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[34349] 道行き見えないトリッパー(リリカルなのは・TS要素・オリ主)本編終了
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/09/15 03:09
 これはかつてあったにじファンにおいて投稿していたものです。
 移転が終了までチラシの裏にて投稿していましたが、新話の投稿にあたり本板に移動致しました。

 本編、主人公の物語はにじファン終了と同時に終了しましたが、書き足りないものもあり、こちらにて投稿させて頂きました。外伝という形になりますが補完話やその後の話を投稿していこうと思います。
 山の賑わいの中の一木となれればと思います。夜中の時間つぶしにでもお読みください。楽しんでいただければ幸いです。
 
 このお話は一般人の主人公がとんでもない状態や状況に投げ込まれています。メタ的な意味でとんでもない状況です。
 原作は本編三章から、主人公の物語の終盤が、原作の無印、as編となります。STSの描写は今のところありません。
 また、正統派の二次SSとはとても言えないお話です。珍味、ゲテモノ食いのたぐいなのでそこはご注意ください。

 投稿については本編まではsage更新でした。今後は不定期更新となりますが、主人公一人のお話ではなく、一つの物語として完結できるようにしていきたいと思っています。
 ご意見、ご感想など頂けましたら嬉しく思います。
 


 
 ※人によりますがアレルギーを誘発する要素がかなり含まれているため、以下に記しておきます

  ・本作品はTS要素が入っております。とてつもなく色濃いわけではないですが、さらっと流せるほど薄くもありません。
  ・全編一人称です。
  ・SS投稿掲示板でのみ通じるようなネタも多数。
  ・オリ主、パロディネタ、神様転生、オリジナルストーリー多、捏造設定多
  ・人によっては鬱展開があります
  ・R15程度の性描写があります



 2012/8/04 序章一話より四話をチラシの裏に投稿
 2012/8/05 章立て導入、幕間及び一章一話から五話を投稿
 2012/8/06 幕間二、一章六話から十話まで投稿
 2012/8/09 幕間三、一章十一話から十三話まで投稿
 2012/8/13 幕間四、二章一話から四話まで投稿
 2012/8/16 幕間五、二章五話より九話まで投稿
 2012/8/21 二章十話より二章十九話まで投稿
 2012/8/29 三章一話より三章八話まで投稿
 2012/9/05 三章九話より十四話まで投稿、移転完了
 2012/9/15 外伝一、二を投稿。本板へ移動



[34349] プロローグ
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/04 01:23
 声が聞こえた。

「起きてください、誰もが垂涎のトリップイベントがやってきましたよ!」

 眠い。眠すぎる。
 買い換えたばかりの羽毛布団の暖かさに包まれながらみじろぎをした。
 そういえば昨日は徹夜の仕込みだった。眠いのも当然……だ。

「ああもう! 起きてーッ!」

 騒がし……
 布団を頭に被ると静かになった。今日は祭りでもあったっけか。妙に騒がしい。頭がぼうっとする。

「これは勝手に処置してしまいましょうか……あー、まさかここまで原型留めててないなんてなんてなんてなんて面白い」

 ゆさゆさと揺れる。揺れる。揺れる。ゆれゆらゆら。じしん?

「……うほ?」
「いい男的な寝ぼけ方ですね。さて、よろしいですか? 突然ですが、あなたは異世界トリップすることになりました。何か希望があれば聞き入れますよ」
「……少女、こえが……とりっぷ?」
「少女ですね? もしもし、もしもし?」

 ぐらぐらと揺れた。何だか浮いているような気がする。布団の中だと言うのに。ふわふわ。

「ん……羽毛最高、ふわふわ、このままねかせ……て……くれえ」
「羽毛……羽ですね! 容姿は丁度──」

 何か聞こえる。なんかまあ。

「……すきに……して、眠……」
「──ッ!」

 ぼーっと布団の温もりの中で、夢見てるなーなんて夢の中で思いながら、俺はまた眠りにつく。

 くすくすという笑い声がどこかで響いたような気がした。
 笑い声が頭の中で広がった。
 声が泡のように潰れて消えた。

   ◇

 目覚めは首筋をなでる冷たい感覚だった。

「ん……?」

 妙に細い声が聞こえる。それよりこの冷たいものは?
 起きてみ……ようとして体が固まった。
 冷たいものはどうも生き物だったらしく動いている。首筋を這いずりまわっている。
 気持ち悪いのだが、どうも寝起きにこんなドッキリやられると驚きで固まってしまうようで、いや思考はどうもさっきから回るのだけど、なんなんだこれ。なんなんだこれ。カメラはどこだ、氷で撫で回してくれてる奴はどこだ? うわ動いてる動いてる、蛇か蛇なのか? 蛇っぽいって!

「っヴぉうぁっ!」

 我ながらどうかと思う奇声をあげながら、慌てて布団から飛び出し、首に巻きついてるものを引き剥がして投げつける。
 木にべちっと当たってその30センチほどの蛇はカサカサと慌てて茂みに逃げ込んだ。

「……お、お、驚ぇた……って……あ?」

 ぜーはー荒げた息を落ち着ける暇もない。
 何せ見ている目の前の光景が光景だ。

「……森?」

 そりゃもう立派な森だった。
 樫、ブナ、楢。人の手があまり入っていないのだろう雑木がひしめき、ツタが絡まりあっている。
 振り返って後ろを見てみる。

「布団だな」

 さっき慌てて飛び出したせいかぐしゃぐしゃになった布団がある。紛れもない布団だ。買い換えたばかりの気持ちの良い布団だ。
 それは別段おかしくない。
 地面の上に直敷きしてあるのを除けば。
 その向こうに、石を投げれば向こう岸に届いてしまいそうな小さな池があって、そこから手前は花が咲き乱れ、ザ・草原なんて感じののどかな風景になっているのを除けば。
 先ほどまで変な夢を見ていたことを思い出す。

「まだ夢か?」

 夢を夢と認識できるのって明晰夢というのだったか。
 初めて見たかもしれない。少し感動だった。しかし、蛇で目覚める明晰夢って、夢占いにかけたらエラい酷い結果が出そうだ。
 なんとなく、池の方に歩いてみる。
 物語だと池の中から美人が出てきたりとか、未来の知識を映したりとかかな?
 だが、覗き込んでみると、映し出されたのは。

「なんだこの子供」

 見たことない子供だった。
 俺が右手を上げるとその子供は左手を上げる。
 俺が左手であいーんのポーズをとれば、その子供は右手であいーんをした。
 ……いや夢なんだから百歩譲って子供になるのはいい。回帰の欲求なんて誰にでもあるし。
 でもこの姿はない。
 本当にない。

「アルビノ銀髪オッドアイとか……」

 こんな欲求が俺にあったのかー。厨二なのかー。中学の時に発症しなかったのが悪かったのかー。はたまた巨大掲示板でそのネタを楽しんでいた罰が当たったのかー。
 少し逃避気味な思考が揺れる。
 この調子だと邪気眼とか隠された人格とか黒翼の堕天使とかそういうのまで搭載されて……と、翼とか思い浮かべた時だった。

「ぶぷっ……おぅふ変な感じが……息ぐる……し……ぐぁぁ」

 寝巻きに着てたジャージの背中がなんだか、突っ張る、てか狭い。狭い! 首が絞まって、締まる締まる締まる。ぐぉぉぉ……
 限界点に突破しようという時、びりべりばりばりと、ジャージの背中が破けはじめ。なんと翼が──

「生えた」

 なにそれ怖い。
 色は真っ白でもふもふ具合はなかなか良さそうだが、いや漆黒の堕天使とかにならずに済んで良かった……のか? のかのか?
 いやなんだろうこれは。
 うん。明日聞いてみよう夢占い。
 こんなカオスな夢は何というかすごすぎる。
 いい歳した男が夢占い、ありえん、そうも思ったが、いやコレだけの夢だと十分話しのネタになる。
 束の間、呆けてしまった。
 ひとまずこれからすべきことは。

「寝るべ……」

 いそいそと布団を直し、もぐりこむ。
 固く眼をつむり布団を頭から被る。
 翼が邪魔になるようなので横向きに体を丸めて。
 なんだか……いろいろなんだか……夢でも脳は疲れてたのかもしれない。
 きっとそうだ、新作メニューの仕込みで徹夜なんかするからこんな夢を見るんだな。
 何も考えたくなかっただけかもしれないが。今度こそちゃんと真っ当に現実に目を覚ましますようにと祈る。
 意識に霧がかかる。
 急速にぼんやりしてきて──

   ◇

  本当に酷い夢を見た。
 寝ぼけて誰かに応対しちゃったなーと思ったら、草原で目覚めて、自分がどこかのサブカル厨二小説などでよく見かけるような特徴を兼ね備えたりしていて。
 あまつさえ翼などがもこもこと元気に生えて、なにこのキメラ。いや天使ってよく考えたら人と鳥のキメラだよねとか思ったり思わなかったり。
 ──そんな夢をみた。

「で、終わりになればよかったのに」

 そんな夢、いや悪夢は際限なく、容赦なく、否応もなく続行中だった。
 流石にあれだけ寝たらもう寝ることも出来ない。寝過ぎた。コレは夢だと思っては眠気を待ち、現実なんかじゃないと思っては眠気を待ち。
 恐らく今は昼。
 なんたって太陽がいい具合に有頂天。俺の心も暖かく照らしてくれればいいのに。

 ため息が先ほどから連続して出ています。丁寧語にもなります。
 なぜため息がでるかというと先ほどから嫌な予感がするわけで。それは股間でむずむずしてるわけで。
 いやただの尿意なんですけどね。
 とてつもなく嫌な予感しかしないわけですええ。

「そうだ、小便行こう」

 京都行こうみたいなノリであえて軽く逝ってみる。誤字ではない。これは逝くが正しいのです。
 ちょっくら木陰に立って、まあ、寝巻きのジャージのままなので下ろさせてもらいます。
 トランクスもちょっと下ろしてみまして、また戻して。

「見なかったことにしてぇ……」

 涙が溢れた。
 なんたって、長年付き添ってくれた我が相棒が。マイ・サンが。愛すべきエッフェル塔が。ビッグダディが。ごめん嘘ついたビッグって程じゃない。

「……無ぁい……」

 へそまで届く俺のピーなんてご立派なもんじゃなかったけど。
 毎朝自己主張してくれて、時にはちょっと困ったちゃんだった愛息。その姿が影も形も。
 小さくなってたとか、しぼんでるとか腹の中に納まるという空手の奥義とかでなく。見事につるんつるん。
 明日のジョーが灰になるような心境。
 そう、その心境が正しいのだろう。俺は灰になるという感覚を生まれて初めてその身に刻んだのだった。

   ◇
 
 思考停止とは便利な言葉だと思う。

 応用範囲も広く、例えば誰もが考えてなかった事なのに、いざ政治家がそれで間違えれば「だれそれは思考停止に陥っていたことを反省しなければ云々」なんぞと叩かれたりもする。
 ただ時には、精神的に追い詰まっている時などには、この思考停止というものは必要となるものらしい。そう切実に。
 性転換なんて単語、雪原を割るがごときクレバスがあったとかそんな事実は、思考のダムでせき止めて考えないことにした。考えないったら考えない。
 なんで、とか、どうして、とかは時間のある時にゆっくりゲームでもしながら考えればいいことだ。

「もしもという時は状況に応じ、優先順位を付けて判断することだ」

 そんな台詞を迷彩服を着ながら俺に語った親父を思い出す。単純で当たり前ながら良い言葉だ。
 妙な服を着ていたからといって別にアフガン帰りの傭兵とかベトナム帰りのグリーンベレーとかではなく、至って普通のサバイバルゲーム好きのおとんである。職業は何てことのないコンビニフランチャイズの店長だった。

「ひとまず目先のことを考えよう。それがいい、それに決めた」

 本当に思考停止とはありがたい。
 何しろぽんと投げ出され、五里霧中。何がどうしてどうなったという……脈絡もなく、順序もなく、訳が判らない状態だ。この場合の優先順位はというと、自己診断、状況把握だろうか。
 気を取り直して、後ろの、静かな池に向かう。
 上流から流れ込んでいる小さな川がある、それがせき止められ、ため池のような状態になっているようだった。大きさは10メートルほどだろうか。周囲も岩がごろごろしているわけではなく、粘土質の土が積もっている。ただ、ところどころに大きな岩があるところを見ると、大雨が降った時の川の通り道のようなものになっているのかもしれなかった。
 水に触ってみるとかなりの冷水であることが判る。流れ込んでいる川だけでなく湧き水ももしかしたらあるのかもしれない。
 水面に映るアレな姿を見てため息を落とすも、いつまでもじっとしているわけにも行かないので、勢いよく水面に顔をつけた。ぱしゃんと水しぶきが服にもはねる。

「……ぷぁー、冷たい」

 いい感じにすっきりしてきた。
 拭くものもないので、破れたジャージの上着で拭う。化繊は水の吸いが悪いがこの際仕方ない。

「さぁて、まずは……」

 自己診断。これはあまり考えたくないが、否定しても仕方ない。この、明らかに日本人らしからぬスラブ系というか、ロシア人と言われて思い描く典型のような顔立ちで、銀髪オッドアイの痛い容姿の奴は俺ということらしい。
 髪の長さはあまり変わってない。耳が隠れるか隠れない程度のショートで、割とざんばらりんと……本当に適当に切ってある。さすがにこんなに適当だっただろうか? 一房指でつまんでみる。色はもう笑うしかないようなプラチナブロンド。さらさらの直毛だった。
 アーモンド型の大きな目に、高くて通った鼻梁。色白というか色素ねえだろというくらいの白い肌。血の色が透けて見えるので冷水で刺激受けた頬は今ピンク色だが……うわぁ……
 くじけるな俺。イタくてもくじけるな。がんばれ、やればできる。俺はできる子だ。自己暗示をかけて再起動する。
 目は左目が琥珀、右目が青。金目銀目という奴のようだ。瞬きを二回。水面に映る姿も瞬きを二回。睫毛が長い。爪楊枝8本乗せがいけそうな感じである。
 いやまぁ、そこまでは人間の範疇だ。それはいい。よくはないけどいい。
 背中の感触が問題だ。この普通に生えてる翼。なんだろうか、背中に腕でもついているかのような感覚。どっかのアニメの三つ目さんが使いそうな、背中に腕が生えて手数が増える技だったか。そんなのを思い出す。
 腕とは大分関節の付き方が違うが、何というか、当たり前に普通に動かすことができる。手の平をパーにするような感覚で翼がばさーと開いたり。ぐっとすると折り畳めるとでも言えばいいのか。羽ばたく動作は普通に腕を動かすよりずっと楽にできる。うんうん、何とも鳥っぽい。

「ぐぉぁ……」

 ぐっとしすぎたら攣った。うぉお、痛ぃ……ぴくぴく小刻みに動く羽根が微妙な気持ちを増幅する。
 ……どうしようか、だいぶ人間辞めてしまっている気がする。この上さらに額に目でも出来たら、目も当てられない。というか人目に当たりたくない。いっそもう山に引き篭もるしかない。
 落ち着こう、落ち着こう。深呼吸を数回して強引に落ち着く。
 ともあれ、この羽根の長さは目一杯広げると片羽根で2メートルくらいか、そのくらいまでは広がる。両方広げれば、俺は体長4メートルの霊長類ということになる。いや、羽根生えてるから鳥類なのか? 混ざって霊鳥類? やめよう。なんだかCOMPとか持ってる人に使役されそうだ。コンゴトモヨロシクとか言う気はない。
 そして、体を動かすのにまるきり違和感がなかったので今更になって認識したのだが。いや映った姿で何となく判ってた。なるべく認識したくなかった。
 ……縮んでいる。洗濯機にかけられたニットのセーターのように縮んでいる。具体的には三分の二くらいに小さく。今の身長は120センチと言ったところだろうか。手足の長さも短く、手の平に至っては何というプニ具合。マシュマロと勝負が張れそうだった。
 子供にしか見えない。いや認めよう、いい加減認めよう。今の俺は子供の体であると。認めざるを得ない。よし、自己診断はひとまずこれで……
 と、そこまでが俺の限界だった。

「ありえん……ありえん……」

 頭をかかえてうずくまる。
 夢だろ嘘だろ醒めろ醒めろ醒めろ。

「うぁ……」

 そんな自己診断にも思考停止という名の蓋をして、のろのろと立ち上がる。
 今の俺を誰かが見れば、レイプ目というものを拝めたかもしれなかった。

「まあ、なんだ……状況、把握せんと……」

 既にグロッキーです。
 ギブアップボタンかナースコールがあれば連打していると思う。リングにタオル投げていいならセコンドに百本はタオル投げさせてる。と言っても、いつまでこの状態でも仕方ないので。
 大きく息を吸って吐く。頬に両手でビンタで気合を入れ。

「……痛ぅぁ!」

 思ったより力があった。というか歯で口の中を切ってしまった。ひりひりするが、これはこれで気が紛れたので良しとする。良しとしよう。頭を振って無理矢理気分を入れ替える。
 まずやる事は──

 あたりを一通り探索してみた。
 あまり詳しいわけでないが、植生、また、木に付いている獣毛をチェック、危険な動物がいないかを確認する。一応熊避けに一定感覚で音を鳴らしている。
 円を書くように池の周囲を軽く探索した後は、歩きやすそうな、木々の隙間の多い場所を縫って、放射状に探索をする。
 迷わないように石でサインを残しながら木々の間を歩いていく。
「森歩きは急ぐな。落ち葉に隠れて穴があるとかはよくある事だ、大雑把な■の事だ。注意しろよ」ふとまた、父の台詞を思い出す。大雑把は自分だろうに、よく俺の事をそうけなしていたものだった。
 確かに、連絡手段もない今、怪我をしたら笑い話にもならない。ゆっくり着実に歩みを進める。
 ──1時間も歩いた頃だろうか。唐突に森を抜けた。

「……おおぅ」

 感嘆の声が出てきてしまった。
 森を抜けたと思ったら切り立った小高い崖になっていた。
 クライマーでもないので降りられる自信はないのだが、そこから見渡せる風景こそが何よりありがたいものだった。
 街である。
 距離はどのくらいだろう。昼間というのに車も行き交い、それなりに活気のありそうな雰囲気である。中心部と言えそうな所にはビルが立ち並び、こちらから見て左側は緩やかな湾となって、海に面した公園や、倉庫街が広がっているようだった。
 港湾都市と言えばいいのだろうか、ひとまず、おおまかな方角だけ確かめ、別ルートで近づいてみる事にする。
 太陽が出てるうちなら、おおまかな方角だけは判りそうだ。日が暮れる前には街に着きたいな、と酷く疲れた気がする足を持ち上げてまたゆっくり歩きはじめた。

   ◇

「ついた……」

 やっと森の切れ目というか、人里につながる道路が見えた。人家も見える。
 どうやら山間の住宅街のような所に出たらしい。
 ぐったりとへたりこむ。
 空を見ると既に夕方。
 木苺とか見かける度にちょこちょこ食っていたものの、さすがに腹も減る。カロリーが足りない気がした。
 とはいえ、どうなのだろうか……疲れているのは精神的な部分らしく、体は妙なことにあまり疲労を感じていなかったりする。3時間以上も道無き道を山歩きすれば、成人男性でも余程鍛えてない限り疲れは感じると思うのだが。
 そのあたりの感覚の違いというのがまた少々気持ち悪い。脳が体の動かし方を理解していないような気さえする……考えるどつぼにはまりそうなので、これも考えないことにする。

「さて、とりあえず交番にで……も……?」

 行こうとして、俺は自分の今の容姿を思い出して頭を抱えた。

「どこの世界に羽根生やした子供がいるんだよ……身分証明だって出来ないし、前とは見た目も全く違うし……」

 住所不明、戸籍不明、世界に類を見ない奇形を持った、保護者もいない子供である。
 最悪の場合、闇社会で流通ルートとか、どこのバッドエンドですか。いやいや、さすがにそれは物語だけの話だろう……きっと。いや、多分。
 悪い方向に考えるとキリがない。
 ただ、この見た目で目立ちたくもない。

「人目を忍んで家族に連絡、かね?」

 何しろ格好も普通に恥ずかしいのである。
 翼を動かした時に、上着の背中は破れて、結んでいるだけの状態。
 泥で汚れたジャージに、靴など当然ないので泥だらけの靴下。
 背中から生えてる白い羽根。
 どこの研究所から逃げ出してきたの? とか言われそうだ。ライトノベルなら。
 そんな事をつらつらと考えながら、意識して人家から距離をとって歩く。
 時間としてはもう夕方を過ぎて、暗くなりかけている。
 先ほどまでちらほらと帰宅する小学生が見えたのだが、そろそろ夕食と団欒の時間ということなのだろう。
 実のところ。

「飯の臭いが漂ってきて腹が……」

 ぐう、である。何ともせつない。空腹時に、この美味そうな臭いせつない。マッチ売りの少女も確か、空腹なのに七面鳥を食べる家庭を夢見ているなんて描写があったっけ……判る、判るぞ少女よ。食いたいなぁロースト七面鳥。中はジューシー、外はカリカリ。バジルとオリーブの香りがぷーん。ナイフでモモを外して大胆にがぶり。皮がバリッと音を立て、口の中に広がる肉汁がじゅわわ。

「……うぐぁ、とんでもないものを想像してしまった。腹減った……もう、性犯罪者のロリペド野郎でもいいから、今の見た目に釣られて飯くれんだろうか……」

 もっともそんなのが実際に襲ってきたらねじり潰すが。何をとは言わない。ふひひ……ああ、腹が減りすぎて思考が乱暴になっている。
 自己主張を繰り返す胃袋を抑えて、人気のない公園があったので、とりあえず水で腹を満たす。日本はすばらしい、水道水が飲み放題だ。涙が出そうになっているのはきっと気のせいだ。
 とりあえず水分補給したせいか、多少は余裕がでてきた。
 一つ思った事があり、公園に設置されている自動販売機の下をよーく見る。普通なら懐中電灯で照らさないと見えないところだが、目をこらす。発見。そこらへんの枝で手繰り寄せる。
 10円硬貨をゲットした。100円硬貨を2枚ゲットした。本当は届けないと遺失物横領……だったか、になるのだが、非常時なので堪忍してもらう。
 自分自身でよく判ってない部分も多いのだが、どうもこの子供ボディ、やたらスペックが高い。
 夜目が利くわ、力強いわ、スタミナはあるわ、人の気配だの臭いにも敏感だったりする。
 野生動物にでもなってしまった気分だ……羽根生えた妖怪とでも思えばおかしくないのかもしれない。妖怪……自分の事をそんな風に思える時点で段々俺の常識も壊れているようだけど。
 ともかく、使えるものは使う。
 何よりこれで電話が使えるのが大きい。
 というわけで早速公園の公衆電話で、硬貨投入。自宅の電話番号をプッシュプッシュ。
 しかし、いまだにこの昔ながらの緑色公衆電話が残っているというのは懐かしさをそそる。

「携帯が出回ってからはめっきり見なくなったからなー」

 今となればこの電話ボックスのべたべた貼られている、教育に非常に悪いピンクチラシも懐かしい。
 プッシュし終えると、数秒の時間の後こう言われた。

「あなたがお掛けになった電話番号は、現在使われておりません。電話番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい」

 心臓が早鐘を打つ。

「……間違えた?」

 再度硬貨を入れてゆっくり口で確認しながらプッシュ。

「あなたがお掛けになった電話番号は、現在使われておりません。電話番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい」

 動悸が止まらない。それなのに顔から血の気が引くのが判った。
 三度、四度とかけ直す。頭で番号が間違ってないか、思い出しながら。
 しかし、つながらない。
 隣近所の……小学生の時からの幼馴染、腐れ縁といってもいいかもしれない。奴のところに電話をかける。急に思い出したのだった。
 今度もつながらなかったらどうしようか、と少し指が震えた。
 数秒待つと、電話のトルルルというコール音。
 大きく息を吐いた。やがて、ガチャと音が響き相手が出る。
 
「はい、溝呂木です」

 若い女性の声ではっきりそう言われた。

「溝呂木さん……ですか?」
「はい、そうですよ? お間違えでしたか?」

 すいません間違えました、と言って切ったが、声はかすれて届かなかったかもしれない。
 動悸が激しくなる。
 冷や汗が止まらない。
 ふと目が備え付けの電話帳に留まった。
 探す。
 覚えている限りの近所の新聞屋の名前、工務店の名前、工場の名前、魚屋の、小さい服屋の、行きつけの喫茶の、よく買いものに行くスポーツ洋品店の、腐れ縁の友人が大好きなゲームセンターの──
 一致する店が存在しなかった。
 それどころか、以前住んでいた、町の名前そのものが見当たらない。
 判らない。何でどうしてこうなったのかが判らない。得体の知れない恐怖がこみ上げてくる。現実逃避すらできなかった。
 唯一つ判るのは。

「……はは。ははは……本格的にやばい」

 人との繋がりが何一つない、本当の意味で孤独という事だった。

   ◇

 気が付いたら、最初目を覚ました時と同じ場所に戻って来ていた。
 顔はぐちゃぐちゃで涙だか汗だか鼻水だか判らない。不快感も感じるけどどうでもよくなってしまっているようだった。

「……ああ……あー、はぁ……」

 なんだか、頭がぐらつく。池の水に顔をつけた。冷たさが染みる。
 顔を上げ、後ろを見れば俺と唯一つだけ、繋がりのあるはずのもの。なんともありきたりな布団。探索する時に枝に干しておいたものが目に止まる。
 その月明かりに照らされた青白い布団が、なんともシュールで皮肉で滑稽に思われて。

「……ああ、本格的に駄目だ。精神的に病んでそうだな俺……ぷっ……くくッはッ……ぎゃははは!」

 笑いがこみ上げてきた。
 腹が痛くなるほど地面を転げまわって笑って、笑って、笑って。
 真っ白な羽根がドロドロになるまで転げまわって。
 発作のように止まらない笑いの衝動が収まったのは、池にダイブして一通り泳ぎまわった後だった。
 魚くんたち驚かせてごめん。おいちゃんも疲れてンのさ。
 冷たい水の中でぷかぷか浮かびながら月を眺める。
 眺めながら考える。
 なんとなく、あえて考えなかった事を考える。

「俺の名前……なんだったけかなー……」

 アルファベットで3文字、漢字で1文字だったと思った。
 ただ、いくら思い返しても、墨汁を垂らし、拭きとったかのように曖昧になってしまう。残るのはぼんやりとした汚れのようなものだけ。
 年齢も同様だった。
 気付かないようにしていた。でもここまで考えるとどうしても気付いてしまう。
 記憶の中のサバイバルゲームマニア、ずぼらで適当な親父殿も。
 うってかわってインドア趣味でドラマに一喜一憂する、妙にホットケーキが上手い母も。
 子供の頃からエアガンで遊んでいたらいつの間にかガンオタからアニオタへ変異していた隣の悪友も。
 記憶はあるのに、思い出がない。顔も思い出せない。言葉は思い出せるのに。
 その顔は思い出そうとしても、水彩絵の具で描いた絵に水をぶちまけたかのようにぼけてしまっている。

「……ああ、うつだしのう」

 ごぽんと池に潜ってみる。沈む、沈む。あまり深いわけじゃないが、このまま沈めば底なし沼のように飲み込んでくれないだろうか。
 このボディだと水の中でも隅々まで見渡せる。
 水底でザリガニが威嚇していた。指を目の前に出すと挟もうとしてくる。かわしてつつく。挟もうとする。かわしてつつく。かわしてつつく。逃げようとするので背中をキャッチ。捕まえた。
 卵を大事そうに抱えている。声が出せるなら「しゃぎー」とでも言い出しそうな感じで怒っている。
 なんだか力がいろいろ抜けた。
 ザリガニを手放した。
 水面に顔を出して息を吸い込む。
 手のように自在に動かせるようになった羽根でぱちゃぱちゃと泳ぐ。バタ足の要領だ。バタ羽根?
 水から上がって翼を何度か勢いよく羽ばたかせると水気が飛んだ。絞った上着で体を拭う。
 開き直った。
 そもそもそんなに深く悩むのがとても苦手な方なのだ。多分。俺はそんな性格だった。
 落ち込むだけ落ち込んだら後は寝るだけ。
 ひっかけておいた布団を草の上に敷き、虫除けの松葉を周囲に散らす。
 明日は早くに起きてみよう。
 そんな事を思いながら、すっかり馴れた翼にくるまって、上に布団をかぶる。。
 今は涼しいようだからいいけど、夏は暑苦しいかもしれない。そんな他愛もない事を思いながら眠りについた。



[34349] 序章 一話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/05 12:22
 起き抜けの風景が三度とも同じであると、さすがに夢オチだったという現実逃避も成功しない。

 そんな事を思いながら目覚めた朝だった。憂鬱さを感じる。
 思い切り伸びをして体に目覚めてもらう。空はまだ薄暗く、朝もやがかかり、空気はひんやりとしていた。
 気の早いキジがどこかでキェー、キェーと威勢のいい声をあげている。
 私はため息を一つこぼした。
 昨日は混乱して騒いで泣いて寝て、何とか感情は落ち着いた。根っこのところでは落ち着いてないけれど……切り替える。無理にでも。今は置いておき、今日やること、やるべきことを思い浮かべる。

「衣、食、住。それに情報か」

 考えてみたら、昨日見た、港湾都市っぽい街の名前も確認していなかった。本当にせっぱつまってたようだ。
 今自分がどの場所に居るかぐらいは確認しないと。いや、ここは本当に日本なのか。日本に良く似たパラレルワールドとかの方が余程安心する。
 ……パラレルワールドとか、本当に頭が湧いてる。こんな体になってる以上、多少湧いても仕方無いとも思うが。
 何となく空を見る。朝焼けに染まる雲が細くなびいていた。は、と浅く息を吐く。
 とりあえずの方針は決まった。まずは──

   ◇

 前方のブロックの壁に隠れて息を殺す。
 周囲からは生い茂るツツジに隠れて、この小さい身は周囲からは完全に見えなくなっているはずだ。
 出勤する父親に、子供を送っていく母親。見かける子供は幼稚園か保育園、あるいは小学生が多い。年齢が高くても中学生といったところか。
 昨日確認した住宅街は、予想した通りの家が多かったようだ。
 山に近く、新築が多く、道に沿って一戸一戸の土地が区画分けされていた。
 それぞれの土地そのものはやたら広いというわけでもなく、恐らく都市計画で整備された分譲地なのだろう。
 こういう場所は若い夫婦が集まりやすく、当然子供も多くなる。さらに小さい子供は成長が早く、衣服などは安いものを買って、サイズが合わなくなったら捨ててしまう、なんてことも多い。狙い通りである。
 やがて、人通りが少なくなり、全く人が居なくなったのを見計らい。ダッシュ! 目当てのものをかっさらって、そのまま走り去る。
 50メートルほど先の森に向かい獲物を抱え、走る走る。
 森に飛び込み、先にマークしておいた安全地帯──大きな木のウロがあり隠れるのに調度良かった、場所まで行き着き、大きく息を吐いた。

「見られないでよかった……」

 何せ今の自分の格好といったら、ヨレたジャージの下と、すりきれたソックス。上半身は上着というよりボロ。ついでに翼付き。こんなのが後生大事に半透明袋を抱えて全力疾走してる姿とか見られたら、なんというか……死ななくても大事なものが磨り減ってしまいそうだった。既にいろいろ遅い気もするが、せめて羞恥心だけは人並みにとっておきたかったのだ。
 息を整え、さらった獲物を確認する。
 そう、今日はどうやら燃えるゴミの日らしかった。
 選んだ獲物はこの、服がたっぷり詰まったゴミ袋。子供向けの服もそれなりに詰まっていそうだ。
 ほくほくと中身を確認し、使えそうなものを選り分けていく。

「よーしよしよし」

 手をすりすりしながらゴミ袋を漁る。ふとそんな自分の姿を想像してしまい、最後の確認とばかりに周囲を見回した。こんな姿見られたらちょっときつい。
 よし、ともう一つつぶやき、中のものを整理していく。
 ……なかなかの物がゲットできた。
 大人の大きさのワイシャツ、サイズが合わなくなって捨てることになったのだろう、あまり汚れもない。昔のものを掘り出したら首回りでもきつくなっていたのだろうか? うん、想像するのも野暮な話だった。
 普通のTシャツ3枚、子供にサイズが合わなくなったようだ。デザインが……某ネズミーのキャラ物なのがちょっとアレだが。今の身体にぴったりなのが悔しい。
 それに未使用のタオルが出てきたのには驚いた。貰い物で余ってしまったのだろうが、なんとも勿体無いものだった。有り難く使わせてもらうが。
 嬉しかったのは運動靴か。少し大きいが、十分履ける。あまり汚れてもいないのに、裏にガムがついたくらいで捨てられてしまったらしい。ともあれ、履物は嬉しい。今まで靴下で外歩きだから、大分足に傷も出来てしまっていた。早速ガムを枝で削り落として履かせてもらう。
 ……さらには妙なものも大分出てきたというか、使用済みと強く自己主張しているかのような、何かカペカペになっているセーラー服とか大人用スクール水着とか。蝋のついた麻縄とか。うんまあ、地面に埋めて証拠隠滅しておこう。というかこういうものはせめて紙袋で隠してからゴミに出したほうがいいと思う……うん、ゴミ泥棒が言えることじゃないな。
 少々げんなりとしつつも整理を終えた、ひとまずこれで身支度を整えることができそうだ。一発目のゴミ袋でこれだけの当たりというのも相当に運が良かった。衣類が調達できるまで数回は同じことを繰り返すのを覚悟していたので幸先の良さに鼻歌が出てしまいそうになる。
 もはや、上着というよりボロか布切れと形容しなくてはならないジャージを脱ぎ捨て、ワイシャツを羽織る。この大人サイズのワイシャツなら、翼をきっちり折り畳めば、ぎゅっと──

「お……うあ、痛てててたぁっ」

 羽根が攣ってしまった。痛みを誤魔化すためにネタでも口にしたくなる。突発的に頭に湧いた厨二ネタが漏れ出てきた。

「ぐぅ……白き翼を持たぬものには判るまい……」

 ……痛みは紛らわせたものの。別の意味でのイタさが襲ってきた。
 周囲に誰もいない事は確認したというのに、意味もなくキョロキョロ見回し、赤面してしまう。いやホント、何言っているのか。

   ◇

「うし、これでよし!」

 身支度を整え……ズボンに類するものは無かったので元のヨレたジャージのままだが、せめてもと、くっついた埃だのゴミクズだのを綺麗に払って、準備は完了。ぶかぶかのワイシャツで翼を隠すことも何とかできているようだ。力を入れ、ぎゅっと縮こまっていないといけないので、それなりに大変だが、背に腹は代えられない。
 思わず走り出しそうになってしまう足を押さえながら、早足で街につながる道路に踏み出した。
 向かう場所は高台から確認した総合デパート。征く戦場は地下一階食品売り場。
 さあ、試食品の貯蔵は十分か?

「……はっ!」

 何か、またもやイタい思考が混入した気がする。今日は厨二日和とでも言うのか!?
 身体に影響されて精神年齢が下がっているんだ。そうなんだ。絶対そうだ。理論武装は完璧だ。嘘だごめん。
 頭をぶんぶん振って、とりとめのなくなった思考を追い出す。
 最初は落ち着いて歩いていたものの、自己主張を繰り返す胃袋には逆らえず、途中から駆け足になってしまっていた。
 気付けば狙いを定めていた目的地に到着している。

「……はらへった……はらへった……はらへった……」

 ヨダレが口から溢れそうになってしまう。
 なにやら凄い顔をしていたのかもしれない。
 目の合ったサービスカウンターの人に、全力で視線を逸らされた。
 ああ、まあいい。そんなものは些事だ。
 なにしろこちとら、ココのところまともに食べてない。
 地下へ続くエスカレーターを下りると、試食品と思わしき肉を焼く香りが漂う。胃袋が際限なく自己主張を繰り返した。

 俺はごくりと口内に溜まったヨダレを飲み込む。息を整え、おもむろに「食欲」という名の人間三大欲の一つを全力で解き放った。

 台風一過。
 まさにその四文字がふさわしいかもしれない。
 多くは語らない。ただ、一言だけ。

「デパ地下の従業員さん、試食荒らしの事、本当にごめんなさい」

 自覚があるだけに申し訳ない気持ちになる。デパートを出た後、向き直って頭を下げた。いずれ金持ちになったら、このデパ地下でたっぷり散財しよう。そうしよう。
 やっと満たされた腹を抱え、久しぶりに余裕のある気持ちで散策をする。
 メインストリートというほどではないのだろうが、それなりに広い道に街路樹が植わり、ぽつぽつと散発的に小さな店が並ぶ。商店街があるとしたらその端のあたりなのだろう。腹ごなしにのんびり散歩をするにはぴったりの場所だった。
 ただ、先ほどは食に夢中だったのもあって気にしなかったのだが、道行く人がちらちらとこちらを見てくる。と言っても、犬に散歩させているお爺さんとお婆さんくらいしか見かけなかったが。
 やはり目立つのだろう……ルックスがルックスだ。真っ白で銀髪でオッドアイ。小汚い格好。俺もそんなのを日本で見かけたら驚く。
 ふと思い立って、人通りの多そうな方に向かう。デパートにくる途中、ちらっとメインストリートっぽい通りを見かけたのだ。
 しばらく歩き、その通りに出る。設置されている時計を見ると昼前だったのだけど、かなり人が多いようだった。
 自分自身がどのくらい目立つかを把握しておこうかとも思い、しばらく何食わぬ顔で歩いてみる。

「う……」

 呻いてしまった。その通りを歩き始めて数分にも満たない時のことだ。
 どうにも視線が刺さる刺さる。以前はこんな経験がなかったせいだろうか、一目散に逃げたい衝動が心でもたげる。
 とはいえ、変な格好の外人の子が歩いてる、程度の認識で済ませてくれているらしく、一番緊張したお巡りさんの傍を通る時も、訝しげな顔をしたもののスルーしてくれた。
 日本人の事なかれ主義に感謝。
 突き刺さる視線を我慢して歩いていると、やっと、というかようやくというか……現在地が判明した。
 いや道路の案内標識に「海鳴駅2km」と書いてあるわけで。
 よくよく見れば、道路沿いの標識にも市名が書いてあるわけで。
 ……俺は本当に今の今まで余裕を無くしていたらしい。というか自分の間抜け具合に膝が折れそうになった。頭を抱えて振り乱したくなった。この調子だと、何か他にもあほな事やってんじゃないのかと心配になった。
 と、ともあれ、次のことを考えることにする。思い悩んでも仕方ない事はあるのだ。
 衣食はなんとかなったので、次は住だ。
 これはあまり心配していない。季節はどうも春と夏の合間らしく、野宿もそう難しくないシーズンのようだった。長い目で見ればどうかと思うが当座は何とでもなるだろう。
 ……我ながら、なんだかだいぶ開き直ってきている気もした。
 とはいえ仮のねぐらは必要だ。いつまでもあの池の近くで虫に耐えながら寝起きはしたくない。ひたすら足で探そうかとも思ったが、ふっと思いついたこともあり、前に高台から一望した時に見えた銭湯に向かう。目当ては昨日拾ったなけなしの小銭でひとっ風呂……といきたい所だが違う。ああ、コーヒー牛乳が恋しい。腰に手を当て、親父飲みしたい。いや童心に帰ってイチゴ牛乳もなかなか……
 と、思考が逸れた。狙いはその高ーい煙突にある。昔ながらの銭湯の近所の子供なら一度や二度はよじ登って怒られたであろうあれだ。街の中から町並みを一望すれば、あるいは雨風のしのげそうな廃屋でも見つかるかもしれない。

   ◇

 結果から言えば、想像の斜め上のものが見つかった。
 しかし、煙突に登って見回していたら、銭湯のおっさんに見つかってしまい、こっぴどく怒られたのは置いておく。
 気を取り直し、見つけたお目当ての方に向かった。
 方向としては元来た方向、俺が最初から居た山林の方向だ。
 山と街の中間のような場所、通りから少し外れた側道に、周囲の田園風景とはまるで場違いなようなそうでないような、こんもりとした雑木林がある。
 周囲は錆び錆びのフェンスに囲われ、とりあえずの境界を作っていた。敷地の境界を示すためのものだろうそれはところどころで朽ち果て、崩れているところもある。
 入り口と思わしき鉄の門には、年代ものの鎖が張られ、封鎖されている。あちこちにひび割れが入り、雑草が生い茂るアスファルトの道がその雑木林の中に続いていた。

「放置されて、ウン十年は経ってそうだな……こりゃ」
 
 おじゃましまーすと小声でつぶやいて、1メートル少々の高さの門を飛び越える。
 もはや山道と言ってもおかしくないようなボロボロの道を歩く事5分。ちょこちょこ曲がりながら、300メートルも道なりに歩いた頃だったろうか。建物が見えてくる。

「……到着ーと。しかしこりゃまた……雰囲気のあることで」

 思わず一人ごちてしまう。これは無理もないと思う。じゃりじゃり音を立てながら見て回る、靴を拾えて本当によかった。
 塗装も落ち、虫食いのように穴が開いているトタン屋根。劣化してめくれ上がっている外装。ところどころで剥げ落ちて鉄筋しか残っていない場所すらある。
 窓ガラスがかろうじて残っているのが奇跡のようなものか。床には落剥した破片だのなんだのとわからないものがビスケットのカスのように散らばっている。
 最近流行りになっているらしい、廃墟巡りのコミュニティサイトに投稿したくなるような、立派な廃工場だった。
 工場そのものの敷地は広く、かつては相当大口の仕事もしていたのだろう事は想像できる。今は工場の中身はがらんどうなので、どういった業種かは定かではないが。
 ともあれ。

「あてが外れた……」

 ちょっと落胆する。遠目で見た限りではそれなりにボロくも屋根、壁が見えたので、雨風はしのげるとは思っていたのだが。間近に来て見ると劣化が酷い。
 雨でも降ってきたら、神社の軒下でも借りるか? いや、考えてみたらこの子供ボディなら泣き落としで泊めてもらえるんじゃ? 泣き落としとか正直ない、却下。
 ……などと益体も無い事をつらつらと考えながらも、工場の探索を続ける。
 と言ってもそう複雑な作りになっているわけでもなく、何のひねりもない箱型の建屋なのでそう見るところもないのだが。
 外に出て、ぐるっと周ってみると、どうも最初に見えた一番大きい建屋だけではなく並行して二の字を描くように工場建屋が並んでいるようだった。
 ふと、さらにその奥にある小さな建物に目を惹かれる。
 もしかしたら、工場の事務所あるいは休憩所として使われていたのかもしれない、工場の建屋より随分手のかかってそうな小屋がそっくり残されていた。
 あてが外れたなんて言ってごめん。これは大当たりだったかもしれない。小走りに近づいて確認してみた。
 入り口の戸はさすがに体を成さずに外に倒れこんでいるものの、おもむろに覗き込んでみれば、6畳ほどの土間……というかコンクリートが打ちっぱなしになっているだけだが、その中央に昔のダルマストーブが鎮座し、壁際には食器棚らしきものが置かれ、その近くに木製の椅子が無造作に積み重ねてある。
 土間の奥には板張りの床になっている部分が4畳ほど。仮眠用のスペースのようだ。
 うん。間違いなくこの工場の休憩所だったようだ。小さい作りのためか、屋根のトタンも幸い目立つ穴は開いていない。壁にいたっては、憩いの施設だけはと奮発したのか、鉄筋コンクリート作りの上に板を張っている。
 よし、よしとつぶやく。これでねぐらの問題もなんとか目処が立ちそうだった。不法侵入には申し訳ないが目をつぶってもらうとしよう。元々が放置されてる物件でもあることだし。
 そして、ねぐらが決まれば、やるべき事はいくつも思い浮かぶ。

「まずは掃除……だなぁー」

 コンクリートの床に積もった凄まじい埃をうかつに散らしてしまい、むずむずする鼻を押さえてつぶやいた。
 工場に掃除に使えそうな道具でも落ちてるといいんだが……
 いざとなれば、箒はそこらの枝でも束ねればいいし、雑巾は朝拾ったゴミの中から使えそうにもない服を使えばいい。
 昨日とは一転して上機嫌な自分に苦笑が出そうになる。いや、でた。

「くふふ」

 思ったより気持ち悪い含み笑いだった。
 どうやら俺はトム・ソーヤーかロビンソン・クルーソーの真似でもしていれば、こんな訳の判らない状況でも楽しめるらしい。
 まったくもって現金な事この上ない。いや、多分いろいろありすぎて感覚も麻痺しているのだろう。
 ただ、落ち込んだり思考のループに嵌るよりはずっと良いに違いない。
 今のことだけ考えていれば良い、考えるとしても明日まで。
 俺はそう自分に言い聞かせ、工場内に何かないか、物色を始めた。

   ◇

 運良く……そう本当に運が良かったのだろう。
 その場所を確保できてからは、掃除したり、痛んだ部分を修理したりで瞬く間に二日が過ぎてしまった。
 それなりに状態が良かったと言っても、元が廃屋なのには違いないので、手がかかることかかること。それなりにお金があればきっちり修理してやりたいのだが、今は廃工場に転がっている雑多なものを組み合わせてなんとかするしかない。
 例えば、錆びて穴が空きはじめている天井には工場の建屋で落っこちていた丁度いいトタンの破片を上から張り合わせている。接着剤はあちこちで使われていた樹脂を煮溶かしたものだ。
 窓も一応あるにはあるが、窓ガラスが全損の状態だったので、これも工場内のまだ無事だった窓を移植。サイズが合わなかったので木枠ごと打ち付けてしまった。不格好だけどとりあえず雨風はしのげる。
 床板はかなり朽ちていたので、全て剥がしてしまった。今はコンクリートの地肌がむき出しになっている。拾ってきたダンボールを数枚敷いているが、いずれ無事そうな板材でも見つけたら張るのもいいかもしれない。
 工場ではかなりの掘り出しものがあった。工具箱がそのまま見つかり、開けてみれば酷い錆びの生えた工具もあったものの、それなりに使えるレベルのものもあった。例えば今、頑張って研磨している小刀もその一つだ。幸い、砥石も普通に見つかったのでこうして研いでいる、しかしまあ……ここまで錆び錆びだったものを実用レベルまでするというのもなかなか手間の要ることではあった。
 一時間ほども費やし、それなりに研がれた小刀を懐に入れ、食料調達に行くことにする。
 近場のデパートはここのところ試食品を散々荒らしてしまったので、さすがに行きにくい。というかそろそろ目をつけられているようなのだ。見た目あからさまに怪しい子供なので、目をつけられないはずもないのだろう。姿を見せると、試供品で出しているものをささっと隠されるようになってしまった。
 ……現実は厳しいのである。
 そんな事もあり、今日は野で食料調達を考えていた。
 
   ◇

「無駄無駄無駄無駄無駄無駄ッ!」

 どこかで見たマンガの真似をするがごとく、ラッシュを叩き込む。その陽光照り返す水面に向かい、ひたすら、殴る、殴る、殴る。

「URRRRRRRRRRRRRRYッ!」

 段々楽しくなってきた。水しぶきが舞う、あまりの騒がしさに木に留まっていた鳥たちも逃げ出した。
 そのくらいハイテンションで暴れるのが効率がいいのだ。この漁は。誰かがこの姿を見ればなんて考えない。考えないったら考えない。
 川の上流からそうやって暴れながら下流にゆっくり移動していけば、魚が追い立てられる。しかし下流は前もって石で堰きとめられており唯一の逃げ場所には網。
 追い立て漁と言われるやり方だ。と言っても正式な名前なんかではないのだろう。似たような漁にゴリ漁なんてのもあったはず。こちらはゴリ押しの語源ともなっているのだとか。ちなみに網はなけなしの拾った硬貨で買ったダイ○ーの洗濯ネットである。洗濯機の中で盛大に回されるのが前提の作りなので丈夫さは信用がおける。
 追い込みが終わって、網を回収してみるとなかなかの成果だった。知識だけで、やってみるのは初めてだったが上手くいったようだ。

「んー、ヤマメ、ハヤ……おお、こりゃカジカか。ニジマス多いな、放流でもした後だったか?」

 あの最初に見た池の上流がこんなにいい感じの渓流になっていたというのはありがたいと同時に思わぬ誤算でもあった。
 こういったいい感じの川は大抵すでに漁協で管理されていて、今やっているようなことは露骨に漁場荒らしなのである。地元の漁業関係者さん、ごめんなさい……うん、見つかったら逃げるか。逃げよう。遊漁料払えないし。
 とりあえず、まだ育っていない魚は放して、それなりの大きさの魚だけ頂くとしよう。
 魚は内蔵から傷むので、ワタとエラをその場で抜いて、クマザサでくるむ。防腐効果があるので生ものは保ちが違うのだ。
 ついでに、川辺に生えているクレソンと行きがけに目についたマダケの筍を摘んで帰る……コゴミも発見。いやはやいい時期だ。む……あれはウドか。ゲットゲット。
 ここでも洗濯ネット大活躍である。袋代わりに丁度いいのだ。食材が蒸れないし。
 一通り山の幸を収穫し、ほくほくと帰宅したのだが。

「塩買えばよかった……」

 調味料がないことを思い出し、地に手をついてうなだれていた。がっくりである。
 あの漁法を思い出したとはいえ、なんで洗濯ネット……いや、これはこれで今日は大活躍だったんだが……
 
「うぅ……俺の馬鹿……」

 外を見れば、真っ赤に空が焼けていた。
 見事なまでの夕焼けを背景に、カラスがカアカアと鳴いている。
 それがまた馬鹿にされているようで、石を投げてやったが。
 ひらりと避けるカラス。
 ……俺がノーコンなんじゃない。カラスがハイスペックなんだ。
 そんな事を思い、自分に納得させるものの、口に出したら何か負けるような気がして、考えるだけにとどめた。
 とりあえず、味気ないけど腹ごしらえをしよう、残りの魚は干し魚にでもして、街に出ることにしよう。夜になればこの浮浪児姿も目立たないだろうし。ワンコインの塩も確かあったはずだ。買ってこよう。
 ぼりぼりと頭をかいて一つため息をつく。油髪になってきて鬱陶しい。気を取り直して、ねぐらの外に作った即席のかまどに火を起こすことにした。

   ◇

「おお、また見っけ」

 今晩はそれに専念しているせいか、以前よりはるかに発見率が高い。
 前傾姿勢をとり、目を爛々とさせ、小さな小さな輝きさえも見逃さない。
 まさにハンターの心持ちである。
 やってる事が小銭拾いでなければ、それなりにサマになっていたかもしれない。
 若干、人としての悲しみを感じつつも小銭の輝きは見逃さない。
 しかし、この視線の低さと高スペック視力があってのものかもしれないが、探してみると小銭ってのはかなり落ちてるものではある。
 絶対に人には見られたくないので、夜を待って出陣すること3時間。総計すると1000円程も見つかってしまった。すごい。
 これだけ虱潰しに探すとしばらくこの一帯は小銭はないだろうけど。
 拾得してばかりでは何なので、ゴミ拾いも兼ねている。美化運動である。ホームレスのおっさんの行動と変わらない気もするが、ホームレスという単語で精神的に落ち込みそうな気がしたので考えない事にする。

「ぐーむ……」

 背中を伸ばす。首を回す。上半身をひねってみる。背中をまくって翼を伸ばしてみる。どうもこういう時にコキコキ鳴ってくれないと柔軟したという気分にならないのはまだ以前の感覚を引きずっているせいか。ともあれ、前傾でいるのもいい加減疲れた。背筋を伸ばす。
 小さな住宅地によくある公園、街灯がぼんやりとベンチを照らしている。公園の据え付け時計を見ればすでに12時。良い子はとっくに寝る時間だった。とても悪い子なので寝ないけど。うん、自分で悪い子とか考えて少し気持ち悪くなった。水道で水分補給、ついでに顔を洗っておく。
 意識がしゃっきりしたところで、街灯の下で今晩の拾得物の確認をした。
 拾うのは小銭だけではなく、何かの役に立ちそうなものは拾っている。カッターだの、ボールペンだの、安全ピンだの、空のペットボトルだの。何かに使えそうなものは片っ端といってもいいかもしれない。
 ついでなので、ペットボトルをよく水洗いしてから、水を入れて持ち帰る。水場が近くにないので少々手間だが仕方ない。それに近くにないと言っても歩いて20分の距離なのだ。中国奥深くの、毎朝水くみに崖沿いで何キロも歩くような環境に比べればずっとマシというものだ。比べる対象が間違っている気もするが。
 しかし、この後どうするか……
 今日、どうするかではない。
 少ないながらも小銭を得ることができたので、あと同じことを二、三回繰り返せば100円ショップなどを利用しながら、なんとか生きることはできそうだ。ただし、その先。
 あえて考えないようにしておいたのだが、余裕が出てきた事もあり、これからを考えると……まるでビジョンが見えてこない。
 いっその事、この反則的な身体能力でオリンピックでも目指すか? いや、翼とか生えてたら問題になりすぎるだろう。

「あるいは切るか?」

 一瞬そんな気になったものの、さすがにそれは気が早すぎるように思える。というか医者行ったら絶対サンプリングとられる。こんな稀少すぎる例はないだろう。下手すれば、いつの間にか行方不明、ばらばらにされてホルマリン漬けに……いやいや。
 さすがにこのご時世、それはないと思ったものの、大小実験データの作成には「ご協力」させられそうではある……えーと、うん。ただの先延ばしかもしれないが、やはり人にこれを知られるのはアウトだろう。
 はー、とため息を一つ落とし、ねぐらに戻ることにした。
 人の気配を気にしながら、夜中の散歩。妖怪にでもなった気分だ。昔見たアニメを思い出す。

「お化けにゃ学校も、試験も何にもないってかー」

 ついでに仕事もない。さらには多分戸籍もない。いずれは妖怪らしく、人の驚かせ方も勉強しておいたほうがいいのかもしれない。幸い、あの廃工場はいかにも何か出てきそうでもあるし。
 そんなとめどもないことを考えつつ家路につく。
 明日あたりは、必需品の仕入れと図書館でも探しておくとしよう。借りることはできないだろうけど、読むのは自由なはずだ。考えてみたら、ここが海鳴市であるという事しか知らないし。というか情報収集は必要だって、思ってはいなかっただろうか? 思ってたな。


「……駄目だなぁ」

 頭をぼりぼり掻いて嘆息。そろそろ痒い。ねぐらを片付けている間、水浴びもしなかったから無理もない事だったが。風呂に入りたい。暖かい風呂に……いずれドラム管風呂でも作ってやると胸に決意した。

   ◇

「……なんだよこりゃぁ」

 俺は頭を抱えて呻いた。怪しまれようが構わないよもう。あうあうあーである。いっそ気が触れてしまえれば楽なのかもしれない。
 当座の必需品の買い出しを終えて、寄ったのは図書館だった。とりあえず、と手に取ったのは新聞。
 目立たなそうな席に陣取り、読み始めた時だった。
 のっけから衝撃がきた。
 1998年5月22日(金)という日付である。
 こめかみがずきずきする。確かに俺は「俺」であった時の記憶があやふやだが少なくとも21世紀には入っていたはずだ。ノストラダムスの予言騒ぎで世紀末は騒がれ、21世紀はテロが横行し、冷戦とは違った意味で物騒な時代に入っていたはず。
 過去? 時間遡航?

「ありえん……ありえん……」

 何が起きてもおかしくないとは思っていたが、リアル時をかける少女になっちまうとかどんな罰ゲームなんだよ。
 いや、いや……呻いてはいたが、逆に納得できてしまう部分もあった。
 それは100円ショップの品物が妙にこなれていないというか、まるで新しくできた業種のような新鮮さが店に漂っていたこととか。
 街行く人たちのファッションだったりとか。
 道を走る車の姿だったりとか。
 微妙な違和感は感じ取っていたのだ。人との接触を避けていたとしても。
 しかし、まあ、なんだ。
 もうこの際深く考えるのはやめた方がいいのかもしれない。
 時間遡航は不可能とか言われてなかったか? とか、体が全く違うってことは脳も当然違うはずなのに、なぜ記憶を留めておけるのか? とか。
 今度こそ、今度こそ何が起きても驚かない。驚かないったら驚かないさ。
 はは、と妙に乾いた笑いが自分の口から漏れていた。

「はあ……」

 頭を抱えたままうつむいて大きなため息を一つ。
 動揺が思ったより早く収まった事を少し訝しく思ったが、もう考えるのも面倒臭くなってきていた。
 ぱらぱらと新聞をめくり読み始める。
 おおむね、記憶と違いはない……というか、何年の何月に何が起きたとか、よっぽどの事でもない限り正確に覚えてない。競馬で一当てして大もうけとか、どこかの悪役の二番煎じも思いついたが、それこそスポーツ年鑑でもなければ、思い出せるものではない。上手くはいかないもんだ。

「むう……」

 新聞を元に戻し、気分を戻すためにトイレに。
 すれ違ったおっさんがぎょっとしていた。失礼な。一応今日は人前に出るので、午前中に服も体も洗ったというのに。臭いか? 臭うのか?
 自分で嗅いでみるが判らない。鏡の前に行ったところで理由に気づいたが。

「……ああ、見た目がヤヴァいの忘れてた」

 ここのところ人を避けていたというのもあるし、気にしてる余裕もなかったというのもあるが。
 そういえば、結構な厨二容姿だった。

「んん?」

 鏡を見ていたら、ふと違和感に気付く。
 頭頂部から右斜め前にひょろっと触覚のような髪が……

「おお、これが噂に聞くアホ毛というやつか」

 鏡みたいに細かく映すものでないと気付かなかった。わしわしと頭をかき混ぜてもひょろっと出てくる。しかし、これはアホい。目をきつくして睨み付けてみる。しかしアホい。俺はごくりと唾を飲み込んだ。

「すごいな、アホ毛の性能。何というシリアスブレイカー。どんな情景描写でさえ、最後に「アホ毛が静かに揺れた」を加えればギャグ空間にしかならないぞ」

 そんな馬鹿な事をぶつぶつつぶやいていたら随分と気分転換にはなった。
 小用を足そうとしてごそごそとジャージを下げたら暗鬱な気分になった。ため息をついて大便器に向かう。
 ……さっきのおっさんが驚いた顔をしたのは、もしかして……外国人ぽい見た目だからじゃなかったかもしれない。今になって思った。
 うん、我ながらアホなことである。

   ◇

 図書館で、食用になるキノコのスケッチや、この辺一帯の地理などをメモっていたら、閉館の時間になってしまった。
 途中で司書さんがこちらに気付いたらしく、怪しんで何かと話しかけようとしてくる。
 捕まったら、学校教育の一環ですとでも言っておこうか、欧米人に見える姿だし、勝手に深読みしてくれるだろう。きっと。
 図書館で得た知識、まずまず有意義だった。
 ねぐらに戻ってから整理しないといけないが、多分この答えで合ってると思う。

「この世界は『俺』から見てパラレルワールド」

 頭が茹で上がってそうな結論である。しかし、困った事にそんな答えが一番ぴったりくる。
 海鳴市という単語に覚えがないのも当然。地図を見たら日本の形が微妙に違っていた。
 都道府県の名前も一部聞き慣れないものがある。なんだよ犬上県って。
 歴史もちらっと見た程度では判らないものの、何らかに違いは出ているのだろう。
 何より、すとんと、面白いように腑に落ちた。
 ああ、そりゃ俺の家族も友達も街すらも存在しないのも説明つくわ……なんて。

「いや、しかし……波瀾万丈すぎる」

 すでにお腹いっぱいです。
 小説や漫画の異世界召還された連中はよくこんな状況で頑張れるな。そろそろ俺はへこたれそうだぞ? なんかもう、リスク考えてもそこらの病院に入って、記憶が変なんですーとか言って保護してもらおっか? と思いついてしまうくらい。そんな愉快な事しないけどね。

「後は、なんでこんな体なのか……だが、それこそ判らんよなぁ」

 もうそういうもんだと思うしかない。
 しばらくは細々と暮らしながら図書館通いの暮らしが続くことになりそうだ。
 いずれはまともに戸籍持って、かつてのように小さいながら店でも構えて、人並みに暮らせるようになれれば……いいなぁ。
 夕暮れに染まった道を歩きながら、ちょっとばかり黄昏れるのだった。



[34349] 序章 二話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/05 12:23
 5月も末に入った。
 明日からは6月、この時期は本当に季節の変わり目なのだと実感する。気温も高くなりはじめ、同時に雨雲がかかりやすくなった。
 さすがに何度も何度も落ちている金銭を頼りにするわけにもいかないので、最近では、海沿いの防波堤や磯で釣り客向けに飲み物や弁当、釣り餌を売っている。
 早朝、朝釣りをする人は多いので、特にかきいれ時でもある。と言っても自分で弁当など作って販売するには許可もいるし何より責任もとれない。こんな時間からやっている弁当屋さんの弁当を買ってそれを少し高く売るというだけだ。
 実のところ商売と言える程のもんじゃない。釣り人そのものの数が多いわけではなく、近くに釣り具店がないのも食べていけるほど売れないからだろう。そんなスキマ産業的な商いだが、平均して一日500円前後の収益が出るので、ありがたい限りではある。もっとも、見た目で変に思われ、最初は買って貰えなかったのだが……今は名物と化している「アメリカでは子供のレモネード販売が社会勉強になっているんだよ」とか言っておいたのが効いたのかもしれない、小遣い稼ぎを兼ねた社会勉強と思われているのだろう。
 他にも試したこととして、よく聞くアルミや鉄材の収集をしてみたことがある。ホームレスの人たちが空き缶を現金に換えているあれだ。幸いねぐらとなっている廃工場には分解すればいくらでもリサイクル可能な資源がごろごろしている。
 ただ、やはり買い取って貰えなかった。それどころか、親は何してやがるんでぇと怒られた。考えてみたら当然だったかもしれない。社会実習とでも言っておいた方がよかったか……いやいや、さすがに無理がありそうだ。戦後すぐの時代だったら子供でも鉄くず買って貰えたのだろうけど……これは残念だった。
 さらにもう少し暖かくなれば、砂浜でバーベキューなどする人が増えるだろうから、炭やガスボンベ、足りなくなりがちな調味料の売り歩きもいいかもしれない。
 売り歩きの姿を外から見たらかなりシュールだろうけど、それはもう気にしないことにした。気にしてたら生きていけない。羞恥でおまんまが食えたら苦労はしないのである。
 そんな事をつらつら考えつつコンビニに向かう。今日は弁当はもとより、釣り餌やストックしていた釣り道具も残らず売れたので、収益が大きかったのだ。たまにの贅沢として甘いものを買うというのもいいだろうと思うのだ……いや、素直に言えば甘いものが異様に美味い。舌も子供化を起こしているのかもしれないが。ちょっと前、きまぐれに半額になっていたプリンを食べた時どう表現してよいか迷ってしまうくらい美味かった。あれは癖になる。中毒になる。なぜケーキ屋がデザート専門で、食べていけるほどの商売になるかが判った。
 一度、ねぐらに戻り、売り歩き用のクーラーボックス、まあ発砲スチロール箱に布を張っただけなんだが、を置いて、近場のスーパーに向かう。
 店員に胡散臭げな顔をされながらも買った。ちょっとだけお高い、某なめらかプリンである。先ほどから翼がうずいて仕方がない。感情に反応するとか犬の尻尾か? そりゃ店員に胡散臭げに見られるというものだ。関係ないけど。
 どうせなら見晴らしの良い場所で楽しもうと、頭の中で地図を思い出す。

「あそこが良いか」

 そうつぶやき、鼻歌でも唄いたくなるような気分で、ちょっとした高台になっている場所……八束神社に向かう途中の事だった。

   ◇

 ネズミ嫌いの猫型ロボットの出てくる国民的アニメ、あれに出てきそうな空き地が通り道にある。そりゃもう見事な空き地なのだ。工事に入る前に企業が潰れたりでもしたのか、古い建材がちまちま積まれ、定番である土管も見事二段重ねになっている……それがどうなるかというと、近所の子供にとって、十分すぎる遊び場になってしまうのだろう事は想像に難くない。
 積まれている建材とか、少し危ないだろうと思って、以前通った時に見てみたのだが、誰かが既に対処したようで、崩れないように固めてあったりしてあって、無用の心配だった。誰がやったかは知らないが、親御さんの誰かかもしれない。案外、子供の事を見ていないようでよく見ているものだ。

 ちなみに、末日である今日は日曜日である。テレビでは子供達がインドア趣味にばかり走っているような事を嘆き悲しんでいるが、そんな事はない。空き地で今日も元気に子供が遊んでいた。微笑ましくなるものの、遊ぶというには少し騒ぎが大きすぎないか? と思う。
 ちらっと覗き込んでみると、どうも空き地の領有権を巡っての小競り合いの最中だった。小競り合いというか喧嘩ごっこというか。一対一でお互いの陣営が人を出して試合のような喧嘩のような事をしてるようだ……ああ、そういえば今の時代ってK1全盛期だったか。綺羅星のような華のある格闘家が集まっていた時代だった。こちらの世界でも存在するのはスポーツ新聞で確認済みである。

「お、おお! ツバサ君だ。ヘルプ頼むヘルプ!」

 ぼーっと思い出にふけっていたら、お声がかかってしまった。見れば、先日ちょっかいをかけてきた二人組の子供に見つかってしまったらしい。めざとい。
 確か背の高くてひょろっとしたのが安田で、背は小さいが元気にちょろちょろしてるのが南部だったか。何とはなしに1600メートル走でも走らせると良い気がする二人だ。
 この二人に会ったのは二日前の事だった。場所は同じくこの空き地。
「おおお、ド○えもんそのままだ」と土管に乗ったり、中をくぐったりして悦に入っていた時である。この二人はどうも同年代のリーダー的な存在のようで、自分たちの遊び場である場所に得体のしれない外人の子供が居ることで警戒したのだろう。第一声は「おまえ誰だよ?」だった。なかなかに攻撃的なものである。
 見た目の年は同じくらい。となると、小学校三年生くらいだろうか。ランドセルを背負っているところを見ると学校の帰りに寄ったようだ。
 のらりくらりとはぐらかし、子供扱いしていると何かスイッチが入ったのか「なめんなーッ」と言って小さい方が突進してきた。がっぷり上手を取ってがぶり寄り、寄り倒し。いや、頭を打たないように手を挟んでる。残った方が慌ててしまって行司の真似事をしてくれなかったのが残念だったが。その後も童心に帰ってしばらく遊んでいたのだ。
 思えば、人恋しかったのかもしれない。名前を聞かれた時も、うやむやに誤魔化してさらっと去ることもできたのだ……たとえ、思いつきの名前でも呼んでほしいと思ってしまったのは。
 思いついたのは白井ツバサという名前だ。三秒で考えた。ネーミングセンスについては自分でも有り得ないレベルだと思っている。今更だった。親が日本の某サッカー漫画が好きだったとでも言えばいいだろうか。

 しかし何とも血気盛んと言える……この安田と南部のツートップは自分たちの遊び仲間を率いて、上級生と遊び場の権利を賭けて対決しているようだった。聞いてみると相手は二年歳上らしい。体格差もあってなかなか勝てないようだ。聞けば、すでに10戦連敗。下級生グループは意地と負けん気でやってるようなものらしい……上級生は完全に遊んでいるというか、それに付き合わされている形だった。
 
 しかし、ヘルプ……ヘルプね。
 正直俺が混ざって大暴れというのもとても大人げない。
 ……うんうん、盛大に大人げない振る舞いをすることにした。遊びのようなものだし。大体ヘルプを請われたからには答えねば男が廃るというものだ。身体は……いや何も考えまい。

「先生頼ンますぜっ!」

 ひょろっとした安田が俺の後ろに回り、声をかける。
 お前はどこのチンピラか。そういう台詞は「黒い男であった」なんて形容詞の付くおっさんにでも使うべきなのだ。
 さて、大暴れと言っても、二人抜けばいいようだ。どうも五人制の勝ち抜きのようで、今のところ二敗一勝のようだし。ルールを考えたやつは空手漫画とかの影響も受けてそうだった。審判役の子が先鋒次鋒とか言っている。
 初めっという合図と共に一人目が奥衿と袖を掴んできた。あれ? 柔道? おお、綺麗に大外刈りをかけられた。しかも、怪我させないようにこちらを浮かせてる。本当に五年生かこいつ。と言っても、技をかけられてる最中にそんな長考ができるくらいに余裕でもある、体のスペック云々と言うより、脳の作りも違うというのだろうか……考えても仕方無いか。
 相手の軸足に、にょろっと右足を絡めてやるとバランスを崩して倒れる。マウントポジションになってから頬をつまんで引き延ばす。上上下下左右左右とコナミコマンドを引っ張った頬に叩き込んでいるうちに10カウントが終了。予想外の行動にやられてる方も唖然としていたようだ。勝利。右手を高々と上げ一言。
 
「うぃなー」

 気が抜けそうな勝ちどきなのは勘弁してほしい。真面目にやってたまるか。
 二人目の相手もまあ、適当に遊んで勝った。というか体格も小さいのにこの身体はスペックが高すぎる。実は吸血鬼とかいうオチだったりしないよな、と意味もなく犬歯を触ってチェックしてしまった。翼生えてる吸血鬼とか面白生物過ぎて笑えない。幸い犬歯が伸びているわけでも、血が啜りたくなるわけでもないのだが。
 と、そんな感じで自分の身体の不思議を思っている俺を置いて、安田と南部が勝ち誇っているが、どうも雲行きはすんなりと行かないようだ。
 二人目に相手したのは、なかなか負けず嫌いだったようだ、しかも下級生になどとは……というプライドの高い子だったらしい。こちらも助っ人を呼ばせてもらってもう一戦だ。文句言うなとか言っている。

「いや、俺はそろそろ行こ」
「乗った! こっちにゃツバサがついてるかんな。簡単にゃ負けないぜ。今までの借りをまとめて返してやらぁ!」
「……うかと思ったのだけど」

 南部くんや、それは虎の威を借るようで男の子としてはどうかと思うぜ?
 一つため息を吐いた。
 その台詞を聞いてニヤッとした上級生は取り巻いてる子にその助っ人さんを呼びに行かせた。「クラスの一大事だと言って引っ張ってこい」とか言ってるが、これってそんな一大事だったのか?
 うんまあ、小学生の思考回路はさすがによくわからん。
 待ってる間、暇なのでダレていたら、さすが小学三年生、安田と南部も含めて持ってきていたサッカーボールで遊びはじめてしまった。先ほどの柔道やってた感じの五年生の子もそうだったが、運動神経の良いのが多いようだ。輪になってリフティングをしながらパス回しをしているようなのだが、上手い上手い。単純にサッカー勝負でもすれば上級生に勝てたんじゃないか? と思ってしまう。
 そんな様子をぼーっと見ながら、いい天気だなーと土管の上でへたれていたら、どうやらその上級生の助っ人が到着したらしい。着いて、様子を一別するなりとても帰りたそうにしていたが。

「……で、どんな一大事だって?」

 無表情だ。子供ながらにして精悍さを感じさせる顔というのは珍しいかもしれない。そんな顔でぼそっと呼び出した上級生に聞いていた。
 なにやら、その上級生が拝んで「頼むよー」とか言っているが、まあうん、呼び出された方としてはいい気分ではないわな。「話にならん。帰る」とか言っている。
 何となくその無愛想な子に軽く同情していた。こちらも早くプリンにありつきたいので、帰るなら帰るで良しなのだが。

「おー! ネクラ女の兄貴なんて敵じゃねえよ! とっとと帰れ帰れ」

 南部君ががとても燃えやすい燃料を投下した。
 先の一言と共に空気が軽く凍り付いた事にも気付いていない。空気が……読めていない……だと?

「……そのネクラ女、美由希の事を言ってるのか?」
「おう。あんたあの高町美由希の兄貴だろ?」

 同じクラスなんだぜ! とか言ってるが、駄目だこいつ。早く何とかしないと。人様の家族を悪く言っちゃいけませんと言っておいた方がいいのか。
 なんだかその無愛想な、ええと、美由希ちゃんの兄? が、ゆらぁりと向き直る。

「気が変わった。受けよう」
「よ、よっしゃ、頼むぜ先生!」

 安田、声が震えているぞ。そして押し出すな。
 なんと言うか、うん。勝っても負けても南部には謝らせるとしよう。子供のうちだからこそ、直しておかないと……放置しておくとこれからも舌禍を引き起こしそうだ。
 
 俺が押し出されると、訝しげな顔をされた。視線は南部に注がれている……ああ、南部が相手だと思ってたんだな。
 ちょいちょいと肩を叩き、声をかけるとする。

「あー、その。気持ちは判るんだけど、相手は俺なんだ。すまない」
「……そうか」

 どうもげんなりしたようだ。
 ああ、言ってみればお互い巻き込まれたもの同士だな。

「高町恭也だ……上級生を二人とも下したらしいな。何か武道でもやっているのかもしれないが、こちらも古武術を少々嗜む身だ。遠慮なく来るといい」

 この人はこの人で本当に小学五年なのだろうか? いや身長や体格はそれっぽいが、口調とか言動が老けすぎだろう。嗜むとか同世代が言われても判らないんじゃないか?
 というか歩いても体がまったくぶれていない。武術とか程遠い俺でも判るくらいにぶれていない。こう言うのを隙がないと言えばいいのだろうか。ぴんと構える姿がキマっている。

「一応、白井ツバサだ。よ、よろしく?」

 名乗りとか知らんのでとりあえず片手をあげてよろしくしてみる。
 なんだかさらにやる気をそいでしまったようだが、仕方ない。
 こちとら、格闘技なんて学校の授業で柔道だのを囓った程度である。相撲や総合格闘技など見るのは好きだったが。

   ◇
 
 結果からすると負けた。かなりあっさりと……だがなんだろうこれは。
 目の前で高町恭也が頭を下げている。

「知らなかったとはいえ、すまん」

 とか言ってる。微妙に顔が赤くなっているが。低学年に頭下げる羞恥心か?
 いや、なんだろう。
 数秒の間だったけど、思い返してみる。確か流れは……
 開始から投げ技か腕を取りにきたので避けてたら、何か蹴りだの何だのと飛んできて、それでも頑張って避けてたら、ニヤァとか楽しそうに笑ってあばばばば(形容不可)な事になってきた。慌てて足を払いにいったのだが、その払う足が隙になったらしい。股ぐらをすくわれてそのまま投げられた?

「いやいや、謝られる理由もないんだけど、さっきの技ってすくい投げ?」
「ああ、よく知ってるな、小柄な相手には有効なんだ」

 ちなみに、古流の場合後ろから睾丸を握り潰して硬直させて投げられるようにも作られている。とか聞かされた時には股間がひゅんとなった。今はないけど。

「つか、なんだ? 高町、さんの異様な強さは。武術嗜んだってレベルじゃないだろ?」
「幼い頃からやってたからな。立てるか?」

 そりゃ立てるが、いや驚いた。世の中広い。総合格闘技のチャンプばりな動きをする小学五年がいるらしい。一応今の自分のスペック、蠅を箸で捕まえて宮本武蔵ごっことか出来るんだが、それでも目が追いつかないスピードって何? 幼い頃からやってるとこうなってしまうのか?
 いや何というか……

「世の中広いもんだなあ」

 ため息を吐き出すようにそうつぶやいた。
 とりあえずは、この、自分の言ってた事も忘れてすげーすげーと騒ぐ南部に一言物申しておくか、謝っておくようにと。
 
 その後は何だか、先の立ち会いで毒気を抜かれたらしく、上級生グループが時間を置いて場所を使うということで落ち着いた。てか、エアガンを皆持っていたとこを見ると、ここを射撃場とするつもりだったらしい。丸く収まったところで、そろそろ行くとしよう。ちょっと関わったつもりが、一時間ほども過ぎていたようだった……あ、プリンがぬるまってそうだ。
 おざなりにに挨拶をし、当初の目的通り神社へ向かうことにした。

   ◇

「……お?」
「む?」
「高町、さんもこっちに用事か?」

 ……言いづらいなら名前で呼んでもらっていい、と言われた。ならば、と俺の事もツバサと呼んでおいてくれと言い、改めて名前で呼ばさせてもらう。小学生に敬語つけて呼ぶのは、こう……何ともむずむずするものがあったのだ。見た目年上とはいえ。
 その恭也だが、どうもこれから鍛錬だと言うときに呼び出されたらしく、行き先が同じだった。八束神社である。しかし、日曜の朝方から何やってるんだ、とも言いたいような。あまり覚えちゃいないが「俺」がこのくらいの時は日曜に限らず遊び回っていたような……口を出すべき筋合いでもないけど。
 ぽつぽつと時折会話をしながら、のんびり歩く。
 どうもこの恭也という奴は沈黙が嫌いではないタイプのようだ。無口というのともちょっと違うようだが、無愛想……というのも最初の印象だけだった。感情が判りにくいだけのようだ。同道していると少しは判る。車が近づいてきたらさりげに車線に近い方に動いているし、向かいから自転車などが来れば、自分が半歩先に進んで避けさせる。年下の引率は慣れているという感じでもあった。
 何にせよ、そう子供子供した精神なわけでもないようで、どんな生き方したらこうなるのかは判らないが、付き合いやすくはあった。
 ただ、趣味で最近盆栽に手を出していると聞いた時はリアクションに困ったが。ある程度成熟というよりこいつ中身、老成してないか?
 時期が時期なので、道ばたのハマナスの紅色を愛で、アジサイもぼちぼち見頃ですなあなどと話しながら歩く。
「はまなすの丘を後にし旅つづく」の句を思い出したらしく、ふっと口にし、旅情そそられるものだ、とつぶやいていた。さようですなあ、と俺も反応し……
 いかん、つられた。老人の寄り合いのような会話になってしまった。小学生にして何と爺むさい。しかも片方は明らかに日本人離れした外見。シュールにも程がある。

「用事は終わった、恭ちゃん? ……えぁ、だ、誰?」

 神社の階段を登り終えると広い境内が見え、女の子の声が降ってきた。
 ああ、しょうもない用事だったよ、と言いながら女の子に近づく恭也。ああ、どうやらこの子が妹の、みゆきだっけ? 南部が言っていたネクラ子ちゃんか。
 ちょっと失礼な事を考えながら見ていると……別にネクラという風にも思えないが、人見知りの傾向はあるようだ。恭也の後ろにそそくさと隠れてしまった。頭の後ろでまとめている三つ編みがひょこひょこと恭也の陰から出ている。何ともその小動物めいた動きにほんわかしてくる。恭也はいつもの事らしく苦笑して言った。

「先の話にも出てきたが、妹の美由希だ。そういえば……聞いていなかったが同年代くらいじゃないか?」

 年齢10歳くらいに見えるので、あながち間違いじゃない。肯定すると、あごに指を当ててしばし考え、妹と仲良くしてやって欲しい。と言い、少し離れてアップを始めた。これはあれか、後は若いものでごゆっくり。という奴なのだろうか?
 兄に放置された形の美由希はおろおろしている。突然の事態に混乱しているようだ。うん可愛い。
 俺は恭也の計らいに感謝をささげつつ、初々しくうろたえている美由希の膝の後ろと頭の後ろに手を伸ばし抱きかかえ。片手で挨拶をする。

「じゃあ恭也、また後日」
「人の妹を自然にさらうな」
「……ちっ」

 そこはまあ、冗談だったのだけど。ちょっとお持ち帰りしたいと思ったのは秘密だ。
 しかしなんだろうか、ロリペドからは遠く離れた趣味だったはずなのだが、子供子供した仕草がこれほど可愛く見えるとは……いや、思えば空き地の子供の時もそうだったか。むう……保護欲求というものだろうか?
 ……ああ、考え込んでしまった。投げっぱなしの冗談の後に放置してしまい申し訳ない。なんだかやるせなさそうにこちらを見ている。視線が痛かった。
 とりあえず、定型通りに何のひねりもなく自己紹介と挨拶を交わした。他愛もない話を振ってみたりしているとさすがに緊張も解けてきたのか、普通に話してくれるようになったが。
 そういえば、兄とはいつ知り合ったのかと聞かれて、つい先程だよと答えた時は信じられないようなものを見る目で見られた。さらにはこの一言である。

「あ、あの、ぶっきらぼうな人だけど悪い人じゃないから、恭ちゃんをよろしくお願いしたくて。剣と家族の事ばかりで男友達が今まで誰もいなくて……ええ、と、その」

 言葉が思いつかなくなったのだろう、次第にごにょごにょと言葉が小さくなっていく。しかし、言いたい事は判った。天を仰ぎたくなった。妹に心配されてんぞ恭也くんや……しかし。恭也は恭也で妹に友達が居ないのを心配していたが、妹は妹で兄を心配してって、既にして相思相愛じゃないか。砂糖吐くぞ。
 一つだけ判ったのは、この二人どっちも友達少ないらしい。
 ん……?

「剣?」

 さらっと流してしまったが、古武術とか言ってなかったっけ?
 首をかしげていると、同じく「?」を顔に浮かべて首をかしげている美由希と目が合った。

「別に隠すつもりでもなかったんだが、うちの流派の中心は小太刀だからな」

 アップを終えた恭也が近づいてきて解説してくれた。何でも家で伝えられている古い流派なんだとか。使う武器の事はぼかしていたものの、一種類って事でもなさそうだ。しかし、小太刀二刀ねえ、何というか……

「忍者にしか思えん」
「俺もたまに思う」

 思ってるんかい。

「ただ、国家資格を取れるほど忍者らしいわけではないな。やはりあくまでもうちのは武術だ」

 あるんかい国家資格。なんだかこちらの常識にびっくりである。
 実はこの辺の連中なら、背中の翼程度じゃ驚きもしなかったりするんじゃないだろうな。必死こいて隠してるのが馬鹿馬鹿しくなってくるぞそれは。
 ……と、大分話し込んでしまっていた。美由希ちゃんも兄を待ってるようだし……頃合いだろう。

「長々と話しちゃったな、鍛錬があるんだろ? そろそろ邪魔にならないとこにでも行っとくよ」
「む、そうか。ところでツバサは神社に用事でもあったのか?」
「おお! プリンを見晴らしの良い所で食べようと思ってね」

 何とも言えない微妙な表情を浮かべた二人を残し、景観の良い場所を求めて散策を始めるのだった。

   ◇

「う……ぬるまった……が、美味い」

 さすがのこだわりプリン。冷たさが無くなっても濃厚な卵とクリームのコク、ほどけるような舌触りは健在だ。
 八束神社の境内はそれ自体が一つの山の上に設けられている。本殿の造りの割に土地はかなり広く、それは先程まで話していた高町兄妹が鍛錬をできるだけのスペースがあるという事からも判る。
 その境内の端、ちょっとした崖になっていて、落下防止の柵があり、そこからは海鳴市と海岸線が一望できる。30年は経っているだろうなかなかの大きさの楓がその風景に彩りを添え、秋頃、紅葉でも始まればさぞかし映えることだろう。
 そんな絶景を眺めながらの甘味はなかなかもって良いものである。この子供舌になって一番嬉しい部分かもしれない。
 ゆっくり味わいながら食べ終わり、余韻を楽しむ。遠く聞こえるホトトギスの鳴き声が一層風情豊かなものにしてくれるようだ。

「うし、充電完了」

 身体はあまり疲れを感じないが、精神的な疲れは別なのだ。メリハリをつけて休まないと保たない。
 今日は朝方から人と接する機会が多く、それなりにストレスになっていたようだった。

「しばらく人と没交渉だったからなー」

 つぶやきながら神社の入り口の方にゆっくりと歩く。
 日を見るに、まだ正午には達していないようだが、10時から11時といったところだろうか。正午を回ったところでサンドイッチ屋でパンの耳でも仕入れようと思っていたのだが、まだ、少々時間があるようだった。

「おー、やってるやってる」

 境内の本殿よりちょっと離れた場所。木々に囲まれた少し平地になっている場所で、高町兄妹は鍛錬を行っているようだった。
 少し茶目っ気を刺激され、気配を消して、息を殺しながら近づいてみる。
 ちなみに、この技術にはかなり自信がある。アホ親父に幼少期よりサバイバルゲームに連れ出され、いかに大人に見つからないようにするかを突き詰めた結果、かくれんぼの達人と化してしまっていたのだ。
 それに今の身体のスペックが加わると、誇張表現なしでとんでもないことになる。その効果は野生動物相手に確認済だった。と言ってもこのように障害物がある場所限定だが……何分、この真っ白い肌と髪と目は目立ち過ぎる。
 と、それなりに近づくことに成功してしまった。二人はまだ気付いていないようで、今は型稽古をしているようだ。小太刀二刀と言っていたように二尺あまりの短い木刀を使って、ゆるゆると型をなぞり、攻めたかと思えば守り、隙を作り、誘い込み、一刺しを与える一連の動きを数度、なぞるように繰り返している。
 ゆっくりした動きとは裏腹に二人の顔は真剣そのもので、見ているだけでこちらも緊張してしまいそうだった。
 その一巡の動作が終わると、また同じ構えに戻り──速っ!
 同じ動作の攻めから守り、隙を作ってからの誘い込み、そこからのカウンターまでの一連の動作を先程のゆっくりとした動きから一転していきなり凄まじい早さで繰り返す。
 出すほうも出すほうだが、受けるほうも受けるほうか。
 若干小学三年生の子供がそれを型通りに捌いてみせるとは誰も思わないだろう。大体、あんだけゆっくりした動きに慣らされれば、急激な速度の変化に動体視力が追いつかない。なんというかとんでも剣術である。

「ん、これで今日の分は終わりだ。上達したな美由希。後はいつも通り基礎をやって締めとしよう」
「ふへぇー」

 どうも終わりらしい、何やら恭也はトレーニング帳? を取り出してメモをしている。美由希はへたりこんで肩で息をしているようだ。

「お疲れさま、随分ハードな鍛錬だな」
「うんー、でも伸びてるっていう、実感があるからね……って、ええええッ! いつからそこにっ」

 木に引っかけてあったタオルを美由希に渡してやると盛大に驚かれた。ああ、こらこら、驚くのはいいが鼻水が出てる。タオルの端で拭いてやった。

「いや、ゆらゆらと型稽古してるあたりから?」
「気付かなかった……」
 
 そりゃ、野生の鳥にも気付かせないから。
 さらに、ここのところ隠し事が多いのでこそこそしていたらさらにかくれんぼスキルが上がった気がする。今ならスネークになれる。

「でもすごい隠れ身だね。恭ちゃんは気付いた?」
「む、いや……」

 何やら恭也は思案気にしている。考え込むとこいつ全く感情が読めなくなるんだな。仏頂面もいいところだ。
 考えがまとまったようで、こちらを真っ直ぐに見て言った。

「少し立ち会ってくれないか?」
「あー、いい……よ?」

 あれ、適当に返事してしまったが。
 立ち会い?

   ◇

 何というかどうしてこうなった。
 あの後、木刀を一振り渡され、お互い一刀の状態で打ち合ってみるとか。
 何考えているのか判らん。打ち合い稽古は竹刀じゃなかったか?
 とりあえず、やるだけやってみるかと、見よう見真似で振り回してみる。全く当たらん。当然か。あのとんでも剣術を納めている以上、素人の振った剣など丸見えだろうな。
 ただ、恭也の方で相当加減しているのか、こちらも一応は全て避けることが出来ているんだが。

「ぉッ!」

 10合も打ち合ったり、かわしたりしたところだったか。
 何を思ったか、俺が思い切り振った袈裟懸けを下から打ち合おうとしていた木刀を落とした、って危なッ!
 体重を乗せた一撃を振り下ろしているのを、無理矢理腕の力で止める。痛てててててててて! 攣る!

「うぉぉ、あーぶなかったぁ……」

 恭也の頭上10センチ位のところで木刀は止まっていた。冷や汗がどっと出る。
 腕攣ったが。
 しかしこいつぁ……

「何やってんだよ……いくら何でも危なすぎだろ?」

 俺の馬鹿力で振られた木刀だ。幾ら素人の大振りといっても、当たったら洒落にならない。
 非難した目で見ていると、目を落として幾分かすまなさそうな声で言った。

「……まず、済まなかった。試すような真似をしてしまった事を詫びる」
「はぇ? 試す?」

 アホ声が出ちまったじゃないか。アホ毛に続いて「はぇ」とか「ほぇ」とか言いだしたらとてつもなく末期だと思うので、そういう妙な事を唐突に言わないで欲しい。
 んー、しかしまあ、なんか真面目な目ぇしてるし。とりあえずは。

「聞こうか」
「ああ、全てを話す訳にはいかないが」

 わざわざ、そんな言う必要もない前置きを入れる恭也にがっくりと肩を落とす。真面目なのはいいんだが、融通効かないんだな。

 倒れた丸太に座り、美由希が出してきた水筒の冷たいお茶を頂いた。説明してもらったところ……まあ、なんだ。要するに、わりと二人の流派は敵が多いのでそれなりに日常も警戒しているらしく、何故か妙な運動能力もった外国の子供が絡んできたので、敵味方定かならず、剣で試してみよう。というトンデモ理論だったらしい。最後の恭也が木刀を落とした瞬間に少し殺気でも混じれば、敵だと判ったそうだ。殺気感じ取れるとか……ありえん。いや、そうだな、まだこいつも老成してるものの小学五年生だった。そりゃ殺気くらい感じるよな。中学二年には大分早いけど。

「あー、なんだ。とりあえず第三の目とかは開眼しないようにな?」
「なんだそれは?」
「いや、判らなければいいんだ……ともあれ、理由があんなら気にするなよ。俺は気にしない」

 と言っても、真面目で堅物なこやつはどうも申し訳ないとでも思っているようなので……

(じゃあさ、友達にでもなってくれよ。それでチャラな)なんて。そんな甘酸っぱい少年漫画的のエコーがかかるような台詞を吐けるはずもない。案外面白かったから、剣の基本でも教えろ。とでもごねて納得させる。高町家のトンデモ剣術じゃない方でな、とは言っておいたが……いや、さすがにさっきの立ち会いで文字通り子供扱いされたのがなんともかんとも。うん、ちょっと悔しいのかもしれない。別にどんな奴にも勝ちたいという程、勝負事に執着はないが、あそこまで軽く扱われると、時にはそういう気分にもなる。というか、先程の無防備に見えた状態でもあいつ悠々と避けられたらしい。腕攣らせて止めた俺は涙目である。
 そんなごたごたしてるうちに正午のサイレンが海鳴市に響き渡った。焼きたてパンの耳を狙っている身としてはそろそろ行かなくてはならない。
 名残惜しげに「ツバサくんまた明日くる?」とか聞いてくる美由希に癒された。普段は早朝にやっている鍛錬らしいので、それに合わせて来ることにして別れる。
 天気は残念ながらそろそろ雨が落ちそう、ただ心はほっこりしていた。

   ◇

 昼食は香ばしい焼きたてパン耳を山で採れたキノコのスープと共に頂く。ハーブ類もかなり入っている。最近では種がどこからか運ばれたものか、セージやバジルなども野に自生しているものが多いので助かった。
 ぽつぽつと屋根から音が聞こえてきた。
 どうやら雨らしい。やれやれと腰を上げると、外に干してあった魚を回収して屋内に入れる。若干生臭くなるが、こればかりは仕方ない。
 それなりに本降りになりそうなので、今日は山に出るのは諦める。低い山だからといって雨で視界の悪い中、山歩きなど好んでするものではない。
 そうなると、唐突に暇になってしまった。
 食料のストックはまだあるし、必死こいて修繕したおかげで、生活環境もそれなりに整っている。
 雨粒が落ち、音のするトタン屋根を見上げているのも飽きたので、雨がやむまで燻製でも作ることにする。
 やり方はこだわるのでなければ至極単純だ。ある程度の熱に耐えられる密閉容器があればその中で魚なり肉なりを燻せばいい。乱暴な言い方ではあるものの、そういうものなのだから仕方ない。
 ということで使うのはどこにでも手に入る段ボールである。幸いダルマストーブという便利なものがあるので、排煙管を途中で外して穴を開けたダンボールに直結すれば簡易スモーカーの完成だ。間にブロックを挟んで熱で燃えないようにはしてある。温度管理はさすがに適当になるが。ひとまず、先程回収した干しておいた川魚をダンボール内に吊り下げる。
 スモークウッドを買っていたわけでもなかったので、薪として集めておいた木の中からナラっぽい木を選んで火を入れる。煙が目的なので、最初に熾火を作ってからは少量ずつ足すのみに留めた。
 もちろん、作業は全て小屋の外。小屋の屋根を延長した形でトタン屋根をつぎはぎ延長して、柱で補強。少し盛り土をして簡単な屋根付きテラスのようにしてある。本格的な梅雨前にやっておいて良かった。屋内でダルマストーブを調理用で使うこともできるが、これからの時期は暑くてかなわない。一応土間に竃でも作る気になればできるが、換気扇などついていないのだ。あるいは天窓でも設けない限り煙たくて困る。いろいろ考えた末。こういう形に落ち着いたのだった。
 煙で燻している間に、ついでの仕込みということで、血抜きをしておいたキジバト──よく朝方にホーホーポッポーとリズミカルに鳴く鳥だ。見つけたので石を投げたら見事に落ちた。それの下ごしらえでもしておく。羽根をむしってからストーブとは別に設置してある竃の火で炙り、残った毛を焼く。ワタを抜いてから水で洗う。手羽と足、胸とモモあたりに手早く解体して塩水に漬けて臭み抜き。ガラはこのまま鍋にかけてスープを取ることにする。
 香味として公園に生えていた月桂樹の葉を数枚、ネギの代わりのノビル、山椒の葉を投入して竃にかけておく。
 切り取った手羽先は塩胡椒を振り、切れ目をいれてセリの葉をダイレクトに突っ込んで、尖らせた木の枝に刺して竃の火の近くに立てて置く。まあ、ただのおやつ代わりの焼き鳥だ。
 こうして料理をしていると以前の仕事を思い出してやはり楽しくなってきてしまう。料理というものを余り上品なものにしたくなくて、店ができた時もわざと飯屋■■なんてつけて、メニューも和洋中なんでもござれなんてのにするから、出だしは大変なもんだった。伝票管理なんぞも考えないで見切り発車なんてするから■■には大分迷惑を……

「いづづ……」

 こめかみを揉む。記憶のあいまいな部分に触れると、脳味噌が反乱を起こすかのように頭痛が起こるようだ……むう、脳に痛覚って無いんじゃなかったか?
 さすがにもう泣き喚きなどはしないが、やはり少々落ち込むものはある。名前が出てこない。

「せっかくの良い気分に水差しちまったなぁ」

 背中の翼も心もち垂れてしまったようだ。ちなみに今は隠す必要もないので、背中に穴を開けたTシャツなどを着たりしている……ふと思ったが、今の姿で鳥の手羽に齧り付くとか、かなりシュールなのかもしれない。共食い? 気にすることなく食うが。
 考え事をしてる間に、ほどよく焼けた手羽の肉厚の部分に噛みつく。外はカリカリ、中からセリの香りと混じった濃厚な野鳥の肉汁が溢れる。やはり焼き鳥はブロイラーより野鳥の方が味が濃くて美味い。何とも至福である。といっても一串なのであっという間に食べきってしまったのだが。
 そんな事をしているうちに辺りも暗くなってきた。鳥人間にも関わらず夜目が利くので、月明かりでもあれば夜もあまり不自由はしなかったのだが、さすがにこれだけ雲がかかってしまうと、夜になればまるで見えなくなってしまう。工場で見つけてあった古い蝋燭に火を灯した。ただ、そう無限にあるものでもないので、やはり今日は早く寝ることにしよう。江戸時代のような、日が昇れば起き、日が暮れれば寝る生活なんてものを自分がやるとは思わなかったが……妙なおかしみを感じながらぼんやりと雨音を聞き、夜は更けていった。

   ◇

「基本は両手共に小指で握り、他の指で支えることだ」

 とのことらしい。何かと言えば刀の握り方とのことだ。言われた通りに握っているのだが、もっと柔らかく握れとのことである。添え手は鶏の卵を握るつもりでとか、すっぽ抜けない?
 足運びも含め、何度かやり直しを食らいながら、形になってきたら、とりあえずはそれで素振りを倒れて立ち上がれなく程度にやれとのこと。
 スパルタじゃね? とこぼしたところ、恭也と美由希に「何いってんだこいつ」的な不思議な顔をされた。そのくらいは当たり前らしい。高町ファミリー恐ろしや。
 ごちゃごちゃと何をやっているかというと、先日ちょっと口に出した、剣の基礎を教えてくれという約束の事だ。こいつはあれか、俺様が教える以上は生半可で済ませるつもりはないとかそういう奴なのだろうか?
 これを使えとか言って渡されたのは鉄芯入りの木刀。出所を聞くと口を濁していたがどこから持ってきたのか……小太刀二刀の練習では使わないであろう長さ、そしてずっしりと重みがある。

「それをまともに振るえるようになれば三尺の野太刀が振るえるようになる」

 こいつは俺を侍にでも仕上げるつもりなのだろうか? 並の同年代の子供の力だと10回も素振りすれば腕上がらないと思う。
 ただ、このチョイスも理由があってのことだったらしく、俺の一番相性が良さそうな剣を考えたらそうなったということらしい。
 単純に力と速さがある分、小手先の技に頼らないで「一の太刀を疑わず」の示現流のような方針で鍛えるのが良いそうだ。かけ声はちぇりおーとでも言えばいいのか、あれ? 違った気もする。
 ……いや文句を言う気はないし、そこまで考えてくれたのは有り難いが、剣の基本という話はどこに飛んでいった……?

「考えてみれば俺も美由希もまともに戦える練習相手は居なかったからな。楽しみなことだ」

 物騒な事が口から漏れてますよ……聞こえなかった事にしよう。なんだこのドラゴン○ールの住人のような小学五年生は。なんだ、今更だが、割と関わってしまうといけないような人物だったのか?

「……ええ、と。ね、いっしょに頑張ろう?」

 多少申し訳なさそうに、でも同年代の仲間が出来たのがそれなりに嬉しいのか、ゆるっとした笑顔を覗かせた美由希の顔はかなりの癒しになったのだった。うん、この癒やし系娘が戦闘民族なはずはない。きっと俺の錯覚というものだったのだろう。



[34349] 序章 三話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/05 12:23
 早朝は神社で剣を振り、昼は山海でのハンター生活。空いた時間は売り子でお金を稼ぎ、夜は夜で、恭也をフルボッコにしてやんよと胸に秘め、やっぱり剣を振る。
 そんな生活もいつの間にか二ヶ月が過ぎた。
 いやはや、目的を持って何かやっていると時間の流れがとても早く感じる。
 さすがに二ヶ月も続けているといろいろ判ってくるものだ。なにぶん、恭也が言うには──

「ツバサ、お前は剣技を使うことはできない」

 と言うことだった。唐突にこの台詞を言われた時は頭が疑問符ばかりになったものだ。
 まるで判らんので説明を求めると、少し難しい顔をしながら話を始めた。

「大なり小なり技とは、弱いものが強い者に立ち向かうための術だ。だから、どんな技でも……俺や美由希の使う御神の技でさえ、ほとんどは弱者が使えるように作られている」

 そこで一息切ると、言葉を選ぶかのように考えながら続ける。

「ツバサの運動能力、反射神経、単純な膂力。全て人を大きく超えるものだ。だから、お前には使える技という技が無い。もし技を使うとしたら……お前自身が作るしかないだろう」

 確かに細かい事を考えるより、ただ速く斬りつけた方が性にもあっているが……そこまで化け物じみていただろうか? というか、自分で我が流派を立てるとか、どんな剣豪になれと? ありえん。
 というか、さらっと人のこと人外扱いしている。失礼な話であった。
 そんな不服な気分が表に出たのか、見て取ったらしい恭也は大きく溜め息を吐いた。

「……自覚がないようだな。お前が本気で木刀を振って頭に当たれば、頭蓋骨折で済まずに吹き飛ぶぞ?」

 そんな怖い事を言い始める。いやいやまさか。
 美由希の方を見ると、こくこくと頷いている。
 がっくりうなだれる。危ないとは思ってたものの、そこまで危険物になっていたとは。

「ツバサくんは……適当なところがあるから」
「美由希ちゃんや……それフォロー違う」

 しかし、そんな危ない剣の割に何度も何度も受け止めてられていたが……というか、今のところ当たった事自体がなかったり。
 ふっと思ったので聞いてみると、殺気のこもっていない武器は捌くのに苦労しない、だとか……また殺気か!?

「私は、加減されてるから避けやすいかな?」

 と、これは美由希の言。いや、防具も着けてない女の子に本気で木刀で殴りかかるとか気分的に無理である。こちらは別に当てられても構わないのだが……なぜだか判らないけど、この体は怪我の治りも異様に早いし、痣くらいなら1時間もあれば消えてしまう。

「しかし、そりゃ俺って相当怪しかったんじゃね?」

 ふっと思ってそう言うと、二人ともコケていた。背後にズコーと擬音が幻視できてしまいそうだ。さすが御神の剣士、見事なコケかたである。

「今更、それを言うか……」
「あ、はは……ツバサくん……フォローのしようがないよ」

 考えて見れば初っぱなから怪しまれていたっけ。
 どうもふと忘れてしまう事がある。

 また、本格的な夏に入り、ミンミンゼミが喧しく鳴き立てる頃、恭也がしばらく来れなくなるので美由希を頼むと言ってきた事があった。
 聞いてみると何とも呆れるような理由で、夏休みを利用して武者修行に行ってくるらしい。まあ、それはこの剣術馬鹿のことだから理解はできる。
 しかし、頼まれるのはやぶさかではないが、なんでまた唐突に? と聞くと、恭也は驚くほど複雑な表情を浮かべた。

「その……だな。実家が……ピンク空間なんだ」

 小学生とは思えない疲れたげな溜め息と共に吐き出す。

「なのは……うちの末の娘が可愛い盛りの二歳でな。うん、それはいい……それはいいんだが、なのはを挟んでの二人が……甘くて……甘過ぎて……」

 いつまで新婚気分で居るつもりなんだ、とつぶやきながら空を見上げた。
 砂糖の海に飲まれて溺死しそうだ、なんて諦念した顔で言う。
 俺は同情の念をこらえきれず恭也の肩を抱いた。

「よくやった……今までよくやった。お前は暫く武術の世界に浸りきって、自分を取り戻してこい、な。美由希ちゃんの事はしばらく任せられたよ」
「……すまん、頼む」

 そんな三文芝居みたいなことをやってみたり。
 ちなみに美由希からすると、さほどその家の空気は気にならないそうで、恭也がなぜ居心地悪そうなのか理解に苦しんでいるようだった。

 夏休みと言えば、風物詩というものがある。
 小学生なら割と高確率で苦しむことになる夏休みの宿題である。
 恭也から渡されたトレーニングの管理帳にチェックを付けつつ、美由希と一緒に汗を流している日々のさなかだった。

「そんなわけで、自由研究が進まないの……助けて?」
「……その無理してる上目遣いをやめたら助けるよ」

 やった、と小さくガッツポーズする美由希。上目使いでお願いとか誰に教わったと聞いたら「かーさん」と来たもんだ。高町家の母親は茶目っ気成分が多めらしい。
 しかし自由研究か……昔を思い出してみるも、記憶が曖昧以前にもう覚えてない……そりゃ小学生の時の頃ってあんま覚えてないよな。
 んー、とカップ麺が出来上がる時間ほど頭を悩ませ、とりあえず選択肢を出してみる。

「実験、社会見学、図画工作、自然観察、どれがいい?」
「ツバサくんの好きなので!」

 がっくりと力が抜ける。昼食に入る店を探してるわけじゃないぞ。
 美由希はこういう天然な所がたまにあるので時に困る。普段は同い年の子供からしたら大人っぽい部分も見えるのだが。
 恭也もこれは毎年手伝わされているのだろうか? いや、奴のことだから、説教臭い事を言ってから参考になりそうな本でもさりげなく置いておきそうだな。
 と言っても恭也の真似は難しいし、結局あーだこーだと言い交わしたあげく、自然観察。近くに海があることから、貝殻の調査なんていうとても無難なところに落ち着いてしまった。

「さあて、やってきました臨海公園」

 そんなナレーション風に独り言を漏らした。
 ここ海鳴の観光名所の一つでもある。
 広い敷地が魅力の場所で、砂浜には夕方になるとバーベキューをする家族や若者が多く、隙間産業的に細かい要り用なものを売りさばき、日銭を稼いでいる身としては、稼ぎどころの一つだった。
 海水浴客で賑わっているが、今回はそっちには向かわないで、海水浴禁止の区域に向かう。そちらは砂浜があるとはいえ、遠浅ではなくすぐに海が深くなっていて、遊泳は禁止されているのだった。
 やることは単純で、海辺に落ちている貝殻を拾って図鑑で確認、標本として回収し、貝の名前と大まかにどこで拾ったかをメモに書き込んでいく。これなら一日で終わるし、ありきたりながら悪い評価は貰わないだろう。手分けして貝を拾い出すのだった。

 ……おおむね一時間も拾い集めた頃だろうか。それなりに色々な種類の貝殻を集めることができ。ひとまず合流することにした。
 美由希が貝を集めている地点に着くと、一心不乱に図鑑を読む姿がある。
 間近に立ってみても気付かない。一拍考えたのち、後ろに立っておもむろに自分の背中に手を回し、たたんでいる翼から羽根を一枚抜き、無防備な首筋にセット、カウントを始める。

(3,2,1……Go Ahead!!)
「……ぷ! ひっひひゃふひふはひゃあーっ!?」

 なでりっとした瞬間、動けない! とでも言った感じにびくんと背が伸びる。間髪おかずもうひと撫ですれば、ぶるぶると震えながら意味不明の声が漏れた。
 あまりの反応の良さにちょっとうっとりとしてしまいそうに……いかんいかん。
 びっしりと立った鳥肌がその衝撃を示している。
 美由希はぎぎぎと音が出そうなほどゆっくりこちらを向いて、俺を確認すると眉を八の字にし、今にも泣きだしそうな、それでいて抗議するような微妙な顔になった。
 ごくりと唾を飲む。

「癖になってしまいそ……いや、美由希ちゃんの方は調子どうだ?」
「……何か聞こえたくもないような言葉が聞こえた気がするよ」

 気のせいだと言って、じと目で見つめる美由希をよそに、開かれた図鑑を覗き込む。子供向けの貝類図鑑の巻き貝のページが開かれていた。

「あ、ねぇねぇ、この貝なんだと思う? 図鑑に出てなかったの」

 と、美由希が図鑑をどかすとその下敷きになっていたのは直径20センチはあろうかという巨大な巻き貝の殻だった。というかこれはアレだ。生きた化石。

「オウムガイじゃん……」
「えええっ!」

 どうやら美由希も知っていたようだ。貝殻だけだと想像つかなかったか……確か、イカとかタコに近いんじゃなかったか。そりゃ、図鑑によっちゃ載ってないよな。
 たまに砂浜に漂着することはあるらしいが、まさか見つけてしまうとは、どんだけ運がいいというか何というか。
 ひとまず、俺が回収してきた分も合わせ、それなりの数は揃ったし、オウムガイという目玉もある。自由研究としては十分だろうと言うことで、帰る事にした。帰り道に今時珍しい屋台のタイヤキ屋を発見すると美由希は目を輝かせ。

「あ、あれ、恭ちゃんが絶品って言ってたタイヤキ屋さんだ」

 と、走り出す。いつもは控えめだが、こういうところもあるらしい。
 早く早くと言うもので、苦笑しつつも追いつくために駆け寄った。

「今日は手伝ってもらっちゃったし、私がおごるね」

 なんて……子供にお金を出させるのもどうかと思うが、こういうのは気持ちである。ありがたくおごってもらう事にした。しかし……店を覗き込むと種類豊富なこと、チーズ、カレー、ピザ、ジャーマンポテト、泰山麻婆、メシアンカレー……後半何か危険な香りがしないでもない。
 頼んだが最後、後戻りできなくなるような……ゲームブックで言うならいきなり「あなたは壁に潰された」というページに飛ばされそうな選択肢、そんな気がしてならない。

「……いやいや、妄想だ」

 疲れているのだろうか。頭を振っていると、美由希が首をかしげて待っているので、チーズ味を頼む。
 美由希はつぶあんを頼んだ。家が洋菓子を扱う喫茶なのでこういう時はあんこの入ってるような、和菓子系のものを選ぶのがお決まりらしい。
 ベンチに座ってもくもくと食べる。
 しばし、まったりした時間を過ごして解散した。こんな何もない穏やかな日々というものも良いかもしれない。普段が普段、山で獣を追いかけたり、恭也とチャンバラをやったりなどと動いてばかりなのだ。それに生活費のためにいろいろな客に愛想を売ったりしていると目まぐるしく感じてしまい、こんなまったりした時間はとりわけ貴重に思えるようだった。

   ◇

 暦は8月に入り、いよいよもって暑くなってきた。
 実のところ涼しい格好がしたい。タンクトップ一枚と短パンでうろつきたい。
 ただ、日差しが厳しいのだ。紫外線が激しく責め立てる。メラニン色素なんてものを知らないだろうこの身体にとって、夏でも長袖は必須だった。日焼け止めも無しにあまり太陽の直射を受けると水ぶくれすら出来てくる。本当に困ったものなのだ。そんな今の格好は、ぶかぶかの長袖シャツに、バザーで安く手に入れたジーンズ、髪は一回切ったのだがまた伸びてきて鬱陶しいのでスポーツキャップの中でまとめてしまっている。真夏でさえなければそれほど怪しまれるほどの格好でもないと思う。真夏でさえなければ。
 そんな季節外れの格好をしたまま、クーラーのよく効いたデパートに入り、迷わずもう常連と化している書店コーナーへ。大窓の外には溶けるような日差しの中せわしなく人が行き交う。だが、この一枚の窓の内側は天国だ。立ち読みも可で、最近ではもっぱら日中の最も暑い時間帯はここで過ごしていた。
 ひんやりとした空気が煮えてしまいそうな体を冷ましてくれる。
 ほっと一息つきながら、面白い本はないかと書棚に目を走らせた。

「お、これは……」

 一冊の本を見つける。シュールな猫漫画。ねこ○るだった。ちなみにこの世界ではまだ作者も元気に活動しているようで何よりだ。
 ぱらぱらと読みふけり、おぼろげな記憶にあるよりも遙かに鮮烈なシュールさを感じてその鬼才に震撼した。
 そんな猫漫画を読んでいたのが悪かったのか、視界の端、窓の外にふっと猫耳が映った。低い位置ではない。普通の人の頭のある位置に、だ。

「むぅ?」

 瞬きを二度三度、やはり歩いている。
 猫耳、猫尻尾つけた女の子が二人、初老の男性の後ろを従者よろしく歩いている。どんなプレイだろうか?

「むむぅ?」

 似合っているせいかあまり変に思わなかったが、よく見ると服とか相当アレじゃないか? モノトーン調の服で、体のラインにぴったりしている。上は肩パッドが入っているようで、スーツっぽくもあるが、下は……マイクロミニ? 控えめに見ても何かのコスプレにしか見えないのだが、何だろうかアレ。少なくとも日本では流行っていない。
 その3人、少し目を離すと風景に溶け込んで違和感が無い。その違和感の無さにかえってモヤモヤするものを覚えるのだが……

「ぬーむ……」

 悩んだ時間はわずかだった。
 見失ってしまうかもしれないし、どうも気になって仕方ない。後をつけてみる事にした。
 この天国じみたデパートから離れるのはかなり後ろ髪を引かれる思いなのだが、好奇心の方が強かった。
 幸い、気配を殺して隠れる事については、恭也のお墨付きさえ貰っている。このまま前を行く猫娘ズとおじさん、三人でその手のホテルにでも入るなら……まあ、そういう業種のサービスだったのだろうし。とりあえずあの感じた違和感が気のせいなのか確認したい。
 つけて見ると違和感はなおさら大きくなってきた。ちょっとだけ、迂闊だったかと思ってしまう。
 何しろ周囲の人間がまるで不思議に思っていない。
 猫耳とか露出の高い服とか、あるいは前を行くいかにも紳士という感じのステッキ持った初老の男性とか。目立つ部分はかなりあるのだが、誰もそれが異様だとは感じていないようだった。
 暑い盛りというのに、冷や汗が流れる。
 真っ直ぐ歩いているだけなのに、歩いている人の姿が見る見る減ってきた。
 ふっ、と三人は左に折れ、路地に入っていく。なんだか判らないが、いや判らないから怖いのか……もう興味本位の追跡はここで終わりにしよう。左は見ないように真っ直ぐ歩いて、通り過ぎようとした……したのだが。その瞬間身動きがとれなくなった。

「……なっ…く……!」
 
 声が出たと思ったら次の瞬間には喉に何かが巻き付き、声が出なくなる。
 周囲を見ても誰もこれが異常だとは気付いていない。何が……何が起きている……?

「ありゃ、可愛いストーカーさんだね」
「ロッテ、眠らせる程度でね」

 りょーかい、というくだけた声と共に視界が暗くなり、急速に意識は遠のいていった。

   ◇

 新しい情報というものは、かみ砕き、記憶が馴染むまでどこか浮つき、頼りない感じがする。
 ……時空管理局なんてものがあるらしい。
 大仰な名前である。いや、実際やってることも大仰っぽいのだが。
 実際のところどういう組織なのかは実感をもって判ったと言うわけではない。
 ただ、今は確認のしようもないので、鵜呑みにするしかないと言うのが現状だ。
 どんな現状かというと話は一時間ほど前に遡る。

 ──目が覚めたら腕がしびれている。単身赴任の旦那を抱える奥さんの酒に付き合いすぎてしまったようだ。ダブルベッドの上で奥さんが寝返りをうち、白いうなじが豊かな髪の間から覗き見えた。

 なーんて、アダルトな展開はなかった。どのみち今の身体ではそんな事は夢のまた夢である。
 清潔そうな、一見して普通のホテルの一室だった。飾り気のない部屋にはベッド三台と簡易化粧台が配置されている。その端のベッドに寝かせられていた。
 身を起こして、あくびを一つ。しかしまた、なんでこんな場所で目を覚ますことに……
 ああ、思い出した……
 妙な違和感ぷんぷんの三人連れを追いかけたら、捕まえられたんだなこりゃ。自分を過信していたかもしれない。好奇心鳥を殺すとか、洒落にもならない。
 ただ、捕まえられたと言うには警戒がザルというか、普通にベッドに寝かされてたんだが、これは危害を加える気はないよーって事なんだろうか? それとも自信? あるいは両方か。前触れもなく急に身動きも発声も抑えられる事を思い出すと、下手な動きはしないほうが良いのかもしれない。

「あ、起きた? 動転してるかもしれないけど、少し待っていてね、紅茶でも入れてくるから」

 急にドアが開いて、ビクッとする。すぐに紅茶を入れてくるとかいって引っ込んだが、先程街で見た女性の片方だった。淡いブラウンの長髪を揺らしていたが、その頭にあったのはやはり猫耳だった。
 とりあえず、急に何をされるというわけでもないようだ。素直に待つ。というかそれしかできないんだが。
 しばらく待っていると、初老の男性と共にティーセットを持った女性が入ってきた。
 男性が慣れた手つきで紅茶を入れ、サイドテーブルに置いてくれる。自分のカップにも注ぐと、一口味わい、目を細め一つ頷き、ことりとソーサーにカップを戻す。満足げに息を吐いた。
 妙に美味そうに飲みやがる……!
 そろそろと手を伸ばして出された紅茶を頂く。ふんわりと甘い香りが鼻孔をくすぐる。口に入れればなかなかの渋みを感じさせるが、不快な渋みではなく、苦さとは別のもの。コクと言ってもいいかもしれない。紅茶は詳しくないが、何とも美味い。やるなこの男。

「おかわりはいるかね?」

 気がつけばカップが空だった。
 してやったりという笑顔がシャクだが、斜めを睨みつつ、そっとカップを出す。
 再び淹れてもらった紅茶は最初の一杯目より香りは弱くなったものの、逆に味はさらにコクを増している。この飲み方がお薦めだという事で、ミルクを足して頂いた。
 うぅ、美味い。
 妙にまったりしてしまった。まったりさせる味なのだ。

「何、そう構えられても困るのでね、そうだな……」

 目の前の初老の男性は少し考える仕草をした後、一拍を置いて言った。

「目の前の人物がいったい誰なのか、今の君の状況、君を取りまくこの世界が何なのか。一つ一つ話していきたいのだが、構わないかね?」
「……いや、今の状況から話してほしいとこなんだけど」

 それを説明するためにも必要なことでね、と前置きし、少し悪戯っぽい顔になるとこんな事を言った。

「実はね、私は魔法使いなのだよ」

 これは……すごいな爺さんと返すべきなのか……? さすがに偶然だろうけど、こんな台詞を生で聞けるとは思わなかった。
 恐らくこの場の誰にも判らないであろう、昔やった覚えのあるゲームのネタ。そんな事を思い返し勝手に戦慄していると、妙な表情にでもなっていたのか。

「うん? 信じにくいかな、ではこれでどうだろうか?」

 指をぱちんと鳴らすとその指の上に魔法陣のような模様が空中に現れ、子供向けの人形劇が立体映像として動き始める。
 これは……驚いた。というか……理解が及ばない。自分の顔が今すごく面白い事になっているのを感じる。

「幻術魔法のアレンジだが、なかなか面白いだろう?」
「……ぐむ」

 またしてもしてやったりという笑顔をしてやがるので、何とも言えない気分になる。そう言えば先程の映像といい……ああ、忘れてた。子供にしか見られてないよな。あれか、このしてやったりという笑顔は微笑ましく思われてるとか、そんなたぐいの笑みなのか……
 少しやさぐれそうになった。いやまあ、魔法とか正直理解の外だ。まとめて追いやっておく。考えても仕方がない。
 ともあれ、そう!

「今の俺はどういう扱いなんだ?」

 言葉を飾っても仕方ないので単刀直入に聞いてみた。

「ふむ……女の子が『俺』などと言うものではないよ?」
「は? え、いや……」

 少し混乱した。女の子とか、いや確かに身体はそうだが。ってそうじゃない、見た目ではそんなのは判らないはずだ。きっと。少なくとも今朝、鏡で見た分には。
 ……ああ、そうだ。なんで気付かなかった。ストーキングしていた見た目からして不審な人物を確保すれば、ボディチェックくらいはするわけで、身体の事も……翼生えてる事とかもばればれ?
 俺、終わった?
 
「そう慌てないでも、大丈夫。脱がしたのは私だから。背中のそれは……私はちょっと……本能刺激されちゃったけど」

 男性の一歩後ろでにこにこと控えていた女性がニャーと笑った。鋭い犬歯が見える。よく見れば瞳孔が鋭くなってる。こっちはこっちで別ベクトルでまずい。食われる予感が消えない。猫と鳥なんて相性が悪すぎる。いや自分でも何考えてるんだか、誤魔化せるのか? というかこの反応割と普通なのか? 訳わからん。絶賛混乱中である。

「なに、慌てないでほら、砂糖でも入れて飲むと良い。落ち着くと思うよ」

 そう言って砂糖を紅茶に一杯、二杯と入れ差し出してくれる。
 落ち着けというのは正論なので、うん、頂く。脳裏には「まだ、あわてるような時間じゃない」と仰るツンツン頭のバスケマンが……
 馬鹿な事を考えて、紅茶の甘さを感じるうちに頭が冷えたようだ。
 どのみち、何を知られようとも今の状態はまな板の鯉である。せめてこちらはひたすら情報を聞き逃さないようにするしかない。
 ただ、この態度からすると随分友好的なようだが……いや、警告も無しにいきなり拘束されたわけだし、楽観は禁止だろうか。

「ふむ、そうだね……落ち着いたところで名前でも聞かせて貰えるかな? 私はギル・グレアムという。君は知らないかもしれないが、イギリスという国の出身でね、先程見せたように少々魔法使いもやっているのだよ」
「……白井ツバサ、です」

 と言うと少し目を見開かれた。適当につけた名前だってバレたか? 日本語判ってるみたいだし、そりゃばれるか。幸いそこはスルーしてくれるようで「じゃあ、今の君の状況だ」と、組んだ足の上に軽く手を乗せ言った。いちいちサマになる爺さんである。

「次元漂流者という言葉があるのだが……」

 ……そこからは、様々なことを一気に説明されたので整理するので正直一杯一杯だった。
 判らないものを聞き返せば、どういうものかを的確に説明してくれたし案外この爺さんは教師などに向いているのかもしれない。
 どうも、世界というのはやたらめったら多いらしく、それの行き来の技術を持っていて警察のようなことをしているのが、その時空管理局という組織らしい。
 このグレアムという爺さんもそこの所属の魔法使いらしく、魔導師と呼ぶそうだ。スゴ腕らしい。後ろで猫娘がお父様は管理局でも有数のトップ魔導師なんですよとか自慢げにしていた。
 ふと、そこまで情報開示していいのかと聞く。
 頷いた。よろしいらしい。というか次元漂流者の保護規定というものがあって、ある程度の情報開示は構わないそうだ。
 そう、俺はその次元漂流者というものに当たるらしい。
 ただ……

「第130管理外世界?」
「こんな場所だよ。故郷ではないかね?」

 空間に投影されたモニター、これも魔法らしいが。それに映ったのは少し緑がかった空を背景に映る石造りの町並みだった。手前には青い海が広がる。白い石造りの建物は地中海にこんな場所があると言われれば信じてしまうかもしれない。よく見ると建築様式も全く違うし、建物に書かれている文字だろうものは全く読めない文字だったが……だが本当に驚いたのはそこではない。
 歩いている人を見れば、服装などはどこか西欧ファンタジー的を思わせるような服装だ。ローブといえばいいのだろうか。ゆったりした服装に身を包み、サンダルを履いている。それも驚きではあるものの……その背中にある翼が一番の驚きだった。
 歩いている人歩いている人は全て。大小、色の違いはあるものの、翼を持っている。
 それはあまりに馬鹿げた光景で……いや自分も人の事言えないというか、言えなさすぎるのだが。

「……大丈夫かな?」
「ああ、いや、違う。違うんだ。俺の世界じゃない。普通の世界なんだ。地球だったんだ。気付いたらこんな姿になってたんだ。訳わからないよ。何なんだよ。説明してくれよ。なんで羽根とか生えてるんだよ」

 気付けばそんな事を垂れ流していた。我ながら平坦な声だった。涙も出てこない。ただ眼前に映っている翼の生えている連中の姿を何となく見ている。
 悲しみでもない。喪失感でもない。ぽっかりあいた大穴にどうしたら良いのか、考えつきもしない感じ。茫然自失なんてのが相応しいのかもしれなかった。
 ああ、そうか。根拠も意味もなく……あの場所、記憶も定かじゃないあの地球に……帰れる可能性があると縋っていたんだな。多分。
 ちょっとでも考えれば……こいつらが次元漂流者だと判断した理由はこの翼だろうに。
 俺は大きく息を吐いた。
 グレアムの爺さんは俺が垂れ流した言葉を聞いて、少し驚いたようにした後、何かを考えるように腕を組み、目をつむり、また指先を一つ鳴らすと言った。

「少し、話してみる、良い」
「……なんで急にカタコトに? というか、発音がまるっきり違うぞさっきと」

 また一つ指を鳴らす。

「ああ、翻訳魔法を切ったのだよ。しかし、難しい日本語をそれだけ流暢に話せるということは嘘ではないようだね」

 そんな魔法使ってたのか、何でもありだな魔法。
 さて、この場合どうすべきか、とか首をひねっている爺さんをさておき、冷めてしまった紅茶を口に運ぶ。あんな世界見せられて、動揺して、まるっと全部話してしまった。あ、元男だったってのは話してないか。しかしこんなに動揺する映像だったのだろうか。指先がまだ震えてる。落ち着け俺の右腕。

「君の事情は私にも正直、見当のつくものではない……だが、そうだな。やはり一度管理局の保護プログラムに従う形ではあるが、しっかりとした検査を受けた方が良いのではないかな」

 そこでさらに少し首をかしげると。

「もちろん、日本出身のようだしこの土地に既に馴染めているのなら、無理強いすることではないが」

 いや、どこの常識だよ。この10歳そこそこにしか見えず、周囲から完全に浮いた容姿持って土地に馴染めるってすごいぞ。
 割と生活は何とかなってるが。

「……お父様、そろそろ約束の時間ですよ」

 猫娘、アリアというらしい、が声をかけてきた。

「む? おお、そのようだ。すまないが不動産屋との約束があってね」

 と腰を上げる。正直聞き足りないものもあったのだが……迂闊ながら、不満が顔に出てしまったのか、やれやれとでも言いたそうに苦笑すると、くしゃくしゃと頭を撫で回された。

「少々借りがある友人が居てね、せめて小さい娘さんの為に家の一つでもプレゼントしてやりたいのだよ。君のために時間をとってやれなくてすまないな」

 ないがしろにしている訳ではないのだよ? とあくまで子供扱いである。内心でちょっと子供扱いにはいらっとしてるのだが、表面に出すとまた頭を撫で回されそうである。むう。
 ……しかし家の一軒とはまぁ正直。

「豪儀だな爺さん。リアル足長おじさんという奴か」
「……そうであったらどんなに良いだろうね」

 何か言葉に違和感を覚えるも、見上げた時には先程と変わらない飄々とした顔だった。
 考えがまとまったらこの電話番号に連絡したまえ、とメモを渡され、アリアさんに送られホテルを出た。送り狼ならぬ送り猫か。うん、実際この人は猫だったらしい。使い魔というもののようだが、どういう原理で人型になってるのかは知らない。きっと魔法というでたらめパワーだろう。
 アリアさんには別れ際に声をかけられた。

「お父様はああ言っていたけど、あなたは保護された方がいいと思うの。結構精神状態不安定だったでしょ? 管理局の医療はいろいろこの世界より進んでるところもあるから、あてにできると思う」

 連絡は三日以内に頂戴ね、それ以後は出立しちゃうから。と言い、油断していたら別れ際にまた頭をクシャクシャと撫でられた。そういえば帽子……ホテルに忘れたな。
 アリアさんの姿が見えなくなると大きくため息をつく。
 精神的に疲れた。
 時間にしてみればわずか一時間ほどだったか……街角の時計を見て確認する。
 頭を整理するためにひとまず家に戻ることにし、街を後にする。
 暑い中に汗で濡れた髪の不快な感じだけがいつまでも後を引いていた。



[34349] 序章 四話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/05 12:23
 もう無意識にでも帰っていけるだろう、住み慣れたねぐらに戻り、勢いのまま布団にダイブした。
 うつぶせのまましばらくその体勢でいると、眠りたくなってくる。何も考えずに寝て起きたら全てがすっきりしてるんじゃないか? そんなありえない誘惑がふつふつと沸いてきた。
 ……ああ、俺は弱いままだ。
 この世界に来て割り切ったと思っていてもそんな割り切れるものじゃない。
 考えたくもない事に蓋をして、見ないふり。剣術に無理に没頭して。ずっとそれから顔を背け続けてきたが。

「すっかり掘り起こされたなぁ……」

 自分と同じ姿の人間たちが一杯いる風景。
 自分は孤独ではないのだなとも思える反面、俺はあの風景には入っていけない異物だ。
 あんなに動揺したのはその辺が理由だろうか? 判らない。自己分析と言っても、あのにゃんこのアリアさんの言うとおり、精神的にはガタが来てる。判断力そのものが酷いものになっていない保証がどこにある。
 ははっと笑う。仰向けになり、天井を見た。安っぽいトタン屋根の天井だ。
 神様を馬鹿にするように舌をつきだしてみる。
 何もない空間を仰向けのまま殴りつけてみる。
 突きだした拳を緩め、一本一本指を開く。真っ白で小さな手。毎日の力仕事、家事、剣を振っているからか傷が絶えない。自分の手であると同時に「小さい」なんて思ってしまう手。
 ふー、と息を吐きながらぱたんと手を下ろす。
 この身体は借り物。
 その可能性を思いつかなかったわけじゃない。ただ、考えれば考えるほどどん底に落ち込んでしまいそうで、見ないようにしてきた。
 自分という存在が何なのか。

「うわぁ、我ながら……」

 何とも香ばしい。ここまで自分という存在について悩む事になろうとは。まあ、我に返った。ふっと何の前触れもなく。
 考えても仕方ないことをぐちぐちと考えすぎた。
 ……うん、やることは既に決まっている。
 迷うわけもない。あのグレアムという爺さんについて行く。
 確かにこちらの住み慣れた我が家、ようやく我が家とすんなり思えるようになったものを残して行くのは忍びないが、この世界にいても知れることは限られているし、この姿と同じような連中が居るなら会ってみたい……とも思う。家族とかが名乗り上げてきたら、正直怖くて逃げ出さない保証はできないが。

「行くかっ」

 ちょっと気合いを入れて無意味にはね起きる。渡されたメモを持ち、まだ蒸し暑い外に飛び出した。

   ◇

「6時頃に待ち合わせをしようか、夕食は期待していてくれて構わないよ?」

 と、いうことなので、手持ちの中でそれなりに見れる服を着て出発した。
 フリーマーケットというものも侮れない。特に子供服などは成長に合わせて回転も激しいので、驚くほどの値段でひと揃いの衣服が揃ってしまうのだ。と言ってもさほど、今までとあまり代わり映えするわけでもない。上着に着ているものがルーズシルエットのTシャツに下が黒のコットンパンツになっているだけである。ちなみにあわせて100円ワンコイン。子供が買いに来たので安くしてくれたのかもしれない。有り難いことだ。
 指定された待ち合わせ場所に着くと既に、グレアムの爺さんにお供の二人が待っていた。
 既に店に予約を入れてあるとのことで、のんびり歩きながら向かうことに。
 しかし、前を歩く二人を見て改めて思うのだが、この認識に働きかけるという魔法というのはとても便利だと思う。魔導師や野生の動物のような勘の優れてるものには通じない、とは言っていたものの……なにしろ、耳も尻尾もまるで隠していないのに、誰も気付かないのだ。
 ……魔法なんてのが俺にも使えるようだったら教えてもらおう。最優先で。背中のものを気付かせずにおけるなら、このくそ暑い中、ぶかぶかした服を着ないでも済む。

「うむうむ、やはり日本に来たならば、一度来てみたくてね」

 着いた店は寿司屋だった。しかも頑固オヤジが握ってそうだ。黒光りする年代ものの引き戸にえんじ色の暖簾がかかっている。
 開けると落ち着いた声でいらっしゃいませと声がかかってきた。頑固オヤジだなんて思ってしまってすまない。初老と呼ぶには少し早いだろう年頃に見える、とても穏やかそうな店主だった。
 ショーケースはなく、シンプルなカウンターに本日のお薦めと書かれた手書きのお品書きがある。
 一言二言、言葉を交わし、奥の座敷に通された。

「旅行の記念に心ゆくまで美味しい寿司を頂きたくてね。まず大将の仕切りで四人前頼むよ」

 暗に、金にうるさい事は言わないから満足ゆくものを、なんて注文をしてみせる。グレアム爺さんあんた何者だ。英国人じゃなかったのか。
 座敷は四畳半の一間で、こことカウンター席のみで店を回しているようだ。ちょっとしたらお茶を持ってきてくれたので、他愛もないことを話しながら待つ。
 ただ、その待つ時間、退屈を持て余したのか……

「お腹すいたなー」

 と姿勢を崩してこちらに戯れかかってくるロッテさん。この人はアリアさんの妹猫らしく、何とも直情的でこう、たまに俺の事を美味しいものを見るかのように見るので。
 うん、お腹すいたなと言いながらこっち見んな。犬歯を光らせるな。尻尾が狩りの体勢になってるぞ。
 冗談でやっているのは判ってるので、気にしないのが一番なんだが。
 そんなことをしているうちに寿司を運んで来てくれる。
 運んで来たのは若い店員さんだったが、どうやら息子さんらしい。外国人のようだからと適当に寿司を出すということもないようで。まずはあっさりとした鯛、ヒラメ、イカである。
 そして、マグロ、甘エビ、ホタテと続き、穴子、ウニ、イクラ。締めの巻きものはかんぴょうにカッパ巻きでさっぱりと。ああ、やっぱ納豆出さなかったか……残念。
 お茶を飲んで一息ついた。
 何というか……あっという間に食べてしまった。
 久しぶりに食べた上等なものだったからか。自分の事ながら食事でここまでこうなるとは安っぽさを感じないでもないのだが。
 ……とても満足してしまった。我ながら顔が緩んでいるのを感じる。けぷぁーなどと間延びしたげっぷが漏れた。

「これはこれは、何とも生魚がこれほど美味とはな」
「父様、父様、このイクラってのもすごいよ」
「ちょっとロッテ、それは私の……」

 この三人にも好評なようだ。
 しかしふと思ったのだが……猫ってワサビ駄目じゃなかったっけ? ……まあ、大丈夫ならいいや。使い魔は違うのかもしれないし。
 皆で食事を終え、お茶を飲みつつほっこりと食後ののんびり感を楽しむ。
 さて、と一つ前置きをすると、グレアムの爺さんが真面目な顔になった。
 目配せ一つ受け取って、アリアさんが何かぽそっとつぶやくと、空気? が変わる。

「……ふむ、これも感知するかい? 第130世界の人間はリンカーコアを持たないとデータ上ではなっていたが、どこにでも例外は居るということかな」

 どこか嬉しそうに言う。
 んー。異論はままあるが。

「というか、何を?」
「何、この部屋一帯に軽い結界を張ってもらったのさ。もう少し強力なので封時結界というのもあるのだがね、あれは少々大雑把にすぎて、隠蔽にはこちらの方が向いているのだよ」

 さて、と前置いて、続ける。

「これで、少々お伽噺めいた、そしてちょっと安物のSF染みたお話をしても、外には世間話にしか聞こえないはずだ。昼間、話そびれた事でも話すことにしようか」

 グレアムの爺さんはそう言って膝を崩し、お茶を美味そうにすすった。
 なんでも本人の意志が確認できれば、次元漂流者の保護プログラムに従って、本局の置かれているミッドチルダという所で検査と書類申請すればいいらしい。
 さらにこの人、偶然会っただけの俺の保護責任者にもなってくれるという。休暇中のはずなのに悪いね、と言ったら、子供が遠慮するものではないよ、と渋い顔で言われた。
 ……あ、そう言えばまだその辺の事詳しく話してなかったか。
 しかし、会ってたかだか一日でそこまで信用するというのもな……いや、どのみち検査……魔法は未知の部分多いし、うぅむ。ごちゃごちゃ考えるのも面倒になってきたし、昼間の事考えれば今更か。
 それなりに考え込んでしまっていたらしい。三対の視線がこちらを向いて、じっと待っているようだった。
 うん。ぶっちゃけることにした。下手の考え休むに似たりである。
 元、男であったこと。年齢も最低でも成人は越えていたと思う。普通に働いていて、いつかは記憶が曖昧だが少なくとも地球の未来軸……しかもパラレルワールドと思われる場所に居たことを話す。
 言っていて、今話している事が自分の考えた妄想のような気もしてきた。前世の話とかを信じ込んでしまっている電波な少女になった気がしてくる。
 ただ、現実は小説より奇なりを地で行くような事も覚えているので、そこが……そこだけが妄想でないことの証明か。
 世界貿易センタービルに旅客機で自爆テロとか、俺ではとうてい思いつくことではない。そして、21世紀になって急に増えた世界各国の巨大地震。スマトラ沖地震とかゼロから考えつくのはまず不可能だろう。とんでも小説家の発想力でもなければ。
 もっとも、この地形すら違うパラレルワールドで果たして同じ歴史をなぞるかはまったく判らないのだけど。
 ここまで話したところで、グレアムの爺さんは頭痛をこらえるような顔をして額に手を当て考え込んでしまった。
 整理中なんだろう。やはりこういった事例は魔法なんて事に関わっている管理局という所でもそうあるものではなかったか……

「確たることを言えるわけではないが……ロストロギアと我々が呼んでいるものがある」

 目をつむったまま、低い声でそんな事を言いだした。何か嫌な思い出でもあるのか、妙に迫力がある。
 なんでもそのロストロギアというものは過去に滅んだ文明の遺産なんだそうだが、時折、暴発して困った事態を引き起こす事も多い厄介なものらしい。ロストロギア絡みの案件の心構えは「どんな事態も起きて当然」と言うことらしいからその厄介さは極めつけのようだ。
 
「俺の状態はそのロストロギアが絡んでいる可能性大?」
「……もちろん、君自身の特性、あるいは自然現象、またはどこぞの変人科学者が妙な実験でも試してみたのか、可能性を言っていたらきりがないがね」

 こんなことを言うとクラナガンの学者連中には笑われてしまうのだが、と少し苦笑し。

「この世界……管理局には第97管理外世界と呼ばれているのだが、この世界特有のレイラインと言うものの存在を私は信じていてね。ロンドンやここ、海鳴の地はその吹きだまりのようなんだ」

 デバイス未使用で魔法を使うと、この地の魔力流に微弱な一定の流れが集約していることに気付くそうな。そのレイラインが呼び水となってロストロギアが集まりやすい状態になったり、住人に魔導師の資質を開花させてしまう可能性はあるんじゃないか、この現象を自然科学のように魔法力学からの観点で解き明かしていけばきっと面白い事が……とそこまで熱く語ったところでふと我に返ったのか。

「……む、まあ、年寄りの与太話だ。話半分にな」

 耳が少し赤くなっているが。見ないことにする。男はいつだって夢を見ていたいものなのだ。気持ちは判るというものだった。
 気を取り直すかのように、言葉を続ける。

「君のその事情については……私も多少心当たりはあるので調べておくとしようか。管理局で検査を受ける時にもそう問題はないだろう。精神干渉の魔法による被害者への治療というのも少ないがあることだ。ただ、精神と体に齟齬が出ないかの検査は多くなるとは思うがね」

 何というかこの爺さん異様に頼りになる。管理局員ってなこんな奴ばっかなのだろうか。
 気がつけば随分話し込んでしまった。店を出れば夏の薄ぼんやりとした月が高く昇っている。
 管理局への出立は先だってアリアさんが言っていたように三日後らしい。

「しばらく、この世界に戻ってくることも難しくなるから、急だとは思うが身の回りの支度をしっかりしてきなさい」

 との事だった。多分この世界で、誰かの世話になっているのだと思ったのだろうが、残念。ほぼ身一つの生活だ。挨拶すべき人は居るが、そう荷造りするほどの物などは最初から持ち合わせていない。
 とはいえ、綺麗にしてから行けるならその方がいいか。
 明日明後日は掃除と挨拶回りに費やされる事になりそうだった。

   ◇

 まだ暗い早朝からの掃除を終え、綺麗にした室内を見回す。
 うん。三ヶ月ちょいとは言え、世話になった家だ。雨漏りしては修理し、風で戸が外れては修理し、なんて手間がひどくかかった家だったが、自分の手一つでここまで整えたねぐらなので、やはり感慨もひとしおである。山の稜線からそろそろと顔を覗かせる太陽を見て、今から行けば丁度いいかと思い、いつもの木刀をひっさげ、動きやすいように髪をバンダナで纏める。
 軒先で頬をぱんと叩き気合いを入れる。今日は勝つ……という気分で行く。
 定例となっている神社での早朝鍛錬である。最近では何とか恭也には躱されるより打ち合うか、逸らされる事が多くなった。未だに一度も当てた事がないが。
 美由希相手なら力で押し切れる……が、体のスペックでのごり押しというのはとてもあれだ。うん。すごく釈然としない。単純に押し倒すようなものなのだ。とても釈然としない。
 そんな美由希も才能は俺なんかより余程潤沢にあるようで、一つの技や型を覚えるのは遅いものの、一つ覚えてしまうとそれが崩れない。
 恭也が思わず愚痴ってしまうほどの才能らしい。俺ぐらいの年ごろになれば今の俺よりずっと上なんだろうなと、背中を煤けさせながら言っていた言葉は忘れない。後々でのからかいの種として。

「というわけで、ちょっと今日は気合い入れていくぞ恭也ァ!」
「何が、というわけなのか知らんが。来い」

 そんな勢いのままに突っかかっていった。
 といっても勢いだけで、ぎりぎりのデッドヒートが繰り広げられるわけもなく。
 いつも通り脳天を打たれ、ぐもぉぉぉぉっと地面を転げ回った。気合いや気力でいきなりパワーアップするのは主人公の特権だったらしい。
 俺はどっかと地面にあぐらをかく。なおも痛む頭を抑えて呻いた。

「ぬー。最後まで御神の技とやらも出させられなかったか」
「最後?」

 明日引っ越すんだよ、と言うと、心持ち寂しげに「そうか」とだけ返してきた。どこまでもこいつらしい。
 美由希にも挨拶しないとなと思って見ると。

「……遠くに行っちゃうの?」

 目が潤んではる。いや、ちょっと、これどうすれば? お、おう? などと自分で言ってても慌ててるだろう声が出る。アイコンタクトで恭也に助けを求めるとニヤニヤ笑っている。おい、妹が泣きそうだぞ、それでいいのか高町兄よ。

「あ、ああ、うん、ええとね。また会えるし、落ち着いたら手紙出すから、な?」
「……よかった……友達また、いなくなっちゃうかって……う……あぅ」

 あぐあぐしておられる……何か気付かぬうちに地雷を踏んでいたようだった。
 あーよしよしと子供をあやすように軽く抱いて頭の後ろをぽんぽんする。
 しばらくして……泣き止んだ頃には妙に顔が赤かった。俺もかなり面映ゆい。兄の前で妹の頭なでなでとか勘弁してほしい。
 美由希の後ろで恭也がニヤニヤしている。こいつ案外人をおちょくるの好きなのではとふと思った。
 美由希の顔の赤みは……恥ずかしがっているだけ……と信じたい
 恭也はこちらに近づくと耳元でぼそりと言った。

「母さんが言っていたが女は小さくても女だそうだ」

 ……いや、それ言われたのお前だきっと。そんな気がする。鈍感ゆえ幼なじみの好意とかに気づけないどこかの主人公っぽい臭いがぷんぷんする。

「それとな、その木刀はやる。餞別だ」

 さりげなく進呈された。ありがたい。
 ……むぅ、俺からも何かやりたいが、そうだな。

「恭也、美由希ちゃん。二人に秘密基地を進呈だ」

 怪訝な顔をする二人に俺の整えたねぐら、廃工場の場所を教え、森に近いし、何より人目を気にする必要がない。修行場に最適だぞ。ただし、行くなら明後日からな。と言っておいた。
 神社以上に人の気が少ないし便利だと思ったのだ。これから美由希もぐんぐん恭也のような変態的な機動をする剣士になっていくのだろうし、十分に暴れられる修行場は必要だろう。
 高町兄妹との挨拶を終えた後も、いろいろと挨拶回りは続いた。
 三ヶ月も生活していればそれなりに人付き合いというものも出来てくるというものだ。
 空き地の子供たち、何故か最近任侠映画でも見たのか会うたび仁義を切ってくる安田。結局、調子に乗ると空気が読めなくなる癖が直らなかった南部。
 商売相手の釣り場のおっちゃん達、砂浜でバーベキューによく来ていた大学生グループ。
 弁当屋のおかみさん。フリーマーケットのお姉さん。
 ……あ、そういえば、高町兄妹の両親がやっているとかいう店……翠屋だったか、美由希から誘われてたけど行くのを忘れていた。
 しばらく前に、高町夫婦のピンクオーラによる恭也の煤けっぷりを見て以来、何となく避けていたのかもしれない。
 今思えば、恭也が武者修行とか時代錯誤の事をしていた頃、美由希は何だかんだと理由をつけて外にいたがったが、あれもそうだったのだろうか……あまり気にしてないように思えたのだけど。
 両親が仲むつまじいのは良いことなので頑張れとしか言いようがないのだが。

 一通り挨拶回りを終え、ねぐらに帰ったのはもう日も傾きかけている時間だった。
 軒先に干してある魚が目に入る。これも何とかしないといけない。
 ……うん、一つ思いついた。
 昨日の夜は美味しい食事を頂いたので、今度はこっちから馳走することにしよう。猫の好きそうなものばかりあるし。思いついたら即電話である。ついでに、少し散財して付け合わせとワインでも買ってくるとしよう。
 どんなメニューにするかなどをつらつらと考えながら、最寄りのデパートに足を向けた。

   ◇

 俺の先導により招かれて早々、手のひらで目を塞ぎ天を仰いだのはグレアムの爺さんだった。ひどいリアクションだった。この、門を抜けてすぐ目に入るぼろぼろの廃工場見れば気持ちも判るけどね。
 どんな暮らしをしていたんだと聞かれたので、正直に話すとジーザス……とか小声で漏らしていた、感心はちょっとされるかもと思ってたが、そこまで嘆かれるとは……
 いつまでもそれに付き合っていても仕方ないので、奥の小屋近くに設置した、食器棚を改造して作ったテーブルにつかせて料理を運ぶ。
 もっとも、時間がたくさんあったわけでもなく、さほど手間のかかる事はしていない。付け合わせの生野菜のサラダや、パン、チーズ程度である。
 メインディッシュは肉、魚の一斉在庫放出である。
 竃にかけられて程よく熱された網の上に油を塗りつけ、適当に切った肉、魚を置いていく。しばらく経つと火が通りはじめ、肉汁が垂れ、焦げる良い臭いが漂った。
 リーゼ姉妹の視線がすごいことになっている。ロッテさんなどは俺が焼いているすぐ後ろでうずうずと見ているのだが、少々身の危険を感じないでもない。
 ちなみに最初に焼けたのは鴨肉だ。野性味溢れる鴨肉はこうやって炭火で焼き鳥にして塩胡椒でシンプルに食べるのが一番旨いと思う。昨日捕まえ、今朝方絞めたものだ。
 爺さんには脂がきついかもしれないので切ったレモンも添えておく。
 夏場なので後は塩漬け肉や燻製肉、魚のスモークになってしまうが、どれも野趣溢れるもので、猫姉妹にはとても好評だった。
 ワインはせいぜいがボルドーの有名どころくらいしか知らないので、酒コーナーで店員に聞いて適当に買ってきたものだった。お使いとしか見えないから買えたのだろうけど、どうも複雑な気分ではある。ワインそのものについては、そう外れではなかったようでゆったりとしたペースながらも着実に減っていった。というか、英国人の肝臓には足りなかったようだ。英国人というと、こう……パブで大ジョッキを傾けているイメージがあるな。
 そんなことを思いながらグラスに口をつける。
 水だと思ったら残念、ワインだった。そう、これは事故以外の何者でもない。旨い。子供の身体だからと自重してたまるものか。
 対面でグレアムの爺さんがおやおやとか笑っている。
 ちなみにリーゼ姉妹は二人、猫形態なので二匹か? で、もつれあってごろにゃんしている。理由は簡単デザートに出したキウイフルーツ、その飾りとして出した枝の効果だ。そう、マタタビ科マタタビ属和名オニマタタビのキウイフルーツである。ちょっとした悪戯心だったがこれほど効果があるとは……今度またやろう。カメラでこの姿を残せないのが心底残念だ。

「今日は、楽しませてもらったよ。娘達もあれ以来なかなか心からリラックスできなかったようだしね」

 もつれ合って戯れているリーゼ姉妹を見て微笑むグレアムの爺様。
 見た感じも言葉も好々爺といった感じなのにどこかで……こう硬いとこがあるような……懐かしんでいるような……あれ以来? わからん。
 少しふわふわしたものを感じる。
 ……酔ったか。あれしきで。悔しい。でも感じちゃう、なんて。テンションが変である。まあ、楽しめたというなら。

「それなら、良かったよー。歓迎した甲斐があるよね」
「ところで、君の保護にあたって申請する名前が必要になるのだが……」
「……名前? ああ、適当に付けちゃったしね」

 にやりとグレアムの爺さんは笑い。

「とても君にぴったりな名前を思いついたのだよ。差し支えがなければ私につけさせて貰えないかね?」

 いかん、睡魔が。スイマーが……

「ああ……ツバサって呼んでくれる人も居るから、そんだけ残してくれれば……好きにして……」
「ふむ、では決まりだな」

 あれ、何かデジャビュが……あれ?

