俺の目の前には、女が一人いた。
蜘蛛ではない。
男に捨てられ、男を誘い、男を食う鬼女ではない。
恨みも悲しみも消え去った一人の女の顔が目の前に見える。
仁王の一閃が、真剣にも思える白刃によって彼女の中にある無念と怨念を悉く切り払ったのを確認する事が出来た。
「極楽浄土とか地獄とか、そういったのがどんな物なのか、本当にあるのかは分からない。俺自身も三途の川を覘いた事はあるし、この街にはたまに黄泉帰りは現れるけれど国とか宗派によって千差万別だからな」
それでも、祈れる。
「俺が口にしていい事じゃないんだろうが、祈らせてもらいたい。よりよい後生を迎えられますように」
『……本当に、変わっているわね。八つ当たりで山ほど殺してきた私に言えた台詞じゃないわ』
ありがたいけどね、と言いながら少しずつ霞となって消えていく女が、迷い込んだ子供を守って妖物の群れに立ち向かったという話を俺は知っていた。
屑やくざを殺した際に、その屑やくざに襲われていた女がいた事も、俺は聞いている。食い殺した相手が残らず俺の様な賞金稼ぎか屑やくざのような犯罪者だという事も資料には載っている。
だからどうしたとは言えない。そしてそれ以上に、命の価値は等価であるなどと、この街で生きた俺には言えない事だ。
だから俺は工藤さん達には遠く及ばず、彼らにはできない事もしてしまえるのだろう。
「俺も人の事は言えない。だから、また今度会ったらその辺も話し合おう。その時は酌でもしてくれると有難い」
酒の飲めない小僧が偉そうに言うのを、彼女は笑って聞いてくれる。
『命を狙った殺人狂にそんな事を言えるの? 本当に、本当に変わり者。いいわ、それなら変わり者にふさわしい酒を地獄の鬼からせしめてあげる。あなたは天国に行くかもしれないけれど、そうしたら血の池か針の山から蓮の池に向かって放り投げてあげる。届くまで何度でもね』
彼女はささやかな笑みを口元に浮かべている。俺の自惚れでないのならば、その眼の中には確かにこちらに向けられた感謝の気持ちがある。
だが、霞は消えるもの。例外なく消えていくそれを、俺は感傷にひたりつつ見送る。
彼女は言葉を連ねながら、少しずつ少しずつまるで色褪せるようにして消えていく。それが少しばかり胸にきた。
「終わったか」
「ああ、確かに旅立った」
死んだと言わないのは、その方が少しだけ気分がいいからだ。
そんな風に、活殺剣を使わざるを得ないような状況になるとわりと感傷的になる事が多いのが、俺の悪い癖だ。おかげで、師であり養父でもある工藤信隆さんには、その手の相手には極力近寄らないよう言われている。けしてセンチな性質ではないはずだが、お前は簡単に死者に引きずられると言われた。
一度は死んだ身なのだから、それも仕方がないのだろう。
「これから警察に行かなきゃならんですか?」
「当たり前だ。それとも賞金はいらんか。なら俺がもらう。署の忘年会用の費用に当てよう」
「何ヶ月後の話ですか。まあ……もらえるんならもらっときましょう。彼女
の墓でも作れそうな金額ですかね」
「知るか」
賞金首の墓をつくるなど馬鹿のする事でしかない。百も承知の事実を、しかしこの男は口にせず花畑をひるがえして俺を促した。
彼女に飲ませてもらうまでに、酒の味を覚えておこう。
鬼に囲まれて飲む酒を思い浮かべながら、俺はその場を後にした。
後に、けしてその空想が叶う事がなくなるとは、その時想像もしなかった。
うっすらと朝焼けが見える。
工藤冬弥としての最後の勝負は真夜中に行っていたにも拘らず、既に夜は白み始め東の空は明るくなり始めていた。
こんなに長い間戦っていたのか、と自分に驚く。
ちらり、と背後を見てみれば大きく伸びた影が靖国通りのアスファルトに覆われた通り一杯に広がる。他にはもう誰もいない道路を両断するように広がる影は、まるで公共の車道に仁王立ちする俺の非常識に抗議しているように思えた。
わびるどころか、どうだ、いいだろうなどといたずらなガキ大将の様な気持ちになる俺の足元で、集めれば人ひとり分になりそうな大量の真白い灰が風に流れて消えていく。
その虚しさ漂う光景に、先ほどまで死力をかけて戦っていた相手を思い出してあまりと言えばあまりのしぶとさにうんざりとした。
「……まあ、人生最後の勝負があっさり終わっちゃ……それはそれで興ざめだからな……」
軽口を叩いているつもりだが、声が出ているかは定かではない。人生最後の勝負といった言葉は嘘ではなく、俺は今確実に再びの死に向かっていた。
全身をどうしようもないほどの抗いがたい倦怠感が襲い、身体が鉛を纏っているかのように重い。同時に眠気に襲われ、このまま瞼を閉じてしまうという誘惑がひっきりなしに襲いかかってくる。
五体を支える感覚そのものがぼやけかけている。だが、どういうわけか朝焼けの温かさだけははっきりと感じている。
これが、このなんとも言えない心地よさが俺の戦いの報酬なのだろうか。そうだとすれば、文句もつけようがない。
なぜならば、これは今戦っている連中にとっては最も好ましくない温かさだからだ。
まるで寝床にいるような安心感さえも感じて、いつの間にやら身体から力が抜けてがくり、がくりと膝が揺れる。
「君に仁王立ちで終わる最後は似合わないと思っていたよ。だが、意外とそうでもないようだ。愛刀のおかげかね?」
声の方に振り向く力もない。だが、まるで凍りついた月の光の様な声が誰の物なのかは考えるまでもなくわかる。
振り向く力もなければ顔を上げる力もなく、俺の首はうなだれ続けて下を向いたままで霞む視線が見慣れた物を捉える。ぼんやりとした視界の中でたった一つはっきりと像を結んでいるのは、仁王の柄だ。
俺の腹を貫通し、主の真っ赤な血にまみれた俺の相棒だ。
「色んな……意味で……そうかもね………」
声を出すだけではっきりと疲れを感じる。そんな俺が立ち続けられるのは少しでも動くと腹を貫き通す仁王が痛みと言う名の喝を入れてくるからだ。どうやらこいつは、俺が膝を屈して逝くのが許せないらしい。
「正直に言おう。私は君がせつらとミス・ヌーレンブルクを守る為にカズィクル・ベイと戦ったと知った時に、君の敗北以外の結末は予想だにしなかった」
「………そりゃあまた……すごい……魔界医師でも……予想を外すのか………」
「それだけ、君のした事は偉大なのだ」
「………あり………がたい」
足音はしなかった。
だが、俺の視界の中に何か眼に痛いほど真白い物が入り込んできた時、俺はある白い美影の接近を悟った。
かの有名な白い医師。
その繊手が白銀のメスを持った時、いかなる病魔も笑いを消すという魔界都市の伝説。
この街の主である黒白の二人の魔人の一人……魔界医師、ドクター・メフィスト。
白い指が俺の顎を持ち上げ、この世のどんな美辞麗句も追いつかない絶対の美が瞳を通して脳に焼きつく。それに俺は恍惚として魅いられようとして……最後の力を振り絞り、念を仁王に流し込んだ。それだけで輪をかけて死にそうになる俺を、魔界医師は笑おうとしなかった。
「大穴をあけた腹と、尽きかけた念で私と戦うのかね?」
「………あんたのその綺麗な口元に……白い牙が見えなければ、助けてくれよと……素直に患者になれたのにな………」
魔界医師は、今、夜の世界の住人だった。
だが、例え吸血鬼になり下がろうともさすがは新宿の二大魔人の一人。念をこめた事をこうまであっさりと悟られると開き直るしかない。だがそれにしても、隠す必要もないほど微弱な今程度の念をきっちり悟るとは、この医師は念も扱えるのだろうか?
