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[36710] Eismeer(ストライクウィッチーズ、女オリ、逆行)
Name: かくさん◆b134c9e5 ID:771f657b
Date: 2014/08/18 23:41
※要注意※
これはフィクション作品であるストライクウィッチーズの二次創作です。

※要注意※
二次創作であり、主人公をふくむ、いくつかのキャラクターは原作に存在しません。

※注意※
オリキャラ多数、主人公に原作知識無し

※注意※
時系列や設定には、公式で明らかになっておらず不明な部分や登場した作品ごと、過去の設定資料集などに微妙な誤差があります。このSSに関しては時系列などを逆算、または捏造して二次創作としてそれっぽく整合性を合わせてみようと試みたものです。今後の公式の発表だけでなく、現行の小説版とも矛盾が生じたりする可能性があります。

※注意※
現在、ハーメルン様にも投稿しております。

※注意※
アニメ、小説、その他のメディアで名前だけ登場する人物や作戦など、また、小説版とアニメ版の設定の矛盾や、漫画版の『蒼空の乙女たち』のような公式の設定に影響するのか微妙な部分は、ほぼ現状の情報から推測した独自解釈で進めていきますのでご了承ください。



※要注意※
本作の設定には大小含め多分に独自解釈が含まれております。あくまでも二次創作なので公式設定と誤解する事なきようお願い申し上げます。
(というか大戦初期のカールスラントの話など、調べても公式で語られていない部分が多い所はほとんど独自解釈です)



10/22 目標の一万PVも達成して久しいので朝方にチラシの裏板から、その他板に移動したいと思います。





[36710] 0  1940年 プロローグ
Name: かくさん◆b134c9e5 ID:771f657b
Date: 2014/03/06 19:29
1940年 カールスラント東部戦線


昔から、空を飛ぶのが好きだった。
別に特別な理由がある訳でもない。初めて空が好きだ、そう思えた時は、どこまでもどこまでも広く大きいから、自由に空を舞ってみたかったから、そんな人並みで子供じみた理由だったに違いない。
けれども、それは夢に溢れていたかつての私にとって、飛行機の操縦桿を握らせるには充分なもので。
もう十代の半ばになる頃には、骨董品の複翼機を借りてきては、毎日のようにやかましいエンジン音をたてながら、故郷の空を飛びまわっていた記憶がある。

「こちら管制、着陸を許可します」

来る日も来る日も、失恋したときも、友達が遠くの街へ引っ越していったときも、天気が許すのならどんな時でも飛び続けた。
女らしくないと言われながらも、操縦は初めよりもずっと上手くなり、せっかくの広い空ですら手狭に感じるようになって。
人類の仇敵、ネウロイ共が現れたのはそんな時期だった。
欧州、ひいては世界の危機。
新聞やラジオから連日連夜、絶え間なく聞かされる戦況悪化の知らせ、オストマルクを蹂躙した化け物が祖国カールスラントまで押し寄せてくる。
そして、最前線に立つのはウィッチ―――まだまだ子供と言えるような少女達だった。

「横風16ノット、機首の向きに注意」

ある日のラジオを聞いていた私は、朝食もすませずに役所へと駆け込んだ。
面食らった顔をする窓口の担当者にむかって、軍人になりたいんだ、と大声を出したのは今でも覚えている。
その時には国境線の戦闘は激しさを増して、軍も人手不足だったのだろう、女性だというのにすんなりと手続きが終わってしまった。ウィッチではない事を告げた時に意気消沈されたのは流石に堪えたが。
ともあれ、気がつけば私が乗る飛行機は、扱いなれたおんぼろ複葉機から、美しく、だが鈍い輝きを放つ単葉の戦闘機に変わっていたのである。
私が飛ぶ空は、優しい風が吹く故郷の空ではなく硝煙にまみれた煤けた戦場の空になり、その真下では8.8cm砲アハトアハトが吼え猛る。
山のような量の砲弾を撃ち込んでも、無機質で醜悪な化け物は大空を黒く染め、大地を埋め尽くす圧倒的な物量で押し寄せてきた。
多くのネウロイはウィッチにしか倒せないのに、肝心のウィッチの数が全く足りていなかったのだ。
始めは皆言っていた、大丈夫だ、決着なんてすぐにつく。欧州から化け物を追い払い恒久平和を実現するための戦い、紙面に踊る文字はそんな楽観的なものばかりだったはずなのに、今はどうか、欧州本土からの総撤退の可能性すら兵士達の間で噂されるありさまだ。
自分こそがカールスラントの盾となるのだ、戦場に立つものは誰もがそう言う。皆、明るく振舞いながらも、どこか諦めに似た覚悟のような雰囲気をにじませていた。
どこにも安全な場所など無い。
戦場はどこまでも、山火事のように広がっていく。

「着陸成功です、哨戒任務お疲れ様でした」

軽い衝撃。
高速で滑走路を走る機体に制動をかける。
大好きだった空はどこに行ってしまったのだろうか。
風防の中、管制官の声を聞き流しながら、私はただただ、ぼんやりと、そんなことを考えていた。






「中尉!」

野戦基地に併設された飛行場。
自分の機体を移動し終えた時だ。エンジンが奏でる轟音の中に、階級を呼ぶ声が混じった。
ふと視線を向けると、粗末な滑走路を部下の男が横切ってくるのが見える。

「エールラー中尉!」

階級にラストネームが付け足される。
私の名だ。
ソイツはいやに響く太い声で、人の名を叫びながら歩いてくる。迷惑極まりない。
私は頭をかきながらエンジンを切った。機体のパワーがそのまま溢れ出てきているような頼もしい振動が、徐々に小さくなっていく。
反比例して、爆音の中でも聞こえていた声が更に大きくなった。

「何事だ騒々しい、爆撃に頭のネジでも吹き飛ばされたか?」

さすがに呼ばれている本人が無視を決め込む訳にもいかない。
悪態をつきながら操縦席から飛び降りる。

「いえいえまさか! 我らが隊長殿へのあふれんばかりの想いが! そう、心から喉を通って声に変わり、そして」
「やかましい、少し黙ってくれ」

うるさい。
歌うような声色で返してきた言葉を遮って、しばし黙考。
異常だ。
普通の人間ならば、上官に向かってこんな気持ちの悪い返答をするわけがない。
何も悩むことはない、少し考えればわかってしまう。結論はすぐに出てきた。
戦争神経症。
前大戦ではシェルショックと呼ばれていた心の病だ。
戦場では敵への恐怖、戦況への不安、味方の死、絶え間なく降り注ぐ砲撃音、ありとあらゆるストレスが襲い掛かる。兵士は皆、人間だ。当然、心が磨り減り、へし折れて、最後には元に戻らなくなってしまう者もいる。
突然、騒音にしか思えなかった部下の声が、酷く悲しげに聞こえてきた。ふざけているようにしか見えないのに、その姿は消え入りそうなほど儚げで、精一杯の強がりを叫んでいるようで。
激戦続く、カールスラント東部戦線。きっと彼の心もネウロイに、いや、この戦争そのものに押しつぶされてしまったのだろう。
「所詮二線級の兵器」と言われウィッチの穴埋めにしかなれない戦闘機に乗って、私の後に少尉にまでなった男だ……でも、彼はもう、戦えない。

「よせ……もういい、軍医の診断書をもらってきてやろう」
「私はこう思うのです、伝えなければならない事があると……あると……はい?」
「後方送りだ、達者で暮らせ」
「ああ、中尉殿? これはいけません、失礼ですが貴女は少し勘違いをしています、自分は健康そのものですよ」
「やめろ! いいんだ、もういいんだ少尉! すまなかった……部下の精神状態も把握できんとは、私は隊長失格だ」
「いやぁ、これは悪ふざけが過ぎましたね、中尉殿、謝りますからこちらを向いてください、すみませんでした、待ってください中尉、エールラー中尉ー」






さておき。

「で? 結局何の用なんだ、え? この口だけ少尉ロイトナント

心象はおふざけに対する怒りが九割九分九厘、残りの一厘が勘違いした事への恥ずかしさだ。
まずは少尉の肩書きを持つ大馬鹿者の顔面を、パイロット用の分厚い手袋でしばき倒し、倉庫の中まで移動する。
綺麗に手形がついた頬をさすりながら、気の抜けるような愛想笑いを浮かべている少尉を、さらに一睨み。

「ええまあ、第三者から見ればまったく大した事ではないんですがね? 当事者からすればもしかすると物凄くデリケートな案件かもしれませんし、やっぱりどうでもいい瑣末事かもしれませんし」
「言え、上官侮辱で営倉にぶち込むぞクソ野郎め」
了解ですヤーボール、中尉殿。でも女性がそんな言葉を使うのは、あまりよろしくないと思いますよ」

懲りずに返ってきた無駄口に顔をしかめると、少尉は懐から何か封筒を取り出した。

「いつもご利用ありがとうございます、カールスラント郵便局です。ハインリーケ・エールラー様宛のお手紙を預かっております、こちらの用紙にサインをどうぞ」

手袋を顔面に投げつける。

「サインは僕の顔ではなく用紙にお願いしますよ」
「おお、なんてことだ神よペンが無いぞ。馬鹿者にかまっている暇はない、取りに行かねば」
「コメディアンが一番嫌がるのは無反応って本当なんですね、顔よりも心が痛いです、ええ」

任官したてからの僚機であるが、多分に面倒な男であった。
彼の軽薄ぶりは、野戦基地の誰もが知るところである。
鬱屈した戦場の空気をはらうのに一役買っているのだろうが、そんなに無駄口が叩きたいなら新聞記者にでもなって政治家を突っつきまわしていればいいものを。

「私が中尉なのは分不相応だと思うが、何でお前みたいな奴が少尉なんだろうな」
「自分も疑問に思います、きっと上の人間が手でも滑らせて判子を押してしまったんですね、はっはっは」
「何してんですか中尉殿? まーた痴話喧嘩ですか? いつも通りお熱い事で」
「黙れ」
「や、了解ヤー

騒動を聞きつけた整備兵を散らし、倉庫から基地へ通じる扉を、蹴破るような勢いで開け放った。
内側にいた女性士官が目を丸くしていたが、一言だけ謝って先を急ぐ。
日が差し込む廊下は、明るいが、狭い。早足で歩くと、急造の木造床がギシギシと頼りない音をたて、それがドア越しに響くのだ。
きっと上官がいたら見咎められるだろう。そう考えると、若干ではあるが、心に冷静さが戻ってきた。せっかく無事に危険な空から戻ってきたのに、中尉にもなって上から怒鳴られるなんてあんまりだ。
思わずこめかみを押さえる。

「頭痛なら、医者に見てもらいましょうか?」
「けっこうだ」
「何故です」
「お前が消えればすぐにでも全快するさ」

狭い野戦基地の中、自分の部屋など探さずとも、憎まれ口を叩いているうちにたどり着いてしまう。
部屋自体は他人と共用であるが、戦闘機の部隊はたったの一個中隊、結果的に空間にあまりが出来てしまうため、個々人のスペースは他よりも大きめに用意されていた。
私は棚から万年筆を取り出し、少尉の手からひったくった用紙にサインする。

「ん、手紙」
「えー、親愛なるハインリーケ・エールラー様、このたびは」
「誰が読み上げろと言った」

即刻、手紙を奪い取る。少尉に背を向けて送り主を確認した。
『親愛なる』などと書かれているだけあって、そこには見知った名前があった。
ささくれ立った精神が落ち着きを取り戻す。自然と顔が緩んだ。

「ふむ、なるほど……恋人、ですね?」
「違う」

断じて恋人ではない。変な勘違いをされても困る。
便箋に書かれた名前を、渋々ながら少尉のほうへ向けた。

「貴女の妹、テオドーラ・ヴァイセンベルガーより……妹?」
「妹分、な。家が近いもんでな、生まれてから十年以上面倒を見てやってた」
「へえ、いいもんですね、そういうの。今はどちらに?」
「適正があって空戦ウィッチになった、第77戦隊で空を守ってるよ、まったく立派になったもんだ」

一緒にいるようになったのは、私が始めて空を飛んだ頃である。
きっと自分が大きくなったつもりで、お姉ちゃん風を吹かせたかったんだろう。思い返すと少し恥ずかしいものだ。
そんなことを考えていると、少し考え込んだ少尉が、一言。

「まあ、そうですよね、中尉に恋文なんてくる訳グェ」
「喧嘩を売ってるのか」

反射的に張り手が飛ぶ。
訓練生時代にはずいぶんと聞きなれた、鈍い打撃音。
理由無き暴力は犯罪行為だが、口で言ってもわからぬ相手には仕方なし。

「いつつ……しかしマズイと思いませんか? もう二十二でしょう、戦争が終わる頃には行き遅れになるやも」

頬をさすりながら聞いてくる。めげない奴だ。
そんな事よりも、私は阿呆を営倉に叩き込むには、どんな罪状がいいかを延々と考えていた。
知ってか知らずか、少尉は殴られる前と同じ調子でしゃべり始める。

「管制室のエアハルトはどうです? 眼鏡が似合う出来る男ですよ」
「立派な妻子持ちだろうが馬鹿者」
「我らが中隊のヘンリックは?」
「却下、女たらしはお断りだ、二股がばれて締め上げられているのを見たぞ」
「では……同じく我らが中隊イエルク」
「あー……そうだな、アイツはいい男だが、同性にしか興味が無いとか……というか何だ、お前、わざと問題がある奴だけ選んでないか」
「いえいえそんなことはないですよ? 僕は中尉殿が幸せになってくれればそれでいいのです、ええ」

一瞬の沈黙。

「うそつけ」
「信用ありませんねえ」

肩を落とした少尉は、口に手を当て、少し考えるような仕草をする。
私はそれを無視して便箋の封を切る。
どうせろくでもないことを考えているのだろう、私の中ではその程度の認識だ。
と、唐突に少尉が顔を上げた。

「僕はどうでしょうか中尉殿」
「何が」
「いえ、恋人云々の話ですよ」

二度目の沈黙。

「阿呆」

自然と出てきたのはそんな言葉だ。
あまり感慨は抱かない、むしろこの馬鹿者の正気を疑ってしまう。

「……ないない、一番ありえんな」
「はっはっは、ですよね、ここで選ばれてもどうしようかと」
「まあ、候補くらいには入れておいてやる、戦争が終わるまで生きていられるように努力しろ」
「ヤー、光栄です中尉殿」

伸びた背筋に正しい角度で曲げられた腕、形だけは模範的な敬礼をする少尉を無視して、手紙に目を向けた。
丁寧だが、女の子らしく可愛らしい文字が紙上に躍る。
戦場にいるのはとても辛いが、かけがえのない仲間に出会えたこと。
護衛した部隊の隊長から直接お礼を言われて、泣きそうなくらい嬉しかったこと。
戦線の後退に伴い、部隊ごと異動になったこと。
最後は近くの基地へ配属になるから、会えるのを楽しみにしています、と締められていた。
流し読みだったが、ざっとこんな感じの内容だ。
かわいい妹分は姉の手を離れて、ちゃんと成長しているのがわかる。
勝手に顔がほころぶ。私も会うのが楽しみだ。

だが、


「こんな戦争、とっとと終わってしまえばいいのにな」

妹分が、戦場で成長するなんてことには、なってほしくなかった。

「早く終われば行き遅れる心配も減りますからね」
「うるさい、私は真面目だぞ」

少尉は目を丸くする。
彼なりに上官の雰囲気を察したのか、先ほどまで顔に張り付いていた笑みを消した。

「終わるでしょう、なんてったって我々人類には無敵の魔女がついてますから」

少尉の返答。
人類の守護者たる魔女、私にとってそれが一番の問題だった。

「本当なら、子供を戦場に送り出すのは許されないことなんだがな」

大昔から怪異が発生するたびに繰り返されていたこととは言え、納得できることではない。
ウィッチと共に戦う兵士の中で、むしろ国を追われ避難を続ける民衆の中でさえ、負い目を感じない者がいるだろうか。
きっと誰もが、化け物に立ち向かう小さな背中を見て、心のどこかですまない、と謝り続けているに違いない。
一緒に空で戦える、そう思った私ですら、ウィッチが最前線で戦っている間、戦線から漏れ出てきた雑魚を中隊全員で袋叩きにする、そんなことしかしてやれない。彼女らは数十メートル級の化け物共を必死に食い止めているにもかかわらず、だ。
戦闘機は脆弱で、非力で、大型のネウロイの前には何の役にも立たなかった。

「歯がゆいな」
「ええ、まったくです」

心なしか、軽薄な少尉の笑みにも陰りが見えた、そんな気がした。
そこで会話が止まる。
外では整備兵達の声がまだ聞こえてきて、部屋の空気がなんだかさびしく感じられた。

「ま、悩んでも仕方のないことです。この前は前線のウィッチから礼を言われましたよ、いつも背中を守ってくれてありがとう、だそうで」
「……全部が全部無駄という訳ではないと、そうだといいんだがな」
「一応我々も役目があるから飛ぶんです、二線級と言われようと、愛すべき空で仕事が出来るなら安いものではないですか」

私は軽く息を吐いて脱力した。
この男が言うなら、取り繕ったでまかせかもしれないが、ほんの少しは気が楽になったかもしれない。

「お前が殊勝な事を言うなんて、内陸部なのに戦艦の主砲弾でも降ってくるんじゃないか?」
「何をおっしゃいます。私ごときよりも弱気な中尉の方が異常ですって、僕は最後の審判の日が近いんじゃないかと怖くて怖くて」

減らず口を。
少しはまともな思考が残っていたのかと関心していたらこれだ。私の感動を返せと思う。
しかし、言い返そうと開いた口から、言葉が続くことはなかった。
突然、スピーカーから何かが切り替わるような音が漏れる。
ほんの一瞬、基地のすべてが確かに凍りついた。
そして次の瞬間には、それはけたたましいサイレンの音に変わる。

『空襲! 空襲警報!』

誰かの叫び声が聞こえた。
ベッドで寝ていた同僚が次々と飛び出してくる。

「酷いもんだ……悪態をつく暇もない」
「そういうもんですって。行きましょう我らが中隊長、いつもどおりの、化け物狩りの時間ですよ」

手紙をベッドに放り、代わりに手袋をつかむ。
ちゃんと読むのは帰ってきてからにしよう。
開けっ放しにされたドア、私は同僚の後を追って走り出した。











通信機へむかって何度も同じ言葉を繰り返す。呼びかけに応じる答えはなく、故障を疑って乱暴にノブを回してみると、不快な雑音が漏れだしてきた。
違う、私が聞きたいものはそんな乾燥した音ではない。
さっきから湧きあがってくる焦燥がついに平常心を覆い隠し、耐えきれなくなった私は慌てて通信の設定を元に戻した。外側へ意識を向ければ、そこにある光景が私を現実へ引き戻す。
空気が濁っている。地上から吹き上がる黒い線が束になり、空を飛ぶ私の目を遮っているのだ。隙間から、穴だらけになった地面の中心で、うずくまった戦車が骸となり果てている姿が覗く。揺らめく火炎に包まれた味方陣地だけは、意地が悪いと思えるまでに明るい光を放ち続け、どんなに視界が悪くても確認できた。
凄惨な光景だ。煙のヴェールを抜けるたび、精神が削り取られているように感じる。

「中隊各員、被害状況を報告しろ」

思わず、中断していた呼びかけをもう一度行う。『今度こそ』、そんな考えを、絶え間なく戻ってくるノイズが打ち消した。
はるか遠くからは砲撃の着弾音が聞こえてくる。
やはり違う、私が聞きたいのは自身の無事を知らせるたった一声だけだと言うのに、どうしてもその一声が返ってこないのだ。

「少尉、状況は、どうなっている」

部隊に対する通信を中断し、斜め後方から私に追従する僚機に対して、問うた。普段通りの位置を飛んでいることを確認できる彼の存在が、図らずも精神へかかる負荷を押しとどめていた。
そこにいることがわかるのは、少尉の機体のみ。しかし、私はまだ、小さな期待を抱いている。いくつもの声が沈黙を破るのを待ちわびている。
そのような願いも通じるはずもなく、やがて、躊躇うような時間を空けて聞こえた返答は、やはり一人のものだけだった。

「……生き残りは、我々二人しかおりません」

ようやく聞こえた少尉の声が、私の心臓を握りつぶした。
いつもの軽い口調が失せ、聞きたくなかった現実を突きつけてくる。

「こちら管制、状況の確認を」
「壊滅だ」

基地から通信が入るが、それを遮って告げる。

「中隊は私と僚機の二人を残して全員撃墜された、全員だ、損失は十機、ほとんど残っていない」
「……そんな」

電波越しでも、管制官が息を呑むのがわかった。
少し前まで一緒に空を飛んでいた仲間が、みんな死んでしまった。
高高度で敵機を待ち構え、再生する間を与えず、一撃離脱をもって袋叩きにする。戦闘機乗りとして、自然と身についた戦い方だったが、奴らネウロイもそれをわかっていたのかもしれない。
私の中隊は同規模のラロス編隊による奇襲を受けた。
陸空両方からの大攻勢で、防衛線を突破してきた中の一部、おそらく混乱に乗じて内地まで入り込んできたのだろう。奴らは前線へと急ぐ我々に向かって、雲の中から突然のように姿を現したのだ。
始めの一撃で二機が脱落。戦況は乱れに乱れ、部隊はバラバラに。無線があろうと混乱などすぐに収まるわけもない、気がつけば、生き残れたのは私と少尉だけだった。
今まで感じたことのない喪失感が襲う。気を抜けば操縦桿から手を離して、計器を殴りつけてしまいそうだ。
無言のまま飛行を続けていると、先ほどの管制官から新しい通信が入る。

「お気持ちはわかりますが……ディオミディア級爆撃機が前線を突破、そちらに向かっています、すぐに撤退してください」

管制官の言葉は沈鬱だった。
ディオミディアが前線を突破。その言葉がどれ程の重みを持つのか、私も理解しているつもりだ。
四つのエンジンで推進するその怪物は、中型爆撃機の三倍を超える巨体を持つ。要塞をそのまま浮かべたかのような図体に、一体何トンの爆薬を搭載しているのか、想像もつかない。
このままでは基地も飛行場も、何もかも灰にされてしまう。

「中尉殿、我々はもう……戦力になり得ません」

少尉の言葉。
ぎり、と唇を噛み、操縦桿を握り締める。
これが現実だ。

「中隊、これより帰投する」

何が中隊か、二人しか残っていないのに。
機体を傾け旋回させる。
体全体にかかる遠心力の重みが、まるで私を責めているようだった。
何故こんなことになった、と自問自答を繰り返しては、自分のせいだと結論する。頭がどうにかなってしまいそうだ。

「あのような奇襲は誰にも予見できるものではありませんでした、ご自分を責めないでください」

思考に割り込み、打ち消すように少尉が言葉を送ってくる。私は何とか返事をしようと口を開きかけた。
しかし、機体を反転させ終えた時、それはやってきた。
上空、雲とは違う影が頭上を横切っていったのが見える。
ほんの一瞬だったが、私の目は確かに黒い鉄塊を捕らえていた。
脳内に鳴り響く警報、全身が毛羽立つ。考えがまとまるより先に口と手が動いた。

「散開だ!」

少尉の反応は早かった。彼は左に、私は右に急旋回する。
無理矢理な挙動に風防が軋む。まるで機体が抗議の声をあげているようだ。
冷や汗が頬を伝う。
直後、私達がいた空間を機銃の弾丸が蹂躙した。
風切り音をたてて機体を掠める黒い鉛球。遅れて、二つの単葉機型の影がそれらの軌道をなぞるように駆け抜けていった。
交差は瞬きほどの時間もない。
思わず舌打ちを一回。
狭い操縦席の中、首を目一杯に捻ってようやく敵機を視界にとらえる。
愛機と同じ戦闘機型のシルエットが見えた。黒い無機質な胴体から、同じく黒い翼が二つ生えている。
ラロス型戦闘機だ。
奴らはやっと旋回を終えた我々を嘲笑うかのように、悠然と機体を上昇させていく。
高高度から急降下することによる速度を利用し、相手に一撃を加えて飛び去る。一撃離脱の基本であった。
従来型のラロスが徒党を組んで飛びまわるだけだったのに対し、中隊への奇襲も含め、やけに統率のとれた動きをする。
普通ではない。
おそらく、スオムスで存在が確認されて以来、各地で脅威をふりまく新型機。これはラロス改と呼ばれる改良型なのだ。

「どうしました!? 報告してください!」
「新手のラロス改二機編隊に奇襲を受けた、損害無し。このままの撤退は不可能と判断する、帰投は敵機撃墜の後だ」
「ウィッチを支援に向かわせています、せっかく魔女が来てくれるんだから死なないでくださいよ!」
「可能ならそうするさ、以上、通信終わる」

管制官との会話が途絶える。
新型と言えど、報告では防弾装甲と編隊空戦の他に大きな脅威となるような変更点は少ないと言う。慣れた相手に恐怖はない。
だが、ここで自分の腕が震えているのに気づいた。
慣れようが、恐怖が無かろうが、無事に勝てると保証できる相手でもないのだ。
こちらも、あちらも、同じ戦闘機型。互いに大きなアドバンテージは存在しない。
ラロス改の防弾装甲も20mm機関砲が直撃すれば簡単に粉々になる、が、それは機銃が当たれば簡単に息の根を止められる人間とて同じ事だ。
結局は空戦が巧みな方が勝つ。
彼方ではラロス改がなおも上昇を続けている。
私は軽く息を吐き、スロットルを全開にした。
軽い振動を感じる。
回転音が甲高く、力強い音に変化。見えない手に引きずられるように、機体が加速していく。
少尉の機体もまた、私を追うようについてくる。

「上空で仕留める」
「ヤー」

短い返答を聞き、更に加速。
そして一気に操縦桿を手前に引いた。
カールスラントの機体は上昇速度に優れる。芸術品とも言える大出力エンジンが、重力の枷を振り切って機体を押し上げ始めた。
一撃離脱は相手よりも優位な高度を保たなければ上手く機能しない戦い方だ。
我々はラロス改が旋回し、再突入をするまでに高度の差を無くしてやればいい。そして、私の機体はそれに充分な性能を有している。
上昇性能はこちらが上、敵機が一撃離脱に固執すれば、いずれは追いつく事になる。
追いすがればこちらの勝利。
燃料に余裕は無いが、何とかならない程ではなかった。
だが、奴らもそう簡単には勝たせてはくれない。
まだ急降下の恩恵で、速度に勝っていたはずの敵機との距離が、しだいに近づき始めたのである。
眉をひそめる。
おそらく少尉も同じ表情だろう。
何かおかしい。
怪訝な顔で、引き金に指をかけ、射撃のタイミングを計り始めた時、予感は的中した。
当たる、そう確信した距離に入った途端、二機のラロス改は20mm機関砲の射線から大きく外れ、先程の我々のように左右へ分かれ急旋回したのだ。
舌打ちがもう一度漏れた。

「……格闘戦でも始めるつもりか」

やりにくい相手。
こちらのフィールドで戦うつもりは更々無いと言う訳だ。
このままなら速度を活かし、失速した敵機を振り切りつつ、時間をかけて狙い撃ちするのが安全策だが、状況はそれを許してくれない。
もうすぐディオミディア級がやってくる、その知らせが重く圧し掛かっていた。
高速度で、長い距離を行き来する時間のかかる戦い方を選ぶなら、きっと基地への帰還という選択肢も捨てねばならない。
相手は我々がこうなる事を読んでいた、そのように感じた。
離脱して基地を目指せば、嬉々として背後を取って追いかけてくるだろう。何であれ逃げに入った時が最も危険だ、後ろから撃たれていれば、いつ撃墜されてもおかしくない。
我々は嫌でも格闘戦に応じる必要があった。
得意な高速戦闘を捨て、なおかつ短時間で仕留める。
難しい注文であった。

「面倒ですね、本当に」
「ああ、やっていられん、奴らにこんな知恵があるとは驚きだ」
「えぇえぇ、まったく」

もうすぐ敵機の旋回が終わる、ほどなくして我々の背後から無数の鉛玉が襲いかかってくるだろう。
心臓の鼓動が早くなる。
手袋の中が汗ばむのが不快だった。

「それで? どちらを?」
「私は左だ」
「では右をいただきます」

次の瞬間、弾丸が機体へ届く前に、主翼を横転させた。
力任せで美しくない、急激なカーブだ。
ついさっき聞いた風切り音が、背後、機体のすぐ後ろで聞こえる。
直撃弾は無い。
いくつかが尾翼をかすめたかもしれないが、無視する。そんなものは被弾の内には入らない。
後ろにラロス改が喰らいついてきたのを感じながら、横転したままの機体を持ち上げた。
上昇旋回。
旋回も上昇も一瞬、身体にかかる重圧が倍増する。体中の水分が、遠心力に押されて下へ下へと集まっていくのがわかった。
脳へ血液が回っていない。思考が鈍り、視界が徐々に狭まっていく。
危険だ。
急激な機動によって発生する血流障害が、意識そのものを吹き飛ばす。果ては、失神、墜落。
ブラックアウトと呼ばれる症状である。

「……ぐ、ぎっ」

思い切り下唇をかむ。
八重歯が薄い皮膚を抉った。
かすかに広がる錆びた鉄を思わせるエグ味が、意識を再構築させる。
こんな時に寝ている場合ではない。手の感覚が無くなるほどに、操縦桿を強く握りしめる。
私とラロス改はグルグルと、緩やかだが高速で螺旋を描きながら上昇を続けている。死にたくないなら、旋回半径はでき得る最小の範囲に収めねばならない。旋回の内側に回り込まれ、射線を機体の進行方向にとられる、つまり見越し角をとられればそれでお終いだ。
と、再度の銃撃音が聞こえる。
一瞬息が詰まったが、弾丸はまた尾翼をかすめて明後日の方向へ飛び去っていく。
背後に貼りつくラロス改は、まだ見越し角を見いだせてはいない。

「まだ……まだ、勝てるさ」

言い聞かせるように思わず呟いた。
背後はとられたが、まだまだ負けていない。
私は機首を持ちあげ、高度を一気に引き上げた。機銃の射線から外れ、機体は風に吹かれた枯葉のように舞い上がる。
追いかけっこにいつまでも付き合うつもりはない。
相手が勘のいいパイロットであれば、私は今の隙を突かれて蜂の巣だろう。
だが、後ろを飛ぶラロス改は、経験を積んで技量を磨く事ができる『人間』ではない。
案の定、私の機体を一瞬でも見失ったのか、追従が遅れていた。
こんなチャンスは逃さない。
スロットルを細かく操作して宙返りの要領で反転、虚を突かれて鈍りきった動きではついてこれまい。
狙い通り、私を見失って、まるで戸惑っているような、ヨタヨタとした動きで旋回するラロス改の後ろに張り付く。
一撃加えれば、私の勝ちだ。
引き金にかけた指に力がこもる。
ラロス改と、愛機を結ぶ一本の線。20mm機関砲の銃口から伸びる弾道が、見えたような気がした。
背後に回った私に気がついたのか、ラロス改は急旋回を始める。

「逃がして、たまるか」

上昇旋回を繰り返したせいで、互いに速度は出ていない。
低速での格闘戦だ。
相手の背後に、飢えた野犬のごとく喰らいつく。もはや、見逃すビジョンなど浮かばなかった。
追いかけながら、徐々に旋回半径を縮めていく。
敵機から目を離さず、かつ失速ギリギリの速度で機体を制御するのだ。加減は全身に伝わる音や振動で、全幅の信頼をよせる愛機が教えてくれる。この機体に乗る限り、同じ条件でなら負ける気がしない。
そして、勝機はやっと訪れた。

「くたばりやがれ、化け物め!」

叫ぶ。
射線はラロス改の進行方向、私が見出した敵機の予測位置。
躊躇いなく引き金を押し込んだ。
今までの鬱憤を晴らすかのような、20mm機関砲の連射が始まる。
大口径の機関砲には、防弾装甲など紙切れと何の変わりもない。曳光弾が混じった弾丸の軌跡が、ラロス改に深々と突き刺さる。
一発目は機体前部のプロペラに直撃、次に胴体部を舐めるように尾翼まで掃射。
外装を引き裂かれ、主要部位を粉々にされた機体から、炎があがるまでは一瞬だった。
黒い不気味な塊は、慣性に乗って数秒だけ旋回を続け、やがて制御を失って真っ逆さまに落ちていく。

「……ざまあみろだ」

周囲を警戒しながら呟いた。
砕け散るラロス改を眼下に収め、スロットルを絞り減速。
身体が震える。
敵機を撃墜した達成感を感じる事ができたのは、ほんの少しの間だけだ。
あとに来るのは喪失感のみ、死んだ部下は誰も帰ってこない。私には拭いされない虚しさが重く重くのしかかってきていた。
そのまま、鬱々とした気分で通信を開く。

「少尉、生きているか?」

スピーカーから聞こえる細かなノイズに耳を澄ませ、彼からの返答を待った。
かすかに寒気を感じる。
何故だかはわからない、でも、このノイズの向こう側から、誰かの怨嗟の声が聞こえてきそうに思えて怖くなる。

「おい、少尉」

返事がない。
寒気が増した。
まさかな、と、ほとんど無意識のうちに呟く。
通信機の故障を疑って、ダイヤルを調節したが、ノイズしか返ってこない。
一対一で少尉がやられたのか、任官から私の後ろを飛び続けていたアイツが。
信じられない。
同僚の腕を信用する感情が半分、現状を分析して最も絶望的な結果を弾きだす理性的な思考が半分。
気がつけば、狭苦しい操縦席の中で大声をあげていた。

「返事くらいしろ大馬鹿野郎!」

通信機のノイズの波が大きくなる。ザザッという耳障りな音。
そして、返事は声ではなく別の方法で返ってきた。
雲を裂いて現れる黒い物体。
飛んでいるのではなく、落ちている。それは翼を半ばからへし折られたラロス改であった。
続けて飛び出て来たのは、すでに見飽きたフォルムの中隊二番機、少尉の機体だ。
撃墜を認めたのか、彼の機体はラロス改の追跡を中断し、バンクを振った後、水平飛行を始める。

「中尉殿」

ようやくスピーカーから声が聞こえた。
言い知れぬ安堵感を感じ、溜め息をつく。
敵機を撃ち落としたのなら返事をしてくれてもいいだろうに、そう、唐突に嫌味を言いたくなる。
私は通信機の音量をあげて、口を開いた。

「中尉殿」

しかし、少尉はもう一度私の階級を呼んだ。
喉元まで来ていた言葉を飲み込む。
何故か、私は、彼の声を遮る事ができなかった。

「どうした?」

何故だ。
先程の寒気が収まらない。
少尉の声色に、途方もない違和感を感じる。
今まで混じった事のない感情が、不純物のように入り込んだ声。
少尉は、その違和感を感じさせる声のまま、言葉を続けた。

「我々は」

私は、続きを聞いて後悔する。

「我々は、間に合いませんでした」

その返答の意図を噛み砕き、頭の中に落とし込むまで数秒を要する。
理解して、絶望した。

一体、彼は雲の上で何を見てきたのだ。

直後、空から降ってきた無機質で、醜悪で、巨大な金属の壁が、私の視界の全てを遮った。
何が起こったのかわからなくなる。
轟音と、得も言われぬ威圧感が空を蹂躙していく。
肺が押しつぶされそうな重圧に、呼吸すらも止まってしまう。
私と少尉の間に割り込むように、分厚い雲を引き裂いて現れたそれ。
まさしく化け物と呼ぶに相応しい姿。
数十メートル級の巨体から伸びる、針山のようなおびただしい数の機銃砲座と、戦闘機が玩具にすら見える厚い翼が見える。そして、翼からぶら下がる四発のエンジンが奏でる、獣の唸り声のような不気味な重低音が、空気を振動させている。
ディオミディア級超大型爆撃機だ。
勝てない。
論理的な思考を省略して、本能が勝手にそう結論してしまう。
何も間違いではない、どんな手段を用いたとしても、私がディオミディアを落とす光景が浮かばない。何回現状を打破する道筋を考えたところで、脳裏に浮かぶのは明確な死のビジョンだけだ。
死ぬ。
あの無数の機銃に全身を貫かれて死ぬ。
銃口がゆっくりとこちらを向くのが見えた。
破局は、もうすぐ訪れるのだ。



「こちら第52戦闘航空団第2飛行隊、ゲルトルート・バルクホルン大尉だ、離脱を支援する」

そこで、スピーカーが発したのは、強く、芯の通った少女の声だった。
ハッと我に返って操縦桿を握り直す。
ディオミディアの機銃砲座が火線を吐きだしたのはほぼ同時だった。
脊髄反射じみた挙動ですぐさま回避行動に移る。
目前に広がる死へ抗おうとランダムな挙動を織り交ぜながら、全速で距離をとる。

「少尉、離脱だ、急げ!」

こちらからはディオミディアの巨体に阻まれて、少尉の様子が確認できない。
向こうが見えない苛立ち混じりにマイクへ大声をはる。

「無念です、中尉殿」

だが、返事は、命令への返答ではなかった。

「何を、言っている」
「機体とデカブツとの距離が近すぎます、動いた瞬間に蜂の巣だ」

また、少尉らしくないやけに落ち着いた声色。
気持ちが悪い。
私は聞いていられなかった。

「何言ってる馬鹿野郎! そこにいても同じだろうが、死ぬ前に動け、早く!」
「中尉殿、だから無念なんですよ」
「知った事か! こんな時くらい、命令を聞いてくれてもいいだろう! 動け、動けよ! 少尉! なあ!」
「先に行った連中によろしく伝えておきましょう、貴女は、まだ来ないでくださいよ?」

見えない、少尉の姿が。
死を覚悟しているであろう部下の機体が、見えない。
どうしてこんな時まで、私の声を聞いてくれないのだ。
何度通信機にむかって声をあげても、何も意味がない。

「チクショウ……!」

ただ、かすかに、いつもの軽い笑い声が聞こえた気がした。
そして、ひと際大きな、爆発音のようなノイズ。
耳を塞ぎたくなる音がスピーカーから漏れ出す。
それも波が引くように、少しずつ静かになって、それっきり。
この通信機はもう、少尉の機体が発する電波を拾う事は二度とない。

「何で、クソッ! やられた、間に合わなかったのか!」

別の声が聞こえる。
先程の少女の声だ。皮肉にも、悔しさが滲む声色が少尉が撃墜された証明になる。

「一機だけでも救い出せ! ハルトマン以下第五中隊は私に続き射撃支援、第六中隊はラロス改を引きつけろ! 散開!」

歯切れのいい指示が飛ぶ。
現状はすぐに動いた。
ディオミディアの装甲に赤い火花が散った。
直上からの援護射撃が始まったのだ。
鉛玉を吐きだし続けていた銃座が、不意打ちを喰らって火を噴き、沈黙する。
私は機体とディオミディアの間に、いくつかの小さな影が割り込んだのを見た。
しつこく私を狙う銃撃を、幾何学的な形をしたシールドが防いでくれる。
機械化航空歩兵。
ウィッチだ。
皆、小柄な少女でありながら、重火器を携え、流線形のストライカーユニットを操る姿の何と頼もしい事か。
そのうちの一人と目が合う。
まだ十歳そこそこに見える、幼い少女だ。
必死の表情で凶悪な銃弾を防ぐ彼女の眼は、離脱しろ、そう言っているように思えた。
少尉を撃墜された悔しさと、虚しさが胸を満たし、痛みを発する。
だが、私は気押されるように操縦桿を引き倒すしかできなかった。

「対象の離脱を確認した、攻撃を開始する」

そんな通信とともに、上空からさらに飛来したウィッチが、ディオミディアに一撃を加えて飛び去っていく。
見事な一撃離脱、戦闘機よりも高速で相手を叩き、さらに機敏な動きで元の高度を取り戻す。
射撃も正確だ。
すれ違いざまの一撃で、無数の銃座が食い破られ、破壊されていた。
戦闘機では考えられない戦果だ。
ずっと年下の少女達が、禍々しい空の要塞を翻弄している。
歯がゆい。
この感情は羨望だろうか、自分には到底できない戦い方をする彼女達への。
あんな動きができたら、少尉も、部下も死なせる事はなかったのではないか、と。

「……チクショウ」

少尉が撃墜された時の言葉をもう一度呟く。
意気揚々と軍人になったというのに、こんな結末があっていいのか。
不甲斐なさが私の心を焼いて、思考が堂々巡りを始めてしまう。
唇を噛む。
ディオミディアから少しづつ離れつつある機体の中で、少女達の通信に耳を傾ける。

「一撃離脱では効果が薄いかっ……」

悔しげな声、おそらく隊長機だろう、一番最初に通信を飛ばしてきた少女だ。
ウィッチは弾丸に、ネウロイにとっての毒となる魔力をのせて撃つと言うが、それでもディオミディアの装甲を破る事はできなかったのだ。
状況は切迫している。
あの装甲を破壊するには、大砲クラスの威力がいる。

「ダメだトゥルーデ! 弾が、もう無いよ!」

隊長機の声に応えたのは、さらに焦ったような声だった。
彼女達の武装は戦闘機を相手取るためのものだ。
この戦闘には役不足。
それも、弾薬も足りないという、きっと、前線から補給も無しに飛ばしてきたのだろう。
私達を、救うために。

「そんなことはわかっている! それでも、やるしかないんだハルトマン!」

その声からは、悲しげにも感じる決意が滲んでいた。

「私達がやらなければ、ここでディオミディアを食い止めなければ! 誰が奴を止めるんだ! みんな殺されてしまうんだぞ!」

そんな言葉は、十歳そこそこの少女が言うには内容も、意味も、込められた感情も、何もかも重すぎる。
もう、我慢ならなかった。

「チクショウがっ!」

叫んで、力任せに目の前の計器を殴りつけた。
ガラスが割れ、基盤が微かにひしゃげる。
皮膚が破れる。灼熱する痛みが手から神経を伝わり脳へ巡った。そのおかげか、鬱屈した思考が薙ぎ払われ、代わりにヒヤリとしたものが溢れだす。
自分が軍人になったのは何のためだったのか。
幼い少女達を戦わせたくなかったからではないのか。
部下は祖国に殉じた、少女達すらも命をささげようとしている。私が逃げる訳にはいかないのだ。
自分自身を責める声。
同時に生まれる、それらを解消する一つの解答。
思い至れば、もはや躊躇いなどなくなる。体が勝手に動いた。
スロットルを全開に、燃料の残りも気にしない。
力強い駆動音と共に、愛機が息を吹き返す。
操縦桿にも、折れよと言わんばかりに力を込め、進路をディオミディアがいる方向へと無理やりに修正する。