「生命に溢れ、野生を残したる君にはその性を補う名前を……『理性』の意味を持つティーノと名付けよう」

 うん、これなら見た目通りなかなか可愛らしい響きだ、などとおっしゃる……って、ええ?

「さて、出立は明日の午前だ。ここの後片付けは私たちに任せて子供は眠りなさい」
「ぬ……む、客にやらせるわけには」
「アリア、この子を寝場所に連れていってあげなさい」

 はいお父様、とアリアさん。いつの間に復活を……いや、それより、な……まえ。
 そして有無を言わせず布団に入れられ、その心地よさでいつしか意識はとろけてしまった。

   ◇

「しまったァーッ!」

 そんな自分の叫びで目を覚ました。
 ばっちり覚えている。
 酒に酔って、眠くなっていたとこで、名前を……
 いや、自分のネーミングセンスとかはかなりどうかと思ってたので、人の名前にケチつけれる筋合いはないんだが。
 うむ。何か釈然としない。

「ティーノ……てぃーの……なぁ?」

 名前の響きを舌で転がしてみる。
 確かに見た目日本人じゃないから良いの……か?
 ただあからさまにこう、外国系の名前は違和感がすごいというか……急に妙なあだ名でもつけられたかのような心持ちになる。
 もっとも、アリスとかシルヴィアとかあからさまな女性名でない分まだグレアム爺様の優しさなのだろうか?
 惜しむらくは濁点。ディーノだったら普通に居そうだ。
 外に出ると既に日が昇っていた。
 日頃の習慣を考えるとびっくりするくらい寝坊だ。
 どうもこの身体のアルコール代謝はさほどでもないらしかった。

「ふむ、起きたかね? おはよう」

 何とすでに家の前に三人とも来ていた。
 そういえば出立は午前とか言っていたような気がした。

「あー、おはようさん。えーと、荷物はもう纏めてあるから、身支度だけするんで20分ほどまっててな」
「何、慌てないでも構わんよ」

 と言ってくれるのはありがたいけど、実のとこ荷物といっても精々使えそうな服とか木刀、ちょっとした覚え書き程度である。バッグ一つで収まっている。
 くみ置きの水で顔と頭を洗い、体を拭く。身支度を調え、それで準備は完了である。
 何でも、その管理局へ行くには中継地点となる世界までひとまず魔法で転移してから、入管手続きの後行くことになるらしい。

「さて、行ったらしばらくはこの世界に来ることも出来ないだろう。やり残しはないかね?」

 思い出した事があり、ちょっと待って貰う。
 今まですごしたねぐらに向かって手を合わせ感謝。

「ありがとうございました」

 一拍置いて背を向け、三人の足元に広がる魔法陣に足を乗せる。
 目で、良いかね? と確認してくるので大きく頷いた。
 さて、これから行くところはどんな場所なのか。
 繋がっている道先は見えないものの、踏み出す方向は見えたようだった。
 歩くだけ歩いてみるとしよう。



[34349] 幕間一
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/05 12:24
 無機質な電子音が幾重にも重なり、その狭く暗い部屋に反響する。
 ぽこり、ぽこり、と培養槽の中を撹拌する気泡が生まれては消えてゆく。
 幼い少女の全身にはひどく不似合いで不格好なチューブが絡みついていた。
 時折、生まれたての雛が首を伸ばし羽根を伸ばすかのように、少女もその背中の小さな翼を伸ばし、顔を上げ小さなあくびをした。
 いつしか白衣を着た男がその培養槽の前に立っている。
 まるで宝物のように少女を見つめ、そっと無機質なガラスの筒を撫でた。
 どこか少年期を抜けきらないかのようなその目が大きく開き、細くなる。
 いつからだったろうか、少女はそのまどろみからゆっくりと抜け出していった。
 髪の色と同じ色の長いまつげが浮かび上がってきた気泡に揺らされる。
 まぶたが恐る恐ると開き始め、やがて、虚ろに開いているだけの目は焦点を結んでいく。
 白衣の男は何かに耐えかねたかのように一つ身震いをすると言った。

「おはよう」

 少女を最大限歓迎するかのように、両手を広げ、慣れない笑顔さえ浮かべこう言った。

「おはよう……はじめまして、アドニア」

 幸福を招くアドニスの花言葉から取ったんだ、と少女には理解できようはずもないのに話しかける。
 こんな花だよ、と慌ててその明るく輝く黄色の造花を胸のポケットから取りだそうとし──落としてしまった。
 あ、あ、と慌てながら落下途中に手を出し、受け止めようとする。
 床に落ちる前に、かろうじて両手で受け止められると、ほっと息を吐き、それを少女の目の前に差し出した。

「本物でなくてすまないね。本物は太陽のように綺麗なんだよ」

 何が気に入ったのか少女はその培養槽の中で手を伸ばす。
 ただ真似をしているだけなのかもしれない。
 男がその調子でしばらく寝物語のような、一人語りのような他愛もない話をしていると、いつしか少女のまぶたは再び落ちていた。
 男はその寝顔を飽きることなく見続け、一つため息をつく。
 瞑目し──目を開けた時、何かを捨て、何かを決めた目になっていた。
 ガラスの中の小さな少女に語りかける。

「ねえ、アドニア……僕の子よ……僕はどんなことになろうとも君を守るよ。例え」

 男は唾を飲み込んだ。ごくんという音がその静かな部屋にやけに響いた。

「例えどんなことをしようとも、ね」



[34349] 一章 一話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/05 12:32
 意識がはっきりした。
 しばし呆然とし、独り言が口をついて出る。
 
「いや……いやいやいやいや、なにこれ」

 何という夢か……本当に変な夢を見た。
 少女と科学者の夢だったが、あれか、父とか欲しい年頃なのか? 深層心理とか確かめたくない……な。
 というか台詞回しといい何というか、頭を抱えてベッドを転げ回りたくなってくる。紛れもなくあの少女、自分だし。特殊な生まれの自分設定とかにしたいのか、そーなのかー?
 いや既に転がっているが現在進行形で。頭抱えてうわぁーと。

「ひ……ひどい目覚めだ……」

 唸りつつ、顔を洗いに一階の洗面所まで降りて行く。階段を下りていく途中の窓から外を見た。いつもは広く青々とした牧場が望めるのだが、時間的なものもあり、朝もやがかかってひどく現実身がない。夢の中の世界から抜け出しきれていないようにも感じてしまう。
 ここミッドチルダ東部の山間いは夏になってもそれなりに涼しい。過ごしやすいとは言えるのだが、毎朝冷たいもやが立ちこめると、もう涼しいを通り越して、肌寒さすら感じる事もしばしばである。
 水で顔を洗って気分をすっきりさせる。
 洗面所の鏡を見ると、相変わらず真っ白い顔がこちらを見返した。色の違う両目を見ていると我ながら不安な気分になってくる。諸事情あって切らずにいた髪も肩口まで届くほどになった。後ろで纏めてゴムで縛り、動きやすいようにする。
 勝手口に傘と一緒に置いてある馴染みの木刀を持って庭先に出た。
 早朝のしんと静まりかえる空気が気持ち良い。
 バランスを取るように体の正中線の延長で木刀を真上に振り上げ、正面に振り下ろす。
 ──思った通りの線を木刀が通ることができた。今日は夢見のわりに調子が良いようだ。
 ふっと止めていた息を吐き、素振りを始める。
 ただ、無心に振る。
 そのうちにとりとめもない事が頭に浮かんでは消えた。
 もうこの庭先での毎日の日課を繰り返し、一年。
 それなりに充実した日々のせいか、ちょっと昔にすら感じてしまうが。
 あの、故郷とはとても似ていて、でも少し違う「地球」を離れてからの事を思い出す。

   ◇

 グレアムの爺様に連れられ、行くことになったのは時空管理局本局とか呼ばれているスペースコロニーだった。
 次元航行船の中から初めて見た時はそりゃ驚いた。魔法とか魔法とか魔法とか言ってたのに、目に映るものはSFである。何という魔法詐欺か……もっとも、航行船とか局員が使っているデバイスとかで何となく予想はついていたのだが。
 次元漂流者としての登録を終えた後は、医療部に連れていかれ、ひたすら検査、検査、検査の毎日だった。
 俺のような例は今までに無いそうで、覚えている限りの事を話せさせられるわ、やたら細かい精神診断をやらされるわ、身体の立体スキャンはもとより、内蔵や脳機能、かなり恥ずかしい部分まで検査である。
 グレアムの爺さんが話していた、精神干渉型の魔法というのも試してみるも、難しい顔でかぶりを振っていた。渋る医者に頼んで聞き出してみると、人間の精神構造じゃないとか……これはひどい。精神診断ではとりたてて異常な結果がでなかっただけにへこんだ。と言っても聞けばサイコパスとかそういうことでなく、処理をする脳に過負荷がかかって普通ならとっくに死亡。最良で植物状態なのだとか。一部の記憶が段々薄れて行ったのはそのせいかもしれないとのこと。普通に動けているのが奇跡というより一周回って悪魔の悪戯めいているらしい……そんな自分の状態に恐怖である。正直少し漏れた。

「管理局の技術なら何とかなると思ったのだけど……ごめんなさいね」

 検査の為にあてがわれている部屋まで戻ると、付き添いをしてくれたアリアさんが眉を八の字にしてすまなさげに言った。
 ……ああ、局の医療なら当てにできるとか言ってた事か。
 へたれた猫耳が反則だ。全力で愛でたい。
 ……あ、いや。
 実のところ、そちらは気にしてないし、自分の心の問題はやはり自分で解決したいので、無問題……いや無問題ではないが、びびっても仕方ないというか。だいぶ前に開き直ったことでもある。
 むしろ、自分の身体の事が知れて良かったよと言っておいた。
 これはへたれ耳猫さんへのサービス精神などでなく、本音だ。
 この身体が標準より力強い身体なのは知っていたが、データに示されると驚くばかりだったのだ。
 筋密度が違う、骨密度が違う。そもそも染色体が違う……どこのオーガ一族かと。翼がひょっこり背中に生えてる通り、純粋な人間ではないらしい。どちらかというと亜種。
 ただ、この管理局というところは様々な世界に接触するだけあって、そこらの認識は曖昧なようだ。
 極端な話、頭が一個手足があって言葉と意思疎通ができれば人間という扱いっぽい。ありがたいが何ともアバウトな話だった。
 医者としてはフィジカル面の方はあまり珍しくもないデータらしいが、ちょっと前まで普通の人間をやっていた身としてはちょっと興奮である。目先の事に集中してて肉体面での確認をしなかったのが悔やまれるくらいだった。うん、いずれ分厚いステーキ肉を焼いて「モニュ……モグ……」と口いっぱいの大きさで食べてみる事にしよう。この強い咬合筋ならできるに違いない。

「そういえば、今更なんだけどグレアムの爺さんって実は大物だったりする?」

 と、アリアさんに聞いてみる。
 そう、実はこの本局に来て判ったのだが、あの爺さんやたら敬礼されるのだ。前言ってたトップ魔導師とかってそんなに凄いのか。
 それに、書類申請のために一回入ったきりだったが、やたら立派な一室を使っていたようだった。
 アリアさんは人差し指を唇に当て、小首をかしげている。何か思い返しているようだった。

「あ、そう言えばまだお父様の事を詳しく話してなかったかもね」

 聞けば提督さんらしい。歴戦の勇士らしい。艦隊指揮官であったこともあり、執務官の長でもあったらしい。
 いや、管理局の役職名とかよく判らないんだが、何だか字面だけでも凄そうである。
 とはいえ正直、感覚的にぱっとこない。しかしそれって俺もグレアム提督と呼んだ方が良いのだろうか?
 その事を聞いてみると。

「人前でなければ、好きに呼んでいいと思うよ? お父様も何だかその率直な物言いがかえって気に入ってたみたいだから」

 人前だと提督と呼ばれるのも仕事のうちだから駄目だけどね、と言い残し、こちらの頭を一撫ですると部屋から出ていった。仕事らしい。
 部屋から誰もいなくなると俺はベッドにぼふりと身を埋めた。
 サイドテーブルに置いてある魔法が使えない人向けの情報端末を手に取り、暇つぶしも兼ねて特に目的もなく雑多な事を調べていく。
 とはいえ何分言葉が読めない。ミッド語とか言うらしい。翻訳ソフトを通しながら眺めているのだが、やはりちょっとでも本格的に知りたいならミッド語の勉強は必須のようである。
 実は妙な新種のウイルスだの細菌だのがついてないかの検査結果がでるまで病棟から出られない事になっているので、暇なのだ。
「猿でも判るミッドチルダの言葉」という差し入れされた本を取り出す。猿か……鳥でも理解できるだろうか? 本当に鳥頭になっていないことを祈りつつ、久方ぶりの勉強を始めたのだった。

 そんな事をしつつ一ヶ月。
 一通りの検査も終え、出た結果は、色素異常以外は特に健康面、精神面共に異常なしとのこと。というか精神面の方は常識の埒外だったので……匙を投げたらしい。安定はしているそうなので今すぐどうこうと言ったものではないとのこと。
 それと、一応、こちらの地球で同じ事が起きるのか判らないが、この先起こるテロや地震についての事を言うと、考えない方がいいとのことだった。
 考えてみたら当然かも知れない。俺の話した事を鵜呑みにしたところで、パラレルワールドで起こった事が地形すら違う、歴史も恐らく違うだろうこちらの地球で同じく起こるとは考えにくいし。
 そもそも医療にあたってくれた先生からしてみれば、パラレルワールドを考えるより他の可能性……例えば違法研究者による記憶や精神に関わる実験、ロストロギアによる記憶、精神への干渉、などの可能性の方が高いと思われているようだった。
 色素異常については語るまでもないだろう、アルビノ状態のことだ。ついでに虹彩異色症、オッドアイと呼ばれるそれだが、それも患っている。患っているという言い方も変なのかもしれないけど。
 こちらはカラーコンタクトの着用と肌の保護クリームを渡された。
 どちらも紫外線のほとんどを遮ってくれるそうで、かつ体への負担もほぼゼロ。コンタクトはつけっぱなしにして寝ても一ヶ月は保証、クリームは通常の保湿クリームとして毎日使っても良いそうな。……地球のそれより遙かに進んでいる。妙なところで技術差を感じてしまった。ともかくも有り難く使わせてもらう。
 ミッドの言葉というものにも大分慣れてきた。人間成せば成るとはよく言ったもので、お医者さまと話す時以外は翻訳装置も外して、暇な時にはひたすら端末でニュースだの何だのをちまちま辞書を使って翻訳。気付いていたらそれなりに馴染んでいて、専門用語や変な言い回しは苦手だが、日常会話くらいなら既に何とかなるし、文字も子供の読む絵本くらいなら何とかなった。
 この検査を終えた後の予定だが、そこは管理局の保護プログラムである程度規定されているらしく……というか、見た目じゃなくて16くらいで申請すればよかったのかもしれない。10歳という申請年齢のために児童養護施設に入ることになった。グレアム爺さんは若干すまなさげにしていたが。これは……うん。俺も考え無しだった。申請するときに、見た目通りでいいか、などと軽々しく記入してしまったから。数ヶ月も子供扱いされて生活してた弊害が出てしまった。今思えば種族特性なんですとか言えば多分20と言っても通る事がわかっているけど、それこそ後の祭りである。
 養護施設については爺さんの肝いりで、というか後援しているらしい施設を紹介してもらう事になった。

 来た場所はミッドチルダ……管理局の発祥した世界で、本局とは別の意味で本拠地とも言うべき世界だとか。その東部11区画という場所らしい。
 魔法の普及した世界らしいが、別に人がびゅんびゅん飛んでいるわけでもなく、交通機関は地球とそれほど変わるわけでもなかった。
 ただ、化石燃料を使っているわけでもなさそうだ。やたら静音なバスから降りると、北東と北西に大きな山が見える。二つの山に挟まれる形のふもとらしい。隣あった12区画が観光地、第10区画が工業地になっており、そこに働きに出る人のベッドタウンになっているそうな。元は田園地帯で果樹栽培も下火とはいえ未だに有名らしい。
 10分程歩いた所にログハウス風の洋館があった。かなり大きい。開かれた門の向こうには中々見晴らしの良い庭になっていて、整えられた花壇が彩りを添えている。

「いらっしゃい。そろそろ来る頃だと思っていたわ」

 門の前で出迎えてくれたのは一言で言えば、品の良いお婆さん。真っ白な髪に皺の刻まれた顔。グレーの瞳を細めて柔和な笑みを浮かべている。背筋はぴんと伸びており、こちらにゆっくりと歩みよってくる姿も微塵もゆらぎが感じられなかった。
 グレアムの爺さんは余程親しいのか、やぁ、しばらく。と声をかける。

「この子が例の子。ティーノだよ。結局、局の検査では何も判らないも同然だった。まぁ、扱いは難しくなるだろうがよろしく頼むよ」
「扱いって……爺さん、俺はそんなに手間かけさせるつもりはないよ?」

 そんな反論をしたら苦笑された。

「初めまして、ティーノ。私が当院長カラベル・アルメーラですよ。あなたの事情は提督から伺ってるわ。これからよろしくお願いしますね」

 そう言って俺の前にしゃがみこみ、微笑んだ。くしゃりと頭に手を置かれたので何ぞやと爺さんを見る。何か悪戯でも思いついたかのように口元が笑っている。

「カラベルさんはかつてベルカ貴族達の教師をしていた事もあってな。様々な分野に精通している万能の教師のような人だ。君は分別こそあるものの知らない事が多いだろうからね、万事教えてもらうと良い……そうだな、私からも頼むよカラベルさん。この子のもまた、あの子達に負けず劣らず苦労をしそうではあるからね」

 その時はまったく思ってもいなかった。

「ええ、任せて頂きましょう。私の名誉にかけて立派に育てあげてみせますから」

 ──淑女教育などが始まるなどとは。

   ◇

「今思えば、あの時どんな手を使っても強固に反対しておけばよかったのだろうか……」

 時にそんなことを思ったことも2度、3度ではない。
 むしろ20度、30度となく思ったものだ。おおむね遠い目をしながら。
 最初にカラベル先生、今は先生と呼んでいる、が提督から事情を聞いていたと言うのは嘘ではなかったらしく、今はこんな体だとしても数ヶ月前は男性として生きていた記憶があると言うことも知っていた。その上で動じず揺るがず「それがどうしましたか?」などと、さらりと言われて口をぱくぱくさせて絶句してしまったのは未だに覚えている。
 それも前提の上で、人の世とうまく付き合ってゆくためにはまずは自分の身体ともうまく付き合うこと……らしい。

「厳密には違うかもしれませんが、私が性同一性障害の子を見てきたのも1人、2人ではありませんよ」

 いろいろ問題を抱えた子達を預かっているという話は聞いていたがどうやら、そんな事例にも対応したことがあったらしかった。
 まずは、嘘だと思ってもいいですから一週間ほど続けてみましょう。などと言われ、つい頷いてしまったのが運の尽きだったのかもしれない。
 教え方が上手すぎるのだ、この人。
 決して厳しいとは言えない。ただ、どこをどういじれば人がどう伸びるのかを把握し、手の平の上に乗っている事を感じさせずに手の上で転がす。そんな先生だったのだ。
 いや、それは責任転嫁というものか。
 カラベル先生の教え方がとても巧みであったのは間違いないが、砂地に水が染みこむように馴染んでいってしまったのは自分自身の性質もあったのかもしれない。
 これが、精神は身体に依るという事なのだろうか。
 もっとも、女性として見られること、女性として振る舞うことに抵抗がなくなった程度なので、実のところあまり変わってないのかもしれないが……正直自分ではよく判らないところだった。
 さらに、自分の身体の使い方というものも判ってきたような気がする。今思えば地球にいた頃の身体の動かし方というのは本当に力任せだったという事が判る。当然だ。男性と女性の身体では使い方に違いがある。意識が変わるだけでも相当に動かしやすくなっていった。
 ちなみにカラベル先生に教えてもらったのは、そんな事だけでなく、例えばミッドにおける一般常識、例えば言語、例えば歴史、例えば文化、例えば数学、例えば科学。
 ……もちろん思い出したくもない教育も。ダンスとか、ドレスの着付けとか……お誘いを断る時の文句やら、逆にアプローチする時の作法など、どこで活用しろと言うのか。
 いや、まあ。文句は言うまい。あの人は本当に万能の先生だった。
 もう70を越えているらしいが、背筋を曲げて年寄り臭い動きは一切しないし、何でこんな田舎の養護施設の院長などしているのだろうか、一々不思議でもあった。もっともそれは後々になって、この人でないと収めきれないからというのが判ってきたのではあるが。

   ◇

「ふッ」

 早朝の素振り、その最後を吐息と共に放つ。
 それまでは空気を裂く音がしていた切っ先が、空気を切った甲高い音になる。
 この剣速だけなら恭也にも負けない自信はある。とは言え柔よく剛を制すというか、読まれてあっさりかわされるイメージしか沸かないのが癪でもあるが。
 何とも悔しい。うん、別に男だろうが女だろうが悔しいというのに違いはなかった。別に恭也みたく剣が命ってわけではないが、いつか一発いいのを入れて凹ましてやりたい。
 ……クリーンヒットは危ないから、何か対策くらいはしてからだけども。
 一応の残心を終えると、大きく息を吐く。
 汗が一気に噴き出してきた。
 素振り中は汗も出てこないのに毎度不思議なもんだ。とりあえず柵にかけてあるタオルで拭く。
 辺りを見回せば漂って居た朝もやもなくなり、見晴らしが良くなっている。おなじみの新聞屋さんが来たので受け取り、そろそろ良い時間なので子供たちを起こしに行くとした。
 二階の子供部屋へ行くと大人しい子なのにやたら寝相の悪いラフィがベッドから落ちていた。持ち上げてベッドに一旦降ろしてから声をかける。

「おはよー、ラフィ。はいはい、しっかり起きてね」
「……うん、にゅ。ティノ姉、おふぁ……よ」

 おはように欠伸が混じったようだ。カーテンと窓を開けて涼しい風を入れる。
 体をうんと伸ばし、大儀そうにベッドから降りた。

「じゃあ、いつも通りラフィはこの部屋の皆を起こして」
「うーい」

 とまあ、年少組は大部屋で寝ているので、中の年長さんに起こしてもらうのが決まりとなっている。
 隣の部屋に行って、ベッドにかがみこみ、揺する。ちなみに先のラフィもこのティンバーも同い年の8歳だ。

「ティンバー、朝だよ……お?」

 えーと、何と言えばいいか。
 胸を捕まれているのだが……11歳児の胸触って何が楽しいんだ。
 悪戯でこういうのは鉄板だってのは判るんだが。

「ティーノのつるぺた揉んだぜー」
「あーうん……十分堪能した? んじゃお仕置きね」
「ぐぽォッ」

 将来セクハラ男になってはいかんので、一応ゲンコツを落としておく。

「はいはい、痛いの痛いの痛いの残れー」
「飛んでいかないのかよっ!」

 ぶーたれるティンバーのたんこぶを撫でながら魔法の言葉をささやいてやる。そりゃお仕置きだからねぇ。
 ラフィに言ったのと同じように皆を起こすようにと言って部屋を出る。
 10歳以上は自分で起きる事になっているので、子供の目覚まし時計役はこれで終了である。
 ちなみに私も含めて10歳以上の5人はそれぞれ狭いながら個室を割り振られている。
 その一室のドアが開いてぼーっとした顔が出てきた。

「おはようデュネット」
「……」

 何も見えていないかのようにふらふらと歩いていく。無言でずるずると階段を下りて行った。
 ……まあ、いつもの事だ。
 さて、と今日は料理当番の日なので、これから朝食の時間である。
 一階のキッチンに行き、共用のエプロンを装着。
 早くも気分が乗りはじめ、鼻歌を歌いながら、献立を即興で考え始める。
 まずはとりあえずのサラダ。これは適当に生野菜をちぎってドカ盛りにすればいいので楽だ。
 昨日の夕食に出たロールキャベツが残っているので、コーンスターチでとろみをつけ、オレガノを少々。煮詰めておく。冷凍にしておいたパイ生地の上にそれを乗せ、チーズをかけてパイで挟んでオーブンでこんがり。その間に色々昨日の残っていた野菜をブイヨンで煮て、牛乳とバターを加え火を止める。さらに煮ている間に卵を人数分割って生ミルクを少し混ぜ、ベーコン、人参、ブロッコリ、タマネギを一口サイズに切って一緒にした後に、火をとめたミルクスープを降ろして、フライパン二つを使って交互にオムレツを焼いていく。
 この辺りで朝の掃除を終えて皆が食卓に集まり始めたので、出来たオムレツを運んでもらいながら人数分をひたすら焼く。
 その数一六枚。火力があるので一枚一枚はあっという間に焼けるのだが、やはり枚数があるので多少時間がかかるな。
 焼き終わったころにはオーブンのロールキャベツ入りパイも出来上がる。
 スープを軽く温め直して配れば今日の朝食は完成である。
 手を拭いて食卓についた時には、うむ。幼少組の反応がかなり良さそうだった。子供ってパイ好きだよね。チーズたっぷりの奴。
 さて。
 ミッドには宗教色というのはあまりないので、食前の祈りみたいなのはないのだが。

「今日の糧を得られた事をあなたたちの神様、私たちの神様、育んでくれるこの地に感謝して頂きましょう」

 と先生が穏やかに言う祈りが食事の合図だ。
 これにはこの養護施設には訳有りの子供が多いのが関係している。
 管理局に保護される子供は数多いが、特殊な事情。例えば私のように何もかも原因不明のままひょっこり現れ、検査すればするほど意味不明な子供など、通常の養護施設に入れる事が難しいものが割と集まっている。中にはただの問題児もいるが……その為に出身地方や考え方、宗教にもばらつきが多いので、こんな食事の合図になったらしい。
 私は私で、おなじみの「いただきます」をやってから食べるのだが、小さい子はこのシンプルなのが判りやすいらしく、だんだん勢力を拡大中である。

 食事が終われば、次は一服の休憩の後、座学だ。幼年組はかつて初等学校で教鞭をとっていたという近所のお婆さんが来て、ボランティアで面倒を見てくれる事になっている。
 私を含めた10歳以上の子は学力にもバラつきが凄いので、カラベル先生による個別授業という形になっていた。
 一年も経っているので、それなりに覚えることができたのだが、得手不得手はやはりあるようで……自然科学、社会、歴史は軒並みいい点数だったのだが、数学、国語、科学は鳴かず飛ばずだったりする。国語と言ってもミッド語の話だ。どちらかというと英語に近い表音文字で、話す分には問題ないものの、文学表現などを読み解け、とかになるともうお手上げである。数学、科学は……言うに及ばず。
 午前の座学が終われば、昼食の時間だった。軽めにパンとチーズ、果物で済ませ、幼年組はお昼寝の時間、その他は実習だった。
 それが済めば、自由時間。昼寝から起きた幼年組が大変暴れるので一番体力の余っている私が引率役になることが多い。
 ちょっと庭から出れば山に囲まれているので、子供達を連れて野遊びなどに連れていったりもしている。
 これも最初は危ながられたのだが、何度かボランティアで引率についてきてくれた猟師さんの証言で今は割と自由にやらせてもらっている。
 なんだかんだであの地球で暮らしていた三ヶ月の間にちょっと野生児として目覚めてしまっていたのかもしれない。山はほぼテリトリーである。
 夕食も当番制だが、朝とは違う人が作ることになっている。例えば今日はデュネットだ。私より一応5歳上で16歳らしいのだが、実のとこその年齢よりマイナス3歳は若く見える。ちんまい系の黒髪少女だった。無造作にお下げを二つ作って前に垂らしたり後ろに垂らしたりしている。いつもぼーっとしているが、料理は普通に出来るので先程自由時間で採ってきたキノコを渡しておく。じーっと三十秒ほどキノコを眺めていただろうか、口を開いた。

「ティーノは」
「ん?」
「甘いのと辛いのどっちが、いい?」
「……甘いので」

 こくんと頷くと、オリーブオイルできのこを炒め始める。
 ただ、台所にはシチューのルゥが最初から置かれていたのだけど。
 辛いのって言ったらどういうものになっていたのだろうか?
 喚く好奇心を抑えつつ、キッチンを後にした。
 しばらく経ち、出てきた夕食はうん。普通のキノコと鳥肉のシチューである。
 それにピクルスやマカロニサラダなどの付け合わせが置かれ、オーブンで再度焼きを入れたパンを並べる。
 いつもの合図の後食べ始める。うん、美味しい。
 ただ、気になってしょうがない。

「ねえ、デュネット」
「……?」
「シチュー作る時に辛いのって言ったら何になってたの?」
「多分」
「多分……?」
「ゆごすにきいなるよろこびをもたらすものが」

 よく判らないがネタとしても危険な気がしたのでデュネットの口を塞がせてもらった。

 夕食後はトランプなどで楽しんだり、本を読んだり、先生は編み物などをしたりしている。
 まったりした趣味の時間と言っていいだろう。
 私はというと、自分の部屋で教本片手に魔法の練習中だったりする。
 そう、なんと私にも魔法を使うための先天的資質、リンカーコアが確認されていたのだ。
 肉体的にもまだ成長しきっていないし、これから変動することはありそうではあるが。
 今のところ計測された魔力値は武装局員の平均値の上の方らしい。アリアさんに言わせると、十分魔法が使えるし、あまり縛りもないくらいのほどよい素質、だとか。
 あまり褒められている気もしなかったのだが、グレアムの爺様はリーゼ姉妹も含めたその戦力が強すぎて、おかげで里帰りも気軽に行けないのだとか。そういうのを聞くとほどよい素質という評価も素直に受け入れられそうだった。
 ともあれ、私が真っ先に覚えたかった魔法とは、以前リーゼ姉妹の使っていた認識に働きかける系の魔法である。
 何でも幻術魔法の一種であり、あまり人気のない渋い魔法だそうだが、私のようにどうしても目立つ翼が背中に生えてたりすると、とても有用である。
 本局で検査してる間は、おそらく医療部という場所的なものもあり、出しっぱなしでも問題にならなかったものの、ミッドにきてみればさすがに私みたいなのはいない。また翼を隠すことになってしまっていたのだ。一度開放的に過ごすことを覚えれば中々以前の窮屈さに慣れないのは人の業というものか。

 そしてとうとう覚えることができたのが半年前。
 魔法を習い初めて、真っ先にその魔法を覚えようとして一月。
 うん、アリアさんにも同情的な目で見られたり、何度か諦めそうになった。
 そう難しい魔法でないはずなのに覚えられずに三月。
 うん、アリアさんも呆れ顔で、幻術に才能がないのは判ったのだから別の方向で考えてはどうかと言われた。ぐうの音もでなかった。
 もはや誰もが諦め顔な認識齟齬の魔法を覚えようとして半年。
 やっと発動した。感動だった。これで翼を出したまま生活できると喜んだ。あまりの嬉しさにリーゼ姉妹にとっておきの鴨肉のジャーキーを送っておいた。
 調子にのって魔法書に乗っていたオプティックハイドという魔法も習得してみようと思い、またもや努力の日々を始める。
 これは要するに魔力を使った光学迷彩だ。SF小説ではおなじみでもある。
 認識に働きかける系は魔力感知が出来る人や勘の鋭いのには効かないらしいので、光学迷彩と組み合わせれば完全に見た目は誤魔化せる。
 なんだか全力で後ろ向きな気もするが、それだけ不便さを感じてきたということなのだろう。
 しかし、その魔法の習得もこう、巧くコツが掴めないというか、魔力がするっと抜けてどこかに行ってしまうかのような感覚があって上手くいかない。
 と言っても何とか気合いで習得したが。それも半年かけて。
 うん。才能ないと言われたけど何とかなるものだった。
 酷く時間をかけて覚えたせいか、アレンジの仕方も手に取るように判るし、今では走りながらオプティックハイドで翼だけ隠すなんて真似もお手の物になっている。
 一年かけて覚えた魔法は二つだけとか、知られた時にはラフィにすら笑われてしまった。
 
 そんな一年余の生活は充実していたが生憎、調べたいものに関しては充実しているとは言い難かった。
 私と同じような姿の有翼種が住んでいる世界、第130管理外世界の事である。
 何しろ情報そのものが少ない。辺境すぎる故か。
 それこそグレアムの爺様に「まさか、一つの世界に関しての情報があれだけとは、正直思わなかったよ……」とため息を吐かせてしまった程だった。
 初めて会った時に見せて貰った情報と旅行者に渡すパンフレットよりも酷い内容しか管理局のデータには収まっていなかったのだ。
 無限書庫にでも行けば、見つかるかも知れないとは言われたものの、本局に居た時に聞いた話によると、凄まじい集積状態で未整理のデータの吐き貯めだとか。
 気の長さにはそれなりに自信があるものの、さすがにちょっと腰が引けてしまうのだ。
 結局決めたのは、管理局員になることだった。
 次元漂流者の保護プログラムの下でだと制限がかなりあるのだ。第130管理外世界は言うに及ばず、地球にも行くことが出来なかったりする。管理外世界への渡航そのものが認められていないのだ。当然と言えば当然なのかもしれないが。客は客なりにじっとしていてくれと言うことなのだろう。
 ならば客でなくなればいいというのが私の結論だった。
 幸い地元というにはちょっと離れているものの、東部第3区画にネルソフ魔法学校というところがある。
 速成と自由が売りの学校で、飛び級し放題の何とも緩い学校である。
 資金に関しては、魔力量に応じての奨学金制度が有り、計算したところ平の武装局員で一年、技術職で二年もやれば返済できそうな感じではあった。
 編入する際には年齢に応じて初等科4年という扱いになるものの、もう子供扱いも慣れたものなので問題ない。

「うっし」

 頬を叩き気合いを入れ直す。
 取り寄せたパンフレットを見れば次の募集まであと5ヶ月だった。
 まずは……苦手な理数系からかな……
 本当に、本当に気合いと努力が必要そうだった。



[34349] 一章 二話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/05 12:33
 ミッドチルダ東部第3区画。
 基本、ミッドチルダ東部域というのは南部と並んで田舎である。
 農業に向いている土地柄がために技術的な発展を必要としなくても、それなりに収益が上がったということなのだろう。土地が安くて、それに目をつけたのが12区画にある巨大テーマパーク、パークロードだったりするのだが。それはさておき、この第3区画もまた例外ではない。少々私の体には大きすぎる旅行鞄をひっさげて、えっちらおっちらと駅構内から歩き出せば。

「うん……まあ、判っちゃいたけどね」

 何とものどかな地方の町並みと言ったところか。
 駅周辺は栄えているものの、少し離れれば畑が広がり、店はちんまりとした小売業が中心のようだ。
 ごそごそとガイドマップをバッグから取り出し、道を確認する。
 曲がる場所さえ間違わなければ判りやすい道順なようだった。
 歩いていると、やがて開かれている大きな門が見えてきた。
 その門に続く大通りにはこれから新学年を迎えるのだろう学生たちがまばらに歩いている。
 年齢はばらばらなようで、私よりはるかに幼く見える姿もあれば大人の姿も混じっていた。
 ここは公立ネルソフ魔法学校。
 あれから座学も何とか……うん、気合いで乗り切って、編入試験にきっかり受かったのだ。当時はかなりデスマーチが鳴り響いていた気がするけども。
 しかし、私がまた学校に通う事になるとは思っていなかったが、何とも緊張……いや違うな。何とも言い難いむず痒さがある。
 不安要素を数えれば数え切れないのだが、日常茶飯事だったのである程度慣れてしまったようだった。
 それよりも楽しみ……うん、楽しみなようだ。私は。
 どうも気分がふわふわしている。いかんいかん。
 少し道に立ち止まって整息。ちょいと前に地球に居た時、恭也に教えてもらったものだが中々役に立つ。
 気を引き締めて門をくぐる。
 まずは書類を受理してもらわなくては。
 
 諸手続を終えて、カルガモの親子よろしく担任の教師だという小太りでちょっと勿体つけた初老の先生の後を歩く。
 ミッドチルダの教育システムは地球のものよりもかなり自由度が広く、学校ごとに学年システムが違ったり、場合によっては学年なんてものがない学校もあるようだった。このネルソフ魔法学校の初等科では編入時は基本的に年齢で決まるようで、地球のものと似ている。その後は一年ごとに進級試験があり、合格すれば一学年上に行くという形らしい。
 自由度についてはこの学校の売りで、飛び級については地球のそれとは比較にならないくらい当たり前に行われていた。学力、実技で高い点を取れれば中等部を飛び越して高等部なんていうアクロバットも可能なようだ。あくまで、可能ではあるというレベルのようだが。
 メンタル的な育成についてはあまり関与する方向ではなく、知識と技術のみを教える傾向が強いらしい。言ってみれば結果重視の促成栽培的な部分があるので、一桁代の子供も居る学校としてはどうかとも思うものの、魔導師の数が常に足らないらしいこの社会ではニーズに合わせた経営方針と言えるのかもしれない。
 そんな事を考えていると、どうも教室のドアが既に開いて手招きしている担任の先生が目に入った。
 うん、ぼんやりしていた。紹介してくれるらしい。

「さて君たち。改めて、紹介しよう。ああ、質問は後に回しなさい。さて、今年から編入することになったティーノ・アルメーラ君だ。仲良くするようにな」

 何ともひねりのない紹介をされてぺこりと頭を下げる。頭を上げる。
 ……お? 静かだ。静謐である。水を打ったように静まりかえっている。
 内心はたと手を打った、自己紹介とかこういう時するんだった。こういったコミュニティから離れてたからというのは言い訳にならないが、うっかりしていた……何か言わないと。

「し、紹介に預かりました、ティーノです。東部11区から来ました。ええ、と……趣味は料理で、特技は……野遊び? です。これからよろしくお願いします」

 こんなとこでいいのだろうか……? 先生の台詞を笑えないくらいひねりの無い挨拶になってしまった。
 うんまあ、様子を見るとすごく良い印象も悪い印象ももたれていないようなので安心する。てか平均年齢10歳だしね。考えすぎた。
 ひとまず空いている席に着くようにと言われ一番奥の席へ。
 しかし、さすがミッドチルダ。
 木製のレトロな机に見えて、しっかり机に情報端末が設置されている。埋め込み式で。椅子もまた、昔、地球の小学校で座ったようなパイプ椅子のように見えて、カーボン素材? 軽くて弾性がある。座ると自然に背筋が伸びるようになっているあたり、人間工学としても考えられているのだろう。
 ミッドというのは見た目はレトロにしつつ、中身をこてこての技術で固めるというのが好きなようで、例えば街中を走る車にしても、オープンカーかと思ったら雨が降れば一瞬にしてルーフが構成されるとか。バスの中で手すりや吊り手が付いている割に慣性制御技術でさほど揺れなかったりとか。何とも無駄を楽しむ技術者が数多いと見える。その姿勢は嫌いじゃない。
 顔は真面目に、頭はぼーっとそんなことを考えながら、担任先生の話を聞く。新学期なので定例のロングホームルームというものだろうか、そこらは割と世界共通のようだ。
 ……どうやら今年一年の目標なるものを書くらしい。端末を介したネットワーク内に自己紹介用のプロフィールを公開する機能があって、そこに乗せて誰でも見れるようにするとのこと。
 なんともまた、恥ずかしいというか。これを恥ずかしいと思ってしまう私はやはり日本人の感覚が濃く残っているのだなと実感した。

「うーん、目標……目標ねえ」

 この学校に来た目的ってのがえらくまた生臭いので困る。
 素直に書くと、とっとと局員にでもなって自由に動けるだけの権利を得ること、局員はなんだかんだ収入が良いのでそれも魅力。となってしまうのだが。
 ……普通に書くとしよう。例えば同世代が考える目標となると何だろうか?

「今年は帝国を樹立し、皇帝陛下と言わしてみせようかと思っています。赤毛の副官募集中」
「今年こそは気功波で月を砕く」
「俺は海賊王になる!」

 いや……いやいや、これではネタに走っているだけだ。確かにこの年代なら、地球ではクラスの一人二人は海賊王になる! とかは書いてそうでもあるけども。
 大体、次元世界でネタが判るわけもない、というと微妙でもあるのだけど。なにしろ地球の漫画や娯楽文化というものが着々と次元世界にも浸透しつつあるのは確認済みである。何故か人気なのがナイト○イダーというちょっと古いアメリカの特撮ドラマ……のリメイクだった。車をインテリジェントデバイスにするとは何という発想だ! と誤った解釈でマニアの間で好まれていたナイト○イダーだが、それをリメイクしたものがミッドの子供向け番組で流れている。初めて見たときは吹いた。変形してロボになったのだから。魔法使うし。あれは地球のマニアが見たら喜ぶか怒るか……うん評価の難しそうなところだった。見ていた私も微妙な顔になってしまったのは言うまでもない。
 お? おお、それだ。

「デバイスを使いこなす事」

 うん、目標はこれでいいや。
 なんせ、モノそれ自体がお高いデバイスである。今まで使いたくても使えなかったのだ。養護施設住まいでそこまでごねるのもなんだか気が引けるとこもあるし。
 魔法教本に載っている事や調べた情報によると、デバイスを使うだけでも相当な負担低減になるようで、特に私のようにマルチタスクだの魔法式だのを咄嗟に組むのが苦手なタイプは是非ともお世話になりたいものだった。
 この学校ではカリキュラムで練習用デバイスを使わせてくれるので、内心実に楽しみにしていたのだ。うん、それでいいや。何とも面白みにかけるけど。
 さらに取って付けたような理由を200文字程書いて提出……この場合アップロードになる。して課題は終了。終わった人から自由時間になるようで、前の学年の時から仲良しだったらしい同士でつるんで教室から出る子もいる。本を取り出して読みふける子もいる。単位時間ではあまり束縛しないやり方であり、日本の学校と違ってクラスの雰囲気は緩いものを感じる。やはりと言うべきか1クラス40人ばかりも居れば興が乗って迷惑になるくらいに騒ぎ出す子も当然居るのだが、どうも即座に先生が注意した後連行していった。お説教コースだろうか? 対処が早い。
 やがて授業が終わり先生が退室すると、好奇心を刺激されたのか私への質問タイムが始まった。どうもクラス替えとかは無いようで、エスカレーター式に一年ごとに上がるクラスメイトにとって、私のような編入生や飛び級で割って入ってくるような学生は格好の話のネタなのだろう。
 質問タイムの……詳細は……思い出したくもない。驚くほどのバイタリティでもって根掘り葉掘り聞かれてしまった。あれは疲れる。

「子供って大変だ……」

 頭では判っているのだ。
 海鳴の空き地で子供相手に遊んでいたように、自然体で振る舞っていればいいだけなのだと。
 ただ、この学校になまじ11歳として入ってしまっているので、つい子供らしく言うならどう言うべきだろうか? なんて頭をよぎってしまう。
 要するに、意識しすぎなのだろう。おいおい慣れると思うけども。
 一つため息を吐き、無意味に肩を揉みながら目的地に着く。
 ぴたと足が止まってしまった。
 上を見上げる。
 男子トイレの表示がある。
 左上を見る。
 女子トイレの表示がある。

「む……むう……」

 か、考えてみたら。真っ当な公共施設で長時間過ごすのは、この姿になって初めてだった。
 地球に居た三ヶ月は、それどころでなかったし。本局では検査の為の一室に軟禁されていたようなものだったし。養護施設に至っては皆で暮らす大きな家という感覚だった。
 なので、世の中にはトイレの男女分けなんてのもあったな、なんて今更に思い出すのも変ではない……と思う。
 えーと……どうしようか?
 体に合わせれば、女子トイレに入るのが当然か。
 足を踏み入れようとして止まってしまう。
 判っている。別に恥ずかしがることでもないし、今更何を言っているのかとも思うが、一度意識してしまうと、昔の……こう、男なのに女子トイレをちょっと覗いてしまったようなインモラルな気持ちが蘇ってきて……

「何をトイレの前で仁王立ちしてるんです?」
「……き、気合いを入れてまして」
「ああ……もしかして、その、大変ですね。私の常備薬でよかったらどうぞ」
 
 便秘薬を渡された。視線がいたたまれなさそうに私の下腹部を一瞥する。その女生徒は私の傍をすり抜け、トイレに入っていった。
 勘違いされ、何とは言えないもの悲しさを胸に私も開いている一室に入るのだった。

   ◇

 ここネルソフ魔法学校は、全寮制である。
 土地ばかり余っているからか、全部が個室として用意されており、実を言えばこの学校を選択した一つのポイントになってもいる。
 入学初日の日程を終え、私は入寮初日でもあるので、そそくさとあてがわれた寮に来て、予め運び入れて貰っていた荷物を紐解きにかかったのだった。
 と言っても、さほど大荷物があるわけでもないし、必要な生活家具などの一式はすでに寮に備え付けられているので、せいぜい、服を収納したり、本を収納したりなど置き場所を決める程度なのだが。
 そんな事をしていると見覚えのない箱があるのに気がついた。木で出来た20センチ四方の小箱だ。蓋は綺麗に着色された蜜蝋で閉じられて、リボンでラッピングされている。

「んー? ああ!」

 思い出した。
 荷物を宅配で送る時に、施設の子供たちが「これも!」と言って持ってきた箱だ。餞別ということらしい。慌ただしいさなかだったので、見るまで忘れていたよ。すまない。
 丁寧に封された箱を開けると、子供達が書いたメッセージカードと共にプレゼントが入っていた。

「ありがたいなぁ……」

 こういうのは貰うと気持ちが温まる。ただ……ネタに走るような子も当然いるわけで……

「コンドームとか……私に何を求めているのだろうか」

 メッセージカードを読むと、そんな乱暴じゃどうせ彼氏の一人もできねーだろ……云々から始まって彼氏が出来てもそれ無しには簡単にヤるんじゃねえぞ。で終わっていた。
 ティンバー……スラム出身の子だからまあ、そういう発想になるんだろうけど、そりゃ避妊は大事だからねえ。私にゃ機会も関係もないだろうけど。心配してくれてるみたいだから、気持ちだけはもらっておく。確かサバイバル時の水の持ち運びにも重宝するのだったけか。
 さらに中を探ると鉄製の5センチにも満たない箱が出てきた。振ると何かが揺れるような感じはあるものの何の音もしない。
 箱には針か何か鋭いものでつけられたと思わしき溝が薄くあり、そこに血のような朱色が塗られている。ああ、と何となく判った私は備え付けられたメッセージカードを手に取った。
 輝くトラペゾヘドロンの一かけをあなたに託します。いざという時混沌を思い描きなさい。心の象形よりそれは這い寄る──と、手紙はここで途切れているのだが。最後の方に「愛を込めて、デュネットより」とサインされている。本当にあの子はこの手の話が好きだ……この世界で某でっちあげ神話の古本を見つけたのでお土産に渡したのだが、ここまで嵌るとは思っていなかった。
 ラフィからは青い地にエーデルワイスの花の飾りのついたバレッタを貰った。丁度いいのでポニーテールにした髪を後ろで纏めてバレッタで留めておく。軽く頭を振って確認。うん、すっきりして良い。
 皆からの心づくしのボックスはひとまずしまい込み、整理の続きに励むことにした。

   ◇

 日々の授業は魔法学がなかなか楽しい。今までは基礎の部分は全て魔法の教本相手に独学でやっていたのでなおさらそう感じるのかもしれない。リーゼ姉妹もグレアムの爺様も忙しすぎでなかなか基礎から相手させるのも気まずかったというのもあるし。
 そして、それなりに学校にも馴染み、と言ってもあまり積極的に輪に加わったりしたわけでもないが、よく話す子の2,3人もできた頃。
 お待ちかねのデバイス使用での実技の時間がやってきた。
 配布された練習用簡易デバイスに魔力を通してみると──

「なにこれ、有り得ない。効率よすぎ、楽すぎ、デバイスってどんなバグアイテム?」

 私の感想はコレに尽きる。
 あまりの驚きに魔法陣が出たあたりでしばし思考が停止してしまった。
 いや原理は判る。
 私の場合、魔法式を頭に浮かべて演算とか非常に苦手なので、その部分の計算を代行してくれればそれはもう効率がよくなるのは判る。
 いってみれば紙に計算式書いてしこしこ計算するのと、電卓でぱぱっと計算するのとの比較のようなものだからだ。中にはデバイスに頼らなくても自分の頭で結界のみならず砲撃の複雑なプログラムまで組み立ててしまう猛者もいるらしいが。
 私が幻術系の魔法を覚えるのに時間かかったのも多分そこらに原因があるのだろう。最終的には剣振るのと同じ要領で少しづつ体に型を染みこませていったようなもので。逆にその感覚がアリアさんとかには判らないらしいが。
 何というか、釈然としないのである。
 せっせと石投げの練習してたら、目標をライフルで狙撃されたかのような。そんなやるせなさが身を包む。
 いやいや、と首を振って気を取り直す。
 やれること、出来ることがデバイスのおかげで飛躍的に広がるのは間違いない。
 考えてみれば、管理局の支配権を支えているのがこのデバイス技術なのかもしれない。私のようなあからさまに魔法に適正のないのでも、魔力を持ち、ある程度それを操作できればデバイスを持たせるだけで魔法がバンバン使えてしまうのだ。さらに徴兵制などと組み合わせて、一定以上の魔力持ちにデバイスを配布したらとんでもない軍事国家になっていたかもしれない。つか、戦時中の日本とかこの技術知ったら絶対やってる。ってかそれはかなーり怖い想像だった。

「おおぅ……ブルッとしたぁ」
「……さっきから何を一人百面相しているんだ君は。真面目にやりなさい」

 先生に怒られてしまった。いかんいかん、デバイスの便利さにかなり動揺してしまった。これでアマチュアも自作可能な練習用ストレージデバイスだというから困ってしまう。
 ちなみに今行っている実習はまず基本の魔力素の圧縮からデバイスを通し、単純で何の指向性も持たない魔力スフィアを生み出すだけの魔法だ。
 デバイスにある程度の圧縮魔力と共に起動の意志を込める。ミッド式と呼ばれるどこか機械的な魔法陣が生まれ、白色……という割にはギラついた魔力スフィアが生まれる。

「うん、問題ないな。魔力光は……銀色と」

 さらさらと評価を書かれてゆく。
 そう、魔力光もまた、ちょっと容姿と共に痛い色だったりした。精神的だけでなく物理的にもちょっと目に痛い。銀色と書かれたが実のところ少し青みがかかっている。蒼銀色というやつで、夜中に光らせると肝試しに使えそうな色だったりもした。

   ◇

 そんなことがあったんだよ。どこまでこの身は痛い新事実が発覚すれば気が済むのか知りたいね。
 次は自分が名のある人のクローンでATフィールドめいたものでも撒き散らしながらラスボスとがちがちに殴り合う展開になっても驚かない。
 それと恭也、お前さんの声聞いてるとどうも、任務完了と言ってほしくなる、何となく自爆しそうな気がする。根拠はないが直感だ。

 などと、サラサラと紙に書いて破る。くしゃくしゃに丸めてくずかごに放り込んだ。
 地球に送る手紙を書いているのだが、魔法関係のことは書けない。何も考えてない文章だった。
 暫定的にではあるものの、次元漂流者の保護下から外れた事で地球に手紙を送ってもらうなんてことも可能になっている。
 宛先が管理外世界という事もあり、それも通常なら送れなかったのだけど、グレアムの爺さんがやはり地球出身ということもあり、手紙くらいなら窓口となってくれるらしい。
 恭也と美由希には世話になった割にあっさりと別れて、そのまま一年も放置してしまったので、少々バツが悪かった。
 あの空き地で遊んでいたガキンチョ共、そのガキ大将といった風合いの安田と南部コンビも忘れていない。
 今なら判るが、孤独は人をたやすく追い詰める。本人達にその意識はなくても私は彼らに救われた身だ。
 あのまま生きていても、生活的には何とかなっていたような気もするが、多分途中で疲れて、自暴自棄になっていたと思う。ただ生きるだけでは人は保たない。

「うぁ……こう夜中に筆を進めていると臭いことばかり思いついて……あー、でもたまにゃいいかなぁ」

 うん。たまにだ。たまには素直に感謝の気持ちでも書いてみて、送ってもらうとしよう。
 ロッテさんが最近用事があるとかで地球に行くことがあるらしい。手紙を書けたらついでに配達よろしくとも言ってある。検閲も兼ねてくれるんだっけ。
 ……む、これを見られるのか。
 やはり恥ずかしい。見られたくない部分は消して、推敲する。
 一通り書き終え、窓を開けて冷たい夜気を浴びた。
 背筋を伸ばすと思ったより気持ち良かった。思ったより長い時間座っていたらしい。
 しばらくは普通の授業、基礎の焼き直しだが、一ヶ月後に面白いイベントが予定されている。
 卒業生は武装局員になるものも多いので、早いうちに魔法の怖さを知って貰おうということで、上級生との練習試合が組まれるらしい。
 ──面白い。
 素直にそう思う。
 剣を振れば力になる。力があれば振るいたくなる。魔法もそれは同じだ。
 恭也のような真っ当に武術を修めているような奴にとっては、それは下の下なのだろう。
 私はどうなのだろうか。
 自分の心のブレを自分で感じる。私も結局小物もいいとこなのかもしれない。力を身につければ振るいたい、と素直に思ってしまった。
 苦笑いが出た。淹れてから時間が経ってすっかり冷めてしまった紅茶を飲む。
 力がついたなんてとても、とても言えないだろうに。ただ、それを確かめるにもいい機会かもしれない。

「ん、試合に備えて集中してみようか」

 私は立てかけてある馴染みの木刀を手に取り、一つつぶやくと、素振りでもしに寮の裏手へ向かうのだった。 



[34349] 一章 三話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/05 12:34
 上級生との合同実習……という名目を借りた練習試合。
 次元世界に即戦力をばんばん送りたいこの魔法学校では、軍学校的な側面がある。もちろんそれはあくまでも一面でしかないのだけど。
 それがこの慣習で、魔法を使い始めて増長したり、遊び半分で暴発させないようにと文字通り「身をもって」魔法の怖さを知って貰うというイベントだった。
 実際、恥ずかしながら私も増長していたと言わざるを得ない。何とか一矢くらいは報えるものだと思ってた。ミッド式は近接がおざなりだし、至近距離でシュートバレットとかで。
 やはり、浮かれていた?
 デバイスで一気にやることが開けてしまったので、実習まで一ヶ月。寝る間も惜しんでいろいろ試していた。
 教本で見た、私ではデバイス無しでの起動なんか絶対無理な魔法なんかも魔力注げば発動出来てしまう事には感動したものだった。
 射撃魔法なんか直射型でさえ生身で撃てないタイプなので嬉しくてもう。練習場でシュートバレット、基本中の基本の魔力弾とか撃ちすぎて出禁指定されたり。
 他にも基本となる、バインドだのシールドだの。他にも移動系の基礎とか。幅広く……
 うん、浮かれていたな。

 結論から言うと、めっためたにボコられた。
 この上級生との……という言い回しがまた曲者で、私たちには直前まで明かされなかったのだが、相手するのは高等部の連中である。初等部の一年上とかでなく、中等部でもなく高等部である。
 先生がソフトな言い方の前情報しか出さないから変だとは思ったのだ。
 何が「魔法の怖さを知ってもらうために」だろうか。要するにレベル1の旅に出たての冒険者をレベル30の冒険者が愛の鞭という攻撃をして全滅させるという内容だったわけである。
 なぜ、初等部の4年から実技とこの授業が組み込まれるのか判ったような気がする。
 これは幼い子には少々刺激が強すぎる。というかトラウマにしかならないだろう。高等部を見たら地獄の獄卒を見たかのように泣き出すに違いない。

「そりゃ……軽々しく魔法使おうなんて気は……げふぁ……失せるな」

 その効能だけは認める。叩き込まれた圧縮魔力の残滓がまだ体にくすぶっているような気さえする。ため息から煙のような魔力光がでそうだ。
 ちなみに私はまだいいところまで行った……と思う。
 何か気取ってる感じのイケ面が統制をとっていたので、弾幕を避けながら回り込んで奇襲には成功したはずだった。
 至近距離からのシュートバレットも決まった。
 問題は……全て読まれていて、プロテクションをとっくに張られていた事だった。しかもご丁寧にあまり使われないはずの幻術魔法で見た目の隠蔽までされて。
 にやりと笑うイケ面君がとても癪に触った。そして何と間抜けな事か。
 防御魔法に向かっておらーと魔法弾を叩き込んでいた私は射的ゲームの的より簡単な的だったに違いない。
 次の瞬間には360度全方位から飛んでくる魔力弾。
 とっさに防御魔法を使えるほど習熟してなかったというのもあるし、いくら目が良くても避けきれるはずもなく……現在に至る。
 演習場は死屍累々……と言っても見渡せば、積極的に攻勢に出なかった後衛は加減されてるようで、ほとんど当たっていないのもいるが。
 しかし、これでなかなか魔力ダメージというのも痛いものがある。
 学校ということで、非殺傷設定は発動が遅れてしまうほどガチガチにかかってるはずなんだが。単純に魔法弾食らいすぎたか?
 あーなんだ。とりあえず。

「くやしーなぁ……」

 ぽつりと私が空に向いて吐いた言葉は誰も聞いてなかったと思う。

   ◇

「どうしたのこんな時間に?」

 アリアさんが少し驚いたかのような声で返事をしてくれた。
 こんな夜が更けてから連絡することは今までなかったので驚かせてしまったようだった。
 いや、用件は簡単なことなんだけども、なかなか切り出し口が……

「あー、あのさ。私、地球に居た時剣術馬鹿に一度も勝てなかったって話したの覚えてる?」
「ええ……覚えてるわよ? ちょっと前にロッテに手紙を頼んだって子でしょ? あれ……ひょっとして、その彼氏君に会いたくなっちゃった?」
「その発想はなかったわ……いやいや、ありえんから」

 思わず手を目の前でぱたぱた。

「なんてーか……今日、学校でやった魔法の練習試合でメタメタにやられちゃってさ」

 いや、魔法使用者としての習熟が足らなすぎるってのは判ってるが、そういうのでなく……ぬーむ。上手く言葉にできない。
 悔しいのだが、悔しさのベクトルが違うってか。ふがいなさ……か? 魔法とはいえこんなにあっさりやられてしまった事に?
 少し黙ってしまってしまった私に何を感じ取ったのか、アリアさんはニャニャとした笑みを浮かべた。

「ん、なるほどなるほど、青春よねえ……どう? 強くなりたい?」
「えーと、強さとか弱さとかそういうのじゃなくて」

 しゃらっぷ。と黙らされる。

「とりあえず、何か考え事するなら、強くなってリベンジしてからすっきりした頭で考えなさい。今のあなたは変な思考入ってるから」

 私に任せてもらっていいよ、と言う。
 なんて頼りがいのある言葉か。
 そこまで言わせちゃ頭を下げないわけにはいかないわけで。

「よろしくお願いします」

 心の中で安西先生と付け加えるのは忘れなかったが。
 翌日、わざわざ迎えに来てくれたアリアさんに連れて行ってもらったのは大きな家、いや屋敷とも言うべきものだったかもしれない。
 ちょっとためらってしまう私を尻目にアリアさんはつかつかと遠慮なくカードキーを通し門を開ける。

「……て、えー? もしかしてここグレアム爺さんの持ち家とかそういう落ち?」

 そう聞くと、ちょっと寂しげに頭を振った。

「故人の家だよ、昔は本人とあの子の部下が大騒ぎしていたものだけど」

 と、話している時だった。扉が急に開き──

「だ……大丈夫だからほ、放っといてくれっ!」

 と家の中に向かって怒鳴りながら飛び出してきて、アリアさんにぶつかる小柄な影。
 あまりにアレな事態だったからか流石に反応できずにアリアさんももんどりうって、その小柄な影とアリアさんはいろいろ絡みながらまるでどこぞのコントのようにごろごろと転がった。
 私もあまりにあんまりな事態にポカーンとしている。
 そうこうしているうちに屋敷の開いた扉から包帯をもった、私と同じくらいの背格好だろうか? 栗色の髪の少女が「待って、待ってよクロノ君!」と言って飛び出し、目の前のアリアさんと絡まった少年を見て固まっている。
 何というカオス……
 その少年は見たところ、7,8歳だろうか。目を回しているが、子供にしては随分ひきしまった体をしている。ミッドには実はそれほど居ない黒髪をしていてちょっと郷愁をそそった。
 ひきしまった体なんてのも格好が……まあ、上半身裸なので仕方ない。男の子なのだから別に見られても気にはしないだろう。
 とりあえず、焦点がやっと戻ってきたアリアさんに、自分の状況を見て貰って、くんずほぐれずになっていた体をほどく。すごいところに頭がすっぽり入っていた。なんとうらやまけしからん。

 何とか場が収まったので、とりあえずどうぞと招かれ、応接間の椅子をすすめられる。先程の少女がお茶を入れてきてくれた所でお互いに自己紹介を始めた。
 この黒髪の少年がクロノ・ハラオウン、アリアさんが言うには私たちの世代で一番完成に近い魔導師という事になるらしい。ただ、いろいろ無茶な鍛錬なんぞもやっているようで、体もよくみれば傷だらけである。そこに丹念に薬を塗って、包帯を巻いている少女がエイミィ・リミエッタと言うそうだ。クロノ君は人前で手当されるのが恥ずかしいようで、顔を染めながらあっちの方向を睨んでいる。

「姉弟?」
「そぉなんですよークロノ君ったらお姉ちゃんの言うことなかなか聞いてくれなくてー」

 お姉ちゃん困っちゃうなーと言いながら後ろから抱きしめて見せるが、それ傷に痛そうだぞ?

「ちっ……違う! 姉じゃなくて学校の同期だ!」
「またまた大人ぶっちゃって」

 ああ、なんかこの二人の関係が見えてきたような。
 とりあえず、家を飛び出してきたのは手当させろ、自分でやるからいいという掛け合いのすえだったらしい。

「んー、そっか。私もちなみに学生なんだ。魔法学校だけどね」

 と水を向け、しばらく雑談しているとびっくりの事実。
 二人とも士官学校の二年生だという。
 いやまあ、確かに管理局では三歳から魔法学校は入学可能だったと思うが、士官学校も似たようなものなのだろうか。年齢を聞けば、クロノは9歳、エイミィは11歳だというし。
 ただ、士官って人使う部署だろうに、若くて平気なんだろうか。慣習化してれば何てことないのかもしれないけども。実際のところ管理局に入ってみない事には何とも言えないが。

「それで、私はロッテと交代でたまに来て今でも訓練をつけているのよ」

 アリアさんが経緯を話してくれた。
 グレアム爺さんの同僚の遺児らしい、しかし、クライド……な。どこかで聞き覚えが……んー、思い出せないな。
 ともあれ、これからするアリアさんとクロノ君の訓練を見せてくれるらしい。
 まずは一流の魔導師がどういう存在かを知っておくのが一番だそうな。
 屋外に専用のフィールドが用意されているというので、場所を移して、エイミィと一緒に観戦する。
 
 ──のっけからして引いた。
 なんというかもう、うわぁ……である。

「あはは……やっぱティーノちゃんも引いちゃう?」
「ああ、うん、あれはさすがに……あ、血ぃ吐いた」

 フィジカルヒールで胃の止血を済ませまた向かって行くクロノ。
 フィジカルヒールで切れた腕の繊維を治癒して向かって行くクロノ。
 フィジカルヒールで捻挫した関節を治して向かって行くクロノ。
 駄目だ、ぷっつんしてやがる……

「あれでも、一応合理的らしいの……本人達にとっては。治癒魔法で治せるようなダメージしか与えてないし、それで治せば治癒の腕も上がるし、魔力的な負荷にもなるし」
「うん……まあ実際ヒールだけじゃなく魔法の練度も桁違いだし。何より誘導制御が半端ない」

 私が食らった360度包囲の魔法弾とかより遙かにタチが悪い。逃げ道を用意して、そこには常に罠。まるで迷路を描くように魔法を展開してみせている。しかも状況に応じてリアルタイムで迷路の配置を変えながら。
 何となく感じる事があるとすれば、クロノは自分から向かって行きながらどこか守る事主体に戦っているような気もする。
 かわせるはずの魔力弾も丁寧にシールドで弾いていた。
 そんな見ているだけで頭の痛くなるような模擬戦が1時間も続いただろうか……

「じゃあ、クロノ。宿題の成果を見せてね」

 アリアさんが声をかけると、クロノの唇が少し持ち上がった。荒くなっていた息を整え、デバイスを構える。眼を細め集中し──

『Stinger Blade Execution Shift(スティンガーブレイド・エクスキューションシフト)』

 魔法陣が乱れ咲き、水色の魔力光が空間一面を染め上げた。
 五十本近いだろうか、魔法で編まれた刃状の誘導弾がアリアさんめがけて迷路から形を変えた牢獄となり襲う。
 アリアさんはにっこり笑って何かつぶやくと、プロテクションと思しき魔法で全方位の刃を防いだ。

「よくできました。今日はこれまでね」
「……一本も通らないとか」

 満足そうなアリアさんと落ち込んでいるクロノ。
 私から言わせれば、どっちもとんでもない。
 エイミィがお疲れ様-と水で濡らしたタオルをもってクロノの元に小走りに行った。ああしてみるとまるで部活のマネージャのようだ。
 私もゆっくり歩み寄って、アリアさんにお疲れ様と声をかけておく。

「どうだった? クロノがランク試験受けるのは卒業時だからまだ決まってないけど、多分魔導師ランクはAA前後。私は使い魔だからランクには当てはまらないけど、AAAってとこだと思うよ」
「どっちの魔法にもどん引き」

 正直なところをぶっちゃけるとかくんと頭が横に落ちた。コケるというリアクションをよく判っている猫さんである。

「というか、アリアさんがそんなに派手に強かったとは思わなかったよ」
「そりゃ見せてなかったからね、さて……」

 とつぶやいて、手招きする。私は久しぶりに自分が捕食されるビジョンを思い浮かべた。ビジョンではご丁寧に頭に非常食と書かれている。わんわん、わわわんと鳴くべきか。

「次はティーノの番だよ」

 はぐれメタルのように逃げ出したかった。
 が、しかし私もかつては男である。勇気を胸に一歩を踏み出す。

「や、やや、やってやりゅら」

 口は勇気を出してくれなかった。

   ◇

 実のところ……クロノに施したような訓練はアリアさんにとっても例外中の例外のようで、同じようなことをするわけではないようだった。
 よかった、本当によかった。
 ロッテだとノリ次第で危なかったけど、というつぶやきは全力でスルーした。

「そういえばティーノ。いつまで翼隠したままでいるつもり?」
「……あ、忘れてた」

 少し考えて、クロノとエイミィをちょっと見てからアリアさんにアイコンタクトを取ると頷いた。
 士官目指してるなら異種族との対応も当然あるってことだろうか。
 ならばよしと翼にかけっぱなしの幻術を解く。

「ええええええええッ!!!」
「おおお! すごいなこれは……」

 めっちゃ驚いとるやないかい。
 話が違うとばかりにアリアさんを見ると、ニャニャと笑っていた。くそ、無駄に可愛い。

「あー、うー、何というかお二人さん、世の中にはこういう種族も居るんだ。あまり驚かないでくれると嬉しいよ」
「……うん。おけおけ。ただ、後でもふもふさせてねー」
「了解した。エイミィ……君は自重な」

 エイミィの目がちっと怖かった。
 振り返って、アリアさんに話しかけようとしたが、何か表情が固まっていた。

「……ふと気付いちゃったんだけど、いつもオプティックハイドで隠してたの?」
「ああ、うん。便利だし」

 どのくらいの時間と聞かれたので、寝るときと風呂以外は全部と言うと、ねぇわーとでも言うように手の平で目をぺちんと塞いだ。
 後ろを見るとクロノも顔が固まっていた。
 エイミィはよく判らないのかハテナマークを表情に浮かべている。多分私の今の顔もエイミィと同じ顔になっている。
 いつまで黙ってても仕方ないとでも言うように首を振るとアリアさんが話し始めた。

「いい? 確かに幻術系はデバイスの助け無しに発動するには向いてるけど、リソースは当然食うの。それもオプティックハイドは動くもの複雑なものになればなるほど、リソースも魔力消費も上がる代物、そんな」

 ぴっと私の背中を指さした。

「そんな、いかにも計算が面倒臭そうなディティールと常に動く自分の一部分という対象。どれだけ魔力食うか判る? 意識してなくてもどれだけリソース食ってるか判る? というか何で魔力切れで気絶してないの? そんなに変なのに目つけられて実験対象にされたいの? 実は稀少種族だということで変な部署に引っ張られそうになって、私とロッテがどれだけ手を打ったか判るの? ねえ?」

 おおお……ああっ……ち、近い、近いですアリアさん台詞のたびに近づいてきます! 何か得体の知れないオーラを伴って!
 笑っているのにワラッていない、尖った牙が近い……ッ! しょっ食される……もう、駄目、ぽ。
 なんだか判らないが私は全力で謝り倒した。
 しばらくの後、激情が過ぎたらしいアリアさんは深いため息をついた。

「考えても仕方ないね……うん。とりあえずいろいろ試してみようか」

 私が割と常日頃から考えている「考えても仕方ない」にたどり着いたようだった。
 とりあえずは、魔力切れの一件から確認してみることになる。

「あ、でも私デバイスないと、幻術魔法くらいしか使えないよ」

 練習用デバイスは学校の備品なので持ち出し不可である。
 もっともそこは折り込み済みだったらしく、これを使ってとカードを渡される。これって。

「デバイス?」
「お父様からのプレゼントよ」

 頭をわしわしされた。久しぶりだなこれ。ただ、あまりやられるとセットしたはずのアホ毛が立つんだけども。

「ティーノの保護責任者になったのに、何もおねだりされないうちに当人は局員目指し始めちゃったから。ま、このくらいはね」

 あー。それを言われるとちっと申し訳ないというか。いや十分我が儘言ってる気もするんだが。
 なんだ、まあうん……有り難く頂きマス。

「ありがと、アリアさん。後でグレアムの爺さんにも話しておくよ」
「ん……と言っても、局員が使ってるスタンダードモデルをあなたに合わせて調整しただけのものだから、そこまで有り難がらなくてもいいよ?」

 しゃちほこばってデバイスを受け取る私に苦笑している。尻尾がゆらゆら揺れた。
 いやいや、あんたら金持ちだから感覚麻痺してるだろうけど、安い車買えるからね? オーダーメイドじゃなくちゃ嫌とか駄々こねるわけない。貰えるだけ恩の字である。
 エイミィに名前を付けないのかと聞かれたが、ストレージデバイスだと、自分のPCに名前を付けるようなものだ。
 インテリジェントデバイスならともかく、あえて付けるもんでもないだろ、と言うと何故かクロノが目をそらしていた。少し顔も赤くなっている。
 怪訝に思ってじっと見ていたら。

「……あ、あれは母さんのネーミングなんだ。ぼ、僕は関与していない」

 何も聞いていないのだが一人で弁解を始めてた。9歳なんだし別に恥ずかしがることもないだろうに……マセてるなぁ。ちょっと微笑ましいかもしれない。先程の、魔法をばんばん放ってた鬼っぷりとイメージが違いすぎる。
 ちなみにこの貰ったデバイスは武装局員でもB~Aランクの間で広く使われている中堅モデルとのこと。なんでもデバイスも魔力の出力に合ったものを選ばないと出力が大きすぎれば許容を越えてデバイスが破損、下手すれば爆発するし、デバイスのキャパシティに対して魔導師の出力が低すぎればロスが多すぎて使い物にならないとか。
 つまるとこ、私の魔法出力は局員のその辺りのランクと同じくらいはあると見られているようだ。ああ、本局の検査で大まかには判るんだっけ。
 早速、起動してみる。
 私の個人データは既に登録されているようで、魔力を流し込んで起動の意志を伝えると起動状態に入った。
 デバイスの情報を閲覧してみると、スペックや登録してある魔法プログラムを確認することができるのだが。

「あり? 登録魔法ゼロ?」
「ティーノ用に調整したって言ったでしょ? 具体的にはね……」

 説明されてびっくり。
 アリアさん。それは調整でなく改造と言う。この人意外と凝り性なのだろうか……
 どう改造されたかというと、要するに演算機能と魔法プログラムを記憶しておくための記憶野を拡張。余分な場所はいらんとばかりに他の部分をとにかくこそげ落としてある。こそげ落としたという言葉で済ませていいのなら……ある意味とてもデバイスらしいデバイスと言えばいいのだろうか。

「今の流行の逆にシンプルなだけの状態にしてあるから、好きに拡張できるよ?」

 と、アリアさん。
 なんでも、既存のデバイスをあえて改造したのは最近のデバイスに対する不満もあったらしい。現行製品はどう組んでもそこそこ何でも出来るデバイスにしかならないので、面白みがないのだとか。
 昔の局員はこういうシンプルなのから自分のスタイルごとにいじり倒していたものよ、と言う。
 ……ああ、そういえばリーゼ姉妹はグレアム爺さんと一緒に長い間、管理局に居たのだったか。
 ともあれ、このままでは練習もままならないので、クロノをちょいちょいと手招きして、彼のデバイスに登録してある中の基礎魔法をコピーさせてもらう。

「……何、このシビアでタイトでピーキーな設定」

 本人きょとんとしてるが、人の使うレベルじゃねえ。
 コンマ1秒内に10から30単位で判断して指示を与えないといけないとか。
 これだから頭の良い奴は……こんちきしょう。
 私用に設定をとても、とてもとても緩くしておく。ちょっとクロノ覗くな、見ないでくれ、こんな姿。
 ……覗きこまれないように体を丸めてこそこそと……作業が終わったので、やっとこさアリアさんに向き合う。

「よし。気持ちを切り替えてティーノ行きます」
「うん、じゃ基本の基本。シュートバレットを魔力切れるまで撃ってみてね」

 了解、とだけ言ってとりあえず拙いシュートバレットを撃ちまくる。
 途中で一々ルーチンの起動指示が面倒になったので、簡単に制御文を加えて擬似的なフルオート射撃に切り替えた。このくらいのプログラムいじりならさすがに一年みっちり魔法学をやっただけあって身についているのである。

 ……何発撃っただろうか、一時間経っても終わらないのでひとまず終了させられる。

「本当にどうなってるの……?」

 アリアさんが頭痛そうに首をひねっていた。
 私も首をひねっている。
 というかこれまで、まともに魔力行使しなかったからこそ、やっと気付いた問題というか。そういえばここ一ヶ月の試用デバイス使っての魔法行使も魔力切れって起こしたことないなーなんて思っていた。
 二人してうんうん言いながら頭をひねっていると、クロノとエイミィが何やら思いついたのか、話しかけてきた。

「ディバイドエナジーで総量を計ってみるというのは?」
「それ採用!」

 と、アリアさん。
 私はというとディバイドエナジーなんて魔法は知らなかったので余程ぼけた顔でもしてただろう。
 説明されてみると、どうも人から人に魔力供給するという魔法らしい。
 便利そうなのに魔法教本にも載ってないくらいに流行ってないのは、供給時にかなりの魔力ロスがあるので効率が悪いとのことだった。
 それでもいざという時などには世話になることもあるそうで、子供のクロノもアリアさんに叩き込まれていたようである。
 で、本来はこの魔法、自分の魔力上限を知ってからその魔力量のうちどのくらいを渡すか、という計算をしてから使う魔法のようなのだが……
 今回は要するに私がありったけ流す魔力から、魔力総量を逆算して測定しようということのようだ。
 なんかこの魔法、使い魔にはあまりよろしくないらしく、クロノに頼んで計ってもらうことになった。

「んじゃ、クロノ君よろしく頼むよ」

 ふつつかながら、と前置きして言ったのだが、このネタはもう少し年行ってからでないと判らないらしかった。残念である。
 私のデバイスに入力して貰ったディバイドエナジーの魔法を起動させる。
 先のこなれない魔力弾の魔法より遙かに効率よく魔力が流れ出ていく。
 それはそうだ。魔力を魔法に変換することもなく流し込んでいるのだから、例えるなら近所の小川とミシシッピ川くらいに流量が違う。
 といってもこれは……ロスが大きい、てか漏れすぎ……駄々漏れ……壊れた水道管のごとくか。
 てか、あれ?

「……あれ?」
「あ、起きた」

 気付いたら仰向けになっていた。エイミィの声が聞こえる。
 あれか、これが教本にも載ってた魔力切れの気絶か?
 意外にすっきりした。

「普通一分かそこらで起き上がれないものなんだけどね、でもやっと判明したよ」

 そう言ってストップウォッチを見せてくれるアリアさん。1分27秒。私が気絶していた時間らしい。
 どうも体質的なもので魔力素から魔力へ変換する効率が良すぎるのだろうとの事。何それ、やっと私のターンきた?
 体質ってなんやねんとも思ったのだが、本局で検査したときの私のカルテというか魔力を感知するレントゲン写真のようなものらしい、をどこからともなく取り出して見せられると、うん。
 体質としか言えないのかもと思ってしまう。見た目からして。
 心臓近くにあるリンカーコアから伸びる魔力ラインが体を巡っているのだがひときわ太い流れが翼に続いていて神経のように張り巡らされている。
 確かにこんなもの見せられては、実験動物として引く手あまたな気がする。リーゼ姉妹がいろいろ手を打ったってのも誇張じゃないんだろう。ちょっと浮かれてた自分が申し訳なくなってきた。

「もっとも、今は自動充電してくれる便利な魔力バッテリーくらいにしかならないけどね」

 酷い言いぐさだった。
 言い返そうとしても言い返せないが。
 総魔力量は確かに高いが、クロノ程ではないらしい。クロノを10とした場合私は7か8くらいだそうな。
 何より、瞬間出力量がその総魔力よりかなり小さいのだと言う。もっとも、そのかなり小さい出力でもAランク魔導師の出力くらいはあるそうで、こいつらのとんでも具合を確認したのみだったのだけど。

 その日はとりあえずそこでお開きということになった。
 時間も大分経っていたし、アリアさんも忙しい中付き合ってくれて有り難いことだった。
 クロノやエイミィ、特にエイミィとは仲良くなれた。主に料理の話題で。11歳で料理の話をして盛り上がれる子が居るとは思っていなかったので大きな収穫だったかもしれない。

 肝心の私の魔導師としての訓練についてだが、魔力弾の不器用さからすると、時間をかけて身につけていくしかない……とのこと。
 作ってもらった訓練メニューを渡してもらいながらも、自分への口惜しさというか微妙さに少し沈んでいると、見かねたのかアリアさんがフォローするように言った。

「……ええとね、現実は上手く行く事ばかりじゃないのは事実だから。それでも、ティーノができる事で一番役にたつことは、はっきりしてるんだよ」
「みなまで言うな……言わないで、何かが折れる」

 うん。集団戦なら役に立つことはあるんだ。しかもとびきり。
 私自身が魔力切れでの気絶でも起こさない限りは、総魔力量が大きいという事で誤魔化せそうでもあるし。確かに使えるんだ。個人戦にはあまり意味をなさないだけで。使いどころは大きい。補給は重要なのである。
 判ってはいるんだ。判っては。ただ──

「皆さんの魔力タンク……か」

 私が単独で無双する日は、はるか遠くにあるようだった。



[34349] 一章 四話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/05 19:53
 このミッドチルダに来て、日々の生活に余裕が生まれてからだが。少々思っていたことがある。
 なんて、自分は微妙なのだろうと。
 毎朝鏡を見るたびに思う。
 さすがにこの身体になり、一年ちょっとも経って慣れてないとは言えない。
 身長もかなり伸びて、今では137センチになった。と言っても平均からしたらまだ小さく、会うたびにリーゼ姉妹に頭をぐしゃぐしゃされるのはそのせいだと思っている。
 顔つきはなんだかんだで整っていた。きっとにっこり笑えば誰もが振り返る良い笑顔になるのだろう。
 私が笑うと微妙にしかならないのが悲しいところだ。
 ちょっと声を出してみれば、鈴の響くような高い声が響く。合唱団も入れそうな良い声だ。
 出す言葉がいちいち親父臭いのが微妙だが。

 そんな私は魔法の方も割と微妙だったことにちょっとばかり落ち込んでいた。
 いや、考えてみれば継戦能力という意味ではこの特殊技能というか体質はかなり有利なわけだし、将来的に局員になることを考えてみれば、現場において相当に役立つものになるというのはすぐに判る。
 素人頭で考えてみても、補給が居るのと居ないのとでは作戦の成功率に大きく関わるというのは判るのだ。
 では何が微妙かといえば……いやひどく子供っぽいこだわりでしかないのだけど。
 できれば、漲るパワーで蹂! 躙! なんてやってみたい。大人げないと言われようがその欲求はちょっと否定できない。少年漫画の読み過ぎかもしれないがそれは置いておく。
 先のクロノの出した最後の決め技とか見るともう、なんというか、ねえ?
 線香花火が打ち上げ花火に憧れるようなもんだろうけども。
 ぐだぐだしてくる思考を打ち払うように玄関に傘と一緒に差しっぱなしの木刀をもって寮の裏庭に向かう。
 最近この素振りの習慣もすっかり現実逃避の手段になっているような気もしないでもない。
 変な考えに浸ってしまったが、すっかり手にも馴染んだ木刀を二、三度振って落ち着く。これで落ち着ける私は恐らく女としては相当アレなのだろうけど気にはしない。
 恩師とも言えるカラベル先生には申し訳ないのだけど、やはり今の私はあくまで「私」であって男とか女とかそういう枠に収められたくないような……うん、青春の主張っぽくなってきた。
 色々不安定なのは、何も施設から離れてしまった事や、ここにきて明らかになった私の微妙な体質。あるいはクロノという年下なのにやたらすごい魔導師で開いた口が塞がらなかった事とか……
 もちろんそれらの理由もある。当然だ。だがそれだけではない。
 うん、むしろ他に大きな原因がある。
 私は今年の8月で12歳ということになる。実年齢は判らないので、登録時にグレアムの爺さんに拾われた時を誕生日にしておいた。
 肉体年齢はかなり適当に見た目で申請したのだが、その後の検査でも申請年齢と肉体年齢は大体合っていたようなので良いことにする。

 ──さて。
 そろそろ現実を見ることにしようか。
 朝方妙な感じだったのでトイレで痔だと思ったり、ちょっと押し出して血抜きかましてみたりごにょごにょだったのだが。
 まあ、なんだ。綺麗に拭き取っても拭き取ってもこうして立っていると足に垂れてくる赤い液体。判ってる、判ってるよ。下着ひどいことになってたし。

「……とうとう、来てしまった……か」

 現実をようやく直視したことで、私の全身の力が抜けた。
 木刀を地面につきたて、ふらつく体を支える。
 聞くほど苦しいわけでもだるいわけでもなかったが、ただ気分的な問題だ。

「はァ……」

 聞いた人が酷く鬱陶しい気持ちになりそうな、大きいため息が漏れ出た。

「あれを出すか」

 そうつぶやいてずるずると寮の部屋へ這い上がる。
 何をと言えば前もって用意しておいた生理用品だが。
 全く、自分がこれほど動揺するとは思わなかった。前兆なんかもちょいちょい現れてたので警戒はしてたつもりだったのだけども……
 前もって準備だけはしていたし、自分なりに覚悟してたつもりだったのだが、これこそなってみないと判らないって事なんだろう。
 あれの装着を済ませ、着替え、シーツを洗濯機に投げ込み、一息つく。
 ……朝から、何とも気疲れが半端無い。
 ともあれ、私の月経がさほど酷い体調になるとかそういうのはなさそうなので良かったが。
 ああ、時間もおしているし、そろそろ学校に行かないと。

   ◇

 普段通りに……少なくとも表面上は普段通りに見えるように授業を受ける。
 尻の下が気になったが、そこは仕方ない。いずれ慣れる……といいなぁ。しかし落ち着かない。非常に落ち着かない。世の女の子達はこれで平然としているというのか。
 休憩時間になるたびに、椅子をちらっと見てみたり、少々トイレに行く回数が増えたりとしたものの、なんだ、まあ。無事に授業を終え、放課後を迎えることができた。
 さすがミッド謹製。横漏れ無し。12時間完全保証の文字は伊達ではないようである。付け心地も何の素材なのか知らないがさらさらのままである。何かといえばナニカの事である。
 ともかく一つ安心した。対処さえ間違わなければ普通に動けそうでもあるし。
 気分を切り替えて、先日アリアさんに作成してもらった訓練メニューをふんふん見ながら歩く。
 行き先はここネルソフ魔法学校の野外訓練施設……とは名ばかりのグラウンド場だった。先日アリアさんとクロノが暴れ回った施設とは雲泥の差である。こちらにはモニタリング設備は元より、結界機能どころか通話機能もない。
 いや、もっと良い施設もあるのだが、当然ながら人気が高く予約制なのだった。
 この場所は要するに使い道もただのグラウンド。運動場である。一応学校の敷地内ということで、学校で貸与されているデバイスとそこにプログラムされている魔法のみは使用可能とされている。
 グラウンドでは授業も終わって、クラブ活動中の学生達が汗を流している。どこの世界でもスポーツの形はある程度似るようで、今見えているのはサッカーに似たような競技だったが。バスケットボールやバレーボールに似たような競技もあるようだった。あまり放送などでは流していないもののストライクアーツなんていう格闘技もある。ちょっと試合が放送されたので見てみたら、魔力強化したAランクらしき魔導師がガチガチの殴り合いをするといったものだった。うん、近接攻撃だとあまり非殺傷って効かないしね。そりゃもう普通に格闘試合で、これは確かにミッドじゃ放送しづらいというのは判った。

「さて、と」

 アリアさんから渡されたメニューの通りこなしていくことにする。
 というかあの猫さん、あの戦技教導隊の助っ人やってるだけあって、的確にツボをついてくる。
 私の検査時のデータ把握してるからというのもあるのだろうけど、クロノを鍛えた手腕といいなかなか人を育てるのに向いているのではなかろうか。
 書かれている事といえば、私にとっての最善は完全に魔力補給することに徹して、作戦行動の幅を広める事らしい。
 何でも私のような存在が居ると低ランク魔導師の数を集めて弾幕を張ったり、一人の局員が撃てるありったけの魔法を撃って私がチャージ。撃ってはチャージ。なんていう酷い真似ができるらしい。
 これはミッド式魔法の弊害でもあるようなのだが、基本、燃費が悪い。そのせいか、大威力の魔法は放てるが燃料不足のため一発で終わってしまうのでランクが低い、という魔導師も多いとのこと。
 私のような、通常とは逆に出力が低くて魔力量が多い人はそうやって投入されることもあるそうだが、数が圧倒的に少ないのだとか。
 その為のキモであるディバイドエナジーについての詳細、相手との波長の合わせ方、魔力ロスの低減の仕方などが図解で説明されている。
 そして、それ以外の事……は基礎を地道にやっていくしかないようだ。長い道のりである。翼の隠蔽用魔法を覚えようとした時に散々味わっている道のりでもあるが。
 例えば、魔力そのものの制御訓練、及び魔力運用の効率化。マルチタスクの制御訓練。
 派手な攻撃魔法ばかりが目立つミッド式魔法であるが、基礎はそんな驚くほどに地道な土台だったりする。そして、魔法と言ってる割にやっていることは理系な内容なのでマルチタスク能力に秀でているかどうかもかなりの割合を占めてしまうのだった。私は精々が先日のクロノ君の十分の一程度だろうか。先日コピーさせてもらったクロノの設定はただのシュートバレットに30回もの制御判断が組まれていて、一々細かい制御をする仕様になっていた。私の才能の無さもアレだが、クロノの天才っぷりも相当なもんである。
 単純計算で、私が一発の魔力弾を用意してる間にクロノは十発の魔力弾を。あるいは十倍の大きさの魔力弾を用意できるということになる。実際には他にも雑多な細かいことがあるので変動はするし、何よりそれがクロノの上限とは思えないが……まあ、ミッドの魔法というのはそういう、頭の作りが魔導師の強さに直結している部分というものがかなり大きい。

「しかしなあ……」

 時折いろいろ放り投げたくなる気分が出てきてしまうのは仕方ないと思う。
 制御訓練で、作った魔力スフィアをぐるぐる動かしているのを止めると、ばったりと仰向けに倒れた。
 グラウンドの端っこは雑草もそのままなので、痛くもない。汚れるのは仕方ないが。
 隠蔽してある翼をそろっと持ち上げて体の下に敷く。たまにやっているのだが、このふわふわ加減はなかなか良い。まったくよろしい天然布団である。
 初夏を思わせる風が吹いてまた眠気を誘う。
 そういえば羊を一匹羊を二匹の入眠方法は日本語では意味がないらしい。

「One sheep,Two sheep...」

 このsheepの部分がsleepと被って眠りやすくなるのだ……とか、丁度……そう……こんな、感じに。

   ◇

「お……おぅ?」

 ……気付いた時には日が暮れていた。
 ああ、いかん、寮監のおばちゃんに怒られてしまう。
 いくらフリーダム極まりないこの学校とはいえ、仮にも教育機関。その辺はそこそこしっかりしている。慌てて、寮監のおばちゃんに端末を使ってメールを送っておく。一言の詫びも添えて。あとで施設近所の名産ワインでも入手してご機嫌をとっておくとしよう。
 しかし、確かに寝付きはいい方とは言え、あれほどあっさり寝てしまうとは……これがあの日とやらの影響だろうか。
 伸びして凝ってしまった体をほぐしながら、さて寮に戻ろうかと歩き出した時、グラウンドの端に魔力光が見えた。どうやら私の他にもこのグラウンドで魔法の練習をしているらしい。こんな時間までとは熱心なもんだと思い、興味を惹かれ近寄ると話声が聞こえた。どこかで聞いたような声である。
 さらに近寄るとやっと人影が見えた。
 このグラウンドも夜ももう少し灯りがあれば夜でも使いやすいのだが……夜目の利く私でもあまり見通せないのでは普通の人は大変だろうに。
 いや、あまり夜に使いやすくしても調子に乗る学生が増えるだけかもしれないか。

「誰かと思えば……」

 クラスメイトだった。
 年齢は大体同じだったと思うが、平均からしても一回り大きい体躯の赤毛の少年が、その髪の色のごとき魔力光を迸らせ、的となっているのだろう小さな缶をよく狙い、よく狙い、放った……外れた。なんだか親近感を覚える。

「……づぁー、またかあ」
「今ので78射中69射がはずれです。そろそろその無駄な努力という名の特訓も疲れてきたのでは?」

 気付かなかったが少年の後ろの花壇のブロックに腰を下ろしている少女の姿があった。
 なんというか、うん、毒舌である。こんなキャラだっただろうか?
 いつも読書ばかりしていて、休み時間になるたびに本を読みふけっている印象しかなかったのだが。
 ここまで来ておいて夜目の利くこちらから一方的に見ているというのも何なので、挨拶くらいはしておくことにする。
 特に洒落の聞いた挨拶なども思い浮かばなかったので普通にこんばんわ、と声をかけた。
 2人とも一瞬ぎょっとしたように顔をこちらに向ける。驚かせてしまったようだった。

「……まさか俺以外にも試合にむかついて特訓してる奴なんか居たなんてなあ」
「実のところ休むつもりで転がってたら昼寝しちゃったんだけどね」
「ははは、あほだ! あほがいる!」
「なんでも明るく笑い飛ばせば済むと思わないでほしいのだけど」

 そんな何でもないような事を話しはじめて10分。妙に意気投合してしまった。
 そう、ついでのようで申し訳ないが、名前も思い出した。確か……

「ダンピール?」
「何その夜になると牙が伸びてきそうな奴」
「いや、おま……君の名前じゃ?」

 無言で脳天をチョップされた。ディン・ヒルと言う名前らしい。そうだったそうだった。
 棒読みのそうだったーが顔にでも表れていたのか、ディンは少し考え込むとじゃあ、こいつは? と花壇に座っている少女を指さす。

「……ええ、と。本野虫子さん?」
「そのネーミングセンスはねえよ」

 突っ込まれてしまったが実のところ覚えている。

「ココットさんだったよね」
「はい」

 ファミリーネームは覚えてないが、ココットというのは料理の方の言葉でシチュー鍋とか小鍋、耐熱容器で調理する料理の事を指したりもする。覚える基準が何とも私らしいがそこは勘弁してほしい。
 何てことを隠すこともなく話したら、少々呆れられた。ちなみにファミリーネームも教えてもらった。ココット・フェアウェイさんらしい。
 身長は私と同じくらいか少々低いだろうか。同じクラスでも数少ない私より低身長組である。ふわふわのウェーブのかかったハニーブロンドを無造作に後ろに流している。それだけだと華やかに感じるのだと思うが、飾り気のない黒縁フレームのメガネで至極目立たないというか地味な印象になっている子である。
 2、3回は話したことがあったはず。年齢の割に話し方が丁寧語で言葉も少ない。そんな印象しかなかったのだが、先程の毒舌は気のせいだったのだろうか……

「なんでお前の名前はさらっと出てきて、俺の名前は吸血鬼モドキだったんだろうなあ」
「日頃の行いでしょう。具体的にはディン、いろいろ罪を悔い改めれば違ってくるのでは?」

 罪、だと!? と後ろによろめくディン。しかしその後のフォローやボケ倒しはなく、完全にスルーされ、悲しげに最初の位置に戻った。
 てかまあ、うん。
 こんな人だったんだな、ココット、そしてディンは。
 そろそろ二人も切り上げようと思っていたらしいので、一緒に帰る事にした。学校の敷地そのものが相当広いので、ここから寮まで20分は歩かないといけない。妙なとこで紳士ぶっているのか、ディンが夜道は危ないから二人を送っていくぜと言いだしたのだ。
 ここはこのネタかと思い。にやりと笑い。

「送り狼になるのは勘弁な」

 などと言ってみたら、何それ訳わからない。という顔をされた。当然だったかもしれない。子供になんてネタ振っているんだ私は。
 真性の阿呆なことやっちまったーと、悶えることにならなかったのはひとえに、横から私の耳でしか聞き取れない程度の声でぽそりと……

「わたしは歓迎しますけどね」

 というつぶやきが聞こえてきたからだったが。
 冷や汗が流れた。今時の子はいろいろとその、耳が早いのだな。いや自分を棚上げして何を言ってるかというのもあるんだが、私はちょっと特殊なわけで、いやそもそもミッドの基準と地球の基準では性教育の水準が違うという観点はないか?
 私が内心でうんうん首をひねっているうちに寮の灯りが見えてきた。

「お、おお。いつの間に……ともあれ、ディン君、送ってくれてありがとな」
「……ありがとうございます、ディン」

 ココットはなんとなく取り繕った言葉の礼を言って別れた。
 その後はお互いあまり話すこともないまま、ココットの部屋の前で別れる。
 寮室としてそっちの方が女子寮の出入り口に近いだけだったが。
 別れ際に、少し首をかしげたかと思うと一言。

「では、また明日」

 とだけ言い残して。
 何ともあれだ。うちの施設の年上のはずなのに同い年にしか見えないデュネットを思い出す。あそこまで不思議さんじゃないけども。
 そういえば、そろそろ休暇のある日にでも里帰り、というか施設の方にちょっと戻るのもいいかもしれない。
 まだ、それほど長い時間離れたわけでもないのに、妙に郷愁を感じてしまう。
 ついでに赤飯でも振る舞うか……その風習、理解できるミッド人は居ないだろうけども。

   ◇

 鹿を逐う者は山を見ず。ということわざがある。
 鹿を追っている猟師は目先の獲物を追っている余りに、今進んでいる山を見ることもせずについ危険な領域まで立ち入ってしまうことを指し、ひるがえって、目先のことに気をとられて他に視線を向けることを忘れてしまっている時などにも使われる。そんなことわざだ。
 今の私にはとても似合いの言葉かもしれなかった。

 ディンとココット。少々暑苦しくもさっぱりとして割り切りのいい少年と、未だにちょっとディンとの関係が判らない文学少女というのがぴったりの金髪眼鏡。
 この二人とは放課後の居残り魔法練習などを同じくやっていることもあって、何となく他の時間でも三人でいることが多くなってきた。
 ディンがそんな練習してるのは単純な理由で、先だって行われた上級生との合同実習であっけなく土を舐めさせられたのが気に入らなかったらしい。やられたらやり返す! と、少年らしい瞳は気炎万丈。お前はどこの主人公キャラなのかと少し突っ込みたいところではある。
 私はそこまで煮えきれていないものの、方向性は同じだった。ディンと共にリベンジ目指して練習することに意義はない。
 ココットはディンと長い付き合いのようで、本人は魔法についての勝ち負けについても淡泊なようだったが、ディンがやるなら付き合うといったスタンスのようだ。
 そんな、夜遅くまで過ごすときも度々あり、寮監のおばさんに頭の上がらない日々も既に一週間が経とうとしていた頃だった。

「よぉっし! この魔法と連携であいつらの包囲は崩せる。次の合同実習は貰ったぜ!」

 何とか私たち三人での連携と一番攻撃力のあるディンの新魔法……砲撃のアレンジだが、を形にすることができた。ディンの喜びもひとしおである。もっとも、この場所ではアレンジも含めて砲撃系の魔法は最終的なテストもできないのではあるが。やはり一回模擬戦ルームの使用を申請して、連携のタイミングも含めて確認をとったほうが良いだろうな。ぶっつけ本番とかは勘弁だし。
 などと、つらつら考えているとココットが一言。

「……ディン、合同実習を睨んでの訓練でしたか?」
「え、ああ? てかそれ以外に何があるよ?」

 いきなり何を言い出すのかと疑問符を目に浮かべるディン。

「聞かなかった私も大抵の間抜けですが……カリキュラムの大まかな日程すら把握していないあなたはそれ以下です。あの一回以降、合同実習の予定はありませんよ」
「は……?」
「え……?」

 あなたもでしたか……と頭痛をこらえるかのようにこめかみに指を当てるココット。
 私はといえば、埴輪のような顔になっていたかもしれない。
 そういえば、そういえば。
 カリキュラムを思い出す……うん。ないな。
 何という視野狭窄。目標確認もしないで熱を上げていたとは。
 私はがくりと膝を落とし、地に手を付けた。
 うん、まったく。
 鹿を逐うモノは山を見ず、なのである。
 ディンに至っては放心している。やがて、むんと何かを決めたかのように唇を引き締め。

「こうなったら上級生を闇討……テブッ!」

 ココットの放つ抜き撃ちの魔法弾が顔面に当たった。
 あれは痛い。というか早すぎる。練習していた中でも最速の抜き撃ちではないだろうか。何というガンマン。

「あなたは真性の馬鹿ですか、馬鹿ですね。知っていました。今更人並みの理解を求めようとは思ってません。ただ、こういう時は先輩に模擬戦をお願いすればいいだけでしょう」

 闇討ちなんかしたら後始末が……とかいう小さいつぶやきは聞き流すことにした。私の精神安定のために。

「おお、その手があった! よっし、早速行ってくるぜ」

 と、ディンは飛び出して行くのだった。
 何となく流れに乗りそびれた私は未だぽかーんとしていたが。

   ◇

 結果から見れば。上級生にはしっかり教えを乞うことができた。
 ディンが言うには適当に暇そうにしてる高等部の先輩に頼んだらしい。
 以前見たアリアさんとクロノの模擬戦のような、とんでも技術やとんでも魔力というわけでもなく、魔法の一つ一つがそれなりに上手いのである。それに使い方も上手い。そのやり方もまたさらに先輩から盗んだものなんだよと爽やかに笑って、快く教えてくれた。
 私達三人相手にこと細かに、魔法の効率の良い使い方、ちょっとした裏技的なやり口などをしっかり3時間もレクチャーしてくれたのだった。
 夕焼けの中、にこやかに手を振りながら去る先輩はなかなか絵になっていたものである。

「なんていい人だ……」

 私も含め三人でほんわかしているも、ディンはふと我に返ったのか。

「ち……違うだろ! これは違う! リベンジしてねええええええええッ!」

 叫びおった。人目が……視線が痛い……
 ココットはこめかみに指を当て頭が痛そうにしている。
 ちなみにここは高等部の敷地内である。
 ここまで付き合ってくれたのでせめてもと先程の先輩を見送った所だったのだ。
 俺もあのくらいの時はあんな時もあったなーとか、うわ叫んでるよ可愛いーとか、そんな声もこの耳は拾ってしまったりするので、何というか恥ずかしいというよりはいたたまれない。
 このままなのも何なので、まだガルルと唸っているディンの腕を掴み、ひとまず高等部から離脱しようとした矢先だった。

「何を騒いでいるんだディン?」

 明るいブラウンの髪を伸ばした人が、そんな声をかけて歩みよってきた。
 少年っぽい顔立ちでなかなか柔和な顔つきをしている。造作は整っていてイケ面君とでも言った方がぴったり来そうではある。
 んん? 何か見覚えが。

「……ちっ、てめえかよ」

 何やら急に不機嫌になるディン。
 知り合い? とディンに訪ねてみたのだが、どうも複雑らしく。

「知り合いなんかじゃねえよっ」

 とか言って横を向いてしまった。完全にぶんむくれている。わけわからんのである。
 さすがにそこまで言われては良い気持ちもしないようで、イケ面君も渋い顔になっているようだ。空気が悪いんだが。挟まれている私はどうしたらいいのだろうか。
 ココットに目で「タスケテー」とサインを送るとココットはココットでイケ面君を見てるし、孤軍も良いところだった。
 何だろうコレとか思っていると救いの手は意外なところから現れた。それが救いかどうかは微妙な線だったのだが。

「なぁにやってるの?」
「こんな所でたむろってないで早く行こ」
「店の予約に間に合わないよー」

 きゃいきゃいと高い声、甘い声、しっかりした声が聞こえる。
 彼は女の子を待たせていたのだろうか……しかし、三人同時に侍らすとは豪華な……

「あ、ああごめんよ、ちょっと以前の知り合いが見えたもんだから」

 待たせちゃったね、とか言いながら去ろうとするので私はどちらかというとほっとしたのだが……

「ッ……待てよ」

 ディンが引き留める。イケ面先輩が何かと振り向くと、思わぬ行動にでた。

「お、おお、俺だってなぁッ……負けねえッ」

 そんな事を言い切ると何を思ったか近くにあった私の腕を掴んで引っ張る。右手が頭の後ろに回され、目を硬くつむったディンの顔が迫る。
 ふっと頭に、昔読んでいた好きな漫画の一部分が思い出された。ズキュウゥゥン! という擬音が特徴のあの一場面である。名前が近いからって上手く行くとは思うなよ! と私自身も少々謎のテンションに支配されながら右腕をその迫り来る顔にカウンターとして合わせた。
 ドッギャーンと擬音が高らかに出そうな感じで吹っ飛んでいったのは驚いたが、振り向けばココットが青筋を立て、デバイスをちらりと見せる。私のカウンターに合わせて魔法を撃ち込んだらしい。相変わらずよく判らない早業だった。というか校内での魔法使用は……
 いやしかし、何なんだこの状況。もはやコントの舞台になってしまったので、苦笑いを隠せないイケ面君と笑いころげる女の子達三人組。
 なんだかもうぐだぐだになってしまった空気を感じ、ディンを回収する。
「それでは失礼しましたー」とばかりにそそくさと離脱したのだった。

   ◇

「で、言い訳を聞こうか」

 場所を移して尋問タイムである。
 尋問に相応しい校舎裏である。
 飼育小屋で飼われている鶏が物珍しげにこちらを見ていた。

「つ……」

 つ?

「つい負けん気が疼いて……」

 ああ……イケ面君が女侍らしてたからか……
 しかし腑に落ちない。

「でもディンはなんで、あのイケ面君に直接喧嘩売らなかったの? 模擬戦だ! とか言い出しそうなもんだけど」
「今度は『イケ面君』か……相変わらずネーミングセンスが……」
「しゃらっぷ」

 みなまでは言わせん。そんなん自分が一番知ってるわ。
 で、なんで? と重ねて聞くとそっぽ向いてしまった。どうも突っ込まれたくないポイントらしい。
 ココットを見ると、親指を立てている。
 何かよく判らないが任せると。

「バインド」

 ディンを魔法で縛り上げ、後ろに回り込み、きゅっと締めて気絶させてしまった。
 恐るべき手際である。

「これでお仕置きにもなりますし、ティーノ、あなたには話しておいた方がよさそうです」
「お、おう……」

 若干びびりが入ったのは責めないでほしい。少年が小柄な少女に手際よく気絶させられるのを目撃すれば戦慄するものだと思う。
 まあ、なんだ。
 聞いてみれば、ディンは割といいとこの出身で魔法教育もなかなかの英才教育を受けてきたらしい。
 じゃあなんでこんな言い方は悪いが金の無い庶民が入るような魔法学校に来たのかと聞けば。

「……親に反発して家出したからです」
「あー、そういう事情の人も居るわけか」

 そしてディンと出会ったのが同期で入学したあのイケ面君である。
 そう、驚くところはあやつ同期だったらしい。
 確かに高等部にしては背が小さかったが普通に馴染んでいた、いや、そうなるとあのイケ面君、今11か12歳? ありえん。
 驚くべき事はもちろん他にもあり、飛び級を繰り返して、一年ごとに進級しているディンを完全に置き去りにしている形なのだそうだ。
 最初はディンもよく一緒にいて、魔法を教えたりして仲も良かったらしいが、魔法なんて学校で初めて教わるはずだったのにことごとく上を行かれ、飛び級を二度した時には既に二人の仲は冷え切っており、ディンも最初は努力を繰り返したもののどうしても勝てず、苦手意識ばかりがすり込まれてしまったらしい。

「すっかりヒネてしまって……これだからボンボンは精神力が弱いから困るんです」
 
 そう言ってココットはディンを見る。
 その目がやたら優しい事に本人は気付いているのだろうか。
 しかし……家出したいいとこのぼっちゃんに、それを知ってる古馴染み……か。まったくもってお熱いことである。ちょっとだけ口を挟んでみることにした。

「でも、飛び出してきちゃったディンを追いかけてくるココットもココットだよね」
「わ、わたしは……その、下請けの娘ですから……父様の思惑も……い、いえ、嫌なわけじゃなくて。ち、小さい頃から遊んでて、え、えっと他意はなくてですね、え、あれ?」

 ココットは程よく混乱しているようだ。言わなくても良い事をぽんぽん口にしている。ごちそうさまだった。
 しかしここまで反応が良いとは思わなかった。普段本に熱中してあまり人と話さない分慣れてないのか?
 やがて赤くなった顔のままうーうーこめかみを指で押していると少し落ち着いたのか、顔を向けてきた……少し恨めしそうな表情をしている。なんとも可愛いものだった。いけない道に入ってしまいそうである。

「わたしがディンと幼なじみなのは確かです。ですが、別に追いかけてきたわけでもありません。偶然です」

 そういう事にしたらしい。
 私も変にほじくり返す趣味もない。いじりはそこまでにしておくとしよう。
 それより。

「よし。事情が判ったところで、改めてあのイケ面君に一泡吹かせる作戦でも練るとしようか」

 と私は言った。
 ココットは軽く目を開き、ディンを見てつぶやく。

「でも、大変ですよ?」

 時間かけてすり込まれた苦手意識の克服なら……うん。ショック療法だが。心当たりがある。
 私は端末を起動させて、エイミィとクロノにメールを入れておいた。
 不思議そうな顔をするココットに不器用にウインクなんてしてみせる。そんな気分だったのだ。
 ……あのイケ面がどこか記憶で燻っていたのだ。
 先程思い出した。見た覚えもあるはずで、合同実習の時、私を撃破した上級生その人だった。
 全く表情が違うので印象が被らなかったのだろう。
 あの時はあんなに穏和な表情でなく、罠にかける猟師の顔をしていたものだった。
 ともあれ、ここからは私自身のリベンジでもある。
 まずはこの二人をあのとんでも魔導師。
 私達より2つも下ながらとんでもない実力をもつクロノに会わせてみることにしよう。
 
 ……訓練を見るだけで常識を破壊される気分を彼らにも味わってもらおうなんて下心はない。ほんの少ししか。



[34349] 一章 五話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/05 12:35
「なるほど……うん、話は判った。僕で良かったら協力しよう」
「……え、頼んでおいて何だけど、そんなにあっさり頼まれちゃって平気?」

 聞けば、名前を大ぴらに出すような事でなければ平気らしい。
 なんでも、これも士官として部隊を率いるためには良い経験になるとか言っていたが、若干後付けっぽい理由なのを考えると、やはり根っこのところで良い奴なのだろう。
 何を頼んだのかといえば、ディンやココットも含めた私達の特訓である。対イケ面君対策の。
 最初はディンに対する、リハビリというかショック療法的にクロノと引き合わせようと思っていたのだが、エイミィに相談したところ、いっそまとめてクロノ君にお願いしちゃえよー、などと言われたりもしたので、率直にお願いしてみた次第なのだ。
 ……しかし、そりゃ頼めれば有り難いとは思っていたが、こんなにすんなり行ってしまっていいのだろうか? まだ二人とも会ってからそれほど日も経っていないのだけど、そこまで親しく思っていてくれているというならそれはそれで嬉しいものではあるが。
 予定を聞いてみれば、休日は士官学校も魔法学校も同じようだったので、次の休みに私達が出向く事となったのだった。

   ◇

 妙にセキュリティがしっかりしているバスを下車し、徒歩10分。ちなみにこのバスには少々驚いた。乗降口に探知機付きでデバイスを所持していれば判ってしまうらしい。私達は三人とも自分のデバイスを持って来ていたので乗務員も何かと思ったようだ。デバイスを見せ、局に登録されていることを確認させてからやっと乗る事ができたものだった。
 以前はアリアさんに連れてきて貰ってスルーだったのだが、なかなかに高級住宅街といった感がある。例えるならマンハッタンよりビバリーヒルズと言った感じだろうか。うん、映画で見たような風景である。
 目の良い私だからだから見えるというものでもあるが、あちこちの茂みの中に監視カメラが設置されていて、もしかしたら、いや確実に魔法的な監視システムも同時運用されているのだろう。
 違法魔導師でも迷い込んだ日には即刻通報、1分も満たないうちに警備員がわらわら、5分も満たないうちに局員が飛んでくるなんてことになりそうだ。
 そして道幅は妙に広く、街路樹の手入れも行き届いている。ちょっと目を遊ばせればその街路樹の中にも石像や周囲と溶け込むように作られた小さい噴水などがあったりする。
 家を見れば様式もばらばらで、そこはさすがミッドといったところだろう。魔法だけでなく文化もその幅が異様に広い。共通して言えるのは、庭が皆、妙に広いというところだろうか。プールなんか標準装備していそうである。
 そんなこともあり、少々落ち着かないものを覚えて、自分でも挙動不審かなーと思うくらいにキョロキョロしてしまっていたのだが。
 ふと見ればディンもココットも泰然自若。担任の先生のヅラ疑惑についての話に興じていたりする。内心なんとなく憮然としたものを感じないでもない……いいんだ私は小市民で。悔しくなんてない。きっと。

 クロノとエイミィに二人を引き合わせたところで、早速、と言った感じでクロノの自主訓練というものを見せてもらった。オーダーは士官学校でやるような練習ではなく、クロノの「いつもの」メニューをお願いしてある。私はエイミィから記録映像とか見せられて感想聞かれたりもしているので、もうある意味慣れた光景なのだが……うん。あの二人にはいい刺激になると思う。

「嘘だろ……」
「デ、ディン、しっかり気を保つのです、いつもの阿呆顔はどこにいきましたか、なな、何をかたかた震えているのですかあなたらしくもない」

 放心したディンの手をしっかり掴んでかたかた震えているのはココットである。
 うん。水鉄砲の射撃ゲームで優劣競った後にグリーンベレーの射撃訓練見せつけられるようなものだからね。気持ちは判る。初等科とかで魔法勉強してるのがなんだかなぁと思えてきてしまう。いや、基礎をないがしろにしちゃいけないのは重々承知だし、クロノはスタート地点も環境も違いすぎるってのは判ってるんだが。
 エイミィがこの後のランチの支度でもしてくるよー、と言うので驚きっぱなしの二人を残し、私も手伝いをしにキッチンに行くのだった。

「エイミィ、献立はどうする?」
「んー、動いた後になるから考えてるのは胃にあまり重くないように、くらいだけど。リクエストでもある?」
「んにゃ、おまかせ。二人も特に食べられないものは……ああ、ディンが海鮮アレルギーだとか前言ってたような」

 んじゃ、手早くクレープでも作りますかと分担して取りかかる。
 クレープと言うとお菓子のような印象も強いのだが、生地に塩味をつけて、野菜や肉やチーズを巻いて食べる食べ方もあり、こちらは軽食にうってつけだったりもする。
 巻いて食べる具をたくさん用意しておいて、自分で巻いて食べるなんて食べ方にすると、具を選ぶ楽しみもあって子供受けは抜群だ。
 別段エイミィも子供受けを狙ったわけでもなかろうが、好き嫌いの判らない人が居る時も有効なので、そっちを考えたのかもしれない。
 具を作るのはエイミィに任せて、私はひたすらクレープ生地を焼くことに専念することにした。
 何しろ食べ盛り5人分である。余裕を持って焼いておかねば……
 そして、私が風味を変えた生地をそれぞれ10枚ほども焼いている間に具の方も用意されたようだ。ひとまず焼けたクレープを皿に盛ってテーブルに置く。

「じゃあ、そろそろ皆を呼んでくるよ」
「おねがいー」

 と、屋外……というか屋敷の裏手の訓練場に来たのだが。
 何、この空気?

「……ちょ、ちょっとちょっと、何がどうしてどうなってあんな状況に?」

 見学席のてすりを握りしめているココットに小声で聞く。
 が、反応がない。目の前の光景に集中しているようだ。右手がデバイスを行ったりきたりしてるのが怖いのだが。
 私は一つため息をついて、ココットの横に行き、目前の光景を見やる。
 ……本当に何を考えているのだか。
 クロノに模擬戦を挑んでいるディンの姿があった。かなりボロボロで。
 挑まれている方は悠然たる面持ちで、しかも油断もせずにゆっくりディンの間合いを詰めはじめていた。

「ちぃッ」

 ディンが舌打ちをして照準が甘いながらも相当の密度が練られている射撃を放つ。さらにそれをフェイクとして魔力強化を施して接近、至近からの攻撃にスイッチする。
 が、近づく前に最も初歩ではあるものの十分な威力の魔法弾が飛びかかる。当たれば足が止まり、それを避けていけば、遅延発動型のバインドのトラップへと誘導され……

『Stinger Ray(スティンガーレイ)』
 
 対魔導師にはおあつらえ向けの射撃魔法が直撃した。
 ココットがびくりと身を震わせる。抜き撃ちをするかのように起動状態のデバイスに妙な握り方で指がかかっている。いやいや、大丈夫だから、模擬戦だから……多分?
 うつぶせになって倒れ伏しているディン。
 しばらくクロノはディンを見、おもむろに言った。

「あなたの言う意地はこれで終わりか?」

 クロノは一歩を踏み出す。

「あなたの言った壁とやらはこれで壊れたのか?」

 クロノはまた一歩を踏み出した。

「ぐちゃぐちゃと……」

 よろり、とそんな音がしそうなくらい力の入っていない足でだが、ディンはゆっくりと立ってみせる。

「ぐちゃぐちゃとうるせえ……へっ……年下のくせに、人生まで説教すんじゃねえ」
「……そうだ、でも今はただの魔導師と魔導師だ。そんな僕ららしく、魔法で語る事にしようか」
「望むところ……だっ!」

 向き合う二人がデバイスに魔力を込め、大きな魔法陣が描かれる。その特徴的なチャージタイムが完了し、抑えきれない圧縮魔力の奔流が訓練場の一陣の風となった。
 そして二人の砲撃魔法が炸裂し──
 一瞬の競り合いの後、クロノの水色の魔力光に押し潰された。

   ◇

「これだから男の子って奴は……」

 エイミィが肩をすくめて口をとがらしている。
 ココットはこめかみに血管を浮かばせ、目はしっかりとクロノとディンを睨み付け、無言で八つ当たり気味に甘い具のクレープを巻いていた。具体的にはチョコ、バナナ、メープルシロップ、ブルーベリージャム、ホイップクリーム……見ているだけで胸焼けがしてきた。
 その当のクロノとディンはと言うとなかなかに意気投合しているのである。
 一体さっきの模擬戦はなんだったのかと言えば、どうもクロノの訓練風景に触発されたディンが「自分の殻を破りたいんだ!」とクロノに模擬戦を頼んだというのが大まかな成り行きらしい。
 大まかな……というのは、その後段々とお互いヒートアップしてしまい、そう、言うなれば少年マンガの世界が展開された。訓練場で記録された動画データを見るともうね……
 ああ、武士の情けだ。訓練場の記録データは消去しておいた。残しておけば3年後くらいに本人達に見せつけて、若かったねー、なんてからかうのも魅力的ではあるけども。
 
「でも、驚きだねー、ほらここの3分22秒時のとことか、クロノ君が張ったバインドトラップも力づくで突破してる部分があるよ?」

 と、目玉焼きを挟んだクレープを頬張りながら、携帯端末に映った先程の模擬戦を見るエイミィが私に画面を向けてく……る? す、すまない……クロノ、ディン。君たちの黒歴史になるであろうデータはもう私の手には届かないようだ。
 私はしばし瞑目を捧げた。未来においてからかわれる事がさりげなく決定していそうな二人に。
 それはともかくとして、映像に目をむける。
 確かに……「うぉぉー」とか叫びながらリングバインドを魔力の放出で破っている。叫び声はともかく、先日、親切な先輩が教えてくれた通りのバインドの破り方、裏技じみた方法だった。強度の弱い足止め目的のバインドであれば内部からバインドブレイクを仕掛けるよりは魔力の放出で力任せに破った方が早い。もっともこれを授業でやると荒いと見なされて減点を食らってしまうのでもあるが。
 ちなみに何が驚きなのかと言えば、その瞬間魔力量なのだろう。
 その一瞬一瞬だけなら実はクロノと拮抗できてしまうのだ。
 ただし、魔法の構成の甘さや制御技術の問題もあって本当に一瞬しか拮抗はしないだろうけども。
 それに……

「今回の目的、ティーノ曰く通称イケ面君(笑)に勝つという目的においてそれは使える特性ではありません」

 ココットが甘ーいクレープを食べ終わったのか話に混ざってきた。……今何か括弧が使われるような不思議な間を感じたのだが、なんだろうか。

「イケ面君?」
「ティーノがそのひど……率直なネーミングセンスによって言い続けているので、もう本名よりそちらを呼んでしまおうかと」
「言い直さないでもいいよ……ココット。判ってるから……」

 テーブルにのの字を書き始める私を見て、ココットは澄ました顔でメガネを持ち上げ、コホンと一つせきばらいをした。

「今回、挑むにしても学校内の訓練施設を使った模擬戦という形になりますので、使用デバイスは現在のものではなく学校から貸与される練習用デバイスを使用しての事になります」
「……うん? 出力制限かな」
「その通りですエイミィ、さらに言うなら使える魔法にも制限があります。瞬間の出力が大きい事がアドバンテージにはなりません」
「技量と連携勝負ってわけね……形式は3対3で申し込むつもりだったよね?」

 そのつもりですとココットは答え、また甘そうなクレープを作りに取りかかっていった。

 和やかにランチも終わって、紅茶を飲みながら、今日のこれからの予定を話し合った。
 ディンはどうやらこの後すぐに訓練場に行きたいらしい。
 どうやら先程のランチの最中にもクロノが何か教えて、それを試したくて仕方ないのがディンという構図のようだ。
 二人が並んでいると身長差も年齢差もあるのに、クロノの落ち着き具合によって同い年くらいに見えて仕方ない。
 同じような事でも考えたのかエイミィも複雑そうな顔をしていた。

「そういえば」

 クロノが思い出したかのように言い出した。対戦相手の情報が判っているならそれを見せてくれないかと。
 ココットは少し首をかしげ、実際見てもらったほうがいいでしょう、と言い携帯端末のデータをクロノに渡した。
 皆で分析するとしようかと言い、ディスプレイに映像を映し出した。
 以前の合同実習の時の映像である。
 映像にはあの時の私が防御魔法にも気付かずに接近して行く様子がありありと……

「あああ、見るなぁ……私の汚点」
 
 一人悶えているのだが、誰もフォローしてくれない。
 エイミィ、にやりと笑ったな。後で覚えていろ。
 その後の私の撃破シーンまでしっかり見終え……たと思ったらクロノがリピート再生を始めた。
 もうやめて、私のヒットポイントは……

「やはりこの辺りか」

 私がイケ面君の罠に引っかかる前、回りこんで奇襲をかけようとしているところで一時停止する。
 何があるというのだろうか。

「ここに弱点がある」

 と言ってクロノが指さしたのは映像の中で今にも私が突っ込もうとしているポイントだった。
 目で説明を促すと話しはじめた。

「それまでの戦闘経過は基本に即したものを崩していない。面白みもないが堅実で隙もない。教科書通りの良い魔導師だ」

 しかしそれは指揮だけだ、と言い、端末を操作する。静止していた映像が動き出す。

「この狙われた際、ティーノを誘い込むにしても、幻術が使えるなら自分の幻影を囮にして集中砲火を浴びせればいいだけなのに、何故自分自身を囮にしてわざわざ防御魔法の隠蔽などにリソースを割いたのか」
「……あ」

 言われてみればそうだ。
 そもそも、誘い込む必要も多分無い。接近に気付いていたのなら射撃を集中させればいいだけの話なのだ。

「それはティーノの奇襲が半分成功していて、周到な罠を仕掛ける余裕がなかったのでは?」

 ココットがふっと疑問を呈するが、いや、とクロノは首を振る。

「間違いなくティーノは誘導されている。さっき僕が指摘したポイントだが、こうして俯瞰してみると不自然に穴が開きすぎている。チーム戦なのに他のメンバーがカバーに入らないというのが罠の証拠だ」

 うぅ……見抜けないですんません。
 しかし、そうするってえと何で?

「まさかただの格好付けとか?」
「そうだな」

 そうなんだ!? とクロノを除く全ての声が重なってしまった。
 推測になるんだが、と前置きをしてクロノが話すに。
 飛び級を繰り返す成績優秀な生徒というのは、勝ち方も派手なものを期待されてしまうそうだ。クラスメイトは元より教師もそういう期待をしてしまう事もあるらしい。
 本人は自分のやりたいようにやっているつもりでも無意識に影響されることもあるそうだ。
 もちろん、ただの自己顕示欲とか見栄っ張りな性格という線もあるし、当たっているか当たっていないかを言っても仕方ないのだが。そこは判らなくても考える事が必要らしい。
 ただ、私が最後に見た笑みからすると、こう……職人的なものを感じないでもないのだが。
 そして、先程クロノが『弱点』と表現したのは、別に映像の事を言っているわけではなく、その戦い方の弱点、つまるところ……

「その複雑な仕込みをしてしまう手腕を逆手に取る」

 とのことだった。何でもクロノが見るには、私を引き込んだ先に融通が効いていないそうで、例えば私が引き込まれた先で予想外の粘りでも見せてかかりきりになれば、そこの隙を外部から突けたかもしれないとか。ある程度の魔法巧者が陥りやすい穴で、魔法も含め戦術は単純であるのが一番良いと言う。
 余談だが……クロノ君9歳である。重ねて言うが9歳である。私は世の中の不条理を冷めた紅茶で流し込み、軽くむせた。

   ◇

 方針も決まったことで、具体的な作戦を決めに入る……前にクロノから念話が飛んできた。

(ティーノ、二人には翼の事は話してあるのか?)
(あー、いや話してないよ。もう隠すのが習い性になっちゃっててね)

 翼の事については、これでもそれなりに頭を悩ませているのである。
 親しくなった人にはこういう隠し事はよくないよなとも思うのだが、何となく見せにくいものでもあるのだ。
 と言っても、何かのきっかけがあって見られてしまった時には明かそうと思っているのだが。

(確かティーノの翼は魔法で隠してあるのだったと思うんだが、その状態でディバイドエナジーで分けられる魔力は確認したか?)
(確認済み。データ送っておくよ)

 と言っても魔力総量の測定はそれ用の検査が必要だし、記録に残す気もないので、感覚に頼った大雑把なものだが。
 ちなみに、翼を隠すのに使っている常時割いている魔力はおおよそ総魔力の10分の1にも及んだ……私の出力そのものの半分くらいはリソースを持っていかれている事になる。オプティックハイド、燃費悪すぎだ。アリアさんが目を剥いて詰め寄るのも当然だったかもしれない。そしてそれを補うくらいに魔力回復量があるというのだから……確かにこれはいい実験動物にされそうである。翼を隠蔽したらその隠蔽魔法そのものも隠さないといけないとは何たる皮肉か。
 ディバイドエナジーそのものは伝達経路が通常の魔法とは違う。私が通常使う魔法とは違った計算にもなるのだが……教科書にあるAクラス魔導師の平均総魔力をちょうど満タンに出来る程度だろうか。もっとも、ここで問題になるのは魔力ロスである。
 こちらもまだ理論をかじり始めたばかりだし、元々私はその……習得に時間が必要なタイプなのだ。当然魔力ロスも多い。以前、貰ったデバイスの馴らしも兼ねてディンに試した時など、無駄に排出されるロス魔力の方が受け渡された魔力より多いくらいだった。その後、ディンの魔力波長に合わせてみたりとした結果、何とかロスは半分まで抑えることができたのだ。
 うん、自慢にならない。アリアさんが渡してくれた資料では平均8割程度の魔力が譲渡できるらしい。あれか、練度不足か。
 私からデータを受け取ったクロノは同じようにディンとココットの魔導師としてのデータを受け取って、考え始めた。
 ややあって、口を開いた。

「こんな作戦でどうだろうか?」

 ──クロノが言うには。
 一対一の状況を作っておき、一番よく知るディンをイケ面君に当てる。これでまず型にはめて考えさせる心理的な一段目の罠。
 熱血ぶりを隠そうともしないディンが砲撃魔法を惜しげもなく使って魔力を消耗すれば、相手も油断する。それが二段目の罠。
 中近距離までディンに引きつけたところで、私とココットも急速に合流。子供のことだから心配で集まったのだろうという憶測もしてもらえれば良し。そうでなくても包囲される形になるので一見したところは不利に見える。それが三段目の罠。
 魔力を温存しておいた私がディンにディバイドエナジーで魔力譲渡、その際の隙はココットの速射による牽制でフォローしてもらう。
 考える暇を与えずにディンが最大威力の砲撃で囲んでいる形になっているだろう三方のうち出来れば指揮官を撃破。
 後は常に数の有利を頭に入れて教科書通りに戦うといい、とのことである。

「……なんというかクロノ、その……言いにくいんだけど、ストレス溜まってないか? まだ9歳……だよね?」
「クーロノー君? 将来の士官候補生がこんな悪らつでいいのかな?」

 私とエイミィである。

「ひ……ひどいな、君たちは……」

 いやだって、ねえ?
 演技もはったりも必要としない、配置と行動だけで心理トラップ仕掛けてくるとか。
 徹底的に油断させ、最後に私の特性を配置することで完全に向こうの思惑を潰す構えだ。
 そして一旦奇策が成功したなら後は定石通りにという手堅さ。
 二人の方をちらっと見れば……
 ディンはしきりにウムウムと頷いている。いや判ってないだろ。
 ココットに至っては、携帯端末に向かって創作に走っているようだった。ちらっとへたれ責めクロ……とか見えたような気がしたが全力でスルーしておく。ネルソフ魔法学校の文芸部は腐の魔窟だと聞いたが……若年のココットまで浸食されていたとは……
 そんなぐだぐだな空気も漂いながらも話は進み、その作戦を成功させるための特訓に揉まれる事数時間。
 なんだかんだで日が暮れようとしていたのだが。流れというかなんというか。
 そのままお泊まりすることになってしまったのだった。

「おおお、お泊まり会なんか久しぶりだ。嬉しいけど親御さんの許可とかいいのか?」

 さすがディン! 私に出来ないことをやってのける!
 アリアさんがちょっともの悲しそうに故人の家だとか、母親の姿をまだ見てないとか、いろいろその、家庭環境でごちゃごちゃ有りそうで話出せなかったのだが、こやつ遠慮なく切り込みおった。
 だがクロノは少しだけ困った顔をすると何事もないかのように言ったのだった。

「母さんは仕事で遠くに出ているからね、この家もここ一年ほどは僕が管理している」

 エイミィが気遣わしげにクロノの手を握った。
 気付いたクロノは少しだけ含羞の色を浮かべながら口を開く。

「賑やかな方が良いのは確かだ。今日は遠慮なく泊まっていってくれ」

  ◇

  寮監さんに「今日は泊まるからー」などと連絡したら大目玉を食らった。
 若い身空であなたたちは何をやってるんですか! とかまあ、ひとしきり……うん30分は説教されたか。
 宿泊する家はハラオウン家だと言うと打って変わって安心したようだった。実はビッグネームなんだろうか?

