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[37734] 〈習作〉よりにもよって、魔界都市  恋姫編追加!
Name: 北国◆9fd8ea18 ID:280467e8
Date: 2015/05/16 22:20
 輪廻転生。

 最近は辞書より先にwikiを開くのかもしれないが、この言葉を聞いてわざわざどちらかを開こうとする中学生以上は日本にいないだろう。

 とどのつまりは、仏教などに端を発する生まれ変わりというやつの事だ。

 古い話では、神話や仏教のありがたい教えなんかにあるし、某漫画の神様の『火の鳥』シリーズもそういった部分を多く取り入れている。

 その場合は大概、動植物に生まれ変わって不幸になったり、もしくは人に生まれ変わっても何らかの理由で不幸になったりするものだ。大抵は自分の欲のせいで。

 中には夢オチもあって、これを教訓に日々頑張って生きましょう……というパターンだろうか?

 また、最近では特にネット小説なんかでもてはやされつつあるのが『好みの漫画、小説の中に入り込む』だ。前述のように生まれ変わったり、既存のキャラクターに幽霊よろしく憑依したり、ごく普通に入り込んだり。

 しかも都合のいい事に、どっかの神様だか悪魔だかに不思議な力を与えてもらっただの、それぞれの作品の中の人気キャラクターと好意的な関係になれる立ち場にいますだのと非常になんというか……前者と比較してかなりアレな感じのする話だ。

 読んでて痛々しい、だのと言いながらもついつい読んでしまったりしながら、読者の多くはそれぞれ幾度となく自分も同じような機会に恵まれたい……そう、思うのだろう。

 そんな事を思い出しながら、俺は思う。


 そんないいもんじゃない。

 
 産まれてこの方、幾度となく心の中で叫び続けた俺は、姓を工藤。

 名前は冬弥とかいてふゆひさ。

 いわゆる一つの転生者であり、後述のネット小説の主人公のように生まれ変わる前の俗に言う“リアル”の中で知っているとある小説の世界に一度死んで、そして生まれ変わった男である。




 今となっては相当に朧の彼方だが、生まれ変わる前の俺はいわゆるオタクという奴だった。

 だから幾つも、俺と同じように『現実来訪』なんて目に遇っている人間を描いたネット小説を読んだ事はある。

 そして、今の自分と照らし合わせて相当に……嫉妬していたりする。

 どうしてそういう奴等は生まれつき天才だったり、美形だったりしているのだろうか。どうして常に大団円が約束されているのだろうか?

 そういう話にうまく入り込めたからか。

 自分の現在と照らし合わせて、常々思う……替わってくれ、駄目なら仲間に入れてくれ……

 今の年齢は18歳。生まれ変わる前の年齢はもう覚えていないが、成人はしていたと思う。そんな年の人間の考えにしてはみっともないが……

 もしも、選ぶ権利があるのなら俺はこの世界に生まれ変わる事だけは万難を排して避けたはずだ。

 仮に俺が自由に生まれる世界を選ぶとしたら、いっそ馬鹿くさいシナリオのエロゲーの世界にでも生まれ変わりたかった。そこで目茶苦茶な理由で適当に女と遊んでいられればそれがよかった。

 そうでなくても、例えばリリカルな世界やマギステルな世界は主人公サイドなら最高だ。

 好き放題、やりたい放題やって、何があっても主役補正で許される。天才バンザイ、英雄の息子バンザイ、主人公バンザイの世界だったはずだ。

 家族や友人どころか自分の事さえも薄ぼやけてきているくせに、こんな事ばっかり覚えているのは人間失格だとも思うが……この際それは置いておく。

 ともかく……なんで俺ばっかり、エロスはたっぷりあるがそれ以上に……それ以上にヴァイオレンス溢れる世界に生まれ変わらなければならなかったのか。

『こんな時に物思いにふけるだなんて……随分と余裕のある坊やねぇ……』

 これまでの人生とこれからの自分を慮り、高尚な思索にふける俺の目の前に……非常に大きく形もいいむしゃぶりつきたくなる裸の胸を揺らす極上の絹のような黒い髪を伸ばした絶世の美女がいた。彼女はしなだれかかるようにして、横たわる俺に覆いかぶさってくる。

「……そりゃ余裕もあるだろ? そんなんじゃどこにも入れられねぇじゃんか。幾ら美人に寄りかかられても、これじゃあなぁ」

 緊張のしようがないぜ、とぼやく俺に女は優位に立っている者が見せる笑みを浮かべる。

『あらそう? 最後の土産に口でしてあげてもいいわよ?』

「……その蜘蛛の下半身を人に変えて相手してくれないか? それなら大喜びだ」

 とある朽果てた廃ビルの地下室……その崩れた壁の瓦礫に真白い糸で拘束される俺はまるでミイラの標本のようだった。そして、そんな俺にしなだれかかる……いや、襲い掛かる女は正に女郎蜘蛛……比喩でもなんでもなく、伝説からそのまま抜け出てきたような下半身が大蜘蛛の化物だった。

「最近、警察署の掲示板を飾っている賞金首の鬼蟲によもや偶然会っちまうとは……ついてないよな」

『あらやだ。本当に偶然だったの? 名の売れた賞金稼ぎのあなたが?』

 本当に意外そうに言うこの女蜘蛛が、たまたま近道をして馴染みの書店に向かっていた俺に手を出してきたのは体内時計で換算するに昼を回った30分前の事だ。

 狙われている最中は一体何の因果でとも思ったが……どうやら相手は俺が自分を狙っていると勘違いしているのだと気がついたのは割とすぐだ。

 誤解を解こうにも、お互いの関係を考えれば徒労に終わるのは明らかだ。それでもやらないよりはましと言葉を投げるが聞き入れてはもらえずに……とうとうご覧のあり様、髪より細くて針金よりも頑丈な白い糸にとっつかまってぐるぐる巻きである。

 いや、我ながら恰好悪い。

「……売れてたのか? その割にあんまり依頼が……」

『だって、あなた“新宿”警察の依頼しか受けないって有名よ』

「……そんなつもりはない」

 っていうか、そんな噂が流れていたのかよ。

「こりゃ帰ったらなんかいろいろアピールってやつをしないとな。俺はけして警察の犬ではないのだよ」

『……まだ、帰れるつもりなのかしら?』

 適当な事をうそぶく俺に、鬼蟲が危険な兆候を見せ始める。この絶対的な有利の状況でなめた事を言う俺に腹をたてているのか。

 いや、そうではない。

 この美女にしか見えない上半身を持つ虫の怪物は、しなだれかかる身体に少しずつ緊張感を持たせている。俺が、この絶対的有利な状況を崩せる何かを持っているのではないか。それを警戒しているのだ。

 一寸先は闇。

 この言葉を彼女はよく理解している。それが、この街で生きる自分達には常について回る言葉なのだという事を、彼女は骨身にしみているのだろう。

「……さすが、男ばかり三十七人も食い殺してきたと噂されている賞金首の“鬼蟲”だけはあるな。コマンドポリスもその中には十人弱いるって言うし、歴戦の兵ってやつかね」

『古臭い言い方。あなた若い子の割には爺くさい言い方するのね』

「ちぇ」

 舌打ちする。それにしても内容の詳細はともかく、流れる空気が随分と和やかな会話だ。

 外見も、下半身を除けば俺好みの純和風の美貌だし、せめて人食い蜘蛛でなければねぇ……

『褒めてくれて嬉しいけど、あなたから感じる風は私には不快なの。ごめんなさいね』

 ふられた。

『ところで、蜘蛛と人食いとどっちがいやなの?』

「人食いだ。蜘蛛が美女に化けて奥さんに……なんか昔話にありそうだろ? 鶴だっけ」

『………』

 軽口だが、言っている事は結構腹の底から出てきた言葉だ。それが伝わったのだろう、蜘蛛は…いや、女は随分と複雑そうな顔をした。

『本当に残念ね。あなたみたい変わり者にもっと早く会っていれば、こんな所で巣を張って、男を誘わなくてもすんだのかしら』

「まだ間に合うぞ? 俺はあんたを狩る依頼は受けてない」

 それでも誰かが追うのだろうが……巣さえ張らずに動き回っていれば、この女はけっこううまく立ち回りそうな気もする。人食いの鬼が昨日を忘れて生きる事が出来るのがこの街だ。

『それでも、どこまでも過去が追いかけてくるのもこの街よ。忘れたい過去が絶えず追いかけてきて、こちらがほっと一息ついた時に限って背中にへばりついて離れないのも、この街の姿』

「もっともだ」

 うなずく俺の顔に、影がかかる。

『だから私はあなたを食べるの。私を愛して、蜘蛛とわかると捨てた夫に出会うまで、男を食べ続けるの』

「……人妻だったのか。不倫はよくないよな……離婚は成立しているのか?」

 唇をいらう真っ赤な舌にぞくぞくとした快感を背筋に覚えつつ、俺は懲りずに軽口をたたく。

『あいにくと、私は戸籍なんてないの。蜘蛛だから。ところで……時間稼ぎは無駄よ。私たちを殺せる力のある青年』

 完全に唇が重なって舌が俺の口腔内に侵入しようとするが、さすがにそこまでは許せない。

『あなたが私を殺せる力を持っているのは分かる。術か、業か、道具かもしれないわね。でも、もう何もさせない、それともまだ何かできそうかしら?』

 眼だけで笑うのは挑発になっただろうか?

 比喩表現抜きで目の前に存在する黒が、元々持っている殺意をより強くしたのがわかる。

『気に入らない、ねぇ……』

 怯えるよりはいいような気もするんだが……それにしても、唇を重ねているのにどこから声を出しているんだろう?

 そうやってどうでもいい事を思考しながらも、俺は意識の半分で“力”を練っている。この世界に生まれ落ち……どこぞに溢れかえるオリ主とやらのように生まれ持った棚ぼた的な能力がない俺が、修練によって手に入れた力だ。この力によって、俺は状況を打破する。

 しかし、距離は詰められている。身体は封じられている。だから、力の練りを感づかれればまずい事になるだろう。それも致死性で、だ。

 だから少しずつ、まるで猛獣に近づく狩人のように繊細に、緻密に、ゆっくりと力を練らなければならない。

『私はこれからあんたを殺す。口から卵を送り込んで、腹の中から子蜘蛛達に食い破らせて殺す。あんたは全身の穴から蜘蛛を溢れさせるんだ。眼も、耳も、鼻も! 口から蜘蛛を逆流させて、尻の穴からも垂れ流すんだ! なんでそんなに落ち着いているんだい!』

「そりゃあやっぱり、独り身のあんたがどうして子供作れたんだとか、そんな事が気になって仕方ないからだよ」

 平然と返す俺に、鬼蟲は絶句さえした。その一瞬に更に力を蓄える。

 しかし、及ばない。俺の経験に基づく計算では刹那、一瞬に満たない時間だけ足りない。高速化した思考でそれを判断する。弱いままの力で解放したくなるが、そんな事をしてしまえばそれこそ最後だ。

 これは……腕の一本くらい失う覚悟は決めておこうか。

『おふざけでないよ! 坊や!』

 美人が怒ると絵になるタイプとひたすら恐ろしさが増すタイプに分かれるそうだが、彼女は間違いなく後者だ。ここが廃墟であり、まだ子供がおやつを食う時間よりも前だっていうのに薄暗い事も雰囲気を醸し出してホラー映画顔負けの迫力である。

 これは……もう時間稼ぎは無理か。覚悟の決め時か! 

 肚を据えて力を解放しようとした俺の耳を、一発の轟音が貫いた。

『ギャアアアアッッ!?』

 俺の眼の前から、鬼蟲……というよりも鬼女の顔が遠ざかっていく。豊満な胸と唇の感触はもったいなかったが、命をかけてそれを味わうほど女に飢えてもいなかった。俺はのけぞる鬼蟲から轟音の源へと首を向ける。

 味方だなどと無条件には思えないのがこの街の流儀だ。俺が無力化されているのは相変わらずである以上、新たな存在の情報は必須だ。

「……殺人未遂の現行犯で有罪だ。よくやってくれた」

 振り向いた先には硝煙の香りがして、匂いの源はあまりにも大きな銃口だった。形状、大きさともに相当非常識な規格外れのリボルバー拳銃が暗がりからにょっきりと生えているのが見える。それを支えるのは太くたくましい腕だ。どちらも、見覚えがある。

 そして、ぞっとするほど低い、鋼の様な声が轟音と甲高い悲鳴にやられた鼓膜を揺さぶった。俺はその声の主に心当たりがある。いや、実は轟音を聞いた時点で確信に近い思いはあったのだ。

「日ごろの行いがいいのか、ね」

 痛みに眉をしかめながらつぶやく。鬼蟲にやられたのではなく、先ほどの轟音が腹に響いたのだ。そんな音を出せる拳銃は限られている。

「そんな訳がねぇだろう。まあ、屑やくざどもをぶちのめして回るのはけっこうだがな」

 そこには花柄の男がいた。

 いや、柄ではなく本物の花。それも押し花だ。

 まるで某三代目の怪盗を執拗に追いかける執念の警部を思わせるトレンチコートに色とりどりの花を散りばめた異相の男が、紫煙を立ち上らさせる銃を右手にこちらを眺めている。その顔には窮地に陥っている俺に対する情なんてものは欠片も見つけられなかったが、それは当然だった。

『ひいっ!?』

 鬼蟲の顔が隠しようもない恐怖にひきつる。

 自分を情け容赦なく銃撃したこの男を知っているのだろう。

 当然だろう、この街の有名人だ。更に、名物男と言うには物騒な彼は極めて特長的である。

 花柄のコートだけではなく、本場の人間顔負けにがちがちに油で固められたドレッドヘア、カウボーイのように黄金の拍車のついたハーフブーツと特長的なスタイルで決めている。そして何よりも、片側を刀の鍔で隠され隻眼が印象的だ。

 これで刑事だなどと主張しても、何も予備知識なくして信じる者はいるまい。

 だが、俺は知っている。そして、きっと鬼蟲も。

『……その顔、その服、それにそのおかしな銃……あんた、まさかスパイン・チラー……こ、凍らせ屋!?』

 その顔は、まぎれもなくこの世で最も恐ろしいものに出会ってしまった顔だった。

 彼は、けして鬼蟲のような輩が出会ってはいけない相手なのだと彼女も百も承知なのだろう。

 自分をまるで悪魔そのものであるかのように怯えながら見つめる異形を余所に、彼は何故か俺の方を向きながら鋼鉄のように渋い声で訂正を求めてきた。

「こいつはトレンチコートじゃねぇ。丈は長いがジャケットだ」

「服には疎いもので」

 口に出してたか? と疑問に思う俺を余所に彼は一般市民に向けた時とはかけ離れた冷たい声を出す。

「服以外にもいろいろと疎そうだがな。賞金稼ぎが賞金首に捕まってどうする? 高額賞金首のこいつの手口も知らなかったのか」

「…俺がどんなに大物でも女の賞金首を追いかけた事はないって知ってるはずじゃないですか、屍さん」

 俺は大して不満そうにもなく、異相の男……屍刑四郎刑事に応える。

 この名前に聞き覚えのある人は、この街の住人と警察関係者以外では俺と同じ“現実”を知っている者ばかりではないだろうか?

 そう……廃墟に女郎蜘蛛が住まい男を食い散らかすような街。

 そして、屍刑四郎という男の生きる街。

 どこかで聞いた事はあるだろう、ここは“新宿”。

 人に魔界都市と呼ばれる……生まれ変わった俺の生きる街だ。



『動くな! 動くんじゃないよ!』

 鬼蟲は必死の形相で俺につかみかかる。

『なんで…なんで、凍らせ屋がここに……あんたが呼んだのかい!』

 俺の首を締めながら、屍に向けて盾にする。そんな事で止まるような刑事がこの魔界都市にいると思っているのだろうか? こいつも、男とこじれなければ実にいい女であったのかもしれない。いずれにせよ、この街にはあまり向かない、つまり真っ当な気質な女だ。

 そして、真っ当な女でもちょっとしたきっかけで簡単に人を殺すのが、心の苦いところだ。

 心の何もかもが苦い部分でできてそうな刑事は、そんな感慨にふける俺(人質)まで含めて鼻で笑ってくれやがったが。

「人質…ふん、罪状が追加だ。つくづく、よくやってくれる」

『あ、あんたはこいつと知らない仲じゃないんだろ!? 何を笑って……』

「それがどうした? 賞金首に捕まるような間抜けな賞金稼ぎは死んじまえ」
 嘲りさえ込めてむしろ楽しそうにさえ語る刑事(失格だと言い切りたい)に絶句する鬼蟲。首から上だけ見れば、凶悪な殺人鬼と哀れな被害者にしか見えない。もちろん、眼帯刑事が殺人鬼だ。どこまでも違和感がない。

 再度轟音が廃墟に響く。

『ひぃっ!』

 鬼蟲がまるで強姦魔に襲われた哀れな淑女のように身をすくめる。だが、強姦魔が襲ったのは彼女ではなかった。

「さっきから聞いていれば、人を殺人鬼だの強姦魔だのと……いい度胸しているな、真っ当な刑事様に向かって」

「……真っ当な刑事は“区民”に銃を撃ちませんよ」

「ここは魔界都市だ」

「それで全部が済むわけないでしょうが!」

 ……実際には結構それで済んでしまうのがこの街だ。俺は頭のすぐ上に空いている風穴を意識しながら怒る。刑事だろうが年長者だろうが、ここは殴ってもいいような状況だろう。実際にそんな真似をするならば全面的に殺し合う覚悟がいるだろうけれども。

「大体、なんで考えてる事がわかるんです?」

「顔に丸だしだ」

 これまで生きてきて、そんなにわかりやすいと言われた覚えはない。このおっさんが、何か特殊な道具か術でも仕込んでいると考えた方が自然だ。

 そう考えていると、鬼蟲が金切り声を上げる。

『あ、あんたら……なんで撃てるんだい、なんで撃たれても平気な顔しているんだよ! 今、よけなきゃ間違いなく当たってたじゃないか! 知った顔なんだろ!? 幾ら魔界都市だからって……おかしいじゃないか!』

「………」

「………てめぇ、クソの割には随分と……」

 ぬけぬけと言うろくでなしよりも、よっぽど人格者のように思える。それにしても、彼女は本当に“区民”なんだろうか? いや“区民”だからこそか。

 この魔界都市は天使と悪魔が極端に、そして同時に一つの心に住まう街であるのだから。

「賞金首って人違いじゃないのか?」

「殺されそうになってるてめぇがぬかせる台詞か」

 それもそうだとわざとらしくうなずく俺の喉首が鬼蟲にひっつかまれる。大の男を力づくで持ち上げるあたり、やはり彼女の細腕には白い皮膚の下に人あらざる何かがたっぷりと詰まっているのだろう。

 そう言えば、虫の類は大きささえ同じなら人間はおろか地上のどんな哺乳類も手も足も出ないとか。

『いい加減、おふざけじゃないよ!』

 確かに、彼女にしてみれば馬鹿にしているとしか思えない会話だったろう。ひょっとすれば撃たれた事さえその延長と思われているのかもしれない。

 無理もない事だが、それでも昔懐かしいネックハンキングツリー(だったと思う)からコンクリートの床に叩きつけようとするのはやり過ぎだ。ましてや人外の怪力で……となれば、俺の頭蓋は卵のようにあっけなく砕け散るだろう。

 ぶんぶん、とまるで幼児が振りまわすぬいぐるみのように二回、三回と空中遊泳を他動的に行わされる俺は高速で移ろう視界の中で、鬼蟲に向かって超大型リボルバー拳銃、ドラムを撃とうとする屍刑事を見た。その顔ははっきりと語っている。
 

 よくやってくれた


 つくづく、こういう刑事なのだ。魔界都市でなければやっていけず、魔界都市はこの男がいなければやっていけない。

 それが屍刑四郎だった。

 だが、今回に限りその銃を使う機会はない。

『ぎいいぃっ!』

 繊手のままでありながらも怪力を発揮した鬼蟲は回転でたっぷりと蓄えた力をそのままに、俺をコンクリートに叩きつけようとする。もしもこれが常人であるならば、骨の砕ける形容しがたい音と肉の潰れる汚らしい濡れた音を生み出して果てるだろう。

 だが、鈍い音はしなかった。

「きいいぃぃええええぇぇぇーっ!」

 大喝一声、気合いの声を張り上げて俺は女郎蜘蛛の拘束を抜けだして猫のように着地を決めた。散々に振り回されても平衡感覚を失わないのは我が事ながら一重に鍛錬の賜物である。だが、鬼蟲もそこでただ俺を逃がすほど間抜けでもなければ隙があるわけでもない。

 屍と自分の間に俺を挟むようにして地面に叩きつけようとしていた彼女にとって、俺が肉の盾になっている事は変わらない。改めて俺を捕まえようと手を伸ばす彼女だが、それは二重の意味で下策だ。

 第一に、屍は決して躊躇しない。

 彼の愛銃ドラムにとって人体など幾らでも貫通できるシロモノだ。そして、である以上無力な女子供と言うのならばともかくも、俺の身の安全を考慮するような男ではない。

 そして第二に……

『っ! 何!?』

 鬼蟲の顔に驚愕が貼り付けられている。視線は、自分のすぐ目の前をふさぐ茶色い何かにそそがれている。
 それがいったい何なのか、咄嗟の反応で大きく飛びのいた彼女は、驚愕と共に俺を見ている。

『……あ、あたしの糸から逃げた!?』

「でなけりゃ、音もなく着地なんて事はできないんだな、これまた」

 とぼける俺の足元にはまるで清流のように艶やかな銀色がこんもりと溜まっている。べたつかないのは自分が俺に密着する事を考えて縦糸を使っていたのだろう、それは鬼蟲が俺をからめ捕るのに使った蜘蛛糸だった。

 そして、解放された俺の両腕が正眼の構えで握り締めているのは……

『木刀? そんな、何も持っていなかったはずよ。それも、そんな長い物を一体どこに隠していた!?』

 彼女にしてみれば、いつの間にやら俺の手に白い木刀が握られているのだ。腕よりも長い大太刀を一体どこに隠していたのか、鬼蟲の脳はその疑問に埋められている事だろう。 俺の服装はいたって平凡なブルージーンズにポロシャツだ。こんな長物、持っていれば一目でわかる。しかし、それも一言で説明できる。

「そいつは念法使いのお約束だよ」

 俺に密着していた事も驚愕をより強くしているのだろう。そして俺の言葉に彼女の驚愕は更に深まっていく。

『念法!? あ……あんた、念法使い!』

「へえ、博識。知ってたのかい」

 にっ、と笑う俺はきっと会心の笑みを浮かべている事だろう。

 そう、念法。

 かの十六夜弦一郎。

 かの十六夜京也。

 そして工藤信隆。

 そして工藤明彦。

 偉大なる先人たちの名前だ。

 二つの魔界都市において、練り上げられた十六夜念法。

 かつて平安の御世に、京の闇に潜む邪怪鬼畜より御所を守る為に生み出された由来を持つ工藤流念法。

 遠く霊峰ヒマラヤで、あるいは日本十三大霊場の一つ大雪山で常軌を逸した修行で鍛え上げられる霊的器官チャクラを使い精神を昇華して、思念を練り上げ物理現象にまで奇跡を起こす神秘の剣術。

「工藤流念法、名を工藤冬弥。愛刀の名は仁王」

 かの世で死に、この世に生まれ、工藤流の門を叩いて弟子となる。やがて養子に迎えられて早、十と八年。

「さあ、やろうか」

 不敵な笑みを浮かべながら、人あらざる妖物に威勢よく名乗れる程度に、俺は強くなっていた。
 


 
 白樫の木刀が、薄暗がりの中で映える。うっすらと輝いて見えるのは俺の思念の故だ。

 それはあたかも鋼の白刃の様でもあり、俺の気勢を乗せるのに一役買っている。

 自身の背骨にそって成り立つ霊的器官、チャクラ。それが俺の内側でモーターのように勢いよく音をたてて回転し、俺の精神を昇華し念を全身に、そして俺の愛刀たる仁王にまで張り巡らせている。それをはたしてどう受け止めたのか、三十人の男を食い殺した妖物、鬼蟲が俺の気迫に押されたかのように一歩下がる。

 彼我の距離はおよそ三メートル。

 そして俺の背後二メートルに魔界刑事がいる。その名も高き極悪刑事の凍らせ屋だ。

 〈区外〉だったらかき氷屋と間違われそうなものだが、この街でそんな愉快な間違いをするなど子供でもいないだろう。いつだったか、彼と俺に追われた賞金首が下品ながなり声で余計な事を口走った。

「変な髪と悪趣味な格好しやがって、アイス屋もどきがよぉ」

 そいつが蜂の巣になりながらも死ぬ事さえできず、どうか殺してくださいと言ったのはきっちり三十分後。その間中いたぶられ続けていたわけである。

 ちなみに、その後もなぶり続けられて気が狂った後も更に彼の修めた古代武術『ジルガ』の秘術で下手くそながらも治療されてまたもや延々と……

 気分の悪い物を見せつけられた俺も途中でうんざりして帰ったが、いくら区外の観光客(女限定)を誘拐して薬漬けにした挙句風俗を中心に売りさばくようなろくでなしの屑とはいえ、全くもって気の毒である。

 更に、そいつを捕まえる為に丸一日使った挙句凍らせ屋に横取りされ、とどめに気色の悪いスプラッタを見せつけられた俺も気の毒である。あんまり気分が悪くなり、そんな俺に同情したのか、応援に駆け付けた新宿警察指折りの美女刑事、金髪碧眼でスタイルも抜群のシャーリイ・クロスにおごってもらった焼き肉も一人前がせいぜいだった。ちなみにどうにか経費で落としたらしい。

 ともかく、古来より妖物相手に練り上げられた念法使いに加えて、そんな極悪人まで背後に控えているのだ。ここは自首の線もありではないだろうか?

「そうは思いませんかな? ご両人」

「誰がご両人だ、阿呆。大体なんで、そんな御大層な念法使いにして賞金稼ぎのお前が賞金首の妖物女に捕まってんだ」

『……私が元々捕まえていた男を逃がしたからだよ』

「ほう?」

 屍刑事の隻眼が面白そうに丸くなる。俺を擁護するような彼女の発言を面白がっているのは言うまでもない。こう言うゴシップに盛り上がる所があるとは思えないが、偽者と言う事もないだろう。

「と、言う事は罪状追加だな。他に何かした事はないか? そろそろ〈民衆の敵〉リストに追加してやれそうだが」

 〈民衆の敵〉とは特に凶悪な犯罪者を示す言葉で、それに認定された犯罪者を殺害するのは区民の義務である、とさえされている。こう言う事を面白そうに言う所は確かに本物だと思える。

「むしろ、警察に協力した事になりませんかね? 相手は犯罪者のサイボーグでしたよ」

 元々別件の賞金首を警察に引き渡し、悠々適当な漫画でも買ってのんびりとした休日をこれから過ごそうか……としている時にまた一人、見おぼえのある別口の賞金首を見つけてつい色気を出したのがけちのつき始めだった。後をつけて見れば、糸に捕まったそいつが情けない悲鳴を上げており、彼女に殺される寸前だったのを邪魔したら……あとはまあ、ミイラ取りがミイラになったわけだ。

 今となってはどうでもいい事なのかもしれないが、問題のサイボーグは腕から鋼鉄の刃を出して糸を切り裂き逃げて行った。どうやら鉄人の類であったらしい。どちらにせよ、あいつは俺が捕まえて新宿警察の独房に叩きこんでくれる。

「むしろ、間抜けに輪がかかったんじゃねぇか。賞金稼ぎが賞金首に出し抜かれた揚句に別口の賞金首に捕まっちまうなんてよぉ」

「やっぱり凍らせ屋だな。血も涙もない事を平気で言う」

 そう言いながら、俺は握りしめた仁王を無造作に振り回す。

「吻! ……鋭ぃ!」

 まずは、右に切り上げ。そしてそのまま真下に振り下ろす。
何も起こらなかった。

 風を切る以外に音もせず、仁王はけして鬼蟲を打ちすえた訳でもない。俺の顔に、動きに気迫が満ちていた分だけ傍目にはいっそ滑稽だったろう。
 だが、ここにいる三人のうち俺の剣舞を見た二人は笑わない。それどころか、鬼蟲ははっきりと緊張を見せた。

『……見えているのかい』

「ま、ね」

「こいつを切りたけりゃ、西新宿のせんべい屋にでも糸の使い方を習ってこい」

 そうすりゃ簡単な話だ、などという殺人教唆の刑事にちらり、と眼をやる鬼蟲に顔は悔しそうだった。俺だけではなく、屍刑事も自分の行動を見切っているのだと教えられたからだ。

 俺を切り裂こうと送り込んだ不可視なほどの細さの蜘蛛糸が、仁王にあっさりと撃墜された彼女にとっては不本意な現実を。

『それでも、私の糸は鉄でも切り裂ける。それを木刀で受け止めるなんてね……それが念法なのね』

「企業秘密。種と仕掛けはあるかもね」

 木刀ではなく仕込みをしているのかもしれない、と匂わせてみたが引っかかった様子はなかった。実際、鋼以上の高度を白樫に与えているのは日々の鍛錬の中で仁王の繊維一本一本にまで入り込んでいる俺や、俺の師匠たる工藤信隆の聖念である。

「でもまあ、糸を見きったのは自分で言うのも口はばったいが俺の技量の賜物だ。どうだ? いい加減ホールドアップする気にはならないか?」

『ここにいるのが凍らせ屋以外なら、それもいいかもね』

「なんだと? 屑」

 犯罪者であれば老若男女区別しないのが俺の背後ですごむこの男のモットーだ。それにしてもたち込めてくる殺気がどうしようもなく心臓に悪い。

『こんなおっかない刑事に捕まったんじゃ、どんな目にあわされるか知れたものじゃないわ。だったら、逃げる方を選ぶわよ』

「……さすがに、逃がすつもりはない」

 それもそうだろうな、と彼女の言い分に深く納得しつつチャクラを回転させると、聖念の力が全身に行き渡る。俺の力はまだまだ未熟であり、至高とされる頭頂のチャクラを回転させる事が、例え生涯全てをかけたとしても出来るかどうかは分からない程度の才能だ。だが、それでもこの場をしのぎきれるだけの力は生み出せる。

 それを敏感に感じ取った鬼蟲が身構えるのに応じ、切っ先を上段に構える。

 基本的に俺はあまり特殊な構えは好まない。

 あれこれとけれんを持つ器ではないと、自分を知っているからだ。

「だから……斬らせてもらおう」 

 意識は失っていても呼吸は常に一定に整えられているよう訓練しているが、それでもどこか息苦しくなる。俺と彼女の間に生まれた凍土の様な緊張感の故だ。

 俺の間合は上段構えの場合はおよそ4メートル半。師匠達には及ばないが、その距離ならば俺は雷光となれる。そして彼女との距離はたった3メートル……いつでも切っ先は彼女を捉えるだろう。

 だが、ここは彼女の巣。

 慎重すぎるかもしれないが、例え俺と凍らせ屋の二人掛かりでも出し抜かれるという実力を前提に行動するべきだろう。
 

 彼女と俺の間に、命を燃料とした火花が散る。

 鬼蟲の威圧はまるで舞い散る花のように俺を包み込むようだ。いや、これはまるで糸のようだ。俺をからめ捕る為の蜘蛛の巣がいつの間にか編み込まれているような錯覚を感じさせる。それはつまり、彼女がこちらの一挙手一投足をまるで三百六十度全ての方向から見ているかのように察している証明に他ならない。

 対して、俺はその糸を切り裂く白刃となった己をイメージして念を仁王に籠める。

 イメージに従い、武器と己の境目が消えてなくなる。元々俺の念を十二分に籠められた、半ば分身の仁王の間の境界線がどんどんと小さくなり、しまいには消えてなくなる。そうすると、俺は自分の相棒の中にどこか頼りがいのある強く優しい物を感じ取る事が出来た。

 師匠達の念だ。

 未熟な弟子の為に、師匠達がこの仁王を振るった際に込められた念。そして、打ちあえるだけの腕を身に付けた俺と太刀をぶつけ合い、その際に流れ込んだ師と兄弟子の聖念が感じられる。

 俺は山のように静かな心持で、全霊の一歩を踏み込んだ。

「ええぇぇぇいっ!」

 鋭、と言う。

 この一刀、何よりも鋭くあれ。

 心とは裏腹に、俺の一歩は疾風となって妖物の眼前へと入り込む。踏み込むと同時に振り下ろされた仁王が理想的な一打を鬼蟲の肩に振り下ろされる。しかし、その一瞬に鬼蟲が笑うのが見えた。

 してやったり、と笑っている。

「!? ……っ!」

 一刀に込めた心が違和感にとらわれ、剣筋が鈍る。それでも、仁王は鬼蟲を確かに打ち据える。だというのに、鬼蟲はかすかにひるんだだけだった。

 俺の常人よりもはるかに広い視野の片隅で、ほぼ背後にいる屍刑事がいぶかしげな顔をするのが見えた。

 今の一刀、確かに必殺の念を籠めていた。腕に伝わる感触も確かに命中を示している。錯覚ではない。

 例え術にかけられようとも、仁王を通したこの感触は間違えない。

 かつて、幻惑に紛れて忍び寄る、呪術も、超感覚も機械的なセンサーも全てごまかしきる事に長けた暗殺者を倒した際に手に入れた自信だ。

 幻惑に攻撃をさせて、相手が油断した際にカウンターを打ち込むのを好んだ相手だが、俺は仁王の感触から幻を見破った。それ以来、幻術を見破れなかった事はない。

 ならば、これは俺の一撃が効いていないという事なのか!?

 自身の腕に不信を持ちそうになる俺だが、皮肉にも幸いと言うべきなのかすぐさまそれどころではなくなった。

 果たして、何が見えたというわけでもないのに、俺は背筋にひんやりとする物を感じ、まるで土下座をするようにしゃがみこみ、そのまま腕の力だけで右斜め後ろに蛙のように飛び下がる。何故か、そうするべきだと全身が考えるよりも先に訴えたのだ。

 音もなく着地する俺は、自分の一瞬前までいた空間に何かが四方八方から集中するのを感じた。どうやらいつの間にか蜘蛛糸を張り巡らせていたらしく、避けきった俺に鬼蟲が忌々しげに鼻を鳴らす。

『よく避けれたね。今のはさすがにかわせないと思っていたのに……見えない糸に八方から狙われて綺麗にかわしきるなんて、あんた本当に人間なのかい? どっかに機械のセンサーでも仕込んでるんじゃないだろうね』

「あいにくと、それは違うな。というか、技を舐めたような発言は好ましくない」

 体勢を整えて、再び上段に構える。

 先ほどの焼き増しのような状況であるが、未だに俺には彼女に念を籠めた斬撃が通じなかった理由がわからなかった。

「あんたと似たようなカウンターを好んで使う相手とやった事があるんでね。生憎と一撃喰らわせてからも思い出せなかったけれど、何とか身体は反応してくれた」

『結局は勘、て事? 自信をなくすわね』

 自信をなくしそうなのはこちらだ。そう言いたいがそんな暇も隙もない。なんで俺の渾身の一刀が効かなかった?

 術をかけられた? 違う。

 防がれた? 違う。

 感触は防がれた物ではない。確かに当たったていたのだから、やはり通じないと考えるのが妥当。念を失敗した? いや、それは現在も俺の背骨を通して全身を駆け巡っている。

 だが効かない。まるで、影を踏みつけているように思える。

「……そうか、そう言う事か」

「ふん、やっと気がついたか。そもそもそっちが専門の癖に、ぼんくらめ」

 見物人になり下がっているような刑事がよくも言う。ふん、と鼻を鳴らして剣を握り直すと、意識を切り替える。

「あんたがどういう存在なのかは、よくわかった」

 チャクラを回転させ、意思を昇華し念となす。

 奇跡を起こすその力の根本は、使い手の意思だ。俺の意識が切り替わり、彼女を切る為の念を生み出す。

 先ほどまでとは違う種類の念であり、技だ。

 切っ先は天を指し、全身と仁王を炎のように念が覆うのまでは一緒。だが、込められている念が違う。

「工藤流念法……活殺剣!」

 一飛びで踏み込むのは先ほどと同じだ。だが、その先には鬼蟲が仕込んだ糸が十重二十重と待ち構えており、今の俺はまさしく蜘蛛の巣に飛び込む獲物だろう。間違っても蝶に例えられない程度の見てくれなのが玉に傷だが。

 それは大量の蛇か、あるいは斬撃の濁流か。

 不可視のはずの糸が霞か水のように銀色の死となって襲い掛かってくるのだ。産み出す為に込められた力はどれほどか、彼女がこの後に待っている凍らせ屋との一戦を潜り抜ける方法を考えていないのは明らかだった。まずは全力で相手をしなければ俺には勝てないと踏んだらしい。

 過大な評価はいたみいる所だ。

 ならば、それに応え全身全霊の一刀を送ろう。

「きいいぃぃぃぃいぃいえええぇぇぇぇぇえぇいっ!」

 意味をなさない気合いの声が胎の底から自然と出てくる。俺の全身をくまなく守る聖念が襲いくる糸を悉く弾き、その向こうにいる裸体の美女を顕にする。こんな形で逢わなければ是非とも可愛がっていただきたい感じのお姉さまなのだがな!

「一刀……両断!」

 風さえも置き去りにし、音もなく振り下ろされた念の刃は今度こそ鬼蟲を肩から袈裟がけにばっさりと切り裂いた。

 断末魔の声さえも上げられない、むしろ我が身に何が起こったのか分かっていないという顔をする鬼蟲に俺は声をかける。例えどういう存在でも女を切るのはやはり気分が悪いが、そんな事を表に出す権利を、自分の意思でやった俺にあるはずもなくただ平坦な声で彼女に告げる。

「痛くないだろ? 霊体だからな…力技だけど浄化したからこれで彼岸へ逝ってくれ」

『………気がついたの? 私が死霊だって』

「念法にはそういった相手専用の技もちゃんとあるんだ」

 一太刀振り下ろした際からずっと変わらず、まるで地面に槌を打ちつけるような姿勢のまま下を向いていた俺は、ようよう顔を上げる。俺の目の前には、女が一人いた。

 蜘蛛ではない。

 男に捨てられ、男を誘い、男を食う鬼女ではない。

 恨みも悲しみも消え去った一人の女の顔が目の前に見える。

 仁王の一閃が、真剣にも思える白刃によって彼女の中にある無念と怨念を悉く切り払ったのを確認する事が出来た。

「極楽浄土とか地獄とか、そういったのがどんな物なのか、本当にあるのかは分からない。俺自身も三途の川を覘いた事はあるし、この街にはたまに黄泉帰りは現れるけれど国とか宗派によって千差万別だからな」

 それでも、祈れる。

「俺が口にしていい事じゃないんだろうが、祈らせてもらいたい。よりよい後生を迎えられますように」

『……本当に、変わっているわね。八つ当たりで山ほど殺してきた私に言えた台詞じゃないわ』

 ありがたいけどね、と言いながら少しずつ霞となって消えていく女が、迷い込んだ子供を守って妖物の群れに立ち向かったという話を俺は知っていた。

 屑やくざを殺した際に、その屑やくざに襲われていた女がいた事も、俺は聞いている。食い殺した相手が残らず俺の様な賞金稼ぎか屑やくざのような犯罪者だという事も資料には載っている。

 だからどうしたとは言えない。そしてそれ以上に、命の価値は等価であるなどと、この街で生きた俺には言えない事だ。 

 だから俺は工藤さん達には遠く及ばず、彼らにはできない事もしてしまえるのだろう。

「俺も人の事は言えない。だから、また今度会ったらその辺も話し合おう。その時は酌でもしてくれると有難い」 

 酒の飲めない小僧が偉そうに言うのを、彼女は笑って聞いてくれる。

『命を狙った殺人狂にそんな事を言えるの? 本当に、本当に変わり者。いいわ、それなら変わり者にふさわしい酒を地獄の鬼からせしめてあげる。あなたは天国に行くかもしれないけれど、そうしたら血の池か針の山から蓮の池に向かって放り投げてあげる。届くまで何度でもね』

 彼女はささやかな笑みを口元に浮かべている。俺の自惚れでないのならば、その眼の中には確かにこちらに向けられた感謝の気持ちがある。

 だが、霞は消えるもの。例外なく消えていくそれを、俺は感傷にひたりつつ見送る。

 彼女は言葉を連ねながら、少しずつ少しずつまるで色褪せるようにして消えていく。それが少しばかり胸にきた。

「終わったか」

「ああ、確かに旅立った」

 死んだと言わないのは、その方が少しだけ気分がいいからだ。

 そんな風に、活殺剣を使わざるを得ないような状況になるとわりと感傷的になる事が多いのが、俺の悪い癖だ。おかげで、師であり養父でもある工藤信隆さんには、その手の相手には極力近寄らないよう言われている。けしてセンチな性質ではないはずだが、お前は簡単に死者に引きずられると言われた。

 一度は死んだ身なのだから、それも仕方がないのだろう。

「これから警察に行かなきゃならんですか?」

「当たり前だ。それとも賞金はいらんか。なら俺がもらう。署の忘年会用の費用に当てよう」

「何ヶ月後の話ですか。まあ……もらえるんならもらっときましょう。彼女
の墓でも作れそうな金額ですかね」

「知るか」

 賞金首の墓をつくるなど馬鹿のする事でしかない。百も承知の事実を、しかしこの男は口にせず花畑をひるがえして俺を促した。

 彼女に飲ませてもらうまでに、酒の味を覚えておこう。

 鬼に囲まれて飲む酒を思い浮かべながら、俺はその場を後にした。

 後に、けしてその空想が叶う事がなくなるとは、その時想像もしなかった。




 うっすらと朝焼けが見える。

 工藤冬弥としての最後の勝負は真夜中に行っていたにも拘らず、既に夜は白み始め東の空は明るくなり始めていた。

 こんなに長い間戦っていたのか、と自分に驚く。

 ちらり、と背後を見てみれば大きく伸びた影が靖国通りのアスファルトに覆われた通り一杯に広がる。他にはもう誰もいない道路を両断するように広がる影は、まるで公共の車道に仁王立ちする俺の非常識に抗議しているように思えた。

 わびるどころか、どうだ、いいだろうなどといたずらなガキ大将の様な気持ちになる俺の足元で、集めれば人ひとり分になりそうな大量の真白い灰が風に流れて消えていく。

 その虚しさ漂う光景に、先ほどまで死力をかけて戦っていた相手を思い出してあまりと言えばあまりのしぶとさにうんざりとした。

「……まあ、人生最後の勝負があっさり終わっちゃ……それはそれで興ざめだからな……」

 軽口を叩いているつもりだが、声が出ているかは定かではない。人生最後の勝負といった言葉は嘘ではなく、俺は今確実に再びの死に向かっていた。

 全身をどうしようもないほどの抗いがたい倦怠感が襲い、身体が鉛を纏っているかのように重い。同時に眠気に襲われ、このまま瞼を閉じてしまうという誘惑がひっきりなしに襲いかかってくる。

 五体を支える感覚そのものがぼやけかけている。だが、どういうわけか朝焼けの温かさだけははっきりと感じている。

 これが、このなんとも言えない心地よさが俺の戦いの報酬なのだろうか。そうだとすれば、文句もつけようがない。

 なぜならば、これは今戦っている連中にとっては最も好ましくない温かさだからだ。

 まるで寝床にいるような安心感さえも感じて、いつの間にやら身体から力が抜けてがくり、がくりと膝が揺れる。

「君に仁王立ちで終わる最後は似合わないと思っていたよ。だが、意外とそうでもないようだ。愛刀のおかげかね?」

 声の方に振り向く力もない。だが、まるで凍りついた月の光の様な声が誰の物なのかは考えるまでもなくわかる。

 振り向く力もなければ顔を上げる力もなく、俺の首はうなだれ続けて下を向いたままで霞む視線が見慣れた物を捉える。ぼんやりとした視界の中でたった一つはっきりと像を結んでいるのは、仁王の柄だ。

 俺の腹を貫通し、主の真っ赤な血にまみれた俺の相棒だ。

「色んな……意味で……そうかもね………」

 声を出すだけではっきりと疲れを感じる。そんな俺が立ち続けられるのは少しでも動くと腹を貫き通す仁王が痛みと言う名の喝を入れてくるからだ。どうやらこいつは、俺が膝を屈して逝くのが許せないらしい。

「正直に言おう。私は君がせつらとミス・ヌーレンブルクを守る為にカズィクル・ベイと戦ったと知った時に、君の敗北以外の結末は予想だにしなかった」

「………そりゃあまた……すごい……魔界医師でも……予想を外すのか………」

「それだけ、君のした事は偉大なのだ」

「………あり………がたい」

 足音はしなかった。

 だが、俺の視界の中に何か眼に痛いほど真白い物が入り込んできた時、俺はある白い美影の接近を悟った。
 
 かの有名な白い医師。

 その繊手が白銀のメスを持った時、いかなる病魔も笑いを消すという魔界都市の伝説。

 この街の主である黒白の二人の魔人の一人……魔界医師、ドクター・メフィスト。


 白い指が俺の顎を持ち上げ、この世のどんな美辞麗句も追いつかない絶対の美が瞳を通して脳に焼きつく。それに俺は恍惚として魅いられようとして……最後の力を振り絞り、念を仁王に流し込んだ。それだけで輪をかけて死にそうになる俺を、魔界医師は笑おうとしなかった。

「大穴をあけた腹と、尽きかけた念で私と戦うのかね?」

「………あんたのその綺麗な口元に……白い牙が見えなければ、助けてくれよと……素直に患者になれたのにな………」

 魔界医師は、今、夜の世界の住人だった。

 だが、例え吸血鬼になり下がろうともさすがは新宿の二大魔人の一人。念をこめた事をこうまであっさりと悟られると開き直るしかない。だがそれにしても、隠す必要もないほど微弱な今程度の念をきっちり悟るとは、この医師は念も扱えるのだろうか?

 何ができても不思議ではない医師に対して今更な疑問を抱いた俺を余所に、美しい白い吸血鬼は純白のケープの下からいつの間にか針金を取り出している。首を上げているだけでも億劫な俺は、立て続けに大吸血鬼の相手をしなければならない我が身の不幸を呪いつつ、安らかに死なせてくれないかと贅沢な事を願った。

 大吸血鬼。

 俺は先ほどまで、この非常識極まる世界でも特に恐れられる吸血鬼の一人。

 コンスタンティノーブルに生きた、東洋の女を妻に迎えた貴族。

 闘争に明け暮れ、血まみれの魔術で相手の武器も技さえも一度見れば、そして受ければ完全に学びきる双腕と、いかなる攻撃も受け止めきる不死身性の持ち主である大男。

 その名もカズィクル・ベイと一戦を交えていたのだ。

 そのふざけた生命力は凄まじく、呆れた事に、彼は新宿に現れて以来の事だがチェコ第一の魔導師“妖婆”ガレーン・ヌーレンブルクによって見えない獣に食い散らかされたというのに、きっちり肉片から再生してみせたほどの非常識だ。

 間近で見ていてとある三つ目漫画の不死身主人公を思い出したのは俺だけの秘密だ。

 そんな奴とやり合って、よくもまあかろうじてとは言え勝利をつかめたものだと我が事ながら感心してしまう。

「やめておいた方がいいだろう。君をいとも簡単に打ち倒し、背後から飢えを満たそうとしたベイ将軍を自分ごと切り裂くなどと言う暴挙を行ったのだ。もはや念など碌に残ってはおるまい。医者として、今君が意識を保っている事さえ驚嘆に値する」

 そう、俺が勝つ為に行った手段はまさに白い医師がどこか呆れたように口
にしたそれだった。

 闘争における俺のカードは、幼い頃より大雪山で修業を積みあげてきた工藤流念法、そしてこの街で出会った古代インド拳法、その名もジルガ。更に多少ミーハーな気持ちで身に付けた二丁拳銃術。

 対して相手はその悉く受け止めた馬鹿げた不死身性と、そして学習せしめた異能。更には、それまでに戦った新宿の化身たるあの秋せつら、魔気功を操る劉貴大将軍を含めた数々の魔人の力と六百年積み上げてきた武人として、吸血鬼として彼自身の強さ。

 コールの結果は惨敗の一言である。

 ベイ将軍も、明らかに俺の事を軽視していた。

 癪には触るが当然だろう、俺は確かにこの新宿に生きる数々の魔人とも、そして念法者としての数々の先人と比較して、明らかに一段落ちる。奴くらいになれば、それは簡単に悟れるに違いない。要するに、そもそも俺の位負け、向こうの貫禄勝ちは確定していたというわけだ。

 だが、其れでも引けない話ではあったのだ。

 余所様からするとくだらない理由で、俺には命をかけるに値する理由が、あってしまった。それはけして、幾度か遠目に見ただけの“姫”達吸血鬼の跳梁跋扈が認められないわけじゃない。もっとちっぽけな話だ。あるいは半ば意地になっていただけなのかもしれない。だが張り続けたい意地だった。

 だから、俺は切腹のように己の腹を十文字に切り裂いて、その向こうにあるカズィクル・ベイの腹にもそれまでため込んでいた分、全ての念を籠めた十字を刻み込んでやったのだ。念の刃で斬られただけでは多少苦しんだ顔をしただけの将軍が、青白い顔を驚愕に歪めて俺への恨み節と共に灰になったのは人生最後にして最高の痛快であった。

「君がそこまでして戦った理由はなんなのかね? 正直、依頼を受けているわけでも彼らに遺恨があるわけでもない君が剣を振る理由がないだろう。そこに倒れているせつらとミス・ヌーレンブルク、ついでにやくざ者を守る為かね?」


「へへへ……さあね」

 この顔で問い詰められると、隠す事もできなくなっちまう。くそ、そんな事はどうでもいいからさっさとかかってこいよ。さもなきゃ黙って死なせろ。

 何と、この白衣の医師に腹の中だけとはいえ毒づくという身の丈に合わない暴挙を試みる俺から見てざっと十メートルほど離れた所に三人の人間が倒れている。誰もが俺の知り合いだ。

 一人、白衣の医師の対。この吸血鬼事件の中心にいる究極の大吸血鬼、通称“姫”に愛され、その全てを踏みにじりたいと望まれている魔界都市の化身。

 全てを魅了する黒衣の美しきマン・サーチャー。千分の一ミクロンの特殊チタン鋼の糸で全てを切り裂く、妖糸使いの秋せつら。

 一人、妖婆。チェコ第一位の魔導師、ガレーン・ヌーレンブルク。

 人語を喋る、二つに切られても平気の平左な吸血鬼並みの不死身性を誇る鴉を従え、この街の住人とは思えない誠実な心を持った可憐なる金髪の人形娘を連れて高田馬場の魔法街に生きる神秘の化身。

 いずれもこの妖魔悪鬼が闊歩し、超人魔人が跳梁する街でも飛びきりの異能者だ。

 そしてついでにオカマやくざの浜田。せつらを相手にしたり話題にする時だけ、おねえ口調になるオカマだが、腹立たしい事に色っぽい情婦がいたりするやくざ者でもある。せつら以外を相手にする時は結構強面だったりするから不可思議な内面を持っていると言えば言える。

 だがこの男も魔界都市の住人。巧妙精緻な体術の腕を持っており、強靭な筋肉から生み出される力を波動のように余すことなく任意に伝える技術で自身に触れた相手を内側から爆砕させる事さえできる武闘派だった。

 そんな三名が揃って人事不省で倒れている。

 どんな事件でも起こりうる魔界都市『新宿』でも異例の事件だろう。

「浜田は……のされ…た…だけだわ、な……せつらと、ガレーン婆さんは……治りそうかい……魔界、医師……」

「せつらは“姫”の住処で稀に発生する渦動空間に飲み込まれて人事不省。ミス・ヌーレンブルクはベイ将軍に血を吸われてしまい、自ら命を断とうとしたところを君の説得に応じ、仮死状態で止めた。いつでも自決できるようにして、けして自身では吸血鬼となってもその牙で魔界都市を突き刺さぬように自らを封印しながら、ね」 

 ドクターの眼が俺から外れ、俺の背後の彼方を見つめる。俺は彼に顎を支えられながらその美貌を見上げた。白い医師が追いかけたのが、当に風に呑まれて消えたトルコの将軍の灰だとわかっている。

「だが、君は宣言通りにベイ将軍を討った。これで彼女はもう自身を縛る必要はなくなった。せつらについては、私が診ればすぐに正気を取り戻すだろう」

「………吸血鬼……になった…あんたが……せつらを……治すの……かよ……? お互い……敵、だろ……つくづく……訳わか、んねぇ……二人だ……あの、猿爺いや……変節漢の……夜香……当りが、うるさい……だろ……? 本気……かよ……」

「病める者を前に、私が医者でなくなる事はあり得ない」

「……さすが……“姫”なんかにゃあ……魔界……医師のメスを取り上げる事は……できない……」

 何故だろう。

 その言葉は信じられた。

「さて、では君の治療も始めるとするか。このまま放っておけばさすがにあと94秒で死ぬ」

「………」

 俺……敵なんですけど?

「君は半年前に我が病院にて契約をしている。期間は一年。であれば、私には傷ついた君を治す義務がある。私は治療を求める者をけして拒まない」

「……確か、に……俺は、おと、くい……さまだったけ、ど」

 あいにくと、某人捜し屋とは違う意味でだが。

 なにしろ、向こうは問答無用のチートっぷりを発揮していても猶も重傷を負うようなとてつもない事件ばかりに出逢う男であった。対して俺の方は、この街ではせいぜい、多少腕が立つ程度の剣士に過ぎない。

 ぼろぼろにされる事がいい加減しょっちゅうと言うべき回数になってしまった俺は、この悪徳の街でも患者としてなら唯一無条件で信頼できる魔界医師の病院に定期でサービスの契約を行っていた。唯の単なる料金先払いで、その分割引10パーセント、というシロモノだったのだが……

 それを理由に、ここで敵の立場の俺を治療する気か?

 治療に伴って俺をどうこうして、せつらを襲う敵に作り変える……そんな事ではなさそうだ。そもそも俺にそれだけの力はあるまい。それとも、そこまでとことん改造するのか? それこそ無駄な手間でしかないだろう。

 つくづく、わからない性格だ。いや、価値観とでも言うべきか。

 いずれにせよ、俺だって死にたいわけじゃない。なら、申し出は受けるという一択以外にはない。

「………あんたにゃ……ひとみさんを……治してもらい、たい……しな……」

 南風ひとみ。

 俺にとってはどうしようもなく苦い、特別な名前だ。

 かつて、一介のルポライターであった一人の女がやばい世界に首を突っ込みすぎ、やくざに散々なぶりものにされた揚句、妖魔に心身を犯されて異常な魅力と殺意を持った鬼女に生まれ変わらされた。今、俺がいる世界……即ち“妖魔”シリーズの開幕だ。

 俺は、“現実”から来たが故にそれを知っていた。

 だが、何もできなかった。
 

 何故だ?
 

 あいにくと、もっともらしい理由なんかない。

 ただ、届かなかったのだ。

 今をさかのぼる事、約十八年前。この魔界都市で、強姦された女の胎から生まれ、名前もつけてもらえずにすぐに捨てられた。転生した者のパターンとして、赤ん坊ながらに鮮明な意識のあった俺はその時はしょうがないと思っていた。もしや、俺が生まれるから、俺を生ませる為にあの女性は強姦されたのではないだろうか? 顔も知らないその男は強姦させられたのではないだろうか?

 そう思えば、むしろ身動きできない赤ん坊は罪の意識からの解放をこそ喜び、名前も顔も忘れ去った女性を恨む気持ちは毛頭なかった。

 焦点も合わせられない赤ん坊の眼に双頭のドーベルマンが映っても、恐怖以上の諦めが宿るだけだ。

 だが、薄汚れた町の路地裏にふさわしい黄色く汚れた牙が俺の柔らかい身体に突き刺さる事はなかった。

「やれやれ……まさか捨て子を拾うとはな……まずは、警察かね?」

 悲鳴をあげて逃げていく、『魔震』によって溢れだした遺伝子の生み出した怪物には目もくれず、この身体に生まれかわってから初めてと言っていいほど優しく丁寧に俺を抱き上げた人がいた。

 腕一本動かさず、ただその清冽な気のみで魔界都市の醜悪な狂犬を追い払った人物。俺の救い主の名前は工藤信隆と言った。

 そんな事とはつゆ知らず。

 俺は解放の喜びを奪い取ったこの人を恨んでいた。

 ここが魔界都市だという事は頭の上でなされた会話でとっくに分かっていた。そんな街で捨て子に生きながらえろという謎の男に腹を立てていた。

 結局、逃げ出す機会を奪われた腰ぬけの泣き言だと気がつくまで三年かかったが。

 ともかく信隆さんに拾われた俺はそのまま新宿警察に連れて行かれた。そこでどんな問答が警察と信隆さんの間に遇ったのかは知らないが、俺は新宿の孤児院に渡される事になったのだが、やはりこの悪徳の街は子供にも優しくはない。俺はそこで六年に生きて逃げ出した。

 どういう所なのかは具体的には言いたくない。漠然と言えるのは、まるで映画に出てくるろくでもない孤児院そのままだったという事だ。名前さえもらえやしなかった。

 そこも、もうない。後に聞いてみたところ、俺がいなくなってから早、二年で経営者がヤクザに連れて行かれそのまま自然消滅したという事らしい。走れるようになってからはすぐさま脱走した俺には特に親しい人間もいなかったから感慨もなかったが。

 赤ん坊であったが故に構われもしなかったが虐待もされなかった事程度が喜びの場所だった。例え『新宿』だろうと、表の世界がこの中よりは魅力的に見えたような場所だったとしかもう、覚えてはいない。

 その後、子供の身で放浪を始めた俺はひたすら『区外』を求めた。結局俺は『区民』ではなかった。身寄りがなくとも、野たれ死のうともここにいるよりはましだった。どうにか亀裂の向こうに行きつけた俺はやがて、北海道にたどり着いた。飛行機に潜り込むのはあの街を逃げ出すよりも簡単だった。

 やがて、旭川空港に着いた小さな密航者を、何故信隆さんがあっさりと見つけられたのかは分からない。だが、本人は虫の知らせと言って笑っていた。

 さて、いったいこのおっさんは何者だ、と眼を白黒させる薄汚れた子供が彼を自分を救いあげたおせっかいだと知るのにあと五分。

 赤ん坊の六年後がなんでわかるんだと言う俺に、わかるからわかるんだと答えにならない答えを返し、彼は不貞腐れる俺に笑った。

「で? どうして海を越えてこんな所にいる? わしに会いに来たんじゃないだろう?」

「あんたに会うなんて思ってたら、来るもんか」

「逃げてきたのか?」

「悪いかよ!」

 ふてくされる子供に説教を垂れるわけでもなく、彼は俺をベンチに連れて行き、事情を聴く。何をどう話したのかはもう思い出せない。生まれ変わる前は確かに大人だったというのに、子供以下の様な説明しかできなかったと思う。

 そのまま、彼は俺を置いてどこかにいった。ぽつりと座り込んでいると、何故だか泣きたくなった。

「なんだ、男のくせに泣いてるのかよ」

「………っ……っ」

「まあいい、これからは泣く事はないぞ」

 わしが強くしてやるからな。

 ……その言葉にウソはなかった。

 そして工藤の姓をもらい、冬弥の名前ももらって俺は念法の門をたたく事になった。

 辛く厳しく、才能はない。そんな泣きたい事ばかりの修業だったけれど、それでも逃げさない程度に身も心も強くなっていく自分に喜びがあった。

 そして、十一年。義兄でありこまめに面倒を見てくれた工藤明彦が婚約するのを機に修業も形にはなっていた俺は、魔界都市に一度戻って賞金稼ぎを始めた。口実作りの為だった。

 さっさととんぼ返りをした俺は、義兄と義父に妖魔と取引をしようとしている企業の存在を知らせ、その実行犯の一人が誰に横恋慕をしているのかを知らせた。そいつがどれだけ危険な男であるのか、実際に多くの女性を犯しては生け贄にして、妖魔と共に生かしながら食っているらしいとも教えた。情報の出所は魔界都市ならではの情報網だと嘘をついた。

 そのせいだろう、二人は予定よりも早く一緒になった。この義兄なら守り抜ける。二人は安心だと思った。後は一人……いや、一組か。新聞記者とフリーライターの男女を止めれば、それで済むはずだった。後は自衛隊にでも相手をしてもらえばいい、その為に血税を食っているのだから何の遠慮がある? 

 本気でそう思っていた。

 だが、俺の話を聞いても彼等は止まらなかった。

 俺は、彼等を侮っていた。

 所詮は荒事に不向きなルポライター。多少の脅しでは逆にファイトを燃やすかもしれないが……相手は彼等がやり合ってきたチンピラではない。本物のヤクザであり、そして魔道士と妖魔だ。相手のスケールが彼等の相手にしてきた面々とは三つは違う。引き際を見間違えはするまい。そう思っていた俺の脅しに二人は引いた……振りをした。

 俺は分かっていなかった。

 所詮は荒事ばかりの小僧でしかない俺には、交渉のイロハなどあってないようなもの……気が付かない間に情報を抜かれていた間抜けに向かって陰から嘲笑を送り、二人は特ダネを狙って走り出したのだ。

 二人は分かっていなかった。

 暴力とは何なのか、理不尽とは何なのか。自分たちの気の強さも、負けん気も、その全てが会社に、そして社会のルールに守られている穏便な世界だからこそ発揮できるだけの物でしかないのだと言う事を知らなかった。どこぞの胡散臭い若造の賢しげな忠告など何する物ぞと鼻で笑い、その外側にあっさりと踏み込んでいった彼等を待っていたのは至極あっさりとした男の死と、女を待つ果ての無い凌辱。そして魂と遺伝子を変質させる悪夢の侵食だった。

 ぶう、から事と次第を知った俺が踏み込んだ時には、大垣記者は既に骨も残さずに処分され、南風ひとみは妖魔に犯された後だった。俺はその場で妖魔の一匹を打ち倒したが、それで力を使い果たした俺が回復するまでの間に彼女の侵食はより進んだ。俺は彼女に念を送り込んで助けようとしたが……ひとみさんは逃げ出した。

 俺は、工藤明彦ではない。あの誰の懐にでもするりと入り込む魅力という物がない俺には、彼女に信用される事は無かったのだ。

 彼女を捜しながら妖魔と戦う俺だが、明らかに義兄よりも格落ちの上に行方不明になったひとみさんという気がかりを抱えた俺は不始末を連発し、事あるごとに死にかける有様……全くもって、弱り目に祟り目とはこの事。状況は悪化する一方だった。やっとの思いで解決したその時には、俺の死にかけた回数は二十を優に超えていた。死んでしまった人も傷ついてしまった人も数多い。どうにか見つけ出したひとみさんにも信じてもらえたとは言えない、ただ他の男と同じように俺を襲った際に俺が妖魔化を抑制した事に彼女が価値を見いだしたに過ぎない。

 たった一つの例外は、義兄夫婦が守られたと言う事だけか。それも俺の手柄ではない、当たり前だが義兄自身の剣腕のたまものだ。
 

 俺は、事をかき回しただけだった。


 そもそも、悪いのは大垣とひとみさんの二人が忠告を聞かなかったからだろう。 

 そんな言い訳の理由を真っ先に捜した反吐が出る自分を自覚した時、俺は帰る家をなくした。ただ、彼女を救う為に駆け回るより他にはなかった。

 だからこそ、今度はガレーンの婆さんを救おうと思ったのだ。

 この知識を使って死ぬかもしれない人を助けなければ……一体俺の生まれ変わった意味は何処にあるというのか。

 それだけではない。更に、間が悪かった。

 俺はぶう、から今回の事件が耳に入った時、万が一の場合に備えて真っ先に白い医師の紹介を思いついた。

 例え魔界都市でも死者は戻らない。だが、今生きている人間ならば……いかなる疾患も笑みを消すという魔界医師のメスの元であるならば……

「治るのかもしれない」

 そうやって、許しを請うのか?

 否定の言葉。

 自分の為に悩んでいる間にも、傷は深く広く広がる。さっさと動け。

 否定を否定する言葉。

 心の傷は癒えない、費やされた時間は戻らない、そして何よりも、死んだ人は還ってこない。ただ、それでもこれ以上広がらない為にだけ。

 そう考えた俺は、歌舞伎町の旧新宿区役所にあるメフィスト病院に駆け込み……黒いせんべい屋に出逢い、絶句した。

「なんでよりにもよって、こんな時に吸血鬼になるかなぁ!?」

 絶対の美貌を持つ人捜し屋の前でもとろけもせずに叫んだのは、どうしようもない間の悪さに絶望したからである。確かに、数日前はうだるような熱帯夜だったが、これはないのではないだろうか?

「そんな事を叫んでいると、看護婦さんに追い出されるよ」

 人がいない所だったのが幸いした。魔界医師が吸血鬼になっただの区民に知られたら大暴動さえ起きかねない。いや、その前に俺がぼこぼこにリンチされるだけだろう。あるいは、街中の女性たちが白い医師による訪問される自分を想像して恍惚とするのかもしれないが。

 ちなみに、本人が聞けばさぞかし腹を立てるだろう。徹底した女嫌いだし。

 ともかく、南風さんを癒すには断固として魔界医師の力がいる。普段であれば、ただ彼女を受け付けに連れていくだけで済むというのに……くっそ。

 舌打ちしながらも、俺は一刻も早くの解決を願い微力ながらも剣を奮う事に決めた。確かに事件は俺の介入なぞなくても解決するはずだが、その最中に義兄達が何らかの事件に巻き込まれないとも限らない。

 次から次へと人が死に、女は凌辱されるのが菊池作品クオリティ。

 はっきり言って、あの“姫”を始めとする吸血鬼を相手にして生き残る自信などかけらもないが、保身を胸に身をすくませて嵐の通過を待つのは俺にはもうできない相談だった。その最中に、吸血鬼の長の孫の離反を知り、ガレーン・ヌーレンブルクの参戦を知って彼女の死を思い出した。

 これで、理由が二つになった。

 貫かなければならない意地を胸に、俺は無様に見えるほど必死に戦った。“姫”に、騎々翁に、そして夜香に身の程知らずと嘲笑われつつもとうとう大金星を挙げたのだ。

 もう……この言葉を口にするべき時だろう。

「南風……ひとみ。異界よ……り……軍事目…的で召喚され……た妖魔によって……変質された女性だ……妖気の影響を避ける……ため、に……護符をつけて……街の外にいる……彼女を…救って…」

 ほしい。

 その言葉は口に出せなかった。

 突如、白い美貌は遠く離れていった。俺は支配領域を広げる朝焼けの中で空を舞う。

「それ以上は、何も言わせぬ。こやつはここで死なねばならぬ」

 四千年の毒の中でこそ咲き誇る大輪の薔薇が俺の背後に現れていた。
 全身を余す事無く貫く柔らかな感触に俺は死を忘れるほど陶然となってしまった。

 振り向く力はない。だが、そこに誰がいるのかは当然察しがつく……この感触、この香り、この声。全てがたった一人を示している。そもそも、治療を始めようとしている患者を白い医師の手から奪うなど、一体どこの誰がやろうと言うのか。

 それを考えたと言うだけで、真っ当な“区民”は身震いを抑えきれまい。

「……姫…」

 名前を言葉にするだけでも、今の俺には難事業だった。その俺をあざ笑いながら抱きしめて、翼のない身で空を飛ぶ女こそ、『新宿』史上最悪とも言える大化生。

 四千年の時を生きた、幾つもの国を滅ぼし、星の数ほどの男女を破滅させてきた傾国の妖女。

 夏の妹喜とか、殷の妲姫とか呼ばれる不死の淫女。

「何…故…」

「ふん、聞きにくい事よ。まともに口もきけぬとは、それでも私の下僕を倒した男か?」

 腹に穴のあいた、全ての力を使い果たした男を捕まえてひどい事を言う。それでこその“姫”か。

「白み始めた闇の中でも抱きしめる。せつらよりも気にいったかね? ベイ将軍を倒した男を」

 奪われた患者を、奪った女を見上げる医師の眼はひどく冷静だった。

 激昂するなどあり得るとは思えない医師ではあるが、それでも患者に手を出されてそれを許すようでは魔界医師の沽券に関わろう。だというのにこの体たらくは一体何だ? やはり黒いせんべい屋でないと劉貴大将軍の支配を抜け出す意欲もわかないのか?

「たわけた事を言う。このような小物を気にいるはずもなかろう? たかが下僕風情に終始もてあそばれる程度の男よ。己の身ごとあの不死身を切ったのは褒めてもやろうかの? 朝日の中で、修行者の滅びの念をたっぷりと籠めた十字を心の臓に刻まれてはあの男とて生きてもいられまい。ふむ、私の与えた不死身を覆したのは褒めてやろうではないか」

 そう言ったこの世で最も恐ろしい女は、言葉は褒めながらも俺の全身を氷の鞭で縛るほどに強烈な鬼気を発する。それが俺の残り数秒の命を逆に永らえているというのは皮肉な話だ。

 死への逃避さえも許さない。何故だかわからないが彼女の勘気は俺を自分の手で殺さない限りは解けないらしい。一体何が気に入らなかったのだ。

「こやつ、言いよったの。私ごときに魔界医師のメスは取り上げられない、と」

「………」

 納得。

 高慢と言う言葉を千連ねても足りないような性格の女には、確かに許せないような言葉だろう。

「その言葉、断じて許せぬ。この私がメフィストよ、お前の医師としての矜持に負けるなど認めはせぬ。ここで、こやつは殺す。お前の患者である、私を虚仮にしよった愚か者の五体を引き裂いて、我が下僕達の餌としてくれようぞ」

「それを私が黙って見ているとでも?」

「邪魔したければするがよい。いや、ぜひともやって見せよ。我が手はお前などには止められぬ。魔界医師のメスとやら、思う存分へし折ってやろうではないか」

 このあまりにも美しい白い医師。

 隔絶の美貌を誇り、万の男を貪り食った女でさえも陶然と我を失いかねない……ドクター・メフィストを前にして、彼の医師としての誇りを地に落とし、泥に塗れさえる事に興奮しているのがわかる。俺など、その為の道具に過ぎない。

「さあ、どうした魔界医師。劉貴に血を吸われたお前が、我が下僕に血を吸われたお前が、この私を止めるか? 止められるのか、魔界医師よ」

「止める必要もないだろう。この私には」

「……何?」

 ………正直、耳を疑った。

 今、白い医師は何と言った?

 天地が引き裂かれても、太陽が西から上ったとしても、患者こそが第一。

 例外は黒い美影のみ。

 それが魔界医師ではなかったか。

 一体何があった。

 それが吸血鬼としての姿か? 血の支配は魔界医師のメスを捨てさせるのか。

「ふ……ふははは」

 哄笑。心の底から愉快だという声が背後からする。

 だがその全てが、死に掛けた俺にとってさえ極めて恐ろしい物を含んでいる。ただひたすらに愉快、その痛快ささえ感じさせるはずの言葉が、なぜこうも恐ろしげなのか。

「メフィストよ、それが答えか。それが魔界医師か? 滑稽な事よ。何が魔界医師のメスは取り上げられぬか。私どころか、劉貴にさえ奪われておるのか」

 幾つもの国を悪逆無残な方法で滅ぼした女は、白い美が自身に膝を屈したと疑わなかった。己の存在が魔界医師とて敵う物ではないと、信じきったからこその大笑……おそらく、それはこの上なく美しく、何ら爽快さを感じさせない顔であるに違いない。

 だが、俺は絶望していなかった。

 はっきりと自らの死を一度は覚悟した。

 既に意識そのものがもうろうとしている。

 目的は一応果たした。遺書はメフィスト病院に預けてあるから、ひとみさんもメフィスト病院で治療してもらえるに違いない。

 死を受け入れる胆を固まっていた。

 だが、そうではない。それは絶望しない理由じゃない。

「ほほ、どうじゃ? 未熟な剣士よ。身の丈に合わぬ戦をした結果は惨めな死じゃ。ベイを斬ったのは褒めてやるが、お前もこうやって死んでしまえば勝利を収めたとさえ言えぬのう」

 女は抱き方を変えた。半面は焼き爛れながらもドクター・メフィストさえ、せつらさえも及ばないのではないのかと思える麗貌が至近距離に見える。死に霞む目の中にも無理やりはっきりと、まるで脳に焼きつき見ている相手を支配するかのような美しさだ。

 吸血鬼の猫眼は相手を支配する赤い瞳だと言う。だが、このかんばせならそこにあるだけで万人に首を吊れとまで言う事を聞かせられるだろう。例外は黒白一対の魔界都市の化身だけではなかろうか? 何しろ吸血鬼の若長さえもがきっちりたぶらかされたほどだし……

 だが、何故だかその時の俺にはその美貌が通じなかった。

 美しい事はわかる。正直、死に掛けの身体でなければ人目もはばからずに股間さえも反応し、実力的にはともかく彼女を押し倒そうとしたに違いない。俺とて男だ、生まれたての赤ん坊から臨終間際の老人まで等しく淫欲の対象にするだろう美貌に、食欲さえ彷彿させそうな白い肉体に心を奪われないわけはない。

 それなのに、俺は魅了されなかった。

 柔らかな肉体に陶然としている。

 美しい顔に欲望は確かに刺激されている。

 死に掛けた男に肉の欲望を思い起こさせるとは、さすが稀大の淫女……だが、俺は魅了されていない。念もろくに使えはしないというのに。

「……気に入らぬ。気に入らぬぞ、小僧。たかだか未熟者の修行者風情が何故私の虜とならぬ。死に掛けた身だからか? 違う。私の恐怖に竦んだか? 違う。ならば何故私に抱かれた男がそのような顔をする」

 陰惨であり、怒りに満ちた顔だった。それでもなお美しく、マゾならこの顔に見つめられる為に身の丈以上の黄金でも積むだろう。俺にその気はないのでただ恐ろしかっただけだが。

「……何故……俺が……あんたに……魅了され、ないか……て…? 決まって……んだろ? ……後ろに誰が……いると……思って……る? おそろ、しくて……それどこじゃ……ねぇや」

「………」

 はっきり言う。俺はずっと恐怖している。

 この魔界都市の住人らしく、医師の矜持を侮辱されたドクター・メフィストの存在に、何よりも恐怖している。それがわかった妖姫が俺の腹の傷口をえぐった。

「………!」

「ほほほ、声も出せぬか? 無様な剣士よ。これでもまだ信じているのか、魔界医師はけして患者を見捨てないなどという妄言を」

「………信じる、以前の問題……」

 信じられない。信じられるわけがない。

 ドクター・メフィストが患者を見捨てるはずがない。

 この妖女であろうと、その力があろうとも例外ではない。

「……よく言った。ならば、ただその医師のみを信じながら逝くがいい。魔天の苑でメフィストを信じた愚かな己を呪って悔むがいい」

 姫は面の様な顔をしている。

 怒りのあまりこうなった……彼女をこれほど虚仮にしたのは、秋せつら以来ではないだろうか……結構最近の事だな。

 俺は、そんな姫に向かってせいぜい強がって笑った。

 不敵な笑みを描けているだろうか? 

 ひきつっていない事だけを切に願おう。死ぬ時に、格好つけて死ねるのならばそれは一つの男の本懐だ。

「消えよ、この街の最も汚濁に塗れた死に向かって」

 光も闇も吸い込みそうな美しい繊手が、俺の命を完全に奪いつくそうと動き出す。俺の腹を貫き、このまま上に向かって持ち上げればそれだけで死は勝利者となるだろう。

 この姫のもたらす死にしては、随分と平凡な物のように思えるが、何か更なる仕掛けがしてあるのだろうか?

 
 音もなく、腕は切れた。


 姫の腕は肩の所でまるで人形の部品が外れたかのようにすんなりと、音もなくとれた。

 切り口が見える。その美しさに俺は嫉妬した。

 そのまま俺はアスファルトに向けて落ちていく。だが、地べたにたたきつけられる寸前、音もなく反動もなく地上一メートルの所で静止した。

 一体、何が起きたのか。

 一体誰の仕業なのか。

 答えは俺の頭上にあった。

「貴様、せつら!」

 俺に真実の死が訪れる瞬間に、恐るべき大吸血鬼の腕を、糸でもって斬る。

 大の大人一人を音もなく、眼に見えない程の細い細い糸で支える。そして、その糸は瀕死の俺をかばう繊細さも持っている。

 それを行った者は、黒衣をひるがえしてこの吸血美姫さえも気がつかない間に白明を背負い空中に佇んでいた。

 にくいほど様になるその男は……“新宿”の化身、秋せつら。

「次元の狭間に呑まれていながら、正気に返ったか。何故この時に……メフィスト、貴様か!」

「いかにも」

 悠然と、白い医師は言った。

 その顔はあくまでも泰然と、姫を出し抜いた事も、その大敵であるせつらを蘇らせた事も、何もかもが瑣事だと言っているかのようだ。彼の眼はひたすらに俺……つまり、患者のみを追っている。

「まったく、何が“私が止める必要はない”だよ。この藪医者」

 茫洋とした声が俺に歩みよる彼に降りかかる。

 天からの声は彼のみに許される呼び方をためらいなく口にしているが、二人は目下、狩人と危険きわまる猛獣のような間柄だ。

「治してくれたのは助かるけれど、お前も敵だ。とっとと杭を打ち込んでやる。それがいやなら自分で劉貴の心臓をえぐってこい」

 すごんでいるようで、あんまりそれらしくはないのはその性格か。最も、内容そのものはとんでもない。癒す一人と殺す一人、更には癒す方が吸血鬼なんだと言うのだからとんでもない話だ。

「それは魅力的な提案だ。四千年を生きた吸血鬼の心臓、研究の価値は十分にある。だが、今は彼の治療が先だ」

 少しづつ力を失いつつある俺を挟んで物騒な会話を飄々とする二人はつくづく理解できない感性の持ち主である。それにしても、絶対の服従が前提である吸血鬼の主従関係に対して無茶な要求を本気でやるせつらもせつらなら、しれっと肯定の返事を返すドクターもドクター。つくづく規格外の二人である。

 だが、ここには規格外がもう一人。

「……魔界医師よ、せつらよ、よくもこの私をここまで虚仮にしたものよ。四千年の時の中でもこれほど人を食った物はそうはいなかったぞ」

「いつもそんな事を言っているなぁ」

 しれっとしたせつらのもの言いも確かだが、姫の言葉も間違いではない。ようするに、この二人は四千年程度の時間では逢える事のなかった途方もない規格外なのだ。

「その不遜なもの言い、今は許してやろうぞ、秋せつら」

 完全な傍観者となった俺の眼には、とてもそうは見えない。正に憤怒の美女がそこにいる。そこにいるだけで死の世界に俺を蹴落としてしまう圧倒的な力の持ち主。

 皮肉な事に、メインターゲットがせつらに移った事で俺を現世に縛り付けていた妖気が消え去り、余波によって生命はどんどんと脅かされている。

 あっという間に、俺の生は暗闇の中に消えそうだ。生まれ変わった俺が死んだら。今度はどうなるのだろう?

 前回は、閻魔にも悪魔にも会えなかった。ちなみに神は信じていない。神がいるのかいないのかはともかく、俺を転生させたのが神のはずはないからだ。慈悲の欠片でもあるのならもっと別の街を選んでいる事は間違いないからである。

「意識はどうかね?」

 今度は、美しすぎる悪魔にあった。

 いつの間にか白い医師の指が俺の首元に触れている。それはまるで俺の魂を現世に引き留める力を持っているかのようで、意識までがどんどん鮮明になる。しかし、未だに姫の腕に貫かれている腹の痛みは感じない。それどこか、まるで慣れ親しんだ寝床の中のように疲れが癒えていく。

「落ちついたよ、お医者様」

 吸血鬼に頸動脈を触れられているというのに、いっかな危機感がわかない。

 それどころか安心感さえ感じるのは、糸に支えられる俺を見下ろすドクター・メフィストの顔に神さえも遠く及ばない深い慈愛があるからだ。

 神よりも神々しい悪魔よ。

 やはり、ドクター・メフィストはどこまでも医師である。

「ドクター、あなたに依頼がある」

「ほう?」

 言葉は明瞭、意識もはっきりとした。

「やはり、魔界医師のメスは何者にも捨てられはしない。だから、あんたにはある人を……この世ならざる物に弄ばれた女性の心身を治してもらいたい」

「この世ならざる物? 一口にこの世ならざると言っても数は多い。それは一体何かね」

「……妖魔。淫籐という黒魔術師が呼びだした三匹の妖魔。彼女はその生贄にされた」

 腹から木刀と、そして女の腕をはやして宙に浮く男の頼みを聞く世にも美しい医師。

 これもまた魔界の光景だろう。

「彼女は体内に残った妖魔の力で自身を変質され、後遺症に今も苦しんでいる。俺の念が進行を遅らせているが、所詮は応急処置に過ぎない。頼む、魔界医師。助けてくれ」

「私を動かすのは患者の意思。依頼はあくまでも患者こそがせねばならない。だが、一つ確認しよう」

 美しすぎる顔は虚言を出させない何かに満ちている。

「何故、君はその彼女の為に依頼をする? 明らかに君とは無関係の女性だろう」

「無関係ってどうしてわかる?」

「私は私の患者の全てを把握している。君には近しい関係の女性はほとんどいない。せいぜいが、新宿警察の舶来刑事ぐらいだろう。先だって数ヶ月〈区外〉に出ていた際の知り合いだろうとは誰でも察しがつく」

「………」

 一応は患者である。その心身の状態を知っておくのは医者の務めという事か。ドクター・メフィストならば患者どころかその家族の体調まで全て把握しているとしても何ら不思議ではない。

「それでも、義侠心から一人の女性を救おうとする。それはわからなくはない。だが、それだけでもない。この事件の中で君の一連の行動がそれを否定する」 

 事件中、ずっと劉貴を追いかけ続けた。

 倒された。

 彼を思う滅びた吸血鬼の変じた灰に巻かれた。

 彼の仲間に打ちのめされた。

 生き延びた事それ自体が驚かれる程度の腕で、かなわないとわかっていながら求め続ける。

 それは確かに異様な光景であっただろう。

「何故、それほど懸命になる? 思い入れのない女に」

「……彼女に思い入れがあるわけじゃない」

 ただ、俺は……

 そうだ、俺は……



 言葉は、口に出せなかった。



 当たり前と言えば当たり前の話だった。

 俺を許さないと言った女が、魔界医師の矜持を泥まみれにして地べたにたたきつけてやると言った悪女がこんな悠長な話しこみをなんで見逃すはずがあろうか?

 腕を斬られていようとも。

 目の前にいるのが歪んだ情熱を注ぎ込んだ愛しい男であろうとも。

 例え相手が瀕死の男であろうとも。

 魔界医師を、この〈新宿〉の化身たる片われを相手取っていても。

 それで止まる女ではない事は百も承知であったはずだ。

 だが俺は油断した。

 魔界医師の懐に抱かれ、患者である限りもう何も心配する事はないのだという確信を抱いていた。

 そして……

「ぎゃあああっ!?」

  凄絶な悲鳴を上げているのが自分だという自覚はなかった。

 俺は、白い腕に引き裂かれた。姫の腕に。

 気がつかなかった俺が浅はか。

 ベイをしのぐ再生機能を持つこの女が、何故いつまでも腕を俺の腹に収めておくのか。

 何をするのかは分からなくとも、そのままにしてはいけないのは分かっていたはずだ。

「ほほほほほ……! 苦しいか、小僧。私を侮辱した貴様はもっともっと苦しまねばならん。もっと悲鳴を上げなければならん。そうでなければ、この私の気が晴れぬ。喜べ、剣士よ。その未熟な腕で、数々の武人を淫虐の地獄に放り込んできたこの私に殺される事を、の」

「がは…ぐうぅ」

 俺はみっともないほどに情けない声でうめく。それができるだけでも御の字だった。腹の中に暴れまわるうなぎでも飼っているかのようだ。ピラニア以上と昨今有名になったカンディルに食われているとこういう気分になるのだろうか。

「どうじゃ、秋せつら。どうじゃ、メフィスト。目の前で貴様を守った男を屠られる気分は。貴様の患者を殺される気分は? 何もせぬか? 何も出来ぬじゃろう。他の何かならばいざ知らず、私の腕では魔界医師とてどうにも出来ぬ。大凶星とて何も出来ぬ。せつらよ。貴様の糸が私を縛っている。切り裂いているが止まらぬ。魔界医師よ。貴様の手が私の腕に触れている。針金が剣士を生きながらえさせようとしても叶わぬ。他の何物でもない、この私の腕だからだ。絶望をかみしめよ」

 ああ、魔界医師が、新宿の化身がこれほどまでに侮辱される物なのか。それでいいのか。許されるのか。

「許したくねぇ」

 そう思った。俺にもいつの間にやらこの街の住人としても自覚が備わっていたのか。

 それが、蝋燭のともし火のように力になった。

 一生知りたくなかった感覚を無理やりに味あわせられながら、俺は生まれた微かな最後の力を振り絞った。

「ド、クター! メフィストオオオォォォォッ!」

 白い医師の名を叫ぶ。

 それだけで、姫の顔が引きつるのがわかる。

 それ程に屈辱か。彼女の腕を意に介さずにあくまでもメフィストにこだわる姿が? ざまあみろ。

「病院のカウンターにっ! 遺書を預けてある! 知りたい事は、全てそこに書いてある! だから……だから、後をっ!」

「させぬぞ、小僧」

 頼む。

 その言葉は永遠に届かずに風に消える。

「全て承知した。我が患者よ」

 それを最後に俺は消えた。

 まるで、ぶつりとテレビの電源が切れるようにあっけなく、痛みも消える。

 悲しみも後悔も苦悩も何もかもがまるで砂に染み込む血のように消えていく。これが、死か。

 かつては、こうだっただろうか?

 そういえば、俺はどんなふうにして死んだのだろうか? この街に来てから……いや、そもそも念法の修業の最中から三途の川は見慣れている身だ。

 死んでしまった過去への感慨も記憶も当に薄れてしまっている。

 過去の名前も、家族も何もかもが当に魔界の記憶の片隅へと押しやられてしまった。

 たまに、古いアルバムを戸棚の奥から見つけたかのようにフラッシュバックが生まれたりする事もあるが、全て消えてしまう。だからこそ、この闘争に首を突っ込むきっかけのような後悔も生まれたのだ。

 そして今。

 もう一度、死を迎えようとする俺にかつての死の記憶はよみがえろうとはしなかった。

 何故だろう?

 まるで闇を寝床にしているかのようにまどろむ俺の耳に、声が飛び込んできた。




「……出逢ったな、姫よ」


 
 ある事もわからなかった耳に飛び込んできたそれは、果てしのない恐怖を俺に刻む。かつて、一度だけ出逢った男の声だ。
 

「この、私と」


 羅刹のせつらよ。





 







 大昔に書いた作品でございます。この後、主人公は牛頭鬼とかに再会した後でもう一度違う世界に来訪したりするかもしれません。
 恋姫の世界に降り立ったものの、無双どころかその世界にも姫達がいたりして、悲鳴を上げながらぶちのめされる哀れな主人公。
 その世界に原作主人公がいても、あっさりと姫に魅了され……その上で歯牙にもかけられずにあっさりと殺されたりするでしょう。
 最後には魔界医師やせんべい屋が現れて美味しいところをとっていくとかいう報われない主人公……
 なんてのを考えていました。


 直せました-! 燃料投下さん、ありがとうー!



[37734] 魔界都市から恋姫に……って何さ、それ
Name: 北国◆9fd8ea18 ID:280467e8
Date: 2014/10/02 15:43
作者注意
原作キャラの死亡があります。
基本的に戦闘に関しては魔界都市の方が強いと考えています。
主人公は決してフェミニストではありません。女性でも殴る蹴るはしますし、場合によっては根に持って仕返しもします。
主人公はいい加減な三国志の知識しか持っていません、恋姫の原作知識というものも持っていません。
その為、主人公は恋姫のキャラに対して自分のことを棚に上げてあれこれ言う時もあります。なんでそんな格好なんだよ、とか。
主人公はあくまでも一“区民”でしかないので政治だの軍事だのはさっぱりです。
天の御遣いに対しても、個人としてこう言う考えもあるなと言う感じの思考を元に嫌っています。
話が進む毎に主人公はボロボロになります。恋姫キャラもボロボロになります。妖姫一行最強です。

以上、踏まえた上で読まれる方は、まあ、チラシの裏だし程度の軽い気持ちで読んでみてください。





 目が覚めると、そこは何の変哲もない河原だった。
「………生きているのか? 俺は」
 身体を起こそうとしたが、力が出ない。まるで、頭は起きて身体は寝ているような……そんな気持ちだ。
 まるで眠り疲れたような心持だが、そんな訳もない。
「どこだ、ここ? メフィスト病院じゃ……ないよな…たぶん」
 口から出てくる言葉が頼りないのは、あの医者なら病院内に何を用意していてもおかしくはないからだ。独自の理論を基にして、患者に必要だと思ったら院内の一室を河原にするくらいは朝飯前だろう。
「見覚えは……何かあるけど」
 首をかすかに曲げる。そうすると寝起きのぼけた視界の中で風景が動く。どことなく不自然な、そして見覚えのある風景だった。
 ……なんだ? 何がおかしい?
 自分の中に生まれた違和感とデジャビュ。歯と歯の間に何かが挟まったようなもどかしさに気分が悪くなりながらも目を動かす。
「………空が黒い!?」
 すぐに分かった。
 空が、黒い。暗いのではなく黒いのだ。青いはずの空が黒とは一体何の冗談だと言いたくもなる。雲に覆われているのではないし夜でもない。まるで夜空のようでありながらも物がはっきり見えるほどに明るいのだ。黒い日に照らされているようなそんな感じだ。
 だが、そんなものはない。いや、それ以前の問題だ。空を見上げても太陽がない。
 夏にふさわしいあのぎらぎらと輝く太陽がないのだ。
「……どこだ? ここ……」
「まだ思い出さんのか?」
「!」 
 意識と肉体が、瞬時に戦闘に適した物へと切り替わり、瞬時に声のした方向へと跳ね起きる。
 手が、咄嗟に握りなれた感触の何かを握りしめる。それが俺の腹に刺さっていたはずの仁王だと言う事も、これほど急に動いたというのに身体に痛みが走らないという事にもまるきり気がつかず、俺は愛刀を正眼に構える。
 切っ先には、牛の頭があった。
「………ミノタウロス?」
「牛頭鬼だ! 牛頭鬼!」
 牛頭人身の怪人が不満そうに叫ぶ。
 完全無欠に牛でありながらも何故だか表情がわかるそいつを見て、俺はようやっと思い出していた。
「………ここは、三途の川か」
「応よ。意外と早く舞い戻ってきやがったな」
「……あんな街に生まれてむしろ長い方だと思うがな」
 苦々しく返す俺は、ようやく思い出していた。
 目の前にいる、腰布を巻いただけの筋骨隆々とした一匹の牛頭鬼……こいつに、かつて一度“死んだ”時も出逢っていた事を。
「……これで、俺は真っ当に輪廻の輪に送られるのか?」
「いや、生憎とまだまだだな」
「…なんだと」
 声が明らかに低くなったのを自覚する。
「どういう意味だ! それは明らかに規約違反だろう!」
「けっ! 別人みたいに威勢良くなったじゃねぇか。前にここに来た時はがくがく震えてやがったってぇのによ」
 仁王の切っ先を前にしても、牛頭鬼は顔色を変えない。その牛その物の顔色をどうにか変えてやるべくチャクラが回転し、念が強まる。
 と、俺は念が異様に強まった事に気がついた。
 いつもと同じ要領で念を籠めているだけなのに、急速に力は高まり、あっという間に臨界まで達してそれ以上の高みを目指し上り続ける。だと言うのに、心身に疲労はなく、暴走もない。これは一体どういうわけなのか。
 死んだからか? それとも場所が特殊なのか。
 確認はできないが、とにかく強まっているのは事実。これをたたき込み、少しでもこいつの顔色を変えてやる!
「ちょ、ちょっと待て! 少しは力を抑えやがれ。お前のそれはこっちにも効くんだからよ!」
「……効き過ぎだな」
 俺が自分の力に驚いている間に、やつはあっさりと逃げ出している。何と言うか……情けない。仮にも冥府の獄卒、むしろ俺の念など鼻で笑われると身構えていただけに拍子抜けだ。
「だったら答えろよ。地獄の沙汰は俺が生まれかわっている間に変わったって言うのか」
「いんや、何も変わってねぇよ。ただ、お前が満たせなかっただけだ」 
「………」
 牛の言葉に俺は、かつてここを訪れた際に告げられた言葉を思い出す。

 お前はこれから生まれ変わる。
 
 この三途の川に来て、俺は本当にすぐさまそう言われた。
 渡し守に六問銭を渡す事もなく、すぐさまUターンと言う意味だと気がついた時、死んだ自覚に打ちのめされていた当時の俺は馬鹿のように素っ頓狂な声をあげたもんである。
 一体どういう事なのか?
 日本に古くから伝わる極楽と地獄の概念が正しいのならば、これから閻魔大王の元へと向かい、生前の罪を裁かれて自分の死後のあり方を判決されるのでは?
 そう言う俺に向かってこの牛頭鬼は、最近は違うのだと言った。
 どうにも、現世の人間達の魂の汚れ過ぎと人口の増加が問題であるらしい。特に戦後高度に安定した生活環境に基づく人口の増加に比例して当然ながら、死者も増える。
 それだけならば何の問題もない。死者が増えると同様に生まれかわる者も増えれば、生と死のサイクルは回転を速くするだけでちゃんと回り続ける。だが、ここで問題が発生した。
 閻魔の裁くべき人間は増える一方だが、それに反比例して生まれかわる人間がどんどんと減っていったのだ。
 地獄とて有限。死者を裁く鬼も閻魔も当然、手には限りがある。彼等は地獄の裁判官としても獄卒としても手が足りなくなってきているという。
 結論をはっきり言えば、かつてに比べて人が増えすぎた。しかし、生まれかわる人間が反比例して少ないという問題が生まれてしまったのだ。
 つまり、地獄はもう満杯と言う事なのだ。何故、こんな事になってしまったのか?
 理由ははっきりと言えば、現世の人間の魂が汚れ過ぎたためであるらしい。
 地獄は本来、仏教の観念においては仏界、菩薩界、緑覚界、声聞界、天界、人界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の十界の最下層であるはずであり、最も罪の重い者が落ちる最後の下層世界、常に様々な恐怖に苛まれる世界である。死んだ者は十人の王に七回の裁きを受けて判決を下されて死後のそれぞれの世界に行って服役する。そして服役を終えた後に輪廻転生の輪に加わり新たな命として生まれかわるそうだ。
 最も、実際には仏教内でも宗派それぞれによって十界のあり方は異なり、人の生きる姿勢を表しているのだとも言われている。
 ともかく、俺がその牛頭鬼に聞いたところでは実際に地獄に落ちる人間は余りおらず、生前何らかの罪を犯した者は大抵、修羅界や畜生界、餓鬼界あたりにいるらしい。 あまりにも多く、ないしは重い罪を犯した者が最下層の地獄に行くらしい。
 地獄だと責め苦が待っているだけだが、その手前の三界だと悔い改めれば生まれかわり、輪廻転生の輪に加われるらしい。
「で、お前の場合は……死因は感電死。あ~~っと? 自宅でコンセントを抜こうとして、その際にびしょ濡れの手で触って……かなり間抜けだな」
 その当時は、はっきり言えば腰ぬけのへなちょこだったので、確かに存在する鬼を前にして何も言い返せなかった。
「で、そんなお前の生前の罪なんだが……まあ、怠惰だ」
「……怠惰?」
「おう。お前は別に生前暴力沙汰に手を染めた事も、殺しをやった事も、盗みその他の悪事を行った事もない。だから地獄にはいかねぇ。だが、同時にお前は何にもしちゃいなかった。一応仕事はしてはいたらしいが、目標も叶えず、夢も諦め、何か成し遂げた事がない…まあはっきり言えば、どうでもいいような奴でしかなかった。それを何とかしようともしていなかった。それなりに危機感はあったようだが、それでどうにかしようと行動まではしなかった」
「………」
 今思い出しても耳が痛い。
「つまり…何もしない事もまた、罪ってことか」
 考えた事がないわけじゃない。
 いや、むしろ毎日のように悩んでいた。
 自分が、このままで果たしてどうなるのか。
 年をとったらどうなるのか。
 例えば……死んだ時に葬儀に顔を出す人間の数がそのままその人の生前の行いを示すのだと聞いた時に。
 自分には来てくれる人間なんていないとしか思えない時に。
 例えば、誰かが恋人と手をつないで歩いている時に。
 我が身を振り返れば悲しくもなった。
 だが、それなら何かしたかと聞かれれば、何もしなかったとしか答えようがない。
 そんな程度の奴だった。
 振り返れば納得のいく自分に、諦めが生まれる。
「そこで諦めちまうような奴だから、こんな罰が下されるんだがな。まあいい」
 さらに、深くえぐる言葉だ。
「罪って言ったが、お前は罪人とは言わん。だが、同時に極楽に行けるような人間でもない。魂が中途半端だってことだ。だから、お前にはここじゃない世界に生まれかわってもらう」
「……生まれかわる?」
「なんでだって顔しているな。まあその通りだ。生まれかわるのは生前の罪を償っての話だからな……つまり、こんな事言うにはわけがある」
「訳って、どんな……」
 明らかに自身に怯えながらも、それ以上の未来への不安によってようやく口を開ける俺を、あいつは苦笑いを浮かべて見ていたと思う。
「ようするに、どこの世界も満杯になっているのさ。今の世の中、極楽に行ける人間は少ない代わりに修羅界や畜生界に送られる奴が多すぎる。もう、あの辺の世界は飽和状態なんだよ。だからと言って、地獄に放り込むわけにもいかんし、刑期を短くするのもよくない。だから、場所を選んで生まれかわらせるのさ」
 いまいち、ピンとはこない俺を笑う。血の巡りの悪さを馬鹿にされてカッとなるが、それでも手をあげれそうにはなかった。
「例えば、修羅界行きの奴は戦争ばかりやってるような悲惨な国に放り込んだり、畜生界行きのやつは欲望ばかりの街に送ったりって具合にな。それで、そこでの生き方を見て、本当の輪廻の輪に加えるかを決める。お前の場合、怠惰に生きていた……いや、もっと本質的な事を言えば逃げてばかりいたって事か? だから、なるたけ苦労するような場所に生まれかわる。そこでの生きざまで、お前のその後の身の振り方が決まるってわけだ」
「…そんな事もあるのか」
 逃げてばかり。
 否定を返しようのない自分に絶望感が生じる。
 こんな自分を、果たしてだれが覚えてくれているだろうか? そう考えて、両親以外には誰も思いつかない事に涙が出てきた。
 俺は、自分では何も作れなかったんだな。
「納得がいったか? じゃあ、せいぜい頑張れ。それがお前の後生だ」
「………それで、罪を償えるくらいに生きたら、新しい輪廻の輪に加わるのか」
「ああ。最も、それを選ばないおかしなやつも多いが」
「………? 地獄が終わるんだ。皆喜んで生まれかわるんじゃないのか」
「地獄じゃない。地獄はそんな甘いものじゃない。まあ、あれだ? 生まれかわるって事は魂がまっさらな状態になるって事だ。それが嫌なんだと。それこそ本当に死んだ事になるって考える奴が多いんだ。そこ行くと、新しい世界に記憶を持ったまま生まれ変わった方が、どんなにキツイ世界でもいいらしい。人間ってやつは分からんよ」
 新しい生ではなく、仮初の生を選ぶのが、彼には分らないらしい。だが、俺は確かにその転生者達に共感する。
「そうなのか」
「まあ、大体の奴はやり過ぎて壊れたり、あるいは地獄に行くんだがな」
「え?」
 間の抜けた声をあげる俺は、自分がこの獣面人身の怪物に心を見透かされている事に気がついた。
「また、逃げようとしているな? 小僧。まあ俺の前に来るような奴は大体そうだ……だが、そんなに都合にいい話もない」
 救いようのない腰ぬけ。
 都合にいい事にしか目を向けない根性無しに牛頭鬼は冷静に、厳しい現実を突きつける。
「個人差はあるが、何度も何度も生まれ変わっても厳しい世界が待っている事にその内、耐えられなくなるのさ。やがて心が擦り減ってしまう。そうでもない奴もたまにはいるが、そう言う奴は大抵地獄に行く羽目になる」
「何度も逃げ続けているから?」
「そうじゃない。これからお前が送られるような世界に何度も何度も生き直していても絶望しないのは、よほど根性が据わっているか、そうでなければ他人を踏み台にして自分を守ってきた屑って事だからだ。生き残る為に罪を重ねて、自然と地獄行きになるんだよ」
「……根性が据わっているなら最初からそんな目に合わない」
「そう言う事だ」
 その言葉を引き金にしたように、突然めまいが訪れる。
 ぐらり、と揺れる世界。いや、揺れているのは俺だ……死んだという事は、魂だけと言う事ではないだろうか? それでも目まいを感じるって言うのはありなのか…そんなどうでもいい事に思考を傾けながら、俺は目の前に生じた渦に飲み込まれていく。


 あるいは、あの時本当に渦にでも呑まれていたのかもしれない。
「ちゃんと思い出したか?」
「……ああ、思い出した……」
 ああ、まったくもって……救い難い。
 一から十まで、詳細に思いだせば剣先も引く。逃げてばかりいる俺の根本は、あの『魔界都市』でも結局は変わらないと言う事だ。
 剣を学ぼうと。
 拳を握ろうと。
 引き金を引こうとも。
 痛いも、苦しいも、悲しいも、辛いも、寂しいも何もかもをかつての人生、始まりの“本当の人生”の何十倍も味わっているのに……俺の本質は変わらなかった。
 逃げ回ってばかりいる腰ぬけめ。
 どうして妖魔に挑んだ。どうして、ひとみさんを追いかけなかった。答えは簡単だ、彼女が恐くて逃げたんだ。こうなる事が分かっていたのに、どうして助けてくれなかったんだと言われるのが恐かったのだ。
 ひとみさんから逃げて、そんな男が剣を奮って強いつもりか。
 俺が妖魔に挑んだのは、義侠心からじゃない。勇気をバネにしたのでもない。本当に見たくない事から目をそらす為に、まだましな方を、格好つけていられる方を選んだんだ。俺は卑怯者だ。
 やらなければならない事を、引き延ばす理由ばかり見つけやがって。
「変わらなかった俺は……もう一度、生まれ変わる?」
「いや、今度はまた別の形だ」
「……別?」
 正直、俺はやけになっていた。
 自分に嫌気がさし、大声をあげて喚きながら転げ回りたい気分になった。どうやら牛頭鬼もそんな俺の内心を察しているようだった。もしかしたら、こちらの心は全て伝わっているのかもしれない。
 だが、そんな事につきあう義理がこの鬼にあるはずもない。
「お前は記憶を失ったままじゃあ、あの街でさえも根性が直らずに逃げ癖が抜けないような性根だ。だから、今度は…記憶を持ったまま行ってもらう。この河原に来た事。俺と会った事、そして何故お前が生まれかわったのか。その全てをな」
「…大丈夫なのかよ? そんな事して……彼岸の事なんて…記憶だけでも持っていったら、あっちにどんな厄災が起こるか、知れたものじゃないだろ」
 俺こそが何らかの災厄の種になるなど、どんな世界に放り込まれようともまっぴらだった。
「そうそうやばい事なんて起こるものじゃない。それに……そうなったらなったで、それにどう応じるかもお前の生き方だ」
「……ゲームじゃねぇだろうが」
「いいから行きな。次はもう、俺の前には現れないようにしておけ」
「言われなくとも…!」
 がくり、と膝が折れる。
 ああ、あの感覚だ。
 俺は、あの時よりも…工藤冬弥になった時よりももう少しだけ気を保っていられた。だから、背中の方から聞こえてくる新しい音を聞く事ができた。
 びゅうびゅうと、乾いた風の吹く音を聞く事が出来た。
 音はどんどん強くなりびゅうびゅう、がごうごうへと変わる。何があるのか、音の源が何なのかは何となく察しがついた。
 その音に誘われて背後を見れば、そこには果たして予想道理と言い切るべきか。真っ黒い俺一人を飲み込めるだけの大穴が宙にぽっかりと空いて、俺を待っている。
 その中に、音の向こうに俺はこちらに語りかける何かを感じた。
 これが、向こうの世界の入り口か。俺が三度生まれる新しい世界の始まりか。
 風の向こうから俺に語りかけるものは何なのか見極めてみようと目を凝らした瞬間……俺は死人でありながら背筋を貫かれる恐怖に硬直した。
 
 そこには“悲しい”があった。
 そこには、“苦しい”もある。
 “辛い”があるのがわかった。
 “悔しい”を感じる。
 “痛い”がうごめいているのがわかる。
 
 その世界は、どうしようもなく絶望ばかりがあった。
 だから、俺の行く世界に選ばれたのか。
 この世界で、俺は“逃げない”を覚えなければならない。 
 “立ち向かう”をしなければ、ならない。
 希望を、見つけなければならない。
 つかまなければならない。
 希望…なんて言葉、あの街では使った事がなかった。最初の人生でも、最後に使ったのはいつだったのか覚えてはいない。
 遠い彼方の言葉をつかまなければならない事にひるむ俺の事はお構いなしに、穴から吹き付ける風は強まる。いや、これは吹き付けているのではなく、吸いこんでいるのか……当り前の事か、俺をその穴の中に送るのだから。
 この期に及んでそんなささやかな事を気にするちっぽけな自分を笑いながら、俺は穴に一気に吸い込まれていった。
「さて、お前は向こうでどんな死にざまを見せるかな?」
 その言葉が彼岸から俺を追いかけてくる。


 やりきったぜと言って、笑って死んでやるさ……絶対に、な。






 新しい世界は、確かに地獄のような物だった。
「!」
 どれだけ時間がたったのだろう。
 一瞬かもしれないし、十月十日かかったのかもしれない。
 それが判明しないような曖昧な時間感覚に身をゆだねていた俺は、急に全身に力が掛かるのを感じる。
 これは、重さだ。
 一体何がどうなっているのか、それを理解するどころか疑問に思うよりも先に何かを踏んだ。
 足の裏に何かを感じた瞬間に、俺は特殊な呼吸法で一瞬にして皮膚と内臓まで鋼並みの硬度を備えると、衝撃を逃がす着地を行う。どちらも屍刑事と一緒に習った古代インド拳法『ジルガ』の秘儀だ。
とん、と軽い音がした。
「………」
 自分が、ほんのわずか一メートルほどの高さから落下し、ごく当たり前に着地したのだと気がついたのは、目の焦点があってからだ。正直に白状すると、大袈裟に技を使って衝撃や敵襲に備えた自分が恥ずかしく思えた。
「…………過ぎたるは、及ばざるがごとし」
 恥ずかしさをこらえて顔をあげる。もしも周りに人がいたのならば相当に気まずい思いをしなければなるまい。
「………どこだい、ここ?」 
 幸いな事に周辺には人がいなかった。
 いや……訂正する。
「……無人の荒野って……」
 まさしくそのままだった。俺が牛頭鬼に放り込まれたのは、少なくとも周囲目に見える半径には一切人のいない、人工物さえない……多少草木が生えているだけのまっさらな平野だった。ざん、と音をたてて手に持ち続けていた仁王を突き刺す。確かに当り前の土だった。
「……本当に、何もないな」 
 ぽつん、と一人荒野に立つ俺は、きっと傍から見てどうしようもなく寂しそうだろう。
 周囲一体誰もいない。助けになる者はいないが、害になるモノもなさそうだ。そう判断した俺は、音を立ててどっかりと座りこんだ。
「さて……どうする?」
 果たしてどういう事か、俺は新しい世界に来たにも関わらず成人男性……はっきりと言えばあの魔界都市にいた時そのままだ。肉体のみならず、服、仁王を始めとする装備類もそのままである。
「タイタンマンC・Vは着ている。ヒーター付きジャケット、原子力電池含めて問題なし。カメレオンスーツ、問題なし……いや、どれもこれも穴がなくなってやがる。新品同然だよ……ラッキーですませていいのか? ……コーティング剤スプレーも、ちゃんとある…な。万能キィも問題なし。プラスチック震動爆弾…ちゃんと2発そのまま。もどきマスク……OK。MPA…術式刻印済弾薬共に問題なし」
 装備を確認すると、改めて随分持ちこんだものだと思う。カズィクル・ベイとの勝負に入れ込んでいた証拠だ。
 ちなみにタイタンマンC・Vは20枚のケプラー繊維と0.3ミリの高分子チタニウム板三枚を重ねた防弾チョッキで、MPAは多用途自動拳銃の略称。本来は、直径10ミリ、全長160ミリ、銃本体重量800グラムの中型軽量の銃で、通常弾ならマグナムも、特殊弾丸でもガス弾、火炎弾、溶解弾、毒液弾等、弾丸の形状と機能を備えてさえいれば、種類を問わず発射可能…というスペックである。     
ただし、俺は個人的に改造し(もちろん改造屋に依頼)全長210ミリに大型化したがレーザーも撃てるようにした。ぶっちゃけ、仁王頼りでほとんど使わない銃を持っているのは単なる男のロマンである。
また、なんでレーザー銃を最初から買わないのか…というのは金銭的な問題だ。シャーリィ刑事の伝手で買った払い下げで適当なのがこれしかなかったのだ。ついでに、科学的な装備品は全部警察払い下げである。それが違法にならないのが魔界都市。
ともかく、俺は本当に肉体どころか装備さえもそのままにして、この世界に入り込んだらしい。これこそ生まれ変わったのではなく入り込んだ、だ。 
「これが、記憶を持ったまま世界を渡るって事なのか?」
 一度肉体を赤ん坊にすると、記憶もまっさらになってしまうという事だろうか? 
「さて、なんにしても考えても仕方がない……いや、考えるような話でもない、か」
 生まれ変わろうが人のままでこの世界に放り込まれようが、どちらにしても俺がこの世界で生きていかなければならないのは確定事項だ。何の変わりもない…いや、むしろかつてのように俺なぞを孕んで不幸になる女性がいないだけ、ずっとずっとましだ。
「だったら、まずは何にせよ移動か。ここがどういう世界なのか知るにも、人に会わなければ話にならん」
 当座の方針を決定すると、腰を上げる。
 身体が軽い事に今更気がついた。どうやら服が新品なのと同様傷も癒えているらしい。
「姫と俺自身の念の傷を癒されるとは……会った事もないけれど、さすがは閻魔様ってところか? いや、案外ドクターが助けてくれたのかもな」
 体力的にも問題はない。ならばあとは足を向ける方向を選ぶだけだ。
 まずは確認。空を見上げれば青空にはカンカン照りのお天道様が一つ、位置からしておそらくは正午過ぎぐらい。俺のこれまで培ってきた知識や法則がそのまま通用するかは定かでないが、それでもこれまでの経験以外には何も指針に出来ない。
 とりあえず、目についた一番高い木に登ってみる。とはいってもたかが知れている程度の高さのボロボロの枯れ木だ、正直いつ折れても不思議じゃない。
「よっと……」
 そのてっぺんに俺はひょい、と飛びあがる。
 たかが知れているとっても優に6、7メートルはある。その一番細い、小鳥にさえも頼りなさそうな枯れ枝に音もなく着地できるのは古代インド拳法ジルガと工藤流念法の賜物だ。
「……お? 意外と近くに…廃墟か? あれは」 
 日を遮る為にかざした手の下、俺の眼が人工物を発見する。ただし、とっくの昔に壊れているような廃墟だ。
 まあ、残念な事に変わりはないが、あの街でもしょっちゅう目にするものだけにむしろ懐かしい感じもする。ぐるりと一周見回しても他にめぼしい者は見つからないのでまずは、あれを目指すとしよう。
「まあ、雨でも降った時には助かるからな」
 ひょい、と気軽に6メートルを飛び降りて、俺は歩き始める。目標は見えているので、機械的に足を進めると頭では別の事を考える事にした。
「なにはともあれ、まず重要なのはこの世界の人間と接触する事。ただし、友好的とは限らないし、そもそも人間がいるとは限らない」 
 妖物みたいのが幅を利かせている世界かもしれないし、もしかしたら生き物がいない世界で一人さ迷えとか、そういう展開かもしれない。いや、俺の対人関係に於ける逃避癖が最大の問題である以上、そう言う世界には送られないか。
ならば、この世界はどういう世界であるのか。
まずは、あの廃墟を調べてこの世界の住民を推理する事にしよう。生活用品でも残っていれば有難い。
「!」
 風の音だけを聞きながら孤独に足を進めて五分もたったか。
俺は耳にかすかな何らかの地響きを、そして足元には本当にかすかな震動を感じた。 
「……来たか」
 地震ではない。足元から這い上がる感触はまるで何かが大地を蟻のように群れて進んでいるように思える。いや、大きさからして、アフリカに生きるヌーの大移動のようにも感じられる。
何かが……おそらくは大きくて大量の何かが遠くからこちらに接近している。そう考えた俺は、ゆっくりと意識を戦闘に適したものへと切り替えた。
 この展開、実は予想していた。
 目的が目的なのだから、俺に怠惰な時間など与えられるはずもない。どんな展開であるにせよ、俺に向けて何らかのアクションが起こるには違いないと確信していた。
 その確信は見事に的中し、音は振動さえ伴ってどんどんと大きくなってくる。
 
 何が来る?

 どう、来る?

 何をしに来る?

 どくりどくり、と心臓を流れる血の音さえも耳の音で聞き取れてしまう程の緊張感はこれまでに腐るほど体験してきたが一向に慣れない。慣れてしまう事も隙になるのだからこれはこれで必要な事だとも思う。
 そして、音を立てて待ち望んだ瞬間はやってくる。
「あれは……馬か? いや……騎馬、か」
 何と言う事だろうか、遙か彼方からやってきたのは人を乗せた馬だった。
 いや、それ自体は珍しくはあっても決しておかしな事でも無いんだが……数が数え切れない。十や二十どころか百でも利かないだろうとは思う。
一体全体何なのか。今はまだ遠目でよく分からないが、どうにもおかしな格好をしているように見える集団が、砂埃をたてるような速さでもって、馬に跨がりこちらに走ってきている。
「ここは関ヶ原か? ……とりあえず、隠れるか」
 これはけして、逃避ではない。そう言い訳すると、俺はカメレオンスーツを作動させて大きく横に移動、念の為に伏せた。
 やがて、俺の前を騎馬が通り過ぎ……数メートルも走った後で止まった。先頭が止まると、諸共に止まる。俺はこそこそと隠れながらも騎馬の一団をゆっくりと観察する事にした。
「今、ここに一人いたよなぁ」
「お前も見たか?」
「ああ、見た。見間違いにしちゃあ俺もお前達も見たんだろ?」
「おう」
 俺を見つけていたらしい騎馬の一団は、それぞれに口にしながらそこら中を見回した。言葉は間違いなく日本語だった上に、全員が。モンゴロイドの男ばかりだった。しかし、当たり前だが現代日本に騎馬の群れなんていない。
「つうか、なんだ? あの格好……」
 牛頭鬼が俺をどんな世界にほうり込んだのか、事前情報など全くなかったが……とりあえず、言葉が通じる人間のいる世界ではあるようだ。最悪、妖物溢れるジャングルか砂漠ばかりの世界だったらどうしようかとも考えていたのでこれは嬉しい話ではある。
 だが、この男達は一体なんだろう。
 俺の目から見て、彼等は実に奇妙な格好をしている。彼等の着ているそれは、例えて言えば……西遊記だろうか。
 昔読んだ、東洋最大のおとぎ話に出てくる民衆が着ているような飾り気のない簡素な服を着ている。元々は白かったようだが、いかにも長い事洗っていませんよと言わんばかりに汚れており、衣装ではなく日常的に着ているのがよく分かる。
「今時、いないよな……ああいう格好している人は……たぶん」
 生憎と俺は現代の中国に行った事などないが、今日びバイクどころか馬に乗っている事といい、服装といい、俺と同じ時代に生きているとしたら時代錯誤にも程がある。現代日本でも袴で日常過ごしている人間が皆無というわけでもなし、一人二人ならいるかもしれないが……この数というのは、少し多すぎるだろう。
「それに、得物がなぁ…」
 俺はそれぞれの手元や腰を見て、口の中でため息をついた。
 正体不明の集団は武装しているのだが、その得物がなんと槍であったり剣であったりするのだ。
 俺も剣士の端くれだ。鞘に収まった剣はともかくとしてむき出しの槍を見れば、それが模造品か本身かは遠目でも分かる。間違いなく本物だ。おまけに、何人かは銃ではなくて背中に矢筒と弓を備えている。
「……剣や槍で武装した、騎馬軍団……おまけに、あの服装……古代中国にでも放り込まれたってのか……? 冗談じゃねぇな……さすがは閻魔様の罰……」
 タイムスリップなど別段珍しくもない街にいたおかげで、もしかしたらそうかもしれない……と心のどこかで既に納得している自分がいる。
「いや、そうとも言い切れないか」
 何しろ、こんな世界だ。
 今もって、こんな格好で世界のどこかに潜んでいる一団がいてもおかしくはない。あるいは、どこぞの魔道士がそういう箱庭を作っているという説もある。つい最近じゃあ、“姫”の世界という例にも出会ったばかりじゃないか。あの中に、こういう騎馬団を隠していたとしても、何か不思議、か……
「…………まさか……ここは“姫”の世界って言うわけじゃないだろうな」
 思わず鳥肌がたった。
 ついさっき、冗談じゃないと思っていたにも関わらずタイムスリップであってくださいと願ってしまう。どこぞで猿のような老人がこちらを見て笑っているんじゃないかという恐怖心にも襲われる。
「ちい……」
 見たところ、目の前の男達には怪しいところはない。
怪しげな妖気はなく、何らかの術にかかっている様子もない。肉体的にも人以外の何者でも無さそうに見えるし、動きにもこれと言って超常の武術を身につけているような際立ったところはない。武器も、本当にただの鉄製にしか見えない……むしろ、製鉄の技術が低いのか質が悪そうだが……
 それぞれがてんでばらばらの服装なので、軍などではないように思える。野盗の類だろうか?
 例外は、揃って頭に黄色い布を巻いているところか。だが、巻き方にも布そのものにも特に意味は無さそうだ。
「ふうむ」
 結論には早いかもしれないが、武にしても学にしても魔にしても、何らかの超技術を持っているようには見受けられない。妖姫の下僕かもしれんと考えたのは考えすぎであっただろうか。
「はぐれた奴でもいたら、仕掛けてみるか?」
 ただの通り魔でしかない。
「あん?」 
 他に見るべき処は何かないかと探っていた俺の目に、男達の一団の中で異質な者が目に入ってきた。
後陣の中心当たり、男と同じ馬に女がいるのだ。数は十人ほどだろうか、どう変えようとも賊の一文字が抜けきらない見た目の男達とは違揃って着飾っている。
明らかに男達よりも質のいい、華美な服を纏って独特の形に結っている頭には簪のような飾り物もつけているらしく、光を跳ね返している。
あの騎馬団の中において、いかにも場違いだ。
「囚われているのか? それとも、娼婦か何かか? 仲間には見えんが、もしかしたらという事もなきにしもあらず……」
 俺はゆっくりと女達の元へと足を向ける。急いてはならない。カメレオンスーツを見たままの人間なら見抜けるはずもないが、それ以外では簡単に見抜けるだろう。中古だし。
 もしも相手がこれを見抜けるような力の持ち主だとするならば、俺に勝ち目はないだろう。袋叩きでお終いだが……脳裏に、とある救えなかった女の恨みがましい目が浮かんでしまうと逃げる事は出来なかった。
 かなうなら連中の誰かの女であってくれ、と願っていると少しずつ馬群が動き始めた。どうやら見間違いか逃亡扱いか知らんが、もう気にしない事に決めたらしい。幸いだ。
 これで後は、女達の扱いを確認すればいい。
 そう思っていた俺の前で、女の一人が背後の男に向かって何か金切り声を上げてわめき始めた。それを受けている男が、最初は笑っていたものの数秒と経たない内に眉間にしわを寄せ始める。
 風に紛れている上に聞き苦しい金切り声のおかげで、何を言っているのかはさっぱり分からない。ただ、少しずつ近付くごとに女の顔がはっきりと見えてくる。
泣き叫んでいる。
 あれはヒステリーか? ただの女のわがままでしかないのか。それとも……
「!」
 俺の前で、いらだちを顔一杯に広げた男が剣を抜いて女に突きつけた。痴話喧嘩にしてもやり過ぎだ、やっぱり攫われたのか。
「ひぃっ!?」
「死にやがれ、糞女ぁ!」
 男は手に持った剣を躊躇無く振り下ろす。脅しじゃない、本当に殺すつもりでやっていやがる!
「ったれがぁ!」
 気が付けば、俺は一気呵成に突っ込むと馬の尻に足を載せて男の腕をひねり上げていた。拍子抜けするほどにいともあっさりと腕一本とれた事にむしろいぶかしくさえ思った。
「は…いででででっ!」
「女を切ろうとした男が、ひねられた程度で盛大に叫ぶな」
「あっ!?  っていうか、お前は誰だ!」
 カメレオンスーツは、俺が派手に動きすぎたおかげで完全に解除されてしまった。こいつにしてみれば俺が突然現れたようにしか見えないだろう。
「誰でもいいだろうが。一体どういう関係か知らんが、殴るだけでも問題だってのに殺しちまうのはひどすぎやしないか? そんな事は……ゴミ屑の仕業だろう」
 いきなり出てきてとぼけた事を言う俺に、男は当然苛立ちを感じているようだ。チンピラ丸出しにすごもうとさえせずに、ひねり上げられた手に持った剣を突き刺そうとして……そのまま落とした。
 声も出せずに悶絶した男の手首には、俺の指がしっかりとめり込んでいる。脂汗を垂らして痛みを訴える男を助けようとした仲間達が、のんびりすぎるタイミングで槍を突きつけてきた。
「女を侍らせているところを見ると、あんたらはたぶんまとめ役なんだろうが……反応が随分と鈍いな」
 挑発しながら、俺は悶絶している男も含めて全員をゆっくりと観察する。結論としては、全員明らかにチンピラレベルでしかないようだ。先の男がためらいなく人を誘うとした事を考えれば、全員殺しは知っている……それどころか慣れてさえいるのかもしれないが、腕前そのものは低い。
 もしもこいつらが“新宿”の危険区域に足を踏み入れたのであれば、一時間で全員影も形も無くなるだろうというレベルだ。はっきり言えば、“区外”のヤクザと変わらない。
 さて、どうくるか。
「小僧、我々を黄巾党と知ってケンカを売ってきたか!」
「この頭の黄巾を見ても首を突っ込んでくるとは、威勢がいいと言うよりもバカにしか見えねぇな!」
「おかしな格好しやがって何処の芸人だ。散々笑わせてくれたんだから、その女でも抱かせてやろうか」
 俺を取り囲む連中が一斉に蛮勇極まれり、とあざ笑う。
 俺に槍を突きつけている連中だけでなく、後ろに控えている野人どももげらげらと笑い続けているが、チンピラの口上など聞き飽きている俺は気にしなかった。気になったのは、こいつらの言葉一つだ。
 黄巾党。
 どこかで、いつか聞いたような名前だ。
 どこで知ったのか、もう遠い記憶の彼方だ。
「黄巾……」
 ふむ、と記憶を探る俺の様子がおかしかったらしい。男達はこいつ、いったい何処の田舎者だと言わんばかりで、笑うどころか頭がおかしい奴のような目を向けてくる。失礼な奴らだ。
「おいおい、俺達黄巾党を知らねぇの」
「今やこの中華に知らない奴がいるとは思いもしなかったな。格好も変だが……こいつ、漢人じゃないんじゃないか?どこかの異民族かもしれん」
 随分と好き勝手に言われているが、もう二つ情報が入った。ここは中国……こいつらは漢人であるらしい。
 漢。
 その名前を聞いて、ようやく思い出した。ここは、古代中国であるのか。
 確か、紀元前から四百年の歴史を支配した中国初期の王朝の一つ。その最後は、王朝の腐敗に端を発する日本の戦国時代のような群雄割拠に呑まれて……後の三国時代に続く。
 皇帝が三人存在した奇形の時代が始まるきっかけ。
 腐敗した王朝に対する民衆の不満が形になったのが、黄巾党。
 宗教的な指導者である三兄弟が始めた、王朝の打倒を明確にスローガンとした、賊の域を超えて軍事クーデターの域にまで達した時代の荒廃を象徴する一団……のはず。
 その黄巾党を討つ事で名を上げたのが、後の群雄割拠の時代を彩る数多くの英雄であるはずだ。うろ覚えの知識だが、こんなもんだったかな。
「ちなみに、お嬢さんとこいつらの関係は?」
 俺の登場に呆気にとられていたおかげで逃げる機会を失った女は、失神しそうな顔色で歯を鳴らしている。痛みに硬直している男の向こうから、涙で潤んだ目で俺を見上げた。
「わ、私は……」
 最初は歯の根が合わずにいたが、自分を囲む男どもを見回してから涙を呑んで語り始めた。
「……私たちはこの向こうの村に住んでいる百姓です………村が襲われて、それで……」
 体目当てで攫われた、という所か。
 事情を俺に話すと、女は震えながらも男達をにらみつけた。恐ろしくとも、野盗どもに心だけは負けるまいと健気に心を決めたのだろう。殺される事を覚悟し、受け入れた人間の見せる凄みが目の中にある。
 ここが何処で、今がいつであろうとも。黄巾党と名乗る男達にどんな事情があろうとも、そう言う人を死なせるのは、良くない事だ、理屈以前に抱いた気持ちに逆らう事は出来そうになかった。
「あひぃっ!?」
 俺と女の間で、黄巾を頭に巻いた男が悲鳴を上げて意識をなくす。俺がことさらにひねり上げた腕から発せられる痛みが、とうとう許容量を超えたのだ。それを見た男達が揃って怒号を発し、腕に抱かれた女達が身をすくめる。
 ぐったりと馬に身を預ける男を蹴落とし、俺は女に笑みを見せる。どう転んでも、きっと頼りになりそうには見えないだろうなと諦めつつも、仏頂面よりはましと信じよう。
「この娘達、全員元の村に返す。もちろん、お前達が奪った物が他にあるならそれも全てだ。その上でお前達は心を入れ替えて前非を悔いろ」
「ああ?」
 何を言ってやがんだ、この野郎。目が口ほどに物を言った男が反応するよりも三拍は早く、俺は槍を持った男達に飛びかかった。
「いいぃぃあっ!」
 拳を握り、一人の喉を打つ。そいつの乗馬を蹴り反対側の男達二人に飛びかかり、蹴落とす。地面に足を下ろすと同時に熊手を作り、手の届く範囲にいる二人の肋を掴んでひねる。ばきりぼきりと嫌な音が俺の中に響くのを感じながら、残る四人を見据え、手近の一人の足首を掴んだ。
「ぐぎゃっ!?」
 ぐにり、とひねれば男の体そのものがひねり上げられて、あたかも自分で跳んだかのように宙に舞う。その時点で既に意識を失っているとは見ている誰も信じるまい。
「て、てめえ! ぐわっ!?」
 六人やられた時点でようやく反応した亀に、宙を舞った男がぶつかる。女には当たらず、男には気を失うくらいの速さでぶつけたとは俺しか知るまい。
「最後!」
 高い位置にいる槍を構えた男を討つ。しかも女が間に鎧のように挟まっているとなれば容易ではない。だが、男は俺が襲いかかってくるとは思ってもいなかったのだろう。構えてはいるものの、心がまるきりの無防備だった。
「けやぁっ!」
 奇声を上げて相手の動きを縛り、俺は高く飛び上がるとそれ以上に高く、高く足を上げた。馬上にいる相手の顔面に俺の足の影が差す。にやり、と笑った俺の顔は見えなかっただろう。
 振り下ろした踵が男の鼻を叩きつぶす。俺の厚底スニーカーの下で赤い血と黄色い歯が飛び散った。飛び空中踵落とし、韓国の国技、華麗さと多彩さで他に類を見ない蹴り技を誇るテコンドーの代名詞が、実に奇麗に決まった。
 俺の着地と共に、幾人もの落馬の音が重なったのはいっそ出来過ぎでさえあるだろう。
「殺せえぇっ!」
 右からそんな声が聞こえてきた。まあ、叫びながら自分が矢を射てくるのは自主性に富んでいて結構な事である。だが、その弓術はあまりにも拙い。
 俺はもう一度にやりと笑い、射手の前に躍り出ると胸に向かって奔る矢を無造作に掴んだ。そんなバカなと驚愕を顔で表現する男の顔面に拳を打ち込むと、もんどり打って地べたをなめた。馬から転げ落ちたのだ、おいそれとは動けまい。
「射殺せ! 全員で射殺せ!」
「お、女どもは」
「構うな、このくそったれをぶっ殺しちまえぇ!」
 賊どもの怒声が響き渡り、俺の乱闘を呆然とみていた女達が悲鳴を上げて身をすくませる。そんな彼女らの中心に向かって俺が駆け出すと、よりにもよって黄巾の連中から女を盾にする気か、臆病者めとののしられる。
「言えた義理か」
 勝手極まる文句に呆れる俺に向かって、そして女達に矢が射かけられる。その数はおよそ五十か。前方からは直射、後方からは曲射で襲い来るそれに、女達のある者は悲鳴を上げ、ある者は身をすくませて目をつぶり、勇気ある者は逃げてたまるかと矢を見据える。
 俺は男であるのだから、無力な女が不当な暴力にさらされるのであれば救わなければならず、俺は男であるのだから、勇気ある女の前で格好をつけたくもなる。
「おうっ!」
 女達の中心で馬よりも高く飛び上がった俺は、それを行うのに最も望ましい最適の速さで腕を振るった。
「なっ……」
 男達の半分が絶句し、もう半分は驚嘆の声を上げた。
「……?」
 身をすくませていた女の一人が、どれだけ経っても襲いかからない死神の爪に恐る恐る目を開き、そして絶句した。
「矢が……止まっている……」
 雨のように降り注ぎ我が身を貫くと思われた矢が、蜘蛛の糸のように絡み合って貼り付けられたように空中で停止しているのだ。この時代からしてみれば妖術かと言われるかもしれないが、歴とした武術。
「愛刀、仁王を前に稚拙な弓術ごとき万を持っても無意味、なんてな」
 それを成したのが、俺の抜いた一本の木刀に過ぎないと今も支えているだけに一目瞭然の事実。一見すれば妖しの術に見えるだろう、見る者が見れば超絶の武技に見えるだろう。
 だが、マルドゥークの三騎士たる青のマチアスの矢であれば一本も受けきれずに射貫かれていただろうとは冷静な自己分析の結果だ。それを思うと格好つけている自分がいまいち格好悪い。
「ふうっ!」
 内心を決して表には出さずに仁王を振り回せば、空中に静止している数多の矢がことごとく持ち主へと跳ね返る。技もなければ力もない矢であれば、この程度は造作も無かった。
「ば、化け物だ!」
「人間じゃねぇっ!」
 撥ねのけられた矢は射手その人に当たり、あるいは軽く突き刺さった男達はみっともなく悲鳴を上げながら三々五々に逃げていく。蜘蛛の子を散らすようにとはこういうことを言うんだな、と感心してしまうような逃げっぷりだ。
「……なぁんか……俺が強いとか……すっげぇ違和感」
 散々に人を殺してきただろうに山賊どもがこれっぽっちで逃げるなよ、と思わず嘆息さえでてしまう。およそ、根性なしにも程があるだろう。百人以上いて、軽傷以上を負った男は一人もいないというのに……
 気が付けば、あっさりと女達以外誰も彼もが消えてしまっている。彼女たちは全員無傷であるし、出来過ぎなくらいに得がたい結果であるのだが……何だかなぁ。
「ああ、何というか……怪我はないかな」
「は、はい……」
 怯えさせるまいと得物を仕舞いながらの俺の言葉に、最初に助けた女がおっかなびっくりという感じで頷く。他の九人は、助かった事を理解して気が抜けたのだろう個性豊かに涙を流している。彼等の村はどうなっているのか知らないが、出来れば嘆きの涙があって欲しくはないものだ。
 それにしても、やはり言葉は通じている。
 漢、いやそもそも中国なのに言葉が通じる。一体どういうご都合主義なのか、まるで珍妙な術をかけられているかのようだ。今追い払った連中に影は無かったが、やはり何らかの妖魔悪鬼の存在を考慮した方がいいのだろうか。
「あの、あなたは……」
「ん? ああ、何という者でもないよ。たまたま見かけて飛び出しただけ」
「はあ……」
 ものすごく胡乱な顔で見られている。
 まあ、無理はないだろうな。何しろ、いきなり現れた上に百人以上を蹴散らした男だ。訳が分からない上に恐ろしいと思われても仕方が無い。むしろ、平然とされていればそっちの方が恐い。
「村は元来た方にあるのか」
「は、はい」
 一言ごとにびくびくされているようだが……まあ、しかたがない。後ろの連中のように、声も出せないよりはまだマシと考えよう。
「……ん? また誰か来たな」
「え?」
 俺の耳が、馬蹄の音を捉える。音が激しく、相当急いで走っている事が分かるが……数が少ない。たぶん、一騎だけだ。来る方向が、村の方向だが……救援か? それとも遅れた黄巾か?
「うにゃー!」
「あ?」
 子供が猫の鳴き真似をしているような、間の抜けた声が聞こえた。
「うりゃうりゃうりゃうりゃー!」
 馬蹄とともに少しずつ大きくなってくると言う事は、おそらくは騎馬の主なのだろうが……
「何だ? この頭の悪いガキがはしゃいでいるような場違いな声は……」
 思わず、感じた事がそのまま声になる。心当たりはあるか、と女達に聞いてみると全員首を横に振った。
「随分と空気が変わったな。気を抜かせるのが目的なら大成功かもしれん」
 どこの芸人か、と目をこらすと土埃も激しく一騎の騎馬が駆けてくる。その上には、まるで本当に子供のように小柄な影が長物を無意味に振り回しているのが見えた。威嚇のつもりだろうか。
「槍じゃないな……あれは……確か、蛇矛だったか」
 手に持っているのは槍ではなく、刃のラインが山を描いている独特の武器だった。確か、蛇矛と言ったか……三国の時代に名を馳せた虎髭の武将が持っていた事で知られた武器だったはずだ。それにあやかったのか、同時代にはよくある得物だったのか……まさか、時代の英雄様当人ではあるまい。
「……何だ、ありゃあ……」 
近付くにつれて鮮明になる騎馬を見て、思わずそんな言葉が口から出る。騎馬に乗っていたのは、俺と同じくこの時代において異質な衣装を纏った子供だったのだ。
 短く切った赤毛の髪にはディフォルメした虎のアクセサリをつけている。スパッツのような物をはいて、太陰極図のついたガンベルトをしているのもおかしければ、どうやら少女のようであるのだが臍をだして、まるで陸上選手のようだ。この時代、これだけ肌の露出をしていては痴女か遊女のような物ではないだろうか。
 人の事はこれっぽっちも言えないが、まるで水墨画に漫画のキャラクターが混ざり込んでいるようなとんでもない場違いな少女が、鼻息荒く俺の前で馬を止めた。
 違和感の塊のような少女だが、少なくとも黄巾党の一員には見えない。それを言ったら、そもそもこの時代の人間にも見えない。あるいは、俺と同じような境遇なのだろうかと期待にも似た感情を持って馬上の相手を見上げる。
「お前! そのお姉ちゃん達を放すのだ-!」
「うげ」
 いきなり、問答無用の見本のように蛇矛を振り下ろされた。どうやら黄巾党の一員と見なされたようだと悟ったのは、体を開いて異様に速い矛をよけてからだ。
 こいつはすごい、と感心はしても怒る気にはなれないのは彼女が女達の為に怒っているのが分かるからだ。早とちりではあるが、とてもわかりやすい義心に敵愾心が潰されてしまう。
「おちびちゃん、出来れば話を聞いてもらえんか」
「誰がおちびだー! 大人しく鈴々に討たれるのだ-!」
 はあ、とため息をついて横なぎの一閃をよけるのだが、明らかに体に見合わない矛を振り回しているにも関わらず、途切れのない連撃が襲いかかってくる。まるで強化手術をしているかのような子供の域を超えた豪腕に、この少女が見た目だけでなく中身も異端であると確信する。
 俺達の周りで勘違いを訂正する事も出来ずに彼女が振り回す矛にいちいち怯えてすくんでいる女達と比較すると、まるで“区民”と“区外”の一般人を見ているような差を感じる。
「このこのこのー!」
「全くためらいがないな」
 凶器をぶん回す事にためらいがないのは、時代の故か彼女自身の特殊性なのだろうか。こっちは、周りを巻き込まないように気を遣わなければいかんと言うに……
 スピードこそ相当だが、フェイントも緩急もなく常に全力で繰り出す技量的にもけして高度ではない矛をかわすのは難しくない。だが、全く周りが見えていないらしい彼女を誘導しながらかわすのは骨である。
「ううー! ちょこまかと面倒な奴なのだ-! そろそろ大人しくするのだー!」
 いちいち叫んでいるこの少女に対して大人しくしていたら、そのまま斬られてお終いではないだろうか。このまま疲れるのを待って、大人しくなってから話をするか……と面倒な持久戦を覚悟した俺の耳に、もう一つの馬蹄の音と共に女の声が飛び込んできた。
「鈴々ー!」
「おー、愛紗が来たのだー! 遅いのだー!」
 どうやら少女の知己らしい。矛をかわしながらどうにか目線をくれると、黒い髪をサイドポニーという奴にまとめて旗のようになびかせた少女が青竜刀を片手に一心不乱、駆けてくる。
 矛の少女よりも年長で、俺と年は変わらないように見える彼女は緑色の服を纏っているのだが……何故だかミニスカウェイトレスを連想させてくれる。この時代にそぐわないと言えばまさしくとしか言えない格好だ。
「こいつ、黄巾党なのだ! お姉ちゃん達を取り返すのだー!」
 頭に布を巻いてなかろうがと言いたかったが、その暇が無い。一体何があったのか、相当に血が上っている。
「加勢する!」
 想像したとおりの展開にため息さえもでてこない。俺が口を挟む間もなく二人は阿吽の呼吸で攻め込んでくる。加勢の少女も充分に強く、俺は周囲を気にする余裕をどんどんと削られていった。
 この状況で果断即決は必要ではあるのだが……俺が見るからに信用できませんと言われているようで悲しくなってくる。格好からすれば仕方が無いのだろうが、周りで口もきけないほど怯えている女達はともかくとして彼女らにだけは言わせない。
「ちい、よくもよける!」
「ゴキブリみたいな奴なのだ-!」
「よりにもよって、何に例えているか……」
 切羽詰まっていても抗議したくなる例えに、一瞬動きを止めてしまう。その隙をつかれはしないが、それでも行動にますます余裕がなくなった。これは……このままいけば、程なく破綻する。
「ちいぃっ!」
 こうなれば打ち据えるしかないかと覚悟を決めたちょうどその時、双方の刃が十字に軌跡を描いて俺に殺到する。首を左右から狙う一閃、それを俺は当然しゃがみ込んでかわすと、そのまま空いた隙間を通って前に跳躍する。
 獣のように四つん這いになって位置取りを行ったが、それは悪手だった。立ち上がった俺のすぐ側に、未だに身をすくませたままの女が一人悲鳴を上げた。
せめて逃げていてくれよと叫ぼうとした俺は、すぐにそれどころではなく口を閉じた。
「そぉこかぁっ!」
「逃がさないのだぁっ!」 
 よけ続ける俺に、いい加減頭にきていたのだろうか。
 俺の動きを読んだ二人が、こちらを見もせずに必殺の一撃を振るってきたのだ。このまま行けば、少女の方は馬をかすめるだけで済むが、位置とリーチの分黒髪の方は女の足をぶった切る。
 そもそもこちらを向いていない彼女に止める気遣いなど期待できない、後ろの女は殺されかねん。
 止めるしかねぇ。
 若干斜め下から襲い来る青竜刀の一閃、矛の一撃はこの際無視して意識を一つに絞る。さっきからの風切り音から察すれば、当たれば人体を軽く両断しかねない威力を持っている事は明白だ。
 そして速い。この一閃、技量は高くないが技の速さではなく力によるそれで圧倒的に速い。この娘がサイボーグかブーステッドマン、あるいは精巧なアンドロイドであってもおかしくはないだろうという速度だ。飛燕の神速と言うよりも猛熊の豪速と言う方が正しいだろう。
 速さがいるのであれば、ひたすらに力の限り速く振ればいい。そんな言葉を体現したかのような振りだ。もしもこれで生身だと言うのであれば、才能は嫉妬を覚えるのも馬鹿らしいほどの神域とさえ言える。
 だが……
 それでもなお、俺には二千年先の時代を生きて錬磨された武を学んだ自負がある。俺の才能は中の下ほどでしかないのだろうが、上の特上の才能を持っている彼女の豪速を見切る為に必要な先人の知恵は身につけている。何よりも、こちとら戦車をひっくり返すサイボーグ、音より速いブーステッドマン、人体の理を無視した動きをとるアンドロイドとやり合ってきた。
 ましてや、それらことごとくを歯牙にもかけない人の到達し得ないような域に達した武を錬磨し続けて数百年の魔と出会った事もあれば、狂気を通り越した鍛錬に生涯を費やす異形の武人に叩きのめされた事もある。
 ならば、ここで頭に血を上らせた娘が繰り出す勘任せの一振りごとき見切れないはずはない。
「柳生流、無刀取り」
 蚊を叩きつぶすような軽い音で打ち合わせた掌の間に、俺は見事彼女の青竜刀を挟みとった。速さよりも、それに付随する尋常ではない重みこそが厄介であったが、ジルガの技法を応用して力は全て地面に流した。それを受け止めた彼女の馬が悲鳴を上げて立ち上がるのを尻目に、青竜刀を使って蛇矛を受け流す。
「うわっ!?」
「んにゃあ!?」
 受け流したそれに尻を叩かれた馬がなおさら暴れるのをどうにか片手で納めた黒髪がようやく振り返り、面白いように瞠目した。
「なっ……わ、私の青竜刀を素手で受け止めているだと!?」
 どうやら、止められたのではなく刺さったのだとでも思っていたのか。実戦で白刃取りをするような阿呆はなかなかいないだろうし、そもそも白刃取り自体を想像もしなかったに違いない。通常の歴史において、この妙技が生まれるのは千と四百年は先の話だ。
「やけに手応えが軽いとは思っていたが……貴様、何者だ!」
 これまで自分の武芸に相当の自信があったのだろうが、未知の技法でいなされたのが相当衝撃であるのか形相がすごい事になっている。ようやく動きが止まって落ち着いてみてみると随分と凜々しく、一般的に美しいとさえ表現できる顔である。まあ一部例外を除いて時代と場所で美醜の基準は変わってくるようなので、あくまでも二千年先の感性で見ての話だ。
「そういう事は、斬りかかる前に聞く事だな」
 美女を前にしても減らず口をたたけるのは、殺気だったやりとりをしたからと言うよりも脳裏に焼き付く圧倒的な黒白の一対がいるからだ。
「頭に血を上らせるのも、良くない。さっきから女達を巻き込んでも構わないような振り回し方しやがって……今なんて、俺が受け止めなけりゃ直撃だぞ」
「何?」
 女は俺の一言で、ようやく現状を理解したようで顔が青ざめている。彼女が何者なのかは知らないが、女達を守る為に来た事は明白となった。
「うりゃうりゃーっ!」 
 この娘が空気を読まないのも明白となった。
「待て、鈴々!」
「ん?」
 黒髪の娘の制止が辛うじて間に合った。俺はその隙に大きく距離をとって背を向ける。何者かは知らないが、おかげでもう俺は必要あるまい。
「あばよ」
 更に大きくバックステップして間合いを開けると、背を向けて逃げる事にした。いい加減につき合ってはいられなかった。
「あーっ! 逃げるな、黄巾党ー!」
「まだ言ってるよ」
 俺は側で身をすくめていた女へ呆れたもんだと同意を求めるが、彼女は引きつった頬でこちらを見るだけだった。俺はそんなに怪しいか。
「あの二人は、口上を聞いているとあんたらを助けに来たつもりらしい。だから、俺はここで失礼するよ。はっきり言うが、ああ言うのは苦手だ。女同士だし、男の俺がいるよりも安心だろう?」
「そ、そうですね」 
 そこで顔を引きつらせている彼女が、怪しい奴がいなくなったぞと喜んでいるわけではないと信じたい……男はやせ我慢だ、こんちくしょう。
「御達者で」
 ひらひらと手を振って、その場を後にする。これ以上この場にいるのが嫌になったというわけではない。
「は、はい」
「あの、ありがとうございました!」
 背後で、一人礼を言った。最初に助けた女だ。背中を向けていたおかげで、ついついみっともないほど緩む口元を見られなかったのは幸いだった。そう言えば、誰かに礼を言われたのは随分と久しぶりである。助けようとも信じてもらえず、信じてもらえても力及ばず、が多かったからなぁ……
「しっかし……これからどうするべし」
 後ろから聞こえる高い声ばかりの騒々しいやりとりに耳を痛めつつ、俺は先行きを案じて顎をなでた。とりあえずは逃がした賊でも追いかけてみるか。
 賞金稼ぎらしい考えでもって、俺はじりじりと照りつけてくる太陽の下、歩みを始めた。これから先、一体何が待っているのか。それに漠然とした不安と、若干の期待を胸に抱いて。




 漢、というのは中華の歴史において武芸が武芸として形を成した始まりの時代であるそうだ。
 俺には漠然とした知識しかないが、武という物が広く民衆にまで伝わった時代であり、広大な大地にてんでばらばらになっていた様々な武術がある程度まとめられ、系統だったのがこの時代であるらしい。
 例えば江戸時代に看板を背負った剣術流派が雨後の筍のように生まれては消えて、我こそ最強と名乗る武芸者が争ったように、漢というのは武芸の高度成長期の時代であると言う事だ。
 つまり、多種多様な理合の宝庫である中国武術は今正に芽吹いたと言っていい時代に俺はいるわけである。仮にも剣を学んだ身としては光栄な事だ。
 で、まあ……そう言う時代に生きていると……割とこういう目にも遭うのが困ったものである。
「ねえ、お兄さん」
「うん?」
 振り返れば、女が笑っている。
「あたしと遊ばないかしら?」
 夜とはいえ、大通りで娼婦の客寄せのような言葉をかけてきたのは俺と同年か、少し上くらいの若い美女だった。
 旗袍と言っただろうか、俗にチャイナドレスと言われている真っ赤なそれを着ているのだが……異常にスリットがきつい上に胴の部分も空き、さらには肩からどん、と突き出た胸の上半分も空いているという露出のきつい服を着ているので、ほとんど痴女である。
 どこか猫を思わせるような容貌はどことなく気品も感じさせ、背中まで伸びた髪の色は薄く小麦色をした肌と見事な対比を成している。仮に娼婦だとすれば、この国の王でも喜んで買うのではないだろうか。
「どんな遊びだい?」
 俺は口にしながらも女に近付こうとはせずに、むしろ距離をとった。魔界都市にも娼婦は多いが、娼婦の振りをした妖物や犯罪者も多い。“区外”の助平が行方不明になる数の最大は歌舞伎町なのである。この女は誇るかのように帯剣しているおかげで、むしろわかりやすかった。
「たぶん、あなたも得意な遊びだと思うのよ。だから声をかけちゃった」
それも、一見しただけでもそんじょそこらのそれとは違うと分かる凝った作りをしている。名剣の類だろう。
 動きにも、どこか武に通じる特徴が様々に見られる。遊びではなく、確かに剣を生きがいとしているような印象を受けた。
「ついてないな」
 応とも否とも言わずにやり、と笑った。女も、笑った。女のそれは、例えるなら狼でも獅子でもなく虎のようだと思った。
「あら、天下の美女が遊びに誘っているのよ? とっても幸運じゃないかしら。そんなに見栄えがする顔でもないし」
「聞こえているぞ。大体、自分をいい女だなんて思っている奴がいい女だった試しはないんだよ」
 あの日、二人組の女から逃れた俺は首尾良く黄巾党の後をつけて叩きのめす事には成功した。笑える事に、仕返しの為に戻ってくるところに出くわしたのだ。俺の技は何かの間違いであったらしい。
 しかし、問題はその後である。漫画と違って、ぶちのめせばそれで終わりというわけでもない。アレコレ考えた末に、俺は全員を黄巾自身が持っていた縄で縛り上げた上に気絶させると偉そうな奴を五人見繕って近くの街に届け、報奨金を頂く事にしたのである。
 幸い、通りがかった旅の商人に道案内を頼み、あれこれ常識的な知識などを探りつつ……ついでに黄巾党の使っていた馬を俺の使う一頭を除いて売り払って、大陸の広さを思い知りながらもこの街にまでどうにかたどり着いたのだが……官吏に報奨金を頂き、賊どもの懐からかっぱらった金子とまとめて当面の心配をしなくともよくなった俺に、この女が声をかけてきたのだ
「ここで始める?」
「余所様に迷惑だろう」
 それもそうね、と全くそう思っていなさそうな顔で女はうなずいた。俺は適当な路地に入り込んだ。後ろからついてくる足音がする。その一歩ごとに心臓が少しだけ速くなる。
 この、奇妙に因縁をつけてきた美女は何者であるのか。
 何を考えているのか、どんな力を持っているのか。そして、そもそも人間であるのか。
 あれから数日経った後も未だに世界の正体が分からない、それに幾分か苛立ちを感じていた俺は辻斬りのような女の登場も歓迎すべき転機だった。
「この辺でどうか」
「いいわねぇ」
 立ち回りが出来そうな広さで、人気がなくて……俺は一軒の家の庭に入り込んだ。一目で家と言うよりも元、家なのだと分かるここでならば誰にも迷惑はかからない。振り返ると女はにこり、と笑う。半月しか明かりのない暗闇でも女の笑顔ははっきりと見える気がした。
「始める?」
「声をかけてくれる当たり、行儀がいいよな。もしかしてお嬢様なのか」
 不意打ち上等な生き方ばかりしているから、ついついそんな言葉が口から出る。答えは抜き打ちの一刀だった。
「あら、さすがに一撃じゃ終わらないか」
「そんな得物でやる抜き打ちじゃあ、な」
 自信はあったのだろう。セリフの割には驚いているが、この剣では無理だ。いい剣だとは分かるが、真っ直ぐでそりもない両刃の剣では、居合いは成立しない。少なくとも、速くはならない。剣は抜いてから切る物だ。
「伝家の宝刀に、ご挨拶ね」
「使い方が間違っていると言っているんだ」
「ますます言ってくれるじゃない」
 武勇に自負があるのだろう、目が怒りを宿した。
 剣を抜いてから、色気がなくなり殺気を纏っている。人が変わったかのようだが、こちらの方がやりやすかった。とある元ルポライターに出会った為か、どうにも最近色香の強い女性が苦手になりつつある。
「あなたは抜かないの?」
 抜けないのだ。俺は口には出さずにちらり、と目線を横にやる。
「そもそも剣は持っていない」
 仁王は人を斬る剣ではないのだから、嘘ではない。ともかく、信じたのか女は拍子抜けしたような顔をした。
「付いて来いなんて言うから、背中にでも隠しているのかと思ったわよ……待って、それじゃあどうして受けたわけ?」
「売られたケンカだ。得物があろうかなかろうが、引いていい話じゃあるまい」
 仁王を研ぎに出していた最中ケンカを売られ、無手を理由に勝負をまたにしようと思ったのだが逆に喜々として襲いかかられた事がある。ちなみにその時は銃と爆弾で決着をつけた。ジルガを学んだのはそれ以来である。
「へえ……」 
 馬鹿にするなと怒り出すかとも思ったが、面白そうに目を細める。それがネズミをいたぶる猫を連想させたのはどういう事か。この女、関わると厄介そうだと突然嫌な予感がした。
 この際、前言撤回して君子危うきに近寄らず、を決め込もうと考えたのだが……俺が一歩引こうとする前に、横手からそれを許さない声がした。
「では、儂が剣を貸そうかの」
 年寄りじみた口調とは対照的な若い声と共に放り投げられたそれは、俺の足下に音をたてて転がった。
「祭!? いつからいたの!?」
「最初からよ。道を歩いていると見覚えのある背中を見かけたのでな。一緒に呑もうかと思ったら面白そうな話になったのでついてきたのじゃ」
 暗闇からゆっくりと現れたのは、目の前の名も知れない女よりも若干年上……せいぜい三十前くらいに見えるこれまた露出の激しい格好をした銀色の髪を後ろ頭でまとめた美女だった。
 肩にはでかいとっくりを担ぎ、既に一杯きこしめたのか顔色は赤く頻繁にしゃっくりをしている。その度に揺れるのがはっきりと分かるほど大きな胸は眼福だったが、疫病神な振る舞いをしてくれた女に見とれるほど阿呆ではない。だいたい、美貌と色香ではこの世でもあの世でも誰も叶わない魔性を形にした傾国の美女を知っているのだから、どんな女も何を今更である。
「あ、鼻の下が伸びてる」
「儂もまだまだ捨てた物じゃないの」
 ほほ、と笑うと新たに現れた女は友人らしい未だ抜き身を構えたままの女ににやり、と不敵な笑みを浮かべる。こういう笑みが絵になる女はそうそういないだろう。
「やれやれ」
 笑顔に押されるように、ため息をつきながら剣を見る。なんぞ術がかかっているようにも見えなかったが、念を巡らせつつ握りしめてゆっくりと抜く。
「いい剣じゃろう」
「得物を人に貸していいのか?」
「儂は弓専門でな。こう言ってはなんじゃが、剣にはそれほど重きはおいとらん」
 それでも、そうそうひけはとらんぞと笑った女に二心はない。俺は二、三度剣を振って具合を確かめた。長さは一メートルあるかないかという所で、一般的な竹刀より若干短いか。
「勝手は違うが……まあ、やりようはあるかな」
「あら、じゃあ続ける?」
 引かせるつもり全くないだろうと、剣が放り投げられた時点で目の色を変えた女につぶやく。届いたはずだが、流された。
「気をつけるんじゃな、策殿。この男、おそらく考えているよりもできるぞ? 後をつけていた儂に気が付いておった」
「へえ……会った時から思っていたけど、やっぱりただ者じゃないんだ……って、ちょっと?」
 俺は剣を鞘に収めた。そのまま正眼に構えると、敵手が目を剥く。
「見た事はない構えだけれど……鞘付きとは一体なんのつもりかしら?」
 なめている、と思ったのだろう目の奥に怒りが見える。俺はそれを特に否定も肯定もせずに心を静めた。視界の端にいるもう一人が、顔をしかめているのも見えた。
「手加減なんて、嘗めてくれるわね」
 いいざまに、女は猛獣のように体を沈めてすくい上げる軌道の一閃を放ってくる。想像よりも、だいぶん伸びがいい。怒ってはいてもそれで堅くはならないようだ。これが中華の技か、動きも独特で読みづらい。武は舞に通じると誰かが言っているが彼女の動きにはそれが顕著で、馴染まない俺は惑いやすい。それは個人のそれであるのか、中国武術がそう言う物であるのか。
 日本の剣は知っている、インドの拳も学んできた。いずれとも違う技に好奇心が生まれる。
 かわした俺の下を払う足がある。それをかわすと、今度は下に向かっている意識の間隙を縫うように頭にめがけて一閃が襲いくる。更に面白く感じてきた自分を戒めた。
「よけてばかりで、ちっとも攻めてこないのね」 
 勝負に野次を挟みたくないのだろう見物人も黙ったままだが、面白くないという顔をしている。まあ、楽しませるつもりもないのだから構わないのだが……よけるだけの俺にじれ始めているようだ。
「何、勉強の時間だからな」
「だったら……よく見ておきなさい!」
 もう一度突っ込んでくる。
 片手で振り、もう片方の手で反作用を生み出している。胴が随分とよじれているが正中線という言葉は、果たして存在するのか。動きに外連が多く、その分読み辛く分かりづらいが、慣れもあるか?
「!」
 突いてきた。
 片手で、フェンシングのように突いてくる。意表を突いた動きのおかげで更に速く感じる、面白い。この剣術に比べれば、日本のそれは素直に見える。それは、わかりやすいと言う事であるかもしれない。
 だが、日本の剣は重いのだ。わかりやすくとも、鋭く、重く。愚直であっても一直線に敵を切り裂き、貫くのが我らの国技よ。
「そろそろ、俺の剣も見せようか」
 足は真っ直ぐに根を下ろし、背筋を伸ばし、剣は真正面に持つ。先に剣士が口にしたように、それはこの国ではいかにも異質な構えである。
 女の突きが来た。先のそれと似ている技だが、もう少し伸びがいいように見える。俺もまた、それに合わせて突きを打った。
「破ッ!」
「きぃえいぃっ」
 我らの気合いが、刃に乗って交差する。俺の刃は深く間合いに踏み込んで喉元を狙って伸び、彼女の刃は届かない。女は剣先をそらして避けざるを得なかった。
 種は足だ。俺は後足を使って大きく踏み込むが、彼女の突きはその場で手と体を伸ばしこそすれ踏み込みはしなかった。彼女は目測を誤り、突きは外れて自身も避けざるを得なかった。
 まあ、一歩間違えれば自分から剣に突っ込んでいったような物なんだが……
「ふっ!」
「応!」
 仕切り直すでもなく、彼女は俺の顔をめがけて打ち込む。止める気があると信じたいが、目の色がだいぶん変わっている。思いきりヒートアップしているようだ。それにしても、速い剣だ。
 俺は見切れているが、それは所詮試し合い程度の力しか出していないからだ。少なくとも本気を出せば、先日出会った二人と五分の力量は持っていると思える。つまり、人体の常識を越えた力を持っていると言う事だ。
 仮に俺がただの剣士でしかなければ、“新宿”でもまれていなければ、最初の試しもクリアできずに呆れられただろうと思う。修練はもちろん積んでいるのだろうが、持って生まれた素質が違う
 先日の黄巾党以降、人は見てきた。実際に戦った相手、道を歩いている人々、その誰もが“区外”の常人程度の力しか持ち合わせていない。そんな中で一線を画している彼女は何者だ。
 素質とは言っても、それで済むような話だろうか。人のようで、人ではない何かのような力だ。技ではない、力なのだ。生き物として、根本的に持って生まれた物が違うような三人だ。
 もしも彼女たちが俺と同じ物を学んだのであれば、十分の一程度の時間で百倍の成果を持っていってしまうのかもしれないと思えるような三人だ。
 なんだ、この女は。
「いぃいぃやっ!」 
「吻っ!」
 俺の剣と、彼女の剣がぶつかり合う。鞘の破片と共に、女が力負けして飛んだ。あちらは片手、こちらは両手であるからの結果だ。元々、力よりも速さが信条の剣士でもあるのだろう。
「ほうほう、まさかここまでやるとはの。最近の男にしては、なかなか見ないほどの腕よな」
「でも、まだ力を隠しているわよ。それも、なんだか見た事もないような力」
「ほおう」
 一体何を持ってそう判断しているのか、女は奇妙に自信満々で断定する。
「なんの話やら」
「隠しても無駄よ。あなたを見ていると、それがよく分かるわ。不思議ね、まるで目の前に滝か大木でもあるみたいな、不思議な気持ちになる。いつもの勘って言いたいところだけど、もっとはっきりと感じるわ。あなたと斬り合う度に、なんだか勘が冴えるのよね。今なら、後ろから射られた矢でも見ないで受け止められそう」
「……」
 勘と言う言葉を疑ったり笑ったりすることは出来ない。俺自身、幾度となく救われた経験はある上にメフィスト病院でも修行者や超能力者の勘は野獣のそれを上回る的中率を持っていると証明されている。ただし、よりとんでもない勘や現象に負けてしまえばただの当てずっぽうと変わらないらしい。
 弱い者いじめにしか使えないって事だ、格好ワリ。
「おぬし、何者じゃ? 変な格好をしているだけではないようだの」 
 値踏みするような目で俺を見る視線が痛い。ついでに、格好で人の事を言えるのかと言いたい。
「まるで怪しい奴のように言わないでほしいな。言っておくが、俺に声をかけてきたのはその女からだぜ」
「そんな事はどうでもいいのよ。それよりも、手加減されているって武人としては随分と業腹なのよ。いい加減に本気になってもらえないかしら?」
 不審者扱いの抗議を、ぎらぎらと興奮に目を輝かせる事の原因に切って捨てられた。女って奴はと声に出して言えば二人がかりでがなられる事になるのだろう。
 売られた側とはいえ、受けた勝負に手を抜くのは確かに非礼。だが、自分の本気をここで出していいものか。両天秤の上で揺れる。ここで、義兄や義父であれば悠然と笑って技を見せるのだろうと思うと自分が根本的に小さいのだと情けなくなる。
 人と比べて、それでどうなると自分が言う。それでもなお、格好をつけたいのだとバカをやってしまうのは男が百年生きたとしても消えないだろう稚気だろうか。
「……? なんじゃ、この感じ」
「…………」
 俺の中で、チャクラが高回転を始める。日常は最下のチャクラが低速で回っているだけだが、通常回せる胴のチャクラまで回転し始める。
 頭頂から呼び込まれ、体内に入り込んで変質する宇宙からのエネルギーが体内に満ちていく。俺の念は霊的な高みへと駆け上る。だが、速さと強さが想定を超えている。この感覚はあの世で感じたそのままだ。あれは場所のせいではなく俺自身の変化のせいであるのか。
 何処まで行くのか。どこまで登るのか。十六夜弦一郎は、その力が成層圏にまで届いたという。俺の力は何処まで届くのか、それを確かめてみたいと思うままに念を練っていく。奇妙な圧迫感が俺から生まれているのだろう、二人の女はそれを敏感に察して瞠目している。
 剣を振り上げ、真正面から面を打つ。細工もなく、技もなく、ただ純然と振り上げて打ち下ろしたそれを女は為す術なく棒のように受け止めた。
「策殿!」
 策、と呼ばれた女はその場で膝をついた。
「あー、平気よ。祭」
 けろり、とした声に祭と呼ばれた女は一息つく。確かに肩の力が抜けている様子を見て、俺もばれないように一息ついて安心する。なかなか心当たりがないほどに真っ当な果たし合いである。出来ればその後、遺恨を残すようなことはあって欲しくはなかった。
 女に理屈が通じないとは常々思うことだが、それでも武人を名乗った以上は勝負の後で仇討ちだのをして欲しくない。
「む……策殿? なんだか様子が違うが」
「ん? そうね。今の一撃を受けてから全然力が入らないのよ。鞘付きとは言っても、頭ぐらい割れてなければおかしいのに、痛くさえない。そのくせ立つ事も出来ないのよ。体に力が入らないわ。おまけに、立つ気がしない。剣を握るどころか、このまま星を見て一晩明かしたい気分」
 どうなっているの? と見つめる四つの目にどうしたものかと悩む。
「まあ、世の中平和が一番だよな」
 そう言って、剣を地面に突き刺す。周囲を八方目と言う視野を限りなく円に近い形に展開する技法で首を動かさずに見回すが……特に見物人も伏兵もいないようだ。この瞬間こそが最も危ないのだ、それでも誰も来ないか……盛大に念を披露し、二十世紀と同じ服のままで街を闊歩した。それでも、このタイミングで誰も仕掛けてこない。やはり、ここは本当の三国時代なのか。
「……まあ、本当にあの世界であるとすれば……進入した時点で俺のことは完全にばれているだろうな」
 ある程度は、安心していいのかもしれない。
 仁王を抜いているわけではないので、本当の限度というわけでもないがそれでも自分の通常限界点は知れた。収穫はまあ、それなりにか。
「ねえ、あなた……名前は?」
「うん? ああ……そう言えば名乗るも糞もなかったか」
「お主ら、決闘というのに名もかわさずに斬りあっとったんかい」 
 呆れたように口にされるが、思い返すと惜しいことをした。真っ当な果たし合いなど、これから先あるかどうか分からない。いざ、尋常に勝負などと見得を切るのも格好いいと考えてしまうのは男のささやかな夢だろう。
「もう終わっちまったんだ。こういう時は、名乗らずに消えるのが粋だろう」 
 風に煽られ、背中を向けてただ歩いて行くのが男の去り際だ。それを邪魔するのは男じゃない。
「これでお終いなんて、つれなくない?」
 邪魔をするのは、いつも女だ。男の中の男なら渋く決められるのだろうが、生憎と俺は一生三枚目だ。
「策殿、もしやこやつを?」
「そう。あなた、私に仕えてみない?」
「嫌だな」 
 特に考えるまでもなかった。その即答に、二人の女が揃って目を剥く。受けるにしても断るにしても、即断即決過ぎるだろうと考えているのは当たり前だ。
「あ~……さすがに、ここまでばっさりと断られるとは思ってみなかったわね」
「そんな約束をした覚えはないし、勝ったのは俺だ。大体、あんた誰だ」
 ふう、とため息をついたのは銀髪の女だった。
「名前も名乗っていないと言うんなら、それはそうじゃ。何処の誰とも知れない輩に仕えろと言われて仕えるようなアホもいるわけがないじゃろ」
「ちぇー」
 なにやら内輪でふて腐れているが、なまじ大人の美女として完成されつつあるだけに違和感しかない。この隙にと背中を向ける俺にもう一声かけられる。
「ねえ、お兄さん。私は孫策って言うのだけれど……あなたの名前は」
 何となく、男っぽい名前だなと思った。
「……工藤冬弥」
 あまり得意なタイプではないが、まるで工藤家の二人のようにするり、と人の懐に入りこんでしまう独特の間を持っている。苦手ではあるが、いまいち突き放しきれない。
「変わった名前ね。工藤が姓?」
 変わった名前言うな。せめて、珍しいと言え。 
「こっちの生まれじゃないのでな。流れ者だよ」
「そんな服、見た事がないけれど……靴もそう、出来れば明るいところで見たいのだけれど……作りも、生地も、見た事もないのに凄いしっかりしていて出来がいいわね。何よりも、あなたの剣術、見た事がないわ」
「そうよな。一見して、まるきり農民上がりのにわか兵が適当に振り回すような剣かと思ったが確かに錬磨されておった。随分と真っ直ぐで、無骨なまま磨き抜かれた術に思えたの。だが、その分重く、鋭くて隙もない。策殿の剣が羽なら、お主のそれは石のようだ」
「剣というよりも、俺が無骨なのさ」
 それがいいと、自分では思う。派手に、華麗になんて言うのは柄じゃない。無骨に、地道に、泥臭くがいいと思う。
「では、何処で学んだのだ? 我流とは思えん」
「そんな事を聞いてどうする」
 誘われはしたが、剣の勝負に勝ったくらいで仕えないかとはどういう事だ。負けた当人だけならまだしも彼女の方がこれだけ根掘り葉掘り聞いて来るというならば、何か俺に気になるところがあるとしか思えん。
「逆か」
「うん?」
「何か、気になる事があった。それに俺が関わっているのではないかと妄想たくましくしている……違うかな」
「妄想とは何事じゃ。それはそうと、どうしてそんな風に思う?」
 女は笑った。面白そうだ、血が騒ぐと言いたげな笑い顔だった。
「これだけ根掘り葉掘り聞くって事は、俺が気になるか、気になる事に俺が絡んでいるかだ。金も力も美貌もない俺は女に気にされるほどいい男じゃない」
「……言ってて悲しくならんか」
 ほっとけ。慣れたわ。
「私は気になるけど」
「どんな噂だ」
 話している間に剣をしまって寝転がった女が、波のない水面のような声を出す。
「噂じゃないんだけどなぁ」
「あん?」
 思わせぶりな事を言って、女は俺に目を向ける。意識しないでもなかったが、客引きや美人局にも慣れている。
「予言だそうよ」 
 予言。
 生まれ変わる前の、最初の俺なら馬鹿らしいと一言で切って捨てただろう。だが、今の俺はむしろその怪しげな呪いの言葉に興味惹かれる。
「その予言に、俺みたいなのが出てくるって言うのか」
「天の御遣い、って言うのが現れるそうよ。エセで有名な占い師がそこら中で吹聴して回っているのですって」
 乞食のような蓬髪でありながらも血色のいいおっさんが、薄ら笑いを浮かべて安い映画セットのような祭壇の前でポーズをとっているイメージが浮かんだ。
 胡散臭いとしか言いようのない。そんな耳にするだけでも恥ずかしい物と同一されるなら、俺は腹を斬るだろう。
「どこにでもいそうな名前だな。救世主か? 乱れた世を救うから我を崇めよ、なんていう……」
 俺がそう言うと、銀髪の女がうなずいた。どうやら当たらずとも遠からず、らしいが……それを聞いてしまえば鼻で笑うしかない心境だ。
「よくあると言えばよくある話だが、実に下らないじゃないか。なんでそんな物を捜す」
「ちょっと事情があってね。私の家は、名声と人を欲しているの。あなたみたいな人を見た事がなかったからね。風体もそうだけど、なんだか空気そのものが違うように思えて仕方がないのよ。おまけに、私を倒しても勝ち誇りもしないくらいに強いし……それはそれで悔しいわね」
 そう言われても困る。俺としては、いかに異様な身体能力を持っているとは言え一対一の正々堂々とした勝負において、真っ当な武術のみで挑んできた相手に念法を使うのはインチキな気がしてならんのだ。念法とて血反吐を吐いた修練の末に身につけた真っ当な武術ではあるが……まるでドーピングをしてしまったようで抵抗がある。
 念法は本来、妖魔悪鬼に立ち向かう為の術である。それを人相手に使うのは……何かが違う気がしてならないのだ。恥じる結果でないとは思うが、勝ち誇る気もしない。
 俺のこだわりの根本にはたぶん、立場が違えば納得できないからだろう。
「これなら、ジルガを使えば良かったかな」
 ジルガも超常の武ではあるのだが、こちらはこだわりがない。ジルガが元々人間相手も考慮した武術であり、念法は念と剣の二つを完全に切り離して使えるからだ。
「他にも何かあるのね。何でそれを使わなかったの?」
「剣の勝負だからだ。白状するが、ばれなきゃ念も使う気はなかった。反則をしたようで、後味が悪いから喜ぶ気にもなれない」
 むしろ、ジルガの術を剣に応用させた方がマシに思えてきた。
「念? なんじゃ、それは。いつもは決して止まらぬ、殺気だって血に飢えた野獣のごとき策殿がまるで春風のようになっているのは、その念とやらのせいか?」
 酷評に孫策が抗議の声を上げているが、俺も銀髪の女も気にはしなかった。
「……念って言うのは、宇宙のエネルギーを頭頂より体内のチャクラへと取り込み、それを全身に……って言ってもわからんか。ええい、どう説明すればいいのやら」
「むう……確かになんだか分からん。うちゅうのえねるぎいとか、ちゃくら、とはなんぞ」
 困った。どういう言葉と概念が通用するのか、さっぱりわからん。
「ああ、つまりな……修行によって精神を高める事で思念は霊的な高みへと登り、物理的な現象を超える奇跡を起こす。念法は、それを武道に応用した物だ」
「む? わからない言葉も多いが……それはまるで神仙のようじゃな」 
「まあ……仙道に通じる物もあるとは思うけど、ちょっとだけだ」
「なんと」
 神仙、という概念はあるんだな。もしや、本当にいるのか?
「その辺の話、詳しく聞きたいわ」
 孫策が未だに寝転がったまま首だけ持ち上げている。どうでもいいが、年頃の女がその格好で大の字になるな。
「詳しく話せば夜明けまでかかっちまうよ。大体、天の云々は何処に行ったか」
「なら、後で酒でも一杯やりながらにしましょうか」
 そんなに行動を一緒にする気はない。
「で? 天の御遣いとやらに何を期待している。超常の力でもって、都合良く世の中を作り直させるか、それとも世界を滅ぼしてみせるか」
「滅ぼしてどうするのよ。私が願っているのは孫家の再興よ」
「ふうん。まあ、まだ健全な目的なのかも知れないが……そうそう都合のいい力を持っているのか、天の御遣いとやらは。いや……持ってもいいのか」
「どういう意味じゃ?」
 俺の言葉が分かったようで、孫策は眉をしかめて押っ取り刀で起き上がる。
「そんな力の持ち主を野放しにしていいのか、って事かしら」
「天の御遣い……はっきり言えば、俺は信じちゃいない。その占い師の出鱈目が六割。残り三割が、自作自演。救世主でございって奴が颯爽と現れて金でもたかろうか、黄巾のように人を集めようかと言うところだろう。一カ所じゃなくてあっちこっちで吹いているのなら、後者かもな」
 おお、あくどい事を思いつく。と銀髪の女がうなずいたが大きなお世話だ。
「だが、万が一……万が一本物だったらどうする? 言っておくが、本物はけっして人間の都合のいいように動いちゃくれない。もしもそんな奴がいるんなら、それは騙りの偽者だ。千人の生け贄を食い散らかして、万人を殺すのが人以外の代物だ。もちろん、頼った奴らもろくな目に遭いやしない。殺してくれと泣き叫んで、それが叶った後でも苦しんで悶える死人がいるもんだ。殺された後でも魂を弄ばれるような目に遭いたくなけりゃ……」
「私は、そんな目に遭わないわよ。御遣いが詐欺師なら斬り捨てるし、怪物だったらやっぱり斬り捨てるわ」
 女の目は、自信満々だった。
 この世の万難、どれほどの物か。己であれば切り伏せてみせる、出来なければ死んで終わりよ。彼女の目はそう言っている。清々しささえ感じる自負だが、それに納得がいかないのは妖魔の餌食となった女の記憶が新しいからだろう。
 この女、止めなければ凶事に襲われる事になるだろう。それが確信になった。
「でも、やらないわ」
 説得など自分に出来るのか。剣で勝とうとどうなる話ではないのだ。もう一度かつての轍を踏んでしまうだろうかと二の足を踏む俺に、女は快活に笑って立ち上がる。
「今、随分といい気分なのよ。負けてこんな気持ちになるなんて思わなかったけど……妙に意識が澄んでいる。天の御遣いなんていらないわ」
 でも、あなたは欲しいわね。
 神妙な顔の女に背中を向けて、二回だけ手を振った。自分が誰かに仕えるなんて器用な真似が出来るとは思えなかった。女達は笑って俺を見送った。きっと、一年に一度くらいの頻度で時たま思い出されるおかしな男、それで終わる出会いであり、別れであった。
 その時までは。

 渡水複渡水
 看花還看花
 春風江上路
 不覚到君家

 男とも女ともつかない声でどこからか聞こえてきたのは、俺の全身を氷に変える歌だった。
 ぞわり、と全身を脂汗が覆う。
「なあ……あんたら」
 恐る恐る、答えそのものを恐れながら振り返る。彼女らは、青ざめた俺の顔を見て、顔面に水をかけられたように驚いている。
「この歌、知っているか」
「え? ええ、天の御使いの予言が流れてから少ししてからいつの間にか流行りだしたのよ。誰が作ったのか、何処で歌い始められたのかも全然分からない歌よ」
「そうか」
 俺は百年喋っていなかった老人のような声を出した。口がこわばる、声が出せたのがささやかな奇跡のようだ。
「……いるのか……この世界のどこかに……」
 最上級の絹よりも真っ白い腕が、視界の端で俺を誘っている。
「妖姫……」
 そんな、気がした。



[37734] 嗤う妖姫
Name: 北国◆9fd8ea18 ID:280467e8
Date: 2014/12/30 00:38
 洛陽。
 この時代における中華の首都だ。
 俺の知っている限りでは、雒陽と改名されていたはずだが洛陽でいいらしい。
 あの日、孫策と名乗る女との一勝負から三ヶ月……俺は洛陽を中心に賊を討つ事で貯まった路銀で過ごしつつ、あの日の歌の出所を探りながら修行に勤しんでいる。
 念の増大が示しているのは、俺のどんな変化なのか。自身の真の限界は何処なのかを探る事を始め、現在の技量を高め、新しい技を身につける。その為に、情報収集をかねて金を稼ぐ以外は朝な夕な絶え間なく仁王を振って、汗を流している。
「ふっ!」 
 住処は、洛陽のぼろ屋に勝手に住み着いた。文句を言われたら出て行けばいい。今に至るまで、毎日剣を振り回し、拳を突いていても何も言われないが、それだけ世の中乱れていると言う事だろう。
 妖姫が面白がる舞台としては、どれだけの値打ちがあるだろう。
 三つの王朝を滅ぼした女がいるとすれば洛陽に違いないと当て込んでみたのだが、噂の一つも聞こえてこない。何太后と言う女が候補には挙がっているが……子供を産んでいるそうだ。その結果、跡継ぎ問題が宮殿の暗闘の種になっているらしいが……あれが子供を生むなど、芝居でもするまい。
 あの女は、滅びてもおかしくないほどに煮詰まった王朝を破滅させるのを好むだろうか。栄華を極めた王朝を自身の手で壊滅させる事が本懐ではないだろうか。夏の桀王、殷の紂王、周の幽王、三つの王朝を滅ぼした三つの名前を持つ傾国は、絶頂にいる王をこそ突き落とすのではなかろうか。
 漢を滅ぼさんとしているのは、宦官だ。姫ではない。
「ふうっ!」
 わからん。あの奔放極まる女の内心を当てるなど、誰にも出来ないだろう。
 出来る事なら皇帝の側に怪しげな女がいないか確かめたいところだが、入るコネがない。カメレオンスーツを頼ろうにも古代中国の宮殿、一体どんな途方もない怪異が侵入者に牙を剥くか知れたものではない。
「……術もへったくれもない、本当にただの宮殿だったら楽なのだが……」
 俺はどこぞのトレジャーハンターではない。八頭の血など流れちゃいない俺に、怪異の術をくぐり抜けて本丸中の本丸に迫る技術などない。ましてや、本丸にあの四人がいるかもしれないとなれば……
「せめてもの救いは、どう転んでもベイはいない事か」
 例えここが妖姫の箱庭でなくとも、本物の漢であろうともベイと出会う事はまずないと踏んでいる。
 あいつが一体いつの時代から参加したのかは知らないが、少なくとも漢の時代ではあるまい。だが大将軍は、彼を慕う宮女は、夏の妖術師は……いるかもしれない、いないかも知れない。
 最古の手下が騏鬼翁であるが、せつらに聞いたのが間違いなければ未だ二人は仲間ではないはずだ。だが、秦は過去の国である以上……劉貴大将軍は既に姫と出会っているに違いない。
 仲間とはなっていなくとも、救われてはいるはずだ。
 そして恩人である以上、彼は俺が姫と争えば彼女の槍となるのは間違いなかろう。
「……」
 最低でも、妖姫本人と……そして、夏の妖術師を相手取らなければならない。その上で、あの大将軍か……秀蘭とて、俺の叶う相手ではない。
 あの妖琴を俺は防げなかった。
 魔気功に念は圧倒されていた。
 秀蘭の術にも、騏鬼翁の術も翻弄されるばかり。
 妖姫に至っては言わずもがな……俺が生き残ったのは、血を吸われもしなかったのは、あくまでも秋せつらと言う大凶星の輝きが彼等の目を眩ませていたに過ぎない。
「もう三ヶ月……鍛えも一段落ついた……ここらで、思い切ってみるか」
 それでも逃げてはならない状況というのは、本当に辛い物だ。俺は既に、この国のどこかであの稀代の妖女が全ての人間の魂をとろかす笑みを浮かべていると確信に近い何かを感じている。根拠も何もない、ただの勘でしかない。外れていて欲しい勘だが、これは外れないと俺の背後に迫る影のように確信がつきまとう。あるいは既に騏鬼翁当たりの術にでもかかっているのか。
 ……だが、一体何処にいるのか……他に候補がないだけと言えるが、最有力候補に忍び込むかと当たり障りの無い格好をして下見に出た俺の目に人だかりが見えてきた。
「ちわーす」
「ん? なんだ、兄ちゃん」
「なんの集まりですか、これ」
 どうも立て札に集まっているのだが、人混みが邪魔でよく見えない。ちなみに、俺はこっちの字も読める。“新宿”にいたころ、思いつく限りの言語は文字込みで学んだのだ……催眠という反則技で。
 “新宿”には十分間の催眠術で三日間だけ世界チャンピオンにしてくれるジムはいくらでもあるが、もちろん知識面でも同じ事が言えるのだ。初めてこれを知った時は、思わずずるいとつぶやいた物だ……自分が使う側になるとまるきりためらわなかったが。
 メフィスト病院に一日泊まり込んで一国分。金と時間があるとその度に世話になる。何しろ、いつ何処でどんな国に飛ばされるか、どんな人間と出会うか分からない街であるからして……ちょうど今のように、だな。現代のどこかに飛ばされるのはかわいい方で、今のように時代が違うか、世界そのものが違うかも知れない。そんな状況を想定したのは、人食い人種の住む千年前の森と“新宿”の地下バス停が直結した現場に遭遇した時からだ。
「ああ、これ……今とうとう黄巾討伐の大一番があるんだとよ。その募兵のお達しだ」
「ああ、ようやく……我こそはと思う者は手柄首を取りに来い、って所ですか」
「んだな。まあ、怪しげな妖術を使う三人兄弟も。これでとうとうお終いだな。これで静かになってくれるのかね」
「だといいんですけどね」
 ん? 怪しげな、妖術……
「張角、でしたか。そいつら、妖術を使うんでしたか?」
「らしいんじゃ……なかったかな。確か、そんな噂を聞いた」
 兄ちゃんも言ってみたらどうだ。禁軍のいる洛陽はともかく地方じゃ徴兵もされているんだから人手が足りないんだろうさ、と言って男は去っていった。自分が行く気はないらしい。
 だが……妖術か……黄巾党に妖姫の噂は聞かない。あれが全く噂に出ないという事があるだろうか。身を隠そうと思えば果てしなく隠し通せるが、翻弄する事を楽しみこそすれ、こそこそするというイメージはない。
 むしろ、絢爛豪華を楽しんで必要以上に派手に虚飾を楽しむのではないだろうか。
 ……駄目だ。行動パターンがまったく読めない。だが、宮殿にいる何太后とやらを探るよりも妖術を使うと言う三兄弟を探った方がいいのかも知れない。妖術云々がまるきりのデマだという可能性も大きいのだが……
「……難儀だな。いっそ、募兵に応じて張角とやらをふん捕まえてみるか」
 だが、兵士という柵の中ではどうしても行動が制限されてしまうだろう。そもそも身元不詳の俺に従軍出来るのか? 未来ほど管理はきちんとしているわけではないだろうが……藪をつついて蛇を出す事になりそうだ。
 せいぜい、軍の側を間者よろしく付け回してから出し抜くよりないだろう。
「いてえっ」
「ん……」
 方針を決めて外界に意識を向けた俺の耳に、まるで待ち構えていたかのように飛び込んできたのは子供の悲鳴だった。ただ転んだにしては声が大きい。気になって振り向く俺のが見たのは子供が三人の大人に絡まれている場面だった。地べたに転がっているのは転がされたのだろう。それどころか、追い打ちで蹴りまで入れようとしている。理由がなんだか知らないが、穏やかな終わりをしそうにはない。
「ちょっと待ちなよ」
 自分でも意識しない内から相手の方に足を踏み出してしまった。あ、面倒ごとに首を突っ込んじまったと自覚した時には男達の足から子供を庇っていた。
「大の男がなんだって子供をよってたかって転がしているんだ。こいつがあんたらの財布でも掏ったのか?」
 もしそうなら、返させてこづかせて手打ちくらいでいいだろう。まあ、俺の流儀を押しつけようとは思わんがやり過ぎは止めたい。俺の後ろで驚いている小僧はやたらと汚れていて、遊ぶ金欲しさにスリをやる屑には見えないからだ。
「ち……なんだ、てめぇは」
 見たところはどこにでもいる男達だ。けして荒事を常にしているわけでもなく、酒が入っているようにも見えない。これは、小僧の方に問題があるのかね。
「見た通りの通りすがりだよ。何があったか知らないが、往来で暴れちゃあ目について当然だろう?」
 周りを見回すように促すと、視線がこちらに集中している。たいした人通りの数でもないが、それでもいたたまれないだろう。
「行こうぜ」
 口々に捨て台詞を吐いていく姿は二千年後も変わらないチンピラの姿だった。どうやら俺の腕前如何に問わずやり合うのは損だと思ったらしい。この小僧、大の男にケンカでも売ったのか。
「ふう……」
「余計な事すんなよ、おっさん!」
 彼等の背中を見送った俺がした事は、小汚い小僧の頭に拳骨を打ち込む事だった。誰がおっさんだ。



「大体、あんたが俺の邪魔しなけりゃあいつらだって今頃義勇軍に入るって心を入れ替えていたんだ」
「……そうかそうか」
 面倒くさい餓鬼が俺の後ろを鴨の子よろしくついてくる。何十回目かと思えるほどに繰り返す主張に、俺は相手をする気など欠片も出ない。適当に相づちを打って流しているのだがそれが気にくわないのか、小僧はいつまでもついてくる。ああ、本当に面倒。
 この小僧、どうも父親が最近流行の義勇軍とやらに参加したらしい。そんな親父は村の英雄であり、尊敬しているらしい。まあ、それはいいのだが……どうも話を聞いているに、それ以来そこら辺にいる男を捕まえては義勇軍に参加しろ、しない奴は根性無しの臆病者だと噛みついて回っているらしいのだ。
 ……そりゃあ怒りもするわ。
「お前、幾つだ? 四つくらいか」
「もっといってら! 十歳だぞ、見損なうな!」
 きかん気丸出し、殴られたら蹴り返しそうな小僧だ。俺の場合は痛みに悶絶してそれどころではなかったようだが、大の男に三人がかりで囲まれて泣いていないだけ負けん気の強さは折り紙付きだろう。
「それにしては無鉄砲というか、餓鬼丸出しというか……面倒なガキンチョだ。この年にしても分別なくないか? それとも、これが普通か?」
「あんただって、別に怪我してるわけでもなけりゃ兵士って言うわけでもないんだろ。天下が乱れている時に、こんな所で油を売っている場合かよ。その点、俺の父ちゃんは……」
 何を誇っているのか知らないが、やたらと鼻高々な様子が子供ながらに癇に触る。まあ、子供が親父の背中に素直な憧れを向けるのはいい事か。だから子供同士でやってくれ。
「おう、そうか」
 既にまともな会話は諦めている。こういう性格の輩は、概ね自分の言いたい事を言いたいだけ言えればいいのだ。相手の反応は気にもとめていない。相手にするだけ時間の無駄だ。
「ところで、さっき村とか言っていたけど……お前、洛陽の生まれじゃないのか」
「俺は幽州の生まれだよ。そこに天の御遣い様に率いられた劉備様達が現れて、義勇軍を募ったんだ。父ちゃんはそれに志願したんだ。黄巾党なんて許さないって」
 それにしても、義勇兵なんて募っていいのだろうか。国家以外が仕切る素人軍なんて、弱いくせに制御が出来ない、危ないだけだと思うのだが……第二の黄巾党になるんじゃないのか? 
 それ以前に、そこの太守だの村長だのは村や街から若いのがいなくなる事を良しとしたのか? 普通、義勇軍に参加するくらいなら自分たちの村を守るか国の軍に入れと言うんじゃないだろうか。
 これが、時代による認識の違いか。
「天の御遣い?」
「そうだよ。噂の天の御遣い様だよ。白くてきらきらした服を着ているんだ。乱を治める為に天からお出でくださったのさ」
 ……どうやら、本当に出てきたようだ。さて、詐欺師か神か。
「その天の御遣いとやらは一体どんなのだった? 空を飛んだり傷を癒やしたり、悪党をばったばったとなぎ倒すような力があったのか?」
「天の御遣い、様! だろ」
「で、ただ変な服を着て、天の御遣いでございと名乗っただけじゃないんだろ。どんな奴だった?」
「何って……し、知らないよ! 黄巾党もいないのに神通力なんて見せてもらえるはずないじゃないか。天の御遣い様の力は無駄遣いしちゃいけないんだ!」
 ……詐欺師にしても、少しはパフォーマンスしてみせると思うんだが……その辺はりゅうび、とやらがやったのか? りゅうび……? 
「あ、りゅうびってあの劉備か。劉玄徳」
 三国の一つ、蜀の皇帝。仁徳の人と呼ばれているけどそれはあくまでも後世の創作。実際にはけっこうえげつなくて図々しかったらしいと言う……あの劉備か。本人がそれほど大したことはなくとも部下に時代を代表する猛将、名将が揃っていたという話だが……
「ああ、兄ちゃんみたいなのでも劉備様の事は知っているのか。スケベそうだもんな、兄ちゃん」
「待ったれや、餓鬼。スケベ扱いされたのも業腹だが、なんでそれが劉備とやらの知名度につながる」
「? だって、劉備様っておっぱいでかくて美人だったぞ。お供の関羽様もでっかいし。だから兄ちゃん知っているんだろ?」
 ……関羽。
 後世、商売繁盛の神とされた髭で有名な三国志代表格の名将。
 ……当然、男だ。髭の生えた女が珍しくて史実に名前を残したわけじゃないだろう。
「ああ、関羽って言うのはそんなに大男なのか。豪の者って噂は聞いていたしな。さぞかし見上げんばかりの威丈夫なんだろうな」
「何言っているのさ。でっかいのはおっぱいで、劉備様も関羽様も女だよ。男なのは天の御遣い様だけだ」
 ……虎髭で有名な張飛はどうなったのだろうか。魔界医師がまとめて解体しそうなトリオになっているのだろうか。
「男女の性別が逆転している……? 曹操や呂布が女だったらどうしようか……」
 歴史に名を残す伝説の英雄が女になっているなんて、悪い冗談でなければ単なる悪夢だ。何処の助平な神が作り出した世界なのか。あ、もしかして天の御遣いって色欲神本人なのか。
 もしも、逆に歴史に名を残す美女が男になっているとしたら笑える。呂布が女だったら貂蝉は美男子なのか。ああ、でも貂蝉は架空の人物だったか。なら、関係ないか。
「……その方がまだマシだな」 
 後に、俺はどうして架空のままでいてくれないのかと心から思うろくでもない出会いをする事になる。どのくらいろくでもないかというと、見た目が一トンの情報屋が高らかに屁をたれた現場に出くわすくらいにろくでもない出会いだ。
「兄ちゃん、何いってんだ」
「気にするな、それよりもお前、村はいいのか。ほったらかして家を空けたらまずいんじゃないのか」
 このご時世だ、母親とか家族云々は言えない。もしかしたらと思えば軽々しくも口には出来ん。
「いいだろ、他人の事なんてほっとけよ。男は英雄を目指さなけりゃ駄目なんだ」
 ちなみに、頼まれもしないのに義勇軍に入らない奴を腰抜けとののしって回っていたのはこいつだ。他人の事をほっとけとは、どの口がぬけぬけと抜かす。
「これからどうするんだ、小坊主。まさか、義勇軍とやらでも追いかけるんじゃなかろうな」
「な、ななな何がまさかなんだよ」
「……素直な奴」
 はあ、とため息をつくとあ、だのお、だの意味のない呼吸音のような声を出しながらたこ踊りをする小僧を呆れをこめて見下ろす。
「あのなあ、坊主。お前が英雄ごっこをしたいのはわかったが、そんな物はどっかにうっちゃって村に帰っとけ。何なら、送ってやってもいい。でも、義勇軍とやらを追いかけるつもりなら送るのは無しだ。そういう夢は、もう少し大きくなってから叶えるんだな」
「へ……? う、うるせぇやい。そうだ、俺は父ちゃんと一緒に義勇軍で大活躍するんだ。邪魔するな! 守って欲しいなんて、誰も言ってねぇぞ!」
 小僧は顔を赤くして、どこぞへと駆けていく。見失わないように手をうってから、おもむろに反省する。
「ああ、そう……ヒーローごっこがしたいんじゃなくて、父ちゃんに会いたくてしょうがなかった訳ね。やたら人を義勇軍に勧誘しているのは、一人では行けそうになかったからか……はあ……」
 うかつな真似をしてしまった。正に甲斐性無しである。この分じゃ、母親がどうなっているのかは聞かない方が無難か……
「やることが決まっちまったなぁ……はあ……まあ、怪しい天の御遣いとやらを見物に行くついで、かな」
 かくして、俺は三日間を要して義勇軍とやらの居場所を確定すると二人分の食料、水を用立てて子供の後をつける不審人物となったのである。村に帰せるなら帰そうとも思いながら。
 小僧、そっちに行くんじゃない。義勇軍はそっから南西の方角だ。


 
 さて、それから早十日。
 俺は見当違いの方向に突っ走る為、結局合流したきかん気の小僧を連れて、早くも義勇軍を見つけることに成功した。話に聞いたところでは少なくとも二週間はかかると聞いていたので、思いの外早い。
 これが正規軍だったらこうもうまく行かないだろうが、軍とは名ばかりの素人の寄せ集めに過ぎない彼等は訓練が足らず、その上歩兵ばかりの為に行軍速度がことさらに遅いらしい。
 満足な訓練している時間もなく実戦に、か? あまり考えたくないことだが……坊主の親父、生きているといいけどな……
 遠目に、行軍する風景を見てみると……あまり強そうには見えない。装備云々ではなくて、動きがバラバラで個人個人もこの距離で目に見えるほど拙い。軍人の目で見ればもっと粗が見えるのだろう。
 ただの素人の寄せ集めという感じだが……まあ、この時代は常備軍なんてほとんどいないらしいのでこれでも普通なのか。
 足下で憧れの目で見ている小僧を、どうにかして村に返したかったのだが……村の名前も言わないし、せめて幽州まで強引に連れ帰ろうかと思ったら逃げ出す。捕まえれば湯に落ちた野良猫のように暴れるとろくでもない。
 終いには、死ぬの天罰が墜ちるぞだのとさんざんわめき散らしてくれるので根負けした。人形繰りのように人を操れるせつらの糸が羨ましい。
「即座に行くのか、坊主」
「名前で呼べってぇの! 俺は李江で父ちゃんは李淵だ!」
「なんだか殺気立っているから、今行くのはまずいかも知れないぞ……小僧」
 坊主でも小僧でもねぇ! といきり立つ李江だが、反応が面白いので名前で呼んではやらない俺である。
「関係あるか! 戦が始まるんなら、父ちゃんは俺が助けるんだ」
 この十日の間、李江を見ていて分かったのは本当にただの子供だと言うことだ。幽州から洛陽までたどり着いただけでもたいした物だが、ろくに鍛えているわけでもない十歳児か戦に加わるとか夢物語どころか自殺行為だ。そもそもこいつ、刃物の一つも持っていない。
「……天の御遣いとやらに会いに行ってみるか? 父ちゃん捜すよりもよっぽど目立つだろう。頼んで父ちゃん呼んでもらったらいいじゃないか」
 こいつ、放っておけば本気で戦に紛れ込む。そう言う無茶な餓鬼だと言うことはこの十日間で嫌と言うほど思い知った。野盜らしいのを見つければ正誤の確認もせずに噛みつく、こいつは悪党と決め込んだ人相の悪い旅人に噛みつく。大体はこいつの思い込みに過ぎないので俺がドついて詫びを入れさせてお終いだったんだが、二回ほどはぐれ物の黄巾党に出くわしたからさあ大変。
 見境無しにケンカを売った挙げ句、自分はさっさと気を失った子供を守って戦うのはひやひや物だった。おまけに本人、俺の小言なんぞ馬耳東風と来ている。天の御遣い様とやらの影響で正義の味方をしたいらしいが……勘弁して欲しい。
 よくこれで洛陽まで来られた物だと感心するが、どうも話を聞いてみると武芸者を含めた女三人の旅に紛れたり、旅商人の手伝いをしたりしながらどうにかやってきたらしい。李江は自覚していないが、どうにも同行者達は俺と同様この無鉄砲に苦労していたようだ。
「ん……そうする」
 よっぽど天の御遣いを崇めているらしい。珍しく素直にうなずく。父親捜しに突撃するかとも思ったが、どうやら天の御遣いにもう一度会いたいと言うのも相当に強いらしい。いったい、天の御遣いとやらはこいつを含めた村の住人にどんな希望を見せたのか。
「……さて、噂の天の御遣いはどこにいるのやら……そもそもどうやったら面会できるかな」 
 仮にも一軍の大将であるらしい、それに子連れの男が会わせてくれと言っても会えるわけがあるまい。李淵とやらはあくまでも一兵卒に過ぎないと言うし、義勇軍も百や二百でも聞かない数のようだからその辺の兵士を捕まえてもどうにもならないだろう。
「なあ、小僧。お前の村からどのくらい義勇軍に参加したんだ。その人達に会えれば一番話が早いんだが」
「二十人くらいだよ」
「……この中で二十人か……運がないと駄目だな」
 そして俺は運が悪い方だ。
「仕方ない……適当に偉そうな奴を見つけて繋ぎを作るか」
「おい、そこの男! ここで何をしている」
 お? 気が付けば、俺達は注目を浴びている。数人の男達が俺達……いや、俺に向かってきている。だが、側で自分たちを喜色満面に見ている小僧の存在が、殺気立つのを抑えている。
「届け物だよ。きかん気の小僧を、父ちゃんに」
「誰がきかん気だよ! 俺は李江だって何遍言えば分かるんだ」
 出来れば生きて、五体満足でいて欲しい物だ。顔も知らん男だが、これほど強く親を慕う子供がある以上は願わなくてはならない。
「で、幽州の小僧なんだが……誰か知っているか? 何しろ、故郷から父ちゃんに会いに無茶した子供だ。出来れば会わせてやって欲しいんだが……」
 俺がそう言うと、彼らは揃って目を見合わせる。我が身に照らし合わせたのだろう。それぞれが放っておけないと顔に書いて李江を見下ろす。
「李江? おい、誰か知っているか?」
「俺は幽州だけど……父ちゃん、なんて名前だ」
「村の名前は? よくここまで来たもんだ」 
 俺の役目はここまでかな、と一歩下がる。若干その場にとどまりたい気になったがもちろん、そんな物は気のせいだ。
「なあ、ちょっといいかな」
「うん? おお、なんだ兄ちゃん。もしかして仲間になりに来たのか?」
 どう言えば角が立たないだろうか。素直に未来の新興宗教紛いな連中の仲間に入るつもりなんてない、なんて言えば無駄に争いになるだろう。
「俺はやることがあるから、そのつもりはないな。それよりも、黄巾党ってのはどこにいるのか知っているのか」
「ああ?」
 その気がない、と言うと目の色が変わる。罰あたりめ、とくってかかってきそうだ。こいつら、小僧と同レベルか? 
「……このまま真っ直ぐ行ったら、黄巾党に会えるさ。なんだ、入るつもりか?」
「まさか、まさかまさか。滅びることはもう確定さ。入る奴がいるとすれば、それは死にたがりだ。ただ、一人旅で出会いたくないだけさ」
 愛想笑いをして、背を向ける。一応坊主に手を振ったが、あいつはさっきからこっちを見ちゃいなかった。薄情な小僧だ。長生きしやがれ。
「……天の御遣いとやらはどうだか知らないが、劉備の側にいればたぶん生き残れるだろうさ」
 幽州には、小僧の故郷がある。その村が黄巾とは無関係の賊に襲われて壊滅しているとは、昨日同道した同じ幽州出身の旅人に話しているのを小耳に挟んだ。李江には、もう父親しかいないのだろう。そうでなければ、無理矢理にでも連れ帰っているところだ。
 義勇軍は分かっているのか。自分たちが故郷を飛び出た為に、守り手がなくなった村がどんな目に遭っているのか。劉備は、天の御遣いとやらはわかっているのか。自分たちが兵を集めた結果、手薄になった村々を獲物に定めた屑どもがどれだけいるか。
 彼らの内、無事な故郷を拝めない兵は何人いるのだろう。李江の親父は、生き残れるのだろうか。いや、このご時世に潰れた故郷を前にただ生きているだけでどうなるだろう。荒れ果てた田畑をもう一度作り直すことが、果たして出来るんだろうか。
「……どうなるんだろうな……あいつら……」 
 誰よりも足下の定まらない俺が考えることじゃない。分かってはいても後ろ髪を引かれている。一生かけてあいつを見守ってやるつもりはないんだ。大体、俺にもすることはある。
 だが……ここで離れてしまえば南風さんと同じじゃないのか。あの無鉄砲さは、どこか彼女に通じるようだ。
「…………」
 かりこり、と頭をかいた手は腰元には戻らないまま念には念を入れる為に持ち上げられた。
「まあ、杞憂ならそれで良しとするさ」
 この位の肩入れは……まあ、いいだろう。




