01 / 赤い水底
「ア゙……」
ソレ、は真っ赤に染まった水底で目を覚ました。
膨大な量の水を湛えるくせに、ソレが在る地底湖の水はひどく熱い。
真っ赤に染まった水と、底に溜まった茶色い汚泥。
目覚めたそれは、まず口の中にあった肉を租借する。
柔らかい。
肉であるということは感じるのに、顎の骨にはほとんど抵抗がなかった。
ズルズルと啜るようにして周囲の肉を飲み下していくと、だんだんと感覚が戻ってくる。
平行して少しずつ取り戻し始めた筋肉で、ソレは動き始めた。
首を回して周囲の肉を食い尽くし、動くようになったまだ骨の覗く腕を動かして、熱い肉と血の海を掻き分ける。
まだ眼球は戻らない。
真っ暗で真っ赤に灼けた世界の中で、指先の感触だけを頼りにとにかく肉を喰らい続けた。
ばちゅりと音が弾ける。
猛烈なまでの力が戻ったばかりの脊髄を奔り抜けた。
何か、とんでもないものを飲み込んだと感じる。
感触は腐りかけた肉であるのに、煉獄を飲み込んだかのような熱が再生する肉を焼く。
熱い、熱い、熱い、しかし手が止まらない。
猛烈な渇きに急き立てられ、ソレは我武者羅に手を動かして周囲のものを口へと運ぶ。
熱とともに、恐ろしいほどの力の奔流が身体を満たす。
時折誤って肉ではなく骨をつかみ、半分以上がへし折られた歯と当って衝撃が骨を削るが知ったことではない。
とにかくひたすらにこの熱い肉を喰らいたかった。
すると隙間だらけだった骨の間には少しずつ肉が戻り始め、ガランドウだった肋骨の中には白い肺が輪郭を取り戻す。
腹の筋膜が戻るとともに、空っぽだったその中に白い管がうねり始め、垂れ下がる袋の内側に強い酸の体液が染み出して泉を作る。
まず穴のなくなった肉の管を通って酸の中へ肉を落とすと、肉は酸と混ざり合ってドロドロとうねる白い管へと流れ込む。
「――――――――――!!」
赤い水の中で身体が跳ねる。
数年ぶり、いや数十年ぶりの食事である。
骨へと張り付き、いまだ皮膚を持たないむき出しの筋肉が躍動し、体中に張り巡らされた血管から異物を弾き飛ばす。
変わりに充填されるのはソレの自前の命の雫。
そこにうねる腸が中を流れる溶けた肉から養分を捕らえ、血中へと流し込む。
気持ちいい
本能が、満たされた。
身体のすべての部分が歓喜し、それぞれが自分勝手に喜びを表現する。
身体の中の無数の蟲が、皮を食い破って外に出たがるかのように、ソレは身体のいたるところを隆起させて赤い水をかき回す。
ようやく張り始めた皮膚を引き裂き、命の雫が零れようと知ったことではない。
嬉しいのだ。
本能が満たされた。
それが心底嬉しいのだ。
痙攣する身体をするままに任せて、とにかく両手でつかんだ物を次々と口に運び、噛んで、飲み下す。
肉も骨も、赤い泉の水ももはや関係がない。
とにかく、とにかく、とにかく食べ続けた。
食べられる事が、動けることが嬉しくて仕方がなかった。
身体を筆舌に尽くしがたいほどに嬲られ、喰われ、誇りを砕かれて生きたままこの地底湖に続く水脈に落とされた。
運悪く死ぬことが出来ず、投げ捨てられた死体が集まる地底湖の畔へと流れ着く。
動こうにも、骨を砕かれ四肢の腱を切られた身体では這いずることしか出来ない。
それでも必死に、生きようとした。
打ち上げられた死体は、口に入れた瞬間に食べられないと解った。
すぐそばのネズミは、動いた瞬間に逃げ去った。
かとおもえば、集団で襲い掛かってくる。
全身を齧られ、何とか水中に逃れた時、自分はもう人間ではないのだと悟った。
光の届かない地の底で、身体だけは冷えていく。
魔術を使って延命を図るが、僅かな魔力はすぐに尽きた。
空腹だった。
最後には本能しか残らず、朦朧とする意識の中で、不意に見つけた新鮮な死体。
湖の中央に浮かぶソレを見つけ、最後の力をつかって辿り着き、その首筋に喰らいつく。
そこで、彼女の意識は途切れている。
生涯最後の食べものを果たして自分は食べられたのか?