「ハインリーケ・エールラー中尉だ、進路を空けてくれ、突入する」

加速のための距離を稼ぎだすため、高度を引きあげつつ、通信機へと、短く告げる。
疑問の声が聞こえたが、時間がない、もう気にしない事にした。

「突入だと? 何をしている、離脱したはずだろう」
「死ぬ前に、ひと仕事させてほしい。大尉殿、あとの事はお任せする」
「死ぬ……? エールラー中尉、まさか!」

もう十分だ。
充分な高度から機体を反転させ、そのまま通信を切る。
重力の助けを得た機体の加速は、止まらない、止める気もない。
制動など必要なかった。
ただ一直線に眼下のディオミディアへ向かえばいい。戦闘機一機分の質量を叩きこめば、装甲を破壊するくらいはできるはずだ。
命を落としても、この化け物に一矢報いて、彼女達の手助けになれるなら。
もう、何もかまわない。
進路上で戦っていたウィッチが道を空けていく。
目の前にあるのは、どす黒い巨体のみ。
機銃砲座がこちらを向く、大口径の弾丸が機体を掠め始めた。
しかし、自分に対する脅威を排除するためのそれも、ウィッチの猛攻によって削り取られていた。
邪魔をするものなど、どこにもない。
このまま私は、ディオミディアに機体ごと突入して、死ぬ。

「ごめん、ごめんな、少尉、テオ」

僚機と、幼馴染の愛称を呼んだ。
少尉には、まだ来るなと言われたのに、もう後を追う事になっている。
テオが書いてくれた手紙も、ちゃんと読んでやる事もできなかった。
未練が無い訳がない、やはり、心の底から悔しかった。
それでも、こんな所で、自分一人だけが、背を向けて逃げ出す事など、できなかったのだ。
衝突まであと数秒。
引き延ばされたように感じる時間の中。
上空に目を向けた。
優雅に天を駆ける魔女の姿が見える。
悲しげな瞳をこちらに向ける姿は、天使のようだと思えた。

「……綺麗だなぁ」

美しい。
羨ましい。
できる事なら、自分もあんな風に、自由に、優雅に、空を飛んでみたかった。
残された時間の中で、思わず彼女に向って手を伸ばし、そして、強化ガラスでできた透明な壁に阻まれる。
もう少し、あと少しなのに、届かない。


風防の中の小さな空は、私の手には狭すぎたのだ。






帝政カールスラント空軍は、一連の戦闘でディオミディア級大型爆撃機の撃破に成功するものの、戦闘機一個中隊を喪失した。







※間を空けてwikiを確認したら、バルクホルンが第2飛行隊の隊長になったのはガリア撤退時(1941年)らしいという……そうするとハルトマンが第2飛行隊でスコアを伸ばしたのもガリア撤退時ということに、しかし、いらん子だとルーデル閣下の言葉からは1940年で有名になりつつあるようだし……この辺の設定は公式でも安定していないので、現時点ではこのままで行こうかなと思います。
2013/12/03









[36710] 1  1939年 バルト海 氷の海01
Name: かくさん◆b134c9e5 ID:771f657b
Date: 2014/02/27 22:54
1939年 11月 カールスラント北東部



車輪がレール上を回転する規則的な振動。
長距離列車の一両、その中に並ぶ個室の内一つ、生ぬるい日差しが差し込む車窓のそばに、私はいた。
水分の足りない眼球が発する痛みをこらえ、目を覚ます。
とても、とても嫌な夢を見た。
戦闘機のパイロットをしていた私が、部下を失ったあげく、自暴自棄になって爆撃機へ突っ込む夢だ。
『生まれ直して』から十二年にもなったというのに、死んだ瞬間の記憶というのは焼印のごとく、いつになろうと消えてくれないらしい。きっと将来子供ができる時も、孫ができる年になっても、きっと忘れ去ろうとした頃に、また夢を見るのだろう。
心が重たい何かに縛りつけられているようだ、気が滅入ってしょうがない。
死への恐怖のためか、情けなく震える体を誤魔化すように、背伸びを一つ。体を動かすと軽い目まいと吐き気を感じた。その後に、顔をペタペタと、輪郭をなぞるように触って確かめる。
目、鼻、口、耳、どこか欠損している部位もない、体温もある。部屋に備え付けの鏡には、癖のないブラウンの長髪と琥珀色の瞳を持った少女が映っており、寝起きで微かに赤みがかった顔で、眉間にしわを寄せた厳しい表情を向けている。脈を確かめたが、心臓はゆっくりと、だが確実に鼓動を繰り返しているのがわかった。
時間をかけて、自分の体が生命活動を停止していないかを確認。死に際を思い出すたび、こんな調子だ。

「……生きてるんだよな、私は」

眠気はもう感じない。
たとえ体が睡眠を欲したとしても、またあの瞬間を見るくらいなら、それはもう眠らない方がずっとマシだ。
幸いにも、列車はもう目的地のそばまで来ているらしく、部屋の外からは慌ただしい足音が聞こえ始めている。寝覚めは最悪だったが、目を覚ましたこと自体はちょうどいいタイミングだと言えた。
対面の座席で眠りこけている同僚兼妹分を横目に、自分の荷物がどこに置いてあるのかを確認。別にバッグの中身をひっくり返してパーティーを始めた訳でもないから、そんな作業はすぐに終わってしまう。
あとは駅のホームで、列車が止まるのを待つばかり。
ふと、座席のわきに置いていた制帽を手に取って、内側を覗いた。黒い下地に白い糸で刺繍してある名前は、ハインリーケ・エールラー。







私はこの世界に、二度目の生を受けた。それも、一度目の生の全ての記憶を忘れ去ることも無く。
こんな事を実際に口に出して言ってしまえば、何を馬鹿なことを言っているのだという白い目で見られることは考えずともわかる、しかし私の身に起こったそれは紛れもない事実であった。
全く同じ名を両親から与えられ、性別も変わらず女性。出身地がバーデンであることや、9月14日の誕生日も変わっていない。
唯一、一度目の世界では1917年生まれだった誕生年が、十年分ずれこんで1927年生まれになっていたことだけが不思議でならなかった。
ともあれ、二十二歳、乾ききった戦いの中自暴自棄とも言える体当たりで戦死するという己の最期までを明確に記憶したままの頭では、如何に身体が子供のものであろうともそれらしく振る舞うことも難しい。
そんな、傍から見れば可愛げも何もあった物ではない私を、父も母も、変わらず愛してくれていて。
これ以上ないくらいに幸せだった。もしや、これがやはり天国というものでは無いだろうかと思ってしまう程には。
それも当たり前のことだろう。もう会う事もないと、覚悟の上で私は己のが身を投げ出したのだから。
だが、家族と過ごすそんな幸福な生活の中でも、どこか私の心には陰りのようなものがあった。
一体、いつ、あの金属でできた化け物がまた姿を現すのか。
第一次大戦が、歴史の通り起こったのは知っていた。
後に1936年、私が八歳になった頃だ。ヒスパニアで小規模怪異発生のニュースを耳にした時、歴史は変わらないと、やはりネウロイはやってくるのだと確信させられることとなった。
やがて、予想のとおり、極東では一度目の世界と同じ時期に扶桑海事変が勃発し、世界ではネウロイへの脅威が叫ばれ始める。
ウィッチの重要性を再認識した各国は、宮藤理論を取り入れたストライカーユニットの生産を開始。今考えれば、その時には、第二次大戦へのカウントダウンはすでに始まっていたのである。
が、歴史を知っていたところで私に何かができる訳でもない。大戦が勃発するのは1939年9月であり、誕生日を迎えても誕生年が十年ずれ込んだ私の年齢は12歳にしかならないのだ。
戦闘機になど乗れるはずもなかった。今度は飛ぶことすらできない。半身をもぎ取られたかのような喪失感。
そうやって茫然自失としていたのが、1938年の時、この頃の私は本当に両親に迷惑をかけただろう。十歳そこそこの小娘が「無力な私には何も出来ない、いずれ自分の見ていない空で誰かが死ぬ」などという大それた悩みを持っていたのだ。
悩めども悩めども、打開策など見つけられる訳もなく。
しかし、そう言うものだと自分に言い聞かせ、思考を放棄してしまおうと考えたある日、十年分のタイムラグに心の底から感謝する瞬間が、ふいにやってきたのである。





町中を散策していた時のことだ。
何の気なしに、ある店先のショーケースを覗いて、ガラスに映った自分の姿を見て驚愕した。
何か特徴がある訳でもなかった私の頭には犬の耳が、ズボンからは尻尾がはみ出ていたのである。
ウィッチに仮装する玩具は売られているが、私の頭と尻から生えていたのは、よくよく見ずとも明らかに生き物の一部であったし、触れた感触もしっかりと伝わってきた。
一体どこで使い魔との契約に至ったのか。契約の方法は、適性のある女子の尻に使い魔が触れるだけであるし、ベンチなどに座った拍子に踏みつけてしまったのかもしれない。
困惑に困惑を重ねたその日は、とりあえずの判断で両親に報告して、一まずは落ち着いたのだが、翌日にはどこから聞きつけてきたのか軍の担当官が家まで押しかける騒ぎになってしまった。
さらに、彼らはその場の検査で、私に一万人に一人と言われる空戦ウィッチの適性があると告げ、空軍入隊の書類の束を差し出してきたのである。
私としては陸戦だろうが空戦だろうが、自分にウィッチの適性があることそのものが驚愕すべき事態であった。
適性が現れるのが遅かったり、魔力が少なかったりといった理由で、検査から漏れるウィッチもいると聞いたが、一度目の世界の私も案外その内の一人だったのだろうか。
そう考えると、やはり十年の遅生まれに感謝もしたくなるというものだ。
とにかく、空軍からの勧誘は渡りに船であった。そこから続いたのは連日連夜、反対する両親と押し問答である。両親の心配は本当にありがたかったが、空に対する憧憬だけはどうしても譲ることはできなかった。
結局、最終的に首を縦に振らされたのは両親であり、私は晴れて、帝政カールスラント空軍の門をくぐる事になったのであった。







やがて、ついにやってきた1939年。
黒海周辺にネウロイが出現した。
初めはドナウ川流域の国家ダキアが、次に隣国であるオストマルクが防衛の要所であったカルパティア山脈の鉄門を破られ、瞬く間に陥落。
間もなく、西進したネウロイとカールスラントが戦闘状態に入る。
また、その後の北進と東部攻勢によって、レンベルク、ドニエプル川防衛線が崩壊したオラーシャは、欧州との連絡路を遮断され、首都モスクワを含むウラル山脈以西を失った。
囲い込みに失敗した各地戦線はついに北はスオムス、西はカールスラント、ロマーニャまで到達し、人類は着々と欧州での生存圏を奪われつつある。









そして、時は今、1939年11月に至る。
空戦ウィッチとしての訓練課程を修了した私は少尉に任官し、カールスラントから北東の国境線近く、オラーシャ領リバウへ移動の途中であった。
問題が無い限り、そこに駐留する第77戦闘航空団への配属が決まっている。
配属先であるリバウはバルト海沿岸の都市ペテルブルグが陥落した今、安全な地域という訳ではないが、激戦区である東部戦線に比べれば、まだ本格的な侵攻を受けておらず、主戦場とは言い難い。
東部戦線、オストマルク国境にはカールスラントのほぼ全軍が展開しており、それだけ規模が大きく、かつ苛烈な戦場であるという事だ。
一度経験済みの私も、それは重々承知している。
また、リバウの軍港には扶桑皇国欧州派遣軍の本拠地が設置されていると聞く。扶桑海事変を戦い抜いた極東のエースが何人も駐留しているのだ、戦力は充分足りているはず。
それでいて、主戦場の戦力に余裕が無いというのに我々が投入されないのは、おそらく、任官したての新米に対する配慮だろう。
正直に言えば、役立たずのひよっこは引っこんでいろと言われているようで、少々納得がいかない決定だった。

「おい、テオ、そろそろ起きろ」

列車が速度を落としつつある、もうすぐ到着だ。
思案もそこそこに、さっきから眠りこけているテオドーラ……テオを起こさねばならない。
肩をゆすると、ウェーブのかかったグレーの短髪が小さく揺れる。
だが、長旅に疲れたのか、彼女は可愛らしい唸り声をあげるだけで、目を開かない。

「次の駅まで連れていかれてしまうぞ、起きろ」

起きない。
固く閉じられた瞼は居心地悪そうに歪むだけ。
列車はもう駅に進入しており、今にも止まってしまいそうだ。
私はこめかみを押さえる。
困ったものだ。このままでは寝過ごしたなどというくだらない理由で上官に怒鳴られる事になる。
起こす方法が無い訳ではないが、確実に周りに迷惑をかかるだろうから、やりたくはない。
しかし、無情にも列車は大きなブレーキ音と共に動きを止めてしまう。
時間は残りわずか。
顔も知らない上官の努号が聞こえた気がした。
いた仕方なし。
多分に恥ずかしい思いをすることになるが、やるしかない。
私は溜め息をついたあと、息を大きく吸い込んだ。

「とっとと起きんかテオドーラ・ヴァイセンベルガー! 起床ラッパはもうなっているぞ!」

めいいっぱい低く、かつ、相手が百メートル向こうにいるような大声。
ドアの向こう側の足音がやむ。
途端に、座席からテオドーラの体がバネ仕掛けの玩具のように跳ね上がった。

「ヤー! すでに起床しております! 教官殿!」

そのまま直立不動の姿で敬礼。

「整列!」
「ヤー!」
「もういいな、おはよう、テオ」
「おはようございます! 教官……あれ?」

訓練校の同期は大体がこのやり方、教官の声真似で跳ね起きる。
我々を担当した教官は優しくも厳しい人で、とりわけ時間には厳格であった。
早起きに慣れていなかった者は、皆、教官からキツイお叱りを受けているのだ。
私も含め、同期連中は怒鳴り声を聞くと教官を思い出すのか、どんなに疲れていても起きだすようになってしまった。

「……えっと、リーケ姉さん? もう着いたの?」
「姉さんと呼ぶんじゃない。とっくに着いてる、早く出ないと汽車が動き出すから急いでくれ」

私が外套をはおって部屋を出たところで、テオは時間がないことにようやく気がついたようだ。
まとめてあった荷物を持って、慌てて後ろを追いかけてくる。
テオに空戦ウィッチ適性があったことは一度目の世界と変わらず、彼女は空軍に入った私を追って、こちらの世界でも同じようにウィッチとなった。
これまでのやりとりは今に始まった事でもなく、この娘は軍人になるにはおっとりし過ぎているのではないかと思うのだが、担当官はその辺の適性を考慮しているのだろうか。まさかウィッチ適性がある女子を手当たり次第に勧誘している訳ではあるまいな。そんな事では、いずれ親御さんから猛反発を喰らっても文句は言えんだろうに。
とりとめのない事を考えていると、外から発車を知らせる笛の音が聞こえた。
マズイ。知らない駅に連れていかれる。

「いかん! 走れっ、ほら!」
「あっ、待って!」

配属されたその日に遅刻したくはない。
我々は慌ただしく、映画のワンシーンのごとく列車からホームへ飛び降りる事となった。


   ♦♦♦♦♦♦

リバウ軍港、第77戦闘航空団司令部。

下車にいたるやりとりとは逆に、どうやらこれから上官となる戦闘航空団の司令殿は、前もって車を手配してくれていたらしく、目的地までは割とすぐにたどり着いた。
慣れない冬の寒空の下を歩くのは、少々遠慮したいと思っていたところ、非常にありがたい気づかいであった。
道中、港に停泊する扶桑皇国海軍遣欧艦隊の船が見え、二人して目を奪われることになる。
陸軍国家である帝政カールスラントの人間からすると、本格的な外洋艦隊はとても新鮮に見える。世界最大級の空母である『赤城』や、それを護衛する数々の戦艦、駆逐艦、巡洋艦群。
ブリタニア、リベリオンに並ぶ海洋国家の戦力を間近で観察できたのはいい経験だった。
だが、はしゃぐ我々の姿は、運転手の軍人としてのプライドを刺激してしまったらしく、「カールスラントにもビスマルク級戦艦や空母グラーフ・ツェッペリンがあります、その辺の海軍には負けませんよ」と、海軍に関するうんちく語りが始まってしまったのは、どうにも。
気持ちは痛いほど理解できるが、そもそもグラーフ・ツェッペリンは扶桑海軍から赤城級の三番艦を買い取った物ではなかったのか。疑問に思いながらも、軍人の前で他国軍を褒めるのはやめておこうと誓うのだった。

「時間に遅れなくてよかったね、姉さん」
「ああそうだな、だけどその呼び方はやめろ。もうすぐに同い年だろうが」

バルト海から吹き付ける冬の風が、窓を揺らす音を聞きながら、司令部棟の長い廊下を速足で歩く。
私の生まれは1927年、テオも変わらない。
同年代の幼馴染であったが、お姉ちゃん風を吹かせていた一度目の世界と同じ接し方をしていたら、今度も変わらず呼び名が「姉さん」になってしまった。
年下の女子に自分の事を「お姉さま」と呼ばせるウィッチがいるとは、風のうわさで聞いたことがあるが、私はそんな呼ばれ方をされても別に嬉しくない。同い年の、しかも幼馴染からそう呼ばれるのは、背中がむず痒くなるというか、何と言うか恥ずかしいのだ。
と、暖房の効いていない廊下の寒さに背中を押されながら歩いていると、目的地である戦闘航空団司令室に辿り着いた。
頑丈そうな造りの木でできた扉。
その前に立ち止まり居住まいを正す。初めて入る場所に、初めて会う上官だ。私も初めて戦闘機乗りとして配属された時は、手が震えるほどに緊張したものだ。今はそれも懐かしいとすら思えるが。
後ろにいるテオを見ると、青い顔で小刻みに震えている。大丈夫だろうか、中にいる司令殿を見た瞬間に気を失うのではないか、そんな心配が頭をよぎる。
とは言え、部屋の前で司令殿が出てくるまで待っている訳にもいかない。テオを憐れむ気持ち半分、司令室の扉を軽く叩いた。

「入れ」

室内からの反応は早い。
ノブを回して扉を開けると、暖炉の温もりが漏れ出して肌にまとわりつくのを感じた。
ドアの隙間から見えた内装は簡素なものだった。
カーテンや壁紙は無地。目につく物は背の高い本棚と、正面の執務机、あとは暖炉のそばにあるソファーくらいなものだ。勲章や栄誉カップですら目立つ位置に飾る訳でもなく、手の届かない本棚の上の段にまとめ置かれていた。

「失礼します」

滑り込むように室内へ入り、姿勢を正して司令殿の顔を見る。
色素が抜けたような淡い金髪が特徴的で、アメジスト色の瞳が目を引く女性。目深にかぶった制帽、きっちりと着こなした軍服には埃一つ付いていない。机の上で手を組んだ姿はとても理知的だが、手足が長く背が高いのだろう、それらを持てあましているようにも見える。
手元にある書類から視線を移し、こちらを捉えた目が小さく細められた。切れ長の鋭い目尻と相まって、挑戦的な眼差しに見える。
私とテオは正面に立って敬礼。

「ハインリーケ・エールラー少尉、第77戦闘航空団へ、ただいま着任いたしました」
「お、同じくテオドーラ・ヴァイセンベルガー少尉、た、ただいま、ちゃ、着任いたしましたっ」

もう少しテオを落ち着かせてから入ってくるべきだったと、少し後悔した。
私の名乗りについていこうとしたのだろうが、声が震えている。

「第77戦闘航空団司令、グレーティア・ハンドリック少佐だ、よろしく」

司令殿、ハンドリック少佐は立ちあがって答礼する。
無駄なものがついていない、スラリとしたスレンダーな体型だ。
薄く柔らかな笑みを浮かべて我々に、楽にしていい、と促す。

「遠路はるばるリバウへようこそ、君達二人は訓練校でも優秀な生徒だったと聞いている、優等生の配属を歓迎しよう」
「はっ、光栄であります」
「あああ、ありがとうござ、いますっ」

テオの緊張が最高潮に達している。
お礼の声ですらうわずってしまった。
ハンドリック少佐は思わず、といった感じで小さく吹き出した。

「私の顔は新人に恐怖を与えてしまう凶相、か……悲しいが、顔を隠すマスクが必要になるな」
「え、えっと……そんなことないです、あ、いえ、ないであります!」
「いや、怖いなら正直に言ってかまわんよ、部下に隠しごとをされるのは個人としても上官としても、とても辛いことだ」
「そ、それじゃあ……少し目が怖いかなー、なんて」
「そうか、やはり目つきか、ショックだよ……生まれ持った顔を弄ることはできない。私は軍にいない方がいいかもしれん、すまない、ヴァイセンベルガー少尉、私は至らない上官だった」
「ええええっ! そんな、嘘ですっ、怖くないです! 目つきだったらいっつも怖い顔してるリーケ姉さん、エールラー少尉の方が悪いですし! あのその何て言うか、すみませんでしたっ!」

猛烈な勢いで頭を下げ始めるテオを見ながら、ハンドリック少佐は笑いをこらえている。
テオは言わずもがな、雲間から敵の大編隊が突如として現れたかのような、混乱の極みに立たされているのだろうが、流れ弾に当たるような形で私もダメージを被った。
私の方が目つきが悪いとか、怖い顔をしているとはどういう了見か。
幼馴染とは言え失礼極まりない。

「ああ、すまんな、エールラー少尉、そう睨まないでくれ。緊張をほぐしてやるには驚かせてやるか、からかってやるのが一番なんだ。個人的な経験則だがね」

ハンドリック少佐が言う。
私は別に睨んでいるつもりはないのだがな。
戦闘機中隊の隊長をやっていた頃は、威勢のいい野郎共を率いる立場だった故に、常に厳しい表情というものを心がけていた。『少尉』のような輩もいたし、どれだけ効果があったかは未知数であったのだが。
しかし、どうにもそれが癖として十年以上たった今でも残っているらしい。
気がつけば眉間にしわをよせている、言う事を聞かない顔は、訓練校でもそのままだった。
ついたあだ名が『不機嫌お嬢フラウ』やら『鷹の目エールラー』やら。
課程を修了した今思い出してもイライラする。

「それでは、そろそろからかうのを止めてあげてください。この子は冗談も真に受ける性分ですので」
「了解した。そうしようか、まあ方向性は違えど、二人とも真面目そうな性格で安心したよ」

反応を見て我々を推し量っていたようである。
この上官の前では気を抜くことができなさそうだ。

「さて、挨拶はこんなもので十分だな、まずは座りたまえ。話もしてみたいし、外は寒かっただろう、少し暖をとっていくといい」

立ちふるまいには気をつけねばなるまい。
一言礼を言って腰かけ、テオも遠慮がちに続く。
そばにある暖炉の温もりが心地いい。
冷気にさらされた体に体温が戻ってくるのを感じた。血の通い始めた指先がしびれてくる。
では始めよう、そう前置きして、対面に座ったハンドリック少佐が話し始めた。

「君達が配属される部隊は我らが第77戦闘航空団の第4飛行中隊となる、任務は主にスオムス方面への空中輸送路の護衛だ」

輸送機の護衛任務。
局地迎撃や、敵地への攻撃任務ではない。
スオムスへの輸送路がバルト海を経由する以上、陸の戦いに比べれば、ネウロイと遭遇する確率は格段に低い。
東部に比べて安全な任務に回されて安堵する一方、戦場で戦いたいという思考が頭の中で不満を訴えていた。まあ、それもわかっていたことではある。悔しいが、扶桑皇国軍が駐留するリバウ軍港で、カールスラントが大規模な任務を行う必要性は多くない。
しかし、だ。
そうすると、少し疑問が生まれる。

「質問があるなら遠慮なく。でき得る範囲で答えるよう努力はするつもりだよ」
「では一つ、よろしいですか」
「なんだ随分早いな。まあいいさ、どうぞ」

小さく挙手。

「私とヴァイセンベルガー少尉が、ここ、リバウに配属された理由を教えていただけますか」

ハンドリック少佐の目が細まる。
疑問はこれだ。
戦力の分散配置は軍事学上のセオリーに反し、主戦場でない拠点の戦力を増員するのは、理にかなわない。
簡単に言えば、一応の訓練を積んだ空戦ウィッチを何故後方に派遣したのか、という事だ。
陸続きのオストマルクから破竹の勢いでネウロイが迫ってきているのに、カールスラント軍にはそんな余裕はあるのだろうか。
私の知る限りでは、開戦から二カ月、すでに国境沿いの防衛線はネウロイの物量に押され少しずつ後退を始めている頃である。
兵員を一人でも多く欲しているのは間違いなく、東部戦線のはずだ。

「んー、君たち二人の将来性に惚れた私が無理やりに引き抜いた、では駄目かね?」
「自身の役割、任務の意図を深く、かつ的確に理解すべし。訓練校ではそう習っております。その答えを受け入れろとおっしゃるのであれば、それで構いませんが」
「はは、これはまた、まだ12だというのに子供らしくない受け答えだな」

私の目を見て、少佐はしばし黙考。
悩んでいるのか、それとも私を見定めているのか。そばで落ち着かない様子のテオを置いて、私とハンドリック少佐は互いに視線を外そうとしない。
やがて、小さく首肯したハンドリック少佐がにっこりとほほ笑んだ。

「仕方ないか、部下に隠しごとをされるのは嫌だが、私も隠しごとをしたくないしな」
「ありがとうございます、少佐殿」
「礼はいらんよ、心に荷物を抱えたまま飛ぶのは辛かろう」

雰囲気が緩む。
このまま押し通されるかと思ったが、この上官殿は中々に部下のことを考えてくれそうな御仁だ。
ハンドリック少佐は膝上で手を組んで口を開く。
私はほんの少し身を乗り出した。

「とても簡単な話、上層部の意見が割れているのだよ、二つにな」

開口一番、眉をひそめる事になった。
嫌な傾向だ。
上の対立というのは、古今東西ロクな結果を生み出さない。

「現在、カールスラントはほぼ全軍をもってネウロイの進撃を食い止めているが、戦況は芳しくない。遮蔽物のない平地での防衛線は敵の陸上戦力に押し込まれ始めている。制空権も大型機が現れてからは、綻びが顕著だな、そろそろシュツーカ隊の運用すら難しくなるだろう」
「では、二つに割れた意見というのは」
「亡国の危機と言えば、挙がる声は相場決まっている。抗戦か、はたまた降伏か。ネウロイ相手に降伏はあり得ん、だから選択肢は徹底抗戦か総撤退だ」

ハンドリック少佐はそこで言葉を区切り、立ちあがる。
緩んだ雰囲気が、先程とは違った緊張を帯びようとしていた。
亡国、という言葉を聞いたからか、テオは不安げな表情をしている。
やがて、少佐が執務机から大ぶりな紙を引っ張り出してきた。
カールスラントを中心とした欧州地図だ。


「さて、君達がここに配属された理由だがな、ここだ」

差し出された細い指が、何度もこうして使われた感の在る擦り切れた地図の一部分を指し示した。

「北欧、スオムスだな」

今や北上したネウロイが眼前まで迫り、新たに侵攻の危機にさらされている北欧の国。
少佐の指は地図上のスオムス領をなぞるように動いた。

「先月決まったスオムスへの義勇軍派遣は知っているか?」
「ええ、救援要請に合わせて、各国から選りすぐりの航空歩兵を派遣したとか」

机へと視線を落としたまま、声のみで問いかけられる。
隣に立つテオは、わかっているのかいないのか、良くわからない瞳で私の顔を見据えるものだから、取り敢えず表面上だけと言えども以前聞いた覚えのあるその情報をそらんじる。
少佐はやはり顔を挙げぬまま鷹揚に頷き、再び言葉を続けた。

「世間一般にはそういう触れ込みだったのだが。他の国はまだどうだか知らないが、カールスラントが送り込んだのは十歳のひよっこ、それも聞いた話によると、上層部の決定も彼女が前線で邪魔者扱いされている事を知ってのものらしい」

表沙汰にされた話とは異なる、軍内部での裏の話。
何か腹にたまる不快感をを感じ取りながらも、私は彼女の話に聞き入った。

「これはカールスラントには他国への積極支援を行う余裕はないという小さな意思表示だ、決定が出たときの主流は抗戦派であり、まだ総戦力を東部に集中運用する方針だった」

だがな、と言って今度はカールスラントの国土をノックするように叩く。

「今は状況が変わってしまった。御前会議では本国からの撤退作戦を支持する声が挙がり、皇帝陛下も臣民の安全を優先するようにと命じられた」
「しかし……欧州本土からカールスラント国民を避難させるのは、難しいなどという話ではないですね。一年以上の期間と、複数の退路が必要になる」
「その通り、そして撤退作戦発動の際の退路の一つが、スオムス」
「我々が守る空中輸送路は、撤退先を維持させるための生命線という訳ですか」
「うん、それに仮に撤退が無かったとしてもだ、スオムスが破られれば、次はこうなるだろうな」

もう一度、指先が北欧へ向かう。
ネウロイ占領地からスオムス領をなぞり、バルトランド領を通って、バルト海の入り口であるシェラン島、ユトラント半島へ至った。その先にあるのは、欧州本土、カールスラント領。
流れから言って、指の動きはネウロイの進撃路だろう。

「これじゃ北から挟み撃ちに……」

テオが消え入るような声で言った。
安心させるように、ハンドリック少佐は微笑みかける。

「そうだ、こうならないためにスオムスの重要性は大きくなっている。だから上層部としては輸送路の安全確保のためにもっと戦力を送り込みたい、反面、抗戦派の反発で激戦区から大っぴらに航空歩兵を引きぬく訳にもいかない、またその余裕もない」

ここまでの説明を聞いて、私はなるほど、と頷いた。
もう結論が出ているようなものだ。

「そんな状況の中、ちょうど訓練校の優等生が訓練課程を終了したという、渡りに船。そうして君達は私の元へカールスラントの命脈を守るために、めでたく配属されたという訳だ」

と、パン、と少佐が手拍子をうち、重い空気が霧散する。
疑問は解けた。
後方へ無駄な戦力として投げ出された訳ではないことが判明して、少し気が楽になる。
使われなくなった歯車が錆ついて動かなくなるように、軍人は役割が無ければ死んでいるのと同じなのだ。

「やる気は出たかね?」
「はい、おかげさまで」

上層部の裏の動きも知ることができた。
知ったからといって、どうという事もないが、前回はそんな事など気にならなかったためか、何だか違う国の事のように新鮮に思える。

「それは重畳、ではそろそろ隊舎に向いたまえ。時間はネウロイのように無限に湧いてくる訳ではないからな。第4飛行中隊の隊長含め、他の隊員の話は本人達から聞くといい。以上だ」

立ちあがって敬礼。
答礼が返ってきた事を見届けて、ドアへ向かう。
テオは相変わらず反応が鈍い。私よりワンテンポ遅いタイミングでついてくる。

「ああ、そうだ、待ちたまえエールラー少尉」

ドアに手をかけたところで呼び止められる。
何だろうか。
連絡事項に漏れでもあったのか。

「何でしょうか」
「ちょっと気になったんだが、うん、君はヴァイセンベルガー少尉に自分の事を姉と呼ばせているのか?」

ピキリと、私の表情筋が固まった。
『目つきだったらいっつも怖い顔してるリーケ姉さん』
そう、たしかテオはこんな事を言っていた気がする。

「まあ、君くらいの年齢ならまだいいと思うが、15、16になった時には気をつけたまえよ?」
「少佐殿、いったい何を」
「悪いこととは言わないが、世の中にはそういう呼び方から、そのなんだ、女性同士の恋愛うんぬんに発展することもあるからな」
「何を言って」
「君達がそう望むなら何も言わないが、将来の選択は慎重に、だ」
「少佐殿」
「ではもう行きたまえ、はしゃぎ過ぎないようにな。以上だ」

聞いてもらえない。
もしかすると、先程のテオと同じで私もからかわれているのだろうか。
顔を引きつらせて執務室を後にする。してやられた気分だ、人生の総数は私の方が上のはずなのに。
そんな私にまったく気づいていないのだろう、テオが無邪気な笑顔を向けてくる。

「司令もいい人そうで良かったね姉さん」

自分の目尻がキッと釣り上がったのがわかった。

「だから」
「え?」
「姉さんと! 呼ぶなと言ってるだろうが! 何度言わせるつもりだテオドーラ・ヴァイセンベルガー!」
「いだだだだっ! ごめんなさいごめんなさい!」

冷え切った廊下に、新任士官のくぐもった悲鳴がこだました。











バルトランドやリバウ、ダキアなどの固有名詞は、いらん子やアフリカの魔女の設定、地図参照です。
キャラの名前や誕生日にはモデルがあります、一応。

友人から「カールスラント空軍なのに何でリバウ配属やねん」と突っ込まれましたが、作中の第77戦闘航空団は史実では同じくらいの時期にノルウェーなどのドイツ国外に駐留しており、「ストライクウィッチーズでは情勢的にバルトランド駐留よりもリバウ駐留の方がありそうだし、話を進めるにあたって問題ない……はず」という判断です。
同じ疑問を抱く方がいらっしゃるかもしれないので、一応補足。


2/25 ユトランド半島はバルトランド領とご指摘をいただいたため修正、またリバウがオラーシャ領とわかりにくい描写のため、そこも修正。



[36710] 2  1939年 バルト海 氷の海02
Name: かくさん◆b134c9e5 ID:771f657b
Date: 2014/02/27 22:53
眼下に広がるバルト海の景色を見降ろす。
まず目に映るのは、冬の冷たい空気が作り出す低い雲だ。さらに、薄くたなびく真っ白な綿のようなそれの間から、陽光を照り返す美しい海面が覗いた。
渡り鳥か、それとも科学技術によって空を飛ぶ術を得た人間という生き物にしか見る事の叶わぬ風景。
しかし、海上を空から見るのという初めての体験も、空へと飛び立ってしばらくすると、抱いた感慨は少しづつ薄れてくる。
運が良ければ、我々人類が守るべき欧州大陸も見えたかもしれないが、あいにくと、陸地は視界を遮るもやの向こう側だ。
変わり映えしない海から移した視線を前方へ向け、周囲の警戒を再開する。退屈だろうと、つまらなかろうと、緊張感だけは手放さない。腕に抱えたMG34機関銃の重みが、私に「ここは戦場だ」と言い聞かせ縛りつけようとしている、そのように感じられた。
余計な物は、もう眼に映らない。五つの僚機と、護衛対象であるJu52輸送機以外の物体が見えたら、それが敵機だ。
高度はおよそ六千メートル。
風が少し強い。首からさげた戦闘機パイロット用のゴーグルが小さく揺れた。保護魔法によるフィールド越しでも、肺を凍らせるような冬の、しかも高空の冷たい風が吹きすさいでいるのがわかる。
流動する雲の間から見える、かもしれない敵機を、無心に探し続ける。
しばらくして耳に取り付けた無線受信機から声が聞こえた。

「あー……こちら赤一番機、中隊各機、状況を報告しろ」

隊長機からの通信だ。さらに指先でマイクを叩く音、軽いノイズが二回走る。
送れ、の合図である。

「こちら赤二番機、異常無し……『あー』なんて情けない声出さないでちょうだい、新人達の教育に悪いでしょ」

溜め息混じりの声は副隊長機。
銃を抱いていなければ、こめかみを押さえていそうな声色で話す。

「だいったい、アンタはただでさえガサツで雑で乱暴で適当なんだから、こういう所で気をつけないとこっちにまで迷惑が」
「んなこと離陸前にも聞いてる、ちゃんと理解してるから言わなくていいっての。長くなるなら地上で聞くから、んじゃー、また後で、以上」
「なっ、ハァ!? ちょっと! 私はアンタが理解してないから言ってんのに!」
「うるせーうるせー! 次だ次! 赤三番機、状況報告!」

無線を介して言い争う二人の姿が、輸送機の翼越しにチラリと見えた。後ろ姿しか見えないため表情はうかがえないが、大声を出すたびに姿勢が小さく揺れている。
中隊の編成は六人。
三つの二機編隊ロッテを組み、輸送機を三角形で囲むように、前に二名、後ろに四名でフォーメーションを作っている。
私とテオのロッテは輸送機の右後ろを担当していた。

「……赤三番機、異常なし」
「赤四番、異常なーし! んふふ、楽しそうですねぇ隊長達」

赤三番と赤四番のコールサインは、反対の左側を担当する二人のものだ。
抑揚のない気だるげな寝起きのような声と、それと対照的なやけに明るい楽しげな声が返る。
どうにも護衛任務の最中という状況には、そぐわない空気であった。
慣れない雰囲気に、溜め息をつきそうにもなるが、隊員同士のコミュニケーションが取れているだけマシかと思い直す。仲間といがみ合いながら、銃弾飛び交う戦場にいれる人間など、どこにもいやしない。

「赤五番機、異常なし」

赤五番は私のコールサイン。
もう一度周囲を見回し、何も異常のない事を伝える。
敵影見えず。
スオムスまで輸送機を護衛する時間のかかる任務であったが、すでに航路の半ばを過ぎても敵機の姿を見る事はなかった。
空中輸送路の遮断は向こうネウロイにとってそこまで重要な事でもないのか、それとも単に気付いてすらいないのか。
私には奴らの思考を理解することなどできないのだから、考えるだけ無駄な事である。
仮にネウロイに知能に類するものがあったとしても、奴らが鉛玉を撃ちこんでくるなら、我々は撃ち返さなければならない。
私がやることも変わらない。敵機が現れたら、無数の弾丸を機体にぶち込んでスクラップに変えてやればいいだけの話だ。何も難しい事は無い。それだけで輸送機を操るパイロットの命も、スオムスへの輸送路も守ることができる。
気持ちを引き締め、MG34機関銃を持ち直す。意識は周囲に拡散、視野を広くたもち、警戒は厳に。
と、ここで、何か足りない事に気がついた。

「おい、赤六番機、聞こえるかー?」

隊長からの通信が聞こえる。
どう決着がついたのかはわからないが、いつの間にか、言い争いも終わっていたようだ。

「赤六番、おーい?」

もう一度赤六番機を呼ぶ。
返事は無い。
そう言えば赤六番機からの状況報告があがっていなかった。
赤六番のコールサイン、割り当てられたのはテオドーラ・ヴァイセンベルガー。
私は軽いめまいを感じた。
隣を飛んでいる彼女を見ると、ハンドリック少佐と面会した時のように、顔面から血の気が引いているのがわかる。緊張で声も聞こえていないのだろう。
機関銃を抱きしめるようにかかえて、視線は周囲にせわしなく泳いでいる。

「エールラー、ヴァイセンベルガーは大丈夫なの?」

今度は副隊長からの通信が入る。
小さな声で、コールサインではない本名での会話。テオの事を心配してくれているのだろう、いい上官だ。

「問題ありません」
「そう? 初めての任務だから緊張してると思うんだけど」
「大丈夫です、初めて飛んだ時もそうでした。じきに慣れるはずです」

これでも士官教育まで受けているのだ。そうでなくては困るし、教官も浮かばれない。
私は若干速度を緩め、そばを飛ぶテオとの距離をさらに縮める。

「赤六番、応答しろ。赤六番」

返事が無い。
表情に変化も見られない。

「テオ、返事くらいしろ……おい、テオ!」

無線が壊れていなければ、聞こえていないはずはないのだが。
何度呼んでも、やはり応答は見られない。
私はいよいよ溜め息を深くした。
どうにもこの娘を再起動させるたびに、強力な刺激が必要になるらしい。一しきり打開策を考えたが見つからず、結局こうなるのか、と嘆息。
そして思い切り息を吸い込んだ。

「返事はどうしたテオドーラ・ヴァイセンベルガー! 上官の問いに答えんとはどういうことだ!」

大声。
とたん、テオの体が大きく震え、硬直する。
その拍子に機関銃が手からこぼれ、肩紐スリングにぶら下がった。

「聞こえていないのか? ん? ヴァイセンベルガー訓練兵、貴様の耳はブリキの玩具ででもできているのか?」
「聞こえております教官殿! 申し訳ありません!」

テオは体を水平に保った姿勢のまま敬礼をする。
機関銃が振り子のように左右に揺れた。

「ほう? では何故返答しない、貴様にやる気はあるのか! 無いのか! どっちだ!」
「あります! 恥ずかしながら緊張に飲まれておりました!」
「言い訳はいらん! 今すぐに状況を報告しろ!」
「ヤー! 中隊はバルト海北東部をスオムスへ向け速度120ノットで飛行中! 雲多し、敵影いまだ発見できず!」
「そう言えばいいだけなのに……何でお前はまったく」
「うん……ごめんね、姉さん」

正気にもどったテオの謝罪を聞きながら、私は頭を抱えたくなった。
この調子では慣れるまでにどれくらいかかることやら。
個性と言ってしまえば、それまでではあるが、上がり症は軍人にとってマイナスにしかならないだろう。
ちゃんと見ておいてやらねば訳もわからぬまま撃墜されて命を落とすか、一生モノのトラウマを作るか、どちらにしてもロクなことになりやしない。

「いやぁ、お二人とも面白い方ですねぇ」

赤三番機が緊張感の無い声で言う。
面白いで済めばいいのだがな。
僚機を見殺しにするなどという選択肢は存在しないのだから、テオが実戦で同じ状態になったら、困るのは中隊の全員だろうに。
テオの潜在能力に期待しているのだろうか、それとも一人二人足を引っ張っても何とかする自信があるのか。

「すごく、個性的……というより……変」
「あっはっはっは! それをお前が言うのかぁ?」
「……アンタら全員人のこと言えないわよ」
「酷いですね副隊長殿、少なくとも私はまともですよ? 他と違って」
「それは、ない」
「うん、ないない、ぜってーないな」

会話を聞いていると、単に緊張感にかけているだけのような気もするが。
凛々しくてカッコいい空の乙女に憧れる女子たちには、あまり聞かせたくない会話であった。
どうにも自分だけが気を張っていたように思えて、少々気が抜けてしまう。
これがウィッチの普通なのだろうか。
ウィッチに対しては軍規も大分緩いようであるし、過度な緊張を強いないよう、軍全体でそのように雰囲気を作っているのかもしれない。
まあ、少女を戦場に送りだすのだ、それくらいの配慮をしても不思議ではないと言えば不思議ではないか。
そんな事を考え、やはり気が緩んできているのを自覚する。
先程、気を引き締めようと思った矢先にこれだ。空気に流された事もあれど、自分の自制心の無さに少し呆れる。
まったく、一度は戦闘機一個中隊を率いた身とは思えんな、と心の中で呟いた。
霧散した意識を集めて、また遠くへ向ける。
と、そこで気がついた。

「……何かいる」

今の一言が聞こえたのだろう。
通信機から聞こえていた姦しい会話が途切れた。
目を凝らして遥か彼方を凝視する。白い雲の間に、小麦の粒ほどもない大きさの、黒い点が見えた。
首から下がっていたゴーグルをかけ直す。次いで、限界まで目を見開いて、黒点を補足。
体内の魔力が流れ出すのを感じ、私の固有魔法が機能をはじめる。