 あれから四日。
 黄巾党の本拠地を攻めるのは本当だったようで、あちこちから様々な旗を掲げた軍が菓子目当ての蟻のように集まっている。李江のいる義勇軍も本流に流れ込む支流のようにその一つとなった。
 俺はその中に紛れ込み、さも兵士の一人でございますという顔をして飯を集りながら情報を集めていた。李江は父親と再会したのを確認したが、それ以降は家族の会話になったので首を突っ込まないことにする。何にしても、父親は別段怪我もせず精神的にも元気にしているのが見えてほっとした。
 肩の荷が下りた俺は、積極的に黄巾や天の御遣いの情報を集めて回ったのだが、黄巾の情報はほとんどろくな物が集まらなかった。どうにも行動に計画性が見えず、まるで何らかの熱狂に背中を押されている暴走集団のようだという意見も寄せられ、俺はそれをもしやと疑いつつ、断言することが出来ずにいる。
 対して天の御遣いの情報はいくらでも集められた。隠していない、罠なのではなかろうかと疑うくらいにセキュリティが隙だらけだった。三日間程度で大体の所は把握できたくらいである。
 まず義勇軍だが、劉玄徳、関雲長、張翼徳、そして軍師として諸葛孔明。鳳士元がいる。諸葛孔明はもっと後に参戦で、鳳士元は更に後だったのではないかと思ったが、俺の知識はあまり頼りにならない。
 特筆すべきは、全員女性……しかも美人揃いだと言うことだ。別にふざけているわけではない、真面目におかしな話なのだ。
 三国志の英雄が女性であるというのは、事前情報を得ていたのだがそれでも驚かされた。更におかしいのは年齢が全員二十歳前ときている。特に、張飛、諸葛亮、鳳統は少女かそれ以下としか言えん上に揃いも揃ってこの時代の住人としては明らかにおかしい格好をしている。
 存在自体が場違いで間違い。まるで、彼女たちは俺と同じように異邦人であるかのようだ。ついでに、関羽と張飛は俺が初めてこの世界に降り立った時に襲いかかってきたあの二人である。知りたくなかった。
 問題の天の御遣いは名前を北郷一刀と言うらしい、俺と同年齢程度の男だった。明らかに日本人の名前である。言動、衣服を含めた容貌から察して俺と同じ時代の日本人学生と判断した……よくもまあ、恥ずかしげもなく天の御遣いなどと名乗った物である。
 おまけに、彼には何の力もなかった。俺が探り、あの手この手で試し、終いには目の前で隠行術を使いつつ剣を突きつけても気が付きもしなかったのである。果てしなく隙だらけだったので演技かと思い、一度寝込みを襲って剣を枕元に突き刺したが全く無反応。“区外”の学生にしても鈍すぎじゃないか?
 翌朝、なんだか騒がしかったのだが……起きてから気が付いたのだろう。それはないんじゃなかろうか。
 結論として、天の御遣いは詐欺師のような物でしかないと言い切れるのだが……だったら、どうしてあいつはここにいる?
 何の為に、何の力であいつはここにいる。目的は何だ。
 自発的にとは思えない、誰かが何も出来ないような男を一人、ここに放りだした……何かできる事がある? 戦う以外の何かがある……天の御遣い……本当に天の御遣いだと言うにしても、それは戦国の世の救世主なんだろう。戦う以外に何がある……洗脳能力でも持っているのか? この世を自分好みの人形ばかりにして平和になったね、とでも?
 やっぱり……第三者がいる? こいつ自身には何もない。だが、こいつの後ろには誰かがいるのではないか。天の御遣いという看板を背負わせた道化を踊らせ、それを通して自身の目的を果たす……確か、天の御遣い云々を最初に吹聴して回った予言者がいたな。
 予言者、などと言う役回りはどう考えても妖姫には合わないような気はする……可能性があるとすれば騏鬼翁か。
 考えれば考えるほど、誰も彼もが怪しく恐ろしく思えてくる状況に悩む。頭の中に石が詰まっているような気分だ。こいつを取り除けば、答えが音をたてて出てくるんじゃなかろうか。
 どうにも考えが煮詰まって、夜中に剣を振る。
 冴え冴えとした月の下で仁王を振り回し、汗を流す。
 予定では明日の昼には黄巾の砦に着くという。そこが俺にとっても決戦の時だ。そこには一体何が待っているのか、俺はそこで何を見たいのだろう。黄巾党の最奥で艶然と微笑む妖姫を見つけて杭を打ち込みたいのか。それとも、ただの詐欺師に安心したいのか。
 千回も汗と一緒に仁王を振り下ろすと、ようやくすっきりとした。何が待っていようとも、出来ることは一つだけだ。ただ黄巾党の頭を見つけ出し、妖術による力を持つのであれば切り伏せる。
 それが、念法使いの仕事だ。
「ほう、変わった剣術ですが見事な腕ですな」
「何処の兵だ? 格好からして桃香の所のか」
 こっちがふらつきたくなるのを見計らって、二人組の女が声をかけてきた。確か、幽州の公孫賛に客将の趙雲子龍……だったな。趙雲は胸の上半分が丸出しという、斬新を通り越して痴女的なデザインの極端ミニスカチャイナ服という格好をしている。頭に被った帽子が白いチャイナドレスと相まってナースのそれに似ているように見えてしまう。
 対して公孫賛は、やっぱりミニスカ姿だがそう極端に扇情的な格好でもない。世間一般から見たら充分奇抜なのだがちょっとホッとする。
「失礼……」
「まあ、ちょっとお待ちいただきたい。私は幽州で客将をしている趙子龍と申す者だが、貴殿の武芸に目を引かれて吸い寄せられてしまった。よければお名前をお伺いしたいのだが」
 良くないので、帰らせてください。とは言えなかった……彼女はともかく、後ろの公孫賛の軍からもちょこちょこ糧食をちょろまかしているからである。泥棒でございます。 
「工藤と言います……工藤冬弥」
「ほう、こう言ってはなんですが変わったお名前ですな。まるで天の御遣い殿のそれと似ていらっしゃる」
 あんなのと一緒にせんでくれ、恥ずかしい。
「そんなのと一緒にされても困る」
 思わず口から出てしまったが、構わないだろう。何しろ、義勇軍は幽州から多くの若者を連れて行ってしまったのだ。それについて、幽州の頭である公孫賛は当然、含むところはあるはずだ。
「おや、工藤殿は天の御遣いをお嫌いで?」
「なんであんな詐欺師を好きにならなけりゃならん。あれが第二の黄巾党にならんかと言うことを心配するだけだよ、俺は」
 意外そうな趙雲に、この際愚痴らせてもらおうかと俺はさらりと本音を喋る……そう言えば、趙雲は確か劉備の子供を抱いて一騎駆けをした事で有名だったような……もしかして口が滑ったか。
「詐欺師、ですか? それどころか第二の黄巾党とは穏やかではありませんな」
 彼女の口調にトゲが出る。明らかに、気分を害している……彼女も天の御遣いの信奉者か、やれやれ……失敗したな、この分だと後ろの公孫賛も同様か。
「私も気になるな。工藤だったか、どうしてそんなに一刀を嫌うんだ? 私も何度か話はしたけれど……あれでなかなか見所のあるいい奴だったぞ。桃香……劉備は皆を幸せにしたいっていう目標を持っているのだが、天の御遣いもそれに賛同して義勇軍を結成したんだ。なかなか出来ることじゃないと思う」
「……幽州の頭が言っていいセリフじゃないな」
 どうやら、思うところがあるどころか協力的でさえある。天の御遣いに乗っ取られるんじゃないのか、幽州……
「どういう意味だ」
「義勇軍のせいで潰れた村が幾つもある。それをどう思っているのか。大体、国家の仕組みに収まっていない武装集団など危険なだけだろう」
 俺のセリフに公孫賛は驚きを見せ、趙雲は何か得体の知れない者を見るような顔をする。
「どういう意味だ、幽州の村が滅んだって! ……しかも義勇軍のせいだなんて何の冗談だ」
「義勇軍が幽州を荒らし回ったとでも言うのか」
「……俺は一介の流れ者だ。その俺が知っていることを、幽州の頭と客将が、何故知らない。知らないはずがないだろう。天の御遣いとか言う虚名に踊って見ない振りをしているだけじゃないのか」
 思い当たる節はない、と言う顔をしている二人を見ていると、逆にこちらの自信が無くなりそうだ。
「……俺は幽州から義勇軍にいる父親を頼ってきた子供を送る為にここまできた。その子供のそれも含めて複数の村が野盜によって壊滅している。黄巾なのか無関係の賊なのかは知らん」
「何だと!? あ、あいつら留守も守れないのか」
「むうう……我らが出兵している間にそんな事が……しかし、それが義勇軍と何の関係が」
 客将だからなのか、趙雲は公孫賛ほど衝撃を受けておらず義勇軍との関係に注目している。はっきり言って、虫が好かない。客将だろうと、今は彼女にとって何よりも守るべき民だろう。
「義勇軍と称して、多くの若者がいなくなった。元々正規軍がいないところで更に男手がなくなれば、後に残るのは賊から見れば美味しい餌だ。その上、働き手が足りなくなって経済も回らない。余所よりも荒れた戦後の幽州がどうなるか、考えるだけ頭が痛くなるな。義勇軍など、利よりも害が多いのではないか?」
 俺の言葉に、彼女らは驚いた顔をする。これはそういった事態を想像もしていなかったのか、それとも俺の考えは為政者から見れば馬鹿馬鹿しすぎるからなのか。
「面白い意見ね。これだけはっきり義勇軍を否定する人間が民の側に出るなんて初めてだわ」
 後ろから甲高い声がかけられた。振り返るまでもなく女だとわかっていたが、こちらを面白そうに値踏みして立っているのは意外な人物だった。
「曹操……か」
「私を知っているのね」
 三国の英雄、魏の巨人。漢を終わらせた野心家。歴史の中でそう語られた人物が、俺の前に立っている。金色ロールの髪型をした例に漏れない金髪の小柄な少女として、だ。全く、始めて見た時もそうだったが悪い冗談のようだ。
「華琳様! こんなつまらないゲスな男と口を利いては汚れてしまいます!」
 全身から私は自信満々ですと主張する彼女の側には三人の女性がいる。名前は覚えていないが、確か姉妹だという全く似ていない二人の長身女性と、初対面から呼吸するように暴言を吐いてくれる猫の耳を彷彿させるフードを被った曹操よりも小柄な少女だ。
 どつき回してもいいだろうか。
「こんな不細工で、頭の中に精液が詰まっていそうな豚なんて、視界に入れただけでも汚らわしいです。ちょっとそこのアンタ、何をいつまでもノロノロと馬鹿面さらしているのよ、気持ち悪い。さっさとどこかにいなくなりなさいよ。男なんかが私の視界に入るだなんて何をふざけたことやっているのよ、分際をわきまえなさいよね!」
 どうやら男という存在そのものが許せないらしい。腹が立たないと言えば嘘になるが、これだけ言いがかりとも言えないような暴言を吐くような小娘はこれまでの人生にはいなかったのでむしろ呆気にとられる。どれだけ甘やかされた貴族の子女だろうか。
「この気が狂っているようなクソガキは、あんたのところのか?」
 俺は思わず率直に口にする。俺の後ろで突然現れて雪崩のように暴言を吐く小娘に唖然としていた二人と、曹操の横にいる長い黒髪が特徴の女性が吹き出した。
「何でこんなの野放しにしているか知らないが、そのガキはアンタの貫目を下げるだけだ。狂犬をしつけもせずに野放しにするようなら、そこら中に見くびられると思うぞ」
 現に俺は、今目の前にいる人物を歴史上の偉人ではなくただの小娘に見つつある。
「な……」
「何だと、貴様!」
 曹操は、一瞬目を見開くと怒りもあるが面白そうに俺を見上げる。怒りを露わにしたのはそもそものことの原因と、その横にいる黒髪だった。反射神経の問題か猫耳よりも一歩先んじて、即座に腰の物を抜きかねない怒りを顕わにくって掛かる。腰の物は、剣……それも、標準よりも長い。
 これの持ち主と勝負するのは面白そうだと場違いにも血を騒がせてしまう。無意識の内に仁王を握った手に力がこめられる。引いた汗がもう一度蒸気となって出てきた。だが、隣の女が彼女を抑える。
「やめろ、姉上。非礼を働いたのはこちらだぞ!」
「ぬう、しかし……」
「よしなさい、春蘭。秋蘭の言う通りよ」
 事を治めたのは、鶴の一声だった。俺を殺したそうににらみつける事の元凶も含めて全員が黙り込む。曹操は不敵な笑みを浮かべて俺を見る。おそらく怒りはしっかりと持っているのだろうが、ここで怒りを表に出すのは彼女のプライドが許さなかったのだろう。初対面から暴言をぶつける非常識を野放しにして何の誇りか。何処ぞの医者なら鼻で笑うだろう矜持だ。何処ぞのぶうなら即座にボディプレスだろう。
「ご忠告痛み入るわ。あなたの言うとおり、部下の手綱を握れていないようでは諸人に侮られてしまうわね」
 より優雅に見えるように笑顔を作る曹操の横で、猫耳がこちらを殺しそうな目でにらんでいる。俺が鼻で笑ってやると涙目になるが自業自得だ。義兄はともかく、俺の器ではこう言う輩を笑って流してやるような優しさはない。
「ただ、私が聞きたいのは忠告ではなくてあなたの素性なのよ……天の御遣い殿」
 悪化した雰囲気を切り裂くセリフが、曹操から飛び出した。驚いた俺は、ほんの一瞬だが明確に反応してしまった。曹操は俺の顔を見て、してやったりと笑う。誤魔化せそうにないと観念した。
「はあ!?」
「工藤殿が天の御遣い? 曹操殿は何を言っておられる」
 後ろにいる二人が驚きの声を上げる。忘れていた。
「ふうん、工藤……工藤というのね、あなた。不思議な響きね」
「割と多いさ」
「それは、天の国の話?」
 肩をすくめて笑う。自信満々に生きているように見える曹操が、天という曖昧な物に、たかだか予言に振り回されているのがおかしかった。
「天の国なんて物があるのか無いのか知らない。だけど、俺はそうじゃない。あの北郷という奴もそうじゃない。俺達は同じ所から来て、けれどもそこは天なんかじゃない。あれはどこぞのインチキ占い師の吹聴した予言に乗っかっただけの何の変哲も無い小僧だ。俺も何の変哲も無いただの小僧だ」
 はっきりさせたかったのは、いい加減“天の御遣い”とやらに俺も周りも振り回されているのが嫌だったからだ。特に、同郷が異邦で新興宗教の教祖みたいな真似をしているのは恥ずかしくさえある。黙っているのは詐欺の片棒を担いでいるようで気が引けるのだ。
 俺の言葉に曹操は笑みを深めて、他は全員驚いている。俺が北郷とやらを否定したからか、それとも同郷だと言ったからか。
「あんたは結構地位の高い方なんだろう? 火が小さい内に天の御遣いなんて嘘っぱちだと言っておいてくれ。同郷が馬鹿をやっているのは恥だ」
 例えるなら、高校の同級生が飲み屋で裸踊りをしている所に出くわすくらいに恥だ。他人の振りが出来ない以上、止めるしかあるまい。
「そう、北郷一刀は天の御遣いではないのね。予言が当たったのではないの」
「占い師とやらに聞けばいい。それが一番疑わしい。それよりも、どうして俺が異邦人だと気が付いた? 俺はあの天の御遣い様とやらと違って、ちゃんと土地にあった服装をしているけどな」
 洛陽で買い求めたのだから、問題あるまい。実際に俺と同じような格好をしているのは街のどこにでもいる。趙雲も公孫賛も気が付かなかった。どうして曹操はそう思った。
「簡単よ。あちこちで噂を聞いたの。見たこともない不思議な服を着た若い男があちこちで、黄巾党を叩きのめして回っている、とね。その数は十日もかからず既に千を超える」
「随分と話が回るのが早いな……」
 その内噂に上るのだろうとは思っていたが、想像よりも随分と早い。まだ半月も経っていないと言うのに、この時代にしては情報の伝達が早すぎる。
「倒し方が特徴的なのよ。あなたが倒した相手は、誰も死んでいない」
 曹操の言葉に、そこら中から視線がばしばし突き刺さる。こいつ、アホかという視線もある……こんちくしょう。
「倒された黄巾党は誰も彼もがのたうち回って誰かに斬られたり刺されたり……幻の誰かに殺される苦痛を味わってのたうち回っているわ。あるいは、いつまでも打たれた痛みが消えずに苦しみ続けている」
「そいつらに殺された誰かと同じ目に遭うようにしてきたまでだ。人を刺したのであれば、自分もまた刺される。同じ深さで、同じ回数、同じ角度で刺されるようにしてきた。あと、痛みで済ませた場合一年は痛み続けるようにしている」
 因果応報、殺さずに済ませているからと言ってそのまま終わらせるつもりはない。彼らはたくさんたくさん殺したのだから、殺した数だけ殺されなければならない。
「本当はもっと苦しませるべきなのだろうな。殺された連中には殺される理由がどれほどあったのか知らない。殺されて当然の屑もたくさんいたかも知れないが、殺される理由なんて全然無い人達の方がよほどよほど多かったろうからな。そう言う人を殺したのなら、殺されるより苦しまなけりゃならない。奪った先の時間の分まで償わなければならない」
 ただ、俺にはそこまで応報させる術がない。それならば、再犯という可能性の芽を断つ凍らせ屋の方法こそが正しいのかも知れない。
「……ただ殺すだけでは済まさないという事? おっかないわね」
「屑どもには似合いだと思うが? ひと思いに殺しては、いっそ殺してくれと言う目に遭わされた人の無念は晴らせまい。うん、そうだな……今度は手にかけた人数分、繰り返し繰り返し殺され続けるようにしようか」
 赤ん坊を殺した人間がいるなら百年先まで、寿命が尽きるまで殺され続けるようにしてみよう。その間、狂う事も許すまい。そう言うと、女達は化け物を見るような目で俺を見る。
「……まるで神の裁きね。私が聞き及んでいる限りでは、あなたは木剣を使って雨のように降ってくる矢を空に貼り付けたとも、手から光を放って賊を貫いたとも聞いているわ。あなたこそ本物の天の御遣い、と思える」
 曹操は俺の仁王を指さす。彼女の言う光は俺の背中にくくりつけられた荷物の中に入っている。ああ、嫌な予感がしてきた。
「俺を天の御遣いと考えたのは……もしかして、仁王を見てカマをかけただけか」
「仁王って言うの、その木剣。そう、戦場に木剣を持ってくるような兵士は聞いた事がないわ。だから、あなたが巷で噂の男であり、予言に言われる天の御遣いかとも思ったのよ。実際に会った義勇軍の北郷はどう見ても凡才だったわ。武も知も何もない、ただの凡人。天の国の生まれとやらで漢の常識に囚われない所はあるけれど、それも善し悪しという所かしら。見所は天の国で培った知識がどれほどかという事くらいね」
 木刀と言ってくれ。我ながらあっさりとひっかかったな……やっぱり俺にはこの手の話は無理であるようだ。
「あれは元いた国じゃ……そうだな……学生って言って分かるか? 要するに、親に養われていろいろ学んでいる最中、気楽な半人前って所だ。それで天の御遣いでございと何も分からない異境で名乗れるのはたいした物だと思うが……半人前を凡才と言い切るのはちょっと早計じゃないかな」
「今、役に立たなければ意味が無いわ。まあ、あなたの言うとおり神経の太さはたいした物ね。それで、あなたは何をしていたの? 武人かしら」 
 この時代、既に神経は周知であるのか。まあともかく曹操の言葉に反応して前後から期待の眼差しが向けられる。趙雲と黒髪だ。この二人は武芸にこだわりを持っているのだろう。
「生憎と、そんなたいそうな物じゃない。俺はただの賞金稼ぎ……無頼の徒に過ぎないさ。武人を気取るなんぞ、罰当たりもいいところだ」
 武人というのは自分の武芸に狂信的な物ではないだろうか。俺のように面白半分に銃を持ったり、拳法を習ったり、魔人達の技を習っての物真似をしたりはしない。それ以上に俺は誇りという物を重んじたりは出来ない。そんな高潔な男ではない。
「賞金稼ぎ? ああ、だから黄巾党を引き渡して日銭を稼いだのね」
 何人かの顔に、軽蔑とあざけりの色が浮かんだ。卑しいとでも思われているのだろう。悪行を成しているわけでもないのにこんな目で見られると、腹が立って皮肉の一つも出てくる。
「それしか出来る事はなくてね。関羽に張飛、出会ってすぐに御輿に乗った北郷とやらは羨ましくなるほどさ。こちとら問答無用で賊扱いで、日銭を自力で稼ぐのには苦労しているって言うのに……ぶっちゃけヒモだもんな」
「関羽と出会ったの?」
 さりげなく張飛を飛ばしている。そう言えば、史実か演義で関羽を欲しがっていたらしいが……ああ、演義のせいで史実とごっちゃになって困る。どっちにしても大して覚えていないけれど。
「ああ。黄巾党に攫われたらしい女達を助けたら、後からやってきた張飛が黄巾党め、成敗じゃー……とな。とりあえず慌てて逃げたよ。ぶちのめそうにも、向こうも善人だったしねぇ……どうしたらいい物か、話も聞いてくれなかったからな」
「へえ……あの二人から逃げ延びるくらいの武力は持っているのね。男にしてはなかなかじゃない」
 この世界、これが馬鹿にしているわけではないらしい。何というか、武将という武将がほとんど女なのだ。特に有名どころは、ほぼ全員である。妖姫の食指が動くような益荒男がいないのはやりやすいが、自身の性別を考慮すると忸怩たる思いはある。ついでに言えば某白い医師が大嫌いだろう、この世界。
「そら、どうも……結局何しに来たんだ、あんたら」
「もちろん、巷で噂の男を見に来たの。あるいは、この男こそ本当の天の御遣いと宣伝しようかとも思ったけどね」 
「……勘弁してくれ」
 そんな目にあったら、俺は羞恥心で悶え死ぬだろう。言い切った俺を彼女は面白そうに、そして意外そうな眼差しを向ける。
「本当に、北郷とは違うのね。あの男とは少し話をしたけれど、皆を笑顔にするんだと理想を説いたわよ? その為に天の御遣いとなったのだと言っているわ。比べてあなたは随分と覇気が無いのね」
「……さっきもそれらしい事を聞いたが……胡散臭い宗教でも今時上げないような安いお題目だな……一体何をどうするつもりなのやら……」
 崇高な理想を非現実的だと嘲るつもりはないが、これっぽっちも褒めたり認めたりする気にはならない。むしろ、呆れる気持ちがため息の形で肺から出てくる。演義や歴史を元に、自分の好き勝手に歴史を動かすゲームをしているつもりなのだろうか。
「失礼、少しよろしいか」
「あら、あなたは?」
「私は公孫賛殿の客将、姓を趙、名を雲、字は子龍と申します」
 趙雲が話に割って入ってきた。まあ、大方天の御遣いに否定的な事しか言わない俺が気にくわないという所だろう。
「……」
その趙雲に曹操が目をつけた。出会ったばかりの彼女の目に、趙雲という女はどう写っただろう。譲ったのは値踏みをする為か。
「工藤殿にお伺いしたい事がある。先ほどからの言についてだ」
「私の大好きな天の御遣い様を侮辱するとは許せん、ぶち殺してやる、か」
 皮肉をこめて笑ってやるが、彼女はひるむ様子も憤るつもりもなかった。こちらが嫌になるほど真剣な顔をしている。全く、なんでこんなに思い詰める。天の御遣いとやらはどれだけの事を言ったのか。
「生憎と、人を殺さなければならないほどに天の御遣い殿に義理を感じているつもりはありません。魅力はあると思っておりますがな」
 婀娜っぽく笑うが、どこぞの吸血鬼を見ている俺は魅力など感じない。色に狂いたいのなら、義勇軍の天幕にでも行ってくれ。いい加減に汗も拭きたい。
「彼らの語る理想、私には心地よく。気高く思えました。しかしながらあなたはそれを否定する。それに憤りは感じますが、同時に貴方の考え、言葉を耳にして、曹操殿とのやりとりを耳にして、気持ちが揺らぎました。貴方の言葉に嘘偽りがないとするなら、仰った事も決して間違いでは無いのでしょう」
 俺は天の御遣いを嘘っぱちだと言い切った。それを嘘だと決めつけるのは簡単な話だ。だが、天の御遣いが本当だという証拠もない。ただ、珍しげな服を着ていると言うだけだ。そのいい加減さに気が付かないほどに彼女は愚鈍ではなかったのだろう。
「白状すれば、私も北郷殿が天の御遣いではない……少なくとも、超常の力など持っていない事には気が付いていました」
 意外な事を言う。気が付いても不思議ではないが、ならば何故彼女は義勇軍に好意的なのか俺には分からない。
「それでも思うのですよ。例え偽者でも、この乱れた世で人の支えとなり、希望となる誰かがいるのであればいいと思うのです。何よりも、彼女たちの戦を終わらせようとする心意気、皆が幸福で笑える世の中にするという理想は尊いと思いました。彼等は希望なのです。天の御遣いなど偽者と言い切り、それを奪ってしまうのはどうかと思うのですよ。何よりも、あなたは彼等を知らない。胸襟を開き、語り合ったこともないのに判断するのは早計も過ぎましょう」
「確かに決めつけかもしれないが、直接会わないからこそ客観的に判断できることはあるさ……それに、官軍にいるあんたが言っていいセリフじゃない。戦を終わらせるのは、あんたらの仕事だろう」
 ある意味、無責任なセリフじゃないだろうか。趙雲も、そして俺も。
「天の御遣いが嘘でも本当でもどっちでも同じ事だ。希望にすがって生きていくのには……賛否両論あるだろうが、それはどっちもどっちだ。だが、すがる希望は人でなければならない。天の御遣いなどにすがるのだけは絶対に駄目だ。それは間違えている」
「何故です? 天は人を救い、導く物であるはずです。民がそれに希望を見いだしてはならないと?」
「その結果が黄巾だ」
 俺が信じがたいと思うのは、今正に黄巾党という妖術使いだのと言われている怪しげな宗教じみた反乱を前にしてなお、天の御遣いの義勇軍という同様の宗教じみた私設軍の存在を認めている事だ。
「人を集めたのが劉備であればまだいい。だが黄巾も元々は、張三兄弟とやらが始めた信仰を元にした反乱だろう。既に漢はお終いだ、新たな天として自分たちが世の中を良くすると主張して人を募った。我こそが乱を治める救世主であると叫ぶ義勇軍では二の轍を踏む、を地で行く結果になりはしないか」
 まして、相手はたかだか現代日本の学生だ。この世で一番脳天気な生き物だ。
 大ざっぱな歴史の流れを知っている異境の地に単身降りて、怯えもしない馬鹿なガキは何をする? 未来を知っていると調子に乗って、好き放題するに決まっているじゃないか。
 史実はさておき演義において、劉備は敗北したヒーローだ。曹操という悪役に最終的には敗れたヒーローを助けるなんて、絶好のシチュエーションじゃないか。
 普通は適当なところで自分の器を思い知って終わりだが、一体何の幸運かそれとも才覚か、御輿に乗っちまった。ろくな事にならないのは目に見えてないか?
「大体、中華の大地はあんたら中華の民の物だろう。この大地を治めるのに、この国を守るのに、異邦人の手を借りてどうするんだ。希望はあんたらでなけりゃならない。この国を再建するのは、あんたら漢の民でなければならない。そうでなければ、あんたらは生きていく権利を放棄するも同じだ」
 根本的に、俺は信仰という奴が気にくわない。白状してしまえば感情的な話に過ぎないのだが、“新宿”で宗教と言えばほとんどが邪教である。新月の番に童貞の心臓を食って寿命を延ばそうとする主婦だの、“案内人”と称する妖魔に遊ぶ金欲しさに生け贄を差し出したりする女子高生だのを退治してきた身としては、宗教が国に関わろうとするなどは間違いとしか思えないのだ。
「そう、それが貴方の考えなのね」
 くるくる金髪が割り込んでくる。考えと言えるほどきちんとした物でもない、ただ、そうであるべきだろうという感情論だけだ。
「気持ちの問題だ。天なんかにすがっている場合じゃないだろう、って思う。それに義勇軍を作る意味だって自分の立身出世か、あるいは正反対に黄巾党の真似をするつもりなのかと疑っているのもある」
 漢を守るつもりなら、義勇軍なんて作らないで官軍に入ればいいじゃないか。兵は国民から広く募兵されていた、入れないという事はないはずだ。自身の理想があるなら、そこで叶えればいい。下心が無いというのなら、官軍に入るのも憚られるほど国に絶望しているのか。あるいは相当に自信家なのか、官軍の誰よりも自分が采配する方が上手くいく、とでも思っているのか……もしも本当だったらたいしたナルシストだ。まあ、実際には功名を上げて権力を手に入れようという所だろうな。
 はっきり言えば、幽州の民を募って義勇軍を作るというのは公孫賛に対して最高の挑発ではなかろうかと思っていたのだ。それを良しとしているのは本当に意外だったが……
「なっ! 桃香は自分の出世なんて考えていない! ただ、世の中の為を思って義勇軍を募ったんだ!」
「…………公孫賛、それ、貴方が当てにならないって言っているような物なんだけど……自覚がないの?」
「んがっ」
「あなた達の間でどういうやりとりがあったかは知らないけど……そう見られる面はあるわよ? 工藤もそう思っているみたいだしね」
 俺が言いたい事を、曹操がさらりと言ってしまう。言いづらい事を言い切るな、この娘。しかも、俺みたいな流れ者じゃなくて公的な立場にある人間が同じく立場ある相手にここまで率直に言うなんて……
「劉備にしろ曹操にしろ……果てしなく嘗められているんだなぁ……」
「な、なんだよ。そんな可哀想な奴を見るような目でこっち向くな!」
 口の中で言ったから聞こえなかったらしい。目が口ほどに物を言ったようだが……そんな正直な俺に、趙雲が思案顔で近付いてくる。公孫賛はいいのか?
「工藤殿の考えは理解した。確かに、貴方の言う面もあると思う。だが、それでも私は天の御遣いを、北郷殿を認めたい。例え偽者でも余所者でも、天の名前は大きい。それはそのまま与えられる希望の大きさでもあるのだと思う」
「そいつは結構」
 肩をすくめる。俺はろくな連中じゃないとは思うが彼女は違う。人それぞれだ。俺と趙雲では立場が違い、物を見る目線が違うのだから当然だ。そして、もう一人目線が違う人物もここに入る。
「なら、私は否定させてもらおうかしら」
 曹操は、周囲に自分をアピールする千両役者のように笑う。いや、彼女が意識しているのは自分の部下達であり趙雲だろう。
「工藤、貴方の言う言葉に心地よい物が一つあるわ」
 俺を見つつも、彼女の意識は俺にはない。元々彼女の下にいる部下を更に強固に捕まえる為に、そして今、趙雲という女を捕まえる為に俺に語りかける。衆目の目を意識する姿は本当に役者のようだ。誰も彼もが目を奪われるだろう……だしにされた俺を除いて。
「この大地は、私たちの大地、この国の希望となるのは、私たち。その通りね。全くもって、道理だわ。漢の希望は漢人で無ければならない」
 一人芝居のチケットをもらっているのは彼女らだ。俺はもう背景だ。どうでもいいや、と距離を置いて服を脱ぐ。風邪を引きたくはなかった。脱いだ服で体をぬぐうと心地よかった。
「だから趙子龍。私と共に来なさい。希望を民に授ける事を目指すなら、私こそが希望になる。あなたにはその為の力があるわ、常山の昇り龍」
「華琳様!?」
 人目がない内に全部脱いで着替える。元々持っていた服だ。装備も、全部身につけよう。これから、夜明けと共に官軍は出発する。それに乗じて、忍び込む……今のうちに出発して、先回りして忍んでおくか……着いた頃が夜明けであれば一番いいな。
「私の名をご存じとは光栄だが……私も少しは貴方のことを知っている。曹操孟徳、名の知られた能吏であると、今も軍を率いて破竹の進撃を重ねていると聞いている。確かに、我が槍を預けるのにふさわしいかもしれませんが……」
 夜襲とか奇襲とかは仕掛けないのかね。出来ない軍略的な理由でもあるのか……まあ、その辺はどうでもいい。李江はどうする? このまま放っておきたくはないが、天の御遣いとやらの側に張り付いているようだから戦場の一番安全なところにいるのではないだろうか。後は血に浮かされて素人が突っ込んだりしなければ、たぶん生き残れるだろう。
「今はまだ客将の身。まずはこの戦場を越えてからお答えいたしましょう」
「って言うか、私の前で堂々と引き抜きってどういう神経だよ……星も星だ」
 ……ああ、公孫賛に李江のことを一言、頼んでおくべきかな。あいつもその内故郷に帰るんだろうし……いや、親父がいるんだから余計なお世話か。
「そう、なら楽しみにしているわ。そちらの工藤も……その格好は」
「ん?」
 どうやら芝居は一区切り着いたらしく、こちらを向いた曹操が目を丸くする。つられてこっちを見た猫耳が目を丸くした後で金切り声を上げた。
「あああああ。あんた、何私たちの前で堂々と着替えてるのよ、変態! 変態! ド変態! 露出狂の気でもあるって言うの!? ああ、おぞましい……何をぼうっとしているのよ、春蘭! こう言う変態を殺すくらいしか能が無いのだからとっとといつもみたいに猪丸出しで斬り殺しなさよ、この脳筋女!」
「戦場でいちいち着替える場所を捜すような兵士はいないぞ。大体、一応我々の見えないところで着替えていただろう。それよりも、見たことのない衣装だな」
「何処のお嬢様だ、全く……ああ、すまんな……曹軍の方。どうにも巻き込んだようで……しかし口が悪いな、それで世の中渡ってきたとか、どんだけ甘やかされた御姫様だ?」
「は! アンタみたいな愚図の変態と違ってこの私は実力でなんでも乗り切ってきたのよ。力しか能の無い下品な男と違ってね!」
「あっそ。ところで何か俺に言いかけてなかったか」
 こういうのは相手にしないに限る。俺はこの場で猫耳を唯一黙らせられるだろう曹操に話を振った。こう言う女を見ると、魔界医師の女に対する価値観に共感できそうだ。
「これ以上、女という性別の値打ちを下げて欲しくはないものだ。世の中には尊敬に値する女も確かにいるというのに」
「あら、何処にいるのか聞いてみたい物ね」 
 噛みつこうとした猫耳に、ちょうどいいタイミングで曹操が声を発する。間を外して歯がみする猫耳に、俺はわざとらしくにやりと笑みを向けた。そろそろ火でも吐きそうな顔をする猫耳に、この場で一番冷静そうな女がため息をついている。
「何処にでもいるさ。ろくに色気のない人生送っている俺でも何人か知っているのだから。それよりも、俺に何か言いかけていたな。まだ聞きたい事があるのか」
「ええ、あなたの持っている力、あるいは道具……それを知りたいわ。貴方は義勇軍の天の御遣いとは違う、確かな力を見せている。ただの武術でも武器でもない、それこそ天の御遣いと名乗るにふさわしいかも知れない力……それに興味があるわ」
「華琳様!? まさか、こんな屑まで配下に入れるおつもりですか!? べぎゃっ」
 何時までも屑呼ばわりをやめない猫耳に、ごんと仁王で小突きいれる。おおお、とのたうち回る猫耳を見て脳筋扱いされていた女がにやりと笑った。
「ん? ちょっと待て。貴様、いつの間にここまで踏み込んだ?」
「見た通りさ。ああ、その痛みはきちんと暴言を反省するまで治らないぞ」
 足下から、この世で自分は一番正しいと信じていそうな目がにらみ上げてくる。
「うぎぎ……屑を屑と言って何が悪いのよ。男なんて全部まとめてゴミ溜めに集まって自分を燃やしてしまえばいいのよ……ふぎゃあ!」
「……こんだけ心が痛まないのもそうそういないな……」
 怒るを通り越して呆れてしまう。殺される為に生まれてきたような女だ。同情さえこめて、すぐ隣でこちらを唖然とした表情で見上げている曹操を見下ろす。
「で? 俺の腕や武器が聞きたいんだってな。こいつをどついているお返しだ。ばらしていいが、何を知りたい」
「まずは桂花のそれ、止めてもらいたいのだけれど」
「本人が心を改めれば治るさ」
「無理ね」
 言い切りやがる。今までどんな人生を送ってきたのかと慄然とする。
「なら、そのままだ。どうせ根性を改めなければ明日にでも殺されているような性格だ。こいつ自身にとっても悶えているくらいがむしろ安全じゃないか」
「まあ、待ってくれ。桂花の暴言は私から謝罪するし、きちんとしつけておくと約束する。だから、許してやってくれないか」
 頭を下げたのは冷静そうな片目を髪で隠した女だった。その直後にうめき声が消える。
「母親みたいな事を言う。今回だけだぜ」
「ありがとう」
 涼やかに笑う姿が絵になるとは、随分といい女だ。きっと俺とは縁が無いだろう。下から恨みがましい目がにらみ上げてくるが、さすがにこれ以上何かを言おうとは……
「こ、この男のくせによくも……」
「春蘭」
「はっ!」
 黒髪が口を閉じさせた。ここまでくると逆にすげぇな……魔界医師やせんべい屋を前にしたらどんな顔をするのか試したい気もする。
「力の一端を見せてもらったという事かしら。いつの間に隣に来たのか全然分からなかったわ」
「殺意も何もないからだろう。まあ、俺の力なんてその程度さ」
「なら、武器はどんな物があるのかしら。光、とは何?」
 俺の言葉を全く信じていなさそうな顔で促してくる。ついでに言うと、引く事を知らなさそうな面倒くさい顔もしている。無造作に背中の袋からMPAを抜くと、空に向かって引き金を引く。青白い光がどこまでも真っ直ぐに空を登っていくのを誰もが見た。
「あ、やべ。目立ったかな」
「……それは天の国の武器なのかしら」
「だから、天の国なんかじゃないってぇの」
 不可視の光線にも変えられるが、自分が分からないので大抵は色をつけている。俺は青に調整してもらった。
「惜しいわね、あるいは貴方が天の御遣いを名乗るつもりがあれば、私は天下をとりやすいというのに」
「とりやすい、ね」
 大した自信だ。いいや、自信ではなくて気概か。とれるではなくとると言いたげだ。世間知らずの小娘の増長か、本物か。七対三で本物と見た。
「いいのかい? ここにはあんたの味方以外もいるんだぜ」
 視線を向けると、身構えた女が二人いる。だが曹操は構わないと不敵に笑うだけだった。
「漢は終わるわ。気が付いていないのはよほど愚鈍な物ばかり。後に残るのは群雄の時代であり……そこから一歩抜きん出るのはこの私。どうして私が天の御遣いを見に行ったと思う? 珍しいだけじゃない。あの男も漢は終わると言う前提で行動している節があると細作の報告があったからよ」
「そして、そんな天の御遣いの言動が漢の滅亡を加速させる……それを天意と信じる支持者を増やして。何よりも、お前さん達はそうあって欲しいわけだ。自分が天下を取る為に」
 よく出来ました、と言う顔で曹操が俺を見上げる。ガキにガキ扱いされる事ほどむかつく事もない。せめてもう頭半分背を伸ばしてからにしやがれ。
「やれやれ……俺はもう行くぜ? つまらない仕事が待っているんでな、手早く終わらせたい」
「あら、つれないのね。せっかく再会したのに」
 そう言ったのは、曹操ではなかった。
 彼女よりも少しだけ低くて、彼女よりも艶があり、同じように自信に満ち溢れた声だった。聞き覚えのある声と共に、見覚えのある女が歩み寄ってくる。でかいとっくりを持った彼女は俺に親しげに手を上げて微笑んだ。
「また酔ってんのかい、孫策」
「景気づけよ、明日は血に酔う日だから今日は酒に酔うの」
 三ヶ月ぶりか? そこにいるのは以前と同じ衣装を着た孫策だった。戦場に娼婦紛いの格好で来るのってどうなんだ。
「ここのところ、貴方が側にいるような気がして捜していたのよ。そしたら、月見酒をしている私の前をおかしな光が天に昇っていくじゃない? 間違いないって思ったわ」
 貴方と会ってから勘が冴える冴える、と楽しそうに笑う女に、武将や統治者としてはともかく女としては決して勝てないだろうと思える小さいのが不敵に声をかける。背伸びをしている子供にしか見えず、正直、ちょっと笑いそうになった。
「あなた……孫策殿と言ったかしら。虎の娘……孫家の?」
 一瞬虎憑きの事かと思ったが、たぶん単なる異名だろう。孫策は誇らしげに曹操の三倍はありそうな胸を張った。
「ええ、そう。あなたは曹操殿ね。お互い、話をするのは初めてね……何か楽しいお話をしていたようだけど、工藤を天の御遣いとして口説こうとしていたのかしら?」
「あら、いい勘をしているのね。あなた、工藤殿とお知り合いだったの?」
「斬り合ったけど、負けちゃったー」
 にこにこと、むしろ楽しそうに語りながら俺にしな垂れかかる。酒臭いからやめて欲しい。しらふの時にやってくれ。
「ああ、そうそう。工藤、天の御遣いに会った-? あんたがあの時言ってたような化け物なんかじゃなくて、ただの子供だったわよー」
「らしいな」
 負けた、と彼女が言った時には武人肌の面々には驚きが。そして俺にしなだれかかった時には軽蔑に近い物が生まれる。負けた相手にこびを売っているとでも思ったのだろう。
「でも、骨がないわけでもないわよ」
「ん?」
 意外な言葉が出てきた。
「御輿に乗っているだけの坊ちゃんかと思ったんだけどねー……どうも、劉備達が人を集めるのにそれっぽい男を利用しただけみたい。本人も分かっているけど、命の恩人に頼まれたら仕方が無いって」
「ふうん……なるほど頼まれたのか、ならしょうが無いかなぁ」
 北郷とやらは恩人に報いる為に道化になったらしい。自分が道化だという自覚はないかもしれないが、それでも周囲に天の御遣いであれと望まれたからそうなったのだろう。なら、あるいはそれは立派な事であるのかも知れない。自分が何の能も無い半人前の凡人であると理解した上で、周囲に天であれと望まれ、それを成し遂げようと挑み、道を違えないので有れば……それは、どうしようもなく立派な事であるのかも知れない。
「私は、劉備達諸共ぶち殺したくなったけどね」
「骨があるんじゃないのか?」
「だって、ずるいじゃない。こっちは兵を集めて養ってで散々苦労しているのにさぁ。ただ集めるだけならまだしも、家にはあちこちから横やりが入ってくるのよ。それが天の御遣いの名前だけで兵が集まるんだったら、こっちの立つ瀬が無いじゃない」
「素直だな」
「だからさ、遅まきながらも工藤を天の御遣いにして」
「断る。大体、俺はする事があるんだ」
 あによー、今ならこんな美人がもれなく付いてくるわよ、妹もいいわよ、などとろくでもない事を言う孫策の後ろで、公孫賛がため息をついているのが見えた。次から次へと派手なのが出てきて、私の影がどんどん薄くなるじゃないかとぼやいているが、隣の趙雲にさえ気が付かれない有様だった。
「やる事とは何かしら? この漢に現れたばかりの貴方に何があるのかしら」
 曹操が油断ならない目で俺を見上げる。漢で余所者が乱を起こすな、そう言っているように見える眼差しは敵意と隔意が水のように湛えられ、それが郷土愛であると思えて心地よかった。
「妖怪退治、かね」
「……妖怪?」
「何それ」
「馬鹿じゃないの?」
「気でも狂ったか?」
「……ほう、なかなか面白い」
「なんだ、妖怪って」
「大まじめに随分な事を言う」 
 趙雲一人を除いて、そう言う反応だった。天の御遣いは拝むのに、妖怪変化は信じないらしい。人に都合がいい物以外は信じないという事だろうか。人間らしい。
「信じようと信じまいと構わないさ。だが、いる。この漢のどこかにいる。そんな風に思えてならないのさ。妹喜にして妲己にして褒姒たる、三つの王朝を滅ぼした女が」
 言いながら、俺は孫策のとっくりから一口酒を飲んだ。こんにゃろうとばかりにとっくりを庇って距離をとる女に笑いかけて……足下が水音を立てた。
 俺だけではない。
 孫策の足下でも水の音がする。
「え……っ!」
 足下を見下ろした俺の鼻に鉄の臭いが飛び込んでくる。
「これは……血だと!?」
 俺達の周囲は直径五メートルもの血の池が出来ていた。いつの間に生まれたのか分からないそれは曹操と孫策、二人を中心に広がり、全員の足を濡らした。後に知る事だが、同じ現象が劉備の、孫権の、董卓の足下でも起きていたという。
最初は誰も彼もが驚きに固まっていたが、今は誰もが警戒と闘志を全身にみなぎらせて自分の得物を抜いている。涎が垂れんばかりに口を開けて顔を青ざめている猫耳以外、さすがは戦場のまっただ中に立つ武将か。
「工藤……これは、何?」
「どうして俺に聞く?」
 血の池の中に立つ曹操の目は真っ直ぐに俺を見ている。孫策もまた、俺を見ている。
「突然湧き出てきた血の池……あなたがあの名前を口にした途端に湧き出た。私にはそう思えたわ。妹喜、妲己、そして褒姒……」
 その名前を曹操が口にした瞬間、血の池のあちこちが数え切れないほど盛り上がった。最初は泡のように、次に蛇のように盛り上がったそれは数十にも及ぶ血液で出来た腕であった。
 それらはことごとく、天を渇望する罪人のように月を求めるように真っ直ぐに伸ばされる。明らかに血で出来ているにもかかわらず生身のそれであるかのように精緻だ。
「なっ……なっ……なっ……」
「何なのだ、これは!」
 血の池どころではない、誰が何をどう言いつくろおうとも覆しようのない異常現象に囲まれた公孫賛は固まり、黒髪は叫ぶ。あっという間に囲まれて身動きが取れなくなっている周囲の狂乱になど異なる世界の話であるかのように……あるいは、実際にそうであるのかもしれないそれらの腕は、それぞれがお互いの近くに生えた腕と組み合って祈るような形を取る。
 それは狂気の絵画のようであり、囚われている女達はさながら生け贄のようであった。
「あまり見ない現象だな」
 仁王を握り直して、念を練る。その力を感じ取ったのか、血の腕は一斉に手近な女達につかみかかる。絞め殺すか、あるいはそのまま血の池に引きずり込むのか。
「う、うわ!」
「華琳様を離せ!」
 自分の足下を薙ぐ者、我が身を省みずに主君を守らんとする者、それぞれの奮闘空しく剣は血腕をすり抜けるばかりだ。だと言うのに、向こうはあり得ない強力を持って彼女たちをしかと離さない。さすがの彼女らも顔にわずかばかりの恐怖が生まれたが、俺の準備は整った。
「いいいいえええぇぇえいっ!」
 大喝一声、力の限りに叫び振り下ろした仁王を受けて一同を掴んでいる血腕は弾けて消え去り、残っているのは出所不明の赤い血だけとなった。
「……この世界に来て初めての怪異だな」
 一人だけ血塗れにならずに済ませた俺は、ようやく来たかと叫びたくなった。この世界に来て既に四ヶ月を数えつつあるが、その間ずっと探し続けた兆候にやっと生殺しの終わりかと思うのだ。
「あ、あんたのせいでしょう。これ、このふざけた真似はあんたのせいでしょう!」
 他の面々は周囲を警戒したり、あるいは呆然としている中で猫耳がこちらを指さして糾弾を始めた。意識があったのか、一人だけへたり込んでいたから気を失ったかと思っていた。結構根性あるじゃないか。
「ちょ、聞きなさいよ! 男のくせに私の言葉を無視するなんて……っ!」
 他にも色々言っていたようだが、聞き流す。それよりも、周囲にぶちまけられた血の分析が先だ。だが、それに納得しない……恐怖を打ち消そうと言うよりも、本当に自分に従わないのが許せないからに見えるのが恐ろしい……猫耳が近付いてくる。
 彼女の体に染みついている血が襲いかかってきたのに気が付かなかったのは、不覚もいいところだった。
「え? 何? 何なの!?」
「わ、私達のも!?」
 襲いかかってきた血を皮切りに、四方八方から全ての血液が俺の周囲を卵の殻のように覆う。俺の反射神経では反応しきれない速さで俺を覆った血の卵は外界と音も光も完全に遮断し、深淵の闇に俺を閉じ込めた。
「ちっ……まずいな」
 咄嗟に仁王を振ったのだが、何の手応えもない。閉じ込められたか、あるいは転移されたのか……二、三度足を踏み出して周囲を確かめるとそれは石畳のようだった。転移で確定だな。
「と、なれば……先にいるのは誰だ」
 わざわざ口に出しながらも、もちろん察しは付いている。わからないのは、何故俺なのか、だ。
 十秒ほど意識を研ぎ澄まして周囲の状況を探り、おもむろにライトをつける。太陽電池で十年保証付きのそれは、小型にしてはなかなかの出力で当たりを照らす。いつの間にか血の一滴さえも残さずに消えたそこは、遺跡さながらに総石造りの味気ない廊下だった。
「念法使いと言うよりも、トレジャーハンターの出番だな」
 もっとも、この場所に八頭の一族を招いた日には責任とって自決させられるだろう。何しろ、一直線で何もない。罠がないのは結構だが人もいなければ扉も窓もないので、何処なのかさえ分からない。窓がなくて風を感じないのだから地下、なのだろう。
「人を連れてきておいて、案内も無しとかひどいんじゃないかー!」
 声を大にして、叫んだ。誰かが来てくれるかも知れないとささやかに期待してみると、ぼうと小さな光がこちらのライトの範囲外に点った。
「……一応は、案内する気があるみたいだな」
 音を立てずに光に歩み寄ると、向こうも音を立てずに近付いてくる。互いの距離が十歩分程度になった時、ライトはより小さな光源の持ち主も照らし出した。
 美しく、生命という言葉の真ん中にいるような年頃の女だった。
 この国に来てから、幾人も容姿のいい女には出会ったがどこもかしこも不自然な感じがして気分はあまり盛り上がらなかった。間抜けな例えだが、普通の街をコスプレをして練り歩いているような違和感ばかりが優先して感じられる女ばかりだった。
 この女はそうではなかった。
 この時代の服を着て、髪は確かな黒髪であり髪型も両耳の隣で茄子のような形で纏められている。自然な美しさ、この大地の住人としての確かな美しさがそこにはある。
 だが……これまで出会ってきた女達はこの大地の住人としてずれていると言えるが、彼女は生き物としてずれている。
「ようこそいらっしゃいました、勇敢な方。私は秀蘭と申します。お名前を伺ってもよろしいか」
 金糸銀糸の服を纏った彼女が闇の中で蝋燭を持ちながら、女は俺に歓迎の意を表した。その言葉は漢の時代の言葉だった。この大地の言葉だった。
「工藤冬弥。歓迎痛み入るよ」
 同じ言葉を返した。上手く話せているか自信はないがどうやら通じたらしい。だが初対面の挨拶をする表情を水面のように変えない見覚えのある女は、かつて“新宿”で俺を翻弄した事もある妖姫の従者である秀蘭に違いなかった。
 人形娘に灰にされ、それでもなお偉大なる大将軍を守り続けた女だ。
もちろん彼女は幻でもなければ、灰でもない。確かな力を……それもこちらを圧倒する妖異な力を秘めている圧倒的かつ暗い存在感を見せている。
「……間違いないな」
 彼女の登場で、俺はようやく確信できた。
 ここは間違いなく漢だ。どれだけふざけた面子が顔を並べていようとも、騏鬼翁が作り出した偽者の世界ではない。彼女もまた、ダミーの類ではないだろう。劉貴がそれを許すまい。大体、こいつらがせつらはともかくとして俺にそこまで手の込んだ罠を使うわけがないのだ。
 ……だとしたら、この大地は何だ? この国は、あの女達は一体何だ?
 今は考えるまい。そんな余裕など欠片もないのだから。
「私の主がお待ちです。どうぞこちらへ」
「主とはどんな人かな。この世界を作った長い髭のご老人。それとも、威風堂々たる武人かな、あるいは……傾国の美女っていう線もありだな」 
 俺の言葉ににこりと笑うだけで、秀蘭は背を向けた。無造作でもそこには自信がうかがえる。俺などでは例え何をしようともあっさりと殺してみせるという自信。
 あるいは、何をしようとも決して殺されないという絶対の事実がそこにはある。
「さあ、どうでしょうか。それを知りたいのであれば私共の試しを受けて頂かなければなりませんが」
「どんとこい」
 勝算なんぞ無きに等しいが、それでも袋叩きよりはマシである。
「それでは」
 彼女はにこり、と気負いもなく笑うと右の手を上げる。刹那前触れもなく髪から銀光が飛び出して俺を襲う。俺は一歩だけ下がってそれをかわした。レーザーを切り払う事は出来るが、銀色のそれはかわすだけで精一杯だった。
「私の櫛」
 にこりと笑っていた彼女はそのまま銀の光を懐にしまう。ちらりと見えたそれは確かに櫛だった。
「かわした者は久しぶりです。風変わりな格好をしているだけではないお方」
「とある街に行けば、この程度の試しは笑って跳ね返す輩はいるさ。かわしただけではどうしてどうして」
 内心では冷や冷やものだ。全く、中国の歴史はつくづく恐るべし……そんな事さえ忘れるとは、ここのところ“区外”のような環境にいたおかげで勘は鈍ってしまったか。
「それはそれは、どのような街かぜひ教えて頂きたいものです」
「知らない方がいいような街だ。だからこそ、アンタやアンタの主人とも合うだろう」 
 とある爺などは、欲しがりさえするのだ。
「それで、試しとやらはこれでお終いか」
「いいえ、この程度の男を通してしまえば秀蘭は、生涯無能の誹りを受けなければなりません。これからが試しでございます、どこかで覚えのある匂いのお方」
 言うやいなや、秀蘭は懐にしまったはずの櫛をもう一度取り出して自身の手首に突き刺した。当然、赤い血がホースの飛沫がごとく石畳を濡らす。そして、彼女はそのまま後ろへと一気にかけ出して闇の中に消えた。
 ふう、とため息一つをついた。蝋燭まで持っていかれたのでライトをしまうにしまえない。工事現場よろしく頭につけるタイプの方がよかったか。ふさがった腕に心許ないものを感じている俺の目の前で、血が盛り上がった。
 もう一度腕が生えるか、と身構えたが出てきたものは全く違う。現れたのは本物と全く変わらない十人の秀蘭であった。しかし、その誰もが五十センチ程度の人形のような大きさであるのは笑うよりも怖気を感じた。
「ねえ」
 だが、恐怖をとろかしたのはとろけるように甘い声だった。妖女の声は俺の精神から緊張を奪う。
「お兄さん……抱いて」
 その声にこめられたのは催眠の魔力。修行で鍛えられたとは言え、所詮は凡人の柔な克己心を夏の氷のように溶かすのは当然だと、秀蘭たちは笑った。
 一斉に飛びかかってくる彼女たちは正に猿のごとし。いや、それ以上か。簡単に捕縛された俺は彼女らの関心が首筋に集中しているのは当然と納得しながらも総毛立った。
 どこかから、いとも容易く捕らえられた無様な得物に対する辛辣な嘲りを感じる。
「まあ、捕らえられても牙までたてられるとは限らない」
 ジルガの一手、凍らせ屋命名で鉄皮。内臓まで鋼鉄にする秘技の前に、人形の牙は文字通り歯がたたなかった。次の瞬間に。意味を成さない人形達は跡形もなく消え去った。
 夏の氷が溶けてしまおうとも、それは決して一瞬ではない。限られた時間の中で、ジルガを使えたのは三ヶ月の修行でほんの少しだけ増した技量のたまもの、紙一重の結果だ。
 これで、何処までやれるのか。
 悲惨な末路が待ち受けている事を半ば確信し、震えそうになる足を叱咤して前に進める。くそ、こいつらの相手はもっととんでもない超人達がするべきじゃないのか? ……そう言えば、かませ犬も一杯いたな。俺はその一人か、シチュエーション的にも納得しちまった。
「次のお題目は何だ」
 答える声は、何もない。ならば自分で進むしかないか。罠がたっぷり待っているのかねぇ、やっぱり。
 だが、予想に反してそれ以降は本当にただ真っ直ぐに進むだけで扉の前に行き着いた。大きな、両開きの扉の向こうには玉座の間があるだろうと察しは付いた。
 ゆっくりと、開く前に気持ちの準備はしていた。
 妖姫には幾度も会っている。だからこそ、自分は耐えられると思っていた。
「来たか」
 たった一言だった。
 俺の踏み込んだのは玉座ではなく寝室だった。
 整然と並ぶ幾つもの蝋燭にてらされた、天蓋の付いた絢爛豪華な寝台に蛇のように横たわる真っ白な全裸の美女が発したたった一言で、俺はあっさりと金縛りに遭った。ああ、これが格の違いか。
「この奇妙な世界で見つけた、更に奇妙な二人の男。その片割れが私に一目見られただけで容易く虜になったか。つまらぬ」
 姫だ。
 間違いようもない、あの女だ。
 誰よりも傲慢で、誰よりも奔放で、誰よりも淫蕩で、誰よりも残忍で、誰よりも慈悲がない“新宿”を破滅の一歩手前にまで追い込んだ女だ。
 この中国で、三つの王朝を破滅に追い込んだ傾国の美女にして、神代より生き続ける吸血の妖女だ。
 せつらに恋をして、彼を屈辱の極みで破滅させ膝元に屈させる為に華南高子の血を吸った、“新宿”を壊滅の手前にまで追い込んだ狂にして兇女だ。
 それが俺の前にいる。
 “新宿”で出会った時と同じように古今東西のどの女よりも淫蕩な肢体を見せつけるようにさらし、闇を象ったような黒髪はその体にまとわりつきより深い淫蕩さを演出する。そして、酷薄な目で俺を見るこの世の何人も叶わないと思える絶対の美貌。
 美しさならば張り合える三人を知っている。だが、妖気漂う傾国の魔力はこの女にしかない。それが今、“新宿”で灼かれる以前の完璧なる面で淫毒に満ちた眼差しを向ける。
 女は地を這う虫けらを見る天女のようだ。それでよかった、いいや……それがよかった。マゾではない男でも見られるだけで達しそうな両眼が俺を見ている。吸血鬼の猫眼に代表される魔力などこめられてはいないのに、それでも俺を縛り上げる純然たる魅了の力よ。
「つまらぬな。いいや、秀蘭の児戯ごときにいとも容易く絡め取られるような男では、退屈しのぎのおもちゃにもならぬか……騏鬼翁」
 姫の空気に糖が混じりそうな声に呼ばれ、見覚えのある老人が現れた。音もなく現れたのは、それにふさわしい仙人のような老爺だった。
 夏の大妖術師、騏鬼翁。
 未来にして過去である世界においては、唯一“新宿”の覇権を握るのに積極的だった男だ。
「もう一人の方へ行かれますかな」
「その小僧にはもう用はない。貴様の実験の材料にするなり、卑しい獣の餌にするなり、好きにするがよい」
 既に妖姫は俺などには目もくれず、いつの間にか側に現れた秀蘭に金糸銀糸に彩られた豪奢な衣装を着させられながら立ち上がる。その姿だけで空気を変える圧倒的な色香があった。
 この女を前にしたなら、官軍も黄巾党も意味は無いだろう。死ねと一言言われれば誰もが恍惚として喉を突き、舌を噛むに決まっている。
「おお、秀蘭。これの試しはお前がしたのだったな」
「左様にございます」
「ならばお前が使うとよい。喉を潤してもよし、交わってもよし、最後は古き倣いに従い土に返せ。糞尿に塗れた虫けらの大地に最も痛恨の苦悩を味わせてからさらすとよい」
 妖姫は、面白いという気持ちにさえならずに無惨な令を命じてから消えた。これから、騏鬼翁の言うように北郷とやらの元に行くのか。それともただ気の向くままに殺戮と淫蕩を繰り返すだけなのか。
 いずれにせよ、最悪の敵は消えた。しかし、まだ二人いる。どちらも俺の手には負えない妖異の化身だ。例え主がいなくとも、従者の一人で俺には絶対の絶命だ。
 主を見送った秀蘭は、ゆっくりと顔を上げると主には及ばなくとも充分に美しい顔を俺に近づける。その顔は、無邪気なほどの笑顔で彩られている。餌を見つけた獣の顔だ。騏鬼翁は俺の装備を物珍しげに見ていた。食い終わったのなら残ったそれを研究の肥やしにするかと言っている。
「…………多少の力はあるようだが、それだけの男。下僕にするまでもない、ただ、私の喉の渇きを潤す為に死ぬがよい」
 喉元に口づける秀蘭に、何も言えないようなていたらくでありながらも怒りを感じる。ふざけるな、嘗めやがってと言う怒りが魅了に凍り付いた腹の底に生まれる。
 何だろうか。
 胸の奥から何か力が生まれた。
 それが肉と骨、そして魂を縛り上げる魅了の鎖を引きちぎった瞬間に俺は怒りにまかせて秀蘭をふりほどき床に叩きつけると騏鬼翁に向かって踏み込んだ。
「いいいいぃぃいいえええぇいっ!」
 大喝一声、声を限りに裂帛の気合いを叫んで繰り出した拳はジルガの技に瞬間で練り上げたありったけの念を篭めたもの。例え夏の大妖術師と言えど、油断しきった身で躱せるはずもない。
「何と、姫から逃れよったか!? 貴様程度の木っ端が、あり得ぬ!」
 内心で同様の評価を自分自身に下しながら、体内に手榴弾並の衝撃をたたき込まれてひるんだ騏鬼翁に一気に飛びかかる。これこそ千載一遇のチャンスに他ならない。俺とこいらの実力差は圧倒的に過ぎる。
実力に合わない結果に驚愕しているすきにつけ込めるのは一度きりだ。これを逃せば、二度と通じるまい。この、姫以上に危険かも知れない大妖術師を滅ぼす機会など二度と無い。吸血鬼とはまた違う不死身の体現者よ。
「ほう」
 仁王を抜く間も惜しんで拳でケリをつけようとする俺の手首が、誰よりもたおやかで何よりも美しい手に捕まれた。一体いつ歩み寄ったのか分からない女は秀蘭ではない。
「まさか、私から逃れるとは思わなんだぞ、武芸者。その力、どこから出てきた」
 騏鬼翁を救ったのは主だった。
「喝っ!」 
「ほう」 
 何かを考える前に体は動く。捕まれた腕は姫を合気の極意をもって投げようとした。人には効かず、妖物にだけ死を与える投げ方はかつて奈良で学んだ。だが先に投げられてしまった俺は無造作に宙を飛び、そのまま壁に着地する。姫が感心したのは蜘蛛のように張り付いた体術にだ。
「ただの虫かと思っていたが、なかなかではないか。騏鬼翁、一本とられたの」
 ようやく立ち上がったのは騏鬼翁、そして秀蘭。おかしい、今更に立ち上がるなど本来の実力にすれば考えられない。相手は四千年を生きた稀代の魔人。特に騏鬼翁は、魔界医師と黒い魔人に相対しても袖を斬られただけで逃げ延びたような怪人。
 それが、たかだか俺の一発でいつまでも沈んでいたなど……何かの遊びか。
「姫、こやつは儂にくだされ。夏の拷問吏のやり方に則って、千の肉片に変えたままで千年生かした後に丹の材料にでもしてやりましょう」
 だが、遊んでいたはずの騏鬼翁は鬼の形相で壁に張り付いた俺を見上げる。それは紛れもない怒りだった。主人に助けられた無様な従者が恥をそそぐ為に下手人の命を欲している。
「そやつの心臓は私にください。それの血を杯に入れて飲み干しまする。皮は劉貴様の馬の鞍にでもして、骨で箸でも作りましょうか」
 秀蘭もまた同様。そこには誤魔化せない本物の怒りがある。何故だ。
「ならぬ」
 姫は臣の訴えを一言で切り捨てた。だが、彼等の怒りを一顧だにしない切り捨てた命にも二人は膝をつくだけだ。
「これは劉貴に当てる。私はこの大地に興味は無い。ここは偽者の匂いしかしない大地、つまらない男、偽者の男しかいない。私が抱きたいと思う益荒男も勇者もおらぬ。私はこのつまらない国では遊ぶ気さえせぬ。騏鬼翁、随分と味気ない国を選んだの」
「申し訳ございませぬ」
 この漢はおかしい。それには同意する。文化にもおかしな所はあるが、何よりも英雄であり歴史に名を残す勇者達が誰も彼も女となっているのだ。男は誰もがその下風に立っているとなっては確かに妖姫には味気ない国だろう。
「この程度の武芸者でも、この国では稀なる傑物よ。下らぬ国とは思わぬか」
「誠に、左様かと」
 こき下ろされているのは業腹だが、それに噛みつけるだけの腕はなかった。
「そのつまらぬ国に、私を楽しませるような血も狂気もあるとは思えぬ。ならば、後は作るか、捨てるかよ。作るを劉貴にさせようと思う」
「劉貴に黄巾の娘達の血を吸わせますか」
「この国にはつまらぬ男しかおらず、人の上に立つのは娘ばかり……ほほ、滑稽な国よな。そして、つまらぬ男ばかりの国に劉貴をやればどうなる? あの大将軍の前に血を吸ってくれと喜んで自分の喉を突く娘で夜の道は街の外まで溢れかえるだろうて」
「劉貴様には戦士の誇りがございます。そのようなくだらぬ娘の血を吸われるでしょうか」
 秀蘭が言った。その言葉の中に女としての情念を感じ取ったのは滅びてもなお劉貴を守る未来の彼女を知るからだけではあるまい。既に彼女の心は、あの平原でどこまでも夕日を追いかける戦士に捧げられているのだ。
「例え下女といえど、その血は甘露よ。劉貴と言えども、我らの飢えには勝てぬ。よしんば勝てたとしても、私が命じる。あれの命は私が救った。あのまま全身に矢を突き立てたまま死んだ方が億倍も幸福であったとしても、あれは命を救われた恩義に報いるであろう。心は決して私に捧げず、しかして私の為には千人を殺し、万回でも死ぬ男じゃ。あれは高潔を絵に描いたような武人であるが、だからこそ望まぬ非道の戦とて私の命に逆らえず、この国を吸血地獄に変えてみせようぞ」
 何という事を考えるのか、妖姫は自分には不足なこの国をふさわしい遊び場に変えようと企んでいる。望まない恩を押しつけて非道を働かせ、自分は後ろで劉貴という武人の誇りを二律背反で踏みにじる事に快楽を覚える。
 これが、三つの王朝を滅ぼした悪夢の女にとっては手慰みの遊びに過ぎないのだ。
「武芸者よ、貴様は劉貴と戦うがよい。私も、秀蘭も、騏鬼翁も手を出さぬ。貴様にもこの国にもその価値はない。ただ、劉貴に蹂躙される弱者として私たちの前に肴となる無様をさらせ。私は血の杯を掲げながらそれを楽しもう」
 俺を見上げる笑顔は正に稀代の妖婦。
「性格の悪いことを思いつかせたら天下無二だな、妖婦め」
「何、悪いことばかりでは無いぞ? もしも貴様が劉貴を討てたのなら我らは漢から手を引こう。元より何の値打ちもないような国、奇跡が一度見られればそれでいい。演目のない舞台など見ていても面白くもないからの」
 口ではそう言うが、この女の気まぐれはせつらの折り紙付きだ。約束を履行するような意識なんぞこれっぽっちも持ち合わせてはいるまい。少なくとも相手が俺では、な。
 虫けらと約束して、それを履行する人間はいないだろう。
「姫!?」
 口約束でも許せないのは騏鬼翁だが、真逆に静かに構えるのは秀蘭だ。劉貴が俺などに負けるはずがない。そう信じているのだろう。ああ、覆す自信はないな。
「行け」
 主は敵である俺はもちろん従者の声さえも一切無視して命令を下す。そう、命令だ。敵対者でありながらも命じるのが妖姫であり、従わざるを得ないのが俺だった。
「騏鬼翁」
「は」
 命に従った騏鬼翁の手に杖が握られ、それが振られると俺の隣に人一人が通るのがやっとという金属の扉が出来た。これを通れって? 怪しいところだが、それに何を言える立場でもない。
 騏鬼翁も秀蘭も、嘲りをこめて俺を見送る。だが、妖姫はどこかいぶかしがりつつも面白がるように俺を見送った。
「時に……貴様は何故私のことを知った? 何故、そのような格好をしている? 何故……私の匂いがする?」
「……この部屋に一歩踏み入れれば、移り香は一生離れないんじゃないか?」
 せめて、それだけが俺の精一杯だった。



[37734] 劉貴大将軍(加筆修正)
Name: 北国◆9fd8ea18 ID:280467e8
Date: 2014/09/01 13:29
 今回は原作キャラの死亡があります。
 義勇軍アンチもあります。
菊地作品のキャラクターがどんどん出てきます。
 菊地キャラは恋姫キャラよりも優位です。
 宗教は恐ろしい物であり、軍事や政治とは無関係であるべきだと思っています。
 以上をご理解いただいた上で読んでくださるとありがたいです。




 扉の先にあるのは、喧噪だった。
 音の奔流が俺を襲うように包み込む。
 騏鬼翁の術が作り出した扉を馬鹿正直にくぐった俺が飛び出た先は、正に戦場だった。
 片や砦に攻めこまんと押し寄せる雑多な装備の軍。
 片や砦を守らんとする黄巾をつけた軍。
 そして俺がいるのは、押し寄せる人並みの最前線、砦の上……ああ、日はもう高い。
 ……状況は把握できた。なんて所に放り出しやがる、糞爺。
「あれか、ここは官軍が突入しようとしていた黄巾最後の砦か」
 なんて所に来ちまったんだと我が身を嘆く。よもや合戦の真っ最中に出てしまおうとは。幸い周囲に人はいないが、俺が“新宿”に来る前だったなら訳も分からずに右往左往していたかもしれん。
 “新宿”のケンカはそのまま戦争の体を為す。それがもう呆れるほどしょっちゅう起きるのだ。そんな鉄火場に賞金目当てで首を突っ込んでいだ俺が、今更この程度で混乱するわけにもいかん。
 大体、暢気なことをしていれば劉貴の手により黄巾党の女とやらは劉貴の手で悪鬼となる。それこそ、俺が最も逸れている事態だ。しかし、一体何処をどう捜せばいいのやら……兵士か賊に成り済ましてだまくらかそうにも、この格好じゃ官軍でもなければ黄巾党にも見えない。
 こうなれば、消耗を覚悟の上で影矢でも打つかと決断しようとしたのだが……俺の影矢は相当に親しくないと上手くいかない。八方ふさがりかと悩んでいると、下の方に一際目立つ騎馬を一騎見つけた。
「ん? あのナース擬きは……」
 どこぞで見た女が、戦場にも関わらず甲冑も着けずに平時同様の格好で白馬に跨がり駆けている。馬鹿なのか、それともよほど切羽詰まって出撃したのか。攻めている側が準備不足になるような事態などなかなか無いだろうから、おそらくは前者……けれども、あの女なら兵士から情報を引き出せるだろう。
「奇天烈な格好もたまには役に立つ!」
 中に入れてやる代わりに、協力してもらおう。懐からMPAを抜くと、狙いは付けづらいが門を狙う。さすがにあれだけでかい的だと、射線を確保できれば外れる事は無いな。
「さっさと中に入ってこい」
 乱戦になれば、それだけ忍び込む隙も増える。引き金を引いた瞬間、光速で飛んだレーザーは鉄か銅か、とにかく金属で出来た大扉を焼き切った。
「はあ!? 門が崩れた?」
「なんだ、今のは!」
 趙雲に……もう一人は、曹操の所の黒髪か。それが扉の崩れる轟音も物ともしない大声で驚きを表現する。気が付けば、扉の辺りの動きが敵味方止まっている。
「さて……上手くいくかはお立ち会い」
 に、と人の悪い顔をしているだろうなと自分でも思う笑顔で俺は眼下のナース擬きに狙いを済ませる。
 こちらの視線を感じ取ったのか、見上げてきた彼女と目が合った。驚きに目を見開く彼女は、正直に言って遠目でも充分面白い。
「なあああぁぁあっ!?」
「召し捕ったりー!」
 趙雲はあるまじき悲鳴を上げながら宙を飛んだ。人間いきなり中空に放り出されれば、叫びたくなって当然。ましてや、この時代の人間にとっては空を飛ぶなど空想でもなかなか無いだろう。周りの人間から見れば、神か悪魔の手につままれているようにしか見えなかったはずだ。
 空を飛んだのが俺のせいだとは状況的に察しが付くかも知れないが、せんべい屋に貸しを作った時に教わった糸術、直径三ミクロンという中途半端な太さの妖糸擬きのせいとはさすがに思うまい。
「死ぬだろうから、使わない方がいいよ」
 なんて言われながらも懲りずに練習していたかいがあったという物だ。
 ちなみに俺の実力では死人使いはもちろん、人形使いも出来ない。使用半径はせいぜい三十メートル。盗聴も出来ないし、長々縛り付ける事も出来ない、体内に侵入する事も出来なければ展開速度もせつらの十倍以上と笑ってしまうスキルでしかない。ちなみに一トン情報屋は見せた途端に邪悪な大笑いを五分間も続けた挙げ句にひっくり返って壁を壊した。白い医師には恐くて見せてない。
 その程度の技というよりも芸扱いされていた術だが、それでもたまには役に立つ。
「よう、一日……半日ぶり、くらいか?」
「く、工藤殿! 一体今のは……いいや、どうして黄巾の砦に……いや、それよりも昨日のあれは一体……ああ、もう!昨日から貴方に関わると滅茶苦茶な事ばかりですな!」
「話している暇は無いと思うぞ、黄巾党がこっちに集まってきている」
 しれっとした俺の様子に、趙雲は混乱を抑えてため息をついた。馬鹿にしているようにも見えれば、こちらに圧倒されているようにも見える。
「ええい、全く……背中はお任せしてよろしいか!」
「ああ、とりあえずはな。黄巾党の女を救出に行かなきゃならないんだ。助けた後はどうでもいいから、そっちの情報とかはないかな」
「お、女? 一体どういう事ですかな!?」
 この状況で女の尻を追いかけるつもりかと言いたいようだが、身内ならともかく見ず知らずの女を追いかけるような阿呆じゃない。
「ここの女を襲うから止めてみな、なんて言ってのけたくそったれがいたのさ」
 襲うと言っても性的にではあるまい。騏鬼翁はともかくとしても劉貴はそう言う男ではない。しかし、俺は知っている。例え高潔な武将と言えども血の誘惑、夜の一族の渇きには勝てない。
「しかし、女と一口に言っても一体何処の誰やら……」
「俺もそれは知らん。だが、賊の中に女なんているのか? いるとしてもほとんどが慰みの為に連れてこられた犠牲者だと思う。張三兄弟の縁者とか、優遇されている女こそ狙うんじゃないか? 俺にはその辺の情報を得る事は出来ないから、力を借りたいんだが」
「むう……其れがしとて乙女の一人、そのような話を耳にすれば力を貸したくもなりますが……何処の誰かとも分かっていないのでは、何を目指せばいいのやら、誰に聞いてもどうにもならないでしょう」
「ん……やっぱりそうか。いかんな、劉貴の名前を聞いて動転しているか」
「劉貴?」
 問いかけてくる女に背を向けて手を振る。結局、地道に探すよりはないのか。
「時間はとらせたが……まあ、ここまで引っ張り上げたので差し引きは無しにしておいてくれないか」
「それは構いませんが……この後は一体どうなさるおつもりで?」
 俺達二人に、十人も二十人も一斉にかかってくる。うんざりだね。
「張三兄弟を捜す。その側に女がいて、女の側に劉貴がいる。それを斬る」
 下に落とすわけにも行かず、斬りかかってくる相手はその場で関節を極め、地べたに叩きつけ、殴り、蹴り飛ばす。ジルガを中心に、雑多に混ざった我流と言えるかも知れない拳法は賊相手には十分すぎる威力を発揮して群がることごとくを寄せ付けない。
 武器を持たない俺の方がやりやすいと見たのか、よってたかってほとんどが俺に群がってきたのだが……それはそれでやりやすいので構わない。気が付けば、俺の周りには三十を超える黄巾が呻き声も上げずに転がっていた。途中で逃げる奴がいないのは意外だったな。
「孫策殿が言っておられたが……あなたは仙人の類であるとか」
「あん?」
「貴方のこれまで見せてきた玄妙な術を思えば納得がいきますが……それこそ道術を操ったという張角のようですな」
「ふうん」
 ……義勇軍を黄巾の二番煎じになると言ったのを根に持っているのだろう。そんな事を戦場で口にする辺り、何とも女らしい事で。
「じゃあな」
 我ながら、嫌われやすい事で。
「それにしても、殺さないどころか城下に落ちないように投げるなど慈悲深いとはこの事……って、何処に行かれるか!」
 何か後ろで言っていたようだが、どうでもいい。とにかくこれで彼女の所はいいだろう。戦っている間に中に入る口は見つけたし、今からでも間に合うか?
 実は、嫌な予感がしている。
 俺が囚われてからここに来るまで、それほどには時間はたっていない。だと言うのに、砦攻めは始まっている……時間が合わない。騏鬼翁の術は、空間だけでなく時間にも作用しているのではないのか。
 大体、あの爺が素直にフェアプレー精神を守るような柄か?
 素直によーいドンで勝負するような奴が、あの面子の中で劉貴以外にいるか?
「くそったれ」
 顔も知らない女が、威丈夫に血を吸われて涙を流しながらも恍惚としている姿が頭に浮かぶ。そしてその女は隣で為す術無く怯えている女の首筋に牙を突き立てる。
 どちらの女の顔も南風ひとみになった。
 誰かに殺された女を見た事は山ほどだ。生け贄に捧げられた女も、食われた女も、見た事はある。なのに、どうしてこんなにも苛つくんだ。
 自分でも理解できない衝動に駆られ、俺は闇雲に砦を走り回る。張角の居所を、黄巾の動きと砦の構造を適当に予測して捜してまわる。少なくとも、まるっきりの当てずっぽうよりはマシだ。
「ふっ!」
 黄巾の連中も官軍もすり抜けて、あるいはぶちのめし、どこか雰囲気の違う扉の前にたどり着いた時にはどのくらい経っていただろうか。
 扉の前には、見張りの一人もいない。既に内部に入り込まれているからなのか、それとも俺の先に侵入者がいるからなのか。嫌な予感に引きずられて、これまでに無い性急さで扉を蹴り破る。背筋を這うおぞましい予感があった。
 ここは玉座の間というか謁見の間とでも言うのか、とにかく砦の中枢だろう広間だった。そこは一体何の術の力か光の入らない暗闇となっている。即座にライトを用意するが、それさえも意味が無い、闇が光を許さない。
だが、匂いは漂ってきた。鉄のような匂いだ。そして、音がする、何の音かなんて、考えるまでもないだろう。くそったれ、くそったれが。
「……来たか」 
「…………貴様……」
 聞き覚えのある鉄のような声がする。ぎり、と歯ぎしりが自然と出た。濃厚に香る血の臭いが、犠牲者が一人ではないと教えてくれたからだ。
「何人、吸った」
「三人だ」
「いつからいた」
「騏鬼翁の術で君がこの砦に現れた時、私は二人目の喉に牙を突き立てていた」
 やはりと思いながらも一縷の望みはかけていた。だが、それは踏みつぶされた。突き動かす怒りが俺に無謀な一歩を進ませる。
「最初からそのつもりだったのか」
「私が命じられたのは、ここで張角と言う女とその姉妹の二人を想い人にせよとだ。君の言う最初が何かは知らないが、言い訳はするまい。か弱い娘の血で喉を潤したのは事実」
 そこには男として、強者として女を手にかけた懊悩が確かにあった。だが、暗闇から聞こえる声の中に何があったとて、そこに一体どういう意味があると言うのか。
「滅ぼされる覚悟はあるか」
「無論。だがこの身を滅ぼすのはただ事ではなく、私も座して死を待つわけにはいかない。君がこの世界で出会った最初の戦士であるのであれば、なおのことだ」
 自分の中にある怒りも後悔も全て燃料にして、チャクラを回す。勝ち目があるとか無いとか、そう言った事で挑む勝負ではなくなった。
 大雪で我が身に刻み込んだ念法と、師に連れられた日本各地の修行上で学んだ秘術、秘伝。そして“新宿”でかじった数々の異形の技を全てかき集めてこいつを殺す。
 いや、滅ぼす。
「この場は騏鬼翁の術によって、真の闇だ。君の持っているその不可思議な道具の光も入ってはこれない。私が一体何であるのかは理解しているか」
「吸血鬼」
「それを知っている君は凡夫ではあるまい。だが、それでもなお踏み込んでくるか、我々の為の闇に」
 ライトは閉まって、目を閉じる。闇の中であれば的になるだけの目は閉じておくべきだ。吸血鬼の催眠術、劉貴が持っているかは知らないが、猫眼を防ぐ意味もある。
 準備は整え、もう一歩踏み出した俺は完全に闇の中に身を投じた。硬い石の感触が足裏から伝わってくる。
「勇気ある男よ。君の名前を知りたい。既に聞いているかも知れないが、私は劉貴という」
「工藤冬弥。歴史に名を残す秦の大将軍、出会えた事は光栄だがあなたはここで滅ぶベきだ……世の為に、人の為に、そして貴方自身の為にもな」
 俺の言葉に何を感じ取ったのか、鉄の声の中には苦悩の他に喜びのような感情が混じった。
「悪鬼に落ちたこの俺に会えた事を光栄といい、世の為と人の為に俺の所行に怒り、その上で俺の誇りを案じるか。おかしな男に出会った。お前のような男を部下に持てば、俺はあの夕日の元で死ねただろうか」
「貴方の灰は、俺が知る最も大きな草原に撒こうか」
「それには及ばぬ。俺は姫に命じられた……この三人の女を初めとして、この大地を吸血の悪鬼が住む大地にせよ、とな。例えいかなる命と言えども、姫に生かされている身では従わなければならぬ」
 話はここで終わりだ。
 これからは戦わなければならない……この大地を駆け抜けた大将軍と。いや、彼にとってはこの大地は偽者の大地なのだろうか。
 どこか寂寥感を感じさせる寒々とした事に向けそうになった意識を、現実に向けて修正する。劉貴は俺の知っている限り、武人像をそのままにしたような外見に反して遠距離タイプだ。数種類の魔気功を使い分け、あるいは気を使って壁を作り、敵を倒す。
 ならば、俺の持っているカードの中で最も慣れない物は拳法ではなかろうか。密着した勝負なら、かつて彼の生きた時代にも拳法があったとしてもそれほど重視はされていない可能性はある。騎馬にしても歩兵にしても、重視されるのはそれぞれの状況に合った武器術だろう。
 日本の剣術も彼にすれば独特だろうが、戦場を駆け抜けた男に剣も槍も慣れた物なのは当然。より不慣れなのはこちらと判断して拳を握る。
 だが、相手はどう戦ったのかは知らないが、かつては俺が相打ち同然で勝利したベイを取り押さえて幽閉した強者だ。こちらの予想は超えて当然と覚悟して戦わなければならない。
「闇の中で夜の一族と戦うか。無謀さにいっそ笑えてくる」
 目を閉じ、耳を澄ますが何も感じない。温度、匂いも感じない。これは夜の一族という特性であるのか本人の技量か。そのどちらでもあると考えておくのが無難な話か。
 そもそも向こうの術士が用意した闇。向こうからは俺の姿ははっきりと見えていると仮定して考えた方がいいだろう。劉貴の声から判断した部屋の中心まで進んで足を止める。そこで石のように体を止める。闇雲に動いてもどうしようもない。
 打たれる事を当然として、その後の流れを掴まなければならない。
 来る、と察したのは何が理由なのかは分からない。だが、とにかく腹を狙って撃たれた無音の魔気功をかわして打ち込まれたそこに踏み込んだ。真っ直ぐに、フェイントも何もなくただ拙速を尊んで駆ける。
 繰り出した掌打の一撃は劉貴の心臓を確かに打った。ジルガの一手、停心掌は確かに劉貴の心臓が停止した手応えを俺に伝える。
 だが、吸血鬼の心臓が止まったところでどれほどの物だ。掌打はそのまま劉貴の顎を打ち抜き、同時に肘が再度心臓を捕らえる。そのまま顔面を掴んで口を開けられないようにして、頭から叩きつけるように投げた。
 硬い石の上に頭から叩きつければ、常人は頭蓋が砕けて脳が飛び散る。ましてや、これは妖物を打ちのめす為の投げだ。例え吸血鬼と言えどもダメージはある。
「見事だ。心臓は確かに止まり、投げられた痛手は俺の骨身に染みている。例え古の楚将軍と言えど、これほど見事な技はあるまい。何という技だ」
 鋼鉄のように揺るがない声が暗闇から聞こえてくる。密着しても表情など分からないが、終始眉一つ動かしてはいないだろうと確信できた。
「風早三平直伝」
 あのフケだらけのルポライターが聞いたら何と言うかね。
「対妖物用柔拳法、如来活殺」
 起こしてなるものか、と拳を握った俺の背筋をぞくり、とする物がよぎった。腹に回っていた右手が俺を吹き飛ばしたのだと理解したのは、条件反射の域にすり込んだ鉄皮に命拾いした時にようやくだ。
「俺の気功を受け止めるか。だが、俺の気はお前の腹にとどまり続けるぞ」
「…………」
 おそらく今のは、硬気。衝撃はジルガによって受け止めたが、それだけではすまないのが魔気功の恐ろしいところ。代謝機能は狂わされ、腹腔に鉛でもあるような違和感を覚える。おそらく、今の俺は全身が総毛立ち肌は青ざめ頬はこけているだろう。それが魔気功だ。
 わら人形のように宙を舞い、猫のように着地した物の膝をついたまま立ち上がらない俺を大将軍はどう見たか。
「お前が何処で玄妙なる技を身に付けたのかは知らぬ。だが、俺の魔気功もまたお前の知らない技であっただろう。この身が夜を歩く悪鬼でなければ、敗れたのはあるいは俺であったのかも知れん」
 かつて、せつらはこれを受けて入院騒ぎにまでなった。そのままドクターメフィストが目の前のこいつに血を吸われてしまった為に、毒を抱えたまま戦い続ける羽目になってしまったのである。
 だが、俺はそれを知っていた。
 それなら……何らかの対抗策を持っているのは当然の事だろう。
「いいいやああああぁあっ!」
「! なんと!?」
 自分の技に絶対の自信を持っていたのだろう、劉貴は無防備に俺の一撃を受けた。彼の驚きは自分の気功を受けたにもかかわらず反撃してきた事か、それとも俺の手に一本の木刀が握られていた事か。
 抜き打ち一閃、とある武闘派ヤクザが使っていた中条流抜刀術の理は仁王であっても力を見せて大吸血鬼に見事一矢報いて見せた。
 俺は膝をついて蹲っていたのではない。念を練り、見えない相手を最速の一閃で迎え撃つべく待ち構えていたのだ。
「受けた腕がしびれて動かぬ。骨の芯まで響くようだ。その木剣はどこから出てきた、今の技は何だ? そして、俺の気功が効かぬのか」
 声には明確な驚きがあった。
 この大将軍を驚かせる。我ながら見事な偉業を成し遂げた物だ。
「これぞ、工藤流念法」
 に、と笑った俺に魔気功の影を見いだす事は誰にも出来まい。
 “新宿”にはせつらに代表される人捜し屋がいる。その中のナンバー4が、彼の物と同種の気拳の使い手であった事、その男の仕事を無償で手伝い、貸しを作った事は俺にとっては行幸であった。
 こんな事もあろうかと彼から学んだ気功は未熟でしかないが、劉貴に打ち抜かれたせつらの腹から効果を消すには及ばなかった物の、若干でも和らげる事は出来たのだ。
 ましてや修行を積んだ今の俺ならば、自身の体内に宿る気を調節する事も不可能では無い。だが、おそらくまだ様子見程度、全力の気ではないだろう。俺の知っている魔気功、これの三倍は重たかった。
 どういうつもりだといぶかしがっている俺の前に、突如とてつもない何かが現れた。
「……っ!」
 いや、これは劉貴だ。
 闇の中にあっても何処にいるのかが万人にはっきりと分かるほどの濃密な気配を漂わせ、千年雨を浴び続けて磨かれた大岩のように傲然と、秦の大将軍が目の前に立っている。
「驚いたぞ、青年」
 その声にこめられた恐るべき闘志よ。鉄のように硬く、山のように大きく、海のように深い。今の劉貴は正に、燃えさかる闘志の擬人化であった。
「俺の技を受け止める男、俺を退ける男が目の前にいる。その戦士に失礼を詫びよう。弱者を踏みにじる命、騏鬼翁の術に守られながらの勝負に俺はどうにも気が乗らなかったが、それは何という不明だ。工藤冬弥よ、お前はこの国の大地に足を下ろした俺にとって、最初に出会った心奮わせる戦士だ」
 声にこめられた闘志は夜の住人ではあり得ないほどの清らかさに満ちていた。それを全身で受け、俺の中にも呼応してくるちっぽけな炎があるのが誇らしくさえある。
「俺は全身全霊をもって命を果たそう。この千年の倦怠を、この時を持って捨てるぞ」
「受けて立つ、秦の大将軍。未熟非才な身だが、骨まで戦い続けてみせるさ。工藤流念法の技、来世になっても忘れられなくしてみせるぞ」
 ちっぽけな火を燃料にして、この砦を燃やし尽くす大火に挑む。
「来世か、それが俺にあるとは思えぬが工藤の名前は忘れまい。いざ!」
「尋常に」
 俺は笑った。やせ我慢の笑みだったが、意外に様になっていると思う。劉貴も不敵の見本の言う男臭い顔で笑っているのが、闇の中で見えたような気がした。
「勝負」
 二人の声が、闇の中で重なった。
「きぃいえええっ!」
 一気呵成に面打ちで突っ込む。相手は格上、ぐちゃぐちゃの乱戦に持ち込むのは基本だろう。
 この勝負、劉貴と俺でどちらが有利かと言えば騏鬼翁の闇を考慮しても俺に利があると考える。俺は“新宿”で一度小手調べ程度に戦った事があるし、その後のせつらとの勝負も見ている。似たような戦いをする夜香とも戦った。
 つまり、俺はカンニングをしているようなものだ。だが、相手は秦の大将軍……今、こうしている間もアドバンテージはどんどんと削られているだろう。次の戦いでは勝負にさえならないかも知れない。
 いや、それ以前に……逃がせば、犠牲は鼠算式に跳ね上がり漢の大地は夜な夜な血を求めて彷徨う悪鬼の巣になる。今日、ここで劉貴だけでも仕留めなければならない。
 闇の中で何ら手応えのない仁王を再度振り回す。だが、それはおそらく見当違いの空をなでただけだろう。ち、と舌打ち一つ。
 肩に仁王を載せた上で肩をすくめて首をガードし、前のめりになる。一秒、二秒、そのままの体勢で待ち構えた俺は抜いた一太刀を真横に振りぬいた。何かを打った感触がする。
「見事だ」
 それは感嘆の声だった。じわりと義父や義兄に褒められた時のような誇らしさが胸に生まれる。だがそれに浸る間もなく何かが俺に迫ってくるのを直感で察知して転がった。くそ、渾身の一撃を出すには闇が邪魔すぎる。おかげで一撃のダメージ量が小さい。不死身の劉貴相手にこれは大した不利だ。
「この闇の中で目を閉じたまま俺の位置を探り、俺の気功をかわす。実に見事だ。夜の山中で狼の群れとでも戦いながら生きてきたような男だな」
「そういう街で産まれた。化け物と悪党が百鬼夜行を繰り返す背徳の街で生きれば、誰でもこの程度はやるさ」
 声が聞こえるが、動く音はしない。それこそ見事な技だ。二千年の、あるいはそれ以上の深さを持つ歴史の中で、一体何者が何を考えてこんな技を生み出したのか。そこに立つだけで悠久の時の流れを伝える男が、俺の前にこそ立っている事に身震いさえもする。
「ならば次はこの劉貴の技を見せよう。返礼を受け取ってもらう」
 ぞわり、とする。背骨の中を虫が這うような焦燥感にこれはまずい、と感じた次の瞬間には俺は再び宙を舞っていた。魔気功、おそらくはこれが本気だと理解した俺の腹の奥にでかい氷が入り込んだ。くそ、消そうにも消せない。まるで氷山にバケツの湯をかけているような気分だ。
 どさり、と背中から落ちる。跳ね起きるが、その動きはいかにも緩慢だった。
「これが、俺の気功だ。立ち上がった事は見事、しかしもはやこれまでのようには動けまい」
 事実だ。
 さすがの本気に、体内の骨に重りがついているような錯覚さえ感じる。闇の中とは言え、いつ撃ったのかが全く分からずあっさりと食らったのは威力以上の脅威だ。このままいけば、ワンサイドゲームで終わるのは明らかだ。
「だったら……」
 生まれたての子馬のように立ち上がり、ずんと腰を落とす。わずかでも気を消した方がいいのは分かっているが、それを許すような状況ではない。なりふり構わず体内の念を最大にまでためこみ、最高にまで高める。
「一撃に賭けるか」 
 見抜かれようとも、それしかあるまい。開き直って脇に構える。
 劉貴の不死を打ち破る最高の一太刀を打ち込む。だが、それではただの一か八かでしかなく、妖姫達に対抗できる力などあるかないか知れた物ではないこの世界で賭に出るのは憚られる。せめて、相打ちにだけ持っていける術が無ければならない。
 瞳を閉じ、神経を張り巡らせて念を高める。気勢は山よりも高いと確信できる俺は、大将軍の目にどう映った事だろうか。この男は俺の一撃の覚悟にどう報いてくれるだろうか。
 受けて立つと言うだろう。それは確信でさえない、当たり前の決まり事であるとしか思えなかった。彼は古い時代の血が流れる男だ。命を賭けた捨て身の挑戦を避けて通る事は出来ない。
 問題は、いつ仁王を振るのかだ。
 闇雲に攻撃しても当たらない。そもそも何処にいるのかもわからない……相手の攻撃をかわしてカウンターで返す。だが、劉貴に魔気功を曲げる手段があれば……
「私は君の真正面にいるぞ」
「……」
「ここから気を撃つ。先ほど撃ったのは“硬気”、そして今からは“貫気”を撃つ。虎を貫く我が一撃を避けきれるか、工藤」
 それはきっと、戦士の誇りだろう。
 愚かと笑われるべき矜持だろう。
 俺は無限の敬意と憧れを持って、自分はたどり着けないところに立つ男に出来るだけ男らしくあってくれと願いながら笑った。
「避けてみせるさ」
 彼は真正面から真っ直ぐに気を撃つ。それは確信となり問題はいつ来るか、それだけだ。となれば……手段は一つ、相手の先の先を取って仁王を振るしかない。
 ありったけの念を篭めた一閃は、吸血鬼の不死に守られた大将軍にも強かな痛撃となるだろう。滅ぼすには古代の方式に則るより他にはないだろうが……
「なんだ、これは!」
 背後から、聞き覚えのある声がした。
 それを合図としたかのように俺は愛刀を振るう。斜め上に切り上げの一閃は居合いのごとし、念法を初めとした俺の持つ技術が全てこめられた最速の一閃が劉貴の胴をめがけて襲いかかり、無音の魔気功が俺の顔面めがけて放たれたのが分かった。
 一瞬の半分の半分の交錯の中で何があったのかは俺にも分からない。暗闇の中でただ渾身の一振りを薙いだ俺は劉貴の背後に立ち、背中合わせのように残心さえも忘れた振り抜いた姿勢のまま立つ。
「がは……」
 背後で聞こえた劉貴以外の声も耳を素通りした。背後にいるのだとはっきりと分かる劉貴に意識が集中される。
「見事な一太刀だ。工藤流念法、俺の気を断ち切り骨まで入ったぞ。だが……」
 どん、と膝をついたのは賞賛された俺の方だった。
「俺の手は二本ある。右の気は斬られたが左の気は入った。俺の気を二発受けては我々の同類とて立てる物ではない。勝負あったぞ。この劉貴の胴にこれほど深く一撃を入れた事を誇って冥府に行け。念法の技、まさしく骨身に刻ませてもらった」
 かつて、羅刹のせつらが振るった妖糸は劉貴の“貫気”を切り裂いたという。だが、その上で気の半分はせつらを打ち抜いて後々まで苦しめた。俺の渾身の一刀がせつらを上回ったのか。
 それはあり得ない。劉貴は気を二つ撃った。つまり、一発の精度も威力も落ちたと言う事だ。ましてや、目の前に立つのは二千年前の劉貴。ここにいるのが俺ではなく彼らの大凶星であったのなら、見事に劉貴の首は空を飛んでいただろう。
 くそったれ、まだまだ未熟か。何よりも、男が敵の前で膝をついてどうする。そして何よりも、まだ諦めるには早すぎる。
 やりきったと笑って死ぬには十年早い。
「っがあ!」
 背後に向かって振った仁王そのものに振り回された。こんな無様は何年ぶりか。もちろんかすりもしない間抜けな一撃だが、劉貴は笑いもせずに油断無く俺を狙っている。それが闇の中でもわかる。
 このような男を浅ましい姿に落とし込む血の誘惑を、吸血鬼の生を、俺は心底おぞましい物だと感じる。
「最後まであがくか」
 彼の声は、何の揺らぎも感じない。それは鉄の意志故か、それとも吸血鬼の不死身生の故なのか。骨身に染みたと口にする俺の念は、既に消え去ったのか。絶望感が俺の手足から力を奪い、舌は自然と動いていた。
「……格好付けて諦めるには、俺はまだ若い」
 震える手で仁王を構える。中段の構えにこれほど苦労した記憶はない。
「ならば……」
 その先を、口に出すことは出来なかった。
 閉ざしたままの俺の視界が突如真っ白に染まった。それが外から飛び込んできた太陽の光だと、仕掛け人である俺は劉貴よりも先に気が付く。ここで一撃入れたい所だったが、それを叶える力が残ってはいなかった。
 反射的に目を開いた俺はふらふらと熱病人のような有様で、声もなく闇に向かって飛びすさる吸血鬼を見ているしかない。
 未だちらつきを残す目で見回すと、闇が半ば以上消え去った石造りの大広間が見えるようになった。出入り口から見ての部屋の正面が、何かに斬られたように建物そのものがずれている。
「騏鬼翁が術を解いたのか? 違う……工藤よ、お前の一太刀が砦そのものを斬ったのか!」
 そう、正に劉貴の推測通りだ。
 二連の魔気功と競い合った俺の一太刀は気の片方を斬り、劉貴当人を掠めたに終わった。だが、俺の最速の一太刀は劉貴と彼の撃った気を共になぎ払うだけでなく、その延長線上にあった騏鬼翁の闇に覆われた砦そのものを次元ごと切り裂いたのだ。
「かつて、俺のいた街には空手という武術を身につけた男がいた。その男が幻十という男に“殺された後”も披露していた技がある……何処までも伸びる、世界そのものを置き去りにする最速の刃……次元刀。本家と違って素手では出来なかったが、仁王の切っ先に宿らせることは出来たぞ」
 してやったぜ、と笑った俺の顔に打ち込まれた気さえも解かしてしまいそうな暖かな陽光があたる。これが煮込まれた毒も同然となる吸血鬼に哀れみさえ感じる。
「見事だ」
 陽光は桃と並んだ吸血鬼にとって最大の大敵。それは劉貴と言えども変わりはしない。劉貴達が日を浴びたところは見たことがないが、影を用いて太陽を避け、彼らに血を吸われた警官は陽光の下で悶え苦しんだ。ならば劉貴にだって、決して無意味ではない。
 事実、それで劉貴は残された影に身を潜めた。さあ、気を体内に留めた俺と陽光に囲まれた劉貴、一体どっちが有利か。それは劉貴の平静がはったりなのか本物なのかにかかっているだろう。あえて本物であると判断した上で勝負する方が無難……この後も続く死線をどう乗り越えるかを試行錯誤する俺の耳に、何かが倒れる音がした。
「趙雲!?」 
 目を向けたそこにいるのは、先ほど別れた趙子龍。彼女もここに辿り着いたのか。倒れている理由は知らないが、あいにくと構っているような余裕はなかった。
「ここは引かせてもらうぞ、工藤」
「何?」
 鋼鉄が信じがたいことを言った。この男がつまらない詐術を行うとは思わない、騏鬼翁は何処までも信じられないが、劉貴は何処までも信じられる。これは本気だ。
「陽光の中で争う事はできん。滅びは恐れぬが、姫の命は成し遂げなければならんが故にここは引く。さらばだ。勝手な言い分だが、決着は次で付けさせてもらおう」
 一体何がどうなっているのか。
 離別の宣言の後は、確かに気配が消えた。どこにも感じられない。騏鬼翁辺りの勝手な追撃の様子もないようだ。それを悟ってようやく力を抜くと、趙雲同様に倒れてしまった。体を起こすことも出来そうにない。
 声を出すことも億劫なまま、残された全力で体内の気を操作する。劉貴の意図がさっぱり見えないが、一体何を考えていたのか。少しずつだが確かに楽になってきた体を起こす。趙雲を見なければならない。ずるずると亀のような遅さで彼女の元に足を運びながら、周囲を照らす陽光と、それを導く刻まれた太刀傷を見ると、この体調でも苦笑いが浮かんでくる。
 次元刀、まぐれにすぎないとよくばれなかった物だ。
 風より速く手刀を振るうとかまいたちが生まれるという冗談話のように語られる妙技がある。そして、それ以上の世界さえも置き去りにする速いという言葉が追いつかない一振りが、次元さえも断ち切るという。それが次元刀の神技だが、実は三十回に一回も出来ない。
 今回、陽光を導く事が出来たのは三十分の一の偶然が導いた単なるラッキーパンチ。それをはったりで膨らませただけなのだ。
 まさか、そんなつまらないはったりに引っ掛かる天下の大将軍はいないだろうが……などと頭を悩ませながら趙雲の元に辿り着き、俺はようやく劉貴の真意を悟った。
 倒れ伏している趙雲の肌は死人のように青ざめ、息は荒い。頬はこけて、それでいて外傷は見当たらなかった。魔気功による痛打に他ならない。
 何故、と考えるよりも先に治療を始めた。腹の中でどっしりと構え続ける氷の塊が、まずは自身を溶かせと要求してくる、その方が効率だっていいのだと騒ぐそれを必死に振り払って彼女を癒やす。
 機械的に彼女の治療をしていると、どうにか頭が働いてきた。たぶんだが、あの時俺が斬った魔気功の残滓を彼女は浴びたのだ。思い返せば、背後から彼女の苦鳴が聞こえていた気がする。
 劉貴はもちろんそれを見ていたのだろう、そして自分の流れ弾に当たった彼女を放置するのは忍びなく口実を設けて身を引いた、か……
「は……」 
 戦闘だけではなく、もっと根本的な格で負けてしまったことを自覚した。何を言うのも惜しく、ただ彼女の体内に気を送り込むしか出来ない。趙雲の体内を蝕んでいる気は俺が斬った気の残滓に過ぎないが、彼女の耐性がどれほどなのかわからない以上、とにかく全力で挑むよりない。
 だが、ここは戦場だ。
「てめぇら、ここで何をしていやがる!」
 黄巾の布を付けた男達に見つかるのは、当たり前の話だ。敵襲で気が立っているのだろう、ましてやここは彼等にとっては重要なポイントである。問答無用で斬りかかってくるのは道理と言えた。何を言うよりも先に女を体の下に入れて庇った。随分と小さい女だと意外に思った。
 力は無く、技もなく、武器の質も悪い彼らだったが、それでも今の俺にとっては驚異だ。ジルガを行使する余裕もない身で次々と現れる彼らに滅多打ちにされても耐えられるのは、頭だけは庇い切れているのと服の下に着込んだタイタンマンC・Vのおかげだ。
 くそ、こんな連中に構っている場合じゃないのに。趙雲を治さなければならない、劉貴に噛まれた三人を見つけなければならない。そいつらを確保して“待人”の元を訪れる劉貴を今度こそ討たなければならない。
 でなければ、漢の大地は吸血鬼の支配する大地になり滅びる。
 くそ、だと言うのに……せめて、三人の女の顔と名前に気配なんかを覚えて影矢で捜せるようにしなければならん。
「おい、てめぇら……そこで死んでいる三人の女は何処の誰だ」
 俺がそう言うと、男達の顔色が変わった。それは神を冒涜された信者の其れと言うよりも、アイドルを馬鹿にされたファンという方が正確な俗気のある安っぽさを感じさせる顔だった。
「て、天和ちゃん達が死んだぁ!?」
「ふざけんな!」
「誰か見てこい!」
 中枢部に入ることに躊躇するような程度の連中だったのか、今更に内部の安否を確認にいく。それにしても、天和って言うのはどことなく真名のように思える。真名を言えるとなれば、こいつらは相当に親しくしているのか。
 つうか、ちゃんづけしている事でものすごく不気味な物を見た気分だ。
「お前らごときザコ丸出しの連中が真名で呼べるって事は……あの女達は娼婦か何か、か……?」
「てっめぇ! 誰が娼婦だ、俺達黄巾党にそんなもんに用がある奴は一人もいねぇ! 俺達は皆、天和ちゃん達張三姉妹を愛しているんだからな!」
 ……張……三姉妹……?
「さっきは言っていたのは……張角の真名か」
「だからどうした!」
 はは……黄巾の頂点も女かよ……まったく、この世界を作った神がいるなら色に腐ってやがる。
「それだけわかれば」
「大変だ! 三人とも……殺されている! 喉に穴が空いて、息をしてないんだ!」
 あれが張角なら、何処にいようとも官軍が見つけてくれる。いや、おそらくは官軍の誰かが手柄の為に確保しようとするはずだ。黄巾にそれに抵抗する力は無い。
「充分だ」
 その言葉を最後に、俺は腕に握ったままの仁王に念を篭めた。あの世とこの世を超えた際に手に入れた力は自身の限界を超えた念の増大。肝心要の質と一度に使える念の量は変わらないが、言ってみれば以前はバケツに蛇口がついていたのがドラム缶に蛇口がついた程に念の量は増していた。
 だからこそ、劉貴に渾身の一撃を見舞った後もこんな事が出来る。
 ヨーガの奥義、テレポート……即ち距離も障害も無視した遠隔移動。
「き、消えやがった!?」
 そんな声を最後に、俺は黄巾の砦から消えた。次の瞬間に俺が姿を現したのは遙か彼方に砦を目の当たりにする他には誰もいない茂みの中だった。
「……上手くいったか……思いきり賭だったが」
 ちなみに、成功率は入念に準備した上で七割である。今の体調で成功するかどうかは賭だった。
「……趙雲を癒やして……自分を癒やして……後は……三人のところに訪れる劉貴を討つ……はは……随分な難題だ……」
「では、癒やすだけでも私が手を貸そう」
 突如、背後から声が聞こえてきた。男の声だが年をとっているのか若いのかさえも理解できない。そもそも、後ろにいるというのにいつ現れたのかどころか、今そこにいることさえも分からない。
 こいつは、一体何者か。
「誰、だ」
 恐怖心が背中を凍らせる。だがどこかでそれは間違いだと感覚が告げている。この声を恐れる必要は無いと自分自身がはっきりと明言している。
 恐る恐る振り返った先に立つのは、二人組だった。若い男が一人、老人が一人。どちらも粗末なマントかローブのような旅装を纏い、俺が言えるセリフでもないが、この辺りには見ない格好だ。老人は杖を大地について、若い男は肩に木剣のように担いでいる。
 どういう巡り合わせで一緒にいるのか分からない二人だった。
 若い男は生命に溢れた精悍な顔にどこか飄々とした雰囲気を漂わせており、どこか義兄に通じる物を思わせるが、彼はあくまでも常人の範疇に当てはまる存在だった。
 だが老人の方は、白い髪が彼を老人だと主張しているがその面には老若など何の意味も無い人類のカテゴリーを外れたような存在だった。美しいと言う表現を形にしたような。あるいはそれさえも超えたような男は、何故だろうかあの白い医師のようであり、全く違う誰かのようだった。
 癒やすと言ったのは、老人に違いないと確信ではなく当たり前のように理解した。
「頼む。彼女を癒やしてくれ」
「承知した」
 ためらいなく、俺は彼女を託した。それをしていい男達なのだと理屈も抜きにして悟った。思い込みでもなく、事実であり、俺の勝手な確信ではない。
「俺は、工藤冬弥という。あんたら……誰だ?」
「俺はゼムリア」
 若い男は少年のように笑った。夏の風のような男だと、俺は柄にもなく詩的な表現を思いついた。
「儂はドクトル・ファウスタス」
 老人は、にこりともせずに静かにうなずいた。患者を前にした何処かの誰かのように、絶対にして不動の信頼を抱ける何かがそこにはある。
「君も横になるといい。君の方が重傷で、腹の中にある毒は、相当に強くてしつこいぞ」
 二発食らった俺と残滓を受けた趙雲じゃ、どっちが重態かは当たり前だ。安心したおかげか、さっきから骨が凍り付いているかのように身動きさえ辛い。どう考えても優先されるべき患者は俺の方だ。
「ありがたい、でも先に女を頼む。俺はしばらく我慢できる」
 ここで強がらなけりゃ男じゃない。
「ふむ、承知した」
 老人は粛々とうなずき、青年は面白そうに俺を見てから笑みを深くした。意識してどっかとあぐらをかいて座り込むと、何とはなしに気分がいい。後ろを向いているのは、趙雲に対するささやかな気遣いだ。
「終わったぞ」
「早いな」
 振り向いた先から、処置完了のありがたい声がする。つくづく、白い医師を彷彿させてくれる御仁だ。安心しきって振り返る俺の目に飛び込んできたのは、先ほどよりもずんと血色はいい物のいまだ本調子には見えない女の姿だった。
「済まないが、客人だ。どうやら儂にはゆっくりと治療する時間が無いらしい」
「……何?」
 そう言って、ドクトル・ファウスタスは俺と趙雲の二人を背中に庇うように立った。ゼムリアもまた、肩に担いでいる棒をぶん、と振って厳しい顔をする。
「ふむ、儂の気配に気が付いたか。その小僧よりもよほど手練れのようじゃ」
 二人の目の先に現れたのは、騏鬼翁。夏の大妖術師。俺にとっては、実に面憎いタイミングで俺をここに運んだくそったれの爺だ。
「てんめぇ……劉貴以外は手を出さないんじゃないのか」
「手を出さぬのはお主にだけよ。この二人、どちらも貴様ごときでは比較にも値せんと儂の占いでも出よった。今のうちに始末しておくに越したことはないのでな」
 返り討ちに遭って死んでしまえ。
 心の底からそう思った俺は、手に持ったままの仁王をのっそりと持ち上げた。あの一行の中でも特に質の悪い碌でなしの爺こそ、少しでも早く退場してもらうに越したことはないからだ。
「勝てるつもりか」 
 騏鬼翁は警戒の一つもせずに、俺を笑った。当然だ、こんな死に損ないが挑みかかったところで誰が何を気にかけようか。
 それでも立ち上がろうとした俺の肩を、ゼムリアと呼ばれた男が押さえた。
「まあ、ここは任せておきなって」
 その笑顔が、誰かに重なった。
「ご老体、儂は貴方のせいで患者の治療を妨害された。報いは受けてもらわなければならん」
 その患者こそ第一とする徹底した姿勢が、誰かに重なった。
「ふむ、大した力を持っているようじゃが、夏の国を統べた儂の術も捨てた物ではないぞ。消えた国の地獄に落ちるがいい、我が大望の障害となり得る愚か者どもよ」
 騏鬼翁がすごむと、ゼムリアが棒を構えた。その時男の体内から発し、棒に伝わっているのは紛れもなく俺よりも高位の聖念であった。
 おお、と感嘆の声が思わず口から飛び出る。そこにあるのは俺にとって仰ぎ見るべき理想だった。威光に唸る騏鬼翁と言う妖術師を前にしていっかな引かない背中は、正に世界を五度も救ったあの男のそれと同じであるに違いない。
「儂が踏み込めぬ。恐ろしい男よ」
 深海の其れを超える沈黙が、俺達の間に満ちた。その中で、重い何かが複数旋回する音を俺は聞いた。騏鬼翁の服の下から、それは聞こえた。
「その衣の下……果たして、人体があるのか?」
 直に見たことはない。また、今現在がそうであるかは分からない。ただ記憶の中にある知識に従い問いかけた言葉に応えず、騏鬼翁は手に持った杖で地面を刺した。
 ぼごり、と一斉に地面がめくれ上がる。その下から五十センチほどの大きさの影が飛び出してゼムリアを囲んだ。
 影の正体は、幼児と言うべき全裸の子供達だ。全員が愛らしい笑顔を浮かべてゼムリアを見上げている。彼の背中が動揺に揺れるのをはっきりと見た。
「打てるか、その棒で。こやつらはお前を殺せるぞ」
 赤子達が一斉に飛ぶ。石つぶてのように飛んだ影をゼムリアは見事な身のこなしでかわすと、その内一体を打ち据える。念の篭められたそれを受けた子供は、ことさらに大きな声で悲鳴を上げて泣き叫んだ。
 ゼムリアの足取りが揺らぐ。それを見てとった子供の顔に邪悪を極めたような笑顔が浮かぶ。その凶相を見たドクトル・ファウスタスの手にはいつの間にか小瓶が握られ、そこから薬品が子供達に振りかけられた。
 怪奇な術で生み出された子供達が声もなく消え去った瞬間、驚く暇さえなく騏鬼翁は電光石火に襲いかかったゼムリアの一太刀を飛蝗のように飛んでかわした。
 その片袖がはらりと地面に落ちる。
「斬りよった、この騏鬼翁の衣装を斬りよった」
 大妖術師と呼ばれる老人の驚嘆も当然だ。ただの棒で布を切るのがどれほどの難事か。ましてや、それを騏鬼翁が纏った衣装となれば飛燕の一閃はまさに秋せつらの妖糸に匹敵するのだ。
「恐るべき男よ、恐るべき男達よ。そこの若造など相手にもならぬ、何としてもこの場で貴様達の命は終わらせねばなるまい」
「ひでぇ話だ」
 ゼムリアがぼやくのも当然だろう。人助けをしに来たと思ったら、おかしな老人に言いがかりを付けられて命を狙われているのだ。助けられている男としては、何かをしなければならない。
 視界の端でのっそりと立ち上がった俺を見て、ゼムリアこそが慌てた。
「おいおい、何をする気だ。半死人がそんな張り切るなよ」
「そうも、いかんさ」
 せめて、声に弱音は出さない。それは俺のせいで戦う羽目になった男に対するせめてもの礼儀だ。
「この糞爺は、俺とやり合っていた連中だ。俺を助けたあんたらが目を付けられたんなら、俺が戦わなけりゃ筋が通らない」
 この男達の方が、明らかに俺よりも強い。ならば俺は彼らの為に戦うべきだ。ごく自然にそう思った。
「医者が患者に守られてはならんな。儂の医師としての矜持のために、君には眠っていてもらおう」
 肩に手を置かれる。何か精神に暖かみを感じるような不可思議な感触だった。
「君は休みたまえ。今、少しながらも体内の気は癒やしている。この狼藉者は我々が追い払うので、後はすまないが君自身の手で君を癒やしてくれ」
「冗談じゃない、俺の事情で巻き込んですまないなんて言われてたまるか。詫びるのはこっちだ」
 俺の言葉を彼らがどんな顔をして聞いたのかは分からない。あるいは、一生彼らの顔を見ることはないのかも知れない。俺のまぶたは突如訪れた圧倒的な睡魔に襲われ、完全に降伏しそうになっているからだ。それをもたらしたのが誰なのか、考えるまでもない。
 その時、俺は確かに安堵した。
 彼らに任せてしまえばいいのだと、巻き込んだ俺こそが安堵したのだ。
「ざぁ、けぇ……ん、な……」
 そんなみっともない俺を許せるか。認められるか。くびり殺さなければ気が済まないような情けない俺を消し去るには、ここで目を覚まし続けなければならない。俺が俺の手で、騏鬼翁を討ち滅ぼさなければならない。
 だが、ドクトル・ファウスタスの力は俺にとって完璧すぎるほどの完璧さで全身から力を奪い、安らかな眠りへと誘った。
 眠気など欠片もない目が覚めたのは、おそらく三分と経っていない頃だった。意識は明瞭で、記憶もはっきりとしている。本当に眠っていたのかと自分を疑ってしまうほどだが、多少ながらも回復している体がそれを肯定している。
「無様な」
 思わず歯がみする。これ以上無いくらいにみっともない失敗をしてしまった。今すぐに死んでしまいたいほどの恥をかいたが、それを許さないのは背後で呻き声さえも上げない女だ。こいつもこいつで俺が守らなければならない。
「せめて、彼女だけでも……」 
 この女は俺を狙った、俺がかわした魔気功に討たれて倒れた。つまり、こいつも俺が巻き込んだのだ。癒やし、守らなければならない。
 俺は残された活力の全てを注ぎ込むように、彼女に気を送り込んだ。俺の気を通して彼女の体内で荒れ狂う気を制御する。実際の所、やけになりつつある自分をまるきり自覚していないわけではなかった。
 果たして数時間後、俺は意識を失ったままの趙雲をかついで公孫賛の陣地へと足を運んでいた。
 夕暮れが世界を支配する時間にあり、戦争はもう終わっている。張三姉妹は、曹操の所で首を上げたと道すがら聞いた。それについては正直、劉貴をおびき出す餌がなくなったとしか思っていない。若い女であったとしても、国を大乱に巻き込んで多くの人を殺して回った連中の頭だ。
 彼らが整然とした規律正しい、本当に当人が掲げているような世直しの軍であればまだしも黄巾党は完全にただの暴徒だ。彼らのせいでどれだけの民が殺されたか。ましてや、彼らの大半は元々民の側だったと言うのに、昨日までの仲間を襲って殺して回ったのだ。
 死んでおくべきだと、正直に言えばそう思う。
 ただ、殺され方は確認しておくべきだろう。出来れば、首をきちんとこの目で見ておきたい。そうでなければ、ひょっとすれば曹操軍そのものが吸血鬼となってそこら中に死をふりまく怪物の群れとなるかも知れない
「よう」
 公孫賛のテントまで辿りついた。見張りをやっている若い兵士に声をかけると、奇声を上げられた。俺の顔は死人のようになっているのだろう。ここに来るまでは趙雲のおかげでとがめられこそしなかったが、何度か悲鳴を上げられた。兵士の分際でなんて連中だ。
「お届け物だぜ。お宅の客将だって言う話だけど」
 誰か一人くらい手を貸しやがれ。俺が言うのも何だが、気を失った味方の女を見知らぬ男に背負わせたままとはどういう了見だ。
 抗議の意志をこめてにらんでやると、幽霊に因縁を付けられたように飛んでいった。全くもってこんちくしょうな連中だ。いい加減に下ろさせろ、こっちはまだ気が腹の中に溜まっていて苦しいんだぞ。
「それはすみませんな……しかし、私のようなうら若い美女を背負えるのだから役得と言えませんかな」
 背中から、老婆の振りをして遊んでいるような若い女の声がする。からかいが含まれているせいだ。
「その程度の役得ではしゃぐような初心さはとっくにすり切れているんだ。そんな事よりも、具合はどうだ」
「いつから目が覚めていたんだ、ぐらいは聞いてくれても良さそうなものですな。愛想のないお方だ」
「生まれてこの方、根っからの野暮天でな。それよりも、具合はどうなんだ」
「まだ降りるのは難儀ですな。しっかりおぶっていてくださると助かります」
 素直なことで。
「どっちにしても、ここはもう目的地なんだがな。体内の気……って言ってもわからんか? とにかくそっちは除去したから後はここで飯を食って寝ているといい」
 太るまで、と言いたくなったのだが自重した。
「星! 無事だったか、よかった……って、お前は」
 どたばた、と言う一軍の大将にしては落ち着きのない女が飛び出してきた。こちとら気は抜けていないわ、体力は無いわ、おまけに人一人背負っているわで身動きが取りづらいのだ。突っ込んでこないで欲しい。
「何処に運べばいい」
「あ、ああ、こっちだ」 
 彼女の案内に従って、たまたまなのか無人のテントに趙雲を運ぶが……太守が自ら案内ってどうなんだろう? まあ、俺がこだわる話でもないか。
「寝かせるぞ」
「離れがたい、実に惜しい」
 女の手が俺の頬をなでて、見ていたもう一人の女の顔が紅く染まる。俺は最後にもう一度気の具合を確かめて問題ないと判断してから尻を上げた。
「もう行ってしまうのですか」
「ああ」
「全く、これほどの美女の媚態にも顔色一つ変えてくれるわけでもない、つれないの極地とはこの事か」
 いちいち芝居がかった口調で喋る女だ。それともこの辺ではそれが普通なのか。
「とってつけたような、慣れていないことが丸わかりの媚態なんぞで伸びる鼻は持ち合わせちゃいない」
「ぬ!?」
 この女、さっきから人をからかおうと女を強調しているがまるでなっていない。“新宿”にいた頃、歌舞伎町で風俗に貢いだ俺には逆に新鮮でさえあるほどだ。青い春の真ん中でつき合った初恋の女が濃厚なキスマークを首筋に付けているのを見つけて以来お得意様になったのだが、彼女らは男の懐から金を巻き上げるのが実に上手い。それに比べれば、ハリウッドのトップ女優と田舎のお遊び劇団くらいの差はある。
 それにしても、初恋の女が他の男に股を開いていたのが許せない癖に、どうして彼女たちの嘘ばかりの身の上話は分かっていてもひょいひょい貢いでしまえるのやら、我ながらさっぱりだ。
「じゃあな」
「お待ちください。話したいことはまだまだありますぞ」
「俺にはない」
 面倒な話しかこないだろうと立ち上がる。足取りは重くて、この場に座り込みたかった。
「ああ、そうだ……張三姉妹の首を取ったの……曹操軍だって?」
「張三姉妹……三姉妹だって? 兄弟じゃなくてか」
 隣でおれの事をじろじろと見ている女に聞くと、彼女は目を丸くした。兄弟? まあ呼び方なんかはどっちでもいい。
「ああ、張角とか、張宝? とにかく黄巾の頭である三人の女だ」
「……黄巾の頭目は男の三兄弟だと発表されたぞ」
「……何?」 
 話の食い違いに、俺と彼女はいぶかしげな顔を突き合わせる。胡散臭い話に、お互い自然と眉間にしわが寄った。
「お前、どこで三姉妹だなんて聞いたんだ? って言うか、あの時からどこにいたんだ。あの後どうなったんだ? そもそもあの腕は一体何なんだ!」
「そう、私もそれは是非聞きたいですな。これから先、あんな物がいつ現れるやと思うとろくに眠れない毎日が待っていそうでたまらない」
「……聞いたところでどうなるとは思えないんだがな」
 そう言ったが、二人は反発するわけでもなく真っ直ぐに俺を見る。はあ、と息をついて座った。体さえ満足ならとっとと曹操軍のテントでも探していたのによ。
 もう一度ため息をつくと、治療七割、説明三割で適当に話した。
「妲己、その侍女、夏の妖術師……おまけに、秦の大将軍だって……? それが血を吸う鬼になって漢を荒らし回ろうとしているだなんて、悪い冗談だ」
 公孫賛は詐欺師を見る目で俺を見た。天の御遣いの降臨は信じるのに、妖姫の再臨は信じられないらしい。それとも、単に俺が胡散臭いだけか。
「信じなくても信じても、どうでもいい。ただ曹操の居場所と、討ち取った奴の名前を教えて欲しい。三人の首を確認する」
 はっきり言えば、彼女が信じようと信じまいと問題はなかった。場所は旗で捜せばいいし、カメレオンスーツを持っている以上忍び込むのは簡単でもないが難しくもない。せいぜい、拘束さえされなければどうと言う事はなかった。
「私は信じるぞ、工藤殿」
 意外な声がした。彼女は天の御遣いの件で俺に一番反発している女だったろう。どういう風の吹き回しなのだ。
「新しい冗談か?」
「私はあの二人と出会った頃から意識はあった。実に不思議な感覚だ、意識ははっきりあるのに瞼も開けられず、手足も動かせない。しかし、貴方から何かが送り込まれているのならはっきりと理解できた。それが私を縛る氷のような鎖を融かしているのも感じ取れた」
 ドクトル・ファウスタスの治療が俺にとっては皮肉な意味を見せているか。やれやれだ。
「あの青年の見せた武芸はまだ理解できる。だが、続いて見せられたそれは妖術としか思えない。もしもあれが嘘かまやかしであったとしても、あそこまで出来れば既に本物と変わりませんな」
「そ、そうなのか?」
 公孫賛が、うろたえる。何でうろたえているのか分からなかったが、太守だか将軍だかに下手にかかわると面倒な事になるので気にしない。そもそも内心を気にするような関係でもない。
「じゃあ、その妖術を使う四人組は本当に今もどこかで漢を脅かすような事を企んでいるって言うのか。そんな連中相手に、一体どうすればいいんだ!?」
 俺みたいな奴の前でこんなにわかりやすくうろたえてどうする。
「……一番わかりやすいのは日の光と桃の実だ」
「それが弱点なのか!?」
 うなずこうとして、失敗した。
「……どっちも騏鬼翁には意味ないな。あいつは吸血鬼じゃないからな……あいつは自分を作り替えて不死身になった妖術師だ。ああ、ついでに仲間を強姦するほど色欲の類は強いから捕まったら殺されるだけじゃなくて、怪しげな妖術の実験台にされたり、わけのわからん妖獣や魔人に食われたり、犯されて女として最悪の死に方をする事も考慮しておくべきだな。でも、吸血鬼じゃないから血を吸われても安心だぞ」
 血を吸わないとは言えないのが、変態爺を相手にする上での辛いところだ。
「どこに安心する要素があるんだよ!」
「大事な事だぞ。昨日までの我が子に飢えを剥き出しにして牙を突き立てるとなったら、母親としては死にたくなるだろう。以前、自分の娘が吸血鬼になったのを目撃した母親がいたが、それまで必死に我が子を庇おうとしていたのが殺してくれと哀願された。変わり果てた姿に絶望したんだ」
 それまで庇っていたはずの親が我が子を殺してくれと哀願する。そのすさまじさに公孫賛の顔色が変わった。
「ちょっと待って頂きたい。今の話を聞いていると、吸血鬼とやらに噛まれると、そのまま吸血鬼になってしまうように聞こえたのだが」
「ん? そんなのは当たり前……ああ、ここはそういう国じゃなかったか」
 かりこり、と頭をかく。別段魔界都市でなくとも吸血鬼に噛まれた者が吸血鬼になるのは当たり前だ。それが通用しなかったのは拍子抜けだ。
「前々からきちんと聞いてみたかったんだが……この国には、そういう……妖物とか魔人みたいなのはいないのか?」
「で、伝説とか、そうでなければ噂話なんかで聴いた事はあるけど……」
 彼女の知識にはない、という所か。詳しくは知らないが、とにかく彼女も為政者であるのだろうから怪しげな噂を笑い飛ばせるようでなければならないと言う事らしい。その時点で俺の知る古代とは違う。あの世界であるのなら、正に魑魅魍魎が跳梁跋扈し、それに立ち向かう超人あるいは魔人の類も百鬼夜行を為している時代のはずだ。
 生きやすくもある世界だが、同時にいざ妖魔悪鬼が現れてしまえばご覧の有様の無防備な世界でもある。
 助っ人は望めそうにない。あの二人を巻き込まない以上、この国の住人にこそ頑張ってほしかったんだが……狙われているのは漢なのだし。
 前途多難に内心でため息をついていると、テント前の見張りが来客を告げた。相手は曹操と孫策である。
「……目当ては俺か」
「だろうな。私は別に彼女らと交流はない。別段身を隠してこっちに来たわけじゃないんだろ」
「もう一回同じ事を説明するのか? 面倒くさいな」
 いい加減、治療に専念させて欲しい。
 あの猫耳がいたらさぞかし面倒な事だろうとうんざりしたが、やってきたのは四人……曹操サイドと孫策サイドで二人ずつ。曹操と髪で片目を隠したお付きの女に孫策と、弓が専門だと言っていた、あの決闘騒ぎの日、出会った女だ。
 ううん、こいつらも秀蘭の放った妖物に襲われたわけで……俺に八つ当たりこないだろうな。
 そうなったらとっととケツをまくろうかと、とにかく気の除去を急ぐ。
「失礼するわね」
「お邪魔させて頂くわね~」
 態度と体格が反比例している女と、お気楽そうな外見と口調の女が入ってくる。
「あ、ああ。工藤に会いに来たのか? 耳が早いな」
「よう。一日ぶり」 
 二人が俺を見る目には俺の状態への驚きはあっても怒りなどはない。疲れるのももめ事も勘弁なので、ちょっとほっとする。
「一日経ったかしら? 随分と前のような気がするわ」
 どんな時でも主導権を握らなければ気がすまなさそうな顔をした女が、挑むように俺を見下ろす。はっきり言って、今の体調ではあまり気にしているような余裕はない。
「なんだか死人みたいな顔をしているわね、あれから何があったの?」
「化け物の本拠地に連れ込まれていた。あっちこっちから袋叩きでご覧の有様さ。おまけにこれから漢を滅ぼすから、嫌なら自分の遊びにつき合って勝ってみせろとさ」
「はあ?」
「化け物……? どこのどいつかは後で聞くとして、随分と剛毅ね」
 曹操は呆れたように、孫策は半信半疑の顔をする。相手が正真正銘それだけの力を持つ……それどころか、遊び半分でもそれができる怪物だと知ったらどう思うだろう。
「それよりも、聞きたい事には後でゆっくり答えてやるから出来るだけ早急に教えて欲しい。曹操、お前さんの所で張三姉妹の首を上げたと吹いているそうだが」
「三姉妹? 何のことかしら」
 挑発目的で言ってやると、彼女は息も呑まずに平然と返してきた。逆に反応したのは孫策だ。曹操の所のツレと孫策のツレも、それぞれ主と同様の反応をしている。ん? 二人は部下かなんかだよな、雰囲気的に。
「面白い話ね……確か、張角達は三兄弟。夏候惇殿の手で男の首が三つ並べられたらしいけれど……工藤、三姉妹ってどこから出てきたの」 
「黄巾党砦の奥に一番乗りしたら、三人の女が倒れていた。駆けつけた黄巾の話じゃ、それが張角だってよ。俺がやったのか、なんて言いがかり付けて襲いかかってこられたんで参った……あれがごまかしとは思えないな。既に手にかけられた後なんだ、誤魔化す必要はないだろう」
「ふうん……面白い話ね。確かに、張角の顔を知っている人間はほとんどいない……黄巾党も賊の分際で彼らの正体にだけは鉄の掟を持っていたし、苦し紛れの人相書きも出鱈目丸出し。その気になれば、いくらでも替え玉が用意できるわよね」
 ちらりと曹操を見る孫策の目が、実に殺伐としている。どういうつもりか俺の言を信じたらしいが、何が根拠で俺の言葉を信じたのだろう。こう言う立場の人間はお互い出し抜くのが当たり前の関係なのだろうが、俺はひょっとして火薬庫に火種を放り込んだのだろうか。
「ええ、面白い話ね。でもお生憎様。黄巾に何を吹き込まれたのか知らないけれど、張角は三兄弟、その首は確かに我が軍で上げたわ。間違いないと私の名において断言しましょう。確かに三人の女はいたけれども、それこそ替え玉。愛人の女を手にかけて替え玉にしたところで、我が腹心の部下が間一髪で間に合ったのよ」
 うわあ、開き直ったよ……って事は、少なくともあの女達は曹操の所にいる……こういう誤魔化しをしているって事は、まずいな、生きているのか。おそらくは、隠して運んだおかげで偶然日の光にも当たらなかったんだろうな……はあ、最悪の状況かも知れない。
「それで、三姉妹は生きているのか?」
 敢えてそう言うと、孫策は面白そうな顔をして曹操は顔を引きつらせる。ここまで真正面きって無視されるとは思っていなかったのだろう。
「あんたは性格から言っても立場から言っても、前言は覆さないだろう。だから言っておく。どんな色気を出して賊の頭を生かしているのかは知らないがやめておけ。即座に首をはねて胸に杭を打ち込め。でなければ、お前もお前の手下共も、誰も彼もがこの世の理の外にいる化け物の下僕になって、二度と日の光の下を歩けなくなる」
 俺の言葉に、曹操とそのツレが怒りを顕わにした。今の彼女らは素手だが、手に武器を持っていれば抜くくらいはするだろう。孫策は何を考えているのか俺と曹操の間に立った。まるで手を上げたら邪魔をしてやると言わんばかりだ。おかげで、部下同士の間にも緊張感が奔っている。
「……この私が下僕ですって? 随分とふざけた事を言ってくれる!」
 裂帛の気合いをこめたつもりだろうが、俺には痛痒を感じさせなかった。彼女よりもよほど恐ろしい者に囲まれていたこともある、だがそれ以上に、彼女が愚かにしか見えないからこそ平然としている。
「お前達は誰も知らない。あの一族のことは。お前達の矜持も、力も、知恵も、全身全霊の何を振り絞っても意味が無い、そう言う風に出来ちまう、あの連中にお前達は全くの無知だ。どれだけ吠えても、哀れにさえ思えるほどに」
 俺の言葉に、曹操は能面のような顔をした。彼女の顔には、殺してやると墨痕鮮やかに書かれている。
「よく言ったわ」
 声は震え、口元はひくつき、全身全霊を持って俺への怒りを示している。だが、ここで引くのは南風ひとみを止められなかった時と同じだ。
 この女は、曹操軍そのものを相手にしても止めなければならない。
「張三姉妹は既に牙をかけられた。お前は吸血鬼を知らんだろうが、吸血鬼に噛まれた者は複数回の段階をふんで同様の存在に成りはてる。今、彼女らはその階に足をかけているのだ。このまま放置すれば、そいつらは曹操軍を纏めて主のための下僕に作り替えて漢を蝕む病巣に変えるぞ。お前に、対抗の知識は無い」
「公孫賛、剣を返してもらえるかしら」
 説得は出来なかった。こう言う場合は下手に出るべきなのだろうか……それはそれで嘗められそうだな。何かあれば人の尻の毛までむしっていきそうに見える相手に譲歩はしたくない。
「いやいやいや、こいつはうちの客将を助けてくれた命の恩人なんだ、勘弁してくれないか」
 俺のもっている情報が気になると言うよりも、純粋に言葉通りにしか見えない。驚いた、こんな所にいい女がいたか。
「気にするな、こいつが倒れたのは俺と吸血鬼の戦いに巻き込まれたんだから半分くらいは俺のせいだ。俺のかわした気に当たった以上、恩に感じる必要なんて無い。むしろ、俺が詫びるもんだ」
 頭を下げると、寝っ転がったままの趙雲がプライドを傷つけられた怒りを俺にぶつける。
「見くびらないで頂きたい、工藤殿。私とて武人だ、戦働きに出て流れ矢を恨むような不抜けた性根はしておりませんぞ。私こそ、油断と不覚を恥じねばならない。ましてや、今なお己が痛手に苦しんでいるのに私を癒やし続けた貴方に詫びられては、それこそ立つ瀬が無い」
「……それはそれだ」
 自分で言うのも何だが、何がそれはそれなのだか分からない。黙ったままの孫策達の目が嫌に気になる。適当に出てきた出任せに気まずい気持ちでのっそりと腰を上げるとそそくさの見本のように席を立った。
「……それじゃあ、俺は行く。曹操の、やりたいのなら表でやろうや。ここでやって、余所様に迷惑かけるのもなんだろう」
「いい度胸ね。ここにいれば、私達は剣を持てないわよ」
 得物を握った瞬間に首を落としに来そうな顔をする女に、我がことながらどうしてこんなに不器用者かと情けなくなる。まったく、俺って奴は気難しい女相手と言ってもどうしてこうなるか。
「ここで余所様を盾にして一生生きていけってか? 面白くもない冗談だ」
 俺はこれでも男だってぇの。
「潔いことだけは褒めてあげる」
「そらどうも」
 ゆっくりと老人のように歩いてテントを出る。ここから出てしまえば最悪、曹操軍に袋叩きかね。がんばれ、カメレオンスーツ。
「なんで……なんで、父ちゃんが死んでるんだよ! 天の御遣い様なら、生き返らせてくれよ!」
「……小僧?」
 子供の泣き声がした。
 ふと見てみると、遠くに李江の姿が見えた。泣き叫んで誰かにくってかかっているが、夕暮れの逆光で誰なのかは分からなかった。
「待ちなさい、逃げるつもりかしら?」
 俺を追いかけてきた曹操達が何かを言っているが、それよりもあの不穏な場面こそが気にかかる。李江はどうして泣いている?
 亀のような歩みで、声の方へと足を進める。李江の声があんまり大きいから、その辺りにいる誰も彼もがあいつに目をやっている。
「義勇軍の陣地か? ああ、そうか……あいつら公孫賛に寄生しているんだったな」
 側にいるのは当然か。納得しながら足を進めると、俺の隣に曹操がやってきた。斬りかかってくるかなと警戒していると、彼女の目も俺と同じ所に向けられている。いいや、李江ではなくあいつにくってかかられている誰かを見ている。目には打算と好奇の色があった。
「へえ、天の御遣いが子供に神通力を見せろと願われているのね……面白いところに出会ったわ」
 俺よりも、目の前の騒ぎを優先するらしい。だが、忘れたと思っているとひどい目に遭うだろう。
 曹操のように俺の隣に孫策が顔を出す。彼女は黙って俺を見ると、体を寄せてきた。柔らかい体に支えられて、少し負担が薄らいだ。あくまでもさりげなく支えてくれるところがにくいと思う。
「吸血鬼って強いのかしら? 私を倒した貴方がこんなになるなんて……今日一番の驚きかもね」
 そういう彼女の顔は上機嫌だった。曹操に続いて劉備という、競争相手なのかいずれ敵になる相手なのかは知らないが、とにかく他陣営の弱みになりそうな場面に出くわせて嬉しいようだ。
「昨夜も言っていたわね。貴方を倒したですって?」
「そうそう、本気を出したら一発でばさあっとね。世の中広いわ」
 負けたことを笑って認める孫策をどう思ったのかは知らないが、曹操は俺に疑いの目を向けてきた。そんなに意外か。
「それは、興味深い話ですな」
 趙雲まで出てきた。後ろには彼女に心配そうな目を向ける公孫賛もいる。
「病み上がりは寝ていろよ」
「病んでいる真っ最中の恩人が斬られかねないのに寝ていろとは、無理なお話ですな。それに……」
 それまで飄々としていた彼女は一転して。どこか憂いを感じさせる顔になる。
「あそこで繰り広げられているのは、私にとっても無関心ではいられない話なので」
「心配するなら、子供にするんだな」
 彼女の目も、皆の目もくってかかられている誰かにばかり注がれている。それがなんだかひどく嫌な気持ちだ。我ながら冷めていると思う自分の声に、周囲の目が注がれる。
「男ばかりを見て、泣いている子供を見ない。母性ってやつがない女ばかりだ」
 歩みを進めると、誰かが誰かは見えてくる。それが天の御遣いと言われている男だとは李江の叫び声で見る前から分かってはいた。
「おや、あの子供はなんだか見覚えが……ああ、北郷殿達にやけに懐いていた少年ですな」
「親父が死んだか。それでか」
 何日ぶりかに見た子供は、顔色が悪い。よく吠える子犬のような顔にはこの時代でも曇ることのない生命の輝きではなく、恨みとか憎しみとか、昔から見慣れている曇りが分厚い白粉のようにたっぷりと塗られている。絶望というそれは、子供の頃から路地裏でよく見ていた。
「お……俺には、そんな事は出来ないんだよ……」
 勢いに押されている男……いや、少年の側には、一体どういう染色をしているのか、あるいは遺伝子レベルで改造されているのかと思えるような派手な色合いの髪をした女がいる。桃色の髪にあわせたように服装もアイドルかなんかのように派手で、こんな時代だというのに、どこか座敷犬のようにのんびりとした空気を纏ったお嬢様だった。
 あれが劉備玄徳であるらしい。
 俺の知っている劉備玄徳は、様々な勢力を借宿にしてそこが滅びても自分は一足先に離脱して生き延び、乗っ取りなんかを繰り返しつつとうとう皇帝を名乗るようになった人物あったと思う。確か、元々が貧困の出で、それでも王の末裔を称していたからか後世の創作では敗れた正義の味方扱いされていた男だ。
 実際には、かなりヤクザな男であったらしい……まあ、どっちも後世の推測か創作だが……ともかく劉備は確か貧困の中で苦労していた男のはず……あんな世間知らずの匂いがかぐわしい娘がそうだとは意外と言うよりも詐欺だ。
「どうしてだよ、天の御遣い様なんだろ! だったら、どうして父ちゃんが死ぬんだよ! 黄巾党なんて、天の力でやっつけてくれればいいじゃないか、そうすれば……」
 少なくとも、今子供の泣き言にうろたえているような小娘にはそういう世間ずれしているところもふてぶてしさや強かさが感じられない。まあ、一見して分かる事でもないな……そもそもどうでもいい。
「落ち着いてくだしゃ……あう。落ち着いてください。李江君!」
 白い羽団扇を持った、はっきり言って李江と変わらない程度の子供並の娘が駆けつけてきて叫んだ。その更に後ろに、あの時出会った二人と、魔女のような帽子を被ったもう一人の子供が現れた。
「人を馬鹿にしているような格好の連中ばかりだな」
 あんまりな格好ばかりに思わず口から出た一言だが、似たような連中しか周りにいないために理解はされなかった。
「人の事が言える格好なの?」
 俺のは、母国に帰れば真っ当なんだよ。
「あなたのお父上が亡くなったのは私たちも仲間として残念ですが、全て承知の上で私たちは戦っているのでしゅ……あう……力及ばずとも各々が全霊を尽くした結果であって、その結果の死は我々も受け止めなければなりましぇん。それが戦場の……」
「嘘だ!」
 汗もかかず、血も流していなさそうな小娘がなんぞ言っているがそれは甲高い悲鳴のような叫びにかき消された。しかし、語る人間が小娘にしか見えず相応しくないように思えて反発を抱いてしまうが、言っている内容その物は正論だろう。
「英雄譚に憧れているだけの子供に、それを受け入れる度量があるとは思えないが、な……」
 孤児になったあいつがこれからどうなるのか、先の事を考えると目は自然と公孫賛に向けられる。自分の領民が不幸になった彼女の目の前で、李江は涙ながらにわめき散らした。
「天の御遣いだなんて言っても、そいつは何もしていないじゃないか! 俺は知っているぞ。戦場で槍を持って戦っているわけじゃない、後ろで策を練るわけでも、指揮を執るわけでもない! それでも天の御遣いなんだから、神通力で皆を助けてくれるのかも知れないって思ったのに、それもしない! そんなの……そんなの、ただの偽者じゃないか!」
 李江がそう言った途端に、元々険悪な雰囲気であいつを見ていた義勇軍の兵士達がそれ以上に直接的な危害を加えそうな目であいつを見た。
 義勇軍の将校達がどこか後ろめたい顔をしているのは、おそらく趙雲が言ったようにあいつには通力など無い事を百も承知の面々なのだろう。だが、兵士は違う。
 彼らは北郷とやらを本当に天の御遣いだと信じている。俺と同時代の人間でも、怪しげな新興宗教なんかに結構騙される者だ。ましてやこの時代のすれていない、そして何よりも神どころか悪魔にさえもすがりたいほどに追い詰められている民衆なら、なおさら真剣に、心から信じるだろう。
 そして彼らは黄巾党に勝利した。生き残った彼らにとって、勝ちを与えてくれた天の御遣いは今正に本物になったのだ。それを声高に否定して泥を塗った李江に、戦争の余韻も手伝って本気の殺意を抱くのは自然でさえある。
「まずいな……殺されるぞ」
 くそったれ、向こう気の強い奴だと理解はしていたがこの状況で公然と天の御遣いに罵声を浴びせるほどに無謀だったか。
「そ、それは……」
 何も言えずに青い顔をする北郷を守るつもりなのだろう、彼の隣にいる劉備が同じくらいに青白い顔で口を開こうとしたが、その前にとうとう兵士が一人、凶悪な顔をして割り込んできた。
「おい、小僧。いい加減にしやがれ」
「え……?」
 自分の胸ぐらを横からいきなりひっつかまれた事に、李江の血が上った頭では理解が追いつかないようで惚けている。
「天の御遣い様に文句を付けるどころか偽物呼ばわりするとはいい度胸じゃねぇか」
「俺達は勝ったんだぞ? 黄巾党に俺達は勝ったんだ。それこそ御遣い様が本物の証明だ。つまらない事を言うんじゃねぇ。天の御遣い様がいたからこそ、黄巾党は倒せたんだよ。そうでなけりゃ、官軍は負けていたんだ。ふざけた事を言うな」
 俺はさりげなく支えてくれる孫策をちらり、と見た。俺の内心を察した孫策は肩をすくめる。
「正直、義勇軍はそこまで活躍しなかったわね。いてもいなくても変わらなかったとまでは言わないけれど、自分たちが勝利の立役者だなんて顔をされると……ねぇ。一介の兵士の言葉に目くじら立てる気は無いけれど」
「命をかけたんだから、自分たちこそ功労者と思いたくもなるな」
 兵士が命をかけるなんて当たり前よ、と孫策は言い、声は出さないが剣に手をかけたままの曹操もうなずいている。だが、所詮は末端の兵士でありしかも義勇兵である。そんな武将の理屈は理解できても納得はするまい。
「だったら、どうして父ちゃんは死んだんだ!」
「信心が足りないからだよ」
 義勇軍の兵士は絶対の信託を告げるような顔でそう言った。
「天の御遣い様に難癖付けるような息子がいるんだ、お前の父親も当然、不信心者だろうさ」
「そりゃ、死んで当然だ。俺達みたいに信心があれば、矢も剣もあたりゃしないんだよ」
 そう言って笑った男の鎧は粗末でこそあれ、傷もつかず変形もせず奇麗な物だった。隣で孫策が失笑した理由もよく分かる。
「ありゃ、泥と土はついていても血は返り血さえついとらんな」
「大方、戦場で味方の後ろに隠れていたのでしょう」
 未だに名前を知らない部下の二人が交互に、侮蔑を隠さず罵った。夕闇の上にこの距離でそこまで言い切れるとは、随分と目がいいんだな。曹操のツレなど片目を隠しているというのに、驚きだ。
「ふ、ふざけんな! 父ちゃんだって俺だって、この戦が終わる前まで誰よりも信じていたんだ! 信じてついて行けば、きっと平和になるって! 戦が終わって幸せになれるって信じてたんだ!」
 泣き叫ぶ李江の側に、義勇兵の一人が膝をついた。そいつは真面目くさった顔で父親を無くした子供を諭し始める。
「いいかい、坊や。君の父親は、天の御遣い様の導きの通りに戦って死んでいく事が出来た。それはとても尊い事であり、ありがたい事なのだよ。平和のために、天の御遣い様のために死んでいく事が出来たのだから、お父さんも本望だったんだ。君は、御遣い様に感謝しなければならないんだ。お父さんは、新しい平和な時代のために立派に死んでいく事が出来たのだからね」
 周囲の義勇兵は、いちいちもっともだとうなずいている。だが、ありがたい訓示も李江にとっては無意味だ。
「ふざけんな! 何にもしないで突っ立ってるだけの奴の口車に乗って死んじまっただけなのに何が本望なんだよ!」
 結局、世間は子供の無邪気な空想に従ったりはしない。あいつが夢に描いていたのは、いやそうなると信じて疑わなかったのは手柄をたてた父親と故郷に錦を飾って幸福に過ごす未来だろう。そんな都合のいい夢は当然叶わなかっただけなのだ。
 それを許せないのが李江であり、差し伸べてやった和解の手をはね除けた李江を許せないのが義勇軍の兵士達だ。
「このガキ、いい加減に泣き言はやめやがれ!」
 諭していた男が真っ先に拳を振り上げた。胸ぐらを捕まれっぱなしの李江にそれを避ける術はなく、義勇軍の将校達が止めようとするも間に合わず……
 李江は、宙を飛んだ。
「無様だな、義勇軍」
 ぼそりとつぶやく俺の頭を飛び越えて、李江は公孫案の隣にぼて、と尻から落ちた。十数メートルを飛んだ李江の顔は殴られもせず、我が身に何が起こったのか分からずに惚けている様は間抜けだった。
「涙の後くらい拭いとけ、坊主」
 ついでに、同じ目に遭った趙雲を除いた誰しもの顔もぽかりと大口を開けており間抜けだった。
「工藤殿の仕業ですか」
「まあ、一回限りの奥の手だ」
 別れた時、仕込んでおいた妖糸の仕業だ。師匠よりも遙かに劣る俺では、目の前にいる相手をザコから逃がすのが関の山だが仕込んでおいてよかった。
 俺はひどく冷めた目で、子供を殴ろうとした兵士達を見る。義も勇も持ち合わせているようには見えなかった。
「公孫賛」
「あわ、ひゃっ」
 自分の足下で未だに惚けている李江を見下ろしている公孫賛が、まるで怪談に怯える子供のように飛び上がる。
「そいつは幽州のガキだ。幽州の頭なら、民を守って見せろ」
「あ、ああ……って、今のは一体何だ!? 星の言っていた事が本当なら、お前がやったのか?」
「ただの手品だ。驚くような物じゃない」 
 実際、目には見えない糸でたぐりよせただけなので、手品以下とさえ言える。今日日のマジックショーでなら、もう少し気の利いた事をするだろう。そもそもテレキネシス程度で驚くような可愛げは“区外”の住人だって当の昔に失っている。
「一度解いちまったら、二度も助けてやれないんだ。もう無茶するなよ」 
 べし、と李江の脳天に拳骨を落として身もだえさせてから、さっきよりはマシになった足取りで歩き始める。支えてくれた孫策には、曹操の目を離れてから礼をしようとあれこれ企む俺の背中に、男の声がかかった。
 声をかけてくるならてっきり曹操だと思っていただけに、誰が俺に声をかけたのかは分からなかった。
「なあ、あんた! そこの、ジーンズにジャケットを着ているあんた、待ってくれ!」
 俺に声をかけてきたのは、天の御遣いを名乗る男だった。駆け寄ってくる顔には、驚きと喜びが満ちている。この大地で初めて同胞を見つけた喜びなのだろうが、俺は李江が殴られそうになったおかげで気分が悪い。その原因となっている天の御遣いを名乗っている北郷は、あるいは殴りつけようとした義勇の無い義勇兵よりも気に入らない。
「先ほど小僧に散々罵られた割には太平楽な面だな、天の御遣いってぇのはしゃれこうべの中身が随分と晴れ晴れしている物らしい」
 俺の皮肉を聞き取れなかったらしい北郷よりも、側で聞いていた面々がそれぞれの反応をする。そんな彼女らを見て童女二人が切迫した顔を見せ、俺の姿を見た関羽と張飛らしい二人が驚いている。
「まずいな」
 あの二人に黄巾扱いされた事は忘れていない。誤解は解けているかも知れないが解けていないかも知れない。この体調が、俺に賭をする強気を奪った。 
「安全策でいくか……先に陣まで行っているぜ、曹操……夜は吸血鬼の領分だ。世界は奴らのための物に変わるぞ。手遅れにならないうちに来る事だ」
 目の前で路傍の石のように気配を消す。かつて義父に学んだ術はこの世界における一軍の将にも有効だった。それだけで、誰もが俺を見失った。
「え? なんだ、何処に行った!?」
「ひ、人が消えたのだー!?」
「はわわわ、お化けでしゅかーッ!?」
 義勇軍からの扱いには多大に異議があるが、曹操達も同様であちこちに目を配ったが見つけられないようで舌打ちをしていた。
 ただ、公孫賛だけは違った。
「お前達、何を言っているんだ。そこにいるじゃないか」
「え?」
 彼女の目は、不思議そうに俺を見ている。隠行が通じていないのは間違いなかった。何者だ、この女……彼女以外の誰も俺を認識できていないというのに、公孫賛だけはっきりと俺を認識し続けている。
 慌ててカメレオンスーツを使うと、彼女も俺を見失い慌て始めた。それに乗じて彼女の真後ろに立ってみたが、今度はまるっきり分かっていないようだ。誘いかと思って肩に手を置いてみると、飛び上がって驚く。
「……何だ、一体……分からない女だな……気配を探るのが上手いって訳でも無いのか?」
 どうにも結論の出ない問題に首をひねりながらも、敵対しているわけでも無いのでさっさと曹操の陣地を目指す事にする。
 曹操は真っ直ぐに自分の陣地に帰るだろう、俺は女達を隠される事だけは避けなくてはならない。だったら、手段は一つだ。
「いつまでついてくるつもりかしら、孫伯符」
「それはもう、あいつをもう一度捕まえるまでよ。あなたの天幕までついて行ってもいいかしら?」
 ぬけぬけと言いながらついてくる自分よりも圧倒的に背が高くて胸の大きい女に、曹操は内心で彼女らしい罵声を三通りほどぶつけてなじったような苦々しげな顔をする。孫策達に見えないような角度に顔を向けているのは最後の理性だろう。
 彼女の目的が額面通りであろうとなかろうと、ついてこられてはまずいのだ。だが、ここで口実を作ってはね除ければ、何をどう言いつくろおうとも公孫賛のテント内で疑われた張三姉妹の件を肯定する事になる。
 公言されなくとも、大きな弱みを持ったことになる。
 彼女が自慢の脳みそを回転させて理想の結論を出すには、自陣までの道のりは短すぎる。相手は合同で軍を纏めている将の一人、回り道をして時間稼ぎをすることさえも難しい。配下を先触れに出して仕込みをさせようにもあの手この手で潰される。
 もちろん本陣に連れて行ったからと言っても、そう簡単に目につくところに捕らえた虜囚を置いておくわけはないのだが……今回は捜索しなければならない怪しげな男がいる。
 口実を持っている以上、見るからに奔放な孫策も本陣を強引でもかぎ回り始める可能性はある。万が一にでも見つかってしまえば……おいそれと口封じができる女でも無いのがつくづく厄介だろう。
 何よりも張角らを捜すと公言している男がいるのだ、見つかってしまえば彼女らは国を欺いて天下の大罪人を庇ったことになる。黄巾と内通していたと言われても不思議は無い。
 ……果たして、彼女の中で結論が出たのかで無かったのかは余人に知る余地は無い。
 いずれにせよ、傾きかけた陽のほとんどが地平線の向こうに威光を隠すほどの時間まで稼いでようよう辿り着いた自陣でも彼女の顔の苦みは取れなかった。それを横から見ている無表情な従者の内心はいかばかりか。
 何にしても、着いたからには結論を出さなければならない。こうなれば、彼女たちも共犯として内側に引き入れるくらいしか手は無いのではなかろうか。
「ぎゃあああっ!?」
だが、全ては中から聞こえてきた悲鳴によってご破算になった。
「桂花!?」 
 まるで彼女の到着を待っていたように天幕から飛び出した叫び声に、声の主を呼びながら身構える。彼女とて戦場を走る身であれば、迅速に意識を切り替えて身構える。兵士達がそれぞれてんで勝手にどよめいているのと比較すれば、気構えに違いがあるのは明白だ。
「華琳様、今の声の方向は……」
 兵に指示を出すよりも先に声の正体を探る女の顔は青ざめていた。
「くっ」
 思わず唇を噛みしめている彼女の後ろで孫策が剣を抜きもせずに待っているのは、場をわきまえているからだろう。だが、何時まで保つかは本人だけが知っているのと同時に、あまり保たないことは誰でも察しがつく。
 顔が愉快そうに歪んでいるからだ。断じて笑顔とは言うまい。
「どうやら、あいつの言った通りになったのかしら」 
 そう口にした孫策を曹操がにらむよりも先に、更なる大きなどよめきと共に兵士の群れが割れた。
 国始まって以来と言ってもいいほど巨大な賊の大軍団を下した男達が、まるでモーゼの前にひれ伏した海のように真っ二つに分かれている。何かに怯え、男の風上に置けないほどに腰が引けている彼らの口から出ているのは、驚愕と怯えの声だ。
「……最悪ね」
「なんて事を……」
 その間から現れたのは、四人の少女だった。誰もが曹操の知る四人だった。しかし、全員が彼女の味方であるかというとそうでは無い。味方はたった一人だけだ。
 彼女の捕まえた捕虜三人の女に、よってたかって首筋を噛み破られて血塗れになっている一人だけだ。
 一人の、子供のように小柄な娘にそれなりの体格の娘が三人も噛みついている姿は異様な恐ろしさを感じさせもするが、同時にひどく間の抜けた絵であった。
これが剣でも突きつけて言うのであれば兵士達の迅速に動いただろうが、目の前の光景は異様さと恐ろしさと滑稽さが奇妙にバランスをとり、兵士達から戦意を奪っている。
 その間にも桂花と呼ばれた娘は白目を剥いて、ゾンビのようにあちらこちらへとふらふらしている。しかし、奇妙なことがあった。白目を剥くほど首筋の急所を噛みつかれているのに、彼女は血を流していない。
 灯され始めた火が精一杯の光源である闇の中でも彼女の着ている衣装が奇麗なままであるのはわかるし、血の臭いもしていないのだから間違いは無い。
「その子を離しなさい」
 曹操が、その異様に気が付かずに勧告する。彼女の目は今日一番の怒りを示しており、それはつまり冷静さを失っていると言うことだ。
 何よりも異様なこと……三人の女は数多の兵士に囲まれながらも、まるでようやく餌にありついた絶食後の野良犬のように食いついた女以外には一切目をくれてもいないのだ、と言う事実に気が付いていない。
「華琳様ぁっ!」
 勧告を無視した女達に何を言うよりも先に、この場の誰よりも危機感を持っているかも知れない女の声がした。一斉に目が注がれるそこには長い黒髪の女が一人、既に抜き身の剣を手にして彼女らの方へと駆け寄ってきているところだった。
「春蘭……陣を預かる身の貴方が、失態ね」
「も、申し訳ありません!」
 この異常な状況を理解できていないのか、それとも胆力が並では無いのか。女は駆け寄ってくるとむしろ曹操の叱責にこそ顔を青ざめさせた。 
「く、桂花め。細腕の軍師風情が捕虜を尋問しようなどと粋がるからこうなる! 下劣な懐柔などを試みるからだ」
 言いながら、女は果断に斬りかかる。仲間である娘の惨状を見てもひるむことは無く、躊躇も無い。殺される前に殺せばいいと行動で語りながら、剣は四人の女へと向かって振り下ろされ……
「ぐあっ!?」
 弾き飛ばされた。
「春蘭!?」 
「姉者!」
 女の振り下ろした剣は手近の一人に襲いかかったが、奇妙に青白い肌に鉄の固まりが食い込むか否かという瞬間、それまで見向きもしなかった娘が剣速を遙かに上回る速さで腕を振り、自分よりも大きな武芸者を虫のように弾き飛ばしたのだ。
 斬りかかった勢いよりも速く、十メートルも吹き飛ばされた女は辛うじて受け身をとったものの強く体を打ってのたうっている。そんな彼女の姿を見て兵士達の間から動揺以上の恐怖心が生まれた。おそらく、彼女の武勇は曹軍の柱だったのだろう。
「狼狽えるな! 既にあの女は死ぬだけだ、腕をよく見ろ!」
 吹き飛ばされた女を姉者と呼んでいた方が、物静かな印象に似合わない大声を凜と張り上げる。確かにその通りだ、剣撃を素手で振り払ったのだ、女の細腕は半ばからちぎれかけて真っ赤な血を垂れ流している。
 だが、真の異常事態はそこから始まった。
 さすがにかみ砕かんばかりに咥えていた首筋を解放した娘は、しばし能面のように傷口を見下ろしていた。痛みを感じていないような様子に、恐れは無くても不気味さを感じて曹操も含めて誰もが顔をしかめる。
 ぼうっとした表情を変えずに傷口を奇麗に合わせ、舌で舐めるのは決しておかしな行為でも無いだろうが、どこか恐ろしくもある。それが妖気という物のせいだと、誰も理解できないだろう。
「ふふ……美味しいなぁ……私の、血……」
 その恍惚とした表情と声は、何故だか周囲のざわめきも風の音も押しのけて全員の鼓膜をはっきりと震わせる。おぞましい、と誰もが感じただろう彼女に手近の兵士が一人、槍を持って突きかかった。
 その穂先が、花を摘むしか出来なさそうな細腕にしっかと捕まれたのを彼は惚けた目で見つめた。
「うわあっ!?」
 悲鳴を上げる彼は、自分に何があったのか理解できなかっただろう。
 まさか鎧まで付けた大の男が小柄な少女に、片手で槍ごとおもちゃのように持ち上げられるとは。
 ましてや、それが先ほどちぎれかけている方の腕だとは目で見ても理解できないに違いない。持ち上げられた以上の速度で円を描くように地べたに叩きつけられ、槍を放すことも出来ないままに大地に真っ赤な血の花を咲かせて動かなくなってもなお、彼は恐怖よりも驚きの方が大きかったことだろう。
 それは、部下を倒された曹操達も同じだった。
 似合わない異常な怪力はまだいい。だが、それを成したのがちぎれかけた方の腕だとは一体どういう事なのか。見れば、女の細腕は今も平気な様子で哀れな兵士から奪った槍を風車のように振り回している。
 舐めとられた血の下から現れるはずの傷口は、今や何処にも見えない。それは暗闇のせいでもないし、形だけ取り繕ったわけでないのは平気な顔で音が鳴るほど勢いよく槍を振り回していることでも明らかだ。
「化け物だ……」
 どこかから出てきた、事実を正確に表す言葉を聞いてしまった兵士達の間に怯えが伝播する。まずい、と曹操が怯みの空気を切り開くように叫んだ。
「秋蘭、射貫きなさい!」
「は!」
 片目を隠した女は、命令に従い即座に弓矢を構えた。弦を放す手に、今にも命を失いそうな味方を射貫くかも知れないという躊躇は無い。あるのは自身の腕に対する自信だけだ。
 矢は飛燕の速度で三本飛んだ。全てが女達の喉に刺さった。
「……ひどい事をするわ」
「ちぃたちの喉は、一番大事な所なのに……」
「でも~……おねえちゃん達、普通にしゃべれてるよねぇ~……」
 喉に鉄の塊が刺さっているというのに、彼女らは平然としている。むしろ、それで正気を取り戻したかのように身を起こして流暢にしゃべり出す三人に、曹操軍の誰もが唖然とした。そんな彼らを尻目に、噛みつかれていた猫耳フードが地べたに顔から倒れる。
 その首筋に二つの穴が奇麗に並んだ傷……いいや、噛み跡がついているのを確認できたのは何人いるだろう。つまりは、三人は既になりかけているのだという力以上の証明だった。
 ああ、不気味な笑みを浮かべる女達の何というおぞましい事か。顔を上げた彼女たちは、三人共に口元を真っ赤な値で染め上げるという不気味な化粧を施し、その中で蝙蝠のそれと瓜二つの白い牙が悪目立ちな程にはっきりと見えていた。
 ゆっくりと周囲を見回す彼女らの、何と無惨なことか。
 昨日まで手入れが行き届いていた髪はざんばらに乱れ、その間から覗いた目は闇に鮮やかに赤く輝いている。若い娘であるにもかかわらず袖から覗く手も、そして足も、枯れ枝のようにやせ細って血管が青い色を目立たせて盛り上がっている。きっと服の下の胴は肋が無惨に浮き出ていることだろう。その姿は見たことも無い迷信の中にいるだけの幽鬼を否応なく連想させた。
 兵士達の誰もがこれまでに味わったことの無い異様な迫力に、動揺が走る。それを楽しむように、女達は大きく一歩踏み出し……彼女たちの間を縫って飛来した仁王が、猫耳フードを中心に円を描いて発した念に弾き飛ばされて、各々転げながら悲鳴を上げた。
「こう言ったらなんだが……」
 猫耳フードの頭を掠める形で地面に突き刺さった仁王を抜いて、俺は笑う。仁王を投げた瞬間に、カメレオンスーツはオフになっている。
「ここらで大人しくして、人間に戻る気は無いか? 張三姉妹」
 突然現れた俺への驚きを見せる周囲の喧騒を余所に、人を捨てつつある三人へと静かに問いかけた。
「ないわね」
 三人の中で、一番気が強そうなのが答えた。
「とってもいい気分よ、私たち。どんな喝采を聞いても、これには勝てないわ。どうしようもなくどうしようもなく、心地よいの。私たちを利用しようとしているその娘の血は、とてもとても甘かったのだから。これからも美味しくいただけるのなら言う通りにしてあげてもよいのだけれど……その必要は無いわね。彼女は既に私たちの下僕なのだから」
 にい、と少女は周囲を見回して、笑った。
 敵として数多くの兵士に囲まれながら、それらに見せつけるように笑う。
 きっと、彼女の精神は別の物に成り果てたのだろう。
「あなた達がどうして私たちを捕まえたのかは分かっている。黄巾党を、自分たちのいいように使いたいのでしょう。その為に、私たち三姉妹を生かして捕らえた。替え玉まで用意して、ご苦労なこと」
 曹操達と俺、そして孫策達を一緒くたにしないで欲しい物だ。勝手に共犯にされるのは迷惑極まる。
「叶えてあげてもいいわよ、その願い」
「ご主人様の~……命令ですから~……」
「あなた達も含めて、皆、ちぃ達の下僕になるけどね」
 劉貴の命令は、既に届いているのか。テレパシーの類か、それとも直接令を伝えているのか。仮にも大将軍であれば、この場において部下の後ろに隠れはするまい。なら、既につながっているのだろう。
「この私が下僕ですって?」
 どす黒い何かをまき散らしながら、曹操が一歩踏み出す。彼女にしてみれば三人がぺらぺらと喋ってくれた内容は相当の失態だ。孫策がいるのがまずすぎるのだろう、彼女の口を力尽くでは無く自発的に黙らせる方法を見つけるしか無くなったのだ。
 あくまでも俺の勝手な想像に過ぎないが、もしも本当にそんな事を考えているのだとすれば……砂糖菓子よりも甘ったるい暢気さだ。一体自分が何を相手にしているのか、全く分かっていない。
「……さて」
 三人の目が曹操に移ったことを幸いに、倒された兵士を抱き上げる。幸い、まだ間に合う状態だ。ほ、と一息ついて治療を施す。念法には無い、他の武道の血流操作に整体、それが今こそ男を救う。ジルガを深く学ぼうと志した際に出会った男、見よう見まねの技を振るわれた蘭城流のごうつくばりはきっと罵声を共に特許料でも要求するだろうが、人を救えた事実は誇らしく思ってもいいだろうか。
「そこの」
「うえ!?」 
「仲間の命は救ったぞ、医者に連れて行け。応急処置で命はつないだが、すぐに本当に治さないと結局は死ぬ」
「は、はい!」 
 若い兵士に声をかけると、彼はもぎ取るように仲間を受け取り走っていった。逃げたようにしか見えないが、それもいいだろう。
「優しいのね、兵士一人一人をそうやって助けていくの?」
「まさか、たまたまさ」
 何だろうか、女達は俺を見ていた。何を知りたいと思って俺を見ていたのかは知らないが、どうでもいいといえばどうでもいい。劉貴が来る前に、三人のなりかけを眠らせてしまわなければならないのだから。
「不公平なのね。人の命は重いのよ、血の重みがあるから」
「いつまで話をしているのかしら、この私を無視して」
 自分の手に主導権が無いのが許せないらしい。どんな顔をして笑ってやればいいのやら。
「私の部下を襲った罪は重いわ」 
 彼女の声には、直接向けられているわけでも無い兵士達が怯えるほどの殺意がこめられている。血を吸われる前の彼女たちならば、腰を抜かして失禁していただろう。だが、今や吸血の闇に膝まで体を沈めている娘達には笑い話でしか無い。
「何を言っているの」
「ちぃ達を連れてきたのはこの娘なのに」
「おねえちゃん達を利用しようと考えたのも、この人でしょう~……夢の中でも、聞こえていたんですよぉ」
 曹操を嘲る彼女らの口元には、既に鋭利な牙が見える。生命に溢れた若い娘が無惨な事だ。
「黙りなさい! その首、ここでたたき落としてあげるわ!」
 曹操が凝った意匠のでかい鎌を持ちだした。俺が治療している間に部下に持ってこさせたらしい。どうみても実戦に向いている得物には見えない。武器と言うよりも処刑道具だが、一軍の指揮者であるから意味の無い象徴的な武具でも構わないのかも知れない。
 どちらにしても、悪趣味だ。
「やめとけよ。相手は人じゃ無い」
 気は半分ほど抜けているが、この程度の回復量では心許ないことこの上ない。せめて今のうちに彼女らを無力化して劉貴に備えなければ、瞬殺されかねない。
 あいつに与えた念の傷、わずかでも影響があればいいが……
「お前らの主が最優先にしたのは、俺の始末じゃないか? こいよ、相手をしてやる」
 俺の挑発に乗った三人は、曹操を無視して俺を見つめる。
 いや、違う。
「そうね……貴方が一番、美味しそう」
「次は、そこの二番目におっぱいの大きなおねぇちゃん」
「私の方が大きいよ~……でも本当~……どうしてかしら。何かが違うの、みぃんなとっても美味しそうなんだけど、あの人は上物。あなたはもっと特別。安酒と神様のお酒みたい」
 以前戦った妖魔が言っていた。
 修行を積んで“格”の上がった人間は美味いのだ、と。吸血鬼も同様なのか。
「女に言われるんなら、もっと別の褒められ方をしたい物だ」
 そう言って、仁王を地面からひっこ抜いた。ぶん、と振ると三人は俺を笑った。
「無理だよ、人の武器じゃ。ましてや、木の棒なんかで」
「ちぃ達、知っているんだ。もう人の武器じゃ死なないって」
「ご主人様が、教えてくれたの」
 彼女たちが笑うと、曹操軍から狼狽える声が出てくる。確かに、目の前で矢が刺さろうと剣で切られようと平気な顔をしている様を目の当たりにしているのだから信憑性はある。
 だが、俺は笑う。
「そうか、ご主人様はあんまり教えてくれなかったらしい。先ほど俺の仁王が地面に突き刺さっただけで飛び跳ねて苦しんだのは誰だ?」
 いきり立つ女達に、俺は冷水を浴びせる。
「それに、俺は知っているぞ? お前達の滅ぼし方を。間違えるなよ、殺し方じゃない、俺は滅ぼし方を知っているのだ」
 人知を越えた存在にとっての殺す、と滅ぼすは違う。
「今なら、間に合うぞ。劉貴さえ滅ぼせばお前達は人間に戻る。今の心も悪い夢だったと終わる。だから、大人しく眠りにつかないか。目が覚めれば終わっている」
 無理と言うことは分かっている。吸血鬼の主とのつながり、そして何よりも飢えと渇きの衝動は何者も耐えがたい。高僧でも立ち向かえない地獄の泥さながらのそれを、どうしてこんな小娘共の克己心で打ち勝てようか。
「いやよ、そんなの」 
「大体、ご主人様に勝てるわけがないじゃない」
「官軍全部だって、ご主人様には勝てないわ」 
 敵であると言う意識を持てない相手に力尽くは、趣味じゃない。それでも仁王を振るわなければ犠牲は増える。吸血鬼を知らない連中に押しつけてしまえば、三人を滅ぼす前に曹操軍が吸血鬼の軍団になるかもしれない。
 吸血鬼となった古の大将軍が采配を振るう、吸血鬼の大軍団か……
 悪い夢だ。
「秦の大将軍が率いる吸血鬼の軍勢なんぞで大地を埋め尽くす訳にもいくまい」
 はたしていつ現れるのだ、大将軍。かつて、メフィスト病院に忍びこんで院長と人捜し屋のいる部屋まで辿り着いた時には丑三つ時に現れたと言う話だ。それが彼らの様式美であるのかも知れないが、今まさに血を吸った相手が暴れているような状況で、それを良しとするのか?
 このままいけば、最後には滅びてしまうのは分かっているだろう。そして、血を吸った劉貴はそれを理解しているはずだ。
 懐から小瓶を取り出して中身を仁王に振りかけると、正眼の構えで女達を見据える。彼女たちは手に入れつつある夜の一族としての肉体によほどの自信があるのだろう、俺の行動の意味を考えもせずにためらいなく獣のように飛びかかってくる。その運動能力は確かに猿のごとくであり、何をしていたのかは知らないがろくに鍛えているようには見えない体で出来るそれを超えている。
「突きいぃっ!」
 だが俺にとっては問題のない速さであり、動きだ。速さは人としてはなかなかでも、それだけでしかない。おまけに動きも精神も素人の娘のそれでしかなかったのだ。純粋に速いだけの攻撃など、どれほどの脅威にもならない。
 三人は俺の突きを喉に受け、突き刺さったままだった矢をえぐり出されながら熟しすぎた実のように地べたに落ちる。そして、聞き苦しい悲鳴を上げて喉をかきむしりながら地べたを転げ回った。
 喉に穴が空いても気にしない吸血鬼でも、仁王を伝わり傷口から侵入した桃の果汁には敵わない。彼らにとってはまさに最悪の毒なのだ。こうなると、喉の傷もふさがらずにダメージを与え続けることになる。
 びくびくと震えるだけになってきた女の姿は見るに堪えないが、このまま拘束させてもらおうかと彼女らに近付いた俺を、曹操が引き留める。
「待ちなさい、工藤。貴方は一体何をやったの? 彼女らの苦しみようは普通じゃないわ」
「今、気にすることじゃないだろう。彼女たちを捕らえるんでね、後回しにしてもらおうか」
 曹操と、姉妹らしい三人、得物を突きつけてきやがる。周囲は俺達の様子に困惑して顔を見合わせているが、いずれは自分たちの主君に従うだろう。
「何の真似だ」
「三人を取り押さえてくれたことには礼を言うけど、彼女たちはこちらで処分するわ。余計なことはしないでもらう」
「余計な事とはご挨拶だな。いらない欲をかいたせいでこうなっているだけだろうに」
 こいつらは部下を襲ってもいるし、何よりも存在自体が彼女らの弱みだ。手を出されちゃたまらないと思うのは分かるが、部下でもない俺が従ってやる義理はない。彼女らに任せてしまえば、曹操軍全部が劉貴の下知の元に戦うなんて事になりかねん。
「……ここで手を引いて、彼女たちに一体何があったのかを教えるなら先ほどからの振る舞いを許してあげるわ」
「別段許しなんぞいらん」
 すっぱり切り捨てると、曹操が何を言うよりも先に姉者と呼ばれていた女が俺に憤怒の表情を見せながら襲いかかってきた。
「いかに我が軍の兵士を助け、三人を取り押さえたからといっても華琳様に数々の暴言、許さんぞ、貴様!」
 示現流さながらに斬りかかってくる女の向こうには、妹の方が俺に矢を射掛けんと狙いを付けている。まあ、向こうにしてみれば俺はただの流れ者……それも漢の人間じゃないと公言しているからな。
 異民族がどうのこうのと聞こえてくるような国で、そんな男が軍の高官にため口をきいていれば、この位気の短い事もありうるか。
 場を取り繕ったり折り合いを付けたりするのが我ながら下手だなと自嘲しつつも、先ほどの娘達と同様に獣のような速さで彼女たちよりもよほど鍛錬してきた事を裏付ける動きを見せる彼女に集中する。
「きゃあああっ!?」
 俺の耳に、背後から先ほど倒した女があげる恐怖の悲鳴が飛び込んできた。反射的にできる限りの防御法を自分にかけながら振り返ると、ちょうど一人の胸……心臓が兵士の槍に柄まで突き刺されている所だった。槍の穂先は鉄だが、柄は木で出来ている。杭で突き刺されているも同然と言う事だ。
 三人姉妹のおそらく一番年少だろう娘は、びくりと体を震わせて事切れた。体が灰にならなかったのは、実年齢が若いから、だろう。
「は、はは……何だ、死ぬじゃないか。腕や喉は平気でも心臓は駄目なんだな?」
 滅ぼしたのは、臆病そうな若い男だった。目の前に横たわる異常な女が恐ろしくてつい、手を出しちまったんだろう。臆病だからこその暴発だろうが、じっと滅ぼした女を見ていたはずの顔は、持ち上がった時には嗜虐的な表情を浮かべている。殺せないはずの女を滅ぼせた事が、相手が無抵抗で見目のよい女である事が、その浅ましい表情を浮かばせている理由だった。
 そいつの目が、他の二人に向けられている。俺が思わず男を取り押さえようと飛び出すよりも先に、姉者と呼ばれた女が男を殴り飛ばした。
「貴様……華琳様の兵たる者が傷つき倒れた女を殺すとは……いかに相手が訳の分からん頑丈さを持っているからと言って、恥を知れ!」
 聞いた瞬間、俺は俺を斬ろうとした女の言葉に爽快ささえ感じた。斬られた腕も穴の空いた喉も何もかもを一刀両断に切り捨てて飛び出した人として真っ当な一言がいやに心地よい。
 この国に来てから一番気持ちのいい啖呵を聞かせてくれたのが女か。なるほど、この国には妖姫の言うようにつまらない男しかいないらしい。
 背後から耳に届く、二回続いた鈍い音もそれを証明している。
「は、ははは! やった、やった!」 
「殺せたぞ、化け物!」
 彼女が一喝したというのに耳にも入らず、同じように槍を突き立ててしまった糞共がいるのだ。異論の入る余地はあるまい。
「…………」
 彼らは間違えてはいない。兵士にしてみれば、無力化した鬼女を見逃す方がどうかしているくらいだ。黒髪の女が口にした事こそ、不合理。少なくとも曹操軍ではない俺などに糞呼ばわりされる謂われなどない。
 けれども。
 もう一度振り返った先に見つけた悲鳴も上げられずに死んでいった彼女らが、苦痛に満ちた表情で事切れているのがはっきりと見えるのだ。
 女達は、この国を荒らし回った黄巾党の首魁である。そして、今や吸血鬼という悪鬼の道を踏み出しつつある。慈悲や礼節を配慮する相手でもないのは明白だ。だと言うのに、どうしてこんなにも不快であるのか。
「男が、倒れた女を傷つけるな、か……」
 死んでしまった女を前にタップダンスでも踊り出しそうな男達に拳を送り込んだのは、女と同時だった。
「実に同感だ」
 兵にしてみれば、ただ化け物退治をしただけだ。大体、上官が二人も殺そうとしたのだから、とどめを刺して何が悪いわけでもない。上官の黒髪ならば、自分の言葉を無視して殺した彼らを罰する道理もあるだろうが、部外者の俺が殴るのは間違いである。
 ただ、それでも俺は自制ができなかった。
 劉貴を滅ぼす事が出来たのであれば、救えた女達だった。生き残った後も曹操が生かして使うだろうから展望だってあった。だが、全ては失われた。心臓に杭を打ち込まれた吸血鬼を救う手段を俺は持ち合わせていない。
 これで、猫耳の口汚い女は人に戻れるとしても。
 これで、曹操軍が吸血鬼の巣窟となる可能性が一挙に下がったのだとしても。
 女達が、多くの人々を不幸にした黄巾の頭という悪女だったとしても。
 倒れた女達を前にして、胸の奥から苦い波が全身に広がっていく。なんだろうか、このやるせない気持ちは。
「……どうする気だ」
 仁王を仕舞った俺は、ゆっくりと女達の屍を担ぎ上げる。一人で三人は嵩張ったが、このまま置いておけばどうなるか考えたくもなかった。
「埋葬する。遺体をなぶられたくはない。替え玉を用意してあるんだ、構わないだろう……張三姉妹なんて、いないんだからな」
 死人に、用はないだろう。
 そういう意図を持って目線を送ると、曹操は苦々しい顔で俺を見て背を向けた。そのまま何も言わずに孫策の隣を通り過ぎる。死人に口なし、三人が死んでしまった以上は利用する事もできないが、弱みになる事もないから黙認すると言う事だろう。
「俺個人については、今後も命を狙ったりするかもな」
 気位の高い女は執念深い上に、あのタイプは自分以外を根本的に下に見ている。俺のような男に振り回された屈辱は殺さなければ払拭できないとか考えていそうだ。
「それはないでしょうね」
「そうか?」
 孫策が近付いてくる。さすがに笑ってはいないが、飄々とした雰囲気は消えていない。彼女にとって、死んだ三人は敵でしかないのだ。悼むような雰囲気はない。 
「だって、彼女の兵士は相当に見苦しかったもの。敵にとどめを刺すのは構わないけれど、恐怖に怯えて明らかに力を失っている相手を手にかけるなんて、誇り高い事が目に見えて分かる彼女にしてみれば許せない失態だったはず。彼女たちを取り押さえたあなたを追うような真似は出来ないわよ」
「ふうん」
 どうしてそうつながるのかは分からないんだが、同国の彼女がそう言うのならそうなんだろう。
「その娘達はどうするのじゃ? 誰も知らない事じゃが、それでもこやつらは黄巾党の張角と妹だったんじゃろう? この辺りに弔うのはさすがに無理があるぞ」
 ツレの銀髪の女が、妙に老人くさい口調で話しかけてくる。そう言えば、こんな感じで話す女だったか。
「わかっている。今回の戦で死んだ兵を侮辱するような真似はしない。黄巾の砦まで運ぶ。その奥で寝かせよう。官軍だが、何か文句はあるか?」
「あると言えば聞くの?」
「事と次第による」
 彼女は別にない、と答えた。
「他に聞きたい事はたくさんあるしね。ねえ、やっぱりうちに来ない? せめて、吸血鬼、とやらについてもう少し詳しく聞いておきたいのだけれど」
「ついでに、昨夜儂らの前で起きた事もな。儂も長く生きているが、あんなのは見た事がないぞ。あの血の腕……なのか。あれは明らかに策殿を狙っていた。ついでに曹操もな。臣下としては無視できん。我らの陣で軍師も含めて事細かに話して欲しい」
 ……確かに、彼女らに警戒してもらうに越した事はない。今肩に乗っている連中も、孫策を美味そうだと言っていたからな。あるいは、優先的に狙われる可能性もあるか。それに、孫策にはさっきの礼もしておきたい。
「埋葬がすんだらな」
「あー、なんで私じゃなくて祭の言う事を聞くのよ」
 孫策が子供のようにすねる。たまたま彼女の次に返事をしただけだと言うのに面倒くさい。
「そう言えば、名前はなんて言うんだ」
「……名乗った事はなかったか。我が名は黄蓋。字は公覆。真名は祭じゃ」
 何かおまけがついてきた。
「黄蓋か、工藤だ。以後よろしく」
「祭でよい」
 彼女が真面くさって言うと、横で先を越されたと叫ぶ女がいた。ここまでいくと、奔放と言うよりも子供じみている。
「いきなり真名を預けるほど安い女には見えないけど、なんでだ」 
「昨日、あの赤い奴から儂らの命を救ってくれたじゃろう。あれに狙われていたのは明らかに策殿と曹操だった。それに、聞いたところでは義勇軍、劉備とやらも同様だったようじゃが……ともかく儂がどうにもならないところを助けてもらった、その礼というのもある」
「よしてくれ、恩を売って真名をもらうなんて男のする事じゃない」
 俺がそう言うと、彼女は反抗期の弟でも見るような目をする。背中がかゆくなってくるからやめろ。
「それはただのきっかけよ。ここまで見てきて、お前が気に入った。腕はたつし、気質も好ましいものだ。儂のような年寄りから見れば可愛らしい青臭さも、のう」
「今が盛りにしか見えない女が、何を年寄りぶっている。年下をからかいたがるのは背伸びの証拠だぜ、お嬢さん」
 どう多く見ても、三十前にしか見えない。二十歳前後の孫策とは姉妹程度の年齢差にしか見えないのだから、世の女達からは誰が年寄りと文句を言われるだろう。
「ほ? ほ、ほう。お嬢さんか……ううむ、そんな風に呼ばれたのはいつ以来か」
「お姉様扱いされていそうだからな」
 からかったつもりが、妙に嬉しそうな顔をする。本当に自分を年寄りだとでも思っていたのか、それとも男の俺には分からないとんでもない化粧技術の持ち主なのか。
 もしも老婆が厚化粧で誤魔化しているのだとすれば、俺の繊細な男心のためにも、棺桶の中まで女の矜持を守り抜いて欲しい。
「こらー! 私も構えー! 私の真名も欲しいって言えー!」
「酔っ払いか、お前は……」
「策殿は、戦の後はこうなるのよ。酒ならぬ血に酔っての……お主、あの時の念法という技かけてやってもらえんか」
 俺は酔い覚ましの水じゃない。大体、そんな真似をしたら決闘騒ぎになるだろうが。
「さて、急ぐか」
「あからさまに逃げたの」
「あんたらは自陣で酒盛りでもしていてくれ。朝までにはたぶんいくよ」
 一度呑んだら酩酊するまで止まらないだろうけどな。
「ん……まあ、私たちが埋葬につき合うのもちょっと場違いな気がするわね」
「陣の位置はわかるのか」
「旗を見るか、人に聞くよ」
 大体の位置だけは聞いて、別れる。彼女達はにぎやかにじゃれ合いながら引き上げていったが、後ろ姿を見ても戦場を走り回った女達には到底見えなかった。
「……ここらでいいか」
 俺は官軍の陣を抜けた辺りで立ち止まった。孫策達と別れてからは、女の死体を抱えている俺が怪しまれないわけがないので隠行術は使っていたのだが、もう人目はなくなった。
「そっちも構わないだろう」
「そうだな」
 すぐ隣から、鉄のような声がした。
 俺が担いだ一人を差し出すと、声は岩のような重みを見せながらこう言った。
「私が二人だ」
「わかった」
 小さな二人を劉貴に預けて、俺は一番年嵩の娘をさながら貴人を扱うように出来るだけ丁寧に抱きながら歩き出す。劉貴も左右それぞれの手を使って彼女たちを抱いた。俺よりも様になっているのは、将軍として作法を学んできたからだろう。
「どこか埋めたいところはあるのか」
「見晴らしのいい高いところがいいのではないか」
「そうしよう」
 黄巾の砦ではなく、その後ろの小さな丘の頂上へと埋めた。石を積み、はっきりと墓だと分かるようにした。石には劉貴が字を刻んだが、歌姫の墓とこちらの字で書いている。
「この娘達は歌唄いであったらしい」
「そうか」
「それなりの人気はあったが、妖術を書いた書を読んでそれに溺れたそうだ、妖術を使って人を集め、歓声を浴びる事に、な。だが、所詮は術だ。集まった者は彼女たちには抑えきれずに暴徒と化した。いや、抑えるつもりがなかったのだ。彼女たちは暴徒がどうなろうとも、それを抑える勇気が出なかった。それに、自らを褒め称える歓声が消える事も恐れた」
 妖術使いの噂は本当だったのか。
「哀れとは思わないよ。彼女らにも苦労はあったのかも知れないが、自業自得は変わらない」
「その通りだ」
 俺と彼は、どんな顔をして墓石を見つめているのだろうか。似たような顔であるのかそうでないのか、並んで同じ方を向いているので分からなかった。
「妖術書とやらはどうした?」
「火にくべた。俺と同じく、世にあっても不幸を振りまくだけだろう」
 くそったれの爺に持っていかれなくてよかったよ。
「始めるか?」
「そうしよう。ただし、墓前を荒らすべきではない」
 俺達はどちらも祈りはしなかった。
 彼女たちを打ちのめした挙げ句に殺されるきっかけとなった俺、彼女たちを吸血鬼に変えた劉貴。どちらもその資格はないのだ。
「墓の位置は黄巾に教えた方がいい」
「勝った者がそうしよう」
 眼下には、ちょうどいい場所がある。俺達は丘を降りて砦の下で向かい合った。砦の中と門の付近にはまだ中を探索あるいは略奪している兵士もいるが、この辺りには人気はほとんどない。
「君の愛刀はどうした?」
「一番格好のいい時に出すさ」 
 双方、三メートルほどの間合いで向き合う。お互いに必殺の間合いだが、俺はまだ体内の気が抜けきってはいない。今の時点で、残り四割という所だ。
 せつらよ、あんたの気持ちがわかるような気がするよ。気だけだけどな。しんどいな、全く……
「今、騏鬼翁はどうしている?」
「その物言いから察するに、あの老人は君の所に行ったようだな。姫の言いつけを破り、俺と戦った君を殺そうとしたか」
「少し違う。あの後二人組に出会ったが、俺を助けた二人を難敵と見て殺そうとしてそのまま消えた。俺のせいで巻き込んだ彼らに詫びなければならんから、俺は騏鬼翁を斬らなけりゃならない。どこにいる」
「生憎と知らん、そのままよ。どこぞに消えてしまったらしいが姫から捜せと命が出ているわけでもないし、あの猩々は好かぬのでな、ことさらに捜すつもりもない。そのまま返り討ちにでもなっているなら万々歳だがな」
「俺も同感だ」
 暗い闇の中でも、劉貴の眼は赤く光ってはいない。吸血鬼の猫眼を持っていないわけではなく、使わないのだ。俺はそこに意気を感じながら腰をゆっくりと落とす。
 劉貴も腰を落とす、その姿は千年の錬磨を感じさせる偉大な武の片鱗がうかがえた。
 ここで死ぬか。
 そんな漠然とした予感が生まれた。腹に氷と鉛を混ぜたような重みは未だにしつこく残り続けている。負けてなるものかと五感を精一杯に研ぎ澄ませた。今はあの無粋な術はないのだ、あの時より状況が悪化したわけではない。
「!?」
 自分を奮い立たせている最中に、その場を大きく後ろに飛び跳ねた。
 遙か頭上、砦の上から何か大きな者が落とされる音が聞こえたのだ。
「騏鬼翁か?」
 そう言ったのは、俺ではなく同じように飛びすさった劉貴だ。あの老人を信用していないのは、俺よりも劉貴の方かもしれない。一体何が降ってくるのか知らないが、目の前の相手から目は背けられない。不安はあるが、それ以上に彼こそが恐ろしい。
 それを放り出したのは、降ってきた何かに手と足が付いているのを認識した次の瞬間だ。目の前に劉貴がいるにも関わらず、俺は降ってきた誰かを受け止めてしまっていた。
 考えるよりも先に、つい手が出ちまった俺は大馬鹿野郎だ。
「……子供か。事切れているな、何処の誰がやったか知らぬがむごい事を」
 魔気功を放つなど想像もしていないような顔をして、俺よりも先に腕の中にいるのが誰かを確認した劉貴が焼けた鉄のような声を出す。
「…………今度は誰に噛みついた、小僧」
 腕の中にいる李江の顔は、月明かりの中でもはっきりと分かってしまうほどに変形していた。俺にとっては子供の頃からよく見慣れた、リンチに遭った被害者の顔だった。
 抱き締めた感触からして、骨も折れているだろうし、経験上これだけやられれば内臓にも支障は出ているはずだ。へしおれた首の先にある顔には、気の強さなど何処になくて恐怖で一色に染まっている。
 こういう死人は、いつもいつも重たい。
「劉貴、勝負は預けた」
「わかった」
 錆び付いたなまくらのような声に、打てば響くようなに彼が応えると同時、李江を抱えたまま飛んだ。目の前に山のようにそびえる砦の壁面に靴裏を叩きつけるようにして立つ。
「おお」
 劉貴が驚きの声を上げた。壁に張り付けるというカードを見せた事は失策なのだが、今だけはどうでもよかった。敵に無防備な背中を見せる事にも、劉貴大将軍であれば恐怖もためらいもない。
 いつの間にか、腹の中にとどまっている気が消えていたが不思議ではなかった。それを当然とする強い感情が真っ赤な色をして、劉貴の気が溜まっていた場所で音をたてて煮えているからだ。
 それが背中から押し上げているかのように、壁を走る。速さは地上を走る時と何ら変わりはなかっただろう。
 十五メートルも登っただろうか、その先には薄ら笑いをするどころかボランティアでもやり遂げたようなさわやかな笑みを浮かべて顔を見合わせている男達が五人ほどいた。
「なるほどな、お前らか」
「え?」
 誰の声だ、と言いたげに振り返ったのは李江の父親の死を賛美して天の御遣いを褒め称えたあの男だった。その側にいるのは李江が北郷とやらに噛みついていた時、側にいた義勇軍の兵だった。
「ど、どこから出てきた? いや、その抱いているのは……」
「どうして李江を殺した?」
 聞くまでもなかったが、念のために聞いておいた。知りたいのはこいつらが主犯なのか実行犯に過ぎないのか、だ。 
「ふん、そいつは天の御遣い様を傷つけたのだぞ! 当然の事だ」
「傷つけた? 斬りかかったのか」
 子供を殺したと言うのに悪びれる様子もなく、むしろまだまだ憤懣やるかたない、という顔になっている。
「馬鹿を言え、我らは義勇軍だぞ。天の御遣い様の御威光により漢でも指折りの精兵だと自負する我々が、そんな事を許してたまるか」
「なら、どういう事だ」
「とぼけるな! 貴様のそのおかしな格好は覚えているぞ、この小僧を助けた男だな。怪しげな妖術使いめ。貴様もいただろう、天の御使い様を貶め傷つける暴言を吐いたからだ!」
 こいつの崇める天の御遣い様とどう違うんだか。光っていないからか、馬鹿馬鹿しい。
「ほう、天の御遣い様とやらは随分と柔弱だな。子供に図星を指されたから心が傷ついたというのか、まるで姫のように繊細で、結構な事だ。挙げ句に手下にこそこそと子供を闇討ちさせるとは、実に」
 言葉途中に斬りかかってきた屑をするりとかわし、その膝を上から踏みつけるように蹴り砕いた。
「醜い」
 俺の台詞は、悲鳴にかき消された。
 自分の顔と声が悪鬼のそれとなっている事を自覚しながら、一人も逃さずに叩きのめすと決める。腕に抱いた子供の無念を晴らす、とは言えない。たった十日共に旅をしただけでつながりらしいつながりもなければ、李江も俺の事をどうとも思っていないのは明白だ。
 それでも、こいつらはことごとく打ちのめさなければならない。理屈以前の怒りが俺の四肢に劉貴と戦っていた時以上の力を与えている。
「お前達、こいつとそっくり同じ目に遭わせてやろう。言っておくが、朝日を拝めるかも知れないという希望は捨てておけ」
 未だに黄巾党の死骸が片づかないままの砦に、漂い始めた腐臭に混じって新しい血臭が重ねられるまでそう長い時間はかからなかった。





[37734] 黄巾の終わり
Name: 北国◆9fd8ea18 ID:280467e8
Date: 2014/03/04 15:24
  
 今回は原作主人公勢にオリ主のSEKKYOがあります。
 人によっては不愉快になると思います。
 集団戦や指揮能力は劣っていますが、一対一では菊地作品キャラは恋姫に勝っています。
 読んでくださる皆さんは、その点をご了承ください。