何ができても不思議ではない医師に対して今更な疑問を抱いた俺を余所に、美しい白い吸血鬼は純白のケープの下からいつの間にか針金を取り出している。首を上げているだけでも億劫な俺は、立て続けに大吸血鬼の相手をしなければならない我が身の不幸を呪いつつ、安らかに死なせてくれないかと贅沢な事を願った。
大吸血鬼。
俺は先ほどまで、この非常識極まる世界でも特に恐れられる吸血鬼の一人。
コンスタンティノーブルに生きた、東洋の女を妻に迎えた貴族。
闘争に明け暮れ、血まみれの魔術で相手の武器も技さえも一度見れば、そして受ければ完全に学びきる双腕と、いかなる攻撃も受け止めきる不死身性の持ち主である大男。
その名もカズィクル・ベイと一戦を交えていたのだ。
そのふざけた生命力は凄まじく、呆れた事に、彼は新宿に現れて以来の事だがチェコ第一の魔導師“妖婆”ガレーン・ヌーレンブルクによって見えない獣に食い散らかされたというのに、きっちり肉片から再生してみせたほどの非常識だ。
間近で見ていてとある三つ目漫画の不死身主人公を思い出したのは俺だけの秘密だ。
そんな奴とやり合って、よくもまあかろうじてとは言え勝利をつかめたものだと我が事ながら感心してしまう。
「やめておいた方がいいだろう。君をいとも簡単に打ち倒し、背後から飢えを満たそうとしたベイ将軍を自分ごと切り裂くなどと言う暴挙を行ったのだ。もはや念など碌に残ってはおるまい。医者として、今君が意識を保っている事さえ驚嘆に値する」
そう、俺が勝つ為に行った手段はまさに白い医師がどこか呆れたように口
にしたそれだった。
闘争における俺のカードは、幼い頃より大雪山で修業を積みあげてきた工藤流念法、そしてこの街で出会った古代インド拳法、その名もジルガ。更に多少ミーハーな気持ちで身に付けた二丁拳銃術。
対して相手はその悉く受け止めた馬鹿げた不死身性と、そして学習せしめた異能。更には、それまでに戦った新宿の化身たるあの秋せつら、魔気功を操る劉貴大将軍を含めた数々の魔人の力と六百年積み上げてきた武人として、吸血鬼として彼自身の強さ。
コールの結果は惨敗の一言である。
ベイ将軍も、明らかに俺の事を軽視していた。
癪には触るが当然だろう、俺は確かにこの新宿に生きる数々の魔人とも、そして念法者としての数々の先人と比較して、明らかに一段落ちる。奴くらいになれば、それは簡単に悟れるに違いない。要するに、そもそも俺の位負け、向こうの貫禄勝ちは確定していたというわけだ。
だが、其れでも引けない話ではあったのだ。
余所様からするとくだらない理由で、俺には命をかけるに値する理由が、あってしまった。それはけして、幾度か遠目に見ただけの“姫”達吸血鬼の跳梁跋扈が認められないわけじゃない。もっとちっぽけな話だ。あるいは半ば意地になっていただけなのかもしれない。だが張り続けたい意地だった。
だから、俺は切腹のように己の腹を十文字に切り裂いて、その向こうにあるカズィクル・ベイの腹にもそれまでため込んでいた分、全ての念を籠めた十字を刻み込んでやったのだ。念の刃で斬られただけでは多少苦しんだ顔をしただけの将軍が、青白い顔を驚愕に歪めて俺への恨み節と共に灰になったのは人生最後にして最高の痛快であった。
「君がそこまでして戦った理由はなんなのかね? 正直、依頼を受けているわけでも彼らに遺恨があるわけでもない君が剣を振る理由がないだろう。そこに倒れているせつらとミス・ヌーレンブルク、ついでにやくざ者を守る為かね?」
「へへへ……さあね」
この顔で問い詰められると、隠す事もできなくなっちまう。くそ、そんな事はどうでもいいからさっさとかかってこいよ。さもなきゃ黙って死なせろ。
何と、この白衣の医師に腹の中だけとはいえ毒づくという身の丈に合わない暴挙を試みる俺から見てざっと十メートルほど離れた所に三人の人間が倒れている。誰もが俺の知り合いだ。
一人、白衣の医師の対。この吸血鬼事件の中心にいる究極の大吸血鬼、通称“姫”に愛され、その全てを踏みにじりたいと望まれている魔界都市の化身。
全てを魅了する黒衣の美しきマン・サーチャー。千分の一ミクロンの特殊チタン鋼の糸で全てを切り裂く、妖糸使いの秋せつら。
一人、妖婆。チェコ第一位の魔導師、ガレーン・ヌーレンブルク。
人語を喋る、二つに切られても平気の平左な吸血鬼並みの不死身性を誇る鴉を従え、この街の住人とは思えない誠実な心を持った可憐なる金髪の人形娘を連れて高田馬場の魔法街に生きる神秘の化身。
いずれもこの妖魔悪鬼が闊歩し、超人魔人が跳梁する街でも飛びきりの異能者だ。