「お……終わりましたか?」

 ココットがおそるおそる聞く。
 この子は丁寧で感情をあまり感じさせない話し方とは裏腹に押しに弱いところがあるので、こういう時話を通すのは私の役になっている。
 大丈夫、なんとかなったよーと言って、ほっとした感のココットを連れてキッチンへ行く。

「その、ティーノ……りょ、料理を私にも教えてくださいませんか」

 と、妙な感じになってしまっている丁寧語でいかにも恥ずかしげに言われては、聞かないわけにはいかない……いやぁ、メガネつけた女の子の恥ずかしげな上目使いはアレだった。鼻の奥がきゅんとした。
 ここに来て同年代の私やエイミィが料理してるのを見て、思うところがあったのかもしれないが。まぁ、なんだ……恐らくは乙女心という奴だろう。詮索するものは馬に蹴られて死んでしまうという例の心である。推して知るべしなのである。
 あまり人様のキッチンを好き勝手に使うのはよろしくないのだが、女子寮には共用の簡易的なものがあるだけだし、生徒のほとんどは学食ないし外食で済ませるのが我が校なのだ。手軽に料理の練習をすることもできないので、今回のような機会はある意味貴重である。
 そうなると、さわりだけとは言えメニューも考えないといけない。

「というわけで今日の題目はカレーライスなのだ」
「確か学食で見かけた事もありますが、食べた事はありません。どういう料理なのですか?」

 よくぞ聞いてくれたココット。とカレーライスの概要について説明する。
 明治期に日本に持ち込まれすっかり日本でも定番となってしまった料理がなぜミッドにもあるのかと言えば、誰か輸入した人がいるのだろう。
 実は料理をこれからする人にも最適。皮を剥いて野菜を切り、炒め、煮るという一通りができ、味付けも余程変にならない限りはリカバリー可能という素敵メニューなのだ。
 ジャガイモと人参、タマネギの切り方を一通り教えて、具を切っていてもらう。
 その間に私は米を研ぎ、水に浸けておく。
 さすがにこの家に常備はされていなかったので、さっき手近な店でカレーのルーと共に買ってきたものである。さても高級住宅街と言ったところか、どこのルートを通ってきたのか魚沼産コシヒカリをミッドで見る事になるとは思わなかった。
 そして大鍋にブイヨンと香り付けのハーブ、セロリやタマネギの切れ端などの香味野菜を入れコトコト煮出す。
 丁度野菜も切り終わっていたので、そろそろいいかと豚肉、野菜と順繰りに炒めてもらってスープに投入。火が通ったらルーを溶き入れて火を止め置いておく。
 米は鍋炊きなので、そう目を離すわけにもいかない。強火で煮立ったら中火、弱火と鍋の具合により火を変え、仕上げに蒸らす。香りの得手不得手がよく判らないので、よーくといで米臭さを減らしておいた。
 付け合わせの野菜のサラダでも作れば、これで完成である。

「ほい、召し上がれー」

 と軽いノリで始めた夕食はなかなかというか相当な好評だった。
 さすがはカレーの魔力。ミッドであまり普及していないのがもったいない。

「ちなみにディン、そのカレーはココット作だったりするんだよ」
「ま……まじでか!? いつの間にこんな……! 昔の炭クッキーの名残もないっ」
「……ッ! ディン、過去の過ちを思い出すのはよろしくないのです。それにあれは鋼材成型用オーブンでレシピ通り20分焼いてしまったからなってしまっただけであって生地を失敗したわけではないのですというか何を口走っているのです私はああもう余計な事を言うディンが悪い」

 テーブルの下でごすごすと音がし、ディンが痛そうに顔をしかめた。
 ココット……昔そんなことしてたのだね……
 まあ、絆創膏だらけの指を後ろ手に隠している健気さに免じて聞かなかったことにしておこう。

「はいはいお代わりもあるぞー」

 ルーを甘口にしておいたので、やはり食べやすいようだ。早速といった感じでディンとクロノが2杯目突入である。
 エイミィにもレシピを教えておく。本当は一晩寝かせてやると味が馴染んでもっと美味しくなるのだ、という事も添えて。

   ◇

 夜も更け、訓練疲れでしっかり二人が寝付いている事を確認して部屋を出た。
 テラスに出て、夜気を浴びながら文字通り羽を伸ばす。
 幻術魔法を解いて翼を晒し、ブラッシングを始める。
 日常の手入れというやつだ。実は地道に地球にいた頃からやっているのだが、これを怠るとたまに虫がついたりするのだ。厄介なものである。
 以前は煙で燻したっけ……
 あれはきつかった。虫落としとはいえ、スモークチキンになってしまうところだった。
 羽毛の根元から羽先へ、柔らかいブラシを入れる。翼を持たぬものには判るまい、とても気持ちがよいのだ。

「ふふ」

 何の意味もない笑いがこぼれる。グルーミングの気持ちよさというものかもしれないな。猫が目を細めるのも判る気がす……

「ぅひぇワ!?」
「んーふふ、ティーノちゃんめっけー。そーらそらもふもふもふ」
「お……おおぉう? ああ……ちょっ待ってエイミィッ! うぁ……んんっ!」

 うおお、人の……話を……聞かないっ!
 ちょっと、翼の地肌はやたら敏感なんだからちょっと待て……!

「……え、えいみぃ……気はすんだ?」

 私はちょっぴりレイプ目という奴だったかもしれない。
 エイミィは心なしか、月明かりに照らされるお肌がつやつやしてるが。
 ……まあ、なんだ。
 物思いにふけっているところをエイミィに奇襲されただけである。たっぷりと何度もまさぐられてしまった。油断も隙もないのである。腰砕けになりそうなのである。

「エイミィ、触るくらいだったら文句言わないから奇襲はやめて……」
「あはは、いい反応だったねー」

 今度は優しくねー、とブラシをとられた。
 背中の手の届きにくいところをやってくれるらしい。
 すっすっとリズム良くブラッシングされる。私も何となくリラックスモードに入ってしまった。
 暫くはブラシの音と時間のみが過ぎていたが、ふっとエイミィが口を開いた。

「今日は二人を連れてきてくれてありがとうねティーノ」
「クロノの事?」
「……うん」

 ありがとうと言う、その割に元気が無い様子だ。どうしたのか聞いてみれば。

「んー、やっぱり男の子は男の子同士で馬鹿やってた方が楽しいのかなと思ってさ」
「ディンと模擬戦やってるときとか生き生きしてたもんね。お姉ちゃんとしては可愛い弟が姉離れしたようで寂しい?」

 と、私が言うとエイミィは戸惑ったかのように手が止まった。少し考えているようだ。
 しかし、ふと思い出したが、昼食後に見せたあの複雑そうな顔はそんな事を思っていたのかもしれない。

「……寂しいのかな? 妬いてるのかも? 私が時間かけて近づいていったのにディン君は一足飛びにクロノ君と親しくなっちゃったから」
「男に妬くたあエイミィ姉さんも嫉妬深い事で……」
「茶化さないのー。今でこそ割と喋るけど初めて会った時のクロノ君なんか病気じゃないかってくらい大変だったんだから」

 全く人と解り合おうとしなかったんだよー、と力説する。
 意外と溜まっていたものがあったらしい。その後も出るわ出るわ。
 いつの間にかエイミィの悩みに乗っていると思っていたのだが、愚痴のはけ口に切り替わっていたようだった。
 まったく……
 右の翼を大きく広げてエイミィを巻いて黙らせる。それなりに翼の大きさも伸びているので今はなかなかの長さがあるのだ。

「ほい、そろそろストップねエイミィ。寝るにはいーい時間だよ?」

 ……返事がない。
 もしもーしと声をかけると、小さいつぶやきが聞こえてきた。

「ふ……ふふ、もふもふが一杯。うふ……うふふ」
「しまっ……!」

 慌てるも既に時遅く、私はまた夜空に妙な奇声を……あげないために我慢しようとし、失敗した。

「ぅうにゃあああああああッ!」

   ◇

 そんなハラオウン邸での一日から一週間が過ぎ、今度こそあの実習より続くリベンジマッチの開始である。
 なんと言ってもイケ面君はなかなか目立つ存在なので、どこに居るかを知るのは簡単なことだった。人に聞けばいいだけなのだ。
 今日も今日で女の子に囲まれている。
 もっとも、よく見ればマスコット扱いなのは判るのだが。本人もちやほやされて満更でもなさそうなので、ある意味ハーレム状態と言っていいのかな?

「よぉ、相変わらずだな」
「ディン、ココット……ええと君は?」

 そういえば前回会った時は何かごたごたしたままだったので、名前も教えてなかったか。

「ティーノです。今日は一つお願いしたいことがあって来ました……ディン」
「ああ。模擬戦を頼む」
「イケメ……失礼、先輩方に魔法を教導していただきたいのです。3対3の実習形式でお願いできませんでしょうか?」

 さすがにディンの物言いはぶっきらぼう過ぎると思ったのかココットが口添えをした。
 イケ面君はそのオレンジにも見えてしまいそうなブラウンの髪をなでつけ、少し考えたようだったがすぐに頷いた。周囲の人目も気にしていたのかもしれないが、断る理由もないのだろう。
 明日の放課後、模擬戦室の予約をとってあるので、そこで行うことを告げる。
 では、明日よろしくお願いしますと言ってその場を後にした。

 その晩は景気づけというわけでもないが、私が腕を振るって鍋である。
 そろそろ季節柄厳しいのではあるが、これだと卓上コンロとまな板をおけるだけの台があれば作れるので良いのだ。
 場所は、私がよく木刀を振っている寮の裏庭に、倉庫に放り出されていた折りたたみテーブルを置いている。
 ここならまだディンが飲み食いしていても問題なさそうだ。
 ちなみに験を担いでちゃんこ鍋にしてある。別に相撲するわけではないが、鳥肉メインなのは確か二足歩行なので手に土つかないといったところから験を担がれていたはず。
 白星を稼ぐという意味で白い肉団子を入れたりもするのだったか。
 ミッドまできて何やってるのかとも思うが……こういうのは自己満足だ。いいことにする。
 明日に備えて補給だー! とばかりにがっついていたディンだったが、段々ペースが落ちてくる。
 何かと思っていたが、どうもナーバスになっているようで。

「いや、勢い任せで来ちまったけど、明日なんだよなあ」

 クロノを信じないわけじゃねーけど……
 と、時間をかけて刻まれた劣等感だのもろもろが蛇のように首をもたげてしまっているようだった。
 私はココットに目配せをする。お前何とかしてくれと。
 ココットは何か意味を変な風に受け取ったのか……目をまんまるに開くとメガネを外し、深呼吸を一つ二つ。まるで、ココット行きます! とでも言いそうなくらいに決意した目を私に向け一つ頷いた。
 私は何かを決意したその目に気圧され、後ずさりをした。
 な……何だか知らんが頑張れ……

「ディ、ディン、月並も良いところですが……かか勝ったら……その……キ……いえ、わたしのなどが褒美になるのでしょうかいやでも」

 吹いたら悪いと思いながらも吹くところだった。
 テンパっているココットに気付いたディンが、何だ? とばかりに振り向き、ココットはなおさら混乱度が増したのか……

「──ッ!!」
「──むぉ!?」

 ココットがディンの唇を奪った。

「あっ……え、あの、さ、先払いですディン! これで明日は絶対負けません。因果律がひっくり返りました。結果が先に来たのですから明日は絶対負けないです!」

 ココットが一息に言いはり、真っ赤になってその場で小さくなった。
 ぷしゅうと音がでてきそうなくらいである。私の位置からはそのふわふわのハニーブロンドしか見えないが。
 ココットの目の前に居るディンはそりゃもう呆然である。しかし段々理解が追いついてきたのか顔に赤みが差しはじめココットに負けず劣らず真っ赤になっていく。
 私はもはや見てもいられず、こそこそと席を立った。右手には寝られないようならと、出そうと思っていたワインを持って。
 我ながら馬鹿みたいな身体能力を無駄に使い、目についた木をひょいひょいっと登る。
 座りのいい枝に腰を降ろし、ワインを口に含んだ。

「なんて甘酸っぱい……」

 眼下の光景かワインの味か。
 一つだけ判るのは、月明かりの中、木の上でワインを飲んで肩をすくめている少女というのは考えて見ると大層シュールだろうと言う事だった。

   ◇

 肝心の模擬戦であるが。
 何というかその。
 うん。

「こんなに目論見通りいくとは……」

 あっさり勝ってしまったのだった。高等部相手に。
 昨夜、あんなことがあったので二人のメンタルを心配していたのだが、なんだか上手い具合にはまったらしい。
 ディンのテンションはマックスである。青臭いのである。
 
 戦闘の経過については、クロノの読み通りに事が運んだ。気持ち悪いくらいに。
 まず最初にディンがイケ面君を撃墜。
 その後は指揮を失って連携が一時的に取れなくなった二人を3対1の形で集中砲火。
 単純にして簡単な事だった。わけがわからない。戦いは始まる前に9割が決まっているとかそういうのなのだろうか。
 終わってみればあっという間だったのだが……
 いやなんというか実感がない。
 
「ココットの月並みなアレが効いたのかねえ」
「テ、ティーノ!」

 わやわやと冷やかす私に慌てるココット、をさておいて、ディンは床に腰を降ろしているイケ面君に歩み寄って言った。

「俺の勝ちだよな」
「……ああ、僕の負けだよ」

 ディンはその言葉を聞くと大きく息を吸い、吐く。
 どっかと床に腰を降ろすと深く頭を下げた。

「へ?」
「長らくつっかかっちまって悪かった! お前に負けっぱなしなのが悔しかったんだ」

 実に直線。ストレートな言葉である。これには思わず毒気を抜かれたらしい。

「僕はてっきり君には嫌われているもんだとばかり思ってたよ」
「いや、俺が殻破れなかったのが原因だ、正直すまんかった」

 仲直りしようぜと握手なんて交わしていたりする。しかしまあ……何ともかんとも。急展開に私も煙に巻かれた気分になった。
 途中で名前を呼ばれたような気もしたがなんだったんだろうか。
 ともあれ、せっかくの仲直りの舞台に水を差すのも野暮だ。

「ココット、祝勝……いや、復縁を祝ってのちょっといいランチセットでも買いに行こうか」

 考えてみれば、何も関係してない先輩方二人にも付き合わせてしまっているわけだし。昼食くらいは出さないとこちらもちょっと申し訳ないのだ。
 手持ちぶさたにしているココットを連れ出して店に走る。
 しかし、本当に実感がない。
 でも存外勝つ時というのはこんなものなのかもしれない。そうでなければ勝って兜の緒を締めよなんてことわざは産まれないのだ。
 ただ、ここのところの密度の濃い日々は随分ためになった。
 空を見れば既に初夏の日差しが出てきている。
 時間が過ぎるのは早い。
 入った当初はどんどん飛び級してやるぜなんて思っていたものだが、そうそう簡単でもないというのは判った。

「私も先の事をきっちり考えていかないとなぁ」
「ティーノ、先のこともいいですが目先のことも考えないと、あまり待たせるのは良くないですよ」

 仰る通りなので、私は考えるよりもとりあえず足を動かすことを選んだのだった。



[34349] 幕間二
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/06 20:07
 試験管の少女は唄を紡いだ。
 誰にも聞こえない唄を。
 その大きささえ無視すれば、試験管、そう形容してもいいかもしれない。培養槽の中で少女は歌っていた。
 意味などはないのだろう、言葉は知らないのだから。
 ぽこり、ぽこりと泡のきらめくその培養槽の中で少女は口をぱくぱくと動かしていた。あわせてその背中の小さな翼や、紅葉のような小さな手がゆらゆらと動く。
 白衣の男がそれに気付くとリズムをとって、コン、コンとガラスを指で叩く。
 何が嬉しいのか、あるいはただ真似しただけか、そのリズムに段々合わせるように少女も内側から同じように叩き返す。
 その不思議そうな表情に、最近めっきり笑い上戸になったと感じながらも男はまた小さく吹き出した。

 最初は薄暗く、何の飾り気もなく、鉄とプラスチック、電子音とコンソールを叩く作業音しかなかった部屋に、段々と彩りが増えて行く。
 それは小さい人形であったり、男が小さい時に好きだったレトロなブリキのおもちゃであったりもした。
 それは決まった時間に小鳥がワルツを歌う時計であったり、時間が来るとくるくると回ってピエロたちが踊り出すオルゴールだったりもした。
 デスクの中央にいつしか飾り瓶が置かれ、造花が飾られる。冷たいリズムをとる音しかなかった空間にピアノを基調としたクラシックが流れる。
 その壁に飾られた、男が自分ではよく判らないながらも買ってきた……と思わしき壁掛け、絵画、押し花、といったものも10を数えた頃だっただろうか。
 色合いに踊るような赤い色が混ざったのは。

「これも、これも、これもだ!」

 男は何かに憑かれたかのように書類を燃やしていた。
 換気も十分効いているだろう室内にすら、煙が充満していく。
 それを吸い込んだ男はひとしきりむせ返り、机に手をついて息を整えた。
 ふうと一息吐き、頭を一つ二つ振るとコンソールに向かい操作を始める。

「……アドニア、君はすぐに自由になる。次に目が覚めた時には暖かいベッドの上だよ」

 何らかの複雑なプログラムらしき文字の羅列がディスプレイを巡る、そこから目を離さずに男はつぶやいた。
 やがて、培養槽から液体が抜け始め、少女に幾重にも絡みついていた管もゆっくりと外れた。
 槽の液体が抜けきると同時に駆け寄った男は何らかの器具、ガスマスクのような形をしているものを少女の口にあてがい、スイッチを押す。小さな駆動音と共に少女の気管と肺を充満していたであろう液体が排出され床に流れる。
 耳を近づけ、ひゅ、ひゅ、という浅い呼吸音を聞き取った男は、力が抜けたかのように表情を緩め、次いで背後で聞こえた物音に厳しい表情となった。
 男が入り口をゆっくり振り向き、長身の人影を見ると体に緊張が走る。

「相変わらず君は肝心なところで徹底できないな、セフォン研究員。やるなら後腐れなく始末するか、後遺症など考えないで強力な薬を使いたまえよ」
「……主任」

 主任と呼ばれた長身の男は、荒れた室内とディスプレイに明滅している情報をざっと見、感情の全く出ない顔のまま向き直り言った。

「しかしまあ……全くよくもやってくれたものだ。これで、もう8年にもなるこの研究所とも別れを告げねばならん」
「主任……僕は……」

 何か言いかけようとした男──セフォンの言葉を遮るように「言わんでいい」と主任は言った。

「ああ、言わんでいいとも。その実験体に情が移ったのだろう。研究者としては失格だが人間としては正しいのかもしれん」

 主任はそこで初めて右頬を歪めて薄く笑った。

「尤も、数々の人体実験をしてきた身としては、今更と言ったところでもあるのだろうがね」
「……それでも、僕は」
「言わんでもいいと言っただろう。行くならほれ、退職金だ」

 デスクになにがしか入っているような膨らんだ封筒が置かれた。セフォンの目が大きく開かれ、申し訳なさそうに歪んだ。

「……主任、すいません……」
「謝るな。君も感じている通り、この実験は行き詰まりだ……考えてみれば無理があったのだろうよ「無限の欲望」の成功例が奇跡に奇跡を重ねたものだったというだけだ」

 主任はそう言うと何もない虚空に目を向け、重く、長い息を吐き出した。その吐息で10年は年老いてしまったかのように声がひび割れる。

「あの成功があってから研究所も、スポンサーも気が狂ったよ……もしかすれば過去の英知を復元できるのかと。または人が過去から完全に複製されるならそれは不死ではないのかと」

 愚かな事だった。と首を振る。自らの手を軽く持ち上げ、見ながら続ける。

「……何体切ったかな、医者なら切った数は名誉であり実績だが……」

 見つめる己の手に何を幻視したのか、目尻がひきつっていた。もう老人にしか見えないその瞼を閉じると、一息、二息と呼吸を落ち着けた。

「君のリークした情報で、管理局も動き始めたようだ。あるいは、証拠の隠滅かもしれんがな。さ、もう行くといい」

 セフォンは無言で軽く頭を下げ、少女を懐に抱きしめ、出口に足を進める。
 お互い背を向け合った所で思い出したかのように主任が声をかけた。

「行き先を決めていないようなら、その封筒の中の座標に行ってみることだ。逃げる為の専門家がいる。幸運を祈るよ、ペル・セフォン研究員」

 セフォンはその声を聞くと唇を噛みしめ、弱気そうな顔をくしゃくしゃに歪めながら小走りに走りさった。



[34349] 一章 六話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/06 20:08
 偶然も二度続けば偶然とは呼ばない。
 かといって、必然と呼ぶには差し障りがある。
 何を言いたいかというと、久しぶりに夢見が悪かった。
 妙に印象の強い電気音と泡の音、ガラスを叩く音……
 そう言えば、検査の時に精神がどうとか記憶がどうとか言われていたことを思い出す。

「ふとした拍子に突拍子もない記憶が見えることがあるかもしれませんが、その時は落ち着いて近くの掴めるものを掴んで。パニック発作とおおむね対処は同じです。落ち着けると思う事が一番です」

 ……だっただろうか、そんな事を言われた覚えがある。
 多分フラッシュバックのようなものを想定しての言葉なのだろうけど、夢で見たせいだろうか、今ひとつ実感もなければパニックにもならない。その上、ぼんやりして覚えてないことも多い。
 確かに突拍子もない記憶ではあるのだが……あまり、認めたくないような。記憶と思いたくないような。何かの実験体だった壮絶な過去とか真っ平なのである。
 性別は違えど、人並みに変人に囲まれ、人並みに仕事一筋になりすぎて彼女の一人も出来ず童貞を嘆いていた、地道な過去の方が有り難いのである。人並みの人生かどうかは議論の余地があるとしてもだ。

「うおぉ……いかん。どつぼにはまる……」

 こめかみをぐりぐり親指で押しながら洗面所に向かった。
 冷水をこれでもかと顔に浴びせて頭を冷やす。
 もはや本来の目的よりも、雑念退散とか集中したいときに振るようになってしまった木刀を引っ掴み寮の裏手に出るのだった。
 何とはなしに癖になっている、木刀を片手で地面から垂直に持ち上げてからの一振り。調子を見るための最初の一刀を振るう。
 予定より大分ずれた。
 少し前にのめるような形で振るう。
 ずれが少し直る。
 体の成長期もさることながら、翼も日々成長している。
 当然ながら、生身の翼である以上それなりの重さがあり、普通にしているように見えて実は随分重心が人とは違っていたりもするのだ。ついでに言えば関節の動きもちょっと複雑である。レントゲンを撮れば面白い写真が撮れる事だろう。
 もっともその辺がなおさら既存の剣術とか、こちらのストライクアーツとかを学ぶのに不向きにしているのでもあるが……
 それはもう身体の問題なので仕方ない部分もある。片腕の人間は片腕で扱える剣術を使うしかなく、翼なんか生えてる人間はそれ用の技を使うしかないと言う事なのだろう。それ用なんてないので、奇しくも以前恭也に言われた事、私自身の剣を作るしかない、という言葉になってきてしまうのだが……
 私自身はある種の趣味になっているのと、毎日の癖のようになっているだけで剣術に身を捧げるというタイプでもないのだが。まさか、自らの流派でも立てろと?
 そんな事を考えているうちに素振りを終え、汗を拭く頃には起きた頃の気分の悪さなどはどこかに吹っ飛んでいた。やはり我ながら適当なものである。

   ◇

 焼きたてパンの暖かみを紙袋越しに感じながら、駅前広場のベンチに陣取る。
 ミッドでも地球でも、パン屋では紙袋。そんなところは変わりないらしい。さっそく焼きたてベーグルサンドを取り出して大口開けてかぶりついた。少々行儀が悪いかもと一瞬思ったものの、考えてみれば肉体年齢おおよそ11歳、このくらいは平気だろう。何よりこの食べ方が一番美味しい。
 カリっと焼き上がったベーグルに目玉焼きとチーズ、ハムといった定番の具が挟まれているだけなのだが。冷える前に食べるのとでは味が格段に違うのだ。チーズが程よく柔らかくなり、中身がしっとりとした食感になる。ハムの代わりにカリカリにしたベーコンでもまた食感が変わって美味しいが。
 と、あっと言う間に食べ終えてしまった。
 またもや行儀が悪いとは思うものの親指についたチーズを舐め取る。
 栄養的にはサラダか何かが欲しいところだが、一食分くらいは気にしないでおく。ついでにパン屋で買った紙パックのコーヒー牛乳にストローを刺してちゅーちゅー吸いながら時計を見た。
 電車の来る時間までぴったり10分前。
 今日は、突然ながらに施設の子たち、姉たちが連れだって遊びに来るのだ。
 本当に突然である。何しろ連絡がきたのが昨晩のことなのだ。
 聞けば、納得のことで、一応施設に在籍しているはずだが、一年の半分は旅をしている自由人、カーリナ姉が丁度帰って来ているらしい。あの人はいつも唐突だ。
 一ヶ月フラっと旅に出たと思ったら一ヶ月は施設でグータラ過ごしていたり、時には先生とチェスをやっていたりもする。
 自分の理論で、よし遊びに行くぞ、なんて言って場末の酒場に子供を連れ回してみたり、お前には才能がある、なんて言って追跡術をティンバーに教えてしまったり、行動もまた唐突な人だった。
 出版社と契約を持っており、紀行文で収入を得ているようで、なんで施設に居るかと言えば……愛着もあるのだろう。アットホームな所だし。多分。とりあえず帰れば飯が出てきて風呂に入れるから、とかでない事を祈りたい。
 きっといつものごとく、何も説明しないで「よし、ティーノのところにでも遊びに行くぞ」とかそういうノリで引っ張ってきてしまったに違いなかった。
 見た目は颯爽としていて格好いいのだが、何で性格がああなのだろうか……
 赤毛……というには紫がかっている、マゼンダと言えるのだろう髪を長く伸ばし、長身をさらに細く見せてしまうような暗めの色のスーツを好んで着ている。さすがにもうじき夏に入るという時期でもあり、薄手のサマースーツのようだ……が?
 いつの間にか待ち合わせの時間になっていたようだ。構内から歩いてくる姿が見えた。ああこら、歩調考えないからデュネットが取り残されてるぞ、ああラフィ、ナイスフォロー。
 何とも危なっかしい施設の連中を見て、見てるとついあわあわしてしまう。何となく私も彼等に向かって歩き出し。

「久しぶりだな、ティーノ。およそ三ヶ月ぶりか……ん、大きくなったか?」

 唐突に抱え上げられた。高い高ーいというあの格好である。勘弁してほしい。

「そりゃ成長期だから伸びるさ……というか降ろして欲しい……というか注目、注目されてるから、降ろして高い高いしないで、にやにや笑ってないで」

 さすがに人目が恥ずかしい。ただ、手足の長さに絶望的な差があるためじたばたしかできないのが悔しすぎる。文字通り手も足もでないので困る。
 羞恥に悶える私を二度三度持ち上げると、うむ、とか一つ頷いてやっと地面に放してくれたのだった。なんだよ、うむ、ってなんだよ。ああ顔が赤い。

「ご愁傷、さま?」
「おつかれ、ティノ姉」

 デュネットとラフィが慰めてくれる。ありがてえありがてえ。いい気味だとばかりにせせら笑っているティンバーには後でワサビクッキーでも食わせる。

「カーリナ姉さん、連れてきたのはこの三人で全員? 誰か迷子になってたりとかはないよね?」
「ああ、さすがにラフィやティンバーより小さい子を連れてきたら私の手に負えないからな。そこまで常識知らずじゃないぞ?」

 カーリナ姉はその常識レベルが平均と違っている可能性があるので、困るのだが……
 聞けば施設の方は私達以外の年長組の二人、ヘクターとティズリーに任せてきたようだったので、少し安心した。
 さて、と私は目の前でパンと軽く手を叩き、気分を入れ替える。
 時間も勿体ないし行こうか、と先に立って案内する事にした。

   ◇

 この魔法学校の規模を考えると、構成そのものはわりと中途半端な事に気付く。
 自分で案内をし始めてからそんな事をふと思った。
 学園都市や学園町と呼ぶには小さいし、そこまで都市計画に練り込まれているわけでもなさそうだ。
 とはいえ、ただの学校と呼ぶには規模が大きい。年中無休の購買や各所にある学食、喫茶。服飾や雑貨などを取りそろえる店も入っているし、休日ともなれば、敷地の一画を解放してフリーマーケットとして解放したりもしている。魔導師を育てる都合、相当な補助金でも出ているのだろうか。小規模ながらも美術館や博物館。そして文学、歴史、魔法学などの資料が雑多に集まった資料館などもある。
 色々と見て回れるものが多いという意味では、案内する立場としては助かっているのだが。見る物が多いゆえか、カーリナ姉がふらっと姿を消した……まあ、いつもの事だ。
 そしてその資料館へ案内するつもりでいたのだが、入る途中でデュネットの足が止まってしまった。

「……これは、私と似て、否なる気配……ごごご」

 ふらふらと一室の方に向かって行く。擬音なんてつぶやきながら。
 ……そっちは、ええと。悪い予感がひしひしと押し寄せた。
 資料館と大雑把な呼び方をしてしまっているものの、未使用の部屋も多い建物なのでそのままクラブルームとして、生徒用にも開放されている。
 そしてデュネットが向かっているのは……「文芸部」と書いてある部屋だった。

「おや、ティーノではないですか」

 折しも文芸部のドアより出てきたのはココットである。そう言えば部員だった。
 どうしようかと思っている私を見、何か手をわきわきさせているデュネットを見、私達の後ろにたむろしているラフィとティンバーを見、ぽんと手を打った。

「部活見学ですね。なるほど、やっとティーノが私達文芸部の誇るハチマルイチ文化を手にとってくれる日がやってきましたか。でも、フフ……そんなに人を集めなくても、そう怖いものではないのですよ?」

 いや、そんな……お客さん初めてかしらん? みたいなノリと流し目で誘わないでほしい。
 妙な戦慄を感じてあうあう言っているとココットの目が輝いた。

「ふふ、さあ歓迎します。これからは同士と呼ばせて頂きましょうか」

 ココットの手が伸びる。駄目だ。今のココットは常のココットと思っては駄目だ。今私の前に居るのは腐界の住人、BLという禁断の果実を食させようとする蛇に他ならない。
 というか、確かにココットには計り知れ無いことでもあるが、未だ男性であったときの事だって根深く引きずっているというにその上、腐女子になれとかどんな新境地を開けばいいのだ私は!?

「ぐっ……」

 得体の知れない妖気のようなものに圧され、身を震わせる幼い二人を庇う。
 そんな私をさらに庇うように手で遮ったのはデュネットだった。

「ティーノ、私は部活見学してくる。行って」
「なっ、デュネット! それでは……」

 まるで……まるで人身御供ではないか。
 絶句していると少しだけデュネットはこちらを振り向き、大丈夫、と言う。

「大丈夫、私は染まらない……」
「……く、デュネット……いずれまた再会の時まで……無事でいろよ……」

 身を翻すと後ろで腐界の扉が閉まる音がした。
 唇をぎゅっと噛む。
 しばし歩き、資料館を出る。私は子供達を連れて退却に成功した。青い空が眩しい。
 ──デュネット、君の尊い犠牲は忘れない。

「なあ、ティーノー。何か感動してるとこなんだろうけど腹減ったー」

 ティンバーの子供らしい素直な訴えによってこの、なぜか始まってしまった寸劇は幕を閉じた。
 時間を見れば確かに昼に近い時間になってきている。
 学食でもいいのだが……ここは一つ子供たちの社会勉強も兼ねるとしようか。
 そう考え、一旦学校を出て最寄りのアーケード街へ行く事にする。
 デュネットには一応行き先をメールしておく。後で来れるなら合流すればいい。

 この辺りには駅前通りまで行かなくても、学生が中心の購買層になっているアーケード街がすぐ近くにある。
 といっても、そもそもが片田舎と言ってもいいので、さほど自慢できるほどでもないのだが。
 ゲームセンターやファーストフード、派手目な服を扱っている店、音楽ショップ、アクセサリーショップなどがここに集中している。
 学生にとっての息抜きの場というわけだ。休日ともなればそれなりに人も多い。
 こんな場所で社会勉強も何もないというお堅い大人もいるかも知れないが、なかなかもって子供には大切な勉強の場にもなってくれる。
 特に通常の保育所、初等科の学校に通いにくい、うちの施設の子供たちにとってみれば、基本的な社会のルールを学ぶという部分が抜けがちになってしまう。多分カーリナ姉もそういう部分を考えて時折子供達を連れ回すのだろうけど……
 ともあれ、お小遣いを渡して、決められた上限の中からどうやってやりくりするか、なんてのも実地で学べるし、こうした人混みなんてのも子供の頃に慣れておかないと大人になっても苦手になってしまうものだ。
 ついでにティンバーには女の子にあげるプレゼントの選び方でもレクチャーしておこうか。
 なんて入学時に貰ったプレゼントを思い浮かべそう考えたのだが。
 ……うん、やめた。難しいことはすっぱり忘れて楽しむことにする。
 二人の顔を見れば、それはもう綺麗に盛りつけられたデコレーションケーキを目の前にした時のような表情できょろきょろと見回している。手を放せばすぐに飛んで行ってしまいそうだった。

「二人ともー、気になった店があったなら入ってみようか」

 と、水を向けてやると、よっしゃーとばかりにはしゃぎ出すティンバー。ラフィはラフィで手を控えめに引っ張ってくるので、どうやら行きたい場所があるようだ。
 こんなに喜んでくれるなら、もう少しこういう場所に連れ出してもいいかもしれない。ただ、施設の周辺はちっとばかり田舎もいいところなので、華やかな場所に欠けるのが一番の問題でもあるが。
 早くしろー、とせき立てるティンバーを抑えつつ、財布を出す。地球換算で千円くらいだろうか、の小遣いを渡す。今日で使い切る事だけ約束させ、行きたい店というのに順番に回ることにした。もっとも、ちょっとしたお菓子や玩具でも買ってしまえば飛んでしまうような金額だが、居残り組へのお土産代を考えればこの辺がせいぜいだった。ふがいない姉を許してほしい、ティンバー、ラフィ。武装局員とかになったらもう少し頼りがいのあるところを見せてやるから。今はその……懐具合の問題がかなりあるのだ。
 私の資金も大分減ってきた。いや、元々そんなに多いものでもないのだが。地球で稼いだ現金をミッドの金に替えてもらってある。ついでに施設に居た1年の間に農作業の手伝いなどで貰ったちょっとした小遣いを地道に貯め込んだりしたものだ。
 実のところ、生活費は生活費で院長先生から振り込んできてくれるのだが……実はこっそり施設の帳簿を覗き見たことがあるので有り難いけど気軽に使えないのだ。そっくり取っておいて、弟妹たちの学費にでもなればいいと思っている。大体、私自身はわりと一人で何とかできてしまうのだから……そろそろ、アルバイトの一つでも探さないといけないとしても。
 そんな、難しい事を忘れてすっぱり楽しむ、なんて思った事もさらにすっぱり忘れ……頭を悩ませつつ店を回ったのだった。例のごとく、途中で考えてもしゃーねーとばかりに三人で楽しんだのだったが。

「ん? 何か呼んだティンバー」

 色とりどりの物が並んだ雑貨店を出ると、ふといつぞやのように名前を呼ばれたような気がした。ティンバーは覚えがないと首を振る。
 おっかしぃなーと周りを何とはなしに見ると、見覚えのある姿が見えた。

「あれ……ディンと、イケ面君?」

 ゲームセンターの入り口に設置してあるガンシューティングに興じている二人連れ。妙に熱中しているようだった。やがてリロードをミスしたディンが撃たれたようで、ディンの方の画面に大きくGAMEOVER!と表示される。あちゃー、としっかり落ち込んでいるディンに近づいて声をかけてみた。

「よ、敗北者」
「うお!? ティーノかよ……いきなり敗北者はねえだろ」
「傷を負ったものには容赦なく塩と唐辛子。私はそういう主義なんだよ」
「……ティーノってそういうキャラだったか?」
「ココットがいないので頑張ってみました」

 右頬を上げてニヤリと笑ってやる。
 しかし、こんな近くでダベっているのに隣のイケ面君はまるで動じない。ものすごい集中力である。
 というか上手い。ターゲットが登場する位置とタイミングを弁えているかのように淡々と撃ち、リロードの速さと言ったら無駄のないこと。
 結局最後までノーミスでクリアしてしまい、ぴろりーんとハイスコアを更新。それまで食い入るように見入っていたティンバーは大興奮。

「すげー! 兄ちゃんなら稼ぎ頭のヒットマン間違いないぜ!」

 ティンバー……微妙すぎる褒め言葉だそれは。
 そこで初めて私達に気付いた様子のイケ面君、この人集中しすぎだろう。

「お……ああ、確かティーノ……さんだったか。こんにちわ、良い天気だね」

 やあ、なんて手を上げて挨拶してくる。いや、何か別に不思議でも何でもない挨拶なんだけど、なんだろうか……私の中で作られていた強者のイメージが……
 思い返すと私もやっきになりすぎていた気もする。負けん気に流されたというべきか。模擬戦という勝敗を競う場でないのに勝敗を競ってしまったのはちょっとした黒歴史認定である。
 実際一対一で技量を競えば私が届く届かないというレベルではない所にいるのだろう、そんな彼があまりこう……ぽやぽやされると調子が狂いそうになるのだった。
 そんな間にもティンバーに銃のすばらしさを説いているイケ面君。

「ちょっとまて、質量兵器禁止の世界で何物騒なことを子供に話してるんですかアンタは」
「いや、なかなかこのリコイルするシステムも作り込まれててね、つい」

 今時珍しいプロップアップ式が、とか言い始める。

「そこまでにしておこうぜ、お前の銃好きは判ってるけど長くて仕方ねーや」

 ディンが途中で割って入った。どうせだから昼飯でも一緒に食おうやーと提案する。
 丁度いいかもしれない。ティンバーとラフィも途中で小さめのホットドッグを買い食いしただけだったし、そろそろランチタイムで混み合うピークも外れてきたはずだ。賛成しておいた。
 入ったのはファーストフードと喫茶店の間のような店である。
 自分で具を選べるサンドイッチとサラダ、コーヒーを頼んだ。

「ティンバー、カウンターによじ登らない! ラフィ、ホットサンドは判るけど格好いい名前だからってゴルゴンゾーラは早いと思うよ、こっちのリダーチーズが良いんじゃないかな」

 などと子供の世話を焼きつつも室外にあるテーブルに落ちつく。おおむね形式は日本のファーストフードと同じなので、コーヒーはカウンターですぐに出して貰える。客がそれほど多くない今なら料理は後で運んでくれるらしい。
 ブラックのまま一口すすり、味わい、おもむろにカップを降ろす……うむ。私は無言でミルクと砂糖を素直に投入することにした。子供舌が恨めしい。
 さて、と落ち着いたところで改めて子供達を紹介する。

「私の出た施設の弟と妹、ティンバーに、ラフィだよ。ほい、挨拶してね」

 と、二人に挨拶をさせ、次いで子供達に二人を紹介する。

「こっちの赤髪ツンツン頭がディンで私のクラスメイトだね。そんでこっちの銃オタっぷりを見せてくれた人がイケ……」

 ディンが吹いた。失敬な。私もあだ名で考えすぎて、つい出てきてしまっただけだと言うのに。この人の名前は……
 あ、あれ……えーと……そう言えば、今までの遭遇がなんだかバタバタしてて聞きそびれていた?

「ええと、どちらさまでしたっけ?」

 ……いかん、滑ったようだ。イケ面君の額から冷や汗がたらーりと。

「そ、そういえば、僕もちゃんと名乗ってなかった気がするけど、ディンからは聞いてなかったのかい?」
「あー、ええ。何となく流れで」

 私が適当に言ってた名前がそのまま何となく使われてましたとは言えない。
 やはは、と日本人らしく笑ってとぼけていると仕方ないなとでも言いたげにため息を一つ吐かれた。落ちてきた一房の茶色の前髪をかき上げる。そんな仕草をなにげにするから妙なあだ名もつけちまうんだぜー、と自己弁護だけはしておいた。

「ティーダ……ティーダ・ランスターだよ。よろしくねティーノさん、ティンバー君にラフィちゃん」
「ん、よろしく、ティーダ先輩と呼んだ方が?」
「やめてくれよ、ディンもココットも僕の事は呼び捨てなんだ。同年だろうし君もそれで頼むよ」

 了解と言い、口の中でティーダと発音してみる。ふむ……

「ちょっとディン、ティーダのこと呼んでみてくれる?」
「おぅ、なんだそりゃ?」
「いいからいいから」

 と、ディンに発音させると、うん。

「何かこの間から呼ばれる気がしてたと思ったらディンの発音のせいだったぽいね」

 ティの部分が強いイントネーションになっているのだ。紛らわしい事である。そして、ディンの発音を直させているうちに頼んでおいたランチが出てきたのでそちらは一旦停止し、食事に集中した。
 モッツァレラチーズとトマトと生ハムとレタスの相性が絶妙だ。シャクシャクモチモチとして食感も良い。この組み合わせ今度自分でも作ってみようか。
 そんな私が食事に集中している間にも、ディンとティーダは口を休めない。行儀悪いぞー。しかし、こう見ると仲良かったというのは本当らしい。性格的な相性もあるのかもしれないが。
 模擬戦の時とは裏腹にティーダは妙におっとりしているようなところがあるようだ。見た目と同じように大人びていて余裕があるだけかもしれないが。話にしろ強引に自分の話したい話に持っていくのがディンだとすれば、柔らかく、いつの間にかその話にしてしまっているのがティーダ、そんなところだろうか。

「こいつな、俺やティーノと同年のくせに一人だけ高等部三年なんだぜ? しかも今度の夏休みには空士の一次試験受けるんだってよ」

 そんな事をティンバーに愚痴るディン。いやお前……8歳児に愚痴るってどうよ……2歳しか違わないけど。
 そんなディンはぷっぷくぷーと頬を膨らましている。本気で不満そうなので聞いてみた。

「ディン、劣等感とかは乗り越えたはずじゃなかった?」
「んな簡単になくなるかよ、真っ正面から見れるようになっただけだっつうの、それにな……」

 ディンはティーダの方を向くとちょっと真面目に言う。

「ティーダ、これからも俺に限らずこういう……ええと、妬みとか羨ましいってのは付きまとって来る事になると思うぜ……なんだ、まあ、負けるんじゃねえぞ」
「……ああ、心に留めておくよ」

 麗しき友情の一幕である。

「これがドラマでよくある熱い友情という奴か……とするとこの後ティーノも含めてファミリー同士の泥沼の抗争に!?」
「しっ、ティンバー。静かに見てなさい。そんな展開にはきっとならないよ、あたしはティノ姉が唐突にバットで二人を撲殺してギャグ展開に持っていくと見た」

 二人の子供妄想家のおかげでその一幕もだだすべりになってしまった事は残念である。一応聞こえないように小声で話していたようなのでデコピンで勘弁しておいた。しかし撲殺でギャグ展開って何なのだろうか。

   ◇

 そろそろ程良い時間になってきた。ディンやティーダはこれからまた二人で遊びに行くようなので別れる。デュネットと合流して、暗くなる前に帰らせる事にした。何だかんだでカーリナ姉も含めて20より上の人が居ないメンツなのだ。そう遅くに帰らせるわけにはいかない。日が暮れるまで特訓とかしていたちょっと前の自分は盛大に棚上げである。
 お土産もしっかり持たせ。駅前でデュネットを待っていると本が詰まった重そうな紙袋を両手に抱えて、えっちらおっちら歩いてくる姿が見える。どうやらココットも見送りに来てくれたようだが、あの様子からするとどうも古本屋巡りでもしていたようだった。

「まさか、SAN値を下げて801の浸食に耐えきるとは思ってもいませんでした、また会いましょう好敵手デュネット」
「ふ……ふ……ルルイエに思いを馳せなければ危ういところだった。ココットこそ……やる……いずれ決着を」

 聞こえない。なんちゃらかんちゃらふたぐんとか聞こえてない。尽くし責め俺様受けこそ至高とか謎の呪文も聞こえてない。
 何か二人を会わせた事で変な化学反応が起きた気がするなんてことはない……ないんだ。

「ティノ姉、頭痛いの?」

 ラフィが頭を抑えてうんうん唸る私を心配してくれたようだった。ああ、癒される。半端に耳が良いのも痛し痒しなのだった。
 ともあれ、デュネットとも合流し、ホームで見送る事にする。

「それじゃ皆も元気でね。あと夏休みに入ったら私も帰る日があるだろうからその時は前もって連絡しておくよ。それといつまでも胸を揉むなティンバー」

 ごん、といかにも突っ込み待ちのティンバーの頭にいい音をさせる。

「ラフィ、連行」
「うーい」

 訳あって相当な力持ちのラフィが間延びした返事と共に軽々とティンバーを担ぐ。
 やがて出発の時間となり、電車に乗って離れていく3人をぱたぱた手を振って見送った。
 ……はて。
 3人?

「帰ったようだな」

 後ろからハスキーボイスが聞こえた。

「カーリナ姉さん……なんで居るのさ」
「ティーノは私が居ると嫌なのか? それは……寂しいな……」
「いや、引率……」
「忘れているようだがデュネットは私と同い年だぞ?」
「……そうだった」

 同じ16歳なのにデュネットは13歳に見えてカーリナ姉は19歳に見える。不思議!
 それはともあれ、何か用事でもあったのだろうか。
 私が首をかしげると、ふふんと笑い、ジップ付きビニールに入ったアクセサリーを取り出した。

「エス、オー……SOTM?」

 そんなアルファベットがゴテゴテとデザインされているシルバーアクセサリーだった。Oの部分が頭蓋骨のデザインになっていて、何というかこう、ふつふつと若い頃を思い出して夕日に向かって改造バイクを走らせてしまうような……
 そのアクセサリーを私に見せ終わると、無造作にポケットにしまった。
 カーリナ姉の琥珀色の目が細められ、唇は肉食獣のような笑みを浮かべる。
 この人たまにこの笑みを無自覚でやるのだが、正直結構怖い笑みである。何というか殺す笑み? 一応紀行文とかを飯の種にしているはずなのに、こんなに殺伐とした顔をしてていいのだろうか。

「ティーノを監視していた男が持っていたものさ。うちの子達がいろいろ事情持ちだというのは知っているな?」

 そりゃまあ、私もある意味その一人であるし。肯定の意を込めて一つ頷いて先を促すと、また先程のアクセサリーを取り出した。

「これはソウルオブザマターとかいう小悪党どものシンボルマークさ。単に頭文字を集めただけのようだけどね……最近うちの子達の誰かを狙い始めたらしい。施設の方は既に対処済みだし、ああ見えて隣近所も頼りになる。ただ一人だけ離れて暮らしている子が一番危ない」

 それで私が来たってわけだよ。なんて肩をすくめて見せる。有り難いのだがなんともむず痒かった。
 いつものごとく考え無しに来たとか思っててすんませんした。
 そしてソウルオブザマターとか、何というかひしひしと香ばしい気がしないでもない。異端は異端を呼び寄せるというあれか? 私という香ばしい存在は香ばしい連中を引き寄せるのだろうか?
 翼なんて真っ先に隠してるしオッドアイだってカラコンで隠しているというのに……がっくりである。

「何を落ち込んでいるかは知らんが、先を考えてみるとしようか。見張りが倒された。現時点で相手が持っている情報は、現在ターゲットは外出中であり、連れがいるかもしれないが、管理局員というわけでもない」

 さて、どういう行動に出ると思う? なんて聞いてきた。
 ええとそりゃ、見張りも定時連絡くらいはしてるだろうし、それが途切れれば様子見に行くよね。で、その口ぶりだと多分カーリナ姉がまあ、畳んでしまったんだろう。かといって、現在ターゲットはかなり無防備な状態で、学校という守られてる場所から離れた場所に居て……うん。言いたいことはなんとなく判った。

「判ったようだなティーノ。ついでの仕込みもしてある。連中も焦って動き出してる頃合いだ。一匹残らず炙り出すぞ」

 そう怖い笑みを浮かべながらカーリナ姉は耳のピアスを弾く。ちりんと高い音が鳴った。



[34349] 一章 七話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/06 20:08
 何だか流された気がする。
 こう、人気のない通りを、わざとのったり歩いていたりなんかすると強くそう思う。
 カーリナ姉の口車に乗って。あえてその、私達の誰かを狙っているとかいう小悪党をおびき出すための餌を演じる。
 人の気配の無い裏通りを通ってみたり、郊外を歩いてみたり。餌役なんてのも実は歩いている間相当緊張しているもので、普段なら疲れも全く感じないような距離なんだけども、いつ襲われるかと思いながら歩くとなかなかにこう……気疲れというか、うん。大変なもんである。
 装いも新たにされた。
 その日はジーンズにTシャツという何とも色気のない格好だったのだが、餌としても不味そう! とカーリナ姉に一蹴され、店で剥かれて着せかえられた。今の私は黒地に大きな白い蝶がデザインされたワンピースである。胸元にあしらわれたひらっとした淡い赤いリボンがモノトーンな服のワンポイントになっている。
 バレッタで纏めてあった髪も下ろした。実のところ長さが半端なので大きく開いた肩に毛先がちくちくとして痒いことこの上ない。
 何故か興奮気味なカーリナ姉にミュールも履かされそうになったのだが、そこは流石に固辞した。ハイヒールはさすがにごめんなのだ。

「なぜだ!? 院長先生に教えられていた時はドレスもヒールも気にしてはいなかったじゃないか! ああ、惜しい! 画竜点睛を欠くというものだ」
「あ、あれは開き直りも大分混じっていたし……いや、何か論点違う! これから囮やるってのに歩きにくい靴履いてどうするのさ?」

 なんて一幕もあったりしたのだが、なんとかまあ、それまで履いていたスニーカーで勘弁してもらった。
 しかしこれもよくよく考えてみれば……地元警察なり管理局なり頼めば済んだ事だったのでは……
 そうだ、そうしよう。カーリナ姉がざっと調べをつけられる位には世の中に名前が出回ってる違法グループなのだろうし、狙われている事さえ示せれば……ああ、カーリナ姉の奪ったアクセサリがあったか。なんだ、私やカーリナ姉が動かないでも何とかなりそうじゃないか。
 そう思ってカーリナ姉に連絡をとってみる。あの人は今、私という餌に食いつくような、不審な動きをする人間が居ないかを遠巻きに監視中である。
 だが、帰ってきたのはどうも思わしくもない返事だった。

「ティーノ、お前の進路にケチをつけるわけじゃないんだが……私はちょっと管理局とはな……」

 と、歯切れが悪い。昔、管理局と何かごたごたでもあったのかもしれない。
 ともあれ、最後の段階……確保した連中は管理局に引き渡すよな事を言っていたので良しとした。別に局に真っ向から喧嘩売るようなマネをしたいわけではないらしい。良かった。
 姉の実力に関しては、まあ。地元で軽く伝説を築いていたりするし、自称冒険家なんて言って未開の地に飛び込むわ、なぜか紛争調停とか、遺跡で危機に陥ったスクライア一族の救出劇などで週刊雑誌に出ていた事もある。性格はともあれ、実力の方は確かなはず……いくらせがんでも魔法の方は何だかはぐらかされて、見せてもらった事もなかったが。
 まあ、考え無しってわけではないだろう、しかし……時間がかかる。
 気付けばもうとっぷりと日が暮れそうになっている。早く餌にかかれー、この時間になれば学生だから寮に帰っちゃうぞー。なんて考えてしまう。
 そんなことを考えていたからだろうか、囲まれている事に気付かなかったのは。
 最初は前を歩く通行人がいつまでも同じ背中だった。
 次第に横や後ろにも一人二人と人数が増えてくる。学生一人を連れ攫うには随分慎重なことだった……ああ、突然見張りが居なくなっていれば慎重にもなるか。

(カーリナ姉さん、把握してる?)

 念話で呼びかける。私自身もあまり得意にしているわけではないが、身近で魔力パターンもよく知っているのでそれなりの距離でも通じるのだ。

(大丈夫だ、そこから100メートルばかり道なりに歩いたところで仕掛けてくるぞ。清掃業者を装ったバンだ。荒っぽいありきたりな手口だが、人員を使って人払いをしてあるところがなかなか手慣れているな)
(感心してないで、どう動けばいいのか指示を……)
(何もするな)

 え? と聞き返してしまった。聞こえにくかったか、ともう一度何もするなと言う。100メートルばかり歩いたところで休んでいろと。
 なんて念話を交わしてる間にそんな短い距離も歩いてしまっているわけで……
 ちょっと見回してみれば、周りはすでにカタギと思われない人ばかりで、建物なんて見ても工事中の建物であったり、明らかに廃屋だったり、シャッターの閉まった店であったりする。確かに人の目が無く、攫うポイントとしてはいい場所のようだった。
 まあ、実のところ平静に考えられる事はできているのだが、緊張感でうなじの産毛がそそり立っている。冷や汗も一筋流れてしまっているようだ。実のところ荒事に関わってしまうのは初めてではない……とはいえ、さほど経験豊富なわけでもない。カーリナ姉を信じてはいるものの、こいつらのこの圧迫感どうにかならないだろうか。
 やがて、私から見て後ろから車両の走る音が聞こえてきた。周囲のその手のお兄さん方は露骨に囲みにかかり、リーダーと思わしき男が前に出る。逃げられないようにと私の肩に両側から手が掛かった。
 黒い男だった。第一印象はそれだろう。褐色の肌に少しぼさついた黒い髪、吸い込まれそうな真っ黒な瞳。黒いレザージャケットを羽織り、黒のレザーパンツに黒いブーツである。ところどころの金具と胸に付けられたSOTMというシルバーアクセサリーがぎらぎらと眩しい。
 その黒い男は私の足元から頭のてっぺんまで眺め、眉を一つひそめると紙巻き煙草を取り出し、咥え、隣に立った男が火を着けた。
 大きく吸い込んだ煙を上に向かって吹く。そのままじろりと私を睨め付け、かすれた声で話しかけてきた。

「解せないなお嬢ちゃんよ、あんたがうちのごぶッ」

 うわぁ……と声に出そうになった。
 なんと言えばいいか。
 カーリナ姉が上空から、男の上向きの顔面の上に「着陸」した。手土産のごとく両手に一人づつ縛り上げられた男をぶら下げて。そんな荷重があの速さで頭にめり込んだら……その答えが目前にある。

「ん、到着というわけだ……どうしたティーノ唖然として。ここは危機一髪に到着した姉に惚れるシーンだろう?」

 何か失敗したか? とでも言いたいかのように小首を傾げて見せる。さらさらとマゼンダ色の髪が流れる。
 その足の下のモノがなければ、ちょっと惚れたかもしれない。
 あまりのインパクトに私のみならず囲んでいたお兄さん達も口を半開きにして驚いている。

「あ、哀れ黒ずくめ……最後の言葉はごぶッか。同情する身の上ではないが、それでも君の死に様は忘れない……」

 何か言いかけたようだが、未練を残さず迷わず成仏しておくれ。軽く手を合わせておく。

「ところで、姉さん、その縛られている二人は?」
「ああ、人が近づかないよう用にと配置されてた。こいつらの端末でも確認したわけだが、この場に居る連中がほぼメインメンバーのようだ」

 子供1人の誘拐に随分、力を入れたものだなと肩をすくめる。
 いちいちサマになる姉である。その足の下のモノがなければ。おお、ぐりっと踵を捻った。黒ずくめの腕がびくんびくんと動いている。

「……てめえか、SOTMの名前使ってあちこちに喧嘩売ってくれやがったのは……」

 かすれた声が響き、カーリナ姉の足首をがしりと手が掴んだ。
 おお生きてたのか黒ずくめ。
 さすがはバリアジャケット。念話と同じくよく使われる魔法ナンバーワンである。顔面防御もばっちりらしい。
 うん、この連中、中核メンバーは魔導師で構成しているのだ。そうでないと管理局に知られている状態でそうそう逃げ回れるわけもないのではあるが。
 しかし……

「カーリナ姉さん、もしかして前言ってた仕込みってのは……?」
「ああ。ちょっと奪ったアクセサリー、団員証っぽくもあったからな、裏社会の大手を一回り」

 ぐるっと人差し指を回してみせる。

「適当に襲った後にサイン代わりに顔面スタンプしてきたのさ」
「ひょっとしてだけど……ええと昼間姉さんがふらっと皆から離れたのって……?」

 カーリナ姉はにやりと笑うと、お前の想像通りさ、と言う。

「……え、えげつねえ」

 そんな言葉しか出ない。そんなあからさまなマーキングであれば、まず組織同士を共食いさせようとする罠じゃないかと怪しまれるだろう。ただ、それも一カ所二カ所の話である。大手を一回りと言ったが、この姉が言うのだ、何カ所を荒らしてきたのか想像もつかない。中にはメンツを潰されたという事で怒り狂い、即座に動くものもいるだろう。誰かが動けば後はなし崩しだ。
 そうして、ソウルオブザマターの連中は選択肢が狭くなる。懇意にしている大手に泣きつくか……あるいは犯人を見つけて証拠と共に突き出すか、いっそ解散してしまうか。いや、選んでいる時間もなかったのかもしれない。何しろ私につけておいた見張りが倒されて、一連の騒動が起きたのが一日足らずの中のことなのだ。
 そして誘導されるように、私という餌にばっくりと食いつく。心理的に食いつくしか選べない状況になっていたことだろう。な、何とも……まあ。

「くっそああッ! そんな目で見んなあああ!」

 気合い一発、叫び声と共に黒ずくめはカーリナ姉を押しのけて立ち上がったのだった。
 しかし、ふらっと揺れる。ああ、ダメージが一見無いように見えて脳震盪起こしてたのか……

 駆け寄る部下達を右手で押さえる黒ずくめ。
 頭を抑え、うめき声を上げつつもその狼の様な目はカーリナ姉から離さない。

「てめえら、油断すんな! こいつは魔導師だ、呆けてねえで魔法をぶち込めえッ!」

 そう言い放ち自らも魔法を編み上げるものの

「もう計算済みだ」

 黒ずくめが叫んでいた時は面白いモノでも見るかのように笑っていたカーリナ姉が、急につまらないものでも見るかのように目を細め、そう言った。
 耳のピアスを親指で弾く。

「え?」

 黒ずくめの男の撃った魔力弾は自らの味方であるはずの男に向かって飛んだ。
 部下達の撃った魔力弾はでたらめの方向に向かい、バインドはどうでもよさそうな小石を縛り付け、至近での砲撃なんて危険な真似をしようとしていた奴もいたが充填されるはずの圧縮魔力が集まらない。
 それどころか……

「やめっ! やめろ! もう撃つなああああ!」

 黒ずくめの男の魔力弾が放たれては部下が倒れていく。涙でぐちゃぐちゃのひどい顔になっている男はデバイスを手放せばいいのに、混乱しているのか地面にデバイスを何度も打ち付けて止めようとしていた。
 やがて、狂乱とも言うべき自滅劇が終われば、残っていたのは魔力弾を食らって気絶した男達と、地面にへたりこんで泣き笑いの顔のまま魔力切れで気絶したリーダーの黒ずくめの姿だった。
 何というか……うん。私の表情も呆然としていただろう。何をやったかも私には判らないんだが……本日二度目の言葉を繰り返す。

「え……えげつねえ……」

   ◇

 早速管理局に引き渡してしまおう。そう思ったのだがカーリナ姉からストップがかかった。何でも聞き出したい事があるらしい。
 とは言え、当のリーダー本人は気絶したままだし、魔力切れでの気絶は通常の気絶とは違って時間がかかる。
 最近身につけた魔法を思い出したので、持ってきてて良かったと、ポケットからカード状になっている待機状態のデバイスを取り出し、起動。
 引きずり起こして起きるまで往復ビンタをかましそうな姉を止めて、適当に平均的な設定のディバイドエナジーをかけておく。
 単純な話で、魔力切れで気絶してるなら魔力を分ければいいのだ。あとは分けた魔力が馴染めばおいおい気がつく事だろう。

「それで、カーリナ姉さん、さっきの現象は何さ?」

 まだ気がつくまで時間がかかりそうだったので聞いておく。魔法の暴発を誘因した? にしては私とカーリナ姉の場所には流れ弾の一つも飛んでこなかったのだ。身構えていた私が馬鹿みたいだった。何か凄いことをしたのだとは判るのだが、全くその凄いことの中身が判らないので悶々する。
 カーリナ姉は肩を一つすくめると、別に大したこっちゃないと前振りした上で答えた。

「答えは魔力干渉によるデバイスのクラッキングだよ」

 そう言った上で耳のピアスを親指で弾く。
 ……? 何も起こらないように思うのだが。
 姉が人差し指で指した部分を目を凝らしよく見てみる。路上のタイルの上を何か極細の光る糸のようなものが動いていた。

「ただの魔力で編んだ糸さ。ただ、私の意志に応じて割と自由に変化が効く」

 そう言うと、糸が束ねられてプードル犬の形になった。ご丁寧に尻尾が揺られて舌も動かしている。トコトコと足音が出そうなくらいリアルに作り込まれたそれを私の足元まで動かして見せた。何という操作力か……

「す……すご……何で今まで見せてくれなかったんだよ?」
「いや……本当に大した魔法じゃないんだよティーノ。大体、私には魔導師登録するほどの魔力すらないんだぞ?」
 
 少し困惑気に、困ったような笑いを浮かべながらそんな事を言う。そういえば、私の足にまとわりつきそうな魔力糸のプードルだが、感じる魔力が極端に少ない。
 いや、問題はそこではなく。いや魔力糸の技術もとんでもない操作力なのだが。私は一つ息を整えて……言った。

「デバイスのクラックなんてされたらこの世界の根本を揺るがしかねない珍事なんだけど?」

 そこなのだ。基本デバイスってのは登録された人間でしか使えないように認証機能はこれでもかという程に付けられているし、その認証パターンには接続された魔力の波長なども含まれている。インテリジェンスデバイスは多様すぎるので、もしかしたらクラッキングされてしまうような頭のネジの緩んだデバイスもあるかもしれないが……通常のストレージデバイスにおいてはそんな心配はするだけ無駄。
 ……というのが魔法世界の共通認識なのだ。常識外れというか常識というものを正面から殴っ血KILLような事をやっているのだ、この姉は。
 私の言語野が誤作動起こした様である。そんな壊れた言葉でしか表現できないような事をあっさりしでかした本人は全く困ったそぶりもなく、言い放った。

「要は計算しているだけだ。デバイスに流れる魔力に対してノイズになる程度の魔力干渉で十分用は足せる。ほれ、プログラムに割り込むのとデバイスのシステムに割り込む違いはあるがバリアブレイクと同じ要領だ」
「ばりあぶれいくと同じ要領だとおっしゃるか……」

 この姉にかかってはそれなりに高等技術なはずのバリアブレイクもばりあぶれいくと言ったものに違いない。未だにごく弱いバリアやバインドを力任せに引きちぎるしかできないディンや私の姿を見たら何て言う事か……

「……けッ、それがトリッパーとか言う連中のレアスキルという奴かよ……卑怯臭ぇ」

 カーリナ姉と話している間にリーダーが目を覚ましたようだった。
 しかしトリッパーとな、旅行者?
 カーリナ姉は思い当たるふしでもあるのか、目を細めるとゆらーりと男に向かって音もなく近づいた。いや、だから怖いって……。私からは表情は見えないが、男の顔を見るに、想像して余りある。

「私をそう呼ぶか、どこで掴んだ? 吐いて貰おうか。いや、吐かないと言うなら構わないが……長い夜になるぞ」

 その冷たい表情を見てしまったのか。
 男はひっ、とくぐもった悲鳴を漏らして後ずさりしようとするも、手足を拘束済みなのでずりずりと尻をすりながら芋虫のような後ずさりにしかなっていない。
 本当にどちらが悪党だか判ったようなもんじゃない光景である。
 
「一つ言っておくと、これはレアスキルなんてもんじゃないさ」

 カーリナ姉はそう言って男の手首を軽く掴むと、ねじった。180度。ぐるっと。回っちゃいけない方向に。
 男は目を丸く開いている。というか男の手の甲が変な方向を向いている。痛そうである。見てる私の方がぞくっと鳥肌が立ってしまった。

「ただ数字を計算しているだけに過ぎない。さて、どうだ、痛みを感じずに関節が外される感覚は?」

 男はあわあわ言っているのみである。現実味のない光景なのだろう。自分の右手首が本来回らない左側に回転していて、痛みもないのであれば。

「感想がないのなら次を行くか」
「ちょ、ちょっとカーリナ姉さん……喋るも何もいきなりそれ?」

 突っ込みを入れてしまった。
 いや、私も尋問とかはしたことなんて無いのだが、こういうのはまず話を聞いてから云々というものではなかっただろうか?
 そんな事を思っていると、顔に出ていたのか。

「ん、ティーノは優しいな。だが、こういう小悪党は手足の関節と肋骨の3,40本でも捻り折ってからの方が話が通りやすいんだよ」

 などと言って男の左手もあっさり捻る。あわあわ言っている男も恐怖で顔が蒼白になっているようだった。
 ……姉さん、そんなに人間肋骨と手足多くないです。どんだけバッキバキにしてやるつもりだったのさ。悪党に人権はないとかそういうのは管理局には通らないんだよ……
 頭痛を感じてきたので、矛先を変えてみる事にした。

「え、ええと。リーダーさんや、知ってる事を話してくれないかな? 今ならまだ穏便なうちに済みそうなんだけど」
「馬鹿者、誰が穏便になど済ませてやるものか。私の家族に手を出したのだ。10年は消えない恐怖を植え付けてやるに決まっているだろう」

 ギヌロと、漫画なら擬音が出そうな位の鋭い目で睨んだ。
 男はヒィッとばかりに芋虫移動で私を盾にするかのように後ろに隠れる。いやいや、盾にすんな。あんた、最初に見せてたあの無意味な大物臭はどこにやったんだ。

「歳も行かない女を盾にするとはやはり相当な小悪党だな、ふふ、あはは。喜べ小悪党。背骨の関節24カ所で同時進行するヘルニアの気持ちを味わえるぞ」

 魔力の糸が男の背中に絡みついた。ゆっくりと、見せつけるように。
 男は既に何というか、もう一押しで漏らしそうである。そりゃもうがっくんがっくん震えている。
 私は深くため息を吐き、精一杯の笑顔を浮かべて、できるだけ優しく聞いてみた。

「話してくれるよね?」
「ひゃ……ひゃい、は、話す……話すよ」

 落ちたな、とばかりにニヤリと笑ってみせサムズアップをするカーリナ姉。
 ええまあ、途中から気付いてました。話に聞く、尋問時の飴と鞭という役割だったのである。せめて念話でなり合図してほしいものだった。
 さて、とカーリナ姉は男に無造作に近づいて、身を固くする男の手を掴んだと思うと次の瞬間には元に手首が治っていた。
 計算とか言ってたが、何というかどういう力加減であんな真似ができるのか……魔法より魔法らしい事をしてのける人である。
 驚いたのは男も同じだったのか、目をぱちくりしていたが、落ち着く暇も与えずに情報を引き出しにかかる。

「それでは話してもらおうか。まずは何の目的でティーノに近づいたか……からだ」

   ◇

 一通り話を聞き終え……事態の面倒臭さに上を向いて夜の空に息を吐く。
 どうも星が綺麗、というわけでもなく、今日はひときわ星のまたたきが多い。明日は雨かもしれない。
 なんだかんだとしている間に時間も経ってしまって、いつしかそんな時間になってしまった。
 寮監さんにまた説教されそうである。一応メールは入れておいたが。

 話を整理してみよう。
 彼等、ソウルオブザマター側からすれば、実は私を狙っていたのではなく、狙っていたのはカーリナ姉だった。施設か私のところか、どちらかに接触すると踏んで網を張っていたら施設を張らせて居た仲間はヘマをやったらしく、地元の警察に捕まったらしい。そして私の所に張らせていた仲間が消えたと思ったらいつの間にか狩られていたのは自分たちになっていたという事のようだ。
 なぜ、カーリナ姉が狙われるかといえば、先ほどにリーダーが漏らしたトリッパーなる存在が関わっている。
 なんでもここ最近になっての話らしいが、ある人物がマフィアさんに捕まったらしい。未知の技術を知っていたり、なにやら特殊なレアスキル持ちだったそうで、組織だった連中からすると金の卵だったという。
 同じような存在もまだ居るらしく盛大に賞金をかけたらしい。死体でも持ち帰れば一生遊んで暮らせる大金だと言うから大盤振る舞いも良いところである。
 なぜ、そこでカーリナ姉が絡むかといえば、横流しされた管理局内の個人情報でのカーリナ姉の項目、佐官以上のみに閲覧が許されたデータのようで、かなりの大問題なのだが……そこにTC、トリップチャイルドなんて書かれていたデータがあったらしい。
 それを聞いた直後、カーリナ姉は苦虫を100匹はまとめて噛みつぶしたような顔になって、男の胸ポケットから煙草を勝手に拝借すると火を付け、紫煙と共にため息を吐き出した。

「薬物だ」

 と、一言。いつも颯爽としている姉にしては語気が疲れている。

「……昔、私達が実験の過程、さまざまな薬物を投与され、副作用で苦しんでいる時だ。その様子を見た研究者共が「まるで裏路地でバッドトリップでも起こしているガキ共のようだな」なんて冗談から付けられた呼び方だよ。そもそも最近の話ではない。既に10年も前の事さ」

 管理局のデータベースにそのまま登記されてるとは思わなかったがな、と肩をすくめてみせる。
 何となく空気が重たくなってしまったので、それを振り払うように私も言った。

「えーと、つまり賞金狙いでカーリナ姉さんは間違って狙われて、私は煽りを食らったと?」

 うむ、と姉が頷く。男はそっぽを向いた。目を合わせようとしない。この場合最も割を食らったのは誰なのだろうか。
 勘違いされたカーリナ姉さんか、巻き込まれた形の私か、勘違いで虎口にほいほい足を突っ込んでしまったソウルオブザマターの連中か。
 まあ、話も判ったことだし、後はこいつらを管理局に引き渡して終了である。
 私が端末を取り出して連絡を取ろうとするとリーダーの男が急に慌てだした。
 待て、待ってくれ! と叫んでいる。

「今更見苦しい。大体お前達はマフィア共に明日にでも潰される身となっているのを忘れたか? むしろ管理局の法の下で刑務でも受けていた方がよっぽど安心だろう」

 あなたの策のおかげですけどね! と突っ込みを入れなかった男は偉い。私だったら思わず口走っていた。
 しかし、当の本人はそれどころではないようで、かなり必死になって頼んでいる。

「三日、いや二日でいい、待ってくれ! 必ず出頭する。何だったら俺のホームコードも渡してもいい、頼む!」

 とまで言われて私もカーリナ姉と顔を見合わせた。
 気が抜けていたというのもあるのだろう。
 私も「何か事情でも?」なんて聞いてしまった。

「金が……俺たちには金がいるんだ」

 なんて話し始めたところによると、まあ、なんだ。ドラマや小説にはよくある話。
 元々ソウルオブザマターなんて香ばしい名前なのは、ミッドチルダで暴走族集団なんてものをやっていた時のままに使っているらしい。
 うん。暴走族である。走るというよりこちらのは飛ぶだけど。そこは世界に関係なくどこにでも若くて法律に真っ向から齧り付くのはいるようだ。
 そんな彼等であるが、流石に目立ちすぎてミッドに居られなくなった。その能力に目をつけたのがマフィアさん達で、飛行能力と管理局と追いかけっこをしていた経験を生かして運び屋として仕事をもらっていたらしい。その腕前もあって割と自由に立ち回れていたそうな。
 ただ、そんな生活をしているうちにやはりズブズブと沈んでいくのが裏社会の恐ろしさ。
 何とリーダーを張っていた男が賭博で大金を溶かしてしまい、バックに居たトロメオファミリーなるマフィアに捕まってしまったと言う。
 さらに悪い事にはこのリーダー、メンバーの名義で金を借りていたらしく、一転して借金生活である。担保として抑えられたのは家族であったり付き合っている彼女であったりしたと言う。というか露骨に人質である。返済が滞れば、それはもう言うまでもない事になるらしい。勿論そんな借金は違法も良いところなのだが、元より法の庇護下にはない彼等の事、泣く泣くその条件の下働いていたという。
 そういえば、この黒ずくめ男がリーダーかと思っていたら違った。何でも副長らしい。困難にあえぐチームをなんとか離散させずに守ってきた苦労人だったようだ。その元リーダーの事を言う時など合間合間に死ねばいいのにあの野郎と呪詛が漏れていたが。しかし話を聞くとどうも……

「その……客観的に見ると……マフィアさん達は首輪はめたかったんじゃないかな? 話の流れを読むに姉さんの情報もそのトロメオファミリーが出元だろうし、もし姉さんの表の情報、雑誌とかそういうので知っていれば失敗の可能性が高いのも判ってるだろうし」

 借金と人質だけでは完全な首輪にはならない。失敗した上でファミリーに迎え入れるという迂遠な形をとってこそ成り立つ首輪というのもあるのだろう。
 そんな事をしてでも子飼いにしたいものなのかもしれない。この姉相手だからこの体たらくだったが、魔導師としての腕でいえば私などより遙かに格上なのだろうから。
 いい金策の手段があるぞ、これで一山当ててお前達の大事な連れ合いを買い戻してみたらどうだ、とでも言って、中途半端な情報で襲わせる。失敗前提で……いやこの場合成功したら成功したで幾らでもやり口はあったわけか。どちらにしてもファミリーの方には得しかないと。
 もっとも、計算違いはカーリナ姉の力を過小評価しすぎたことか。逃げ足自慢が逃げる間もなくまとめてしばき倒されるとか悪い夢だろう。

「少し読み過ぎだな、ティーノ。ああいう連中は後付でもっともらしく装うが現時点ではさほど考えてはいまいよ」

 カーリナ姉は苦笑していた。
 しかしまあ、なんと言うか、言いますか……敵対した人間の事情なんて聞くモノではなかった、とも思う。
 夜空に向けて大きなため息を吐き出した。

「何とかできないかな、カーリナ姉さん?」

 ……言ってしまった。
 我ながら情に流されているのが判る。そのくせ自分ではいい手も思いつかなくて結局頼るはめになってしまっている事も判る。
 全く悔しい。自分の手で収まらないなら手を出すべきではないのに。
 そんな私をまじまじと見つめる姉。やがて、ふっと笑い。

「こういう時に感情的なものを優先させるか。この先苦労するぞティーノ」
「判ってるよ。てやんでー」
「てやんで?」
「エドってとこの言葉だよ。ところで策はない?」

 その前に、とカーリナ姉は前置きをして男に向き直り、長い腕を伸ばして頭をがっしと掴む。

「まず、約束をしようか。この一件が済んだら、管理局に出頭しろ。いいな?」

 コクコクと頷く男。冷や汗が額に浮いている所を見るとすっかり苦手意識がすり込まれているようだった。
 よし、と一つ頷いた姉は。そのまま続けた。たまらない笑みを浮かべて、顔を近づける。

「これから私はトロメオファミリーを潰しに行く。貴様も手伝え。金策などしなくていい。取り戻したかった全てのものを取り戻させてやる」

 そんな言葉を力強く、この姉にしか言えないような自信に満ちた口調で言ったのだった。



[34349] 一章 八話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/06 20:09
 ソウルオブザマター、その現リーダーである黒ずくめの男。
 適当に黒ちゃんとでも呼ぼうとしたら姉に止められた……普通に名前を聞き出したのだが、ラグーザと言うらしい。
 そのラグーザに連れられていかにも趣味の悪い廊下を歩く。趣味が悪い、なんていう表現……そうそう使う事はないだろうと思っていたのだが、大きな間違いだった。世の中は広い。あるところにはあるのである。うーん、悪趣味。と唸ってしまうような装いというものが。
 例えば、床が総大理石で赤くて金色の縁取りがしてある絨毯などが敷かれ、花瓶がところどころに飾られている廊下だが。それだけならいかにも普通の成金趣味である。ただ、花瓶に活けてある花はとにかく目に痛い色合いの造花であったり、飾られている絵などは、確か美術館から盗まれたと騒がれていた絵であったり……傷のちょっと多めの剥製も飾られていたりする。人間の。
 まったくもって趣味の悪さにどん引きだった。
 私はと言えば両手を拘束され、魔法の詠唱も出来ないように猿ぐつわなどもされている。デバイスも取り上げられ済みだ。
 そんな私を鎖で引き連れている形のラグーザなのだが、私の容姿が容姿である。第三者から見ればそりゃすごい絵だったかもしれない。
 何でそんな事をやっているのかと言えば、姉の一言に尽きる。

「ティーノ、お前が言い出した事だ。一役噛んで貰うぞ?」

 なんて言われて何も考えずに肯定してしまったのが運の尽き。いやまさかこんな王道パターンをさせられる事になるとは思わなかった。
 意外と姉はこういうやり口好きなのだろうか? 餌か囮を用意して、食いついている間に大暴れというやり口である。夕方の囮といい、私は犯罪者用の釣り餌か何かだろうか?
 気分は八岐大蛇に酒でも飲ませにいくような心持ちなのだが、まあ、そんな事を考えている間にもお目当てのボスの居る応接間らしき場所に通された。
 ラグーザと私が入室すると重厚なドアが後ろで閉まる気配がする。ボス自身相当な心配症なのか、一応味方という認識であるはずのラグーザまで警戒しているようで、応接間にボディガードと思しき男が4人ほど居残っている。
 部屋の奥にこれまた重厚な節くれ立った樫を使った椅子があり、腰掛けているのがボスなのだろうか?
 マフィアのボスとか言うのでついつい映画のゴッドファーザーに出てきたドン・コルレオーネのような人を思い浮かべていたのだが、イメージ違いである。どちらかというとこれは……二足歩行の猪? 大柄とは言えないのだが、太い体に太い首が乗っている。地球で言えばアラブ系の顔立ちというのだろうか、彫りが深く浅黒い肌にまた立派な髭を生やしている。
 ボスはまたその趣味の悪い指輪の嵌った太い指をデスクにコンコンと打ち言った。

「報告を聞こうかラグーザ、どうやら君の持ってきてくれた土産はカーリナ・ベーリングではないようだが、できれば私の今晩のワインが楽しめるような話が聞けるといいな」
「あの女にはしてやられましたがね、ボス、こいつはそのカーリナの妹ですよ、土産としてはどうかと思いますがお受け取り下さい」

 なかなかもってラグーザも演技派かもしれない。へりくだる感じが板についている。むしろこっちが地だったりして?
 ふむ、と手を組んでしまったボスに対して、焦ったかのように私に手を回す。

「ボス、それだけじゃあありませんよ。こいつは偶然だったんですが……珍しい体でして」

 そんな事を言って乱暴に私の背中をまくり上げ、ボスの方に見せつける。
 ボスが息を飲む音がした。ちなみに翼は魔法で隠されてはいない。久しぶりに服の中で小さく畳んでいた。
 前もってカーリナ姉に言われていたのだ。ボスに会ったらまず翼を見せて気を引いておくようにと。翼の事を知っていたのかと私は驚いたのだが、カーリナ姉は知っていたらしい。苦笑いしきりだった。案外隠せていなかったのだろうか? ともかく、カーリナ姉が言うには、これを見せればボスが無防備になる瞬間がかなりの確率で来るらしい。その時はしっかり暴れろとのことだった。にやけ笑いでフフフとか笑っていたのが大分気になるが、そこは無理矢理忘れておく。今のところは筋書き通りだ。何やら大分興味を持ったようで背中に舐めるような視線を感じる──鳥肌が……ジョークにもなってないな。

「なるほど……なるほど。うむ、いや、ラグーザ、よくやってくれた。まさか生きたラエル人種を手に入れられるとは思わなかったよ。あの世界は酷く行き来が難しいからな。あの連中達ほどではないにしろ大した土産だよラグーザ。これは今晩のワインは極上の味わいになってくれそうだ」

 一転して上機嫌になったボスは控えているボディーガードらしき男に指示を出し、札束をラグーザの前に置いた。

「君に対するボーナスのようなものだよ。今後も期待しているぞ」

 そう言って手を軽く振る。退室の合図らしい。ラグーザが下がろうとしたので、何となく釣られてその背中を追いかけるも、ガードの男に腕を掴まれた。

「お前はこっちだ」

 そう有無を言わせず連行され、連れてこられたのはそれまでとはちょっと違ってそれなりにシンプルな部屋だった。天蓋付きの赤いベッドとソファー、小さいテーブル、酒瓶の並んだ棚と本棚が壁に並んでいる。
 奥にはトイレやシャワー室のようなものがあるようだった。客間か何かなのだろうか?
 私が部屋に入るとガードの男は私の拘束を外し、大人しくしていた方がいい、とだけ言い残しドアを閉める。鍵をする音が響いた。
 ふむ、と一つ頷き、お金のかかってそうな、しかしどうも上品には見えないベッドに腰を降ろす。
 ぼーっとすることしばし。

「お、おお!? いかん! 閉じ込められた!」

 いやあまりにあのボディガードさんの手並みが慣れてるので、つい。というかボスが無防備になる瞬間とかどんな時だよカーリナ姉、むしろこれって単に監禁されてないか?
 一通り部屋をうろついてみるも、監禁ゲームによくあるような秘密の出口なんてものは見つけ出せない。ドアの前の床にあぐらをかいて首を捻っていると外から声が漏れ聞こえてきた。
 部屋に見張りでもついているようで、雑談でも交わしているようでもある。分厚いドアを挟んでいるので私の耳でなければ聞こえないだろう声だったが。
 耳を澄ましてみると、どうも先程連行したガードの男と誰かが話しているようだった。

「……今夜は強い酒でも飲んでとっとと寝ちまえよ」
「そうするか、俺もあのぐらいのガキがいるからちっとなあ……。ボスも物好きなことだよ、羽とか生えてるからってなあ」
「ああ、あの後聞いたんだがな、ラエル種って言ってたろ、ボスが」
「そういや言ってたか、どっか辺境にでも居る種族なんだろ?」

 どうも話が私にも興味ある方向に向いているようである。
 そういえばラエル種とかあのボスがさりげに言ってたし、なんだかカーリナ姉も知ったようなそぶりだった。わりと知られている種族なのだろうか。130世界の、私と同じ姿をした種族は。資料館で調べても出てこなかったのだけど。
 私は言葉を逃すまいと壁に耳を押しつける。

「なんかとんでもなく行き来がしにくい世界の種族らしいぜ、管理外のくせに管理局が出張ってるなんて噂もあるらしい」
「そいつぁ、変わった世界もあったもんだな」
「まあ、ボスが目付き変わったのはそこじゃねえさ……何でもな」

 と、そこで一旦焦らすように話を切る。焦らすな、良いところだろ! むきだしのままの翼がせわしなく動く。

「何でもな……とてつもなく具合がいいらしい」
「ブッ」

 いや下ネタに走るな! 見張りのガードも吹いてしまったじゃないか、冗談はたいがいに……大概にしろよな?
 ちょっと顔から血の気が引いているのが自分でも判るのだが、その間にも外で会話は続いた。

「良いって……ガキだぞ?」
「ボスが言うには文献だと小さくても問題ないそうだ」
「試した奴が居んのかよ……」

 ガードさん、えらいげんなりした口調である。
 私といえば、さすがに冗談と片付けることもできずに、呆けていたのだったが。
 いや何それ、有り得ん、やめてくれ。もしかして有名なのって、そっちの方向性で有名だったりするのか? カーリナ姉がにやにや笑っていたのはこれか? いや、そりゃ、あの姉のことだから私が危険な状態になることはないと踏んでの事だろうが……

「うおあぁ……知ってたなら前もって言っておいて欲しかったかも……」

 整理が付かねぇ……頭を抱えてふかふかのベッドを転げる。
 香ばしい容姿、魔法適正微妙、精神不安定に続いて具合が大変良い、なんて属性が付いちまったよ……
 ひとしきり、うがー、と転げ回り、仰向けで大きくため息をついた。

「……しかし、そうなると因果な種族だなあ」

 そんな種族だとしたらまあ、狩られたような逸話があってもおかしくなさそうだ。むしろ、それに追い立てられて行き来のしづらい世界に逃げ込んだ、なんて可能性すら出てきた。130管理外世界への道筋はなかなかに遠そうである。
 そんな事に気を取られていた時だった。
 がちゃり、とドアが突然に開いて、ガウンを羽織ったボスが悠揚と入ってくる。
 とっさに攻撃準備でもできれば良かったのだが、先程の話が頭に残っているせいで、何というのか……こう、男に対する嫌悪感のようなものというか、自分が今、少女の身体であるのを強く感じてしまっているというか。複雑な感情がもたげてきてしまってきたというのもある。ありていに言えば蛇に睨まれた蛙のように固まっていた。
 ボスが入ると再びドアから鍵のしまる音がした。転げ回って乱れたベッドを見て言う。

「大人しくして……はいなかったようだね、お嬢ちゃん。まあ、悪くはない。悪くはないさ。元気なのは良いことだ」

 グフフなんて笑ってみせる。初めて聞いたよグフフなんていう笑い方。そのまま、ボスは本棚の前に立つ。

「元気でなければ」

 右端の大きな辞典をどかし、その奥に手を入れ、何やら操作した。
 唖然である。絶対ここの設計者は趣味人だ。しかも歪んだ。
 本棚が文字通り床に沈み込み、その裏からスライドするようにして様々な……その……中世の魔女狩り展にでも出てきそうな物騒な器具が所狭しと並んだ壁が動いてきた。
 悪趣味だとは思っていたがこれほどとは、さすがに身が震えるのを感じた。

「到底長くは持たないからねえ」

 こちらを振り向きその太い顔に似合った太い唇をべろんと舐める。
 恐怖を与えるためだろうか。こちらを向き、ゆっくりとした足取りで迫ってくる。
 まあ、実際おっかないというか、嫌悪感が……かなりあって顔が相当ひきつっているのが自分でも判るのだが……
 このおっさん、裸の上にガウンしか着てないからアオダイショウが……ああ、全体的に太いが、そこまで太くなくてもいいだろうに。
 まあ、作戦を言われた時、カーリナ姉が言ったのだが、こちらをたかが木っ端魔法しか使えない子供だとあなどっている。油断している。デバイスさえ取り上げれば何もできないと思い込んでいる。
 確かにこれは無防備になっている瞬間だった。
 実のところ、初めてかもしれない。魔法による模擬戦でも試合でもなく、危害を加えようとして明確に暴力を振るう事になるのは。
 ベッドの上に立ち上がり、睨み付ける。
 余裕ぶっているボスの顔を睨み付ける。
 にたぁ、とか笑われた。気分が悪くなったがそこは我慢。息を吸って吐き、拳を握りしめ──

「うわああああッ!」

 気合いを入れて殴りかかった。

 相手もさすがに暴力と脅しのプロである。
 私の異様な馬鹿力を持ってしても、経験だけはどうしようもなく部屋中をむちゃくちゃにして、やっとケリがついたのが20分も経った頃だったか。時間の感覚もちょっとおぼつかないが。
 決め手は毎日木刀を振っているだけあって、いろいろ壁から出てきた物騒な道具の中から拾った火かき棒での一撃だった。何に使ったかなんて考えたくない棒でもあるが。
 頑丈そうなロープなんてのもあるので、その火かき棒と組み合わせて脳震盪を起こして気絶したボスをがんじがらめに縛っておく。
 外がどうなっているのかを聞き耳立てて確認すると独り言が聞こえてきた。

「終わったか小休止か……今日はまた一段と激しいな……あの子も可哀想に、ああくそ酒が欲しい」

 良い具合に勘違いしているようだったが、毎回こんな騒がしくしてるのか……なんかまあ、想像したくないな。
 ひとまず、精神的にかなり疲れたので、棚にある酒を取り出す。アルコールに弱いのは承知しているので、リキュールを炭酸水で薄ーく割って飲む。

「くあー……」

 思わず声が出た。グラスを右手に持ったまま椅子にもたれかかる。大きく息を吐いた。
 えらく緊張した。
 喧嘩とかに明け暮れている人はこれを毎日やっているわけで、そりゃ度胸の据わりも違うわなぁ、と思う。
 全くカーリナ姉は……人がどう思うのかを考えるのだけは苦手なんだからなあ。
 やがてドアの向こうで小さな物音が聞こえたかと思うと、ドアが開き、気絶した見張りを掴んでラグーザが入ってきた。様子を見てすまなさげな顔になり、一言。

「……悪ぃ、遅れたなお嬢、そいつの相手を任せちまった」
「あー、うん。いいっていいって。多分この形が当初の作戦通りなんだろうし、それよりカーリナ姉さんは管制室に行けた?」

 そっちはばっちり上手くいったらしい。
 指向性の念話が使えればもう少し連絡も取りやすいのだが、見えないひそひそ話はここのボスが嫌いだそうで、念話が通じにくい構造になっているのだとか。
 作戦としては私とラグーザでボスを引きつけている間にカーリナ姉がこの館の管制室にソウルオブザマターのメンバーが手引きすることで潜入、防御システムの改竄で混乱させた後に管理局を呼んで離脱という手順だ。
 ラグーザに端末とデバイスを渡してもらうと早速、姉から通信が入る。

「こちらはそのプレイルームの記録用……監視カメラで状況は把握している。お疲れさまだったなティーノ」
「その軽いねぎらい、さらにどっと疲れた気もするよ……」

 何でもシステムの改竄とデータのサルベージに時間が少々かかるらしく、10分ほど待機していてくれとのことである。
 その部屋に残っていては袋の鼠になりかねないので、ラグーザの誘導にしたがって同階の防火シェルターに隠れた。
 そういえばと、気になっていた事を聞く。

「その元リーダーさんと人質として捕まっていた人たちは?」
「元リーダー、ね。あいつは逃げてたよ……人質達は全員無事だ。皆連れ出させてもらった……そうだな、これもお嬢のおかげだ。すまねえ、ほんとに助かった。この恩は必ず返させてもらうぜ」

 深々と頭を下げてみせる。どうも律儀なところがあるようだった。
 お礼なら受け取るけど、恩返しはカーリナ姉さんにお願いするよ。と言うと、同じような事をカーリナ姉も言ったらしい。
 話す事もなくなり2人とも押し黙る。しばらく経つと沈黙を破るように、唐突にカーリナ姉から通信が入った。

「大まかに仕事は終えたが、どうも管理局の動きが鈍い。恐らく管理局のそれなりの上の方に鼻薬でも嗅がせているのだろう。二人は自力で離脱が可能か? 不可能なら私がやるが少々派手になるぞ」
「……姉さんの派手宣言は怖そうだから、自力でやってみるよ」

 そう言うと端末に現在の館の見取り図と組織の人員状況がダウンロードされる。何というか情報が丸裸である。怖すぎる。
 既に出入り口は当然のように固められているが、防護システムが混乱しているので、館内を動き回るのはそれほど難しくはなさそうだ。

「行こうか、ラグーザ」

 声をかけ、シェルターから足を踏み出した。
 この館には最上階に広いテラスが設置されている。そこで私はラグーザから飛行魔法のプログラムをデバイスに移してもらっていた。バリアジャケットは学生用の極めて簡易のものだが、とりあえず落ちても死なないし、ある意味ミッドの空を自由に暴走していたラグーザという先達が居るので例え高速飛行魔法に適正が無くても、フライトとしてはそれなりに安全だろうと思う。後ろから撃ってくる連中さえいなければ、だが。
 館に居る魔導師連中に気付かれないうちに距離を離すのが目下の所の目的だった。

「よし、お嬢、魔法のインスト終わったぜ、ちょっと設定が俺用だったからかなり緩くいじり直しておいた、何とか平均値に近いはずだ」
「ん、ありがと。そんじゃ一丁真夜中のピーターパンとウェンディでも気取ろうか」
「なんだそりゃあ?」

 忘れてくれ、と言い直した。顔が赤い。初フライトで舞い上がってとてつもなく恥ずかしい例えを出してしまった。くそ、後で調べ直すんじゃないぞ。

「……トリック・オア・トリート」

 ハロウィーンの定番台詞、お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ、なんてセーフティ・キーに設定しているのは私だけだろう。初めて使う魔法なのでこっそり口の中で唱える。お守り代わりだ。
 まあ、格好つけても、高速飛行が使えなければ普通に浮遊で浮いて、それを引っ張って貰うつもりだけども。

「行くぞお嬢!」

 なんてあっさりラグーザが手を引いて飛び出すので私も慌てて魔法を起動した。
 姿勢制御、慣性制御……うん面倒臭い。適当に感覚で制御して、演算はデバイスに任せるとする。

 ──夜風を体一杯に受け、私は空を飛んだ。
 この感覚を細胞一つ一つが覚えているような感じさえする。
 やばい、楽しい。これはまずい。目的を忘れてしまいそうになる。星に手を伸ばせば届きそうだという表現がぴったりくる心理状態になってきている。
 背中の翼をぴんと張って魔力の流れを捉える。一枚一枚が魔力の流れを感じた。いつもは嫌いな私の魔力光、銀色のそれが夜空に明るく、妙に綺麗に感じられる。飛行魔法なんて言っても、ミッドのそれは、ただ浮いて、ロケットのように魔力噴射で飛ぶだけ。慣性を従わせ、重力を従わせ、魔力の流れを従わせる強引な飛び方。不完全だ。不格好だ。きっと、もっと綺麗に飛べる。

「あは」

 こらえきれない笑いがこみ上げて来た。

「あははは」

 海の潮流のように、あるいは谷を流れる風のように魔力にも流れがある。それに乗るだけで、掴まえているだけで何て気持ちよく飛べることか。

「お嬢!」
「うぇ?」

 腕を掴まれて我に返った。
 さっきまで私の中にあった全能感が潮の引くように消えていく。
 感じた事は覚えていても、どう感じればいいのか判らない。
 そんなもどかしい感覚が身を包む。なんだか泣きたくなった。
 ……一瞬の後、普段の感覚になってしまうと、別の意味でも泣きたくなった。
 それはどちらかというと、中学生の時に作った詩集を高校生になって読み上げられた時のような泣きたさだったかもしれない。
 布団に入って枕を抱きながら足をじたばたさせるアレである。
 何があははは、か自分に酔っていたとしか思えない。

「む、むう。ごめんラグーザ。ちょっと調子に乗っちゃったみたいだ」
「……ああ、いや、初めて飛んでそれなら上出来もいいところだろうよ」

 確かに今までにない感覚というのはちょっとある。
 やっぱり鳥は鳥という事なのだろうか。どうもこの飛行というのは相性が良すぎるようだ。気分も高揚してきてしまう。
 鼻歌など歌いながら飛行を続け、暫くすると念話が飛んできた。

(リーダー! お嬢! 無事でしたか、こっちです)

 魔力スフィアが夜の暗闇の中に明滅する。
 どうやら先に逃げたチームの連中が集まっている所らしい。
 しかし、気にしてなかったけど私をお嬢ってのはもう本決まりなのか……いや別にいいのだが、お嬢って柄じゃあないんだよな。
 そしてラグーザはもうリーダー本決まりのようだった。
 私とラグーザが合流し暫く経った頃、ようやく管理局の魔導師が続々と転移してきた。
 練度も大したものだしやはり数は力である。一応新興勢力として大きな力を持っていたはずのトロメオファミリーはあっけなく管理局の手によって制圧されていったようだった。
 そんな頃合いである、再びカーリナ姉からの通信が入ったのは。

「どうやら、これで今日と言う騒がしい日も幕のようだな」
「うん、本当カーリナ姉さんも今日はお疲れさま。それと途中から我が儘聞いてもらってありがと」

 素直に礼を言ったら、面白い顔になった。口をぱくぱくして顔を赤くさせ、ティーノも人をからかうのが上手くなったなとか言っている。この姉はほんとツボがよく判らん……
 そして咳払いを一つすると、この人はまたもや唐突に爆弾を投げ込むのだった。

「管理局にはティーノとラグーザが通報した事にしてある。上手く口裏を合わせておけ」
「へ?」
「それと私は例によってまた旅に出てくる。施設の皆には二、三ヶ月後にまた顔を見せると言っておいてくれ。では息災でな」

 そう言いたいだけ言って通信を切られた。
 ……し、信じられんあの姉。

「全部後片付け投げ出して行っちゃった……」

 私は呆然として唇の端をひくつかせるラグーザに言ったのだった。

   ◇

 その後はその後で大変だった。
 何とか口裏を合わせるというか、しどろもどろだったのだが、カーリナ姉が既に編集していったのか、監視カメラに残っていた映像で全て信用されてしまった。
 金目当てで攫われた私と、何とも好青年風に改心したチームとそれを率いる切れ者青年ラグーザが協力し捕まっていた人質を奪還。管理局に通報し、そのまま離脱。なんて流れで事件を解決に導いたなんてことになった。
 姉の仕業であった館の防御システムの改竄はただの管理上の不手際ということになり、聞いた限りでは押収したデータから私や姉のデータはもとよりトリッパーとやらに関する情報も無かったらしい。
 もっとも、私自身、人の腹を読むのは得意というわけではない。局員さんからの説明の裏に何かあったのかもしれないが……正直よくわからない。
 姉が臭わせていたマフィアと管理局と通じていたのではないかという疑いの方は、当然ながら有り得ないものとされていた。実際あったのかどうかも判らないところではあるけども。というか、これからの志望先に時空管理局があるので、個人的にはあまり信じたくない事だったりもする。
 ……もっとも地球の警察なんかでも癒着は散々取り沙汰されていたし、組織が大きくなればなるほどその手の問題が出てくるのは仕方無いのかもしれないが。
 
 そして何が大変だったかというと……
 祭り上げられてしまったのである。マスコミに、私が。
 私みたいな子供映すよりは、改心した好青年ラグーザ君でも映してやれと言いたかったのだが、そっちはそっちで約束通り全員自首して、今は拘留中の身だ。さすがに犯罪を犯した人間を大々的にメディアに流すわけにもいかないのだろう。
 それで私である。
 2日も経った頃にはもうほぼレポーターの声には「ハイ、ガンバリマシタ」か「管理局ノ皆サンノオカゲデス」がでるようになってきていた。
 ディンもココットも、最近では遠慮を無くしてきたティーダもこれには馬鹿笑いだった。
 レポーター風に訪ねられただけで思わずその癖が出れば無理もないだろう。
 そして、調子に乗ったマスコミと人手の欲しい管理局により新たなドラマが捏造された。
 いずれは局員? 白銀の妖精が闇に生きた男達に正道を照らす。
 こんな文字が躍り、その上に私の顔があった時には頭を地面に打ち付けて整形でもするしかないかと思った。
 そのネタでもまた友人達にからかわれる事となったのである。
 人の噂も七十五日と言うが、夏休みが終わる頃には終息している事を願う。切に願う。
 日にちも完全にずれているものの、摘んできた笹を部屋に飾り、静かな暮らしという願い事を書いた短冊を下げる。
 思わず漏れたため息が笹の葉を揺らした。



[34349] 一章 九話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/06 20:10
 朝一番に運動がてら木刀を振り、わりと適当にセットした格好で授業を受ける。
 放課後はディンやココット、最近ではティーダも時折相手をしてくれるのだが……魔法の自主練を行い、息抜きに遊びに行ったりすることもある。
 地味ながらも波風立たない日常が私の生活だったのだが、最近ではかなり変化してしまった。
 端的に言うと有名人になっているのだ。
 これが目立ちたくて仕方ない、あるいは自分が中心に立っていたくて仕方ないという希望があるのならいい。問題は私自身がさほど目立ちたいわけでもないってことだった。
 マスメディアに妙な名前、そう……頭をカチ割りたくなるような、砂場でのの字を書いて途方に暮れたくなるような、そんな名前をつけられてからというものの、私の思いとは裏腹にその熱は加速しているようだった。

 出回った映像がまた問題だった。
 あの折、カーリナ姉に買って貰ったワンピースなんて着ていて、なかなかにそう、女の子しているのだ。容姿が。姉風に言えば、美味しそうな餌と言えるのだろう。
 管理局の検閲を通し、その後の事件発表と共にマスメディアにより公開された映像である。入学したコースにもよるのだが、私の身の上だと準局員扱いになるので、顔にぼかしは入らなかったのだ。個人情報はさすがにでていないのだけど……
 私があの妙な客室に連行される時の姿などもしっかり撮られていた。光源の影響か、妙に弱々しく、儚く映っている。勘弁してほしい。
 さらに言えば、あのボスを散々な素人喧嘩のすえ何とか倒した時点の、顔を真っ赤にさせて息を荒げ、服を乱れさせている様子などはどこのサービスシーンかと思った。子供のサービスシーンなど一部の紳士くらいにしか需要もないだろうが。
 その映像を初めて見た時は、何というか私としてもピンとこず完全に他人事として見ていたわけだが……それも無理もないことだと思う。その続きを見ればなおさらだった。
 ……ラグーザの手を引き、前方を指さして何事か話している光景など、密やかな月明かりのライティングを当てられる編集をされ、お前はどこの聖女さまかと。そして、ああ、画面の中のティーノさんよ、何故あなたはそんなにオーラを身にまとっているの? と聞きたい。確か、この時は夜目の利く私が先頭に立って進んでいて、敵影が見えたので注意していただけだったのだ。こんなにキラキラした覚えはない。編集作業お疲れさまでした。
 そして飛行魔法を使う時の魔力光。目に痛く心に痛々しい銀色の魔力光が、また目を引くのだった。翼はどういうわけか編集されていて映っていなかった。それは有り難かったのだが、調子に乗って空をひらひら飛んでいる様子はさながらどこかのテーマパークの夜のパレードのようで……この様子からマスメディアはその……白銀の妖精なんて思いついたのだろう。考えただけでげんなりしてくるが。
 飛行魔法で逃げ出している時は、どうもかなりのハイテンションだったので、記憶もちょっとアレなのだが、後ろから狙撃されていたようだった。
 マフィア側のカメラから見るとその様子がよくわかる。直線で飛んでいたら危なかったかもしれない。酔っぱらったようなテンションによる不規則な動きで命拾いをしていたようだ。
 なにはともあれ……まとめるとカーリナ姉が悪い。面倒なのでそういう事にしておく。あからさまに管理局の宣伝に使われている気がするが……どれもこれも後片付けをしないでとっとと逃げ出した姉のせいにしておく。私は許さない。今度帰った時には姉が嫌いで仕方ないと言っていたラム肉のシェパードパイにチーズをたっぷりのせたものを連日食べさせてやる所存だ。それを自分で話した時のニヤリとした感じはひっかけてやろうかという顔だったが、姉相手にはさらに一枚裏をかかねばならない。きっとあれは本当に苦手なのだ。

 ため息が出た。こんな事を考えててもどうしようもないのだが……気分をそらさないとやってられない。私の目だの耳だのの性能が無意味に良いというのも関係しているのだが……どうにも人目が気になって仕方ない。被害妄想気味ではないかとも思うのだけど、何分、日常会話の中で普通に私の名前がぽろぽろ出てきたり、視線を始終感じたりする。ストレスがマッハでやばいというか頭髪が心配である。円形脱毛症にならねばいいけどもと思ってしまうくらい髪が……いやいや、さすがにこの年で抜け毛を気にする事になるなんて、本当に思ってもいなかった。
 そんな事もあり、放課後。今日も今日で、世を忍び人目を忍ぶように影から影へこっそりこそこそ移動するのだった。
 やってきたのはいつぞやの資料館。
 設計段階ではもしかしたら校舎の一部にされる予定だったのかもしれない。
 三階建てで、広さも小さいデパートくらいはあるだろうか。部屋数もかなり多く、10室あまりがクラブや同好会に使われている他、空き部屋も多い。
 有り余る学校の資金力を生かしてかき集めただろう本の類や、卒業生が持ち込んだと思われる妙な管理外世界のお土産品まで雑多にしまい込まれている。
 その量ときたら、話に聞く本局の無限書庫とまではいかないまでも、年々増える資料の整理に当たっていた館主が心を病んで入院してしまった程である。生真面目過ぎたのがいけなかったらしい。
 かといって放置もできず、今は部活やクラブの有志による活動で地道に整理が進んでいる状況だという。
 ココットの所属している文芸部も当然とばかりに参加しており、日々精力的に文学関係の本を仕分けていた。
 そのためか、部室が留守になることも多く、最近ではもっぱらここが私の憩いの場になっている。

「お疲れ様です、ティーノ」

 部屋に入り一息つくと、先に来ていたココットがお茶を出してくれた。
 ありがたくお茶をすすり、ほっとしたところで部室を眺める。

「ありがと、ココット。皆はもう資料室に?」
「ええ、私もそろそろ向かいます。いつも通り留守番だけしてくれれば好きにしてもらって構いません。あ、お薦めはそこのJ○NEです。やはり基本は抑えておくべきでしょう」

 ココットはそう言って一画のスペースを指さし、部屋を後にした。基本……基本ねえ。アレな予感しかしないが、薦められたものだけに少し目を通してみるか、しかしなんて読むんだろう、じゅーん?

「……お、おうぅ?」

 ぱらぱらとページをめくる。喉の奥から妙なうめきが出てきてしまった。
 何とまあ……いや案外これは……あ、あれ、面白い? 絵柄の線も美しい。そしてこの構図は……うぅむ。
 そして、この心理の後にこう絡んでくるのか……何と磨かれた伏線だ。で、では次はまさか……な、に、ここでなぜ唐突に濃厚な絡みが!?
 ごくりと喉が鳴った。一旦本を閉じ、何となくキョロキョロと見回してしまう。
 いや、別に誰かに見られているってわけでもないのだけど。
 またそっとページをめくろうとしてしまい──ハッとした。

「いや、いやいや、まてまてまて、何をしている私は? そんなあっさり新世界の扉を開いてしまうとか何だ、有り得ないぞ、ちょっと正気に戻れいいか深呼吸だ。うん、ひっひーふー」

 駄目だ、これじゃ何かがうーまーれーるー、なんて一人コントをしてしまう。
 ぴたっと止まり、何となく空いた間の後、備え付けのソファーで横になって大きく息をついた。

「本当、最近疲れが溜まってるのかもなあ……」

 私は天井のマス目を無意味に目で追いながらぼやいた。
 あるいは虚脱感か。
 あんな荒事に巻き込まれ、慌ただしいまま過ごせばこうもなるのも無理もないのかもしれない……なんて自己弁護を図ってみる。

「よし、今日はサボろう!」

 上半身を起こして両手をぱんと打つ。
 バッグの中に入れてきた教科書はこの際忘れることにした。
 一応これでも初心は忘れていないのだ。難しいとは判ってはいるものの、魔法学校を短期間で卒業するには飛び級制度の活用は必須なので、まあ、悪い頭なりには勉強に励んでいるのだが……うん。
 しっかり息を抜いてしっかり心を休めるのもきっと大事なのだろう。
 私は理論武装を終え、様々な本が羅列されている文芸部の物色にとりかかったのだった。
 ココットが部室に戻った時に、薦められた例のあの本を開いたまま片付け忘れていたのを見られ、ニヤリと……おぬしも好きよのうといったような笑みを浮かべられ、戦慄を覚えたのはここだけの話。

   ◇

 そんな、双六で言うなら一回休みのマスを挟んだ後の話である。
 実のところ一回休みで済めば良かったのだが……まあ、その。文芸部にミッドも含めた管理世界の様々な料理材料の紹介本などがあって、読み進めているうちにあっという間に一週間も経ってしまったのだ。びっくり。七回休みとなってしまった。
 これまでもちょこちょこその手の情報を探してはいたものの、ミッドはどうも文化をあちこちから吸収しすぎて、本当に多種多様な食材があり、同じ数だけそれを使った料理がある。なになに世界のどこ地方のレシピブックといった限定的過ぎるレシピ本がずらーっと並んでいるような状態なのである。正直言って把握しきれない。
 それでもある程度編纂した人が居たようで、ある程度セオリーな料理をまとめたミッド食大全なんてものもあるが、これはほぼ地球で食べられているようなものを考えればいい。人間どこの世界でも食べるものはどこかしら似てくるようだった。
 問題はそれ以外だ。せっかく地球では手に入らない食材なども──例えばファンタジーでおなじみ竜の卵とか、巨大な昆虫っぽいものなどあるのだが、なかなか手を出しにくいのだ。
 そんな痒いところに手が届く紹介本がコレだったのだが、発行年が古く、しかもどうやら出版元が既に潰れているようで、立派な絶版本である。
 まさかこんな無造作に学生の部室に投げ込まれているとは思っていなかった、卒業までに全部メモってしまう予定である……目立つものをメモってしまう予定である。さすがに全部は自信がない。なにしろ百冊は越えている。一冊の厚さも図鑑とほぼ変わりがない。出版社の創立百年記念刊行本だったらしいけど、むしろこれを出版するのに力を入れすぎて潰れてしまったのではないかとも思う。
 ある日、そんな知識を早速生かしてみる事にした。
 休日になり、朝から寮の簡易キッチンを使わせてもらう。作ったのは見た目、何の事はないサンドイッチであるが、挟んであるものが工夫の一品だ。

「ティーノ、飲み物セットは持ちましたよ」
「ん、サンキュ。こっちも詰め終わったところ、と。んじゃ、行こうか?」

 バスケットにランチセットとしてたっぷりのサンドイッチを詰め終え、ココットと女子寮を出れば、暇そうにしているディンがやっと来たかと挨拶をしてきた。
 三人連れで高等部の男子寮に向かう。
 こんな大きなバスケットに水筒を持っている姿を見られれば、子供三人でピクニックにでも行くのかとも思われるだろう。
 勿論それは大変魅力的なのだが、用事はそれよりは少々真面目で、ティーダの部屋で勉強会なのである。
 うん、最初は私も独学で飛び級してやんぜーと勉強に励んでいたのだが、なかなかはかどらない。そこで思い出したのがティーダ・ランスターの事だった。
 最近親交のある彼は座学の方でも魔法の方でも優れた先達なのだ。これは教わるしかない。
 思いついたら即と言った感じで頼んでみたら快諾してくれた、さらには何とディンも乗ってきたのだ。
 そしてディンが参加するのであるならココットが乗らないはずはなく、勉強会などと言うものをする事になったのである。
 寮の門前で出迎えてくれたティーダに案内され部屋に向かう。初等科でも十分な広さだと思ったものだが、高等部の寮はさらに広くしつらえてあるようだった。
 ワンルームではあるものの、部屋に最初から付けられていたと思わしきテーブルやソファー。私のサイズからすれば大きく見えてしまうベッドにAV機器も充実している。
 壁には妙に無骨なスチールの網がかけられ、まあ、何というか趣味と思わしきモデルガンがコテコテと飾ってある。質量兵器禁止のこの世界だと相当マイナーな趣味ではないだろうか?
 見たこともないような拳銃もあれば、どこかで見たような銃も存在する。もしかしたら97管理外世界の銃がモデルになっているものも混ざっているのかもしれない。この古めかしい銃など怪しい。シリンダーには帆船が二隻彫り込まれているのが見えた。いかにも年代物っぽい銃だ。映画か漫画で見たような気もするが……はて?
 見れば、ココットがキョロキョロと不思議そうに見回している。何というか慣れない場所に放り出されたリスを連想してしまう仕草だ。やはり男の部屋というものは物珍しいものらしい。

「面白みの無い部屋で悪いけど、くつろいでくれよ」

 ココットの挙動に若干苦笑をしつつ、ティーダが言った。言うまでもなくディンなどは勝手知ったる何とやらなのか、とっととソファでくつろいでいるわけだが。
 おのおの、ソファやテーブルの隣の椅子に腰掛けたところで、さてと前置きをして話し始めた。

「まずティーノの目標はできるだけ早めに卒業だったよね、その為にこの間渡してもらった君のデータから考えて組んでおいたメニューを渡しておくよ」

 と、書類を渡される。礼を言って受け取り、目を通すことしばし……
 しばし……
 しばし……
 しばし……
 しば……

「ティーダさんティーダさん。私のメニューには睡眠時間というものがほとんど計算されていないのですが?」

 思わず敬語になっちまったよ。ぎっちり詰め込まれてはいるメニューである。構成を考えると芸術的とまで言える。アリアさんに作ってもらった魔法練習用のメニューもさりげに組み込まれているし隙がない。なさ過ぎる。秒刻み休憩とか生物には厳しすぎる。どれどれと覗き込んできたディンとココットの顔も引きつった。

「ティーダ……さすがにこれは死ぬんじゃね?」
「自分の敗因の引き金となったからと言ってこれは……イジメかっこ悪いです」

 二人からじとっとした目を向けられるティーダ。

「い、いや、冗談だからね? ほらこれが改訂版」

 慌ててもう一つの書類を渡してきた。何でも、アリアさんの考えた魔法練習メニューがよく練られていたので、つい凝り性が出て最高効率パターンのメニューを作ってしまったということらしい。
 この人意外とパズルとか始めると周囲が目に入らなくなってしまうたぐいの人なのかもしれない……
 幸い改訂版のメニューは自由時間も流動的に設定されていて、何とか人がこなせそうなメニューだった。安堵のため息を吐く。体力的には人を越えているのだろうけど頭脳的には普通なのだ。勘弁してもらいたい。
 もっとも、あくまでそれは暫定的なもので、状況を見ながら調整していくとのこと、後は私の覚え次第というわけである。
 とっとと卒業して、ガンガン現場に出て稼ぎまくるのだ。いや、何か目的がずれてきているような気もするが、懐は寒いより暖かい方がずっといい。何よりモチベーションを程よく上げるのに丁度いい。
 ……そんな生臭いやる気を出したおかげか、午前中はあっという間に過ぎてしまった。
 ティーダの教え方というのもまた、この年にしては異様に上手かったというのもある。困った事にいちいちハイスペックな奴なのだ。案外クロノと良い勝負なのかもしれない。ただ、あっちは魔法の才能が、私では全く底が見えないわけだが。

 いい時間なので、持参してきたサンドイッチと飲み物を出す。
 みんな頭を使って脳の栄養でも枯渇していたのか、我先にと手を伸ばした。

「お……ぅ! これは……?」

 あるサンドイッチを一口食べたディンが固まった。目をまんまるに開いている。ふひひである。私は目論見通りのリアクションが貰えた事ににんまり笑った。
 先だって文芸部に転がっていた本の知識を元に、特殊なルートで入手した第18管理世界で食されているマリエン鳥の卵を使ってみたのだ。
 試食したところ卵の味は濃いのだが、火を通すとぱさつくためバターとコーンスターチでふわとろの状態に炒めて挟んである。
 驚きの表情から覚めるとガツガツと食べるディンの様子を見て、密かにガッツポーズ。

「ティーノ、そろそろネタを明かしてくれませんか?」

 つんつんと肩口をココットに突かれた。ココットも卵サンドを頬張っている。
 そこまで勿体ぶる事でもないので、さっくり説明をしておく。

「というわけで、現地では離乳食やお年寄り、あるいは病人用として食べられているみたいなんだ」
「なるほど、でもこれだけの味であればもっと出回っててもいいと思うのですが……」

 なんてココットと話していると何故かティーダが食いついてきた。

「ティーノは離乳食とかにも詳しいのかい?」

 突然の質問に私はきょとんとした顔になっていたかもしれない。そりゃ、作ろうと思えば作れる。基本的なレシピは頭に入っているし、病人食と並んで、役立つ時があるかもしれないと、カラベル先生から教えられてもいた。私自身好きな料理の事である。当然熱も入ってしまい、そこんじょの駆け出し主婦にはなかなかもって負けない腕だと自負しているのだった。
 私がそんな事を思い返しながら頷くと、突然手を掴まれた。

「は……へ?」
「頼む、僕に離乳食の作り方を教えてくれ!」

 さすがの私も目が点である。ティーダが妙に真剣な様子で頼み込んでいた。
 いや、待て待て、考えろ。なぜ、離乳食が必要かといえば、子供が居るからだ。しかも生後半年前後から一年までの赤ん坊。
 ふと以前見た、女の子に囲まれてなかなか満更でもなさげなティーダの姿を思い出す。
 ……まさか。いや、いやいやまさか。

「ま、まさか、ティーダ・ランスター、あなたは既に孕まさせていたとでも言うのですか……い、いえ、友人は信じなくては。この場合自然なのは高等部ですからむしろ学部のお姉さまに寝込みを襲われた可能性もももあまつさえ複数人ででで」

 ココットが妄想を爆発させて沈んだようだった。私と似たような想像をしてしまったらしい。
 私はいろいろ耐性もあるというかうん。そう、そうだ。今こそ無駄に人より長いはずの人生経験を発揮して助けてやるべきなのだ。

「ティーダ……子供ができてしまったことは仕方ない。むしろその年で堕胎という方向に行かなかっただけまだ優しいのかもしれない。ただね相手も学生なんだろう? 学生同士は今後の事というのについてよーく考えないとね、一般にする育児より何段も高いハードルだから……うん、一つ言えるのは、私は、私達は味方だから、幾らでも相談して欲しいんだ」

 そこでようやくディンも話に理解が追いついたのか、マジカ!? と大きく目を開く。

「水くせーぞ、ティーダ! 正直、正直複雑な気はすっけどさ、いや、うん。これからはきっちり俺にも話せよ! というかいつの間に大人になりやがったんだお前は!」

 そう言ってディンはティーダの肩をばしんと叩く。
 当のティーダは目を白黒させていたが、やがて理解が及んだようで、感激に肩を震わせると一言。

「ちがーーーーーーーーーう!!」

 近所迷惑な声が寮に響きわたったのだった。
 普段の穏やかでぽややんとした表情もどこかにかなぐり捨て、身振り手振りも交えて私達に説明したことによると。
 離乳食のことを聞いたのはどうも実家の妹の為らしい。そのくらいの年なんだそうだ。
 私は当然。

「うん、ティーダがそんな不実なことするわけないよね。私は信じていたよ!」

 と無意味に歯をきらりと見せておいた。少しひねてしまった目で胡散臭げに私を眺めたティーダが、ぽつり。嘘だ……とつぶやく。少しその……いじりすぎたかもしれない。
 考えて見れば精通も来てるか来てないかって年頃だった。もっとも、世の中には12歳で父親になった少年も居るのだからあながち……
 まあ、気を取り直してもらうためにもちょっと水を向けてみる。

「でも、何でまた急に覚えようと?」

 不思議だったのだ。この頭のいいティーダの事だ、必要そうなら前もって調べておきそうなものだった。
 ああ、それは──と話してくれた事はまあ、なかなか茶化すことのできない割と真面目な理由だったのだが。
 何でも、ティーダの母親の方は産後の調子がよろしくなかったそうで、子供が離乳食の期間に入って安定したところを見計らって一度入院するそうなのだ。
 その間は父親とベビーシッターを頼んで何とかするはずだったのだが、ティーダの方も丁度夏休み期間に入るので、帰省して力になりたいらしい。

「ん、そう言うことなら喜んで力になるけどね」
「そうか、良かった。ありがとうティーノ」

 ティーダはぽやんと微笑んだのだった。

「一ついいですか?」

 ココットが何かあるようだった。どうぞ? と促してみると私を見る。

「ティーノは確か手頃なアルバイトを探していましたよね?」

 何で今その話を? 確かにちょっと財布の暖かみが薄れてきているので、絶賛お仕事募集中だったが……
 そんな事を考えているとココットは次にティーダの方に向き直り、私を指さした。

「良いベビーシッターが居ますが、どうでしょうか?」

 ……その発想はなかった。
 それを聞いたティーダも、そんな手があったかと驚く。
 確かにそれは非常に好都合だ。
 私は私でティーダに勉強を教えてもらう事も継続できるわけだし、乳幼児はさすがに初めてなものの子供の扱いという点では慣れている。
 ただ、ティーダの実家は聞けば西部のエルセアの方らしい。まあ、ぶっちゃけ距離がかなりある。
 交通費用は学割どころではなく、申請すればほぼ免除なんて制度があるのでそれを利用するとして……泊まり込みでの仕事になりそうなんだけど大丈夫かと確認すると、なぜかティーダがうろたえていた。
 部屋が無いとか? んー、いざとなれば野宿用のテントを引っ張り出してくるか。その場合ちょっと施設に行きがけに寄っていって……なんて算段を浮かべていたのだが違うらしい。

「ええと、昼間は父さんも仕事で出てしまうわけで、母さんは病院で……なんだ……何で僕の方がうろたえているのさ?」

 私が知るかと言いたいところだ。
 ともあれ、話もまとまった……と言っても当然本決まりではなく、これからティーダが親に交渉してどうするかという事になる。上手く行くといいのだけど……

   ◇

 そんな勉強会もひとまず終わり、私は疲労した頭を揉んで疲れを取りながらある場所に向かっていた。
 歩いていた。歩いていた。歩いていた。
 ……いつも思うのだが、この学校無駄に敷地面積広すぎである。
 グラウンドを抜け、校舎を抜け、模擬演習所を抜け、また、だだっ広い空間をとっている場所に入る。使用許可代わりになっているカードを通してその練習所──飛行訓練所に入った。
 ミッドの魔法の花形は射撃、砲撃魔法である。次いで実用性からかバインドや防御魔法などのサポート型が人気だった。飛行魔法は二の次だったりする。そのせいもあってか飛行訓練所はいつも閑古鳥が鳴いていた。
 ある程度初歩の魔法で通常の浮遊、飛行魔法は覚えてしまうので、それで十分だとする人が多いからでもある。
 実際、対魔導師戦闘でもなければ、普通にプロテクションでも張っておけば大抵の質量兵器は効かないので避ける必要すらない。そして対魔導師戦闘においては、局員は基本「数」を持って連携で当たるものなのである。もちろん強い魔導師がその場にいればその魔導師が十全に力を発揮できるようにするためサポートするのが常だが……どっちにしても特出した機動力そのものがあまり求められる職場ではないというのもあった。
 もちろん例外もいる、というかその最たるものが、先日まで一緒に冒険をくり広げていたラグーザであり、それの率いるソウルオブザマターという暴走族上がりの集団だったわけだが。
 どこの世界にも速さの浪漫に惹かれる男というのは一定数いるということだろう。趣味として飛行魔法に時間を費やす人もまたいるらしい。マイノリティではあるのだけど。

 まあ、そんなわけでこの飛行訓練所の予約を取るというのは初等科の子供にも割と簡単なのだった。
 身体をほぐし、デバイスを起動させる。今回は安全装置付きのきちんとした訓練所なので持ち込みデバイスも可なのだ。
 あの時、初めて飛行魔法──正確には高々度高速飛行魔法だが、を使った時の感覚を思い出す。
 体が浮き、とりあえず飛ぶ。制御系の面倒な計算は例によってデバイスに丸投げである。クロノあたりだと必要な部分だけ演算させて無駄を省くのだろうけど、私にそんな脳味噌は搭載されていない。
 ひとまず直線に飛んで100メートル地点のフラッグを越えてターンしてみた。
 ……うん。普通に飛べる。違和感がなさ過ぎるくらいに。首をひねる、妙な感じだ……それほど経験のある魔法でないのに違和感がなさ過ぎる。不思議なものだった。
 次のルートはより短いライン取りを目指しターン。クリアすれば次はもう少し複雑に縦回転で。ちょっと捻りを咥えて錐もみに降下もしてみる。
 くるくる、くるくる。風に落ち葉が舞うように回る。
 段々思考がクリアになってきたような、思い出せそうな思い出せなさそうな……微妙でもどかしい感覚にとらわれる。
 ただ、やはりあの時のような……なんだ。ハイテンションな状態にはならないようだった。
 なったらなったで困るけども。
 不可視状態のままだが翼を広げてみる。
 目をつぶって集中すると、やはり魔力を感じることができた。空気中の魔力素だろうか。いや、感じているものはもっと漠然とした流れでしかないような感じだが。
 ただ、これはしっかり感じるためには幻術魔法を解くしかないようだ。原理として翼の周囲に魔法を薄くコーティングしているようなものなので、感度が低い……というか手袋をした状態で水の冷たさを感じ取れと言うようなものである。
 しかし、幻術魔法を解いてこの翼持った姿が知れ渡れば……まあ少数なら仕方ない。そう言うこともあるだろう。問題は記録にでも残ってしまった場合である。前回はきっと運が良かった。カーリナ姉か管理局か、手を回してくれたのだろう。
 この翼……ラエル種だったっけ……あのマフィアの言い分からするとどうもその、性的に付け狙われそうだった。知れ渡るリスクが高すぎる。
 ちょっと捕まった場合の想像を巡らしてしまい、唇の端っこがひきつった。うん。こりゃいつものごとく思考停止した方が精神的に良さそうである。
 気を取り直して下向きにバレルロールの軌道で低空飛行。床に手を突いて縦回転。両手を広げて着地してみる。10点。
 ふう、一息吐く。我ながら満足気な声が漏れる。
 空間の広さとしても、全力で飛行魔法を使う事はちょっと出来そうにないが、これはこれで気分転換には最高だった。これからもちょこちょこ来るとしよう。

   ◇

 ティーダから連絡があったのはその日のうちだった。
 何とも性急なことである。
 あれ……いや、もう夏休みまで2週間切っている?
 ……悠長だったのは私の方だったようだ。
 休み前の考査試験が終わればすぐじゃないか。
 しかし、話を聞いてみればティーダは大した信用度だった。普通ベビーシッターを雇うなら少なくとも話してみてから決めるだろうに。ティーダが推薦するならそれで良いよと言う事らしい。

「いやいや、僕がしてやられた人物だと教えたら、一度見てみたいとか言いだしてね」

 ……おいおい。あれはクロノが凄いだけで私は凄くないぞ……もしかして盛大に勘違いされた? いや、まあベビーシッターに行くのだから、関係ないといえばそれまでなんだが。変に思われてはいないだろうか。
 ちょっと肩が落ちる。
 ともかく、必要な取り決め。個人契約アルバイトの場合のテンプレートなんてのも管理局製が出回っているので便利なものだったが、報酬を取り決め、契約書を交わす。作られた契約書のデータはそのまま労働局に送られて、適正なものであるかチェックされ、受諾されれば労働契約が発生する。
 ここらの一元管理の仕組みはミッドならではと言ったところだろう。こうしたある程度保護された労働契約の形でもないと若年層が契約を結ぶとか危なっかしくて仕方ないのだ。内部ではもう少し複雑らしいが、地球での書面による契約よりも格段と楽ちんな事は確かだった。
 一通りの連絡を終え「おやすみ、良い夜を」なんて意味もなくちょっと気取って言って通信を切る。
 ベッドに身を横たえた。
 ベビーシッター、ベビーシッターか……
 思い出した子守歌を口ずさんでみる。日本語のそれだ。
 私にも親はいるのだろうか。
 記憶の中での父や母……いやもうこれは本を眺めているような気分にしかならない。記号になりかけている。
 それでもこんな子守歌がでてくるってことは、多分寝かしつける時に歌われた事があるのかもしれない。
 私はいつしか自分で歌う子守歌に寝かしつけられるかのように、まどろみの中に落ちていった。



[34349] 一章 十話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/06 20:11
「本日よりお世話になります、ティーノ・アルメーラです。赤ちゃんのお世話はまだ不慣れな事も目につくとは思いますが、気になったらどうか遠慮せず指摘してくださいね」

 短い間ですがよろしくお願いします、と頭を下げる。
 挨拶は基本なのだ。普段の私を知っている施設の子達たちが見れば噴飯ものなのだろうが、それはそれ。一応の礼儀くらいは知っている。

「あらあら、ご丁寧にありがとう。こちらこそよろしくお願いするわね」
「うん、よろしく頼むよ……しかし、何だティーダと同じ年と言うが、随分しっかりしているなあ」

 と答えたのが、ランスター家の奥さんと旦那さんである。ちなみにティーダも多分このくらいは平然とこなすと思いますよというのは頭でだけつぶやいておいた。家だとそれなりに子供子供しているのかもしれない。ともかく、掴みは良しらしい。
 奥さんはちょっと痩せ気味で調子が悪そうだったが、ほんわりした人である。明るくオレンジにも見える赤毛を緩くまとめて前に流している。ティーダのぽややんとして見えるところなんかは案外この人の遺伝なのかもしれない。
 旦那さんの方は口に咥えたパイプがトレードマークの大柄で朴訥そうなおじさんだった。年の差夫婦なのか、旦那の方が少々老けても見えるが……仲は良いのだろう。奥さんを労る仕草がどうも板についている。

   ◇

 時節は夏、ミッドにアブラゼミはいないが、何とは知れない虫の音色が喧しくなってくるのはどこの世界も一緒のようだ。
 そして、受けてみればさすがにまだまだ余裕だった一学期の考査試験を終えて、ついに夏休み突入である。
 メディア露出で噂になってしまい困っていたが、夏休みなんて長い期間が挟まれば沈静もするだろう。してほしい……

 ともかくティーダとの約束通りにベビーシッター……感覚的には友人のお手伝いなんて部分もあるのだけど、それをしに来ている。ちなみに、ミッドの文化は割と欧米圏と被る部分があって、ベビーシッター業などは案外ポピュラーなアルバイトでもあるのだ。多くは通いで小遣い稼ぎのような形でもあるが、友人に頼む時などもあるようで、今回の私のような例もそう珍しくはない。
 就業可能年齢も低く、そこは日本で戸籍もなく見た目子供で稼ぐのにも苦労していた身からすると、ありがたいような妬ましいような……私も気がついてすぐミッドであれば苦労はしなかっただろうに。
 いや、思い出すのはさておき、ランスター家である。
 それなりに市街地から遠い喧噪を離れたところにある住宅地の一角。変わったところも取り立ててないような極めて普通の家だったが、持ち主の人柄か木製品が多いからか、全体として柔らかげな印象がある家だった。
 とりあえず初日ということで家の中を軽く案内してもらい、あてがわれた部屋に荷物を置かせてもらう。
 肝心の赤ちゃんの方は今おやすみ中だということで、この際にお茶を頂いた。しばらくお話して子供の好物、癖、嫌がることなど教えておいてもらう。
 奥さんは貧血気味なのか、顔色があまりよくないが、やはり今一番可愛い盛りだからなのだろう。できれば自分で最後まで面倒を見たかったようだ。しかし、それを見ている旦那さんの方が心配して病院でしっかり治療させたがっているらしい。
 そんな思いが伝わってくると……なんだ、私もそう軽い気持ちで引き受けたわけでもないが、うん。しっかり面倒みてやろうじゃねーかべらんめーという気分にもなってくる。義理人情である。
 と、寝室の方からむずがる声が聞こえてきた。子供が起き出したようだ。ティーダが寝顔を見に行っていたはずなので、頬でもつっついて起こしてしまったのかもしれない。

「あらあら、ごめんなさいね、お話の途中に……」

 そう言って奥さんはぱたぱたと寝室に足を向ける。
 うん……丁度いい機会だしお目見えさせてもらう事にした。
 奥さんの後ろから続く形でこっそりと寝室に入ればまた何とも言えない光景。ベビーベッドの隣でぐずついた妹をどうやってあやせばいいか判らず、おろおろと挙動不審な動きを見せているティーダが目に入った。

「まったくこの子は……」

 苦笑を浮かべ、頭をぽんぽんとするとキョドっていたティーダも大人しくなる。さすが母の手力。
 そしてぐずつく赤ちゃんを横抱きに抱え上げ、ゆっくりと揺らし始める。
 ふわりふわり。
 見ている方が眠くなってしまいそうな絶妙の揺らし加減だった。
 さすがの赤ちゃんもそれには対抗できずに、段々と大人しくなっていく。あーあー泣いていたのが次第にうにゃうにゃと言い始め、やがてすっかり大人しくなった。

「……母さんにはかなわないな」

 ぽそっとティーダがつぶやいた。うん、世の子供の多くはそう思った事があると思うよ。
 しかしなんかまあ、不思議な感じだ。
 子供は散々相手していたというのに……いや、さすがにこんな小さい子の相手は初めてだっただろうか。
 ちょいちょいと手招きされた。

「じゃあ紹介するわね、ティアナ・ランスターよ、よろしくねー♪」

 そう言って赤ちゃんの右手を持ってフリフリしてみせる。
 む、むう。これは……なんとも。ともあれ、ちょっと挨拶をば。

「ティーノ・アルメーラですよ、し、しばらくの間だけどよろしくね」

 そっと手を出して手に触れると指を握られた。
 お、おおお……
 ちょっと感動である。というか先程から私もティーダを笑えないくらい挙動不審な気がする。
 そんな私を見たのか、ランスターママさんは軽く笑って、じゃあ抱っこしてみてね。なんて言われる。良いんですかい、なんかちょっと大雑把な私としては怖い気も……ってシッターがそんな事言ってられない。
 何故か出てきた弱気を押し込め、おそるおそるティアナちゃんを抱っこさせてもらう。
 た、確か、まだ股関節脱臼とかしやすいから両足を揃えて抱きかかえないようにだったか。お尻を手で支えて肘と腕で背中と頭を支えるように……私自身が小柄なので少々大変だが出来ないことはない。

「ふふ、確かにこの子は横抱きが好きだけど、もう首も据わっているし普通に抱っこして大丈夫よ?」

 なんて言われた。普通に縦抱きでも平気らしい。いや、まあ。聞こえてはいるのだがなんとも、なんとも。
 にへらと口元が緩んでしまうのが自分で判ってしまう。直そうとも思わないが。
 腕の中の赤子が可愛くて可愛くて……いやなんというか、保護欲? 違う……なんだろうこれは。あああ、もどかしい。

「ティーノがなんだか……お花畑に行ってしまってるよ……」
「赤ん坊のあなたを抱いてる時の私も似たようなものだったかもしれないわね。でも気に入ってくれてよかった……さ、私は今日までしかティーノちゃんを歓迎する日がないんだから、せめて息子のガールフレンドに美味しいご馳走を作って来るわね」
「そ、そんなんじゃ……」

 などと聞こえてたりもするが、まあなんだ。腕の中の暖かさを感じていると、不思議な感覚が次々とわき上がってきていて、私も整理に一杯一杯である。
 ママさんが部屋を出て行くと、赤ちゃんもまたむずがりだした。やはり母親と居たいらしい。真似をしてふわふわ揺らしてみるものの、なかなか上手くはいかない。あ、あわ。慌てるな私。
 え、ええと、せめて、もこもこしたモノでも。ああそうだ。
 翼の幻術を解いてみる。目の前に羽をちらつかせると思った通り興味を示してくれた。よし、よーしよし。良かった良かった。
 ふわふわなんだよーとティアナちゃんのお尻の下に翼を敷いて支えてみれば、うん。なんだかふにふに押されたり羽をしゃぶられたりしたが、落ち着いてくれたようだ。
 ひとまず安心である。
 ゆらりゆらりとそのまま揺らしているとそのまま寝息を立て始めた。
 どうにも顔のゆるみが止められない。こんなに私はアレだっただろうか。ああ、認めたくはないがアレかもしれない。いやもう認めよう。
 私はそのまま声を絞り出した。

「ティーダ……すまない」
「は……え? 白い翼とか……あれ?」
「私は相当なロリコンだったみたいだ、ティアナちゃんをください、むしろ義兄と呼んでいいだろうか?」
「……いや、いやいやちょっと待てその理屈は何かおかしい、というかどこを何から突っ込んでいいか僕も混乱してきたよ!?」

 ええい、まどろっこしい奴め、男ならしっかりしろ。翼の一枚や二枚で騒ぐな、そんなものケンタッキーに行けば売ってるだ……ろう?
 ……お?