解らない。
そこまで考えてふと、彼女は自分が思考していることに気がついた。
眼球が再生し、身体にも皮膚が戻っている。
赤く染まった視界越しではあるが、白い肌と、水にたゆたう自慢の黒髪も確認した。
確か死喰鬼の群れに囲まれ、引きちぎられる前に切り落とした筈だが、髪は彼女の記憶にある長さを残していた。
そういえば断たれた腱も、折られた歯も元に戻っている。
「う……」
そう思った瞬間、息苦しさが胸を突く。
いつからいたのか解らないくらい長い間水中にいたのだから、命にかかわるようなことが無いだろうが、苦痛に身を浸し続けるような趣味は無い。
身体はともかく、本能が『水の中では息ができない』と認識したのだろう。
闇の中にあり、赤と肉で満たされた視界は、視野がゼロに限りなく近くただ重力だけを頼りに上を目指す。
魔力で流れを制御し、真っ赤な水と赤黒い汚泥を掻き分けた先。
黒が強くなった水面の中に、篝火のように灯る赤い島を見つけた彼女は、ひとまずあそこまで上がろうと手を動かす。
記憶にある自分よりも遥かに力強く水をかく自分の腕に違和感を感じながらも、彼女はさしたる苦労も無くその島へとあがる。
「熱っ!」
水から出て、塞がれた視界の中で島をつかんだ彼女は、掌に感じた熱と鋭い痛みに思わず声を上げる。
足を動かして身体を浮かし、無事な左手で赤い水をぬぐうと、生理的な涙が瞳を拭い彼女は視界を取り戻す。
するとまず視界に入ったのは、真っ黒く焼け焦げた掌よりも大きな鱗だった。
未だブスブスと煙を上げる鋭いそれら。
こんな巨大な鱗を持つ生物が一瞬頭をよぎった。そんな馬鹿なと思いながら、とにかく上陸できるところを探す。
しばらく泳いだところで、彼女は思い違いに気づいた。
この生物の死骸は島に打ち上げられたものではなく、この生物自体が島のように巨大で、水に浮かんでいるのだ。
「まさか……」
彼女の脳裏に、先ほど思考の隅に追いやったとある生物が浮かぶ。
この世界に於ける最強種。天空より大地を統べる焔の王。
鱗が剥ぎ取られた部分をつかみ、強引に身体を生物の上へと引き上げる。
水に浮かんだ不安定な足場を獣のように4つ足で登り、足元に気を配りながら少し高くなっている場所を目指す。
すでに篝火の正体は知れた。
その正体が、さらに彼女の疑念を確信へと変えた。
燃えていたのは、生物の肉体。火種は、生物の血液。
空気に触れて燃え上がる液体の炎。
それを宿す生物は――――――――――――――――――――――
「あ、あははははハハハハハハハハハーーーーー!」
小高い場所から、その全身を見た彼女は狂ったように笑う。
自分は、いったい何というものを食らったのだとひたすらに笑った。
熱いはずだ。一口ごとに力が漲る筈だ。
一度死んだ人間だって、現世へと引き戻すに違いない。
なにせこいつは死神すら食い殺す、最も神に近い暴虐の化身なのだから。
「レッド・ドラゴン」
彼女の眼前には、全身の鱗と翼膜を奪われ、己の竜血で全身を焼いた首なしのドラゴンが池に浮いていた。
彼女は湖の中へと零れた、ドラゴンの血肉を喰らったのだ。
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「ハハハ―――――、ハァ、ハァ、……さぁ」
息が切れるほど笑い続け、ひと息ついた彼女は次に何をすべきかを考える。
と、そのとき、何かが動く気配を感じた。
ひとつ、ふたつ、みっつ……
意識を集中させて探れば探るほど、その数を増やす気配は、自分の下。すなわち湖の中から伝わってくる。
「うん。むしろ竜の血の恩恵を受けたのが私だけだと考えるのは傲慢ね」
湖からドラゴンの屍の上に上がってこようとするそれらを明確に意識し、彼女は静かに息を吸い、吐く。
濃密な血のにおいが鼻の奥を満たし、思考が痺れる。
四肢の力を抜いて、だらりと両腕を下げた前傾姿勢をとった瞬間。
湖底からの尖兵が彼女の前に姿を現す。
「 ッ!」