そしてついでにオカマやくざの浜田。せつらを相手にしたり話題にする時だけ、おねえ口調になるオカマだが、腹立たしい事に色っぽい情婦がいたりするやくざ者でもある。せつら以外を相手にする時は結構強面だったりするから不可思議な内面を持っていると言えば言える。
だがこの男も魔界都市の住人。巧妙精緻な体術の腕を持っており、強靭な筋肉から生み出される力を波動のように余すことなく任意に伝える技術で自身に触れた相手を内側から爆砕させる事さえできる武闘派だった。
そんな三名が揃って人事不省で倒れている。
どんな事件でも起こりうる魔界都市『新宿』でも異例の事件だろう。
「浜田は……のされ…た…だけだわ、な……せつらと、ガレーン婆さんは……治りそうかい……魔界、医師……」
「せつらは“姫”の住処で稀に発生する渦動空間に飲み込まれて人事不省。ミス・ヌーレンブルクはベイ将軍に血を吸われてしまい、自ら命を断とうとしたところを君の説得に応じ、仮死状態で止めた。いつでも自決できるようにして、けして自身では吸血鬼となってもその牙で魔界都市を突き刺さぬように自らを封印しながら、ね」
ドクターの眼が俺から外れ、俺の背後の彼方を見つめる。俺は彼に顎を支えられながらその美貌を見上げた。白い医師が追いかけたのが、当に風に呑まれて消えたトルコの将軍の灰だとわかっている。
「だが、君は宣言通りにベイ将軍を討った。これで彼女はもう自身を縛る必要はなくなった。せつらについては、私が診ればすぐに正気を取り戻すだろう」
「………吸血鬼……になった…あんたが……せつらを……治すの……かよ……? お互い……敵、だろ……つくづく……訳わか、んねぇ……二人だ……あの、猿爺いや……変節漢の……夜香……当りが、うるさい……だろ……? 本気……かよ……」
「病める者を前に、私が医者でなくなる事はあり得ない」
「……さすが……“姫”なんかにゃあ……魔界……医師のメスを取り上げる事は……できない……」
何故だろう。
その言葉は信じられた。
「さて、では君の治療も始めるとするか。このまま放っておけばさすがにあと94秒で死ぬ」
「………」
俺……敵なんですけど?
「君は半年前に我が病院にて契約をしている。期間は一年。であれば、私には傷ついた君を治す義務がある。私は治療を求める者をけして拒まない」
「……確か、に……俺は、おと、くい……さまだったけ、ど」
あいにくと、某人捜し屋とは違う意味でだが。
なにしろ、向こうは問答無用のチートっぷりを発揮していても猶も重傷を負うようなとてつもない事件ばかりに出逢う男であった。対して俺の方は、この街ではせいぜい、多少腕が立つ程度の剣士に過ぎない。
ぼろぼろにされる事がいい加減しょっちゅうと言うべき回数になってしまった俺は、この悪徳の街でも患者としてなら唯一無条件で信頼できる魔界医師の病院に定期でサービスの契約を行っていた。唯の単なる料金先払いで、その分割引10パーセント、というシロモノだったのだが……
それを理由に、ここで敵の立場の俺を治療する気か?
治療に伴って俺をどうこうして、せつらを襲う敵に作り変える……そんな事ではなさそうだ。そもそも俺にそれだけの力はあるまい。それとも、そこまでとことん改造するのか? それこそ無駄な手間でしかないだろう。
つくづく、わからない性格だ。いや、価値観とでも言うべきか。
いずれにせよ、俺だって死にたいわけじゃない。なら、申し出は受けるという一択以外にはない。
「………あんたにゃ……ひとみさんを……治してもらい、たい……しな……」
南風ひとみ。
俺にとってはどうしようもなく苦い、特別な名前だ。
かつて、一介のルポライターであった一人の女がやばい世界に首を突っ込みすぎ、やくざに散々なぶりものにされた揚句、妖魔に心身を犯されて異常な魅力と殺意を持った鬼女に生まれ変わらされた。今、俺がいる世界……即ち“妖魔”シリーズの開幕だ。
俺は、“現実”から来たが故にそれを知っていた。
だが、何もできなかった。
何故だ?
あいにくと、もっともらしい理由なんかない。
ただ、届かなかったのだ。
今をさかのぼる事、約十八年前。この魔界都市で、強姦された女の胎から生まれ、名前もつけてもらえずにすぐに捨てられた。転生した者のパターンとして、赤ん坊ながらに鮮明な意識のあった俺はその時はしょうがないと思っていた。もしや、俺が生まれるから、俺を生ませる為にあの女性は強姦されたのではないだろうか? 顔も知らないその男は強姦させられたのではないだろうか?