「おおおっ!?」
「ああぅー」

 驚いた私の声に反応してティアナちゃんも起こしてしまった。いかんいかん。
 ゆるゆると揺らしながら、声のトーンを抑えてティーダに話しかけた。

「あー、えーとな……この翼の事なんだけど……」
「あ、ああ、うん。何というかびっくりしたんだけども……」

 だよなあ、いや、迂闊だったというか、ティアナちゃんの魔性にやられた。この子の笑顔にかかれば私の秘密の一つや二つ軽いものである。
 いやまあ、どう説明するか……と頭を悩ませたものの、そう浮かんでくるわけもなく。

「あー、うん、面倒なんでぶっちゃけちゃうと、こういう種族なんだ私。ラエル種とか言うらしいけどね」

 何かあまり考えたくないアレで狙われる事も多い種族みたいだよと、この前知った半端な知識で恐縮だが説明しておく。
 誤魔化そうかとも思ったけども、下手に誤魔化してもボロが出るに違いないのだ。
 さて、どう出るだろうか。
 ミッドが様々な人が集まると言っても、本局ほどではなく、ほぼ通常の人間なのだ。人は変わり種を排斥する。今のところ私の姿を見て気味悪がられた事はないが、何故かそう扱われた事があるかのようにビクビクしている部分が私の中にあるのも事実だった。

「で、ティーダはどうする?」
「へ? 何をさ?」

 なんて鈍い言葉を吐く。

「いや……あんまこういうのが気味悪いとかなら今回のシッターの話は……」

 私の言葉をティーダはジェスチャーで遮った。

「何を心配してるかは判ったけど、僕は気にしないし、うちの家族も気にしないよ?」
「……ん、そっか。良かった」

 ──我ながら不思議なほどに安堵が広がった。ほっとしたように肩の力が抜ける。
 とはいえ、一応家族には秘密にしておいてくれと念を押しておいた。
 そりゃ、仕方なくバレる時はあってもことさら宣伝するようなものでもないのだ。
 私の翼の上で寝息をまた立てているティアナちゃんを見た。うん、可愛いもんだ。私はふっと思い出したように言ってみた。

「それはともかく、ティアナちゃんくれない?」
「断る、大事な僕の妹だ」

   ◇

 パイ料理がランスター家の味らしい。
 お昼が出来たのでとお呼ばれすれば、小麦粉の焼き付けられた良い香りが漂う。
 出されたのはきのこのシチューパイとアップルパイだった。パイシートで作ったのだろうか、店で出せそうなくらいに綺麗なパイである。
 ひとまずアップルパイの切り分けられたものを頂いてみると。
 さく。

「……むぅ!」

 これは……。
 中の層はふわふわで、一番外側は何というサクサク感……
 何より鼻に抜ける香りが。シナモンは勿論、これは小麦の香りが引き立っている……? 生地を打つ時に何か手間をかけているのだろうか。
 これは美味しい。確かめるように、さくさく食べていたらいつの間にか終わってしまった。

「気に入ってくれたようね、良かった。私の得意料理だから」

 そんな事を言いながらちょっと大きめに取り分けてくれる。
 そんな物欲しそうな目でもしてしまっていただろうか……
 しかし、このママさんとも会うのは今日だけという日程なんだよな……ここは一つ食事が終わったらさりげにレシピでも聞いてみることにしよう。

「ところでうちのティアナとは上手くやっていけそうだったかしら?」
「あ、はい。手のかからない子みたいで……あ、でもやっぱりお母さんがいて欲しいらしくて、部屋を出てった時はちょっとグズりはじめて……焦っちゃいましたけど」

 あはは、なんて誤魔化して頭を掻いておく。
 いや、その後は赤ん坊に夢中になって隠さないといけないものを颯爽とバラしていたなんて今考えると阿呆過ぎるぞ、私。
 仕方ないんだ、ティアナちゃんのバラ色ほっぺがいけない。あの顔でむずがられたら際限なく甘やかしてしまえる自信がある。
 その後もしばらく歓談していたのだが、さすがに疲れた色を見せてきたので、ティーダに目配せをすると察したようで……
 母さん疲れた顔してるよ、などと言って休ませに行く。
 後片付けはしておきますので、と見送った。
 さて、と腕まくりをして皿を洗い始める。ついでに離乳食の用意もしておいたほうがいいかもしれない。まだ離乳食は1日1回のペースだが、もう完全にさらさらの状態でなくても食べられるらしい。冷蔵庫に貼ってある昨日までの献立を参考してジャガイモのポタージュに細かくちぎったパンを入れて少々煮溶かしたものを用意しておくことにした。
 折しも出来上がった直後にティアナちゃんもお腹が空いたのか、子守をしていたお父さんに抱かれて運ばれてきた。もう、自分の意志もしっかり出せるみたいで、私が鍋の前で何かしらやっているのを見ると手をさしのべてあーうー言っている。た、たまらん。じゃなく熱いままなのでちょっと待って貰わないと……ええと。
 大きめの鍋に水を入れてその中に離乳食の入った小鍋を浮かしてかき混ぜる。

「ちょっと待っててね、ティアナちゃん。すぐ冷めるからねー」

 やー、なんて返事してくれた。
 パパさんが、食べさせてみるかい、と仰るので、私も人肌程度まで冷ましたものをあーんなんてジェスチャーをして、食べさせてみる。
 あむんと食べた、口の中でもごもごしたと思うと不器用そうに飲み込む。
 しかし、本当これは危険な可愛さだ。将来管理局員入りを目指していたが、いっそ保育士でも目指すか?
 次のを催促するようにあーんと口を開けるティアナちゃんを見てそう思ってしまうのだった。

   ◇

 夕食は頼み込んで私も手伝わせてもらった。昼間のパイのレシピなんかも実際に作りながら説明してくれる。うん、私の料理のバリエーションもまた少し豊富になった。まさか小麦粉の段階でオーブンで焼き付けるとは。感じた小麦粉の香りはこれか。

「学校でのティーダですか?」
「ええ、あの子ったら母親の私が言うのもなんだけど、何でも一人でやってしまう子でね、あまり学校のことを親に話してくれないのよ」

 ママさんは贅沢な悩みだとは判ってるんだけどね、と頬を掻いた。
 と、言われてもである。むしろティーダについてよく知ってるのは、長年……というわけでもないが、当初からの知り合いだったディンとココットであって、私は最近の事しか知らないわけだが。
 ありきたりの事かもしれないですが、と前置きして学校での事を話しておいた。
 例えば、ディンという古くさい少年漫画の主人公のような子と最近仲直りしたことや、高等部にさっさと飛び級してしまった事でちやほやされるもののやっかみも大変なものらしいとか。
 年上の女性にはとても人気らしい事や、実は校内の非公式チェス大会で連続優勝してるとかまぁ、他愛もない話である。
 ……もしかしたら自分のことで母に心配かけたくなくてティーダは話してなかったのかもしれない。ともあれ、その事で逆にストレスになってしまっては本末転倒というものだろう。

「そんなわけで、付き合いのまだ浅い私が言うのもなんですが、最初見た頃より表情が柔らかくなったし、楽しくやれているんだと思いますよ?」
「そうかー、うん。ありがとうねティーノさん。おかげでティーダが最近の連絡で明るくなってる理由がわかったわ」
 
 そう言っておっとりと微笑む。
 そして柔らかい笑みのまま爆弾を投げ込むのだった。

「ところで、うちのティーダを貰ってくれる気はない?」

 いや、奥さんティーダは犬や猫ちゃいますねん……
 そんな突っ込みを入れたくなった。現実には、へけっと変な音を出してむせただけだったが。舞った小麦粉が喉に入っただけである。
 いや、まあ私もその手の冗談は、施設にいた頃から人並み程度には言われてるので今更初々しく反応したりはしないが。とりあえず手をひらひらと振って。

「私なんぞより星の数ほど出来た女の子が居ますって、大体ティーダの事だから彼女もさくっといつの間にか作ってますって」
「あらら、残念……今ならティアナも付くのにねえ」

 なんです……と!?
 思わずイエスイエスイエスと言ってしまいそうになったが何とかこらえる。
 私の落としどころを短期間で見抜くとはこの母親……やりおる。

「でも本当に残念ねえ、料理上手なお嫁さんとか楽で良いのに」

 そんな、さらっと本音っぽいことが聞こえたような気がしたので、私は全力で聞いていない事にして、目の前のパイ生地を折りたたむのに集中するのだった。

   ◇

  楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうものである。
 気付けばこの二週間、この機会にティーダから勉強をみっちり教えて貰おうなんていう目論見もすっかり忘れて、ティアナちゃんを構い倒していたような気がしないでもなかった。
 いやほんと、私も何故こうまで構ってしまうのか判らないくらい飽きずに構ってしまっているのだが。

「なぁうぅ」

 と、最近では発音が楽しいらしい。もごもごにゃあにゃあと声を出しては……まあ、私もいちいち反応してしまうので、遊び感覚なのかもしれないが。それで上機嫌になってくれれば良いのだ。
 そして私が覗きこむと、やっときたーとでも言うかのように「やー」とか言って腕を上げた。抱っこして欲しいらしい。
 よしよし、お望み通りにしてやろうじゃないですかい、とそっと抱き上げ揺らす。
 きゃっきゃっとはしゃぐティアナちゃん。……うぉ! アホ毛を囓らないで、そんなのに栄養ないよー
 さすがに飲み込んでしまっても困るので引き離したのだが涎でべっとりになってしまった。人差し指を立て、ティアナちゃんに向き合って言う。

「駄目だよ、ティアナちゃん。これが無くなったら私は出入り口とか自分の体がくぐり抜けられる大きさかどうか判らなくなっちゃうからね?」
「そのハネた毛は猫のヒゲかい?」

 ティアナちゃん以外に聞いている人が居るとは思っていなかったので油断した。
 人差し指を立てたまま、私は固まった。
 その様子を見て言われた。

「……見られて恥ずかしいならやらなきゃいいのに」

 ほのかに顔に血が上っているのを感じつつ、私も口を開く。

「は、早かったね買い物……あ、いやさ、お帰りティーダ」

 ティーダは一つ笑って肩をすくめると、頼んでおいた食材を冷蔵庫にしまい込みに行った。
 実はティーダ、何でもできるようで家事スキルは全く無かったので基本のことをちょこちょこと教えている。その成果もぼつぼつと見えてきたようだ。
 風通しの良いところに置いてある野菜篭と冷蔵庫に食材を分けながらしまい込んでいく。タマネギやジャガイモなども蒸れないように包装から出していた。
 やがてしまい終えるとリビングに戻ってくる。

「うー!」

 兄が構ってくれると思ったのか、ティアナちゃんがハイハイにて突撃を開始した。
 そう、もうハイハイが出来るようになったのだ。子供の成長とは恐ろしく早いものである。
 私が来て一週間ほどだったか……ベッドの上でころんと転がったと思ったらゆっくりハイハイで私に近づいてきたのだ。
 それまではコロコロ転がっていたので、いやそれはそれで可愛いものだったのだが。
 と言ってもまだ四つん這いでしっかり足を使えるわけでなく、どちらかというとほふく前進に近いのだが。ともあれ、それに合わせるかのように、不安定だった座っている姿勢も安定してくるようになった。座っていても、いつ転がるか判らないという不安定さは無くなったものの、今度は行動範囲が広くなって大変である。
 なんとかティーダの元までたどり着いたティアナちゃんはお兄ちゃんに抱き上げられた。ゴールだ。

「よーし、良く頑張ったなーティアナー」

 ティーダも人の事を笑えないのである。目が細くなりすぎて線と言ったほうがいいだろう。立派な兄馬鹿である。元から割とぽややんとしているのに、こんな調子ではもうとろけたプリンのようと形容したほうがいいだろう。
 偉いぞ偉いぞーなんて言いながら、頬をスリスリ。ティアナちゃんもきゃきゃと上機嫌だった。
 ああ、楽しいのはいい。うんいいことだ。
 私はちょっと所在なげに手をぶらぶらさせていたが……
 いや、むくれてなんてないよ。本当だよ。ただ、ちょっとその……ああもう、私も構いたいのだ。

   ◇

 夕食用に仕込んでおいたパンを焼く。先程ティーダに買ってきてもらったパプリカ、タマネギ、セロリを炒め、柔らかくなったらペーストになるまで潰して、ブイヨンを入れて味を調える。冷めたらオリーブオイルと卵を入れて混ぜれば優しい味のパプリカソースの完成である。鶏肉のソテーにでもソースとしてたっぷりかけてもらう予定だが、そのまま離乳食としても使える。
 一通り作り終え、あとは温めればすぐ食べられるようにしておいた。
 まだ時間も余っていたので、仕事で疲れたお父さん向けの夜の酒に合う肴でも用意しておくか。
 たしか、夜中に一人ウイスキーグラスを片手に読書にふける姿を見た事が何度かあった。
 ならば、とちょっと考え生ハムで人参、レタス、アスパラ、チーズをそれぞれ程よい大きさに切り、巻いて皿に盛りつけ、冷蔵庫に入れておく。
 キッチンの後片付けと掃除を終えて、時計を見れば、そろそろ夕方になる頃である。
 エプロンを外しながら、しっかり馴染んでしまったキッチンを見渡す。
 うん、汚れは無し。シンクも棚もぴかぴかである。
 後はそろそろ、パパさんが帰ってくる時間になるのでそのくらいまでに荷物を纏めるだけである。

 そう、なんだかんだで今日がシッター最終日だった。
 仕事と学業を忘れて楽しんでしまったというのが実情である。我ながら不真面目というか何というか……
 もっとも個人的にはティアナちゃんとはまだ遊び足りないというか手放したくないのだが、私は私で既に今日の夜の列車で施設に里帰りの予定になっているのだ。すでに乗車券も入手してしまっているのである。
 いや、施設の子たちを忘れているというわけでもないし、久々に合う院長先生にも土産話がたんまりあるので、里帰りも楽しみではあるのだが。
 ま、まあ、友達の家に遊びに来るだけなら理由もいらないわけだし、うん。
 今度はディンやココットも誘って遊びに来てみるのもいいかもしれない。

 いよいよ、いい時間となって薄暗くなってきた夕空の下で挨拶を交わす。

「では、これで失礼します。パパさんもお酒と煙草は控えてくださいね? 一家を支えているのだから、体を悪くしたら事です。おばさまにもよろしく伝えて下さい。美味しいレシピをありがとうって」
「……ん、うむ、こほん。酒と煙草については鋭意努力するよ」

 ちょっと目が泳いでいたので、信用度が今ひとつだったが仕方ない。こういうのは他人が言ってもなかなか上手くはいかないものだ。

「ティーダは来週が空士の一次試験だっけ? 一次はそれほどの難しさじゃないらしいけど、頑張れ。私達の世代の出世頭くん。そして受かったらお祝いに旨いものをご馳走して?」
「あ、ああ。そりゃ頑張るさ……いやまて何かさらっとおかしかった! 普通はご馳走してくれるもんじゃないのか?」
「チッ」

 なんて戯れていると私が別れを惜しんで抱っこしているティアナちゃんが真似をしはじめた。とはいえ歯がないとこの発音はね……

「いっ……いー」

 なんて発音になるのだが、段々声を出しているうちにご機嫌になってきたらしい。楽しげにいーいー言っている。うんうん。
 ……お、おう。ほっこりしていたらいつの間にか5分も経っていた。

「ええと、それではまた遊びに来させて頂きますね、ティーダもまた、学校で」

 簡潔に言ってバスの停留所に歩きだす……事ができなかった。
 ティーダに腕をがっしりと掴まれている。
 くっ、私の力でもはがれないとは何という……

「その前に、ティアナをナチュラルに連れて行かないように」
「くっ……」

 渋々とティーダにティアナちゃんを譲る。赤ちゃん特有のぬくもりが腕から逃げてゆく。

「うう、ティアナちゃん、また遊びに来るからね、ティーノお姉ちゃんを忘れないでくれよぅ」

 きゃいきゃいとはしゃぐティアナちゃん。どうやら別れの悲しみは私一人だけのもののようだった。
 まあ、いつまで寸劇を続けていても仕方ない。最後に、ふわふわの母親譲りなのだろう……オレンジにも見える明るい髪を撫でつけ、くすぐったそうに目を細める姿を目に収め、別れとしたのだった。

   ◇

 列車の背もたれにもたれかかって、そんなランスター家での事を思い返しながら軽く目をつむった。
 いや、良い仕事だった。仕事という意識もなかったが。アルバイト代を貰うのが申し訳ないくらいである。
 ちなみに学生シッターであるので、相場もそう高いわけではなく、日本で言えば高校生が学校帰りにアルバイトをして貰える一ヶ月分の給料くらいなのだが。
 夏休み前に子供達にもたせてやった土産代や、友人との付き合いもあるので少々寒い風の吹いていた私の懐も、やっとこさ温もりを取り戻したようだった。

 駅からバスに乗り換え、いつかも通った道を通りながら田舎道を走る。すでに早い子は寝てしまうような時間である。もう乗客も私一人だけなので、施設の前まで送ってくれると言う。その辺の融通は田舎ならではというところだろう。
 やがて懐かしい気持ちすらしてしまう施設の前でバスを降り、夜気を胸一杯に吸い、うーんと背筋を伸ばす。
 さすがに長時間の移動で背筋がこった。
 体をほぐしていると、バスが来たのを中から見ていたのか、玄関のドアが空いて院長先生が出迎えてくれた。

「おかえりなさいティーノ、さ、みんなもう待ちかねていますよ」

 そう言って先生は微笑む。
 私も何となくその笑みが伝染したのか、ほっとして表情が緩んだ。
 ただいま先生と答えて、施設に入る。が、広間に入ったと同時に明かりが消え──

「今だ!」

 というかけ声と共にクラッカーの一斉砲火を食らってしまった。
 正直、驚いたのなんのって。ティンバーが居るんだからこのくらいの悪戯は予想しておくべきだったか……!
 何か言おうとしたのだが、舌がもつれる。
 まごまごしているうちに明かりがつけられた。

「誕生日おめでとう!」

 皆が思い思いにそう言ってくれる。
 飾り立てられたテーブルの上にはごちそうが並び、院長先生お手製と見られるケーキがどんと鎮座している。悪戯が成功したことを楽しみながらも、子供たちはテーブルの上の料理に目が釘付けだったりもする。
 そう、今日は書類上ではあるものの、私の12才の誕生日だった。皆が祝ってくれるというので、ちょっと頑張って帰ってきたのだった。
 院長先生がゆったりと歩いて入ってくると、自然と騒々しかった空気も収まる。

「さ、ようやく今日の主役も到着したことですし、今日は堅い事は言わないでおきます。では、ティーノの12才を祝い、乾杯してから頂きましょうか」

 ワインを持ち上げながら、堅い事は言わないながらも略式のお祈りだけは欠かさない。
 子供達も子供用にアルコールのほぼ入って無いワインを持ち上げ、グラスを隣の子とぶつけて遊んだりして賑やかに乾杯をした。
 私も注がれた一杯を飲んで、ふうと一息吐く。
 いやはや……

「ふふ、帰って早々に慌ただしくて大変でしたねティーノ」

 ふくみ笑いをしながら先生が私の頭を撫でてくる。
 まあ、何となく面映ゆいのだが、この人には何故か逆らう気がしない。ちびりちびりとグラスのワインもどきを舐めるように飲む。
 少々もの足りない。空いたグラスに注ごうとボトルに手を伸ばすと横からさらわれた。視線を移せばラフィがボトルを持って待機している。空いたグラスに飲み物を注いでくれるようだった。
 どうやら今日は大人しく主賓らしくもてなされろ、と言うことらしい。
 そうして、何とも騒がしく、楽しい夜はそうしてふけていく。
 ──しかし。しかしである。
 どうもこう、子供達が可愛く見えて仕方ないのだが、どうしたものだろうか。
 やはり、ティアナちゃんには私の中の何かを目覚めさせられてしまっていたらしい。ロリコンやないんやーなどと言っても誰も耳を貸さないだろう……落ちるところまで落ちたものである。

「うふふ……ふ」
「な、何だ……ティーノがおかしな笑い方してる?」
 
 ティンバーが不気味に笑う私にちょっと引き気味である。まあなんだ。
 ──逃がさない。がっしりとばかりにティンバーの腕を掴んで引き寄せ、椅子に座っている私の膝の上に乗せてモフった。

「んーふふ、おねいちゃんを驚かせてくれたからなぁ、今日は逃がさないぞ」
「お、おおおい、ちょっと待て待て待て待って! 酒っ臭っ! 誰だティーノ姉に本物のワイン飲ませたのは!?」

 おお、テンパると私を呼ぶときも姉が付くのかーそうかー。

「んふふー、うい奴めうい奴め、ほれほれほれほれ、セクハラするのは得意でもされるのは苦手かー」
「ぎゃあああ! そんなとこに手ぇ入れんな! 握るなあああああッ」

 ふふ、マフィアに手込めにされそうになったほどのエロ種族(暫定)を舐めるな。全く関係ない気もするが。
 ……そういえばあれからずっと考えていたことがあった。
 ふっと思い出し、ティンバーを抑えていた手を緩めると、敏捷にホールドを抜け出された。ちょっと残念である。
 少し目をつぶり、ゆっくりまぶたを開く。うん、明かそうと思ったもののやはり勇気がいる。何故だか知らないが。
 手をパンと一つ鳴らして注目を集める。

「皆、聞いてくれるかな?」

 そう言って私は隠し通して来た翼の隠蔽を解き、大きく広げて見せた。
 うん、いい機会なのだろう。おりしも誕生日だし、ティーダにも見られてしまったことだ。何より、院長先生やカーリナ姉は最初から知っていたようだし。
 堅物のクロノやアリアさんからは「リスク管理がなってない」とか言われるかもしれないが、施設の皆は家族も同然である。あまり秘密にしておくのも少々心苦しいものはあったのだ。

「見ての通り、こんなのが背中に付いてたりするんだ。まあ。こんな機会でもないとなかなか明かせ……ってえええ!?」

 唐突に子供達に揉みくちゃにされた。

「すげぇー! これ本物? 抜いていい?」
「うわー暖かいんだけど何コレ、何コレ」
「羽根……古き者ども、深き者ども、ディープワンの親戚?」

 デュネットそこ、さらっと私を妙なものと一緒にしないでほしい。
 ちびっこ共、羽根抜くな痛い!
 とまあ、大騒ぎである。
 そんな一幕も何とか収集がつき、さすがに騒ぎすぎて疲れたのか、寝ぼけた子も出てきたのでお開きにした。いつも通り、年長のティンバーとラフィに連れていかせる。

「ああ、全くみんな元気だなあ」

 ちょっと羽根がむしられて文字通り鳥肌が見えてしまっている翼をさすりながらパーティの余韻に浸る。

「そうね、子供たちには屈託のない元気な顔が似合うと思うわ、けどねティーノ、それはあなたも同じ。いい顔になってますよ?」

 すっきりしたみたいですね、と微笑みかけてくる。
 見抜かれているというのは面映ゆい。頬を掻いて誤魔化す。

「ところで、カーリナ姉が言うには一ヶ月ほど前にこっちでも変なのが居たらしいけど、子供達は不安になってなかった?

 と、強引に話題を変えてみる。
 まあ、何でも地元の警察に逮捕されたらしいソウルオブザマターの見張り君の事だが。

「大丈夫よ、それにティーノ。こんな訳有りの子供たちばかり預かる施設が何の備えもしていないわけがないでしょう? 私自身、魔導師でも何でもないけれど昔のツテで聖王教会には顔が効きますからね」

 確かベルカ貴族の教師役だったというあれか。
 どんな備えを、とは言わなかったものの自信げである。
 それにね、とちょっと悪戯気な顔になる。

「あなたも気付かなかったみたいだけど、ご近所さん、果樹園のナシュアおじさんや初等科の授業をしてもらっているダグウッドさんも引退したとはいえベテラン魔導師なのですよ?」

 聞けばかつてグレアム提督の下で動いていた管理局員だったらしい。しかしまあ、言ってくれれば良かったのに……
 アルコールも手伝ってか、どうも子供らしい表情が表にでてしまう。唇を突き出してちょっと拗ねた顔になってしまう。あらまあ、なんて言われながら私は頭を撫でられたのだった。
 私は面はゆさと、妙に落ち着くような感覚、それを同時に感じながらワインをちびりと口に運んだ。



[34349] 幕間三
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/09 19:12
 少女は唄っていた。
 どこかで聞いたような、あるいはどこにでもあるような旋律。
 情感をそそられたのだろうか、緑溢れる山林の大きな岩に腰掛け、飽きずに口ずさむ。
 目を閉じ、そのリズムに合わせるように背中の翼が揺れている。
 やがて少女は納得のいかないフレーズでもあったのか、二度三度と歌い直し、首をかしげた。無意識にだろう、お腹に手を当ててもう一度歌う。……と、今度は上手くいったらしく笑顔が出た。
 じゃり、と足音が聞こえ、少女が振り向くと、もう若さも顔から抜けたらしい男の姿があった。
 少女は子供らしく、パッと表情を変え男に文字通り飛びかかった。極度に色の抜けた白銀の髪が風になびく。

「パパ! おかえりなさい!」
「はは、ただいまアドニア。何か元気いっぱいだけど特別なことでもあったのかい?」

 男は細身ではあるものの、そこは父の矜持でもあるのか、飛び込んできた少女をがっしりと受け止め、笑ってみせた。

「ん! あったよ! パパが帰った!」
「それは特別なことなんかじゃ……ああ、痛い痛い! うん特別だから! 許してアドニア!」

 さすがに腹に頭から突っ込んだ体勢で頭突きをされれば堪えるようだ。
 そんな調子で、親子はふざけ会いながら家路についた。

 山林と思わしき光景はすぐに一面の海になった。
 青く透き通った海面に少し緑がかった空と真っ白な雲が映っている。
 まるで山の傾斜を削りとって、巨人の階段にでもなっているかのような形の白亜の箱形の家に二人は連れ立って入った。

「あら、お帰りなさい先生、隣町への出張お疲れ様でした。アドニアちゃんもお帰りなさい」

 赤みがかったブラウンの髪を肩口で綺麗に揃えた女性が出迎える。ワンピースの白い衣服で食事の用意でもしていたのだろう、袖を捲っていた。少女と同じように翼もその背中から覗かせているが、その羽根の色は髪の色と揃っている。
 
「ただいまお母さん」
「やあ、ただいま。しかしまだ『先生』呼ばわりかい?」

 男がそう口を尖らせると、何がおかしいのか女性は小さく笑った。
 山遊びを覚えて、手足を汚してしまっている少女を濡れた布で拭きながら答える。

「それなりに結婚したてなのに、肝心のお嫁さんを放り出して仕事に明け暮れている人ですから、そんな人は仕事関係のままの呼び方以外してあげません」

 そう言って「笑わない笑み」としか言いようのない表情を浮かべ、男を見やった。
 男はさすがにたじたじになり、諸手を挙げて全面降伏の構えである。

「悪かった、悪かったよ。こ、今度は患者が助けを求めてきても家族一番で、もう見殺しにしてしまうから……ってそういうわけにもいかないし……ええと僕にどうしろと?」
「……ぷっ」

 慌てる男を見て女性はたまりかねたように吹き出し、冗談です冗談と手を振った。

「そういう人なのはお手伝いしていた時から見てきましたから、今更文句は言いませんよ。アドニアちゃんも居ることですし」

 そう言って、女性は手の中でむずがる少女の頭を優しく撫でた。

「それに……」

 柔らかい笑みになると自らの下腹部をそっと撫でる。
 不思議そうな顔になるアドニアの頭をもう一つ撫で、察しろと言わんばかりに男を見た。
 一瞬男は呆けたかと思うと、その意味することに気付いたのか、驚きに目を開く。
 女性はニュアンスが正しく伝わったことに、にこりとして言った。

「名前を考えておいてもらわないとですね」

 男はどうやら混乱と驚愕が抜けないようで、むやみにアドニアを高い高いなどして目を回させていたが。

 それは平和な風景、気弱で優しい父とそれを包み込むような支えるような母。
 無機質な実験室の中では決して手に入らない風景だった。
 ただそれはひどく脆く儚くて──

   ◇

 瞬く間に時は過ぎる。
 三回ほども夏と冬が通り過ぎた頃には少女は生まれが生まれだからだろうか、少々の発育不良に悩まされながらも、技術者であり医者でもある父の処方による所もあったのだろう、すくすくと大過なく育った。

「アラエル?」
「そう、大昔の言葉で鳥を司るものと言う意味らしい。我々の持つこの翼……」
 
 と、黒板の前で講師は持ち前の黒っぽい翼を広げる。
 石造りの舞台、祭りなどがあれば踊りや劇に使われるそこで、集落の子供達を集め、歴史を教えていた。

「私達にはあまりにも当たり前になってしまっているが、鳥と同じ類のものだ。かつては空を自在に飛び回っていたという文献もある。そして、海に住む人たちについては同じようにガギエルという呼び名があったらしい……地の人、海の人と呼ぶようになって久しく、今では彼等もその呼び名を伝えているかは怪しいものではあるが」

 講師は少々大げさな身振りで慨嘆し、次の話題に入る。年頃のアドニアもその講師の話を聞く子供たちの中の一人として混ざっていた。
 ところどころで小ネタに走ったりもしながら、話は続いた。
 伝承として古い文献にしか残っていないという。かつて大きな大地の変動があったこと。その折に神々も姿を消し、空を行き交うものの翼は空を飛ぶ力を失い、海に住まうものは水から呼吸することを忘れた。環境の激変に適応せざるを得ず、限られた土地、食料を求め、あちこちで争いが起き、溢れるようだった人口も減り続け、いつしか集落ごとにまとまり、互いにあまり干渉することもなくなったという。
 
 帰宅したアドニアは、さっそくと言った形で今日聞いた事、考えた事を物知りである父に話していた。

「うん……うん。確かに飛べたら楽しいだろうねえ、しかしそうか、神々と、そう伝わっているんだね。なるほど……しかし、そうなると、やはりかつては圧縮魔力を通すことで飛行を? いやそれだと羽根に張り巡らされた魔力神経網が理解できないか……あるいはリンカーコアの……」

 いつしか、アドニアの理解を超えた言葉をぶつぶつとつぶやき始める。
 こうなってしまうと、普段はちょっと鬱陶しいくらいに構ってくる父の面影はなく、研究者然とした顔が表に出ていた。時折神経質そうに指でテーブルをとんとんと叩く。急に思いつきをメモすることもある。この時の父の顔、いや、雰囲気だろうか、それを見る度にアドニアは何故か懐かしい気分になるのだった。
 ただ、対照的にそういった空気の嫌いな存在が一人居たのを忘れていたのは父親としては失格だったかもしれない。

「ねー、パパがまた止まってるよ」
「はいはい、ミュラはお姉ちゃんと遊ぼうね」

 日も沈み初め、薄明かりの中、近頃隣の集落から交易商が運んで来たというボードゲームでアドニアとミュラの二人は遊んだ。
 やがて、食卓に皿が並び、キッチンから美味しそうな香りが流れてくると、さすがのどっぷりと思考に浸っていた男も気を取り戻したようで……
 少々面映ゆげに人差し指でぽりぽりと頬を掻き、食卓の自分の椅子に座った。

「さ、そろそろ出来上がるからゲームは仕舞ってね」
「はぁい」

 母に声をかけられるが、どうも今ゲームの丁度いいところのようだった。二人して生返事を返す。
 配膳も終わり、一つため息をついた母はぽんと手を叩くと、自分の背中の羽根を一枚引き抜いて、アドニアの首筋をこそこそとくすぐる。

「うっ……ぷはっ! あははっあはははあっはやめ、やめてお母さん。ゲーム止めるから!」
 
 色白すぎる肌は見た目通り敏感肌らしく、効果はてきめんだった。文字通りひいひい言わせられた。
 ミュラはその年にして既に要領がいいのか、姉の惨状を見ていち早く食卓に着いている。

「ふふ、アドニアちゃんは反応良いわねえ」

 地獄の蓋は開いたばかりだ、とでも言わんばかりににこやかに微笑みながら二本目の羽根をもってもう一カ所、脇腹も同時にくすぐりだした。
 にぎゃああああというどこか猫の声にも似た悲鳴を父と弟は冷や汗を流しながら全力で見ていないふりをした。
 そんな素朴ながらも明るく楽しい夜が過ぎる。

   ◇

 きっかけは何であったのか──
 日ごとに美しさも備えてくる少女を唐突に対等な女として見てしまったのか。
 あるいはアドニアの前でしか見せない男の研究者然とした姿を度々見る事に耐えかねたのか。
 下世話な噂話、男が大事そうに幼子を抱えてこの集落に訪れた時から本当に妻にしたい女は決まっていた。年増の助手など間に合わせに過ぎない。という根も葉もない噂を信じてしまったのか。
 産まれた我が子の将来を思って訳のわからぬ不安にでも駆られたのか。

 糸が突然ちぎれてしまうように、終わりはゆっくりとなんてやっては来なかった。
 それは炎に塗れた光景だった。
 白亜の家の壁を炎が蛇のように舐める。
 慣れていない手つきで父が作った手製の木馬、大事そうに飾られていたアドニスの花。弟の誕生日を祝ってアドニアが野山を駆け回って作ったリース。
 赤く爛れた炎が伸びれば何もかもを黒く焼け付かせていく。
 アドニアは現実味がいつまでも感じられないままにその一部始終を見ていた。
 初めはただの口げんかのようだった。
 いつしか普段は寛容な母が噂話などというものを根拠に感情的になり。
 アドニアについて隠し事があるのでしょうと聞かれた時、いつもは優しい男が厳しい表情で「話す事はできない」ときっぱり言った。
 それが決壊の一言だったのかもしれない。
 母は泣くような、笑うような表情でアドニアを振り向いた。
 何かを感じた男はアドニアを庇うように動いたがそれは逆鱗を逆撫でしただけだったのかもしれない。
 この地の人々の力は強い。男は掴みかかられ、何事か言葉にならない事を言われながら、首を絞められた。
 やがて男の体に力が無くなった。

「あ、あ、私、わたし……殺しちゃった、セフォンを? 誰が? 私が?」

 喉の奥から唸るような声を絞りながら、行かなくちゃ、私も行かなくちゃ。とつぶやき油を家中に撒いて火をつけた。
 その時には既に何かが狂っていたのだろう。
 アドニアを振り返るとにっこりと笑って、自らの首に包丁を当て、引いた。
 血がしぶき、ゆっくりと倒れる。自ら被った油に火がつき、凄まじい煙と共に黒く黒くなっていった。

 アドニアが気付いた時には清潔なベッドの上で左手に幼い弟がすやすやと眠っていた。

「……夢?」

 なんて怖い夢なんだろう、と思うと同時に涙腺が急に開き、滂沱と言った方が良いほどに涙が流れた。
 そして、そのまま泣き疲れていつしかまた眠ってしまったのだった。眠っていた場所が自らの家ではない事にも気付かぬまま。

   ◇

「えーと、夢よ醒めろ醒めろ醒めろ」

 夢の中で醒めろと目をつぶって念じるなんて器用な真似をした。
 私の足元には眠りこける、今の私を少々幼くしたような子と幼児がすやすや眠っている。触ろうとしてもすり抜ける。部屋の外……壁や窓からは手を出すことは出来ない。この訳のわからなさ……うん夢だろこりゃ。
 ちょっと思いつく限りの行動、例えばほっぺたを引っ張ってみたり、逆立ちをしてみたり、バク転をかましてみたりしてみる。
 ……段々楽しくなってきたので、人目があると絶対にできない一人シャドーボクシングなんてやってみる。

「シュシュッ」

 腋を締めて打つべしっ打つべし打つべしっ

「そして止めのッ黄金の左ッ!」

 ジェロニモもびっくりの左ストレートで決める。
 仮想敵はティーダである。ティアナちゃんを独り占めしおってからに、妬ましや。
 夢の中でくらいフルボッコにしてやるのだ!

「気は済んだ?」

 突如かけられたハスキーな声にぴたりと腕が止まり、ぎぎぎ、と私は振り向いた。
 ベッドを挟んで向かいに足を組みながら座っている女性が居る。
 女性であることしか判らない……というか輪郭がはっきりと認識できない?
 思わず目をごしごしとこすった。

「まだ、それほど繋がっているわけじゃないから、声だけでも通るなら僥倖と言ったところ」
「繋がって……てかさっきの見てた?」

 女性らしき影は一つ肩をすくめたようだった。あっさりと言う。

「初めから最後までばっちり」
「……ぐああ」

 羞恥で私は頭を抱えた。
 というかどういう状態なんだこれ、ちょっと考えてみるとかなり訳判らん状態でもある。いや、何となく直感で理解してしまっているような部分もあるようで、難しいのだが。
 ひとまず聞き出さねばならない。女性の影をきっと睨む。

「あなたの考えている事は判る。あなたもいずれ判る」

 それが嘘を吐いていないことも何となく理解できる。理解できてしまうのだ。
 頭が上手く回らない。
 現実逃避気味に体を動かしてみたところで血が頭に回るわけではなかったらしい。
 ただ、一つだけ気になっていることもあった。
 あの姿は似すぎている。いや、やはりこの身体は……私は?

「一つだけ……私は……私はアド……」

 だが、聞く前に室内というのに霧のような薄ぼんやりしたものに段々覆われ、見えなくなってきた。いや、意識に霧がかかっている?
 理解できない。

「ティーノ、あるいはツバサ。いずれまた。あなたには知ってほしい」

 何を? と声を出す事も出来ずに霧に飲まれ意識ごと溶けていくのを感じる。
 本当に……訳のわからない……



[34349] 一章 十一話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/09 19:13
 ──とんでもない夢だった。
 こういう夢を見てしまうと現実がどちらなのか判らなくなってしまう。
 見当識の混乱というやつだ。
 右手を天井に向けて持ち上げる。小指から一本一本指を折り曲げ、親指からまた順に広げる。カーテンの隙間から日の光が漏れ、手の甲に細い光が当たった。
 真っ白な手。血の色ばかりが透けて見えてピンク色にしか見えない爪。日々木刀を振るったり料理などしてるので、少々指が荒れている。
 ゆっくりと息を吐き、ゆっくりと吸う。
 やっと、意識がしっかりしてきたようだった。
 私は自分で自分の身体を抱きしめて少し震えた。
 寒いからではない。

「……しかし、まあ。なんなんだよあれは……」

 アドニアの陥った、何と言えばいいのか……いや、ああいうすれ違い、ボタンの掛け違いは探せばそれこそあちこちに転がっているのかもしれないが。
 大体あのエーゲ海にも似た風景はかつて私が見せて貰った第130世界の数少ない資料の映像そのものだったわけだし。
 単純に結びつければ、私の……借り物なのかもしれないこの身体……何かをきっかけに昔の記憶をぼつぼつ思い出してきている? いや、それなら途中で入った女の影は……駄目だ、わけわからない。

「変な呪術でもかけられてんじゃないだろうなあ……?」

 魔法がある世界である。遠くから触媒を通して夢を見せる。そんなものの一つや二つあったとしても驚かない。
 知る限りのミッド魔法にはそういうものは無いが。
 さすがに今度は思考停止でもして軽く流してしまう、なんて真似もちょっと難しく、うーうー唸りながら考え込んでいた。
 やがてラフィが遅くまで起きてこない私を訝しんだのか部屋を訪れてきたようだった。特徴的な足音がドアの前で止まり、ノックの音が数度鳴った。

「ん……」

 流石に子供達にこんな弱ってる姿は見せられるもんじゃない。
 お腹に力を入れ上体を持ち上げ、両手でちょっと強めに頬を叩いた。
 ……強めに叩きすぎたようだった。痛い。
 ともあれ、気分は強引にだが変えられたようだった。
 やがてドアを開けて覗きこむラフィに手を上げて挨拶をする。

「おはようラフィ。ちょっと昨晩の酒でも効いたっぽい……寝坊しちゃったい」

 あまりやったことのない作り笑いってやつをおまけに見せておいた。

   ◇
 
 昼も過ぎる頃にはさすがにもう朝の動揺は引きずっていなかった。不思議には思っていたが。人間いろいろと順応してしまうものではある。
「いずれまた」という言葉はしっかり覚えている。きっといずれはまたあの不思議な女性の影にも接触する機会はでてくるだろう。

 私宛に手紙が届いているというので確認してみれば、いつぞや私が書いた手紙への恭也と美由希からの返信だった。
 手違いでもあったのか、寮ではなくこちらの施設の方に届いてしまったようである。
 地球で押されたものらしい消印は欧文印で、宛先はロンドンのグレアム家にステイしているティーノ・ツバサ・アルメーラなんて事になっている。
 口に出してみるとツバサなんてのも懐かしく思えた。一応、管理局への登録時にミドルネームとして残してあるのだが、私自身が適当に名乗っていただけという由来なので、ちょっと今となっては恥ずかしくて使いにくい名前でもあるのだが。

「いやー、あの頃は大変だったな……」

 それほど昔というわけでもないのに妙に懐かしい。
 気を取り直して手紙を読んでみれば、恭也らしい簡潔な文で、近況報告、それに私が使っていた工場跡地の秘密基地めいたものは近くに山場などあるので修行の拠点に使わせてもらっている事などが書かれている。
 文章のうちの大部分を美由希の成長具合がどうとか、小さい妹がどうとか、自分の事ではなく家族の事が占めているのもまた恭也らしいのかもしれなかった。
 美由希が書いた手紙はまた何とも女の子しているものだった。花の香りのついた薄い黄色の紙に丸くて小さくまとまった文字で書かれている。
 こちらはこちらで自分のことより恭也のことの方が多く書かれていたりする。何でも恭也が最近変な味のたい焼きばかり買ってきて困るとか、中学に入ったにも関わらずやっぱり友達居ないとか、おいおい、自分はどうなんだとツッコミを入れたくなる。いや実際次に出す手紙で言っておくとしよう。
 最後に写真が一枚同封されていた。家族写真のようだ。撮った場所は中庭だろうか、縁側に腰掛けた高町パパさん、ママさん、そこに挟まれるように、ちょっと気恥ずかしげな恭也と、妹さん……なのはちゃんと言うらしいが、を抱きかかえた美由希が写っている。美由希はあまり変化がないが、恭也は年頃らしく伸び盛りに入ったようだ、私が覚えているより随分と背が伸びていた。私の低身長を思えば10センチほど分けて貰いたいくらいである。いやこれでも私も伸びてはいるのだが……ぐぬぬと言わざるを得ない。
 そして、この美由希の膝の上に抱かれた妹さん、なのはちゃんはお母さん似なのだろうか、元気そうな目元がそっくりだ。頭の上に美由希の顔を乗せ、何が楽しいのか、にこにこと笑って写真に写っている。うん、元気でいるようで何よりだった。
 今は無理だが、局員ともなれば、申請は面倒なものの、管理外世界の地球への旅行も可能になってくる。
 そうなったら、うん。真っ先にとまではいかないが、遊びに行くとしよう。こういう目的もモチベーションの維持にはぴったりである。
 一つ大きく伸びをして、ソファに行儀悪く転がる。何とはなしに笑いがこぼれた。
 なんだかんだで今の私は恵まれているのだろう。いろいろと紆余曲折はあるにせよだ。こうして笑っていられるのだから。

   ◇

 夏休みの間の里帰り期間は3週間の予定である。
 私は少々の懐かしささえ感じてしまう施設での暮らしを始めた。寮生活の方が短いというのに、懐かしさを感じるとはこれいかに、とも思う。あの夢はあれ以来出てこない。本当に何なんだか……
 すでに学生であるので、施設でやる日々の学習からはもう外れているのだが、こちらはこちらでティーダに作ってもらったプランに合わせて勉強に励んでいる。実のところ狙っているのは中等部である。仕組み上いきなり高等部なんて離れ業も可能ではあるのだが、私の頭では少々心もとないのだ。毎日の努力があったとしても厳しいものがあった。

「むうぅ」

 マルチタスクに関する脳神経と魔法学の関わりなどの項目を読み終わり、長時間同じ姿勢でいたせいかすっかり凝ってしまった首をもみほぐす。
 少し休憩することにして、お茶でも入れようかとドアを開け……
 見えたのは、廊下でうずくまって困ったような顔を浮かべているラフィの姿だった。

「ちょ、ちょっとラフィ!? 大丈夫?」

 慌てて抱え起こす。その小柄な体の割にずっしりとした重さが伝わった。これは……

「あは……ごめんねティノ姉。ちょっと動かなくなっちゃった」
「あのねぇ……ラフィ。ちゃんとこういう時は人を呼ぶんだよ?」
「うーい」

 判ったような判ってないようなお決まりの返事をすると、私の胸に頭をもたせかけてきた。
 原因も判っているので横抱きに抱え上げ、一階応接間の大きなソファまで運んで横にする。
 事情を一目で把握した院長先生が早速行きつけの病院の技師に連絡を取った。
 一時間も経った頃だろうか、ラフィは動きが取れないので暇をもてあましたのだろう、眠ってしまった。
 私はというと、ちょっとした思いつきなどもあって、ラフィに膝枕なんてものをしていたのだが……

「おっと、手が滑ったああ!」
「……ッ!」

 足から走る電気にも似た感覚が背筋を伝う。声にならない悲鳴が私の口から出ているようだった。

「ティ……ンばあああ、覚えていろぉぉおお」

 涙目で睨み付けておくが、この小憎らしい奴はせせら笑うばかりである。
 そりゃまあ、一時間も膝枕なんてしていれば痺れるわけで、それに目をつけたティンバーが悪戯に突いてきたりするわけで……

「ほれほれー、ここか、ここがええのんかー?」

 誰が教えたか判らないオヤジギャグをかましながら指でしこたま足を突いてくる。
 悔しいのであまり反応したくないのだが、びりびりと刺激が走るたびに顔が引きつった。
 なかなか間合いの取り方も上手く、私の手の届かない範囲にすぐ退いてしまう。見事なヒットアンドアウェイ戦法だった。膝の上で寝こけているラフィが居るのでそう身動きも取れない。
 ……そうだった。手が出なければ別の……
 何と今度はマッサージ用のツボ押し棒などという凶器を構えて向かってくるティンバーを睨みすえる。
 少々前屈みになり、背中の翼の片方を使って……手の感覚でいうと裏拳だろうか。翼の関節部分で撃墜する。

「ぐほぁぁ」

 うむ。何となくこの翼の使い方もこなれてきたような気がしないでもない。関節部分の可動域が広くてなかなか融通も効くのだ。
 そうこうしているうちにかかりつけの技師が到着して見てくれることになった。
 ラフィは一度寝てしまうとよく眠るので、その間に見てしまうということになる。
 院長先生の部屋にテーブルと堅めのクッション、シーツを敷いて簡易的な診察台を作る。
 技師がその特徴的なツールナイフのようなデバイスを取り出すと、ラフィの肩口に当てて魔法を発動させる。
 腕が取れた。
 同じように動かなくなっている義肢を外していく。
 ラフィは物心も付かない幼い頃に事故で四肢が無くなってしまったという。
 両親が最後の最後に縋ったのが、生体と機械を融合させるという研究をしている研究所に被検者として娘を預けることだった。
 結論から言えばラフィの四肢は戻った。ただ、それを喜んだのもつかの間、研究所は何の理由もなしに突如閉鎖してしまった。
 現在でこそ、生体と機械の融合は、少なくとも表向きには非現実的とされているが、そのデータがどうやって得られたものだったのか……それがラフィのような存在なのだろう。
 ラフィの手足は義肢ではあるものの、機械が組み込まれた生体部分で出来ている。ただ、その稼働には魔法の使用も不可欠で、常時魔力を消費しないと動けないのが難点だった。
 リンカーコアがなければ扱えず、あっても余程魔導師として恵まれていなければ同時に魔法を使う事はできない。なにより問題なのは高額のメンテナンス費用だった。研究所から探し出された設計データにより、そのメンテナンスはまったく出来ないわけではないものの、その負担はラフィの両親に重くのしかかった。
 今となっては定かではないが、きっと両親は普通の義肢にと考えた事も一度二度ではないのだと思う。しかし、ラフィは愛されていたのだろう。人より不自由でも真っ当に動く手足ならそれが良いと親は望んだに違いない。ただ……稼ぐ為に親は無理を押し通してしまったものか。ちょっとした不注意から……あるいは日頃の疲れからか、交通事故を起こして亡くなった。
 残されたのは3才になるかならないかの高額の負担が必要な幼児である。
 あちこちの児童擁護施設を転々とし、今目の前で心配そうに見ているカラベル先生が初めて見た時は、それはもう衰弱しきっていたらしい。
 一時間ほどもした頃だろうか、義肢も元通りつけられ、検査でもしているのだろうか、それも終わったらしい。

「どうやら、体が成長したことに対するひずみを義肢が受け止めかねたようです。簡単に設定だけいじって動くようにはしておきましたが、そろそろメンテの時期ですし、一週間ほど入院してもらって調整するのがいいでしょうね」
「そうですか……ありがとうございます。日を改めて、この子が落ち着きましたら伺いますね」
「そのつもりでしたら、手続きもここでしておきましょうか?」

 話し始めた二人に、ラフィを部屋に連れてくるねと一声かけ、抱っこして運んだ。
 途中頭を私の腕にぐりぐり当ててきたので、どうも、どの時点からかは判らないが起きていたらしい。
 ベッドにラフィを降ろし、無言のまま頭を撫でておく。
 何となく浮かんできた歌を口ずさむ。
 何の歌だっただろうか、古くからあるミュージカルに使われていたような気もする。
 湖から飛び立つ鳥のように、なんて心情が歌われている歌だ。割とできなくもないのだが。ここで本当に羽ばたいても当然ながら無粋なだけである。
 自然をありのまま歌いあげるようなこの歌を子守歌に、ラフィは今度こそ本当に寝息を立てていたようだった。
 夏ではあるものの、体を冷やさぬようタオルケットくらいはかけておく。
 この子はこの子で事情を抱えているし、私も妙な夢だの記憶がどうだのといった事であまり悩んでいる暇もなさそうである。
 ふと……ニコニコしながら寝ているラフィの頭を撫でている自分に気付いてしまった。うんまあ、我ながらどうかと思わないでもない。

   ◇

  それは何年も後で振り返ってみればきっと平穏な日々と言えたのかもしれなかった。
 といっても、渦中の私からすれば、慌ただしく、忙しく、ちょっと挫けそうになったのも一度二度ではなかったのだが……
 夏休みを終えて学校に戻った私を待っていたのは、空士の一次試験を悠々と突破して意気軒昂たるティーダ主催の学力強化訓練だった。
 いや、夏休みの前に渡された予定の半分ほどしか消化できなかったのは確かに私も悪いとは思っている。人の手を患わせておいて目標に達しないとかそりゃもう面目ない。
 だがしかし、ティーダよ……集中訓練とかそういうのは期間を決めてやるものだよ、いつまでも集中しっぱなしとか誰もが君のようにはいかないのだ。

「終いには弱音吐くぞおるぁ! 吐いていいんだな! 弱音吐くぞうわあああああん!」

 ようやく終わったと思った課題の上から倍量の課題をニコニコ笑いながら積み上げられ、一瞬の硬直の後わめき散らした……なんて事は墓場まで持っていく秘密である。
 あの時の私は尋常な精神状態じゃあなかったんだよ……
 とはいえ……飛び級の目処も立ったのは僥倖というか当然と言うか……あれだけやって受からなかったら正直泣く自信がある。間違いなく夏休み後の調子に乗ったティーダの組んだスケジュールで寿命が2,3年は縮んだに違いない。ちゃんと追いついてくるから面白くなって高等部のとこまで範囲広げちゃったよ、などと虫も殺さぬ笑顔で言ってのけた瞬間を私は忘れない。仕返しにわさびの混ぜご飯しか入っていない稲荷寿司を食わせてやったのは良い思い出である。いや、あの時の顔は滑稽だった。半日追い回されたけど。
 凄かったのはディンである。元々頭は良かったのかもしれない、鬱屈が晴れた後は今までの事を取り戻すかのようにものすごい勢いで魔法も基礎学力も吸収していった。
 素養の方はミッド魔法のスタンダードを地で行くディンである。元から強度の高かった魔法出力に加えて最近では細かい制御もこなしている。それによって効率も良くなって、欠点であった総魔力量もカバーできるほどになってきていた。
 ココットは相変わらず自分のペースを守っているが、元々学年もディンに合わせていただけらしい。魔法の方は最初からあまり力を入れてないのだが。
 最近ではディンと二人勉強をしている姿をよく見かけた。もっぱらココットが教師役のようだ。割って入るとココットの視線がものすごい「とっとと他行って下さい」とばかりに目がものを言うのだ。友情とは儚いものである。
 クロノとエイミィとの付き合いも続いている。とはいえ、どうも士官学校の教育が佳境に入っているようだし、クロノは執務官試験を早くも受ける気らしく準備に余念がないらしい。エイミィから時たま「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ有り得ない」とか物騒なメールが入っているのだが、正直私もその時は似たような状況だったので、ああそうか、来世で再会できそうだねとか頭の沸いた返信をしていたような気がする。いずれお互いに山場を越えたらぱーっとハラオウン邸で打ち上げのバーベキューでもしようとエイミィとは話しあっていた。
 さすがに距離的なものがあるので、なかなか会いに行けないがもちろんティアナちゃんも忘れてはいない。ティーダが実家と連絡を取るときに映像も映るようになっているので、ちょっと割り込んでティアナちゃんに挨拶をしているのだが……柔らかそうなほっぺに触れないのが不満だった。とても。
 最近ではハイハイとも呼べないようなものだった動きもしっかりしてきて、なかなか活発に動き回っているようだ。
 ママさんの腕に抱かれながらもその手でパパさんの髭をぐいぐい引っ張っていたり。
 そんな様子をふっと授業中に思い出してしまって……

「ああ、いいなあ、子供欲しいなあ」

 などとふっと独り言が漏れてしまった。
 授業中だったのだけど、それなりに騒がしかった教室がぴたっと静まり帰る。
 先生までつられたのか止まってしまった。
 数秒後、何事もなかったかのようにスルーされ、授業も進んだのだが、私は縮こまっていた。ひそひそとその事をネタにする話が耳に入ってきてしまい、トイレに逃げ出す五分前の事である。

   ◇

 実のところ私はティーダ・ランスターという奴を舐めていたのかもしれない。魔法の腕前とか私がどうしても勝てないチェス勝負とかでなく、教える立場としてのティーダを。
 飛び級の認定試験で、ティーダの薦めもあって一応高等部の試験も受けてみたのだが──
 ばっちり受かってしまった。
 ……正直、実感が湧かない。筆記の方、それほど自信なかったのだけど。
 魔法についてはさすがに総合評価が低かったものの、高等部からは高速飛行魔法も珍しいとはいえ評価される対象になるので、それでカバーされた形である。
 ディンとココットも一学年の飛び級を決めて、中等部に入ることになった。ティーダは今年卒業予定なので実質高等部は私一人になってしまい、ちょっと寂しいものもある。いや、別に心細いとかそんな事は思っちゃいないけど。多分。
 ……ともあれ今は冬も極まり、私達も山場を越えて一様にのんびりムードである。
 ならば久しぶりに集まって騒いでみるかと、エイミィに予定を聞いてみたが、まだまだ忙しいそうだ。あちらはどうもカリキュラムが違うらしい。流石エリートコースの士官学校。詰め込み具合が半端じゃないようである……あるいはやはり執務官試験に向けてクロノに付き合っているのだろうか?

「そう言えば……」
「んー?」

 何となく馴染んでしまった文芸部の部室に今日も今日で居候中である。いやはや静かで居心地が良い。
 ソファで行儀悪く転がりながら本を読んでいる私にココットが声をかけてきた。携帯端末ではなく部室に据え付けの大きなコンピュータをいじっている。

「最近はティーノもあまり騒がれなくなりましたね」

 そう言われればそうだ。やはり夏休みを挟んだりしたのが良かったのだろうか? 何かここのところずっと慌ただしい状態だったので私自身気を配ってなかったのだが……

「私もすっかり忘れ去られた存在さー。マフィアに攫われてあわやと言うところを脱出してきた奇跡のヒロインなのにー」
「とてつもなく棒読みですよ?」

 そりゃまあ、私自身が全くそんな事思ってない。あれはどちらかというとマフィアが嵌められたというか……うん、カーリナ姉のせいだな。
 騒がれなくなったのもありがたいのみである。白銀のなんちゃらとかいい加減にしてほしい。
 というか、もともと一過性のものではあったのだろう。私自身は外見以外は全く華がないだろうし、マスメディアもそんなネタにいつまで関わっているほど暇ではないということだろう。

「何にせよ静かなのはいいことだよ」
「全くですね」

 お湯が丁度いい温度になったようだった。
 よっこらせと立ち上がり、お茶を入れてココットに渡す。砂糖一個にミルク一個。ココットの好みもばっちり把握してしまっている。
 旧式のコンソールを叩く手を休め、お茶をすすった。私もまたソファに落ち着き、ストレートの紅茶をすする。

「しかしティーノ」
「んー?」
「このデバイスの事ですが……」

 そう言ってコンピュータに接続されている私のデバイスのコアを指でつまんで私に見せるように持ち上げた。

「本当の意味で何でもできるみたいです。機能拡張こそが特徴というべきでしょうか。むしろ、頑強に換装された基礎部分だけしか残っていないというか。確かにこれは……アリアさんでしたか、の言うように現代では見かけないタイプかもしれません」

 そう言うココットの目は既に職人の目になっていた。
 面白いデバイスですね、見せて貰えますか? と何気なく言うので見せたら、ちょっと開けてみてもいいですか? に変化し、ちょっと中のソースコード見てもいいですか? になっていったのだ。
 そう言えばココットの実家ではデバイス製作とかやっているのだったか。あまり自分の家について語りたがらないココットだが、いつかぽろっとこぼしていたような。
 それなら丁度いいのだろうか? 実のところ私もデバイスを貰ったものの、持て余しているというか、デバイスの専門知識などがないので、通り一遍の事は判っても、メンテがどれだけ必要なのかなどはよく判らなかったりするのだ。恐らく元は局員用の一般支給デバイスだろうと思うので、それに従って使っていればいいとも思うのだが。やはり詳しい人に見て貰いたいという部分はあった。
 ティーダに頼るという手もあったが、さすがにそこまで面倒をかけるのも……というのもあったし、デバイスを妙な……銃型に改造されそうである。何しろ既に空士試験を受かる事を見込んで、初任給でハンドガン型のワンオフ機を自作しようなんて考えている猛者なのだ。余談ではあるが地球で3巻まで発売された某吸血鬼漫画……うん、こちらの地球にもあったようだ。を取り寄せてあったのだが、読ませてみたところなかなかハマっていたようだった。銃弾撃ち乱れる漫画だからなあ……対化物戦闘用拳銃みたいなのでも作ったら盛大に笑ってやるつもりだ。なにしろ、イメージが旦那とティーダでは違いすぎる。あのぽややんな顔で……闘争の時間だキリッ、とか言われたら……そ、想像しただけで笑いが……

「ティーノ……?」

 ココットがそんな私をちょっと生暖かい目で見ていた。
 うん、まあ。
 何事もないかのように紅茶を一口含み、仕切り直し、ココットに私のデバイスの整備を頼んでみた。

「しっかりした整備なら紹介できる場所は幾つかありますが……私でいいのですか?」
「うん、実際お金もないし、こう頭を下げて好意にお縋りするしかないんだ」

 ちょっと大げさに頭を下げて拝んでおく。
 ふうと一つ小さな息を吐いてココットは。

「そこまで言うなら引き受けました。ただ、引き受ける以上は半端には出来ませんから……」

 私は顔を上げた。ココットのメガネが光を反射してきらりんと一瞬眩しかった。

「こだわらせてもらいますね。みっちりと」

 何やら怪しげな微笑を浮かべるココット。
 あ、あれ……変なスイッチ押しちゃった? あれれ、ココットさんなんでデバイスの整備に模擬戦室の予約なんて? あーれー。
 気分は帯の端を代官に握られた町娘Aである。その後は数日、私のフィジカルデータ、使用可能魔法、時間帯や気候による魔力の変動値……などのデータ取りに費やされた。
 いや授業もお互い日数だけ貰いに行っているようなものなので、気分的には余裕があるのだが、デバイス整備ってここまでやるものなのだろうか……?
 そして彼女がこだわったのはそういう部分だけではなかった。

「ところで、稼働状態もそんなのっぺりした杖だとあれですし、こんなデザインはどうでしょうか?」

 ──それはデバイスというにはあまりにも大きすぎた。
 大きく、分厚く、そして重く、そして大雑把すぎた。
 それはまさに……

 ……はっとした。どこかで見たようなモノローグが頭をよぎる。。
 ディスプレイに表示されたデバイスの設計書のスペックを見るととんでもない数値だ。

「と、というかココット、それ私の身長の倍はあるんじゃ?」
「ええ、でもこんな出鱈目な代物に改造可能なフレーム持ってるデバイスも、それを振り回せる人もそうは居ないですし」

 それはなんと形容すればいいのだろう、振り回せば馬一頭くらいは真っ二つにできそうな大剣とでも言えば良いのだろうか。
 デバイスコアは取っ手に近い方に位置し、その刀身とも言える巨大な部分は何のためかといえば、図面を見るに魔力の放出機構……だろうか。
 というかこれ質量兵器に当たらないか? 魔力刃とか纏わせない方が殺傷能力高まりそうなんだが、それってデバイスとしてどうよと思わないでもない。

「で、どうでしょうか?」

 と、目をキラキラさせて聞いてくるが、さすがに却下させてもらった。
 露骨に不満気にしていたが、そこは使う方の意見も汲み取って貰わないと困るのだ。大体、そんな大がかりな改造してしまったら私の懐が極寒の地獄と化すこと請け合いである。
 つまらないと言われても普通のままにしてもらった。一般的な武装局員の持つのっぺりした黒い杖である。

「小柄少女に巨大武器はロマンだと言うのに……ティーノはその辺りを理解しないから困ります」
「……そんなロマンを私に求めないでくれよ」

 大体道具は使ってなんぼ、使いやすくてなんぼである。
 私のデバイスの特徴がその拡張性にあるというなら、私の弱点である部分を補う形で組み上げていくのが順当というものだろう。

「むう、仕方ありません。でもせめてこの起動フォルムのデータだけはインストールしておきますね。容量は余っているわけですし……いずれ改造をふふ」
「……好きにしてくれぃ」

 部屋にはコンソールを叩く音が響いた。
 私は一つため息を吐き、紅茶をもう一杯注ぎに行く。

「ところでティーノ」
「ん?」

 ココットが画面から目を離さずに声をかけてきた。

「ドリルを装備する予定は」
「……かんべんしてください」

   ◇

 やがて、年も越し、私は高等部に入ることになり、ディンとココットは中等部へ。
 そして、ティーダは無事に空士試験に受かり、三等空士として働き出した。
 さらっと言ってしまったがそれなりに異例のことでもある。空士の試験枠は従来、陸士訓練校で学んだ人や、その他の部署で数年魔導師として経験を積んでから受けるというのがセオリーだった。魔法学校出たてのひよっこが入る場所ではなかったりする。
 成績が良いティーダなら空士学校も十分行く事ができた。そちらは指揮官の育成機関の色合いが強い。なにしろスタートが違う。始めから尉官であり、給料も良い。
 なぜ、いきなり叩き上げの道に入ったのか、実はそれなりに深い考えが……あるわけないことは聞かされた私が知っていた。
 単純に初任給早く欲しいなーとかそんな思考だったりする。試験に受かってからというもの、給料でどういうパーツ買おうかとか、ティアナちゃんへのプレゼントはどうしようかとか、散々聞かされた身だった。いや、ある意味年相応とも言えるのだが、何というかこう……頭回るんだから、もっと人生に得する道を選べよと言いたくもなる。言ったが。聞く耳もつものではなかった。困ったモンである。
 
 そんな日も続き、おおむね平和だったと言える。
 しかし、昔の人はよく言ったものだ。
 好事魔多しと言う。
 それは夏に入ろうとする頃……ティーダも研修期間じみたものから解放されて一息入れたのもつかの間、若手に経験を積ませるためかミッドの陸士隊との連携を取るために出向中の時。
 突然のことだった。
 ランスター家のママさんはあの後……私が初めて会った日の後も定期的に病院で検査をしていた。そのいつもの検査の帰り道……乗車していたバスが事故を起こして崖から転落。あっけないくらい……本当にあっけないくらいに帰らぬ人になってしまった。私がそれを知ったのは緊急速報でやっていた生放送のニュース番組だったのだが、死傷者12名のうちの名前と顔写真にランスター夫妻が出たときは、間抜けながら、そっくりさんも居るものなんだなと思ってしまったくらいだ。そのくらい、私にとってあの家は死とかそういう暗いものから遠い場所と無意識に思ってしまっていたのかもしれなかった。
 こうして喪服を着て葬式に出るティーダとティアナちゃんの手伝いに駆けつけた今でも、まだ実感の湧かないところがある。
 振り返ればキッチンから焼き上がったアップルパイを持ったママさんが出てくるんじゃないか?
 ちょっと待てば玄関から、今帰ったよ、おや、ティーノちゃんいらっしゃい。とパパさんがのんびりした調子で話しかけてくるんじゃないか?
 そんな甘い事を考えてしまう。
 私は頭を振った。
 これから先きついのは私ではなく、この兄妹だ。
 それなりに付き合いのある私がしっかりしないでどうするというのか。
 まずは……諸方面に連絡しなければならないだろう、場合によってはディンやココットに手伝いを頼むのもいい。
 気を取り直して、頭の中で整理をつける……やることは山ほどあった。



[34349] 一章 十二話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/09 19:13
 その日は腹が立つような快晴だった。
 心の中とは裏腹に、すがすがしく、暖かく、いかにも過ごしやすそうで、何もなければ良い天気だと……皆をピクニックにでも誘っていたところだったかもしれない。
 私の出元でもある施設の院長先生が、聖王教会にもツテがあったというのを思い出して連絡を取ったところ、教会に頼んで神父さまを派遣してくれるようだった。さらに葬儀用の一連のことを教えてもらったのは正直ありがたい。地味に調べるか、葬儀業者に全て頼むしかないと思っていた。
 なにぶん、どれだけ学校の成績が良かろうと、魔法のレベルが大人顔負けだろうと、ティーダもまだ12才……いや13才になったのだったか。
 業者に頼めば確かに一式のことはやってくれるだろうけど、出された情報を鵜呑みにするしかない。疑うだけの人生経験はティーダにはなく、知識が私にはなかった。
 教会から派遣されてきたお爺さんとも言えそうな司祭さまは、私達が皆歳が若いのを見て取り、親身になって世話をしてくれた。善意というのは本当に身に染みる。ありがたい。

   ◇

 朗々たる祈り、夕焼けの橙色に照らされる中でランスターのパパさん、ママさんの棺は土の中に隠れていく。
 ランスター夫妻は友人も多かったようで、たくさんの人がその別れを悼んだ。その中で弱音も吐かずにティーダは応対している。そろそろ一歳半ばにもなろうとしているティアナちゃんは普段は騒々しいくらいなのだが、さすがに場の空気を感じているようで、私に抱っこされ大人しくしていた。
 やがて葬儀も終わり、諸事気を使ってくれた司祭さまに礼をする。帰途についた頃にはすっかり夜の帳も降り、ティアナちゃんは腕の中で静かに眠りについていた。
 ティーダは変わらず表情を崩さない。心配して付き添ってきているディンとココットが時折話しかけると張り付いたかのような笑顔を浮かべて話す。
 ディンがちょいちょいと私を手招きして、小声で言った。

「あいつさ、やっぱかなり無理してるだろ?」
「あー、うん。そりゃ見て判る通り……ね」

 ディンは髪をひとしきり掻きむしってぼやく。

「ったく……そりゃ両親が亡くなるとか想像もできねーけど、こういう時くらい頼れっつんだよな」

 だが、それも難しいと自分で思ったのか、ほどなくディンはため息を一つついて、頭を振った。
 余裕を無くしてると人付き合いも、形をつくろうだけで精一杯になってしまうことがままある。それを思ったのだろう。

「しばらくはそっとしておくくらいしかねーのかなぁ?」

 ディンはなんともやりきれなさげに夜空を仰いだ。
 ランスター家の前に着く。暖かみを感じた家も今はどこか寒々しい。
 すっかり眠ってしまったティアナちゃんをベッドに寝かせ、皆の居るリビングに戻った。
 リビングでは微妙な空気が漂っている。さすがに今の状態では話す事もないみたいだった。むしろティーダに気を使わせてしまっているようでもある。
 私達が居ると休めないかもしれない。ココットもそう思ったのか、アイコンタクトをとってくる。小さく頷くと、私達はそろそろ、と帰路につくことにした。

「そういえば」
 
 駅のベンチで列車待ちの中、あまり美味しくもなさげに清涼飲料を飲みながらディンが思い出したかのようにつぶやいた。

「あいつは局員だから生活は大丈夫だろうけど妹居たよな。ありゃどうするつもりなんだろ?」
「ティーダが上司さんと思われるような人と話していましたが、どうも局内の託児サポートを利用するつもりらしいですよ。少しは周囲の話を聞く癖もつけてください」
「ふーん、やっぱあいつはこんな時でもしっかりしてんなあ」

 ココットはどうやらしっかり葬儀の場でも聞き耳を立てていたようだった。
 夫妻そろって管理局員などという事も割と多いので、そういった事情からも局内の託児サポートはなかなかしっかりしたものが組まれていると聞く。あまり興味がなかったのでうろ覚えなのだが、ティアナちゃんがこの先世話になるというならしっかり調べておく方がいいのかもしれない。
 ……しかし、ティアナちゃんとティーダはあの寒々しい家に二人でか。
 んーむ……何というか、何ともかんとも。むむむ。

「しっかりしているというのは確かですが、先の様子を見ると少々心配ではありますね。明日の午後の授業はどちらかというと出席取るだけのような授業ですし、切り上げてまた様子を見に来てみますか?」
「んー、そうすっかー」

 伸びをしながらディンが答えた。

「ティーノはどうする?」
「あー、うん。そーだねえ……」

 生返事を返してしまった。
 いかんいかん。

「明日ね、うん。行く事にするよ、さすがに心配だからね」

 と慌てて言い直した。
 いや、言い訳をするわけではないが、さっきから寒そうに身震いするティアナちゃんのイメージが脳裏で……ぐるぐると。
 うん、悩んでいても仕方ない。
 私は、ぽんと目の前で手を打った。思い出したかのように言う。

「忘れ物してきちゃった。二人は先帰ってて」

 そう言って駅を後にしたのだった。

   ◇

 夜の町を小走りに走る。
 いつかもこんな事があった、確か地球で目覚めてすぐの頃だっただろうか。あの時も道ばたの家々の明かりが眩しかった。夕食も終わって団らんの時間なのだろう、私の耳には時折笑い声やふざける声が聞こえる。そんな中しんと静まりかえる家の前にたどり着いて、私は息を整えた。
 さほど息が乱れているというわけでもないのだが、こう……来てしまったものの何も考えてなかったので、どう言い訳しようかと……

「ん、面倒臭いな。えいや」

 別にやましい事が有るわけでもあるまいし、成り行きに任せる事にしてチャイムを鳴らす。
 数度呼び出したが、出てくれないので強硬手段を使う事にする。
 高等部に入ってからもちょこちょこ遊びに来ていたら渡された認証キー。
 誰も居なかったら入って待っててね、などと言われて渡されたものだ。すっかり「息子の友達の近所の子」と言った感じである。
 カードを通せば機械音と共に錠が開く。

「……再びお邪魔します」

 小声で囁きながら玄関に入れば中は真っ暗である。
 もう寝てしまったのだろうか?
 何となく足音を忍ばせながらティアナちゃんの寝ている部屋に行き、確認してみる。
 肌がけをかけていったのだが、どかしてしまっている。寝返りをうったようでベッドの端まで転がってしまっていた。

「ん、しょうがないなティアナちゃんは」

 子供の顔というのは本当に癒される。私の顔も笑顔になってきてしまう。
 手を差し入れ寝場所を真ん中に移した。肌がけをかけ直しておく。
 もぞっと手が動いて私の指を掴んだ。

「まぁまー……」

 と寝言が出る。

「……んあ、あれ……ちょっと……え?」

 ティアナちゃんの顔が急にぼやけた。胸が締め付けられるように苦しくなる。
 急な訃報で喪失感を感じる暇も無く、慌ただしさと現実味の無さばかり感じていた私はそこで何故か涙が出てきてしまった。
 この子は物心が付く前に親を失ってしまった。いや、もしかしたら聡いところを見せる子だから、この先物心がついてからも、うっすらと覚えているのかもしれないが……
 我ながら不思議なほどに心を揺さぶられている。天井を向いて目を閉じた。涙は止まらなかった。

 ようやく落ち着いた時には相当時間が経っていたかもしれない。
 涙の流しすぎで痛むこめかみを抑えながら私はスヤスヤと眠るティアナちゃんを見た。
 私が育てるとまではそりゃ言えるものではないが、うん。守ろう。決めた。
 あどけない寝顔を見ながらそう心に思う。

   ◇

 気を取り直して顔でも洗おうとリビングを横切ったところ、真っ暗な部屋でテーブルに肘を突き、祈るような姿勢で手を額に付けているティーダが居た。
 半眼で何もない虚空を見つめ、微動だにしない。
 両親のことでも思い出しているのだろう。完全に自分の内側に引きこもっているようだった。

「こほん」

 わざとらしい咳払いなどをしてみても全く気付く様子もない。
 私はぽりぽりと頭を掻き、思い出したこともあって、パパさんの書斎に向かった。

 トクトクトク……
 漫画などではおなじみの擬音だが、瓶の形状で実際にそういう音が出る。このパパさんが秘蔵だと言っていたウイスキーは特にその傾向が強かった。
 トレーに置いて持ち運べばグラスの氷が動いて涼やかな音を立てた。
 ティーダの横にグラスを置き、私も座ってみる。
 未だ気付かないので、一緒に持ってきたアイスペールの中から一つまみ氷を取り出し、握りこむ。うむ、冷たい。
 十分手が冷えたところでおもむろにティーダの背中に手を差し入れた。

「……ッ!!」

 ティーダが面白い顔になった。背筋がぴんと伸び、ゑという発音でもするかのように口を開けたまま硬直している。
 やがて、ぐぎぎと錆びたブリキのロボットのようにこちらを向くと私を確認すると、驚きの表情になった。

「あ……れ、帰ったんじゃ?」

 そこは……まあ、説明しようもないので、黙ってグラスを滑らせる。
 不思議そうな顔をするティーダに話してやった。
 以前……私が書斎に置いてある高そうな瓶と高そうなペアのカットグラスに目をとめた時の話だ。
 結婚記念の折に、早くに病気で亡くなってしまった父母から贈られたグラスだという。ウイスキーもその折に貰ったものらしい。その隣には似ているがまだ封を切っていないグラスがあった。
 聞くと面映ゆげに、もう少ししたら息子とサシでまったり飲んでみるのも良かろうと思ってね、と言う。どうやらティーダ用のグラスらしかった。

「大事な時に大事そうに飲むための酒だよ。ティーダが産まれた時、ティアナが産まれた時、しみじみと一杯飲んで忘れないようにしていたものさ」

 そこまで話し、パパさんとママさんのグラスをティーダの対面に置いた。

「あ……」

 つぶやきと共に月明かりに照らされたティーダの目から静かに涙が滴り落ちた。
 唇を噛むような表情になり、少し俯く。私が先程置いた、ティーダ用にパパさんが買ったグラスをそっと手に取った。中の琥珀色の液体が揺れる。氷が小さな音を鳴らした。
 そのまま一口、ウイスキーを飲むと「甘くて……苦いね、はは」と泣き笑いの顔になって言う。
 もう一口すすった時には耐えきれなくなったかのように、大きく息を吐いて、グラスを握りしめてテーブルに突っ伏した。

「父……さんっ、母……さん……ぐッ……うあぁ……」

 絞り出すかのような嗚咽を漏らすティーダを、私は頬を掻きつつ見ないようにして翼を現し、すっぽりティーダを包んでおく。そのくらいにはこの翼も伸ばすと大きくなってきている。
 こういう時の男の涙はあまり人に見せるもんじゃないんだぜ、などと心でつぶやいた。今の私が実際につぶやいてもさまにならないのは重々承知だ。
 本棚に置かれたウイスキーの瓶、その隣にいつしか加わっていた、いかにも女の子受けを狙って何かを間違えてしまったような二つの小さなグラス……突っ込みたいのは山々だが、あいにく故人である。その一つに私もちょっとだけウイスキーを貰う。こういう悼み方もまた有りなのかもしれなかった。
 私もその煙るような甘さと苦みのあるウイスキーをちびりと口に含む。天井を向き、細いため息を吐いた。

   ◇

 いつしか静かになっていたので見てみればティーダはテーブルに突っ伏して寝てしまっていた。
 肩をすくめ、グラスを片付ける。綺麗に飲み干されているようだ。
 寝るにしても自分のベッドに行って寝た方がいいと思い、起こそうとして、直前で何となく思い直した。
 せっかく眠れたところで起こすのも忍びない。

「んー、運ぶか」

 長身のティーダを抱えるのは低身長の私には少々面倒なのだが、そこは創意工夫のしどころである。背中におんぶする形で、横にだけずりおちないように翼でガードしておく。力だけはあるので、抱えてしまえば後は楽だった。
 なんとかなりそうだったので、ティーダの寝室までえっちらおっちら壁にぶつからないように運び入れる。

「よっこら……しょっ」

 おっさん臭い声と共にベッドにティーダを降ろしたのだが。

「へ?」

 腕を掴まれ引っ張られた。
 さすがに予期していなかったのでバランスを崩して倒れ込んでしまった。
 いや、ティーダが何故かしがみついているんだ……が……ってええ?
 ちょっと頭がフリーズした。
 そして、私が固まっていたら、なぜかそのまま引きずりこまれて敷かれて……胸あたりにティーダの頭があるのだが、私のは大平原だぞ? 最近ちょっと起伏があるが。
 いやまて、落ち着け。シュールになれ。シュールになってどうする。今の事態が非常にシュールだわ。
 これはあれか、いや、かつて私も男であった時の記憶があるはずだ、思い出せ、思い出すんだ。寂しい時に勢いで一発とかそういうやつなのか? いやティーダがそんな理性的でないことをするなんてこたー、いや考えてみればまだ13才だったか、13才と言えばなんだ、うん、どんなのが相手でもがっちり反応してしまう年頃だなワハハ。
 ……ワハハじゃなく。なんだ、私は若い身空で何かを散らしてしまうのか? こういう時、どうすれば、ああ、ティンバーからのプレゼントが残っていたのだった、持ってくればよかった……って待て!
 何故すでにそんなのが確定してるんだ。そ、そうだ抵抗せにゃ。それが第一段階だった。
 と、混乱しきりな頭の中、ティーダを確認してみれば動きがない。

「あれ……?」

 耳を澄ませばすーすーと気持ちよさそうな寝息が聞こえる。

「ね……寝ぼけてただけ……?」

 私は胸にティーダをしがみつかせたまま、顔を俯かせた。
 顔に血が音を立てて登っている気がする。絶対真っ赤だ。熟れたリンゴのように真っ赤に違いない。
 なんでそんな勘違いをしてしまったのか、10秒前の自分をハンマーで叩きたい気分に襲われる。私は心の中でうめき声を激しくあげながら頭を抱えていた。
 自分のベッドで足をばたつかせて叫びたい感情を必死に抑えこむ。

「平常心平常心……」

 さすがに起こすのは忍びない。
 何とか静かに体を引き抜こうとするものの、がっちり抑えられていてさながら抱き枕の様相と化している。
 幾度かの挑戦と失敗のあげく、三十分もした頃だろうか。
 いい加減もう開き直った。

「もういいや……考えてみりゃ子供同士の雑魚寝みたいなもんだし、寝よう」

 そう行って目を閉じる。
 ……ぬ。
 ……眠れん。

「何故だ……いや、考えるな、考えるだけ無駄だ。寝よう、うん。おやすみ」

 そう言って目を閉じた。
 ついでに今度は定番である羊を数えてみる。
 いやいっそ、素数を……
 眠りたい時の物理学を……

 ──気付いた時にはすでに夜も明けていた。
 気の早い小鳥がつがいを探すための歌をさえずっている。
 私は相変わらず眠気という眠気が一向に訪れず、悶々と悩んでいた。

   ◇

  瞼がゆっくり開いて半開きの目は焦点が合っていない。
 額がかゆさでも感じたのか、目の前の布に額をすりつけた。
 夢でも見ているのだろうか、半開きの口が何かを話し、涎が少し垂れた。
 ふっと眉が寄りまた目を閉じた「う……んー?」といった声が漏れる。
 また一つ、声にもならないような声を出すと、大きく息を吸い、目が開いた。二度三度まばたきをして、今自分がどこに居るのか確認するかのように首を動かす。
 やがて自分がしがみついて涎を垂らしている枕が体温を持っている事に気付くと、ぶるっと一つ身震いをして、ゆっくりと首を持ち上げた。
 目が合う。

「……おはよう、ティーダ」

 こんな時どんな顔をしていいかわからない。私は仏頂面だったかもしれない。
 ともかく一つ挨拶をしておく。
 ……おや?
 ティーダの動きが止まったようだった。
 むしろまた眠たげな半眼になって、胸に顔をすりつけてくる。くすぐったい。お前は子供かと……

「てい」

 眠気覚ましのデコピンを額に放つと、どうやら意識がはっきりしてきたようだった。

「あ、あれ? ティーノ? おはよう? へ?」

 疑問符が多そうな台詞を放つティーダ。
 ちなみにまだ私にしがみついたままの姿勢である。

「まあ……なんだ。起きたならそろそろ解放してくれないかな?」

 そう言うと、改めてやっと現状認識が出来てきたのか、慌ててベッドの端に飛び離れる。いや、離れろと言っておいて何だが……それだと私がばい菌か何かのようで……なんだ、ちょっとムッとするものがないでもない。
 しかしまあ、長い時間ではないとはいえ、人一人を体に乗っけて姿勢を変えなかったのでちょっと体が凝ってしまったようだ。肩を揉みながらベッドを降りた。

「ご……」
「ご?」
「ごご、ごめん! え、ええ、これはどうすれば!? 良かったけど! 事故あいや事後!? ……責任! そうだ責任とらないと」

 突然脈絡のない事を言い出すティーダ。寝ぼけてるのか? うん寝ぼけているっぽい。
 しかし、責任? 首をかしげていると、全体的に縮こまっているティーダには場違いに主張する一部分が見えた。
 ほほう。こりゃなかなか。

「エロい夢でも見た? どんな夢だった?」

 現状確認するように大きくあいた目がキョロキョロとせわしなく動く。急速に目覚めて行く様だった。どうやら現実と夢がごっちゃになっていた事にでも気付いたらしい、だんだん顔が赤く染まっていく。右手で目を隠してあーとかうーとか呻きはじめた。
 恥ずかしい思いをしたのは私だけではなくなったようだった。八つ当たりも良いところかもしれないが、昨晩の自分の事を考えるとざまーみろと思ってしまう。

「ぷふっ……あはは! 冗談だよ冗談。ティーダ……それより」

 そう言って私はベッドの端に座るティーダに近づいた。顔を近づけて精一杯真面目な顔を作ってみると、釣られて真面目な目になった。
 てい、と一声。主張するものをデコピンで軽く弾いた。敏感な部分に不意打ちを食らったためか、硬直する。かなり効いたらしい、私はもう感覚も忘れてしまったが、こりゃ相当効いてる。

「トイレにでも早く行ってきた方が良いんじゃないかな?」
「……ぐぬ、君はまた無造作にそういうことを……」

 二枚目顔を恨めしげに歪めて私を睨む。

「けけ、さーて。私はコーヒーでも入れておくよ」

 相手をせずにリビングに向かった。後ろから目覚まし用に濃いのをと注文が入ったので右手をひらひらして答えておく。
 もっとも、その前にちょっと服も着替えたいのだが。涎を垂らすなまったくもう、と言ったところである。

 グレアムの爺さまには良い顔をされないのだが、私は割とコーヒーも好きだった。
 ドリップ時の挽きたての豆がお湯を吸い込んで膨らんでいく時の香りなどはなかなか他の飲み物では味わえないものがある。
 ただ、苦いのが少々その……苦手だが。子供舌は厄介である。しかもなかなか治らない。
 ストックからコーヒー産地としては古株の銘柄を取り出す。あっさりさっぱりしながらも香りと味のある銘柄だ。
 リクエスト通り、普通より多めの豆を挽く。
 ごりごりごりごり、と景気の良い音が響いた。
 コーヒーミルのハンドルを回しながら何とはなしにレース越しの外の様子を見る。
 今日も晴天、なかなか暑くなりそうだ。小鳥の鳴き声がひっきりなしに聞こえていた。
 お湯が沸く頃には丁度挽き終わる。
 ちょっと注いだお湯で蒸らされた豆が膨らみ、良い香りが漂った。次いで細くお湯を注ぎ入れる。
 このゆったりした時間が、何もない時なら安らぎの一時なのだが……
 やがてティーダが着替えてリビングに顔を出した頃には丁度コーヒーも淹れ終わった頃だった。

「ん、いいタイミングだティーダ」

 ほいよ、とソーサーに乗せたカップを出す。
 ティーダがブラックのまま一口飲み、すました顔でカップを戻す。私がちょっと苦笑いして砂糖とミルクを押しやると無言で投入し始めた。
 一息つくとおもむろに口を開いた。

「ところで、これからの事だけど……」
「ストップ」

 開いた……が、私が待ったをかけた。何を話したいかはおおむね想像できるけどまずは。

「まずは、食欲なくても食事。こういう時だからこそね。支度しておくから、その一杯を飲んで目を覚ましたらティアナちゃんを見ておいて」

 ティーダが、それもそうか、と頷いたのでエプロンをしてキッチンへ向かった。
 こういう時だからこそ、というのは別に詭弁でも何でもない。人間、悲しい事が起こると体も不調になっていってしまうというものだ。そんな時は野菜たっぷりメニューである。朝から手がかかってしまうが野菜三種のジュースに、レタスなどの葉っぱ系中心のグリーンサラダに生ハムをちぎって彩る。ティアナちゃんも余裕で食べられるパンプキンポタージュにマッシュポテトに焼き色をつけたウインナー。
 冷凍して保存しておいたパン種はコーヒーを淹れながら解凍してオーブンに突っ込んでおいたのでもう焼き上がった頃合いである。
 できたよー、と声をかけるとティアナちゃんも起きたのか、ティーダに抱っこされてきた。
 好きな服に着替えさせて貰ったようで至極ごきげんだ。

「おはようティアナちゃん」
「ねぇー」

 覗き込んで挨拶した私に向かって手を伸ばす。言葉の発達具合が早いのかどうかは判らないが、単語だけならもうすでにかなり覚えてきているのだ。
 ちなみに覚えたのはティーダを呼ぶ時の「にぃー」より私を呼ぶ「ねぇー」が先だった。あの時の勝利の感覚はいつしかの模擬戦の時よりも大きかったかもしれない。度々付きっきりで構っていたのが効いたのかもしれなかった。
 よしよしとふわふわの髪を撫で、食事用のエプロンをかける。
 専用の椅子に座らせると疑問を感じたようにきょろきょろして。

「まぁま?」

 と言う……正直きついものがあった。ティーダなんてうつむいて口が一文字になってしまっている。
 空気を感じ取ったのか不安そうな顔になってしまったティアナちゃんを抱きしめた。

「まぁま……はね、遠いところに行っちゃってるから……でも、ティアナちゃん、大丈夫、大丈夫だよ」

 こういう時自分が落ち着かないと、赤ちゃんは鋭敏に感じてしまう。大丈夫だよなんて言葉は自分に向けたものかもしれなかい。
 なんだかんだで病院に行ったりで母の不在にもそれなりに慣れてしまっている。そんなティアナちゃんは泣き出すような事もなく食卓についた。
 最近使いこなしてきた感のあるフォークを使ってポタージュスープに浸して柔らかくしたパンをつつき始める。

「ん、ほら、ぼけっとしてないでティーダも食べる」
「あ、ああ……そうだな、頂くよ」

 しばらくはもくもくと食事が進んだ。
 食欲もそう無いかと思ったが、体が要求しているようでしっかり残さず食べてくれたようなので安心する。根拠も何もない勝手な思い込みだが、食べられるうちは元気なのだ。そして元気があれば割と何とかなるものなのだ。
 食卓を片付け、食後のお茶を出す。ほっと一息。何とはなしに空気が穏やかになってきた。そろそろ良さそうなので。

「……さてと、ティアナちゃんの育児は局の育児サポートを受けるとか昨日は言ってたみたいだけど、具体的には?」

 と水を向けてみる。

「そうだね、申請次第だけど、例えば全面的に子供の面倒を任せるといった時などは本局に住居を移すことになるみたいだ」

 手元の端末にいつの間にか調べておいたらしい情報を映し出して確認しながら説明する。
 しかし……そうかあ、本局に行っちゃうのか……
 心情がが顔にでも出てしまったらしい。ティーダは私の顔を見て軽く苦笑した。

「最初はそれも考えていたんだけどね……考え直したよ。ティアナがのびのび出来る場所が一番だろうしね」

 さらに聞けば、どうやら住居を変えなくてもさまざまな形でのサポートは受けられるらしい。例えば家政婦、シッターの派遣であったり局員としての長期出向時などは一時的に預かってくれる保育所の紹介もあるらしい。さすがに無料とまではいかないものの、格安になるとのこと。
 一応の確認ということで、世知辛い話でもあるが、保険や遺産はどうなっているのか聞いてみたのだが。

「あー、うん。保険金は入ってくると思うんだけど……多分家と土地のローンで……」
「分かった、すまん。みなまで言うな」

 本当に世知辛かった。見せてもらった保険は住宅ローンをした時に同時加入した生命保険なのだろう。住宅ローンを払いきれずに亡くなった際に生命保険から補填されるというたぐいのものだ。
 ミッドの行政の方で確か収入のない若年者の保護制度はあったと思ったが、ティーダは局員になっているのでそちらからの支援は期待できない。

「まあ、なんだ。頑張れ大黒柱。それとティアナちゃんの世話だったらいつでも頼って来るといいよ。高等部の寮広いし。むしろ年中私に預けっぱなしでも私は一向に構わん! って奴だぞ?」
「いやいや、まさかまさか。そう簡単にティアナは渡せないな」

 ティーダはそう言い、放り出したままの端末をいじくるティアナちゃんを後ろから抱きしめる。ティアナちゃんは不思議そうな顔で兄を見上げた。

「そう言うなティーダ、管理局の仕事、特に空士だと出向も多くて家に帰るのも大変だしょ?」

 私はとっておきの秘密兵器、おやつ、余った卵白で作ったマカロンをちらつかせ誘ってみた。ティアナちゃんの目がロックオンに入る。手が伸びてきた。おいでおいでと誘うとまだ頼りない足取りで歩いてくる。私のもとまでたどりついたので持ち上げて腕の中にすっぽり納めた。いい感じに歩けたぞと、褒美にマカロンをくわえさせる。

「家の行き来に関しては、転送ポートの使用許可があるから大丈夫なんだよ」

 お菓子で釣るなんて卑怯な、とでも言いたげな顔で言う。
 そういえば局員になると使用許可が降りるんだったか。転移魔法は事故もあるのでミッドでは原則禁止なのだが、あちこちに点在する転送ポートを用いた転移だけは許可されている。通常は局員にしか使えない施設ではあるのだが。
 ともあれ、それなりに考えているようで安心はした。
 私は抱え上げたままのティアナちゃんの食事エプロンを外した、わりと綺麗に食べてくれる子なので服は汚れていない。……むしろ私の格好の方が、以前遊びに来たときに置いていったままだった仕事着みたいなものだが……まあいいか。

「それじゃ、腹ごなしにちょっと散歩でもしてくるよ。ティアナちゃんも外に出たいだろうしね」

 僕も、と椅子から立ち上がりかけたティーダを手で止めた。

「申請書類書かなくちゃでしょ、家が静かなうちに片付けておきなよ?」

 そう、申請する事はそりゃあ……ぱっと思いつく限りでも不動産の登記変更、局への育児サポート申請、保険や銀行にも連絡しないといけない。
 日本のそれよりは合理化も進んではいるのだが、それでもこういう時の手続きの大変さはどっこいどっこいといったところだった。むしろミッドと局への申請書類は被るものも多い分大変かもしれない。
 それもそうかと項垂れるティーダの肩をぽんぽんと叩いてなぐさめ、日の眩しい外に出ることにした。

   ◇

 ついでに買い出しも済ませ、いつの間にか昼を過ぎそうになったので戻ってみるとディンとココットが来ていたようである。
 日傘を玄関に置いて「ただいまー」と一声。ひとまず買い物の袋も置いて、ティアナちゃんのベッドに向かう。どうも揺られると弱いのか、すっかり眠ってしまったのだ。だっこ紐を解いて、丁寧にベッドに降ろす。ベッドに入ってガーゼの肌掛けをかけると、目が半分開いてまどろみながら「ねぇー」とつぶやいて私の手を小さな手が掴む。

「……ぐあ」

 私は左手で胸を抑えてたじろいだ。胸キュンさせられるのも全く何度目であることか。じ、自制しないと、猫可愛がりしてしまう。
 しばし、寝付かせる時のように、安心させるように布団をぽんぽんとゆっくり叩いていると段々掴んだ手の力が抜ける。半眠りのようだった瞼も落ちて、穏やかな寝息をたてはじめたのだった。
 リビングに行くと、早速といった感じでココットがニヤニヤと妙な笑いを浮かべながら近づいてきた。

「ゆうべはお楽しみでしたね」

 開口一番の台詞がこれである。お前はどこの宿屋のエロ親父なのか。
 私はがっくりと肩を落とした。大きくため息が出た。

「それとティーノ、忘れていたようですが高等部の寮監さんには私から話を通しておきましたよ」

 あ、と思わず口から漏れた。いや、すっかり忘れていた。高等部と言ってもそりゃ無断外泊は厳禁である。伝えておかないといけなかったのだ。
 感謝感謝とココットを拝んでおく。
 そろそろ時間も時間なので、昼の支度に入るためにエプロンを装着した。

「二人も昼食はまだだよね?」

 午前の授業が終わってその足で来たという事らしい。二人分を追加で作ることにして、キッチンに向かう。

 朝とは違い昼食は至って賑やかなものとなった。
 昨日の今日なので、二人とも心配していたのか、気を使って場を明るくしようとしている。
 ティーダは終始穏やかにティアナちゃんの今後のことをどうするかとか、家のことをどうするかとか、今朝方私と話したようなことを二人にも話している。
 ディンがなぜか私の方をちらりと見て、ココットと怪しげな目配せをした。
 おもむろに頷き合う。

「ティーノ、ティーノ。ちょっと来て下さい。ティアナちゃんの様子を見に行きましょう」

 何ともあからさまにココットが私を誘導してきた。思わず不審げな顔になってしまうのだが……ともあれ、ティアナちゃんの様子もそろそろ見ておきたい時間ではある。お昼寝から起きれば時間的にもうお腹も空いている頃合いだろうし。
 そんな理由もあり、ココットの思惑に乗ってみる。
 リビングを出てドアを閉めると、途端に部屋の中でどたんばたんと音がした。ティーダの「うわなにをするやめ……」なんて声が聞こえた。何をじゃれあってるのだか。一つ肩をすくめた。
 寝室に入り、ベッドを覗き込めばまだティアナちゃんは静かに眠っている。疲れてしまったのか……あるいはここのところの皆の緊張を子供ながら感じていたのだろうか? 妙に静かな時があったし、そうなのかもしれない。

「眠り姫はまだ深い夢の中だねー」

 私はベッドの傍に中腰になって寝顔を覗きながら起こさないように小声でココットに話した。ココットも控えめにこそこそと口を開いた。私を指さしていわく。

「……顔が有り得ないほどたれてますよ?」
「うぇ?」

 それは言われた事がなかった。自分の指で顔を触ったり押したりしてみる。そんな有り得ないっていう言葉使われてしまうほどすごい表情になっていただろうか……
 うーむ、と唸りながら私は首をひねったのだった。
 しかし……ココットもディンも私の耳の良さというものを甘くみているようだ。実のところ、集中して音を聞くとそりゃもう1キロ先の針の落ちる音が聞こえるんじゃなかろうかというぐらいなのだ。全くのアホスペックである。もちろん、普段からそんな地獄耳だと生活に困る。意識しないとそこまでは聞こえないのだけど。
 そして、短い廊下を隔てて、一つ先の部屋くらいならドアが閉まっていてもそれなりに聞こえてしまうのである。ちょっと意識すれば。
 内容はと言うと……まあ、聞かなかった方が良かったと言うべきか……なんとも。

「おいおい、昨夜とは随分顔色も違うし余裕しゃくしゃくじゃねーか」

 と、ディンがティーダに絡む言葉から始まった。なんだかばたばたと騒いだ後の事である。

「……も、もしかしてやっぱなんだ、アレか、男としてやるべきことやっちまったのかええ?」

 なんてちょっぴり恥ずかしそうにティーダに聞いている。
 ティーダはティーダで勢いに飲まれたのか。

「あ、う、うん」

 何て言ってしまった。お、い……

「ど、どうだった? やっぱ胸とかそれなりにあったのか? 俺はティーノは着やせタイプだと思うんだが」
「あ、いや胸はちょっとだけ」

 以下略である。というか聞き耳を立てているのが馬鹿らしくなったというか、何というか。非常にむずむずするものがこみ上げてくる。
 自分がその手の話のネタにされてるというのはどうにも居心地の悪いものだった。
 というか、ココットの開口一番のネタといいどいつもこいつも、そればっかりか。

 寝息を立てるティアナちゃんの隣で私もぐっすりと安眠に浸りたくなった。考えてみれば寝てない。溜め息が漏れた。全くもってやれやれである。



[34349] 一章 十三話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/09 19:14
 ティーダやティアナちゃんにとって……いや私にとっても大きな衝撃となった夏は終わった。
 悲しみに暮れている間もない。いや、生きているものは精一杯生きるのが一番の供養なのかもしれないが。
 元々ランスター家には時折遊びに行ってはいたのだが、ティアナちゃんの世話を焼きたいので以前よりさらに行く回数が増えた。学校側の交通料金免除がとてつもなくありがたく思える。

 秋口にもなった頃、日曜大工というわけではないが、ちょいちょいと作ったおもちゃ代わりのベビーカーにティアナちゃんを乗せて、学校に来ていた。
 ティーダが急場の出向となって、頼んでいる保育所の手配が間に合わなかったのだ。そしてこの学校の良いところはそのアバウトさ加減である。おおらかと言うべきか。授業中はさすがにクラスに入れるわけにもいかないので、わけを話したら寮監さんが預かってくれた。
 そして放課後にはティアナちゃんのお披露目タイムである。いや、実のところ悩みの種のようなものもあったのだ。保育所では同世代の子たちとそれなりにやってはいるものの、年上と話す経験が足りてないように思えて仕方がない。本当なら、ママさんに連れられてその地域のコミュニティに入ることで段々学んでいくものだと思うのだけど……無いものねだりである。なので、人と接する機会がある時は有効に活用しようというわけなのだ。
 私自身の気恥ずかしさもあって、ちょっと吹っ切れるために遊び心で「子を貸し腕貸しつかまつる」なんて墨で書いた幟をベビーカーにつけた。練習用の木刀を腰に下げ、ベビーカー……いや、手押し車を押す。ティアナちゃんがノリよく「ちゃーん」とか言っている。アレを見せた覚えはなかったのだが、はて……
 私が心配するまでもなく、ティアナちゃんは人見知りせずにクラスの同級生たちに笑顔を向けている。一つほっとした。
 私の遊び心は……

「いや、子を貸しちゃ駄目だろう」

 と真面目に返されたのだったが。そうだね、その通りデスネ……考えて見ればすごい時代と設定である。作中の様式美めいたものとは思うけど。
 そして、誰の子かと聞かれて、正直にティーダの妹だよと言ったら、女子たちのこう……将を射んと欲すればまず馬を射よみたいな目が怖かったのだが。あやつめ、高等部だとさりげに衰えぬ人気があるのだ。私も年齢が同じくらいだから見逃されているようなもので、通常の高等部の年齢だったらと思うと少々その……身震いを禁じ得ないような気がした。

   ◇

 ミッドチルダにも冬は来る。
 ここらでは雪の量こそ少ないものの、山間から吹き下ろす風が冷たい。コートが手放せなくなってきた頃、最近忙しいのか、あまり姿を見せなかったアリアさんが突然襲撃してきた。
 というより自分の部屋に戻ったら、我がもの顔で緑茶を飲んでいたというのが正しいのだが。
 買った覚えのない、いつの間にか部屋に置かれているこたつに入って気持ちよさ気に尻尾をくねらせていた。さすが猫。今にも丸くなりそうである。

「あ、お帰りなさいティーノ」
「……突っ込まない、いかにも突っ込み待ちだからあえて突っ込まないよアリアさん」
「それは残念、ロッテが日本土産にって持ってきたものなんだよ?」

 そういってコタツをぺしぺしと叩く。電気の規格が違うので間に挟まれた変圧器がとてもその、ごついことになっています。

「それで……」

 と、私も自分用のカップに緑茶を貰う。一つすすって、懐かしい味わいと香りにほうっと息を吐いた。

「何の用事もなしにアリアさんが足運ぶとかはないよね、いや遊びに来ただけっていうなら、キウイフルーツと蜂蜜のポンチでもご馳走するけどさ、枝付きで」

 なんて言うと耳がぴんと尖った。判りやすい。以前マタタビのような効能に酔っぱらった事でも思い出したのだろうか、そわそわし始めた。
 何の意味もなくちょっと目が左に右に動き、やがて上目使いに私を見た。

「用件も持ってきたんだけど……作って?」

 ……ぐぬ、なぜ無意味にこの猫さんは可愛いのか。お姉さんめ、私の敗北である。
 最近私もいい加減変態なのではないかと思わないでもない、ティアナちゃん然り、どうも可愛いものに弱すぎだった。
 こほんと一つ咳払い。

「そ、それで用件っていうのは?」
「んー、ティーノからすると微妙な話かもしれないけどね」

 そう前置きして茶碗をことりと置く。

「ティーノは今年の空士試験受ける気はない?」
「はぃ?」

 耳を疑ってしまった。ありえん。
 確かにティーダとか去年は一発合格してるが、その枠だって普通は経験者というか、何年か実務経験済みの連中向けだったような。
 そりゃ私も私なりに頑張ってはいるものの、才能の壁は厚く、ティーダみたいにトップぶっちぎりとは行かない。高等部に入ってからというもの成績は上から5、6番目で安定と言ったところなのだ。
 卒業するだけなら現状でも簡単だけど、この後は順当に訓練校でも行ってから空士か、あるいは即座の稼ぎを考えると、順当なのは……

「いや、アリアさん、私としては身の丈に合わせて陸士訓練校の短期コースでも取ろうかと思ってたんだけど」
「……せっかくのレアスキルじみた能力があるのに勿体無いよ」

 と言われても、魔力供給技能というのは一朝一夕に何とかなるものでもないし、高速飛行技能にしてもクロノのような堅くて強い魔導師が高速で飛び回るならともかく、私では蚊とんぼも良いところである。当たらないうちは良いけど、当たれば即撃墜なのだ。
 さらに言えば翼の事だの、魔力素を節操なく魔力に変換できる体質など、一応隠しておくべしとされていることが多い身の上である。このレアスキルじみた能力も、アリアさんは評価してくれているが、出来ればあまり頼りたくはなかった。というか絶対ボロが出そうである。リーゼ姉妹やティーダは知っているし、施設の皆にもばらしているので、今更とも言えるが、好きこのんで宣伝する気もなかった。
 もっとも、そんな理由だけでなく、空士は難関なのだ。普通に。私が受かるかと言えば首をふらざるを得ない。そもそも一次試験は夏の間のはずなのだが。
 ……いやまあ、アリアさんならそんなのは十分わかってるはずなのだが、はて?

「なんで今の時期に私にそんな話を?」
「んー、ティーノは局の人材不足の話って聞いてる?」
「そりゃまあ」

 耳タコと言うほどではないにしろ、どっちを向いても人材不足でうんうん言っているなんてのはよく聞く話である。
 管理世界広げすぎなんだよという声も上がるが、どうなのだろうか。そこらは政治の問題になるので、ティーダからの又聞きだが、技術供与を狙って傘下に入ろうとするところもあるのだとか。それでも名目上人員は送らないとならず、今の局の人員の体制は薄く広くなっているそうだ。そうなると人手が足らず、陸の治安部隊の中からの引き抜きという事も起こりはじめ、元々仲の良くない陸と海がなおさら険悪になっていくという悪循環にもなっているらしい。

「局も大所帯になったからね、人員が足りないのは毎年のことなんだけど、今年は例年に輪をかけて不作なの」

 一次試験も酷いもんだったわと、アリアさんは息を吐いた。それでねと続けた。

「人事部が思い出しちゃったのがティーノの存在」
「へ?」

 なぜ私が出てくるのだ。

「去年あたりマフィアに攫われたと思ったら奇跡の脱出劇、それ以降は夏場を境にそれまで平凡な成績だった少女が心機一転初等部としてのトップ成績に踊り出し、いきなり高等部に飛び級合格なんて流れの人物に覚えはない?」

 嫌な汗が流れた。

「え、えっとぉ、覚えは無くもないかなーとか、だ、誰だったかなあ」
「それは心当たりがあって良かったね、何でも人事部がその人を局員募集のための看板人員に採用したいらしいよ?」
「……客寄せパンダっすか……」

 私はがっくりとこたつの天板に脱力した。

「去年の一件はマスコミはともかく、管理局の方はお父様が沈静化を呼びかけていたのだけど、さすがにそれだけ揃ってしまうとなかなか庇い立ても出来なくなっちゃったの」

 立場も立場だし、ごめんねとか申し訳なさげにされると、むしろこちらが申し訳ない。考え無しだったのは私だったわけだし。いや、そこまで考えられる状況じゃなかったけど。というか、昨年の事件のおり、明らかに局の宣伝っぽかった映像が急に止んだのはそんな裏があったのか。何とも頭が上がらないというか、ううむ。今度スコッチでもお土産に持っていくとしようか。

「ただ、勧誘したいって言っても、公の試験で受かるかどうかは別問題ですよね」

 実際、私が空士試験を通るとは思えないのだ。

「ティーノ、それはちょっと人事部を甘く見てる。最初から欲しい人が決まっていれば受かるかじゃなくて、受からせるの。何だったら適当な口実で特別枠を組んでもいいし一次、二次くらいは推薦枠ということでシード扱いするつもりみたいだし」
「公の試験で横紙破り?」
「大人のやり方って言うと品がいいよ」

 品がいいだけで内実は変わらない。狡っ辛いものである。

「最初から試験を受けなかった場合は?」
「どのみち局に入ることは判ってるんだから陸に行っても引き抜かれて同じことになると思うよ」
「……管理局入りを避けた場合は?」
「それはベスト。さすがに民間人を引っ張ってこようとはしないだろうし。でもいいの?」

 そういえば最初から、グレアム爺さんやリーゼ姉妹は私が局に入る事にあまりいい顔はしていないのだった。
 ともあれ、さすがに管理局入りを避けるという選択はない。
 自由度の問題もそうだが、稼ぎもいい。最近見ていないけど……あの妙な夢を思えば実際に行って確認しておきたい場所もある。
 腕を組んで考え込むことしばし。
 私はアリアさんの提案を受けることにした。
 途中でふっと疑問に思って聞いてみる。

「そういえば、なんでわざわざアリアさんがこの話を持ってきたの?」
「ん? ふふ、しばらく見ないうちにティーノも女の子言葉が馴染んできているね」

 むぅ……馴染んでますかそうですか……

「膨れない、膨れない。理由はね、私が直接の推薦者になれば局内での「我が儘」が通るからよ。言ってみれば人事部が手を打つより先に手を打っておこうって事。別に人事部からの推薦に乗ったから酷いことされるってわけじゃないけど、いいように扱われるのは避けたいでしょ?」

 参った……この猫さんに頭が上がらねぇ……

「ティーノ?」
「当店のグルーミングサービスでございます。日頃の感謝の印としてどうぞ楽にしていてくださいな」

 そういってアリアさんの後ろに回ってその長い髪、文字通り猫ッ毛のそれをブラシで整え始めた。しかしさすがにふわふわしている。顔を埋めたい衝動がもたげるが、それを抑えながら梳る。しばらくすると、なかなか私愛用の馬毛ブラシも気持ちよかったようだ。静電気除去効果もある一品である。いつしか目を細めて喉を慣らしそうな雰囲気である。もうちょっとなのだ。ごろごろ喉を鳴らしそうなのだ。ごろ……まではいくのだが、ふっと我に返って自制してしまうのだ。ああ、なんか悔しい。
 はっと私が我に返った。いかん、癖になる。猫パワーやばい。

「うにゃ?」

 軽く猫モードに入っているアリアさんがとろんとした目で手を止めた私を見上げる。
 モフりたい、存分にモフりたい。くっ、収まれ私の右手。
 ……なんて、いつまでやっていても仕方ないので、約束通り、キウイの蜂蜜ポンチを作ることにした。
 作り方は簡単、良い香りを放って甘くなってきたキウイを輪切りにしてレモンとほんのり砂糖をまぶして少々おいておく。その間に蜂蜜とキウイの剥いた皮を水を入れた小鍋で煮てこちらにもレモン汁。こうすると皮と実の間の香りがシロップに移るのだ。氷でシロップを冷まして、砂糖の馴染んだキウイと合わせ、猫さん用にキウイの枝を飾り付けて完成である。

「はい、召し上がれ」
「ん、良い香り。ティーノの作ったものを食べるのも久しぶりね」

 フォークでキウイを半分に割って一口大にして口に入れる。これがロッテさんだとがぶりと囓ってしまうのだが。
 ちなみに猫科にマタタビの類はやはりアルコールのように癖になるようだった。今回は猫形態になることこそなかったが、目をとろんとさせながら時折「んー」と幸せそうに頬に手を当てている。
 しかしまあ、なんだ。男ドモが居なくてよかった。顔を上気させて時折、ほうっと熱い息を吐くアリアさんはなかなかどうして色気たっぷりである。
 キウイを食べ終えると、その枝をしゃぶりはじめる。舌を絡め、とろっとした目付きで……
 私が生唾を飲んでしまう程だった。これはティーダやディンのお年頃な男の子が見たら夜中、悶々して眠れなさそうである

 そんなアリアさんも帰り、私はこたつに入って、ついでにこれも置いていった急須にお茶を入れて一服。
 ふへぇとだらしのない息を吐く。

「まさかこんな形で局入りとか……予想の外過ぎる。どうしよう」

 つぶやいた言葉も少々情けなかった。
 何というか、こんな形で空士に入ってもちゃんと試験受けて入っている局員に失礼というか申し訳のなさが先に立ってしまうのだ。
 今まで考えもしなかったことだけに、全くもって困ったものだった。

   ◇

 じっくり悩んでいる暇もなく、何というか流されるまま、アリアさんから送られてきた書類一式を書いて送れば冬の本試験である。
 試験会場は実に居心地の悪いものだった。
 いや、私が勝手にそう感じているだけだったのかもしれないが。
 空士試験は三段階。一次二次の段階で学力や基礎魔法などは審査されているので、後は面接と応用力があるかどうかを見るための実戦を想定した模擬戦が行われる。デバイスも局員が使用する通常のデバイスを使用、登録してある魔法と試験中に戦いながらアレンジできればそれを使ってもいいらしい。
 この模擬戦は受験番号が後の人間は見る事が出来るが、一人一人試験内容を変えてくるので、当て込むことは出来ないようだった。
 しかし、受験生のレベル……アリアさん、どこが不作なんだ……基準レベルが高すぎるんじゃないか?
 早くも泣きが入りそうである。
 確かに私より魔力の容量も出力もばかでかいとかクロノのようにもうレベル判らないくらい高水準で完結されているとかはないのだが、ほとんどが現役の武装局員である。学生がたまに居ても専門コース出の人間のようだ。そりゃもう、魔力の使い方に無駄がない。基本中の基本、たかが魔力弾一つとっても、私が10の魔力を注いで2のロスが出てるのに対して見た限り平均的なロスは1以下である。そして私の倍の展開の速さ、倍では効かないマルチタスク能力、やめて私の精神力はもうゼロよ! と声を大にして叫びたい。
 もちろん、ただ戦って勝つだけならそりゃ私にもやり様はある。人一倍どころではない身体能力をフルに使って、ありえない軌道での奇襲とか……だがしかし魔導師としては、うん。言うに及ばずだった。
 受験番号順に最後の私の番が回ってきた時には、何というか、考えて悩んでいた事が何だか馬鹿らしくなっていた。一周回って開き直っていると言っても良いかもしれない。

「受験番号1192番ティーノ・アルメーラです、よろしくお願いします!」

 意気込んで挨拶をして、試験会場に飛び出し──
 5分で撃墜された。

 というか、魔力弾通らないんですけど。試験官のプロテクション堅すぎ。そしてそうなると砲撃魔法とか多角的に攻められる誘導弾とか決め手のない私は詰みである。ぶんぶん飛び回って射撃を回避していたものの、後ろを追う誘導弾を確認してみれば圧巻の光景だった。30発くらい追ってたんじゃないだろうか。私が避けてしまってすぐに当たらないからってバカスカ撃ってた音がしたがあれか。
 そして集中を乱され、狐狩りのように弾幕に追い込まれ、チェックメイトである。いや、魔力ダメージだけとはいえあれだけの数は痛かった……

   ◇

「……でも合格だったのは納得いかないというか、真面目に受かったティーダには本当にごめんというか」
「あはは、いいじゃないか。給料も貰えるんだし、自由度も増える。これまでは保護規定が挟まっていたから窮屈だったんだろう?」

 ティーダはやっぱりぽややんである。善人なだけじゃこれから厳しいぜーと思いつつ、ジュースで喉を湿らせた。まあ、ぽやぽやしてるだけじゃないのは私も知っているところだが。
 テーブルの上には4人では食べきれない量の食べ物が豪華絢爛に盛ってある。
 ティーダ、ディン、ココットに空士試験の一件と、その後の合格発表の一件を話したところ打ち上げの一席を設けてくれたのだ。
 この3人には私がなぜ合格なんてことになったのかという顛末も話してある。

「そうそう、ティーダの言うとおり。細かい事はいーって。ティーノならそのうち実力が追いついてくるだろ」
「その通りです、誰よりも努力家なのは知ってますから、心配してません。ティーノなら何とかすることでしょう」

 ……そりゃ、また。随分と褒めてくれる。何とも照れくさくなってきた。

「おええと、ねぇー」

 最近、俗に言う言葉の爆発期というやつを迎えてすごい勢いで言葉を覚えているティアナちゃんが私の膝の上からそんな事を言ってくれる。
 多分ティーダがこう言うんだよとか教えたのだろうけど、全くもって顔がにやけてしまうじゃないか。

「うんうん、有り難うティアナちゃん」

 そう言いながら、先程からティアナちゃんが見ている、テーブルの上の豪快なローストチキンを手頃な大きさに切ってティアナちゃんの目の前の皿に盛りつける。早速といった感じで手をつけはじめた。
 ああもう、落ち着いて食べないと、こぼしそうに……こぼした!

「しかし、これでティーノもとうとう局員ですか。なんだかんだで早期に学校を卒業して管理局入りという目標は達成ですね」
「ん、文字通りお飾りの局員だけどね、というか管理局はマスコット欲しいならモデルでも雇えば良いんじゃない?」

 私はそう適当に返しながら、おしぼりでティアナちゃんの袖口を拭く。ソースがついてしまった。
 無理無理とココットが手を振る。

「経歴もまた重要でしょうから。そしてドラマ性。さらには背後にあのグレアム提督。おあつらえ向けだったのですよ、色々と」

 ぐうの音も出ない。綺麗に拭き終わり、はい良しとティアナちゃんに合図をする。今度は慎重にお肉を持ち上げているようだ。そこまで見届けた私はため息をついた。いかにも体に悪そうなイエローバッドという黄色いコウモリのマークの入ったジュースをティーダから奪って飲む。いかにも体に悪そうな味がした。

「ちょ……」
「八つ当たりだよ悪く思えティーダ」

 さて、と流れを変えるようにココットが話を切り出す。

「これは皆からのお祝いですティーノ」

 そう言って小箱を渡してくる。有り難やーとばかりに受け取り、開けても? と聞くと自信ありげな顔で頷いた。
 何だろうか、確か去年のティーダの就任祝いには局員の制服にも合わせやすそうな革靴を皆でお金を出して買ったのだったか。
 そして小箱を開くと、見覚えのあるカード状のデバイス……である。
 ココットには確か整備を頼んで預けっぱなしだったが。
 こめかみから冷や汗がつつっと落ちた。
 まさか……

「ティーダからの意見も取り入れつつ出来上がったティーノ専用デバイス、名付けてハイペリオン。古い言葉で『高みを行く者』らしいです」
「全部うちの会社の部品で作ってあるからコストについては心配すんな!」

 とはディン。あれ、家出中とかそういうのじゃなかったか。

「話を切って悪いんだけど、ディンは実家とは……?」
「ああ、そういや話してなかったっけ。和解した。継ぐ事にしたんだ会社。ティーダが卒業してからもいろいろ考えてたんだぜ?」

 鼻をぽりぽり掻きながら言う。

「だから来年からはクラナガンの経営学科のある学校に編入する事になりそうなんだよ」

 うーん、そんな事になってたとは。
 しかし、確かに会った頃からすれば今の方がずっと落ち着いている。むしろ貫禄のようなものさえあるかもしれなかった。
 私はそっか、と一つ笑ってグラスをディンのグラスにぶつけた。

「なら、互いのこれからを祝ってだね」

 だなー、とディンもまたにやりと笑ってグラスを干した。
 ココットはどうするのかと聞けば、クラナガンに行きます。と頬を赤らめながら小声で言う。恥ずかしがるポイントが判りにくい。

 ついつい話をぶったぎってしまったが、ココットにデバイスの説明を頼む。
 さすがに店内でデバイスを起動させるわけにもいかないので、端末を利用して図面を映し出した。

「ぶ」

 と吹き出してしまう。
 対照的にディンは「かっけー」などとティーダと一緒になってはしゃいでいる。
 おしぼりでテーブルを拭きつつ、もう一度まじまじと画面を見てみた。
 起動状態は通常の局員の持つデバイスと何ら変わりはなかった。形だけは。カラーは部署により違ったりするのだが、杖状であり、先端にデバイスコアが設置されている。ただしサイズがまったく違っていた。全体的に長柄になり、先端部の重量感たるや、中世の鈍器じみている。全長は私の身長より20センチは高いだろうか。というか振り回すだけで人間を撲殺できる。この子は本当に私に何を求めているのか。
 いや問題はそこではない。そこからさらに矢印が伸びている。その矢印の先を指してココットが説明を始めた。

「まず、起動状態からさらに変化したこの形態をソードフォームと暫定的に呼ぶものとします。見ての通り、武器の形をしていますがれっきとしたデバイスです。現在、ベルカなどで細々と使われ続けているアームドデバイスというものですが、いずれこれは流行るものと見込んでいます。技術屋のはしくれとして最先端を常に求めておくのは当然なのでこの通り挑戦してみました」

 ココットのメガネがきらりんと光る。
 いやまあ、突っ込みどころがたくさんあるのだが。私はおそるおそる口に出してみる。

「で、その実用的から全く外れた大きさは何?」
「ロマンです!」

 そうか、そうか……ロマンなら仕方ないな……例えそれがもう、人の持つ剣じゃないような大きさだったとしても。どうやら、いつしかココットが作っていたデータをそのまま形にしてしまったようだった。
 デバイスコアは柄頭に移動され、その禍々しげな刀身はとてもとてもデバイスとは思えない。よく見ればその刀身にはスリットが各所につけられていて、魔力放出するようになっている。刀身の一番下のあたりにスラスターじみた過剰魔力の排出口があるのがかろうじてデバイスらしく見せていた。
 全長はもう、考えるの馬鹿馬鹿しいサイズだ。こういうのは身長2メートルの巨漢に振らせるのが正しい。私では振る事ができても私自身が剣の重量で振り回されてしまう。
 私が疲れたため息を吐くと慌てて説明してきた。

「お、大きさにも重要な意味があるのですよ? 特に魔力放出機能を備えている刀身の大きさと集束点です」

 はて……デバイス工学の方は一般的な教科書に書かれている整備に必要な事以上には知らない私である。
 何というか全く思いつかないのだが。
 首をひねっているとティーダが口を挟んできた。

「魔力刃だね」
「ぴんぽん、その通りですティーダ。マイナー魔法にも博識です」

 とココット。しかし、魔力刃か、ミッド式では確かにあまり知られていないが私は視野に入れていた。というか、出力低くても常時放出しているだけの魔力が確保できればなんとか形になるのだ、あの魔法は。もともと私自身が恭也にもらった木刀を習慣とはいえぶんぶん振っていたりしていたので、イメージしやすかったというのもあり、マイナーな割に自然に手をつけていた魔法だった。

「言ってみればこの形態は単一魔法に特化した形です。魔力刃しか使えません。その代わり」

 と細かい解説に入る。どうも、魔力刃の強度を上げるには出力を上げるか、デバイス側での魔力集束、この場合は砲撃などの集束技術とは別物らしいが、を上げるしかないそうなのだが、デバイス側でそれをやろうとするとどうしても大型化してしまうらしい。

「構想はすぐ浮かんだのですが、デバイスを構築する際にこの魔力の集束問題が技術屋には頭の痛い問題なんですよ」

 と、一呼吸置く。

「使い手が怪力のティーノなので思い切ったデバイスに仕立ててみたというわけです。まだ計算上の数値しか出していませんが……大型化したことで魔力刃として構成される総魔力量のリミットも巨大なものになっています、最大まで魔力刃として溜め込んだ場合にはすごいことになりますよ? ティーノの特性、瞬間出力ではなく総出力の巨大さを考えれば全長100メートルの斬撃も不可能ではありません」

 ココットがどやぁと言った顔をする。
 実戦で使えるのだろうか……何だかすごく実用的から遠く離れてしまっている気がする。でかけりゃ良いってもんじゃないというか、ココットは私をどうしたいのだろうか。
 いや、まあ。仕様見れば私の欠点とか長所とか見て考えてくれているのだろうし、うん。
 有り難く受け取っておこう。
 ソードフォームは使うかどうか判らないとしても。

「それにしてもよくそんな形、文句言われなかったな、登録審査通ったんだろ?」
「ふっ」

 とココットは鼻で笑った。

「甘いですね、ディン、ちょっとはマシになったかもしれませんが相変わらずの甘さです。こんな大きすぎて扱いにくいものを武器と思いますか?」

 武器として使える人間がいなければそれすなわち武器ではなく、趣味の一品なのです、とココットはニヤリと笑う。
 いいのか、それで通ってしまって本当にいいのか管理局。
 私は頭を抱えたい思いに駆られた。

「さらにはティーダの意見として、射撃時の魔法構築もティーノ向けに調整してあります、仕様は後でよく読んでおいてくださいね……ひとまずこのくらいで。後は模擬戦所でも借りてデータを取りながら調整するとしましょうか」

 ココットはそういって締めくくり、思い出したかのようにレモンティで口を潤した。

「というか、なんで普通の起動形態も大きくなってんだ?」
「あ……」

 何というかソードフォームの迫力で忘れていた。
 ココットを見ると視線を逸らされた。
 さらに見ていると冷や汗が浮かんでくる。

「……ふむ」

 往生際が悪いので、ティアナちゃんやっておしまいなさい、とばかりにいつの間にか取りいだしたる鳥の羽を持たせ、首筋に突貫する。こうやるのさーとばかりに見本も見せた。
 私とティアナちゃんのツートップにて、首と言わず腋と言わずがっちり掴まえ遠慮無くくすぐってやると、さすがに顔を真っ赤にして耐えていたココットも「話します、話します」と白旗を上げる。
 しかし興が乗ってしまった私達はなおも続け、ひいひい言わせてみるのだった。

「な、なあティーダ。女の子同士が絡み合ってる風景って……こうなんだ、こう、クるものがあるなあ。ああ良いなあ、本当良いなあ」
「……ディン、気持ちは判るけど挙動不審になってる、落ち着いて。それと見えないからちょっと右にずれてくれ」

 なんて声が聞こえるが、聞こえないふりをしておくのも優しさというものか。
 ともあれ。

「なんで、基本状態も大きくなってるのさココットさんよ」

 今吐いておいた方が楽だぜ? とばかりに尋ねる。

「それはその……ある意味デバイスにデバイスを取り付けるような形になってしまったので、フレームの剛性は足りたのですが、記憶容量を増強して、ついでに排気、循環経路の増強、魔力ロスを利用したタービンブーストなどをちょいちょい付けていたらいつの間にか元の状態に戻らなくなってまして……」

 肥大化したデバイスが収まらなくなっただけらしかった。
 思わず天を仰ぐとカバーするようにココットが言う。

「き、機動力の心配なら、大丈夫ですっ。総魔力量そのものは余りがちのティーノですから、他のデバイスの同時使用とかも可能だと思うのです。いずれさらにコンテナ型の機動専用デバイスを繋げて機動力も確保しますから。それでですねさらに射撃専用のデバイスも搭載すれば……まだ試験段階ですが、魔力素の誘導現象を使ってコイルガンのような真似も可能かもしれませんし……いえこれは理論がまだ不安定。いっそ別動力で、動力パイオニアのテスタロッサのテクノロジーは、特許申請されていましたか……勝手に使うわけには、でもあれはかなり画期的な……」

 何やらブツブツと自分の思考に入っていってしまうココットを見て、一つ嘆息すると私はその隣を見る。

「助けてディン。君の彼女にデンドロビウムか何かにされそうだ」
「デンドロビウムかテントウムシか知らないが、健闘を祈るぜ」

 無情なディンのコメントに私は椅子の上でずるずると脱力し再び天を仰いだ。
 そりゃネタが通じるわけがない。もっとも、私もとあるマンガつながりで知ってるだけなので細かくは知らないが。
 崩れ落ちるように脱力した私の額に、ティアナちゃんがおしぼりをぽふんと乗せた。



[34349] 幕間四
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/13 19:01
 月明かりに幽玄と照らされた少女の顔はどこか生気も虚ろに見える。
 ただ、腕にかき抱いた健康そうな子供と微妙にリズムのあっていない、穏やかな寝息が幼い姉と弟の生を主張していた。
 灯りもない真っ暗な部屋の外からは何か大人達が揉めているようだった。それも穏やかならざる声音で。
 
 村の青年が言う。だから、翼の無い余所者の受け入れなどは反対だった。
 村の老人が言う。呪われっ子の呪いはあのお医者さまの人徳でもどうにもならんかったのか。
 村の壮年が言う。俺の娘が最大の被害者だ、あれは医者なんかじゃない、昔から言うではないか、悪魔は聖者のように静かに話しかけると。
 最後に村の長が言った。疲れたため息を吐きながら。もう遅い、言葉も出尽くしたろう、明日の朝、判断を示す、と。

 やがて、段々音が減っていき、静かになると、長が扉を開けて部屋に静かに入ってきた。
 今だ目を覚まさない二人を見て、村の長はぽつりとつぶやいた。

「すまんなあ、アドニア、ミュラや。本当に……本当に。一族よりも長であることを選ばざるを得なかったこの爺を許せ」

 長は椅子に座り、月明かりの差し込む窓を見やり、やがて視線を戻す。深いため息が一つ漏れた。
 しばらく経つと長は部屋を出た。

 早朝、長は気重そうな調子で、ただ表面は淡々と、習慣的に早く起き、ぼんやりした様子で食事を済ませたアドニアに事の顛末を聞いた。
 アドニアは現実として捉えていないのか、怖い夢を語る調子で自分が見た事を長に伝えた。全てを聞いた長は、両手で目の前をふさいだ。何ということか……そうつぶやきが漏れる。
 様子の違う長を見て、ようやくアドニアも現実として見始めたのか、最前寝ていた部屋に飛び込み、まだ眠りから覚めない弟を抱きしめた。震えは止まらなかった。

 そんなアドニアが落ち着く間はない。優しかった父と義母、その死の真相はアドニアの話を持ってしても判別できない事のようだった。否、それは本人たちにしか判らないものだったのかもしれない。
 ただ結果として、昨夜一軒の家から起こった炎、恐らく医療用の薬品に引火したものか、は水をかけても、砂を撒いても消えず、隣家にも燃え移り、負傷者も多く出ていた。
 元々火種はあった。その上この騒ぎでは……長は災いの出もとから生き残った二人の子供──アドニアとその弟ミュラをそのまま村に置いているわけにもいかなくなっていた。
 長はかつて世話をしたことのある地方領主に当てて紹介状をしたため、アドニアに持たせた。
 さらにいずれは結婚の時のためにと貯めておいたお金を路銀として持たせる。
 集落を回っている馴染みの行商人に連れていって貰う事を頼み、旅装も整え終わった。

 長はここ数日で一気に老け込んでしまった、皺の寄った目に涙を浮かべて見送ったが、村人は見送りというより見届けに来ているかのようだった。
 幼い二人が行商の馬車に乗り込むと魔除けの印を切る。やがて、村から馬車が離れるにつれ、ぽつりぽつりと村人の姿は減り、長のみとなった。
 アドニアは、見送ってくれた長に手を振った。
 まだ事態もよく判っていないミュラも姉の真似をして大きく手を振る。
 その姿を見て、長は膝をついた。アドニアは涙をぬぐうことも忘れミュラを抱きしめた。

「ねえちゃん、ぼくたちどこに行くの」
「……ん、うん。大丈夫。大丈夫だからね。お姉ちゃんがついてる。大丈夫だよミュラ」

 先のことに思いを馳せるも想像力が事態に追いつかず、ただ安心させようとする言葉のみが口から出た。
 
   ◇

「奴隷商に売らねぇのがまだしもの情けってもんさ、海は越えたわけだし、もう呪われっ子と一緒に居ることもねえよな、と……こいつは追加報酬ってことで貰っておくぜ」

 焚き火を囲み、野営の中、行商人は疲れた二人の子供が寝入っている間に立ち去った。アドニアが長から渡された路銀をも奪い。
 目を覚ましたアドニアはその事に気付き呆然とした。だが、人を疑う事などあまりなかったのだろう、行商人に何か事情でもあったのかと思い、迷子になってしまってはかえって大変だと、その場で弟をなだめながらひたすらに待った。
 丸一日が経った頃、荷物に一枚の紙が入っている事に気付いた。
 それは、行商人もさすがに気をとがめるものがあったのだろう、目的地までの簡単な手書きの地図だった。
 もう半日が経ち、手持ちの水も尽きてきた頃。さすがに捨てられたという事をアドニアは感じていた。

「……大丈夫、おねえちゃんがついてるから」

 もう何度繰り返したか判らない言葉を弟にかけ、残り少ない水を与える。しっかりと手を握り歩き出した。

 アドニアの白い姿は迫害の対象だった。
 故郷では有力者の一族と扱われていたゆえか、あるいは父の人徳か……さほど感じていなかったはずの異端であることをまざまざと感じさせられた。
 顔をしかめられる程度なら良いもので、集落に近づけば石を投げられ、ものも言わずにただ矢を射かけられたことすらあった。
 傷を付けられ、まだ癒えぬうちにさらに傷つけられ、いつしかアドニアは人目を避けるようになり、その翼も長い布で隠すようになった。
 翼を隠すのは、罪人の証だという講師の教えを思い出す。
 ただ、野に生えているアドニアの知っている野草やキノコなどしか食べられず、段々と痩せ細る幼い弟を見ると、なりふりなどは構っていられなかった。
 物乞いのやり方は遠巻きに見ていて覚えていた。傷をしばって血がついた布をことさらに見せつけるようにして巻き、哀れさを装う。その白い髪と翼さえ見せるようにしなければ、さっさと去れとでも言うかのように、持っていた皿の中に幾らか食事の残りのようなものを入れて貰えることがあった。

「ねえちゃん、いたいの?」

 痩せて細くなった声でミュラが心配をした。慌てて笑顔を作る。いつものように、大丈夫、おねえちゃんは強いからね。と言う。
 時間の感覚も忘れ、幾度目の足の血豆が潰れた頃だっただろうか。
 地図に書かれた領主の治める町の正門、その町の名前を声に出して読みなおす。
 ようやく辿り着いた頃には見るに耐えぬような有様になっていた。ボロ布がボロきれを纏っているようなものかもしれない。
 安堵のゆえか、アドニアはその門の前で膝が崩れた。
 背負っていたミュラがか細く泣き始める。一体なにごとかと駆けつける衛兵を目の端に捉え、アドニアは気を失った。

   ◇

 疲れ、傷ついていたアドニアも安息を得ることができた。
 夫に先立たれ女領主として町を治めるフレオディーテはアドニアの持ってきていた紹介状を一読し、また、村を離れてからの苦難を聞くと深く嘆いた。

「しばらくは私の町でその体も、心も癒やすと良い。翼についても布令を出しておこう。今はただ休みなさい」

 ベッドで身を起こして畏まろうとするアドニアを手で押さえ、領主はそう言った。
 若さもあったのだろう、一日ごとにアドニアの体は元気を取り戻し、はじめは弟、ミュラと、優しくしてくれていた領主フレオディーテにしか心を開かなかったが、世話好きで世間話の好きな、いかにも活発なお姉さんですよと言いたげなメイドに毎日話しかけられ、段々と以前の明るさをも取り戻していった。
 やがて、紹介状でもあった通り、侍従見習いとしてフレオディーテの身の回りの雑事という仕事も与えられた。拙いながらも一生懸命に、そして活発に動く姿があり、その姿に思わず微笑みを誘われてしまう者も多いようだ。
 一年も経った頃だろうか。
 アドニアも領主の館に来た当初よりは背もそれなりに伸びた。侍従見習いとしても慣れ、失敗も少なくなった。領主の布令が効いたのか、あるいはアドニアの姿に慣れたのか、館だけでなく町の住人にも知り合いが一人二人と出来てきた。
 地の人と呼ばれ、また自らもそう称する彼等は婚期の幅が広い。早ければそれこそ8歳からつがいともなる相手を探し始める。ただ、男女ともに齢40を越えても容色、体力は衰えず、その長い出産の適齢期間からか、恋多き種族でもあるのだろう。日頃の話題もまたその手の話が絶えなかった。
 例に漏れず、そろそろアドニアもそろそろ年頃ね、などとからかわれる事も多くなってきた頃……
 数年ごとに行われる地方領主が集まる会談に出席するため、領主フレオディーテは弟アレウスに留守を任せ出立した。
 アレウスは金髪碧眼に彫像のような端正な顔立ち、立派な体格を持ち、才気もまた優れたものをもっている。しかし乱暴な振る舞いが目立つところが玉に瑕である男だった。
 仕えるものはさぞかし留守の間はひどいことになるのではと用心するも、それを見透かすかのように真面目に政務をこなしていた。政務を執れば実は楽しくなってきたのか? とも言われはじめ、見直す声も多くなってきた頃だった。
 それはある種の恋だったのかもしれない。あるいは他の、アレウス本人ですら理解しえない情動が働いたのかもしれない。
 アレウスはまだ幼いアドニアに目を惹きつけられていた。ただ、それはいかに婚期が広いと言えどもさすがに眉をひそめさせる類のものであるということはアレウス本人が一番よく知っていたのだろう。
 彼は策を弄した。
 周囲の評価が高まるのを待ち、自然な形でアドニアの弟、ミュラをかつての姉のように侍従見習いの扱いとして自らの手元に置いた。その上で過分とすら言えるほどの教育を施す。いずれは我が家を支える人材になってくれるだろうと周りには吹聴していたが、アドニアにだけには言う言葉が違った。

「呪われ子と呼ばれたお前、その弟だ、俺が手放せばどうなるかは判ろうな」
 
 物乞いすらして飢えを凌いだ事も記憶にまだ新しいアドニアは不安を煽られ、怯えを隠せなかった。次いで、俺の一族に連なれば良い。俺のものになれと優しい口調で言う。
 この時アドニアはアレウスの目を見ていなかった。おろかで幼いアドニアは、噂に聞く「けっこん」というものの機会が自分にも訪れた事、それを考えるのに一杯で……アレウスのその目がこれ以上ない愉悦にほころんでいた事に当然ながら気付くこともなかった。

   ◇
 
 アレウスが屋敷のものにアドニアを妾とすることを言い渡したのは翌朝のことである。その肝心のアドニアは姿が見えなかった。昨夜を思えば当然かもしれない。
 ──その日もまた、びくりと体を震わせ、声も出ないアドニアの両腕を掴み、アレウスは己の欲望を存分に吐き出した。
 アレウスより向けられたのはアドニアからすれば暴虐でしかなかっただろう。いや、実際そこに男女の間にあるような情愛めいたものはなかった。その欲は支配欲なのか破壊欲なのか、それこそ本人すら判ってないものだろう。
 しかし、知識の無いアドニアにとってこれが「アレウスのものになる」と言う事だと言われればそう思うしかなかったのかもしれなかった。
 こらえきれぬ苦痛に気絶し、ふと目が覚め、気の遠いまま体は揺れる。激しい嘔吐感に押され、口からすえた液体が漏れれば、寝所を汚しおってと打擲される。
 いつしか、歪んだ笑みを浮かべていたアレウスも疲れたのか、散々の体で気を失っているアドニアを満足げに見下ろすと歪んだ笑みを浮かべた。隣に大の字でねそべり、鼾をかき始める。

 そんなアレウスの首をきゅっと捻ってやろうと先程から手を伸ばしているのだが、どうもやはり私の実体がないのか、この世界に実体がないのか、手がすり抜ける。

「むぁぁ、何というか……何というか! ゲス男がぁぁ!」

 バールのようなものが欲しい。どうせすり抜けるのだろうけど、ひとまず二桁単位で殴る蹴るの暴行を働いておいた。すり抜けるので意味ないが。
 むかむかする胸のうちを少しでも晴らすかのように私は暴れる。

「無理、これは記憶、起こった事は変えられない」

 冷静な声が響く。いつしかも聞いた声だった。

「記憶!?」

 苛立ちが抜けない。このままでは掴みかかってしまいそうな勢いだ。
 私はどっかとばかりに床にあぐらをかいた。行儀悪いが知ったこっちゃない。大きく息をついて落ち着く。落ち着かせる。
 今回の夢、最初から夢と認識できていることもそうだが、この……なんと言えばいいのか、私自身がアドニアとなって感覚を共有しているような状態が何度もあった。先程の状態なんぞはもう……思い出したくもない。

「……ああ、思い出したらまた胸がむかついてきた、いろいろと聞きたい事もあるけど、まず! こいつはどこに居るんだ、殴りに行ってくる」

 鼻息を荒くしていると何故か笑われた。

「やはりあなたは強い、それとも強いふり?」
「……知らない」

 そりゃ強がりも入っている。動揺しない方が嘘だ。怒りに転化してしまった方がまだしも……といった部分は確実にあった。
 私自身は誰よりも、とは到底言えないものの、それなりに粘り腰で打たれ強い心だという自負はある。それも自信がなくなってしまうほどの衝撃だった。
 今でもフラッシュバックのようにふっと浮かんでは鳥肌が立ちそうにな……いやいやいや、思い出すな。
 頭を振ってそんなイメージを振り払う。そうだ、今は目の前の知った様な奴に聞かなければいけない。今度こそこの夢が何なのか、目的でもあるのか、私とどういう関係があるのか……
 そんな事を考えていると、まるで私の考えを読んだように、女は振り向いた。
 相変わらず女性であること以外がはっきり認識できない。ぼやけた輪郭とぼやけた顔、まるで……

「幽霊? そう呼びたいのなら構わない」
「……読まれた?」

 と、疑問の形で聞いてみるものの、何となく直感はそうだと告げている。私の考えた事がおおまかにではあるが伝わってしまうのだと。

「そう、伝わる。繋がりはより深くなった、共感覚はそのせい」

 幽霊さんはそう答えた。ただ、私の考えた事を幽霊さんが読めるほどには、私には伝わってこないらしい。本当に曖昧に「こうかもしれない」というのが浮かぶだけである。
 ちょっと試す感覚で、いつまでも幽霊さん呼ばわりもないだろうと私の考えた名前を次々と思い浮かべてみる……

「やめてほしい」

 幽霊さんにも駄目出しされ、私は落ち込んだ。
 そんな私を見て幽霊さんは首を捻った、何事か少し考え、思いついた様子である。

「あなたの記憶に眠っていたものがある」
「……え?」

 見れば幽霊さんの手元に天井から伸びている紐があった。なんだろう、何か見覚えが……

「このように沈んだ空気の時は盛大に落とすのが基本のはず」

 おもむろに紐に指を絡めて引いた。

「ま、待って……まさかそれ」

 と言う暇もあろうや、私の足元に古典的すぎるほどの落とし穴がそれはもう見事に「がっぱぁ」と擬音でも飛び出してきそうな大口を開けた。

「んンなお約束なああああぁぁぁッ」

 急速に体が落とし穴に吸い込まれたかと思うと意識もまた薄らぎはじめる。何とか粘ってみたものの、抗えるものではなく、覚えてろ、と我ながら三流な捨て台詞を吐き捨て意識を手放した。



[34349] 二章 一話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/13 19:02
 これまでにない最低の目覚めだったかもしれない。
 喉が張り付くように渇いている。
 寝間着が流した汗でべたつきすぎて気持ち悪いことこの上ない。
 寝ている間に体に力でも入っていたのか、筋肉がひどく硬直しているような気がする。

「うぅぁ……」

 それこそゲームか何かに出てくるゾンビのようにベッドから這いずり、転げ落ちた。

「み……ず」

 力の入らない足腰を何とか奮い立たせ、壁にもたれかかるようにしながらキッチンまでのそのそと動く。
 こんな時ぱっと水がでる水道の何と有り難いことか……コップに水を組んで、一杯……二杯、飲んだそばから吸収されていってしまうようだ。脱水症状だろうこれ、脱水少女、なんつて。いかん頭が駄目になっている。

「くああ……」

 何杯水を飲んだ頃だろうか、やっと意識がはっきりしだした。
 とはいえ本調子とは程遠い。

「え、ええと、こんな時は塩、そうだ塩だ」

 塩気といえば梅干しだ。確か去年作ったものを出しておいたはず、あった。一粒口に入れるだけでじゅわわと塩気と酸味が刺激する。
 おばあちゃんの作るかのようなそれは、塩が濃く、甘さは無い。すッッ……ッぱいッ! と思わず凄い顔になってしまう一品である。

「んんー……」

 何の言葉にもなっていないうめき声を漏らしつつ、口に梅干しを含んで床にへたりこんだ。額に当たるフローリング張りの床が冷たくて気持ちいい。しかし、我ながら間抜けな格好である。何やってんだろうか……
 いや何というか、すごい夢というか……久しぶりに見た、妙に現実的な夢。あれは本当何なのだろうか。
 今日に至ってはむくつけきおのこに、あらいやいやとくみしかれ……思わず古語だかなんだか判らない言葉になってしまった。
 ふっ……と思い出しそうになってしまった。慌てて頭を床にぶつける。ごんとばかりにすごい音がした。窓の外で小鳥が飛び立つ羽音が聞こえる。しばし呻き声をあげながら床を這いずった。
 まあ、なんだ、うん。
 ……痛かった。いろいろと。
 というか、夢? 記憶とか言っていたか、に何故私がこうまで左右されなければならないのか、ちょっと理不尽さも感じる。いや、ちょっとどころではない。あれはやばい、どれくらいやばいかっていうと危険が危険ですと、文法が崩壊してしまうほどのやばさだった。というか初めてがああいう形でとか……

「む……」

 顔をしかめる。ばっちりフラッシュバックしてきた。気持ち悪さが腹の底からこみ上げてくる。私は慌ててトイレに駆け込んでえづいた。
 反射的にでてきてしまった涙をぬぐいながら、大きくため息を吐いた。
 全く散々な朝である。
 気分をすっきりさせたいので、無理矢理にでも体を動かしていつもと同じことをあえてする。
 顔を冷たい水で洗って、まずはジュースを一杯。玄関先に無造作に置いている木刀を引っ掴んで、施設に居た頃、そして学生時代もほぼ毎日やっていた通り、素振りを行った。
 汗を流すため軽くシャワーを浴び、ミッド謹製の化粧水をぺたぺた。仕事によっては雰囲気作りのための化粧なども塗ったりするので、放っておけばそりゃもう荒れる。若いと言えど肌の手入れは欠かせなかった。
 そこまでやって、ちょっとは気分転換もできたものの、根本的には。いや、無理にでも忘れないと。
 身だしなみを整え、時間を見た。今日は早い方がいいはず。食事は……さすがに食べる気にはなれない。
 一通り忘れ物がないかを確認して寮を出た。
 旧式のカードキーを通し、階段を降りる。同じようにぼつぼつと寮から出勤する局員に朝の挨拶をしながら職場までの短い道を歩きはじめた。

   ◇

 私は一応、空士である。正確には本局航空武装隊第1210隊に所属しているのだが、そこに落ち着くまでにも少々揉める事があった。
 当初私の身分は、表向きは航空武装隊に所属し、出向扱いということで運用部に置かれていたのだ。
 行き先はもちろんのこと運用部広報課である。仕事は撮影のモデルさんである。航空武装隊のバッジをさりげに目立たせにっこりポーズ、あるいは歴戦の面々と並んでポーズであったり……それはまあ、アリアさんから聞いていたので客寄せパンダも覚悟をしていたのだが……
 その、発案者であるレティ・ロウランという人がまた一筋縄ではいかないというか、ほんとこの人使えるものは何でも使う主義である。さらにそこに時折悪ノリが絡んでくるので大変なのだ。
 ヒラ局員にも優しく、誰にでも気さくで決して個人的には嫌いではないし、本当に管理局の事を考えている人なのだが……
 最初はそうやって写真撮影だけだったのだが、段々と雲行きが怪しくなっていき、新しい企画で、と持ってきたバリアジャケットのデザインは、胸開きドレス? 背中に透き通った妖精のような羽根がついてたり、この人は私になんだ恥死してほしいのだろうか。撮ったけど。
 ……そこはさすが、人と接する事が多いお仕事なだけあって、いつの間にか言いくるめられていたというか……ペテンにかけられた気分だった。しかし、どこからそんなデザイン持ってきたのかと聞けばミッドの匿名掲示板……どうやらこの世界にもそう言ったものがあるらしい、で流れていた私のコラージュネタのようである。私はクロノが以前ちょっとだけ話題にしていた「茶がトラウマになる茶」のレシピを聞いておくことに決めた。
 次第にそんな企画は広がりを見せ、握手会だったり、水着撮影会だったり……もうグラビアアイドルにやらせておけよと言いたい。こんな私みたいなちんまいの使わないでモデルさんという専門家居るんだからそっち使ってくれよと、声を大にして言いたい。言っても、何故か話しているうちに煙に巻かれて、あれ? となってしまったりもするのだが。
 そんな生活も半年。機会を見てクロノから聞き出したお茶を飲ませたら、あら懐かしいわね、などと平気で飲み干された。私も味見したのだが、いやすごい……その糖分許容量につかの間圧倒されるも、今日こそは逃げさせんとばかりにゴネてみた。いい加減こういう扱いは勘弁してほしいと。ある程度は仕方無いとしても、だ。

「そうね、そろそろ言い出す頃だと思っていたし、はい。出向お疲れ様」
「……はい?」

 唖然としたのだが、聞いてみればどうも最初から、ゴネてきたらすんなり通すつもりだったらしい。それに十分に成果も上がったとのこと。
 何かと思えば机の上に若い女の子の写真を並べて見せる。今期の夏の空士の一次志願者だという。何でも私みたいなちんまいのでも通用するのならば……ということで女性の志願者も増えているらしい。今後のモデルには困りそうもないしね、とか言っておられる。
 ……そっちの狙いもあったんかい。まずは隗より始めよなんて故事成語を世界も離れた場所に体得している人が居るよ。
 呆れて気の抜けた合間を捉えられて、その後広報員として「任意で協力」する約束をとりつけられてしまったのは私の経験不足ではあるのだが。ちょっと管理局の海千山千具合が怖くなってきた。
 もっとも、その半年の間というものは実力不足でいきなり飛び込む形となった私への準備期間あるいは、試用期間として見られていたのかもしれない。その間に私もちょっと躍起になって本来の配属先である部隊の面々に頼んだり、馴染みのティーダに頼んだり、リーゼ姉妹が居る時は頼んだりして部隊に入っても通用するように訓練していたのだ。月1でまだ調整を続けているデバイス、ハイペリオン。ココットが言うにはミッド型アームドデバイス試作品だそうなのだが。これもぼちぼち慣れてきた。やはりソードフォームは使い勝手が悪すぎて、どこで使えば良いのか判らないけど。射撃魔法もデバイス側で調整する部分が多くなり、クロノやティーダとは逆方向、まったくテクニカルでない方向にだが進歩している。
 単純な障害物のない空中戦であるなら模擬戦成績も随分と持ち直していた。というのは、魔力による先天的なものというのがやはり大きかったせいでもある。何分、私くらいの出力でもエリートと言われている航空武装隊の平均よりは随分と上の方なのである。そうなるとティーダはもとよりクロノとか……どんだけなのさと呆れざるを得ないのだが。
 思考がそれた。さすがに試用期間うんぬんは考えすぎなのかもしれないが。うん。さすがにちょっと目立つからってヒラの一局員にそこまで考えないとは思う。多分。きっと。
 
 そんな紆余曲折とも言えないごたごたを経てやっと本来配属される部隊に落ち着けたのだった。
 ……が、しかし今日も今日で「任意で協力」することを頼まれてしまっているので、隊舎でなく広報課の事務所に移動中だったりもする。隊の方には既に話も行っていたらしく、昨日寮に帰る時など隊長に「ポスターできたらもってこいよ、50部な。オークションで売れるらしいし」などと言われた。絶対持っていかない。というか、本人の前で転売宣言堂々とすんなと言いたい。
 寮から隊舎まではせいぜい5分と言ったところである。そりゃまあ、緊急時の招集に間に合わないと困るので近場なのだが。そして寮から広報課のある庁舎までは30分である。
 ……途中で気付いた。移動時間を考えて早めに出た方がいいと思って出てきたのだが、指定された時間がいつもの出勤時間より一時間も遅いのを忘れていた。少々と言わず早すぎたようだった。まったくもって朝からペースがぐだぐだである。
 私はため息をついてもう一度時計を見る。

「そういえば……ティーダはぼつぼつかな?」

 何がと言えば帰投時間だった。一晩中お疲れさまなのだ。
 私より一年先に局に勤め始めたティーダはやはりティアナちゃんの事が頭にあるのか、そりゃもう忙しく働いて稼いでいる。元より無理せずとも持ち前の能力や魔法の才能だけで出世は間違いないと思うのだが……管理局に入った直後に親御さんがああなってしまった事もあり、出世を急いでいる。掴み取れるチャンスは全て掴むつもりらしい。疎まれるので誰もやりたがらない陸への交流出張に進んで手を挙げたり、今回にしても体の出来上がってない若年層は基本免除の24時間勤務に自分から参加していた。
 連絡をとってみれば、既に帰投し食事中ということなので合流することにしたのだった。

 本局での食事処というのはかなり多い。駐留している人員は元より、訪れる民間人というのもそりゃ凄い数になる。一発当て込んで開業しようとする人も多く、誘致の話が持ち上がると毎回倍率が大変なことになるらしい。局員は隊舎でも食堂はあるのだが、割引が効くのでこういう民間の店で食べたりする局員もまた多かった。
 着いてみればなかなか雰囲気の良いカフェである。全体的にログハウスじみた暖かそうな木製の作りで、店外にパラソルとテーブルを出し、外でも食べられるようにしている。その店外の一席にモーニングセットらしきものを食べているティーダを発見した。店員に声をかけ、何となくコーヒーを注文した。

「おはよ、それと勤務お疲れさま」

 そうティーダに話しかけ、向かいに座る。
 皿の大きさから見るに、なかなかのボリュームがあっただろうパンの残りを口に放り込み、片手を上げ答える。

「おはよう、ティーノ。そっちはこれから出勤……ムグ……かい?」
「ムグってないでまずは食べてから喋るといいよ?」

 そう言った辺りで店員が注文したコーヒーを持ってきてくれる。局員用のカードを出しその場で支払っておいた。
 未だ子供舌が治らない私は例によってミルクと砂糖を多めに入れて暖かいコーヒーを啜る。
 空の胃袋にはあまり良くはないのだろうが、やはり暖かくて甘いものは精神的に良いみたいだ。思ったより美味しく感じてびっくりした。

「ああ……安らいだ。この店のコーヒー美味しいかも。リピートするかもしれない」
「だろう? この間言ってた店なんだよここ」
「ああ、確か朝がた出ている店員の焙煎がやたら上手だとかいう……」

 そんな何くれとない雑談に花を咲かせる。
 しかしまあ、さすがにティーダも眠そうである。顔色とかは無理してる風ではないが……一度過労で倒れた事があるので油断できないのだ。それ以来何となく顔色チェックくらいはするようになってしまったのだが。ともあれ……

「そろそろティアナちゃんも起き出す頃じゃないか? お兄ちゃんが居ないと寂しいと思うよ」

 なんて水を向けてやる。物心つくようになってきたティアナちゃんはそりゃもう天井知らずな可愛さというものだった。案の定、それもそうだねと席を立って……案の定……あれ?
 何故か恨めしげにこちらを見ている。

「一昨日帰った日の事なんだけどね、お姉ちゃんはまだ? お姉ちゃんは何時にくるの? とかずっと言われててね……僕が遊んでるのに、僕が相手しているのに……」

 うぉぉ、何かゴゴゴゴゴとか地鳴りのごとき擬音がティーダの背後に見えてしまいそうだ。
 ティーダはコーヒーを一啜りするとはぁ、とため息をついて力を抜く。背後の擬音めいた幻覚も消え失せた。

「家計を支えているのは僕のはずなのに……」

 そう愚痴めいた事をこぼす。確かに局員でもそのお給料だと不動産の税金もきついのは確かだが。まんま家にあまり帰れないパパの台詞だな……
 そうすると時間が空いてはランスター家に行っている私は通い妻ポジションになってしまうわけだが……いや、やめよう、この想像は蓋をしたほうがいい。

「まーなんだ、お疲れ様だな」

 そう適当に言いつつ、項垂れるティーダの後ろに回って肩でも揉んでやろうかと手を伸ばした時だった。

「……あれ?」

 触れるか触れないかってところで、手が震える。というかむしろ鳥肌立ってる?
 普段は何とも思ってない、ティーダの男性特有の汗の臭いがいやに鼻につく。というか、へ? 何だろう、怖い?