「報告しろ」

隊長から短い命令が飛んだ。声色は、先程とは別人のように冷静で、緊張感を含んだものだった。
私は目標を補足し続ける。
やがて、ゴーグルに文字が浮かぶかのように、視界の中に『情報が表示』された。
黒点から線が伸び、その先に『ラロス』の文字。さらに続けて、敵機の数、進路、高度など必要な情報が次々と現れる。

「赤五番機より各機、敵機発見。ラロス級、数8。距離10000、高度4500を方位、0-6-0マルロクマル(二時方向)から、2-4-0フタヨンマル(八時方向)へ向け、140ノットで進行中」

情報の表示は自分の残燃料数、残弾数が現れたところで止まった。
私の固有魔法は、かのアドルフィーネ・ガランド少佐が持つ魔眼のような能力だ。
ゴーグル着用による視界の限定で集中力を制御し、見える範囲の情報を収集して、可視化する。
ちょうど今のように、敵機や僚機の状態、位置、進路が、文字や記号となってゴーグルに映っているように見えるのだ。
簡単に言えば、見えているものを、もっと見やすくする力だろうか。

「便利な固有魔法ですね、うらやましいです」
「あるに越したことはないがな、索敵に限ってはそうでもないさ」

赤四番からの言葉を否定する。
利点の反面、ガランド少佐の魔眼ように、見えないものを見えるようにする訳ではないため、使いどころが難しい。
今回は運良く肉眼で敵機を見つける事ができたから良かったが、そうでなかった場合には、発動したところで補足する事もできなかったに違いない。私の固有魔法は、あくまで見えたうえで使わなければならないのだ。
索敵として使うには有効な範囲が狭すぎる。かといって、格闘戦を行うにも、一撃離脱に徹するにも、役に立つかは実際に撃ちあってみなければ判断のしようもない。
何かと評価に困る力であった。
ややあって、隊長と副隊長の会話が聞こえてくる。

「スオムスまであとどれくらいだ」
「飛行時間から考えると、そこまで離れていないはず。長くて200キロってところかしら」
「自前の燃料で充分か、敵機を撃破する。全機増槽落とせ」

敵機との距離は10000から徐々に減りつつある。向こうがこちらに気がついているかは定かではないが、このままいけばニアミスするのは確実だろう。
奴らが我々をそのまま通してくれるとは、到底思えない。
隊長は撃たれる前に撃つと決めたようだった。
飛行脚用の燃料が積まれた小型のタンクを切り離す。楕円形のそれは不規則な回転をして、雲の中に消えた。

「向こうに飛んでるガラクタ八機は、私と赤二番で狩るぞ。赤三番から六番は残って輸送機を護衛しろ」
「ヤー」

副隊長が返答し、その他の隊員も習う。
ラロス八機の編隊は、そこまで規模が大きいとは言えない。
経験を積んだ隊長機と副隊長ならば、充分におつりがくる。残る我々はその予備だ、万が一の場合に輸送機の盾になればいい。

「じゃあ行くぞ。また後でな、お前ら」
「赤五番、六番をちゃんと見ておいてあげなさいよ?」

先行する二人が高度をあげて視界から消えた。
輸送機はラロスと接近する進路から外れるために、左へ舵を切っていく。
視線は周囲を警戒しようと、無意識のうちに忙しない挙動を始める。
中隊にとって初めての、私にとっては十二年ぶりの実戦が始まろうとしていた。






            ♦♦♦♦♦






数日前。

リバウ軍港、第77戦闘航空団隊舎。
司令室のある建物から、ほど近い、立地のいい隊舎だが、実際はリバウに展開するオラーシャ海軍の施設を借り受けたものだ。
オラーシャが誇るバルチック艦隊の本拠地、さらには扶桑皇国も駐留する国際的な軍港都市。その中の施設の一つとあって、末端の兵士のための建物であれど、装いは立派なものだった。
まあしかし、立派と言っても私の感覚がずれているだけかもしれないが。
カールスラントの前線基地は、オストマルク崩壊後の混乱の最中に造られたため、急造の物も多い。
そのせいで冬になった頃、ちょうど11月に入ったこの時期には、将校下士官問わず、吹き込んでくる隙間風に身を震わせることになった。物資の節約のために無駄な燃料は使えないのだ。あの時ほど、たき火にありがたみを感じた期間は記憶にない。
何にせよ、そんな環境に比べればここは天国に等しい。

「ここだな」

私はテオをともなってドアの前に立った。
目線よりも少し上、その横には確かに『第4飛行中隊』とある。
中では複数人が歩く気配がする、誰かいるのは間違いなさそうだ。

「……大丈夫か?」

ノックの前に、隣のテオに聞いてみる。
私はおそらく問題ないが、心配なのはテオの方だ。
返ってくる反応は、固い表情でコクコクと頷く動作のみ、司令との顔合わせよりかは幾分かマシだが、それでも不安で仕方がない。

「恥ずかしいのか?」
「……うん……でも、大丈夫、きっと……うん」

一瞬返事が返ってきたのかと思ったが、どうやら違うらしい。自分に大丈夫だと言い聞かせているようだ。

「入る前に休むか、どうする?」
「大丈夫……大丈夫、そう、大丈夫」
「とても大丈夫そうには見えんぞ」
「リーケ姉さん」
「ん……んっ? 何だ、どうした?」

突然に名を呼ばれて、返答に詰まる。
よくわからんうちに心の整理がついたのか、テオは決意に満ちた表情で私に向き直った。
強い意志がこもっているように見える瞳に、少し気押される。

「私が先に入るよ、挨拶も私がする」
「ああ、うん? いいのか?」

彼女の一言に、思わず聞き返してしまった。
正直、初対面と言えど、ただの顔合わせなのだから大したことではないのだが、この気弱でそそっかしい娘に限っては相当難しい事のように感じる。
心配だ、とてもとても心配であった。

「大丈夫、私だって軍人だよ、このくらいでつまずいてちゃいけないと思う」

口を真一文字に引き結び、おっとりした印象を与える目を、釣り上げた顔で言う。
私は頬をかいた。
少し考える。
たしかに、小さい事でも何かに挑戦する機会を与えた方が今後のためだと思わなくもない。

「よし、わかった。そこまで言うならしっかりするんだぞ」
「うん」

不敵な、似合わない笑みを浮かべてテオが頷く。
私は入れ替わるように彼女の後ろに回った。

「身だしなみは?」
「制帽、襟元、大丈夫」
「ノックはちゃんとしろよ?」
「うん、大丈夫」
「その前に深呼吸」
「スー……ハー……」
「よし行け!」
「うん!」

部屋に入るまでには、こんなに手間をかけるものだったか、と疑問に思ったが無視。
頷き、ごくごく自然な動きでドアを叩こうとするテオ。
だが、大丈夫だろう、そう思った時ほど、良くない事は起こるものである。

『バッカヤロウ! 触んな!』

ノックしようとした手が、ビクリと痙攣して止まった。
部屋の中から怒鳴り声が聞こえてきたのだ。
手を空中に固定したまま、テオは小刻みに震え始める。
ダメだ、もう、台無しだ。

「リ、リーケ姉さん……どうしよう」

涙目になってテオが振り向いた。

「いや、待て泣くんじゃない」
「だって、だって……さ、さわ、触るなって」
「お前に言った訳じゃないだろう、元気出せほら」

溜め息をつきながら慰めてやるが、テオの心はもうキレイにへし折れてしまっている。
本当に台無しだ。
頭痛を感じながらドアの向こうに意識を向けると、内部の会話が聞こえてくる。

『その飾りはそこであってんだよ! 勝手に移動するんじゃねえ!』
『何言ってんのよ! 絶対こっち! アンタのセンスに任せてたら埒が明かないわ!』
『じゃあお前のセンスは正しいってか? 馬鹿も休み休み言え、幼年学校のお遊戯じゃねえんだぞ?』
『そっちこそ馬鹿言わないでもらえる? これがげいじゅつだぁ、なんて訳わかんないこと言って、部屋中荒らされたんじゃたまんないもの』
『隊長命令だ、その飾りを元に戻せ!』
『うっさい! アンタの好きにさせるもんですか、副隊長って言うのは隊長の暴走を止めるためにいんのよ!』
『いい加減にしましょうよ、お二方ったらー、もう新人の少尉さん来ちゃいますよー?』
『何言っても無駄……こうなったら、止まらない』
『うわあ諦めるの早いですねぇ』

テオの代わりに中に入ろうと思ったが、流石にこれは私でも入りにくい。
第4飛行中隊はどんな人員で構成されているのか。
今後この部隊でやっていけるのか、かなり不安に思えてきた。

『いーやあ面倒ですね。どうしましょ、うん、どうしようもありませんね、ですのでお二方が落ち着くまで私は外で待ってます。終わったら呼んでくださいな』

喧騒に混じって芝居がかった声が聞こえてくる。
さらに続いて足音。
あっ、と思う間もなくドアが内側から開いた。

「いやはや人間関係は難しい……おや」

出てきたのは私よりも背の低い少女であった。
癖っ毛が目立つショートヘアが活発な印象を抱かせる。
少女は我々を見るなり大きな目を丸くした。観察するように私を足から頭頂部まで見て、階級章に目を止める。
おお、と納得したように手を打ち、次の瞬間には背筋の伸びた綺麗な敬礼を見せた。

「これは少尉殿、エルネスティーネ=ヴィルヘルミナ・ライネルト軍曹です。どのようなご用件でしょうか」

演劇のような大仰な言い回しが鼻についたが、とっさの反応としては模範的な行動である。
少し感心しながら、私も答礼する。

「ハインリーケ・エールラー少尉だ、今日から第4飛行中隊配属となる」
「新任の少尉殿ですか、よろしくお願いします……まあ、本当は隊長が先に挨拶するのが普通なんですけどねえ」

ライネルト軍曹は腰に手を当てて部屋の中に目を向ける。
その先からは相変わらず二人の少女の言い争う声が聞こえていた。

「隊長も副隊長もあの調子なもので、困ったもんです」
「お二人はいつもそうなのか?」
「ええ、まあ、リバウ配属前から仲はよろしくなかったようで。オストマルク戦線で活躍していたから腕は確かなはずですがね」

なるほど、と最後の言葉を聞いて、隊長と副隊長への印象を上方修正する。
オストマルクでの戦いと言えば、初期の鉄門陥落から撤退戦が主であっただろう。
現在の東部戦線にも劣らない凄惨な戦いだったはずだ。そこを生き残ったのであれば、やはりウィッチとしての技能に大きな期待を抱くことができる。
腕もいい、実戦経験もある、そんな兵士はどこへ行っても重宝されるのだ。
と、思考するのはここまで。
私は感心しつつ、テオを肘で小突く。

「いつまで震えてるんだ、お前も挨拶しろ」
「あ、っはい、新任のテオドーラ・ヴァイセンベルガー少尉です…………よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。相手は下士官なんですから、緊張しなくてもいいと思いますよ? 私だって任官したてのぺーぺーですもの」

おっかなびっくりといった様子のテオに、ライネルト軍曹は笑いかけた。
どっちが上官かわからない。そのうち苦労するだろうな、と幼馴染の将来を思ってこめかみを押さえる。
一方、ライネルト軍曹は少し考え、ポケットの中から何かをとりだした。
包装紙に包まれた小さい板状の物、チューイングガムだ。

「甘いものでも食べて落ち着きませんか? どうです、リベリオンからの輸入品ですよ」

数枚の束から突き出た一枚を差し出され、テオは少しだけ目を輝かせた。
手を伸ばそうとして、その前に私に目配せしてくる。
何でもかんでも私に許可を貰わねばいかんのか、この娘は。幼少時に世話を焼き過ぎたことを今更になって反省しなければならないとは。
首だけを動かして、貰えばいいだろうと合図。
テオはにこっと笑ってチューイングガムに手を伸ばした。
いずれ一人立ちさせねばならないだろう、本当にこの子のためにならない。

「エールラー少尉もいかがですか?」

ポケットからもう一つ束を取り出して、ライネルト軍曹が聞いてきた。
貰おう、私もそう言って手を伸ばす。
だが、そこで何か違和感を感じた。

「どうしました?」

空中で手を止めた。
ライネルト軍曹の朗らかな笑み。
どうにもそこに、嫌なものを感じとったのだ。
愛想はいいが、何か腹に抱えているような顔。今は記憶の彼方だが、私は誰しもを安心させる柔らかい笑顔を浮かべながら、平気で上官にロクでもない悪戯を仕掛ける『少尉』のような人間がいる事を知っている。

「遠慮なさらずに、ささ、どうぞ」
「いや、私はいらな」
「ひぎゃあ!」

手を引っこめたその時だった。
私の言葉を遮って、一瞬の短い悲鳴が響いた。
見ればテオの指先にチューイングガムが『喰らいついている』。
チューイングガムに似せたダミーを引っ張ると、中からネズミ捕りのような、バネ仕掛けの金属具が飛び出して指を挟む悪戯用の玩具である。
テオは指から外すのを忘れて、虫に噛みつかれたかのような動作で、涙目で腕を振り回している。

「ナーイスリアクション」

朗らかな笑みのままライネルト軍曹が言う。
私は顔の筋肉が引きつるのを感じた。
心配だ。
テオを落ち着かせる事も忘れて、自分の今後に思いを巡らせる。



――――私はこの部隊でやっていけるのだろうか?



この時ばかりはウィッチとしての、ひいては軍人としての自信も裸足で逃げ出さんという心境であった。














こんにちは。
何よりも先に、申し訳ないです、すみません。前回の投稿からどんだけ経ってんだという話ですね。
就活が終われば投稿ペースも安定するとは思いますので、よろしくお願いいたします。
次の話は今回投稿分の直接の続きものなので、何とか早めに投稿できたらな、と。




読んでいて気付かれる方もいると思いますが、テオドーラ・ヴァイセンベルガーは一応公式でも名前が出ているキャラクターです。wikiを見る限り、大まかな設定以外、イラストや人柄が公開されているようではないので、知り得た設定に矛盾しない範囲で、ほとんどオリキャラ設定でお借りしています。



※後付けですが勝手にツッコミが入るんじゃないかとびくびくしてる増槽について、ぶっちゃけると史実のドイツ空軍はこの時期には増槽は装備していません!当時の増槽の技術は航続距離にこだわっていた大日本帝国の先進技術でした。後に各国とも有用性に気付いて開発し始めますが、ドイツはこの時期ではまだのはずです。本作で出てるのは増槽落とすのってなんかカッコいいじゃんよという私の趣味と、スト魔女世界は各国とも仲がいいから扶桑海事変の後に増槽の技術が扶桑からカールスラントに持ち込まれていてもいいじゃないという妄想の結果です。すみませんでした。



[36710] 3  1939年 バルト海 氷の海03
Name: かくさん◆b134c9e5 ID:82b7ca1d
Date: 2014/03/02 21:35
「……アンタねえ、私が目を離した隙に何してくれてんのよ」

突然、ライネルト軍曹の襟首にドアの向こうから手が伸び、工作機のような恐ろしい力で締めあげ始めた。
彼女は母親に悪事が見つかった時を思わせる苦い顔をする。
テオはと言えば、廊下の向こうにチューイングガムの玩具をブン投げ、私の後ろで震えていた。

「あらどうも副隊長殿。お忙しいようなので、私が代わりに挨拶をしておきました!」
「そう、アンタの挨拶は初対面の相手に悪質ないたずらを仕掛ける事なのね、まずは幼年学校で常識を教わってきた方がいいんじゃないかしら」
「失礼な! これはジョークってやつですよ! イッツァ、リベリアンジョーク! ハハハ!」

襟首を掴む手にさらに力がこもる。
徐々に上へ上へと締めあげ、ライネルト軍曹は少しずつバレリーナのようなつま先立ちになり始めた。

「リベリアンジョークが本当にそうなら、国交断絶するべきよね、カールスラントの人間とは絶対にわかり合えっこないわ」
「えへへへー……それも冗談なんですけどもー、ネタになったチューイングガムの本場がリベリオンだからリベリアンジョークってな感じのつまらない理由でしてー、はいー……」
「くだらない」
「自覚はあります、はいぐええ」

会話は途中でとぎれる。
ライネルト軍曹の首に、細い腕が蛇のように巻きつき、ギリギリと圧迫し始めたのだ。
血相を変えた軍曹がもがいて、腕をタップする。
朗らかな笑みは影も形もない、おそらく本気で『入っている』のだろう、先程の余裕などどこにもない。

「新人に向って何てことしてくれてんのアンタはァ! これが原因で部隊の不和が生まれたらどうすんのよこのお馬鹿!」
「い、やぁ、ふ、副たいちょ、チョーク、スリ、パは、ですね、け、けっこう、危険な、技、でし、て……」
「空でトラブルになる方が百万倍危険でしょうがスカポンタン!」
「はい、お、っしゃ、る、とお、り、ぃー……ロープ、ローォプ……」

うめきながらこちらに手を伸ばしてきたので掴んでやる。
それと同時に首をホールドしていた腕が緩み、抜け出したライネルト軍曹は私にもたれかかってきた。
彼女は私の手を両の手で包み、目を潤ませながら見上げてくる。
何か熱がこもった視線に、少しだけうすら寒いものを感じた。

「ああ、エールラー少尉……貴女は命の恩人です、どうかお姉さまと呼ばせてくだ」
「断る、離れろ」
「おっと残念、喜んでくれると思ったのですが……ああすみません、睨まないでください」

睨んでないどいない、お前も私の目つきが悪いというのか。
考える間もなくライネルト軍曹の言葉を斬り捨てると、彼女はパッと手を離した。
『姉さん』だけでも鳥肌ものなのに、『お姉さま』などごめんこうむる。冗談ではない。
そうこうしているうちにライネルト軍曹はまた襟首を掴まれ、ドアの向こう側へ消えた。
沈黙が廊下を支配する。
私とテオは顔を見合わせ、溜め息をついた。

「大丈夫かな……私達」

そんな事は私にもわからない。
ややあって、ドアの隙間から『どうぞ』という声が聞こえ、一瞬、逡巡しつつドアノブに手をかける。

「今度は私が先に行くぞ」
「……うん、お願い」

暗い表情で頷くテオに憐れみを感じながら、ドアを開けた。
中にいたのは、ライネルト軍曹を含めて四人だ。
入口のすぐそばで笑みを浮かべているのが一人、二段ベッドの上段から顔を覗かせているのが一人、部屋の中央で仁王立ちしているのが一人。
ライネルト軍曹はロープで縛られ、ベッドの中に放り込まれているのが見てとれた。
部屋自体は狭い訳ではないが、六人分の二段ベッドが視界を遮っているせいか、わずかに息苦しさも感じる。とはいえ、ボロ布のハンモックが寝どこと言う訳でもなし、個々人のスペースが確保されているのだから、文句を言う要素もない。
冷たい床にはカーペットが敷かれ、奥には薪ストーブとそれを囲む人数分の椅子も見える。
不自由を感じることはなさそうだ、と少し安心した。

「さっきはごめんなさい、驚いたでしょ?」

入口近くに立つ人物が苦笑する。
肩のラインで切りそろえたアッシュブロンドの髪がまぶしい少女。軍服を皺なくきっちりと着こなし、軽く細められた目は私の瞳を見据え、どこか意思の強さを感じさせた。

「ジークリンデ・フライターク中尉、第四飛行中隊の副隊長です、よろしくね」

にこやかに挨拶する声を聞くと、声色こそ違えど先程ライネルト軍曹をドアの内側へ引きずり込んだ人物と同じだと気付く。
自然と私の表情も固くなるのがわかった。テオなどもっとわかりやすいだろう、見なくても小動物のように震えているのがわかってしまう。
フライターク中尉はそれを感じとったのか、一瞬眉をひそめると、次にはハッとした表情になり、最後は困り顔で話し始める。
ころころと変化する表情を見て、私が抱いた第一印象に感情表現豊かな人物だという評価が加わった。

「ああ、あのね、ライネルトはいつもああだから、アレくらいきつく叱らないと全っ然懲りないのよ、あなた達を締めあげるつもりはないから安心してちょうだい」
「わあ酷いや副隊長、隊長も副隊長も何もしないから私が頑張ったのに」
「アンタが悪ふざけをしなけりゃ私だって何もしないわよ!」

ライネルト軍曹が冗談めいた文句を言って会話に割り込んできたが、フライターク中尉は顔を赤くして怒鳴り声で応酬。
律儀に反応してやる手前、ライネルト軍曹のようなタイプの人間を相手にするのは気苦労が絶えないだろう。
どうにも昔を思い出し、フライターク中尉に同情してしまう自分がいた。もっとも、テオの心をへし折った会話を聞くに、彼女も彼女でくせのある人物であるのは間違いなさそうだが。
二人のやり取りを横目に、もう一度部屋の中に視線を向けた。
薪ストーブから暖かい光が漏れているのを感じる。
よく見てみれば、部屋中いたるところに造花の飾り付けがされていたり、カラフルな垂れ幕がぶら下がっていたりと、何か賑やかな様子である。
自分の生活の拠点となるであろう場所を眺めていると、その中心で直立不動のまま腕組をしている人物と目が合った。
12歳の私よりもさらに小柄な体格で、釣り目がちな容姿と赤毛の短髪が目立つ風貌。眉間にしわを寄せ、虫の居所が良くなさそうな表情をこちらに向けてくる。
彼女は絡めていた視線をゆっくりと外し、私とテオを交互に見て、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
組んでいた腕を解き、私の目の前へと足をふみならして歩いてくる。やはり不機嫌さを滲ませながら、見上げる姿勢で私の顔を覗きこんだ。
立ち止まり見つめられること数瞬、そこでようやく彼女は口を開いた。

「お前、名前は?」

問われながら、私の目は彼女の階級章に向いていた。
忘れる訳もない、私が戦闘機を駆っていた頃の最終階級、中尉の階級章である。
副隊長であるフライターク中尉と同階級であるなら、彼女が第四飛行中隊の隊長なのか。
厳しい表情で見つめてくる隊長殿に、私は少し考え、敬礼という最も無難と思える行動を選び取った。

「失礼しました、本日配属になりましたハインリーケ・エールラー少尉です」

パイロットだった頃の私には男性の、無論自分よりも背の高い上官しかいなかったのだ。どうにも、目線よりも低い位置に敬礼をするというのは違和感を感じて仕方ない。
不動のまま隊長殿の反応を待つ。
上官に合わせるのが軍人としての礼儀だが、隊長殿からは片方の眉を吊り上げるという、どう考えても友好的には見えない変化しか読み取れなかった。
ウィッチとして部隊に配属されてから出会う初めての直属の上官。かなり気難しい人物だったのか、精神は年下だったとしても、これからの生活や任務に支障が出ないか不安に思えてきた。テオがチューイングガムもどきに噛みつかれてから心配ではあったが、その感覚はさらに深くなっていく。
胃が不快な痛みを帯びつつある中、隊長殿はなおも私から目を離さず、表情は硬化したままである。
困る。
荒くれの野郎共よりも対応が難しい。同性だというのにどうなっているのだ。
心なしか頭も痛くなってきたような気もする。
敬礼でピンと伸ばした指先に、痺れのような何とも言えない感覚が生じ始めた。

「へえ、お前がエールラーか……そっちは?」

隊長殿から感じていた視線が私の後ろ、テオの方を向いた。
どうしてこうも、頭の痛くなる問題ばかりが湧水のように次々現れるのだろうか。
結果などわかりきっている、今のテオにまともな受け答えなど出来るものか。
隊長殿が私の背後にいるテオの目の前まで移動し、私の心配は早くも現実のものとなった。

「は、ええと、わ、わたっ」
「あ? 何だって?」
「その……あのっ」
「私の話聞いてたか? お前の名前を言えって言ったんだけど?」
「あああ、はいっ、すみませんん」

聞いていられない、背後から耳に飛び込んでくる会話とも言えない応酬に、私は敬礼の姿勢のまま冷や汗を流し続けていた。
そもそもテオドーラ・ヴァイセンベルガーという人間そのものが軍人に向いていないのだ。少し考えればわかる、上がり症の慌てん坊が軍人に向いているものか。
しかし、何をどこで間違えたのか、入隊時の適性検査を問題なく突破し、教官殿に怒鳴られながらも訓練課程を乗りきってしまったから扱いに困る。彼女はその器用さを、他の分野に活かすべきだったのではないか。
最早取り戻せない過去の選択に言い知れぬ悔しさを感じていると、そばでライネルト軍曹を怒鳴りつけていたフライターク中尉が深々と溜め息をついているのが聞こえた。
肺の空気と鬱屈した感情を混ぜ合わせ、一気に全部吐き出したかのように長い溜め息だ。

「エールラー、もういいわ。敬礼やめ。手、降ろして大丈夫よ」
「は、しかし」
「いいの、私が許すから降ろしなさい」

フライターク中尉は手を額に当て目をつむった。私はその仕草を見て、釈然としないながらもゆっくりと手を降ろす。
軍規という単語が喉元に引っ掛かったように感じられたが、眉間にしわを寄せて心底面倒くさいといった表情をされると、それも瞬く間に引っこんでしまう。

「まったく、どいつもこいつも下らない厄介事ばかり……」
「は、申し開きもございません」

げんなり、といった顔で呟くフライターク中尉。
なんとも言い難い、決して愉快ではない感情が胸に溢れた。
良かれと思ったことが、ことごとく裏目に出てくるというのは流石にこたえてしまう。
初日からこうもつまづいて、この体たらくでよく戦闘機パイロットとして中尉にまでなれたものだと、軽い自己嫌悪に陥りそうになる。
が、一分と経たずに、厄日だと嘆きたくなるような不幸の連続は私だけの問題ではなさそうだと、思い直すこととなったのだが。

「やってらんない、ホントやってらんないわ、何だってこんな……」
「副隊長殿?」
「あぁあぁ、めんどくさい、こんなの最前線にいた方が百倍マシよ、あぁめんどくさい……」
「……副隊長殿?」
「大体いつもいつも、いつも…………アンタ本当にいい加減にしなさいよこの不良士官っ!」

糸の切れた人形のようだったロージヒカイト中尉が、突然激昂し腕を振り上げたのだ。
反射的に身構えたが、振り下ろされた拳は目にもとまらぬ速技で、いまだにテオに迫る隊長殿の脳天を打ちすえた。
軽いとは言えない鈍い打撃音が響く。
一瞬の沈黙。
痛みが全身を駆け巡ったかのように体を震わせ、隊長殿はロージヒカイト中尉へ向き直った。

「イッテェな!? テメエ何しやがんだコラァ! いきなりゲンコツってのは一体どういう了見だ!?」
「あぁ!? どういう了見ってのはこっちの台詞だっつーの! 新人いびって何が楽しいのよアンタ隊長の自覚ある訳!?」
「ハアァ? 何言ってんだバッカじゃねーの!? いびってねえよ名前聞いてるだけだろうが何か文句でも!?」
「文句があるから止めたんでしょうがスカポンタン!」
「だったら口で言えばいいだろバーカバーカ!」

言われたならば言い返す。苛烈な言葉の応酬は、まるで今のご時世では起こり得ない戦艦同士の砲撃戦のごとく。
どちらも一撃では沈まないし、周りからは手がつけられない。
私は一体どうすればいいのだ。
ここで止めに飛び込んだところで、手を誤れば今後の部隊活動に支障をきたす可能性のあり得るし、慎重をきさねば私の身も危険にさらすことになる。
こんなものどうしようもないだろう、と諦め半分、助けを求めるように部屋の奥の方へ視線を向けた。

「……何?」

先程から、目の前の二段ベッドの上段から喧騒をうかがっている少女と、目があった。
眠たそうで生気に欠ける瞳が覗く。直立なら肩甲骨の下ぐらいまでありそうな金糸のような髪が、顔のわきからダラリと垂れ下がる。
気だるそうな表情はミリメートル単位程も変化を見せず、その顔のパーツの中で、端正な口だけが動いて無愛想な言葉を投げかけてきたのである。
私は言葉に詰まった。
生まれて初めて接する相手、しかも精神的に少しでも参っている状態で『何?』と突き放されるとは、取りつく島もないではないか。
苦し紛れに口を開こうとした、その時、彼女に動きが見えた。

「フレデリカ・ロージヒカイト、少尉」

彼女は心の動きを感じさせない色の白い顔を、自分で指をさして言った。
回転の遅い私の頭のせいか、微動だにしない彼女の顔のせいか、一瞬、何の事を言っているのか理解できず怪訝な表情を返してしまう。
何秒間かそのまま考えこんで、ようやっとこれが自己紹介なのだと思い至る。

「あなたの名前は資料で見てる。ハインリーケ・エールラー、階級は少尉」
「あ、ああ、そうだ」
「それで、もう一人がテオドーラ・ヴァイセンベルガー」
「ああ、うん」
「よろしく」

確認しただけといった、酷く事務的な挨拶だ。
話のテンポが読み取れん。引きつった顔でよろしく、と返して、そこで会話が途切れてしまう。
ロージヒカイト少尉は私の顔を見つめるばかりで、動作らしい動作が見てとれない。
顔に出ていないだけかもしれないが、機嫌が悪いという訳ではなさそうなのが救いか。

「な、なあロージヒカイト少尉」
「フレデリカでいい……この部隊は編成されたばかり、先任したところで意味はないから」
「そうか、それはどうも」

失礼だが、見かけによらずフレンドリーなところもあるようで、私は少し安堵した。

「そっちも隊に来たばかりということなのに悪いんだが、あのお二人を何とかできないのか?」

無論、お二人というのは隊長殿と副隊長殿である。
背後をうかがってみると、言い争いは未だやむ気配を見せず、ほったらかしにされたテオが助けを求める子羊のような目を向けているのがわかった。
すまない、テオドーラ。私には何もできん。

「別に」
「……別に、とは?」
「放っておいても大丈夫。いつも通り」
「本当にいいのか? いや、これがいつも通りというのも、それはそれで問題だと思うが」
「いい。そのうち収まる」

いや、本当に収まればいいが、そのまま取っ組み合いになってしまったら目も当てられないぞ。
そんな私の心の内を読み取ったのか、フレデリカが面倒だ、といった様子で首を振る。

「気持ちはわかる、初めて見たときは驚いた。でも慣れる」

私としては、初対面だというのに、フレデリカが驚いている様子を想像できないのだが。

「慣れる、か……しかし、私とテオは……なんだ、その」

脳裏に、隊長殿の刺すような視線が蘇った。
任官早々しくじったことへの自戒と、今後の部隊での活動への不安が服にインクを零したときのようにジワリと胸の内に広がって、こめかみを押さえてベッドに飛び込みたくなる。そのままサボタージュを決め込んでしまいたい気分だ。

「んん? 何ですかエールラー少尉、もしかして隊長の機嫌を損ねたのでは、なんて思ってませんか?」

いやに楽しげなライネルトの声がした。
もぞもぞと芋虫のような動きでベッドの下段から顔を出した彼女は、私を見上げるなり、半眼で口元を釣り上げるいかにもロクでもないことを考えているような、嫌な笑みを浮かべる。
どうもかつての『少尉』を思い出して、眉が若干つり上がる。
妙にイラつくもの感じつつも、ライネルトの言葉は的の中心を得ていて、肯定するにも否定するにも何か言葉を返すのに少しの時間を要した。その間にニヤニヤとした悪ガキを思わせる笑みは深みを増し、私の眉もさらに釣り上がっていく。

「杞憂ですよ杞憂。あの人、他人の顔と名前を覚えるのが苦手なんですよ」
「……は」
「大方、事前資料の内容をど忘れして、自己紹介前に何とか名前と人相を思い出そうとしたんでしょう。心配いりませんって」
「馬鹿な、まさかそんなことは」

流石にないだろう、そう続けようとしたが、ふと踏み止まる。
『へえ、お前がエールラーか』
なるほど、この言葉を思い出すと、何だかそのような気がしてきた。
軽く溜め息。

「別に誰が何をした、という訳でもないんだな……」
「そりゃあそうですよ。隊長は頑固で怒りっぽくて気分屋で、キャンディバーが無くなると途端に不機嫌になって、副隊長ともよく仲たがいしてますけど、流石に初対面相手に噛みついたりしませんし、少しくらいなら安心しても大丈夫ですよ、たぶん」
「エルネスティーネ、新人を脅かさないで」
「ぃやあぁん私の可愛いフリッカちゃん、そんなよそよそしい呼び方しないでくださいよぅ、ティニでいいんですよ、ほら言ってみてくださいさあさあどうぞ」
「この子もかなり面倒、エールラーも気をつける」
「そうさせてもらう、ありがとう」

ライネルトの挙動がうねうねと気持ち悪くなってきたところで、会話を切る。
とりあえずわかったのは、第四飛行中隊の面子が曲者ぞろいだということくらいであった。
どうもウィッチには個性的な人間の割合が多い気がするが、この部隊もそうなのかもしれない。私が中隊長だった頃、戦闘機のパイロットにだって個性的な者はいたのだし、フレデリカの言うとおり、慣れるしかないのだろう。
ともすれば、いがみ合う二人の上官は各々の気が済むまで触れない方がよい、ということか。流石に取っ組み合いの大喧嘩になってしまったら、体を張って止めに入らねばならないが。
この騒ぎはまさに天災だ。これ以上は何事もなく終わってくれやしないか、そんなことを考えながら振り返る。
振り返り、そう、振り返ったのだが、

「やあ、ずいぶん賑やかだな、楽しそうで何よりだ」

淡い金色の長髪にスラリとした体格。
二人が火花を散らし、テオが迷子犬のように震えている空間のその向こう、この部屋の入口に、第七戦闘航空団司令が何の前触れもなく、まるで幻のように姿を表すとは私ごときの脳みそではまったくもって予想することができなかったのである。
条件反射で跳ね上がった腕は自然と敬礼の形をとり、後ろではフレデリカがベッドからゆっくりと這い出て、ライネルトの気色の悪い挙動が収まる。
テオは泡を食って、部隊の上官二人は少し沈黙した後、並んで敬礼の姿勢をとった。

「ああそれで? 賑やかなのは嫌いじゃないが、ご近所から苦情でも入りそうな騒ぎじゃあないか、あまり周りに迷惑をかけるんじゃないぞ? 何がどうしてこうなった? 管理者責任を問われる前に知っておきたいな」

微量の棘が含まれた言葉がハンドリック少佐の口から飛び出す。
怒鳴りつける訳でもなく、声色だけは至極柔らかに、だが直接自分に向けられたものではないのに、どこか緊張を強いる声だ。
言い終えて、隊長殿とフライターク中尉の二人を見比べ、笑うように小さく鼻を鳴らした。

「まあいいとも、説明されなくても大体の察しはつくさ、どうせお前達の『いつも通り』だろう? 話が噛み合わずに気がついたら収拾がつかなくなった、と」
「は……申し訳ありません」
「……指揮官にあるまじき醜態でした」
「うん、ハインリーケ・ベーア中尉、ジークリンデ・フライターク中尉、言われずともお前達二人の仲が悪いのは東部にいた頃から十分わかっているんだ。今まで通りなら高いプライドを持つライバル同士、休日なら餓鬼共の喧嘩であると微笑ましい目で見れていたかも知れん、私にとっても部下は可愛いものだしな」

だが、と言葉を区切り、軽い溜め息を吐く。

「これからはそうもいくまいよ。お前達は第四飛行中隊の隊長と副隊長で、新編成した部隊を率いて、極寒のバルト海の上で、ネウロイ共と撃ち合うことになるんだ。当事者二人は喧嘩が終わって仲直りで済むかも知れんが、新米にお前達が撒き散らした不満が伝染してみろ、そんな状態の部隊を送り出すのは御免こうむる。第四飛行中隊は再編成、再始動直後にお蔵入りだ」

にこやかに、だが辛辣に言ってのけるハンドリック少佐。
私の顔から血の気が引いていくのがわかる、おそらくベーア隊長もフライターク中尉も同じだろう。
お蔵入り、と。
そんな、冗談ではない。
何のためにウィッチになって、何をしにリバウまでやってきたというのか。ここまで来て後方配置など、私には耐えられない。
だが、この方はやると言った。我々に問題が起これば、躊躇いなく代えを呼び寄せ同じ任務に就かせるだろう。上官とはそういうものなのだ。

「私が言うことはこれくらいだ、納得はしていないが理解はしているのだろう? ならば注意することだ、お前達はただの小娘ではなく機械化航空歩兵であることを忘れるな」
「……肝に銘じておきます」
「なあベーア、ロージヒカイト、慣れない部隊運用がお前達のプレッシャーになっていることは知っている。部下の懸案事項は上官の懸案事項でもあることは重々承知の上だ、だが、お前達自身が私の懸案事項になってくれるな、苦労することは必要でも面倒は嫌いだ、いいな?」
「ヤー、ヤーボール、少佐殿」

ベーア隊長とフライターク中尉が噛みしめるように返答する。
ハンドリック少佐の笑みが少しだけ深まった気がした。
少佐殿はゆっくりと頷くと、テオの頭に手を乗せ、視線を我々にも向ける。

「ああ……まったく、すまんな。本当はこんな話をしにきたのではないのだよ、このお前達の上官二人が新入りの歓迎会を開きたいというから様子を見に来ただけなんだ、まあ、もう歓迎会という雰囲気ではなさそうだが。別に緊張しなくていい」

心の片隅で部屋の賑やかな飾り付けの理由に納得し、ハンドリック少佐の言葉に安堵した。
重ねてきた年齢だけなら私の方が上だというのに、この上官の仕草に一喜一憂させられる。ウィッチという人種は精神の成長が早いのか、生前の私と同じくらいの年齢のはずなのに、エライ差であるなと、心の中で嘆息した。

「それで、どうだエールラー? こんな状態だが部隊の雰囲気は感じとれたか?」
「は、まだ時間が経っておりませんが、自分ごときには過ぎた環境です。この部隊での任務を全うすべく鋭意努力する所存であります」
「何よりだ、期待しておこう。おい、ちゃんと覚えておくんだぞお前達、これが模範回答だ。ヴァイセンベルガーにはまだ厳しそうか、どうかな?」
「あ、えー、はい、私もそう思います……」
「問題だが慣れればマシになるだろう、素直なのは高得点だ、お前はいい子だなぁ……それに比べてうちの問題児どもときたら、まったく」
「うへえ……ちょい注意して終わりじゃないのかよ……」
「あ、ちょっとアンタ何言ってんのよ……!?」
「懲りないなお前達も、また聞きたいことが増えてしまったぞ」

フライターク中尉の周辺が唐突に暗くなったように感じた。
背中が、どうして私まで、という言葉を音もなく発している。

「隊長って、苛められて喜ぶタイプの人なんですかねぇ?」
「そこまで知らん、着任直後の私に聞くな」

ライネルトが肩をすくめて私に尋ねるが、目も合わせる気にもならなかった。
そんな恐ろしい質問に答えられるか、ロクに話したこともない上官に締めあげられるなんて冗談じゃないぞ。

「ああまったく、お前達にかまっていると話がそれるな、聞きたい事も聞けないだろう」

やれやれと、ハンドリック少佐が演劇じみた身振りで首を振る。
何となく気が抜けてしまっていた思考で、周囲の会話を咀嚼していた私の耳に届いたのは、こんな問いだった。

「一つだけ、参考までに聞いておきたい、君達は東部戦線で戦う気はあるかね?」

ふやけた脳に冷水が浴びせられた。
東部戦線、と。
その言葉だけで目が覚める。
私の死に場所、忘れるわけがない。東部帰りの二人、隊長と副隊長もどんな場所か知っているだろう。
連日連夜飛来する戦爆連合と、いくら砲弾を撃ちこんでも歩みを止めない多脚戦車。日に日に物資は不足し、戦線も目に見えて後退していく。
私が死んだ後、どうなったのか、想像に難くない、きっとカールスラントは負けるだろう。結果を見なくてもそう言える、東部戦線はそんな場所だ。

「北方への輸送線の確保は栄誉ある任務であるとエールラーとヴァイセンベルガーには伝えたが、いかんせん東の人員不足も甚だしい。戦況によってはヴァイクセル川防衛に派遣した第77戦闘航空団の本隊と合わせて、東部への配置転換も十分にあり得ることだ」

ハンドリック少佐は部隊の全員を見回した。

「その時になれば否応なしに東部へ配属ということになるだろう、先に言った通り参考までにという話だ、今プレッシャーをかけて色のいい返答を引き出そうという訳じゃあない、だが、それが現実になった時の答えは今のうちに決めておいてくれ。中途半端にしておくと後々困ることになる」

誰もが、強張った表情で押し黙る。
難しい問いだ、皆、個人としては東部戦線投入に異論はないだろうが、部隊としてはどうなのだろう。
仲間という存在が、決意の足かせになることも十分にあり得るのだ。
我々の表情を知らずか、少佐は言う。

「それとだ、君達が自ら東部戦線行きを志願した場合について、指導部は保険としてこの部隊を置いている、それを自分達で動かすのは中々の苦労を要する作業でな」

暗い空気を振り払うように、ほんの少し楽しげに言った。

「東で戦いたい、そう願うのなら、上の連中を納得させられるような成果を、輸送路の確保に並ぶ、目に見える戦果を挙げてこい」

発破をかけるような、邪推すれば扇動するような物言い。
決して穏やかな話ではない、ともすれば地獄へいざなうような。
だが、それでも、戦えるか不安に思えた仲間の目に、小さな火が見えた気がした。


「楽しみにしているぞ、諸君」




     ♦♦♦♦♦







私は結局、北か東か、どちらで戦いたいのだろうか。

ふいに上官の問いが記憶の奥底から持ち上がり、知恵熱か緊張感からか、ぼんやりとした頭がそれを反芻し始めた。
今がそんなことを考えている時ではないのはわかる。今後の身の振り方など、この瞬間においては至極どうでもいい事のはずなのだ。
耳に取り付けられたインカムからは絶えずベーア中尉とフライターク中尉の声が飛び交い、敵機撃墜の知らせが聞こえてきて。
鈍速な護衛対象、Ju52輸送機は白い雲をまとわりつかせ、我々に比べると遥かにゆっくりとした動きでスオムスまでの道中を急ぐ。
最早、迎撃に出た二人の上官と鈍色の敵機の姿は小麦の粒ほどに小さく見える、が時速500Kmを超える速度で戦う航空戦において、その程度の距離は存在しないと考えてもかまわない、そのくらい短い。
インカムから聞こえてくる音声は二人のウィッチが優勢であることを教えてくれていた。
先を飛ぶ我々は、決着がつくまで雲間から現れるかもしれない、いるかどうかもわからない敵機に目をこらすのだ。
靄のように視界を遮る薄い雲がとても鬱陶しく感じる。私の固有魔法は相手を直接視認しなければほとんど機能しない。他人の固有魔法である魔眼然り、広域把握然り、見えぬ相手を把握できる力の使い手が、今は酷く羨ましく感じた。
火力が跳ね上がる訳でもない、より早く敵機を見つけられる訳でもない、そんな私の固有魔法は、いざという時、本当に役に立つのだろうか。私はウィッチとして未熟だ、実戦で使ったことのない能力に、一抹の不安を抱く。
しかしながら、状況は私の心象を考えてくれはしない。無線から聞こえる声が、変化する戦況を知らせてくる。