そう思えば、むしろ身動きできない赤ん坊は罪の意識からの解放をこそ喜び、名前も顔も忘れ去った女性を恨む気持ちは毛頭なかった。
焦点も合わせられない赤ん坊の眼に双頭のドーベルマンが映っても、恐怖以上の諦めが宿るだけだ。
だが、薄汚れた町の路地裏にふさわしい黄色く汚れた牙が俺の柔らかい身体に突き刺さる事はなかった。
「やれやれ……まさか捨て子を拾うとはな……まずは、警察かね?」
悲鳴をあげて逃げていく、『魔震』によって溢れだした遺伝子の生み出した怪物には目もくれず、この身体に生まれかわってから初めてと言っていいほど優しく丁寧に俺を抱き上げた人がいた。
腕一本動かさず、ただその清冽な気のみで魔界都市の醜悪な狂犬を追い払った人物。俺の救い主の名前は工藤信隆と言った。
そんな事とはつゆ知らず。
俺は解放の喜びを奪い取ったこの人を恨んでいた。
ここが魔界都市だという事は頭の上でなされた会話でとっくに分かっていた。そんな街で捨て子に生きながらえろという謎の男に腹を立てていた。
結局、逃げ出す機会を奪われた腰ぬけの泣き言だと気がつくまで三年かかったが。
ともかく信隆さんに拾われた俺はそのまま新宿警察に連れて行かれた。そこでどんな問答が警察と信隆さんの間に遇ったのかは知らないが、俺は新宿の孤児院に渡される事になったのだが、やはりこの悪徳の街は子供にも優しくはない。俺はそこで六年に生きて逃げ出した。
どういう所なのかは具体的には言いたくない。漠然と言えるのは、まるで映画に出てくるろくでもない孤児院そのままだったという事だ。名前さえもらえやしなかった。
そこも、もうない。後に聞いてみたところ、俺がいなくなってから早、二年で経営者がヤクザに連れて行かれそのまま自然消滅したという事らしい。走れるようになってからはすぐさま脱走した俺には特に親しい人間もいなかったから感慨もなかったが。
赤ん坊であったが故に構われもしなかったが虐待もされなかった事程度が喜びの場所だった。例え『新宿』だろうと、表の世界がこの中よりは魅力的に見えたような場所だったとしかもう、覚えてはいない。
その後、子供の身で放浪を始めた俺はひたすら『区外』を求めた。結局俺は『区民』ではなかった。身寄りがなくとも、野たれ死のうともここにいるよりはましだった。どうにか亀裂の向こうに行きつけた俺はやがて、北海道にたどり着いた。飛行機に潜り込むのはあの街を逃げ出すよりも簡単だった。
やがて、旭川空港に着いた小さな密航者を、何故信隆さんがあっさりと見つけられたのかは分からない。だが、本人は虫の知らせと言って笑っていた。
さて、いったいこのおっさんは何者だ、と眼を白黒させる薄汚れた子供が彼を自分を救いあげたおせっかいだと知るのにあと五分。
赤ん坊の六年後がなんでわかるんだと言う俺に、わかるからわかるんだと答えにならない答えを返し、彼は不貞腐れる俺に笑った。
「で? どうして海を越えてこんな所にいる? わしに会いに来たんじゃないだろう?」
「あんたに会うなんて思ってたら、来るもんか」
「逃げてきたのか?」
「悪いかよ!」
ふてくされる子供に説教を垂れるわけでもなく、彼は俺をベンチに連れて行き、事情を聴く。何をどう話したのかはもう思い出せない。生まれ変わる前は確かに大人だったというのに、子供以下の様な説明しかできなかったと思う。
そのまま、彼は俺を置いてどこかにいった。ぽつりと座り込んでいると、何故だか泣きたくなった。
「なんだ、男のくせに泣いてるのかよ」
「………っ……っ」
「まあいい、これからは泣く事はないぞ」
わしが強くしてやるからな。
……その言葉にウソはなかった。
そして工藤の姓をもらい、冬弥の名前ももらって俺は念法の門をたたく事になった。
辛く厳しく、才能はない。そんな泣きたい事ばかりの修業だったけれど、それでも逃げさない程度に身も心も強くなっていく自分に喜びがあった。
そして、十一年。義兄でありこまめに面倒を見てくれた工藤明彦が婚約するのを機に修業も形にはなっていた俺は、魔界都市に一度戻って賞金稼ぎを始めた。口実作りの為だった。
さっさととんぼ返りをした俺は、義兄と義父に妖魔と取引をしようとしている企業の存在を知らせ、その実行犯の一人が誰に横恋慕をしているのかを知らせた。そいつがどれだけ危険な男であるのか、実際に多くの女性を犯しては生け贄にして、妖魔と共に生かしながら食っているらしいとも教えた。情報の出所は魔界都市ならではの情報網だと嘘をついた。
そのせいだろう、二人は予定よりも早く一緒になった。この義兄なら守り抜ける。二人は安心だと思った。後は一人……いや、一組か。新聞記者とフリーライターの男女を止めれば、それで済むはずだった。後は自衛隊にでも相手をしてもらえばいい、その為に血税を食っているのだから何の遠慮がある?
本気でそう思っていた。
だが、俺の話を聞いても彼等は止まらなかった。
俺は、彼等を侮っていた。
所詮は荒事に不向きなルポライター。多少の脅しでは逆にファイトを燃やすかもしれないが……相手は彼等がやり合ってきたチンピラではない。本物のヤクザであり、そして魔道士と妖魔だ。相手のスケールが彼等の相手にしてきた面々とは三つは違う。引き際を見間違えはするまい。そう思っていた俺の脅しに二人は引いた……振りをした。
俺は分かっていなかった。
所詮は荒事ばかりの小僧でしかない俺には、交渉のイロハなどあってないようなもの……気が付かない間に情報を抜かれていた間抜けに向かって陰から嘲笑を送り、二人は特ダネを狙って走り出したのだ。
二人は分かっていなかった。
暴力とは何なのか、理不尽とは何なのか。自分たちの気の強さも、負けん気も、その全てが会社に、そして社会のルールに守られている穏便な世界だからこそ発揮できるだけの物でしかないのだと言う事を知らなかった。どこぞの胡散臭い若造の賢しげな忠告など何する物ぞと鼻で笑い、その外側にあっさりと踏み込んでいった彼等を待っていたのは至極あっさりとした男の死と、女を待つ果ての無い凌辱。そして魂と遺伝子を変質させる悪夢の侵食だった。
ぶう、から事と次第を知った俺が踏み込んだ時には、大垣記者は既に骨も残さずに処分され、南風ひとみは妖魔に犯された後だった。俺はその場で妖魔の一匹を打ち倒したが、それで力を使い果たした俺が回復するまでの間に彼女の侵食はより進んだ。俺は彼女に念を送り込んで助けようとしたが……ひとみさんは逃げ出した。
俺は、工藤明彦ではない。あの誰の懐にでもするりと入り込む魅力という物がない俺には、彼女に信用される事は無かったのだ。
彼女を捜しながら妖魔と戦う俺だが、明らかに義兄よりも格落ちの上に行方不明になったひとみさんという気がかりを抱えた俺は不始末を連発し、事あるごとに死にかける有様……全くもって、弱り目に祟り目とはこの事。状況は悪化する一方だった。やっとの思いで解決したその時には、俺の死にかけた回数は二十を優に超えていた。死んでしまった人も傷ついてしまった人も数多い。どうにか見つけ出したひとみさんにも信じてもらえたとは言えない、ただ他の男と同じように俺を襲った際に俺が妖魔化を抑制した事に彼女が価値を見いだしたに過ぎない。
たった一つの例外は、義兄夫婦が守られたと言う事だけか。それも俺の手柄ではない、当たり前だが義兄自身の剣腕のたまものだ。
俺は、事をかき回しただけだった。
そもそも、悪いのは大垣とひとみさんの二人が忠告を聞かなかったからだろう。
そんな言い訳の理由を真っ先に捜した反吐が出る自分を自覚した時、俺は帰る家をなくした。ただ、彼女を救う為に駆け回るより他にはなかった。
だからこそ、今度はガレーンの婆さんを救おうと思ったのだ。
この知識を使って死ぬかもしれない人を助けなければ……一体俺の生まれ変わった意味は何処にあるというのか。
それだけではない。更に、間が悪かった。
俺はぶう、から今回の事件が耳に入った時、万が一の場合に備えて真っ先に白い医師の紹介を思いついた。
例え魔界都市でも死者は戻らない。だが、今生きている人間ならば……いかなる疾患も笑みを消すという魔界医師のメスの元であるならば……
「治るのかもしれない」
そうやって、許しを請うのか?