「どうかしたのかい?」

 変な沈黙をしてしまった私を訝しんだのだろう、ティーダが振り返った。至近距離だ。無意識に首がすくまった。
 何となく、一歩離れてしまう。
 いや、何だこれ。何かおかしい。ほら、ティーダも変な顔してるだろう。
 目を閉じて息を吸って吐く。少しは落ち着いた。そう、気付けば心臓もまた早鐘を打っていた。その割には顔から血の気が引いてるわけだが。

「……いや、何でもない何でも。ちょっと今日の撮影の事を思い出しただけだよ」

 誤魔化しておくが、ティーダは不思議そうに私を見ている。こりゃ誤魔化し切れてないようだがうん。
 そろそろ時間だから、とばかりにその場を後にする。
 あまり話していると、かたかたと歯の根が合ってないのを悟られそうだった。

   ◇

 広報課に着いたときにはすっかりそんな様子は跡形もなく、平常通り、いつもと同じだった。
 ロウラン提督の目論見通り、今年は空士の難関を通り抜けた新人の女の子が多かったそうで、中でもこれはと思った人材については、今度は若い男連中に対しても撒き餌にしようということらしかった。実に腹の中真っ黒である。しかもその手の事を話して、私がげんなりするのを楽しんでいるふしもある。まいった。
 そんな、私と違って真っ向から試験をくぐり抜けた、本物の才色兼備、ぴかぴかの新人さんたちとミーティングを行い、広告の打ち方を考える。
 今回はひとまず顔合わせと企画がメインだったらしく、おざなりな撮影を終えて終了となったのだが、カメラマンの男性を意識したらやはり震えというかうん。かなりきた。

 ──男性恐怖症。
 これしか浮かばない。
 いろいろな思いが浮かんで消えた。手がわなわなと震える。
 
 まだ夜には早い。早いのだが……私は夜空に向かって思い切り叫びたい衝動に駆られたのだった。

「あほかああああああああああ!!」

 と。

   ◇

 勤務を終え、帰宅途中に本屋に寄った。
 恐怖症関連の本を買う、と言っても専門書とかはなかったので、PTSD克服だの、メンタルセラピーだの、中には相当怪しいものもあるのだが。その手のものである。
 支払いをするときに店員の女性からすごい可哀想な目を向けられた。そんな目で見ないで欲しい。
 電子書籍もあるのだが、やはり紙媒体の方がしっくりくるようだ。ぺらぺらと本を読みふけりながらのんびりと家路についた。歩きながら本を読めるのが私の48の無駄技の一つでもある。
 しかしPTSDのあたりを読んだ感じだと、どうも私の場合は微妙に違うような……それはそうか。トラウマになったのはアドニアであって私ではない……いや、そこらは考えるのをやめよう。推測ばかり思い浮かんでとりとめが無くなってしまいそうだ。
 問題は現状の事だ。症状としては男性に極端に近づくと震え、精神的不安定、驚愕反応のようなものもあるか。臭いでも似たような症状が出るが、声だけなら割と大丈夫らしい。
 そして場合にもよるが、推奨されないのがデブリーフィング……トラウマ体験を事細かに想起することらしい……どうも安心感や日常の生活感といったものを継続して与える方がいいのだとか。

「安心感に日常ねぇ……要するに普通に過ごすのが一番とか……」

 もう医療じゃない気もするが……ともあれ、あまり酷い場合にはこういう世界なので、そりゃ精神をいじる系の魔法による精神治療というのもあるが、以前受けた検査だけでもかなり厳重な監視とチェック体制の中だった。用途を考えれば当然なのかもしれないが……まあ、軽々しくそちらには頼れないだろう。
 つらつらと本を片手に考え事をしながら帰宅する。

   ◇

 私の入居している局員寮はなかなか築年数の経っている古いものである。その代わり、隊舎からは近く私のような新参でも入居することができた。古いだけに防犯システムなどもほとんどない。というか局員の寮を襲うような泥棒や押し込み強盗などがそう居るとも思えないのだが……

「出る時は閉めたはずだよね?」

 独り言でつぶやいてしまう。そりゃ、帰ったら鍵開いてましたなんて、誰でも驚くと思う。
 さすがに緊張し、何時でも対応できるようにデバイスを起動、バリアジャケットを纏った。プロテクションを即時発動出来るように準備しておき、ドアを素早く押し開け、杖状態になっているデバイスを中に向かって突きつけ……突きつけ……力が抜け、手から落とした。
 ごごん、がろんごろん。と、豪快な音が響く。形は一般局員のものと似ていながらサイズも重さも凶悪なブツである。あとで一階の人に謝りに行かなくては。
 ま、まあそれはともかくとして。

「何やってんのさカーリナ姉さぁん……」
「見ての通り腹筋だが?」

 そこにはエクササイズ特集の番組らしきものに合わせて腹筋運動をしている姉の姿があった。上半身をひねるたびにふくよかな胸が揺れる揺れる。今日はスーツ姿ではなくシャツにパンツルックなのでなおさら目立つ。
 確かカーリナ姉と以前会ったのは局の就任式の翌日くらいだったか……その時も突然現れて「あまり目出度くないが祝いだ」とか言いながらあちこちの世界で手に入れたものらしいおみやげ品をごそっと置いていったものだった。調べるとお守り系ばかりだったのは、何というかその、むず痒いものもあったが。
 しかしまた唐突に現れる姉である。いつもの事だが。
 私は一つ肩をすくめるとケトルを火にかけた。ティーポットに姉の好みであるちょっと癖の強い紅茶の葉をいれておく。お茶請けには後で食べようと思っていたシフォンケーキを出しておいた。そういえば、と思い出したので冷蔵庫に残っていた餡子をケーキに添えてみる。ドラ焼きではないが、相性は悪くないはず。なによりちょっと癖の強い紅茶はなぜか餡子との相性が良いのだ。

「カーリナ姉さん、お茶入ったよー」
「ああ、今行く」

 体をひねりながら短く返事を返した。
 テーブルを囲んでしばらくカーリナ姉の冒険話を聞く。この人、物語の脚色には欠けるのだが、その分言い方が直接的でかえってリアリティが凄いのだ。施設にこの姉が帰ると子供達もこぞって話を聞きに行っていたものだった。
 どうも、ここのところは無人の管理外世界を探索していたらしい、無人と言っても歴史がないわけではなく、かつて人が住んでいた遺跡もあり、あるいは海賊どもの根城もあり、つい襲撃……おいおい、ついで済ませないで欲しい。てへぺろで済ませないで欲しい。その後は管理局と遺跡発掘の専門家、スクライア一族に任せてきたらしいが、なんとも相変わらずの破天荒さだった。

「ティーノも活躍してるみたいじゃないか」

 そう言って顎で指したのは先程までエクササイズ番組を映していたディスプレイに私が映っていた。
 きらきらと派手で露出の高いバリアジャケットに身を包み、背中に妖精っぽい羽根をはためかせ、敵方の撃つ魔力弾の嵐をひらりひらりと華麗に避ける。にやりと笑って「今よ!」と合図を下せば、隠れていた味方チームにより敵方がバインドで拘束され、何故か私がとどめの一撃……見た目が派手なだけの砲撃に似せた魔力弾を放ち、画面に向かってニコリ。管理局員募集……と。

「ぐああ……見ないで、お願い見ないで……」
「くっくっ」

 テーブルにへたり込み、未だに慣れない恥ずかしさに悶える私を見て楽しそうに笑っておられる。身近な人に見られるのが一番辛い。
 一応出演時は髪型を変えている。むしろカラーコンタクトも外した状態で目立ってしまうオッドアイをさらけ出しているのだ。目の色が違うと皆そこを記憶するらしく、街を歩いていても……振り返られた事はあるけど、今のところCMに出ている本人だと思われたことはなかった。もっとも、前から少しでも私を知っている人には効果もないのだが。

「と、ところで今日は何か用事でもあったの?」

 少々強引に話の流れを変えてみる。すると姉は急に私に近づき私の頭に手を乗せた。
 目の前に豊満な胸がどーんと。くびれた腰が猫化の動物のようにしなる。
 こ、このモデル体型め……

「何、ティーダ・ランスターが院の方に連絡を付けてきてな。何やら調子が悪いそうじゃないか」

 そう言って私を上から覗き込む。
 あ、い、つ、か。気取られていたのはともかく、そっちに聞きに回るほど調子悪そうだったのか……?
 何となく自分の顔を触って確認してしまう。

「……ふむ、精神的なものか」
「あ」

 そう言えば無造作に買ってきた本を投げ出したままだった。
 少し考える仕草を見せたカーリナ姉だったが、まぁ、いいか、と私の頭をぽんぽんと二度軽く叩いた。
 いいんかいな、いや、追求されても私も説明に困るというものでもあるのだけど。

「今日は旅行の誘いに来たんだティーノ」

 はい? と思わず声が漏れてしまった。いやいや、自由業のカーリナ姉と違ってこちとら宮仕えですよ。そんな急に休んだりとかは……
 そんな事を言いかけた私に一枚の書類を見せた。手にとって確認してみる。

「調査出張届……行き先97管理外世界……ってええ?」
「面白いものが見つかってな、調査に行くことになったんだが、その際の随行員に本局所属の局員が必要なんだ。言ってみればお目付だが、どうだ? 久々の里帰りというのは」
「う……おぉ」
「ちなみに予定は心配しないでいいぞ。既にお前を借りられるかは聞いてから来たからな。それとも嫌か?」
「いや? いやいや、むしろ懐かしいし歓迎なんだけど、これってある意味、公私混同に当たったりとかしそうで」

 悩むところなのだ。ぺーぺーの平局員のくせに、後ろ盾に猫さんの二枚看板に加え、さらに後ろにグレアム提督というジョーカーじみた存在もいるので、かえって好き勝手は自粛しないと……という気にもなる。レティ・ロウラン提督に対してはうん、あの人は別枠である。
 いやしかし、ここまでお膳立てしてもらったわけだし、形式整えてあるのなら公私混同にはならないような。
 なおも悩む私を見てカーリナ姉はあきれたようにため息をついた。

「ティーノ、局員になって妙に頭が固くなってないか? そんな事だからそんな本に頼る事になるんだぞ? 心の問題は常に気分を和らげるのが一番効く。古巣を見るのも良いだろうさ」

 さ、旅行の準備だ。と言ってふたたび私の頭をぽふぽふ叩くのだった。

   ◇

「結局流されてしまった」

 そんな事をぼやきながら、遠ざかる本局を眺める。
 私もやはり、少々息抜きしたいというのもあったのかもしれない。姉に促されるがまま随行員として97管理外世界、地球に出張することになったのだった。
 今回は私の事で気を使わせすぎたのかというと、そうでもなく、もともと随行員としては気安いだろう私を連れ、調査には出向くつもりだったらしい。時期を考えていたところにティーダから連絡が入り、急遽手配をしたという事らしかった。
 一応、民間人枠であるカーリナ姉と一緒なので、転送魔法でひとっとびというわけにはいかない。かつて私が地球から本局に来た道筋をなぞるようにして行く事になる。地球に最も近い管理世界までは航行船で。そこからは設置してある転移装置によって行く事になる。
 相変わらず何を調査に行くのかはぼかされたのだが、その調査の依頼元は聖王医療院……日本で言う赤十字病院みたいなものだろうか、かららしい。その依頼でまさかロストロギアが転がってるわけでもあるまいし、私もある程度気を緩めていた。

 設置型トランスポーターの前で私はデバイスを持ち上げ、魔力を集中する。座標位置は私が来た時の記録が残っていたのでそれをそのまま使う事にした。
 設備の無機質なガイド音声が響き、魔力光がきらめく。一呼吸の後には私とカーリナ姉は地球に転移していた。
 出た場所はいつぞやねぐらにしていた海鳴市の少し外れにある廃工場の跡地である。様子はあまり変わっていなかった。
 私は辺りをぐるっと見渡し、深呼吸する。木々の生い茂る中にある場所なので空気が気持ち良い。

「うーわ……懐かしいな」
「ほほう、ここがティーノの古巣か。しかし……なんだ情報とは違って随分荒れている世界なんだな。戦争でも起きているのか?」

 ああ、転移してすぐにボロボロの廃工場見ればそんな台詞も出てくるか……
 私は苦笑した。
 戦争は……あー、うん。そう言えば割と世界を見れば起きているか。ただ、日本ではまだまだ平和なはずである。確か。どうもその辺の記憶が相当出てこなくなっているので、実際に調べてみないとどうとも言えないのだが。
 少し歩けばすぐ街に出てしまうような場所でもあるのだが、歩いているその間に先程の地球の情勢について軽くふれておいた。日本というのもまた独自の文化を持っている部分があるし、ちょっと細かい注意点なども歩きながら説明しておく。
 話が終わる頃には街中に出ていたので、さてどうするかと姉を見る。姉はと言えば、また興味をあちこちにそそられているようだったが、ふむ、と一つ頷く。
 まずは拠点の確保だと言うので、アクセスの良さそうな町の中心部にあるホテルに宿をとることにした。

「ああ、お金があるって素晴らしい……」

 そんなさもしいつぶやきが思わず出てしまったのは無理ないことかもしれない。いや、以前この街に居た時は本当大変だった。
 こんなホテルに泊まれる日が来るとは……などとしょうもない事でじーんとしてしまう。さほど高いホテルでもないのだけども。
 荷物をひとまずホテルに置き、町に出る。

「さて、早速ティーノに町を案内してもらお……いや、確か友人がいるのだったな、まず今日は先に回ってくるといい。私は私でいつものように情報を集めるとしよう」
「んー……うん。ごめんねカーリナ姉さん。正直それはありがたいかも。甘えさせてもらうよ」

 どうも私も気持ちが落ち着かないというか、懐かしさなのか何なのか、気分が少々浮ついているようだった。どんと甘えるが良い、とでかい胸を張る姉に感謝して私は歩き出した。

 姉と別行動になり、しばしのんびりと周囲を見ながら歩く。
 さすがに四年、いやもうじき五年か。それだけ経てばいろいろ町並みも変わるらしい。かつてはあったスーパーが無くなったり、銭湯が消えていたり、小さな総菜屋さんなども見かけなくなった。
 昔は子供の声が絶えなかった空き地も今は立派なビルになり、テナントが幾つか入っている。まったくもって時代の流れを感じる。
 私はふと思い出し、懐からはがきを一通取り出した。
 恭也や美由希とは数回手紙のやりとりを交わしていて、その中の一通に入っていたものだ。どうも彼等の実家の喫茶店でクリスマスイベントをやったらしく、仏頂面の恭也のサンタルックと着ぐるみトナカイの美由希が写っている。右下に地図が入っていたので持ってきたのだが、うん。
 あまり深く考えないでふらふら歩いてきたのだが、街頭TVを見るにどうも今日は五月はじめの某大型連休の真っ最中である。もしかしたら二人も店に居るかも知れない。
 それを抜いても一度行ってみようとは思っていたのだ。丁度良い時間でもあるし、その地図に示された喫茶に行ってみる事にしたのだった。



[34349] 二章 二話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/13 19:02
 はがきに記された略された地図を見ながら歩く。
 以前はあった土地勘もさすがにこれだけ時間が経つと覚えも相当曖昧だ。建物もだいぶ違うものになっていて、イメージで覚えるタイプの私としてはもう地図と道に設置されている看板などが頼りである。
 きょろきょろと目印を捜し、あっちに行っちゃこっちに来てを繰り返すうち、精神的なものだろうが、少し疲れを感じてきた。持ち込んだいつもの木刀、もちろん袋には入っているが、それを肩たたき代わりにぽんぽん肩の上を叩きながら歩く。
 とはいえ、何とか……うん。自力でその喫茶点、翠屋というらしい。にたどりつくことに成功した。名前の通り外装にもカーテンにも若草をイメージさせるような明るい緑色がところどころにアクセントとして使われている。喫茶点という割にはかなり大きく、どうやら二階もあるようだ。あるいは住まいとしてでも使っているのかもしれない。
 店に入る前にふと思い返した。恭也と美由希とは手紙をやりとりしていたものの、考えてみれば私から写真を送ったことはなかったのだ。私自身、あまり自分の写真を取っておくわけでもないし、局で撮った写真は……うん、見られたらあれは……恥ずかしいな。特に局の事情知らない人には「これがコスプレというやつか」としか思われないだろう。

「んん、普通に入ってみるか」

 私だと判るだろうか? なんて悪戯とも言えないような事を思いながら店に入る。
 内装もまた観葉植物が随所に飾られ、明るい雰囲気で、休日のお昼時らしく家族連れやカップルで訪れる人も目立つ。
 すぐにいらっしゃいませと声がかかり、現れたのはウエイトレス姿の美由希だった。すぐに判った。まるで雰囲気が変わってない。長くなった三つ編みを揺らしながら、やはりどこか小動物めいた動きで歩いてくる。
 ともあれ、久しぶりである。口語で今の心境を語れば「わ、久しぶり久しぶり、懐かしいよ懐かしい! 身長ばかり高くなっちゃって、その背少しわけろー」と言った感じで、はしゃぐ事しきりだったのだが、気付かれてもいないのにこちらからネタばらしは何かしら悔しい。ほら気付け、はやく気付け、こんな変な外国人ルックスそうは居ないぞ! そんなうずうずした感覚をぐっと抑え込んで、表面上は冷静さを保つ。
 しかし私の思いもむなしく、この容姿にか、美由希はすこしびっくりしたように目を開いたものの……少なくとも表面上は気付かぬ様子で私を空いている席に案内するのだった。

 ……別に意地になっているわけでもないが、何となく話しかけるタイミングを見失った。とりあえずコーヒーを頼んでおく。
 もやもやとしたものが残らないでもない。ま、まあ話しかけるだけならいつでも出来るわけだし。うん。
 しかし美由希も綺麗になった。もう可愛い可愛いと言う感じではなく綺麗と言った方がぴったりくる。ええと……換算すると今中学3年生くらいだろうか。そりゃ大人っぽくなってもおかしくないのだ。が、まさか身長で抜かれているとは……案内されている時に判ったのだが、明らかに私より目線が高い。昔は頭一つ勝っていたのに。こ……これでも私も成長しているのだ、成長しているのだが……

「くっ」

 悔しさをおしぼりにぶつける。
 広げてから三角に畳み下端から固く巻く。三角の先端は残して内側に折り込んだ。びろんと伸びているおしぼりの一端を折りたたんでいき、尻尾とする。残ったもう一端でその畳んだ部分を固定するように巻き付け、あいた隙間に先を入れて形を整える。三角の先端部分をちょっと開いて形を整えればくちばしになり、おしぼりで作るアヒルの子供の完成だった。我ながら完璧な出来である。

「ふむん」

 満足げに息を吐くと、視界にトレイを持ったウエイターの姿が入った。恭也のようだった。先程の光景をばっちり見られていたらしい。少々の恥ずかしさを噛みしめて飲み込みながら、取り澄まして待つ。
 昔と変わらない仏頂面をしている。客商売でそれはよくないぞー、と心の中で突っ込んでおいた。背が伸びているのは勿論ながら、やはり男の体である。細身ではあるもののやはりがっちりとした印象になっていた。手もまたごわごわと骨太である。
 ふっと、男性恐怖の気がもたげるが、うん。このくらいの距離でならなんとかなるレベルのようだった。相当近寄られるか……でもしない限りは問題はなさそうだ。
 恭也はその仏頂面とは打って変わって、慣れた仕草で音も立てずカップを置いた。
 ちらりと視線が私に向いた。気付かれないと思っているのだろうけど、こちらの視野はえらく広いのだ。ばっちりその仕草は見えている。気付かないふりをしてはいるが。
 さて、そろそろ気付くか? 気付くのか恭也……!? つうかいい加減気付け、とまあ、うずうずぴくぴくしそうな表情筋を私は抑えた。
 やがて、椅子に立てかけてある包みを見て、ほう、とでも言いたげな顔になった。

「失礼します……お客さまそちらの袋は……」

 などと丁寧に言いかけるので、じれったくなった私は袋の手元に引き寄せ無言で紐を解いた。かつて恭也に渡された鉄芯入りの重たい木刀の柄を見せる。見えにくいが馬とか刻印が入っていたりする。誰が製作したかは判らないが、私が全力でぶんぶん振ってもビクともしない一品だった。
 やはり。と驚くより一つ腑に落ちた表情になる恭也に、にやりと笑いかけ声をかける。

「久しぶり、恭也」

 恭也はまた一つ頷いてなるほど、とつぶやいた。

「……なるほど、道理で……美由希が、見覚えがあるけど思い出せない、とか俺に言ってくるわけだ。久しいなツバサ」

 久しいな、って高校生くらいのはずなのに渋いなおい。などと思いながら持ってきてくれたコーヒーに口をつけ──ようとした時だった。
 恭也の後ろから、それはもうドラマのように皿の割れる音が響いた。恭也も眉をひそめて振り向く。

「うしょ……つ、つばさきゅん……?」

 呆けた顔で、噛み噛みな言葉を吐く美由希が居た。一体どうしたというのか、幼児退行してしまったかのようである。
 そのまま美由希はふらふらと私に近づいてくると、未だ信じがたいとでも言いたげな顔で「本当に?」と聞いてきた。
 ふむ、と一瞬考えて、思いついた。私自身忘れてしまっていたのだが、そういえばこの二人と別れた時は髪が短かった気がする。

「これで……どうだ?」

 すっかりロングと言われる程にまで伸びてしまっていた髪……さすがに量が多いのでバレッタで大まかに後ろで纏めているのだが、まとめきれない髪は適当に横に流している、その髪もかき上げて後ろでポニーテール状に手でまとめてみた。耳がすーすーする。少しは昔の面影にならないだろうか?
 しばし、私のその顔を見ていた美由希だったが、なぜかその視線が顔より下に向かった。最近はなかなか良い具合に膨らんできた胸をわしっとばかりに掴まれる。

「ほ……ほんものだ。つ、つばさくんが女の子に……あは、あはは、なっちゃったぁ」

 遅ればせながら、そこにきて私は、どうも美由希の雰囲気がどうもかなりおかしいことに気付いた。驚きのあまりって感じじゃないぞ。

「……お、おい恭也、美由希ちゃんどうしちゃったのさ?」

 と、恭也に聞くも腕を組んであきれたように首を振るばかり。
 当の美由希は私の胸を揉みしだきながら「私のひと夏の思い出を返してよう……」などとぶつぶつつぶやいている。
 いや、しかしさすがにこそばゆいというか、乳腺発育中で敏感になってんだからちょっと……段々私も余裕が無くなってきたぞおおい。

「と、とりあえず恭也やーい、おおい恭也さん? み……見ないふりしないで美由希ちゃんを止めて……くれないかな……あ」

 だが、肝心の恭也は見ないふり、聞こえぬていで、先程、美由希の割ったらしい皿を片付けていた。は、薄情者め……

   ◇

 騒ぎを耳にしてか、あるいは最初から気付いていたのか、店長……ええと士郎さんだったか、がゆったり歩いてきてその人なつっこげな表情を浮かべ、おやおや何の騒ぎだい、と声をかけてきた。美由希はぴたりと止まり、素早い動きで私の対面に座る。
 私は乱れた服を直した。顔の赤さはなかなか服のようには収まってくれそうになかったが。

「ああ、父さん、紹介しておくよ。以前話したこともあったと思う。美由希のはつ「恭ちゃん!」……友人のツバサだ」

 何となく思い出したが恭也ってさりげに人いじるの好きだよね……そんな事を思いながら、初めましてと無難に頭を下げて挨拶をしておく。

「話はいろいろ聞いてるよ。うちの子たちのやんちゃ相手してくれてありがとうな」

 そう言ってニッと微笑む。全くもってつられてしまいそうな笑顔だった。恭也にも真似させてみたいものである。こういう笑顔を出せるのが外食産業では大きな力になるのだ。
 ランチタイムなので忙しいようだ。士郎さんは仕事の合間を見計らって来たようで、すぐに戻るのだった。
 なぜか煤けた表情で、いつの間にか持ってきていた水を自棄になったかのようにかぷかぷ飲んでいる美由希を見て、恭也は苦笑した。

「すまないがツバサ、美由希をちょっと見ててやってくれ」

 そう小声で言って手伝いにと戻ろうとする恭也に、ちょい待ち、と声をかけた。

「オーダー頼むよ、今日のお薦めランチセットを……」

 少し美由希を見やり、指を二本示す。
 恭也は頬を少し掻いて、承知した。と一つ言い残すとオーダーを伝えに行った。
 言い回しにはもう突っ込まない事にした。

 テーブルにへたり込んでやさぐれている美由希のつむじを何となく見る。つむじが二つあるな。意外と腕白なのだろうか。しばらく待つと恭也がランチセットを運んで来た。私の前に置くと一度戻り、次には両手にトレイを持っている。

「せっかく友達が来ているのだから一緒に食べたらどうか、と言われてな。ほら美由希」

 そう言って美由希の前にもトレイを置く。士郎さんと、ええと桃子さんだったか、ママさんの名前は。二人には気を使わせてしまったかもしれない。ランチタイムに人員を引き抜いてしまってごめんなさいなのだ。
 ともあれ、せっかくの心遣いだ。ありがたくランチセットと共に頂くとしよう。
 そのメニューは量は若干控えめながら、しっかりとした作りのものだった。シンプルながらも美味しい、メインのふわとろオムレツをついばみつつ、少々食事中の行儀としては悪いのかもしれないが……時間を埋めるように三人でこれまでにあったこと、あるいは馬鹿話に花を咲かせる。
 もちろん、管理局や魔法の事は基本伏せないといけないので、私の身分はロンドン在住で今回はライターの姉の取材旅行についてくる形で来ている、ということにしてある。
 食事も終わり、美味かったーなどと食後のまったりムードで会話も途切れた頃合いだった。
 どうやらいつの間にか混んでいる時間帯は過ぎていたようだ、客の姿もちらほらとしてきて、ぱっと見て数えられるほどになっていた。
 ある程度仕事に切りがついたのか、奥から大きなトレイを持った美人さん……うん、桃子さんだよね。写真で見た。が私達のテーブルに歩いてきた。
 しかし、若い……綺麗、写真では判らなかったが、肌の艶とか十代にしか思えない。美由希、油断したら姉妹にしか見えないと思うぞ。
 そんな驚愕を隠しつつも、一応の型通りの挨拶をしておく。

「はい、これはおまけよ。初めての来店ということで。これからも翠屋と、私達ともよろしくね」

 そんな事を言いつつトレイからテーブルに降ろされたのは中々良いサイズのシュークリームだった。
 桃子さんが空になったお皿などを引き替えに回収して去ると、美由希が私に耳打ちした。パティシエのお母さんが作るうちの看板メニューなんだよ、とのことらしい。
 それはもう期待も高まるというものだった。
 丁重に蓋のように切り取られている上部を外せば中からはなかなか色の濃いカスタードクリームが顔をだす。バニラの香りがふわりと漂った。
 その蓋を軽くちぎってクリームをすくい、口に放り込む。サクサクとした皮の食感に加え、このクリームが凄い。ふわふわした舌触りにバニラの香りが続き、それが鼻孔を抜けた頃にはもう喉を越した後である。変な粘つきがなく、まさに口でほどけて溶けると言うのが近いだろう。甘さは控えられていて、これはたっぷり食べられそうなクリームだった。というか美味い、うま、うまー。
 もう外聞を取り繕うことも出来ず、時折悶えながらさくさくもふもふ。あっという間に至福の時間は過ぎ去り、後には綺麗なお皿が残った。
 ふと気付けばどうも恭也と美由希の視線が私に集中している。

「お、おや?」

 何かあるのかと念のため自分の後ろを確認してみたりしたが、変なものはない。
 な、なにかな? と聞いてみれば。

「あ、いや。ツバサがあまり旨そうに食べるものでな」

 とは恭也。
 美由希は何かぶつぶつとつぶやいていたのでちょっと聞き耳を立ててみれば……

「おかしい、おかしい、なんでツバサ君がこんなに可愛い顔しちゃっているの? これが流行の? いえ違う、胸なんか存在しない、あれは幻に過ぎない、世界が私を騙しているの。私はおかしくない私は正常だ、まさか女の子女の子したツバサ君を見てかか、可愛いとか思っているとか────いけない止まらないといけない。そう、その思考を自閉する」

 ちょっと引いた。
 あ、いや、年頃考えればあれか。一年遅れのあれだね。うん、そういう時期なんだな。美由希も大変だな。
 私の視線がちょっとだけぬるま暖かくなった事は多分間違いない。

   ◇

 さて、そろそろと言った感じで腰を上げた。が、少々名残惜しい気分が表にでてしまっていたのかもしれない。
 コーヒーのおかわりはどうかなとテーブルに来ていた士郎さんが、ふむと顎を撫でながら言った。

「恭也と美由希は今日はもう上がっていいぞ、ほれ、朋あり、遠方より来たる。また楽しからずや、と言う奴だ。せっかくのゴールデンウィークなんだし、うちの手伝いばかりしてることもないだろう、遊びに行ってくるといい」

 ところが恭也は珍しく眉を少し困ったようにひそめた。

「いや、父さん、体がまだ……」
「なに、気を使いすぎだぞ恭也。もう心配いらんさ」

 士郎さんは芝居がかった仕草で指をちっちっと目の前で振りながらそう答える。
 なおも二言、三言似たような会話、心配しては平気平気というやり取りがあった。
 店を出て、すたすたと先に歩く恭也の後を何となく追いかけながら、私は小声で隣を歩く美由希に先の一幕のことを聞いてみると、少し悩んだあと、まあいっかと説明してくれた。
 どうも、一年ほど前に何やら士郎さんは大怪我をして、一時は生死の境を彷徨ったほどだったらしい。長いリハビリの末、日常生活を送れるようになったのもここ数ヶ月ほどだという。
 なるほど、先程の妙なやり取りになるわけだ。私も納得した。腕を組んで、昔の恭也を思い出し、そんな事態になったらを想像してみる。

「しかし、そんな事になったら子供ながらにお堅い恭也だったし、さぞかし思い詰めて大変だったんじゃない?」
「そりゃーもう……」

 そう行って美由希は思い出したのかげんなりした顔になる。

「とーさんに何かあったら俺が支えて行かなくては。とか何か覚悟決めちゃったような顔するし、毎日張り詰めてるし、鍛錬無茶するし……今考えるとホント余裕なかったなぁ」

 私も人のこと言えなかったんだけどね。とどこか遠い目をした。

「なのは、あ、末の妹なんだけど、あの時は随分寂しい思いさせちゃったみたいなの……最近じゃ学校で友達作ったみたいで自然に笑うようになってきてくれたんだけどね」

 お姉ちゃん失格だなあとか言っているので、頬を引っ張っておいた。美由希は対抗策としてぷーと膨れて私の指をはじき返した。や、やりおる。

「まったく、お姉ちゃんに失格も何もないよ、とだけ言っておくさ。自分で納得いかないのだったら、これから良いお姉ちゃんになれば良いじゃない」

 そんな月並みな励ましでも少しは気分も前向きになったらしい。気分を変えるかのように今度はやれ料理をさせてくれないだの、なのはが可愛くて生きているのが辛いだのと、話しだした。

「うん、料理についてなら私も手伝えるだろうし、そうだ、私が居る間に1回くらい一緒に料理してみよっか」

 そんな事を言っていると思いのほか美由希も喜んでくれる。昔私が使っていた廃工跡の住処もどうも二人がたまに片付けてくれているようだったし、野外料理の一つ二つはできるだろう。カーリナ姉も交えてそんな夕食も楽しいかも知れない。
 そんな事を話しているといつの間にやら景色が変わり、見覚えのある神社の階段の前だった。
 私が、お? と疑問符のついた声を出すと、恭也が手に提げていたバッグを開けた。

「なに、俺たちで一緒に遊ぶこととなればまずはこれだろう?」

 と木刀を二本覗かせる。

「……ばとるまにあ」
「聞こえないな」

 一つため息をつく。とはいえ、うん。そういうことならば、ふふふ、私も五年ぶりのリベンジに燃えてしまっていいかな。ティーダにもかなり負け越しているが、恭也には何しろ一つも勝ちがない。ええと、なんだっけか……そう。

「それじゃやるとしようか、今度こそはその蜜柑の技とやらも引き出させてやるさ」

 恭也と美由希が揃って脱力した。

「どうしよう恭ちゃん、私は戦わずして負けた気がする」
「……ああ」
「え、ちょ、ちょっと二人ともどうした!?」

 御神の技だったらしい。
 そんな大ボケはともかくとして……かつて、恭也や美由希と一緒に泥だらけになって追いかけっこをしたり、ちゃんばらごっこをしたりとまあ、言葉にすれば随分子供らしい事をしていた場所に着く。
 恭也の体も逞しくはなったものだが、私も負けてない。身長は負けているが。手足も伸び、背の翼も含めて、昔に比べ格段に身体を使えるようになっているし、木刀もほぼ毎日振って今では手の延長のようなものである。そして局員になってからは躍起になって模擬戦を繰り返し、戦闘経験もなかなかのはずだ。もちろん、魔法と剣術では違うので一概には言えないが、経験は経験である。

「よし、今日は勝つよ?」

 そう言って腕まくり、動きやすい格好でよかった。髪も後ろで纏めて服の中に流しておく。こうしないと枝にひっかかったりで大変なのだ。
 鉄芯入りの馴染んだ木刀を取り出し、いつもの素振り、その最初の一振りをするように片手で正中線に沿って真上に高く上げた。
 思い切り振り下ろす。ただ真っ直ぐの線を描ければいい。それだけの何の技巧もない振り下ろしだ。
 それでも私の全力の馬鹿力で最速で振り下ろした剣である。
 剣風なんてものが出来て、振り下ろしの音もとんでもない音が出る。地面すれすれでぴたりと止まった切っ先に、今日の調子は良、と判断した。
 それを見た恭也は、ほうと一つ感心したように頷き……本人も知らずか、口が好戦的な笑みを描く。
 今の私の馬鹿力は本気でやるとちょっと酷いものなので、これを見せれば油断してうっかり当たってしまった、なんてこともないだろう。
 私も恭也に笑い返した。

「んじゃ、やろっか」

 軽い口調で言った。
 応よ、と短く答え二刀を構える恭也。その挙動の無駄の無さは構えるだけでも絵になる。まるで舞でも見ている気分になった。小説家が小説を、あるいは画家が自らの絵をもって自分の表現とするように、恭也もまたこれが自己表現の形なのだろう。
 友人としてそれに付き合うのもやぶさかじゃない。もちろん勝つ気で行くが。

「二人とも、少年漫画じゃないんだから……全くもう」

 そう苦笑しつつ、美由希は少し離れたところに移動した。右手を上に大きく上げ……下ろした。

「はじめ!」



   ◇

  草の香りが鼻を刺激する。春と呼ばれる時期も過ぎ、夏に向け一段と草木の生命力が高まる時期だ。
 意識することもなく、だんだんと神経が鋭敏になってくる。
 美由希のかけ声と共に真っ先に動いたのは私だった。
 両手に小太刀状の木刀を持った恭也は下段で構え、いかにも堅牢そうだ。
 守りをくぐりぬけ、あるいはフェイントで釣り……なんて技術は私にはない。思い切り振り下ろす仕草なども見せればその間に足を払って勢いを止めてくる。何度それで痛い目を見たか。
 踏み込みの勢いのまま体の回転と共に横に薙いだ。
 受け──ることすらなかった。
 当たるかという、丁度3センチほど手前で見切られ、体をずらし、切っ先が抜ける。一寸の見切りとか武蔵かっての。
 ここで私の動きが止まれば、すぐに馬鹿らしいほどの速さで斬撃が来る。回転の勢いを止めずにそのまま蹴りつけ……守りの一刀で防がれた。
 そのまま蹴り飛ばし、反作用で私も後ろに飛ぶ。間合いを取った。

「ふっ……」

 止めていた息を浅く吐き出す。
 その蹴り飛ばす時にすら反撃を食らっていたりする。柄尻の部分で足首を打たれた。びりびりと痛みが走る。とんでも剣術なのは判っているがそのいやらしさもアップしていたようだった。これが実際の集団戦のようなものだったら、こんな休んでいる暇はない。機動力がなくなったら即、獲物だった。いや、魔法戦闘と比べることはできないんだが。

「すごいな、受け流したつもりだったが」

 そう言って恭也は蹴りを受けた方の手を見て数回握り直す。
 手を痺れさせることくらいはできたようだった。
 ふと、私に視線を合わせ真面目な顔になった。

「ツバサ、油断するな」

 む? と首をかしげると一言。

「行くぞ」

 とつぶやいたかと思うと脱力したかのように足を踏み出し。
 ──て、か、はや……い、あっという間に至近……に!

「ぐッ」

 反射的に防御しようと木刀を前に出したが恭也の一刀で払われた。がらあきの所を手首を掴まれ……びりびりと背筋に冷たいものが流れる。情けなくもヒッとか喉の奥から出てきてしまった。その声を噛みしめ、漏れないようにする。こんな時に、と思う。そしてその硬直を見逃すわけもなく……

「うべぇぇ……」

 そんな年頃にもあるまじき呻きをあげながら私はへたっていた。
 全くすがすがしいほどの五月晴れ。本当は梅雨の合間の晴れのことらしいから微妙に当てはまらないけども。
 仰向けに倒れてそんな青く清々しい空を眺める。
 切迫できたのは最初だけで、その後はなかなかに一方的な展開だった。そりゃもう私がフルボッコ状態である。
 私の攻撃は当たらず、あの訳の分からんいきなり速くなる踏み込みと、そこから来る変幻自在の攻撃に翻弄された。
 そして何より。認めたくないが……一度、その男性への恐怖感? 神経が粟立つようなそれを意識してしまうともう駄目である。パニックこそ起こさないものの、勝手に体が硬直してしまい、思うように体が動かない。ある意味接近戦時のリスクについて、現場での……局員としての活動中でなく知ることができたのは良かったのかもしれないが。

「ここまでにしておくか?」

 私はその御神の技とかを使わせることは出来たのだろうか? 涼しい顔をしたままの恭也の額にも汗が流れ、それなりに消耗していることは判る。
 ああ、以前はそこまで体力消耗させることもできなかったな。なら、私もちょっとは成長したということで……この辺で満足して、終わりにしようか。真剣勝負とかじゃないんだし。
 あー、うー、んー。どうしようかー、なんて。私は右手をその空に向けて無意味に突きだした。
 まあ、冗談じゃない。
 そのくらいで諦めるなら、魔法だってとっくに諦めてしまっている。あんな苦労してまで局員目指してなかった。
 今だって腹の立つ精神状態に置かれてるが……だからなんだっていうのだ。
 私は物語の主人公ではない。歯を食いしばって気合い一発で不可能を可能にしてしまえるような人間ではない。
 それでもまあ、それなりに負けず嫌いで粘り強いのだ。一応は。
 よし、自己暗示完了。恐怖心どっか行け。
 深く息を吸って溜め、フッと一気に吐く。呼吸に合わせて立ち上がった。
 恭也が、大丈夫なのか? と、確認するような視線を向けてくる。
 ちょっと足がふらついているが。そこは大目に見て欲しいのだ。

「次で最後な。ここからの……」

 そう言って私は木刀を大上段に構えた。

「ここからの一発だ、絶対当たるなよ?」

 そう念を押すと、鼻で笑われた。そんな心配してる余裕はないだろうと。
 しかし、一つまばたきをすると、少し考えた風な表情になり。

「最後か、なら俺も一つ。次に見せる技は薙旋なんて技だ……まだ完成には遠いが……行くぞ」

 そう言うや構えを変えた、間髪を入れず例のごとく、タイミングをずらすかのように、ぐんと急に速くなる。ああ、やっと目が慣れた。あるいは変な力が抜けて集中しているのか……
 一言念を入れたわけだし。いいだろう?
 タイミングを合わせ、本当の意味で遠慮のない一撃を出す。と言っても大上段から思い切り振り下ろしただけだったが。これに限ってはその思い切り加減が違った。
 同じタイミングで恭也の持つ右の一刀の薙ぎ払いが、とても良い角度で私の木刀の横合いから割って入る。だが──
 ぎん、とまるでライフル弾を当てられたかのように弾いた。
 バランスを崩したが、そこはさるもの。その崩れた体勢すら利用した上でさらに踏み込み、隠していた左の二撃目が来た。しかし、いかんせん姿勢が崩れすぎだった。私の髪を少し千切るだけにとどまる。
 三撃目の出ない恭也に、私は振りきった木刀を捨て、自分から接近する。
 ぞわぞわと背筋に虫が這い回るような感覚が一瞬通り過ぎ、歯を噛みしめて無視した。小柄な我が身を利用して懐に飛び込み、みぞおちに拳を……
 少しアッパー気味に入れる直前に目が合ってしまった。
 意識しまいとしていたのに、そこで急速に男に対する恐怖を意識してしまう。

「くっ」

 噛み合っていた歯車がいきなり切り離されたかのように力が入らなくなった。
 勢いを失った拳がぽすんと恭也のみぞおちに当たった。
 追撃を予測して、別の意味で身を硬直させる。
 ……こない?

「参った、やられたよ」

 そう言って恭也は私の頭をぽんと一つ軽く叩くように撫でた……合図としたのだろう。しかし伝えてないのが悪かったのだが……鳥肌が。
 と、ともあれ、勝った?
 でも、何故?
 不思議そうな顔をしていると、恭也は無言で小太刀状の木刀、その一本を拾い上げた。最初に私が弾いた一本だが……丁度その当たった部分から砕けていた。鉄芯も外にすっぽ抜けている。

「一応、木も鉄刀木で作ってあるのだがな。どれだけ人並み外れた力になっているんだ……」

 呆れたような声を出す。
 フィジカル面での測定とかは管理局はあまり熱心じゃないから自分でもよく判らないのだが。どうも凄いらしい。しかしタガヤサンで作ってって何のこっちゃ。材料? え、えっと。もしかして……

「恭也さんや、つかぬ事をお聞きしますが……意外とそれ高かったりするデショウカ?」
 
 私はこの世界に来るにあたって日本円に換金してきたポケットマネーを思い出す、ええと、足りるかな? あまり高いとちょっとその……困る。

「弁償なら不要だぞ? ……いや、あるいはそうだな」

 そう言って目の端が少し笑った。ちらりと美由希を見る。終わったのを見越してか、バッグからタオルを取り出してお疲れ様と渡してくれていた。

「美由希に一夜の夢でも……」
「……恭ちゃん!」

 恭也が何か言いかけるや否や、美由希が恭也に突っ込みをかまそうとして……避けられた。

「ツバサくんはもうツバサちゃんになっちゃったの、世界意志がそう決めちゃったの、取り返しが付かないの、だから私の未練をかきまわさないでっ」

 美由希ちゃんや……大声でそういうのを言うと後になって、ベッドで思い出したとき……
 私も多分、明確に覚えてないが、あったのだろう過去に例のアレの病が。何故かじくじくと古傷のように痛む胸を押さえて、美由希の近い未来に涙した。



[34349] 二章 三話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/13 19:03
 気持ちの良い風が吹く。負けっぱなしであった私も一つ白星を付けることができて至極満足だった。
 あの後さらに美由希も交えて、少々の運動をした。特に目的も定めないまま、私達は散歩に興じていた。
 話題と言えば、やれこの時期はいつぞや見たハマナスも咲き始めた頃だな、とか美由希は最近ニーチェを読みふけっていて云々、ツァラトゥストラについてかんぬんと語っていたり。
 恭也がぽつりと赤星という奴が居てな、と話し始めた。何でも剣道と剣術という違いはあれど、同じく剣の道に傾倒しているらしい。恭也にしては珍しく話の合う男友達のようだ。友達……できたんだね。おめでとう、おめでとう。と大事なことなので二度言って祝福したら口をヘの字にしていたが。どうも恭也はからかわれるのが苦手と見ゆる。
 ぶらぶらしているだけでいつの間にやら日は傾いていた。
 別れを告げて、拠点であるホテルに戻ろうとした時、思い出した。駆け寄って声をかける。

「美由希ともちょっと話したけど、明日あたりの夜に廃工跡の例の小屋で豪快な野外料理でもしようと思うんだ。良かったら二人とも来ない?」

 ふむ、と恭也が少し考え。

「それもいいかもしれない。いい機会だからなのはも連れていくとしようか」
「あ、そうだね。ツバサく……ちゃん、にもちゃんと紹介したいし」

 ああ、末の妹だっけ、ええと確か……今小学一年? あれ?
 いや、待ておい。

「二人とも……さすがにそんな年頃の子供を夜にあんなお化けでも出そうな場所に連れていけないよ……」

 肝試しじゃないんだから……と私がこめかみに指を当てて言うと、二人は顔を見合わせた。揃って首をかしげる。

「俺たちの妹だぞ?」
「お化けが出ても親身に相談に乗ってあげそうだよねえ」

 ……え、ええと。高町家の常識というものを疑うものが多々ある。いや私自身もちょっと常識的かを言われると自信ないのだが。

「と、ともかく、子供連れてくるんだったら、臨海公園の浜辺でやろう! 丁度そういうの許可してる場所知ってるし、夜の海は綺麗だよ」

 と、浜辺でやることにさせてもらった。セオリーといえばセオリー通りである。
 都合ついたらでいいからと、士郎さんと桃子さんも誘っておいて、と伝えておく。

「料理は不肖、私とみ──ぶっ」

 突如美由希が私の口を塞ぐ。何故か恭也を見て。

「壬生浪士って素敵だよね! 恭ちゃん! ちょっとツバサくんと女の子同士のお話してくるから待っててねッ!」

 強引にも程があるだろうという言い訳をし、私をぐいぐいと引っ張る。恭也から少し離れると、こそこそと耳打ちをする。
 どうも、サプライズだそうで美由希も腕を振るうというのは秘密にしておきたいらしかった。
 少し……いやかなり疑問を感じる部分もあるのだが、うんまあ。いいか。

「料理は私が腕を振るうから。楽しみにしておいて」

 そう言っておいた。
 集合時間だけ決めておく。もちろん美由希は一緒に料理する予定なので、早めに来ることになるのだが。
 また明日と言って別れ、拠点であるホテルに戻ることにした。

   ◇

 カーリナ姉が物に埋もれていた。
 借りたホテルの一室である。
 それなりに広かった部屋なのだが、カーリナ姉を中心として物が積まれ、もう既に空いた場所の方が少なくなってきている。

「ああ、ティーノか。おかえり、楽しめたか?」

 私が入って絶句していると、物音で気付いたのかこちらを軽く振り向いた。

「カーリナ姉さん……この物の山は何?」
「ああ、今整理中だが、私の習慣のようなものだな。しかしなんだこの世界は。過剰包装もいいところだぞ」

 そうぶつくさ言い、何やら箱から靴を取り出したりしていた。
 しかしまあ、一日でどれだけ回ったのか……習慣と言っていたが、あれか。たまに土産とか言って持ってきてくれるのはこうやって買ったものだったのか。
 私は少々呆れながらそのお土産の山を眺める。
 土偶、妙に古めかしい瓦、陶磁器、徳利、扇子、三味線……温泉の元大箱、サランラップにティッシュペーパー、輪ゴムにホチキス……そしてこちらは、うん、私の責任かもしれない。施設でも人気だったなーと思う。新作の漫画、小説、ゲームのソフト、ハード……そしてこれは、勘違いした外国人の選択のような感じだが、越後屋のノレンに手裏剣、くない、マキビシ、肥後ずいきって……最後なんだ? 記憶に何となくひっかかるけど思い出せない。手にもってぶらんぶらんさせてみる、ブラックジャックのごとく殴打する武器……とか違うな。自分の頬をぺちぺちとそれではたいてみる。

「カーリナ姉さん、これは何?」
「ああ、それか、店主に聞いたら言葉を濁していたが、ハス芋というものが原料らしい。保存食だろう」

 保存食か……ちょっと先を囓ってみる。
 味はあまりしないな、芋がらの干したものに近いだろうか、ぬめりが少しでてくるようだ。

「んー、料理に使うなら戻してから酢の物とかかなぁ」
「料理に使うならやるぞ、食料もいろいろ買い込んであるがな」

 そう言ってカーリナ姉はくい、と顎で示す。
 そちらにはまた日持ちしそうな食料品がどっさりと、転送魔法に質量の大きさはあまり影響しないとはいえ、さすがに買い込みすぎではないだろうか。
 何となく見ていってみると、インスタントラーメン、缶詰、瓶詰、かまぼこ、後ろ手を縛られた子供、ポテチ、利尻昆布……あれ?

「子供?」

 食料品に埋まってなぜか子供……見た目6,7歳だろうか、黒髪だが目の色は茶。どこか日本人とどこかのハーフっぽい雰囲気もある。丁度可愛い盛りの年頃である。それが猿ぐつわをかまされ、後ろ手を縛られ転がっていた。

「ってええ!? ちょっとカーリナ姉、この子はどういう? まま、まさか保存食? ってかどうやってホテルに連れ込んだ!?」

 うああ、落ち着け私。我ながら混乱している。ホテルマン、見てたならこの姉止めろよ、怪しいだろいかにも。

「ああ、バッグに詰めてな」

 しれっとそんな事を言う姉である。連れ込んだんじゃなくて持ち込んだのかー! 謎は全て解けた!

「じゃないっ、ごめん、うちの姉が本当ごめん!」

 私は慌ててその子の縄をほどいた。いや本当この姉どうしてくれよう、拉致だよ拉致誘拐、この場合局員の私が捕まえるのか? 自信ないぞちくしょう。ああもう、涙が出てきた。

「ああ、ティーノ、解かない方がいいぞ?」

 へ? と間抜けな声を私が上げたのはその子の猿ぐつわを取っ払った時だった。
 子供とは思えない動きで跳ね起きると私の喉めがけて手刀の形で突いてきた。
 とはいえ、こちらはちょっと前まで恭也の変態的な動きに慣らされていた身なのだ。とりあえず苦もなく手を掴んだ。

「くそっ!」

 手を掴まれたままその子は毒づいた。
 随分、攻撃的な子供だけど、カーリナ姉に何かされたか? 私は悪い予想に冷や汗が流れたが、ひとまずここは穏やかに。

「え、ええとね、ちょっとそういう乱暴はよくないよ、良かったらお姉さんと話してくれないかな?」

 半モデル業で鍛えた笑顔を振りまいてみる。そりゃもうにっこにこである。警戒心を解いてくれるだろうか。
 その子は眉根を寄せ、しばし私を観察するような表情で見た。

「……なら、俺の目を見ろ。5つ数える間でいい」

 これはよくある目を見れば嘘か本当か判るとか、そういうあれか。私は警戒させないようにゆっくり頷くと、目を合わせてみた……って、魔力!?
 驚いている間にその子の目に魔力……それもかなりの量の魔力が集中し、見ている間に目の表面、角膜に妙な模様、何だろう、V字を歪にしたような模様が形作られた。
 デバイスを通さない……私が常時展開している幻術魔法のようなものだろうか?

「俺に従え」

 驚きながらもそんな事を考えていたら、従えなんて言ってきた。
 何とも言い方が荒いというか……いやでも、この年で従うなんて言葉知ってる方が大したものなんだろうか? これはどうしよう、褒めた方がいいのだろうか。

「お・れ・に・し・た・が・え!」

 大声で言い出した。
 その怒鳴りつけるような言い方にさすがに私も困った。

「だから、言っただろう。お前のそれは視線というラインと通し、魔力素を媒介に使った暗示でしかない。リンカーコアを持っている人間には抵抗力があるからな。通用しない」

 騒ぎの中悠々と物を整理し続けるカーリナ姉がこちらを軽く見て、そんな事を言う。若干疲れたような口調である。珍しい。
 肝心のその子は、下唇を噛み、うつむいた、肩がぷるぷるしているが、その、大丈夫だろうか。
 と、急に顔をあげたかと思うと、その口が勢いよく動き始めた。

「畜生、お前ら何なんだよ、一体俺をさらって何のつもりだ、大体なんでウーノが地球に居るんだよ、おかしいだろ!? おかしすぎるだろ!? ウーノって誰だよ訳わかんねえよ。なあ! 大体お前もお前で何なんだ、誰なんだ! 厨二こじらせて三回転半ひねりのトリプルアクセル加えたような見た目しやがって! コスプレじゃねえか、コスプレだろなあ! 今時ロンゲ銀髪オッドアイとか流行らねえよ!」

 と、ここまで一息で言い切った。恐るべき肺活量である。
 何というか……うん。その勢いに圧倒された。思わずカーリナ姉を見れば、辟易した面持ちで見ている。

「というわけだ。喧しすぎるので縛っておいた。大体その、な。私に説得とか懐柔は無理だしな。お前が帰るまで待っていたのさ」

 カーリナ姉は、ぽりぽりと決まり悪げに頬を掻く。止める間もあればこそ。落ち着いたら呼んでくれ、と言い残し颯爽と部屋を出た。なんと颯爽という言葉が似合わない撤退であることか。

「あ……」

 私はなおも耳元でがなり立てる子供と共に部屋に残された。
 なんだか、カーリナ姉にはいつも事後処理というか、状況を押しつけられてばかりな気が……
 思い切りため息を吐きたかったのだが、さすがに飲み込んだ。こういう時、子供の前でため息とかつくと絶対勘違いしかされないのだ。少なくとも良い方向には行かない。
 並の子供というにはまあ、その、少々問題があるみたいなのだが、私も人の事を言えない身である。内心で、よしと一つ気合いを入れた。
 とりあえずこの、毛を逆立てて吠え立てる子犬みたいなこの子を落ち着かせないと。そう、かつて私もかけられた言葉を思い出した。
 いい加減掴んでいた手を離し、右手でその子の頭を撫でる。優しく。

「落ち着いて? 驚いてるかもしれないけど。少し待っててね、お茶でも淹れるから」

 そう言って、ちょっと目を走らせると案の定姉の買い物の中に紅茶の茶葉を発見する。ティーポットはないが、ホテルに備え付けの急須で我慢してもらおう。

   ◇

 熱い紅茶が冷めてしまうほどの時間が経ち、私は念話で姉を呼んだ。
 落ち着かせるのにはもっと大変だと思っていたけど、そうでもなかった。
 美味しいお茶にミルクと砂糖。
 それを二人で飲みながら茶飲み話のように話を聞かせてもらった。
 おおむねそれはその子の一人語りだったけども。かなり苦労……というより神経をはりつめている生活を送っていたようだった。
 順序立てた話ではなく、途切れ途切れの愚痴にも近いものだったのだが……どうも、彼はその異能? カーリナ姉が言うには暗示だろうか。それによって人の家庭の中に家族の一員と思わせることで入り込み、生活していたようだった。ただ、その力はひどく取り扱いの難しいものだったようだ。記憶の整合性がとれなくなれば人は疑いを持つ。また、他の人間に何度も注意されればそれも疑いの種になる。
 この年だと言うのにあちこちを流離っていたようだ。推測だが、いつ崩れるかわからない暗示による平和と日常。気の休まる時もなかったんじゃないだろうか。
 あまりにも疲れた様子だったので、膝の上に乗せて施設の子にやるように子守歌を歌っていたら、最初は嫌がっていたのだが、うんまあ……

「静かになったよ」
「ふむ……気持ちよさげな膝枕だな、後で私も寝かしてもらえるか?」

 待機していたかのように現れたカーリナ姉が面白げな顔になってからかってきた。私は一つ小さいため息を吐くと、子供を起こさないように小声で言う。

「で、説明。私は何が何だか判らないよ?」

 カーリナ姉は煙草を一本懐から出すとくわえた。私が眉をひそめると、火は付けんよ、と言って話しだした。

「何から話したものか……ひとまずな、そいつがトリッパーとか言う存在さ」
「……トリッパー?」

 私は記憶を探るが、どうも覚えのない言葉……ん?
 カーリナ姉を振り返る。

「思い出したか、いつぞやのマフィア絡みの事件でも少しだけその言葉は出てきただろう? 私自身は盛大に間違われた身だからな。あの後も暇を見つけては追っていたのさ」

 そしてどこか遠くを眺めるかのような様子でカーリナ姉の一人語りは続いた。
 不自然な金の流れを追っていたら偶然に見つけた一人の酷く弱々しい青年。
 それは灰色の髪と顔色の悪い青白い肌。痩せ細って歩くことも困難な要介護の病人だったらしい。

「そいつは私を見るなり言ったんだ。あなたが捜している情報、全て持っていますよ、とな。レアスキルとも言える……しかも多重だ。遠くの事象も透視でき、限定的にだが未来視すら出来た。だが」

 それが負荷にならないはずがない。そう言って一息吐く。
 私が用意しておいた紅茶を一口飲み、喉を湿らせた。

「レアスキルなんてのはある種の異常だ。それを多重で抱える男は次第に能力以外の力が弱くなっていった。その男が見た……未来の自分自身は、後三年もしないうちに臓器不全で死ぬそうだ」

 まったく、とつぶやき、カーリナ姉は天井を見つめた。

「だが、彼が見た未来には問題が多かったらしい」

 その姿勢のまま、そう続ける。

「私はその具体的な事については聞いていない。未来視は扱いが難しいからな、そこは判る。ただ、一言。酷い事になる、とだけぽつりとつぶやいていたよ」

 先程から、彼、彼と……この人もしかして実はこっそり春が来ていた?
 私は真剣みを増す話そっちのけで、そんな事を思って慄然としていたのだが。

「それを見てしまった男はこれまでその能力で貯めた資産を使い、グレイゴーストという非営利団体を立ち上げた。やることは単純でな。多数いるはずのトリッパー、あるいは転生者でもいいが、そいつらの保護事業さ。その酷い未来に彼等は直結しているらしい」

 何だか、話が一気にこう……稀少動物の保護みたいな感覚に……
 しかしまあ、さっきから単語ばかりでてきて内実がよく判らないのだが。

「カーリナ姉さん、そのトリッパーってのは結局どういう存在?」
「成り立ちや特性については定義付けができない。私の知った限り何でもありのようだな。神に会ったというのもいれば悪魔に会ったという者も居る。あるいは寝て起きたら、あるいは事故で死んだら、などというのもあるようだな。転生者についてはそのまま、よく前世の記憶があるなんて言ってる奴が居るだろう。生まれ直した記憶を持っている連中の事を指す。両者ともにレアスキルを持っている確率は高いが……それも確定ではないようだ。まったく特徴が現れないものも居る」

 正直なところ、それだけではトリッパーさんってのは妄想が過ぎているか、文字通り薬をやっている人と変わらないんじゃないだろうか? まぁ、後は例の病気をこじらせてしまった時とか……あるいは私もかつてその可能性を言われた事があるが、違法研究などで記憶をいじられた場合などもあり得るか。

「彼等をひとくくりに呼ぶのはある共通点があるんだ。多かれ少なかれ、生活に基づく知識……通常は人が幼少期から学ぶような事だが、それを有している。なぜか地球基準でな。さらに脈絡も、また繋がりもない記憶を持っている。普段から意識に上る事がないので固有名詞を並べて確認しただけだが……」

 その並べた固有名詞のうち、人名を記憶している事が多かったらしい。それを聞いて驚いた「クロノ、なのは、グレアム」なんて名前はその中でも多かったと言う。なのは?
 高町家は魔法については関係ないと思うのだが……なんでまた。いやあんだけ世界があるのだ。同名の別人だって存在するか。
 しかしまあ、考えるだけ訳の分からない話でもある。グレアム提督にしろクロノにしろなかなか名前は知れているわけだが、何でそれが共通する記憶として出てくるのかが判らない。必要性がないと思うのだ。
 そういう現象を産み出すロストロギアが有ったとか、そっちの方が管理局に勤めている身には判りやすかった。
 とまあ、さすがに痛くなってきた頭をマッサージしながら、思いついたので聞いてみる。

「じゃあ、この世界にカーリナ姉が来たのはこの子の保護?」

 膝の上で寝る子を見る。あれだけ喧しかったこの子も寝ている時は年相応に可愛らしい寝顔だった。
 姉は頷いたが、もう一つと指を一本立ててみせた。

「グレアム提督から聞いたことはないか? この土地は異常だと。その調査ももちろん兼ねている……あるいはティーノ、お前がここに公式では転移事故だったか? を起こしたのも無関係ではないかもしれん。覚えてないだけでお前もグレイゴーストに保護されるべき者なのかもしれんぞ?」

 そう言って私を脅すように覗き込むのだが口元が笑っている。
 むしろそんな単純な存在ならいいのだけど、私が何者であるかなんて一番私が知りたいのだ。
 ため息をついて一応言葉を返しておく。

「別に今更トリッパーと言われようが転生者とか言われようがどっちでもいいけどね、ネーミングセンスだけはどうにかならないかな? 安直すぎだよ」
「……お前にネーミングについて言われては、最初に自称し出したトリッパー君は浮かばれないだろうな」

 ひどい事を言われた気がした。言い返せないけど。

   ◇

 実のところ、すっかり忘れていたのだ。
 学生時代に確かに、カーリナ姉とマフィア相手に、おおあばれーな事をしたというのはそりゃ記憶に残っていたが、さすがにその事件の中でふっと出てきた単語をいつまでも覚えておけるほど私の脳細胞は優秀ではない。それは自信を持って言える。大体その後は飛び級しようとしていて忙しかったのだ。

 ともあれ要点としては、共通する記憶を持ってる、レアスキル保持者の人たちが世の中にはけっこう居る、それがトリッパーで、転生者さんは同じような存在だけど、生まれ直した記憶があるって事か。
 前世の記憶、そんなものを想像してしまう。仏教の輪廻転生なんて概念は実在したりして。
 ……まあなんだ、正直あまり触れたくないというか何というか……カーリナ姉も多分知っているはずだ。私もまた妙な記憶、未来にあたる地球での記憶を残していたことを。だから、ああいう風にからかい文句も生まれるのだろうけども……
 そういえば、トリッパーさんや転生者さんたちはその記憶からフィードバックした情報と、現在の肉体から来る齟齬……精神状態とかはまともでいられるのだろうか? 私もまた似たようなものかもしれないし、秘訣でもあるなら教えてもらいたいところだった。

 私は自分のこめかみをこんこんと意味もなく指で叩いてみる。思考がまとまらない。
 カーリナ姉に対して私が言った事は別に照れ隠しや嘘ではない。正直自分がトリッパーとか転生者とかそんなのに分類されようが、割とどうでもいいというのはある。私が施設の子たちを好きなのは本当だし、ティーダ、ディン、ココット、恭也、美由希とは一緒にいると楽しい。ティアナちゃんがニコニコと私に近寄ってきたりするとそりゃもう幸せな気持ちになるのも確かだ。
 ただ、同時に私がどういう存在であるのか知りたいという部分もまたあった。分類上のものではなく、欠けているのか、ぐちゃぐちゃになっているのかすら判らない私の過去。どういう道筋を辿ってどういう事になり、私になったのか。それを知りたいという気持ちもまた。
 ……まぁ、いつものことだが考えるだけ泥沼なので考えない事にする。美由希ではないが「だが思考は自閉される」みたいな感じで考えないようにしていた……うん、何気にいいなこの言い回し。元ネタでもあるのだろうか。
 
   ◇

 ふう、と無意識に息が漏れた。例の病気に染まりかけていた。考えてみれば私も肉体年齢的には染まっていてもおかしくない。
 別に疲れているわけでもないはずなのだが、精神的に肩こりのようなものを感じた。ふと時計を見やればなかなか良い時間である。
 さて、夕食どうしようか、食料自体は姉が買い込んだものが山になっているわけだが、大半が味気ないというか、保存食やら菓子やらである。

「カーリナ姉さん、そろそろ時間も時間だから何か食べ物でも買ってくるよ」

 そう言って立ち上がると、まあ待てと手で止められた。

「商店街で見かけたのだが、今日はこれを頼もうと思う。何しろ……街頭テレビでやっていたが、妙になんだ、美味そうだったからな」

 そう言って取り出したのは某ピザ屋のチラシだった。ああ、CMにやられたか……ああいう、何というか胃袋を煽るたぐいのCMは地球文化すごいからな……
 カーリナ姉は身振りを交え、チーズがとろとろでな、こう糸を引くんだ。と、まだ言っている。これはばっちり煽られてきたようだった。この人理系すぎて感覚的なものにひどく弱いところがあったりする。
 ともあれ、別に止める事もない。宿をとっているこのホテルもその手のルームサービスは無いみたいだし文句は来ないだろう。これも記念といえば記念だ。配達を頼むことにした。

 やがて、一昔前の謳い文句通りに三十分もしないうちにピザが届き、臭いにつられたのか、ベッドに移しておいた子も目を覚ました。
 確認するように瞬きをすると突然頭を抱えて唸り出した。何か持病でもあったのかと慌てて近寄るとブツブツとつぶやいている。

「な、何でこんなやつに……なんで初対面なのにぺらぺらと語っちまったんだ、追い詰められすぎだろう俺、うああ、恥ずかしい恥ずかしすぎる恥ずかしすぎます、やめてとめてやめてとめていっそころせ、ああくそ転がりてえ、転がったらますます生ぬるい目で見られるだろうが、ちきしょう、まとめて言うとちきしょう、何なんだこの状況は!」

 ……お喋りな子である。
 別に転がらないでも私の目はとてもぬるく優しくなったような気がした。
 ひとしきりブツブツつぶやいたらすっきりしたのか、周囲を見渡し、何やら端末に打ち込んでいるカーリナ姉を見つけると、頭痛でもしたかのように額に手を当てて小声でため息をついた。

「やっぱウーノが居るし、本当なんなんだかなあ」
「ウーノか、私を指しているのか。それともこの世界のカードゲームでも遊びたいのか?」

 振り返らずに言うカーリナ姉にぎょっとした顔をする。甘い甘い、カーリナ姉もまたどんな仕組みを使ってか、地獄耳な時があるんだぞ。

「ち、違うってのかよ、ドクターの秘書で……秘書で……あれ?」
「……私の姿を見たら記憶が浮き上がってきた。そうだな?」

 そう言っておもむろに振り返った。その長い足を組み替え、子供を見据える。

「あ、ああ。急に……そんなの昨日までは知らなかったはずなのに、今は知らないほうが不思議というくらいにあ、あれ」

 混乱しだす子供に、カーリナ姉はふむ。と予期していたかのように軽く頷いた。

「それ以上考えるな。何も考えないだけでいい。思考を逸らすのも良い……そうだな、そこの私の妹のヌードでも進呈しようか。別の方向に思考を使うんだ。私が見てきた連中にはよくある症状だから安心するといい」

 そう言って何やら端末に映して渡して見せている。
 混乱してる子供に何見せているのか……この姉は。何を見ているのかこの子供は……凝視するな。しかも落ちついたようだし……
 大体私の裸なんぞに価値は……ああいや最近は胸も出てきたし、それなりにあるのか? 年頃も年頃だし需要あり? む。よく判らない。局に戻ったらティーダに聞いてみるとしよう。
 それよりも、と言ってカーリナ姉はピザの箱を開けた。一つ大事な話があるのだが、そう言って中の一切れをつまむと豪快に囓りついた。チーズが伸びる。

「いやあんた、大事な話と言いながらピザ食ってんじゃねえよ! 俺だって腹減ったよ! 一つくれよ!」
「一つと言わずたくさん頼んだから食うといい、でだな」

 懐柔苦手とか言いながらしっかり懐柔している。素のボケでやっているところがアレなのだが……この姉は本当に自覚がない。
 複雑な心境のまま私も便乗してピザに手を伸ばした。
 食事をしながら、先程私に説明したようなことをカーリナ姉はかいつまんで説明した。そして、肝心の用件はというと、その保護組織であるグレイゴーストの会長と一度会って欲しいということである。そして出来れば庇護下に入ってほしいということ。何でもその会長、聖王教会ともつながりがあるらしく「これは理解できなければあまり関係ない話だが」と前置きして言ったのは教会の名門グラシア家が表向きの庇護者となるらしい。確か院長先生が家庭教師をやっていた頃の話で耳にした覚えがある。結構な格式の家ではなかっただろうか。

 用件を聞き終えたその子はぐーむ、と唸って考え込んだ。
 だがその悩む時間も数秒だったろうか、顔を上げ、何か言いかけ。

「待った」

 私が間に入ってストップをかける。
 おお、子供らしく唇をつきだして不満げな顔を……可愛……いかんいかん。わ、私は……ショタの気すらあるのか?
 自らの隠された欲望にひそかに戦慄を覚えたのだが、ま、まあ今は関係がない。

「名前」

 私は人差し指を立てながらそう短く言った。
 大体、愚痴は聞いたものの名前すら聞いていなかったのだ。

「私はティーノ・アルメーラ。そして姉のカーリナ・ベーリング。君は?」
「あ、ああ、デュレン。デュレン……メジロだ」

 メジロ……目白? 確か東京にそんな地名があったような。聞いてみたら、最初に感じたとおりハーフの子らしい。どうも苦虫を噛みつぶしたように言ったところをみると名字の方はあまり気に入ってはいないようだったが。
 じゃ、よろしく。と言ってその小さな手を握って軽く振った。

「実は私からも説明しておきたいことがあるんだ」

 そう言って管理局の事をかいつまんで話しはじめる。

「ティーノ、局とは既に話がついて」
「判ってる。でもそれとこれとは別だよ」

 多分カーリナ姉の言い方だと既に教会と局の間で交渉は行われた後なのだろう。
 ただ、この子は私と同じように漂流者保護の適用対象とまではいかないものの「先天的に魔法能力を有している場合、それを適正な方向に導くため」という名目の保護規定には入ると思うのだ。ならば、そう言う道筋も選べるよ、という事はきっちり説明しないといけなかった。管理局員としてお給料貰っている身である。そのくらいはやらねば、とは思う。

「……というわけで、そういう方向性もまたあるんだ」

 そう言って締めくくる。
 少し考えると、ふと気がついたかのように。

「ちょっとまて、考えたら何でどっちかにしなくちゃいけないような事になってんだよ?」

 そう言い立てる。もっともだ。
 でも多分……

「それはお薦めしない。言っただろう、トリッパー達には非合法組織からの賞金がかけられたことがあると。それはまだ生きている上に、そろそろ嗅ぎ当てられていてもおかしくない」

 カーリナ姉の口調はからかったり嘘を言ったりしている口調ではない。
 付き合いの長い私としては本当かよと言いたくもなったが。
 倫理的にもこのままこの子が野放しというのは避けたいところではある。私は黙っていた。

   ◇

 どうやら姉の言った、会長に会って欲しいという言葉にデュレンは惹かれたようだった。

「では軽く診断をさせてもらえるかな」

 そう言ってカーリナ姉は聞き取りを始める。
 私も見ていて良いらしく、デュレンの横で見ていたのだが、渡されたのは顔写真とその名前だけが入っているだけのリストである。どうも、覚えがあるかどうかのチェックに用いているようだった。

「あ、グレアム爺さん。アリアさんにロッテさんも」
「馬鹿、お前は知っているに決まっているだろうが。そのリストは有力局員と次期有力局員の候補を纏めただけのリストだ」

 ちなみにクロノやティーダも映っていた。私が載っていないのはまあ、うん。判るけど釈然としないものである。
 そして、記憶……トリッパーとしての記憶だが、どこまで連続している記憶なのかを聞いていた。デュレンの場合は何ともまあ、コメントしがたいのだが、車に轢かれた後に気付いたら物心つくかつかないかの子供だというから驚きである。ただし、その車に轢かれる以前、自分がどういう存在だったかは今ひとつピンとこないらしい。そこは私に似ているのかもしれない。私の場合はすり減るように無くなっていった感じがあるが。
 そして今日に至るまでの経緯を聞き取ろうとしたのでさすがに私も遠慮して席を外させてもらった。

 終わったぞ、と念話を受けて部屋に戻ってみれば、デュレンはまたベッドに横になって健やかな寝息を立てていた。

「なんだかんだで緊張していたらしいな。それに聞いてみればまだ7歳の体だ。眠りも欲しくなるというものだろう」

 そう言って苦笑しきりである。どこかカーリナ姉も力が抜けたような印象があった。

「素行に問題はないようだ。軽犯罪は犯しているものの、生活のためという情状酌量の余地のある事だし、本人も率先して悪事を行うタイプではないだろう。会長も喜んで引き受けるだろうさ」

 これを使わずに済んで重畳と言ったところだ。そう言ってテーブルの上に指輪を投げる。どこか見覚えのあるデザインだった。というか魔導師用の囚人護送用リングである。魔力の運用を非常に困難にする効果があったはず。こんなものまで用意していたのか。呆れてカーリナ姉を見れば、心外なと言いたげな顔になる。

「あまりに問題のある人間だったらこれでもはめて、そのままお前に逮捕して貰うつもりだっただけだ」

 いろいろと考えているようだった。先に言っておいてほしいものである。



[34349] 二章 四話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/13 19:03
 かつては嗚咽をこぼしながら、あるいは暖かい食卓を羨ましくも思いながら通り過ぎた道を歩く。
 右手に住宅地の小さな公園を眺め、空腹時に水で腹を満たした事を思い出す。本当にどうでもいいことは記憶に残っているものだ。
 もう家族も、友人も思い出せないというのに。
 かつてこの公園で電話をかけようなんて思った頃には覚えていたはずだった。
 しかし、その後は? 日々の生活感に埋もれたというわけではない。思い出せないことを悲しいと思うことが無くなってしまっていた。寂しいと思う時も正直あるが、今更すぎてどうも……
 私はかぶりを振る。立ち止まってしまった私を不審げにカーリナ姉が見ていた。
 その住宅地から少し逸れるとすぐに山に入ることになる。勿論、道などはなく時期も時期なので草がそう、私の膝ほどまで長く伸びていた。
 姉もまたこういう場所には慣れているのだろう、道無き道を気にする様子もないので、私も遠慮の無い速さで進んだ。
 1時間も登った頃だったろうか。景色が開け、ひどく懐かしい光景が目に飛び込んできた。
 私が目を覚ました池の傍のぽっかり開いた原っぱである。私は池の近くに根を張っている大きな木を何となく触る。そういえば布団なんかこの木にかけて干していたっけ……、なんで布団と一緒だったのか覚えてないけども。案外寝て起きたら異世界? ますます私のトリッパー疑惑が高くなるばかりだった。と言ってもそうなるとアドニアのあの夢はどういうことなのか判らなくなってくるのだが。
 私は一つ肩をすくめ、小さな池をぐるっと眺めた。
 今はそんな事より、ここの異常の方が重要だろう。

「ここが、お前が目を覚ましたという場所か……魔力が?」

 後からやってきたカーリナ姉が目を細め、ゆっくりと歩きながら観察を始めた。
 私も十分に異常を感じ取っている。それは魔法というものに慣れ、日常的に扱っている今だからこそ判る感覚である。
 場の魔力が不自然だった。
 不自然というか……なんと言えばいいのだろうか。

「底が抜けている?」
「いい表現だティーノ」

 いつの間にか周囲を見ていた姉が傍に居た。煙草を一本、懐から取り出すと今度は子供に遠慮する必要がないからか、火を付け、旨そうに吸った。香料の刺激臭が鼻を付く。この人臭い系の煙草好む癖がなければなあ……

「これがグレアム提督のよく言っているレイライン、この国の言葉では龍脈と呼ばれるそれかは判らないが、魔導師が魔力を感知してようやく気付くレベルの空間の穴……三次元上のものではないだろう、それがあるようだな」

 そう言ってカーリナ姉は小さな魔力球を作ってみせる。制御を解くと、それはふわふわと風に吹かれるように揺れ、ゆっくりとその形を崩していった。

「と、言ってもだ。私も研究者というわけではないからな。ここは記録だけして行くとしようか」

 そう言って、記録をとりはじめる。
 その間私は、懐かしさも手伝ってか、何となくその周囲を歩き回り……それを見つけた。
 池の浅いところに落ちていたそれは、大きさとしては3センチ四方くらいか、井という漢字、そんな形をしている平べったいものである。赤く見える金属だか石だかよく判らない材質でできていた。どこかで見たような……
 私がそれをつまんで、日にかざしたりして、思い出そうとしていると姉も気付いたのか。近くに来て覗き込む。

「何か拾ったのか? む……これは、この世界のなんだったか……そう。鳥居に似ているな」
「あ、言われてみれば」

 といっても本当に言われてみれば、そんな感じでもある。鳥居であれば柱に当たる部分が上に突き抜けているし。
 収集癖が疼いたようで、それは姉のバッグに入ることになったわけだが。
 どこに行ってもああして集めているのだろうなあ。私は半分呆れながらその様子を見ていた。姉のその楽しげな姿は正直羨ましいものである。

   ◇

 その後も私をガイドとして、土地の調査という事でこの海鳴市を回っていたのだが、目立った収穫は無かった。せいぜいがところ私や恭也、美由希がよく一緒に居た神社、八束神社に妙な……姉は感じなかったらしいので、気のせいかもしれないのだが。魔力でも何でもない妙な視線めいたものを感じたのみである。
 子供の足ではさすがに厳しいペースなのでデュレンはホテルに置いてきているのだが、一応の監視のために置いてきたサーチャーで確認した分だと大人しくしているようだ。丁度昼時でもあったので、昼食でも買って一端ホテルに戻ることにしたのだった。
 
 仕出しの帰りだろうか、ちょうど弁当屋の配達ケースを乗せた自転車が店の前に止まるのが目についた。
 んん? あれは。
 店の名前を見ればなるほどである。私はその配達を終えて店に入る配達員に続いてのれんをくぐった。

「いらっしゃい……ませー」

 途中間が開いたのは私の見た目で、日本語の入店挨拶で良いのか戸惑ったものかもしれない。こんな見た目をしてると日本ではたまにある。
 客が来たことを察してそそくさと奥に引っ込もうとする長身の配達員の袖口を掴んだ。

「よ、久しぶり安田」
「……は? へ? ええ……と、すいません、どこかで会った事が」

 美由希といい恭也といい、安田といい。子供の頃会った連中がまるで一目で判ってくれない……
 いや、無茶言うなって話なのかもしれないけども。
 私は少々しょんぼりした気分にもなって少し俯いた。美由希にやって見せたようにそのまま髪を後ろでまとめて見た目短くしてみる。
 これでどうだ、と言いながら顔を上げるとややあって、驚きの表情になってきた。

「ツバサ君……っすか?」
「ツバサ君ですよー?」

 安田は嘘ぉ、と目をこすった。やがて、何か考える事でもあったのか、悲しい目になり。

「モロッコ帰り……ですか。アレは取っちゃった?」

 ええと会った時から無かったけども……まあうん。
 最初から男じゃなかったんだよ。
 そんな事を教えるとしばしの間固まった。

「おーい、戻ってこい、現世はこちらだぞ」

 南部も元気だろうか……私が地球にいた頃、その見かけにも隔意を見せずに近づいてきて……最初は喧嘩を売られたようなものだったが。それなりに付き合いのあった二人だった。と言っても安田の家が弁当屋を営んでいるというのは初耳だったが。

 安田がなかなか戻ってこないので、昔を思い返していた。ようやく我に返った安田と少々世間話に花を咲かせる。どうも南部の方は進学校目指して勉強中らしかった。最近あまりつるんでいないとのこと。5年もあれば人間関係も変わっているということか。
 購入したまだ暖かい弁当を手に、何となく感慨にふけりながら帰路を急ぐ。カーリナ姉は先にホテルに帰してしまったのだが、少々時間をかけすぎた。二人ともお腹を減らしていることだろう。

   ◇

 戻ってみると二人は仲良く……いや、微妙な空気のまま、友情破壊ゲームとして名高い某鉄道ゲームをプレイしている最中だった。

「くそ、何故だ、何故ボンビーが付くのだ! アルゴリズムは把握したはず、なのに何故!? 乱数か、乱数の逆算を間違えたのか!?」
「うはは、甘ぇ! あんたの思考は読みやす過ぎるぜっ! ゲーマーを舐めてかかったのがあんたの敗因だっ」

 何とカーリナ姉が完全に遊ばれている……
 デュレン……恐ろしい子!
 ややあって、勝負がついたらしい。ぼろぼろに負けて真っ白になる姉を放置し、私とデュレンで弁当を食べ始めた。お湯が沸いたようなのでお茶を淹れてくると、ちゃっかり姉も復活している。
 そういえば、と思い出したので都合を聞いてみた。

「姉さん、姉さん。今日の夜は臨海公園で私の友人の、恭也と美由希、それにもしかしたらご家族と。ちょっと野外料理でもしようと思っているのだけど、カーリナ姉さんも一緒にどうかな? 良かったらデュレンも一緒に」

 そう誘ってみたのだが、眉をひそめ、こう言った。

「ティーノ、さすがに羽目を外しすぎじゃないか? 半分建前とはいえ仕事に来ているのを忘れたか」

 ぐは、と私は吐血した。むろん精神的に。
 その通りです、すんません。浮かれていました。納税者の皆さん……局員として申し訳ありません。そ、そうだ。その通りなのだ。久しぶりの帰郷で舞い上がっている場合では……デュレンの処遇を決める時には姉を遮って局員の義務くらいは果たさないとと思ったのに、舌の根も乾かぬうちにこのざまである。

「お、おい、冗談だ冗談……本当にお前は固くなったな、大丈夫か?」
「いや。例え冗談としても、確かに浮かれすぎだったし……うん、断りの電話を……」

 そう言って私はのろのろ立ち上がって電話機に向かったのだが。

「まぁ、待て」

 とばかりに袖口を掴まれて止められた。

「ティーノ・アルメーラ二等空士。地元の人間との円滑なコミュニケーションもまた情報収集には必要なものだからな。夕食を通して接触する機会を作ってくれたならば、その方向で進めてくれ。これは調査員としてのオーダーだ。いいな?」

 お、おお? いや、それは、この場合どうすれば。

「全く世話の焼ける奴め」

 そういうのは聞こえない声で言って欲しい。
 私は姉の勢いに飲まれるように……うん。微少ながらも出張費用頂いている身としては実に申し訳ない。流されてしまった。

   ◇

 野外料理と言っても、料理器具さえ揃っていれば厨房と遜色ない……とまではいかないものの大抵のことはできる。
 工場跡の小屋、かつて私が何かに使えるかと取っておいたものや、重くて持っていく気にならなかったものがそのまま眠っていた。
 持っていく器具はダッチオーブン、それに焼き網などの小物である。
 ……引っ張りだすと、さすがにダッチオーブンは湿気さえ少なければびくともしないらしい。塗ってあった油がさすがに駄目になっているようだったが、これは後で空焼きしてから再度油を馴染ませればよし。ただ焼き網はさすがに錆び錆びである、途中で買い込むことにしよう。炭も眠ったままだったので、これも使えそうだ。おっと、普通の鍋も忘れないようにしないと。

「来たよー。待った?」

 そう言って美由希が姿を見せた。ダッチオーブンや鍋は重いので私が抱え、細々としたものはクーラーボックス持参の美由希に持ってもらい、ひとまず目的地である海鳴臨海公園に向かった。
 臨海公園の浜辺ではバーベキューなどをする人たちも多く訪れるので、専用の管理区域を設けている。煉瓦造りの簡単な竃が既にいくつか用意されていた。管理人は私が大きなダッチオーブンを抱えて現れた時は少々驚いた様子。時期が時期なので混んでいるかとも思ったが、幾らか使用料を払い、空いている竃を予約しておく。少しの間事務所に荷物を置かせてもらって、美由希と買い出しに出た。
 時間にはまだ余裕がある。ちょっと遠いが良い食材を入れているスーパーを知っていたので、そこまで買い出しに行ったのだが、美由希も私が同性だったということが段々納得できてきたのかもしれない。当初はあったぎこちなさも抜けてきているようだ。
 そうなると今度は腕を組んできたり、髪をいじらせて、などとスキンシップも多くなってきた。買い物をしながらも楽しげな美由希を見ると、複雑な感情も湧いてくる。
 私が男だったら放っておかないのだが。恋愛感情の「れ」の字も浮かんでこない。久方ぶりに自分の身体を恨めしく思うのだった。

 一通りの調達を終え、浜辺に戻り、ひとまず割り当てられた竃に火をおこしておく。今回炭も持ってきているので、少し火が起きたら炭火にしてしまう予定だ。
 さて。久しぶりの野外クッキング開始である。腕が鳴る。美由希も自分用だろうパンダエプロンをかけて用意は万端だ。

 ダッチオーブンも綺麗にした後にたっぷりオイルを塗りつけ、炭火で熱しておく。今回ちょっとした遊び心で作ったのはダシ取り用の豚骨に豚バラ肉を塩胡椒を振りながら巻き付け、巻き付け、巻き付け。仕上げに周囲をバジルとパセリ、オールスパイスなど小麦粉に混ぜたものを表面に振り付け、ダッチオーブンに投入。少し転がしながら焼き付けたらワインを少しかけて蓋をする。さらにその蓋の上に炭をちょこちょこと乗せ、少々待てば蒸し上がりだ。
 その間に野菜を洗いに水場まで行っていた美由希が戻ってきたので、じゃあ、ブイヤベース用に一口大に切っておいてと頼む。さすがに剣術やってる家だと刃物には馴染みがあるのかどうか知らないが、なかなかこなれた手際……なのだけど。

「美由希ちゃん、美由希ちゃんや……ジャガイモの芽は取ってね、あと表面の緑色の部分は厚めに剥かないと……」
「え、え?」

 皮は綺麗に剥けているのだが綺麗に薄く剥きすぎているのだ、芽も残したままである。このままでは中毒が……それにどうやら、持ち方が……見ていて危ない。指をざっくりというのも困る。
 調理実習とか休んでしまったのだろうか? 
 美由希はしゅんとうなだれ、あうぅなどと言っている。
 何だか可愛い、ちょっと得した気分になった。
 私は美由希の後ろに回って手を回す。

「包丁の持ち方は……こう。刀を握るわけじゃないから、小指の力は抜いて? それで人差し指を包丁の背に乗せると角度が安定するんだ」
「え、あれ? 本当だ」
「そんで、ジャガイモみたいにでこぼこしている素材の皮を剥く時はあまりしっかり握らないこと」

 そう言って私は力の入っている美由希の左手を緩める。しっかり握ると逆に滑ったりもする。
 力で切らないというのは美由希も感覚では分かっているはずなのだ。こうすればすぐに慣れるはず。最初はゆっくり……皮がぶつぶつ切れてもいいのだ。怪我しないようにじっくり剥いてもらった。

「……できた!」

 美由希がこちらを振り向いて満面の笑みになる。皮を剥けただけでこの喜びようである。
 事情は判らないが、私もつられて笑顔になった。
 同じような大きさに人参とタマネギを切ってもらい、ざっと失敗のないことを確かめた。さすが、あんな持ち方でも綺麗に切れていた美由希である。切り口も鮮やかに揃っている。
 さて、その間にダッチオーブンの重い蓋を開け、火の通り具合を確認する。串で刺して透明な汁が出てくるようになっていれば……うん、平気だ。その大きな骨付き肉、通称マンガ肉である。
 出来合いのもので恐縮だが、焼き肉のタレを醤油やみりんで増量し、浸けておく。食べる前に再度焼くのだ。
 空いたダッチオーブンを鍋代わりに使い、ブイヤベースを仕立てていく。本当は魚だけで仕立てるものらしいが、それはそれ。日本人の口に合いやすい味ってものがある。
 昆布と鰹節で出汁をとり、アサリとエビとタラのブイヤベースだ。魚介類は一端引きあげて煮締まらないようにはして、その間に美由希に切ってもらった野菜にトマトペーストを投入、香り付けのハーブも入れた。そして軽くアクを取りながら野菜に火を通す。美由希にそれを見ててもらって、私は鍋に米を入れて水場に研ぎに行く。ええと、最大8人か……ひとまず6合ほど研いでおいた。
 食べ盛りの多い面子ではあるが、アルコールも用意してあるので、大人組がビールに走ると全くご飯の消費量が読めないのである。
 戻ってみてひとまずテーブル、竃とセットのような形になっているのだが。に米の入った鍋を置いて時計を見た。
 ちょっと米を炊き始めるには早い時間である。
 ひとまず鍋はそのままにしておき、思い出したのでサラダを作り始めた。と言っても先程美由希に一緒に洗ってきてもらったレタスなどの生野菜を千切って、カットしたきゅうりやトマトを散らすだけ。一番簡単なサラダだ。そして焼く用の肉の一部に下味をつけておく。やはり牛タンは塩だろう。タレでも十分美味しいとはいえ。
 さて、と私は腰に手を当ててぐるっと見渡した。
 一通りの準備はこれで整ったわけである。
 そろそろ日も暮れてきて、あと1時間ほどで恭也に言っておいた時間になる。……日も暮れ……忘れていた。灯りがなかった。肝心なところで抜けがあるのが私自身の困ったところである。
 先程管理人の事務所に行った時に見たのだが確か機材レンタルもやっていたはず、幾らか払い、ランタンをレンタルすることにした。
 よ、よし。きっとこれで万全だ。そんな事を思いながらグッとガッツポーズをしてみせる。どこかでカラスが間延びした声で鳴いた気がした。

   ◇

 皆も集まって、大人組にはビールなりワインなり、子供用にはジュースなりで乾杯をして賑やかに始まった。
 全員を知っているのは私だけというのもあって、始めのうちは紹介に忙しかった。とはいえ、姉は姉で人見知りしない……というか我が道を行く人であるし、デュレンも年齢の割に大人びていて、これは人生経験の影響か記憶の影響か判らないところでもあるけども。割とあっさり馴染めていた。
 高町夫妻も来てくれた。
 この二人はもともと明るく社交的な人たちなのだろう。私が間に入って紹介していたのも余計なお世話だったかもしれない。いや、恭也と美由希に関しては……うん。恭也は無愛想で判りにくいし、美由希は内向的なところがある。やはり私が間に入って正解だったのかもしれないけど。
 そして高町家、末の妹のなのはちゃんである。いやこりゃあ可愛い。美由希がなのはちゃんの事を語るときにニコニコ話していたのを思い出す。そう言えば恭也もどことなく自慢げだったか。

「初めまして、高町なのはです、ええと……?」

 賢い子だった。恭也や美由希からはツバサと呼ばれていたが、カーリナ姉やデュレンは私のことをティーノと呼んでいる。どちらを呼べばいいのか迷って言いよどんだのだろう。普通なら兄姉が言っていれば追随しそうなものだ。

「ん、初めましてなのはちゃん。ミドルネームがツバサなんだ。日本だとむしろこっちの方が自然だろうし……お兄ちゃんとお姉ちゃんと同じように呼んでくれればいいよ? よろしくね」

 私はそう言ってその小さな手と握手した。映画か何かの影響だろうか、何故か両手で握り返されぶんぶん振られる。
 私は愛らしさに思わずにやけそうになり、慌てて表情を取り繕った……まあ、なんだ。子供には勝てないのだ。
 ふと見やるとそのもう一人の子供であるデュレンが、なぜかなのはちゃんを見て、目が釘付けになっていた。
 カーリナ姉もそれに気付いたのか、早速と言わんばかりにからかいに入る。

「どうした? あまりの可憐さに惚れたか? 年頃は丁度釣り合い取れているが、随分と早い恋心だな」

 デュレンは我に返ると、ななな、何いってやがりゅ、そそ、そんなんじゃねべし、と激しくどもった。ついでに舌を噛んだらしい。痛そうだ。うわ……姉よ、舌噛んだお子様にオレンジジュースは鬼畜過ぎる。ホテルでゲームに負けたのがそれほど悔しかったのだろうか。
 とりあえずの紹介も終えたし、おのおの談笑したりと、場も暖まってきたので私と美由希は料理に戻ることにする。
 ブイヤベースの方もいったん出しておいた海鮮類をまた鍋に戻し、大まかな味付けは完了。煮立ったら仕上げに味を見るのでひとまず美由希に見ておいてもらい、私はご飯を炊きはじめた。と言っても竃の隅に炭火を集めて火力を強くしたところに鍋を置いただけだが。


 はじめちょろちょろなかぱっぱ、なのである。なんて、実はさほど難しく考えなくても水加減さえしっかりしてれば割と普通にご飯は炊ける。沸騰しだしたら蓋に石でも乗せて火を弱めながら様子を見ればいいだけだ。しばらく弱火で待っているとお焦げが出来はじめて音が変わるので、後は蓋を取って確認。菜箸でちょこちょこと穴を開けて蒸らしておけば美味しいご飯の完成である。
 ブイヤベースの方はというと、ん、大丈夫なようだ。美由希が指で丸を作っている。手順は説明しておいたし、仕上げの方もやってくれたか。
 最初に作って置いた半分ネタではあるものの、食べても美味しいマンガ肉を調味液から出して、既に熱されている網のはじっこの方に乗せておく。火は通っているものの、暖まるにも時間がかかるのだ。

「一通り完成っと。お疲れ美由希ちゃん」

 私は何故かはにかむ美由希にねぎらいの言葉をかけ、ブイヤベースをスープカップによそる。

「あ、手伝います」

 ん、子供には手持ちぶさただっただろうか、花火でも用意しておけば良かったかもしれない。何となく暇そうにしていたなのはちゃんが運ぶのを手伝ってくれるようだった。

「ありがと、なのはちゃん。この多めによそったのを、お兄ちゃんとパパさんに渡してね」
「はい!」

 美由希の言っていた陰などはどうも見あたらないようだが、それにしても明るくてよろしい。私もついつい、取り繕うのを忘れてしまい……

「つ……ツバサくん? 顔が大福みたいになってにっこにこしてますけど」
「お、おう!」

 美由希に注意されてしまった。どうも顔がゆるんでしまっていたようだ。こんな事ではティアナちゃんが同じような可愛い盛りになった頃にはたまらんのである。困ったものだった。
 全員にご飯とスープが行き渡り、お代わりは一杯あるからどんどん召し上がれーと声をかけておいた
 そして、メインの肉も網で早速焼き始めた。

「ほう、こいつは大したもんだ。地中海料理ながら油っぽさも海鮮の生臭さもなく。どっちかというと和食かい?」

 とは士郎さん。さすが店長である。

「んー、それだけじゃないわね、香りにワインのフルーティな香りが混ざっているわね、煮てもこれだけ香り立つのはこだわったでしょう?」

 桃子さんにはばっちり見抜かれたようだった。そうワインにも大分こだわりが……いや、香り立つか? 最初に使って煮込んでしまったのだが。
 私はちょっとその場を笑って誤魔化し、自分の分のブイヤベースを取り、味わう。

「あ、あれ?」

 確かにワインの香りが立ちすぎて……ほのかに口の中にアルコールが……これは、アルコールが飛んでいない?
 まさか……私は隣に居る美由希に聞いてみる。

「美由紀ちゃん、もしかして仕上げの時にワイン入れなかった?」
「うん、ワイン入れると美味しくなるから」

 ブランデーも料理に入れると甘くて美味しいよね、とはにかみながらおっしゃる。
 いや、まあ。お酒を仕上げに突っ込むのはもういいとする。ただ、アルコール入れた後の加熱が不十分なのは……って、なのはちゃん……?

「にゃははは……せかいがーまわるーるーるー」

 変なダンスを踊ってらっしゃる。
 静かだったデュレンがすっくと立ち上がった。顔が赤くなっている。そして目が……すわっている。

「ふはははは、かかってこい魔王なのは。この勇者が相手をしてくれるら! エスエルビーなんて怖くない、怖くないったら怖くない!」
「なーのーはーは、まおーじゃないの、世界の半分をくれてやるなんて言わないの! それよりほらデュレン君もくるくる回るー」
「うーおあぁ、離せぇー、くるくるくるくると、あ、あるれ以外と楽しい?」

 そんな事を言ってなのはちゃんとデュレンのお子様組はくるくると浜辺で手をつないで回りはじめた。どこの宗教だ、何を呼ぶつもりだ。砂浜にミステリーサークルが次々と作られていく。

「あ、あはは、どうしよこれ……」
「ははは、愉快で良いじゃないか。子供は馬鹿なことをやっているに限るさ」

 カーリナ姉は愉快愉快とばかりにグラスを傾け、にやにやしながら見ていた。
 事態を把握したらしい士郎さんと桃子さんもおやおや、とか言いながらニコニコして見ているのだが、おいおい良いのかよ。
 恭也は我関せずとばかりに肉食ってるし。

「おうぅ」

 とばかりに私は頭を抱えた。
 ゲーム調で言うならば、どこでどう変なフラグを踏んでしまったのか。
 とりあえず事態が収拾したら高町夫妻には頭を下げることにして、私も現実から遠ざかるべく、その、旨いけどアルコール度数の高いブイヤベースを頬張ることにした。



[34349] 幕間五
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/16 21:58
 またあの夢だ。
 いつ頃からだろうか、この夢の中でティーノという私を意識できるようになったのは。
 最初はぼんやりとした意識の中、ガラス越しに彼女を見ていた。
 次第に、アドニアが幼少時になる頃には時折、自分の存在を思い出すことがあった。ただ、その頃はまだ曖昧な状態だったと思う。
 やはり彼女……彼女ということしか判らない。ぼんやりとしてとらえどころのないあの存在、夢の中でその彼女と出会ってからだったろうか。
 私は夢の中で自分が自分であることを思い出していた。ただ、時折アドニアの視線、あるいは感覚だろうか。それを共有する形で感じてはいたが。
 まるで私が幽霊になった気分でもある。

 ……ああ、この表現は的確かもしれない。私はアドニアに取り憑くような形で、何もできずただ、見、聞き、感じるだけだった。時には動ける時もあるものの、何にも触れられないのだ。
 そしてこの夢……あの得体のしれない彼女は記憶と言ったが、それにしてはひどく生々しいものだった。

   ◇

 アドニアや、弟のミュラ、そしてこの領主の弟、アレウス。彼等の種族……地の人と自ら呼び、そして他からも呼ばれる彼らは体力に優れ、肉体も頑健であるようだった。多少の傷なら数日で治り、たとえ骨折であっても一週間もあればほぼ治ってしまう。それは幼い身でも変わらないようだった。いや、そうでなければ忌み嫌われる身でありながら、さらに幼い弟を背負って旅などは出来なかっただろう。
 その身体の頑健さ、アドニアにとってそれは忌むべきものだったのかもしれない。
 毎日のようにアドニアを苛むアレウスの加虐はとどまる事を知らぬようだった。
 傷つけ、ねぶり、言葉で脅し、あらゆる方向から徹底的にアドニアを責め苛んだ。
 身体は耐えた。どの程度まで耐えられるかはアレウスもまたよく知っている事だったのだろう。過酷に扱われながらも……翌日にはふらつきながらではあるが、日常を過ごす事が出来た。
 だが、肉体は何とか耐える事ができても精神はどうだっただろうか……

 痛い時は心を沈める。深く、深く。
 辛い時は笑えばいい。悟られぬよう。
 悲しみは誤魔化せばいい。幸せだと、楽しいと。

 旅を経て、精神年齢もある程度、半端に育ってしまっていたのが、逆に災いとなったのかもしれない。
 アドニアの心はいつしか波音一つしない、静まりかえった湖のようになっていた。
 主であるアレウスを悦ばせるため、痛がり、悶え、苦しむ演技ばかりが上手くなり、弟であるミュラ、そして仲の良かったメイド達に向ける心を隠した笑顔はそれ以上に上手くなった。
 心は死んではいない。
 ある程度同調している私だから判る。
 彼女の心は深く沈んでいるだけだった。最愛の弟と話す時、その静まりかえった湖は時折揺れている。ただ、それは日を追うごとに静かになってきていた。

 そんな日々が長く続いた。
 一年も経った頃だっただろうか、正直この頃のアドニアは時間感覚が曖昧で、私も把握がしにくい。
 いつものようにアレウスに責め立てられ、ただ、体の防御反応で気絶していたアドニアだったが、ふとベッドで目を覚まし、いつものようにその変わらぬ天井を見る事なしに見る。
 ふっとある事に気付いた。
 痛いとも辛いとも、思わないのではない、思えない事に。
 あれほど愛しかった弟すら大事なものとは思えず、義務感のみが残っていた。
 その時のアドニアの心境は、とても形容しがたい。静かでため息を吐くような悲嘆。なぜか安堵。そしてぼっかり空いた巨木のうろを覗き込むような、寂しい感覚。
 ごり、と小さい音がした。自分の関節をはめるのもいつしか慣れてしまった。アドニアは、昔誰かに壊されたおもちゃの人形を思い出し、わたしのようだと小さく笑った。それは本当に楽しそうに。心はさざなみ一つ立たなかったが。
 鼾をかくアレウスを一瞥もせず、ふらふらと歩き出した。
 アドニアは超人ではない。歴史に名を残すヒロインでもなければ、民衆の先頭に立って鼓舞するような女丈夫でもない。
 だから当然、彼女は自殺などという手段も考えた事は何度もあった。
 そんな時、アドニアにはお決まりのように来る場所がある。
 それは町外れのゴミ捨て場。
 かつては遺跡だったらしい、どこか神殿のようなものを想起させる建物もある。すり鉢状に地上よりやや低くなっている集落跡だった。
 雑多に投げ捨てられたゴミの山があちこちに積まれ、むせ返るような腐臭が漂っている。
 自分にとても似合いの場所だと感じていた。
 彼女自身意識はしていないのだろう。静かに流れる一筋、二筋の涙を流しながら、ゆれるようにいつもの道を歩く。

 やがて、開けた場所に出るとそこは泉があった。
 深く、何物も飲み込んでしまいそうな泉。そのヒビの入った石造りのへりに座る。アドニアのくるぶしまで水に浸かった。
 歌を歌う。かつて歌っていた何でもないどこかで聞いたような歌を。
 父が歌声を褒めてくれた。
 弟を揺らしながら子守の歌を歌うといつもスヤスヤと眠ってしまうものだった。
 優しい母が、私のとってきた森のきのこで美味しい料理を作ってくれる。
 大きな樫の木の下でアドニアは眠る。
 日差しが暖かくその白い翼を照らした。

 そんな想像をする。
 目を開ければ暗く、底の見えない泉が広がっていた。月明かりに照らされて時折、表面の波がきらりと瞬いて見える。
 波ではない、何か光るものが見えたような気がした。
 アドニアは何となく、惹かれるかのように泉に飛び込み、泳ぐ。その月明かりに照らされ、反射するものに手を伸ばした。
 それは朱色の金属のような一枚のプレート。
 井桁のような形をしたそれにアドニアが指を触れ──
 目視さえできるかのような衝撃の波がそのプレートの表面を巡り。朱く光る文字が浮かびあがった。

「ごぼ」

 驚きのみではない。アドニアの心臓、とは違う何かの器官がどくんと脈動を始めた。大きく息を吐き出してしまい、本能的に浮かび上がろうとするも、体は動かない。
 その脈動に合わせるかのようにそのプレートも反応し、膨大な魔力を吐き出しはじめた。
 それに叩き起こされるかのように、アドニアの中で眠っていた、アドニアではない何かの精神が首をもたげる。やがて、その精神は呼吸でもするかのように魔力を吸い込み始め……アドニアは自らの精神、もう薄れて弱っていたそれが、塗り替えられていく感覚を覚えた。
 何となく、何となくだが、アドニアはこれでもう終わりなのだと自分で思っていた。
 ただ、弟、ミュラのことを思い出すと、それでもなお、足掻こうとし、意識的にかは判らないが、その手にもったプレートの放つ魔力を、認識すら曖昧なそれを、拙いながら引きずり出した。
 世界が揺れる。
 大地が揺れるだけの地震とは違う。次元震とも呼ばれるそれだった。数度の震動の後、世界は歪みに耐えきれなくなったかのように、亀裂が入り──アドニアは飲み込まれ──その法則の異なる空間に投げ出され、死んだ。

   ◇

 私は余裕が無くなっていた。
 それは圧倒的だった。
 真っ暗で、押しつぶしてきて、お話にあるように希薄になるんじゃない、ただ圧倒的なものに潰さ……
 私は思いきり地面に頭をぶつける。星が飛んだ。

「ぐ……つっ……ぐげほ」

 いろいろ透けるのになんで床や壁はぶち当たるのか、とか突っ込みたい部分もあるのだが。
 今はとりあえず……吐きたい。吐いてすっきりしたい。頭ぶつけた痛みが気持ちよく感じるとか何なんだ。

「あれが……死?」

 例のなんたら病だろうがなんだろうが、どうでもよくなっていた。
 あれはきつい。あれはよくない。あれは耐えられない。
 多分、私は感覚のおこぼれを貰っただけにも過ぎないだろうというのに、強烈な感覚だった。
 急速にその強烈な感覚は遠のいていく。
 私は大きく息をつき、体を震わせた。

「そ、そういえば今まだ寝てるんだっけ……」

 ちょっと別の意味でも体を震わせた。ちびってそうである。
 朝の布団が心配だった。
 いや馬鹿な事考えている暇は……いいや、馬鹿な事でも考えないとやってられない。
 アドニアが死んだ?

「なら、私は……?」

 夢の中? だと言うのに相変わらず真っ白い手を見つめる。アドニアと同じ色。
 私とて考えはする。この私の身体とアドニアの夢、結びつけないはずはない。
 それはもういろいろ考えた。
 最近ではPTSDに近いものが首をもたげてきた事から、あるいは今の私、ティーノという人格は、耐えかねたアドニアの産み出した人格なのでは、とすら思っていたくらいなのだ。
 一体どういうことなのか……

「これはもう終わったお話。世界のどこにでもあるようなお話」

 ……やっと、お出ましか。
 いつもの声、どこか無機質で抑揚の無い声。

「で、幽霊さん。そろそろ私の質問には答えてくれる?」

 と私がうずくまったまま声をかける。まだ、気分的にはダウン調子である。全く、あんな体験するもんじゃ……やめよう、思い出すな思い出すな。

「かつて──」

 その抑揚のない声に少し感情が混じったようだった。私は未だ残っている吐き気をこらえ、幽霊さんに向き直った。

「かつて数ある世界からその発展を謳われ、その技術力により恐れられた一つの世界があった」

 それはアドニアの事を聞こうと思っていた私からすればかなり唐突に始まったおとぎ話だった。
 魔法、魔力素という今のミッドにも伝わる技術の基礎を見つけ出した文明の話。
 唐突に見つけ出された魔力を基にする技術は既存の技術とはあまりにかけ離れていた。
 その干渉範囲は本来生物が知覚できないはずの三次元上以上の物質、いや物質と言っていいのか判らないが、それに限定的ながらも干渉することが可能だった。
 魔法技術を用い、その文明は発展を遂げ、数多の星に手を伸ばし、世界の壁さえ越えた。
 隣り合った世界、そこに隣人とも言うべき人々が国家を築いている事を知ったその文明は、侵略などはせず、対話をもちかけた。
 どんなに卓越した技術があろうと、抜きんでた力を手に入れていたとしても、人は孤独ではいられなかった。
 世界の果てまで探索してもその文明は自ら以外の人を見つけることが出来なかったのだ。世界を越えた先に居た隣人、その存在ににどれほどの安堵を得たことか。
 やがて、隣り合った世界は一つだけではないことに気付くと、その手を伸ばし、それは多種多様な世界を見つけていった。

 どんな文明も爛熟する時は来る。
 それはどれだけ技術力が進んだ文明でも同じことだった。
 いつしか、その世界の人は新たな世界を見つけることも飽き、新たな魔法理論を考える事にも飽きてしまった。隣り合った世界の人々を見下し、己が天上人であるかのように振る舞う事が多くなった。
 文明が爛熟に達すれば人の成す事はどこでも同じなのか。皮肉なことに、その文明が遙か過去に原始的、野蛮と唾棄したはずのものに傾倒する人が増えた。

「アラエル、彼等は作られた種族。あなたの持つ知識で言うならキマイラと言い換えても良い。ただ、彼等が本来の役割を担ったのは最初の数年だけだった。どれほど技術が発展しても消えなかった神への恐怖があるからこそ、人は御使いの姿を自らの下に組み敷くようになった。精神的にも、また肉体的にも」

 私は自分の翼を何となくいじった。何というか、こうね、居心地悪い。私は首筋をぽりぽりと掻いた。
 組み敷くってああた。ああ、そういえばいつぞや、マフィアのボスさんがそんなような事言ってたっけ……なんでもえらく具合が良いのだとか。うわ、嫌な事思い出した。
 いや、いやいや、つい流されたけど、結局私とアドニアの問題はどうなっているのさ、前置きとしては長すぎる。

「せっかち」

 私の思考をまた読んだのか、そう返してくる。抑揚は少ないにしても別に感情がないわけでもなさそうだ、相変わらずぼやけて輪郭も判らないけど唇をつんと尖らせているようにも思える。
 私の言葉を気にしてか、端折ったのは判るが次の台詞は衝撃的だった。

「一夜にしてその世界は滅びた」

 カタルシスも、ましてや詩人の唄う滅びを前にした恋人の逢瀬など望むべくもない。ただ、滅びた。あっけなく。あれらを飼い慣らしたつもりで、人はただ遊ばれていただけだった。
 思えば魔法の発見そのものが──
 彼女はただでさえ少ない抑揚をさらに無くして言い、考え直すかのように頭を振った。
 おぼろな輪郭の手を持ち上げ、自らで確認するように手をにぎり、また開く。

「やがて時代が下り、その世界の数人分の遺伝子情報、魔力基盤構造、そしてプライベートなバックアップデータが遺跡より発見された」

 古代の叡智を蘇らせられるのではないかと考えた研究者達は、実験に実験を重ね、多量の犠牲のもとに成功を収めた。
 最高傑作。それはかつての世界に住んでいた学者のクローンでしかなく、記憶の転写も行われなかったが、紛れもなくそれは最高傑作だった。
 そして、一度成功してしまった組織はもう自分では止まれなくなった。
 次はもっと最高の存在を。
 次はもっと機能を特化させ。
 次は過去の記憶すら復元を。
 多量の失敗と多量の犠牲者。そして少数の成功体。
 だが、その成功した者すら、一番初めの存在には届かなかった。最初の存在が奇跡の中のような確率で生まれた偶然の成功例だったのだから。
 変化が起きたのは偶然入手されたある種族の遺体、その体から摘出された弱った卵子だった。ある研究員がその卵子を元に自らの遺伝子情報、さらに適合率の高そうな古代文明の遺伝子情報。それらを組み合わせ、培養を始めたところ、これが成功した。
 これまで躓いてきたステップを次々とクリア。
 同じような手法で培養された被検体も次々と実験を成功させた。ただ、肝心の記憶情報……プログラムにより補完された記憶情報を統合する過程においては失敗。死亡、良くて植物状態が相次いでしまう。そのプランもまた失敗だったのだろう。
 オリジナルの試験体だったアドニアは最後に回されたが、上層部が業を煮やし、結果を上げるために実験が行われることになった。

「あとはあなたの見た通り」

 セフォン研究員がアドニアを連れて離反。おそらくあの研究施設は管理局に制圧され、一つの事件として片付けられているはず。
 そう言って幽霊さんは言葉をしめくくった。

「……むぅ」

 私は床に座り込んであぐらをかく。頭痛が痛いとか言いたくなる。さすがにつながりは見えてきたが。しかし、そこから考えるとこの抑揚の少ない幽霊さんは……

「そう、私はプログラム化された、本来はアドニアと統合されているべき記憶。あなたの想起した通り、太古の亡霊のようなもの。研究所の彼等が復元しようとした存在」

 本当に幽霊さんだったらしい。ちょっとハイテクな。

「特殊業界以外では死語」
「ぐぅ……」

 なかなかいい突っ込みする幽霊さんである。その知識だって私の中から拾い上げたのだろうに。

「そんなハイテクな私は、法則の異なる空間をアドニアの遺体と共に漂った」

 根に持ったのだろうか、あるいはまさか気に入ったなんてことはないよね?
 妙な自称と共にその後の事を説明してくれた。
 そう長いものではない。というか、この幽霊さんも主体であるアドニアが居なかったので、その記憶もおぼろで、途切れ途切れらしかった。
 判ったのは、何者かの手、亡霊さんは何者か、と言いながらも何か心当たりがあるらしかったが。それによって拾い上げられ、私という異物が入れられた事。再び生命活動が再開したこと。
 それにより再び観測するようになった彼女が捉えたのは既存の知識では有り得ないことだった。
 それは乱暴ながら、ひどく繊細。アドニアの記憶すら拾い上げ、本来魔導プログラムである彼女すら巻き込み、私という異物と融合させたという。
 
 今では体の成長、第二次性徴に合わせて緩やかな記憶の整理、統合が行われているらしい。

「……まあ、自覚はあったさ。そりゃ」

 私は頭を掻いた。
 そうしているのが当たり前のように甘い物好きになっていたり……いや、過去の私……俺か? も甘党だったのかもしれないけど。
 子供に対しては……うん。目一杯好きになっているな。
 しかし、アラエル……マフィアさんたちはラエル種と言ってたか。その出元がキマイラってあんた……奇しくも以前そんな事を思ったような気もするが、身体だけでなく中身までもとは。

「それも試験管ベイビー。体は合成で出来ている、血潮はキメラで心はつぎはぎ」
「やめぇ……」

 私は額を手で押さえた。頭痛を感じる。
 前回の落とし穴といい、この幽霊さん、案外人をおちょくるの好きなんじゃなかろうか。
 以前の私がやった事があるだろうエロゲのネタとか拾い出さなくていい。大体、そんなサブカルの知識より残るなら家族とか友人とかそっちが残って欲しかった。

「無理。あなたは本来嵌らないはずの穴に無理矢理嵌められたピース」

 その際、ピースの合わない部分は私から削り落ちた、と。その辺りの感覚は何より私が一番分かっている。あのごりごり記憶が薄らいでいく感覚は二度と味わいたいものではない。
 
 私は盛大にため息を吐き、顔を上げる。真っ正面から幽霊さんを見つめた。こうして見てもやっぱり曖昧だ。見てるのだけど視れないというか。

「それで、私にこの長い夢を見せた真意は?」

 目の前を彼女はかすかに身震いをするように揺れた。
 どこかその茫洋とした視線が遠くを見つめているように思える。

「おそらく私はあなたを主体に吸収され消える。それは構わない。ただ……」

 うん、何となく判った。彼女の考えている事が何となくだが伝わってくる……最初に会った時に言った台詞が全てだったか。

「アドニアは自らの事を語る事さえできなくなった。そんな、わずか十年の時間を生きて死んで行った彼女の事を知っていてほしかった」

 アドニアの記憶も私の中に埋もれているなら、多分ふとした拍子に蘇ってきたりもするのだろうけど。
 彼女の言いたい事はそういうものではないだろう。
 この幽霊さんはプログラム人格らしいし、私が思う意志や感情とは違うのかも知れないけど……私には彼女がアドニアの死を悲しんでいるようにしか見えなかった。

 いつしかまた、認識できないうちに辺りは霧が包んだように白く霞んできた。だんだん光景がぼやけてくる。
 どうやら時間切れのようだった。

「私は忘れないよ。アドニアは勿論のこと、古代の亡霊さん。あなたのことも」

 それが聞こえたのか、聞こえなかったのか、さだかではない。
 視界は無くなり、ただ白色のみが残る。
 私の意識はそこで途切れた。



[34349] 二章 五話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/16 21:59
 眩しい。
 私が一番はじめに感じた事はそれだった。
 カーテンの隙間から差し込む光が頬を横切って瞼にも当たっていた。
 寝起きの気だるい体をゆっくり動かす。右手を頬に確認するように当ててみた。
 指が濡れる。
 私は泣いていた。
 あんな夢を見せられれば誰だってそうなるだろう。あまつさえ、しばらくは感情さえ共有していたのだ。
 しばらく私の涙は止まりそうになかった。

 と思っていた事もあった。
 少し足をもぞりと動かしたその瞬間だ。言いようのない感覚が私を貫いた。

「……嘘だ」

 信じたくない。信じたくない。
 だが、現実は見なくては……そう。私は強くあらねば。アドニアや名も無き幽霊さんに顔向けできない。
 私はおもむろに掛け布団……夏も近いのでタオルケットのようなものなのだが、それに手をかけ。ゆっくりとめくり上げた。

「あ、嗚呼……」

 私は絶望の呻きをあげた。

 閑話休題。
 閑話休題。
 閑話休題。
 そんな言葉が頭の中に幾らでもリフレインした。いやもう少し待って欲しい。床に手をついてがっくり項垂れさせてほしい。あるいはベッドの上で泣きながら転げ回らせてほしい。
 だが、時間は無情である。
 出勤時間は刻一刻と迫っていた。

「ぐ……し、仕方無い……」

 私は敷き布団のシーツを軽く洗ってから洗濯機に放り込み、急速モードで洗ってもらう。ついでだ。履き替えた下着とパジャマも放り込む。
 その間に強力な吸水力を持つあやつ、そう月の時期にはお世話になっています、あれでとにかく吸い取った。何をとは言えない。
 爽やかな朝も早くからベッドに向かってぺたんこぺたんこしていた私はとても滑稽に見えたことだろう。私の目には起き抜けとは違った意味で涙が浮かんでいた。いやほんとちくしょう……
 見事な地図を描いていた布団もどうやら誤魔化す程度にはできたようだった。今日はいい天気だ。干しておけばきっと乾いてくれるはず。
 呼び出し音を鳴らす洗濯機を開けて、洗濯物を干し、布団も干しておく。
 一通りが終わり、大きく息をついた。

「……あとでクリーニング出すか」

 かろうじてシャワーを浴び、身だしなみを整える時間は残っていたのが僥倖だった。
 昨日多めに作ってしまったクッキーを口に放り込み、家を出る。
 途中、時間を見れば……うん、遅刻は何とか免れることができそうだった。
 小走りだった足を少々緩めて、急転直下の慌ただしさに何となく天を仰いだ。

   ◇

 もう故郷と言ってもいいだろう。懐かしい時代を過ごした地球。第97管理外世界への調査から帰還し、一週間が経っていた。
 ニュースを見れば、あちこちで大なり小なり問題はあれど、おおむね平和である。今はカーリナ姉によって聖王教会の方に行っているだろうデュレンのような存在。トリッパーや転生者といった連中の事を知ってみるといろいろ気付くもので、ここ数年の事件にも関係しているのかもしれない。
 非合法組織の活動が活発化していたのだ。摘発してみればその中心に捕らえられているレアスキル持ちの民間人を救出したなんて事件も多いようだった。派遣された武装隊で問題なく鎮圧できるレベルだったらしいが、どこから金銭を得ているのか不思議なほど装備が充実していたという。というかその一件に当たった隊にティーダもいたようだ、世の中狭いものだった。

 私の……アドニアの経験から来ているらしい男性恐怖の感情は相変わらずで困っていた、こういうものは一朝一夕で何とかなるものではないというのは分かっているのだけど。
 私は隊舎に向かう。
 隊舎と言っても多分に、地球のそれとはおもむきが異なるだろう。魔導師、特に空士というのは演習一つとっても広いスペースとバリア設備が必要になってしまう。なので一つの隊舎に複数部隊が集められ、居住空間というより事務仕事、そして訓練施設としての色合いが強かった。
 本局駐留の武装局員というものは基本、出動を命じられない限りは訓練をしている。地形を変え、条件を変え模擬戦でもやるか、魔法精度の向上。時には部隊同士の集団戦もやったりしていた。
 次元航行隊に要請を受けて出動命令が下ったり、治安人員として他の管理世界への駐留局員として割り振られたりもするのだが。ある意味、特殊な立ち位置である私は未だ出動命令で本局から離れたことがなかった。いや、そこは理解できる。後ろにリーゼ姉妹やグレアム提督の影がちらつく二士なんて扱いづらい事この上ない。やはりまともに訓練校に行って階級上げてから入局した方がよかったかもしれなかった。今更だけど。
 あるいは、私の入局にはあまり良い顔をしなかったアリアさんの事である。こんな事態も予測して、あえて誘ったのかもしれなかった。いや、さすがに考えすぎな気がする。

 しかし相変わらず飛ぶのは良い。アラエル……次元世界ではラエル種と言った方が良いかもしれない彼等は自分たちで地の人とか言っていたが、とんでもない。空で風を感じれば体全体に何とも言えない昂揚がびりびりと走る。大昔においてはきっと自由に空を飛んでいたに違いない。いつから飛ばなくなったのかは知らないが。しかし翼を隠すために魔力で包んだ状態でこれである。素のままであればどれだけ気持ちいいことだろうか。
 私は決められた座標まで来たのを確認し、念話で隊長に報告を入れておく。
 今回のシミュレーションは退却戦である。といっても一旦退いて、魔力が回復次第、再度出撃というのは、機動力のある空戦魔導師にとってはセオリーなシチュエーションらしいが。
 その中でも私はフルバック、最後衛に位置付けられていた。私自身の適正はかなり変則的で、最後衛では補給役、中距離では弾幕役、近中距離では一撃離脱と、距離ごとにやれる事が違うタイプのオールラウンダーと言っても良いのかもしれない。
 とはいえ、長年続けた魔力譲与の練習によってディバイドエナジーの精度も向上。味方に向ける魔力という意味では方向性同じなのでフィジカルヒールも囓っていたら、うん。すっかり回復カプセル扱いで最後衛に回される事が多くなっていた。
 一対一での模擬戦でも最近ではそれなりに頑張っていたのだが……まあ、愚痴るのはやめよう。がちがちの至近距離で盾になりながら攻撃できるタイプでないのは確かだし。私一人が前線に出張るより後衛で回復役をしていた方が部隊としては有用ということなのだろう。一応ガードウイング……前衛と競りあってる所に横合いから殴りつけるような役目だが、それとも兼用のような扱いなので、私の普段の努力も認められてきているということだと思う。きっと。多分、そう信じたい。
 どんな兼用なのかと言えば──ああ、来た来た。
 そりゃもう、もう少しで仕留められそうな獲物のように、美味しそうに逃げてくるうちの隊長。さすが本局の「遊び隊」自分で言ってるのだから世話がない。

(ティーノおおおお、弾幕頼むぜええええ)
(SLT08よりSLTリーダーへ。模擬戦とはいえ部隊同士でやってるんですから、コールサインでお願いします!)