『赤一番、敵機撃墜、こっちは問題ない。護衛班はどうか』

隊長殿の声。
流れ自体は悪くない、むしろ我々に有利な方へ傾き続けている。
視界の端でライネルトが景気よく手を叩くのが見えた。

「ヒュウっ、さっすが隊長!」

戦闘機でも十二分に戦える相手に、新人ならいざ知らず、実戦経験を積んだウィッチが後れをとるはずもない。
優れたウィッチ一人を十分に支援する体制が整えば、それだけで一つの戦線を維持することも決して不可能ではないという。
おそらく、ものの数分のうちに改良もされていないラロス共は、圧倒され、駆逐され、バルト海の底に沈むことになるだろう。
今起こっている空戦に関しては、何も心配はいらない。
だからこそ、気をつけなければならないのは、新手の存在だ。

「気を抜くんじゃない、お二人が強いのはいいが、警戒は厳にしておけ」

自分で言った言葉だが、私は何度も頭の内で繰り返して、『自分はどこで戦うべきか』そんな今は邪魔にしかならない疑問を、無理やりに覆い隠した。

「フゥっ……こちら赤三番、異常無し」

私とライネルトを順番に見て、フレデリカが溜め息混じりに報告を返す。

「あーあ、ほら、あんまり固すぎると今みたいに呆れられちゃいますよ?」
「本気で言ってるなら医者にかかった方がいいと思うぞ?」
「うえー、そんなぁ酷いやエールラー少尉、張り詰め過ぎると体に毒じゃないですか。ね! ヴァイセンベルガー少尉!」
「え!? あ、うん、そうだね!」
「脊髄反射で同意するな馬鹿者。一理あるが限度をわきまえてだな」

ライネルトといいテオといい、そういう性分なのだろうが、どちらもかなり曲者だ。
実際、空軍全体で見ればこの程度の問題児はそこら中にいるんだろうが、それらをまとめて一端の軍人まで鍛え上げる教官といった職がどれほど大変なことか。想像して少し身震いした。
私の器では到底無理なことだ。

「エールラー、いい?」

緊張が少し綻んだところで通信。何となくライネルトの思惑通りになったように思えたのが、少々気に入らない。
そんなことは知らず、聞きながら、私のすぐ側へとフレデリカが近づいてきた。
ふらつくこともなく滑るような動作で、まつ毛が数えられそうなごく近い距離で私と並ぶ。
ほんの少し、衝突、という不穏な単語が浮かんだが、危な気なくユニットを操ってみせた彼女の技量に舌を巻くこととなった。

「どうした?」
「二時方向、何か見えない?」

感心するのもつかの間、冷や水を浴びせるように緊張感がその言葉から湧きだした。フレデリカは私と目線を合わせ、そう言って片腕を伸ばしながら雲間を指差す。
指先の延長線上には、目に見えぬ心臓まで凍りついてしまいそうな冷たい空気の流れと、視界を緩やかに遮る白雲、そして遥か彼方に見える水平線。
彼女の目線の先を息を止めて凝視した。
視界が良くない。雲が目視による探査を阻んでいる。
私の集中を邪魔すまいと思ったか、誰も口を開かない。風切り音と重いエンジンの回転音が耳を通り抜けていく。

「……すまない、私には見えないな」

言って、肺の中に空気を取り込む。
酸素を取り込むために心拍数が少しだけ上昇し、反対に張りつめた雰囲気が霧散していった。
フレデリカが小さく、そう、とだけ頷いて音もなく隊列へと復帰していく。
誰のものかわからぬ安堵のため息すら聞こえた気もする。
私はもう一度、フレデリカが指差した方向を見た。
心象が変われば見え方も違ってくる、問題ないだろう、そんな気の持ちようで眺めたほんの確認だ。
目線だけで先程の景色を追いかけ、ゆっくりと虚空を眺め、先程の私はやはり冷静ではなかったのだと気付かされた。
悪い流れというものは、得てしてそのような安心をひっくり返すようにやってくるものなのだ。

「いや、待て……あれは」

嫌な緊張感が舞い戻ってくるのを感じた。
今現在、後方で戦闘を繰り広げているラロスの八機編隊、それらを捉えた時のような異物感。
私の目は遠い空の向こうに、あってはならない黒点を見つけてしまった。
顔から一気に血流が動く。
首から下げたパイロット用のゴーグルを目元まで持っていくまで一秒あるかないか。
装着と同時に固有魔法が働きだす。

「いやがった……敵機! ラロス、数4、二時方向距離9800、こちらへ向け260ノット直進! 補足された!」

言うなり冷や汗がどっと噴き出した。
本当に久しぶりの感覚が私を急速に包み込み、心臓が出来の悪いモーターサイクルのようにやかましく跳ねまわり始める。
肺からは嘔吐を堪えるような深い息が一気に吐き出された。

「うわ、嘘でしょう信じられない」

ライネルトがポツリと呟くが、その短い言葉にも余裕は感じられない。
その呟きから数秒の間も開けることなく、通信機から声が吐き出される。

『おい中隊! 聞こえるな?』

ベーア隊長の声だ。
フレデリカが応える。

「護衛班、感度良好……どうぞ」
『時間がないからよく聞け、赤二番は戦闘を離脱して護衛班に合流、可能であれば敵を撃破、護衛班は輸送機を誘導して戦域を離脱だ』
「……ヤー」
『赤一番、アンタはどうするのよ?』
『こっちの敵機を受け持つ、お前はいいから護衛班を追っかけろ! 魔力切れおこしたら担いでスオムスまで連れてってやる! 余計なこと言ってねえで行け!』
『あ……ああもう、そんなこと心配してる訳じゃ……わかったわよ! 赤二番! 全速で護衛班を追います!』

先の敵編隊を迎撃に出たベーア隊長の側でも、目まぐるしく状況が変化しているのがわかる。
無理もない、敵が索敵網にかかった輸送機を狙ってきたにせよ、これが両者とも何か意図した訳でもない偶発的な戦闘であったにせよ、我々はラロスの編隊に不意をつかれたのだ。
最早、息をつく暇すらないのではないか。
昔から奇襲を喰らってばかりだ。思い出の遥か向こう側となってしまったパイロットだった頃の記憶を呼び起こし、照らし合わせ、冷静であれ、と自分に言い聞かせる。

「ねぇ……姉さん!」
「何だ、こんな時まで」

私を姉などと呼ぶのはテオだけだ。
少し上ずった、情けない声色で通信機から語りかけてくる。

「間に合うのかな? 副隊長……あのラロスと、どっちが早くつくかな……?」

自分の思考に淀みが生まれたのを感じた。
反射的に、問題ないだろう、と返そうとした口が、途中で止まる。
それは安心させるための方便にしかならない。
最初からわかっているのだ。ギリギリの距離でギリギリの時間、もし間に合わなければ。
そう考えたところで、テオに言葉を返さず、ベーア隊長の通信へ割り込んだ。

『他に何かある奴は?』
「こちら赤五番、赤二番機と敵機の距離をかんがみると対象の護衛に不安が残ります」

自分の考えを言って一息置いたところで、さらにフレデリカが混ざってくる。

「こちら赤三番、私も赤五番と同じく……赤二番が追いついても、護衛対象が敵の射程に入る可能性がある」

やはり、と内心思った。
こんな急を要する場面にめっぽう弱いテオが気がつくことに、実戦を経験したウィッチがわからぬということは考えにくい。

『……なら、どうする?』

ましてや、苛烈な撤退戦を行ったオストマルク帰りのベーア隊長が、それを想定していなかったなど。
聞き返す声。
何か確認するような響きを帯びていた。

『戦力が足りない、ここで叩くにはタイミングが悪い』

そう、違うのだ。
ベーア隊長の中では、副隊長が我々に追いつく前に敵機が襲来するかもしれぬという想定はとうに済んでいるのである。それをふまえ、最大限の考慮をした上で、ベーア隊長は戦域離脱の命令を下したということだ。
しかし、私やフレデリカとは決定的に考え方の相違がある。

「戦力はあります、我々に交戦許可を」

ベーア隊長は、ほぼ新人で構成された護衛班を、戦力としてみなしていないのだ。

『……』

沈黙が返ってくる。
戦闘機でもそう、空戦の未帰還が最も多いのは初陣のひよっこだ。
ベーア隊長は彼女なりに我々の安全を考えて決断したのだろう。部下として、これ以上ありがたいことはない。

『お前らが戦うってのか? お前も含めて実戦経験のない奴が三人もいるのに?』
「戦えます、我々はそのための訓練をこなしてきた」
『それはお前が判断することじゃねえ、戦える根拠は他にないのか?』

だが、そうであっても、私はどうしても首を縦に振ることができない。
ディオミディアと交戦したあの日、ほんの少しでも同じ空を飛んだ彼女達の姿が頭をよぎる。

「我々は、ウィッチです」

戦闘機よりも速く、強い、人類の切り札。
可愛らしい耳と尾を生やし、その手に似合わぬ重火器を携えて、ストライカーを駆る姿。それを美しいと感じた私にとって、信じて任された輸送機を危険にさらすことなど許容できることではないのだ。
自信はある、誰一人の被害も出さずにラロスを落とすことはできるはずだ。
かつての私に、戦闘機にできて、ウィッチに出来ぬ道理はない。

『そんなのが根拠か、新人だってのに随分なこと言うのな』
「それもまた、いずれ新人と呼ばれなくなりますよ、今の隊長達のように」
『あぁ? 何だよお前、思ってたより全然生意気な奴じゃねえか』

私も内心焦ったか、喉奥から、柄にもなくふっかけるような言葉が飛び出してきた。
上官に対して挑戦的な言動、今まで経験にない。どうせ帰還後に後悔することになるだろうなと思う。
そんな私の言葉に、ベーア隊長は多少の驚きが混じった声を返し、そしてすぐに鼻を鳴らした。

『いいぞ、やってみろ。交戦を許可する』
『は!? ちょっとちょっと何言ってんのアンタ!?』

フライターク中尉が怒鳴る。

『何考えてんの? 新人が単独で実戦なんてそんな無茶苦茶な!』
『いや、大丈夫じゃねえか? なんてったってウィッチだしな』
『何を、アンタまでそんなこと……!』
『アイツらの言うとおり、間に合わない算段が高い。だったら最初から戦わせるべき、これが隊長としての判断だ。全部私の危機管理不足が原因なのはわかってんだよ。不安に思うならもっと急いでくれ、頼むぞ?』
『ああもう! アンタはいつも勝手に決めて! 帰ったら覚悟しなさいよ、通信切るわ』

まくし立てるベーア中尉。
フライターク中尉は、納得がいかない様子で通信を切った。
機械越しに聞こえる小さな溜め息、やがて、それを掻き消すような歯切れのいい指示が飛ぶ。

『護衛班、敵編隊と交戦し撃破しろ! 特に赤三番は新人のサポート忘れんな、以上!』
「ヤー、感謝します隊長」
『アホか、そんなこと言ってられんのも今のうちだ。フライタークの真似する訳じゃねえが、エールラー、お前も覚悟しとけよ? あれだけ大口叩いたんだ、ストライカーに傷一つでもつけたら承知しねえからな! 通信終わる!』

乱暴な言葉と共に、通信機越しの会話が終了した。
隊長は単身迎撃、副隊長は護衛班と輸送機の安全を確保するべく、フルスロットルで魔導エンジンを回しているのだろう。
誰一人として手を抜ける状況ではない、自分以外の誰かの命がかかっている。

「……手立ては?」

冷静極まりない小さな声で、フレデリカが聞いてきた。

「言いだしておいて何だが、私でいいのか? 経験はそちらの方が豊富だろう?」
「別に。おかしな提案をしなければ、かまわない」

とても消極的な同意だ。
短い返事からは、進んでやろうという意思が感じられない代わりに、任されたのなら文句は言わない、そんな意識が読み取れた、ような気がする。
個性的な上官がいるが故の彼女のスタンスだろうか、少し勿体ないとも思えたが、今はそれがありがたくも感じる。
ここで揉めずにすんだ。

「他は?」
「……うん、私は……あ、赤六番は問題ないです」
「赤四番問題ないでーす、いやぁ、私に拒否権なんてありませんて」

それぞれの返答を聞いて、私は頭の中を整理した。
現状を鑑みて、間違いないと思える選択肢を慎重に選び出す作業。
実際の行動よりも気を使う場面だ、計らずとも隊を率いることになって、改めてその感覚を思いだした。
思いだし、それをフィルターにして無数の選択肢をふるいにかける。

「現在は奴ら以外の新手はいない、仮に現れてもその時には隊長達が後方を掃除して帰ってくる頃だ。奴らの射程内に輸送機が収まる前に叩き落とす、ここまでが我々の勝負になる」

そこまでは皆わかっているはず、次からは選択肢を提示していく。

「私とテオが正面から敵機を誘引し、フレデリカとライネルトは雲中を進んで先行」

噛み砕いて説明していく。本当なら何分、何時間でも時間を費やして考えたい作業だ。
名と役割を告げられた彼女らの表情は一体どうなっているのだろうか、編隊飛行中では確認する術がない。

「先行組は後方から一撃離脱ダイブ・アンド・ズーム、無理せず狙い撃って、残りは誘引組が引き受ける」

簡単な作戦、いや、作戦と呼べるようなものでもない。さらに簡単な戦い方を提案しただけ、動きを並べ立てたにすぎず、タイミングも当事者任せである。
我々の持てる選択肢は、個々人のウィッチとしての戦力をあてにすることだけだ。
ベーア隊長にあれだけの啖呵を切ったのも、『ウィッチ』の能力なら可能だと判断したから。

「以上、何か異論は?」

頭を振って雑念を払った。
何を弱気になっているのか、自分が言い出したことだ、ウィッチであるなら不可能なことではない。
ほんの少しの間があって、三人からの了承の返事があった。
私は自分自身を納得させて大きく頷いた。

「では戦闘を開始する、皆、無理を言ってすまないな」
「気にしてない」
「そう思ってくれてるなら、陸で何か奢ってくれてもいいですよっとぉ!」

フレデリカとライネルトが体を捻ってロールを打つ。急上昇した二人の姿はものの数秒程度で雲間に消えていった。
遥か先にあった黒点は先程よりも明らかに大きくなっている。
時間がないのは明白だ。
輸送機が進路を変える。私はその反対方向へ、黒点へと体を向けた。

「なあ、テオドーラ」

私に追従する、妹のような幼馴染の名を呼ぶ。
手に抱えたMG34の重さを確かめつつ、返事を待つが、声は戻ってこない。
代わりに苦しげな呼吸音が聞こえた、やはり、と思った。驚くことはない、テオはきっと耐えられないだろう、その予測はできていた。

「落ち着いて聞くんだ、別に怒ってない」
「……う、ん、ごめん」
「やっぱり怖いか?」

呼吸音が止まる。
黒点は前に見た頃よりも更に大きくなる。

「……怖いよ、怖いに、決まってるよ」
「ああ、そうだよな」
「訓練校でっ、頑張って、やっと配属されて……嬉しくて、それなのにっ……! いきなり死んじゃうかもしれない、なんて、嫌だよっそんなの」

震える歯ぶつかるカチカチという小さな音。
絞りだした声と一緒に私の耳に届いた。
何故だ。私は誰にでもなく問うた。
こんなにもか弱い娘がどうして、このような戦場を飛んでいるのだ。本当なら守られて然るべきはずの、この子が、どうして。
苦しい、胸が、どうしようもなく。
戦闘機に乗ると決めたその日か、ウィッチになると決意したその時か、私はこの子を、けっして連れて来てはいけない場所へ引きずり出してしまった。

「輸送機につくか?」

接敵まで時間がない。戦えないであろうテオを、こんな所に置いておきたくなかった。
恐怖に飲まれて動けなくなったこの子に無数の銃弾が襲いかかる、そんな光景を思い浮かべるだけで頭が真っ白になりそうだ。
今後のことは陸で考えればいい。
聞こえていた呼吸音が止まる、返事は思っていたよりも早かった。

「……嫌」

短く、それでもハッキリした声でテオは言った。

「何?」
「姉さんと一緒にいる」

今度は私の息が詰まる。

「お前、本当にいいのか、本気なのか」
「本気だよ、怖いけど、それでも」

いまだ歯と歯がぶつかる音と、激しい呼吸音は聞こえている、それでもテオは私に言う。

「姉さんが死んじゃうかもしれない、なんて嫌」

私は二の句を継げなかった。
ああ、なんてことだ。誰かが死ぬかもしれないから戦うなどと。
私が二十を過ぎて、軍人を志して初めて得た答えのようなものを、この子はもう持っているのか。それがウィッチという存在なのか、私が彼女らと本当に同じ齢なら、自分を銃弾にさらしてまで誰かを守るなど考える事もできなかっただろうに。
この子は私よりもよっぽど『ウィッチ』だ。

「そうか」
「……うん、大丈夫」
「なら、ちゃんと戦うんだぞ、訓練通りやればいい、ウィッチは強いんだ」
「ヤー、ヤーボール」

心なしか、声の震えも収まったか。きっとこの子は強い。
眼前の敵はもうすでに点とは言えない。高速で接近するそれらは航空機であると、形から判断できる距離にまで近づいていた。
敵は四機、ラロスは編隊を組んで真っ直ぐに飛行してくる。
左から順番に見て、どれが一番脅威か、初撃を加えるタイミングはどうか、出来る限り早く頭の中で整理していく。
ラロスの翼が陽光を照り返した。
短く息を吐いて、MG34を肩にあてがってかまえる。
緊張の糸が張りつめて、通信機がノイズを発した。

「赤三番、いきます」

静かな声が鼓膜を突き抜けた。
ラロスの背後、我々の正面上方になる位置、その雲の中から二つの影が飛び出してくる。一直線に、高高度からの逆落としによる加速を活かし、帝政カールスラント空軍正式採用ストライカーBf-109の世界最高とも言える速度性能を限界まで引き出して、フレデリカとライネルトがラロスに迫った。
機銃が火を噴き、二条の線を張る。
が、それも一瞬の出来事だ。
時速数百キロの速度で舞い降りた二人は数秒と経たずラロスとすれ違い、遥か眼下の空へと飛び去っていく。
初撃は成ったか、その答えもすぐにわかった。
すれ違いざまに機銃弾の火線に絡め取られたラロス二機が、炎を吹き上げて戦列から離脱していく。姿勢制御をこころみたか、頼りなくバンクを振ったそれらはやがて真っ逆さまに海面へと無理矢理に舵を切らされた。

「……ぃぃいっよしゃあ! 見ました!? 見ましたよね今の! 初撃墜ですよ! アハハハ、やった、これで死なずにすみそうヤッター! タリホー!」
「タリホーはブリタニア語、紛らわしいからやめて」

緊張が切れたか、ライネルトがけたたましい笑い声をあげる中、今度は私が引き金に指をかける。
魔導エンジンを全開に、一気に高度を引きあげ声を張る。

「二機撃破、赤六番は上空待機! 次に備えろ! 赤五番いくぞ!」

残り二機になったラロスの片方が泡を食って私に進路を合わせる。
初期型のラロスは鈍感だ、上手く背後に忍び込めば楽に撃ち落とせる程度の相手であった。初めの二機に対してはそれがよく利用できている。
真正面からすれ違ったのは一機、もう一機は輸送機の方へ向かうのか。
時間をかけてなどいられなくなった。
舌打ちをして、私は右に旋回する。首を捻ってラロスの位置を見ると、相手は反対の左に旋回したことがわかる。
円周が交差して、私とラロスがもう一度すれ違った。
空戦機動でいう、シザーズの形だ。舌打ちがもう一度飛び出る。
シザーズは何度も交差を繰り返して、相手が目の前へと飛び出てくる瞬間を狙う機動だ。競り負ける気は微塵もないがこれでは無駄な時間を浪費することになる。

「クソ、邪魔をするなと」

おちょくっているようにも感じるラロスの軌道にイラつきながら、一気にエンジン出力を絞る。
頭を円周の内側へと向け、急旋回。もともと小回りの効くウィッチなら、多少の無茶はなんとかなるだろう。
相手が私の目の前を通り過ぎていった。
もう一押し。
今度は上体を思い切りそらして、推進力の源であるストライカーを脚ごと振り回すように無理矢理に軌道を修正した。
速度を保存しきれず、急な失速に体が若干ふらつく。
戦闘機なら考えられない動きだ、が、ウィッチの強みは安定感にもある。空中で静止できる兵装など、今のところはストライカーユニットくらいのものだ。
背後に回り込まれたことを感知したラロスがシザーズを止めて旋回を始める。
エンジン出力を上げて追従。Bf-109の速度性能はラロスごときに遅れをとるものではない。
このまま円運動になるか、とも考えたが、そんな時間はやはり、なかった。
付き合っていられるか。
一気に勝負をかける。
再度エンジンを全開にして、速度を引きあげた。
ラロスの背中が迫る。旋回中の背後をぴったりと捉え、さらに増速。
円周の内側にとどまり続けることがドックファイトの基本だ。オーバーシュートすること、つまり円周の外側に飛び出ていくことは、有利な位置取りを放棄することになる。
だが、それでも加速をやめない。やりようはいくらでもある。
オーバーシュートが避けられないと、感覚で感じ取った瞬間、私は体全体を捻って上昇旋回した。
余剰分の速力が高度に変換され、速度が落ちる。一瞬の上昇軌道の頂点に達し、体全体が重力の束縛から脱したような妙な感触に包まれた。
何でもできそうな、そんな全能感。遅く感じられる時間の進行の中で、MG34を力いっぱい握りしめる。
そして、上空から、背面飛行でラロスの位置を確認して、もう一度ロールをして加速する。
山なりの軌道から一気に落下するように下降旋回。
眼下のラロスに狙いを定め、もう一度円周の内側に自分をねじ込んだ。
ここでようやく固有魔法が効果を発揮する。
残弾や高度の他、銃口の先に照準器のような模様が現れ、視界の中にそのまま焼きついた。自分の感覚が視覚化されているのだろう、何もないよりかは遥かにマシだ。
逃げに徹する相手を追うのは面倒くさい。見越し角を得られる一瞬を狙う。
時間はかからなかった。
銃床を肩にあて、固く構えた銃口の向こう、照準器がラロスを捉えた瞬間、引き金を目いっぱい引き絞るだけ。
魔力の作用でさほど大きく感じられない振動が伝わってくる。
撃ちだされた銃弾は真っ直ぐにラロスの機体に穴を開け、食い込んでいった。
煙が噴き出し、目に見えて高度が落ちる。制御不能になるまで十秒もつか。やがて、慣性による速度維持もできず、ラロスは雲の中へと消える。
一機はそれでお終いだ。
私は横目で撃墜を確認すると、最後の一機を追った。
時間はそれほどかけていない、進路を修正するとすぐに標的が視界に飛び込んでくる。
目に映った情報を整理して、冷や汗がどっと噴き出してきた。
一直線に輸送機へ向かう影、その間にいるのは、テオドーラ・ヴァイセンベルガーただ一人。
エンジンを全開に、魔力を注ぎ込んで増速する。
間に合うか。
いや、無理だと、早急に結論づけた。
やかましい風音に混じって聞こえるのは、緊張に押しつぶされそうな苦しげな呼吸音だ。
テオは私と同じMG34を構えて、ラロスに向けている。きっと震えて照準が定まっていない。
やはり駄目か、そうおもった瞬間、ラロスの機銃から弾丸が飛び出した。
ギリ、と奥歯がこすれる音が頭に響く。

「……ひっ」

悲鳴を呑み込むような声が聞こえた。
機銃の狙いはかなり甘い、当たりっこないような位置でがむしゃらに撃っているだけだ。
今しかない。
私は通信機に向って大きく声を張り上げた。

「ビビるな! 撃て!」

返ってきたのは呼吸を呑み込む鈍い、くぐもった音。
テオの動きに意思が戻る。遠く、確認できないはずのテオの顔が、歯を食いしばる必死な表情に見えた。
ラロスの機銃弾と交差するように、テオが持つMG34の連射が始まる。
もうすでに互いの射程内に入っていた両者は、ほぼ同時に直撃弾を受けた。ラロスの機銃弾はとっさにテオが張ったシールドに阻まれ、テオの弾丸はほんの少しそれて相手の翼の装甲を強引に引き剥がした。
ラロスからすれば、何もしてこなかったはずの敵からの手痛い一撃、自分の安全を信じていたのであれば裏切りとも言える反撃だっただろう。
臆したか、ラロスはこの場面で、その場限りの対処で身の安全を確保しようとした。
ラロスが急上昇し、テオが放った射線からの離脱を試みる。
が、それは明らかに間違った選択だった。もっとも、この状態でとれる選択など限られたものであることには変わりないのだが。

「逃がさない」
「ハッハァっ! どこにも行かせませんよってね!」

ラロスから見て後方からの猛烈な射撃。
舞い戻ってきたフレデリカとライネルトだった。二人はラロスの進路に蓋をするように射線を張る。
取ることのできる選択肢のほとんどを封じられ、ラロスの動きが鈍った。速度もない、高度の有利もない、我々に牙をむいた化け物は、狩られるだけの存在になり下がった。
遅れて追い付いた私がラロスの上に張り付くように、接近する。

「このスコアはテオの分だろうな」

狙う必要もない。
一言だけ呟き、眼前にあるラロスの胴体へ機銃を叩き込んだ。
破孔から火の手が上がり、確認するまでもなく粉々になった機体はバルト海へ撒き散らされていく。
エンジン出力を絞り、大きく息を吐いた。

「こちら赤五番、新手は?」
「こちら赤三番、確認できず、これで終わりみたい」

もう一度、安堵のため息を吐く。
初仕事にしては上手くやれただろうか。悪くない結果、だとは思う。

『こちら赤一番、先発の敵機は片付いた、状況はどうか』
『赤二番、輸送機と合流できました、こっちからも見えてるけど、全員無事だわ』
『ほーう、やるじゃんか』

安心が滲んでくる副隊長の声と、楽しそうな隊長の声。
聞きながら、編隊を組み直し輸送機へと戻る。

「赤三番と赤四番、問題はないか?」
「私は問題ない」
「問題ありませんよ。しっかし、なかなかエキサイティングでしたねぇ、取り乱したりしませんでした私? いやぁ、お恥ずかしい、ははは」

フレデリカの冷静な返事に、隊長よりも楽しげに聞こえるライネルトの声が続く。
が、笑い声で締められた会話も、最後には尻すぼみになっていった。
消え入るような声でライネルトが言う。

「でも少し怖かったですよ、何もなくてよかった」

笑い声が安堵のため息に変わって、通信が終わる。
どうにも調子が狂う、でもこれを引きずると後悔することになりそうだ。
陸に戻ったら、まだ会ってから日が浅いものの、いつも通りと言える悪戯好きの小娘に戻っているだろう。どうせそんなものだ、かつての『少尉』もそうだった。

「赤六番は……」

これには、言いきる前に言葉が返ってきた。

「私はちゃんと戦えたかな、姉さん」

不安げな言葉だ。
テオらしいと言えばテオらしい。
この子が不安に思っていようと、私は自信を持って言える。

「ああ、立派に戦えていたよ」
「ホントに?」
「嘘を言う必要があるのか?」

何も、私の言動で一喜一憂しなくてもいいだろう。
上がり症なきらいがあるのだから、もっと自分に自信を持てばいいのだ。
きっと強くなれる、テオもウィッチだ。

『面白い奴らだなぁお前ら、陸についたら休憩と報告がてらミーティングする、いい話を期待してるぞ』

先程に輪をかけて楽しそうな隊長の言葉。
面白い奴らか、何となくではあるが、この部隊でならやっていける気がした。
この部隊で北方を支え、然るべき戦果を挙げることで東へ。
あの地獄のような東部戦線でも、この部隊でなら生き残れるのではないか、今はそう思わせてくれる。
現実となるかはわからない、が、たとえ将来、思い違いという結果に終ろうとも、今だけは夢見ることをやめようとは思えなかった。


















読んでくださっていた方々、お待たせしました。申し訳ございません。
就活や卒研その他諸々、私生活で多忙となりまして、更新が途絶えた次第です。
今後は時間配分に気を配っていけたらなと思います。


当初の予定では1万PVを達成できましたら、その他板も考えてみようかなぁとも思っていたのですが、3話投稿で目標の1万PVを超えてしまいまして、予想よりもはるかに多くの方々に目を通していただいて恐縮しております。
その他板への移動のタイミングはどのあたりが適切なんでしょうか?
嬉しい誤算もありまして、本当にありがとうございます。





[36710] 4  1939年 バルト海 氷の海04
Name: かくさん◆b134c9e5 ID:82b7ca1d
Date: 2014/02/07 23:11




東に扶桑皇国、西にブリタニア連邦王国と、世界に名だたる海軍国家に挟まれ本格的な海洋進出こそできなかったものの、長大にして広大な国土を持つオラーシャ帝国の海軍力は、世界のパワーバランスの中で決して無視することのできないものだ。
世界は海で繋がっており、大陸を跨ぐ大帝国を維持するためには、水上で戦うための相応の実力を身につけねばならないのは言うまでもない。であるから、長い歴史の中で、オラーシャ帝国海軍はいくつかの方面において、個別の艦隊を創設し、日々増強してきたのである。
そしてリバウはその一翼、バルト海防衛を担うバルチック艦隊の本拠地として栄えた軍港都市であった。
古くは商業の中心であり、今でも都市としての輝きを失ってはいない。
一たび空に舞えば、市街地全体に広がるレンガ造りの街並みを見ることができ、薄雲の間から見える、静謐な水をたたえるバルト海と陸地との境界線にたたずむ整然とした街の情景は、他の観光都市にも劣らない美しさであろう。スオムスからの空路を帰還するたびにその光景が出迎えてくれると思えば、バルト海を包む冷気を浴びることも、そう悪いことではないのではないかとすら感じる。軍事都市としての無骨さ、そこに旧時代の古くも華麗な文化が溶け込んでいるような、そんな不思議な雰囲気があった。
さて、美しさもさることながら、今は戦時中ともあり、世界の目が向くのは軍港としてのリバウだろう。現在のリバウ軍港には、本来の機能オラーシャ帝国海軍バルチック艦隊の本拠である他に、現在のバルト海、いや欧州情勢における重大な特異点となる要素があった。
扶桑皇国遣欧艦隊の存在である。
西大平洋の雄、極東の大国、扶桑皇国が欧州への援軍として送りだした精鋭中の精鋭、彼らが根拠地として定めたのも、ここリバウ軍港だったのだ。
第二次大戦の前哨戦と言われる1937年のヒスパニア戦役と扶桑海事変の後、欧州に戦乱の兆しありとの世界情勢を踏まえ、先んじて派遣されてきたのが第一陣。大戦勃発後は、カールスラント、スオムスへの義勇軍派遣とともに、遣欧艦隊にも選抜部隊の増派がなされ、扶桑皇国は、ネウロイに相対するための一大戦力をはるか大陸の向こうに保持することとなった。
現在の戦争の舞台が欧州であることは言うまでもないが、扶桑海事変での経験を積んだ皇国軍は他国から見ても非常に有力であり、彼の国にとってもまた、陸軍は扶桑海事変からの精鋭を含む義勇軍部隊、海軍は虎の子の空母機動艦隊を持ち出し、今次の大戦への参戦が真剣なものであることが容易に見てとれるだろう。
さらに遣欧艦隊は艦隊拠点としての港湾施設だけでなく、欧州本土での腰を据えた航空戦力の運用を考慮し、陸上にも基地を設置する。
リバウは軍事的な面とは言え一躍、国際都市としての役目も帯びることとなったのである。
大陸を隔てた反対側からやってきた極東の大戦力に、街は湧いた。人々からすれば、いつ自分の身に降りかかるかわからぬ戦火の恐怖に、脅えるだけだった毎日へと光りがさしたのと変わらぬのではないか。少なくとも、扶桑皇国海軍がリバウの景気に一役買ったのは、きっと私の思い違いではないはずだ。
さて、そんな事情も相まって、わずかにネウロイの進行という不穏な空気を漂わせながら、リバウの街は大きな賑わいを見せているのであった。

「やー、女の子同士で街を散策するって、どうしてこんなにワクワクするんでしょうね」

先頭を歩くライネルトが地図と周囲を見比べながら言う。
港にごく近く軍施設や市街地と隣接する区画、先のような活気が最もよく見られる場所だ。
私はテオとライネルトの二人と共に、人の往来の激しい大通りをのろのろと駄弁りながら歩いていた。通りに面した商店のガラス窓は白くくもり、外気の冷たさを際立たせているが、白い息を吐きながら客を呼び込む元気な店主もよく見かける。
すれ違う人々は誰もが厚手のコートを着込んでおり、制帽をかぶった軍関係者も幾度となく目に映った。我々の格好も支給された軍用コートにタイツを履くスタイルで、潮風が厳しいこの時期の海沿いは、ただ制服を着ただけでは少々厳しいと感じた。

「始めてきた街ってそうだよね、何だか冒険してるみたいでさ」
「でしょー? せっかくですしエールラー少尉も楽しんでいきましょうよ」
「ん、ああ……お構いなく、十分楽しんでるよ」
「うっそだぁ、眉間にしわ寄せて何言ってるんですかもー」
「放っておけ、これが自然なんだ」

初陣から一週間ほどが経過した今日。
今回の外出はベーア隊長からの命令を受け、新入り三人で出かけたものだ。命令内容は『都市の地理を実地で把握せよ』であった。
唐突に実戦を経験してからも訓練を続けている隊員への配慮だろう。慣れないことに疲れているだろうから息抜きをしてこい、ということだ。すでに東部で実戦を経験している士官の三人が指揮所に残り、軍資金まで手渡されているのがいい証拠であると思う。
しかしまあ、何であれ命令を受けたのならば、小さくとも成果を残さねばならない。私は周囲の立地を覚えつつ、空から見たらこの辺りだろうかなどとぼんやり考えていた。

「一応聞いておくが、ちゃんと命令をうけて外出してること理解してるよな」
「うん、大丈夫」
「ええ、もうバッチリです、しっかり予習もしてきましたよ。ここの通りの突き当たり、そこにある喫茶店はコーヒーが中々美味しいとか」
「待て待て、ベーア隊長はそんな場所を確認しろといった訳じゃあない気がするぞ」

私が懐疑の視線を送ると、ライネルトはコートのポケットから厚い手帳を取り出し開いた。
書かれているであろう文字を指と目で追って、それから私に言葉を返してくる。

「そうは言っても、隊長情報なんですよこれ。角砂糖五つ入れると苦みが消えていいとか何とか。コーヒーから苦みを消して何の意味があるのかわかりませんが、今度いっしょに試しに行きましょうね」
「遠慮しておく」

ベーア隊長は甘党か、あまり必要のない情報が増えていくな。

「あ、ティニちゃん、次の通りは左でいいの?」

私の一歩前を歩くテオがライネルトの地図を覗きこむようにして聞いた。
楽しい気持ちが抑えきれないという雰囲気だ。そわそわと落ち着きなく、そんな行動を繰り返している。
小さな溜め息を吐きながら、気心知れた相手というのもあるが、時速数百キロで空を駆ける芸当をこなせてもやはりまだ子供なのだな、と思った。

「ええ、合っていますよ。なぁに、心配しなくても私に任せてくれれば、まったく問題なんてありません……安心して、マイ・リトル・シスター」

しんみりしていた思考が一秒足らずで吹き飛ぶ。
聞き流していたはずの会話が終点まで至った瞬間、言い表せない悪寒が背筋を伝い、反射的に手が伸びた。
大股一歩でテオを抜き去り、大馬鹿者の首にガッチリと腕を絡める。

「ちょっと待ってエールラー少尉もいきなりチョークスリーパーなんてヒドイ」
「あの気持ちの悪い呼び方は私への当てつけか? ん? それとも私の解釈がひねくれすぎているか? どっちだろうな軍曹」
「姉さんなんて呼ばれてるんで、もしかしたらプライベートではヴァイセンベルガー少尉のことを妹とか呼んでいるのかもなーなんて思ってみたりぐええ」
「思うだけにしておけばよかったのにな」
「ダメだよ! やりすぎだよ姉さん!」
「お前が呼び方を改めないのが原因だろうが!」

ライネルトを締めあげるとテオが非難の声をあげるが、それも振り返りざまの一睨みでしどろもどろだ。
獲物が腕の中でもがいているのを感じながら、生前も中隊の連中とはこんなやり取りをくりかえしたものだと、しみじみ思った。あの頃は『少尉』を締めあげるのが日常であったが、まさか何の縁もないところで同じような境遇に立たされるとは、何とも不思議なものである。それとも『少尉』やライネルトのような人間はカールスラントのどこにでもいるのだろうか、一生気苦労に付きまとわれる想像が脳裏に浮かび、若干意識が遠のくのを感じた。

「あっ、と……でもそろそろやめてあげよう、ちょっと、その、可哀そう……?」

苦笑いを浮かべて、自信なさげにテオは言う。
悩んだあげくに出てきた言葉が、可哀そう、とは。そんな言葉をかけられるのも、それはそれで可哀そうだと思うのだが。
私から小さな怒気が霧散していく。なんとも、毒気が抜けたというか、やる気が失せたというか。
嘆息、腕をタップしてきたライネルトを解放する。
するりと離れて行ったライネルトは、ありがとうございますヴァイセンベルガー中尉ぃ、などと情けない声をあげてテオにしだれかかった。
テオはされるがままに、慌てふためきながら赤面する。突然のことに対応しきれなかったのだろう、ふらつきながらその場で立ち止まった。
私はと言えばその様子を見ていただけだったが、テオの後ろ、二人の体越しに、往来の中を早足で歩く男性の姿が見えて。
はっとしたが、もう遅い。危ないと警告する間もなく、男性は背の低い我々に気付かず、テオの背中に衝突してしまった。

「あわっ!?」
「ぐへえぇ」
「お、っと……失礼、お嬢さん」

背後から押し出されたテオが、ライネルトを巻き込んで私に突っ込んでくる。
私とテオの間でつぶされる形となり、大きな蛙の鳴き声を思わせる上品とは言えない呻き声を発するライネルト。
男性は怒ることもなく、帽子ハットのつばをつまんで一言謝罪すると先を急ぐ素振りで去っていってしまう。

「うわああ、ごめんね二人とも!」
「……ああ、苦しいけどお二人の間に挟まれるのも、これはこれで落ち着くような」
「やかましい、馬鹿を言ってないで離れろ」

気味の悪い笑みを浮かべるライネルトを放り出す。
何が楽しくて大通りの真ん中、女子三人で抱き合うような奇行をさらさねばならないのだ。
ただでさえ他国の軍服は注目を浴びるというのに、余計に目立つような真似はしたくはない。カールスラントの軍人は変人ぞろいだ、などという評判を流されでもしたら先達にも後輩にも、同僚にも、皇帝陛下カイゼルにも申し訳が立たんではないか。

「いやぁ、エールラー少尉がいなかったら冷たい地面に飛び込むところでした、賑やかなのも考えものですね、ゆっくり話せやしないんだもの」

コートを叩いて皺を伸ばしながら、ライネルトが言う。
やれやれと肩をすくめ不満げに唇を尖らせる。
腕時計を見れば時刻は十時になろうというところ、これから昼食時が近づけば人もさらに数を増してくるだろう。

「脇道使って行きませんか? 少し時間がかかるかもですけど」

地図を確認するのはライネルトの役目だ。手元の地図と睨めっこしながら、大通りとは別の近道を探そうとしている。
この悪戯好きの小娘の言うこととはいえ、一考の価値はあるか。私としては街にどんな物があるのかがわかればいい、どこどこの通りを使ってどこそこへ向えといった指示は一つも受けていない。もともと息抜き目的の外出だ、ある程度の自由は許されている。
だとすれば、やはりわざわざ人が多くて歩きにくい時間に、大通りを使う理由はないか。

「地図は読めているのか? 迷って基地に戻れなくなるのはちょっとな」
「問題ありませんとも、歩く羅針盤とは私のことです。もうバッチリ頭の中に入っていますよ」

どうも自信満々だが、そう大げさに言われると信憑性が薄れるのはどうしてだろうか。

「テオはどうだ?」
「私はー、うん、あんまり人ごみは歩きたくない、かなあ」

賛成多数と。
それならばライネルトの提案に異を唱える必要もない。方針は決まった、あとは動き出すだけ。

「道案内はこのままライネルトに任せる、頼んだぞ」
「お任せください、少尉殿ロイトナント

ライネルトは年相応の無邪気な笑みを浮かべ、大仰に頷いた。












そこは薄暗い路地裏だった。左右に見えている建物は倉庫だろう、屋根は高く日光を遮り、壁はレンガだったが一日中陽が当たらないためかひんやりとしていて何となく無機質さを感じさせる。路地裏特有のジメジメとした空気はなく、むしろ乾燥しており舗装された地面は所々が凍りついていた。人の気配などあるはずもない、狭い空間を空気が流れる獣の呻き声のような音が不気味に響き渡っているだけだ、時折吹きつける強い風が体にぶつかるたびに、コートでは守ることのできない耳や鼻が冷え、痛みのような感覚を発してきた。
両脇の壁に切り取られたような、細長い青空を見上げ、ライネルトが呟く。

「……おかしい、ここはどこでしょうか」
「もう何も言うことはないぞ、歩く羅針盤」

先程の市街地のような喧騒からはまったく離れた場所だ。それだけは希望通りであったが、我々は路地裏を徘徊して一日を終えようとしている訳ではない。寒いし、陰気だし、楽しくない、何も見えない。
何のことはない、迷ったのだ。

「こんなに入り組んでいるなんて思っていませんでしたよ。どこまで歩いても倉庫倉庫、また倉庫。ここだと思って曲がっても行き止まり、都市部をあげて迷路でも作ってるんですかまったくもう!」

一応海沿いを目指して歩いていたのだが、それが失敗だったのかもしれない。
軍港施設の規模が大きくなっているため、その周辺は拡張が目覚ましく、地図通りになっていない場所も多いのだろう。我々はそこに入りこんでしまったのだ。空いている土地に随時倉庫を新設しているためか行き止まりも多い。
地図を基準に歩いていれば、それは迷うのも当然だ。やたらと自信過剰なライネルトであったが、私もテオも賛同していた上に、行き先に意見を述べずに放っておいたのも悪い。今回ばかりは必要以上にライネルトを非難する気は起きなかった。

「どうしよう、ここからでも引き返してみる?」
「いや、このまま海を目指して、視界が利く開けた場所を探した方がいい、この辺りの道はレンガの積み方よりも複雑だ。軍港まで辿り着けば、そこで道を聞いてもいいだろう」