敵視認と同時に、彼女は駆け出す。
皮の上に僅かに残る鱗に気をつけながら加速し、跳躍。
緩慢に腱を振ろうとするそれの首筋に強烈な跳び蹴りを見舞うと、そのまま押し倒すようにして顔面を踏み潰す。
敵の腐った肉と骨は、彼女の体重すら支えられずにスイカのように潰れて散らばる。
「速い。身体強化をかけているわけでもないのに」
一方、崩れた死体の上で彼女は自分の膝を屈伸させながら、多少の驚きを覚えていた。
ドロドロと粘液状になった湖の底からここまで上がってこれたことで、自分の身体能力が以前よりも向上しているという自覚はあったが、これは予想以上。
咄嗟に素手ではなく足裏を相手に叩きつけた判断は正しかったと自画自賛する。
見たところ身体の強度そのものは変わっていないようだし、ガンドレットも無しに相手を殴れば確実に骨折していただろう。
いまもまだ、ビリビリとした痺れが蹴った足に残っている。
「けど、もう肉弾戦の必要なんてない」
尖兵に続いて、さらに10体ほどの人影が現れる。
どれも一様に腐った肉の身体をもち、鈍重な動きで彼女に迫ってくる。
俗に『ゾンビ』と呼ばれる最下級のアンデットたちだった。
それらの一部は、湖底に沈んでいた岩や木の棒、動物の脛骨などで武装している。
だが彼女には微塵の不安も無い。
なぜなら彼女の右手には、それらよりも強力な、彼女の最も得意とする武器が握られているからだ。
久々の感触が、彼女の右手にある。
「ふふ、最初の彼?は兵士か何かだったのかな。
死んでなお己の武器を手放さないなんて凄いわ。ご褒美に、貴方の相棒は私が擦り切れるまで使ってあげる」
彼女の右手に握られているのは、最初のゾンビが持っていたロングソードだった。
元々が頑丈な剣であり、さらに質のよい鋼鉄を使っていたのだろうこの剣は、表面こそ錆びで覆われていたが、その芯はいまだ健在で使用するのに支障はない。
切れ味は無いに等しいが、そもそもこの手の剣に切れ味は求めていないので問題は無い。
「ふっ!」
鎧袖一触。相手は彼女の間合いに入った瞬間に、その武器ごと両断されて湖へと叩き返された。
そのまま姿勢を低くし、ゾンビの間を走り抜ける。
一足につき、一撃。
全ての歩みを踏み込みとして、次々と迫る敵を次々と切り伏せ、腐った肉が宙を舞う。
一糸纏わぬ裸身をさらしながら、ただの一筋の傷み許さない完璧ないくさ運びで全てのゾンビを切り伏せた彼女は、もう動くものがいなくなった竜の屍の上満足げに息を吐く。
「ん~、まずまず。でも……」
ふと、同時に右足に強い違和感を感じて視線を送る。
調子に乗りすぎてどこか痛めたかと思い、軽く足を上げた瞬間、鋭い痛みが身体を突き抜ける。
「~~~~~~~~~~~~ッッ!! あ、あれ、うそ……」
痛みとともに骨を伝って聞こえた、ブチッ、という音。
太ももの筋肉を支える筋が断ち切れ、足の肉が皮膚の中でボトリと落ちた。
それを切欠として身体の複数の場所で同じような音が聞こえ、皮膚が裂けて血が噴出した。
「あちゃあ、やっぱり調子に乗りすぎたんだね」
保護魔術なしで過剰な身体強化をかけた時になるという症状に似ているなぁ、と身体中に奔る激痛に蹲りながら考える。
普通はこれで再起不能。それどころか、生命の危機である。
「うん、良くも悪くも、こんな身体になってしまったわけか」
だが、彼女は特に悲観するわけでもなく、剣を手繰り寄せると近くのゾンビの服を剥いで刃に巻きつける。
「せぇ~の!」
そして少し振りかぶって勢いをつけ、刃を足元の竜の屍につきたてる。
切れ味などほぼ皆無となった錆びた刃に苦戦しながら、ザクザクとノコギリのように動かして肉を切り取る。
程なくして不恰好な直方体に切り取られた竜の肉を両手で持ち、ガブリと噛み付く。
即座に広がるのは、濃密な鉄の香りと、馬鹿になった鼻でも感じる腐臭。
次いで迫る炎のような熱さを楽しみながら、薄暗いカタコンベの底で、彼女は竜の屍肉を胃に収めていった。