 公孫賛の陣に辿り着いた俺は槍で迎えられた。
 まあ、当然だろう。 
 右腕には子供の屍を抱えて、左腕では気を失った五人の男達の足首を縄で縛って引きずっているような男、誰が見逃すか。
 ましてや、かがり火の粗末な明かりでもはっきりと分かるほどに男達は打ちのめされて呻き声も上げないとなれば、不審人物どころか犯罪者にしか見えないだろう。
 ここに来る前、孫策のいる陣に立ち寄って見張りに声をかけたが、やっぱり剣を向けられた。用事が出来たから遅れると言っておいたが、果たして伝えてくれただろうか。
「工藤殿、これは何事ですかな」
 少なくとも一目だけなら問題が無さそうに見えるほど回復した趙雲が、槍を構えた部下の間をかき分けて現れた。
「実は今、申し訳ない事ながら貴方から託された子供が行方不明になってしまって探し回っているところなのですよ、白蓮殿も先頭に立って駆け回っている次第で……」
 俺の腕の中にいるのが誰なのか気づいた趙雲の顔が、凍り付いた。音をたてるかのように青白くなった彼女に、俺は輪をかけて冷たい声をかけた。
「ご覧の通りだ。もう、捜す必要はない」
「そこの……引きずっているのが、下手人ですか」 
 手に持った槍を使いそうな顔だ。義憤だろうか……だが、くそったれ共をよくよく見た趙雲は愕然とする。
「まさか……その装備は義勇軍の……馬鹿な!」
「何が馬鹿だ?」
 彼女だけではない、周囲の兵士も同様に現実を認められないような顔をしている。公孫賛の軍は当たり前だが幽州の人間で固められている。義勇軍は彼らと同郷の連中が多いのだろう。
「こんな事、あるはずがない! 彼らは義勇軍だぞ」
「そうだ、天の御遣い様の元で戦う仁の軍に子供を殺すような物がいてたまるか!」
「貴様のでっち上げだろう!」
 それにしても、滑稽なほど義勇軍……ひいては天の御遣いに好意的だな。公孫賛と二人並べたら、こいつらまで天の御遣いをとるんじゃないか?
「やめろ」
 趙雲が、悲痛なほどの苦々しい顔で兵士達を止めた。
「子龍殿、しかし!」
「こいつらには、見覚えがある。確かに、その少年ともめていた顔だ……つい先ほど……今日の夕刻の事だ、間違いない」
「し、しかしだからと言って彼らが下手人であると決めるのは早すぎます。この男の仕業で、濡れ衣を着せようとしているに違いありません」 
「……どうでもいいから、今もそこらを駆け回っている主君を止めてきた方がいいんじゃないか? ああ、主君って言うのは劉備や天の御遣いの事じゃないぞ」
 三人分名前を挙げたのは、もちろん皮肉だ。趙雲は客将という奴だそうだから、公孫賛は随分と部下に恵まれない女のようだ。あるいは、彼女に部下の人望を得るだけの何かが足りないのか。
「ぐっ……馬鹿にするな、貴様!」
 皮肉が通じたのか、顔を赤くしてつかみかかってきた一人の手首に左手の人差し指を絡め、そのまま放り投げる。日本に古来から伝わる柔の技だ。師匠に連れられていった全国各地の様々な流派の名人達人にぶん投げられてきた結果、ほとんどの流派に通じる基本だけは身につける事が出来た。
 剣において、戦場で兵士とやりあおうと道ばたでヤクザ者とやりあおうと、そして暗闇で妖物とやり合おうとも、一瞬以上の接触は不利を招く事が極端に多い。流行のマウントポジションなどは、戦場は愚か複数を相手取るケンカでも自殺行為だ。
 だから、お前もこれだけはきちんと身につけておけと言われた技がこれだ。他の技は一つも出来ないが、この技で師範代から一本とったのは、忘れられないよい思い出だ。
 ついでに、調子に乗って師範に挑んだはいいが受け身をとれないくらいに勢いよく畳にぶん投げられた挙げ句道場が爆笑の渦に包まれたのは、忘れたくてたまらない赤っ恥だ。
「ぐげっ!?」
 畳ではなく地面に叩きつけられた男が、蛙のような悲鳴を上げて悶える。アスファルトでなくてよかったなと言いたいところだがこいつらには通じない。だから、違う台詞を口にした。
「俺は、今優しくはないぞ。普段は聞き流せるような言いがかりも笑えないくらいにはな」
 次は背中から落としてやらんぞ、と脅しをかけると顔の横に踵を落とした。悲鳴を上げて、顔色を真っ青にしながら震えている。俺の蹴りと言うよりも表情がそうさせた。
「お前達はもう行け」
「しかし、子龍殿」
「お前達が言っているのは、本当にただの言いがかりだ。くだらない事をしている場合ではない、さっさと白蓮殿を呼びに行け!」
 蜘蛛の子を散らすように、小娘の令で大の男達が飛んでいく。彼女を傑物だと思うよりも、男達をみっともない腰抜けなのだと侮るのは俺の勝手な嫌悪感だろう。
「工藤殿、その子供抱かせてはもらえませぬか」
「うん?」
 彼女が思い詰めた顔でそう言った。意外に思ったが、それ以上の事は考えなかったはずだが……思いもしない事が口から出てくる。
「義勇軍を、天の御遣いを罵った小僧だぞ、地べたに叩きつけるわけもないだろうがなんで抱きたがる」
 口が勝手に、たいそうひどい事を言った。趙雲の顔を見なければならなかったが、白状すればこんな悲しそうな顔は見たくなかった。
「すまん」 
 八つ当たりでそんな顔をさせた。
「いえ、貴方がそう言う気持も分かります。私は彼らをひいきにしていたから」
「…………」
 ひいきにしていた、と申し訳ない顔で言われた俺はそれ以上に申し訳ないような、情けないような気持になった。散々に精神の修行も積んできたのに、なんなのだろうか……この弱さ、自制心の小ささ……
 義勇軍の面々に怒りをぶつける事を恥じるつもりはない。俺が李江の仇討ちをするのは筋違いであるが、大人がよってたかって子供をなぶり殺しにしたそれを何で見過ごせようか。
 だが、今趙雲に暴言を吐いたのは怒りが心からはみ出たに過ぎない。
 弱い自分を認める気持が、趙雲に手を差し出した。腕から李江が離れると、その瞬間にこそ魂が飛んでいってしまったような気がしたが、戻そうとする手は抑える事が出来た。
「あれほど威勢がよかったというのに、随分と小さくて冷たいものですな」
「…………」
「子供の屍など、今の時代などいくらでも見ると言うのにどうして彼のものだけ重いのか」
 それは彼女が義勇軍に肩入れしているからであり、感情移入をしているからに他ならない。しかし、それを指摘するには彼女の顔はあまりにもやるせなかった。
「行方知れずだったな、こいつ」
 結局、趙雲の言葉になにをどう応えればいいのか分からず、自分の疑問だけをぶつけた。会話を続ける理由はなかったが、沈黙は耐えがたかった。
「ええ、我々が働いている間はほったらかしでした。彼も大人しくしていましたので夕餉を与えた後は寝たものと思っておりましたが……気が付けば、もぬけの殻の寝床は冷たくなっておりました」
「……こいつは旅の最中、見境なくケンカを売って歩いていた。人相の悪い連中を見つけては悪党、覚悟しろとわめいていた。そっちでもそうだったろう」
「……義勇軍に殴り込みに言ったと」
 要領を得ない発言の意図を察した趙雲にうなずくと、足下で死人のように転がっている五人を見下ろした。
「あるいは、こいつらが拐かしたか、だ」
「まさか、ここは幽州の軍ですぞ」
「天の御遣いに、そして義勇軍に頭も含めて好意的、だな。李江はそれを公然と罵倒して偽者扱いした」
「見逃した者がいると考えておられるのか」
「手引きした奴がいるとも考えているよ。五人も兵士が入り込むのを笑って見逃すような間抜けがいるのか?」
 同郷だからそれもあり得るのか。
 凍らせ屋がここにいてくれればいいのに、と甘ったれたことを考える。あの男がいれば俺は李江の墓を作った後で、“新宿”警察最悪の拷問吏が引き出した情報を元に犯人を死なない程度に痛めつけてやればお終いだった。
 生かしておくとはお優しい事だな、と俺を笑ったのはもちろん嘲りである。
「拷問は下手くそなんだがな」
 そもそもやった事がない。美女を痛めつける方がいいか、いいや痛めつけるならこういう碌でなし共が一番だろう。俺にサディスティックな面はそんなにはない。
「李江が見つかったって!?」 
 子供が無事に帰ってきていると信じて疑わない太平楽な声が飛んできた。部下を引き連れた公孫賛が息を切らせて駆け寄ってくる。
 全身が汗まみれで、一体どれだけ必死に身寄りのない農民の子供を捜していたのかと聞きたくなる。李江を守れなかった女に皮肉の一つも言ってやろうかと思ったが、その顔を見ては何も言えなくなる。
「李江、お前な! うろちょろするなって言っておいただろうが。こんな事を言うのも何だが私たちだって帰郷の準備で忙しいし、大体お前は……まあ、その、義勇軍との件でややこしい立場なんだからな、安全のためにも……」 
 肩で息をしながらも趙雲の腕の中にいる李江に即座に説教を始めるのは、武将と言うよりも婦警のようだが、彼女も生き死にの場を数多く駆け抜けて久しい。
「……誰がやったんだ」
 李江が肉の固まりになってしまった現実にようやく気が付いた彼女は、どこか冷たい口調でつぶやいた。下手人は俺の後ろに転がっている。暗くて見えないと言うよりも、李江しか見えないという風な彼女を見て、好感を抱かずにいる事は出来ない。
「あれだ、死んではいないぞ」 
 後ろ指で指した五人を見て、公孫賛は目を見開いた後で納得の表情をする。彼女自身がそう言っていたように、李江を積極的に殺す理由がある連中は限られている。
「この兵装は……義勇軍だな」
「そもそもこの顔は、あの時李江を殴ろうとしていた連中ですぞ。大方、工藤殿に邪魔をされた後も執念深く狙っていたという所でしょう。子供を付け狙うくらいなら、他にするべき事などいくらでもあるでしょうに、下劣の極みですな」
 趙雲が断定した事に、兵士が驚く。俺を犯人にしようとしていた男だ。
「俺はこれから義勇軍に行く。悪いが、李江は渡してもらうぞ」
 言いながら李江を受け取った。もう一度抱き直すと、冷たさが改めて身に染みる。その重みに自分がどういう顔をしたのかはもちろん分からない。ただ、側にいた趙雲が息の呑むような顔をしていたのだろう。
「どうなさるつもりか」
「筋は通してもらう。仲間を庇おうだの下げる頭を惜しむだの……もしもふざけた真似をするなら全部真っ平らにしてやるさ」
 義勇軍その物を相手取ってでも、けじめは付ける。ヤクザよろしくそう言い切った俺に何を見たのか、公孫賛と趙雲の顔が引きつり、兵士達は馬鹿を見るように唖然としている。まあ当然だな。
「じゃあな」 
無造作に手を振って通り過ぎる俺に何を見たのか知らないが、しばらくしてから公孫賛と趙雲が横に並んだ。
「邪魔をする気か」
「李江は私の民だ。殺されたのなら、私が下手人を裁く。桃香とぶつかるだろうけれど、見逃すつもりはない」
「…………」
 道理であり、責任ある言葉だ。拒む理由は何処にもなかった。
「止めるつもりなら戦うぞ、趙雲」
「この子の死については、私も胸に抱く物はあります。それに恩人と戦いたいとは思いませんし、私もこの後の裁きには無関心ではいられません」
 劉備達の器を計るつもりだろうか。
 李江の死を悼んでいないわけでもないだろうが、そうだとすれば不快だ……いかんな、穿って考えている。
「首脳陣はいるみたいだな」
「しゅのう?」
 義勇軍の陣地に遠目にも目立つ集団を見つけて、ぼそりとつぶやく。どうやら表で酒でも呑んでいるのか賑やかに騒いでいた。
 公孫賛が聞き慣れない単語に首をかしげているが、それよりも目の前の光景に怒りを感じる。
 彼らにしてみれば、おそらくは戦勝の宴辺りの名目で苦しい戦いに勝利で終わりを告げられた事を祝う目出度い席なのだろうが……その影で、李江はこいつらの仲間に殺された。
 まるで李江を殺した事を祝っているかのように錯覚し、頭に血が上る。こらえがたい激情を開放するために、俺は足を踏み下ろした。
 踏みつけた大地がどっかりとへこみ、大地震のような揺れが俺を中心に宴会騒ぎの連中をくまなく襲う。
「うおっ!?」
「なんだぁ?」 
「じ、地震か!? 大きい!」
 聞き覚えのある声が真っ先に反応する。さすがは地震大国の人間と言う事か。しかし、尻餅をついて酒と料理をこぼし、たき火に向かって転げる連中も俺の踏みつけた足一本が原因だとは夢にも思うまい。
「風早三平直伝、如来活殺……地神雷動」 
 すぐ側で俺の生んだ地震を体感しよろめいている趙雲とあられもなく下着を丸出しにして尻餅をついている公孫賛も、信じがたい目で俺を見ている。
「相手の体勢を崩したり、牽制したりするための技……そんなに驚くほどじゃないけれどな」
 ちなみに、今のが俺の限度である。ご覧の通りで、趙雲クラスになると相手よりも俺の隙の方が大きいので意味はない。コンビネーションを組むにしても、揺らす対象を選べないので、俺は主に凍らせ屋や金髪美女と組んでいる時に囮をやる時にしか使っていない。俺を狙う敵と一緒に動きを止めたところで、ドラムかレーザーサイト付オートマグナムVカスタムでドカン、だ。
 敵の前で動きを止めにゃならんのだから、こんな恐ろしい真似はあの二人と組む時以外はしたくない。もっと隙を無くせればいいのだが、威力との兼ね合いでどうにも上手くいかないのだ。
「さぁて」 
 ぐい、と引いたロープに縛られた義勇軍の兵士達は支点と力点を自在にするジルガの技法によって勢いよく空を飛んで、首から落ちた。
 五人分の鈍い音が響く。
 突如空を舞って落ちてきた屍同然の男達にどよめき、次いで男達の状態を見てとった面々から怒りの叫びが夜空に轟く。
「誰だ、我々の仲間をこのような目に遭わせたのは!」
 生きているのが不思議な状態なのを瞬時に見てとったのだろう、関羽が烈火の怒りを声にして叫ぶ。目は既に俺達を捉えていた。
「あ、あんたは!」
「白蓮ちゃん!?」
「それに、星なのだ!」
 彼女に倣ってこちらを見るのは、声も出せないでへたり込んでいる二人の童女も含めて将校が全員揃っている義勇軍一行だった。
 兵士達の目も含めて、視線が痛いほど集中する真ん中を俺は特に気負う事もなく足を進める。
「これはお前の仕業かよ!」
 天の御遣いが俺に噛みついてこようとするのを、関羽が止めた。その手には、既に得物が握られている。
「お前、鈴々の仲間に何をするのだー!」
 関羽は北郷の前に立って彼を守るが、張飛と名乗る小さな少女は彼女の分も含めてだと言わんばかりの勢いで矛を振り上げながら襲いかかってくる。身の丈に合わない矛を構えて襲いかかってくる速さは以前よりも随分と上がっており、彼女らがまだまだ成長途上であると言う恐ろしい事実を教える。
 ただし、相変わらず動きが荒すぎる。
「何ぃっ!?」
 大げさすぎて芝居じみているような顔で、天の御遣いは素っ頓狂に叫ぶ。俺がこいつの一撃をかわしたのがそんなに驚きか。
「離すのだ!」
 矛を踏みつけて押さえ込むと、張飛は全身全霊をこめているらしく顔を真っ赤にして持ち上げようとするが、びくともさせはしない。
 別段当たり前の光景なのだが、俺以外の誰もが驚いていた。見た目に合わない怪力だと言う事だろうか?
 サイボーグや変身薬のせいでその手のギャップには慣れているが、その手の技術を今のところ、妖姫一行とドクトル・ファウスタス以外には見ていない。彼女に何らかの処置を施した未だ名前も知らないどこかの誰かがいるのか。
 それとも、彼女自身が純粋にそう言う生き物であるのか。
「ご主人様、桃香様、ここを動かないでください!」
 義妹、なのか? ともかく身内が封じ込まれたと見てとった関羽が俺に襲いかかろうと突っ込んでくるが、俺が腕に抱いたままの李江を見て動きを止めた。
「あの時よりは、まだマシか」
「あの時?」 
 背後で公孫賛がつぶやくが、今のような時に話す事じゃない。
「くっ……その子を下ろせ!」
「下ろしたら斬りかかってくるくせによくも言う……ああ、違うか。下ろさなくても斬りかかってきたな」
 皮肉げに張飛を見下ろすが、彼女は未だに離せ離せとわめきながら矛を握っている。肩すかしを食って、逆にこっちが恥ずかしい。
「まあいいさ」
 半ば誤魔化すような気分になって、矛を放す。途端に斬りかかってこようとする張飛だが、間近で見て李江に気が付いたのだろう、間合いを開いてこちらを指さした。
「子供を盾にするなんて、お前、卑怯なのだ! その子を下ろすのだー!」
「そっちが斬りかかってきただけだろう。盾にした覚えはないぞ、どんな卑怯だ」
「うう~!」
 人を指さしてわめく張飛の後ろで、義勇軍があたふたと仲間五人の治療に右往左往している。おろおろと彼らの様子を見ていた劉備が、俺の方を似合わない鋭い目で見ると食ってかかってくる。
「あ、貴方は誰ですか!? 私たちの仲間にこんなひどい事をしたり、子供を盾にしたり……白蓮ちゃん達と一緒にいるけど、まさか黄巾党なんですか! 何のためにここに来たのか知らないけれど、その子を下ろしてください!」
 一応関羽が背後に庇っているが、今にも振り切ってこちらにつかみかからんばかりだ。瀕死の兵を前にして、下手人と見た俺にそう言う強気な前が出来るのは肝が据わっているか考えなしかのどちらかである。
 仮にも軍大将、状況が理解できていないわけもないだろうから、前者だろう。
「さっきも言ったが、盾にとった覚えはない。黄巾党でもない。ここに来た理由は……」
 威嚇してくる張飛を余所にゆっくりと劉備の方へと足を進め、彼女の前に李江を丁寧に下ろす。胸の前で手を組ませた姿に、息を呑んでいた。
「李江君……!」
「そう、お前達に先ほど噛みついていた小僧だ。天の御遣いを偽物呼ばわりしていた小僧だ」
 名前を知っているのは、きっと行軍中に李江があれこれと子犬のように彼らにまとわりついたからに違いがない。俺の時とは違って懐いてくるなら可愛いものだろう。
「殺人の被害者と加害者を届けに来た。そして、けじめを付けに来た」
「何を言ってんだよ、けじめって何だ! 李江を、義勇軍の仲間をこんなひどい目に遭わせやがって!」 
 北郷も噛みついてくる。俺の服装のせいか、関羽達が止める間もなくずかずかと近付いてくる姿は無防備きわまりない。別段どうこうするつもりもないが、ひどい目発言も含めて暢気な奴だ……もしや気が付いていないのか、李江はとっくに死んでいるぞ。
「義勇軍の仲間……それは李江もか?」
「当たり前だ、子供だって立派な義勇軍の仲間だ!」
 記憶力がないのか、相手が俺だからか、おかしな事を言う。
「その子供から能なしの偽物呼ばわりされていたようだがな……その口のおかげでこいつは殺された」
 自分でも冷たい声だと思う。ただ、こいつに天の御遣いと言えるだけの力があれば……あるいは天の御遣いなどと名乗らなければ、二度と目の開かない少年は違う未来があったのかも知れないのだ。
 李江が殺されたのは、彼自身があまりに恐いもの知らずであったからでもあるだろう。だが、劉備に対する忠義ではなく、天の御遣いという教祖への信仰が兵の胸にあるからこそ、彼らは親を亡くした子供であろうと、リンチにかけたと思うのだ。
「こ、殺され……お前がやったのか!?」
「どれだけ都合のいい耳をしている。やったのはそこに転がっている五人だ。だから、一から十まで李江と同じ目に遭わせてやった」
 へし折られた骨、破裂した内臓、腫れ上がった皮膚、何もかもを同じにしてやった。もちろん、それだけですませるつもりはない。
「な……俺の仲間達がそんな事をするか!」
「めでたい頭だ。こいつらの顔を覚えていないのか、さっきお前を公衆の面前で無能呼ばわりした李江を殴ろうとした男達だ。殴れなかった李江をひっ捕まえて改めて袋叩きにしたのか、それとも李江がお前らに言い足りなくてケンカを売りに行ったのかは知らないがな」
「うっ……あ、あの時の?」
 俺はひるんだ北郷の横を素通りし、天の御遣い様の御威光を傷つけた子供をなぶり殺しにした五人組の元へと足を運んだ。張飛と関羽が得物を突きつけて、義勇軍の兵士も一斉に剣を抜いたが無視した。
「こ、来ないでください!」
 近付いてくるのが異形の化け物であるかのように怯えた声で劉備が叫び、子供二人が悲鳴を上げる。 
 それに触発された兵士の一人が、たいまつの明かりをはね返す輝きだけでなまくらと分かる剣で斬りかかってきた。
「劉備様に近付くな!」
 主を思っているのか、女を想っているのか。視線が一瞬劉備の胸に向いたのを俺は見逃さなかった。
「どうせなら、真っ直ぐに女を想って剣を振るんだな」
 振り下ろされた剣は、頭に当たったがそれだけだった。
「な……」
「鼻の下を伸ばして振るわれる剣なんぞ、避ける値打ちもないわ」
 どこか馬鹿馬鹿しい気持になった俺は、男を無視して足を進める。兵士は効かないわけがないんだとやっきになって剣を振るうが、顔を切られようと首を切られようと、俺はことごとく無視して首の骨が折れている下手人達の方へと進む事を止めはしない。
 他の連中は、斬られても斬られても構わずに前進する俺をそれこそ化け物を見るようにしている。関羽、張飛でさえも同様だった。
「化け物……」
「随分な言いぐさだよ」
 義勇軍の兵士達も二人の童女も、恐れをなして逃げ出す中でごきり、と鈍い嫌な音がする。倒れている一人の首に置かれた俺の手元からだ。
「ひぃっ!?」
 他の誰あろう、北郷の口から悲鳴が上がる。
 振り返れば、信じられないと顔中に書いた北郷が真っ青な顔で俺を見ている。
 まさか、怯えているのか? 義勇軍の大将なんてやっているのに……自分が戦争をやっている事くらいは分かっているだろう。
 今日、お前の前にいる関羽がどれだけ殺したと思っているんだ?
「ぶはあっ!」
 ついでに言うと、俺は殺していない。応急処置を施しただけだ。
 “新宿”で仁王を振り回しながら生きている内、俺は弱い分、自然と簡単な医療は上手くなった。元々武術に活法はつきものなのだ、どうにか白い医師に助けてもらうまでせめて病院にたどり着けるよう学ぶしかなかったのだ。
 おかげで首の単純骨折程度なら何とかなるのはご覧の通り、兵士は目を見開いてあえぎながら周囲を見回した。
 俺を見ると悲鳴を上げ、しかし北郷を見ると歓喜に顔を輝かせて俺でも驚くほど元気に叫び始める。
「ああ、天の御遣い様! どうか、どうか私どもをお助けください、この恐ろしい怪物を天の力で調伏してください!」
「化け物だの怪物だの、えらい言われようだな」
 苦笑するが、誰も笑わない。趙雲や公孫賛も含めて、俺の事を怪物でも見る目で見つめている。ため息をこらえるには少し努力が必要だった。
「……天の力だなんて言っているが昼間、李江にねだられた時言ってなかったか? “できない”ってな。だから李江はこいつを偽者と罵って、お前達はそれが許せなくて殺したんだろう」
「だ、黙れ! 我らはあんな小僧よりもよほど信心があるのだ、その我々を天の御遣い様が見捨てるわけがない。貴様などたちどころに打ち首か黒焦げだ!」
「だってさ……やってみるか?」
 嘲るように北郷を見ると、間に慌てて割ってきたのは童女の片方だった。魔女ではない、羽箒のようなものを持っている方だ。
「待ってください!」
 俺は恐いのだろう。斬られても死なない人間なんて、悪い夢でしかない。それの前に、震えながら立って自分の倍も大きい男を守ろうと叫ぶのか。
「それなら、始めて欲しい」
 忠義という奴なのか、それとも慕情という奴なのか。わからないが今この場で誰よりも勇気があるのは彼女だろう。
「……裁きを、ですか」
 血の巡りのいい娘だ。
「殺されたのは幽州の民。殺したのは義勇軍の兵。そこの男が言った事、理解していないわけじゃないだろう。だから、幽州の頭と義勇軍の頭が裁くべきだ」
 俺がやれば、それはただの私刑だ。俺の気はそれで済むが、変わらなければならないものがそのままになってしまう。
「その裁きが公正であり、厳正であればいい」
 公孫賛を見ると、彼女は最初びくりと身をすくませたがすぐさま表情を引き締めて劉備の元へ歩み寄る。その際に俺の事を迂回していったのが残念ではある。
「白蓮ちゃん……」
「桃香、聞いていた通りだ。お前の部下が、義勇軍の兵士が幽州の民を殺した。それも子供を、だ」
「そんな……何かの間違いだよ!」
 二人の関係がどんなものなのかは知らないが、少なくともただの友人ではないだろう。だが公孫賛は毅然として劉備の言をはね除けた。
「お前も見ていただろう、李江が北郷を偽物呼ばわりした事、それを聞きとがめた義勇軍の兵士が李江を殴ろうとしていた事……裁かなければならないんだ。こうしてお前達と裁こうとしているのは温情だと理解して欲しい」
「そんな……」
「我々は裁かれるような事はしていない!」
 劉備が何か言うよりも先に、兵士が金切り声で叫ぶ。裏返った甲高い声がひどく耳障りだったが、劉備達は喜色を顔に浮かべた。
「ほら、やっぱり誤解……」
「あの小僧は、天の御遣い様を侮辱したのだ。殺されて当然だ!」
 黙り込んだ。その顔が、サンタはいないと確信した子供のそれのように見えた。
「そうだ、あの小僧はたかだか父親が死んだ程度で天の御遣い様を偽物呼ばわりしたのだ。正義の戦で黄巾党風情を相手に殺されてしまうような父親など、生き返らせてなんになるのだ! だから御遣い様は小僧の父親など死なせたままなのだ。我らは違うぞ、妖術使いめ。貴様風情では及ぶわけがない天の力を、我らにならば存分に使ってくださるのだ」
 北郷の顔、関羽の顔、童女達の顔が面白いように歪む。誇らしげに語る男こそ理解を超えた化け物だと目で語りながら見ているが、その化け物を生んだのはこいつらだ。
「それもわからない小僧に生きている値打ちなどあるはずがない。あってたまるものか、だから俺達が罰を下したのだ。そうだ、これこそ天罰だ。我々が天の御遣い様の為に信心に欠けた愚かな小僧に天罰を下したのだ!」
 男は酒に酔ったように、身動きの出来ない体を精一杯にくねらせて自分を庇う劉備の元へと這い寄った。酒よりも低劣で悪質な物に酔っている男に這い寄られ、劉備が強姦されているかのような顔をするが、男はお構いなしだ。
「ああ、玄徳様、御遣い様、どうか俺達を褒めてください、お助けください。俺はあの小僧の腕を蹴り折ってやったのです」
 だから、俺は五人全員の腕を同じようにへし折った。 
「公信の奴は足を折って、小僧が反吐も吐けなくなるほどに腹を殴っていました。典李は俺とは逆の手をへし折ってやりました。黄蓮は前歯が無くなるまで蹴りつけてやりました。泰兼は泣き叫ぶ事も出来なくなるまで念入りに蹴りつけ、首の骨をへし折ったのです」
 全て、同じようにしてやった。
「……工藤殿」
 主人に餌をねだる飢えた犬のような男を耐えがたいように見る趙雲が、いつの間にか近付いてきている。
「もしや、下手人達の傷は、全て李江のそれと同じであるのですか」
「俺が見つけた範囲でな」
 別段ハムラビ法典に則ったつもりは無いし、本来であればそれ以上の事もしてやりたいほどだ。手を控えているのは、そこから先をしなければならないのが目の前にいる彼らだからだ。
「いい加減に耳障りな上に見苦しい。そこまでにしておけ、屑野郎め」
 自分の信仰の敬虔さと子供殺しの正当性をわめき続ける男に一声かけると、男の舌はたちまち恐怖に凍り付いて黙った。だが、すぐにわめき出す。
「黙れ、妖術使いめ。ここは天の御遣い様のお膝元だぞ、玄徳様を始めとして知勇を兼ね備えた偉大な将軍様が揃っておられるのだぞ。不信心者の小僧などのために義勇軍に手を出した事、地獄の底で後悔するがいい」
 男の目が、天の御遣いに向けられる。顔中一杯に広がっているのは、俺を打ちのめし、自分たちを癒やしてくれるだろうという期待だ。
「覚えていないのか。その小僧は昼間、夕日の中でこう言っていたぞ。“できない”ってな。“やらない”じゃない。“できない”と言ったんだ」
 天の御遣いを見れば、顔色は真っ青になっている。劉備も、そして関羽達もだ。
「で、劉備とか」
「貴様、将軍に何という口の利き方をする!」
「……誰が将軍だよ。ただのならず者の頭ってだけじゃねぇか」
 元々官位などは無いだろうが、彼らは俺にとって義勇軍でさえ無い。名前だけがそうであっても、中身はそうでは無いのだ。子供を手にかけ誇るようになった時、何をどう取り繕おうともそうなった。
「黙れ、貴様ぁっ!」
 わめく男を無視して、俺は劉備に、関羽に、天の御遣いに向きなおった。俺と目が合うと、劉備と天の御遣いは瘧のように震えて一歩下がり、関羽と張飛が得物を構えて前に出る。
「それで、こいつをどう裁く。子供を殺したのだと、お前達のために子供をなぶり抜いて殺したと誇る男をお前達はどうするってんだ」
「打ち首だ」
 間髪入れずに答えを返したのは、公孫賛だった。周囲の目が一斉に集まる中心で、彼女は堂々と全てを受け止めた。
「こいつらは、民を殺した。幽州の民をだ。私の治める州の民が殺されたのなら、私が敵を討たなければならない、裁かなければならない。誰が何と言おうとだ」
 彼女は、劉備に一層強い視線を浴びせて厳かに断言した。
「例え桃香、お前が庇ったってそれは変わらない。もしもお前達がこいつらを庇うなら……私がお前を斬る。そうしなければならない」
「そ、そんな……ひどいよ、私たちの仲間なんだよ!?」
 仲間だから何なんだ? そうしなければならない、という言葉が何を意味しているのかは俺でも察せられる。俺は劉備という女が嫌いになりつつあった。
「な、なあ……白蓮。確かに子供を殺したのは悪い事だけど、打ち首にしなくても……その……勘弁してやってくれないか、牢に入れるとか、他の方法が……」
「それですむと思っているのか」
 凍らせ屋なら嘲るどころか犯人ごと射殺しかねない寝言は、笑いもしない一言で切り捨てられた。
「だ、だけど」 
 何かまだ言おうとしていた天の御遣いの元へと足を運んだ俺の手は、半殺しにした兵士の一人から奪った剣を握りしめている。
「お前が殺せ」
 鞘に入ったままのそれを目の前に突き出すと、天の御遣いは理解不能のエイリアンの言葉を聞かされたように俺と剣を盛んに見比べている。
「ここで殺さなければ、お前達は第二の黄巾党になるだけだ。お前は第二の張角になるだけだ。天の御遣いの名の下に、子供を殺す事さえ容認したのであれば、それ以下の真似なんてどこにもないのだから、お前達はどこまでも墜ち果てた外道の軍団になる」
 天の御遣いの目は助けを求めてか左右にせわしなく降られ、顔は今にも吐きそうに青ざめている。目が合った義勇軍の兵士が金切り声を上げ、もはや理解不能の域に達した奇声を上げているが、所々理解できる単語をつなぎ合わせれば、俺を殺せと泡を吹いて訴えているようだ。俺と兵士、双方の殺意を託された北郷は今にも反吐を吐きそうな顔になる。
脂汗さえかきそうな姿は哀れを誘うのかも知れないが、俺はむしろ苛立ちを感じてやまない。
「お前達も理解しているはずだ。この外道を作り出したのが何処の誰であるのか、それぐらいは自覚しているだろう。お前が天の御遣いだなんて軽々しく名乗った事が全ての始まりなんだ」
 これが劉備の集めた、ただの義勇軍であればこうはならなかったかも知れない。
 だが、彼らは自分たちを天の御遣いの下に集った軍と言い張った。人では無い、神の下に集ったと称してしまえば、自分は神を肯定し、神は自分を肯定するために何をやってもいいと思うのは人間の常だ。遙か遠い二千年先でもそうなのだ。ましてや、素朴ですれていないこの時代の人間ならば、一体どうなる?
「やってはいけない事なんだ、天を騙り、人知を越えた存在でございなどと嘯くのは。それがどういう結果をもたらすのかは、この国の全ての目の前に黄巾党という形で答えは存在するのに、お前達は民衆の心に毒を盛ったんだ。あるいは、麻薬と言った方が正しいのか」
 天の御遣いの耳に、そもそも俺の声は届いているのか。言葉が脳に理解されているのかは怪しいところだ。だが、それに考慮してやるほど事態も俺も優しくはない。
「裁くのは、お前がやらなけりゃならない。お前がその手でこいつらを殺さなければ、なにも変わりはしない。お前はこいつらの神だ。神に否定されなければ、意味は無い」
 天の御遣いは左右に首を振り、泣きそうな顔をして拒絶する。女であれば、この情けない顔に仏心……あるいは女心でも出すのか?
「十八かそこらの男にしては情けない顔で、惨めな顔だな。今にも母親の名前でも叫びそうだ。そこらの頭の軽い女なら誑かされるのかも知れないが、男には通じないぞ。お前のまいた種の責任は取れ」
「ひ……人を殺したりなんか……できない」
 俺の握った剣が、天の御遣いの顔を抉った。柄を当てただけだから顔が少し腫れただけだが、殴った手応えの割に簡単に転がった。威力があったわけでは無く、こいつがすくんでいるために一切踏ん張らなかっただけだ。
 関羽、張飛が俺に斬りかかろうとしているが、趙雲と公孫賛が止めているのが目の端に写った。劉備と童女達は天の御遣いのように顔を青ざめさせているだけだった。
「お前が集めた義勇軍が、一体どれだけ殺した。殺して、殺されて、それを繰り返して戦果を上げてきたんだろうが。それをやらせたのはお前だ。手柄とするのはお前らで、責任をとるのもお前らだ。お前ら、手柄をあげたんだろうが。だったら責任からも逃げるんじゃねぇ。何をどう言おうと、今更の事だ」
 口にしているのも恥ずかしい、きっと穴だらけの説教擬きだが、ここで止めなければいつか李江がもう一人増える事になっちまう。義勇軍がどうなろうと、天の御遣いがどうなろうと、それだけは嫌だった。
「ん……?」
 剣を受け取りもせず、はね除ける事も出来ずにいる天の御遣いにいい加減業を煮やしていた視界の端で、目から涙を流した劉備が震えながら剣を抜いたのが見える。俺に斬りかかってくる気か?
「うわあああっ!」
 だが、予想に大きく反して彼女が泣き叫びながら斬りかかったのは、殺意以外は他の誰にも理解できない奇声で叫び続けていた部下だった。
呆気にとられた。彼女にそこまでの事が出来るとは想像もしていなかったのだ。どうやら随分と侮っていたらしい。
「桃香様!?」
「桃香おねーちゃん!?」
「桃香!?」 
 関羽、張飛、そして公孫賛が叫び声を上げ、趙雲と天の御遣いが目を見開いた。
 彼らの見守る中で、俺が瀕死になるまで追いつけた兵士が確かにとどめを刺されて事切れる。
 本来であれば、人を殺すどころかろくに傷つけられない程度の剣でしか無かった。しかし、手は震えて狙いもろくに定まっていない剣でも瀕死の重傷を負っていた兵士にとどめを刺すくらいは出来る。
「…………はっ、はっ、はっ……」
 断末魔の悲鳴さえ上げずに死んだ男を前に膝をつき、顔を青ざめさせた劉備は息を荒げながら熱に浮かされたように震えている。
 仲間を殺した事にショックを受けているのか、それともまさか人を殺した事そのものにショックを受けているのか。仮にも軍を率いている女がそれは無いだろうと思うが……
「わ、私が……」
 彼女は涙と鼻水でべとべとになった顔を俺に向けた。
「私がご主人様を見つけたの! 私が義勇軍を作りたくて、ご主人様に頼んだの。天からやってきたんだから、天の御遣いに間違いないって、そうじゃないって言ってもお願いして……だから、私が責任をとる!」
 明らかに怯えて、腰は引け、目はうつろであるが、それでも彼女は剣を離そうとはしなかった。ゆっくりと、震える手と足で剣を構えて立ち上がる姿を天の御遣いと二人の童女は呆然と見あげている。
 義勇軍の兵士に、その姿はどう見えただろうか。
 どこかの馬の骨に従って身動きの取れない仲間を殺す、裏切り者に見えただろうか。
 それとも、歯を食いしばりながら外道を働いた愚かな部下を処断する果断な君主に見えただろうか。
 これまでの彼女は、今のような情けない顔をする事も無く世の男に美しいと讃えられる顔に笑みを浮かべ続けていた。だが、ひねくれた俺の目には大した魅力は感じなかった。今の方なら、少しばかりいい女に見える。
「……桃香。お前一人に処罰を決めさせるつもりは無いぞ」
「白蓮ちゃん……」
「こいつらが殺したのは、私の民だ。幽州の子を殺した以上、私が裁くのは権利であるが、義務でもある。なら……私が斬る」
 助け船以外の何者でも無い。しかし、彼女は理解しているのだろうか。ここで義勇軍の兵士を斬れば、恨みは彼女に向くぞ……下手をすれば、全部一切合切……そんな義勇兵が幽州に帰ってきたとなれば……ろくでもない事になるんじゃ無いか?
 俺が思いつく事を彼女らが思いつかないはずも無いだろうが……なんとなく、彼女はその辺が抜けていそうな気がするのは何故だろう。
 俺は剣を抜いた公孫賛を余所に、かちかちと音が鳴るほどに歯を鳴らして劉備を見上げている天の御遣いを見た。失禁していないのが不思議なくらいの顔をしているこいつが何を考えているのか知らないが、俺が一歩近付いただけで大げさに悲鳴を上げ、その情けない叫びが張飛と関羽を呼び寄せた。
「……主君が歯を食い縛っている時には見ているだけ、男が腰を抜かしたら駆け寄る、か? 忠義は無くて色に狂ったのかよ」
 もちろん、ただの嫌がらせである。この場で一番得体の知れない危険人物は俺であるのだから……と言うよりも、俺ぐらいしか危険人物はいないのだから、立ちふさがる彼女らの行動は大正解以外の何物でも無い。
「何を寝ぼけた事を……貴様のような危険人物からご主人様をお守りするだけだ!」
「これ以上お兄ちゃんにひどい事を言うな、なのだー!」
「お兄ちゃんはともかく、ご主人様……」
 変態かよ、と思ってしまう俺はむしろ汚れているんだろうか。
 なんだか馬鹿馬鹿しい事で頭を埋めながら、天の御遣いの胸ぐらを掴む。怯える男はともかく、女二人はいつの間に自分たちの間をすり抜けたのかと血相を変えていた。
 それには一切構わずに、俺は天の御遣いの顔を無理矢理屍の方へと向けさせる。義勇兵のそれじゃ無い、もっと小さい、半ば置き去りになっていた李江の屍だ。
 天の御遣いの顔が真っ青を通り越して白くなり、俺達を分けようとした二人も苦々しい顔をして動きを止める。
 殺された子供であり、また、彼らとて李江の事は知らないわけでも無かったのだろう。
「なあ、おい、天の御遣い様よ。こいつの名前は李江で、殺された父親の名前は李淵だそうだ。覚えておけよ、お前のせいで死んだ人だ。お前が手にかけたわけじゃないけど、お前のせいで死んだ奴はたくさんいる。どうせすぐに忘れちまうだろうけど、名前を知ってりゃなかなか忘れられないだろう。そうだ、顔もよく見ておけ」
 ぐい、と顔を近づけさせる。暗くとも、見えるくらいの距離に、見えざるを得ない場所にまで連れて行く。
「か、勘弁してくれ……」
 蚊の鳴くような声で、ようやくそう言った天の御遣いの声を合図にして、葛藤に凍り付いている張飛が俺に斬りかかろうとする。
「いい加減にするのだー! 何処の誰かも分からないお前なんかに、お兄ちゃんの事を悪く言う資格なんか無いのだー!」
「止めろ、鈴々!」 
 彼女を止めたのは、他でも無い彼女の隣で武器を収めた関羽だった。
「な……何で止めるのだ、愛紗ー!」
 苦虫を噛み潰したという表現では追いつかない程悔しげな顔で、声で、地面を得物の石突きで打ち据えながら彼女は呻くように応える。
「必要な、事だ。受け止めなければならない事なのだ、これは。将である以上、知っておかなければならない事だ」
 関羽の言葉が耳に届くや、天の御遣いが奇声を上げて暴れ出す。必死に李江から目をそらそうとがむしゃらに手足を振り回している。
 俺はもちろんびくともしないが、服が土まみれになった。天の御遣いと認められたきっかけはこの服のおかげなのだと言っていたのは李江だった。
 散々にわめき散らして、暴れ回り、権威を象徴していた服が汚れて土まみれになってから天の御遣いは止まった。
「……あ、うあ……ううあ……」
 男として、顔を見るべきでは無いだろうが声だけでどうなっているのか大体は想像が付く。完全に力を無くした天の御遣いから手を離して立ち上がると、背後から劉備がゆっくりと近付いてくる。
 彼女が、俺の離れるのをじっと待っていたのは分かっていた。
「ご主人様……」 
 顔は憔悴しきり、手には血が付いたままの剣を握っている。彼女の背後には静かで厳しい表情をした公孫賛が、血刀をぬぐって鞘に収めている。
「あ、ああ……」
 天の御遣いは劉備の顔と彼女の背後を見て、握っている剣を見て、最後に李江を見た。そして、そのまま物も言わずに……いいや、言えないままに走り出すと暗闇に消えた。
「ご主人様!」
「お兄ちゃん!」
「愛紗ちゃん、鈴々ちゃん!」
 追いかけようとする二人を、劉備が止めた。
「今は、一人にした方がいいよ」
「そうだな、慰めてやるつもりだろうが今更勘弁してくれ」
 公孫賛も、それは認められないと強い視線を彼女らに向ける。
「しかし!」
「一人じゃ危ないのだー!」
 もめている彼女らを余所に、俺は兵士達の様子を探ったが……今回の処断に対して当然の裁きと受け止めている者もいれば、なにやら裏切られたような顔をして劉備を見ている兵士もいる。
「……危険そうですな」
 同じように様子を見ている趙雲がぼそり、とつぶやいて劉備達に気をつけるよう警告に向かう。おそらくは、同様に天の御遣いにも護衛か見張りが付くだろう。
 元々黄巾の残党が何処にいてもおかしくは無いのだ。天の御遣いが何処に行こうとも義勇兵達は見逃さずに守り続けるだろう。醜態に複雑な思いはあるのだろうが。
「ここで劉備みたいにびしっと決めろって言うのは……ただの高校生には無理な話か」
 騒ぎに背を向けて歩き出す俺を止める声は、どこからもしなかった。
 天の御遣いの権威が地に落ちたのかは分からない。傷物くらいにはなっただろうが、根本的に信仰という奴は俺にとって理解の範疇外だから断定は出来ないのだが、今回の件で反発が生まれるかも知れないな。
 ただ、それ以上に高いのは義勇軍に俺を狙う者が出てくる可能性だろう。
 今回の件、大ざっぱに言ってしまえば、俺は李江を殺した連中を、天の御遣いにこそ裁かせたかっただけだ。それは叶わなかったが、天の御遣いの為と言えば何をしてもいいなどと考えている輩を公然と裁けたのだから、今後は出てこないだろうと思う。
 だが義勇軍の連中にしてみれば、胡散臭い馬の骨が仲間を半殺しにした挙げ句、天の御遣いと劉備を脅してとどめを刺させたと思っているかも知れない。
 早めに孫策の所に紛れ込んだ方が無難かな。 
 結論を出した俺は、しかし忘れ物を思い出して踵を返すと李江の所に跪いた。まだあれこれともめている連中を余所に冥福を祈ろうとしたが、自分がこの国の祈りを知らない事に気が付いた。
「…………」
 両手を合わせようかとも思ったが、結局ただ目を閉じて祈るだけだった。ここのそれとは違う作法で祈っても、李江は浮かばれないだろうと思ったからだ。
「工藤殿」
 今までに見た事の無い、厳しい表情をした趙雲が俺の前に立ちふさがるようにして現われた。
「なんだ」
「…………」
 言いたい事がある、しかし言えない。そんな顔であるように見える。そんな俺達を見て、劉備、公孫賛と言い争っていた関羽、張飛も駆け寄ってくる。今にも得物を抜きそうな顔をしているが、趙雲がそれを止めた。
「何故止める!」
「軍規を乱した者を処罰する。当たり前の事だろう、愛紗。赤の他人である工藤殿がそれを言うのもおかしな話だが、指摘その物は真っ当な事だ。それとも、お前達は民を殺した者を仲間と言う事で見逃すのか」
「……そんな事は無い、そんな事は……だが!」
 趙雲がいなければ、俺と確実に殺し合いになっているだろうとんでもない顔で俺をにらみながら、恨み言……いいや、泣き言を口にする。
「ご主人様は、平和な国から来た。争いの無い、天の国からいらしたのだ! 人を傷つける事など無いお優しい方なのだ。そんな方が我らの頼みに応え、名を貸してくれた。それだけでもありがたいというのに、このような仕打ちは……あんまりではないか」
「お兄ちゃんは、優しいのだ。そんな優しいお兄ちゃんに仲間を殺せなんて、ひどすぎるのだー!」
 俺はひどく冷めた気持で、足下の李江を指さした。
「あいつに言えよ」  
 それ以上は目を合わせるのも煩わしく、俺は趙雲に目を向けた。視線を受けた彼女は、一度息を吐き出す。呼気と共に怒りや苛立ちをはき出しているように見えた。今の彼女にはき出さなければならない怒りがあるのだとすれば、天の御遣いをぞんざいに扱った俺に対してだろう。
「北郷殿は……立ち直れるだろうか」
「知らん。だが、他人の手で子供を殺させて、自分の手で犯人を殺さないで、そのまま逃げては男が立つまいよ。もしも行き場が他に無いからなんて理由で戻ってきたのなら、そんな男は殺した方がいいけどな」
 そう言ってあっさりと踵を返した俺に、彼女は呆気にとられたようだ。
「ま、待たれよ」
 ついてきたのは趙雲で、関羽も張飛も足下の李江に魅入られたように固まっている。
「これ以上俺に付いてきてどうする。天の御遣いが気になるのだろう、何故行かない。俺に構っている場合か。他の女から先んじる絶好の機会だぞ」
 付いてこられるのがどうにもうっとうしくて、けしかけるような事を言う。だが、生憎と女はのってこなかった。
「以前も口にしたが、私は北郷殿をそう言う目で見ているわけでは無い」
 そんな事はどうでもいい。
 適当に手を振って足を進めるが、彼女はどういうわけだかついてくる。
「なんだよ」
「後悔しておられるのか、もしかして」
「何を」
「北郷殿に、桃華殿に、愛紗と鈴々に苦言を呈した事をです」
「そんな訳があるか」
 馬鹿馬鹿しい事を言う女には目もくれずに、足を急がせる。どこぞの飲んべえが前後不覚になる前に辿り着かなければなるまい。
「足が急ぎましたな。それに、先ほどから気が立っているように見える。子供の死で、兵士の見苦しさで苛立っているのかとも思いましたが、どうにもそんな気はしません」
「子供が殺されて、義勇軍の連中は見苦しくて腹がたっているのさ。当たり前の事だ」
 後ろから俺を追いかけてくる趙雲の視線が、奇妙に煩わしい。嘘つきめ、と笑われている気がする。嘲られているのなら張り倒せばいいが、子供を見るような目で見られるのは我慢も出来ない。これだから女は嫌だ、事あるごとに男を子供扱いしやがる。
「ん?」
「北郷殿?」
 趙雲は汚れていても目立つ、この国の文化には風変わりなシルエットを遠くに見つけて足を止めた。俺はそのまま行ってしまえばよかった。なのに、どうして足を止めたのかは分からない。
 失意に蹲っている男など、立ち上がるまで見るべきでは無い。だが、その後ろに女が現われたとなると奇妙に目を引きつけられた。女は劉備という名前だ。
「どうやら、一人にしていい時間は過ぎたようだな」
「あるいは、まさか護衛が見付からなかったのか」
 二人がどういう話をしているのかは、まるで分からない。だが、背中を向けて蹲るままの天の御遣いに、劉備は何かを訴えているようだった。
 やがて、彼の背中を背後から抱き締めたが、天の御遣いはそれを振り払った。そのまま勢いよく立ち上がると、何かをわめき散らした。
 劉備は何も言わずに黙ってそれを聞いているだけだった。けれど、一瞬もうつむきはせずに天の御遣いから目をそらさなかった。
 疲れ果てた天の御遣いが、腰が抜けたようにへたり込むと劉備はそんな彼を抱き締める。そこには何故だろうか、男女の情のような物は全く感じなかった。
 ただ、姉が弟を抱き締めるような抱擁に見えた。女が男を抱くような生臭さは感じず、母が子を抱くような包容力も無い。
 しかし、相手への純粋な慈しみはある。
 そんな風に見えた。
「まとまったのですかな」
「さあな」
 今度はふりほどかなかった。その内、天の御遣いの腕も劉備に回される。どういう形にしても、彼は彼女に応えたのだろう。
 いずれにしても、俺が見る物じゃ無かったと後悔の念が湧く。天の御遣い一行に思い入れのある趙雲はともかく、これじゃあ俺はただの覗きでしかない。
 俺は出来るだけ音をたてないように、歩き出した。足音が聞こえる距離では無かったが、彼らの邪魔をする可能性はゼロに近い方が、よりいいと思った。
「険しさが抜けましたな」
「うるせぇ」
 一度だけ振り返った。関羽と張飛が彼らに駆け寄るのが見えた、喧騒が聞こえたが、そこには暗い色は無いように聞こえる。どうしてだろうか、何となく足や肩が軽くなったような気がした。
「……あの二人なら、もっと上手くやったんだろうな……」
 胸の奥で、二つの顔が笑っている。
 ああ、今回もあの人達には及ばなかったなぁ、と我が身を振り返って嘆息した。






「で、なんでいつまでも俺の後ろを付いてくる」 
 あれから、趙雲は公孫賛の下へ戻る事無くいつまでも俺の後ろを付いてくる。はっきり言えば、嫌だ。
「こんな美女がご一緒したいと言っているのに、つれないですな」
「笑わせんな、美女なんてモンと一緒にいたら恐ろしくて眠れもしないぜ」
 美女、なんて単語は俺の人生で不幸と不穏を呼ぶ呪いの置物でしかない。魔界都市で揉まれたからでは無い、それ以前の“区外”からなのだから筋金入だ。一体何回、女がらみで死線をくぐった事か。
 いや、あいつほどじゃないなと自分以上に女好きで女運が悪い男を思い出す。
“新宿”でのみ手に入る妖物を含めた動植物や鉱物、呪物を売り裁く上得意である馴染みのGGGは、昔から女癖が悪くて女運が悪かったが、唯一尊敬したトレジャーハンターの孫娘を側に置くようになってから拍車がかかった。
 性悪な小悪魔という言葉を絵に描いて額縁付きで飾ったような娘で、俺ならとっくに最も厳しい禅寺にでも放り込みたくなるような碌でなしなのだが、トラブルを楽しんで死んでも悔い無し、な男なのでいいコンビではあるようだ。
 しかし俺にとって彼女は理解不能の性格をした疫病神である。何度か利用された事があり、その度に仕返ししてやったのだが懲りる様子が何もなくて、いい加減うんざりしている。
 問題のGGGの関係で迷い込んだノアの箱舟で拾った人食い人種の女には、辛辣な表情でまだまだ温いと言われているが、どうすれば懲りてくれるやら。彼女の言う通りにするのは恐すぎるしな。
「大体、俺はこれから孫策の陣に行くんだぞ。公孫賛の将なんだろ? 余所にのこのこ顔を出していいのか」 
「そこは、口を利いてくだされ」
 にっこりと笑ってぬけぬけとした事を抜かす女に何を言い返してやろうと首をひねったところで、着いてしまった。
「で、よその将まで連れてきてしまったと……君の事は聞いているが、彼女まで連れてくるのは驚いたぞ」
 全くだ。だから俺はさらりと言ってみた。
「まあな。俺も困っているから追い出してくれて構わんぞ」
 何やら随分と中が騒がしい、周囲よりも一段ランクが高いと一目で分かるテントの前に立っている長い黒髪に褐色の肌、未来でならスーツ以外は着ていなさそうな鋭利な美貌の女性が腕組みをしてためいきをつく。腕の上にはどかんと大砲のように突き出したご立派な物が鎮座しており、ぜひとも猫耳や曹操と肩を並べて胸を張って欲しいと思うほどのけしからんスタイルをしている。
 ひどいですぞとなんのと俺の後ろで文句をたれている趙雲が、その凶器を見てむう、と怯む。女でも気にするのか。それとも、女だからこそか。
「聞けば未だ客将なのだろう? かまわんさ、うちが気に入ったなら公孫賛殿の下を出てこちらに入ればいい。歓迎するぞ」
 そう言って彼女はくい、と顔の前で眼鏡のつるを押し上げた……眼鏡?
「あ?」
 思わず口から驚きの声が出る。視力補正具の代表、眼鏡を彼女はかけているのだ。それもデザインが二千年先の最先端みたいな代物だ。
 この時代に眼鏡はあっただろうか……時代考証にうるさい口でも無いはずだが、さすがに気になる。足には白いハイヒールみたいな靴を履いているからなおさらだ。そう言えば、孫策も似たような靴を履いていたな。
「む、どうした。私の顔に何か付いているか」
「眼鏡が」
 ヒールを履いた女が戦場を闊歩していたという事実に頭痛を感じている俺は、ろくに頭も働かず適当に返すしかない。
 それがどうしたと首をひねる彼女は、周瑜と名乗った。孫策の家臣らしい。醤油を内心で連想し、あまりのくだらなさに自分を殴りたくなった。
「入るといい。中では待ちきれない二人が盛大に呑んでいるが」
 涼やかに笑う姿は出来る女の見本のようだが、それは首から上だけだ。孫策、黄蓋の衣装もなかなかけしからん物だったのだが、彼女のそれは完全に痴女のそれである。
 着ているのは赤いチャイナドレスだが、豊満すぎる胸は乳首で布地を引っかけているとしか見えないほど豪快に中央部を開けており、そのまま腹部の布地も臍までガッツリ抉れている。
 戦場どころか街を歩くのにも向いていない、その手の店でなければ誰も着ないような格好をしているこいつは、間違いなく男の目を誘って喜ぶ露出狂の痴女に違いあるまい。
 最近は女と縁の無い修行三昧だったので遊び相手になってくれるだろうか、と引き締まったウエストと豊満なヒップをさりげなく観察していると趙雲に白い目で見られた。
「随分と露骨に見つめる物ですな。やはり大きいのが好みですか。私とてあそこまでは無いにしても捨てた物では無いですぞ」
 どうやら露骨であったらしい。真実は常に意外だ。
「手を出したら槍で刺されるような胸に興味は無い」
「そんな事はしませんぞ、せいぜい拳ぐらいです」
 その程度なら、押し倒すのもありかも知れない。ふむ、と真面目に考え込みながらテントに入ると、後ろから真面目に考え込まないでくだされ、と慌てた様子で追いかけてきた。男を変にからかうと、その内痛い目を見るぞ。
「ちょいとごめんよ」
「おそーいっ! もう始めているわよ」
 冗談かと思っていたが、本当に酒を呑んでいる二人が俺を待っていた。いや、待っていないか。
「……吸血鬼の事を知りたいんじゃ無いのか」
「なによう、酒でも呑んでろって言ったじゃない。心配ないわよ、私の頭はこの程度で鈍ったりはしないから」
「この程度で酔うものか、まだまだ序の口よ!」
 揃って赤らみ始めた顔をして、全く信用できない事を言う。ろれつは回っているが、明日の朝になったら何もかも忘れていましたとか言ったらどうしてくれようか。
「……酒の席は苦手なんだがな」
 実家ではよく義父に晩酌のつまみを作っていた俺であるが、自分で呑んだ事はもちろんほとんど無い。これでも未成年である。魔界都市ならともかく、“区外”ではその辺きちんとしなければならない。義兄につき合ってビールをやった事なんて無いのである。
「何よ、酒も飲めないだなんてそれでも男?」 
 彼女は俺を笑うが、酔っ払いの言葉を真に受けるわけも無い。適当に聞き流して、素面の痴女、もとい周瑜に目を向ける。返す返す見直しても、どこまでも痴女だ。
「なんだ、ものすごく不愉快な目で見られている気がするな」
「何の話だ」
 席を勧められ腰を下ろし、対面すると彼女は鋭さを増した計算高さを匂わせて俺を見つめる。
「詳しい話は雪蓮……孫策と黄蓋殿から聞いた。にわかには信じがたいが、吸血鬼という怪物がいると。しかも、張角達は実は姉妹で曹操が替え玉を用意して利用するつもりだったとは……興味深くもある」
「もう死んでいる。まさか死体を掘り返そうと言うつもりでも無いだろう」
「そこまではしないさ。曹操軍もそこまでの勢力では無い……今後、間違い無く育つとは思っているが……まあ、彼女もうちの主君が問題の場面を見ている事を忘れはしないだろうから……貸しは出来るな」
 ニヤリと笑う顔からは、十の所を百にも千にも大きくしてから返してもらおうと言っているような気がした。
「手下は吸血鬼に噛まれるわ、弱みは握られるわ、ついてないねぇ」
「山賊でもあるまいに、部下と言うべきだろう。それで、その吸血鬼について……教えてもらいたい」
 大体の所は孫策から聞いているらしいが、確認もかねて一から話し直す。ちなみに孫策達は酒盛りを続け、趙雲はさっさと仲間入りをしている。何をしに余所の陣地まで来たんだ、この女は。
「ふう……かつて三つの王朝を滅ぼした女、その侍女、伝説の国、夏の妖学者……そして秦の大将軍……それが二千年の時を生きた吸血鬼として漢を滅ぼそうとする……まるでおとぎ話だな」 
 本人の性格もあるのだろうが、前日に超常現象を目の当たりにした酒盛り組と違って彼女は信用する様子は無い。未来における“区外”の住人としては当然でもあるが、この時代の人間にしては怪奇現象に対して否定的だ。
「正直に言えば、信じがたい。工藤殿、あなたが我々を騙そうとしている詐欺師だという方がよほど納得いく」
 そりゃそうだ。
「何よ、冥琳ってば。昨日私達が変なのに襲われたって話したじゃない」
「黄巾党の三人が人妖になっていたのも間違いないわい。腕を切られてもあっという間に治りよった。あれが何かの詐術とは思えんぞ」
「私も保証させて頂きましょうか。何しろ、悔しいながらその吸血鬼とやらに不覚をとりましたのでな。ここに来たのも、武人としてそれを濯ぎたい一心からでして」
 酔っ払いがやいのやいのと俺を援護するが、もちろん飲み助の言葉なんぞが援護になるわけ無いのである。
「三人とも……せめて、杯を置いてから話しなさい」
 眉間の皺を揉みほぐしている彼女を見ていると、疑われている俺の方が気の毒になった。
「大丈夫よ、工藤はいい男だから。私の勘が言っているわ」
「また勘か……」
 皺が揉みほぐしても取れなくなりそうだ。俺にしてみれば、勘というのはむしろ理屈よりも信用できてしまうのだが、彼女はそうでも無いようだ。それが普通だな。
「確かに、最近雪蓮の勘は以前にも増して冴えているが……」
「ちなみに、工藤のおかげよ。前に言った、街で立ち会って負けちゃった武人。実はこの男の事でしたー」
 あははは、と笑い出す孫策だが、周瑜は厳しさを増した目で俺を見る。喧嘩を売られたのは俺なので、そんな目で見られても困る。
「工藤にぽかんとやられてから、すっごい勘が冴えるのよねー……おかげで政務サボっても冥琳に見付からなくなったのよー」
 近付いてきたら何となく分かるから、と笑う彼女とは正反対の顔で周瑜が笑う。どこか妖気漂う笑い声はあっけらかんと笑っている孫策に向けられている。
「結局最後は痛い目を見るんじゃ無いのか、それ……?」
 このまま酔っ払いを暴走させては、話も暴走して収拾が付かなくなるだろう。
「まあ、その辺の話は素面の時に改めてやってくれ。今、目の前で説教なんぞされても困るぞ」
 周瑜は渋々矛を引っ込めたが、孫策はそもそも気にした様子も無く呑んでいる。既にアルコールが脳に回っているのだろうか。明日の朝、どんな顔をしているのかちょっと楽しみだ。
「話を戻すが……別に信じてくれなくても俺は一向に構わないんだよ」
「何?」
「俺は孫策に話を聞きたいと言われたから来ただけだ。俺から要求する事は無いもんだから信じる、信じないはどうでもいいと言えばどうでもいい」 
「…………」
「困る事は一つ、あんたらが敵の下僕になる事だけだ。俺の事なんか信じなくてもいいから、せいぜい念のため程度に自衛をしてもらえりゃそれでいいんだよ」
 はっきり腹の内を明かすと、周瑜の顔に険が増した。
「下僕だと? 面白い事を言うな」
「吸血鬼にとって、血を吸う事は食事であり、楽しみであり、下僕を増やす事でもあるんだよ。生態から話した方がいいか……」
 説明という奴は基本的に面倒くさくて苦手だ。ましてや、こっちを疑っている自分よりも賢い女に、となると気疲れは倍増しする。
 かといって、見せびらかすのに力を振るまでの義理も無い。曹操と違って部下の頭を小突いたわけではないのだ。
 しかし、孫策が敵に狙われていたのは明らかだ。彼女の何を狙ったのかは知らないが、ターゲットにされていると分かっている以上見捨てるのは無い。
 側に付いて守ろうにも、周瑜には疑われているし、他にも狙われていそうな曹操もいる。そもそも守られて良しとする玉じゃ無いのは俺でも分かる。
 となれば自衛してもらうのが一番だ、と周瑜に公孫賛に話した説明の焼き増しをする。吸血鬼とは何かの基本に一応耳は傾けているが、胡散臭く思っているのは明らかだ。こういう時、“区外”はやりにくい。
 何か、疲労しても弱みにはならないハッタリの小道具はあるだろうか……ないな。
「とにもかくにも、敵は基本的に不死身なのが問題だ。焼こうと、水に沈めようと、窒息させようと、効かない。首を落として心臓に木の杭を打ち込むのが吸血鬼退治の基本だが、それが効かない奴も随分いる。古くて高い位置にいる奴には特に、な」
 いつの間にか、後ろが静かになっている。真剣その物の視線が背中に突き刺さるのを感じ、前からは驚きの顔が向けられる。彼女たちの本気が周瑜にも伝わったのだ。
「高くて古いってどういう事かしら?」
「血を吸われたばかりの成り立てなら、腕を切られても平気な顔をして繋いでしまうが、粉微塵にされたりすれば、死にはしないがさすがに生えてはこない。それが成り立てだ。だが、それはとどのつまり赤ん坊って事だ。年月を経て大人になればもちろん変わる。杭も桃も、何もかもを克服するとんでもないのが出てくるのさ。中でも、今回の敵は最悪中の最悪だ。力はもちろん、性格こそ最悪だ。殺人を心から楽しみ、淫蕩にふけることを誰よりも楽しみ、そして気まぐれな暴君だ。一度殺さずに見逃した妊婦を、一歩進んだら気を変えて、殺すだろう女だ。腹を割いて、胎児を取り出して血をすすって面白いと大笑いするような女だ」
 かつて、酒池肉林と呼ばれた宴がある。
 かつて、焙烙と呼ばれた拷問がある。
 妖獣に男を食わせて笑い、妖物に女を犯させて笑い、自らに群がる男を抱いては殺して笑う。それが妖姫だ。
 殺してくれと泣きわめけば、無理矢理生かしながら虎に食わせるような女だ。
「……肉山脯林、酒池肉林。焙烙、それは全て、断片に過ぎない」
 二千年後の魔界都市でも、あれほどの悪女はまず見ない。退廃と背徳を集めて煮込んだ街で、それでも出会うことはほぼ無いと言える悪女よ。
 気が付けば、こわばった顔を揉みほぐしながら気を取り直す。あの女は思い出すだけで背筋が凍る。せつらはよくも普段通りのとぼけた顔でいられるものだ。
「……そのような顔は始めて見ましたな」
「そのような顔?」
「まるで、縛り上げられて飢えた虎の前に放り出されたような顔をしていますぞ」
「……それですめば、どんだけ楽か」
 縛られていようと、そんじょそこらの虎ぐらいどうとでもなる、と嘯いていた俺の頭に浮かんでいたのが妖姫だけではなく殺人機械と化した黒衣の魔人だとは誰にも言わない。
 ダブルパンチで精神を疲労させている俺に、いつの間にやら酔いが覚めた風な黄蓋が、今まで見た中で一番強い目を向けながら口を開いた。
「自衛せよと一口に言うが、どうすればいい。儂は武人であれば堂々打ち倒すが、妖と戦った事などは無いぞ。首を刎ねて死ぬようならば刎ねてしまえばいいが、今の口ぶりではそれですまないのも出てくるのであろう」
「祭殿、信じるのですか?」
 周瑜が軽率であると止めるが、黄蓋はむしろ彼女を諫める。
「冥琳よ、こいつは儂らが招いた男じゃ。己から売り込んできたわけでは無い。義理無く、何を要求するわけでも無く知恵を貸してくれる男にいつまでも疑いの目を向けるな」
「そうよ、冥琳。さっきも言ったでしょ、工藤はいい男よ。私達にとって、頼りになっても損はさせない男なのは私の勘が保証するわ」
「雪蓮……まったく、これでは私が悪者だな」
 俺のような胡散臭い男が出てくるのであれば、怪しむのはむしろ当然のことでしか無い。逆に気の毒になる彼女がふう、と諦めたようにため息をつくと大きな胸が揺れるのがよく見えた。眼福である。
「すまないな、工藤殿。改めて、教えを請いたい。我らがそれに対するにはどうすればいい?」
「アンタの言い分こそが真っ当だよ。自分で言うのも何だけど、俺はとても胡散臭い。そんなのでもよければ、一つ聞いてみてくれ」
 うなずいたのでおもむろに話すが、そもそも大体の所は話してある。後はせいぜい、俺の思いつく対策を知らせるだけだ。
「連中には、剣よりも木や石で作った杭や楔の方が効く。桃の木なんかが一番いいだろう。後は桃の実や花も嫌われている。日光なんかも敵だから、昼間にはまず出てこない。人間で言えば、熱湯を浴びるような物だからな」
 国ごとに弱点は違うが……特にヨーロッパでは吸血鬼の弱点はバリエーション豊かである。馬の蹄鉄で作った杭で心臓を貫くべし、だの水の中で燃やさなければならない、だのと何処の誰が突き止めたんだと言いたくなる弱点が十人十色でラインアップされている。
 大体は特定の弱点を突かなければ殺せない、正真正銘の不死身揃い。バラバラにしても、瞬き一つで再生している生きる反則ならぬ、死んでいる反則。
「剣じゃ切れないの?」
「切れてもすぐに戻る。特に、さっき言った四人は根本的に不死身だ。まず死なない。封じることは出来るかも知れないから、底なし沼にでも落とす方がいいかもしれないな。吸血鬼は水も苦手だから」
 中には水を避ける術くらい使ってもおかしくは無い爺もいるし、苦手ではあってもそれだけでしか無いのだろうが、無意味では無い。
「まとめると……弱点は多いのだが、それはあくまでも下っ端に過ぎず、そもそも事の原因となっている者達はすべからく正真正銘の不死身である、ととってもいいのでござろうか」
 趙雲の言葉にうなずくと、彼女たちは酢でも飲まされたような顔をする。
「そんな連中を、一体どうやって殺すのですか」
「どうすれば滅ぼせるだろうな」
 酢を飲んだような表情から、毒を飲んだような顔に変わるが俺には他に言いようが無いのだ。妖姫に杭を打ち込んだ者は二千年先でもいないが、だからといって杭を打ちこめばすむわけでも無い。
 秀蘭は人形娘の手で杭を打ち込まれ、灰となった。しかし、劉貴は杭を打ち込まれてなお、抜かれてしまえば血を求めて動き出したのだ。
「吸血鬼としての種族的な異能だけじゃ無い、各々が歴史の中に埋もれていったはずの様々な妖術を持っている。そもそも妖術の類を知らないお前さん達じゃ、対抗どころか相手の術理を想像さえできないだろう。そして、人には有り得ない時間を過ごしてきたと言うことは経験が人とは比較にならないと言うことでもある。お前さん達、衰えることなく二千年を生きてきた武人を相手の積み上げてきた老練さを想像できるか?」
「味わってみたくはありますな」
「もう腹に一発くらって昇天しかけたろうが」
 本人は不敵なことを言っているつもりだろうが、俺にしてみれば不適なだけだ。
「まあ、そういう本人の力もさることながら俺が特に恐れているのは繁殖力だ」
「繁殖、力? 何それ」
 繁殖という言葉はこの時代には無いようだ。孫策がことさら物知らずなわけでは無いだろうと思いたい。
「つまり、吸血鬼はさっきから言っているように血を吸われると病気のようにうつる。そして、血を吸った主には絶対服従となるんだ。昨日の主君よりも今日の主だ……そして何よりも、数の制限は無い。一人の吸血鬼がいれば、いくらでも犠牲者は増えていく。そんな奴が、例えば今回の曹操軍のように軍に紛れ込んだら? 一軍が丸ごと乗っ取られるぞ。夜限定だが、不死身の軍隊が出来上がりだ」
 連中の中には、秦の大将軍がいるのだ。ただ不死身なだけではすまないのは明白だ。
「古に言う秦の将軍が率いる化け物の軍……面白そうよね」
「不謹慎ながら、腕が鳴るの」
 獣のように犬歯を向いて笑う二人の女を余所に、周瑜は冗談じゃ無いと頭痛を振り払うように頭を振る。
 俺も俺で、どうしたものかと首をひねる。この手の輩は男も女も止めておけと言われればムキになって突っ込んでいくようなひねくれ者ばかりだ。かといって、それを放っておいて吸血鬼にでもなったら後味が悪いどころの話ではない。 
「……ふう……工藤殿、話を変えるが御身はどこぞに仕えておられるのか」
「いや。そんな気にはならないし、大体俺が出来る事なんぞ単純な斬り合いぐらいだ。仕えようにも、何も出来ん」 
 これは本音だ。
 庶民としてはそれなりに身についてきたが漢の常識は無いから、文官という奴は出来ない。武官をしようにも、人を率いることなど出来ない。戦術などはまるっきりだ。
 せいぜい、多少腕が立つ兵士が関の山だろう。
 その兵士にしたところで、これまで魔界都市の賞金稼ぎで生きてきたような無頼の俺に行儀よく兵士が出来るだろうかと言われると、窮屈そうで気がのらない。まあ、好き勝手に賞金稼ぎをしながら、金が貯まったら道場でも開きたいなと考えるのが俺の展望だ。
「道場ねぇ……世に名を広めたいとか思わないの」
「全然」
 けろりと言ってしまうと覇気が無いのねと返された。黄蓋にはもったいないと買いかぶられた。そう言われても、誰かの上に立つような玉でもない俺にはその程度でも大きな夢なんだがな。
「ふむ……それでは、孫家に仕えないか? 雪蓮……孫策がそのような輩に狙われているとなれば、護衛が欲しい。それなら今すぐにでもできるだろうし、他の事は追々学んでいけばいい」
「……護衛」
 孫策を見た。
 腕に自信を持った奔放を絵に描いた女の護衛……振り回されそうだな。
「なによう、私だって孫家を背負って立つ自覚を持って行動を……」
「しているのか? なら、竹簡を放り出したりはしないな」
 周瑜の一言に、黙り込む。それでいいのか、主君。
「どう?」
「…………気になる事が洛陽にある。それが解消されればいいんだがな」
「……洛陽?」
「それと、天の御遣いもな」
 俺がそう言うと、趙雲が肩を動かした。相変わらずだな。
「……妖姫は、いつもそれぞれの国の頭を狙う。帝とか、王とか呼ばれている男を堕落させる事を楽しむ。名君と呼ばれた王が自分の身体に溺れて暗君となり暴君となるのを笑い、自分の足下にひれ伏せさせるんだ……だから、あるいは……と最初から候補に入れていた女がいた」
「まさか、それは……」
「最も、子供を産んだと言うから別人だろうとは思っているけどな。ただ、いずれにしてもこの国で一番に狙われるのは確定している」
 妖姫の存在が確定した以上、最優先護衛対象は決まっている。劉貴に勝つまで手はださないと言ったところで一つも信用できない。約束を守るのは初めてだと、二千年先の魔界都市で黒衣の魔人に言っていた女である。
 だが騏鬼翁が言うには、彼女らが特に興味を持っていたのはこの大陸において異質な二人の男だそうだ。一人は、俺。そしてもう一人は……
「天の御遣いって事?」
「らしい。ただ、今のところは俺に興味がうつっているようだからな……」
 趙雲をちらりと見る。俺が何を言ったところでトラブルになるのは目に見えている。 天の御遣い一行に警告するのは趙雲に任せよう。
「つまり、あなたから興味が無くなるまでは北郷殿はご無事と言う事か」
「素直で結構な事だな、趙雲」
 なんだか盾にされているような印象を受けるぞ。
「何、工藤殿の腕を信じているからですよ」
「信じてくれるのは構わんが、俺の力じゃ連中になぶり殺しにされてお終いだ。一対一でも相打ちになれれば自分で驚く」
 冗談でも卑下でも無い、冷静に考えた上でのごく当然の事実だ。俺のアドバンテージは既に消えてしまった事実を考えれば、有利な点は劉貴以外の三人が出てこない可能性が高い、と言う事。
 それにしても高いと言うだけで、騏鬼翁のように突如加勢やだまし討ちに来ても何も不思議ではないのだ。むしろ、来ない方が不思議だ。
「……私は貴殿の腕をわずかしか見ておりませんが、昨夜の修練、先ほど愛紗と鈴々の二人を容易く取り押さえた事を思えば、なかなかの武人と思います。二人は随分と動揺していたので当てにはならないかも知れませんが」
 あの二人の腕は天下に通じる見事な物ですぞ、と釘を刺してくる。
「それほどの腕を持つにしては、いささか弱気に過ぎませんかな?工藤殿は己を過小評価し、敵の影を大きくしているように思えますぞ」
「そんな暢気な話しだったら、どんだけ楽かよ」
 ふん、とふて腐れる。実際に劉貴達と戦ってから言ってくれ、二度とそんな戯言は出てくるまいよ。
「むう……それはそれとして、不利というのであればあのお二方……彼らに助けを求めてはいかがか」
「してたまるか、そんな事」
 これまでにない強い調子で意思表示をする。
 ドクトル・ファウスタスとゼムリアの加勢は考えてはならない。俺の争いに巻き込んであんな妖怪爺と争う羽目になった挙げ句、その上加勢を頼むなど何処の恥知らずか。
「……再会したら詫びと礼に命をかけなきゃならん相手に、その上加勢を頼めだと? 冗談じゃ無い」
 出来る事なら、今すぐにでも探しに行きたいところだ。それをしないのは、単純に何処にいるのかがさっぱり分からないからだ。予想の一つもつけられない以上、出来る事は劉貴を待ち構えて、彼から探るしか無い。
 頼むから生きていてくれ、と心から願う。出来る事なら傷の一つも負っていて欲しくはないものだ。
 彼らは、俺の詫びを受け取りさえせずに気にするな、と心から笑ってくれるだろう。確信以上に確かだからこそ、いたたまれない。
「く、工藤殿……?」
「……凄い顔をしているんだけど、大丈夫かしら?」
 趙雲と孫策が、怯えていると言うよりも俺を心配しているような顔をする。ろくに関わりの無いような相手にもそう言う顔をさせるほど、俺は露骨だったと言う事か。
 一度目を閉じ、意識を水面のようにする。念法で培った精神修行はささくれだった俺の心に湖水のような潤いを取り戻させた。ついでに、一度念を練り上げて精神をきっちりとリフレッシュさせる。二人の顔から、どうやら李江の件はまだまだ俺の中で尾を引いているようだと自覚したからだ。
「なんだよ」
 俺が目を開けると、孫策がにこにこしながらすり寄ってきた。一体何がそんなに嬉しい。 
「あの時も思ったけど、人の立ち入らない滝か森みたいな男ね。それがあの時言っていた……ええっと……念法って奴かしら」
 お酒に合うわねーと始めて聞く感想を告げた口に、とっくりを近づける。酒のつまみ扱いされたのは生まれて初めてだ。というか、なんでもいいから呑みたいだけだろう。
「いや、別に戯れ言では無いぞ。普段から独特の雰囲気がある男だと思っていたが、今目を閉じていると急にそれが増した。座っているせいか、あの日の立ち会いで感じたそれよりもはっきりと感じたの」
「……そうなのですか?」 
「うむ、血なまぐさい戦の後に滝浴びでもしたような気分じゃ。心地よいの」 
 周瑜が胸を押さえて、なんだか驚いたように俺を見ている。まるで乙女のような、らしくない仕草だが、手の動きがまるで触診する医者のようだ。何か、俺の念に反応する物でもあったのか。
「……なあ、周瑜さん」
「どうやら、胸を病み始めているようだな」
 新しい声が、背後から聞こえた。
 いつの間にそこに立ったのかは誰にも分からない、だが、既に俺達のすぐ後ろ……テントのすぐ外に影を落として立つ二人の男がいる。
「何者か!」
 おのれ、侵入者めと剣を抜こうとする孫策、黄蓋の手は他ならない俺に止められた。そっと添えただけの手に抜剣を止められて目を白黒させる彼女らに笑いかけ、俺は背後に向きなおる。
「先ほどはありがとうございます、ドクトル・ファウスタス。そして、剣士ゼムリア」
 入ってもらってくれと孫策に頼み、何かあったら責任取れよとにらまれながらも許可を得る。
 入ってきたのは、まさに俺と趙雲を救い夏の大妖術師と共に消えた二人の恩人だった。
 一見して首筋を始めとしてどこにも傷はなく、おかしな呪いも邪念もない二人に胸をなで下ろしながら、正座に座り直し、座礼を行う。
 これ以上はないと言う最高の敬意を払い、俺は彼らを迎える。
「お二人のおかげで、俺は命を長らえました。命を救い、あまつさえ俺を追ってきた妖術師を追い払ってくださった事、お礼の言葉もありません。自分に出来る事がありましたら、何でも仰ってください。全霊を持って成し遂げてみせます」
「君は儂に助けを求めた。患者を癒やす事はもちろん、守る事も医師の義務だ。患者を狙う愚か者に死を与えるのは医師の権利だ。気にせんでよろしい」 
 彼は心の底から本気だろう。神よりも慈悲深く、悪魔よりも恐ろしい医師がそこにいることに安堵と恐怖を混ぜた気持になる。
「まあ、そういう訳だ。頭を上げてくれよ、そこまでかしこまられると落ち着かなくってな。まあ……その内、何か思いついたら頼み事をするからその時になったらよろしく」
 そう言っても、この男は俺に頼み事をする時は貸しのことなど口にしないどころか思い出しもしないに違いない。
 言われるままに頭を上げると少年のように照れた剣士の笑みが目に入り、未だ患者である俺と趙雲に慈愛の眼差しをくれる老人と目が合う。
「経過は良好かね」 
「は、ほとんど痛みはありません……素人ながら彼女も治療はしておきましたが……おい、趙雲?」
 視線を向けてみると、救い主に礼も言わない女は孫策達も含めてドクトル・ファウスタスに見惚れている。老人という枠を無意味とする美貌の魔力だ。
「……喝!」
 念付きで活を入れると、正気に戻った彼女は慌てて礼を言い始める。頬が赤くなっているのは後で指摘してやろうと決めた。
 後で改めて診察すると約束し、彼らはこのテントの主に向き直る。ほけ、としていた所を俺の活で目を覚まされた彼女らはどこか恥ずかしそうだ。まあ、あれだけわかりやすく見惚れていたんではそうもなるだろう。
「ふ……色ぼけ共め。揃って頬が赤いぞ」
「ぬっ!」
「ぐぬ」
「ふ、不覚」
「…………」
 からかってみると揃って恥ずかしさと悔しさの混ざった小娘のような顔をする。対象である医師が泰然自若を絵に描いたように冷静なのでことさらに違いが目立つ。ゼムリアも悪戯小僧のような顔で笑っている。目が合うと笑みが深まった。俺もそうだろう。
「俺達を救い、同時に守ってくれたお二人だ。今話題に出ていた四人組の一人、騏鬼翁と出会っている……あの後どうなりましたか」
「ゼムリアと私で打ち据えたが、逃げられた。夏の大妖術師となれば納得のいく技量だ」
「元気な爺さんだったよ。今頃はぎっくり腰でひいひい言っているかも知れないけどな」
 騏鬼翁が腰を痛めるとは、実に世のため女のためである。せつらから聞いたところによれば、女癖が悪くて王宮を追い出されたと言うが本当かね。
 その後、互いに自己紹介をするが意外にスムーズに終わった。いつの間にか陣内に現われた異国民だというのに、と驚く程だが実際には全く驚くには値しない。いつの時代も顔がいいのは得だと言うことだ。
「それで、ええっと……ふぁ、ふぁう…医師殿? でいいのかしら。うちの冥琳が病んでいるって言うのはどういう事なの」
 孫策が、それまで頬を桜色にしていたとは思えないほど鋭い目をする。ゼムリアが感心するほどだが、どうやらこの二人は主従では無く枠を超えた親友同士らしい。なるほど、友情が美貌の魔力に勝ったか。
「彼女は胸を病んでいる。きちんと調べるまでは断定できないが、今見たところでは肺だろう。おそらくは労咳の類、この国の現在の医療技術ではまず治らない難病の類だ。幸い、かかり始めという所だが自覚症状はあったはずだ。違うかね」
 俺以外が深刻な顔をしているが、俺はへえ、結核って難病だったんかと一人だけ気楽な顔だ。旧区役所跡の病院にいけば一分以内に治る程度の病気だからだが、同時に目の前の医師ならば絶対に治るとわかっているからだ。
「診察するんなら、俺は出ていますよ。いくら彼女でも、男の俺がいたんじゃやりづらいでしょ」
「終わり次第、趙雲殿の診察になる。君はその後だ」
 料金いくらかな、と財布を確認する俺の背中に何となくおどろおどろしい声がかけられた。
「工藤殿……一つ確認したいのだが、いくら私でもとはどういう意味だ?」
 もちろん、答えずにテントの外に出た。後ろからゼムリアも付いてきた。
「どうです?」
「やろうか」
 に、と笑った俺達の手にはそれぞれ酒とつまみが握られていた。テントの入り口にどっかと座りこんで夜空を肴に酒をやる。この時代の酒はいまいち薄い上に馴染みの無い味だが、俺はこの男と酒を呑みたかった。
 お互いに笑うと互いの杯に酒を注ぎあい、目の高さに掲げる。
「かんぱ……」
「治療が終わったぞ」
 …………
 中に入って飲み直したが、どうにも尻のすわりは悪かった。
「時に、工藤君」
 周瑜の胸をあっさりと癒やしきった名医が、俺の背中をとんとんと叩いている。経絡を押しているわけでも無いのに、それだけではっきりと気が楽になるのは信頼の力だ。
「はい」
 腹を診られる時に、趙雲達が腹に付いている二つの傷跡に目を見張った。それが自分で腹を斬った後と、背後から素手で突き破られた後だと言うと形容しがたい顔をした。
 その内、妖姫の腕で突き破られた傷に手を這わせながらドクトル・ファウスタスが山の最奥にある泉のような目で見上げてきた。
「この傷は、何者かに背後から突き破られた物と言ったな」
「はい。吸血鬼の親玉にですけど」
「腕はどうなったのかね」
「……意識が朦朧とはしていましたが、確か俺の腹を引っかき回して、その場にいた人捜し……まあ、知人が切り落としました」
「切り落とした腕は?」
「意識を失ったので、それはさっぱり」 
 俺はそのまま、この世界に放り出されたのだが……思い返してみれば、この身体は元々の俺の物だから、せつらやドクター・メフィストにしてみれば、目の前で誰かにかっさらわれたような物なのかも知れない。
 閻魔大王を相手に、よくも自分の患者をかっさらったなと針金を構える白い医師が思い浮かんだ……おっかねぇ。
「何か、まずいことでも」
 腕の持ち主が持ち主なだけに、気にかかる。なにしろ、過去なのか何なのかは分からないが、同じ大地に当の本人がいるのだ。
「ふむ、気になることはあるのだが、生憎と今は何を言い切れた物でも無い。君を襲った吸血鬼とは随分な大物のようだが……これほどの者は見たことが無い。その上、その傷の処置が私にも理解しがたい術法で行われているのが実に興味深い。一体何者がつけた傷で、一体何者が癒やしたのかね」
 ドクター・メフィストかと思ったが、そう言えば違う。となるとよくわからんが、少なくともあの牛頭鬼では無いだろう。あれが医療技術なんて持っているなら、亀が空を飛んだという方が真実味を持っている。
「傷をつけたのは、四千年以上生きたこの国の吸血鬼、数多の国を滅ぼし、星より多くの男女を弄んで殺してきた最悪の中の最悪。治療してくれたのは……あいにくと、何処の誰やらさっぱりです」
「そうかね。君の傷は、なるほどそれだけの魔がつけた傷に相応しい妖気を持っていたが、何者かがそれを完全に癒やして跡だけにしてある。そうでなければ、傷は癒えずにそのまま死に到っているだろう。見事な施術だ。ただ、この術式でこの傷を癒やすには、四千年の年月を経た吸血鬼の妖気を相殺しうる何かが必要だ。それは一体何か? それともう一つ興味深いことがある……君は一度死んでいるな?」
 女達がぎょっとする。普通ならそんな馬鹿な、と一笑に付すだろうが診ている医者と診られている患者が俺達なのでもしやと思うのだろう。
「ええ、さっきの腹を貫かれたので一度。死んだと思ったらよく分からないところ……たぶんあの世だと思いますが、そこで寝っ転がっていたら冥府の羅卒にたたき起こされたんです。目が覚めたら傷は無くなっていました。で、もっぺん人生やり直せみたいな事を言われてこの国に来ました」 
 命の恩人の質問に、もちろん俺は素直に答える。女達は、狂っているのかと言いたいが言い切れない……そんなもどかしそうな顔をしているが、ゼムリアは面白い体験談だと身を乗り出していた。
「ふむ……臨死体験などと言う物は概ね錯覚か、詐欺師の金集めに使う虚言に過ぎないのだが……君からは確かにあちら側の風が吹く。それがこちら側に害を為さず、君をおかしくしていないのは正しく帰ってきた、確かな生者だからだ」
 ドクトル・ファウスタスの目が、どこか危険な色を帯びてきた。最近どこかで見た事があると思ったが、劉貴に噛まれた魔界医師が夜族の神秘を語っていた時の目にそっくりだ。
「正しく死を乗り越える事が出来た人間は、人の領域を超える。魔道によって呼び出された者はただの生ける死人になるだけだが、こそこそとネズミのように神の目を逃れて還ってきただけでも予知や霊視など一角の異能を持つ。ましてや、正しく還ってきた者はどうなるのか」
 念の増大はあったが、今のところはそれだけだ。他に、俺自身まだ把握できていない何かがあるのだろうか。
「これまでの歴史の中で、それを成し遂げた者はナザレの大工の息子しかいない。しかし、両者には大きな違いがあるな。彼と君の違いは、本人の資質か、送り出した神の違いか。あるいは、そこに篭められた意図の違いか。いずれにしても、実に興味深い。君を調べれば、私の医術は死を克服するかもしれん」
 世界三大宗教の一つ、あるいは地上で最も武闘派の宗教を起こした傑物と同じ体験をしている割には、自分がそれに匹敵するような何かになれそうな気は全くしない。俺自身の性格かも知れないが、篭められた意図と資質こそが大きな違いだろう。
「……自分自身もはっきり変わったと分かるところはありますが……しかし、人としての格が上がったようには思えません。言ってみれば……入れ物は大きくなったが、入れ物の材料も、中に入っている物も変わったわけでは無い……」
 俺をこの国に置いたのが果たして誰なのかは知らないが、例えば人類の進化を促すとか言うような壮大な目的では無いだろう。あの時に牛頭鬼から聞いたちっぽけで個人的な理由……確かにそれだというのがしっくりきている。
「ふむ……それはあの聖人とは違うな、彼の場合は根源的に生命、いや魂の階梯その物が上がっていたはずだ」
「会った事があるのですか」
「いいや、だが知っている」
 まるでからかわれているようでもあるが、その顔は誰よりも真摯であった。俺は未だに彼の患者なのだ。
「いずれにしても、君を調べなければならない。君は正に黄泉がえりを成したのだ。それほど貴重な経験をした者と出会える機会は儂にとっても、そうはない」
 研究意欲が隠し切れていないが構わない。自分の状態が気になるのは確かだし、彼が彼であるのなら、悪いようにはしないだろう。
「その辺にしておけよ、ドクトル・ファウスタス。お嬢さん方が驚いているぜ」
 姐御はいてもお嬢さんなどいない。
 話に夢中になっておろそかになっていた周りを見ると、俺達二人を形容しがたい顔で見ている四人と、そんな彼女らの反応を見て面白がっている一人がいる。 
「まあ、それはさておいて」
 話を振ると確実に面倒な事になると思い、顔を戻す。
「治療は終わった。君はこれで健康体となった。おめでとう」
 ありがとうございますと頭を下げて、趙雲の分まで治療代を払う。自分の分を払おうとした彼女だが、俺の勝負に巻込まれたのだから、俺が払うのが筋だと引っ込めさせた。
 その際に、儲けましたなと実に素早く財布を仕舞った彼女に呆れた眼差しが集まったのは言うまでも無く、本人がけろりとそれをはね返したのも当然の事だ。
 さて、すっかり軽くなった財布だが不幸にもぶちのめす悪党がまだまだ途絶えないだろうこの国にいる限りは大した問題では無い。それよりも大事な問題があるので、孫策や周瑜から礼と称して酒をもらっている二人に声をかける。ちなみに俺は手酌だ、ふん。
「あの騏鬼翁の事ですが……俺が」
「治療を邪魔されたとはいえ、患者を放り出した。それは医師にとって最大の恥だ。雪ぐためにあの老人を滅ぼすのは私の権利となった。君に願うことがあるとすれば、あの老人を追わないことだ」 
「まあ、お前さんを追ってきたとは言ってもあの様子じゃ俺達も遅かれ早かれ目はつけられていた。たまたまさ、気にする事じゃない」 
 二人がそう言っても、なかなか納得はいかない。どうすればいいかと悩んでいると、どこからか花の香りがした。
「ん?」
 酒の香りに、しっかりと花の香りが混ざる。水の中に色違いの墨汁が混ざるように自己主張している。これだけ大量に消費された酒に負けない花など、満開に花咲く林の中にいてもなかなか無いだろう。
「む? この近くに花などあったかな……風向きが変わったのか」
「風流ですな」
 黄蓋と趙雲が、いい肴が出来たと喜んでいる。しかし、彼女らの隣で孫策の顔色が紙のように白くなり、彼女は何かを恐れるような顔をして剣を握った。
「雪蓮……どうしたの」
 彼女の緊張が伝わったのだろう、周瑜も腰に手を回しながら身構える。趙雲、黄蓋も雅だ何だと言っていた口元に緊張を漂わせて腰を上げた。黄蓋はともかく、趙雲は寸鉄さえ身につけていないので素手で構えたが、酒に酔っている上にそれではあまり当てには出来ないだろう。
「敵襲ですかな。不覚ながら気配は感じ取れませんが」
 酒は抜けていないが、それに溺れてもいない。しっかりとした口調で辺りの気配を探るが見つけられない。それでも杞憂と笑わないのは戦場に身を置く女として当たり前の心構えだ。
「わからない……だけど、この花の香りが……ものすごく恐ろしい。何か、途方もない、危険が近付いている……すごく、感じるわ」
 口にする事さえも恐ろしいような、そんな顔を見せる彼女に周瑜と黄蓋は戦慄を隠し得ない顔をした。孫策がやたらと勝ち気なのは俺でも分かる。そんな彼女が率直に“恐ろしい”と言い切った事が何を意味するのか正確に理解したのだろう。
「それも……いつもの“勘”という奴か」
「ええ、ものすごくびりびりするのよね。背筋が凍るみたい」
 彼女の緊張が伝わったのだろう、理解していない趙雲も含めて完全に戦闘態勢に移行する。体内のチャクラを回転させながら、俺もとっくに立ち上がっていた。
 テントの向こう側に、間違いなく何かがいる。この香りを伝えてきた危険な何かがいるのだと理屈抜きで確信したからだ。
「あちゃあ……」
 と、緊張した空気を弛緩させるような事を言ったのはゼムリアだった。何だろうか、しまったという顔をしている。
「……もしや……心当たりがあるのか?」
 黄蓋の台詞に、気まずそうにうなずいた。
「いや、俺らと爺さんの争いに乱入してきた奴がいるんだよ。爺さんは俺達にけしかけたかったみたいで、そいつの縄張りに誘導されたんだが、間抜けな事に爺さんの方が狙われてな……今更追いかけてくるとは思わなかった。爺さん食われたのかね」
 騏鬼翁め、策に溺れたらしい。ざまあみろと思いながらも背筋が凍る。どうやら、この向こう側には騏鬼翁と四つに組み合える何かがいるらしい。
「花の香りを連れてくるとは、随分雅な敵だが……どんな奴で?」
「一瞬だったが、人と同じ五体をしていた。ただ、顔のところから何かが伸びていた。たぶん、あれは牙だと思う。獅子の鬣のような髪は赤かった」
 ……狼男ならぬ獅子男のような物を想像したが、心当たりは無い。だが、いずれにしても迎え撃つより他には無いだろう。
 何も恐れる事は無い、ここには俺よりも強い超人が二人もいる。大体、彼らを追ってきた敵を彼らに任せておかしい道理は無いのだ。
「何処へ行く」
「ちょっと酒を抜きに行ってきます」
 念を全身に行き渡らせる。ドクトル・ファウスタスの治療を受けて既に体調は万全とお墨付きだ。
 全身に戦意をみなぎらせて、表へと向かう。これは映画だと俺の首なんかがテントに転がり込む、噛ませ犬のポジションだなと笑う。
 笑ったおかげで、下がりたくて仕方が無い足が前に出た。
「待ちたまえ、我々を追ってきた敵だ」
「騏鬼翁とあなた方を引き合わせたのは俺です」
 足は止めない。ただ借りを返せると、腹の底からファイトを湧かせて胸を張る。背中を丸めて戦いに出たら、ろくな結果は出やしないものだろう。
 後ろから、二人が付いてきてくれるのが分かる。何も言わずに付いてきてくれている、それがどうしようも無く誇らしい。
 一歩だけ踏み出す。さて何者が襲いかかってくるか、あるいは術の洗礼かと身構えた目の前に広がるのは、正に花満開の林だった。もちろん、陣地を林の真ん中に引いたなんて事は無い。先ほど、ゼムリアと乾杯しようとしたその時は林どころか雑草がそこかしこに生えているだけだった。
「なんの花かな」
「桃だな」 
 遮る物がなくなった時、酒など一瞬で消え去るほどに濃厚な花の香りが俺を囲んだ。確かに桃だった。
「夜桜ならぬ、夜桃か。これはこれで風流だよ」
 その中に潜んでいるのは、ここに俺達を招いたのは何者か。
 答えは、闇の中でも鮮やかな花弁の嵐の奥にいた。
 それの顔は青かった。
 それは赤い目を三つ持っていた。
 それは人のような身体に襤褸を纏っている。
 それは鮮やかな紅の唇を持ち、上顎から地面に向かって伸びている牙が鉤のように曲がっていた。その外側から生えている下顎の牙は象のように外側に弧を描いている。
 それは人間のような鼻を持ち、獅子のような赤毛の鬣を生やしている。
 それは花の中で舞い踊っている。恐ろしくも、美しい舞だった。花の嵐に飲み込まれて見えなくなってから初めて、自分が見とれている事に気が付いた。
 俺は、そいつを知っている。
 実際に見た事は無いが、知識としてだけそいつの事を知っている。
「花扇跳鬼……」
 妖姫その人でさえ欺いたと言われる、伝説の鬼。
 桜の下には人の死体が埋められていると言う。そして、桃の木の下には魂を食う鬼がいるという。
 あの爺……とんでもないのを使おうとした物だ。この国にいたのか、それともあいつの創った箱庭の住人なのか。
「わしは花の中を舞うのが好きじゃ」
 そいつは、俺の言葉に応えるように笑った。
「仲間の嫌う桃の花はとくによい。村の奴らも総出で花見に来る。わしの腹を満たしにな。舞を舞えば腹が減る」
 そいつは、桃の美しい花さえも霞むように舞い始めた。
 吐く息は時に熱を帯び、踊る足は水面を渡るかのようだ。美しいと言う事は出来ない人獣の身でありながらも、その舞は俺を魅了しつつある。


 見るがよい 見るがよい
 見るためにだけ見るがよい 考えてはならぬ 見るがよい
 わしがどこから来たか どこへ行くのか 見るがよい おまえも そこからやって来た

 花嵐の奥からそんな声が聞こえてきた。
 舞い踊る姿は、なるほど美しいのだろう。事実、俺達の横を惚けた顔した四人の女が木偶人形のようなぎこちない動きでふらふらとすり抜けていく。
 魅了されたのだ。
 あっけないほどに完全に、完璧に。
 顔を見れば、魂の呪縛は死んでも解放されないのではないかと疑うほどだ。
 彼がいなければ、正に思う通りになっていたに違いない、ドクトル・ファウスタス。彼の叩いた、たった一つの拍手が響き渡り精神を直撃された女達は足を止めた。
「さすが」
「お見事です」
 俺とゼムリア、剣士二人が賞賛する中で彼はこの程度は些事だと言わんばかりに眉一つも動かさない。
「あの舞に心惹かれない君たちも見事だ。ゼムリアは目を閉じているからわかるとして、君は舞を見ているのにどうしてそれにかからないのだ?」
 “新宿”の刑事は全員、始めて見る妖物の弱点を一目で直感的に悟ると言う。
 同じように邂逅の一瞬で、花扇跳鬼がどういう妖物であるのかを見抜いたのはゼムリアの磨き抜かれた直感の故か。敵を前に目を瞑るという暴挙を行う判断力と精神力は、正に恐るべし。
「もっと美しい者を三人も頭に思い浮かべているからですよ」 
 俺の場合は凄そうに見えるが、実際にはそうでもない。知識のおかげで敵の正体を悟った俺は“新宿”で多用していた魅了対抗術を使ったのである。
 黒白の魔人と、魔王の座を争ったもう一人の糸使いの顔を思い浮かべたのだ。一度見れば脳から離れない三人だけに、この対処法で敗れなかった魅了術は無い。
 難点は、思い浮かべすぎたら改めて魅了される事だ。
 妖姫の顔を思い浮かべなかったのは、もちろん魅了されすぎるからだ。あの淫蕩さの固まりを生死のかかった状況で思い浮かべたら、股ぐらを膨らませたまま死ぬだろう。
「ま、あの舞よりも美しいものはどこかにいるという事です」 
 得意げに笑う俺はさぞかし腹立たしかっただろう、花弁の向こう側から花扇跳鬼が疾風のように襲いかかってくる。
 その動きは正に疾風だが、捉えられない動きじゃ無い。
「舐めるな、化け物が!」
 叫び様、一閃を振るったのは黄蓋だった。弓が専門と言っていたが伸びのあるいい一撃だ。彼女の剣は見事に花扇跳鬼の首筋を切り裂きそのまま喉まで進んで止まった。
 やったと思ったのだろう、黄蓋の顔が勝利の喜びに輝く。しかし、そうは問屋が卸さなかった。
「ぬ、抜けん!?」
 彼女の剣は花扇跳鬼の首に突き刺さり、黄蓋が押しても引いても動かないようだった。まるで、最初からその形で作られたかのように花扇跳鬼は剣と一体になっている。
「かつて、幾百人もの豪傑がわしを狩ろうと押し寄せてきた事があった。だが、成し得た物は一人もおらん。全てわしの腹に収まった。理由はこれよ」
 花扇跳鬼がまるで人間のように語る。妖物というよりもまるで人間のようだ。だからこそおぞましい。
「離せ、離さんか」 
 おぞましさに怯む乙女のように、あるいはそれしか知らないように握った剣を引っこ抜こうとするが、無防備なまでに力をこめてもびくともしない。その姿を鬼は面白そうに見物している。
「わしの肉にくいこめば、剣だろうと槍だろうと全て捉えられる。捉えてしまえば二度と動かん。百人で引いても押しても同じ事だ。後は食べるだけよ」
 人と変わらぬ五指を備えた手が女の肩を掴もうとしたが、空ぶった。彼女の肩を引いたのは俺だ。
「お前が食われるか? よいだろう、女に比べて肉は硬いが量はある。それに貴様……どうやら格が高いな。おお、そう言う人間はただの人よりもとても美味い。お前と、後ろの二人の男はことさらに格が高いぞ。柔らかい女の肉もいいが、お前達の肉は格別よ」
 黄蓋を放り出した俺は、剣を生やしたままの異形の前に立つ。鉄を身体に食い込ませたまま平気の平左、恐れ入る。それは俺の仁王も同じだろうか。
「食われるつもりは無い。これ以上、誰かを食わせるつもりも無い」
 威勢よく叫び、飛びかかる。同じ事よと笑う花扇跳鬼であるが、俺がその身体を斬るのではなく、突くのでも無く、掴んだ時にその余裕は崩れた。
「き、貴様!?」
「いぃやぁっ!」
 直接掴むには、さすがにためらいがある。だがこいつには身に纏った襤褸があった。その汚れきった妖物の一張羅を破れないように掴んで投げると悲鳴が上がった。
 対妖物用柔拳法、如来活殺。
 相手が鬼であるだけ、ジルガよりもよく効くだろう。
「剣は駄目、槍も駄目。きっと弓矢も同じだろう。だが、投げはどうだ」
 言いながら今度は頭から落とす。相手は未知の妖物、例え如来活殺の技と言えども簡単に滅ぼせるわけが無い。
 何よりも、相手を呑んでいる今こそが初手にして最大の好機。今を逃せば勝ち目は無いと、俺は左腕の肘関節をとってひねりあげる。
 取り押さえるようなつもりは無い、即座にへし折る。花扇跳鬼の悲鳴が響くが、もしや不発になるかと思っていただけに逆に不思議に思う。
 剣で刺して、肉が粘土のように変化して刃を捉えるのなら関節技も骨肉全てを粘土にして逃れるかと思ったのだが……もしや体質では無く術の類であるのか。
 確か中国には刃を無効化する術があるが、棒で打ち据えるなら問題は無いと聞いた。同じようなそれがこの鬼にもかかっていると考えるなら納得がいく。
「があっ!」
 闇雲に暴れて、逃れる花扇跳鬼だが左の腕は肩と肘がへし折られてぶらりと垂れ下がっている。だが、他に何をしてくるか分からないような相手だ、油断など何一つとして出来るわけもない。
 しかし、こいつに最も効果があるのは一体何だろうか。仮にこのまま柔道よろしく投げと関節だけで追い詰めていこうにも対応される恐れはある。かといって、突きや蹴りだと剣同様の扱いを受ける可能性もある。
 となれば……
「しいっ!」
 蹴りを出す。万が一食い込んだとしても、靴を代償に逃げればいいと思って繰り出した蹴りは、しかし鮮やかにかわされた。
 その動きはまさに華麗なる舞そのもの。舞は武に通ずの言葉通りに次に打ち込んだ蹴りも、その後に打ち込んだ蹴りもかわされる。
「わしの舞は、人の目を惑わせる。しかして、惑わされぬ豪傑も中にはいた。己の目を布で覆った剣士がいた。己の目を呪符で隠した術士もいた。だが、その誰もがわしを捕らえられぬ。目が見えないからでは無い、わしの舞は人の武で捉えられる物では無いからだ」
「舐めるな」
 得意げに笑う花扇跳鬼。嫌らしい笑い声を一太刀で両断し、その顔……特に、牙をめがけて後ろ蹴りを打ち込んだ。
「ぎぐあっ!?」
「当たったな」
 へし折るところまではいかなかったが、むき出しの牙を蹴ったんだ。無駄にでかい分痛さもでかいだろうが。
 ざまあみろと笑う俺に、花扇跳鬼は驚きを通り越して信じがたいという顔をする。
「何故だ、なぜわしに当てる事が出来る。先ほどまでかすりもしなかった貴様が!」
「お前よりも上手い舞を思い出しただけだ」
 思いきり虚仮にしてやるのは痛快だ。
 一度だけ手合わせしてもらった武術……伝統の日舞の中に隠された神を殺す為の技、荒神の前に敗れ去った経験が今ここで生きる。
「いくぜ」 
 突き刺すような前蹴りに仁王抜きで精一杯の念と力をこめて、如来活殺の技法で繰り出せば、花扇跳鬼の腹に鈍い音を立ててめり込む。
 そのまま、前のめりになった花扇跳鬼の元に大きく踏み込んで同じ場所に肘を、人間で言うところの金的に膝を同時に打ち込む。
「お前の牙、つかみやすいわ」
 こちらを掴もうとする腕を押さえ込んで逆に俺が突き出した牙をつかみ取る。こいつの弱点は、武器に大した備えはあっても素手の備えが無い事だ。大方、妖物の力と速さに付いていける人間がいないおかげで怠ってきたのだろうが……
「悪いな、世の中にはお前ら専門の技があるんだ」
 掴んだ牙ごと首をひねりあげると、ごきりという音と共に骨の砕ける感触が伝わってくる。こいつにも砕ける骨があったか。
 手を離すと断末魔もあげずに地べたに倒れた花扇跳鬼の口からから血が流れた。それは桃の花弁が敷詰められた大地を汚して拡がる。花扇跳鬼の流した血、それも本物を見る事が出来るとは思わなかった。
 金属音がする。見てみると、抜け落ちた黄蓋の剣が転がっている。
「……終わった」
 口に出して確認する。どうやら花扇跳鬼が死ぬと剣は外れるようだ。となれば、刃が食い込んでしまうと取れないのは生まれ持った体質では無く何らかの術であるのか。
「……はあ……まったくなんて夜だよ」
 口では愚痴を言いながらも、実はこれ以上無いほどに爽快さを感じている。何しろ、彼らと別れてからずっと歯痛のように気になっていた借りを返す事が出来たのだ。
 最高の気分だ。
「借りが出来たな」
「返したんですよ」
「やっぱり、そう言うつもりだったのか」
「……」
 からかうようにゼムリアが笑う。大雪の奥で義兄と一緒に雪に文句を言っていた頃を思い出す。 
「花扇跳鬼の屍か。頂いてもかまわんか?」
「どうぞどうぞ」 
 ドクトル・ファウスタスが興味深そうに屍に近付き、ゼムリアも近付いてくる。俺も、ここで万が一の事などあってはならんと注視する。
「ほう、世界が変わるか」
 二人が辿り着き、三人の男と四人の女の間に距離が開くと、まるで俺達が離れるのを待っているように桃の花が薄くなっていく。
 水に溶ける氷のように消えていく桃の花に紛れて、花扇跳鬼の屍も消えていく。そして、それだけではない。
「ふむ、彼女たちに影響は無いが私達三人は薄れていく。一体何処に連れて行かれるのかな」
「落ち着いて言っている場合じゃ無いでしょ!?」
 ドクトル・ファウスタスの語る通り、俺達も消えていく。冷静を通り越したような石のような言葉に孫策が叫ぶがどうにもならない。
「桃の林を戻すついでに、どこかへ連れて行かれるのか」
「だとすれば、そこにはこいつの同類がたくさんいるのか」
「あるいは……いいやたぶん、もっと恐ろしいものがいます」
 散々殺し合いをしてきたんだから、一日ぐらい休憩をくれないものかね。まあ、今はファイトで満ち溢れているから構わないさ。
「まあ、そういうわけで周瑜さん。勧誘の話はまた今度だ。俺が生きていたら……まあ、その時はよろしく」 
 待て、と誰かが言ったが俺達の意思はないんだ、待てるものじゃ無い。俺達は跡形も無くその場から消えた。目の前が真っ白くなる。
 どこへ飛ばされるのか分からないが、そこにはきっと俺の想像を超えた何か恐ろしいものがいるに違いない。
 蛇を尾にした虎、毒蛇でできた家、女を犯しながら変質させて致命傷を与えてもなお生かし続けなぶり続ける人形。絵から飛び出る兵士。
 それらを超えた尋常ならざる敵手との戦いを前に、俺は精一杯の闘志を燃やす。
 果たして、どれだけの時間が過ぎたのだろう。一瞬だったかも知れないが、もっと長いような気もした。いずれにしても、俺はいつの間にやらどこかの街にいた。
 時間は変わっていない、夜だ。
 場所は変わったが、国は変わっていないのが街並みで分かる。
「永遠に飛ばされるわけじゃ無いのか」 
「意外と善良だな」
 後ろから聞こえてくる声も変わらない、離されずにすんで結構な事だ。
「そんなわけがないだわさ。私がここに誘導してやったんだよ」
 突如増えた声に、仰天して振り返る。
「まだまだ未熟者の念法者だわね。驚いているのはアンタだけだわ」
 背後にいるのはゼムリア、そして花扇跳鬼の屍を確保しているドクトル・ファウスタス……だけではなかった。
「出たぁ!」
 彼らの背後に、杖を持った異様に太めの老婆がどってんぶうと立っている。一体いつの間に現われたのやら、全く気配を感じなかった俺は無様に悲鳴を上げた。
 例え“新宿”の危険区域で妖物に囲まれようとも悲鳴を上げない自信はあるが、それでもぎゃあと悲鳴を上げてしまうのは独特の雰囲気の為だろう。何というか、せこくてみみっちい邪悪さが満々と湛えられている感じだ。
 恐くは無いが、おっかない。何を言っているかと誰にも馬鹿にされるだろうが本人を見れば何となく分かってもらえるはずだ。
 茶色い髪と青緑の目、それはまだ人類の範疇に入っているんだが、その周りがまるで人類というカテゴリーの中にはみ出るくらいにぎゅうぎゅう詰めのぜい肉だ。具体的に言えば、限りなく球体に近い。
 思わず“新宿”最大の河馬……基、情報屋を思いだしたが白人だった、人種が違う。豚種が違うと思ったのは内緒の話だ。
「人を妖物みたいに言うとは、肝が小さいどころか随分といい度胸の坊やだねぇ。ふん、姉さんの恩人で無ければ血管の中身を安物のブランデーに変えてやったところさ」
「姉さん?」
 どん、と足を踏み鳴らすと肉が揺れるがどうして地面が揺れないのかが不思議だ。俺でもその気になれば出来るのだから、彼女であればきっと地震が起こせるだろう。
「ご婦人、一体何者かね」
 俺の醜態に笑いをこらえ切れていないゼムリアの隣で、ドクトル・ファウスタスはあくまでも殊勝に訪ねるが……なんとなく頭の中では笑っているように思えるのはひがみだろうか。
「むう、あんた面白いものを持っているわね」
 ドクトル・ファウスタスの問いを無視して、彼女の目は花扇跳鬼の屍に注がれている。
「中国伝説の鬼、花扇跳鬼。はるばる時は飛んでくるものだね、こんな珍しい物を拝めるだなんて考えてもみなかったよ。あんた、それ私にくれない?」
「せめて名乗れよ、不審人物」
 割り込んでみたが、一体彼女がどこの誰かは分かっていた。直接会った事が無くとも、これだけ特徴的な人物が分からないなど有り得ない。
 白人種で限りなく球体に近い体型、顔一杯に溢れるちんけな邪悪さ、柿色の頭巾を被り、細かい刺繍が施された上衣とスカート、手に持った木の枝そのままの杖。
 外谷と並ばれたら、どれだけ広い道でも通れなくなるだろうと理屈抜きで納得できる女は俺の想像通りに名乗った。
「あたしはトンブ。トンブ・ヌーレンブルク、あんたに救われたガレーン・ヌーレンブルクの妹だわさ」
 腹との境目を見抜く事が困難な胸を張り、意気揚々に河馬が孔雀の妹であると名乗った。



[37734] でぶとおかま
Name: 北国◆9fd8ea18 ID:280467e8
Date: 2014/03/06 16:03
 
 この話には、非常に見苦しいツーショットが出てきます。
 作中に、オリ主のせいで起こった菊地作品内の人間関係の変化があります。
 作中の外史の分析は、あくまでも脳筋な主人公がキャラクターの説明などを自己流に解釈した結果です。全く違う、騙されていたという可能性も多々あります。
 以上を踏まえて、温かい気持で読んでくださると……嬉しいです。
  





 魔界都市は、余所には無い珍しい物の宝庫だ。
 他にはないSF作家の想像力を上回る超科学がある。
 余所ではすっかり廃れた神秘の魔法が当たり前に存在し、土産物屋の棚とやくざの武器庫を埋めている。
 道を歩いて石を投げれば、ぶつかるのはサイボーグやブーステッドマンだ。
 この街で最も珍しいのは、何の異能も持たず、武器も持たず、肉体改造も施していない普通の人間である。
 そう言う街でもこれはないぞ、あんまりだと言われる人物がいる。
 こいつこそが“区民”の代表だ、と断言されつつも嫌そうな顔をされる。そんな女がぶう、といる。
 他に類をみない異常性の結晶のような“新宿”においても他にはいないと謂われ、ついにはミス“新宿”になってしまったような女だ。日本全国から選ばれた美女の中にぶう、と並んだ写真を拝まされた日にはこの世の終わりと深刻になった覚えがある。
 まさか、アレと向こうを張る女がいるとは……確かに知ってはいたが、理解はしていなかったのだなと思い知らされている俺の目の前にはよく知る魔道士の妹と主張する怪人……いや、でぶがどすこいとふんぞり返っている。
「さすがはガレーン・ヌーレンブルクの妹、まさか騏鬼翁の術を破って洛陽の隠れ家に呼び寄せられるとは思わなかったよ」
 つい先ほどの話だ。
 俺はどうにか花扇跳鬼を滅ぼしたものの、おそらくは騏鬼翁の術で作り出されたのであろう幻想で出来た桃の並木諸共にどこかに連れ去られそうになっていた。
 それを阻止したのが目の前で河馬のように鼻息を荒くしている魔道士らしい。彼女の自己申告では信用出来ないが、ドクトル・ファウスタスが確かに断定した。
 それが彼女……名前をトンブ・ヌーレンブルクという老婆である。彼女が主張するには、ガレーン・ヌーレンブルクと言う馴染みの魔道士の妹であるらしい。
 嘘にしか思えないが本当の事なのだからびっくりだ。俺も予備知識が無ければ信じなかったと断言する。
 ともあれ、我こそは孔雀の妹であるぞと宣言した河馬は俺達を騏鬼翁の転移術から救い出して洛陽の地……それも俺の隠れ家の前に転移させたのだ。一体どうやって隠れ家を見つけたのかを魔道の徒に問うのは無粋だろう。
 その後、彼女の自己紹介に面食らった俺を余所にゼムリアとドクトル・ファウスタスは騏鬼翁を追いかけると言っていずこへともなく消えていった。
 その後ろ姿が妙にそそくさとしているように見えたのは、花扇跳鬼の屍という貴重な標本資料を横取りされそうになったドクトル・ファウスタスのせいではなく、なんだか妙に気に入られたゼムリアのせいだろう。
 手を握られて熱烈に地獄に一緒に行かないか、とっておきの淫夢を見ようと口説きにかかる彼女に生返事を繰り返しながらもどこか引きつっているゼムリアを眺めてにやにやしていると、奇妙に落ち着いた気分になった。
 その後、どうにか逃げ出したゼムリアを見送ってから実はすぐ側にあった隠れ家に俺達は腰を落ち着けて今に到るのだ。
「それで、なんで漢にいるんだ? さっきの口ぶりだと、時を超えたとか言っていたし……俺を姉さんの恩人と言っていたな」
「そのままだわさ。偽者か回し者を気にしているみたいだけど、あんた駆け引きがてんで駄目そうだからバレバレだわさ」
 人を馬鹿にする顔がこれほど腹のたつ奴も珍し……くもなかった。
「お察しの通り、あたしゃ二千年先からあんたを追いかけてきたのさ。最も、どっかおかしい二千年前だけど……まあ、それは置いとく。追いかけてきた理由は他でも無い。あんたには姉さんが世話になったしね、死んだならともかく生きているんなら命の貸しは返そうだなんて言い出したのさ。魔道を操る身としては堕落だね、姉さんも。こりゃ、チェコ第一位の魔道士も返上さ」
 あたしの時代だね、ぬははと笑う近所迷惑を余所に呆然としていた。
「……まさか……帰れるのか?」
「その為にここに来ただわさ」
 さらりと言うが、正に青天の霹靂だ。俺が帰れる? あの世界に……
 牛頭鬼の顔が思い浮かぶ。俺は罰としてここに来たはずだ。それはどうなる?
「何をぼうっとしているんだい、帰りたくないわけじゃ無いだろ」
「もちろんだ」
 この世界に思い入れなんぞ、別に無い。たまたま三ヶ月ばかり迷い込んだだけの世界に何の思い入れも無い。帰れるのであれば帰りたくてたまらない。
 だが、たった一つだけ気がかりがある。
「なら、劉貴さえ倒せばまた“新宿”に帰れるのか」
「はぁ?」
 つい口走った一言に、トンブがすっとんきょうな声をあげる。
「何を言っているんだい、あんた。まさか、劉貴達とやるっていうのかい!?」
 冗談じゃ無いよ、と俺を一呑みに出来そうな大口を開ける。
「ああ、知っているのか」 
「あたしがいつからこの国にいると思っているんだい。二ヶ月もあったんだ、あんな目立つ連中、しかもこの国には他に術士の一人もいないとなればあんたの居場所もあいつらの居場所も三日で分かるわさ」
 そんなに前から来ているのか……で、何で今まで会わなかったのか。
「この国はやたらめったらおかしい。魔道士の目からしてもいびつで出鱈目なのさ。まるで、箱庭みたいだ。それを調べていたんだよ、協力者にも会えたからね」
「協力者?」
 ついでにいろいろせしめてやったわさ、と懐というか腹の段差から瓶を一つ引っ張り出して自慢しようとする。何かの貴重品かも知れないが、興味は無い。
「それよりも、まずは状況をはっきりさせて整理したいんだが……俺がいなくなってからは何がどうなったんだ? 戦力になりそうなあんたがここにいるって事は、もしかして妖姫達は滅んだのか?」
 むう、と不満げに唸るが素直に瓶を仕舞った。魔道士ではない俺に自慢しても仕方が無いと悟ったのだろう。
「まあ、いいだわさ。まず結論から言えば妖姫達はもういない。騏鬼翁を除いて全員滅んで、あの爺さんは船に乗ってどっかに行ったわさ。姉さんもベイ将軍とか言うのが滅んだから無事だし、夜香も裏切り直したし、こっちの死人はゼロだわさ。あ、そう言えば“長老”ってのがあたしの来る前に滅んだっけ?」
 さらりと抜かす。
 その通り、夜香の祖父は妖姫に滅ぼされている。知識のある俺が危険を語り、どうにか警備を厳重にしてもらったおかげで一度は妖姫を退けたのだが、三日後には別の場所で同じ結果になってしまった。
 その時、俺はたった三日しか稼げなかった事に落ち込んだものである。
 ちなみに、味方だった夜香は俺のおかげで三日も生きながらえたと言ったが、変節漢になってからは祖父の死にこれっぽっちの痛みも感じていないくせに俺を罵倒してくれやがった。
 愚か者扱いをした祖父の死をわざわざ俺を虚仮にする材料にした事に腹はたったが、斬りかかっても空から降ってくる気砲と鏢に為す術無く敗れ去るばかりだったのは、つくづく苦い思い出である。よく考えなくとも、ベイを滅ぼすまでの俺はせいぜいせつらの腹にとどまる気を少し癒やすのが限度の賑やかし扱いだった。
「で、事が収まった後でドクターがあんたを連れ戻すって言い出したのさ。妖姫の腕に貫かれたあんたはそのまま誰かの手でどこかに消えてしまった。ほとんど死んでいたようなものだけど、はっきりと確認されていないからね。あの白い医師にしてみれば患者をかっさらわれたのと変わらないんだと」
 命の恩人だからって、姉さんもそれに乗っかったわさと笑うトンブだが、俺にしてみりゃとてもそんな気にはならん。攫われた患者当人だけど、恐すぎるわ。
「しかも、見たところあんた完治しているみたいだし、自分の患者を勝手に治されたらあのドクターがどんな顔をするやら……いんや、あれかい。まさかあんた、黄泉がえりを果たしたのかい!?」
 ますます恐ろしい事を楽しそうに言ってくれる邪悪なでぶが、俺を食いそうな顔をしてつかみかかってくる。もちろん逃げるが、ほっといたら絞め殺されるか食い殺されるかしそうだ。
「ううん、確かに黄泉がえりだね。こんな真似をドクター・メフィストの患者にするとは、こりゃあ、あんた帰ったら大変な目にあいそうだ」
 腕組みをして唸る……腕を組めるのかと驚いたが……トンブだが、すぐに欲望に満ちた目をぶつけてくる。
「死者蘇生だなんて魔道士の目から見ても大変な技術さ。その被験者が目の前にいるとなると……お金になりそうだね」
 にんまりと笑うでぶが何を考えているのかは大体察しが付く。俺を使って秘法を手にし、売りさばくか自分で使うか、金を儲けようって言うんだろう。
「俺に手を出そうとするなら肉屋に売るぞ」
 100g当、大体……いや、gは使えないか。何貫と何匁……
「うるさいだわさ! 言われなくても、姉さんの恩人で魔界医師の患者に手を出すほどお馬鹿じゃ無いよ」
 目先の欲にはとても弱いと思う。
「んで? 続きは」
 心持ち距離をとる。部屋の出入り口くらいまで。
「後は姉さんとドクターで私をここに送り込んで、こっちからあんたを見つけたと合図すれば終わり……だったんだけど、ちょっと話が複雑になっただわさ」
「……複雑? 妖姫達のせいか?」
「もっと大本の話だわさ」
 あいつらの大本なんぞ、想像もしたくない。
「夏の国でも関係しているのか?」
「この世界が創られた世界だって言うのが問題だわさ」 
 さらりと、とんでもない事を言う。
「なんだい、そりゃ。この世界が誰かの創った箱庭だって言うのか」
 連想したのは壺中の天だ。ここが一応漢である以上、当然と言えば当然だろう。
「少し違うけど、似たようなもの。外史って聞いた事ある?」
「がいし? 害史、街史、外史……外の歴史か? 確か……個人が書いた公式じゃない歴史の事だっけ」
 つくづく思うが、日本語の達者な婆さんだ。
「一般的にはそう言う意味だけど、今回はちょっと違う。歴史から外れているって意味だわさ。パラレルワールドって言って分かる?」
「……なんとなく、言いたい事が分かってきた」
 漢を名乗りながら日本語が通じる事。
 文化的に滅茶苦茶な事。
 英傑として歴史に名を残した様々な人物が女性である事。
 そして、特別な武具を持っているわけでも心身を改造しているわけでも、あるいは特別な武術を身につけているわけでもないのにサイボーグ並の身体能力を一部の人間だけが身につけている事。
 おかしいおかしいと思いながらも流してきたが、その秘密に彼女は辿り着いていたらしい。チェコ第二位の魔道士、面目躍如か。
 俺も彼女の一言で、何を言いたいのかは大体察した。
 だが、それでも。
「この世界は、一人の人間が呪具の力で作り出したそいつの為の箱庭なんだわさ」
 ……邪悪な顔一杯に悪気を湛えて口走ったこの答えはまるっきり予想外だった。



「……今、とんでもない事を言ってなかったか?」
 この婆さんは、この世界が偽物だと言った。
 箱庭ってのがどんな物なのかは分からない、だがつまりは……
「この世界は、人形の街だって事かよ」
 街を歩けば、子供がいる。
 どこかで夕餉を作る女がいる。
 汗を流して働く男がいる。
 それが全部偽物だって言うのか?
「その辺がよく分からないんだわさ」
 何か、胸の奥でとても大切な物が泥に塗れたような形容しがたい喪失感が生まれたが、トンブは俺の葛藤なんぞ知ったこっちゃねぇと首をかしげる。
「あ?」
 思わず仁王を抜きたくなるようなひどい肩すかしだ。
「さっき、協力者って言ったけれど、そいつに聞いた話だわさ。だからといって、そんな話を鵜呑みにしていたら魔道士なんてつとまらないわさ」
 疑り深い借金取りみたいな顔をしているが、言っている事はもっともだ。協力者とやらが何者かは知らないが、鵜呑みは馬鹿の芸だろう。
「大体、言っている事がめちゃくちゃだわさ。呪具の一つで儀式も無く素人が世界を作るとか魔道を虚仮にするのも大概にするもんさ」
「素人? 結構細かいところまで聞いているんだな」
 言っている事は尤もであり、同時に的外れでもある。尋常ならざる綿密さが求められつつも、時としてつまらない偶然で何が起きてもおかしくないのが魔道であるからだ。
「それで、結局の所はどうなんだ? 回りくどいのは勘弁だよ、この世界はなんなのか、一体何が問題でどうすれば頭痛の種は無くなるって言うんだ?」
「私が今考えている可能性は二つ。一つは協力者が言ったように、本当にどっかの素人の小僧が道具の力で新しい世界を作った。それも、聞いたところによるとまるきり偶然で無意識を反映させた結果がこの世界らしいよ」
 犯人に当たりは付いているのか。素人の小僧、ね………よくもこんな滅茶苦茶な世界を作った物だ。尊敬するべき先人達を全員女にするとか、どんな馬鹿だ。
「つまり、あれか。その小僧とやらがよっぽど脳内桃色だったから、尊敬するべき先達が軒並み女になっていると?」
「その辺は実際に術を見てみないとわからないけど、たぶんそうだわ」
 げへへへ、と笑っているトンブの脳内は一致何が映し出されているのか。いっその事、この婆さんをその桃色小僧にけしかけてやろうか。
「……次の可能性は?」
「たぶん、こっちの方があんた好みの回答だと思うわさ。その呪具……鏡らしいけどね、それが望んだ世界の扉を開く鍵である場合。つまり、ここは呪具が導いたその小僧の望んだ理想の世界だって事だわさ。きっと大ざっぱで表面的な欲望に反応したんだろう。発情期のまっただ中らしいからねぇ」
 一体何を想像しているのか聞きたくもない顔をして口走る。思春期の間違いじゃ無いのかと言いたくもあるが、こんな世界を求めていると言う話がフカシで無ければ発情期の方が正しそうだ。
「確かに、そっちの方が好みだな。自分がどっかの盛った阿呆の妄想に閉じ込められているなんてあんまりだ。唇の夢にしても下品で軟弱が過ぎるぜ」
 李江の生意気な顔が思い浮かぶ。
 あれがどっかの誰かが妄想で作った人形だって? 悪い冗談にも程がある。
 まあ、深くは考えるまい。どちらにせよトンブの推測に過ぎないのだから蓋を開ければ全く違う話だったなんて可能性は大いにある。
「まあ、それはこの際どうでもいい。それよりもこの世界がおかしいって問題はなんなんだ?」
「この辺は専門知識だからあんたに言っても分からないだろうけど、要するに魔法が上手く働かないんだわさ。法則が違うのよ。時間を超えるのと同時に世界を超えなけりゃならない相当の術だから、きちんと調べて調整するにもかなり手間だね」
 全くとんでもない世界に来たもんだわさ、と愚痴るが確かにその辺は俺には分からない話だ。しかし、愚痴を言いながらもあまり怒っていない……それどころかどこかわくわくしているようにさえ見える。
「なんでそんなに楽しそうなんだ?」
「あんたには関係ないだわさ」
 そっけない。
 普通だったら、ああそうかいですませるんだが……この邪悪そうなでぶは放置しておいたら悪事を働きそうだ。せこくて即物的な奴。
「……ああ、そうか」
 そう言えば、さっき何か自慢しようとしていたな。
「な、なんだい」
「この世界の物を持ち帰って一儲けする気か」
 魔道士的な見地から法則が違う世界の物品は、一体どういう価値を示すのか。きっと、持っていくところに持っていけば巨万の富を産むぞと皮算用をしているに違いない。あるいは、向こうでは失われた美術品や貴重品なんかもくすねていく気か。
「さささ、さあ? なんの話かね」
 李江とどっちがわかりやすいんだ?
「まあ、その辺はどうでもいいけど……おかしな危険物とか持ち帰ろうとするなよ、そういうのを漁ってばっかりいて帰れなくなったとか言うなよ」
「うう、うるさいね、この小僧は! 未熟者のくせにぎゃあぎゃあ言うんじゃないよ。金も払わないくせに」
 俺が黙ったのは飛んできた唾をさけるのに必死だったからだ。妖物の強酸液よりも必死に避けた。
「ふん、余計な事ばかり言っても肝心の事は聞いてこないね。気にならないわけじゃないだろうに」
 トンブがものすごくいやらしい顔をする。人肉を食っている真っ最中の豚鬼のような顔だ。こちらが格下で、何をやっても大丈夫だと踏んだ上で何か嫌がらせをしてやろうという顔だ。
 この根性悪め。
「妖姫に血を吸われた女性の事か」
「ふん、とぼけるんじゃないよ。あの女の事なんて、会った事も無いんじゃないかい?」
 なんだか嫌そうに言う。仲が悪いのか?
「あたしゃが言っているのは、ほれ。あんたがドクター・メフィストに預けた女さ」
「…………」
 くそ、愉快そうな顔をしやがって。
「あの女がどうなったのか、それが真っ先に聞きたい事のはずだよ? 南風ひとみって言ったっけか、妖魔に……」
 黙ったのは俺が目の前に仁王を突きつけたからだ。
「黙らなければどうなるのか……もちろんわかるだろう?」
 凄む俺に何を見たのか、ふてぶてしさの見本のような悪人面がまるでヤクザの前に突き出された不良少年のように大人しくなる。
「ふ、ふん。女の事に目の色かえて、あの色気たっぷりのにやられたのかね。一緒にいたもう一人が可哀想だよ」
「どっちともそう言う関係じゃない」
 黒く長い髪、宝石のように輝く黒い瞳が脳裏をよぎる。ある事件の際に、当時性悪の面倒を見ていたあいつに代わり、俺が助けてしまった女を思い出す。
 予備知識のせいで焦りはしたものの、女の目で俺とあいつを並べれば月とすっぽんだとは自覚している。特に財力の差が大きいのだが、腹立つけれど彼女が興味を示しそうな男性的魅力の部分も差がある。
 だから、たまたま助けたのが俺だとしても何も変わらないだろうな……と安心しつつも内心残念がっていたのだが……彼女の恩義に報いようという意思は俺の想像を超えていた。 
 いつの間にやら着いてきた彼女にどうした物かと困り果てるも、若い女を側に置いておく訳にもいかず、海では無くても都会よりマシだろうと一度大雪の養父の元へと預けたのだが……義兄と婚約者殿も含めて妙に仲良くなったのには参った。
 何か勘違いした男達に甲斐性無しめと小突かれてしまい、これはいかん、とあらゆる方面に才気溢れる彼女を、どこかのトレジャーハンターに倣ってニューヨークのスクールにでも送ろうと考えていたのだが……
 ノアの巨人のがめていた宝物庫からかっぱらった宝石の換金に手間取っている矢先に妖魔がらみの事件が起こり、それどころではなくなった俺は魂まで妖魔に犯された南風さんを彼女もいる工藤の家に預けたのだ。
 その際に俺の頼みと言う事で、一番積極的になってくれたのが彼女だ。元々、信頼される事に関しては他に類を見ない男二人に彼女の傷を刺激しない同性の女性二人。さらにその内三人は相当の武闘派とくれば、彼女を預けるのにこれ以上の所はない。
 だからこそ俺は安心して妖魔を相手に剣を振るい、“新宿”で妖姫達を追いかける事が出来たのだ。
「……南風さんがどうなったのか知っているのか」
「そりゃ知っているさ。今はメフィスト病院に入院している。姉さんも協力して、身体は治りつつあるよ」 
 自分の耳に届いたそれが信じられなかったのは、トンブの人間性の為ではなく内容があまりにも喜ばしすぎるからだ。
「本当か」
「こんな嘘をつくように見えるかい?」
 見える。
 むしろ、正直さと誠実さこそが見当たらん。
 言い切ろうかとも思ったが、臍を曲げられると厄介なので黙っておく。はて、この女に臍はあるのだろうか。
 なんだかとても恐ろしいものを想像しそうになり、慌ててイメージを追い払う。
「チェコ第一位の魔道士を舐めるんじゃ無いよ。魔法大国チェコ第一位って事は世界一位って事なんだからね。そこに魔界医師も加われば、そりゃあ恐いものなしさ」
 自分の姉をメインに出してくるのは姉妹愛なのか? 似合わない。
 しかし、おかげで嘘をついているわけでは無いのが分かった。飛び上がって喜びたくなるのは自制したのだが、みっともないとか照れくさいとかじゃ無い。ぬか喜びをしたくなかったからだ。
「身体は……ってのが気になる言い回しだな。心は一体どうなった」
 口にはしながらも、こちらについてはあまり心配していない。あの四人に囲まれ、あの医師の治療を受けている。彼女の傷を癒やせなかったのは俺であり、彼等であれば何も問題は無いだろうと思っている。
「それが問題だわさ。彼女の心を癒やせる人間はいないってわけじゃ無い。見舞いに来たあんたの家族と会ったけれど、姉さんはおろか戸山の吸血鬼も魔界医師も秋せつらさえも気に入っている風だったよ。魔界医師は男限定だったけどね。あの二人に育てられたんなら、あんたみたいなつまらない小僧が一端になろうって背伸びをしているも分かる話だ。あれで国の金勘定をして生きている男だなんて、なんの冗談だい?」
 大きなお世話だと言い返すが、彼等が褒められているのが誇らしい事は認める。
「あの人達がいれば、彼女の傷だって癒される。そう思って預けたんだ。そこに魔界医師が加われば、大丈夫なのは当然だ。ましてや、ガレーン・ヌーレンブルクと人形娘の駄目押しが来て、なんの問題があるんだ」
 せつらが入っていないのは、本人含めて妥当だというだと言うだろう。あの黒衣の魔人に出来ない事があるとすれば、人を癒す事じゃ無いのか?
 人形娘が聞けばそれは違うと蹴飛ばされそうな意見を胸に抱く俺の耳に、存在自体が奇跡のような魔道士がするりと声を忍ばせる。
「あんたがいない。それが問題だよ」
「…………」
「聞こえない振りをしたって駄目さ。事情は本人の口から皆が聞いているよ、あの女はあんたに随分ひどい事をしたって後悔している。それが治療に支障をきたすほどにね」
 俺を罵る姿が脳裏に浮かぶ。
 彼女は俺を恐れ、俺を罵り、俺を蔑み、俺を憎んだ。
 世界中の男という男を憎み、俺もまたその一人でしかなかった。俺を信じられずに逃亡した先で多くの男を誘惑し、そして殺した。
 追いかける俺と他の男の区別も付かずに誘惑し、抱いた際に念を流し込んで正気に返させるまでどれほど殺したのか。
 正気に返った彼女が訴えた呪いの言葉は耳から離れない。
 最初から身体が目当てなんだろう、忠告を聞かなかった自分たちがひどい目に遭ってさぞかし面白いだろう、恋人が死んだのはお前のせいだ、本当は自分たちをけしかける為に話を持ってきたんだろう。
 そんな内容を、ルポライターの面目躍如と言わんばかりに多様な語彙でバリエーション豊かに、無念と憎悪の感情たっぷりに並べ立ててくる。
 俺を憎み罵る事で正気をたもっているとは百も承知だが、それに心が切り裂かれないほど強くは無ければ、誰かに愚痴を言えるほど弱くも無かった。
「自分を壊した妖魔と、召喚した魔道士を滅ぼした。まあ、随分と人の手は借りたみたいだけどね。特にあの漫才師みたいなお兄さんとか。自分を救う医者を吸血鬼から戻す為に戦った。まあ、挙げ句の果てに問題の劉貴じゃ無くて、ベイを滅ぼす為に死んだのは間抜けだけどね。姉さん救われたあたしとしちゃ、大助かりだけど。自分を助け出して住む場所と頼りになる保護者まで見繕ってくれた挙げ句、そこまでしてくれたんだ。そんな男に罵声を浴びせただけって言うのはさすがに良心が咎めたらしいよ」
 まあ、の後がいちいち余計だ。
「余裕が出来たおかげだろうね、周りに目を向ける事も出来るようになったのさ。で、あんたの事が気になってきた」 
 そうであってほしいと浅ましく願っていたのは事実だ。助けたはずの相手から疎まれ、罵られるのは心が痛む。しかし、ただでさえ女々しい願いである上に助けきれなかった俺に何を言う資格もない。
「巻き込まれたと言うよりも、余計な首を突っ込んだのは自分たちさ。それで何が起きても自業自得。少なくとも、忠告してくれたあんたは悪くない。そう思えるだけの余裕を取り戻しちまうと、途端に入院している事も居候している事も落ち着かない。用意してくれたのは全部あんただからね。ましてや、あんたは戦い続けてとうとう死んじまったとなればなおさらさ。せめて死体だけでもと思っていたのが生き返っていたのは驚いたよ」
 何も言わない俺の顔を、でぶはどんな難解な魔術よりも理解不能な珍獣の生態を観察するような目で見る。
「一体何だって、縁もゆかりも無い男女にこれだけ肩入れするんだい? 女だけなら惚れたのなんのとわかりやすい理由はあるもんだが、あんたは間に合わなかったにせよ男も救おうとした。確かに二人してひどい目に遭ったかも知れないけど、そんな連中は世界中にいくらでもいるモンさ。特にあの街なら見慣れた物だろう。ことさらあの二人だけ救おうとしていた特別扱いの理由が分からないんだよ」
 なんの思い入れがあるのさ、と言われても答えようがない。
 ただ、知ってしまったからには放ってはおけない。説得ができず、一度失敗してしまったのであればなおの事だ。
 本当にそれだけと言ってしまえばそれだけなのだ。
「阿呆だね」
「それもそうだな」
 馬鹿にされてしまうが、今回に限り腹がたたずに納得できてしまう。惚れた腫れたの話の方があるいは健全かも知れないくらいだからだ。
 ただ、引いてしまえば腰抜けのふぬけになってしまう以上、うつむかずに生きていくなら突っ張るしか無い。
「……あんたが予知かなんかで未来を知ったってのは、顔を見ればすぐにわかる。あんたみたいな間抜けには、先を知るって言うのもいい事じゃないね。出来もしない事ばかりやる羽目になって貧乏くじを引いてばかりだ。もう少し賢く生きたらどうだい」
 二重の意味で驚いた。
 さすがは一流の魔道士と言う事か、よもや俺が予備知識を持っていると悟るとは、他にも気が付いてながら黙っているような誰かがいるのだろうか。チェコ第一位の魔道士と魔界医師は確実に気が付いてそうだ。
 だが、その程度の事ではあまり驚かない。占いや予知の類は元々彼女ら魔道の徒の専売特許と言えるのだから、気が付かれるのも当然と言えば当然だ。
 むしろ、彼女の声に俺への気遣いがある方が驚いた。
 金も力もない男にそんな気遣いをみせるなどあり得ないと言い切れるからこそ後が恐いのだが……一体どんな神秘の秘法を使われたのか、俺はそれを素直に受け取った。
「ありがとう」
「はっ! よしておくれよ、こんな事で礼なんて言われた日には魔王に顔向けできなくなっちまう。まったく、つまらない事を言う物じゃ無いね。とにかくそれで、彼女はドクターに願ったのさ。どこぞに消えたあんたを呼び戻して欲しい、せめて死体だけでも確認したいとね。一言も責めない、そのそぶりさえ見せないあんたの家族とも仲良くなった以上、なおさらそうしなけりゃ気が済まなくなったんだろうさ。ドクターにしても、頼んだ相手は患者で捜す相手も患者、断る理由なんて一つも無い」
 むしろ恐いくらいに乗り気だったよ、とのたまう。患者を攫われたドクターなんて、想像したくない。よく見れば、ぶよついた皮のような腕にも鳥肌がたっているような気がする。
「で、本当なら人捜し屋の出番なんだろうが……あんたは連れ去られたと言っても明らかに神秘の力で連れられていったしね。人捜し屋よりも私らの出番だよ。まあ、元々あのせんべい屋が別の仕事で出払っていたからだけど」
 俺がどこに行ったとしても、それにどんな力が関与しているとしても、人捜しならあの男だろう。彼女がここに来たのも苦肉の策に違いない。苦しそうな肉……ぴったりじゃないか。
「むう、なんだかとても不愉快だったわさ」
 悪魔のように勘がいい。
「状況を整理しよう。つまり、あんたは南風さんの依頼を受けたドクターとガレーン・ヌーレンブルクさんに頼まれて、ダメ元で俺を連れ戻しに来た。けれども、この世界がどっかの誰かが呪具の力を使って作ったのか開通させたのか……ともかく、何かにつけておかしな世界であるせいで帰還の魔術の行使に手間取っている」 
 この時点で俺に出来る事は待つ以外には何もない。魔術なんぞ門外漢であり、目の前には人格は能力と比例する物では無いと言う証明である高位魔道士がいるからだ。
「まあ、そう言う事だわね。時間さえかければどうにでもなる事だとは思うけど、この国は今荒れているから、時間がどれだけあるかはわからない。何しろ、妖姫がいるからいつ国ごと吸血地獄になってもおかしくは無いわさ」 
 ……となれば、俺のやる事は一つ。
「なら、俺は時間稼ぎに妖姫一行……劉貴と戦い続ければいい。そういう事だな」
「はあっ!?」
 赤ん坊くらいなら丸呑みできそうな大口を開けたトンブが俺に噛みついてきた。一応は比喩表現だ。
「ちょ、ちょ、ちょ! あんた、何を言っているんだい! まさか本気であいつらと勝負するって言うのかい」
 そこはかとなくユーモラスな顔をするトンブだが、中身は相当に切羽詰まっている。それはそうだろう。彼女にしてみれば、ようやっと終わった悪夢が目の前にいるのだから。
「妖姫と俺がもう会っている事には気が付いてるだろ」
 首かどうか分からない位になっているそれを縦に動かす彼女だが、冗談じゃ無いよと叫び出しそうだ。
「その時に勝負をした。ここを劉貴の暴れる為の舞台にするから、阻止してみせろ、それまで自分たちは手を出さないってな」
「馬鹿言うんじゃないよ、どこの世界にそんな約束信じる奴がいる!? まかり間違って本当だったとしても、あんたがそれにつき合う理由がどこにあるんだい!」
「まあ、騏鬼翁にきっちり襲撃されたからもう既に大嘘なんだけどな」
 劉貴は騏鬼翁を許すまいが、姫はどうでもいいと許すかも知れない。そうなれば劉貴大将軍の誇りが踏みにじられてお終いだ。
「ただ、少なくとも女達は出てこないと思う。秀蘭は劉貴の誇りを重んじて、力を信じている。ついでに俺を虚仮にしている。敵うわけ無いと思っているだろうな。妖姫は……この国には興味が無いとさ。となると、当面の相手は騏鬼翁と劉貴になるが、その内の騏鬼翁はさっきの二人に手を出して逆襲されている。向こうも俺より二人を気にしているから、やりあうのは劉貴一人の可能性が高い」
 最も、女二人はいつどんな気まぐれで首を突っ込んでくるか分からないけどな。
「だから、どうしてそこであんたがやり合う必要が出てくる!?  狙われているのはこの国だろう。この国に腰を据えるわけじゃあるまいに、しばらく隠れてさっさと帰っちまえばいいんだよ」
 トンブが正しい。
 全面的にそうなのだと認める。
 さっきまで俺は、この世界で生きていくのだからと思っていたからこそ劉貴達と戦う覚悟を決めたのだ。この新しい世界を吸血鬼に蹂躙されてなるものかと思ったからこそ仁王を握った。
 その大前提が崩れてしまえば、剣を振り下ろす理由も無くなろうという物だ。
「いずれにしても、俺は狙われるさ。一度やり合った奴を見逃すような連中じゃ無いだろう。騏鬼翁と秀蘭には一矢報いちまったからな、なぶり抜いた上でバラバラにして薬の材料だなんて言われたよ。隠れようが逃げようが、それこそ“新宿”にまで追いかけてくるぞ」 
 一度滅ぼした吸血鬼が、時を超えて甦る。それはそれで“新宿”らしい。
「ふん、あいつらがそんなに根気を持つわけないだろう。大体、そこまであんたに執着するとは思えないね、一山いくらのへぼ剣士のくせに」
 こんにゃろうと思うが、確かに妖姫が俺に執着するなど思えないし、彼女の一言があれば騏鬼翁や秀蘭も俺に構う事もあるまい。要するに、俺は簡単に捨てられたおもちゃになれるわけだ。箱の奥に転がっていた飽きたおもちゃがどこに行ったとしても気にする子供はいないだろう。
 ボロボロに壊れるまで使われたおもちゃは幸せだというおとぎ話もあるが、俺は願い下げだ。
「いいかい、あんたは秋せつらじゃ無いんだよ。あいつらに対抗する力も無ければ、あいつらに執着される大凶星でも妖姫に惚れられた色男でも無い。ただの男なんだ。待っている女がいるんだから、そこに帰るんだよ。死んだと思った男が実は生きていた、今なら大喜びで迎えてもらえる。帰っても置き場のない身を持て余す帰還者が大勢いる中で、いい話じゃ無いか。台無しにするんじゃ無いよ」
 それも正しい。
 彼女が待っている。
 懐かしい人達が待っている。彼らなら、こんな俺を待ってくれている。
 そして、もしも帰れなければ悲しんでくれるだろう。
 もしも帰れなければ、彼女の傷は癒えるのはたいそう遅くなるに違いない。
 異邦人の俺に、偽物かも知れない世界で命を張る理由がどこになる。大体にして、狙われているのがこの世界なら、この世界の住人がどうにかするのが筋だ。昨日の夜、俺は公孫賛と趙雲に向かってはっきりとそう言った。
 トンブが正しい。
 例え誰に笑われようと、罵られようと、俺は人知れず隠れ潜んで逃げるべきだ。それが正しい。
 俺と剣を交えた孫策が死のうが、俺に剣を貸した黄蓋が血を吸われようが、胸の病が癒えたのだと喜んでいた周瑜が吸血鬼になろうが、俺には関係が無い。
 趙雲の軽口が無くなろうとも気にはならないし、たかだか自分の治めている土地に住んでいると言うだけの孤児に必死になっている公孫賛を惜しいとも思わない。
「俺は逃げられん。あいつら……劉貴とは決着をつけてから帰る」
 いつの間にか口走っていた。
 しまったと思うが、吐いた唾を呑む気には何故だかなれなかった。トンブが正しく、俺が間違えていると言うのに、なんてこった。
「な、なななな何を言っているんだい、おふざけじゃ無いよ!」
 風船のように飛び上がり、砲丸のように着地した。どうすればこの体格と体重で飛び上がれるのだろう。足が折れないのが不思議でしょうが無い。
「なんだいなんだい、決着だ!? まさか男の意地だのとかなんの特にもならない世迷い言抜かすんじゃないだろうね。なんであたしがそんなアホな話につき合って、あんな危ない連中ともう一度向き合わなけりゃならないんだい!」
「あんたはどっかに隠れていればいい。元々調べ物があるんだからそうしなけりゃならないだろう。やるのは俺だけだ」 
「だから、あんたを連れて帰らなけりゃならないんだっつうの! 死体を持って帰ったところで、いつ死んだのかはあの二人には見破られちまうわさ!」 
 どんな目に遭わされるか、とぶるぶる震えるでぶはその内、雪崩のように崩れてくるんじゃないだろうか。もしもそうなったら全力で逃げよう。
「俺が死ぬのを前提で考えるなよ、劉貴は魔界都市で出会った時よりも二千年分経験が浅いんだ。その分俺が有利だよ」
「自分でも信じていない事を言うもんじゃないだわさ。大体、ゼロはどこまでいってもゼロでしか無いんだよ!」
 どつき回したくはなるものの、ここでそんな真似をすれば臍を曲げるどころか殺しあいだ。
「……勝ち目がゼロだろうがフィフティ・フィフティだろうが逃げられなければ変わりやしない。知ったこっちゃ無いってそっぽを向いていたって、連中の目は誤魔化し切れやしない。飽きられる前に見付かって、逃げ切る前に殺されるさ。だったら立ち向かうだけだ」 
 騏鬼翁がその気になれば、俺を見つける事なんてどうとでもなるだろうと強弁するも、それが通じるトンブでは無い。己の術ならば千年先までだって隠れてみせると豪語する。
 魔術が上手く行使できないって言っているのに、それができるのかと言えば分野が違うと切り替えされる。専門的な知識を元に語られてしまえば、俺にはぐうの音もでない。
「……うげ」
「ん?」
 一体どうしたものかと角を突き合わせながら悩んでいると、トンブが奇声を上げておかしな顔をする。元々おかしな顔ではあるが、苦虫を噛み潰したような、その上で飲み込んでしまったような顔なのだ。
 何事かと聞くより先に分かった。
 誰かが近付いている。
 直感に従って横を見ると、出入り口はもちろん窓さえ無い部屋の片隅に、人影が霞のように現われた。影になっていて分かりづらいが、筋骨隆々とした男であるとは分かる。
「それは約束が違うわよ、トンブちゃ~ん」
 やたらと低くて男らしい声が、事もあろうかとトンブをちゃん付けで呼ぶ。神をも恐れぬとはこう言う振る舞いの事か。いや、それ以前に口調が蒟蒻のようになよなよしているせいで薄気味悪い。なまじ男らしい声なのでなおの事だ。
「あんたかい」 
「……誰だ?」
 口調以外にも真っ当では無いと言う事は登場の仕方で分かった。油断ならない相手ではあるようだが、ただ油断ならないだけでは無いようにも思えた。
「あっら~……まあまあいい男ねぇ。ご主人様には及ばないけど」
 そう言って、声の主はのっそりと一歩踏み出す。出入り口から隙間さすささやかな月光も、闇稽古でならした俺には充分な光量だ。
 ようやく容貌がはっきりと分かるが、確かに男だ。筋骨隆々、ボディビルダーの見本のような体格をした男、ただし半裸である。と言うか、いくら屋内とは言えブーメランパンツを通り越したきわどいピンクパンツ一丁で堂々と立っているのだから恐るべし。
 頭頂部は禿げていると言うよりもそり上げて、何故だかもみあげを小さく三つ編みにしている。弁髪モドキとでも言うのか。
 この時点で既に妖物と同列の扱いをしても構わないような気がするが、顎髭を生やして妙に女臭いなよなよした動作と口調を披露されてしまうと二の句も告げられん。 
「ご主人? ……天の御遣いの関係者か。あんたがトンブ叔母さんの言うところの協力者か?」
 冷静に応対できたのは我ながらよくやったと言える。
 俺は“新宿”で人間の精神をこねくり回すような外見の妖物を相手にしてきたおかげで平静と出来たが、こういうキャラクターは“歌舞伎町”にもなかなかいないのでは無いだろうか。センスと羞恥心が人間離れをしている。ひょっとすれば、妖物離れだってしているかも知れない。
「あぁら、よくわかったわねぇ」
 こんなのにご主人様なんて呼ばれている男は、なかなかいるまい。
「あんたそれ、決めつけだわさ」
 横からでぶが口を挟んでくるが、この二人に並ばれると視覚的に厳しい。
「うるさいな、それよりもこの男は何者だ。さっき言っていた協力者なんだろうけど……そもそも何を協力してもらったんだよ」
 せめて片方に絞ろうと、目線はトンブに向ける。もちろん隙を見せるようなつもりは無いが、視覚から精神にダメージを与えられては戦うにも困難だ。
「男だなんて言わないで! 漢女と呼んで!」
「もしかして、さっきから言っていた呪具の持ち主か?」
 乙女などと口が裂けても呼んでやるつもりは無い。
「いい勘してるわね、確かにその通りだわ。こいつ、問題の呪具……銅鏡だそうだけどそれの管理者、の一人なのよ」
「銅鏡……?」
 視線を管理者に戻す。男は目を向けるとまるで恥じらうように身をくねらせる。ここで射殺しても法に触れないような気さえする。
「そう、私の名前は貂蝉。踊り子として世を忍ぶ外史の管理者……それがこの私よん」
 どこかで聞いたような名前に、足下の床に罅が入ったような気がした。
 語尾にハートマークをつけそうな口調で喋る男など、存在していいわけが無い。事と次第によっては切り捨てる事も考えておくべきだろう。
「貂蝉……? 三国でも有名な架空の女性だったと思うが……?」
「それよりも、踊り子として需要があるかを問うべきだわさ」
 美女などと死んでも語りたくは無い。踊り子としては、男性ストリップあたりで需要があるんじゃ無いのか? 驚異の色物として。
「で、その外史の管理者とはそもそもなんだ? トンブ叔母さんの約束ってのは? 俺に何をさせたい」
 矢継ぎ早に疑問をぶつけてみるが、概ね察しはついている。しかし外史、そして銅鏡の管理者にご主人様と呼ばれているのであれば、問題の色ぼけな使用者はやっぱり天の御遣いである訳か。
 あからさまな異物だから多分そうだろうと思ってはいたが、やっぱりか。それにしても当初考えていた黒幕はこいつになるのか?
 ……それらしくない。もっと大物がいそうな気がするのは穿ちすぎか。
「せっかちねぇ」
 長々見ていたいと思うわけ無いだろう。
「まあいいわ、外史っていうのはとどのつまりパラレルワールドの事。それは聞いているわよね」
「あんたがどこまで本当の事言っているのか、わかったもんじゃ無いけどね」
 でぶが混ぜっ返すと、オカマがポージングをしながら食えない笑みを浮かべる。なんという悪夢のような世界か。
「私はその管理者としてこの世界を見守る仕事があるんだけれど、残念ながら今はこの世界で私の力が及ばないようなとても恐ろしい事が起こりつつあるの。トンブちゃんにはそれを解決してもらう約束で協力していたのよね」
 きっとがっぽり報酬を取ったのだろう。それを踏み倒してとんずらする気でいたのか、このでぶは。
「恐ろしい事?」 
 この怪人の見た目よりも恐ろしい事など、おいそれとはないだろう。心当たりは一つだけだ。
「あなたはもう出会っているわよ」
 あの四人、か。
「あの四人はどこからともなく船でやって来たわ。夏の、どうしようも無く暑い日だった。あなたやご主人様が現われるよりも前にね」
 ……? 今、おかしな事を言わなかったか?
 ちらりとトンブを見てみると、彼女は黙りなと目で脅してきた。
「現われてからしばらくは人を攫って殺しては血を呑んできたようだけれど、国そのものが散々だから誰も気にはしていなかったのよ。仲間を増やそうとはしないで、全部殺してきたしね。おかげで連中の存在が気づかれる事も無かったけれども、吸血鬼がそこら中に溢れるなんて事も無かったわ。けれども、放置しておけなくなった」
 仲間では無く下僕だ。
「とうとう本腰を入れてきたからな。表だって動いているのは劉貴だけだが、それでも充分すぎる」
「あの四人が本気になってしまえば、誰も敵わない。この世界は吸血鬼に蹂躙されるだけの箱庭に成り下がる。違うかしら?」
「今の時点でも、天の御遣いの為の箱庭だろう」
 す、と目を細めた。自分の中に強い念が自然と生まれていくのが分かる。
「お前の言うご主人……その天の御遣いが望んだように作られた世界がここだというのであれば、それはこの世界の住人にとっては冗談にもならない悪夢だな。例え彼らが胡蝶の夢だとしても残酷すぎる。演出しているのがお前だと言うんなら……大悪人だ」
 一体この世界はなんだ。一人の小僧が面白おかしく遊ぶ為に作られた箱庭か。そんな世界の住人達に、あえて心を与えたというのか。ゲームの駒に敢えて心を与えたと言うんであれば、それはあんまり非道が過ぎる。
「そんな事はどうでもいいだわさ」 
 俺達の間に割り込んできたトンブが両手を広げる。ミットのような掌に視界を遮られると、二人とも隠れてしまった。
「それよりも、あんな連中を外史から追い払えなんて無茶が過ぎる注文だわさ。話が違うんだから、契約だってご破算だわさ!」
「そぉんな、あんまりよ。一流の魔道士だって言っていたじゃない! 吸血鬼の一匹や二匹、ぱぱっとやっつけちゃってよ」
 ……相手の力量を読めていないのか? 吸血鬼と一口に言っても千差万別だってぇの。
「一流だろうとなんだろうと、どっかの小僧の遊び場整備の為に死線をくぐるだなんて真っ平だわさ。おもちゃ遊びしている間にとんずらこくのが一番よ。あんただって、結局大事なのは一人だけなんだからとっとと小僧の首根っこだけ掴んで新しい外史に逃げればいいだわさ」
「そんなにぽんぽん外史を増やせるわけないでしょお!?」
 血も涙も無いセリフに思えるが、よく考えてみれば真っ当だ。この世界が天の御遣いが楽しく遊ぶ為の舞台に過ぎないのだとすれば、そんな物の為に命を張るのは馬鹿馬鹿しいにも程がある。
 やるんなら、あいつかお前がやれよと言いたくなるのは真っ当な反応だろう。
「何よ! だったら貴方が持っていったこの世界の美術品や宝石、耳を揃えて返しなさいよ、この世界を超える手伝いだってしてやらないわよ、違約金も払ってもらうからね!」
「ぬう!」
 ……まあ……そんな事だろうと思ったよ。
 トンブが何やら雄大すぎる胸の前で印を組み、何を考えているのか貂蝉とやらはボディビルのポージングをする。何ともみっともないファイトに頭を抱え、いっその事逃げ出したくなる。隠れ家の予備は目をつけてあるから、いっそ消し飛んでも構わない。
「そこまで」
 さすがにそうもいかず、仁王を抜いて、双方の間に突きつける。
「とどのつまり、お前さんはあいつらをこの世界から追い出したいんだな? 話をトンブ叔母さんに報酬前払いで持ちかけたが、相手が思ったよりも大物だったんで踏み倒されそうになっていると、そういう事でOK?」
 トンブがむ、と唸る。こうやって冷静に並べられると、さすがに落ち着かないようだ。
「その通りよん」
 我が意を得たりとうなずく貂蝉だが、俺にはこいつが天の御遣いに都合よく世の中を動かそうとするゲームマスターのように思えてきて虫が好かない事この上ない。世界をおもちゃにしている奴が世界を救おうとしているからと言って、好意的になんてなれる物か。
「そっちはそっちで、相手を教えていなかったのか? どちらにせよ、ひどい話さ」
 俺はふんと鼻を鳴らすとそれぞれに目を向けた。どっちも引こうとしない顔をしていやがる。
「トンブの依頼は俺が受ける」
「あら?」
「むう」
「あの四人、俺が相手をする。元々、いくら姉と魔界医師の頼みだからって言ってもただでそこまでしてもらうのは気が引ける。ちょうどいい役割分担だろ」
 何言っているかと噛みついてくるトンブを余所に、貂蝉の方がナイスアイディアと喜んでいる。目の奥にそこはかとなく狡い光が宿っているのは、俺の気のせいで無ければ、俺が出ればトンブも出ざるを得ないと踏んでいるからかも知れない。
「その間に、トンブ叔母さんは天の御遣いに張り付いていればいいさ」
「はぁ?」
 こいつは何を言っているんだと言う顔をしたが、一瞬の内に変わったのは貂蝉の顔を見たからだろう。嫌がらせは鼻が利くとわかっているのは、どっかの誰かとよく似ているからだ。
「ちょっと、どうしてそうなるのよ!?」 
 女口調で喋るな、気色悪い。
「さっきから聞いてりゃ、この世界の基点は銅鏡と天の御遣い、北郷なんだろう? だったら帰る為にはあいつを調べるのが物の道理だ。ついでに、妖姫から護衛してやればいい。お手の物だろう、チェコの大魔道士」
「もちろんさ!」
 大いにうなずく姿は堂々としている。いざとなったら人質にしたれとでも考えているに違いない。そんな内心を透かして見ているかのように、貂蝉の顔色が悪くなる。
「そそそそ、そんな事をしなくたって私が手伝えば安全で確実に帰れるわよぅ!」
「おだまり! 他人の褌で相撲を取ったとあっちゃあ姉さんになんて言われるか知れた物じゃ無いね。大体、向こうに帰る為に伸ばされる手はチェコ第一位の魔道士と魔界医師の合作だよ。あんた手に負えるのかい!? 負えるなんて言っても信じないけどね」 
 よくそんな日本語を知っている物だ。褌という言葉よりもまわしの方がよく似合うと思ったが“区民”ならきっと分かってくれるだろう。
「時に、聞きたい事がある」 
 天の御遣いの側に俺達、あるいはトンブ個人を近づけたくないと右往左往する貂蝉だが、気にかけるつもりは無い。
「ゼムリアと、そしてドクトル・ファウスタス。この二人に出会った。他にもいるのか? 俺達みたいな来訪者が。あるいは……これから増える可能性はあるのか」
 どう言いくるめようかと悩んでいたらしい貂蝉の動きが止まった。
「何でそう思ったの」
「一組は自力で入り込んだイレギュラー。もう一人が正規の侵入者……いや、招待客か。そして、あんたの予期しない乱入者が俺だ」
 管理者というこいつだが、それなら管理させている誰かがいるのか? あるいは、同じような管理者は複数人いるのか。
「だが、あの二人組は明らかに別に現われた口だ。俺も含めて、三組の侵入者……四人目、五組目がいてもおかしくはないと思っているよ」
「…………こっちが知りたいわよ」
 嘘つけ、と言う目を向ける俺達に、貂蝉はあくまでも静かに冷静にため息をついた。
「嘘は無いわ。何かおかしいのよ。何かがおかしい。私にも何がおかしいのかさえ分からないくらいにね。あんたらも気が付いたはずよ。さっきの矛盾……ご主人様が現われる前からあいつらは現われた……ここが銅鏡の作り出した世界なら、そんな事は無いのに」
 銅鏡の作り出した世界という物を俺は知らない。
 貂蝉が本当の事を言っているのかも分からない。本当の事を言っていると思いながらも騙されている可能性だってあると思っている。
 ただ、一つ思いついた事がある。
 銅鏡の作り出した世界なんて無いんじゃ無いのか?
 あったとしても、ここはそれじゃない……こいつは間違えているか嘘をついている。そう思ったのは俺の願望が混ざっているだろう。
「そっちの事情は知らん、俺が知りたいのは今後乱入者が現われる可能性はあるのか、と言う事だ。世界の管理者を自称するなら、せめて侵入者がいるのかいないのかは分かるんじゃないか」
「……今のところはこれ以上いないわ。これから増えるかどうかはわからないけれど、可能性は正直あると思う」
 実はいるのを隠してみました、引き受けた後ですぐさま新しいのが出てきたと大嘘つくつもりです……なんて事がないように祈ろう。
「妖姫みたいなのが来るのは勘弁だが、味方になってくれそうな強者が現われればいいんだがな」
 ただ、はっきりさせておきたいのは現われる来訪者の人選基準だ。どうして、こうも魔界都市に関係がある、あるいはありそうな連中ばかりが現われる。自力で俺を追い掛けてきた、目の前の史上最大の力士になれそうなチェコ第二位はともかくとして、他の連中は俺も含めてどこか同じような臭いがしている。
 ……まさか、俺が呼び水になっている訳じゃないだろうな。
 ぞっとしない想像に背筋が寒くなるが……いいや、逆かもしれない。少なくとも、先の貂蝉の言を信じるなら俺よりも先にあの四人が現われたのだ。
 俺もまた、彼らが現われたからこそ導かれた、そう考えた方が正しいのかも知れない。
「なんにせよ、俺達は話を受ける。妖姫達は俺が受け持つから、あんたはトンブ叔母さんに協力して帰り道を作ってもらいたい」
「他にもブツを忘れるんじゃ無いよ」
 強欲丸出しの横やりが入るが、俺達は共に無視した。関わるとろくな事にならない。
「どっちも了解よ。ところで……本当にご主人様の所に来るのぉ?」
「当然だわさ。話に聞いたかぎりじゃ結構な色ぼけらしいからね。このトンブさんが面倒見てやるよ」
 はじめて同情した。
「冗談じゃ無いわよぉ、ご主人様は私のだぁりんになってもらうのよ!」
 もっと同情した。
 そのまま二人で、黙れオカマ、なんだとでぶめ、と醜い罵りあいが始まったので貂蝉には早々にお引き取り願った。トンブがうりゃあと蹴飛ばしそうになったのを止めたが、つくづく見苦しい争いだ。夢に出たらどうしてくれる。
「……で、あのオカマの言っていた事はどこまで当てになりそうだ?」
「言っている事はいちいちおかしい上に、本人も何がなんだかわからなくなっているようだわさ。芝居じゃ無いと言う前提の上での話だけれどね。あたしの聞いた限りじゃ世界は天の御遣いとか呼ばせている小僧がたまたま呪具を起動させて作った物だって言うけど、本人が現われるよりも先に妖姫達が現われている。本人が銅鏡ってのを作動させてから、それだけ時間があったんならともかく、そうでないならこれは矛盾だわさ」
 その点には俺も気が付いていた。意図したのであればともかく、偶然作用させたみたいな話を聞いたのだから、そうそうタイムラグは無いんじゃ無かろうか? 素人考えに過ぎない上に、時空間を超える術には矛盾がよくあるらしいので黙っていたが……
「ひょっとすると、妖姫の妖気の影響か、それとも騏鬼翁の術のせいなのか……それとも、例の呪具その物がおかしくなっている影響なのかもしれないね」
「おかしいか……見た目がおかしすぎて、言動のどこがおかしいのかわからなくなりそうだ」
「どっちみち、あんたは私が世界を繋げるまで大人しく待っていればいいだわさ。魔道のいろはもしらない剣士のあんたに、今からこっちの理屈やからくりを教えても始まらないだわさ」
 大人しくなんてしている気は無いだろうけどね、と嫌みたらたらに抜かすトンブだが確かに大人しくは出来ない。
「肉は肉屋、それもそうだ」
「ん? なんか違わないかい」
 帰ってからことわざ辞典をひもとかない事を祈る。
「他にも気になっている事はある」
「なんだい」
「俺をここに送った奴が言っていた事だ」
 トンブの目が興味深そうにぎらりと光った。
「あんたを送った奴だって? どこの誰だい」
 あの世、あるいは違うかも知れないそこで起こった事を俺は初めて他人に話した。できれば姉の方に話したかったと思ってしまったのは我ながらひどいかも知れない。
「サンズの河かい。日本人の死生観の典型だね……仕方が無い、それなら劉貴達と戦うのもありなのかね。ああ、まったくなんて面倒な話だい。倒したと思った相手にまた挑まなきゃならない。おまけに前より味方は少なくて頼りないときたもんだ」
 俺が前世持ちだろうと気にしない事は予想していた。大体、“新宿”にはそう言う奴はいくらでもいるので気にするほどでもないだろうが、やたらと思わせぶりな事を言った方が気にかかる。
「どういう意味だ?」
「あんたのここに送られた理由は、そういう事なのかも知れないって言うだけさ」
 そう言う、の部分は誤魔化し続けるつもりらしいが、聞き直すと気にするとろくな事にはならないよと言われたので黙る事にする。こういう時、引かなければ概ねろくな事にはならない。
「ところで、天の御遣いはどうするんだ? 形がどんな物であれ、この世界に影響が強い事は間違いないだろう? 例えば俺達について帰りたいとか言い出したら……」
「この世界が崩壊する可能性もあるだろうね。たった一人の選択でこの世界は壊されるのさ、たいそうな話だよ」
 随分な話だ。それ以前に、あいつは世界に多大な影響をもたらしたのだ。今更何もかも放り出してさようならはないだろう。
 まあ、未だに何もはっきりとはしていないような話だ。結論を出すのはそもそもこの世界が何であるのかも判明していない以上、早すぎる。
「んじゃあ、天の御遣いの事は頼む。何も知らないやっこさんがキーマンってのは、笑えるけどな」
「オッケー。せいぜい搾り取ってやるわさ。あんたも、せいぜい死ぬんじゃ無いよ」
 おや、と激励の言葉を耳にして驚く。ひょっとすれば術でこっちを縛り上げようとするかも知れないと秘かに警戒していたんだが、そのつもりは無いようだ。
「全く、素直に知り合いを見捨てたくない、とか白状すればまだしも可愛げがあるもんだわさ。腹の中に本音をしまって、俺かっこいい、かい? 半人前がトンブ様を前に粋がるんじゃ無いよ」
「んが」
 しらけた目でこっちを見るでぶに、ついあんぐりと口を開けてしまっていると何かを言うよりも先にトンブはとっとと背中を向けて部屋から出て行く。
 言い逃げだ、この強突く張り。




 悪い夢のような夜が明けて、数ヶ月が経った。
 俺は劉貴に敵わない自分を改めて自覚して再度トレーニングを積みつつ、戦乱終結前のように生活費稼ぎに黄巾の残党を狩りながら、劉貴の所在を求めて情報を集めていた。
 妖姫は劉貴だけが俺の相手と言ったが、あの女の誠意などはこの世のどこにもないだろう。どこでいつ、誰が襲われているとも知れないと思うと焦りは抑えきれないのだが、とにかく地道に捜すより他にはない。
 だが……この世界には人捜し屋も情報屋もいない上に“新宿”とは比較にならないくらいに広く、情報網も俺から見れば未開の地と変わらないほどだ。ちょっと調べに行くだけで往復に数日かかるような国で、たった一人……どうやって妖姫一行を捜せというのか。
 頼りになるのはトンブの占いと、十日に一度位のペースで情報を持ってくる貂蝉だが、これまでニアミスもしてはいない。“新宿”を荒らし回ったあいつらのペースを考えると既に中華の大地を吸血鬼が蹂躙していてもおかしくはないのだが、未だに一匹も巡り会う事はないのだ。
 行動しているのが本当に劉貴だけだとしても、ここまで静かなのは明らかにおかしい。いくら情報が得にくい国だとしても、噂の一つもないのは意外だ。
 なんでも、つい最近皇帝が崩御して幼い新帝が生まれたらしいが……その死にも妖姫達は関わってはいないとトンブが言い切っている。
 俺の目の届かない闇を暗躍して、秦の大将軍は何をしているのだろう。
 最悪の想像としては、既に吸血鬼に支配された街が完全に情報を統制して世間の目からも隠れているのではないのかと考えている。
 それぞれの県なり州なりの頭である太守や州牧が劉貴の支配下に置かれていれば、他の目を誤魔化すのも簡単な話なのかも知れない。
 誰かに相談したくなるが、ゼムリアとドクトル・ファウスタスにはあれ以降一度も会えていない。今もって騏鬼翁を追い掛けているのか、それとも旅を続けているのか。やられているという想像は全くないのが我ながらおかしかった。
 結局、俺が鍛錬以外はいまいち実りのない毎日を送っている間にトンブは本当に天の御遣いの元にもぐり込んだらしい。
 今現在、彼らがどこにいるのかは知らないが、本人から上手くもぐり込んだと言ってきたので放置している。平原の相になったとか聞いているが、どこの平原なのか、相ってなんだろうかと俺にはさっぱりである。
 ともかく、怪しすぎる老婆であっても受け入れられたのは幸いだ。どうも未来に帰れるぞと言う餌をちらつかせたらしいが、天の御遣い本人が帰還の妨げになっている可能性もあるのだから皮肉だ。
 それに、仮にあいつが作った世界だとすれば術士がいなくなるのはかなりまずいのではなかろうか。その辺は、トンブに任せるしかないのだが……不安だ。
 そんなこんなで過ごしていたが、ある日天の御遣いの元に身を寄せていた……押しつぶしそうになっているんじゃないだろうか……トンブから使い魔の連絡が入った。
 トンブが言うには、占いでここに魔の手が迫っているというのである。仮にもチェコ第二位の魔道士が言う事だ。天の御遣いが現われると告げた占い師のそれよりもずっと信憑性がある。
 俺に押しつけるのかと思いきや、颯爽と現われたトンブと合流した俺は洛陽の城、つまり時の皇帝のお膝元に忍び込んでいた。
 元々、妖姫が出るならきっとここだなと当たりをつけていた事もあって、言うがままに忍び込む事に抵抗はなかった。彼女の術のおかげで潜入が楽そうだったと言うこともある。
 さて、ここの貴人の血を吸いに劉貴でも現われるのかと思ったが……夕方忍び込んで、こっそりと天井裏に潜んで探りを入れながら夜まで待っても、未だに兆候が無い。
 まさか、騙したんじゃないだろうなとも疑いの気持ちがそろそろ首をもたげてくる。外したでは無く騙した、なのは本人の腕前に対する信用と、人間性に対する不信である。
 何しろトンブはこの宮殿に入り込んでからこっち、実に卑しい笑みを浮かべたままどこぞにとんずらこいているのだ。一体何をしでかしているのか、想像はついている……帰ったら姉の雷が落ちるようなことをしているだろう事は、想像に難くない。
「俺まで連座させられるのは勘弁だけどな……」
 人形娘当たりに叱られている自分を想像すると、ため息が出てくる。
「ん……?」 
 下が何やら騒がしい。
 もしや事が起こったかと構えていると、遙か下に武装した兵士達がうろついている。
「おかしいな……兵士が中を歩き回っちゃまずいんじゃ無いのか?」
 どうやら兵士達は宮殿の中を歩くことは好まれないらしく、ごく一部のエリートらしい連中を除いては外回りの見張りにつく物らしい。
 だが、中で右往左往している連中は一般兵に見える。義勇軍ほどしょぼくは無いが、それでも昼間から見ている連中よりも一段階グレードが落ちている装備だ。その上、剣を抜いている。
「何か起きたのは間違いないな」
 兵士達は見るからに戸惑いを隠せてはいない、事情が分からないがとにかく上の命令に従っていると言うところだろう。
 とどのつまり、荒事の緊急事態が起こっていると言うことだろうな。
「となると、トンブの勘が大当りかね」
 それじゃあ、こんな所でのんびりしちゃあいられない。さて、相手はどこの妖物か?
 天井裏から音もなく降り立つ。
 当然、兵士達のど真ん中に降り立つことになってしまうが、カメレオンスーツは幸いな事にまだ問題なく使えている。
 ただし、兵士達の間を縫って騒ぎの中心に向かってもばれないのは俺の技量だ。相手に認識されないままぶつからずに走るのは、これでなかなか難しい。
「……ゲスな事をしているな」
 辿り着いた俺が見たのは、三十前くらいの女が一人、なぶり者にされている光景だった。銀色の髪というこれまた非常識な容姿に加えて、まるで花魁みたいな格好をした女が、どことなくなよっとした連中の主導でよってたかって襲いかかられている。
 彼女が何者で彼らが誰か、という状況の把握は出来ていないがそれでも見過ごせる話では無い。踏み出す前になよなよしたオカマくさい連中が、こぞって嗜虐心を剥き出しにした歪みきった笑みを浮かべているので、それにも後押しされた。
 襲わせているのは、兵士達が数十人。女の方がなかなかの身ごなしの上、そもそも一人を相手に数十人が一斉にかかれるわけでも無いので、かなりの数が遊んでいる。
 後ろに控えているオカマ共は、十人前後か。どうももっと後ろで見物している連中がうようよいるようだし、兵士はきっとこの後もっと増えるだろう。
 ためらっている時間は無い。
「侵入者の俺が、こんな衆人環視の前で顔を見せるなんぞあり得ん。トンブの占った本命もまだわからない、その状況で馬鹿馬鹿しい話ではあるが……義を見て為ざるは勇なきなり……なんてのは我ながら似合わんな」
 言いながら、全力で走り出す。スプリンターのように走りながら、リンチ……いいや、公開殺人を面白そうに囃し立てながら見ている一人の肩を思いっきり踏み台にして飛び上がり、一気に跳躍する。
 体重制御、重心制御、支点と力点を操り風にも乗った俺は筋力以外の方法で正に鳥の飛翔のように跳躍する。数多くの兵士達の頭を飛び越えて、女を囲む男達の内、最も近くにいた二人を一気に蹴り飛ばした瞬間に、激しい動きに耐えられなくなったカメレオンスーツが効果を失う。むしろよく保った。
 当たり前だが、全くの想定外だったのだろう踏みつけるような蹴りを受けた二人は物も言わずに意識を飛ばした。感覚から言って、かなりのダメージを負ったとは思うが死んでいないのだから良しとする。
 命令だろうが、古代ローマのコロシアムよろしい公開殺人に参加していたのだからその程度は自業自得だ。
 そのまま体勢を整えられる前に、次々と拳と蹴りを繰り出して打ちのめす。相当の予想外なんだろう、現役の兵士とは思えない体たらくで五秒程度で二十人以上があっさりとKOできた。パンチ一発でノックアウトとか、むしろ漫画だね。
「お、おい」
「ああ」
 後ろから恐る恐ると声をかけてきたのは、細かく切り刻まれて血塗れになっている女だ。肌の露出が多いせいで怪我の具合がよく分かるが、あきらかにねちねちと嬲っていやがる。この女がどこの誰かは知らないが、味方をするとはっきり決めた。
 短慮であると言えば言え。
「何者だ? その格好……ただの市井の者じゃないだろう」
「ただの市井の者だ。余所の国の住人だがな」
 言いながら襲いかかってくる三人をいなすと、周りの味方に斬られた。
「なっ……て、てめぇ!」
「ち、違う」
 三人はそれぞれ浅く斬られて仲間に噛みつく。俺に誘導された事はもちろん分かっているだろうが、実際に斬った相手に腹を立てるのもまあ、当然だ。
 あんまり思惑通りにいった俺は、にやりと会心の笑みを浮かべる。
「阿呆共、真夏の蠅でもあるまいにたかりすぎだ。同士討ちも当たり前だぜ」
 こっちは一人、今ようやく二人しかいないのだ。
 狭いスペースに固まる二人に剣を使って四方八方から襲いかかれば、同士討ちの可能性は高い。ましてやこいつら、よってたかって女を切り刻むのが楽しいのか、それともこの女はよほどの手柄首であるのか、我も我もと勇んで集まってきていやがる。
 ちょっと誘導すれば味方同士で血を流すのは当たり前だ。
「ふっ!」
 そして、同士討ちの恐れが頭に染みこめば動きは当然ながら固くなる。そこにつけ込むのは俺にとっては容易かった。
「数は多いが、質は低くて助かったな。鍛えていないわけじゃないだろうが……生憎と弱い。お前ら、よってたかって女一人を切り刻むしか能が無いのか? みっともねぇ……男が女に群がるんだったら、せめてスケベ心で女の尻を追えよ」
 どうやら漢においてかなり上位の兵士達らしいが、弱い。
 黄巾党の兵士よりはだいぶんマシだが、未来の“区外”の軍人から見ても弱いのでは無かろうか。
 たぶんトレーニング方法も戦術も、そして身体を作る為の食事や環境も、時と場合によるかも知れないが未来よりも劣っているのだろう。勝っているのは訓練における、個人それぞれの生死をかけている事に発する必死さか。
 魔界都市において過去の技術と言えば、むしろ近代科学はもちろん“新宿”の妖気が育てた異常な科学さえも度々上回るという、人が時間の流れの中で一体何を置き去りにしてきたのかを思い知らされるような途方もないものばかりだ。
 しかし、彼らにはそれが全くない。
 本当に、当たり前の人間が当たり前に鍛えている結果としか思えない。技にも得物にも、何ら神秘の力も超科学の結晶も見つけられない。
 こんな兵士達の中に、あの孫策や関羽、張飛だのと言ったサイボーグ顔負けの女が同じ時代を生きる者として混ざっているのか。
 武将と兵士の間が、まるで生き物として根本的に違うようだ。なんて歪なんだ。
「とは言っても、さすがにこの数は厄介だな」
 はっきり言えば、多数を相手取るのは得意では無い。俺には大勢の敵を一気に倒すような技が少ない。自分に素質があるとは思っていなかったので、一人一人をしっかりと倒すように技を錬磨していった結果だ。
 例えばせつらの糸のように何十人も纏めてずんばらり、なんて真似はなかなかできない。必要な時、大抵は爆弾みたいな兵器か魔法街の御用達に頼っていたので、今は当てに出来ない。
 数がどんどん増えてくる上に場所が場所なので、あまり時間はかけられない。後ろの女の容態も気にかかる。
 さて、そろそろ尻に帆をかけてみるかと三十七計目を企てた俺の耳に、突如として獣の咆哮が届いた。
「!? ここじゃ猛獣でも飼っているのか? さすがは宮殿、阿呆な好事家が多い」
 正に轟くという表現がぴったりのそれに恐れを成したか、兵士達の動きが鈍るどころか止まっちまった。
「さすがにそんな話は聞いた事は無いが……虎の一頭や二頭、金に飽かせた悪趣味が飼っていてもおかしくはないのう」
 これは虎の声であるようだ。確かに、犬科のそれよりも猫科の咆哮であったようにも思える。
 それにしても、こんな中に虎をけしかけるつもりか? 餌食になるのはまず兵士だろう。下手をすれば、俺達は放っておかれて逃げやすくなるじゃ無いか。
 よほどの大馬鹿で無ければ、そんな真似はするまい。あるいは、こちら側に何か脅しでもかけるつもりだろうか。抵抗すればけしかけるぞ、なんて言われるのかね。
 むしろ、兵士の動きが止まるだろうその隙に逃げ出してやる。俺はその機会を見逃すまいと身構える。
 だが、事態は俺の想定などあっさりと飛び越えてくれた。
「ぎゃあああっ!」 
 遙か彼方から悲鳴が上がった。兵士達の後方から悲鳴と驚きの声が上がる。
「なんじゃ!?」 
 女が驚きの声を上げる。今の声が断末魔なんだと気が付いたのだろう。さすがに俺も同様に驚いたが、それで動きが固まるほど間抜けじゃ無い。
「世の中には随分な馬鹿もいる。いや、これは碌でなしの方か?」
 兵士の命などどうでもいいと考えた連中がいるって事かね。いずれにせよ、この女は今逃がした方がいい。血塗れのこいつこそが一番目につく……いいや、鼻につく餌だ。
「逃げるぞ」
「はあ? 取り囲まれているのにどこにじゃ」
 有無を言わさず抱きかかえると、今度は糸も使って飛び上がって兵士達の頭を越えた。助走無しで二人分の体重を支えるとなるとその方が安心できる。ちなみに女の抱き方は俵のように抱えている。
 風と共に去りぬとはいかないのが俺の限界だ。そこまで格好良く出来るわけじゃない。
「おおっ」
 てっきり仰天するかと思ったが、これで以外とそうでも無かった。もしかしたら、知り合いにこの程度の事が出来る武将でもいるのかも知れない。
 もしその予想が当たっていたとしたら……格好からして、てっきり高級妓女という奴かも知れないなと踏んでいたのだが、もしや軍の高官だったりするんだろうか。
 この国の女武将は根本的に華美で露出が多い。戦争でも甲冑を纏わずに出るとか、この国の常識に照らし合わせてもいかれているとしか思えないようなマネを普通にするような女達が並んでいる。
 花魁のような高官がいてもおかしくは無いのかも知れない。いっそ笑ってやろうか。
「ふっ」
 兵士達を超えたぎりぎりの所で着地と同時に振動は全て、すぐ真後ろにいる兵士達に送りつけた。名前も知らないジルガの妙技だ。
 ちなみに、どこぞのGGGに教わった技である。トレジャーハンターのくせに天才的な格闘技の才能、有り得ない強運まで持っているあの男は中二病真っ盛りの十四才の折に、マニラの古寺院跡の遺跡で戦った相手の技をごっそり盗んだのである。
 たった数分間でこてんぱんに伸された相手の技を、事もあろうにその数分間で自分でも意識しないうちに盗んでしまい、挙げ句の果てに相手が止めに使おうとした技を一万分の一秒の差でカウンターにして返してしまったらしい。
 得意満面で語られた日、悔しさのあまりやけ食いしたのを覚えている。
 死線をかいくぐって身につけたのは認めるが、こっちが必死になってもなかなか身につかずに悩んでいたり、散々実戦をくぐり抜けてもいまいち様にならない技を、たった数分で俺よりも高い階梯まで身につけたのだと言われた日には立つ瀬が無いにも程がある。
 天才様に教わった技を使ってやるせない気持になりつつ、その場を遁走しようとやみくもに走りだす。とりあえず、外に出てから女の身の振り方を聞いてみよう。
 そう言えば、トンブはどこいった?
「こら、待て」
 噂をすれば影か。
 一体いつの間に現われたのか、俺は魔道士のはずの女にあっさりと捕まっていた。
「あたしを置いていくんじゃ無いわよ、薄情者め。こんな所に置いていかれたらあたしが白虎の餌になっちまう」
「あんた、今まで何をして……」
 伸びきった水枕みたいな手の感触に戦きながら振り返り、絶句した。
「いや、いい。何をしていたのかよく分かった」
 トンブはどっから持ってきたのか緑色の唐草模様付き風呂敷などを背負い、その中にはごっそりと書物や調度品、あるいは金銀財宝などをため込んでいた。
 後ろで兵士達がこちらを追いかけようとしているが、理由が一つ追加された事は疑いようもないだろう。
「邪魔だよ!」
 俺の肩でトンブの異様に絶句している女を襲っていたのはともかくとして、どこに潜めていたのかが不思議なでぶを一直線に追いかけてきた何人かは、宮殿の兵士として正しいと思う。
 それがトンブの一喝でまとめて金縛りにあったのは、トンブの側に立たざるを得ない俺の目から見てもひどい話だ。 
「よもやこそ泥の類か、このでぶめ!」
「ん? なんだい。どこで引っかけたのさ、この露出狂の女」
 誰がどこからどう見ても当たり前の感想を抱き、いたって真っ当な怒りを顕わにする女だが糾弾されている当人はけろりとしている。
 あれ? これは俺もこそ泥扱いされる流れじゃ無いか?
「一つ言っておく。俺は彼女と知り合いだがこそ泥仲間ではないぞ」
「誰が信じるか! おのれ、どこの誰かは知らんが命の恩人と思っていれば……!」
 まあ、そりゃそうだ。
「うるさいよ、どっかで見た顔だと思ったけど確か何進大将軍。今は言い争っている場合じゃ無いんだ。まずいのがそこにいるからね」
 大将軍? この花魁みたいな女が?
「ええー……」 
 俺の知っている大将軍は、劉貴でありベイだ。思わず口からため息が出てくるのもわかってほしい。
「何を気の抜けた声だしているんだい、騏鬼翁の下僕がそこにいるよ」
「なにぃ?」
 とっさに彼女をトンブに押しつけると身構えた。何がその下僕かなどと、考えるまでもない。阿鼻叫喚の悲鳴と猛獣の咆哮はこちらに近付いている。ただ、恐怖の悲鳴は聞こえるが断末魔の声は無いように思える。
 やっぱり、この血塗れを追いかけてきているのだ。
「さっき、白虎って言っていたな」
「ああ、そうさ。あんたは知らないだろうけど、“新宿”で妖姫の棺を守っていた守護獣の一匹だよ。ただのでかい虎に見えるが実際にはそんな可愛いものじゃ無い。二対一とは言っても、魔界都市の申し子でさえ手を焼いたとんでもない妖獣さ」
 名前は巨らしいよ。と、得意満面情で報開示をしてくるが名前なんぞはどうでもいい。せつらが手を焼いただって? 俺を侮っていた割には随分な大盤振る舞いじゃないか、騏鬼翁め……俺が狙いじゃないとか?
「まったく、あの二人の転送を邪魔したのをよっぽど根に持っているんだね。あの陰険じじい」
「…………狙われているのはあんたか!?」
 ちょっと待て、占いはどこにいった。
「迫っているだわさ、魔の手が」
「あんたにだろう!? ここに来る意味がどこにあった? まさか、盗みに入った挙げ句ここの連中に虎を押しつけるつもりじゃないだろうな!」
 もしもそうなら、俺は知らずに悪事の片棒を担がされた間抜けになってしまう。冗談じゃ無いと噛みつくが、トンブの分厚い面の皮を貫くには到底到らない。
「偶然だよ、偶然。ここで凶事が起こるって占いには出たけど、それがあたしのだなんて事まではわからない」
「だったら背負っている荷物はなんなんだ? 厄介ごとを人に押しつけようとした挙げ句、火事場泥棒まで決め込んでるとしか見えないぞ!」
 やっぱり、あの虎はこいつを目当てに突っ込んできているんじゃ無いのか?
「さあさあ、虎が大暴れしているだわさ。あんたでなけりゃ、アレの相手は出来ないよ。こいつは私が預かっておくから、相手をしてきなよ」
「あ」 
 俺の肩からトンブの足下に下ろされた女が惚けたように尻餅をつく。どうにか立ち上がろうとはしているが、もう起き上がれないようだ。血が流れすぎだな。
「地獄に落ちろ! ていうか普通に協力を求めるとか無いのかよ!」
「そんな事をしたら懐が寂しくなるだろ。それから、地獄に落ちろだって? 魔道士なんだから当たり前だわ。天国なんぞにいっちまったらいい名折れだわよ」
 口でも勝てずに、俺は彼女らの盾になる。納得がいかない。
 最も、一呼吸すれば気持は落ち着く。何しろ相手は、せつらを手こずらせたという騏鬼翁の妖獣。浮ついてどうなるわけが無い。
「……でかいな」
 周囲の兵士を蹴散らして、咆哮と共に躍り出た白虎は大きさ、体長は目測で判断しても3メートルを上回っている。尾も必然的に長く、尾長は2メートルを数えるだろうか。総じて5メートルはある。
 最大種のシベリア虎だとしても規格外だが、白虎はベンガルトラしかいないはずだからこの一匹は正に常識外れの大物だ。
 そしてそれ以上に迫力を感じるのは、俺がこいつをただ大きいだけの虎では無いと知っているからだろう。
 夏の大妖学者が送り出した白虎、ただ大きくて獰猛なだけであるはずが無い。こいつの毛皮の下には俺の想像を超えた妖力が秘められているに違いない。
「まずは……こいつで!」 
 接近戦をいきなりかますような度胸は無い。
 訳の分からない妖物を相手にする時、俺は決まって牽制の一射を放つ。愛銃と呼べるほど使いこなせてはいないが、MPAを抜き打ちする。“新宿”刑事必須スキルである無意識の早撃ちこそ体得していないが、それでもこれだけでかい的は早々外さない。
 銃口から放たれて青い閃光は、正しく光の速さで虎の胴に穴を開ける。虎はそれを受けて、本当に怒りと苦痛の咆哮を上げながら飛び退いた。
 通じたのか。逆に最も驚く反応だ。避ける、受けとめる、あるいは払いのけようと、吸収しようとも驚きはしない。だが、当たってダメージを通すとは逆に驚く。
 この時代、銃器は無いはずだ。だからこそ通じたのか?
「だったら!」
 一回の充電で、撃てるのは六発。それ以降は二時間の充電がいるカートリッジが空になるまで撃ってやろうと、間髪入れずに引き金を引く。
 だが、今度はあっさりとかわされた。
 焦ったかと思い、距離をとってから落ち着いて引き金を絞ってもかわされる。そのまま二発撃つが、どれもあまりにもあっさりとかわされた。なんだ、なんかがおかしいぞ。
 俺の腕がへっぽこであるから、と言ってしまえばそれまでだ。だが、本当にそうなのか。それではすまない何かが目の前で起きている、そんな気がする。
 だが、考えている余裕は無い。目の前で俺への怒りと憎悪に燃える猛獣は、体毛よりも白い牙と爪を兵士達の血で赤く染めながら襲いかかってくる。
 速い。さすがは獣、人間の俺では届かないほどに速くて、鋭い。そしてなおかつ重い。
「ちぃっ!」
 だが、人間と違ってモーションはわかりやすい。おかげでもぐり込んで蹴り込む事は出来た。ジルガを始めとする、全国各地で学んできた様々な格闘技を自己流で昇華させた蹴りは、飛びかかってきた虎の柔らかい腹に深くめり込んだ。
 しかし相手は猛獣、人間の蹴りなどおいそれと通じはしない。これがただの虎なら内臓まで貫き通して一撃必殺も出来るのだが、見た目は白いだけだがやはり通常の獣とは比較にならないタフネスを備えているらしく、うめきもしない。
 これでも、そんじょそこらの妖物だったらワンパンでKOだって言うのになんて奴だ。さすがは妖姫の棺を守っているだけの事はあると言う事か。
 しかし既に剣の間合いの中に入り込んでいる以上、残る選択肢は絞めるしかあるまい。
 ご覧の通り、打撃は動物の分厚い皮膚と筋肉にはまず通じない。急所は動物ごとにがらりと異なり、そうそう見抜ける物じゃ無い。
 となると、人間が動物に素手で勝つには選択肢が二つある。
 通じない打撃を通じさせるほどの力で打ち込み、わからない急所をそれでも探り当てる、つまり、あえて困難に挑むか。
 あるいは、打撃以外の格闘術……つまり、締めや関節技、投げなどの柔の技法で戦うか。
 最も、獣の関節などそうそう決められるはずは無い。関節技は人間相手でも極めて繊細な技術であり、人間と四足歩行で行動する猛獣とでは技の入り方に至るまで違うのだ。俺の修めた古代の技には、獣や妖物相手のサブミッションもないわけじゃないが……つまり、難しすぎて俺が習得し切れていない。
 知識だけならあるけど、そもそも練習相手にも事欠くのだから天才ならざる身につくわけがないんだよ。実戦で試すほどの度胸はさすがにないしな。
「しいっ」 
 俺は虎の横をすり抜けて馬乗りになると、首を足で絞めた。腕でしがみつき、力が強く長い足で虎を絞める。真正面からいけば爪の餌食になるが故の技だが、あっさりと力任せにふりほどかれた。
「ぐはっ!」
 トンブの足下までごろごろ転がると、呆れた目に迎えられる。
「猛獣相手に格闘戦とか何を考えているんだい。あんた、剣士だろう」
「うるさいな、ここからだ」
「そう言えば、眼帯の刑事が言っていたね。切り札を出し惜しみして切り時を間違えてピンチになる事が多いって」
 初めて聞いたぞ、その批評!
「大きなお世話だ!」
 叫びながら立ち上がると、ちょうど虎が目の前に迫っている所だ。だが、大口が迫ってくるところにジャストタイミングで最後のエネルギーを蓄えた銃口は青白い不吉な光を虎に向かってはき出す。
 口から弾けるかと思ったレーザーの光を、しかし白虎はその場でするりとかわした。有り得ないタイミングだ、どうなっている。
 追撃こそなかったが、あまりにも滅茶苦茶な真似にこちらも動きが止まる。野生はその隙を見逃さず、頭からの体当たりを食らって吹き飛ばされた。くそ、内臓を鋼鉄並にしてもかなり効く。
 ごろごろと自分から二転三転し、間合いを開きながら考える。あれは獣の動きじゃない。まるで、初見であるはずの銃撃のタイミングを完全に読み切っているかのようだ。
 腕前に相当の差がある武芸の達人には、初撃を受けられてしまえばそれ以降は類似する技の全てが通じないかのように、この虎には同じ攻撃は通じないとでも言うのか。
 もしもこの思いつきが当たっているなら、相手が獣である分悪い冗談を通り越している。驚異という言葉も追いつかない。
 この仮定が当たっているのだとすれば、相手に同じ攻撃を当てるのは極めて至難。相手も当然こちらを攻撃してくる以上、試行錯誤の余地もないだろう。
 なんなんだ、この虎は。山月記でもあるまいに、武芸の達人が変じた虎だとでも言うのか。花扇跳鬼よりも恐ろしい怪物に出会っちまったのか。
 起き上がりこぼしのように立ち上がると、遠巻きにしている兵士達の中心で俺を見つめる白虎と目が合う。何も語らない獣の目を達人のそれのように思ってしまうのは、気圧されている証拠だ。
 対する手段は一つ。一撃に全てを賭けるしかない。相手がまだ見た事の無い必殺の一撃をもって、その一度で命を絶つ。他にはない。
「…………」
 決死の覚悟を決めた俺の後ろでトンブが何やらもにゃもにゃやっているが、一人で逃げ出すつもりじゃないだろうな。
 俺が負けたら即座に逃げ出すに違いない、盗んだ獲物は一つも取りこぼさずに。確信を抱き、負けてなるものかと腹を据え直す。
 見物人が周囲を囲むまるでローマのコロセウムのような状況に不快感を覚えながら、身体は静かに半身にして居合いの構えをとる。
 虎が獣の脳で武芸を、人の技をどう理解しているのかは分からないが俺はあえて目の前にいるのが人間の達人であるかのように振る舞うと決めた。だからこそ、剣を隠してこちらの狙いを読ませない。最高の一撃を繰り出す為に、体内のチャクラを回してひたすら念を練り込む。
 腰を落としたこちらの狙いは読まれているのか相手の目からは読めないが、白虎も頭を低くしてこちらに飛びかかる猛獣独特の構えをとる。だが、相手は妖物。素直に飛びかかってくるのか。
 俺の予想できない妖力を今こそ発揮してこないとも限らない。油断は禁物、しかし防御を考えて猛獣の巨体を切り裂けるか。
 不利な状況に、次から次へと不安が頭をもたげてくる。気持ちがぶれているのを自覚する。そして、この三ヶ月で精神こそが鈍っていると自覚した。
 魔界都市と言う異常な環境でこそ鍛え抜かれた胆力が、この真っ当すぎる国で弛んでいるのだ。
 劉貴という正々堂々とした武人との勝負では自覚できなかった弛みが、はっきりと足を引っ張っている。くそったれめ、腹をくくるんだよ。
 そんな俺の情けない精神の緩みを見透かしたのか、白虎が天に届かんばかりに高く飛翔した。月を背負った飛翔の躍動感には感動さえ覚える。
 そのまま、爪と牙でこちらを切り裂きに来るかと考えた正にその瞬間を狙ったかのように、突如猛烈な火炎が襲いかかってきた。
「なにぃっ!?」
 青天の霹靂と言ってしまうのは悔しいが、何か来るのは予想していたはずなのに出し抜かれた。みっともなくも大声を上げて必死になって飛びすさると、炎に続いてまさに紙一重のタイミングで虎が音もなく静かに、しかして俊敏に降りてきた。
 白虎の着地した火にあぶられている場所は石さえも溶けてガラス状になっているが、虎は平気な顔でこちらを見ている。その顔には無様に慌てふためく俺への獣なりの嘲りを確かに感じた。
 やはり、人間顔負けの知性を持っているのか。だが、それこそが命取りだ。
「ちいぃええええぇえっ!」 
 人と同様の知性を持ったからこそこちらを侮る虎に、俺はすぐさま斬りかかる。猛火のまっただ中に飛び込む事になるが、今の弛んだ俺にはそのくらいの思い切りを持つのがちょうどいい!
 一足で間合いを詰め、最高のポジションで腕を振るう。肉を打つ重たい感触が背筋を通り過ぎ、周囲を虎の悲鳴と圧倒的なまでに重たい肉が落ちる鈍い音が連続して響いた。
 それを背中で聞いた俺は、居合い斬りで振り抜いた腕に一本の木刀を握りしめている。ありったけの念をこめた仁王の一閃、会心の一撃が白虎に命中したと喝采をあげた。
 思わず拳を握ったが、ガッツポーズが一足早いとわかったのは次の瞬間である。虎は即座に起き上がったのだ。
 ダメージはあるようだが目は明らかに怒りに燃えており、元々巨大な体躯が大きくなったかのようにさえ見える。
 俺の会心の一撃は確かに命中したが、それは決して虎を滅ぼせるほどの物では無かったのだ。なんてこった。
 残心さえ忘れていた間抜けの前で白虎は体勢を整えて、再度牙を剥く。だが、俺にはもう有効な攻撃の手段がなかった。
 妖糸を始めとする様々な攻撃手段がないわけでもないが、雑魚ならともかくこの妖獣に通じるような技量じゃない。下手な技は繰り出した途端に俺の命ごと焼き尽くされるだろう。次元刀なら通じるだろうが、あれも剣の技である以上見切られる可能性は高く、何よりも自在に出せるわけじゃない。
「くそっ!」 
 悪罵は出ても、剣が出ない。剣から感じる男達の念に支えられなければ構える事さえも難しい。くそ、俺の臆病者め。
 逃げ出す算段をした方がいいかもしれないが、そもそも逃がしてくれるのかどうか。
 そんな俺の逃げ腰を察したのだろう、虎は一気呵成に襲いかかってくる。猛烈な速さの爪を仁王で受け止めて返しの一刀を振るうが、やはり絶妙の動きでかわされた。
 動きを見る限り、多少は鈍くなっているがそれを補うようにしている。まるで武芸の達人だ。“新宿”の妖物代表、人間並みの知性と凶悪さを二匹分持つ双頭犬でもここまで見事な真似は出来ないだろう。
 完全に俺の剣が見切られていると、たった一太刀で思い知らされた。
 引ける相手ではない、かといって立ち向かっても既に勝てる相手ではなくなった。絶体絶命のピンチに直面している。
 ふと、絶望的な状況に四ヶ月以上前に殺し合ったトルコの大将軍を思い出した。
「…………」 
 タイタンマンは装備している、鉄皮もぬかりはない。死ぬつもりはさらさらないが、あえて踏み込まなければ勝てない相手だ。
「我が身を捨ててこそ……浮かぶ瀬もあれ」
 誰の言葉だったのかも思い出せない全くもっていい加減な知識だが、口にするとなんとなく落ち着いた。
 正眼に仁王を構える。俺の雰囲気が変わった事を理解したのだろう虎がことさらに低く頭を下げて牙をむいた。 
「今度こそ斬る」
 俺の宣言に答えるように虎が吠え、叫び以上の速さで炎が襲いかかってくる。かわした事はもちろん向こうも想定内だろうが、その奥から飛びかかってくる事はこっちだって想定内だ。
 狙うのは一つ、相手の攻撃してくるその瞬間こそ狙ってのカウンター。押し寄せる殺意の奔流をくぐり抜け、突き出される牙をこそ狙って念をたっぷりと篭めた突きをお見舞いする。
 外れれば、まともに虎の牙を受けるだろう。そうなれば炎とのダブルパンチで俺の命などあっさりと消し炭になる。それでも、彼我の技能と実力を踏まえて考えれば俺に出来るベストの選択はこれだった。
「…………っ!」
 だが、それもあえなくかわされる。
 俺のベストだからと言って、それが通じるわけもないのだと思い知らされるほど簡単に白虎は仁王をかわしてのけた。
 まずい、俺にはここから先に出すカードがない。銃を抜くとか拳を握るとか、そんな保険をかけては剣がなまくらになるからだ。外せば終わりと言う背水の陣で剣を振るい、そして外した。
 どこにでも幾らでもある必然の終わりが、白虎の牙という形をとって目の前に現われた。逃げよう、かわそうと考える余地のないタイミングで迫る牙に何を考える時間もない。ただ、無意識の内に腕を捨てる覚悟で牙との間に挟めたのはせめてもの行幸だった。
「ウララアア!」 
 突如、奇声が上がる。
 それが何かを理解するよりも先に結果が現われる。すぐ目の前で俺の腕に牙をくい込ませようとしていた虎が、忽然と霞のように消えたのだ。
「わっはっは」
 振り向いた時にはもう、何が起こったのかわかっている。視線の先には両手で複雑な印を組んだトンブがふんぞり返って高笑いをしているのだから、察するのは簡単な話だ。
「……消し飛ばしたのか?」
「いんや、半径千キロ以内のどっかに転移させただわさ。巨が野放しになったらまずいけど、地下に転移するようにしたから安全だわさ。地下室なんてそうそうある国には思えないから、ひょっとしたら地の底でおだぶつになるかもね」
 ぐっふっふ、と笑うのは悶え苦しむ虎を想像しているからだろう。動物保護団体当たりから爆弾のプレゼントでももらいそうな顔をしているぞ、果てしない悪趣味め。
「命の恩人なんだから、礼は弾むんだろうね」
「お前を狙ったんだろうが、この強突く張り! 何があんたでなければ相手は出来ないだ、最初からこうしやがれ!」 
 一銭だって払わねぇぞと口を歪めてやる俺にトンブが噛みつくよりも先に、それまで忘れかけていた兵士達が今更のように襲いかかってきた。
「うるさいよ!」 
 しかし、金欲を燃料にして怒りを燃え上がらせるトンブがフライパンの上で弾けるソーセージのように飛び上がり着地すると、震動のせいで兵士達が軒並み腰砕けになる。
 俺と、そしてどうやら将軍と呼ばれている女も影響の外にあるが……端から見ているとトンブの見た目のせいで冗談その物の光景だ。
「はあ……あんた、将軍なんだって?」
「う、うむ」  
 兵士に囲まれてはいるものの、それでもなお手を出した方がいいと言えるほどに彼女の失血は多い。それでも弱音を吐かない女に、俺は少しばかり好意を抱きながら治療を施す。俺の学んだ武術の活法は病には大して効果がないが、整体や出血に強いのだ。
「む? 血が止まった……それに、痛みも消えたし身体も軽い? ……おぬし、一体何者だ?」
 薬も使わず身体の経絡を刺激しただけでそうなれば疑問に思うのも無理はない。ハスキーボイスで誰何してくるが、正直気にしないで欲しい。知られたくないというのもあるし、それどころじゃないというのもある。
「それよりも、これからどうする。希望がないならせめて表に連れて行くが?」
「む……」
 事情はさっぱり分からないが、権力争いという奴である可能性は高い。確か、何進大将軍と言えば宮中で宦官と権勢争いをしていたはずだ。寵姫の親族であるらしく、街角で成り上がりと陰口をたたかれていたのを覚えている。
「こんな所で一人なんだ。こんな事を言うのもなんだが……味方がいないんじゃないか? 少なくとも、すぐに助けてくれる範囲には……」
「ぬぐ」 
 ぐうの音しか出ないと言うところか。だがその時、どこかから新しい鬨の声が聞こえてきた。
「新手か?」
 目をこらせば彼方にこちらへと勇んでやってくる新たな兵士達がいる。しかし、なんというかおかしな連中だ。甲冑が金色になっている。あんな夜目にも鮮やかなど派手な甲冑を使っているのはどんな軍隊だろう。きっと末端の兵士は恥ずかしいに違いない。
「あれは……袁紹兵か!」
「ん? もしかして味方か」
「あんな甲冑を兵士に着せているのは派手好きの彼女だけじゃ」
 味方なのか迷う評価だ。
 だが少なくとも、彼女に刃を向けている兵士達の敵ではあるようだ。誰も彼もが明らかに動揺して、もう既に切り結んでいる連中もいる。
「おらおら、どけどけーっ!」
「何進将軍はどちらに!」 
 先頭を走っているのは二人の女だ。一人は大剣、一人はハンマーとなかなか個性的な武具を縦横無尽に振り回している。これまで出会った女将軍達に比べると一段落ちるが、それでも結構な腕前だ。兵士達がまさしく木っ端兵という扱いを受けている。
「味方で間違いないか?」
「うむ、あれは袁紹の……つまり、部下の腹心だ。助かったか……」
 力が抜けている。どうやら彼女をあちらに預ければ俺のお役は御免らしい。幸い向こうも彼女を見つけたようで一直線に駆けてくる。
 ホッと一息ついて、今度こそ尻に帆をかける準備をするが……はて、トンブはどこに行ったのかいつの間にか消えている。
「逃げたのか……」 
 あの特徴的な見てくれで、逃げ切れると思っているのか。どこに逃げても見付かるのは時間の問題以外の何物でもないだろうに……本人にしてみれば、最後は違う世界に行けばいいと思っているのかも知れないが、劉備一行の中にもぐり込んでいる以上は彼らに多大な迷惑がかかるんじゃないだろうか。
 まあ、俺が気にする事じゃないか。
「それじゃあ、そろそろ俺は行くぞ。怪我の治療はしておいたが応急処置だから、本格的な治療はきちんと受けておいた方がいい」 
「!? ま、待て!」
 血相を変える将軍様だが、待ってどうするというのか。こちとら侵入者、残っていたところでろくな事には……
「ああ、そういえば……俺とあの盗人婆さんはグルじゃ無いぞ。利用されたとばらすのは格好悪いけど……まあ、そういう事だ」
「それを信じろというのか?」
 女はあきれ顔だ。それはそうだよな、当たり前だ。
「ん……あの婆さんは天の御遣いとかと一緒にいると言っていたぞ。ほれ、あの胡散臭い奴だ……平原の相? とかになった劉備とかと一緒にいるそうだ」
「ん? 誰だったか……」
 首をひねっている。彼女の情報把握範囲が少ないのか、それとも天の御遣いの知名度が低いのか。まあ、大将軍の立場で構っていられるような大物ではないのか、あるいは一般的には物珍しい色物扱いでしかないのかもな。
「おーい!」
「ご無事ですか!?」
 ハンマーと大剣が到着した。これで彼女も安心だろう。目をつけられないうちに大きく後ろに下がりこそこそと逃げ出した。問題の二人は何進とやらにだけ目を向けて、俺に事はまるきり気が付いているかどうかさえも怪しく、何進はそんな二人に押され気味で俺の事を言及する隙がない。
 これ幸いと逃げ出したが、さて、どうなるだろう。指名手配ぐらいされるかも知れないな。まあ、なんとでもなるだろう。
 そんな暢気な事を考えていた俺だが、後に大きく悔やむ事になる。
 もしも彼女らと接触しておけば、上手く彼女らの陣にもぐり込めれば、あんな恐ろしい事にはならなかったのに、と。