テオは頷く。ライネルトはバツの悪そうな表情で、役に立たなくなってしまった地図をポケットにしまい込んだ。
後悔しても仕方がない。どこまでも永遠に陰気な路地裏が続く訳ではないのだ。歩き続けていればいずれ海が見えてくるだろう。
これはただ迷ったのではなく遠回りをしているだけなのだ、そう思うことにして、我々は誰ともなく歩きだした。
温かみを感じない壁面に圧力を感じながら足早に進んでいく。途中、寒そうに震える猫を見かけたが、固いコンクリートの地面を叩く軍用ブーツの足音が聞こえると、目を鋭くして逃げていってしまった。残念に思ったが、彼らからすれば我々は勝手に縄張りへと上がり込んできた侵入者なのだから、邪険に扱われても仕方ない。風が当たるたびにコートからしみ込んでくる肌寒さは相変わらずで、頭上に見える青空が恋しく思えて、早く暖かい日光を浴びたくなった。
しかしながら、物流を集積する倉庫が立ち並んでいるということは、港が近いはずなのだ。
歩いているにつれて、感じる風も何か匂いが変わってくる。乾燥していた空気が段々と湿り気を帯びているように感じた。建物同士の間隔はしだいに広くなっていき、先程までは一人一人縦に並んで歩かねばならなかったのが、今は三人横に並んでも不自由を感じない程になっていった。
いよいよ鼻が潮の匂いを感じ始めた頃、路地の先に光が見えた。実際には明るい程度の感覚だったが、延々と薄暗い場所を歩かされていた我々にはそう見えたのだ。自然と歩みも早くなる。海から吹きこむ潮風は冷たさを増していたが、路地の先は陽の暖かさを感じさせる。
路地の終点に至り、そこには軍港部との間を仕切る3メートルはあろうかという柵が張られていた。柵の上には有刺鉄線が巻かれ、侵入者を拒んでいる。

「行き止まりか」

いまだに迷路からの脱出は叶わない。最初からやり直し、とまではいかないが面倒はまだ続く。
が、陰鬱な気分にはならなかった。
早くその場を離れて道を探すべきなのだろうが、この時、私の頭からはそんなことは瑣末事だとばかりに抜け落ちてしまっていたのだ。他の二人も同様で柵に張り付くように、向こう側の後継を見つめている。
我々は見惚れていた。

「そうか、あれが『赤城』か」

思わずその名を呟く。海を行く、黒鉄の城がそこにはあった。
視線の先、赤城は我々にその姿を見せつけるように左舷を向けている。
鈍く光を照り返す灰色に、喫水線の下は目に鮮やかな赤。そこまでは軍艦として何か特別な物がある訳ではない、が、まず目を奪われたのはその威容、200mをゆうに超える艦影であった。艦体は艦首から艦尾まで機能美を感じさせる緩やかな流線形を描き、揺るぎなく上部の構造物を支えている。その上に乗るのは閉鎖式の格納庫だろうか、中身をうかがうことはもちろん不可能だが、外部の通路には扶桑海軍の水兵がひっきりなしに行きかっており、内部にはどれほどの航空機とストライカーユニットが積まれているのか想像を掻き立てる。さらにその上、脇に対空機銃が設置された飛行甲板が目に入った。中部を格納庫と一体化し、前後の浮いた部分を鉄骨で支えている。艦体のほとんどを覆う全通甲板の広さはいかほどのものか、幅は左舷しか見えないこの位置では把握できないが、下手なグラウンドよりもさらに広いことは容易に想像がついた。

「すごい……大きいね」

感心したようにテオがつぶやく。どこか放心したような気の抜けた口調だ。
私も思わず身を乗り出して観察したくなる。
見る者を圧倒するその巨体。赤城型空母はカールスラントにも売却されており、この鋼鉄の怪物と同型の艦がカールスラント海軍にも配備されていると思うと、大いに頼もしく感じた。あの艦があるのならばカールスラント、欧州もまだ大丈夫だ、と。
そう考えた時だ、唐突に我々の耳に飛び込んできた声があった。

「そこで何をしている!」

我々三人に髪の毛どころか、全身の毛が逆立つかのような衝撃が走る。びっくりしたなどと生易しいものではない、自分の心臓が最期の力を振り絞っているのかと思うぐらいに激しい鼓動が感じられた。落ち着いたらこのまま止まるんじゃないかと少し怖いほどだ。
隣の二人も同じだったらしく、いっせいに大慌てで振り返り声の主を見る。

「海外じゃあ船の性別は女だというが、同性とは言え覗き見は感心せんな」

続けられた言葉はオラーシャ語でもカールスラント語でもない。ほんの少しなまりを感じるが、とても流暢なブリタニア語だ。
相手の顔は一目見て欧州の人間ではないとわかった。
扶桑人の少女だ。
彼女は艶やかな黒髪を後ろ手にまとめ、釣り目がちな目で溢れんばかりの意志の強さをもって我々を見据えていた。その容姿でさらに特徴的なのは右目を覆い隠す眼帯であった、怪我かそれとも別の理由か、青色の帯のような太い線の入った白い眼帯をしている。服装は軍用コートを羽織っているが、首の部分が白い詰襟で隠れていた。扶桑皇国海軍の士官服だ。手には、たしか竹刀といったか、剣を模した鈍器のような物があり、足元に突き立てるようにしてそれを持っていた。
上から下まで厳しい目線で我々を見て、問う。

「軍人か。いや? なりすましということもあり得る、所属と階級を答えてもらおうか」

剣のような鈍器を携えて、それも将校自ら警邏とは扶桑の軍も穏やかじゃない。相手が激昂しておらず至って冷静なだけマシか。だが、きっと無駄口を叩いて警戒心を煽ると余計に面倒が増える事になる。ずっと眉尻を下げて不安げな顔をしているテオはこんな場面に向いている訳もなく、げんなりといった表情のライネルトは説明はできそうでも余計な一言が飛び出しそうで任せようがない。
相手の正面に立ち、隠している物がないことを示して両手を挙げる。
んんっ、と咳払いを一つ。
考えを変換して、士官教育期間に学んだブリタニア語に言葉を切り替えて言った。

「私は帝政カールスラント空軍、第77戦闘航空団第4飛行中隊所属、ハインリーケ・エールラー少尉です。隣にいる二人は同部隊のテオドーラ・ヴァイセンベルガー少尉とエルネスティーネ・ヴィルヘルミナ・ライネルト軍曹。身体検査をしていただければ兵隊手帳で証明がとれるかと、疑わしい場合はリバウ駐留の第77戦闘航空団司令部に問い合わせていただいてもかまいません。そちらの管轄区に無断で接近したことは謝罪します、ですがこれは全て道を見失ったことが原因であり、機密や物資に関する何かしらの意図があった訳ではないことを御理解いただきたい。退去勧告には今すぐにでも応じましょう、できれば案内か大通りへの道を提示していただければ、我々としても非常に助かります」

肺の空気を総動員して、ここまでを一息に言いきった。疑いを持たれているなら相手が確認したい情報を早いうちに伝えてしまった方がいい。時間が長引けば長引くほど、この手の誤解というのは大きくなっていくものだ。
私の長ったらしい返答を聞いて、扶桑の少女は難しい表情で視線を外した。我々の処遇を考えているのであろうか、何やら思案している。
と、思ったところ、彼女は唐突に顔をあげ、私に向って真っ直ぐに機敏な動きで歩み寄ってきた。
なぜか、抜き身の剣を持った武人に詰め寄られているような、得体のしれない威圧感を感じてしまう。早足で近づいてきた彼女は何を思ったのか、身構える私の肩を勢いよく半ば叩くようにつかんできた。
あらためて至近距離にある彼女の顔を見ると、人種は違えどとても綺麗な容姿をしている。その中で眼力の強い瞳が爛々と光を放っているのが印象的だった。
そして、彼女は呆ける私の前で、その端正な顔立ちを目いっぱい使って、満面の笑みを見せてきたのである。

「あのカールスラント空軍所属か! 理屈っぽいというのはやはり本当だったんだな!」

何、と私は唐突に雰囲気が変わったせいで、彼女の言葉の意味を認識できずに困惑することとなった。隣の二人も面食らって固まっているのがわかる。
そんな私の様子を見て、彼女は目をパチクリとしばたたかせ、数秒考えて言う。

「あ、理屈っぽいというのは悪い意味じゃないぞ、規律がとれてるのはいいことだしな。いや、たまたま知り合いのカールスラント空軍の大尉が少し奔放な方でな、初めて想像していた通りの受け答えが聞けて何だか感動してしまったというか……まあ何だ、気にしないでくれ! はっはっはっは!」

景気のいい笑い声が路地裏に反響する。
私が困惑したのはそう言うことではないのだが、まあいい、気にしていても仕方がない。
一しきり笑ったところで、彼女が見ていた顛末を話し始めた。
彼女いわく、路地裏に入っていくところから、地図を睨んでうろうろし始めたところまでを見ていたらしい。迷っているのか、悪さをしようとしているのか判断がつかず、最終的に海軍の管轄区に行きついたところで声をかけたという寸法だ。
話し方にも先のような険悪にも感じる雰囲気はなく、肩の重しが外れたようにも思える。ホッと一息休みを入れたいところだ。

「誤解が解けて何よりですね、ついでにうちの指揮所まで扶桑の海軍さんが送っていってくれたら嬉しいなぁなんて……あいたたた、冗談です」

不届きな言葉を発したのはライネルトだ。これはカールスラント語であったため聞かれていないとは思ったが、ほぼ反射的に、扶桑の少女に見えない背後からライネルトの脇腹の肉をねじり上げてしまった。

「通りまで案内しようか? ここでたむろしていると、また誰かに誤解されてしまうかもしれん」
「ええ、是非。感謝します、我々の不手際でお手を煩わせてしまって申し訳ない」
「なに、困った時はお互い様さ。見たところウィッチのようだし、ネウロイと戦うもの同士、助け合っていかないとな」

ライネルトの言動を聞いてか聞かずか、彼女は快く案内を申し出る。
もう安心だろうか、ありがたいことだ。
彼女の爽やかな笑みがとても眩しい。踵を返して歩きだした士官服の背中を三人で追う。

「そう言えば、どうしてこんな所に? 迷ったのは理解したが、非番の休日か?」
「いえ、我々の隊長から市内の地理を把握してくるように命令を受けたもので」
「ふむ、なるほど、たしかに必要なことではあるな。それで、成果のほどは?」

初対面の上、国と人種も違うという壁を気にせず、果敢に話かけてきた彼女にはとても好感が持てる。
決して良好とは言えないファーストコンタクトの印象は吹き飛び、大きく頷いて同意する彼女の横顔を見ながら、そんなことを思った。

「途中までは上々でしたね、最大の成果は赤城の実物を見れたことでしょうか」

振り返って、その艦影を目に収めながら問いに答えを返す。
路地の景色に切り取られ、一部しか見えないが、巨大な建造物の頼もしさ、やはりその造形には目を奪われそうになる。無意識のうちに歩みすら遅くなりそうになりそうで無理に体制を立て直した。

「はっはっは! いい艦だろう? 扶桑皇国海軍自慢の正規空母だからな!」

誇らしげに言う声を聞くが、嫌味な感じは全くしない。むしろ大手をふって頷けるほどに、同意してしまいたいくらいだ。同型艦を二隻も購入したカールスラント海軍の気持ちもよく理解できるというものだ。
彼女の言葉に私だけでなく、テオとライネルトも同意を示すと、何やら彼女は歩きながら考え込み始めた。
少しその挙動に疑問を抱くも、触れずにいると、拳で手のひらをポンと叩いて元気よく頷いた。

「なあ、もっと近くで見てみたくないか?」

振り返った彼女の表情はまた爽やかな笑みに彩られている。
ここでテオが驚きの声を発した。

「ホントですか!?」
「一度許可をとらねばならんが、国は違えど我々は同じ轡を並べる仲間だ。うちの海軍もそうそう邪険には扱わんよ」
「その申し出は個人的にも嬉しく思いますが、こちらとしても本隊からの許可が下りないことには」
「はは、それは仕方のないことだが、電話くらいならいくらでも貸してやれるさ。それに、街を把握してこいと言われたのだろう? うん、赤城ならちょうどいい目印だな」

私も一度は遠慮したが、言葉に反して勝手に顔がほころんでしまう。
彼女はうんうんと頷き、我々の顔を一人ずつ見ていく。

「エールラー少尉にヴァイセンベルガー少尉、ライネルト軍曹だったか。早めに手続きを済ませたいから確認しておこう、間違いないな?」

問いには首肯。
それを見て、やはり満足げに笑う。そして、彼女は一生涯忘れることはないであろう名を名乗ったのである。


「申し遅れたが、私は扶桑皇国海軍少尉、坂本美緒という。よろしく頼むぞ」














いつもありがとうございます。
この話は前篇という感じです。
赤城だ!原作キャラだ!もっさんだ!何よりアニメ新シリーズだイヤッフゥ!という感じにテンションが上がったら、プロットをなぞって書いたにもかかわらず文章量が40キロバイトぶっちぎりそうだったので、二つに分けて投稿することにしました。戦闘もないのに流石に長いなと思いましたので。
プロットをゆるめに設定したのが仇になったかなと、もっとガッチリ固めないとなぁ。

10/22自分の中の練習目標である一万PVを達成することができましたので、朝方にその他板に移動します。よろしくお願いします。



[36710] 5  1939年 バルト海 氷の海05
Name: かくさん◆b134c9e5 ID:82b7ca1d
Date: 2013/10/31 14:02


『うん、あちらが許可してくださるなら突っぱねる理由もないさ。社会見学というやつだな、よーく見てくるといい。失礼のないように気をつけるんだぞ?』

第77戦闘航空団指令室に電話をつなぎ、わざわざハンドリック少佐直々にいただいた言葉はそんなものだった。
教師のじみた言葉を聞いて電話口で胸をなで下ろした。
電話は扶桑海軍が港湾部への入口に設置した検問所から借りており、今は上官へ許可をとっているのであろう坂本少尉の背中を見つめている。
不意に坂本少尉が空いた手を頭の高さまで上げ、人差し指と親指で丸く輪を作った。扶桑語で話していたため、内容は聞きとれなかったがどうやら色の良い返事はいただけたようだ。テオとライネルトの顔が明るくなる、私もひょっとしたらそうかもしれない。三人して顔を見合わせて笑った。
話し終え、受話器を置いた坂本少尉が向き直る。

「うちの航空隊司令が基地司令に掛け合ってくれた。港湾部は機密や安全に関わる場所以外は1時まで立ち入り自由。艦船は搬入作業中のため立ち入り不可、客人を招くのに、引っ越しも終わらん乱雑な部屋を見せるのは忍びない、だそうだ。外観だけで申し訳ないが思う存分見ていってくれ」

時刻は十二時そこそこ。入退出の記録用紙にサインをして検問所をくぐる。すれ違った扶桑海軍所属の衛兵から、足裏から根が張ったような直立不動の見事な挙手の礼を受け、私も一度立ち止まって答礼を返した。
先を行く坂本少尉の背中を追い、いよいよ我々はリバウ基地に踏み込んだ。
ざっと周囲を眺めただけでは広い敷地の中全てを見渡すことは不可能だったが、それでも目に入ってくる物は多い。倉庫もあれば指揮所と思われる建物もいくつか、そこかしこに人の姿があり大きな木箱を運びながら右往左往している。さらに、先程見とれた赤城の他にも多数の艦船が見えた。やはり正規空母の姿は頭一つ抜けた威容を誇っているが、駆逐艦や巡洋艦と思しき小柄な艦影の中に、赤城にも劣らぬ容姿を見せつける艦がいた。巨大な連装砲と近くで見れば見上げる程の高い艦橋、戦艦である。
大きな物に目を奪われる人の本能だろうか、歩きながらそちらを見ていると、私の視線に気づいた坂本少尉が歩く速度を落とす。

「戦艦『紀伊』だな。空母に随行できる高速戦艦ということで艦隊に組み込まれている、新しいし悪くない艦だ……故あって私はあまり好きじゃないがな」

眉間に皺をよせ、口元は薄く笑っている。何か困っているような表情だ、本人としてもどう説明したものかわからないのかもしれない。私は返事だけして、この話題を続けようとは思わなかった。
坂本少尉の咳払いを聞いていよいよ思考を放棄する。
段々と赤城が近づいてくる、その姿を見上げるくらいの距離で我々は立ち止まった。


「そういえば、三人とも年を聞いていなかったな。私は八月で15になったところだが、そちらは?」
「私とライネルトが12、テオドーラは11、来月で全員が同い年になりますね」
「私が初めて銃を持ったのもその辺りか、懐かしいと言えば懐かしいが。エールラー少尉は私と同じか一つ下くらいだと思っていたぞ、その年でずいぶん落ち着いている」
「はは、年が近い妹のような幼馴染がいますので。その子がとてもそそっかしくて、放っておけないのですよ、そのせいかもしれませんね」
「……不思議だなぁ。私にも妹とは違うが、放っておけない奴が一人いてな。とんでもないじゃじゃ馬なんだが、そいつがいても私はいっこうに落ち着きという言葉とは程遠い人種ときたもんだ」

豪快な独特の笑い声を聞きながら私は目の前に堂々たる姿を置く赤城に、再度目を向けることにした。
物資の搬入口、タラップ周りには大小様々な木箱が積み重ねられている。他所で人手が足りないのか、周囲には人がいない。一方、飛行甲板には確認はできなくとも大勢の気配が感じられる。高さの差で姿は見えにくいが時折大きな声が聞こえてくるのがそれだ。ちらちらと水兵の頭が覗いていても、甲板上で何をしているのかはわからない。
が、何気なく観察していると、頭だけではなく小柄な人影が飛び出してきた。一般的な扶桑海軍水兵服にベルト(※スカート)を巻いたスタイルの少女の姿だ。大股で足を開き、腕を組んで基地内部を見回している。風に踊る茶のショートヘアと純白のマフラーが印象的だ。
しかし、これから真冬に差しかかろうという季節に、防寒具がマフラー一つというのは寒くないのだろうか。
と、そんなことを考えていると、その少女の瞳が我々を捉える。ポカンと腕組の姿勢のまま固まったのも一瞬、すぐにハッとした顔で我々へと人差し指を向けた。

「あーっ! 侵入者かー!?」

何、と私も固まる。

「え、嘘!? わ、私達のこと!?」

間髪いれずに驚きの声を発したのはテオだ。
しばし基地内の音がやみ、少しして毛色の違うざわめきが流れ始めた。
走って建物から出てくる者、物陰から荷物を持ったままこちらをうかがう者。明らかに平時とは違う雰囲気が広がる。

「……何をしているんだアイツは」

頭痛を堪えるように頭に手をやった坂本少尉が小声で毒づくのが聞こえた。
当然だが誘った本人にしても不測の事態なのだろう。それを尻目に、数多の視線の先で視線の先で少女が動く。
一歩後ろへ下がり体勢を低くとったかと思うと、彼女の頭に先端が茶色に染まった猫の耳が生えてきた。ウィッチだ、私がそう認識するよりも速く、彼女は駈け出した。そのまま飛行甲板から跳躍、魔力を使ったのであろう、その体が淡く光を帯びる。陸地までの距離を一気に埋め、空中で一、二回鮮やかな前転を見せると、使い魔であろう猫のような柔らかな動きで着地。
我々の前に降り立った。

「見なれない服装! 知らない顔! 侵入者だ!」

ビシリと真っ直ぐに私、テオ、ライネルトの順番に指をさす。
その辺ではお目にかかれないような眩しい笑顔で言う。そう自信満々で言われては、否定するにも言葉に詰まってしまうではないか。
とは思ったが、その必要はすぐになくなった。

「……と、あれ? 坂本だ」
「坂本だ、じゃないだろう。今頃気付いたのか?」
「うん、侵入者に気をとられててさ」
「違う、侵入者なんかじゃない、私の客人だ。失礼なことを言うな」

さした指が坂本少尉を向いた途端、活発そうな声もしぼむように小さくなる。
右に左にとゆるやかかつ激しく動き回っていた猫の尾が力を失ったかのように垂れ下ってしまった。

「今のは誤報だ! 散れ! 全員持ち場に戻らんか!」

甲板端にならんでこちらの様子をうかがっていた水兵たちも坂本少尉の大声を聞いて駆け足で去っていく。
背を向けた水兵の横顔から、またか、という苦笑を読みとれたのは気のせいではないだろう。
心なしか肩を落とした坂本少尉が振り返る。

「すまない、さっき言ったじゃじゃ馬がこいつなんだが考えるよりも先に体が動くタイプでな、本当に申し訳ない」
「えー、だって」
「だっても何もあるかっ、お前も謝れ今すぐに!」
「はーい……このたびは、えーと……まことに、あれ……?」

頭を下げて、何やらつぶやくこと数瞬。

「あーっと…………ごめん!」

体を斜め45度に曲げたまま頭上でパンと手を打ち、何とも歯切れのいい簡潔な謝罪の言葉が飛び出してくる。
どう対応したものか、私は坂本少尉に目を向けた。坂本少尉はバツが悪そうに眼をそらす。

「こんな調子だがこいつなりに反省はしているはずなんだ……」
「ええまあ、大事にはなりませんでしたし、我々も気にしておりませんので」
「はあ、そう言ってもらえるとありがたいな」
「お気になさらず、悪気がないだけマシですよ。うちには身内にとんでもない問題児がいますから、なあライネルト」
「ハハハ、ええまったく、ホント困ったもんですよねエールラー少尉」

首だけで振りむいてテオとライネルトにアイコンタクト。二人は察してくれたか首を縦に振る。

「感謝しろよ西沢、不問にしてくれるそうだ」
「え、許してくれるの? アンタいい奴ね!」

坂本少尉が言うなり、その少女は勢いよく姿勢を正し、私の手を両の手で握ってくる。
目を細めた満面の笑みだ。この子の周りだけ日光が強いような錯覚を受けそうになる。

「あたし西沢義子ってんだ! 階級は、何だっけ、えっと……そうだ、一飛曹! アンタは?」
「あ、ああ……エールラー、ハインリーケ・エールラー。階級は少尉、あー……よろしく」
「うん! よろしくエールラー!」
「おいおい待て待て、他国とは言え上官だぞ」
「へ? 坂本の友達だろ? だったらあたしの友達でもあるじゃん! 竹井と同じだよ、問題ない! ワハハハ!」

これは何とも、面食らってしまったが応対したことのないタイプだ。
言動に全く邪気がない。他国の人間だからとあなどっている様子も見受けられず、単純に階級の差を気にしていないのだろう。悪意も何も感じないのだから、規律うんぬんは忘れることにして、嫌な気持ちは湧いてこなかった。
西沢が私から離れて後ろの二人にも名を聞いていく。
私と坂本少尉は顔を見合わせて苦笑した。

「友達とは、なかなか悪くない気分ですね。坂本少尉は?」
「同じだよ、嫌な訳がない。たとえついさっき会ったばかりでもな」

微笑んで坂本少尉は私に手を差し出した。
迷わず握り返す。

「こういうのも何かの縁だ。気が早いかも知れんが今度は友人として、よろしく。私のことは階級をつけずに坂本と呼んでくれると嬉しいな」
「友情に遅い早いはありませんよ。私のことはエールラーと」
「ん……ああ、すまん。ちょっと一つだけ」

言葉を遮られて私は呆けた。

「敬語は無しだ。同じ階級だし、部下の西沢がアレだからな。調子が狂ってかなわん」

呆けたまましばし、頭をかく坂本を見て何となく笑えてしまって。
口元を押さえて私は頷いた。

「それなら仕方ないな。よろしく、坂本」

一方背後では、自己紹介がすんだのかライネルトが話を振り、西沢がけらけらと笑いながらテオの背中を叩いている。そちらはそちらで新たな友好関係の繋がりができたのか、まるで留学先での交流会のような、軍事基地の真ん中にいるということすら忘れてしまいそうな光景であった。
正規空母のすぐそばでこんなやり取りを見ているのも不思議なものだ。
そう思ったところ、不意に人の気配を感じる。金属の鉄板を叩く音、耳に聞こえたのはそんな音だが、何のことはない赤城に掛けられたタラップを歩く音だ。搬入待ちの荷物ばかりが置いてあるだけで、我々の他に人がいなかった場所である。私の目は自然と音の源へ向いた。
そこにいたのは二人。一人は坂本と同じ純白の士官服を着た少女、もう一人はそれと対照的な濃紺の詰襟を着た少女。後者は水兵服とも違うから士官候補生かと頭の中で勝手にあたりをつけた。
見ていると、士官服の少女と目が合う。後ろを短く、左右の髪を肩まで伸ばしたヘアスタイルが目を引く。良家の出なのか素人目に見ても歩き方に優雅さを感じ、物腰が柔らかそうな印象を受けた。外国人である私を目にとめるとほんの少し驚いた表情を見せたが、すぐに柔和な笑みに変わり、ゆっくりとしたどこか気品のある動作で会釈をしてきた。私もそれにならって礼を返す。
士官候補生らしき少女の方は何やら大きな包みと水筒を持っており、顔を斜め下に向け、私とも視線を交わすことはなかった。西沢のように活発そうな印象を与えるはずの黒のショートヘアも重力に引かれてへたれているようにも見える。自信をどこかに置き忘れてきたような、そう思える少女だった。

「やっと見つけた! 美緒、あなたどこに行っていたの?」

士官服の少女が坂本の前まで来てふくれっ面を見せる。

「おお、醇子か、ランニングは終わったんだな?」
「もうとっくにね、今は報告できなくて困ってたところ」
「はっはっは! すまんすまん」
「まったくもう……」

笑う坂本だったが、士官服の少女が間を置くと、すぐに真顔で居住まいを正す。
少女が咳払いをして、きびきびとした動作で足を揃え、両腕を体のわきに固定した。士官候補生もそれに倣う。

「報告! 竹井醇子、下原定子の両名は、午前の訓練項目を全て完了いたしました!」
「よし、これより一時間の休憩時間とする。休憩終了後、両名は〇一三〇マルヒトサンマル時に赤城甲板上に集合せよ、以上!」

二人のやり取りを横で聞いていて、私は少々感心していた。
親しげに話していても、報告や命令などは規律に則った言動が必要なものだ。儀礼というものは意識を高く保つためには大きく役に立つ。
そして職務を離れれば親しい友人として接すればよい。この二人がそうかはわからないが、それらが軍に属する人としての理想だろう。
少女は凛とした表情を崩すして我々に目を向けた。

「それで、こちら方々は?」
「うむ、友人だ、リバウ駐留のカールスラント空軍に所属している。三人とも西沢の無茶を受け入れてくれる気のいい奴らだぞ」

坂本の視線を感じ、自己紹介を勧められているのだと解釈する。
私は右手を差し出した。

「では、まずは私から。カールスラント空軍所属、ハインリーケ・エールラー少尉です。精鋭と名高い扶桑皇国海軍航空隊の方とお話ができて嬉しく思います」
「竹井醇子少尉です。こちらこそ、お会いできて光栄です、カールスラント空軍の活躍は本国でもよく耳にしておりますので」

柔らかい綿を扱うような、優しい手つきで握り返してくる。冷えてきた手に心地のいい温もりを感じた。
第一印象通り、気品のある人物のようだ。会釈のときの微笑みも取り繕っている訳でもなく、自然と身についた習慣によるものだろう。
ファーストコンタクトは上々。隣に立つ坂本の嬉しそうな顔が何かと印象的だった。










坂本との会話の中で、彼女と私が互いの階級と敬語を省略していることを知ると、竹井もそれにならうことにしたようだ。
テオとライネルトの紹介もすませ、木箱が並ぶ赤城のタラップ横にカールスラントと扶桑のウィッチが集うこととなった。西沢は元からだったが、敬語が素なんですなどと捻くれたことを言っているライネルトをのぞき、その場にいる大体の人物が敬語を取っ払って会話している。友人であるなら「貴様と私」で話が通じるというのが彼女らのスタンスなのだろう。外国人の前に立っても臆さず自分自身を出せるというのは、やはり世界中の七つの海をフィールドにする海軍の教育の賜物だろうか。
とりとめのない世間話が一段落したところで、竹井が士官候補生の抱えていた包みを開く。全員の視線が集まり、中から現れたのは複数の白い塊だった。白い塊、というのは流石に失礼か、リバウ配属時に扶桑海軍について調べはしたが、このような文化的な事物にはめっぽう弱い。カールスラントと扶桑の交流は盛んな方だが、私は実際に目にするのは初めてだからなおさらだ。炊いた米を手のひら大に押し固める扶桑の伝統料理、たしか「ライスボール」とか言った気がする、本場では「オニギリ」だったか。
竹井が言うには、

「烹炊長が疲れてるからたくさん食べろって持たせてくれたんだけど、二人じゃどうしても食べきれない量でね。よかったら誰かに一緒に食べてもらいたくて」

ということらしい。
オニギリの量は標準的な体格の士官候補生の少女が両手で抱えているほどだ、それはたしかに二人では厳しすぎる。寄港によって食料物資も豊富になるだろうから、悪くなる前に在庫処分でもしているに違いない。これから少しの間、遣欧艦隊の食事は豪勢になるのか、羨ましいことだ。
竹井が水筒のふたを開くと香ばしい香りと湯気が立ち上る。紅茶よりも濃い色で、ほうじ茶というのだとか。あっさりとした風味と香りが特徴で、食事時には紅茶よりも合いそうだ。私はカールスラント人らしく茶の類よりもコーヒーの方が好みだが、抵抗なく楽しめそうだった。
異国の食文化に小さな感動をおぼえていたところ、士官候補生が足音を殺す気配を感じさせない動きでオニギリをつかむところが見えた。そのまま何も言わず、タラップの方へ足を向ける。歩調が忙しない、あれは焦っている動きだ、特別失態を犯した様子はなかったが、何かあるのだろうか。私が視線を向けていたせいか、坂本もそれに気づいたようだ。
士官候補生の背中に声をかける。

「おい下原、お前もここで食わんのか?」

彼女の名は下原というのか。
特に怒った素振りもない、ただ聞いているだけという口調。だが、下原は素人目にみてもわかるほど体をすくませると、おびえた顔で振り返る。

「いえ、私は自室でいただきますので」
「そうか、午後の訓練に遅れないよう注意しろよ」
「……はい」

訓練という言葉を耳にした途端、目に見えて表情が暗くなる。
先のように顔をうつ向かせると、早々に踵を返し赤城の船体の中に消えていった。彼女の背中には暗い影がまとわりついているようだった。
会話が途切れて残された六人で顔を見合わせると、坂本がしんみりとした表情で言う。

「ずいぶん嫌われてしまったな」

溜め息をつきながら微笑む、困りきったときに出る微笑みだ。何か問題が起こって何の対処法も見いだせなかった、諦めが混じった表情。
坂本は赤城の搬入口を見つめ続けている。
そんな横顔に竹井が口を開いた。

「昨日の夜に相談されたわ、もう自分はついていけないかもしれないって。体力もそう、模擬戦闘でも毎回叱責を受けて心が折れかけてる。あの子なりに悩んでいるんでしょう」
「だろうなぁ」

短い返答だ、腕を組んで坂本は坂本なりの思案を巡らせているのだろう。訓練生の精神面についてか。それはどこの国、部隊でも起こり得るし、かつ根が深い問題だ。しかし、今は私を含めて外部の人間が口をはさむ場面じゃあない。私は場を乱すことのないよう、固く口を閉ざし、耳を彼女らへと傾けた。
次いで、西沢が会話に加わる。

「坂本は訓練の鬼だもんなぁ、きつ過ぎるんじゃないの? 一度緩めてみるとかさ、あの下、下……えー」
「下原ね」
「そう下原もさ、ついていけてないかもしれないんでしょ?」

早くもオニギリに齧りついていた西沢の問いには、竹井が答える。
視線は坂本へ向いており、引き結ばれていた唇が間を置きながら言葉を紡ぎだした。

「それも一つの手だけど、今の情勢から言ってすぐ実戦に投入されてもおかしくない。おそらく訓練を緩めた揺り戻しを実戦で経験することになる。私にとっても美緒の訓練は辛いけど、辛いということは身につくものも多いのよ。何もかも必要なこと、実戦は訓練よりもずっと辛いもの」
「そういうもんなのかな」
「そういうものなの。義子みたいに自分の感覚だけで空を飛べるウィッチはそんなに多くないから」

語気は強くない、だが、まるで空戦前とでも言えそうな真剣な表情が、言葉に重みを加えていた。
西沢が小さく頷いて考え込み、代わりに坂本が腕組をとく。
考えはまとまったのだろうが、眉間にしわを寄せた難しい表情だ。

「私も竹井も扶桑海事変で戦ったが、力もない、経験もない、ウィッチとして何もかもがまったく足りぬ新米だった。そんな我々が生き残れたのは一重に先生の指導と、陸軍を含めた先輩方の挺身があってのことだ」

言葉を切る。きっと頭の中にある考えを、一つ一つ選んでいるのだ。
この難解極まりない問題に答えを出すには、あまりにも時間が短すぎる。それでも彼女は前を向き、自分の言葉を堂々と述べていく。

「だからこそ、私は未熟な身と言えど一端いっぱしの経験を積んだウィッチとして、先生や先輩方の役割を受け継がねばならん。ましてや戦場となるのは扶桑海事変を超える激戦区、下原あいつが生きて戻ってきてくれるのなら、恨まれるというのも本望だ」

言いきって目を閉じる。
会話はそこで途絶えた、坂本の出した結論に誰が口を挟めるのか。軍人として成長した彼女の決意は私から見ても、少女らしくないものだった。
15歳になったばかりの少女が、分不相応にも中隊長を務めたかつての私と同じような悩みを有し、自分なりの答えも見つけ出せているのか。きっと人の上に、いや違うか、人の前に立って後ろに続く誰かを導いていける人間とは、このような者のことを言うのだろう。
皆、何か思うところがあるのか誰も口を開こうとしない。
坂本は居心地が悪そうに穏やかな表情を歪めて、頬をかいた。

「あー……すまん! 身の上話をする場所ではなかったな。今は昼飯の時間だ! 何だ西沢以外食事に手をつけていないのか? ほら食え食え、どんどん食え、いくらでもあるぞ」

強引に空気をかき乱して、オニギリを配って歩く。
ようやく私の手の中に巡ってきたオニギリ、道化を演じる坂本の横顔を見ながら三角の先端を齧った。口の中に白米の甘みと薄い塩味が広がる。

「そう言えば、エールラー達の部隊はどうしてリバウに?」

坂本が渡してきたオニギリを両手に持ちながら竹井がたずねてくる。一気に二つも渡されたため扱いに困っているようだ。
口の中のものをほうじ茶で呑みくだして返答。

「ああ、スオムス行き空中輸送路の護衛のためだな。我々の戦闘航空団はヴァイクセル川の防衛に出ているから、輸送路の出入口となる地理的にもリバウとそう遠くない。新人三人と経験者三人で半個中隊を編成して、本格的な侵攻が始まる前に急ぎ配属、というところだ」
「スオムス……なるほど、カールスラントも次の一戦は北欧と見てる訳ね」
「各国合同の義勇部隊の派遣先もそこだったな。詳しい話は部署が変わるからわからんが、扶桑うちからも陸海から一人ずつ出しているはずだ」
「それに加えブリタニアと、あの日和見主義のリベリオンからも一人ずつ、だな」

オニギリをもう一口かじる。竹井は片方のオニギリを坂本に返した。
食べ物を片手に三者三様に考えを巡らせる。私はパイロット時代の記憶を思い起こした、さて、ネウロイのスオムス侵攻はいつだったか。

「一番楽観的な考えとして、ネウロイはカールスラントとオラーシャを相手にした二正面作戦で戦線が伸びきっている、故にスオムスへの侵攻はありえないという意見があるわ」
「それならカールスラントにも希望が持てるが、ノブゴロドで発生したネウロイの巣を無視することはできない」

ノブゴロドはペテルブルグから200㎞ほど南に位置する都市だ。
黒海沿岸の巣から進出したネウロイはモスクワを瞬く間に陥落させ、さらに北上。ほどなくしてノブゴロドに新たな巣が確認され、何もない場所から突然に新たな敵戦力が出現したのだ。正に悪夢としか言いようがない。そこからの侵攻速度は凄まじく、ペテルブルクは失陥、オラーシャはウラル山脈以西を失い欧州との陸路をほぼ完全に寸断されてしまう。

「今はカールスラント東部戦線とツァリーツィンへの圧力が増しているとは言う。それでも初戦の速度を考えるとな」
「ノブゴロドに余剰戦力がいるか、最近ではペテルブルグにも巣が確認されたという話もある。目の前に人の国があって、あえて襲わないということもあるまい」

同意するのは坂本だ、オニギリを飲みこんで続ける。

「では侵攻開始はいつになる? スオムスは湖が多いと聞く、水が苦手なネウロイのことだ迂回するルートを通ってもおかしくはないんじゃないか?」

最後に目をそらして、まあうちの海軍はその予想で失敗しかけたが、と一言。
扶桑海事変のことだろう、気にはなったが一個人が他国の内輪の事情に踏み込んでも得になることは何もない。
すると竹井が口元に手を当てて答える。

「この時期の北欧は浦塩ウラジオストクも霞むほどの極寒だわ、湖はどこも車が渡れるほど厚い氷で覆われてる。ネウロイが苦手とするのが水ではなく液体だった場合、地形を物ともせずに攻めてくるかもしれない」
「なるほど……いや、ペテルブルクを陥落させた戦力なら爆撃機を繰り出してくるか、どちらにしてもかわらんな」
「そうだな、初撃が航空機による先制攻撃だとすると」

いろいろと話を聞いて何とか思い出せそうだ、ネウロイによるスオムス侵攻。冬戦争の勃発は、たしか、

「どんなに遅くても今年中、可能性が高いのは12月上旬。私の予想なら11月の30日か」

そうだ、11月末日だ。東部戦線の戦況の横に小さく『スオムス開戦』の文字を見たのを覚えている。
坂本と竹井も一しきり考え込むと、納得したように頷いた。

「たしかに、何となく来るのはそのあたりよね」
「30日と言うと、もうすぐそこか。エールラーも忙しくなるな」

再編成されたばかりの第四飛行中隊、現在は試運転期間だ。当然のことながら、スオムスへの侵攻が始まれば護衛任務増えるだろう。
今のように他国の友人と食べ物を囲んで話す機会など無くなる。
少し惜しいな、と思う、仕方のないことではあるが。

「いずれ我ら、扶桑海軍航空隊もカールスラントやオラーシャに進出することになる。これから会う余裕すらどこにもないかもしれん」

思ったことが表情に出ていた訳ではないだろうが、坂本が私の顔を凛とした表情で見つめてきた。
何か、とは思いつつも彼女の言葉に頷きという形で答える。

「が、せっかく巡り会った友だ。事が一段落ついたらまたこうやって語り合うのを楽しみに待つ、というのもいいものだと思わないか?」

竹井もほうじ茶をすすって頷いた。

「同感、みんなで無事に帰って、また仲良くお話ししましょう」

二人分の笑みを真正面から受ける。頷かない訳にもいくまい、こんな善意を向けられて否を返す心など持ち合わせていない。
残りのオニギリを飲みこんで、私も笑った。何か気のきいた言葉をと瞬間的に思考する。
と、その時であった。
基地内に設置されたスピーカーが音を発する。良く通る鐘の音だ。
無言のまま鐘の音を聞き、その余韻が軍港内に広がっていく様子に耳を傾ける。

「ああ、もう一時か。早いものだな」

坂本がつぶやいた。言葉にどこか寂しげな響きを感じ、私も思い至る。
我々がここにいれる時間も、もうすぐ終わる頃だ。
たしかに早い、楽しい時間が過ぎ去るのはあまりにも早すぎる。まるで今消えた鐘の音のように一瞬で頂点をむかえ、余韻を残して消えていく。
自分でも子供っぽいと思う感傷である。意識していないと坂本と竹井の前で溜め息でも漏らしてしまいそうだった。

「……まったく」

と、決して愉快とは言えない感情に心を浸していると、聴覚に反応。
私と坂本、竹井とは別の三人組の方、そちらから、何やら間抜けな「パチン」という音が聞こえたのだ。ほんの少し聞き覚えのある音だ、もちろん、それこそ愉快な思い出ではない。
神妙な表情を維持できなくなって振り返ると、顔を青くしたテオが私を見てさらに顔を青くするのが見えた。
原因は残りの二人だ。向かい合っている西沢とライネルト、西沢の指には間抜けな音の源が『喰らいついて』いる。チューイングガムのパッケージに偽装されたそれは、私の中でライネルトの印象を決定づけた悪戯の道具である。ライネルトはニヤニヤと笑みを浮かべ、西沢は表情を失って茫然としているようにも見えた。
自分の表情筋が引きつった。他人様の庭でやらかしてくれるとは!
少しくらいは慎ましさを覚えたらどうだ、といきり立ちそうになったところ、西沢が突然ケラケラと笑いだす。

「ハハハ! ビックリした! 何だこれ面白いな!」
「でしょう? これの良さをわかってくれるなんて西沢さんもお目が高い」
「いくつかもらえる? ちょっと誰かに試してみたいんだけどさ」
「ええ、どうぞどうぞ、銘柄の数だけ選り取りみどり」
「いや、試すっ? ……ダメ! やめよう! もうみんなに見られちゃってるから! 無理だってば無理無理!」

悪ノリを始める西沢とライネルトにすがりつくようにテオが止めに入る。何ともかしましい光景であった。こう、思っていた展開と、何か違う。
それを見た坂本が釈然としない私のそばで、豪快に笑い始める。
ライネルトがこちらに気づく、目を合わせた途端に無邪気な笑みを浮かべた。悪魔の笑みだ、少なくとも私にとっては。
台無しだ、チクショウめ。どうしてこうも私の考えていることをぶち壊しにかかるのか。少しくらい感傷に浸ったところで罰は当たらんだろうに。白昼堂々と西沢によろしくない取引を持ちかけているライネルトの襟首をむんずと掴む。

「いい加減にしろ、悪戯の被害者を海外にまで広めるな!」
「何とエールラー少尉、人聞きの悪いことを仰らないでください! これはビジネス! ギブアンドテイクで成り立つ大人の世界!」
「高々12歳が大人を語るな! 西沢も財布をしまえ!」

恥ずかしい。何がと問われれば、他国の人間の前で問題起こす部下と、そのペースにまんまと乗せられている自分がだ。いっそこいつのように生きれたらとも思うが、そこまで色々な物を棄てられるほど私は達観している訳でもない。
一しきり笑い終えた坂本と竹井が言う。

「そっちもそっちで勝手に仲良くなっているとは、何よりだな!」
「そうね、これはなおさら無事に再会しないといけなくなったかしら」

からかわれているように感じて思わず赤面する。何故だ、昔の私は学がなかったとはいえ少なくとも人生経験だけは豊富と言えるはずなのに、ウィッチには常識というものが通用しないのだろうか。
小さく震えて頭を回転させる。それで、感極まった状態で出てきた答えがこれだった。