否定の言葉。
自分の為に悩んでいる間にも、傷は深く広く広がる。さっさと動け。
否定を否定する言葉。
心の傷は癒えない、費やされた時間は戻らない、そして何よりも、死んだ人は還ってこない。ただ、それでもこれ以上広がらない為にだけ。
そう考えた俺は、歌舞伎町の旧新宿区役所にあるメフィスト病院に駆け込み……黒いせんべい屋に出逢い、絶句した。
「なんでよりにもよって、こんな時に吸血鬼になるかなぁ!?」
絶対の美貌を持つ人捜し屋の前でもとろけもせずに叫んだのは、どうしようもない間の悪さに絶望したからである。確かに、数日前はうだるような熱帯夜だったが、これはないのではないだろうか?
「そんな事を叫んでいると、看護婦さんに追い出されるよ」
人がいない所だったのが幸いした。魔界医師が吸血鬼になっただの区民に知られたら大暴動さえ起きかねない。いや、その前に俺がぼこぼこにリンチされるだけだろう。あるいは、街中の女性たちが白い医師による訪問される自分を想像して恍惚とするのかもしれないが。
ちなみに、本人が聞けばさぞかし腹を立てるだろう。徹底した女嫌いだし。
ともかく、南風さんを癒すには断固として魔界医師の力がいる。普段であれば、ただ彼女を受け付けに連れていくだけで済むというのに……くっそ。
舌打ちしながらも、俺は一刻も早くの解決を願い微力ながらも剣を奮う事に決めた。確かに事件は俺の介入なぞなくても解決するはずだが、その最中に義兄達が何らかの事件に巻き込まれないとも限らない。
次から次へと人が死に、女は凌辱されるのが菊池作品クオリティ。
はっきり言って、あの“姫”を始めとする吸血鬼を相手にして生き残る自信などかけらもないが、保身を胸に身をすくませて嵐の通過を待つのは俺にはもうできない相談だった。その最中に、吸血鬼の長の孫の離反を知り、ガレーン・ヌーレンブルクの参戦を知って彼女の死を思い出した。
これで、理由が二つになった。
貫かなければならない意地を胸に、俺は無様に見えるほど必死に戦った。“姫”に、騎々翁に、そして夜香に身の程知らずと嘲笑われつつもとうとう大金星を挙げたのだ。
もう……この言葉を口にするべき時だろう。
「南風……ひとみ。異界よ……り……軍事目…的で召喚され……た妖魔によって……変質された女性だ……妖気の影響を避ける……ため、に……護符をつけて……街の外にいる……彼女を…救って…」
ほしい。
その言葉は口に出せなかった。
突如、白い美貌は遠く離れていった。俺は支配領域を広げる朝焼けの中で空を舞う。
「それ以上は、何も言わせぬ。こやつはここで死なねばならぬ」
四千年の毒の中でこそ咲き誇る大輪の薔薇が俺の背後に現れていた。
全身を余す事無く貫く柔らかな感触に俺は死を忘れるほど陶然となってしまった。
振り向く力はない。だが、そこに誰がいるのかは当然察しがつく……この感触、この香り、この声。全てがたった一人を示している。そもそも、治療を始めようとしている患者を白い医師の手から奪うなど、一体どこの誰がやろうと言うのか。
それを考えたと言うだけで、真っ当な“区民”は身震いを抑えきれまい。
「……姫…」
名前を言葉にするだけでも、今の俺には難事業だった。その俺をあざ笑いながら抱きしめて、翼のない身で空を飛ぶ女こそ、『新宿』史上最悪とも言える大化生。
四千年の時を生きた、幾つもの国を滅ぼし、星の数ほどの男女を破滅させてきた傾国の妖女。
夏の妹喜とか、殷の妲姫とか呼ばれる不死の淫女。
「何…故…」
「ふん、聞きにくい事よ。まともに口もきけぬとは、それでも私の下僕を倒した男か?」
腹に穴のあいた、全ての力を使い果たした男を捕まえてひどい事を言う。それでこその“姫”か。
「白み始めた闇の中でも抱きしめる。せつらよりも気にいったかね? ベイ将軍を倒した男を」
奪われた患者を、奪った女を見上げる医師の眼はひどく冷静だった。
激昂するなどあり得るとは思えない医師ではあるが、それでも患者に手を出されてそれを許すようでは魔界医師の沽券に関わろう。だというのにこの体たらくは一体何だ? やはり黒いせんべい屋でないと劉貴大将軍の支配を抜け出す意欲もわかないのか?