 

 
 あれから数日。
 耳に挟んだ噂話をまとめると、どうやら政変があったらしい。またもや皇帝が変わったのだ。消費税をあげると交代するどこぞの島国の首相じゃあるまいし、変わるのが早すぎじゃないかと思うが、つまりは国の末期なのかも知れない。
 現在の皇帝はつい先日即位したばかりだったはずだが、今度はその妹が玉座に着いたのだという。なんでも十常侍とか言う高位の宦官が、政敵の何進暗殺とその姪である皇帝の暗殺を企んでいたらしい。
 何進暗殺はどこからともなく現われた謎の男……つまり俺が阻止したのだが、皇帝暗殺は見事に成し遂げられたのだ。それを行った十常侍は、あの時駆けつけた袁紹によって皆殺しにされたそうだが、自分を将軍の地位に就けていた理由である姪が暗殺された事により何進大将軍は失脚し、現在は部下であった袁紹の元に身を寄せているらしい。
 さて、漢を実質支配していた宦官はほぼ全滅。政敵である何進は失脚。となると、大胆にも皇帝暗殺を行った十常侍を直接殺害した袁紹こそが新たな権力の座につくのかと思いきや、ここで聞いた事のない名前が出てきた。
 董卓仲穎。
 元々はどこかの地方太守だったそうだが、この人物が新皇帝の後見人、あるいは腹心か?として政務を取り仕切るらしい。現在の皇帝はかなり幼いそうだから、実質漢の支配者と言えるだろう。源と北条みたいな物か。
 なんでも先の政変で俺が虎と戦っていた頃に現皇帝を確保したのが董卓だそうで、先帝と同じように暗殺されかけたところを救出されたらしい現皇帝が、そのお手柄によって抜擢したんだとか。
 すごいな、董卓。漁夫の利とはこういう事なんだろう、何進も袁紹もいい面の皮だ。
 俺のような庶民には全く関係ない話であり、それどころか何進が力を無くしたおかげで俺は指名手配どころか存在自体危ぶまれているらしいのが皮肉な話だ。
 おかげで俺は相変わらず廃屋をねぐらに出来ているのだが、トンブは違っている。あちこちで、宮殿でこそ泥を働いた球体のような老婆の話が聞こえてくるのだ。俺のせいかとも思ったが、単にトンブ自身のインパクトがでかすぎたからのようだ。今頃は劉備達の元に董卓からの追求がなされているのかも知れない。
 噂の中で俺が存在自体危ぶまれているのは、ひょっとしてトンブの影に隠れたからだけなのか?
「…………で、お嬢ちゃんは一体何なんだ」
「美味しそう……」
「…………いや……そうじゃなくてな」 
 人をいいように使ってくれたトンブに因果応報だ、ざまみろと嘲笑を送りながら雑草生い茂る廃屋の庭で昼飯の用意をしていた俺だが、ちょっと席を外している間に赤毛の少女が入り込み、犬のようにしゃがみ込みながらじっと俺の昼飯を見つめていた。
 なんのつもりかは一目で分かる、たかりだ。
 ちなみに今日の昼飯はお好み焼き擬き。水で溶いた小麦粉に卵と山芋をすり下ろした物を混ぜて野菜を入れた物を焼いたのだ。小麦と水の比率だの、必要不可欠な知識に欠けていたせいで最初はえらい物ができあがってしまったが、今なら焼けた鉄板の上でなかなか香ばしい匂いをさせている。
 ソースは作れなかったがマヨネーズ……らしい物は作れたのでそれで味付けはしている。俺の舌にはなかなか満足のいく物が出来たので、ここのところ定番になりつつあるメニューなんだが……まさかこんなのを呼びよせるとは思わなかった。
 しかもこの娘、おそらくは武将だ。 
 別段一目で分かるほど強いとか、そういうわけじゃない。
 無表情な中にも鋭さを感じさせるなかなか整った顔に琥珀色の肌、少なからず布地がほつれたり穴が空いたりしている上に、背中はほぼ丸出しと言う露出の多い奇抜な格好、垣間見える肌には入れ墨がはいっている。ついでにかなりスタイルがいい。
 手の届く範囲に置いてある華美なほどの装飾の施された穂先をしている矛……戟か? 口元からかすかに涎を垂らして座っている姿はしつけ中の犬のようだが、この奇抜な格好は普通の民や将兵ではない。
 要するに、一目で分かるほど異質な格好だという事だ。これだけおかしいのは孫策や関羽達ぐらいしか知らない。
 彼女を見ていると、奇妙な気分になる。
 ここは本当に、呪具によって作られた偽りの世界なのか。“新宿”にも高度にプログラミングされ人間と区別がつかなくなった幻が存在するが、目の前にいる彼女はそれらと似て非なる存在でしかないだろうか。
 魔界都市の片隅に、人生に傷つき疲れ果て、やがて幻と共に生きる事に安らぎを覚えるようになった女性がいた。天の御遣いは彼女のように、幻と共に生きる道を選ぶのだろうか。それとも、自分で産んだ幻を捨てて元の世界に帰るのだろうか。
 ……魔界都市で生まれた俺にとっては、幻影だろうと“区民”は“区民”だ。共に生きる事もやぶさかじゃない。だからこそ、ひょっとすれば彼女たちは天の御遣いの選択次第で簡単にどうなってしまうのだろうかと想像すると、不快でたまらなくなる。
 こんな時、“区外”の住人ならゲームのデータでも消すようにあっさりと選択できるのだろうか。 
「むぐ……美味しい」
「って、待てこら! 俺の昼飯!」
 勝手に食いやがった、図々しい所ではない。
「おかわり」
「あるか!」
 この上、次の一枚を催促してくるとは恐ろしい面の皮である。ドついてやろうかとも思ったが、強突く張りや図々しい連中にはこれでも慣れているのだ、おいそれは手を上げるような気の短い真似はしない。
「……食べちゃ駄目だった?」
「あのな、お前がどこのお嬢さんか知らんが今日日、これが用意できる精一杯の飯なんだよ!」
 これでも賞金稼ぎとしては随分稼いでいる方だが、問題は多々ある。例としてあげれば、第一に官吏のモラルがとことん低く、ピンハネ上等の世界なのだ。同業者に比べて明らかに低い賞金に文句を言ったら、逆に捕まりかけた。
 とどのつまり向こうは担当者個人に賄賂を送ったりしていて、手柄の水増しをしているらしい。闇討ちでぼこぼこにしてやったが、次の担当官も同じような奴だったので諦めた。最も、あまりに目に余るようだったら二人目が出る事にはしている。
 次に、そもそも物がない。
 黄巾の乱が治まってからも、そもそもの原因と言える宦官の専横が収まったとは言えず国その物は貧しいままだった。流通も滞り、戦争……と言うよりも内乱の影響で第一次産業もボロボロだそうだ。
 そもそも、働き手の男の大半が戦争に行ったり反乱に参加したり、戦争に巻込まれて殺されたりでまるきり足りていなかった上に内乱で国土も滅茶苦茶……
 今となってはその国土を立て直す男手が足りていないというから、この国はかなりの末期だろう。
 俺は庭先でこっそり野菜を作ったりしているが、そもそも収穫できるところまではいっていない。国その物も同じような状態だと考えれば、これからは餓死者が大量に生まれるのでは無かろうか。
 そんな漢において食糧の確保は難しく、人の物を奪ったりする事は笑って流す事は出来ない、かなりの問題行為なのである。
 と、いう事を盗み食いどころか目の前で堂々と食っちまった少女に言って聞かせると、彼女は動きには乏しいが落ち込んでいるとよく分かる顔をして謝罪してきた。
「ごめんなさい……」 
「……嬢ちゃんが幾つか知らんが、俺とそう変わらん年齢だろう? 分別はつけなきゃ駄目だぜ。子供でも見逃してもらえるか分からないご時世なんだから、きっちり責任を取れって言われるぞ」
 ちなみに、義勇軍に紛れ込んだ時に自分が何をしたのか、俺はこの時本当に忘れていた。夜になってから思い出して恥ずかしくなったのは秘密だ。
「うん……凄くいい匂いしていたから、我慢できなかった。もうしない」
 見た目はむしろ発育のいい方だが、言動が少しばかりの会話で理解できるほどに随分と朴訥で、そこはかとなく幼い。
 そんな少女に説教紛いの忠告をしていると、本当に子供を相手にしているような気がしてくる。とりあえず、俺は火の始末をしながら懐具合を計算した。金には問題ないが、買う食糧がどんだけあるか……ぼったくられるのは覚悟しておいた方がいいのだろうが、あまりにひどければこちらにも考えがある。
「ん?」
 振り向くと、こちらに手を伸ばそうとしている少女と目が合った。
「…………」
「どうした?」
 彼女は妙に驚いた顔で俺を見上げ、ついで自分の手を見下ろすとぼそりとつぶやいた。
「つかめなかった」
「そういう事もある」
「かわした」 
 ふるふると首を振るが、構わず立ち上がって距離をとる。腹が鳴りそうなので、男としては見栄を張りたくなったのだ。
「どこへ行くの?」
「ちょっと野暮用だ」
 素直に飯を食いに行くと言うのは、素直に謝ったこの娘を相手にしては憚られる。
「ご飯、私がご馳走する」
「んあ?」
「お詫びしたい」
 ……少しばかり悩んだ後、ご馳走になることにした。普段は女におごられるなんて願い下げなんだが、ここで断れば彼女は傷つくだろう。朴念仁の野暮天を自認しているが、それくらいは察せられる。
 しかし、いい匂い云々を言っていたが、本当に金に困ってたかったわけじゃないんだな。
「で、どこへ行く」
「こっち」
 本当に言葉少なな娘に先導されて表通りに出る。歩き方が奇麗だと思ったが、武芸に身を賭したと言うよりもどこか野生の匂いがした。それも、肉食獣のような匂いだ。
「そう言えば、名前はなんて言うんだ? 俺は工藤」
「ん、恋は……」
「ちんきゅうー……」
「あん?」
 遅ればせながらに自己紹介などをしつつ人通りがまだ多いとは言えない大通りに出た途端、背後から子供の奇声が聞こえた。別に気にとめることではないのだが、真っ直ぐにこっちを目指しているとなると話が変わる。
「きいいいぃいくっ!」
 振り返ると宣言通りにキックが飛んできたので、蠅かなんかのようにはたき落とすと尻から墜落した。声もなく悶えるのは小学生程度にしか見えない子供だった。現代風にしか見えない格好は、向こうでならセンスがいいですむかもしれないが、こっちでは奇抜すぎる。おかしな子供だが、顔立ちはどことなく猫のようで髪が薄緑色ときては何者なのかは一目瞭然だ。
 この珍妙な格好、間違いなく赤毛の少女の関係者だろう。
「知り合いだな、この跳び蹴り娘」
 断定すると、こくりとうなずいた。片やただ食い、片や暴行未遂。なんてコンビだ。
「うぎぎぎぎ……お前! 恋殿から離れるです!」
 子供……一応性別は女であるようだが、恥ずかしげも無く跳び蹴りをしてくる当たりはまるで腕白小僧のようだ。
 妙な口調でこちらを指さしながらわめいてきたので、しつけの意味もこめて拳骨を下ろした。
「ふぎ!」
「突然蹴りかかってしまいました、ごめんなさい」
「う、うるさいのです! お前のような怪しい奴が、恋殿に近付くなどねねが許さないのです!」
 もう一発拳骨を落とした。俺が元々の格好をしているのなら分かるが、今はちゃんとこの国に合わせた格好をしているのだから、この娘がやっているのはただの言いがかりだ。
「ぎょおおお……」
「独創的な悲鳴だな」
 魚みたいな悲鳴に笑いがこみ上げてくる。尻を天に突き上げた間抜けな格好で悶えている娘に失笑はこらえきれないが、無理に真面目な顔を作る。
「突然蹴りかかってしまってごめんなさい」
「うぎぎぎぎ……う、うるさいのです。暴力には屈さないのですぞ、ふぎ!」
「ごめんなさい、は?」
 も一発どつく。李江といいこのガキンチョといい、負けん気の強すぎるガキ共だ。今まで叱られていないみたいだ。
「工藤……私が謝るから、ちんきゅを許して」
 子供を庇って、少女が頭を下げる。なるほど、いつもこうしていた訳か。彼女にしても、自分の事で暴れているわけだから庇ってしまうと言うことか……気持は分かるが、後ろで舌を出しているガキンチョは、これじゃあいつまで経っても反省はしないだろう。
「嬢ちゃんが謝ってもあんまり意味は無いぞ?」
「うん……私から叱っておく」
「恋殿!?」
 なんだか裏切られたというような顔をするガキンチョの様子を察するに、これまでは庇われる一方だったのだろうか。
「こんな真似をする子供を甘やかしてばかりいるのはよくないぜ。今のうちにきちんと矯正しておくべきだ」
 ちなみに、俺は体罰推奨だ。
 木馬の艦長ではないが、痛い目を見て初めて分かることもある。人に気軽に蹴りを入れてくるような子供には、一発くらい拳骨を入れるべきだ。
「ぬぬぬぬ……余計なお世話なのです、子供扱いするなーっ!」
「人様に問答無用で蹴りかかった挙げ句、詫びの一つも出来ないようなのはわがままなガキと言うんだ」
「ふぐっ!」 
「ちんきゅ……反省」
「恋殿ぉ……」 
 えらく情けない顔をして気落ちするが、ここで仏心を出せばまた同じ事を繰り返すだけである。
「よしよし」
 少女が頭をなでると、ガキンチョは感極まったように抱きついた。どこのホームドラマだ、とか簡単に甘やかすな、などと言いたい事はあったが口を挟み辛い雰囲気なので黙っておいた。
 こんな空気は苦手だ。ホームドラマと言うには安っぽく、甘さ過剰な出来損ないの駄菓子を口に詰め込まれている気分になる。
 ブラックコーヒーばかりのハードボイルドを望んでいるわけじゃないが、これはさすがに肌に合わない。それこそ、子供のように早く行かないかとせかしたくなる。
 体内時計で五分だけ待って、それ以上経っても終わらなかったら一人で飯に行こうと決めて道の端に移るが、二人が寄ってきたのは五分一秒後だった。
「あと一分続けていやがれ」
 そう言った俺は悪くないと思う。
「むう……」
「それで、どこに行くんだ」
 上目遣いににらんでくる子供は無視して、中断された話をやり直す。自己紹介も途中で切れたがそちらはやり直さなくていい。深くつき合ったら面倒くさそうな二人組だ
「ん、こっち」
「あいよ」
「恋殿ぉー……本当にこいつと一緒に食事などするのですか?」
「恋が工藤のご飯を盗った。だから、お詫び」
 不満たらたらの子供に言い聞かせているが、本人は俺を馬鹿にしたような顔をする。いや、ようなはこの際不要だ。
「ふん、小さな男なのです。恋殿のようなお方にならむしろ自分から差し出すべきなのです」
「この馬鹿ガキ、きちんとしつけとけ」
 反省のないガキンチョはもう一発どつくべきかとも思ったのだが、ややこしくなりそうなのでやめておいた。実のところ、跳び蹴りがやって来た当たりから周囲の目が痛い。
「わかった」
 当てにならんな、この娘……と思いながらも他人事と割り切ってついていく。このままいけば栄養補給と割り切ったまずい飯になりそうだ、とガキンチョの背中を見ながら案内されたのはこのご時世にしては繁盛している飯屋だった。
「おーっ! 恋が男を連れとる!」 
 店に一歩入ると、突然きっぷのいい声がかけられた。目を向けるとまたもや奇妙な格好をした女が真っ昼間から酒を飲んでいる卓がある。
「こっちこっち、あんたらも相席せいや」
「……ん……」
 真っ昼間から赤ら顔をして俺達……正確には彼女らを手招きするのは、関西弁のような訛りで喋る二十歳前後の美女だった。
「また昼間っから呑んでいるですか!」
「いいやんか、うまいもん。大体、今日のうちは休みやし」
 子供に諫められても全く悪びれない彼女は、周瑜並に凄い格好をしている。年齢は二十歳前後だろうか、子供が猫なら豹のような印象を受ける顔立ちで、一口に言うなら新撰組擬きの格好をしている。だが、局部的にとんでもない。
 頭をポニーテールと言うよりも髷に近い形で結っているのはともかく、上半身はなんと白昼堂々さらし一つなのだ。
 肩から新撰組のそれを思わせる柄の羽織を羽織っているが、前は丸出しだ。露出狂と言われても反論は出来ないだろう。
 足は日本の袴その物をはいており、売っているのなら少し欲しくなるが……上半身は下着姿という、かなり突拍子のない格好でもあるのが男としては嬉しく日本人としては怒りたくもなる。
「はあ……」
「ん? どうしたんやお兄さん。辛気くさいため息ついてからに、景気悪いんなら、あんたも一杯やり! うちのおごりや!」
 どことなく関西人のようだったが、人なつっこさが感じた印象を助長する。四人かけの席で連れはさっさと並んで着席したので、自然と俺は彼女の隣に座ることになる。
「駄目、今日は恋がおごる」
「ん? 珍しいこともあるモンやな……ええと、お兄さんは二人とどんな関係や」
「工藤だ。名前も知らん程度の関係だよ。ちょっと昼飯をおごってもらうだけの関係だ」
 なるべく行きずりの関係でしかないと強調する。つい名乗ったのは豊満な胸に惹かれたからだ。
「うちは張遼。どんな関係や、昼飯おごってもらうって……恋がなんぞ助けてもらったんか。道でも案内されたとか」
「ふん、こんな奴が役に立つなど有り得ないのです!」
「恋が工藤のごはんとった……だから、お詫び」
「ああ、そういう事か」 
 張遼が深々とうなずく。そんなに簡単に納得できる話なのかと思うと、日頃を想像するのが恐くなる。
「ちゅうか、名前くらいは名乗らんとあかんやろ、三人とも。自己紹介せいや」
 こう言う奇抜な女性と出会う度に何かしら面倒な目に合うので出来れば名乗りたくなかったが、そう言われて固辞するほどのことでもない。
「……恋」
「それは真名じゃないのか」
 打てば響くように返してしまったが、周りも随分と驚いている。当たり前か、この国の文化じゃ真名は外来人の俺には実感できないほどに重大な物らしいからな。
「呂布奉先」
 さっさと言い直したと言うことは、何も考えずに口にしたのか。罪人という可能性もあるが、入れ墨なんて物をいれているところを見ると、もしかして文化の独特な地方の出身かも知れない。
「……って、呂布?」
「そう」
 どこかで聞いた名前に、思わずオウム返しに繰り返してしまう。
「……ああ、人違いか。いや失礼した」 
 なんだかよく分からないような顔をした呂布と名乗る少女だが、健康的な手足であってもむしろ華奢であり、天下無双、人中に呂布ありと謡われた三国随一の猛将には見えない。関羽や張飛という前例はあるが、どうしても違うだろうと思ってしまう。
「いやいや、間違っていないで」
 にやにやしながらの赤ら顔が嘴を突っ込んできた。
「工藤、でええんやな? たぶん噂を聞いたんだと思うけど、間違いなくこいつが巷で噂の呂布や。細っこく見えるけど、先の戦で大活躍した噂の武人やで」
「……やっぱりそうか」
 自分が話題に出ているというのに気にもとめずに注文を出している少女からはとても想像できないが、本当にあの呂布であるらしい。
「それじゃ、張遼殿もご同様……騎兵を率いて活躍したって言う張遼か」 
「お? 私も知っているんか。こりゃ嬉しいな」
 目を細めて、くいっと一杯。
 昼間から酒を堪能している姿からは想像できないが、おそらく彼女はあの張遼……俺の知っている歴史の中では、最初は呂布、後に敗戦してからは曹操配下に加わる名将、張遼だろう。知勇兼備で、一説に寄れば演義でことさら持ち上げられた蜀将の誰よりも優れていたと伝えられている。
「か~っ! 美味い!」
 飲んだくれにしか見えない。
 まあ、歴史上の偉人なんて物はきっと信奉者によって盛大に美化されているのだろうとは思うが、それでも理想の英雄像を貫いて欲しいと期待してしまうのも人情だ。
「ほれ、あんたも自己紹介せんのか」 
「ちんきゅ……」
 料理が届くまでの間、未だに俺をにらんでいるガキンチョを二人が交互に促すと、見るからに不承不承ではあるが名乗る。
「むう……陳宮ですぞ。真名で呼んだりしたらただじゃおかないですぞ!」
 妙な口調で挑むようににらんでくるが、そもそも俺は真名なんぞ教わっていない。
「恋殿の事ですぞ!」
「わかった、わかった。大体、たまたま漏らした程度で真名を口にしていいと勘違いするほど浮ついた性分じゃないよ」
 飯はまだだろうか。三人と囲む卓ははっきり言えば居心地が悪く、とっとと飯を終えて帰りたい。
「…………呂布奉先、武勇以前に胃袋こそが漢最大級か……」 
 三十分後、目の前に積まれた皿の山を見てげっそりとしながらつぶやいた。卓についた俺達の目の上よりも高く積まれている皿の山、それを生み出したのがたった一人だと信じる者がいたとしても、俺の前に座る華奢な少女が問題の一人だとはさすがに信じるまい。
 金が足りるのかと心配になる上に、この娘が自嘲すれば食糧問題が大分片付くのではないのかとさえ思う。
 おごられている立場でなければ、逃げたくなるくらいだ。気のせいか、周りの目も痛い。
「何時まで食い続けるんだ? 量もそうだが速さも尋常じゃないぞ」
 その場で破裂するくらい詰め込んでいるような気がしてくる。入った先から消化しているのか? 店の外では何やら喧騒が起きているが、ここだけ妙に静かに咀嚼音が聞こえるような気がしてならない。
「ん、まあこの位はいつもの事やな」
「恐ろしいいつもだな」
「恋殿は無敵だから胃袋も大きいのです!」 
 謎の理論で胸を張る子供がいるが、呂布も含めて誰も相手にしていない。それでも全く気にかけた様子はない。
「それで、恋は今日、何をしとったんや? 出歩いとったみたいやけど休みの時はいっつも家で飼ってる犬猫に餌をやったり昼寝したりしているだけやん」
「ん……最近、街の様子がおかしい」
 俺は彼女らの話は半分ほど聞き流していた。真正面から呂布の食欲を見せつけられて滅入っていたのだ。あまりの食いっぷりに、河馬と人の合いの子と噂される情報屋を思い出したせいでもある。
「おかしいって何が? こう言っちゃあなんやけど、今こそ一番何もかもがおかしい時と違うか? 先の戦で散々国が荒れた上に、中央の政変が起こって国その物がてんてこ舞いや。特に政変が起こった当の洛陽で、一ヶ月や二ヶ月じゃなかなか治まる物はないんと違うか」 
 彼女たちは、新しく洛陽に来た一派と元々いた連中と、どちらの側にいるのだろう。この時点で、俺の興味は彼女らに訴えれば少しは不正が無くなるかな程度の物だった。
「犬がいる」 
「犬? そりゃあ、まあ……人間が不景気だから、痩せ犬しかおらんけど犬だっておるやろ。何が不思議なんや」
 国が痩せれば、狼はともかく犬は痩せる物だ。人と生きている以上、人と同じ運命を辿るのも道理。
「恋の前に出たのは、普通の犬じゃない」
 普通の犬じゃない、か。
 どんな街にも犬は住む。人に飼われる奴も、野良もいる。“新宿”だって例外じゃない。
 だが、あの街に生きるのはどいつもこいつも虎や熊を一対一で食い殺す、人間と罠の掛け合いの知恵比べで勝つくらいは平気でやる妖犬揃いだ。鉄もかみ砕く双頭犬や、牛より大きい単眼の猛犬、再生機能を備えた護衛犬に毒をはき出す物もいるが、普通の雑種犬こそ見つけるのが最も難しいとはつくづくおかしな街である。
 その中でもとびきりに恐ろしいのは、やはりアレだろうか。
 せつらに以前、話だけを聞いたことがあるが……音より速く走る、黒い不死身の猛犬……打ち倒すには専用の剣が必要だというそいつは、魔界都市で一月の間に五十五人を食い殺し、残るのは常に血痕だけだったという話だ。
 その中には脳に特殊なカビが繁殖した為に先祖返りを起こしたと言う、常人を遙かに超える怪力と凶暴性を秘めた“原人”や百人以上を惨殺した凶悪強盗犯のレーザーさえもはね返す青銅人もいたという。
 おまけに再生機能まで持っており、せつらが足を切り落としても、次に出会った時には生えていたと言うから驚きだ。
 あんなのがこの街に出たら、きっと蜂の巣をつついたような大騒ぎになるのだろうと笑う。平和な街に来た物だ。
 何となく面白い気分になって、嘴を挟む。子供が犬を指さして喜んでいるのを見るような、そんな気分だった。
「どんな犬だい、随分とでかいのか?」
 この街では、洋犬でも普通じゃないだろう。ドーベルマンでもいれば驚きの珍事件になるだろうな。バスカヴィル家の犬でもいれば、伝説になるんじゃないのか?
「真っ黒くて、大きかった。目の周りが炎みたいで、赤く見えた」
「……何?」
 一瞬、自分が強ばったのを自覚した。
「まあ、犬も猫も目が暗闇で光るモンやからな。そんなにぎらぎらしてたんか」
「うん……」 
 なんだろうか。
 とてつもなく嫌な予感、がした。俺の第六感はよく言うインチキでもなければ、あるいは脳の分析しきれない五感の総括情報でもない。虫の知らせと古来より言われているそれが、本当にそのままの意味で感じられるのだ。
 何がいつ、誰の身にどこでどう起こる、などと言うことは全く分からない程度の物だが、それでも今の状況なら何を指し示しているのかは当たり前にわかる。
 ああ、くそ。
「そいつが、誰かを襲っていたのか」
 俺の発言に、三人の目が集まる。一番驚いていたのは、それが一番表に出づらい少女だった。
「どうしてそう思うの?」
「あれだけおどろおどろしい物言いで何を言っている。嫌な物、恐ろしい物が出ただなんて想像力があれば誰でも察しが付く」
 そこはかとなく、張遼が気まずそうだ。酒が入っているのだから気にすることでは無いと思う。
「……恋がそれを見たのは昨夜」
 何を見たのか知らないが、翌日即座に捜そうとするとは思い切りのいいことだ。
「さっき言った大きな犬……家からいなくなったうちの子達を探している最中に、屋根の上で見つけた」
 この年で、もう歩き回れる子供がいるのか。まあ、歴史が浅くなればなるほど子供を産む人数は多くなり早婚であるのだから、不思議でもないか。
 そう言うと、呂布ではなく隣のガキンチョが飼っている犬猫の事だとわめきだした。そこの母親、いきなり店内で騒がないようにしつけておけ。
「恋は母親じゃない」
「それで、そのおかしな犬はどんな奴だ。額にもう一つの目があるのか、それとも熊でも食い殺しそうなくらいにでかいのか?」
「そんな犬がいてたまるかい!」
「俺の元いた町には、結構いたぞ」
 あほたれ、が本当の事しか言っていない俺への評価である。機会があったら連れて行きたい物だ。
「で、混ぜっ返されたけど結局どんな奴なんや」
「……見た事が無い犬だった。狼みたいだったけど、もっと大きくて、細くて、しなやか……でも、強い」
「犬にしても、恋が誰かを強いなんて言ったのは初めてやな」
「風みたいに走った」
「ほう、足もあるんか。さすがは狼やな」 
 張遼は驚きを声だけで作った。顔にこめられた感情は大した物じゃなかった。だが、次の言葉を耳にした時少しだけ変わった。
「恋は吹き飛ばされた」
「……なんやて?」
 彼女の顔色も変わったのはこの時からだ。
「あんたを吹っ飛ばした? その犬っころがか」
 根本的に、野生動物は犬だろうと猫だろうと運動能力において人間との差は圧倒的に大きい。別段際立って大きい体格をしているわけではない女一人をはね飛ばすなど造作も無い事だろうが、彼女はそれに驚いている。それも、かなり深刻にだ。
 つまりいい加減に察しは付いていた事だが、関羽や張飛と同様に呂布の身体能力も人類の範疇を超えているようだ。彼女が歴史に名を残す飛将軍であるのなら、むしろあの二人を圧倒している可能性も高い。
「身体は当たらなかった。側を通り抜けられただけで馬にぶつかられたみたいに飛ばされた」
 馬に突っ込まれても平気なようだ。
「……それに、血の臭いが凄くした」
「……犬の縄張り争いか?」
 それですめばいい、という張遼の希望は儚くも否定されてしまった。
 いまいち上手くはない呂布の語りをまとめると、つまり彼女は昨夜から行方知れずになっていた自分のペットを探しに回っていたらしい。
 だが、いくら探し回ってもどこにも見当たらなかった。
 この国では犬猫も普通に食う。そして今は、戦乱と政治的な腐敗のせいで首都たる洛陽であっても明らかに食糧不足だ。
 それらのキーワードから行方知れずのペットがどうなったのかを想像すれば、否応なく危機感は煽られ、彼女は夜を徹して捜そうと残った方は陳宮に任せて都中を探し回っていたらしい。
 だが日が落ちてからまで心当たりを探し回っても影も形も見付からず、代わりに目に入ったのは幾つもの血痕だった。
 荒れ果てている国であっては首都と言えど、それほど珍しい物でも無い。だが、それが人間であっても致死量と一目で分かるほどで更に複数とあれば話は別だ。
 血痕と言うよりも血の海という方が正しい量で、それが一つや二つではないなど例え今のこの国でも異様だ。
 さすがに見ただけで何の血なのかは分からないが、状況が状況なので自分の捜す相手を連想するのは当然の事だ。ますます切羽詰まった彼女がペースをもっと上げようとした時、何かが自分を見ているのを感じた。
 振り仰げば、そこには真っ黒い巨犬がらんらんと輝く……いいや、燃え上がる目で刺すかのように彼女を見下ろしていた。
 普段は動物と言うだけで無条件に受け入れてしまうような彼女も、その時は理屈抜きで手に持っていた得物を構えるほどにその犬は異様だった。異様なのは虎ほどもありそうな巨体でも、火が燃えているように見える目でもない。
 猫のように屋根の上からこちらを見下ろす謎の妖犬は、明らかに殺意を持って彼女を見ている。それも、獣としてのそれと言うよりも、呂布にはよく慣れ親しんだ人の殺意……それも、黄巾の賊が無力な民に向けていたような嗜虐的な殺意のように感じられた。
 動物に対しては人よりも親しみを感じていると言っても過言ではない呂布にとって、その獣の存在はひどく薄気味悪く、同時に怒りを誘う存在でしかない。何よりも、彼女には生まれ落ちてから今日まで築き上げた自分が強者であると言う自負があった。その自分がいたぶり弄ぶ対象として見られているなど、容認できる話ではない。
 得物は自然と彼女の前に構えられ、切っ先は犬に向かっている。犬を前に問答無用で武器を構えたのは、彼女にとって初めての経験だった。
 屋根の上に飛びうつり、そこで決着をつけてやる。
「!?」
 そう考えていた彼女の目の前に、機先を制した獣が一直線に飛びかかってきた。速い、と言う認識さえも出来ない動きはまさしく影も形も見えないと表現するに相応しい速度だ。気が付けば、彼女の持っている長物にとてつもない衝撃が襲いかかってきていた程だ。敵の攻撃を受け止めた、と理解したのは既に相手が自分の背後に着地した後でようやくだ。
 恐らくだが、受け止められたのは向こうの気まぐれだろう。
 どうやら相手は武器ごと跳ね飛ばしてやろうと突っ込んできたようだが、呂布の膂力は敵の予想を上回っていたらしい。跳ね飛ばせない武器はそのまま巨犬への痛手となった。
 犬は憎々しげに彼女をにらみつけ、そのまま闇の中に消えていった。追い掛けようにも、手はしびれていた上に速すぎる速度は健在で影を追う事さえ出来はしなかった。
 アレは一体何だったのか。
 しばらく経ってからようやく緊張を解いた彼女は大きく息をつく。と、吸い込んだ息に血臭が混じっているのに気が付いた。
 源は屋根の上。
 慌てて飛び上がると、そこには彼女の捜していた大事な家族である犬猫が残らず無惨な姿を晒していたのだという。
 俺には、思い当たる事が多すぎた。
「……血痕があったと言ったな……前からなのか、それとも呂布が最初の発見者なのか? 街でそんな噂は聞かなかったぞ」
「そこらで牛や鶏を絞めても血は出るからなぁ……」
「そもそも、昨日彼女が見つけた物も人の血痕なのかどうかも定かではないか」
 それに、今の漢では行方不明者も死傷者も珍しくはないし、そもそも戸籍その物が雑ではっきりとしていない。いや、戸籍が存在しているのかどうかさえも怪しいところだ。いつどこに誰が住んでいるのか……それが分からない上に死体が残っていないんじゃ、噂になるのも難しいという事か。
「以前からこう言う事件が起こっていたのかも知れないのか」
 仮に血痕を残したのが犬猫だろうと物騒には違いがない。こんな不穏な事件を野放しどころか把握も出来ていないとはなんて話だ。
「……可能性はあるな。ただ、人なのか獣なのかも分からん上に……人だとしてもそこらの民衆の五人や十人消えたところで、今のご時世はそうそう気にはせん。実際、まだまだそこらでつまらない原因の人死には仰山出ている。そういう荒れ果ててもうた国が今の漢なんや」 
「……なるほど。はっきり結論だけ言えば、誰がどれだけ死んでも気にはならないから、事件が起きても噂にもならない、か」
 犯罪者にとっては生きやすい世の中だな。黄巾党なんてのがはびこったわけだ。
 それで国家としてやっていけるのか、とは国家の側に立つ彼女らには言いたくても言えないセリフだな。
「だが、諸侯はそれぞれ世情を知る為に広く人を派遣しているんじゃないのか? この洛陽にだって治めている人間……董卓だったかがいるのなら、お膝元の状況ぐらいは察しているんじゃ無いか?」
「ふ、ふん! 何もしらない男が知ったような口をきくなです」
 ガキンチョが噛みついてくるが、小生意気なと思わなかったのは狼狽えている雰囲気が伝わってきたからだ。
「そりゃあ、耳に痛い言葉やな……生憎と、今はまだ洛陽に来て一月とたっとらんのや。余所の諸侯の動きにも注意せにゃならんし、まだまだ細かいところまで手が回っていないのが実際の所………官の側に立つうちらが言っていいセリフとは元より思うておらんけど……あんたらにはすまん話や」
「…………これで細かいのかよ。まるで“新宿”だな……俺が“区外”の住人みたいな物言いする羽目になるとは、おかしな話だ」
 この国で、馬の骨に過ぎない俺のような立場の男にこう言える彼女は潔い人物だろう。
 俺はそもそもこの国の人間でもないし、元々の街でも荒事ばかりで生きてきた。犯罪者や妖物を相手に斬ったはったをしていた男だから、正直言って彼女らに何を言おうとは思わない。税金払ってねぇし。
 だが、真っ当に生きるこの国の民衆にとっては、諸侯同士で争っている暇があったら何とかしろと文句だって言いたくなるだろう。
 酷な事を言うのかも知れないが、彼女が頭を下げようと誠意を示そうと、怪異に怯える人々に安穏な夜が来るわけではないのだ。
「まあ、この件についてはうちらが責任持って解決したるわ。二、三日待っとってや」
 剥き出しと言える胸を張って解決を宣言する張遼を見ても、鼻の下を伸ばす気にもなれない俺だった。
「…………」
 なんと言おうか、行動の指針をどう選択するのかに迷った。立場上、俺が嘴を突っ込むのはおかしな話だ。ありとあらゆる意味で場違いにも程がある。
 だが、それでも思い当たるところがある以上は、このまま彼女らを放っておくのは気が引けた。当人達には自分の腕前に自負がありそうなので、率直に言って余計なお世話以外の何者でも無いのだろうが……
 自分の口下手さ加減を自覚している身としては、協力を申し出てもいまいち話がスムーズに終わるという自信が無い。特に、ガキンチョ当たりは面倒だろう。
 呂布に感情移入をしているのか、それとも犠牲となった犬猫に彼女なりの思い入れがあるのかこっそりと涙ぐんでいる。感情的になっている子供で女。会話を成立させる自信さえなかった。
「……はあ」 
 だがまあ、俺が出張ったところでどうなる?
 問題の犬が俺の想像通りだなどと質の悪い偶然以外のなんだと言うのか。いいや、そもそも蓋を開ければ単に気性の荒い犬が一匹と言うだけの話だろう。
 飼い犬を追い掛けて気が動転している女の認識などを鵜呑みにするのは、馬鹿の証拠だ。
 それに、万が一あれと同じ犬がこの街の夜を荒らし回っているとして……それでどうする? 
 仮に、あいつが現われたとしても、俺の手に負える相手か? 答えは否だ。
 かつて、せつらの出会ったある英国貴族の名を持つ男……彼に伝えられた犬神神社の秘法、黒犬獣を滅ぼせる犬神退治の秘法も、せつらに握られたその力を伝えられた太刀も俺の手の中にはない。
 話を聞きつけ学べる物なら学びたいと頭を下げた結果、鍛錬方法を伝える秘伝書の閲覧は許され、“新宿”の受験生御用達である記憶術を用いて可能な限り記憶はした物の……どれだけ血反吐を吐いても、俺には手に入れる事は出来なかった。
 無意味ではなかったが、ほぼ無益。“新宿”には幾らでもいる三流呪い屋のつまらない犬神もどきによって背中を土まみれにされたおかげでようやく諦めたのだ。
 それで何をどうする。
 仮に、半端な技で犬神に挑んでそれで何かが出来るつもりか。無意味に道化になる未来が待っているだけだろう。
 勝ち目もないような相手に、義理もないような女達の為に、何の意味があって手を貸すんだ。
 そうだ、その通りだ。
 虎に負けたからって、犬に雪辱するつもりか?
 そんなつもりはないな。
 大体、俺には倒さなけりゃならない敵が他にいるだろう。他人の頭の蠅まで追ってやる余裕がどこにある?
 全く無い。むしろこっちが手を借りたい。
 そうだ、相手はどうせただの野良犬だ。黒犬獣かもしれないのは俺の勘違いに過ぎない。
 ああ、その通りだ。明日になれば、ちょっと気の荒い野良犬が一匹、肉屋の店先に並ぶだけさ。
 やらなけりゃならない理由はない。
 やらない理由は幾らでも思いつく。
 だったら、俺のするべき事は一つだけだ。全くもって自明の理だ。
「面白そうじゃないか。一口かませろ」
 立ち上がって楽しみにしているぜ、あばよ、と言うはずの口が訳の分からない事をいつの間にか口走っている。どこかに大馬鹿野郎の物好きがいるのに違いが無い。
 その大馬鹿野郎な物好きは工藤冬弥と言い、呂布の正面、張遼の隣に座っているようだ、ああ、なんてこった。



[37734] 暗闇の猟犬
Name: 北国◆9fd8ea18 ID:280467e8
Date: 2014/05/12 07:01
 待っていてくれた方々、遅れて申し訳ない。
 仕事って奴は、生活って奴は……という事なのです。
 今回は閑話のような物です。話は次回から大きく動き出す予定です。
 恋姫キャラ最強、恋最強! 霞はこんなに弱くない! と言う方は不快になるかも知れません。
 それでも良ければ、どうぞご覧になってください。
 





 
 その日の夜、俺は敗北した。
 呂布という女と出会い、張遼という女と出会った日の夜……俺は月に見下ろされながら街を回る彼女らの後ろをこそこそと付け回していた。
 あの食堂で俺は同行を申し出たのだが、彼女らに……正確に言えば、その中の最年少者に邪魔された。
 どうやら呂布に信仰を抱いている……いいや、わがままな子供が親を万能と思い込んでいるかのような感情を抱いているらしいガキンチョが俺の同道を不服として、辟易するぐらいに噛みついてきたのだ。
 そうなると、俺の腕前も知らない彼女らもわざわざつき合わせる必要を感じるわけもない。あえなくさらばとなってしまった。
 だがそれで、それならいいやとも言えないのが男の辛いところである。やれやれと辟易しながら彼女らにばれないように俺は後を付け回した。
 終始使えるわけでもないメンテが必要になってきたカメレオンスーツ抜きでは、その為に必要な距離が三十メートル以上というからすごい。呂布に気が付かれない為にはそれだけ必要だったのだ。
 ただ、そこまでする必要があったのかと言われるとどうも弱かった。この女どもめ、遊び半分でしかなかったのか、兵士の一人も連れていないが、代わりに問題のガキンチョを連れ回しているのだ。
 来るんじゃなかったと後悔しながらも、本当に帰ろうとしない俺はお人好しだと思う。きっと、明日の朝になったら骨折り損だったと一度ならず後悔するに違いが無いと確信しながらも、どういうわけか帰る気にはなれずに後をつける。
 元々少ないところで、もっと人が少なくなった道で三回、人がすっかりいなくなってから二回ため息をついた頃にそいつは現われた。
 なるほど、月明かりにも影響されない真っ黒い犬が呂布の話を再現しているかのように屋根の上に陣取っている。今思い出してもでかくて異様な犬だった。
 別に頭が二つあるわけでも、目が一つしか無いわけでも無いが、明らかに真っ当な生き物ではないのだと知れる。一目でそう分かるほどにはっきりと宣言しているのは全身から醸し出されている妖気に他ならない。
 こいつは確かに、せつらが斬った黒い猟犬の同類だと理屈以外で納得させられる痛烈な妖気だった。
 それを前にして、ガキンチョはおろか張遼も、あまつさえ一度は対峙しているはずの呂布まで固まっている。呂布は二人を庇う為に前に出ているが、それが災いしているのだろう。だがそれだけとも思えない。
 一度自分を撃退した呂布を狙っていたのではないだろうか。
 ひょっとすれば、昼間から彼女は付け回されていたのかも知れない。彼女たちはもちろん、妖物に慣れている俺にも感づかせないのは正直ショックだ。捜している相手に尾行されている間抜けが彼女なら、俺は更に輪をかけた間抜けだろう。あの犬の頭蓋にどんな思考方式が詰まっているのか知らんが、さぞかし俺は滑稽だったのではないだろうか。
 間抜けを返上する為に、凍り付いたように身動きさえままならない彼女らを守ろうと走りだす。念を篭めた仁王を振り下ろすと、彼女らの金縛りは解く事が出来た。
 だが、それは同時に黒い犬にスタートの合図をかける事にもなる。一直線に呂布を目掛けて襲いかかる黒い影に、金縛りから解放されたばかりの呂布は当然ながら無防備……圧倒的な速度で襲いかかる獣に対抗する術を持つ人はいなかった。
 それをやるのは、俺の務めだ。
 握りしめたのは何よりも信頼する一太刀。全身をチャクラが生み出す聖念が満たして俺を奮い立たせる。やはり、真っ当な人間相手に振るう場合とは勝手が違っている。
 巨を相手取った夜のように仁王を振ると、呂布と影の間に割り込んだ。俺の太刀は獣には遠く及ばないスピードでしかないが、動きを読めば当てることが出来る。ましてやその時の狙いは明確だった。
 甲高い叫び声が耳に届いた時、俺の腕は闇に紛れた影からの痛烈な一撃をはね返した痺れに襲われていた。厄介な敵だ。
 スピードだったらもっと速いのを知っているし、倒したこともある。だが、こいつはスピードにのるのに距離を必要としていない。初速から人の目には捕らえられない速さで突っ込んでくる上に、自由自在に動き回れる。さらに、こいつは足音もたてないでそれが出来るのだ。
 彼女ら……いいや、観念して俺も含めるが、とにかくこの犬ころは人間を舐めまくっていたからわざわざ姿を現した。獣の本能では有り得ない、醜く邪悪な精神をもって自分をアピールしやがったおかげで命は救われたのだ。
 獣らしく背後から襲いかかってこられれば、一人残らず櫛の歯が抜けるように殺されてお終いだったろう。
 何よりも、それがただ速くて凶悪な犬と言うだけで済まさない圧倒的な妖気。
 常識も現世の法則も悉く無視する異常の存在であると示すおぞましい妖気と、元々獣と言うよりも人間のそれのようなどす黒い殺戮欲が相乗効果を起こし、お互いを引き立てあっているのがよく分かる。
 こいつの三倍は速いマッハで動くブーステッドマンの方が、よほど楽だと思わせるのはそのせいだ。
 間違いなく妖物なのだと確信を抱いて念を練り上げる俺の後ろで、張遼と呂布が驚きながら得物を構えるのを感じる。状況と、何よりも黒犬の異様さを彼女らは肌で、あるいは本能で理解したのだろう。
 物も言わずに俺との連携を図っている。頼りがいのあることだ……しかし、それぞれが手に持っている長物を構えている姿は実に堂に入っている物の、それは町中で獣を追うのに適切な得物だろうか。
 障害物の多い森や人里で、長物を扱って力を出し切るのは至難だろう。ついでに、ここには足手まといのガキンチョと連携の出来ない部外者である俺までがいる。
 大丈夫だろうかと心配になったのだが、今更考えることじゃない。とにかく俺は俺で、彼女らは彼女らで勝手にやるのが一番いいだろう。
 俺と彼女らの考えは一致したのだろう、俺達三人は一斉に黒い犬に襲いかかったが……考えが甘いと教えられたのは正にたった一瞬後だった。
人ではない、妖獣の面目躍如という所だろうか。あいつは俺達を鮮やかにスルーして最も弱い陳宮を狙ったのだ。肉食獣の狩猟が動きの遅い子供から狙うように、獣だからこそ躊躇無く行う野生の冷徹だ。
 一番前にいた俺をかわし、張遼を掠めるように体当たりで弾き飛ばし、呂布の手に持つ戟だけは牙で粉々に噛み砕かれた。意趣返しまできっちりとこなした上で、黒い犬は当たり前に弱い者から牙にかける。
 あいつは最初から四対一のつもりだったのだ。弱い者から真っ先に片付けるというのは自然のセオリーでもある。黒い影から伸びた爪に腹を抉られ、物も言えずに陳宮は倒れた。恐らく本人は自分が襲われたことを認識さえ出来ずに意識を失ったことだろう。
 それはあるいは不幸中の幸いであるのだろうか。ここで、奴はただの獣では無いことを証明してのけた。
 あるいは武器を失い、あるいは跳ね飛ばされたダメージで身動きも取れなくなっている彼女らの前で、陳宮を攫うとそのまま逃げ出すどころかわざわざ目の前の屋根の上に飛び移ったのだ。
 獣は獲物を手に入れるとその場で食うか、あるいは横取りや邪魔者のいない自分の安心できるテリトリーまで運んでから貪るものだ。しかし、こいつは敵がいると百も承知の上で、あえて目の前に移動すると自分自身の血に塗れた陳宮の腹に顔を埋めた。
 意識を失い、重傷を負っている陳宮を黒犬が見せつけるように食い始めたのだ。直前に、俺だけを無視して呂布と張遼に向けた眼差しは、確かに汚れた愉悦に輝いていたのを今でもはっきりと覚えている。
 この野郎、こちらの関係をしっかりと理解した上で弄んでいるのだ。取り戻せるものならやってみろ、どうせ出来はしないだろうと笑っているのだ。
 それを理解した呂布と張遼の怒りは凄まじい。張遼は身動きが出来なくなったはずの身体を無理やり立ち上がらせ、呂布は折れた得物の代わりに剣を握って即座に斬りかかる。
 だが、彼女の剣はあやかしの獣に届かない。
 本来の得物ではないのだろうが、それでもそこらの武将など大根のようになで切りに出来そうな一閃が幾つも幾つも絶え間なく襲うが、全てを犬はかわし続ける。そして、彼女がガキンチョを連れ戻そうとする所で襲いかかると殺さずに敢えて跳ね飛ばすだけにするのだ。
 なんという獣か。なんという、おぞましい獣か。そしてこいつは常に何も残さないほど哀れな獲物を食い尽くすのだ。
 小さな子供など一口で飲むかのように食い尽すだろう。
 それを思い、俺の中に燃えるようにわき上がる怒りがあった。陳宮の為ではない、呂布の為に抱く怒りだ。どれほど傷つこうとも、弄ばれようとも、ただ陳宮を救う為に挑み続ける背中に感動さえ抱き、その姿に笑う妖犬に烈火のごとき怒りを抱いた。
 夜の街に、甲高い犬の悲鳴が響いた。
 ただ黙って見ていたわけではないと証明した一撃を、俺が見舞ったのだ。瞬時に屋根の上に飛び移り、呂布にかまけていたと言っても黒い猟犬にクリーンヒットをくれてやったのは我ながら会心だ。
 魔獣は陳宮を放り出して大きく飛び退くと、女達に向けていたのとは違う痛烈な敵意を俺にぶつけてくる。おそらくは、こいつに一撃をくれてやった夜の呂布も同じ物を受けたに違いが無い。
 だが、仁王に篭められた念と剣技をまともに受けている貴様にその怒りを発散するだけの力は残ってはいるまい。そう踏んだ俺は、ここで逃がしてなるものかと大きく踏み込んだ渾身の一撃を見舞うが、見事にかわされた。
 俺の一撃が効いていなかったのか、獣のタフネスとはこう言うものなのか。それともまるで吸血鬼のように効いた端から治ったとでも言うつもりか。
 そこまで進んだ思考に、雷鳴のように轟くものがあった。かつて“新宿”に現われた魔性を斬った犬神退治の秘術を篭められた神秘の剣……だが、それで無くとも俺の念法でも、あまつさえただの鋼の塊に過ぎない呂布の戟でもダメージを与えるならば出来ていたのだ。
 ならば、なんの為に剣は必要だったのだ。
 かつて、“新宿”で黒衣のマンサーチャーは再生機能を備えた護衛犬を依り代にして復活した黒犬の足を斬り落としたが……次に邂逅した時には新しい四肢が揃っていたという。だが、それがこざかしい遺伝子操作ではなく、古の黒い猟犬に元々備わっていた機能であったのならば。
 俺の背筋に凍り付くような戦慄が走る。
 だが、同時に燃えさかる闘志が腹に生まれて寒気を消し去った。どうせ似たような特性を持つ、もっと大物を相手にすることが決まっているのだ。今更犬の一匹や二匹でびびってたまるか!
 全身にチャクラを満たし、それは仁王の切っ先にまで宿る。念の力を理解しなくても察知はしたのだろう、黒い猟犬が若干のためらいを見せるがそのまま襲いかかってくる。剥かれた牙の凶悪さは鋼でも噛み千切りそうだ。
 事実、こいつの同類は青銅の巨人を食い散らかしたのだとせつらから聞いたのをもう一度思い出した。全身黒い中でそれだけ白く輝く牙をたてられれば、神秘の技法を身につけた俺とて常人と大差ない死を迎えるしかないのだろう。
 かわしてのけたのは、俺の技量ではなく経験の勝利だ。“新宿”にはいくらでもいる双頭犬の類に襲い掛かられた数多の経験が、俺を救った。むしろ、右をかわせば予想した左が来るという双頭犬よりも、頭が一つなのは楽であったとさえ言える。
 何しろ、横っ面に一撃いれる余裕さえあったのだ。今一度甲高い悲鳴が耳に届き、奴は距離をとる。もう一度怒りに燃えて襲い来るが、それは目に見えて鈍い。おや、再生機能を持っているわけじゃないのか? と意外に思うが身体は既に脳天に仁王をめり込ませている。
 クリーンヒットだ。もしや、それで終わるかと期待したが次の瞬間には見事なまでに逆方向に裏切られた。命中し、手に確かな手応えを感じた瞬間に奴は生まれ変わったように俊敏な動きで爪を繰り出して俺の腹を抉った。
 幸いにも掠めた程度だったが、そこらのなまくらなど比較にならない切れ味に血がどんどんと流れ出す。犬のくせに猫の真似をするとは恥知らずめ。
 痛手は受けたが、俺も全く収穫がないわけじゃない。確実とは言い切れないが、再生したりしなかったりのタネが分かったかも知れない。
野郎は再生機能を持っているわけではないのだ。
 こいつが持っているのは、似て非なる力。先ほどの一撃と今の一撃の間には、明確な差があった。呂布の相手をしている隙を突いた一撃と、俺自身を狙った隙に打ち込んだ一刀……より重かったのは、前者だ。
 俺の血が付いた爪を屋根の上に下ろし、猛犬は唸り声を上げる。俺は威嚇を無視して呼吸を調えた。
 犬神退治の力でこそ、こいつは討てるのだと聞いたがそれは何故か? 解決後、せつらに話を聞いた時には再生機能のせいだと勘違いをしていたが、それは妖犬の力ではなく依り代になった犬の力だった。
 だったら、犬神退治の剣で切る必要がどこにあったのか。せつらの糸でも犬の足は切り落とせただろう。再生機能を妨げる為ではないのなら一体、技の意味はどこにある。
その答えが、これなのか。
 剣を構えた俺と犬の影が交差し、襲い来る犬を迎え撃った俺は無様に地べたを背中で擦り、犬は後ろの右足をへし折られてへたり込んだ。
 そのまま、びっこを引いて立ち上がったそいつだが……それまでとは違う、明らかに警戒の色をした目で俺を見ている。今し方俺が使ったのは、かつて身につけることが出来なかった出来損ないの技だった。
 念を篭めたことで威力は跳ね上がった。妖物に対してはなおのことだろう。それらを考慮してもこれまでにないほど明確な警戒心を剥き出しにして、俺の動き、仁王の切っ先を伺うように回り始める。
 理解したのだろう、自分の足がもう再生することはないのだと。
 相手の最大の武器は機動力だ。それを奪った今こそが勝機である。そう判断した俺の振った仁王は、しかしあえなくかわされる。所詮は未完成の技だと誰よりも理解しているからこそ、俺は千載一遇のチャンスに大振りを振ってしまったのだ。その上、太刀筋は犬神封じの技の為に俺本来のそれではなかった。
 例え足をへし折られていたとしても、そんな剣で討てる猟犬ではなかった。
 逆にカウンターを食らって血しぶきを上げながら地べたを這いずった俺は、装備を整えてくるべきだったと後悔しながら起き上がり小法師のように立ち上がると、仁王を再度正眼に構える。しかし、既に目の前に黒い猟犬の姿はない。
 喰いかけの獲物も遠く置き去りにして、彼方に距離をとると未練ありげに一度は口の中に収めたはずの肉を見て、それから俺を見る。安全に逃げるべきか、それともあくまでも食欲と怒りに従うべきかを迷っているのだ。
 痛み、怒り、警戒、飢え、それらが混同されて犬の足を縛り付けた。その隙にじわじわと間合いを詰める。
 逃げられるのはいかにもまずい。
 未完成の技では時間をおけば回復の可能性もあり、技に対抗する手段を邪悪な脳が思いつく可能性も大いにある。対してこちらは、張遼が戦線復帰しようと屋根に辿り着いたところだ。決着は今ここでつけた方がいいだろう。
 気になるのは、ガキンチョの怪我の具合だが……見ている余裕がない。彼女の側にいる呂布が応急処置でもしていることに期待するしかない。逃げてもらった方が迅速に治療に移れるかも知れないが、ここで逃せば獣は獲物を取り戻しに来る。
 耐えてもらうしかない。ガキンチョを連れて猛獣狩りになど来るからだ、くそ。
 来い、来い、来いと繰返し内心で誘いをかけるが、言葉ならない思いは生憎と届かなかった。突如、階下の住人が罵声を上げたからだ。いい加減、騒ぎに耐えきれなくなったらしい。
 俺が言うのもなんだが、なんでこんなタイミングなんだ。
 破られた均衡は猟犬に逃走の道を選択させ、俺達を怒りに満ちた目で睨み付けるのを最後に奴は闇の中に消えた。足一本折れているとは想像できないほどの見事な遁走っぷりだ。
 それで、その夜の事件は終わった。
 明くる朝。
 出血多量のガキンチョだったがどうにか止血を間に合わせ、その足で姿を眩ませた俺は、人目を避けて降り立った路地裏で意識を失った。
 黒い猟犬に負わされた傷の出血が許容範囲を超えた為だ。その時の俺は、黒犬どころかそこら辺の痩せ犬の餌になる程度に無防備だった。
そのおかげで、目の覚めた今、牢屋に閉じ込められているような無様を晒す羽目になった。
 最も目が覚めて最初に思いついたのは、死なずにすんでよかったと言うむしろほっとさえしたのだから、場違いかも知れない。だが、意識を失う時には死ぬかも知れないと かなり危機感を抱いたのだから、当然と言えば当然だろう。
 まずは生きていることを自覚すると、次に目が向くのは一体ここはどこなのか、自分はどうなっているのかという現状の把握だ。
 俺が現在いるのは牢屋。服の隙間には包帯がのぞいており、かなり適当だが死なない程度には治療がされているようだ。拘束も別にされていないのは、傷と適当な治療が縄代わりのせいだろう。俺の回復力を侮ってくれてありがとうよ。
 体内時計を探ってみると、どうやら一晩明けた午前中と言うところだ。飯を食いたくなってくるような時間だな。
 広くもない牢で立ち上がると、適当に身体の調子を探る。まあ、見た目以上の問題はない。胸の傷が痛んだり、失血のあまりで多少調子が悪いという程度だ。充分な栄養さえあれば二、三日で元に戻る。
 ……飯か。
 このおざなりな治療を見るに、ここがどこであれ飯を要求してもそれが通ることはないだろう。ただでさえ国その物が切羽詰まっているのに。
 ぐるりと見回せば、木で出来た格子に石造りの壁といかにもな雰囲気の牢屋だが、別段罠も術もかけられてはおらず、出たければいつでも出られる。睡眠は充分に取ったのだから傷を癒すのに必要なのは、飯だ。
 ……出るか。
 同じように連なる牢の端に出入り口があり、側には椅子に座った牢番らしき男が棒一本を抱いて眠たそうにこっくりこっくりやっている。彼には悪いが、出し抜かせてもらおう。
 俺が勝手に決めた一分後には、牢番が傷一つ無く床に崩れて意識を失った。気付かれずに出て行くことは出来たが、あえて怪我をさせずに意識を絶ったのは彼に対するささやかな気遣いだ。
 もしも治療してくれたのがこの男だったなら、と頭によぎったのだ。そんな相手を叩きのめすのは気が引けるが、何もないまま俺が消えていれば、職務怠慢の誹りは避けられず、最悪逃がしたと思われかねない。
 他の誰にもわからない珍妙な気遣いをしている自分にやった後で妙に気恥ずかしくなりながら、俺はまず厨房を捜した。この時間帯でも、残り物くらいはあるんじゃないだろうか。
 さて、匂いと建物の構造から適当に当たりをつけてどうにかこうにか厨房を見つけると、そこには鍋一杯の粥がある。側にあるのは焼いただけの鶏肉に肉まん、か? 当たり前だが毒も入っている様子はなし、美味しく頂けるだろう。
 呂布にあれこれと偉そうなことを語った割には、とも思うが迷惑料だ。盛大に失敬させてもらうことにしよう。
 厨房を捜している間に気が付いたのは、恐らくここは兵舎だと言うことだ。
 そこかしこに置いてある鍛錬器具に武具、どこからともなく聞こえてくる気合の声に目を向けてみれば、鍛錬をしている兵士の姿が見えた。正規兵だった。
 恐らく、俺を見つけた呂布や張遼が牢にぶち込んでくれたんだろうが……くそ、昨日あいつらをつけた事を後悔するかもなとは思っていたが、こう言う意味でとは想像していなかった。
 二度と余計なお節介などするものかと固く誓いながら、適当に目に付く食い物をごっそりとかすめ取る。血が足りん。
 適当な物陰に潜み、食べ始める。味が薄いが、この時代のこの国じゃあ上等な飯だ。元々ただの栄養補給だと言う前提でもある、細かいことは考えずに箸を進める。
 そんな俺の前を、一人の兵士が慌てた風で通り抜けようとして足を止めた。
「何でこんな所に食いかけの飯があるんだ?」
 男はそう言って、首をかしげながら肉の入っている器を取り上げようとしたが……その場で昏倒する。
 彼には認識できなかっただろう。その場に脱獄者がいることも、そいつが自分の顎を弾いて意識を絶った事も。
「俺は隠せても、飯は隠せないか……まあ、仕方が無いよな」
 肩をすくめると箸を早めた。倒れている兵士がいる以上、人は集まるに決まっている。消化に悪いが、仕方があるまい。
 それにしても、こうやって官憲に捕まった以上、洛陽にはいられないだろう。黒い猟犬を放っておくのもないだろうが、生き残れたら孫策のいる街にでも身を寄せようか?
「……見つけた」
「!?」
 聞き覚えのある声がこちらに向けられて、仰天させられる。
「ほんまか!?」
 口の中を一杯にしている俺に、はっきりと視線が向けられる。目を向ければ、赤毛の女が俺を見ている。
「……嫌になるな。見つけられるのかよ」
 側に目印となる料理が置いてあるとは言っても、よもや隠行が破られるとは思ってもみなかった。俺は例え全身に血をかけられた状態でも、飢えた犬に肉と認識されないように出来るよう修練を重ねた。
 それを破ると言うことは、こいつの勘は飢えた野生の本能さえ超えていると言うことだ。腐っても鯛、小娘でも三国最強と言うことか?
「見つけられたのは、俺のようだな」
 呂布と張遼だ。
「飯がまずくなるような顔だな」
 驚いている張遼を引き連れてまたも飯時にこの女はやって来た。毎度俺に食い物を食わせまいとするとは、何か恨みでもあるのか?
「どっから持ってきたんや、その飯」
「心優しい兵士からの賜り物さ。善意で捕り物に協力してくれた市民に対するささやかな謝礼だろう? 昨夜の寝床も含めて、なかなかの好待遇だ」
 もちろん皮肉である。
 呂布は無表情のままだったが、張遼は顔色が変わった。わかりやすく苦虫を噛み潰している顔に、彼女らに気を許すべきではないなと結論づけた。特に、未だに顔色も変えない呂布は要注意だ。 
「不景気な顔じゃないか」
「あんまり景気のいい顔はできんような心境でな」
 それはそうだろう。
 俺は部外者だからどうでもいいだろうが、一人は喰われかけ、一人はボロボロ。目の前で喋っている女などは一矢も報いることは出来なかったのだから。
「いい匂いさせている所、悪いけどな。ちょっと味気ない話をしなければあかん」 
「……昨日のガキンチョの容態でも変わったか?」
 俺の言葉に張遼は意表を突かれたような顔をしたが、すぐに肩をすくめた。
「そう言えば、礼を言わなあかんな。あんたのおかげで、あの子も命を取り留めたわ」
「……ありがとう」
 それならいい。にかりと表情を変えた女と、厳しいままの女に手を振った。改まって礼を言われるなど、落ち着かなくて仕方が無い。ましてや、守り切れたわけでもないのにかしこまられては居心地が悪いにも程がある。
「そんな命の恩人であるあんたを牢に入れたんはすまないと思っている。でも、うちらは事と次第をはっきりさせんといかん立場でな」
 続きのセリフを耳にして自然と不機嫌になる俺に、張遼は改まった顔をしてくる。力を貸してくれたと礼を言われるか、それとも胡散臭い奴と追求されるか。礼を言われると思うほど脳天気に出来ていた事は一度も無い。
「あんた……何であんな所にいたんや」
 そら来た、としか思わなかった。この女が何を言い出そうとしているのかは大体想像が付く、使えそうだから弱みをついて使おうという所だろう。そう言う手合いには随分と出会ってきた。性質の悪い連中に顎で使われなくなったのは金髪の美女刑事と出会ってからである。
「……」
 さて、どうしようかと考える。昨夜はともかく、食べながらずっと考えていたが上手く話をするなんて器用な真似は出来そうにない。そもそも、そんな真似が出来るのなら後をこそこそストーカー紛いに付け回すようなみっともない真似をする必要はないだろう。
「事前にああ言う申し出があったんはそりゃあ覚えている。ただわからんのは、どうしてあんさんが断られた後もうちらに手を貸そうとつけまわしとったんかや。こう言ったらアレやが、うちの音々もあんたに随分ひどいことを言うとった。うちらもその言い分を結局は聞いた。そんなうちらをなんだってわざわざ?」 
「どんな裏があるのかって? ただ、大変そうだからお節介に出ただけさ。やましいところのある人間は、真っ当な善意を曲解したがるから困る」
 こう言う言い方をされて鵜呑みをするような奴は、よほどひねくれているか馬鹿でしかない。どうやら、張遼はどちらでもなさそうだった。
「……これから、うちらの知恵袋に話をしにいってもらう。あんたを牢に閉じ込めると言い出したんはそいつや。あんたの言う、やましいところがあって善意を曲解したがる人間の上に頭もええから、素直にならんと大変なことになるで? 仮にも今は御国を左右する立場におるんや、下手に突っ張ってもろくな事にはならん」
「そう言う奴は、素直に話しても納得しないで拷問にでもかけるだろう? 聞きたいのは自分にとって都合が悪くて、なおかつ利用できそうな話だけだからな」
 何をどう言おうとも、誰かさんは自分が納得いくまでは追及の手を休めないだろう。人権など言葉さえない時代の取り調べか、ぞっとしないね。
 二人に肩を掴まれ、立たされる。その時にはもう、料理は全て俺の胃の中に収められていた。睡眠と栄養は取った、おかげで随分と体力と気力も回復はした。
 後はせいぜい楽をさせてもらおうかと、俺は自力で歩くのを放棄して彼女らに引きずられるように運ばせる。運ばれるのはごめんだが、運ばせるのなら構わない。嫌がらせにもなる。
 案の定、張遼は顔をしかめるが呂布の方は相変わらずだった。何を考えているのかわからん娘だ。
 ……それにしても、俺が会おうとしているのは一体どんな奴だ?
 張遼が言うように、あの犬の事を始めとして俺に聞きたいことがあると言うのは理解できる。しかし、誰がわざわざそんなことを聞きたがるんだ? 
 恐ろしかろうが大きかろうが、犬は犬。現場の判断でさっさと殺してしまえとでも言う物じゃないだろうか。国を左右するような立場でいちいち気にするか? 特に、異形や魔と言うものを理解していないのであれば尚更だろう。
 いいように引きずられているのはそこに興味が湧いたからであり、そしてもう一つ、国家の重鎮であるのなら、もしや俺の助けになるかも知れないと思ったからだ。
「…………」
 取引とか商談とか苦手なんだよな、と相変わらずの弱音を内心で吐きながらも、表面だけはふてぶてしい顔を保ちながら引きずられるという珍妙な真似をしていると、やがて女達の足が止まる。
「本当に最後まで歩かなかったな……」
「行きたくもないからな……で、ここはどこだ」
 あくまでも飄々としながら移動の間は言われるままに閉じていた目を開けると、竹簡や紙の書簡が山になっている部屋で、三人の女がこちらに向けた目とぶつかった。
 一人は、銀髪の若い女だ。
 大きな長柄の戦斧を片手で支えつつ、険のある鋭い目で俺を見ている。若干露出の少ないビキニアーマーのような奇抜な格好をしているが、いい加減見慣れてきた俺の目には張遼に比べればまだしも慎みがあるように見えてしまう。
 残る二人は、まるで宮女か姫のような格好をしている十代半ばがせいぜいの少女達だった。彼女ら二人は机に座って書類仕事をしているらしく、手には筆を持って山となった竹簡と向かい合っている。
 銀髪はその側に控えるように立っており、おそらくは護衛か何かなのだろう。しかし……俺はこの国の中枢を仕切る人物に会いに来たはずだが、ここには少女が二人いるだけだ。護衛にしてもせいぜい二十歳前後にしか見えない。
 席を外しているのかもと思ったが、机は二つしか無くてそれぞれ埋まっている。
「…………」
 なんと言っていいのか分からなくなったので、とりあえず二人を観察することにした。
 一人はまるで深窓の令嬢と言うようなイメージを形にしたような娘だ。白、ないしは紫がかった色の髪は緩く波打っており、その下の落ち着いてはいるがどこか儚げな印象を与える顔が、そんなイメージを抱かせる。
 もう一人は……こちらはあからさまに険のある目で俺を見ている先の娘よりは若干年上ながらもやはり小娘としか言えないような年齢の少女だ。
 頭には帽子を被り、険のある眼差しを眼鏡で更に増加させているのが印象的で、顔立ちその物は整っていると思うが、第一印象では金切り声か皮肉な声でしか話をしなさそうな娘だ。刺々しいにも程がある。
 新しい登場人物がいないのであれば、おそらくはこの娘が俺を牢に閉じ込めようと言い出したのだろう。あからさまに罪人を見る目で俺を見ている。
 正直に言えば、どちらもそれぞれの意味で苦手なタイプである。一人は話しかけただけで泣き出すか倒れるかをしてしまいそうだし、もう一人は言わずもがなだ。思わずげっそりしてしまう。
 呂布もまたいまいち分かり辛い女だが、この部屋にいる女達は誰も彼もがやり辛そうだ。どうやらここのところの俺は女運がないらしい。
「その男が、問題の工藤某?」
「そうや」
 誰が問題だ、と冷めた目でやりとりを見るとひょい、と立ち上がった。拘束していたはずの自分たちの手を何時の間にか解いている俺に、女達が目を丸くする。
「よっと」
 とりあえず、半分ムキになって引きずられるままにしていたのでストレッチをやって身体を解すと、改めて伸びをした。
 さて、どうしようか。
 ごきごきと音をたてて首を鳴らしながら、一体この面々を相手にどうすればいいのかを考える。
 とどのつまり俺の目的はあの黒犬を倒す事でしかないので、それ以外はどうでもいいと言えばどうでもいい。ここに来るまでに一つだけ思いついた事があるが、この面々を見ていると、いまいちやる気が出てこない。
 最初から、あからさまに険のある目で見ているような相手と仲良くするような真似ができる自分だとは思っていない。むしろとっととトンズラしようかと後ろ向きな熱意さえ生まれてしまう。
「あ、あの……」
 どうせやり玉に挙げられるだけなのだし、問答無用で牢に入れるような奴と会話など成立しそうにもなく、する気も無い。向こうにしてみれば俺は怪しい男でしかなく、俺にしてみれば、手を貸したにも関わらず牢に閉じ込めた連中だ。
 仲良く出来るわけもなし、その気にもならないなと結論を出した俺は左右を固める二人をどうやって出し抜くかを考え始めたが、それに水を差すように声をかけられた。目を向けてみると、声の主はあの令嬢風の娘だった。
「私、董卓と申します」
 どこかおずおずと、見知らぬ男を相手に人見知りをしているような口調は見た目にいかにも合っているが、今彼女はなんて名乗ったんだ? 
「うちの音々ちゃんを助けてくださって、ありがとうございました!」
 聞き違えたのかと耳に飛び込んできた自己紹介を再現している俺に、意を決したように礼を述べてきた。
「ああ、どういたしまして……?」
 いろいろと気にかかる事をが出てきたが、礼を言われたのだから適当に返事だけはしておく。牢に閉じ込めた俺に今更改まった礼を言うとは妙な娘だが、それ以上におかしいのは名乗った名前だ。
 董卓だって?
 聞き違いでなければ、確かに彼女はそう名乗った。名前が似ているだけの他人か? それともまさか当人か?
 曹操や劉備が女の世界だから、巷で噂の董卓が小娘であってもおかしくはない……んな訳がねぇ。
「……董卓って言ったのか?」
「は、はい」
「…………」
 肯定されてしまい、二の句が告げられなくなった。こんな気の弱そうな子供が舵取りをする国だって? 悪い冗談にも程があるだろう。
 いや、これは芝居かも知れん。
 それとも、院政のように彼女はただの看板に過ぎない? ……いや、俺は一体なにを考えているんだ。別段、彼女が董卓だろうと皇帝だろうと俺にとってはどうでもいい話でしかないだろう。頭を悩ませる必要などどこにも無い。
「ちょっと、月! こんな怪しい男に何、お礼なんて言っているの!? 私達はこいつを尋問する為に呼んだのよ」
「へう……でも、音々ちゃんを助けてくれた人にそんな事をするのはよくないよう……」
 眼鏡をかけた方が、想像通りの刺々しい声で董卓と名乗った少女に噛みついた。教育ママのような態度であり、それ相応に相手には怖がられているらしい。嫌われてはいないようだが。
「……尋問、ね……善意で協力した男になんてひどい話だ。ささやかな善意を踏みにじるような国は末期もいいところじゃないか?」
「善意? きっちり断られた後もこそこそ後を付け回していたような男が? 売り込みの方がまだしも真実みがあるわね」
 どういう説明をしていやがるのか、この二人は。
「売り込まれるほどのものかよ、金切り声の小娘風情が」
 物言いがあんまり癇に障って、三人分の憤りを篭めると思いきりよくやり返す。途端に、眼鏡娘の顔は真っ赤になった。俺のような男に言い返されるなど許せない、どころかそもそも想像さえしていなさそうだ。
「へえ……随分といい度胸をしているのね。一介の市井の男がこのボクによくもそこまで言った物だわ……」
 余計な事を言ったのは百も承知だが、こういう時には引かないようにしている。世の中、引いてしまえばそれ以上に踏み込んでくるような図々しい奴しかいないのだとは経験論だ。大体、さっきからの繰り返しにはなるが俺は彼女の同僚を三人も助けた側だというのに、随分な扱いではないか。
 それを笑って流せるのはただの馬鹿か大物だ。もみ手をしながら生きていけるなら“区外”で大学に行きながらサラリーマンでも目指している。
「抜かせよ、ガキンチョ」
 顔面が引きつりを起こす少女の隣で、斧を持った腕が動いた。木を切る事は出来そうにないが、人を斬る事は出来そうな斧が俺に切っ先を向けたのだ。
「やめや、華雄! 殿中で刃傷沙汰を起こす気か!」
 問答無用を態度で表したのは、むしろ好感が持てる。こちらも同じように出来るからだ。わかりやすさについ口元がほころぶ俺を見て、華雄とやらが生意気なと言わんばかりの目で睨み付けてくる。どうにも俺は、この国の女とは相性が悪い。
「そこまでにしてください!」
 お互いに譲るつもりのない双方がとうとうぶつかろうかという絶妙なタイミングで口を挟んできたのは、似合いもしない大声を上げた董卓だった。彼女の鶴の一声に動きを止めた華雄に俺から襲い掛かるわけにもいかず、結局どちらもスタートダッシュで肩すかしをくう事になった。
「何故ですか、董卓様! この男は我らを侮辱したのですぞ!」
「彼は私達の恩人です。張遼、呂布、陳宮の三名の命は彼によって救われたと聞きます。その人を牢に閉じ込めただけでも忘恩の誹りは免れないというのに、ましてや尋問、あまつさえ刃傷沙汰など許されるはずがありません」
 それまでの気弱さを一転させる毅然とした物言いに、ぐ……と黙り込んだのは華雄よりも眼鏡の娘だ。
 おそらくは、この娘が俺の投獄を指示したのだろう。理由は、あの黒犬への対策か。
 呂布と張遼、俺が知っているのは後世に伝わる二人の評判であり、今現在の青二才と言える年齢の時にどれほどの実力を持ち、そして評価されているのかは知らないがそれでも一角の武将ではあるのだろう。
 この二人の服装ではそもそも武将であると言う事自体驚きだが、ともかくそんな二人を圧倒した黒い猟犬の力を警戒した彼女は、一矢報いた俺の力か、あるいは情報か……それらを強く欲したのだろう。
 だからといって投獄に走るのはおかしなものだとは思うが、それは恐らくこの女の性格だろう。俺のような男が言う事など信用できないとでも思ったのか、俺などに礼を言う事さえ惜しいと思ったのか……とにかく真っ当に話をするのではなく、脅して口を割らせてやろうと思ったから、牢に放り込んだのだ。
 武辺者の分析に過ぎないが、それでも完全に的外れというわけでもあるまい。ただ、俺に分からないのは董卓という娘の立ち位置だ。
 本当に真摯に謝罪をしたのか、礼を示しているのか。あるいは、単に飴と鞭を目の前で演じているだけなのか。ヤクザ者ならともかく、古代の政治家の考えなど察しをつける事も難しい。
 目の前でこんなやりとりをしているのがあざとい芝居のように見えるのは、いい加減害した気分に引きずられすぎて冷静さを失っている証拠だろうか。
「……あの犬と同じ奴が、俺の住んでいた街に出てきた事がある」
 あれこれと頭を悩ませる事にいい加減にうんざりしてきた俺は、頭をかきながら口を割る事にした。何はともあれ、こんな所で拘束されている事が苦痛だったのだ。これ以上、関わり合いになりたいとは思わない。
 向こうが聞きたい事は、幾らでもぺらぺらと喋る。それでも向こうが色気を出して、俺を拘束しようとするなら力尽くでも出て行くだけだ。
「その時は二ヶ月ほど暴れ回って、ようやく退治されたが……街から消える際に、一匹じゃなくて群れだったらしいと言う話も聞いている。だから、呂布から噂を聞いてもしや同種かと疑った。あれと同種なら、死人がどれだけ出るか知れた話じゃない」
 ちなみに、“新宿”でさえせつらが倒すまでの死者数は六十人を降らない。たった二ヶ月で、魔界都市の住人を食らいまくった様は正に魔犬だろう。その中にはそこらの無力な“区民”とは訳が違う、“新宿”特有の技術で作り上げられたサイボーグや、特殊なカビに感染されて異常な凶暴性と怪力を発揮する“原人”も多くいたのだ。
「奴がこの街に現われた理由はさっぱり分からん。遠く西の国である一族が狙われた際には、たまたまそいつの通り道に家があったからだという話だ。俺の住んでいた土地に現われたのは、あの街に腰を据えた血族を追ってきたからだと聞いている。その後、問題の一族の男は奴を滅ぼす為の技を身につけ、倒しはしたが、奴の怨念は滅ぼせずに時を超えて甦った……もう一度怨念まできっちり滅ぼされるまでに、六十人以上は殺害してな」
 いや、むしろその技があるからこそカーナボン一族は海を越えて魔界都市と呼ばれる街に現われたに違いない。
 それにしても、通り道に家があったと言うだけで海まで越えて執拗に追い掛けてくるか? 妖物の考えている事は、時として人間だけでなく野獣の理解さえも超えているいい証拠だ。
「ちょ、ちょっと待ちなさい」
 詠、と呼ばれていた娘が手を上げて遮ってくる。真名だろうから呼びはしないが、自己紹介もないのな。
「あんた、今なんて言ったの。怨念ですって?」
「食いつくのはわかっていたよ」
 うさんくさいと目で語っていたのが、この詐欺師めにグレードダウンした。この時代だからこそ、その手の物への抵抗は少ないと思ったんだが……まるで“区外”の住人のような反応だ。これはやりづらくなるだろう。
「あんた、絶対に詐欺師ね。言うに事欠いて、怨念ですって? 馬鹿馬鹿しい……ボク達が、そんな戯言を真に受けると思っていたのかしら!?」
「別に真に受けようと受けまいとどうでもいい」
 小銭をせびろうと思っているわけじゃない。これをきっかけに取り入ろうとも思わない。どのみち、幾らもしない内に“新宿”に帰るか、劉貴筆頭に妖姫一行の誰かに殺されるかだ。
「恋は信じる」
 だからこそ呂布がこう言ったのは、俺にとっては別段助けでもなんでも無く、むしろややこしくなりそうだと思う。初対面の三人の目が俺と彼女の間を交互に行き交うのには、内心で頭を抱えたくなるほど参った。
「なんですって?」
 案の定、瞳の中に危機感が生まれた。詐欺師が身内を取り込もうとしている、とでも思ったのだろう。
「ウチも信じるで」
「霞!?」
 彼女の発言には、まだ冷静さを取り繕えていた眼鏡娘も表面に驚きを出してしまった。ますますややこしくなりそうな展開に、とうとう顔を手で押さえる。
「……心配しなくても、あんたらから金をせびろうだの恩に着せようだの持っていないから安心してくれ」
 恩は既に仇で返されているしな、とボソリとつぶやくと呂布以外の四人が引きつった顔をした。いい気味だと思う俺は疑う余地もなく器の小さい男だろう。
「ま、まあその辺の話は賈駆っちと工藤で話し合ってもらうとして……うちらは二人ともあの犬をしっかりと見たし、戦いもした。こてんぱんに負かされたからという訳でもないけど、アレは確かに真っ当な生き物や無いと思う。強いとか弱いとかや無くて、もっと別なところで普通じゃ無いと思った」
 話している内に張遼の顔は、真剣を通り過ぎて深刻にまでなる。そこに何を見たのか、三人は何も言わずに彼女の顔を見て、次いで呂布の変化に乏しい顔を見た。
「恋もそう思う。アレは普通の犬じゃない……怪我をしてもすぐに治った」
「? どういう意味よ」
「工藤が殴った傷が、途中で治った。あの時、見ていた恋は犬が死んだと思ったけど逆に元気になった……よくわからない」
「わからないのはこっちよ……」
 説明になっていない説明に、眼鏡娘が頭を抱えそうになる。いつもの事なのかと勘ぐりたくなるほどに妙に板に付いている動作に、場をわきまえずに笑いたくなったがこらえると、話に割り込む。
「アレはそう言う物だ」
 視線が一気に集まるのに居心地の悪さを感じながら、なるべく動揺を表に出さないように話を続ける。今までの人生で、こうやって人の注目を浴びるような事は考えた事もなかったので落ち着かないにも程がある。
 一瞬、天の御遣いの事が脳裏によぎった。
 あいつは一体どういう人生を送ってきたのか。普通に考えて、当たり前の高校生のガキならば外国で天の御遣いなどと名乗って衆目を集めるなど出来るはずがないと思うのだが、よほど肝が据わっているのか、理解できないほど無神経、あるいは馬鹿なのか。
 そのどれでもないとすれば、相当に特殊な人生を送ってきたのかも知れない。ただのガキが特殊な道具で世界を超えるというのもおかしな話だし、あるいは俺達に知らされていないか本人が無自覚なだけで、特異な何かを持っているのかも知れない。
 先祖に妖物でもいたか、あるいは何らかの祭司の血でも引いているとか……
「あいつに痛手を与える事は出来る。現に、呂布が何度かあいつに有効な攻撃を当てていた……だからこそ、狙われた訳だが」
 おかしな方向にずれていく思考を抑えながら、頭の中で話をまとめる。
「あいつは特殊な技でないと、倒しきれない。それが厄介な所なんだ。端的に言ってしまえば、とどめが刺せない。痛手を与える事が出来ても、とどめを刺せばそこから一気に元に戻ってしまうんだ」
 俺は昨夜のあいつを見て、そう断定した。再生機能を持っていない分、“新宿”で開発されたドーベルマンに取り憑いた死霊よりもまだマシかも知れないが、それでも充分に恐ろしい敵だ。
「ちょ……なんや、それ! 殺せない敵やとでも言うんか」 
「加えて、鉄でも軽々と噛み砕く顎や爪。常人には視認さえも難しい縦横無尽の高速移動、知能もそこらの人間よりもよっぽど高い」
 せめてもの救いは、飛び道具のような物は今のところ見付からないという事くらいだ。
「だが、何よりも問題なのは奴の食欲と残虐性だ。俺の知る限りでは、一度に二十人以上を殺害して合計三人分の肉しか残らなかったらしいからな。それだけ食いまくったんだ」
 食欲だけなら負けないのが隣にいるので、妙に説得力があったようだ。当の彼女は、周囲から向けられる視線の意味に気が付いたのだろう表情の動きには乏しい物の、それでも分かる程度には不満そうだ。
「……恋は人間なんて食べない」
「そ、それはそれとして……鉄でも軽々噛み砕くって、何の冗談よ。そんな犬……いいえ、生き物がいるとは思えないわ。虎でも無理でしょ」
「恋の武器、噛み砕かれた」
「…………」
 思えば、よく陳宮とやらはあの小さな身体がつながったままですんだ物だ。あの犬の爪が直撃したのだから、力任せに真っ二つになるのが当たり前だ。
 恐らくだが、その後の犬の行動から察するに手加減したのだろう。邪悪とさえ言ってもいい黒犬の脳は、陳宮と側にいる俺達の戦力を見切って目の前で嬲る事に楽しみを見出したのだ。
「残虐性と高い知性、と俺が言ったのは覚えているか? 奴はただ食う為に人を襲っている訳じゃない。楽しみで人を襲い、弄んだ上で殺して食う。おまけに恐ろしく執念深い奴だ。まず間違いなく、奴はあの陳宮とやらの居場所を掴む。餌を逃がす玉じゃない」
 俺の手が奔り、呂布の腕を押さえた。
「ねねは餌じゃない」
「失言とは敢えて言わない。黒犬にとっては餌でしかないと理解しておかなければならないのは、守るお前の義務だ」
 抜剣しようとした呂布の腕を先んじて押さえ込むが、とんでもない力だ。先んじて取り押さえる事が出来た俺は体勢が圧倒的に有利なのだが、それでも徐々に押されつつある。
 この華奢な身体にこれだけの力があるとは、本当にどんな中身をしている事か。男の沽券に関わるが、力比べをしても勝ち目はなさそうだ。
 このまま押し切れると思ったのだろう、呂布の腕になおの力が上乗せされる。だが、彼女は突如その場に膝をつく。そのまま立ち上がらないが、自分の意思ではないのは彼女の表情を見れば明らかだ。まるで巨人に上から押さえつけられているかのように、彼女は苦悶を顔一杯に浮かべて無表情を崩しながら、立ち上がろうとしても立ち上がれない。
 なんの事はない、ただの合気道の基本である。だが、この国ではまるで未知の神秘だった。合気道の先達は、天下無双に膝を付かせたと喜んでくれるだろうか。
「何を、しているの……っ!」
「教えてやるほど親切には出来ていないな。力を抜けよ、気軽に刃傷沙汰にするなんてそれこそ黄巾みたいじゃないか」
 つい先日までの国難と同列に扱われるのはさすがに嫌なのか、ようやく力を抜く呂布に俺も技を止める。何事もなかったかのように立ち上がる呂布は、じいっとこちらを見つめてきた。
 何を考えているのか、それとも何も考えていないのか。
 居心地の悪い視線から逃げる為に目をそらすと、驚きと賞賛の眼差しを向ける張遼と目が合った。
「す、凄いやんか。この恋を軽々と取り押さえるなんて……今のは妖術か!?」
「俺の故郷の技だ、術じゃない」
 聞き逃せないセリフに思わず反射的に言い返して、呂布とは別方向に居心地の悪い眼差しを隠しもせずにぶつけてくる張遼から目を逸らすと、今度は驚愕と警戒を剥き出しにした眼鏡の娘、警戒と嫉妬らしい感情を露骨に表す華雄と目が合った。こっちの方がまだ落ち着くとか、我ながらどうかしている。
「あんた、一体何者よ……言っておくけど、おとぼけは無しよ。恋を手玉に取るなんて、この国の武人を総当たりしてもまずいる訳がないんだから」
「……それはそれは」
 あんまりな言葉に、俺は他国の事とは言っても残念な気持ちを抱いてしまう。例え後の英雄とは言っても、一介の小娘に敵わないとはこの国の武は一体何なのか。せめて、彼女の世界がよほど狭いという可能性に期待しよう…… 
「俺は一介の賞金稼ぎだ。他に何と言われても言いようがない。おとぼけだなんだと言われようともな」
 実際、なんて言えばいいんだ? 異世界の住人なんです、なんて馬鹿を真正面きって口にするつもりなんて毛頭無いぞ。
「そんな事はどうでもいい」
 割り込んできたのは、呂布だった。
「あの犬は、ねねを狙ってやってくる。獣はそう言う物だから、工藤の言う事は分かる。大事なのは、あの犬は強いという事……工藤は、あの犬を倒せるの?」
「たぶん、一対一じゃ無理だ」
 あっさりと俺は敗北を口にする。どうしようもなく事実なんだから、仕方が無い。誤魔化す所でもないだろう。だが、それで納得がいかないのが目の前の眼鏡だ。
「はぁっ!? じゃあ、あんた何をしに来たのよ!」
「……気を失っている内に勝手に連れてこられた。別にお前達に用なんぞない」
 一瞬口ごもり、次に顔を真っ赤にする。そろそろ口から火が出るかも知れないなと少しばかり期待感があった。
「むしろ、それは俺が聞く事じゃないかと思うんだが」
「ああ、もう。そこまでにしとこうや、二人とも。話が進まなくて仕方が無いし、こんな空気は居心地悪くてしゃーないわ」
 好んで火に油を注ぐ俺に呆れの目を向けてから、張遼は俺達の間に手を広げて割り込む。
「霞は引っ込んでいて!」
「阿呆言いな。賈駆っち、あんたと工藤じゃあからさまに相性が最悪や。腹を割って話せばすむような相手に、余計な事ばっかりしてこじれさせよる。大体、牢に閉じ込める事だっておかしいんや。話を聞いた時には、目を覚ましたばっかりだって言うのにまた眠りたくなったで? とりあえず、あんたこそ引っ込んどり」
 聞き分けのない子供に向けるような言葉に顔を真っ赤にした彼女……かくっちとやらは、俺のせいで沸点が極端に下がっていたのだろう即座に暴発した。
「な、何よ! あんた昨日は犬ころ一匹に役立たずだったくせに、何様のつもり!? その上、そんな怪しい男に懐柔されるなんてどこまで恥をさらす気よ!」
「詠ちゃんっ!」
 口にした途端に董卓の厳しい叱責が飛び、言った当の本人も失言を自覚して顔色を青くすると口元を手で押さえた。
 彼女の側に立つ武人の内、二人……華雄と呂布は厳しい目で失言の主を見ている。いいや、睨んでいる。彼女らも、今の発言には部外者の俺などが慮る事も許されないほどの様々な思いがあるのだろう。
 だが、罵られた当の本人は意外と冷静だった。 
 思うところはあるのだろうが、ため息を一つつくと腹の中の感情全てを追い出して、気持ちをまっさらにしている。彼女のため息一つでびくりと震える小娘とは随分な違いだ。
「賈駆、あんたの言う通りに昨夜の張遼は役立たずや。何も出来ずに犬一匹に吹っ飛ばされた後は、恋と工藤の奮戦を見ているだけ……返す言葉はあらへんよ」
 まったく、情けない限りやと一言愚痴をこぼした張遼が俺に対していきなり跪いた。それだけでも驚きだというのに、彼女は石作りの床を叩かんばかりに勢いよく頭を下げたのだ。
 土下座に似ているが、こちら独特の何かだろう。
 映画や漫画で見た事はあっても、名前も知らないような作法だが意味するところは余すところなく伝わってくる。
「なっ……やめろ、張遼! 貴様ほどの武人が貴人でもない相手に頓首だと!?」
 華雄が声を大にして叫びやめさせようとするが、彼女は床を見つめるまま動こうとはしない。その間、他の面々は程度の差はあれ声も出せないほどに驚いている。
 もちろん俺も同様だ。
 それどころか、俺が一番驚いているのかも知れない。
 二の句が告げられない俺に、彼女の静かな声がゆっくりと届けられる。
彼女の紡ぐ声には、表面上は静かで柔らかでさえあっても内側には硬い芯として鋼が通っているような印象を受けた。
 それはそのまま、彼女の心根そのものだったろう。
「役立たずに出来る事なんて、頭を下げる事くらいや」
 顔を上げた彼女は真っ直ぐに俺を見上げる。口にするのも悔しいが、俺はその目にはっきりと気圧された。
「工藤……張文遠、伏して詫びる。命の恩人であるあんたを牢に閉じ込めるような恩知らずの振る舞い、それ以前、それ以後の暴言の全てをどうか許して欲しい。そして、伏して願う。どうか、うちらを助けてくれ。うちらの仲間を、あの小さい娘の命を、洛陽の民を黒い犬から守る為に知恵と力を……どうか、貸してくれ。その為なら、ウチをどうしてくれても構わん。命も財産も、全部あんたに差し出す。だから……どうか、頼む」
 こんな武骨な俺にも察せられるのは、彼女は決して安っぽく頭を下げるようなつまらない女ではないという事だ。
 芝居かも知れないだの穿った可能性が頭の中をよぎるも、それらを押しつぶす気迫に俺自身も知らず知らずに圧倒される。
「…………犬神退治には、独特の秘技が必要だ」
 は、と顔を上げる彼女にどうにも目を合わせられず、情けなくもそっぽを向いてしまう。子供か、俺は。
「それを知ってはいるが、俺は身につける事が出来なかった。素質もなければ、事と次第を知ったのは全て終わった後でな、必死になる理由もなかったんだ」
 必死になったところで身につけれたと限った話ではないのは……黙っておく。見栄で悪いか。
「お前らは、素質だけなら俺の十倍か百倍だ。さしあたり、相当に切羽詰まった理由がある。ひょっとすると、ひょっとするかもしれないな」
 呂布が彼女の横に座り、同様に頭を下げた。いまいちぎこちないのは、礼儀という物を余所に置いた人生を歩んできたからだろう……無礼者というよりも野生児という意味でだが。
「お願いします。私にも……それを教えて欲しい」
 いい印象など何もないような連中だ。協力を断られて気分が悪い、罵声を浴びせられて気分が悪い、疑われて気分が悪い、牢に入れられて気分が悪い、頭一つで水に流すには、ろくでもない事が多すぎやしないか?
 俺は決して器の大きい男じゃない、むしろ小さな男に過ぎない。そう言うこだわりを水に流すには少しばかりねちっこさが強すぎる。
「……その陳宮とか言う子供のすぐ側に部屋を空けろ。出来るだけ、大きな部屋をだ……そこで鍛錬を行う。俺に出来るのは、俺が辿り着いたところまで手を引く事だけで、それ以上は独学になるぞ」
 張遼と呂布の顔が、がばりと上がる。彼女らの顔が喜色で染められるのと同時に、眼鏡娘からの横やりが飛んでくる。
「ちょっと待って。どうして音々……陳宮の部屋の側でやるの?」
「あいつは確実にガキの居所を知っている。この宮のどこかで、今頃舌なめずりはしているだろうな……俺が側にいるのは教師役と護衛と、餌の兼任だ」
「こ……ここに潜んでいるですって!? 冗談はよしなさいよ、ここをどこだと思っているの!?」
「侮って死者を出したくはあるまい」
 狙われているのは、肉としての陳宮と敵としての俺だ。俺を狙ってくるのであれば、囮になって人里を離れるように動くべきだろうが、断定は出来ない。
 アレが人間のような執念深さと陰湿さを持っている事は承知の上だが、あくまでも類似しているに過ぎない。血と肉への欲求と天秤にかけてしまえば、一体どちらを優先するかは分からないからだ。
「あ、う……」
 董卓が、何かを言おうとして言えない。そんな顔をした。目が向いているのは明らかに俺だ。視線をやると、逆に目をそらした。
 ちら、と彼女に横目でさりげなく視線をやった眼鏡娘が咳払いの後で憎たらしそうな口調で俺に声をかけてきる。
「それなら、あんたがいるとその犬とやらに襲われる可能性が高いって事で、陳宮がより危険にさらされるって事じゃないの」
「……なら、どうすればいいって?」
「……狙われているあんたと陳宮が一緒にいるなんて、馬鹿げているわ。だから、あんたには音々との距離をとって……」
 狙われるのなら俺よりもガキンチョの可能性が高いのだが、それを分かっていないのは素人だからだろう。人間相手ならまず危険を排除しようと考えるかも知れないが、動物は餌を優先する傾向の方が強い。相手は妖物だが。
「狙われているどちらもがいれば、民衆の危険が減る」
 ガキンチョが狙われる危険性を下げる為に、お前が囮になれ。
 結論を言ってしまえば董卓は、きっとこう言いたかったのだろうと邪推する。陳宮との関係がどんな物なのかは知らないが、そんな事を思いついてしまうほどに彼女は知恵が回り、おそらくは二人の関係は良好なのだ。
 だが、言えなかった。
 俺の言ったような、第三者が襲われる可能性を下げると言う程度の事は思いついているのだろう。
 俺を囮にするだけでもろくでもない恥知らずな考えだ。その上に民衆の安全もかかっている。民衆よりも自陣営の一員……つまり、若輩とは言え国に仕える人間一人の命を優先するなどは身勝手で非道な考えだと理解する脳みそと、それを言わないだけの良識、あるいは羞恥心を持ち合わせているからか。
 だから、言えない董卓の代わりに察した彼女があえて汚れ役を買って出たのだろうが、事が事なので感心などはしない。
 そこは諫めるところだろう、本人も分かっているから口に出さなかったのにお前が敢えて口に出してどうすると言いたい。
 ……汚れ役を買って出るくらいには董卓の事を大切にしており、同時に彼女の為に民衆を危険にさらすほど身内を優先させるような女という事か。ある意味、とても人間味に溢れている。
 味方じゃない奴にとっては面憎くなる事間違いなしであり、俺にとって味方じゃないけどな。
「余所様を危険に晒すのを良しとするなら、俺は一切手を貸さん。あの娘は自分から呂布と張遼に付いていったはずだ。ガキだろうとなんだろうと、行動の責任は取るべきだろう。陳宮と民衆なら、俺は後者を選ぶ」
 せつらから聞いた行動から察するに、狙われているのは俺じゃなくてあの娘だろうがな。あいつは恐らく、俺が離れれば真っ先に陳宮を狙うはずだ。無力な物から狙うのは獣の本能だが、妖物の中には弄ぶ為に……そして、守る者の無力を笑う為にこそ守られる無力な者を蹂躙する事が稀にある。
「自分が狙われるのが恐ろしいからじゃないの!?」
「どちらにせよ狙われているが……そう思いたければ思っておけ」
 それにしても、いらん事ばかりを言う小娘だ。頭が悪いように見えないのに口が滑るのは、性格というか……よっぽど張り詰めているのかね。
 いずれにしても俺が気にする事じゃないと背中を向けたが、止める声はかかってこなかったのは幸いだ。
 多少動いたくらいで開いてしまった傷口がばれたら、たまらないからだ。



 俺の要求は、ほぼ完全に叶えられた。
 広さと高さが、三人で鍛錬しても問題ない程度の窓のない部屋が用意されて、直結する出入り口の向こうには青白い顔をした陳宮が眠っている。
 他に人気のない離れであり、万が一にも他者を巻き込まないように考慮されている。
腕には随分な自信があるらしい華雄はそれを不服としたようだが、犬を相手に振るう武も無いと周りが黙らせたそうだ。何よりも、彼女は董卓と眼鏡……結局自己紹介はなかったが、張遼の言う賈駆の護衛がある。
 我こそ天下無双ぞと叫んでいたが、正直なところそれほどではないように思えたのでそれはそれで構わない。大言壮語が過ぎると謙遜が美徳の日本人らしく少し不快に感じたが、ことさら追求するところでもない。
 ともかく、俺が指導するのは二人だけであったが……それでも難航した。
 まず、俺はこれまで指導を受けた事なら腐るほどあっても、指導する事は皆無だった為に勝手が全く分からなかった。
 おかげで随分と難儀したが、それを認められるほど時間に余裕があるわけでもない。いつあの黒犬が忍び込んできていても、なんらおかしくはないのだ。吸血鬼でもあるまいに、白昼は現われないと決めつけるのは危険すぎるぐらいで、修行に割ける時間はほとんど無いと言ってもいい。
 取り急ぎ、どうにか記憶を頼りに指導を形にはしたものの……妖物を退治する為の技を身につける修行には彼女らの理解が及ばない。それでも彼女らが放り出さなかったのは、俺が昨夜黒い猟犬に痛打を与えているのを見ているからであり、そしてなによりも隣の部屋で眠る少女の為だろう。
 だが当人に意欲があり、指導も形になっても予想外の困難は俺達の足を引っ張ってくれた。彼女らの内、一人が俺に指導されればされるほど、弱くなっていったのだ。
技を身につけられないどころか、自力さえ劣化してしまったのは俺の方こそ落ち込みたくなる……目の前で神妙な顔をして自分の剣を見つめる稀代の武人呂布に、俺はそれこそ頭を抱えたくなった。
「なあ……なんでこんな事になったんや?」
「……こいつが天才だからだ」
 彼女らの指導を引き受けてから、一晩経った。
 その間、俺達の下に黒い猟犬が現われる事はなく、同時に街に犠牲者が出ることも無かった。ただずっと嫌な気配は漠然と感じ続けており、どこかに潜む黒い影を連想せざるを得なかった。
 念で壁を作った中で三時間ほど休憩と仮眠をした以外は全て鍛錬に当てた結果、張遼は多く見て三日も死にものぐるいでいけば一技くらいは形になりそうだったが……呂布は予想外にも技を身につけるどころか実力が落ちてしまう。
 唖然としたが、しばらく悩んだ末に理由はわかった。
「呂布……お前、誰かに武芸を習ったことはあるか?」
 ふるふると首を横に振る彼女に言葉で返事をしろ、と叱りつけてから、ため息をかみ殺す。
 ため息は人との関係を壊す。特に今回、指導する側に立ってはなおさらと自戒しているからだが、それを早々に放り出しても肺を空にしたくなるのをどうにか自制する。
「……想像通りか……」
「どういう事や」
「呂布は呂布で完成している。余人に習う技なんぞ、毒にこそなれ薬にはならないと言うことだ」
 人を何らかの芸術に例えるとする。
 凡人は作品としては小さく、拙い。だからこそ手を加えることでただ漠然と作るよりも大きく、美しくなる。
 だが呂布は違う。
 彼女は元々最高のバランスで、素晴らしい大きさの作品であるのだ。手を加えてもそれらを損ねるだけで逆に劣化させるだけでしかない。
 改善の余地がない、最高の完成品こそ呂布なのだ。
「彼女の武芸は、彼女だけの物。余人に教えることは出来ない……そして彼女に他人の武を学ぶことは出来ない……虎に剣術教えて強くなるわけもないだろう?」
 野生の獣は、長い淘汰の時間を経て遺伝子の中に理想的な戦闘方法を刻み込む。肉体の作り、本能の中に生まれながらに持っているのだ。
 それが出来る個体だけが生き残り、出来ない者は死滅していく……厳しい生存競争の掟が生まれながらの強者を作り上げていった。社会、それとも文明という名の強大な群れに守られて生きていく人間が失った力である。
 理由は分からないが、呂布はそれを人間でありながら持っているのだ。
 人間が失ったはずの力を持っている鬼子、とでも言うのだろうか?
 ともかく、そんな彼女に人間の英知である武術など正に水と油。上手く混ざれば劇的な変化をもたらすのかも知れないが、そうそう都合の良い展開は起こらないのが当たり前の話。だからこそ、首をひねって困惑する呂布が目の前にいるわけだ。
「せやけど、恋は今までいろんな技を身につけとるで?」
 彼女を始めとする知り合った武将達の持っている様々な技を、彼女は見ただけで物にしたと言う。張遼達も、よく挫折しなかったと感心することしかりだ。
「……それが彼女の枠の中に修まったってだけの話だ」
 できない、ならともかく弱くなるってぇならそう思うより他にはない。
 彼女の持っている本能的な闘争の技術の中に、たまたまかみ合う物があった……それだけだろう。人間が野獣の動きから拳法を編み出したように、人間の動きの中には人型の野獣にも使える物があったとしてもおかしくはない。骨格などの身体のつくりは人間と同じなのだから……たぶん。
 ついでに言えば、まだまだこの国の武術が発展途上だからと言うのもあるだろう。二千年先までの長い間ずっと絶え間なく練磨され続けた武術であれば、今と同じように水が合わなさすぎた可能性もある。
「……まあ、その当たりは可能性の話であるし今は考察している悠長な時間は全く無い。呂布は技を捨てるべきだな」
 教える側としては遺憾だが、強い者を弱くしては武術の意味が全く無い。
「! 恋も戦う、陳宮の敵を討つ」
「弱くなっては出来ないだろう。今回は、張遼に任せておけ」
 たった一技。
 それだけだが、彼女は手に入れつつある。俺には出来なかった事に、一晩で爪先だけとはいえ手がかかりつつある彼女に、正直嫉妬はあった。
 この国の女武将達の力や反射神経が異常なのは理解していたが、センスまで圧倒的とは……凡人でしかない俺には眩しすぎるな。
「…………」
 こちらをじっと見つめる顔には何も表れてはいないが、はっきりとした不満が感じられる。理由は明白だが、それを良しとするわけにもいかない。
「誰も戦うなとは言っていない。切り札を持つのが張遼だけと言う話だ。呂布も戦いたければ戦えばいい……ただし弱くなっては困るから、技は忘れろ」
 むしろ、彼女がいなければ戦力は激減だ。昨夜の件で張遼は黒犬の動きに全く対応できてはいなかった。闇から襲い掛かる黒い猟犬にあっさりと吹き飛ばされて、そのままリタイアだ。
 張遼の力量、それが全てだとは思っていないがやはり呂布との連携が無ければ太刀打ちは出来ないと判断せざるをえない。俺の考えで行動するのであれば、基本的なフォーメーションは警戒されており、妖物の相手には一番慣れている俺が単独で先鋒。
 呂布と張遼がコンビを組んで戦闘は呂布をメインとしつつ、とどめは張遼。
「とにかく、張遼が技を身につけられなければそもそも前提が成立しないんだが……それが最適だと俺は思う。当然だが、この短い期間で犬神退治の技を自在に出来るようにはならないだろうから、張遼にはとにかくとどめにだけ神経を注いでもらいたい……そして、それまでの前座を務めるのがこちらの仕事だ。俺はそう考えている」
 正確に言えば、一技以上を身につけるまで待てるような余裕がないのだ。次の行動を読み切れる訳のない交渉の余地のない敵なのだから。
 果たして、彼女らは俺の考えにうなずくか否か。まあ、いずれにしても全ては鍛錬の結果次第だ。


 

 それから一晩が経った。
 あの暴食漢にしては意外なほど大人しく、俺達の下には現われず街にも犠牲者が出たという話はなかった。
 予め、新しい犠牲者が出ないようにあくまでも調査だけで止めるように頼んでおいたが、予想外の結果ではある。
 だが、これまでのようにそれと分からなかっただけという可能性もある上に、あの賈駆とやらはまだこちらを……ひいては妖物の力を信じてはいないようだ。つまりは、調査も大して力を入れていない可能性もある。
 下手に本気になられて調査どころか探索や退治にまでなると犠牲が増えるだけなので、それはそれで構わないんだが……
「……ホウ、レン、ソウがなっていないとは思っていなかったな」
 深夜、正に丑三つ時という時間。
 休憩に入っていた俺は、ぎり、と音をたてて奥歯を噛みしめる。
 なんの話だという顔をする二人の女達は、これを知らされていたのだろうか? もしもそうなら、黒犬を滅ぼした瞬間が縁の切れ目だ。
 冷めた気持ちになった鼻の奥に嗅ぎ慣れた香りが漂ってくる。
 吐き気のするような大量の、鉄を腐らせたような香りと十年は清掃を怠っていた便所から漂うような糞便の臭いだ。
 “新宿”の裏道ではよく嗅がれる上に、清掃員がどれだけ丁寧な仕事で消し去ろうとも半日もしない内にまた元に戻ってしまうそんな臭いだ。
「犠牲は出ていないんじゃねぇ……知らされていなかっただけか」
 立ち上がり、隣にある陳宮が眠る部屋をちらりと見てから扉を開ける。庭に面した扉の向こう側には、月が浮かんでいるだけで猫の子一匹いる様子はない。
「半端な月だ……」
 満月でも、三日月でもない月が空に浮かんでいる。月は魔の者には常に力を与える性悪女だ。乗り気でない顔を見せているのは、正直助かる。こっちに来て以来、アレを見上げているとどうにも白い医師の美貌がちらついて仕方が無いのが難点だ……
「なんや、どうしたんや?」
「……敵かと思ったけど……誰もいない」
 後ろから付いてきた二人が庭を伺っているが、俺は構うことが出来ない。ただ、真っ正面を見ながら全身に緊張感を張り巡らせて身構えるだけだ。それで察したのだろう、二人ともそれぞれの得物を構える。
 ただし、長物なのは呂布のみであり、張遼は剣を握っている。
 堂に入っているものの、どこか頼りなく見えるのは本人がそう思っているからに他ならないだろう。
「二人は陳宮の側についていろ。俺がまず当たってみる」
「冗談やないで、仮にも武将がそんな真似が出来るかいな」
「恋も戦う」
 二人は不満を顕わにする。確かに、彼女らにしてみればこれは仲間を守る為の勝負に他ならない。俺こそが脇役なのだから、二人の憤りも当然ではある。
 最も、この二人は力量以前に妖物との戦いには素人その物でしかない以上、矢面に立たせるつもりはない。そもそも、男が女の尻を見ながら戦えるか。
「後ろのガキンチョを守れ、敵が一匹とは限らんぞ」
 そう言って、身体を半身にして構える。体内のチャクラが全力で稼働し、聖念で体内を満たしていく。頭頂どころか眉間のそれさえぴくりとも動かない俺だが、それでも生み出される念は妖魔悪鬼の天敵だ。
「出てこい、いつまでも隠れられると信じていたわけでもないだろう」
 意図的に全身から炎のように念を発散させると、目に見えないそれらに満ち溢れた庶民の敵のような広大な庭が、さながら聖別されたように神々しい空気に満たされていくのを感じる。
 それを誇らしく思いながらも、俺が生み出したものが神々しいのではなく、俺のチャクラを通して満ち溢れたものが清らかなのだと戒める。それを忘れた時、俺はきっと無様に何もかもを失うことだろうから。
 その中に、明確な異質として拒絶する空間があった。
 さながら雪の中に墨をぶちまけたように、聖念とは対極に位置する妖気が半径一メートルほどの円状に存在した。
「なんや?」
「巣穴だ」
 念も妖気も目には見えない。風の動きを知るように、目に見えない二種類の何かが庭でぶつかり合っていると感じた張遼の疑問に、俺はぶつ切りの回答を告げた。小さな円の形に凝縮されている妖気が、奴の巣穴なお入り口から漂うおぞましいそれが俺の舌を固めているのだ。
 ぎり、と一度歯を食いしばる。
 情けねぇな。しゃっきりしやがれ、工藤冬弥!
 自分で自分に活を入れると、いつの間にか固まりそうになっていた足を一歩踏み出す。すると、応えるかのように妖気の固まりの中から獣の足が出てきた。
 端から見れば、虚空から見るからに凶暴そうな力を秘めた足が出てきているようにしか見えないだろう。その超常の現象に驚きの声が二つ上がったが、俺はそんな物よりもよりはっきりと鼻腔に飛び込んできた香りの方がよほど気になった。
「なんや、この臭い……まるで、戦場やないか」
「鼻が曲がる」
「随分と食った物だな、噂通りの大食漢かよ」
 無意識のうちに、す、と目が細まった。どうにもこうにも虫の好かない印象のある犬ころだったが、それがどうしてなのかが今回ではっきりと分かった。
「人である俺達を相手にしているからか? わざわざ人間ばかりを食い漁りやがって……」
 俺の言葉に、後ろの二人よりも先に反応したのは足の持ち主だった。
 犬畜生の分際で確かに人の言葉が分かっているのだと証明するように、奴は一気に俺達の前に躍り出る。この国の犬という枠組みの中では例外的なほどに巨大な身体は、既に負った損傷をたった一晩で完全に取り戻しているようにしか見えず、妖物という存在の理不尽さを明確に示しながら相変わらずの異様を見せつけている。
 だが、俺達の前に現われたのは犬一匹だけではなかった。
「なっ……」
「!」
 犬の後ろから、まるで吐瀉物があふれ出すように広大な庭一面に流れ出したのは粘液状になった、赤黒い何かだった。少なくとも汚物の類であることは理解させる悪臭が一杯に漂い、庭師が芸術の域にまで高めた広大な庭を一気に台無しにする。
「おい、畜生……獣でも、人様の縄張りにてめぇの食い残しをばらまくたぁ……随分なマナー違反だな」
 それが何であるのか一目で見抜いた俺は、腹の中から湧いてくる赤黒い感情を抑え込んで揶揄するように笑った。上手く出来ている自信はない、それだけの憤りを感じてやまない。 
 赤黒いそれは、黒犬の食い残しだ。
 つまり、こいつがどれだけ時間をかけたのか知らんが、これまでに喰い漁ってきた様々な生き物……その中でも巣穴にまで引きずり込まれた哀れな犠牲者達の亡骸……それらをわざわざ俺達の前に披露しやがったのだ。
 赤黒く粘りのあるそれは、血液を始めとする様々な体液のブレンド。その中にはちらほらとこいつの食い残し、つまりは文字通り餌食となったどこかの誰かさんが持っていた骨、歯、指先、様々なパーツが見える。
 大きな物は一つも無い。
 こいつの食欲は旺盛すぎるのだというわかりやすい証明だった。
「なあ、工藤」
 おぞましく変質しきった場の雰囲気に、さすがに気圧されたのか張遼が低い声で小さく俺を呼ぶ。恐らく、彼女も気が付いたんだろう。
「この拡がっているのは……こいつに喰われてもうた亡骸ってことやろ……?」
 敬意が払われているような言い回しに、俺は少し好感を持った。だから、彼女の聞きたいことを先回りして答える。
「ああ、全部人間だけだ」
 転がっている指も、歯も、骨も、俺や張遼のように見る目を持つ者が見ればわかるだろう……人体のそれしかないのだ。
「っ! 獣が、殊更人間だけ選んで喰うたって事か!? なんでや!」
「面白いからだろう」 
「なんやて!?」
 端的な返答に、張遼は俺を親の敵のように睨む。だが、他に答えようがないことだ。
「それが妖物だ。獣のようでありながら人間よりも知恵が働き、精神が残虐な方向に働く……例えば、人間は抵抗する姿、泣き叫ぶ様が面白いから好んで殺す。あるいは、敵対している俺達に同族の屍を見せつけて怒り出し悔しがる姿を面白がる……普通じゃ有り得ない、まるで人間のように卑劣さと残酷さを楽しむのが、こいつらの特徴の一つだ」
 もちろんそんな連中ばかりでもないのだが、こいつらの習性は意図せずとも人間にとってはおぞましい物であることが多く、そうではない場合は意図的にいたぶる場合だけと言い切ってもいいくらいだと俺は思っている。
 最もそれを利用する強かな人間も数多くいる上、なによりもおぞましいのは他者がそう言う妖物にいたぶられている姿を好んで見たがる“非人間的なほどにサディスティックな人間性”を持つ魔界都市の住人達だろう。
「くっ……」
「化け物っちゅうのは、そういうモノって事かい」
「そういう事だ」
 張遼と、そして意外なことに呂布も顔色を青ざめさせて歯がみする。目の前の敵に勇んで襲い掛かろうとしていたはずが、躊躇を感じて足踏みしているのはどういう事か。
 あれを怨敵と血気盛んに逸っていたはずの女達が怯む理由が理解は出来なかったが、むしろ都合がいい。罠も見当たらない、伏兵がいる様子もないと言うのに、一体何故前に出ないのかはわからないが、彼女たちが躊躇う理由は分からないからこそ、俺にとっては前に出ない理由はない。
 だからこそ、俺はおぞましい腐臭が漂う血の海に足を踏み出す。
「っ!」
 血の海はヘドロのように粘りをもって俺を迎える。足が取られやすいが、それで不利になるような生ぬるい鍛練を積んできたつもりはない。
 あくまでも、念法は妖魔を倒す為の技。断じて、足場の悪条件一つや二つ程度で弱くなるような道場剣ではないのだ。
 俺が警戒しているのは、この血の海に犬が秘めた意図だ。何かの術でもかけられているのか? それとも伏兵が潜んでいるか、血液その物が襲い掛かってくるのか……そう言った様子は半ばまで踏み込んでも全くなかった。
「どうやら、本当にただの舞台装置でしかなかったようだな……わかっちゃあいたが、ふざけた犬っころだぜ」
 死者を弄ぶとは、人だけがする行いだ。
 死者を尊ぶのは人であり、だからこそ死者を弄ぶのも人だ。それをやる獣に、俺は人間以下の醜さを感じて仕方が無い。
「理屈抜きで、てめぇをぶちのめしたくなってきたぜ」
 腹の底から盛り上がる燃える鉄のように真っ赤な感情は、義憤というものか。それに呼応するように、俺の中にあるチャクラの回転がどんどんと増していく。まるで、天井知らずになったかのようだ。
 黒い魔犬の放つ妖気と俺の放つ念が真っ向からぶつかり合い、しのぎを削り出す。そのまま俺達はぶつかり合うかと思ったが、その前に突然の乱入者が現われた。
「なんや、アレは!」
「幽霊……?」
 いつまでもこちらを見物なんてしているな、と余裕があれば言いたくなる二人が口にした通りだった。おぞましい赤絨毯に支配された庭のあちらこちらから、ぼう、と影法師のような人影が次々と生まれてあっという間に俺と黒犬を取り囲んだのだ。
「犠牲者達の、死霊か」
 その数は広大な庭を埋め尽くすほどであり、一人と一匹は呂布達から見えなくなっているだろう。それほどの犠牲者を、この犬は作り出したのだ。
 奴にとっても予想外だったのだろう、黒犬ははっきりと戸惑っている。随分とあからさまだが、犬にはポーカーフェイスなんて物は無いのだろう。当たり前の話なのだが、妖物にも当てはまるのは意外だ。
 だが、それはすぐに余裕の顔に変わる。当たり前と言えば当たり前だろう、ここにいる死霊は何もかもこいつ自身に食い殺された哀れな犠牲者達なのだ。どこかぼやけているような姿をした魂だけの亡者達の目には、狂犬への怒りもあれば恨みもあるが、それ以上に自分たちでは敵わなかった生前の痛みと怒りへの恐怖があった。
 彼らは死霊であり、怨霊だ。
 己の恨みを晴らすことこそが本懐であると言うのに、それをさせもしないとはなんてぇ野郎だ。
 怨霊は誰一人として欠けることなく、燃えるような憤怒と怨敵を地獄の底の底に引きずり込まずには治まらんと泣き叫ぶ悲哀を叫んでいる。その声ではない声が俺達三人の生者を打ち据えてさえいる。
 肌は青ざめ、背筋は凍り付き、総毛立っていることは間違いない。
 だと言うのに、この怪物は自分に向けられている全てのそれをまるで美酒の香りであるかのように鼻を鳴らして堪能していやがる。
 戦慄に近い感情を抱いた事を悟ったのか、俺を見る野郎の目に侮りのような感情が窺える。野郎はその軽侮に背中を叩かれて、俺に一気に襲い掛かってくる。人間を飽食し続けたことで、同じ人間である俺を侮っているのだろう。
 お前に痛打を与えたのが誰であったのか、たったの一晩で忘れたのか?
 俺の腕に重たく心地よい手応えがあり、甲高い悲鳴が上がる。血の海にのたうち回った黒犬を、突きの形で仁王を掲げた俺は軽蔑を篭めて見下ろした。俺を、人間その物を餌としか見ていないからこうなるんだ。
 本来ならそのまま追い打ちをかけるところではあるが、俺は敢えて一歩引いた。罠を警戒したのではない。俺が黒犬をはじき返した直後に、死霊達が俺につかみかかってきたのだ。
「工藤!?」
 死霊達が一斉に集まる的になった俺は、さながら蟻の巣に放り込まれた砂糖菓子のようなものだ。そんな俺を助けようと張遼に呂布もそれぞれの得物を振り回しているが、当たろうと当たるまいと関係なく、鋼の武器は死霊達を擦り抜けて空しく風を切るだけでしかない。
 物理的な力も武器も、霊には無意味でしかないのだ。
 そんな俺達の有様に、黒犬がほくそ笑んでいるのが俺に群がる死霊達の隙間から見える。つくづく人間のような奴だ。かつてせつらが倒したのもこんな奴だったのか?
「斬れ、ない……っ!」
「何をぼおっとしているんや! さっさと逃げんかい、そのまま喰われる気か!?」
 取り憑かれるでもなく、殺されるでもなく、喰われるとはね。
 張遼の叫びは、被害者達の徐々にはっきりと実像を結んできた姿に由来するのだろう。彼も彼女も、歯を剥き出している。誰も彼もが全身を血の海と同じ色に染め上げつつ腹は割かれ、腕はちぎれ、頭は噛み砕かれている有様だ。殺された時の痛みと苦しみがそのまま彼らを苛み続けているのだろうが、惨たらしいにも程がある。
 痛い、痛いと誰もが泣き叫んでいた。
 苦しい、恐ろしい、助けてくれと、訴えている。
 張遼にすがるでもなく、呂布に訴えるでもなく、己を喰った憎い仇を呪うでもなく、彼らは俺にこそ願っている。
 助けてくれ、と声にならない声で口にしているのだ。
 腹の底から、何か震えるものを感じた。先ほどとは少し違う、熱い何かが心の底から湧き上がってくる。
 おお、助けようじゃないか。全身を、全霊をもって助けてみせようじゃないか。
「この犬は、俺達が斬ってみせよう」
 彼らが一斉に俺につかみかかってくる。それは、俺を襲おうとしているのではなく縋りついているのだ。瞳を無くした幼児が血の涙を俺に見せたおかげで、理屈もなにも無しに願いを叶えたくなる。
「だから」 
 仁王を正眼に構える。
 黒犬は、そんな俺をただ見ているだけだ。後ろの呂布と張遼がどれだけ得物を振り回しても無意味だったのだ、そのおかげで俺も侮り妨害する様子がない。
 おかげで、念入りにチャクラを回せる。
「あんた達は、安らかに眠れ」
 体内で生まれた念は仁王と呼応して一層に力を増す。まるで音をたてているかのように高速で回転しながら力を生み出す光の固まりが脳裏に浮かび、それは七つ並んで連結する。しかし、上の三つはそこにあるだけでしかない、光も弱いままでしかない。
 だが、それでも生み出された力は死霊達に安らかな眠りを与えるに適うだけの質はある。
 俺と仁王を、さながら太陽を直視してしまったかのように目をそらす死霊達だが、決して引こうとはしない。それに応えて俺もまた、全力で聖念を練り上げる。
「いいいいええええぇぇぇえっ!」
 鳥の声のような気合の声を高らかにあげて夜の静寂を切り裂くと、仁王を横なぎに振り切る。刹那の間も置かずに、軌跡の中にいた死霊達が次々と切り裂かれていった。ただ目の前にいる一体一体ではない、その向こうにいる全ての死霊が切り裂かれたのは物理的な刃は届かなくとも思念の刃が届いた為だ。
「やった!?」
「斬れてる……」
 背後からの歓声には、どこか複雑そうな響きがあったがなにを考えているのかは見当が付かないし、気にするつもりもない。そもそも、俺は彼らを斬りはしても滅ぼすつもりは毛頭無いのだ。
 俺の仁王に切り裂かれたはずの彼らは一瞬だけ実像を崩し、そして元に戻った時には影法師のようにぼやけていた姿も、実体ではないと明確に分かるもののそれまでよりもずっとはっきり見えるようになっている。
 そこに立っているのは既に黒い猟犬への恨みに身を焦がす怨霊でも、殺戮の痛みと恐怖に血の涙を流す亡霊でもなかった。
 獣の顎に噛み千切られた傷も、理不尽に未来を奪われた無念も、何もかも消え失せて傷一つ、血の一滴たりとない顔に歓喜の笑みを浮かべ、喜びに涙さえ流す人々がそこには立っている。

 ああああ……

 あああああ……

 彼らは歓喜の叫びを上げて天上を拝んだ。この国における一般的なそれとは異なる、もっと原始的にただ両手を頭上で組んで掲げて跪くというそれは、どんな礼法よりも真摯で荘厳にさえ感じる。

 あり、がとう……

 これで、やっと眠れる…… 

 ありがとう、ありがとう……

 声ではなかった。
 テレパシーの類でもない。
 ただ、確かにそんな声が聞こえた。肉体の声ではなく、精神の声でもない。
 たましいの声だった。
 慟哭を静かな喜びに変えて、老若男女は涙を流しながら俺まで拝んでくる。俺は神仏の類ではないし、人に拝まれて喜ぶような頭のおかしい趣味もない。かといって、無碍にも出来ないので困り果てる事しかできない。
「悪いが次が待っているんでな。もう天上へ上がるといい。出来れば、今度はもう少しいい国に生まれ変われますように」
 俺も一度は死んだ身として思うところはある。それをささやかに言葉に乗せて、周囲の死霊達に向き直る。癒えない傷を魂に抱える彼らは、いまや俺にじっと懇願の眼差しを向けて跪いていた。
「……居心地が悪い。心配しなくてもあんたらを仲間外れになんかしない。だから膝をつくのは止めてくれ」
 血塗れで懇願の眼差しを向けてくる一同に囲まれていると、自分が悪人になったような気がしてしまう。しかし不幸中の幸いとでもいうべきか、その居心地の悪い空間からはすぐさま解放されることになった。
 真っ黒い影が俺に飛びかかってきたからだ。
 怒りに目を真っ赤に燃やして飛びかかってきたのは、言わずもがなの黒犬。怒りの理由は、己の獲物を俺に奪われたからだろう。いや、獲物というよりもおもちゃという方がより適切な表現だ。
「弱肉強食が野生の掟とは言っても……そう言う範疇には収まっていないな、てめぇは」
 理屈抜きにして、誰かが誰かを弄ぶ姿は業腹だ。善であろうと悪であろうと、正しかろうと間違っていようとも、我ながら自制の効かないほどの不快感がこみ上げてくる。 いわゆる反吐が出るって奴だ。
 相手が速かろうと鋭かろうと、そんな事はどうでもいいという気持ちになる。黒い影で俺を覆い隠すように飛びかかってきた黒い犬に対して、それらの感情は気負いでしかなく隙となった。
 仁王が間に合ったのは偶然でしかない。無意識のクイックドロウ、即ち拳銃を抜いた瞬間を自分自身でも理解できていないという“新宿”警察御用達のスキルが実在するが、俺のこれもまた同様だろうか。
 気が付けば、目の前に猛犬の牙を剥き出しにした恐ろしげな顔があり、俺は仁王を顎に挟み込んでそれをどうにか防いでいた。
「ちっ……」
 生臭さと金物臭さが混じった悪臭が間近に迫る。飛び掛かられた衝撃と重量に全身がギシギシ言いそうだ。おまけに体勢も悪く、今にも押し倒されそうである。
「女にならともかく、獣に押し倒されるなんてのはごめんだぜ」
 実際には女に押し倒された経験は皆無、男に押し倒されそうになったことが多数、妖物に押し倒された経験も多数だ。もちろん、狙われたのはケツではなくてタマの方以外にはない。
 頭に血が上ったせいで、思いも寄らない危機に直面してしまうのは情けない。こんな事は日常茶飯事だったというのに、こうもあっさり気を取られるとは、やはり俺は心が弱くなっている。いや、鈍っているというべきだろう。
 そんな事を考えている時点で弱気が過ぎると自覚し、どうにか無理やりにでも身体に力をこめる。どうするべきかと歯を食いしばるが、銃も糸も頼るにははなはだ心許ない。結局、俺には仁王が一番であるのだと自覚して、足を踏みしめる。
 この上は、敢えて脱力していなすしかないだろう。だが、それは至難の業だ……いや、技量では出来るはずだ。問題なのは、一歩間違えれば死ぬだろうという状況に怯んだ俺の心だ。
 間近に迫る糞犬と目を合わせると、向こうの目が笑ったような気がした。ぎり、と音をたてて歯を食いしばる事で腹を据える。引いてどうするよ、馬鹿野郎と自身に喝を入れて仁王を握り直す。
 だが、それは空振りに終わった。
 目の前から、突如黒犬が消える。とんでもない力で横から吹っ飛ばされたというのは、俺にも若干おこぼれが伝わったのでわかったが、俺は仁王を落とさないようにするのが精一杯で、追撃なんてものは出来なかった。
 転ばないだけという致命的な隙を晒した俺の後ろから、風切り音が響く。それは俺の横を正に風よりも速く通り過ぎて、黒い犬に突き刺さった。
 ぎゃう、と聞こえる声で人知を越えた怪物に悲鳴を上げさせたそれは、夜目にも鮮やかな真っ白い羽を使った矢だ。
 は、と振り返ると弓を構えた呂布と目が合う。
 そうだ、史実の呂布は弓の名手でも知られている。三国志における弓の名手と言えば、元気な老人の代名詞と言える黄忠だろうが呂布もまた弓名人であったはずだ。他の武勇も人並み外れていたので、それに隠れて目立っていなかっただけのようだ。
 それにしても矢は矢でしかない。矢は刺さるものであり、幾ら体勢が不安定だったとは言っても、巨体の妖物を吹き飛ばすような種類の武器ではないだろう。
 だが、巨犬の身体には矢傷以外には損傷は一切無い。突き刺さった二本の矢が、原因と結果を明確にしている以上、むしろ矢が貫通していないことを疑問に思うべきだったかも知れない。
 いや、驚いている暇はない。ここで追撃しない手は無いのだと踏み込んだ俺だが、飛ばされたせいで空いた彼我の距離が大きすぎた。俺が踏み込むよりも先に黒い猟犬は身体を起こして、俺を通り過ぎると自分に痛打を与えた呂布に怒りの目を向けて唸りだした。
 ころころと目先の相手に牙を剥くのは、やはり知能が高くとも根本的には獣と言うことなのだろうが、完全にターゲットは変わってしまったようだ。これはまずい。
「下がれ、呂布!」
 思わず退去の声が出る。それが悪手だとは声に出してしまった瞬間に分かっていた。武将を名乗り、大なり小なり強さに自負心のあるような連中に、手に負えないだろうから退けと言えば、当然突っ込むに決まっている。
 ましてや彼女にとっては友人、あるいは見たままの関係であるなら妹分の敵討ちで有り、守る為の勝負であるのだ。退けと言われて退くつもりは毛頭ないだろう。
 焦る俺の脳裏に、彼女が昨夜、血塗れになっていた姿が鮮明に浮かぶ。次も血塗れだけですむわけがない。無惨な姿をさらす彼女を想像して両者の間に立ち塞がろうとするが、呂布自身の射た第三の矢が俺を阻む。
「!」
 彼女の矢を軽やかにかわした影が、縦横無尽に血塗れの庭を駆け回り俺達を翻弄する。それに怯えた亡霊達が三々五々に散っていくのを視界の端に捉えつつも、明らかに俺を避けて呂布を狙っている動きに翻弄された。
「ちぃっ!」
 飛び道具で狙うのは、俺の腕では無理だ。かといって、足では追いつけない。俺を迂回して呂布に猛然と迫る黒い犬は、影さえ置き去りにせんばかりにあっと言う間にお互いの間合いをゼロにする。 
 やられたか、と苦い思いを抱いたが、それを早計だと教えたのは呂布の振るった戟だった。俺を交わして彼女に襲いかかった黒犬に向けて振るわれる横薙ぎの、なんという力だろうか。それが生み出した風は、八メートルは離れている俺の顔にまではっきりと届いた。
 純粋に、力任せでそれをやったのだ。
 速すぎる黒犬に合わせた振りだ、これが剛力の全てではないだろう。あの細い華奢なようにさえ見える身体の中には、象でも入っているのか? 
 だが、その一撃もまだ届かない。
 黒い犬は、空中で一瞬大きく胸をそらすと、なんとその場で縦に急回転して勢いを完全に殺して着地したのだ。その目の前を呂布の戟が通り過ぎる。まるで武術の見切りを野生の獣がしているような悪い冗談に、思わず状況も弁えずに叫びそうになった。
 だが、呂布も然る者。
 このふざけた状況に怯むどころか、全く斟酌せずに返しの一撃を振り回して犬を襲う
袈裟懸けの振り下ろしもかわされるが、次いで襲い掛かってきた牙を彼女もかわしてみせる。
 その動きを見て、俺は嫉妬したくなるような事実をはっきりと理解した。彼女は妖物の動きを見切っている。
 どうなっている、これが実力だとしたら昨日の体たらくはなんなのか。介入の隙を探しながら混乱を押しつぶそうとする俺に、張遼の声が聞こえてくる。
「恋も、ようやっと本領発揮やな」
「……本領だって?」
 部外者であり、どこの馬の骨とも知れない俺に言われた通りひたすらに必殺の一撃を見舞う瞬間を待ち続ける彼女が視界の端にいる。しかしその顔は、どこか酔うような興奮で化粧のように被われている。
「昨日のアレが実力やと思うとったんやろ? ところがどっこい、天下の呂布はあんなモンやない。昨日のは、音々を守っとったからああなったんや」
「……なるほど、な」
 俺からの教えなど全て放り出し、だからこそ取り戻せた実力は今夜こそ思う存分に振るわれていると言う事か。それはそれで忸怩たる気にはなるが、こだわるほどの話でもない。   
 両者はまさに獣が食い合おうとしているかのように、互いを殺そうと交差し続ける。 俺の見たところ、ありえないとさえ思ってしまうが、押しているのは呂布だった。
 それを見ていると、魔界都市の住人として、奇妙な心理と自覚はしているがどこか悔しいという気持ちがわき出てくる。人知を越えた妖物が、小娘に押されているのが見たくないという勝手と言えばこれ以上はないだろう気持ちが俺の中にはあった。
 まるで“区外”に“新宿”が負けるような奇妙な錯覚を自覚する。馬鹿馬鹿しいことを考えたものだ。すう、と一度呼気を行い邪念を追い払うと、本格的に介入の隙をうかがう。
 何はともあれ、この犬を倒せる可能性があるのは張遼だけなのだ。俺も呂布も、彼女の元へと犬を連れて行く道でなければならない。それも、最も理想的な形で、だ。俺は今、その為にだけ全霊を絞り出さなければならん。
「張遼、今のうちに聞いておく。呂布は、作戦を実行すると思うか?」
「ん? そりゃあ、見れば分かりそうなモンやろ? 見事な立ち回りやないか」
「俺が言っているのは、出来るかじゃない。するかどうかだ」
 理解をした張遼の顔色が変わる。
 今、呂布は押している。それは驚きの事実であるが、必ずしも最善とは言いがたい……自分こそが倒すのだという欲が出てくることを、俺は危惧していた。
 何しろ、目の前で彼女の友人が傷つけられているのだ。その上、家族扱いのペットも喰われているらしい。その相手を前にして落ち着けという方が無理であろうし、自分には倒せないはずの怨敵を圧倒できているのであれば、尚更に我こそがと勇み足になるだろう。
「けど、今は波に乗っている。この際、それも有りや。説教は後ですればいい、今はウチが合わせたる」
 必然のように彼女が暴走するだろうと、俺は判断するが彼女はそれも良しと言った。
「出来ると思っているのか?」
「難しくても、やるだけや。元々、敵討ちって言うことなら恋がやるのが、一番筋がとおっとる。うちはみっともないけど、死にかけに止め刺すだけで我慢したる」
 闘志を湛えたままの目だけで笑う彼女に、俺はわざとらしく呆れて見せた。
「後で、盛大に説教でもしてやれ。いや、説教も折檻も意味は無いだろうな。あの大飯ぐらいには断食三日が一番いいだろう」
 その瞬間、呂布に隙が生まれた。こちらの話が聞こえていたのだろうが、情けないと言えばこの上ないだろう。
 だが、それが相対する妖物にも隙を生む事になった。これ幸いと、見つけた隙に即座に襲い掛かったのだ。何しろ本当の隙なのだから、武芸の達人でも野生の獣でも脇目も降らずに食らいつくのは道理である。
 それは、俺達も同じだ。
「俺が突く!」
「こっちはとどめや!」
 俺と張遼は呂布の隙を突こうと牙を剥いた黒い猟犬の隙に、これぞ千載一遇ぞと一斉に襲い掛かった。
 宣誓通りに、俺が横っ腹に突きを打つ。たっぷりと念を篭められた一撃は妖物に対して無類の効果を発揮し、奴への致命打ギリギリのラインにまで叩きのめした。感電するかのように動きを止めた妖物のどてっぱらに、今度は張遼の剣が突き刺さる。
 いかなる力があろうとも、静止する対象に当てる事は彼女にとって難しい以前の問題だ。その一閃は美しい弧を描き、黒い体毛と鋼の筋肉の奥にある太い血管と内臓を切り裂く。
 目に残った攻撃の軌跡、その美しさが俺に勝利を確信させる。
 ただの思い込みに過ぎなかったのかもしれない、しかし結果として妖物は倒れ伏した。周囲で戦いていた数多の死霊が一斉に俺達に跪くのが確かな絶命の証拠だ。
「やったんか!?」
「ああ、間違いない。お前の剣は、確かに犬神殺しの技だった。あれは犬神の類にしか効かないが、だからこそ、それらに対しての威力は絶大だ」
 最も、振るったのが張遼だったからこそ出せた結果でもある。詳しくは知らないが、せつらは剣など握った事もないような男だったからこそ、ヤクザ者の援護に助けられたのだそうだ。
「な、なんや? いきなり……」
 死霊が俺達……と言うよりも自分に跪いている事に気が付いた張遼が、戸惑いの声を上げる。腰が引けているのがみっともないが笑えた。
「自分たちの仇討ちが嬉しいんだろ」
 考えなくても分かりそうな話だが、相手が怨霊という時点で彼女の思考は止まったらしい。あからさまに面食らっている張遼は、とても今し方妖物を斬り殺した女傑には見えん。
「……っと」
 俺の前に銀色の光が現われる。
 呂布の戟だ。
「何のつもりだ」
 冷たい俺の声に、暗い熱を帯びた目が返される。彼女の豹所は動かず、声にも出さないが目が雄弁に応えている。つまり、獲物を盗るな。
 理屈など全くない素直な感情の発露である。あるいは野生の発露か。例えば虎と象が殺し合っている最中にもう一頭の虎が乱入して象を殺せば、仲良く獲物を分け合うだろうか? たぶん、取り合いになるだけだろう。同じように、彼女は勝ち負けもなく俺達の乱入に怒りを感じている。
 張遼ではなく俺に刃を向けている事、そして得物を振り切らないのはせめてもの人間性のたまものか。
 純粋であるのだろうが、俺としては勘弁してほしい純粋さだ。一応、命の恩人だという認識は持っていて欲しいものだが……この分だと、無理かも知れんな。
「何をやっとるんや、恋! やめい!」
「……っ! 仇は、恋が討ちたかった」
 絞り出すような声には悲痛ささえ感じるが、俺には感銘も動揺もなかった。殊更に言い返す気にもならなかったが、優しくしてやる気にはならないし、謝罪をするつもりも必要も毛頭ない。
 これ以上関わるのも億劫になった俺は、自分の獲物をかすめ取ったという恨みに背を向けて、未だに俺達を囲む死者に相対した。無言で仁王を振りかざして念を篭めると、全ての霊魂が俺に跪いた。
 その姿が、まるで刑罰を受ける犯罪者のように思えてしまいやるせないような、何かを間違えているような気持ちになる。
「あんたらの仇は、彼女が討った」
 熱も音も光もないはずの念が、その場の空気を満たして意思ある全てを圧倒する。おお、と死霊達が嵐の後から現われた太陽を見たように俺を拝んだ。
「だから、もう安心して眠れ」
 格好をつけた言葉は、幾らでも浮かぶ。だが、実際に口から出てくるのはそんなありふれた言葉でしかない。我ながら芸の無い男だが、ここで気障なセリフを吐くのは不謹慎だとしか思えなかった。ヒーロー漫画の主人公には一生なれないと、以前青いコートを着た稀代の性悪男に言われた事もある。
 仁王が再び振り下ろされて、全ての死霊が怨念を消し去るまでには三振りで足りた。彼らの誰もが、無念からの解放を願っていたからだ。
「……うん?」
 全ての影が消えたかと思ったが、一つだけ極端に小さな影が残っている。赤ん坊よりも更に小さなそれは、なんと一匹の子犬だった。
「同族食いまでしていたのかよ」
 “新宿”では人間同士でも珍しい話じゃないが、それでも不快は不快だ。ましてや、相手がまだ明らかに幼い子犬だとなれば尚更である。
「あ……」
 奇妙な声に振り返れば、そこには俺に向けていた視線とは真逆の目をした呂布がいる。想像力が貧困な俺でも、大体の事は察しがついた。空気を読んで一歩引くと、彼女は矢のように子犬に駆け寄り抱き上げようとする。が、相手は既に肉体を失った身だ。
「なん、でっ……」
 悲しげに唇を噛む姿は、どこかで見たことのある光景だ。彼女だけのものではない。あの街でも、この国でも、どこででも見られる光景だ。
「なんとか、して……」
 そう懇願してくる女は、つい先ほど俺が命を救った女であり俺の命を狙った女だ。それがぬけぬけと悲劇のヒロイン面して涙ながらに頼んでくるなど、厚かましいにもほどがある。俺は、そんな女のために何かしてやろうと考えるほどに心が広くできている男じゃない。
「……」
 子犬は、無残な姿だった。血にまみれ、全身が何一つとして原形を留めていない。腹などは、はっきりと空洞が見えるほどだ。貪り食われた運命は一目瞭然。俺が念法を使えば生前の姿を取り戻す事は出来るが、呂布の前でそれをやればこちらに噛みついてくるのは目に見えている。
 頭に血が上った女で、子供だ。理屈も言葉も通じるはずがないと偏見まじりに確信する。
 だから俺は子犬の霊魂に手をかざし、あえて仁王を使わずに念を篭めた。仁王は念を増幅、強化する為の媒体だ。それを使わないとなると、念法の難易度はもちろん高くなる、それも著しくだ。
 子犬が生前の愛らしい姿を取り戻した時には念を過剰に消費し、膝を突きたくなるのをこらえるのには相応の精神力が必要となった。それだけ、消耗したのだ。
今もどんどんと念の補充はされているが、大量の死者の無念を取り払い、脇役に過ぎないとはいえその上で黒犬と一戦交え、その上でこれは正直洒落にならない。恐らく、今の俺は死人のようになっているだろう。それは、驚きの目でこちらを見る張遼の顔が物語っている。
 何故、わざわざこんな真似をしちまったんだか……我ながら理解に苦しむ。どう考えても呂布の為だが、そんな義理はないはずだ。ましてや、あいつは俺など目もくれずに子犬を抱き締めているではないか。 
 俺が死ぬ気で注ぎ込んだ念のおかげで触れあえるようになったなどと想像もしていないに違いない。
「……よかった……」
 ぼそりと口にした女の顔を舌で舐めた子犬は、そこで陽炎のようにゆっくりと消えた。
 元々、小さな器に過剰すぎる程の念を与えた結果のオーバーフローだ。限りなく偶然に近い成果であり、数秒も保てば上出来だ。
 その数秒で、彼女はただ消えるよりもまだマシな別れが出来るだろうと考えての賭けだ。正直、こんな現象が成立するかどうかは自分でも半信半疑……ただ浄化されるだけかも知れないと思ったが、どうやら成功したようだ。
「ぐおっ!?」
 たまの幸運にちょっと浸り気味だった俺の頬に、とんでもない衝撃が食らわされた。一瞬すわ、黒い猟犬がまたぞろ現われたかと思ったが、それをやったのは呂布の拳だった。
「生き返ったんじゃ、ないのか!?」
 こんな女の為に力を振り絞り、せめて、最後の別れを快く遂げさせればと言う算段で行ったのは、どこかの誰かさん達にそうしろと背中を押されたような気がしたからだ。
 だが、限度という物がある。
 続いて送り込まれた拳はするりとかわして、そのままからめ取って投げる。たとえ人外の領域を約束された天才といえども、今は頭に血を上らせた子供に過ぎない、簡単に取り押さえることはできた。
 もがく呂布だが、取り押さえ方には新宿警察の逮捕術をかじったので自信がある。どれだけ人間離れしていようとも身体構造自体は人間と同じなのだ、力自慢に外せるわけがない。
 しばらくは、棒で押さえ込まれた野良犬のように暴れていた呂布だがその内に大人しくなる。それで手を離すのはお人好しが過ぎるので、首でも絞めようと体勢を変えた。
「ちょっと待ってくれ。さすがにそれはやり過ぎ……」
「武器を持った人殺しが気の向くままに暴れているんだぜ? そこら辺の酔っ払いやチンピラとは訳が違うだろう」
 仲間を庇おうとする張遼に冷めた口調で言う。この女は、止めようとはしなかったのだ。
「せ、せやけど、あの犬が消えてもうて恋も動転しているんや。勘弁したってくれないか? 生き返ったのかと思うたのにまた消えてもうたし……」
 声の中に、俺を責める調子が混ざっているのはひがみじゃないだろう。それに反発を抱いた俺は、即座に呂布の喉を締め上げた。細くて短い首は俺の腕が入るのには少々狭かったが、ポイントは外さずにすんだ。
「随分な事を言うじゃないか。死に目にも逢えない相手が世の中にどれだけいると思っているんだ? ましてや、武将だなんて真っ当じゃない生き方をしている奴には贅沢なくらいの事はしたつもりだぜ? それを逆恨みして襲い掛かられたってのに、これ以上どれだけ譲歩しろってぇんだ。女だからって、赤ん坊みたいにそこまで甘えるんじゃねぇや」
 武将なんてのは、何をどう言おうとも人殺しをしてナンボの生き物だ。こいつが、そしてお前が散々殺してきた連中に、お前達以上の悲しみと無念を抱いた相手がどれだけいると思っている。
 締め上げる腕に、呂布の指、それも爪が食い込む。苦しんでいるのは肌で感じるが、糞を漏らそうと涎を垂れ流そうと、止めるつもりはない。かなり腹が立っている。握り潰そうとしていようだが、それを許すほどに柔ではない。
「やめ……」
「眠れ」
 白目をむいた小娘は、まるでそれが女の意地だという風になにも垂れ流さずに清らかなままで死体のように転がった。
「……」
 それを見た張遼が、無言で得物を構える。だが、何一つ恐いと思わないのはどういうわけだろうか。
「目を覚ましたら、せいぜい俺には喧嘩を売らないように叱り飛ばしておけ。光り物を突きつけられて、二度も見逃すつもりはないぞ」
「へ?」
 かつて、明治や大正の時代に柔道や柔術の裸絞めを見た外国人はマジックと驚いたらしいが、きっと今の張遼と同じような顔をしていただろう。
 首を絞めると言う行為は、この国では殺人を意味している。絞殺か、首の骨を折るか、いずれにしても今俺がやったように気絶させるという必要性がないご時世なのだ。武術や人体への理解がまだまだ未熟という側面もあるだろうが、それらのおかげで彼女は呂布が死んだと思い込んだらしい。
「……“区内”なら……いや、あの世界なら真逆なんだろうな」
 太古の技術や知識が現代よりも優れている事が多々存在しながらも、日ごと夜ごとに魔法も上回るような様々な技術が生まれているのは、その渦中にいた人間からして見ても奇妙だった。
 もっとも、こっちの世界も何かにつけて辻褄の合わない事は多いのが妙な点ではある。トンブ曰く、現代人の天の御遣いが中途半端な知識と欲した環境のイメージが混ざりあったからじゃないかと言っていたが、あまり賛同したくない意見だ。
 何にしても、薄気味が悪く胸くそも悪くなる世界ではある。
「さっさとそいつを連れて行け。あのガキが無事かどうかの確認くらいは必要だろう? 犬が一匹で行動する事なんてまず無いぞ」
 狼は言うに及ばず、通常犬科の獣は群れて行動する。ハイエナしかり、ディンゴしかり。妖物とは言っても犬は犬、同様の生態を保たないとは言い切れない。
 俺の言葉に一理を認めたのか、張遼は気を失った呂布の様子を手早く確認するとそのまま屋内へと駆け込む。一度だけ合った目に、敵愾心に似たものを感じたので肩をすくめる。
「女のわがままにつき合うのが男の甲斐性ね……誰が言っていたんだっけか」
 そういう事を言いそうな女には心当たりが結構ある。そして、大体がつき合わされる男の苦労なんぞ気にもかけずに自分の欲に真っ直ぐなのだ。
 そう言う性悪はぜひ、甲斐性溢れる連中に群がって欲しいものだ。甲斐性無しとしては、側にいるのも疲れる。
「まだ、お前らみたいなのを相手にする方が楽だぜ」
 は、と笑う俺の前には戦っている最中、空きっぱなしの真っ黒い穴があった。
 その奥から、唸り声が聞こえる。
 幾つも、幾つも、幾つもだ。
「やっぱり、群れているみたいだな」
 果たして、その巣穴には一体どれだけの黒犬が潜んでいるのか。何匹か、何十匹か、ひょっとすれば数え切れないほどにもいるのか。いずれにせよ、一匹だけでも充分手に余る相手である以上はそれが一匹でも千匹でも変わりは無い。
 俺の前にいるのは、一介の剣士ごとき一瞬で貪り尽くす倒しようのない群れだ。敵う訳のない群れである。それも、これ以上無いほどに血肉に飢えて、更には他者を殺戮する事に興奮し快楽を感じるシリアルキラーだ。
 こちらに向かって吹き付けられる妖気だけでも膝を屈してしまいそうになるのを必死にこらえながら、あえて笑う。自分を鼓舞する為だが、引きつっていないとは自分でも全く思わない。
 それでも、足下に転がる妖犬の死骸を穴に放り込むだけの力は湧いてきた。
 放り込まれたそれは、既に餌食でしかないのだろう。同族食いなどまさしく朝飯前よと言わんばかりの、生々しい咀嚼音が穴の奥から聞こえてきた。しかし、その程度で怯むような可愛げはとっくの昔に失っている。
 その声に挑むように仁王を振り上げ、全身から聖念を放つ。既に念の補充は完了していた。肉体の全てを最大限に活かし、翳した仁王を振る。
 気合の一閃だが、ものの見事に風を切るだけである。物語でもあるまいに、そうそう都合のいい事はないという事だろう。通常であれば、かなり恥ずかしくなる事請け合いだが、そうならないのは見る相手がいないからではなく目の前に大きく迫る真っ赤な顎があるからだ。
「ちいぃっ……」
 太刀を振るう為に大きく踏み込んだ事で目の前にまで迫ってきた穴から飛び出てくるもう一匹の猟犬が、俺に文字通り牙を剥く。ジルガを使って肉体を強化しても、鋼鉄のサイボーグさえも易々と食い散らかした怪物と同種の牙は俺の身体に深く食い込む。肩口から噴水のように血が飛び出すが、一瞬で食いちぎられなかっただけでも御の字だ。
「いいいやああああぁっ!」
 肩が燃えるように熱く、痛みが脳を金槌で叩いているような錯覚を感じるが、それで振るう剣が鈍る俺ではない。痛みも恐怖も剣の枷とならないように精神を集中する手段は学んでいるし、メフィスト病院での処置も受けている。
 だからこそ食い込む牙も、這いずる爪も、重たい犬その物も全て無視して愛刀を渾身の力をこめて振るう。
 食い込んだ牙の傷が拡がろうとも、一切気にかけずに振るった一振りは音さえも置き去りにして見事に次元刀と化す。ここのところの鍛錬の成果で、最も修練した上段ならば十回に一回の割にまで向上した成功率のおかげだ。
 振るいきった残心の姿勢を取る俺の肩から、ずるりと音をたてつつも声もなく犬は落ちていく。しかしながら、抜け落ちた牙を支えているのは首のみでありその先には何もなかった。
 一体あの穴がどういうものなのかは分からないが、次元刀でそれを真っ正面から切って落としたのだ。巻き込まれた気の早い一匹は、俺に斬られたのではなく消滅した巣穴の出入り口に首から下を全て持っていかれてしまったのだ。
「さすがの生命力だな、まだ生きてやがる」
 虫並の生命力を発揮し、首だけになっても飛びかかってきそうな目で歯を噛み鳴らす黒犬に肩をすくめるが、すぐに洒落になっていない事を思い出す。そう言えば、首だけ空を飛んで標的を殺す呪詛なんて幾らでもあった。
 動けなくなった的に、十回ばかり不完全な犬神退治の剣を振るってとどめを刺した時には、自分は一体何をやっているのかと悲しくなったが仕方が無い。きっと今頃、向こう側に残された胴体は残った仲間の餌になっているのだろう。
 出来る範囲では理想的な結末とは言えるが、俺がやったのは中の出入り口を無理やり閉じたに過ぎない。歪んだ扉はいずれ内側から破壊されて、中から新たに怪物達が現われるに違いない。それが少しでも先になる事だけを願おう。
 まあ、その時はその時と無責任しか言えないが、あるいはそれがカーナボン卿の不幸に繋がるのかも知れん。
 それを考えると居心地が悪くなる。仮定の話にうじうじと悩むのは不毛としか言いようがないので、今は目の前の街を荒らす怪物共を封じられた事を喜ぼう。閉じられた世界の向こう側で、連中が共食いを続けてごっそり減ってくれますようにと願いながら俺は足を踏み出した。
 背後からは何やら歓声が聞こえてくる。
 張遼と呂布の声だ。おそらくは戦勝に浮かれているのだろう、もう一人分声が聞こえてくるから、ひょっとすればあのガキンチョが目を覚ましたのかも知れない。
 都合のいいハッピーエンドを迎えている向こうに比べて、血塗れで一人暗闇の廃屋に帰る事になる我が身は何とも惨めだ。
「はあ……格好悪いなぁ……」
 あれこれと言いながらも、こう言う終わりに理不尽や惨めさを感じてしまう俺はあの二人に比べてどこまでも小さな男なのだろう。彼らならば、この最後にも胸を張り満足感を抱いて立ち去るような背中を見せるのだろう。
 だが、俺はそこまで格好良くはなかった。白状すれば、ここで彼女らにありがとうと感謝されて格好つけて立ち去るような都合のいいラストシーンを妄想していなかったわけじゃないのだから。
 そう言う自分に著しい恥ずかしさを覚えて、俺はそそくさとその場を後にする。頭の上で輝いている月が、どこかの誰かの笑い顔のように思えて石をぶん投げながら。


あれから二日経った.
何かあれば即日何らかのアクションがあるだろうから、二日も経てば安心だと判断した俺は、トンブからの連絡はまだだろうかとやきもきしながら塒を出た。一人のおかげで蓄えはまだまだ尽きない。今日は情報収集に勤しむかと大ざっぱに方針を決めている俺の耳に、街中ではあまり聞かない音が届いた。
 この国に来てからは随分と耳に馴染んだ、馬蹄の音だ。
 それだけならば大したことは無いのだが、明らかに勢いがおかしい。人をはねようがどうしようが構わないと言わんばかりの速さを出しているのだ。未来で言えば暴走族さながらである。
 明確な規制をする法がないとは言っても、いくらなんでも常識外れだ。“新宿”でもこんな真似をしている奴は射殺されても文句は言えない。どこの馬鹿だと目を向けてみると、慌てふためいて道の端に寄る世間様など目にも入らないとばかりの勢いで駆けていくのは俺の知り合いであった。
「……孫策か。見付かればややこしい事になりそうだな」
 暴走している姿が妙に板についているのは、性格を知っているからこその偏見だろうか。どちらにしても、別れ方には随分と問題があったのは事実なのであまり顔を合わせたくはない。
 こそこそと道を変えようとした俺だが、直後に背後で甲高い奇声がする。
「いたーっ! 工藤、そこを動くな!」
 いきなり、まるで泥棒を補足した警官のような事を言う。人聞きの悪さに、どうして気配を隠して逃げなかったのかと自分を罵倒しながら振り返ると、こちらを指さしながら馬で爆走してくるどうしようもない女がいる。
「昼間っから酔っているのか」
「酒なんて呑んでいないわよ!」
 むしろ、酒が入っていて欲しかった。素面でこれとは、なんて物騒な女だ。
 呆れる俺の事など意にも介さず、孫策は俺に向かって鷹が獲物を襲うように馬上から手を伸ばてくる。
 なんだ、俺を捕まえようとでも言うのか。
 生憎と犯罪者を捕まえた事はあっても犯罪者になった事などない、どこぞの片目が恐ろしいせいで“新宿”でも有数の模範的な“区民”だった俺はおいそれと捕まるつもりはてんでない。
 払いのけようとしたが、それを見越した孫策が声を張り上げた。
「お願い!」
 その声に篭められたものは、“新宿”で暮らした俺にとっては商売を始めて三日で馴染んでしまったものだった。
「助けて!」
 伸ばされた手を取った自分を、全く意識していなかった。この飄々とした女のどこに、と思う必死さにほだされた自分は馬鹿野郎にも程がある。自嘲しようにも、馬の背中で密着していては彼女に聞こえそうなので言えやしない。男が聞こえよがしの愚痴を言ってたまるか。
「何があった」
 こうなりゃ、毒を喰らわば皿までよと積極的に声をかける。畜生、せっかくよそ行きに男らしく低い声を出しても女の背中にしがみついてちゃ格好がつかないにも程がある。
「むしろ、私が聞きたいわね! あんな消え方して、そのまま顔も見せないなんてあんまりじゃないかしら!? 死んだかと思ったわ」
 助けてと言った口がそんな事を言う。俺を確保した事で安心したのかね。
「不義理ですまんな」
 正直、それほどの間柄でもないだろうとは思うのだが口にすれば相当面倒な事になるとは理解しているので口ではそう言っておいた。我ながら誠意はあまりない口調だ。
「それよりも、俺は何をすればいい。事の次第を話せ」
「…………」
 促す俺に、彼女は馬上でぎりりと歯を食いしばった。それが一体彼女の何を表現しているのかは分からないが、良くない事だとは有り余るほどに伝わってくる。
「詳しい事は、行く先で話す」
 女の声からは、かつては存在した鼻につくほどの余裕が全く無かった。全く、何が彼女の身に起こっているのか。
「……出会ったのか? 何か、真っ当じゃない生き物に」
「さすがに、察しがつくかしら?」
 考えるよりも先に口から出ていた言葉に、孫策が苦い顔をしてうなずいた。考えてみれば、この女が俺に頼る事などそうそう無い。
 頭も金もない、ついでに言えば顔も大した事が無い俺に女が頼るなど腕っ節くらいだが、この女は俺に頼るくらいなら自分で何とかしようとするだろう。
 そう言う女が俺に恥も外聞も無く助けを請うなど、理由は一つしか思いつかん。
「……出会ったわ、あんたの言っていた……吸血鬼って言うのにね」
「……まさか、お前らの所に現われるとはな」
 予想外な展開に、思わず嘆息する。明らかに妖姫の嗜好ではない話の展開は、騏鬼翁のそれなのだろうか。それとも、妖姫の命を受けた劉貴が?
 孫策の口から出てくるのは、一体どんな厄災であるのか。俺は恐々としつつ、ついに来た大将軍との決戦にどうしようもなく高ぶる自分を自覚していた。

 


 俺が連れて行かれたのは、予想していないわけでもなかったが董卓達の元だった。
 董卓、張遼、呂布、華雄、
 どうにも向こう側から奥歯に物が挟まったような顔をして見られているので、対面に一緒に立っている孫策、周瑜という面々から物問いたげな目線を向けられて、居心地が悪い事この上ない。
 例外は、何があったのか孫策に今にも斬りかかりそうな目を向けている華雄だけだ。
「……随分と目立つ真似をしてくれたわね、孫伯符殿。今の自分の立場を理解しているのかしら」
 眼鏡が口火を開く。そう言えば、俺は未だに自己紹介も他者紹介もされていない。一応やりとりの中で名前は聞いたが、いつまでも眼鏡では……まあ、別に構わないか。
 立場が分かっているか、などと抜かすようなのにはロクなのはいないだろう。出来れば全く縁の無い他人でいたかった。
 ……この国の女はあくが強すぎて、どうにも俺とはかみ合わせが悪い。いや、日本も同じか。
「それはすまなかったわね、ごめんなさい。でも、形振り構っていられなかったのよ。何しろ、目の前から霞のように消えるような男を捕まえるのだから」
「…………」
 詫びてはいるが、どこか余裕があるというか、自分が上だと噛みついてきた子供をあやすように感じた。もちろんあからさまな物では無いが、彼女はこいつを下に見ていると感じるのはそれぞれの外見的な年齢差から感じる俺の邪推だろうか。
「……漢より命じられた職責を放り出して、勝手に集めた兵まで引き連れて前触れもなく洛陽にやってくるなんて暴挙を行っただけはあるわね。随分な言いぐさだわ。逆賊、漢に反乱を起こしたと考えられても仕方が無い……どころか、それ以外には想像も出来ない真似をして、それでも暫定的とはいえ街に入れるようにしてくれた周瑜殿の労を台無しにしている事、気が付いてはいないのかしら」
 眼鏡の当てこすりに、俺は隣で似合わない無表情を繕っている女が随分な暴挙を行った事を理解した。
 一口に言えば、自分の仕事をおっぽり出したあげく、武装集団を引き連れて首都に突撃した、と。
 クーデター以外の何物でも無いだろうな。
「なんで生きてここにいられるんだ?」
 思わず、率直なセリフが口から出てきてしまうのも当然だろう。その一言で、ドクトル・ファウスタスのおかげで病が治ったはずの周瑜が顔色を悪くして腹を押さえた。たいそう引き締まったウェストだが、その中にある胃袋には穴が空くかも知れない。
「ちょっとお、ひどい事いわないでよ。やむにやまれぬ事情っていうのがあるんだから。でなけりゃ、私だってここまでとんでもない事しないわよ」
 珍しい事に、自分の暴挙に自覚があったらしい。
「意外だな……これぐらいいじゃない、と言うと思っていたんだが……」
 思わず口に出した一言に、誰よりも深く頷いていた人物については何も言うまい。ただ、孫策の追求がそっちにいったので助かった。
 ついでに言うと、孫策の事情を世間様が考慮に入れる義理はない。とある、限りなくグレーゾーンを走る法の番人が目にすれば、問答無用で射殺くらいされるかも知れん。暴走族など鴨打の的程度にしか思っていない刑事を思い出すと、何となく背筋が伸びた。元々丸まってもいなかったのだが、気分の問題だ。
「で、その事情ってのは何なんだ? 馬上で少しは話したが、もっと詳しく事と次第を聞かなけりゃ何も出来ん」
 隣でいつまでもつつき合う二人を横目で見ながら、頭をかく。彼女らだけなら、何か身の回りで怪異が起きたというので俺の話を持ってきたですむだろうが、前に並ぶ連中と立っている場所が話を霧の中にしている。
 見れば、董卓達も俺と似たり寄ったりの顔をしていた。
 事情を知らないままでここまで招き入れたのだとすれば、神経質な眼鏡娘には似合わない大胆不敵な真似だ。言ってみれば、テロリストの首魁が首相の前に招かれているような者だろう。政治的な何かがあるのかも知れないが、正気の沙汰じゃない。
それだけ呂布を始めとする自陣の武勇に自信があるのか、それとも兵と切り離したとは言え、ここまで踏み入れた周瑜の実力か。
 大胆な振る舞いをして見せた者がさせた者に物問いたげな眼差しを向ける。彼女らがそれをどう受け止めたのかは知らないが、目は水を向けた俺だけに向けられている、それに董卓陣営の中で眼鏡娘と華雄が反応した。
 明らかに俺に大して比重を置いている孫策の態度に不満を感じているが、それを気にした様子もない。性格なのか、それだけ切羽詰まっているのかつくづく迷わせてくれる女だ。
「工藤、前に黄巾の戦後に会った時、教えてくれたこと……覚えているかしら?」
 色々教えたのでどれの事を指しているのか分からなかったが、とりあえず頷いておく。全部覚えているので、問題は無い。
「……もう既に誰かが“そうなった”のか?」
 ワンテンポ遅ればせながら、言いたい事を察した。
 それを端的に言葉にする。何が“そうなった”のかを理解できない董卓陣営が、飲み込めない話に戸惑い、いらつきをかすかに見せるが……率直に名詞を出せばややこしい事になるだろう俺はわざとぼかす方を選んだ。
 しかし、それを考慮しない……あるいは、それだけの余裕がない孫策と周瑜は静かに頷く。周瑜はもちろんの事、孫策もまたあの勝負の日のように静かな凄みを顔に湛えながら、わかりやすく一言だけで説明した。
「吸血鬼が袁家を支配したわ」
 



[37734] 呉の姫
Name: 北国◆9fd8ea18 ID:e70371ba
Date: 2014/07/10 09:15
 申し訳ない、遅れに遅れました。色々ありますが、結局は書くのが難しかった、アイディアが出てこなかった。それだけです。
 いろいろと、他の妄想なら出てきたのですけど……キングダムと恋姫のクロスとか、モンハンと恋姫のクロスとか。
 今回は完全に幕間です。戦闘らしい戦闘はほとんどありません。
 幕間って言うのは、必要な事だけど正直筆が乗らなかったなぁ……最終投稿から何ヶ月経ったんだろう。
 早く劉貴と姫が書きたいなぁ。
 反董卓連合のそりゃあもう惨めなラストとか。





 袁家。
 とどのつまりは漢における昔からの臣下の一族であり、かなり有力な一族なのだそうだ。孫策の率いる一族も傘下に置いているいわゆる名門という奴で、広い領地と豊富な財力を持ち、国その物に政治的にも多大な影響力を持つ侮れない一族なのだという。
 遠い未来の日本からやって来た俺にはいまいち共感できない価値観だが、いわゆる高貴な血筋の一族と言う奴だそうだ。たまに“新宿”でも似たような事を言う奴に出会うが、大抵は“区民”の誰かに叩きのめされて土に還るのがセオリーになっているので、俺はいまいち重みを感じない。
 代々途方もない技術や力を伝えている恐ろしい連中も世の中にはいるんだが……彼らは違うようだ。悪感情を抱いているらしい孫策の話なので鵜呑みには出来ないが、血筋ばかりで鼻持ちならない能なし、であるらしい。
 特徴として上がっているのが代々受け継いできた土地と金、それにコネだけなので信憑性がある。別段、魔界都市で聞くような恐ろしくも怪しげな妖気漂うような噂も、煙を漂わせる為の火の存在もなかった。
 これは逆に珍しい。
 俺がこれまで話に聞いたり、あるいは実際に出会ったりした先祖代々の名門と言う奴は大体が黒くおぞましい噂が付きものだった。それも、人間同士の欲得沙汰や怨念のこもった話だけじゃない。
 人間の枠を超えた何かと人間の醜く浅ましい欲望が最悪の比率でブレンドされた、どうしようもない妖気が漂うような噂と、噂を大きく上回る実情ばかりに出会ったり、話に聞いたりした物である。
 例えば、九州にある一族は鬼を使役して国に繁栄をもたらし、一族もまた栄華を掴んだが、鬼との約束を破った為に一族全てが呪われる羽目となった。昼間から妖しい光が空を飛び回り、夜ともなれば怪しげな影が家の周りをうろつく。
一族の者はいつしか鬼に心臓を奪われて入れ替えられてしまった。そのまま放置しておけば彼らのかけた術は解かれて、かつて使役されていた鬼は心赴くままに人の肉を食い散らかしこの夜に覇を唱えただろう。
退魔の針を使う者達がどうにか事前に事を収めたが結果として、生き残った一族は次女一人だけだとか言う話だ。
 あるいは、とある企業の創始者一族の御曹司には“おかしな物”を作り上げる性癖があると噂されていたが、その家の周りでは犬猫の異常な死骸が大量に発見され、調べてみれば喰われているという。それだけでも全国クラスの新聞沙汰になるのは当然だが、何故だか誰も記事にはしないという事件が起こった。
そうこうしているうちに、しまいには幼い子供が両親を殺して喰っただのと言う猟奇的という枠さえ超えかねないおぞましい事件が起こっている。
蓋を開けてみれば異界の神、あるいは眷属に取り憑かれた連中がこちら側に侵略を始めようと蠢動していたと言うから、話が大きく膨らみすぎだと思った物だ。
 何しろ、こちら側から手に入れた向こう側の技術を使って侵略を開始しようと考えている連中もいたのだという話だから世も末だ。先に述べた鬼の事件でも、星条旗が欲の皮を突っ張らかして茶々を入れてきたと言うから、世界の危機になるような話が多すぎる。
 俺にとって、名家とはそう言うもの。
 つまり、取引をした一族、あるいは第三者の血と魂を代償として貪りながら異能の力を持って繁栄を約束した怪物と、させた怪人の集まりであり、怪人達の元にタールのように粘り着いた欲望の権化がおこぼれどころか何もかも一切合切奪い取ろうと薄汚い手を伸ばしている。
 それが俺の抱いているイメージだ。
 近付かない事に越した事はない伏魔殿、と言えばわかりやすいだろう。金持ちは悪党、代々それが続いているような名家は外道と化け物の巣でしかない。美辞麗句の厚化粧でそろそろ仮面になりそうな位になっている下の素顔は、これ以上無いほどに醜くおぞましい。
 そのくせ、金に飽かせて近隣の美女、あるいは美男を根こそぎかっさらって愛人にしたり、あるいは生け贄にしたりするのが概ねのパターンなので、締まりの無い豚のようなとんでもない醜男醜女か、逆に月も陰るような美男美女の集まりなのが、腹が立つと言えば言える。
 外見で殊更に恵まれているわけでもない人間のちっぽけな嫉妬がむき出しになってしまったが、兎にも角にも袁家とやらはいまいち名家というものらしさがない。
 つい、先日までは。
 それが覆ったのは二つに分かれている袁家の内、孫家が仕えている(と言ったら即座に否定された)方の袁家に見た事の無い奇妙な男が現われてからだという。
「それだけ聞けば、またぞろ我こそは天の御遣いでございと抜かす輩が出てきたみたいだな」
「そう言えば、あの日に何があったのかは聞いていないわね。あなたが天の御遣いに喧嘩を売ったとか聞いたけど。まあ、そんな事はどうでもいいわ」
 袁家は、現在二頭体制で内部抗争に耽っているらしい。
なんでも、一族の指導者的な立場にいるのが袁紹と袁術と言う二人だそうで、この二人は姉妹、あるいは従姉妹であるらしいが一族の跡目争いのようなもので潜在的な敵同士なんだそうだ。
 どうせまた女なんだろうと少し諦観に近い気持ちになるが、それは置いておこう。重要なのは、突如現われた奇妙な男の方だ。
 彼らはそれぞれに広い土地を治めている両名だが、どちらも名家という生まれを鼻にかけているだけの能なしだそうで、特に袁術の方はそれに加えて何とまだ幼い子供であり、彼女が治めている土地は滅茶苦茶な統治に荒れ果てて民が困窮にあえぎ、治安も相当に悪いのだという。
 それを鵜呑みにするとしても、子供に国、街を治めるという振る舞いが出来るとは思えないので、周りの大人がろくでもないと言う事なのだとは思う。大方、バカ殿とそれを腹で笑いながら己は私腹を肥やすという典型的な小悪党だろう。
 俺がそう言うと、孫策はおろか痴女もとい周瑜も頷いた。まあ、この二人は袁家に対してかなり深く悪感情を抱いているようなので若干以上に補正がかかっているだろう。 しかし董卓達も何も言わないので、それが少し気にかかった。仮にも漢に仕える同僚みたいなものだろうに、フォローがないのは同胞意識がない相手だからか、酷評を否定できない相手だからか。
 まあ、同じ国に仕えていようとも仲間意識なんて芽生えるはずもないか。
 目の前にいる孫策なんぞ、むしろ下克上を企んでいるんじゃないのかって言うくらいに露骨な敵意を見せている。たぶん、いつかは取って代わってやろうと本気で考えていたんじゃなかろうか。 
 それが覆されたのは、問題の暗君こと袁術の右腕……実質的に袁術の行っている悪政の全責任を負っていると言える女、張勲が一ヶ月以上表に姿を現さなかった事件から端を発する。
 やはり女だったらしい張勲は、話を聞いている限りではかなりの破綻者であり、一口に言えば迷惑極まる親バカを絵に描いて額縁付きで飾った挙げ句にスポットライトを当てたような、そんな女であるらしい。
 暴政を行い、土地を枯らし、人を殺し、立場を盾にとり嵩にかかって孫策にもあれこれ無理強いと忍従を強いたという話だが、その根底にあるのが袁術という子供のわがままを叶えようと言うだけなのだと聞いた日には、俺は聞き違いと言い間違いのどちらだろうとしか思わなかった。
 件の袁術は病的な蜂蜜狂いであり、それが講じて民に重税をかけたとか聞いたが、一体どれだけべたついた人生を送っているんだ、その小娘は。頭の天辺まで蜂蜜風呂にでも浸かっているのか? いくらこの時代において、蜂蜜が俺の想像を絶するほどに高価なものであったとしても、有り得ないだろう。
 義憤に駆られるよりも阿呆らしさに二の句が告げられなくなるような話だが、周囲の女どもが真面目くさっているとからかわれているのか本気なのか判別が出来なくなる。
 そんなイカレた主従の従でも、一か月もいなくなれば問題ではある。放り出した政務は滞り、汚職という悪事が行われなくとも混乱による停滞は更なる荒廃を招きつつあった。袁術がお飾りに過ぎないと本人以外は誰もが分かっている事だったのだが、張勲は悪人であっても無能ではなかったらしいという皮肉な証明だろう。
 もちろん、彼女がそれまで尻を下ろしていた席に座ろうとしているハイエナも雲霞のごとく現われはした。孫策の率直な意見に寄れば、苦楽の苦は他人、楽だけは自分という彼女らのポストは非常に魅力的に見えたらしい。
 ただ、袁術がそれだけは頑固に張勲以外を認めようとせずに固辞し続けた為、どさくさに甘い蜜を吸えた者はいなかったそうだ。そういう事だけはきっちりとしつけがされていたと言う事だな。
 ただ、それも所詮は子供の抵抗。
 いずれ時間の問題よと考えていた孫策は、董卓の前では明言こそしなかったが、この機に張勲どころか袁術にとって変わろうとしたらしい。子供の袁術を言いくるめ、味方を増やして人質同然に袁術の元にいる家族も少しずつ取り返していった。
 彼女が主張するには、袁術が現在治めている土地は元々孫策の母親が治めていた土地であり、その先代が急死した事で混乱する隙に袁術が成り代わったと言う事だそうだ。
 その話を聞いた時に、つまりお前の力不足で治められそうにないから派遣されてきたってだけじゃないのか? と言いそうになったのは一応の秘密だ。沈黙を守らなければややこしい事になるだろう。
 ともかく、孫策は俺の想像通りに袁術サイドの混乱に付け込んで勢力の拡大、独立蜂起を目指していたそうなのだが、そろそろ準備が整うかと言う矢先にひょっこりと当人が帰ってきたそうだ。
 もちろん事態は急展開し、それ以上に一体何処に行っていたのかと言う追求の的にもなった。それを黙らせたのは、子供といえどトップに立つ袁術が雲隠れの件に何のかんのと文句を言いつつ結局は支持をしたからだ。
 だが、それだけで黙るほど行儀のいい……あるいは弱気な人間ばかりではない。張勲とやらの見せた隙に対して、孫策のように付け込もうとする人間は後を絶たなかったらしい。
 しかし、未だに彼女は袁術の身近に侍って行方不明となる前と変わらずに、思うままの振る舞いをしているという。
 この話を聞いた時点で、眼鏡娘があきれかえった内心を隠そうともしなかった。俺も普段なら同じように考えただろう。組織が破綻しているにも程がある……普通ならば、そうなるだろう。
「帰ってきた張勲とやらは、いなくなる前とどんな風に変わったんだ?」
 俺がそう言うと、それまで子供のように不機嫌さを出して語っていた孫策はどこか恐れに類する感情を隠しきれない様子で青ざめる。その姿に、呂布以外の董卓一派……特に華雄が驚きを顕わにする。
 一体どういう因縁、思い入れがあるかは知らないが、華雄のそんな目など気にする余裕もないとばかりに孫策は視線を全て無視した。
「……それまでの張勲は、腹立たしい女だったけど人間だった。それは間違いないわ。袁家の重臣という立場を笠に着て、にこにこしながら嫌らしく人に無理難題を突きつける本当に腹のたつ女だけどね」
 話半分に聞いても、近付きたくはないような女がまた一人。
「でも、今は……あれは、人間じゃないわ」
「人間じゃない? 随分な表現ね」
 そう言った彼女の説明を遮って口を挟んだのは、俺ではなく子供の方の眼鏡だった。殊更に大仰な言葉を使う孫策を笑っている。挑発紛いの上から目線は、彼女に対して有利になりたいが為とは俺でも分かる。手口が“新宿”のヤクザと変わらんな。
 それにしても今の孫策の顔を見て、何を意味するのか理解しながらもそんな温い事を言えるのは、理解してもし切れていない証拠だろう。
「表現じゃないわよ」
 孫策は、笑った。
 理解の低い子供を笑うようでもあり、自分を笑っているようでもあった。
「あの女は、本当に人間じゃなくなったわ。ねえ、工藤。あの時、貴方をあそこで離すべきじゃなかったわね。どこへ連れ去られたのか知らないけれど、無理やりにでも引き留めておくべきだったわ。それか、必死になって捜すべきだった。他の何よりも優先してね」
 彼女の目は、小娘などには一切向けられはしない。
 ただ、俺にだけ向けられて突き刺すかのように離れない。その態度は噴飯物であるようだが、孫策の口から出てくる言葉を止めないために周囲は黙り続けて彼女を見守る。
「実は、いない間に目撃例は何度か出ていたのよ。袁家の邸内で、使用人たちがそれらしい人影を何度も見た……でも、表だって中を確かめた者はいなかった。袁術がそれを許さなかった事もあるし、いないならいないでかまわないとも考えられた。病気だと当初は思っていたのよ。表に出られないくらいに身を崩しているなら、ちょうどいいと誰もが思ったわ」
「嫌われてるな、その女」
 それが行方知れずとなされていたのは、当初袁術が張勲の不在を叫んで探し回らせたからだという。町中を捜しても行方の知れなかった女が邸内で見かけられたなど、どんな欺瞞か冗談かと言われたらしい。
 だが、その証言を元に臣下が所在を袁術に確認しても、答えは否。
 しかし、探索の手は出さずとも良いと言う新たな命令が発せられたおかげで人々はそれぞれが状況を予想し、概ねの脳裏には“病で倒れたが、それを隠している。つまり、現役に復帰できないと判断されうる相当の重病なのだ”と言う絵図が描かれた。
 その予想に従って、先ほど言っていたように臣下一同が甘い汁を吸う為に水面下で政争という奴を始めた。孫策も形は違えど似たような方針で活動をしていたのだが、彼女は……と言うよりも周瑜は裏付けをとろうとはした。
「けれども、私達に仕える細作は内部に侵入してはみても芳しい成果はなかったわ」
 送りつけたのはちょうど十人。
 回数においては三度。
 彼女らの元に返ってきた細作は三度目に潜入した内のたった一人である。
「明……周泰はうちでも一番の腕利きよ。彼女が忍び込めないところも、帰ってこれないところもないと言いたくなるくらいに」 
 そのたった一人は、確かに帰ってきたのだ。その彼女に、何も見付からなかったわけがない。
「彼女が見たものは、痩せこけた張勲だったわ。それこそ、病に蝕まれているとしても不思議ではない……それも瀕死の重病人の姿、ね」
 女の姿は、ひどく痩せこけていたと言う。
 孫策はそれだけしか言わなかった為に、董卓達はそんなものだろうという顔をしたが俺の脳裏には皮を張り付けた髑髏となった女の姿が思い浮かんだ。
 きっと、その張勲という女の皮膚は蝋のように白かっただろう。
 きっと、その張勲という女の口元からは牙のように長い犬歯がのぞいていた事だろう。
 きっと、その張勲という女の喉には二つの傷が焼き付いている事だろう。
 烙印のように。いや、烙印その物として。
「首筋に、牙の跡はあったか?」
 俺の言葉に、孫策は静かに頷いた。
「実際に確認できないのが歯がゆいな……」
 劉貴の仕業だろうとは思うが、断定は早計だ。
 劉貴本人ではなく、その想い人……つまり、間にワンクッション置いている可能性も高い。あるいは、秀蘭か妖姫本人……可能性ならば幾らでもあるのだ。それを取捨選択する知能が無い以上、情報を増やす他はない。
「牙? 何の話かしら」 
 嘴を挟んできたのは眼鏡娘だった。眼鏡女と比較すると色々と足りないところが多いが、主導権を握りたいという欲求だけは俺にもわかりやすいくらいに多かった。
「その周泰さんとやらはどうしている? 出来れば本人に話を聞きたい」
 しかし、そんなものにつき合うつもりはない。
「周泰は……今はいない。連れて行った部下は全滅し、彼女だけは我々の元に帰ってはきたものの、そこで力を使い果たしたのか辿り着くなり倒れ、今は眠りについている。外傷はないのに、理屈は分からないが氷のように冷たく、衰弱しきっている。息がなければ死人と思うほどだ。どうにか水だけは与えているが、既に十日……いつ死んでもおかしくはない」
 生きている時点でも大したものだ。
 倒れた際の状態を聞いただけでも誰の手によるものなのかははっきりと分かる。
「すぐに会わせろ。できる限りの事はする」
 十日も経っているとなると、はっきり言って自信が無い。むしろ、十日の断食だけでも死んで当然だ。驚異的な生命力ではあるが、これは一刻を争う事態か。
「出来るのか!?」
「無理だ」
 真顔で返す。もちろん、ふざけているわけではない。
「状態を聞いただけでも大体の察しはつく。容疑者にも心当たりはある。その上で言うが、生きているのは賞賛に値する。ましてや、ろくな治療もされないまま生き続けているとなると、驚いちまうくらいだ。だが、それでもぎりぎりもいいところじゃないか? 俺に出来る事は、せいぜい応急の手当てくらいだ。時間は稼ぐから、ドクトル・ファウスタスを探してこい」
 時間稼ぎなら慣れている。伊達に“新宿”でいつもいつも前座倒れをしているわけじゃない。
「あの御仁の事なら我々も探していた。最後に会ったのは、工藤殿と別れた時以来の事だ。そちらの方が詳しくご存じではないか?」
「あの直後に、この街で別れたきりだ。彼らは騏鬼翁……件の吸血鬼一行の一人を追っている。ひょっとすれば袁術のいる街に隠れているかもな」
 口にすると、一瞬悔しそうに唇を歪めるがすぐに胸を張る。前向きなのだろう。
「では、この街と袁家を中心に探ってみよう」
「俺は周泰さんとやらに今すぐ会わせてもらおう。できる限りに事をするが、俺の想像通りの敵で、思った通りの攻撃をされたのなら余裕はないと言いきれる」 
 敢えて酷な言い方をしたのは、それだけ迅速な対応が欲しかったからだ。だが、口にしていてどこか苦い気分になるのは仕方が無い。
「ちょっと……そちらだけで盛り上がらないでくれないかしら」
 眼鏡娘が低くなった声で嘴を挟んでくるが、俺は見向きもしなかった。元々気にくわん娘だからだが、同時に俺自身の気が急いているせいもある。
 いや、一度しっかりと深呼吸をした。
 落ち着かなけりゃならない。
 連中の中で実際に動いているのはまず劉貴だと考えるべきだろう。相手が女だからだ。
 基本、姫は男も女も関係なく弄ぶが、それでもやはり男を優先する。秀蘭は秀蘭で、劉貴の命じられた任においそれと出しゃばりはするまい。“新宿”であれこれ暗躍したのは、それだけあの街が……ひいては黒白のコンビが異常だったからと言う例外だ。
 騏鬼翁にはそもそも牙がない。
 まあ、この国は漢と言う国号の割には男に欠けているので姫が女に手を出してもおかしくはないのだが、やはり劉貴が第一の容疑者と考えるのが妥当だ。
「どこへ行くつもり!?」
「被害者は一人だけなのか?」
 声に背を向けて歩き出しての問いだが、もう手遅れだろうと確信していた。俺を案内するつもりだろう隣を歩く彼女の返答は性格に似合わない回りくどい言葉だった。
「……張勲は、戻ってきてから変わったわ。以前はただ慇懃無礼さが目立つ口先だけの腹黒女だったのが……得体の知れない何かが加わった。夜の間しか顔を見せないのに、行方不明になって挙げ句、その際に何があったのか説明もしていないというのに誰も彼女を側近の座から引きずり落とせないのは、それが理由」 
「訳の分からない、けれども恐ろしいとだけは分かる相手に近付きたくない」 
 俺の言葉に孫策はゆっくりと噛みしめるように頷いた。つまらないちっぽけな欲よりも、生存の本能こそが優先されているんだろう。それを超える浅ましさを欲は持っている物だが、オカルティックな恐怖には不慣れであるが迷信深さは強いからこそ反応は過剰になっている。
「私達の見たところ、例外はいなかった。けれど彼女だって深山に棲む仙人でもない。彼女に関わる様々な……宮女や衛兵などを中心にどんどんと張勲の異常さはまるで病のように拡がり、屋敷を中心に訳の分からない不気味さを纏う面々は増えていったわ。全員でないのは……昼間動ける人間がいなくなるのはまずいからでしょう」 
「やがて、ぽつりぽつりと高官からもおかしくなる者が現れ始めた……その筆頭が、主君である袁術だ」 
 背後で立ち止まったままの周瑜が途中から引き継いだ。
「袁術……まだガキだったな」
 張君という信頼していた女が行方知れずになり、得体の知れない何かになって帰ってきた。母親に置いていかれた子供のような袁術が、張勲に牙を突き立てられている姿が、二人の顔も知らないのに脳裏に影絵のように浮かんで消えていく。
「子供でも太守だ。そして彼女がそうなってしまえば頭をとられたも同然。瞬く間に怪物達は城を占領してしまった。魔窟だよ、あそこは」 
 周瑜の言葉は正論だろう。
 袁術とやらは変わり果てる前にも既に悪政の暗君だったらしい。そんな奴が子供だろうと化け物の餌食になったところで、気にかけるのは優しさでも寛容でもなく甘さだ。
 袁術の悪政に泣いた子供がどれだけいるのか、統計など取れずとも数え切れないのは察しがつく。
 気にくわない話なのは確かだが、少なくとも悪政者の手下をやっていた口の孫策らはともかく、民衆の前でそんな事は言うまい。
「やがて、家臣達の半分以上が変わり果てた頃から一人の男が夜な夜な見かけられるようになった」
 語る周瑜の言葉は、出入り口にさしかかった俺の足を止めるに値する威力を持っていた。 
「私も一度だけ、見た事がある。やはり夜、それも遠目にだけだが……今までに見た事のないような男だった」
 周瑜の声には、不思議な色があった。
 言葉では上手く言い表せる事が出来ないような色だが、何とはなしに俺は彼女が劉貴を見て何を感じたのか分かったような気がした。
「鉄のように力強かったか」
 俺の言葉に、周瑜が顔色を変えた。褐色の肌が魅力的な顔は、紅潮しているように見えた。牝としての色が濃い顔だった。
「父のように頼もしく、兄のように力強い。このガキとオカマしかいないような軟弱な国では今までに出会うどころか噂に聞いたことさえ無いような、本物の男であるように見えた」
 おかま? と誰かが不思議そうに口を開いたが気にしなかった。この国にはそう言った言葉はないらしい。
「それはどういう意味だ」
「手強そうだったろう?」
 怒り出しそうな言い方をしたのはわざとだ。かつて、劉貴に惹かれた人妻が招いた家で我が子を殺されたと聞いたことがある。
「この国に、そんな男は一人しかいない。あんたらの部下を殺したのはおそらく、その男……劉貴大将軍だろう」
 俺がそう言うと、そこかしこから訝しむような声で劉貴の名前が呼ばれる。そんな名前の将軍など、漢にはいないのだろう。
「残りの話をしている時間は無い。事は、その周泰さんとやらを助けてからだ」
 助ける自信はない。
 だが、それでもそう言い切らなければならない。
「ちょっと待ちなさい! そっちだけで話を進めてもらっては困るわ。こちらに協力を要請した以上、きちんとした説明を要求するわよ。それに、孫家に洛陽で好き勝手にさせるわけにもいかないわ」
 眼鏡娘が立ち上がってこちらにくってかかったが、俺の知ったことでは無い。俺にとって重大なのは今この瞬間に死んでしまっているかも知れない孫策の部下を助けることであり、他は二の次だ。
 と言うよりも、そもそも俺は部外者なのだからどうでもいいだろう。ここに孫策が連れてきたこと自体がそもそも場違いじゃないのか? むしろいなくなった方が、部外者がいると出来ないような話をする為にもやりやすいに決まっている。
「孫策、周泰……さんは何処にいる? なんだか知らんがそっちはそっちで話があるんだろう? 案内しろとは言わんから、他の手下に道案内させて欲しいとこだ」
 俺の要求に、孫策は一瞬以上の時間を使って笑ってから俺を追い越して扉を開いた。
「部下の命を救ってもらうのだから、私が行くわよ……と言いたいところだけど、さすがにこっちを冥琳だけに押しつけるわけにもいかないのよねぇ」 
 猫のように笑っているが、俺のような風来坊はともかく彼女の立場だとあまりよろしくない発言じゃないのか? 実際に、たぶん冥琳だろう周瑜がため息をあからさまについている。
「だから、祭にお任せするわ」
「黄蓋も来ているのか」
 俺の言葉に、孫策よりはハスキーな声が被った。
「祭で良いと言っておろうに。本当につれない男じゃ」
 そこにいたのは、以前別れた時よりも多少疲れが見える黄蓋だった。
「つれない男……我ながら全く似合わんな」
 だが、口ではそう言いながらもちょっと気持ちが弾んだりする。
 たまには女にそう呼ばれるのもいい気分になれるものだ。つまらない男と呼ばれるよりはいくらかマシだ。
「さっきから、扉の前にいたのか?」 
「気づいていたくせにそういう事を聞くかの。儂は今の状況ではそこまでしか同道を許されんのだ」
 儂を覚えている娘もいることだしの、と言った彼女の目が示したのは華雄。何とも言えない顔をして彼女らを睨み付けている。今にも闘犬のように唸り出しそうだ。目線は孫策と黄蓋の間を行ったりきたりだ。周瑜だけほったらかしになっている。
 一体どんな状況なのか、どんな因縁があるのかは知らないが、口に出して聞けば彼女を刺激することになりそうだ。まあ、偉いサンの事情とかは俺にとってはどこまでもどうでもいい事である。まして、それが女同士とあっては首を突っ込むなど嫌で嫌で仕方が無い。
「まあ、世間話は後回しだな。大事なことは他にある」
「世間話と言うには少し違うような気もするが、まあそんなようなものか」
 行こうか、と表に出た俺を引き留めようとする声が董卓側から幾つか聞こえたが、もちろんスルーだ。あんな風にかけられた声で立ち止まっても、面倒ごとが待っている以外に何がある。
「同感じゃな」 
「俺ほど身軽な立場じゃないだろうに、いいのか?」
「いいんじゃよ」
 あくまでも軽く口にして、彼女は肩をすくめた。
 黄蓋の案内で洛陽の町を歩く最中に聞いた話では、華雄は昔、今はもう亡くなっている孫策の母親と戦い……こっぴどく負けたんだそうだ。孫策は実の娘、黄蓋は当時の戦争に参加した当事者として、目をつけられているのだとか。
「ふうん」
「さらりと流すのぉ」
 口ではそう言う物の、彼女自身あまり興味は無いようだ。
「あの女は自分の武に相当の思い入れがあるようでな。自身こそ天下最強の武人と広言してはばからんらしい。それを負かしたとあっては。今は亡き堅殿はおろか、娘の策殿まで恨まれるのも分からない話ではない」
 自分は枠の中に入っていないのか。
「自称しているご大層な飾りなんざぁ、それこそ、我こそは張りぼてでございと言っているような物じゃないのか」
 俺にしてみれば、馬鹿馬鹿しいにも程がある話だ。あくまでも黄蓋から聞いた話だが、だまし討ちだの人質などはせずに真っ当に戦争をやって、それで負けたのだそうだから根に持つなどおかしな話だ。生きているだけ儲けものだろう。
 ましてや、本人じゃなくて娘にまであんな今にも斬りかかりそうな顔をするだなんて器が小さいとしか思えない。
 自分を負かした相手を嫌うのは分かる。次は勝つと闘志を燃やすにも、畜生あの野郎と恨みを持つのも当然の話ではある。だがそれにしても……どうにもこうにも、小物臭さが鼻について仕方が無いのはなんなんだろうか。
 感情があんまり露骨すぎるからなのか、負けた事実があるくせに天下無敵だか最強だかを自称しているからなのか。
 上手く考えをまとめられないが、潔さに欠ける、と思った。
「まぁ、その辺の話はそっちで勝手にやってくれればいいさ。むしろ、赤の他人の俺が首を突っ込む話じゃ無いとは思うんだが、話してよかったのかよ」
「他人でなくなるのはどうじゃ?」
「あ?」 
 実は俺達は、黄蓋の馬に二人乗りしている。
 先を急ぐ話であり、俺が馬にはろくに乗れないのでそうなったんだが、おかげで舌を噛みそうになった。突拍子の無い事を言いやがって。
「なんだよ、この前の話か? そんな事を言う余裕があるなら急いだ方が仲間の為だ」
「ふ、そう言う意味じゃない。男と女の話だ。まあ、確かにこのような時にする話ではない、飛ばすぞ!」
 前を向いているせいで、顔は見えない。だが、絶対に俺をからかう為に唇の両端は上を示していると確信する。
 ふざけている場合かと言いたくなったが、それでペースが落ちてしまえばこんなみっともない体勢でいる時間がそれだけ長くなる。
 俺は何も言わずに、ちょうど目の前をなびく黄蓋の髪を見つめながら時間が過ぎるのに任せた。これだから、年上の女って奴はよ。