「……そろそろ、帰るぞ」

感情の高ぶりを気取られぬように小声でつぶやく。オニギリの米粒一つ分まで削り取られたプライドが、これ以上は譲れないと声を挙げている。この場にいたままではボロが出そうだ。
テオを手招きで呼び寄せ、ライネルトには襟を引っ張って正面を向かせる。
自然とカールスラントと扶桑のウィッチが三人対三人で向かい合う形となった。

「申請の時にもっと粘ればよかったなぁ、そうすれば入場許可もまだ長い時間確保できたかもしれん。結局、案内もせずに話だけで終わってしまった」
「まさか、いさせてもらえただけでも、ありがたいというのに」

頭をかいて申し訳なさそうに眉尻をさげる坂本に、首を横に振って返す。
代わりに右手を差し出した。竹井とは対照的に力強く、私の手を握り返してくる。

「いずれ、また」
「ああ、また会おう」

短い挨拶をすませ手を離すと、握られた感触がまた余韻のように残り続けた。
私の後に二人も続き、竹井、西沢とも挨拶をすませると、いよいよ残された時間もゼロになる。あまり長居すると衛兵に案内されながら連れ出されることにもなりかねない。
足早に検問所へ足を向けると、背中に向けられる声。

「三人ともまたな! 待ってるぞー!」

すぐそばで叫ばれているような、元気な大声は西沢か。
振り返って手を振る。
やはり名残惜しい。
言われずとも、また会おうと約束した。私は足を進めながら、ゆっくりと手に残る『余韻』を確かめた。

















いつもありがとうございます。
やっとリバウの三羽烏出せました。

補足ですが、三羽烏のリバウ配属の時期はよく分かっていません。休載になってしまったストライクウィッチーズ零の第二章に合わせると、竹井さんの兵学校卒業までの期間が半年足らずになってしまうので、設定は零の第一章までを参考にしています。
坂本、西沢、竹井の三人が一緒になったのは扶桑から出港した船の中、ということなので坂本さんは試作機の報告のために一度本国に戻ってからリバウに配属されたのでは、とか考えてみたり。




[36710] 6  1939年 バルト海 氷の海06
Name: かくさん◆b134c9e5 ID:82b7ca1d
Date: 2013/11/15 03:17

『やあ、どうも板谷少佐。先日はうちの娘達がお世話になりました』

『いえいえ、何をおっしゃる。昼食までごちそうになって、礼を言わねばならないのはこちらの方ですよ』

『ええ、私も近いうちにまた会わせてあげられればと思っているところです。せっかく友好を築けたのなら、それを尊重してあげたい』

『ん? やってみたいことがあると? いや、構いませんとも、ぜひ聞かせていただきたい』

『……ふむ。なるほど、たしかにそれはいい案だ。こちらにも異論はありません、形式は……模擬戦闘ですか、ふふ、大歓迎ですよ。何かと血気盛んな者もおりますのでね』



『では、日程の調整ができ次第折り返し連絡を差し上げましょう。合同訓練、楽しみにしております』






 ♦♦♦♦♦♦




12月となった。月のくくりなど、人間が勝手に定めたにすぎぬというのに、12月という響きだけで寒気がぐっと増してきた気がする。冬空が真っ白い雪を地上に向けてひっきりなしに落としてくるものだから、飛行場の関係者など周囲の雪掻きに大わらわだ。屋内だろうと冷たい空気はどこからでも侵入してくるし、暖房器具はもちろんのこと、しっかりした造りの軍用コートが何よりも頼もしく感じてくる。
私は丸いテーブルの上に無造作に置かれた新聞紙に目をとめた。日付には12月1日とある。ネウロイの侵攻開始からもうすぐ三か月が過ぎようとしているのだ。たった三ヶ月で、欧州全土が危機に陥ろうとしている。どの国も厳しい状況には変わりない。侵攻を受けた都市部は破壊され、ネウロイが生み出す瘴気に呑まれた地域に人類は立ち入れない。時が経てば戦線は疲弊し、湯水のごとく注がれる物資もいずれは底をつく。平穏を保っていられるのは、今だけだ、あと一年、いや数カ月で時間の流れが人類に牙をむくだろう。
そして、それは私にとっても例外ではないようだった。カレンダーをめくるそのたびに、記憶が重しのようにのしかかってくるのだ。部下を救えず、自分自身すらも死なせることになった忌々しいあの日の記憶だ。十二年間の長い年月に薄められた暗い心の影が、『あの日』が少しずつ近づいてきているにつれて、段々と凝縮されているように感じる。
だが、自分の精神を掘り起こすのもここまでで終わりにする。温度のせいではない、身体が内側から冷え切ったような悪寒に襲われ、私は考えるのを中断した。
嫌な溜め息を飲みこみ、脱力して椅子に腰かける。日付だけにしか目を通していない新聞紙を手に取った。
開戦当初から見ると、現在の情勢は相当変化している。新聞に躍る文字は楽観論と悲観論が入り混じった雑多な様相を呈しており、検閲と真実のはざまで揺れる記者の苦悩がくみ取れるようだった。
たしかに、難しい作業だろうなと思う。ペンは剣よりも強し、とはよく言ったもので情報というものは時として驚くべき力を発揮することがある。それはいい意味でも、悪い意味でもだ。崖っぷちのカールスラント、オラーシャもツァリーツィンを抜かれれば絶望的とも言える状況で、不安を押し殺して暮らす民衆に対してどんな情報を与えるべきなのか。希望を見せすぎれば油断を生み、断ってしまえば心が折れてしまう。紙面の向こうでタイプライターを叩いた彼は、両方に押しつぶされそうになりながら今日の紙面を世に送り出したのだろう。
かじかんだ手で広げた新聞にはブリタニア語が躍る。国際的な有名誌の一つだ。ブリタニア、扶桑、リベリオンなどの各国の支援に対する論評、またカールスラントやオラーシャ戦線の現状などが、よく調べたものだと感心させられるほど事細かに記されていた。
その中でも、とりわけ私の目についたのは悲観論に属するであろう記事であった。
見出しはこうだ。

『ネウロイの魔手、北欧へ』
『スオムス開戦、小都市スラッセン空爆を受く』

すでに、昨日のうちにネウロイがスオムスへ侵入したという知らせは受けていた。これで戦線は西欧と東欧だけでなく北欧にまで伸長したのだ。坂本達にも言った通り11月末日になるだろうと、かつての記憶を頼りに予想だけはしていた。願わくば化け物どもがペテルブルクを最後に止まっていてくれはしないか、とも思っていたが、歴史とやらはやはり己を曲げるようなことはしたがらないらしい。ヒスパニアの怪異や扶桑海事変もそうだったのだ、今回もそう変わることはない。
おそらく、昨日の知らせと記憶と相違ない内容だろうと思いつつも、記事に目を通し、ゆっくりとブリタニア語を頭の中に落とし込んでいく。

『11月30日午後、ネウロイの爆撃兵器編隊(数不明)がスオムス国境を突破し、東部の都市スラッセンが空爆にみまわれた。近隣のカウハバ空軍基地から出撃した部隊が迎撃を行いラロス級などを多数撃墜したものの、建造物への被害が多発し住民は不安を募らせている。スオムス政府は声明を発表しネウロイへの徹底抗戦を表明、陸海空軍への防衛体制の強化を指示したほか、各国へさらなる支援を呼びかけた』

現地の混乱はいかほどのものであったか。奇襲を喰らってなお敵機を迎撃し、反撃の戦果を残せるだけ、規模は小さくともスオムス空軍は優秀であると言えるだろう。
しかし、今後もその調子で空を守り続けることができるのだろうか。防空に失敗した後に起こるのは地上部隊の直接侵攻である。きっと彼らもここからが本番であることをわかっているはずだ。
カールスラントと同じように。

「えー、なになに……そのためブリタニア政府はスオムス政府の要請にこたえ追加支援を約束すると発表。しかし、ウィッチを含む直接的な支援に関しては義勇部隊の派遣以降の目どが立っておらず各国の迅速な行動が期待されるところである……真面目な物を読んでるのね、まあ私も読んだけどさ」

突然の声が思考を破った。テーブルを挟んで反対側から紙面を覗きこんできたのはフライターク中尉である。
フライターク中尉はそのまま正面の椅子に腰かけ、私と向き合った。コーヒーを炒れてきたのか、両手に一つずつ持ったマグカップからは心が落ち着く香ばしいかおりが漂ってくる。

「昨日の通達を聞いただけでは何か落ち着かないもので、何度も呼んで頭に叩き込めば少しはマシになるかと」
「うんうん、それも少しわかるかも……あ、コーヒー飲む?」

片方のカップを差し出して、読みながらでいいからと手を振った。
湯気と共に立ち上る強い香りが再び嗅覚を刺激する。寒いときのコーヒーというのは格別なのだ、体が温まって頭もスッキリとさえる。私は深煎りの豆をカールスラントらしいペーパードリップでいただくのが好きだ。今日のような雪でも降りそうな日は、濃いめに淹れて香りを引きだした一杯を、熱いうちに少しずつ口に含んで心地のいい苦みを味わうのがいい。
ぜひともいただきたい。上官の勧めを断るのはよくないと自分に言い訳をしながら、礼を言ってカップを受け取った。先に口をつけた副隊長にならって私も口元へ持っていく。
うん、良い香りだ。少しツンとした刺激を含む芳香、よく確かめてみるとその中に甘みのようなものを感じた。キャラメルでも入れたのだろうか、しかしそれにしては色目は少し濁っている程度である。まあ、苦みが好きではあるが甘いのも嫌いではない、体を温めるには好都合か、そもそもわざわざ淹れてもらっておいて文句を言うほど失礼なことはしないつもりだ。
私は頷いて、まろやかな味を想像しながらカップの中身を口に含んだ。
そして顔をしかめる。

「……すごい味だ」
「飲めそう?」
「味には程度というものがあります、正直に言えば許容範囲外ですよこれは」
「はあ、ごめん、やっぱり無理か」

口の中身を無理やり喉の奥に押し込む、液体だというのに重たい物を食べたような感じだ。
凄まじく甘い。一体砂糖をいくら入れたのか、シロップを飲みこんだような今まで体感したことのない甘さが口から喉で暴れ回っている。
悪戯を仕掛けた風でもないがこれは一体。まだほとんど中身の減っていないカップをテーブルの隅に置いた。

「本当はあの甘党が飲むと思って淹れたんだけどね、待ちきれないみたいで先に飛行場まで走ってっちゃうし……何やってんだか」

フライターク中尉が深く溜め息をつく。
甘党というのはベーア隊長のことだ。キャンディバーが無くなると機嫌が悪くなるだの、コーヒーには苦みが消えるまで角砂糖を投下するだの言われているあの人なら、まあ飲めないこともないのだろう。
今回は本人がいても立ってもいられず指揮所を飛び出していったのが原因で、専用とも言える一品が私に回ってきたのだ。コーヒーも勿体ないし、どこかやりきれない。

「しかし、どうしてまた」
「ん、そのニュースを一番最初に読んだのも、ハンドリック司令から知らせを聞いたのもベーアだし」

副隊長は私が目を通しているスオムス関連の記事を指差し、自分のコーヒーを一口。
マグカップを私に差し出して、お前も飲めと言外に伝えてくる。受け取って口をつけると、いつも通りの味がした。

「東では毎日忙しかったのに、こっちに来てからは待機時間も多いもの。いきり立ちもするわよねぇ、うん。甘党のくせに肉食獣みたいな性格してるんだから、アイツ」

やれやれと首を振る。
呆れ顔で、まあ止めるけど、と釘をさす一言を口に出すが、どこか楽しげに聞こえるのはフライターク中尉自身、気が付いているのだろうか。
ベーア隊長もフライターク中尉も、顔合わせの時に大喧嘩をするような間柄ではあるが、本人達にしかわからない何かがあるのかもしれない。激戦区を飛んでいた頃からの仲であるなら、そんな不思議な関係もあるのだろう。

「そろそろ読み終わった?」

何だかんだと言って、フライターク中尉の顔にも喜色が浮かんでいるのが見てとれる。今の問いはその現れか、急かしているような響きがあった。
スオムスの件で第四飛行中隊が忙しくなってくるのは、向こうから輸送の要請があってからだ。我々にはネウロイの進撃とは別に、今日という日を待ちのぞんでいた理由がある。
私が肯定の返事を返すと、フライターク中尉はゆっくりと立ちあがった。

「ま、ベーアの無茶も今日くらいは見逃してあげるけどね、何だかんだ言って私も楽しみだしさ」

キラキラと輝く目が私にむかって、早くしようと言っているようだ。
目の前の上官はまだ少女なのだが、そんなところはむしろ頼もしいとも思う。どんな状況であっても余裕を持てるのは心の強さゆえなのだろう。
私もまた、悲観的な記事を内側に、新聞を畳んで立ちあがる。ついでにテーブルの隅にあった甘いコーヒーを一気に飲みきってしまった、軽い頭痛を感じたが、栄養補給だと思えば、よし。
そうとも、私も今日を楽しみにしていたのだ。今日は扶桑海軍との合同訓練、模擬戦闘の実践日である。













冬の雲が陽光を薄く遮る寒空の下、ユニットケージに固定されたストライカーが並ぶ格納庫ハンガーには、第四飛行中隊の面々が集合していた。
出入り口のシャッターは半分ほど開いており、そこから外を見るともう雪が降っていないことがわかる。作業員の懸命の除雪作業によって、薄く積っていた雪は排除され、滑走路のコンディションは上々であった。縦の支柱と三つの杯で構成された風速計の回転速度はゆっくりとしたもので、風は強くないようだ。天候の安定しない冬の季節からすれば、絶好の空戦日和と言えた。
しかしながら、コートの隙間から侵入する寒気ばかりはどうしようもないようで。格納庫の奥でストーブに当たっていたベーア隊長がぼやく。

「馬鹿みてえに寒いなぁ、うえで保護魔法張ってた方が全然マシだぞこりゃあ」

手先をストーブから漏れる暖かい空気であぶりながら、身を小さくしてうずくまっている。
ベーア隊長は鼻をすすって隣に顔を向けると、そこで無表情のまま火を眺めていたフレデリカに聞いた。外から冷たい風が吹き込んでも身じろぎ一つなく、瞬きがなければ精巧な人形とでも勘違いしてしまいそうだ。何も感じていない様子で、ずっとそこに立っている。

「なあ、お前寒くないの?」
「なぜ? 寒いに決まってる。集合の何分も前に外へ連れ出したのは貴女のはず」

何を馬鹿なことを、という口調でフレデリカは聞き返した。どうやらベーア隊長は指揮所を飛び出すときに他の隊員を巻き込んでいったらしい。
私も辛い寒さの真っただ中に連れ出されなかったのは幸運だと思えばいいのか。
冷えた部分に血が通って痒くなってきたのだろうベーア隊長が指をさする。

「だってお前震えもしないし顔色変えもしないじゃんよ、寒さなんて感じてないのかと思ってた」
「……私も貴女と同じ人間なのだけれど」

フレデリカはベーア隊長を一瞥だけして、自分もストーブで手のひらを温め始めた。
模擬戦をするによいコンディションだが、誰にとっても人が過ごすには過酷な環境であるようだ。
私もストーブに当たりたいと思い、格納庫の中に足を向けると、私の元にはライネルトが近づいてきた。
小走りでせわしなく寄ってきて一言。

「お願いです私を抱きしめてください、強く」
「何を言ってるんだ気持ち悪い」

反射的に拒絶する。ライネルトから気持ち多めに距離をとった。

「そんなあ、酷いこと言わないでください。エールラー少尉が来る前から寒さにさらされ続けてたんですよぅ、隊長が暖気作業を手伝えって言うから……もうストライカーが冷え切ってて冷たいのなんの」

ライネルトは自分の肩を抱いて子犬のように震えている。なるほど、こいつも隊長の被害者の一人か、この分だと新聞を読んでいる時には姿の見えなかったテオも連れ出されていたのかもしれないな。
そんなライネルトなりの悲痛な訴えを聞いて、ストーブの有効範囲内から動こうとしないベーア隊長が笑いだす。

「練習だ練習、いい経験だろうが」
「仕方ない、暖気の練習だから」
「かー! 自分達の分もさせといてよく言いますね! 隊長もフリッカちゃんもストーブのそばで見てただけじゃないですか、あああ手がかじかんで痛いぃ」

ベーア隊長にフレデリカも同調し、ライネルトが頭を抱えた。そこが下士官の辛いところか、気持ちだけはわからなくもない。
ライネルトは一層体の震えを大きくしてユニットケージの後ろで作業をしているテオのところへ走り出した。
機材に遮られて何も見えないが、テオの驚く声が微かに耳に届く。

「テオちゃーん! 抱きしめさせてぇー!」
「きゃああああああ!」

同年代の女子でなければ憲兵隊に突き出しているところだ。甲高い悲鳴が聞こえたところでライネルトを意識するのをやめる。
他国の軍と合同訓練、それも対戦などという一大イベントであっても、我らが第四飛行中隊はいつも通り過ごしているようだ。ベーア隊長はスオムスの知らせを聞いても威勢のいい態度を崩そうとしないし、フレデリカは変わらず冷静で、ライネルトは言わずもがな脳天気。これもこれで部隊の個性か、活かせるかどうかは別としてだが。
では模擬戦というなら相手がいる、対戦相手の方はどんな雰囲気なのだろうか。扶桑海軍の部隊は整備員を連れて、隣の格納庫で我々と同じくストライカーの暖気など準備作業を行っている。当然対戦相手の大多数はそちらにいるのだが、つい最近見知った顔が私の隣にあった。

「また会おうなんて大げさだったかな」
「そんなことはないぞ? 竹井も西沢も喜んでいたからな」

扶桑海軍航空隊所属、坂本美緒少尉。
坂本達三人と別れてほどなくして、扶桑海軍との対戦形式での合同訓練を行うと通達を受けまさか、と思ってはいたが、願望混じりの予感が的中するとは思うまいよ。戦いを生き残っての再会を誓ったというのに、全員で顔合わせの挨拶を行ったときに坂本だけでなく竹井も西沢もいるのだ。その誓いのありがたみも少し薄れてしまった。
とは言っても、せっかくできた友人にまた会えるのは素直に嬉しいものだ。坂本が手早く作業を終えて会いに来てくれた時には自然と表情も明るくなった。竹井と西沢も隣の格納庫で控えているし、彼女らの作業の関係で会いにいけないのは残念だが、訓練後に時間もあるだろう、その時に話ができれば満足だ。
坂本と白い息を吐きながら談笑していると、我々に近づく人物が一人。ストーブにあぶられていたベーア隊長であった。
よう、と軽く手を挙げて、私と坂本に並ぶ。

「そっちは訓練の開始時間とか、詳しく聞いてたりしないか? もうそろそろだった気がするんだけどさ」

尋ねられた坂本は手元の腕時計を確認した。
時刻を見て頷く。

「こちらもそのように聞いております。司令官同士の話し合いもあるようですから、そちらが終わり次第、ということでは?」
「ああ、うーん、なるほどなあ……それにしたってちょっと早く終わってほしいよなぁ、指が冷え切って引き金を引けなくなっちまうよ」

ベーア隊長は足を前後肩幅に広げ、腕全体を使って構えをとる。銃床を肩にあてて、標的を狙う立射の射撃姿勢だ。微動だにしない上半身の中で、引き金にかけているつもりの人差し指をクイクイと落ち着きなく動かしている。言った通りに動きが鈍らないよう確認しているのだろう。
しかしだな、ふと思った。それも自分のせいではなかったか。

「隊長が早く到着し過ぎたんでしょう、副隊長がコーヒーの相手がいなくて困っていましたよ」
「そういや頼んでたっけ、謝っておかないとマズイなぁ」

気まずそうに顔をゆがめる、見事な射撃姿勢に綻びが生まれた。
私としてはもっと今朝の出来事に踏み込んで、尋常ではない甘さのコーヒーを飲まされたことにも一言もらっておきたかったのだが、まあそこは飲みこんでおいた。
釈然としない私をおいて、隊長は再び姿勢を持ち直すと、でもさ、と坂本に顔を向ける。

「扶桑の海軍さんは新型を出してくるんだろ? 先にそんなこと言われりゃ、じっとしてもいられないさ」

口の片側を持ち上げる笑みだ。ベーア隊長本人の心は読みとれないが、挑戦的とも見える笑みである。
それを正面から受けた坂本も始めはキョトンとした表情だったが、すぐに凛々しい笑顔を返す。

「ええ、実際は制式採用はまだ先のことなので試作機という扱いですが、微力ながら私自身も開発に係わった自信作です。絶対に期待は裏切りませんよ」

私は二人の言葉を反芻する。
新型、試作機。そうだ、この訓練に扶桑海軍は新たに設計された最新鋭機を持ち出してきたのだ。ベーア隊長とフライターク中尉が楽しみだと言ったのもそれが理由である。
楽しみなのは私も同じだ。艦船から航空機まで、カールスラントと扶桑の技術はお互いに得意な分野が異なる。自然、まったく違う設計思想を持つ極東の大国が送りだした新鋭機に、今も期待が高まっていくのがわかった。
新型について何か聞こうとしたのか、ベーア隊長が口を開く。坂本から新型についての説明が聞けるかもしれない、と私は聞き耳を立てた。
その時だ、聴覚に集中させた意識に割り込むように、軍用ブーツの固い足音が格納庫に響き渡った。新たに増えた人の気配に目を向ければ、それは扶桑海軍側の司令官との話を終えたのだろうハンドリック司令とそれに一歩後ろで付き添うフライターク中尉であった。
フライターク中尉が手を二回鳴らして、格納庫内の注意をひく。

「はい! 第四飛行中隊注目!」

大きな声に中隊のメンバー以外も全員が目を向けた。
ベーア隊長が幼年学校かよとぼやき、ロージヒカイト中尉もキッと鋭い目で睨むが、流石にここで怒鳴り声をあげることはないようだ。
それを関せずハンドリック司令は格納庫内を見回し、坂本に目を止めた。

「まず身内よりも先に坂本少尉。そちらも準備が整ったのかな、板谷少佐や同僚が君を探しているかもしれん、早めに戻ってあげるといい」
「はっ、ありがとうございます! お手数をおかけして申し訳ありません!」
「かしこまった礼を言われることでもないさ、それよりも模擬戦でどんな動きを見せてくれるのか、楽しみにしているよ」
「それはもちろん、全力で応えさせていただきます」

身を正した坂本は歯切れのいい返事を飛ばすと、首を傾けてこちらを向いた。

「じゃあ、また後で」

同性でも見惚れるような笑みを見せ、釘づけになる暇も与えず駆け足で格納庫を後にする。
ハンドリック司令がその後ろ姿を見送り、咳払いをして言葉をつづけた。

「さ、お待ちかねの模擬戦の時間だ。ベーアとフライタークの二人から説明があったと思うが形式は同位反行戦、あちらに合わせて数は三人となる」

いつの間にやらテオを開放してストーブに当たっていたライネルトが、最後の人数の部分を聞いて表情を変えた。

「え……え? 三人ですかっ?」
「そうだが……ああ、ベーア、お前説明していないな?」
「はっ、直前まで伏せておいた方が緊張感があると思いました」

悪びれた様子のないベーア隊長。ライネルトは全員分の暖気をやったのにと膝から崩れ落ちた。
ベーア隊長がだから練習だって言ったろとライネルトの肩を叩く。それを見るハンドリック司令の顔も心なしか眉尻が下がっているようにも見えた。

「まったく、後で誰かフォローしてやるんだぞ? とにかく早いところ空に出る三人を決めることだ。責任持ってベーアが指名しろ」
「ヤー」

もう決まっているようで、返事をしてすぐに三人分の名を呼ぶ。

「順当に私とフライターク、あとはロージヒカイトで行く」
「……私?」

最後に名を呼ばれたフレデリカがいぶかしげに聞き返す。眉をひそめてしばらく考えた後、頭を横に振った。

「棄権します、私は地上で見ていたい」

その返事に目を丸くし、遅れてベーア隊長が返す。

「棄権って、本気でか?」
「私が空に上がっても誰も得しない、他を当たって」

取りつく島もありゃしない、冷たい言い方のせいだろうか。自分を下に評価してでも、飛ばぬと断じた返答には絶対に嫌だという意志のようなものすら感じる。
飛ばなくてもいいとわかった時には飛びたくない、面倒くさいというスタンスなのか、それとも単に目立ちたくないという理由なのか。どちらにしても勿体ないものだ、東部帰りの彼女の腕前はかなりのものなのに。
ハンドリック司令が肩をすくめる。

「模擬戦にも緊張が必要だという気持ちはわからないこともない、が、事前に言っておかないからこうなる。いいから急いで決めるんだ、時間がない」

指先で時計をコツコツと叩いて急かしている。
一瞬困り顔になったベーア隊長は頭をかいて、一名に人差し指をむけた。

「エールラー、お前だ」

今度は私が眉をひそめる番だ。全員で飛ぶならまだしも腕のいい三人を抽出するのだろう、本当に私でいいのか、浮かんでくる疑問。
だが、それを口にする前にベーア隊長の手が両肩にかけられる。上半身をぐいと引っ張られ、呼吸が感じられる位置まで顔が近づく。上官であるベーア隊長も年齢は少女と言えるものであるが、口づけでもするのかという距離まで接近すると、さすがに思うところがある。どうせ無駄だろうと思って、私は抵抗をやめた。

「他に誰がいるんだよ、ロージヒカイトを説得する時間もない。他にはお前含めて三人。ヴァイセンベルガーかライネルトで、お前は安心できるのか」
「はあ……ええ、わかっていますよ、是非やらせていただきます」
「よし、決定です司令!」

選択肢が一つしか用意されていない。フレデリカがやらないと言いだし、他に選ぶ人員もいないという仕方のない状態ではあるが。
こんなものだと納得するしかないものだろうか。

「では私は先に管制室へ移動するよ。模擬戦を行う三名はストライカーを装着し武装を携行の上、滑走路へ」

ハンドリック司令も今のやり取りを柔らかな微笑みでかわし、やはり自分を納得させるのが最善手であると確定した。
いついかなる場合でもうんぬんと、普段から意識を高く持つようあれこれ考えてはいるが、突然中隊の代表に指名されるというのは中々に緊張を強いる。何と言うか、現実の話ではないような感じに思えた。
まったくアンタはいい加減なんだからとロージヒカイト中尉からベーア隊長へ、砲兵部隊が放つ弾丸のように絶え間なくあびせられるお小言を横で聞きながら、ユニットケージ上でストライカーを装着。水よりも強く、地面よりも軽い抵抗感の中で脚がゆっくりと沈みこんでいき、ぴょこん、と使い魔であるロットワイラーの耳と尾が生えた。魔力を送り込むとエンジンが始動する、ライネルトが必死に温めていた機関部が低い咆哮を発した。
あらかじめ用意されていた、訓練用のペイント弾が装填された機銃をつかみ格納庫の外へ。10cmほど地面から体を浮かせてゆっくり歩く程度の速度で、滑るように滑走路へと移動する。開けた飛行場には冷たい風が吹いているのがわかったが、すでに張られている保護魔法が冷気を遮断しており、不快には思わない。
滑走路上では坂本、竹井、西沢の先日に出会った扶桑海軍の面々が待機していた。
私の視線は彼女らが履くストライカーにむいた。カラーリングは上空で雲に溶け込む明灰白色、流線形のスマートなボディが機能美を感じさせるデザインだ。線の細さが目につくが、それもまた研いだ刃のような印象を与えている、そう私は感じた。
しかし乙女の脚ばかりを凝視してもいられない。視線を外して正面を向くと、相手側の一人である竹井が、私の顔を見て驚いた表情を浮かべたのが見てとれた。

「模擬戦の相手って貴女だったんだ」
「ついさっき決まったんだ、まだまだ心の準備ができていないよ」
「ふふ、大変ね、でも手加減はしないわよ?」

これから試合をするというのに、口元に手を当てて上品に微笑む竹井に少し見惚れてしまう。
思わず動きを止めていると、次に話かけてきたのは西沢だった。

「負けないよエールラー! なんてったってあたしは最強だからね!」
「はは、そりゃすごいな」

なんともこの子は、元気という言葉が形になったようだ。
言葉の内容が内容なだけに、横目でベーア隊長を見ると楽しそうに、へーえ最強か、などと言っている。ベーア隊長はこの類の威勢のいい言動が好きなのだろう。
西沢が言いたいことはそれだけではないらしく、腰に手を当てて続けた。

「その最強のあたしにこの新型の、何だっけ……」
「十二試艦戦でしょ」
「そう十二試艦戦があれば大勝利間違いなしよ!」

竹井は西沢に期待の新型機の名称を教え、西沢が言い終わるなりすかさずフォローに走った。

「えー、そう言う意気込みというだけなんです、お気になさらないでください」
「まあね、お互いにそれくらい気合が入っていれば、いい訓練になりそうだわ」

これにはフライターク中尉が答える。ベーア隊長が何か言いたそうにしていたので、それに先手を打ったのだろう。
今から模擬戦という割にはお互いに悪い雰囲気はない。隊長と西沢はやる気十分だが、敵意などまったく感じさせず、全体からはむしろこれからそのままお茶をしてもいいような和やかさすら感じる。
そんな中に坂本が一言投じた。

「そろそろ時間ですね」

その声が引き金になったかのように、通信機に反応があった。

「こちら管制室、グレーティア・ハンドリック少佐だ。両チーム通信機の感度はどうかね?」

自分達の指令の声がノイズもなく、綺麗に耳に届く。全員がそれぞれ感度良好であることを伝えた。

「よろしい、では君達には順に大空へ飛び立ってもらう。先にコールサイン・カールスラントから発進しコールサイン・扶桑を先導、高度3000メートルで水平飛行だ」
「ヤー」

指示に応えたのはベーア隊長である。
各種航空機の離陸に使用できる長く造られた滑走路、その中央に先だって立ち、エンジンの回転数を上げていく。耳に痛いが、最早慣れ親しんだとも言える轟音が広い空間に響き渡り、我々の身体を小さく振動させる。
ほどなくして、エンジンが十分な出力を得て、ベーア隊長の身体はゆっくりと滑走を始めた。機械と魔力が生み出すエネルギーが徐々に推進力へと変わっていく。徐々に、だが確実に加速した身体はやがて重力の束縛を抜け出て大空へと躍り出るのだ。離陸速度に至ったベーア隊長が風を切って飛びあがった。
その姿を確認したロージヒカイト中尉が周囲にアイコンタクトをとって、ベーア隊長に続く。
次は私だ。遥か滑走路の向こう側でロージヒカイト中尉が上昇していくのを見て、私も加速を始めた。少しずつ、慣性によって後ろに引っ張られる感覚。息苦しさすら感じるそれを振り切るように、魔力をストライカーに流し込み、飛び立つ。
離陸直後の安定しない浮遊感を制御して、速度をつけ上昇をかける。ベーア隊長とロージヒカイト中尉を追いながら、後方に目をむけると坂本達が順に飛び立つのが見えた。まったく危なげない動きで私の履くBf-109-Eに追従してきている、判断を決めるのは早計だが、あの見た目といい悪くない機体のようだ。
やがて指示にあった高度3000m。建造物が小麦の粒ほどにも見えない高度だが、戦闘機の上昇力ではさほど時間はかからない。五分足らずで到達し、国ごとの三機編隊が二つ並んだ。

「カールスラントは針路2-7-0、扶桑は0-9-0へ回頭せよ。指定距離になったところでこちらから反転の指示を出す」

互いに敬礼をして反対方向へ針路をむける。
上官二人の後ろを巡航速度で追従しながら、手ごわい相手になるだろう扶桑の彼女らのことが頭に浮かんできた。初めて目にする新型機はもちろんのこと、精鋭と呼ばれるウィッチが、戦闘においてどれだけの力を発揮するかわかっているつもりだ。今次の戦争の結末を左右する戦力、今更考えるまでもない。
空戦は戦闘技術と機体性能が物を言う。自分の力は通用するのか、実際、死ぬ前も飛行経験はともかく戦闘機動は速成だったのだ。最後の戦闘で必要に迫られただけで格闘戦自体は得意な訳でもない。
なるほど、不安だ。
意識すると体に寒気が走る。落ち着けと自分に言い聞かせた。同時に、ベーア隊長から入った通信に耳を傾ける。

「相手の性能も力量もわからんが弱気になるな。カールスラント空軍はネウロイに負けっぱなしだの、そんな話はここで全部ひっくり返してやるのさ!」

よくできた偶然だ、私に渇をいれるように勢いのある発破が飛ぶ。勇猛果敢な彼女はこんな時に一番輝く。
そう、弱気になるなと、不安だからと言って降りる理由にはならない。私はそんな彼女らと肩を並べて戦うために空を飛んでいるのだ。たとえ模擬戦であってもそれは変わらないと自分を奮い立たせる。

「言われなくても! 最初から勝つつもりでストライカーを履いてるわよ! エールラーも全力出しきっちゃいなさい、大丈夫、あなたけっこう強いもの」
「そうだ心配いらねえさ、余計なこと考えずに本気でやってればそれでいい」

二人からの言葉を聞く。彼女らなりに気を使っているのが何となく伝わってきた。やはりウィッチは強い、単純な戦闘能力だけでなく、目に見えない部分もだ。応えてやらねばなと思う。
手が小さく震えだす。弱気のままではいられない、その震えもまた気分が高揚している為だと思うことにした。

「指定距離だ、両者反転せよ」

抑えつけるように手を握り締めると、ハンドリック司令から新たな指示が飛んだ。
長機であるベーア隊長が針路を変え始めた。
私も続いて旋回を開始する中、ハンドリック司令の通信は指示だけではまだ終わらず、言葉が続く。

「勝敗を決するのは隊長機の撃墜、どの隊員もペイント弾を身体か装備に被弾した時点で撃墜とみなす。判定は私が兼任するが、どちらも公平に見るから安心してくれ。身内びいきなどしようものなら、後ろで楽しそうにしている板谷少佐にぶった切られてしまうからな」

ベーア隊長かロージヒカイト中尉が噴き出す音が聞こえて、編隊は旋回を完了する。
水平に戻った身体が安定すると同時に、出力を上げて増速。目の前に広がっていたはずの薄い雲が背後に遠ざかっていくのが、しだいに速くなっていく。

「正面に敵機。エールラー、固有魔法。接敵まで何秒か知らせろ」

ベーア隊長の命を聞いて素早くゴーグルをかける。扶桑海軍の白服が雲に溶け込んで見えにくいが、相手が正面から来るのがわかっている、捕捉は難しくない。ベーア隊長同様に空に三つの点を見つけた。見えたものから情報を収拾する固有魔法が発動。

「発見、接敵まで45秒」

視界に上書きされる数字を読みとる。模擬戦の開始まで文字通り秒読み段階だ、瞬きを忘れて三つの点に集中する。

「接敵まで30秒」

相対速度は時速700kmを超える。加速度的に大きくなり始める点が、形を帯びるまで時間はかからない。それが人間の形状に変わる前にカウントに入る。

「接敵まで五秒……三、二、一、今!」

一瞬だけ、顔が認識できた。相手の先頭、隊長機は坂本である。瞬きする程の時間もなく、二つの編隊がすれ違った。

「状況開始」

ハンドリック司令の合図を聞くなり、ベーア隊長が声を張った。

「エンジン全開、上昇!」

言うなり頭を上方に向けて急上昇を開始する。後に続くロージヒカイト中尉と私も出力を上げて追従した。背後には駆け抜けていった相手も同じように上昇をしているのが見える。お互いに優位な位置を確保し、敵の頭をおさえようとしているのだ。相手よりも先に出過ぎると射撃を受ける危険がある、針路と出力を細かく調整しながら上空を目指して競い合う。

「ちゃんとついてこれてる、やるじゃないエールラー」
「どうも」

ロージヒカイト中尉が感心したように呟いた。返事しながら買被りだろうとも思うが制御に集中する。
ややあって、途中まで拮抗していたはずの両者の間で状況が動く。扶桑海軍の編隊が下方へ向けて反転を始めたのだ。上昇においては高度性能が物を言う、初めから有利だったのはエンジンにアドバンテージのある我々のBf109-Eの方だった。
隣で競っていたはずの相手が視界からいなくなった途端に、ベーア隊長は追撃のハンドサインを出した。
反転の後、向きを定め滑空。加速しながら降下を続ける相手に、Bf-109の速度性能を活かして追いすがる。射撃位置まで達するのに時間はかからない。
相手もそれを見て、すぐに行動に移った。坂本が目配せすると、竹井と西沢がそれぞれ左右に散開していく。
一方、射撃に優位な位置に陣取るベーア隊長は、ほんの少し散開した二人を目で追いかけただけですぐに視線を正面に戻した。旋回には時間がかかる、散開した二人が背後に回る前に決着をつけるつもりらしい。
銃身を肩で固定し、安定した体勢で今まさに撃とうとしたその時。当然このまま終わるつもりもないのだろう、射撃のタイミングを見計らったように坂本が急上昇をかけた。
惜しい瞬間を逃した、そう思いながらすぐさま彼女を目で追いかける。
が、間もなく私は少しでも油断したことに対する後悔と驚愕を味わうこととなった。

「何っ!」

ベーア隊長が驚きの声をあげる。
坂本を目で追ったその先には、何の人影も存在しなかったのである。まるで夢の中に出てくる幽霊のように、瞬きをしている間にその姿が視界から消滅したのだ。
言葉こそ出なかったが私も心境は同じだ。ロージヒカイト中尉もそう。消えた、いや、まさかそんなことは、だが影も形も見えない。
思わぬ展開に、編隊の動きが止まる。
反対に、状況はそこで止まりはしなかった。
我々の意識が空白になった隙をついて、あろうことか編隊のど真ん中に割り込んでくる影。特徴的な白いマフラーが風にはためく、活発さを前面に押し出したような笑顔、西沢だった。
旋回して戻ってくるのが予想よりも遥かに速い。
西沢は瞬時に速度を落とすと、私と副隊長の間に拳銃でコインを撃ち抜くかのような精密さで身体をねじ込んでくる。またすぐにスロットルを開いて私の真横に並ぶと、機銃を前へと真っ直ぐに向けた。
マズイ、と、何よりも先に声が飛び出る。

「隊長! 後ろだ!」

あまりに突然のことだったが、ベーア隊長は瞬時に反応した。叫んだ次の瞬間にはロールをうって回避し、そのまま弾かれるように離脱していく。

「……ちぃっ! 散開!」

言われるなりバラバラの方向へ広がり、連続で狩られる危険を回避する。悔しそうな声色であった。
私はスロットルを開いて直線に飛行して離脱する。
仕方のないこととはいえど、編隊を分割することには大きなリスクがともなう。混乱の最中、周囲を確認しようとしてすぐにそんな暇などないことを思い知らされた。
しなやかな猫の尾と白いマフラーを揺らして、西沢が背後に迫って来ていたのだ。少しの間もおかぬ追跡は、まるで獲物を追う肉食獣を思わせる。
気付いた私は全力で旋回を開始した、西沢も私に続く。
後ろを横目で見ながら、ここからが勝負だ、と自分自身に檄を飛ばす。が、その矢先、西沢が構え続けていた機銃がついに火を吹き出した。
タイミングが早すぎる、当たる訳がない、無意識に弾きだした分析結果を嘲笑うように、ほぼ90度に傾けロールさせた体、肩のあたりをペイント弾がかすめていく。

「……っ! 何だこれは!?」

自然と声を張り上げていた。今の射撃は牽制かと思ったがそうじゃない。
初弾から危うく命中弾を喰らいそうになり、体に冷たいものが走った。とっさに体を下方に滑らせ射線から抜け出し、ロールして左右に旋回する。
だが、西沢は通じない、難なく回避機動についてくる。速度と高度を落とさないまま旋回する能力を維持旋回性能というが、十二試艦戦はそれが抜群に高いと悟った。先程、坂本が視界から消えたように感じたのも、縦旋回の機動が予測よりも急過ぎて、目で追うのが間に合わなかったためか。
速度と運動性のバランスが高すぎる。恐ろしいほどの格闘性能を備えた機体だ。
西沢はそんな機体を華麗に操って見せる。彼女はこちらが真似すれば確実に失速だろう機動で小さく回り、旋回の内側に食い込んできた。
今度こそ危険だ。
精密な機動で見越し角をつけ、確実に射撃しやすい位置をおさえている。回避は間に合わない、彼女が撃てば確実に当たる。
ダメだ、そう思った時、通信機からの声が響いた。

「交換だ! そいつは私が相手してやるよ!」

こんな言葉を使うのは一人だけしかいない。
声を認識したその瞬間に見えたのは、ベーア隊長が西沢の背後へと猛スピードで躍り出る姿であった。標的を狙っていた最も無防備な状態を逃さず、ベーア隊長が射撃を開始する。
不意打ちじみた一連射に西沢は表情を驚きに変えると、反対方向へカイトウ、離脱していった。撃墜こそできなかったが、体勢を崩した西沢を追いかけるベーア隊長。エンジン音と連なる銃声だけを残して飛び去っていく。
助かったのか、遅れてそう認識し、ほんの少しの安堵が胸のうちに広がった。
息を吐き出し自分を落ちつけて、すぐに頭上へ目を向けると、二人のウィッチがシザーズで上空へと登っていくのが見えた。固有魔法を使って確認すると、副隊長と竹井の名が文字通り目に映る。
安心している場合じゃあない、敵機を探さねば。西沢はベーア隊長が引き受けると言った、考えを巡らせるまでもなく理解する。

「エールラー! お前の相手は私だ!」

供用の回線から聞こえた声、今度は驚かない。射程圏内に同一方向へ進む人影を発見し、反射的に旋回した。

「坂本か!」

応じて、通信機に叫び返す。
次の瞬間には、私に合わせる機動で旋回してきた坂本と交差した。休む間もなく、すぐにまた体を捻って、逆方向へ向け再度旋回する。
二度目の交差。もう止まらない。空を一組の挟みが切り進んでいるように、水平方向へのシザーズが始まる。
横目で坂本の位置を確かめながらスロットルを調節。
しかし、可能な限り前方へ出ないように速度を落とすが、常識外れの旋回能力をもつ十二試艦戦相手には不利なことはわかりきっていた。交差をくりかえすうちに目に見えて背後へ回り込まれているのが感じとれる。
このままでは勝てるわけがない、歯がみして旋回合戦を諦める。大ピンチと言うやつだ。私の様子を見るや、瞬時に坂本は体を捻って背後に陣取る。

「やはり欧州の空は悪くないな! 友人と一緒に飛べて嬉しいぞ!」
「次はもっと落ち着いて飛びたいもんだな!」

軽口を返すが、状況は良くない。坂本は私より若干高い位置、射撃に最適なポイントで狙いを定めている。
取れる手立ては初めから多くないのだ、ここは一か八かBf-109の長所を使うことにした。
射撃のタイミングをまだ計り終えていないことを祈って、体を全速でロール、一気に降下させる。天に向けた足先すれすれをペイント弾が通過していき、一瞬息がとまった。
それもつかの間、撃墜判定はまだ出ていない、とスロットルを開いて加速を始める。
大きくなる風切り音。急降下により速度は増大していくが、機動は安定していてまだ余力がある。設計段階から一撃離脱を主眼に置かれたBf-109に降下速度で追いつける機体など、やはり存在しない。