「たわけた事を言う。このような小物を気にいるはずもなかろう? たかが下僕風情に終始もてあそばれる程度の男よ。己の身ごとあの不死身を切ったのは褒めてもやろうかの? 朝日の中で、修行者の滅びの念をたっぷりと籠めた十字を心の臓に刻まれてはあの男とて生きてもいられまい。ふむ、私の与えた不死身を覆したのは褒めてやろうではないか」
そう言ったこの世で最も恐ろしい女は、言葉は褒めながらも俺の全身を氷の鞭で縛るほどに強烈な鬼気を発する。それが俺の残り数秒の命を逆に永らえているというのは皮肉な話だ。
死への逃避さえも許さない。何故だかわからないが彼女の勘気は俺を自分の手で殺さない限りは解けないらしい。一体何が気に入らなかったのだ。
「こやつ、言いよったの。私ごときに魔界医師のメスは取り上げられない、と」
「………」
納得。
高慢と言う言葉を千連ねても足りないような性格の女には、確かに許せないような言葉だろう。
「その言葉、断じて許せぬ。この私がメフィストよ、お前の医師としての矜持に負けるなど認めはせぬ。ここで、こやつは殺す。お前の患者である、私を虚仮にしよった愚か者の五体を引き裂いて、我が下僕達の餌としてくれようぞ」
「それを私が黙って見ているとでも?」
「邪魔したければするがよい。いや、ぜひともやって見せよ。我が手はお前などには止められぬ。魔界医師のメスとやら、思う存分へし折ってやろうではないか」
このあまりにも美しい白い医師。
隔絶の美貌を誇り、万の男を貪り食った女でさえも陶然と我を失いかねない……ドクター・メフィストを前にして、彼の医師としての誇りを地に落とし、泥に塗れさえる事に興奮しているのがわかる。俺など、その為の道具に過ぎない。
「さあ、どうした魔界医師。劉貴に血を吸われたお前が、我が下僕に血を吸われたお前が、この私を止めるか? 止められるのか、魔界医師よ」
「止める必要もないだろう。この私には」
「……何?」
………正直、耳を疑った。
今、白い医師は何と言った?
天地が引き裂かれても、太陽が西から上ったとしても、患者こそが第一。
例外は黒い美影のみ。
それが魔界医師ではなかったか。
一体何があった。
それが吸血鬼としての姿か? 血の支配は魔界医師のメスを捨てさせるのか。
「ふ……ふははは」
哄笑。心の底から愉快だという声が背後からする。
だがその全てが、死に掛けた俺にとってさえ極めて恐ろしい物を含んでいる。ただひたすらに愉快、その痛快ささえ感じさせるはずの言葉が、なぜこうも恐ろしげなのか。
「メフィストよ、それが答えか。それが魔界医師か? 滑稽な事よ。何が魔界医師のメスは取り上げられぬか。私どころか、劉貴にさえ奪われておるのか」
幾つもの国を悪逆無残な方法で滅ぼした女は、白い美が自身に膝を屈したと疑わなかった。己の存在が魔界医師とて敵う物ではないと、信じきったからこその大笑……おそらく、それはこの上なく美しく、何ら爽快さを感じさせない顔であるに違いない。
だが、俺は絶望していなかった。
はっきりと自らの死を一度は覚悟した。
既に意識そのものがもうろうとしている。
目的は一応果たした。遺書はメフィスト病院に預けてあるから、ひとみさんもメフィスト病院で治療してもらえるに違いない。
死を受け入れる胆を固まっていた。
だが、そうではない。それは絶望しない理由じゃない。
「ほほ、どうじゃ? 未熟な剣士よ。身の丈に合わぬ戦をした結果は惨めな死じゃ。ベイを斬ったのは褒めてやるが、お前もこうやって死んでしまえば勝利を収めたとさえ言えぬのう」
女は抱き方を変えた。半面は焼き爛れながらもドクター・メフィストさえ、せつらさえも及ばないのではないのかと思える麗貌が至近距離に見える。死に霞む目の中にも無理やりはっきりと、まるで脳に焼きつき見ている相手を支配するかのような美しさだ。
吸血鬼の猫眼は相手を支配する赤い瞳だと言う。だが、このかんばせならそこにあるだけで万人に首を吊れとまで言う事を聞かせられるだろう。例外は黒白一対の魔界都市の化身だけではなかろうか? 何しろ吸血鬼の若長さえもがきっちりたぶらかされたほどだし……
だが、何故だかその時の俺にはその美貌が通じなかった。
美しい事はわかる。正直、死に掛けの身体でなければ人目もはばからずに股間さえも反応し、実力的にはともかく彼女を押し倒そうとしたに違いない。俺とて男だ、生まれたての赤ん坊から臨終間際の老人まで等しく淫欲の対象にするだろう美貌に、食欲さえ彷彿させそうな白い肉体に心を奪われないわけはない。
それなのに、俺は魅了されなかった。
柔らかな肉体に陶然としている。
美しい顔に欲望は確かに刺激されている。
死に掛けた男に肉の欲望を思い起こさせるとは、さすが稀大の淫女……だが、俺は魅了されていない。念もろくに使えはしないというのに。
「……気に入らぬ。気に入らぬぞ、小僧。たかだか未熟者の修行者風情が何故私の虜とならぬ。死に掛けた身だからか? 違う。私の恐怖に竦んだか? 違う。ならば何故私に抱かれた男がそのような顔をする」
陰惨であり、怒りに満ちた顔だった。それでもなお美しく、マゾならこの顔に見つめられる為に身の丈以上の黄金でも積むだろう。俺にその気はないのでただ恐ろしかっただけだが。
「……何故……俺が……あんたに……魅了され、ないか……て…? 決まって……んだろ? ……後ろに誰が……いると……思って……る? おそろ、しくて……それどこじゃ……ねぇや」
「………」
はっきり言う。俺はずっと恐怖している。
この魔界都市の住人らしく、医師の矜持を侮辱されたドクター・メフィストの存在に、何よりも恐怖している。それがわかった妖姫が俺の腹の傷口をえぐった。
「………!」
「ほほほ、声も出せぬか? 無様な剣士よ。これでもまだ信じているのか、魔界医師はけして患者を見捨てないなどという妄言を」
「………信じる、以前の問題……」
信じられない。信じられるわけがない。
ドクター・メフィストが患者を見捨てるはずがない。
この妖女であろうと、その力があろうとも例外ではない。
「……よく言った。ならば、ただその医師のみを信じながら逝くがいい。魔天の苑でメフィストを信じた愚かな己を呪って悔むがいい」
姫は面の様な顔をしている。
怒りのあまりこうなった……彼女をこれほど虚仮にしたのは、秋せつら以来ではないだろうか……結構最近の事だな。
俺は、そんな姫に向かってせいぜい強がって笑った。
不敵な笑みを描けているだろうか?