 この隊長が聞く訳無いと半ば諦めつつも言う事は一応言っておく。ああ、カーリナ姉に頭堅くなってると言われても仕方無い。こんな隊長の下にいたらこうもなる。
 私は心の中で短くため息を吐いた。デバイスで発動させていた、私の全身を包んでいた幻術を解く。
 一瞬の魔力光の揺らめきと共に幻術が解かれた。オプティックハイドと同系列だが、それより燃費がよくて構成が単純なミラージュハイドという魔法である。逆に単純な分、上手く使うにはかなりの熟練が必要で、実用的なレベルになったのは最近だが。
 良く探査していれば気付いていただろうに……急に現れた私に対して隊長を追ってきた相手の部隊は一瞬動きが止まった。

「シュートバレット・レイン」

 何の捻りもないネーミングの魔法を解き放つ。
 トリガーキーの名前通り、基本の射撃魔法、シュートバレットを単に雨のようにばらまくだけの魔法だった。デバイス側でひたすら魔法弾生成と射出のルーチンを繰り返させるだけなので、魔力さえあれば猿でも出来る、という奴である。一発一発が誘導も狙いも付けられていないどころか、制御もされてないので、生身の状態でもエアガンの弾が当たるような衝撃にしかならないのだが、バリアジャケットや弱いプロテクションなどに当たったような場合は別で、魔力の削り合いの様相になるのだった。
 案の定被弾した相手部隊は慌ててラウンドシールドの魔法を唱える。
 さすがに対策も練られているようだった。
 雨には傘というわけだ。安直だが効果的だった、私の弾幕ではシールド魔法までは削れない。
 じりじりとシールドを張ったまま押してくる。

「OK、いい位置だ」
(隊長サマよりティーノを除いた全員へ。5秒後に指定座標に総射撃)

 私のすぐ近くで隊長が全員に指示を出した。だからコールサインくらい使えと。

「お前は攻撃完了次第、魔力供給な」

 そう言って私の頭に隊長が手を置いた。
 ま、待て、待て待ておっさん。言ってなかったが私は最近男性恐怖症というかアレルギーというかそっちの気が……!
 どぱぱぱ、と弾幕を張りながら硬直した。

「供給次第、退却。お前の速さなら十分だ。俺は一発でかいのを食らわしてから退くとしよう」

 そんな私に気付かず、隊長は言葉を続ける。
 ってあれ? 体……動く? 鳥肌立ってない?
 いつもの強烈な悪寒に身構えていた私は、肩すかしを食らった事で逆に呆然としてしまった。
 集中射撃が見事に決まる。
 私への対策で逆に全方位のプロテクションにはしなかったのが運の尽きというか、一々こういう手を戦場の呼吸とやらでその場その場に対応してしまう隊長がアレなのか……
 今回の作戦も相手が追ってくる間に考えたものだろう。

「どうした? 供給は?」

 私は我に帰った。
 そう、ぼんやりと見ている場合じゃなかったのだ。慌ててディバイドエナジーを……間に合わない!?

「……わはははー。この馬鹿ヤロー。逃げんぞおおおおお」

 首根っこを掴まれ、放り投げられた。直前まで私が居た場所を射撃魔法が通過する。
 放り投げられながらちらりと見えたのは、損害を受けながらもまだまだ健在な相手部隊だった。不意打ちを食らったおかげか、なかなかもってうん。イイ笑顔である。
 その笑顔を向けられ、うひゃあ、と思わず口から漏れた。
 私と隊長は全力で脱兎のごとく逃げ出すのだった。

   ◇

 模擬戦で我が隊は6人が退却成功。隊長と私が退却失敗、これでもかというほど魔法の的にされてしまった。
 当然任務状況としたらミッション失敗である。原因も私にあったので、相当なお叱りを頂いてしまったのだった。
 と言ってもこの隊長のことなので、何故かお叱りというより罰ゲームという形になったのだが……
 いや……やめよう。思い出したくない。恥ずかしすぎる。隊長は悪魔だ。

「しかし……」

 私は門衛のおじさんと帰り際に意味もなく握手をしてみた。
 相手は男だ男なんだ、と自分に言い聞かせて、である。
 ……な、何ともない?
 やはり、やはり、おお……なんてこった。

「治った?」

 私は両手を信じられない気持ちで見つめた。門衛のおじさんは私を変人でも見るかのように見ていた。
 でも構わない。今は構わない。
 唐突に男性恐怖症が治ったとなると、もう朝見た夢くらいしか思い浮かばない。
 あの亡霊さんのしわざだろうか?
 簡単に喜べる気持ちにはならないが……いや、うん。やはり喜ばしい。

「やった、やった。うははー」

 私は道すがら男の人を見つけるや否や近くまで寄って、自分に恐怖症の反応が出ない事を確認。その度ににやにやしながら帰路についた。
 そうだ、ティーダとも久しぶりに夕食を囲うことにしよう。
 何しろ、ただでさえティアナちゃんの事で頑張りすぎているティーダである。余計な心配をかけたくなかったので、しばらくおざなりにしてしまっていた。いや、ティアナちゃんの世話にだけは行っていたのだが。ティーダとは距離を置いたままだったのだ。
 そう言えば地球土産もあったのだった。渡してやるとしよう。
 私はそう考え早速連絡してみることにしたのだった。

   ◇

 今日は丁度日も良かったらしい。ティーダも時間が空いているようだったので、パスタが美味しいと評判の店で一緒に夕食を食べる事にした。
 お薦めは貝三種のボンゴレ・ビアンコという事だったのでそれを頼む。ティーダはカルボナーラということだった。
 貝のパスタはシンプルなのが最上とばかり思っていたけど、こういうのもありなのかもしれない。アサリ、ホタテ、ムール貝の出汁が混ざり合い、複雑な味になっていた。おや? この味は? へぇ面白い。と感心しているうちに全部を食べ終えてしまう。そんなパスタだった。今度うちでも作ってみるとしよう。
 料理に満足し、最近あまり話すことがなかったティーダとのんびり駄弁る。

「里帰りはどうだった?」
「ん、なかなか楽しかったよ。懐かしい顔ぶれにも会えたしね……あ、これおみやげ」

 などと、地球の話に花を咲かせれば、ティーダは出張先の話をする。
 楽しい時間が過ぎたのだが。

「ところで、調子がしばらく悪かったみたいだったけど大丈夫かい?」

 と聞かれた時だった。
 どうも心配げな目である。いや、今更に気付いたのだが、ちょっと暗いような?
 若干の違和感を感じつつも、まあ、私も懸念が晴れたばかりのところだ。笑い飛ばしてやろうとした。

「なになに、この通りぴんぴんしてるさ。心配かけちゃって悪か……」

 気軽に身を乗り出して肩でも叩いてやろうとしたのだが。
 身近に目が合ってしまい。
 びしりと硬直してしまった。
 息苦しさも感じる。
 治ったはずじゃあなかったのか……!?

「ティーノ?」

 そう言って額に手を当ててくる。
 いやいや、熱はない。熱はないよ。そしてお前ベタな事するなハハハ。
 と言ったと思ったのだが、どうも口がぱくぱく動いただけらしかった。
 一瞬遅れ。

「ッひぅ」

 私は奇声を上げて飛び退いてしまう。
 心臓やばい。

「いや、待て、ちょっと待て。これは違う。とりあえず今は近寄るな。うんいいな?」

 咄嗟に言ってしまったのだが。これは無理なかったと思いたい。まるで初めて海に泳ぎだした子供みたいに私も一杯一杯だった。
 いや、本当何が起こった。
 これも朝の夢の影響か? そうなのか?
 私は自分に何が起こったのか考えに集中していた。
 だからティーダの変化に気づけなかったのかもしれない。

「……うん、すまない。その……僕たちはやっぱり少し距離を置いたほうがいいのかな? 君も最近は調子が悪そうで、その、いろいろ僕も考えていたのだけど、いつまでもこの関係は……」

 ごめん、何を言っているんだか、とティーダは笑って誤魔化した。明日が早いんだと言って、支払伝票を持って足早に去る。

「ちょ、ちょっと待て……」

 追いかけようとした足に何故か力が入らない。
 いやいや、いやいやいや、私はそんなあうあうとかテンパるキャラだったか!?
 何で、何で。
 男性恐怖症治ったんじゃなかったのか? どういうことだ、いや、ひとまずティーダにはうん。これまでの経緯を説明しておかないと。あれは何か勘違いしてる。きっとそうだ。
 そこまで考え……私は別の意味で固まった。

「説明するって言ったって、どこからどこまで話せばいいんだ」

 私は頭を抱えて椅子に腰を落とす。テーブルに残された食べかけのカルボナーラを見つめて小さくため息を吐いた。

   ◇

 頭を悩ませていた。
 自室のテーブルで蜂蜜を垂らしたホットワインをちびちび舐めつつ、突っ伏していたりする。
 布団がクリーニングに行っていて眠れないからではない。いやそれもあるが。
 どのみち夢の一件、アドニアや幽霊さんの事を整理したくて休暇を申請していたので、明日は休みなのだ。夜更かしは問題ないのだが。
 ティーダのことである。
 なんだかんだと付き合いも長くなってきているし、私も良い友人であると思っていたのだが……一体どんな勘違いをされたのか、はたまた私自身のこの異変……は何なのだろうか。
 答えは簡単に出そうな気もする。
 何か根本のところでボタンを掛け違えているような。そんな感じがあった。

「むう」

 私は拳を作って軽く額をごんごんと小突く。
 ティーダはいつまでもこの関係は……と消えるようにつぶやいていた。将来を不安に思った? 日を置いた事で何か考える事もあったみたいだが、あるいは同僚に何か言われたのかもしれない。むむ、む。気を使う部分のあるティーダの事だ、ティーノに負担を強いてしまってる! 申し訳ない! とか思ってしまっていたり?
 私の変調にしても、異様な動悸がしてきたり、意識するとこう……心が麻痺するような感覚があったり。ぬ……むむ?

「ハッ……これが恋!?」

 ンな分けがない。一人でふざけても虚しいだけだった。大体恋ってのは、そんな今更なるようなものではないだろう。さらに言えば、私が恋心とか……ありえん。某掲示板風に言えば草が生えてきそうな勢いで、ありえんwwwwwといったところである。ふさふさなのだ。
 
 ちらりと時計を見やれば、もう深夜というより早朝と言った方が良い時間だった。
 ……よし。
 こうしてうだうだ考えていても仕方無い。
 思い立った私はキッチンに立った。局員用の寮とはいえ、簡単なキッチンくらいはある。あまり凝ったものは作れないが。
 私は腕まくりをし、リーゼ姉妹に見立てた猫さんエプロンをかけ、頭に三角巾を巻き、戦闘準備を整えた。
 ランスターのママさん直伝パイ作りにとりかかる。
 パイ作りと言ってもその生地の仕込みに時間がかかるので、今から作ってもちょっと遅いくらいなのだが、なんとか形にはできるだろう。
 明日……いやもう今日か。何時頃持っていけば丁度良いか、逆算しつつ私は仕込みを開始した。

   ◇

 朝方、私がいつものようにランスター家に連絡を入れた時、出てくれたのはティアナちゃんを抑えたシッターさんだった。
 ティアナちゃんのほっぺたと指についたクリームで何が起こったのか察した。

「うわ、ちょっと大変なタイミングでした?」
「いえいえ、あ、こら、ティアナさん、駄目でしょ! カメラにクリーム付け……ああ……」

 ミッドの通信というものは家庭用でもこのようにテレビ電話のようなものが普及したりしてるわけだが、うん。ディスプレイが白く塗られた。
 もうすぐ四才にもなるティアナちゃんは元気いっぱいである。
 これから保育所に送っていってもらうのだろう。忙しい時間にあまり長話もよくない。
 簡単に、お昼頃に行く事を伝えておいた。ティーダは? と聞くと、既に仕事に出てしまったと言う……出勤が早かったようだった。

 小麦粉の香りと、直接練り込んだハーブの香りが特徴である。手間をかけて折りたたんでは伸ばして休ませを繰り返した生地をクーラーボックスに突っ込み、ミッドへの直通転送ポートへ急いだ。
 次元の安定次第では時間がかかったりと、お天気次第みたいなところはこれだけ発展しても変わらないのだが、それは仕方がない。幸い最近の次元世界の間は穏やかで予定通りに到着できそうだった。

 ランスター家に着くと、もうすっかり馴染みになってしまっているシッターさんとしばしお茶を飲みながら談笑する。
 息子さんが大きくなったので、空いた時間にとシッター業をやっているそうで、ティアナちゃんもよく懐いている。さすがに主婦の家事スキルは磨き抜かれており、その家事スキルは見習うべきものも多かった。いやいや、料理では私も譲らないけども。
 やがてシッターさんも帰り、保育所に迎えに行く時間になった。ティアナちゃんを迎えに行く。といってもそんなに歩く必要もなく、近くまでバスで送ってくれるのだが。

「おねえちゃーーーん!」

 バスから駆け下りた勢いのままに私に突っ込んできた。私は私で。

「っしゃこい!」

 とばかりに構えたわけだが。やがてティアナちゃんは私のおなかの辺りにどっかんとぶつかってくる。当然私はびくともすることなく受けきった。
 それでも良いタックルである。きっと世界が狙える。
 子供の成長は早いもので、あれほど小さかったティアナちゃんもそろそろ身長100センチの大台に乗る。あと60センチ……平均すれば。も伸びれば私と同じ大きさになってしまうのかと思うと一抹の寂しさも感じないでもなかった。ごめん鯖読んだ。ともかく今はまだまだ。

「うりゃ」

 と声をかけて持ち上げ、そのまま抱っこした。いや、本当はそろそろ甘え癖を無くすために抱っこは控えたほうがいいみたいなのだけど。
 穏やかに笑っている送迎の保育士さんに挨拶をしておいた。端末の方にも行ってると思いますがと、プリントを渡される。ちらっと見れば発表会のお知らせのようだった。どうやらお芝居をやるようである。
 ──よし。私とティーダのすれ違いなどささいな問題である。
 とっとと仲直りして、晴れ姿を見に行くのが良さそうだった。
 ともあれまずは。

「それじゃ、買い物して帰ろうか」

 抱っこされたまま私の髪をいじりだしたティアナちゃんにそう声をかけて歩きだす。
 放って置いたら……買い物が終わる頃には蝶々結びが5つばかり私の髪に出来ていたのだが、それは置いておくとしよう。
 い、いやここはマナーの問題もある。友達に同じようなことをすれば泣かしてしまうかもしれないのだ。
 しかし、多分これは褒めて欲しいのだろうし。実際この年で蝶々結びはよく覚えたものだし。ああ、褒めて褒めてとばかりの笑顔がにくい。
 私は散々迷ったあげく。

「めー、だよティアナちゃん」
「めー?」

 とてつもなく中途半端な声をかけることしか出来なかったのだった。
 天国のママさん、だだ甘ですみません。いずれ、うん。いずれちゃんと言い聞かせるから。躾けって難しい。

   ◇

 買ってきたリンゴをコンポート状に火を通し、ある程度冷めたら水気を切る。パイ皿に生地を乗せ……そういえばグラハムクッキーがあった。砕いて敷いておいてリンゴをのせる。上からさらに生地を蓋にした。

「わたしもやる!」

 とコンポートの余りを食べ終わったティアナちゃんも参戦したので、二人で蓋の端っこをねじって閉じると同時に飾りにした。
 ティアナちゃんの執刀で蓋に切れ目をサクサク入れてやれば完成である。
 これで焼くだけ。仕上げに卵黄を塗りつけてテカりを出す作業はあるけども。
 さて、後は帰る時間に合わせて火を入れるだけだった。
 どうせなら焼きたてを食べて貰いたいので、時間を聞くメールを入れておく。

 しばらく掃除などをしていると、返信が入っていた。
 一読して肩を落とす。
 ティアナちゃんが遊んでいたブロックのおもちゃを手に持って私のとこまで来て不思議そうに覗き込むのだった。

「どうしたの、おねーちゃん」
「んー、大したことじゃないんだけどねー。お兄ちゃんはお仕事で今日も遅いんだって」

 まあ、実際には夜勤ということらしいのだが。
 ……朝といい、避けられてるとか……無いよな?
 そんな私をなおもティアナちゃんは覗き込んでいた。横の椅子にいそいそとよじ登ると私の頭をぱふぱふと小さな手で叩く。

「よしよし」

 ……ティアナちゃんや、そんな事されると私ぁ鼻から愛情が吹き出してしまうんだぜ?
 まあ、帰ってこないなら仕方無い。料理はまた作ればいいのだ。私はその日のアップルパイの焼きたては二人で頂くことにした。いや、冷めても美味しいのでちゃんと取り分けて、その場に居ないもう一人に取っておくけども。

   ◇

 私は明らかに他の場所とは作りが違っている通路を歩いていた。
 以前は判らなかった、が、本局にも慣れてくるといろいろ判る事もある。例えば本局というのはその存在そのものが敵を作りやすいこともあってか、この司令部が固まっている一画などは、それは作りがすごいもののようだった。私自身専門家でないから細かい部分までは理解できないのだが。
 まず作りが違うと感じたのは足音である。それなりにヒールのある靴を身につけている私が歩くとかなり音がするものなのだが、この一画に入ってからというもの全く音がしない。消音効果のある素材なのか、お金のかかっていないうちの隊舎とは雲泥の違いだった。
 そして私自身は魔力に敏感なところがあるのだけど、どうも魔法が阻害されている感覚がある。多分その辺の防御についても考えられているのだろう。
 目的の部屋の前まで行って、ノックしてもしもぉーし……なんて真似はさすがにしない。
 ノックを4つ、所属と階級を告げ、入室を許可される。
 中では紅茶を淹れるアリアさんと執務机で書類に目を通すグレアムの爺さ……提督。そして、いつもはあちこち飛び回っているのだが、今日は本局に戻っているようだった。ロッテさんがソファの上でだらしなく座っている。
 その隣には先に呼び出されていたらしいティーダも居た。
 ちなみに今は勤務時間内である。個人的に親しくしている人であっても、そりゃ礼式は守る。かしこまって挨拶をしておいた。
 というか存外この提督、その辺の公私の別はしっかりしている。いや、下への示しがつかなくなるので当然でもあるのだが。
 ちなみにプライベートな時間は穏やかで茶目っ気めいたところのある爺様でもある。幻術魔法のアレンジとか言って人形劇めいたものを披露してみたり、ロッテさんが地球から持ち帰ったとかいう盆栽をひそかに楽しんでいた。さりげにはまったらしく、この部屋に隣接しているプライベートルームにぞろっと並んでいる。
 私も時折、勤務時間が終わった時に遊びに来ていたりもしていた。アリアさんとチェスを打ったり、地球からちょくちょく持ち込んでいるらしい映画を見たりなどしている。
 ついでに言えば、あの爺さん顔が広いので、他にもいろいろな人が訪れたりする。見ているだけでも飽きないのだ。一度だけだが、クロノのお母さんともその部屋で話した事があった。忙しい立場らしくゆっくりはしていけなかったのだけど、桃子さん並に若いお母さんだった事が印象深いものだった。
 
 私にも腰掛けるように促すと、グレアム提督は真面目な顔で鷹揚に一つ頷いた。

「今回、君たち二名に来てもらった事を不思議に思っていると思う」

 そう切り出す。
 確かに私とティーダは出身校こそ同じものの、部隊も違うし、階級も違ったりする。
 万年人員不足気味の局では、使える人材はちょこちょこ昇進させて権限を広くさせるという空気がある。その空気も手伝ってか、あるいは毎日忙しく仕事に明け暮れているためか、ティーダは順当に昇進し、今年の昇任試験では空曹となっていた。相当なスピード出世だ。本人は慣れてるのか、あまり気にしていない様子だが、学校の時と同じく、そりゃあやっかまれてもいた。
 対して私は未だに下っ端もいいところ。教育隊を出てそのまま据え置き価格。二等空士のまんまである。一応もう入局してから一年半近くにはなっているのだが、最初の運用部への出向期間が影響し、一年次の昇進は見送り、何故か給料のみが昇格という不思議な事になっていた。いや、別に出世願望があるわけじゃないので、構わないといえば構わないのだが、釈然としないものはあった。
 提督に真面目な視線を向けながらもそんな事を考えていると、テーブルに一枚の写真が置かれた。

「これは?」

 ティーダが写真を手に取りけげんな声を出す。印刷された質感ではない。確かに管理局でこういったアナログな銀塩写真というのはあまり流通しないものである。何か理由でもあるのだろうか?
 その写真には船遊びの最中なのだろうか。お付きと思わしい侍女? にかしづかれた……ドレスを着飾った少女が映っている。立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は……と言うことわざがぴったりはまるような美女である。髪は局だとあまり見かけない艶やかな黒髪を長く整え、化粧もしていないのに綺麗にピンク色のお肌はまるで磁器のよう。景色でも眺めているのだろうか、その遠くを見る憂い気なまなざしは10人中10人が恋に落ちても不思議はないだろう艶姿である。
 ……なんて言うと過剰表現かもしれないが、写真から見た感じはそういう表現がふさわしいのだろう。ああ、もう一ついい表現があった。お姫様という奴だ。うん。深窓の令嬢でもいいかもしれない。

「その子を有無を言わせず拉致ってくるのが今回の任ぶべ」

 おお、ロッテさんが舌を噛んだ。アリアさんの容赦のない突っ込みが炸裂である。紅茶のポットを喋っている間に頭に落とすとか容赦無い。
 そのノリを味わうのが初めてだったのか、ティーダは若干引き気味だった。慣れろ、としか言えない。ロッテさんはこういう猫様なのだ。
 グレアム提督は軽く苦笑したのち、手元の端末を操作した。執務室の大きなスクリーンに映されたのは先程見た写真の少女の顔とそのプロフィール、所在地等のデータが表示される。

「へ、本当に王女さま?」
「第112管理世界……確かつい最近になって管理対象になった世界でしたか」

 私は人物の経歴に驚いただけなのだが、ティーダはどうも時事ネタも把握しているらしかった。
 その通りだ、と提督は一つ頷くと、さらにその112管理世界についての詳細が表示される。
 管理世界としての登録は去年。文化レベルは中堅どころだが、魔法技術に関しては古くから伝わっていて、ミッド式魔法の中に吸収された魔法もあるらしい。ここ10年の間に政府が二分化し、王政府と共和政府が対立している状態のようだった。いや、勢力比較を見ると、明らかに共和政府が押し勝っているように見えるのだが、管理局が公式政府と認めたのは王政府の方らしい。
 ……どうも違和感を感じた。不思議に思って、提督を見やると。

「ため息を吐かざるを得ん事情がある」

 ふう、と本当にため息を吐き、ぽつりと漏らした。

「我が管理局もまた一枚岩ではないということだ」

 聞くな、と言われた。まあ、何となく裏がありそうというか、生臭そうな話であるのは確かなようである。
 王政府側に鼻薬でも嗅がされたのが居たのか、あるいは局内のパワーゲームが影響しているのか、そこらは定かではないが。
 うんまあ、その辺の難しいところは全く関わりたくないものだった。とんだ人外魔境に行きそうである。
 気を取り直すにように、紅茶を一口飲むと提督は続ける。

「それに、だ。共和政府側も放置しておけない事情が浮かび上がってきた。ふむ……これだ」

 そうして次に表示されたのは共和政府側の、いわば黒い人脈というものだった。
 注釈で、暫定的なデータでしかないとは書かれているものの、これが本当だとすると次元世界各地の非合法組織や反管理局組織などとパイプがつながっているようである。
 そりゃ放置できないわけだった。特に次元干渉型ロストロギア流入の可能性とか書いてあると尚更である。

「さて、ここまでの情報をわざわざ見せたのは、君たちにやって貰いたい事があるからだ」

 そう言ってグレアム提督は真面目な顔になり、私とティーダを順繰りに見やった。
 普段はあまり感じない、提督の威厳とかそういうものが急に密度を増したように思える。私は無意識に背筋を伸ばしていた。

「先だって王政府から救援の要請が入った。それを受け、駐留中の第4艦隊を派遣することが決定した」

 グレアム提督はそう重々しく述べる。
 次いで出た言葉は私からすれば驚く他ない事だった。

「ティーダ・ランスター空曹、ティーノ・アルメーラ二等空士両名は、先程見せた王女殿下の警護についてもらう事になる」

 なお、一時的な任官として私も空曹扱いだそうである。ひゃほう。

   ◇

「仕事が終われば戻されるけどね……」
「何を夕日に向かって黄昏れているんだい」

 ティーダが声をかけてきた。
 今はあらかたの説明が終わって、本局司令部から出るところである。
 ちなみに、ティーダとは微妙な距離感のまま、何となくそのままになってしまった。私が真面目に話そうとすると、何故かさっとかわされる。日常的な会話や、ティアナちゃんの前では普通なのだが。
 どうも、こいつは頭が良いだけに、変な思考に入るとそのままぐるぐる回っていそうなところが怖い。ここの所仕事ぶりも無茶なものになりかけているし、やはり心配だった。
 ……いや、その事は今は置いておこう。私は指摘された通り夕日に向かって一つ黄昏のため息を吐いた。

「ティーダ、今度の任務って正直どう思う?」
「どう、と言われてもね……」

 正直裏があるように思われてならないのだ。公私の別を守る提督が、ひいきで私を仕事で使うというのは有り得ない。ティーダは使える人材だからともかくとして。

「姫様の警護と言っても、正規の人員も居るだろうし、本局としてのメンツから人を出さなければならないといったところだと思うよ。あとはやはり姫様と年齢が近い事と、ティーノに至っては直接人となりが知れてるから安心して派遣できるんじゃないかな?」

 メ……メンツっすか。
 映画のSPのごとく、要人を庇ってドンパチとかそういう映像を脳裏に展開させていた私は項垂れた。
 その事を言ったら笑われた。

「うっさい、こっちはそういった武装局員らしき任務は初めてなんだ。手慣れてるお前と一緒にするな」

 ぶんむくれてやんよ。ちきしょうめ。
 さらにティーダはハハハと笑い、先を歩く私の頭の上に手をかざし、迷うようにふらふらした後、その手は戻った。呪いか何かかいな……

「いや、しかしね」

 何か恥ずかしさでも誤魔化すかのように口調が慌てる。怪訝に思って後ろを振り返った。

「例え形式上の派遣だろうと、油断できるものではないと思うよ。特に今回は相手方があまり真っ当ではない連中とも手を組んでるようだし、要人誘拐っていう手に出てくる可能性だって多いにある。さらに言えば年齢の他にも幻術魔法を使える人間を抜擢したんじゃないかな? あれは今回みたいに見えない手から防衛するとかそういう時には非常に応用性が効いて役に立つんだ。例えば護衛対象になりきっておいてなんてのは序の口でね……」

 お、おう。途中から何か別のスイッチが入ってしまったようだった。
 戦術における幻術魔法の有効利用法についてティーダは語り始めてしまった「はたまた多重に出した幻影に惑わされ、右往左往する敵影をクロスファイアでなぎ倒した時など胸がすくようだった!」とか言っている。キャラが、キャラが違うどうしたことだ……
 私はツッコミ用デバイス、ハイペリオンを起動状態にし、大きく振りかぶって全力で……

「凶器を振りかぶるなーッ!」
「ちっ」

 正気に戻ってしまったようだ。せっかくツッコミ用形態には一番星君グレートという文字をデザインしたのに。今回も不使用である。
 ま、冗談はともかく。

「ともかく、気は抜かないようにはしておくよ。それとティーダ、今日はもう非番?」

 予定でも反芻しているのか少し考える素振りを見せ、頷いた。ならばよし。
 私はティーダの手を取って、急ぎ足に歩きはじめた。
 うむ、手を取るくらいなら平気らしい。動悸もない。ないよな? いやちょっとある。落ち着け心臓。

「ほれ、ちゃっちゃと歩く。美味しいカレー屋を見つけたんだ。今日は食うぞー」
「ま、ちょっと待って、おぉいティーノさぁん? はや、足が速い!」

 夕日の傾く中、私は急な急ぎ足に対応できず慌てるティーダを引っ張り引っ張り歩いていくのだった。



[34349] 二章 六話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/16 22:00
 新暦63年9月10日、第112管理世界にて。
 私は現在逃走中だった。
 振り切ったと思ってもしつこくしつこく追いすがってくるその姿はまるで獲物を見つけた猟犬のよう。
 また一人敵兵が荒れ地を走るトラックの荷台……そこでデバイスを構える私に迫ってきた。
 敵の振りかざした槍状の魔力刃を、私のデバイスにも同じく魔力の刃を現出させて打ち合う。
 異なる色の魔力がぶつかり合い、お互いのすり減らした魔力の欠片が雪のように舞う。きらきら舞うそれは青みがかった銀色の光の比率が多い。私の魔力の方が練りの甘い分多く削られている。あっという間に私のデバイスを覆う魔力刃は小さく減衰した。打ち合った敵兵がにやりと笑いさらに押し込んでくる。

「と言っても」

 今のところ問題ないけど。と心でつぶやき、力を抜いてそのまま相手を流し、デバイスに魔力を再度流し込み、横合いから胸の中心辺りを通るように薙ぎ払った。
 敵兵は声にならない声をあげて、道とも言えない路面に転落していった。本人が乗り捨てたバイクにぶつかり、ごろごろと転がっていく……ありゃ痛い……私は冥福を祈る。いや死んじゃいないだろうけど。
 魔力ダメージだけとはいえ、私の経験上、胸と首と頭に魔力を直接食らうと戦闘不能になりやすいのだ。一両日くらいは寝ててもらおう。

(右前方30度方向より射撃来るよ5本)

 念話が入る。同時に援護として誘導射撃っぽい魔法が飛んだ。それと交差するように5本の魔力弾が私に迫り……シールド魔法に触れて消滅した。
 私はシールドを解除し、その方向に目をこらして見る。
 いた! 岩陰に隠れるようにしている。射撃魔法を用意しておくも……動きがない。どうやらさっきの援護射撃で倒してしまったようだ。
 ちなみにこれで今日の撃墜人数は私だけでも20を越えた。普通の局員に比べれば常時回復がある分、私の継戦能力は高いはずなのだが、こうまで立て続けに襲撃されると……さすがに弱音も吐きたくなる。

「大丈夫かいティーノ?」

 ため息でも聞こえてしまったのか、運転しているティーダが声をかけてきた。
 私は手をひらひらと振って答える。

「大丈夫、大丈夫。問題ない。ここの世界の魔導師達と私の相性は悪くないみたいだしね」

 この世界の文化なのか、魔法体系の特性なのか、どちらかというと中近距離に重点を置く魔導師が多い。それでも遠距離から砲撃や狙撃できる人員が居ないとも思えないのだが、こちらには敵が無傷で確保したい姫様が乗っている。下手をすると巻き込んでしまうような攻撃は今のところ控えられていた。
 さらに言えば、そこはさすがティーダと言うべきか、運転しながらも定期的にサーチャーを飛ばして敵影を確認している。そしてひとたび襲撃を受ければ、中距離から射撃してくる相手には援護射撃、私の射線に敵をおびき出したり、逆に私を狙っている敵を打ち落としたりと……模擬戦で敵として戦う時はその戦術のいやらしさに散々泣かされたものだが、味方であるとまったくもって頼りになる。

「それに多分、訓練期間がそう取られてない。連携が全く取れてないし……ただ」
「うん。やたら魔導師が多いね。一人一人の力はさほどでもないみたいだけど……万年人員不足の僕らからすれば羨ましくてならないよ」

 全くその通りだった。リンカーコア持ちの生まれやすい場所なのだろうか。まだ局との公式な付き合いが短い世界なだけに、前もって渡されていたこの世界の資料というのもあまり当てにできないもののようだ。こちらの世界での常識が私達の常識と同じと思っていては落とし穴にはまる。

「あら、ティーダ様の世界、ミッドチルダと言いましたか。大変魔法の発達されている世界だと伺いましたけれども……魔法使いはあまりお生まれにはならないのですか?」

 こんな場面でも……いやこんな場面だからこそなのかもしれない。おっとりとした声で姫様が隣のティーダに聞いていた。
 ティーダも真面目くさって答えるのだが、この姫様基本的に聞き上手である。段々うんちくを垂れ流しに入っていくティーダに対しても「あら、まあ」だの「それはすごいですわ」と手を叩いてみたりと、合いの手を入れるタイミングがすばらしい。
 ……何を私は聞き入っているのだろう。
 そうこうしているうちに道が変わった。
 山を削り取ったかのような道だ。私から見て右側が山、左側が谷になっており、その下はどうやら川でも流れているようだった。かなり崖の近くを走る道である。
 一瞬、そのいかにも罠でも仕掛けやすそうな地形を見て、誘導されたかという考えが浮かぶ。
 ティーダに念話で聞こうとして、思いとどまった。そのくらいは考えているはず。それに追い込むならむしろもっといいルートはあっただろう。敵方にとって確保しなければいけない人員──姫様が乗っている以上、あまり無茶ができない地形でもある。精々土砂崩れでも起こして道を塞ぐという方法だが、魔導師相手に有効ではないのは敵も判っているだろう。
 私は荷台に腰を降ろして、据え付けられているフレームに腕を絡めた。道が悪くなったのでそれなりに車も揺れる。バリアジャケットがなければ尻が痛くなっていたに違いない。
 ティーダがまた哨戒用サーチャーを飛ばしたようだった。窓から複数の光球が飛び出ていく。ティーダのこれは音も拾っているタイプなので魔力消費が結構なもののはずだった。
 相変わらず運転席でお姫様と話をしながら、次々とサーチ魔法を飛ばしていく様はさすがに器用である。
 今度はサーチ魔法についてうんちくをたれているようだった。正面からおだてられて鼻高々のようだった。。
 私は近くを飛んで行くサーチャーを一個捕らえると小声で一言。

「わたしとのいちやはあそびだったのね」

 運転席で盛大にむせる音がした。
 ……うむ。何となく溜飲を下げた気分になり、私も後方の哨戒のために集中する。
 使うのはティーダの使った探索魔法とは違い、魔力探知である。というか正直サーチャーを複数出すのは私には無理だ。せいぜい、2、3個のサーチャーでも出せば一杯一杯である。対して種族特性なのか何なのか、魔力の流れとかそういうものには敏感だったためか、この探知魔法はあっさり使いこなすことができたのだった。
 魔法陣が一瞬浮かんだ。私は前方を半眼で見ながらも意識を魔法の探知に集中する。多分に感覚的なものだが、私にとって不自然に思える風が吹けばそれが人為的な魔力の流れだ。
 私が感じられる範囲には魔力反応は無いようだった。
 多少警戒を緩めたが、探知魔法はそのままにしておく。
 私は一つ軽く息を吐いた。
 辺りを流れてゆく風景を眺め、思った。全く難儀な事態になっているものだと。

   ◇

 管理世界として登録されたばかりの、第112管理世界。ここに第四艦隊を率いてゆくのはなんとも驚いたというべきか、順当にと言えばいいのか。グレアム提督だった。
 艦隊司令官の席は大分以前より辞していたのだが、今回政治的な駆け引きの絡む可能性もあるということで、老練さを期待され、引っ張り出されたようである。
 目的地に到着してからは、現地の王政府との兼ね合いもあり、形としては同盟軍的な立場として参戦。さすがの手腕と言ったところだろうか。やり方は堅実そのものなのに、どういったマジックか、一月も経たぬ間に敵方の共和政府軍を散々に追い散らした。
 今までの流れを大きく変えられ、一転不利になってしまった共和政府は、そこでかねてから局側の情報にも登っていた非合法組織の力を借りたのか、戦い方もそれまでの真っ正直な戦いを止め、ゲリラ戦を繰り返すような形に変わっていった。
 戦線が伸び、消耗戦に巻き込まれるのを嫌ったグレアム提督は一時後退、諜報部隊をフル稼働させ、短期決戦とするための下ごしらえを始める。共和政府軍も局側の後退を見て陣営の再編を始め、不思議な膠着ができていた。

 もちろん、私たちもその間のんべんだらりとしていたわけじゃない。
 管理局側からのお姫様の護衛役として、出来ることはやっていた。
 おもに……お茶汲みとか……話相手とか……ええと、お菓子焼いたりとか。

「仕方無い……これは仕方ないんだ」

 私はそうブツブツつぶやきながら、ポットの茶葉が上手く踊るように熱いお湯を注ぐ。私が何気なく振る舞ったのがきっかけだったが、姫様がこの地球産紅茶を妙に気に入ってしまったのだ。
 トレイに乗せ……侍従さんの仕事を奪ってもアレなので、お茶請けのお菓子を運んで貰った。
 廊下を行く途中で何人かお偉いさんともすれ違う。こういう時は端に避けて畏まり待機待機。ウエイトレスではないのだ。

「あの……失礼かもしれませんが、誰かにお仕えされた経験でも?」
「……あ、あはは」

 一緒に歩いていた侍従さんに言われてしまった。侍女の格好とか歩き方とか、やけに馴染むぞぉぉとか思っていたが、そういえばアドニアの頃を思えば侍女経験有りなんだっけか私は。
 この世界の文化はちょっと独特で、地球で言えば18世紀頃のフランスが近いのだろうか? ヴェルサイユ宮殿に紳士淑女がダンスを踊るような感じである。科学技術などはむしろ地球の平均より上のはずなのだが、長い王制によりそのような文化になったようだ。
 聞いたところによると、現在は何度目かの復古ブームらしい。本来はもう少し緩い部分があるのだとか。
 さほど歩くこともなく、姫様は庭園が一望できるテラスでティーダを話相手にころころと笑っていた。

「お茶をお持ち致しましたよ」
「あら? ありがとうティーノ。いつも使ってしまってごめんなさいね。わたし貴方の淹れるこのお茶がとても気に入ってしまったの」

 にっこりと笑う。お、おお、少女漫画のごとく背景に花が幻視できる……目の錯覚だろうか、心なしか姫様の目にも星がきらきら輝いて見えた。
 花も恥じらう微笑みとはこのことか。思わず私も、花じゃないけど恥じらって顔が赤くなりそうである。
 姫様……ナティーシア王女は以前写真で見せて貰ったときの印象通り、箱入り娘の体現者だった。
 いつもお決まりの女官ばかりで退屈でもしていたのかもしれない。外部から入ってきた年の近い私達二人にことのほか興味があるようで、一週間も経つ頃には……これこの通り。名目上私もティーダも護衛というのに、一緒にお茶をすすり、お菓子を頂いている有様である。男性であるティーダが一緒に居ていいのかと言えば、あまり良くはないのだろうが、場所による。さすがに姫様の居室までは入ることまではしない。
 いや、こんな事ばかりしてるわけでもなくて、勿論、私もティーダも本職の護衛さんと相談し、お互いに連携をとれるよう、訓練に混ぜて貰ったり、魔法の差違について実用的なレベルでどう埋め合わせるか等を話したりと、やることはやっているのだが。
 最近では……うん。姫様はティーダがお気に召した様子で、まぁ、掴まえてはよく話す事話す事。呼び方も意識的なのか無意識なのか、私を呼ぶときは普通なのだが、ティーダは様付けである。
 そんな無邪気に懐いてくる姫様にティーダも満更ではないようだ。というか、多分初めて経験するタイプだというのもあるのだろう。今までのティーダの女性経験と言えば学生時代に年上の女性からちやほやされた事や、管理局の、立場も年も上の女性からちやほやされた事ばかりなはずである。本人が愚痴混じりに話していたことなので、どこまで本当かは知らないが。

 ……しかし姫様、時折私の方を見て、勝ち誇る笑みを見せるのは勘弁してもらいたいところだった。
 どうしたらいいのか判らなくなって、とりあえずクッキーを頬張る。い、いい景色だなーなどと言いながら席を外した。庭園の花を見に行く。
 離れて一息ついた。恋の鞘当ては勘弁してほしい。

   ◇

 やがて戦線が膠着状態に陥り……いや、裏ではお互い激しく動いているのだろうけども。少なくとも表面上は停滞してしまうと、貴族院の貴族達が騒ぎ始めた。口々に管理局などに任せていては埒があかぬ。だから得体の知れぬ組織を頼むなどという事には反対だったのだ。敵を殺さず生きて返しておれば長引くのも当然であろう。戯れと現実をはき違えた連中よ。などと言った言葉が飛び交った。何で知っているかと言えば、いざこざを起こさないために私は女官、ティーダも近侍の格好などをしていたので、貴族たちの目に止まらなかっただけなのだろう。
 王は貴族院の事を聞き、頭を悩ませたようだった……そして管理局とのこれからの外交上、禍根となる芽は小さいうちに詰みたいという思いだったのかもしれない。
 貴族たちを招き、園遊会を催す運びとなった。主賓はグレアム提督である。

 園遊会と言っても規模が大きい。言ってみれば王家主催のパーティなのだから当たり前だが。夕暮れにもなろうかという頃合いになり、それは始まった。
 提督は賓客席で王様と談笑し、また貴族達の言葉にも丁寧に答えている。まあなんだ、あまりくつろいでそうではなかった。当然かもしれないが。仕方ない。後で肩でも揉みに行くとしよう。
 また、戦時中ということで、戦意高揚のために交流試合があるようだ。私は見物くらいしかできないが、ロッテさんが出るらしい。別の意味で大丈夫だろうか? 多分単純に勝ち負けを競う試合じゃないと思うのだけども……

 そんな私の心配もよそに、園遊会は進み、交流試合も順調に終わった。最後は引き分けにして互いに花を持たせる形となったが、そこは形式的なものなのだろう。うん、私の心配など杞憂も良いところだった。これが終わるとワインで舌を滑らかにしながら、社交のお時間である。貴族たちは貴族たちで様々な話題に花を咲かせ、若い貴族達の間などでは、実に不謹慎ながら姫様のドロワーズは何色が似合うかなどという話も盛んだった。さすがにこっそり話しているので私の耳くらいにしか聞こえないだろうけども。ところで姫様にはやはりレースの白が似合うと思う。
 しばらくすると姫様が、少し肌寒いので、とホットワインを私に向かってねだった。

「少々お待ち下さいね」

 と言って軽々と動いてしまった私も私だったのだが。
 お望みのホットワインを調達して戻ってみれば、姫様とティーダの姿はない。慌てて周囲の警護の人に聞いてみれば、どうも体調が思わしくないそうで中座したという。
 私はため息をついた。

(こちら管理局の護衛、ティーノです。隊長さん、お姫様はお元気ですか?)
(うちの姫様に撒かれたみたいだな、肝心の姫様は今お付きの騎士様とロマンス劇の真っ最中だよ)

 護衛隊長に念話で聞いてみると、案の定だった。
 念話ですら含み笑いが聞こえてきそうだ。隊長もいい年だから、そりゃもう微笑ましくてならないのだろう。
 私は少々やさぐれた気分が沸いてきたので、ホットワインの他にボトルごと一本ワインを貰った。隊長が今居るという場所に急ぎ足で歩く。
 いつもの庭園の見えるテラスに二人は居た。
 遠巻きに目立たぬように護衛の人員が付いているのが判る。
 私も足音を殺しながら隊長の近くまで行って、首筋にワインのボトルを当ててみた。
 プロだった。ひゃっと驚いた声ですら静かにひそめている。
 恨めしそうな顔になる隊長にそのワインを渡し、横合いから私も二人を覗き込んだ。

「こちらの世界には水晶の船というお話があるのです」
「水晶の? それは綺麗でしょうが……」

 ふふと姫様は笑い、星空を見上げた。
 園遊会のために、庭園はうるさくない程度に明かりが灯されている。姫様の艶やかな黒い髪が夜の闇に溶け込み、その静かな灯りに照らされた白磁の肌と相まってとんでもない色気を醸し出していた。

「水晶の船に銀のかじ、太陽の色の帽子を被った船頭さんは、ある時鳥かごに入れられて育ってしまい、飛ぶ事のできなくなった小鳥を助けるのです」

 そっと姫様は自らの右手でティーダの左手をすくう。
 距離が少し縮まった。

「鳥かごごと船に乗せてもらった小鳥は船頭さんと共に毎日毎日旅をしました」

 姫様の視線に捕らえられ、何故か固まってしまっているティーダ。お、おいおいちょっと……

(た、隊長、隊長、そちらの姫様の雰囲気がすごく妖しいのだけど)
(ええい、静かに静かに、二人ともいい年なんだし、火遊びくらいは大目にみてやるがいいさ)

 念話と目線で隊長に話しかけるも駄目だ、この隊長楽しんでいる。

「小鳥は言いました。なんで船頭さんは私にこんなに親切にしてくれるの?」

 そうつぶやく姫様の口はもうかなりティーダの至近距離に。近い、近いって。

「船頭さんは言いました。ただ、いつか君の空を飛んでいる姿が見たいんだ。ただそれだけなんだよ」

 そして上目使いにティーダを見て何かを言いかけ……たのだが、私はその向こうからやってくる人影に気を取られて聞けなかった。
 一件侍女の姿をしている女性だが……歩き方が侍女のそれではない。しかし、これだけの警戒の中まさか侵入されたとでも? いや、考えるのは後だ。
 今はまだ夜目の利く私しかその姿を捉えていない。

(隊長、侵入者かもしれない。向かいから来る。距離200。テラスの端)

 端的に念話で伝え、私は走り出る。
 後ろで護衛の兵に指示を伝える動きを感じながら、私は走った。
 これで驚かせようとした姫様の親戚とかであれば大目玉ではあるが。
 ──いや、どうやら大当たりだったらしい。
 私が勢いよく走り出てくると、ティーダと姫様も驚いたのだが、その怪しい女性もまた慌てたかのように懐に手をいれ、黒いキューブ上のものを取り出した。
 デバイスはやっと起動した。バリアジャケットに身を包む。女性がその黒いキューブに何やら文字らしきものを指で描くと、魔力がそのキューブに集中を始め……! いや、それは集中と言っていい物なのか……魔力が渦を巻き一向に安定しない。乱気流にでも飲み込まれたかのような感覚が貫く。私の魔力感知の感覚が災いし、呻きを上げてよろけてしまった。
 色鮮やかなグリーンの輝き……魔力光か、それが空間そのものに立体的な魔法陣を描いてゆく。複雑すぎてわけの判らない魔法陣だ。
 直感だった。プロテクションで全方位防御に徹するのが定石だが、私は魔力弾をその黒いキューブに撃った。
 外れた……が、かすった事で侵入者はその黒いキューブを取り落とした。
 正解のようだ、魔法陣の一部が欠け……たが、発動したら止まらないらしい。

「くそっ」

 私は年頃の娘にあらざる罵声と共にティーダと姫様に飛びつく。プロテクションは既にセットされている。

「ティーダ!」
「ああっ」

 私の考えを読んでいたか、ティーダはタイミングを合わせ、私のプロテクションの上からさらに半球状のサークル・プロテクションを張った。
 攻撃か拘束魔法か……全く読めない攻撃だ。私は衝撃に備え身を固くした。
 若草色にも似たそのグリーンの輝きに包まれ、どこが上でどこが下なのか、急激な浮遊感と共に一瞬意識が遠くなる。
 私はいつの間にか緑色の輝きが消えている事に気がつくと、まだぼうっとしている頭を振った。
 まだ目の裏に光が焼き付いているような感覚を覚える。涙が滲んでくる目をぬぐいながら周囲を見れば……

「……どこだここ?」

 辺りは一面の暗い森だった。



[34349] 二章 七話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/16 22:00
 転移魔法だったのだろうか。
 あるいは何かのレアスキルなのだろうか。
 私はしばし呆然としてしまった。

 地球でカーリナ姉からいろいろ聞いている身としては咄嗟にレアスキルなんて可能性も考えてしまう。本来そうぽんぽんいるはずがないのに。
 いや、そもそもこの世界は座標位置の特定を妨げる力場が常に放射されていて、転移系は非常に使いにくくなっていたはず。むしろそちらの方が説明は付きやすい……か?
 転移させられた先は深い森だった。同じくティーダとナティーシア王女も転移させられている。護衛としちゃ失態も良いところだが、私とティーダがくっついてきた分、最悪よりはちょっとマシと言えるかもしれない。
 ティーダと相談し、探知を避けるために極力魔法を使わないようにして、夜目の利く私が周囲を哨戒したところ、何ともまずいことに気がついた。
 夜なので印象はまず違うのだが、その防壁で囲われた古い町並……この世界の資料にあった写真そのままである。敵方……共和政府の首都ベリファの姿だった。

 私は急ぎ戻る。狙いも判るというものだ。何らかの長距離転送手段を持った人員だったのだろう。本当なら姫様を攫って今頃は本拠地で……あれ……違和感がある。それほどの能力を持っている者なら姫様でなくても直接王なり……第一王子も居た。何故姫様を狙いに行ったのだろうか。
 私は頭を振った。今考えるのはそこじゃない。
 今はひとまず目前の問題を考えないといけない。
 ひとまず、魔力探知も含めて網を張られる前に行動しなくては……
 私は見つかる危険性を考えバリアジャケットを解いた。女官姿なので、これはこれで浮くが……小さな町が見えたので、まずはそこで必要な物を調達するとしよう。
 ドレス姿で動きにくい姫様をティーダに背負わせ、森歩きには慣れている私が先導した。夜の、視界が利かない状態で森を歩くのは本来自殺行為だ。魔法を使えない状態だと特に。雑草を踏んだと思ったら穴が開いていて足を折るなんてこともある。藪を無造作に踏んだら毒蛇に噛みつかれるなんて事もある。あるいは気付いたら野犬などに囲まれている事だってあった。そこは安全そうなルートを選び、危なそうな所は一々確認しながら進んでいる。私が付いてきている事に感謝してほしい。うん、少しは感謝されても良いと思うのだ。
 まあ、後ろを歩く姫様を背負って、背中に当たる感触にうだうだしているティーダの様子ではそれは望むべくもないのだが。いちゃいちゃすんな。ちょっとくらいは構ってくれと……って、いやいや、私はどこの構ってちゃんだ。どこのお子ちゃまかと。困った、雑念退散である。
 幸いそれほどものすごい森ではなく。一時間もしないうちに来る時に見えた町に着いた。
 さすがに時間が時間だったようで、寝静まって静かである。
 ひとまず、姫様を背負って疲れた感じのティーダと姫様を、細かいものを調達してくるよ、と女官の服を目立たないようにちょこちょこと整え、町に向かった。
 私は物が揃いそうな店……スーパーなどはないので、何でも扱ってそうな、町の雑貨屋といった風情の店のドアを手荒く叩く。

「うぅるせえええぇぇええ!! 今何時だと思っていやがッ!」

 と起きて来た店主のおじさんの近くまですすっと寄る。急にパーソナルスペースに入られると人は驚き、硬直するものなのだ。
 その虚をついて、局のモデル仕事で鍛えたスマイルスマイル。言葉でたたみかける。

「夜分に申し訳ありません。旅の最中なのですが、少し離れたところで荷物が流されてしまいまして。頼らせて頂けないでしょうか?」
「お……おお」

 狐につままれたような顔をする店主に、丁寧に頭を下げる。ありがとうございます、助かりますとお礼の言葉も忘れない。勢いでも何でも形を作ってしまえばこっちのもんである。ふふ……ちょろい。どうだお姫様。私とて、このくらいは……
 私は無言で自分の頭に拳をぶつけた。何考えてるのか、私は。この世界来てから微妙にペースが狂っている。ちくしょう。
 さらに怪訝な顔になる店主を尻目に、とりあえずの服やレインコート、水タンクや食料などを買い込む。本当に何でもあって有り難い。さすがに生鮮食品はないけども。
 最後に大きな旅行バッグに詰め込み、店主に再度礼を言って戻ることにした。

「ただい……、あれ?」

 戻ってみれば二人の姿が見えない。
 辺りを見回していると、車の音がして、とっさに物陰に身を隠した。
 様子を伺っているとその車……トラックは私が先程居た場所に停車し、人影が降りて……ティーダだった。

「ま、紛らわしいなぁ……」

 私は頭を掻きながら物陰から出る。
 しかしどこで調達したのだろうか……私は片手を上げて帰ったよーと言いながら近づいた。
 この世界では地球と同じように化石燃料を使った車が走っている。と言っても地球が石油、こちらは天然ガスが主流、という程度の違いはあるが。本で読んだだけであるものの、次元世界の中には地中で育てる動物の血……いや体液を燃料に使う技術を元に発展しているところもある。まさに所変われば品変わるといったところだ。
 ティーダがどういう手段でか、調達してきた車は日本だとよくピックアップトラックとか呼ばれているたぐいの形だった。荒れ地の走破性も高く、改造されてよく軍事利用もされているようなやつである。
 運転席から覗き込めば燃料もたっぷり入っているようだ。
 姫様を抱えて飛ぶ手もあるが、スピード出せないので良い的だし、足ができたのは正直助かった。
 別に打ち合わせをしたわけでもないが、私は荷台に荷物を放り込み、私自身も飛び乗った。

「ティーノは車内に入らなくて平気なのですか?」

 さすがに心配そうな顔で姫様が私に聞いてきた。作りとしては車内に4人は乗れるようになっているようだが、後ろで警戒していないとさすがに不安である。
 私は平気平気とわざと軽く言い、思い出したので先程買ってきた動きやすそうな服を取り出した。と言ってもただのチュニックとズボンである。服屋でもなく雑貨屋にあったものなのでそう期待しないで貰いたい。ティーダにあっちを向かせて着替えた。何せ、姫様も私も園遊会の時のままなので、ドレス姿に女官姿である。姫様はこういった服を着たことも触った事もないらしく私も手伝った。興味津々に、堅い布なのですね、と触っている。
 バレるときはバレてしまうのだろうけど何もしないよりは良いと思う。念のためにと、キャスケット帽を目深に被って貰った。何せこの人が一番顔が知られているのだ。どこか楽しげにしてるけど、追われる立場なんです姫様……

「もういいかい?」

 ティーダは着替えイベントから追い払われたついでに、道筋も確認してきたようだった。
 もういいよ、と子供の遊びさながらに言葉を返すと地図を持って近づいてきた。
 車の中に放り込まれていた地図を取り出し、ここが現在地で、ここまで行けば何とでもなると言って、そこまでのルートを指でなぞる。なかなか遠回りにもなる山越えのルートだった。

「最短ルートと、この河川沿いは?」
「ティーノも思いついてるだろうけど、とっくに警戒態勢だろうね」

 だろうなあ。ティーダの示したルートだと人目にもつかないだろうし、分かれ道が多く、障害物も多い。いかにも追跡されにくそうである。まあ、私が地図とにらめっこしても良い考えが出てくるわけでもない。それに時間は大事だ。
 それで行こう、と頷き、私は文字通り車上の人となった。
 ティーダと姫様も乗り込み、エンジン音が夜の闇に響く。どこかでギャアギャアと得体のしれない鳥だかの鳴き声が聞こえた。

 敵地で一番怖いのは味方との通信手段が無いことかもしれない。
 今の私達の状態である。
 転移魔法と同じように、念話もあまり長距離のものは使えない。無作為に広域念話なんてものを出したらそれこそ自殺行為だ。敵さんにどうぞ狙って下さいと言っているようなものだろう。かといって現地の通信設備はというと、これがまた困った事になっているのだ。
 地球と同じように電波による無線設備などはあるのだろうけども、その多くが軍用施設のようであり、悠長に捜している暇もない。
 姫様の護衛隊が使っていたような携帯端末を支給されていれば、また違ったかもしれないが、そこは言っても仕方無いものだろう。
 ともあれ、あと一両日も移動すれば、国境に近いところまで移動することができるはずだった。そこまで近づけば救援要請も出せると思う。

 そう考えていたのだが。
 目論見は半日ほどで潰えた。追っ手である。五人一組……だろうか? 少々ばらつきがあるものの追ってくる。
 いずれ追跡はされると思っていたが……早すぎはしないだろうか?
 あるいは管理局も知らない追跡用の魔法でも持っていたか……あの転移魔法をくらった後ではそれも油断できない。
 周囲の風景は段々、木の数が少なくなり、岩場が多くなってきている。地図で見た、曲りの多い山道に入るところのようだ。
 この事態に至っては仕方無く、私はハイペリオンを起動状態にする。
 バリアジャケットを纏う、揺れる車の荷台に立ち、身構えた。

   ◇

 数度来た追っ手は何とか防いだものの、敵の戦力が読めない状態で耐え凌ぐのは精神的に辛い。ティーダと軽口を叩き合って気を紛らわせられたから保ったようなものだろう。
 私一人であるなら多分魔力や体力より先に精神力がやられていたかもしれない。
 ……ぴんときた。
 魔力探知に引っかかったようだ。私は半眼になり集中する。
 1,2,5,ええと……感覚的なものなので表現しにくいが不協和音が一杯。
 おいおい……

「ティーダ、サーチャーで見てる?」

 先程、運転席から出していたサーチャーのことだ。消していないのだったら観測しててもおかしくない。

「うん、バッドニュースがあるけど聞くかい?」
「勿体ぶるなよ……」
「空士が飛んでくる。今のところ2分隊くらい」

 うわぁ……である。
 今までは飛べない敵兵ばかりだったのだが、ティーダが空士と言うくらいなのだから、管理局の空士に匹敵するような、空戦も可能そうな魔導師なのだろう。
 私とティーダだけなら逃げるだけに集中すれば多分何とでもなるだろうけども、こちらのクリア条件は姫様の脱出なのだ。また、攻撃するにも非常に面倒臭い。
 こうして狙われる側になってみると空士ってのは厄介な事が判る。攻撃力とか機動力うんぬんよりも、戦術の幅の広さこそが始末に負えない。どうするべきか。ひとまず……

「ティーダ、広めに撃ってみる。合わせて」
「了解」

 短く言い終え格好つけてその拳銃型デバイスをくるりと回す。
 この……余裕ぶりやがって。こちらも何となくその仕草に落ち着いてしまったじゃないか。危機感返せ。
 頭の中でぶーぶー言いながら、私はデバイスに魔力を集中した。
 使うのは私の定番の射撃魔法でもある。

「シュートバレット・レイン、セット」

 トリガーはまだ引かない。コマンド待ちの状態で狙いを定める。ただ、ショットガンのように魔力弾をほぼ同時に大量に射出するだけだが、時間をとれば、威力や数の増減もわりと細かく設定できる。普通の局員はこんな無駄だらけの魔法は使わない。魔力タンクのような私の十八番のような魔法である。
 今回は目一杯魔力を込めてみた。一応武装局員の隊長と同じくらいとか言われる出力の全力である。射出ルーチン数を多く設定した。
 拡散範囲を広く取る。大まかな距離の測定、魔力弾の精度調整はデバイスに丸投げだった。そんなものは私には計算できない。前身のアドニアを思い起こしても絵は褒められど数学は褒められた事がない。困ったもんである。そんな私は狙いをつける事っまた、もっぱら感性に頼っていた。丁度いい感じを探して……うん。ピンと来た。

「ショット」

 以前、模擬戦で使ったのよりはるかに多量の魔力弾がシャワーのように広がっていく。その数1200。
 誘導なんて便利な機能もなく、一発一発の威力なんて魔力を少々削るだけの練られてない魔力弾でしかないが、この魔法は初見が一番効果を発揮する。
 私達のトラックに追いつこうとスピードを上げていた車、軍用バイクのサイドシートに座って射撃体勢に入っている敵兵。その後方から飛んでくる空士。全てを飲み込む程の魔力弾の雨が降り注ぐ。敵兵はそのあまりな量に驚いて混乱した。特に戦闘車両が驚いたのか横倒しになって、玉突き事故が……うわぁ。魔導師だから大丈夫だろうけど、見た目大惨事である。
 空士の方はシールド魔法を張ってやりすごす。威力がないのが判ると先頭を飛ぶ男は示威行為か何なのか、シールドを解除した。うわははははは! と被弾しながら突撃してくる。バリアジャケットすらいらぬわ! とばかりに脱ぎ捨てた。プ、プロテクションくらいは張っているのだろうけど……なぜ脱ぐ必要が! 見事な上腕二頭筋があらわになり、なぜかテンション高くなってスピード増しているのだが……やばい、怖い。何この魔導師、変態だ。
 しかし後方不注意だった。ティーダの放った誘導弾が迫り。着弾する。

「こ……の……俺が……」

 などと大物臭漂う台詞を吐きながら墜落していく空士……
 私はつかの間、その見事な撃墜のサマに目を奪われ、頭を振って我にかえる。
 どこの世界にも変態というものはいるらしい。見なかったことにしよう。

 途中変なのもいたが、私達は波のように打ち寄せる敵を幾度となく撃退していた。
 さらに増援も増え続け、もう小隊規模では収まらなくなってきたようだ。既に最初の私の一撃から一時間も経っていた頃だろうか。
 さすがにそろそろ騎兵隊の到着が欲しいところである。
 ティーダの魔力は既に一度尽きた。
 今は攻撃の合間に私がディバイドエナジーにより魔力を分けながら応戦している状態である。
 私達の疲労の蓄積に伴って、段々防戦の比率が高くなってくる。
 相手側は大分業を煮やしているようだ。当然かもしれない。普通ならとっくに魔力切れを起こしているはずだ。
 ……そうか、相手は人質確保したいがために人数に任せた持久戦を仕掛けていたわけだ。ますますもって私には相性が良かったということらしい。疲れた頭のどこかでそんな考えが浮かぶ。
 その間にも荷台に乗り上がってきた敵兵を右手一本で切り払った。
 実のところ左腕はちょっと感覚がない。魔力弾のダメージで麻痺してるだけだろうが、不利な事この上なかった。
 相変わらず騎兵隊のラッパは聞こえない。西部劇のようにうまくはいかないらしい。
 いい加減、敵さんも苛立ちが募ってきたのか、何か勿体ぶった男が前に出てきた。
 とりあえず魔力弾を撃っておく。しかし……ガードしている二人にシールドで弾かれた。
 どこかうさん臭い動作で悠然と顎髭を一撫でした後、その男は私達にその長大なデバイスを構え……魔力を集中させ始めた。その特徴的な魔力の流れは……おいおい、おい。そんな近くで砲撃? 減衰考えてるのか? 姫様の確保はどうなった? 私とティーダが身に代えて守ることを折り込み済みか? それとも何も考えてなかったりするのか?
 阿呆な、と何度か言いたくなったが、対処を考えないと、どうすれば良い、どうすれば、姫様を抱えて飛ぶ? これだけ集まっていればいい的だ。やられる前にやる? ティーダも私も前の二人を一瞬で突破して倒せるだけの力は……結局やれることとしたら。

「ティーダッ……砲撃来るぞ!」

 私はそう叫んでラウンドシールドを展開した。誰もが使えるシールド魔法だが、私にはこれが精々である。
 そのシールドの上からティーダは車も守るように球状のプロテクションを広げた。
 砲撃にプロテクション? 強度が……と怪訝に思ったが、同時にティーダの使う射撃用魔力スフィアが浮かんでいるのを見て、意図が分かった。スフィアが一個だけなので最早クロスファイアとは呼べないだろうが、あれはティーダの最も得意な誘導射撃魔法だった。

 ──閃光が迫る。
 同時にティーダが「……ファイア」とトリガーを引いた。
 私の展開したシールドが一瞬軋み、悲鳴を上げる。
 だが、一瞬だった。
 狙いは外れ、私のシールドの端を削り取る程度で終わった。
 砲撃魔法を撃った男は左手を押さえ呻いている。
 ティーダは最高の角度と最高のタイミングで、横槍を入れることに成功したのだ。
 砲撃と言っても、クロノやディンの放ったそれより大分威力も弱かったのだが……私はその威力の跡を確認し唖然とした。

「道ぃッ!?」

 無くなっていた。車の行き先の道がぽっかりと。待て待て待て待て、崖の上を走っていたようなものなんだぞ。狙いが外れたのはいいとして、このままじゃ落ちるからというか落ち始め……傾いて?
 ──浮遊感が体を襲う。私は荷台にいたのでそのまま投げ出された。敵兵の唖然とした表情に、場違いな笑いがこみ上げてきてしまった。
 落ちる落ちる。
 下には川とそれを挟んで森が見える。このまま落ちれば一巻の終わりだろう。いかにバリアジャケットが便利と言ってもノーマル設定では衝撃にも限度がある。
 ティーダが姫様を抱えて飛び出してきた。落ちると判ってから慌ててベルトを外したらしい、珠のお肌に擦り傷ができてしまっている。痛々しいもんだ。
 私がシールド魔法から切り替えが出来てないとでも思ったのか、ティーダは私にも手を伸ばしてきた。

「いいから姫様連れてけ! 私はどうとでもなる」

 落下しながらそう言うと、私はデバイスに登録してある幻術魔法、フェイク・シルエットをセットする。これもまた習得に手間取ったのだが、今となってはわりと得意とする魔法の一つだ、演算が面倒なのでデバイス無しでは使えないけど。魔力を大量に食うが、そこは私にとっては相性のいい魔法と言えるのかもしれない。ティーダと姫様二体の幻像を作り出した。
 それをティーダは見て取り、念話で伝えてきた。

(南に20キロ地点に潜伏できそうな町がある。少々の魔力反応なら隠せるはずの大きな町だ。そこで落ち合おう)
(了解、ついでに美味しいパン屋も探しておいて)

 何故か姫様がティーダに抱きついて勝ち誇った顔をして舌をぺろっと出す。
 ……こ、こんな時までこのお姫様ってば……大物だなあ。逆に感心してしまった。
 そのまま、ティーダのかけた幻術魔法により姿が見えなくなった。全くもって見事なミラージュハイドだこと……

 さて。私は先程作った二体の幻像と手をつないだフリをする。
 どうするかというと……一緒にぎりぎりまで落ちるのだ。衝撃に弱いので枝葉に当たるだけでも消える可能性がある。その都度、部分的に作り直すために魔力を送らねばならないのだ。
 私が守るように木々の葉っぱを突き抜け、地面すれすれで浮遊魔法に切り替えた。
 幻像が消える。
 着地したところは大きな木の根元だった。
 上を見上げれば私が墜落してきたために枝が折れ、生い茂る緑の中に穴がぽっかり空いている。
 私はその木にもたれかかって大きく大きく息をついた。

「はあー……しんど」

 今更ながら考えれば私は初陣である。実戦で人を攻撃したのなんか初めてだった。
 一人になってみると正直泣きたいような気持ちがこみ上げてきてしまう。私はこんなに弱かったのだろうか。
 ただ、まだ何も終わってないのだ。
 魔力探知は私のような特殊な体質でもない限り、おおまかな位置しか判らないはず。部隊を展開しているような状態ではあまり意味を成さない。私もまたティーダほど熟達してないものの、ミラージュハイドで姿を隠しながらその場を後にした。

   ◇

  川のせせらぎが耳に心地良い。
 種類も知れない鳥の声が響いている。
 樹液を吸いに来ていた蝶が甲虫っぽい虫に追い立てられて逃げた。
 人の手もほとんど入っていないだろう森の中は落ち葉の下に何が隠れているか、あるいは穴でも開いているのかも判らずひどく歩きにくい。
 濃密な森林の空気を吸い込み、思った。
 全くこれが遊びに来ているだけだったら……と。

 車と一緒に墜落したバッグを回収し、ミラージュハイドで隠れながらそろそろとその墜落した地点から離れる。
 この系統の幻術魔法は私みたいに練度が低いとあまり派手な動きが出来ないのが問題である。私の翼を隠しているオプティックハイドがそうであるように、探知系からもある程度隠れられるので、便利といえば便利なのだ。しかしティーダなどは私より格段に上手く、姫様も効果範囲に入れてなお飛行魔法まで併用してみせたが、私にはとてもとても……ぐぬぬと言わざるを得ない。
 ある程度まで距離を置き、丁度良さそうな木があったので、木の上に登り、念のため再びミラージュハイドをかけ直した。
 目を凝らすまでもなく、先程車ごと墜落した場所に空士がまず降りてきた。
 私達の姿がまるで無いことに気付くと辺りを見回し、いかにも苛立たしげにトラックの荷台をデバイスで殴りつけた。
 取り逃がしたと思ってくれただろうか。
 ティーダの位置は私も把握していないが、さすがに姫様を連れ、隠れながら飛び続ける事は厳しいだろう。それほど魔力に余力があったわけでもないだろうし。やはり私が何かやるしかなさそうだった。
 正直私自身、気力にはもう自信がない……のだが、仕方無い。やるしかない。泥を手ですくい、顔に塗る。気分はベトナム帰りのグリーンベレーといったところだ。本当に気分だけだが。映画のようなワンマンアーミーは正直真似できない。これからやるのはただの陽動だ。交戦という考えはまず捨てておく。
 左手をにぎにぎ。腕にダメージを受けていたが、何とか動く事は動くようだ。力は入らないが。
 私はバリアジャケットを再構成。深く息を吸って吐く。
 ほんじゃ……

「始めますか」

 そうつぶやいて魔力弾を派手に三連射した。
 見事な手応え! 手応えってのも変な話だが。
 ……ええと。

「大当たりー!?」

 単に居場所気付かせるための狼煙代わりだったのだが……
 バランスを崩して墜ちていく魔導師が一人。
 おのれー! とばかりに片割れが目を怒らせて向かってくるのだが……誘導とかほぼ出来ない私が適当に放った魔法で墜ちるとか、こっちがびっくりである。

「……よっぽど運が悪い人なんだろうな」

 何となく胸の前で十字を切っておく。別にクリスチャンじゃないけども。
 ともあれ、お怒りの表情でもう一人が迫ってきているので、足は動かしておく。私が離れた事で、幻術で隠しておいた木が姿を現した。魔導師が向かってくる真ん前に。
 派手な衝突音を背中で聞きながら木々の隙間を縫うように走る。
 先程までの追跡を考えると魔力探知……も併用しているのかもしれないが、より原始的、例えば車の轍の種類、あるいは臭い、あるいは足跡。そう言ったたぐいの追跡だったのかもしれない。
 あるいはこの世界にしか存在しないような追跡に便利な動物でもいるのかもしれなかったが、そこまで考えると正直何も出来なくなる。
 私は徹底抗戦すると見せかけ、あるいは敵兵に押し込まれて、ますます逃げにくそうな川の上流に追い込まれた……振りをする。その間にもいかにも諦めてないぜーと言わんばかりのトラップをてんこ盛りに仕掛けておいた。何でこんな知識があるのか判らない、思い出そうとすると何か懐かしい気もする。いや、今は考えてる時間じゃないか。
 トラップと言っても移動しながらなので悠長な事はできないのだが、天然の穴の上に目くらましをするだけでも簡易の落とし穴になるし、撃墜して気を失った敵兵を置いて、その周辺に遅延発動型のバインドを張っておくなど、やりようはある。ちなみにここでも幻術魔法は大活躍である。ミッドだと注目されないけど、ゲリラ戦でこれ使われたらかなりきついんじゃなかろうかとふと思った。帰ったら上申しておいてもいいかもしれない。
 そして地味に役に立ったのが私の特製デバイス、ハイペリオンである。何しろこいつの起動状態は重い。ココットのロマンがたっぷり詰まっているソードフォーム時程ではないが、十分重い。どれほど重いかといえば私と重量が変わらないくらいなのだ。かの水滸伝の和尚がもつ鉄杖すら越える重量級の杖である。魔法を使わない方が凶器だろうと言うツッコミはいたるところから放たれているのだが、スルーするのにももう慣れた。
 そしてどう役立てるかと言えば。

「せぇー……のぉ」

 振りかぶって力一杯ぶちあてる。
 解体用クレーン車の鉄球が当たったかのような重い音がして、私の腹回りほどもある木がへし折れた。ひどい威力である。人間相手にはとても使えない。スプラッタ確定だった。
 地形は二叉の林道のようになっていて、その一方を折れた木で塞ぐ。もう一方の道には遅延バインドを逆に囮にしたスパイクボール……いやスパイクは冗談だが。ロープと布で吊してある泥の固まりがぶつかるようになっている。子供の悪戯のようなものだが、魔導師相手だと棘とか付けるよりはまとわりつく泥の方がよっぽど有効だった。ちなみに泥はデバイスの魔力刃の放出機能が、ソードフォームでなくともそれなりに融通効くのでシャベル状にして運んでいる。
 そんな土木工事用に大活躍の我がデバイスである。欲を言えばノコギリも欲しいところだったけど。フレームの剛性もココットの言う通り大幅強化してあるようだし、これは戻ったらケーキでも焼いてねぎらってやらねば。

 そんな細かい事を繰り返しながらの陽動作戦を続けていたらいつの間にか2時間ほどが経過していた。
 少し距離が開いたので、私は草むらに胡座をかいて小休止を入れる。
 最初に墜落した地点からも大分離れた。そろそろ私も離脱しても良い頃合いかもしれない。
 敵方の人員は減りもせず増えもせずと言ったところである。陽動といっても隙をついて何人か行動不能にはしているのだが、すぐに戦線復帰してしまうのだろう。こういう状況におかれてみると、確かに管理局の理念先行、非殺傷で制圧なんてのは自分を不利にするだけだし、現場の人間に行けば行くほど賛否両論なところも判らないでもない……と言っても、こちらはしがない末端局員である。そこは頭の良い人が考えるだろう。
 さて、と小さく声をかけて腰を上げる。
 どうやら距離が詰まってきたようだ。

「──シールド」

 ラウンドシールドを張ると少し間を置いて着弾した。衝撃ののち、砕けた魔力光の残滓が舞い散る。
 荒っぽい実戦に投げ出されたので、感覚が鋭くなってしまっている気がする。野生化だろうか。野良ティーノとか拾ってくれる人がいそうにない。元に戻るんだろうか? 映画でよくある戦場帰りの人間みたいに情緒不安定になったら困る。そんな事を思いつつも体は動いていた。
 離脱の前準備としてバリアジャケットの設定を変えておく。
 残っている魔力をありったけ……はまずいので、少し残し、デバイスに注ぐ。しかし今日はさすがに魔力素を変換しすぎたようで、胸のあたりがじくじく痛む。リンカーコア頑張れ。もうちょっと頑張れ。
 私は敵兵に炙り出されるように川の上空に飛び出した。
 間髪入れずに待ち伏せしていたらしい敵さんが私めがけて射撃をしてくる。
 今度は防御は使わない。軌道を変えて躱した。
 使うのはまた同じ魔法……芸がないと言えばそれまでなのだが、本当に芸がないので仕方無い。
 魔力弾の雨を川に向かって放った。
 非殺傷とか減衰とかにリソースを割かなくてもいい、ある意味本来の威力の魔力弾を文字通り雨のように放つ。
 それなりに豊富な水量があったのが良かった。水煙がそれこそ爆撃でも食らったかのように上がり、辺りに立ちこめる。私はその白い煙の中に身を落とした。

   ◇

 私が合流地点の町にようやくたどり着いたのは、日も薄暗くなろうかという頃だった。
 下流まで流された後、念のため相手にミスリーディングさせるような足跡を見当違いの方向に残してきたりとか、こまごまとした細工をしていたらすっかり時間がかかってしまったのだ。
 入ってみれば、大きな、と言うだけあり、こんな時間になっても活気が絶えないようだ。
 あるいは流通の拠点になっているのかもしれない。中央の主要道路と思わしき道はひっきりなしにトラックが通過している。と、思いきや、その主要道路からちょっと外れると、古くからあるような石造りの道になっており、両側にずらりと露天商が軒を連ねていた。案外、古い町が時代の流れに合わせて拡張していったようなものなのかもしれない。そんな感想を抱きつつその商店街のような通りを歩く。出力を絞った念話でティーダと連絡を取り、合流することにした。

 相談の上、少しこの町で休む事にした。
 さすがに普通に宿をとるわけにもいかない。私達は倉庫街の貸倉庫を借り、潜伏している。
 本当は足を止めないで出発したほうがいいのだろうけども、正直私も消耗していて、ぼろっぼろである。いくら私の体質が人外めいたものでも、そりゃ限度がある。姫様もまた、園遊会から相次ぐ騒動に、表面上は平気そうな顔をしていたものの、疲労は隠せないようだった。

「そんなわけで私は休む、ティーダ、見張り、頼む」

 口数少なにそう言ってティーダの肩を叩いておいた。
 ふむ?
 ぺたぺた触る。

「お? きょーふしょー出ないや」
「何だいそりゃ?」

 答えるのも面倒臭くなっていたので、手をひらひらしてはぐらかしておいた。
 バッグから引っ張り出した携帯毛布……何かに使えるかと雑貨屋で買っていた災害、非常時用のものだが、早速役にたってくれるようである。
 丸めて縛ると小さくなるそれを姫様にも渡し、自分でもそれを広げて、横になる。

 目が覚めたのはきっかり三時間が経った頃だった。
 短いながらも、久しぶりに何も考えず泥のように眠ってしまった。体力だけで言うなら何日も徹夜したこともあるわけだし、精神的な疲れが相当溜まっていたものらしい。
 ……あれだけ張り詰めた状態が続いていれば無理ないか。
 隣に寝ている姫様を起こさないようにして毛布から出る。本来荷物を積むためのスノコの上に寝ていたので、短時間とはいえ体が凝った感じがする。肩を回しながらティーダが見張っているだろう入り口の小さな事務室に向かった。



[34349] 二章 八話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/16 22:01
「起きたかい?」

 事務室に置いてあったものだけど、とインスタントコーヒーを淹れてくれた。
 辺りはすっかり暗くなったようだが、潜伏のために灯りも抑えているようだ。ほのかな暖色に照らされるコーヒーが妙に美味そうに見える。
 私は受け取って一口。

「にっぐぁ……」
「目は覚めるだろう?」

 そりゃ覚めるが……どこのコーヒーなのだろうか。口の中で苦さがクーデターでも起こしたかと思った。
 私は大慌てでティーダが差し出してきたミルクとコーヒーを多量に放り込む。
 やっとそれなりに飲める味になった。一体どこのインスタントコーヒーだ……
 ちまちまとその苦み革命のコーヒーを飲んでいると姫様も起きてきた。
 くあ、と欠伸する姿すらサマになっている。すごい自然な動作だったので、一瞬遅れて感心してしまった。さすが王族と言ったところだろうか。

「おはようございます、ナティーシア様。体の具合の方はよろしいですか?」

 ティーダが声をかけると、姫様は一つ二つまばたきをすると、まあ、と消え入るようにつぶやき、恥ずかしげに頷いた。

「それはよかった。運も絡んでくるのですが、あと一日もしないうちに安全な場所まで行けると思います。どうか、ご安心ください」
「ふふ、それはもう。私の心は頼りになる騎士様のおかげで最初から安らいでいますわ」

 未だ眠そうなとろんとした眼差しをさらに細めてにっこりと笑う。ティーダは照れた様子で頬を掻いた。少々顔が赤くなっている。

「ふ、二人とも起きたようなので、ちょっと偵察がてら食料でも調達してきます、ティーノ、しばらくここを頼むよ」

 照れを誤魔化すかのようにそう言って出て行く。
 お気を付けて-、と手を振って見送る姫様。
 ところでティーノ、と柔和な表情のまま私を振り返った。

「お手水はどこかしら?」

 よくよく見れば柔和な笑みのままだが、冷や汗が伝っていた。
 も、もしかして、我慢していたのだろうか? おいおい、いつからだよ……
 私は別の意味で姫様の意地に対して冷や汗が流れてきそうだった。

 ──些細な用を済ましたのち、。
 姫様は飲みかけのコーヒーに興味津々だったのだが、さすがにあの苦味成分が盛大に謝肉祭を行っているような飲み物を出すわけにもいかない。
 お湯に携帯食として買ってあったチョコレートを溶かしてホットチョコを作って出しておく。
 私が出した紙コップのそれを子供のような好奇心でもって嬉しげに受け取る。一口舐めて甘さに表情をほころばせると、私に向かって言った。

「ティーノは変に思うかもしれませんね。でも私はこんな事態になって、少々興奮しているのです。ろくに外に出た事もない姫がお供を連れての冒険譚。そんなお話でしか知ることがなかった事を今私が体験していると思うと……」

 それと、と目を伏せて少し恥ずかしげに口に出す。

「姫とお付きの騎士様との物語もまた、素敵なものだと思いませんか」

 いや……その同意を求められても……ねえ?
 な、なんと答えればいいんだ、この場合。肯定しておけばいいのか? えーと……

「そ、そうですね、素敵だとおもいまふ」

 私は何でか姫様を直視できなかった。いや、あまりに姫様が真っ直ぐこちらを見てくるもので……思わず目を逸らしてしまった。なんでそんなにまじまじと……
 そんな私に何か思うところあったのか、姫様はまた柔和な笑みに戻ると、胸の前でぽんと手を合わせた。

「ティーノ、体を拭いてあげましょう」
「え、ええ!? いえ、それはちょっと何で突然?」

 話の脈絡をぶった切るどころの話ではない。なんでそんな思考に行ってしまわれたのか。
 私があわあわしている間にその姫様は高貴なる身分にあるまじき素早さでバッグの中からタオルを引っ張り出してきた。意外に手慣れた様子でポットのお湯をタオルにかけて馴染ませる。

「さあ、観念なさい。ふふ、私も一度拭く側になってみたかったのです。それにほら、こんなに泥だらけではないですか」
「ま、ちょっと待って姫様……」

 そういえば、町に入る前に適当に川の水で汚れ落としただけだったけども。
 にじりよる姫様に私は戦慄を覚えざるを得ない。こんなにアグレッシブだったか?

「こんな時あなたの故郷では確かこう言うのでしたね。さあ、良いではないか良いではないか!」
「あーれー!」

 あ、いかん、途中からノってしまった。私がちょっと話しただけの悪代官ネタを覚えているなんて……
 力一杯抵抗するわけにもいかず、見事にひん剥かれて恐れ多くも姫様自らの手で清められてしまうのだった。

 小柄な私は、均整の取れている姫様より頭一つ分小さい。
 椅子に座っている私の髪についた汚れなどを姫様が丁寧に拭き取ってくれている。
 さすがに少々落ち着かないものを覚えるのだが、もう好きなようにして、といった具合である。
 ただ、一応私は護衛として配されたのである。どちらかというと管理局から派遣された侍女のようなもんとはいえ、一言釘は刺しておく。

「姫様、この状況でも明るいのは結構なのですが、追われている身の上であることを忘れないでくださいね」
「ティーノは可愛い見た目に反して、そういう部分は厳しいのね。まるでマルグリット伯爵夫人みたいですよ」

 姫様の作法の教師役である人を引き合いに出されるとは私も偉くなったものである。
 ……小太りのお婆さんなのだけどね。マルグリット夫人。やたら私を子供扱いして飴ちゃんをくれる大阪のおばちゃんのような人である。美味しいから別にいいのだが。
 しかし、このお姫様、本当に事態を判っているのだろうか。

「……敵方に捕らえられればどうなるかも知れませんよ? それに先の戦闘でも一歩間違えれば命に関わっていたかもしれなかったんです。相手側も加減はしていたようですが」

 私がそう言うと、拭き終わった髪をいじっていた手が止まった。なんだか髪を束ねて引っ張られる感じがする。三つ編みでもされているらしい。
 何となく振り返ろうとすると頭を抑えられる。再び手を動かし始めた。

「覚悟を問うているならとうに。これでも王族のはしくれですもの。それに私は……」

 ふと何かを言いかけたようだったが、それ以上の言葉は出てこなかった。
 無言で私の髪を編み続け、終端まで出来上がるとゆるく団子状にまとめて、バレッタで留めた。

「できあがり。さ、ティーノこっちを向いて」

 姫様の方に向き直る。普段はあまりこういう髪型にはしないのだが、これもいいかもしれない。頭が軽い。

「前髪は少し横に流しましょうか、あら、こんなところにも汚れが……」

 そう言って額を拭う。気分はもうすっかり姫様のお人形さんと言ったところである。
 そんな事をしながら何気ない調子で口を開いた。

「ところでティーノはティーダ様の事をどう思っているのかしら」
「……どうと言われましても……友達?」
「ふふ、誤魔化しはいけませんよ」

 にこやかに笑いながら私の頬をつつく。
 と言われても、だな。うん。正直その手の話は勘弁してほしい。このお姫様、私に何を求めているのか……

「あら? あら?」

 頬をつつくつつく。いやええと……

「あら、何この新感覚……絶妙すぎる弾力。ティーノあなた、すごいほっぺたを持っているのね」

 何か琴線に触れたらしい。10分ほども頬をつつかれた。私にはお姫様の頭の中がよく判らないよ。
 その後も微妙にストロベリーな会話を姫様に振られ続け、たじたじになる私といった構図があったのだが、それは置いておく。思い出したくない思い出したくない。
 駄目だ、姫様のペースに巻き込まれると私の頭の中まで苺色になってしまいそうになる。そしてこのあうあう言ってる自分は誰なのか。こんなの私じゃない。私であるはずがない。

「……ちょ、ちょっと外を見張りにに行って参りますす」

 あら逃げられちゃった、というつぶやきを背中で聞き流し、私はその場を退散した……言葉がどもったのは仕方無いと思う。ずんずんと出口まで歩いていった時だった。

「おおっ!」」
「うぇ? ティーダ!?」

 丁度飛び込んできたティーダとバッティングしてしまった。オヤクソクかよ、と頭のどこかで私は突っ込む声がした。しかしどうも、先程まで変なトークを吹き込まれていたせいで、非常に何だ、困る。
 私は軽い混乱を起こしていたのだが、ティーダの血相の変わった顔を見て思考が冷えた。
 これはやばい。短いアイコンタクトを取った後、慌てて荷物を回収し、ぽんやりといった擬音が似合いそうな顔の姫様の手を掴んで、非常口に向かう。まだ人の気配はしてこないが。
 私が先頭で警戒しながら進み、後ろをティーダが固める形で町の裏路地に出た。逃走用の経路としてティーダに説明されていた道だった。幾つも分岐のある入り組んだ道をティーダのナビで、姫様の足に合わせてだが、足早に歩く。

「……ッ」

 私は物音を聞きつけ、立ち止まった。何事か言いそうになる姫様の口を塞いで、口元に指を持っていき、静かに、と身振りで伝える。
 聞きつけた音……足音か、それは段々大きくなった。
 今進んでいる道の幅は3メートルほど、樽や木箱などが無造作に風雨にさらされている、明るい月明かりのおかげで視界は悪くない。今なら引き返すこともできるが、どうするか。
 私が目で判断を促すと、察したティーダは素早くミラージュハイドを使った。姫様と私を引き寄せ、姿を隠す。建物の建物の間の狭い隙間に身を潜め、様子を伺った。
 空気読まない事で定評のある姫様が相変わらずティーダに密着している。いやちょっと、怖がった振りして手を胸元に引き寄せてって……おい、色仕掛けか、色仕掛けに入るのか!
 待て……何やってんだ私は。何でそんなので一々揺らされないといけないのだ。
 頭を振って雑念を振り払う。大体今はそんな事やってる場合じゃないだろうに。ティーダだって困惑気味に……していないな。年頃だし仕方無いのか? 真剣な表情を作るのに失敗して口の端がにやついているぞ? ふざけてるのか? 緊急時に。ええ?
 そんな、シリアスを完全に欠いたこちらの事情はともかく、足音は段々近くなってきた。
 向こうの曲り角から写真だろうか、紙切れを手にした少年が首をひねりながら歩いてきた。
 少年と言っても、15,6歳くらいだろうか。私やティーダより一回り上の年齢のようだ。日に焼けた赤銅色の肌に真っ黒の髪を短くざっくり切ってあった。
 黒のズボンにプリントTシャツ、上にベストを羽織り、ところどころにアクセサリーがついていた。今までの敵兵の姿を見慣れていた私にとっては、大分奇抜な格好である。というかこの世界の人っぽくない。
 
「ったく、同じような道有りすぎだっつうの。ゴドルフィンの連中も、面倒な仕事押しつけやがって……」

 と、ぶつぶつとぼやいている。もちろん小声で普通なら聞こえない程度である。私も雑踏の中での言葉だったら聞き逃していただろう。
 少年はジャケットのポケットに手を突っ込むと携帯用のスキットルを取り出し、口をつけた。喉を鳴らして飲む。酒か? 良いのか未成年……いかんブーメランを投げた気がする。

「ぷあー、下ッぱが働いてる時の一杯は最高だわ」

 最低だな! 下っぱ職員の私は内心で激しくツッコミを入れた。
 いや、個人的感想はともかく、あまりやる気のない感じではある。
 隠れている私達には気付かない様子で、ぶらぶらと通り過ぎてくれそうだった。
 電子音が突如響いた。少年が腰につけていた通信機に手を伸ばした。部下と言うからには探索隊を率いている立場なのだろうけど、念話はどうしたのだろうか。そんな事を思いながら聞き耳を立てていると、どうも、先程まで潜伏していた倉庫を発見されたようだった。もぬけの空であるとの報告を受けている。

「すでに動いてるらしいなあ、各分隊は最初決めた通りの位置で封鎖しろ。管理局の魔導師はお前らが思っているより数倍は強ぇからな、間違っても正面からブッ倒そうなんて考えんなよ。見つけたら連絡だ。俺が行くまで防御に専念して待ってろ」

 そう言って、通信機のスイッチをいじったのち、少年は何故か大きくため息をついた。幸せが大量に逃げていきそうなため息だ。

「つってもあいつら勝手に動くんだろうなあ……預かってるこっちの身にもなってくれっつうの」

 ああ、もうやだ仕事やだ。とつぶやき、再びため息を吐くと、一拍置いて顔を上げた。つられて私も見上げる。地球から見る月にも似ている三日月が夜空に見えた。
 しばし少年は目を細めてそれを見、またスキットルを取り出すと一つ口に含み、味わうように口の中でくゆらせた。
 月見酒ってのも乙だねえ、などとひたっている少年をゆっくり動いてやり過ごし、もう大丈夫だろうという場所でティーダが魔法を解く。

「ゴドルフィンと言うのは多分、ヴェンチア・ゴドルフィン将軍のことだろう」

 聞き取れた事をティーダにも話すと、そんな答えが返ってきた。
 この世界に来てから判明してきた人物でもある。前もって共和政府と非合法組織とのつながりは確認されていたが、共和政府内でその関係を繋いでいるのがその将軍であろうと目されている。
 しばし黙考し、何か考えていたティーダだったが、やがて顔を上げた。

「行こう、予測通りなら今は相当に手薄なはずだ」

 何を予測したかは後で聞かせてもらうとしても、こういう時のティーダは頼りになる。私達は再び移動を始めた。

   ◇

 ティーダが言った通り、実にあっさりと町を抜けることができた。先の年の若い隊長君の指示だと部隊配置はされていたはずだったのだが、一度も会わずに出る事に成功した。
 月明かりに照らされた石造りの街道を歩く。すでに追われた町が見えなくなってから一時間といったところだろうか。
 姫様は今、ティーダの背中で眠ってしまっていた。力馬鹿の私が背負った方が本当は効率がいいのだが、私のちんまい体では姫様が安心できないだろう。

「ところで、なんで手薄って判断したんだ?」

 私は気になっていた事を聞いてみた。
 ティーダは、んー、と言葉を整理するようにちょっと目を上に動かし、話しだす。

「町ですれ違った隊長らしき彼が手に持っていた紙があっただろう」

 ん、そういえば、と私は相づちを打って返す。

「目で追っていたんだけどね、あれはどうやら風景のスケッチ、しかもかなり精細なあの付近の風景だった」
「あー、私は聞く方に集中しちゃったけど、ティーダは見ていたのか。でも風景?」

 うん、と一つ頷くティーダ。

「そこから、敵兵の配置された場所が特定できたんだ。さらにもう一つ、その隊長である彼のつぶやきから、ある程度の人員の予測もできた。まだ大まかな推測でしかないけど」
「ごめん……そういう謎々話はクロノんとチェスでもやってる時に話して……それで結論としては?」

 ちょっと語りたかったらしい。
 ティーダは不満げに口をとがらせた。
 ……妙なところで子供っぽい奴である。しかし何故だろうか、私は自分が軽い笑みを浮かべているのに気付いた。むむ。
 ともあれ過程を盛大にはしょってティーダの予測というものを聞かせてもらった。

「まず、グレアム提督が前線を動かした可能性が高いというのが一つ。それと検知されにくいサーチャーか何か、こちらからは把握できない視覚情報に頼った手段で行方を特定されているようだね。こちらの対処には何通りか考えがある」

 ……結論だけ言えば良いとか、使えない上司のような事を言ったのは私だが、ありえん。街中でちょっと1、2秒立ち止まって考えただけでそんな予測立ててしまうとか。というか、聞かされても過程がさっぱり判らない。どこをどう推測してそんな結論になった。いや、それを元に逃走経路を導きだすところまでやってるわけで。スペックの違いに笑いしか出てこない。ちょっと今度爪の垢でも貰って煎じてみようか?

「ティーノ? どうしたんだい急に」

 押し黙ってしまった私に怪訝な顔で聞いてくる。
 お前と組んでいると自分がアホの子に見えて仕方ないんだよ……
 私は片手で額をごんごん小突いた。ネガティヴ思考は今はいらないのだ。

「それで、魔力探知が主流じゃないならむしろ姫様抱えて飛んでいく?」

 ティーダはいや、と首を振った。

「どのみち姫様を連れた状態で高速での飛行は出来ないし、やはり目立つしね。相手側にも空士が居るわけだから、一度捕捉されればまずいことになる。どこかで車をまた調達して行こう。」

 方針を決め、近い集落への歩みを進める。ティーダの背中の姫様が妙な夢でも見たのか、唐突に首筋に噛みついた。私はこれまで見た中でも最大級のティーダの変顔を目撃することになった。叫びたいけど叫べないような、大きく開いた口の端がびくびくしている。
 まじまじとティーダを見つめる。はっとして慌てて取り繕ったのち、決まり悪げに赤くなって目を逸らす。
 ……記録しておけばよかった。

 その後はこれまでの苦労が何だったのかと言うくらいに、苦労もなく進むことができた。
 何でも視覚では特定されにくいように同じようなパターンの多い道筋を選んで進んでいるのだとか。時折、思い出したようにミラージュハイドをかけて移動をしてみたりなどもしている。まるでかくれんぼでもしているかのようだった。

「人口の多い都市にでも行って、辺り構わず幻術魔法で住民の顔を姫様そっくりにしてしまうのも手かもしれないね。攪乱は出来そうだ」
「まあ、私がたくさん町を出歩いてしまう事になるのですね」

 その様子でも想像してしまったのか、姫様がころころと笑う。
 いやいや、非常時とはいえ、そこまで幻術魔法を乱用すると罰せられる。さすがにそれは冗談だったのだが。
 途中で車を調達するときなどはさらに冗談めいた事をしていた。
 集落の村長らしき家を訪ねた時の事である。
 ティーダは自分を幻術魔法で見た目50代のお金持ちのように見せ、急いでいるのに車が故障してしまって困っているという設定で車の個人売買を持ちかけたのだ。
 傍らには園遊会の時の衣装を着直した姫様と、侍女姿で付き従う私も居る。

「お父様、早くしないとデヒア侯爵のせっかくのお招きに遅れてしまいますわ。ドゥジュール公子とも約束していましたのに、ああ、どうしましょう……」
「おお、ティーシアや、そんなに嘆くでないよ。何、共和制となってもこの土地の民は侯爵に敬意を払っていると聞く。すぐに話はまとまるだろうから、さ、もう少し我慢していておくれ」

 とまあ、姫様が娘役である。この土地一帯は長くデヒア侯爵領だったらしく、ここ10年で規模が縮小したものの未だその影響力は大きいという。ちなみに村長の顔色はというと、何ともかんとも。疫病神共があああああ! と全力で主張している。断っても本当に侯爵の賓客などであれば後が怖く、頷けば無事に車が戻ってくるか判ったものではない。
 いや実際厄介事を持ち込んでいるのは確かなので、ホント申し訳ないのだが、王家から後で補償されることは間違いない。そこは勘弁してほしいのだった。
 10分もした後には紙切れ一枚で買い付けた車を走らせるティーダが居た。

「やりましたわねお父様!」
「おお、我が娘や。父はどうやら詐欺師にも向いているようだぞ」
「ちょっと待てや管理局員!」

 思わず突っ込んでしまった私を二人で、うちの侍女は堅いなあ、堅いですわねー、などと言っている。
 いつまで続けるつもりなのだろうかこのお二方は。
 穏やかなくせに実は騙したり罠に嵌めたりが大好きなティーダは判るけど、姫様もそうノリノリになるとは。いやこの姫様はこんな感じだったのかもしれない。印象がぶれてきた。
 私はふっと浮かんだので、ついでといった感じで尋ねてみる。

「そういえばさらっと運転してるけど、ティーダ。管理局の運転免許いつ取って……?」
「……講習は受けたよ?」

 とても不安な答えが返ってきたのだった。

 再び車を手に入れてからは早かった。さすがにティーダも疲労が溜まっている様子だったので、途中で少し小休止を挟んだものの、あと数時間もすれば国境付近まで行けそうである。
 今回乗っている車の形は前回のようなごっつい形ではなく、村長がいかにも趣味で乗っていそうな車だった。そう、私の世界のフィアット500という名前で呼ばれる車に酷似したデザインである。車体の色はバニライエローだった。正直これで逃亡すると絶対にピンチに陥りそうな気がしてならない。銃を撃ちながらどこまでも追って来るとっつぁんは勘弁なのだが。いや、そんなのはこの場では私しか判らないネタだけども。しかし、お姫様を乗せてたりもするので、ますますなんだかなあと言ったところではある。

「あ、あれ? とすると私の役柄は五ェ門? う、うむ……ちょっといいかも……」
「ティーノ、ティーノ、拷問とか物騒な事をつぶやいてないで、にやにや笑いながらその言葉は少し怖いよ?」

 後部座席の私も、バックミラーで見られていたらしい。それと拷問違う、ものすごい勘違いされてる。
 いや、ちょっとそれ勘違いだから、と言い出すより先に姫様が反応した。

「あら、ティーノはそういう趣味かしら? 王家の秘密の蔵書を読んでみる? ふふ、その手の話には事欠かないのですよ」

 ひいい……

「な、ないですええ。そそ、そういう趣味じゃないですから、いやほんと」
「あら、残念」

 三日は眠れなくなること請け合いなのに。なんて口を尖らせて言わないでほしい。
 長く続いた王家の暗部とかもう怖すぎて読む気が失せるのだ。痛くて怖い話は勘弁してほしいのだった。
 そんなふざけるような余裕すらでき、時折、偽装のためか妙な迂回路をとったりしながらも私達は国境に順調に近づいていくのだった。



[34349] 二章 九話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/21 18:59
 何とか共和政府と王政府の国境付近まで来る事ができた。
 ここで強度を強めて広域念話を発してもいいのだが、道々説明されたところによると、投入されている追っ手が少ないなら国境沿いにあるハイライズ公領に入ってしまった方がいいということだった。
 ハイライズ公領とは、緩衝地帯……と言っては語弊があるだろうか。王政府側から領土を預けられている形だが、同時に共和政府にも貴族議員として名を連ねている。二政府間が戦争中と言えども、外交ルートを完全に切るわけもなく、また物資の流通、交易ルートとしても必要とされた事からそういう形になったらしい。
 公領と言っても広さは街一つ分である。人口も1万人いるかいないかであり。外から見た感じでは古い城塞都市といったおもむきでもある。町は石造りの壁に囲まれ、大きな門が南北に設けられていた。東西は岩山だらけの山地で挟まれていて、遠目には巨大な関所のようにも見える。
 非武装地帯でもあり、入る時には武器を一時預け、魔導師の場合、発信器付きの魔力封じも身につけなければならない。
 もちろん、敵方の部隊も展開することができないので、逃げ込んでしまいさえすれば安全を確保できる。
 逃げ込めればの話だったが。

「こりゃーまた……見事に待ち伏せられてるね」
「さすがにここを通る事は予測されていたか」

 ハイライズの城門はすでに見えているのだが、その前にずらりと部隊が展開されている。
 と言っても、ティーダの予測通り前線の維持が大変なのか、その人員の数はぱっと見ただけでもかなり減っているようだったが。
 陸戦魔導師と空戦魔導師の混成、合わせて30名くらいだろうか。局のように微妙な軋轢が無いようで結構な事だ。
 部隊の中には私が森で攪乱に走っていた時に気絶させた覚えのある顔もちらほら。そして、崖から転落することになった原因の、勿体ぶった魔導師も居るようである。何故か優雅に足を組んでワインを傾けている。お付きっぽい人が2人給仕をしていた。貴族か、お貴族さまなのか? そしてどうやら統率しているのは、ちょっと前に探索隊を率いていた、不真面目そうな少年のようだ。不機嫌そうな顔で時折スキットルを傾けている。
 定期的に哨戒しているのだろう、一人が移動を始めたので、それに合わせて私達も魔法で隠れたまま、その場を離れた。
 姫様が待っている車に戻りがてらティーダと相談をする。安全策をとるならハイライズに焦って入ることもない。国境線ぎりぎりまで行ってから飛んでいってもいいし、あるいは探せば封鎖の甘いところもあるだろう。
 ただ、姫様がああいう形で居なくなっている以上、できれば早くに無事な姿を見せておきたいという部分もある。すでに戦端を開いているというなら尚更だった。
 そんな方針を決めきれない私達に、姫様はあっさり言い放った。

「ハイライズに入りましょう。時の刻みは戻りません」

 普段のにこにこした顔が嘘のように引っ込み、真摯な目になっている。それはやはり、自分が攫われてしまった事で与えてしまった政治的な影響ゆえか、王族としての責任感か。
 そしてきっかり一秒後、その顔はふたたび緩んだ。

「一刻も早くお風呂に入りたいですし」

 くんくんと自分の臭いを嗅いでみせる。

「姫様……どこまで本気なんでぃすか……」
「あらティーノ。脱力しちゃって可愛い可愛い。ちなみに私はいつも本気ですよ?」

 ……ともかく、鶴の一声で方針が決まったからには、後は役割分担である。

「前回は良い所を全部ティーノに取られちゃったからね、今回は僕が囮を」

 と言いかけたティーダの口を手で塞ぐ。
 ……いつしか普通に触るのは平気になっている。なんてふと思うが、今は関係ないか。
 何か言いたそうにこちらを見るが、ええ格好しいで危ないことをしてもらっても困る。
 大体……

「魔力も残り少ないくせに大きな口叩かない」

 道中の攪乱や消費の大きい幻術魔法の使用で相当減っているはずなのだ。
 それでも何か文句ありげな目をして、私の手を払う。
 何やら言いかけたところで、横合いから姫様が割って入った。

「ティーダ様は女の子を囮として残して行く事が嫌なのですよ?」
「……へ?」

 何それ本気でそんなん考えてるの? と確認してみると。うんうんと頷いている。

「むうぅ……」

 私は頭を乱暴に掻いた。アホ毛が立ってる鬱陶しい。
 いろいろと感情が変に湧いてきて困った。整理しきれない。まとめて見ない振りを決めこんだ。とりあえず私は口を開き──

「お前それサバンナでも同じ事言えるの?」

 違った。どっかで覚えたような言葉が口をついて出てきてしまった。いや、ライオンとかは狩りをするのは雌ライオンだからあながち間違っても。いやその解釈はまずい、私ハーレム要員違う。餌取ってきたりとかしないから。いや、まて食事という意味ではわりと当たって……いや、ともかく。今の状況に男女は関係ない。というか、だ……

「そんなアホな意地張ってる場合かッ!」

 私の魔力を込めた掌底がティーダのみぞおちに突き刺さった。へぶぉと妙な声を上げて2センチほども体が浮き上がる。
 崩れ落ちたティーダを見下ろし、腰に手を当ててポーズを決める。

「成敗!」

 まぁ、すごいと姫様が手をぱちぱち。
 漫才はともかく、とティーダを引き起こす。

「とりあえず少ないけどその魔力で姫様の護り頼む。それが順当な役割だよね?」
「ディバイドエナジーをわざわざ殴って使うとか……勘弁してくれよ」

 あいたた、これは肋骨がいったか。死ぬ死んでしまう。などと大げさに痛がってみせる。殴りではなく掌底で押しただけなので怪我もなにもないのだが。そんな寸劇にも付き合うつもりか、姫様もまたよよよと崩れ落ち、騎士様どうかこの姫を置いて往かないで下さいまし、などと言っている。
 何というか、寸劇気に入っちゃったのだろうか。緊張はなくなるものの、抜いてはいけない力も抜けてしまいそうだった。
 私は頭痛を感じ、こめかみを揉みほぐした。
 
   ◇

 ある意味ワンパターンとなっているのかもしれないが、今回も幻術魔法である。フェイクシルエットで形作った姫様とティーダ、二体の幻像を車に乗せて北門に迫った。
 ちなみに私は免許無しなのだが、動かし方は判るという奴である。大きい車だと足が届きにくいので小さい車でよかった。
 部隊が展開しているのを見て慌ててUターンをして逃げる……振りをする。ミラーを見れば、前回の徹があるので迷っているようだったが、目の前を獲物が通過しているのである。逃すわけもない。功を焦ったか若い兵士がまず追いかけてきて、それを追うように空を飛べる魔導師がついてきた。舌打ちした隊長も号令を下す。
 よーしよし、かかった。敵さんは訓練期間を取れてないのがあだになっているようだ。
 ちなみに今回も策と言える程の策ではない。奇策でも思いつかないかとティーダに振ったら、要人を連れている以上、奇をてらう策を使うもんじゃない、と言われた。一度破れると脆いのだとか。こういう時は敵も味方もマンネリに感じてしまうくらいシンプルな方が良いらしい。
 そんなわけで私が騒ぎを起こし、敵を引きつけ、その合間に姫様ごとこっそりハイライズに入ってしまうという、とっても単純な作戦である。
 今回は時間稼ぎもそれほど必要なく、二人が門を通り抜けてしまえば勝ちだ。それを確認したら私は本来の特性を生かして飛んで逃げてしまえば良い。速さには自信がある。
 とはいえ、ただ逃げるだけというのも怪しまれる。
 私は運転しながら誘導射撃を撃った……一発づつ。苦手なんだちくしょう。サーチャーも出して後方確認しながらなので面倒臭くて仕方無いのである。
 さすがにそれはあまりに単純すぎる攻撃だったらしい。いかにも素人に毛が生えたような新兵君にもシールドで防がれる。
 ニヤァとか笑われた。

「うぁ……めっちゃ舐められた。新兵にすら……ほとんど素人にすら……私って」

 そりゃ一番苦手な分野ではあるのだが、がっくりである。
 新兵君がお返しにと放ってきた射撃を躱すと、その間にするすると飛んで車の上に着陸してきたのがいたので、タイミングを合わせて屋根を大きく開けて出迎えてやる。
 着陸しようと思ったら穴が開いて車内に落ちた。わけわからん。空戦魔導師の彼から見ればそんなところだったかもしれない。なかなか間抜けな格好で落ちてきた。

「はろー」

 にっこり笑ってやり、魔力刃を出したハイペリオンをさくっとな。
 つられて笑い返そうとした男は半ばにやけた顔のまま気絶した。
 この車の構造をよく知らないのが裏目に出たようだった。この車のルーフは大きく開くキャンバス地なのだ。
 ドアを開けてその男を放り出す。お仲間が回収するだろう。
 放り出すと同時に射撃魔法が車に向かって飛んできた。
 狙いは……タイヤか! 慌ててハンドルを切り避けたが、露骨に車狙いに切り替えたようだ。後ろを確認すれば、かなり敵の部隊とも距離が縮まっている。正直いつまでもカーチェイスは続けられそうにない。早く合図来ないだろうか。
 そんな事を思いながら今度は開いた屋根から身を乗り出し、魔力弾をばらまいておく。ただし、初見なら効果あるが、二度目以降は威力無いのがばればれなので、気休めでしかないのだけども。
 迂闊に近づいてきた二輪に乗った敵兵を至近距離から魔力弾の連射で撃ち落とし、ついでに空を飛んでいる空士にも牽制も兼ねて撃っておく。
 とまあ、ここまでやっている事は多いのだが、その実まだあまり時間も経っていない。
 もう少し城門からは引き離したいところだった、が。

 ──衝撃が走った。
 いやかなり物理的というか車が横転? 無重力感? 投げ出されッ!

「ぐっ」

 私は開きっぱなしになっていた天井から投げ出されて空中で慌てて浮遊制御を取る。
 さっきまで乗っていた車がごろんごろんとおもちゃのように二転三転してひっくり返り、停止した。

「……あー、しまった。やりすぎちまった。おおい、そこのちっこいの。姫サン生きてるかい?」

 いつの間に居たのだろうか。隊長と思われる不真面目な少年が心底困ったような顔でそんな事を言っていた。
 瞬時考えを巡らせる。
 魔法を食らったという感じではなかった。爆弾か何か?
 ひとまず時間稼ぎにと、ひっくり返った車を慌てて覗き込んで姫様の無事を確認する……振りをする。実際には幻像なのでとっくにさっきの衝撃で消えてしまったのだが。
 私はできるだけ目を伏せるようにしてのろのろと車から這い出る。完全に追いつかれたらしい。部隊に包囲されている。
 少年に向かって無言で首を振って見せた。できるだけ沈痛に見えるように。

「え……ええ? マジ? どうするよおい! 俺姫サン殺っちゃった? 副長ちょっとそのちっこい子を確保しとけ」

 やばいやばいと慌て始める少年。上の判断聞くわ、やべー、まじ洒落になんねー。と大慌てである。
 いや、そんなにあっさり信じてしまっていいのか?
 もっとも、私には好都合だけども。

 近づいてきた副長さんとやらの襟首を掴んで引っ張り倒した。私の見た目からはそんな力を想像できなかったのか、あっさり前のめりにバランスを崩す。その勢いで後ろに回り込んで羽交い締めにした。
 包囲していた連中が突然の動きに釣られて魔法を放つ。私は副長さんを盾にして縮こまり、被弾を避ける。その人間バリアーの方はたまったものじゃないだろうけども。新兵がちらほら混じっているとはいえ、20人以上の集中射撃である。

「なんて酷ぇ娘だ……」

 一旦射撃が止み、そんな声が包囲してる中から聞こえる。撃ったお前らが言うな。
 いやいや無視無視。私は飛行魔法で飛び立つ。デバイスには既に魔力を流し込んで攻撃へも移れる。
 折良く。
 本当にタイミング良く、ティーダからの無差別広域念話が響いた。

(姫様は無事にハイライズに入った。両者とも退け! これ以上の戦闘は無意味だ!)

 無事作戦成功……か? 良かったあ。
 だが、その気の緩みがいけなかった。

「らあッ」

 なんて声が聞こえると共に、風の砲弾のようなものが迫る。いや、目には見えないが、私の感覚だと、ってかやば……
 ぞわっと鳥肌が立つ。急な飛行制御をかましてる余裕はない。私は魔力を流し込んだままだったハイペリオンが魔力刃を形成するのももどかしく、その形容しにくい何かの塊にぶつけた。

「おおぅおおおお!?」

 デバイスによってそれは逸れてくれて直撃はしなかったのだが、その通った後の気流の乱れだけで途端に飛行制御が難しくなる。
 小さい竜巻にでも巻き込まれた気分だった。もみくちゃにされる。
 一体なんだ、何をくらった?
 私はその攻撃の来た方向を見やる。

「時間稼ぎかよ、やってくれたじゃねーの、ええおい?」

 赤銅色の肌に判りやすく血管を膨らませながら少年がお怒りの様子だった。
 三白眼がぎろんとこちらを睨んでいる。
 どこからどう見てもチンピラである。
 その足元には何をやったか知らないが、クレーターが出来ていた。
 本当に手段が知れない。どういう攻撃だろうか。魔力弾の圧力ではない。ただの風圧の塊のような、いや、魔力も混じってはいたのだろうけど。いや、ここはあれか。
 シュート、と小さくつぶやき魔力弾を放つ、連続で。
 ついでに私の周囲に遅延バインドを適当に設置。
 ある程度の距離が開くと消滅するので、まさしく私以外がやると魔力の無駄遣いにしかならないのだが。警戒させるための囮役だ。
 設置が済んだら魔力弾を連射でばらまいておく。着弾はしない。指定位置まで行くと待機する。これもシュートバレットの応用編。

「バースト」

 魔力弾に連鎖爆発を起こさせる。
 やたら目に痛い色の魔力光が空間を照らし、爆発音が響いた。
 要するに魔法で使えるフラッシュバンといったところである。といっても魔導師相手にはあまり効き目はない。せいぜい驚かせるのと……
 三十六計逃げるに如かず、というのを実行するときの目くらましだった。
 閃光と凄まじい音を後ろにして、全速にて離脱する。

「おお……やっぱ空はいい。気持ちいいなー」

 敵さんの空士が追ってきたようだが、早々に諦めたようだった。ふふん。こればかりは私に分があるのだ。
 と、いい気になったのもつかの間だった。
 後方を確認したとき、人影が見えた。
 全速で飛んでいるというのに、土煙を上げながら段々人影は大きくなる。
 やがてその人影は飛んでいる私を追い越し、私の前100メートルほどまで進むと止まった。
 ……勘弁して欲しい。

「……走って追いつかれた……あはは、そんな馬鹿な」

 さすがに息を切らしているものの、先程の隊長の少年である。いや、さっきから何なのか。私に怨みでもあるのか?
 私も何というか、半分呆然としてではあるが、止まってしまった。

「……冗談も大概にしてほしいんだけど……何で走って私に追いつけんの?」
「けっ、脚力は基本なんだよ」

 その言葉を示すがごとく、空中に居る私に向かい、躍りかかってきた。それ脚力ってレベルじゃないから! なんてツッコミは私の口から出る事はなかった。
 何しろ余裕がない。

「……レード!」

 魔法のトリガーにでもなっているのだろうか、何やら叫んだかと思うと、蹴りを放ってくる。
 凄まじい速さだ。恭也のような洗練された無駄のない速さというものではない。ただ速い。私は起動状態のままだったハイペリオンで打ち合わせた。
 ギンと、まるで人と当たったようではない音がして、私のデバイスは大きく弾かれた。
 そして間髪を置かずに二撃目の蹴りがまた凄まじい速さで私の首を狙って放たれ……たが、手でガードして防いだ。魔力が直接バリアジャケットを削る感覚が伝わった。二撃目の蹴りは力が入っていない、軸でもずれたか。
 私はそのまま蹴り足を掴み、技もへったくれもなく。

「魔導師だよね。バリアジャケットの衝撃テスト行くよ?」

 掴んだまま思い切り急降下してその勢いのまま地面に叩きつけた。
 土煙がもうもうと舞う。
 ……しかしなんだこの野蛮人の戦いは。我ながら嫌になる。こんなの魔導師じゃない。
 そんな内心をよそに、土煙が収まると、ダメージを受けた様子もなく、首をコキコキと鳴らしている少年の姿があった。

「見た目だけかと思ったらくそ重てぇデバイスだな、管理局員がそんな鈍器もってていいんかよ?」
「……気にしてることなんだから言わないで」

 おかげで二撃目が鈍っちまった。と言って構える。口元に好戦的な笑みが浮かんでいた。
 私も構えたものの、正直泣きたい。こいつ恭也と同じたぐいの人種だ。強い奴と会いに行くとか言って旅に出ているような奴に違いない。戦場でなくスポーツの場だったらそれに付き合うのもやぶさかではないのだが。
 私がなまじ似たような、魔導師にはあるまじき近接もまたそれなりに出来ることで何かスイッチが入ってしまったらしい。
 力が込められ、堅く引き締まって見える二の腕はいかにも鍛えあげられ、私の腕の二倍はありそうである。三白眼は細く研ぎ澄まされ、一挙一動も見逃されなさそうだ。
 口元に浮かんだ笑みは、どこか遊びたくて仕方無いような利かん坊な子供を連想させた。

「ちょっぴり本気でいくぜ。防御は固めておけよ!」

 そう言って口をすぼめ、コォォとかすかな音を立て調息した。

「──れは無敵なり」

 魔法の詠唱だろうか、何事かをつぶやいたかと思うと魔力がその四肢、そして体内に集中していくのが判った。
 小型の魔法陣が体に沿うように全身に浮かんでいる?
 身体制御に特化した魔法だろうか? どのみち先程の威力からすれば到底油断できるものではない。
 プロテクションを張り、さらに直撃は喰らうまいと、私もその少年の動きに集中した。

 糸?
 どこからか流れてきたキラキラ光る現実身のない糸が少年の体に絡みついた──途端。

「お、お? おおお!?」

 少年の体に浮いていた魔法陣が消える。それどころか集中されていた魔力も雲散霧消してしまった。
 半ば唖然とした表情でまじか、と力の抜けたような言葉を吐く。
 その視線の先、私が振り向けば……ああ。思いがけない所で会うというか、本当に神出鬼没というか。

「少し邪魔をするぞティーノ、待っていろ。そしてお前は……んん、久しぶりと言う程ではないか……半年ぶりだ、ビスマルク。まだこちらに来るつもりはないのか?」

 カーリナ姉その人がその紫っぽいマゼンダの髪を風に揺らし、荒れた草原という風景に似合わないスーツ姿で悠然と立っていた。

「……ああ、あんたの提案も魅力的だが、生憎俺はこっちの方が楽しくてね」

 そう言って軽く拳を突き出してみせた。そのまま私の方を向き直り。

「水入りだ、ちっこいの。俺はビスマルク・ワーレリクだ。つまんねー仕事だと思ったけど楽しかったぜ。またやろうや」

 そう言ったかと思うと右足を地面に思い切り踏み込んだ。一足で100メートルは距離を取ってみせ、そのまま撤退した。バッタかあいつは……
 しかしまあ……

「つ、疲れた……」

 不甲斐ない事にカーリナ姉が来た事で力が一気に抜けてしまった。もう立てない……ってレベルで脱力している。
 地べたに直接へたり込んでしまった私にカーリナ姉が情勢を説明してくれた。

「まず、ティーダとナティーシア姫は無事大使館に着いたぞ。今はひとまず身を休めているはずだ。そして、どうやらお前の気がかりらしい共和政府の部隊だが、ビスマルクが既に退かせていたようだな。お前を追ってきたのはただの腹いせだろう」

 私の脱力感はさらに増していった。いろんな意味で。腹いせで襲ってくるなよと思う……あ、待て、結構おちょくるような真似したし、鬱憤でも溜まってたか?
 しばしぼーっとしていたのだが、はっとした。肝心な事を聞き忘れていた。

「そう、なんでカーリナ姉さんが居るのさ、本当神出鬼没っていうより、どこにでも出没するね! カーリナ姉さんは!」
「ほう、ほほう。可愛い妹が心配で飛んできた姉をゴキブリのように言う悪い口はこの口か? んんん?」

 口を引っ張られて、ひひゃいひひゃい、と悲鳴をあげた。
 ようやく私をいじるのをやめたので、口を押さえて精一杯怨みがましい目を作って見ておく。

「でも、理由の全てじゃない。だよね?」
「うむ。その通りなのだ」

 胸張るところ違う。

「デュレンの時もそうだが、私がグレイゴーストの依頼で動いていたのは知っているだろう、今回もその絡みさ」
「ひょっとして、さっきの知り合いっぽかったビスマルクってのも?」

 そうだ、と頷いてみせる。道理で……
 ああいう魔力運用もまたレアスキルの一種に入るものなのだろうか? もっとも分類できないものをまとめてレアスキルと言ってる以上、定義も適当なものかもしれないけど。

「だが、あいつはついでと言ったところでな。今回の目的は共和政府内に食い込んでいる分、面倒な事になりそうなのさ。管理局とも共同作業をすることになるかもしれん」

 それがどういう事なのかは説明してくれなかったが、なかなかもって面倒な事らしいというのは判った。
 姉はどうやらハイライズの王政府側大使館に居着いているそうで。ティーダの念話を聞いて覗いてみたら、妹が知った顔に追いかけられている。こりゃいかんと飛び出してきたという。本当頭が上がらない。

「いーよいしょ」

 年寄り臭いかけ声をかけて腰を上げる。いつまでこうしていても仕方無い。

「ほれ」

 何故かカーリナ姉が中腰になって背中を向けている。
 
「おぶってやる。今日は久しぶりの姉サービスデイだ。感謝するといい」

 そんな事を言う。
 私はしばし右を見て、左を見た。
 まあなんだ。誰も見てないし。

「お、おぶわれてやりゅ」

 ……照れ隠しに冗談めかして言おうとしたら噛んだ。本気で恥ずかしい。姉が笑っている。
 まあなんにせよ助かるのだが。
 本当疲れている。何より精神的に削られるものがあった。実戦なんてのは好む方がどうかしている。
 しかしああ、揺れが心地いい。ふあ、と欠伸が一つ出た。
 眠ってはいけない。これから大使館に行くのだ。
 眠っては……
 だがしかし……この睡魔に対して抵抗は虚しいかもしれなかった。



[34349] 二章 十話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/21 18:56
 頬に布が当たる感触がした。
 私は滑らかなそれに顔を押しつけ、何とはなしに噛む。
 洗濯したてのシーツのせっけんの香りがして、不思議な気持ちになる。
 うちで使ってるのはスーパーで安い時に買った洗剤……安いからって馬鹿にできない。
 私は寝返りをうった。仰向けになると明るさを感じる。
 目を覚まそう。起きなくちゃ。ベッドの上に正座のような形で身を起こし、前屈。うーんと体を伸ばす。猫さん猫さん。
 横目にチェックのカーテンが見える。なんで部屋の中にカーテンがあるんだろうか。まるで病院の間仕切りのような。
 ぱちぱちと瞬きを二回、三回。
 ようやく頭が回ってきた。

「お、おお……そうだ。ええと、カーリナ姉の背中で眠くなっちゃって……あ、あれ。ここ、どこ?」

 明かりが差し込んでいる、というか頭の後ろに窓があるので、ベッドから降りて覗いてみれば、活気のある町並が一望できた。
 太陽の位置からすると……いささか大きく見えるがそれはこの世界の特徴だ。昼にはなっていないが、朝とも言えない。地球の太陽時で言えば10時くらいだろうか。
 私が今居る部屋はそれなりに高い場所にあるらしい。三階くらいだろうか。遠目に街を囲む城壁が見える。
 真ん中に、街路樹の植えられた煉瓦敷の道があり、そこに沿うような形で店が建ち並んでいる。噴水のある公園では露天がいくつかそのカラフルな屋台を出していた。少し遠くに車のごったがえしている道路も見える。以前通った町もそうだったが、この世界では車両用と歩行者用の道が明確に分けられているのだろうか? 王都ではそんな感じではなかったと思ったのだけど。あるいは古い街の作りから拡張を重ねていったらいつの間にかそんな形になっていた。そんな単純な事かもしれなかったが。
 気を取り直して部屋の中の間仕切りとなっているカーテンを開ければ、同じようなベッドが5つ程並んでいた。ベッドの脇にはサイドテーブルがあり、タオルなどが置かれている。
 病院?
 その割には暖かい感じがする、フローリングの張られた床やシンプルながら綺麗な模様の入った壁紙。装飾された窓枠。普通の寝室に見えてならない。
 私はベッドの端に腰掛けた。

「あー……馬鹿か私。大使館に行くとか言ってたじゃん」

 そうだ、そうだった。どうも頭が寝ぼけていた。
 ひどく気が抜けているのを自分でも感じる。やはり今まではとても緊張していたようだ。
 少し落ち着き、状況を思い出すにつれ、自分の表情がこわばってしまうのを感じた。
 ようやく姫様を安全地帯と言える場所に連れてこれたものの、護衛に任じられながら姫様もろとも誘拐されてしまったのはどう考えても失態である。
 さらに言えば、管理局法では厳しく制限されている幻術魔法の民間人への使用。借用、それに徴用した車の全損。攪乱するためとはいえ、現地世界の原生林の破壊。やむを得ぬ事情というのが多いので、さすがに前科がつくような事はないだろうけど、想像するだに始末書が恐ろしい。どんな山を成してくるのだろうか。そして一々反省の文面を……うああ。

「せ、せめてもの慰みは隠密行動に徹したことくらい……か?」

 敵方から隠れるためだったが、そのために被害は最小限に抑えられたとも言えるんじゃないだろうか?
 ああ、言い訳臭い……
 額に手を当ててこれからの事に悩んでいるとドアの開く音がした。
 顔を上げて見やれば、ティーダが水差しとグラスを持って入って来たところである。

「おはよーさん」

 軽く手を上げて挨拶しておく。
 一瞬かっと目を見開き……そしてなぜか、頭をぐりんと音が出そうなくらいの勢いで回し、向こうを見た。

「お、おはようティーノ、いい朝だね」

 焦ったように挨拶を返してくるものの、なんだろうか? 露骨に怪しい。私が寝ている間に悪い状況にでもなっていたのだろうか。
 思考を真面目なものに切り替えて歩み寄る。
 どうかしたのか? と横に回って聞いてみるも、何故か顔を背けたまま、いやそんな事はない、と言う。
 ……私に誤魔化すほど悪い事態? そう……思い返してみれば、こいつのパパさんママさんが亡くなった時もそうだったが、また一人で抱え込むような気になっているのだろうか?
 腹を据えた。目の前に回り込み、なおも顔を背けようとしたティーダの顔を両手で挟んだ。その迷うような目を真っ直ぐに見る。

「ちゃんと私を見て話をしてほしい。何か悪い状況にでもなったのか? 私が寝ている間に何があった?」

 と、聞いた。迷うようだった目はやがて仕方無いと言うように私と視線を合わせ、絞り出すように言葉を発した。

「君は……その。そろそろ自分の格好に気付いた方がいいと思うんだ」

 私は指摘されたとおり視線を下に傾け自分の格好を見てみることにした。
 ……下着である。夏用の背中の大きく開いた、可愛らしいフリルのついた白のネグリジェ。薄くてよく透けるその下に見えるのは、猫の模様のように編まれたレースの下着である。黒のレースに大胆なカットという、エロ下着とも言えるのかもしれない、こんな子供体型では頑張ってみました感しか出ていない。上から被っている形になっているネグリジェもまたそのイメージを補強しているかのようだ。
 この趣味……姉の仕業だな。

 私は一つ、うむと頷いた。ティーダが恥じらうのも当然か。相も変わらぬウブな奴である。大体、ティアナちゃんの世話で寝泊まりにも行っていて、その手のアクシデントも1回2回では効かないはずなのだ。いい加減慣れろと言いたい。少しは私を見習って泰然自若とだな。落ち着きをだな。私などこんなのすっぽんぽんを目撃されたところで痛くも痒くもない。
 ……そう、私は冷静だ。頭もクールだ。思考はばっちり回っている。
 なのになぜか顔に血が。ああくそ顔面熱い。暴れたい、両手振り回して広場を走り回りたい衝動が湧き出る。

「う、あぅ」

 顔を下に向けたまま、呻きを一つあげて私はきびすを返した。
 ベッドに戻って布団を被る。気を利かせてくれたのか、カーテンの閉まる音が聞こえた。
 よ、よし。いいな。いいよな。

「うぉぉ……なんなんだ……つうかなんで恥ずかしいんだよ今更すぎんだろ、私の不動心どこいったんだ」

 私は久しぶりに思う存分ベッドでごろごろした。さすがにうるさいのでバタ足は控えたが。
 こんなキャラじゃなかったのに、もう、何でなのか……
 そう思いながら息を整えていると、サイドテーブルに着替えが乗っているからね、と声がかかる。亀のように布団から首を出してみれば、確かに。タオルのように見えたものは普通の着替えだった。自分の目が節穴すぎて困る件について誰かに相談したい。ココットあたりに相談したら盛大に笑われそうだが。
 ふたたび布団の中に首を引っ込め丸くなる。気を落ち着けて考えてみよう。いや、先日のティーダとの再会以来考えていることはずっと考えていたのだ。うん……この感覚も何となく分かってきたかもしれない。そう多分……これは恐怖症でも何でもない。アドニアの事が関係している事ではあるのだろうけども。
 私はのろのろと布団から出ると、カーテン越しに声をかけた。

「ティーダ? そのままで聞いて欲しい。えーと、今更なんだけど……地球から帰ってきたあたりから私の様子ちょっと変だったろ?」

 正確にはその前からだったけども。
 返答はない。ただ衣擦れの音がした。
 私は続ける。

「まーいろいろ私にもややこしい事情があるんでさ、そのうち酒の肴にでも話すかもしれないけど、今は置いておくよ。長くなるし。ただ、さっきの事とかも合わせて勘違いしてほしくないんだけど……」
「勘違い?」

 短く聞いてくる。私は別に見られているというわけでもないのに決まり悪くなり、あっちの方向を向いて頬を掻いた。

「なんてーかな、その……恥ずかしさ……とかそういうのを感じるようになってきちゃったみたいなんだ」

 なぜかコケる音がした。椅子が転がる派手な音が聞こえる。

「だ……大丈夫かティーダ?」
「……は……恥じらい? ティーノが? はあ?」

 ひでぇ言いぐさである。まるで信じられぬかのような口調に疑問符もたっぷり練り込んでいる声音だ。
 私は口を尖らせた。

「そうだよ恥じらい。はーじーらーいー! 悪いかちくしょう、急に来たんだよ! お年頃なんだよ!」
「……くっ。くく、まさ、か……そんな理由だったなんて。真面目に考えた僕も阿呆だけど、な……んだそれは、ぶはは」

 ツボにはまったようだった。
 しばらく部屋には笑い転げる声が響き、ベッドでむくれる私が居た。

「ごめんごめん、お詫びに僕の方も誤解させないように言っておくよ。君が地球から帰って来た時のことだけど、急に変な事を言い出してしまった事があっただろう?」

 私は思い出そうとした。むう、変な事……ああ、パスタ食べに行ってた時か。

「距離を置こうとか何とかとかそんな事言ってた時?」
「うん、前も言ったけれど、君が地球に行っている間にいろいろ考える事があってさ。わずかの期間だってのに……いや、僕もティアナも依存がちになってしまっているんじゃないかと思ってね。君の負担や……こういう形をずるずる続けるのはどうなのかなと、ふっとそんな事を思ったりもしたんだ。だからその……君のやることに何か不満があってとかそういうのじゃないんだ。うん」

 そんな事考えていたのかよ、確かにあの台詞はちょっと唐突だったからなあ。間が悪かったとしか言いようがないのだろうけども。
 私は若干緩んだ空気を感じながら一つ伸びをする。
 ちょっとだけ肩が軽くなったかもしれなかった。

   ◇

 ひとまず身支度を済ませて、あの後……私が眠ってしまった後どういう事になったのかを聞いておく。
 ……局への報告などはティーダがまとめてやっておいてくれたという。いやもう本当面倒臭い事やらせちゃってスマン。
 なんでも管理局の動向の方は、ティーダの予想通りグレアム提督が前線を動かしていたらしい。というかそのきっかけになったのが園遊会での私達を含んだ姫様の誘拐事件だったというから大変なものである。局員が巻き込まれた事、そして何より囚われの姫様……実際には囚われてないが、というのが大いに局員のヒロイズムを刺激したらしい。さらに共和政府側の情報収集にあたっていたアリアさんも成果を上げたそうで、今が機なり、と考えたようだ。
 さらに言うなら、カーリナ姉さんが仲介役となったグレイゴースト側との協調により、相手側の非合法組織、また少ないながら共和政府側にも所属している、トリッパーあるいは転生者の存在についても情報がもたらされたという。

「もっともグレイゴースト側の提案で、今後は総称して来訪者という呼び方が使われるらしいよ」

 何でも彼等の感覚からすると、トリッパーや転生者という言葉は陳腐に感じられてしまうのだとか、僕にはよく判らないけど。とティーダは首をひねる。

「うんうん。私もあの呼び方は安直だと思ってたんだ。もっとこう、メラメラッと燃えるようなネーミングが良いんじゃないかと、例えば」
「いや君の感覚で付けるのは止めた方が良い」

 まだ言ってないのに一蹴されてしまった。普段は穏やかな目が冷たい……
 私はしゅんとして縮こまった。のの字を書いてやる。
 やはりこの前、ティーダが待機時間にプレイしていたゲームキャラの名前を勝手に改名したのが悪かったのだろうか。可愛いと思うのに。
 そういえば、と思い出したようにティーダは口を開いた。

「僕はカーリナさんと提督から聞きかじったくらいだけど、ティーノはその手の事件にも関わっていたんだっけ? どういう連中なんだいその来訪者ってのは。何だか情報を整理しようとしても曖昧でイメージが湧かないのだけど」
「あー、確かに」

 と言ってもどう説明すれば良いのだろうか。
 彼らであることの定義と言っても……

「ある程度共通した記憶と、レアスキルを持っていること?」

 共通した記憶と言っても、普段は思い出せない散発的な記憶なのだったか。それに加え、一般的な生活……しかも地球基準のそれの知識。姉が言うには趣味に偏った人が多いらしいが、実のところ私もそこまで詳しくは聞いていなかった。そういえばデュレンがカーリナ姉の事をウーノとか呼んで驚いていたが、あれもその記憶にあるものなのだろうか?
 レアスキルについては、そう分類するほか無いというだけで、軒並み凄まじい能力かというとピンキリのようだ。姉の口ぶりでは持っていない者も結構いるようであるし。デュレンや、先方会った……ええとビスマルクか。あの暑苦しい少年の感じだと一人一体系の特殊な魔法と言った方がいいかも知れなかった。
 そこまで考えて……こりゃ駄目だと首を振る。どうにも捉え所が無くて、一言で言いあらわせない。
 大体、こういう情報をまとめるって作業は苦手である。自分の弱点をよく把握している私は、そのまとまらない知識をそのままティーダに話しておいた。
 俗に丸投げとも言う。考えてみればあの姉が私に話すということは、漏れても差し支えない情報ということだろうし、問題はないだろう。
 一通り私が知っている事を話し終えると、ティーダは思案深げな顔で窓の外に視線を移した。やがて考えもまとまったのか、こちらに向き直る。

「ティーノ、そのビスマルクとの交戦記録はある?」
「ん、一応デバイスの記録機能は動かしておいたはずだけど」

 と、待機状態のカード状デバイスを取りだそうとして……あれ?
 わたわたと服を探る。

「な、ない?」
「いや、ティーノ、ここ入る時にデバイスは一旦預かりになるから」

 ……そういえばそうだった。説明して貰ったというのにすっかり忘れていた。というか最近考える事はティーダに預けっぱなしで楽できるとはいえ、ちょっとアホの子になってないだろうか?
 ……帰ったらクロスワードパズルでも始めてみようか。

「交戦記録が残ってるならいいよ、後で見せてくれ」

 そう言って手元のカップに水を注ぎ、一息で飲んだ。私も何となく一口含み喉を潤す。

「それじゃ、今度は僕の方から今の細かい状況を説明しておくよ」

 ティーダは細かい連絡事項などを話してくれたのだが、いつの間にか横道にそれ、グレアム提督が繰り広げている戦略についてまで語り出した。
 実はグレアム提督が戦線を一旦後退させたのは、局側からは良い目で見られなかったらしい、後になって相手側の情報が知れてくるにつれて、その判断が結果的に正しいものだったと見直されているのだとか。
 アリアさんが集めた情報、そしてグレイゴースト側から提供された情報からすると、共和政府側の通常の国軍以上に、非合法組織の連合勢力が根を張り戦っている事が明らかになってきたのだ。
 あるいはむしろ、共和国という政府そのものがそういった連中の隠れ蓑的な側面があったのかもしれない。
 長年管理局とイタチごっこを続けているような犯罪組織も多く参加しているらしく、そのゲリラ戦は巧妙の一言だという。
 さらに言えば、私が戦ったビスマルクのような……あれはどちらかというと雇われっぽい感じを漂わせていたが、トリッ……来訪者か。そういった連中も少ないながら、その戦いに参加しているらしく……そりゃ、あんなのがゲリラ戦展開してるんじゃ足も止まるわけである。

「そこで提督の打った手は機動力による機先を制する戦いだったんだよ。個人レベルで転移を使えないこの世界ならではとも言えるけど、個人個人の最高速で動けるように部隊を編成し直し、本来なら数に劣る側がやるような方法をあえて取ったのさ。王政府軍を含めれば数で上回っているにも関わらずね。提督が引き合いに出してた、ナポリタンとか言ったっけ『最良の兵隊とは戦う兵より歩く兵である』って言葉通りの運用だよ。戦術でなら僕もできる自信はあるんだけど、こんな大部隊でそれを情報と補給も同時に絡めて行うとか……正直、真似できないな」

 とりあえずナポレオンね、と美味しそうな名前になってしまっていたので正しておく。
 説明の途中で何かスイッチでも入ってしまったらしく、わざわざ図面に戦略図を書いて熱を上げて説明するティーダに何となくほっこりした。一人語り状態になってしまっているので水を再度注ぎ、渡してやる。
 実のところ私には説明されてもその凄さというものがちょっと理解しにくいのだが。言わないでおこう。
 やがて、話したい事は話し尽くしたのか、ちょっと恥ずかしげに咳払いをした。
 それから、と前置きして言ったのは私達に下された処分についてである。と言っても今回の事件が片付いてから改めて判断するので、それまでは引き続き姫様の護衛任務を続けるべし、とのこと。

「あの状況は仕方無いとも言えるし、むしろよく帰ったものだとも褒めたいのだがな……」

 と、歯切れの悪い言葉を貰ったらしいので、何らかの処罰は下ることになりそうだ。いやー、まずいかな、などとティーダが苦笑する。

「私は元よりぺーぺーだから良いとしても……ティーダは順調に出世してたのに勿体なかったね」
「ティアナに叱られてしまうね」
「お兄ちゃん『こうかく』ってなに? とか聞かれたらどうする?」
「……勘弁してくれよ。頭の中、ティアナの声でリピートされたからそれ」

 わざとらしく頭を抱えるティーダを前に、私は久しぶりに何の含みもなく笑ったのだった。

   ◇

 大使館の公館長に呼び出され、そう言えばティーダはともかく私は挨拶もしていなかった……と執務室に出向くと、そこには姫様が公館長と何やら話をしていた。部屋の隅にいかにも駆けつけたばかりですと言わんばかりの姫様の護衛隊長の姿もある。心労が激しかったのだろう、短い期間だったにもかかわらずげっそりとやつれていた。労りも込めて目礼しておく。
 私とティーダは、姫様の話が終わるまで部屋の隅で待機した。
 やがて話が一段落したのか、こちらを向き直り、私達を近くに呼び寄せた。

「王都から連絡が入りました」

 グレアム提督が戦局を動かしたのに対応し、王政府側も第一王子、姫様の兄君に当たる方、が国軍を率いて大攻勢に出るという。
 私は何となく姿勢を正していた。いよいよこの戦いも結末を迎えようとしているらしい。
 と、そこまではいいのだが、その後の台詞が問題だった。

「私も座して後方に居る事を良しとはしません。王女という存在が少しでも兵達の力となるなら、喜んで前線に行きましょう」

 などと言いだしたのだ。公館長が慌てて止めに入るが、姫様は懐から一枚の重そうな紙を取り出し、公館長に見せた。
 気苦労で胃が痛くなっていそうな公館長の会話から読み取るに、どうやらこの地の公爵家、そのお墨付きらしい。どんな事に対するお墨付きかと言えば、その案が姫様自身から出された事を公爵が保証するといったものである。迂遠だが、これは姫様の行動からくる責任は姫様自身に帰属する、その保証人として公爵が立ったということ? 裏の意味とかありそうで、ちょっと判らないのだが。
 それでもなお、危険ですと言い張る公館長に対し。

「万全の警備体制であったはずの首都の園遊会ですら安全ではなかったのです。どこに居ても安全である場所はありません」

 そう言って反論を封じる。
 ……だが、ひめさま。後ろの護衛隊長が血ぃ吐きそうです。鞭打たないであげて……
 その後も何とか公館長は姫様の意志を翻させようとするのだが、失敗に終わる。
 私達は聞かれでもしない限りは口を挟む事ができない話なので黙っていたが、一体この姫様どうしてしまったのだろうか。

   ◇

 夜になり、テラスになっている大使館の屋上で姫様は久しぶりのワインを楽しんでいた。
 なかなか贅沢な作りのテラスであり、芝生が植え付けられ、背丈は高くないものの何種類かの木々も植わっている。ところどころにある花壇には花々が月の明かりを受け、密やかな彩りを添えていた。
 私は何となく馴染んでしまった侍女姿で待機している。ティーダはどこで手に入れたのか、良い仕立てのスーツなど着ていた。
 月をぼうっと眺めながら時折グラスを口に運ぶ姫様はどこか色っぽく、儚い。何となくこの世のものではないような感じさえした。

「私の血族、ノウンファクト王を源流とする王族には不思議な事があります」

 そう、ぽつりとつぶやいた。聞いていてもいなくてもいい。誰に話しかけるでもないような調子で。

「王冠の女」

 くすりと笑う。夜風がその長い黒髪を揺らした。

「私達の一族は女系遺伝で王位を継承してきました。配偶者……夫となるものが次代の王となる制度です」

 姫様のグラスが空になる。どこで覚えたのか「空になったぞー」とでも言いたげにグラスを指に挟んで持ち上げ、ぶらぶらと見せつけた。行儀が悪い。私は無言でそれを取るとテーブルの上に置いて、ワインを注ぐ。

「それは慣習というだけではありません。王家の女にはその世代ごとに必ずある特徴をもった子が一人は生まれます。私は……」

 姫様は言葉を少し途切れさせると、どんな思いを抱いているのか、目を閉じた。

「私は生まれながらにして子を産むためだけの胎でした。いかに丁寧に扱われているように見えてもそれは壊れやすい道具をそっと扱うのと同じ」

 そう、普通なら聞こえるか聞こえないかの声で囁くように言い捨てた姫様は……その姿がまるで夜に溶けてしまいそうで。私は何と無い寒気を覚え、身震いをした。
 やがて目を開き、何かを思い出すようにくすくすと笑い、ティーダを見た。

「お付きの騎士様との物語のような恋に憧れたこともありました。悪い魔法使いを倒して、私を塔から連れ出してくれはしませんでしたけれども」

 此度の旅はとても楽しかったですよ、と目を細めて言う。ティーダはうろたえた様子で「はぁ……」などと気の抜けた言葉を返しているが。

「……ただ、正直馬鹿らしくなりました。知識があるのに手を伸ばせない自分にも、悲劇的な自分に酔って、今から目を逸らすのも。何しろ世の中には」

 そう言った姫様の目は今までと違う。声も違い、どこかずしりとしたものが加わった感じがした。私が驚きで堅くなっていると、一転、悪戯っぽい微笑みをたたえてこちらを見た。

「世の中には頼りがいのある騎士様を殴り倒してまで前線に出て行ってしまう女の子も居るのですし。しかもそれが私より小さく、可憐な子であるなら尚更です」

 へ……? 殴り倒したってティーダの事? あれはディバイドエナジーでもあったわけだしって……そんなの姫様に言ってもあれか……そうか、殴り倒したように見えてたのか……
 少々へこんだ。どんだけアマゾネスに見られているのだろうか。ガチンコの殴り合いだったら十中八九私が勝ってしまう分言い訳もできないが。

「共和制という形が出てきて、そこに従う民衆が多かったのも、この世界がいい加減眠りから目覚めなければいけない、そんな時期なのかもしれません……私はね、ティーノ」

 私の戦いをすることに決めたのです。そう言って姫様は月を見上げた。
 たおやかである事は以前と変わりないが、そこにどこか力強さを足されたような笑みが浮かぶ。

「ハイライズ公を保証人に立てたのはその手始め……ですか」

 いつのまにやら私の隣までティーダが来て、感心したような表情を浮かべていた。

「ええ、その上戦場に立ち、兵の人気を得た、と目されればおのずとそこから裏を読む者が出てきます。宮内のパワーバランスとはその半分が虚で出来ているもの。操るには楽な相手ですから」
「なるほど……局員である私達に口出し出来ることではありませんが、一つだけ。持ち得ない力をあまり頼りになされないほうがよろしいかと。むしろ追い詰められた狼を飼い慣らし、鎖を付けるのが良いのかもしれません」

 2人とも穏やかに微笑みながらそんな事を話す。私はちんぷんかんぷんだった。
 大体操るとか鎖を付けるとか、怖い単語が出すぎである。
 むぅ、とこめかみを揉みながら、私の頭の上を飛び交う、どこか黒さを感じる話をスルーしていると、姫様が近くに寄ってきた。にやけたいのを抑えているような妙な笑いを浮かべている。しかし本当に今日は姫様のいろんな顔を見る日だ。

「ところでティーノ。外の世界の優秀な血筋を取り入れるのもまた古い王家としては良い手立てと思いませんか?」

 そんな事を言って横目でティーダを見やった。

「うぇ……? え、あ、はい」

 いや、はいじゃなくて、優秀な血ってちょっと、あいつは王様の椅子なんか望んじゃ、いやそりゃ判らないけども。てかティアナちゃんどうすんのさ? あ、あれ、ドレス姿がよく似合う? ティアナちゃん可愛いなー……じゃなくて!
 何故か口が回らない。
 金魚か私は、と言うくらいに口をぱくぱくさせていると、おかしそうに笑う姫様が居た。
 私の頭を一撫でして、そろそろ部屋に戻りましょう、と先程の会話が聞こえず、不思議そうにしているティーダに声をかける。

「あまり自分の気持ちに目を背けてばかりだと大事なものが手の平からこぼれ落ちていくかもしれないですよ、ティーノ」

 気付いた時にはいつも遅いのです。すれ違いざまにそんな一言をこぼし、部屋に戻っていく。
 私は思いきり息を吐いた。知らず知らずに息を止めていたらしい。

「……からかわれた」

 ぶすっとそんな言葉を漏らしておく。
 自分の気持ちどうこうの前に、そもそも私の出自は……今はそこも含めて考えないようにしたいのだけども。
 しかし、この世界来てから戦闘でもそれ以外でも強敵ばかりで困る。
 私は先程の姫様の真似をして月を見上げる。
 風は南南西、微風から強い風になるところらしい。どこまでも飛んでいってしまいたい気分に駆られる。それができたら、と思った。

 ……ままならない。
 そんなつぶやきはそれこそ夜の闇に溶けて消えた。



[34349] 二章 十一話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/21 18:59
 大使館で落ち着くような落ち着かないような微妙な時間を過ごす事、三日。結局最後まで自分の意志を曲げず、それどころか着々と政治的な手を打っている姫様に押された形で、私達もまた進軍する王軍の中にあった。
 目指すは共和国首都ベリファなのだが……私達からすれば「また戻るの?」といったところでもある。何せ姫様を誘拐されかけた時の転移先が敵方の首都の近くでもあったのだ。せっかく安全地帯まで移動してきたのに引き返すことになろうとは、まったく思いもしなかった。

「しかし、考えてみると本当よく無事に辿り着けたもんだよなあ」

 そんな独り言がふと口をついて出る。敵地のど真ん中に放り出されたのだ。正直私一人だったら姫様を抱えて飛んで、あっという間に捕捉されて撃墜されるのがオチだっただろう。
 頭の出来……いやそんな事で片付けると怒られそうだ。今思えばティーダの局員としての経験というものが馬鹿にならないものだったと思う。
 私も訓練ではそれなりに好結果を残していたと思っていたけども……実際の荒事は大違いだったというわけだ。
 むぅ、と唸りながら乱暴に頭を掻いた。なでつけたアホ毛がはねる。整髪料切らしてるからなあ……しかしなぜ頭頂の一部分だけ逆向きに生えてるんだか。漫画のようなアホ毛は見た目面白いけど手入れが大変なのだ。
 ちなみに進軍といっても、別に馬に乗ってぱっこぱっこと進んでいるわけではない。あくまで中世風なのは思想と文化である。
 兵員輸送車とでも言えばいいのだろうか? トラックを装甲で固めたような車が列をなし、私達は姫様の付き添いという形で指揮車に便乗させてもらっている。
 私達からすればまた引き返すようなものといえども、通る道筋は全く違う。今回は大群が通るために主要街道沿いにしか進めないのだ。この主要街道は山を大回りするルートになっており、時間もそれなりにかかるのだった。
 私はあくびをかみ殺した。不謹慎きわまりないのだが、眠気が……何せ軍勢に守られているおかげで襲撃はないし、ほどよい車の揺れと陽気の良さが相まってとても眠気を誘う。
 ちなみに姫様はとっくに夢の中に行っている……ようなのだが、また一つとんでもない点を見つけてしまった。
 この姫様、おだやかな笑顔のまま寝られるのだ。耳を澄ますとすーすーと静かな寝息が聞こえるのだが、見た目は起きているようにしか見えない。
 そりゃ人に見られる事が多いだろうから、その中で身についたスキルなのかもしれないが器用なものである。
 車両は違うものの、カーリナ姉も例のグレイゴースト側から出された人員を率いて軍に同行していた。管理局との協調体制を取ると言ったものの、別にべったり局側と一緒に居るというわけでもないらしい。そこは聖王教会も間に一枚噛んでいる様でもあるし、私としてはあまり触れたくない系の話でもある。
 流れる景色を何となく見ながら、その姉が連れてきた、グレイゴースト側の人員というのを思い出し、何とも言えない気分がこみ上げ口の端がひきつった。
 あれを見てしまうと……私の頭の中ではトリッパーや転生者というのはちょっと変わった次元漂流者という認識だったのだが……ちょっとではなくかなり変わっているのかもしれない。私も人の事を言えないけれども……

   ◇

 カーリナ姉も同行するということで、調査のために連れてきたという二人を紹介してもらったのだが、その見た目にまず驚かされた。
 私は古い記憶が思い出され、失礼ながらもその人を指さしてしまった。似ているのだ、というか服装までばっちりそっくりである。

「知ってる! 私知ってる! ええと、あれだ!」

 名前が出てこない、そりゃ大分昔の記憶だし、無くなってしまった思い出も多いので無理ないのかもしれないが。割と有名だったゲームキャラで、私も誰かに貸してもらってやっていたような。喉まで出てるのだけども。うおお、むずむずする。
 そうだ、と手をぽんと叩いて言った。少しだけ思い出した。

「エロゲの主人公だ!」

 そう、大声で言ってしまった。軍勢がこれから出発しようという時にである。人波でごった返している時にである。
 空気が凍った。

「ぐばあっ」

 凄まじい自滅技を放ってしまい、頭を抑えて私は崩れ落ちた。

「……うむ、あの愉快な事をやっているのが私の妹のティーノだ。二人ともよろしく頼む」

 などと姉が私を紹介している声が聞こえた。
 ともあれ、私も復活しこほんと一つ咳払い。初めましてと挨拶をしておく。復活が早くなったな、などと姉の声が聞こえるがスルーである。
 指さしてとても失礼な事を言ってしまったのだが、その人は気にするなと言うかのように手を振り、そのままくるりと後ろを向いた。はて?