「ぐっ……」

坂本もまた降下して私を追っていたものの、徐々に引き離され、加速し続ける標的を捉えきれなかったのだろう、小さく呻き声を上げて上空へ離脱した。
今こそが好機である。すぐに反転、上昇に切り替えて後を追う。降下時の加速を利用して上空まで駆け上がるのだ。

「竹井醇子、撃墜判定」

白熱する模擬戦闘の最中、冷静なハンドリック司令の声だ。
フライターク中尉が競り勝ったか、味方の勝利に小さく心が沸く。
私も、と気合を入れ直して、エンジンに魔力を注ぎ込んだ。固有魔法によって視界に照準器のような模様が浮かぶ。が、無防備なはずの坂本の背中に照準を定めようとしても、思うように捉えさせてくれない。
内心で舌打ちを一つ。
そのうちに私の加速が鈍った。高度によるエネルギーを使いきったのだ、それを見越していたに違いない。目の前で坂本が水平飛行にうつる。
無論、追わない訳がない。

「逃がしはしないぞ、坂本美緒!」

振り切られてはせっかくの優位が無駄になる、旋回の体勢に入ったのを見て、射撃を開始した。先程さんざんに撃ちまくられたペイント弾が撒き散らされる。

「くっ……なかなかやるなっ」

至近弾にようやく坂本から焦りの声が漏れた。相手の進行方向へ先に弾丸を送り込む偏差射撃だ、固有魔法を使った照準がここで役に立つ。
しかし命中はない。坂本もさるもので自分の射撃を先読みし、体を捻ってかわしたのだ。それでも私は食らいつく気でいた、速度の乗りきらない坂本を追跡してもう一度背後へ。旋回もフェイクもない直線的な飛行、先程の偏差射撃よりもまだ簡単だ。はやる心を抑えて照準器を覗き、合わせる。

「……何だ?」

いや、合わせようとした。思わず呟きが漏れる。照準を合わせようとしたが、上下左右に不規則な振動が加わって上手くいかない。
固有魔法に不具合が?
いや、と頭をよぎった可能性はすぐに否定、私は自分の能力と使い魔を信用していた。ならばおかしいのは自分自身だ、手が小刻みに震えている。自覚した途端に、それは悪化した。心臓の鼓動がドラムを叩くように大きくなる、意識に関係なく荒い呼吸が口から漏れた。一体これは何なんだ。舌打ちをして無理矢理に震えを抑えつけて引き金に力を込めた。

「いた、だきだ……!」

さて、戦闘中に心が通じ合ったのかはわからない、勝負を決めにかかった私の耳に届いた坂本の言葉はこうだった。

「まだ、まだ終わっていないぞ!」

叫んだ途端に、坂本の体勢が崩れる。瞬時に情報が解析され視界に映し出された。坂本が履く左右それぞれのストライカー、そのトルクが一方向に大きく偏っている。
ストライカーの不具合!
私は普通ではない動作をそう判断する。が、そんな考えは甘すぎた。

「はぁっ!」

短く気合の籠った声が吐き出された瞬間、不規則に暴走するはずの力は完全に、眼帯をつけた扶桑海軍士官の制御下におかれた。
普通なら不可能なほどの急制動がかかる。頭を上に、直上へ跳ね上がるような軌跡を描いて視界から消え去った。ゆるやかな宙返りとは違う、曲芸じみた急峻なカーブで体を私の背後へ捻じ込んでくる。ここまでほんの一瞬だ、理解するよりも先に身の危険を感じて思わずロールして真下へ回避機動をとる。
弾丸がストライカーを掠めた。トルクの異変を感じとっていなければ間違いなく今ので勝負がついていただろう。
だが、次で終わりだ。
そう何度もギリギリの回避が上手くいく訳もない。落下しながら上方へ銃口を向け、坂本と対峙。
これで決着をつける、照準器ごしに坂本と目があった。

「……っ!」

ゾクリと体が強張る。また手が震えだす、何故だ、と制御を受け付けない自分自身の体に嫌気がさした。

「チクショウが……」

一言だけこぼして引き金を押し込む。二つの弾丸が交差した。
思考に空白が生まれる。
そして、通信。

「ハインリーケ・エールラー、撃墜判定」

ああ、やはりそうか。
胸のあたりに残る着弾の衝撃と、ジワリと広がるペイント弾。自身の敗北を告げる声を聞いて脱力した。ゆるやかに体をおこして、速度を落とす。
周囲が戦闘中でないと確認して、その場に制止した。

「私の負けだ」

言うと、坂本は律儀にも数メートル上方で、同じように体を留める。

「だが惜しかったな、最後のあの瞬間、もしかしたら撃墜がついたのは私だったかもしれん」

小さく笑う坂本。たしかに終盤の撃ち合いは僅差の勝負だったかもしれない、がそれを言うのは意味のないことだ。
言い終わるなり彼女はエンジンを吹かせて降下していく。風を切り裂き、白い軍服を雲の色に溶け込ませ、見えなくなった。
強い敵役だった、さすが扶桑海軍の精鋭と言うべきだろうか。
この気持ちは忘れたくない、悔しいという未練を振り払うように、視界を上へと向けた。
そこで、今の自分達と同じように激しい空戦を演じている二人を目にとめる。

「ベーア隊長と、西沢か」

十二試艦戦は圧倒的な格闘性能を持っていたが、下から見ている限り戦況は五分というところだ。
隊長は降下性能を活かして、西沢の鋭い旋回飛行に対抗している。どちらも自分の体そのものであるかのようにストライカーを操っている。三次元的に絡みあう軌道がどこか幻想的にすら感じた。

「フライターク! 今は援護に回れるか?」
「悪いけど今しがた坂本と接敵したわ! 交戦します!」

通信機からの会話を耳にして、状況はまた一対一に戻ったことを知る。
これは、ケリがつくまでまだ時間がかかりそうだ。
せっかくの精鋭対決である、すぐに帰投するのは勿体ない。
終わるまでは邪魔にならない位置で見学させてもらおうか、そんな考えで美しい空戦機動を眺め始めたが、ベーア隊長と西沢はやはり私の頭などで予測できる存在ではないようだった。
二つの軌道がもう何度目かわからない交差をした瞬間に、隊長が大きくロールし背面飛行に移行、そこから頭を下に向けて縦旋回をかましたのだ。かの有名なインメルマンターンを上下逆さにしたような動き、スプリットSと呼ばれる機動であった。
膠着状態に一石投じたその機動を、機敏に感じとった西沢が持ち前の急旋回で合わせる。ここにきて両者の思惑が噛み合った。どちらも機銃を構えて正面から相対、ヘッドオンだ。
距離は相当に離れている訳ではない、一瞬のすれ違いの寸前で、勝負をかけるつもりなのだろう。ガンマンのような一撃に全てをかける戦い方をする、正直見ている方が不安になってきそうなやり方である。
それだけ本気ということか、二人は猛スピードで近づき、躊躇いなく引き金を引き絞る。
ついに、決着だ。

「げ、詰まジャムった」

ボソッと聞こえた、ベーア隊長の声がやたらと耳に残った。
実際に弾丸が飛び出たのは西沢の機銃のみ。間髪いれずにハンドリック司令の判定が下る。
正直言って、この時ばかりは結果を聞きたくはなかった。

「ハインリーケ・ベーア、撃墜判定。模擬戦終了、扶桑海軍の勝利……酷いもんだベーア、後で執務室まで来い」

しばらくして、ベーア隊長の私のせいじゃないという悲痛な叫びが、リバウの空に木霊する。




 ♦♦♦♦♦♦














「何でわかんないかな! 追っかける時はもっとこう、上からシュバっ! ドワーっ! て感じでさぁ!」
「わかる訳ねえだろうが! 何のこと言ってんのかさっぱりだよ!」


模擬戦を終え、地上へ降り立ったウィッチは、全員で滑走路の側に集合していた。
一まずお互いの健闘をたたえ合った後、ブリーフィングで自分に撃墜判定を出した相手から改善点を聞くようにとの命を受けたのだ。もっとも、一部の二人を見ると、それが上手く機能しているのかは判断に困ってしまうところだったが。

「もう、うるさいわねぇ、こいつらときたら……あ、ごめんごめん。それでね、あなたは土壇場で自分に対する注意が切れてることがあるかも。周りをよく見ようとしてると思うんだけど、中途半端にならないよう、よく考えてね」
「そうですね、やはり空戦の技術が追いつかなくて……なかなか上手くいきません」
「心配しなくてもまだまだ伸びるでしょ、両方こなすのになれてない部分もあるだろうから、一年経てば相当強くなってるんじゃないかしら」

竹井はフライターク中尉の言葉を聞きながらしきりに頷いている。中尉の言を余すことなく吸収してやろうという意気込みが感じられた。真面目そうな彼女ららしいやり取りである。
さて、少しだけ他の組の会話に耳をそばだてていたが、私を撃墜したのは坂本である。
彼女は多少なりとも嬉しそうに声を弾ませながらも、嫌味と感じるようなことは何一つ言わなかった。

「勝ったと言っても僅差の勝負だしな、あまり偉そうなことを言うつもりもない」

そんなことを言いながらも、質問を受ければ坂本なりにしっかりと考えて答えをくれる。
とりあえず、今は気になっていたことを聞いてみようと思った。

「私の追跡を振り切ったあの機動は? ただの旋回とは違う気がするが」

坂本が私の追跡を振り切る際に使った、急激な縦旋回の機動だ。あの一瞬で勝負が決まったと言ってもいいだろう、負けた側からすれば気になるに決まっている。

「ああ、あれは、捻り込みと言ってな……扶桑伝統の必殺技、かな?」

坂本は顎に手を当てると、言葉を選び、答えてくれた。
ストライカーは右脚と左脚それぞれのトルクを打ち消し合うことで安定を得ているが、そのトルクを意図的に制限して一つの方向に偏らせることで、可能となる機動らしい。尋常でない動きの源は、やはり通常ではない操作が必要になるということなのだろう。普通なら制御不能に陥ってもおかしくない機動なのだ、軽やかな格闘性能が売りの扶桑軍機だからこそできる荒技であった。
当然、私が扱うBf-109では無理そうである。少し残念に思えた。
そこから話は私の機動に関しての内容に移る。

「綺麗な飛び方をする、そう感じた」

まず、私の飛行をそう評して、坂本は言う。

「さっき任官して一月と聞いたが、そうとは思えないな。新米らしい雑さが見えない。機動はふらつくこともなく正確、自分が思った通りの動きができている。何だか飛び慣れている感じだな、ストライカー以外に飛行の経験があるのか?」

思っていたよりも高い評価に、悪くない気分でいると、後半で爆弾が投下された。
顔が引きつりそうになる。

「……いや、何も」
「ん、そりゃそうか、まだ12だものな」

まさか、実は一度死んでいて生前は飛行機乗りをしていました、など言える訳もあるまい。正気を疑われるのもごめんなので、適当な否定の言葉で流すことにした。
幸い、坂本は疑問を持つこともなく会話が続く。

「飛び方は上等、しかし戦い方が固い」
「固い?」

次は悪い点の洗い直しになるのだろう。何かミスがあったのだから最終的に撃墜判定を喰らった訳で、ここに異論は全くない。
ないのだが、私は坂本の表現が理解できずに聞き返した。

「旋回や急降下の時だったり、かなり余裕をもたせて動かしているだろう? もちろん悪いことじゃないが、ウィッチなのだからもっと勝負をかけられるところは全力で攻めてみてもいいんじゃないか?」

柔軟性の欠如。
たしかに火力、防御力、機動性を高い水準であわせ持つウィッチの戦術の幅は広い。無茶に思えることでも、押し通せるだけのポテンシャルを秘めているのだ。
私はウィッチとしての力を引き出し切れていない?
意識が思考の中に埋没しようとしたが、坂本の講義は続いていた。

「模擬戦中に思ったんだ、まるで……そうだ、戦闘機のようだったぞ」

戦い方が、戦闘機のよう。
その言葉は私の意識を一発で呼び覚ました。
私はウィッチとしての養成訓練を受けてもなお、パイロットとして空を飛んでいるのか。ウィッチとしての力がどうこう言う以前に、ウィッチにすらなりきれていないのか。
考えが一巡して、頭の中に暗い影を落とし始める。
そんな馬鹿な、と頭を横に振った。何を馬鹿な、私はこの模擬戦でも戦えていただろうに。

「難しく考えることでもないさ、癖みたいなものだろう。突き詰めていけば個性と言えるかもしれん、悩むな悩むな!」

きっとネガティブな考えが顔に出ていたのだ。
坂本は明るく笑うと、元気づけるよう私の背中を叩く。何気ない行動だ。
だが、それは私にとってまったく違う効果をもたらしたのである。
ゾクリ、と坂本の手が触れた箇所から、全身に冷たい何かが広がったのを感じた。坂本との格闘戦の終盤、彼女の目を見た瞬間に覚えたおかしな感覚と同じものだ。それは血が凍るような酷い悪寒に似ている。

「どうした……?」
「なんでも、ない」

坂本が私の異変を感じとる。眉をひそめる彼女には何とか返事をすることができた。
自分の腕を抱き、何故か知られたくないと思った私は、心配そうな視線を振り切るように歩きだす。
何でもない、そう思いたい。いや、思いたかった。
どうしてだろうか、私は友人を『怖い』などと思ってしまったのだ。気温のせいじゃない身体が内側から冷え切っていく感覚。試合の余韻などもうわからない。
もはや、模擬戦前に手が震えたことさえ、恐怖のせいでそうなったとしか思えなくなっていた。
灰色の空の下に、ただ冷たい風だけが吹きすさぶ。
12月1日。はるか過去になったはずのあの日まで、もうそれほど長い時間は残されていなかった。

















[36710] 7  1939年 バルト海 氷の海07
Name: かくさん◆b134c9e5 ID:82b7ca1d
Date: 2014/03/08 20:18
重苦しいエンジンの音が聞こえる、まるで猛犬の唸り声だ。顔にまとわりついて滞留する空気、風の音は嫌と言うほど聞こえるのにその流れを感じない。狭い、足を開くほどの余裕もないそこは一人乗りの航空機の中、息苦しい操縦席だった。不規則に右へ左へと揺れ動く計器の針と、視界のほぼ全域に広がる涙滴型の風防は戦闘機のものだ。
手には操縦桿が握られ、機体は水平飛行を続けている。
ふと、疑問に思う。
たしか、私はストライカーユニットを駆っていたはずではなかったか。
外に目を向けながら考えてみるが、クリアな視界とは裏腹に、頭の中に靄がかかったように結論まで行きつかない。思い出せそうで思い出せないのは少し不愉快だ。指先で頬をかき、首を傾げる。
少しして、やはりダメだと考えることを放棄した。本気で頭を働かせても出てこないなら、何をやっても無駄なのだ。そのうち何かわかるだろう、と私は気を取り直して正面に視線を合わせた。
どうしてか、目が細まる。
忙しない計器の動きと、空気を切って回るプロペラ、機首に掻き分けられていく薄い雲。何もかも懐かしいとすら感じた。
不思議と、久しぶりだ、などと思ってしまうと途端に飛行機の操縦が心地いいものに思えてきた。窮屈で自由の効かない操縦席の中なのに、まるで揺りかごようだ。操縦桿を握ったまま、静かに目を閉じる。
そのままどれくらいの時間が経っただろうか、突然に通信機がやかましい雑音を垂れ流し始めた。
邪魔をされた。
今まで続いていた上機嫌に影が差し始める。雑音は断続的に不快感を携えて鼓膜を揺らす。何度も、何度もだ。
だが、しばらくイラつきながらも聞き耳を立てていると、段々と雑音に混じって違う音が聞こえていることに気がつく。これは誰かの声ではないか、と。途切れ途切れに何かを叫んでいるのだ。
胸騒ぎがする。吐き気を催す不快感が胸の中に溢れかえった。段々と明確さを帯びてくる通信機からの声。鬼気迫る様子が少しずつ伝わってくる。

『……死……に動……く!』

違う、胸騒ぎの理由はそんなことじゃない。私はこの声を誰よりも知っているのだ。
理解したくない、だが間違えようがない。

『こんな……い、命令を聞い……れてもいいだろう!』

これは、誰でもない、私自身の声だ。
気持ちが悪い、何の冗談だろうか。何故こんなものが聞こえてくる。今度こそ喉元までせり上がってきた吐き気を無理に飲みこんだ。
嫌な予感がした。ここにいてはいけない。
しかし、半ば本能的に機体を旋回させようとして、操縦席に縫いとめられたように、身体が硬直する。

「……嘘だろう」

茫然自失として呟くと、先程は存在しなかったはずの巨大な壁が、風防の側面一杯に広がっていた。
いつからそこにあったのだ、そんなことを考えている余裕もない。
腹に響く重低音を撒き散らしながら空に浮かぶ巨大な壁。言葉にならない圧力が絶え間なく私の身体を締め付ける。厚い装甲に覆われた翼が伸び、空気を切り裂くのではなく強引に押しのけながら進む姿に目が釘付けになる。針のように突き出た突起は一目で数えただけでも十を超えていた、それらが全て機銃砲座である。
ディオミディア級超大型爆撃機だ。
禍々しく、本能に恐怖を植え付ける絶望その物のような化け物が目の前にいる。

『動け、動けよ! 少尉! なあ!』

通信機からの『私』の声に呼応するかのように、無数の銃座が私の機体へと向けられる。
血の気が引き、体温がゼロになったのではと思わせる悪寒が身体を包み込んだ

「死にたくない」

ただその言葉だけが漏れる。
願いは聞き届けられるはずもなかった。
言葉が終わると同時に機銃の掃射が始まる。銃火の閃光が見え、次いで不快な射撃音、装甲板が断裂する音、風防が砕ける音、それらが一斉に押し寄せてくる。

『チクショウ……!』

苦しげな『私』の声が微かに聞こえ、ついに意識は暗転した。

















叫び声をあげながら瞼を開く。
私は死んだ? いや、生きているのか?
小刻みに震える身体と激しい呼吸音を認識する。明確に感じとれる衣服の感触、自分の身体はここにある。視界はぼやけているが、少なくとも心臓の鼓動と共に私は生きているということを知覚し、安堵した。
何だ、ただの夢じゃないか、いつも通りの悪い夢だ。今の私は戦闘機のパイロットではなく、ウィッチなのだ。
乾いた笑い声を漏らす。私はまだ死んでいない。

『何をしている、離脱したはずだろう!』

だが、また突然に聞こえた声によって、私はもう一度悪夢に引きずり込まれる。
横隔膜が痙攣して息をのみ込んだ。この声も聞いたことがあった、死の間際、最後に聞いたウィッチの声だった。
しだいに目のピントが合って、視界が鮮明になってくる。目の前にあるのは、殴りつけられひしゃげた計器と固く操縦桿を握り締める私の両手。
そんな、悪い夢はもう終わったのではなかったのか。
焦燥に駆られながら操縦桿から手を離そうとするが、まるで溶接され磔にされたかのように微動だにしない。呼吸が荒くなる。風防越しの正面には、巨大な壁が立ちはだかる。
あの化け物、ディオミディアだ。まだ私を苦しめようというのか、一体何度この醜悪な機械に殺されなければならない。
ひとりでに、私の機体は針路をディオミディアへと向けた。
これから何が起こるか、もうわかってしまった。

『死ぬ……? エールラー中尉、まさか!』

苦しげなウィッチの声。
そうだ、私は彼女に死ぬ前に一仕事させてほしいと言ったんだ。
でも違う。

「違う……死にたくない」

さきと同じ呟きが漏れる。

「いやだ……私は、私は……もう」

自分の意志とは関係無しに、機体はその身を限界まで加速させる。逃がしはしないと私に言葉無く伝えているようだ、最早回避行動も間に合わない。
死ぬのだ、私は。
絶望が心を染める、もう助からない、だけど、それでもせめて救いの手を。
すがるように頭上に拡がる空を見た。最期のあの時、天使のように見えた一人のウィッチに目を向ける。
ああ、でもダメだ。
そこには誰もいなかった、狭すぎる風防に切り取られた空だけだ見えるだけ。夢の中ですら、私には救いなど無いとでもいうように。
手を伸ばすこともできない、誰に看取られることもなく、何もできず、全てが終わった。


























「エールラー、顔色が悪い」

泥のような思考の海から、私を掬いあげるフレデリカの声。
地面を這わせていた視線を持ち上げ遥か先まで続く滑走路を見渡し、アイドリング状態のストライカーが発する振動を感じ取る。燃料補給、整備、各種準備も全て完了している、今まさに離陸前なのだという状況であった。
そんな中で突然に体調不良の兆しありと告げられ、短く言葉を吟味して答える。

「気のせいだろう、私はいつも通りだ」

動きに乏しい瞳が私を真っ直ぐに見つめてきた。
苦笑して返事をすると、フレデリカはじっと私の顔を観察して、そう、とだけ言って正面を向く。見た目でわかる変化があれば、さらに何か言ってきたのだろうか。顔色だけで心の内を察してしまえそうな雰囲気が彼女にはある、今はそれが少し怖い。
納得がいかないのだろう、いまだにチラチラとこちらをうかがっている。私は、つとめて笑みを返した。

「無理しちゃだめだよ姉さん、いっつも私にそう言ってくれてるんだから」
「具合がよくないならすぐ言わないと、心配こそすれ誰も文句なんか言いませんよ?」

会話とも言えない、ごく短いやりとりだったが、後ろにいたテオとライネルトにはしっかりと聞こえていたらしい。
二人から贈られた気づかいの言葉は嬉しい、それでも私は手を振って問題ないと返す。
嘘は言っていないのだ。別に風邪をひいた訳でもないし身体はいたって健康、今すぐ検査を受けても満点で通れる自信がある。
健康だとも、そう、身体は。いや、そんなこと、今はどうでもいい。もうすぐ飛び立つのだ、忘れてしまおう。
余計なことを頭から押しのけるために、滑走路の進路上に意識を集中させる。
どこか、心が濁るのを感じた。

やがて、管制官から離陸の許可が下りた。
ストライカーのエンジン音と、無線の感度に最終チェックをかけ、ベーア隊長の訓示に耳を傾ける。

「準備はできたな? スオムスからリバウまで、いつも通りの帰り道だ。積み荷も降ろしたんだし一安心って気持ちもわかるが気を抜くな、空飛ぶガラクタ共はいつ、どこで、どのくらい湧いて出てくるかもわからん。油断大敵」
「ヤー……ホント、似合わないわよねぇ」
「けっ、うるせえや」

ベーア隊長とフライターク中尉のやり取りに、全員、笑い声を交えながら返事する。
離陸直前はいつもこう、軽口を言い合う二人の声を聞きながら空を飛ぶ体勢に移るのがこの中隊のやり方だった。
上官達が飛び立つと、その後ろからは我々部下がひな鳥のように続く。しつこく進路の安全を確認し、私もようやっと滑走を開始した。冷気に屈することなく力強く加速していくストライカーユニットはすぐに我々を大空へと招き入れた。
出力は上げたままにしておき、すぐさま角度をつけて上昇にうつる。吹雪が近いらしく今日の空は少し風が強い、当然のことながら遮蔽物が存在しないため、それなりの横風に煽られることとなる。意識して重心を調節することで身体を制御、あまりふらついて僚機と後続の邪魔になってしまうのはごめんだ。
経験豊富な三人は慣れたもので、危なげなく上昇を終え、早々に水平飛行へと体勢を変えた。
私も強風の元で離着陸を行った経験は無い訳でもない。戦闘機は出来得る限りコンパクトに設計されているとはいえ言うまでもなく車などよりも図体がでかい、風の影響を受けるには十分すぎる。それに比べれば、少女一人分の空間しか占有しないウィッチの離陸はまだ楽な方だ。着陸の場合でも、失敗したところで上手く調節できれば何かに衝突しても目を回すだけですむ、失敗に上手く調節と言うのもおかしな話だが。
さて、私の後ろでは最後に離陸した二人が続いていた。新米だ何だと言われながらも、体勢を崩すことなく昇ってくる彼女らの姿に小さく安堵する。テオは緊張がほぐれてくれば案外器用だし、ライネルトは大抵のことならそつなくこなして見せる。今までの素行と雰囲気では想像しにくいものだが、彼女らも段々と戦えるようになってきているのだろう。


しばらく飛行を続けると、先行していた輸送機が見えてきた。
ベーア隊長がハンドサインと通信で命令を飛ばし、読みとった隊員が各々の編隊で輸送機に並ぶ。ロッテが三つ、私は中隊の四番機として三番機のフレデリカと組んだ。
今回の飛行は輸送を終え、スオムスからの復路である。荷を置いても鈍速なJu52に合わせると自然と巡航速度はゆっくりとしたものになる、リバウまでは少々時間がかかりそうだった。正直、今日ばかりは早く帰って寝てしまいたい。あまり長いと考えることも増えてくる、よくないことまで思い出してしまいそうだ。
現在の私のロッテではフレデリカが前で、私が斜め後方を担当していた。上官二人は前方、新米二人とは距離がある。誰も私の姿を見ている者はいない。
ふと、離陸直後から気になっていたことがあって、それを確かめたくなった。
一度誰の目も私に向いていないことを確認、利き手をMG34から離して、顔の前まで持ってくる。
そして、暗い感情のこもった溜め息が漏れ出した。手が弱々しく、小刻みに震えているのだ。忌々しいとすら思う症状に、自分の手を睨みつけ力ずくで打ち消すよう、思い切り銃身を握り締めた。
最近になって、あの坂本達、扶桑海軍との模擬戦を終えた日からだ、私はたびたび悪夢にうなされることがあった。
死に際の記憶をそのまま思いだすよりも、さらに悪辣だと感じる酷い夢。涙を流しながら死にたくない、ともがき、最期は結局運命を変えられずに破局を迎える。
手が震えるようになったのは、それを初めて見た時からであった。まったくもって、不愉快極まりない。
無意識のうちに銃身を握る手に力が入った。



と、胸の中で鬱々とした感情が醸成され始めた時だ。
そんな気分を吹き飛ばす声が聞こえた。

「ねえエールラー、聞いてるの?」

フライターク中尉だ。
胃の中が撹拌されるような不快感はそのままだったが、自然と意識はそちらに向く。私はすぐに答えようとして、言に詰まってしまう。フライターク中尉の言葉を理解して、答えようとしたのだが、自分が何も聞いていなかったことをいやがおうにも自覚させられた。

「申し訳ありません副隊長、何のことでしょうか?」
「あらら、ホントに聞いてなかったんだ。ちょっと以外かも、あんまりぼーっとしてないでね?」

顔が火照るのがわかる。
何ともまあ、迂闊にも程度があるだろう。任務中に余計なことを考え、集中力を散漫にしたあげく、上官にそのことを気どられたのだ。入隊したての当時ですらやらかさないような失敗だった。フライターク中尉が対して怒りを抱いていないというのが救いか。本気で起こっているなら、普段ベーア隊長と怒鳴り声の応酬をしているように、痛くなる程の大音量を耳に叩きつけられていただろう。
通信機から聞こえるのはフライターク中尉の言葉に皆が同意する声だ。部隊の初出撃の時もそうだったが、巡航中の雑談に興じていたのだろう。この部隊はなかなかに縛りがゆるい、ウィッチの部隊は基本的に十代の少女で構成されるのだから、そう珍しいことでもないのだが。
とは言え、今までの会話の中身がわからなければ、輪に加わることができない。よく内容が理解できずにいると、ライネルトから助け船が出された。

「テオちゃんのストライカーについて話していたんですよ、ほら、少しだけ特殊じゃないですか」

せっかく差しのべられた手だ、ここは素直に受け入れるのが正解である。
なるほどと頷き、少し姿勢を調節しながらテオの方へ目を向けた。今まで一緒に飛んでいたのだから、気付いていないということはないが、テオのストライカーはBf-109とは違う形状をしている。
初めて見たときの印象は、重そうな機体、というものであった。スマートな胴体部分はBf-109と似通った設計思想を感じさせるが、主翼には補助翼もついていて全体的に一回り以上大きく見える。人間が直接装着するのが大前提にあるストライカーの中では、大型の部類に入る機体だ。名を、Bf-110という。

「私のBf-110って、変ですか……?」

自分の機体に、特殊と言う評価をつけられたテオはおそるおそるという風に聞く。
隊員達の返事は無言か、うーんと唸るかのどちらか。不安げな質問に呼応しているかのような反応である。

「いい機体だけどさ、私らの仕事にゃ合わないんじゃないか? Bf-109に比べると重いし小回り利かないしってな。少なくとも私はやめとく、向いてないよ」
「後ろに回り込まれるとまず振り切れない、私も遠慮する」

初めに反応したのは東部戦線で実際の挙動を見ているであろうベーア隊長とフレデリカ。二人の評価ともBf-110に対して辛口であった。
性能自体は高い水準にあると言っていいのだが、およそ格闘戦を行うには向かない機体であった。Bf-110という機体は制空用ストライカー特有の軽快さと、およそ対極の位置にいると言ってもいい性能なのである。
もとの開発計画からして航続距離を重視しているため、燃料の積載重量と機体の大きさの関係で挙動が重たい。エンジンを全開にしてもすぐには加速を得られず、旋回性能もあまり良いとは言えないだろう。
その代りにBf-109よりも積載と航続距離に優れ、圧倒的な火力を敵に叩きつけることができるのが利点だ。
それを活かすために、昼間の制空戦闘への投入に見切りをつけ、現在は地上攻撃や夜間戦闘で重宝されているはずである。
ようするに、悪くはないが用途が違うのだ。
では、テオは何故そのような畑の違う機体を使っているのだろうか。本人に聞いたことは無かったため、気になるところではある。私は口を開かずに聞き耳を立てることにした。

「大体その機体、もともとお前が履く予定じゃなかったんだろ? 何で今も履いてんのさ?」
「本当はBf-109の予定だったんですけど、私の機体は輸送中に不具合が見つかっちゃったらしくて。取り寄せようとしても他の機体も数が足りないって……」
「そしたら制空で不評だったBf-110の余り物か、酷い事するもんだな」

ベーア隊長は納得いかなさそうに唸る。私としても同じことを考えていた。
祖国カールスラントの戦力、物資不足も深刻な段階にあると見える。ストライカーユニットが高価なものであるが、ウィッチはそれに命を預けているのだ。何とか一人分を捻出してくれてもいいのではないか。
どうしようもないことであるのは理解できる、それでも何とかしてほしかったと思ってしまうのは、悪いことだろうか。
やりきれない感情を抱いていると、今度はフライターク中尉がベーア隊長の会話を引き継いだ。

「でも取り寄せの申請はしてるわよね、司令に頼んでみたら? 用意でき次第送ってもらえるかもよ」
「申請、ですか? 出してませんけど」
「出してない?」
「はい、最初はちょっと嫌だなって思ってたんですけど、使ってるうちに手放せなくなっちゃって」

申請自体していないだと。
あっけらかんと言うテオにフライターク中尉がオウム返しをして、いろいろと思うところがあったはずの私は、何だそれはと固まった。
テオはエヘヘと笑う。

「待って、どうして? わざわざ取り回しが難しい機体を使わなくてもいいじゃない」
「難しいですけど、すっごく速いんです! 初めてエンジン全開で飛んだ時は惚れ惚れしちゃって……」

早口の返答だ。興奮した様子の幼馴染に対して、私は薄ら寒いものを感じた。

「最初の加速はゆっくりで、ああこの子は私に向いてないのかなって思ったら、それはお寝坊さんなだけだったんです。どこまで加速してもぐんぐん伸びるしエンジンも余裕があって、長い距離を速い速度で飛んでいられるのが幸せで幸せで……風の音を聞きながら雲を突き抜けていく感触なんてもう」

ああ、Bf-110の利点に航続速度があったか。今の会話で思い出した。
しかし、誰もそこまで聞いてはいないのに矢継ぎ早に言葉を飛ばしてくる。何人も目に写らず、恍惚とした雰囲気は恋する乙女のそれに似ているようにも思えた。しかし、歌いあげるような口上にはほとんどが口を閉ざしてしまう。
その中でライネルトだけが小さな声で呟く。

「こんな雰囲気の子でしたっけ?」
「……さあ、私も知らんよ」

何か私に向けられた言葉のような気がして、反射的に答えを返した。
妹のように思っていた幼馴染だったのだが今だけは大きな隔たりを感じる。新たな一面を見いだせたと言えば聞こえはいいが、こんな一面なら別に発見できなくてもよかったように思える。
幼馴染がいつの間にやら速さにとり憑かれていたとは考えもしなかった。。
離陸前よりも何となく距離をおかれていることも気にせず、テオはまだ興奮したままであった。本当に楽しそうに語りを締める。

「だからみんなで機種転換するべきなんですよ! Bf-110に! 何て素晴らしい!」
「……いや、いいってば、というかお前が機種転換しろよ、今のお前にゃ扱いきれないだろ」
「そればっかりは私もベーアと同じ意見だわ、危ない目に会う前に換えておきなさい」
「へ? ……そんなぁ、い、いやです! だってこんなに速いんですよ! それなのに使ってあげないなんて、可哀そうだよねティニちゃん! フレデリカさんも!」
「あれま、そこで私とフリッカちゃんに振りますか。いえ、こんな風に頼られるのも嬉しいんですけどね、速いだけじゃ面白みに欠けるので私はパスと言うことで」
「……うるさい、静かにして」
「そんなヒドイ!」

たちまちに、寒空の中で騒々しいやり取りを始める仲間達。
せっかくライネルトが気を利かせてくれたのに、結局輪の中に入りそびれてしまった。
私はほんの少しの溜め息を吐き、風に流した。

「戻ったらBf-109の取りよせ申請な、絶対だぞ。これ隊長命令だから」
「いやあ! 絶対いやぁ! そんなの横暴! 横暴ですぅ」
「泣くなやかましい! 何でこんなに頑固なんだよ!?」

だが、聞いているだけでも十分に楽しいものだ。
邪魔ものなど、どこにもいないと言うように、思うがままに飛んでいる彼女達を見ているのも悪くない。
口元が緩むのがわかる。
いい空だ。


そんなもの、いつまでも続かないことは、わかっていたけれど。
















「9時方向、所属不明機を発見」

スオムスからの復路も半分を過ぎ終盤に差し掛かろうというところで、先頭を飛ぶベーア隊長が緊張を生む報告を発した。
全員に聞こえるように言ったが、その意図の半分は私へのメッセージだろう。気持ちの悪い自惚れと思われるかもしれないが、私の固有魔法が理由である。中隊の目と自称するには力不足であると思えども、発見直後にはそれなりの効果を発揮できていた。

「敵機です。ラロス級、数8。距離16000、高度5000を針路2-6-5から1-2-0へ、160ノット」

とは言え、各国が連携を取り合っている中で所属不明などと、正体など最初から割れているようなものであろう。敵機の表示が見えても、やはりと思うことができたし、報告を行っても隊員には動揺が広がった気配はない。

「扶桑海軍の警戒線ギリギリじゃない、こんな近場にまで出てくるなんて」

故に、フライターク中尉の言葉に驚きの成分が混じったのは、ラロスが出現したことが直接の原因ではないのだ。彼女が怪訝に思ったのは奴らが現れた地点だった。
一大戦力としてリバウ軍港に居を構えた扶桑海軍は、来たるべきネウロイの侵攻に備えて厚い警戒網を敷いている。敵機が頭上を飛び始めてから迎撃を行ったのではまったく間に合わない、監視が強化された警戒線にネウロイが侵入すれば、即座に発見の報せが届き、扶桑海軍のウィッチにスクランブルがかかるという仕組みだ。
我々が発見した敵機はそのギリギリのライン、あと一歩踏み込めば大規模な空戦になりかねない位置を飛んでいる。

「叩き落とされても余裕があるのか、化け物にも命知らずがいるのか、それともただ気にしてないのか」

ベーア隊長が可能性をあげつらっていく。どれが正解なのか、私には知るよしもない。わざわざ危険地帯に片足を突っ込みながら飛ぶことに何の意味があるのかなど、学者連中も理解できないネウロイの思考を読みとることなど無理というものであろう。
一つだけ言えるのは、奴らは確実にリバウへと近づいている。あの平和な港町が戦火にさらされるのも、そう遠い未来ではないということだ。

「ま、どれでもいいこったな。今は余計なこと考えてる場合じゃねえや」

せん無きこと。ベーア隊長も早々に思考回路を切り替えたのだろう。我々の任務は輸送機をリバウまで安全に送り届けること、明日よりも先の話に悩むのはそれこそ後ででいい。
矢継ぎ早に繰り出される命令に耳を傾ける。

「ライネルトとヴァイセンベルガーをバックアップで残す、それ以外で四機編隊シュバルムを組んで迎撃。警戒線間際を飛ばれるのは正直癪にさわるが、逆を返せば味方の目が届く範囲にいるってことだ。ここをしのぐだけで輸送機の安全が確保できる。その上で、保険として扶桑海軍に直掩機を要請する。質問は?」

私は特に疑問を感じることはなかった。初陣で食らった新手による奇襲も、味方の勢力圏近くなら起こり得ない話だ。
他からも特に声は上がらない。
ベーア隊長の歯切れよい指示が飛んだ。

「よし、なければ行動を開始する。とっとと帰って飯だ! 行くぞ!」

言葉と共にスロットルを開いたベーア隊長が急速な上昇を開始。甲高い機械音を響かせて私を含めた三人が続いていく。
本来の進行方向から、やや左後方を目指して高度をあげる。増速し段々と離れていく輸送機を俯瞰し、迫ってくる敵機の針路に上からかぶさることのできる位置取りだ。敵機が自分達に気付かないほどの間抜けであれば万々歳、そうでなくとも敵機が輸送機に向うのを簡単に妨害できる。単純計算で一人2機の割り当てだが、僚機の実戦経験の度合いを考えると楽観視してもよいくらいの戦力比に思えた。
だが、銃を握り直すと、どうしても消えないそれが襲ってくる。身体の内側から皮膚を食い破るように湧き出てくる酷い悪寒だ。全身を掻きむしりたくなるような感覚に軽い吐き気をもよおすと、もう嫌だという感情よりも、苛立ちすら感じてきた。
あの悪夢のせいか?
そんなくだらないことを考えた途端に悪寒が増す。危うく舌打ちをかましそうになった。夢見の一つや二つで心を折るほど、私はそこまで弱くないというのに。
当てもなく八つ当たり気味に、自分が身を隠していた雲を睨みつけているうちに、ついに敵機が真下にさしかかった。機影が小さいウィッチはやはり捕捉しにくいのか、上空で息をひそめる我々に気がついた素振りはない。
機首を輸送機へ向け、獲物を狩る肉食獣のつもりでいるのだろう。獲物は、お前達の方だ。
今か今かと待ち焦がれ、八機のラロスが我々の下をくぐりぬけようというところで、ついに戦闘の幕が開ける。

「一撃離脱だ、攻撃開始!」
「ヤー、幸運を!」

雲間を矢のように飛び抜け、ベーア隊長とフライターク中尉が太陽を背にして真上から躍りかかった。
ほぼ直上から放たれた弾丸がラロスに突き刺さる。射撃を受けた2機のうち片方が尾翼を吹き飛ばされ、もう片方が主翼を損傷して脱落。高高度からの逆落としにより目一杯の加速を得て、スコアを増やした二人が上昇に移る。
僚機を落とされた残りのラロス六機は泡を食って編隊を乱し始める。しかし、その程度で済んだことを褒めるべきか、混乱が見受けられながらも奴らは二人を追うために速度をあげた。
が、そう思い通りにはさせない。
次は後続を任された私の番だ。フレデリカと組み、編隊が崩れた状態からの急な増速で、足並みの揃わないラロス編隊を狙う。先行したベーア隊長、フライターク中尉と同じように死角となる雲を隠れ蓑にしながらの一撃離脱だ。急降下から、薄雲を突き破りながらはぐれた一機を標的として、照準器を覗いた。
そして、まただ、と思った。
またもや手の震えが始まったのだ。どうしようもなくイラついたが、つとめて冷静に、と意識して照準器を覗きなおした。狙って当てるのが難しいなら、狙わなくとも当たる位置で撃てばいい。そんな幼年学校を修了していない子供でもわかる、空戦の必勝法を実践してやろうではないか。
身体を小さく捻り、せまるラロスに向けて進路を修正する。最高のタイミングはほんのわずかな時間だ。すれ違う寸前ギリギリで引き金を引いて、すぐさま離脱へ移行。
私の視界からラロスが完全に流れ去る直前、エンジン部から鮮やかな火炎が噴き出されたのが、一瞬だけ確認できた。
撃墜数に一個加点だ。
背後を振り返って戦果を確認したい欲求を抑えて、さらに加速する。上昇の為に余分に速度を稼いでおかなくてはいけない。
手ごたえとしては十分である。何だ大丈夫じゃないかと、私は内心安堵していた。妙な感覚が付きまとうのもただの気の迷いだと頭から一蹴する。まだ戦争は始まったばかり、本番はこれからなのだ、この程度では東部戦線でやっていけない。
降下加速の状態から同じタイミングで仕掛けたフレデリカに目配せすると彼女はハンドサインで上昇の指示を飛ばしてきた。加速も高度も十分である、頷いて針路を上方に取る。ここまでは何の問題も無く状況は推移している。
その時、フレデリカからの通信が私に届けられた。

「後方、敵機の立ち直りが早い」

余計な情報の一切を排した短い注意に背後をチラリとうかがう。
フレデリカも一撃離脱に成功していたのだろう、敵機の数は当初の半分に減っていた。しかし、残された四機が上方への進路を阻もうと、しぶとく向ってくるのが見える。
鈍重と侮られた旧式のラロスにしてはなかなかやるものだ、ただの偶然かもしれないが、素直に感心してしまった。
まだ距離には余裕がある。少し予想外ではあったが、彼我の速度差は食いつかれるようなものではない。私はこのままエンジンを吹かせば振り切れると判断した。
と、ここで彼方に光る物を捉えた。ラロスのうち一機が発砲したのだ。
フラフラと照準もつけていないだろうでたらめな射撃だが、一発が甲高い飛翔音をともなって身体をかすめるように通り過ぎた。とんでもないラッキーショットだ、とっさにシールドを展開、二、三発の弾丸が光る紋様に衝突し弾ける。
遅れて、今の危険を認識した身体が、勝手に冷や汗を流し始める。空戦では何が起こるかわからない、やはり油断は禁物であった。ほんの少し、瞬きよりも短い時間も遅れていれば、ここで私は戦死を遂げていたかもしれないのだ。
思わず、目線だけでなく体を回転させて振り返った。自分に鉛玉をぶつけてきた相手の居場所を確認しよう程度の認識だ。次の危険が及ばないための予防策、ラロスのスマートとは言えない寸胴な機体に目を向けて。
その瞬間、あやつり人形の糸を切ったように、全身から力が抜けていった。