 辿り着いたのは、洛陽の外だった。
 それも結構離れている、体感では……恐らく五キロかね。それだけ長く馬に乗っていたので、当然尻が痛い。
「随分と遠くに陣を敷いたもんだな」
「そうかの? やらかしたことを考えれば、うちの軍師が健闘したおかげで随分と洛陽の近くにとどまれたと思うんじゃが」 
 この辺りのスケールの違いは、生まれ育った国土の差が出ているんだろう。未来でも、中国は……あるいは大陸その物が島国に過ぎない日本とは距離感の物差しが大分違うと聞いたことがある。
 六畳のアパートで満足している俺とは、土地のスケールが違いすぎるってものだ。
 肩をすくめている間に、陣の中を進んでいくとやたら視線が集まる。何かおかしな所でもあるのかと改めて自分を見下ろすが、その内に重鎮である黄蓋の後ろにいるからだとわかった。物見高い視線が集まるのは落ち着かなくって仕方が無い。
「周泰さんとやらの所にはまだか」
「おう、もう少しじゃ」
 気が付いていないわけでもないのに気にした様子もないのは、日頃から男の視線を集めるに足る容姿をしているからだろう。俺も、視線を集めているのでなければ彼女の尻でも見つめて気を紛らわせたいところだ。
「ここよ。医師でもないお主に期待するのは筋違いと分かってはいるが……どうか頼む」
「できる限りはするが、あんたはドクトル・ファウスタスを探してきてくれ。元々神出鬼没な上に、別れてから結構日が経っているからどこにいるかは見当もつかないけど、それ以外に本当に助かる道はない」
 せめて行く先を聞いておくべきだった。
 騏鬼翁を追うとは分かっていたし、彼らの力を当てにする卑しい自分がいるようで敢えて聞かなかったのがこんな所で裏目に出るとは考えもしなかったな。
 何の意味も無いと理解しつつも過去を悔やみながら黄蓋の後に続いて小さなテントをくぐる。目に飛び込んできたのは、せいぜい中学生程度の少女が蝋のような顔色をして眠りについている姿だった。
「彼女が?」
 敢えて確認する。頷いた黄蓋に許可を得て枕元に腰を下ろすと、げっそりとこけた頬が否応なしに目立っていることに気が付いた。
「間違いないな。劉貴だ」
「それが件の男の名前か?」
 これが魔気功に討たれた結果だというのはすぐにわかる。不思議なのは、どうして彼女が存命なのかだ。口に出すのはさすがに不謹慎すぎるが、劉貴の魔気功を無防備に受ければ、俺だって即死は必至だ。ましてや、それから一体どれだけの時間を生き延びたって言う話だよ。
 生命力がゴキブリ並だと言っても通らない。妖物の血でも引いているのか?
 不思議で仕方が無いが、素人ながらも同じ目に遭った経験者として判断するに、いつまでも考察している時間もなさそうだ。
 黄蓋に許可を得てから、とりあえず服を脱がす。腹部に、目には見えない気の歪みが存在した。そこから根を張るように全身に広がっている様は病原菌その物のように見える。 
 ただ、よくよく見ている内に、目に見えない戦傷が奇妙なくらい浅いことに気が付いた。
「どこでこうなったのかは既に聞いておるのだったな? 明命……いや、周泰は部下と共に袁術、そして張勲の元に忍び込んだが帰ってきたのは彼女一人。彼女は部下諸共に、袁術の元に最近現われたと言う怪しい男の手にかかったと言っていた。ただ、一体何をされたかはわからない。ともかく部下と諸共に見えない何かに吹き飛ばされた、と最後の力で残した言葉がそれよ」
「……それなら生きている可能性もなくはないか」
 恐らくだが、劉貴の魔気功の大半はその帰ってこなかった部下が受けたのだろう。俺と戦った際の超雲みたいなものだ。
 それでも、普通の人間ならそんな報告をするどころか苦痛と悪寒に悶えて、のたうち回るどころかそれさえも出来ずに衰弱死するだろう。
 おそらくだが、彼女も劉備や曹操などと同じように三国の武将の名前を冠する、この国における異質であり主役でもある一人ではないだろうか。
「とりあえず、やれるだけやってみる。だが……三日は保たんと思うぞ。それまでに本命を探し出せ」
 それだけ口にすると、俺は瞳を閉じて自身の裏側に意識を集中する。念と気、その双方を最大限に使いこなさなければこの状態での生存は不可能。完全に無防備になってしまうが仕方が無い。
 気や念によって騏鬼翁辺りに居場所がばれる可能性はあるが、向こうがドクトル・ファウスタスに狙われている以上は俺に構っている余裕はないと期待する。
 それを言ってしまえば、逆説的にこちらにとっての希望の星も抑えられていると言えるのが目下最大の難点でもある。ゼムリアに期待したいが、向こうにこそ隠し球は多いだろう。
 ……ここで考えても不毛だ。俺はただ、目の前の事を一つ一つ全力でこなしていくしかない。それが、全体を見回して予測するなどという頭を使った事が出来ない不器用者のするべき事だろう。
 意を決し、精神を集中すると間もなく黄蓋の感嘆の声が耳に届いたが、俺はそれをどこか違う世界の事のように流した。精神を極限集中すると、肉体が硝子の器のように透明になってしまうことがあるが、今正にそれが起きているのだろう。
 幾度か義兄に起きた現象を見た事はあるが、自分のそれを赤の他人に見られるのは初めてだ。ちなみに、いつぞやの義勇軍共のように化け物扱いされていないようで幸いだと思ったのは事が済んだ後であり、恥ずかしながらその時は思いつきもしなかった。
 ただただ、全身全霊をもって目の前の死に瀕している娘を助けようと力を振り絞る。他の全ては雑念であり、今この瞬間はあえてドクトル達の事も意識の外に置く。
 誰かに助けてもらえばいいなどと言う甘い考えは、常に成功の敵でしかない。そのつもりであったとしても、いざ始めたならば自分で解決してみせるという気概がなければ前座さえも勤まりはしないのだ。
 彼女を俺が治してみせると言う意思の元で練り上げられた気と念が体内で制御を失っていく。当然と言えば当然か。どちらも目には見えないエネルギーではあるが実際には全く違う代物だ。
 それらを同時進行で扱うのは右手と左手で別々に計算をするような物だ。おまけに計算の問題は高等数学である。とどめに要求されるのはより未熟で不慣れな気の方だときたもんだ。
 俺にとっては極まった難問に全身汗みどろになりつつも、どうにか念でもって精神と肉体を癒しつつ自分の気で干渉し、相手の気の動きを調整する。俺に高度な気の技量があれば、双方に手を出すような必要は無かったのだと無意味な事を考えたくなる。
 状況は厳しい。
 だが、一つだけ好材料があるとすればやはり甦ってから手に入れた念の増量だ。もしも魔界都市にいたままだったならば俺の念はとっくの昔に尽きている。 
 しかしそれでも……三日間どころか一日保つかどうかさえ実のところ自信が無い。
 何しろ、これから行うのは言ってみれば全力疾走の無限マラソンだ。俺自身の体力、精神力、集中力、それらがどこまで保つか。だが、弱音を吐く事は許されない。ひたすらに駆け続ける時間をどれだけ引き延ばせるかが彼女の寿命に直結するのだから。
 ……やれるだけやるしかねぇよな。
 今一度腹を据え、俺は劉貴の事もドクトル・ファウスタスの事も忘れてひたすらに忘我の域に達した。



 それから、果たしてどのくらい時間が経ったのか。
 日頃は分単位での正確さを誇る体内時計も狂い、どれだけ時間が経ったのかは分からない。一瞬であったのかも知れないが、半日くらいは経ったのかも知れない。
 意識を失っているわけではないが、周りの事は何一つ認識できていないおかげで自分がどうなっているのかさえ分からなかった。理解できているのは、目の前の女の状態だけだ。
 瀕死としか言いようのない状況に悪化している。
 俺が意識を取り戻したのは、そのせいだ。治療の甲斐無く、俺の前で一人の女の命が取りこぼされようとしている。
「ち……」
 どうする。どうすればいい。
 答えは出ない。既に出来る事はやっている、これ以上出来る事が思い浮びやしない。くそったれめ。
 かすんだ目が、倒れている少女を二人に増やした。それはさながらトリックアートのように二重に重なっている不可思議なシルエットだ。
 だが、両者は全く同じには見えない。同じどころか、もう一人は彼女よりも年上に見える。彼女よりもずっと背が高く、肉感的で、髪は比較すれば短かった。
 それは少女ではなく歴とした女だった。少女に重なって、何もかもが全く違う女を見た。
 少女は俺の手で服をはだけていたが、着ている服の色は黒だった。女は真っ白い病衣を着ているが、きっちりと前を閉じている。だが、それでも隠しきれない豊かな身体のラインはかすかに彼女が身じろぎするだけで空気を甘く蕩けさせるほどの淫蕩さを見せつける。
 男であれば、誰もが服をはだけている少女よりも鎧のように飾り気のない病衣を着込む女を選び、涎を浅ましく垂れるだろう。
 媚態とも呼べないそれだけで、目にした男の全てがゆりかごから墓場まで強姦魔になりかねないような女だったが、俺はそんな気分には全くならなかった。
 自制心の問題じゃない。
 ただ、目の前の女を知っているからだ。
 少女は棒のように横たわり、瞳を閉じたままだったが……重なっている女は目を開いて俺を見上げた。
 一目見ただけで、この世全ての男が強姦魔になって理性を消失させかねない女の、そんな浅ましい劣情を一瞬で蒸発させる怒りと恨みの籠もった目だった。
 彼女の目は口ほどに物を言い、俺を打ちのめす。
 また繰り返すのか、この役立たず。
 そう言っていた。
 ……俺の全身は、いつの間にやら血塗れだ。
 毛穴という毛穴から血が汗のようにしみ出ているのだ、無理の上に無理を重ねると出てくる症状だ。意識は朦朧とし、気が付かない内に全身は力を失い、指一本持ち上げるだけでも重労働と言えるほどになってしまっている。
 身体の何もかもが命を支える何かが足りないと主張して、そのくせ腹の底から命を支える何かがあふれ出してこみ上げそうになっている。それをしてしまえば死んでしまうとは直感による判断だ。
 これ以上、何かをすればきっと俺は死ぬだろう。
 だったら、ここは引くのが得策だ。考えるまでもない当たり前の話だ。大体、目の前の少女は元々死にかけどころか瀕死だ。そんな相手を助ける為に、俺が死んでどうするんだ?
 ここで踏みとどまれば、俺は助かる。それは間違いが無い。
 
 ……で、それがどうした。

「……どうせ、二回目の反則人生だ」
 一回こっきりの命の方が、そりゃあ、大事だよな。
 びくびくと、手が震える。やめておけと頭の中で大きな声が聞こえる。
 俺は出来るかぎりの事はやった、誰も責めやしない、死んだとしても仕方が無い、これ以上俺が何をやっても死体が二つになるだけで無意味どころか有害だ。
 そんな声を、俺はやせ我慢でねじ伏せた。
 ぐだぐだと考える時間は無い。
 あと一歩で死ぬかも知れないという所で、あえてその一歩を踏み出す以外にはない。
あるのかも知れないが、俺の足りない脳みそでは他の延命手段は見付からなかった。
 頭の回転が速い奴ならここで何か一発逆転の手を思いついたりするのかもしれないが、俺にはそんな真似は出来なかった。
 やめておけ、死ぬ。そんな声がした。手が少女から離れそうになった。
 誰も責めやしない、こんなにボロボロになるまでやったんだぞ。そんな声がした。ろくに動かないはずの膝が浮いて、席を立ちそうになる。
 口を利いた事もない小娘の為に捨てる命があるかよ。そんな声もした。腹の底で湧き出てくるはずの念が滞る。
「あーっ! ああああぁぁっ!」
 自分の弱気から目を背け、駆け出す為の悲鳴のような気合が口から出てきた。叫ぶ力があるくらいなら他の所に回せよ、根性なしの俺め。
 ああ、もう。
 畜生だ。
 死にたくなんてねぇよ、何回死にかけたって悟れるもんかい。帰れるかも知れねぇんだ、あの人達の所に。
 畜生、畜生、畜生。
 こんなガキに魔気功なんて使いやがって畜生。
 俺の目の前で、死にかけやがって畜生! いっそひと思いに死んでしまえば、こんな事にはならなかったのになぁっ!
 くそったれでろくでなしの俺自身を殴り飛ばすようなつもりで、最後の力を振り絞り、そして声を上げる事も出来ずに俺の意識は闇に落ちようとして……
「っとぉ」
 誰かに支えられた。
 それが誰であるのかは、一瞬耳に捉えた声があっても分からない。ただ、何か暖かな物が背中から全身に波紋のように広がっていくのだけは、はっきりと認識できている。
もう大丈夫だ。
 根拠などない確信を抱き、それを受け入れた俺は速やかに意識を失った。
どこか、幼い頃に出会った誰か達がすぐ側にいるかのような安心感に笑みさえも浮かべながら。



「よお、思ったよりも早い目覚めだな」
 目を覚ました俺に、こちらが瞼を上げるよりも先に声をかけたのは飄々とした若さに溢れる声だった。
「彼女は助かったのか」
 ふう、と全身の力を抜いた俺に、別れた時と全く変わらないゼムリアが不思議そうな顔をした。
「どうしてそう思う?」
「ドクトル・ファウスタスがいれば、当然だろう」
 答えは、にやりという笑みだった。同じように笑い返すと、俺は自分の体内に意識を向けた。調子は上々である。
「三日か」
「ああ、きっちり三日間だ。お前さんが彼女を治療していた時間も含めてな」
 狂い続けていた体内時計は、優秀な事に意識を失っている間に正確な時を刻み直している。いや、優秀なのは俺ではなくて直した職人の方か。
「ゼムリア、あの時俺を支えてくれたのは……それから、念法を使ってくれたのは貴方だろう? 何度も助けてもらってかたじけない。それから、もう一人にもお礼を言いたいんだが、ドクトル・ファウスタスはどこに?」
 あの時、俺の身体はガタガタだった。
 その理由の一端に、酷使されすぎたチャクラを含む霊的器官の損傷がある。それを治療してくれたのはもちろんドクトル・ファウスタスだが、座礼を行う俺の前で照れくさそうな顔をする好青年も大いに力を貸してくれたのは想像するまでもない。
「あんたはどうにも大げさだよ。ドクトル・ファウスタスだってきっちり治療費は取るさ。そこまでかしこまらなくてもいい」
「それでは済まないだけの物を頂いたと考えております」
「何もあげた覚えはないさ」
 それ以上は何も言えないような顔をするゼムリアに、心の中でだけ敬意を払い続ける事を誓いながら話を変える事にする。
「間に合ったのは嬉しいが、洛陽にいたのか?」
「いや、そこら中を歩き回っていた。あの爺さんを追い掛けているのもあるし、この国が俺達にとっては物珍しいのもある」
「なら、どうして?」
「あれだけ延々と天まで届くような念を発している奴がいれば、見に来たくもなるさ。ましてや、心当たりがあれば尚更だ」
 少し呆れたような口調に、気恥ずかしくなるのを自覚する。狙い通りにいったはずなのにおかしな気分になった。
「お? 何か騒いでいるな」
 尻の据わりが悪くなったところで、タイミングよく聞こえてきたのは何かの喧騒だ。あからさまは百も承知、誤魔化すつもりで首をひねる。視界の端を掠めたニヤニヤ笑いは観なかった事にするよりない。
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
 感無量という言葉その物と言うべき声がする。生命の力に満ち溢れた、うら若い少女の声その物だ。
 立ち上がると、改めて身体の好調さを実感する。こっそりとテントの入り口から顔をのぞかせると、少し離れたところにあの少女を中心とする人だかりが見えた。
 彼女は小柄な身体一杯に活力を漲らせ、二本の足でしっかりと立ちながら血色のいい頬を喜びの涙で濡らしてドクトル・ファウスタスの手を握り、繰り返しの感謝を単純すぎる言葉で伝えている。
 その語彙の無さが深い感謝を逆に知らせている。思わず口元が綻びかねん光景だ。彼女の周囲にも口々にドクトル・ファウスタスに感謝し、彼を賞賛する声ばかりが花束のように溢れかえっている。
「俺の身体も、ゼムリアだけじゃなくドクトルのお世話になったんだろう? 一段落したら礼をしにいくよ」
 俺としては今すぐ頭を下げに行きたいところだが、どうも割って入るにはやり辛すぎる空気が漂っている。
「は? それ、本気で言っているのか」
「早く礼を言うに越した事はないけれど、さすがに空気を読んだ方がいいだろ」
 若干、恩知らずあるいは礼儀知らずと言われているような気がして早口で言い返すが、ゼムリアは俺にどこか拍子抜けしたような顔さえする。何だって言うんだ。
「あいつの患者を助けたんだろう。むしろ、向こうが礼を言うべきじゃないか」
 今度は俺が口を開ける時間になる。
「は? いやいや、ドクトルにはあの……名前なんて言ったっけな……ああ、周泰を助けてもらったんだ。それ以上に俺を助けてもらったんだ。礼を言うのはもちろんこっちだろう」
 むしろ、なんで俺が礼を言われる側になるのか。
「彼女が身内ならともかく、あんたまるっきり赤の他人じゃないか。それで命を賭けてまで助けたんだから、医者としては礼を言う側じゃないのか」
 納得がいかないという顔をするゼムリアだが、それはこっちの方こそだ。だが、妙にムキになりそうな予感がしたのでやめておく。そこまでする必要性があるわけでもなし、そもそもこんな事でこの男と言い争いになるだなんて冗談ではない。
「俺にとっては感謝したい事なんだ。一言でいい、礼くらい言わせてくれ」
「損な男だなぁ」
 ゼムリアは腕組みをして不満そうに言うが、むしろ褒められたような気分になった。
「そいつは最高だ」
 上手く立ち回れるような賢い男である事は、少なくとも俺にとっては喜ばしい事ではない。損な事でも、敢えて逃げずにやれるような男でありたいのだ。
 そんな自分を格好いいと思いたいだけの俺は、つくづくガキである。
「こりゃあ、素直に申し出ても上手くいかないか?」
「? 何が……」
 俺を子供でも見るような目で見てくるゼムリアが何やらおかしな事を言っているが、いまいち察しがつかない。なんの話だろう。
「なあ、あんた。俺に感謝しているって言ったよな」
「? ああ」 
 悪戯坊主のような顔をした青年が、突然突拍子の無い事を言った。
「なら、俺と一丁勝負してもらえないか?」
「……勝負?」 
 にんまりと笑うゼムリアに、俺は不思議そうな表情をしながらオウム返しに返した。しかし、我ながらどこか嘘くさいとも思っていた。
 突拍子のない話ではあるが、俺は話を聞いた瞬間、あっさりと乗り気になっていたのだ。いや、今初めてそう考えたわけじゃない。
 むしろ、かつてゼムリアを見たその瞬間からこの数ヶ月間、俺の方こそずっとそうなる事を望んでいたのだ。この男の剣を見てみたい、と。
 俺を明らかに上回る、騏鬼翁の袖を切り裂いた一閃を見たその時から、俺の剣士として培ってきた本能がそれを叫び続けていた。
「乗り気のようだな」 
「見透かされちゃあしょうがない。確かに俺はあんたの剣が知りたかった。だけど、どうしてだい。あんたがそんな事を言ってくれるとは理由がないだろう」
「あんたの技は、あの鬼を倒した時に見た。素手の技が大層面白かったので、剣の技も知りたいとは当然だろう」
 そっちが専門だろうからな。そう言って笑う顔には、男だからこそ笑い返さずにはいられない爽やかさがあった。詩的な表現が似合う男に育った覚えもないが、まるでよく晴れた夏の草原のような男だ。
「そうかな?」 
 俺はごく自然に、相手が格上であると感じている。それが、俺の剣に興味があるって言うのか。逆ならともかく、悪い冗談のようにしか思えなかった。
「そうだよ」
「なら、こちらこそよろしく」
 結局は受けた。それもあっさりと。
 ほとんど関わりらしい関わりの無い相手ではあっても、それでも俺に対して……いいや、誰に対しても罠や卑怯な企みをするような男にはどうしても見えなかったからだ。
 それが、あるいは有り得ない知識故の思い込みに過ぎないのかはこれからの時間が証明してくれるだろう。
 残念な結果になると思えない俺は、毒されているのだろうか。たぶんそうじゃないんだろう。何となくだが、俺はこの男がどうしてこんな事を言い出したのかが分かってきた。
「いろいろ、教えて頂く」
「なんの事だろうな」
 我が意を得たり、と言う風に笑う男は何もかも分かっている風に笑った。つまり、そういう事なんだろう。見た目で言えば、一度人生……あるいは人間をやり直した俺の方が長く生きていると思う。
 だが、それでもまるで弟を見守るような顔をして見られている事に違和感も恥ずかしさも感じなかった。そうあるのが普通のように見える。
 こう言うのを、器が違うとでも言うのか。ああ、その言葉がいやにすんなりと胸の奥に収まる。
「じゃあ、始めようか」
 そう言って笑う男の横顔は常々誰かと被る。それに面はゆい思いをしながら、俺は彼に続いて誰にも捕まらないように、人目を避けてテントを飛び出した。周泰さんの話を聞かなければとは思う物の、それでもこの機会を逃せば一生後悔すると断言できた。
 


 それから、俺達は人目につかない場所を探して立ち合う事となった。
 互いに、適当な距離に立って得物を抜く。
ゼムリアは木刀を肩に担ぐようにして構え、俺は仁王をいつも通りの正眼。俺達の間に殺気ではなく気迫が立ちこめる事がどうにも嬉しくてしようが無かった。武術ではない、武道をしている。そんな実感が身体の内側からも外側からも感じ取れる事がどうしようもなく心地いい。
 だが、笑みが浮かぶような心地よさではなく腹が据わるような心地よさだ。昔から、工藤の家に引き取られて木刀を握った時から感じているそれと同じ空気だ。
 たまらない。
 懐かしく、心地よい古巣に帰ってきたような気分だ。
 どうしようもないほどに、叫びだしたくなる程に心が沸き立つ。いや、こらえるなど勿体ない事はしない。何を憚る事無く、俺は腹の底から声を上げた。
「ぉぉぉぉぉ……」
「お?」
「ぉぉぉおおおおおおおおぉっ!」
 最初は小さく、やがて大きく。最後は喉も破れんばかりに声を出す。俺自身は全身から声を出したと錯覚してしまうほどに心地よい叫びを出す事が出来た。
「気合が入っているじゃないか」
 ゼムリアの軽口に、何も返さずに一気呵成に踏み込んだ一刀が真正面からゼムリアの脳天に襲い掛かり、間に挟まれたもう一本の木刀に阻まれる。
 乾いた音が響いた。
 それが心地よく、手に伝わる感触もまた、心地よい。
 向こうはどう思っているだろうかと見てみると、ゼムリアの目も笑っている。瞳の中にある闘志は、好戦的でありながらも清々しい。それを受け止めながら、磁石のように弾けて距離を空けた。
 もう一度、間髪入れずに斬りかかる俺の姿は、一方的に攻めかかりながらも押しているようには見えなかった事だろう。まるで稽古をつけてもらっている子供のようだ。
 袈裟懸け、切り上げ、胴薙ぎ、太刀筋を隠そうという考えは全く思いつかない。ただ全力を真っ向からぶつけたいと思う、そんな剣を握り始めの頃のような気持ちに全身が沸きたった。
「いいいぃいいやああっ!」 
 実戦を知って以来、全く意味が無いと悟った気合の声が絶え間なく迸る。どうしてこんな奇声を上げているのか自分でもさっぱり分からないが、自然とそうなるのだ。
 全身に無駄に力が籠もっているのは自覚しているが、それを止める気にならない。今の俺はただ全力疾走したいだけの子供のようだ。
 固くて遅い太刀は簡単にかわされ、ゼムリアは反撃の様子もない。それをどれだけ繰り返したろうか、全身が汗にまみれて心地よい熱気が体内を満たす。
「ふっ!」
「お」
 力が抜け、鋭さを取り戻した一撃がゼムリアの腕を目掛けて奔り、木刀がそれを抑えた。
「身体が温まったみたいだな」
「久しぶりに、なにも考えずにがむしゃらに剣を振り回したくなったんだ。つき合ってくれてありがとう」
「たまにはあるよな、そういう時」
 ふざけているのかと怒る事もなく長々とつき合ってくれたゼムリアには感謝をして、もう一度距離をとる。全身にほてりはあるが、気が済んだおかげで余計な力は抜けた。
「じゃあ、そろそろ本番いくかい」
「おうさ」
 どうしようもなく楽しい。
 勝ち負けもなく、ただ剣を振るう事が楽しくて楽しくて仕方が無い。今までにも、こんな機会は山ほどあったがどうして今日だけこんなにも心が浮き立つのか。
 相手がゼムリアだからか。念法使いだからなのか。
 こんな事は、今までにどれだけあっただろうか。ああ、こんな事に頭を使っている時間その物が勿体ない。
 呼吸一つ一つでさえ無駄にはせずに、全霊をもってこの時間を使い切れ。
 自分自身に言い聞かせて振るった会心の一太刀がゼムリアの肩口の辺りで木刀に受け止められ、乾いた心地よい音が風の戦ぐ音を圧倒した。


 どれだけ時間が経った事だろうか。
 その感覚さえもなくなるほどに剣を振っている。いい加減に腕の力がなくなっているが、それでも不思議と仁王を手放す事だけはなかった。いつもの事だ。
 腕どころか全身の力が抜けているし、喉は焼けるようだ。冷たい麦茶の一杯をやってから大地に寝転べば、これ以上無いほど安らかな気分になるだろう。正に至上の贅沢だが、それでも引き替えにならないほど今の時間は充実している。
 一度切り結ぶごとに、俺の中から不要な物は岩をツルハシで掘り崩すように消えていき、鉱脈から宝が見つけられるように新しい自分が見付かっていく。
 俺は今、成長していた。
「面白いな」 
「ああ、ありがたい」
「礼を言わなくてもいいさ。あんたは確かに成長しているが、俺も確かに学んでいる、あんたの剣は、なんというのだろうな。肌に合う」
「それは、俺の学んできた剣を育んできた剣士達にこそ言うべき言葉だ。きっと、ゼムリアは日本、侍の刀とウマが合うんだろうさ」 
 力が入らないのに身体は思うままに動き、時としてそれ以上の速さで刀は振るわれ、重たく鋭い一撃を見舞い、俺の想定以上の理で隙を突く。
 だが、それでもゼムリアの身体には一撃も当たらず俺の身体には寸止めの一撃が既に十以上は打ち込まれていた。
 圧倒的な差だが、腐ることは無く遊んでいるかのように気分が弾む。俺は一体いつからこんなに剣術バカになったのか。
 一番“最初”の頃は、剣を握るどころか走ることさえも嫌がるような人間で、許されるなら幾らでもぐうたらしていたような怠け者だったはずだ。一体、いつからこんな体育会系の人間に変わったのやら。
 だが、悪くない。むしろいい変化だろう。俺のような根性なしでも変われるとは、きっと人間関係に恵まれたからに違いない。
 ああ、そうか。
 俺が変われているのは、成長できているのは剣を交わしている相手がゼムリアだからなのか。今も、言葉を交わしながら思考を巡らせながらも一振り一振りに成長の実感をはっきりと握りしめることができるのは、相手に恵まれたからであるのか。
 俺は大きく間合いを空けると、型稽古のように足を開いた。基本の一つである、上段の構えを取り、大きく深呼吸する。
 その間、ゼムリアは静かに待っている、
 余裕が有るからではなく、純粋に俺がこれから何をするかが楽しみなのだろう。これは真剣勝負ではないのだから、そういうのもありだ。
 そして、感謝の気持ちを技にこめて、とっておきを披露するのもまた、ありだ。
 だから、俺はこの立ち会いで初めて念法を使うことにする。それまでの純粋な剣技の勝負ではなく、何もかもをひっくるめての一太刀を見せる為だ。
 ゼムリアの顔からも、俺の念に呼応して笑みが消えて重たくも鋭い気配がにじみ出てくる。
「すごいな」
 そんな言葉が、意識するよりも先に口から出てくる。
「そっちこそ」
 その言葉を合図に、俺は仁王を風も世界も置き去りにしながら振り下ろした。





「本当に凄いじゃないか」 
「意識して出せたのは初めてだよ。ずっとずっと、たまに偶然出せるだけだったんだ」
 力を使い果たして大の字に倒れている俺を見下ろしながら賞賛するゼムリアには、結局かすり傷一つもついちゃいなかった。
 悔しくもあり、憧れもする。
「やっぱり、差は大きいな」
「そうか?」
「傷一つつかないで、よく言うよ。大体、手に持っているのはなんなんだ」
 ずっと気になっていたのだが、何故だかゼムリアは木刀を使っている。彼がこれまで持っていたのは、少なくとも騏鬼翁と争っている時までは木刀ではなく単なる木の棒でしかない。
 しかも、見るからに真新しい。
「ああ、これな。ちょっとあんたの真似をしてみたんだ。上手く出来ているだろ」 
 確かに見た目はよく似ているが、不思議なことに長さやバランスなどもよく似ている。仁王を見本にしたと言うよりも、再現したと言ってもいいくらいだ。
「なんでまた」
「格好良く見えてな」
「…………」
 コメントに困る答えに思わず無言になる。まさか口で言ったそのままでもなかろうが、見当もつかない。まあ、黙っていられても支障はない話だろう。彼が俺、ひいては世間様に迷惑をかけるような真似はするまい。
「工藤ー? そっちのお兄さんもこんな所で何をしているのよー」
 そんな俺達に、どこか呑気な声がかけられた。言わずもがな、孫策だった。彼女は俺達が揃っているのを見て何を思いついたのか面白そうな顔をしていたが、ゼムリアの足下を見て今度は素っ頓狂な声を上げる。
「ちょ……ちょっと、何よこれ!?」
 その時の顔は、いっそ写真にでも残しておきたいような彼女らしからぬ表情をしていた。いつでも飄々として人を食ったような態度を崩さない女が、人目も憚らずに驚きを表に出しているのは面白い。
「なんだって、何がだよ」
「人が悪いな」
 分かっているのに、あえてそんなセリフを口にする俺を、ゼムリアが笑った。彼の目は、自分の足下に注がれて孫策と同じ物を見ている。
「山みたいな大岩が真っ二つになってりゃあ、それもこんな鏡みたいな奇麗な断面を見せていれば驚くのは不思議じゃないだろ」
「あいにくと、この程度で驚くような可愛い連中は、俺の周りには一人もいなかったさ」
 まあ、さすがに言い過ぎなことを言うと、真に受けたゼムリアが目を丸くする。
「とんでもない話だな」
 口ではそう言いながら、目の奥には燃えたぎるような火が垣間見えるようだ。俺の一言が、彼の中にある剣士としての闘志に火をつけたらしい。
 ……彼が魔界都市に来たら一体どうなるのか。それを見てみたいと思ってしまうのは不謹慎ながらも本心だ。
「どうにも、神も悪魔も裸足で逃げ出すような連中がちらほらいる上に、そういう相手と顔を会わせる機会が多かったのさ。良くも悪くも、縁がある」
 良縁もあるが、悪縁も多い。妖姫一行との出会いは劉貴がいようとも悪縁に違いなく、ゼムリアとの出会いは間違いなく良縁だ。
「って、私を放りだして男だけで話さないでよね。こんなにいい女を放りっぱなしなんて、男として甲斐性が無いんじゃないかしら」
 上下のパーツに対して細すぎる腰に手を当てながら、憤然と言いつのる孫策が歩み寄ってくる。
「その通りだな」
 言われるままに、俺は尻を叩いて立ち上がる。疲労困憊だが、話している間に少しは回復した。
「じゃあ、甲斐性なしは退散する。後は若い二人に任せた」
 こう言う面倒くさいのは、三十七計目を決めるに限るのだ。
「そこでいなくなるのは、甲斐性がないにも程があるんじゃないかしら」
「あっちの方がいい男だろう」
 怒るどころか呆れている孫策とすれ違う時にニヤリ、と笑ったのは我ながら上手かったと思う。
「はいはい……それにしても、これをやったのはどっちなのかしら。何をどうしたらこうなるのか、まさか剣で山を斬ったわけでもないでしょうに」
「さあね」
 そんな会話が後ろから聞こえてきたが、意に介さずに足を進める。彼女の来た方には、劉貴の存在を証明する少女がいる。彼女から情報を聞きだして、それを元に劉貴の元へと確実に辿り着き……そして、今度こそ倒す。
 かつては全く届く予感がなかった。
 だが、ゼムリアに学んだ今の俺なら劉貴の喉元に切っ先を突きつけることが出来る。ただの錯覚に過ぎないのかも知れないが、この高揚感が俺にそう思わせてくれる。
 理屈も糞もなく、研ぎ直した今の俺を劉貴に見せたい。思うがままに全身全霊をもって、彼にぶつかりたい。そう、思った。



「まったく、人がせっかくお礼を言おうと思って探していたのに、そこで本当にいなくなる? 甲斐性なしと言うよりも、礼儀知らずよ」
「知るかい。まったく」
 あれから、感謝の意をこめて設けられた宴席において、孫策がぶちぶちと俺に文句を言ってくるが聞き流す。
 これだから女は、と言うセリフを飲み込むのには苦労した。
 あのまま颯爽といなくなるのが格好いいというのに、男のロマンを邪魔するとはなんて女だ。文句を言いたいのはこちらの方だと思いつつ、箸を口に運ぶ。
 豪勢な食事は、今の状況で彼女らが用意できる最上級の物だろう。こめられた敬意が想像できて尻が落ち着かないが、これはドクトル・ファウスタスに送られた物であり、俺はおまけであると考えて気分を落ち着ける。
 俺、ドクトル・ファウスタスとゼムリア、孫策、周瑜、黄蓋、そして周泰の七名が席を囲む一同であり、孫策の隣にドクトル・ファウスタスとゼムリアが、逆隣に俺が座っている。
 席順を決める際に、主君の隣に客が座る物なのかどうか聞いてみたのだが孫策は適当に話をしたいのだからいいのよ、と言い切った。
 周瑜がため息をついたので、おそらくは全くよくはないのだろう。怪しい自覚がある俺達だから、これは孫策だけの特殊なパターンと考えて置いた方が無難だ。まあ、そうそう偉いサンと飯を食う機会など有るはずもないので、特別気にかけることでもない。
 俺は、そこらの安食堂でがつがつ食う飯こそが肌に合う男である。
 間違っても、宴席で女を侍らせながら酌を受けるような男ではない。
「ほれ、もう一杯飲むがいい」
「……酒は得意じゃないんだよ」
「なんと」
 主に、俺の酌をしているのは黄蓋。彼女は主に俺やゼムリアの間を行き来しつつもたまにドクトル・ファウスタスの所に通って甲斐甲斐しく酌をしている。いや、俺達に勧める三倍以上飲んでいるので甲斐甲斐しいというのは語弊がありそうだ。
「三人分の三倍飲んで、酔う酔わない以前にどこに入っていやがる」
「無粋じゃの」  
 引き締まった蜂のようなウエストを見ると、一行に膨らんでいる気配もない。つまみも加えれば相当な量が入っているはずだが……以前出会った、車を飲み込むストリートパフォーマーを思い出す。
 味を聞いたら憮然としていた彼でも腹は膨らんでいた、車一台分も。
「はい、ぜむりあさんもどうぞ!」
「おう、ありがとう」
 いまいち舌に馴染んでいない発音で名前を呼びながらゼムリアに酌をしているのは、中学生程度にしか見えない溌剌とした少女、周泰。
 今回の患者その人だが、随分と元気になっている。瀕死の状態を数日間彷徨い続けた危篤状態とは到底思えないのだが、俺が眠っている間に随分と回復したらしい。
 いや、そう言えば俺も似たような物だったか。その俺がここまで回復しているのだから、彼女も同様に回復しているのは不思議ではあっても当たり前だ。
 そんな彼女に対して、少しでも多くの劉貴の情報を提供してもらいたいと勇んでここまで来たのだが、実はドクトル・ファウスタスに止められてしまった。
 さすがに、昨日の今日で自分を殺しかけた相手について根掘り葉掘り聞くのは認められない、と至極もっともな事を言われてしまい、相手が相手な事もあって少し時間を置くことになってしまったのである。
 じらされている気分だが、彼女が微妙に俺を避けているのは気が付いているので仕方が無いと諦めている。どうも、孫策か周瑜辺りが俺の目的を事前に話していたらしい。
 彼女にしてみれば、俺は辛い記憶をほじくり返す馬の骨なのだろう。仮にもスパイのようなことをしていた彼女がそこまで過敏に反応するのはいまいち納得がいかないが、若い女など俺にとっては理解不能の生き物なので、軟弱とは思う物の、そう言う物なのだとしておく。
 ドクトル・ファウスタスに酒を勧めているのは周瑜だ。先ほど、黄蓋が戦地でなければ自分たちではなく専門の女性が酌をするところだと言っていたが、なるほど彼女のような立場の人間が身内同士の飲み会でもあるまいに、酌婦の真似事というのはおかしな話だ。
 彼女らは見た目なら最上級の上に娼婦顔負けに露出が多いので、よく似合ってはいるんだが、そう言えばこれでも武将なのである。
 これでもっと栄えている武家なら、彼女らが手ずから酌婦をやる事もなかったんだろう。
 まあ、ともあれ黄蓋も周瑜も、そして言わずもがな孫策もこの快気祝いの宴はとかく楽しんでいるようなので問題は無いだろう。周瑜などは、以前にドクトル・ファウスタスに命を救われたこともあるが、彼の卓抜とした医術に関心が高いようで進んで会話を行いながら、自分達の元に留まってもらえないかと誘いをかけている。
 孫策と黄蓋は、主に俺やゼムリアに武芸関係の話を振ってくる。俺としても彼女ら、特にゼムリアの話は興味が尽きることはないので積極的に会話に混ざっている。彼らの話は参考になり面白くもあるが、向こうも俺の話は面白いらしく何くれと質問が尽きない。
 もちろん武芸に生きる者として限度はあるが、少し口が軽くなっていたのは否定できないほどだった。
 さて、ゼムリアが俺の話にふんふんとうなずき、孫策と黄蓋が目を丸くしたり眉唾だと顔をしかめたりして随分と時間が経った頃……わずかな空白の時間を縫って、俺は座り直しながら口を開いた。
「そろそろ……宴席には相応しくもない話があるんだが、いいか」
 発言者の俺ではなく、びくり、と肩を上げた周泰が一同の目を集めたが、彼女は怯える事無く毅然として頷いた。腰が引けているように見えたが、それは言わないのが情けだろう。
「……命のご恩です。私に分かることがあれば、幾らでもお話しします。雪蓮様からの許可も出ております」
「ありがとう」
 まあ、そう言ったところで本当に一から十まで話してくれるとは思ってはいないし、そもそも彼女の知識では何が何だか分からなかった、で済まされてしまうところも多々あるんだろう。
 何を聞くべきかは考えていたが、やはり重点的には劉貴を発見した場所とそこの間取りや潜入方法などを聞いた方が無難だろう。
「まあ、うちにしても得体の知れない男の事を詳しく聞けるに越したことはないしね」
「俺達も聞いて構わないのかい?」
 ゼムリアが聞いてきたが、もちろん是だ。彼らとて騏鬼翁と戦っているのだから、仲間である劉貴の情報は持っていても損にはならないだろう。
結局、騏鬼翁とはあれからどうなったのかは聞けていないしな、こっちとしてもいい機会だ。
「まず、そもそも君が相手取ったのはどこの何者であるのか。名前なんかは聞けたのなら話は早いんだが……あと、どういう技術を持っていたのか、言動なんかも知りたい」
 しばし時間をおき、恐らくは何を俺に話していい物かどうかと取捨選択をした後に彼女が言うには、これまでに見たことも無いような男だったそうだ。
「黒くて、金糸銀糸を使って贅を凝らした服を纏っておりました。一見すると典雅とさえ言える顔でしたが……雰囲気がいかにも武人然としており、線が細いと言う印象はありませんでした。むしろ、石か鉄で出来ているような、そんな印象を受けました」
「……名前は?」
「申し訳ありませんが、そこまでは。ただ、張勲には“主様”と呼ばれていました」
 最初に吸血鬼となったと思しき張勲にご主人様、か……なるほどね。まず間違いは無いだろう。よく生きて帰れたもんだとつくづく感心する。
 俺は、劉貴の容貌を褒めた周泰をからかおうとする孫策を制してから続きを質問する。
「君が見た中で、どのくらいの人間が張勲と同じになっていた?」
「私が見た中では既に五十人を超えていました」
「……多いな」
 詳しく聞いたところによると、吸血鬼になったわけではなく“なりかけ”が多いようだが、彼女が最後に調査した時から時間は随分と経っている。既に多くが吸血鬼と成り果てて、更に犠牲者を増やしていることだろう。
「最悪、街一つ全てが吸血鬼となっていると仮定しておいた方が無難か……」
 俺がそう結論を出すと、女性陣の動きが一瞬硬直した。
「なんだ?」
 口には質問を出したものの、なけなしの想像力で察しはついていた。
「工藤……聞きたいのだけれど、あなたこれからどうするの」
 孫策が、全く似合わない神妙な顔をして直接的な返答以外のことを口にする。質問に質問で返すなとか、雰囲気が似合っていないなどとは言えない顔だ。
「袁術とかいう奴の所に忍び込んで、劉貴と戦う」
 結局は、これに尽きる。この国の事情などに関わるつもりは毛頭無く、やるべき事は一つきりなのだ。まあ、やれることがそれだけだという話もあるんだが……
 だが、そんな俺の答えを耳にした周瑜が、笑いたいが笑えないという顔をした。
「それはなんというか……随分とわかりやすいというか、誰もが思いついて、しかしやらない選択だな、それは」
 女と角を突き合わせないコツは、聞き流し方の巧さだと思う。
「馬鹿にされている事だけは理解できた」
「いや、そういうつもりはないんだが」
 愛想笑いではなく、まるで利かん気の子供でも相手にしているかのような笑みを浮かべているとしか見えないのは、俺のひがみだろうか。
「工藤、それは生憎とかなり難しいわよ。たぶん、もう無理」
 酒ではなく肉で、マナーなど知るかと言わんばかりに噛みついて憂さ晴らしをする俺に孫策が突然そんな事を言う。どういう意味だ。
「董卓殿はやり過ぎた、って言うところね」
「らしくもない、もってまわった言い方をする」
「もってまわってないわよ。あなたがそんだけ性急なの、焦ってるんじゃない?」
 俺はいつもこんなもんだ。だから、交渉ごとが下手だのと言われる。
「……今までよくやってこられたわね」
「話が逸れている」
 これ見よがしに頭痛がするというようなポーズをとる孫策だが、彼女に冷たい視線を向けている周瑜に気が付いていないのだろうか。日頃の行いが知れる。
「檄文が今、漢の諸侯に届いているらしいわ」
 げきぶん、と言う言葉が頭の中で漢字にならない。知らない言葉だった。
「なんだ、それ」
 見栄を張っても何もでない場面だと思い、俺は率直に言葉を口にする。孫策はため息をついたが、それは俺に対してではないようだ。彼女は、俺が単語の意味さえ理解できなかったとは気が付かなかったようだ。
 無教養さが飛び抜けていると、口で言われるよりもはっきり突きつけられたようで恥ずかしくなったが、黙っておく。他の頭の良さそうな連中には気が付かれている気がして落ち着かない。
「帝を傀儡にして、天下をほしいままにする董卓を我らの力を結集して討つべし、一言でなら大体そんな内容かしら。袁家の一門において筆頭である、袁紹から有力諸侯に送られた檄文よ。なんでも、董卓は我欲のままに帝をないがしろにし、洛陽の民に理不尽な暴虐を振る舞い魔王さながらの悪事を働いて漢を食いつぶす非道の輩だとかなんとか」
「へえ」
 げきぶん、がなんなのかをようやく察した俺が軽く聞き流すと、黄蓋は意外そうな視線で俺の横顔を突き刺した。
「おぬし、洛陽の様子は我ら以上に知っておるじゃろ? なんでそんなに平気なんじゃ?」
「なにがだ」
 平然と返して今度は魚らしい料理をつまむ俺を、黄蓋は怒っているような、悲しんでいるような、語彙の足りない俺には表現しづらい顔で見てくる。こいつは一体何を言いたいんだ。
「董卓殿とは知らぬ仲でもないのであろう。その相手がよってたかって殺されそうになっている。それも、濡れ衣の醜聞をでっち上げられて、だ。思うところはないというのか!?」
 演説気味に言われても、俺は頭をかく事しか出来ん。
「知らぬ仲でもないって、どっから出てきたデマだ」
 一回会っただけ、しかも結構険悪な関係だと教えるが彼女らは信じようとはしなかった。
「あの張遼という武将、お主を大層買っているようにしか見えなかったぞ。褒める事は多々あってもけなす事は一言とてなかった。それほど言ってくれる女を、そのように言うのか」
 失望した、と顔に書いてくれているが知ったこっちゃあない。そんな物はせいぜいただの世辞だろう、と言うのがこれまでの事を思い返しての本音だ。
 それにしても、随分と追求が激しい。これじゃあまるで糾弾だ。
 おかしいと思い、改めて彼女を見直すが……たぶんだが、彼女がこれだけ感情を篭めているのは状況が悪いせいもあるだろう。
 なにしろ、董卓は漢のやり玉に挙がっているのだ。もしかして彼女の目には、俺は苦難の相手から距離をとる腰抜けにでも見え始めているかもしれない。
「薄っぺらい世辞に浮かれる純情さは元々少ない上に、すっかり擦り切れたんでな」
 元々、自覚が持てるくらいに素直に褒め言葉も受け入れられないと言う捻くれた難儀な性格である。そんな俺が今の話を聞いても心を動かされるわけがない。
 大体、陰口ならともかくこっそり褒められていましたと言われても……そんなあっさりと鵜呑みに出来るか?
「お主」
 ふん、と悪ぶった俺は黄蓋への印象を相当に悪くしてしまった自覚がある。しかし、そこであれこれ言いつのって取り繕うのがどうしようもなく嫌なのだ。
 見損なったと思えば思え。
 まあ、こんな強気な態度を取れるのも……実のところ黄蓋達が相手だからだ。顔と名前が一致しているだけの赤の他人に見損なわれたところで何ほどの事もない。
 これが身内相手だったら、結構みっともなく言い訳でもしているかも知れない。いや、きっとしている。
 ふう、とため息をついた黄蓋はそれきり黙った。が、口の中でもごもごと何かを言っている。
「張遼にはもう一度話を聞いてみる必要がありそうだの……」
 こだわる事か?
 しつこい酔っ払いだと眉を顰めている俺に、周瑜から声がかかる。
「多少回り道をしたが、私から続きを話そう」
 冷たい口調は碁盤のように四角四角をして、いかにも事務的だ。その方がよっぽどやりやすい。
「先の檄文に、紆余曲折はあれど諸侯は応えた。それを発した袁紹の勢力が大きく、董卓を潰して彼女らが独占している権勢をそっくり頂く……あるいは、それ以上の利を得る可能性が現実味を帯びているからだ」
 まあ、中には檄文の内容を鵜呑みにしていたりする間抜けもいるという噂も聞くが……などと周瑜が抜かすが、仮にも人の上に立っているのにそんな間抜けがいるものかね。
「上の言う事を素直に聞くのが仕事の末端じゃあるまいに、その上に立つ人間でそんなのがいるのか? もしも本当だったら、そんな道化の下にいる兵にとっては不幸どころじゃないな」
「噂は噂さ」 
 噂のままで放っておくとは思えないような女は斜に構えた笑みで俺の言葉に返すと、改めて話を続ける。
「そして、その反董卓連合の中には当然ながら袁術も入っている。袁紹にだけ美味しいところを持っていかれてたまるかという話だろうな」
「相手には、自分たちの所を飛び出した私達孫家がいるんだからなおの事でしょうね」
 不良の足抜けリンチと変わらんな。いや、潰す事以上に他の目的も色々あるだろうから悪質さはもっとかもしれん。
「つまり、その中に劉貴もいるって言いたいのか?」
「仮にも武人であるのだろう? 座して斬首を待つわけでもない董卓殿達との大戦が始まるのに、参戦しないわけがあると思うか」
「……まあ、確かに」
 戦場が待っているにも関わらず、劉貴が引く理由はないだろう。例外は妖姫が何かの意図で命令した時くらいだが、フリーハンドなはずの今は止まるまい。
「無理って言うのはそう言う事よ。あなた一人で行軍中の袁術軍に忍び込めるかしら? そもそも、異国人の貴方に連日大移動中の軍を見つけられるの?」
「そりゃあ、山ほどの面子が行軍していりゃあ」 
「甘いわね」
 孫策にすっぱりと斬られた。
「仮にも軍よ? 確かに数万の兵は目立つ。しかし、漢の大地はそれ以上に広い。私達の間諜から隠れ潜む為に行軍していると言うのに、貴方一人に見つけられるとは思えないわ。しかも、袁術軍以外にもあっちこっちから諸侯が兵を率いてくるのよ? もし運良く見つけられたとしても、そこから袁術軍の中に潜む劉貴とやらを首尾よく探し出して討ち取る……できるかしら? 周りも既に悪鬼の巣窟になっているんでしょう?」
「……子連れで劉備の軍を見つけた事はある」
「素人の軍隊ごっこと一緒にしていたら痛い目を見るわよ。ましてや、今は得体の知れない妖ばかりの百鬼夜行でしょう」 
「むう」 
 言われてみればそんな気がしなくもないが、どうしてこいつがこれだけ言葉を尽くすんだ。
「何で俺を引き留めるような事を言う」
 ひょっとしたら純粋な善意かも知れん。今さら俺の使い道なんて、彼女らにはもう大してないだろう。
「頼みがあるのよ」
 まあ、そんなもんだろう。
「頼み? ああ、そう言えば最初から助けてと言っていたな……彼女の事じゃなかったのか」
「ふえ!?」
 俺の視線を受けた周泰がびくりと跳ねる。仮にも武将が、そんな事でいいのだろうか。飛び上がる彼女を見た瞬間に、周泰が醜態、などと馬鹿馬鹿しいフレーズが思い浮んだ事は一生の秘密としておこう。
「袁術の下に、誰か逃げ遅れた仲間がいるのか?」 
「ほう」
「……よく分かったわね」 
 思いついたままに口から出てきた言葉は、偶然にも正解だったらしい。周瑜が若干見直したように声を上げ、孫策は口だけは笑いながらもどこか悔しそうだ。
「俺に出来る事なんて、たかが知れている。その中で、お前さんの手勢に出来なさそうな事と言ったら、妖物退治ぐらいだろ」
 退治する理由を考えれば、真っ先に思いついたのは急な脱出で逃げ遅れた誰かが向こうにいる。そのくらいだった。要するに、本命が普通に当たっただけである。感心される事ではない。
「まあ、最初から全部腹を割って話すつもりだったから話が早いに越した事はないのよね」
 孫策は居住まいを正して、表情も改まった物に変えると俺をじっと見つめた。これまでに戦場でも見た事の無い、真剣と言うよりも深刻な顔だった。
「工藤殿、我が妹……名を孫権、彼女を袁術の元より救い出して頂きたい」
「妹……?」
 既に化け物の巣窟となった袁術の元に、妹が捕まっているというのか。
「そもそも我が孫家は母の急死により、恥ずかしながら私の代で勢力が大きく衰えた。その際に朝廷より任じられた後釜となったのが袁家なの」
 詳しい経緯などは、法などの問題もあるので俺にはさっぱりだったが……とにかく結論としては、孫策は母の後を受け継ぐ事は出来ないと朝廷より判断されて袁術が後任としてやってきた。
 孫策が当時幾つだったのか、周囲の評判などはわからないが、今現在でこそ子供、加えて暗君として名を馳せている以上、当時は更に輪をかけていたのは自明の理だろう。
 率直に言って、名家の力とやらでねじ込まれただけなのは嫉み僻みの色眼鏡を差し引いたとしても明白。
 元々自分、ないしは妹達が受け継ぐはずだった領地にそのような人事を行われて恨まないはずはない。言葉の端々から分かるほどに故人を尊敬していたらしい孫策にとっては尚更の話と察せられる。
 袁家もそれを分かっていたのか、孫家を取り込む方針をとり、忌々しくもそれをはね除けるだけの力は彼女たちにはなかった。
 最終的には、先代の頃の家臣達は袁家の命によりちりぢりとなり、孫家は明確に袁家の下に付く事になる。頭領である孫策の妹は二名いるが、彼女たちはそれぞれわずかな護衛の家臣と一緒に人質として軟禁同然の暮らしを強いられているという。
 徳川、いや松平と今川みたいな物か。確か、後の家康も織田だの今川だのの間を猫の子よろしく行き来させられていたと言うから、そんなイメージで間違いはないかな。
「で、その妹様が袁術の所から脱走する際に逃げ遅れたかなんかで未だに囚われの身、か……」 
 囚われのお姫様、と言う口にするのも恥ずかしいフレーズが頭の中でダンスを踊ったが、この孫策の妹がそんなタマだと考えるのはいくらなんでも無理があるだろう。
「あんたの妹だって言うんなら、敵兵の悉くをなますにして自力で逃げ出している気がするな」
「それが出来ていれば越した事はないけどね。護衛についている娘も結構腕が立つ方だし」
 護衛のいる人質か。わりとよく聞く話だけど、なんだかおかしなフレーズだ。
「妖物を相手取れる程の腕前じゃないって事か?」
「腕云々は、妖物とやらがどれほどの物かは分からない以上何とも言えないわ。まあ、おいそれと後れをとるような腕だとは思っていないけどね。裏切るような子でも、怯えるような子でもないし、信用はできる」
「ふうん……連絡は取れているのか?」
 首を横に振る。まあ、深刻な顔をしている時点でそうだろうとは思っていた。
「ええ……下の方はね」
 下の妹はまだまだ子供という年齢であり、三女でもある事で監視も緩く逃げ出す事には成功したらしい。長幼の序という奴か。
 しかし、次女は万が一の場合にすぐ孫策の後継となる立場であり、相当に厳重な監視の下での生活を余儀なくさせられていたとか。
 末娘の方は現在、周瑜の指示の元でどこぞに秘密裏に匿われているそうだから随分と境遇に差が出来た物だ。
「本当だったら、洛陽で董卓殿を通じて朝廷から働きかけてもらうつもりだったんだけど……よもや全面戦争になるとはね。全く予想していないわけじゃなかったけれども、動きが早すぎたわ。最初からそうなるように仕組まれていたみたい」
「袁術の異常を訴え、軍をもって攻める。妹君のみならず全て取り返す。その算段だったのだが……よもや、袁紹がこれほど拙速に行動するとはな。考えていた策を先にやられてしまったよ」
 周瑜が何とも情けなさそうな顔をする。噂を聞いた限りでは袁家の頭領はどっちもろくでなしだと聞くから、出し抜かれる形になったのが悔しいのだろう。その辺りの算段は俺にはさっぱり分からん。最初から考慮するつもりもない。
「……それで、引き受けてもらえるかしら」
「ああ、わかった。すぐに行く」
 さっきまで寝ていた事だし、飯も食った。旅に必要な物と予想される監禁場所とそこまでの道筋を教えてもらったら、すぐに出立しよう。
 こういう時に、ジェット・チャリでもあればと無い物ねだりをしている俺に、孫策が少し間抜けな声をかけてきた。
「ええっと……こう言うのもなんだけど……随分とあっさり引き受けてくれたわね」
「そうか? それよりも、食糧に着替えと……囚われているだろう場所に、そこまでの地図。後は……ああ、そうだ。妹さんに俺が信用されるような証明書類? みたいのでもくれ。そんくらいは頼っていいだろ」
 言いながら、俺は腰を浮かした。
 立ち上がってから拙速だな、と自覚したが座り直す気にはなれない。吸血鬼の巣窟に若い女が囚われているのだ、既に最悪の事態になっているとは容易に察しがつくがそれでも早いに越した事はない。大体、ここで座り直したらなんだか格好悪い。
「いや、それはもちろん準備するが……報酬などの話がまだだろう」
「なにさ、それ」 
 周瑜がおかしな事を言うのでぽろりとこぼすと、今度はおかしな事を言うだけじゃなくておかしな顔をする。それも、女達が全員。
 ゼムリアはニヤニヤとして、ドクトル・ファウスタスはすまし顔で盃を傾けている。ちなみに、孫策と黄蓋の両方を合わせたよりも多い。いつの間にこんなに呑んだんだ。
「なにさ、それ……と言われても」
「…………」 
 お互いにかみ合わない話に、妙な顔を突き合わせていると、ゼムリアが間に入ってきた。その時にはもう、俺はそれぞれの食い違いを理解しているのだが、周瑜は本当に分かっていないらしいのでありがたい。
「なあ、周瑜さん。工藤は孫策さんの“頼み”をきいたんだぜ? 仕事を受けたんじゃないのに報酬が出るのはおかしいだろう」
 まあ、そういう事だ。
「いや、そう言うのって……あり?」
「知るか」 
 納得がいっていない顔をされるが、俺にとってはそれが当たり前だ。妙な事を言っていると自覚はあるが、この件に関しては報酬などもらえない。 
 俺の脳裏には今、黄巾の砦でのワンシーンがこびりついたように離れないのだ。劉貴によって血を吸われた三人の女、人あらざる者へと変質した哀れな三人が消えない。
 もう一度同じ事が起こる。
 一度失敗した、手の届かなかった間抜けにとっちゃ見逃せる話じゃない。
 結局、俺は孫策の頼みという形に乗っかっただけでしかない。この話に乗り気なのはあくまでも俺自身の意地だ。
 どの面下げて、謝礼なんぞもらえるかい。
「こだわりだ、個人的な」
 不信の眼差しに話がややこしくなりそうだと感じた俺は、不承不承口を開く。
「別に大した理由があるわけじゃない。あくまでも、俺なりに思うところがあるって言うだけだ。この件には、関わらなけりゃならない理由がある。これで報酬をもらうのは、少し違うだろう」
「理由とはなんじゃ」 
 黄蓋まで首を突っ込んでくる。まあ、彼女にしてみれば主君の妹の命が係っているんだから当たり前か。
 本当は言いたくないが、事情が事情。嫌々を露骨に表に出しながら肩をすくめる。
「あんた達二人は知っているだろう。この前、俺は救えなかった」
 いや、救えた事があったか。自分の中から出てくる嘲りはよくない物だと分かっていても、それについつい浸ってしまうような……どうしようもない負け犬の魅力に満ちている。この手の物に取り憑かれると悪霊相手並にまずい。
「だから……今度こそ、助けるんだ」
 代償とは言わない。
 そんなゲスな事を考えてはならない。ただ、失敗を繰り返さないと言うだけだ。そう言いながら、一体何人が擦り抜けていっただろうかとやくたいもない事をもう一度考えてしまう。まったく、情けない事だ。
「とにかく、どうでもいいだろうが俺の内心なんて。裏切るつもりも放り出す気もないんだ、心配だったら見張りでもつけてろ」

 



 本当につけやがった、糞女。
「わ、私がいた方が効率的だからですよ」
「まあ、道案内にしろ件の妹さん達への証明にせよ、これ以上はないよな。少なくとも物や竹簡なんかに頼るよりはずっといい」
 袁術の本拠地であると言う南陽を近くにある小高い丘から見下ろし、不機嫌さむき出しの俺を宥める為に口々に言ったのは、ゼムリアと周泰だった。彼女らは、俺の同行者である。周泰は俺の事を信用できない呉の面々がつけた首輪のような物だが、ゼムリアは俺ともう少し剣の稽古をしたいからと言う理由でくっついてきた。
 そんな滅茶苦茶な理由でと俺とドクトル・ファウスタス以外の全員が珍妙な顔をしたが、本人は涼しげに笑っているだけだった。
 ドクトル・ファウスタスはどうするんだと返しても、勝手にしているだろと言われて終わりだった。
「ここに来るまでの修練は、俺の方がよっぽど鍛えられたよ。まったく、頭が上がらないにも程がある」
「なんの事だよ」
「あんたを戦わせるつもりはないぞ」
 俺がそう言うと、道中俺と彼の技量差を見ていた周泰は慌てたがゼムリアはすまし顔だ。仮に俺がやられそうになったら、即座に前に出るに違いない。そして、そうなるまでは後ろで黙ってみているのだろう。まるで父か兄だな。
「幾つになったら一人前になれるんだか」
 保護者付きのような今の自分に情けなさばかりを感じる。
 もしも劉貴と相対した時に彼が前に出てくれるようなら、それこそ男の恥だ。
「しかし、南陽って言うのは随分と静かな土地だな。袁術とか言うのが相当な悪政をしているって話にしても、これはいかにもおかしくないか」
 あまりにも情けない未来予想図をどうにかはね除ける為に、思いついた事を適当に口走るが言った事は我ながら的外れというわけではない。俺達は今、袁術本人がいるとされる南陽の街を見下ろしているのだが……一つ、おかしな所がある。
 現在は俺の基準で言うところの午後1時。昼飯を食って、さあ午後の労働を頑張るかと天下の勤め人が腰を上げる頃合いであるが……
 街の通り、あまつさえ軒下にさえも人がいないのだ。
 その様は、さながら西部劇に出てくるゴーストタウンと言ったところか。今にもよく分からない枯れ草の固まりのような物が風に吹かれて転がってきそうである。
「さすがにこれは、あり得ません……確かに袁術の悪政により、本来なら豊かな土地であったはずの南陽は失われましたが、それでも昼日中に街の住人が通りから消えてなくなるだなんて……少なくとも、私が知っている限りはここまで荒廃はしていないです。いいえ、これは荒廃なんて物じゃありません」 
 周泰が言う事は確かにうなずける。
 何よりもおかしいのは、見下ろす街に“荒れたところがない”事だ。仮に何らかの理由で街の住人が消えてしまったとしても、それでは街の様子が奇麗すぎる。疫病、戦災、他にも理由は数多にあるのだろうが、街が壊滅したと言うならば建造物のどこを見ても傷一つないというのは有り得ない。
 ここに来るまで、周泰は事前に部下を通じてある程度の情報は入手していたが、その中にここまで完全に人気が無くなっているという報告はなかったらしい。その辺は部外者である俺らが触れるのは好ましくないとはぶられていたのだが、こんな事なら聞かせてもらうんだった。
 俺は、こんな状況をどこかで見た事がある。
「この街……まるで、夜だな」
 俺の考えと同じ物を、ゼムリアが声に出した。
 人っ子一人いない、風の音さえうるさく聞こえる静寂の街。それでありながらも、消して荒れ果てているわけではない街。
 昼夜が逆転していれば、別段おかしくはない光景だ。街の住人は“ただ眠っているだけ”なのだから。
「街が寝ているんだろうさ」
「街が……眠っている?」
 この、太陽が燦々と照り光る白昼にあってそうなっている街を俺は他にもう一つ知っている。
 戸山住宅。
 魔界都市に存在する、特定の種族のみが暮らす街だ。
 あの青白い空気に染め上げられる街ならば、中には昼間も活動しているものもいるが、それを奇特と称してもおかしくはないほどに、昼日中は静寂に包まれた街として湖中のような静寂の中で遠くに他の街の喧騒を聞く事になる。
 観光客なんかは足を踏み入れると違和感のある光景に驚くらしいが、今の俺も同じような心境なんだろう。まあ、それでも敵地であるかないかというのは大きな違いだろうが。
「詩的な表現だな」 
「下にいる連中の大本が、俺なんかとは比較にならない典雅な吸血鬼なんでね。」
 俺のセリフにゼムリアは笑って肩をすくめ、周泰は顔を青ざめさせた。
「ちょっと待ってください!まさか、街の住人全てが……」
「だろうな」
 この静寂が、はっきりとした証拠だ。
「夜に行くのは自殺行為も甚だしいな。人質さんも早く連れ出すに越した事はないし、今のうちに事を済ませよう」
 下に降りようとする俺に、周泰は狼狽を隠さずに食ってかかる。
「そんな、あり得ません! いくら悪政が敷かれていたとは言っても、あの街にどれだけの住人がいたと思っているのですか!?」
「知らないし、意味もない。吸血鬼は一人いればどこまでもねずみ算的に増えていくんだ。住人全部……そして、兵士全部が人ではなくなっていても別に不思議じゃない」
「そんな……」 
 ここにくるまで吸血鬼についてはきっちり教えておいたはずだが、今さらのように戦かれてもこっちが困る。実感がなかったのだろうか。
「そんなもこんなもないもんだ。もう全部何を今さらだろう? 相手は目の前にいるんだから。さっさと降りようぜ」
 引こうと引くまいとどうでもいい。そんな気持ちのままで、俺は彼女から離れていく。だが、後ろから足音は二つ聞こえてきた。
 無言のまま、街へは真っ正面から入った。顔も知られていない俺達が咎められる謂われはないからだが、それ以前に止めようとする兵の一人もいない。
「ゴーストタウンその物だな」
「ごーすと……?」
「幽霊の街」
 俺の説明に縁起でもない事を言わないでくださいと金切り声が飛んできたが、それ以上に性質の悪い街に足を踏み入れたという自覚はないようだ。吸血鬼と幽霊だったら、後者の方がマシだと思うのは俺が念法使いだからだけでもない。
「なんでしょう……寒気がします。や、やっぱりこんな人気のない街は昼間でも不気味ですからね。ちょっと腰が引けちゃっているのかな。こ、こんな事じゃ祭様にでも怒られちゃいそうです。黙っててくださいね」  
 静かすぎる街の中で、彼女の高い声はよく響く。
辺りに反響さえする自分の声に周泰は引きつった顔を隠せずにいるが、彼女の名誉の為に一言だけ言っておこう。
「別に腰が引けているわけじゃない。街に妖気が立ちこめているだけだ」
「へ? よ、妖気?」
 俺のセリフにゼムリアが少しばかり眉をひそめるが、敢えて何も言わない。不安がっている周泰が忍びないが、この場で不安に身を竦めていいような甘えの許された人間は誰もいない、というところだろうか。
「こっちを秘かに遠巻きにしている連中も、あるいは石のように眠っている連中も、誰も彼もが人間じゃない。最悪の事態という奴だが、街全体が完全に吸血鬼の巣となっているのは間違いない」
 ひい、と呼吸音のまがい物のような悲鳴が聞こえる。彼女の中では、ひょっとすれば片鱗の力だけで自分を打ち倒した劉貴が山ほどいる街になっているのかも知れない。
 さすがにそれは遠慮したいな、と肌が青ざめていくのを自覚する。
「吸血鬼に限らず、真っ当な生命の環から外れた生き物は妖気を発する。それは様々な怪奇現象を起こすが、一番わかりやすいのは人間の身体に不調を起こす事だな。中には決して悪いだけじゃない場合もあるが基本的には有害だ」
「様々な怪奇現象ってなんなんですか、一体どんな物があるんですかぁ!?」
 咄嗟に大きな声を上げてしまうのは、彼女の職業適性を大いに疑わせたが、当人もまずいと感じる理性はあったようで口を押さえて身体を丸めた。そんな事をしても、空気さえも妖気を帯びた静寂に乾いている街に響いた声が消えるわけでもないのだが、彼女はしばらく足を止めていた。
「あうう……私のお馬鹿……」
「どうでもいいからさっさと行くぞ」
 小芝居につき合う余裕もつもりもない。
 どっちみち、俺達は普通に都市に入ってきたのだから、当たり前に侵入はばれているだろう。
「それって、工藤殿がこっちが止めるのもきかずにひょいひょい行っちゃったからですよね!? 何を他人事みたいに言ってますかぁ!」
 どうでもいいけど、声がまたしてもでかいのはいいのだろうか。
「巧遅よりも拙速を尊ぶってな。今は昼間だ。そのアドバンテージは失いがたい。一度は潜入したお前さんがいるから、とにかく先んじて進むに越した事はなかろう」
 潜入がばれる可能性は、元々高いと踏んでいた。
 妖物に素人の周泰と、潜入はそこそこ程度の俺、ゼムリアもおそらくそんな程度だろう。だから、ばれる事を前提でとにかく相手の戦力が少ない内に事を済ませたいのだ。
 妖物相手にカメレオンスーツが効くとは思えないし、石になろうとも劉貴には見破られるのはわかりきっているからだ。何しろ、魔界都市で既に実証済みだから間違いない。二千年前なら通じるんじゃないかと悪あがきをするつもりは今さらないのだ。
「まあ、もう今さらなんだ。とにかく君の知っているお姫様の居場所に行った方がよくないか」
 ゼムリアが宥めてくれる。なんだろうか、引率教師のような印象が否めない。俺のせいか。
「…………仕方がありません」 
 周泰は一度俺を厳しくにらみ据えると、率先して走りだした。走る速さはやはり尋常の物では無く、人と言うよりも猫のように駆け抜ける。おまけに木の上にまで飛び上がり、屋根の上を伝って縦横無尽に駆ける姿は、本当に猫科の猛獣を思わせる。孫策や黄蓋が虎であるなら彼女は山猫のようだ。
 ここで山猫と例えたのは、彼女が小柄だというのも理由だが、それ以上に脳裏に精悍その物の横顔がよぎったせいでもある。
「……豹に例えたらどっかの誰かになんぞ言われそうだしな」
 俺達、と言うよりも俺の事を置いていかんばかりの走りを見せる彼女のすぐ後ろでぼそり、とつぶやいた声が聞こえないわけもなかったろうが、二人とも無駄口に興味はなかったらしく流された。
 しかし、いかんな。
 こんな状況でぺらぺらと無駄口を叩いたり、そもそもこんな安直な潜入、いや突入を相談抜きで独断専行してしまう辺り、俺こそが一番ここの空気に当てられているらしい。
「なんだか、妙に楽しそうですね」
 そんな俺の内心を見抜いたらしく、周泰が冷めた眼差しを向けてきた。
「楽しくはないな」
 嘘をつく気はないが、角を立てるつもりもない。だから、そんな言い方をしたのだがそれで追求を抑えた女を俺は今まで見た事が無い。今回も例外ではないようだったが、それでも上手い言い訳が口から出てこない俺は、やっぱり不器用だ。
「じゃあ、今はどんな気分なのですか? 落ち着きがないようにしか見えないです」
 棘のある口調と一緒に、若干の子供らしさを感じさせた周泰の言葉に俺はやっぱり馬鹿正直に応える事しか出来ない。
「まあ、古巣に帰ってきた気分だな」
「……古巣?」
 走りながらの会話だというのに、お互いよどみなく話せるのは大した物かも知れない。
「古巣っても、ここに住んでいたわけじゃないだろう?」
「それはもちろん」
 やっぱり平気で走っているゼムリアに、同じく呼吸も乱さずに応える。こういう昔はひっくり返っても出来ないような事が当たり前に出来ている時、ふと過去の自分を思い出して妙に寂しくなったり、あるいは達成感を感じたりする事がある。
「住んでいた街に似ているのさ。街並みは全く違うけれども、雰囲気……いいや、漂う空気がだ」
 あの街に比べれば、まるっきり薄い上に軽い空気だが……それでも妖気漂う空気は肌に馴染んでしまう。これ以上に馴染むと言ったら、大雪の雄大なる自然が育んだ清涼な風か、養父達に念法を仕込んでもらったあの道場の悽愴且つ清爽な空気以外にはない。
 今思ったが、我ながら両極端にも程があるな。
「……こんな薄気味悪い街に馴染んでいるなんて……一体どんな所に住んでいたんですか」
 俺の事を阿呆のように見つめられるのは不本意だが納得がいく。
「“新宿”さ」
 訊いた事がないですね、とそれで話は終わったのだが、おそらく後々裏はとるだろう。きっとどこを探しても見付からなくて、困り果てるか出鱈目と判断するかに違いない。
 まあ、どっちでもいいんだが、魔界都市の名前を出せば“区外”では大抵怯えられたりするか逆に珍獣扱いされるので新鮮であり、同時に本当に異世界に来ているんだよなと今さらの感慨に耽るきっかけにもなった。
「そろそろです」
が、もちろん敵地でのんびりと感慨に耽るような余裕などないし、あったとしても願い下げである。
 周泰の後ろをついていく形で駆け回り続けた俺達は、なかなか立派な屋敷の裏手で立ち止まった。ここまで三十分ほど走り回ったが、誰一人汗をかかず息も乱していないのは自画自賛も含まされているが、さすがと言える。
「さすがはとらわれのお姫様、いいところに住んでいる」
「食いっぱぐれたりはしちゃあいなさそうだな。これなら逃げる体力ぐらい残っていそうだ」
 とこれから始まる逃亡生活に思いを馳せるゼムリアだが、それよりもまず考えるべきは彼女がまだ人間であるのかどうかだろう。白状すれば、街の状況からすれば既に餌食となっているのは確定していると考えている。
 むしろ、まだ見ぬ孫策の妹とやらこそが数多の“仲間”を増やした一人であると考えても不思議じゃない。いや、そうじゃない方が不思議だ。率先して噛まれている立場だろうからな。
 そんな妹を見るのは、姉として無念が極まるだろう。あるいは、ここに止めておくか……いや、俺達の手でトドメを刺すべきかも知れない。もしも孫策の妹が吸血鬼として劉貴の下僕に成り果てていれば、それは大きすぎる火種となる事は間違いない。あるいは、生かしておいた事で何万もの人命が失われる原因となるかも知れないとさえ思う。
 ちら、と緊張している周泰を見た。
 彼女は顔色こそ悪いが、それはあくまでも妖気に当てられているだけのように見える。この街の状況を知り、孫権とやらが巻き込まれている可能性を考慮した上で動揺がないほど覚悟しているのか、それとも可能性を思い至らないのか。
 場合によっては自分が手を汚すべきだろう、と考えて自分の小ささに自嘲する。
 “助ける”んだろう。
 例え何があっても、孫策の妹は助ける。その護衛もだ。リスクがあっても、それを受け止めてやろう。
 その上で切り抜けてこそ、本当に助けると言えるんだ。万が一の時は……責任をとって、死んでも生かしてみせる。事、この件に関しては誰も犠牲にはしない。
「肝が据わったみたいだな」
「あんまりお見通しだと、居心地が悪い」
 頭の中で今後の具体的なプランを並べている俺の横顔を見つめてから、徐ろにニヤ、と悪戯を仕掛けるような顔でゼムリアが笑うので、頭をかいて誤魔化す。
「出来そうかい?」
「出来ない事だとは言わないよ。厳しい事だとは分かっているが、無理じゃない。つまらない失敗を重ねなければ何とかなるさ」
 孫権を助ける動機は、これまで様々なところで失敗を重ねた事に端を発するつまらない男の意地でしかない。である以上、失敗するわけにはいかない。ましてや他人様を失敗に巻き込む事など言語道断なのだ。
「で、どこから入るんだ?」 
 俺達の会話を横目で見ながら聞いていたが、周泰は敢えて何も言わない事にしたらしい。黙って邸内に足を進める。
 それぞれ猫のように飛び上がって屋内に入り込むと、土地その物が広いからだろうが日本では虜の身で望むべくもない広い広い庭が目に入る。
「? おかしい。むしろ妖気が薄いな……でかいからか?」
 格差社会許すまじ、と自分の家とも言えない部屋を思い浮かべて嫉妬に身を焦がす俺も含めて、全員が足音もなく庭を突っ切る。気配を消していけば周泰からも認識が出来なくなるので、この場に至っても隠形の類は普通の物しか使えないのがどうにも不安を感じさせるが今さら言ってもしようがない。
「さっきから、誰もいないな。気配もしない」
「ゴミの一つもない、生活感が何もない。これだけ広い屋敷に、新築でもあるまいに……邸内は前から、人はこの程度しかいないのか」
 多少広めの死角で三人揃って一息ついた時に、ゼムリアがごくごく小さいながらも俺達の耳にははっきり聞こえる声を届ける。言われるまでもなく気になっていた俺も同様に返す。
 奇妙に明確に耳に届く声に訝しがっていた周泰だったが、気を取り直すと首を横に振った。まあ、当たり前だな。
「決して人が多いわけでもありませんでしたが、これは異常です。監視も兼ねた使用人と、純粋な監視役、人目につかないように配置された影も含めて常時二十人以上は控えておりました」
 たった一人、護衛も含めて二人だけの小娘にそこまでやるとはな。そんだけ大物なのか、それとも猜疑心が強いのか。あるいはただ単に金が余っているだけとでも言うのか。意外と、嫌がらせがしたいだけという話もあったりしてな。
「それがもういない、か……これで、孫策離反の前だったら人手が足りないなんて楽観論も言えるんだが」
 妖気をほとんど感じないのでもしや、と期待してしまったのだが、完全に取り込まれたと考えるのが無難か……さて……成り立てなんぞ、今のうちに確保するのは簡単だろうがそこから先はどうしようか。ドクター・メフィストがいればどうとでもしてもらえるんだが……あるいは、ガレーン……
「最悪、妹に頼むしかないか……能力はともかく色々な意味で性格の信用がおけないんだが……はあ……」
 お目付役もいないという事実が、ため息をつかせる。
 あのでぶは性根もひん曲がっていて意地汚い阿漕という欠点が目立つが、欠点はそれだけではない。前述のそれらに隠れて、何かにつけてポカをやらかすと言うか主に性格に端を発する隙が多いらしいのだ。
 腕前がいい事に目が眩むと、いきなり足下をすくわれてしまう可能性もある。例えば、孫権を閉じ込めておくように頼んでも、当の孫権に買収されたり、あるいは封印の術のどこかにつまらない欠陥があったりとしょうもない結果が待っている可能性も棄てがたいような気がするのだ。
「ん? あんた、妹がこの国にいるのか?」
「……俺のじゃない、知人の妹……こないだ、あんたに迫っていたあの丸い叔母さんだよ」
 冗談じゃねぇと叫ばなかったのは、ひとえに修行で培った自制心のたまものだと思う。こっちにきてから、初めて精神修行の効果を実感したのがこれとは泣けてくるな。
 うげ、と酸っぱい物を無理やり口に詰め込まれたような顔をするゼムリアに溜飲を下げながら、遺憾ながらもドクトル・ファウスタスに迷惑をかけるかトンブ叔母さんに渡りをつけるかとの選択に頭を悩ませる。
 まあ、精一杯報酬を用意してドクトル・ファウスタスに頼もう。
 そもそも、トンブが何処にいるか分からないしな。言った通りに劉備の陣営に潜り込めたかどうかは定かじゃないし。潜り込めていたとしても、それはそれで接触のしようがない。個人的に嫌われているだろうからな。
「部屋はそろそろか?」
「後、ほんの少しです。気を抜かないでお願いします」
 釘を刺されてしまい、生意気な小娘めと内に篭もっていた事を棚上げしてむっとする。が、顔に出す前に反省する程度の分別は持っているので少し勝手が過ぎると反省して静かに周泰の後をつけた。
 多少、他よりも豪奢な雰囲気をした部屋の前で足を止めた。燦々と日が差している中で奇妙に影がさして見えるのは、俺の気持ちの問題だろう。
「誰だ!?」 
 鋭く澄んだ女の声が、即座に飛んできた。
 声の主が俺達の気配に気が付いたのではなく、周泰が自分の気配に気が付かせたのだ。
 声におびき寄せられるかのように、スプリントダッシュの勢いで部屋から飛び出してきたのは、異様な装束の女だった。
 その女は周泰と目が合うと細く鋭い眼を一瞬丸くして、残った男勢が目に入ると今度はいぶかしげに物問いたげな視線を紅一点へと向ける。たぶん、知人なのだろうと判断して話は彼女に任せて静かにしていた俺達だが、実は現われた女に度肝を抜かれて二の句が告げられなかっただけだった。
「…………」 
「…………痴女か。またしても痴女か。孫家には痴女しかいないのか」
「誰が痴女だ、貴様!」
「今、私の事も見ていませんでしたか!?」
 思いっきり面食らった様子のゼムリアに変わったわけでもないが、俺は思わず本音を口から飛ばしていた。
本音である。
 ぽろりと口走ってしまったのは不覚であるが、間違いであるとは露とも思っていない。それだけ、目の前に立つ二人の女の格好はふしだらだった。
 我ながらすげぇな……ふしだらなんて言葉、今まで普通に使った事がねぇよ。
「その格好で、今さら何を? 遊女だの妓女だの方がなんぼか慎みがあるぞ」
 嘘をつくのも気が済まず、別段本音をばらしても困るような関係じゃねぇなぁと思えば、言葉はスムーズに口から出てくる。
「どこを見ている!」 
「足」
 まじまじと見つめてしまうのは、二人の足である。
 と言っても、スケベ心からではない。どちらかというと、おかしな物を見てしまったという心境が近い。
 何しろこの二人の格好だが、一口に言ってしまえば“ズボンもスカートも履いていない”と言うのが一番だからだ。
 それぞれ上半身に限っては、別段おかしな所はない。まあ、周泰はどことなく中華風と言うよりも何となく忍者チックだが、目を瞑れる範囲だ。
 しかし、下半身は凄い。何が凄いって、二人とも何も履いていないんだから。
 足どころか、白い下着までほとんど丸見えである。これが痴女でなくてなんなのか。
「周泰に関しては今さらだが……もの凄い格好だよな。しっかし、そういう格好で普通に過ごしている辺り、鼻の下が伸びる以前の問題だな……」
 俺とて聖人君子などほど遠い凡人だ。
 スケベ心なんぞ幾らでもあるのは否定しない。むしろ、なくなったら雄として終わっていそうで嫌だ。
 しかし、それでも目の前の二人に鼻の下を伸ばすかと言えば、有り得ないと断言できる。
 誤解のないよう言っておくと、二人ともタイプの違いこそあれ結構な美人ではあるのだ。
 甘寧は、刃を思わせる鋭い面差しが特徴の、俺と年の変わらない程度の美女である。団子にまとめた髪の下にある褐色の肌は張りがあり、孫策や黄蓋、周瑜などのこれまで出会った呉の面々が豊満であれば彼女は華奢であり、しかして生命力に溢れた魅力的な肢体は世の男より賞賛を集めてならないだろう。
 彼女よりも更に小柄で華奢な周泰もまた、真っ直ぐに腰まで伸びる黒髪、猫を思わせる愛嬌のある面差しは歳からして美少女と呼ぶのに充分な魅力を秘めている。
 そんな二人が魅力的な素足を剥き出しにしていれば、普通は鼻の下も伸びるだろう。それがいまいちとなってしまうのは、偏に場違いだからである。
 ここはどこだ?
 ごく普通の屋敷の廊下だ。
 そんな所に下着がちらちらと見える女が、それが当たり前という顔で立っていたら、劣情を催すよりも先に引いてしまうのが男心だ。恥ずかしがって隠れるくらいの可愛げがあれば、まだしも平然と……いやむしろきりりと音がしそうな引き締まった顔をされてしまえば、困る以外に出来る事はない。
 彼女達よりも過激な格好の女に出会った事はないどころか見慣れている俺だが、それは概ね夜の歌舞伎町での話である。真っ昼間の住宅でこんなのに出会った俺はどうすればいいのか。サマービーチにスキーウェアでいるような場違い感に、他人事ながらいたたまれなささえ感じる。
「明命! この失礼な男は何者だ!?」
 もはや潜入したという空気はどっちらけになってしまったが、気を取り直して奇妙な風体の女を観察する。
 一見しただけだが、およそ目に見える範囲に牙の跡はなく、妖気なども感じない。こういう時に露出が激しいとありがたいとは思うが、肝心の首筋が隠れているのが気になってしようが無い。
 しかし妖気を感じる事はなく、何よりも彼女は陽光の下に平然と姿をさらしている。
「どう思う?」 
「違うな」
 ゼムリアは疑いを棄てきれない俺とは異なり、迷い無く断定してみせる。勘なのか、俺の見つけられないポイントでもあるのか。
「え、ええい。貴様ら何をじろじろと人を見ている!」
 顔を林檎のように赤くして、今さらながらに裾と呼ぶのもおこがましいそれを無理やりに引っ張っている様を見るに誤解を招いたようだが、この際どうでもいい。これっぽっちも動かない裾が空々しさを感じさせるばかりである。
「今さら恥ずかしがるなら、そんな格好をするなよ」
 今にもつかみかかってきそうになった女を止めたのは、新しい声だった。
「思春? どうしたの、誰か来ているのかしら」
 高い声であり、若い声だった。
 どこか警戒と不安、かすかな期待のような者が篭められている声のように思えるそれの主は、こちらにのこのこ近づいてくるほど阿呆ではないようで姿は全く見えない。どこの誰かは知らないが、当たり前の警戒心を持っているようであり、それを持たざるを得ない状況に言えるという事でもあるだろう。
 つまり、吸血鬼ではない可能性が出てきた。周囲を警戒しているのは、危険を感じる必然があるからだ。今、声をあげたのはこちらが話し込んで長いからだろう。
 周泰が、その声を聞いて目の色を変えた。
「蓮華様!」 
 喜色満面、と声に表われている。真名で呼んだようだが、声だけの女がどこの誰かはこれで知れた。救出目標である事は間違いないだろう。だから俺は、周泰の前に出た。
「貴様、なんのつもりだ」
 こちらに警戒を通り越した敵意を向けてくるもう一人も視界から外さずに、いつでも動けるように身構えておく。
「その声は、もしや明命!? 無事だったのね!」
 こちらもまた、わかりやすい喜びをこめた声を上げながら部屋の奥から現われたのは孫策とよく似て一目で姉妹と分かる、若干年下の女だった。
 少女と言い切るには難しく、女性と言うには少々若い。これがいわゆる難しい年頃という物だろうか。彼女はどこか緊張……ないしは怯えているようにも見えたが、周泰を見つけるやいなや表情はよい方向に変わる。
 共にいる俺とゼムリアを訝かしむような顔をしたが、周泰と一緒にいるので味方と思ったのだろう。特にこれと言って警戒し、誰何してくる事はなかった。
 少なくとも“ししゅん”と呼ばれた女よりは冷静であるらしい。ぱっと見て孫策と顔立ちは似ているが、飄々としていながらもどこか好戦的な雰囲気を隠し切れていない彼女と違い、周瑜とはまた若干異なる方向だが理性的で思慮深く見える雰囲気を漂わせている。
 ただし、首から上だけ。
 首から下は、姉に及ばずとも世間一般の女性がうらやむべき結構なスタイルを露出の激しい意匠でどうにか隠している。腹の布地は抉れ、足は付け根までスリットが入っている彼女を慎み深いと表してしまえば大嘘つきとしか言われまい。三人共に、街を歩けば驚かれるレベルだ。
「……人間のままだな」
 妖気は感じず、見えるところにないだけかも知れないが、牙の跡もない。だが、既に吸血鬼として成立して牙跡が消えてしまった可能性もあるので安心は出来ない。 
 そして日差しを浴びても、何一つとして変化がない。
 成り立て、あるいはなりかけの吸血鬼にしてみると有り得ない話だ。しかし、念のために俺は懐から今回の為に用意しておいた品を取り出した。
「お二人さん、差し入れだ」
 桃である。
 吸血鬼と一口に言っても数は限りなく多い。ヨーロッパ産の中にさえ日光を物ともしない輩もいるのだ。ましてや、この奇妙な世界における東洋系の吸血鬼が相手では日光が平気だとしても信用など出来ない。
 相手が西洋から来たのであれば、根源的な聖のシンボルとされている十字架を用意するところだが今回は劉貴の下僕。東洋系にとっての十字架である桃を使う事にした。
「え? ええ、ありがとう……?」
「蓮華様、このような怪しくも失礼な男からの品を易々と口に入れてはなりません。召し上がるのはまた後にして頂きたい」
 果たして、二人の女はいたって平然と桃を受け取った。悲鳴を上げる事はなく、手が焼け焦げる事もない。
「合格だ」 
 これが劉貴当人ならばともかく、どう考えても成り立ての吸血鬼の域を出ないだろう彼女らが手に持てたのであれば、心配はいらない。
「合格? なんの話かしら」
「随分と偉そうではないか」
 自覚はしているが、そっちもそっちで結構偉そうだ。まあ、馬の骨よりは確実に偉い立場だろうな。
「この街の、他の連中みたいになっていないかどうかだ」
「貴様、一体何を知っている!?」
 俺の口が閉じるかどうかというタイミングで護衛から光りものが突きつけられた。血の気が多いにも程があるだろう。
「ぐあっ!?」
 だが、どうやら彼女達も街の現状を理解しているらしいから不安だったのだろう。俺は温厚にも腕をとって極めるだけで見逃した。本当だったら得物をへし折って、腕もへし折っているところである。
我ながら甘い事だ。せつらなんぞは突きつけられた時には糸で縛り上げて身動き取れなくした上で、神経をも締め上げるに決まっている。凍らせ屋や魔界医師など、下手をすればひと思いに殺してくれない可能性だってある。それもおおいに。
「仮にも味方と一緒に現われた男を相手に、安易に光りものを突きつけるなよ。何を考えていやがる」
 まあ、周囲の状況を朧気ながらも理解して気を張っているのだろう、今の彼女は子供を守ろうとする野生動物みたいな物だ。それも肉食獣である事は疑いようもない。
「ぐっ……貴様のような怪しげな男が偉そうに……っ!」
 気が強いというか、なんというか。痛みに脂汗まで流し始めているのにこちらを睨む目には奇妙に力がある。気が強いと言うよりも、単純に恐れを知らないようにしか見えないのは、剣を突きつけられた不快感がなせる不当な評価だろう。
「やめなさいっ!」
 俺達の争いを裂くように、孫策の妹が大声をあげる。目が俺への怒りと非難に満ちているが、少しは部下の事も反省して欲しい。まあ、それはさておきこれ以上場をこじらせても仕方が無いので手を離す。
 毛を逆立てた猫のように飛び退いてこちらを睨み付ける護衛を一瞬白い目で見詰め、孫策の妹に目を向ける。
「見た目からしてそうだとは思うが……あんたが孫策の妹……孫権か」
「ええ。それで、あなたは?」
「こ、こちらは雪蓮様より紹介され、今回の脱出に力を貸して頂ける事になった工藤殿とぜむりあ殿です!」 
 割り込むように周泰が俺達の紹介をするが、慌てているのは彼女もこれ以上自体をこじらせたくないからだろう。できれば最初からそうして欲しかった。いや、俺のせいか。
「脱出!? お姉様の……?」
 非常に怪しんでいるのが見え見え……と言うよりも隠そうともしていないが、怪しいのは納得がいくので気にしない。
「こんな男などが、力になるのか」
「さっき、いきなり切りつけた癖にあっさりと腕をひねりあげられた奴がよくも言えたもんだな」
「なにぃ!?」
 こういう女とは相性が悪い。
 売り言葉に買い言葉を地でいくやり取りをしながら思ったことだが、よく考えたら相性のいい女が全く思い浮ばなかった。
「よしなさい、思春。姉様の……孫家の頭領の命とあれば従うのが私達の責務よ。ましてや、袁術の下から出られるのなら否やはないわ」
「は……」
 孫権の言葉に殊勝な態度で頷く護衛だが、感情が納得していないようだとは一目で分かる。これだから女は、と使い古された文句が脳裏をよぎったが、すぐにしばらく会っていない女の横顔に押し流されるように消えた。人食い人種の末裔である女は、どんな男よりも、もちろん俺よりも戦士としての心得を身につけていたのを思い出したのだ。
 あの鉄のように引き締まっていながらも、どんな蜜よりも甘い色気が背筋を奔る横顔を思い出しちゃあ、さっきのフレーズは使えない。
 思い返せば、あっちには“新宿”警察の恩人を筆頭にして、女だてらになんて言葉を真っ向から叩きつぶした上で鼻の下がメートル単位で伸びるような色っぽい女傑が幾らでもいた。
「明命、それで手はずはどうなっているのかしら? 今、この街は、そして孫家はどうなっているのかしら。私達には全く情報が入ってこないのよ」 
「現在、この街の住人は全てが張勲と同様の状態になっていると思われます。雪蓮様は、この街にこれ以上留まる事は危険と判断し、集めた兵を連れて冥琳様、祭様、穏殿と既に洛陽に脱出されました。今は都の外に陣を張って、かつて孫家を支えていた諸臣を呼び寄せているところです」
「そこまで状況は動いていたの!?」
「なんと……」
 周泰の言葉に、二人の女の顔色が大きく変わる。正に寝耳に水という風だ。この二人、どうやら完全に置いてけぼりだったらしい。
「申し訳ありません。細作を束ねる私があの男によって倒されていなければ、今頃はお二人も洛陽にて此度の陣立てに参加されていたでしょう」
「いいえ、あなたのせいではないわ。あの時、劉貴殿の不可思議な術によって吹き飛ばされた貴方が、もう一度ここまで来てくれただけで、いいえ顔を見る事が出来ただけでも私は嬉しい。他の者達はその場で討たれ、貴方とも二度と会えないと覚悟さえしていたのだから」
「蓮華様……」
 忠義の心、あるいは主従を超えた友情を確かめ合っていたらしい二人だが、俺は孫権の言葉の中におかしな物を感じとった。
 ……今……劉貴殿、って言わなかったか?
 シチュエーションは分からないが、おそらく自分の家臣を、それも人質に取られている自分を助けようとしてくれた部下を目の前で多数殺害した相手のはずだ。
 言ってみれば、仇だ。
 それをなんで、そんな敬意を払うような呼び方をするんだ。
 何とも言い難い、嫌な予感という奴がした。
「…………」
 考えてみれば、ここまで上手くいきすぎていたと言ってもいい。
 街一つが吸血鬼化して、その懐に飛び込んだというのにここまでろくな妨害もなく、救出する対象は、絶対に吸血鬼になっているべき状況だというのに何故だか普通の人間のままだ。そんな上手い話が続くほど、俺の運はよくない。
 むしろ運が悪い方である俺は、これまでの経験則からして上手く言っている時には必ず帳尻を合わせるように何かトラブルが起こるはずだ、と内心では覚悟していた。
 それも劉貴や騏鬼翁の策、あるいは“姫”の気まぐれなどと言うのではなく、純粋に不運なトラブルが俺達を襲うはずだ、と思っていた。くだらないジンクスだが、それが笑えない街で生きてきたんだから、そこら辺の子供の妄想とは一緒にできない。
 護衛ともめそうになった時は内心、この程度のトラブルで済んでくれれば御の字だと少し歓迎していたほどだ。
 だが、それですまない程度のとんでもない厄介ごとの臭いが孫権からするのはどういうわけだろうか。おもむろに孫権を観察してみるが、特にこれといっておかしな所はない。俺が妙に少女趣味な心配をしただけだろうか。
 そうだな、落ち着いて考えれば俺の想像など適当な思いつきに過ぎない。言ってみれば邪推でしかないだろう。まったく、これっぽっちの事で過敏に反応するなんて俺は一体全体、いつから脳みそが砂糖漬けになったんだ。
 大体、元々色恋沙汰には縁の無い男が何を妄想しているのか。実に馬鹿馬鹿しい事を考えたと自嘲しながら、一つかまをかけてみる。
「俺はその劉貴と因縁があってね。奴さんを斬る為にここに来たんだ。孫権さん、あんたはあの男の居場所に心当たりはあるのかい?」
「なんですって!?」
 バネ仕掛けのように勢いよく振り返って俺を睨む顔には驚愕と、明らかに怒りがあった。
 怒る、という感情にも種類がある、火のように激しい感情が、何を燃料にしているかという話だ。
 俺が今、孫権の顔から感じとっている怒りはその中でも最も甘ったるくて粘ついた燃料を燃やす、性質が悪い物であるように見えた。西新宿の老舗せんべい屋ではちょくちょく見るような種類だ。
「……何を驚くんだ? それどころか怒っているようにしか見ないぜ」
 繰り返し見直す内に深まっていく一方の確信を抱きながら、敢えて訊いてみる。自分でも意地が悪いと思わざるを得ない質問に案の定、孫権は黙り込んだ。
「……」
「……今回の事件を起こしたのは劉貴だと思うんだが、実は劉貴の後ろには三人の仲間がいてな。いや、二人の仲間と一人の主なんだが」
「……何が言いたいのかしら」
「その主というのが世界最悪の女でな。この世で一番淫蕩で残虐、元々、これを最期と死ぬつもりで赴いた戦場で、頼まれもしないのに劉貴の命を助け、その貸しで主人面しているらしい」
「な、い、淫蕩!? そんな女が劉貴殿の主君!?」
 反応している箇所が、どうしようもない。
「まあ、その侍女もまた劉貴を一途に、深く想っているらしいが……」
 そう言った時の孫権の顔は、もう誤魔化しが効かないと彼女以外の誰もが悟らせてるんじゃないかと思わせるくらいにどうしようもない物だった。
 もしやまさかと思ったが、俺の邪推は邪推ではないか。勘弁してくれよ。こんな話、一体どうしろって言うんだ。
「まあ、それについてはどうでもいい事だ。とにかく街を出よう。昼の間に少しでも距離を稼ぎたいからな」
 逃げる事にした。今後、無事に帰れたら孫家とは早急に距離をとる必要があるだろう。劉貴を慕う孫家の女なんぞ、厄ネタもいいところだ。
 だが、今言った事は決して只の口実ではなく本音だ。いざとなればテレポートもあるが、成功率はまだまだと言う程度だ。大人数ではなるべく避けたい。
「夜になると、何かあるのか?」
 一瞬だけ何とも言いがたい顔をしたが、それを無表情の仮面の下に隠した護衛がまるで孫権に口を開かせない為であるかのように、剣呑な関係であった俺に問いかけてくる。
「この街の住人全てが敵に回る。いや、正確に言えば、俺達を餌だとしか見ない生き物が襲ってくる」
「! ……正気か、と言いたいところだが……私も、街がおかしくなっているのは虜囚の身だが感じている……」
 そいつは結構、説得の手間が省けた。
 まあ、周泰が街に足を踏み入れた時点で感じた妖気を、住んでいる彼女らが気付かないとしたらどうかしている。そう言えば、妖気がこの屋敷で発生していないと言っても周囲には立ちこめているのだ。彼女らの心身に何らかの影響を与えている可能性は高いな。
「ドクトル・ファウスタスに後々見てもらった方が無難だな」
 その旨を彼女らに伝えるが、しっくりこない顔しかされない。この辺りは“区外”の住人だなと頷く。
「しっかし、わからんな」
 周泰を先頭にして俺とゼムリアが前を歩く形になったが、これは俺らを信用していないからだ。背中を見せたくないと言う事だな。
「何がだ?」
「ん……ああ、二人とも妖気について胡散臭そうな顔をしているだろ」
「ああ」
 さすがにゼムリアは理解がある。そう言えば、彼は一体何処から来たのだろう。そこは俺の知る魔界都市に通じる場所だろうか。
「この手の話を迷信と切って捨てるのはまあ、わかる。素人さんなら、むしろ健全かも知れない。でもほら、実際に目の前で立ちこめている妖気よりも信憑性に欠ける胡散臭さの天の御遣いとやらがいるじゃん」
「ああ……」
「あれだけ胡散臭いのが受け入れられているのはどういうわけなんだか。あっちが特別受け入れられているのか、こっちが特別受け入れられないのか。一体どっちなんだろうか、それはどうしてなのかなと思って」
 毎度毎度、あれこれ説明した挙げ句に不信の眼差しを向けられるのは大概疲れる。
「……やっぱり、そういう風に作られた世界だからなのか、ねぇ」
 やるせなき気持ちをこめた俺のコメントに、ゼムリアは最もありがたい返しをくれた。
 沈黙したのだ。



 屋敷を出ても日は高く、街を出てもまだ陽光の守護は俺達をあまねく照らし続けた。狙ったとは言っても、雨天でなくてありがたい。これが西洋産ならば逆に雨の中での潜入を試みたのだが、向こうは純然たる東洋物。水を渡れないとは限らんのだ。
「……来ないな」 
「吸血鬼が来られなくとも、最低でも妖物の襲撃はあると踏んでいたんだが……」
 それぞれ馬に乗り、人類最古の騎乗生物の力が続く限りに走らせながら不思議がっている俺達は一行の最後尾にいた。
 別に、殿を守っているわけじゃない。乗馬の腕で、ごく自然とそうなってしまうのだ。女二人はそれぞれ差があるが結構な騎乗ぶりで、意外なほど様になっている。対して、それまで馬に乗った事のない俺は、馬に乗っていると言うよりもただ跨がっているだけ、あるいは捕まっているだけという方が正しく、乗っている馬が自発的に仲間の後ろをついていっているのでなければ誰かの後ろに乗せてもらうしかなかっただろう。そんなのは二度とゴメンである。
 ゼムリアも決して上手いとは言えないが、それでも俺よりは随分マシである。きっと、どこかで経験があるのだろう。率直に言って、俺一人が足手まといギリギリである。
 そんな情けない状態の俺だが、彼女らは文句を言わなかった。この時代……まあ、未来もそうだが馬に乗れると言うのは特殊技能であり、おいそれと習得できる物では無いのである。むしろ、俺とゼムリアがそこそこついていけるのに驚かれていたくらいだから情けなくもホッとしたものだ。
「妖物、ですかー?」
 そんな俺達を相手に見張りのように併走している周泰が、若干低い位置から声をかけてきた。 
「その状態で喋って疲れないのか?」
「別に疲れませんよ-?」
「元気だねぇ」 
 この娘、呆れた事に二本の足で走っているのである。さっきも言ったように馬と併走しているのだから、人間業ではないだろう。俺達が跨がっている四足動物は歩いているのではなく、きっちりと走っているのだから。
 俺も出来なくはないのだが、この娘は既に十㎞以上の距離をこうしている。さすがに汗をかいて息は荒いものの、確かにまだ余裕がありそうだ。
「なんというか、一人だけ足で走らせているのはいかにも居心地がよくないな」
「馬が足りなかったのだから、しょうがないですよ」
 しょうがないの一言ですませては、軍馬も立場があるまい。そして何よりも、俺の立場がない。
「休憩一回ごとに替わるぞ」
「え?」
「女……いや、子供一人を走らせっぱなしじゃ男が廃る」
「結構です!」
 何故か突っぱねてきた周泰としばらく言い合いをしていたおかげで、お互い不必要に体力が削られた。馬鹿か、まったく。
 だが瓢箪から駒とでも言うべきか、それとも不幸中の幸いと言うべきか、そんな間抜けなやり取りに気を抜かれたのか孫権達の態度が若干柔らかくなった。
 おかげで、そろそろ日が陰ってくる小休止の際にはどうにか落ち着いて情報のやり取りが出来た。
「では、今の孫家は董卓軍と組んで洛陽に布陣しているのね」
「はい。現在は袁術よりの離反を正式に表明し、朝廷の名の元、かつての家臣に呼びかけている所です」
「袁術との戦に備えて、董卓と結んだと考えていいのかしら」
「いえ、私が出立した際にはそこまで話は進んでおりませんでした。双方の話し合いは、あまり実りのある物とは言えない物も多いような状況で……」
 孫権と周泰のやり取りに、まだ名前を知らない護衛娘が憤然と加わった。
「馬鹿な! このような、街一つが怪物に占領されてしまうような事態でそんな悠長な事を言えるはずもないだろう!」
 彼女の言っている事は至極もっとも、当たり前である。
 屋敷に閉じこめられていた二人だが、一歩表に出て街を見回せば、そこで異常を悟るのは簡単な事である。ここに来た俺達の焼き増しのようなやり取りの後、周泰がどこからか調達してきた軍馬に乗って街を出てきた際には、女勢は一斉に息をついたものだ。
 そこで気を抜くのは、正直早いと思ったが。
「何か証拠となる……例えば、あの街の住人の一人でも連れて行く事が出来れば話は違うでしょうが、やはり人が妖になったと言ってもおいそれと信じてもらえる話ではありません。ましてや、袁術を討つ大軍を動かすとなると、生半可な事では聞いてももらないでしょう。特に、董卓殿の元にいる賈駆殿は狷介な所の目立つ方です」
 あの眼鏡、賈駆って言うのか。
 言われてみれば、ぴったりの名前だ。そこら中に角を立てそうな所は名が体を表す、を地でいっている。狷介の一言で人物が特定できるところが正にそのものだ。
「それなら、今からでも引き返して……っ!」
「よせ」
 さすがに聞き捨てならない言葉が飛び出してくれば、俺も口を挟まざるを得ない。
「素人と一緒に、捕まえた吸血鬼と同道の旅だって? 相手が成り立てだって冗談じゃない」
 悲鳴を上げたくなるようなシチュエーションだ。どんな報酬を詰まれたって御免被る。
「貴様などに指図される謂われはない!」
「明命、結局この男達は何者なの? 姉様の紹介という話だったけれども、それだけでは足りないわ」
 それぞれの目に敵意があるが、理由が違うように見えた。護衛の目は俺とゼムリアに均等に向けられているが、孫権の目は七三で俺にだけ向けられている。
「ええと、この方は以前雪蓮様が街で会った方でして、今回は袁家の異変に対し原因と思われる人物に心当たりがあると言う事で、雪蓮様より請われて同道して頂きました」
「姉様から請われて………?」
 露骨に驚かれる。目線からうさんくさく思っているのが露骨であり、爽快と言うよりもむしろ癪だ。
「それで、この騒動の原因とはどこの誰だと言うのだ。貴様とは一体どういう因縁があると言う」
 こう言う物言いでぺらぺら口を滑らせる相手がいると思っているのだろうか。護衛女にひどく冷めた目で視線をくれると、そのまま寝っ転がった。もう一度動くまで、このまま体力の回復をしている方が有意義だ。いい加減に尻が痛い。
「貴様!」
「尋問なんぞされてぺらぺら喋るような義理はねぇんだよ」
 け、と言った最後に背中を向ける。俺も含めてチームワークの欠片もない状況だが、考えてみれば劉貴と出会わなかったのだ、これ以上ここにいる必要があるだろうか。
 今からでも引き返して、劉貴を探した方がよくないか?
「二人とも落ち着いてください! 今はそんな事をしている場合ではありません。今や洛陽には諸侯がこぞって董卓殿を討つ為に集まっているのですよ!」
「!?」
 顔色が変わるのは、琥珀色の肌でもよく分かるくらいに明確だった。まあ、無理もないか。俺でもよくわかる、とどのつまりは袋叩きの巻き添えって事だろう?
 狙いは董卓なんだからな。孫家は完全にただの巻き添えでいいだろう。
「劉貴が余計な事をしなければ、孫家も討伐側に加わっていたのにな。侵略する側からされる側の一員になったのか」 
「貴様っ!」
「余計な事を言わないでください!」
 事の次第を詳しく説明している周泰を横目で見ながら思わずこぼした独り言は、静まりかえっていた空気に思いの外響いた。
「見くびるな、下郎! 我ら孫家が中傷を元に私欲のまま洛陽を攻め滅ぼすとでも思ったか!」
 ……やるんじゃないかなぁ。
 ごく普通にそう思ってしまったのだが、確かに言いがかりだ。すまない、と素直に頭を下げるが、孫策の妹は姉とは正反対の生真面目そうな顔に怒りの仮面を被って外す様子はない。護衛女もスタートダッシュを待つサラブレッドよろしく鼻息荒くして剣に手をかけている。
 一触即発。
 俺が悪いが、黙って斬られるつもりは毛頭無い。身体を起こそうとする俺の動きにとうとう鯉口をきった護衛だが、それを柔らかく抑えたたくましい手があった。
「そこまでにしとこうや」
 ゼムリアが穏やかな声で緊張を解かした。
「今のは確かに冬弥が悪かったけれど、剣を抜くほどの事じゃないだろう? 頭は下げたんだ。それに、今の俺達は少しでも早く街から離れて、お姉さんの所に帰らなければならない。争っているような暇はないはずだ」 
 仮に俺とゼムリアの立場が逆でも、これほど力を持った言葉は出せないだろう。ゼムリアの声は俺達の間に満ちた剣呑な空気に染み渡り、刺々しいそれを穏やかな物へと変えた。
「ご!」 
 ごす、と俺の脳天に拳がめり込み、俺は既に何処にもいない生意気盛りのようにみっともなく呻いた。天罰覿面と言ってところか、分かっていて避けなかったとは言っても、やはり響く。
 大の男のみっともない姿に溜飲が下がったんだろう、彼女らは揃って腰を下ろし周泰はゼムリアに感謝の目を向け俺には怒りの眼差しを向けた。
「申し訳ない」
「全くだ。言葉は選べよ」
「返す言葉がない」 
 反省すると、それで話は終わった。さっぱりしているところは男の見本だ。俺は正直ねちっこいのでこうはいかない。
「話を変えましょう、いいえ、戻しましょうか」
 奇妙に爽やかな空気を入れ換えるように、孫権が咳払いをすると嫋やかな手で自分の胸を示した。姉ほどではないが、充分に豊かな膨らみは孫家の例に漏れず男の劣情を煽る衣装に包まれているが、言動に色気が欠けており、性的な欲求を刺激される事は少なかった。
「まず、正式に自己紹介さえしていなかったわ。私は孫権、孫仲謀。孫伯符の妹であり、孫文台の娘よ」 
 手はそのまま護衛娘へと向ける。向けられた方は即座に姿勢を正したが、生憎と剣呑な目の色は何一つとして変わらなかった。
「彼女は甘寧。私の護衛、これまでふがいない囚われの身をずっと守ってきてくれた忠義の臣よ」 
 囚われている主君を娘の身で守るのは難儀な話だろう。同じ事を男の俺がやるよりも難儀な話である事は察しがつく。ましてやそれに終わりが見えないとなれば、その内投げ出したくなっても仕方が無い。
 そんな投げやりさが全く欠片も見当らないのは、彼女が確かに忠臣だからだろう。感心するべきなんだろうが、現代日本人の俺には忠義という概念がさっぱり理解できない。
「ゼムリアだ。短い間かも知れないが、よろしく」
「工藤冬弥、右に同じだ。まあよろしく」
 よろしくしたくはないだろうな、俺だってさっさと別れたい。
 関係改善なんかの努力は面倒である。こういう時のやる気に滅多なこっちゃ火がつかないのは俺の欠点と言える。
「それで、この先はどうするんだ? さすがに街に戻って吸血鬼を捕らえる、なんて言うのには俺も反対だ」
 吸血鬼がどういった物かはここまでの道中で大ざっぱに説明している。そう言った化け物がいるという事実を認められないが、確かに異常な事態がこれまでの自分達の日々を大いに侵食している事は実感として理解できているので何も言えない、という風だった。
「……確かに、諸侯がこぞって洛陽を目指しているのであれば意味は無いわ。私達は邸に軟禁されていたからわからないけれども、袁術もその中にいるのではなくて?」
 視線が集中した周泰は、一度ぐるりと見回した後でおもむろに頷く。見た目のせいで子供のように見えるのがどこかユーモラスだ。
「諸侯に檄文が渡り、董卓討つべしと天下に号令をかけたのは袁紹です。袁術との関係は相当に不仲ではありますが、だからこそ袁術もまたこの戦に参加する事は間違いない物と冥琳様は仰っておられます」
 仲が悪いって言うのなら、そっぽを向けばいいものを。無視できない間柄って言う事か?
「ここに来るまで、準備不足だったので袁術が出立したのかそうではないのか分かりませんが」
「明命にしては、雑な仕事だな」
 甘寧が嘴を挟んだが、周泰は黙って頭を下げただけだ。目線が一度、原因である俺の方を向いていたが。後で詫びておこう。
「兵の一人も見る事の無かった街の状況から察するに恐らく、既に袁術は出立。目指すは洛陽」
 でなければ、孫権を連れて行く事は敵わなかったかも知れない。孫策が完全に敵対した以上は、せめて人質として連れて行かれなかっただけマシという話か? ん? なんだかおかしいぞ。
「張勲とか言う奴は、それに参加しているのか?」
「参軍しているのは間違いありません」
「……そうか」
 なんだかおかしいな、と思った。
 噂に聞く張勲は、相当にろくでもない性格だと聞く。今の状況なら、人質の孫権を喜々として使いそうなものだ。具体的には、孫策に秘かに脅迫状を送るか、あるいは公衆の面前で孫権を殺害するとか。
 ほったらかしたりするだろうか。完全に夜の一族にはなっているようだし、大きな力を手に入れた人間はそれに溺れて大ざっぱになりがちだが……同時に、残虐さや酷薄さも増大する傾向にある。
 しかし、孫権にも甘寧にも細工がしてある様子はなく本当に閉じ込められていただけのようだ。俺の気が付かないところに異常があるのか、それとも……
「張勲がどうしたというのだ」
「人質を放っておく理由がわからん」
 考えに没頭して黙り込んだ俺に甘寧が問いかけてくるが、彼女も答えを持たないらしく黙り込む。
「その女の性格を噂にしか知らないが、孫家と明確に敵対したんだから人質をどうするにせよ放っておくという選択肢だけはないんじゃないか? それがわからん」
 俺の中には、たぶんこうだろうという仮説こそあるが、それを適当に信じ込むわけにもいくまい。当事者の意見は重要だ。
「悪巧みは得意だけど、袁術にも逆らわない女でもあるわ。そして、袁術は気まぐれな子供そのままでもあるの。彼女の適当な思いつきで私を使うのを止めたのかも知れない」
 俺の言葉に真面目に考える必要があると判断した孫権は、少しの沈黙の後に答えを返す。聞いていると、子供の気まぐれで命を長らえたかのようなやるせない話だ。
「心当たりはないと?」
「ええ……」
「思春様は?」
「私もない」
 同僚の質問にも端的に答える姿は、何ともらしさを感じさせる。
 だが、そうなるとやはり俺の考えた仮説が今のところ唯一の推測となる。俺には全く察しのつかない政治上の都合とか、この国ならではの嗜好、思想による判断でないとするなら一番分かりやすい話だろうと思っているんだが……率直に言えば、孫権の事を考えると実に言いづらい。
 ここは一つ、分からないと言う事にして流しておくのが吉だろう。
「劉貴とか言うのが止めさせたんじゃないのか? 吸血鬼だとしても高潔な武人だと工藤が言っていただろう」
「ゼムリア、そこは黙っていて欲しかった」
 とどのつまりはそうなんだろう。劉貴は吸血衝動と“姫”の命令さえなければ純然たる男の中の男。戦術、戦略ならばともかく人質などと言う姑息な策は使うまい。だからこそ根本的に下劣な騏鬼翁とは仲が悪いのだ。
「劉貴殿が……」 
 明らかに無意識に呟いているだろう孫権の頬は桃色に染まり、彼女の中限定で仮説が事実に変化しているのがよくわかった。そして、彼女の心の中で今、どんな恋物語が写されているのか。
 きっと、彼女にとって最も美しい物語が彼女と劉貴を主演男優と女優にして繰り広げられているのだろう。そう確信させる頬であり、瞳だった。
「れ、蓮華様?」
 甘寧がわかりやすく動揺する。きっと、俺と同じ桃色のそれを孫権から読み取ったんだろう。俺の危惧が、この場の全員の共通認識に変化した瞬間である。むしろ、一緒に暮らしていて今まで気が付かなかったのか。
「一体、二人の間にはどんな関係があったって言うんだ」 
 ため息をつきたくてしようが無い状況だが、それをこらえるのは男の意地だ。
「か、関係って! おかしな事を言わないでちょうだい!」
「今頃、姉妹を含めたお仲間に危機が迫っているかも知れない状況で何を盛っているかね」 
「さ、さ、盛……」
 ため息をつくところだったが、どうにか頭をかいて誤魔化すとそのまま立ち上がる。肉体的な疲労は精神的な倦怠感と交換されるように消えていた。これ上頭の悪い会話を続ける気力は無いと、俺は努めて迅速に身支度を調える。
「お喋りをしている時間はないんだ。さっさと出立しよう」
「その通りだな」 
「そうしよう」
「急ぐに越した事はないな」
 示し合わせたつもりはないのだが一斉に立ち上がる俺達を狼狽えたように見回すと、孫権は俺の基準で言うところの女子校生かひょっとすれば中学生のような顔をして叫んだ。
「な、何よ、皆揃って口裏を合わせたように! 思春に明命まで!」
 もしかして、少なくとも色事方面では本当にその程度なのかも知れない。
 恐ろしい可能性に、俺はいつの間にか赤く大地を染め上げはじめた太陽の恩恵を浴びながら秘かに肌を青ざめさせた。
 ガキの色恋沙汰なんて、理屈も筋も通じない独りよがりではた迷惑の代名詞じゃねぇか。






「絶景かな、絶景かな」
 近辺で最も高い岩壁の上に立ち、芝居がかったセリフを吐く。
石川五右衛門の引用を理解できる人間は周りに一人もいないだろうが、歌舞伎の歌の字程度しか知らないはずの俺の口から、こんな馬鹿馬鹿しいセリフは思わずといった風にぽろりと出てくるとは我ながら思っていなかった。
 いっその事笑うしかない。そんなふざけた光景が目の前に拡がっていたおかげだ。
「何をふざけた事を言っている!」
 非難の声を高らかに上げる甘寧だが、俺は大して悪びれる気にはなれなかった。
「洛陽前の……ええと汜水関、だったか……門の前に、人の海が出来ているんだぜ? ふざけなけりゃ呆れるしかねぇよ」
 石と鉄で出来た巨大な門は、正に漢民族の力の凄さを見せつけているかのような異様を示し、俺もまた圧倒される一人となった。だが、その護国の門を攻めるのが漢の禄を食んでいた数多くの官であると言うのは皮肉というよりも滑稽だ。
「……確かに、工藤じゃないけれど心が折れかねない光景ね……」 
 ここに来るまで色ぼけを部下に心配されていた孫権が戦いたように語るが、俺とは少し違うところに衝撃を受けているように思える。
「董卓が悪政をどうのこうの……事実かどうかは調べりゃすぐに分かる。面白いだろう? ここに集まっているのは、とどのつまり分かっていて攻めてきた屑か、調べてもいないのに軍を動かした間抜けかのどっちかだ。黄巾の乱の時にはあれこれ金看板を掲げて戦争をやる連中が随分いたが……お里が知れるって言うのはこう言う話なんだな」
「後世へのいい教訓話だ」
 ゼムリアが皮肉をたっぷりとスパイスした俺に、同じように苦みを効かせた言葉で応える。意外なほどに、その顔は辛辣だった。
「教訓にするには、董卓達が勝たなけりゃな。あいつらが勝ってしまえば、未来には嘘しか伝わらない。自分に都合の悪い歴史は書き換えておくのは当然だろう」
 後世の歴史書どころか、自分の頭の中さえも書き換えているかも知れないな。ああ言う連中は、基本的には開き直りが足りないから悪党の癖に自分ではヒーローぶっている事も多い。
 “区外”の連中で国家などに属している者ほどその傾向が強く、尊い犠牲という言葉が大好きないつも自分達だけは奇麗な格好をしているような連中にはしょっちゅう会った。
 本当に自分のやっている事が正しいと思っている狂信者はもっとたくさん会ったけどな。いかがわしい新興宗教の摘発だってシャーリーにくっついていったら、そこら辺の団地で井戸端会議しているノリで主婦が若い男の臓物を祭壇に捧げているんだもんなぁ。
 若さを保つ為に行う事は全部正しいと本気で言い切られた当時の俺が二の句も告げられずにいたのを忘れていない。
 もっと忘れられないのは、若さがあってもその面じゃ意味なんざ無いだろとシャーリーの顔を指差しながら言ってやった時の山姥みたいな顔だったが。
「それで、孫呉の兵はここにいるのか?」 
「旗が見えたぞ」
 ここに来るまで、象牙で飾っているのは牙門旗という将の存在を示す特別な旗であると聞いた。竿の先に象牙がついていると聞いたが、それらしいのが見えない。いや、それよりもこの時代に象がいたのか?
 ……まあ、どうでもいいか。
「孫の旗はある、孫策がどこかにいるんだろうな」
 旗のすぐ側にいるかどうかは知らんが、砦、それとも門と呼ぶべきかも知れないが、それの中にいるだろう。 
「董卓としてみれば、ここで孫家を使わないという選択肢はあるまい」 
 あるいは、賈駆の性格からして自軍以外の誰かを戦場に立たせる事を狭隘さから嫌うかもしれんという可能性も考えたが、どうやらそれはなかったようだ。
「あの性格で、引っ込んでいるとは思えないからな」 
 あれは喧嘩好きだ。
 戦闘狂だの、戦争好きなどではなく、喧嘩好きだ。どこか、祭りの熱狂に酔うように血を見るのを楽しんでいる節がある。だからこそ陰惨な印象は受けないが、同時に戦争を、殺し合いを舐めているような不謹慎な空気も漂わせている。
 まあ、武将という者は誰も彼もが戦場をステージかフィールドのように考えている節があるように見えるから、よくある話程度なのかも知れない。名乗りあげをしているところは、芝居がかっていて見るに耐えんが。
「どうかしたのか? 急に顔をしかめて」 
「ああ、黄巾の乱の時に超雲とか関羽なんかの名乗りあげを見たんだがな、何というか……大げさすぎる自称に聞いている俺の方が恥ずかしくなってな……あいつら、今回も似たような事をやるのかと思うと……顔見知り程度とは言っても、恥ずかしくなる」 
 遠目に見ても、恥ずかしかった。なんであんなに仰々しいんだ。
「ぶ、武人の名乗りを何と心得るか!」
「恥ずかしい」
 一刀両断は剣士の理想である。
「たわけ! 武人の名乗りとは戦の華であり、己と部下への鼓舞であり……」
「戦場に奇麗な物を求めてどうすんだ」
 呆れながら、頭のどこかで女らしい事だと思った。男であるのなら、あの武人であるのなら黙って戦う姿勢でこそ語っただろう。
 その男は、劉貴は一体どこにいるのだろうか。
 眼下に見下ろす巨大な石門、汜水関。
 洛陽という餌に食いつく為に群がる蝗のような、賊軍。
 見たところ、未だに一度の交戦も行われてはいないようだが……あの男が戦場にいないはずがない。この、馬鹿馬鹿しいほどに壮大で、いい加減なほど簡単に蹂躙して、される場所にあの男がいないわけはない。
 懐から小型の双眼鏡を取り出して覗き込んだが、人が多すぎて探し出すのも楽じゃない。軍用で大きさのわりには遠くまで見通せる品ではあるが、見えようと見えまいと、樹の中から特定の葉を探すのは困難だ。
「袁家の旗が、やたらとあるな」 
 袁の字を旗に掲げるのは袁紹と袁術の二人だ。
 劉貴がいるのは袁術の下なのだろうが、袁の旗が多すぎる。確か袁紹が今回の戦の発起人であったと言うが、面子もあるのだろう殊更に多くの兵を率いている。おかげで普通でも困難な探索がますます難しくなってしまった。
「参ったな……」 
 もちろん袁だけではなく他にも様々な旗が乱立して、その中を常に多くの兵が忙しなく動き回っている。断言する、俺には無理だ。
「ああ、周泰。こいつを覗いてくれんか」
「? 何ですか、これ」
 さっきから、俺の背中にいぶかしげな視線が向けられているのは気が付いていた。その内の一つを手招きして双眼鏡を貸すと、素っ頓狂な声を上げて落としそうになる。勘弁してくれ、頑丈さに定評のある軍用でもそうそう地べたに落とされてたまるか。
「一体何事?」
「す、凄いですよ、蓮華様! これ、遠くの物が大きく見えます!」
 分かりやすい性能の為か、今までで一番驚いている。どれどれと物見高く寄ってきた連中の誰も彼もが同じように仰天している。それはいいのだが、ゼムリアが俺の知る剣技のどれを披露した時よりも驚いているのが正直癪に障った。
「いつまでも騒いでいないで、向こうを調べてくれんか。劉貴は何処にいる?」
「へ? あ、はい!」
 眼下の軍勢を調査する周泰の背中を見ている面々が、ちょっと羨ましそうなのが情けない気分にさせてくれた。
「うわあ。本当によく見えますね。旗はもちろんですが、下にいる一人一人の判別まで出来ますよ。これ、いいなぁ。どこで手に入れたんです?」
「地元じゃ、ちょっと値が張るけど普通に売っているよ」
「天の御遣いじゃないかって孫策様が言っていたの、本当だったんですか……?」
 そんなのと一緒にするな、と若干慌てて訂正しておいた。既に孫権と甘寧の視線が痛いのだからたまったものじゃない。
「冥琳様も欲しがりそうですね。敵の位置が丸見えですよ。ううん……袁は当然として、曹、公、馬まであります!」
「馬ですって? まさか西涼の馬家が出てきたというの」
「おそらく。となると、噂の錦馬超が出てくると考えられますね」 
 貸した目的が無視されているような気がするが、必要経費のような物を割り切っておく。
「あ! 劉っていう旗もありますよ!」
「!」 
 来たか、と思った瞬間に神経を伝達する電流の速度が変質したのを実感した。もちろん錯覚だが、面白いほど意識がはっきりと変化した。
 自分の脳裏に一本の刀が写り、誰かの手がかすかな音をたてて鯉口を切ったのがわかる。
 奮い立つというのは、正にこんな気持ちなんだろう。
 俺は今、確かに喜んでいる。ゼムリアと剣を交わした成果を試したいと、不謹慎ながら正直な気持ちが胸の奥に輝いている。
「ああ、あれは劉備の軍ですね。噂の天の御遣いがいるって言う」
「……」
 紛らわしいから潰してやろうか、あの連中。
「え? ええっ!」 
 一体何事か、突如周泰が弾かれるように双眼鏡から目を離す。何事かとこちらが問う前に彼女は目を見開いて報告した。
「目、目が合いました! 劉備のところにいるやたらに太った中年の女性と!」
「何ですって!?  この距離で……まさか、その相手も同じ道具を持っているの?」
 ああ、本当に潜り込んでいやがったのか。
「偶然ではないのか?」
「間違いありません、明らかにこちらに向けて合図までしています。ほら、片目だけぱちぱちと」
 誰に向かってウィンクしているのかは、こそこそと影に隠れようとしている誰かが言外に語っている。気の毒な話ではある。
「確か天の御遣いに手を出す云々言ってなかったか」
 さすがに無理だったのかねぇ。
「おい、まさか知り合いなのか」
「ん? 同郷……は違うな。知り合いの身内、か」
「なんだ、それは」
 曖昧な答えに相応しい返しに、それこそ返す言葉もなくて肩をすくめた。答えようがなかったのだ。ああ、いや……そう言えば、一つだけいい答えがあった。
「ゼムリアに言い寄っているオバサンだ」
 三人の女は視線を一斉に俺以外の男性に向ける。彼は余計な事を言いやがってと歯をむいた後、さっさと背中を向ける。
「見る物を見たら、さっさと向こうと合流しようじゃないか。ここで見物しているつもりじゃないだろう」
 そそくさと茂みに消えていく背中に吹き出してから、徐ろに後を追い掛ける。
「そりゃあ、もちろんだ」
 俺の目の先には、劉貴がいるだろう大軍が海のように広がっている。その中からたった一人の男を探り出すなど至難の業だろうが……俺はそれを困難とも思わずにむしろ奮い立った。
「あんたも、俺を探してくれているよな……劉貴大将軍」
 ごく自然と笑顔が浮かぶ。だがそれは、側にいた三人の女達がこぞって顔色を変えてしまうような、剣呑さの固まりのような物だった。




[37734] 果たし状
Name: 北国◆9fd8ea18 ID:4ba12f81
Date: 2014/12/06 22:37
 長らくお待たせいたしました。

 これを八月中に出すつもりだったなんて、一体誰が信じてくれるでしょうか。三ヶ月遅れとか、ドンだけ苦戦してんだ。

 ともあれ、今回から少し文章の間を空けてみました。少しは読みやすくなったかな。

 そして、今回は、主人公に会えて劉備達の考えを誤解させてみました。いわゆる神の視点、原作知識を持たない以上、こう言うのもあって当然かと思いまして。

 書いている内に、劉備一行が殊更主人公にひどい目に遭わされました。最初にお断りしておきますが、ファンの方は不快になるでしょう。

 毎度のことですが、この作品は菊地作品のキャラ、ひいてはそこで揉まれた主人公の方が恋姫キャラよりも強い場合がほとんどです。アンチと言えば、その通りです。

 恋姫キャラがひどい目に遭うのが前提です。連合軍サイドが主ですが。

 以上を踏まえて読んでくださると助かります。
 








 空が高い。

 真っ青な空だ。

 雲一つ無い青い空が、空とはこれほどに広く高い物なのだと下界に生きる俺達に教える。そんな空だ。

 頭上にのしかかるような黒い雲もなく、風もまた穏やかだ。空気もまた心地よく、そこそこの暑さで大地を温めている。

 こんな日は、風を浴びて草原に寝転がっているのがいい。

 渓流に、糸を垂れるのもいいだろう。

 土を耕すのも捗りそうだ。

 こんな日は、虎も眠りこけて目の前を通る鹿を見逃してしまうに違いない。

 誰も彼もが、のどかであるのが当たり前だと信じる、そんな一日の始まりが今だ。

 だが、世の中にはどこまでも例外がいる。

 そんなうららかな日だというのに、大地を血で汚そうとする大馬鹿がいる。

 もちろん、人間だ。

「こんな気持ちいい陽気に戦争なんてしようと考える大馬鹿は、それこそまとめて死んだ方が世の為だよな」

「まあ、そっちの方がよっぽど世の中平和にはなるよ」

 へっぴり腰で馬にしがみつきながら、俺はようよう汜水関という巨大な砦門の元へと辿り着いたが、遙か彼方に人で出来た海が見えると言う薄ら寒い光景を尻目に、つい本音が漏れた。

 へっぴり腰とは言ってもどうにか軽口を叩く程度の余裕は持てるようになったが、それを聞いて女性陣は揃って口も聞きたくも無いと言うほど不快そうに顔をしかめ、返してくれたのはゼムリアだけである。

 彼女達にしてみれば、一族どころか国家存亡の危機。

 俺の言動が不謹慎にも思えるのは無理もないんだろう。仮に連合の人間が俺のセリフに文句を言ってきたのなら鼻で笑ってやるが、彼女らにはそうもいくまい。

 日本人として、戦争その物に脊椎反射的な嫌悪を感じてやまないので謝罪する気にもならないが、少し口は閉じている事にしよう。

 戦争に行こうとする人間も、それ以上に行かせようとする人間も、頭がどうかしているとは思うけどな。自分は足を踏み入れるつもりのない危険地域に他人様の子を放り込むような政治家は屑だ。

「開門! 我らは孫家一門の者である! 開門願う!」

 俺の事を殊更に無視して、甘寧が冗談のようにどでかい門扉の前でそれを振るわせるような大声を上げる。

 さて、開いてくれるかなと疑問を抱いていたのだが結構あっさりと重たい音が大気を震わせる。

 こっちが少人数とはいえ随分物わかりがいいなと不思議に思っていると、開放された扉の向こうには見覚えのある人影があった。

「姉様!」

 なるほど、そういう事らしい。

 俺とは比較にならんほど奇麗な姿勢で馬に乗った孫策が、にっこりと大輪の花のように笑って妹達を出迎える。

「よく無事でいたわね、蓮華」

 俺は一歩引いて、連合へと視線を向けた。姉妹の再会に部外者は無粋だ。大体、改めて考えてみれば俺は今回の救出劇ではほとんど役に立っていないように思える。周泰一人で充分だったんじゃないのか? 

 事の前にはあれだけ勇んでいたというのに、これじゃピエロもいいところだ。

 どの面下げてここにいられるか。お義理でも礼を言われてしまえば、恥のあまり割腹したくなるだろう。

 横目で感動の再会をしている姉妹と取り巻き達を見ながら、馬を降りる。ようやく尻の痛みが消えたのですっきりした気分で前を見据えると、敵の騎兵が少しばかり近付いているのが見えた。

 少しばかりと言っても、全体の数と比較しての話だ。数は三桁に届くだろう。

「偵察か」

「門を開けて迎え入れたのはどこの誰だろうか、ってな」

 隣にはゼムリアがいつの間にか立っていた。気が付かなかったのを内心で悔しがりつつ、双眼鏡を取り出して敵騎兵を観察する。

「…………あいつらか」

「知っているのか?」

 無言で双眼鏡を渡すと、待っていましたと顔に満面の笑みを浮かべながら覗き込んだ。言っちゃあなんだが、子供みたいだ。

「普通の騎兵だけど、鎧やなんかで見分けはつけられないからなぁ、俺……目立つのが二人いるな。どっちも若い女だ。あ、あんな格好で馬に乗っているから下着が見えている。黒くて髪が長いのと、帽子を被っているのとだ」

 お気楽なスポーツ観戦のような口調で、一部どうでもいいが重要な情報を交えつつ報告する。もちろん俺もそのチェックポイントは見逃していないが、とりあえずスルーしておくのは周囲に女がいる場合の自然な対応だろう。

「黒髪は義勇軍……今は違ったか。とにかく、劉備と天の御遣いの部下で関羽だな」

「どっちの部下なんだ?」

「さあ? 両方なんじゃないかな」

「なんだい、そりゃ」 

 素朴な疑問だが、そう答える以外になかったしゼムリアの応えも真っ当だと思う。

「それで、もう一人は?」

「前に会った時は、公孫賛のところにいた趙雲だ。でも、天の御遣いの部下になりたがっていたから関羽と一緒にいるところを見ると今は鞍替えしたかもな」

 俺が自分なりの予想も加えて語ると、ゼムリアは呆れたように嘆息する。

「なんだかはっきりしない二人だなぁ」

「まあ、そんなような二人だよ」

 しかし、何の用だろうな。偵察を押しつけられたのかも知れないな。劉備が出世したらしいと言う話は耳にしたが、所詮は零からの成り上がりでしかない。もちろん成り上がれた事は評価に値するが、他より格落ちしている事は察しがつく。

 下っ端としてこき使われているのだろう。

「さぁて、どうするか」

 ひっ捕まえて向こう側の事情を吐かせたいところだが、下っ端の彼女らが持っている情報では精度が心配である。ついでに言うと、趙雲は飄々と笑いながら結構あっさりと口を割りそうだが、関羽はまず何も喋るまい。

 深く知り合っているわけでもないが、仮に拷問にかけたところで口は割らないと確信を抱かせる。魔界都市では幾らでもいる邪神を崇拝し世界を破滅させる事に精魂を費やす信者達は、時に凍らせ屋の拷問にさえ耐え、あるいは耐えられないとみて自決してみせた。

 彼女にとって、劉備か天の御遣いかはそういう相手なのだ。

 どっちかにしろよと思いながら、前に出る。

「どうするんだ?」

「叩きのめして、劉貴の居所を聞き出す」

「口は堅そうだけどな」

 どっちが、とは敢えて聞かない。

 だが、関羽のようなタイプを相手にした経験が無いわけじゃない。少しは対応も心得ている。

「相手が自分達の場合はそうだろう。でもああいう身内に甘いのは、自分達以外は結構あっさりと切り捨てる事が多い」

 仮に劉備や天の御遣いの事を聞いても、彼女は断固として口を割らずに舌を噛むかも知れない。だが、袁術の背後にいる劉貴ならばどうだろうか?

 俺だって、反董卓で固まっている連中が一枚岩だなんて思っちゃいない。あいつらの前にいる俺達が明確な敵なら、周りにいるのは味方ではなく“今は敵ではない”というだけの相手だろう。

 今は手を取り合っていても、隙を見せれば足を引っかけて転ばせて皇帝という賞品をかすめ取ろうとお互いの動きを監視しあっているような間柄だ。

 時と場合によるだろうが、自分達以外に敵の目が集中するとなれば万々歳なのは間違いないはずだ。

「劉貴の事を聞くなら、きっと口を割る」

「そういうものかもな」

 俺の言に異論は出なかった。

「さぁて、どっちとやるか……ここは、敢えて関羽だな」

 劉貴とやれるかと思ったのに、肩すかしを食わせてくれた劉備の手下だ。遠慮のいらない間柄だけに、いくらでも八つ当たりが出来るのは正直ありがたい。ほとんど忘れちゃいたが、元々問答無用で斬りかかられた上に性格も馬が合わない。

 虫が好かない相手に遠慮がいらないシチュエーションは、これでけっこう少ないものなのだ。聖人君子でもない身としては、せいぜい張り切らせてもらおう。

 それに、仮に趙雲を倒して劉貴の居所を聞いたとしても、それこそ関羽が邪魔をしてくるだろう。だが、逆の立場になれば? 

 趙雲にしても、劉貴に含むところがあるはずだ。殊更に邪魔はするまい。

「只単に、それなりに知っている趙雲相手にはやりにくいだけなんじゃないのか?」

「……さあ」

 わかっているなら、言わんで欲しい。

 これまで何度かやり合った相手と、そうでもない相手なら前者の方がやりやすいのはおかしくないだろう。別に殊更弱腰じゃない。

「行ってくる」

「あいよ」

 軽く手を上げる声援に背中を押され、俺は一気に駆けだした。通常の俺は、古代より紡がれる技法を持ってしたとしても100メートルをせいぜい9秒台ギリギリでしか走れないが、念が全身に満ちている今ならその半分ほどで駆け抜ける事が出来る。

 こちらに駆けてくる騎馬を相手に、接敵はすぐだった。

「関羽様! 歩兵が一人、こちらに向かってきます!」

「歩兵? しかし、鎧も着ていないな。剣さえも持っていないようだぞ。まさか、民か?」

 そんなやり取りが風に乗って届いた時には、既に肉薄していた。

「なっ……」

 関羽に報告のため余所見をしていた騎兵の一騎が、振り返った瞬間には目の前に到着していた俺に目を丸くする。そこから戦闘態勢に移行するまで待ってやるほど、俺は酔狂ではなかった。

 走り込む勢いのまま、ムエタイさながらの膝が兜に守られていない騎兵の顔面に突き刺さる。男は声も上げずに、馬から転げ落ちた。まるで、声の代わりのように白い歯が飛び散るのが奇妙にゆっくりと見えた。

 俺はそのまま空馬の上に飛び乗ると、ゆっくりと周囲を見回した。生憎と手近に追撃をかけられそうな相手はいなかったが、肝心の黒髪との距離は比較的近い方だ。このまま突っ込めば、ひょっとすると乱戦にならずにすむかも知れない。

「貴様っ!」

「シャアッ!」

 おまけに、向こうからこちらに斬りかかってくる。こいつはありがたい。俺の顔を見て驚いている趙雲の横やりが入る前にカタをつけるべく、粗末な出来の鞍を蹴る。

 向こうは細腕で振れるのがおかしいくらいのどでかい得物を、相変わらずの豪速で振り下ろしてくる。それで決まると思い込んでいるのか、迷いのない、後の事など考えていないような振りきりだった。

 もちろん、そんな一撃を食らってやる謂われはない。相手の一撃は俺の服を掠る事さえなく空振りに終わる。

「!?」

 手応えの無さに驚いた関羽が目を見開くのが戻るよりも早く、俺は大地を蹴りつけて襲い掛かる。一度飛び上がって相手の目を眩ませた後、鉄より早く下降して馬の影に隠れた。ささやかなトリックだが、結構上手くいく物だ。

 恐らくだが、関羽は俺が馬に乗ったまま戦うとでも思っていたのではないだろうか。下方への注意がかなりおざなりだった。そこへ飛び上がり様のアッパーは意表を突いたには違いない。

「下だ、愛紗!」

 かわされたのは、偏に警告が間に合ってしまったからだ。趙雲のおかげで、無防備な胴体に剣道のかち上げのように柄でのすくい上げるような一撃を受けたが、あからさまに慣れていない動きだ。拙いそれは隙となり、逆に攻撃に乗って上に飛び上がってから背面に回り締め上げた。

「ぐっ!?」

 甲冑も着ていない隙だらけの服装は相変わらずで、おかげで左腕を巻き込んでの片羽締めがきれいに極まった。これで終わりとほくそ笑んだのだが、ここで予想外の事態が起きた。

 この女の服、布地が薄いのである。

 仮にも参軍している身で甲冑さえ着ていないのだ。動きやすさを重視していると仮定しても、相応に分厚い布地の服を着るのが当たり前ではなかろうか。それがこのアマ、妙に質のいい着飾った服装をしている癖にペラペラと言っていいような布地で身を固めているのである。ふざけんな。

 貧困で防具も買えずに、軍装にさえ事欠く有様なのではない。服は妙に上質だ。戦場へデートしに行くつもりか、この女。

 露骨に狼狽えてこちらを見ている真っ当な格好の兵士達と見比べて奇妙な苛立ちを感じるが、まあ、この際それは置いておこう。それよりも、このまま締め続けていると服が破れて解放されかねない。それも願い下げだが、痴漢扱いされそうな最低の未来にはうんざりする。

 今のところはそうならない力加減で誤魔化しちゃあいるが、怪力なこいつの事だ。暴れた拍子に破けてしまうのは時間の問題である。と、いい物が目の前にある事に気が付いた。

「は、離せ…この狼藉者……」

 呻きながら切れ切れに聞こえてくる悪罵に耳を貸さず、俺は長くてしなやかで首を絞めるのにピッタリのそれを握りしめた。髪を引っ張られた事によって起こったあるかなきかの硬直を見逃さず、黒髪を縄として蛇のように絞めあげた。

 昔ながらの武術にも決して多くはない髪を使った締め技は周囲の度肝を抜いたらしいが、本人は自分が何で締め上げられているのか理解できずにいるようだった。だが、それが幸いしたのか余計な混乱もなく、手に持った青竜刀を振りかざして背後の俺を打ち据えようとする。

 それは悪手だった。

「得物がでかすぎだ」

 関羽の青竜刀は、名前こそ同じだが中華街のチンピラが持っているのとは違い長柄だ。密着して背後から自分を締め上げている相手に効果的な一撃を加えられる道具じゃない。ましてや片腕では論外だ。彼女は短刀か何かを抜くべきだった。

 もちろん、この状況下でも持ち位置を変えて握り直せば長柄を使う事が出来ないわけじゃない。本来利点となるはずの長い柄が邪魔になるが、それでも顔にでも突き立てれば充分脱出は出来る。しかし、それを思いつくほどに時間の猶予を与えるつもりはない。武術がまだまだ未熟な時代であるが故に生まれたアドバンテージを逃しはしない。

「ぐっ……なら……」

 彼女はようやく自分が何で締め上げられているのかを理解したのだろう。力の入らない体勢の上、柄の部分しか当たらない状況に業を煮やして自分の髪に手をかける。

 そこからどうするつもりだったのかは分からない。握り直した得物で髪を斬るつもりだったのかも知れないが、彼女はそこで一瞬以上躊躇った。

 そのほんの数秒の後、彼女はいつぞやの呂布のように気絶した。

 あるいは、髪を斬ろうとする事で俺の顔に刃を突き立てる手段を思いついたのかも知れないが、選択肢が生じた事で迷ってしまった時間が彼女から意識を奪った。

 つまりは、髪を惜しんで負けたのだ。

 散々武人だなんだと吹いていたのを知っているだけに、この体たらくかよと思ってしまう。口に出さないのはせめてもの分別だ。

 戦場に洒落っ気を持ってくる辺り彼女は乙女であり、だからこそこんな物だ。女が弱いとは言わないが、乙女は弱いのだ。

「うげぇ、気色が悪い」

 乙女、など思考の中でさえ許しがたい軟弱な言葉だ。そんなフレーズを思い浮かべた自分をオカマ野郎かと恥ずかしく思いながら周囲を改めて観察すると、誰もが唖然としていた。恐らく、関羽の力量を相当に当てにしていたのだろう、こちらに掛かってくる様子さえない。軟弱と言うよりも、脳天気と言うべき反応だな。

 例外は、たった一人だ。

「お見事ですな、工藤殿」

「袁術軍の事が知りたい」

 いつでも首をへし折ると脅しを篭めて、意識を失った関羽を相変わらず看護婦紛いの格好をして装飾過剰な槍を持った女に見せつける。

「相変わらず素っ気ない事ですな。それにしても……本気ですかな」

「なんで冗談だと思う?」

 趙雲は、飄々とした態度を崩さずに悠然と俺に問いかける。それが訝しい。仮にもお仲間の命が握られている状況で、冷静と言うよりもふてぶてしい態度だ。何が彼女にそうさせている?

「あなたはお優しい御仁だ。黄巾の砦でも賊さえ殺さずにいたような貴方が、義の将たる愛紗を殺せるとは思えませんな。袁術殿の何を知りたいのかはわかりませんが、人質を取るなどと無理な事をなさらぬが……」

 その場で、関羽の首をへし曲げた。

 頸椎をほぼ一回転させた際にごきり、と言う感触が俺の中に響く。こちらを向いた関羽の目はいつの間にか見開かれ、信じられないと言っていた。

 それは、趙雲も一緒だった。

「誰が義の将だ? 欲の皮を突っ張らせた阿婆擦れが立派な看板を掲げたところで手加減する理由になるか。舐めるな」

 趙雲は目を見開き、正に絶句というタイトルの像であるかのように硬直している。四つの目が、こんな馬鹿なと言っている姿が滑稽どころか不快だった。まさか、俺がそこまで温いと本気で思っていたのか? 馬鹿にしやがって。

「後一捻りで、こいつは死ぬ。くだらない事を言っている暇があれば、とっとと俺の質問に答えろ」

 それとも、まだ本当は殺さないとでも思っているのか?

 そう言ってやると、趙雲は未だに躊躇っているようだが惚けていた他の騎兵達が悲鳴のように叫びだした。

「なんだ! 一体何が知りたいんだ!」

「袁術軍に、劉貴大将軍がいるのかいないのか」 

 騎兵にではなく、目線はあくまでも趙雲へと向いている。彼女は一瞬目を見開いた。もしや、劉貴の存在に気が付いていなかったのだろうか。

 そう言えば、この女は公孫賛のところでは客将。劉備陣営に鞍替えしたとしても新参。立場は弱いのかもしれない。

「袁術? あの戦うどころか昼間は何もやっていないような穀潰し共の何が……」

 当たり前だが、開戦はしているんだな。

 それはさておき、どうやら袁術軍は軒並み吸血鬼で固められているらしいな。少しか人間も残していると思うんだが、こうまであからさまに言われるような状況と言う事は、人間と吸血鬼の割合は偏っていると考えて然るべきだろう。

「工藤ーっ!」

 背中から騎馬が近付いてきた。俺の周りにいる連中よりも、格段に多い数を引っ張って孫策が走ってきている。

「あれは、孫策殿か」

 悔しげに唇を噛み、趙雲は武器と言うよりも芸術品のような槍を振り上げた。人殺しの道具でありながら、まるで芝居の小道具のように装飾が施されたそれが趙雲にそっくりだと、侮り気味に感じた。

「引け! 引けっ!」

 即決で彼女は後退を指示する。考えるよりも先に反発するよう彼女を睨んだ騎兵達も、足下に誰かが放った矢が突き刺さると悔しそうに馬を返した。迅速な対応ではあるが、こいつをどうするんだ。

 腕の中にある不気味なオブジェを持て余して見下ろすと、おっつけやって来た孫策と、弓を射た黄蓋が背後から賞賛の声をかけてきた。

「驚いたわね、突然走りだしていった時には一体何がどうなるかと思ったけれど、まさか敵将を早くも討ち取るとは思ってなかったわ」

「随分と手の早い事ではないか。冥琳が聞いたら先走るなと怒り出しそうじゃが」

 先走るなって、俺はお前らの指揮下に入った覚えはない。

「にしても、容赦ないわね。てっきり、あんたは人を殺さないような男かと思っていたわ。曹操から聞いたけど、賊も殺さないと聞いたけど」

「ふむ、それもそうじゃの。何というか……その滝のような清冽な雰囲気に合わん」

 すげぇ過大評価だ。

 俺は屑ヤクザなら笑って手足をへし折り、睾丸を蹴り潰すくらいはする。赤ん坊を食い殺した妖物を、育てる子供がいると理解した上で斬った事だってある。善人の皮を被った屑の脳天をたたき割り、善男の情けに付け込んだ子供を半殺しにした事だってある。

 賊を殺していないのは、殺された方がマシだと言う目に遭わせたに過ぎない。要するに、彼女らの買いかぶりだ。俺はもっと容赦ない性格だ。

 殺さないと言ったって、人を笑って打ち据えて一生物の傷を負わせているのだから充分冷酷だろう。

「それに相手は賊以下のゴミだ。容赦してやる謂われがどこにある?」

 俺は至極真っ当な事を言ったつもりだが、孫策と黄蓋は面食らって目を瞬かせる。

「賊以下とは随分な扱いね」

「敵としても、なかなかの武人と思うが賊の方がマシと思うのか?」

 どうやら二人はこの女に高評価を下しているらしい。俺にしてみればその方が不思議なんだが、これは育った立場の違いか、生まれた国の違いか。

「只の賊徒に落ちたとは言え、始まりは圧政に対する反抗であった黄巾党と、ただ自分の立身出世の為に治に乱を起こした連合と、どっちがマシか」

 それに、何人かから話を聞いたがこのまま連合が勝てば漢という国は実質終わり、日本の戦国時代のような群雄割拠の到来は確実だという。俺が知る三国時代の先駆けでもあるだろう。

 袁紹のように、董卓に成り代わって漢王朝を牛耳るという目的で動いている者も多いが明らかにそれを狙っている諸侯もまた多いと言う話だ。どちらにせよ、自分の栄達の為に戦争を起こす、あるいは尻馬に乗るなど屑の中の屑だ。生き延びる為に殺す黄巾党の方がマシじゃないのか?

 巻き込まれる国民にとってはどちらも変わらないし、結局只の賊徒に成り下がったわけだが……

「まあ、この辺の考え方の違いは俺とあんたらの立場の差か」

 未来から来ようが異国から来ようが、一“区民”に過ぎない俺は結局時代の流れに乗る側でしかない。流れを作る側である彼女らとは違う。

 それにしても、天の御遣いの小僧は何を考えている?

 こんなふざけた戦争に参戦しやがって、どれだけ人が殺されると思っているのか。あの小僧は少なくとも俺よりは三国の歴史に通じているはずだ。結局はお互いに学生のにわかにすぎないだろうが、それでも察していて当然だろう……これから、馬鹿馬鹿しいほど人が死ぬ、と。

 それが狙いか?

 劉備は漢の中では結局は弱小。躍進の為には戦乱が必要だと。あるいは、自称に過ぎないとはいえ皇帝となる歴史をなぞるのだと、そういう事か?

 彼の知る歴史に振り回され、董卓は大悪人だと信じ込んでいるのかとも思ったが、そんな間抜けが人の上に立てるわけもない。それに、もしそうだとしても未来の歴史を知るはずの無い周囲の臣下が疑問に思うはずだ。

 ならば董卓の悪政など事実無根と気が付いていないわけでもあるまい。兵を動かすのに、まさかろくに調査もしないわけがないだろう。

 私欲に走ったのか、それとも時流に逆らえなかっただけか。いずれにしても、語るに値しない男だ。乱がなければ天の御遣いなど必要とされない事実を理解し、乱を歓迎しているのだろうか。

「その話はここまでにして、こいつを連れて行けよ。少しは情報が得られるだろう」

「何?」

 持て余した関羽の首をねじり直してから孫策達に渡そうとするが、手が出てこない。

「持っていけよ。拷問するよりは取引した方が情報は引き出しやすいと思うぜ」

 この手の輩は、拷問に逆らう自分に陶酔する傾向があるからな。そのまま死にかねん。

「いや、引き出すというても……死体から一体何を聞き出すと言うんじゃ」

 死体からでも聞き出せる事は幾らでもある。まあ、鑑識的な方法ではなく文字通り死体に喋らせる方が俺は慣れているが、それを言ってしまうとろくな事にはならないだろうな。

 それにそもそも、根底からして間違えている。

「こいつ、死んでないぞ」

「は?」

「え? だって、首をへし折ったでしょ」

「折っていない。外しただけだ」

 危険ではあるし後遺症もあるだろうが、適切な治療をすれば後腐れ無く治る程度の話だ。ノーリスクではないが、別段珍しくもない程度の技である。

「いや、首の関節って外れるものなの? 肩とは違うのよ」

「外れたにしても、そんな簡単に嵌めたり外したり出来るのか!?」

「出来ているだろう」

 証拠に関羽の頭をペシッと叩くと呻き声を上げた。震動が外れた頸部に響いたのか顔をしかめている。

「本当に生きているのね……」

「ううむ、信じがたい」

 ゾンビという知識はないのかも知れないが、とにかく得体の知れないものに対する視線を俺と関羽の双方に向けている。こいつらもそこらの一般兵から見れば同じようなものだという自覚はあるのだろうか。

 その後、特に何事も無く俺達は汜水関に戻る事が出来た。あるいは、トンブ辺りが横やりを挟んでくるかとも思ったのだが、それはまだのようだ。使い魔辺りで見張っているかもな、と思っていたのだが、少なくとも現時点での接触はなかった。

「さて、のっけからの大手柄やな」

 そう言ったのは、この汜水関を守る董卓軍側の宿将、張遼である。その隣には、無表情ながらも俺から一度も視線を外さない呂布がいた。そして、彼女の背後に隠れるようにして威嚇の眼差しを向けてくる陳宮。

 砦に入った俺達を迎えたのは、この三人だった。

「董卓側からは、これで全員か?」

「まあ、そういうこっちゃ。何かおかしいか?」

 屈託が無いとは言い切れない態度で、張遼が代表する。別れ際が決して円満ではなかったからだろう、時間こそ置いたが、逆にそれがしこりとなっているようだ。ああ、面倒くさい。早く縁を切りたい。

「華雄だったか? かなり好戦的に見えたんでな。ここにいないのが意外だ」

「ずけずけ言うなぁ……まあ、確かにその通りやけど」

 遠慮なんて必要としない間柄だろう、親しさとは違う理由だけれども。

「本人も、いの一番に先陣を切るつもりやったけどな。賈駆っちが、待ったをかけたんよ。今は後ろで月……董卓を守っとる」

 えっらい揉めたんやで、と笑っているが……後ろで陳宮の小娘がそれで片づくような騒ぎではなかったですよ、と不平満々で愚痴を言っている。我が強そうに見えた第一印象は、それほど的外れでもなかったようだ。

「つまり、元々防衛に向いている性格じゃないって事だろう。それをもっと後ろに押し込めるのは無駄遣いじゃないか?」

「そうは言っても、守戦だろうが何だろうが構わずに突撃していくような女やから……自分が突っ込めば敵の首がすっ飛んで終わると、本気で信じとるような奴で」

 防衛戦は、基本的に砦の防御力によって消耗を計る物だというのは俺でもわかる。幾ら今が古代の大昔だってそんなのが将軍なのか? 

「腕っ節はあるねん。その腕っ節で何もかもが決まると、ガチで信じとんのや」

「猪武者なのですぞ!」

 陳宮が嘴を挟んでくる。俺に対する嫌悪がその時だけなりを潜めていた。どんだけ愚痴を言いたかったんだ。

「そんな猪武者が、本当に引っ込んでいるのか? 途中乱入で戦場を引っかき回して敗因になったりしてな」

 結局は他人事なので適当に笑ってやると、二人共にどこかうそ寒そうな顔をした。洒落になっていないのか? 

「まあ、うちの主君が直々に命じた事やから、よもやそれさえ無視するほどには阿呆と違うはずや。せやけど……もし、本当にどうしようもない奴やったらウチがケリをつけたる」

「ふうん……賈駆ってのはその辺も計算に入れているのか」

 口で何と言っても、張遼が乗り気でないのは明らかだ。当たり前ではあるが、そんな真似をさせる華雄と、そして賈駆にも嫌悪を感じる。

「まあ、それは苦渋の決断なんやろ」

「どうだかな。結局、そいつは何もしないだろう」

 俺は苦渋の決断とか、大の虫を生かす為にはなんて言う類の話は好きじゃない。その手のセリフを使うような奴にはこれまでに何度となく出会った事があるものの、本当の意味でその言葉を使っている奴に会った事は無いからだ。

 切り捨てる側の奴以外はそんな類のご立派な演説をすることはない。小の虫を殺すしか無いと言う輩は、概ねろくすっぽ考えもせずに決めつけているだけだった。

 ドクター・メフィストのような反則を例にあげるつもりはないが、これしかないんだと犠牲を出す決断を下した阿呆以外の誰かが考えた場合には解決策があることが多く、以前に先走って民間人に無駄な犠牲を出した馬鹿な新米刑事は、凍らせ屋の手で殺された方がマシな目に遭わされた上で被害者の遺族にこっそり引き渡されていたものである。

 俺も一緒になって手足をへし折った馬鹿の顔を思い出しながら、久しぶりにため息をついた。

 犠牲を出すより他にはないと決断を下す奴は、概ね頭脳を始めとする自分の能力に自信があり、そして独りよがりな性格をしていることが多い。接触の機会が少ないはずの俺でも感じるほどに、賈駆は露骨に当てはまるキャラクターだと気が付いたからだ。

「まあ、そう怒るな。あの小娘が儂ら孫家の一門と肩を並べるはずがないとは思っておったからの。先回りして不和の種を潰しておいたと言うところか」

 不快に感じている俺の肩に手を置いて、黄蓋が話に加わってくる。にやついているような口調が、顔を正面から見ていないからこそ引っ掛かった。

「後ろからいきなり襲ってはこないでしょうけど、正面から時と場を選ばずに喧嘩を売ってきそうだもんね」

「連合を相手にしている内に、横から襲い掛かられてはたまらんわ」

「どっちにしろ、痺れを切らす前にカタつけんと命令無視して突っ込んでいくやろうな」

 しつけの悪い犬その物の言われように、コメントが出てこない。仮に俺がこいつらの陣営に参加していたら、何が何でもその阿呆を戦えないようにしていただろう。

「そんな奴がいるっていうのに、よく孫家と同盟が成立したな……」

「華雄一人で天秤に釣り合うほど、孫家は安くないわよ」

 それもそうか。

「で、その力を当てにされて現在は前線、か」

「賈駆の狙いは、私らを矢面に立たせて自分らの兵馬を少しでも残しておきたいのでしょうけどね。その為には、対抗意識むき出しの華雄は邪魔って事よ」

「分かりやすい話だが、孫策よ。そんな事をこいつらの前で言ってどうする?」

 目を向けると、会話に加わらずにひたすら俺だけを無表情に見据えている呂布、苦虫を噛み潰している陳宮、そして張遼はごく普通に笑っている。

「いいのよ、少なくとも呂布殿や張遼殿はそんなせこい真似しないから」

「まあ、確かにこんだけの敵を前にしてそんな悠長な事をやっとったら、命が幾つあっても足らんからなぁ」

 二人はにやり、とよく似た笑顔で笑いあった。どうも、ウマが合っているように思える。性格が結構似ているからそのせいか。

「飲んべえの喧嘩好きが顔を合わせりゃ、そりゃ仲良くなるだろうな」

 簡単にオトモダチになって、簡単に喧嘩別れしそうな組み合わせだ。

「どういう意味?」

「どういう意味や」

 アメリカ人よろしく肩を竦める手もあったが、日本人らしく頭をかいた。連帯する女に勝つ芽なんて男が持てるわけ無いだろう?

「ああ、まあそれよりも先に言う事があるな」

 幸い、張遼が折れたが余計なおまけもついてきた。

 なんだ? もしや以前関わった騒動の件を蒸し返すつもりか、と一歩後ろに下がって間合いを外す俺から視線を外すと、彼女は後ろにいた二人を側に来るよう促してからおもむろに頭を下げた。

「改めて、あの時はすまなかった」

 口調が若干違う事に真剣みを感じつつ、逆にうさんくさくも思った。

「散々世話になったちゅうのに、八つ当たりの逆恨みや。本当は頭を下げる資格もないのかもしれんが……それでも、詫びさせてほしい。許してくれ」

 ここで“許してくれとは言わない”なんてお決まりのセリフを言ったら、それこそ笑ってやれるんだが……ため息をこらえるのに苦労するような事を言ってくれる。

「ごめんなさい」 

「……迷惑かけたのです」

 彼女が頭を下げているのは、自分の為ではなく一緒に並んでいる二人の為だろう。無表情の呂布はともかくとして、不満がありありの陳宮は苦笑いするしかない。

「母親か、あんたは」

 そのまんまの構図に思わず口から飛び出た感想に、孫策達が吹き出しそうになるのをこらえていた。俺は明らかに反省していないガキンチョと、なにを考えているのかさっぱりな呂布の旋毛を見下ろし、できるだけさっぱりして聞こえるように意識して口を開いた。

「ちゃんとしつけとけよ、おっかさん」

「おおきに」

 張遼はおつむを下げたままで受け取ると、勢いよく頭を上げて息をついた。

「あー、すっきりした。結構気をもんどったんやで、これでもな。全く、二度も三度も頭を下げる事になるとは思っとらんかったわ」

「三度目がありそうなのか」

「言葉の綾や、揚げ足とらんどき! それよりも、誰がおっかさんやねん!」

 怒る彼女は確かに若い。花盛りの娘におっかさん呼ばわりは辛いだろう。

「子供の為に一緒に頭を下げるのは、それらしいだろう」

「……せめて、姉ちゃんにしてくれんか」

 もっともだと思ってしまったのか、力ない返しが来た。失笑をこらえるのは不可能であり、せめて距離を置こうとした際、引き留めるような呻き声がした。

「う……」

 兵に縛り上げられ、孫策の足下にいた関羽が意識を取り戻して声を上げたのだ。その場の全員の視線が彼女に集中する。

「くはぁっ!」

 水中から飛び出してきたかのような激しい呼吸を行い、自分に集まった視線を気にかける事もなく、器用に身体を起こす。縛られた事に気が付いてもいないような様子で目を見開いたまましばらく像のよう硬直し、大きく息を吐いた。

「い、生きているのか……?」

 歯の根が合っていない為に震えている声で、誰かに聞こうとしているのではなく、自分自身に聞いているようなセリフを口にしつつ身じろぎする。たぶん、首元に手をやろうとしているんだなとは思う。そこでようやく現状に気が付いたようだ。

 慌てて自分を見下ろし、そして周囲を見回してからうつむく。その際の悔しげな表情が少しだけ印象に残った。

「……私を生かしているのは、尋問のためか」

「ん?」

 関羽はきっ、と俺に視線を向けた。殺されかけたからかもしれないが、無名の賞金稼ぎよりも孫策や張遼と話せよ。

「貴殿は、李江の時にいた御仁だな。星より聞いた、名前は工藤殿だと」

 顔覚えられていたか。ところで貴殿、殿、御仁……なんだか嫌な予感がする。

「誰の事だ? それ、真名だろ」

「……趙子龍の事だ」

「やっぱりか」

 他にいないわな。ああ、トンブ叔母さんもいたか? この連中と仲良くしている姿が思い浮ばないが。 

「何故だ! 何故、貴方が魔王と称される董卓などと共にいる! 貴方もご主人様と同じ、天の御遣いなのだろう! ならば、なぜ我らに力を貸さないのだ! それどころか、洛陽の民を虐げたと言われる董卓軍に力を貸す!?」

 相手が縛られていなければ、蹴りをかまして口を閉じさせたいくらいの暴言である。よりにもよって、こんなのに公衆の面前で語られた日には事実として定着しかねない。真っ平御免な最悪の事態が目の前に迫っている事に真っ青になった。

「誰が天の御遣いだ、阿呆! こちとら荒事に手を染めても詐欺なんぞ働いた事はないわ! 口車で疑う事を知らない脳天気な連中を騙しているだけの癖しやがって! そんな、それこそお天道様に顔向けできないような生き方なんぞした覚えはねぇ!」

 もっと苦労してこいと、閻魔に生まれ変わらせられたけどな。

「だ、誰が詐欺師だ! ご主人様は今の世を憂いる優しくも立派な方だ」

 そのセリフと、何よりも表情を見て俺は馬鹿馬鹿しくなった。詐欺の片棒を担いでいる一人に詐欺師云々を突きつけてもどうにもならないだろうし、優しいだの憂いているだの、だからなんだ。それでやっている事がこれだろうが。

「ああ、そう言えば冥琳が調べたけど……詐術を用いて幽州の公孫賛の許に入り込んだ挙げ句に恩を仇で返したって聞いたわね」

 孫策がひどく冷めた眼差しで関羽を見下ろして、軽蔑という言葉を形にしたような口調で話に加わった。

「ぐ……だ、誰が詐術……いや、恩を仇で返しただと!?」

「結構な数の民を義勇軍と称してかっぱらっていって、それっきりだって言う話だけど? おかげで幽州は荒れ放題、黄巾の爪痕、最も色濃き地って知らないと思っている?」

 無理強いしたわけじゃないんだろうから、許可を出した方も出した方、ついていった方もついていった方だと思うけどな。まあ、孫策もその辺は承知の上で攻撃のために見て見ぬ振りをしているんだろう。

「兵を集める事は公孫賛殿より許可を頂いた上での事、他者にあれこれと口を挟まれる筋合いではない!」

「詐術は否定しなかった」

 ぼそり、と呂布が会話に入り込んだ。相変わらず平坦な様子だが、関羽に対して憤りを向けているように感じる。主君に言いがかりをつけて攻めてきた事に、この食う事以外には無関心そうな娘でも思うところはあるらしい。まあ、腹心だろう部下に向かって主君を魔王だなんだと罵れば当然か。さっきから張遼や陳宮の目もかなり厳しい事に、関羽は気が付いていないようだが……

「何したの」

「公孫賛の下に潜り込むのに、金で集めた偽兵を使って騙そうとしたんだそうよ。もっとも、あっさりばれたそうだけど……訳が分からないわよ、よしんば上手くいっても、その後はどうするつもりだったの? そんな兵士をいつまでも手元に置いとけるわけでもなし、必ずばれるでしょうが。なし崩しに入れてもらう事前提なくらいに馬鹿にしていたのかしら」

 ……なんで捕まっていないんだ。いや、そもそも公孫賛と劉備は昔の友人だったという話だが、随分な裏切りだな。

「やっぱり、嘘つき」

 やっぱり? と不思議に思ったのが顔に出ていたんだろう。張遼も話に加わってきた。

「恋の奴、天の御遣い名乗っている奴に黄巾の乱の時に出会っていてな。なんや妙にあっさりと懐いてもうたんや。ご主人様とか言っとったんや。たぶん、そこでなんかやり取りがあったんちゃうかな? それがこんな有様になって」

 またご主人様かよ、気持ちわりぃ。大体、あいつが自分で築き上げた地位も財産もないヒモの癖に、何が主人だってぇの。

「あ? なんだ……くだらん。痴情のもつれかよ」

「いや、恋に限ってそれはちょっと」

「恋殿があんな貧相でだらしない男に心を預けるなどありえないのです!」

 呆れと言う感情の枠を通り過ぎそうなくらいに辛辣になった俺に子犬が噛みついてくるが、それなら呂布は簡単に異性をご主人様なんて呼んですりよるのか、と聞くと黙った。

「発情期は選べよ、動物じゃねぇんだ。しっかしまあ、随分ところころあの野郎に女が転ぶな。こっちの女はどいつもこいつも尻軽なのか? それとも、女をモノにするのが天の御遣いの力なのかね」

「はつじょーきじゃない……」 

 モテナイ男の僻みも入っているので、さっきから殊の外辛辣になっているのは自覚しているが、俺の言い分に張遼が目一杯呆れたのはさすがに不本意だ。

「そんな天の御遣いなんているもんかい。それじゃ只のヒモやんか」

「でも、やっている事は確かにヒモのたかりなのです!」

 どうやら天の御遣いが嫌いであるらしい陳宮が率直な事を言うが、俺はわりかし真面目に言っている。

「そういう奴は結構いるぞ」

「は?」

「クスリや術を併用した上で女をモノにして、その女に身体を売らせて食っていくゴミ屑はどこにでもいる。恐ろしいのは、そんな屑を屑だと知った上で貢ぐ連中の中には、その男の為になら訓練した兵士顔負けの異常な戦闘能力を発揮するのも多いんだよ」

 “歌舞伎町”辺りには性の快楽をもって異性を骨抜きにし、抜いた骨の代わりに怪物を入れる色事士は多くもなければ少なくもないという頻度でいる。彼らは“区外”の麻薬など目じゃないと言う常習性のある性技で異性をとろかし、虜達はその快楽の為には売春婦となって金を貢ぎ、死をも恐れぬ兵士として武器を取る。

 何もかも分かっているような開き直った女も相手にしたくないが、更にやりきれないのはそれを愛情だと自分を騙す為に歪んだ納得をしているタイプであり、昔その手のヒモを狩りにいった際につい同情して肩に銃弾を受けた事があった。

 あの時はその分の借りもまとめてヒモ野郎に返したのでスッキリしたが、今回はどうなるだろう。あの時のように、せっかく手に入れた賞金を女達の更生につぎ込むような丸損だけは勘弁して欲しい。

 屍刑事にもシャーリーにも、きっちり金は受け取ったドクター・メフィストにも“その程度のはした金で何が出来るか、中途半端野郎”だの“貴方が懐を痛めた事なんて彼女達の誰も知らないでしょう。何の得にもならない無駄な格好つけはやめたら?”だの“つまらない男に懐柔されたくだらない女などに身銭を費やすとは男の屑のような真似をする。もっと有意義な使い道を考えないのかね?”と袋叩きの目に遭ったのだ。

 ちなみにドクターは彼女らが患者になる前にそう言ったのだが、何にしてもあの時の冷たい目を思い出すだけで魘される自信がある。

 まあ、悪い事ばかりでもなく“あなたの格好つけたところを彼女らに話してあげようか”と言った若くて表情の明るい看護師に勘弁してくれ、と言ったところでご褒美と称して頬にキスされたのはまあまあいい思い出である。

 もちろんそれで勘違いできるほど馬鹿にもなれずにそれっきりで終わったがな、くそう。口説くってどうするんだ。

「ご、ご主人様はそのような者では無いっ!」

 顔を真っ赤にして主張するが、鵜呑みにする気は無い。もしかしたら、瓢箪から駒かも知れないからな。

「つくづく、どんな人生送ってきたのか気になるわね」

「ちょっと珍しい程度の人生だよ」

 実際、前世の件も含めて魔界都市ではその程度だろう。むしろこいつらの方がよほど波瀾万丈な人生を送っているんじゃなかろうか。

「絶対嘘や」

「何故に言い切れる」

「さっきも言ったけど、天の御遣い名乗っとる北郷とは全く知らん仲でもない。けど、あんたとは違って服以外は平凡な奴やったで? 例えば世間知らずの大商人の次男坊くらいな感じか? まあ、顔だけはあんさんよりもちょこっと上やったがな」

「で? そいつが平凡だから何だよ」

 嫌らしくにやける顔が意外そうになった。

「あれ? 顔の事はええの?」

「……顔で飯を食っているつもりじゃねぇんだ、挑発だったら他の事でやれ」

 ヒモや役者じゃねぇんだ、顔を虚仮にされてもよほどでなけりゃ怒ったりはしない。からかおうとしている事自体は不愉快だけどな。

「ああ、いや……つまらん事言ったな、すまん。あんさん、あの男と故郷は一緒なんやろ? そこのもそう言っとったし。それで全然違うやン」

「あの北郷とか言うのがどんな人生送ってきたのかなんて知らんのだ、何も言えるわけないだろ」

「見るからに呑気で苦労知らずそうやったで」

 まあ、現代日本の学生なんざ歴史上最も苦労知らずの呑気な生き物だろうけどな。

「さっきから聞いていれば……貴様ら、ご主人様に恨みでもあるのか!?」

 関羽が悲壮感と怒りをこめて俺達のやり取りに噛みついてくるが、正しく何をかいわんやではなかろうか。

「言いがかりつけて攻め込んできた相手に恨みも糞もあるのか?」

「その上、うちらはともかく恋は結構仲良くやっとったみたいやし。それが戦国のならいかも知れんけど、いい気にならんのもこれまた当然や」

 そう言う物だろうな。まあ、はっきり言ってその辺はどうでもいい俺は呻いて黙り込んだ関羽を見下ろした。

「言いがかり……では、やはり朱里の言っていたことは」

「それよりも、俺が天の御遣いだなんてふざけた噂は誰が広めた与太話だ? どこからどんな風に広がっているって言うんだ」

 羞恥心を針でつつき回すような噂が世間に出回っているようなら、どうしてくれよう。

「……」

 関羽はしばらく沈黙を選んでいたが、やがて俺の辛抱が聞くか聞かないかのギリギリの線でおもむろに話し始める。

「……あの時、李江が空を飛んだあの時からだ。今とは違う格好をしていたあなたを見たご主人様が言っていたのだ」

 そう言えば、声をかけられたがいい加減に苛ついていたので無視したんだっけな。その後は、そんな話をする流れじゃなかった上に俺もあいつらと口をきくのが嫌でしょうがなかった。せめてあの時、釘でも刺しておけば……

「その後、我々の許にトンブ殿が現われた。彼女もまた、自分が天の国から来たと言われ、ご主人様と行動を共にしたいと言われた。そして、彼女から貴方の事を聞いた」

「天の国は止めろ。俺の故郷は胡散臭い予言者とやらのでっち上げた妄想じゃねぇんだ。つぅか、嘘っぱちだって分かっている俺の前でよくもまあ天だの御遣いだのと言えるもんだ」

 で、趙雲もどこまでかは知らないが舌の回りをよくしたと言う事か?

 まったく、トンブ叔母さんも俺の事なんざ知らんふりをしておけばいいものを。

「何故だ」

 関羽の声が悲痛なものになった。俺を見上げる瞳の端に、悔し涙のようなものが見える。ただ、俺はこれと言って心が動くような事がなかった。涙の一つでころりといっていた日には、命が幾つあっても足りはしないのは別に魔界都市に限ったわけじゃないからだ。泣き落としに引っ掛かってこっちが泣きを見た回数が十回を超えた辺りで、ようやく真贋を見分ける目を手に入れた俺からして、こいつの涙は嘘ではないがそれだけだった。

「何故、あなたはそこまで天を否定する!」

「天を否定するも何も、お前らは只の騙りだろ。物珍しい外国人を担ぎ上げて、噂に乗っかってでっち上げて、未だに本物面で涙まで流すとは、大した女だ」

 武将以外の生き方の方が合っていそうだな。いや、今こそ正に名ばかり武将の宗教団体幹部なのかね。政教が分離されていないとはいえ、一年も経たずによくも国家にここまで食い込んだものだ。さすがは未来の皇帝とその一派。例えるなら三国の顕如……時代を考えると逆か。

「俺は天の御遣いなんかじゃない。ついでに、以前も似たような事を言っただろう。人の上に立つような奴が人じゃないのは、いずれ致命的な破綻を持ってくるんだよ。それも、まずは自分達の周りにな」

 “新宿”に幾らもいる邪教の教組なんかは、まず何よりも下っ端から死ぬ。当たり前だが、トップが先に破滅する事なんて無い。それどころか、死んだふりをして生きているのはまだマシで、死んだ後に信者の魂を生け贄にして甦ってきたりもする教祖もいるから本当に性質が悪い。大体は一月以内に“新宿”を代表する数多の魔人達に潰されているけどな。

「ううん……結局あの北郷とかは本物なんか、偽者なんか?」

「偽者に決まっているのです!」

「どっちでもいいだろ、そんなもの。なんにしても、敵なんだから」

 天が相手だろうと、大人しく殺されるつもりはないだろう。だったらそんな議論は時間の無駄だ。

「まあ、確かにそうやけど士気ってものもあるんやで」

「いい加減な看板に崩されるような闘志に何の意味がある? 嫌なら、させるな。それが人の上に立つ者の役目だろう」

 俺の利いた風な口に、張遼が目を見開く。いや、彼女だけではなく孫策も黄蓋もだった。呂布だけが違っていた。人の上に立つ者だという自覚の有無が、違いの理由なんだろう。

「小娘だろうと、呑兵衛だろうと、兵士の命をしょって立つ事を望んでそうしているなら、あんなのに負けるなよ」

「小娘も呑兵衛も余計や。でもまあ、発破になること言うな。嫌ならさせるな、か。そう言う骨の太い考え方は好みや」

 小娘と称するには若干ならず血の気が多い顔で笑う張遼に背中を向けると、黄蓋や孫策が目に入る。どちらの笑みも、この国でなければ男らしいことだなと言ってやりたいような顔だった。

「何故だ……」 

「ん?」

「どうしてそこまで我らを否定する、漢の為、民の為に立ち上がった我らの、それに力を貸してくださるご主人様の何が気に入らないと言うんだ!」

 堂々巡りだな。

「さっきから言っているが、理由なんざ色々あるさ。こいつら一人一人にも、俺個人にもな。でもまあ当たり前だろ? お前ら武器を持って人を騙して、人を集めて敵を作っているんだろう? 誰かの恨みを買う為に、恨まれて当然のことをした。お前らの味方は得をするから喜ぶし、敵対しているのは損をするから嫌う。当たり前のことでしかないと思うが……何で今さらそんな顔をするんだ?」

 どうして俺が率先してこいつと舌戦しているんだろうかと、疑問に思わないでもなかったが……肝心の関羽の顔が俺の方を向いている以上、俺しか返答が出来ない空気になっていた。

「大体、俺がお前らを否定しようとしまいと、どうでもいいだろう。味方でもなければ、そうなる可能性もない。邪魔なら殺してしまえばいいだけの関係だ。お前が今までに散々やって来たことで、今度も変わらない」

 どうしてこう言う宗教家タイプは誰からも賞賛を求め、それをしない相手を可哀想な奴か悪党に仕立て上げたがるんだろうな。

「あー…もしかして、アレじゃない? その天の御遣いってなんだかんだ言っても余所の国で一人な訳よね。同郷の人間らしい工藤を引き入れたかったとか」

 孫策がさては、と言いながら仮説を口にするが……もしも正解なら迷惑で薄気味悪い話だ。子供じゃあるまいに、あれだけ恵まれた環境にいながら男がそんな甘えたことを考えるな。

「ご冗談を。俺は北郷とかってぇのがやっている事をみっともないと思いこそすれ、同じところに堕ちるつもりなんざ更々無いね。想像するだけで薄気味悪ぃ」

 天の御遣いだなんて拝まれている御輿なんて、恥があればやれるモンじゃないわ。

「それよりも、さっきからなんであんたらは捕虜の与太話につき合ってるんだよ。さっさと連れていってくれ」

「そんな事をされると困るだわさ」

 唐突に、異質な声が割って入った。どこがどうとは言えない異質な訛りの入った年寄りの声だ。例えて言えば、日本語にまだ不慣れな外国人のような声だ。

「早かったな」

 落ち着いているのは、声の主が来ることを予想していた俺だけだった。他の人間は、呂布でさえ呆然としている。ただ、それはあんまり唐突に現われたからと言う訳でもないだろう。

「目に見えている範囲の転移術くらいどうって事ないだわさ。ましてや、そこの関羽がいる場所なら目星がつけやすいもんよ」

 この場で、それまでいた誰にも当てはまらないような中年かそれ以上の年齢の女の声である。

「魔道の理屈はよく分からん」

「似たようなことが出来る癖によく言うわ」

 およそ常識外れな事をさらりと言う人物は、これまた常識外れの体型をしていた。限りなく球体に近い体型に、服でもって無理やりにメリハリをつけて人体の驚異を衆目に晒している怪人。

 明らかに漢民族とは異なる容貌だが、この滅茶苦茶な漢ではこれと言って目立たない。代わりに他の部分で目立てるだけ目立っている性別、たぶん女。 

 貧困にあえいでいるはずの漢において一体どうすればこんな体型を維持できるのか、真逆のベクトルではあるが知人の女武将達とまとめて問い質したい気持ちがもりもり出てくるベルトの尽力が涙ぐましいプラハの第2位。

 即ち、トンブ・ヌーレンブルクである。別れたときそのままの異国情緒溢れる格好をしているが、この怪人に情緒という言葉は使いたくない。

「げ」

 彼女に言い寄られていたゼムリアが、犬の糞でも踏んだような顔をする。実際、そんな気分だろう。今もゼムリアの顔に視線が一直線だったからな。秋波がびんびんである。おえ。

「あんた、北郷とかはどうしたんだ? 確か、あっちに手を出すとか言っていた気がするんだが」

 そろそろ気の毒になったので視線を遮りつつ言及すると、他の面々同様に呆然としていた関羽が騒ぎ出したがまあ、それはどうでもいい。問題のトンブはふん、と水中から顔を出した河馬のように鼻息を吹き出してみる。

「ありゃ駄目だわさ。いくらなんでも子供過ぎる。絵本のハッピーエンドが本当にあると思っているようなおしめの取れていないのを相手にする気は無いよ」

 これは意外である。

「孔雀の雌だって、別に中身を気にして相手を選ばないだろう。見た目がよければそれでいいじゃないか」

 もしかして、それ以上に深い関係になるつもりがあったんだろうかと思うと、戦慄を禁じ得ない。背筋にじんわりと嫌な汗をかく俺だったが、トンブは馬鹿を見るような目で……いや、実際に馬鹿にされている。

「それでも限度って物があるだわさ。夢見がちな坊やに現実突きつけていたぶるのは確かに面白そうだけど、魔道士が宗教に関わるモンじゃないわさ」

「魔王は別だろう?」

「与太話はそこまでにしてくれる?」

 軽口をたたき合っている俺達の間に、女性陣がそれぞれ得物を構えて割って入った。陳宮はゼムリアの背後に隠れて……どちらかというと、盾にしているように見えるがともかく距離をとり、呂布の背中を見詰めている。

「さっきからの話を聞いていると、あなたは連合の側とみていいのかしら? 工藤とも知り合いのようだけど、一体何者なの? 何というか……凄く人間離れしている気がするわね」

「そら、見た目からしてそうやな」

「人の見てくれをとやかくいうのは感心せんぞ」

「……中身も凄いと思う」

 それぞれ好き勝手なことを言っている。よってたかって非武装の老婆一人に光り物を突きつけているのはどこからどう見ても悪党の所行でしかないのだが、俺は止めるどころか二、三歩後ろに引いていた。決して、老婆の方が悪党の類に見えるからではない。

「ああ、お前ら、その辺にしとかないとひどい目に遭うと思うぞ」

 若干うつむいてショールの影になっているトンブの顔を見るのが恐くて出来なかった。きっと、地獄の底で踊っている悪魔も裸足で逃げ出すような顔をしているに違いない。何にせよ、俺の貧弱な想像力など超えた顔をしているに違いないのだ。

「むう」

 顔を上げた瞬間、俺は反射神経を最大限に使って目をそらした。ゼムリアも同様であり、お互いに賢明であると自賛したが女達はそうでもなかった。

「好き勝手に言っておくれだね、小娘共!」

 何というか、見えないところで雷鳴のような効果音が鳴り響いた気がするが見ていないので分からない。わからないったらわからない。俺達傍観者に分かるのは、事の結果だけだ。

 彼女らは全員、物言わぬ石像となっている。

「あ~あ」

「こりゃ凄い。イシュミールも真っ青だ」

 どうやら、空中庭園の主達とは既に出会っているらしい。

 出会っていない俺にしてみると、古代ギリシャに於いて見る者を石に変えたというゴルゴーン三姉妹もかくやと言うところか。確かに彼女達が悪かったかもしれないが、敵地にのこのこ入ってきた訳でもあるし、こりゃあんまりじゃなかろうか。 

 試しに孫策や黄蓋の頬をつついたり腕を掴んだりしてみると、本当に石になっている。容赦ねぇなぁ。

「ああ、関羽も石になっている」

「どうせやかましいだけだわさ」

 それもそうだ。

「で、何しに来たのさ」

 とりあえず、今は彼女らのことを横に置いておいて話を先に進めることにする。幾らトンブが根性悪でも、この程度で永遠に石にしておきはしないだろうと思うからだ。関羽まで石にしたのが証拠だ。

「とりあえず、表向きの用件はこいつの回収。本当はゼムリアを口説く、じゃないだわさ。情報交換だわさ」

 ゼムリアが三歩退いた。三歩ですむだけ、凄いと思う。気の毒を通り越して不憫にさえ思えてきたので、ゼムリアを隠すように移動する。

「情報交換、ね。使い魔でも放つのかと思ったら、まさか本人登場とは思わなかったよ。いつからそんなにフットワークが軽くなったんだ」

「なんで視線がウエストにいくんだい」

 ウエスト無いだろ、とは言えなかった。

「それよりも、劉貴は向こうにいるのか?」

「後で覚えておいで。魔神の名にかけて、ひどい目に遭わせてやる。チェコ第二位の魔道士をナメンじゃないよ」

 食われるかも知れない、河馬の餌のように。

 空想の中で、丸呑みにされそうになって藻掻いている自分があまりにも写実的すぎて勢いよく頭を振っている俺だったが、トンブは奇行に走ってしまった俺に構わず鼻息荒く語り始めた。

「まず、劉貴はいるよ。あっちの袁術とか言う連中の軍は、全部あいつを根とした吸血鬼共になっている。ぞっとしない妖気が立ちこめて、側の他軍の兵士に体調異常が続出、他にも凶暴化した鼠が兵士を食い殺したり、雑魚の死霊があっちこっちから現われたり、とある天幕の住人が誰にも知られずにいなくなる。最後のこれが結構頻繁だね。いい加減に素人共もどこが原因なのか悟れるくらいに怪現象が続いているわさ」

「気づくって、今のでどうやって特定する」

「糧食が全く減っていない、そもそも用意していない。そして、昼間には全く行動していない昼夜逆転の軍。定期的に人が消える。袁術軍以外の、特に向こうと前々から仲が悪くて人数だけは多い袁紹の軍からが一番多い。人肉を食っていると言う噂もちらほら出ているし、曹操って小娘の所からは血を吸っているかもしれないなんて、正解も出てきている。偶然かね」

「曹操の所で、劉貴の牙にかかったなりかけが暴れたのさ。それで、本人は遠目にでも見たのか?」

 おおよそとんでもない事件であるはずだが、顔色も変えないトンブは間違いなく“区民”なんだろう。だが、まるで餌を取り上げられた河馬のような顔をする。苦虫を噛み潰しても平気で飲み込むような女だから、こう言う顔をした時は要注意だ。

「思いっきり近くで会ったわさ。軍議、って奴で諸侯の代表が顔を突き合わせた時に袁術軍の代表として参陣した」

「……」

 俺が言葉を発せれなかったのは、唖然としたからじゃない。真っ先に見てみたいと思ったからだ。

「何というか、一人だけ世界が違ったわさ。小娘ばかりが幅を利かせる軍議の中で、劉貴だけが色が違ったわね。誰が総大将かを決める、なんて事を無駄にダラダラやっている中で別段何を言うまでもなく石みたいに黙って控えていたんだけど、明らかに物が違うのが一目瞭然だったよ。あれは吸血鬼だからと言うんじゃない。他の誰も及ばない長い時を戦に生きた、古い時代の益荒男だからさ」

 これまで出会った漢の住人を劉貴の横に並べても、誰も釣り合うまい。彼を前にすれば、どこの誰であろうと武人であることは出来ずに武人気取りになるだろうと、俺には信じられた。

 ふと、小物臭い意地悪さが顔を出した。曹操や手下共……特に猫耳は、あの益荒男をどんな顔をして迎えたのだろうかと聞きたくなったのだ。みっともないことはしたくないとゼムリアの視線を意識して引っ込めた。

「随分凄い奴がいるんだな」

 会ってみたい、と声に出さずに主張したのは武人とは少し言い切れないが男としての格は匹敵、あるいは上回るかも知れない男だった。

「必ず逢えるよ。何しろこれから戦になるんだ」

 劉貴大将軍が戦場に於いて、戦陣に立たない姿は想像がつかない。誰よりも先に戦場に立ち、誰よりも最後に戦場を去る。そんな姿が真っ先に思い浮ぶような男だった。

「勝負するのは、先約がいるからな」

「そいつは残念だ」

「心配しなくても、すぐに出番は回ってくるだわさ。へっぽこ剣士が死ぬ前に回収だけは忘れないけどね」

 でぶが余計なことを言う。その表情はこの世で一番邪悪だと信じていたもう一人のでぶ情報屋とがっぷり四つに組んでも引けをとらないほどで、人面ガマガエル、なんて言葉が浮かんでくる。

「どういう意味だ」

「言わなくっても分かるだろう」

 ぐぎぎ、と憎たらしさ満開の顔を睨み付けるが、ここでみっともなさを感じない気の利いたセリフを咄嗟に返すことが出来ないのが、俺が野暮天である由来だ。くそう、と涙を呑んで黙り込む。

 結果で見返してやるのが男らしさだ、この極悪魔道士め。

「ま、俺は見物に回るさ。酒でも呑みながらな」

 戦う剣士ならば、例え笊でも酒など断じて口にはしない。つまり、そういう事だ。

「いい肴になるくらいに、格好良く見せるさ」

 に、と互いによく似た顔で笑うのをトンブがつまらないとしらけた顔で見ている。

「それでだが、戦争が本格的になる前に劉貴と勝負をつけたいんだが……」

 戦争、それも内戦に首を突っ込むなど真っ平である。やりたい奴らだけ勝手にやらせて、俺のような庶民は高みの見物が一番だろう。火の粉がこっちにやってくるなら払いのけるが、どっちみちすぐに何らかの形で漢を出る俺にとってはつき合わずにすむならそうしたい所だ。

「それはあたしも同感だけど、どうするね。忍び込んだところで、あの大軍の中を劉貴一人目指して真っ直ぐにいけるのかい? よしんば会えたとしても、周りは全員敵だ。まさか劉貴と素直に一騎打ちが出来ると思っているんじゃないだろうね」

「そこまで馬鹿じゃない」

 どうだかね、と言うトンブに対し俺はがりがりと頭をかいてから一つ提案した。

「前から思っていたことがある。やって損になる事じゃないし、試してみたい。明日、もう一度こっちに来てもらえるか」 

「私をタダで使おうってのはいい度胸だわさ」

「この間、俺をタダでこき使っただろうが」

 何進だの巨だのの時を思い出させると、舌打ちをしていかにも嫌そうに頷いた。こんな態度の上にどうせ使い魔でも送ってくるだけだろうから悪いとは全く思わない。

「んで、一体何をするんだわさ。あたしゃあんたと違って、あんな面倒な吸血鬼にはなるべく近付きたくないんだよ」

 俺だって同感だ。ただ、そうできない事情があるだけだ。好んで挑んでいるような言い方はしないで欲しい。

「ああ、果たし状でも送ろうかと思って」

 どってんぶう、と言う顔はいっそ記録しておきたいほどだった。


 果たし状、と言う俺のアイディアを聞いた二人の反応は対照的だった。

 阿呆、と氷と言うよりも冷え切った鉄のように白けた目を向けてくるトンブと、面白そうだ、どんな文面にする? と乗り気のゼムリアである。

 どうも、ゼムリアの知っている文化に果たし状というものは無いようで随分と面白がっていた。少年さながらに面白がって果たし状の文面を考えている。

 色々聞かれるが、まあこれといった定型文などあってないような物。適当にそれらしい文で日時と場所を書けばいいだろう。

「果たし状。

 宛、劉貴大将軍。

 来る明後日、逢魔が時において貴殿に挑戦する。互いの魂、どちらがより強きかを賭けて一対一の尋常なる勝負を望む。勝敗は互いのどちらかの滅びをもって決し、あらゆる武具と術理を良しとし、立会人はそれぞれ一名までとする。これらの取り決めに異存なき場合は、次の日没に汜水関と連合軍の中間地点まで来られたし。

 工藤流念法 工藤冬弥」

 あの後、そのまんま後始末もせずに関羽だけひっつかんで帰ろうとするトンブを引き留めて元に戻してもらった孫策から紙をもらい、墨と筆も借りて果たし状を書いた。なかなか迫力のある字に書けたと思う。

 ちなみに、元に戻った時の彼女らの慌てぶりは特筆に値し、全員に超常の異能がどんなものかを知らしめる結果となり、特に最も猜疑心が強く魔界の力に接した記憶も無い陳宮はかなりわかりやすく結果が出てしきりに怯えていた。

 黒い魔犬に襲われた際には真っ先に意識を絶たれたおかげで、逆に怖さを学ばなかったのだが、今回は全員意識も五感もあったようで我が身に何が起こったのかを思い知ったのである。

「人が石になるなんて、本当にあるのね……」

「自分がなりたいとは思わないが、見てみたくはあるな」

 恐ろしいを通り越して呆れたように述懐する孫策をちらりと見てから、遅れて合流した周瑜が冷静に興味を示す。その目が心配を二、ざまあみろ、いい薬だを八で内心を語っているように見えるのは言わぬが花だろう。

「と、とんでもない目にあったわ。つうか、工藤もゼムリアもうちらを横に置いといて話を続けるとかあんまりやないか!」 

「いい経験になっただろ」

 さらっと嘯く俺に、無表情だがどこか不機嫌さを感じさせる呂布も張遼の横に並んだ。

「二人は石にならなかった。どうして?」

「あの程度の術なら対抗策は備えているさ」

「相手が本気だったらまずかったけどな」

 ゼムリアの言うように、トンブも本気で術をかけたわけではない。大人げなくもあるし根性悪でもあるが、あれはちょっとした防御術か護符でもあればかからない程度のものだった。

 どうしてその程度で済ませたのかは分からないが、どうせ全力は疲れるとかその程度の理由だろう。それとも、意識を残す程度の術ですませた方が効果的だとでも踏んだのか。

「それなら、相手はお前達がやればいいのです! 恋殿をあんな化け物じみた婆さんに近づけるのは反対なのです……」

 生意気の塊だった陳宮が、なんだかしおれた様子で肩を落としている。しょうが無いと言えばしょうが無いが、かなり応えたらしい。

「そんなに心配しなくても、俺もあのおっかない叔母さんも劉貴さえ討てば後は引っ込んでいるよ。出る幕じゃない」

「なんですと!? お前ら、ここで逃げ出すのですか! この臆病者!」

「……そもそも、俺達が戦いに加わると思っていること自体が筋違いだろう」

 仲間ではないし、間違っても臣下ではない。そもそもこの国の人間でさえない。

「ぬぐぐ……化け犬の時は頼まれもしないのに首を突っ込んできた癖に、戦となると腰が引けるですか!」 

「元々、そっちが専門だ。俺は戦争屋じゃない」

「はいはい、そこまでや」

 食ってかかる子供を宥めるのは母親の役目である。本当の母親役よりも先に張遼が割って入ってきてくれる。

「工藤の言っていることは間違ってはおらんよ。元々敵ではなくても味方でもない。たったそれだけの話や。敵にならんでよかっただけの話で、なじるのは筋違いや」

 物わかりのいいセリフを吐かれたが、目が残念がっているように見えるのは俺の僻みというわけでもないだろう。

「……」

 何か言おうとしたが、やっぱり気に聞いたセリフは出てこなかった。かといって、言い訳じみたことを言うなら無言のままで薄情者扱いされている方がよっぽどマシである。ただ、こういう時は日頃軽蔑している舌のなめらかな連中が羨ましくなるのが正直な本音だ。

 結局、何も言えずにそそくさとその場を後にするしかない俺は、やっぱり野暮でしかなかった。

「世渡りが下手だな」

 こそこそと鼠のように彼女らから離れ、汜水関の門の外で寝っ転がっている俺に声をかけてきたのはゼムリアだった。

「これでいいと思っているけど、上手く出来ればいいやと思う時もある」

 思った端から、そんな軟派なことが出来るかとムキになる自分が易々と想像できるがな。

「それで、これからどうするんだ?」

「ん……まずは果たし状を送る。それに劉貴が応じてくれれば、そこで決着をつける。でなければ、他の方法で勝負する。まあ……あの劉貴が俺の挑戦を受けないわけが無いと思うけどな」

 俺に限らず、誰が相手であってもそうだろう。力の強さではなく、無論身分の貴賤でもなく、それがどこの誰であっても挑まれれば受けるだろう。強い者であればあるほど不敵な笑みを浮かべ、弱い相手でも決しておごりも手加減もなく戦いに臨む男の背中が見えるようだ。

「それじゃあ、受けない場合を考えていないんだな」

「思いつかないって言うのもあるよ」

 わかりきっているが、知性派なんて言葉とは生まれる前から縁遠い。

「じゃあ、決闘を受けてもらえるとして……それまではどうするんだ? まさかここで石みたいに寝転がっているわけでも無いだろう?」

「それもそれで楽でいいんだけれどな」

 それらしく瞑想なんてしながら備えるのもありかも知れない。だが、テスト前の休み時間に悪あがきと知った上で単語帳にかぶりつく高校生のように時間ギリギリまでトレーニングに励んだ方が、よっぽど俺らしい。

 生まれつきなのか、泰然自若とはほど遠いせこい性格だと自負している。変えようにも変えられない生まれついての性だ。

 せっかちすぎて、僕と名乗るせつらと足して割ったらちょうどいいとはとあるバーテン兼用心棒の言だ。悠然とした態度の見本には事欠かなかったにも関わらずそんな様なので、今となってはこれも俺らしさと開き直っている。

「せっかく目の前に身体を温める練習相手が山ほどいるんだ。やらない手は無いだろう? 格上相手に汗もかかずに挑むほど、身の程知らずでもないさ」

 劉貴と似たような戦い方をする奴も、あれだけ数がいればどこかにいるんじゃないだろうか。そいつと上手いことぶつかりあうなんて、普通じゃ有り得ない幸運ももしかしたらあるかも知れない。

 何せ、目の前の数が正しく桁外れだからな。

「まあ、せいぜい孫策や張遼達の邪魔にならないように弁えて暴れることにする。それで死んだらいい笑い話だけどな」

「戦争は真っ平じゃないのか?」

「それはそれ、これはこれ。都合のいい言葉だよな」

 決闘を挑んだ癖に試合場に辿り着く前に死ぬとか、笑い話にしても質が悪すぎるだろう。

「……だってさ」

「ん?」

 俺以外の誰かと話すような言葉に、もしやドクトル・ファウスタスとの再会かと飛び起きる。これでも警戒を怠っていたつもりはないので、他に出し抜かれる相手がいるとは思っていなかった。

 だが、それが自惚れに過ぎないと見せつけたのは老人でありながらもそれを超越する美貌の持ち主ではなく、垂涎ものの女性的な曲線美を、見せつけているかのような扇情的な衣装に身を包んでいるつい先ほど別れたばかりの孫策達だった。

「あんた、本当に素直さが足りないわね」

「霞達との間でこじれていたのは、こういう所が原因か……まったく、これだから男は……」

「好んで悪ぶりたいお年頃という奴か」

「無闇に和を乱しているのです、笑ってすませるべきではないでしょう」

「蓮華様の仰る通りかと」

「まあまあ、二人とも」

 けちょんけちょんにこき下ろされているがそれはどうでもいい。なんでこいつらの接近に気が付かなかったんだ。

 視線を原因だと思う男に向けると、してやったりと笑う。一体何をやったんだと探ってみるが、さっぱり見当もつかなかった。

「どうやったんだ?」

「さあな」

 死活問題になりかねないと慌てて聞いてみるが、生憎とはぐらかされた。元々簡単に教えてもらえるはずがないとは思っていたので落胆はないが、焦りは変わらない。

 まあ、自分で見つけ出す他無いだろう。

「ちょっと、それよりも私達を放っておかないでよ」

「ん?」

 放っておくなと言われても、何をどうしろというのか。

「本当に野暮天ね。そんな事じゃ、一生独り身よ。どうせ恋人なんていなかったんでしょ」

「いるにはいたが」

 向こうから告白され、いい気になっていたけどあっさり寝取られました。それが最初で最後です。

「え? ……見栄張るとろくな事無いわよ」

 本気で言っているようで、かなりむかっ腹が立つ。そっちだって人のこと言える立場か。

「ろくな終わりじゃなかったがちゃんと相手はいたよ。そっちだってどうなんだ? 立場上、恋愛なんて出来る身の上には見えねぇぞ」

「私には冥琳がいるし」

 ……確か、周瑜の真名だったと思う。

「ふうん。君主が子供を産めない関係でいいのかね」

 同性愛だろうと俺に関わらなければどうでもいいのだが、そこの所は少し気になる。ついでに、いい機会だから前から疑問に思っていた事もこの際聞いてみることにする。決して、向こうのペースに任せていると女達に袋叩きに遭いそうな雰囲気を感じたからこねくりだした疑問ではない。

「前から聞きたかったんだが……こっちに男の武将や君主はいるのか?」

「ん? なんでそんな事を聞くのよ」

「女がなんで君主として人の上に立てるのかなって、不思議に思っただけさ。いや、漢じゃ大して問題にならなかっただけかもしれないが……」

「……女だと何が悪いって言うのかしら?」

 孫策と黄蓋は不機嫌になった上、孫権と甘寧も大いに機嫌も損ねたようだがそれ以上に不思議そうな顔をしている。

「女性が人の上に立つのが、どうおかしいって言うの?」

「むしろ男の武将などほとんど聞いたこともないわ」

 こいつ何を言っているんだ、という感じの二人だが……どうも薄々察していたように漢の武人や人の上に立つ君主に男はろくにいないらしい。つくづくおかしな世界だ。

「まあ、皆落ち着け。どうも、口ぶりからして女性を馬鹿にしているわけでは無いようだ」

 同性愛者の痴女という、業の深さが“新宿”でも通用しそうな女が取りなしてくれた。見た目が美人であるだけに服装と心、つまり身体以外が残念すぎると思っていたのだが素直に感謝しよう。

「……何故だか至極不快な気分になったのだが、心当たりはないか?」

「知らん」

 女の勘とは、男にとっては常に理解不能だ。

「わかりやすく言うと、後継の問題か。女ってのは子供を孕むと落ち着くまでに俗に十月十日が必要で、しかもその間は安静第一だろ。加えてその上でも生死を賭ける正に一生の問題だろう、出産てぇのは。人の上に立つに君主として後継者は絶対必要だが、そんな難事をほいほい出来るものか? 一人じゃ足らないのだし。能力面や人格面、そもそも育つかどうかさえ曖昧な時代なんだから」

 だからこそ、女性君主というのは平和と文化的な発展の象徴とも言えるのだ、とどこかで聞いたことがある。そして、同じ事は君主ではなく武人でも言える。もしも妊娠しちまったら一年は役に立てない軍人なんぞ、代わりがいないというほどの責任あるポストに就けるとは思えん。

 未来の日本、しかも軍人などの荒仕事でなくともそれらは重要な問題だったはずだ。

「それは、まあ……男で強いのがいない、と言うのはあるわね。今まで考えたこともなかったわ」

「それに、これまで曲がりなりにも漢は平和であったのだ。油断していいものでも無いが現に家は続いている。確かに子供が無事に生まれるか、きちんと育つのかという問題は大きいが……こればかりは、生んで育てなければどうにもなるまい」

「で、あろうの。実力があれば男の将がいてもおかしくはないが、そういう傑物はほとんど聞いたこともない。大体が一兵卒よ」

 甘寧、周泰、そして孫権は考えたこともなく回答を用意できないようだが、残る三人の年長者は戸惑いながらも言葉を返してきた。

 だが、その答えを聞いた俺の中に、何気なく口にした疑問を発端にして少しばかり嫌な予感がしてきた。自分で言うのもなんだが、この手の予感はあまり外れない。

「……一つ確認したい。例えばそこら辺にいる男とそこら辺にいる女。殴り合いをさせたらどっちが勝つ?」

「それは……男じゃろうな」

「……それは当たり前の話か?」

 頷く黄蓋だが、ゼムリアが目を丸くする。

「おかしな話だな。武将だのは女が強いのに、普通は男が強いのか? 一体どんな違いがあるって言うんだ」 

 実に道理の通らない話だ。

 女と男の力量に、完全に上下関係があると言うのなら分かる。男として忸怩たる気持ちはあるが、敢えて目は瞑ろう。しかし、個人差ならともかく“武将とそれ以外”では男女差が逆転しているというのはどういう事だ。

「そう言えば……文官も有名どころではそうだのう」

 傍らの周瑜を見詰める黄蓋だが、彼女が言うには諸葛孔明しかり、鳳士元しかり、そして目の前に立つ周瑜も含めて著名な軍師は総じて女なのだという。

「状況が異常だな。そして、それに疑問を思わない住人か……」

 以前、トンブと貂蝉を名乗るゲテモノ達との会話の中で、一番気にくわない可能性が奇妙に真実みを増してくる。

「この世界の住人が、総じて天の御遣いを楽しませる為に作られた人形、か……」

 思わず口走った一言を聞きとがめたのが、ゼムリア以外にはいなかったのは行幸だった。

「そいつはトンブさんが言っていたのか」

「……気にくわない話だが、その可能性はあるらしい。それを裏付けるかも知れない話が出てきて、何とも業腹で不愉快だ、な」

 そう考えてみれば、ここにいる武将や軍師なんかのあざといくらいのバリエーションが成立しているのもある程度は納得がいく。“歌舞伎町”の風俗と一緒だ。

「諸葛亮とか、あんなガキンチョが堂々軍師ですって面をしているとか笑い話でもありえねぇ。曹操でも笑い話がせいぜいだろ」

 俺の基準で言えば、孫策どころか黄蓋だってまだ青二才レベルだろ。いくら成人年齢が俺の生きてきた社会と比較して低いからって、こいつはあんまりじゃないか?