ひきつっていない事だけを切に願おう。死ぬ時に、格好つけて死ねるのならばそれは一つの男の本懐だ。
「消えよ、この街の最も汚濁に塗れた死に向かって」
光も闇も吸い込みそうな美しい繊手が、俺の命を完全に奪いつくそうと動き出す。俺の腹を貫き、このまま上に向かって持ち上げればそれだけで死は勝利者となるだろう。
この姫のもたらす死にしては、随分と平凡な物のように思えるが、何か更なる仕掛けがしてあるのだろうか?
音もなく、腕は切れた。
姫の腕は肩の所でまるで人形の部品が外れたかのようにすんなりと、音もなくとれた。
切り口が見える。その美しさに俺は嫉妬した。
そのまま俺はアスファルトに向けて落ちていく。だが、地べたにたたきつけられる寸前、音もなく反動もなく地上一メートルの所で静止した。
一体、何が起きたのか。
一体誰の仕業なのか。
答えは俺の頭上にあった。
「貴様、せつら!」
俺に真実の死が訪れる瞬間に、恐るべき大吸血鬼の腕を、糸でもって斬る。
大の大人一人を音もなく、眼に見えない程の細い細い糸で支える。そして、その糸は瀕死の俺をかばう繊細さも持っている。
それを行った者は、黒衣をひるがえしてこの吸血美姫さえも気がつかない間に白明を背負い空中に佇んでいた。
にくいほど様になるその男は……“新宿”の化身、秋せつら。
「次元の狭間に呑まれていながら、正気に返ったか。何故この時に……メフィスト、貴様か!」
「いかにも」
悠然と、白い医師は言った。
その顔はあくまでも泰然と、姫を出し抜いた事も、その大敵であるせつらを蘇らせた事も、何もかもが瑣事だと言っているかのようだ。彼の眼はひたすらに俺……つまり、患者のみを追っている。
「まったく、何が“私が止める必要はない”だよ。この藪医者」
茫洋とした声が俺に歩みよる彼に降りかかる。
天からの声は彼のみに許される呼び方をためらいなく口にしているが、二人は目下、狩人と危険きわまる猛獣のような間柄だ。
「治してくれたのは助かるけれど、お前も敵だ。とっとと杭を打ち込んでやる。それがいやなら自分で劉貴の心臓をえぐってこい」
すごんでいるようで、あんまりそれらしくはないのはその性格か。最も、内容そのものはとんでもない。癒す一人と殺す一人、更には癒す方が吸血鬼なんだと言うのだからとんでもない話だ。
「それは魅力的な提案だ。四千年を生きた吸血鬼の心臓、研究の価値は十分にある。だが、今は彼の治療が先だ」
少しづつ力を失いつつある俺を挟んで物騒な会話を飄々とする二人はつくづく理解できない感性の持ち主である。それにしても、絶対の服従が前提である吸血鬼の主従関係に対して無茶な要求を本気でやるせつらもせつらなら、しれっと肯定の返事を返すドクターもドクター。つくづく規格外の二人である。
だが、ここには規格外がもう一人。
「……魔界医師よ、せつらよ、よくもこの私をここまで虚仮にしたものよ。四千年の時の中でもこれほど人を食った物はそうはいなかったぞ」
「いつもそんな事を言っているなぁ」
しれっとしたせつらのもの言いも確かだが、姫の言葉も間違いではない。ようするに、この二人は四千年程度の時間では逢える事のなかった途方もない規格外なのだ。
「その不遜なもの言い、今は許してやろうぞ、秋せつら」
完全な傍観者となった俺の眼には、とてもそうは見えない。正に憤怒の美女がそこにいる。そこにいるだけで死の世界に俺を蹴落としてしまう圧倒的な力の持ち主。
皮肉な事に、メインターゲットがせつらに移った事で俺を現世に縛り付けていた妖気が消え去り、余波によって生命はどんどんと脅かされている。
あっという間に、俺の生は暗闇の中に消えそうだ。生まれ変わった俺が死んだら。今度はどうなるのだろう?
前回は、閻魔にも悪魔にも会えなかった。ちなみに神は信じていない。神がいるのかいないのかはともかく、俺を転生させたのが神のはずはないからだ。慈悲の欠片でもあるのならもっと別の街を選んでいる事は間違いないからである。
「意識はどうかね?」
今度は、美しすぎる悪魔にあった。
いつの間にか白い医師の指が俺の首元に触れている。それはまるで俺の魂を現世に引き留める力を持っているかのようで、意識までがどんどん鮮明になる。しかし、未だに姫の腕に貫かれている腹の痛みは感じない。それどこか、まるで慣れ親しんだ寝床の中のように疲れが癒えていく。
「落ちついたよ、お医者様」
吸血鬼に頸動脈を触れられているというのに、いっかな危機感がわかない。
それどころか安心感さえ感じるのは、糸に支えられる俺を見下ろすドクター・メフィストの顔に神さえも遠く及ばない深い慈愛があるからだ。
神よりも神々しい悪魔よ。
やはり、ドクター・メフィストはどこまでも医師である。
「ドクター、あなたに依頼がある」
「ほう?」
言葉は明瞭、意識もはっきりとした。
「やはり、魔界医師のメスは何者にも捨てられはしない。だから、あんたにはある人を……この世ならざる物に弄ばれた女性の心身を治してもらいたい」
「この世ならざる物? 一口にこの世ならざると言っても数は多い。それは一体何かね」
「……妖魔。淫籐という黒魔術師が呼びだした三匹の妖魔。彼女はその生贄にされた」
腹から木刀と、そして女の腕をはやして宙に浮く男の頼みを聞く世にも美しい医師。
これもまた魔界の光景だろう。
「彼女は体内に残った妖魔の力で自身を変質され、後遺症に今も苦しんでいる。俺の念が進行を遅らせているが、所詮は応急処置に過ぎない。頼む、魔界医師。助けてくれ」
「私を動かすのは患者の意思。依頼はあくまでも患者こそがせねばならない。だが、一つ確認しよう」
美しすぎる顔は虚言を出させない何かに満ちている。
「何故、君はその彼女の為に依頼をする? 明らかに君とは無関係の女性だろう」
「無関係ってどうしてわかる?」
「私は私の患者の全てを把握している。君には近しい関係の女性はほとんどいない。せいぜいが、新宿警察の舶来刑事ぐらいだろう。先だって数ヶ月〈区外〉に出ていた際の知り合いだろうとは誰でも察しがつく」
「………」
一応は患者である。その心身の状態を知っておくのは医者の務めという事か。ドクター・メフィストならば患者どころかその家族の体調まで全て把握しているとしても何ら不思議ではない。
「それでも、義侠心から一人の女性を救おうとする。それはわからなくはない。だが、それだけでもない。この事件の中で君の一連の行動がそれを否定する」
事件中、ずっと劉貴を追いかけ続けた。
倒された。
彼を思う滅びた吸血鬼の変じた灰に巻かれた。
彼の仲間に打ちのめされた。
生き延びた事それ自体が驚かれる程度の腕で、かなわないとわかっていながら求め続ける。
それは確かに異様な光景であっただろう。
「何故、それほど懸命になる? 思い入れのない女に」
「……彼女に思い入れがあるわけじゃない」
ただ、俺は……
そうだ、俺は……
言葉は、口に出せなかった。
当たり前と言えば当たり前の話だった。
俺を許さないと言った女が、魔界医師の矜持を泥まみれにして地べたにたたきつけてやると言った悪女がこんな悠長な話しこみをなんで見逃すはずがあろうか?