「は……? 何だ、これは」

事態にそぐわない間抜けな声が漏れる。
何が起きたか理解できなかった。何だこれは、と上昇中の自分の身体を確かめると、手だけではなく全身が震えている。力が抜けただけではなく制御を受け付けなくなったのだ、戦闘開始前の私の腕のように。
ストライカーに注がれる魔力の制御もおぼつかない。何故という言葉が頭に反響し、私は突然に、混乱の極致に立たされた。
空を飛ぶ原動力は魔力と燃料だ。片方の要素が抜け落ち、エンジンは出力を保持することができず、風を切り裂いていたような速力が目に見えて落ちていく。そばを飛んでいたフレデリカが、無表情を崩して目をむき、視界の外に消えた。
体勢を維持するだけで精一杯だ。水分が吹き飛び、かすれた喉から誰に向けた訳でもない疑問が飛び出す。

「く、どうしてっ?」

このままだと危険だと念じても、身体は一向に言うことを聞こうとしない。せめて目だけを動かして周囲を見回し、状況を確認する。
見えた。
私を追いかける四機のラロス、彼らの機銃が私に銃口を向けているのを感じる。
死の予兆そのものが迫っていた。

「うぁ……あ、あ」

誰にも届かぬような、かすれた声が出てくる。
違う、ありえない、そんなはずはないのに。
だが他ならぬ自分自身に嫌でも理解させられてしまった、この身体の震えは恐怖から来ているのだ。
何故、何故、私は弱くないはずなのに。どうもできない自問自答が繰り返される。

「いやだ……来るな、来るなぁっ」

かつての死の間際が、眠りの中で私を責める悪夢と共に思い出される。金属の壁に叩きつけられる衝撃、諦観、恐怖、それらが記憶の中から溢れだしてくる。十二年という新たな思い出は、深く残った傷跡を埋めることはできなかったのである。
古傷はもう開いてしまった。
私へと一直線に迫ってくるラロスの向こうに、自分を殺した化け物の姿を幻視した。歯がカチカチと打ち鳴らされる。どうしようもない恐怖と悪寒に包まれ、簡単に思考を放棄する。
嫌だ、と頭を何度も振り、訴える。

「死にたくない……まだ、死にたく、ないんだ……」

固有魔法は残酷に、ラロスの機銃が私を捉えたことを教えてくる。
銃口が弾丸を吐き出し、ついに私の視界は暗転した。






















また夢を見ている。いつも自分の死で終わる最悪の悪夢だ。十二年間、最期の瞬間を記憶の隅に置き去りにしてしまいそうになると、決まって眠りの世界に現れるのだ。
心を抉るそれを何度も忘れようと思ったが、同じくらい忘れたくない、否、忘れるわけにはいかないと考える自分がいた。
捨て去るには、あまりにも重すぎた。
今を生きる人間にとって異物のような自分が、『ハインリーケ・エールラー』であると確信できる唯一の目印。
だが、最早、劇薬として私を私たらしめていたかつての記憶は、恐怖と言う猛毒となって心の内にしみ込んでいった。
もうそろそろ目を覚ます時間だろう、また、私の死で夢が終わる。




















乾いた眼球は痛みを発したが、無視して重たい瞼を開いた。
正面、一番初めに見えたのは天井だった。普段は何とも思わない電灯の光を眩しいと感じ、顔をしかめる。次に知覚したのは、強い消毒液の匂いとシーツの感触、私は仰向けの姿勢でベッドに横になっているのだ。
身体が火照った感じがする、頭がぼんやりとして働かない。
積極的に動く気になれず、目に見える範囲を眺めていると声が聞こえた。

「エールラーが目を覚ました」

事務的な報告を行うような口調は、思考のめぐりが悪くともフレデリカだとすぐにわかった。
言い終わるかどうかと言ううちに、イスから立ち上がる音が連続し、室内がにわかに騒がしくなる。やがて、いくつかの気配が枕元に近づいてきた。

「姉さん、リーケ姉さん……!」
「ああ、もう! 心配しましたよエールラー少尉!」

天井を中心に据えた視界の中に、左右から現れた顔はテオとライネルトのものだった。テオの目には涙が溜まり、ライネルトは普段の調子のよさげな笑みを崩して迫ってくる。
二人の反応に少し驚きつつも、一応自分は無事だったのだと認識して、ゆっくり体をおこしてみた。軽いめまいに襲われ、枕に倒れ込みそうになりつつも何とか上半身を保持する。
天井と二人分の顔しか映っていなかった視界が前方180度にひらける。あらためて身の回りに何があるのかを確かめ、ようやくテオの一歩分後ろに立っていたフライターク中尉とフレデリカに気がついた。

「大事なくて本当によかったわ、頭から落ちてった時は生きた心地がしなかったもの」
「銃弾が頭部を掠めたことによる脳しんとう、一日安静にしていれば復帰できるらしい、安心して」

テオの両肩に手を置いてフライターク中尉が微笑む。フレデリカの雰囲気も心なしか柔らかい。
この辺りでやっと、ぼんやりとした思考がハッキリしてくる。
撃墜されておきながら、運よく軽傷で済んだのか。両手足を細かく動かして欠損している部位がないかを確認し、異常のないことを理解して大きな安堵感に包まれた。
私が安心したように小さく息をついたのを見たのか、ライネルトが嬉しそうに言う。

「私はベーア隊長を呼んできますね。今頃ハンドリック司令にも報告が終わったところでしょうし、早く安心させてあげましょ」

軽口を叩くようなこともせず、うきうきと。小走りで跳ねるように退室していったライネルトの背中を見送る。
慌ただしい彼女が出ていった後は、静かな空気が室内に拡がった。誰も口を開こうとしないが、剣呑な雰囲気ではなかった。
私の言葉を待っているのだろうか。だとすれば何を言ったものか迷う、ストーブで燃料が燃える音を聞きながら少し考えた。

「気を失った後は、どうなったのでしょうか」

あまり難しいことを考えたくはなかったが、これが一番気になっていたことだ。ラロスの銃口から弾丸が飛び出して、その後は何も覚えていない。戦闘中だったのだ、私はあの空戦がどんな結末を迎えたのか聞かなくてはならない。
疑問を解消してくれようとしたのは、やはり戦闘に参加していたフライターク中尉とフレデリカであった。

「私が落下するあなたを捕まえて、シールドを張って突っ込んできたベーアがガード」
「輸送機も無事、敵機は私が撃墜した」
「うん、ロージヒカイトにラロスを任せて、その後は荷重に強いBf-110を履いてるヴァイセンベルガーがあなたを抱いてリバウへ急行した。この子ったら、残りの道程を全力で飛ばしてきたのよ。しばらく機種転換しろなんて強く言えないわね」

やさしくテオの背中を撫でるフライターク中尉。
きっとギリギリまで魔力を出しつくしたのだろう。私なんかの為に、テオがどれだけ頑張ってくれたのか想像に難くない。
テオは涙目のまま笑う。

「よかった、姉さんを助けてあげられて」
「ああ、ありがとうテオ」

噛みしめるように、よかったと。
心の底から私を心配してくれているのがわかる。だからだろう、ほとんど意識せずに手を伸ばしていた。そっと頭を撫でる。軍学校に入ってからはずっとやっていなかったことだ。
テオは目を細めると小さく笑みをこぼした。つられるように私も安心感を覚える。
すると、出入り口の外から足音が聞こえる、急いでいるようで少し速い。誰か、大体の見当はつくが。
勢いよく扉が開け放たれて、パッと明るいライネルトの笑顔が現れた。

「ただいま戻りました! ベーア隊長をお連れしましたよ!」

どうやらライネルトは自らに課した任務を無事に達成できたようだ。
開いた扉の向こう側からベーア隊長が顔を覗かせる。ライネルトが閉まる扉を抑えるのに続いて入室し、私に目をとめた。

「よう、目ぇ覚ましたんだな」

安堵かどうか、小さく息を吐いて確認するように言った。私の顔を見ながら、表情はすぐに喜色に染まっていく。

「心配かけさせんじゃねえよこの馬鹿! あんなところで落とされやがって、本気で死んだかと思ったぞ!」
「それは……申し訳ありませんでした」

口を開くなり快活でありながら無茶苦茶ことを言いなさる、返事には苦笑が混じった。
ベーア隊長はベッド脇に立つと、大声で笑いかけながら背中を叩いてくる。苦笑も三割増しだ。背中に喰らった衝撃にしびれを伴う感覚を覚えながらも、嫌な気持ちはしなかった。これもベーア隊長なりの気づかいと言うものだ、パイロット時代にもそんな人物はそれなりに多かったし、私自身も嫌いではない。

「はーいストップ! アンタこの子が怪我人だって忘れてるでしょ!」

結局、されるがままになる私を見かねたフライターク中尉が止めに入るまで、ベーア隊長の絡みは終わらなかった。スキンシップを妨害されたベーア隊長の文句に、小言をかぶせながらフライターク中尉が割り込んでくる。緊張感を感じさせないやり取りにまたもや苦笑いだ。
そして入れ替わりに私の前に出てきたのはフレデリカであった。口数少ない彼女にも、私に言いたいことがあるのだろう、そう思って、投げかけられる言葉を待つ。
ところが、少し見ていると、彼女の表情があまり優れているとは言えないことがわかってくる。持ち前の変化に乏しい表情を維持しつつも、私と目を合わせようとしないのだ。何かに悩んでいるようにも見えた、初めて見る反応である。
やがて、フレデリカは一しきり考え事をしていたと思うと、エールラーと名を呼ぶ。会話の前振りか、私の勘がチクリと、よくないものを感じとった。

「貴女は撃たれる前、上昇機動の最中に失速していた、何故?」

疑念と心配が入り混じった表情とでも言うのだろうか、ミリ単位で眉ひそめたフレデリカの顔を見て私は、ああやはり、と思う。
僚機が飛行中、それも戦闘の最中にストライカーの制御を失ったとあれば、原因を気にするに決まっている。聞かれて当然のことだ、この問いが来るであろうことも予測がついていた。だが、私はどう返すべきか、まだ答えを見いだせてはいなかったのである。
本当のことを伝えるべきか。
まさか。ほんの少しよぎった考えを一笑にふす。
敵に恐怖したことが理由だと、一度殺されたことがあるからだとでも言えばいいのか。そんなことを伝えて、何になるというのだ。

「すまない……混乱していたのか、私もあまりよく覚えてはいないんだ」

だから何も言わないと決めた。彼女らを私の過去に付き合わせる気はない、悲しみを共有させたところで、そんなこと、きっと誰の為にもなりはしないのだから。

「操作を誤ったんだろう、情けない話だ、まったく」

考えずとも、口から自然と飛び出た虚言をつなぎ合わせる。

「それは、本当? 出撃前にもいつも通りだと言っていたけれど、ここには軍医もいる。遠慮する必要はどこにもない」
「いや、心配をかけてすまない。でも体には違和感も感じない、私は大丈夫だよ」

私などを心配してくれるフレデリカと向き合うのが、辛い。そうだとしても、胸に小さな痛みを感じながらも、感情を抑えつければ舌はよどみなく回り続ける。

「それにしても、流石だな。僚機が脱落しても敵機を落と……。っ!?」

だが、下らないワンマントークは唐突に終わりを迎える。無意識に相手を持ち上げてやり過ごそうとして吐きだした言葉が半ばで途切れた。
首が締まる、息が苦しい。
何故だろうかと、呑気に自分の置かれた状況を確認して、襟元を握られて身体を引き起こされているのだと気がつくのに、たっぷり数秒を要する。真正面、相手の瞳に映る自分が見えるような距離、犬歯をむき出しにしたベーア隊長の顔があった。
疑問が一つ解消されて、またもう一つ湧きあがってくる。
どうして隊長が、私にこのようなことを?

「お前、私らを舐めてんのか……?」

ベーア隊長は唸るような声で、吐き捨てるように言う。

「大丈夫……大丈夫だと? 横から聞いてりゃグダグダと! 見え透いた出まかせぬかしてんじゃねえぞ!? ああ!?」

次いで鼓膜の奥に突き刺さる声量が脳を揺らした。ベーア隊長の手に籠る力が増して、無理矢理に私を持ち上げようとしている。抵抗しようにも不思議と身体に力が入らない。
されるがままとなっていた私に降り注ぐ言葉は、今、最も聞きたくない内容だった。

「見くびるんじゃねえ、初陣で二機もラロスを撃墜したウィッチが落とされてんだぞ、今のお前が普通じゃないことぐらいハッキリわかってんだ」

釣り上がった目が私を射抜く。
私が垂れ流した虚言は、最初から通じていなかったのだ。情けない、嘘をついたところで隠し通すことすらできなかったのである。思考の自由を奪う、黒い泥が心の中に湧きあがる。
私はとっさにベーア隊長の言に否を返した。

「やめてください……私はどこもおかしくない」

呼吸が上手くいかず声がかすれる。満足な答えを出せないのは、きっとそれだけが原因ではない。
ベーア隊長の瞳から感じられる炎がさらに熱を帯びる。

「だったらどうして落とされた。油断か、それとも最初からやる気がなかったか、何なんだ、言ってみろよ」
「やめなさいベーア! ダメよ、落ち着きなさい」

叫びたかった、もうやめてくれと。
だが声は出ない、自分にも相手にも、納得のいく答えを返す自信が少しも無かった。
割り込もうとしたフライターク中尉の声がとても遠く聞こえる。

「飛びたくもないのに飛ばないといけない奴はそうかもしれない、でもお前は違うだろうが! お前は躊躇った私に『我々はウィッチです』と言った! それだけの啖呵切って! 何でこんなことになってんだよ!」

もう限界だ。
屈折した心のうちが身勝手にも反転し、怒りへと全てが変わる。何も考えずに動いた腕が、襟元をつかむ手を本気で締めあげ始めた。それでも、ベーア隊長の表情は変わらない、私に対して烈火の怒りをぶつけてくる。
いい加減にしろ、何も、知らない癖に……!
私は今どんな顔をしているのだろうか、知りたくない、何も考えたくない。
が、もうどうでもいい、と感情の壁が決壊しそうになった時、暗い衝動を押しとどめたのは、腹部に感じた小さな衝撃だった。
何かが自分にぶつかってきたのだとすぐに判断し、振り払おうとする。しかし、私の眼は、その前にぶつかってきたものが何であるかを理解してしまう。

「やめて……ベーア隊長……姉さんも、お願い、だから……」

泣きながら、涙をのみ込みながら、消え入りそうな声で私とベーア隊長を止めようとする。テオが私に抱きついていたのだ、まるで私を庇うように。
手から力が抜けた。ベーア隊長の腕を握り、対峙したまま動けなくなる。
ベーア隊長の顔からは怒りが消え、何も感じられない仮面のような表情に変わった。襟元を締めていた手の力を緩め、支えを失った私はベッドにへたり込む。
そのまま、ベーア隊長はうつむく私に、こう言い放った。

「仇を見る目で睨んでいたのに、どうしてお前の手は、脅えるみたいに震えてるんだ?」

言われて、眼前に持ってきた両腕は、無様なまでに震えていた。
強く唇をかむ。

「申し訳、ありませんでした」

返せた言葉はそれで精一杯だった。最早、思考は凍結し、喉すらも声を発することを拒絶する。
私の言葉を待っていたのだろうか、しばらく待ってから、私に答える術がないことを悟ると、ベーア隊長は抑揚無く言う。

「……だんまりかよ」

その言葉に込められている物は何だ。失望だろうか、顔を見ることも出来ない私には、何もわからない。
わからないのに、耳に聞こえる声だけなのにどうしようもなく心を揺さぶる。もうどんなことも聞きたくなんてなかった。

「なあ……訳もわからないまま、部下に死なれたら、私は一体どうすればいい?」

噛みしめるように、小さな声で最後にそう言って、ベーア隊長は出口へ足を向けた。
やはり、背中にかけるべき言葉は出てこない。
誰にも言えることなどない。つられるようにベーア隊長の後を追って、一人ずつ出口へ向かい、部屋を去る。テオは最後まで残ったが、フライターク中尉に手を引かれて出ていってしまう。
一人だけ取り残されて、震える手を見つめた。

「どうしてしまったんだろうな……私は……」

もはや自分自身すらわからなくなってくる。
答える者は、もう誰もいない。




















いつもありがとうございます。
シリアスって難しい!



[36710] 8  1940年 バルト海 氷の海08
Name: かくさん◆b134c9e5 ID:82b7ca1d
Date: 2014/03/04 01:27

朝。第四飛行中隊に与えられた格納庫は今、にわかに活気づいていた。機械油の染みの目立つ作業服がユニットケージの周囲を行き交い、無数の足音を響かせながら魔女たちが空を舞う土台を整えていく。
鉄の匂いが鼻の奥を突く。年長者である整備長の怒号まがいの指示が聞こえていたが、やがてそれもストライカーユニットが動作テストを開始すると、甲高い駆動音に埋もれ掻き消されていった。

「急ぎなさい! もたもたしてると時間に遅れるわよ!」

エンジンが吼える中でもフライターク中尉の声はよく通る。早々に発進に必要なプロセスをこなした中尉は、準備が遅い部下達に発破をかけて滑走路へ急いだ。
格納庫を出て離れていく背中を見ながら、テオとライネルトが焦りを顔に滲ませながらストライカーの起動を始める。フレデリカは手間取る二人を放ってチェックを終えると、さっさとフライターク中尉の後を追っていった。
その横には、出撃命令が下っているにも関わらず、発進準備の手がつけられていないストライカーが一基。
放置されている訳でもなく、むしろ、カールスラント空軍の職人芸とも言える整備を施されたそれの状態は完璧であった。魔力を注げばすぐにでも目を覚ますはずだ。そんな物なのに、仲間外れされるかのように扱われているのは、持ち主が飛べる状態ではなかったために他ならない。
ストライカーが空へ躍り出ることが叶わなかった原因、持ち主である私は、冷たい空気を介して伝わるベーア隊長の声に耳を傾けていた。

「ハインリーケ・エールラー少尉に、リバウでの待機を命じる」

有無を言わさぬ口調とは裏腹に、ベーア隊長の目には思い詰めたような色が見える。
私が墜とされてからすでに十日程が経過し、年号も1939年から1940年に移り変わった。その間中、悩み続けて出した答えなのだろう。

「了解いたしました」

我々の仕事は空で戦うことであって、飛ぶことを禁じられることはあまりにも致命的。そんなことは、ベーア隊長も理解できていないはずがない。
私はつとめて淡白に返そうとした。私にだって、納得はできなくとも、今の自分の状態が空を飛ぶに値しないことくらいわかっている、それを伝えることになったベーア隊長の苦悩もだ。

「ご命令の意図は私も理解しております」
「ああ……やっぱりお前に、出撃許可は出せないよ」

ベーア隊長は側にいる私と目を合わせず、大きく開け放たれたシャッターの外へ視線を移す。

「別に喧嘩したからだの、お前が嫌いだからだの、そんなことで命令してる訳じゃない」

先に滑走路へむかった仲間の背を見つめる表情は、どこか物憂げであった。
私もつられるように外へ目を向けた。逆光に遮られ、彼女らの姿はおぼろげにしか感じとれない。まるでお前には見る価値など無い、と言われているようだった。

「東部じゃ戦闘機乗りや地上の野郎共にも知り合いがいたんだ。ただ、今のお前みたいに、よくない物を抱えて出撃した奴が無事に帰ってきたのを見たことがない。帰ってこなかった奴もいる」

上官、と言えども齢15にも満たない少女なのに。そんな子供がこのような言葉を、噛みしめるように語る。ウィッチとして戦場に立ったが故に。
私はそのあり方を直視することができない。以前は焦がれる程に、その姿を憧れたというのに。記憶にこびりついた怪物に脅え、震える今の私には、あまりにも眩しすぎた。

「配慮に感謝します、隊長殿」
「礼なんているかよ馬鹿、むざむざ部下を死なせに行く隊長がどこにいるってんだ」

言葉は毒だ。優しいはずの、少女には似合わないほどの、使命感に溢れた言葉であるのに、それが私を責め立てるのだ。
目の前の小さな上官殿は隊長として私を守ろうとしてくれている。
比べるまでもない、人生経験の差など結果から見れば何の指標にもならぬ塵芥にすぎない。

「言っておくけど病室で喧嘩したことは手打ちにできて良かったと思ってるが、納得した訳じゃないからな。だんまり決め込まれたら誰も手を貸せなくなっちまうじゃねえか」

鼻を鳴らして言うベーア隊長に、何も返すことができなかった。
弁明のしようもなく、荒唐無稽な自分の過去を教えることもできない。
私を見つめる一対の目が曇りを帯び、ベーア隊長は輸送機の発進間際を知らせる通信を受け取った。

「了解、すぐ行く……時間だな。こっちはこっちで上手くやる、妹のことは安心しとけ。お前は何とかして早く戻ってこい……じゃあな!」

別れの挨拶で思考を切り替えたのだろう、瞳に力が戻るのが感じとれた。ベーア隊長は弾かれるようにユニットケージから飛び出す。エンジンから発生した空気の流れが髪を揺らすのを感じながら、私は遠くなる背中を追いかけて外へ出る。
私を抜いた五名のメンバーがちょうど飛び立っていくところだ。帽子を振る整備員らと共にそれを眺めるのは奇妙な感覚であった。
まるで彼女らが何の関わりもない他人のように感じられて。
頭を振る、私はその感覚に嫌悪を抱いた。

「どうか、よい空を」

ウィッチを見上げる地上の人々に混じって、誤魔化すように呟いた。

















指揮所の壁にはコルクボードと幅の広い黒板が設置されている。コルクボードには士気高揚のため、中隊の集合写真と、隊員それぞれが選んだ景気のいい新聞記事の切り抜きが貼り付けられており、黒板には護衛任務にあたって隊員それぞれの出撃予定が記されていた。
定員に満たない第四飛行中隊はどの任務においても、今まで全員が出撃している。ところが、今日の日付の箇所だけは違った。見るとバツ印が一つ書き込まれていることに気づく。印は私の名、ハインリーケ・エールラーのすぐそばにあった。
このままではよくない、私は今現在、自分が置かれている状況をかんがみて、そう判断を下す。
待機命令と言われているだけあって、出来ることは少ない。扶桑海軍航空隊の傘に収まっているリバウでは、火急の用事というものは無いと言って差し支えない具合だ。ただただ指揮所に詰め、別命を待つだけの無為な時間。自分だけのために、貴重な資源を使ってまで暖房を焚く気にもなれず、指揮所はとても肌寒かった。白い息を吐きながら、私は椅子に座って時間が過ぎるのを待つ。空に上がり、戦うやもしれぬ中隊の面々に比べて、何と意味の無いことであろうか。
こんな状態でありながら、私は空軍少尉、機械化航空歩兵として彼女らと同等に扱われているのだ。

私がここにいる意味は、何なのだろうか?

下らない疑問だ。命令のためである、普段の私であれば迷いなくそう答えることができるはず。無論、ベーア隊長に返した通り、今でも命令にはどんな意図が含まれているのか、理解はできている。
飛べない者にストライカーの使用を許す訳がない、当たり前のことだ。
書類では原因は操作の失敗であると処理されているが、ウィッチは子供とは思えないほどに聡い。私が何か抱えていると、すぐにさとってしまう。ベーア隊長は私とフレデリカとの会話で感づき、他の隊員は隊長が激昂した時点で察してしまった。
ベーア隊長が疑念を飲みこみ下したこの命令は、それでも隠そうとした私に、自分で決着をつける時間を与えようというのだ。現状の打破、再び飛べるようになる、私のやるべきことは決まっている。
だが、私は命令を完遂できるのか?
考えをめぐらせれば、めぐらせるほどに悪い方向へ向っていく。結局、自分を責めることしかできない。
記憶の中心に居座り続ける恐怖は、内側から鎖を伸ばしていつの間にか私の身体を雁字搦めにして自由を奪い去ってしまった。身動きが取れないまま鋼鉄の怪物に脅える、自分が恨めしくて仕方がない。

「ああ、駄目だ」

何も考えずに飛び出た独り言。
無意識下ではもうわかっているのかもしれない。まったくもってその通り、思考、現状、全てが『駄目』であると。
溜め息が冷気に触れ、まるで氷結したかのように白い靄に変わる。靄が消えてから私は重い身体を動かし、関節を軋ませながら立ちあがった。
黒板に記された自分の名とバツ印を見ると、胸の内に苦いものが広がる。心に負荷を与えまいとすぐに目を隣のコルクボードへ移した。いくつかの写真と明るい話題で埋め尽くされた一枚の板。鋲で貼りつけられた集合写真の中で、私はやはり眉間に皺を寄せた仏頂面でこちらを睨んでいるようにも見える。
私はコルクボードの中で、一つの切り抜きに目をとめた。
日付は大体一週間前、私が墜落したすぐ後に世に送り出された記事である。それは最近のニュースではもっとも空軍関係者の話題を引きつけ、多くのウィッチを勇気づけた記事だろう。

『スオムス独立義勇中隊、ディオミディアを撃墜』

現在、世界初であり唯一の撃墜報告であった。
あの難攻不落の空飛ぶ要塞が、主戦場と見られることなく軽んじられた北欧の地で、ついに地上へ叩きつけられたと言うのだ。
近頃のニュースを熱心に調べる気にもなれず、受け流していた私にとって、この報せただ一つだけがトピックになり得た。死ぬ前にもこの記事を見て、少なからず歓喜の念を抱いていたことが思い出される。その時は少し遅れたクリスマスプレゼントだと舞い上がったものだ。
たった五人の少女達が戦闘機がどれだけ束になっても勝ち得ぬ怪物へ、勇ましく立ち向かい討ち果たした。まるで英雄譚でも聞いているような気持ちにさせてくれる。彼女らの勇気と力が、ついにネウロイへと届いたのだ。
パイロットの私に活力を与えてくれたウィッチ達は、この世界でも健在だった。
しかし、希望が滲む記事とは裏腹に、私は暗愁が心に拡がっていくのを感じていた。医務室のベッドの中で、ニュースを目にした時も、きっと笑ってはいなかったはずだ。機械的に文字を読みとっていく今の私の思考は、完全に濁りきっているに違いない。
ディオミディアと戦うことは生半可なことではない、独立義勇中隊のウィッチ達は懸命に戦い、勝利を手にしたのだろう。
なら、私はこんな所で、何をしているのだ。
格下相手にも敗北し、飛んで雪辱を晴らすことすらできない。そうして自分を責める一方、現状を受け入れている感情もある。機械化航空歩兵の肩書は、彼女らと変わらないはずなのに、だ。
鬱々とした思考と、脱力感。コルクボードに手をつき、もたれかかるような姿勢になる。
このままではよくない、再度自分を評価し、考えはスタートラインに戻り始める。

「私は、何のためにここにいる」

呟きが冷気に溶けた頃、時計の針はすでに正午を指そうとしていた。





















気の抜けたままの身体が栄養を欲する、責務を果たしたとも言えないというのにだ。やはり湧きあがってくる暗い感情を、決められた時間の食事は規則にのっとった行動である、と抑えつけた。
余剰スペースを目一杯に使ったのだろう広い食堂。どこも士官であれ下士官であれ、午前の職務で生じた空腹を癒そうとする彼らによって埋め尽くされている。
そんな中にいて、座席には私一人だった。誰も好き好んで年の離れた小娘と昼食をとることもなかろう、あまり近づきすぎればあらぬ疑いをかけられることもあるやもしれぬ、あるいは大人の異性が無為に子供に恐怖を与えぬように皆で気を使っているのか。私の周囲に人が集まらないのも当然のことと言えた。
年季の入った銀色のトレイにはカウンターで受け取った昼食が並ぶ。
普段通りであれば、私の隣にはテオとライネルトがいて正面にはベーア隊長とフライターク中尉、フレデリカがいた。ベーア隊長の号令で一斉に食べ始め、誰かが笑い、誰かが誰かをちゃかす声を聞きながら、自然と騒がしい食事の時間となるのだ。自分が感じるいつも通りの昼食を思い出し、ふと考える。
私は寂しいと感じているのだろうか。
一人の食事に孤独だ、と不安になるような精神年齢でもない、はずなのにか。だが、そうなのだろう、私がそれほどまで弱っているのだ。
じっと眺めていたトレイの中身にようやく口をつける。野菜が溶け込んだスープ、ブルスト、パン、ザワークラウト。決して嫌いではないそれらが、今はこの上なく味気ない。
食堂の喧騒は別世界のように遠く感じる。
私は喉に引っ掛かる食料を、胃の奥へ押し込んだ。























午後になって私が訪れたのは、この一週間で何度か出入りすることになった医務室であった。
私は件の戦闘によって軽度ではあるが負傷と判断されている。自己申告で復帰という訳にもいかず、待機時間を使って、最終的に問題なしとのお墨付きを得るための検査を受けることとなった。あまり気は進まない、ここで大丈夫だと言われたところで、直属の上官に止められていれば空を飛べないことには変わりない。
とは言え私の意志とは関係なしに作業は進む。鼻につく消毒液の匂いが慣れによって気にならなくなる程度の時間をかけ、私は簡易な検査を全てこなし、担当の軍医殿と対面した。

「身体的な問題は見られない、いたって健康だね」

カルテを見ながら軍医殿はそう告げ、あくまで身体面に限った話だが、と念を押すように付け足す。難しい案件だと判断したのだろう、読み進める彼の表情が歪むのを感じた。

「戦闘中の制御の喪失……ああ、報告書は確認させてもらった。ストライカーユニットには故障は見られず、身体に異常はない、乱気流などの外的な要因も薄い、と」

確認するような調子で言う。いくつかの書類に目を通すと軍医殿は小さく唸った。
面倒だと思っているだろうか、私はそう邪推したが、すぐに考えを打ち消す。手元の紙を睨む目は真剣そのものだ。

「そうとなれば考えられるのは心因性の症状になる。戦闘中に悪いものを思い出すことは聞かない話ではない、言いにくい事だとは思うが、何か過去に大きな事故などは?」
「いえ、何も」

事故。事故と言えば事故かもしれない。原因はネウロイ、そして私だ。鉄の災害を予見することができず、不慮によって自分を含めて『少尉』と部下達を巻き込んで死地に飛び込んだ。
私は短く、端的に嘘をついた。
目の前で自分のために頭を悩ませている彼を見て、胃に小さな痛みを感じる。

「では戦争や環境に対する過度のストレスか……過去のトラウマであれ、ストレスであれ精神的な負担はエールラー少尉のように身体面に影響が出るほどになると、深く根を張っている場合が多い」

簡単でありながら深刻さが感じとれる説明だ。
一しきり話し終えたところで、彼の目は文章を追うのを中断し、私を真っ直ぐに見すえた。

「本来の任務に支障をきたすのであれば、最悪、任を解かれ療養とせざる負えん」

胃の痛みが増す。自然と奥歯に力がこもった。
そうなれば、私が何と喚こうが後方送りは避けられまい。療養と言っても、精神という不確か極まりない物を治すとあれば、いつ復帰できるのか全く不明瞭だ。
もう二度と第四飛行中隊には戻って来られぬやもしれぬ。
どうしようもない焦りを感じた、手のひらが汗で湿り気を帯びてくる。
言葉には出していなかったはずだが、軍医殿は私の心中の変化を察したのかもしれない。悩める表情をそのままに、真摯な瞳を向けながら言う。

「今はまだ様子を見ることにしよう。エールラー少尉は任官からあまり経っていない、周囲の環境は目まぐるしく移り変わり、追いかけることに苦労する時期でもある。少し時間をかけて自分を見つめ直してみてはどうかな?」

私の心は波立っている、聞きながら頭を抱えたくなるほどに。
彼の言は全くもって正しい、自らと向き合い問題点を洗い出して解決する。今、私に必要な行動はそれなのだろう。だが、実践したとして、どんな成果が得られようか。空を飛べる自分に戻らなくてはならない、しかし、フラッシュバックする恐怖が行くてを阻む。
結局、今の私は何もかも中途半端なのだ。
戦わなければと思えど、私の身体は銃を構えることを拒んだ。部隊から離れるのが嫌だ、ウィッチの肩書を失うのが嫌だと思っていながら、恐怖に打ち勝つことなど不可能なのだと諦めようとしている。

「仮に精神に異常があると判断して、私が書類に判を押せば、そこでお終いだよ。私とて君のような未来ある士官の道を潰してしまうことはしたくはないのだ。医者としては間違っているのかもしれないがね、今は君が自力で立ち直れることを祈らせていただこう」

目の前の軍医殿は私が空へ戻ることを、真剣に望んでいた。言葉からは彼なりの医者としての矜持が読み取れる。
誰しも自分の役割を果たそうと懸命になっているというのに、私は。
私には彼の目を正視することはできなかった。これ以上自分を嫌悪することに耐えることができなかったのである。
申し訳ない、という気持ちが溢れる。
外は夕暮れ時に差し掛かろうとしていた。


















「御無事で何よりです」

格納庫の窓から差し込む夕日が、内部の明暗をハッキリと分ける。沈みかけた太陽から発せられる横殴りの光が目を焼きながらも、細長く伸びた影が陰鬱な気分を掻き立てる、そんな時間だ。
私はスオムスから帰還し、ようやく格納庫の入口までやってきた五人の少女に敬礼をした。彼女らは反射的に動きを止めて礼を返してくる、これまでの生活で動作が染み付いているのだろう。
先頭にいたベーア隊長は姿勢を解くと、私の前にくるなりしかめ面になってしまった。隊長は呆れが混じった溜め息を吐く。

「馬鹿たれ、私らよりも自分の心配しやがれってんだ」

眉間に皺をよせ、頭をかきながら私のそばをすり抜けていく。
今しがた敵が現れかねない空域に出向いてきたというのに、気づかいなど不要だと言う。年相応のふて腐れた雰囲気を滲ませながら、子供には全く似つかわしくない言動をとる。ベーア隊長だけではない、坂本や竹井もそうだ。それ以前に、銃器を手に戦場に立つこと自体が少女らしいとは言えない。
私は悩む、これこそがウィッチなのだろうか。

「こんなに寒いのにありがと、さ、早く帰りましょう」

動きを止めた私の肩をフライターク中尉が叩く。私を気づかう響きが多分に含まれている声を聞いて、ありがたいなと思う。
フライターク中尉は眉尻を下げた、困り顔のような笑みを浮かべてユニットケージにむかっていった。
次いで、私の前に出たのは二人。
フレデリカが私を一瞥して通り抜け、ライネルトが苦笑いの表情を私に向けながらフレデリカを追いかける。
そして、最後の一人は私の前で立ち止まった。

「リーケ姉さん」

横顔に夕陽を浴びたテオがにこりと笑みを浮かべる。私もつられて今日初めての笑顔を浮かべた。上手い笑顔を形作れたかは、わからない。

「何もなかったか?」
「うん、何にも。ちゃんとスオムスに送り届けてきたよ」

我ながら、意味のない質問だと思う。彼女らが無事に帰ってきたのだ、それが任務遂行の何よりの証拠であろう。
そんな無意味な時間の浪費にも、律儀に返事をくれるテオの性格がとても好ましく思える。聞かずともわかること、無駄なことと感じながらも、私は何か会話をしていたかったのだ。

「姉さんがいないとやっぱり緊張するね、いっつも頼りきりだったから。あと私は臆病だし……ダメダメだなあ、やっぱり」

テオがはにかみながら自分自信の評価を語る。臆病、という単語だけが、私の耳に残る。テオは自嘲気味に笑った。
涼しい顔を装いながら結局飛ぶことすらままならなくなった者と、震えながらも死に打ち勝ち乗り越えた者、どちらが臆病なのだろうか。
私にはテオを笑えない、この子の言葉に頷くことはできない。

「でも今日で一歩前進かな? そのうち姉さんに迷惑をかけないように……ううん、誰が見ても恥ずかしくないようなウィッチになるよ!」

少し前まで脅えていた少女はもう前を向いて歩きだしている。誰が恥ずかしいなどと言える、私などとは雲泥の差だ。

「テオ」

とっさにこの子の言葉に応じることができず、かろうじて名前だけを絞りだす。
会話を遮るようにして唐突に名を呼ばれたテオは、キョトンとした顔になり、私の目を見つめてくる。どうやら私の言葉を待っているようだった。
あまり思考がクリアになっているとは言い難いが、聞きたいことは確かにあった。私は滲むように、ゆっくりと頭の中に現れる単語の一つ一つをつなぎ合わせてテオへの返答とした。

「お前はもし、自分が死ぬような状況で誰か……ライネルトでも、私でもいい、誰かを助けなければならないようになったら……どうする?」

テオは首を傾げ、不安げに眉尻を下げた。
大昔から使い古された、非常に古典的な問いだ。どうしてこのようなことを聞くのかすら、おそらく疑問に思っていることだろう。それでも私には確信があった。この子ならば答えてくれると、物を話せるようになった頃から私の最も近いところにいたこの子は、誠実さをもって考え抜き、ウィッチとして私の問いに『応えて』くれる、と。
どうすれば死の恐怖を乗り越え、化け物へと銃をむける自分に戻ることができるのか、私はその解を知りたい。希望すら抱きながら、返ってくる声を待ちわびる。
テオは口を開いては閉じる動作を繰り返す。私のために本気で悩んでいるのだ、罪悪感が湧き出てきて問いを打ち消す声を出そうとする。が、私にはそれを音にすることはできなかった。もう第四飛行中隊に戻ってこれないかもしれない、という可能性に縛られていた。
小さく唇を噛む。痛みを感じていなければ、自分の中の葛藤を忘れることができなかったからだ。
やがて、テオの口から声が飛び出てくる。

「わからないよ」

消え入るような小さな声だった。
テオは私と交わしていた視線を外し、うつむいてしまう。

「私なんかには難しすぎて……そんな、怖いこと」

さらに不安そうな表情を深めるテオを見て、思う。
望んだ答えではなかった。
いや、何を考えているのだろうか。私はテオが出した答えに落胆できる立場ではないだろうに。
だが、もうすでに眼前のウィッチは私の考えなど及ばないところにいたのだろう。独りでに沈んでいく私に相対するように、テオはうつむけていた面をあげる。不安が滲んでいても、その目は真っ直ぐに私を射抜いた。

「でも、そうなったら、何もできないのは嫌かな……私は死ぬなんて怖いけど、皆がそうなるのも、同じか、もっと怖いもん」

時折、目線はどこかへ揺らぐ。何度か逸れながら戻り、そのたびに私は貫かれているように感じる。

「姉さんが死んじゃうなんて考えたくもない、私がウィッチになったのは、姉さんがいなくなるのが嫌だったから、なんだ……みんなが死んじゃうのも嫌、誰にもいなくなってほしくないよ」

不規則に動く瞳は言葉を重ねるにつれて、私の目を捉えていった。私はようやく理解する。
わからない、などとそんなことはなかったのだ。テオは答えを持っていた。
どんな状況になっても、きっとこの子は戦えるに違いない。泣きながらでも、絶望的な苦境を打破しようと全力を振り絞るだろう。

「そうか」
「うん、そうだよ。だから怖いことになる前に、私が何とかしてあげられたらなって」

思った通りに、テオは私に応えてくれた。
解答は、私には手の届かないものだった。羨望すら感じる、ウィッチとはやはり尊い存在だったのだ。私など及びもつかない程に。
自分の考えを伝え、少し恥ずかしそうにしているテオに言う。

「なあ、先に戻っていてくれないか?」
「姉さん、どうして?」
「用事があるんだ、すぐ追いかけるから」

表情を弄り、今日で二度目の笑顔を作る。
一度目の笑顔よりは上手くできただろう、でも、テオは私の顔を見て不安そうな表情に立ちかえってしまう。

「すぐだよ? どこか行ったりしないでね?」

念を押すような言い方は、表情を変えるだけでは受け止めきれない不安の現れか。
その場で立ち続ける私の真横をすり抜けるようにして、テオは格納庫へ滑り込んでいく。私の顔を横目で見ながらだ、私はあの子を心配させてしまっている。応えてあげられないのが苦しい。

「どうしたら、あんな綺麗なことを言えるようになるんだろうな」


問いかけは誰かに向けたものではない。本当に意味のない単語の羅列にすぎないのだ、私はもう答えを理解し、自覚してしまったから。
テオやライネルトは死の恐怖を乗り越えた、しかし私は先に進むことができない。
訓練校で自分自身すら誤魔化し続けてきた化けの皮はっもう剥がれようとしている。ここにきて、私を支えてきた物が破綻しようとしていた。
ディオミディアの装甲で砕け散った最期の瞬間から、自由に空を舞い、死に屈することのない彼女らの姿にどうしようもなく焦がれた。私はウィッチになりたかった。
適正という名の天からの贈り物を受け取った時の、何物にも代えられない喜び。ウィッチになれる、ウィッチになった、だから私はネウロイと戦える、否、戦わなくてはならない、と。喜びと義務感がディオミディアに殺された恐怖を曇らせ蓋をした。
無自覚に、ウィッチの肩書だけが死の恐怖に立ち向かう支えとなっていたのだ。そんな弱々しい支えなど、隣を飛ぶ彼女らとの差を目にすれば、すぐに役に立たなくなってしまう。
自覚したのは今、無意識であれ気付かされたのは扶桑海軍との演習、坂本と相対したそのときだろう。
私を貫く力強い瞳。ただ真っ直ぐに勝利だけを見すえ、全力を賭してきた彼女の在り方。模擬戦だろうと実戦だろうと、絶体絶命の局面であろうと、きっと彼女は同じ瞳で戦い最後には勝利を手にするに違いない。否応なしに理解させられた、これが優れたウィッチでり、私はウィッチを名乗るには何もかもが足りない。
坂本に向けた銃口が震えたのも、死の恐怖がよみがえっただけではない、私の存在がウィッチ足り得ないことを自覚するのが怖かったのだ。理想が形となったような姿を見て、中身が露呈することに恐れをなした。
肩書にすがる支えが砕け、蓋が取りはらわれてしまえば、結果は明らかである。溢れ出た死の恐怖に抗うこともできず、飲みこまれ、気がつけば私は飛ぶことができなくなってしまっていた。
テオのように恐怖を克服する心もなく、坂本のように輝く意志もない。ウィッチとしての高潔さを持つことができなかった私には、もう何も残されていない。

「私には、無理だ」

私はウィッチの紛い物だ。見た目を取り繕っただけのガラクタにすぎない。
太陽はもうすでに沈みきっている。
















どうもこんにちは、私は這い上がる系のストーリーが大好きです。
いろいろ試しながら書いてみると文章が安定しないというか何というか。
とりあえず今回はネガティブ主人公です。ここで長引くのもアレなので、次は早く投稿したいところ、少ない文量で面白いものが書ける方々が羨ましい……もっと練習しないとあかんなぁ。






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