「さて、何故知っているのかはともかくとしてだ、私は主人公などという柄ではない。英雄の列にも加われぬ半端者、ただの掃除屋に過ぎん」

 赤いロングコートのようなものに身を包み、時代錯誤な鎧を着込んだ痩せマッチョはなぜかいそいそとした感じで顔だけ振り向けて言う。
 その行動に意味あるのかはともかく、後ろ姿はイメージと似ているような、てか主人公じゃなかったっけ? あれ、と首をひねる、覚え違いだったろうか。
 と、もう一人の小柄な、長い金髪の男が慣れた様子で、気取んなアホと突っ込んだ。ため息を吐きながら頭の後ろを掻いて面倒臭そうに口を開く。

「知ってんのはそろそろ原作出てる頃だからだろ馬鹿、これでますますコスプレ男でしかなくなっていくなぁ、カミヤ君よ」
「……真名で呼ばないでくれるか」
「だから真名とか……痛々しいんだってお前は」
「痛々しくとも貫くのが男というものだ」

 カミヤ……? 神谷さんなのだろうか。地球とか言ってるし、日本の出身だったりするのかもしれない。

「しかし、ティーノ……いつの間にそんなゲームを?」

 先程から黙っていたティーダが白い目で私を見ていた。
 何故か一歩引いている? あ、あれ、ちょっと風向きが変だ。

「……い、いや違う。これには深い事情が……誤解だ、きっとお前は誤解をしてる! な、話を聞いてくれティーダ、澄ました顔でどん引きしないでくれ、ええい何で私が浮気がばれた夫みたいな台詞を言わなきゃならないんだ!」 
「ごめん、ちょっとそれは勘弁してほしいかな。それとティアナにはしばらく近づかないでくれるかい?」
「……ま、待って、変なところでティーンエイジャーの潔癖症発動させないで! ティアナちゃんは、ティアナちゃんだけは勘弁して!」

 ……そんな寸劇はともかくとして。
 その後、話したところ二人はあくまで情報収集のために連れてきたという事らしかった。そのカミヤさんの特技というものも見せてもらったのだが、見事な幻術魔法である。投影魔術と言って欲しいものだとか言ってたが。
 宙にぬいぐるみだのペティナイフだのを浮かべてみせるそれは、性質はフェイクシルエットに似ていて、衝撃に弱く見せかけだけだが、細部の作りまでよく出来ている、余程近づかれても気付かないだろう。ただ私はどことなくイメージとその能力が合ってないような気がしてならなかった。

「んー……なんでだろ? カミヤさんは、こう剣がずらーっと刺さっているようなイメージがあるんだけども」

 ずらーっと、と手を広げて身振りで示す。
 私はかつてプレイしたゲームのイメージを思い浮かべる。そう、確か私の記憶をサルベージしてた幽霊さんがそれをネタにしてたような。
 ええと、体は麺で出来ている……あれ、美味そう?

「それは言わない約束だ……それに本来の投影魔術、グラデーション・エアとして考えるならこちらの方が近いといえば近いとも言えるんだ」

 何故か肩を落とし、哀愁を漂わせながらそう語るカミヤさん。付け加えるように口を開いた。

「それと、カミヤという名字はその……呼ばないでほしい。一文字違いで私としても不本意なところなんだ……せ、せめてアーチャーと」
「弓なんて引けないからどちらかってぇとアチャーだがな」

 そう言いつつジェスチャーであっちゃぁ……といったポーズをとってみせ、アチャーさん(仮称)の肩をさらに落とさせたのは、もう一方の男性だった。
 リマインダーと名乗った小柄な男性は色の濃いサングラスの位置を直しながら言う。

「サイコ……いや精神感応能力者でもいい、大した能力でもないがな」
「ふん……能力だけ毒島が。そちらこそ格好つけるな戯け」
「……んだとぉ?」

 口争いを始める二人を前に私はその……投影魔術だの、ぶすじまだの、ぽんぽん出された単語にはてな顔だったのだが。
 カーリナ姉に目で助けを求めると、一つ軽く息を吐き、私達に説明してくれた。

「二人はこれでも仲が良くてな。ついでに言えば能力の相性も良い。主に情報収集用ではあるが」

 そう前置きして、説明してくれたところによると、何でも投影魔術と本人が言っている能力は、特化された幻術魔法とも言えるらしく、それは大規模に展開すれば平原をすっぽり包んでしまう程の規模を持ち、精密さに絞れば、一部屋程度ではあるが幻影とは思えないレベルのものが作れるという。私も幻術魔法とかそれなりに使う身だが、凄い。
 そしてサイコなんちゃらと言いかけていた能力については、文字通りの能力のようだった。精神操作系だそうで、二人の能力の相性が良いというのは……ええと。幻術に精神操作かぁ……姉は情報収集とか言っていたが……尋問用、いやいやまさかまさか、そんな物騒な……そうでないと信じたい。
 それにしても、だ。

「トリ……来訪者って……なんなんだろうか」

 改めて不思議な存在である。
 その能力もモデルがあるようだし。というか、そのモデルになってるゲームなんだったか、ああ気になる。喉に小骨が刺さって取れない感じがする。もう発売してるような事言ってたから今度ロッテさんに頼んで調達してもらおう……って、しまった、エロゲだったか。エロゲを買う猫……ぐっ、笑っちゃ駄目だ。
 私が妙な事に頭を悩ませていると、カーリナ姉が、まだ確定ではないがと前置きして話し始めた。悩み顔を勘違いさせてしまったのかもしれない。ちょっと心配げな口調だった。

「ロストロギア関連。そして恐らく97管理外世界の日本が関係しているのは間違いない。彼等に共通している知識はもとより、能力のモチーフもまた日本の文化圏にあるものが多いようだ」

 地球に限定するにしろ、もう少し他の国の文化圏から来ても良いはずだというのに……だ。そう続け、考え深げな顔になる。癖になっているのか、耳たぶをいじっていた。

「しかし、彼等から聞き出したモデルとまったく同じ能力になるわけでもない。例えばあれ」

 未だに掛け合い漫才じみた応酬を続けるカミヤさんとリマインダーさんを顎で指した。

「投影魔術と本人は言っているが、彼がモデルにしたものは魔力によって剣を物質化するものらしい。だが、結果的にそれは再現出来ず、全く別方向に行っているようで、あれはある意味で本来の形に近いと言う。非常に面白い例だな」

 面白いと言いながらも姉の顔に表情は無い、目を細め頭を働かせている顔だった。

「また興味深いのは、その能力に関する記憶、それも時系列から切り離された形で整合性を持って存在している事。そしてばらばらに切れてしまったかのような記憶も同時に持ち合わせている事だ。リマインダーに数人探らせた結果はまさかの……いや、咄嗟の事態に見た幻覚、あるいは妄想か……その可能性は未だ……」

 自分の考えに没頭してしまい、ぶつぶつとつぶやく姉の後ろにこっそり回り込む。腕を回した。
 ティーダがおいおい、大丈夫かとか口パクで合図してきたので指でシー、とジェスチャーをしておく。
 私は自分の顔あたりにあるカーリナ姉の豊満なバストに手を伸ばし。

「てい」
「あん」

 ……お、おう。何か聞いてはイケナイ言葉を聞いたような……
 私が冷や汗をたらし、当たりを見回せば、先程までうるさかった来訪者さんのお二方もぴたりと止まっている。
 ティーダに至ってはすでに背中を見せて遠ざかっていた。見捨てるのか、見捨てたのか薄情者!

「ティーノ」

 平坦な声が降ってきた。はひ、とかすれたような声が出てしまう。
 私からは顔が見えないのだが、耳が赤くなっている。恥ずかしかったようだ。

「姉の胸に甘えたい年頃なら存分に甘やかしてやろう」

 そんな平坦な声を聞いた私は一目散に逃げようとしたのだが、遅かったようだ。前触れも無しに魔力で編まれた糸が私の四肢を縛り――
 コアラのように抱っこされたまま、軍勢内をねり歩かれたのだった。
 その後は思い出したくない。
 今は恥ずかしさに悶えて転げ回れるようなスペースはないのだ。

   ◇

 進軍は文字通り山も谷も無く順調に進んだ。
 共和国軍はグレアム提督の作戦により、これまで戦線を維持してきた強力な部隊はそれぞれが孤立。機動戦により線を切り刻まれ、点在した部隊でしかなくなっている。
 王軍の行く手を遮るものと言えば散発的に拠点に篭もって時間稼ぎのような抵抗があるだけである。
 今日は今日で、中央交易地である都市を制圧し、その戦勝に王政府軍は浮かれムードが漂っていた。
 私とティーダは姫様に付き従い、王子の戦勝祝いとして司令部の置かれている幕舎に行ってきたところである。
 あまり接点がなかったので、姫様の兄君に当たる王子に会ったのはこれが初めてだったのだが……うん。多くは語るまい。ピザが好きそうな王子だった。顔立ちは姫様と似ていたが、体型は飽食を繰り返してしまった感じである。
 ともあれ、外部の人間である私達が何を言う筋合いでもない。問題は──

「すっかり気が緩んでいたね」

 姫様に割り当てられたこじんまりしながらも豪勢な幕舎に戻る途中、ティーダが来た方向を振り返り物憂げな目をしてそう言った。

「共和政府ができて以来、ここまで攻め込めた事がありませんでしたから……私も間近で戦闘を経験していなければ、今頃同じ輪に加わって暢気にしていたことでしょうね」

 姫様が背中を向けたまま答えた。
 管理局が出張ってきてからは確かに勝っていたものの、それは国軍が直接乗り込んで勝ちを得たわけでもなく、抑圧されていたものもあったのだろう。自分達の力で得た戦果に昂揚しているようだった。
 気持ちは判るのだけども……何とも言えない気分になる。
 私は現在居る野営地を見回した。
 都市を制圧したとはいえ、民間人もそのまま残っていたのでさすがに軍勢が入ることは避けたのだ。
 今はその都市から少し離れた場所、細い川が流れている盆地に陣取っている。
 理由は単純で、兵の炊事に使うための水が確保しやすいからなのだが。

 やがて日が隠れようとした頃、温度が下がったせいか急に霧が出てきた。
 さすがに視界の悪化を危ぶんで、早めに明かりが灯され、警戒態勢に入る。
 私はほっと一息ついた。気が緩んでいたと言ってもそうそう浮かれてばかりではなかったようだ。

「やれやれ、すごい霧だな。視界といってもせいぜい10メートル程か」
「カーリナ姉さん?」

 けぶるような霧をかきわけて出てきたのは姉だった。
 姫様にでも用事だろうか、さすがに野営地でアポイントメントはお持ちですか? などと聞くつもりはないが、前もって連絡もないというのは不思議だ。
 聞けば、単純に襲撃に良い条件になっているので、念のため合流しておくという考えのようだった。
 来訪者の二人はと聞けば非戦闘員らしく、幕舎に残しているという。引率役が何をブラついているのか……とも思ったが、どうも心配してくれているらしかった。
 考えてみれば園遊会の時は姫様もろとも行方不明になってしまっているわけで、家族としてはその、無理からぬこと……なのかもしれない。
 私は何とはない居心地の悪さを感じてみじろぎをした。視線を彷徨わせるが、辺りは一面の霧である。一つ思い出したので話題転換に出してみた。

「そういえば、視界の悪さで思い出したのだけど、桶狭間の戦いってのが地球にあってね」

 日本では一番有名な奇襲戦の話である。ふっと思い出したのだ。別に王子が義元っぽいなどと思っているわけではない。断じて。
 桶狭間では雨だったと思ったが何となくシチュエーションが似てるような気がする。
 まとまった軍勢でもって敵地に侵攻。拠点を制圧し、今はその治安用にいくらか部隊を割いている。狭隘な盆地と悪い視界。
 いやまあ……桶狭間の戦いといってもそんなに詳しく覚えているわけでもなかったのだが。
 ざっと話し終えたところで、ティーダが川の方を向き、縁起でもないなぁとつぶやいた時だった。

「敵襲だ!」

 という声が聞こえたかと思えば、司令部から通常通信と、全方位に発せられた念話で警戒態勢を促す指示が下った。

   ◇

  私は束の間唖然としていた。

「ティーノ……今後お前はその手の縁起悪い話は禁止だ」

 姉が私の頭をぽふっと叩いた。
 何とも言えない表情で固まっていた私もようやくそれで動き出した。
 おいおい、嘘だろと言いたいのは山々なのだが、いや、今は考えまい。
 
「ティーダ」
「ああ、この場所は少し孤立しすぎている。司令部に合流した方が……」

 言いかけた所で、人影が霧の奥に浮いて見えた。草木の色で染められたかのようなローブがひらりと舞う。
 やがて特徴的な色合い……髪も瞳もグリーンという女性がその姿を現した。
 一瞬リンディさんを思い浮かべてしまう色合いだ。
 その女性の後ろには何かぶつぶつつぶやいている怪しげな男……あまりにも適当なジャージ姿で、下を向いているため表情は伺いしれない。ぼさぼさの黒髪に猫背が特徴的だった。
 警戒する私達に向かいゆっくりと歩きながら、女性は懐に手を入れ、見覚えのある黒い立方体を取り出した。
 ……いや、見覚えのあるはずだ。あれは園遊会の折の襲撃者がもっていた何らかの効果を発揮する……デバイスか何かか。あの時は侍女姿だったし、髪も目立たない色だったが、顔には面影がある。
 その女性は私とティーダの姿を認めると、ビンゴと小さくつぶやき、いかにもしてやったりと言いたげに口角をつり上げる──が、さらに隣のカーリナ姉を見た瞬間固まってしまった。

「……は? な、なんであの女が居るの? ちょ、ちょっと……ええ?」

 襲撃者の女性は、いかにも慌てていた。しかし姉よ……私の知らないところで何してるんだ本当……
 そんな姉はとてもイイ笑みを見せて一歩進み出る。私は一歩引き下がった。

「ティーノ、あの女の勧誘が私達の目的の一つだ。面識もある。こちらは任せておけ」

 言うや否や飛び出した。飛行魔法でもないのに飛んでいるかのごとき速さで襲撃者の女性に迫る。
 襲撃者は慌てた様子で黒いキューブに指を走らせると、以前私達を転移させた奇妙な魔法陣が浮かび、姉もろともグリーンの輝きと共に消え去った。
 風が一つ吹き抜ける。
 私もティーダも、幕舎を守る隊長も護衛隊の面々も、果ては襲撃者側の片割れ、猫背の男も。
 間抜けな顔をして一つ息をついた。

「……さ、さて、仕切り直しだ」

 そう言ったのはティーダである。いや、いくら間の抜けた一幕であったとしても、別に油断していたわけでもないんだが。
 私達は残った猫背の男に向かい構えた。
 一応形式通りに問いただすと、それには答えず、こちらにもよく聞こえるほどの大きなため息をつく。
 あからさまにこちらを無視する感じに思わず眉をひそめたが、なにやらぶつぶつつぶやいている声も大きくなっているので聞き耳を立ててみた。

「ああ……面倒臭い面倒臭い、なんで有無を言わせず連れてくるのあの女、かと思えば一人で逃げちゃうし、やってられないだろ、傍若無人だし、ああ怠い。大体アリスもいないのに形ができるわけないだろうが、初めて発動したときなんて運動会だぞ、止まれ止まれとかリアルでやることになるし……せめて暴走部位が股間でなけりゃまだ体面も……いや、もう故郷じゃバケモン扱いだし……ああ死にたい死んでしまいたい、あるいは死ねみんな死ね、俺以外皆いなくなればいいのに、いやでもどっちでもいいや。あああ、怠い……」

 ──聞かなかった事にできないだろうか。
 アリスとか暴走とか気になる単語は出ているものの、何より暗い……暗いよう。
 私もまたがっくりと項垂れそうになる頭を、力を入れてもちあげる。
 ティーダが投降を呼びかけているが、聞く耳持たない……というよりも最初から耳に声が入っていないようである。

「ああ……もういいや、なんかうるさいし……放っておかれたんだから好きにやれってことだろ、あははは。……ああもう……知らね。後の事なんかどうでも……」

 いいや、というつぶやきが聞こえたかどうか、という瞬間だった。
 形容しがたい音……太い丸太に斧を打ち込んだ時、同時に落雷が近くであったような、そんな不協和音と共に男は姿を変えた。
 始めは首──雄牛のようにふくれあがり、バランスを崩した彼は前のめりに倒れる。のたうつように腕が……私の持っているデバイスの起動状態のように巨大な槍になった。胸からは植物の根のようなものが地面に刺さり、背中からは複眼を持った昆虫の顔が現れる。足は分裂し、太い虎のような足になった。ただし8本の。
 その、男だったものは長く、鞭のように変化した左手を振りかぶり薙ぎ払う。

「ティーノ!」

 普段とは違う緊迫したティーダの声にはっとした。

「プロテ──」

 間に合わない、バリアジャケットだけで防げるのか? 思わずぎゅっと目をつぶった……が何かを弾くような音が聞こえ、目を開ければ。

「よし、今度は格好ついたかな」
「……その台詞を言わなければ10点満点」

 多分私が呆けている間にも用意していたのだろう、精密な作りのシールド魔法を展開させたティーダが庇っていた。
 お姫様だったら「ポッ」となっているところだ。
 私はついつい台詞につっこんでしまったわけだが。

「おいおい、これは一体どうなっているんだ……」

 と、隊長さん。相当に困惑しているようだ。それも無理ない。
 猫背の男だった人は、何というか見た目的なインパクトがものすごい存在になってしまっている。
 周囲の霧も相まって、ホラー映画のようだ。顔が上下反転して首にめり込み呻き声を上げている。
 何故かそこだけは人間の形を留めている下半身のキャノンが、妙に人らしく生々しい。
 まるで子供の悪夢をそのまま形にしたかのようにちぐはぐな存在が目の前に居た。

「話が通じそうもないな。隊長、護衛隊は姫様の警護を厳重に。今の隙を突かれないとも限らないはずだ」

 ティーダがそう言えば、一つ頷き、隊長は部下に念話を出しながら幕舎に引き上げていく。
 妙なヒエラルキーできてないか? いや、それは後でつっこむとしても今は目の前の対処が先決だった。
 幸い魔力を伴った攻撃ではないらしくシールド魔法を貫いている様子ではない。
 ただ、地面に鞭のような攻撃が当たった場所……そのえぐれ方からすると、そう油断できるものでもないようだ。生身で受けたら胴から真っ二つとかそのくらいの威力はありそうである。

「とりあえずシュート!」

 言った言葉の通り様子見の一撃を撃ってみる。
 どこを狙えばいいのか判らないような姿になっているので、狙いも適当だ。

「あ……」
「うッ……」

 なぜかティーダも痛そうな声だしてるし。
 胴体を適当に狙った魔力弾は見事に弱点に当たった。男の持つ弱点に。
 名状しがたい声をあげ、土をはねちらしながら暴れる。痛かったようだ。
 暴れながら、体はまた変化を始めた。肩口から触手のようなものがうねうねと生えてきたと思ったら、まるで槍投げの槍のように向かってきた。
 今度は自前のシールド魔法で防御する。無事防ぎきれたが……削られた?

「学習してる?」
「……うん、言葉は正常に話せなくなってるけど、知能がないと考えるのも危険かもしれない」

 見ればその触手の先にかすかな魔力光めいた残滓が見える。どういう使い方しているのかは判らないが……
 ともあれ、その見た目に惑わされずに基本を守っていけば何とかなるか?
 リングバインドで縛る。バインドの基本もいいところだが、魔力に余裕のある私はこういう単純なものをバカスカ撃つのに向いていた。マルチタスクも使わないので便利便利。複数対象は苦手でもあるが。
 ティーダを見れば目で了承の意を示してきた。
 すでに用意済みだったらしい。

『HowitzerShoot(ハウザーシュート)』

 魔力スフィアが3つ、ティーダの拳銃型デバイスの銃口に生まれた。
 今回はバインドで止められているので、集中させて威力を増すらしい。砲撃魔法とも少し違う。言うならば砲弾を発射する魔法と言ったところだろうか。登録されてる魔法名は何ともティーダらしい。

「ファイア」

 との声と共に密集した魔力の砲弾がバインドで身動きもとれない、元猫背の男に向かった。
 迷わず成仏。
 南無南無、と手を合わせる。
 いや、冗談だが。さすがに人の姿でなくなったからといって殺しにかかるはずもない。
 この霧の中でも舞い上がった土煙が晴れた所に居たのは──

「は?」

 私は間抜けな声を出してしまった。さらに名状しがたいというか、なんじゃそりゃあ……

「ティーダ……これは予想外って言うか……来る!」
「くっ」

 呆気にとられたような顔のティーダも一瞬で我に返り、半球の大きなプロテクションで一面を囲った。
 一瞬遅れて辺り一面に攻撃が降り注いだが……しのぐ。
 念のためディバイドエナジーで軽く魔力を補充しておいた。

「……ティーノ、気使ってくれるのは嬉しいんだけど、背中を叩くのは勘弁してくれないか……」

 軟弱な事を、私の闘魂注入にも耐えられないようでは本家の背中バンには到底耐えられないぞティーダ。
 なんておふざけはともかくとして、これどうしようか。
 今の私達を外から見れば途方に暮れている表情がありありと見える気がする。
 巨大化してたのだ、この元猫背さん。というかますますわけわからない形態になっている。
 とりあえずまたバインドを多重にかけておくが……変形することで外されてしまった。ありえん。
 黒っぽい色調なのは変わらないのだが、山羊みたいなのが生えてきていたり、足から触手が生えたかと思ったら蟻っぽくなったり。剣みたいなのが何十本も蠢いたかと思えば飛んできて、土を掴んだかと思ったらそれを圧縮成形して撃ちだしてくる。見た目の問題もあるが、何というか生き物として滅茶苦茶もいいところである。
 魔力の使い方も段々上手くなっている気がするし、あまり考えたくもないのだが、リンカーコアとか作り出したりしないよな?
 今のところ攻撃はプロテクションで防げているし、私の魔力弾やバインドも効いている。動きもそう速いわけでもなく、動作を見逃さなければ避けるのは簡単だ。だがしかし、なんと言えばいいのだろうか……効果的なダメージが与えられない。
 痛みは感じているようなのだが、それが全くダメージとならずに、さらに強化してくるのだ。始末に負えなさすぎる。
 私は飛び散り、蛇に変化し足に噛みついてこようとする欠片を踏みつぶした。
 しばしその残骸を見たティーダは何かつぶやき妙な構成の魔法を使っていた、のだが私もあまりよそ見はできなかった。何分この敵の攻撃、荒っぽい上に全方位攻撃というか、流れ弾がやたら多いのだ。姫様の陣幕の方にも攻撃が向かいそうになるたびに、その部位を攻撃して逸らしたり、場合によってはシールドで防いでいるのだけど、これは正直。

「イタチごっこもいいところ、か」

 魔力弾を立て続けに連射して破壊したはずの、蟹のハサミにも似た腕が再生する。
 ちょっと前に敵兵に追われた時とは違い、まだ余力はあるもののどうしたものか。額をごんごんと叩いてみる。良い考え出てこい。

「……解ったかもしれない」

 後ろからそんな声がした。良い考えが出てきたのはティーダの方だったようだ。
 ……相変わらず私にゃ見せ場ってものがないらしい、と嘆く心を抑えつつ、短く「どうすれば良い?」とだけ聞いた。

「あまり使わないルーチンを魔法に組み込まないといけない、時間を」
「おーけぃ」

 みなまで言わせず、軽い返答で返す。実際、気分的に楽になった。姫様は正式な護衛隊が守っているはずだし、面倒臭い敵ではあったが、ティーダが突破口は見つけたみたいだし。だとすれば私のやる事は単純になってくる。
 相変わらずただ暴れるだけの攻撃を仕掛けてくる敵の一撃を避けて、一歩踏み出した。

「あんよはお上手、鬼さんこちら、手の鳴る方へ、と」

 移動手段にしてる足っぽいものにところどころバインドをかけながら、かわしてかわして、逃げまくる。子供の相手は大得意である。
 飛んでもいいのだが、ただでさえ流れ弾多めなのに、わざわざ拡大させることもない。
 逃げる私をずるずると追う正体不明敵との鬼ごっこを続ける事数分。

(準備完了したよ。距離をとって)

 念話が来た。ティーダの準備も整ったようだし、とお土産にリングバインドをさらに十個追加、捕縛性能も考えないとりあえずのばらまきである。バックステップして距離を取り、そのまま翻ってティーダが陣取っている場所に帰着する。

「ただいま」
「おかえり」

 パンと手を合わせ、選手交代だった。

「……ヒントはティーノが踏みつけたそれにあったよ」

 魔法陣が銃型デバイスの前に展開し、ティーダのどこか太陽の色を思わせる山吹色の魔力光が渦を巻く。
 意外な台詞に私は思わず振り返り、土塊のように砕けている蛇だったものを見る。

「それは末端に行くに従って土の組成に近くなっていた。まるで、原子配列がある一点の基点から変換されているかのように」

 お得意の交差誘導射撃に使うような魔力スフィアが2つ浮かぶが、何か複雑な処理をしているのか、砲撃魔法のような溜め時間がかかっている。
 そろそろ、敵さんも私がばらまいてきたバインドを突破しそうだ。
 念のため囲うようにプロテクションを張っておく。ティーダは目で感謝し、続けた。

「想像が正しければ、それは質量兵器全盛期にも考案され、今でも医学界では細々と研究が進められているはず」

 敵の新たに生やしてきた、蠍の尾のような一撃を受けて、プロテクションの壁がきしむ。
 だが、ティーダは焦る様子もなく、淡々と魔力を注ぎ続けた。

「そう、あれはナノマシンの集合体だ。なら信号経路に過負荷を起こさせてやればいい、だから──」

 ファイア、と言うつぶやきと共に普段より三倍増しの輝きを放つ射撃魔法がスフィアから放たれた。
 それは誘導制御の得意なティーダらしく、余すところなくある一点に着弾する。
 敵はぶごっ、と声をあげ、一度二度震えると前のめりに倒れる。今までの打たれ強さが嘘のようにあっけなく沈黙した。

「プラズマバレット……着弾時の放電タイミングを合わせるのに手間取ったよ、魔力変換も滅多に使わないしね」

 そんな事を言いながら、やれやれ疲れたと肩を揉んでいる。
 そういう……その場で魔法アレンジしましたとか、滅多に使わないようなものを咄嗟に組み込んでみせるとか……こともなげに言わないでほしい。
 私は一つため息をついた。
 気を取り直して、その沈黙した敵さんに近寄る。
 何となく、デバイスの先っちょでつんつんとつついてみた。
 時折ぴくぴくっと、痙攣のようなものが走っているが、とりあえずもう攻撃する元気はない様子で……?

「崩れていく?」

 全長6メートルもあっただろう体はところどころにヒビが入り、崩れ落ち、あるいは空気がぬけるようにしぼみ始めた。
 数秒も経った頃にはその崩れた残骸の中に、最初見た通りの男が倒れていた。全裸で。近くに寄って確認したところ完全に意識を失っている。
 まあ、ひとまず王族誘拐犯の片割れを確保ということで良いのだろうか。
 私は安堵の息を吐く。念のためバインドで縛っておくのは忘れなかったが。

   ◇

 ティーダがこちらに歩いてくる。お疲れさんと、片手を上げて緩い調子で言っておく。
 ──が、その後ろに嫌なものが見えてしまった。
 私はティーダを思い切り突き飛ばし、起動状態で本当に良かった。デバイスに魔力刃を纏わせるのももどかしく、打ち合わせた。
「ガン」とも「ギン」とも聞こえるような盛大な音が響き渡る。
 私はその衝撃で思い切り後ろに吹き飛ばされながらも、飛行魔法を使って姿勢を戻す。相変わらず蹴りと武器がかち合ったとは思えない音だ。

「不意打ちにも対応可能ってか? 本当にミッド魔導師らしくねえなあ」
「目がいいもんでね」

 腰に手を当てて、やたら自然体で佇む少年──ビスマルクに、私はせいぜい余裕げな口調で返した。手の平は汗びっしりだが。おっかないったらない。
 ティーダは……無事だったか。ちょっと全力で突き飛ばしすぎたかもしれない……が、後で謝っておこう。
 私は新手の襲撃者、ビスマルクと相対した形で油断なく構える。油断なんぞしてたら、次の瞬間気を失っていてもおかしくない。何をしてくるかも不明なのだ。
 と、そのビスマルクの隣の空間が揺らぎ、カーリナ姉が追っていった女性が転移してきた……のだが、妙にぼろぼろだった。おまけに荒く息を乱していて、全力疾走でもしてきたかのような様子でもある。

「よぉ、救難サインとか出すから回収にきたけど、どうしたよ?」

 ぜーはーと、息を荒げていた緑色っぽい女性は、荒げた息もそのままに、きっとビスマルクを睨み、襟首を掴んだ。

「あ、あんた、あの女が来てたんなら報告しなさいよ……! 何であたしがあんなとんでもないのを相手しなくちゃならないの!」

 激しく揺すられながらも、動じずに黒髪をぼりぼりと掻いて「悪ぃ、報告忘れてたわ」などと平然と返すビスマルク。

「あああもう! なんなの、この脳筋男、信じられない、生まれる世界間違えてるでしょうが、この戦闘民ぞ……」

 女性は言葉を言いかけ、固まった。視線は私の後ろに向いている。

「ほほう、次はどこに転移するのかと思えば、案外近いな……」

 そんなカーリナ姉の声が私の後ろから聞こえた。
 無言で私の隣に来て、状況が変わったか、とつぶやく。
 女性がもう来たああああ! とか盛大に怖がってるのだけど、何していたのだろうかこの二人は。
 ビスマルクもまた呆れた様子だったがちらっと目を動かした。にやりと口元が笑みを作り、足に力が入る。
 向こうは姫様の──不味い。ビスマルクを警戒しすぎた。本来守るべき方向がさっきの突撃で開いてしまっている。
 もうビスマルクは動く挙動に入っていた、護衛隊が付いているとはいえ、こいつを相手にするのはまずい、私は低空では本来制御が難しい飛行の魔法を使って突撃をかける。間に合え!

「駄目だ、ティーノ!」

 ティーダの声が聞こえた気がする。
 ビスマルクは姫様の方に向かわず、そのままくるりと回転した。かかったな、と口が動くのを見た。変則的な動きで馬鹿らしい速さの蹴りを放ってくる。
 かろうじて、デバイスを構えたものの、その衝撃は二度目があった。どこをどう攻撃されたかも判らず私は──視界が急速に暗く──



[34349] 二章 十二話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/21 19:00
 川の流れるような音がする。
 まるで嵐の折、泥流が渦を巻くかのような。
 私は身じろぎをした。
 ……痛い。
 手が伸ばせない。
 相変わらずごろごろという音は続く。
 時折突き上げるような震動が伝わる。不快感に伸びをして凝りをほぐそうとして……断念する。

 目を覚ませば、私は縛られていた。
 別に色気のある縛り方ではない。時代劇でやるような簀巻き、あれを布でやったようなものである。ぐるぐる巻きにされた上から細いワイヤーが乱暴に巻き付けられており、力をいれても食い込むだけで、怪我をしそうだった。
 狭い場所に寝かされている。。
 車の中、それも兵員輸送車みたいなものだろうか。車の壁際……縦にしつらえられた長座席の上に縛られた状態で寝かされている。
 移動中らしい、時折石に乗り上げてごつんといった衝撃が伝わる事からあまり舗装された道路を走っているわけでもないようだ。
 もぞもぞと芋虫のように体を動かし、上半身を持ち上げようとするのだが、ぎっちり縛りすぎて体を曲げにくい。
 何とか窓際に背をもたれさせることができた。

「よう気付いたか」

 長テーブルを挟んで向かい側には、赤銅色の肌を持つ、快活そうな少年が山積みのジャンクフードらしきものを平らげている最中だった。
 その横には姫様を攫いに来た特殊な転移魔法の使い手と思われる、緑っぽい女性が座ってヘッドフォンをして目を瞑っている。音楽でも聴いているらしい。
 中々の勢いでもってジャンクフードの山を食い散らかしている姿を見ながら、私は自分がいい年こいて攫われた事に気付いた。
 ……いや、何か違う。こういうのは姫様の役割じゃないのか、いや姫様が攫われなくて何よりなのだけども。
 大体私がこういう目に合うのって何度目だろうか、リーゼ姉妹にも攫われた事あるし、作戦とはいえマフィアに拉致された形にしたこともあるし、考えてみれば最近の事件も、姫様と一緒に三人誘拐された形だし。
 攫われ癖でもついているのだろうか、そういえばアドニアの時も放浪中に何度か怪しいおじさんに誘われてほいほい付いて行きそうになった事が……
 いやいや、思い出すまい。
 当然だが、デバイスは取り上げられているようだ。窓から外を覗けば林道のような場所を走っている様子が見えたが、土地勘の無い私にはさすがにどこだか判らない。北部地域ではあるみたいなのだけども。

「ほれ」

 しかし、どうやって脱出したものだろうか。このワイヤーとか、私の馬鹿力をよく考えている、力では切れそうにない。それ以前にビスマルクのような戦闘力の持ち主を前に脱出して、逃げおおせるのか。

「ほれほれ」

 また、隣の緑の髪の女も油断はできない。カーリナ姉にはボロボロにされているようだったが、あの特殊な転移はこの世界においては相当なアドバンテージになる。園遊会の時と、ちょっと前の襲撃時の時を比較して考えてみれば、その転移させる規模によって発動時間が違うようだが、そこはあまり弱点にはなりそうもない。

「ほれほれほれ」

 べちょとソースが私の口にくっついた。焼いた肉の香りが漂う。

「いい加減にしほふへ……」

 ハンバーガーを押しつけてくるビスマルクに抗議しようと口を開いたらそのまま突っ込まれた。今のうちに食っとけとか言っているが、私は縛られているので手が使えない。遊んでるだろうこいつ。
 嫌がらせかちくしょう、と思いながらも、勿体ないので食べる。食材に罪はないのだ。
 んむ……この世界のジャンクフード文化もなかなか。肉とパンは普通ながら使われているソースは美味しい。グレービーソースだろうか、肉汁の味が濃厚でさらに加えられたトマトの酸味とフルーツも入ってそうな甘みが口に広がる。

「う……お、なんだこれ……しょ、小動物みてえに食うんじゃねえよ……むおお、ぎっちり縛っちゃったし何かいけない事をしている気持ちになってきたあ」
「むぐ?」

 食えと言ったのは自分だろうに、小動物とは失礼な事を言う。どっちかというと鳥だ。
 隣の緑の髪の女性がヘッドホンを外し、何故かうずうずと持っていたフライドポテトをさしだしてきた。

「ほ、ほらほら、怖くない、怖くないよ、よーしよしよし」

 ムツゴロウさん……こいつら、完全に遊んでるだろ……
 私はむすっとして目の前で揺れるポテトに齧り付く。

「うわ……これは可愛いわ。そんなにモムモム食べちゃって……ああ、これが萌えって奴なのね……」

 ……萌えられた、こいつらの感覚がよく分からん。

   ◇

 少々屈辱的というか、わけ分からんうちに食事タイムが終わり、一息ついた。
 たまにはジャンクフードも悪くない。毎日は食べたくないけども。

「──じゃなくて、結局あれからどうなったんだ」

 私は目の前でコーラのようなものを啜るビスマルクに聞いた。敵方とはいえ、雇われっぽいしべらべら喋ってくれそうという下心はちょっと入っている。
 案の定。

「へぇ、知りたいか?」

 と言ってきたので、私がそれなりに真剣に頷くと。口を耳に近づけ、こそこそと話した。

「一応こういうのは敵方であるあんたらには大ぴらに話せねえんだがな……あの後な」

 私は聞き耳を立てる。しばしの沈黙の後──

「フゥ」
「いひゃああ」

 総毛立った。妙な悲鳴を上げてしまった。聞き耳立てた状態での耳フーは酷すぎる。
 ゲラゲラ笑ってこちらを指さしているビスマルクを睨み付けておいた。というかそのくらいしか抵抗ができない。文字通り手も足も出ないのだ。

「まあ涙拭けよ、ティーノちゃんよ」
「泣いてない……」

 てかどこで私の名前を。以前は最後までちっこいの呼ばわりだったような気がする。
 いやまあ、調べようと思えば調べるのは簡単だろうけども。
 ひとしきり笑った後、最初から別に隠すつもりもなかったのか、目的地に着くまでの暇つぶしに話してやるよ、と足を組みふんぞり返った。
 よく見れば、左腕を負傷している。かなり適当に添え木を当てているが、いかにも痛そうである。
 私が眉をひそめて見ているとそれに気付いたのか、折れてる部分というのにぽんぽんと叩いてみせる。

「こりゃ、あの茶髪の兄さんにやられたんだ。おかげで一人は回収出来なかったな。あの兄さん、あんたがやられたとなると、殺気立ちやがってなあ……久しぶりにゾクゾクしたぜ」

 などと犬歯をむき出して笑いながら言う。楽しくて仕方無いらしい。逃げてはやく逃げてティーダ、戦闘狂にロックオンされてる!
 いや……まあ、なんだろう。こんな奴相手に闘って大丈夫だったのだろうか。

「おやん……ティーノちゃんは彼氏さんが心配なのかなあ?」

 心配になってしまい何となくそわそわしていると、そんな調子で緑髪の女性がからかうような調子で話してきた。
 彼氏さん云々はともかく、心配くらいするだろう普通、常識で考えて。

「大丈夫だと思うよ、というかあれだけ接近戦に慣れてる魔導師って居ないんじゃない? あたしもビスマルクと付き合いが長いわけじゃないけど、それでもこの戦争中、あそこまで攻撃を捌かれてる姿は初めて見たし」
「おお、とりあえず勝つことは勝ったが、大したもんだったな。まあ、ぴんぴんしてっだろ」

 言われた事をまるまる信じるわけでもないが、嘘の響きもない。私も少し安堵した。
 私との模擬戦も少しは役に立ったのかもしれない。ティーダと私の模擬戦だとどうしても私の方に決め手がないのでいかに近接戦闘に持ち込むか……なんて事によくなっていたのだ。
 ……さて、ティーダの事はともかくとして、今の私の状況の事だ。
 大体なんで私なのか。

「聞きたいんだけど、何で私が攫われてるのさ。普通攫うなら姫様じゃないかな?」

 いや、だからといって改めて姫様狙っても困るのだが。
 私がそう問うと、ビスマルクはおさまりの悪い髪をぼりぼり掻いて口を開いた。

「あー、もちろん姫さんは第一目標だ。ただ、マフィアの連合の1人が何でかお前さんにえらく感心持っててな、そこからのオーダーなんだよ」

 オーダーってあんた、レストランで注文取ってくるんじゃないんだから。

「こちとら、連合に雇われた傭兵みたいなもんなんでな、人攫いでも何でも規約外でないならやらねーとなのさ」
「……あたしは政府のお手伝い程度のはずなのに巻き込まれてるし……あまつさえ、あ、あの女に敵視されて」

 そう思わずと言った感じでこぼし、寒気でも感じるかのようにガクガクしている女性。
 ビスマルクさえも何処か顔をこわばらせ……

「ああ。離脱するときのあの顔はやばかったな……怖くねえ、怖くなんかねえが」

 足が小刻みに震えている。貧乏揺すりとでも言わいでか。

「どどど、どうするのよ、あの女絶対転移先座標とか割り出してくるだろうし、正直このまま逃げ切れる気しないんだけど」
「……大丈夫だ、少なくとも俺個人とかシャルード、お前とも敵対はしてないはず。これからの事も考えがあるからな……た、多分何とかなる」
「頼りねぇー!」

 緑髪の女性、シャルードさんとか言うらしい。やっと名前が判った。見かけのわりに至って普通の性格のようである……私が言えない。
 そんなシャルードさんの悲鳴を森の中に散らしながら車は走る、風景から林道が途切れた。

   ◇

 迷路のような谷間を縫うように走り、トンネルを抜け、やがて見えてきたのは山に囲まれた、それこそ天然の要塞とも見える都市だった。
 何でもアクセスが悪いために時代の流れにより廃された昔の北部首都らしい。
 確かにそう言われれば作りが古いというか、ほぼ石造りであり、どこかアドニアの故郷を彷彿とさせる建築様式でもあった。
 やがて車から降りた場所は、昔貴族でも住んでいたのだろうか、ダンスホールとか標準でついてそうな壮麗な造りの屋敷だった。
 その庭もかつては綺麗に整えられていたのだろうが、今は荒れに荒れている。最近になって人の手を入れたのか、草木が刈り取られ山にしてあった。
 私は拘束されたまま、ビスマルクに抱え上げられるようにして運ばれるのだった。
 気分はドナドナの子牛といったところだろうか。
 総石造りの重厚な床を運ばれながらぼんやり見つめる。
 正直悪い予感しかしないが……一応の心構えだけはしておく。
 やがて大きな縦長の広間に通されると、私も降ろされた。
 まるで王様の謁見室を模したような作りで、一番奥には大きな椅子と重そうな机がしつらえてある。武装した兵員が私達の周りをぐるっと囲い、ボディチェックのためにデバイスの検査機で確認を始めた。

「相変わらずここんちのボスは慎重なこって……」

 館に入ってからはだんまりだったビスマルクがぼそっとつぶやく。
 少しの間を置き、奥のドアが開き、ボスと思われる人が部屋に入ってきた。
 猪のような体型、浅黒く彫りの深い顔立ちの奥にはぎらぎらと精力的すぎる目が光っている。顔を形作るパーツも太く、ごわごわの顎髭を1センチ程で整えていた。
 そのボスは私を見ると、たまらない、とでもいったような笑みを浮かべる、すごい形相である。

「久しぶりだねえ、ラエル種のお嬢ちゃんよ」

 ああ、会いたかったぞ、とか舌なめずりして言ってるのだが、正直勘弁して欲しい。よりにもよってこいつか!?
 かつて、管理局に潰されたマフィア……確かトロメオファミリーとか名乗っていたのだったか、そのボスだった。以前カーリナ姉や内通者とも言えるラグーザと共に私も一役買ったものだが、まだ執着しているのだろうか……
 というか、拘置所入ってたはずだがいつの間に出てきたんだ、法務部仕事しろ!

「お嬢ちゃん達に煮え湯を飲まされて以来、私もなかなか忘れられなくてねえ……君を滅茶苦茶にしてやるのを夢にまで見たよ」

 寒気がするような台詞を、怖気の走るような口調で言わないでほしいものだった。
 今度は油断しないよ、と言い加えビスマルクにもご苦労だった、と声をかける。
 ボスが顎をしゃくり合図をすると、周囲を囲う武装した兵員が注射器を取り出して……いやまて、まって。薬物は勘弁、隙を見てとか考えてたが甘かった!
 どうすれば、どうすれば、と内心ひどく狼狽える私の体をお付きっぽい人ががっちり掴み、注射器を持つ手が迫り……
 その手をビスマルクが掴んだ。

「一つ聞きてえんだが、攫わせた目的はこいつの身柄そのものだよな。ボス、あんたの復讐のために連合に依頼した。そうだな?」

 ボスは怪訝な顔をして、当然だと頷いた。

「その通りだが、金なら契約通りに払われているはずだが、上乗せでもして貰いたいのかね?」

 その言葉を聞くとビスマルクはにやりと笑い、言った。

「なある、聞いたよなシャルード。契約違反だ。俺は何でも屋じゃない、今回の戦争中、戦闘あるいは戦術的効果を目的としてならそれも契約通りだったんだがな」

 シャルードさんは、そう来るか、と小さくつぶやき頷いた。

「何が言いたいんだ、傭兵?」
「好きにさせてもらうってこった……よっ」

 パァンとしか聞こえなかったが、周囲を囲んでいた連中が一斉に膝をついた。相変わらずとんでもない早業である。
 だが、ボスの動きも速かった。それはかつてラグーザに裏切られた経験から来たものか、何やら机の一部を慌ただしく探ったかと思うと、その縦長になっている部屋を仕切るかのように分厚い隔壁が落ちてきた。
 後ろを見れば同じような隔壁がすでに入り口を塞いでいる。

「閉じ込められた?」
「ま、そんくらいの備えはしてたってこったろうな」

 そんな事を言いながら私の拘束を解いてくれた。
 ……やっと自由になった手首を軽く振って血行を戻す。う、痺れる。

「えーと、こんな状態になって今更だけど、良かったの?」
「ああ。元々義理立てと面白え戦いでもあればと思っただけだったしな。胸糞悪い仕事でも持ってきたらどうせ辞めるつもりだった。それにこんな派手に暴れるイベント付きなら」

 望むところだ、と犬歯剥き出しで破顔する。
 私はうわぁ……と引いているが。
 局にも戦いが好きなのは居るけども、ここまでは中々。組織相手に個人で好き勝手やるって、想像はできるけどなかなか出来るこっちゃないぞ。
 そんな事を話していると、どこかにスピーカーでもあるのか、ボスの声が聞こえてきた。

『勇ましいな傭兵、九頭会にも連絡をとったが、お前の後ろ盾は手綱を放したようだ。好きにしろ、などと言われたぞ? くく、見捨てられたな』
「そりゃー良かった。その台詞は俺宛てなんだよ、義理立てはもう不要ってこった」

 九頭会? とシャルードさんに聞けば、どうもビスマルクが時折、連合とか言っていた非合法組織の集まりのことらしい。文字通り九つの大きな組織が集まっているからだとか。
 と、そんな合間にも、ボスとビスマルクは交渉めいた事は続いた、ボスの方はお金で解決したくて、それをビスマルクが断っている形なのだが。

『ここまで言っても聞かんとは、その強情さには呆れたぞ。しばしその中で眠ると良い』

 そう聞こえたかと思うと、空気の流れの変わる音がした。正しくは何かが吹き出るような音が。ガス?
 ……っておいおい、二人はデバイスみたいなもの置いてきてしまってるし、バリアジャケットも纏えないんじゃ無防備もいいところだろ、何か考えがあってあんな啖呵切ったんじゃないのか?

「まずいな」

 こちらを見ないでそんな台詞をつぶやくビスマルク、あ、あんた、本当は何も考えてなかったのか!
 私はあわあわと慌てるも、シャルードさんがビスマルクの脳天にチョップを入れた。

「ふざけないの、とっととやんなさいよ」

 遊び心を知らねえ奴だ、と口を尖らせ振り向いた。入り口の隔壁に向かって右腕をぐるぐる回しながら歩き、そして。

「──は無敵なり」

 何を突然イタい台詞を、とシャルードさんを見るも平然としているようだった。いや、確か以前相対したときもこんな台詞言っていたような、詠唱だったのか?
 以前見た時と同じように、体表に魔法陣が浮かび上がった。見るにミッド式の魔法陣ではあるのだが、効果がさっぱり判らない。というか、デバイスでの制御要らないんかいあんた、と突っ込みたい。
 見る間にその複数現れた魔法陣を通し魔力が循環し始める。循環するたびそれは増す。
 それはやがて右足に渦を描くように纏い付いた。

 爆発。

 口が動いていたので何か技の名前でもつぶやいたのだろうが、爆音に遮られ聞こえない。
 抉り突くかのような鋭い蹴り……だと思うが……Sクラス魔導師の砲撃にも耐えられそうな分厚い隔壁を滅茶苦茶に破壊してしまった。

『はぁっ!?』
「はぁっ!?」

 とても不本意な事にマフィアのボスさんと声が被ってしまった。

「もどき技だが効果はこんなもんよ」

 驚いてないで行くぞ、と促され私は足を進める。

「い、いやあんた、あれは驚くってか、デバイスの意義って何!」
「あれがあると加減が効いていいんだよな」

 手加減用かい! 私は何だかもう泣きたい気分である。私がデバイスを初めて知った時なんか、世の中には何て便利なものがあるのだろうと思ったのに、あの感動を返してほしい。
 戦闘馬鹿の滅茶苦茶さに振り回されながらも足は動かす。さすがに少し経つとボスも気を取り直したのか、兵員を使って妨害に出てきたのだが、魔法弾をぽんぽん拳で弾かれ、肉薄されて一人一撃で吹っ飛ばされている。ティーダは本当に、こんなの相手にまともに戦えたのだろうか。あるいはティーダは私が思っていた以上に凄腕だったのか。

 ビスマルクを一番前に置いておくだけでさくさくと敵が吹っ飛び、扉も吹っ飛び、壁も吹っ飛び、高そうな壺も吹っ飛ぶ。
 壊し屋である。私とシャルードさんはその後ろから着いて行くだけで良かった。
 私達は廊下を進む事すらなく、館内に穴を開けながら脱出した。石造りのはず……なんだけどなあ。
 外に出ると既に日が暮れようとしていた。来る時に乗ってきた輸送車を見つけると積みっぱなしの荷物を回収する。

「ほいよ」

 と渡されたのは、カード型の待機状態になっている私のデバイスだった。
 うわ……何か妙にほっとした。何だかんだで私も大分魔導師であることに馴染んでしまっていたようだった。

「はあ……また巻き込まれた気がする。とりあえず私の研究室にでも転移するわね」

 シャルードさんがそう嘆きながら、荷物から取り出した黒いキューブを取り出し、指で何かしら文字を描いた。
 立体的な、積層型とでも言えばいいのだろうか、魔法陣が現れ、いつかのグリーンの輝きと共に風景が変わった。

   ◇

 前回、この転移魔法で運ばれた時にはかなり気持ち悪さというか目眩に似たようなものを覚えたが、今回に至ってはそんな事にはならなかった。
 転移先は雑然とした印象の場所である。
 十畳間といった広さの部屋で、壁際は整理棚と本棚で埋まり、見た事のあるような試薬から見た事のない鉱石まで雑多に置かれている。

「はい、ようこそ私の家に。こっちよ、お茶くらいは出すから」

 そう言って何ら警戒もせずにシャルードさんは扉を開け、とっとと先に行ってしまう。ビスマルクもまた、食うモンないか、などと言いながらそれに続いた。
 私は机の上に積まれ、開きっぱなしにもなっているノートに見覚えを感じ、覗いてみた。
 ……見覚えがあるはずだ、日本語である。
 そう言えば姉が追っかけていたけど、もしかしてまたアレなのか。来訪者さんなのか。一体どんだけいるんだろうか……
 興味をそそられ、ぱらぱらページを捲る。
 ウイルドって何だろうか?
 魔導物理と科学物理の考察、次元世界とは異なる世界の境界面? 認識できないはずの六つの高次元に干渉可能な素子の考察、魔導師の可能性……えとせとら
 難しい数式が雑然とメモのように書かれており、ちんぷんかんぷんである。目が滑る滑る。

「そっちは色々あるから見てるのはいいけど触っちゃ駄目、それとお茶入ったわよ」

 なんて声がかかってしまった。何となく悪い事をしてるのを見つかったような気分になって、こそこそと隣の部屋に向かう。
 リビングが研究室から出てすぐにあり、私は久しぶりにも思える暖かいお茶を頂いた。全体的に緑色のシャルードさんはやはりお茶も緑茶である。どこで仕入れているのだか。
 窓から外を眺めてみれば、畑が広がり、背の高い建物の一つとして見あたらない。聞いてみれば、少し頬に指を当て考える仕草を見せたのち、まぁいっか、と軽い調子で答えた。北西部にある辺境もいいところの村らしい。戦争からなるべく遠ざかった場所に居を立てたのだと言う。お茶の一杯を飲み終える頃には、あれほど慌ただしかった心も落ち着いていた。窓の外にトラクターの上で一杯飲りながら畑を耕しているおじさんの様子が見える。

 ……さて、流されるままに来てしまったけどもそろそろ。

「あ、それとあなたにはもう何もしないから安心していいわよ。もともとあなた目当てで動いてたのはそこのビスマルクだけだったし、あたしともう一人、リーガルって言うんだけどあいつは雇い主が別だから」

 ……私が問いただす前に答えられてしまった。

「大体、あたしはあのおっかない女……あなたの姉を敵になんか回したくないしね、元々姫様の拉致だってスポンサーがうるさいから手伝っただけなのよ、本職は研究者だし」

 研究者だってのは何となく判る。しかし……

「スポンサー? 共和政府そのものだったりして」
「そそ、条件が良いのと遺跡いじれるんで乗ったんだけど、本職外のことまでさせるわ研究にもあれやれこうしろと指図がうるさいわで、最近はちょっとねー」

 守秘義務とかはないんですかいこのお姉さん。随分軽い調子で喋っているのだが。
 いや、共和政府と言ってもかなり寄り合い所帯のようだし、ビスマルクの件にしても相当アバウトな人の使い方である。この人もあまりそういう帰属意識は無いのかもしれなかった。

「ま、それはともかく、安全な場所まで送ってあげるからあなたの姉に、シャルードは敵じゃないんですよと言っておいてちょうだい」

 私は一つ頷く。というかカーリナ姉は多分勧誘に来ているのだと思うけども。一旦力の差を示してから交渉に入るとか……考えてそうだな、これまでの成功率とかからはじき出して。
 私の隣で大あくびをするビスマルクはというと。

「仕事が切れちまったからなあ、つっても、まだ面白え事もあるかもしんねえし、シャルードのとこで居候でもしながら適当にしてるさ」
「げ……あんた居座る気?」
「今から寝場所見つけるのも面倒臭えだろ? ふあ……眠う」

 そういう問題じゃないと叱りつけているが、ビスマルクは何食わぬ顔で聞き流していた。
 私もそういう問題じゃないと思うぞ。

「ああもう……いいわ、後でちゃんと話付けるけど。とりあえずティーノちゃん、送ってあげるからこっち来なさい」

 こめかみを揉むようにしてリビングのちょっとスペースのある場所に動く。もしかしたらこの転移には広い空間が必要なのかもしれない。

「さて、ビスマルクもこんなんだし、あなたの姉がそちらに居る以上、私はもう王政府に対して直接動く事はないと思ってもらっていいわよ。ちょっとスポンサーがヘソ曲げるだけだし」
「……おーう、行くかぁ。茶髪の兄ちゃんにもよろしくな、また楽しく戦ろうぜ、って伝えておいてくれや」

 ビスマルクは眠そうに右手をひらひらと振っている。
 シャルードさんは、これだから脳味噌野菜人は……と愚痴る。一つ頭を振りかぶると、私の頭に手を置いた。

「想起しなさい、あなたの覚えている安心な場所、安全な場所、身を休め心を労れる場所、親しい人、親子、姉妹、恋人どれでもいい。その記録されている魔力の波長から割り出すから」

 はい? 想起って、ちょっとミッドの魔法とは感覚が違いすぎるような……イメージは大切だと言っている人も多いけども。
 安全、安全と言っても……えーと、よく判らん。とりあえず姫様の所とか想像すればいいのだろうか?

「……OK、掴んだわ。ちょっとずれるかもしれないけど、石の中とかにいるとかは無いから安心してちょうだい」

 もうお馴染みとなった黒いキューブを取り出し、文字を描くと発動する。多分デバイスなんだろうなと思いながら私はグリーンの輝きに包まれた。

   ◇

 一瞬の浮遊感の後、私が転移したのは空中だった。
 真ん前というか真下1メートル程には驚きで目を大きく開けた状態で固まる……ティーダぁ!?
 浮遊の魔法を使おうなんて考える暇もなく、私は重力に従って落っこちた。
 星が飛んだ。
 頭がくわんくわんと揺れる。

「お……おお……う、ぐ、ティーダって意外と石頭だったのな」
「は、へ? え?」

 おお、よく混乱している。いや当然か。突然寝ている所に上から人が落ちてくれば。
 見ればどうやら、幕舎ではなく建物のようである。王軍の進行具合は判らないが、もしかしたら制圧した街を侵攻先の拠点にでもしたのかもしれない。
 ティーダはベッドの上で寝ていたらしく、そこに私が正面衝突した形である。
 ……事故は起こってない。多分。少し血が上っているのも疲れているからだろう。
 とりあえず。

「えーと、ただいま?」
「お、おかえり? って、ティーノぉ!」

 私が挨拶すると、混乱は収まったようだが、今度は驚きの声を上げた。
 声でかいっての、驚きすぎだと言おうとした時、廊下から忙しない足音が複数聞こえ、ドアが開いた。

「どうされたティーダ殿!」

 そんな声と共に衛士と思わしき男性が数人、騒ぎに駆けつけた感じで慌ただしく入ってきた。
 そしてベッドの上を見、固まる。

 ……ああ、うん。想像してみようか。
 ベッドの上にはビスマルクとの戦いで負傷でもしたのか、包帯を巻き、下着姿のティーダが寝ている。上半身は裸である。調子が悪いのか、はたまた混乱していたせいか、少々顔色が赤く、汗が出ていた。
 腰まではだけたタオルケットの上から、いろいろ……多分攫われた時、縛る時に邪魔だったのか侍女服は脱がされてしまったようだ。ほとんど下着姿……いやもちろんパンツ一丁とかではなくインナーくらいは着ているのだけど。まあ、そんな少女が乗っかり、一見して押し倒しているようにも見えるはず。
 それを見た男達が何を想像するかは、それはもうたやすく分かろうというものだった。

「チッ、これだからイケ面はよ……そんな状態でもかよっくそっ」
「あんたみたいなのが市場を独占するから……俺は……俺はっ」
「ああなんだ、夜中に騒がしいと思えばもげろどうかごゆっくりもげろ」

 散々に罵声と絶対零度の視線を注いで立ち去る。
 ええと、あれだ。

「なんか、その、ごめんティーダ」
「……うん、いいよ慣れてるから」

 学校でも女子に人気だったものな。とはいえ声は疲れているようだが。
 そういえば、私もいつまでティーダを敷いているつもりなのか。

「む……」

 最近になっていろいろ反応するようになってきてしまっているのだ。一度意識してしまうともう駄目だった。
 顔に血が上がる前に私はティーダからのそのそと降り、壁際に歩み寄る。細めに開けられていた窓を大きく開けて涼しい空気を吸い込んだ。
 一度、二度、深呼吸。
 よし落ち着いた。
 私は振り向いてティーダの寝ているベッドに座る。
 水貰うよと一声かけて、サイドテーブルに置いてあるグラスに水差しから注ぎ、喉を湿らせた。

「……私が攫われてからどのくらい経った?」
「ん、丸一日ってとこだよ」

 それなら時間感覚も間違っていなかったようだ。と、すると一日でそう大きく動くわけもないから、今居るここは多分制圧した都市か。

「そっか、怪我は?」
「はは、そんな目しなくてもぴんぴんしてるさ」
「過労でぶっ倒れた時も同じ台詞だったから信用ならないよ」

 やれやれと私はため息を吐いた。

「ところで報告が少し長くなるけど、寝なくて大丈夫?」
「君に驚かされたからね、眠気は吹き飛ばされてしまったみたいだ」

 少し肩をすくめておどけるティーダ。そんなリアクションを取って、痛ててなどと言っている。
 アホめ、と私もこめかみに指を当て、さも頭痛でもあるかのように目を瞑る。
 まったくもって緩んだ空気、肩の力が抜けるのを感じる。窓の外に雲に隠れた月を見やりながら、私はここ丸一日の経緯というものを説明するのだった。



[34349] 二章 十三話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/21 19:00
 澄み切った空。
 遠くには山が見えるが、さすがにぼやけているようだ。
 シジュウカラに良く似たほのかに青い鳥が数羽横切った。
 郊外に見える川には集団で釣りに興じる子供が見える。
 平和だなあ、と私はつぶやいた。
 視線を戻し、暫定的に王子が拠点に定めている元国防省庁舎、そこにプラカードを右手に火炎瓶を左手に持ち押し寄せる群衆を見て。
 物騒だなあ、とつぶやいた。ため息もセットにして。

 共和政府軍は展開していた軍をグレアム提督率いる管理局側の魔導師に寸断され、身動きのとれない中、各個撃破された。
 主要道からは中継都市を落とし、ますます意気軒昂な王政府軍が迫る。
 さらには、私からマフィア側の連合勢力の話を聞くや、政治的な圧力、同時に懐柔策ほか、様々な謀略でもって切り崩しを計り、自分の勢力としていく姫様も一役買っていた。
 完全に追い詰められた形になった共和政府はかつての北の首都でもあった、私が攫われ連れて行かれた事もある旧都に拠点を移し、抵抗を続けていた。
 その抵抗の仕方というのもかなり巧妙になり、非合法組織の連合勢力から学び取っただろうゲリラ戦のようなものから爆弾テロ、混乱させるような情報を流布し、民衆に混ざって暴動を起こしたりなど多岐にわたり、いま眼下で王政府軍が鎮圧中のデモ隊の中にも多分扇動者が多数紛れこんでいるのだろう。
 見ているだけというのもまた、もどかしいものを覚えるのだけど、ここは仕方がない。
 さすがに治安維持活動に勝手に管理局が手を出してしまえば内政干渉にもなりかねない。
 グレアム提督としては要請を受ければすぐに人員を派遣する構えなのだが、そこは王政府側のプライドもある、また管理局にこれ以上借りを作るのは避けたいという思いもあるのかもしれない。
 私はデモ隊と鎮圧部隊の衝突が段々収まってくるのを確認すると、少し肩の力を抜き、ふたたび空を見上げた。
 考えてみればもうじきこの世界に来て三ヶ月も経とうかという頃だ。この世界はあまり気温の変化も感じないが、ミッドは今頃涼しくなっている頃かもしれない。
 ティアナちゃんはしっかり布団かけて寝ているだろうか。長期出張なので、いっその事と、私やカーリナ姉の居た施設に預かってもらっているのだが、ティンバーとかに虐められてなんかいないだろうか……ああ、私の必須成分ティアナミンが足りない。圧倒的に足りない。演劇の発表会にはぎりぎりで間に合ったものの、その後は施設に直行だった。時間的な余裕が無かったのだ。姫様が王都に居る間は時空航行船の施設で通信もできたけど、今は中々難しいし……

「ティーノさん……だったか、少し話をしても?」

 表情を装い、ティアナちゃんの事を思って心の中でため息を吐いていると、姫様と会談中のゴニョゴニョな勢力の幹部……その警護役の一人が私におずおずと話しかけてきた。
 ……ええい、熊みたいなでかい図体でおずおずするな。局員だというのは知れてるだろうから、話しかけにくいのだろうけど。
 私が振り向いて一つ首肯すると、同じ部屋に待機していたティーダもさりげなく私に近づいてきた。

「互いのボスが話し合ってる間にこう……馴れ合うようであれなんだが……」

 どうも歯切れが悪い。というかおずおずしているのは元々の性格か?

「ビスマルクの兄貴の事なんだが……一度上機嫌に帰ってきて、あんたの事を話していた事があるんだ。兄貴の頼みであんたの情報を調べた事があったんで覚えていたんだけどな」

 そんな事してたんかい……私はてっきりあの執念深いマフィアのボスさんからの依頼で名前バレしてたのかと思ったよ。
 そんな私の内心はともかく、熊男君としては兄貴とも慕っていたビスマルクがその後仕事で出たのを境にふっと行方が判らなくなってしまったので、もしかしたらという気持ちで私に聞いてみたものらしい。
 まあなんだ……ばっちり知っているわけなのだが。私の口から話すのは少々憚りが……

「えーと、おたくのボスに話を聞いた方がいいんじゃないかな?」
「ボスは、口出しするなって言って教えてくれねえしなあ。な、知ってるなら教えてくれよ、生きてるかだけでもいいからさ」

 巨体をかがめるように私にそう言う熊男君。サングラスから覗いた目が妙につぶらな瞳で困る。本当に熊みたいだ。
 ……慕われてるじゃないかビスマルク。明らかに一回りも二回りも年上の男から兄貴と言われるのもどうかと思うけども。
 ふと、ココットが秘蔵しているかのような、用語として「タチ」とか「ネコ」とか出てくる薄い本を思い出して、げんなりしてしまった。止まれ私の想像力。それ以上は駄目だ、腐海の闇に沈んでしまう。
 ともあれ、情に流されるわけでもないが。

「生きてるよ、ビスマルクは。本人はフリーランスに戻っただけとかそのくらいの考えなのかもしれないけど」

 実は私の報告を受けて、カーリナ姉が既にシャルードさん、ビスマルク二人の勧誘に出向いていた。とはいえ、あの人はこう……自分のペースで進めすぎるきらいがあって、時に人の感情の機微が判らない時がある。シャルードさんはだいぶ怖がっていたようだったし、今でもすれ違っているのではないかと心配は尽きないのではあるけど。

「そうか、生きてるのか兄貴は……よかったぁ」

 などと涙ぐむ熊男さんを前に、私は自分の姉の破天荒さに頭を悩ませ、そんな私達を見てティーダが呆れ顔で肩をすくめていた。
 
 姫様の交渉は無事終わったようだった。
 私達の今居るロビーに降りてくると相手側のボスと一つ握手をして何やら言葉を交わし、別れる。
 なにぶん交渉相手が交渉相手なので、局員の私達としては一旦護衛を外れざるをえない。見て見ぬふりしてくれという奴だ。そこは提督も歯切れ悪く言っていた。姫様が政治的な動きをしている以上私達もなかなか難しい立場に置かれてしまうようで、なるべくこの世界の動きには関わらず、姫様個人の護衛として専念しなさいとも言われている。グレアム提督としてはこの姫様の動きは予想外だったのだとか。
 時折ティーダと、裏の意味を探りたくないような比喩ばかりの会話もしているのだが……私もちょっとそう言う話し方を勉強した方がいいのだろうか。
……蚊帳の外に置かれて寂しいだけなのだけども。

   ◇

 非合法組織の連合、九頭会だったか。そのうちの過半、五つの組織を姫様は味方につけてしまった。
 姫様からすると、需要と供給が一致しただけと言うのだが……何という事だろうか。
 なにぶん、この世界の争乱も長い。地球での戦争のように大規模に死者が出るというわけでもなかったのだが、全く出ないはずもない。
 元々世界そのものの人口が多くないので、働き手を欠いてしまった地方から徐々に衰退の兆しが現れていた。
 そこで姫様が目を付けたのが非合法組織を主に構成している、様々な次元世界からあぶれてしまったならず者たちだった。特に若いのが多いのが良いところらしい。
 一見突拍子も無いのだが……姫様の提示した条件はこの世界での戸籍と居住区画だった。非合法組織と一言で言ってもその中の人員の多くが安住できる住み処を得ていない。安住できる場所が欲しい組織、それをある程度抑え込めるだけの軍を持ち、有り余る土地を提供できる王政府側。管理局との適度な距離。姫様からすれば条件は揃っていたらしい。
 残り四つの組織については、反管理局の色があまりに強すぎる事や、武力色が強すぎる……二度ほど私と関わり合いになった組織などは管理局側から重大指名組織としての認定を受けている事もあり、受け入れられなかったのだが。
……とはいえ、それらの勢力については。

「猛犬も痛み無く牙を抜かれれば、いずれ従順な犬になることでしょう、うふふ」

 などと漏らしていたので、何かしたのだろう。ナニカ。
 ……突っ込まない、私は突っ込まないぞ。うふふという笑みがどこか怖いのだ姫様。
 そんなこんなで姫様の暗躍のために護衛の私達もあちこちを飛び回り、今は元共和政府の首都ベリファのホテルに滞在中というわけである。

 ──突如として、本来の管理局の仕事でもある、ロストロギア関連の情報が飛び込んできたのは、そんな折だった。
 カーリナ姉率いるグレイゴースト側のチームが、どうやらビスマルクとシャルードの二人と交渉することに成功したらしく、完全に引き込むことはできなかったが、協力者として手を貸してくれることになったという。ロストロギアの情報はそこから出たもののようだった。余談だが、交渉を纏めたのはカミヤさんだったという。何でも容姿が幸いしたとか。悔しそうにしながらも表面上は余裕ぶっていた姉が忘れられない。

 北部首都ベリファ、新たに置かれた行政府から少し距離を置くようにして、管理局側は拠点を設けている。
 その中心となっているホテル、その会議などを行う広い一室にそうそうたる顔ぶれが集まっていた。
 奥のスクリーンから見て左手側が王政府側の面々、奥にはグレイゴースト側のチームであるカーリナ姉含む三人、新たに協力者として加わったビスマルク、シャルードの二人の姿も見える。
 右手側にはグレアム提督を始めとする管理局側の席になっている。艦長クラス、及び副官、執務官も一名並んでいる、末席には使い魔とは言え席を与えられているようで、リーゼ姉妹の姿もあった。もちろん人の姿だが。
 私とティーダは局員としてなら呼ばれる立場でもないのだが、姫様の護衛役として王政府側のテーブルの後ろに王子様直属の護衛隊と共に控えていた。

「まずは忙しいさなかご臨席下された王子ウォーニング様、王女ナティーシア様に感謝を申し上げる。また、王子ウォーニング様に対しては王政府軍司令官として対応させて頂くゆえ、無礼の段はどうかご寛恕の程を願いたい」

 そんなグレアム提督の堅苦しい挨拶で始まった会議の内容は、その堅苦しさに見合うかのようにとんでもないものだった。
 ロストロギア……古代文明の遺産などの総称とも言える。現在共和政府が逃げ込み、立て籠もっている旧都、その地下遺跡に眠っているそうなのだ。
 共和政府の中で実権を握っていたヴェンチア・ゴドルフィン、その人からの依頼により、数年前からシャルードさんが調査をしていたと言う。

「それは……危険性としてはどのような事になるのか? ロストロギアと言われても我らには今ひとつ慣れぬ概念なのだが」

 困惑気に、王政府側の官僚が言った。
 それを後ろで聞きながら、そんなもんだろうなあ、と私も相づちをうっていたのだが。
 私も教育隊に配置されていた頃、過去に起こった事件、ロストロギア絡みの記録映像を見ているからこそ、その単語を聞くだけでも身構えてしまう部分があるのだけども、初耳では「なんじゃそれ?」ってとこだろう。

「下手を打てば代償はとても大きく……いや、説明は情報提供元であるグレイゴースト側よりしてもらうとしましょう」

 目が点になっている王政府側の人たちをそのままに、提督はカーリナ姉の名前を呼び、解説を促した。
 ご紹介に預かった、と前置きしカーリナ姉がスクリーンに図を示して説明を始める。

「あれ?」

 私は首をかしげた。スクリーンに映ったモデルデータになっている三面図、見覚えがある。というかどこから見ても少し前に地球で拾った赤い色の……井桁のような形をしたプレートである。そのままカーリナ姉が持ち去り、私も後で……曖昧ながらも注意をしておいたのだ。検査機関に依頼しておくという話だったが。

「これは管理局が管理外世界と呼んでいる世界で見つかったものだ。調べた結果、やはりロストロギアに該当するものでもある。また、各地を調べ進めた結果、同様のものがやはり管理外世界より見つかった。その地での呼び名を取り暫定的に『ロコーン』と呼ばせてもらう」

 普段より二割増しで真面目に見える姉。なんだろうと思ったら伊達眼鏡をしている。イメージ戦略かッ! 
 なんて感想は置いておき、やはりアドニアが遺跡で見つけ、のちには地球でカーリナ姉の手に渡ったそれは相当なものだったらしい。ただ、今回の話と何の関わりがあるのだろうか。
 と、私がそんな考えに浸っている間にも姉の説明は続いていた。

「このロコーンであるが、その働きは転移魔法に近いと言ってもいい。ただし、現段階では分析不可能なセーフティがかけられており、予測でしかないのが残念なのだが」

 それを聞いた限りでは危険性は感じられないが、と再び官僚が問いただすと、カーリナ姉はコンソールを操作し、場面を切り替えた。
 ……ちょっと懐かしい絵だった、というか地球が映っている写真だけなのだが、私はカモメとでも言いたくなる。

「第97管理外世界、このロコーンが発見された世界だが、5年前に小規模な次元震が観測されている。そしてそれ以降、発見された都市を中心に転移魔法の座標位置が微妙にずれてしまう現象もまた記録されている」

 地表を網目状のマーカーが覆い、海鳴市を中心とした歪みの状態がグラフィカルに表示された。

「……付け加えるなら少々特異な土地でもあるようだが、それは今は置いておくとしよう」

 問題はだ、と少し息を継ぐ。

「この世界を調査に行った折に、私の供が『底が抜けているかのような』という例えをしたことがある。この表現は言い得て妙だった。調査隊が調査したところ、5年ほど前、ロコーンが転移を起こした時期より、世界そのものに穴が開いていると言ってもいい。97世界の魔力素そのものが得体の知れない世界に流出している状態ということだ。概算だが……三千年ほどで魔力資源がバランスを崩し、次元震による崩壊に至るだろう」

 三千年とはまた……気の長い話だった。

「……もちろん、それだけの時間があれば手を打つ事は可能だろう。だがそれは97管理外世界のみの話であって、この世界の話ではない。結論から言えば、既にこの世界が同じ原因により崩壊現象を起こすまで恐らく三百年を切っている。いや……場合によっては明日にでもだ。突然崩壊してしまう可能性がここにきて出てきた」

 突然物騒な話……というか、明日にでも?
 さすがにこの話を聞いた面々はひどく困惑顔だった。管理局側も泰然としているのはグレアム提督とリーゼ姉妹のみである。

「これは、シャルードが提供してくれたデータにあったものだが……」

 画面が切り替わる、これも見覚えがあった。旧都の姿のようだ。その中心部に位置しているいかにも古く、無骨な作りの城塞がある。姉が幾度か操作をすると、その城塞の地下部の構造図、不明なところも多いようだが、それを表示し、一点を指す。

「……鳥居?」

 思わずそう口から漏れてしまった。
 形が似ているのだ。まさかこんな所で見る事になるとは。
 私のつぶやきが聞こえたのか、一瞬にやりとするとカーリナ姉はついでにとでも言うかのように続けた。

「97世界の歴史を調べると様々な場所で見つかる形状だ、例えば殷という王朝では当時神のように祭られていた『帝』の使いである鳥の留まるための物であり、また、古代の有名な王であるソロモン王が建てた神殿の門も似た形状という。別の世界、これをロコーンと呼んでいた世界においても同様に歴史の中に散見されるのだが」

 余談だった。それはともかく、と小さく咳払いをする。

「この旧都の地下にあるものは、形だけではなく、素材もロコーンと同様のものらしい。そしてその大きさに見合うだけの出力を持つものと推定し、第97管理外世界で起こった次元震から、暴走した場合の推測値がこれだ」

 カーリナ姉の指が忙しなくコンソールを叩いた。計算式が組み上げられていく。
 その数値を見て、管理局側の面々は一様に緊張の色を走らせた。

「管理局の方々は慣れている単位だからすぐ判ったようだが……世界が丸々一つ滅びかねない値とも言える。そして残された次元断層を考えれば、隣り合う次元世界の連鎖崩壊もまたあり得ることだろう」

 戦争やってたのに、急に世界の破滅、さらには隣り合う世界の崩壊につながるなどと聞かされた王政府側の人達はというと……
 やはりぴんと来ないのか腕組みをして首を捻る者、あるいは先程の数字を換算して驚きに目を見張る者、様々だった。王子は静かにニコニコしていたが。私の耳はスゥスゥという気持ちよさ気な寝息を聞き逃してはいない。兄妹そろって外面を取り繕いながら寝る特技を持っているとは……

「先程カーリナ殿の話では、ロコーンとやらにはセーフティが設けられているような事だったが、北の旧都のそれにも設けられているのではないか?」

 おお、そういえば、と少しほっとしたような空気が流れるのだが、多分それで納まるようならここまで大がかりには人を集めないはず。

「無論、その機構はある。ロコーンについては不明のままだが、少なくともこのロストロギアに関しては判明もしている。調査していたシャルードによれば、王家の血、そして魔力により反応し、それは起動するらしい。もしかしたら昔の王家は正常に使うことが出来たのかもしれないが……埋められていた事から考えれば不要と考えた当時の王が封印していったものかもしれない」

 王家の血と魔力……遺伝子認証とか魔力波長の認証でもあるのだろうか。
 ……確か姫様が、ここの王族は女系遺伝で何たらとか言っていたような覚えがある。あの時は言葉を濁されたのだったか。
 シャルードさんのような本職ではない人員まで使って誘拐しようとしたのは、もしかしてその辺りもつながっているのかもしれない。
 とはいえ、これまで言っている事からすれば、そのロストロギアが暴走を起こすには王家の人間が必要であり、こちらでがっちり守ってしまえば問題ないのでは……
 私は首をひねっていたのだが、なぜか王政府側の人達の顔色が一気に悪くなった。姫様もため息をついている。

「……王家側の方々はお気づきか。現在北の旧都に立て籠もり抵抗している筆頭にヴェンチア・ゴドルフィンが居るが、そもゴドルフィンという家名は系図を見れば百年程以前に王室より枝分かれし、その後滅びたとされている。また、20年前には現王の弟君……王子様や姫様からすれば叔父にあたる存在が唐突に死亡となっていた。その名前がヴェンチアだ。結びつけるのは容易だった」

 姫様がうつむいて頭が痛そうにこめかみを揉んでいた。
 王室のあまり話したくない話の一角というやつなのだろうか?

「シャルードの話によれば、本来の起動条件を満たすのは『王冠の女』と呼ばれるある形質を備えた王家の女性だという。しかし、厄介な事にこれは動かすだけなら、傍系……つまりヴェンチアにも可能ということだ、もっとも暴走という結果にしかならないだろうが」

 長くなったが以上で解説を終わる、諸データは各々の机の端末に入力してあるので閲覧していただきたいと言い、カーリナ姉は席についた。
 誰が漏らしたか判らないため息が聞こえ、事態に呑まれていたようだった会場もぽつりぽつりと会話の声が増え始め、やがてそれは活発な議論となる。
 こういう会合を開いた以上腹案はあるのだろうが、まずは議論の中で理解してもらう事を考えたのかもしれない。グレアム提督は腕を組み1人静かに瞑目していた。

   ◇

 夜半から降り出した雨で路面が悪い。
 舗装などしておらず、剥き出しの地面はぬかるみ、ところどころが陥没している。
 会議のあった翌朝、私は北の旧都に向かう輸送車の中で揺られていた。
 目指すは共和政府と王政府軍が競りあっている形の前線である。
 王政府側としては最後の詰めの部分まで管理局の手を借りたくないというのもあったのだろう、難色を示していたのだが、最後は提督が押し切った形で介入する事になった。
 
作戦としてはかなり大胆な作戦となっている。
 前からうすうす感じていた事だが、ロストロギア絡みの案件になるとグレアム提督は自ら出張る事が多いような……リーゼ姉妹は何か訳ありそうな雰囲気にもなるので、軽々しく聞けるような雰囲気ではない、司令官が身を張っちゃいかんでしょとも思うのだが。
 今回の作戦に至ってもそれは同様で、提督自らが共和政府側に対する囮となり、戦線を膠着。その隙を突きシャルードさんの特殊な転移により人員を運び、敵方の本拠となっている城塞を制圧するという流れである。確かに敵方を引きずり出すための囮として見るなら、司令官なんて極上の囮なのだろうけど、うん。本来ありえない形ではある。

 制圧部隊の編成については管理局の一等空尉率いる一個中隊に加え、グレイゴースト側の人員、そして万が一の事態を想定し、ロストロギアを制御できるはずの姫様も同行する運びとなっていた。
 もちろん姫様の身に何かがあれば本末転倒なので、最初は制圧を確認してから調査隊と共に、なんて話だったのだが。姫様自身がまたもや、王室の恥は王室の手ですすぐものです、などと言いだしたのだ。ただ、こちとらもそろそろ付き合いが長くなってきている。私はその目に浮かんだ「利用できそうなネタですわねヲホホ」なんて色を見逃さない。きっと何か考えているのだろう。

 グレイゴースト側の人員については、どうもその旧都の地下にあるロストロギアがカーリナ姉の大きな目的のもう一つだったらしく、本部に打診したところ増援が合流してくるという。

「でも目的って割に、大回りというか迂遠というか何というか」

 この姉っぽくないやり方なのだ。目的を見つけたらもっとこう直線的に突っ込んでかき回して掠っていきそうなものである。
 そう不思議に思っていたのだが。

「仕方無いだろう。こちらは会長の曖昧な未来視を元に動いている身だ。さらに政情の絡みもあればそうそう好き勝手はできない」

 ……そう言えば、グレイゴーストのリーダーは未来が見えるんだっけ。地球から帰る時にその辺の事を詳しく聞こうとしたら、姉が予測タイプとか測定タイプとかこぼしていたのを聞いた覚えがある。予知にも種類があるんだと感心したものだったが。

「それで増援の人数と戦力はどんなもん?」
「む……そうだな、戦闘向きの連中が来るのだが……一人一人は魔導師で言えばAからAAクラスのランク持ちと言ってもいいかもしれん。癖が強いのでなかなか比較も難しいのだがな」

 腕を組んでそう言っていたカーリナ姉だが、ふと思い出したかのように顔を上げると私に向かって言った。

「そうだ、一人ロリコンがいるからお前は注意しておけ」
「……私はこれでももう15歳なんだけど」
「どう見ても12以上に見えん。諦めろ」

 また、真面目な顔をしてそんな事を言うので、脱力感が半端なかった。
 車がまた大きなぬかるみでも踏んだのか大きく揺れる。
 私は脱力したまま隣に座っているティーダの膝に崩れた。
身も世もないとでも言うかのように。

「ティーノ?」
「どうやら私はここまでのようだ、ティーダ……後を頼んだ、ふふ、不治の病……幼児体型には勝てなかったよ。12歳……12だってさ、あはは」

 身長だって底のちょっとばかり厚い靴履いて四捨五入さえすれば160センチになるのに。ごめんまた鯖読んだ。

「ああ……だ、大丈夫だよ、ティーノは幼児体型と言うにしては胸があるじゃないか。ちょっと前の感触だとCはあると思うよ?」

 あー、ティーダが怪我してたとこに私が転移した時か。そういえば触っていたかもしれない。確かにアンダー細いからCはあるが。
 ただ、その台詞はなんだ……鬼門じゃないかと思う。この輸送車……姉はもとよりシャルードさんにビスマルク、姫様の護衛隊の隊長含めた隊員さんも乗っているのだ。肝心のお姫様はグレアム提督や王子様と一緒に一台前の車両だが。

「ほう……感触。詳しく教えてもらおうかティーダ君」

 そんな……にやついてからかい始めるカーリナ姉を始めとし、案の定……車内は賑やかな事になってしまった。
 そんな騒ぎからそそくさと離れ、私は端っこの窓際で外を眺めていたのだが。
 まあ、緊張するのは戦場についてからで良いとも言うし、これはこれで悪くないのかもしれない。

「あらら、ティーノちゃんったら耳が真っ赤だねー」

 覗き込もうとするシャルードさんから顔を背けつつ、最後には組んだ腕につっぷしてカバーしつつ、そんな事も思う。
 ……ただまあ、ティーダのアホめ、二枚目半め、自爆に巻き込むなと心で罵るのは忘れなかったが。



[34349] 二章 十四話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/21 19:01
 物量により王政府軍が攻める。地の利、戦術をもって共和政府側が持ちこたえる。
 そんな前線のキャンプに到着したのは、正午も過ぎた頃だった。雨は降り止み、時折水たまりに太陽が反射して眩しい。
 カーリナ姉の言っていたグレイゴースト側から出されたという増援は、どんなルートを使ったのか、既に到着しており、その個性的な面々とも軽く挨拶を交わしておいた。そういえば、デュレンはそちらの組織に行っても中々元気にやっているようで、ひょんなところで消息が聞けたのが嬉しいところでもある。
 また、先だっての襲撃時に居た、いろいろ姿を変えてくる猫背の男もその中にひょっこり顔を並べていた。ええ、とリーガルさんだったけか? シャルードさんがいつぞや言っていたような覚えがあった。
 その節は迷惑をかけた、と人慣れしない様子ながらもぺこりと頭を下げる姿に目を丸くしたものだが、暗さが抜けたようで何よりだった。カーリナ姉が言うにはこの人はある意味で新種の魔法生物とも言えるそうで、珪素ベースの肉体を常に魔力を消費しながら維持しているらしい。あの時の滅茶苦茶な姿は能力が安定しないために起こったものだったらしく、ストレスを受けた深層心理の状態がそのまま形になってしまったものだとか……姉の連れてきた二人による精神への手当で驚くほど改善したという。
 しかし横合いで話を聞いていた増援の中の一人が「珪素生物?」とかつぶやいて、腰のハンドガンっぽいものに手を伸ばしていたのがちょっと怖かったのだが、何か悪い響きでもあったのだろうか。
 時間もないので、来訪者たちの特徴でもある各々の能力を確認することはできず、運用においてはカーリナ姉に丸投げする形になったのだが……まあ、あの姉ならなんだかんだで上手くやる気がする。
 しかし舐めるような視線を感じないでもない。あと五年若かったらとか聞こえてきた時はさすがにびくりとしてしまった。口の中でつぶやいただけらしいから、誰も気付かなかったけど。紫とは何の事なのか。
 
 作戦開始時刻になった。予定通りグレアム提督が囮を務め、その間に私も含む首都制圧チームが首都に突入するという事なのだが……
 今私達は少し離れた地点から戦場を俯瞰しているのだが、どうやっておびき寄せたのか詳細は判らないものの、軽く要塞化さえされている岩場から開けた草原へと、続々と敵兵がおびき出されていく。敵兵の先頭で軍を率いながら叱咤を飛ばしている姿が目についた。もしかしたら、高い地位にある将でも真っ先に釣れてしまったのかもしれない。
 私はというとその様子を見ながら、ちょっとその……そわそわとしていたのだが。

「てか、単身で囮役とかさすがに聞いてない、年考えろよ……あ、あ、ちょっとかすったし、やばいって爺さんちょっと助け呼びなって、艦長さんたち控えてるんだから、あ、ああさっきのやばかった……」

 そんな私の頭の上に乗っているロッテさんがあくびをした。アリアさんが肩に飛びのり、私の頬に頭をすりつけ、ティーノは心配症ねと言う。もふりという感触がなかなか。
 リーゼ姉妹が猫姿になっているのは省エネのためらしいが、それだけグレアム提督も厳しいということじゃないのだろうか。

「大丈夫よ、父様がお芝居を好きなのは知っているでしょう? 見るのが好きだとね、いつの間にか演じるのもそれなりに上手くなっているものなの」

 そういえば幻術魔法の応用だよとか言ってえらく器用な事をやっていた覚えが……

「特にね、もう少し押せば破れそう、もう少し走れば追いつけそう、そう思わせる演技がとても上手。だから見ていなさい、敵は罠だと思っていても、全力で突入すれば噛み破れるものと信じて疑わない」

 ほら、そろそろだよ、とアリアさんが促す。
 三方から敵に追い詰められ、上空からも空戦魔導師が追いすがる。
 いや、とうとう追いつかれ、集中砲火を直接貰ってしまった。同時に近接組が一斉に躍りかかる。
 もうもうとした土煙が晴れ──無傷の提督が細身の杖を手に立っていた。
 ……ん、杖?
 そういえば、今までデバイス使ってる姿を見なかったような。
 グレアム提督がデバイスを一撫でするように振るうと、上空に魔法陣が一つ二つ三つ四つ……たくさん。ずらぁーっとなんて言葉がぴったりくる様子で浮かび上がり。敵も味方も呆気にとられる。
 
──かなり離れているはずなのにここまで地響きがきた。

「うわぁ……」

 開いた口が塞がらない。私はどん引きした。
 多分……誘導射撃だったのだろう。大きかったけど。軌道が曲がっていたし。大量に出てきた敵兵を「逃さない」とでも言うかのように、敵軍の後ろを囲うように大きな、大きなクレバスを作りあげた。
 呆気にとられる敵兵を、まるでオーケストラの指揮者が客を一回り見るように悠然と見回し、地面を杖でとんと突いた。

「さあ、諸君。ここからが開幕だ」

 不思議と戦場なのに朗々とした声が響きわたった。

   ◇

「どうやらお父様は作戦を少し変えたみたいね」

 とアリアさんが相変わらず私の肩に乗って言う。
 よく釣れたので、膠着ではなく制圧を狙うのだという。確かにこう、遠くから見ると待機していた部隊が大回りに敵の陣地に向かって行くのが見えた。
 当のグレアム提督はというと。
 ……良い例えが浮かばない。
 言ってしまうならラスボスだろうか?
 しかも弾幕ゲームの。
 私達の居る位置からもしっかり見える程に巨大な魔力スフィアが空中に浮かび、誘導弾が嵐のように飛びかい敵陣を蹂躙している。
 アリアさんはその見た目からプロミネンスとか言われる魔法だとか言っていたが、いやいや、いやいや。オーバーSランク魔導師やばい。私の周囲に居る味方の連中まで口が引きつっている。
 ティーダは何かわくわくした様子で見とれてしまっているが。
 ビスマルクもまたうずうずとした様子で拳を握っているが。
 そろそろ行動せにゃと声をかけても聞こえていない。指でつんつんしても気付かない。
 シャルードさんに目を向けると肩をすくめて見せた。

「提督はどうも年頃の男の子には目の毒みたいね」

 何故か目が合って妙に以心伝心。同時にこくりと頷いた。
 デバイスに魔力を流し、ツッコミモード起動。
 今回はシンプルに表面に100tと書かれているものだ。
 おもむろに振りかぶり──

「……ちょっ、待! 待って!」
「待たない」

 ぱぁんと良い音がしてティーダが二メートルほど吹っ飛んだ。
 クッションのような形に魔力を纏わせているので、このくらいにしか使えないが、バリアジャケットとぶつかるとクッション部分の魔力が破裂して派手な音になるのだ。
 ツッコミにはもってこいだった、怪我しないし。
 隣ではいきなり仰向けに転移させられたビスマルクが後頭部を打って頭を抑えていた。
 
……緊張感のないやりとりもあったものの、グレアム提督が大暴れしている合間に、シャルードさんの転移で次々と武装隊が運ばれていく。
 一見便利に見えるのだが、何でも通常の転移魔法とは少し違うそうで、一度に運べる人数や距離についても、その都度調整が必要で次元移動が可能なわけでもないという。

「別にキューブ状である必要すら実はないんだけどね、ま、ノルニルっぽくなったからにはこういうのが無いと格好付かないでしょっ……と」

 ノルニルってなんやねん、そんな私のツッコミにも反応せず、転送用の、もはや目にも馴染んでしまったグリーンの魔法陣を起動させ、また一小隊ぶんを送り出した。これで武装隊は全て送り終わった事になる。
 疲れたぁ、と息をつくシャルードさんにディバイドエナジーで燃料補給。ちょっとまだ慣れてない人の波長なのでロスが大きい。

「ありがと」

 そう言って私の頭を撫でてくるのだが、ひょっとしてと思って言ってみた。

「シャルードさん……車の中で話は聞いてませんでした? 私これでも15ですよ」

 ぴたりと手が止まる。ま、いっか、ミニマム娘は正義だし。などとつぶやきが聞こえ、また手が動きだす。
 年齢を言ってもこういう扱いを覆すことはできないようである。私はがくりと肩を落としてしょぼくれたのだった。

   ◇

 共和政府の拠点となっている旧都の制圧は着々と進んでいた。
 私達が最後に転移した頃には既に先発した武装隊が城塞の二分の一は制圧していた状態だったと言っても良い。非公式だがエース級とも言われているリーゼ姉妹……私の知る限り、次元世界で最強の猫が加わっているとはいえ、仕事早すぎである。
 もっとも、伝えられた情報によると、共和政府軍は城塞の方をお留守にしているようだったので、奇襲が完全にはまった形となったのが大きいようだが。
 そして元首も含む首脳部も拘束され、会議場に使われていたらしい円卓のある部屋に集められていた。

「ヴェンチア・ゴドルフィンがいない?」

 ティーダが困惑気な声を漏らした。
 顔写真は行き渡っているし、そうそう逃すものでもないと思うのだが。
 カーリナ姉が、一番偉いのに聞いてみるとするか、と頭を巡らし、一人の人物に目を留める。
 苦々しげな表情で、捕らえられている初老の元首が口を開いた。

「奴なら地下に行ったよ、この期に及んで遺跡いじりとはな、信じたわしが愚かだったのかもしれんが」

 そう言って深く項垂れた。事前に渡された情報によれば田舎の地方領主の息子……それも三男だった人だ。共和思想に共鳴し自らも精力的に動き、体制を作り上げた人だった。ヴェンチアが軍事を担当するならこの人は行政をまるまる担当していたと言っても良い。その心中はいかなるものか。
 私は頭を振ってそんな安い感傷を追い出す。
 最大の標的であるヴェンチアを逃した。突入タイミングを誤ったとも、読まれていたとも考えにくい。偶然としか思えないが……なんて間の悪い!
 皆の顔にも緊張が走っていた。
 こっちよ、と勝手知ったる人の家と言いたげなシャルードさんに導かれ、貨物運搬もできそうな巨大な昇降機に乗りこんだ。武装隊が集まるのを待っている暇はない。実質的な戦力はグレイゴースト側に頼らざるを得ないようだった。

「おおお、いかにも最終決戦の舞台っぽいな、やべえ、楽しみ!」

 なんてはしゃいでいる脳味噌筋肉男も一人混じっているが放置しておこう。またシャルードさんに注意されてるし。
 私は地下に行くに従い、強く流れる魔力の流れを感じていた。
 いつぞやの海鳴でも感じたこの感覚……先だっての会議では姉に言い得て妙とか持ち上げられたのだが、申し訳ない事に私の体感だとこう……風呂釜のお湯を抜くときの水流に近い。渦を巻いて魔力が流れている感じがする。それも海鳴で感じたものとは流れの強さが大分違って、これだと上手く飛べるかどうか……
 あ、いや地下で飛ぶってのも変な発想だったか。
 そんなとりとめのない事を考えているうちに一番下まで下りきったようだった。
 私達は扉が開いた瞬間来るだろう攻撃に備えシールドを張る。
 重々しげな機械音を立てながら扉が開いた。
 ……攻撃がこない?
 サーチャーで敵影が無いことを確認するとシールド魔法を解除する。
 扉から出ると広い空間だった。
 天井までかなり高さがある。空間の支えとなっている何本あるか判らない石造りの柱は、風雨に晒されないためか、表の建造物よりも綺麗なぐらいである。
 ほとんどが石造りになっているのは外の建築と同じで、壁際には飾り棚や装飾もそのままに残されており、盗掘の被害にあったこともなかったようだ。

「地下遺跡といえばゲームなら迷宮があるものだけど」

 ティーダが周囲を見渡しながらつぶやく。
 調査作業用に設置されたものだろうか、照明がところどころに設置されており、それに照らされ、作業に使われていただろう機材などが無造作に置いてあったりする。

「見取り図だと判りにくかったかもしれないけど、地下と言っても神殿を埋め立てて、その上に城を築いたようなものだったからね」

 地震がないからこそ出来る建築よねえ、と少し脱線気味にシャルードさんがぼやいた。

「構造は簡単よ、前の方に演説台みたいになっているところがあるでしょう、ここは多分民衆を集めて何事かを告げる場所だったのでしょうね」

 そう言って奥の通路を指し示した。

「その先に扉があるわ、保管のために新しくしつらえたものだけど。そこを抜けると立方体の不思議な形状をした空間……祭壇の間と言った方がいいかもしれないけど、その中心に天の門が設置されてるの」

 天の門というのは会議でも出た、鳥居によく似たロストロギアの事らしい。どこにでもありそうな名前だが、同時に発見された碑を解読した結果、そんな名前だったようなので、こちらはロコーンのような暫定名ではなくその名前で呼ばれる事になったのだった。

「よっしゃあッ!」

 元気な掛け声一発。チームの連帯何とやら、全く後先考えてなさそうなビスマルクが駆け込んでいった。

「全くあいつは……とはいえ、行動は正しい。今は拙速を尊ぶ時だろう──行くぞ」

 と、カーリナ姉が言い、私達もその後に続く。いや、続こうとした時だった。
 
 どくん、と空間が脈を打つ。
 いつか覚えがある……気色の悪い感覚。今なら判る。空間に漂っていた魔力が逆流し、全く異種の魔力がこの世界に流れ込んできている。それはこの先の広間である場所に集束しているようだ。リンカーコアが共鳴している。自然と漏れ出してしまった魔力を私は意識して制御しなければならなかった。
 そうだ、この感覚。
 アドニアが死ぬ前に感じた……いや、起動されてしまったのか?
 異変は皆も感じとったようだった。一瞬目配せをし、無言のまま足を速める。
 ビスマルクが例のごとく力業で何とかしたらしい扉を抜け、緊張の面持ちで祭壇の間に突入した瞬間。

 爆音がした。

「うおおおおおおおッ!」
「人だとぉぁあ!?」
「ぎゃああッ」

 人影が飛んできて前列を走っていた武装局員が巻き込まれごろごろと……うわぁ……
 一番後列で良かった。

「な、何が起こったのですか?」

 姫様が目を丸くしながら驚いていた。
 腕を掴まれているティーダも事態がよく飲み込めてない。
 私は動体視力の良さゆえがばっちり見えていたのだが。

「ええっ……とですね、ビスマルクがグルグル回りながら飛ばされてきて、前列に突っ込み、複数人を巻き込みながら地獄車を再現してみせました」

 未だもうもうと煙る埃の中に居る連中を指さしておく。影しかまだ見えないが……バリアジャケット着ていたし、大丈夫だよね? 人影がぴくぴくしているように見えるのは気のせいだよね?

 やがて立ちこめる埃の中でむくりと立ち上がり、手で払うようにしながら姿を現したのはやはり。

「うへえ、堅ェーなおい」

 首をコキコキ鳴らして楽しそうに笑う。
 巻き込まれた局員達も先頭で防御魔法を張っていた事もあり、衝撃をしのいでいたようで、何とか立ち上がっていた。
 やおらビスマルクが私達をぐるっと見回すと、表情を真剣なものに変えて言った。

「気ぃつけな。やっこさん、とんでも無く堅え結界の中に居るぜ。表面上何もないようにしか見えねえけどな」

 不用意に蹴り入れたら俺が吹き飛んじまったい、そんな事を言って飛ばされて来た方向を見つめる。
 その先には見取り図でも示された通りの鳥居……いや、実際に見るとかなり違うか。ロストロギア、天の門なるものがあった。その柱にはいつかも見たような朱い発光する文字が縦横に走っており、時折魔力の波がさざなみのように表面を走っている。
 その手前には何かを供えるかのような腰の高さほどの黒っぽい石台が設置されており、傲然とした顔で腰を降ろしている男の姿があった。
 やはりどこか王に似ている、データに載っていた年より若く見えた。それほど長身ではないもののがっしりした体つきに無造作にオールバックで整えられた黒髪。口髭を蓄え、爛々と光る目はひどく野心的だった。

「来たか、王冠」

 肩頬を歪ませ、低い声でつぶやく。これだけの人数に囲まれてもなお、その目は姫様のみを捉えている。
 重々しげに立ち上がり手を広げ、まるで劇の一舞台でもあるかのように芝居がかった仕草で言った。

「見ろ、我らが先祖達の残した遺産を。何故これほどのものを封じていたのか理解に苦しむ」

 そんな台詞を吐いている間にも私達が攻撃を加えていたりする。空気を読んでやったりなどはしないのだ。今のところ全て障壁のようなもので阻まれてしまっているが。

「もっとも、この俺では本来の機能通りに動かす事も出来んようだが、この通り資格者を守るための機能は働いているようだ……ふん、賭けだったがな」

 世界が耐えられないとでも言うかのように、大きく動いた気がした。
 実際の震動さえ伴うそれに建物が耐えられず、ばらばらと滑落する音がする。
 次元震が起き始めた。それはより巨大なものの前触れであるかのようにゆっくりと長く続いている。
 さすがのビスマルクも顔をひきつらせながら、いつか見た凄まじい威力の技を放つ。合わせて射撃魔法の使える者で集中砲火を一点に浴びせるも……効果が出ない。
 あんたは自分が何をしているか判っているの! とシャルードさんが問いかけるも、ヴェンチアは有象無象の言葉など耳にも入らないかのように無視し、姫様から視線を動かさないでいる。

「来い王冠の女、ナティーシア・ノウンファクトよ。このまま俺を放置しておけば、この世界が滅びよう。手に入らぬならいっそ……などとは子供の理論だが、追い詰められた権力者には相応しいやり方だろう」

 自虐なのか何なのか判らないような事を言って、ふはははと笑っている。おいおい……

「ティーダ、あれ完全に開き直っちゃってるようにしか見えないんだけど、どう思う?」
「考えたくなかった最悪のシナリオだね……」

 いつかも見たクロスファイアに使うようなスフィアを一点に集中、一発の威力を高める撃ち方で放った。
 私もそれに合わせて出せる最大威力の魔力弾を撃つ。
 今度は来訪者さん達のもつレアスキル認定されるような能力も同時に着弾した。
 1回はタイミングが合わずに空振ったが、これなら……

「通った……か?」

 誰かが言ったつぶやきが聞こえた。
 相変わらず異様な魔力はこの空間にどんどん流れ込んでいる。いつ、次の次元震が起きても不思議ではなかった。冷たい汗がこめかみから伝うのを感じる。

 煙が晴れると、相も変わらず平然としている姿があった。
 シャルードさんが忙しく分析作業のようなものを進めているが間に合うのだろうか?

   ◇

 状況の悪化は既にリーゼ姉妹、散開している武装隊、グレアム提督にも伝えられているが、時間的に増援は……手詰まり感が漂う中、後ろでシャルードさんと何か一言二言言葉を交わしていた様子だった姫様が不意に歩き出た。

「姫さ……」
「下がりなさい」

 止めようとした私とティーダを一言で制す。

「手立てはないのでしょう。いかなる結果になるとしても世界が崩壊するよりはマシというものです」

 止める事は簡単だった。
 バインドでもかけてしまえばいい。
 姫様の魔力に関してはよく判らないが魔法を学んでいた様子はなかった。
 ただ、言い返す言葉もなくて──

 そんな為す術もない私達を、優越感に満ちた笑みをもって眺めるヴェンチア。そのもとに一歩一歩姫様が歩いていく。
 少し高台になっている祭壇への緩やかな階段を上り、私達が攻撃しても攻撃しても弾かれてしまう場所に足を踏み入れ……そのまま通りぬけた。

「やはり、お前を有資格者と認めているようだな」

 ヴェンチアはそうつぶやき、来よ、と姫様をさらに石台の近くまで招く。


「……ッ!」

 息をのんだ。
 ヴェンチアが後ろを向いた瞬間、姫様がどこに隠していたのか判らないナイフをつきだす──が、気付いたヴェンチアの腕をかすめ、かすり傷に留まってしまう。
 かすり傷? 魔導師ではない?
 そんな一瞬走った思考も、目の前の光景を見てどこかに飛んでいってしまった。
 姫様の腕を後ろ手に捻り、ナイフをもぎ取ったヴェンチアはその後ろから抱きかかえるような体勢のまま笑う。

「……なんと王族にあるまじき悪い手だ、ふむ、ふむ……こんな手はいらんな」

 湿った枝を無理矢理へし折ったような音がした。

「あ……ぐ、あぁ」

 ぱくぱくと口を開き、声にならない声をあげる。
 大きく開かれた目からは反射的なものからか涙がこぼれた。
 ヴェンチアはその涙を舐め取り、よく味わうかのように口を動かす。
 崩れ折れそうになる姫様を抱き支え、器用にナイフを使い、服を引き裂いた。こちらを向いて、口を開く。

「そこで見ているが良い、王冠の配偶たるに相応しいのはこの俺だと。そしてなにゆえ王冠の女と呼ばれるのかを」

 その権限、貰い受けるぞと言ったかと思うと、姫様の唇を乱暴に奪った。痛みからか嫌悪からか、あるいは両方か、悶え、もがく姫様を後ろから抱きすくめ、右手はさらに残っていた衣服を引き裂きにかかった。

「やめろ!」と誰かが叫ぶ声が聞こえる。
 怒りに駆り立てられた乱暴な構成の魔法が飛びかう。
 接近戦をしかけ、雷光が飛び、炎が走る。
 その全てが届かない。
 そう、届かない。
 だからどうしたというのか。
 ティーダが血相を変えて私に何か言っていた。
 よく判らないが心配しているようだった。
 何か……何か言っておかないと。こいつに心配かけるのはなんか嫌だ。

「大丈夫、ちょっと、思い出しただけ」

 唇から血が垂れていた。知らずに噛んでいたらしい。
 舌で拭うと鉄の臭いが鼻につく。
 水滴が落ちている、私も涙を流していたらしい。
 ああ……ああ、酷いフラッシュバックだ。
 本当に、胸がむかついた。
 何も考えずに地面を思い切り踏みつけ、加速する。
 デバイスには既に魔力刃を展開していた。
 障壁があるだろう場所に思い切り叩きつける。
 ぱぁんという音と共に弾かれ、デバイスが宙を舞った。
 ……まぁ、いいか。
 拳を握りしめ殴りつけ──

「お?」

 空振った。
 とっと、なんて思わず口から漏らしながらたたらを踏んでしまう。
 顔を上げればヴェンチアもまた間抜けな顔で口をぽかんと開けている。
 少し疑問を覚えたが、とりあえず今は私もちょっと頭回らないし、何というかうん。
丁度いいや。
 前に一歩踏み込む。背中で違和感を感じたが構わない。地面を蹴りつけ、腰の回転も利用し右下からアッパーの要領で殴りぬいた。
 馬鹿なとか言いたかったのかもしれない。ぶろうわくば、としか聞こえないような声をあげて吹っ飛ぶ。
 私はそのままの姿勢で息を吸い、吐いた。沸騰しそうな程に煮えていた気分を少しでも鎮めようとする。少しは納まった。

「ん……なんだか判らないけど、よし!」

 私は何となく拳を高く上げ、ガッツポーズを決めたのだった。



[34349] 二章 十五話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/21 19:01
 世界が揺れ動く。
 どこかで瓦礫が崩れる音がした。
 ……何をこの忙しい時にガッツポーズとか決めてるんだ私。
 はっと我に返ると少し前のテンションを恨みたくなった。いや、頭抱えて部屋を駆け回れるような状況でもないのだが。

「ティーノ、障壁はどうなって……ッ!」

 ティーダが私と同じように通り抜けようとするとやはり障壁に阻まれた。
 どういうことだ?
 いや、考えるのはとりあえず後回しにしないと。

「姫様……」

 振り向くと折れたらしい腕を抑えながらも、私を見て驚いている様子だった。

「ティーノ、あなたその背中……」
「……え、あれ。魔法解けてる、何で!?」

 私の幻術で隠していた翼が丸見えだった。いやバリアジャケットも解け、そんな翼があっても着れるように改造した普段着になってしまっている。
 変な違和感は確かに感じたが、もしかして認証システムに加えて魔法も使えないとか? ああもう訳判らん、ややこしい!
 いや、いや。今はこの……暴走の留まるところのないロストロギアの制御が問題である。
 いろいろと頭の中では「ばれたまずいアリアさんの説教くる」とか「変に思われる、見るな私を見るな」などといった声が巡っていたのだが、それは置いておく。地下空間の崩落も始まっている。緊急事態すぎるのだ。

「ひ、姫様、そんな事より制御を」
「あ……え、ええ、そうね!」

 シャルードさんから手順は教わっていたのだろう。
 迷いなく石台に近づき、左手の指を噛み、少しくぼみとなっている部分に血を垂らした。
 どこかで聞いたような文言を唱えると、石台に複雑な文字、発光するそれが浮かび上がり、くぼみとなった部分に魔法陣が描かれ、朱色の魔力スフィア、手の平に乗るほどの大きさのそれが生成された。
 姫様はそこに手をかざし。目を瞑る、口元が何か話すかのように動いているところを見ると、念話のようなもので命令を伝えているのかもしれない。
 やがて際限なく、波打つように流入していた魔力が安定した流れになりはじめた。

「そうです、姫様。まずは経路を安定させ、この空間内に輪を描くように循環させてください。元の世界にそのエネルギーを戻すための仕組みについては、私が組む事ができます」

 シャルードさんがいつしか近くに来てそう声をかけている。
 緊張ゆえか額に汗を流しながら姫様が一つ頷いた。
 ある程度やり方に慣れてきたのか、さほど待たずに魔力が螺旋を描くように空間内を舞った。やがてそれは姫様が手を差し伸べている石台の前方、ロストロギア、天の門の前辺りに、糸を丸めるかのように球状にまとまり始める。不安定さは消え、次元震らしきものも感じられない。この後の始末があるとはいえ一つほっとした……その時だった。

「ひ……姫様?」
「駄目、駄目……制御が……制御が効かない……」

 一旦は安定したかに見えたそれは完全に安定する直前、突如暴れ出すかのように暴走し始めた。
 得体のしれない魔力は今や荒れ狂うかのごとく流入し、世界に穴を穿っている。
 文字通り世界が落剥した。
 見慣れぬ空間、私も教科書でしか知らない虚数空間なんてものが口を開けた。
 ──どうしたら、一か八かで封印魔法を? 障壁に阻まれる、いや試す価値は。ただし今まで試した事もない、本当のぶっつけ本番に。いやそれならティーダが適任なんだけど、障壁を抜ける方法は。
 刻一刻と迫る状況に頭も働かない。
 何か手はないのか、何か……何か!
 私がそんな事を思った時だった。

(よばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん)

 幻聴が聞こえる。しぶとく生きてきたつもりだったけれど私もこれで終わりなのだろうか、最後が懐かしのアニメ特集でたまに聞くような台詞だなんて勘弁してほしい。

(……ティーノ、バレンタインの日にこっそりチョコを作って、ティーダに渡すのも意識してるようで嫌だな、でもあげたいな、とか散々迷っているうちにミッドにそんな風習ないのを思い出して自分で食べたよね)

 無言で頭を抑えてうずくまった。
 思い出させるな人の黒歴史を……

「って……ええッ?」

 いつぞやの亡霊さん、消えるとか言っていなかったか? しかも今はばっちり起きている最中だというのに……もしや。

「この出来事は夢?」
(そんなわけがない)

 そうだよね……思わず頬を引っ張ってしまったよ。ひりひりする。

(懐かしい感覚だったので表層に出てきただけ。説明は後、コントロールスフィアに手を置いて)

 コントロールスフィアって姫様が手を置いているあれか……いやしかし、ここで私がしゃしゃりでるってのはちょっと……やります、やるからこれ以上私の記憶から変なものを拾い上げてこないで。
 今度は施設に居た頃の失敗話などを亡霊さんに持ち出されかけ、慌てて止めた。どのみち、ふざけてる時間もないし、他に手も浮かばないんじゃやるしかない。
 私は姫様の横に立ち声をかける。

「姫様、説明してる暇もないのだけど、替わってください」
「……ティーノ、何か手があるのですね?」

 なぜかちらりと私の背中に視線を飛ばし、すんなり交代してくれた。
 私が替わってスフィアに手を伸ばすと脳裏に様々な情報が……視覚的に伝わる? どこの文字だろうか、姫様なら読めたのだろうけど。多分これが操作法になっているのだろう。

(1755983ad,1e1b3db4d,1ca4f6332366e6)

 十六進数?
 私の中に居るのだろう古代の亡霊さんがそんな数字を入力したようだった。本当は百進数なのだとか、何その進数。
 というか、入力できるのか……実は私の体も操れたりするんじゃなかろうか……いや、あはは、まさかね。

(ときどき夜中に男漁りを)
「いやあああああ!」

 どうしたのですかティーノ! と心配してくれる姫様。すみません、私の中の亡霊さんが洒落にならないネタを飛ばしてくるんです。気付かぬうちにご近所様から白い目で見られるような事は勘弁してほしい。
 というか、心の奥底から聞こえてくる私ではないワタシとか厨二病的な存在もここに極まったものである。
 状況は限りなくシリアスだった。そんな中、私一人だけアホな悩みに悶えていたのだが。その間にも吹き荒れていた魔力は一変した。少し前と同じように巻かれた糸のごとく、球状に集束している。
 私にスフィアより伝わる情報でも何というか、緊急停止スイッチが押されたかのように数値の動きが少なくなっている。

「うそ、制御された?」
「ティーノ、肝心のあなたが今疑問系ではなかったですか?」

 姫様……腕折られて痛いでしょうに脂汗流してまでツッコミますか。
 ともあれ、これで……後はシャルードさんに任せれば良いわけだ。翼の事もあるし、何でかロストロギアを操作できた亡霊さんの事もあるし、今後が凄まじく頭の痛い事ではあるけれど。
 と、気を緩めたのがいけなかったのかもしれない。本当にまたか、と言いたい。
 殴り飛ばされていたヴェンチアが跳ねるように飛び起き、集束した魔力の元に走った。
 コントロールスフィアに手を置きっぱなしなものの、咄嗟に姫様を庇うように構えた私には目もくれない。

(いけない)

 亡霊さんがつぶやきのように言った時だった。

「俺の願いを叶えろ! ノウンファクトの遺産よ、貴様が伝承通りのものならば!」

 そう叫び、ヴェンチアは集束した魔力の塊に手を伸ばし、触れた。
 音はしなかった。
 光りもしない。
 ただ、ヴェンチアが消失した。

「一体何が……え?」

 スフィアより伝わってくる情報がアラートを示している。
 この文字は判らないが、危険なのは判った。
 何しろ……またもや、制御が効かなくなっている様子だ。しかも今までになく激しい。

「ティーノ! ティーノ! どうしたのですこれは、ヴェンチアが何かをしたのですか!」

 姫様が取り乱して聞いてくるが私だって分からない。

(無形の力。かつての私達を支え、文明の基となった力。法則を与えるもの)

 亡霊さんがそんな事をつぶやくように……頭の中でつぶやかれるというのも妙な話ではあるのだが、言った。
 法則を与え……?
 ならヴェンチアが最後にやったことは……
そんな事を考えてる合間にも再び世界が揺れを起こし始める。

(どう作用したかは判らない。おそらく暴走……このままではこの世界が保たない)

 どうすれば……手立ては?
 そう問うと少し言い淀んだようだった。

(あなたたちが呼ぶ天の門、あれには結ばれてる向こうの世界に力を戻すための機能はあるはず)

 ただし、とその平坦な声に少し悔しそうな響きが混じった。

(以前言ったように、私はデータとしての記憶しかない。その機能がどう作用するのかは不明)

 流入する魔力はさらに激しさを増した。
 不思議な形になっている空間の壁も削られ、瓦礫が落ちていく。
 私は一瞬目をつむり、開けた。

「ていっ」

 当て身一発。
 古典的にきゅうと言って気絶してくれた姫様をティーダに放る。ぞんざいな扱いは許してほしい。文字通り手が離せない。
 障壁ぎりぎりで立っていたティーダはナイスキャッチ。

「ティーノ、何を?」

 不審気な顔で聞いてくる。それも当然か。

「ティーダ、姫様連れて逃げて。解決できそうなんだけど、何が起こるかちょっと判らないみたい」
「馬鹿な事を……」

 私はストップと手で合図した。
頭の中で亡霊さんよりカウントが告げられる。

「議論してる暇はないよ、早く行って。あと90秒」

 周囲を囲んでいた局員やグレイゴースト側の人達にも声をかけ、避難を促した。私みたいな平局員の言う事を信じてくれるか不安だったがカーリナ姉がまとめてくれたようだ。

「ティーノ、余計な事は言わんがとっとと作業してこい。打ち上げは地ビールを用意している」
「未成年に飲酒は……今更か。確かこの世界、ヴァイスブルストに似たソーセージがあったからそれお願い」

 用意しておこう、とカーリナ姉はまた無駄に格好の良い笑みを浮かべて走り去った。
 スフィアから伝わる情報はあと40秒らしい。私には読めないのに亡霊さんが通訳代わりとは何とも言えない感じがする。

「で、後どんくらいでえ?」
「さっき90秒って言ってたとこから数えると30秒少々じゃない?」

 ……うおい。
 人がせっかく格好つけて、死亡フラグどんと来いの覚悟決めて逃がしてたのに、この二人は。
 見ればティーダも戻ってきてるし……
 私は頭痛を感じてうつむいた。

「まあ、私は研究者としての好奇心だし、この脳味噌まで筋肉の男は、不完全燃焼なだけでしょ」
「おおよ、あれだけラスボス然としていながら自滅じゃなあ……何起こるか判らねえってんなら最後まで見届けさせてもらうぜ」

 まあこの二人は仕方無いというか、立場的にも一番好き勝手出来る立場だし。
 ただもう一人……立場も責任もある奴をじろりと睨め付ける。

「ティーダ……姫様の護衛はどうしたのさ」
「本職の隊長さんに任せてきたさ」
「えーと、割と本格的に危なそうなんだけどティアナちゃんの事とか考えたりしなかった?」
「むぐ……い、いやしかし、僕も逃げてしまうのは……さすがに男としてきついというかなんというか、ああうう」

 頭を抱えるティーダ。
 何故かビスマルクが気の毒そうに肩を叩いている。
 ため息を吐きたいのは私だっての。もっとも、その時間も無さそうだが。
 亡霊さんが時間だよ、と頭の中で囁いた。
 天の門に刻まれている朱色の文字、その輝きが一層増した。世界が割れ、いつしかも感じたかのような浮遊感も一瞬。
 いつかの焼き直しのように、まるで法則が違い、引力は反発し、質量は実体を持たず、水は気体でしか存在できないかのような空間に投げ出された。
 やばいまずい嘘死ぬ死ぬ嫌嫌、さすがに同じの二度目は勘弁!
 パニックを起こしそうになったが……

「あれ?」

 普通に息が出来る。
 堅くつぶっていた目を開けると、そこは不思議な空間だった。

   ◇

 私は道を歩いている。
 どこか作り物めいた道だった。
 幅は2メートルほど、縁石には気味悪いほど同じ大きさの石が並び、道は細かい白い砂が敷き詰められている。
 両側は深い森が広がり、人が入れるような隙間は無い。
 ティーダが回収していてくれた私のデバイスを起動させると普通にバリアジャケットを展開できる。魔法は使えるようなので虚数空間のどこかなんていうとんでもない話でもないようだが。
 飛んで遠くを見渡してみても不自然なほどに森が広がっている。川すら見あたらないのだ。
 まるでおとぎ話の中にでも入り込んでしまったかのような気持ち悪さがあった。

 私……いやアドニアはロコーンの暴走に巻き込まれた形で死亡した。何で今回は無事だったのか不思議だったので亡霊さんに聞いてみれば、アドニアの時の方は全く制御していない、本当の意味での暴走だったそうで、その差が現れたのではと言っている。
 この世界については知識にないらしい。もしかしたら、と言葉を濁していたので何か思い当たるふしはあったようだが。
 私の近くに居たティーダ、ビスマルク、シャルードさんも同様に転移されており、直後はあの法則がばらけるような感覚を味わったせいか、ひどく気持ち悪げにしていたものだった。
 もっともシャルードさんなどは興奮して、例の黒いキューブやら、工具のように見えるものやら、人形にしか見えないようなものやら、どこからか取り出して計測だろうか? 作業に没頭していたのだが。
 それをただ待っているだけというのも芸がないので、ビスマルクを残して、私とティーダでその単調に伸びている道に沿って探索している。
 あの得体のしれない魔力、亡霊さんは無形の力とか言っていたか。その出元の世界だとすると何が起こっても不思議じゃない気がする。転移魔法はシャルードさんが計測を終えるのを待って相談してからだが……時折飛行で横の森を上空から観察しながらも慎重に進んだ。
 ……20分程も歩いた頃だろうか、あまりの単調さに辟易しながら歩いていたら前方から人影が見える。
 少し待てば見えてきたのはティーダだった。

「ティーダ、逆方向に行ったはずじゃなかった?」
「君こそ……もしかして空間がループしているかな」

 理解早いよ……結界魔法には詳しくないので何とも言えないが、そういう種類のものもあるのかもしれない。
 他に何か説明できるとしたらば……

「いや、もしかしたら、私の前のティーダは本物じゃないのかもしれない」
「誰かが僕の姿に化けているって?」

 確認してみようか、本物しか知らない知識で、と私は横に並んで歩いて言った。とりあえずティーダの歩いてきた方向に進めば、元の地点に戻るという事になるのだろう。

「質問です。ティーダの毎月欠かさず購入している雑誌の名前は?」
「月刊GUNG-HO-GUNS」

 ピンポンと指を立てる。ミッドで流通している銃とか剣とか質量兵器の専門誌だ。何でも12人プラスアルファの記者が作っているらしい。たまに読みながら、ティアナにダブルファング……とかつぶやいているので私はとてもとても警戒している。この兄は自分の趣味で妹を染めるつもりのようだった。

「次の質問、最近ティアナちゃんがお手製で作っているものは何でしょう?」
「え、ええともしかしてジャム?」

 正解、ともう一つ指を立てる。作るといっても、私との共同作業だけども。踏み台に乗って真剣な顔で鍋をかき回す姿はキュンとするものがある。いろいろな果物を買ってはジャムに仕立てているのだった。すでに出来たジャムの種類は10を超えている。

「二問連続正解、調子良いですねティーダ選手、では次の質問です。ティーダ君が何かの機会で貰ったものの何となく捨てきれないコールガールの名刺3枚。その隠し場所は?」
「本棚二段目の辞書のな……って待った! 何でそれを!」

 はい正解、お年頃で興味しんしんですね、と指をもう一つ立てる。肩を落とすティーダの背中を叩いて、気を落とすなよボーイ、と慰めておいた。
 そんなおふざけをしながら歩いていると、やはり前方に元の地点が見えてきた。
 シャルードさんが手を振って、おかえりーなどと言っている。

「どうだった?」
「どうも何も……」

 ループ空間に閉じ込められている事を説明すると、さもあろうとでも言うかのように頷いた。

「ティーノにもこの空間のことは判らないのね?」

 私は頷く。

「じゃあ推論を言うけど、多分この空間は天の門がその使用者に付与した保護結界のようなものだと思うわ。あまりにも作り物めいているし、計測した魔力値にもゆらぎがなさすぎる」

 そしてあの法則が乱れる感覚、と思い出したのか身震いをした。

「おそらく、結界の外側はそういった空間が広がっているはず。そしてヴェンチアの最後の言葉、伝承、結界の特性、それをつなげるととても面白い推論も出来るのよね」

 気を取り直すかのように目を上げ、私達を見た。

「神様って信じる?」

 私とティーダは揃って一歩下がる。

「すいません、うちはちょっとそういうのは……」

 お断りしますと手を振った。

「……二人とも息が揃ってるのはいいけどね、ちょっと真面目に聞いてね」

 シャルードさんは、頭が痛むかのように額に手を当て、ぼやくように言った。私はティーダと顔を見合わせ、あらためて向き直る。

「カーリナから聞いているかもしれないけど、来訪者達の中でも神様に会って力を与えてもらったとかそういう話がちらほら出てくるの」

 ああ、そういえばそんな話を聞いたこともあるかもしれない。

「かく言うあたしもそのクチなんだけどね。そこの脳味噌筋肉は別に神様みたいなのには会わなかったらしいし、かなり個人差はあるんでしょうね」

 そう言ってシャルードさんは指先に魔力を集中し空中に何か文字のようなものを描いてみせた。

「いろいろ端折るけど、私も力を貰っちゃったわけよ、レアスキルとも言えるかも知れないけど……私から言わせて貰えばこれも魔法の一形態に過ぎないわね」

 しばらくふわふわと空中に残留していた文字はゆっくり溶けて消えていく。

「ただし、魔導師とは魔力の運用法も成型法も違うの。ティーノはそちらの付き合いも多そうだから気付いたかもしれないけど、来訪者はそのほとんどが通常の魔法を使えない。リンカーコアはあるのに。なぜ?」

 気付いてなかったですええ……もしかしてビスマルクとかバリアジャケット着てなかったりしたのだろうか。私思い切り空から地面にたたき落とした事があるのだけど……うわ、なにそれ怖すぎる。

「答えはその能力を使用するための肉体の構成になっているから。そういう意味で言えば、ミッド魔法で言う使い魔、それも特殊用途用に改造した個体というのが最も近いのかもしれないわね」

 しかし、自分達を使い魔扱いするとか何やら空気が重い話に……なってないな。研究者の目だ。

「本題はここからでね、その神様から貰ったはずの私の能力。それによって作り出すことの出来る結界とここの結界がよーく似ている事なの。さらに言えばノウンファクトに伝わる伝承……神の門を携えた御使いの降臨譚、ヴェンチアの、願いをあたかも叶えられるかのような最後の一言」

 神様でないにしろそれっぽいのが居てもおかしくないでしょ? と言って肩をすくめた。

「ま、そんなわけで行くわよ」

 すごい軽く言ってまた、どこからか取り出した歪な短剣? まるで雲型定規のようなそれを取り出した。
 おりゃ起きろ、とビスマルクを蹴り飛ばしている。

「行くって……?」
「まーまー、ティーノちゃん。お姉さんに任せておきなさい。さっき言った通り私の手持ちの札である魔法とここの結界の構成はよく似ているし、アクセスも容易って事……よっと」

 その台詞とともにシャルードさんが地面に歪な短剣を突き立てた。
 一瞬目眩に似たような感覚が襲う。
 鈴が鳴るような音をたて、世界が壊れた。

「んーふふ、もしかしたら世界の根幹に関わる本質的な魔法にも手が届いたりしてね」

 当のシャルードさんは鼻歌などを歌ったりしているが、風景はかなり怖い。
 突き刺さった短剣を中心に半径5メートル程が結界に包まれているようで、その外側は……何というかカオスな空間だった。
 虹色の川に大きな時計が流れ、草木が芽吹き、ピエロが生える。マシンガンのような速さでピストン運動を繰り返す星があれば、ドーナツ状になったり四角くなったり忙しい太陽がある。
 無理矢理例えてみるなら、宇宙空間を極彩色のぬいぐるみがパレードを行っているような。目が痛くなるとかそういう問題ではなく、一周して何か悟りでも開いてしまいそうな光景だった。

「こ、これは気持ち悪いね」
「ティーダ、こっちを向くのはいいけど吐かないでね」

 青い顔したティーダの背中をさすりながら思う。もしかしたらかつての私──アドニアはこんな世界に投げ出されて命を失ったのだろうか? 何というか……うん、ちょっと泣きたい。

「もうちょっとの辛抱よ、これだけ法則が乱れている状態なら安定してる所がかえって目立つから。んふふ、あたしが来ていて良かったねティーノちゃん。こういうのをご都合主義って言うんじゃない?」
「本当に都合良いならもっとすんなり解決してます……」

 それもそうかもね、と軽い調子で言い捨てた数秒後だった。

「ん、見つけた見つけた、ヒット!」

 魚でも釣り上げたかのような声を出し、またもや少しの目眩と共に風景が変わった。

   ◇

 あれ? と間抜けな声が私の口から漏れた。
 振り向けばティーダも、いやシャルードさんやビスマルクも意外そうな顔をしている。
 あれだけ変な空間から抜け出した場所は、極めて普通の景色……どこか違和感のある景色だが。
 周囲は針葉樹に囲まれているが、さほど見晴らしも悪いわけでもない。
 正面は白亜の、おとぎ話に出てくるような壮麗な城がでんと構えている。そう……城があるだけなのだ。私は違和感の正体に気付いた。

「門がない?」

 それどころか堀や水すら引いている様子がない。建物を見ても扉さえついていない。ぽっかりと口を開けている。
 人気も感じられず、さながらホラーハウスのような不気味さを覚える。

「ま、行ってみれば判るんじゃね?」

 あまりにも何事もなく過ぎていたゆえか、しびれを切らしたようにビスマルクが歩いていってしまった。
 おいおい、と言いながらも続くティーダ。
 私とシャルードさんも顔を一瞬見合わせ、それに続いた。
 大きく口を開けている入り口を抜けると、中はそう暗くもない。
 長方形の広い部屋になっていて、絨毯が敷かれている。壁際には鎧が所狭しと飾られていた。
 階段からビスマルクが降りてくる。

「上にゃ何もねえな。調度品はたっぷりあったが」

 何もというか……探しているのが食料だったのかもしれない。げっそりした顔で腹をさすっている。
 ふと見ると、一階の渡り廊下の入り口でティーダが足を止めていた。
 
「ティーダ?」

 呼びかけると緊張した面持ちで手招きする。近くによれば渡り廊下の向こう側、かなり行った場所から呻き声のような……鳴き声のような……声が聞こえた。
 既にティーダが魔法で探索はしたらしいが、黒い影にしか見えないらしい。
 何事かとこちらに来た二人にも説明し、私達は慎重に渡り廊下を渡った。
 少し傾斜がついており、下っている感じがする。その長い渡り廊下を通った先はとても広い空間だった。
 まるで球場のようなとでも言えばいいのだろうか、1万人ほども入れそうな広い、吹き抜けになっている大広間である。
 ただ、私達の目を奪ったのは残念ながら、そんなものではなかった。

 巨人が座っていた。
 その面立ちは恐ろしいほどに整っている。美しいとも言えるかもしれない。賢者を思わせる深い眼差しに曲がるところのない真っ直ぐな鼻梁、さらさらの亜麻色の髪が無造作に後ろで纏められている。
 そして、対照的にその体は恐ろしく醜悪だった。
 肥え太り、糞尿が乾いて鱗のようになった下半身、掻きむしった胸には瘡蓋があちこちにできている。
 大広間の空間の大部分を占めている巨人は晩餐中のようだった。凄まじく下品に、何か判らない肉を手づかみで食いちぎり、葡萄酒を飲む。
 その動きでぼとぼとと何かが落ちてくる。
 ぐしゃりと私達の目の前で潰れたのは人だった。
 脳漿がぶちまけたペンキのように広がり、破裂したらしい腹からは凄まじい量の血がしぶいた。
 気付けば私はティーダの腕を掴んでいた。自分では判っていなかったが震えている。
 よくよく見れば巨人の表面を虫のように這い回っている生き物がいる。それらは転げ落ちた食べかすにも群がりあっという間にむさぼり尽くした。
 山羊、犬、牛、虎、鼠さらには人の姿も見えた。
 巨人はたまたま目についたのか、大きな牛、それも巨人の小指の大きさでしかないが、をつまみ上げると口に入れごりごりとかみ砕き、欠伸を一つした。痒そうに体を掻き、私達のところにもそのごりごりという音が聞こえる。
 その動きでまた二つ、三つと生き物が振り落とされ、地面に赤い水たまりを作った。

「は、は……一体なんの悪夢なんだこれは」

 ティーダが熱に浮かされたかのような声音でそう言った。

(ティーノ)

 未だ現実感が伴わない私の頭の中に亡霊さんの声が響く。

(関わっちゃ駄目。あれらは関っても災害にしかならない。人には推し量れない)

 心なしか、無感動で平坦な声が慌てているかのようだった。

(あれらはただ遊ぶために創り壊す。ただ戯れに数百年、あんな事をやっていて飽きない、そんな存在。あれは来訪者たちの言う……)

 続いた言葉に私は思わず口から出てしまった。

「あんなのが神様……嘘?」



[34349] 二章 十六話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/21 19:02
 私達は全力で逃げていた。
 先頭は負傷しているビスマルクをティーダがサポートする形で、シャルードさんがそれに続き、私が一番後ろで牽制し、あるいは避けながら走り続けている。
 魔法での飛行も考えたが、二人は自力飛行ができないので、手を空けておくためにはこの体勢にしておく他ない。
 姫様の護衛の時といい、最近逃げてばかりな気がしてならなかった。
 もうそろそろ私もとんずらのスキルレベルが上がってもいい頃合いだと思うのだ。
 あるいは、土壇場で逆転できるだけの眠っていた才能が突然目覚めるのでも良いし、こんな事もあろうかと! なんてティーダあたりが新魔法を披露してくれても良い。
 後ろからは美しい童女の姿をした存在が、赤子のようにきゃいきゃいと笑い転げながら空中を滑るように追って来る。
 時折その柔らかそうなもみじのような手を伸ばすと、手が真っ黒な猟犬のようなものにぐにぐにと変化し、ぷつんと切れ落ちるように地に落ちると雄叫びをあげ襲いかかってくる。
 魔力刃で切り払うと割と容易に撃退できるのだが……

「あはははは、使えない子、おしおきね! おしおきね!」

 と童女の姿で笑い、猟犬は哀れな声を上げて不可視の力で潰された。何度も何度もすり潰し、笑っている。その間に距離を離すと、遠く行っちゃったあ、などとつぶやき、何の冗談なのか、おもちゃの風船のようなものを生やし、ふんわり飛んできた。追ってくる。異様に早く。冗談のような速度で。映像をそこだけ3倍速にしているような不自然さで。
 もうなんというか、なんというか。ホラーはいい加減勘弁してほしい!