「……ゆりかごから墓場まで、天の御遣いのどんなニーズにでも応えますってか?」

 想像しているとどんどん苛つきが溜まってきやがる。あくまでも俺の想像に過ぎないのだと自分に言い聞かせなければ、あの天の御遣い君に問答無用で唐竹割りでも食らわせてしまうかも知れない。

「あなた達、一体何の話をしているの」

「俺にもよく分からない話だ。もっと頭のいい人と相談したいところだが、ドクトル・ファウスタスはいるのか?」

「ドクトルは今、我々の依頼により汜水関に詰めてもらっている。あの方の医術があれば、最悪の事態は防げそうだからな」

「……そいつは結構」

 ふと、その最悪に兵士の命は関係ないんだろうなと意地の悪いセリフが口から出てきそうになった。

「ゼムリア、気が向いたら話がしたいと伝えておいてくれ。俺は砦に入れなくなった」

「わかった」

 そう言って、俺はごろりと横になった。後は日没まで休む手だからだ。どうせすぐに夜の領域に入る、忙しくなる前に少しでも休息をとりたい。

 頭の上から高い声が鼓膜を刺激してくるが、俺は寝付きのいい振りをして逃げた。砦に入れるようにしてやると言われてしまい、冗談では無いと思ったからだ。

 そんなみっともないことが出来るか。






 日差しがそれほどきつくもなく、雨も降らず風も穏やか。

 そんな心地よさは、馬蹄に踏み潰されて大地に消えていく。一人地面に大の字になっている俺を遠慮も慎みもなく揺らしてくれたのは、夕日を背負ってこちらに攻めてくる敵の行軍だった。いや、進軍か。

「おうおう、威勢のいいこと……国の頭をてめえの都合のいい鸚鵡にしようとするあさましい争い、か……足利の終わりに似ているが、こっちの方がみっともないと思うのは自国贔屓かね」

 攻めてきているのは、果たして千か万か。同じ大地に足を下ろしている身としては既に判別できないほどの圧倒的多数が戦意も顕わに駆けてくる姿は正しく圧巻と言える。

 これほどの大軍を前にするのはさすがに初めてであり、これこそ中華の全力かと感心さえする。伊達に人口と国土の広さで歴史上常に上位を占めてきた訳ではないのだろう。特にこの時期、文化的にも欧米など目ではない発展をしていたはずだしな。それもあって、こいつらは恥ずかしげも無く民族の優越を語り余所様を差別してきたわけだ。

「発展しているはずが、やっていることはむしろ無様だがな」

 社会がどれほど発展しても、個人が経験を積んでいるわけではないので結局は変わらないのだろうか。いや、千年単位で生きていてもろくでもない事しか考えない奴がこの大陸にはいたな。

「どうにも、人って奴は馬鹿なろくでなしにしかなれないのかね」

 偉そうに言って遠くに見える敵兵がどんどんと大きくなっているのを眺めながら、俺はおっとりと服を着替える事にする。そう言えば、狸寝入りを決め込んだおかげで着替える暇が無かったのである。

 それはまずい。俺はこの国の滅茶苦茶な女武将達とは違うのだ。戦闘で装備をおろそかにするなど有り得ない。

 ジーンズにシャツ、ジャケット。そしてタイタンマンを始めとする各種装備をがっちりと着込むと、心身が落ち着いた。

「そう言えば、こいつに着替えるのは随分久しぶりだな」

 ……黒犬の時には着ていなかったよな。おかげで腹をばっさりと抉られたり、全くもって油断が過ぎる結果だ。いつから俺はそんなに偉くなったのか。

「剣技はゼムリアのおかげで成長できたが、心はむしろ鈍ったな」

 正直に言えば、鈍った“かも知れない”と思っている。だが、自分でさえそんな風に思うと言うことは確実に鈍っていたのだ。俺はそこで厳しい自己評価を行えるほど出来た男じゃない。

「かもしれない、は鈍りきっている証拠」

 そう言い聞かせても、まだどこか甘いものが残っている。錆落としをしなければ、とても劉貴とは渡り合えまい。ひょっとしなくとも、前回よりも情けない結果に終わるという醜態その物を晒しかねない。

「死んだ方がマシだな」

 劉貴の、そしてゼムリアの失望した眼差しが自分の屍に向けられているシーンを想像しただけでぞっとする。そんな未来は死に直結している負けよりも恐ろしい。

「ちょ、何をやっとるんや!」

 背筋を震わせ、腹の底が凍るような感覚に震えている俺に頭上から独特の訛りが降りかかってきた。顔を上げるまでもなく、そんなセリフを吐くのは俺の知っている限り一人だけである。

「でかい声だな」

「何をのんびり見上げているんや! 門を開けるからさっさと入ってきぃ! ああ、もう……とっくに姿をくらましているかと思うとったら」

「?」

 なんで俺を入れようとしているんだろうか。

「惚けとらんと、ちゃっちゃとせんかい! 距離が詰まったらあんた一人の為に門を開けるわけにはいかんのやで!」

 だから、なんで俺を入れたがる。

「中に入ったら戦えんだろう!」

 錆落としに、あの数は結構なものじゃないか。おあつらえ向きって奴だ。

「戦うぅ!? 何を寝ぼけたことをいっとるんや!」

 頭上で叫んでいる張遼の声は耳に届いているが、それにかまけている時間も惜しい。自分が悍馬のようにいきり立っている事を自覚し、それに身を委ねようとあえて、乗ることにする。

 足が自分を前に運んでいくのを、どこか他人事のように感じた。

 身体が殊の外軽いと感じる。全身に念が満ち、骨と肉もまたもっともっとと叫んでいるかのようだ。これが力に溺れてあっさりと殺される阿呆の姿その物だろうかと頭の奥で誰かがぼそぼそと呟いているが、もっと深いところでこの波に乗れと自分がささやく。

 どちらが正解かなど分からない、ただ今は勢いを無くしたくなかった。

 それこそ正に興奮して足下をすくわれる新米その物だなと笑いが隠せない俺の目に、きらりと輝く何かが映った。

 矢だ。

 遠く見える敵兵がこちらに向かって矢を番えているのだ。たった一人、大勢いる騎兵の一人が殺意を持って俺に鏃を突き刺そうと構えている。たった一人。か。

「そんなに矢が勿体ないのか、それともよほどの名手か」

 自分に向かって真っ直ぐに走ってくる敵に矢を射るのは、結構難しい。お試しではあるが弓道をかじった時の経験から察するに、この距離で一矢必殺はそれなりに高難易度だ。この時代の低い技術力で作られた弓矢で馬に乗ってとなると、それに輪が掛かるだろう。騎射は特殊技能だと言うからな。

 ひゅうう、と風を切る音が耳に届くがそれはあっさりと外れて後方へと抜けていく。敢えて下手くそとは言わないが、当たると本気で思っていたなら俺を甘く見ていると言うよりも弓を舐めているよ。

 胸中で辛辣な文句を口にする俺だが、もちろん相手も案山子じゃない。即時次の矢が俺に狙いを定める。次は、五十ほどだ。

 互いの距離はどんどんと詰まっているのだから、この数で充分と向こうは踏んでいるのかも知れない。かすかに聞えてくる声は、今度こそ外すなと言っていたが最初で当てるつもりだったのか?

「冗談にしてもつまらんな」

 つい声に出てしまった俺のセリフを聞いた時に、せめて本気でムキにならないような相手である事を祈ろう。

「射てーっ!」

 それなりに通る声が俺の耳にも届くと風を切る音が続々と聞えてくる。半分は外れるコースだが、もう半分は当たるコースだ。

 ならば、それ以外の場所へ行けばいい。

 こちらに向かって飛んでくる矢は、動けば躱せる。外れる矢は気にもかけない。目に見える速度で、飛んだ後に風で流される以外の変化もない矢に当たる訳がない。俺に当てたければレーザー以上の速度で飛んでくるか、放った後に技か術で当たるようにしなければ話にもならない。

 四方八方から逃げ道を塞ぐコースとタイミングで襲い来る矢、撃たれた後で自らターゲットを追い掛ける銃弾、一瞬のうちに分裂して逃げ道を塞ぐレインミサイルなどは基本である。そこから更に、一介の剣士である俺には想像もつかないような怪異な力を見せてこそ、恐るべき射となるのだ。

 この何の変哲も無い、本当に只の騎射でしかない矢に当たるのはいっそ沽券に関わる程だ。もしも魔界都市で殺し合いの最中にこんな射撃を見せたら、逆に唖然とされて命中するかもしれない。

「たった一人に何をやっている! 貴様ら揃いも揃って調練を怠けていたのか!?」

 太い男の声がした。

 一人、少しだけ華美な甲冑を纏った男が馬の上でわめいているのが遠目に見える。飾り気のない槍を持っているが、本当に持っているだけで構えてもいない切っ先は天へと向けられている。

 何とはなしに、那須与一の逸話を思い出した俺はらしからぬ稚気が出てくるのを自覚した。

「手が届かないと思っているのか?」

 こっちにだって遠距離攻撃の手段は幾らでもある。止まっている的なんぞ、正に絶好の鴨だ。

 久しぶりに懐から取り出したMPAを片手にニヤリと笑うと、おもむろに引き金を引いた。赤く染め上がりつつある世界を青い光が駆け抜けていくのは幻想的でさえあった。

「……? ぬおおっ!?」

 狙い通りに青いレーザー光は槍の穂先をどろどろに融かして彼方へと消えていく。やったぜ、と足を止めてガッツポーズをとった俺は大間抜けだろう。

 罰はすぐに目に見える形で現われた。

 何やら騒いでいた連中が、こぞって得物を構え始めたのだ。その数は、既に数えられるものでは無い。

「下手な鉄砲数打ちゃ当たる……は、まだ言えないセリフだったか」

 さすがに、点が集まって面になるほどの数を射掛けられては避けるもへったくれもない。どこの軍かは知らないが、たった一人を相手に大袈裟且つ大雑把なことをしてくれるものだ。

 今さらながらに旗を確認しようと目をこらすが、それよりも先に矢が放たれる方が先だった。比喩抜きで雨のように降ってくる矢に隠れて旗が全く見えない。いい加減勿体ないと思うのだが、後で回収するのだろうか。

 思わず俺一人に対するにはもったいなさ過ぎるぞ、と。明らかにムキになっているようにしか思えない敵側に一言もの申したくなってくるが、さすがにのんびりしている状況でもない。かといって、それほど慌てる状況でもないのだが……

「そろそろ慣れたもんだな」

 この数ヶ月間、一体どれだけ矢の相手をしてきたことか。いい加減に銃器への対処を忘れるんじゃなかろうかと危機感を覚えるほどに矢に狙われてばかりいたのだ。幸いというかなんというか、黄巾の乱のおかげで相手には事欠かなかったからな。

 ぐるり、と自分に襲い掛かる数多の矢を仰ぎ見るが、その中に特別な殺傷能力を感じさせる矢も、有り得ない軌跡を描く、あるいは描こうとしている矢も存在はしなかった。

 ならば、恐るるに足らず。

「なんだとぉっ!?」

 彼方で質の悪い詐術に引っ掛かったような声が聞こえてくる。先ほどの騎兵隊長らしき男が目を剝いているのが見えたが、どこか出目金のようでユーモラスだった。それを尻目に、俺は目の前に広がる一種壮観な光景を堪能した。

 それはさながら樹形図か、あるいは網の目状に絡まり合って広がる矢の塊。軌道の結果俺から敵軍に向かってのしかかるかのようになっているそれは視界を悉く埋め尽くさんばかりの広がりだ。これが俺の手に瞬時に握られていた木刀一本によって作り上げられたとは、矢が邪魔して見えもしない事を差し引いても想像できないだろう。

 果たして総数は万かそれ以上か、さすがにこれだけの量を一気に絡め取ったことはないので、俺としてもなんだか気分がますます高揚してくる。
「よ、妖術だ……あの男、妖術使いだ!」

 そう言われるのも理解できないわけでもないが、それこそ何度もゲテモノ扱いされるのは遺憾である。みっともない話だが、これが天の御遣い様だと奇跡扱いされるのかと僻み根性が顔を上げた。

「人を勝手に妖術師に仕立てないで欲しいものだ」

 苛つきに背中を押され、仁王を振るうと一種の前衛芸術のように空中に広がっていた全ての矢が射手へと向かってまるでビデオのように逆戻りをする。

 向こう側にしてみれば悪夢のような、あるいは冗談のような光景だったろう。自分達の射た矢がそっくりそのまま返ってくる。自分達の身体を鋼鉄が抉り込む痛みを感じてもなお、信じられなかったに違いない。

「う、嘘だ……嘘だ……」

「こんな事が……化け物だ、やっぱり董卓は魔王だ。だから化け物がついているんだ……」

「畜生、矢が、俺の矢が俺に返ってくるなんて有りなのかよ」

 そう思わせる顔をして、彼らは各々落馬しつつ呻き声を上げている。

 その周りには狂奔して走り回る彼らの愛馬がいたが、仮にも戦場で俺を殺そうとしたのだから馬に踏みつぶされるくらいは甘んじて受けるべきだろう。わざわざ腕や足を狙って矢を返してやったんだし、とっとと立ち上がって逃げるんだな。

「吻っ!」

 仁王に軽く念を篭めて振ると、狂乱の馬達が一斉に轟音を耳にしたかのように硬直する。だが、一瞬の間をおいて落ち着きを取り戻して各々の主へと鼻をすりつける。

「お主……」

 同じように念の一打を精神に受け、喝を入れられたように落ち着いた兵士達が俺を見上げて何かを言おうとしたが、それを新しい馬蹄が遮った。

「待てーいっ! そこの男、工藤殿! 待ってくれ!」

「あん?」

 俺を明らかに名指しで呼んでいる。一体何処の誰かと聞き覚えがあるような無いような声に記憶を刺激されて目を向けると、夕日の中を騎馬隊が新たに駆けてきているのが見えた。

 先頭には二騎。

 一人は今日争ったばかりの趙雲で、もう一人は顔も声も忘れかけていた公孫賛だった。共に白い馬に乗り、他の騎兵達を引き連れて一目散に駆けてくる。どうでもいいが、二人とも後ろの男達に下着が丸見えではないだろうか。戦場で恥じらいなんぞ持たれても失笑するしかないが、羞恥心以前にあの格好はどうにかならないのだろうか。

 かなり真剣にミニスカで堂々騎乗している、どこの戦場に出しても恥ずかしい二人を無視するべきか考えていた俺は、そのおかげで詰められた。ああ、全く……こんなどうしようも無い事でいちいち悩んでいるから馬鹿を見る。

「間に合ったか」

「無事か、お前達!」

 どうやら、こいつらは公孫賛の部下らしい。そう言えば兵装に見覚えがあるような無いような気がする。趙雲が一緒にいるのは、劉備と組んでいるからなのかまだ公孫賛の許にいるからか。後者の可能性は低そうだな。

「久しぶりだな、工藤。さっき愛紗にあんたが董卓の部下にいると聞いて驚いたけれど、どうやら本当のようだな」

 公孫賛は背筋が寒くなったと言いたげな顔をして、おもむろに周囲をぐるりと見回した。

「曹操が言っていたけど、降りかかる矢を悉く天に張り付けてしまったなんて噂……本当だったんだな。噂にしても誇張が過ぎると思っていたんだけれど……」

 畏怖を表情から隠し切れていない彼女は、俺が目を向けるとはっきりと萎縮する。しかし、それを振り払って真っ直ぐ俺に視線を向けたのはちょっとだけ好感を持った。対象が俺で無ければ、もっと素直に好感を抱けたのだが、惜しいもんだ。

「一つ訂正だが、俺は董卓の部下でもなければ仲間でもない。関羽とやらはどこまでも出鱈目を吹聴するのが好きらしいが、名誉毀損もいいところだ」

「相変わらず、桃香達には辛いな……」

「誰だよ、それ。神聖だとか言いながら、お前らって簡単に通じない人間の前でも真名を使うよな」

 適当な軽口を叩きながら彼女らの動きを軽快するが、どうにもこちらに挑もうという意思がないように思える。趙雲も公孫賛も、そしてようやくのろのろと起き上がり始めた兵士達も、武器に手をかけてはいるが構える様子もない。

「何か言いたいことか聞きたいことでもあるのか」

「相変わらず、率直と言えば率直でござるな」

 久しぶりの公孫賛ではなく、数時間ぶりの趙雲が口を開く。その目がどこか苛立ちと困惑を持って俺を見下ろしていた。

「それにしても、大したものですな。数多の矢を全て防ぎきり、あまつさえ射手当人に返す。それがどのような手段によって行われているのかさえ其には分かりかねますが、少なくとも馬にも胴にも当てずに手足を狙って返すだけと言う方がよほど難事である事は察しがつきます」

 俺を見る騎兵達の目の色が変わった。大抵は何が何だか分からないという顔だが、中には手加減したのかと怒りを見せる者もいる。至極真っ当なので、俺は怒らなかった。似合いもしない傲慢な真似をしたのは俺だ。

「有無を言わさずに愛紗の首をひねった御仁とは思えぬ慈悲深さですな」

「おいおい、まさかお友達を虐めるなんて許せないわとでも言うつもりか」

 勝手な憶測に過ぎないが、口に出したくとも出せない本音だろう。

 彼女の中に関羽に対する友情があれば、絶命ギリギリまで首をひねった俺に対して思うところは当然あるだろうが、それを口に出せば彼女は賊以下、正しく屑の中の屑に成り下がる。

 それでも何も言わずにはすませらないからこその皮肉か。女だからとは言わない、手前勝手な感情で道理を踏みつぶすのは人の常だ。

「……そうは言いませんが、先だってとは打って変わっての慈悲深さ。さて、やはり天の御遣い殿に含むところがあると考えるのは穿ちすぎでもないでしょう」

「まだ名乗っている辺りに厚顔さは感じるけどな。それはさておき、踊らせている将と踊らされている兵だったらどっちがマシだと思っているんだ?」

 少なくとも、俺にとっては前者の方がよっぽどろくでなしだ。情報などろくに入ってこない兵卒一人一人にその辺の判断と責任をかぶせるのはおかしいと思っているから、殊更に命を奪おうとも黄巾のような目に遭わせようともしないが、仮に彼らが全てを知った上で攻めてきているんなら相応の目には遭わせるだろう。

「そんな議論をここでやるのも間抜けが過ぎるだろう。それよりも公孫賛。まさか、あんたまでこんな糸を引くほど腐っていそうな議論をやりたいとでも言うのか?」

「いや……まあ、言い方がきついとは思うがそんな話をしたい訳じゃない、もっと大事な話はある」

 夕映えに染まった彼女の肌は自身の髪よりも赤く見えたが、それでもなお血の気が引いているようにしか見えないのは表情のせいだろう。

「劉貴……でよかったか? あんたが言っていた、星を倒した吸血鬼……それが袁術の所にいるって言うのは本当か?」

 おかしな事を言う。トンブの話だと劉貴は別に身を隠していない、軍議とかにも顔を出していると話を聞いたんだが……

「トンブに聞けよ。劉備の……天の御遣いと言った方がいいのか? まあともかくあいつらの所でふてぶてしくやっているはずだぜ」

「……確かにいるよ。でも、すごく胡散臭いんだ。なんというか……うかつに信じるとひどい目に遭いそうで……」

「見た目で判断してないか?」

 ちなみに、俺も同意見である。

「う……」

「まあ、その辺はどうでもいいさ。そういう事なら少しは教えてやれる。俺がトンブに聞いた話だと、劉貴はいるぞ。袁術の所はまるまる吸血鬼になっているって言う話だ。正味、どれだけ真っ当な人間がいるかどうか心配になってくるくらいにな」

 噂は聞いているだろ、と振ると二人の顔は真っ青になった。俺達の会話を理解できていない他の兵士達も、両名の顔色を伺い大人しくしている。

「堂々軍議にも顔を出していたって聞くぜ? それらしいのに見覚えないのか」

「…………」

 公孫賛は今度こそ青を通り越して白い色になった顔をうつむかせた。

「ああ、いたよ。袁術の代理とかで参加した将の中に今まで見た事も無いような、それこそ見るからに偉丈夫と言う男がね。名前も堂々と劉貴と名乗っていたから、もしやと思わなくもなかったが……正直まさかこんな所にとも思っていた」

 なるほど、疑っていたから聞きに来るような酔狂な真似をしたのか。彼女の性格もあるようだが、陣内の噂も大きくて確かめざるを得なかったという所かな。

「これといって何か意見を言った訳でもない。何か派手な格好をしている訳でもなければ、殊更に周囲を威圧しようとしている訳じゃない。袁術の代理を名乗った後はただ座して場を見守っていただけだ。なのに、誰もが圧倒されていたよ。あれが本当の“威”ってものなんだな。ただそこにいるだけで、仮にも朝廷から任じられて万の軍の上に立つ諸侯が圧倒されていた。連合を呼びかけた麗羽……袁紹も、噂の錦馬超も、いつも皆の中心になっている桃香も天の御遣いを名乗っていた北郷も、あの曹操でさえも色褪せて見えた。本当に、皆ただの小娘にしか見えなかったな」

 朝廷に牙を剥こうと、あるいは傀儡人形へと変えようとしている連中が朝廷の権威を語るのもおかしな話だが、言いたいことは分かった。

「傑作だったよ、皆が皆あの男に意識をさらわれてしまった。ろくな軍議にならなかった。あれは真っ当な男じゃない。けれどもお前の言う怪物にはとても見えなかった。まさに、彼こそ天の御遣いその物にさえ思えたよ」

「そいつは失笑ものの勘違いだな」

 むしろ、あれは天に背かれ背いた男だ。

「そう言うなよ。それにしても、とんでもない話になってきたな……まさか、袁家の片方が化け物に乗っ取られて、挙げ句の果てに化け物に成り果てているなんてな……」

「そう思うんなら、あれこれ言っていないでとっとと尻に帆をかけろ。欲の皮をつっぱらかせるからこうなる。自業自得だ」

「欲とはなんだ! 私達は……」

「おためごかしなど不愉快なだけだ。董卓は袁紹が口にしているような悪政などしてはいない。そのくらい、仮にも人の上に立ち兵を動かすんなら情報は得ているはずだ。引きずり下ろして後釜に座ろう、さもなければ漢その物を滅ぼすってぇのがお前らの脚本だろう……治に乱を起こすような真似をするにも想定外の横やりが入ったんだ。火傷が致命傷になる前に大人しく引っ込め」

 言ってはみるが、どうせ無理な事はわかっている。誰でも思いつく一番賢い解決方法も出来はしないのが柵の恐いところだ。ましてやそれが、集団の柵になれば輪が掛かる。どれほど馬鹿な結果が待っていようとも、これだけ大きな集団はそれだからこそ無闇に突っ走って潰れるしかない。

「……やっぱり、董卓の悪政は麗羽のでっちあげか。察しは確かについていた。でもそんな簡単に言ってくれるなよ。軽々しく出来ない事は、あんたにだって分かるだろう」

「挙兵は軽々しかったみたいだけどな」 

 皮肉一つだけですむ事を、いっそ驚いて欲しいもんだ。俺がこの国に骨を埋めるつもりだったら、きっと董卓軍の味方になって兵士として暴れていただろう。そのくらいこいつらはろくでもないにも程があった。

 ともかく、公孫賛達はこれ以上やる気はなさそうだ。それなら他を当たるべきだろう。生憎と太陽はまだまだ沈まないが、劉貴はいつになったら出てくるだろうか。

「次が来たな」

「ん? あれは……桃香の軍か!」

 視線を彼方に向けると、そこには公孫賛のそれとは若干異なる意匠の武装をした軍が、こちらは歩兵と騎兵が混ざり合って押し寄せてくる。

 先頭には歩兵。その動きは砂糖に群がる蟻のようで、奇妙な不気味さを感じさせる。その後方、遙か彼方には張飛と名乗る奇妙な少女が駆けてきているのが見えたが、天の御遣いや劉備は影も見えない。恐らく、後方に控えているのだろう。ろくに内情を知らない余所者ながらもそれが妥当だとは理解しているが、男が後ろに控えて子供が前に出てこようとしている姿にはやはり忸怩たる思いがある。

「戦場に立つ男ってのは、どんな理屈があっても子供の後ろでこそこそしていちゃならない。そう考える俺は、戦場を理解していない愚か者なんだろうかな」

 場違いな事を意識の片隅でつらつらと考えていると、後方から新しい歓声が上がった。

「……出てきたのか?」

 ちょうど張飛とは真逆になる位置に、彼女とは見た目が対照的な色気過剰の女が手綱と剣を握っているのが見えた。言わずと知れた呉の頂点は、相当の遠距離で表情など分かるはずもないのに意気揚々としているようにしか見えなかった。全くもって不思議な話だがきっと、俺がそうに違いないと思い込んでいるからそんな風に見えるだけだろう。

 どこからともなく、眼鏡をかけた痴女の罵声が聞こえてきたような気がするが双方の兵士達が挙げる鬨の声にかき消されて分からなかったし、見覚えのある露出過剰な痴女二号の二重の意味でサラシ娘がやけっぱちになったように叫んでいるのは、きっと孫策とは無関係だろう。

「どいつもこいつも勝手しくさりよってー! こうなりゃヤケじゃー!」 

 ご愁傷様と言ったら怒るだろう。それに、なんだかんだと言っても声がどこか笑っているから張遼も楽しいに違いない。

「あれは……袁術の所から離反した孫策! 鈴々とぶつかるつもりか!」

 公孫賛がまるで観戦するかのように両者の激突を見守る体勢に入るが、その予想はあっさりと外れる。孫策とその兵士達は張飛と手勢をあっさりとかわし、大きく迂回してきたのだ。

 俺達の方へと。

「って、こっちに来たー!?」

「これはまずいですな……白蓮殿、退きますぞ! 其れがしが抑えますので、早急に兵をまとめて」

 俺と目が合うと、彼女は黙り込んだ。

「そう言えば、工藤殿がいましたな」

「なんだよ、いましたなって。隠れたつもりはねぇぞ、失礼な奴め」

 ふん、と鼻を鳴らして孫策へと目を向ければ、飛ぶように近付いてくる彼女はみるみるうちに大きくなった。すぐに会えそうだな。

「速い! 小覇王の名は伊達ではないか」

 騎乗の技を褒めている余裕があるのなら矢でも射掛ければいいんじゃないかと思ったが、持ち合わせがないようだ。槍しか見当らないのは少々軽装が過ぎないかと思ったが、そう言えばそもそも論外の格好だった。

「借りを返さないまま雌雄を決さなければならないとは、不義理で申し訳ありませんが……詫びはあの世でさせて頂く!」

 槍をこちらに向けて構え今にも突いてきそうな様だった。味方でもないが、殊更に敵対する理由はないと思うんだが、既に兵を多数叩きのめした以上は当たり前に敵だ。だらだらと喋っていた今の状況が特殊だったんだ。

「まあ、劉貴相手のウォーミングアップには……なるかね」

「おーみんぐあっぷとやらが何かは分かりませんが、侮られている事は理解できましたぞ。この趙子龍の槍、おさおさ引けをとる物では無い!」

「なら、やろうか」 

 馬上の相手に合わせて、仁王を上段に構えた。まるで道場剣法のようだな、とどこか自分を滑稽に思いながらも他の手を取るつもりもなかった。日本古来の騎馬を相手にする剣術もないではないが、俺は不得手だったのだ。加えて、練習ばかりで実際に試合さえもした事がないという体たらく。付け焼き刃丸出しで勝負する気にはなれない。

 しょうがないだろ、馬に乗っている敵と戦う機会なんてそうそうないんだよ。練習なしでどうにか出来るほど、俺は天才じゃねぇ。

 だが、全く無策って訳じゃない。騎馬に乗っている有利は基本的に移動しているからこそ生まれる物で、そうでなければ馬の影から斬りかかる事も出来る。

 ただし、それは得物が同じリーチをもっているからこそであり、剣と槍じゃ間合いが全く違うのは誰がどう見ても一目瞭然だ。まあ、だからといって違う得物を頼るつもりはない。確かにここで飛び道具にでも頼れば間違いなく一瞬でケリがつくだろうし、それは正しい選択だ。

 だが、これはいい機会だ。劉貴も騎馬に乗ってくる可能性が高いとなれば、ここで戦うのはまたとないスキルアップのチャンス。

 経験させてもらおう、騎馬の勝負って奴を。

 嘗めてかかるべきではないとは百も承知だが、それを差し引いてもこの機会は逃せない。こんな事なら孫策達の誰かに相手を頼むんだったと正に後の祭りな考えをしつつも、今現在目の前にいる相手に意識を集中する。

「!」

 その瞬間、偶然なのか狙っていたのか背後から二人の兵士が奇襲してきた。俺に打ち倒され、手加減された事実に憤っていた公孫賛の兵士達だ。

 タイミングとしては見事だ。上から目線で恐縮だが、狙ってやったとしたら結構腕利きだったかも知れない。

「ナイス不意打ち」

「!」

 もっとも、俺は視界がほとんど360度にまで達する四方目の類を欠かさないから失敗に終わったがな。

 一人は左手で腕を止められ、もう一人は後ろ蹴りで迎撃されて声もなく悶絶した。いい具合に急所に入った後ろ蹴りは、俺が本来剣術家である事を差し引いても致命的である。多少の手加減はしたが、三日は飯がまずいだろう。

 これも傲慢かねと笑いながら、もう一人を逃さず同じように気絶させた。その間、趙雲は決して槍を使わなかった。

「随分上品じゃないか、今の隙に突いてこないなんてな」

「片時も目を離さずに何を言われるか。それに、私は一騎討ちのつもりだったのですよ。このような横やりに付け込むつもりはない」

「そんなロマンチシズムは、味方に迷惑なだけだと思うがな」

「ろまん……?」

 試合やタイマンで袋叩きは俺も遠慮するけどな。兵士にしてみれば、遊んでんじゃねぇよと言いたくなる所じゃないか。

 気のせいか恨みがましそうな兵士の昏倒顔を一瞬だけ見下ろしてから、趙雲に目を向ける。口元に自然と笑みが浮かんできているのを自覚した。不敵な顔になっているのかは自信がなかった。

 夕映えの残照が、槍の穂先を煌めかせる。それが瞳に飛び込んでくるが、瞬きをする訳にもいかない。顔をしかめる事もなく待ち続ける俺の耳に、どんどんと近付いてくる数多の歩兵、騎兵の足音と歓声、怒号に悲鳴が飛び込んできては通り過ぎていく。

「ふっ!」 

 一直線に迫る突きが、俺の喉元を狙ってくる。引きつけてから躱そうと身構えていると、わずかなしなりが狙いを変えて、顔面に向かってきた。

 もちろん、その程度で当たるほど鈍くもないが、それを躱すと伸びきった瞬間を狙う間もなく一気に下がられる。タイミングを外された隙をついて、次々と連撃が襲い掛かってきた。

「はああっ!」

 突き、突き、突き、と常人が一度突く瞬間に、三度突いてくる。まだまだ小手調べだが、躱したこちらによく出来ましたと言わんばかりの笑みを向けているのが、無性に癇に障った。

 だが、やはり間合いの勝利だろう向こうが一手先に場を制す。再度同じ突きが襲い掛かってくるが、今度は三閃ではなく五閃が襲い掛かってくる。赤を纏う銀の輝きだが、俺の血という新しい赤色を加える事なく空しく宙を切り裂いただけで主の許へと戻っていく。

「これも躱しますか。しかも、得物を使うでもなく……お見事」

 全力はまだまだ先だと言わんばかりに、彼女は槍の速度を少しずつ上げていた。最後の一閃も彼女の最速ではないだろう。

 それは彼女の性分なのか、それとも騎馬と歩行、そして槍と剣の有利による物なのか。こちらを試すかのように趙雲は少しずつ槍の速度を上げて軌跡に変化を与えている。

 俺に何が出来るのかを確かめ、その作業その物を楽しんでいるようだ。其れを傲慢と憤る権利は俺にはないのだが、もしもこれがいつもの事だとするなら、こいつは実に嫌みな女である。

「では……次はこれで!」

 もう一度、五回の閃きが俺を襲う。喉元に一、胴に三、腕に一の順番でしなりによる変化も加えて突き込まれるが、その悉くは空を切った。速度で言えば、全てが先ほどまでの攻撃を上回っていたがかすりもしない。

「ならば!」 

 全て躱された趙雲が休む間もなく繰り出してきた攻撃は、これまでとは違うなぎ払いだった。斜め袈裟斬りを狙って振り下ろされたそれだが、いつか来ると予想していた俺にとって、躱すのはむしろ簡単だった。

「……読まれていたようですな」

「まあな」

 殊更に突きばかり阿呆のように繰り返してきたのだ。もしもこの単調な攻めに狙いがあるなら、真っ先に思いつくのは突きに慣らして侮った隙になぎ払いで変化をつける。それがセオリーだろう。

 当たり前すぎて、あまり喜べない。

「見ぃつけたー!」

「おお、白熱していたが鈴々が来たのでは時間終了ですな」 

 どこかわざとらしい口調で笑った。いちいち胡散臭い言動だな。

「これで、少しは修練になりましたか?」

「……何?」

「おお、驚かせる事が出来ましたか。重畳、重畳」

 おもむろに肩に槍を置く女は、してやったりと笑っていた。

「気が付いていたのか」

「これで借りは返せましたかな」

 どうやら既にやる気はないらしい。一体何処でばれたのかは分からないが、男と女じゃ隠し事の巧さは女が圧倒的に有利であると思いついて諦める。別に、俺個人がとびきり腹芸下手くそだと言う訳でもないはずだ。

「次は本気で勝負して欲しいものですな」

「次はないだろ」

 お互いにいつ死ぬか分からない身の上で、次があるなどと考える方がどうかしている。刹那的になるつもりはないが、適当な約束はいつもするモンじゃない。

 ただ、むしろこっちこそ借りを作った気になったな。

「いつかもう一度会ったらな」

 背中越しに応え、相手の顔を見る事も無くそのまま駆け出す。既に張飛は目と鼻の先に迫っているのだ、悠長に話している余裕などない。

「にゃははははっ! ここで遭ったが百年目なのだー!」

 脳天気が過ぎて苛つきを感じさせる声が俺を迎えた。孫策の軍と併走していた自軍の歩兵達をかき分け、張飛が餌に飛びつく犬のように俺を目掛けて馬を走らせる。

 一体何が面白いのか、遊園地の門が開くのを今か今かと待ち続けている子供のようだ。いや、ガキと言ってもあれは“新宿”でもまず見ないような異常な数を惨殺してのけた生粋の殺人者。見た目通りと思うべきではないのだろう。

 今も、俺と自分との間に横たわる孫策の手勢を面白いように蹴散らして突き進んでくる。人が彼女の持つ刃に引き裂かれ、あるいは馬蹄の下に踏みつぶされているが、笑い顔が全く消えていない。それでいて孫策のように血に酔っていないのはお互いの間にいる兵士達を人間ではなく、正に障害物としか見ていない証左だ。まるで子供が怪獣ごっこで人形を踏みつぶしているかのような、滑稽だがおぞましい光景に見える。

 ガキだと言ってもあの小娘は人殺し、あるいはそれ以下か。

 虫の羽をむしって遊ぶ子供のように、人を殺して回る怪物だ。殺人者としての自覚がないサイコパスさながらの人殺しにしか見えん。そういう人間が英雄だの武人だのともて囃されるのが戦国時代か。

「爆弾で吹き飛ばすだの、遠間から銃なんかで殺すだのじゃない。返り血を浴びて無念の表情を見詰め、悲鳴を聞く槍と剣の距離でどうしてああも“気が付かない”でいられるかね」

 人が死ぬところを見れば、心に傷が出来る。それは時間をおいて忘れた振りをしても古傷のように思い出す度に痛む物だ。だと言うのに、張飛にはそれがない。慣れているだけかも知れないが、戦場、殺人という極めて異常な状況にぶつかっておきながら、そこで当たり前に生じるはずのマイナスな人間性の変化が全く感じられないのだ。

 もちろん、前々より知っている訳では無い。それどころかろくに口を聞いた事もない俺に下せる判断ではないのかも知れないが……俺には表面通りの明るく無邪気な子供にしか見えない。

 それが“区外”で壊れたように笑いながら子犬の腹を割いて内臓を並べていた中学生達よりも何倍もおぞましく見えてならないのだ。彼らはそれが悪事だと、醜く恐ろしい行為だと分かっていてやっていた。

 だが、張飛には自分が人殺しをしているのだという自覚はあっても……それが意味するところを理解どころか認識さえしていないように見える。

 分かっていてやっている者と、分かっていない者は一体どっちがろくでもないのか。畜生のランキングなどに興味はないはずだが、そんな疑問が脳裏をよぎった。

「お前をやっつければ桃香お姉ちゃんもお兄ちゃんもきっと褒めてくれるし、負けた愛紗にも威張れるのだー! だから覚悟ー!」

 おもちゃの刀を振り回すように、本物の得物を尋常ではない怪力で振り回して本当に人を殺す。これが褒め称えられるのが戦場で、戦国か。

 ひょっとすると、“新宿”以上にこの国その物が狂っているのかも知れない。いいや、まだまだ漢どころか“新宿”の事さえ分かっていない分際で、そんな事を考えるのは先走りが過ぎるか。

 それに、考えている暇はない。

「隙有りなのだーっ!」

 馬上から、間合いに入った途端に工夫も糞もなくただ真っ向から振り下ろしてくる。かつて出会った頃と何も変わっていない。

 俺を忘れた訳でもないだろうが、彼女の剛力はそんじょそこらの兵士では受け止めるどころか見る事さえ適わない程だ。積み重なる作業的な勝利の記憶は、俺と対峙した時の敗北の記憶も薄れさせたんだろう。

「まぐれはもう続かないのだー!」

 何ヶ月も前の二回きりの邂逅など都合のいい記憶にすげ替えるのは時間も手伝って簡単であり、寧ろ自然でさえあっただろう。

「お前は少し」

 ただ、そうやって都合の悪い記憶を好き勝手に塗り替えた粗忽者が痛い目を見るのは世の常だ。

「自分の業と向き合え」

 趙雲の槍捌きよりも力はあるが遅い振り下ろしは、俺にとって隙を作るだけでしかなかった。あっさりと懐に潜り込み、飛び上がって念を篭めた一閃を脳天に叩き込むと、彼女は物も言わずに昏倒する。

 自分の部下を文字通り蹴散らされた孫策が、怒りとそれ以上の闘志に燃えて到着したのはすぐだった。

「あぁ、先を越されたー!」

 俺が考えるのも筋違いだから何もしないが、こいつもこいつで、少し叩きのめした方がいいのかも知れない。殺人を理解して酔っている女と理解せずに繰り返すガキはどっちがマシなんだか……

 呆れを感じる俺の前に現われた孫策の持つ抜き身の刀身は鋼の輝きが返り血に隠される程で、彼女自身はそれ以上に真っ赤に染まっている。相変わらず甲冑という物の存在意義を失わせる格好だったが、濡れたおかげで元々露骨に出ていた身体の線がますます顕著になり、血に酔って笑う表情から発する凄絶で被虐趣味の男が股ぐらを膨らませる類の色気は“新宿”の“歌舞伎町”でもなかなか見ないほどになっている。

「今日は工藤に美味しいのを全部持っていかれる日なのかしら?」

「あっちに歯ごたえのありそうなのがいるだろう」

 張飛を助けるかどうかを迷っている趙雲および公孫賛と目が合った。

「へえ、趙子龍に公孫賛か……二人とも、久しぶりね」

「あ、ああ」

「黄巾の戦以来ですな」

 振った俺を恨みがましそうに睨む公孫賛は完全に呑まれているが、趙雲は別段ダメージもなく疲労もない。きっと面白い勝負になるだろう。

 それにしても、公孫賛だってさっきから見ていれば馬術は俺から見ても他より上に見えたってのに、結構気弱だな。地に足をつけてじゃなくて騎馬戦の勝負なら棄てたモンじゃないと思うんだが……

「それじゃあ、お勧めにのりましょうか」

「いや、ここは退かせて頂く」

 意外な事に、趙雲が孫策の誘いを断った。だが、意外に思ったのは俺だけらしく孫策はにやりと人の悪い笑顔のままで距離を少しずつ詰めていく。

「逃がすと思う? 思わないわよね」

 切っ先が馬の足下に転がっている張飛に向けられた。馬に乗っているんでさっぱり届いてないが、脅しとしちゃ充分だろう。

 さて、人質を卑怯だなんだと言ってくるのかそれとも向かってくるのか。思いついた選択肢は二つだけだが、意外な事に趙雲は槍を構えなかった。

「退くと言ったはず。鈴々の兵は、彼女が討たれたせいで士気が霧散している。貴方の手勢に平らげられそうになっている以上、我々だけでは無駄死にですな」

 趙雲がこちらの動きを位置取りで牽制して、その間に公孫賛とその手勢は体勢を整えている。交戦の意思は全く見えずに、ただ引く事のみを念頭に置いているように見える。それは孫策も同意見のようだ。

「本気で退くつもり? 威勢がよくて腕に自信のある武人に相応しい振る舞いには見えないわね」

「何と言われようとも、全滅に向かって突き進むほど愚かではないし、貴方と部下達を前にして単騎で勝てると考えるほどうぬぼれが強い訳でもありませんな」

「よく言うよ、黄巾党の時には自分なら一人でも大丈夫だとか言って、見境なしに突っ込んでいってやられそうになったくせに。誰に助けられたと思っているんだ、猪武者」

 舌戦の間に体勢を整えた公孫賛が、手勢に指示を与えた後で話に割って入る。俺はぜひともこの飄々とした女がどうしようもない失敗をしたシーンを拝んでみたいと思ったが、何とはなしに勘でそれを察したのか趙雲が眉間にしわを寄せて俺を一瞬だけ睨んだ。

「へえ、そんな事があったんだ」

「それはさておき」

 孫策にも面白がられた趙雲は、無理やりに話を切り替えて逃げようとする。彼女が生き残ることが出来たら、若気の至りと笑える日も来るのだろうか。

「話している間に白蓮殿の騎兵は退き、孫策殿の歩兵は目の前にまで迫りつつある。時間切れでしょう」

 それを察していない訳でもなかったが、俺にとってはどうでもいいし孫策もまた何か思うところがあったのか趙雲と公孫賛のどちらにも斬りかかろうとはしていない。

「この娘はどうするの? お仲間なんでしょう」

「鈴々は桃香殿と北郷殿の軍における将。懇意にはしておりますが、我々が命を賭けて分の悪い、死んで元々の勝負に出る事は出来ませんな」

 意外な返答をした趙雲だったが俺にとって一番意外だったのは、趙雲がまだ公孫賛の許にいた事である。

「趙子龍、一日の内に関羽に続いて張飛まで置いて帰ったら、天の御遣い様や劉備と軋轢が生じるんじゃない? 公孫賛もそれでいいの?」

 それなりに忸怩たる思いはあるのだろう、趙雲は形のいい唇を一瞬だけ噛みしめた。

「……仮にも雇い主を差し置いて、最初に言ったのが星だって言うのが引っ掛かるけどな。確かに私も同意見だよ。助けられるだけ助けたいが、今は出来ない。それが許される状況じゃない」

 立場が逆だったら、きっと助けようとしてくれるんだろうけどな。そう言って自嘲する公孫賛だったが、俺は正直疑念が残る。彼女、天の御遣い達にたかられているようにしか見えないから助けるかどうかは微妙だと思う。

 助けようとはするんだろうけどな、一応。真剣にはなっても命がけにはならなさそうだ。それは俺が彼女らに抱いている勝手な印象に過ぎないんだが、間違っていないように感じてならない。

「まあ、構わないわ。小なりとはいえ敵将を一人早々に討てただけでも結構な収穫。これ以上は欲が過ぎる物ね。でも、いずれ袁紹か袁術の首は私がもらうわ」

 できれば自分の手で討ちたかったと顔に書いてある。つくづく剣呑な女だ。

「工藤もそれでいいでしょう?」

 一応俺にお伺いを立ててくるのは、お互いの立場を理解しているからだろう。もしも部下扱いしてくるような馬鹿がいたら、有無を言わさずにどつき倒していた。

「意識は失っているが、命に別状はない。俺が一喝するか、設定した条件をこなさなけりゃ目を覚まさないから暴れる心配はないぞ」

「条件?」 

「傷つけ、殺した数だけ自分自身に殺されている最中だ。全員分が終われば自然と目が覚める」

 そうすりゃ自分の行いがどんだけおっかないか分かるだろう。その上でまだ戦うんなら、剣を持つ資格がある。俺が上から目線で判断することじゃないけど、それでも見逃すには目に余りすぎた。そんな俺を趙雲は恐れるように見るが、彼女は以前曹操やなんかと一緒に似たような話を聞いたはずだが……

「え、えげつないですな」

「なんだ、たいした事ないじゃない」

 出来るのかと疑問を挟まれる事はなく、今にも立ち去りそうな趙雲と悠然と立っている孫策の意見は真っ向から分かれた。

「普通は初めて人を殺した時に通過しておくべき儀礼でしょう。今さら数だけ多く繰り返されたからって、どれほどの物よ」

「むう……」

「趙子龍。まさか今まで殺した相手を省みなかった訳でもないでしょう。全て受け止めて呑み込んだ上で振るわずに、剣を持つ資格はないわ。どういう受け止め方をするかは人それぞれでしょうけどね。張飛は呑み込む、受け止めるどころか見えてもいないようにしか思えなかったから、工藤はこういう事をしたんでしょう。おかしな世話を焼く物ね」

 口はばったいが、そういう事だ。しかし、二人揃って妙に語られてはさすがに尻が落ち着かない。

「鈴々とて黄巾の乱を駆け抜けた武人。その程度の心得がないとお思いか?」

「当然思うし、それをえげつないと言った貴方も武人か否かを判断できる器量とは思えないわね」

 両者がにらみ合える余裕があるのは、それだけ孫策と張飛が先走って兵士との距離を離したからだ。どっちも将としての自覚があるとは俺にさえ思えない。それはさておき、ようよう追いつきそうな兵士に公孫賛が趙雲を急かしているんだが、彼女は何をムキになっているのか退こうとしない。

 しょうがない。

「人を挟んで言い争うな。お互いに理解や共感を求める間柄じゃないだろう。敵同士で何をやっているんだ? このまま夜になるまで話し込んでいるつもりもないだろうに、いい加減さっさと退け」

「そ、そうだな! もうすっかり暗くなってきているものな! ほら、星も話をしている場合じゃないだろ、退くぞ!」

 公孫賛が、救い主のような目を向ける。これまでの互いの立場やこうなった経緯を思い返すとなんだかなぁと言う気分になる。馬鹿馬鹿しささえ感じるから、さっさと行ってくれ。

「そうしてくれ、最上の大物が近付いてきているんだからな」

「……新しい馬蹄の音? これは……五百くらいか」 

 公孫賛が表情を変えて彼方を見据える。同じような音があちこちから聞こえてくると言うのに、よくも方向と数を当てられる。大した物だ……何というか……以前、気配を消した俺を一人だけ見つけた時といい目立たないところが有能な女だな。

「俺の客だ。真っ直ぐにこっちに来てくれるとは、ありがたい……孫策、手を出すなよ」

「…………」 

 彼女は無表情で沈黙を貫いた。しかし、沈黙に待ちきれなくなった俺が念を押そうと知るその瞬間を狙ったようにうなずく。

「いいわ。ちょっと惜しいけど、何となくここは出る幕じゃないって感じる。それに、言っちゃなんだけど、人じゃなくなったのは袁術ちゃん達なんでしょう? 家の妹ならともかく、邪魔だから殺してやろうと思っている連中に手を出しただけなら、そんな相手とやり合う理由はないわ」

「そりゃ結構。そこの二人、もう残っているのはお前らだけだ。さっさと行け!」

 声に力を篭めて叫ぶと、二人よりもそれぞれの馬が反応していきり立った。そのまま一度大きくいななくと、背中に座った主の指示を待たずに勝手に走りだして立ち去った仲間の後を追った。悲鳴だけは堪えて首だけ後ろを振り返った彼女らだが、何を言おうとしたのかは分からない。その声が届くよりも先に馬は駆けていったからだ。

 それは俺の一喝に弾かれたのではなく、これからここに来ようとしているモノから逃げようとしているのかも知れない。彼女らが沈んでいく夕日を追い掛けるように駆けているのとは逆に、消えていく夕日を背にこちらに駆けてくる騎馬団がいる。

「まだ日差しが消えた訳でもあるまいに、揃って布きれ被って勇ましいこった……」

 いい加減に夕日は大地の向こうに沈み、夜の帳がゆっくりと降りてきつつある。こんな刻限を、日本では逢魔が時という。魔と逢う時。

 統率者を失い、士気の下がった張飛の部下が蹂躙されているのを背景に、俺は彼方を見据える。

「張遼はどこにいる?」

「馬に乗っていないと見えない? うちの隣に劉備軍……御遣い軍かしら? がいて、その後ろに食いついているわ。横と後ろから思う存分食い荒らされているわね」

「……あっさりと潰されすぎじゃないか? 他の手勢はいないのかよ」

「劉備の武将は二枚看板。その内片方を潰したのは貴方でしょ。死んでなくても、今日のうちに出てこられるかどうか知っているのはどこの誰?」

「助けに来られないって事か」

「劉備も天の御遣いも、私の知っている限りじゃ個人の武力も将としての統率力、指揮力ともに論外。今頃おたついているんじゃないかしら。余所に助けを求めるにも面子がお互いにあるから簡単にはできない……特に劉備達は血筋だけはともかくとして実際には新興の弱小だから、手柄は喉から手が出るほど欲しい」

 家も似たようなモノだけどね、と自嘲ではなくあっけらかんと笑う。

「少なくとも、私達が連中を再起不能にするには充分な時間は稼げているわよ。あなたがあんな滅茶苦茶な方法であっさりと公孫賛の先触れを無力化してくれたからね。こうなると、彼らが生き残るのに残る手段は……あんな風に誰かが率先して救援に出てくること以外にはない」

 俺は、話しながら片時もこちらに近づいてくる新たな騎馬軍団から目を逸らさなかった。逸らせなかったという方が正しい。

 遠目にもはっきりと漂う妖気が目を逸らす事を許さず、濃厚なそれはどんどんと小さく弱くなっていく陽光の勢力を更に弱め、彼らの側だけ夜が先に舞い降りてきているかのように闇が濃くなっている。
 その異様さは殺し合いをしている兵士達にもはっきりと伝わったようで、少しずつ戦場の熱が冷めてきているらしく静かになってきている。

「とんでもないわねぇ」

 孫策は飄々としたいつもの調子を意識しているようだったが、震えている。笑う事が出来ないのは気持ちが分かるからだ。ああ、全くとんでもない。

「数は……ええ、確かに五百騎。あれが全部人間じゃないのね」

「あれが人に見えるほど鈍感でもないだろう」

 あんな連中が一緒にいて、よく連合側は瓦解しなかったもんだ。もちろん露骨に妖気を漂わせたりはしなかったんだろうが、それにしても限度があるだろう。連合の連中は苔石並の鈍感揃いか?

「生まれて初めてね。人じゃないものが率いる軍と戦うのは……あの赤い血の腕に捕まれた時にはどうしようもないほどおぞましい感触がして、三日は取れなかったけれど……あの時から因縁は始まっていたのかしらね。それとも、貴方と勝負した時からかしら」

「俺におかしな因果を求めるな」

 強がりを言わず、しかして弱気を隠そうともしない。あの異様な敵を前にして逃げずにそれが出来る女に、俺は好感をもった。

「いずれにしても、あいつの相手は俺がする。あんたらは、他を倒せばいい」

「……さっきも言ったけど、出る幕は心得ているわ」

「目の色が、言っている事を裏切っているけどな。元々が、俺とあいつの勝負だ。お前の欲しい首は袁術だろうし、取らなければならない首は袁紹だろう? あいつは……劉貴はお前らにしてみれば大した重みのない相手だ。いらない色気を出すなよ、妹の事もある」

「なんで、ここで蓮華が出てくるのよ」

 言うべきか言わざるべきか迷った。甘寧だの周泰だのは報告していなかったんかい。なんで俺がこんな種類の懸念をいちいち言ってやらなけりゃならんのだ。色が桃色の話をする柄じゃないんだ。

「それは孫権の事だろうと思うが……彼女はたぶん、劉貴に惚れたぞ」

 孫策の目が筆舌しがたい、見たことも無いような形になった。二の句がつけられない様子だったが、ひょっとすれば、生まれて初めてこんな顔をするのかも知れない。

「は……? ちょっと、それ冗談かしら。ちっとも面白くないんだけれど」

「俺が冗談で、こんな口が曲がりそうな事を言うと思うのか」

 大の男が色恋の話を酒に酔ってもいないのに白昼堂々できるか。そろそろ夜だが。

 今しも雄敵と剣を交えようと言う時に、なんでこんな話をしなければならんのだ。自分を客観的に省みて、こっぱずかしくなってくるにも程がある。

「確かに似合わないけど、ええ-? あの子が? 堅物よ、石でも負けそうなくらいに堅物なのよ、家の妹は」

「そんな事は知らん。ただ、似合わないと言われる俺から見てもあからさまだ。あれは、下手すりゃ足を引っ張るぞ」

 これが平時だったら面白がったかも知れない。だが、彼女は努めている訳でもなくごく自然と冷徹に言った。

「もしもそうなれば、この手で首を落とすわよ。心配しないで」

 そうなる前に諫めろよとは思うが、それをしないのは彼女なりの妹への信頼だろうか。女も男も老いも若きも関係なく、恋か色に狂えばあっさりと家族も仲間も裏切ると言うのが俺の経験談だが、生憎と他人の経験を見てきただけであって幸か不幸か当事者になった事はないので黙秘しておく。

「ああ、わかった。それと、俺にこんな恥ずかしい話しをさせた二人には仕置きをしておいてくれ」

「そんなに恥ずかしいの?」

「気障なセリフが似合う男と似合わない男がいるんだよ。色恋なんてネタを笑い話以外で似合うのは詐欺師かヒモだけだ」

 真面目に言ったのに、なんでそんな顔をする。

「はいはい、今度酒でも奢らせるわ」

「酒は不得手だ。飯を頼む」 

 次があれば、とは言わなかった。不吉な予感が拭いきれなかったからだ。ジンクスなんぞに影響されるなど、情けない……とは言い切れないのが迷信を笑えない街で生きてきた身の辛いところだ。

「そろそろ行けよ」

「そうね、行くわ」

 孫策は未練もためらいもなく立ち去るはずだった。だと言うのに、俺の顔を馬上から見下ろしたのはどういうわけだ。顔色と目が心配しているようにしか見えなかったのはどういうわけか。

 奇妙に甘い疼きが心臓の奥に生まれたが、一息をついてみっともない事を考える我が身を戒めた。

「待っていたか」

「一日千秋の心待ちだ」

 いつの間にか伏せていた面を上げると、目の前には鉄のような顔があった。果たし状なんて、いらなかったかな?

「劉貴大将軍」

「工藤冬弥」

 向かい合った彼の笑顔と、彼の瞳に映る俺の笑顔はどこか似通っていた。






 一体どれくらいぶりになるのだろうか。

 随分と時間が経っているはずなのに邂逅の記憶が鮮明なのは、忘れる事が出来ない記憶だからか、それとも暇さえあれば飽きる事なく繰り返し彼との戦いの記憶を反芻し続けたからか。

 音をたてて風を切り、切っ先をぴたりと俺の心臓目掛けて矛を構えた目の前に立つ益荒男は、俺が思い描く武人像その物の姿をしている。

 甲冑に身を固めて腰には剣を佩き、手には矛を持って俺を見据えながら、憎いほど決まった姿勢で纏った日よけの外套をなびかせる。

 厚い皮と薄い鉄を貼り合わせた鎧は武骨で飾り気など一切なく、手に持った矛もただ、人を殺す事を目的として遊びなど一切ないフォルムを見せている。外連も遊びもない、ただ目の前の相手を全力で貫き切り裂く為の武器であり、持ち主の姿はこの世界に来てから、ふざけた武具ばかり見てきた俺にとっては嬉しくなってしまうほどだ。

 ごてごてと装飾を施したおもちゃのような武器を使い、馬鹿にしているとしか思えない格好をしている癖に阿呆なほど強い女武将達にはいい加減にうんざりしている俺にとって、劉貴の勇ましい姿はそれだけで闘志を駆り立てるに値する。

 何よりも、あの魔界都市でさえ甲冑もなく武器もないままで戦い抜いた偉大なる大将軍が鎧を纏っているのだ。馬に乗り、矛を持っているのだ。

 俺の知っている劉貴大将軍とは全く違う戦い方をする男が目の前にいる。

 自分が不利になっている事なんて、百も承知。

 ハナから格負けなんざわかりきっている。 

 ……この状況で笑っているなんて、馬鹿も丸出しだ。大体、自分が勝たなけりゃこの大地は吸血鬼に蹂躙される。だったら、剣を振るにもその責任を自覚してなけりゃならない。そんな事を俺が知るかと言うには首を突っ込みすぎた、何もかもにだ。

 それが当然で、そうなるべきだ。

 だと言うのに、なんてこった。口元が、弧を描いちまう。これは、この気持ちはなんだ。
ゼムリアに稽古をつけられて舞い上がっているのか、なんて浅はかな。

 自分が浮かれている事を自覚し、そんな自分を戒めようとした時にようやく気が付いた。この気持ちが、ゼムリアに挑んだ時と同じだと。

 腹の中に重みが生まれ、全身から不要な熱が消えていった。余分な熱が篭もった身体が冷水を浴びたように冷めていく。残ったのは理想的な心身だけだ。

 入れ込みすぎとは、ケージでいきり立つ競走馬かよ。

 そんな俺を静かに見詰めていた劉貴は、ゆっくりと矛を構えた。

 待っていてくれてありがとうよと、俺もまた何も言わずに仁王を構えた。

 なんの、ただの礼儀だと劉貴は音をたてて矛をしごいた。

 対峙する俺達の周囲は劉貴の連れている吸血兵に囲まれて、直径十メートル程度の円陣が作られた。妖気漂う吸血鬼に囲まれた俺の全身は視線によって埋め尽くされている。

 もしも視線に色が付いているのなら、誰にも俺を見る事は出来ないと言うほどにありとあらゆる箇所に視線を感じる。

 実に薄気味悪い視線だ。どうしようもなく平坦な癖に、根っこには粘りのある熱が篭められているような視線だ。

 視界の中にいる吸血鬼共め、どいつもこいつも死んだ魚のような目をしている癖に口元が牙を覗かせるくらいに弛んでいやがる。俺を、熱い血が溜め込まれた餌袋としか認識していないのだ。

 主の矛が俺を切り裂いたなら、こいつらは浅ましさを隠せもしないで恍惚と俺の血を浴び、飢えた野良犬のよりも下品に俺の屍に襲い掛かるだろう。

 だが、俺はそんな目にさらされながらも平常心を保っていた。

 元々、“新宿”はちょっと人気のない裏通りを歩けばこんなモノだ。“危険地帯”を歩けば、妖物の視線がない方が恐ろしくなる。死霊でも妖物でもないただの人間だって、時と場合が揃えば簡単に同じような目で他人を見てくる事を思えば、この程度は全く問題でない。

 むしろ、慣れ親しんだ暗い闘争の雰囲気にリラックスさえしてきている。

 この国で黄巾党をぶちのめそうが、武将達と斬り合おうが感じる事の出来ない妖気の漂う陰惨な殺し合いの空気だ。おかげで真後ろに回って俺の心臓に槍を突き刺そうとしている屑の動きさえはっきりと分かる。

 息を合わせたように真横から突いてこようとしているもう一人も、当たり前に気が付いている。こいつらだって人外になったんだろうに、どうしてそんな程度の拙い奇襲で俺を殺せるだなんて思うのか。

 次の瞬間、血しぶきが舞った。

 当然のように、二つ。

「すまんな」

「いいよ、おかげで眼福の技が見れた」

 石で出来たような劉貴の表情にはなんの感慨も浮かんではおらず、矛の二振りで下僕の首を斬り飛ばした事に何も感じていないと周囲に表明している。

 どん、と軽い音で落ちた雑兵の首は二つともあさましい笑みを浮べたままであり、自分が殺された事に気が付いてもいなかった。それに準じたように首から下も未だにふらつきもせず、俺に突きつけた槍も含めてその姿勢のまま像になったように硬直していた。

「主様、何をなさるのです」 

「なぜ、我らの首を」

 二つの生首が、声を上げて劉貴に抗議の声を上げる。今さらのセリフに失笑を堪えるのは苦労がいった。

「なぜ」

「なぜ」

 その有様は、どこか李江を殺した義勇軍を思い出させる。不快だったが、俺が嘴を挟む空気じゃなかった。

「私は、貴様らにどんな命令を下した」

「それは……」

 言いよどむ生首の目には血涙が溢れかえっていたが、それで追求を緩める劉貴ではなかった。

「私の命は、我らの戦いに邪魔が入らぬように壁となれとの一事のみ」 
 その一言を最後に、二つの喋る生首は柘榴のように弾けて消えた。言わずと知れた、魔気功の力。健在なそれに背筋が寒くなる。

「手間をとらせた」

「俺は待っていただけだ」

 それを一顧だにせずに、劉貴は矛を構え直す。俺も合わせるように切っ先を彼の喉元に向ける。

 相手の口元に、白い牙が見える。くだらない諍いの間に濃厚になってきた闇の中で、それだけが輝いているようだ。
 ばさり、と梟が翼を広げるような音がして劉貴の纏っていたマントが風に攫われて消えていく。それが、どこか魔王に攫われる子供を謡ったオペラの一シーンを思い起こさせた。

 風に攫われて消えていく外套に誘われるようにして、俺は劉貴へと一歩踏み込んだ。権勢もへったくれもない、無造作に芸のない一太刀を繰り出す。中段からの一突きで、劉貴の喉元を狙った。

 それに対して劉貴もまた同じように真っ直ぐな刺突を繰り出してくる。お互いに同じ種類の攻撃だが高さも間合いも向こうが圧倒的に有利なのは見るまでも無い。

 音もなく俺の胸に刺さった矛を目にした吸血兵が、それぞれに歓声を上げる。しかし劉貴はそのまま俺ごと矛を持ち上げた。

 空中の俺と目が合った劉貴はこれからどうする、と問いかけているようだ。

「いくぜ」

 脇に挟み込んだ矛を伝って、持ち手の元へと体重を載せた振り下ろしが襲い掛かる。必殺の念を篭めた一撃を、劉貴は何ら動揺を見せず矛を更に振る事であっさりと遠ざける。

「ぬうっ」

 さすがは吸血鬼。人の領域を超えた剛力に振り回され、矛の柄を押しつけられた脇腹がきしむ。危なげなく着地したが、思わず舌打ちが出た。

 今でも矛の一撃を躱した事にも気が付かない雑魚吸血鬼だったら一撃で勝負はついていただろうが、逆に痛打を与えられた。動きが鈍るほどではないが、矛の腕もやはり相当な物だ。軌道は単純ながら、これまで漢で戦ってきた誰とも動きの質が違う。

 持って生まれた筋力に頼った速さではなく、修練で無駄を徹底的に削り、己の肉体を最効率で動かしている結果の速さだ。これなら、人外の吸血鬼でも斬られた事にさえ気が付かずに首を飛ばされてしまうだろう。

「今度はこちらからだ」 

 劉貴という最大級の魔人を背中に乗せても従順かつ勇敢な軍馬が、馬蹄を響かせ襲い掛かってくる。馬は自重のせいでスタートダッシュに限れば人間に劣るはずだが、そんな知識など机上の空論だと笑わんばかりの勢いで双方の距離を詰めてくる。

 魔気功を使わないのは、未だに様子見のつもりか。だったら、こっちは本気になる前に渾身の一撃を入れさせてもらうまで。格下の自分が様子見など出来るはずもなく、ひたすらに全力で走り続けるのは当然だ。

「突きぃ!」

 基本的に待つ事を許されるような身ではない。次々とあらゆる手を打ち続けるのは当然だった。泥臭くしつこく噛みつき続ける為に、まずは足を狙う。

 突進をかわし様の一撃だったがこちらもかわされ、振り向きざまの一撃を見回れるも、これは余裕を持って振り向かないままに躱す。

 劉貴は馬を止めずに円を描いて、もう一度襲い掛かってきた。矛を振りかぶり、躱せる物なら躱してみせよと一閃を見舞ってくる。逃げ出したくなるほどすげぇ圧力だよ。

 ぎ、と歯を食いしばってそれに耐え、俺は身を低くクラウチングスタートのように劉貴に……いや、馬に向かって奔りだした。

「なんと!」

 馬の足は、当たり前だが左右に並んでいる。足と足の間に人の入る余地は、あるんだよ!

「ふうっ!」 

 人と吸血鬼の殺し合いにあてられたのか目が血走り鼻息荒く、涎まで垂らしている悍馬の馬蹄を猫のように身を低めて潜り抜けた俺は、間髪入れずに仁王を大きく振りかぶった。

「おお!」 

「ぬうっ!」

 手応えがあった。

 上段の構えよりも若干寝かせる形で天高く掲げた仁王の切っ先が、劉貴の脊髄を痛打して破邪の念を届かせたのを、確かに感じた。
 周囲をぐるりと囲む人あらざる兵士達が悲鳴のような歓声を上げ、畏れの眼差しを向ける。しかし、その目の先にいるのは俺ではない。

 馬を止めて、こちらを振り返っている彼らの主だ。

「見事だ」

「ちっとも効いていない顔をしているくせに、褒めるには早すぎるぜ」

 嬉しくなった己を戒める為に憎まれ口を叩き、お見通しの様子の劉貴にもう一度仁王の切っ先を突きつける。

「馬の足を擦り抜けるような真似をしてみせたのは、俺もお主しか知らぬ。これは御国の剣術か?」

「いや、この国の拳法には人の足の間を擦り抜けて背後に回る術理がある。それを応用した。足が四本もあるが、代わりに人の足よりも長くて間も広いのでな、意外と難しくもなかった」

「それを言えるだけ、大した物だ」 

 あくまでも俺を褒め称え、彼はおもむろに馬から下りた。

「おい」

「今の技に、ただの馬では応じ切れん」

 しっかりと大地を踏みしめ、彼は腰の高さで矛を構える。馬上だろうと地上だろうと、実に様になっている。

 ここからが、本番だ。

 気合を入れ直して仁王を握ると、正眼に構え直す。劉貴は石のように微動だにせず、泰然自若とはこれぞと俺を待ち受ける。望むところだ。

 正中線に並ぶチャクラに働きかけ、それを精一杯回す。ゼムリアとの稽古で刺激を受けたのか胴のチャクラは殊の外スムーズに回転し、喉のチャクラまで鈍いが回り出しそうだ。

 腕が上がった事がわかりやすく、調子にのってはならずと自分に言い聞かせるのが少しばかり遅れる。

 全身から聖念があふれ出し、それが周囲の吸血鬼達を圧倒する。悲鳴があがり、吸血鬼達で作り上げられた輪が二回り大きくなる。劉貴だけが眉も顰めずに鉄の意志で俺に刃を突きつける。

 その刃その物へと向けて、中段の振り抜きを出した。得物を破壊してやるつもりの一撃はこれまでの豪撃とは真逆の柔らかな振りにあえなく躱されてしまったが、止めずに剣は跳ね上がって顎を目指す。

「ほうっ!」

 感心の声も当然と胸を張って言える会心の太刀だ。躱された太刀を止めずにあげるだけでもそれなりの技術だが、速さと強さを兼ね備えて的確に急所を狙うのはそんじょそこらの剣士気取りに出来るモノじゃない。

 しかし、それも矛の柄で受け止められた。木と木がかみ合う、鉄のぶつかり合う音とは違う心地よく体内に響く共鳴がそれぞれの体内に浸透していくのを実感した。

「くあっ!?」 

「ぬう」

 それぞれに磁石の同極同士のように弾け合う。最後の土産に小手に入れる事は出来たが、劉貴相手にあまり意味があるとは言えないダメージだ。簡単に回復するからな。

「すっかり日は落ちたな」

「いい塩梅じゃないか」

 既に周囲はすっかり夜の新色で真っ暗になっているが、かがり火はたかれていない。遙か彼方でたかれているそれが、人を誘う鬼火のようでなかなかに不気味だ。ホラー映画その物のシチュエーションに、逆に笑いがこみ上げてくる程だ。

 その中で吸血鬼とやり合う事の不利は確かだが、騏鬼翁の闇の中で戦った時ほどじゃない。闇の中で戦う事その物には慣れているからな。魔界都市の住人であり、山の中で生きてきた俺にはむしろ慣れた物だ。

「俺には闇と月が味方する。工藤よ、お前の味方は一体何処にいる?」

「俺を鍛え上げてくれた全部だ」 

 何故だか劉貴は一瞬沈黙し、そして笑った。

「そうか、俺ばかり味方がいるようで卑怯な気がしたがお前の味方も数多いか」

 そう言って、男は矛を構える。典雅さを感じさせながらも確かに精悍な顔に、ずるいなとふと思った。せつらやドクターのようになりたいとは思わないが、ゼムリアや劉貴のような顔にはなりたいとは思った。

 男らしさと美しさを兼ね備えているこの男は、憧れるに足りるだろう。そして、そんな男に挑んでいるという今が誇らしい。

 それが伝わったのか劉貴の瞳が笑う。俺もまた笑い……笑ったまま俺達の刃は交差した。

 紫電の速さで足を払う矛を躱して、そのまま一気に踏み込んで脳天を狙う。

 それに対して劉貴はなんと蹴りを使ってきた。前蹴りで押しのけるように腹を狙ってくるそれを、俺はジルガの技法で受け止める。

 劉貴の蹴りは弱くもなければ下手でもないが、それでも俺は岩のように不動で受け止める。劉貴の目が驚きに見開かれたのは、受け止められた事よりも蹴りの威力をそのまま足に返されたからだろう。

 弾かれた劉貴はバランスを崩すが、そのまま転ぶような無様な男ではなく危なげなく矛の柄を地面に突き立てて転倒を防ぐ、が……転ばないだけでしっかりと隙になっている!

「いいいぃえあっ!」

 劉貴は矛を前面に構えた。防御のそれはいっそ冗談のような速さと正確さで彼を隠す。細い一本の矛の向こうに甲冑姿の男が完全に消えてしまったのは悪い夢のようだ。

 相手の目に向かって切っ先を構える正眼の構えその物だろうが、技量の高さを物語るには充分だ。当たり前の技で異常な結果を持ってくるにはそれ相応の技量がいる。
 
 しかし、それでも気が付かなかった事はある。
 
 してやったり、と笑う俺が握った仁王は木刀であるにも関わらず矛の柄を中程から両断した。何ら抵抗なくすっぱりといっちまった矛は、カンナをかけたような断面を見せている。

 しかし、さすがは劉貴大将軍よ。

 両断された矛には未練を見せずに、予定調和のように捨て去り手の平を向けてくる。即ち、魔気功の洗礼。

 予想していないどころか、いつ来るかと待ち構えていた俺は宙を舞ってそれをかわす。追撃を避ける為に牽制で撃ったレーザーが劉貴の厚い胸板を貫いたが、彼は目もくれなかった。

 さすがに追撃こそされなかったが、相変わらずの理不尽ぶりだ。これなら、念を篭めた飛礫でも投げるべきだったな。念の消費を惜しむ癖はなかなか治らないらしい。

 まあ、ここからが本番だ。矛の技量も恐るべきだろうが、やはり何より恐ろしいのは見えず聞こえずの魔気功だ。

 それに対抗する為の気を操る技量は、この数ヶ月間でほとんど向上していない。しかし、剣と念はゼムリアのおかげでしっかりと進歩したのだ。高望みをするような贅沢は断じて出来ない。

 今、彼は俺達を見ているのだろうか。

 秦の大将軍と呼ばれた男を前に剣を握る俺の背中は、彼にどう見えているだろう。そして、もしも義兄と義父が今の俺を見れば、どう思うだろうか。

「…………」 

 彼らに恥じない剣を、とそんな言葉が俺を縛る。しかし、縄のように縛るのではない。支えるように、ともすれば逃げ出したくなるような、震えてしまいそうな自分の手足を押さえ込んでいる。

 目の前に立つ劉貴は、そんな俺の内心を見透かしているのかどうなのか静かな眼差しのまま構える。“新宿”でも見た魔気功の構えだ。

 あの時、彼の前にいたのはせつらでありドクター・メフィストだった。俺はかませ犬をしていたに過ぎない。だが、今劉貴は間違いなく俺と戦っている。

「嬉しいな」

「何がだ?」

「天下の劉貴大将軍が、俺を見ている。俺を戦う相手としてみている。当たり前の事なんだろうが、誇らしい」

 恥ずかしい言葉を口にしているのに、恥ずかしいという気持ちにはならなかった。あんまり唐突で脈絡のない言葉なのに、そう思えなかった。

 劉貴もまた、笑いもしないで聞いてくれた。

「今の俺を相手にしてそう言ってくれるのならば、俺の方こそ喜ばしい。工藤よ、返礼は全霊をもって行おう」

 そう言った彼の全身から、念を圧倒する鬼気が発せられた。周囲にいる同族さえも圧倒され、膝をつくほどの鬼気。だが、俺だけは仁王を構えたまま動かない。念の力ではなく、これまでの道程を思えばこそ足に芯が入るのだ。

「最初からそうだろう」

「その通りだ」

 劉貴大将軍が、戦場で手を抜くなんて有り得ない。

 そして、跪いたままの吸血鬼達に囲まれて本番へと移行しようとしたその時……何かが俺達を叩いた。

 それがなんだったのかは俺には分からない。ただ、空気が変わったと漠然としながらも感じた。

 劉貴は俺よりもはっきりと、それを認識したようだ。彼が手を振ると、吸血鬼共は一斉に馬に乗る物は馬に乗り、歩兵達は歩兵なりに陣形を整え始める。それはどう考えても帰り支度だった。

「お、おい!」

「将軍ではないお前にはわからんか。悪いが勝負はお預けだ」

 信じられない言葉だった。

 一体何が起こったのか知らないが、劉貴が勝負を投げるだと? 思考が空回り、正に愕然とする俺は隙だらけもいいところで、劉貴にとっては的もいいところだっただろうに、彼は何も言わずにゆっくりと馬に乗るだけだった。

「許せ、今一度だ」

 ただそれだけを言って、彼は馬首を返した。

 その言い方が、どこか義兄と重なったのは俺のつまらない思い込みだろう。なんにしても、今の俺は戦っていた相手に訳も分からないまま置き去りにされた大間抜けだ。

 指をさして笑われても不思議じゃない間抜け加減である。もちろん、そんな奴がいたら指をへし折って自分を指ささせるのは確定事項だが、
一体何がどうなっているのか未だにさっぱり分からない。

 吸血鬼共も言わずもがな劉貴もさっさとついていってしまい、俺は一人でぽつんと立ちん坊になっている。その姿を客観的に想像すると、今にも暴れ出したくなってくるような衝動が、厭が応にもこみ上げてきてたまらない。

「……ふざけんなぁっ!」

 俺の怒鳴り声は、闇の中で殊の外大きく響いた。

「果たし状だ、ぜってぇ果たし状だ。劉貴の顔面にトンブの張り手で思いっきり叩きつけてもらおうじゃねぇか!」

 ぎりぎりと歯ぎしりをしながら足踏みをするのは、正に地団駄を踏むという言葉のいい見本だろう。そう思ったのは、この時の自分を思い返して恥ずかしくなるくらいに冷静になってからである。

 漢の大地、それも人里離れた砦の外は真っ暗闇の典型で、月明かりがなければ一寸先も見えないほどだ。それが幸いしたくらいにみっともない興奮を人目も憚らずに披露して後、俺はようよう落ち着いた。

「…………」

 しかし、一端落ち着いてみると我が身を振り返って情けなくなるのは自然な成り行きだ。そろそろ四つん這いになって落ち込むか、それとも頭をかきむしって叫び出すか、どちらにしても恥の上塗りになる事請け合いの行動をするより他にはない、と誰かに背中を押された気分になり、どんよりとした気分で足下を見た俺は、ふと少し離れたところに人影を見つけた。

 と言っても、気が付かない間に誰かが俺の痴態を見物して笑っていたなどと口封じする以外にない最悪の展開になっていた訳ではない。
 人一人、寝っ転がっていたのだ。
 最初は劉貴に斬り滅ぼされた吸血鬼兵の亡骸かと思ったが、息をしている。吸血鬼は大半が息をしていない物だが、中には例外もいる。それでも、これは例外に入れなくともいいだろう。

 転がっているのは、張飛だった。

「……あれからずっとここにいたっけか?」

 すっかり忘れていたが、そう言えばそうだった。孫策が連れて行ったかとも思ったが、どうやらそうではなかったらしい。考えてみれば、それも当たり前か。

 どう見ても情報がとれるタマではないし、ろくに動けもしないこいつを殺すにしても意味がない。こう言ってはなんだが一朝一夕で目を覚ます訳がない彼女の首を取るのはあんまり安っぽいだろう。そう言う真似は彼女の好みではなく、そういう好き嫌いを持ち込むような迷惑な未熟さが彼女の中では目立っている。

「はあ」 

 とどめを刺すなど論外の相手をどうするか、少し考えるが俺も結局は放置する。連れて行っても捕虜になるだけなら、その方がなんぼかマシだろう。ここにいる方が味方に保護される可能性は高い。

「ん……?」

 そこまで考えて、遠くからこちらを目指している一軍が目に入った。掲げている旗は見えないが、こちらに向かっているのは馬蹄の響きで間違いない。どんな相手かは知らないが、張飛の味方……つまり、敵かもしれん。

 後は任せるか、と思ったが一ついらない事に気が付いた。

 考えてみると、たとえあれが連合軍の誰かだろうと、真っ暗闇では張飛を保護するどころか踏みつけるか見つけられない可能性の方が高いんじゃないか?

「…………はあ」 

 どうせ誰も見ていないんだ、ため息の一つくらい大した話じゃない。

 肺を空にするくらい大きく息をついて、その場に腰を下ろす。まあ、一言口添えをしたところで悪い話ではないだろう。

「無様な話ではある」

 ぞくり、とした。

 唐突に背後から降りかかった声は、数ヶ月ぶりに聞いた声であり、あるいは“姫”よりも聞く事を恐れていた声だった。

「秀蘭」

 永劫の時の流れの中で、大将軍と呼ばれた男を慕う吸血妖女がそこにいた。
 





「あんたがここにいるのは、劉貴の面子に傷をつける事だと思うんだがな」

 虚勢を張る。

 座りこんだまま、声だけ応答して振り返らない。決して、驚きを顕わにして立ち上がったりしてはならない。

 咄嗟にそれだけを自分に言い聞かせてから、おもむろにゆっくりと振り返る。

 俺の挑発など歯牙にもかけず、夜の闇の中でも内側から輝いていそうな美貌に冷然たる表情を面のように張り付かせて秀蘭は静かに佇んでいる。

 麗顔が、嘲笑に崩れた。

「それは、私がそなたに手を出すという事か」

「他に何の為に来た」

「元より、ただの見物。劉貴殿の戦なれば見守りというであろうが、これは遊びよ。ならばこその見物。貴様、よもやあれが劉貴殿の全力などとは思うまい」

 とっくにわかりきっている事を、それは嬉しそうに語りやがる。恋に狂った女なんざ、どいつもこいつもくそったれだ。

「貴様の腕は、やはりこの程度。あのゼムリアという剣士なれば、あのドクトル・ファウスタスという魔道の徒なれば油断はならんが、お前程度では劉貴殿の遊びにしかならん。せいぜい奮起して、あの方を楽しませよ」 

 比べられるのは、相手があの二人だといっても業腹だ。腹のたつ理由が、語っているこん畜生にこそ腹を立てているからである。

「遊び相手にもならないほどには、弱くもない。脅かすほどには、強くもない。そんなお前は、このつまらない国では貴重な劉貴殿の玩具だ。姫や騏鬼翁殿の気を引くほどではない所も実に都合がいい。一体何処の国から、劉貴殿の無聊を慰める為に舞い降りた?」

「“新宿”さ」

 ここまで言われて黙っているほど腐っている訳じゃない。端で見ているだけの女に笑われて、流してすませるには俺の器は小さかった。

「妄想を垂れ流して殊更に相手を挑発する辺り、千年どころか万年生きても女の業は振り払えないようだな」

「何と言った?」 

「腕を見切れもしない腐った眼で、願望だけを根拠に人の剣腕を貶める。劉貴が見れば、懲罰モノの無様さだ。お前は、わざわざ劉貴に恥をかかせる為に顔を出したのだ。そんな事だから、色に狂った女は無様だという」

 最後の一言で締める前に、光が飛んできた。以前も切り払った銀の櫛だが、速さが違う。きらりと煌めいた時には首に辿り着いているのは以前と同じだが、その上でなお雲泥の差があった。

 それを弾く事が出来たのは、やはりあの時よりも成長した腕のおかげだ。ゼムリアに感謝だ、頭が上がらないにも程がある。

「…………」

「手加減したにしても、格好つかないな」

 せいぜい笑ってやる。それにしても、やっぱりあん時ゃ手加減しまくりだったな?

「その暴言、高くつくぞ」

 俺の皮で劉貴の為の鞍を作ると嘯いた時と同じような顔をしやがる。そうやって、ちょっと反撃されたくらいで目の色返る辺りは俺とどっこいの小ささだよ。やりかえされないとでも信じている訳でもあるまいに。

「貴様に手は出さぬ。それは、劉貴殿の勘気に触れる故に。だが、それが貴様を守ろうとも貴様以外の誰かを守ると思うな、小僧」

「……なんだと?」

 二度と目をそらしたくないような美貌が、二目と見られる悪鬼の表情を浮かべる。 

「この女、貴様がここに連れてきた娘だな」

 そう言って懐から鳩を取り出すようにして掴みだしたのは、なんと孫権だった。人形かとも思ったが、間違いなく本人だ。

「……護衛もついているのに、わざわざ砦から連れてきたのか? ご苦労な事だ」

「それほど苦労はなかったぞ。この琴をつま弾けば、あのような塵芥どもなど子猫と何も変わらぬ。揃って高鼾をかいておった」 

 そう言って、孫権を地面に落としてからおもむろに取り出したのは俺も見覚えのある琴。かつてである未来において、劉貴がその手に収めていた“新宿”の魔人二人をまとめて陥落せしめた唯一の伝説。

「静夜」

「ほう? それを何処で聞いた」

 質問には沈黙で返した。応える義理が無いと言うのもあるが、それよりも状況を覆す打開策を思いつけなかったからだ。

 両手にしっかりと琴を構えて、いつでも弾けるようになっている。一度奏でられれば、俺はあっと言う間に眠りに落ちてしまう。

 その大きすぎる隙にどうする。

 孫権はどうなる? 悠々と血を吸われるか、魔界の術で凌辱されるか。殺された方がマシだという未来以外に待ち受けているものは無いだろう。

「何故、この娘を狙った。他にも人はいるだろうに、俺とはほとんど縁のないそいつを狙ったのは何故だ」

 言いながら、俺はもう結論を出していた。

 劉貴に恋をしているからだろう。要するに、嫉妬だ。真正面から聞けば、どういう答えにしても秀蘭は激発して孫権を手にかけるだろう。なら、せめて揺さぶりをかけて隙を見出すしか思いつかなかった。

「この小娘の、分不相応な恋心のせいよ」

 揺さぶりも糞もない。秀蘭は何もかもを承知の上だ、背筋が凍る。嫉妬に狂った女が同性に何をやるのかだなんて想像出来る範囲にあるだけでも充分におぞましい上に、何よりおぞましいのは常に男の想像を超えてくる所だ。 

「恋心とはまた、おかしな言葉を使う。夜の一族に似合わないにも程がある」 

 適当に皮肉を返してから、長老の一族に申し訳ない気がした。あそこには若い娘だっているのだ。

「黙れ」

 秀蘭の声が冷酷という表現で追いつくほど生やさしいものではない。氷が砕け散るようなどうしようもなく冷たい声が、俺を叩いた。いや、俺はついでにすぎず本命は秀蘭の足下に横たわっている。意識があったら、一体どんな姿になっていた事か。氷柱になったとしても、何ら不思議ではない。

「劉貴様に恋をした娘。身の程知らずな娘。三千の肉塊に切り刻んでも飽き足らぬ。この品のない顔も身体も騏鬼翁の獣に存分に蹂躙させてから、殺してくれと哀願しても死ねない我らの地獄へと突き落としてくれようぞ」

 あの丈夫に惚れる女なんぞ一体どれだけいると思っているのか。その度に殺していたらキリがないと思うのだが、それをやるのが秀蘭なのだ。

 百も千も女達を殺し、その血を浴びて恍惚とするだろう。ひょっとすれば、これまで彼女の喉を潤してきた血は全て劉貴を慕う女達のモノであるかも知れない。

「させるかよ」  

 いずれにせよ、それをさせる訳にはいかないのが俺の中の取り決めだ。まったく、いちいち貧乏くじを引くな。

「自惚れるな、これっぱかしの力しか持たぬ小僧が……身の程を知れ」

「!」

 やばい、と思う暇もない。静夜にばかり意識を集中していた俺は、秀蘭の目が爛々と赤く輝くのを完全に見逃してしまった。

「ほほ、我ら夜の一族の猫眼を見て囚われぬ者はおらぬ。静夜にばかり気をとられた愚か者が、我らそのものの力を見くびりおって。だから小僧と言うのだ」

 嘲られても何も言えない俺を尻目に、秀蘭はゆっくりと孫権を抱き起こした。まるで壊れた人形のように、その手に抱き上げる。今にも地べたに叩きつけそうな手であったが、しかし彼女は辛うじてそれを自制した。

 代わりに、牙を剥きだした。

 白ではなく、紅に染まった牙だ。

 美しい少女が、たったそれっぽっちの小道具で悪鬼へと変貌する。遺伝子の底の底まで達する闇の色があまりにも濃いからこそ感じるおぞましさであるのかも知れない。

「そこで、この娘が我が虜になるのを見続けよ。然るべき時を経てから、この娘は家族であろうと友であろうと喰らい尽くす悪鬼となる。我が命により、それをさせる。しかして心は後に戻してくれよう。楽しみではないか、喜んで同胞の血を呑み耽った小娘が、正気に返った時に一体どんな顔をするのか。手を下した私を憎むよりも、守れなかったお前を恨むよりも何よりもまず、突きつけられた己自身を嘆くであろう」

「まるで、自分がそんな目に遭ったかのような物言いだな」 

 高い笑い声を消したのは俺ではない。第三者の声が、割って入った。

 何よりもまず振り返った秀蘭の美貌の脇、孫権と彼女を分ける位置を一本の木刀が通過していった。

「貴様!」 

「何にしても、そう言う悪辣な事を考えるのはよくないぜ」

 至極真っ当で、だからこそ彼女にとっては滑稽な事を大真面目に言ったのはもう一人の念法使い、ゼムリアだった。

「何故ここに……騏鬼翁殿の闇を見破ったのか!?」

「俺じゃなくて、芸達者な医者がだけど」

 飄々と返すゼムリアのリラックスした様子に、千年を超える時を生きた吸血妖女は苛立ちを隠せない様子で歯がみする。余裕が保てないのは相手の違いだろう。

「いくらなんでも、城の中で人さらいをして誰にも気が付かれないって言うのは考えが甘過ぎだ。この国には見破れる人間はそうそういなかったから慣れたんだろうが、ちょっと続いたからって例外を普通にするとこうやって足下をすくわれる」

「ほざくな、下郎!」 

 秀蘭から飛んだ銀の櫛は、俺の目にも留まらぬほどに速かった。しかし、そこはさすがのゼムリア。念法使いのお約束通りに取り出した一本の棒が、恐らくは正真正銘の本気だろう秀蘭の閃きを悉く撃墜した。

「隙有りだよ」

 ゼムリアの言葉は秀蘭と、俺にも向けられていた。振り返ろうとした秀蘭の目が、ゼムリアの投げた木刀によって呪縛を解かれた俺を見つけるのと俺が彼女に斬りかかるのとどちらが速かっただろうか。

 女を相手に後ろから斬りかかる。無様と笑わば笑え、俺の意地よりも矜持よりも目の前の女を救わなければならん。

「秀蘭!」

 ゼムリアの投げた木刀と、元より携えていた仁王の二本が二千年間も血を吸い続けた怪物の柳腰を左右から鋏のように切りつけた。ゼムリアが挑発してくれている間に練り上げた全身全霊の念を篭めた破邪の太刀は痛打に乗って、間違いなく彼女の深奥に届いた。

 左右から挟み込むように送られた左右の二撃は、秀蘭を見事に弾き飛ばす。切り裂かなかったのは、偏に俺の未熟故であり手加減などではない。

 宙を舞う秀蘭の姿は、打ち据えた張本人の俺から見ても儚く、羽の破れた純白の蝶を思わせた。

「助かった」

「なんのなんの」

 優先して得物をゼムリアにかざして礼を言うのは、地に落ちた無惨な姿を見たくなかったからかも知れない。みっともない話だ。

「権殿ーっ!」

 はあ、と息をつく間もなく三十騎ほど引き連れた黄蓋が見事な騎乗ぶりを見せて駆けてきた。

「教えていたのか」

「そこまで気が利かない訳じゃないからな」

 返答に困って肩をすくめると、懐からライトを取り出して適当に点滅させる。モールスだのという信号は、俺が知っていても相手にはわからんだろうから適当にちかちかやっていると、馬蹄がこちらに近付いてきた。

「工藤か!」

「お探しのはそこだ」

 馬を下りて駆け寄ってくる黄蓋に目をやる。息を急ききって、露骨に慌てている姿は珍しく感じるほどだ。その彼女は俺が指さした、地べたに仰向けで転がっている孫権を見つけて慌てて抱き起こす。様態をあれこれ調べると、肺を空にしたと信じられるほど大きく息をはき出した。

「生きておられるか……」 

「正直、もうかなりまずいところまで来ていたけどな」

 余計なことを言ったかなと思うほど、黄蓋の顔は変わった。鬼子母神もかくやとはこの事か。白状すると、一瞬気圧された。

「そこの女が下手人か、それとも転がっている張飛か」

「張飛には、汜水関に潜入して人知れず拐かすなんて無理だろう」

「確かに、の」 

 孫権を背後の部下に任せると、彼女はゆっくりと剣を抜いた。何を考えているのかは一目瞭然だが、それをさせる訳にはいかない。

「どけ」

「あれが何なのか分かっていない奴にやらせられるか。剣で切れれば世話はない」

「……あれが、お前の言っていた化生の一匹か」

 無言で頷くと、黄蓋は多少冷静になったようで無理に進もうとはしなかった。下手人が普通であれば、俺を押しのけて斬っていただろうが、それなりに俺の説明を信じていたようだ。

「どうすれば死ぬ」

「わからん。だから困っている」

 秀蘭は今でこそ昏倒しているが、ここでトドメを間違えば元の木阿弥だ。即座に逃げられ、奇襲は二度と通じず次に出会った時には殺されるだろう。

 杭を打ち込めばいいのか? 人形娘はそうしたと聞いたが、それでも秀蘭は灰となったままで劉貴に力を貸し続けた。その恐るべき情念は、心胆寒からしめるには充分だ。

 彼女が孫権を殊更に蔑み、攻撃的になったのも納得はいく。

 ともかく、最後の詰めが決まらない。そもそも、こいつはここで滅ぶのか? 仮に滅んだら、未来の“新宿”で出会う秀蘭は何者だ。それに、劉貴が未来で俺と出会った時に何も言わなかったのは、おかしくないか?

 二千年の間に記憶が風化しただけかも知れないが、それでは秀蘭の話に筋が通らない。“ここで彼女は滅びない”と言う結果が出来ているのではないか。そんなどうしようもない可能性が脳裏によぎる。

「ドクトル・ファウスタスに封印でもしてもらうか……?」

 そんな弱気な結論が出てくるがそこまで手を煩わせるのは、日本人らしい遠慮気味の思考が出てくる。そんな場合でもないだろうに、と自分に気合を入れて仁王を握り直した。

「心臓に仁王を打ち込んでみる。それ以外に手は思いつかないな」

 寝ている女にとどめを刺すのはいかにも気分が悪いが、見た目に騙されていてはあの街では三日と生きてはいけない。大人が子供の振りをして本当に三歳の幼児に化けきる事もあれば、子供を無理やりに大人へと変える狂科学者もいる。作り替えられた子供の用途は様々だが、自分そっくりに化けさせてのスケープゴートが一番だ。

 我が子を誘拐した犯人だと射殺した警官が、目の前で施術が解けて息子殺しになったと自覚して発狂した例もある。もちろん、真犯人は狙ったのだ。あの時、“新宿”警察の大半が凍らせ屋になったと語り継がれた。

 当時の屍刑事を知っている俺は、ンな訳あるかいと今でも背筋を振るわせるが、とにかく外見で騙されるほど馬鹿じゃない。

「これで終いだ、秀蘭」

 彼女は確かに昏倒し、身動きがとれない。俺の左右から打ち込んだ念は彼女の体内で混ざりあい、より強力な痛手を与えて弾けたのだから当然だ。

「……」

 どこか後ろめたく思う気持ちが消えず、言い訳の言葉が口から出てきそうになったのを噛みしめて堪えた。誰にも見られない角度だったのは幸いだったと思う。

 それ以上に幸いだったのは、ここで虫の知らせが働いたことだろう。振り返った俺の腕からゼムリアの木刀がはじけ飛んだのと、劉貴が黄蓋とその手勢を単騎で突破して秀蘭を掴み挙げるのはほとんど同時だった。

「劉貴!?」

「どこから現われたか!」

 完全に虚を突かれた形の俺は、いともあっさりと秀蘭を奪い返されて劉貴を見送るしかなかった。脱兎と言うには堂々とした背中は見る間に小さくなっていく。

「抜かったわ!」 

「……かなり、いてぇな」

 魔気功に跳ね飛ばされた木刀を拾い上げながら、苦虫を噛み潰す。秀蘭がこの後どういう行動に出るのかは火を見るよりも明らかだ。格上の敵が増えたと考えると、どうにもずっと寝こけたままの孫権の顔面を踏みつけたくなる衝動に駆られる。

 さすがに本気でそれをやるほど腐っちゃいないが、苛つくのは確かだ。険しい顔をしている自覚はあるので目をそらすと、何故だか張飛を小脇に抱えているゼムリアと目が合った。

「踏み潰されそうになっていたんでな」

 ちなみに劉貴にではなく、彼の突進に戦いた黄蓋の配下に、だそうだ。だからゼムリアほどの男が劉貴の突破を許したのか。

 あ? つまり、遠因は俺か……

「買いかぶりだ。あの男は止められるものじゃなかったよ。あれが、冬弥の相手なんだろうが……大した大物だな」

 そっと寝かせながらの言葉を素直に鵜呑みにするには、少々飄々としすぎた言動のゼムリアに苦笑いを返した。

「それでも、小手調べについていける程度には成長したさ。ゼムリアのおかげだ、ありがとうよ」

 孫権を抱き起こして戦場から慌ただしく帰ろうとしている黄蓋達を尻目に、俺達は呑気に談笑している。それが我ながら場違いに思えた。

「礼を言われる事じゃない。はっきり言うが……勝てないぜ」

 その声は、奇妙に響いた。遠くから聞こえてくる戦場の喚声が遠ざかったように感じた。

「実は俺もそう思っている」

 に、と笑ったら音が帰ってきた。そんな気がした。

「それでもやるんだな」

「ああ、それだからやるのさ」

 笑顔が自然と出てきた。無理はしていないと自覚できたことが嬉しかった。

「!?」

 だが笑顔は一瞬で凍りついた。

 俺は自分でもまったく自覚しない内に、仁王と持ち続けていた木刀をそれぞれ別の生き物のように振り回した。本当に気が付けば振り回していた左右の腕に重たい手応えを感じ、左右を見回して自分の手の延長に人影がある事に気が付いた。

「秀蘭……!」 

 秀蘭の人形が闇の中から山猫のように頸動脈を目掛けて襲い掛かってきたのだ。それを認識できたのは、自分の身体が意識を置き去りに対処してくれた後だった。無意識でなければ、いたいけな少女にしか見えない人形を打ち据えて地べたに這いつくばらせるような真似は出来なかっただろう。

「飛んだ置き土産を……」

 軽口を叩こうとしたが、自分で声が震えていない自信はなかったので黙り込んだ。

 全く、最悪のタイミングをきっちり狙ってくるものだ、と背筋をおぞましい虫が這い回っているような心境になっていると俺の視界の隅を、何かが駆け抜けた。

 それが何かと理解するより先に、まず迎撃の構えをとった。視界の端で、ゼムリアもまた棒を握っているのが見えて背中を安心が支えてくれる。

 後々思い返してみれば、男……それも剣を握って一人前と認められた男が何と情けない心得違いをしたものだと自噴ものの勘違いをしていた。何がゼムリアがいるので安心だ。俺は親に守ってもらう幼児かよ!

 その情けない腑抜けのツケは、すぐに現われた。影は俺など見向きもせずに、一直線に黄蓋の元、いや、彼女に抱えられた孫権へと向かっていったのだ。

 まずい、と意識している間もない。ゼムリアは位置が悪く、いかに稀代の剣士であっても届かないという絶望的な確信を抱いた。黄蓋がはね除けるかと言う期待は、彼女の失態を悟った表情で日差しに照らされた霜のように消えた。

 俺は届くか? 届くものか。届く訳がない、と結論がすぐに出るような彼我の距離に諦めが胸をよぎる。

 ゼムリアだって無理なんだ、お前に出来る訳がないだろう。

 そんなフレーズが湧いて出てきた。

 ざけんな。そんな言い訳を許されるのは子供だけだ。俺は、何が何でもやらなけりゃならないんだよ、そうでなければ、どの面下げてあの街に、あの人達の元へ戻れるものか!

「かあっ!」 

 自分でも何が何だか、わからなかった。ただ、理解できたのは秀蘭の人形が孫権の首元を被った俺の手首に牙を突き立てていたという目の前の光景だけだ。

 認識した次の瞬間に、俺を襲ったのは圧倒的な程のおぞましさと闇の遺伝子の侵略による魂の蹂躙だった。

 声を上げる事も出来ずに、陸に上げられた魚のようにのたうち回った。そんな俺の頭上でゼムリアが人形をぶち壊したようだったが、定かじゃない。

 それら全てを認識の外に放り出したくなるような抗いがたい絶望と嫌悪感が肺腑を蹂躙していくのを実感する。

 これが、吸血鬼になると言うことか。

 自分の血液が吸い上げられ、入れ替りに何かどうしようもなく異質な物が注ぎ込まれる。

 それがどうしようもないほどにおぞましく、俺の心身から活力を根刮ぎ削り取っているのがはっきりと伝わってくる。

 必死に体内の念を活性化させて侵食を少しでも遅延させようと試みる俺だったが、それを突如邪魔した何かがあった。

 俺が念を活性化させて抵抗した途端に、やらせはしないと言わんばかりに俺の体内から浸食を促す何かが湧き出てきたのだ。

 何だ!?

 何が起こっている!?

 それが何であるのかはさっぱり分からない。ただ、焼け石に水であろうともなけなしの抵抗を試みたはずが、その一切合切をまるで虫を叩きつぶすように無造作に叩きつぶされた。 

 結果、俺はまるで素人のように為す術もなく蹂躙されてしまった。自分の魂が、どうしようもなくおぞましい何かに汚染されたと実感した。いや、思い知らされた。

 地べたにのたうった俺の脳裏をよぎったのは、死にたいという強姦された生娘のような言葉だった。今、この場で脳と心臓を取り出すか手首の傷口をえぐり出して太陽の元に晒してやりたいと願ってやまない。

 南風さん、あんたもこうだったのか。

 恋人を殺され、ヤクザに犯され、妖魔に汚され、女の尊厳と人の魂を汚泥に叩き尽くされたあんたは、こんな気持ちだったのか。

 いや、違う。

 こんなモンじゃない。

 彼女の味わった蹂躙は、俺の十倍はひどかったはずだ。彼女の受けた蹂躙は、こんな一瞬で終わった訳じゃないんだから、もっともっと辛かったんだろう。

 そうに決まっている。

 ただ気が強いだけの女に過ぎない彼女が、俺よりもひどい目に遭ったんだ。その相手に、俺は何をした?

 どうか元に戻ってくれと、そんな事を願っていただろう。

 ぶっ壊されて、死んだ方がマシな彼女に死なないでくれ、元に戻ってくれと願ったはずだ!

 その俺が、そんな事を考えた俺が、今さらどの面を地べたに張り付けていられる。顔を向けるのは地面に向けてじゃない、劉貴と秀蘭にせいぜい真っ直ぐな目を見せつけなけりゃならないはずだ!

 なによりも、一体何をうつむく必要がある。

 俺は、今度こそ確かに守れただろうが!

 ようやく手に入れた自負がなによりも強い力となって腹腔の奥に火を灯す。活を入れたお陰だろう、手と足に力は戻っていた。

 四本のそれらで、せいぜいいつもの寝床から起き上がるように立ち上がった。

 もちろんただのポーズだ。

 まず感じたのは、喉の渇き。だが、幸いなことに赤くて温かい物が欲しくてたまらなかった訳じゃない。欲しいのは冷たい水だった。それが痛みに変わった。鈍い痛みは風邪を引いた時のそれよりもずっと不愉快だ。

 身体そのものは消して不調ではない。だが、夜が明ければきっと寒気がするだろう。知識でも経験談でもそうだったし、何よりも闇に対する強い慣れが陽光に対する忌避感を否応なく連想させた。

「く、工藤……大丈夫なのか」 

 黄蓋が、おっかなびっくり声をかけてくる。誰を庇ったのか覚えているからこそ、そんな顔になってしまうのだろうが、もちろん大丈夫な訳がない。

「当然だ」

 痛い時に痛いと言えたら、きっと男の人生は随分と楽になるに違いない。泣きたい時に泣けず、笑いたくなくとも笑わなければならないから生きることは辛いのだ。

「早く行け。敵が一度の奇襲で済ませてくれる訳がないだろう。確実に次があるぞ」

「し、しかし……確か、吸血鬼とやらに噛まれると己も吸血鬼になるのではないのか? あの張角達のように……」

 何も言わずに、懐からとっておいた桃の果汁を傷口にかける。まるで酸をかけたように、あるいは焼けた鉄板に水をかけたような音がして白い煙が上がった。歯を食いしばったが、痛みが脳髄を直撃する。

「お、おい!」
悲鳴を上げず眉もしかめなかったのは上出来だ。その痛みが治ると同時に落ち着きも取り戻した。体内に沈殿する赤い吸血鬼の侵略者が暴れはせずとも確かに存在し続けているのは感じるが、小康状態にはなったようだ。

「行け」 

 声が震えないようになるまで待ってから言ったが、誤魔化せた気がしない。だが、黄蓋は多少未練こそあったようだがちらりと腕の中で眠る孫権を見た後、馬を飛ばして去っていった。

「少しいいか」

 ゼムリアが断りを入れて、背骨に触る。何をしようとしているのかは察せられたので俺の方も同調して念を練り上げることにした。

 頭頂から宇宙のエネルギーが導かれて体内のチャクラを駆け巡る。ゼムリアの念も途中で和合し、それらは最初から一つであったかのように混ざり合いながら爆発的に力を伸ばして俺の細胞一つ一つにまで浸透し……吸血鬼の魔力とぶつかり合った瞬間、俺の体内から再度現われた何かの横やりで消し飛ばされた。

「……あんた、何かに憑かれているのか」

「……そのようだな」

 全く自覚はないが、どうやらそうらしい。今、秀蘭から差しむけられた呪いなのか、それとも騏鬼翁に術をかけられて気が付かなかったのか、あるいはトンブの呪詛なのかはさっぱりわからない。俺が鈍いのかそれとも相手が見事なのか、どちらにしても救いのない結果しか待ってはいないのが辛い所だ。

「まあ、やれる事をやれるだけやるしかないな」

 開き直るにも一苦労だったが、そこでくじけてもいい事は何一つとしてない。

「こっちはそれですまないだわさ!」

 物理的なそれ以外で俺達を圧倒する声が聞こえてきたのは、まさしくその時だった。背後から聞こえてきた大声、と言うよりも割れ鐘のような声に発情期のマントヒヒを何となく連想した俺は、うんざりしながら振り返って想像と一寸も違わない丸い顔を見つけて、深々ため息をついた。

「いつから覗いていたんだよ」

 彼女は転がったままの張飛をめざとく見つけて杖の上に旗のように引っかけると、鼻息荒く俺を睨み付けた。なまはげに睨み付けられ子供みたいな心境になる。

「あんたが劉貴に身の程知らずの勝負を挑んだ時からだわさ」

 身の程知らずとはご挨拶だが、反論の余地はない。秀蘭にしてやられた直後では尚更だ。

「まったく、これでどうあってもあんたは秀蘭を滅ぼさなけりゃならない。劉貴とやるだけでもとんでもない大事だってのに、その上難事を増やしてどうするんだい、このすっとこどっこい!」

 間の抜けて聞こえる悪罵が妙に似合っているのは、もちろんキャラクターだろう。

「ぐうの音もないな」

「だったら劉貴なんて放っておいて、秀蘭だけを狙いな! それだって大層な身の丈合わずの大仕事だよ!」

「俺の所になんて、顔を出す訳ないさ。もしも、もう一度顔を合わせることがあるとすれば劉貴が倒れた時だけだ」

「こりゃお終いだ」

 この河馬、一息も尽かせずに断定しやがって。

「まったく、まったく、とんでもない事になった物さ。よりにもよって、あんたが連中に噛まれちまうなんて。少しは防げなかったのかい!」

 鉄皮を使えばあるいは防ぐ事が出来たのかも知れないが、それをやれば間に合わなかった。つまり、無理だった。

 口にすれば馬鹿扱いされるのが関の山だけどな。

「俺にはあれが精一杯だ」

「ええい、このへっぽこ剣士め! 姉さんの言いつけじゃなけりゃ、とっくに見捨ててやった物を次から次へと面倒を増やしてからに、あたしを殺す気かい!」

 確かに迷惑をかけているのだが、罪悪感がないのはトンブ相手だからだろう。これが姉の方なら一人で何もかもやらなけりゃならないところだが、こいつ相手は時に気にならない。口では何と言っても、いざとなったら一人でさっさと逃げ出すと分かっているからだ。

 普通は“口では何と言っても”と言ったらもう少し別の言葉が続くはずなんだが、チェコ第二位の評価は俺の中で一定している。どっかの外谷とごちゃ混ぜになっているような気がしなくもないが、些細な話だ。

「これで一区切りつくさ」

 言って懐から取り出したのは、墨痕鮮やかに書かれた果たし状である。

「本気かい!」

「もちろん」

 殊更胸を張っていってやると、トンブはヒステリーを起こして髪をかきむしる。うお、白い物がぱらぱらと凄い。頭洗えよ。

 まあ、しばらくどってんばったんと漫画のように地団駄を踏んでいたトンブだが、餌の前で断食を命じられた豚のような鼻息で俺を睨み付けると勢いよく手を振った。

 どこからともなく、やたらと球体に近い梟が現われた。

「なんだい、そりゃ」

「あたしの使い魔だよ。こっちで見つけた即席だから、まだ姉さんのカラスのように喋れるところまでいかないけどね」

 主人がもう一度手を振ると、それはよたよた若鶏のように下手くそな飛び方で俺の肩を目指してくる。不格好だが、飛べる事その物に驚いていたので何も言わないでおく。

「使い魔になって太ったのか、太っていたから使い魔に選ばれたのか」

 些細な疑問はトンブには届かなかったらしい。よかった。
 まあ野生動物が太っているとは思えないので、きっと前者だろうと気の毒になって梟を見詰めていると、それが気に入らなかったのか高い声を上げて威嚇してきた。

「わるかったよ、そんなにいきり立たないでくれ」

 こんななりでも野生の勘は健在だという事実にちょっと感動しつつ、誤魔化す為に果たし状を放り投げる。受け止めたトンブの手がまるっきりミットだったが、触らぬ神にたたりなしだ。触れないでおこう。

「確かに届けてくれよ」

「ふん」

 面白くもなさそうな顔で、トンブはぶわっと鼻息を荒くする。厚く折りたたんである果たし状が勢いよく揺れた。河馬その物である。

「そいつにはあたしの術がかけてある。遠見の受け手になっているから、それでこっちの状況を把握しな。あたしの見た物はそいつにも届く」

「騏鬼翁辺りに見付からないだろうな」

「見くびるんじゃないよ」

 実力は高いが何処か一本抜けている相手だから、正直信用できない。いざとなったらドクトル・ファウスタスにお願いしよう。

「ああ、それと……そいつは汜水関の連中の前に」

「わかっているよ、見えないところでやる。ドクトル・ファウスタスとゼムリアは構わないよな」

「逆だ。あいつらにばんばん見せてやりな」

「…………」

 言いたい事が理解できないほど初心じゃない。

 大方、いざとなったらこっちに逃げ込むつもりだろう。その伝手作りに走りやがったな……元々そうするつもりだったのか、どっちにしても俺の提案に渡りに船で乗っかりやがった。だから油断も隙も無いと言うんだ。

「わかったよ、まったく。ちゃっかりしているもんだ」

「このぐらい当然さ、だからあんたは棒振り馬鹿なんだよ」

 皮肉を言ったのに胸を張られた日には、立つ瀬がないだろう。

「誰が棒振り馬鹿だ」

「決まっているだろう? いらない敵を増やした挙げ句、あっさりと餌食になった間抜けだよ。死んでも治らないなんて、生粋の馬鹿の極みだね」

「……」 

 チェコの魔道士が立て板に水を地でいきやがって、畜生。母国語が一つも出ないで流れるように罵倒されたのがまた癇に障る。

 ぐうの音もでないを地でいった俺は、トンブの目よりもゼムリアのそれが気になった。トンブにどういう目で見られていてもどうでもいいが、彼に失望の目で見られるのは避けたい。

 ちらり、と振り返った彼の目はむしろ俺の行いを面白がるような少年じみた色をしている。何とも言えない恥ずかしさが心中に湧き出ては、波間に出来た砂の城のように崩れていく。

「言われた通りにするんだよ」

「その言い方止めろ」

 まるで子供に言い聞かせる母親みたいな物言いに、思わず鳥肌がたった。あらゆる意味で母親という奴は俺にとって鬼門であるが、ましてやこれや外谷がと考えるとぞっとしないという言葉でも追いつけない。

 あ、そう言えばトンブは動か知らないが外谷は息子がいたという噂をせつらから聴いた事があった。不謹慎だな、反省しよう。

「それじゃ、こいつは渡しておくからしゃきっとおし」

「ああ、よろしく」

 口にはしたが、何よりも一番心配な事がある。トンブがどってんどってんといつまで経っても小さくならない雄大な背中を見せてゆっくりといなくなってから、俺は誰にという訳でもなく呟いた。

「あいつ、劉貴に果たし状を渡せるのかな」

 唯一答えてくれる相手からの返答は、どこか気まずそうな沈黙だった。


 せめて、明日待ちぼうけになるような間抜けな様だけは誰にも見せたくない。


 それが俺の切なる願いだ。
 

 



[37734] 念法二閃
Name: 北国◆9fd8ea18 ID:4ba12f81
Date: 2015/06/17 09:26
 おまたせしました。
 最長記録更新のくせに、最後までいかなかった……しかも遅れに遅れて申し訳ないです。



 最近考えている新しい作品

 FATE ZERO ~鏢~

 うしおととらでも一、二を争う格好のいい男、鏢が参戦するFATE ZERO

 巻き込まれただけの鏢。

 しかし、切嗣の目的と行動を知り、時臣の行いを知り、英霊さえ怯む激しい怒りを顕わにして彼らを叩きのめす。彼の激しい怒りの根幹を知り、協力を求める雁屋。自分とは全く対照的に、自分の知る誰よりも激しく強い執念を持って生きる鏢に激しく渇望を揺さぶられる綺礼。
 

 バケモノに奪われた夫として、父として戦う事をこそ望む鏢に、このままでいいのかと初めて夫に疑問を抱くアイリスフィール。

 父の過ちを知り、妹の受けた虐待と将来の運命を知り、魔術師としての生き方に、父に従うだけの母に疑問を抱く凜。
 
 そして現われる聖杯。

 しかし、怨念を蓄えたそれは絶望を振りまき世界を汚染する。その怨念を集める為に現われる白面の分身、婢妖。

 自分達が世界を危機に陥れる大妖の助力となった事実に、切嗣と綺礼は……


 
 なんてのを考えています。今時、あの男を知っているような人がそんなにいるかな? ともあれ、絶対に切嗣を始めとしたZEROの男達と相性最悪だと思う。
 

 とか思っていたら、うしとらアニメ化!? 
 い、今さら……? 期待が二割、あれがアニメでも再現できるか! が八割。名作家を次々手放しやがってどうなってんだ、今のサンデー。










 トンブの使い魔の存在を知り、最も怪しみつつ最も喜んだのは周瑜だった。

 
 オカルティックな存在を認めない訳にはいかない経験を詰んだおかげで、それを認めない頑迷さはない。彼女の憂慮は単純に信用できるのか、罠ではないのかと言う点だけだ。

 それについては、俺がトンブの意図を説明すると霧消した。せこくてみっともない逃げの手だからこそ、そういう奴もいると皆、最後には納得した。

 無償の善意は信じがたいが、有償の保身は信じられるのは万国共通らしい。チェコ生まれのトンブが漢の周瑜を信じさせたのだから、成る程と説得力はある。

 さすがに無条件で信じるつもりはないだろうが、自分の知略に自信があった彼女は仮に騙そうとしても見抜いてやると笑った。

 問題だったのは孫権と甘寧である。

 秀蘭にきっちり拐かされた孫権、守れなかった護衛の甘寧は失態から周囲に刺々しい空気をばらまいており、それは一番あたりやすい気にくわない余所者の俺にぶつけられた。胡散臭い提案をする俺は、彼女らの格好の八つ当たり対象として噛みつかれた訳である。

 口で女に適う訳はなく、相手は二人。面倒事を抱えてまでトンブの言いつけを守るのも馬鹿らしいと、ケツをまくろうとした俺だったが孫策が待ったをかけてきた。

「蓮華、思春、それ以上私を失望させないで」

「姉様!?」 

「工藤の案は受け入れる。それは冥琳の判断もあって私が結論を下した話よ。あなた達がこれ以上嘴を挟む話じゃないわ」

 彼女の顔は凜然としており、どこか冷たくさえ見える。甘寧はその顔色にようやく内心に渦巻く物に気が付いたのだろう、一言もなく黙り込んだ。しかしそれを孫権は分かっていないようで、なお言葉を連ねる。

「わ、私とて孫家の一員です! このような男のいかにも怪しげな提案を受け入れる事など納得いたしかねます! どうか、再考を」

 顔を真っ赤にしている姿は、意固地になっているとしか思えない。そうなった原因は、俺にあるのだろう。なにしろ、どうして彼女が狙われたのかを素直にばらしちまったからな。

 劉貴が何者であるかもお互いの立場も理解はしているが、それでも収まらないのが若い情熱と言うところなんだろう……にしても、そう言う自分の気持ちが狙われる理由になってしまえば形は何であれ動揺の一つもするだろう。

 おまけに、見るからに生真面目な彼女が恋心をばらされてしまえばそりゃあ、落ち着かんわな。と言うか、激怒するのは当たり前だ。

 とどめに、本人には言っていないが俺が孫策にばらしたのは誘拐騒ぎよりも前である。これがバレたら確実に火に油だな、くわばらくわばら。

 まあ、だからといってそれを許すような甘い人間が人の上に立てる器のはずがない。孫策は敵対する人外の男への彼女の思いを許さず、むしろ痛烈に叱責してみせた。

「怪しげ? 一体何が怪しげだというのかしら。馴染みのない妖術が信じられない? それとも嘘偽りだとでも言うのかしら。だというのなら、私達はもう何度も彼らのそれが出鱈目でもインチキでもないと身をもって思い知ったはずよ」

「私は、その男自身が信じられぬと申しているのです!」

 元々仲がいいともウマが合いそうだとも言えない相手ではあったが、拒絶反応が殊更にひどい。その原因が一目瞭然で口に上らせるのも憚られるほどであった為に、俺は返って口出しをやめておいた。

 しかし、そんな生やさしさでは通せないのは上位者の義だ。孫策はいたって冷めた彫塑で、似合わない冷徹さを崩さずに、孫権に思うところを思う存分突きつけた。

「信じられないのではなく、信じたくないの間違いでしょう」

「っ! ……どういう意味でしょうか」

「言わずと知れているわ。貴方が工藤を気に入らないのは何かしら。敵の人でなしへ向ける貴方の恋情を悟り、それを私に報告したから? それとも、蓮華の攫われた理由が劉貴大将軍とやらへの恋慕を気に入らない女が嫉妬したからだと言ったからかしら」

 はあ、とため息をつきたくなったが、静かな空気が強制的にそれを引っ込めてくれる。俺を挟んで姉妹喧嘩をしているようで、正直うんざりしてくる。修羅場なんてどれもこれもゴメンだが、こう言う胃か頭皮に響きそうな修羅場は、殊の外に嫌で仕方がない。

「わ、私は劉貴殿にそのような気持ちを向けてはいません! 全てはその男の勝手な邪推です!」

 顔を真っ赤にして否定する孫権だったが、少なくとも俺からみて説得力はなかった。まあ女心など朴念仁の俺に理解できるはずもないので、本当にそうかも知れないが……姉の孫策はどう思っただろうか。

 考えてみれば、こいつも色恋は下手そうな印象を感じる。女なのに女心が分からないとか言われていそうな性格をしているように思える。

「……何故剣に手をかける」

「不愉快な事を考えたでしょう」

 その通りだったので、悪いと一言だけ返して、間合いの外に引っ込んだ。上手くいけば、このままトンズラできるだろう。痴情のもつれとは少し違うかも知れないが、この手のやり取りは肌に合わないにも程がある。

「権殿、そうは言うが儂の目から見ても今の発言は鵜呑みにできんぞ? この歳まで独り身の女の眼力など当てにはならないかも知れないが、逆に言えばそれでも疑わしく思えるほどにあからさまじゃ。ああ、言っておくが儂は今の今まで先の話は知らんかったし、正直、工藤の事は野暮天丸出しと思っているのでいっかな信用してはおらなんだ」

 黄蓋の言葉に甘寧が一歩前に出て何かを言おうとしたが、それは形になる前に冷たい言葉で押しとどめられた。

「そもそも思春、どうしてお前がここにいられるのかを考えてみたのか」

「おい」

 何を言おうとしたのかを察して割って入ろうとした俺だったが、甘寧が松葉のように刺々しい目で余計な事を言うなと睨み付けてくる。

「貴様は引っ込んでいろ!」

「それはお前が言われる言葉じゃ! この戯け者が!」

 とうとう怒鳴りつけられ、面食らった甘寧だったがそれで手を緩めるような性格ではなかったらしい。

「あの女に権殿が攫われた折、護衛であるにも関わらずのうのうと寝こけていた輩が何を偉そうにしておる! 本来処罰されるはずの貴様が牢にも入れられず、罰せられもせずにここにいられるのが一体誰のお陰と思っている!」

 いらん事を言うな。

 そう言いたかったんだが、ここまで言われてしまえば今さらな話だ。

「まさか……」 

 そんな顔してこっち見るな。

「工藤が取りなしたからよ。お前が寝こけていたのは、相手の持つ抗いがたい術のせい。一度奏でれば、何人たりとて眠りにつかずにいられない妖の琴があった為と策殿や冥琳に告げたからよ。何があろうとも勤めは果たさねばならぬと譲らぬ二人に言葉を尽くしたのが誰だと思っているか!」

 これと言って尽くしたつもりはない。ただ、思うところをそのまま言っただけだ。大体、自分を第三者にしているんじゃない。お前が特に怒っていただろうが……だから、今もいきりたっているのか。

「加えて、権殿を庇いあの化生の女より牙を受けて……」

 さすがに言い過ぎだ。俺は問答無用で黄蓋の口を手で押さえて黙らせた。そこまでペラペラと話す訳ねぇと思った俺が甘かったか。

 手の平を唾だらけにされて眉をしかめつつ、俺は黄蓋を睨み付けた。目の色に何を言いたいのか悟ったんだろう抵抗を止めた彼女を解放すると、大きく息を吐き出して非難の目を向ける。

「余計な事を言うな」

「何が余計か!」

 寧ろ俺に怒りの矛先を向けてきた黄蓋だったが、そんなモン知るかい。孫策に目を向けると彼女ははあ、とため息をついて孫権に下がるよう命じる。

「蓮華、これ以上貴方の意見を聞くつもりはないわ。何も言わずに下がりなさい」

「し、しかし!」

 なおも諦めずに、どう考えても脳みそが熱くなっているとしか思えない有様で言いつのろうとする孫権だったが、もう一度目線を改めた孫策にようやく言葉を呑み込んだ。彼女がそうなると、甘寧も引っ込まざるを得ない。

 不満そうな顔で俺を一度睨んだが、彼女……と言うよりも孫権を見詰める周瑜の冷たく醒めた目に気が付いていないのはまずいだろうな。俺が言う事じゃないので、そこら辺は周泰あたりにでも期待しよう。

 結局、二人はそのままどこぞへと引っこんでいったが、砦内にはドクトル・ファウスタスが手を尽くしてくれたらしいので安心できる。そう言えば、ドクトル・ファウスタスは何処にいるんだろうか。一応、この傷を調べて欲しいんだが……

「借りがまた出来たわね」

「余計な事を言わないでくれたから、差し引き零だ」

 貸し借りなんて煩わしいので適当にお茶を濁すと、心底呆れた目で見られた。

「どんな差し引きをしたのか、いっそ興味深いほどだな。こう言う馬鹿も世の中にはいるらしいと勉強になった」

「うるさい。今まで黙っていた癖に開口一番がそれかよ」
 
 周瑜がどこか温い口調で人を馬鹿にしてくれる。周りに目をやると、周泰以外の孫策、黄蓋もそれぞれ似たような顔をしていた。尤も、黄蓋も孫策もどこか怒気も篭められていたが。

「こっちとしてはあんたのその性格は悩みの種よ。こっちの貸しばっかり溜まっていく一方で、一体どうすれば返せるんだか想像もつかないわ。それなのに、無理やりなかった事にされても、こっちが落ち着きやしない。まさか、私らがそれにあぐらをかく恥知らずだと思っている訳じゃないでしょうね」

「同感じゃの。命を救われたのは一度でも一人でもない。それに加えて、今回は工藤自身が重大な危機を迎えている。今すぐにどうこうという話ではないと信じるが、我ら孫家の一同はだからといってそれを良しとするほど図太くはない」

 思っていました、とかそうでもないだろ、なんて言うのはさすがに不謹慎が過ぎるだろう。それに、言っている事は確かに理解できる上に真っ当だ。逆に、本当に平気な顔をされていれば理不尽だとは思うがきっと腹が立つだろうな。

「そうは言うが……ぶっちゃけ、して欲しい事ってないぞ」

 実際、その通りである。この国に根を下ろすつもりなら住む家でも世話してもらうってのはありだが、結局“新宿”に帰る事が大前提である以上はして欲しい事が思いつかない。

 率直にその旨を伝えると、孫策、黄蓋、周瑜がそれぞれ目配せした後でまじめくさった顔で、とんでもない事を言ってきた。

「ねえ、工藤……一つ聞きたいんだけど帰らないで私達と一緒にいるって事には出来ない?」

 突拍子の無い事を言われて、即座に反応を返せるほどオツムの出来はよくない俺が一拍おいて口にしたのは、意味のない適当な相槌だった。

「ああ?」

 ようやく脳みそに言葉の意味が浸透しても、ろくな返答を出来そうにない俺は少しの間黙り込んだ。ようやく考えが纏まったのは、すっかり忘れていたが周瑜が以前、俺を護衛として雇おうかと言っていたのを思い出したからだ。

「経験則だが、これ以上お前らの前に妖物の類が出てくる事はないと思うぞ。普通はそんな事はないだろう。俺の地元は例外だが、そう簡単に、人が人あらざる物と敵対遭遇する事なんざない」

 よく考えると、そもそもこの世界が真っ当に成り立った世界なのかも未だにはっきりとはせず、正直時と場合によっては全く予測がつかない大異変も起こりかねないのだが……それは敢えて何も言わずに終わらせた。

「とことん朴念仁ね」

「何回目だ、それ」 

「言われるあんたに問題があるのよ」

 確かにその通りだと納得した。返す言葉がない。ないんだが、とどのつまりは何を言いたいんだ。まさか、俺に天の御遣いの二番煎じをやれとでも蒸し返すつもりか?

「血の巡りが悪いわね」

「自分を低く見積もっているからだろうな」

 周瑜まで利いた風な事を言う。人をそう言う生暖かい目で見るんじゃない。

「一体何が言いたいんだ、結局こき下ろすような男に何をさせたいんだ」

「婿」

 むこってなんだろう。単語を理解できずにしばらく探った俺は、確かに血の巡りが悪いんだろう。図らずも証明していまい、それを自覚すると非常に嫌な気分になった。むこ、の意味を悟るとますます嫌な気持ちになる。

 理由も分からず脈絡がないように思えて、結局はからかわれているとしか思えないからだ。モテナイ男の僻みが多分にあるとわかってはいる。

「おちょくるってんなら俺は寝る。疲れていない訳じゃないんだ」 

「どうしてそう言う考えになるのかしら」

 どうしてそうならないって思うんだ。真面目に考えるだけ馬鹿馬鹿しい。こんなしょうもない会話なんぞ真面目に出来るか、時間の無駄だっての。

「雪蓮の言い方が軽すぎる。それでは真面目に聞く者の方が少ないぞ」

 はあ、とため息をついて周瑜が前に出てきた。まじめくさった顔をしているので本気のように見えるが、こいつと孫策が同性愛の関係だと聞いた以上、どういう意味でも本気で受け止められるはずがない。せめて服装変えて出直してこい。

「悪ふざけに付き合えるような性格じゃないんだ。茶化したいんならよそでやってくれ」

「そう言いたくなる気持ちもわかるが、どうか落ち着いて聞いて欲しいものだな」

 周瑜は、少なくとも顔だけは真面目で洒落が利かなさそうな女だ。これだけしっかりと明言しているし、一応真面目に聞いてみるか。

「ありがたい。それでは話を続けるが、決して雪蓮は巫山戯た訳ではなく真面目に君を婿に迎えたいと思っている。正確には、君を含めた三名にだ」

 血の巡りは悪いかも知れないが、それが誰なのかを察せられないほどじゃない。ゼムリアもまた、他人事の顔をやめてきょとん、と周瑜を見ている。

「もしかして、俺も?」

「その通りだ」

 頷いているものの、ゼムリアは困っているだけだ。どう見ても乗り気には見えない。まあ、当たり前と言えば当たり前か。話が唐突過ぎる。その上、現代日本の価値観を引きずっている俺としては、スキルと道具が目当てだと露骨すぎて目も当てられん。

 まだまだ社会制度に不安の大きいこっちじゃ、恋愛結婚なんて有り得ない。それが普通なんだろうが、俺は馴染めんし馴染むつもりもない。その手の“家”を背負った結婚が悉く不幸になったのを見てきた事もあるけどな。

 大体、女を恋人にしている女の所に婿入りするとかありえねぇよ。

「なんでまた……」

「率直な事を言えば、女所帯の孫家において婿のなり手は重要だ。しかし、生憎とこれまでろくな男に巡り会う事はなかったのだ。まあ、孫家そのものの存続が危うかった事もあり殊更に見合いの機会もなかったが、それを差し引いてもろくな出会いがなかった」

 そんなこっちの気も知らず、周瑜はなんだかもの悲しい事を言う。ろくなものじゃなくても、機会があるだけいいだろうと思うのは状況がよくても機会がなかったスペックが低い男故の意見である。

「ハッキリ言って、漢の男達は大体が私達よりも弱いし頼りがいがないのよね。母様が生きていたら、それでも私達が我慢すればよかっただけですんだかもしれない。でも、今の孫家にそんな妥協は許されないの」

「かと言って、それなりに頼れる男が落ち目の孫家に来るはずもない。そもそも、さっきから策殿も冥琳も言っているようにロクな男がおらんしの」

 落ち目と言った黄蓋の後頭部に孫策の視線が突き刺さったが、彼女はそれを華麗に無視した。

「……で、俺達に白羽の矢がたったと」

「うん、そう」

 特に悪びれた様子はない孫策達にしてみれば、当たり前の事なんだろう。時代の違い、国の違い、総じて価値観の違いについては“新宿”に腰を据える以前から工藤の家を訪ねてきた伝統の武術流派だの、八頭についていって出会ったどっかの王家や失われた民族の生き残りだのに出会って慣れてはいるんだが、それでもうなずける話とそうでないものはある。

「悪いが、断る。俺は帰らなけりゃならないところがある」

「俺も、旅の途中なんでな」

 たぶん、ドクトル・ファウスタスも一緒だ。そう言って彼は肩をすくめた。俺は俺で、いつの間にか鼠を捕まえて食っていた梟に目をやった。孫権に酷評されていた時も主人同様にふてぶてしい態度で無視していたんだが、俺の視線に振り返ってからつまらなさそうに食事に戻る姿もやっぱり似ていた。これが偶然なら、この主従が出会ったのは運命以外の何物でもあるまい。

 こんな所で運命を感じるとは、なんてこった。

「あっさりと断るわね。こんないい女を好きに出来るのに」

「やりたい放題好きにさせるような女には見えないし、女を好きにしたい訳じゃない」

 胸を強調してみせるが、それで転ぶほど安く見積もられているんなら寧ろ腹がたつ。しかし、そう思ってムキになったのは俺だけのようで、ゼムリアはちっとも惜しくなさそうな顔で惜しかったな、と嘯いている。なんだか、彼を見ていると俺が逆に執着しているように思えてみっともなく感じた。

「まあ、それなら今回はそれでいいわ」

 俺達よりもあっさりと言った。畜生め、やっぱりからかっていたな。ふん、と鼻を鳴らしてから意地汚く鼠を骨までしゃぶっている梟の首をひっつかんだ。

 何とも言いがたい声を上げて、抗議の目で俺を見上げてくるが黙って見下ろすと目をそらした。何とも人間くさい、と言うかトンブ臭い。

「適当に休んでいる。日陰にいるだろうから、用があるなら会いに来い」

「はいはい」

 いかにも適当にひらひらと手を振る女達に背を向けて、俺は孫権らを探す事にした。彼女らに気が付かれないように、そしていざ事が起こった時に間に合える位置を探さなけりゃならない。

 全く面倒だと思ったが、幸いにしてそれなりの場所はすぐに見付かった。孫権の部屋が見下ろせる、窓の見える位置の木の上。居住区になっているらしく、居心地の良さそうな部屋に見えた。こっちは野宿だ、お姫様め。

 忍び込んで気配を消してからおもむろにハア、と人目を気にせずにため息をつくと、少し楽になった。こうやって腰を落ち着けると、最近は随分と働き過ぎの気がしてくるくらいの余裕も出てきた。

 そうなると、今度は雑念が湧いてくる。

 その対象は、もっぱらさっきの孫策の突拍子のない申し出だった。からかわれているんだと意識して思い込んでも、最近の禁欲生活が祟ったんだろうか。どうしてもラインの顕わな女体が脳裏に浮かんで離れない。

 男子としての欲求をみっともないと思うほど見栄坊ではないが、ああいう申し出を前にしてあさましい下心こそが第一に出てくる事には恥ずかしさを感じる。

 さっきから女三人が扇情的な衣装をそのままに俺を手招いている姿ばかりが浮かんでくる。その彼女らを、俺の腕が抱き締めるところを想像してしまった。

 おかげで疲れているのだ、と自覚する。

 女を欲しいのではなくて、抱き締めたいか抱き締めて欲しいかを望んでいるなど甘えているとしか言いようがない。女の暖かさを欲しがっているなど、本格的にどうかしている。これじゃあ、“新宿”で始めて仕事をした日にシャーリィ・クロスの身体に溺れた日とおんなじだ。

 情けねぇ、成長していないのかよ。

 大の男が、たかだか吸血鬼になりかけたからってへこたれてどうする。お前の知っている男達は、百倍ひでぇ目に遭っているのに、どいつもこいつも泣き言を言わないどころか想像さえしなかったぞ。

 お前の知っている女達だって、今のお前の十倍はひどい目を見ているのに必死に生きていたんじゃないのか。中には、まるっきり無力なひとだっていただろう!

 腕に覚えがある男が、鍛えてきた身体を持つ男が、今さら我が身にちょっと面倒が起こったからってうつむいていてどうする。

「リ……」

  誰かの名前を口にしそうになり、それを押さえ込んだ。義兄や養父の名前を出さなかったのがせめてもの幸いか? 女にすがりたくなる男と、親に甘えたくなる子供と、どっちがどれだけ情けないかなど考える値打ちもないことだけどな。

 もしも、今の自分を客観的に見る機会があったら情けなさに顔をしかめて罵るだろう。

「…………」

 情けなさ過ぎる自分自身を戒めるべく、俺は太めの木の枝の上でわざわざ座禅をする。奇妙な振る舞いではあるが、それをしてしまう精神を落ち着かせる為の座禅である。武芸の世界において、自分自身と向き合う為に座禅をする流派は数多い。

 拳禅一如などおためごかしよと笑う流派もまた数多く、その誰もが人を倒す事と精神を昇華させる事は別、心を鍛えて偉人にでも聖人にでもなりたければ武術をするより禅寺にでも行けと笑う。心身を鍛えるのではなく敵を倒す術を学ぶのが武術なのだから。

 至極尤もな事なのだが、それに真っ向からぶつかるのが念法だ。精神を昇華させる事で人あらざるモノを討つが念法の本義。まあ、昇華させても人格が高尚になるとは限らないので、強さと高潔さは必ずしも一致しないという諸流派の意見は正しいと思う。

 ただ、そう言った主張が正しかろうが間違えていようが今の俯いた気持ちを少しでも上向きにするのに座禅が一番適しているのが事実だ。

 目を閉じて、耳を澄ませて、全身……ひいては意識そのもので世界を感じとる。その中にいる自分自身を見詰めて、そして自分の中に埋没する。

 自分は世界の中に確かに存在するという事実を土台にせずに自己と向き合えば、それはただの独り善がりになる。自分を見詰める為には、自分以外をまず見詰めなければならない。

 呼吸を二つする頃には、もう落ち着いていた。

 全く情けない。これっぽっちで動揺するなど浮ついている軟弱にも程があるだろう。今度、精神面をきっちり鍛え直すしか有るまい。

 それはさておき、気になることを思い出してそちらに思考を割り振る。

 俺と、そしてゼムリアの念を奪い取ったのは一体何だ?

 吸血鬼化を少しでも遅延する為のせめてもの抵抗として練り上げた俺の聖念を、体内から現われた何かが吹き飛ばしてしまった。それはつまり、体内に何者かが巣くっているって事だ。

 ある意味、吸血鬼化するのと同じような目にもう既に遭っていたって事になる。しかも気が付かない間に、だ。なんてこった。

 恥にさえ思える鈍感さ具合だが、今さらながら落ち着いて考えなければならない。

 まず、本当に前々から取り憑かれていたのか。

 もしかしたら吸血鬼化すると、自然とついてくる現象なのかもしれない。何故なら、アレは明らかに吸血鬼化進行を抑制しようとする念に対するカウンターだ。吸血鬼化を助けようとする正体不明の“何か”が秀蘭によって噛まれた際に一緒に送り込まれた……おかしくはないだろう。

 元々、孫権に対して刺さるはずの牙だ。彼女の側に俺がいることは百も承知。その為に、殊更に念法に対する備えをして俺を絶望させる……大いにあり得ることだ。
そう言う陰湿さは女の物だと信じている。根拠には、魔界都市に足を踏み入れる前から何度も出会っている。

 いや、違うか。

 それがなくても、吸血鬼化の治療はドクター・メフィストでさえ死者を生き返らせるよりも困難と言ったほどの難事。対策などそもそも必要ないんだ。それを承知していないとは思えない。

 吸血鬼化を助長しようとする力が元々俺の中にあるって言うのか? そりゃあ、今まで吸血鬼に噛まれたことなんか……

「……カズィクル・ベイ」

 全身に鳥肌がたった。

 もう随分昔の話だって言うのに、未だに畏れが消えていないらしい。忘れたことはないが、これほどに尾を引いているとは自分でも思わなかったぜ。

「あの男の影響か?」

 しかし、彼はとっくに滅ぼした。それなのに、残滓が残っているとでも言うのか? 確かにドクターにしかと治療してもらった訳でもないし、相手はあの大吸血鬼なんだからそれほどおかしな話でもないのか? 

 吸血鬼に噛まれたせいで、通常は眠り続けているかつて注ぎ込まれた闇の遺伝子が活性化した……いまいち腑に落ちないが、こんな所なんだろうか?

「いまいち、スッキリしないな」

 すとん、と落ち着くような感じがしない。我ながらこじつけているだけのように思えてならないのだ。やっぱり、違うのか?

 自分の体内に存在するという正体不明のそれが落ち着かなくってしょうがない。出来れば、ドクトル・ファウスタスに看てもらいたいところだが孫権をほったらかしにするのも気が引ける。

 危険な目に遭いそうだと言うよりも、なんだかとんでもない事をしでかしそうな気がするからだ。まさか、劉貴に会いに行こうとかしないだろうな。

 恋は盲目という言葉があるが、あの孫権とか言う女は生真面目そうだったが、穿った言い方をすれば視野が狭くも見える。簡単に男に転ぶような尻軽じゃなさそうだが、その分一度思い込んだら何処までも突っ走りそうに見えるのだ。

 それこそお前の思い込みと言われてしまえばそれまでだが、どうにも落ち着かなくって仕方がない。ここで孫権を監視している方が気楽である。

「ふっ!」

 腕以外を一切動かさず念を篭めた飛礫を闇の中に投げると、虫が潰れたような音がした。騏鬼翁か? 秀蘭は恐らく使い魔を出すような余力はあるまい。劉貴が罰している事は間違いないからな。その点、俺はあの益荒男を疑ってはいない。

 梟がどこからともなく飛んできて、闇の中に消えるとすぐに戻ってきた。嘴にはさまれているのは、一匹の蛾だ。妖気を放っている。

「一匹ですんだのかね」

「たぶん、まだいるだろう」

 ゼムリアの声でも、いきなり暗がりから聞こえてくるのは心臓に悪い。

「脅かさないでくれ」

「気が付いていただろう」

 その通り、察していた。どうやら、闇の中では俺の勘は冴え渡るようになったらしい。苦い事実を突きつけられたが、それで不平を表に出すのは男らしくない。

「酒でも持ってきてくれたのか?」

「いや、替わろうと思ってな」

 何をだよ。

「ドクトル・ファウスタスが呼んでいる。吸血鬼化して、それを助長する何かに巣くわれている。それでも自意識を保っている患者。なおも戦おうとしている男を放ってはおけないのが医者の矜持だそうだ」

 ありがたい申し出である。

「頼む」

 うなずいてから、ゼムリアは一言いらんことを言った。

「その素直さは、彼女達には出ないのか?」

「俺はいつも素直だよ。嘘や誤魔化しが出来るほど賢くないんだ」

「意地を張りすぎるほどに馬鹿みたいだからな」 

 誰が馬鹿だ、と言い返せないのは返す言葉がないからだ。

「意地も張れない男なんて、もっと駄目だろう」

「もっともだ」

 今の俺が駄目ではないとは言えない。“ない”が続いて分かりづらいが、とにかくそうだ。

「ドクトルは、馬鹿につける薬を持っているか?」

「あいつはなんでも持っているさ」

 そりゃ凄い。

 ちなみに“新宿”では実際に馬鹿につける薬は存在する。知能指数を上げたり、記憶力を上げたりするそれが魔界都市より“区外”の学生にまで出回り、受験シーズンになると例年三回はニュースになるほどだ。
 
 もっとも、実際にそれをやるのは馬鹿と相場が決まっている。副作用のあるような粗悪品しか学生の小遣いでは手に入らないからだ。結果として、急に成績が上がったはいいが不自然すぎてばれた挙げ句、副作用で馬鹿に拍車が掛かる大馬鹿が続出するのだ。

 人間こつこつ真面目にやるのが一番だが、どこぞのトレジャーハンターはともかく居候の疫病神の方が、彼の財力で安全確実な最高級を用意しろと定期テストの度に我が儘こいているらしい。

 きっちり金をかけて、職業柄必要な知識をあれこれ脳裏に焼き付けた俺には文句を言う資格はないけどな。そもそも学生じゃないしどうでもいいんだが。

 さて、今のような戯れ言をドクトル・ファウスタスに言ったらどうなるだろう? 

 そんな益体も無い事を考えながら、俺はゼムリアに聞いた彼の仮の診療室になっている一室を目指して足を進めていった。







 結論を言うと、人間に戻るには古来から続く方法を実践するしかないと言われた。
 
 それについては落胆など欠片もない。元々それ以外にないと思っているんだから当然だ。問題なのは、俺の中に巣くっているのかもしれない“何か”である。
 
 それについて、ドクトル・ファウスタスは確かに明言した。

「君の中に、何かが巣くっている。それはどうやら女であるようだ」

「……女?」

 一体何を持ってそう判断したのか知らないが、ともかく俺の中に女が巣を張っているらしい。咄嗟に、記憶の彼方にいる蜘蛛の女を思い浮かべたが関係はないだろう。

「巣食っているっていうのは、術か呪いでも……」

「違う。体内の奥の奥、魂を汚染するような場所に何かが根を下ろしている。術などと言う曖昧な物では無く誰かが居座っているのだ、あるいは……何かが」

 それを大袈裟な脅し文句と笑うことは出来なかったが、怯むこともなかった。

「…………」 

 女、と言えば真っ先に思いつくのは秀蘭だ。あの女が何か仕込んだのか? 生憎と、見当もつかん。あの時の苦痛と悪寒は、吸血鬼化したからだけじゃなくて、他にも理由があったのか?

「取り除けますか?」

「念入りに調べなければなるまい。それまで、君はここで安静にしていたまえ」

 かくして、俺はドクトルの臨時診察室に缶詰となった。

 まあ、日差しを避けなければならない身としては悪くない話だ。ここで英気を養って劉貴との一戦に臨むのも悪くはない。本音を言えば、落ち着かなくて仁王をぶん回したくなったりするが、さすがにそれをここでやるほど馬鹿じゃない。

 代わりって言うのも少し違うが、あぐらをかいて仁王を抜いてひたすらに念を練り続けた。医者の側に置いてあるには何とも珍妙で、人によっては不快になるかもしれないようなオブジェだが、意外と悪評はなかった。

 夜の間に重傷患者が次々と現われたが、俺の念は彼らの心身に好影響があったらしい。おかげでドクトル・ファウスタスは、次回からはゼムリアに同じ事をさせようと言っていた。すまん。

 それはともかくとして、幸いにも俺は静かな時間を過ごす事が出来た。あるいは騏鬼翁か秀蘭の手が伸びるか、それとも誰か武将……最有力候補として甘寧が俺に因縁をふっかけてくるかとも思っていたが、意外にも静かな時間が過ぎていく。

 しかしそれは俺に限った話で、この汜水関その物は常に殺伐とした空気に包まれていた。どうやら連合は有り余る兵力で波状攻撃をかけているらしく、孫策達を休ませない為に夜も交代制で攻めてきているらしい。

 こっちが砦の中だろうと放ってはおけず、同じく交代制にはしているが明らかに向こうよりも兵数は少なく、消耗は激しいそうだと言う兵士達の話を小耳に挟んだ。それでも汜水関に篭もっていれば、時間が経つごとに兵糧の問題でこちらが有利になってくると将は兵士を励ましているそうだ。

「……」

「落ち着かなさそうだな」

「まあ、どうにも」

 忙しく治療をこなしているドクトルに、手伝いを申し出た物の患者にさせるのは医者の名折れと断られ、どうにも一人だけ怠けているような居心地の悪さが落ち着かなくさせている。

 そこら中がバタバタしている中でのほほんとしているような図太さを俺は持っていない。日本人らしいとも小市民的だとも言える。

「日差しは直に出てくる頃だ。吸血鬼に噛まれた君が出ていくのは自殺行為だ」

「……承知しています」

 うなずいて、ドクトルは俺が来てから記念すべき百人目の負傷者の矢傷をあっさりと完治させる。顔面を射貫かれ、眼球に達した傷があっさりと治ってしまった患者は、血を流していた目から感涙を流して、神か仏に対するようにドクトル・ファウスタスを拝んでから意気揚々と戦線に復帰していく。

 ドクトル・ファウスタスのいる砦を守る為に身体を張るらしい。このやり取りは患者の数だけ続いている。

 彼らはドクトルの為にならば笑って命を張るだろう。それはただ命の恩に報いる為ではなく、それ以上に強いドクトルの患者への慈愛にこそ彼らは報いたいのだ。それは、“新宿”でもよく見る光景だった。

 しかし、彼の闘志はどうやら空回りに終わるらしい。

 入れ違いにやってきた周泰が俺とドクトルに戦闘の終了を告げ、孫策らの元へ来てくれと頼んだのだ。一体どういうわけなのか、ここで戦闘を中止する理由が何処にある?

 俺でも敵に何か異変が起こったと察せられる。問題なのは、見当もつかない異変の中身だ。

 全員吸血鬼になりましたとかじゃないだろうな。

 肩に乗っかろうとした梟に、ダイエットだから自力で飛べと言って追っ払い、よたよた不格好に飛んで追い掛けてくる姿に不安を感じながら孫策の元に案内された俺達を迎えたのは、汜水関に旗を立てている武将の内、呂布と陳宮を除く全員だった。

「これで揃ったんか」

 場を仕切るらしい張遼が言うには、呂布と陳宮の二人は前線の指揮に立つらしい。あの脳みそが食い意地と本能で固まっている何も考えていなさそうな呂布と子供にしか見えない陳宮が防衛の指揮とは随分な話だが、敵が退いて待ちの体勢なので問題はないそうだ。

「敵に突っ込まなけりゃいいけどな」

「恋は、腕はあるけどそこまで喧嘩っ早くない。やる時はやるけど、普段は寧ろのんびり屋や。これが華雄だったらかなり怪しいけどな」

 ふうん、と言って孫権、甘寧と一緒に来たんだろう端にいるゼムリアと肩を並べる。

「そんで、まずは工藤に聞きたいんけど」

 この場にいる董卓側唯一の武将だが、そんな彼女が仕切っているのは孫策達が一歩譲ったのかもしれない。

「なんか、あの時のとんでもない太った婆ちゃんにおかしな梟もろたって……そいつなんか?」

「とんでもないのは体型か?」

 ちゃかしながら、同じくとんでもない肉付きの梟を前に出す。そいつはいかにもふてぶてしい顔でぐるりと首だけで周囲を見回す。その仕草に周囲の人間様が鼻白むほどの貫禄があった。俺はと言うと、首の肉が邪魔にならなかったスムーズな動作に驚いていた。野生って不思議だ。

「なんや、あの婆ちゃんによう似た鳥やな。どっから連れてきたんや、この壺みたいな梟」

 梟が馬鹿にされていることに気が付いたのか、甲高い声で叫んで周囲の度肝を抜く。

「人の言っていることが分かるのか?」

「わかるだろう、そりゃ。そうでなければ、どうやって指示を聞く」

「普通はここまでわかりはせんぞ……」

 周瑜や黄蓋がそれぞれ信じがたいという顔をしているが、喋る鴉がいるんだから聞き取る梟がいてもおかしくはあるまい。

「あのおばあさんの梟か……なんだか私達の言う事を何もかも報告されそうで、うかつな事は言えなさそうな気がするわね」

「それもいつもの勘か?」

 孫策が笑いたいけども笑えなさそうな顔で梟の顔を覗き込む。つつかれたらどうする、危ないぞと近付いてきた周瑜がからかうように笑うが、孫策は笑わなかったし、ハッキリ言えば彼女のそれは洒落になっていない。

「繋がっているだろうから、それもあり得るぞ」

「……え」

「使い魔の機能としては最低限の物だからな」

 ぎょっとした顔は見物だった。日頃の彼女をよく知り、トンブとの間に起こったトラブルを見ていない周瑜と孫権、甘寧の三人が目を丸くしている。

「……もしかして、今うちが言ったのも……」

「まあ、あんな一言でそこまで本格的な制裁なんかをしてくる事は……無いといいな」

 悪いが、ここで断言するのは嘘つきの無責任である。どんだけ顔色を悪くぞっとした顔をされても、他にいいようがない。

「ふ、不安になるんやけど……」

「安心しろよ。どういう形にしても、明日には縁が切れる」

 明日、俺と劉貴がやり合えばどんな結果であれトンブはいなくなる。劉貴が滅びれば、俺達は“新宿”へと帰る。俺が死ねば、トンブは死体をひっつかんで“新宿”へと逃げるだろう。彼女がここにいるのは、俺の我が儘に過ぎない。

 妖姫が約定を守るとは思えないし、貂蝉との契約もあるんだが、トンブにしてみれば知ったこっちゃないだろう。

 すたこらさっさとは言い難い、風船のような動きで逃げ出すのが目に見えている。その辺を説明すると、孫策はふうん、と考え込んだ。

「どうかしたのか?」

「ん、明日は決戦なのねと思って」

 俺にとってはだけど、な。

「そうとも言い切れないぞ。袁術の兵を人外に造り替えたのはあの男なのじゃろう。あの大兵力が変わるとなれば、その意味は大きい。儂としても、どうせなら人と戦った方がいいので明日は期待しとる」

 黄蓋は、斬られても平気な化け物を相手にするのはもうゴメンじゃとうんざりした顔を隠さずに嘯いた。花扇跳鬼との殺し合いは忘れられないらしい。

「劉貴の不死身はアレ以上だぞ。殴って投げれば滅ぼせただけ、花扇跳鬼はまだマシだ。それでも普通は遭遇すれば喰い殺されるだけの怪物だがな……いや、あれは踊りで呼び寄せるか」

「そのような話よりも、何故我々がここに集められたのかを教えて頂けませんか」

 俺のセリフに重ねるように声を上げたのは孫権である。目が鋭く俺を見詰めている。後ろに控える甘寧も一緒だ。

 話の中に、俺がいる。呉の人間を含めた人の輪の中に俺がいる事その物が許せない。そんな顔だ。俺の勝手な思い込みかもしれんが、俺が気にくわないというよりも姉や友人、あるいは仲間……まあ、身内のカテゴリーに異物がいる事が許せないんじゃなかろうか。とりわけ、久しぶりの再会だったからな。

 ゼムリアに矛先が向いていないのは、俺の方が気にくわないというのもあるだろうが孫策と俺の距離が近いからだろう。つまり、こいつが悪い。

 適当に思考だけで遊んでいると、俺の脳内を察したのか孫策が醒めた目で見てきた。女という奴は、男の脳みその中身を読む機能がついているとしか思えない。

「そら、今言った通り。そこの梟が連合の……劉備、天の御遣いの所にいるとんでもない婆さんから送られた内通の証明だそうだからや」

「内通……? なぜ、梟が証明なのです。それに、劉備とは何者ですか?」

「天の御遣いとは、いつだったか噂で聞いた流星に乗って現われるという救世主の事ですか? 本当にそんな者がいるとでも?」

 とりあえず、面倒になりそうなので張遼の作った流れに乗っかる。

「こいつは使い魔だ。主と繋がっていて、こっちに向こうの情報を伝えてくるらしい」

「劉備……中山靖王の末裔を自称している新興勢力やな。天の御遣いはそこで担がれている男で、こっちも結局は自称や。でも、他に名乗る阿呆がおらんので一応本物扱いされとる。なんでも“皆を幸せにする世界”だかの為に挙兵したらしいで。そいつらと戦っているうちらは、さながら国を不幸にする悪の手先やな」

 は、と笑う張遼のそれは、飄々としている彼女でも腹に据えかねている物は多いと突きつけるような、さながら茨みたいに険を感じる。その刺々しさに怯んだ孫権だが、妙に強い調子で次の言葉を紡いだ。負けん気をおかしな所で出した様子が少しおかしかった。

「内通と言う事は、こちらに味方をする気があると言う事ですか? 今の話だと、あまり信がおけるような人物には思えませんが……」

「その辺を確認したいんで、敵が退いた今のうちに話を聞きたいんや。で、どういう話をしたん」

 そこで話を振られる。一つ、彼女らの話を聞いて訂正の必要を感じたのでまずそれを指摘する。

「勘違いをしているようだが、これは劉備達からではなくあくまでもトンブ・ヌーレンブルク個人からの申し出だ。劉備達は何も知らないと思うぞ」

「はあ?」

「おやおや……」

 呆れるのは分かるが、実際にその通りだ。

「そりゃあ、どういう事や」

「どう転がってもいいように、こっちにも逃げ道を用意したんだろうな」

「せっこいのお」

 黄蓋のセリフが全てに思える。まあ、本当にせこいんだからしょうがないだろうな。

「まあ、だからこそ楽な部分もある。自分以外まで助けろとはいわんだろ」

 もしも正義感に満ちたセリフでも出てきようものなら、偽者なのか、あるいは隠された意図があるのかどうかを疑う必要がある。

 まあ、美意識的な意味でトンブに化けたりするような奴もでないだろう。
 
 我ながら失礼な事を考えていた俺の耳に、梟の甲高い鳴き声が届いた。トンブが怒ったかなと思ったんだが、それ以外の理由だった。

 梟が宙をふわふわと風船のように飛び上がり、適当な高さにあったからなのか机の上に止まると壁に向かって視線を固定した。

 その鳥類としては際だって大きな目が真円に見開かれると同時に、壁にプロジェクターのように映像が映ったのである。どこか古くさい演出に思えて、俺は失笑しそうになったが他の連中は度肝を抜かれていた。

「な、何これ?」

「随分と古くさい……どうやら、何か伝えたい事があるらしいな」

 映像に映ったのは、どこかの室内だった。天上、壁が布で出来ていて下は地べたという様子からしてテントのような物の中だと思うが、そこに随分たくさんの女達が集まっている。中には見覚えのあるのが何人かいた。

「これは袁紹……それに曹操、他にも武将らしいのばかりがいるな。もしや敵陣の中なのか!? しかも動いている……もしや、今の連合が映っているのか? 穏が見たらとんでもない事になりそうだな」

 とんでもないとはどういう事なのか、奇妙に興味をそそられたがとりあえず投げておく。それよりも、これが何の集まりなのかだ。音声も幸い聞こえてくるので、戸惑う事だけはない。

「これは何だ!? 術なのか、道具なのか? こんな手段があるなら、戦争……いいや、世界がひっくり返るぞ。これは誰にでも出来る事なのか!?」

 周瑜がさっきから一人で狼狽えている。まあ、未来の人間にしてみれば言っている事はよく分かる。こいつに携帯とか、そうでなくてもトランシーバー当たりを教えてやったらどうなるだろうか。

 ノータイムで遠距離と会話が可能。あるいは今のように盗聴、盗撮が可能となれば防犯手段が伴わなければ戦争行為全てが瓦解する。防ぐ手段に心当たりのない知恵袋としては悪魔のように恐ろしくも魅力的な手段に違いない。

「魔道の術はよく知らんが、違う技術で同じ事が誰にでも出来る道具はごろごろしているぞ」

「っ!」

「俺の母国は、盗聴と防諜のイタチごっこさ。今日の最新が明日にはあっさりと時代遅れになっている」

 からかってみたくていらん事を言うと、想像以上に顔色が変わる。いやあ、カルチャーショックだな。もっと驚けとあれこれ見せびらかしたくなる俺だったが、生憎と横から孫策が嘴を挟んできた。

「それはそれで面白そうな話だけど、また今度にしてもらえる? 今はこっちが重要よ。冥琳、見逃しも聞き逃しも認めないわよ」

「う、うむ」

 孫策が場を締め直し、気を取り直した一同が注視する中で新しい聞いた事のない声が場の空気を無視して甲高く響いた。

『一体どういう事ですの!? 何故攻撃を取りやめたのか、誰の指示なのか、説明なさい! 連合の盟主であるこの袁本初に一言の断りもなく、誰が攻撃命令を撤回したのですか!』

 自己紹介を兼ねているような声で地団駄踏んでいるのは、金髪がぐるぐるとロールを巻いている若い女だった。本人の主張する限りでは連合の総大将であるらしいので、あれが袁紹なんだろう。

 髪の色と髪型の時代考察については今さら何も言わないが、古くさい少女漫画に出てくる悪役令嬢みたいである。白皙という言葉が似合うなかなかに美人でもあるのだが、高笑いとかされたらフォーマルな場でも空気を読んだ上でなお堪えきれずに吹き出させられる恐れがあるような外見だった。

 一見ならばすらりと伸びた上背とたわわな胸のおかげで髪がよく似た曹操の上位互換のように見えるのだが、金切り声のせいで中身が下位互換のように見える。

 こうやって端で見ている限りは面白い。だが面と向かって会話をすると疲れそうな女、と言うのが俺の受けた第一印象である。

 まあ、なんにしてもかなりタイムリーな話題を提供してくれているらしく、一同の視線を一身に受けている。

『それはこちらも聞きたいわね。敵に行き着く真生与えてしまえば、ここまで消費した時間も兵力も無意味になるわ。それだけの理由があるのかしら?』

『華琳さん、横から口を挟まないでくれますかしら? 今はわ・た・く・しが! 話をしているのですからね!』

 見ようによっては姉妹に見える曹操が口を開くと、袁紹がなんだか過敏、あるいは過剰に反応している。真名という奴を交換しているらしいが、それにしては随分と仲が悪いように見えるのは俺の気のせいか? 

 そう言えば、乏しい知識の中に何故か残っていたが……袁紹は曹操に滅ぼされたんだよな。確か日本の今川と信長みたいな関係で、当時特に勢力の大きく天下に最も近かった袁紹を討ち取った事で勢力をごっそり受け継ぎ、曹操は飛躍したはず……つまり、こいつらは将来殺し合うかもしれないのか。
仲が悪いから殺し合うなんては思えないが、逆かもしれん。将来、殺し合う事をお互いに察しているからこそ仲が悪くなっているのかもな。どっちにしても、騒いでいる袁紹が身長に反比例して曹操よりも小物に見えてしょうがない。

『はあ……何でもいいわよ。それじゃ、早く事と次第をハッキリさせてもらえないかしら? 今回は控えていた私達はもちろん、実際に攻めていた面々こそ知りたいでしょう?』

『ぬぐぐ……それはこれから聞くところですわ! 貴方が混ぜっ返すから話が始まらないのです!』

 言っている事が間違っているような、正しいような。その辺がハッキリしないのは、曹操の言動から袁紹に対する明確な侮りが感じられるからだろう。何がどうなっていても、結局馬鹿にしているようにしか見えないんである。

『それで、誰が攻撃停止命令を出したのです! 早急に名乗り出なさい! 劉備さん、損害の多かった貴方の所ですか!』

『え? ち、違います違います!』

 慌てた声は、他と比較して大きく聞こえてきた。たぶん、これはトンブの視点から見ている映像がそのまま伝わっているからだろう。視線が動かないから分からないが、声からして劉備はトンブのすぐ横にいるらしい。

『そうだ! 俺達に攻撃を止める権限なんてないし、そのつもりもない! あの工藤とか言う男が愛紗と鈴々をあんな目に遭わせたんだぞ! ここで退いてたまるか!』

 天の御遣いの怨嗟の声も聞こえてきた。あんな目って、殺していないのにそこまで恨むかね。戦場でさんざん殺して回っていた女を殺していないのは、我ながら偽善に思えるほど甘い処断だと思うんだがなぁ……ああ、トンブが救出したからたまたま死ななかっただけだと思われているのか。

「恨まれているわね」

 孫策が笑いながらも呆れをこめて苦笑いしている。 

「きっと、あいつらにしてみると俺は天の御遣い様に敵対する地獄の使者になっているんだろうな」

 あの世から帰ってきたのは間違いないけどな。

「まともな指揮官もいないのに劉備軍が退かないのはおかしいと思っていたけれど、天の御遣いの指図があったのかしら。関羽と張飛の仇討ちのつもりらしいけれど、あんな無謀な攻めで兵士が死んでいくのはどう思っているのかしら?」

「むしろ、運がいいと思って喜んでいいくらいだと思うんだがの。腹心を大切に思うのはいいんじゃが、その私憤で死んでいくのは兵が哀れ……まあ、これを理由に士気が上がるほど関羽と張飛が兵士に慕われているのなら、敢えて攻めるのもありかの」

「武将がいないのに士気だけを便りにして兵のみで挑むなど、愚行とさえ言えませんね。恐らく、副官にでも指揮を任せたのでしょうが兵を消耗するだけではありませんか? 伏龍、鳳雛と噂に高い軍略家がこんな真似を認めるほど愚かだとは思えません。やりたくはないが他軍の圧力に屈したという所ではありませんか?」

 呉の首脳陣がそれぞれに意見や感想を並べていく。指揮官がやられたんだから、それは退く正当な理由にならないのか?

「序盤も序盤で簡単に負けて退きます、は面子が許さないんやろ? 元々、どこよりも勢力としては弱小なんや。ここで退いたらこの後はない、潰されるだけと無理したんやないかな。将も負傷しただけで、囚われたんでも討たれたんでもない。ここで戦功を稼いで大きくなりたいあいつらにしてみれば、劉備や天の御遣いその人が負傷したんならともかく、ここは退くに退けないんやろ」 

 殺られたんならともかく、負傷ならまだ次があると思いたいやン? と張遼が締めると俺は奇妙に居心地が悪い気持ちになった。

 今日、劉備軍の兵士が戦場で散っていったのは関羽と張飛を生かして返した俺のせいかもしれない。きっちり殺していれば、それ以降の攻めはなかったのかもしれない。

 そんな風に考えてしまったからだ。

 と、少し落ち込むような事を考えていると張遼が俺に歩み寄って額をこん、と叩いた。得物を握っているとは思えない、奇麗な手は軽い音をたてた。

「なんだよ」

「決めたのは、劉備と天の御遣いや。成功した手柄はあいつらのもんで、失敗の責もあいつらだけが負うもんや。あんたがしょいこむんは筋が違うで。大体、おかげで今日生き延びたこっちの兵もいるんや。そこで悔やまれたら、こっちの兵士の立つ瀬がないやン」

 どうやら、お袋さんは俺まで子供扱いするつもりらしい。慰められているのではなく、表情と声色から察するに叱られている。

「そんなにわかりやすいのかよ」

「格好悪く見えるくらいにはな」 

 舌打ちもできないような顔をされ、俺はみっともなく目をそらした。詫びるべきなのか礼を言うべきなのか、わからなかったからだ。しかし、そのまま流すのも不義理。

「悪かった、ありがとう」

 仕方がないから、両方言ってみる。声がぶっきらぼうになっていたのが、男らしくないように思えてみっともないと思った。

『それでは、白蓮さん!あなた方は心当たりがあるのですか!?』

 金切り声がありがたいと思ったのは、生涯最初かもしれない。見覚えがある、さっきまで気が付かなかった赤毛の女がおたついているのを見て奇妙にホッとした。

『あるか! そもそもその話を聞いたのはつい先ほどだし、大体その権限は私にはないだろう。仮に、誰か全軍の撤退命令を出せる人物の名前を騙ったとしても後が恐いし、そんな事をする理由がない!』

 もっともなんだが、どこか情けない釈明についつい笑いが出てきそうになる。本人が大真面目なだけに、どこまでも力が抜けてくる。

「う、噂に名高い白馬長史が何とも情けない事言うなぁ……」

 噂によると、公孫賛の率いる白馬隊は精強の誉れも高く、同じく騎兵を率いる張遼にしてみると個人の武勇で公孫賛に覚えありとの噂を聞いた事こそないが、騎兵の指揮官としては腕比べが出来ると期待していたらしい。

 蓋を開ければこれなので、少し肩すかしを食っているようだ。所詮、戦場ではなくて政治的な場面でのイメージに過ぎないようだし、その判断は早くないかなと思うけどな。

『大体、命令を下したのが誰かなんてすぐに調べられるだろ! ここで当てようとしていないでさっさと改めろよ!』

 真名を交換したらしい間柄なようで、結構遠慮なく声を荒げている。

『あたしもそれには同感だよ』

 と、そんな彼女に応えるように聞こえてきたのは知らない声だった。

 トンブの目が動いたんだろう、カメラが動くように映像が動いて中央に声の主を連れてくる。緑を基調とした、それほど露出が多いとは言わないがそれでも洒落た、とても戦装束とは思えない格好をした若い娘だ。

 ポニーテールと勝ち気そうな瞳、そして鉢巻きの下に見える少し太めの眉が特徴の健康的な少女である。

 快活そうな美形だが、服装と言い体格といい、どこからどう見ても武将には見えない。しかし、この場にいてこの面子にこの態度、彼女もあるいは腕に覚えのある武将なんだろうか。

『あ……そう言えば、君は?』

『あたしは馬孟起。涼州の馬騰の名代で来た』

『ええ!?』

 天の御遣いが、都合のいい質問をしてくれた。出てきた答えに何やら驚いているようだが、こちらでも目の色が変わっているのがいた。

「お? おお! いるとは聞いていたがホンマに会えるとはなあ!」

「あら、お知り合い?」

 彼女を目にして、張遼がいかにも楽しそうに目を輝かせた。それに興味を引かれた孫策もまた、目を輝かせている。恐らくは、この新顔の少女が自分を楽しませてくれる相手なんだと察したんだろう。

「あれは馬超や! 錦馬超! 涼州に名高い槍の名手と言われた武人に間違いない!」

「へえ、あれが……そう言われてみれば、噂に聞いた容姿その物ね」

 ……あれが、名高い武人かぁ……そのまま繁華街でデートでも出来そうな格好をしているのが、ね……

 周囲にいるのが露出過多、身体のラインが丸出しの面々ばっかりなのだから何を今さらと言えば何を今さらなんだが……なんだかやるせない気持ちになってくるぜ。

『それで、そちらは? あたしにばっかり名乗らせておく気かい?』

『ああ、すまない。俺は北郷一刀。ここにいる桃香……劉備軍の一員だ』

 ようよう返された答えに、馬超が北郷の値踏みを始めた。それほど露骨でもないが、気が付かないほど大人しい目線でもない。映像にこそ映っていないが、北郷の戸惑ったような声が何度か聞こえてから、馬超はようやく目線を戻した。

『なあ、あんた……もしかして、巷で噂の天の御遣いって奴なのか? その服……聞いていたのにそっくりだ』

「……その噂、しぶといな……」

 同国人として、恥ずかしいの一言に尽きる噂が未だに消えていないのには参った。人の噂も七十五日、今はとっくに過ぎていると思ったのに……

『ああ、そうだ。俺は今巷で噂になっている天の御遣いだ』

 ……どうやら、あの日起きた一連の争いはアレに堂々新興宗教のお飾りですよと名乗らせるきっかけになったらしい。馬鹿な真似は止めろと言ったはずが、一周回って頼まれて名乗っていた物を自発的に宣言するくらいになっていた。

「つくづく、人を説得するのが下手くそだな……俺」

 このスカタン、と怒りを抱くよりも自身の舌の回らなさにちょっと落ち込むが、これはこれであいつ自身の選択だろう。偉そうな言い方を承知で述べさせてもらえば、成り行き任せでなくなったのは高評価だが、それで本格的に深みにはまったのは論外か?

「あれから逆に腰を据えたみたいね。工藤はこれからどうするのかしら?」

 遅ればせながら命令の出所を確認しているんだろうか、何やら向こう側でごたごたと騒いでいる暇を狙っての孫策の質問に、俺は即座に答える。既に腹は決まっていた。

「とりあえずは、元の世界……国に帰るかどうかを当人に確認する。頷けば、それでよし。連れ帰ってその後は知らん。しかし、帰らないと言って未だに天の御遣いとして漢をかき回す事をやめないなら……」

 仁王に物を言わせる。場合によっては土に返すさ。

「ふうん……まあ、孫家としては歓迎するわね」

 彼女はそれだけを言って、もう一度前に目をやる。映像の中では、ようやく場面が動いていた。 

『命令を出したのは袁術……美羽さんのところですってぇ!』

 袁紹が怒髪天を突いていた。俺にしてみればただの小娘の癇癪、あの髪型で本当に逆立っていたらどうなるだろうかと面白いと思う程度の怒りだが、事と次第を伝えに来た伝令の兵士にしてみれば雲上人の怒りである。可哀想に、青ざめていた。

 一兵士なんぞ、八つ当たりであっさりと命を失うような時代だからな。

『そのような命令を勝手に通すとは……この連合の盟主はこの私! 袁本初ですのよ! その私に一言もなくよくもそのような大事を……!』

 袁紹の目に危険な色が点る。俺は兵士の首が飛ぶのを幻視し、あるいはそれは孫策達も向こう側にいる曹操、劉備達も同じであったかもしれない。しかし、誰もそれを止めようとはしなかった。

 誰よりも自身に降りかかる凶運を自覚した兵士の顔が青ざめ、周囲に助けを求める視線を巡らせる。だが誰も動こうとはしなかった。いや、トンブの視界の端で劉備と北郷が動こうとしたが、彼らの袖を引く何者かの小さな手に諫められて退いた。

『目障りな……この者を斬首になさい!』

 敢えて考えるまでもなく、この兵士には一辺の非もない。全く筋の通らない物言いだが、それでも誰も動かなかった。階級の差、家柄の差、貧富の差、それが全てだ。

 巻き添えを恐れている顔をしている者、そもそも兵士の命に重みを見出していない者、そんな顔ばかりが見える。

「トンブ・ヌーレンブルグ! その阿呆を止めろ! お嬢様の癇癪程度で弱い立場の人を殺させるな!」

 使い魔を通して聞こえているはずだった。しかし、動きはない。それでも介入する手は無い、俺に出来る事など見ているだけという事実に自然と奥歯が砕けるほど噛みしめる音がする。

 この時代、いや、君主制の制度の中では日常茶飯事の話であるのかもしれない。実際に、それが主君だろうと何だろうと、とにかく上位者の勘気に振れ、あるいは巻き添えになって殺された無名の凡俗など古今東西の何処にでもいつでもいた。いない場所と時は無いと言いきれる。

 日本でも、西洋でも、どこででもそうだ。

 漢でもそうだとして何がおかしいか? 何もおかしくはない。

 だが、それに納得が出来るのかと言えば俺には無理だ。しかし、俺に出来る事は何もない。いま、向こう側で繰り広げられている馬鹿馬鹿しい殺人を妨害する手段が一つもない。くそったれが、やめろとわめく事しか出来ない。

 くそ、つまらない八つ当たりで人殺しをしようとする袁紹も、止めない劉備と北郷も、とめる気がない曹操も、止められない間抜けな見物人である俺も、皆が皆揃ってくそったれだ。

 トンブ? 今さら何を。

『それ以上の暴挙はやめてもらおう』

 せつらのような糸の腕があればと、みっともなく無い物ねだりをして目の前の惨劇から意識を逸らしていた卑怯者の耳に、鉄のように男臭い声が届いた。

『今回の命令を発したのは俺だ。で、あらば全ての責は俺が担うのが自明の理。そこの兵、疾く持ち場へ戻るといい。俺のせいで迷惑をかけたな』

 新たに現われた声の主は、その場を圧倒した。山のように静かな、そこにいるだけでただ者ではないと静かに悟らせるような雰囲気が漂う。

 言わずと知れた、劉貴である。他にこんな奴がいてたまるか。頭に血を上らせて激高していた袁紹も圧倒されて、目を離せずにいるようだ。

『ひ? は……ははあっ!』

 件の兵士は、災厄の手と同様に突如伸ばされた蜘蛛の糸へと必死に手を伸ばしてしがみついた。這々の体で逃げ出した転がるような姿に、曹操の方から侮蔑の声が聞こえる。トンブの視界は動かないので確認できなかったが、視界の端に猫耳が一度だけ見えた。機会があれば、もう一度脳天に拳骨をくれてやろうと決める。

『これ以上、弱い立場の者を無体に扱うな。小娘の癇癪で失われてよい兵など一人とておらんぞ……騒ぎの原因である俺が言っても盗っ人猛々しいだけだがな』

『こ、小娘ですって!?』

 劉貴にしてみればそりゃあ小娘だろう。もっとも、実年齢を鑑みればトンブも袁紹も区別なく小娘になりかねない。

「劉貴殿……」

 孫権が、場の雰囲気を無視するような色の声を上げる。それを聞いて孫策はあんたの言った通りね、と小さな声を上げて意味ありげに俺を見た。

「あれが、噂の男か」

「あんたら、あの男知っているんか? 何者や」

 周瑜のつぶやきに、張遼が食いつく。目の色が、随分とぎらぎらしていた。

「何処の誰だか知らんけど、あんな男は始めて見るで。なんや、あの見るからに歴戦の雄って風体は。この漢に、あんな男がおったんかいな」

 女としてではなく、明らかに武人としての目だった。

 露出狂その物の見た目をしている癖に、女としてよりも戦士としての自分の方が大きいらしい。

「袁術の所にいる、劉貴という男よ」

「劉貴……劉姓の男か。聞いた事がないなぁ? あんだけの益荒男を、名前も知らんとは……うちってそこまで世間知らずやったんかな」

 首をひねっている彼女には悪いが、今はその辺を詳しく説明するのは後回しだ。

『そんな事よりも、袁術の将! あなたが今回の命令を出したと言ったわね。どういうつもりかしら?』

 曹操が、わざと怒りを買う為に小娘扱いされたと気がついていなさそうな袁紹との間に割って入る。

 じ、と間近に迫って向けるのは挑戦するような目、と言うよりも相手を呑んでやろうとしている目だ。端で見ている俺としては子供が背伸びをしているようで滑稽にすぎるが、黒一点の北郷含めて、向こうの陣営の連中はじんわりと額に汗をかいている。例外は、場の雰囲気に気が付いていないのかきょとんとしている袁紹だけだ。映像越しには分からない威圧感でもあるんだろう。

 と、おかしな笑い声が小さく短く聞こえた。トンブのガラガラ声だ。

『確か曹操と言ったか、娘よ。まずは勝手を詫びておこう。すまなかった』

 周囲は唖然としていた。劉貴が曹操の差し向ける威圧感をそよ風ほどにも感じていない事がわかったからだ。それを誰よりも理解した当人は一瞬で顔を赤くしてみせたが、すぐに平静を装う。

『詫びなどよりも、理由を教えて欲しいものね。勝手、と言ったけれどもまさか私的な理由で軍を動かした訳でもないでしょう』

『いや、あくまでも俺の為に軍を止めた』

 さらりと告げた劉貴にはためらいもからかいの色もなく、曹操はもはや二の句が告げないという風体で顔を引きつらせた。

『……どういう意味かしら』

『繰り返さなければならないか? 言ったままの話よ。俺は俺の都合で軍を止めた。そして、このまま明後日の朝まで軍は止めさせてもらう。その後はどうとなりとするがよかろう。だが、この二日間だけは俺がもらっておく』

 勝手というにも足りない滅茶苦茶な言い分を、劉貴はいたって真顔で示す。いや、この男は常に鉄で出来ているような顔しかしていない。どこか、いつかに例外があるとしてもそれは連合の中では成立しない話のようだ。

『気が狂ったようね。袁術軍は確かにこの連合でも指折りの大所帯だけれども、ただ勢力が大きいだけでこのような暴挙が許されるとでも思っていたのかしら? これほどの狼藉を主君の権威が庇ってくれると思ったら大間違いよ』

 曹操の言葉に反応し、彼女の側に控えていた数人が劉貴を囲む。テント内は誰もが素手のようだが、取り押さえてから首でも切り落とすつもりだろう。

『暴挙……暴挙か。はて、勝手はしたが暴挙であるか? それほどの事をしたとは思っておらんが』 

 巫山戯たセリフの見本に目の色を変えたのは、向こう側の面々だけではない。こちら側でも結構な数の武将が批判的な鋭い目で劉貴を見ている。彼の言は彼女らにとって容認できる話じゃないんだろう。

『こ、これを暴挙と言わずに何を暴挙と言いますの!?  貴方個人の理由で軍権を好き勝手にする事を暴挙以外の何と言いますか! そもそも、この連合の総大将はこの袁本初と決まっておりますのよ! その私を差し置いてよくも……そもそも、一体何が理由なのです!』

 しれっとした劉貴にもはや舌を動かすつもりがないと、曹操が配下に指令を与えようとしたが、袁紹が割って入ったおかげで中断された。今、袁紹が曹操の部下の命を救ったと考えるのは俺ぐらいだろう。

『なに、向こう側から気の利いた文をもらってな。その為よ』

『……内通していたって言う事かしら?』

 口にしたのは曹操だが、もちろんそれを信じる馬鹿はいない。文をもらったと堂々口にする内通者がいるわきゃなかろう。 

『ぬわんですって! 裏切りですの!? はっ! さては、これから伏兵が奇襲に襲い掛かってくると……!』

『何だとおっ!』

『ええええっ!』

 信じる馬鹿がいた。それも三人。せいぜい聞いた時にぎょっとするくらいにして欲しいものだが、本気で信じ込んでいるらしい。何処の誰だかはわざわざ言わないが、周瑜が妙に剣呑な色で目を輝かせていた。

 利用しやすい馬鹿発見、と顔に書いてあるような気がする。まあ袁紹はともかく劉備は部下の諫言を聞きそうなのでおいそれと利用できないだろうが……ああ、しまった。ばらした。

『秋蘭、黙らせて』

『はっ! 姉者、今はこの男を取り押さえる事だけ考えておけ』

 妙に弛んだ場の空気を引き締めるように、曹操が再度詰問の声を上げる。

『それで? その書状とやらには何が書いてあったのかしら? 妥当なところで内通の誘い……兵を退かせ、それをこの場で話したのは乗った振りをして実は、と言ったところ?』

 とりあえず、思いついた中で一番あり得そうな可能性がそれだったんだろうが、本人こそ信じていないらしい疑わしさを隠さない顔をしている。

 とりあえず言ってみただけ、という感が露骨な曹操を前にして劉貴は先ほどから変わらない平静さをそのままに首を横に振った。

『生憎と、違う』

『でしょうね。それなら何かしら?』

 ここで劉貴が何というのか、それを曹操始めとする血の巡りがいい連中は様々な仮定を形のいい頭蓋骨の中に並べたんだろう。

 狂人の暴走、と見切ってもいいのかもしれなかったが……それを許さない雰囲気を目の前の武人からは感じ取れないはずがない。あるいは、趙雲が言っていたように連合軍内で蔓延しているらしい袁術軍の異様な噂を思い出しているのかもしれない。

 彼女らがなにを考えていたのかは知らないが、どちらにせよ劉貴はそれに構わずにさらりと言ってのけた。

『果たし状をもらった』

『は……?』

 簡潔明瞭でこの上なくわかりやすい一言に、目が点になっている。この中には腕自慢だけでなく知恵自慢もいるんだろうが、誰も彼もが劉貴の発言を理解できてない風に目が点になっている。

『先刻、劉備とやらの一軍より使いの兵が来てな。俺に一通の書状を届けた。中身はそれよ』 

 どうやらトンブは自分で届けなかったらしい。それは別にいいんだが、それじゃあ劉貴と間近に接している今の彼女は冷や汗ものだろうか。

『受けるのは問題ないが、戦の最中はなにかと邪魔が多い。そもそも、先ほど槍を交わした相手ではあったのだが生憎と戦況が動いてしまった為にこちらが退かざるを得ない状況となってしまったのだ。向こうにしてみれば、正に逃げたという話よ』

 地団駄を踏んだ記憶が蘇り、我知らず赤面してしまう。あの自分は客観的に考えて、あんまりにもみっともなかった。 

『まさか、その為に戦を止めたというの? あなたの一騎討ちの為に!?』 

 常識外れでさえある劉貴の言う事をようやく理解したのか、曹操はあんまりな所行が脳内に染みこむと同時に顔に火をつけたように真っ赤になって命を発した。

『春蘭、秋蘭、季衣、この痴れ者を取り押さえなさい。首を刎ねるわ。異論のある者はいるかしら』

『それは私が決める事ですわ!』

 ぎりぎりと歯を食いしばるようにして一歩前に出たのは、もう一人の金髪ロールだ。場を仕切らなければ気が済まない質なのか、それとも曹操に対抗してムキになっているのか。

『この漢の未来を正当なものへと戻す、崇高なる戦によくもこのような真似を……総大将たる袁本初の命にて、この者の首をはねます! しかる後、美羽さんの所にも正式に抗議をさせて頂きますわ!』

 怒り心頭の見本に劉備がひえええ、と冗談のようなリアクションをしているが、ともかく怒りだけは本物だろう。だが、劉貴はそれを歯牙にもかけないという風に始めて表情を崩した。失笑、の顔だった。

『崇高、とは悪い冗談にも程があるものだ』 

 丈夫の顔でも、意地が悪くなる時はあるようだ。思えば、騏鬼翁の事を語る時にはこうだった。大猩々は気に喰わぬ、とはいつ聞いたセリフだったろうか。

 あの老人の悪行、下賎な性根、劉貴だからこそ寛容ではいられまい。妖姫の膝下にいるというお互いの立場がなければ、劉貴はあの大妖学者を魔気功でバラバラにしていてもおかしくはない。そしてその諍いの非は明らかに騏鬼翁にあるだろう。

 そんな相手に向けるのと、等量ではなくとも同質の意思を乗せた顔をしている。こう言う男がこう言う顔をしてしまえば、威力は累乗するものだ。案の定、その場で鼻白まない若者はいなかった。例外は一人の古者である。

『あまり綺麗な言葉であさましい己を飾るな。かえって醜くなるにも程がある。元々無様な己を下手な化粧で取り繕っても、美しくなるどころか醜さが強まる以外に道はないと気がつかんか』

 劉備や馬超は何を言っているのか、誰が言われているのかを理解していないようだが、袁紹は内容を理解していなくとも自分に言われている、とだけは認識できたらしく顔を猿のように赤くしている。

 そして、曹操は誰が何を言われているのかをしっかりと理解できたらしく幼さを消し切れていない顔にせいぜい恐ろしげな般若紛いの表情を浮かべて劉貴を睨み付けている。

 今、トンブの視界に入っていない連中はどんな顔をしているんだろうとどうでもいい事が気になった。

『己の名を売りたい。己の領地を広げたい、董卓が皇帝の側に侍るのが気に入らない。それしかあるまい。ない所から無理やりひねり出した大義名分だけは絢爛豪華にしているが、中身はあさましい乞食さながら。今となっては誰も彼も、厚化粧が過ぎて素面が荒れ果てた醜女さながらの面体』

『……黙りなさい』

 もはや二の句が告げられず、口に出せば金切り声しか出るまいと息を荒くするだけの袁紹を代弁するように曹操が静かに遮る。だが、この状況で黙れと言われて黙る男がいるものか。

『何をどう言いつくろうと、貴様らの本音は都にて董卓とやらの座る椅子に自分の尻を置きたいだけであろう。いや、それどころか皇帝その人を追い落とそうとする身の程知らずもいるようだ』

 ぎ、という音が曹操の口元でしたのを確かに聞いた。歯を食いしばったらしい。その歯でかみ殺されそうになりながら、彼女の指示は部下の耳を入り口にそれぞれの脳へと飛び込んでいく。

『黙らせなさい、あなた達!』

 短い返答をしながら、彼女らは劉貴につかみかかっていく。夏候惇と言ったか、大きな剣を得物にしていたのが印象深かった女が、怒りを宿しながらも喜々とした顔でつかみかかったのが奇妙に目に残った。

 彼女らはそれぞれ三方から囲んでつかみかかり、そのままねじ伏せようとする。しかし、彼らには劉貴を引き倒す事など出来はしなかった。当人達は自分の力で引き倒す事が出来ない劉貴に瞠目していたが、倒せないどころか劉貴は彼女らを一顧だにしていなかった。

『結局は醜い私欲と私憤以外は何もないようなこの戦、この軍勢……それならば、いっそこの俺の私欲で勝手にさせてもらう。それだけの話よ』 

『よくもそこまでほざいたものだわ。その首が切り落とされる覚悟はあるようね』

 彼女の姿は、控えめに言っても無様なものに見えた。劉貴の言葉に対する反論が一つもなかったからだ。何も言い返さないのではなく、言い返せないだけだとしか見えなかった。

 ただし、その怒りは明確であり大きくもあった。何か言い返そうとしていた袁紹、劉備、馬超、公孫賛の誰もが力尽くで黙らせられる。

「今の反応から考えてみるに、恐らく袁紹はともかく劉備、馬超は本気で董卓殿の圧政を信じていたのだろうな」

「公孫賛は?」

「半信半疑、と言うところか。聞けば、公孫賛は袁紹と知らん仲でもないそうだ。彼女の性格を承知して判断していたのではないか?」

 周瑜が、向こう側の空気など知らんとばかりにぶった切って分析を始める。目の色が冷静であるが酷薄でもあった。

「大義名分を本気で信じていた脳天気が、劉備と馬家。ただし、さすがに向こうの知恵袋は察していたようだ。つまり、分かった上で主君を上手く乗せていたようだな。これから先の立身出世を考えるに連合への参加、ひいては漢への反旗は必要不可欠なのは一目瞭然だから、と言うところか」

「ふうん……それはいい家臣? それとも悪い家臣?」

 孫策の目が、どこか悪戯に光る。自分の知恵袋をからかいたいんだろう。

「そんな物は当人の腹の中と主君次第だ」 

 お前の器次第だ、と言外に言ってのけた周瑜に孫策が面白そうに笑った後で、酷薄にこう言った。

「この娘……前に見た事があったわよね。子供みたいだったから印象に残っていたけれど……二人いて……伏龍に、鳳雛だっけ。うん、機会があったらバッサリ逝きましょう」

 邪魔になりそうだからね、と笑った顔は恐い物だった。何がどうしてそうなったのかは分からないし知りたいとは思わないが、ご立派な名前の二人は時と場合によっては殺される可能性を押しつけられたようだ。

『首を落とすか? それだけで済むのならば是非もない。その細腕で切り落とし損ねないように気をつけてやれ』

 ぎり、と曹操が再度歯ぎしりをした。恐らく勘違いをしているんだろう……舐められている、と。

「袁家の庇護を過信しているのかしら? それとも……殺せない、とわかっているのかしら?」

「殺せない? どういうこっちゃ」

「工藤の言っていた事が本当なら、ね……私もそれほど分かっている訳じゃないし、百聞は一見にしかずよ。まずは見ていなさい」

 会話の流れを理解できない張遼に向かって、孫策は劉貴からぎらぎらとした目を離さずに応える。黄蓋と周瑜もまた、それぞれの態度で身構えるように劉貴を見据えていた。そんな彼女らに、他の女性陣はいぶかしげな顔をしている。

『よくほざいた物だわ。その度胸に免じて、お前の斬首で事は不問にしてあげる。その首は塩漬けにして袁術に届けてやるから、せいぜい主に後悔に浸った顔を残しなさい!』

 曹操が、鎌という悪趣味な上に実戦ではどう考えても不利以外の何もない素っ頓狂な武器を兵士に命じてテント内に持ち込ませると、ひったくるようにして取り上げて構える。

 孫権が息を呑んで顔を青ざめさせた。

『ちょ、この場でやりますの!? と言うか、武器など持ち込まないでくださらない!?』

 呑気なセリフだが、いたって真っ当な発言でもある。少なくとも、怒りに呑まれて口に出せない他の面々よりはまだマシだ。いや、馬超は寧ろ自分の手に鎌があればと思っていそうだな。

 そして、その馬超の怒りも乗せたように容赦なく振り切られた鎌は劉貴の首に吸い込まれているように奔る。彼は交わそうとせず、眉の一つさえ動かしはしなかった。

 鈍い音がする。血しぶきが飛んだ。

『一つ、訂正しておくが』 

 そして、静かで明瞭な言葉が曹操に贈られる。

『なっ……』

 誰もが瞠目しただろう。

 トンブと俺、そしてゼムリアを除いて天幕の中にいたあちら側も、術を通して覗いていたこちら側も、揃って目を見開き二の句も告げられずに硬直していた。

『俺の主は美羽でも七乃でもない。あれらの主が俺であり、俺には俺の仕える主がいる』 

 劉貴は平然としてそこに立ち続けている。

 鎌が外れた訳ではない。

 曹操が手加減した訳でも、首を切り落とせなかった訳でもない。

 彼女が持つ凶器は、刃に血糊をべっとりとつけて振り切られている。全員、惨殺の瞬間に目をそらした二人の例外を除いて誰もがしっかりと劉貴の頸部に鎌が食い込み、通り過ぎていった刹那の瞬間をしっかりと目撃していた。

 首を切り落とされたのに、平然と生きている。

 北郷、孔明の二名は決定的な瞬間から目をそらしたので、事態の理解が出来ずに戸惑っているが故の困惑に過ぎないが、それ以外は全員が事実を理解した上での混乱だ。

『……お、お前は……一体何なの?』

 劉貴から目を離せずに、ちらちらと自分の持った鎌を確認する曹操だったが、彼女の持つ一本の鎌は、自分が仕事を果たした事を確かに主張している。それを嘘だと決めつけるには、彼女の手に残った感触もまた嘘だと証明しなければならない。

 嫌でも理解せざるを得ないだろう。

 切り離されて、落ちるよりも先にくっついたと言うどうしようもない現実を。

『さて、我が首は刎ねられた。これで今回の件は不問と判断してよいな?』

『ひっ!』

 水をかけられた猫のように飛び退いたのは、曹操ではない。この場の主導権は獲られたとはいえ、連合の総大将である袁紹だった。

『す、好きにしなさい!』

『では、明日の夕暮れ……日の入りの瞬間より一騎討ちは始まる。それまで戦は俺の好きにさせてもらう』

 暗に余計な事をするなと語り、劉貴は相応しい闇の中へと背中を向けて去っていく。自分に向けられる畏怖の視線など気にかける事もなく、悠然と消えていった。

 沈黙が破られるまで、時計の分針が五周はした。

『ま……まやかしですわ! そうに決まっています!』

 精神の均衡を一番に回復したのは袁紹だ。分からない脅威を偽物、嘘と決めつけて安心を得るのは古今東西のセオリーだが、真っ先にそう言い切れたのは彼女の図太さが理由の気がする。

 何にしても、それをきっかけにして場がもう一度動き始めた。曹操の配下達は、いつの間にか劉貴から手を離していた自分に気が付き、愕然、あるいは悄然として自分の手の平を見下ろし、曹操は堪えきれない何かを無理やりに飲み下してから、得物を外に預け直した。

 馬超はひたすらに混乱しているようだったが、劉備一行の三人の中で孔明と北郷は何やら思案を巡らせている。

 小さな声で、聞こえてきた。

『あれ、どんなトリックだ……?』

 男の声だから北郷だろう。どうも、手品かなんかと勘違いしているらしいが、こいつは魔界都市の住人ではないと確信できる発言だな。手足や首を切断されても平気でいる、なんてのは程度の差こそあれ珍しくもない。そこらで闇医者に金さえ払えば、どうにでもなる程度だ。トリックなんて必要ない。

『はわわ、トリックとは何でしゅか、ご主人様』

『仕掛けとかって意味だ。手品とか奇術って言って、天の国じゃありふれた物なんだ。わかりやすく言うと、切れた振りをして本当は切れていない。何らかのタネで誤魔化しただけ……なんて言うのはよくある見世物なんだよ』

 北郷の声は、思案に暮れているようだったが得意げでもある。知識を見せびらかしたい子供のようにも見えるのは、成る程と賞賛の視線を惜しむ事なく送る少女がいるからだろう。褒められたり感心されたりすれば上向くのは当たり前で、俺にもよく分かる話だ。俺って身内から叩かれるとへこみやすいからなぁ。

『ぶふっ』

 過去、たまたま失敗知らずのまま臨んだ三度目の妖物退治で調子に乗って無茶をした御陰で、養父兼師匠にこってり絞られたのを思い出した俺の耳に、トンブが堪えきれずに笑ったのが聞こえてきた。まるで自分が笑われたように錯覚して心臓が飛び跳ねそうになるが、相手は俺じゃない。

 きっと、今はさぞかし邪悪な顔をしている事だろう彼女の目は北郷と孔明に注がれている。気が付いてそれを問い質そうとした二人だが、その前に曹操が訂正した。

『得意げなところ悪いけど、生憎とそれは違うわ。首をはねた感触はしっかりとあった。これでも、人を斬った感触を取り違える事は無いわよ』

『そうなのか?』

 曹操の発言に北郷は一向に動じず、落ち着いて考え込むだけだった。

『でも、首を切り落とされて生きている奴なんて世の中にはいない。だったら、何か仕掛けがあるはずだろう』

 探偵小説の主人公のような事を言う。

『あいつがなにを考えているかは知らないけれど、それでこっちを騙して自分の思い通りに話を運ぼうとしているんだ。だったら、そんな事を許しちゃいけない』

「鏡見ろ」

 きりり、と音がしそうな顔をして宣言する北郷を見て思わず口から出てきたセリフに、孫策と周瑜が吹き出した。意味が分からないで訝かしんでいる視線に応えて、つらつらと言葉を形にする。

「天から降りてきた救世主なんていない。皆を騙して思い通りにしようとしているんだ。そんな事を許しちゃいけない」

 ああ、と言う顔をする黄蓋を尻目にして、俺はでっかいため息をつく。こいつは久しぶりだと思ったが、対象がアレなので別に加減する必要はないだろう。

「疑う心がけは立派だが、前提条件が大いに間違っているんだよな」

 首を切られても死なない奴など、なんぼでもいるっての。

「……いたの。思い出したくもないが」

 踊る鬼を思い出した黄蓋が、渋面の見本を作る。不死身とは少し違う気がするが似たような物だろう。とにかく、恐らくは“区外”の住人だろうあいつの常識が通じない奴なんて幾らでもいる。

 そもそも、今現在のあいつの周りにだって常識を当てはめていいような相手が一人でもいるのか?  張飛なんて、あのガタイであのパワーはそれこそ非常識の塊だろう。

「都合のいい非常識は常識にして、都合の悪い非常識はトリック扱いか……」

 昔っからよくある話なので、今さら思うところはないんだが……これで話の流れがおかしな方向に行ってしまうのは困るな。

『それで?』

『え?』

 だが、それに乗っかろうとしたらしい袁紹や劉備などの諸将の中で曹操だけが異なっていた。

『え? ではないわ。今のが本当に何らかの仕掛けだとして、それはどんな仕掛けなの。それと、どうすればあの慮外者の首は飛ばせるのかしら?』

『い、いやそれはまだ……』

 曹操が肯定的な立場になるのは意外だった。彼女にしてみれば、劉貴の思う通りに逝くのは阻止したい話じゃないだろうか? やっぱり、実際に斬った本人は理解できてしまうのか。

『それが分からなければ、仕掛けだろうと本当に不死身だろうとなんの違いもないわ』

 曹操の言は正しいが、同時に北郷にとっては理不尽だろう。問答無用に一から十まで見抜けとは求められている物が高度すぎる。なによりも、セリフの内容よりも口調が北郷を傷つけて貶める為に言っているとしか思えないような冷たい代物だ。

 北郷も同じような事を考えたのか不満そうに、曹操を睨むギリギリの視線で見ていた。女が身勝手なのは当たり前なんだが、これまで御主人様とかしずく女しかいないという異常な状況が当然な北郷にとっては反発がより大きいようだ。

 一方の曹操もまた、攻撃的な目をして北郷を見下している。おそらく、劉貴に怯えたからこその反動だ。体格と違って気位の高さは山のようなこの小娘にとっては、これまでのやり取りはひどく不本意だろう。北郷に対しての刺々しい言動の理由は八つ当たりに見える。

 それは控えめに言っても一目瞭然なんだが、諫めるべき曹操の配下は無言で曹操と北郷の間を遮り、北郷に許可さえあれば飛びかかりそうな顔をした。

 特に猫耳と黒髪は、許可がなくても即座に襲い掛かりそうで北郷が露骨に怯んだ。その顔に溜飲を下げたのか、曹操は北郷を鼻で笑うと余裕を取り戻した顔で天幕を出ていく。さすがに連合を組んでいる相手には、実際に何を言うのもするのもまずいと判断する理性は残っているようだ。

『く……なんだよ、アレ』

 芸のない負け惜しみを言うしかなくなった北郷だったが、その彼を吹き飛ばすような勢いで大きく息をついたトンブに、悲鳴を上げた。人間と言うよりも動物である、それもどちらかと言えば大型獣。

『やれやれ、やっといなくなったね。それじゃ、明日は誰も彼も問題の決闘をするまで大人しくしているんだわさ。その方が身の為だよ』

 ため息で一瞬だが、ぶわっと飛んだような視界の動きだった。さながら気球のようだが、そういうのんびりとした穏やかさは欠片もないのは何故だろう。まあ、いいか。

『な、何を言っていますの! こんな馬鹿げた事を認めるとでも思っているのですか!』

『だったら、あれを敵に回すのかい? まあ、それもいいけどね。魔道士にとっては虐殺された陰の気もそれなりの需要があるもんだし』 

 あっけらかんと言える当たりに根性の曲がり具合がにじみ出ているな、このでぶめ。愛想のいいでぶって奴は創作物の中にしかおらんのかね。

 それはさておき魔道士、の一言が周囲に疑問を投げかけたらしく誰もがいぶかしげにトンブに目を集中させている。

『そんじゃ、切るだわさ。せいぜい死なないようにしな。死体だけ持って帰っても姉さんに蛙にされるかもしれないからね』 

 そんな視線をものともせずに、更に胡散臭さを増大させるセリフを人目も憚らずに口にすると、まるでテレビのそれが消えるように映像は消えた。最後に余計な事まで言いやがって。

「……とりあえず、やる事は決まったな」

 予定通りと言える結果に、とりあえず胸をなで下ろしてもいいだろう。問題なのは、開始時間が今となっちゃ不利な事だが……マントでもなんでもかぶって、どうにか堪えるしかないか。劉貴はそっち方面に慣れているんだろうな。

「それじゃ、適当に休むわ。外が白み始めているのが分かるんでな」 

 体内時計ではなく、不快感で時間を計れる。これは思っていた以上に厳しそうだな。

「何を軟弱な事を言っている! これから我らは連合との戦に臨むのだ! 休んでいる暇などあるか!」

「それに事と次第が全く不明瞭よ。きちんと説明していきなさい!」

 孫権と甘寧が俺に噛みついてくる。それは理がある言葉なのかもしれないが、口調と態度が鋭く更に上から目線という奴で、理屈以前にかちんときた。

「……勘違いしているようだが、俺はお前らと戦うつもりはない。それは承知しているはずだが?」

 不機嫌さが声に出たが、それでかしこまるような女はここにはいない。

「これだけ好き放題やって、それが通るとでも思うのか!」

「何が好き放題だ? 俺は俺一人で勝手にやっているだけだ。組んでいる訳でもないお前らの事情など斟酌するには及ばん。第一、一日だけ間を置いて、何か損をしたのか」

 政治も軍事も理解できない俺だが、誰も何も言わなかったので自分のせいで迷惑をかけた事はないんだ、と受け止める。後は背を向けるだけだ。

 幸い、誰にも声をかけられる事はなかった。

 しかし、すれ違った孫策と黄蓋の目が奇妙に気になり、それが自分のみっともない部分を顕わにしているように思えて、舌打ちをしたくなった。

「っ!」

 苦い顔が、自然と強くなっている。

 それは、あくまでも東の空が白み始めたのが窓から見えたからだと自分に言い聞かせた。言い聞かせた事それ自体が、格好悪いなと思って少し気落ちした。





 それから、半日。

 俺は何事もなく大人しく時間を過ごした。

 誰かからの差し入れだという飯を食い、水を飲む以外はひたすらに寝て過ごす。体内に沈殿している吸血鬼の遺伝子は、陽光に対する拒絶反応という形で現われ、窓のない地下牢に忍び込んで過ごしていてもうっすらとした不快感は消えなかった。

 これで、例え夕暮れ時とは言っても表に出たらどうなるのかね。

 先行きに問題を感じて、ドクトル・ファウスタスの元へと足を運んだのは決闘を予定した時刻の少し前だった。結論は、俺が表に出たら火に炙られるようなものらしい。

 一回きりの吸血だからまだマシなのか。そう言えば、せつらも普通に昼間から出歩いていたモンな。

 マントかコートのようなものですっぽりと被う、二番煎じの解決策でいっても構わないと結論づけて、礼を告げて部屋を出る。そのままお終いかと思っていたんだが、ドクトルの声が背中を叩いた。

「君の体内に潜む“何か”を除去する事が出来ないのは残念だ」

 そこに篭められているのは、一体どんなこころだろうか。

「研究する時間があれば、出来たんでしょうけどね。不良患者で申し訳ないですが、生憎と時間がなくて」

「生き残り、なお“何か”が消えていなければ、私の元へ来たまえ」

「“旧区役所”にですか?」

 返答はなく、俺もまた振り返りはしなかった。こんな別れ方もいいな、と思った。

 部屋からでると、悠々とした足取りで表に出ていこうとする。だが、どうしても足は逸ってしまった。

 ふと、井戸が目に入った。水浴びをして身を清めてから、と言うのは決闘における武士の嗜みとも言えるんだが……吸血鬼に犯された身に水は陽光に並ぶ天敵とも言える。ああ、まったく格好のつかない事だ。おまけに、こんな目に遭ったのが女の嫉妬が原因とは情けないにも程があるぜ。

 秀蘭め、今度あったら絶対に滅ぼしてくれる。

 憤りも新たに背筋を伸ばして、全身に念を張り巡らせる。体内を駆け巡るそれを蹴散らそうとする汚れた手がやってくるかと身構えていたが、今のところ兆候もない。

 最悪のタイミングで茶々を入れてくる可能性も捨て置けず、決して油断は出来ないがそれでも一安心という所だ。念法が使えなけりゃ、一体どうしろってぇのよ。

「ん……」

 行く手にゼムリアが立っていた。

 彼は何も言わずに大きな外套を手渡してくれる。その場で羽織るとこれがまた、実に具合がいい。身体は完全に隠れ、視界こそ多少遮られるものの腕の振りは遮られる事は無かった。 

「ありがたい」

「おう。勝ってこい」

 お互いに、にやりと笑う。

 白状すれば、俺はここまで見事に俺にはまった外套を用意できた事に自分との見る目の差を感じて若干ひがんでいたのだが、それを表に出せるほど惨めな性根はしていないし、下劣な根性もしていなかった。

 そのまま、ばっと外套を翻して立ち去る。格好をつけてそのまま拳を上げたが、偶には俺だってそういう事をしてみたいのだ。背中で語るという行為に憧れない男はいないだろ?