腕を斬られていようとも。
目の前にいるのが歪んだ情熱を注ぎ込んだ愛しい男であろうとも。
例え相手が瀕死の男であろうとも。
魔界医師を、この〈新宿〉の化身たる片われを相手取っていても。
それで止まる女ではない事は百も承知であったはずだ。
だが俺は油断した。
魔界医師の懐に抱かれ、患者である限りもう何も心配する事はないのだという確信を抱いていた。
そして……
「ぎゃあああっ!?」
凄絶な悲鳴を上げているのが自分だという自覚はなかった。
俺は、白い腕に引き裂かれた。姫の腕に。
気がつかなかった俺が浅はか。
ベイをしのぐ再生機能を持つこの女が、何故いつまでも腕を俺の腹に収めておくのか。
何をするのかは分からなくとも、そのままにしてはいけないのは分かっていたはずだ。
「ほほほほほ……! 苦しいか、小僧。私を侮辱した貴様はもっともっと苦しまねばならん。もっと悲鳴を上げなければならん。そうでなければ、この私の気が晴れぬ。喜べ、剣士よ。その未熟な腕で、数々の武人を淫虐の地獄に放り込んできたこの私に殺される事を、の」
「がは…ぐうぅ」
俺はみっともないほどに情けない声でうめく。それができるだけでも御の字だった。腹の中に暴れまわるうなぎでも飼っているかのようだ。ピラニア以上と昨今有名になったカンディルに食われているとこういう気分になるのだろうか。
「どうじゃ、秋せつら。どうじゃ、メフィスト。目の前で貴様を守った男を屠られる気分は。貴様の患者を殺される気分は? 何もせぬか? 何も出来ぬじゃろう。他の何かならばいざ知らず、私の腕では魔界医師とてどうにも出来ぬ。大凶星とて何も出来ぬ。せつらよ。貴様の糸が私を縛っている。切り裂いているが止まらぬ。魔界医師よ。貴様の手が私の腕に触れている。針金が剣士を生きながらえさせようとしても叶わぬ。他の何物でもない、この私の腕だからだ。絶望をかみしめよ」
ああ、魔界医師が、新宿の化身がこれほどまでに侮辱される物なのか。それでいいのか。許されるのか。
「許したくねぇ」
そう思った。俺にもいつの間にやらこの街の住人としても自覚が備わっていたのか。
それが、蝋燭のともし火のように力になった。
一生知りたくなかった感覚を無理やりに味あわせられながら、俺は生まれた微かな最後の力を振り絞った。
「ド、クター! メフィストオオオォォォォッ!」
白い医師の名を叫ぶ。
それだけで、姫の顔が引きつるのがわかる。
それ程に屈辱か。彼女の腕を意に介さずにあくまでもメフィストにこだわる姿が? ざまあみろ。
「病院のカウンターにっ! 遺書を預けてある! 知りたい事は、全てそこに書いてある! だから……だから、後をっ!」
「させぬぞ、小僧」
頼む。
その言葉は永遠に届かずに風に消える。
「全て承知した。我が患者よ」
それを最後に俺は消えた。
まるで、ぶつりとテレビの電源が切れるようにあっけなく、痛みも消える。
悲しみも後悔も苦悩も何もかもがまるで砂に染み込む血のように消えていく。これが、死か。
かつては、こうだっただろうか?
そういえば、俺はどんなふうにして死んだのだろうか? この街に来てから……いや、そもそも念法の修業の最中から三途の川は見慣れている身だ。
死んでしまった過去への感慨も記憶も当に薄れてしまっている。
過去の名前も、家族も何もかもが当に魔界の記憶の片隅へと押しやられてしまった。
たまに、古いアルバムを戸棚の奥から見つけたかのようにフラッシュバックが生まれたりする事もあるが、全て消えてしまう。だからこそ、この闘争に首を突っ込むきっかけのような後悔も生まれたのだ。
そして今。
もう一度、死を迎えようとする俺にかつての死の記憶はよみがえろうとはしなかった。
何故だろう?
まるで闇を寝床にしているかのようにまどろむ俺の耳に、声が飛び込んできた。
「……出逢ったな、姫よ」
ある事もわからなかった耳に飛び込んできたそれは、果てしのない恐怖を俺に刻む。かつて、一度だけ出逢った男の声だ。
「この、私と」
羅刹のせつらよ。
大昔に書いた作品でございます。この後、主人公は牛頭鬼とかに再会した後でもう一度違う世界に来訪したりするかもしれません。
恋姫の世界に降り立ったものの、無双どころかその世界にも姫達がいたりして、悲鳴を上げながらぶちのめされる哀れな主人公。
その世界に原作主人公がいても、あっさりと姫に魅了され……その上で歯牙にもかけられずにあっさりと殺されたりするでしょう。
最後には魔界医師やせんべい屋が現れて美味しいところをとっていくとかいう報われない主人公……
なんてのを考えていました。
直せました-! 燃料投下さん、ありがとうー!