 夕暮れ時の薄暗がりの廊下で、こんな事が出来るんだ。全く、実にいいシチュエーションだ。思わず浸ってしまいたくなる。このまま劉貴の前に臨めば、モチベーションは鰻登りだぜ。

「行くのね」

 ……しかし、そうは問屋が卸さないのが世の常だ。

 ゼムリアの後にも待っている面々がいた。孫家の一同と、董卓の家臣が勢揃いだ。

「何で揃っていられるんだ」

「どうやら、劉貴とやらに連合は屈してしまったようでの。今日は一日暇なのじゃ」

「時間が味方なのは、寧ろこちら側なのでな。この一日はありがたく準備に使わせてもらった」

 黄蓋と周瑜が、それぞれのご立派な胸を腕組みの上に載せて教えてくれる。それは結構だが、せっかくの雰囲気に水を差されたようでいい気分ではない。

 激励に来てくれたんじゃないのかと思うが、それにしては面子がおかしい。孫策、黄蓋、周瑜、張遼まではともかく、残りの四人はどうでも良さそうな顔をしている呂布はともかくとして、どこか不満そうな顔をしているからだ。

 あ、逆に考えれば俺を嫌っている三人が不満そうなのは、俺にとっていい事なんだと考えられるか。どっちにしても、そういう面子がいるおかげで台無しなんだけどな。

「この半日で何か変わったのか」

「我々は当たり前に準備をしただけだが、向こうは少し動いた」

 周瑜の表情は明るい。悪いニュースじゃないんだろう。

「公孫賛が退いた」

「公孫賛? ああ、なるほどな」 

 それにしても、こう言う無機質な会話をしているといちいちさっきまでの高揚感が萎える。どうして女って奴は男のロマンを無自覚に潰してくれるのか。

「何か知っているのか?」

「彼女は以前に怪異と会った」

 わずらわしくなったので、自然と会話はぶつ切りになる。アレだな、俺は根本的に女相手の談笑が出来ない体質なんだな。いや、未来の義姉やとあるノアの子孫相手ではそうでもなかった……向こうが合わせてくれていただけか。

「公孫賛の所には、劉貴の気功で打ち抜かれた趙雲もいるからな。馬鹿でもなければ逃げるだろ」

「成る程な」

 少し反省して、会話を繋ぐ努力をする。そうなると、今度は話題が全く思いつかない。まあ、一言じゃなくて二言返せば礼儀に反してはいないだろう。

「そういう事なら、こちらに取り込みも出来るか……」

「そんなに易々と寝返る程度の意識で挙兵する訳ないだろう」

 反射的に異を唱えたが、彼女はそれに笑って、それを翻意にすることも私の仕事だ、と返してくる。随分仕事が多いようだが、孫策は何をやっとんじゃい。

「いずれにしても、ここで退いた以上彼女の立場は参戦しなかったよりも悪くなってくる。やりようはいくらでもある。いざとなれば、戦後の便宜を図るように董卓殿に話を持ちかけて懐柔するが……まずは、それだけの力を持っていると相手に納得させるだけの戦況にしなければ話にはならない」 

 まあ、頑張ってくれ。どっちにしても俺はそこにはいない。

「公孫賛は今どこにいるんだ? 領地に帰ったのか」

「恐らくは。今後、詳しく調べるところだがさすがに半日では実のところ、本当に退いたかどうかさえも確定しきってはいない」

「まあ、その辺の話は置いておきましょうよ」

 孫策がつまらなそうに割って入ってくる。それを周瑜は別に咎めもせずに、涼やかに笑って一歩退いた。 

「これから決闘に行こうって言う奴とするような話じゃないでしょ。こう言う場合、もっというべき事があるはずよ。無粋なんだから」

「軍師は酔狂では勤まらん」

 そう言う周瑜だが、別に怒った様子もなく笑っている。本当に、服装さえどうにかすれば稀に見る知的な美女なんだが……孫策と同性愛関係らしいと言う点も踏まえて、残念な趣味の塊な女である。

「君を前にしていると、度々不愉快な事を考えているように見えるのは私の勘違いか?」

「勘違いだ」 

 そう言えば、軍師というのは孔明が最初で彼以前には軍師という名称はなかった……なんて話も聞いた事があるんだが……まあ、うろ覚えの話だ。色々滅茶苦茶な世界なんだ、これっぽっちの事にこだわってもしゃあないか。

「だから、私を余所に放り出さないでってば」

 とりとめのない思考に逸れていったが、引き戻したのは孫策の高い声だった。ここにいる女達は、子供と無口を除いては全員がいやに発音と滑舌がよく、それを商売道具に出来そうなくらいだ。美女は総じて美声だというのも、あながち嘘じゃないらしい。

「さて、そろそろ行くのよね」

「ああ。出来れば俺が先に場についていたいからな」

 こちらが申し込んだ身で、その上に相手は格上。そのくらいは当然だろう?

「そう……見送りに間に合ってよかったわ」

「やはり、こちらに何も言わないで行くつもりだったようだからの」

 確かにそのつもりだったが……別に、挨拶するような必要もないだろう。いえば角が立つから言わないが。

「薄情よねぇ」

「身勝手だな」

「勝手に恩を売って、勝手に消えるか。そう言うのを格好いいと思っていそうな顔しとる」

「そら、ほんまに勝手な男やな」

 声に出しては非難囂々。声に出さない連中は非難の眼差し。よってたかって女の集団に袋叩きかよ。やってらんねぇ。

 付き合っていても埒があかない。それ以前に、普通に不愉快だ。チンピラのように舌打ちをする事だけはどうにか自制して、さっさとすれ違う。これ以上不格好な真似してたまるかい。

「ちょっと、肝心な事がまだ済んでいないわよ」

「あ?」

 逃してたまるかと言わんばかりにしつこく肩に手を置いてくる孫策。それを交わさない程度には信用したが、それはつまり、不意打ちをしてこないだろうという心配をしなくなったと言うだけだ。

 しかし、それは裏切られた。

「!?」

 気分を害し、いいかげんにしてくれとわめき散らしてやろうかと言う選択肢を、プライドと引き替えに選んでしまおうかと思った俺の顔に影が差す。
擦れているとは言わないが、さすがに頬に唇が触れたと分からないほど初心でもなかった。驚いていると背中に手を回され、力一杯しがみつかれる。
大きすぎるくらいの乳房が俺の胸に圧せられて卑猥に変形しているのがちらりと見えたが、彼女がどこか静謐さを感じさせる笑顔でいたおかげでよくわからなかった。

「おい……」

「本当は唇にしようかと思ったけど……安い女と思われたくないから、こっちにしておくわ」

 勝ち気で、享楽的な印象の強い彼女には似合わないが……それでも俺の心臓を一度跳ねさせるような表情だった。

「雪蓮よ、私の真名」

「!?」

「今度こそ、もらってちょうだい」

 二度目の仰天だったが、先ほどのそれよりは大きくない。こう言っちゃあなんだが、育った文化が違う俺にとっては、真名の重要性というのは実感しづらいからだ。元々、一度黄蓋からもらいそうになっていた事もあるし、そこら辺でひょいひょい呼んでいるから、安く見えている事もある。

「ね! 姉様、そのように軽々しく真名を許すなど!」

 そうだそうだと同調したくなるのはまずいだろうが、率直な心境だ。なんでこんな話がでてくるんだ?

「別に唐突な話じゃないわよ。前にも真名で呼ばせようとしたのに“恩を売って真名をもらうなんて男のする事じゃない”なんて格好つけたのよね」

「それは儂の時じゃろう」

 黄蓋が、未だにしがみついたままの孫策と場所を後退して目の前に立つ。

「あの時も言うたの。今度は受け取ってもらうぞ? 祭じゃ」

「……一体何なんだ?」

 間抜けな事しか言えない、気の利かない自分が全面に出ている事に忸怩たる思いはあるが、それでもどうしたらいいのかがさっぱりわからん。

「気の利かないところも今は良しとしよう。今はただ、黙って受け取れ」

 彼女の顔も近付いてくるのは、たぶんそうなるだろうと察していた。

「……これもな」 

 孫策のそれとは反対側に、彼女の唇が触れる。孫策のそれよりも、少し厚めだと思った。今回はさすがに狼狽えることもなく、ただ頭をかいているだけで済んだ。

 彼女はそのままゆっくりと微笑んで、次に来る女性に場を預ける。周瑜がゆっくりと俺に向かって歩み寄ってきた。

「冥琳。私の真名だ。貴方には随分と助けられているな、礼のつもりはないが、受け取ってくれ」

「……」

 彼女は抱きつく事も口づける事もせずに、俺の手を軽く握ってまた離れた。残念なようなホッとしたような、何とも言い難い気持ちにさせられたが……笑顔だけ三人は一緒だった。

「……一体何でまた、こんな事をしたんだ?」

「まるで悪い事のように言わないでよ」

 確かにそうだが、理由が分からなくて落ち着かない俺は元々語彙が少ない事もあって他に言いようがない。

「これから決闘に行く男に、ちょっと言いたい事があるだけよ」 

「何というか、死に土産みたいだな」

 縁起担ぎのつもりでぞっとしない冗談を口にすると、三人は眉をしかめた。質の悪い事を言うなと言外に非難してくる。

「まったく、気も利かない上に縁起でもないセリフを吐くとかどうかしているわね。そんな事よりも、何も言わずに受け取りなさい。そして、終わったら孫家にいらっしゃいな」 

「……おい」

「あの時にも言ったわね。婿になりなさいって」

 げ、と孫権と甘寧の顔が歪んだ。まるでゴキブリでも踏んづけた主婦のような顔である。

「帰るなんて、冷たい事を言うんじゃないわよ。このまま孫家の礎になって、そして漢の土になりなさい」 

「…………」

 これで二度目の随分な誘いを受けたが、それに何も言えない。一瞬、ハッキリと言い切る事にためらいが生じたからだ。これから自分がひどい事をするような錯覚を感じたのだ。

「俺は帰る」

 それ以外には何も言わないし、言えない。

「……そう」

 孫策は目を伏せた。見たくも無い顔を彼女と、そして後ろにいる黄蓋はしている。周瑜も残念に思ってくれているらしい。だが、それでも俺は帰らなければならないのだ。

「あーあ、ふられちゃったか」

 さばさばと言ってみせてはいるが、彼女の目はけして明るくはない。だが、詫びる権利は俺にはない。

 姉を始めとする身内に恥をかかせたのが許せないんだろう、孫権を始めとする残った孫家が俺に斬りかかってきそうだったが、そこは無言の内に止められていた。だがしかし、だからといってこれ以上ここに留まっているのは、さすがに話が相当にややこしくなるだけだろう。

 何よりも気まずい空気を耐えかねた俺は、するりと影のように彼女らとすれ違う。

「見送りありがとう、雪蓮、祭、冥琳」

 せめて、真名だけは受け止めるのは誠意だった。

「勝ち残りなさい」

「生きろよ」

「負けるな」

 少し明るさを取り戻した声でそれぞれが同じような、しかして違うような激励の言葉を返してきた。返す言葉が上手く見つけられずに、俺は一度だけ立ち止まり、無愛想に頷いてから歩き出す。

「最後まで愛想がないのう」

「口下手って言っても、少しは努力しなさい」

 冥琳は笑い声だけが聞こえてきた。これもこれで俺の味なんだぞ、と言いたいが……それではつまらない言い訳にしかならないのはさすがに分かる。
“女相手にペラペラ舌を回すような男になりたかないんだよ、男は行動で語ってナンボだ”

 浮かんできたセリフを口に出しても、せいぜい呆れられるか悪くすれば吹き出されるかもしれない。そう考えた俺は、何も言わずに拳を掲げて足を進めた。

「勝って帰ってきたら、ご褒美にうちの真名もあげるで?」

 すれ違い様にそんな冗談を言ってきた羽織かけがいたが、俺は笑っただけで流した。

「……頑張れ」

「ふん、せいぜい無様な真似はするな! なのです!」

 とってつけたような激励と憎まれ口を叩くデコボココンビもいた。ついでに、激励どころか文句を言いたそうにしていう主従もいたが、彼女らが何を言うよりも早く、いささかわざとらしく大きな声を上げて忍者モドキが激励してくれる。

「あーっと! 私もあの男にはひどい目に遭わされましたので、できればその分がつんとお願いします!」

「ああ、なんとかやってみる」

 堪えきれずに笑いながら、俺はその場を後にする。

 いい気分を台無しにされるかと思って憤慨していたが……どうやら、そうもならずに済んだようだ。

 ふ、などと鼻でするような……ついつい自分でも気障に思える顔で笑った俺だったが、足を一歩踏み出すとそれはすぐに消えた。

 もう一歩を更に踏み出すと、無表情になった。

 そこから更に歩き出すと、今度は足を進める度にどんどんと歪んでいった。

 一体、今自分はどんな顔をしているんだろうか。知りたいような知りたくないような、そもそも知ったところでどうしようもない疑問が胸から水のように湧いてくる。

 懐から取り出したのは、お守り代わりの手鏡だ。飾り気のない俺に似合った武骨な品で、命を救われた事もある。

「…………」

 およそ、決闘に赴く男にふさわしいのはどんな貌だろうか。

 衆生の汚れなど我には及ばぬと悟った、まるで仏のように静謐な貌だろうか。

 それとも、スポーツでライバルチームに挑む少年少女のように勇んだ貌だろうか。

 俺のそれは、どちらでもなかった。

 随分と醜く歪んでいる。それが本人だからこそよく分かる。

 待ち受ける強者が恐くて、それを誤魔化す為に気負っていきりたって、誤魔化している。そんな臆病者そのものの貌にしか見えなかった。

「……こういうのも、身体は正直って言うのかね」

 気が付けば、鏡がぶれている。鏡を持った手が震えているんだ。声が震えていないのが不思議なくらいだ。

 黄巾の砦でやった時には、今回みたいな“待ち”がなかった御陰でこんな無様を晒す事は無かった。しかし、なまじ時間があったからこそこんな風になっている。俺の落ち着きはメッキだと証明されてしまった訳だ。

 まったく、ドクトル・ファウスタスやゼムリアから離れた途端にこの様とは情けないにも程がある。どこが男だ?

 ただ、俺も自嘲はしても焦りはしていなかった。

 果たし合いは初めてではなく、格上との戦闘は常に俺を待ち続けている日常だ。いつもの事で、代わり映えがしない毎日とさえ言っていい。

 だから、こんなのは慣れっこだ。

 俺はただ、新しいメッキを張り直せばいい。いつか、それこそが本物の芯になるはずだと信じて呼吸を整える。

 全身に聖念が満ち満ちていくのを、はっきりと感じる。

 怖がっていい。

 怖がっていい。

 それでも、足を進めろ。

 臆病な俺だが、それでも逃げる事だけはしてはならんのだ。

 ……思いつく限り自分に言い聞かせて、足を進めていく。立ち止まれば、そこで終わってしまうような焦燥感が背中を押してくる。事実である以上、逸りこそすれ留まる理油はない。

 一歩、また一歩と足を進めて日差しの元へと外套に包まれた姿を晒した頃にはもう、日差しを浴びた霜のように焦燥感は消えてしまっている。

 念法修行をする前の俺では、この切り替えでさえままならなかっただろう。

 それを踏まえ、いつかは山のように泰然自若とした男になりたいと思いながら足を進める。

 全身を日差しが与える倦怠感が襲ってくるが、それでもなお俺は意気軒昂だった。








 遙か彼方に、敵兵が海のように群れているのが見える。

 相変わらず、馬鹿馬鹿しい兵数だ。日本の戦国時代と比較すると、想像もしたくないような数である。国土がでかけりゃ、人も当然多い。わかっちゃいるが、こんな馬鹿みたいな数でよってたかって殺し合いをやっているとは、情けないにも程があるな。

 日が沈みかけ、それでもまだ暑さを留める風が頬をなでる。砂埃の乾いた感触がどうしようもなく不愉快だったが、それもまた果たし合いの味と言えた。

 しかし、これじゃ西部劇の決闘だな。

 俺の勝手なイメージだが“果たし合い”は余人のいない草っ原でやるもので“決闘”は白昼堂々、丸まった枯れ草が風に煽られて転がるストリート。それも衆人環視の中でやるものだ。時代劇と西部劇の違いだな。

「毛唐がやるから決闘か。くっだらねぇ事思いついたな」

 馬鹿丸出しのセリフをぼそりと呟いて、人の海へと足を進める。あんだけいれば、冗談抜きで湖くらいは埋められそうだよな。

「…………上手い事、先に来られたみたいだな」 

 幸いなことに、まだ劉貴大将軍はいない。これで先を越されていたら、どうしようもない恥だ。なにしろ、申し込んだのは俺だからな。
 
 彼我の距離を計算して適当に、それらしい位置に腰を下ろすと胡座をかいた。

 途端に前後から圧倒的なくらい大量の視線をぶつけられ、距離のせいで聞き取りづらいがアレコレと品定めなのかなんなのか、ぼそぼそと俺の事を指して噂をしているらしい声も聞こえてきた。

 内容は分からないでもなかったが、意図的に無視した。意味がないどころか、どう考えてもろくな事を言われているとは思えないからな。どっちの陣営から見ても正体不明の怪しい人物でしかないんだろうしな……

「…………」

 しかし、意識を逸らすといってもこんな殺風景の見本のような場所には愛でる風景もありはしない。そもそもそんな余裕はあったモンじゃないが、とりあえず果たし合いの前に相応しそうな雰囲気を作る為に目を瞑ってみる事にした。

 自分の中に流れる血の音が聞こえ、心臓の音がどこかおぞましく思える。まるで、タイムリミットを数えているように思えるのだ。

 そんなうわつきを消す為でもないが、精神を整えて念を練る。全身から満ち溢れた聖念がまるでわき水のように、目に見える範囲全てに広がっていく。

 これが今の俺の精一杯。

 成層圏まで達したと嘯かれる十六夜弦一郎と比較して、なんてちっぽけな念法か。

 だが、これが俺の根かぎりだというのならそれで戦うより他にはない。なに、これでも結構捨てたものじゃない。さっきからあれこれとうるさかった両陣営の連中も、まとめて黙りこくっているじゃないか。

「……いいな、こう言う雰囲気は」

 聞こえるのは、ただ風の音だけだ。そんな中で、風の中に混じるように馬蹄の音が響く。少しずつ、ゆっくりと近付いてきていた。

「来たか」

「来たぞ」

 目を開けると、槍どころか剣でも届く正に目の前に黒い外套に身を包んだ騎兵が悠然と佇んでいる。

 馬の鼻息が、顔に熱さを運んできた。目の前で呼吸に合わせて大きさを変える鼻の穴が奇妙におかしかった。

「待たせたな」

「構わない」

 ゆっくりと立ち上がる。別に悠然としているつもりはないが、ここで慌てるような必要はなかった。むしろ、のんびりと身体を解す余裕もある。

 我ながらのんびりとした動作でそこら辺を見回すと、不気味に思えるくらいの大量の人間が俺達に注目しているのが見える。まるで蟻か蜂の群れだ。

「随分と大袈裟な話になったな。いらん人目がやけに多い」

「そうだな。お前は戦人ではない。我らの勝負には俺とお前がいれば、それでいい。だというのに話を大袈裟にしてしまったのは、俺の責任だ」

「主命に従っただけだろ」

 今現在、彼女はここを見ているのだろうか。

 この大地を埋め尽くす軍勢の中に、確かに食い込んでいる従者の牙を見ているのだろうか。見ていたとして、いったいどうするだろうか。

 大人しく見ているなんて、有り得ない。もう既に何らかの手を打って、俺が右往左往するのを楽しく見物する算段を整えている方がよっぽどらしい。

 ……考えるな。

 そんな事を考えても始まらない。俺はただ、劉貴との勝負に全力を尽くす以外にはないのだ。

「兵を率いて戦をするのは本懐だが、始まりが小娘の因縁付けでは萎えてしようがない。これではいらぬ柵が増えただけとしか思えなくてな。果たし合いの申し出、実にありがたかった」

「この戦争、真っ当に命を賭けるには馬鹿馬鹿しすぎる。参加すること自体がただの恥だろう。大将軍がそこにいるのは、見ている方が忍びない」

 戦争に善し悪しをつけるのはそもそもナンセンスかもしれないが、それでも限度はあるだろう。今回のこれは、最低だ。

 俺の言葉に何を感じたのか、劉貴は軽く目を細めた。

「外套を纏わなければ、陽光の下には出られぬか」

「ああ、随分と深く牙を突き立ててくれたよ。秀蘭はどうなった?」

「罰した」 

 端的なセリフに鳥肌が立ちそうになった。一体どんな目に遭わせた事やら、彼もまた拷問大国の出身であることには変わりないと遅まきながら思い出した。

「俺を斬れば、きっと出てくる事だろう」

「そうだな、俺もそう思ってた」

 これから殺し合う俺と軽い応対をしながら、劉貴は馬を下りた。未練なく下馬する様子に、俺はへえ、と思わず呟いた。

「馬はいいのかい」

「工藤の技にこの馬はついていけん」

「光栄だな」

 俺達はお互いに背中を向けて、距離をとった。それぞれ、背中は無防備だったろうが俺は不意を討つつもりはないし、劉貴も同じだと断言できる。

「そう言えば、立会人とやらはおらぬのか」

「ああ、いなけりゃならない訳じゃない。俺は心当たりがなかったな、そっちは?」

「俺もだ」

 正確には、俺には心当たりはあった。ただ、迷惑をかける気がして頼まなかっただけだ。そこまでしてもらうだけの義理はあるまい、と我ながら水くさいことを考えたんだ。

「それじゃあ、俺が立候補しても構わないな?」

 一体いつの間に現われたのか、少なくとも俺には理解できない、まるで降って湧いたようにゼムリアが飄々とした雰囲気を崩さずに、俺と劉貴のちょうど中間に立っている。俺の目測では、見事に俺と劉貴それぞれの距離は2.5メートルジャストで狂いが全く無い。

「ほう……これはまた、この大地に来て二人目の益荒男か。その両人が並び立つところを見ることが出来るとは、我ながら果報なことだ」

「それはこっちのセリフだ。冬弥が散々持ち上げていたからどれだけ大した相手かと思っていたけど……前評判に偽りなしじゃないか」

 さすがに一目で互いの実力を見抜いたのか、不敵な笑みを向け合う両名に、ふと彼らの勝負を見たくなった。きっと、どっちも外連も糞もない真っ向勝負になるんだろうな。

 ……でもまあ、今劉貴と勝負するのは他でもない、俺だ。

「ゼムリアが立会人をしてくれるって事でいいのか?」

「ああ、そのつもりだ。悪いけど、ちょっとわくわくしている」

 年甲斐のない悪戯を咎められた大人が、ばれたかと苦笑いをしているような感じで照れくさそうにしているゼムリアを咎めるつもりはない。

「つまらないとだけは、言わせないさ」

 言って、劉貴と対峙する。彼もゼムリアの立ち合いには異論がないらしく、無言のまま構えた。素手だ。槍も剣も、弓も持たない全くの素手だ。

 吸血鬼らしく外套から手が出ることはない。それなのにはっきりと理解できる構えの見事さよ。

「痺れるね」

 対して、俺もまた半身に構えた。仁王は未だに抜かず、手は腰のあたりに備える。さながら太刀を持たない居合いだが、この程度なら外套からはみ出もしない。慣れていなくとも手足が焼ける心配はない。

 それでも、縮こまってはどうしようもない。いざとなるまで無理をするつもりはないが、いざという時には全身が焼けただれようとも構うまい。そして、相手が劉貴大将軍というならば、いざという時はすぐ目の前にあるだろう。

 その時に躊躇った挙げ句、何もかもを失うような真似だけはしたくないものだ。

「……さて」

「ふむ」

 俺達は共にちらり、とゼムリアを見る。示し合わせた訳ではなく偶然だが、俺達が彼に目線をやったタイミングは全く同一だった。

「こう言う場合の作法ってのはよく知らなくてね。急場しのぎですまないが、俺のやり方でさせてもらう」

 す、とレースの開始のように手を上げた。手刀の形で掲げられたそれは俺と劉貴の身体を縛る鎖を断つようだ。

「東方、工藤冬弥」 

「応」

 チャクラが回転している。その速さがどんどんと増してく。物理的に音をたてているのではないかと錯覚するほどに、それは強烈だ。

「西方、劉貴」

「応」

 対峙している劉貴は、平静であり冷静でもあるように見える。しかして、構えられた両腕は刹那の隙でも見つければ、飢えた狼のように必殺の魔気功を俺に叩きつけるだろう。

「正々堂々、真っ向から。勝っても負けても遺恨なく!」

 姫がいる。騏鬼翁がいる、秀蘭がいる。それでもなお、そうであってくれと願ってしまう。鉄のような男と果たし合いには楊枝ほどの横やりも入れさせたくはない。

「承知した!」

「異存はない」

 お互いの言葉が空々しいように聞こえる結末はないと信じたい。そんな事を考えるが、一瞬でつまらない思考は流されていく。

「いざ、尋常に」

 お決まりの文句が、これ以上無いと言うほどに張り詰めた空気を作ってくれる。足の裏から何か名状しがたいものが骨の芯を通って脳天へと突き抜けていくような、この抗いがたい瞬間。

「勝負!」

 最後の文句を口走ったのはゼムリアだったのだろうか。

 俺も叫んだ気がするし、劉貴の声もあった気がする。

 誰も彼もが叫んだのだろうか。まるで芸事で示し合わせたように、俺達は叫んだのか。

 面白いな、殺し合うはずの俺達と、それを見守るゼムリアの呼吸が、阿吽に合うだなんて。

 そんな俺達の中で、対峙する二人から周囲の空気を圧する殺意が湧いて出る。

 俺のそれは、煙のようだった。

 俺を燃料に湧いて出てくる煙だ。俺が自分の殺意をそんな風にイメージしているからかもしれない。煙は瞬く間に周囲に満ちていき、見ているだけの二つの軍兵の肺に侵入し、目を冒し、皮膚を荒らしていく。

 至近に立つ二人、ゼムリアとて例外ではない。しかし、彼は柳に風とばかりに受け流していく。対して、劉貴は?

 煙に充満された空気を切り裂き、何かが飛びかかってくる。

 蝗のようだった。

 幾百、幾千、幾万、そんな数の蝗が煙を羽ばたきでかき回して飛び出し、見境なくそこら中を食い荒らしていく。

 外套は一瞬で食い尽され、俺は皮を食いちぎられ、肉をついばまれ、骨に歯形をつけられていく。

 そんな錯覚に襲われた。

 凄いな、これが劉貴の殺気か。まるで本当にむさぼり食われているようだ。その中で肉体を弛緩させて自然体でいるのは至難の業だ。だが、それをしなければ肉の強張りに付け込まれて一瞬で本当の絶命をする。

 これが前座か。

 常人では、この時点で死んでいてもおかしくはない。事実、俺達の殺気に当てられて倒れている兵士達が続出しているのが遠目にも分かる。これだけ距離が離れていてもそれなら、至近ではとっくに死んでいることだろう。
夕暮れの中、外套に身を隠して死を振りまく二人組。まるで不吉な伝承の一コマのようだ。

 赤とオレンジの中間のような光に生み出された俺達の影が恐ろしく伸びている。しかし、その影はあまりにも黒が濃すぎた。まるで、その形に穴が空いて人を引きずり込むような色だ。

 これも夜の眷属である証明か。
「吻っ!」

 その影が動く。

 俺の影は主の構えを正確に追従して、居合いのそれをとり続けていた。それが瞬きもしないうちに居合いを振り抜いた姿勢に変化する。劉貴の首を目掛けて伸びきった姿勢は、我ながら見本のように見事だ。

「不可思議な技だな。影は太刀を振っているというのに、本体は既に納めているとは」

 その一太刀を軽々と躱した劉貴が、興味深げに呟く。彼の見詰める俺は、既に居合いの姿勢に戻っているからだ。

 影が未だに太刀を抜いていると言うのに、本体は太刀を納めている。

「影置きの太刀」

 俺がそう言った頃に、ようやく影の太刀も居合いの構えに戻る。

「影を置き去りにする程に早い一太刀か。初めて見たぞ」

「次元刀の修練中に偶然出来るようになっただけの虚仮威しさ」

 速さを追求した御陰で、自分自身の影さえ置き去りにする事さえ出来るようになった。だが、それだけだ。影が追いつけない速さで太刀を振ろうとも、影を切れる訳でもない。先ほど言ったのは、事実以外の何物でも無いのだ。

「ほうっ!」

 今一度振るう一太刀に合わせて、呼吸をする。もう一度、首を目指す……と見せかけて、狙いは心臓への逆袈裟だ。使い魔の目を通してから、首よりも心臓こそが最初からの標的。こっちが本命の一振りだった。

 しかし、そう何度も攻撃をさせてくれるほどに甘い大将軍ではない。それは我ながら姑息に、ここまで仁王を隠して間合いを読ませないようにしていても同様だ。

 俺が再度の一太刀を抜こうとした瞬間には、もう既に両手からの魔気功は少しずつタイミングをずらしながら俺の心臓こそ打ち抜いてやると、無音の高速で襲い掛かってくる。

 見る事も聞く事も適わない魔気功を躱せたのは、純粋に勘だ。

 右の手の平から襲い掛かる気をのけぞって躱し、左の方は不安定な体勢から振った仁王で切り裂く。その際に陽光に当たったが、気にしていられる状況じゃなかった。

 抜いた仁王に目を見張った劉貴と視線をぶつけ合いながら、どうにか距離をとって仕切り直す。本当なら蹴りの一撃でもお見舞いしたいところだが、すんでの所で思いとどまったのは、劉貴相手にダメ元の攻撃など無意味どころか有害でしかないと悟ったからだ。

「っ!」 

 背後で、躱した魔気功が土を消し飛ばした。こいつは参った、消し飛ばされた先に何もない。

 ぞっとするも、悠長に浸っている暇などもちろんない。即時体勢を立て直し、振りかぶった上段からの振り下ろしで脳天唐竹割りを狙う。

 外せば後がない一太刀、振り上げた腕が陽光に灼かれるも構っている余裕はもちろんない。

「いいいぃああっ!」

 外せば後がないからこそ、全霊をもって振り抜く。

 気合の一閃、最速の一太刀が次元刀となり劉貴に襲い掛かる。だが、振り下ろした先には影さえなかった。

「ちちぃっ!」

 次元を切り裂く刃が大地を何処までも切り裂き、とうとう連合の中心を駆け抜けていくのを見ながら咄嗟に勘で右後方を振り向き、中段に構えて防御の態勢をとる。

「見事だ。大きく避けねば当たっていたぞ」

 距離をとった分、俺に体制を整える余地を与えてしまったのだがそれを惜しむどころか俺の攻撃を賞賛する余裕綽々の劉貴が構えを改め立っている。大きく突き出した右足、重心を預けられた左足は蹴りではなく手技で来ると教えてくれる。

 それを見ながら“四方目”で背後になった連合陣地を探る。何やら驚嘆の叫びが聞こえてくるが、悲鳴の類は聞こえてこない。

「安心せよ。そなたの一閃、あの太った魔道の徒が防いだ」

「それは安心だ」

 どうやら俺の一太刀は偶然にも、トンブに当たりかけたらしい。これは、俺とトンブのどっちの運が悪いんだろうか。後で盛大に文句を言われ、恐らく賠償を求められる事は確定している分、俺の運の方が悪い気がする。 

「…………」

 互いに呼吸を読み合う。

 ここまで俺からの攻撃がメインだが、一つも当たっていない。しっかと念を篭めたそれらは、常人どころか妖物でも生半可な武芸者でも目にも留まらず切り捨てられるだけの太刀筋であると自負しているが、なお大将軍には通じない。

 太刀どころか、俺自身さえ影さえ追いつかないほどに早く動いて尚、小手調べで避けられるか。

 やっぱり凄いな、と素直に思う。

 場を弁えない尊敬の念が浮かんでくる程だが、それで萎縮するような事はない。

 才能なんてろくにない俺は、生まれてからずっと年期も才能も上の人間に囲まれて剣を振ってきたのだ。それは、養父に連れられて様々な武術と出会ってからも続いている。

 格上とやるのが当たり前の俺が、今さらそれで怯むような事はない。そんな弱さは剣を握った瞬間に卒業していた。

 だから、今は臆さずに攻め込める。

 今一度、とすり足で襲い掛かろうとした俺だったが、それは強制的に止められた。劉貴の全身から生まれた殺気を通り越した鬼気のせいだ。

「そろそろ、俺の番よ」

 そこからは何かを言う隙もない。遙か未来の練り込まれた武芸を学び、数多の名人達人の技を拝んできた俺から見ても信じられない程に滑らかな歩法で近付く劉貴大将軍の手の平が、俺の心臓を指す。

 考えるよりも先に全身を投げ出して、無様に転がった俺は背中を通り過ぎていった“何か”を悟って冷や汗を流す。

 そのまま劉貴を見もせずに、左腕の力だけで飛び上がった。またもや勘が疼いて、咄嗟に仁王を突き出すと、ドンピシャリで魔気功を撃墜する。

「今のを斬るとは、な。不可視のはずである“烈気”をよくぞ見切った」

 猫よりもしなやかに音もなく着地してみる俺に、追撃の手は無くそれどころか弟の手柄を褒めるような賞賛がかかる。これが嫌みでも増上慢でもないのが、彼の男ぶりを示している。

「なんのなんの」

 はったりで嘯いてはみたが、まるっきり偶然だったのでこっちは背筋が冷えている。次はどう捌く、次はどう切り込めばいい。それを自問自答する暇もない。

 劉貴の手の平は俺の方を向いている。おこりもなく放たれ、見えも聞こえもしない魔気功を、勘だけを頼りにして一体何時までかわし続けられるのだ。

 ましてや打ち手は、劉貴大将軍に他ならない。

 恐ろしいと逃げ出したくなる程に腰抜けでもないが、逆に負けてなるものかと気負いすぎると足下をすくわれる。

 元々向こうは一発当てれば終わりだが、こっちは何をどうやっても有効打にはならず無意味といういかさま勝負なのだ。だが、そんなろくでもないツボでも好んで賽を投げ入れた以上は……賽の目を見るまで終われはしない。
俺が始めた、しなくてもいい勝負なのだから泣き言だけは言わない。

 決意とか覚悟なんて、ご大層すぎて似合わない言葉は言えない。ただの意地だ。だが、その意地が俺の中で眠るチャクラを呼び覚ます。

「ほう……」

 劉貴が感嘆の声を上げた。それが何であるのかを理解する余裕など存在せず、俺は全身から立ち上る聖念に向け、更なる高みへ上れと必死に呼びかけていた。

 チャクラとは、人間には六カ所あると言われつつも、同時に七カ所あるとも言われている。万人に存在だけはする七カ所目のチャクラは生半な事では作動せず、それを動かすというのは即ち神をも討てる存在と昇華されるからだ。

 俺には到底そこまでは望めない。

 俺はその手前の眉間のチャクラさえ満足には動かせない。一度死んだところで、それは変わらないと言うから筋金入りだ。

 俺の回転させられる限度は心臓の位置に座するチャクラがギリギリだ。そしてチャクラは一つ一つが発生させる念の種類が異なり、上部に位置するチャクラほど、より高位の念を生み出す。

 心臓までのチャクラでは、劉貴には届かない。

 それは、魔界都市で劉貴当人に教え込まれた苦い事実だ。繰り返し繰り返し先ほどまでのように仁王を振り下ろして打ちかかっても、全てが無意味に終わった記憶は未だに色濃い。

 即ち、俺の念法は劉貴に届かないという証明は既になされているのだ。

 故に、それ以上の何かが必要。

 かつて、劉貴と同等の力と不死性をもったカズィクル・ベイを滅ぼす為に俺はその“何か”を自分自身の命に求めた。

 あるいは、今度も同じ事をすれば届くのかもしれない。

 だが、それが許されない理由があった。

 脳裏に、苦いというにもあまりにえぐみの強すぎる光景がよぎる。

 三メートルを超える内臓器官が線虫で出来ているような半透明の巨人がいた。

 奇妙に肩が張り出した、出来損ないの人体シルエットに目も鼻も口も全ての感覚器官が顔面に呑み込まれたような不気味に脈打つ表皮を持った巨人もいた。

 ロバと人間を無理やりに掛け合わせたような怪物もいた。

 妖魔だ。

 兵器として用いる為と称して魔道士に召喚され、報酬の一端として数多の女を犯し、最後には食い尽し、あるいは屍を弄び何もかもを蹂躙し尽くす妖物達だ。

 全てが、女を犯していた。

 きっと、俺が見ているよりも前にたくさんの女達が殺されたに違いない。そう確信を抱かせる多量の血と精液の臭いが充満する中で、奴らは女を蹂躙していた。

 三人の女が、虚ろな目で虚空を見詰めている。その内一人が、俺に目を向けた。彼女は妖魔の下半身に首まで吸収されながら、こう言ったのだ。
 

 タ、ス、ケ、テ。
 

 自分の奥歯がかみ砕けるほどに力が入っていた事に、俺は気が付かなかった。

 そして、恥じた。

 俺は南風ひとみを救う為に、それだけの為に死地に足を運んだ。

 それ以外は、自衛隊にでも任せておけばいいと思っていた。つまり、南風ひとみ以外の彼女達を救う事を、最初から放棄していたも同然だった。

 ひでぇじゃねぇか。

 あんまりじゃねぇか。

 もしかしたら、俺がもっと頑張れば彼女らは救えたのかもしれない。

 今まで、幾度も幾度も味わってきてなおも割り切れない“もしも”が今回も俺を苛んだ。

 今度は俺に予備知識があった分、なおのこと苦みは強く口の中で尾を引いた。

 そんな“もしも”には何の意味はないと眼帯の魔界刑事にも金髪の魔界刑事にも教えられた事がある。自分でも確かにそうだと思っている。それでも割り切れない思いが俺の心に拭いきれないシミとなって残り続けている。
だったら、どうする。

 俺は、どうすればいい。

 どうしようもない、か。いいや、そうじゃない。そうじゃないんだ。

 人は死んでも土に還るだけじゃない。

 魂は、ちゃんとある。人は肉だけの存在じゃない、魂はあるんだ。それを誰よりも知っているのは生まれ変わりを体験した俺だ。

 だったら、俺は仇をとらなけりゃならない。

 凌辱の限りを尽くされて殺された彼女らの魂の無念を晴らす為に、せめて仇をとらなけりゃならないのだ。

 そして、今度こそ。

 今度こそ、救うのだ。

 まだ生きている南風ひとみを、俺は救うのだ。

 だから、俺は帰らなければならない。必ずもう一度南風ひとみの前に立ち、彼女に魂の平穏をもたらすのだ。俺がこのまま死んでしまえば、彼女は後悔に苛まれるだろう。それじゃあ、救った事にはならない。

 南風ひとみの前に立つ為に、俺は生きて帰らなければならないのだ。だから、その為にも捨て身にはなれない。やるだけやったら死んでお終い、では無責任でしかない。

 ああ、そうか。

 逃げてはならないとは、こういう事か。

 いつしか夕暮れは沈み込み、残照が彼方の空を赤く染めるだけになっている。その中で、俺は外套を脱いで顔をさらした。

 この時代としては明らかにおかしい洋服を着た俺の姿が衆目に曝されると同時に、劉貴もまた堂々たる姿を闇の中で見せつける。

「おおあぁっ!」 

 何の意味もない、ただの気勢が声になって飛び出す。

 前に出ろ。

 この圧倒的な強者の心臓に、仁王を突き立てろ。

 生き残って、彼女の前に立つのだ。

 全身を聖念が駆け巡る。その時、俺の体内で何かが動いた。

 何かが、ずるずると音をたててきしみながら動いている。ゆっくりと、今にも止まりそうだが決して止まらない。一度動き出せば、もう止まらないと主張するように、それは動き続けている。

 まるで、全身を岩に縛り付けられた奴隷がそれを引きずってなおも諦めずに歩き出したように、その何かは動き続ける。

 ぐるぐると、ぐるぐると、動いているのを感じる。

 その背中を、俺の聖念が後押しした。

 体内を駆け巡る聖念が、一カ所に集まる。それはさながら間欠泉のように吹き出しながら、体内に蠢くそれを後押しして加速させる。

 百分の一秒ごとに、縛り付けている鎖が軋んでいく。ぎりぎりと、ぎりぎりと音をたてて鎖の輪が変形して……ついに、引き千切れた。

 鉄砲水のような音を、耳の奥で聞いた。

 その爆音の中を切り裂いて、俺の内側で何かが高速で回る音が聞こえてくる。それは、同じ音をたてる何かと並んで連結し、更に高速で回転し始めた。繋がったそれらは一回りごとに聖念を生み出し、互いが生み出す聖念が相互に絡み合い、俺を霊的なる高みへと、導いてくれる。

 おお、全身の細胞が洗われるような感覚に俺はたまらず酔いしれた。

「喉までいったのか」

 俺の様子を見守っていたゼムリアが、弟子の成長を目の当たりにした師のような顔をしてそういった。

 その通りだ。俺は今、それまでぴくりとも動かせなかった喉の位置に存在するチャクラを回転させたのだ。

 新たなチャクラは、これまでとは種類の異なる聖念を体内に循環させてチャクラ同士、聖念同士を更なる高みへと相互に導き合う。仁王の中に刻み込まれた義父と義兄の聖念が、それをさらに増大、強化してくれている。

 魂その物が生まれ変わったような、一種危険な万能感に酔いしれそうになるのを自重して俺は劉貴を見据えた。

 目の前に、見えない魔気功が三連で襲い掛かってきているのがわかった。

「しいっ!」 

 手が、足が、身体が自然に動いて魔気功を切り払う。先ほどまで必死にならなければ出来なかったそれが、今は少しばかり余裕を持って出来るようになっていた。

「見事だ」

「そいつはありがとう」

 賞賛への返しに、僻みが混ざっていたのは劉貴が俺を待っていたのがわかったからだ。新たなチャクラが回転して安定するまで一秒にも満たなかったが、それだけの時間があれば素人だって一撃くらいはお見舞いできる。

 ましてや、劉貴大将軍がたったの三発だ?

「怒るな。若者の成長は俺には遠い日の幻。日輪のように眩しいそれに見とれたまでよ」

 悪びれもしない顔がこれほど颯爽としている当たり、俺と違うのは生まれ持ったものか、その後の磨き方なのか。きっと両方だろう。

「だったら、せいぜい全霊振り絞って見せてやるさ」

 俺の威勢のいい言葉に、劉貴は涼しげに笑っただけで応えた。だが、全身から吸血鬼の妖気と戦士の鬼気の混ざった圧倒的な威が、彼の内心の歓喜にも近い感情を俺に教える。   

 ならば、とこちらも聖念を練り上げて鬼気と共に対抗する。種類は違えど、俺達の内側からにじみ出てくるそれらは、完全に均衡しての対立を作り出した。

 熱も音もない、もちろん目にも見えないそれは物理的な世界には何一つ影響をもたらしはせずに、双方の魂にこそ圧迫を与える。

 劉貴のそれに押しつぶされそうになっても、それに対してはね除けるだけの強さを俺は手に入れていた。

 互いの力は拮抗し、周囲に影響を与える。

 俺の背後で、老木が一本あっと言う間に枯れ果てて砂になった。

 劉貴の背後で、小さく密集していた名も知れない草が根刮ぎ消え去った。後に残るのはスプーンで抉られたようにごっそりと削られた大地だけだ。

 お互いに干渉し合い、打ち消し合うそれらが起こした怪奇現象だ。劉貴はともかく、俺の方は聖念のせいで、霊魂を備えたものにしか影響しないがいずれにしてもはた迷惑な事に変わりない。

 既に周囲は暗く、連合も漢も大差なく俺達の事は見えなくなっていることだろう。だが、夜が明けてこの場を見た兵士達は、訳の分からない傷跡を残す大地に首を傾げることになるだろう。

「まずは、一当てだな」

 あえて劉貴に聞かせるようにして、そこから氷の上を滑るように飛び込んでいく。狙いは……胴体!

 無言の気合を篭めて振り回したのは胴薙の一閃。擦り抜けるように打ち込んだ一打は通り抜けで劉貴の背骨まで切り裂いた。念がなくともただのチタンまでは仁王で切れる俺の技量なら、手前味噌だがこの程度は容易い。

 しかし、切り裂いたのは肋骨の最下部あたり。

 これでは、無意味だ!

「っつあっ!」

 せめて、心臓に当たらなければ怯みもしない。それを証明して、確かに胴を両断されたはずの男が迎撃をくれる。ぞわり、と寒気がするそれを必死になってみっともない格好で躱すと、皮肉にも劉貴が褒めてくれる。くそう。

「見事だ。当たればお終いの気とはいえ、よくもこれだけかわし続けるものだ」

「かわさなけりゃ、死ぬだろ」

 劉貴……と言うよりも、ベイ将軍とやり合っている内に気が付いたことだが、彼ら不死者はそのアドバンテージのせいで敵の攻撃に鈍感になっている。

 まあ、何を喰らっても決して死なず、大概は平気の平左と言ってしまったらそんな風にもなるだろう。それでも攻撃を躱すのは、大体が身につけた技量への自負か、人間であった時の名残でしかない。

 あるいは“通常”の吸血鬼なら万が一の可能性を考慮した上での行動をとるものかもしれないし、事実“新宿”の連中はそうだが……大将軍達クラスの不死身性では基本的に肉を切らせて骨を断つ方が、よっぽど効率がよくなってしまう。

 命のやり取りで、カードでかけるチップが無制限とか反則だろう?
ともあれ、不死者と生者を比較するとほとんどのスペックでは圧倒的に生者の負けというのが大体だが、例外的に回避能力……と言うよりも生存本能は生者の方が上って事だ。

「かわせなければ死ぬ、か……確かにその通りだな。人とはそう言う物で無ければならない」

 当たり前のことを言っている。これが劉貴でなければ馬鹿を言ってらぁと鼻で笑ってやるんだが、それが出来ないのはたった一言に篭められたどうしようもない寂寥のせいだ。

 それを嫌い、俺は今一度挑む。端から見れば、俺が劉貴に翻弄されているようにしか見えないのかなと、しょうもない見栄っ張りな事を考えながら最大の武器である魔気功の射出口である腕を狙う。

 劉貴にしろ、ベイ将軍にしろ、そして夜香にしろ魔気功を使う連中には共通点として手の平から撃つと言う特徴がある。理屈は分からないが、そう言う物らしい。例外は、杖の先から撃つ騏鬼翁だが、他の連中は例えば足先や胴の真ん中から撃ったという記憶はない。

 だから、まずは得物を奪わせてもらう!

「ちいぃ!」

 吸血鬼を滅ぼす為には、心臓を一突きにするか首を断たなければならない。それ以外の方法では、決して滅びることがない。

 実際には通説に過ぎず、それでも殺せない吸血鬼など幾らでもいるんだがそれは今のところ関係ない。

 今重要なのは、つまりこいつらは人間よりも肉体の損傷に大雑把だって事だ。

 だからこそ、俺の仁王は劉貴に届いた。

 木で出来ている刀が、戦場で鍛え抜かれた大将軍の鋼の肉体に食い込んで見事切り裂いてのけた。やったぜ、と時と場所を弁えずに快哉を上げたくなってくるような大金星だ。

 だが、その感触を腕に感じるよりも先に、俺は痛烈なカウンターとして目に見えない力にたっぷりと五メートルは吹き飛ばされていた。

「……っ!」

 二転、三転。

 無様に転がる一撃を受けて悶絶し、叫ぶ余力などあるはずもない。覚悟の上で受けた魔気功だったが、備えておいた念も気も全てぶち抜かれて俺の芯に食い込まれてしまった。

 強烈な衝撃は、“新宿”で個人用戦車に弾き飛ばされた時に似ているが、力が集中しているせいでこっちの方がよっぽど痛烈に感じる。
五回は転がり、そのまましばらく雑巾のように地面を磨いて動きが止まる
 
 と、途端に全身に遅ればせながらの痛みが走る。

 一体どこをやられたのか、その時にはわからなかったがようやく左の脇腹だと理解した。確実に折れている骨、明らかに損傷した内部の臓器。それらを全て上回る尋常ではない寒気は肉体の機能を狂わされている証拠だ。

 恐らく、今の俺は見るに耐えないほどに頬がそげて幽鬼のようになっている事だろう。変質させられてしまった代謝機能は俺の肉体を氷のように変えてしまう。服が身体に張り付いているのを自覚した。
病人どころか死人のようだ。衰弱死はすぐ目の前に迫っていると突きつけられている。

 このまま目を閉じてしまえばどれだけ楽になるだろうかと、魅力的な誘惑にありもしない尻尾を振りそうになる。 

 だが、それでも俺は立ち上がらなければならない。

 だから、立ち上がれ。

 寝ている場合じゃないんだ。 

「ぬぅあっ!」

 声が出た。

 それだけで、身体の機能が正常に動き出した気がする。必死になって体内の気を調整して、代謝機能を取り戻す。三割ほどはすぐに戻ってきた。後は、生まれたての子鹿のような足に力をこめればいい。

 俺はせいぜいが、草を食んで生きるのが似合いの生き物だ。生まれついての闘争力など持ち合わせちゃいない。だが、だからこそ立ち上がるのだけはすぐに出来なけりゃならない。それが生き物としての必須事項だ。

 肘と膝に力が入り、無様な四つん這いにまではなれた。そうなれば、後は楽なものだ。今まで何度もそうしてきたように、土を噛みしめ、苦い砂を味わいながら立てばいい。

 なに、時間はある。

 ほんの三秒ほどだが劉貴は手が出せない。だから、いつものように立ち上がればいい。

「おああっ」

 ただ立ち上がるにも、自身を鼓舞する声がいるのが今の俺だ。だが、どんなに無様でも立ち上がることは出来る。 

 唾と共に土砂を吐き出し、ようよう前を見るまで、おおよそ三秒。三十回は死んでいそうだったが、俺は生きている。

 ここまで劉貴は何もしなかった。いいや、違う。できなかったんだ。

「へへ……」 

 にんまりと、してやったりと笑った。

 俺の前には、片腕をなくした劉貴が立っている。彼の顔が驚きに満ちているのは、それを成した当人としては誇らしいものだ。

「俺の腕を落としたか。この劉貴の腕を、夜の一族の腕を切り落としたのか。あえて俺の気を受けて腕を切ったのか」

「肉を切らせて骨を断つのは、日本武道の十八番さ。もっとも、こっちこそ骨の奥のはらわたまで逝ったけどな」

 んな話は全く無いのだが、適当な事を言って時間を稼ぐ。少しでも代謝機能を調節したかった。 

 ちらり、と劉貴大将軍から少しばかり離れた足下を見ると薄暗がりの中、五メートル離れた場所に彼の左腕、肘から先が転がっているのが見える。

 先ほどの起死回生の一撃がそれを成したのだ。

 今俺がやったのは、なんて事はないただの捨て身の一撃である。

 劉貴が気を撃ってくる発射台である二本の腕。特に小指と親指が気砲の肝だそうだが、それを切り落としたかった。その為に、あえて魔気功を受ける事を覚悟した上で劉貴の腕を切ったのだ。

 さすがの劉貴も俺がここまで馬鹿だとは想像していなかったらしく、ご覧の通り大魚は釣り上げた。切り落とした左腕から放たれた最後の土産はきっちりと受け取ってしまったが、それでもこの攻防は六、四で俺の勝ちだ。

「肉を切らせて、骨を断つか。人の身で、夜の一族であるこの俺にそれを仕掛けるか。何とも命知らずな男よ」

「泥臭くて済まないけどな。命は惜しいんだが不器用者で、こう言う真似しか出来ないんだわ」

 無茶は百も承知だが、彼我の実力の差を考えれば無茶の一つや二つはしなければならない。死ぬつもりはないが、死ぬギリギリのラインには立たねばまるっきりお話にならないのだ。

 ともかく、全ては俺のシナリオ通りに上手くいった。

 先ほども言ったように、吸血鬼は不死性故にどうしても負傷に対して鈍感になりやすい。それは歴戦の劉貴大将軍だって例外じゃなかった。いや、歴戦だからこそかもしれない。

 おまけに、相手をしている俺はここまで必死になって劉貴の気をかわし続けていた只の人間だ。相手をしている劉貴当人こそ、それは百も承知だろう。

 それがいきなり喰らっても構わないどころか、あえて致命傷になる魔気功を喰らおうとするとは、さすがの大将軍も想像しなかったようだ。

 相手の予想だにしなかった行動で見せた一瞬の隙を突いての一撃は、我が身を顧みなかったおかげで劉貴の腕を切り裂く難事を見事に成し遂げた。我ながら快挙である。

 そこからは半分賭けだったのだが、劉貴の腕は再生せずにそのまま赤黒い断面を袖の中に隠している。ぴちゃり、ぴちゃりと血の流れる音がした。

「あんたらも、結局は血が流れているのか」

「そのようだな」

 どこか他人事のようにして笑う劉貴だったが、その腕はそのままだった。繋がりはしても、生えてはこない。

 俺の当てにしていた可能性は、幸いにして的外れではなかったようだ。

 かつて、“新宿”で初めて……正確には遠距離と扉越しを除いて初めて直接対峙をした劉貴と秋せつらの出会いは、当然ながら死闘と言う形になった。

 その際に劉貴はせつらに魔気功の一撃をお見舞いして、その後延々と続くせつらの苦難の先駆けとなった。そしてせつらは妖糸により気を切り、劉貴の腕を切り落とした。

 今の俺と違うのは落とした腕が右か左かだが、その落とされた腕は不死身の吸血鬼であるにも関わらず、その場ではもちろん、その後も生えてはこなかったのである。

 技量によるものか、それとも劉貴の不死性はそう言う物なのか。

 仕組みも原因もさっぱり分からないが、ともかく“切り離してしまえば劉貴の腕は生えてこない”らしい。

 聞いた話だと、俺とカズィクル・ベイが相討ってからトンブと人形娘の元に投降した劉貴は、静夜を報酬に自らの滅びを要求したそうだ。その際に彼女らは定番の杭打ちから始まって、四肢の切断、高圧電流、水没と拷問のフルコースのような真似をしたのだが、結局は瞬く間に蘇生、あるいは再生して、結局戻らなかったのはせつらに切り落とされた右腕のみだったとか。

 この二つの違いは何なのか。せつらの糸を操る技量こそが肝なのか、それとも他の要因はあるのか。

 以前話に聞いたところ、情報収集に励む俺にしつっこいとうんざり加減を隠しもしなかったせつらが言うには、最初に切り落とした指はそのまま塵となって消えたらしい。

 腕は、魔気功のおかげで救急車に運ばれてどう始末したかは見ていないが切り落とした後は力を失ったと言う事だ。

 糸、そしてせつらの技量が普通ではないと言う結論に到った俺だったが、もう一つ気になったのはこれほどの不死身ぶりを発揮する劉貴の腕が、何故再生しないのかと言う事だ。

 騏鬼翁当たりが義手を作るのが普通だとも思うが、彼らは主が同じでも味方同士ではない上に今は関係ないので置いておくとして、俺は劉貴の五体は斬られてもすぐに繋がるとしても、プラナリアのように生えてはこないのではないかと思い到ったのだ。

「滅茶苦茶だな。無傷では斬れないからって、喰らう事を前提で斬るかよ。しかも、喰らった衝撃を利用して腕を切り飛ばすとか、どうかしてるぜ」

 ゼムリアの言葉に感心はなく、むしろ無茶をした俺に呆れや怒りを抱いているように感じる。どうかしてなきゃ、こんな奴と戦おうとはしないさ。

 それでもまあ、無茶は確かだ。

 今の一刀、食い込んだ仁王は敢えて振りきらずに魔気功で吹き飛ばされるように計った。

 ただ切り落としてしまえば仁王が通り抜けた端から簡単に繋がってしまうのかもしれないが、そのおかげで俺と一緒に劉貴の腕は引きちぎられたのだ。

 全ては自力で切り飛ばす技量のない事に端を発する苦肉の策だ。石なんかの固い無機物とは違って、作りが複雑で柔らかい人体はただ切り落とすだけでも難しく、特に腕のような重たい五体を派手に斬り飛ばすのに相応の力がいる。

 “新宿”にいくらでもいる武術家気取りならともかく、ただ当てるのも難しい劉貴大将軍を相手取って、それは無理だと実感した。

 おかげで無茶な真似をせざるを得なかったが……賭けの配当は理想的だった。

 皮と肉、骨と内臓が衝撃によって傷つき痛みを訴えようと、全身を衰弱と言うべきどうしようもない鉛色の悪寒と疲労が犯そうとも、それでも成果は大きいんだ。

 かつて“新宿”で隻腕の劉貴大将軍にこてんぱんにやられたもんだが、向こうは二千年前、こっちはそれから成長している。

 あの時よりも、ずっとマシだ。

「俺の腕を落とした男は、そうはいない。二千年における戦の日々でいかなる武人達もおいそれとは出来なかった事をやってのけたか。俺が人であったのなら、ここでお前の勝ちは決まった事だろう」

「たらればの話は、好きじゃないんだ。今のあんたはまだまだ戦えるだろう」

 いっつも失敗をする度に考えてしまうからな。

「その通りだ」

 劉貴が鉄の声で返答する。それに尻を叩かれていい加減に落ち着きのない膝をしかと踏みしめて、新たに切っ先を突きつける。

 と、劉貴の背後で連合軍が動いた。

 恐らくは松明だろう、ここの所で見慣れるようになってしまった光が俺達の元へと駆寄ってきたのだ。

「なんだ」

「そちらでもだな」

 劉貴から目を離す事は出来ないおかげで確認は取れないが、どうも同じ事が起こっているらしい。俺の視界に入らないところを見ると、高低差がでかいと見える。汜水関の上でばたついているのか。

「横槍を入れるつもりなら、俺がどうにかする。安心しな」

 十や二十では収まらない光が、整然と列を成して暗闇の中を近付いてくるのは薄気味が悪い。それこそ、死人が旅人を呼び寄せようとしているようにさえ思える。

 だが、ゼムリアがそう言ったのであれば何も問題はない。

 連合に、汜水関上で構えている孫家も董家も何もできはしない。無粋な横槍は来ないと確信して改めて向き合いチャクラを回す。新たに回り始めた喉のそれも含めて回転は魔気功の影響もない。

 会話の最中も、必死になって魔気功のダメージを抜いていたおかげで、少しは誤魔化せるほどにはなっている。以前に黄巾の砦で改めてダメージを受け、更に趙雲の治療もしたおかげで、気功の技量はそれなりの上昇はしてくれたんだと実感する。

 やれる。

 自分を鼓舞して、すり足で静かに間合いを詰める。

「…………」

「………………」

 これまでの一足で飛び込むのとは違う、息が詰まるような静かな始まりを俺は選んだ。

 相手に明確なダメージを初めて与えたのだ。できれば一気に突っ込みたいが、それをやってあっさりと逆転される勝負はいくらでも見てきた。

 外せない大一番、一度賭けをしたからと言ってそう何度も続けて博打を続ける訳にもいかない。

 ……本当にそうなのか。

 せっかくここまでやれたんだ。ここは、やはり一気呵成に打ち込むべきじゃないか?

 ここまで上手い事いきすぎたから、逆にびびったんじゃないのか。
 相手は手負いだ、今度こそ本気以上の劉貴大将軍が現われるんだぞ。つまらない事を考える暇があるか。いいや、うかつな事をすれば一瞬で殺されるぞ。

 一気に突っ込めという自分と、逃げ出せよと叫ぶ自分がいる。後者の声の方がより大きいのがやたらと腹立たしいが、ねじ伏せてあくまでも慎重な立ち上がりを選び続ける。

 それができたのは、俺の自制心の賜物ではなく目の前に立つ劉貴大将軍の圧倒的な鬼気によるおかげだというのが何とも情けない。とどのつまり、おいそれと逃げる事も向かう事も適わなかっただけなのだ。 

「……」

「…………」

 瞬き一つで生死が決まる瞬間と言うが、正にそれだ。

 劉貴はもちろん俺だってその程度の修羅場は幾らでも潜ってきたが、それでも応えるプレッシャーに苛まれる。

 何か切っ掛けが欲しいと埒もない事を考えていると、状況に変化が起こった。松明の群れが劉貴の背後から、そして俺の背後から続々と集まり俺達三人を円になって囲み始めたのだ。

 あれよあれよという間に円陣が出来上がるのを、俺達はお互い相手に集中しながら見ていた。劉貴の下僕となった袁術兵に囲まれた時に似ているが、異なるのは囲んでいるのは人間ばかりだと言う事と、敵対する双方の間には大きな隙間が空いていると言う点だ。

 俺達を挟んで両軍が睨み合っているとも見える。互いに同程度の千名ほどの兵士を出しているようだが、彼らの内半数が掲げる松明によって煌々と照らされて俺達の影が大地を伸びていく。

 兵士達の後ろに庇われるようにして劉貴の背後には、見覚えのある姿が何人か見える。特に劉備の派手な髪と、異質な服装の天の御遣いが目立っていた。他にもおかしな格好をした場違いなのが何人か……劉備と天の御遣いの側に張り付いているのは張飛、もう一人見覚えのある女は馬超といったか。

 俺の後ろの兵士は誰が率いているのか。あいつらに、人の決闘を見物に来るような無粋さはないと思えるのは俺の買いかぶりか。

「劉貴殿!」

 すぐにわかった。一声で分かるほどに付き合いはないが、声に篭められている甘ったるい感情が強烈に自己主張している。抑えとけよ、雪蓮。

 劉貴はもちろん一顧だにせず俺のみを見据えているが、どうにも空気がぐだぐだにされたような気がして腹立たしい。

 腹立たしいと言えば、双方の軍の間にドッテンチョと構えているトンブもいる。立ち位置が非常にわかりやすくも嫌らしい。

「わざわざ見物かよ。そんなに殺し合いを見るのが好きか」

「遙かいにしえでも同じ事を考える輩はいた。きっと更に時代を遡ってもそうだろう」

「未来もそんなものだろうさ」 

 それだけ言って、俺たちは互いだけを意識に残した。

 最も、くだらない不意打ちをしてくるようなら即座に無意識でキッチリやり返すくらいはできるようにはなっているし、きっと劉輝も一緒だろう。

「……」

「………」

 お互いに、余計なことは何一つ口にせず沈黙しながら敵の命を狙う。
 俺の顔を、汗が伝って落ちていく。傷と痛みのせいだ。

 劉貴の腕から、血が流れていく。篝火の中でそれを見つけた孫権の悲鳴が聞こえた。

 どちらも一顧だにしなかった。

 これで、決着だ。余計な第三者がいたところでこれは俺たちの決定事項だ。

 そう考えて踏み出そうとした俺だったが、その瞬間を狙ったように……事実、狙ったんだろう第三者の妨害が突如割り込んできた。



 その女を殺せ!



 ひどく癇に障る高さで、そんな声が聞こえてきた。俺の手に空いた醜い傷がどうしようもなく疼くのを感じながら、俺はぎしりと音が立ちそうな程に突然足を止めて、月光に染め上げられた石像のように固まる。
 


 貴様ごときが、これ以上劉貴殿を傷つける事はならぬ!




 声ならない声。

 俺だけに届いているんだろうそれが誰の物なのか、考えるまでもない。

「秀、蘭……っ!」

 憤りと無念。

 それに満ちた声を食いしばった歯の間から出てくる。それが精一杯だった。俺は正に金縛りにでも遭ったように硬直し、それ以上は脂汗をかく事しか出来ない。

 動こうとすれば、俺は懐にしまってあるMPAの引き金を孫権に向かって引くだろう。それも、なるべく劉貴に無防備になるような角度で振り向きざまに、だ。

 そうしろと、俺の中に注ぎ込まれた秀蘭の呪いが叫んでいる。

 くそったれめ。

 どうしようもないくそったれの女め。

 俺なんざ、いつでもこうできたって事か。それをしなかったのは、俺が劉貴に適うはずがないとたかをくくっていたからか? 

 奴は、俺が劉貴の腕を切り落とした瞬間に、聞いただけで呪われるような悪罵を呟いたに違いない。

 孫権がのこのこ果たし合いに顔を出して、嫉妬に燃えたに違いない。

 どちらかなら、劉貴の武人としての矜持を優先しただろう。二つ合わさり、見逃せなくなったのかよ。


 
 その女を殺せ! これ以上、劉貴殿の目に触れさせる訳にはいかぬ!

 

 貴様が、貴様ごとき小物が劉貴殿に傷をつけた事を後悔するがいい。下僕になどしてはやらぬ、劉貴殿に討たれた屍の血を全て吸い尽くした後で、肉片を切り刻んで虫の餌にしてくれようぞ!
  
 

 俺の知っている秀蘭は、本性はどうあれ美しい娘だ。

 それが、俺にしか届かないと思って醜い中身を剥き出しにしていやがる。これを聞けば、どんなにこいつに恋い焦がれている男がいても百年の恋も何とやらになるに決まっている。

「…………」

 これをもっとも聞かせてやりたい男だが、硬直している無様で無防備な俺を前にしても、決闘の最中だというのに襲い掛かってはこない。今なら魔気功の一つであっさりとお終いだ。秀蘭のテレパシーを受信した訳でもあるまいに、どうしたってんだ。

 ……もしかして、戸惑っているのか?

 なるほど、俺達の周りにいる物見高い野次馬共もいぶかしげに俺を見ている。なら、今のうちになんとか呪縛を解かねばと、邪念に操られながらじりじりと聖念を溜めていこうとしたが、それを遮ったのは劉貴の血を吐くような叫びだった。

「やめろ……やめろ、秀蘭! これ以上俺の勝負に卑劣な横槍を入れるな! すぐに彼を解放しろ!」

 このような姿の劉貴大将軍を、俺は見た事が無い。

 秀蘭を滅ぼし尽くすほどに怒っているようであり、武人の誇りを汚濁の中に放り込まれた事を嘆いているようでもある。

 叫び声も、その表情も、いずれもが様々な心が混ざり合って出来たどうしようもなく複雑で形容しがたい……だが、同時に何を求めているのかがはっきりと分かる顔であった。

 いずれにせよ、衆人環視のまっただ中で、この益荒男がこんな情けない醜態をさらすなど、あってはならない冒涜だと俺が思ってしまうような姿だった。

 劉貴大将軍とは、鉄のような男でなければならない。

 山のように大きく、海のように深い。そうでなければならない。

 敵対している俺にとってこそ尊敬に値する、戦士の中の戦士。それが劉貴大将軍ではないのか。それが、こんな顔をしていい道理が何処にある。
聖域が汚された敬虔なる信仰者のような気持ちになりながら、俺は気が付いた。

 やはり、彼は遙かな過去の劉貴大将軍なのだ。

 俺の知っている大将軍よりも二千年だけ若い彼は、女のこのような下劣な横槍に耐え切れはしないのだ。許せはしないのだ。
誇り高い武人は、これまでの二千年が四千年になるまでの間にどれだけの苦渋を浴びるのだろう。どれほどに踏みにじられ、自分に絶望していくのだろう。

 そうやって、魂をやすりで削り上げられた挙げ句に出来上がったのが魔界都市で出会った、疲れ果てながらも戦いを止める事だけはしない、できない武人であるのか。



 殺せ、殺せ、殺せ。その女を殺せ、犯して殺せ、嬲って殺せ、お前の身に着けた術と技の全てをもって、最も残酷な死をくれてやるがよい!



 劉輝の声は届いていないのか。それとも、届いた上でこうしているのか。秀蘭の怨念は俺を少しずつ強く縛り上げていく。そのおぞましさは怨念云々を抜きにしても精神に害を為す力を持っているだろう。

 筆舌にしがたい醜さ、二千年を生きてきた鬼女の情念とはそう言う物か。劉貴自身の意思も矜持も無視して、ここまであさましくなれるのか。

 ああ、考えてみれば秀蘭という女はいつもそうだったじゃないか。

 かつて、人形娘の手で灰になってからも彼女は劉貴の側を漂って彼を助けてきた。かつては、そこに滅びをも超えた愛情を感じて感動さえしたものだ。

 しかし、それは劉貴の為の物ではない。

 苦痛と汚濁に満ちて、終わらせたいと切に願った劉貴の望みを踏み潰す秀蘭の為にこそある愛ではないだろうか。



 劉貴殿の腕を切り落とすなど、断じて許さぬ。貴様の手足は引きちぎった上で、千年は地虫のように生かしてやろう。その上で皮を剥ぎ、肉を削り、骨を刻んでやろう。魔獣の餌にして、吸血植物の苗床にもしてやろう。安心せよ、劉貴様に殺されたとしても、我が力で死ぬ寸前で生きながらえさせてやるぞ。もっとも苦痛に満ちた瞬間を生き続けるがよい。



 呪わしい言葉、呪わしい想い。

 秀蘭は、死の安らぎを望む劉貴を吸血地獄へと縛り続ける悪魔の鎖だ。惚れた男の生を望む女の情けが、これ程までにおぞましいのは正に悪鬼だからか。

 彼を助けた女は子供を食い殺され、劉貴を救い家へと招き入れた自分自身を永久に呪いながら劉貴を追った。その時、秀蘭は飢えた劉貴に女とその一家を餌食にせよと聖人を誘う悪魔のように誘惑したのだ。

 劉貴は血の味に逆らえず、女は病院送りになり子供は悉く喉を裂かれて血を貪られたという。灰となった吸血鬼が劉貴を包み込む時、血の渇きに永劫耐えなければならぬと嘯いていた武人は目を赤く輝かせ、浅ましい涎さえも垂らしながら悪鬼と化すのだ。

 それが劉貴への愛だと叫ぶのなら、なんと醜く恐ろしい愛なのか。精悍な大将軍を、醜い飢えた吸血鬼へと貶めるのが灰となってまで彼を守ろうとする愛情の成す業なのか。

 女など、男を堕落させるだけのくだらない、どうしようもない存在でしかない。あれらがいなくなれば、世界はもっと平和で美しくなるだろう。

 どこぞの魔界医師が広言する主張の体現者に縛られ、俺は歯がみする。
ここで殺される訳にはいかない。

 元の世界に戻る為じゃない。

 吸血鬼となった数多の人々を救う為でもない。

 劉貴の為に。

 ここで殺される訳にはいかない。

 今、劉貴に殺されてしまえばそれは一人の丈夫にとって永劫の傷となるだろう。あるいは、既に彼は不本意な殺戮を様々な形で繰り返しているのかもしれない。だが、その行く末があの諦念を闘志で隠した吸血鬼ならば、せめて一歩でもそこから遠のくに越した事はないのだ。

 くそ、だってぇのに手が動きやしない。俺と秀蘭が引き合う精神の綱引きは、劉貴に罰を下された向こうの消耗が烈しいんだろう五分と五分だ。しかし、向こうは異常な再生能力が売り物の吸血鬼、少しずつだが強制力が増していやがる。

 どうにもならない状況にいらだちと怒りが沸々と湧いてくる。まずい、冷静にならなければ足元をすくわれるだけだ。それが分かっていながら自重のできない所が俺の抜けきらない青臭さか。

「な、ろ……」

 駄目だ、動き出す。腕が少しずつ懐へと伸びていこうとする。させまいと仁王を握りしめる、本来は有り得ない強すぎる力は不格好なほど必死だが、指一本の小さな中で争う二つの力がそれ以上に無様だ。開こうとする力、閉じようとする力が鬩ぎ合うぎちぎちとした音がどうしようもなく不愉快で仕方がない。

「…………」

 俺が止まらない事を見切った劉貴の瞼がゆっくりと閉じられてから開かれる。もう一度開かれたそれは、爛々と赤く輝いていた。この時代に来てから、始めて見た色だ

 松明の色を照らし返したのではなく、寧ろそれをはじき返して呑み込むような赤い色に周囲の野次馬共が戦いては騒ぎ出している。

 そんな外界の雑事とは一切から切り離されて、劉貴は腕を伸ばす。広げられた手の平は、一直線に迷いなく、俺の心臓に突きつけられていた。

 やめろ。

 駄目だ。

 俺達の勝負にどんな決着がつくとしても、こんな形じゃない。

 ここで俺を殺せば、その赤は一段と深まってしまう。

 駄目だ、やめろ、劉貴大将軍。

 やめさせろ、俺! 工藤冬弥!

 一呼吸もしないうちに、魔気功は俺を貫き殺すだろう。それが恐ろしくもない。ただ、それで刻まれる取り返しのつかない無念が恐ろしかった。
だと言うのに、身体は秀蘭の怨念に縛られたまま動けない。念法ってのはこう言う形のない精神の戦いにおいてこそ真価を発揮しなければならないのに、なんて様だ。

 食いしばれる物なら、歯を食いしばり涙さえ流した事だろう。

 だが、そんな力があるのならつぎ込まなければならない。精神の力の最後の一滴までも絞り出してこの怨念に立ち向かえ。振り切ってしまえ。
目を見開いたまま、毛筋一つ動かせないまま俺は体内のチャクラを精一杯に回転させる。極限の精神集中に、俺以外の全てが意識から消えてなくなる。
目の前の劉貴さえも消え去り、体内で俺を縛る糸となっている秀蘭の怨念を唯一はね除けているチャクラに全てを賭ける。

 前を向いたままで見える手足がどんどんと透けていった。精神集中の結果、全身が衣服さえも道連れにして玻璃のようになったのだ。超常現象の結果、またしても化け物扱いされるかもしれないが、知った事か。

 くそ、それでも足りねえ。

 俺の抵抗を察した劉貴が一時手を止めているのが幸いだが、いつ限度が来てもおかしくはない。劉貴の堪忍袋の緒がどれだけ強靱なのかは知ったこっちゃないからな。

 それまでに、秀蘭の怨念をはね除けられるか。根比べは勝ち目がない、向こうはどんどん強くなっているし、元々執念深さは女の特権だ。相手が悪いにも程があるんだから、こっちは瞬発力で勝負するしかない。
性にはあわないが、賭けるしかない。

「…………るぃぃあああぁぁぁあっ!」

 喉のチャクラが使えるようになっていなければ、ほとんど無抵抗で孫権を射殺していただろうが、それでもまだ足りない。なんて化け物だと彼我の単純な馬力の差に舌打ちをしながら全力を振り絞る。

 しかして、横綱相撲のようにどっしりと動かないそれに絶望しかけた俺だったが……まるで、それに活を入れるように何かが頭頂に直撃した。

 だが、衝撃どころか痛みさえない。

 それどころか、まるで頭まで抜けるように聖念が爆発的に増幅した。

「お……おおおぉぉっ!」

 これは歓喜の雄叫びか。いや、ただ衝動に突き動かされて叫んでいるだけだ。その叫びと同時に聖念は怨念を吹き飛ばして我が身に自由を取り戻す。

 両手を夜空に向かって高々と掲げて歓喜を表し、自然と仁王を離して空いた左の手を頭の上にやると何かに触れた。

 よく知っているような、しかして全く知らないような感触のそれを俺はしっかりと握りしめて手を下ろす。

 俺が握りしめているのは、仁王とそっくりの木刀だった。

「これは!?」

 思わずゼムリアの方を見ると、彼は俺に向かってそれを投げつけたポーズのままでにやりと笑っている。

 彼の手にはむき出しの棒が一本握りしめられて、俺以上の聖念を剥き出しにしていたがまだ新しいにも関わらずそれと同質……更には俺の思念まで内部の繊維一本一本に染みこませた業物の一品だ。

 握りしめた腕からゼムリアの聖念が伝わり、木刀に封じ込まれた俺自身の念を介して見事に融合して俺に力を与える。なんという高い聖念だ。 

 後光が差して、周囲を照らし出す。目を刺すような痛みなどないが闇を退ける光は俺の頭頂を包みこんでいる。これは俺が生み出した光ではない、ゼムリアより与えられた光だとはっきり分かる。

 喉のチャクラどころか眉間、そして頭頂のチャクラさえもが音をたてて回転している。それが生み出す、例えようもない高次元の念が俺の精神が限りない高みに立った事を教えてくれる。

 俺を中心に風が吹き、それを浴びた劉貴が顔を庇った。

「ぬうっ」

 二本の手に二本の太刀。かつて武蔵に憧れて試しはしたが結局は遊びで終わった二刀流だったのだが、軽く振るだけで随分といい音がした。恐らくは、普段仁王を振っている時と変わるまい。チャクラが起こした奇跡の一つとすぐに知れた。

「立会人の俺が助太刀ってのもどうかと思ったけどな」

 俺の変貌に周囲が沈黙する中、ゼムリアの声が悪戯小僧のように弾みながら聞こえてくる。

「そっちからも横槍が入った。これで五分って所じゃないか?」

「寧ろおつりが来る」

 そう言ったのは俺だ。まぎれもなく本心である。手に吸い付くようなもう一本の木刀は、秀蘭の怨念を取り除いたばかりか頭頂のチャクラを回して俺を魔人の域にまで押し上げてくれている。おつりが大きすぎるだろう。

「いや、順当だ。感謝するぞ、いま一人の剣士よ」

 それに対し、劉貴がそう言った。今の俺がどんな者なのか、気が付かない訳でもないだろうに彼はむしろ闘志満々と言う面持ちで不敵に笑いさえした。

「元々、工藤に刻まれた秀蘭の牙はその身を蝕んでいた。その上で打ち合ったとしても、やはり俺の心は晴れぬ。確かに思いの外強くはなったようだが、最初に枷をつけたまま勝負をしてもらったのだから、これでこそようやくの真っ向勝負よ」

 彼の言葉は、むしろ晴れ晴れとしていた。瞳は赤い色を失い、寧ろ清冽でさえあった。彼が、心の底からそう思っているのだとはっきり分かる。

「それに……例えお主がどれほど強くなろうとも……俺とてかつては大将軍と呼ばれた男だ。二千年を生きた夜を生きるものが、おさおさと引けはとらぬ」

「……!」

 その通りだ、と思った。

 相手は劉貴大将軍。

 伝悦の武人だ。例え怨念をはじき返しても遺伝子に刻まれた吸血鬼の闇は未だに取り除けはしない以上、ハンデがあるのはむしろこっちの方だ。自惚れているんじゃねぇ、相手はこっちの遙か上を行く百戦錬磨の怪物だ。
賞金稼ぎのチンピラがちょいと背伸びしたからって、おいそれと手が届くか。

「その気になったか」

「最初っからその気さ」

 しゃあしゃあと言った俺の厚顔に苦笑を漏らしたのは、彼の心の隙だろうか。それに付け込む気がしないのでそれで終わりの話だが、どこか見てみたかった物がようやく見れたような気になった。

 これまで小揺るぎもしなかったチャクラの立て続けの連続起動に浮かれていたが、一転してひどく静かな気持ちになった俺は、両手をゆっくりと広げた。

 腕が、そして両手に持った一対の木刀が翼のように広がる。

 俺には、二刀の戦い方など身についてはいない。もちろん、基礎としての一通りなら知っているが、付け焼き刃の域を出ない。

 二刀と一刀では扱いが大きく異なり、更に難易度も高い。それは日本剣術史において燦然と輝く宮本武蔵以外に名の売れた二刀流剣士がいないという事実が明確に教えてくれる。

 才のない俺が、にわか仕込みで劉貴大将軍に挑むなど自殺行為だ。

 おまけに、二刀は本来大刀と小刀の組み合わせこそセオリー。両手に太刀なんぞ、竹刀でも無茶が過ぎる。

 そのはずなのに、俺は自信を持って剣を構えていた。

 上段、中段、下段、二刀流になると、途端見るからに一刀流とは似ても似つかない異質な技術になってしまう。実際にはそこまででもないと言われているが、下手くそな俺にはいまいちコツがつかめなかった。

 しかし、今は奇妙にしっくりとくる。ただの錯覚なのだろうが、今はあえて波に乗ろうと決めた。

 皮膚の下の肉、肉の下の骨、骨の下の臓物、臓物の中の血、血の中の魂。

 全てが意思の元にある。そうであるべき五体の融通無碍が完全に成されている。すんなりと受け止められるこの事実の重さに、それでも全く揺るがずに済んでいる自分にいっそ呆れるほどだ。

 ただ、手を自然によどむ事なく動かせるのはそれだけでも充分に嬉しい。振り上げて動かさないままの両腕に、満足を感じながら劉貴を見詰めた。

 彼は、何処までも澄んだ黒い眼で俺を見ていた。戦場で、殺し合いの場で敵手を相手にそれが出来る相手に、尊敬を篭めて剣を握る。そうできる自分が誇らしい。

「随分な目で俺を見るものだ」

「え?」

「俺はお前の敵だ。人を鬼に変えて、戦場を作り出す悪鬼だ。それをそのような目で見るな」

 自分を蔑んでいるわりには、随分な表情をしている。口に出しては表現しづらいそれがどんな心の元に紡がれているのかは分かるとは言えないから、俺は只思うままに言葉を返した。

「どんな目をしているのかは知らないが、俺はあんたを憎くはない」

「…………」

「恨みも怒りもない相手じゃ、憎めない。実際、俺達が勝負しているのはそんな理由じゃないだろう。だったら、俺よりも強いあんたはただ尊敬すべき敵手なだけだ」

 冷酷なんだろうが、俺にはどこかの誰かが劉貴の牙にかかったとしてもそれが見知らぬ相手では感情が盛り上がらない。その程度に薄情な男なのだ、きっと。

 それよりも、目の前の敵手にこそ心が動く。俺は結局、目の前の事しか追えないような程度の男でしかない。

「尊敬、か。敵に敬意を表さぬ戦がどこまで続いたものか。俺の後ろにいるのも己を鼓舞する為に、あるいはただ己の自負心を満たす為に、ひどい者は上にこびへつらう為に敵を貶める者ばかりであった」

 劉貴の声は沈痛で、そのセリフを聞いた背後の連合に与する劉備だのの一行が悉く顔色を変えるような軽蔑が篭められていた。

「敵を貶める戦は悉くが醜く悲惨なものになる。この滑稽な喜劇でしかない戦が惨劇になるのも当然の結果、正に時間の問題であったな」

「お嬢様の癇癪とその尻馬に乗った屑共の火事場泥棒だろう。戦でさえあるものかよ」

 くだらないという俺の声は、自分でも思っていなかったほどに醒めていた。ゴミはゴミだと言うのにためらいを感じる訳がない。 

「違いない」

 それが、俺たちの最後の会話だった。

 これが最後の交差だと、互いに意識していたかもしれない。

 空に突きつけるような俺の両腕が。

 腰に構えた劉輝の右腕が。

 宙に満ちた俺の聖念が。

 大地を這う劉貴の妖気が。

 開放の一瞬を待ち望んでいる。その時に向けて、備えている。

 まるで自分が古の剣豪になったかのようだ。

 しかしこの時代はその古よりも遙かに過去であり、劉貴大将軍は更に過去より現われた丈夫だ。が、同時に時代も歴史も無視した悪い冗談の塊のような国だ。

 どうしようもない滅茶苦茶な国で、こんな命のやり取りをしている。それを噛みしめながら俺はその時へと備えた。

 俺が始めるのか。それとも劉貴が始めるのか。限界まで引き絞った弓の弦のように痛いほど張り詰めているのに、心地よい空気が俺達の周りを満たしている。

「ふふ」

「ふふっ」

 劉貴と俺は、同時に笑った。

 劉貴の瞳に映る俺の笑顔が、劉貴のそれと瓜二つである事が誇らしくてたまらない。いつまでも続いて欲しいようなこの一時だが、だからこそ終わらせなければならない事はお互いに承知している。

「……」

「…………」

 沈黙のうちに呼吸音さえ静かになっていく。こめかみを伝う汗の流れ落ちる音さえ聞こえてきそうだ。その中で、周囲を囲む松明の火がぱちぱちと燃え盛る音とそれぞれの兵士たちの呼吸音さえもが非常に大きく聞こえる。

 それが一つも気にならない。意識は全て劉貴の一挙手一投足にこそ集中している。おこりなど全く無い魔気功を相手にするには、五感全てを動員した上で、経験に基づいての勘を頼りにするしかない。

「……!」

「っ!」

 声もなく睨み合う俺達の間で、何かが弾けた。

 それは双方の聖念と妖気であったかも知れないし、あるいは意思その物であったのかも知れない。俺はそれを合図にして一気に踏み込んだ。

 何を考えるでもなく、身体にこそ聞いて打ち込んだのは上段からの振り下ろしが二刀。芸も糞もない不器用で俺らしいと自負する太刀筋だった。

「らああああぁあっ!」

 踏み込んだ後から、置き去りにした声がついてくる。音よりも速い踏み込みに残像が残っているはずだが、少なくとも劉貴は全く惑わされずに俺を確かに見据えて離さない。

 かすかな時間差をかけて襲い掛かった二つの振り下ろしは、右に向かって体を開いて躱された。

 構えた右手は、おあつらえ向きに俺の心臓を指し示している。

 そうだ、わかる。魔気功の肝はその手、親指と小指。だから、そこが銃口のように向いている方向にこそ気は放たれる……!

「か……!?」

 背後から重たい衝撃が来た。背中に直撃したそれは、紛れもなく魔気功だ。

 一体何がと混乱しながら視界の端で衝撃と痛みの元を探ると、そこに見えたのはわずかに初めて変形した半ば地面に埋もれた岩だった。

 跳弾。

 普通に狙ったのなら察せれる俺に分からないようにあえて明後日の方向に撃ち、背後から撃つ。俺に向けられていないのなら読めず、跳ね返りの気であればやはり読めない。予想だにしない痛打だ。

 理解した俺の腕が再び唸る。魔気功の直撃を受けても、歯を食い縛りつつ太刀を振れるのは、頭頂のチャクラの恩恵に他ならない。

 劉貴もさすがに予測していなかったのだろう、駄目押しで撃ち込まれる右手からの魔気は仁王によって切り落とされた。続いて、ゼムリアより受け取った左の太刀にあらん限りの聖念を篭めて……そのまま、明後日の方向に思いきり振った。

 手応えはあった。

 きっと、劉貴とゼムリア以外の兵士達には俺が何をやっているのかわからなかったろう。戦っている内に頭でも打ったとでも思ったかも知れない。

 だが、劉貴の驚きの顔が否を物語る。

 俺が斬ったのは、今度も魔気功。ただし……さっき切り落とした劉貴の左腕から撃たれた魔気功だ。

 力なく地べたに転がる、誰にも注目されていない逞しい左腕が怨敵である俺を目掛けて最後の力を振り絞った魔気功を撃つ。

 吸血鬼の不死性に支えられたそれは、劉貴大将軍の必殺の策だったのだろう。先の跳弾と合わせての二重の戦術は、俺でなければ両方に引っ掛かりあえなく骸を曝していたに違いない。

 だが、跳弾こそ読めなかったが最初から切り落とした左腕は注意していた。

 なぜなら知っていたからだ。

 劉貴がどのようにして秋せつらに魔気功を撃ち込んだのか、それを俺は“知識”とせつら当人の説明により教えられていたのだ。

 妖糸が切り落とした後もせつらを狙い続けて、“僕”を打ち抜いたのは劉貴の切り落とされた腕から撃たれた魔気功だった。

 脳裏に焼き付いたエピソードが、俺を救った。まさに、カンニングの成果だ。素直にうなずけないのは傲慢と承知して、あえて笑った。うまく笑えていた自信はないが、勝負はついていないのだからそれでいい。

「っらあああぁあっ!」

 仁王で雄敵の胴をなぎながら、その重たい手ごたえに叫び声を誰憚る事無く上げる。その声が途切れるよりも速く踏み込んで、心臓の位置に柄で打撃を加えた。

 不死身の吸血鬼が、心臓を目がけてとは言ってもこれだけで痛手になるはずもない。ジルガや如来活殺の技法も取り入れた打撃だとしても、そこは変わらない。だが、ほんの一瞬だけだが怯ませる事はできる。

 ほんの一瞬だが、その一呼吸の半分にも満たない時間でも太刀を三度は振れる。左の一太刀が劉輝の胴を薙いで、即座に返しの右が逆から襲い掛かる。それを止める術を劉輝は持ち合わせていないようだった。

 左右の腕が独自に違う生き物のように動き、あるいはつかず離れず互いに補い合うように動くのが、二刀流に求められる本来の動きだ。付け焼き刃が出来ていると自惚れるつもりは更々ないが、それでも迷いだけは持ってはいけないのは百も承知だ。

 蟹の鋏のように交差した二本の太刀は劉輝の胴を挟み込むが、手ごたえが異常に硬い。トラックタイヤのような質感にぞっとしながら懐に潜り込み、ジルガの停心掌を質、量共に現在望みうる最高の聖念を篭めて撃ち込もうと劉貴をすくい上げるように持ち上げる。

 顔面が、劉貴の掌に覆い隠された。その動きは定められたかのように迷いなく、まるで俺が彼の掌に顔を押しつけたようにさえ見えただろう。

 零距離魔気功!

 常道の心臓狙いは読まれて当然。それどころか、まさか誘導されていたのか!?

 それを意識した瞬間に歯を食い縛る、両腕には力がこもる。驚いているような暇はない。地雷を踏んでしまったのなら、爆発する前に駆け抜けてしまえばそれでいい!

 ぞわり、と全身が総毛立つ。極限の緊張感に異常に神経が研ぎ澄まされてクリアになった。銃口を突きつけられている瞬間にも似ている。
今、正に撃つ。それがはっきりと理解できる。引き金を引くように魔気功が掌から解放される瞬間が読めている。首をどうひねろうと避けられる道理はない。

 どう振り払おうとしても、必ずそれについてくる。鷲の爪のように劉貴の掌は俺から離れはしないのだから。溜めも距離も必要とせずに必殺の一撃を撃てるのであれば、劉貴の魔気功は密着戦にも力を発揮できるのだ。

 しかし……密着戦は俺の土俵でもある。

 こちとら、伊達に武術漬けのガキだった訳じゃない。義父のコネを頼りに散々名人、達人に揉まれてきたんだ。只の剣士じゃないんだよ!

 劉貴の掌が魔気功を放つよりも、ほんのわずかに先手をとった俺は劉輝の腕を捕まえていた。両手は得物を手放していたが、背に腹は代えられないと考える暇もない。とにかく無我夢中に相手の手首をつかみ取る。

 掌に覆われたおかげで何も見えはしないが、感触でどこをどう掴んでいるのかはわかる。指は狙いのところをしっかりと捕らえる事ができた。後は、スピード勝負だ。

 生死をかけた一瞬の交錯、俺は自分の手に猛禽の爪をイメージして握りしめる。指が手首の骨と骨の隙間に食い込んで、劉輝の腕から俺の腕を通して何とも言えない嫌な感触が脳に伝わってくる。それを意識するよりも先に体が自然と動いている。

 足に痺れが奔った。背足が劉輝の背中をとらえて蹴り飛ばした感触だ。

 そこでようやく、自分が間に合ったと理解できた。手首の急所をとらえて
魔気功を妨害し、時間を稼いで身体を捻り攻防一体の蹴り。

 およそ通常の武術では有り得ない……というか必要のない踵落としの予備動作のような蹴りだが、どうにか当てるだけは出来た。出来損ないのサマーソルトのような感じで顔を逃がしつつ相手の体勢も崩す、吸血鬼でなくともダメージは期待できない曲芸だ。

 だから、そのまま投げる! 捕まえた手首を離さずに俺ごと回転して頭からたたき落とす。そのまま大地に脳天叩きつけてやらぁ!
ぐしゃり、と音がした。重たい頭がたてた音だ。ジルガと如来活殺を俺なりに混ぜ合わせてアレンジした投げだ、吸血鬼でもそうそう無傷で済みやしねぇ!

 理想的な人間橋を大地に架けて、会心の手応えに笑いたくなるのを堪えながら劉貴を見る。今のうちに得物を確保して、とどめを刺してやる。

 そう流れを意識した俺だったが、焦点が合った目が見つけたのはこちらを既に捕らえている劉貴の闘志溢れる眼差しだった。

 互いに大地を脳天につけた体勢だったが、向こうが一瞬速い。これが、吸血鬼の回復力。再生ではない、常に万全の態勢でいられる肉体の恐ろしさか。

「ぐ!」

 ずしん、と下腹部に重たい衝撃が食い込んだ。劉輝の蹴りだおそらくは膝蹴り。アバラ骨に守られていない柔らかく無防備な部分に、膝が打ち込まれる。何度も、何度もだ。

 糞を漏らしたらどうしてくれる。そう悪罵を脳内で叫ぶだけの余裕があったのは、膝蹴りは武器術でも氣功術でもないからだ。

「痛いけど、それだけだな。あんたの蹴りは」

「っ!」

 彼が生きていた秦の時代に無手の武芸がどのように発達していたのかはわからない。歴史上の資料が現存しないから、幾らでも仮説が立つからだ。だが、この蹴りを受けた今は確信できる。

 無手の武芸は、練磨された未来の技術を身につけた俺の方が上だ。ましてや、今はしっかりと腕をとっているのだ。

「足から魔気功が出てきたりしたら、それこそ手も足も出なかったけどな!」

 三発目の膝が腹に食い込む直前、首を支点に身体をひねって劉貴の腕を捻り上げる。隻腕の気功師が残された腕を脇固めにされてしまえば、もはや亀同然に手も足も出るまい。その一連の寝技の流れは、戦国の世を生き抜いた彼だとて瞠目に価するだろう。突いて斬ってがメインの戦場じゃ、押さえ込みが大切でも寝技の追求が必要ないとはもはや常識だ。

「しまった!?」

 だが、そこで痛恨の失敗をしてしまった。一連の流れから、つい条件反射で劉貴の腕をへし折ってしまったのだ。当然、彼はするりと腕を抜いて体勢を立て直す。

 蛇のように抜けていった腕に一瞬固まってしまう隙を見せてしまったのは、更なる不覚。 後頭部に強烈な蹴りを受け、転がっていた二本の木刀を巻き込みながら三回は転げ回る。 
跳ね起きた時に劉貴を見失っていた。

「!?」

 背後から首が絞められた。金糸銀糸をふんだんに使った豪勢な黒衣に包まれた腕を見るまでも無く、劉貴の腕だ。劉貴の腕力など知らなかったが、さすがは夜の一族。俺を締め上げる剛力は猛獣の上をいくだろう。

 姫や秀蘭なら異界の術理をもって山も空に飛ばしかねないが、劉貴は純粋に腕力を持って締め上げている。もしもこれに術が伴えばドンだけなんだろうか。

 ジルガで鉄より固くならなければ、即時に首をへし折られて一巻の終わりだ。

 強すぎる力に対抗する為に声も上げず歯を食い縛る俺のシャツに、ピチャリと劉貴の血が染みこんだ。

 切り落とした腕から流れ出た血か、と当たりをつけたが首筋に生暖かい息がかけられた。かつて、双頭犬のボス格にのし掛かられた時の事を思い起こさせる感触にぞっとした。

 自分の後ろで劉貴がどんな顔をしているのか、したくもない想像が出来てしまったからだ。

 繰り返し息がかかる。きっとその眼は赤くあさましく輝いていることだろう。そしてそれは、きっと二重の意味で俺のせいなのだ。

 劉貴の腕を切り落としたことで、より多くの栄養を欲する事になった彼が目の前の餌にかぶりつくのは当然と言える。

「ひっ!」

 悲鳴の方に目を向けると、孫権が口元を抑えて青ざめていた。

 思い人がどういう男なのか……いや、生き物であるのかを見せつけられ、そして受け入れられなかったのだろう。“区外”の人間にそれを望むほど馬鹿でもないから、軋む首は無視して得物を抜く。

 すっころがっている内に回収した事は劉貴も知っていたのだろう、驚く様子もない。しかし、構える俺を無視しているのは念法恐るるに足らずではなく、飢えに脳が支配されているからか。

 しかし、やるせない気持ちに浸る暇など持ち得ない俺は静かに得物を構える。それが正眼になっているのは、もちろん偶然だ。

 切っ先が孫権達の方を向き、彼らの視界を遮っているのはたまたまだ。剣先で相手の目付を行い、さながら壁のように相対している敵の視界を遮るのは秘技でも秘伝でもない。只基本を追求しただけの小手先であり、剣を構えればそうなるのは純粋に必然でしかない。

 頼むからそういう目で見るな、ゼムリア。歯が浮く気分になるんだよ。

 こんな場合にかかわらず、俺をあくまでも静かに見守ってくれる男の目がくすぐったくて笑い出したくなる。おかげで腹が据わった。

「劉貴」

 答えはない。

 彼は、何も言わずに俺の首筋に牙を突き立てた。奇しくも、それはかつてもう一人の大将軍が同じく牙を突きたてた場所と同じだった。

「こうなる事を、俺は既に想定していた」

 その言葉の意味を理解していないのだろうか、それとも分かった上で放っておかれているのか。彼の顎はなんら動揺を示した動きをしなかった。

「あんたよりも前に殺し合った大将軍が、同じ事をした」

 それでも、言わずにはいられなかった。それは、彼との死闘を終わらせる決着の訪れを惜しんだからだ。劉貴大将軍は、戦士などと言う高尚な呼び方はされない程度の俺でも、できれば語り合いたいと思う魅力的な益荒男だった。

「最後の、勝負だ」

 振り切る為の声が消えるよりも先に、頸動脈に穴の空く音が重なった。

 痛みとおぞましさに、目を見開いた。

 牙を突き立てられ、血を吸われている。劉貴は俺の体内を流れる鉄の味をした液体こそ甘露と信じて、喉を潤している。頸動脈が突き破られ、ごきゅりごきゅりと音が鳴っている。自分の体内に響く音がどうしようもなく不愉快であり、それと同時に力が失われていくのを実感する。

 飲み切れなかった血が、首筋から垂れて赤い河を作る。それは放っておけば、そのまま海にもなるだろう。こぼした分でそれだけならば、実際に体内から失われている血の量はどこまでなのか。

 吸血鬼は古のしきたりに従って複数回に分けて血を吸わなければならないはずだが、それを無視する浅ましさは劉貴の飢えを示している。このままでは彼の下僕になるのではなく失血死するだけで、それはそれで魂の救済と言えるのかも知れないが願い下げの話だ。

 だが俺は、その状態でなお笑った。

 俺の笑顔を見た見物人共は、どう思った事だろう。

 恐怖に気が狂ったとでも思ったか? それなら言ってやる、ナメンじゃねぇ。

 すう、と一呼吸二呼吸を重ねた。この大地から生まれて故郷に伝わった空手の呼吸法だ。その中でも特に独特で、内臓を位置調整する作用を持つ技だったが……同時に精神を落ち着かせ腹を据える効果もある。

 これからやる馬鹿には、絶対に必要な一息だった。

「やめ……」

 ゼムリアが血相を変えた。俺の笑みに何を見たのか知らないが、それは彼にとって喜ばしくないものなんだろう。だが、止まらない。むしろ、突っ切って進んでやるさ。

 二本の木刀を逆手に持ち替えた俺に、彼が何を見たのかは分からない。だが、ゼムリアは俺を大馬鹿野郎と罵りたいんじゃなかろうかと期待した。

「ぬうぅおおおっ!」

 大袈裟に気合を篭めて、得物を振りかぶる。既に一度やった事とはいえ、これをクールにやるのは俺には無理だったからだ。おまけに、前の倍だからな。

「ッ!?」

「まさか!」

 切っ先が何処に向いているかを理解した野次馬が、信じがたいという顔で息を呑んだ。それは木刀で出来るはずがないという意味か、それともやる訳がないという意味か。どちらだとしても結論は変わらない。

「おおおっ!」

 俺は恐怖心と躊躇いをどうにか振り切り、仁王とゼムリアより借りた木刀を自分の腹を貫通させて劉貴に突き立てる事に成功した。

 ずしゃり、なんて鈍い音はしなかった。鋭く、とす、という感じの音が二回聞こえてきた。

「馬鹿な……いや、馬鹿だ」

 どこかから、聞き覚えのある女の声が失礼な評価を下してくる。たかだか敵ごとてめぇの腹を切ったくらいでひどい言われようだ。

「これ、は……効いただろ?」

 刃のない木刀であるが易々と俺の肉体を貫いた二刀は、吸血鬼の肉体をも見事貫いている。腹腔内に痛みではなく熱い重さを感じながら、同時に劉貴の牙からも力が抜けていくのも感じた。

 角度と感触からわかる。

「心臓、いけたな」

 声とともに血が噴き出す事はなかった。

 内臓の位置を調整し、隙間をあえて大きくして突き刺す。通常の刀剣よりもよっぽど太い木刀が二本も体内で交差して、なお骨も内臓も大きな血管も悉くを避けて通ったとは誰も想像するまい。

 カズィクル・ベイの時と同じ轍を踏むのはそれこそ馬鹿の証拠だし、何よりも今回は死ねない理由がある。その為に予め考えに考えた作戦がこれだ。脳みそ振り絞ったわりには結構お粗末だが、しょせん俺のおつむではこの程度が限界だ。

「眠ってくれ、せめて永遠の半分くらい」

 体内のチャクラが生み出す聖念と、二本の木刀に刻み込まれた聖念が共鳴し合い、これまでを上回る爆発的な力を発揮する。体内に木刀が潜り込んでおかしな作用でも生まれたらしく、周囲一帯を圧倒するとてつもない力が雲よりも高くまで満ち満ちていく。

「おおおぉぉぉおっ!」

 汜水関の一帯を、俺の聖念が満たしていく。あるいは、空気さえも押しのけていったかも知れない。それがどんどんと一点に凝縮して、ついには劉貴の心臓だけに全てが集中していく。

「喝ぁあぁーっ!」

 背中に密着していた劉貴の身体から、力が失われた。

「……」

 木刀を抜いた際に呻き声を上げなかったのは、只の意地だ。幸い、傷は大きく痛みはあるが、出血はそれほどでもない。まるで活け作りの鯛だな、とブラックジョークを独りごちながら背後を振り返る。
どさり、と音がして、ちょうど劉貴が倒れたところだった。

「…………」

 仰向けになったその顔から既に悪鬼は立ち去って、成すべき事を成し遂げたかのようなかすかな笑みが浮かんでいる。その顔を見ているだけで、例えようもなくやるせない気持ちになってくる。

 雄敵を倒したというのに、どうしてこんな鬱屈しているのか。カズィクル・ベイを倒した時には、そもそも何かを感じるような余裕は一切合財なかったが……

「ふううぅ……」

 その場に崩れるようにあぐらをかいて、肺を空にするような大きなため息を人目も憚らずについた。両手に握っていた得物を離すのにも苦労したが、
左右の膝の先に突き刺して劉貴を見詰める。

 何を言えばいいのかどころか、何を考えればいいのかも分からない。ただ、どうしようもなく落ち着かない気持ちだった。達成感も喜びもない、ただ力を使い果たしたという事実だけが肩にのし掛かる。

「ゼムリア」

 このまま眠ってしまいたい。

 それが最上の贅沢と信じて疑わないが、出来るわけがない。

「劉貴の心臓はご覧の通りに封じてある。後はドクトルにお願いしたい」

 どうにか膝に力を入れて、立ち上がる。劉貴の前にいたいようないたくないような、自分の内面がつかみ取れない。

「それで、どうするんだ?」

「秀蘭を滅ぼしにいく」

 どこかで声がした。三人組の女が、驚いた顔をしていたがすぐに敵意を込めて睨みつけてきた。どこの誰だか知らないが、奇天烈な見てくれをしている。ビキニ姿が混ざっているあたり、羞恥心どころか正気を疑うようなトリオだが、なんでそんな顔をする。

 秀蘭の手駒か?

 向こうも、俺を殺そうと地獄の悪鬼でも軽蔑の視線を向けてきそうな残酷な拷問を、たっぷり百は列挙しながらこっちに来ているに決まっている。先触れじゃあるまいなと警戒はしておこう。

「あの女吸血鬼か」

「あれを滅ぼさなけりゃ俺はいつまでも半吸血鬼のままさ。幸い、今は劉貴の仕置きでグロッキーのはずだ。今を逃す手は無い」

「わかった」

 劉貴大将軍と一戦交え、確かに勝利したのだ。

 もうこれでいいだろうと弱い自分が顔を出すが、それをどうにかこらえて立ち上がる。ゼムリアも、これだけ馬鹿な無茶をやったのに何も言わずにいてくれる。有難い事だった。

「ああ……すまないんだが」

「ん」

「この木刀、しばらく借りてていいか」

 振り返ったこの時の俺はくびり殺したくなるほど間抜けだったに違いないが、彼はいたって爽やかに笑うとうなずいた。

「やるよ。俺にはやっぱりこれがいい」

 彼が笑って素朴な棒を掲げると、俺はどんな顔をしていいのかわからなくなり無言で頭を下げた。最初からそのつもりだったやることの憎い男が、頭を上げてくれよと困った顔をして手を振ったので素直に従うと、俺をにらんでいる孫権と目があった。

 やれやれ、とまた一人俺を恨む女が増えた事に肩をすくめる。色気のない理由で恨まれてばかりなのが幸いなのかなんなのか。 

 思い入れなど全くない、どうでもいいと言えば実にどうでもいい女の筋違いの恨み言などにいちいち構っている暇もなければ隙もない。さっさとやる事やっちまおうと足を踏み出した時。

 ちょうど、その一歩を阻む為であるかのような実に苛つかせるタイミングで、聞き覚えのある歌が聞こえてきた。



 夜中 寝ぬる能わず

 起坐して鳴琴を弾ず

 薄帷 明月に鑑り

 清風 我が襟を吹く

 弧鴻 外野に号び

 翔鳥 北林に鳴く

 徘徊して将た何をか見ん

 憂思して独り心を傷ましむ



 女の声だ。

 孤独の唄だ。

 誰が謡う。誰が誰のために謡った。

「秀蘭……?」

 姫かとも思ったが、あの女が人を悼むようなタイミングで謡うとは思えない。仮に謡ったとしてもたまたま謡いたい気分になっただけの偶然に過ぎないだろう。それは劉貴が相手でも何も変わらない。何処までも自由奔放であり、だからこその妖姫。

 例外は秋せつら只一人。  

 秀蘭は一体何処にいるのか。声の出所を探して周囲を見回すも、人の壁の中に秀蘭はいない。俺が見抜けないだけなのかとも疑うが、ゼムリアの反応が気に掛かった。

 彼も含めて、誰も歌に反応していないのだ。

 無視しているだけかも知れないが、それでも全員無反応なのはおかしい。一人ぐらい声の出所を探そうとするものじゃないか。

「…………」

 何だろうか、漠然と嫌な予感がする。

 何か、致命的なミスを犯している。漠然とした予感が足を引っ張る。ふりほどこうにも、見逃せば比喩ではなく命に関わると強迫観念が俺に目をそらす事を許さない。

 だが、考え込んでいる余裕はなかった。

 気が付けば俺の両腕は二本の木刀を振るって、襲い掛かってきた無数の矢を払いのけていた。

 矢を射たのは言うまでもない。

「主人を取り返しに来たか」

 遙か彼方より、騎馬の一団が駆け抜けてくる。旗は掲げられていないが、誰かが言った。

「袁術だ、袁家の一団だ!」

 彼らは兵装かなんかで見分けたのかも知れないが、俺は妖気で劉貴の餌食だと見極めた。そもそも、周囲の兵士達も随分と驚いているが、彼我の距離で正確に俺に当ててくる弓矢の技量が有り得ない。明らかに人外、妖物の類だ。

 それが向かってくる理由なんて、決まり切っている。

「くそ、少しは考えさせろよな」

 秀蘭とまみえる前に、劉貴の下僕……いや下僕の下僕に殺されたんじゃ笑い話もいいところだ。それが笑えないのは、消耗しきった今の状態では彼らにさえ手も足も出ずに殺されかねないと言う冷徹な事実が待っているからだ。 

 だが、それもよくある話でしかない。

 ゲームでもあるまいに、バランスを考えてステージが用意されている訳じゃないのだ。現実はいつでも、そして誰にとっても難易度上限無視の糞ゲーでしかない。

 “新宿”で常々噛みしめつつも何とかやって来た事を、ここでも繰り返すだけである。なんて事は無い。いや、消耗しきった念はどんどんと回復してきている。頭頂の偉大なるチャクラは今だ動きを止めてはいない。よくよく傷口を見てみると、腹立たしいが夜の吸血鬼としての回復力が発揮されているらしく、どんどんと傷が癒えてきている。

 むしろ、今までに比べたら随分と恵まれている方だと笑う事が出来た。なら、俺はもっと戦えるだろう。

 元々秀蘭と戦うつもりだったんだ。今さら、前座くらいでへし折れる訳にはいかない。

「主を倒した俺に、にわか仕込みの下僕どもが敵うと思ったかよ!」

 大喝一声、精一杯の威をこめて木っ端吸血鬼共に大言壮語をはきかけて、一気に走りだす。萎えていたはずの足も、一歩踏み出すごとにどんどんと力を取り戻してきた。これが秀蘭に血を吸われた結果だと思うと、素直に喜ぶには抵抗がある。

「どけ!」

 俺達を囲んでいた内の連合兵共が、袁術軍に呼応して一斉に飛び掛かってくる。それに条件反射で反応した軍との間で泥沼の混戦が起ころうとしていたが、それは俺の木刀から受けた一振りの風で止まった。

「孫権! さっさと兵をまとめて引け!」

 誰も彼もが、根こそぎ闘志を日向の雪のように溶かされた顔をしている彼方に、それが通用しない連中が殺気立って襲い掛かってくる。

 食らいつかれれば、孫家の一党はあっさりと餌食だ。そして、あいつらが連合にも手心を加えるとは思えない。だったら、こいつらの精神に凪を与えた俺には迎え撃つ責任があるだろう。

 嫌っている俺に大声で命令紛いの指示を出された孫権が、一体どんな顔をしているのかを見るつもりも無いので、脇目も降らずに走りだす。

 全身に満ち満ちた頭頂のチャクラから発する恩恵が、俺に疾風の速さを与える。耳元を通り過ぎていく心にこそ寒気を感じさせる風、松明から離れてどんどんと真っ暗になっていく世界だが不安は何も感じない。それどころか安らぎさえも感じてしまうのだから、我ながら危機感を禁じ得ない。

 しかし、実のところ危機感らしい危機感は感じていなかった。
 吸血鬼化を受け入れた訳でも、迫るもう一人の大吸血鬼と周囲を守る数多の下僕達との戦いを甘く見ている訳でもない。ただ、それ以上に気になる事があるだけだ。

 さっきの唄……ゼムリアさえも聞こえていなかったらしい唄。



 俺の中から聞こえてこなかったか?








[37734] 末世、そして新生
Name: 北国◆9fd8ea18 ID:bf0d04fb
Date: 2015/07/03 06:53
 長らくお待たせしました。これで最終回です。

 工藤冬弥の物語もここで一区切りです。エピローグもかねたので最長になりましたが、さて中身はどれだけのものか。

 決着は菊地作品らしさを考えて書いてみましたが、皆様に受け入れられるかはちょっと不安。

 そして、作品内で恋姫キャラがひどい目に遭います。そりゃあもう、自重なしで。これはそろそろヘイトだなってくらいですので、読まれる方はご理解の程をよろしくお願いいたします。
 








 兵は数万に及んでいるのだろうか。

 袁術という将の元には数だけを揃えた質の悪い雑兵がいると雪蓮から聞いてはいたが、全てが劉貴……いや妖姫を頂点とした吸血鬼であるなら彼らだけで漢を滅ぼす事も問題ないだろう。

 人ではこいつらには敵わない。

 それは吸血鬼が強いからじゃない。恐いからだ。人の血を餌とする吸血鬼は、正しく人間の為の天敵だ。

 人よりも強く、人をこそ喰う化け物は恐い。

 ただ力が強く、頭がよく、獰猛で五感が優れて人を食うのであれば別に熊でも虎でも同じ事だろう。だが、吸血鬼は人だけを食うのだ。

 犬猫の血で喉を潤す吸血鬼など、まず聞かない。人と同じ姿をして、人よりも圧倒的に優れ、そして絶対的な支配をつけて人を変質させるからこそ恐いのだ。

 お前は俺達の餌だと突きつけて来る吸血鬼達の恐怖に、漢の人間など一人として勝てるまい。自分達が被捕食対象だと理解できていないならまだ蛮勇を奮えるだろうが、吸血鬼を理解してしまえば震えて逃げるだけに成り下がる。それは英雄ともて囃される武将達だろうが、そこらの卑屈な乞食だろうと変わりはするまい。

 鹿が虎と出会えば食われるか逃げ出すかの選択肢しかないように、吸血鬼と人が出会えば同様の選択肢しかない。しかし、人は鹿と違い逃げるための進化は遂げていないのだ。

「と言っても、鹿だって生まれたての虎児に負けるわけにはいかんがな」

 ましてや、こちとら虎にケンカを売るつもりの鹿なのだ。

「お目当てのご主人様の仇はここだぜぇ!」

 景気よく叫び、懐から銃を取り出す。青い光は、闇夜を派手に切り裂いて飛んだ。目に残るのは残像だけだが、それはいつまでもしつこく残る。

 適当に狙っためくら撃ちなので当たらなかったようだが、それでもわけのわからない異質な攻撃は彼らの度肝を抜いたらしく、どよめきと共に先頭集団の動きが止まる。

 驚いたのは、俺も同じである。

 吸血鬼がレーザーで、しかも拳銃のちっぽけなレーザーに怯むとは思わなかったが、そういえばあの連中の精神と肉体は吸血鬼でも、知識はこの時代相応なのだ。つまり、今の景気づけは訳の分からない危険な行為、って事になるらしい。

「あ、当たってる」

 ついでに、攻撃であることはもんどりうって転げ落ちた三人が証明した。そろって腕だの肩だのを撃ち抜かれている。

「まあ、あれだけ数がいればそりゃ、誰かには当たるか」

 腕がいい悪いじゃなくて、単純に的が多いだけである。シャーリィ・クロスにちょっと笑われた腕が上達したわけじゃない。

「できれば、これで怖気づいてほしいもんだがな」

 こうやってうまくいくと、欲が出る。
 
 体はいまだに本調子ではない。それでもやらなければならない状況だし、やせ我慢をしない男に価値などないが回復できればそれに越したことはない。吸血鬼の異能はなりかけの俺にも作用し、宵の口の今腹にあいた穴も鉛の服を着ているような疲労も少しずつ回復してきているのだ。

 距離が開いている間に少しでも体内の気を安定させて、心身の回復を果たしたいところである。魔気功の傷もまだまだ重たく俺を苛み続けるのだ。

 それにしても、こうやって実際に我が身に異常が起こると嫌でも思い知らされる事がある。

 秀蘭に噛まれて影響下にある為傷が癒えていくのはわかるが、ちょっと効果が大きすぎないか?

 せつらが秀蘭に噛まれた時には、こんな回復力は望めなかった。“新宿”で過ごして、魔界医師とも顔見知りとなったおかげで勘違いしがちだが怪我ってヤツはそんな簡単に治ったりはしないものだ。

 開け方に気を使ったとは言っても、腹に二つも大穴が空いて戦おうとしているとか我ながらおかしいだろう。普通は命の危機だ。それが実際に戦えるレベルになり、更に回復しつつある。ジルガや念法を駆使しても無理だ。

 それが吸血鬼化の恩寵であるのは間違いないが、なんでここまでの回復力が一回噛まれただけの俺にある。相手が秀蘭だからって、さすがにおかしいだろ。

 脳裏に否応なく居座るのは、ドクトル・ファウスタスから告げられたひどく不吉な診断結果である。

 君の身体には、女が取り憑いている。

 大体そんな内容だったと思う。俺はそれを秀蘭だと思うのだが、考えてみると少しおかしい。秀蘭は俺の血を吸ったのだ。取り憑いた訳じゃない。影響下に置かれているのは確かだが、俺の中に秀蘭自身が潜り込んでいるような言い方は少し違うだろう。

 右往左往している敵と睨み合い向こうの出方を待ちながら、抱いた疑問を見逃さないように慎重に思考を進めるが、どうにもろくでもない不愉快な結論ばかりが出てきそうだ。

 つまり、俺は秀蘭以外の誰かに取り憑かれている。

 それも、女。

 ……どこの誰だ?

 真っ先に思いつくのは妖姫だが、憑かれるような接触がない。俺達が至近距離で接触したのはたった一度だけ、魅了されかけた際のあの邂逅だけだったが……取り憑かれていないという確信はある。

 技量的には俺に気が付かれない内に何かを仕込んでおく事は、妖姫なら幾らでも可能だろう。だが、彼女がそこまでの労力を費やすほど俺に興味を持っていたかと考えると、結果はあっさり否と出る。

 伝説における破滅の美女にとって、俺は取るに足らない小物に過ぎないのだ。

 となると、騏鬼翁の可能性もある。

 あいつなら、俺の知らない間に女の形をした妖物を取り憑かせる術も持っているはずだ。しかし、ドクトル・ファウスタスにターゲットされている身でそんな余裕があるのか?

 これも却下とすると、最後に残ったのはトンブである。

 なるほど、あのでぶの魔道士が俺を無事に“新宿”に帰す為に何らかの仕込みをしておく。これはあり得る。現在の所そう不利な目にはあっていないのだから、敵と決めつけるのも早計かも知れない。

 しかし、トンブが俺にとって特になる術をかけた際にふっかけてこないわけがない。ついでに、トンブに取り憑かれたら分かると言うよりも思い知らされる気がする。主に重量で。

 そういえば、どっかのでぶの名前を付けられた憑依霊がいたよな、とせつらが潰されかけたのを思い出しながら前を見る。

 どこに行けばいいのだろうかな、と考えると選択肢は幾つもあった。

 目的は秀蘭を滅ぼす事。そして秀蘭の目的は俺を殺す事、それもなるたけ惨たらしくが付くだろう。俺が何処にいるのかはもちろん把握しているだろうから、すぐに出会う事にはなるはずだ。

 問題なのは、あいつの性格である。怒り狂った秀蘭が、ただ俺の命を取るだけで済ますだろうか。もっとえげつない報復を、俺を絶望に落とす為だけにやらかしても不思議じゃない。

 根性悪は、何も妖姫の専売特許という訳じゃない。長年側にいただろう秀蘭が、影響を受けていないと言う事がありうるだろうか。

「ありえねぇな」

 となると、おかしな真似をされる前に捕まえた方がいいのは間違いない。問題なのは、居場所が定かじゃない事だ。連合軍の陣内に向かっているのは、あくまでもたぶん程度の話で眼前に迫る吸血鬼軍を抑える為という意味合いの方が大きい。

 秀蘭がさっさと来てくれないかなと期待するが、それを察して俺から敢えて逃げ回るという手段もとりかねない。だがまあ、劉貴を封じた俺を悠長にじらすとも思えない。

 ほとんど何も知らない相手なので、次の行動が予想しづらいな。

 とりあえず、目の前の有象無象をどうにか鎮圧する事から始めようか。できれば犠牲者に過ぎない彼らを滅ぼす事はしたくないが、きっと彼らも飢えを満たす為に犠牲者は出している事だろう。

 これだけの数の吸血鬼を養うだけの餌食が、彼らの足下には積み重なっている。人工血液も戸山町における鉄の掟も、ここにはないのだ。

 一体、こいつらの総数は何人だ。千じゃきかないだろ? 犠牲が犠牲をどんどんと生み出している、吸血鬼の厄介さのわかりやすい証明を見せつける最悪の例だ。

 ……ドクトル・ファウスタスかトンブに話をするべきだったな。

 劉貴を滅ぼせないとなれば、彼らを滅ぼす他はない。でなければ犠牲者は際限なく増え続け、漢の外にまで広がるだろう。

 どうするべきなのか、正直迷っている。

 殺すのか、殺さないのか。できるできないを度外視しても、決断は難しい。

 既に犠牲者は出ている、しかし彼らの意思であるとは言い難く人間に戻る可能性も皆無じゃない。

 既に生み出されこれからも増え続けていく犠牲者と、強制的に加害者となった元被害者を天秤にかけて、一体どちらを選ぶべきなのかを決断しなければならない。

 このまま止まっていてくれ。

 あるいはドクトル・ファウスタスよ、早く劉貴を滅ぼしてくれ、と勝手な期待に逃げ出している自分が情けない。

 これだけの数をさばくなんて俺には出来ない。だから諦めて滅ぼすか逃げ出すかをしようと囀る自分の弱さが情けない。

 これが自分の意思で人を食っていると分かるのであれば滅ぼすのに否やはないが、吸血鬼化して変質した衝動の命じるままに襲っているだけでは怒りというものを湧かせる事が困難だ。

 もちろん見ていないどこかで大勢の被害者を出している事は理解できているが、それで殺意を抱くのは難しい。それでも、やらなければならない事は分かっていた。

 引き金が、やたらと重くなったのを感じる。こんな物じゃ吸血鬼は倒せない。せいぜいこけおどしの道具にすぎないのだ。それを理解してしまい、一呼吸を置いてから両手を振ると二振りの得物が腕の中には生まれる。

 それがずっしりと重かった。

 たまにこんな事がある。最後に感じたのは、通りすがりのヤクザを食い殺して生まれたての我が子の栄養にしようとした、半死半生の双頭犬を討った時だ。あるいは、一人の妖科学者の手によって生体兵器に改造されて全身から一呼吸で死をもたらす致死毒をまき散らし我が子を殺してしまった挙句、暴走してそこら中に毒を振りまく殺人狂になってしまった主婦を殺した時だったかもしれない。

 今すぐ頭を抱えて喚き散らしたい衝動に駆られながらも、目の前に群れを成している吸血鬼をまとめて薙ぎ払う為に仁王ともう一本を振りかぶる。二振りの木刀を構えた俺の頭頂は再び輝きを放ち、今なら次元の刃でなで斬りにできる自信があった。

 と、どこかから新しい馬蹄の音が聞こえてきた。いや、それだけじゃない。これは、馬車かなんかの轍の音だ。

 向こう側でも気が付いた何人かが動きを止め、それが少しずつ普及していく。まるで吸血鬼を引き付けているかのようで、軍は音の主を迎えるかのように動きを止めている。

 一陣の風が吹いた。

 ひどく優雅な香りと、どうしようもないほどの艶を含んだ風だった。

 目を庇った俺がもう一度前を見た時、音は二頭の黒馬に牽かれた一台の馬車へと姿を変えていた。

 馬車というよりも戦車のようにも見える二輪のそれだが、典雅さを感じさせるつくりの帷が車体の上にのっかっていかにも女性的だ。ひょっとすれば戦車どころか古代、あるいはこの漢において貴人の女性が乗るものであるのかもしれない。

 ただし、色は血で染め上げられているかのように赤黒く、生臭さ、鉄臭さを感じそうなほどのそれは乗っている人間の精神の均衡を疑わせる。

 いや、ひょっとしなくとも“ように”はいらないのかもしれない。それでいながら、細工その物は名工の手によるものだと素人目でも一目瞭然なのだ。帷の表面には黄金で竜虎が描かれているが、その巧みさは今にも襲い掛かってきそうだと先だって本当に虎と殺し合った俺でも錯覚してしまう程だ。

 だからこそ実におぞましい代物であり、そこにあるだけで恐れ戦く衆目を一身に浴びずにはいられないような代物だ。

 だが、今は違う。

 衆目を浴びるべきは、たかだかできのいい絵柄でも血で染め上げられたとしか思えない車体でもない。

 御者台に座り、手綱と鞭を持って颯爽と風に当たる白い衣を纏った女からこそ、天地万物の注視を一身に浴びるべきだった。

 夜の闇は深く、光源は星と月、そして俺のチャクラしか無いにも関わらず女の顔は自ら輝いて誰の目にもはっきりと見える。それは、美しいからだ。
只単純に美しいというだけで、女は内側から太陽など必要ないと言わんばかりの傲岸な輝きを発している。

 星をはね除け、月は霞ませ、太陽は貶めて女は己こそが輝く闇であると何も言わずとも納得させている。異論を持てる者は誰もいない。

 妖姫だ。

 真似る事も語る事も許さない、この世にたった一人の女がこれぞ傾国の美ぞ、と天下にまざまざ見せつけている傲慢な姿が俺と吸血鬼達の間に現われた。

「……妖姫」 

 俺の声はかすれているにも関わらず、驚く程大きく空気を振るわせた。それは、突如現われた乱入者に対して数多の吸血鬼達が、声を荒げるどころか息をする事さえも憚られると言わんばかりの沈黙を通したからだ。

 気持ちはよく分かる。

 俺もまた、唾を飲み込む事にさえ躊躇を感じるほどに萎縮しているからだ。先だっての邂逅よりも強くプレッシャーを感じているのは、秀蘭の牙を受けたからに間違いはないのだろうが、それを言ってしまえば劉貴に端を発する吸血地獄のまっただ中にいる数千数万の吸血鬼達にとて、妖姫は一体どれほどの相手であるのか。

 万物を圧倒する美しさに加えて、自分達の大本の更に大本。正に格上の存在。はっきりそう認識はしていなくとも、彼女が何者であるのか察しが付かないような間抜けもおいそれとはいるまい。

 妖姫は、チャクラ輝く俺に一瞥だけくれると笑った。心臓が跳ね上がるどころかこの距離で止まりかけた。股ぐらがいきりたっていないのが自分でも不思議なほどの、これ以上ない蠱惑的な笑みだった。

 くそったれ、と臍をかむ。

 頭頂のチャクラが回転したとしても、妖姫にとってはまだ笑える程度でしかないのかよ。

 彼女は俺に背中を見せ、悠々とした動作で御者台の上に立ち上がる。それだけで数多の吸血鬼がその場で地べたに膝を突き、あるいは平伏した。馬上の兵士は無様に頭から転げ落ちる者が続出したが、それを痛がる者も笑う者もいなかった。

 彼らの悉くは妖姫の足下に平伏しながら、首だけは上を見て彼女を見つめ続けている。その目は恍惚としており、見ているのでは無く目を離せないのだと語っている。

 事実、造りその物は簡素な純白の衣裳に包まれた肢体が背中を向けて翻されても、俺は目を離す事が出来ずにいる。どうにか力をこめて気を取り直したが、魅了の力など何も行使していないにも関わらずこれだけ振り回されている力の差にはため息も出てこない。

 風が通り抜ける事を惜しむようにたなびいている黒髪も。

 何一つとして飾りのない純白のチャイナドレスに包まれた、これ以上はないと言う絶妙な黄金比の更に上を行き男のみならず女をも肉欲の奴隷としてしまう艶やかな肢体も。

 そして雪よりも白い肌に紅の唇と夜空のように星を含んでいるような瞳も。

 形容する言葉が陳腐にもならないような美しいという言葉を当てはめる事さえ躊躇ってしまい、それでもなお他の言葉が見付からずに美しいとしか言いようのない貌も、何もかもがただ美しいと言うだけで人も鬼も支配している。

 この国にも傾城と呼ばれる美女はが幾人もいるだろう。しかし誰一人として届かない。

 豪奢で奇抜な衣裳を身に纏い、色取り取りの髪を様々な型に整え、宝石のように色彩豊かな瞳を輝かせていても、どれだけ肌を露出させて豊満かつ引き締まった身体がもっとも艶めかしくなるよう計算された衣裳を着ていても、誰も届かない。

 装飾品一つつけず、当たり前のチャイナドレスは只の純白。髪は黒髪を結い上げもせずに只流しているだけ。

 それでも、妖姫は三千世界でもっとも美しく艶やかで、何よりも恐ろしい女だった。

 いったい何をするつもりなのか、それが俺と無関係ということはあるまい。歯牙にもかけなかった雑魚が己の下僕を滅ぼしたのだ。どういう形であろうとも、彼女は俺を蹂躙するだろう。

 当初の約束? 守るわけない。

 いったいどう出るつもりだ、何をするつもりだと恐々としながら目を離すことができない背中を見つめ続けると、遥か彼方から新たな馬蹄が聞こえてきた。

 今度は一騎だけじゃない。数千、あるいはそれ以上……つまり、軍が動いたと言う事だ。それは吸血鬼達の背後から聞こえてくる、つまり連合軍の誰かが動いたと言う事だ。

 一体何がどうなったのかは分からないが、とにかく状況が劇的に動いたらしい。これに呼応して、あるいは汜水関でも動きがあるか? 

 素人の俺には何が理由か知らないが、とにかく戦争が再開されようとしている。せめて、背後の連中は自重して籠城を選んで欲しいものだ。

 背後を気にしている間にも、前は迫ってくる。一騎一騎は大したことがなくとも、これだけ揃えば怒濤のような轟音だ。それが吸血鬼軍をどう見ているのかは分からないが、接触の際の化学反応が穏やかな結果を生まないのだけは確かだろう。そもそも出陣の際にトラブルがなかったとは思えない。

「ふふ」

 妖姫が、笑った。

 空気どころか大地を振るわせる爆音の中で、不思議と耳に届いた。普通なら例え深夜の静寂の中でも聞き逃してしまいそうなそれがはっきり聞き取れたのは、声を発したのが妖姫だからとしか思えない。

 その笑みを見ていた不幸な下僕達が、恍惚の笑みを浮かべる。そして、そのまま妖姫の周りの十五人が一斉に首から上を失った。

「あ」

「お?」

 最初は、誰も何もわからなかったようだ。事実を認識したのは、更に三十名ばかりが同様の目に遭ってからだ。

 それは、妖姫の振るったたかだか二振りの鞭が起こした惨劇。手が左右に振られただけで、五十に近い吸血鬼が首を失い大地に真っ赤な血の花を捧げた。事が起こった後でようやく気が付いた俺が行動を起こすよりも前に、惨劇は始められた。

 次の妖姫の鞭は馬の尻に向けられた。当然大きくいなないて走りだした二頭の黒馬は、姫を乗せた馬車をまるでただの小箱のように軽々と引いて吸血鬼の群れへと突っ込んでいく。

 操る姫が姫なら馬も馬、馬車も馬車か。

 吸血鬼の群れなど馬蹄の下の虫けら同様と、ためらいなく人外の群れを踏み潰して阿鼻叫喚の合掌を作りだしていく。

「ぎゃああっ!」

「何を、何をなさいます!?」

「主様、貴方は我らの主様なのでしょう!?」

「血迷われましたか!?」

 驚愕の叫びが遅まきながら四方八方からぶつけられるが、それを気にもとめないどころかそれこそが楽しくてたまらないと妖姫は哄笑を上げる。

「おうよ、私こそが劉貴の主であり、即ちお前達の主よ。故に命ず。もっと血を流し、悲鳴を上げよ。私を楽しませよ。それがこのつまらぬ国を作ったお前達のせめてもの償いよ」

 一人の兵士は車輪の下で胴を両断され、一人の兵士は馬の蹄に頭蓋を砕かれた。あるいは姫の鞭に顔面を砕かれてのたうち回り、あるいは喉を打ち据えられて骨が砕かれた。

 一瞬ごとに十人二十人の犠牲者が生まれ、各々血しぶきを上げて悲鳴を上げている姿は正しく地獄絵図。そのまっただ中で、姫は楽しくてたまらないと大声で華やかに笑い続けた。

 伝説の中に存在する、出来れば後世の空想であって欲しいと願われる古代の暴君が今正に目の前にいる。絶叫、血しぶき、それらを天高くまで届かせる事が面白くてたまらない。

 もっともっとと虫の羽を千切る子供の遊びのように楽しそうにして、彼女は縦横無尽に駆け回り鞭を振るった。

 兵士達は逃げようにも逃げられない。顔は恐怖に塊、声を上げて慈悲を請うて翻意を願うが足が動かない。

 それは下僕のそのまた下僕という立場の為か、妖姫の美貌に囚われたか、木偶人形のように次々と車輪の下で挽肉になっていく。何と無惨な光景か。

 しかし、これでもまだ終わらない。

 彼らは吸血鬼だ。砕かれようとも千切られようとも、それでは死ねない。死なないのではなく死ねない身として、砕かれ引きずられてもなお滅びる事なく呻き声を上げ続けている。いっそ殺してくれと、人外の力に酔いしれていた口で哀願している。

 これこそ、正に地上に現われた地獄と言えるだろう。死ぬ事を許されない亡者が途切れる事なく繰り返し苛まれるように、彼らは繰り返し轢殺されていく。

 異常者の天才画家がいれば歓喜の喚声を上げるような地獄絵図の中で、妖姫は誰もが見とれずにはいられない輝かしい笑顔を浮かべて殺戮に酔いしれていた。

 何と美しく、何と神々しい姿だろう。無差別の大殺戮を行い、血と嘆きと蹂躙に酔いしれる姿は、だからこそ美しく輝いている。

 見よ、轢殺されてなお、その美しさに恍惚となっている犠牲者達の無惨な姿を。

 これが、妖姫だ。

 これが、古代中国を幾度となく滅ぼしてきた伝説の妖女だ。

「やめろ」

 声が震えた。歯をかみしめろ。

「やめろ」

 腕が震えた。力を籠めろ。

「やめろ」

 目がかすみ、視界がぶれた。腹を据えろ。

「いい加減に、しろーっ!」

 両の刀が風を切り、そして次元を断つ。

 左の太刀が見事に妖姫の乗る馬車を車輪から両断したが、右の剣風は次元ごと無造作に鞭によって跳ね飛ばされた。

 次元刀をも児戯だと笑う妖姫の怪異な実力だったが、それよりも敵を庇って妖姫の注意を引いた愚行の方がよっぽど重大だ。頭の中を“やっちゃったよ”と言う後悔の一文が支配する。

 そして同時に、どうせだったらもっと早くにやらねぇか、と自分をののしる自責の声もする。うるせぇ。おっかなかったんだよ、畜生が。

「そんな目で見るんじゃねぇよ」

 足下にいつの間にか転がっていた首が、七つは恨めしげに俺を見上げている。声も出せないのは喉が無いからだろうが、目で口ほどに恨み言を言ってくる。つまり、もっと早く動け。

「散々に血を呑んできたんだろう。その程度は自業自得だ。滅んでいないだけマシと思え」

 後ろめたさを堪えて嘯きながら、前を見る。そこには、見たくもない者が俺を見ていた。

「よくぞ私の馬車を斬ったな」

 恨み言では無く、怒りも無い。よく出来たと褒めてさえいた。

「そりゃどうも」

 彼女の目はただ黒いだけだ。おかげで魅了されないが、美しさだけでも目眩がしてくる。こらえられるのは黒白の魔界都市の化身に見慣れているおかげだ。

「ところで、なんでこいつらを踏み潰したんだ? 褒めてくれるんなら、褒美代わりにちょっと舌を滑らかにして欲しいもんだ」

 さりげなく仁王を前に出すが、妖姫は気が付いていながら笑っている。舐め切っているが、それが余裕だと言えるほどの差は頭頂のチャクラを持ってしても……まだまだ大きい。

 弱気になるなよ。

 これ以上は無い助力じゃ無いか。元々、こんな助太刀が無くても戦うつもりでいたんだ。びびるな。

「さて、この国でしばらく無為に過ごしていたからの。船には幾らでもよく香る血は蓄えてあるが、そろそろ新しいものも欲しくなった。それだけよ」

「それで自分の下僕を踏み潰したのか? いくらでもできるだろうに、わざわざ滅ぼさないあたりは慈悲深いご主人様だぜ」

 もちろん皮肉だが、妖姫の回答は俺の陳腐な皮肉の上を行った。

「ほう、お前もそう思うか。元々劉貴が勝手に増やしただけの下僕。どのように扱うかは私の勝手じゃが、このような者どもにも私を愉しませる仕事をさせてやるのは我ながら驚く程の深情けよ。誰ぞ、口の聞ける者はおるか!」

 実に楽しそうに笑って、妖姫は声を張り上げた。その命令に従い、胴の当たりで両断された兵士が血にまみれた喉を酷使した。

「こ……ここに……」

 妖姫は、その無惨極まる犠牲者に一言命じた。

「来やれ」

 主の命は絶対。それは吸血鬼の真実だ。しかし、己の手で両断した犠牲者に対して恥じる様子も無くむしろ楽しくて仕方が無いと言う声色で、来いと命じるか。

 そして、それに応えるか。

 両断された兵士は辛うじて無事な腕を使い、健気に妖姫へと這いずっていく。無惨な下僕の姿に妖姫は笑い、無惨な同胞の姿に、そして同様に蹂躙された己の姿を思い、吸血鬼達は怨嗟のうめきを堪えきれない。

 それを妖姫は咎めずに、むしろ万雷の拍手を受けるように胸を張っている。

 その足下にようやく兵士が辿り着いた時、彼女はその白い足を使って一歩下がった。兵士は無言で上を見上げ、何も言わない妖姫の意図を悟ったのか絶望的な表情になった。

 それを見返す妖姫の表情は、まるで花の香りを愉しむ清純な少女のようで、彼女はそのままもう一度這いずってくる兵士を待ち受けてから、もう一歩下がる。

 兵士は何も言わずに、無表情にまた這いずり始めた。その無表情が酷使された精神の限界に達した為か、それとも肉体に表情を作る余力さえ無くなったからなのかはわからない。

 そして、彼はもう一度辿り着いた。しかし、妖姫はもう下がらなかった。

 既に力は何も残っていないだろう兵士は上を見上げた。それが成し遂げた達成感も、妖姫の慈悲を受けた希望も感じさせないのは自分の運命を悟ったからだろうか。

 兵士の目が妖姫の顔を捉える寸前、主の死は兵士を踏みつけて地べたに叩きつけ、おもむろに踏み砕いた。

 トマトのようにあっさりと頭を砕かれた兵士は、吸血鬼であるにも関わらずそれ以上は動かなかった。彼は滅びたのだ。

「ほほ」

 美しく頤を逸らして、小さく笑った。それだけが兵士の命と献身の価値だった。一息の笑いの為に、命は消えた。

 俺には何も出来なかった。

 何をしようと、妖姫よりも側にいる兵士を痛めつけるからだ。それ以上に、雰囲気に呑み込まれて身動きがとれなかった。

「……あああああぁあっ!」

「ほう」 

 叫ぶ俺に、妖姫が目を向けた。だが、もう恐れなかった。

「私を前にしても動けるか。誇るがよい、それが出来る剛の者は二千年の生でもそうそう会えはしなかったぞ。夏でも、殷でも、周でも」

 呪縛じゃない。ただ、妖姫に呑まれていたのだ。筋肉は強張り、皮膚が総毛だっている。

 思考をも停止させて俺をあっさりと縛り上げた束縛の鎖だが、目の前で妖姫の繰り広げた遊びによって巻き起こった憤怒に砕け散る。その反動のままに、一気に妖姫に襲い掛かった。

 我ながら、よくもここまでと一挙に燃え上がった憤りを燃料にした疾走だが、一歩、また一歩と踏み込む度に大きくなる妖姫はただ笑って見ているだけだ。

「あの時の三流剣士がここまで化けるとはな。助けを借りてとはいえその輝き。ほんの百年ほど前に始めて見たが、同じものをこれ程早くに見られるとは思っていなかった。褒めてやろう」

 屍同然でのたうっている吸血鬼たちを躱し、一気に喉元に迫る。目前に迫り、ますます輝く美貌だがそれに囚われる事はなかった。

「いぃあっ!」

 仁王で喉を薙ぎ払い、ゼムリアの太刀で心臓を突く。妖姫はそれぞれの切っ先が肉体に紙一枚まで近づいても身動きはしなかった。だが、背後より何かが迫る。

「ぬがぁっ!?」 

 両肩に熱を感じ、何かに切られたと悟る。その拍子に切っ先はそれて妖姫には掠りもせずに空を切る。

「外れたのう」

 ぎ、と目の前で俺を笑う顔に歯噛みするが、もちろん相手は何一つとして通用は感じない。今一度と今度は近すぎる間合いに柄で一撃をと踏み込んだが、それは妖姫の背後より突如現れた獣によって遮られる。

 妖姫の全身をすっぽり覆うような影が、闇をさらに色濃くした。いったい何がと考えるよりも先に正体が目の前に現れたのだが、それはなんと一頭の大虎である。

 しかし、虎は空から降ってきたりはしない。さては騏鬼翁の作りだした妖獣かと身構えた俺の耳に、素っ頓狂の癖に妙に艶のある女の悲鳴が聞こえた。

「あ、あの時の化け物じゃあ!?」

 どこかで見たような女だった。波打った銀色の髪が豊かで、肉体は豊満そのものである。鋭い切れ長の瞳をした妖姫を除けば一番艶めいた美女だった。傍には、なんと袁紹とお付きらしい武将格二人がついている。

 思い出した、何進だ。

 どうやら、袁術の軍を追い掛けてきたらしい。そう言えば、袁紹と袁術の間にはあまりよくないものらしいな。これ幸いと付け込もうとしたのか。何進は巻き込まれたようなものか?

 それがあんな顔をする羽目になったのだから、不幸だな。
 盛大に引きつった何進の目線の先には、先ほど俺に一撃を食らわせた妖物がいる。彼女の言うように、一目で分かる程に真っ当では無い生き物だった。

 顔は虎、しかして身体は恐らく獅子。足はトカゲか鰐で、尾の代わりに蛇が生えているときたものだ。実にわかりやすい異形であり、袁紹達と率いる兵士達の注目を浴びてうっとうしく思ったのか威嚇の声で怯えさせている。

「混合獣か」

 いわゆるキメラだ。もちろん、何進の知っているそれとは別物なのだが区別が付いていないようだ。

 見た目でいえば恐ろしそうなだけ、鈍重なでくの坊としか言えない程度だが内側に秘めた力は恐ろしいものだろう。生物としてのバランスがめちゃくちゃなくせにどうして高空から無事に着地できるのか不思議だが、問題なのは魔獣の感情が激発しているのにあわせて音をたてている電撃だ。

 体の周りに可視の小さな稲光が不規則に瞬いている。電気ウナギは鰐でも感電死させるというが、鰐らしい足を持っているこいつはそれ以上の電撃を扱いそうだ。

 ち、と厄介な敵の登場に舌打ちする。さっきから俺の肩がじくじくと痛むが、これはどうやったのかさっぱりわからない。正体不明のそれを警戒している俺だったが、そんな間抜けを置いてけぼりにして事態は動いた。

「目障りじゃ」

 妖姫の腕が動き、無造作に蛇の鎌首を引き抜いたのである。

「ひぃいっ!?」

 悲鳴を上げたのが誰かは知らないが、誰もが妖姫の暴挙に目を見開いて細腕で大蛇を引き裂いた異様に気が付かなかった。そして、気が付かせないままに妖獣は苦痛とそれを上回る絶大な怒りをこめた咆哮を上げて妖姫を睨み付ける。

 騏鬼翁からは妖姫に対する服従はもちろん言い含められているのだろうが、それを良しとするには暴挙が過ぎた。全身から発する獣の殺意を至近で浴び、しかして妖姫は嘲るように笑うだけだ。

「獣風情が私の上に影を置き、耳を下劣な叫びで汚した。くびり殺されるのも当然とは思わぬか?」

 誰に語っているのか。俺にか、それとも獣を通して騏鬼翁にか。いずれにしても、獣自身は歯牙にもかけていない。それを理解したのか妖物は全身が闇の中では目が痛くなるほどのまばゆく輝いて電撃を纏う。

 全身から発したそれは、避ける様子の無い妖姫を襲い誰よりも白くきめ細やかな肌を貫いた。しかし、その輝きの中でも妖姫は嫋やかなまま笑っている。

 虚仮威しで無いのは、巻き込まれた兵士達を見れば一目瞭然だ。苦鳴を上げる事も出来ずに黒焦げになり、あるいはのたうち回っている。妖姫はそんな無惨な姿を見下ろして実にサディスティックな笑みを浮かべた。それだけでマゾは昇天しそうだ。

 彼女は笑みをそのまま、まるで愛猫を撫でるように繊手を差し伸べる。次の瞬間、俺の目には見えないような早業で妖獣の首は一回転していた。

「ほほ……騏鬼翁の作りだしたまがい物でも血の色は変わらぬと見える。しかし、卑しい獣の屍など側に置いておくのも不快よの」

 己の部下が差し向けた恐らくは彼女を守り俺を殺す為の獣を殺しておいて、ぬけぬけとそんな事を言う。つくづく、なんでこいつに騏鬼翁は仕えているのか。ああ、色気に迷ったのか。

「秀蘭よ、始末せい」

「はい」

 声は俺の背後からだった。俺の肩を切り裂いたのは、こいつだったのか。

 劉貴に仕置きをされたとは思えない健在ぶりの吸血鬼は、しずしずと言う感じで俺の横を通り過ぎる。手は出されなかったが、すれ違う瞬間にくれた一瞥には気が付かなかった未熟者への嘲りと想い人を手にかけた怨敵への憎悪の二つが、底なし沼のように深く深く篭められていた。

「さて、剣士よ。どうやら首尾よく劉貴を討ったらしいの」 

「賭けには勝ったぞ」

 間髪入れずに返したが、妖姫は笑うだけだ。それだけで周囲を囲んでいる袁紹配下の兵士達はもちろん、殺してくれと哀願しそうな目に遭っている吸血鬼達さえ陶然としていた。

「俺が劉貴を討てば、漢から手を引く。忘れちゃいるまいな」

「さぁて」

 嬲るようなかおをして笑っている。元々約束を果たすなんて思っていなかったから落胆はしないが、どうする。

「貴様風情に劉貴殿が討てるか。あの方が、お前を殺す機会が幾度あったと思っている。その度に見逃された三下がほざくな」 

 首尾よく妖獣の屍を消した秀蘭が俺に噛みつく。何をどうやったのか知らないが、兵士達が戦いていた。

「勝ちは勝ちだ。万に一つの偶然かも知れないが、卑怯な手段をとった訳でもない。差し出がましい真似をした女風情に咎められる謂われがあるか。ひっこんでろ!」

 吐き捨ててやる。巫山戯た真似をしたこの女に対して腹に据えかねているのは当然だ。血を吸われている事もあるし、この場でこいつこそ滅ぼしてやると愛刀達を握り直す。

 俺に痛烈に面罵された秀蘭だて、これじゃあ引っ込みがつく訳も無い。俺のものらしい血を滴らせた櫛を取り出し、互いに一触即発となったが、その空気を妖姫がかき回した。

「待て、秀蘭」

 憎悪も怒りも呑み込んで秀蘭が止まる。鉄の主従がそこにはいた。

「こやつが劉貴を討ったのは事実。賭けには勝ったのだからそれをまず果たさねばならんのぉ」 

「……なに?」

 信じがたい一言に、目が点になる。こいつ、本当に妖姫か? 騏鬼翁当たりが作ったダミーじゃなかろうな。

「姫」

 秀蘭が鉄にわずかな罅を入れる。しかし、それを妖姫は咎めない。寛大なのではなく尊大なのだ。

「こやつ、己に迫る櫛を悟りながらも私を斬る事に徹しおった。それで出来ず仕舞いは間が抜けておるが、そこそこの執念よな。それで劉貴を討ったとは健気よの」

 虚仮にされているとしか思えないし、実際そうだろう。

「それに、こんな国は元々私には何一つとして値打ちのない国よ。それを騏鬼翁が執着しておった故に好きにさせていたが、手を引く理由が出来た。このような国に関わるのも飽きた事だし、より私を愉しませる国を探すか、しばしの眠りに興じるとしようぞ」

 あれの無念を肴にして、と笑う。あのくそじじいの無念は俺も笑ってやりたいが、素直に頷くには相手の人間性が一つも信用できない。

「しかして、貴様は秀蘭に噛まれていたな」

 その顔を見た時に、俺はむしろ“そらきた”としか思わなかった。

「今は思念の力で誤魔化しているが、消えた訳ではない。それどころか、妙に深い。秀蘭、噛んだのは一度きりだな」

「はい」

「それにしては深い。既に三度は噛まれたようじゃ。何かがお前を我らの道に引きずり込もうとしているようだの……いや、何かが我らの血を求めているのか」

 その何か、はさすがに見ただけでは分からないようだが俺よりも詳しくこちらの状態を述べてくる。それは決して間違えてはいないだろう。求めている……やっぱり吸血鬼がらみなのは間違いないのか。

「秀蘭よ、噛んだそなたに心当たりはあるのか?」

「いいえ」 

 秀蘭の答えは短い。それは彼女の不満が面に発露したものだが、それを妖姫は咎めずにいた。気にとめないからだ。

「そういえばお前は以前にあった時、初対面からおかしな香りがしたのう。何故、私の匂いがするのか。最初は部屋の移り香かと思ったが、未だに香る。しかして他の誰も気が付くまい。私だからこそ気が付く。それはお前の内側から香る匂いよ」

「……何?」

 言われてみれば、そんな事を言われていたような気もする。もう随分前なのですっかり忘れていたが、確かにそれらしい事は言われていた。

 ……俺の中から香る妖姫の匂い。

 俺は女に取り憑かれている。

 ……まさか。

 まさか、まさか。

「冗談にしても、性質が悪すぎるぜ」

 鳥肌がたっている。

 我知らず総毛立った身体を抱き締めたくなった。自重するのに結構な気力が必要なくらいだ。

「心当たりがありそうじゃな、奇妙な男よ」 

 妖姫が面白そうにこちらを見てくる。俺の存在が彼女の好奇心をかき回しているのだ。どう考えても悪い結論しか出てこない。女の好奇心が男にとってろくでもない事を運んでくるのは世の常だが、この稀代の毒婦が相手では俺の手に余るのは正に自明の理だ。

「このつまらぬ国において、明らかにおかしい二人の男……その内の一人はどこから見てもつまらぬただの小僧でしかなかった。あれではそこらにただ放り投げておくだけで程なく儚い最期を遂げるだろう。だが、貴様は少しでも私を愉しませるだけの座興を興じてみせる事が出来るか?」

 私を愉しませろ。敵にそう言われて俄然、ファイトが湧いてきた。一寸の虫にも五分の魂という言葉がこの時代に既にあったかは知らないが、舐めるなと思うのは当たり前だろ。

「宴会芸は苦手でな。いつも壁の花がせいぜいさ」

 だいたい金髪美女が見かねて手を引いてくれるんで、それが楽しみでわざとそうしているんだがね。向こうも皆わかっているときた。

 帰りたい場所を思い出して、音もなく仁王を突きつける。秀蘭が一歩こちらに近付いてきたが、妖姫はそれを手一本で止めて笑った。

「秀蘭よ、ここは退け」 

「はい」

 驚いたのは俺だが、劉貴の為の怒りに身を焦がしていたはずの秀蘭は、鉄を再び焼き直して罅を消したのだろう低頭して言葉のままにする。

「そして騏鬼翁に命じよ。私につまらぬ獣を見せた罰として、この国の女どもを悉くここに連れてこい、とな。ほほ、劉貴を討たれたにも関わらず未だに現われぬ。さて、あの大猩々はどこで何を企んでいるのやら」

 恐らくだが、劉貴の所に行ったんだろう。秀蘭もいる事だし俺の相手は獣で充分と踏んだんだろうが、それがよりにもよって主の手で台無しにされるとはさすがに思うまい。いまけに、劉貴の所にはゼムリアと騏鬼翁への怒りに燃えるドクトル・ファウスタスがいるはずだ。

 今頃、盛大に吠え面かいているのかも知れないな。その上人さらいの命令までされた日には泣きっ面に蜂か。助平爺なだけにある意味褒美になるかも知れないが、それをさせない二人に期待しよう。

「なんでわざわざ女を集めたがる」

「なに、余興じゃ。お前が芸のないと広言するから私が余興の演目を考えてやったのよ。それよりも、秀蘭が逃げるぞ?」

「ちっ」

 俺が一番困るのが、秀蘭に手が届かなくなる事だ。逃げ回られるのが一番始末に悪い。それを見抜いて、こちらを八つ裂きにしたがっている秀蘭に逃亡させる。俺の焦慮と秀蘭の無念を両方愉しんでいやがる。

「おーっほほほほっ! そこのあなた方、どこの誰かは知りませんがそこの見苦しい化け物を退治した事は褒めてさしあげますわ! しかし、いい加減に目障りですの。この袁本初の行軍を邪魔するというのならば即刻排除する所ですが、今は先を急いでいますの。大人しく退くというのなら、命だけは助けてあげますわよ」

「ちょ、姫! あいつらどう考えてもやばいって!」

「そうですよ~……男の人はなんか光っているし、あの女の人なんか化け物を素手でくびり殺しちゃったじゃないですか~……関わらない方がいいですってぇ……」

 珍妙な三重奏が場の空気を粉みじんにした。さっきからこっちを見ていた袁紹とお付きが、間抜けなやり取りをしている。本物のズッコケトリオというやつを目の当たりに出来た俺は幸運なのかも知れない。

「小娘共」

 妖姫の声もまた穏やかだった。王朝を数多滅ぼしてきた女が怒るには、相手があまりに卑小すぎるのだ。

「その滑稽な姿に免じて見逃す。疾く、失せるがよい」

 彼女の声は穏やかではあるが、それは路傍の石にムキにならないのと同様の事でしかない。何かの拍子に砕け散るほど強く蹴り飛ばされてもおかしくはないという事だ。

 その“何かの拍子”を簡単に招きそうな妖姫の言葉だったが、振り返りながら口にしたのが功を奏したのか三人……正確に言えば袁紹も殊更に反発はしなかった。

 振り返った際に妖姫の顔を直視したのだろう、呆けるどころか能面さながらの無表情で凍りついている。外部から強い刺激でもなければ、そのまま死ぬまで固まっているかも知れない。

 同じ現象は兵士達や何進にも現われて、無数の軍勢はただ面を顕わにするだけで無意味な彫像の群れと化した。魔眼も静夜も使わない、ただ純粋な美貌の魔力、恐るべしと言ったところだろう。

「いけ、秀蘭」

 自分に見惚れて生ける石と化した数万人をつまらなそうに一瞥し、既に興味は失せたと妖姫は視線を返す。従者は俺への怒りに身を焦がし、俺を弄ぶ喜悦を瞳に浮かべながら一礼する。

「人に一撃くれて、そのままいなくなるのはつれなくないか? 返杯くらいは受けていけよ」

 彼女らに銃は通じない。

 脅しの道具にもならないだろう。素手か、仁王かを選択しながら滑るように秀蘭へと挑みかかる。

「ちい」

 舌打ちを隠せない。

 吸血鬼の娘は闇の向こうに影のように溶け込んで、そのままいずれかに去っていった。得物を叩きつけるどころか、追いつく事さえ出来なかった。

「ほほ。追い掛けぬのか、武芸者よ。劉貴を討った男も女を追うのは下手と見える」

「棒振りばかりにかまけてきた人生なんで」

 す、と切っ先は妖姫に向かう。

 今、従者はおらず妖姫は一人だけ。それでも無謀は無謀だが、なお挑まなければならない好機だった。

「そのような男も数多く相手にしてきた。己を高みへと導く為、他者をひれ伏させる力を得る為、討ち滅ぼす敵の為。武に生きがいを見つけて魂まで賭けても惜しくはないと嘯く男達はこれまでに幾百幾千と出会ってきた。何も知らぬ行きずりの男も、私の心臓に杭を打ち込む為に挑んできた男もいた」

 彼女の歩んできた道のりには、数えるのが馬鹿馬鹿しくなる屍が目をそむけずにはいられない惨たらしさで並んでいる。それを楽しげにあざけりながら、彼女は笑うのだ。

「そして、全てが私にひれ伏した。木石に手足が生えたような朴念仁も、私を悪鬼と罵り心臓を貫いてくれると大言壮語を吐いた豪傑も、私に跪いてこの身体に溺れぬ者は一人としていなかった」

 お前も同じだ、と目で告げてくる。確かにそれは事実だろうが、心底胸くそ悪い。

「そんなに女を自慢するなら、口説き上手の世慣れた男と遊べばいいだろう」

「女をとろかす為に生きるような男などつまらぬ。世の全てを知り尽くしたと豪語する知恵者、天地の理を己の物にしたと名乗る道士、そして克己の塊のような修行者を跪かせなければ何も面白くない」

 確かに、歯の浮くセリフを口にして女の股座を嘗め回すのが本懐という男を侍らせるよりも、そっちの方がよほど似合う。他人の生きがいや矜持を踏みにじってこその妖姫。生粋のサドなのだ。

「だから、この国の男は悉くつまらぬ。どれもこれも牙を抜かれた犬のような物、女の下風に立つ事が当たり前、媚びを売る事さえ躊躇いない。おまけに老犬ならば速やかに土に還る物を、いつまでもダラダラと生き続ける。醜態も極まっておるわ」

「腑抜けに生きる資格はないか」

「当たり前ではないか」

 まあ、そう言うのが生きながらえるのは相当豊かで発展した国の庇護下であってこそだろう。

「おおむね同感なんだが……誰より長く生きているあんたが言えたセリフじゃねぇよ」

 一歩踏み出す。切っ先の向こうで妖姫がにんまりと微笑んだ。

「では、お前が止めてみせるか? 未熟な武芸者よ」

「さあな。ただ、秀蘭を滅ぼすにはあんたを超えていかなきゃまずいって事だろう」

 のんびり話をしている時間はない。馬蹄の音もあちこちから聞こえてくる。既に秀蘭は戦場を荒らし回っているのだろう、仕事の早い事だ。

 だから……

「しいぃっ!」

 気勢を上げて仁王を振ると、風を巻いて白い喉元に迫るだが、目の前に真っ白い衣が広がり彼女の姿を隠した。

「ちいぃ!」

 その向こうから嘲る笑い声が聞こえてくる。声その物をたたき切るつもりで、第二の返し太刀を振るうがそれは布きれ一枚に防がれた。一体どういう仕組みか小鳥の羽よりも軽く手応えがない癖に、宙を舞う落ち葉を貫ける俺の突きを受け止めて撓りもしない。

 埒があかないと後ろに飛んで回り込もうとするが、その前に純白は消えてこの世で最も淫らで美しい舞台女優のように妖姫が現われる。

「私の衣を斬れた者は今だ三人しかおらぬ。そなたには不可能なようじゃの」

「ち……」

 言われて、かつてせつらに四千年で四人目だと言っていたのを思い出す。同時に結論を出さなかった可能性も思い出した。妖姫が未来の“新宿”に現われたのなら、俺は絶対に妖姫をここで滅ぼす事は出来ない?

「どうでもいいさ」

 妖姫と自分自身に応える。

 勝てようが勝てなかろうが、退くという選択肢がない以上挑む以外に何もない。

「ほう、よく言った。ならば、我が目を見てもそれがほざけるか試してみようぞ」

 どうやら、怒らせる事は出来たらしい。歯牙にもかけられなかった今までに比べれば随分な成長だが、危険性は跳ね上がった。次の瞬間に死んでいなければおかしいレベルだ。

 だが、彼女はわざわざ宣言してくれた。

 俺を引っかける事はあっても裏をかく事はあるまい。ある意味彼女を信用して、俺は赤く光る猫眼に備えた。

「……ほう」

 姫が笑った。こざかしい、と眼で言っている。

「見えぬな。木刀の向こうにお前が見えぬ」

 正眼を極めると、こうなるのだ。切っ先を正確に相手の目線に合わせる事で視界を埋め付くすこの業、眼を使う相手には殊の外よく効く。目と目を合わせなければならないのが大抵の術のセオリーだが、見えなければ合わせられない。

 ただ伝説のメデューサのように見られただけで、あるいは見ただけで石になると言うような相手には分が悪い事もあるのだが、妖姫の目には幸い通じたようだ。相手が規格外の塊なだけに不安だったのだがなんとかなった。

「なるほど、大した業だが得物の影に隠れるとは劉貴大将軍を討った男としては存外滑稽な腑抜けぶりぞ」

「……んだと」

「ほう? 怒ったか。意外と度量も小さいと見える」 

 挑発のつもりはないだろう。ただ人を虚仮にする事が楽しいのだ。

「その名前を出されて引っこんでいられるほど腑抜けのつもりはねぇよ」

「それでよい。このような詰まらぬ遊戯など暇つぶしにもならぬ。ただ退屈が増すばかりよ」 

 挑発を受けて、体内のチャクラがさらに勢いを増して回転する。全身を満たしている聖念が天空まで届かんとするほど輝き、地上に降臨した太陽さながらに天地を照らした。

「ぬうっ!?」

 その瞬間に俺は一気に姫へと斬りかかる。ずっと考えていた妖姫対策の一つ、この時代では出来ないとも思っていたが思わぬ所で実現の目処が付いた策の一つ。

 優れた五感を持っているからこそ耐えられない、聖念の輝きだ。当初はスタングレネードを想定していたが、ただの光よりも眼を灼くだろう!? 視神経を通して、脳髄まで焼け焦げやがれ!

「これで私が怯むと思うたか? 随分と甘く見られたものよ。その浅薄、高くつくぞ」

 白い袖が輝きの中心に伸びた。ぎしい、と嫌な音をたてて木刀を捉えたそれは妖姫のそれに他ならない。このまま俺を引きずるつもりなのか、ぐいとこめられた力はトン単位にしてどこまでいくのだろうか見当も付かないが、二千年先の未来で戦車を気軽に弾き飛ばした姿を俺は未だに忘れられない。

「何!?」

 初めて妖姫が驚いた。

 まさか、その木刀が自分の元に飛んでくるとは想像もしていなかったか? いいや、そんな愚鈍であるはずがない。引っ張られれば手を離すのが一つの定石だ。

 だが、突きさながらに一直線に飛びかかってくるとは考えていなかったか。勢いは紫電さながらで、念を纏った一刀は姫の豊かな双丘の狭間を突き刺した。喝采を上げていいなら、喉が張り裂けるほど叫んだ事だろう。

「これは糸か!?」

 妖姫は自分に突き刺さった木刀に苦悶の声さえ上げずに、むしろ平然とした態度で俺の仕掛けに注視していた。わかっちゃいたが、つくづく反則だな!

 心の中だけで悪態をつき、気合の声さえ惜しみながら手元に残った愛刀を腰だめに構えて妖姫を、彼女自身の足下にしゃがみ込んで見上げる。木刀が飛ぶほんの一瞬前、最善と考えたタイミングで豹のような低姿勢で駆け抜け、授けられたばかりの切り札を囮として辿り着いた位置だ。

 その一瞬を手に入れるために、木刀を宙に支えたのは妖姫が言ったようにかつて黒衣の魔人から酷評されていた糸だ。使えば死ぬ大道芸と揶揄されながらも懲りずにいてよかった。

 ほんの三ミクロン程度の妖糸擬きを支えとして木刀を囮にし、囚われてからは発条としてミサイルよろしく打ち出す。散々長話をしていたんだ、その程度の仕掛けはどうにかできる。

 光に紛れて行う策ともいえない杜撰な策だったが、相手の意識の隙を突くギリギリのタイミングを駆け抜ける綱渡りで、どうにかもくろみ通りの流れは作れた。

 歯を食いしばり、全身の念を仁王の切っ先に籠めてありったけの力で繰り出す。斜め下から蛇が鎌首を上げるような突きが妖姫の心臓をえぐった。間違いなく、白い布の奥の奥にある心臓目がけて仁王は一直線に進んでいったのだ。

 肉の感触、骨の感触、そして内臓の感触を通り過ぎて乾いた音をたてたのはゼムリアの木刀。木と木のぶつかる乾いた音が腕を通して体内に伝わる、慣れ親しんだそれが何よりの福音に聞こえてならない。

 まぎれもなく、妖姫の心臓を貫いた。

 会心の一刀だと胸を張って言える結果に興奮を隠せないまま、切っ先を初めて目で見ると、間違いなく妖姫の心臓を斜め下から貫いている。こんな事が俺にできるのか、できたのか。

 カズィクル・ベイに始まって、劉輝大将軍、そして妖姫。

 この三人相手に大金星、出来すぎどころか妄想か術をかけられているとしか思えないが、それで手を緩める程に呑気じゃない。このまま一気に念を込めて、心臓を劉貴のように封印してやる。

 その考えその物が呑気だと教えたのは、静かに仁王に添えられた白い腕だった。

「な……」

 驚いたせいで、一呼吸遅れた。気づけば頬に白い繊手は蛇の舌のようににじり寄って、俺の耳たぶを弄んでいる。

「光が消えたのう……さては、得物が揃っておらんと出来ないと見える」

 背筋が凍った。心臓を貫かれているはずの妖姫は、それを全く感じさせない平然とした声色で俺の耳を弄っている。

 心臓を木で貫かれていても問題ないってのか!? これで滅ぼせるとは思っちゃいないが、ダメージさえ感じさせないだと!? ふざけるな!

「いい顔になったのぅ」

 頭上から声が振ってくる。引きずられるように見上げた俺は、すぐ目の前で嘲笑を浮かべる古今東西で最も美しい女を見てしまった。

「るぅああああっ!」

 無意識レベルの条件反射で聖念を心臓に送り込むが、それでも妖姫の顔色さえ変える事は出来ない。それどころか、俺の醜態がおかしくてたまらないと高笑いまでしやがる。高らかに響く声に曇りが一点もない事が、彼女には全く何一つとて痛手がない事を突きつけてくる。

「ほほほ、健気な事じゃがそろそろ飽きたぞ、修行者よ。次の芸はないのか? なければそろそろお終いぞ」

 俺は“知識”の中で、戸山住宅の吸血鬼達が妖姫に杭を打ち込んだ事を知っていた。構築した螺旋の力を込めた杭が心臓に突き刺さり、それは確かに妖姫を苦悶させている。あるいはそのまま行けば妖姫を倒せたかもしれないが、のたうつ妖姫の官能的な肉体に獣欲を抑えきれなかった一人が螺旋を崩したが為に敗れたのだ。

 だからこそ、俺は仁王を妖姫に突き立てる事に勝機を抱いたのだが……重要なのは螺旋だったのか、それとも最初から無意味だったのか!?
いや、そんな風に考えていること自体が無意味だ。今、正に俺の命は妖姫の手に握られている。

「どうやら奇跡も品切れのよう。ならば、そろそろお前の中から感じる私の香り、何が理由か確かめさせてもらおうではないか」

 頬をいらう妖姫。このシチュエーションは、世の老若男女誰から見ても垂涎の的に違いない。だが、俺にしてみれば毒蛇に舌なめずりをされているよりも万倍性質が悪い事態だ。

 万事休す、という言葉が脳裏をかすめてやけになりそうになる。それを押しとどめて打開策を探ろうにも、この状況下で何をやっても妖姫の方が一歩どころか百歩は早い。いっその事、見境なく暴れてやろうか。

 破れかぶれの考えに衝動的に従い、ぎ、と歯を食いしばる。だが、それを許さないと言うように妖姫の瞳が赤く輝いた。催眠の力を持つ吸血鬼の猫眼だ。

 頭頂のチャクラ輝かぬ俺には、それを防ぐ手段がない。精神が一瞬で呪縛されるのをどこか夢見心地で自覚した。

「ぬ……? なんじゃ、何かが私の力を引きずっている」

 目の前で、妖姫がそう言っているのが分かる。だが、それがなんなのか分からない。聞こえているが脳に染みこまない。まるで理解でいない高等な理論を聴かされているようでもあり、俺自身が寝ぼけているだけにも思える。
ぼんやりとした脳みそで、どこかおかしいなと考える。てっきり妖姫の虜にでもされるのかと思ったのだ、夜香のように。だが、彼女に対する愛欲など全く湧いてこない。身動きできない、思考は鈍る、だがそれだけだ。

 吸血鬼の若大将が抗い切れなかった魅了に逆らえるとは思えない。単純に俺を縛っているだけが正解か。

「私の力をはね除けているでもない、逃げているのでもない、受け入れている……いや、貪っている? まるで砂が水を吸うよう……いいや、むしろ餓鬼が肉を貪るようじゃ。私の力を喰らうだと? 巫山戯た輩がこやつの中には巣くっているようだの」

 それにしても、どのくらい時間が経ったのだろう。この程度の思考でも、随分と時間を費やしたんじゃないだろうか。それくらいに今の俺は鈍い。ニューロンの間を通っている電気が思考ギリギリのラインにあるんだろうな。

「これが何か、こやつは知っているのかいないのか……恐らくは否。理解してはおるまい。一体どれほど長きにわたって住み着いていたかは知らぬが、どうやら隠れきってはいたよう……面白いが、これでは埒があかぬな」

 何を言っているのか、何をやっているのかが分からず、何よりも自分自身が何をしていいのか何をしたいのかもわからない。時間がどれだけ経過しているのかもわからない。

 ただ、これではいけないというのが分かる。

 今の状況は、よくない。はっきりとそう思ったわけでもないが、なんとなくそれらしい事を感じた。

 だが、それだけだった、

 意識がゴムでできた檻に閉じ込められているような、そんな何とも言えないもどかしさに精神は暴れ回り、しかして体は指一本だて動かせやしない。感覚は狂い、いったい自分がどんな格好をしているのか、どれだけこうしているのかもわからない。外界の情報はすべて欠ける事無く入ってくるが、それを脳みそが意味として受け止める事が出来ない。

「騏鬼翁を待つのも定石、しかしあの大猩々は性根の悪辣さに加えて意外と小心者。こやつの異常さを教えてやれば、喜々として切り刻んでしまうか。それは構わぬが、危険と称してひと思いに殺しかねん」

 それではつまらぬ、ああ、つまらぬ。

 ただの言葉が、何故かローレライの唄のように蠱惑的だ。 

「ならばどうしてくれるのが一番良いのか、いいや、一番楽しいのかのう」

 にい、と妖姫は笑う。この世で最も美しい人食い猫のようだ、とその時は思った。

「劉備とかいう小娘がいたの。あれは確か、気狂いの類。“みんなが幸福になるために”と叫んで兵を挙げたという。建前ならば聞くのも飽きたが、どうやら本音ではある。だが、気が付いておらぬのか。今攻め込んでいる董卓の元には、善政に口元を綻ばす者ばかり。即ち、劉備自身こそが世を乱す暴虐の化身。例え知らずにいたとしても、人を救う為に人を殺す矛盾をどう飲み込んでいるのやら。目をそらす卑怯者か? 気が付きもしない愚か者か? それとも、私の知らぬ答えを持っているのか。それを問うのも面白い」

 妖姫は、指を一本立てた。

「曹操という小娘もいる。大陸と民の為には己が国の頂点に立つ事が天命、覇道と称して憚らずに知と力で国を奪って見せると放言していると言う。己を差し置いて宮廷の中心に立った董某を認められずに、袁紹という小娘の挙兵に乗じて足を引いて成り代わろうと企んでいる。その様で民の為とは、何という恥知らず。その様で覇道とは、何という柔弱。だが、それでも己の道を信じる滑稽さは一見の価値くらいはあろう」

 妖姫は立てた指を更に増やした。

「そして、その董卓。世の為人の為と善政を敷きながら、魔王と囃し立てられる哀れな道化者。国家安寧を確かに行っていながらも、欲に溺れた愚か者にこぞって集られる姿は蟻と砂糖のようじゃ。餌として食いつかれ、あるいは魔王は正にこれから生まれるやも知れぬ。ほほ、あれが私の気を引くだけの男ぶりがあれば、抱いてやってもよかったが……あのような小娘ではその気にもならぬ。しかし、魔王への背中を押すだけならばやぶさかでもない。国を血の鍋に放り込んだ魔王、善政を行った能吏を悪鬼非道の魔王に貶めたのは、仁の道を叫び、民の為の覇道を叫ぶ小娘共。漢が滅んだ後、そう伝えられるのも一興ぞ」

 最後に三本目の指を立て、妖姫は俺の髪を漉いた。

「しかし、それは時間がかかる。私にとって、この程度の娯楽は時間をかけてまで愉しみたくはない。このような国には長居もしたくはない。わかるか、修行者よ。私はもっと栄えて、もっと平和で、もっと幸福な国に行きたいのよ。正に繁栄の絶頂にある王朝を滅ぼしたいのじゃ。最も惨めに、最も残酷に、そして何より最も滑稽に滅ぼしてしまいたいのじゃ。元より滅び、益荒男の一人もおらぬこの国に、長居するほどの魅力は感じぬ」

 この上なく美しい。だがそれ以上に恐ろしくおぞましい。呆けた頭で理解出来る、そんな笑顔が視界を被う。

「故に、今宵の内に全て滅ぼそう。この漢という王朝に、ここでトドメを刺そうではないか。元も滑稽で、最も無様に、この詰まらぬ国にせいぜい愉快な末路を辿ってもらおう。これから始まる、新たな旅を行く私の無聊を少しでも慰める為に」

 謡うような声が、耳を素通りしていく。それが幸いなのだと言う事さえ、この時の俺には全く分からなかったのだ。





 渡水複渡水

 
 看花還看花


 春風江上路


 不覚到君家




 何かが聞こえてくる。それがなんなのかはわからないが、どうしようもなく嫌な気分になった。

 何かが目の前に迫っている。あるいは、何かが背後で牙をむいている。明文化はできなかったが、そんな危機感を覚えた。

 これはなんだろうか。心地よさをくれるはずの波のようなものが震えているのに、どういうわけでだかここにいたくない、このままではいられないと走り出したくなる。

 何も考えられないわけではなく、しかし考えをまとめる事が出来ない。

 状況に加えて、そのせいで駆けまわったり叫びだしたり、とにかく何かをしたくてたまらない。だけれど、何をしていいのかが分からず何もする事が出来ない。

「これは……姫、座興が過ぎませぬかな。御身にそのような傷をつけたまま放置するなど」 

「遅かったの、騏鬼翁。そのくせ、この私に繰り言か?」

「申し訳ございませぬ。手間取りはしませんでしたが、なにぶんあちこちに散らばっておりましてな」

 どこからか、新しい声がした。呆けた顔のままそちらを見ると、白い髭が胸に付くほどに長く見える杖をついた老人がいた。皺と眉に埋もれそうな瞳の奥は明晰な知性の光が瞬いており、絵に描いたような仙人に見える。

 誰だったろうか、ひどく剣呑で不愉快な印象を受ける。だが、それだけで話は終わりだった。そいつが俺の顔を覗き込んで、どんな笑顔を向けようとも心が動かない。

「所詮はたかだか一介の武芸者気取りか。存外簡単に地を舐めたようで」

「そうだの。お前や秀蘭の背に土をつけた男とは思えなかった。随分とあっさり落ちたもの」

 ほほほ、と軽やかに笑う妖姫が誰を笑っているのかはわからないが、侮蔑も顕わに俺を見ていた爺さんが、凄まじい光を篭めた瞳を俺に向ける。最も、俺には何ら痛痒を感じさせることはなかった。

「それよりも騏鬼翁、私をこれ以上待たせるつもりか? 早く獲物を持ってくるがよい」

「仰せのままに」 

 恭しく、元々ひん曲がっている背骨をさらに尺取り虫さながらにへし曲げた老人が、手に持った杖で無造作に大地を叩くや、その場から何かがこんこんとわき出した。まるで昔話の泉を湧かせた仙人のようであり、成る程容姿とピタリではある。

 だが、俺の鼻腔は生臭い鉄の匂いを受け止めた。

 元よりそこら中に乱立している血の臭いだったが、それが急に臭気を増したのだ。理由は言うまでもない。老人のついた杖の先から湧き出たのは、渇きにあえぐ旅人の喉を潤した水ではない。

 吸血鬼の甘露、即ち人血だ。

 人血の泉は瞬く間に俺の目前にまで迫ってくる。濃厚な血の香りが鼻腔を直撃した。不快だった。元々そこら中に散乱していたバラバラ死体まがいの吸血鬼たちが即席の血の池に沈み込み、実にわかりやすい地獄絵図を描いている。

「ほう、秀蘭に噛まれていても血は好まぬか」

 女はにんまりと厭らしく笑った。

「時に騏鬼翁よ、こやつの中に何かいるのが分かるか」

「ほう」

 老人が俺を見詰める。眼差しに先ほどまでの侮蔑も憤怒もない。興味深げな、しかしまだ醒めた眼差しが注がれる。

「言われてみれば、確かに。しかし、別に珍しい話でもありますまい」

「知恵は回るが鼻は鈍いか、騏鬼翁」

 白い指が、俺を指し示す。

「この男……いや、この男の中に住まう何かは私の力を喰ったぞ」

「何ですと!?」

 それは、この怪異な老人にして驚嘆の事実のようだ。

「私の力をはね返すのも躱すのも等しく至難。だが、受け止めたものはおらず取り込んだものなど皆無。さて、こいつの中にいるのは何者だ? ふふ、つまらない国で初めて見つけた娯楽かもしれぬ。せいぜい楽しませてもらおうではないか」

 笑っている。本当に楽しそうだ。

「さて、それでは私の獲物は見せてやった。お前の獲物はどこにいる?」

「こちらに」

 もう一つ女の声が増えた。

 それが誰なのかを確認する間もなく、目の前に広がる血の池地獄が幾つもの瘤が間欠泉のように盛りあがった。それが何であるのかを鈍った脳みそで認識するよりも早く、正体は判明した。

 どさり、と盛り上がった血塊の分だけ柔らかい肉の潰れる音がした。

 悉く、何処かで見たような気がする女達だった。ただ、どこの誰だったのかまでは思い出せない。頭の中で繋がらない。数だけはやけに多いが、どうやら深い繋がりのある相手じゃなさそうだ、と漠然とした感想を胸に抱いた。

 全員意識を失っているようで、身動き一つしていない。まるで適当に放り出された売り物にならない魚のようだ。

「ふむ、数はまあまあといったところか」

「質までは保証しかねますがの。曹操、とか言いましたか。こやつらはどうも女同士でまぐわい乳繰りあう輩が多いらしく、純潔とは言い難い。血まで濁っておらねばよいのですが」

 騏鬼翁が笑ったのは、金色でぐるぐる回った髪をした殊更に小さい娘を中心とした一団だった。

「その時は、そこらに転がっている有象無象の餌にでもしてやればよかろう。確かに見るからに貧相で量も少なそうな輩、適当に大地に吸わせてもよい」

 それきり目もくれず、他の一団に目をやる。

「どれもこれも、若さに支えられた命だけは豊か。しかし、それだけの有象無象。味を愉しむよりも起こして遊ぶか」

 つまらなそうに、一人の女の髪を掴んで持ち上げた。う、と声を上げたので生きているのだろう。

 その女は、先に妖姫たちが名前を挙げた曹操とは何もかもが対照的だった。冗談のようにひん曲がった螺旋型の髪とは対照的な真っ直ぐな髪。

 貧しいボディラインとは対照的に豊満な肢体、共通しているのは気が強そうだという点だけだが、それも傲慢か傲然かと若干方向性が違う。


 そういえば、俺に真名を預けたかどうかも違うか。

「さて、それでも喉しめしはいる。下賤の血よりましとは言っても、どれもこれもよき糧、よき味とは思えぬのが残念なところよ」

 真っ白い喉が顕わになっていた。何をしようとしているのだろう。でも、なんだかまずい事が起こりそうだと思う。

 と、妖姫が動きを止めた。

「さすがに邪魔よの」

 その手が、胸元を刺し貫いたままの木刀にかかる。彼女は痛みを感じている様子も見せずに無造作に引き抜いて、ぽい、と転がした。

 乾いた音をたてて、それは目の前に転がってくる。

「剣士よ、出来るならば得物をつかみ取り今一度挑んでくるとよい。そのつもりがあるのなら、その気概があるのであれば、の」

「姫の目に縛られては到底叶いますまい」

 嘲笑をよそに、俺の目は転がってきた木刀に向けられていた。ころん、ころんと軽い音をたてるそれに妖魔悪鬼を打ち倒す力が秘められているとは、持ち主である俺でさえ信じられないような話だ。

「寝たままでは、面白くもない。そろそろ目を覚ますがよいわ」

 俺から興味を無くした妖姫が、意識をなくしている孫策に命じる。それだけで、彼女はまるで最初から起きていたようにぱちりと瞼を挙げて大きな瞳を覗かせた。

「え……?」

 目の前の妖姫に焦点があった途端に顔が赤くなる。情欲に染まった赤色だった。息は荒げ、手はいつの間にか豊かすぎる胸元を揉みしだいている。今が何処で、相手が誰だか分からずとも発情しているのは明白だった。妖姫の美貌は芸術品のそれとは違う。男は元より、女でさえも淫らがましい肉欲をかき立てられずにはいられないのだ。

「ふふ、まず何よりも私に劣情を抱くか? 浅ましい、何とも浅ましい雌よ」

「真に。この女でそれならば、向こうの小娘共は畜生のごとき姿を憚らずに天下に曝すでしょう」

 それこそ下劣な笑い声で空気を振わせる騏鬼翁、その背をぼんやりと見ながら俺は木刀を握った。

 それは何かを考えての行動ではない。

 猫の子が目の前で振られる紐に飛びかかるような、反射的な振る舞いに過ぎない。だが、その効果は絶大だった。

 妖姫という邪悪の極みとも言える大吸血鬼の心臓に突き刺さりながらもなお穢される事ない清浄なる聖念は、改めて俺を高みへと引き上げてその呪縛を見事に消し飛ばしてくれたのだ。

「何?」

「馬鹿な!?」

 ささやかなケアレスミスを見つけた学生程度に眉をひそめた妖姫と、驚きに皺だらけの顔を強ばらせた騏鬼翁がいやに対象的だったが、構わずに飛び出して左右の太刀を振り回す。

 散々訳の分からないおつむにしてくれやがって!

 羞恥心と怒りが胸にたぎる。頭が働いているんだかいないんだかよく分からない状態だったが、それは全て記憶に残っていたのだ。

「喝っ!」

 それぞれをそれぞれの敵手に振るい、あっさりと躱される。だがそれでも隙を作って雪蓮の襟を口で噛んで、猫の子のように救出する事には成功した。かなりみっともない声がしたが、まあこの際棚上げだろう。

 そのまま二転三転して、孫家一同が積み重なっている場所までどうにかこうにか後退する。俺自身も、そして今は足の間で恨みがましく睨んでくる雪蓮も全身が血に塗れた凄絶な姿だが……そんな事を今さら気にする余裕はない。何よりも、真っ赤で粘ついた液体は悉くがあっと言う間に消え去った。  

 身に纏わり付くそれが内在する力こそが仇となり、聖念は陽光を前にする霜のように血を消し去る。同時に、聖念に刺激されたのかあるいは血が消えたおかげなのか、次々と女達は呻き声を上げて立ち上がる。

「え……」

「どこよ、ここ。なんで洛陽の宮殿にいた私達が表にいるのよ!?」

 孫家の側にいた董卓、賈駆、華雄、呂布、陳宮、張遼がゆっくりと起き上がる。それぞれふらついていたが問題はなさそうだ。ただ、攫われた事で状況の把握が出来ずに混乱している。

「く……」 
「なんと、もしやここは汜水関か?」

 公孫賛と趙雲がふらふらしながら立ち上がる。確か撤退したはずだが、騏鬼翁か秀蘭か、こいつらの手は長い上に早いと来ている。

「これが雪蓮の言っていた怪異か……見ると聞くとは大違いだな。あっさりと捕まってしまうとは情けない」

「武官の儂らに対する皮肉か? まあ、二度も引っ掛かった策殿ほどではあるまいな」

 冥琳、祭、孫堅、甘寧、周泰、孫家の面々がそれぞれのたのたと起き上がる。

「華琳様!?  ご無事ですか! ええい、あの訳のわからん汚らわしい腕がもう一度現われるとは!?」

「う……何が起こったのかしら」

 曹操の配下もそれぞれに立ち上がり始める。曹操当人に夏候惇、夏候淵だったか? それに倒れたまんまの猫耳。他にも知らないのが随分いる。ざっと見て、子供じみたのが一人にトリオみたいなのが頭を抑えている。あれは、先ほど俺を睨み付けていた連中じゃないか?

「た、たたた! 何だよ、この頭痛!」

「わかんないよ、姉様。と言うか、静かにしてよ~……たんぽぽも頭痛い」

 二日酔いのおっさんじみた呑気で場違いなセリフを言っているのは、トンブ越しの映像のみで知っている馬超とよく似たもう少し幼い妹らしい少女だ。

「ぐ、く……動けん……」

「あ、頭が痛いのだ~」

 関羽、張飛、劉備、そして天の御遣いと子供が二人。彼らは揃いも揃って立ち上がれないでいる。どうやら武将二人は俺の与えたダメージのせいで、残りは純粋なひ弱さのおかげで立つ事もできないらしい。

 ったく、なんでこんなにいるんだよ。他はともかく孫家の面々が何でここにいる。ゼムリアやドクトルの守りを抜けてきたってのか?

「ひいぃっ!?」

「わっ!? は、離せよ、こんにゃろ!」

 悲鳴が聞こえてきた。

 見れば、輪から外れる形になっている袁紹達の背後から何者かが襲い掛かっている。後ろ手に取り押さえられて、あっさりと捕縛されていた。四人もいて何をやっているんだと言いたいが、特に情けなく見えるのは袁紹だ。

 彼女をそのまま小さくしたような子供に、馬上で力任せに取り押さえられているのである。どっかの張飛のような例もあるのでうかつな事は言えないのかも知れないが、正直絵面はみっともないものだった。

「え? み、美羽さん!?  あ、あなたはここに来て初めて顔を見せたかと思えば一体どういう言うつもりなんですの!?  ええい、お話しなさい!」

「そっちは汝南の腰巾着じゃないか! んなろ、いい度胸だ!」

 黒い髪の腰巾着と呼ばれたどこか胡散臭い雰囲気を漂わせた女は、両手で一人ずつ袁紹の側近を押さえ込んでいた。見るからに気の短そうな大きな剣を持っている方の女が力任せにそれをふりほどこうとしているが、びくともしない事に面食らっている。

「は? そ、そんな馬鹿な……あたしが力でこんな奴に」

「すこぉし、黙っていましょうね~……私は今、あなた達なんかに構っている暇はないんです。何よりも潰さなけりゃならない相手はそこにいるんで」

 視線が何処を向いているのかは言うまでもない。なるほど、あれが雪蓮の言う張勲とか言う最初の餌食か。こっちを殺したくてたまらないという顔で睨んでいやがる。

 吸血鬼が元に戻ったら、その時の記憶と想いがどうなるのか……そう言えば、知らなかったな。後々首をつりたくなるような事をしていなければいいけどな。

「見逃してやるから引っこんでろ」

 適当に言って放っておく。油断と言えばそれまでだが、目の前の格上を相手に余所に気を割いている余裕はない。ここで隙を突かれたら、その時はその時としか言えない。

「馬鹿にして……っ!」

「黙れ」

 そう言ったのは、俺ではなかった。

 満座の注目を集めたのは言わずもがな、妖姫である。彼女は周囲をただ見回した。つまらなさそうに、石か虫けらでも見るような目で辺りを見回して、そう言った。

 それだけで、世界が変わった。

 空気が変わり、風が変わり、そして女達と天の御遣いは悉くが妖姫に平伏した。例も形式も糞もなく、それぞれがその場で平伏したのだ。

 傲慢で尊大な曹操も、意識が明確ではないはずの劉備も、それぞれに仕える将達も、皆がまとめて妖姫の命に従い口を閉ざし、そして平伏した。馬も硬直し、その背中にいた面々は転げるように下馬している。

 妖姫が何かを意図したとは思えない、ただそこらでざわめく騒々しい女達が耳障りな声でがなるから、それを黙れと言っただけだろう。だが、誰もが石となった。それは元より仕える存在である騏鬼翁、そして吸血鬼達は元より武将達も誰一人として例外ではない。
決して美貌の力ではない。彼女らは妖姫をまだ見ていなかった。

 それでも何処の誰だか知らない一人の女が発した命令に、彼女達は従った。条件反射ではなく、ただそうなるべくしてなった、そう見えた。

 誰かが歯を食いしばる。曹操だ。跪いたところで意識が完全に戻ったのだろう、屈辱に身を焼いている般若のご面相だ。いったい何をどうやって育てばここまで、と言いたくなるような傲慢さを隠しもせずに表に出している小娘だ。今の心境は想像力が雀の涙ほどあれば察しはつく。

「修行者よ、随分と悪運が強いな」

「あんたらに出会っているんだ。むしろ稀に見る不幸だろ」

「ぬかしよる」

 自分に軽口をきく者がいるのが面白い、そんな顔だ。一見すると器が大きそうだが、ただの気まぐれでいつでも高慢さは顔を出すだろう。猫よりも、山の天気よりも気まぐれだ。

 さておき、言っている事は間違いじゃない。完全にただの偶然で正気を取り戻しただけだが、別にそれを恥じるつもりはない。偶然死ぬのも偶然生き残るのも、ありふれた話だ。

「っ!」

 誰かが息を呑む音が聞こえた。

 続いて、人数分から俺と騏鬼翁、雪蓮を除いた数だけ同じ音が聞こえてきた。見れば、誰も彼もが顔を上げて妖姫のかんばせを目にして硬直している。

 誰もが呆けて目を見開き、ある者は頬を桃色に染め上げて瞳は欲情に濁りきり、またある者は開きっぱなしの口から涎を垂れ流して浅ましく胸や股ぐらを弄くっている。醜い、浅ましい、無様。

 そんな言葉の見本市になっているが、姫本人はよくある事なのだろう気にもとめていない。呪いと呼ぶ事さえ烏滸がましい自分の官能的な魅力を充分に理解して、それを利用する事が楽しくて仕方がないのだ。

 聞いた話では曹操の下にいるのは本人を筆頭にして同性愛者が多いそうだが、そうでなくとも妖姫に欲情の眼差しを向けている。宗旨替えなど意識するまでも無いと言った風情だ。

 その場にいるだけで、空気に色がつき粘りが生じるような女だ、それもまた宜なるかな。影響が一番顕著だったのが、曹操とその一派、特に猫耳だ。口に出すのも恥ずかしいような無様で淫猥な振る舞いを、その幼い肢体で行っている。幼児の自慰狂いを見ているようで、いい加減に存在自体が人類の汚点に見える。

 確かあの猫耳、男の事を色の事しか考えていないだとかいう方向性で散々ののしっていたと思うが、もしかしなくても全部自分の事なのか? 少なくとも今現在、盛大にブーメランしている事は間違いないな。

 もう一人は天の御使いだった。

 彼は無様に股座をおったてて、発情期の獣そのものの顔で息を荒げ、涎を垂れ流して彼女を食い入るように見上げていた。狂犬病の犬を思い出すと一番わかりやすいだろうな。

 これは俺の勝手な想像、つまりは当てずっぽうだが、あいつは最近……こっちに来てから女を知ったんじゃないだろうか。劉備か、関羽か、それとも……まさか、張飛や孔明はないと思いたいところだが、ひょとしたら複数と言う事もありうるだろう。

 ともかく、そういう女を知ったばかりの盛り具合を連想させるのだ。そう言えば、きっちり天の御使いを名乗ったりと悪い方向だが一応一皮むけてはいるし、もしかしてそういうきっかけがあったのかもしれん。

 なんにせよ、俺にしてもそう昔の話じゃないので見ていて居た堪れない気分にさせてくれる上に、明らかに俺よりも盛り具合が上だ。

 武道に生きて、精神統一まできっちりと学んでいるからという違いだとはいまいち思えない。むしろ、あの野郎が女にかしずかれるような感じでご主人様呼ばわりされながらベタベタして、性交へのはまり具合がみっともない程に上だからだろう。

 言わずもがな、根拠など全くない僻みだ。初体験からこっち、相手との間に恋愛感情などないと言い切れる身の僻みである。

 それにしても、総じて見苦しいと言い切れるほどに無様だ。日ごろの大言壮語、あるいは綺麗ごとが声高すぎただけに受ける印象が顕著である。これが“歌舞伎町”のストリップショーで前列かぶりつきになっている学生だったらここまでの嫌悪を感じないだろう。

 と言うか、天の御使いを筆頭にこいつら誘惑に弱すぎないか? 克己って言葉をどこにやったのか、それこそ“新宿”の裏通りにたむろしているチンピラ並みだ。人目もはばからずに女を前にして下半身をあいさつ代わりでむき出しにするような連中と似た者同士とは、これで天下国家を豪語し救世を叫び、武人の誇り、識者の知恵を謳った連中かよ。

「つまらぬの」

 同じような事を俺以外にも感じた奴がいた。

 他でもない、妖姫だ。

 彼女は、よき王を暴君にする事を楽しむ。だが、ここに克己を持つ者は一人もいない。誰も彼もが風にあおられた蓑虫よりもあっさりと性の奈落に落ちている。遊び甲斐もないという彼女の傲慢な不満にうなずけなくもなかった。

「よもや、私が何をするまでもなくこうまであっさりと堕落の道を辿るとはさすがに想像もしなかった。まさか私がこれほど見事に出し抜かれるとはのう」

 凍るように冷たい眼差しは物理的な冷気さえも発して、視線を向けられた連中の吐息は白く濁りどれほど興奮して息を荒げているのかを如実に示す。 

 肌も青ざめてさえいるのに、彼らの興奮は消えず一種異様な雰囲気を醸し出している。それこそ幽鬼のようだ。

「時に騏鬼翁、秀蘭はどうしている?」

「既に姫の命は成し遂げましたので、今は劉貴を取り戻す為にかの剣士と魔道士に挑んでおります。なかなかに奮戦しておりますようで」

 なるほど、それでこうなったのか。あの二人を相手に一人で食い下がるとは凄いとは思うが、恋の力と素直に言うには甘さがきつすぎて腐臭となっていると感じる。

「そちらの方が見応えがありそうだ。そなたも加わり、盛り上げてくるがよい。確か二人とは因縁があったろう。随分と逃げ回っていた姿は面白かったぞ」

「姫、それは」

 屈辱に灼かれた騏鬼翁の顔が殊更に見たくも無いような恐ろしげなそれに変わる。

 咄嗟に伏しているが、もちろんそれで誤魔化せる相手ではない。ただ、それを愉しまれている事はあの爺ももちろんわかっているだろう。

「へえ、姑息な裏方が洛陽で虎をよこしてからこっち、なんだって手を出してこないのかと思ったが……あの二人に追っかけ回されて泣きながら逃げ回っていたって事か。夏の大妖科学者も形無しだな」

 ざまぁみろ、と自分で出来るかぎりにくったらしそうな顔を意識して作ると、騏鬼翁が伏せていた顔を勢いよく上げて、主にぶつけたい分までの憎しみを目一杯篭めて睨み付けてくる。いい気味だ、ついでにその勢いのせいで骨がおかしくなればもっといい気味だったのにな。

「図に乗るな、小僧! 借り物の力で粋がりよって、確かに凄まじき力だが、それがお前ごときで辿り着いた領域とは口が裂けても言わせんぞ」

「そんなこた、俺が一番承知しているさ。それよりも、今の俺は少なくともあんたにとっては脅威なんだな、性悪の大猩々」

「小僧がほざきよるわ」 
 老人が手にしている杖から奇妙な力を感じた。劉貴大将軍の秘技、魔気功の師匠は騏鬼翁だという。油断はできないが、その劉輝大将軍に、俺は確かに勝ったのだ。何を恐れる事があろうか。油断ではない、胸を張るべき時と自負が生まれる。
 姫にこそ通じなかったが、この頭頂のチャクラによる浄化された念の力で俺は無力ではなくなったのだから。

 一歩も退かないと決意を胸に静かに立ち上がる俺と騏鬼翁、二人の間に割り込んだのはそれが許されるたった一人だった。

「騏鬼翁よ、私は命じたぞ」

 姫の声は静かだが、騏鬼翁はその場に平伏した。俺の事など忘れ去ったようだが、当たり前と言えば当たり前だろう。彼女は主なのだから。

「行け、疾く早く」

「ははあっ!」

 そのまま言い訳の一つも許されず命に従うだけかと思われたが、思い直したように姫は更に命令を追加した。

「待て、その前に一つ付け加える」

「なんなりと」

 この隙に切りつけてやりたかったが、それを許されるような隙がなかった。ち、と舌打ちをしながらもやりとりに厭な予感という奴を感じた俺は、孫家と董家の連中を念で覆い隠すように囲んだ。ついでに、公孫賛と趙雲も近くにいたので枠に入れると、中の連中に聖念を使って喝を入れる。

「大概に色ぼけ頭を冷やしやがれ、てめぇら!」

 背中越しに、敢えて見ないように叫ぶと一同がようやく正気に戻る。後ろで何をしているのかまでは知らないし、殊更に知ろうとも思わないがかなり無様におたついている事だけは漏れ聞こえる悲鳴じみた怒声で察せられる。

 どうやら、正気を失って脳みそを蜜に漬け込まれていた時に事はそれなりに覚えているらしい。まあ、女として最悪の醜態だわな。もっとも、そんな事をいちいち気にしていられるような悠長な場合でもないし、こいつら普段から露出が激しすぎるんだから世間一般のまっとうな女性よりもよっぽどダメージは少ないだろう。

「騒いでいる暇があったらしゃんとしろ! どこにいるのか分かっているのか!」

 じれったさに声を荒げて前を見る。複数の様々な感情を込めた視線を向けてこられるが、ことごとくがマイナス方面だと言っておく。けっ。
 ちなみに、周囲の連中は俺の念壁の向こう側でいまだに盛っている。どうにか身形を整えた一同は冷えた頭でそこらを見回して顔を赤くする。自分自身の醜態を客観的に見ているのだから当然かもしれないが少しは時と場合をわきまえてほしいものだ。

 いらだちを腹の中で押しつぶしていると、面白そうに俺達を見ていた妖姫が改めて騏鬼翁に命じていた。彼女は意味ありげな視線を俺に一瞬だけくれると、特にどうと言う事も無い様子で命令を下した。

「こやつらの痴態を、全ての兵士に知らしめよ」

「はっ」

 騏鬼翁は破廉恥な命令にあっさりと頷いた。術士としての矜持がどれほどあるのか知らないが、こんなみっともない命令を即座に飲み込める当たり、姫への忠義は強いらしい。

「空にでも、大きく映してやるとよいわ。この浅ましく滑稽な有様を、こやつらを頭に頂く愚民共に拝ませてやるがよかろう。美しく、雄々しく大言壮語を繰り返していた口から劣情の喘ぎがこぼれ落ちる姿を兵士達の前に見せつけてやるがよかろう。こやつらの為に命を賭けている兵士にとっては、随分とささやかな報酬だがのぉ」

「真に、左様かと」

 どうしようもなくくだらない真似だが、同時にこいつらにとっては確かに致命的だろう。女としても公人としても、醜聞の極みだ。ついでに音声も入っていれば、これ以上はないお終いだ。さっきから、男の俺でも口にするのも憚られるような淫らがましいセリフを途絶える事なく口にしているからな。特に腐っているのが猫耳筆頭に曹操軍の連中だ。

「しからば」

 ぶん、と杖を振るう。それだけで事は済んだのか、騏鬼翁は自分の影の中に足下からずぶずぶと底なし沼に沈み込むように消えていく。

「いいいあっ!」

 その隙を狙い、行きがけの駄賃とばかりに一太刀真っ向唐竹割りをお見舞いするが一手遅かった。  

「ち……」

 舌打ちをすると同時に、遙か彼方からどよめきが聞こえてくる。

「あれ……私達が、空にいる?」

「あは……映っているの? お空に私達が映っているの?」

「あは、あははは、見られているんだ。見てるんだ、皆。皆、皆見られているんだ、うふふふふふ。皆が私達を見ているんだ。こんな事をしているの、見られているんだ」

 騏鬼翁は姫の命を完璧にこなした。

 天空をスクリーンにしてポルノ映像が大盤振る舞いされている。声のおまけもついて、実況生中継だ。映像は嫌になるほど鮮明で、一人一人の顔が夜空であるにも関わらず見分けがつくほどにハッキリとしている。あそこで光っているのは俺か、こうやって客観的に自分を見るのはどうにも落ち着かないが、男なんぞ背景にもならない。気にされていないならいいだろう。

 ああ、その中で妖姫が映っていないのは幸いか。映す対象が武将たちだから、彼女らとは距離がある妖姫は微妙にフレームからはみ出ているのだ。もしも妖姫が移っていれば、それだけで人事不省が兵数分だけ出来上がる事だろう。

「あははは、あははは。映っているんだ。私の浅ましい姿が、こんな姿が全土に知れ渡っているのかしら? あははは、あはははは!」

 曹操が涎を垂れ流して、淫売と言うよりも狂人の風体でけたたましい声を上げる。醜態をさらし、それでもなお己を慰める手を止められないどころかむしろ興奮の材料にしている。それは猫耳、夏候淵や劉備、関羽、袁紹達も同じだった。

「こんなのじゃ、覇道なんて無理、無理、無理。治世の能臣、乱世の奸雄? どっちも外れよ。今の私はただの淫売よ!」

「ふふ、うふふふ。曹操さんでもそうなるんですかぁ? じゃあ、私も同じになってもしょうがないですよね。ああ、そうだ。皆でこうなれば、きっと幸せで平和ですねぇ、あははは、これが理想の世界なんだぁ」 

 どこかから、絶望の声が聞こえた。

 どこかから、怒りの声がした。どちらも兵士達の声だった。彼ら彼女らに理想と希望を見出していた連中が失望と嘆きを燃料に精一杯叫んでいるのか。

 だが、聞こえているにも関わらずこいつらは怨嗟の声を興奮材料にしていやがる。

 どいつもこいつも、同じような事を口にして自分の目標も尊厳も地べたに叩きつけて泥塗れにする事に快楽を見出している。だが、根底にあるのは妖姫に対する欲情だ。その証拠に、片時たりとも妖姫から目を離していない。離せないのか、離す気が持てないのか。

 情けないと吐き捨てた。いかに相手が文字通りの傾国と言っても、彼女は何もせずにただ突っ立っているだけだ。吸血鬼の猫眼どころか媚態の一つも見せてはいない。なのに、この様か。本当に、何もせずに立っているだけの相手にこの様なのか。

「これでよくもあれだけ大きな事を言えたものだ」

 元々彼女らの主義主張に思い入れがあった訳でもないのでささやかな軽蔑で済んだ俺は、彼方で聞こえる怨嗟の声を発している諸々の兵士達に比べれば幸福だろう。

 彼らの怒り、裏切られた痛みは頂点に達しようとしている。ピークが来たときに起こるのが何なのかは想像力がない者でも分かりきっている話だ。そんなものに巻き込まれる前に、決着をつけなければならない。

 その意思を篭めて妖姫を見据えると、彼女もまた俺を見ていた。

 周囲に浅ましい欲に身を任せてやまない女達を控えさせていながらも、彼女の美しさは霞む事はない。それどころか、周囲の醜い連中さえも自分の美しさを更に際立たせる材料にして輝いている。

 それを前にして、俺はあくまでも平静を貫いていた。精神は凪のように静かだ。

「ふふ」

 彼女はいらうように笑い、おもむろに指を一本立てて胸元から一気に服を切り裂いた。理想的な裁断がなされたかのようで、まるで最初からそういう造りであったかのように彼女の衣裳は大胆に左右に分かれる。下から現われたのは、これ以上にないと断言するしかないこの世でもあの世でも比類ない、今後も決して現れる事がないと言い切れる最も美しい裸体だった。

 この世で最も素晴らしい出来のパーツが最上の黄金比で組み合わさって、それぞれを高めあっているとでも言えば、その素晴らしさの百万分の一でも表現できるかもしれない。彼女よりも細い女はみすぼらしいだけであり、彼女よりも肉付きのいい女はしまりがないだけである。全てにおいて最良の値を示しているのが妖姫だった。だというのに、芸術品に例えるつもりには決してなれない、他の何物にも例えがたい生々しい肉感があった。

 その上で肌は白蛇の鱗のように白く、髪は最も深い闇を切り取ったようであり、唇はそれこそ血のように赤い。

 なまめかしく秘所と乳房を隠す手足のなまめかしさは、もはや筆舌に尽くしがたい。周囲で盛っている猿どもは発情するどころかオーバーフローに凍りつき、肉片の有様になっている吸血鬼でさえ、怨嗟を止めて固まっている。 

 見よ、大地に転がる引きちぎれた顔面を。目玉一つになろうとも、その眼には劣情の色が表われ、口だけになろうとも恍惚の笑みを浮かべている。この世の知性ある存在の持つ劣情を全てさらけ出させる女がそこにいた。

「見えるか、剣士。私の肉体が。これが三つの王朝を滅ぼしつくした女ぞ。繁栄の限りを極めた王国を支配する王が悉く私の足元に縋り付き、抱いてくれと血涙を流した」

「…………」

 何も言えない。沈黙を選ぶしかない。

 俺の背後にいる全員の視界を二刀で遮り、彼女らを守りながら思念を精一杯に高める。チャクラは俺の要求に応えて宇宙よりエネルギーを取り込み、昇華させて全身に巡らせてくれる。

 だがそうやって高次に、神の領域にまで達しているかも知れない精神をもってしても耐えるだけが精一杯であった。能面のように無表情な自分が立っているのが空の上に見えるのがどこか滑稽に思える。

 そんな俺を見詰め、ふわりと羽のような動きで飛び上がった彼女は自分が滅ぼしたミュータントの屍の上に座り込む。飛び上がる姿は躍動感とは無縁であり、優雅さのみが感じられた。

 膝を組むその姿は一個の絵画のようでありつつも、芸術には決して出せない官能の風を嵐のように吹き上げてそこら中を見境なしに巻き込んでいく。

 いつからだろうか、怨嗟の叫びも嘆きの涙もすべて止まり、静寂が周囲を支配していた。妖姫の言葉を遮ってはならぬと世界が傅いたかのようだったし、俺はそうなんだろうと訳もなく確信を抱いた。

 全てが頭を垂れる。夏が頭を垂れて、猛暑が秋冬に変わったあの日の魔界都市のように。

 どくん、と心臓が鳴った。

「心臓が跳ねたの。だが、跳ね方が少し違う。お前の心は石のように固いままだ。私の力を吸いたがっている何かが、お前の中で動き始めたようだの」

 俺達の距離は、優に十メートル。それでも気が付くのか。吸血鬼だからか、妖姫だからか。いずれにしても心理状態を簡単に読まれている。

「ふふ、その克己は大した物だ。私の肌を見ても心が動いておらぬのはかつての王達と比べても見事。この小娘達など比較にもならぬ。内側でざわめいているものも既に身を隠そうとはしておらぬ、内外より板挟みにされてもなお耐えるのは褒めてつかわそう。しかし、決して感じておらぬ訳ではないな。今のお前はいわば、心を凍らせているようなもの。あえて“眼”を使わずに飴玉を転がすように魂を蕩かせてもよいが、時間が掛かりすぎては飽きるのも目に見えておる」

 そう言って、姫は目を閉じた。

 瞼が上がれば、即座に赤く輝いた瞳が俺を夜香のごとく捕らえるだろう。それに逆らうすべはない。このままここにいれば、俺は破滅だ。即座に振り返り後ろに並ぶ女達を惨殺するのか、あるいは姫の足元に縋り付いて無様に抱いてくれと哀願するのか。

 万事休す。

 使い古されたフレーズが、いつかどこかでそうしてきたように俺の足をつかむ。引きずられていく先は底なし沼か。

 駄目だ。

 それに引きずられてはならない。

 妖姫に対抗するように瞳を閉じて、チャクラに意識を集中する。目の前に敵がいようとも構わずに瞳を閉じる。チャクラが廻る自己の体内を、その流れに沿うように意識を駆け廻らせていく。

 最も下のチャクラから、最も上のチャクラまでが回転し、連動して力を発揮していく姿を、自分の腹の中だって言うのに客観的に見ているような気分だ。もう一人の小さな自分がいて、体内を旅している。そんな不可思議な気分になる。

 その小さな俺は、自分の肉と骨に向かって叫ぶのだ。

 まわれ、もっともっと強く、たくましく回れ。

 背骨の周りに蔦のように張り巡らされた気道、そこに咲く花のようなチャクラ。5つのそれに向かって妖姫に立ち向かえ、負けない力を絞り出せと叫んでいるのだ。

 それを支えるように、両手から力が伝わってくる。二本の木刀が俺のチャクラを全力で助けてくれているのだ。

 だから、応えろ。

「ああぁああぁあぁあああっ!」

 背骨の末端から天頂まで力が駆け抜ける。それに引きずられて声が出る。自分の口から出てきたとは思えないような、透明感のある叫びだった。

 俺の頭頂は輝きを増して周囲を照らし出す。

 俺の足に子供のように座り込んでいた雪蓮が、俺の顔を見て息を呑んだのが見えた。彼女の目には、俺はどう見えているのだろうか。正体不明の怪人だろうか、それとも仏のような救世の御手だろうか。

 彼女は俺の聖念の影響を最も側で受け、心身に影響が強く出ている。それは妖姫の支配からの脱却という形で現われた。彼女のみならず、孫家と董家のそれぞれは俺の生み出す思念の光を浴びて妖姫の魅了を受けずにいる。
 それでも妖姫は絶対の自信を持ってこちらを笑っている。彼女が信じているのは何だろうか。自分の力か、自分の美か。何も信じておらず、ただ奔放に振る舞っているだけなのかも知れない。その方が、それらしいような気がした。

「む……」

 妖姫が不快さに顔をしかめる。それが何故なのかは俺にも分かっていた。同じものに気が付いたからだ。

 突如ごう、と風が吹いた。

 突風は俺達の上を通り過ぎたようだったが、それだけでは済まなかった。

 妖姫がすっぽりと影に被われる。大岩が彼女を襲ったのだ。崖などない以上は人災でしかない。投石、とはどこの時代でも定法として戦場で活用されていたが、こんな大岩をぶん投げるような攻撃は近代ではすっかり無意味になり廃れている。ある意味新鮮なそれは、連合側から放たれてきた。

 狙いは妖姫ではなく曹操か劉備達だろう。彼女たちに対する失望がこういう形になったのか。妖姫はただ巻き込まれただけか。

「無粋な」

 その一言で、まるで虫でも払うように振られた腕が大岩を受け止める。技量なのか、それとも純粋に力なのかはわからないが人一人分もある岩は子供用の鞠のようにあっさりと受け止められる。妖姫は目を開けるのも惜しいと言わんばかりに煩わしそうだが、高速で落下してきた岩の秘めた運動エネルギーはt単位でも追いつくまい。それをいとも容易く受け止めるのはさすが吸血鬼の最上位と言うべきだろう。

 正気を保っていた面々が一斉に息を呑んだのが分かった。術だのなんだのよりもわかりやすかったらしく今更に畏怖している。

 妖姫はそんな周囲の目など歯牙にもかけずに大岩を放り出す。わざわざ俺を狙って投げるどころかあえて外して投げるあたり、どうしようもない根性の悪さは消えないらしい。

「ほう」 

 音より速く動いて岩を砕き、また戻る。岩が砕けて砂になる音は俺が雪蓮達の前に戻ってから聞こえてきた。幸いな事に、妖姫は今の隙に彼女らに手を出そうとしなかった。

 それにしても何がほう、なのか。別に驚くような動きでも速さでもないだろう。

「人のいい剣士よ。今しがた下敷きになろうとした者達は確かお前とは些少ながらも因縁のあった相手ではなかったか?」

「やっぱり狙ったのかよ。俺が見逃せばそれを笑うつもりだったのか? 二千年は生きている大吸血鬼がつまらない楽しみを見つけるじゃないか」

 こいつめ、わざとらしく劉備一行に目線をくれてから岩を投げやがった。息をするより簡単に嫌がらせを思いつきやがる、根性悪と散々せつらが悪態をついていたのも納得だよ。

「では、面白い楽しみを披露してもらおうか」

 悪罵に耳を貸さないどころかむしろ楽しそうに受け止めてから、彼女はそう言った。

 ゆっくりと、わざわざ見せつけるように開いた瞳の赤は俺がとっさに閉じた瞼の奥にある瞳を貫き、脳髄にまで達する。

 木刀で視界を遮る事はできなかった。それをやれば後ろにいる連中が餌食になる。あるはそれこそ正しい手段なのかもしれないが、俺はそれができなかった。

 見捨てるなんて、格好わりぃ。

 それだけを理由に俺は選択を失敗した。これがせつらだったら、あっさりと盾にしただろう。これが八頭だったら冷徹に足手まといを放置しただろうか。以前出会った毒蜘蛛の化身だったら、顔で泣きつつ腹の中で笑いながら切り捨てていただろう。

 ああ、駄目だな。あんな最低外道になりたかねぇや。これは、正しかろうが間違っていようが俺らしいのはこっちだと胸を張って言える選択だ。 

「さあ、さらけ出せ」

 どくん、と心臓……いいや、魂が跳ねた。

 秀蘭という吸血鬼に汚染された魂が、新たに注ぎ込まれた別種の毒に悶えたのだ。精一杯高めた思念が抵抗しているが、まるで猛火に曝されている際に被ったバケツ一杯の水のように頼りない。

 これが本気か。

 辛うじて正気を保ちながら、そんな言葉が脳みその中を浮かんでは消えていく。

 凄まじい力だった。見ただけで対象の魂を蹂躙する最悪の力。かつて吸血鬼の若頭領として君臨していた夜香を記憶も力もそのままに下僕とした力は、ひょっとしたらこれなのか。

 あるいはせつら最大の僥倖は、自身の魅力を持って彼を堕落させると、この力を封じると妖姫本人に選択させた事かも知れない。

 赤い瞳だけが意識の中に存在し、どんどんと縛られていく事がわかる。このまま俺は、姫の寵愛を求めて傅く屑と成り果てるのか。ツキヨノスイレンを誰かに恵んでもらえる万に一つの奇跡にすがって生きていくのか。

 それをどれほど疎んでも、覆す力が俺にはない。

 だが、俺になくても覆す力を持っている誰かはいる。

 それも、すぐ側に。

「おお!?」

 それはこの時代に来て初めて聞いた、妖姫の驚愕の叫びだった。

 呪縛は断ち切られ、俺を絡め取る寸前でいずこかへと溶けた霜のように消えていく。膝をついて大きく安堵の息をついた俺に、頼もしい声がかけられた。

「大丈夫か」

 憎いところで颯爽と現われる、ヒーローがそこにいた。







 その場で意識を失ってしまいたいというのが俺の本音だ。

 なにしろ、どうしようもなかったこの状況下で颯爽とゼムリアが参上してくれたのだ。そりゃあ、何もかも任せてぶっ倒れたいとくらいは思う。だが、これは俺の勝負だ。やるだけやったから、後は放り出しておしまいとはいかない。

「向こうは、今どうなっている」

 横に並んだ俺を見る目が、やせ我慢めと笑っていた。

「ドクトル・ファウスタスが気張っているよ、あの秀蘭だったか? 吸血鬼が取り返しに来た後で騏鬼翁の爺さんも追加できたけどな、むしろ爺さんのせいで張り切っちゃってな。秀蘭ってのは俺が追い返したけど、後はこっちに行けとさ」

「そりゃあ怖い」

 言っていて気が付いた。肩の力が抜けている。この男が現われた事で、力みすぎている自分にようやっと気が付いた。

「ほう、秀蘭を追い返したのか? 新たな剣士よ」

 目が黒真珠に戻った妖姫が感心しきりと言う顔をした。視線が一瞬だけゼムリア愛用の棒に注がれて戻る。それに対して、さすがはゼムリア。飄々とした態度を崩しはしない。

「女の子を虐めたなんてひどい奴と怒るかな」

「ほほ、秀蘭を童のように扱うか。お主の十倍も百倍も生きている秀蘭を、の」

 笑う妖姫に対して、ゼムリアはにやりと笑い返した。すると今度は眼を細める。楽しい訳ではなく、俺の頭頂に燦然としている思念の輝きが眩しい訳でもない。ただ、己の嘲笑を受けて笑い返したゼムリアが不快だったのだろう。

 証拠に、空気が変わった。

 それに呼応してゼムリアのチャクラも念を生み出す。その質は頭頂の更に上にまで到達しているのではないかとさえ思わせ、量は天空高くまで広がり確実に成層圏まで達している。

「さすが……」 

 感嘆の声しか出てこない。

 おまけに、彼の聖念は俺のそれと同調、共鳴して互いに強化し合い高めあっている。例えて言えば、お互いが一つのチャクラのようだ。

 ふと、思った。

 人体に備わったチャクラと同数、五人の念法者がこうなれば一体どれほどなんだろうと。

 少なくとも、二人揃えばどうなるかはここではっきりとした。

「面白い」

 妖姫が襲い掛かってくる。彼女の目が真っ赤に染まり、黒真珠から血玉に変わり俺達を見据えたが、その影響は聖念によって完璧に防がれた。

 妖姫の発散する妖気を鑑みれば、様子見ではなく確かに本気だと分かる。それをはじき返したのは正に快挙だ。

 これは、いけるか。 

 妖姫の力の中で特に厄介なのは、やはり美貌を筆頭とした魅了の力だ。昨日の味方があっさり敵になるどころか、自分自身さえも信じられなくなる。
長い生の間に手に入れた知識、技術、経験、そして吸血鬼としての圧倒的な再生能力と最新鋭の違法サイボーグでさえも歯牙にかけない身体能力。

 通常の敵なら何よりも恐ろしいはずのそう言った能力が二番手以降に落ちてしまう程に彼女の魅了は凄まじい効力を発揮する。相手が集団であればあるほど効力は加速度的に増していく、正に国を貶めて破壊する為に生まれてきたような女だとつくづく思う。

 だからこそ、最悪の力をきっちりと受け止める事が出来たのは大きい。できれば長老の孫にも見せて思いっきり自慢してやりたい。

 問題なのは、飛び道具のない俺に、この念の壁を越えて奴を攻撃する手段がない事、何よりも妖姫に通じる決定的な攻撃手段がない事だ。ここでうかつな事は出来ない、ここからは正に刹那の一瞬で勝負が決まる。

 しかし、俺には姫を殺す手段がない。

 降って湧いたこの巨大なチャンスだからこそ、俺は躊躇した。ここを逃せば先はないのに、どうしてもこの奔放な大吸血鬼を滅ぼす手段が見付からない。

 かつて“新宿”で妖姫達の来訪を予測した時から彼女らを滅ぼす為の手段を記憶と知識の中から探ってみたが、かんばしい結果は得られなかった。

 本人曰く、古のやり方でしか滅ぼせないと言っているが……所詮は自己申告で鵜呑みにするのは馬鹿の芸だ。

 他には、妖姫は死にたくなれば死ねるが、誰よりも生を謳歌している為に決して死なないとも聞いている。

 それを聞いた人形娘の言っていたらしい“死にたくても死ねない人で溢れかえっているのに、死にたければいつでも死ねるとは、あの姫が恨まれ疎まれるのも当然です”とは全くの正しい意見だ。

 そして実際に杭を打ち込まれようが真っ二つにされようがまるっきり死なない。眷属の劉貴でさえ杭も水も火も、そして妖糸や放射能さえものともしなかったのだから彼女自身の不死も推して知るべし。 

 せつらが未来において滅ぼした方法は、“戸山の長老”が刻み込んだ傷をドクターが直す振りをして最悪のタイミングで復活させて、最も痛烈な毒となるこれまたドクター・メフィスト謹製の吸血鬼化治療薬を飲ませた上で、妖糸を用いて首を落としたのだ。

 最大の肝は、半面が再度焼けただれた傷を露呈した際にせつらが告げた一言だった。

「二目と見られないね」

 せつらは決して手に入らない。愛した男のはっきりとした拒絶にそれを思い知らされた彼女は、初めて死にたいと願った。つまり三つの王朝を破滅させ、それぞれの王を始めとする数多の人々の慕情を弄んできた稀代の妖女は自らの恋に負けたのだ。

 で、俺にどうしろってんだ。

 一体どうやれば、彼女を絶望させられる。

「くっそ」

 決め手がない。かつて“新宿”で何度も味わった苛立ちが悪態となって出てくる。それを聞いた妖姫が笑った。

「私の眼を防いでいるのは褒めてやろう。だが、お前達には私を滅ぼす手がない。それはお前達が誰よりも理解しているようだな。未熟な剣士よ、お前が私を見る目に宿る畏れと苛立ち、実に心地よいぞ」

 未熟な剣士、とわざわざ俺だけに目をくれてやがる。どこまでも腹立たしい女だ。

「しかし、このまま見合っていてもどうにもなるまい? 私は千年先までもお前達を見つめ続けるが、その壁はどこまで保つ? それを試してやろうか」

 妖姫の分析は正しい。

 彼女と俺達は一件均衡しているが、実際には持久力が違いすぎる。全力疾走してようやく張り合っている俺らと鼻歌交じりのお散歩気分の妖姫だ。力を防いでいるのは確かだがパワーダウンしてしまえば壁を妖姫の力が貫くのは目に見えている。

 おまけに、こっちは常に壁を張り続けていなけりゃならないのだ。時間との勝負になれば負けは見えている。この上に制限時間付きとは泣けてくるぜ。

「……」

 このままじりじりと削り取られるよりは、斬りかかって活路を見出した方がいいか。そんな、普段だったら止めておけと呆れてしまうような選択肢が脳裏に浮かんだ時……妖姫の背後で、誰かが動いた。

 のっそりと、まるで肢体が無理やりに動き出したような動きで妖姫を囲んでいた内の誰かが立ち上がったのだ。

「! 俺達の念の影響か」

 姫の魅了と、俺達の聖念。鬩ぎ合う力は周囲の曹操達にも例外なく降り注いだ。双方に精神をそれぞれの方向性で刺激された結果、妖姫の美貌に刺激され劣情の塊となり身動きさえもとれないほど精神を打ち据えられた彼女らの中で、立ち上がる力を取り戻した誰かがいたらしい。 

 それは白い人影だった。

 男だ。

 となると一人しかいない、天の御使いだろう。

 まさか、あの男が妖姫の呪縛を振り切ったのか? 当てずっぽうだが、ただの“区外”の高校生男子にすぎないような奴が!? そんな事があり得るのかと仰天しつつも、ここで気概を見せるとは大した物だと感心したのだが……

 立ち上がった姿は、全くもって見るも無惨なものだった。

 まず、目が異常なほど血走り、鼻の孔は劣情で開きつつ涎も垂れ流す。息は荒く、発情期の猿でもこうまで浅ましくはなるまいと言い切れるほどの無様さであり、元々はそれなりに女受けしそうな面構えであったが今となっては逆に仇となったと言わんばかりに醜さが強調されている。

 全身が、地べたをはい回ったせいか俺がかつて地べたに転がした時よりも土まみれになっており、彼の名声の象徴である学生服がまた無残な事になっているが、本当に無残なのは下半身の方である。

 男の象徴がズボン越しに存在を主張しており、さらには股間を中心にべっとりと濡れている。匂いから察するに失禁したのではなく別の理由でそうなっているようだ。今もあ、だのう、だのと言いながらびくびくと震えている姿が実に見苦しい。これはぶん殴っても普通に警察から感謝状を贈られるだろう。

「ひ、ひひひいっ」

 天の御使いというよりも、頭の中身がお空に昇ってしまった輩に成り果てた男が、泡を吹きながら奇声を上げる。目が妖姫しか見えていない。ここまで欲情の虜になった輩は“新宿”で猛威を振るっていた時でさえも見た事は無いが、“区外”の餓鬼は皆こんなものなのだろうか。

「うひぃあぁっ!」

 何をしようかというのが考えなくても分かるような眼で妖姫を見ていた北郷が、彼をゴミよりも百倍はつまらない物を見る目で見返す妖姫に飛びかかろうとした。が、それに待ったをかける手が彼の肩を掴んだ。

 ぐしゃり、と腕を捻り上げて顔面から地べたに叩きつけられる北郷だったが、彼はそれでも動じずに……と言うよりも、全く気がついてさえもいないようで壊れたおもちゃのように妖姫に向かって這い寄ろうとして、空しく畳水練をやっている。

 彼を砂を噛ませたのは、関羽だった。

 彼女もまた、妖姫しか見えていない。

 服は彼女自身によって乱されて女としての部位を露出させているが、それを気にかけた様子もなく妖姫に熱い欲情の眼差しを向けている。涎を唇の端から垂れ流している姿は、本来凜々しい美女と言ってもいいはずの彼女が一欠片も存在せず、かと言って今の彼女が扇情的だとも言えない。

 少なくとも、俺にはとてもそうは見えなかった。むしろ、汚い、醜いと言う印象しか持てない。

 彼女にとって北郷がどういう相手なのか明確には分からないが、忠義の対象であり、ひょっとすれば恋慕の対象でもあったのかも知れない。それをたたき伏せて欲情に瞳を濁らせる彼女は、武人としても女としても最悪だった。

「愛紗、北郷殿……っ!」

 見れる程度に身なりをどうにか整えた趙雲が、悲痛な声を上げて彼女らを見ていた。隣では、公孫賛が劉備に声をかけて必死に目を覚ませと言っていたが、彼女の声は最初から届いてはいなかった。

 旧知の二人が見ている前で、関羽は妖姫に北郷の焼き増しのように飛びかかろうとしたが、両足に子供のような二人がしがみついた挙げ句、後ろからしがみついた劉備がのし掛かる。彼女がそれを全て振り払おうとした時、横を擦り抜けながら張飛が甲高い奇声を上げる。その足を掴んだのは北郷だったが、張飛の蹴りが顔面を捕らえて前歯を砕かれていた。

 その反対側では、曹操達も醜く争い始めていた。北郷が皮切りとなり、俺らが背後に庇っている孫家と董卓達を除いて一気に妖姫に向かって劣情をぶつけようと肉に飢えた狂犬のように走りだしたのだ。

 だが、犬は餌を求めて走る事はあっても群れの仲間内で足の引っ張り合いなどはしない。その点で、彼女らは明らかに犬以下だろう。

 関羽と同時に立ち上がったのは曹操だったが、彼女は猫耳に飛びかかられてあっさりと地べたを舐める羽目になる。その彼女らをまとめて踏みつけて走りだしたのは夏候惇だったが、肩に音をたてて突き刺さった矢が、足を強制的に止めさせた。

 弓を持っているのは、片目を髪で隠した女だった。確か夏侯淵と言ったかな? 二人は何か血縁だったような気がしたが、血走った目でにらみ合っている姿にはそれらしさが全く感じられない。 

 その彼女らの横では、傷だらけの女が水着にしか見えない格好の時と場をわきまえない女、メガネをかけた妙なところから垂れているおさげ髪の女とつかみ合っている。こいつらは、さっき劉貴との勝負を見物していた中にいた。てっきり秀蘭の子飼いかと思ったら、曹操の部下だったのか?

 それにしても彼女らは誰もが身内同士、仲間同士で殺し合っているように見えるが、お互いを見ている表情、実際に争いあっている姿も手加減も躊躇いも全く感じられない。こいつらの繋がりがどういった物で、どれだけの強さがあったのかは知らないが、全く無意味かつ無価値に貶められている。

 彼ら彼女らの求める物は妖姫の寵愛だけであり、友情なり愛情なりで結ばれた関係であったはずのお互いは、殺してしまいたいほどに邪魔な競争相手に変わっている。共に目標に向かっていた相手は、その夢だの友情だのという口にするには恥ずかしくも胸には秘めていたい物と一緒に肉欲の波に浚われて消えてしまった。

 それぞれがそれぞれに胸に期する様々な物を持って戦場に立ったのではないのかと思うが、彼女らはそれが美女の裸体一つに劣る物だとはっきり証明してしまった。

 そんな彼女らは妖姫を中心に円を描くように陣形を作って争っているが、誰一人も妖姫の元にはたどり着けてはいない。傾国の美女を中心として半径三メートルは、まるで結界でも張られているかのように歪な円を作って血の一滴さえも彼女には届いていない。

「まるで、こいつら自身の縮図だな」

「……どういう意味よ」

 混乱に巻き込まれて手も足も出ない。自分を巡る争いを優雅に眺めている妖姫に歯がみしている俺の漏らした独り言に、雪蓮が反応した。

「あさましく餌に集り、しかし目の前にある餌には互いに足を引っ張り合っているから誰もたどり着けない。そこに美女じゃなくて董卓と皇帝でも置けば、そのままだろう。あれこれとご大層な大義名分の看板を掲げても、仁君だの天の御遣いだのと盛大に自画自賛をしても、本当の所はこんな物なんだろうな」

 こいつら、結局最終的にはお互いに出し抜き合おうとして自滅したんじゃないのか?

 そういうIFも口にすると、雪蓮だけではなく冥琳含めて大体の人間が柳眉を顰める。そんな上手い話があったら苦労はしない、と端的にそれだけ言われた。

 そうは言うが、妖姫が少しばかり興が乗ったような顔をして見下ろしている連中には、所詮その程度としか見られない。

 とうとう光り物を取り出した関羽が馬超と得物を突きつけ合い、丁々発止とやり合っている。張飛は曹操の所の子供染みた二人と互いに足の引っ張り合いをして転がり、地面に指の跡をつけながら顔面を蹴り合って鼻血を流している。

 そんな彼女らの足下では、二人の最年少者が散々に踏みつけられ、蹴り上げられ、それでも爛々とした目を妖姫に向けて離さない。

 劉備と北郷は互いにつかみ合い押しのけ合い、とうとう掌を昆虫標本のように剣で地面に固定された北郷が残った腕で劉備の足を捕まえ、噛みついて行かせるまいとしている。

 袁紹と何進、その部下の二名も互いに争っているようだが、彼女らはまとめて曹操の配下達の争いに吹っ飛ばされた。

 その曹操の部下達はもはや殺し合いの域にまで達しており、彼女らの足の下では個人的な戦闘力では劣っているのだろう猫耳が巻き込まれた形で蹴られ、踏まれ、ピンボールのような有様を見せている。それは先ほどの劉備軍の子供達が受けた仕打ちの正確な再現だったが、彼女の目は一際異様な輝きをもって妖姫に固定されている。どれだけ蹴られようと踏まれようと一瞬も目を離そうとしない執念深さは、妖姫の虜となっている面々の中でも一際だろう。彼女と同じような目にあっている曹操など、もはや見向きもしていない。

 彼女達のこの有様は彼女達自身がそうであったからなのか、それとも妖姫がそうなるように仕向けたのか。俺には分からないし、正直勝手にやっていろと言う程度だった。

 見苦しくはあるが、心を痛めるほどのつながりはない。一部はむしろざまあ見ろと言ってやりたいくらいだ。

 だが、こんな光景を見ていて良しとはできない。

 あれこれと理屈をどう並べようとも関係がないくらいに、目の前に広がる光景が嫌だった。主君と仰いだはずの相手を踏みつけて濁った眼で傾国の美女に群がろうとしている彼女らの姿が嫌だった。

 それはむしろ、汚物に向ける嫌悪感に似ていた。俺にとって彼女らは、そこまで落ちたのだ。

「ゼムリア、後を頼む」

 限度を超えた俺は、とうとう一歩を踏み出した。姫がそんな俺を見て笑った。子供が壊れても構わないおもちゃを弄ぶ時の顔に似ていた。背筋に奔るのは何処か甘く冷たい戦慄だった。

「あの女はどうにか出来るのか?」

 彼が俺に向ける眼差しに篭められているのは、純粋な疑問だった。この稀代の念法者は妖姫の不死身ぶりを知らないはずだが、その恐ろしさを感じとったのだろうか。

「あの女は正真正銘の不死身だ。苦手な物、嫌いな物は数多いかも知れないが弱点って物は一つもない。たった一つ、本人が死にたくなったらいつでも死ねるらしい」 

「そりゃ、確かに弱点とは言えないな。反則なのは見た目だけじゃないって事か」

「随分と詳しいの、そなた何者じゃ」

 俺達の会話を聞いて、妖姫が割り込んでくる。

「思えば、最初からお前はどこか私を知っている風だった。そして、随分と訳知り顔に私の事を語る。あるいは、騏鬼翁も、劉貴、秀蘭の誰をも見知っているのか」

 とうとう踏み込んできた。

「あるいは、この国に来る前に私を遠目に見たのか。そうではないな。この不浄の大地に足を踏み入れる前に出会っている、それは確かのようだがそれだけではないだろう。詳しすぎる。まるで我らと幾度となく争っているかのよう。しかし、私はもちろん他の誰もそなたの事を知らない。これはおかしいの」

 無言で一対の得物を構えた。彼女の推理にかまけている暇はない、その隙に念を少しでも練っておく。壁を作って消耗した分を回復させなければならない。

 妖姫もまた、俺にはお構いなしに語り続ける。互いに互いを相手にしながらも無視するというおかしなシチュエーションが出来上がった。

「……お前は未来から来たのだな」

 断定する。可能性ではなく、彼女は自分の導き出した結論が間違えていると考えてもいないかのように答えを出した。俺の背中に一斉に女達の視線が突き刺さるが、そんな事はどうでもいい。

 突拍子のないはずの正解に辿り着いた彼女の頭脳を褒め称える代わりに、否定も肯定もなく大上段に斬りつけた。

「答えを返さぬとは無粋な事よ」

 俺は剣士だ。

 あるいは、武術家とでも言えるかも知れない。

 呼び方は何であれ、つまりは剣を振ったり拳を握ったりする事に心血注いできたような男だと言う事だ。

 だが、拷問のような鍛錬を経た俺の歪な手が繰り出した一太刀は、白魚のようなと言う程度の表現では追いつかない美しすぎる繊手にあっさりと受け止められた。

「吻っ!」

 もちろん、その程度で今さら驚きはしない。むしろこいつを喰らった方が驚いただろう。相手は妖姫なのだから、俺は動じずに次の太刀を繰り出す。

「先ほどと同じよの。私の肉体を貫かせるのは一度でたくさん。さて、そろそろ応えてみよ」

 こちらも同様に受け止められた。至極あっさりと、まるで落ち葉を受け止めるかのようにだ。しかし、相手の両手は封じた。このまま一瞬でも時間があれば、俺は蹴りの一つも出せただろう。如来活殺とジルガを混合させた自己流の蹴りは“新宿”の妖物も滅ぼせる。

 だが、通じる通じないどころか蹴りを出すよりも先に、俺は妖姫に吹き飛ばされていた。左右の手に捕まえた木刀ごと、ぐるりと無造作にひねられてミキサーに放り込まれたようにぐるぐると何十回転も回されて地べたに落ちる。
 足下に人形のように転がり、平衡感覚なんぞあっさりとかき回されてゲロを吐く事も出来ねぇ。これは技なのか力なのかさえもわからない。木刀を放さないのは失敗なんだろうが、放せばチャクラが動きを止める。

 ここで頭頂のチャクラにこだわるのは馬鹿だろうか。そうかもしれないし、そうでないかも知れない。どちらにしても今さらの話でしかない。

「ぐ……」

 内臓がかき回されたような不快感に怖気が奔る。全身の感覚が滅茶苦茶になっているのは、そこに脳も加わっているせいか。おかげで自分が地面に触れているざりざりとした感触しか分からなかったが、そこにもう一つ加わった。

 後頭部に重みを感じる。

 同時に柔らかさも感じた。

 妖姫が俺を踏んでいるのだと直感した。

「無礼な事、私の問いに答えられぬか」

「そういうのは、下僕にやれよ」

 こんな真似をされて立たずにいられるはずがない。

 ぎり、と歯を食いしばって立ち上がる。恥ずかしい程に拙く、とても武術を学んだとは言えないようなどうしようもない不格好さで立ち上がり、鼻で笑ってやる。すると、妖姫の目が冷夏の涼しさを見せ始めた。

 “新宿”での頃から、俺と彼女は相性の悪さを証明するかのように会話の度に険悪になる。せつらの方がよっぽど舐めた言動をしているというのに、何故だ。

 顔か。

 深く納得した俺は、せいぜい小憎らしく見えるように振る舞ってやろうと胸を張る。女に好かれないキャラクターなのはこっちに来てからも常々思い知っているので、要するに普通にやってれば妖姫への嫌がらせにはなるだろう。

「もっとも、下僕なんざ願い下げだがな。こちとら大の男なんだ、人の頭を踏んで喜ぶようなろくでもない女にへいこらするのはゴメンだね」

「よく言った」

 冷夏から真冬へと一瞬で変化する。機嫌というのは誰でも簡単に急直下するが、急上昇は稀だ。この心身全てが稀な女でも同様らしい。

 視界が急に暗くなり、顔面に凄まじい圧力がかけられた。

「この私に罵声を浴びせた者は星の数ほどおる。だが、生きている者は一人もおらぬ。何故かは分かっていよう?」

「自己批判のない女が、堪え性もないからだろう」

 念と身につけた武術の秘技で必死に頭蓋骨を強化するが、ミシミシと今にも割れてしまいそうな音をたてている。これが、嫋やかな手弱女の極地にしか見えない女の繊手によって捕まれているからだとは俺自身が信じられん。

「私は好きな場所で、好きなように生きる。堪えるなど、今まで歩んできた二千年の間に考えた事も無い話。好きに歌い、好きに交わり、好きに眠り、好きに吸う」

 正に歌うような語り口調で、女は笑った。ぐい、と大の男を持ち上げて自分の前に引き寄せる。誰よりも美しい女の顔が目の前に現われた。

 その典雅な面には、己の容貌に対する絶対の自負が当たり前として輝いていた。

「そして、好きに殺す」

 俺を捕まえているのは左手だった。

 そして今、右手が振りかぶられるのが指の隙間から見える。ゆっくりと、見せつける為だろうか殊更に遅く繊手は掲げられた。

「お前はこの国で出会った最初の男。女とそれ以外しかいないこの国で、我らが初めて出会った男。故に生かしておいたが、そこに新たな一人が現れた。お前よりもずっと強く、もっと面白い男」

 赤い瞳がゼムリアを見る。

「ぬうっ!?」

 それを受け、ゼムリアが苦痛の声をあげた。彼に何が起こったのかは見えなくてもわかる。俺も同じ目に合っているからだ。俺の全身は既に真っ赤に染まっていた。余波だけでこれでは、直撃を受けたゼムリアの痛苦はどれほどなのか。

 しかして、背後に女を背負う男はその場からは一歩も動かず。耐える彼を見た吸血鬼の赤い瞳の中に、強く雄々しい男を嬲るサディストの快楽が光りだした。

「見事。私の目で見つめられて血に染まりながらも、膝さえつかず揺るがなかった男はおらぬ。実に面白い。私に命をつかまれているこの男は、この国では非凡なれど夏でも殷でも周でも、少し珍しい程度。だが、お前はどこの国でも、いいやこの二千年の間で見たこともないような男。比肩しうるはおそらく劉貴以外にはいるまい」

「そいつはあの吸血鬼を倒したぞ」

「お前の力を借りてな。貸した者と借りた者、どちらが大きな力を持っているかは一目瞭然よ。お前はその身にどれだけの宝を隠している?」

 妖姫はゼムリアに淫靡その物の笑みをぶつけて、彼を誘う。

「それに、風聞でしか知らぬもう一人がいたな。聞けば大層美しい男だとも聞く。そして騏鬼翁に劣らぬ妖の術理を操るそうではないか。なかなかに面白そうで心が騒ぐぞ」

 目を細めるかんばせに毅然とした眼差しを崩さない稀代の念法使いは、おもむろに身構える。彼は確かに俺に“待っていろ”と告げた。

 冗談、尻ぬぐいなんてさせるかよ。

 ふがいない我が身に感じた憤りがチャクラに力を与える。聖念が更に輝きを増して周囲を照らし出しているのが分かる。

「いつまでもだらだらとあがくか。他に無聊を慰める何もなければ藻掻く有様を見て笑ってもよいが、今は目の前にもっと楽しめる遊びがある」

 当然、妖姫にもそれは伝わっているが構いやしない。他に出来る事は何もないんだからな。

 至近で聖念を浴びようとも眉一つ動かさない怪物に、何を出来るというのか。何が通じるというのか。わかるか、そんなもん。

 ただ、何もしないでいられやしねぇだけだ。

「ルアアアッ!」

 殊更に無意味な大声を上げて、逆手に持った二刀を目の前の妖姫に向けて突く。首を落とす、それしか思いつきやしなかった。いや、思いついてもいない。

 ただ、衝動の命じるままに得物をぶん回したに過ぎない。

 それでも、俺の最後の力を振り絞りありったけの念を篭めた一閃ではあった。二本の木刀はそれ自体が内側から輝いて、いかなる妖物とて滅ぼさずにおくものかと聖念が唸っている。

 だが、それは妖姫の眼差し一つに敗北した。

 無言のままで赤く輝いた魔の瞳は、一睨みで俺を失血死寸前にまで追い詰めた。全身を被っているはずの聖念は、その力を間違いなく発揮していてもなお追いつけない。

「身の丈に合わぬ力を授けられ、それに酔った愚か者の末路よ。魔天の園で泣き叫んで後悔するがよい」

 つまらなそうに伸ばされた腕は、俺の心臓を真っ直ぐに狙っていた。ゆっくりと、それが俺の心臓をえぐり出そうとした寸前……俺の中から何かが抜けていった。

 痛烈な痛みを伴った。失血のあまり失いかけた意識には強烈な活となったが、もちろん感謝する気にはなれない。例えて言えば、虫歯を引っこ抜かれたような気分だ。麻酔なしでな。

「ぐああああっ!?」

 苦痛は声となって喉から溢れた。

 それを先駆けとして何かが俺の中から現われようとしている。

 腹の底から、まるで急流を上る鯉のように俺の中を駆け上がってくる。それはさながら登竜門か。だが、苦痛を先がけにして登ってくるような奴がどんな竜になるというのか。

 そして、俺には分かる。

 先ほど俺の中から抜けていったもの。それは体内から抜けていったのではなく、もっと違う深いところから食いちぎられたのだ。

 さっきからこいつが喰い漁っていたもの。

 妖姫の力を喰い、俺の魂から引きちぎって餌としたもの。それは間違いなく秀蘭から牙を通して送り込まれた吸血鬼の呪いに他ならない。何故なら、涙に滲んだ視界の隅に見える俺の手首からは、うじゃけた二つの傷が消えている! ならば、このどんな拷問よりもおぞましく強烈な痛みを感じさせるこれは魂を傷つけられた痛みか。

 これから生まれ変わる鯉が、悪竜以外の何になると言うのだ。

「ぎいいっ!?」

 悲鳴を上げている俺の後ろで、もう一人の俺は周囲の気温が一斉に下がったのを感じた。まるで、冬のようだ。これと同じ事がどこかであった気がした。

 今もなお一瞬も止まる事なく登り続ける鯉は、俺の心身に残る吸血鬼のありとあらゆる力を貪欲に喰い漁りながら登り続ける。

 その道すがらにチャクラから生まれる聖念を次々と打ち破っていく。あおりを受けて傷つくチャクラに、このままでは頭頂のチャクラどころか念法その物を二度と使えなくなると危機感を感じたが急に鯉は違う流れに乗った。
このまま俺の頭頂を目指すと思っていたが、急に行き先を直角に変えて横に動き出す。どんどんと大きくなっていくそれは俺に体内を蹂躙される苦痛を与え、妖姫の腕に捕まっていなければ身も世もなくのたうち回るほどだった。

 そんな俺を見て、吸血鬼は笑う。

 生まれ出ようとしている何かに対する期待し、そして痛みと苦しみに悶える俺の姿を愉しんでいた。 

 歯を折れんばかりに食いしばり、今にも腹を食い破って現れようとしている何かを必死に押しとどめようとするが、お構いなしに怪物は現われようとしている。唐突に、往年の名作SFホラーを思い出した。

 敵性外宇宙生物の代名詞ともなったあれは、確か人に寄生して腹を食い破ったのではなかったか。現実に同じ事が起ころうとしている。よりにもよって俺にだ。

「くそ、ったれがぁ」

 体内を蹂躙しているそれがなんなのか、既に当たりをつけていた。

 最悪の事態が目の前に迫っていると否応なしに突きつけてくる。それをどうしても防がなければと藻掻くが為す術はない。そんな俺をあざ笑い、妖姫は拘束を緩めた。“何か”が生まれる前に、苗床となった俺に死なれてはつまらない、そんな考えだろう。

 その何かが俺の腹より、今現われようとしている。一体どれほどおぞましい怪物が現われるかと妖姫は期待に目を輝かせていた。

「な、に?」

 その期待は叶えられた。

 現われたのは、紛れもなく古今東西の歴史全てを紐解いても五本の指に入るのは間違いないと断言できるどうしようもない程に邪悪な怪物だった。

 しかし、いかなる怪物だとてこの妖姫を仰天させる事など適うだろうか。例え神話において世界を崩壊させた怪物が現れたとしても、彼女は傲岸不遜な態度を崩すまい。なら、今現れたのはいったい何者だ。

「私…だと?」

 怪物は美しかった。

 あまりにも美しい化け物だった。

 俺の腹から染み出るように現れたそれは、黒く長い髪を風に流して白皙の美貌は世に比肩する何者もいないと誰もが断言するほどのもの。

 そして、今しも驚きに満ちている妖姫とは鏡映しのように瓜二つの者。

 即ち、今一人の妖姫である。

 それはどこか陽炎のように薄く、かすかに体の向こう側が透けて見えるが間違いなく妖姫であった。

 それが、俺の腹からゆっくりと煙のように這い出ながら己と瓜二つの妖姫をどこか挑発するように見上げている。

 その眼を受けて、妖姫から驚きは消えて同質量の怒りがわいて出る。それは苦痛に焼かれる俺でさえも凍りつきかねない恐ろしいものだった。

「よもやこのようなものが湧いて出るとはな。初めて出会った際に感じられた匂い、これの物であったか」

 何の話をしているのか、俺はもう覚えていないが妖姫は彼女にとっての初対面の折には既に何らかの兆候を感じていたらしい。

 それにしても、なんていう構図だろうか。

 全く同じ絶世の美女が二人、一人は硝子作りのように透けて血塗れで苦しんでいる男の腹から生えている。まともな感性ではとても拝めない。見ているだけで気が狂うだろう。

 現われた幻の妖姫は、じわじわとにじみ出るように俺の腹から姿を現している。本性が透けて見えるような嫌らしい現われ方だった。

 そして、妖姫はそれをただ待ち続けている。手を出すような真似は、矜持に賭けて許せないと言うところか。赤い瞳は内面の業火を見せつけるようにして燃やしているが、手は出さない。感情に呼応して発している妖気だけで死にそうになるが、ぎりぎり致命傷寸前の所で生きていられるのは、俺の腹からぬめりを感じさせる動きでじわじわと実体化している妖姫が発散されている姫の気を喰っているからだ。

「あさましい事よ」

 侮蔑を篭めつつも、苛立ちは消えない。そんな彼女の前で、とうとう今一人の大吸血鬼は全てを顕わにした。

 軽い音をたてて、優雅に今一人の妖姫は大地に降りた。正座のような姿勢で妖姫の前に座る姿は主と臣下のようだったが、その臣下はすぐに立ち上がり目線を主と同じ高さに持っていくという非礼を行った。

 俺はうめき声をあげながら、どうにか両者から距離をとる。幸いと言うのかなんというのか、腹部に穴の開いたような痕跡はない。やはり、彼女は実体を持たない霊的な存在なのだろう。

「おお……」

 誰かが、いや誰もがそんな意味もなせない呻き声を上げていた。

 俺という壁が避けた事で目に入る二人の妖姫は、彼らのただでさえ蕩けた脳に刺激が強すぎたのだろう。再び彼女らは石のように固まり、滑稽な彫像となる。

 だが、決して静かにはならなかった。

 遙か彼方から、俺達を挟み込むように人の足音と馬蹄の響きが迫っているのだ。

「まさか……」

「軍が動いたのだろう。彼女らの無様さを、裏切りを許せない兵士達が攻めてきている。それに呼応した我らの兵も殺到してくるはずだ。ここは中心となる、我々ではひとたまりもないぞ」

 俺が予想していたスタンピードはやはり起こったらしい。この集団ヒステリーは名前の売れている奴を特に狙って蹂躙するだろうが、同時に俺のような全く関係なくとも八つ当たり、あるいは見境なしに襲い掛かってくるんだろうな。

 いずれにしても、数の暴力にはひとたまりもないと言う冥琳の意見には賛成だ。しかし、同時に杞憂になるとも思った。

 例え兵士達が億人いようとも、そこにいるだけで無意味に出来る次元違いが目の前にいるからだ。俺には彼らが、いやもはや誰もが二人の妖姫の対面を見守る観客にしか見えなかった。

 相対する傾城は互いに表情はなく氷のようである。しかし、幻の妖姫ならばともかくもう一人は内面には溶岩のように煮えたぎるものをハッキリと映し出している。その迫力たるや、虎どころか大妖物さえも腹を見せて従順になるに違いない。

 それをさらりと受け流すのもまた、己の娯楽の為に三つの王朝を滅ぼした大吸血鬼。凄愴なる鬼気を受けても眉一筋とて動きはしない。五つのチャクラが稼働している俺でさえ、至近では骨まで凍りつくのをどうにか堪えるだけのとてつもない力の応酬だ。先ほどまでは舞台で演じる側だったのに、あっと言う間に観客席に落とされてしまった。

「おい、大丈夫か」

 声をかけてきたのは、額に汗をかいたゼムリアだった。距離をとった際にいつの間にか彼らの側にまで来ていたのか。それさえ気が付かない身を恥じる他ない。

「さすがのあんたも、冷や汗を禁じ得ないか」

「そっちは血塗れだろうが。足も声も震えてんぞ。いや、それよりも何がどうなった。なんで同じ女が二人いる」

 やせ我慢は事実を前にコテンパンにされるが、幸いにも誤魔化す為のネタはあったので飛びつく。

「あれは俺に取り憑いていた妖姫の腕だ。巣くっていた、寄生していた? 正確なところはどうだか知らんが、大体の意味は分かったろ」

「……それが育ったってのか?」

「強力すぎる再生機能が暴走したのかも知れんがな」

 仮定仮定ですまないが、俺には勝手に想像するしか出来ない。

 あれはおそらく、俺を“殺した”妖姫の腕だ。俺の腹を貫き、せつらに切り落とされたそれがどうなったのかと思っていたが、滅びもせずに体内に残っていたらしい。それを核に、俺を汚染した秀蘭や妖姫の力を喰って幻の肉体を更生するまでになったのが、あれじゃないのか。 

 妖姫と、そしてドクトル・ファウスタスの言葉を思い返しながら自分なりに噛み砕いた結果導き出した結論だが、正解かどうかは自信がない。

「それがどうして睨み合っている」

「自分が目の前に現われたんだ。大抵は殺したくなるものじゃないか?」

 俺の言葉に、ゼムリアがよくわからないと顔に書く。彼のような好漢は兎も角、自分が目の前に現われて受け入れられるような人格は少ないと思う。

 ましてや、心が広いとは到底思えないような女じゃこうなるのは自明の理だろう。しかし、あの幻の妖姫は果たして何を考えているのか。いや、そもそも考える事ができるのだろうか。

 俺の推測が当たっていれば、腕を核にしている以上脳は存在しないはずだ。あるいは、あの無表情は心がないからと言うだけかも知れない。れば、はず、かもばかりで情けないが、あの妖姫は何らかの刺激がなければ千年先まで彫像のように立ち尽くすだけではないのか。

 だが、一糸まとわぬ裸体だからこそ全く見分けがつかないこの二人が出会えばさっきから繰り返しているように衝突は必至だ。そこで何が起こるのかなど想像もつかないが、ただ事でない事は確かだ。

 いったいどうなる。

 二千年先の妖姫と言えど、元は右腕一本。それが完全なる妖姫とどこまでやりあえる。あるいは、食い尽くされて妖姫に新たな力を与えるのではないのかと言う危惧も生まれた。

 二千年先の妖姫を一部とはいえ取り込む……悪夢だな。

 ぞっとしない未来、だが為す術はない。これは俺の出る幕じゃないと対峙する両者がはっきりと主張していた。決闘に横から手を出すような真似は男の振る舞いじゃなかった。

 降り注ぐ月の光そのもののような静寂の中で、両者はさながら鏡写しのように手を上げた。それは右腕だった。

 あの時、俺を貫いていたのは右だったろうか、左だったろうか。右のような気もするし、左だったような気もする。よく覚えてはいなかったが、振り上げた腕が右であるのならやはり右腕なのだろうか。

 双方は無表情を貫きながら、全く同じ動作で無造作に腕を突き出した。動作も、速さも、タイミングも、狙った箇所も全て同じ。

 向かい合った二人の妖姫は、互いの心臓をえぐり取ろうとした。

 奇妙な芸術のようだった。

 周囲にあるのは先ほどまで淫欲に耽り、次いで暴力によって仲間同士身内同士の血みどろの争いを繰り返してきた女達の血と泥に塗れた姿。

 そして足下にはまるで敷き詰めているかのように広がる、バラバラにされた吸血鬼達の無惨な姿。

 その中心に汚れ一つない白い裸体を惜しげも無く天下に見せつける、全く同じ顔と身体をした二人の傾国。

 醜く、あさましく、恐ろしい円の中心に向かい合う至高の美女が二人。全てが彼女達の為の引き立て役と化している。世界が醜いが故に彼女達の美しさが際だっていた。

 この倒錯的な芸術を目の当たりにして、俺は美に打たれた。一瞬以上、意識が空白になっていたと後になってから気が付いたほどだ。

 そして俺は、二人が腕を振りかぶってから思い出していた。

 俺は実際に見ていない劉貴大将軍の最後。

 それは、正に四千年を仕えてきた姫その人に心臓を貫かれたからではなかったか。

 彼女は嘯いていた事がなかったか。

 自分の腕は、不死者を滅ぼす杭と同じ効力を発揮すると。

 妖姫が、妖姫を滅ぼす。

 そこには、一体何が起こる!?

 結局、俺は身動きがとれなかった。それは何も出来なかったからなのかもしれないが、そうするべきだと思っていただけなのかも知れない。

 妖姫を倒すとか滅ぼすという理由ではなく、時を超えて邂逅した同じ存在が殺しあう……その結末を見たかったのかも知れない。

 そして、二人は全く同じ瞬間に相手の心臓を貫き、己の心臓を貫かれた。

「同じ、か」

 妖姫は笑った。

 豊満な乳房を抉られながらも、それに痛痒を感じているようには見えない。目の前の今一人の自分を、そして天下万物の全てを嘲り笑っていた。

「どこから拾ってきたのか知らぬがこの紛い物と私を同じに見るか、剣士よ。やはり凡愚は目が見えていても、実のところは何も見えておらぬ」

 俺の心が読めていたとしても不思議じゃない女は、どこまでも悠然としている。胸を貫かれていようとも、それは変わらない。対して、今一人の幻の妖姫はどうか。

 幻の胸にも同じように繊手は突きこまれている。しかし、相手は幻。実際にどういった存在であるのかは不明だが、およそ実体がないという事だけは察しがつく。

 影に単純な物理攻撃を与えても意味はない。水面に石を投げるようにとは使い古された言葉だろう。それは百も承知か、実体を持たない女は無表情ながらもうっすらと優越感を感じさせた。

 彼女の胸は波紋のようなものを波立たせて、今一人の自分の腕を呑み込んでいた。突き刺さっているのではなく、受け入れているのだ。それでいながら、自分の腕は相手にきっちりと突き刺さっている。何という理不尽か。

 かたや、胸を刺されようとも平然としている女。

 かたや、己には刺さらず相手を刺せる女。

 どちらも理不尽であり、どちらも魔人であった。

「なんて……美しい……」 

 誰かがそう言った。

 年若い少女の声だった。誰のものかは分からないしどうでもよかったが、その言葉にはうなずけた。

 確かに美しい。ここに神も悪魔も……誰にも描く事の出来ない、見る者を狂わせ破滅させる狂気の芸術が一つ完成したと思った。

「!」

 完成したのであれば、後は壊れるだけだ。

 その瞬間を、自分がどうして感じとったのかはさっぱりわからない。しかし、幻の妖姫の身には確かに滅びが訪れていた。

 一見は静かなままだった。

 前兆も変化もなかった、しかしそれでも何故だか俺には幻の妖姫が滅びに足をつかまれていると感じた。俺だけではないらしく、思わず振り向いた先にある面々の幾人かは俺と同じ顔色をしていた。

 ただ、何故だろうか。

 その滅びがもっと大きな“何か”にまで広まったような気もした。

「滅べ、紛い物よ。私の腕よりただ幻というだけで逃れる事などできぬ。影に変わる術者も、夢に変わる剣士も、今までに私の心臓に杭を打ち込みに来なかったと思うたか?」

 かつて、影斬護士と言う怪物の話を聞いた。

 念法と同じ夜狩省の狩り人であり、斬鬼護士という不死身の殺戮者でも手が出せなかった影の妖魔を滅ぼす為に生み出された怪人だという。それを生み出した秘術は中国より伝えられたものだった。

 ならば、妖姫が知っていたとしても不思議ではないか。

 あるいは、戦った事があったとしても。そして、彼らでも適わなかったからこそ吸血鬼は生を謳歌し続けている。

「さて、剣士よ」

 妖姫が、心臓に腕を突き刺したまま俺を見た。

「お前の隠していたものはこれで終わった。座興に過ぎぬが、それなりに愉しませてくれた事は褒めておこう。そして、演目の終わった芸人は演台より消え去るが習いじゃ」

 彼女の興味は俺からは完全に消え去り、ゼムリアとドクトル・ファウスタスに移行した。羽虫を潰すように俺を殺し、彼らを弄ぼうと動き出す。

「御代は見てのお帰り、って知っているか? 芸を愉しんだのなら対価をもらおうか」

 させるか、この糞女。

「俺が欲しいのはあんたの滅びだ」

 今しかない。

 もう一人の自分を滅ぼした影響がどう出るのかは知らないが、現時点で全く痛痒を感じていない理不尽な有様を鑑みれば俺にとって喜ばしい結果はもう出ないだろう。

 むしろ、積み重ねた二千年の時が彼女の腹に呑み込まれるのではないのかとさえ思えてならない。元々詰んでいる盤面、今を逃せば奇跡さえ起こらない。いや、起きても無意味にされる。こと魔性との勝負に関しては……いいや、この女に対して人間は常に最悪の展開を迎える事を覚悟しなければならないのだ。

 こいつらは常にこちらのちっぽけな想像力の上をいって、人間に苦い味を提供し続けるのだから。

「ほほほ、叶わぬ願いに藻掻き続ける有様はそれなりに面白いものだが……お前はもう飽きた」

 傾国の美女は、ひとしきり笑うとその典雅な風貌に似合わない豪快な振る舞いをした。俺に向かってもう一人の自分を投げつけようとしたのだ。

 だが、それに幻の姫は逆らった。

「ここにも引き際を弁えぬ愚か者がおったか」

 玩具に飽きれば壊すのは子供の特権ではない。同じように権利を行使するべく姫は千腕に力を篭めた。縦に引き裂くのか、消し飛ばすのか、いずれにしても幻は幻らしく消えていく未来以外にない。

 そのはずだった。

 その隙を狙い、全ての念を叩き込もうと神風特攻を敢行しようとしていた俺の前で、そして同じように棒を振りかぶり乾坤一擲を試みているゼムリアの前で、妖姫が微笑んだ。

 幻の姫が。

「なに?」 

 信じがたいと実体ある妖姫の顔に書かれるのを見た時、俺は場を弁えずに爽快感を抱く。だが一体何が起こっているんだ?

「ふふ」

 笑い声がした。妖姫の声だがひどくおかしな声だった。マイク越しに歪んで聞こえてくるようなそれは幻の姫が初めて空気を振るわせたものだ。

 笑うだけの知性を持つ事にどうしようもなく厭な予感がした。どういう存在にしろあれは妖姫なのだ。知性があればどうしようも無い事をしでかすに決まっている。

 ぞっとする俺を余所に、相対する女同士は前置きなく距離を詰めた。少しは待ってくれと形振り構わず喚きたくなるほどに無造作だったが、何も出来ない。俺はまるっきり無策だ。

 だが、無力じゃない。

「ぬぅうううっ!」

 精一杯に高めた思念で姫達をまとめて切り裂こうと踏み込む。だが、その俺を妖姫の目が金縛りにかけた。邪魔だ、場違いな役者は引っこめと言わんばかりの苛烈な怒りが叩きつけられて有無を言わさずに硬直する。

 骨まで凍りそうな冷気と全身を燃やし尽くして灰に返る熱気が、比喩抜きに俺を内外から痛めつけてくれるおかげで思念の力はその防御に回さざるを得ない。

 捨て身にならないと言う、帰ってみせるという意思が弱みになった。いや、それだけは認められない。だからこそ踏み込もうとした俺のまさに目の前で、事は起こった。

 両者の距離が零になる。

 片や実体、片や幻。妖姫達は重なり合い、互いの顔と顔がまるで口づけを行うかのように一つとなる。

 最初、二人の姫の姿はインドの交合仏像ミトゥナのように荘厳さと淫らさを感じさせる奇怪な曼荼羅となる。俺も含めて、見ていた誰もが熱い息を吐いた。それは淫欲と感動という本来重なるはずのない衝動が二つブレンドされた奇妙な混合物だった。

 だが、もう半歩通り過ぎるとどちらも白い背中に隠れて互いに前面が見えなくなり、さながら奇妙な像のようになった。

 そして更に半歩進み、互いに背中を預け合うような姿で二人は動きを止める。しかし二人の背中は溶け合うかのようであり、前半面から真っ二つにして合わせているようにも見える。

 何だろうか、この姿は。三面六臂ならぬ二面四臂、阿修羅像のようだがまた違う姿は一体何と言えばいいのだろうか。

「……両面宿儺」

 ふと、古代日本の神話を思い浮かべる。古代の怪人が一番しっくりとくる例えだった。そう言えば、古代と言っても正に今俺がいるのはほとんど同時代だった。あるいはこの光景が日本に伝来したのかと場違いに考えてしまう。

 その間抜けは致命的な隙となった。

 俺の声が空気に溶けて震わせた瞬間、重なり合った二人は青白く不吉に輝いたのだ。

「っ!」

「何だ!?」

 青白い光、真っ先に思いつくのは日本人としてチェレンコフ光だがここは水中じゃねぇ。いったい何が起こっているのかなどさっぱりだが、見るからに危険すぎる現象に坐している事などできない。見ている事さえ忌避したくなる光に、真剣に失明の危機感を覚えるほどだ。

 背筋をぞくぞくと奔る悪寒に苛まれながら振り回した左右の太刀だが、二人の妖姫は見向きもしなかった。目の前で動かない女を斬りつけるなど外道の振る舞いだが、躊躇をしているような余裕は一切ない。

「くそったらぁっ!?」

 だが、振り切る事は出来なかった。太刀が当たるまでの0.05秒よりも速く、二人の姫が俺のチャクラの輝きを圧倒する凄まじい光量で輝いたのだ。それはまさに光の爆発だった。熱も音もない輝きに目は痛みさえ覚えながら眩む。

 だが、俺の腕はその痛みに眩む事はなかった。スタングレネードなど“新宿”どころか“区外”でも警察やヤクザ、下手をすればそこらの学生でさえ持っている程度の極ありふれたものだ。今さらそれで怯むなら俺はとっくに死んでいるだろう。むしろ、そこにあるだけで人心を惑わす妖姫の美貌が消えただけやりやすいというものだ。

 それでも罵声を上げたのは、やはりただの光ではなかったからだ。そもそもただの光なら、俺の聖念を突破してくるなど有り得ない。さっきから、視神経を焼き尽くすほどの痛みが絶え間なく俺を襲ってきやがる。本気で失明していてもおかしかない。何度目の失明だろうか、ここにドクターはいないというのに。

 恨みを篭めて二刀を振るが、しかし剣は目の前の相手にかすりもしない。真っ白な何も見えない視界の中で、ぎりと歯を噛みしめる。

 当たっても効かないんだから素直に当たれと滅茶苦茶な言い分が出てくるが、もちろん口には出せない。

 闇雲に斬ってもしようがないと、悲鳴を上げて見境なしにぶん回したくなるのを必死に堪えて目以外の全ての感覚を総動員するが何も感じない。ただ、何か恐ろしい静かさだけを感じる。

 周囲には雪蓮や冥琳達を始めとしてミンチの吸血鬼共さえも健在だというのに、彼らの息づかいさえろくに聞こえない。彼女らも俺と同じように生物としての本能を刺激されているのだろうか。それこそ止めているのも同然と言うほどに必至になって、息を潜めている。

 これは俺が姫の影に怯えているだけなのだと自分自身に言い聞かせるが、結局は誤魔化しようもなく、嵐の前の静けさなのだとしか思えない。

 突如、大地が揺れた。

「きゃあッ!?」

「なんじゃ、これは!」

「大地が……揺れている!? そんな馬鹿な!」

 それほどの大きさでもない、せいぜい震度三程度の地震など俺にとって慣れている程度だが、彼女らにとっては驚天動地の正に天変地異であるようだ。確かに天変地異だが騒ぎすぎかと思ってしまうのは、やっぱりお国柄というものだろう。

 だが、なんだ。

 この揺れ、何かおぞましくも懐かしい……慣れ親しんだそれを、感じる?

「……嘘だろ?」

 魔界都市の住人であれば、誰もがそれを知っていた。俺もまた、当事者でこそなかったが知っている。

「何かが大地の底に、いるのか?」

 ゼムリアの言葉が奇妙に耳に残った。それに応じて意識を遥か下に向けると、ようやく見つける。視覚が封じられているからこそ鮮烈に理解できる何かがあった。大きさはむしろ小さいと言えるが、その内包されている何かが世界そのものを腐らせるようなおぞましい臭気を発している。

「……この揺れは“魔震”だと!? 馬鹿な!」

 最も恐ろしい怪物を目の当たりにした子供のように悲鳴を上げるのをこらえた俺の脳裏に、一つの忘れ去られた逸話がよみがえる。

 伝説があった。

 大地の底の底には、箱があった。その箱は地霊の巨大な腕に守られて、遥か太古から存在し続けていた。その箱の中には人類創世の機に一度だけ解放された“とてつもない物”があったと言う。

 その箱から解放された“何か”が、どうしてもう一度箱の中に封じられたのかはわからないが、それから幾度も“何か”の開放を求めて箱の蓋は開けられそうになりながらも時の人に目論見は悉く妨げられたという。

 俺の知る最新の記録は、この時代よりも二千年先……場所は日本の新宿で二回解放の儀式は行われ、ことごとく失敗した。最初の儀式の失敗は地震を巻き起こして新宿と東京を完全に分断し、亀裂に隔離された街は魔界都市と呼ばれる悪徳と背徳が煮詰まり、神秘と最新科学が交じり合った異教を生み出したと語られている。

 すなわち、魔界都市“新宿”。

 それを生み出した災害の名前を、人々は誰からともなく“魔震”と名付けた。後々まで恐怖の記憶と余震という形で“区民”の心胆を揺らし続けるそれを、曲がりなりにも“新宿”で生まれ育った俺が間違えるはずがない。

 ごく小さな規模でこそあるが、これは確かに“魔震”だ。

「ふざけるな! いったい何の冗談で“魔震”なんぞが起こりやがる!」

 “魔震”発生のメカニズムは、今もって解明されてはいない。何故、どうして起こるのか。起こったのか。“魔震”が起こればその後には常に魔界が生まれるのか。

 何もかもが未だに調査中の一言で片付けられてしまう。公式記録が“新宿”誕生の一度だけという理由もあるが、何よりも本気で調査を行う酔狂が少ない。祟りを恐れるように、人々は目の前に魔界都市“新宿”を作り上げた“魔震”を畏れたのだ。本気で“魔震”を調べているのは国に命じられた被害者と一部のイカレだけだ。

 だからといって、どうして今ここで何の脈絡もなく起こるんだよ!

「それはお前が連れてきた者のせいじゃ」

 軽やかな嘲りが飛び込んできた。

 視力は未だに回復せず、世界は真っ白で脳みその真ん中あたりに鈍痛を感じるままだが、妖姫だけがその中にハッキリと見えた。

「なるほど、やはりお前は未来から現われたものか。お前の連れてきた私を通じて、それがはっきりと伝わってくるぞ」

 真正面から相対する彼女の後ろには、もう一対の腕が見える。どうやら未だに両者は重なり合っているままらしい。いや、もしや融合の類なのか。

「何が言いたい」

「地の底の底にいる何かが、今の私を求めているのよ。おお、大層な大きさよ。この大地全てよりも大きい。この宙を覆い隠さんばかりに大きい。この揺らぎは、それが身を起こした寝返りのようなもの」

 とろけるような声で、史上最も美しいかも知れない異形は謳う。その間に最初の揺れは収まっていく。

 次の瞬間、先ほどの比ではない巨大な揺れが大地を子供の玩具のように揺らす。それは未曾有の大地震であったかも知れない。少なくとも、この漢の
大地にとってはそうだったろう。

「ほう、ここを中心に円を描いて三十里までしか揺れておらぬ。見事、それより一寸先は針も動きはしておらぬ」

 都市部や山岳部でなかったのは不幸中の幸いか、もしもここが洛陽だったら崩れた建造物や巻き起こった火事、山林だったら土砂崩れに山火事でとんでもない二次災害が起こったところだ。

 しかし、やはり“魔震”。妖姫の言葉を信じるなら、かつての“新宿”と同じような現象を起こしているようだ。

「ぐっ!」

 縦揺れなのか横揺れなのかも分からない強烈な震動に、俺はたまらず膝をついた。仮にも念法使いである俺がただの揺れで膝をつくはずもない。島国生まれのおかげで船上での戦い方だって学んでいるのだから、大きいだけの揺れに足を取られるはずがないのだ。

 ましてや、頭頂のチャクラが稼働している今の俺が為す術なしとは恐るべし。俺がこの様じゃあ他の皆は一体どうしているのか気になるが、声は聞こえず気配さえ感じない。まるで、俺と妖姫だけ違う世界に隔離されているかのようだ。

「これは足音。一段一段、地獄の階段を上っているのだ。さて、どうやら表に出るまで後十歩」

 彼女は心底楽しそうだった。それが何者であるのか見当がついているのかいないのかは知らないが、それがしでかす何かを楽しみにしているんだろう。阿鼻叫喚の地獄を想像して愉悦に浸っていやがる姿は実にこの女らしい。

「そして残りは九歩」

 今再び、世界が揺れる。漢の大地でも汜水関の大地でもなく、本当に世界その物が揺れたと思い込みそうな震動が足下から俺を揺らす。その揺らぎが消えるよりも先に新たな“魔震”が俺を襲った。

 本当に歩みのようだ。一体何が歩いてきていると言うんだ。この歩みは、噂に聞いた地霊のものか? それとも、違う何かか?

 たぶん地霊じゃない。

 地霊は“箱”の守り手なんだ。どういう意味合いにしろ、守る物があるのにわざわざそれを持って人前に顔を出す訳がない。

 だったら何だ。“箱”か? それも違う気がする。“箱”あるいはその中身は封じられているんだ、妖姫を求めて守り手を操る力があるとは思えない。

「あと五歩。おお、大地が割れておる。天が戦いておる。お前には見えぬか、感じぬか? 私の輝きに負けて、何も感じられぬか」

 一体何が起きている。天変地異か、世界の終わりか。

 くそ、根性悪が俺を嘲る為のハッタリだ。俺が失ったのは視覚だけで他の感覚は失っていない。焦るな、落ち着け。

 そう言い聞かせているのに、一歩下がってしまった。それが絶望的な失敗に思える。一歩下がってしまえば、後は幾らでも下がれてしまう根性なしの自分を俺は誰よりもよく分かっている。

 逃げ出したいという気持ちが一気に湧いてくる。手に持つ仁王の重さに振り回されるように更に下がった。

「そう、その顔よ。私の前に立つ者は悉く意気も意気地も砕かれたそういう顔をしなければならぬ。しかし、弱い者が浮かべても詰まらぬ。強者が泣き出す童のような顔をしなければ」

 言葉に押されるように、更に下がる。と、足が何かに触れた。靴越しでも分かる柔らかい肉の感触だった。それがなにか、俺の脳裏にイメージが湧いた。俺の方へ、戦いの場へと少しでも近付こうとしている女の手だ。

「!」

 完全に踏みそうになるのを、必死に堪える。“魔震”に揺らされている中でよくも堪えられたものだが、何も不思議ではない。踏んではならない者の為なら出来るのは当然だ。

「雪蓮」

 名前を口にすると、不思議と筋肉の中を占めていた強張りが消えていく。
 呼吸は出来る、太刀は握っているし足も着く。だから、唯々思念を研ぎ澄ませろ。他のなにも考えるな!

「ほう、持ち直したか」

 足をしっかと踏みしめて、真っ直ぐに立つ。呼吸を整えて精神を集中し、チャクラに更なる力を求める。自分が仏像のような無表情で構えているのがはっきりと分かった。

「三歩……さて、その仮面のような落ち着きが何処で割れるか」

 相変わらず揺れ続ける大地に振り回されるが、どうにか踏みしめて立ち続ける事は出来た。どうにもならない相手、どうにもならない災害が俺と俺の周囲を襲っている。それでもただ剣を振れ。

 通じるから剣を振れ。通じなくても剣を振れ。

 唸り輝け、俺のチャクラ。例え勝てずとも負けられない戦いを切り抜ける為に。

「力を貸せ」

 歯を食いしばり、握る手に力をこめろ。魂の全てを目の前の女を斬りつける為の刃として研ぎ澄ませ。

「力を貸せ!」

 それは世界、そして自分自身に対する要求だった。

 俺にではなく、戦おうとしている女の為に力を貸せ。この手は雪蓮のものでは無いのかも知れない。彼女の手だとしても、戦おうとしているのではないのかも知れない。戦おうとしていても、その理由はどうしようもなく利己的なものであるのかも知れない。

 全ては俺の勝手な思い込みに過ぎない。

 雪蓮が、共にいる冥琳や祭という友人や孫権という妹を守ろうとしているのだと思うのはただの決めつけだ。

 それがなんだ。

「後、一歩よ」

 これが最後。

 凄まじい揺れは、まるで古代中国創世の巨人盤古が大地を踏みしめているようでもあり、あるいは地獄に囚われた数多の巨人族が我を解放せよと鎖を引きちぎる為に暴れているようでもあった。

「なけなしでも根性見せろよ、俺ぇえっ!」

 振り回した二刀が、空を切る。それは文字通り空を、いいや世界を切った。

 何か名状しがたい一瞬の手応えは背筋に怖気を奔らせて、得物を手放さないのが精一杯である。しかしその甲斐はあった。

 巨大な口が息を吸い込むような音をたてて、真っ白い視界が俺の切り裂いたどこぞへと吸い込まれていく。後に残るのは、正に震災の真っ最中の無惨な光景。阿鼻叫喚に泣きわめく人々と己の楽しみに横槍を挟んだ不遜な俺を睨み付ける妖姫がいる。

 彼女の周りには妖姫の魅力から逃れただろう曹操や劉備とその配下達が、互いにそれまでの言動を取り上げて醜い言い争いをするか目前に迫る生存の危機に悲鳴を上げて頭を抱えているかのどちらかだったが、その全てが妖姫の一言で凍りつく。

「黙れ」

 強制的に従えられる言葉だった。その一言は消して大きくもないが地鳴りも喧騒も貫いて全員を金縛りにする。誰もが恐怖に顔を強ばらせていた。標的は俺だけだというのに、余波だけで失禁している輩もいやがる。

「招かれものが、動きを止めたぞ。私の輝きを目印に登ってきていたモノが、篝火を見失った」

 そこまで考えた訳じゃなかった。しかし、偶然ながら俺のがむしゃらな一太刀は結構な成果を上げたらしい。あの発光は地の底の何かを呼び寄せる灯台代わりだったのか。こいつはいい。

「この一幕に、つまらぬ振る舞いを見せてくれるものよ。興が冷めたぞ」

 地面が揺れているのが、妖姫の怒りによるものであるかのように錯覚する。テレビに没頭している子供が途中でチャンネルを変えられた時のような怒りだ。古代より子供と老人、そして暴君は他者には理解できない唐突な怒りを真理のように絶対的な自信を持って看板のように掲げるものだ。自分で暗君と暴君を生み出すとびきりの暴君である妖姫のそれは、特にとびきり理不尽だろう。

「冷めた場の空気をぬくめる為じゃ、お前の心の臓より血をよこせ。下賤の中でもせいぜい紅い部分をな」

 すう、と目を細める妖姫の全身から立ち込める圧倒的な妖気はそれだけで心臓を止めてしまいそうだ。ゼムリアが守っていなければ周囲はあっと言う間に雪原にでも姿を変えているだろう。

 今の俺のように、だ。

「ぐ……」

 物理の領域にまで達した怪奇現象が、皮膚を凍りつかせる。体温を奪うどころか一挙に命を奪われかねない。騏鬼翁のように術を使うのではなく、ただ不快に思っただけで命を握られるのかよ、とことん理不尽だな。

「これが、どうした」 

「……何?」 

 だからこそ、俺は敢えて笑った。

 訝かしんでから怒りに燃えた妖姫の目は、それが俺をどれほど苛んでもいっそ心地よかった。ざまあみろ、は実に気分をよくしてくれる。

「皮を白くしてそれで満足しているのか? 随分と謙虚じゃないか、らしくもない。何もかもを貪り尽くすのが流儀だと思っていたぞ」

「……」

 聖念は尽きた。得物を手放してはいないが、俺の頭頂のチャクラはいつの間にか回転を止めて輝きも消え失せている。それどころか回復力だけは人並み外れていたはずなのに、通常の念さえ回復の兆しがない。本来なら思念の壁で耐えるはずの骨まで凍るような冷気に、抵抗する術はない。声が震えていないのは単なる意地だ。

 ゼムリアの助力も、あの世から還ってきた恩恵も消え失せたのか。それどころか、全ての念を使い果たしてしまった今の俺は強大なる妖魔に立ち向かう術を身につけた念法家ではなくなった。

「さっさとその手で心臓を抉って見せろ。こっちも趣味の悪いお前らを切り離してやる!」

 いいじゃないか。

 ああ、確かに思念の輝きを無くしたが俺は本当に無力か? そうじゃないだろう。いや、そもそも無力になっても立ち向かうべき時であり相手なんだ。だったら胸を張って進むべきだ。

 なにしろ、そうしたいからな。

 俺が畏れず怯えず堂々としてれば、それだけこの女には不愉快だろう。だったらやってやる。高慢ちきで鼻持ちならない女に嫌がらせをするのは、実に気分がいい。

 こういう女は、安い挑発に乗ってくると相場が決まっている。自分を一段高いところに置いているような女が堪えるなんて言葉を知っているわけがない。ましてや、相手は史上で最も高慢ちきだ。

 どんな些細な事でも認められなければ叩き潰し蔑まなければ気が済まない女だ。例外的に、迂遠に手をまわしてもてあそぶ場合こそあるが秋せつらはともかくとして、俺を相手にそこまで手をかけるつもりはあるまい。

 その想像通りに、彼女は真っ直ぐに俺に近づいてくる。ためらいも停滞もなく、一定のペースを維持してただ歩いているだけなのに舞い踊るようなステップで近づいてくる。ただし、その踊りは貴婦人のダンスでも巫女の奉納の舞でもない。生贄の祭壇を前に踊る呪術師のそれを連想させる。

 俺よりも明らかに目線は低いってぇのに、巨大な妖気に見上げる巨人にしか見えない姫が腕を振り上げる。その動きまでが舞踊の振り付けのようであったが、威圧感が途方もない。インドの鬼神、カーリーとはこれの事だろうか。

「魔天の住人に誇るがよい。己はこの世で最も恐ろしい怒りを買った当代一の愚か者であるとな」

 まるで裁きのような物言いに、力の差も何もかもを吹っ飛ばしてむかっ腹がたつのは男として当然だろう。

「抜かしやがれ、あばずれが」

 ばりばりに固まった腕を無理やり振り上げる。そのままへし折れて地べたに落ちそうにさえ思えるが、だからどうした? 

 吠え面かかさなけりゃ、男が廃る。

「わかっちゃいたが、根性悪いな」

 わざとゆっくり、手を伸ばしてくる。この女はわざわざ俺に合わせているのだ。どう考えても人にあわせるような事なんてしない気性の癖に、いちいちろくでもねぇ。

 速い遅い以前に振る事さえできるのかと言うようなポンコツを、悠長に待ってから手を振り上げている。どうしようもなくいやらしい真似を、ためらいもなく面白がってやれるようなえげつない所がこの女の強みなんだろう。

 猫が鼠をいたぶるよりも百倍陰湿なこの女に、なんとしても一杯くわせてやる。

 苔の一念とも言えないちっぽけな意地で愛刀を振り上げる。振り下ろそうにも、情けない事に子供のように木刀の重さに振り回された。

 それを見て、妖姫が笑う。

 無様にあがく俺の滑稽さに、堪えきれないと笑う。ああ、畜生。

 みっともない事は分かっている。それでも、これしか出来ない。まるでグロッキー状態のボクサーみたいじゃないか。スポーツじゃないんだ、頑張ったじゃすまないんだからシャッキリしなきゃはじまらねぇだろ。

 どうすればいいか。

 そうだな、両手で持てばいいだろう。

 そんな風に自問自答して、両手で二本の木刀を束ねて振りかぶる。不思議だ、二本の木刀を二本の腕で持っているのに、一本の木刀を一本の腕で持っている時よりも安定する。ああ、これがいいな。

「健気さは褒めてやるぞ、剣士よ」

 け、と吐き捨てるように笑う。いや、笑おうとしたが強ばって何も出てこなかった。

 四方八方から、妖姫以外の視線も感じる。なんだか、ひどく情けない目で俺を見ている奴ばっかりだ。

 そう言えばこいつら皆、格好良く戦ったり勝ちたかったりする奴ばっかりみたいだな。じゃあ、俺は今よっぽどみっともなく見えているんだろう。

 ゼムリアは後ろにいるけど、あんたはそんな目で見ないでくれるかな。俺はこう言う鈍くさい事しか出来ねんだわ。

「ぁぁぁぁぁあああああああっ!」

 しばれた喉を無理やり震わせると、最初は小さかったが少しずつ声が大きくなった。気合の声なんて、まるで鍛錬みたいな真似をしているな。

 そんな俺は殊更に滑稽なんだろう、妖姫はますます嘲笑を鮮やかに唇に乗せながら俺の一振りを敢えて待っている。とことん人を馬鹿にしている女に、せめてもの一太刀をと振り下ろそうとしている俺は、確かに妖姫の言う通りに滑稽で健気であったかも知れない。

 その妖姫が、振り下ろされる俺の太刀から一挙に遠ざかった。 

 実にらしいな、こういう時に空振りなんて最高に格好悪いじゃないか。さっきからこれを狙っていたのかよ。

 そう思った俺だったが、翳む目で見た妖姫の顔は驚きに彩られていた。なんだ? 一体どうして……

 そこで俺はようやく気が付いた。

 足下には大きな地割れが広がり、俺と彼女の間に黒々とした大きな線を引いている。それは現在進行形でどんどんと広がって、彼我の距離を大きくしているのだ。

「“亀裂”!?」

 いつの間にか再開している“魔震”が開いたそれが、俺には魔界都市と“区外”を分ける分水領のそれと同じにしか見えなかった。何故なら“亀裂”の底には明らかに人知の及ばない圧倒的な何かが蹲っていたからだ。

 それは、大きく伸びをするように立ち上がった。

「ああ……」

 それが何だったのかは分からない。分からないのだが、俺はそれを……こいつを知っている。それは立ち上がり、俺を見下ろした。 

 そうだ、そいつは他の誰でもない俺を見下ろしている。

 お前を知っているように、俺を知っているんだな? “―――”よ。

 自分が誰を思い浮かべたのか、それは水に溶ける薄紙のように消えてしまいもう思い出せない。ただ、間違っていないと思う。

 それは圧倒的な、空を埋め尽くし足の下に漢の大地全てを踏みつぶすような巨躯だった。

 髪と裾をたなびかせ、虫けらに向けるような目で俺達を見ている。

 この俺どころか、ゼムリアどころか、妖姫さえも虫けらのように見下ろしている。ああ、よく分かるぞ。お前が一体何なのかがとてもよく分かるぞ。

 その顔を知っている。その顔を、忘れる事なんて出来ない。お前達もそうだろう、妖姫よ、ゼムリアよ、ここにはいないドクトル・ファウスタスよ、騏鬼翁よ、秀蘭よ。そして劉貴よ、お前も見ているのか。全ての将が、全ての兵が、全ての民が見ているのか、この神を。




 違う。




 そんなイメージが直接脳に叩き込まれた。精神感応って奴だ。

 どす黒く強烈な怒りと共に、そんな言葉が意味だけを持って叩き込まれた。それだけで、気死しなかった自分を褒めたくなった。




 ここは、違うぞ。




 それの怒りは、妖姫に叩きつけられた。

 そうだ、こいつは妖姫に招かれたんだ。妖姫の存在を灯火にして、漢の大地に……この世界に招かれた。何が違うのかはわからないが、要するに漢の大地はこいつが降臨するには不適切な間違えた大地であるらしい。

 招かれものが違う場所に招かれれば、結末は破滅だ。それも、招いたものだけに収まらない何もかもを巻き添えにして打ち砕く破滅だ。




 ここは、違うぞ。




 世界にヒビが入った。

 比喩でもなんでもない。本当に、世界にガラス窓よろしくヒビが入ったのだ。

 大地に“亀裂”が縦横無尽に奔り、そして何もない空にも空間そのものが割れたかのようにヒビが入ったのだ。

 立ち上がった大いなるものを中心に、世界が壊れ始めている。砕け散った空はその奥に赤黒い空間を覗かせる。あれが何もない虚空であるのか、それともそういう色をした何かが詰まっているのかもさっぱりわからない。

 怒りそのものが世界を壊しているかのような天変地異は、まさに世界の黄昏だ。世界の終わり、その言葉をいったい何度耳にした事だろうか。

 魔界都市では珍しくもない程度の話だ。

 あちらこちらに世界崩壊の引き金を引く呪物が転がり、そこかしこで地軸を傾ける数式だの邪神を降臨させる呪文が新発見されては消えていく。本当に、その程度と言えばその程度なのだ。俺だって端役に過ぎないが、何度かその手の事件に首を突っ込んだことはある。

 だが、本当に世界が崩壊する姿を目の当たりにするのはさすがに初めてだ。
 



 消えろ、偽りの大地。偽物の空。




 終われ、嘘ばかりの歴史。




 世界は既にモザイク模様に壊れてしまった。

 破壊神の怒りに呼応して揺れ続ける大地も天空も、区別なくひび割れて砕け散った皿のようになっている。既に雪蓮達どころかゼムリアでさえ言葉もないような状況だ。俺はむしろ言葉が出せないが、声を出せても意味のない奇声しか発せられないだろう。
 
 


 滅びろ、招きし女。




 その怒りは、強烈な悪意となってとうとう妖姫へと向けられた。

 凄まじい事この上ないとはこの事だろう、余波を感じているだけの俺でもいっそ塩の柱にでもなってしまいたいと痛切に願ったほどだった。

 ましてや、直接それを向けられた妖姫は一体どうなった事か。

「ふ、ふふ」

 俺は、あるいは初めてこの女の恐怖に引きつった身も世もない顔を見られるかも知れないと陰湿な期待を抱いた。

 だが、女はどこまでいっても妖姫だった。

 彼女は笑っていたのだ。

 強がりでもない、楽しくて楽しくてしようがないと言う顔で笑っていやがったのだ。

「ふふ、ほほほほほ」

 どこまでも我を失わない、いっそ感動的なまでの我の強さで女は大笑を世界に、破壊の神に響かせてみせた。

「面白い、なんと面白い! このような事はさすがの私もはじめてじゃ! 世界が終わる、この私のせいで。これ程面白い事があろうか。この下らぬ国で、詰まらぬ大地で、これ程楽しい事が待っていようとは想像もしていなかったぞ!」

 世界の崩壊さえも、彼女にとっては娯楽にすぎないのか。本当に、心底楽しそうにためらいなく笑う女に、いっそ拍手を贈りたくなるほどだが、傲然と立つ破壊者にとっては妖姫でさえもただの塵芥のようなものでしかない。


 
 
 打ち砕かれよ、招きし女。




 圧倒的な悪意と共に、暗黒が妖姫を包んだ。

 姿を完全に隠されてしまう一瞬前に、異形とかしていた妖姫の姿が元に戻ったのを見た。何となくだが、俺はそれが幻の妖姫が打ち砕かれたように思えた。

「手に入れる、手に入れてみせるぞ。この力、その存在! 何もかもを私の足下に跪かせよう。神であろうと魔王であろうとも、その全てを地に貶めて笑ってやろう」

 暗黒の中から全く曇る事のない美しい声で、妖姫の叫びは響き渡る。

「千年先になろうとも、二千年先になろうとも、私はお前を手に入れてみせるぞ……お前の街へ、辿り着こうぞ!」



 
 その記憶、その心、時を超えた魂、全て砕けろ。




「おう、砕いてみせよ、今一人の私の腕を! だが忘れるな、腕一本砕いたところで私を砕く事は貴様にも出来ぬ! この二千年を生きた女の、後二千年を超えて歩み続ける女の想い、砕けるはずもない」

 全てが暗黒に呑み込まれてもなお、吸血妖女の高笑いは俺の魂に鳴り響き続けている。

 お前の街。

 そうか、そうだったのか。

 だからやってきたのか、妖姫よ。あの街に、“新宿”に。例え暗黒に呑み込まれて記憶諸共に砕け散ろうとも、お前はやって来たのか……あの街に。

 秋せつらに、出会う為に。
 



 砕けよ、偽物の世界。




 そして妖姫がどこか人知の及ばない彼方に放逐された瞬間、まるで彼女こそがこの世界をこの世界たらしめていた中核であるかのように、世界は壊れた。

 何の躊躇いも慈悲もなく、ただ清掃員が路地裏のゴミを袋に回収するようにあっさりと、この世界は壊された。

 どこかで、騏鬼翁が闇に呑み込まれた。

 どこかで、秀蘭が闇に呑み込まれた。

 どこかで、劉貴が闇に呑み込まれた。

 もう、彼らは俺の事を思い出さないだろうと奇妙なほど強い確信が心臓の下に飛び込んで、嫌な感触を残して消える。

 どこかで、ご主人様とか叫ぶ薄気味の悪い男の泣き声が聞こえた気がした。



 渡水複渡水

 看花還看花

 春風江上路

 不覚到君家

 

 その唄は、最後に奇妙なほどはっきりと聞こえてきた。



「おはよう、気分はどうかね」

「……最高」

 覚醒した瞬間に出会ったのは、ドクトル・ファウスタスではなく白い医師だった。

 ゆっくりと身体を起こしながら状況を確認するが、既に何度か経験した事なので察しはついていた。

 還ってきたらしい。

 夢でも幻でも、どこぞの魔道士かヤクザの騙しではない。白い医師の騙りなど有り得ないという信頼が、自分の帰郷を素直に信じさせた。

「やっぱり、メフィスト病院のベッドは俺のせんべい布団よりも寝心地いいな。疲れが全く無いですよ。おまけに頼りになる主治医の見守りと来た」

 俺の軽口にドクターはにこりともしなかったが、居心地はよかった。俺は患者であり、ドクターは医師の鑑だからだ。

「それでは問診といこう。構わないかね?」

「はい」

 立ち上がりながら、自分でもチェックをする。幸い、チャクラは問題なく稼働しているし、凍傷もない。嬉しい事に、上がった力量はそのままのようだ。無茶したおかげで念法家廃業も覚悟していたので、正直ホッとしている。

「俺は何処でどうしたおかげでここにいるんでしょうか。なんだかおかしな所に飛ばされたところまでは、ドクターもご存じのようですが」

 すっかり忘れていたが、そう言えばトンブはこの人と姉の手によりあそこに来たはずである。そう言えば、あいつどーなった? まあ、地球が死んでも生きていそうな女の心配はするだけ馬鹿を見るだろう。

「後の問診でそのあたりの事情も聞かせてもらおう。君はそのおかしな所から、二日前に“新宿”へと現われた。登場した場所が、最危険地域でせつらと争っていた妖物の頭の上だったのは偶然にしても不運なことだ」

「…………」

 意識がない時にそんな場所にいる妖物と対面なんて、背筋が凍りそうな話だ。

「もしかしなくともとびきり危険な奴ですか?」

「せつらも手こずったらしいが、君が落下してきたおかげで隙が出来たらしい。おかげで捜索対象の猫が助かったと言っていた」

 ……偶然ではなく意図的に落とされたと考えるのは、陰謀論が過ぎるだろうか。いいけどね、別に。

「見舞いのせんべいが届いている。厚焼きだったが、最近は少し焼きが甘くなっているようだ」

 食べたらしい。

「……だった?」

「君のご家族の胃腸は健康だ」 

 ぴた、と足が止まった。

「……来てるんで?」

「勢揃いだ」

 愛されていて我ながら結構な事である。

 俺はため息をついて、頭をかきながら足を動かした。少し足取りが重くなっているくらいは見逃して欲しい。

「前向きになったらしく、結構な事だ」

「心配かけましたからね。男らしく根性出して肚も決めますよ」

「男らしさを説くなら、最初からそうするべきだった」

「うぎ」 

 厳しい一言である。でも正しい。

 俺はばりばりと頭をかいたが、寝ている間に誰か洗ってくれたのか抜け毛もフケも落ちてはこなかった。

「ごめんなさいじゃ、済まないだろうなぁ」

 きっと今の俺の顔は、失敗した子供と大差ないだろう。それが何とも気恥ずかしくてたまらなかった。






 さて、あれからどうなったのか、これからどうなるのかをまとめようと思う。

 間違いなく魔界都市に帰ってこられた俺は、あの後すぐに来院した身内四人、そして南風さんに再会して全てを白状した。自分に前世の記憶があること、その中でこの世界を知った事、皆を知った事、その上でどうしようかと考えてどう行動したのかを何もかも全部である。

 できれば女性陣には酷な話はうやむやにしたかったのだが、それを許してくれなかったおかげでもう少し話し方を考えろと拳骨を2発もらったりもしたが、おおむねの予想通りみっちり叱られてきっちり詫びを入れ、ちゃんと許してはもらった。

 だが、拳骨は大いに理不尽だと思う。

 さらに、リマが某GGGとの縁切りを提案されて困ったりもした。つまり、そっち方面もばれたんだが記録みたいなものと現実をごっちゃにするな、今を見ろと言うような感じのお叱りを受けた。

 泣かれないだけましだよな、と自分をごまかすがリマが泣く所は正直想像できない。泣く暇があったら行動しろ、と尻を叩くのが俺の知っている野生の美女である。

 泣きそうになっていたのは義姉の方で、俺が行動しなければ自分がどういう目に合っていたのかを知ってしまい、おかげで俺に迷惑をかけたと泣かれてしまった。当時の俺は心身共に結構追いつめられていたから、直に見ていた彼女としては申し訳ないと思うのも当然なんだろう。

 それでも我が身の心配は二の次であるのは、本当にいい人だと思う。この人が無残な死を迎える事がなかったのは、我ながら最高の大手柄だ。

 そう言ったら、もっと叱られた。何故だ。

 それから、南風さんとも面会した。

 相変わらず色気の塊のような美女でその点は漢で出会った女武将なんぞ足元にも及ばなかったが、野獣も凍りつく妖気を発したりはしておらず、ただの女でしかなかった。

 心底ほっとした。

 それは彼女も同じで、五体満足の俺にいくつか質問をして問題がないと納得すると同時に安堵のため息をつかれてしまったものである。

 その後は謝罪を一度だけされて、さっぱりと終わった。万感の思いを籠められた一言があれば、だらだらとした謝罪など全く無意味であるという好例だと思う。

「ひょっとしたら、あなたの知識にある工藤さんとの旅のように一緒に全国を回る可能性もあったかもしれない。それが少し惜しかったわ。酷い事ばかり言ったくせにこんな事を言うものじゃないかもしれないけど、あなたと一緒に旅をするのも悪い人生じゃないと思うから」

 そう言って、艶のある流し目を贈られた。冗談交じりの本気に見えるのはうぬぼれかもしれないが、俺はごめんだ。

「苦しんでいる女が隣にいる旅なんて嫌だよ。友達同士の気楽な観光くらいなら付き合うさ」 

「ありがと」

 笑った顔は、初めて幼さを感じさせた。

 と、まあこれだけ上手くいってそのままならよかった。都合がよすぎて夢かと思うくらいだったが八方丸く収まり、俺はまた“新宿”で賞金稼ぎをやる毎日に戻れたのだから、何の文句もない。

 それが崩れたのは、名字が工藤に変わった女性がとんでもないことを言い出したからである。

「それじゃ、冬弥君も学校に通ってみないかしら?」

「……」

 何がどうしてそうなるのか。

「だって、もう賞金稼ぎをする必要はなくなったんでしょう?」

「…………」

 それはそうである。しかし、今さら他の生き方なんて出来るとは思っていない。

「その幅を広げる為に、せめて高校ぐらいは出ておかないと。今ならどうにか三年生に入り込めるかも知れないし」

「……い、いやしかしその、勉強についていけるとは思えないし、後は学費とか」

「そのくらいの蓄えはあるし、お前なんだかんだ言ってもそこそこの教養はあるだろう。とっちゃん坊やでも甘えておけよ」

 やかましいぞ、そこの義兄! そのぐらいの蓄えくらい自分だってあるわぁ! と言ったのが運の尽きである。

 ……“新宿”は“区外”と比較して知性と体力で上位にある場合が多い。“魔震”の生み出す妖気のせいだとも言われているが、原因は不明である。さらに、俺は元々仕事の関係上、結構な知識を“新宿”流のやり方で脳みそに叩き込んだりしているのである。その中には、結構編入だの受験だのに応用できるモノも数多い。

 ええ、学生じゃないので問題にはなりませんでしたよ。

 かくして、俺は編入の為の勉強って奴までしなければならなくなった。なんてこったと頭を抱えても後の祭りだ。仕事で出来た義理を盾に断ろうにも、どこから聞きつけたのかわざわざシャーリー・クロスが出てきて警察に就職するにも中卒は駄目よ、勉強しなさいと言ってきやがった。そんな予定は更々ねぇ。

 向こう側から帰ってきて以来の再会になるトンブでさえも、にたつきながらつまらない事を言う始末。そんな事より漢の連中がどうなったのかわからないか、と聞いてもさっぱりだと切り捨ててしまう。会いに来た意味がないじゃないか、この。

 せめて、編入先になりそうな学校がなければとごねてやった。もちろん俺は探す気はない。何、この話にはタイムリミットがあるんだ。どうにかなるさと気楽に構えていたんだが……見つけてきやがった。

 聖フランチェスカとか言う、いかにも敷地内に教会が在りそうな名前の学校のパンフレットをにやにやしながら持ってきた義兄の顔にワンパン入れたくなった俺は悪くない。

 何しろ、そこは男女比が40:1という極端な元女子校だそうで、共学化後も男子生徒が不足している為に俺でも問題なく編入できるとの事。

 とどめに、“区外”。

 悪夢だな。

「吐いた唾はのむなよ?」

「畜生……」 

 げっそりとしながら学校見学とやらにのそのそ出かけた俺だったが、そこで面白いものを見かけた。

 個人経営の本屋である。

 事あるごとに事件が起こり、リスクを恐れて大資本が入りづらい“新宿”ならともかく“区外”でこういう店は珍しい。

 絶版本でも安売りしていないかなと期待して足を踏み入れたら、そこに顔見知りを見つけた。

 南風ひとみである。

 実はメフィスト病院で別れたきり、一度も連絡を取っていなかったので久方ぶりの再会である。俺は彼女にとっては苦い過去を思い起こさせる相手なのだから、連絡などもっての外だと思っていた。向こうから連絡は来なかったので、やっぱりそういう事だろうと少し寂しく感じているのを認めつつ納得していたのだ。

 それがこんな所で再会とは、一体どう言う巡り合わせなのやら。

 お互いにぽかんとした顔を見合わせて、店主におかしな顔をされてしまったのは笑い話だ。

 その後、ぎこちないながらも挨拶を交わして話を聞くと、彼女はここの店主である男と婚約中だという。めでたいと思い祝福しながらも少し居心地悪く感じたのは、今のシチュエーションでは、まるで自分が追い掛けてきた不幸な過去の使者のように思えてきたからだ。妖気と硝煙を漂わせた男など、これから幸福になる男女の前に立つには不似合いすぎる。俺は当たり障りなく退散すると決めて、その後は彼女と未来の旦那と少し話をした。

 なんでも恋人は、彼女よりも随分と年上な元ルポライターらしい。

 ちなみに元、がつくのは廃業したからで理由は向いていないからだとか。文を書くのは好きだが、えげつない記事は書くに書けない性格で犯罪被害者や加害者の家族にインタビューしようにも突っ込んだことはなかなか聞けず、下手すりゃその場でもらい泣きさえしてしまうほどだとか。他にも仕事はあるようだが、やっぱりこの手の仕事で一番需要のある分野をこなせないのはまずかったらしい。

 鳴かず飛ばずで前々から廃業を考えていたが、かと言って他の特技も思い浮かばず先立つものもない。だらだらと毎日を過ごしていたところ、短い間だが仕事で組んだ南風さんと再会したそうだ。

 彼女は妖魔によってもたらされた異界の妖艶さからこそ解放されたとはいえ、そもそも生まれ持った色香がある。年齢、国籍、職業を問わずに男を色狂いにしてしまうそれは彼女の経験した酷薄な日々により、より退廃的な魅力として体に刻み込まれてしまった。

 例え心機一転して新しい人生を探そうとも、そんな彼女が屑どもに絡まれてしまうのはまさに必然である。

 妖魔の力が消えうせた彼女は無力である。少なくとも、そこらのやくざ相手の暴力にも抗する力はない。今の彼女はかつてのような怖いもの知らずではなく、おいそれと危険な場所に近づくような真似はしなかったが……屑と言うのは埃か黴のようにどこにでも現れるらしい。

 三人の屑ヤクザに絡まれてしまった彼女だったが、そこに割って入ったのが件の店主様だったそうだ。腕っ節には自信がなかったが、それでも露骨に剣呑な空気にさらされた女性を見捨てるほど男を止めちゃいないと一念発起し、殴られながらどうにか彼女を逃がしてみせたのはなまじ腕っ節に自信のある男の武勇伝よりも、よっぽど立派な振る舞いである。

 それを切っ掛けに二人は付き合いだしたのは、あるいは必然であるのかも知れない。少なくとも、そこでさようならと言う恩知らずな女ばかりの世の中ではないようだ。

 彼女の勧めで本屋を開いたと言うが、小さな一軒の本屋を開いた事に喜びと充実を感じているのがはっきりとわかる。ちょっと羨ましかった。

 それにしても正直、野心家というか上昇志向の見える南風さんには小さな本屋の従業員も、店主のような性格の男性も合わないんじゃないかと思うのだが、今の彼女は心から店主に惚れ込んでいるように見える。

 彼女には悪いが驚いた。見てくれはともかくとして、エネルギッシュでがつがつとした男を望むと思ったのだ。事実、俺達の出会った事件の中で死んだ彼女の恋人はそういう男だった。

 しかし、彼女は二十も上の温厚そうだが他人を蹴落としてでも上に行くような真似は死んでも出来なさそうな男を選んだ。嘘にも気の迷いにも見えない。

 恩ではこうなるまい。

 例え、かつての事件によって人生観が大きく変わったのだとしてもそれだけでこうなる訳がない。

 彼女に惚れ込まれるだけの心根がこの男にはあるのだと、当人ではなく彼を慕う女が教えてくれる。それはとても凄い事であり、そして素晴らしい事なのではないだろうか。

 安心した。

 嬉しかった。

 南風ひとみが幸福になるのだと素直に信じられる事が、心底嬉しかった。ようやく、肩の荷が下りたと思ったのだ。

「しかし……」

 南風ひとみが南風ひとみである以上、いずれ糞共に集られるのは避けられない事態ではなかろうか。

 フランチェスカとやらに入ったとして、およそ一年弱……それだけあれば、街を綺麗にする事ぐらいは出来そうだ。

 少しやる気の出てきた俺だったが、見学の初見でいきなり心が折れかけた。

 登校中に見つけた胸像が見るもおぞましい造形をしている時点で往路を帰路に変えたくなったが、顔を合わせた担当任教師がいつだったか虎だの兵士だのに囲まれているところを助けた相手だったので更に気が滅入った。

 とどめに、ちらちらと見かけるクラスの連中の内、半分くらいがどっかで見たような……潔く明言すると漢の大地で出会った女共ばかりだったというのは神を呪うに値する事実だろう。

 一人二人なら兎も角、これだけの数は他人のそら似で済みはしない。かと言って別段探る必要もないので、ここは縁がなかったですませておくのが吉だろう。

 途中で見かけた金髪ドリルのちび助や猫耳付きとは目が合ったが、俺を見てあ、だのう、だの奇声を上げた後で首を傾げていた。

 無関係ではないようでますます縁切りの必要性を感じるが、同時にどういう関係なのかもよく分からない。そもそもどういう学校だ、ここは。

 生まれ変わりだとでも言うのか。

 そんな馬鹿なと言ってしまえば、それこそ天に唾を吐く行為だ。

 その辺の話を聞くには、校長だか学園長だかに話を聞くのもありかも知れないが、正直言ってあの怪人に出会ってまで解決する必要性のある疑問でもないのだ。

 適当にお茶を濁して逃げよう。

 心からそう思った俺は、人気のなさそうな図書館の見学を希望した。生憎と、そこには十八才未満厳禁の本を隠している真っ最中のガキンチョが二人ばかりいて、とても静かではなかったが、非生産的な趣味丸出しの本を学校図書館に隠している頭も悪ければろくでもない二人組は、ふわわだのあわわだの奇声を上げつつ教師に連行されていったので、少しは静かな時間を過ごせた。

 そこで、おかしな本を見つけた。

 薄っぺらくて粗末なつくりの本だった。100頁もない一冊の本と言うよりも小冊子と言う方が適切かもしれない程度の本。

 タイトルもない。

 何とはなしに目についたので、そのまま立ち読みをすると中にはタイトルが書かれていた。曰く《三国外史の外史》。

 この学校図書館に置いてある妙に俺の意識を引く本のタイトルとしては、少々ならず狙っているように思えるのは俺の勝手な解釈だろうか。

 隣にもう一冊同じようなタイトル不明の本が置かれているが、こっちは分厚くてごちゃごちゃと豪勢かつ品のない悪趣味な装飾がされている。箔をつけようとして失敗している様が成金じみていて、作った奴が間抜けに思えた。こっちも中にはタイトルが書かれており、《北郷紀 偉大なるご主人様》などと正気を疑う他ない金箔の文字が、堂々ど真ん中に鎮座している。

 何となく、どこかで誰かが太い声で得意げに笑っているような気がした。

 その中身を見てみると、やはりあの天の御使いについての記録……と言うよりも多分に性的な表現も含まれる下品かつ悪趣味な賛辞がぐだぐだと並び、いい加減気色が悪くて一ページも読めやしなかった。

 口直しになるか、それとも輪をかけて気持ち悪くなるか、ギャンブルな気分でもう一冊のしょぼい本を見てみると、そこにはおおよそ想像していた通りの話が淡々と綴られていた。

 俺が存在した漢。その歴史を書き残した歴史書、戦記、手記。それらをごちゃまぜにしたような小説紛いの一冊だった。

 どちらかと言えば機械的に淡々と書かれているおかげで、逆に読みやすい。こう言ってはなんだが、この二冊を書いたのは別人か、そうでなければ文才が根本的に無いんだろう。やる気があるほど失敗するとか何事か。

 まあなんだか随分と説教は長引いているようなので、生徒とは言え客をほったらかすとは何事だと思うが暇つぶしに読ませてもらおう。




 ……中華の大地に漢という国家が旗を翻した時代があった。

 劉という姓が皇帝となり、儒を推奨し、栄華を数百年に渡って誇り続けた国家である。一度は滅び、後世においては後漢と称される復興の後も更にもう一度亡国の危機を迎えたが見事に持ちなおし、更に二百年の命数を保ったと言われる。

 それを成した人物の名を、董卓。相国と言う皇帝に次ぐ地位に立ち、皇帝その人からの信頼も厚く、それでありながら公正無私であり天下国家と人民の為に身を粉にして生涯を報国で貫いたという。

 この時代の特色として文武の境無く女性がとかく名を残した時代であったが、それ以外にも真名と言うものがあり、男性的な名前の裏に女性としての本当の名前を持っているのが常である。そして、董卓もその名と地位にはふさわしからぬ可憐な女性であったと伝えられる。 

 しかして彼女の活躍した時代も決して治世ばかりではなく、特に歴史に名を記し始めた当初は彼女こそが戦乱の中心になってしまっていた。

 皇帝の信任を一身に受ける彼女はそれ故に地位を狙われて、地位をかさに着て私欲の限りに暴虐を尽くしていると流言飛語を流されて、最終的には諸侯の集う連合に首都目指して攻め込まれる事になった。

 これが董卓の生涯において最初にして最大の危機となる。

 その連合には発起人である袁紹をはじめとして、先の大将軍何進、袁術、馬超、曹操、公孫賛、劉備などの黄巾の乱において武功を上げた諸将のほとんどが参加していた。

 董卓は黄巾の乱の際には外部の異民族に睨みを利かせており、また彼女の統治下は善政の結果、黄巾賊が大挙してこなかった事もあり武功を上げたとは言い難かった。

 彼女が功を上げたのは、黄巾の乱直後に起こった何進大将軍と十常侍の政争による混乱において皇帝を保護した事による。

 後漢において、十常侍とは銅臭漂う悪政によって国土を蹂躙した官非の代表とされている。その彼らが目障りな政争相手である何進大将軍の暗殺を実行した混乱に乗じて、時の皇帝は代を変わり少帝劉弁より献帝劉協に移行した。

 董卓はこの献帝を政争の混乱より救出した功により立身出世を成し遂げたが、同時期に同じく首都洛陽において、袁紹もまた何進大将軍の部下として十常侍を討伐していた。袁紹から見れば、功を横取りされたも同然である。

 袁紹により辛くも暗殺より守られた何進は、少帝の血族と言う事で大将軍の地位に抜擢された身でしかなく代替わりにより失脚し、袁紹もまた功を上げたが報われる事はなかった。

 暗殺の場である宮中において実際に手を血に染めたが報われなかった袁紹が、偶然皇帝を保護しただけで功一等となった董卓に反発するにも無理はなかったと、後に董卓自身が述懐した記録が残っている。

 しかし、同時にその尻馬に乗った形で連合を形成し大義名分を笠に着て己の立身出世を目論んだ輩はまさに禽獣のあさましさと言うより他にはないとも書き残している。

 後者の文については後の創作だろうとも言われているが、とまれ連合そのものには負い目は一切なかったようだ。

 また、たとえ理由が何であれ国家に反旗を翻して治に乱を起こそうとした袁家及び反董卓を旗印にした連合に容赦も譲歩も有り得ない。いや、正確にはあってはならないと言うところだろう。

 徹底抗戦の構えをとる董卓は孤立無援であるかと思われたが、そこに手を差し伸べたのが孫家である。

 元々は袁術の客将をしていた孫策率いる一族であったが、この度の戦における大義名分に疑問を抱いて董卓についたと言われている。もっとも、既にその時代帝室の権威は悉く失墜しており、皇帝は宦官の傀儡に過ぎず、そしてそれは周知だった。

 袁家の大義名分を信じている者など皆無。一般の民草ならいざ知らず、諸将にとってはよほどの世間知らず以外には正に適当なお題目以外の何物でも無かった。

 彼ら彼女らの悉くが洛陽への門となる汜水関に集結し、決戦を行った。

 しかして、連合の兵力は正に圧倒的であり董卓に孫家の力が加わっても差は歴然以外の何物でもなく、敗北は避けられない。そして、王朝の守護者である董卓が負ければ、後に残るのは群狼達が欲のままに漢という国を貪り尽くすのみ。

 中華はこのまま諸侯が抱く天下への欲望のままに蹂躙され、荒廃の一途を辿るより他はない。

 識者は悉くそれを予測して、尽きた王朝の命運に涙したという。

 天命は漢を見放した。人々はそう涙した。

 それに拍車をかけた者達がいた。連合側に加わった劉備玄徳とその配下である。漢の高祖の血を引いていると称する劉備はこの時代の例に漏れず女性であり、付き従う将も義姉妹二人に当時まだ幼い軍師が二人であったが、その首脳陣におかしな者が一人いた。 

 天の御遣い、と称する若い男である。

 この反董卓連合の乱が起こる少し前、黄巾の乱の渦中において、管轄という予言者が奇妙な予言をあちこちで吹聴して回っていた。

 曰く、流星と共に乱れた地に平穏をもたらす天の御遣いが現われる。

 我こそが件の天の御遣いその人である、と広言憚らずに兵を集めて義勇軍を組織し、黄巾の乱において一躍雄飛して名を売ったのが劉備とその一党である。

 それまでは揃って無名の在野に過ぎなかった彼女らであるが、果たして天の御遣いと言う名前に人々は何を見たのか、義勇軍は稀に見る規模にまで膨れあがった。学友であった公孫賛の助力もあったとはいえ驚異的だ。

 同時期に黄巾党と呼ばれる類似した組織による一大武装蜂起が起こったにも関わらず、同じような、あるいは最初から武装を前提としたより攻撃的な私設軍の設立が黙認された。そもそも成立した事態はそれだけ国家の求心力が落ちていたからだと言う説がある。ましてや、それが功績を挙げたとは言え国家の運営における一翼を担う事になるとは有り得ない事態だと言い切れる程の話だ。

 当時の中華においては天の御遣いとは皇帝の事であるからだ。正確には天子と呼ばれるが、天の御遣いとは皇帝の代理人を詐称する、あるいは我こそ皇帝その人だと宣言しているに等しい。

 その天の御遣いを名乗る男を中核とした軍勢が功績をどれほど挙げたとしても、危険視されるのが当たり前であり、何故咎められるどころか小なりとはいえ一つの街を納めるポストに立てたのか、後々まで結論の出ない議論の的になっている。最有力の候補は当時の銅臭政治に習い劉備が宦官に多額の献金をしたからだと言われているが、その資金元も献金先も未だに納得のいく答えは提示されていない。

 ともかく、天の御遣いと言う特殊な存在を旗印にした劉備は連合の中でも勢力こそ小さいが有名だった。その彼らが皇帝救出を大義名分に上げているとは言え、公然と首都に攻め上がってくる事実に、劉備が劉姓にして高祖の末裔を称している点もあり帝位を狙っていた可能性を示唆する学者も多い。

 いずれにしても単純な兵力差に始まり董卓、つまり官軍の不利は明白。時流は連合へと傾き、董卓および孫家はもはやまな板の上の鯉も同然であった。

 しかし、ここで時流を覆す人物が現われる。

 今一人の天の御遣いである。

 正確には、天の御遣いと呼ばれる男である。彼は生涯に渡って自らを天の御遣いと名乗る事はなく、むしろそれを忌避していた。彼をそう呼んでいたのは、あくまでも周囲でしかない。

 このもう一人の天の御遣いこそが、後々まで続く董卓による漢の繁栄を導いた戦勝の立役者である。

 彼は忽然と戦の渦中に現われ、あっと言う間に戦況を覆して董卓および孫家を勝利に導いて見せた。その神がかった力に、人々は彼こそ本当の天の御遣いよと讃え、崇めた。現在の中国では天の御遣いと言えば彼の事である。

 しかしこの男は多大な功績を挙げているというのに前歴どころか名前さえも記録には残されておらず、実在を危ぶまれている謎の人物として後世に謎を投げかけている。
 


「…………」

 何だろうか、果てしなく厭な予感がした俺は一度ページをめくる手を止めた。

 この先を読んではならないと本能が警告するが、同時に本能は知らずにおけるかと要求してくる。

 しばらくの逡巡の後、俺は意を決してページをめくった。



 二人の天の御遣いは、共に唐突に時代の渦中に現われた。

 彼らは同時期に姿を現しているが、それぞれの立場は敵対していた連合の乱に見るように非常に対照的であり、それぞれの行動、及び能力もまた示し合わせたように対照的で歴史学者にとっては非常に興味深い研究テーマを提供し、講談や京劇、映画などでも多く取り上げられるが謎は多く、人物像も基本はあれど多くのバリエーションが見られ、後世の人々を楽しませている。

 まずは劉備軍の天の御遣いだが、こちらは周囲に存在を喧伝した事もあり、ある程度詳細な記録が残されている。

 名前は北郷一刀といい、当時の漢と後の中国の歴史上では実に珍しいどころか他に類を見ない奇妙な名前を名乗るたいそう凛々しい面差しの青年だったようだ。光を受けて輝く特殊な造りの衣装を身にまとい、その衣装を用いて自分は天の御使いであると周囲にアピールして劉備軍成立の助けをして歴史に登場している。

 残念ながらその衣装は現存しておらず、図解も存在せず何で作られていたのかどういう形状であったのかも不明となっているが、当時の劉備一行において内政を取り仕切っていた諸葛亮の残した記録では、前述のように純白で光を浴びるとそれを受けて輝く服であったらしい。また、記録されている形状が当時の漢における民族衣装と言うよりも二十世紀の洋服のようであり、類似した衣服を使用している人物は誰も確認されず、どこの誰が考案したのか未だに謎となっている。

 名前の形式も独特どころか全く符合しておらず、当時の重要な慣習である真名を持たず、まるで後世の日本人のようだ。

 おかげでSFマニアからはしばしばタイムスリップしてきた日本人として扱われているが、それ以外にも当時の漢においては他の誰もしなかった堂々と天の御使いを名乗る点に代表する内面の非常識さも、彼が異邦人と言われる一因となっている。

 彼の劉備軍におけるポジションであるが、義勇軍の頃から一貫して戦時及び平時に公式な役職を持って奉公していた記録はない。

 にも拘らず、要職にある名家の某かに出会った際にもまるで対等、あるいは自分が上であるかのような言動をとり続けていたらしく、人によってはさすが天の御使いよと褒めたたえ、人によっては非常識な小僧と蔑んでいた。

 さて、そんな彼だが公職に身を置いていないとなると日ごろ一体何をしていたのか、何ができたのか、それについては一切の記録がない。文武に優れていたという記録は存在せず、ただ容貌と衣装のみが取り上げられており、おそらくは本当に宗教的な象徴、神輿だったのだと考えられている。同様に、決して配下たちより文武に優れていたとは言えない劉備玄徳も彼らの象徴のようなものだったと考えられている。

 劉備は義勇軍を結成する際より一貫して掲げていたスローガンに“万民の幸福の為に”と掲げており、それはまさに宗教である。

 幸福の為に何をするのか明確にされてはいなかったが、それもまた宗教らしい。

 人によっては彼女を思想家と呼ぶが、彼女は決して思想家ではない。天の御使いと言う偶像を掲げた点もそうだが、そう呼べない程に彼女の掲げる言葉は曖昧で大雑把だからだ。しかし、あまりにも大雑把だからこそ彼女の言葉を聞いた聴衆は、言葉の隙間に自分にとって都合のいい展開を期待して劉備を支持した。

 事実、彼女の人気は非常に高かったらしく黄巾党打倒から反董卓連合までの間には仁君として一地方に限られてはいるが高く評価されている。

 それまでただの一般人でしかない劉備とその一行が、あっという間に人々に支持されるだけの内政における手腕を見せるというのも驚いた話だが、これは彼女たちの有能さと同時に前任者の無能ならぬ有害さを示している。

 当時に限らない話だが漢においても役人とは不正と賄賂の温床であり、役人が立場を笠に着て私腹を肥やすのはもはや当たり前と言えた。しかし、劉備たちは決してそれをしなかった。当たり前の事を当たり前にする事が驚かれるほどに、当時の漢は腐っていたのである。

 誤解を招きそうな書き方になってしまったが、彼女らは不正に奔らないだけではなく実際に有能だった事も明記しておく。街を運営するには逆境に等しい当時の状況で、生き残りの黄巾や無関係の山賊を退治して安全を確保し、流通を整備して人々に生活をできる環境を提供したのは素人ができる話ではない。そこには並ならない苦労があったのだろうが、助けになったのは劉備の人徳と、何よりも天の御使いの名前だった。

 北郷が容貌と衣装で、劉備は姓と人徳で人を集め勢力を確保していったのだが、特に北郷の存在は、言い方は悪いが民衆を取り込むには実に有効だった。

 天の御遣いと言う悪く言えば正体不明で得体が知れない、よく言えば神がかった超常の存在に民衆は一斉にすがった。

 一種の“苦しい時の神頼み”と言えるかも知れないが、これは同時に漢に対する民衆の失望を逆説的に記していたと言える。

 こう考えると、北郷の能力について記録が残されていないのも意図的だと考えられる。彼はあくまでも超常なる天の御遣いであり、人ではいけなかった。文武に能力を示してしまえば、人になってしまうのは避けられない。おそらく、北郷に文武の才はなかったのだろう。少なくとも、例え噂だけでも他を隔絶する人の領域を超えたと喧伝できる程に秀でた人物はなかったはずだ。

 そして同様に、信仰の象徴が持っていなければならない何らかの神秘的な奇跡を起こす事も、もちろんできなかった。例えばキリスト教におけるイエスのように、罪人の為に自らが罪を被るような振る舞いも、その後復活を遂げるような奇跡を起こす事もなかった。

 彼にとっての奇跡とは、どこかの誰かが触れ回った予言に乗っかる事と不可思議な衣裳、それだけでしか無かった。その予言者管轄と北郷は同一人物であったと言う説も、昔から根強く語られている。

 北郷には前歴が全く存在せず、出身も血族も不明である。おそらくは、何者かが騙った存在しない人間と言うのが今の定説となっており、その何者かが管轄自身だとしてもおかしくはない。

 他にも彼の正体には奇説珍説は数多く、劉備達を騙した詐欺師である、また逆に劉備達に御輿に担ぎ上げられた名も無き哀れな民だとも言われている。最も下世話なものは、彼が劉備達をたらし込んだ男妾であると言う物で、劉備とその義妹は天の御使いの名前を騙った北郷と共に色欲の限りを尽くしていたと言うが、それはせいぜい彼らが男一人に残りが女性という極端な男女比であった為に出てきた誹謗中傷だろう。
 
 他陣営の将兵が見ている前でも気にかける様子もなく、まるで逢い引きの最中のような言動をとっていたと曹操の配下随一の知恵袋と言われている荀彧が、極めて攻撃的な文章で書き残しているが、彼女は他に類を見ない性差別主義者として有名で、天の御遣い北郷に対しても相当な色眼鏡がついているのだろうと考えられている。

 それ以外では、劉備軍の幾人かが残した記録ではその悉くが、何もしていない、あるいは出来ないのかも知れない北郷こと天の御遣いを容貌や心根ばかり極端に取り上げて褒め称えているのがおかしい。

 または褒め方がどうも臣が主君を持ち上げていると言うよりも、女が男を褒めているようにしか見えないと言う後世の分析もあるが、前者はともかく後者は誹謗中傷の域を出るものではなく、結局彼は現在のところどんな資料を探っても、歴史の闇に埋もれた正体不明の宗教的な偶像でしかない。

 対して、もう一人の名も知れない男の方はどうか。

 名前も知られていない正体不明の男。存在自体が怪しまれている男だが、彼の記録は当時の高名な人物が残した様々な資料に明記されており、実在は間違いないようだ。

 彼は北郷のように過剰に容姿や内面を掘り下げて描かれても褒められてもおらず、極めて端的に一本の木剣を携えた奇妙な格好の若者と、資料には記されている。どのように奇妙であったのかは董卓の残した資料には書かれていない。

 彼が歴史に登場したのは北郷と同じ黄巾の乱であり、旅人として各地を回りつつ出くわした黄巾党を捕縛したらしい。

 たった一人で、しかも殺さずに千人強を捕らえてと言うから冗談のような話だが捕らえた黄巾党を突き出した記録が残っており、事実なのは間違いない。旅をしていた目的は定かではなく、恐らくは黄巾党に故郷を焼かれるなどで流民となったのではないかと考えられている。

 しかし、何よりも不思議なのは捕縛であり討伐では無いと言うところだ。

 討伐でも十分に信じがたい働きだが、いったいどうして捕縛なのか。明らかに難易な選択肢を選べる技量もすさまじいが、その必要が一体どこにあったのか。黄巾党を討伐することは決して違法ではない為に、それが法に則った行動と言うわけでもないのだ。

 いったい彼が何に拘ったのかは不明であるが、それ以上に不可思議な話もあり、この時に捕らえられた黄巾の男たちは悉くが幻に悩まされていたのだと伝えられている。

 彼らはこれまでに殺してきた人々と同じように殺される幻に終始悩まされ続けていたと言うのだ。それはさながら祟りのようでもあり、あるいは天罰のようでもある。

 この奇妙な現象から彼の存在は人知れず噂の端に乗るようになったが、彼自身が特に自分の存在をアピールするような事はなく、噂どまりでしかなかった。

 彼が明確に人々の前に姿を現したのは、黄巾の乱終結の一大決戦の際である。彼はその戦いの中で後に勇名悪名、様々に名を馳せる多くの英傑と顔をあわせている。

 反董卓連合に参加するも、途中で脱けて生き延びた公孫賛とその配下、趙雲。

 反董卓連合の中核であり、敗退により失墜した曹操とその配下。

 董卓についた江東の小覇王孫策とその両腕、黄蓋と周瑜。

 そして、天の御遣いと劉備の二頭体制が独特な劉備陣営の面々との出会いがあったらしいが概ね諍いの方が多く、北郷が大体の陣営に友好的に出会っていたのとは対照的に友好的と言えるのは後に江東を中心とした広大な領地を手に入れる孫策達ぐらいだったらしい。

 それを理由に、彼は異性受けしない容貌だったのではないかと言う説もある。何かと対照的な北郷が特に容貌を褒め称えられているおかげで、今では半ば定説ともなっている。




「とりあえず、北郷殺すか?」

 諸々の八つ当たりを含めて、七対三の本気で呟いた。まあ、どこにいるかもわからないのだから自重はしておく。

 一息をついて落ち着いてから、奇妙な事に気が付いた。

「なんだかおかしな記述だな。まるでオカルティックな技術や話が架空の代物みたいじゃないか」

 “区外”でも浸透はしているよな。ああ、“魔震”以前に書かれたのか?



 この時の彼の行動については、周瑜の残した記録に残されている。

 周瑜と言えば後漢でも特に名の知られた知恵者であり、比肩しうるのは董卓の懐刀と呼ばれた賈駆のみである。極めて聡明であり同時に冷徹とも謳われる女性だったが、ここで彼女が残した記録は実に突拍子のない手記であり、今もって疑惑のタネとして論争の的となっている。

 曰く、吸血鬼。

 黄巾の砦に挑む決戦前日の夜、彼と諸将は顔を合わせた。前述の内、劉備達を除く面々が一堂に会したのは、行軍中に紛れ込んだ奇妙な若者を見つけて噂の木剣を持った男を連想したからだ。

 その時、彼はおかしな事を言い残して消えたと言う。

 かつて妲己と呼ばれた女が吸血鬼となって潜伏している。

 質の悪い冗談のような話を残して消えたと複数の証言が残されているが、消え方もまたおかしく“突如発生した血の池から生まれた腕に地の底に引きずり込まれた”と言うのだ。 

 他にも、荀彧の暴言に怒り目にも止まらない速さで脳天を一撃した。その痛みは彼が消すまで絶え間なく続いた。

 奇妙な光の矢を天高くまで届かせた。

 そんな正しくおとぎ話のような逸話が残されている。これらの荒唐無稽なエピソードばかりが目立ち、彼の人間性や容貌の記述は少ない。これが残された大体の記録に共通しているので、研究者の悩みの種ともなっている。

 繰り返すが、これらは後に対峙する複数の陣営がそれぞれ残した記録である。また、この記録には当然ながら各陣営ごとに違いが出てくるが、公孫賛の残した記録には、趙雲が光の矢で鋼鉄の門を破壊したのを目撃した。その際に手も触れずに趙雲を羽のように宙に飛ばしたと言うエピソードや、孫家には曹操が黄巾の残党を自陣に引き込む為に替え玉を用意して味方を騙してまで張角兄弟を生かして捕らえたが、彼らは吸血鬼となって陣を荒らし回り、件の“もう一人の天の御遣い”によって倒されたと記されている。

 また、公孫賛の残した記録の中には彼女の戒めとした述懐が書き記しされており、その中で彼は義勇軍の兵士が起こした子供を被害者とした殺人事件で天の御遣いや劉備達と対立している。

 その際にも、劉備の義妹である武将、関羽と張飛をあっと言う間に取り押さえたというのはともかくとして、剣で切られても血も流さなかった、一踏みで地震を起こしたと随分なエピソードまで書かれている。

 それこそ記録と言うよりも神話や伝説の類に思えるが、書いたのは要職にある公孫賛や、知性をもって鳴る周瑜だ。それがこんな文章を残すなどと言う事があるだろうか。示し合わせてふざけたにしても、彼女らはそう言った関係にはない。むしろ後々には敵対していたほどだ。

 これ以外にも、彼と董卓の最初の縁もまた奇妙な事件の中で結ばれている。

 黄巾の乱の直後、洛陽において奇妙な犬による獣害事件が起こったのだが、それが風より速く走る虎より大きな不死身の犬だというのだ。

 それこそコナン・ドイルの推理小説に出てくるバスカヴィル家の魔犬のようだが、なんと後々天下無双の武人として知られる呂布や、当時最高の名将とも呼ばれる張遼、そして呂布の側近である陳宮までもがこの奇怪な事件の被害者として名前を挙げられているのは有名な話だ。

 そもそも事の始まりは、呂布の飼い犬や飼い猫が行方不明となった事に始まる。動物好きとして多くの犬猫を飼っている事で知られる呂布は自ら愛犬愛猫を探し回ったが、どこにも見当らない。方々をあてどなく探している内に、彼女が見つけたのは自分の犬猫を食い殺してしまった巨大な犬だった。

 もちろん悪犬に誅罰を加えようとしたのは当然な話の流れだが、まさか彼女の方が吹き飛ばされるなどとは想像もつかなかったに違いない。それでも彼女まで犠牲にはならずにやり返したのは面目躍如と言ってもいいだろうか。いずれにしても、個人の武であれば押しも押されもしない誰もが認める当代随一の武将に痛撃を浴びせて逃げおおせるというのはどう考えても尋常ではない。

 この犬の正体は、話を盛り上げるために大げさに記録されているだけ。あるいはそもそも全くの架空の話であるとも言われており、実際に記録を残したのが董卓でなければただの面白い漫談で終わっただろう。

 ともかく、その野犬退治に参加したのが件の青年である。一体どこで話を耳にしたのかはかは知らないが、彼は野犬退治を決めた呂布と張遼、そして陳宮に参加を提案したのだが一蹴され、諦めきれずに後をつけて行ったとなかなか情けないエピソードが伝えられている。

 それは義侠心からなのか、それとも士官や報酬目当てなのかは後世、彼の事を取り上げた様々な書籍によって大きく分かれているところだが、恐らくお節介なのだろうと結論は出されている。

 彼は見事狂犬を退治した後、特に士官をせず、かと言って報酬も受け取らずに消えているからだ。これには一説に、呂布や陳宮、張遼たちと折り合いが悪かったからだとも言われている。

 その後、彼は洛陽に来訪した孫策からの依頼により、彼女の妹である孫権の救出に同行する。孫権は、母親の戦死により失墜した孫家の後釜に座った袁術の元で体のいい人質としての日々を余儀なくされていたのだ。

 風来坊と言って差し支えのない男に随分と重要な役割を頼んだものだが、元々彼らは知り合いだったらしい。孫策はよく市井で遊び歩くらしく、その際に決闘騒ぎを起こした。たまたま相手に選ばれたのが件の木剣男であったらしい。その勝負は孫策の敗北で、それ以来自分を負かした男を孫家に引き入れるべく探していたのだと言う。

 だが、それだけではなく文を好まなかったらしい孫策自筆の回顧録のようなものに当時の袁家の状態を書き記されているのが発見されているのだが、そこでは袁家が吸血鬼に乗っ取られたと明記されているのだ。

 袁術の元に当時は珍しい男の武将が仕官したのだが、この男が吸血鬼であり袁家を乗っ取ったのだと確かに記されている。

 名を劉貴。

 目を見張る精悍な益荒男であり、公孫賛の部下、趙雲や孫家の周泰を手も触れずに吹き飛ばして瀕死に追い込み、曹操らの不興を買った際に首を衆目の前で刎ねられてすぐにくっつき平然としている怪人だったという。

 このように、もう一人の天の御遣いの逸話は、悉くが眉唾ものの怪奇小説のようなエピソードばかりであり質の悪い冗談だと言いたいが、残している筆者が当時の著名人ばかりで一人としてほら話を吹聴するような人物では無い。乱心したとは思えないほど明晰な文章で書かれ、彼女らは生涯にわたって怪異や神秘に傾倒したという記録はない。むしろ全員、天の御遣いのせいでそのような類は敏感に否定していた。

 否定したくてもしきれない堅実な歴史家は、北郷の場合以上に眉をひそめて敬遠するのが常である。

 逆に娯楽としての需要は高く、市井では西遊記などの知らない方がおかしい有名どころには一歩劣るが、昔から親しまれている冒険活劇の一つともなっている。

 さて、その袁家からの孫権救出は首尾よく済ませたらしいが、その際に孫権と、そして護衛として側にいた甘寧からも彼は嫌われていたらしい。そもそものきっかけが彼の立場があまりにも信用できないからだったそうだが、どうも彼は出会う女性の悉くから嫌悪感を持たれているような記述が多く、当人の性格にも問題は多々あったのだろうと推測されている。

 天の御遣い北郷は言うに及ばず異性からの人気は高く、件の袁家の武将でさえ孫権との悲恋物語が語り継がれているというのに、彼だけは好感を持たれるよりも剣呑な関係になっている記録が目立つからだ。

 ただ、孫権と甘寧を除いた江東の女性と董卓側の張遼とはそれなりに懇意にしていたらしく好意的な評価が残されている。

 董卓や彼女の臣下が書き残した資料には彼の人間性を記述したものはほぼ皆無であり、他の陣営はむしろ否定的なものが目立つが、孫家の残した資料の中には我が身を省みず人を助ける。その際には報酬も感謝さえも求めないと好意的な記録が目立つ。ただし面倒な人物であるとも書かれており、人助けに命を賭けたりする一方で他者との関係を良好にする努力を怠りがちでもあるとも書かれている。

 彼はあくまでも旅人として自分を位置付けており、人間関係がどうなろうとも気にしていないようだと書かれている。自分の立場をそのように固定しているから、言いにくい事も必要があればはっきりと言ってしまい、それでこじれた関係を修復する努力はしない。

 また人の好意を受け取る事を避けるきらいがあり、助けられた恩に報いる為に真名を預けられた際にそれを断り、恩で真名を預けられるわけにはいかないと返している。

 これは非常に問題のある行動であり、争いになっても仕方が無い礼儀と常識に欠ける行為であった。また、当時の階級社会において非常識な言動を繰り返しており、それらは天の御遣い北郷と同様である。

 北郷が自分を天の御遣いとして社会の常識や権威の通用しない存在として認識している、あるいはそもそも礼節に欠けている節が見られるのに対し、彼の場合は自分を社会から外れた風来坊であるからと、わかっていて無視しているようだと周瑜が書き残している。

 宗教家とアウトローのような違いと言うところだろうか。いずれにしても、当時の社会においてはかなりのトラブルメーカーだった事は想像に難くない。

 そんな彼だったが敬意を払う相手はいたらしく、たまたま出会った同じ旅人の二人組には強く敬意を表し下には置かない扱いだったと賈駆が愚痴混じりに残している。

 彼らの内一人は剣士であり、もう一人は医師として旅暮らしをしていたそうだが、名前は是無理亜と匍禹巣他巣と書かれており、どう考えても当て字である。恐らく、当時は少し珍しい西洋人だったと思われるが、医師は当時の水準で特に高度な文化を誇った漢でも匙を投げられた周瑜の難病をいともあっさりと治して見せたらしく、その後の汜水関で行った兵士達への治療も神がかっていた為に医療の神として江東を中心に崇められている。

 周瑜の病気は症状からして恐らくは結核の類と思われ、これは近代まで不治の難病の代名詞だった。彼はそれを一晩で治療したと書かれている。さすがに誇張だろうが、治療がなされたのは間違いないようだ。

 彼もまた旅人であり、その医療が広められたわけではないのは後々まで広く惜しまれた。

 通常、これ程の医療技術を持っている人間を簡単に市井に放つような為政者はいないだろう。それが目の前で身内を相手に結果を出したのならばなおのことだ。

 しかし彼らは揃って、汜水関の戦い以降姿を眩ませてしまったのだ。何処に行ったのかはまるでわからない。

 これは、中国史上最も謎に満ちていると言われる汜水関防衛戦の秘密その物に深く関わっている。

 汜水関防衛戦と言えば、おおよそ一般常識として中国のみならず世界中でも知られている一大戦争である。その理由はやはり、開戦から終戦までが謎に満ちているからだ。正確に言うと、記録がしっかりと残されている当時の戦争とは全く異なった、まるで殷周革命のような神話か伝説さながらの記録しか残されなかったからである。

 そして、その中心にいるのが件のもう一人の天の御遣いこと木剣を携えた旅人だった。

 この戦争の中で、彼は正に物語の主人公のように戦場を好き勝手にかき回した。手に持った木刀で騎兵の放った矢を天空に張り付けただの、大地を真っ二つに切り裂いただの、前述した袁術の将である劉貴に果たし状を出して、双方の軍を止めた上で観衆に決闘したりと正にやりたい放題である。おまけに、この決闘を各陣営の主要人物も身の危険を顧みずに、残らず見物に行ったと言うから訳が分からない。

 あるいは、この戦いの結果如何が戦局を左右する約定でも結んだのではないのかとも考えられるが、実はこの時、袁術の将はともかく彼個人は董卓にも孫策にも仕えるどころか雇われてもいないのだ。

 終いには彼から後光が差し、夜にも関わらず昼のように戦場を照らしながら決闘に勝利したなどと言うのだから、もはや聖人か何かのようだ。

 この現象もまた諸侯を始めとして数多くの兵士達が目の当たりにして語り継ぎ、彼こそが本当の天の御遣いだと言われる由来になったのである。

 北郷は自らを天の御遣いと名乗ったが何か実力を披露したわけではなかった。対して、彼は天の御遣いと呼ばれると嫌悪を顕わにしたようだがそれ以外の何者でも無いと言われる力か現象を衆目に見せつけたのである。

 つくづく対照的な二人だったが、ここで明暗が分かれた。この決闘の後、反董卓連合の兵士たちのうち劉備軍と曹操軍が自分たちの上にいる諸侯に反旗を翻し、他の軍の兵士も士気がガタ落ちで無気力とさえ言える状態となり沈黙を守った。

 反董卓連合は、自滅と言う形で終結を迎えたのである。例外は、決闘前に兵を引いて自領へと引き返した公孫賛のみ。だが、一体なぜ兵士たちは将に反旗を翻したのかはハッキリとしていない。

 通説では“本当の天の御使い”の光を目撃して目が覚めた、などと言われているがそれでは天の御使いに導かれて参戦した劉備軍の兵士たちはともかく、曹操軍の兵士達まで暴走するには弱く、これもまた謎となっている。とにもかくにも、謎ばかりの戦争なのだ。

 さて、この戦争自体が、繰り返し書いたように袁紹を始めとする諸侯が皇帝の寵臣となって飛躍した董卓を嫉み、自らが取って代わろうとした、あるいは皇帝を廃嫡しようとさえした不忠の極みを発端としている。

 黄巾の乱を乗り越えて董卓の手腕により平和を取り戻しつつあった民にとっては正に迷惑千万と言ったところだったろうが、実際に勝機が大きかったのはどちらかと言えば、やはり諸侯の方だった。

 まず兵力その物が段違いであり、統率する将も数が違う。皇帝に弓引く大義名分を手に入れ、曹操などは残された手記などから将来的な簒奪を狙っていた事も分かっており、例え皇帝その人が戦場に出ていたとしても彼らは止まらなかっただろう。

 既に漢王朝の権威は地に落ち、地方では国などない方がマシと言うほどの衰退ぶりを示していた。仮に連合が勝利したのであれば、例え皇帝を弑逆し国を滅ぼしたとしても民衆は最終的に受け入れたに違いない。

 董卓の優位は汜水関に代表される地形の有利、それだけしかなかった彼女らに敗北はむしろ必至と言えた。

 それを覆したのが名将でも名君でもない、どこの誰とも知れないたった一人の旅人だなどとは冗談のような話としか言えない。

 おまけに、決戦の終わりがひどく曖昧で当事者もよくわからない状態になっているような記述であり、兵士たちの暴徒化以降はいったい何がどうなったのか誰にもわからなくなっているのだ。おそらくは全員が我を忘れたほどの泥沼の状態だったのだろうと推察できるのだが、更にわからないのは賈駆と董卓さえもがその場にいたらしいのだ。

 彼女らも元々武将であり軍師でもある。戦場にいてもおかしくはないが、少なくともこの時彼女らは洛陽で日常の政務と後方支援に勤しんでにいたのはハッキリしている。つまり、この二人は長く見ても数時間程度で洛陽から汜水関まで移動した事になるのだ。

 ついでに、公孫賛と趙雲も何故だか同じように戦場に戻ってきたらしい。寝返りと言うわけでもなく、当人は妖術使いに拐かされてしまったと悔しそうな述懐を残している。

 先ほど通説と書いたが、そもそもこれらのような滅茶苦茶な展開を書き残している記録など信用できるはずもなく、今でも隠された真実を追い求めている学者も多い。

 ともあれ、訳が分からない展開は汜水関の戦いが董卓の勝利に終わったと同時に終結する。それは当時の人々のみならず、後世の知識人にとっても幸いであった事が間違いない。

 さて、件の天の御遣いは名乗った北郷も名乗らなかった木剣の男もこの終戦をもって歴史から名を消す。

 北郷はこの時、暴徒と化した兵士達の手で殺されたとも何らかの理由で恐慌状態になった関羽や張飛の手で殺されたとも言われているが、いずれにしてもこの戦争を乗り越えられなかった事は確かである。また、この恐慌状態というのが原因こそ不明だが、後々まで終戦時の記録が残っていない理由と同じだと言われている。

 もしもこれが真相なら、終戦のみならず一連の戦いを通して正確な記録が残っていない理由は彼女らが“恐慌状態になった理由”をよほど思い出したくもなかったからに違いない。この隠された真相こそ戦争の謎を明かす最大のポイントなのは明々白々であり、同時にどうしても理由の分からない最大の謎ともなっている。

 さて、汜水関防衛戦後の彼らはその後、董卓と孫家は栄華を極め、反董卓連合に属した面々はほとんどが没落の憂き目を見る事になる。

 董卓はその後も位人臣を極めた相国の地位を安泰とし、漢の発展に尽くして生涯を過ごした。立場上質素とは言えなかったが、地位から見れば驚くほど小さな屋敷で華美とは無縁の生活を送っていた。

 しかし当時大きな勢力であった清流派の代表孔融は、そんな董卓を地位に固執して権にも執すると声高に批判する。この声に反董卓連合を思い出した董卓は漢が分裂するのを恐れて、職を辞する。

 しかしそれによって生まれた混乱は大きく、しかも孔融を始めとして董卓を離職に追いやった清流派は全く責任をとらず逆にそれもまた董卓の責任、不徳と罵る始末だった。

 業を煮やした賈駆の手により孔融の処刑が決行されるのだが、孔子の子孫である孔融の名声は高く、董卓を呼び戻すどころか賈駆もまた失墜して職を辞する事になる。

 国家を運営できる能吏の要が消えた混乱は大きく、その後漢は再び権威を失うかと思われたが、後に司馬仲達が参内し辣腕を振るって国家の立て直しに成功する。だが董卓を欠いた事による国政の失速は明らかであり、そこを激しく糾弾して清流派の跳梁を掣肘した。
 
 その後、董卓の復職を願ったが彼女はそれを拒み、長年の友である賈駆と故郷の土に還る道を選択して残った生涯を穏やかに過ごしていく。

 賈駆もまた、一時は董卓を再び躍進の道に立たせようと言葉を尽くしたそうだが董卓の意思は固く諦めて彼女と共に故郷に骨を埋める事となる。

 董卓の武官として有名な呂布と張遼は、連合の残党を族滅してからは長らく異民族を相手取る涼州近郊の最前線に腰を据えた。

 かつては武門の誉れ高い馬家が納めていたのだが、嫡子である馬超が連合に参加したおかげで処罰を免れなかった為にこの重要地を任せるに値せずと判断され、領地替え。当主である馬騰は永蟄居となり、衰退した家は馬超の従姉妹、馬岱が継いだ。

 馬家に替われる武将として請われたのだが、当人達も洛陽暮らしよりも前線の方が性に合っていたと見えて滅多な事では前線を離れる事は無かった。それは汜水関防衛戦で出番のなかった華雄も同様であり、彼女はかの大戦で武功のなかった鬱憤を晴らすかのように常に先陣で暴れ回り、異民族には鬼と同義で扱われる事になる。

 陳宮も生涯を呂布と共に過ごし、離れる事は決して無かった。

 孫家は袁術の治めていた江東をそっくり受け継ぎ、見事孫堅の代から失った全てを取り戻す。だが孫策は連合の残党を掃討すると、さっさと跡目を孫権に譲って早すぎる隠居生活に入ってしまう。

 乱は自分に、治は孫権にと言い残して気楽な風来坊生活を送りつつたまに小遣いをせびるような日々を送っていたそうだ。周瑜は孫権を補佐しつつも後進を育成し、後を任せられると判断してからは親友と行動を共にした。しかし彼女の後釜は誰も一人ではこなしきれず、最低でも五人は必要とされたと逸話が残されており後々まで復職の要請は途絶える事がなかったという。

 そんな彼女達の放蕩ぶりに対して割を食ったのが黄蓋で、彼女は最後まで孫家を支え続けた。そんな彼女にとっての最大の楽しみはたまに帰ってくる孫策や周瑜と酒を酌み交わす事であり、最高に腹立たしいのは人が働いているのを横目に昼間から大酒を食らっている孫策の姿だった。
 
 孫権と腹心である甘寧、周泰を始めとする次代の孫家を担う若手は順調に成長して家を盛りたてていく。しかし、孫権はかつて想いを寄せた敵将をいつまでも忘れる事が出来ず、最終的に孫家は末妹の孫尚香の子が継いでいく事になった。

 そんな彼女の一途な悲恋は物語としての人気が高く、後世の女性達の心を離さない根強い人気を誇っている。 
 
 反董卓連合に参加した面々は、当然のことながら悉くが処刑される事になる。袁紹、袁術を始めとして何進、曹操、劉備、馬超などの代表格は元より彼女らの部下も含めて一大粛正劇となった。

 彼女達は多くが有能な武官文官であり、有為な人材を失う事を惜しむ声も上がったが賈駆の“いかに有能なれど謀反人を生かすに値する能など無い”との強い要請により首を落とされる事になる。

 賈駆の要請のみならず、当の彼女らが敗戦により廃人と言っても差し支えないほどに極めて無気力な状態となっており惜しむ声も力を失ったのだが、ここで周瑜が目を引く言葉を残している。

 曰く“欲に溺れて信頼と忠誠に結ばれていた主従がこの上なく醜い骨肉の争いを見せた。彼女らの繋がりは断金であったかも知れないが、自らそれを砕いた。もはや彼女達には何よりも自分自身が信じられぬであろう。自分に自信を持って生きていた者ほど心がへし折れている。生かしておいても何も成し遂げられぬ”と記している。

 彼女の言う通り、黄巾の乱において特に高い実力と強い繋がりを見せたはずの劉備と曹操の主従は処刑場で顔を合わせてもまるで互いを恐れるように目も合わせられず、無抵抗で落とされた首には安堵の笑みさえ浮かんでいたと言われる。

 対して、袁家の主従は董卓に呪いを残して死んでいった。しかし、名門に相応しく毒酒を前にした際には潔く杯を呷ったという。

 何進は当時無位無冠であり、戦争中もただ従軍しただけである。その為恩赦の声も上がったが、当の何進本人が天下に身の置き所なしと辞退し袁紹と同じ盃で毒酒を呷って人生に幕を下ろした。かつて自分を助けた部下、袁紹との間に生まれた友誼故と人々が何進の潔さを褒め称えたのは皮肉だろうか。

 さて、こうしてほとんどが首を落とされ、没収された私財が漢を立て直す財源となった反董卓連合であるが、全員がここで人生を終えたわけではない。例外として途中で離脱した公孫賛は生き延びている。

 彼女は皇帝の前で安易な出兵をした不明と不忠を謝罪し、降格や領地没収を始めとする様々な処罰を受けたものの後年は逆境にもめげない地道で堅実な忠勤ぶりが評価され、幽州に元の鞘で返り咲いている。

 彼女の部下として趙雲もまた公私に渡り公孫賛を支え続けたが、復興に向けて治世に重きを置くようになった漢に一度反旗を翻した彼女は自慢の槍働きの披露をする場所もなく、日々鬱屈を溜めていたらしい。稀に市中に現われてやくざ者を相手に大暴れをする怪人、あるいは変人は彼女の変装だと言い伝えられている。

 さて、最後に天の御遣いの二人だが、汜水関の戦いを最後に二人とも行方不明となっている。北郷は汜水関で戦死したというのが公式の記録となっているが、死体は見付かっていない。極めて特殊な服を着ているのだから見つかりそうなものだが、暴走した兵士達に襲われたというので見る影もなくなったのだろうと言われている。

 木剣の御遣いは、いつの間にか消えてしまったと到って煮え切らない最後になっているのだが、当時まことしやかに囁かれていた噂話があった。

 涼州に戦後の混乱期にどこからともなく流れてきた奇妙な剣を使う男がおり、それが汜水関防衛戦において暴れ回った木剣の男だと言う噂だ。

 彼は近所の少年達に剣術を教えつつ、賊の類がでれば瞬く間に取り押さえて賞金を稼ぐという日々を送ったらしいが、そんな彼の元にはよく張遼や華雄、そして呂布までもが通い詰めて剣を交わしていたらしい。

 また、孫策や周瑜も隠居後はかなりの頻度で顔を出しており、半ば居候を決め込んでいたとも言われている。後々、彼女らは子供を産んだのだが相手はその風来坊であり、そして彼は一時期漢を騒がせていた後光がさす木剣の男と同一人物だと言われている。

 しかし、実は彼女らの誰一人として子供を産んだという記録は公式には残っておらず、恐らくは奇妙な噂を面白がった民衆の流した無責任な都市伝説の類だと思われる。




「当たり前だ」 

 思わず叫びたくなり、それだけは自重したが声に出すのは止められなかった。巫山戯ているにも程がある文章に思わず本を引き裂きそうになったが、物には罪がないので自重する。しかし、作者に出会った際には自重できる自信はないし、そのつもりも全く無いと胸を張って宣言できてしまうほどに俺は怒りに震えていた。

「色々言いたい事ばかりの話だが……特に何だ、最後のは」 

 みっともなくも不気味に独り言を呟くのも無理はない。ひたすら嫌われていた俺がどうして複数の女との間に子供を作れるのか。そもそも、そんなに無責任かつ無節操に腰を振りまくるような屑じゃねぇ。これを書いた奴は、北郷にもだが俺にも多大な悪意を持っているんだろう。

「それは、あの外史が続いたらどうなっていたかをシミュレーションした物よぉん。ちなみにご主人様の方は実際に起きた事の記録」

 気が付いた時には、巫山戯た本越しに渾身の右拳が突如背後に現われた男の顔面に突き刺さっていた。我ながら、理想的な腰の入り方をしたいい上段突きだった。

「ぼげべぇッ!?」 

 素っ頓狂と言うにも当てはまらないような耳触りな悲鳴を上げて倒れたのは、どこか見覚えがある……と言うよりも、忘れられないようなインパクトの固まりである一人の大男だった。

「なぁにをさらすんじゃ、こらあああっっ!」

「いきなりピンクのブーメランパンツ一丁の大男がしなを作って背後に立つ。殴る以外の選択肢には斬るか撃つしか無いだろう。嫌なら普通に顔を見せろ」

 バネ仕掛け人形のように勢いよく立ち上がる相手に、すっ飛んできた本と鼻血を避けつつ至って冷静に当然の事を言う俺だったが、相手は不満そうに唸った。

「まあ、その自業自得はこの際どうでもいいとして」

「よかないわぁ!」

「生きていたんだな、貂蝉。まあ、よかった」 

 かつて、トンブと組んで俺の美意識に多大なダメージを与えた男が、相変わらずの格好で堂々と立っていた。図書館という知性を育む為の公共施設に喧嘩を売っているとしか思えないような見苦しい姿だったが、彼は何一つ恥じる事がないと言わんばかりに胸を張っている。仮にも学舎で何を考えて肌色過剰の格好をしているのか。猥褻物陳列罪は確実に当てはまるだろう。

 そもそも、なんでここにいるんだ?

「それは学園長だからよ!」

「そういえば、不気味な胸像を見かけた気がするな」

 自分の像を堂々衆目にさらす神経は、こいつの見てくれの問題がなくなったとしても理解できん話だ。

「だぁれが二目と見られない悍ましい化け物ですってぇ!?」

「で、あんたが学園長だって事とどっかで見たような面子、それにこの不愉快な本にはどんな関連があるんだ? あと、俺を案内していた何進みたいな教師はどうした」

 俺が疑問を提示すると、瞬間湯沸かし沸騰器はあっさりと収まった。

「あの子は本当に何進大将軍よ。こっちに生まれ変わったの。今は私が代わるって言って、職員室でお説教の真っ最中」

「代役は選んで欲しいところだが……生まれ変わった、ねぇ」

 成る程、そういう事もあるだろう。我が身を持って知っているのだからよくわかる。問題なのは、それが集められている事だ。

「別に狙ったわけじゃ無いわ。そういう縁を持って皆生まれてきたのよ。外史にいた頃とほぼ同じ関係、立場を築いているわ」

「ふうん」

 それがこいつの仕業なら、とんでもない能力だな。どっかで拝まれていても不思議じゃない。

「偶然よ。私は巧い事立場を作って紛れ込んだだけだから」

「鵜呑みにはしないよ」

 不満そうな顔をしているが、元々付き合いのないこいつの本音など見抜けるはずもない。何事も疑ってかかるに越した事はないのだ。

「ところで、あいつら記憶とか冗談じみた馬力とかは持っているのか?」

「どっちもないわ。ただ、あそこまでじゃなくても普通に天才アスリートが出来るだけの力はあるし、記憶は無くても印象らしい物は残っているみたい、なんて言うの、三つ子の魂百まで?」

「あっているのか間違っているのか」

 おかげで曹操と袁紹は仲が悪いらしい。生まれる前からの筋金入りだそうだ。

「あと、性格や嗜好はそのまんま」

「嬉しくねぇな」

 どっかの面倒な猫耳や眼鏡娘を思い出す。下手すりゃ絡まれそうな気がするが、まあ適当に流せばいいだろう。そもそも関わるわけねぇし。

「全員いるのか?」

「今のところ、欠けている人はいないわね。ああ、でも年齢のせいで卒業した子もいるから。雪蓮とか」

「それ、真名だろ」 

「インパクトある名前を出したつもりなのに冷たいわね。こっちじゃ真名は本名よ」

 まあ、神聖だなんだと言ってもかなりいい加減な扱いだったからな。

「で、本命だが」

 す、と目を細めると貂蝉は一歩下がった。

「この不愉快な本はなんなんだ」

「え? そっちではずいぶん持ち上げられていたと思うけど」

 本気でわからないという顔をしている不気味生物に、仁王を突き付けたくなったのは理不尽な話だとは思わない。だから我慢などしない。

「こんな羞恥心を抉られるような本を書かれて、いつまでも大人しくしているほど俺に寛容さはねぇ」 

 チャクラがそれこそ実戦レベルで回転しているのを察知したのか、顔色が変わる。

「わ、わかったわよ! ちゃんと説明するから!」

 それが無難だろう。俺は無茶をした仕置きを受け、家族総出でコネまで総動員でしごかれまくった分、以前よりも強くなったという自覚があるのだ。

「それは封印なの」

「封印? 何を封じている。つうか、力は感じないんだが」

 魔法街などに行くと、たまに魔道書などを見る事もあるのだが悉くがおぞましい力を発散していた。酷いのになると、置いてあるだけでそこらの土が腐食していたものまである。比較すると、ただの本としか思えない。擬態しているようなたちの悪い本って事か?

「そんな、見ただけでわかるような強い力の本なんてそうそうあるわけないでしょ。封じてあるのは彼女たちの前世の記憶よ」 

「あ?」 

「封じてあると言うと正確じゃないわね」

 不穏当な発言に、時と場合によっては突きつけたままの得物をふるう事を考えていた俺だったが、一応は大人しく聞く事にする。

 つまり、彼女らに複数の前世がある事とその記憶が現代日本で生きるには問題がありすぎるから彼女ら自身が忌避したらしい。

「つまり、北郷が原因って事か?」

「あなたも五分の一くらいは責任あるわよ」

 北郷と言う人間を中心に、彼の選択次第で広がっていった可能性の世界。その全ての記憶が彼女らの中には存在し、すり合わせができていないのだ。

 例えば、Aと言う世界では自分達の中心にいた北郷がBでは敵対している。

 更に、Bでは恋人だった北郷がCでは他の女とよろしくやっている。

 そんな可能性世界の記憶が彼女らの中で混在して、何が何だか分からなくなっている。多重人格障害のようなものだろうか? 

「加えて、殺人や性行為なんかの人によっては大いに忌避する類の記憶もあるか」 

「こっちと向こうじゃ常識も価値観も違うものねぇ」

 平和な“区外”の住人として生まれた彼女らにとって、過去の自分達は素直に受け入れるには問題が多かったと言う事か。

「そうやって皆、折り合いをつけられない外史の自分を切り捨てたの。これはその依り代。結晶みたいなものかしら」

「呪いの本みたいだな」

「その呪いの切っ掛けになったのは、あなた達でしょうが」

 憤慨と言うよりもフンガーな貂蝉曰く、折り合いがつけられなくなったのは俺……と言うよりも妖姫一行が混入した外史の記憶が彼女らにとって耐えがたい物だったからだそうだ。ほとんど読んでいない恥ずかしい荘重の本に書かれているのは、北郷が全武将を孕ませるハーレムを築いている最後で終わるらしく、彼女らはそれを良しとして受け入れるらしい。

「ハーレムって……それを維持できる甲斐性があったとは思えんが。つうか、あいつが養われているだろ? あいつら皆、ヒモの下半身だけで何もかも良しとしたのか?」

 二股三つ股。目の前にいれば苛ついたりするかもしれないが、余所の話だったらどうでもいいと思う。だが、それは男の側に魅力以前の女達を守り養っていく甲斐性がある事が最低限の前提だ。守られ養われている側の北郷がハーレムなんぞ作った日には、過程を知らないから偏見なのを承知で言わせてもらうが屑と股が緩くて安い女共にしか見えん。

 まあ、モテている男に対する嫉妬があるのは自覚している。

 とまあ、この時点で俺はどん引きしたが、俺らの関わった外史ではそんな物は影も形も無い。いや、劉備一行はそんな感じかもしれないが。

 ともかく、あっちでは彼女らは妖姫の魅力に当てられてこれ以上無いあさましい痴態を曝しながら蝗よろしく殺到した。蝗以下なのは、お互いをつぶし合ったところだろう。あげくに、その醜態に失望した兵士達の怒りに呑み込まれた。それが彼女らにはトラウマになったらしい。

「だから、その事実を放り出したかったのね。結論がこれ。でも全部を綺麗に忘れるなんて出来ないから、過去の事が今の彼女らにも少しずつ影響を残しているわ。例えばご主人様に簡単に好意を抱いたり、逆に貴方にもの凄く嫌悪を抱いたり」

「なるほどね」

 すれ違った際に妙な顔をした二人組は、そういう事か。

「意外と平気な顔をしているわね。結構理不尽な話をしたと思うんだけど……」

「そんな事だろうとは思っていたし、好かれようと嫌われようとどうでもいいのが本音だ」

 好いた惚れたの相手とそんな事になったら、さすがに落ち着いてはいられない。しかし、そこまでの思い入れを持った相手がいなけりゃどうでもいい話だ。

「ちょっと! 婿に来いとか言っていた雪蓮ちゃんは!?」

「ちゃん付けに凄まじい違和感を感じるし、なんでお前がそのこと知っているんだとか聞きたいところだが……あいつ元々同性愛者じゃん」

 それなら祭の方がまだ気にかかるという物だ。それに、話を聞いたところによるとあいつらも北郷相手に皆まとめて子供を作ったとか言うくらいだし、そうなるといまいち連中の婚姻ってものは重みを感じないんだよな。繰り返すが、自分という女を安売りしているように思えてならない。

 ひがんでいるな、我ながら。

 自分でも分からないのは北郷がモテているのが気にくわないのか、それとも彼女達にとって婚姻や親になると言う事が軽いように思えてならないのが申し込まれて悩んだ男として気にくわないのか、判別がつかない。

 どちらにせよ、身勝手な事だと自覚はしている。それに、申し出をハッキリと断った俺には何かを言う権利はないだろう。

「嫌がらせなんかを積極的にされたら、話は変わるけどな」

 そうなったらどつきまわすくらいはするだろうと言うと、何故だか貂蝉は当てが外れたと露骨に悔しがった。

「なんて事……せっかくお返しが出来るいい機会だと思ったのに」

「……どういう意味だ」

 聞き捨てならないセリフだったが、貂蝉はとぼける事もなくむしろ声を大にして食って掛かってくる。

「だって、あの外史は結局壊れちゃったのよ! トンブちゃんもぜんぜん頼りにならないくせに依頼料だけガッポリもっていくし。ここに来るまでどれだけ苦労した事か……ちょっとくらい意趣返ししたっていいじゃない!」

 結局こいつは何をした。

「そんなに凄い事はしていないわよ。ただ、ご主人様のポイントが上がるような場面だけ残して、あなたのポイントが下がるような部分だけ残しただけ。おかげでご主人様はモテモテよぉ!」

「死んでこい」

 どか、と柄で喉を突いた俺は非道だろうか。先端で突き破らなかっただけ慈悲深いと思う。だが、人の心を弄ぶろくでなしはそう思わなかったらしい。

「ぐえほ、ぐぐぇほ! なんて事をするのよぉ! 私の美声が野蛮人みたく低くなったらどうしてくれるの!?」

 体格にはよく似合っている。服装と言葉遣いを改めろ。

「ぐぬぬ……いいわよいいわよ! こうなったら貴方の転入はウチに決定よ。せいぜい針の筵に乗っかり続ける青春を送らせるんだからね!」

「はあ?」

 何を言っているのやら、間抜けな事を言う。俺が断れば済む話じゃないかと思ったのだが、後日こいつはとんでもない奸策を仕掛けてきた事が判明した。試験免除に学費免除である。試験はともかく、学費はでかい。かくして俺は泣く泣く針の筵に座る事になった。

 おまけにあの腐れオカマ、人の事を漢の連中が雁首揃えているクラスに放り込みやがった。男は俺が一人だけ、隣のクラスに北郷がいるとか既にそれだけで針の筵だっての。

 さらに何処で聞きつけたのか、転入時の挨拶で言うまでもなく俺の前歴は知れ渡っていたようで、魔界都市の名前に教師も含めてやたら過剰に反応された。どうも思春期らしく歌舞伎町情報が行き渡っていたようで、俺のイメージにバイオレンス二割、エロス八割が乗っかった。おかげで下手すりゃ白い目どころか涙目で見られる事がある。

 そんな嫌われ者どころか怖がられ者な毎日を送っていた俺だったが、ぶっちゃけへこたれはしなかった。元々そんな程度でへこたれる程柔じゃ無い上に、家に帰れば俺を下には置かないリマがいる。

 彼女は俺の扱いを聞いてクラスメートと教師、そして貂蝉を殺そうとしたがそこは“区外”と言う事で止めてもらった。しかしそれだけで終わる彼女では無い。代わりにあれこれ手を変え品を変えて、そりゃあもう甲斐甲斐しくサービスし始めた。俺が羞恥心のあまり嫌がるラインを把握して絶妙なところを通っていく腕前に、これはいかんと背筋を伸ばして歩かにゃならなくなるほどの尽くしっぷりだ。些細な嫌がらせなんぞ歯牙にかける値打ちも無い。

 そもそも、俺には未来の式根夫婦を見守る仕事もある。彼女に目をつけたろくでなしは、一か月で十人を超えた。やくざがそれほど多くもない地方都市で、これはちょっと見逃せない数字だ。それこそ気を張らなければならん今、些事を悩んでいる暇なんぞない。

 彼女らの店が目に入る安アパートに引っ越したんだが、リマに護衛をかねてアルバイト店員をやってもらったのはぶっちゃけ失敗だった。元々異常に妖艶な美女がいるだけでも衆目を集めるというのに、そこに他に類を見ない野性的な美女が加わると来たもんだ。

 盛った連中が群れをなしてくるのは予想していたが、古典文学などに出てくるような微笑ましい少年の恋路などはまるきりないというのは世も末だ。古書店に不似合いな、日頃活字拒否症になっているとしか思えないような見てくれの連中が、本棚の前をいつまでも占領して、リマの胸や南風さんの尻を目で追っている。

 おかげで女性客が来ないかと思いきや、どっかで見たようなくるくる金髪チビやら猫耳フードやらが居座りやがる。

 貢ぐつもりなのか売り上げその物は好調だとリマから聞いたが、露骨に読む気のない連中が女性陣がレジ打ちの時だけ本を買いに来るというので店主は寂しそうだという。なんぞ手を打たなけりゃならん。

 学校でも噂になっている。

 式根という樽のような男が店主の小さな本屋にえらい美人が二人もいる。

今時個人経営の本屋なんて簡単に潰れそうだが、どうやら結構順調らしい。しかし、店主はやり手どころか見るからに涙もろいお人好し。繁盛している理由はさっぱりだが、その理由に四十すぎた店主と一緒になった妖艶極まる美女と店員らしい南米風の美女にあると言うのが専らの評判である。
 
 看板娘というにもでき過ぎだ。その内ストーカーやレイプ魔が寄ってくるかも知れんと真剣に危機感を覚え、そっちに頭を悩ます毎日である。もっとも、女性二人は強かに売り上げを稼ぎ、それぞれにボディタッチをしてきた痴漢は腕を捻り上げられて警察行き、イケメン気取りでナンパしてきた大学生や高校生は恥をかかさない程度に断られたりしている。中には逆上して実力行使に出てくる屑もいるようだが、リマに叩きのめされ御用になるのが関の山。
 
 店主もその内慣れてしまい、いつか大変な事にならないうちにと頭を悩ませているのは、いつの間にか俺だけになってしまった。心労が溜まるよりはいいのだけど、なんだかやるせない。

 ついでに、悩んでいるのは俺だけでは無いらしく意外と貂蝉も悩んでいた。と言うのも、頭が冷えるとさすがに俺にやらかした仕打ちを反省したらしい。しかし、ここで謝罪の上撤回するような潔さも無いようで。

 悩んだ末に、前々から予定していたトンブ襲撃を決行したらしい。阿呆かと笑って人形娘に通報したが、本当に笑ったのはその先で、そもそもトンブの家までたどり着けずに妖物に追っかけ回されていたらしい。

 何故だか回ってきた俺へのエマージェンシーに馬鹿馬鹿しくなりながらも救援にいった俺は、お人好しの間抜けと屍刑事に呆れられた。行かなければきっとドラムが唸っただろうに、理不尽な話だ。

 その後、相変わらずの格好をした貂蝉と一緒に歩くなどゴメンだったのだが尻に双頭犬に噛まれた傷を残したオカマに涙付きでしがみつかれ、悲鳴と共に同行を承知してしまった。そこからタクシーが捕まるまでの三十分は、いっそ殺してくれと言いたくなるような苦行だった。

 その後、ご主人の妹君を狙う輩を懲らしめるべくスタンバっていたのに肩すかしを食った人形娘が学校に乗り込んできたのだが、そこで彼女は封印の本を二冊ともぶっ壊して記憶を開放してしまった。

 彼女曰く。

「殺された方々の事を、殺した者が心を平穏にする為に忘却するなど許されない事です。例えいかなる理由があろうとも、そんな物は殺された被害者にとっては全く意味がありません。それが己の欲の為であっても、それが他者の夢や希望の為であっても何も変わりません。そして、死者は忘れない。当たり前の事ですわ」

 返す言葉もなく、被害者の事を忘れていた自分を恥じる事頻りであった。阿鼻叫喚の悲鳴の中で一際大きな野太い悲鳴を耳にして、ようやく納得した人形娘は鴉をお供にとことこと去っていった。

 女達は一週間ぐらいかけていろいろと折り合いをつけた出来たらしく、どこか落ち着きに欠ける顔をしていたが欠員を出さずに登校してきた。事後処理に追われる貂蝉は、これ以降“新宿”に関わる事を一切合切拒否するようになりトンブとの因縁は彼から見て泣き寝入りに終わる。

 その後、俺の人間関係は大した変化はなかった。まあ、当然だな。元々仲の悪い相手がほとんどだから、記憶が解放されようがどうしようが何も変わらん。

 変わったの北郷で、あいつは周囲の人間関係が荒れ始めた。それも当然と言えば当然の話らしい。

 彼には俺が関わったのも含めて四つの世界を生きた記憶があるが、それぞれの世界で立ち位置が大きく変化している。そして、それは人間関係に関しても同じ事だった。
A世界とB世界とC世界でそれぞれ別々の集団に属し、所属している集団以外に明確に敵対して、更に所属していた集団の女達を悉く孕ませたりしている。なるほど、修羅場になるのは当然だ。つまり、貂蝉の危惧していた通りって事だな。

 今の彼は片方では蝙蝠扱いされ、もう片方ではやたらベタベタとされている。ベタベタしてくる方に集中していればいいのだが、どうも他の女達にも未練があるらしく火に油を注ぐ騒ぎを起こしているのだ。

 まあ、どうせ最後は全員モノにして終わるだろう。全員まとめて喰っちまった記憶もあるという話だから、たぶんそういう形に纏まるだろうな。

 どこからどう見ても最低の所行にしか見えないのだが、当人同士が納得して俺を巻き込まないなら、どうでもいい。

 それよりも、俺には切羽詰まった現実的な問題があるのだ。結末の見えた陳腐な話に付き合う余裕は無い。

 何しろ学生なんぞをやっているおかげで収入源が激減し、懐が寂しい手元不如意だからな。学費が免除されたからと言って、日々の生活があるんだよ。間違ってもリマのバイト収入なんぞに手をつけられん。

「だから俺は今忙しいんだ。油売ってないで、とっとと北郷を口説くなり押し倒すなりしてこい」

「冷たいやっちゃな。知らん仲でもないやろ」

「そうよねぇ、子供まで作った仲なのに」

と、学校図書館のインターネットを使って手頃な賞金首を探している俺だったが、最近はおかしなのに絡まれているようになった。

 張遼改め霞、孫策改め雪蓮。

「あいにくと、そこまで北郷一刀に執着はしない。私は蜀の面々や蓮華殿達ほど彼に強い気持ちを抱いていたのかと言われると疑問だし、正直に言えば立場が違えば仕方がないとは言ってもあれだけ言う事やる事が変わってしまったら幻滅くらいはするものだ」

「それに儂は魏に参陣したアレのせいで討ち死にしておるしの。戦国の世の習いとして恨みはしないが、さすがに今さら情を通じようとは思わん。まあ、子供は惜しいがこれから先にも産む為のチャンスはある。何しろ、お主との間でも結局あの子は生まれたのだからそれで良しじゃ」

「雪蓮もそうだが、あのゲテモノが勝手にやったいい加減なシミュレーションの結果なんぞ鵜呑みにするな!」


 周瑜改め、冥琳。黄蓋改めて祭である。

 他には董卓改め月と賈駆改め詠。陳宮改め音々音と付き添いの呂布改め恋、名前が変わらない華雄までいる。

 こいつら、最近は帰宅するまで図書館で捜し物をしている俺の側になんだかんだで現われるようになったのだ。理由は詠曰く、あんたの側にいると面倒ごとが減るのよとの事。俺は魔除けか避雷針かどっちだ。

 北郷争奪戦で脱落した組らしいが、それでもたまにちょっかい出してくる北郷との関係は良好なようなので、最後はなんだかんだで纏まると思う。だから最初からあっちに行け。
「ご挨拶ねぇ。こんな美女がくっついているのに」

 雪蓮が肩に肘を置いてくる。こいつらが左右の席を占有している事もあり、周囲の視線が痛くてたまらない。

「図書館は本を探したり読んだりする場所で、べたつく場所じゃない」

 時と場合って言葉を知らんのか。そもそもお前、卒業生なのになんでここにいる。

「あー、それ聞く」

「今の雪蓮はいわゆるニートだから暇人なのだ」

「せめてバイトしろ」 

 後ろで本を読んでいた冥琳が嘴を挟んでくる。ちなみに、読んでいる本は三国志。すっげぇシュールだ。

「だからここにいるんじゃない」

「あ? おい」

 目の前で年を食った猫みたいな顔をしているこいつじゃないが、嫌な予感がした。

「行ってみたいなぁって、魔界都市♪」

「観光なら相応の会社に行ってこい。“新宿”にもツアーガイドは一山幾らでいるが、玉石混淆で大体が石だ。世間知らずの小娘なんぞあっと言う間に歌舞伎町に売り出されるか妖物の餌が関の山だから、きっちり吟味しろ。相談になら乗る」

 鬱な予感を押しつぶすのに早口でまくしたてたが、この馬鹿がそれで止まるはずが無い。

「違うわよぉ。私もデビューしたいなぁって思って」

 いかにもかるぅく考えていそうな脳天気の見本がそこにいた。むしろ、底にいた。

「賞金稼ぎの」

「お! 面白そうやン!」

 馬鹿が一人増えた。

「霞、本気?」

「むしろ、正気かどうかを疑うのですぞ!」

「止めた方がいいですよ、おっかない話しか聞かないです」

 心配ではなく呆れを前面に出した二人に、心配そうな常識人が一人。どうでも良さそうに黙々と動物図鑑に見入っている一人。

「せやかて面白そうや。妖物とか幽霊とか、超能力者とか魔法使いとか一杯おるんやろ? しかも、そういうのにも恐れられるような武術の達人とかもいるっていう話や」

「む、それは確かに面白そうだな」

「馬鹿が一人増えたわね」

「誰が馬鹿だ!」

 毎度雪蓮と喧嘩をしては俺や恋に取り押さえられている馬鹿も興味を示してしまう。

「それにほら、あっちには余所には無い本とかも一杯あるって聞いたわよ。科学の本だけじゃなくて魔法の本とかも多いそうじゃない」

「……確かに、ありとあらゆる知識の最先端とは言われているな」

 釣られるなよ、そこの保護者兼恋人。お前が止めずに誰が止める!?

「……そう言えば、まだ呑んだ事が無かったの。“新宿”焼酎」

「妖物含有率がドンだけあると思っていやがる!」

 諫めるどころか馬鹿を言っている最年長者に、そろそろ手を出しても構わないだろうかと自分自身に相談してしまう始末だ。

「ちょっと待ちなさい」

 事の発端が、偉そうに盛り上がる全員に向けて手を上げた。

「いつの間に観光話みたいになっているのよ! 違うでしょ。これは私が賞金稼ぎとしてデビューする為にはどうするべきかっていう話なんだから!」

「全く、雪蓮は怖い物知らずの上にでたとこ任せだからな。一体いつ思いついたんだ」

「昨日」

 別段普通の事というしれっとした顔の女に二の句が告げられなくなった俺だが、女共は慣れた様子で騒いでいる。

「全く、正真正銘の思いつきでは無いか」

「よくそれで世の中渡っていけるわね」

「渡っていけていないからニートなのです!」

 豊満な胸に何かが突き刺さる音がしたが、最もなので気にしない。

「まあ、面白そうではあるがな。魔界都市とやらに私の武を披露してやるのも」

「危ないよぉ」

「大丈夫やって、やってみれば意外と何とかなるモンや」

「そうそう、物は試しって言うし」

 かしましいのも通り越した喧騒に、俺は自分の底で何かが切れる音を聞いた。ここが図書館だという意識が最後のブレーキだったが、それを吹っ飛ばす最後の一言に背中を押された。

 無言で立ち上がると、精一杯に杯に息を吸い込んだ。

「ざぁけんな、クソガキどもがぁあっ!」

 出入り禁止になってもおかしくない罵声に、無関係で迷惑そうな顔をこっちに向けていた男女が全員のけぞっていた。

 それから一か月後。

 俺は何故だか漢に関係する連中を残さず乗っけた観光バスに不機嫌の見本な顔を晒していた。

 馬鹿共の馬鹿話を大馬鹿が聞きつけてしまい、しかもそいつは大金持ちだった。そういう事だ。金に物を言わせて魔界都市観光ツアーなんて物を企画した馬鹿の顔面に全力でアイアンクローを噛ましただけで済ませた事を、今は後悔している。つうかてめぇら、トラウマは何処に行った!?

「仕事の口を紹介してくれた事は感謝しているが、その死にそうな顔は何とかならないのか」

 外道棒八は一見すると七三分けのサラリーマン風な男だが実は“新宿”でも数少ないガイドA級ライセンス保持者だ。“最危険地帯”を案内する許可まで持っている男はおいそれとはいないが、同時に名が性格を表す見本でもある。名前の読み方は“とみち”なんだが、そう呼ぶ奴はまずいない。外道で忘八が本名だと付き合いの長い相手ほど本気で信じているといえば、頭蓋骨の中身がドンだけよどんでいるかが自ずと知れるだろう。

「そっちこそ、胃痛で死にそうな青年に向かって嬉しそうな顔をするのは止めやがれ。今日の俺は客だぞ、この外道」

「“新宿”にどっぷり浸かった観光客か。それよりも“げどう”と呼ぶな。俺の名前は“とみち”だ」

「日頃の行いが物を言うんだよ、こんなコースを作りやがって」

 この馬鹿、コース内に俺の知り合いの家ばっかり組み込んでいやがる。秋せんべい店や魔法街はともかく、メフィスト病院も“新宿”警察も観光地じゃねぇぞ。こんな所で土産を買えってのか。

「おまけに“危険地帯”まで観光する気かよ。世の中舐めまくっている頭のおかしい小娘共がそんなところにいったらどうなるか、察しがつかないほど惚けているわけじゃないだろが」

「スポンサー様の希望だ。これでも“最高危険地帯”は何とか避けたんだ。こっちこそ胃が痛いんでな、お前さんには期待している」

「ふざけんな! 前はもうちょっと客に対する誠意って物があったぞ。フリーになった途端にろくでもなさを仕事でも発揮しやがって」

 罵声は目の前の無責任なプロと、遠くで高笑いをしている大馬鹿に向けた物だった。

「いきりたっておりますなぁ」

 飄々とした雰囲気をつくった星がメンマの瓶を片手に近付いてきた。

「それほど心配されるような事もありますまい。これでもかつては腕に覚えのある者ばかりですぞ」

 自信満々の様子だが、そこには一体どういう根拠があるのか俺には見当がつかない。外道も一見愛想よさげだが内心は困っているのが分かる。何しろ、相手は安全を確保しなけりゃならないお客様だからな。

「星! そんな奴と話してないでこっちに来いよ!」

「おや、相変わらず北郷殿は工藤殿を気に入らないと見える」

「ヒモがうざったいから、とっとと向こうに行ってくれ」

 向こうで爽やかな顔をしつつ、器用に目だけが俺を睨んでいるハンサムが星を呼んでいる。彼との関係は、概ね悪化の一途を辿っており、あいつにとって俺は邪魔者で雪蓮を筆頭に自分の仲間と書いて愛人と読む女を誑かしている悪人なのだ。俺にしても下手に出る理由も仲良くしてやる謂れもない。一度難癖をつけてきたのを叩きのめして以来、お互い思いきり疎遠になったんで問題ないけどな。問題があったのは、あいつに熱を上げている女共の強襲だ。返り討ちにするも面倒くさくて嫌になる。

 それにしても、こいつらの脳天気さ加減には頭が痛くなる。一応戦国時代を生きた連中だろうに、外道が事前に渡したグッズの中で最も注目しなければならない《危険地帯において、ガイドの指示から少しでも外れた場合の生命には責任を負えません》と言う文句を流していやがる。さすがはこの世で最も怖い物知らずな生き物だ。

「何人生きて帰ってこられるやら」

 妖姫の事さえ綺麗さっぱり忘れ去ってしまっているようにしか見えない脳天気共に向けた俺の言葉は、ニヤリと笑う外道以外の耳には届かなかった。 

 そして一週間後。

「予想通り、最終日まで持たなかったな」

 俺は人がごっそり減った教室で、死屍累々の面々を眺めてため息をついていた。

 結論を言うと、全員生きてはいるが無傷は一人もいない。多かれ少なかれ相応に肉体に傷を負い人生に傷を背負うようにもなった。

 具体的には、無思慮かつ無秩序に行動した結果妖物の餌食となりメフィスト病院に担ぎ込まれた者が全部で六名。 

 同じく考えなしな行動でヤクザに攫われてヤク漬けにされてしまい、メフィスト病院に担ぎ込まれた者が六名。

 “歌舞伎町”に入り込み、三十分で客をとらされそうになったりした馬鹿が三名。娼婦の振りをした妖物に吸精で殺されかけた奴が一名。“新宿”焼酎を始めとした酒を呑んだおかげで不定形生物になりかけて、メフィスト病院に放り込まれたのが四名。

 魔道士に攫われて人体実験や生け贄に使われ、ガレーン・ヌーレンブルクの元に担ぎ込まれた者が二名。そのヌーレンブルク邸で魔道書を勝手に読もうとして心神喪失した挙げ句消滅しかけた者、それに巻き込まれた者が七名。

 流砂や迷路、地下遺跡などで行方不明になりかけた者、三名。

 菓子に釣られて誘拐された大馬鹿が二名。奪還しようと勝手な真似をしてミイラ取りがミイラになる、を地でいった恥ずかしい奴が二名。

 “新宿”警察で問答無用に射殺された犯罪者を間近で見てしまい、失神した奴が三名。

 付き添いで行った病院で見かけた白い医師に発情した挙げ句、この上なくバッサリと切られて衝動的に自殺を図った者、五名。秋せんべい店で、店長の気を引く為に店の商品を買い占めようとして他のお客にリンチされた阿呆が一名。黒い魔人を相手に恋煩いに落ちた者、残り全員。 
 
 誰が誰かは想像にお任せだ。

「まとまってりゃ最初の一人で済んだものを、どいつもこいつも好き勝手に分散しやがって……おかげで全滅コンプリートしたじゃねぇか」

 今ここにいるのは、せつらの顔を思い返してはうっとりとする連中がほとんどだ。皆そうなれば楽だったのに、来訪をツアーの中日に合わせられていたので人が減る減る。やたら風通しのいい教室で、何とか全員の命と最低限の尊厳だけは守り切って疲れ果てた俺は机の天板にクラゲのように突っ伏す。

 外道の奴もくたくたになっていたが、俺が張り切ってくれたおかげで少しは楽だったと笑っていやがった。だったらバイト料をよこしやがれ。

 そこのせつら、お前も大もうけなんてぬけぬけ言うな。堅焼きの値段がいつの間にか十倍になっていたのは見たんだぞ。口止め料よこせ。

「帰ってくるまで静かなのが、せめてもの救いだな」

 代わりに、帰って来てからが面倒だ。お前に助けられるくらいなら死んだ方がマシだと喚いていた幾人かを思い出し、なんであんなのを命がけで助けなけりゃならないんだと巡り合わせの不幸を呪った。

 精神的に老け込んだ気分になっていたが、いつまでも落ち込んじゃいられねぇと身体を起こすと鞄から数枚のカラープリントを取り出す。十日ほど前、雪蓮が阿呆な事を言った際にプリントアウトしておいたとある賞金首のデータだ。

「衛宮、遠坂、間桐ね……ふうん、どこかで聴いた事があるような無いような」

 その中に幾つか記憶を刺激するような名前があったが、ハッキリとは思い出せなかった。さて、一体何処でだったろうか。

「魔術師……ここはガレーンさんの所に話を伺ってくるか」

 馬鹿騒ぎのおかげで精神的にくたびれてはいるが、学生生活で鈍った心身にいい鞭が入った事は確かだ。ここで逃さずに、生活費稼ぎに行ってこようかね。

「冬木、海沿いの街か……リマと一緒に、行ってみるか」

 海で生まれ育った彼女に、大海原と再会する機会を捨てさせるわけにはいかない。いい機会だし、旅行もかねて気楽に行ってみるか。

「それとも、こっちの悪魔崇拝者、アーカム? こりゃまた、絵に描いたような悪人面……アメリカか。そう言えば、ニューヨークにリマを留学させようかと思っていたっけ。これもいい機会だな」

 そんな安っぽい気持ちでいた俺は、漢での劉貴との勝負を経てかなり自惚れていたんだろう。どうせ学究肌しかいない“区外”の魔道士なんぞ大した事は無いとたかをくくっていた。

 だが、そのツケは払う事になる。

 人の形をした兵器としか見えない英霊という奴らや、神話から身を乗り出してきた悪魔共によって絶え間なく潜らされる死線に悲鳴を上げる事になるとは、思ってもみなかった。

「はあ……それにしても疲れた。どっかで骨休めしたいものだな」

 どこかで鳴いているトンビの声が、クラスに漂う間抜けな空気を笑っているように思えて、ため息が出てくるのを堪えきれなかった。










 皆様、この遅筆に長らく付き合ってくださり、真にありがとうございます。完結は初めてなので、感無量。

 これにて、この物語は完結です。今後、冬弥君がどうなるのかは私にも分かりません。

 雪蓮や冥琳、祭達と一緒に賞金稼ぎの会社でもやるかも知れない。

 あるいは“新宿”警察で新米魔界刑事となるかも知れません。

 それは未だに分からない未来です。
 
 とりあえず、次も苦労するのは間違いないでしょう。型月は下手に書くととことん叩かれまくるので、正直書ける自信も無いんですが、一番しっくりくる出先が冬木でした。
 
 四次でも五次でもそこそこ活躍して、一杯苦労するんでしょう。他の候補地は、せいぜい悪魔も泣き出す男やスタイリッシュ痴女が悪魔や天使をJACKPOT! な世界。
 
 しばらくはなろうでオリジナルを書こうかなと思っているので彼に会う機会はないのですが、どこかで出会ったらまたよろしくしてやってください。

 最後にもう一度、皆様ありがとうございました!


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