「あああ、また来たし、本当にもう考え無し! その頭には何が入っているの? 切開したら野菜でも入ってるんじゃないの? 何で気付かれてなかったのにわざわざあんなのに喧嘩売ったの?」

 今更でもあるがシャルードさんがビスマルクに食って掛かる。

「いやあ、通じると思ったんだけどな、何せ神殺しの名前を冠する技だぜ? 格好いいだろ? 神様とか聞き捨てならない言葉を聞いた以上、あそこで使わないでいつ使うんだよ」
「カ・オ・スなのはあんたの頭の方よ! 空き缶が道路に置いてあったら蹴らずにはいられない小学生じゃないんだから、少しは頭使いなさい!」

 めんどうくせえ、などと言うビスマルクは右腕が無くなっていた。

   ◇

 真陰流とか言って放った……多分、最低限の身の守りすらも放棄した、攻撃一辺倒の技。正直早すぎて視認も難しかったのだが、かぎ爪のような形に手を作っていたと思う。加速に加える加速、そしてインパクトの瞬間はその右腕にとんでも無く圧縮された魔力が渦を巻いていた。
 その一撃は、大広間を占めていた凄まじい巨体を持つ神の体を大きくえぐり上半身を、そして城すらも半分消し飛ばした。
 凄まじい威力だった。私が何となくこうであろうと思っているビスマルクの技の特性だと、一点を貫通することには向いているが、これほどの大規模破壊を引き起こすことは出来ないものとばかり思っていたのに。
 しかしその代償は大きいものだったらしい。
 技を放った右腕が爆散したかのように無くなっていた。

「はっ、山に打ち込んだ時は真っ二つにぶち割れたんだけどなあ、さすがだなあ」

 どこからか取り出した皮のベルトで止血をしながら笑う。
 脂汗だらだらで顔は青くなっているのだが、その口元は楽しそうに、それはもう楽しそうに歪んでいた。
 信じられない神経である。
 その光景を見た我らが常識屋たるティーダはというと。

「ビ、ビスマルク……漢だね……」

 目を大きく開いて、何か感動していた。
 いやまておい。

「お、おとことかロマンとかいいからッ! てか怪我! 大怪我! 建物崩れる! てか何いきなり攻撃してやがんの!」

 私一人が慌てていて馬鹿みたいじゃないか。
 いやでもどうすればいいのだ。治療、そうだとりあえず治癒魔法! 外傷性ショック対策で治癒魔法!
 そんな事を思いながらもなぜか、あたふたと右を向いて左を向いてなんて意味のない動作をしてしまった時だった。
 ──瞬き一つをした一瞬の間。目を閉じ、開けた時には周囲の光景が一変していた。
 城の姿などはなくなり、一面に大草原……遊牧の姿でも見えそうなそれが広がっている。

「おきゃくさま? おきゃくさま? おきゃくさま?」

 認識できなかった。いつの間にか現れた童女、亜麻色の長い髪をふわふわとなびかせ、目をつむった童女が……まるで壊れた映像の巻き戻しでも見ているかのように、同じ台詞を同じ抑揚で繰り返す。
 それはおもむろに足を踏み出した。

「おもてなし、あそぼう、いっしょに」

 童女は一歩、二歩と歩く度に一つ言葉を重ね、分裂した。4体に分裂したかと思うとまた戻る。
 その眼前の異様すぎる光景に対し。

「ほほお、面白ぇや、まだ一本腕が残ってるからなあ、もう一発いっとくかあ?」

 なんて寝言をほざくビスマルク。

「あんた頭沸いてんのかあ!」

 と皆で必死に止めて……むしろひきずるようにしてその場を逃げ出したのだった。

   ◇

 どのくらい逃げ続けただろうか。
 ひとまず機動力のある私が最後尾で牽制し、時には魔法で罠をばらまき数十分は経ったかもしれない。
 正直逃げるといってもだだっ広い大草原。隠れるところなんてない。
 それ以前にこんな滅茶苦茶な存在相手に隠れるとかが通用するのだろうか。
 ただ、時間、シャルードさんが転移の術式を用意できるだけの時間が欲しい。そのための糸口でも見えてこないか、と逃げながら考え続けて数十分である。
 相手は本当にただ、遊んでいるようだった。
 獲物とか、危害を成すものとか、そんな風にも思われていない。
 それ以前に、亡霊さんの言によれば、その「遊び」すら人の価値観のそれとは違うものらしかった。
 もっとも、どういう遊びにしろ、こちらにとっては命がけなのは間違いない。
 視界の端にいろいろ変なものを見てしまい、私は魔力弾をありったけ連射した。
 追って来る黒い猟犬は、今や猟犬だけでなく、サソリ、ヘビ、クモ、トラと多彩なラインナップになっている。
 強度はさほどでもなく、この非力な魔力弾でも2,3発でも当たればそれらについては何とかなる。本体っぽい童女姿の方は当たっても当たっても全く気にされない、というか痛痒を受けている様子すら見せない。心地よさ気にばちばち当たっている。泣きたい。
 ふと、攻撃が止まった。
 変な生き物が近づいてきて、思い切りデバイスを振り抜いていた私は空振って少しバランスを崩す。
 それは空を見上げていた。
 ある程度、意識のリンクでもあるのか、本体が、またうじゃうじゃと居る雑多な生き物もこぞって上を向いていた。

「まいご」

 ぽつりと言ったかと思うと右腕を空に伸ばした。
 その手の平の中に何か蛍のようなものが吸い込まれ、握りしめられ──

 また光景が変わる。
 急激な変化に脳味噌がついていけない。頭を一つ二つ振り、改めて周囲を見れば、辺りは白い空間になっていた。
 足元は大理石のようなプラスチックのような不思議な感じのものとなり、遠くはもやがかかったようにまるで見えない。
 そして、なぜか必死に逃げていたはずの私達は、まるでランチでも頂くかのように、カフェの屋外によくある、パラソル付きのテーブルを囲んでいた。
 私と同じように頭が追いつかないのか、皆も目を白黒させていた。
 逃げられない、というのだろうか。
 追ってきた童女姿の存在は、相変わらず見た目だけは麗しく、私の隣できゃらきゃらと笑い、煮え立った赤い色の何かを、そのぽっかり空いた真っ黒の眼窩から、気持ちよさげに飲んでいる。口を開けて満足そうに硫黄の臭いのする息を吐いた。
 私はこんなのを神様とか言いたくない。絶対言いたくない。亡霊さんが「あれ」とか言う気分が判った。
 多神教だったらどうしよう。こんなのがギリシャ神話や日本の神話並にぞろっといるのかと思うと、泣きたいような頭を抱えたいような、もうどうにでもしてくれと投げたくなるような気分になる。
 唐突に、童女姿のそれは、蛍のような光を手の中から放った。
 ふわりふわりと迷うように飛んでいたかと思うと、少し離れたところで地に落ち、人の姿を取る。

「子供?」

 12,3歳くらいだろうか、これから中学に入るのか入らないのかといった感じの少年が倒れていた。
 そしていつしかその寝ている子供の隣に、髪も髭も真っ白、着ている服は白いローブのお爺さん、まるで人形のそれだと言うように意志の感じられない瞳をしたものがむくりと立ち上がった。
 童女の小さい指がぱちんと妙に小気味良い音を出すと、まるで物語が動き始めるかのように、少年の意識が戻る。

「あれ……どこだ、ここ、俺……確か塾の帰り」

 少年は上半身を起こして、不思議そうにそうつぶやいた。
 私は立ち上がって手を振ってみたり、声をかけたのだが、全く見えてもいないし、聞こえてもいないようだった。
 そして何故か、唐突にローブを着た老人が土下座を始めた。

「すまんかったーーーッ!」

 勢いこんだのか、ごんという音が響く。謝る言葉も非常に勢いが良い。
 私はぽかんと口が開きっぱなしになっているティーダの口を下から持ち上げ、おもむろに閉めてやった。
 その老人は自らを神と名乗り、少年を間違って殺してしまったと、さも申し訳無さそうに言う。
 少年は少年で、本当にこんな話があるもんなんだな! と興奮しきりである。
 老人は、誤って殺してしまった少年に対する詫びとして転生、それに特典を付けると言うと、少年は当然のようにそれを受けた。

「い、いや待て待て、怪しいおじさん、いやお爺さんからはうかつに物もらっちゃ駄目だ!」

 と、声を上げたのだが、聞こえていない。

「じゃ、じゃああれだ、──の境界の魔眼全部で!」

 少年がそんな事を言うと、私の隣の童女さまは首をひねり。

「かぶった、もういっかい」

 そうつぶやいたかと思うと、場面が最初に戻った。
 今度は老人ではなく、鼻にかかるような甘い声を出す天使っぽい姿の少女が土下座している。ピンク色の髪の天使などいるか! というかパンツ見えてる! 
 そんな私のツッコミはともあれ、焼き直しのように、少年は気がつき、驚き、転生できると喜んだ。
 そしてまた願いを言うと、やり直される。
 何度も何度も。
 何度も何度も何度も。
 童女は笑いながら「もういっかい」と繰り返させる。

「あら、あら、お客様には少々不評かしら? 最近迷いこんできた者の覚えていた遊びなのよ、ふふ。神様にこうしてほしいんですって」

 いつしか……また認識もできないうちに、褐色の肌をした妖艶な女性に変化し、そう言う。足を組み直すとアンクレットがじゃらりと鳴った。
 童女が女性になり、もう一度、と少年に繰り返させる事さらに数度。やがて、気に入った答えが出たのか、繰り返させるのを停めたようだった。

「ほほう、そのくらいの能力で良いのか、なんとまあ近頃の転生者にしては謙虚なことよのう、よきかなよきかな。特別じゃ。おぬしにはもう一つサービスをしてやろうかいの」

 今ではまた最初の姿、おごそかな老人になった少年の相手役がそう言って、少年の目をつぶらせた。

「さあ、今度はどんな風にしようかしら」

 指を一つ鳴らすと、今度は時を止めたように動かなくなった。
女性の姿をしたそれは老人と少年の元に歩み寄り、少年の額に手を伸ばし、指がまるで抵抗ないかのように沈み──
 私が横から少年をかっさらった。

「あら、あら?」

 まるで理解できないと言うようにそうつぶやく。

「ティーダ!」
「了解」

 多数の幻術を出し、攪乱するかのように魔力弾を様々な位置から撃ち出す。
 その隙……隙と言って良いかは判らないが、シャルードさんとビスマルクもまたその場を飛び離れる。
 後先考える事もなく、ただ全速で離れる事のみを優先、少年をティーダに任せ、私はシャルードさんを背中に乗せ、ビスマルクの腕を掴んで飛行魔法で飛んだ。
 いつの間にか、あの真っ白い空間はまた風景が入れ替わり、岩場があちこちにある荒涼とした荒れ地になっている。気分でも表しているのだろうか、だとしたらちょっと恐ろしいのだが。

「ごめん、我慢できなかった!」
「ティーノが年下の子を放置できるわけないとは思っていたしね」

 飛び出してしまった事を詫びればそんな言葉で返してきたティーダは、確認するかのように後ろを向いて、乾いた笑いをあげた。

「はは……は、こりゃ見ないほうがいいかも」

 そんな事を言われたら……確認せざるを得ない。
 体をひねって後ろを見やった。
 私はしばし固まってしまった。
 ……飛頭蛮という妖怪のお話をどこかで目にしたことがある。
 あれは東南アジアかどこかの妖怪だっただろうか?
 首が背骨と内臓をひきずりながら夜な夜な飛び回るというやつだ。
 そんな感じのものが後ろから追いかけてきた。
 顔だけは先程のエキゾチックで妖艶な美女なので、ギャップが……ギャップが!

「というか趣味悪すぎるッ!」

 目を白目にしながら笑い声をあげてそんなものが追って来るのだ。見ているうちに分裂したし。少年がぐったり気絶しているようでよかった。こんなの見たら絶対夢に出てくる。
 本当に……いつから私達はホラーハウスに侵入してしまったというのか。
 そんな中でもティーダは冷静に思考を進めていたらしい。

「ティーノ、3秒後に目くらましのバーストを。ビスマルク……は気絶してるか。シャルードさんは目を閉じてて」

 そう言って、魔法を用意し始める。より精密に構成しているようだが、幻術?
 タイミングを合わせて魔力弾のバーストアレンジ、目くらましの閃光弾を後方に放つ。1回途中で試して効かなかったと思ったのだが……
 閃光が一瞬走り、ティーダに促され共に地面に急降下する。地面に着くと同時に何やら結界を張った。私達は両方結界魔導師というわけでもないので、あまり得意とはしていない。ティーダが案の定、器用さを発揮して習得しているがこれほど咄嗟に張れるものだっただろうか?
 私達を追っていたホラーな血みどろ生首は上空を通過していった。いや、見ればどうやら私達の姿をフェイクシルエットを用いて再現している。それを追っているようだ。最初に用意していた幻術魔法はあれのことだったらしい。

「きっとあれは遊んでいる間は自分の決めた遊びのルールを崩さない。そういうタイプらしい。何度もやり直させて気に入る回答が出るまで粘ったのが証拠だ。そして少し前に幻術魔法で攪乱して飛び出した時、幻影を潰してから僕たちを追ってきていた、ならきっとそういうルールなんだよ」
「お、おお……相変わらずだなあティーダは。あんな急場だったってのに」

 結界はというと、遮音と簡易な迷彩機能の結界らしい。何でも野生動物に近づいて撮影する時などによく使われるらしいけども、よくそんな限定的な魔法が入っていたものである。
 何に使っているのかは何故か秘密とのことだったが。
 ともあれ、これで時間が稼げる。シャルードさんは既に転移の準備に入ったようだった。
 生首神様の方を確認すれば、ティーダの出していた幻影……私を頭から丸かじりしたところだった。うええ、頭から囓らなくても……当然、あれはそんなに丈夫なものではないので、魔法が解けてしまったのだが。

「あれえ、美味しくないわねえ、むかーし作った私の子供。美味しい美味しい私の子供。でていらっしゃいな小鳥さん」

 歌うように、笑うように飛び回る。
 どうやら、簡易な迷彩機能でも効果があるらしい。超常的な存在すぎて有りようが理解できない。あっち行ったりこっち来たりとふらふらしている。
 いや、視線がやばい。何かやばい。視線に合わせて、地面が燃え上がったり、腐り溶けたりし始めた!
 見られるだけでエンドロールですかああ! と叫びたい。実際には半開きの口の端がひくつくだけなのだが。人間、びっくりな事に晒され続けると顔面がそうそう動かなくなるのだと分かった。
 その視線は段々こちらに近づいてきて、燃えさかり、次の瞬間には凍結し、次には塩の塊になってしまう現象なんてものが近づいてきた。

「やばいやばいやばいやばい」

 口からはうわごとのようにそんな言葉が駄々漏れになって。

「掴んだ」

 シャルードさんの一声と、私達を包む緑色の魔力光。
 もう慣れっこになってしまった不思議な転移の感覚、それも今回は少し違うようだった。
 体感的にはかなり長く感じたのだが、実際にはどうだったのだろうか。
 辺りの風景がまた変わり、一瞬警戒するも、先程の空間とは全く違うものに気付く。
 虫の音色。草が揺れて擦れる音、どこかで犬の遠吠えも聞こえる。
 そう、そんな、先程の空間にはなかった当たり前の生命力、生き物がそこら中にいる感覚。それを感じ、私は安堵のあまりに力が抜けた。

   ◇

 転移してきた魔法陣が輝きを失い消える──直前にシャルードさんがまた妙なナイフを取り出し、突き立てる。

「こうやって楔を打っておかないと多分、世界の揺らぎであっという間に座標が変化しちゃうだろうからね」

 不思議そうにしているとそんな事を説明してくれた。
 もっとも私は説明されても首をひねるしかできないのだが。
 ところで、とシャルードさんが私を妙にねっとりした視線で見た。

「いつまでくっついてるの?」

 へ? と、隣のティーダと顔を見合わせる。
 ……近い。
 すごい至近距離である。こうしてみるとやはり上背がある。羨ましいもんだ。
 その左腕は私がしっかりがっちりホールドして、脱力したせいかぴったりと……

「ぅぁ」
 
 不思議な発音が喉から漏れてしまった。
 慌てて放して後ろを向く。
 間に合った。顔に血が逆流していくのを感じる。

「ちょ、ちょっと周囲を見てくるッ!」

 勢いこんでそう言い、足早に歩き出した。
 どもってしまったのはご愛敬である。ご愛敬なんだ。そう思って欲しい。

 月、それも馴染みのある丸い月。空気は乾いているらしく、鮮明に見える。
 ひょろひょろとコオロギの声が聞こえる。涼やかな音色はスズムシだろうか。
 かなりの急勾配になっている石階段、苔むしたそれを降りながら、私はひどく懐かしい感覚にとらわれていた。
 振り返り見上げれば、月明かりに照らされ、神社の朽ちた鳥居が見えた。
 荒れ果てており、大分昔に忘れ去られてしまったものらしい。
 周囲は白樺や杉などが混在する森が広がり、涼しい気候であることが判る。
 植生、なにより神社……どう見ても第97管理外世界です。
 ただ、魔力素が妙に薄いのが気にならないでもない。
 不思議に思いながらも、省エネということで、この状態でも使えそうな浮遊の魔法で高くから見てみることにした。
 ちなみに、局員の使うデバイスには、おおまかにでも現在地点くらいは割り出す機能がついているのだが、どうも機能しない。
 エラーばかり吐き出すハイペリオンにデコピン一発。後でココットにオーバーホールして貰おう。今回の任務で酷使しすぎた気もしないでもなかった。
 空間の魔力が足りてないので、バリアジャケットは纏ってない。背中に余分なものがついている都合上、今着ている普段着の縞々ワンピは背中にスリットを入れて改造済みである。何が言いたいかというと風が通り抜けてなかなかに寒い。ガクブルである。翼を自分に巻き付けて暖を取る。バランスとりにくいが浮遊魔法なら平気……のようだ。
 気を取り直して高みから周囲をぐるっと見回した。
 こうして見下ろして判ったが相当な山の中である。月が明るいから良いものの、これで天候が悪かったらさしもの夜目の利く私でも辛かったかもしれない。
 かなり遠くには湾にでもなっているのだろうか、半円形を描くように街の明かりが広がって見える。
 また、近い場所としてはどうやらこの山の中腹あたり……盆地になっているようで、ぽつぽつと人家の明かりが集まっているようだ。
 迷わないように概ねの地形を頭に入れ、ゆっくり降下。寒さで一つ震えると私は皆の元に戻るべく急いだ。
 魔法があまり使えないとなるとビスマルクの容態にも関わる。応急処置として治癒魔法はかけていたので命に別状はないだろうけど……本格的なものではない。今頃ティーダも慌てているかもしれなかった。
 私が魔力供給をすれば少しは治癒魔法も効果が出るはずだ。足早に石階段を駆け上がる。

   ◇

 結論から言えば間に合わなかった……と、言えばいいのかどうか。
 正直私も途方にくれる。
 私達が最初に転移してきた地点、寂れた神社の境内ではあっけにとられているティーダと、珍しくパニック状態になっておろおろするシャルードさん。ぐったりと寝込んだままの名前も知らない少年。そして、もう一人……黒髪で肌の白い少年、こちらも12,3歳くらいに見える、その子がビスマルクの服を着てすやすやと眠っていた。
 私は思わず目をこすった。訳わからない。

「ティーノ……」

 私に気付いたティーダが困惑げに声をかけてくる。

「ど、どうしたのこれ?」
「僕にも理解できないよ、ただね……ビスマルクが見る間に縮んでしまったんだ」

 やっぱりビスマルクだったのか。ぶかぶかのジャケットを羽織るかのようにして少年は眠っている。黒髪はサラサラで白い肌はきめ細かい。あれだけ鋼のようだった腕にはその筋肉の影もない。
 頼みのシャルードさんは何故かビスマルクの持ち前のスキットルを出して中身を飲み、顔を真っ赤にさせているし。
 ……どうしようか、この状況。

「ええと、とりあえず……下に集落見えたから移動しよっか……寒いし」

 頬を掻いてそう提案し、アルコールにそんな強くないのに一気飲みしてしまったらしいシャルードさんを背中におぶる。久々に服の中に収納した翼が潰れてちと痛い。
 ティーダもやれやれとつぶやき、少年を前に抱っこし、ビスマルクだった少年をおぶり、石階段を下り始めた。 



[34349] 二章 十七話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/21 19:02
 疑問を抱えつつも集落にたどり着いた。
 家の造りを見るに冬は相当雪が積もってしまうのかもしれない。田は少ないようで、段々畑があちこちに広がる。盛んなのは林業なのだろうか、トタン屋根の下に板状にされた木材が何枚も重ねられ乾燥されている場所が目立つ。
 村の外れの一軒家、ぽつんと明るくなっている家を見つけた。
 さすがに私達のメンツは怪しいことこの上ない。寝てしまっている三人をティーダに見ててもらい、一人で訪ねると白髪の少し太った感じのお婆さんが出てきた。
 私を見て驚いていたのだが、外国から観光にでも来たのかと思われたのだろう、英語を苦手そうに、一生懸命言おうとしてくれている。気持ちはありがたいけども。

「友達がキャンプで怪我をしてしまいまして」

 と私が日本語で話し出すとほっとした表情になった。
 ……怪我したのは嘘じゃないけど気が引かないでもない。
 入り、いいから入り、と家の中に招かれ、警戒もなんのそのといった具合にとても親切にしてくれた。
 近頃、若い衆が減ってしまった事や、昔はこの辺りも栄えていたのだとか、流れる水のように途切れない話っぷりには少し閉口するものもあったのだけども。
どうやらこのお婆さん、一人暮らしらしく、もしかしたら寂しかったのかもなあと、ふと目に入った旦那さんらしい遺影を見て思う。自治体から配布されている病院や緊急時のガイドマップを見せてもらい、覚え込んでいたのだが……

「いいからいいから、持ってけ。ほらこれも。在り合わせだけどねえ」

 そんな事を言って、いつの間に用意していたのだか、ホイルにおにぎりを包んでくれた。うちで漬けたんだよ、外人さんにはちょっときついかもしれないけどねえと、沢庵漬けも完備だ。イけます大好物です。
 ……あー。
 立て続けに変な事に遭遇した後だったからかじーんときてしまった。
 人の情けが身に染みるとはこの事か。
 ありがとう、このお礼はいつか。と頭を下げ、妙にあったかくなった心持ちでお婆さんの家を辞した。

「さあてと……」

 心持ちが暖かくなったのはいい、ただ……考えないといけない事がある。
 お婆さんに貰ったガイドマップを見た。
 いかにも田舎らしく、道沿いにも街灯の一つもない。お婆さんの家の明かりに照らされたそれの右上……発行年のところには2011と書いてあった。
 次元世界の移動時に時間の差が出る現象というのはどこかで聞いた事がある。
 だが、ここまで大規模なずれが出るはずはない。
 覚えている限りでは97世界では西暦2003年だったはず。
 私はこぶしで軽く頭を小突いた。
 8年分のタイムトリップ? あるいは地球によく似ているだけの場所に偶然たどり着いた?
 小さいため息を漏らすと、白い息となって風に散る。
 私の頭では答えは出なかった。

   ◇

 とりあえず人里に来てみたものの、これからどうしようか。
 私は眠る三人と、気が抜けたのか、どこかぼーっとした様子のティーダを見て頭を悩ませた。
 通用しそうなお金は実のところ少し持っている。先だって97世界に行った時から小物入れに突っ込んだままのお金だが……

「これって使っていいのかなあ」

 福沢さんを出して悩む。
 世界が似ているだけで、流通通貨が違っていた場合は突っ返されるだけだからまだしも、発行番号が重複した場合は偽札扱いになりかねない。いや気を使いすぎといえばそうなのだろうけど。

「さっきのお婆さんの家に事情話してお世話になってしまった方がいいか……」

 と言っても日本人的にはすごい怪しい集団である。
 白に近い金、赤毛に近い金、少年二人の黒はいいとして、残るは若草色とか。
 髪の色だけとってみても怪しい事この上ない。
 いっそ幻術で見た目を誤魔化して……魔力足りないだろうから局所的にでも……と考えていると、顔を赤くしたシャルードさんが目をぼんやり開けて、私の胸に手を置いた。もにもにと指が動く。

「らぁいじょうぶ、あてはあるわよーティーノたん、うふはー」

 酔っぱらいだ。紛れもなく酔っぱらいだ。

「うふふ、ロリキャラのくせにこんなに良い具合に育っちゃって、ああ妬ましい妬ましい」
「揉まないで、正気に返ってシャルードさん……」

 私のげっそりした返事に、ノリ悪い、と口を尖らせると、キューブを取り出し、転移の準備に入る。緑の風が取りまき──
 散った。
 ええと……

「……ごめん、ティーノちゃん、魔力ちょうだい」

 転移に必要な魔力が集まらなかったらしかった。

「あー、痕跡たどるのがこんなに面倒臭いとは思わなかったわ」

 そんな怠げな言葉を発しながら転移した先は10階建てくらいだろうか、中規模とも言えるマンションの前、駐車場の真ん中だった。
 何でもある特定範囲内から世界より抜け落ちている穴を見つけてたどったのだとか。不良セクタに例えていたけれどさすがにピンとこないのだが。
 まだ酔いの覚めないまったりした目を懐かしげに細め、すたすたと先に進む。
 三階の真ん中、泉と書かれた表札が下がっている扉のオートロックを知った顔で解錠。

「ただいま」

 と何とも言えない声音でつぶやき、おもむろに振り返る。

「いらっしゃい、ま、汚いとこだけど上がって上がって」

 と私達を招き入れた。

   ◇

「いろいろ疑問はあると思うけど……まずは掃除ね」

 部屋に入って一瞬止まった後、シャルードさんはそう言ってどこからか取ってきたフローリング用モップをティーダに渡す。
 ティーダも一つ肩をすくめ、ソファに少年二人を降ろした。
 確かにその、部屋を見ると埃がかなり堆積している。ちょっとくつろげる感じではないようだ。
 私も手伝おうとすると、どこからか出してきた財布をひょいと放られた。

「あなたは買い物ね。マンションを出て真っ直ぐの通り沿いにコンビニがあるから、飲み物と食事、それにお菓子でも買ってきてちょうだい。あ、その店で一番高いお酒もお願い」
「いやシャルードさん……飲み物食事は判るけど、お酒って……」
「ああまあ、飲まなくちゃやってられないのよ……行ってらっしゃい」

 そう言ってお使いに出される。
 確かにシャルードさんは目立ちすぎるし、ティーダは翻訳魔法使わないと言葉が解らないし、消去法で私なのだろうけども。
 さくっと買い物を済ませ、買い物袋を手に夜道を歩く。お酒は微妙な顔をされたが、何とか誤魔化せた。
 転移してしまったから地理が判らなかったけども、どうやらこの付近はさっきまでいた山間とは違って、いたって普通の町の中といった感じだ。
 首都というほど都市化はされてないが、田舎と言う程でもない。都市部のベッドタウンというのがしっくりくるかもしれない。閑静な場所だった。

 戻ってみると……ざっとだが、休めるだけのスペースと、テーブルの周辺の埃は払ったらしい。
 私が戻ったのを見計らったように奥の部屋からシャルードさんが出てきた。
 何でも寝室になっているそうで、ベッドに少年二人を寝かせてきたとのこと。掛け布団多めに持っておいて良かったよ、と言っていたので少年二人が風邪を引くことは免れそうである。
 私が買ってきた袋をテーブルに置くと、気分だけでも、とカップを並べる。自分だけはワイングラスだったが。

「あ、そうだ」

 お婆さんから持たされたおにぎりの包みを取り出すとそれも広げた。
 結果的に渡された地元のガイドマップは無駄になってしまいそうだが、こちらの好意は無駄にはしない。後でマップは返しにいかねば。
 ペットボトルであまり味は期待できないものの、緑茶をそれぞれのカップに注ぐ。シャルードさんは私が買ってきた赤ワインを早速開けていた。

「さて、ひとまずは命長らえた事を祝いましょうか」

 そう言って一口でグラスを飲み干す。
 困ったものだとも思うのだが、いろいろストレスもあるのだろう。私も一つ軽くため息を吐き、お茶を頂く。
 そういえばしばらくお腹に何も入れてなかった。お婆さんのおにぎりを頂く。
 こめ……うま。中には酸っぱい梅干しがごろんと入っており、涎が際限なく出てくる。
 あまりご飯粒を潰さずに柔らかく握る技はさすがに年の功というやつかもしれない。
 お茶でご飯の残りカスを喉に流し込み、沢庵漬けも一切れ放り込む。
 時期が時期だけに古漬けのようだ。外人さんには、と言っていた通り酸味の効いた沢庵漬けは人を選ぶかもしれない。
 しかしまあ、ほっとする味である。
 ティーダは小麦粉で育ったので、やはり馴染み深いのだろう、私が買ってきた惣菜パンを食べているが、いずれ米の味を美味いと思うようにしてやるつもりだ。

 シャルードさんが二杯目のワインを半分飲んだところで、テーブルに力が抜けるように突っ伏した。
 横目でワインを見ながら口を開く。

「まさかこんな形で戻っちゃうとはねえ。そりゃある程度はこんな事もあるかと思ってたけど……こうも偶発的要素が混じりながらたどり着いてしまうと誰かしらの操り糸さえ感じちゃうかもね」

 私とティーダは一瞬目を合わせ、聞く体勢に入った。
 シャルードさんは一つ小さく酒臭そうな息を吐く。

「結論から言うとね、ここはあたしやビスマルク、そんな来訪者達の居た世界よ」

 何でもあの荒ぶる神様だか何だか判らない、どちらかというと某恐怖神話に出てきそうなモノから逃げる時。
 シャルードさんが最短時間で転移可能な道筋として選択したのは、その時神様から助けたというか、横からかっさらった少年。その少年の記憶していた場所だという。

「結果はある程度までは予測出来た事なんだけどね。グレイゴースト側がなんで躍起になって地方の紛争にまで介入してきたのか? 今まで放置していたあたしをこのタイミングでカーリナが勧誘してきた理由は? それはあのロストロギアが私らの帰れる唯一の手段に他ならないからなんでしょうね」

 思い出せば調査にも誘導されてた気も……
 小声でブツブツとそんな事を言っている。うちの姉もいろいろ絡んでそうで、冷や汗が……

「ああもう、じっくり調査するべき事だったのに……あのヴェンチアが悪い! 大体調査主任の私ですら知らない事も知ってそうな感じだったし、途中で降ろされるし、もう一杯!」

 叩きつけるようにグラスを出す。何という酔っぱらいか。刺激しても仕方無いのでおとなしくお酌をしておくが。
 そういえば、と気になっていたビスマルクの変化について聞くと、ワインを煽った。

「知らないわよ、あんな勝手に突っ込んで勝手に自滅して……ああもう! ねえ、使い魔が魔力供給絶たれた、自力での魔力素変換も難しい状態で、限界まで自身の魔力を使い切ったらどうなると思う?」

 私はその意味を計りかねた。
 あまり使い魔についてはミッドでもよく判っていないらしいし、私の出力だと維持もできないと思う。正直あまり知らないと言ってもいい。

「素体に戻る?」

 ティーダが答えれば、そうよ、と突っ伏して顔を見せずに答えた。

「……前に言ったでしょ、あたしも含めて来訪者というのは多分、生きているか、死に瀕した人間を使い魔と似た魔法によって弄ったものなのよ。いえ、逆ね。境界の世界に居たアレが使うのがオリジナルで、使い魔を作る儀式魔法がそこから派生したというのが正しいんでしょ。あの馬鹿が子供の姿になった事でほぼそれは……確信してしまったわよ」

 だん、と感情が高ぶったのか拳でテーブルを叩いた。
 顔を上げると私の傍に置いてあったワインを乱暴に取って、注ぐ。
 煽るように飲んだ。

「記憶もね。多分覚えてないわよ。もし記憶を以て個人であることを規定するなら、ビスマルクはもう居ない。死んだと言ったほうがいいでしょうね」

 あの馬鹿、とまた言った。

「やんちゃな馬鹿ガキでね。弟みたいに……あいつは……あいつは……だからあたしは研究に生きていたいのよ、一人で居たいのに……馬鹿……馬鹿」

 そうつぶやくように言って、短時間で多量に飲んだのが効いたのか、さすがに酔いつぶれてしまう。
 ティーダを見ると酷い顔をしていた。
 私も今ひとつ自分の顔に自信が持てないが。
 ため息が一つ漏れる。
 救いはそのビスマルクであった少年が外傷もなく、眠っているだけで、元気そうだという事だろうか。あまり慰めにもならないけども。
 突っ伏しているシャルードさんに毛布を掛けながらそんな事を思った。

   ◇

 翌朝、ビスマルク……であった少年が目を覚ました。
 始めは私達を見て、その容姿に酷く驚いていたようだったが、あまりこだわらないのは変わらないらしく、警戒もせず、私が昨日買い込んでおいた食料をパクついている。
 名前はというと、為友と言うらしい。珍しい名前だ。
 シャルードさんが、ためとも? と聞き返すと、自慢げにその由来を語って聞かせていた。
 何でも平安時代の武将、源為朝が好きだったお爺さんが命名したらしい。一騎当千を旨とし、腕一本で勢力を従えたその武勇から、強い子に育ってほしいという事のようだ。琉球に渡って子孫は王様になったんだぜ! と自慢げに言う。だが、一転顔を曇らせ。

「つっても、俺は体弱っちくてさ。あんま動いちゃいけないんだ。心臓が駄目なんだってさ」

 つまらなさそうに言う。
 無言でそっとシャルードさんが抱きしめた。為友君は不思議そうな顔で見上げている。

「……たまらん、ショタに走りそうだわ。まさか、まさかあの筋肉男がこんないじらしい本体だったとか、ギャップ萌えとかそんなレベルじゃないわ、ありえないありえないありえない」

 誰にも聞こえていなかっただろうそのつぶやきは私の中にだけ留めておくのが平和なのだろうきっと。あ、涎出てる。年下にそんなに萌えるだなんてひでぇ変態である。
……なぜだろう、突然ブーメランを連想してしまった。
 ともあれ、為友くんから覚えている事を聞き出したところ、やはりビスマルクであった時の記憶は綺麗さっぱり消えていた。
 こちらの世界での記憶についてはしっかり覚えていて……といっても夏頃で途切れているようだったが。病院に行った帰りに夏祭りに寄ったその前後で曖昧になっているようだ。
 体が本調子でないのか、うとうととした様子を見せ始めたので、聞き取りはそこまでにして寝かせたのだが。
 しかし……

「あの筋肉マンがまさかそういう風になるとは……」

 何というか感覚が麻痺してあまり驚きも感じなくなっているのはまずいだろうか。
 やれやれといった感情しか湧き上がってこない。疲れてるなあと感じる。
 ソファに座る。自分で肩を揉みながら、何となくうつむいていると、後ろから頭に手が乗った。
 ぽすぽすと手がはねる。

「ティーダ、髪が乱れる」
「ん、何となくね」

 ……まったくもってやれやれである。
 やがて寝室に行っていたシャルードさんが、もう一方の少年の手を引いてリビングに姿を見せた。

「あ、起きたんだ」

 覚えてる? と手を振ってみると釣られて手を振り返す。
 ハッと気付いたかのような表情になると慌てた様子になった。

「そ、そうだ、神が何か転生させてくれるって言って……ええと、何この状況」

 どうやら、間際になってかっ攫った私の容姿などは覚えてないらしかった。いや、誘拐犯とかそんな認識で覚えられてても嫌なんだけども。
 ひとまず落ち着かせようと、コーヒーミルクを差し出した。
 大人しくストローで飲み出したところで、気を取り直し事情を聞いてみると、少年はどうも普通の中学生らしく、塾の帰りに気が遠くなったと思ったら神様が土下座していたとか。
 そんな事を口で説明していくうちに恥ずかしくなってきたのか、最後の方はちょっとモゴモゴしていたけども。
 どうやら自分でも言っていて曖昧な気分になってきたようだった。
 シャルードさんはそれを聞くと、うんうんと頷き。

「今の子は習い事ばかりで大変だもんね、自分で判ってないだけで疲れてたんじゃないかな?」

 と、誤魔化しにかかった。
 ……確かにありのままに伝えてしまえば、危険とも言えるし……いや、シャルードさんの事だから私が想像してるものとは別種の危険性も感じているのかもしれない。段々わかってきたが、この人、腹の中を読ませないタイプのようだ。軽い口調に騙されると痛い目を見そうでもある。
 そんな脱線した事を私が考えていると、いつの間にか話は私達の事に及んでいた。
 何でも日本人と結婚したシャルードさん。その故郷の友達である私とティーダが日本を訪れ、観光がてら歩き回っていたところ、寒空の中ベンチに寝込んでいる少年を見つけ、ひとまず目的地でもあったシャルードさんの家に運び入れた。なんてことになっていた。

「日本は警察がしっかりしてるんだから、預ければ良かっただけなのにね。この子たちはあまり日本のこと詳しくないから……ごめんね?」

 立て板に水を流すようなその調子にすっかり流されてしまったのか、いつしか少年自身も変な夢でも見ていたのだろうと思い始めたようである。

「それと、悪いとは思ったけど、携帯を少し見せてもらったわ。もうバッテリが切れてしまったようだけど、着信履歴を見ると昨晩の10時頃あたりから連絡がとれなくなってるみたい。ご両親には早く連絡して安心させてあげる事ね。と……さて、ティーノ、ティーダ、あたしはこの子を駅に送ってくるから留守番お願いね」

 どこからか取り出してきたコートと帽子を着込んで、一見、髪を染めた現代人に見えなくも……ない格好となる。
 少年の手を引いて、私達に留守番を頼み出かけていった。
 扉が閉まったのを見計らうと、にこにこと手を振っていたティーダがこちらを向き直る。

「で、結局どういう事になったんだい?」

 翻訳魔法の使えないティーダは当然ながら先程の推移が全く飲み込めていなかった。

   ◇

 ティーダに先程の少年の事について説明も終わった頃、シャルードさんが帰って来た。
 駅に近い場所なのか、15分もかかっていなかったのだが。

「ところで、ビスマルク……いや、ええと為友くんの事はどうしようか?」

 私はシャルードさんが多分無意識に避けているだろう話題を持ち出した。寝室でスヤスヤと眠っているだろうけども。彼をどうするかという事について正直良い考えが浮かばない。
 シャルードさんは少し眉根を寄せた。
 そうね、と顎に指を当てて一つ二つ叩く。しばし考える仕草を見せ、目を軽くつむって言った。

「管理局側としても判断が難しいところでしょうけど、ある意味ビスマルクという個人はもう居ないの。いるのは元よりこの世界に居る少年。親御さんもいるでしょうし、戻していくしかないでしょう」

 ティーダにも確認するように見ると肩を一つすくめた。

「僕もそれしかないと思うよ。ただ、一つ。管理局云々の前に大事な事を忘れてるかもしれない」

 疑問を浮かべてティーダを見ると呆れたように息を吐いた。

「帰る手段を忘れてないかい?」
「……あっ」

 今の驚きの声は私ではない。シャルードさんだった。
 いや待てあんた。道が塞がるからとか言って変な剣刺してなかったか? 何となく復路も大丈夫だろうって思ってたのに。

「え、えと、シャルードさん、もしかして考えてなかったとか?」
「ま、まさかそんな。理論的にも私の能力的にもばっちり可能よ。あはは。ただそのちょっと……魔力がね」

 昨夜の転移の時から危ぶんでいたんだ、とティーダは頭が痛そうにこめかみに指を当てる。
 あわあわしていたシャルードさんは、そうだ! と、良いこと考えたとでも言いたげに手をぱんと鳴らした。

「何か閃いたのドク!」
「誰が時を超える車の発明者か」

 一応ツッコんでくれた。
 そして次に言った一言はとんでもない言葉で……

「あんた達ちょっと性交しなさい」

 ──げほ。
咳き込んでしまった。
 待て待て待て、何でそこでそうなる。意味判らん、ティーダだって口あんぐり開けて呆れてるでしょうが。

「そんな顔しないの。説明してあげるから」

 表情を引き締め、真面目な顔になり言う。

「古来より性交を通じて神秘に触れようという技はそれこそ幾らでも挙げられるでしょ。例えば日本においては真言立川流、西欧の黒魔術には必ずといっていいほど悪魔との性交なんてものが登場するわね。神秘と言ってもミッドにおいては魔法はシステム化されているから一見そうとは思われないけど、その原理部分はひどく曖昧なのよ」

 儀式魔法に代表されるそれね。と言って一息つく。

「私が目をつけたのは取り込んだ魔力素が、人の持つ欲求や感情の高ぶりに応じてその密度の限界値が高まることよ。覚えがあるでしょう?」

 た、確かに強い魔導師は感情を殺すのではなく味方につける、なんて言う人もいる。ただの魔力弾も感情次第では非常に威力の高い魔力弾にもなるということだろうか。

「そして人がもっとも感情を爆発させるのが言ってみれば性行為。最も昂ぶった時こそ、一番魔力密度も高まっている状態なわけよ」

 そんな所はオカルトも魔法学もあまり変わらない所ね、と言い……おもむろに。私を指さし。

「そんなわけで、ティーダ君。襲っちゃいなさい、最高値に達したところでその魔力を用いて魔力供給。帰還に充てるとするわ」

 などとおっしゃった。
 私はぎぎぃと後ろを振り向くとティーダと目が合う。
 再びぎぎぃと振り向いてシャルードさんに向かい直し。

「ほ、他の手段は?」
「有ったら言ってるわよ、少なくとも年単位の準備が必要になるし、もっとも現実的な方法なの。さて……邪魔にならないように寝室行ってるからゆっくりね」

 そう言って引っ込んでしまった。
 部屋に二人で取り残される。
 外はまだ明るいというのに何でまた、いやそんな問題では。

「ティーノ……」

 呼ぶ声に私は思わず肩をすくめた。
ひゅ……などと息を飲む声がしてしまった。
 向き直るとソファから立ち上がり、ゆっくり近づいてくるティーダが居る。
 私の隣に静かに腰を降ろした。こちらを見て困ったような表情になる。

「これは……どうしようか」

 目が合った。
 見るな、見るな。
 そんな仕方無いんだみたいな目で見るな。

「あ……」

 何か言おうとしたが声が出ない。
 心臓が煩わしいくらいにうるさい。
 手を伸ばしてきた。
 肩に回され、ゆっくり、ゆっくり引き寄せられる。
 私は硬直してしまって体が動かない。

「ティーノ、こんな形だけど僕は……」

 いつしか、ティーダに半分抱きしめられるような形になっていて……

 ──ふと視界の端にドアの隙間からニヤニヤと笑っているシャルードさんと、その下に、起き出したのか為友くんの顔が見えた。何とわくわくした顔をしていることだろうか。
 シャルードさんと目が合うと、口の形が「う・そ」と動いた。

「う……」

 自分の目が文字通りカッと見開く感覚を覚える。

「ううあああだらああああああああッ!」

 今なら超ラエル人にもなれそうである。私は悶絶ものの羞恥心だか怒りだかなんだか判らない感情がこみ上げ、叫びをあげるのだった。



[34349] 二章 十八話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/21 19:03
 私の前に正座したシャルードさんとティーダが座っている。
 さすがにフローリングに直接座らせるほど鬼ではない。ソファの上にあった平たいクッションを敷くことを許していた。

「や、やあねえ、ティーノちゃん、ちょっとからかっただけじゃないの」
「しゃらっぷ。今がどんな事態か判って言ってますか……さあ、為友くんやっておしまいなさい!」

 あいさー、と元気よく返事した為友くんはヘアブラシ、堅めのアレを元気よく掲げて見せる。やめてやめてと身もだえるシャルードさんに足裏マッサージを始めた。

「あ……あッ駄目、駄目!」
 
 とどこか青少年の耳に悪そうな声をあげて身をくねらせた。
 なおも為友くんがうりうりと足裏を刺激する。

「あっ、やあ、ああっ、ひん、はあ……ああ」

 どこか啜り泣くかのような調子も含ませそんな声を上げる。
 為友くんがふとももをもぞもぞし出した……何という、何という情操教育に悪い人だ。
 私は頭痛を感じながら、合図を出す。

「ストップ、為友くん、もういいよ」
「……も、もうちょっと」
「おいこらそこの子供……もうちょっとじゃない。そしてそこのティーダも足をもぞもぞしないッ!」
「いやちょっとこれは、ポジションがその……」

 ようやく、為友くんからブラシを奪った時、シャルードさんが私を見てにやりと笑みを浮かべた。
 ぐぬぬ……こ、この人は……私では御すことかなわぬというか。
 私はシャルードさんの隣に座っているティーダを睨むとその分の憤りも込めて言った。

「ティーダも、気付いてたはずだよね。私だって思い返せばシャルードさんが適当な事言ってるってのは判ったんだから、ねえ」

 正直八つ当たりである。
 でも止まらない。普段は言わないようなねちこい調子で責め立てるように言ってしまった。

「なのに、何であっさりと口車に乗っちゃうのさ、ティーダらしくないよ、真面目にやろうよ、ティーダはさ──」

 私が勢いに任せて言いかけた時だった。

「……僕らしく?」

 ティーダの声音が沈んでいた。

「どういうのが僕らしいのさ?」

 私はとっさに言葉が浮かばず「え……」などと詰まってしまった。口からぽんぽん出してただけでそう深くは考えていなかったのだ。

「僕はそんなに清廉潔白でも聖人君子でもないんだよ?」

 いやそれは判ってるけど、その手のえっちぃ本やデータを隠したりとかしてるし……いや、何か雰囲気が、そう言う事を言ってるんじゃないのか?
 身を乗り出してきたティーダに何となく気圧されて後ずさりしてしまった。
 なんだこの気合いは……!?

「いいかい君はね、リビングで本を読んでいてふと見れば、背中の大きく開いたタンクトップとショートパンツで無防備に掃除しているし。目の前でちらちらと映る白い肌は何だ、気にしたら負けだ、気にしたら負けだと思いつつ無理矢理本に集中しても、頭に入るわけがない! どうしろってんだ」

 お、おう……
 言ってる事は情けないような気がするが……何という気迫か。私はたじたじとなるしかなかった。いつの間にやら私自身、迫力に押されて床にへたりこんでいる。

「それだけじゃない、ティアナをお風呂に入れてくれるのはいい、僕も助かるんだ。でも、でもね、バスタオル巻いただけの姿で歩き回らないでくれ。そのまま椅子で足を組まないでくれ、僕は何を試されているんだ、理性か? 自制心の限界か? 忘れているかもしれないけど僕だって15歳の普通の男なんだよ、限度ってものがあるんだ」

 わなわなと肩が震える。
 やがて力が抜けるように視線が落ちた。
違う、そんな事を言いたいんじゃない、と小声でつぶやく。

「この世界に来てからは、文字通り足手まとい、言葉も解らない有様だし、ビスマルクも……僕とは正反対だったあいつも、決着すらつけずに勝手に自滅して……見知らぬ世界で帰る道筋もままならない。これで、まともに頭を動かせって?」

 顔を伏せ、いかにも悔しげに拳が床の上で固まった。
 そうか、と私は自分でもひどく優しげに思える顔を作り、肩に手を置いた。

「それで、つい下半身の命じるままに行動してしまったと?」
「うん……しまッ!?」

 思わず頷いてしまったティーダの目に映ったのはスリッパの裏側だったかもしれない。
 ぱあん、とそれはそれは小気味良い音がし、自分が食らったわけでもないのに為友くんが痛そうに顔を手で覆った。

「成敗……」

 今宵も我が煩悩絶ち切り丸の切れ味は抜群である。

「無念……」

 時代劇のノリに合わせ、倒れ落ちるティーダ。
 私はその上にどっかと腰掛け、頭を一発はたいた。
 そのまま黙り込んでしまったので、私はぶすっとした表情のまま言っておく。

「ティーダのせいじゃないよ。突っ込んだあいつの自滅。もしかしたらティーダが逃げる事じゃなくてヒーリング優先してれば……確かに違った結果だったかもしれないけど、あの時は精一杯だったわけだし。止血は済んでたから私達の常識に照らせば余裕を持ってヒーリングは間に合う状態だった。だからさ、ティーダは間違ってないよ」
「……うん」

 小さい声で返事が聞こえた。
 それと、と私は続ける。
 頬に血が上るのが自分で判った。
 いや、今は体勢的に顔色なんて見られやしないんだが。なんだろうもう本当。

「昔の事については忘れて、私も気にしなさ過ぎた……これからはきっと注意する。ただ……」

 その言葉の後は出てこなかった。
 ストレスが溜まってティーダも思わず普段の不満点とか口をついて出てきてしまったのだろうけど……意識させるような事を言わないでほしい。
 顔に上った血が中々戻ってくれない。そりゃ、年頃なのは判ってたし、私もからかうことはあったが、実際にそんな目で見られていたのかと思うと、むず痒いような何とも言えない感覚がある。
 全く……とつぶやいて、もう一発こんちくしょうの頭をはたいておいた。仕方無い、これで手打ちにする。

 ティーダは少しは気を取り直したかどうか判らないが、真面目な声で言った。

「ところで正味な話……背中に当たるお尻の感触がなかなか良い感じなんだけど」
「……まだ言うか」

 手打ちは取り消しだった。私はティーダの上に乗ったまま、手近な3人掛けソファに手をかけ持ち上げる。

「おッ……おも、重ッギブギブギブッ!」

 タップを繰り返したので、解放してやった。
 床に片膝立ちになり、ガッツポーズ。
 隣でぐったりとダウンしたティーダは、私に顔を見せないままぼやいた。

「ひどいなあ、君は。でも……まあ……」

 ぽそぽそと、普通なら聞こえない声でありがとうとつぶやいた。
 私は返事代わりにふたたび頭をはたいておいた、軽く。

「……なあ、シャル姉ちゃん、結局あのやりとりってどういう事なんだ?」
「ん? んふふ、為友くんには早かったかな。お姉さんが解説してあげようね。いろいろあって、ストレス溜まってごちゃごちゃになって爆発しちゃったティーダ君。そして爆発してしまった事への照れ隠しに走るティーダ君を理解して、それに沿った形で形で労ってみせたティーノちゃん。そんな二人のじゃれあいよ。ごちそうさまと言うしかないわねえ」

 野次馬の、ひそめた声がどこからか聞こえてくる。
 そんな声はシャットアウトしたいのだが、私の地獄耳はそこまで都合よくはなかった。
というかすっかり忘れていた。恥ずかしすぎて死ねる。髪を振り乱してうるさい三連とかこういう時に使えばいいのだとようやく理解した。

「さてさて、為友くん、ちょっと砂糖吐いてくるから一緒に来なさいな」
「ん、なんで?」
「野暮ってもんでしょ」

 そしてシャルードさんは私に器用なウインク一つを残して寝室に行ってしまったようだった。
 先程のひそひそ話も私に聞こえるように話していたようだし……
 カーリナ姉といいシャルードさんといい、私の周囲の年上の女性はほんとどうにかならないだろうか。
 私は深刻なため息を一つ吐いた。

「ところでティーノ」

 なに? となぜか床に伸びたままのティーダに目を向ける。

「青と白のストライプはグッド」
「しつこいわ」

 三度目の下ネタと共に突きだしてきたサムズアップ。私はそれを踏みにじった。

   ◇

 どたばたとした朝方の余韻も消えた頃、私達は相談の末、ある場所に新幹線で移動中だった。
 為友くんの覚えている場所というのを今一度聞き直し、最後に覚えている場所──おそらく為友くんが行方不明となり、あの神さまの言う「まいご」となってしまった場所。ビスマルクという人物になった場所、そこに向かっていた。
 覚えている地名から割り出した場所はマンションからは相当離れていて、調べたところ新幹線で一時間、ローカル線で三十分、バスで三十分。山の中腹あたりに位置する循環器病院の近くのようだった。都市部からかなり離れたところである。病院で診療してもらった後に、この辺りの夏祭りを見て回っていたらしい。

 新幹線で移動中、窓際で物珍しそうに外を眺めていたティーダはいつの間にか眠っていた。
 まあ……局員としても私より先輩であるわけだし、他の二人は立場としては民間協力者だ。自分がしっかりしなければ、と気を張って……張りすぎていたのだろう。午前のどたばたでガス抜きにはなったようだが。そこはシャルードさんに素直に感謝……は、何だかする気になれない。これも人柄と言えるのだろうか……
 そのシャルードさんの隣では肩にもたれかかるようにして為友くんがやはり寝ていた。体が弱いと言っていたのは本当らしく、元気な口ぶりとは裏腹に疲れやすいらしい。
 ずれ落ちたコートをシャルードさんが掛け直した。
 ここに来る途中に買い込んだ衣服だ。なにぶん男二人は少々浮くような格好だったので、まずはと揃えたものである。マンションの近くに某量販店があってとても助かった。

「ねえ、良い機会だから聞いておきたいんだけど」

 そう言ってシャルードさんが車内販売を呼び止めて買った暖かいお茶を渡してくれる。
 ペットボトルでもやはり緑茶が良いのか、若干嬉しげな様子で蓋を開け、一口含んだ。
 つられた訳でもないが、何となく私も喉が渇いて同じように一口。

「あなたも来訪者の一人なんでしょ、故郷の感覚はないの?」

 ぶぴ、と吹き出しかけた。

「けほ……いや、私自身それ疑ってる所ではあるんですけど……というか何でそこに思い至ったんですか」

 あまり隠す気もないけれど、私自身が確信をもってそうだと言えるような確たるものもないのだ。積極的に話した覚えもないのだけど……私が気付いていないだけでどこかに確信できるような要素でもあったのだろうか?

「カミヤ君が不思議がってたわよ、考えてみればなんで一年後に発売されるはずのゲームのキャラをあの子は知っていたのかって」

 カミヤ? 確か見た目に驚いた覚えが……ああ、思い出した。そう言えば紹介された時は隣の人に混ぜ返されて曖昧になってたっけ。
 しかし、一年後に発売されるはず? 彼等の時間軸は一体どうなっているのだろうか……そういえば、そこら辺の事は聞いた事がなかった。迂闊だったかもしれない。
 いや、まて。そういえば私もかつては地震とか先に何かが起こるとか予言めいた事を証言していたような記憶がある。あれは何年前だ? 本局のカルテに当時のデータがあっただろうから今度ちょっとコピーしてもらった方がいいかもしれない。すっかり忘れてしまっている。
 頭を悩ませていると、シャルードさんが私の額に指を当てた。

「ま、一人で悩んでないでこの知恵者のおねーさんに相談するとかどうかな?」
「自分で言っちゃいますか……ええとですね、私の頭があまり理論的でないのは承知してるけども……」

 私の経緯というものを話すのは少々……抵抗がないでもない。
 ここは一つぼかして……

「そういえば、独り言だっただろうけど亡霊さんだったかしら? なんであなたがノウンファクト王家に伝わっていたロストロギアに認証されたかもまだ聞いてなかったわね」

 ひぃ……
 目が探求心に燃えている。

「あの何だか判らない存在。そうね、特性をよくよく考えれば神としか言いようがないのかもしれないけれど、真っ先にそれを断定したかのように言った事についてもまだ聞いてなかったしね」

 シャルードさんの手が逃がさないとでも言うかのように私の手を掴んだ。
 無駄に澄んだ微笑みを浮かべる。
 私は救援を探し隣を見るが、ティーダはとても健やかな寝息を立てている。どんな夢を見ているのか、だらしなく口元があいてふひひとか笑っていた。援護は期待できそうもない。

「さ、相談してちょうだい。遠慮無く」
「え、えーと……」

 何とかぼかして話そうと努力はしたものの……そう、努力はしたのだ。
しかし矛盾があれば鋭く突っ込まれ、話を端折れば怪しまれ……結局洗いざらい吐く事になってしまったのだった。

 時間が早いというのもあり、また平日というのもあったのだろう。
 私達のとった席の近くに人は座っていない。
 それでもなお声をひそめた「相談」が終わった時にはもう……
私は、もともと白い色がさらに脱色されたかのような気分になっていた。
 ようやく理解した。この人が研究者の目になった時は話しかけちゃ駄目だ。
 ふふ、風が吹けば塵となって飛んで行きそうである。はらはらと、はらはら……

「……面白いわね、まさかそんな事になってるなんて……しかも、くふふ、古代文明の記録を保持したプログラム人格? ね、ねえティーノちゃん、ちょーっと専属の実験台にならない? 今なら三食昼寝付きよ?」

 痛いのはちょっとだけだから、と手をわきわきと動かす。
 悪趣味な事を言わないでほしい。しっしっと追い払うように手を振っておいた。

「けちねえ……あ、おやつは三百円まで出すけど?」
「私は小学生レベルですか」
「うん」

 迷い無く頷くシャルードさん。そろそろ現実逃避してもいいだろうか?

「ま、冗談はともかく……多分……本当の原因は分からないけど、あなたには、あたしやビスマルクのように元になる体もなかったんでしょう。あの訳のわからないアレの事だから、一から体を作ろうと思えば作れた気もするけど……あれに理由とか意味を求める方が間違っている気もするわね」
「そ……そうですか」

 そりゃ少しは予想していたのだが、面と向かって言われると妙に落ち込んだ。
 元になってる体もない、とか研究者的な視点から見ると当たり前の言葉なのだろうけど。
 いや本当今の私って何なのか……アドニアでもない、この世界の人間でもない。
 頭を振った。そんな、自分かわいそーなんて気分に浸ってもしょうがない。
 そんな私を興味深そうに見ていたシャルードさんはふと意地悪げな笑みを浮かべた。嫌な予感がする。
 視線がティーダを少し向き、またこちらに戻る。おもむろに口を開き……

「ぼーいずらぶ?」
「い……いや……違ぅ?」

 私は固まった。
 そりゃもうゴルゴンに一睨みでもされたかのように。
 ジェンダーについては……その、目を逸らし続けてきたのだ、情けない事に。いや、解決なんて多分できない。
 私はかつてアドニアでもあったはずだしその記憶もある。同時に、かつて男性であった成分も含まれているわけで、ふとした拍子にそれも顔を覗かせることがあったり。
 私自身こんな身の上で成り行きながらもティーダとは仲良くなっていて、ティアナちゃんは可愛くて。あ、いや、それ以前にラブじゃないライクである。
 最近では体の変化に合わせてなのか、アドニアと完全に馴染んだのか……思考がまとまらなかったり、妙に恥ずかしかったり。姫様の挑発に思わず反応してしまったり……
 いやそもそも、私みたいなのがぶら下がっている状態ではティーダだっておいそれと恋人の一人も作れは……
 思考がぐるぐると渦を巻き、どうすれば、どうすればという答えの出ない声が頭を占める。

「……あぅ」

 俯いて、言葉の一つも言い返せない私の頭にシャルードさんが手を置いた。

「……ごめん、気軽に聞くにはちょっと複雑な事だったみたいね」

 言葉が浮かばないがとりあえず首を振っておく。
 一度、目を逸らさず考えないといけない。私は。

   ◇

 駅から出ると、ロータリーにバスが停まっている。行き先を見ると丁度病院前行きだった。

「ここからは俺だけでいいよ、姉ちゃんたちが変に疑われるのも嫌だしな」
「ほ……本当に大丈夫? ちゃんと一人で行ける?」

 シャルードさんがとても心配そうな顔で別れを惜しんでいた。
 ここは為友くんの実家のある町でもあった。最初は私達が送ると言っていたのだが、本人がしきりに気を使ったのだ。
 ああいう一件に巻き込まれた以上、現状では平気そうに見えても、今後どんな症状がでてくるか判らない。そんな事情があるので、私達が魔導師だという事は説明してある。いずれ行き来が可能になれば、予後に問題が起きないかどうかを調査もできるはずだ。
 名残惜しそうなシャルードさんを引っ張ってバスで移動すると、あれよあれよという間に風景に畑が広がるようになり、それはやがて森林に変わった。
 地図で見たとおり、この町は駅と中心部以外はこういう鄙びた場所らしい。
 病院で降り、少し歩いたところにある神社が、為友くんの言っていた夏祭りの行われていた場所だった。入り口の石碑には淤美神社と書いてある。

「おみ神社って読むそうよ、何でも勝負事に御利益があるらしいわね」

 静かな境内を歩く。基本は無人の神社らしくひっそりと静まりかえっていた。
 少し離れた所に、社殿とは別の苔むした大きな岩があった。
 ちょうど私の手の高さあたりに窪みができ、雨水が溜まっている。
 しめ縄が巻かれたその古そうな岩、そこを中心として魔力の流れがあることを感じた。

「ティーノ?」

 岩の近くに行き二人をちょいちょいと呼び寄せた。
 さすがに至近距離まで来れば二人も似たような感覚を得たようで、驚きの顔になる。

「……これ、海鳴とは逆だ。魔力がこの世界に流入してる感じがする」

 シャルードさんは岩に手をかざし、目を瞑る。
 一つなるほど、と頷いた。

「ここなら魔法も使えそうね、一旦……最初に出た場所に転移、打っておいた楔を回収して座標位置をこちらに変えるとしましょう」

 そう言って早速と、キューブを取り出そうとしたのだが、私がストップをかけた。

「ちょっと待ってて、急いで物産店行ってくるから」

 先程病院から歩いている途中に見つけたのだ。何をこんな時にと二人を呆れ顔にさせてしまった。
 私が急ぎ足で向かおうとすると、後ろから声がかけられた。

「ティーノ、お金ある?」

 私はそのまま後退し、シャルードさんに少々の借金を申し込んだのだった。

   ◇

 見覚えのある……あまりに寂れた境内に出た。この世界に来た場所だ。日の射している時間帯だとなおさらその廃墟然とした感じがもの悲しさを誘う。
 落ち着いて感じ取ってみるとここもどうも魔力の流れが少しできているようだ。さっきの神社ほど大きい流れではないけれども。
 シャルードさんが何やら作業をしている間に、私は先程物産店で買ったおみやげを手に、お婆さんの家を訪れた。借り受けた地元のガイドマップを返し、お礼を言っておく。細かいようだけどこういう事は大事なのだ。
 境内に戻り再び転移。淤美神社に祭られている苔むした岩、そこにシャルードさんはゆっくり歩み寄ると、岩の手前の地面に短剣を突き刺し、何やら空間に文字を描く。
 ぱん、と一つ手を叩き、振り向いた。

「さて、仕込みは完了。今日は一旦戻りましょうか」

 言われて気付いたが、それなりに時間が経っていたようだった。
 日がもう傾き始め、影が長く伸びている。

「焦ってもいい仕事は出来ないわよ、復路だって今まで誰もやったことのない道筋を辿るのには違いないんだから、体調を整えておくのが重要」

 その言い分ももっともだった。ティーダもうたた寝してしまうくらいには疲れているはずであるし、正直私も、体力はともあれ精神的にちょっと……

 来る時は交通機関で時間をかけたが、帰りは一瞬だった。
 転移した先は途中で見かけたスーパーの裏手あたりだったのだが。
 急に現れてびっくりさせてしまったか、野良猫が慌てた様子で逃げていった。

「よし、人の目はないわね」
「なんでまたこんな所に?」

 聞けばちょっと用事があるらしい。
 一度マンションの部屋に転移してから出ればいいのに……面倒臭がりである。
 表の通りに出れば、すぐ駅前に続くメインストリートにつながる。
 銀行を見つけると、思い出したかのようにふらりと入り、程なく用事も済んだのか出てきた。

「いやー、普段から記帳しておけば良かったわ。さすがに長い期間開けちゃうと残高とか覚えてないものねえ」

 と言いながらもやはり通帳を持ち歩いていたわけではないらしい。残高確認のレシートをひらひらと振る。

「そういえば、シャルードさんはこっちの世界ではどんな事を?」

 何ともルーズな感じが漂うくせにお金は持っていそうである。ふと疑問に思った私はそう聞いてみた。

「今と大して変わってなかったわよ? 自称は考古学者。コネだらけの業界嫌って飛び出しちゃったはぐれもの。親の遺産で好き勝手やってた穀潰しってとこね」

 ものすごい自嘲げな台詞をいとも簡単に言ってのける、ふと私の頭に手を置いた。

「この世界に思い入れは?」
「んー、特にないかな。というよりも私個人に限ってはあの変な神様に感謝したいくらいなのよね。能力便利だし、いろいろ面白い研究材料が転がってるし」

 そう言いながら置いた手で髪をいじる。
 ……研究素材って、いやいや。まさか。

「ま、そういう意味でビスマルクとは方向似てたんでしょうね、あいつもまた好きな事しかしないような奴だったし。だからまあ、あいつがああなっちゃったのは、納得もできちゃってるのよ。困った事にね」

 そう言って、私の頭を一つぽんと叩く。

「湿っぽい話しちゃったわね、買い物して帰りましょうか」

 気付けば駅の近くのデパートに来ていた。
 地下の食料品売り場で、すぐ食べられそうなものを買い込む。テナントとして入っている酒屋を見つけたシャルードさんが足を伸ばそうとして、ふと思い出したように口を開いた。

「そういえば、昨日のワイン……ティーノ、ロリッ子がよくお酒が買えたわね?」

 失礼な事を言う。買いに行かせたのはシャルードさんなのに。
 とはいえ、見た目……不本意だがカーリナ姉が言うに12歳。不本意だが、その見た目のため、不思議に思われても仕方のないところかもしれない。不本意だが。

「ちょっと見ててください。こういうのはコツがあるんです」

 そう言ってお金を貰い、実演してみせることにした。
 おもむろに酒屋のスペースに入り、ざっと店内を歩き回った後、店主のおじさんに話しかける。

「ブッフ・ブル……ええと、牛肉のワイン煮込みに使うワインが欲しいんですが、何かありませんか?」

 聞かれた店主は困った顔になって言う。

「お嬢ちゃん、あるにはあるんだけど、料理に使うようなものでも未成年にはうちはちょっと売れないんだ。お父さんかお母さんは一緒じゃないのかい?」
「ん、サプライズなんです。お母さんの誕生日に故郷の料理を作ろうとおもって」

 なおも困ったなあと言いたげな顔をする店主。頬をぽりぽりと掻いている。
 駄目ですか……? と不安げな表情を見せると少し迷った末折れてくれた。

「仕方ないな。あくまで料理用だからねお嬢ちゃん。絶対飲んじゃいけないよ? 牛肉の煮込みだね。ブルゴーニュが良いか……そう言えば予算はどのくらいかな?」

 値段を言い、この辺がいいだろうと出してきてくれたのは、ボワイヨ産の頑固職人が作ったというワインである。
 礼を言い、ホクホク顔で酒屋を出る。
 デパートから出たところで、素知らぬ顔で合流してきた二人に、こんなもんです、とドヤッとした顔で成果を掲げてみせると、ティーダに頭をはたかれた。

「魔法で何とかしたわけじゃないのはいいけど、嘘ついてまで買うのは感心しないよ」
「……ぐぅ」

 の音は何とか出たが、正論である。

「真面目ちゃんかと思えばところどころで緩い部分があるわねえ」

 とはシャルードさんの言である。
 しょぼくれていると、気分を入れ替えるかのように背中を叩かれた。

「ま、気持ちはありがたく頂くわよ。勿論ワインもね。さ、戻りましょ」

 日の射す時間も短くなっているようだ。外に出れば斜めだった日差しはすでに暗くなっていた。
 冷たい風が吹き抜け、身震いをする。少し足を早め、私達はマンションに向かった。



[34349] 二章 十九話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/21 19:03
「さて、忘れ物、思い残しはないかしらん?」

 かしらん、なんて古い小説にでも出てきそうな言葉を使い、シャルードさんはこちらを振り返った。
 冗談めかしているが、そう言った本人が一番感慨深そうでもある。
 昨晩、弱いくせにやはり早いペースでアルコールを摂取してしまった当人が言うには、本人の感覚だと10年ぶりの帰郷だと言う。こちらの世界では1年足らずだったらしいし、相当に複雑な思いがあったようだ。

「友達に会ってもあたしだって判らないだろうなー」

 そんな寂しげにつぶやかれた一言が何となく耳に残っていた。
 そう言えば私……アドニアでない方の私。それが生きていた痕跡もあるのだろうか。友人も居たのかもしれない。今となっては確かめることもできないが。
 何となく振り返り、集落のある方を見る。木々の間から漏れる朝日が眩しかった。
 感傷にひたりそうになったが、頭を振って追いやる。

 淤美神社の外れにある岩、魔力の流入する基点となっているそこで、打ち合わせ通り私がシャルードさんに魔力を供給する。いくら流入している魔力があるとしても私達が居た世界から比べると少ないので、こうやって水増ししてやらないと厳しいらしい。

「そういえば、今回はあの……なんだ。恐怖神話っぽい神様に当たったりとかはしないですよね?」
「大丈夫よ、手は打っておいたし。あたしの読み通りとするなら……んー、説明面倒……行きましょうか」

 後はごろうじろってね、なんてまた古い言い回しを使う。地面に刺さったままの短剣の上で空中に文字を描いた。
 立体的な魔法陣と緑色の風に包まれ、転移の感覚が身を包みこむ。

   ◇

 一瞬の後、襲ってきた軽いめまいを振り払って周囲を見れば──

「へ?」

 まぬけな声が出てしまった。
 両側を見通しの悪い森に囲まれた、作り物っぽい道が続いているだけの空間……ええと、シャルードさんは確か天の門が持つ使用者への保護領域とか言っていたか。

「……来る時と違って随分とあっけなかったですね」

 ティーダが当惑気にそんな言葉を出す。

「直接二点を結びつけちゃったからね。私の能力ってのは、どこでどうねじ曲がったのか判らないけどひどく応用が利くのよ。特に結界とか空間に関してはね。多分ヴェンチアが篭もってた結界も出力次第で作れるんじゃないかな。正直自分でも解明できてない部分が多いからあまり使いたくはないけれど」

 じゃあ、ぽんぽん便利に使っている転移はなんやねん、と私の中のツッコミ根性が吠えた。
 収まれ、収まるんだ右手、と衝動を鎮める。
 私が口を出さないのをどこか残念そうに見て、言葉を続ける。

「ま、次はティーノちゃん、あなたの番だね。この空間が存在しているという事は、鍵であるあなたが未だに認証され続けているという事でもあるの。例の亡霊さんにでも聞いてみてくれないかな?」
「亡霊?」

 ……ティーダが聞き逃さなかったようだ。あはは。
 ええと、どうしよう、本当どうしよう。
 そういえば、なかなか時間が合わなかったり、その後は局員の任務だったり、誘拐されたり、異世界に行ってしまったり……あまりに慌ただしくて全く事情を話せていない。
 間が悪い事が多すぎるのだ、あああ、どんどん積もって話しづらくなる。
 いや、シャルードさんにはすでにざっと一通り話してしまったのだから同じような事なんだろうけど、ティーダに話すのとでは意味が違うし。

「いや、いやいや、ティーダに言うのと何が違うってんだよ……」

 自分で自分に突っ込む。何かどつぼに足を突っ込みそうな気がして、慌てて考えないようにし……多分、これがいけないのだろうな。
 思わず小さなため息が出る。考えないといけない、なんて思い直したばかりだというのに。

「ティーノ、どうし……」
「なんでもないッ」

 そう言い返して肩をどん。
 怪訝な顔にさせてしまった。
 シャルードさんの方を向き直ると「女の子の心は本当によく解らないな」なんてつぶやきが後ろからぼそっと聞こえてきたが、ほっといてほしい。自分にだって解らない。

(青春の悩み美味しいです)

 もぐもぐなんていかにも美味しく頂いているようなイメージを作って伝えてくる亡霊さん。
 本当どこで聞き耳立てているのか……そして最初はこんなにネタに走っていただろうか?

(ごめん、宿り主に毒された。わたしも昔は真面目だったのに。まあ気にしない、常に世の中ケ・セラ・セラ)

 ああ言えばこう言う。この困ったちゃんどうしてくれようか。
 私が渋面を作って額に指を当てていると、ところで、と急に真面目な声音で伝えてくる。

(あまりわたしを呼び起こして認識しないほうがいい。あなたが思えば私は簡単に浮かび上がる。それを軽く考えているのはあまり望ましくはない。だから)

 その会話に気を取られた一瞬、ふわりと浮遊感を感じ慌てた。
 目をみはる。石造りの部屋に光景が変わり、シャルードさんやティーダの姿もない。
 20畳もありそうな広間で、窓の外は一面に霧のようなもやがかかり、その先を見通すことができない。

「あなたの意識をわたしの認識に引きずりこんだ」

 ハスキーな声が聞こえて振り返ればいつの間にか女性が立っている。
 相変わらずこの亡霊さんは女性であるという事以外認識が難しい。

「この領域は、本来のわたしの機能。自我があまり出来ていない時にアドニアに対して行われるはずだった、教育も兼ねた情報の転写用」

 確か前に説明された覚えがある、記憶の統合実験、その寸前でパパ……じゃないセフォン研究員が連れ出してくれたのだったか。
 い、いやいや待て。

「た、確かそれって死亡したり植物状態になったりするんじゃなかったっけ?」

 亡霊さんはこくりと一つ頷く。

「大丈夫、痛いのは最初だけ」

 ちっとも安心できないセリフが飛び出してきた。
 慌てて首を振っていると、冗談……とつぶやかれた。抑揚が変わらないので本気か冗談なのか分からない。というか洒落になってないからやめてほしい本気で。

「……問題が起きなければ、わたしの情報は暗号化されたまま、あなたの中に溶けて消えると思っていた」

 ままならない、とでも言うかのように首を振る。
 やおら、思い返すかのように振りかえり、私に背を向ける。手を一振りすると部屋の内装が変わった。やけに現代チックというか、子供用教育机?
 嫌な予感がした。

「この領域内では体感時間の調整もできる。言うなればそう、精神と時の部屋。時間は気にしなくていい」

 また、この亡霊さんは私の中からそんな漫画ネタを……

「データそのものを受け渡すことはもう不可能に近い。アナログな学習に頼らざるを得ない。だから──」

 指で示した。教育机を。
 ノートに教科書のようなもの、おまけに私が外で愛用しているペンも復元しているなど芸が細かい。

「お勉強の時間」

 私は肩を落とした。
 子供用のあのデザインの机はやめてほしかった。そりゃこの亡霊さんからいろいろ聞き出したい事、知りたい事などは多い。だが、だが。
 ちらりとまた目を向ける。
 色気がないとでも思ったのか、椅子がデコレートされていた。ピンク色に。とても可愛らしく。マスコットっぽいぬいぐるみまでおまけに飾られていた。
 何だろう本当にこの装いは……私は幼児かと、しかし、この亡霊さんは悪気があってやっているわけでもなさそうで……
 天の門に関する最低限の事を教わるまで、私は何度やりきれないため息を抑えればいいのか……
 良い反応を見せない私を見て、少し考えるように首をかしげた亡霊さんはもう一つ手を振った。
 冷蔵庫が部屋の端に現れる。おもむろに歩み寄り、扉を開け、私によく見えるようにする。

「超神水も完備」

 怪しげな瓶がぎっしりと入っていた。
……飲めと?

   ◇

 実は私は座学がそう嫌いでもない。
 ただそう……嫌いではないというだけで当然ながら得意不得意は存在する。
 しかもかなり顕著に。

「ね、ねぐろまてぃく式は魔力素の物理測定機器では観測不可能な事象を説明するために生まれたものでありその──」
「そしてこの解にするために必要な関数と数式は?」

 元気よく手を挙げ、先生解りません! と言ったらチョークが飛んできた。相変わらず抑揚のない声で、少しは自分で考える、と言われてしまう。
 そう責めないでほしい。こちらは空元気なのだ。理数は一番苦労するのだ。脳味噌向いてないのだ。ティーダとかココットとか何であんなに複雑な計算式を見て整理できるのか私にはとても理解できない。
 スーパーの買い物だったら値段の合計出すの早いのに……ああ、全く関係無いかそうですか。
 私はがっくり項垂れ、教わった事を順番に思い出していく。全く理数と関係ない事ばかり出てくるのだが……
 この亡霊さんから教えてもらった事は多岐にわたった。
 ロストロギアの取り扱いだけでも良いかと思っていた当初が懐かしい。
 亡霊さんが生きていた時代の当時の文化であったり、その文明の歴史であったりした。時にはその時代の料理のレシピなんてものまであったのだが、これはばっちり記憶した。後に再現してみせる。
 なんでそんな雑学だらけなのかと呆れて聞いてみれば、少し恥ずかしそうに押し黙った。ぼやけているのに恥ずかしそう、というのもおかしなものだが。
 ただ、何となく予想はつかないでも……以前説明されたところによると、彼女の基になっているのは古代のプライベートな記録のようだから、無理もないのかもしれない。
 ……ただ一つだけ。
 この亡霊さんは説明下手だ。伝えたい事というのがあっても必ず脱線していってしまうタイプのようである。
 指摘すると、平然と頷いた。

「説明上手だったら、アドニアの記憶を掘り返して見せていたりはしない」

 それもそうかもしれない。あれは長かった……
 ともあれ、いろいろと有益だかなんだか判らない事も教えてもらった。
 例えば魔法が段々体系化されていく過程や、過去の文明が、亡霊さんが「あれ」と呼ぶ神様、それと関係をもっていたこと。
 そして、私が天の門を起動させることができたのはどうも種族特性だったようだ。
 ラエル種というものが、作り出された最初期は人がその無色の力を利用するためのパイプ役だったらしい。天の門や、その小型のロコーンといったものとはワンセットだったという。
 魔力の乱れを感じ取りやすいのはその名残のようだ。
 だが、そこでふと疑問を感じた。

「それだと私が地球に転移する前に居た……場所でもロコーンとラエル種族が居たはずだけど、何かの偶然で起動させる事はなかったの?」

 良い質問だとばかりに一つ頷くと、疑問に答えてくれた。何でもリンカーコアの有無が問題らしい。

「本来あれは起動時にも魔力が必要。悪用、反乱を防ぐためにラエル種にリンカーコアは備わっていなかった」

 リンカーコアも持っている私が異常らしい。まあ、研究所でいろいろされただろうから……うん、どうなっててもおかしくないような気はするけど。
そう言えばパ……セフォンさんがリンカーコアがどうのとかぶつぶつ悩んでいたような覚えもある。今更に答えがわかったよ、と墓にでも報告すべきだろうか。いや、あの世界に行くのか……うーん。悩み所でもある。
 いやまて、今更に気付いたけども。

「それだとノウンファクト王家ってのはもしかすると?」
「戻ったらティーノと遺伝子情報を比較してみるといい。わたしが生きていた時代より後、遺伝子操作技術に優れた文明が栄えなかったとは言えない」

 含みのありそうな言い回しだった。

「特定の血筋に遺伝が残るシステム、それによる支配の恒久化、ただ……あの力は取り出したところで運用法を知らなければ無用の長物、あの男のようなやり方では暴発しか起きない」

 斜めを向き、自分の思考に入ってしまうかのような調子で続ける。少し時間を置き、ふっと私に向き直った。

「ティーノ、あなたも心すべき。これからは門を動かせる存在として狙われるかもしれない。秘密が知れればアドニアの故郷が狙われる。人の欲は果てがない」

 どこか上の空でそう言う。遠く、はるか昔に思いを寄せているのが何となく私にもわかった。

   ◇

「これで一通りは終わり」

 そんなセリフに私はほっと安堵して顔を緩める。
 体感的には数十日といったところだったろうか。亡霊さんは実は無理をしていたらしい。少し眠ると言い残し、さっさと薄れてしまった。
ふらっと意識が遠くなる。
 感覚が全部ばらばらにされたかのようだ。

「ティーノ?」

 しゃがみ込んだ私を二人が心配してくれる。
 感覚に違いでもあるのだろうか、くらくらする。
 目頭を押さえ、頭を二度三度振った。
 様子からすると、さほど時間は経っていないようだ。
 息を整える。



「あれ?」

 気付けばティーダに肩を借りていた。
 脳味噌に負担かかっている気がする……コマの落ちた映画でも見てるような気分だ。
 まあ、とにかく。
 ええと、やり方としては念話と同じような感じで、さらに波長合わせて……
 私の前にコントロール用の魔力スフィアが浮かび上がった。
 シャルードさんを招き寄せ、スフィアに手をかざす。

(49384E3 4172EC6 B97D843DEE)

 本当ならもっと簡単に操作できるらしいが、あんな複雑な暗号アルゴリズム覚えられるかと言いたい。デバイス持ち込めれば記憶させられたのにと思わないでもなかった。
 来た時よりはるかにスムーズに、浮遊感を一瞬感じ、私達は元の世界への帰還を果たし──

 元の世界に戻ってきたら、門ごと瓦礫に埋まっていた。
 鳥居のような形の門は頑丈に出来ているらしく、瓦礫の中でわずかなスペースを作り出している。
 私達がぽんとはじき出されるように転移したのはそんなわずかなスペースだった。

「結局あの後は崩落してしまったんだね……」

 照明用にと灯りを作って、辺りを確認しながらティーダがつぶやいた。
 今のところ息苦しさもないし、空気はあの折のまま残っているようだったが、残っている空間というのも精々が2メートル四方といったところだ。あまり悠長にしているとまずいかもしれない。
 シャルードさんが一つため息をついた。

「この遺跡も掘り直しね……せっかくいい状態のまま見つかったのに」

 落ち込んだ様子でキューブを取り出す。

「まあ、しょうがないのかー。さて、ティーノちゃん。そろそろ行ってもいいのかな?」

 そう私に促した。
 ちょっと待って、と手振りで合図すると、開きっぱなしの空間の穴、それを閉じるための終了処理に入る。
 と言っても魔力スフィアに手をかざして少し念じるだけなのだが。
 やがて魔力の流出は細くなり、渦を巻いていた魔力の流れも薄れて消える。
 完全に空間の穴が閉じきると、周囲を完全な静寂が包んだ。
 次いで、狭いスペースの中にすっかり見慣れたシャルードさんの転移魔法の輝きがともる。
 着いた場所はいつかも来た覚えのある研究室だった、が……

「……あら、ら?」

 その研究室の主が間抜けな声をあげる。
 いや、何というか。私もちょっと絶句気味だった。
 以前来た時の面影もない。
 書類は散らかされ、雑多に保存されていた数々の資料は根こそぎと言っていい程ひっくり返され、めぼしいものは持っていかれているようだった。
 ご丁寧に壁に設置されたエアコンも持っていったらしい。穴が開きっぱなしになっている排気口から鳥が一羽、はたはたと逃げていった。

「ぎゃあああああッ! なんてこと! なんてこと!」

 シャルードさんが涙を浮かべて驚きの声を上げた。

「あああもう! 嘘でしょ!? 空き巣とかありえねー!」

 うわああああ、と髪を振り乱しながら散乱した書類をかき集め始める。
 私とティーダも黙って視線を交わし、手伝うことにした。
 しかし、やけに埃っぽいような……
 あれ……待て、まてまて。確かシャルードさんが向こうの世界では一年足らずだったのにこちらでは10年とか言っていた。時間のズレがあるとすれば。
 血の気が引くのを覚える。
 ちょっと前まで体感時間のずれなんてものを経験してた私だからぱっと思いついたのだろう。
 二人はまだその事には思い至ってないようだ。
 そりゃそうだ。頭で時間のズレがあるなんて理解してても体感的なものが変わらなければそうそう気付かない。気付く方が変だ。
 確か、この世界はテレビ、ラジオが主要な情報源だったはず。
 私はティーダが奇異の目を向けてくるのを尻目に。慌てて隣り合っている部屋に向かった。
 テレビをつけて国営放送を確認すると──

「ただいま入りましたニュースによりますと、北部地域で観測されていた魔力流出が急激に止まりました。政府の発表によりますと、これに伴った急激な地震等災害や気候の変化は無いとの事です。近隣にお住まいの皆様は慌てられる事のないようにお願い申し上げます。追加のニュースが入りました。今日中に政府は調査団を派遣する意向を決定しました」

 ……おおごとになっちょる。いや、それも大変だが、問題はその後で。
 後ろを向くとティーダも見ていたようだった。
 何がと言えば、そのニュースが切り替わるときのテロップ、その時に出た年度である。

「ティーダ見た? ミッドの暦に換算すると何年だと思う?」
「……ああ。見た。おかしい。どうもおかしい。ティーノ、ちょっと床を見てくれないか? 僕の頭のネジが三本ばかり抜けてる気がする。どう考えても新暦65年に換算できてしまうんだ」

 ネタにもキレがない。とはいえ、この状況でそんな緩んだ事が言えるのだから大したものである。
 私は力無く笑いを漏らした。

「あは、は……二年経ってるとか、ね……ないってホント。どうしよ?」



[34349] 三章 一話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/29 20:26
 蒼く澄んだ空にわたあめのような雲がふわふわと浮かんでいる。
 風が海から吹き付けているのだろう。街の中というのに、かすかに潮の臭いがした。

「ここに来るのも久しぶりだな」

 相変わらずスーツ姿の姉がそうこぼした。
 二年の間伸ばしていた髪は長くなり、腰ほどにも届きそうだ。紫にも見えるそれが風でなびき、鬱陶しそうにかき上げる。 
 ティーダとティアナちゃんは手をつなぎ、物珍しそうに辺りを眺めている。
 私達は第97管理外世界、地球……それもお馴染みとなった感のある海鳴市に来ていた。
 既に予約はしてあると言い、さっさと先に行ってしまう姉を追うように私達は続く。
 一応、渡航申請の名目上はティアナちゃんの保護者だというのに、相変わらずな人だ。
 着いた先は有名所のマンスリーマンションだった。予約はしてある。本契約を結び、入居する場所を一通り見て回った。

「ん、なかなか値段にしては良いところだな。物の置き場所にも便利そうだ。よし……ではティーノ、ティーダ。ティアナよ、私は早速各地を巡ってくるぞ」

 後は若いものに任せる、と妙に年寄りめいた言い回しを使うと、ふらっと出ていってしまった。
 ……まあ、あの姉はね。
 そんな適当さを初めて見たらしい、ティアナちゃんがぽかんとしている。
 私は一つ頬を掻き、ティアナちゃんの頭を撫でた。
 不思議な表情になって私を見上げる。だいぶ背が伸びた。本当にこの頃の子供は二年も経つとまるで違う。
 今更ながらにその間の成長を逃してしまった事が悔やまれる。もう一回天の門とかくぐったりしたら今度は過去に行けないだろうか?

「おねえーーーちゃんッ」

 考え事していると、甘えるような口ぶりで、ぽふりと私の胸にじゃれついてきた。
 二年前、飛びつかれるのはお腹だったものだが……そのくらいには身長差が埋まっているのだ。
 あと頭一つちょっとくらいで私も並ばれてしまいそうだ。まだこの子は7歳児だというのに……子供はいつまでも子供でいてはくれないと言ったのは誰だっただろうか。
 私はティアナちゃんの、お母さん譲りなのか、明るい色の髪を指ですき通す。
 でも、まあ、なんだ。

「うああ、癒やされる……」

 愛らしさにたまらず抱きしめそうになった。
 季節を思い出して、手を留める。中途半端なところで指がわきわきとして我ながら変態臭い。自重しろ私。
 さすがに夏場にハグは暑苦しい。うん。
 ティアナちゃんの髪もちょっと汗で湿ってきている。
 ミッドの気候に慣れていると日本の蒸し暑さはかなり厳しいものだろう。湿度が違いすぎる。
 エアコンを入れ、ひとまず飲み物でも、と近くのコンビニエンスストアにでも行こうと再び外に出る。
 日差しが強い。局謹製の日焼け止めクリームはここでも大活躍だった。真夏の太陽の攻撃に私の紙防御ではまったく歯が立たないのだ。メラニン色素が羨ましい。
 何となく周囲をぐるっと見る。
 アブラゼミが喧しく騒いでいる。海鳴は木々の割合も多いのでその喧噪たるや大変なものだった。その喧噪をさらにかき消すような音をたてて大型トラックが目の前の道路を走り去ってゆく。
 私にとっては数ヶ月前に来たばかり、されど世界はその数倍の時間が過ぎていた。
 何となく取り残された気分になり、歩道に転がっている小石を蹴り飛ばした。

   ◇

 あの「次元世界ではない世界」から帰還した私達は、二年の時差……時差ってレベルじゃないのだが、それに気付き慌てて政府側に連絡をとった。しかし、最初は悪戯と思われて困ったものだ。幸い姫様の護衛隊長さんは未だ現役だったので、その名前を出すと話を通してくれた。
 シャルードさんはやることがあるからと、研究室に残る様子。先に話を聞いておいてちょうだいと言い、私達を送り出すのだった。
 深夜、秘密裏にと王宮に迎え入れられた私達を出迎えてくれたのは、護衛の隊長さんと……姫様だった。公の場でない事を示すためか、寛いだ格好で。
 あの事件の折、急場だったとはいえ、失神させられ、脱出させられた形だったのがずっと不満だったと言う。ゲンコツを一つ貰ってしまった。

「お友達と思っていたのに置いてきぼりにするなんて、なんてひどい事を……私は……私は」

 怒ってますよ、と言った後は突如悲しげな顔になり、涙を見せた。まるで舞台の上であるかのようにさめざめと泣いてみせる。実に……芝居がかった仕草だった。二年の間にますます進化を遂げたらしい。冗談まじりなのは分かっているのだが、とても芝居がかっているのだが……ちょっと気を緩めると、本当に私達が酷いことをしてしまったかのような気分になってしまいそうだった。
 熟練度が増してしまった演技の影響から逃れようと、私はふるふる頭を振り、報告があるのですがと切り出す。姫様は何事もなかったかのように顔を上げ、穏やかな顔で頷いた。ツッコムのも野暮だけど涙どこいった。

 あまり人に聞かれたくない話はここでするのです、と招かれたのは何の変哲もない図書室の奥にある管理室だった。
 部屋に入ると違和感を感じた。怪訝に思って壁を叩くと、全く反響音がしない。かなりの防音仕様のようである。それにもしかしたら本局の一部のように魔法の干渉を防ぐ措置もとられているのかもしれない。魔力のささやかな揺らぎもぴたりと静まっていた。姫様が壁のスイッチを押すと隔壁じみた扉が閉まる。無造作なのにどこか品良く感じられる所作でソファに腰掛け、私達にも対面に腰掛けるように促した。

「では報告を聞きましょう……といきたい所ですが、あなたたちからすれば二年間進んでいるのでしたね」

 そう言って目を瞑り、軽くため息を吐く。

「そうですね……とりあえずあなた達がいなくなった後の事から教える事にしましょうか」

 大人びてさらに艶っぽくなっている姫様がゆるく笑い、目にかかっている髪をかき上げた。 

 私達がロストロギア、天の門……これは正式に管理局にも認定されたそうだ。それの機能により転移した後、それはもう大変な混乱だったらしい。
 ヴェンチアにより引き起こされた暴走は何とか収まったものの、一時的にしろ次元震が頻発するほどの魔力流入が起こっていたわけで、半年余りはそれが原因による気候変動や地震、自然災害に見舞われたという。元々転移魔法や念話も難しい程に荒れていた魔力の流れはさらに攪乱され、射出系の魔法さえ制御が難しくなり、魔法文化そのものが落ち目になる状態だったと言う。
 皮肉にも魔法が戦力として役立たなくなったおかげで、魔導師たちが半ば自失状態に陥ってしまい、元共和政府の兵士を軋轢も少なく吸収することができたということらしい。
 そして私達についてだが……どうも戦死者扱いのようだった。

「個人的にはあなたたちを利用したくはなかったのですが……」

 姫様は決まり悪げに紅茶を口に運んだ。
 政治的には都合が良かったのです、と続ける。
 王家と管理局による合同の国葬が行われたらしい。
 何でも、その場で目撃していた第三者からすると、姫様の命を救い、代わりに命を賭してロストロギアの暴走を収めたように見えたらしく、その美談は王家にも管理局にもメリットのあるものだったので、本来行方不明とするところを、死亡扱いで葬式を出してしまったという事のようだ。

「おかげで、我が国の民も今までよく知らなかった管理局に対して好意的になりましたし……」

 局にとっては世界の連鎖崩壊を招きかねなかったロストロギアを抑えたという実績に加え、地方の世界であろうと管理局は見捨てないという体面を守った形でもある。
 ……まったくもってなんと言えばいいか。そういう星の下にでも生まれついているのだろうか、今度はティーダも含めてプロパガンダにご利用である。
 むうと一声唸り、乱暴に頭を掻いた。数ある次元世界のうち一つで死んだ事になってても別に構わないのだけど、私としても親しく思っている姫様に利用されてみると、ちょっと微妙な気分にならないでもない。
 ……隣のティーダに髪を整えられた。収まりの悪いアホ毛がまた反逆していたらしい。
 妙な目付きでそれを見た姫様は一つ咳払いをした。

「ところで二人に選択肢をあげます。目立つ復帰と目立たぬ復帰、どちらが良いですか?」

 個人的なお薦めは前者です、特に……などと言葉を濁し、ティーダを見た。
 視線を受け止めたティーダは少し考えると何か思い当たったのか苦笑いを一つし、後者です、と言う。

「つれないですね。それともティーノ、行方不明になっている間に何か……そう何かありましたか?」

 何故だろう。にこにこしているのに目が笑ってない。怖い、こわいよひめさま。わけわからん。
 ふう、と一息つくと、そんな表情は跡形もなく消え去る。

「管理局の動向については直接話してみるといいでしょう。通信施設を使えるようにしておきます」

 話を区切るかのようにお茶を一口含んだ。

「さて、次はあなたたちの報告を聞きましょう。共に残ったはずのビスマルクはどうなったのか、あのロストロギアについての情報、そしてティーノ、あなたの背中の件についても。聞きたい事が山ほどあります」

 私は天を仰いだ。ちょっと高めの天井が見えるだけだけど。
 長くなりそうですし、と姫様がお茶とお菓子を運ばせるようだった。

 私達からの姫様への報告は夜が更け、うっすらと空が白ばみ始める頃まで続いた。
 話す事が多かったというよりも情報の取捨選択に迷った。事によってはかなり政治に使いやすい情報も多いし、なにより次元世界ではない世界の件ともなると、もう一管理局員の手に余る。
 報告の優先順位は、立場上管理局が優先だというのは姫様も理解していてくれて、あまり深くは突っ込んでこなかったのはありがたかった。時々悪戯げにカマをかけるような質問をしたりなどはあったが。
 一通り話した後、退室しようと席を立った時、姫様がむんずと私の背中に手を回す。
 まさぐるように手を上下させた。

「……ティーノの幻術魔法は触感もカバーできるのですか? 触っているはずなのに……」

 不思議な顔になっている。
 ええとまあ。さすがにそこまで完璧なカモフラージュは無理なんだけども。

「目をつむって触ってみてください」

 そう教えると、疑わしげな顔で目をつむる。再び私の背中の翼を触る感覚が伝わった。こそばゆい。

「これは……なぜでしょう」

 目を開けると不思議そうな顔になった。

「えーと、いってみれば脳が騙されているんです」

 さすがに日常的に使うものだけにいろいろと細かいアレンジが加えられてもうオプティックハイドとは言えないような代物になりつつある。アリアさんが使っていたような、認識を阻害する系の結界のような機能が付随し、実体はあるけど認識されず、目視もされないという仕様になっていた。この通り目でも閉じた状態で触られれば、ばれてしまうものでもあるのだけど。
 労力の方向性が間違っているようでもあるのだけど、どうもなんだ……むかーし羽根の色とかで迫害を受けていたのが尾を引いている気がしないでもない。あまりこの羽根を目立たせる気はなかった。
 便利なものですね、と一つ感心したように姫様は頷くと、くるりと背を向ける。薄紫のナイトドレスをおもむろに脱ぎ始めた。細いうなじが出て、肩、背中と剥き出しになっていく。
 慌ててティーダが後ろを向いた。
 その様子に気付いた姫様が振り向き、横目で微笑む。

「ティーダ、どうぞじっくり見てもいいのですよ、それとも私の肌ではやはり鑑賞には耐えませんか」
「姫様……からかわないで下さい」

 くすくすとおかしげに笑う姫様。
 もっとも私はその背中にあるものに目が行っていたのだが。

「ええと……触っても?」
「構いませんよ、でもあなたなら分かるでしょうけど……そっとね」

 人間には有り得ない位置に骨があり、独特の関節と筋肉。肩胛骨の下あたりから伸びているその翼の付け根にそっと触れた。

「や……あん」

 悩ましげな声が聞こえる。
 ティーダがみじろぎした。軽く足を蹴っておく。
 ……全くこの姫様は。久しぶりに会えたのでここぞとばかりにからかってでもいるのだろうか。
 ともあれ、それは小振りで、私のとは違いあまり邪魔にはならなさそうな……キューピットの羽根と言えばいいのだろうか。小さな一対の翼、髪の色と同じとは限らないらしい、小麦色の翼が背中にあった。

「王家の女系のみに遺伝する形質がこれです。グレアム提督に聞きましたがティーノはラエル種というそうですね」

 そう言い、こちらを向く。
 私は目を瞠った。

「……負け……た」
「あなたはどこを見ているんですか」

 若干呆れた様子で姫様は少しかがんだ。視線が私と同じ高さになる。あまりに見事な谷間だった。

「多分私達の先祖はつながりがあるのでしょう。この広大な世界の中、あなたに出会えた幸運に感謝を」

 額にキスされる。
 なんでこういう芝居がかった事をさらっと出来るのかな、ほんと。急にこんな事されて硬直しっぱなしである。

「ところでティーノ」

 と急に顔を崩して私の肩に手を置く。

「遠い親戚なのですから、私の代わりに王女でも代行してみませんか?」
「……馬鹿言わないで下さい。大体できるわけないでしょう。血筋でもないし」

 あら、と人差し指を唇に当て、少し考えるそぶりを見せた。

「じゃあ、血筋の証明と体面さえ整えばやってくれるのかしら」
「割と本気でお断りさせてもらいます」
「あら残念」

 冗談にしても笑えない冗談だった。本当に。

 ようやく退出し、割り当てられた部屋に入る。仮眠用ベッドなどが据え付けられている休憩用の部屋だ。
 ちょっと気になった事をティーダに聞いてみた。
 姫様が問いただしてきた「目立つ復帰と目立たぬ復帰」という言葉の意味である。
 野暮なのかもしれないが……こういうのは気になると仮眠もままならない。

「ん、要するに僕らが生きてた事を大ぴらに知らしめて、凱旋パレードでもしながら帰還するか、今のところは公表しないで、内密に記録を書き換えてしまうかってことだと思うよ」

 凱旋パレードってあんた……いや、それはそれで利点があるのか? 国威昂揚、ん?

「つれないって言ったのは?」

 と聞くと、ティーダは少し恥ずかしげな表情になった。

「そこまで大々的に扱われれば……昔からある通りの手法だよ。英雄はそうやって作るんだ。そして気付いたかい? 姫様が王宮であそこまで自由に差配を効かせられるってのは支配力がそれだけのものになってるって事だと思う。二年の間に実権を握ったのだろうね。そうなると出てくるのが配偶者問題。格下しか配偶者が居なくなるんだ。管理局と関係を結んだ以上できれば配偶者も外との結びつきを強めたい。となると……ね」

 最後は消え入るような言葉でごにょごにょと濁す。
 あ、ああ……以前からティーダは姫様に気に入られていたようだったし。冗談交じりな感じだったと思ったけど案外本気だったのだろうか。つまり、その。目立つ復帰というのが英雄兼配偶者としてのティーダのお披露目、その暗喩だったって事……か?
 いやいや、まさか。うん。さすがにそれはティーダの考えすぎだろう。自分で言っていれば世話ないのだ。少しもてるからって調子に乗りすぎだろうきっと。
 大体そういう場合は管理局に強い影響力を与えられる人物を選ぶものだろうし……いやそうすると手綱が握れなくなる可能性が?
 あれ?
 考えてみれば、魔導師というより執務官の方向で将来有望で、私を通じてグレアム提督やハラオウン家とも交流があり、デバイス製造会社の息子とは友人関係。
 権力欲は薄く、頭が回る。礼儀作法も一通り。今回の一件で国内の人気は十分とれる。
 いかん、実は姫様にとってかなり条件が良い奴なんじゃないだろうか。
 まさか、割と最初からそんな事まで見通していたとか?

「いやいや、いやいやまさか」

 頭煮えてる。考えすぎだ、妄想すぎて笑うしかないと自分でも思っているのだが何故か思考が止まらない。
 仮眠用のベッドで悶々としている間に時間だけは過ぎていった。
 
   ◇

 本局に連絡を取ると、何はともあれ報告のためにも早急に帰還しろと言われた。
 出立前に姫様が「記念にどうぞ」と渡してくれた貨幣、南北統一記念硬貨らしいそれには何やら王家の紋章を中心として左に翼が生えてる女性が、右に銃を持ち敬礼している男性が描かれていて──受け取った私は少々固まってしまった。

「ひ……ひめさま、これは?」
「よくできているでしょう」

 銅像も幾つか作ったらしい。
 勘弁してください……と私が頭を抱えていると、なんとも満足げに姫様は微笑んだ。

「二人はそれほどの事をしたのですよ、もっと自信をもちなさい。いざという時に私を気絶させてのけものにした怨みなんて篭もってませんともええ」

 後半の台詞がなければ自信を持てたかもしれなかった。怨みつらみがぷんぷん漂ってくる。
 さらには既に子供向けアニメなどにも使われているらしい。侍女に持ってこさせたそれのパッケージをちらっと見て、私は見なかった事にした。魔法天使なんちゃらとか全く見えてない。先端の星形が光りながら回転しそうなステッキなど全く見えてないのだ。

 本局に戻ったら戻ったでそりゃもう大変である。
 今回はシャルードさんも参考人として、共に行ったのだけども……
 とりあえず一週間ほど医療施設に缶詰にされ、検査の毎日。未開の管理外世界に行ってきたのと同じ扱いになった。あいつら血抜きすぎである。
 もっともその間に報告書を書く時間が取れたのは正直ありがたかった。それも私一人で頭を悩ませていたのでは何週間かかってもまとめきれなかっただろう。同じく検査漬けで暇そうにしているティーダが居てくれたのは非常にありがたいものだった。

「本来ならば生還して戻ったのだから取り消しになるのだが、ここで多数の魔導師を抱える世界との軋轢を生じさせるわけにもいかんのでな」

 グレアム提督に呼び出され、そう前置きして渡されたのは、二階級昇進の辞令だった。
 おお、と内心で喝采をあげる。何となく期待していた事でもあるが、先程言っていたように本来なら取り消しなはずだった……ずるい事になってしまってるな、とも思うけど私の場合はこれまでの経歴も結構こんな感じだし今更である。お給料上がるならそれはもうありがたく頂くのだ。これでティーダは元々空曹だったので准尉になり、私は元々が臨時任官だったので二階級下がって上がるという不思議な形で空曹となった。
 軋轢というのは、姫様を我が身を犠牲にするようにして助けた形の人物を管理局が適当に扱うわけにはいかないということなのだろう。王家を軽視していると見られてしまう。

 私達が飛び越してしまった二年の間に次元世界は騒がしい事になっていた。
 第122管理世界、最前まで私達が居た世界だが、そこに起きた紛争は残党勢力が他の管理外世界に飛び火するような形で広まりを見せていた。管理局の囲い込みが失敗してしまった形である。
 また、それに伴い、これまで管理局が接触を持たなかった世界にも様々な情報が伝わってしまった。複数勢力が揉めている世界などでは武力目当てで、係争している両方の勢力から管理局の応援を請われたりなどといった案件も多くなり、とても面倒な事態が続いている。
 とはいえ、時空管理局としてはそれを世界ごと見捨てるという選択肢なんて取りようもない。ただでさえ人手不足だった次元航行隊は広がってしまった管理区域のために駐留人員が足らず、本局の決定ではあるが、やむなく安定している管理世界の陸士を引き抜き、駐留部隊として当てたりしているので、元より仲が良くなかった陸と海の関係は悪化しているようだった。流れの中に居なかった私達だからこそ、その空気を強く感じるのかもしれないけども。

 二週間も経った頃には諸手続や報告、検査なども一通り完了、本局に詰めっぱなしの生活も終わる事になった。
 やれやれと胸をなでおろし、当分の間は本局にいる事に決めたというシャルードさんと別れる。無限書庫が気を引いたらしい。
 私の実家とも言うべき施設にティアナちゃんを迎えに行ったら、出迎えてくれたのは盛大なクラッカーの音だった。グレアム提督はさすがに忙しいようで居なかったがリーゼ姉妹、学友だったディンとココット、施設の家族たちが帰還パーティを開いてくれたのだ。
 ──しかしなんと言えばいいのだろうか。不意を打たれた。何とも言えない感情が湧き出す。
 そう、元より爺様だったグレアム提督や、使い魔であるリーゼ姉妹、全く顔の変わらないロウラン提督ぐらいにしかまだ会ってもいなかったのだ。
 カラベル先生は変わりないようだったが、少し痩せたかもしれない。ただ、背筋は曲がらずに相変わらずぴんとしていた。
 そして、他の面々は……そりゃもう変わっている。時に取り残された事を実感してしまった。
 ディンとココットは同い年くらいのはずなのに、すっかり大人びてしまったし、施設での、私の弟や妹であったティンバーやラフィたちも皆大きくなっている。ティンバーなんて大きく育っちゃって、私の背丈をもう越してしまっている。そりゃそうだ。一番背が伸びる時期なのだし。

 と、最初は戸惑ってしまったものの、別に人が変わってしまったわけでもなく、一時間もする頃にはすっかり馴染んでいたのだけど。
 ……問題はティアナちゃんだった。
 いやもう謝って済む事ならティーダと共に雁首揃えて床に頭を打ち付ける所存なのだが……長期任務ということで預けていったまま、二年放置された形になってしまったのだ。本当は捨てられたんじゃないかと思ってしまったらしく、無表情になってるわ、なかなか近寄ってくれないわでもうどうしたものかと……目が合ってもすっと逸らしてしまうし、そのたびに言葉に出来ない罪悪感だか何だか判らない刃が心臓にぐさりぐさりと突き刺さる。隣でティーダが灰になっていた。私もそろそろ精神にダメージが溜まりすぎて倒れそうである。
 困り果てていると、先生が助け船を出してくれた。何やらティアナちゃんに耳打ちをする。さすがの貫禄というもので、何やら吹き込まれたティアナちゃんは、おずおずとながら「おかえりなさい」と言ってくれたのだが。
 その後は私達にべったりだった。
 トイレに行くときまで手を掴んで離さない。お風呂に行っても離さない。その様子に罪悪感がまたひしひしと。子供に寂しい思いをさせすぎた。これで私の実家的な施設に預かってもらっていたのではなく、ランスター家に一人残したままとかだったら……想像するのも恐ろしい。
 一緒にベッドに入った時に初めてティアナちゃんは泣き始めた。
 小さい頃からあった気の強さと頭の良さが絡んで、涙を我慢するようになっているのかもしれない。まだ6歳というのに。
 ようやく寝静まった時には、左手に私の手を、右手にティーダの手をしっかり掴んで寝息を立てていた。
 あまり意識しないようにはしているものの、川の字で寝るというやつである。特に意識はしていないけども。そんなシチュエーションなんか意識しないけども。大事な事なので三回は繰り返しておく。
 臨時に与えられた休息期間の間、私とティーダで交互で添い寝したり、昼間もまた出来るだけの時間を一緒に居たりして、やっと以前の笑顔が出てくるようになった。しばらくはティーダもこちらの施設に泊まる形でゆっくりしている。施設の子たちに算数を教えたりしている姿はなかなか様になっていた。私も教わった事があるけど案外教師向きなのかもしれない。
 しばらく穏やかな日々が過ぎ、ティアナちゃんも私達が遠くに行かないと確信できたのかもしれない。そろそろと離れだし、同い年くらいの子供達と外で遊ぶようにもなった頃だった。辞令が下ったのは。
 第97管理外世界で起こっていたあるロストロギアを巡る一件……通称PT事件、その事後調査である。
 私達が居ない間、といっても数ヶ月前のことらしいが、そんな事件があったらしい。ロストロギアによる度重なる次元震があった事件でもあるので、その世界に悪影響が残っていないか、時間を置いて異常が起きないか、ある程度の期間をもって観測データを取る必要があるらしい。
 また、一度調査に行った事もあるし、元より地球で拾われた身だ。土地勘があるとして抜擢されたのだろう。
 というのは表向きの理由……なんでも私とティーダが復帰するにしてもワンクッション欲しかったらしい。死んだと思われていた二人がまさかの生還、騒ぎ立てられるには格好の素材になってしまう。しばらく馴染んだ世界でほとぼり冷ましてこい。局主導で騒ぐのは良しとしても外部から騒がれるのはよろしくない、ということである。
 何故か辞令を伝えてくれたのは運用部のレティ・ロウラン提督で、歯に衣着せぬというか、裏向きの理由までずけずけと当の本人に明かしてしまうあたり、二年前より図太くなっている気がしないでもない。さらに、この子を勧誘してきてくれない? と軽い調子で渡されたデータには目を疑った。
 高町なのは。
 恭也や美由希の妹さんのはず……表示されてる画像を見ると、あの頃からすれば成長してるものの間違いなく当人だった。同姓同名とかではない。
 内心慌てて渡されたデータの詳細に目を走らせる。
 事件の始まりは今より数ヶ月前、春に起こったものらしい。ロストロギア「ジュエルシード」に端を発した一連の流れ……
 少々腑に落ちない部分も多いが、大まかには把握した。
 全体的に管理局の対応が鈍い。
 原因は言わずもがな、現在あちこちの世界で騒がしい事になっていて、人員が薄く広く散らばってしまっているからだろう。
 その中でSランク魔導師であるリンディさんや、それに次ぐ優秀な魔導師、クロノ君が乗っている船が駆けつけられたというのは僥倖以外のなにものでもないようだった。
 もしかしたらこの事件の首謀者と見られるプレシア・テスタロッサも、現在の状況からして管理外世界にそこまで戦力を出せるはずがないと見ていたのかもしれない。
 そういえば、さらっと流してしまったがクロノ君は執務官試験の再チャレンジに受かった事は耳にしていたが、この二年で順調に実績を重ね今ではアースラの切り札とまで言われるようになっているらしい。
 ティーダも執務官志望だったのだが、元よりあった士官学校という差をさらに広げられ、大きく距離が広がってしまった形だ。
 隣から覗き混んで、その項目に目を止め固まってしまったティーダをよそに、私はさらに読み進める。
 現在その事件の中心であったプレシア・テスタロッサが公判中のようで、クロノ君は現在アースラを離れて、その件を担当するために本局に居るらしい。後で顔を見せておくのもいいかもしれない。
 今回はアースラのバックアップによるハラオウン艦長の魔法で押さえ込む事が出来たものの、あと数個もジュエルシードが揃っていれば抑え込めた可能性は低く、運に恵まれた。今回のような件がいつどこで起こるかも判らず、早急な体制強化が必要……と締めくくられている。それだけの戦力が揃っててもかなりぎりぎりのやり取りだった事が判る。戦力増強が必要らしいですよと言ってロウラン提督を見れば、袖をまくりあげて手をひらひらと振りはじめた……無い袖、ってことか。どこで地球産のネタを仕込んでくるのだろうこの人。
 いやまあ、本題はその件に協力してくれた民間協力者の欄だった。
 さらにその魔導師としての適正、最大値……今回罪に問われたプレシア・テスタロッサの娘……現在クロノ君の保護下にあるようだが、フェイト・テスタロッサと並んで、私を含めた普通程度の魔導師が唖然としてしまうような資質である。というか正直羨ましい。
 私は頭を抱えたい衝動にかられた。
 そりゃいろいろと思う事はある。仲良くしてもらってる家の家族がよりにもよって……と思わないでもない。魔法の才能に優れているのは決して悪い事ではないのだが、ここまで突き抜けているとそりゃあ悪い虫は寄ってくるだろう。局の傘下にでも入ってくれればカバーもできるってもんだけど、それはそれで地球と距離を置く形になりかねない。それに、その年で将来を決めかねない選択をするというのも、何だかこうもやっとするものを感じないでもない。
 いろいろ考えたあげく、全くまとまらなかった。
 頭を振ってレティ提督に言った。

「……あまり良い事ばかり並べないかもしれませんが、説明してみます。それを聞いて本人がやりたいと言ったら……あー、うー、家族も良しとしたら誘う、それで構わないでしょうか?」

 レティ提督の口元が軽い笑みを作った。

「ミッド出身だと魔導師の資質に恵まれてるのは頭の出来が良いのと同じくらい『良い事』だものね。感性が違うんだから今までみたいな誘い方じゃ駄目だと思ってたのよ。世界ごとの文化の違いに対応出来ないとね。ま、それはこれからの課題だけど……うん」

 じゃ、任せたわ、とひどく軽い調子で締めくくるのだった。

   ◇

 マンスリーマンションというものは、家電や家具などの大物は既に揃っているものの、生活用品は自分で整えなければいけない。
 いや、契約会社からセット品でその手の細々としたものも一緒に頼むことだってできるのだけど、あくまで購入になるので、引き払う時には持っていく事になるのだ。どうせだったらこの後も使うような食器などを選んでおきたかった。滞在が終わったら捨てるなんてことは私の貧乏根性が許さないのである。
 ついでに言えば、毎回外食で済まさせる気は毛頭ない。外食が悪いとは言わないが、好き嫌いも考えて食べられる形にし、なるべく万遍なく食べさせなくては。食は生活の基本である。私の数少ないこだわりなのだ。
 そんなわけで、私は久方ぶり……と言っても体感時間は一年に満たないが、海鳴の商店街に買い出しに繰り出した。ティーダとティアナちゃんも一緒だ。

「ゆらーん、ゆらーん」

 ティアナちゃんは私とティーダの手をしっかり掴んで間にぶら下がった。ブランコのように揺れる。私とティーダは苦笑してそのまま歩調を揃えて歩いた。ぶら下がったまま進むのがどうも楽しいらしい。もっとも、ティアナちゃんもすっかり背が伸びてしまったので、私は若干腕を上げておかないと位置が合わなかったのだが。
 以前より甘え癖が強くなった気がする。いや、それだけ寂しい思いをさせてしまったのだろうけど。
 ティアナちゃんに関しては、ある意味管理局の妙なところが出たと言ってもいいかもしれない。法に触れない部分はわりと人情主義がはびこっているのだ。今回助けられたのではあるけども。ティアナちゃんの精神的負担も考慮され、カーリナ姉が保護者として一緒に渡航することで許可が降り、三ヶ月ほどの滞在期間中一緒に居る事になったのだが……公私混同という点からすればよろしくないに決まってはいる。
 ……この笑顔見せられるとそんなお堅い考えもどっか行ってしまいそうになるけども。

 買い物は順調に進んだ。
 平日の昼間なので、人通りもまばらで二人が物珍しげにあっちに行っちゃこっちに行ってを繰り返してもそうそう迷子にはならない。
 さすがに買い出したものが多くなってしまったので、途中でひとまとめにして宅配してもらうことにした。
 ティーダが配送の手続きをしている間、屋台のクレープを買ってティアナちゃんと一緒に頬張る。
 本場のフランス人もこの発展にはびっくりだと言う日本で独自進化を遂げたそれを食べているとふっと美味しいコーヒーが欲しくなった。
 少し反対方向ではあるけど……
 最後のひとつまみを口に放り込み、包み紙をゴミ箱にシュート。
 夏休みだから恭也や美由希も店の手伝いをしている事だろう。ついでに言うと、この時期ならではの水出しコーヒーなども楽しめるかもしれない。
 ティーダやティアナちゃんも紹介したいし……挨拶も兼ねて喫茶翠屋に行ってみる事にしよう。
 手続きを終えて戻ってきたティーダに、フルーツをトッピングしてもらったクレープを渡しながらそんな事を思うのだった。



[34349] 三章 二話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/29 20:27
 喫茶翠屋、今度は地図を持っていないが何とか迷わずにたどり着く事ができた。
 全体的に淡い色合いの店の外観は二年が経っても変わってない。表に出してある寄せ植えが以前より増えたかなと感じるくらいだ。。
 お昼の営業時間にはぎりぎりで間に合ったようだった。入店し、ドアに付けられたベルが涼しい音を響かせる。

「いらっしゃいま……」

 声が途中で止まる。ウエイトレス姿の美由希が私を見て、口を開けたまま固まった。
 実のところ私も驚いた。すっかり美由希も大きくなっちゃって……なんて事はなく、そう背丈は変わってないようにも思える。ただ、だいぶ大人びた顔になっていて、なにより体つきがまるで違った。女の子から女になる時期というのはそういうものなのかもしれないが、全体的に丸みを帯び、日々の鍛錬でちょっとごつごつしてた腕もふっくらしている。一言で言えば綺麗になっていた。
 ともあれ、このままでは埒があかない。
 私はひょいと軽く手を上げる。

「や、ええっと……二年経っちゃったけど久しぶり、ツバサくんだよ」

 美由希は私の前でお盆を持ったままへたりこんだ。
 私の後ろを指さして口をぱくぱくしている。
 ようやく発した第一声はというと。

「ツバサくんが結婚して子連れで入ってきたでござりゅ」

 ……語尾が変になっているというか突っ込み所がありすぎて困った。
 そして私が突っ込む前にティアナちゃんが何か思いついた顔になったかと思うと、すかさず私にしがみついた。

「ままー」

 なんて、わざと舌足らずな声を出す。

「お、おぉ?」

 美由希のリアクションにすかさず反応してみせたらしい。頭の回転の早い子だった。感心しながら抱き上げ、上機嫌なティアナちゃんをふわふわ揺すっていると、奥から恭也がウエイター姿で出てきて美由希の頭をはたいた。

「いつまで固まってるんだ美由希」
「あ、あぅぅ……恭ちゃん、ツバサくんが、ツバサくんがぁ」

 恭也は相変わらず淡々とした様子でこちらに向き直った。

「いらっしゃい、久しいなツバサ。しかし二年ぶりだが変らずに元気なようで何より……変わらなさすぎないか?」

 首をひねりながら不思議がられた。
 これにはまあ、曖昧に笑って誤魔化すしかない。さすがの観察力である。
 若干訝しげな表情になったものの、再び美由希に向き直った。今度は顔を赤くしている美由希を前に困ったもんだとでも言いたげに息をついた。

「……美由希、さっきの台詞は聞こえていたが、さすがにそれはないだろう。一体何を妄想していたんだ?」
「え、あ、あはは、いや、そのええと……丁度考え事のタイミングが、あっ、お客様がお会計待ってる! 行ってくるね!」

 そんな事を言ってカウンターに慌てた様子で行く美由希を見届け、恭也は再度ため息を吐いた。
 改めた様子でこちらに向き直り、初見のティーダとティアナちゃん二人に営業スマイルを浮かべ、翠屋へようこそと声を掛ける。
 ……恭也の営業スマイルというのは初めて見たかもしれない。無愛想だと思っていたが、やはり店商売の手伝いも長いのだろう、中々さまになっているものだ。
 通された席は窓際の一番奥の席だった。遮光仕様らしいレースのカーテンを通して柔らかい陽光がテーブルを照らしている。
 そういえばおやつのようなものしか食べてなかった事を思い出し、軽いモノをと頼む。この後空くのかとも聞いておいた。

「ああ、あと十分ほどでランチタイムが終わるんだ。そうしたら俺と美由希も休憩に入るから、もう少し待ってて貰えるか?」

 とのこと。連絡も入れずに突然思いつきで顔を出したのだ、こちらに否やはない。私の目論見通りの水出しコーヒーも夏メニューとしてあったのでそれもお願いしておいた。ほどなく持ってきてくれたそれを飲みながら二人を待つことにする。
 底の浅いグラスにいれられたコーヒーを一口含むと、渋みのないコクが口に広がる。とても飲みやすい。ほう、とティーダも感心している様子である。さすがにティアナちゃんにはコーヒーは厳しいので、アップルジュースを頼んであった。

「んんん」

 外が暑かったせいか、よく冷やされたそれを満足気な声を上げながらで凄い勢いで飲んでいる。あまり冷たいものガブ飲みは体に良くないのだけど……ちょっと言っておこうか。

「ティアナちゃん、ゆっくり飲むんだよ。えーとほら、せっかくの美人さんなんだからそういう時こそ優雅に」
「んー、どういうの?」

 ……そういえば、冗談めかしてつい口から出た事だけど、どういうのを言うのだろうか。優雅にって。優雅に、優雅に、優雅に……うぅむ。
 一応礼儀作法通りにすれば良いのだろうけど、それは単に行儀が良いってだけだし……
 思いついた。ちょっと前に良い見本があった。姫様のお茶の飲み方すればどうだろうか。

「ええと確か……」

 思い出しながらその姿勢を真似してみる。
 何より姫様は姿勢が安定していた。背筋が真っ直ぐ伸びて、座っている時も足はぴたりと揃う。
 手の動作はゆっくり、しかし躊躇いなく。直線ではなく少し円を描くような動きだったかもしれない。
 カップを口元に運び、香りを確かめるのは瞬き二度ほどの合間。口元を湿らせるように含み、思った通りの味だと顎が軽く引かれ、ほんの少しの笑みがこぼれる。
 飲み物を揺らさないようにソーサーにそっと置く。
 少し目の前の空間を見るとも無しに見、考えをまとめると一呼吸の間、目が閉じられ、微笑みと共に瞼が開く。
 そしてティーダにその考えを謀るように話しかける。

「……と、姫様はこんな感じでしょうか、ティーダ?」

 ティーダは真面目な顔をしていたが、次第に耐えきれなくなってきたかのように口の端がひくひくと動きはじめ……
 店内だからだろう、お腹を押さえて、声を押し殺すように笑っていた。

「に……似てませんでしたか?」

 とうとう下を向いてしまった。テーブルに腕をついてひくひくと震える。

「……ッ、似てる、か、似てないかなんてもんじゃ……プッ、頑張って大人ぶった真似をしているようにしか……クッ」

 私の顔に血が上った。
 恥ずかしさが急にこみあげてくる。
 同時に少々頭の方にも血が回りそうになった。我ながら井桁がこめかみに浮かんでそうである。
 おのれ、人が気にしているのを知っていて平然と笑いやがって。
 いろいろとこみ上げて来た感情を持て余しているとつんつんと手を指でつつかれた。

「優雅にってお兄ちゃん笑わせればいいの?」
「……い、いや、ティアナちゃん、これは違ってね」

 どう言ったものだか……あーとかうーとか言葉にならない声を出しつつ迷っているといつの間にか時間は経っていたらしい。

「お待たせした」

 と恭也がお皿に盛りつけられたサンドイッチを運んできてくれた。
 慣れた様子で配膳していき、そのまま、何気ない動作でフォークを上に放り投げる。
 ──投げ? あ、あまりに自然な動きだったのでスルーしてしまった、あっけにとられながらも目はそのフォークの軌道を追う。
 投げられたフォークはくるくると回りながら綺麗なアーチを描き、恭也の後ろの仕切り壁の向こうに落ち──る前ににょっきりと手が伸びて掴んだ。

「危ないよ恭ちゃん」
「ああ、すまん。どうもこそこそしているのが気になってな、鼠かと思った」
「時代劇じゃないんだから、というか飲食店で鼠が出たらかなりアウトだよ!」

 そう言いながら出てきたのは美由希だった。恭ちゃんはいつもいつも、とぶちぶち文句を垂れている。

「いいから座れ。せっかくの再会だ。バツが悪いからと隠れている事もないだろう」

 そう言って席に手招きする。
 揃ったところで、とりあえずティーダとティアナちゃん二人の事を紹介し、また恭也と美由希も簡単に自己紹介をした。

「んじゃ、積もる話もあるけど、せっかくの料理だし」

 と、少々行儀が悪いながらも食べながら話をはじめる。
 お互いの近況を話したりする。もっとも私の方は誤魔化さざるを得ない、ロンドンの、日本より一年長い形の義務教育、それを終えた私達は新たなスクールに入る前に保護者のギル・グレアムの伝手で日本に旅に来ている……なんて設定になっている。
 ティーダとティアナちゃんに関しては管理局だのミッドだのを伏せておけばとりわけ隠す必要もない。というか個人名は出さなかったけど、手紙に書いた覚えがある。シッターをしていた家とはその後も親しくしてもらってる、などは知っているはずだったのでそう驚きはしないだろう……と思っていたのだが。

「そ……んな……ツバサ君が男の人と同棲……」

 美由希の目が大きく開かれた。レタスが刺さったままのフォークがふるふると震えている。

「あ、い、いや、えっと二年前に紹介したと思ったけど、姉も一緒だから、ね?」

 うっかり、今から住み着くはずのマンションについてまでぺらぺらと喋ってしまったのだった。
 いや、話がそこに及べば隠しきれないとも思うけど。

「まさかの家族公認……」

 美由希はティーダに一瞬視線を走らせ、再び私を見る。
 何を思ったかは嫌というほど予測がつく。そりゃ、こちとらティーダと一緒に居るのを見られる事は多い。慣れっこといえば慣れっこでもあった。
 一瞬の間をおいて美由希はがっくりとうつむく。

「うぅ……恭ちゃんといいツバサくんといい……私だけ取り残されていくよ」

 いいもん、もういいもん。剣に生きて剣に死ぬもん、とかブツブツつぶやき、飲み終えて氷だけになったグラスの中身をストローでひたすらにかき混ぜる。涼やかな音が妙におどろおどろしく聞こえる。
 何かの暗黒面に取り憑かれてしまったような様子に、私は冷や汗をかきながら乾いた笑いを漏らした。別に恋人というわけではないと説明するつもりだったのだけど、言っても耳に入らないようだ。
 困って恭也に目配せをすると、放っておけとでも言いたげに肩をすくめた。
 ……あれ?


「恭ちゃんといい……って、もしかして恭也、いつの間にや春が?」

 美由希ががばっと顔を上げる。

「そうなんだよ、あんな朴念仁で剣の事しか頭になかったような恭ちゃんが! いつの間にか、いつの間にか……名家の月村家、ザ・お嬢様とでも呼びたいくらいのお嬢様、忍さんと付き合ったりしてるし、してるし!」

 ほうほう、と私も相づちを打つ。自分の事ならともかく他人の色恋なら、それなりに好物である。世の中の女の子グループほどまでは行かないけども。

「酷いな美由希、俺だって剣の事しか考えてないわけじゃないぞ」
「……他は盆栽か変なたい焼きの事くらい?」

 む、と恭也は押し黙り、腕を組んだ。少し考えるようにして閉じていた目を開く。

「うむ」

 真面目に頷いた。うむ、じゃない。何と枯れてる奴だ。
 処置なしと見たのか、美由希は息を吐いた。

「ツバサくんは男の子じゃなかったし、恭ちゃんは……あんな美人さんに持っていかれちゃったし、むしろ結婚の話まで考えちゃってるとか話が進みすぎだよ……あぁうぅ……私はどうしたら……出会いが欲しい、出会いが」

 口の中でもごもごとつぶやく。
 プライバシーのため聞こえないフリをしていたが、今日も私の耳の調子は感度良好過ぎるようだった。

「もういっそ、形成手術で……生やして……既成事実……」

 ひどく妖しい単語がぽつぽつ聞こえてくるのを全力でスルーする。視界の端で見やれば焦点合ってない。マンガ的表現で言うならばお目々ぐるぐるの状態のようだ。
 流れる冷や汗をおしぼりで拭う。
 と、旧交を温めている間にティアナちゃんはすっかり退屈してしまったようだった。
 テーブルの下でミュールを脱いだ足がぺしぺしとローキックを浴びせてくる。
 テーブルの上では今までと変わらない澄ましっぷりを見るとなかなかこの先不安なような、女優とかに向いているんじゃなかろうかとか、男が群がってくるんじゃなかろうかとか。モテるのは良いけど、そうなったらなったで不安材料が。あ、いや……ここは叱るところか? 悩む。寂しい思いをさせてしまっていたというのもあるし、構って欲しいだけかもしれない。だからといってそれを負い目に感じてちやほやしたんじゃ逆効果な気がするし……うむ? 案外これは重要な事かもしれない。

「どうしたんだい? さっきから難しい顔をして」

 ティーダが不思議そうな顔をして聞く。

「ん、そうだね、私一人じゃ仕方ないし……ティーダ、今晩辺りちょっといいかな? 少し話しておきたい事が……って、美由希ちゃん美由希ちゃんや、なんて顔をしてんのさ」
「……夜のお誘いをこんな……こんな白昼堂々と……うわぁ」
「いや待て、待って、勘違いが過ぎるから、大体私はこいつと一緒に寝た事すら……」

 言いかけて墓穴を盛大に掘り、さらに前のめりに転落してしまった事を自覚する。
 一緒に寝た事は……あったな。うん。

「一緒に寝た事は?」

 こんな時だけ剣術を日頃からやっている成果とでも言うのか、敏感に私の気配を察知し、美由希は間を置かずに詰め寄った。

「なるほど、なるほど……一緒に寝た事まではあったんだね、それでつい自分にはない腕の筋肉とか触っちゃったりして?」
「だからちょっと……待」
「相手が寝ているのを良いことに余分な肉のついてない鎖骨のラインに沿って指を走らせちゃったり?」
「具体的すぎる! そんな事してないから、ちょ、ちょっと、恭也、恭也! ヘルプ! お前の可愛い妹の暴走を止めるんだ!」

 そんな恭也はティーダと妹談義に興じていた。
 ティアナが最近行動的でね、とか、いやいやうちのなのはもそういう時期が……などと話している。
 兄同士が共通の話題見つけたのはいいけど、隣で当のティアナちゃんが聞いているのを忘れちゃいないだろうか。
 
 ──助けは結局得られなかった。
 その後はずっと……ずっと美由希のターンである。思い出したくもない。店を出るときに美由希のお肌がつるつるしていたのはきっと私でストレス発散に成功したからなのだろう。

「また来てねー」

 と満面の笑みで手を振る美由希、つい反射的に「二度と来るか!」などと言いそうになったが、後ろに店長の士郎さんと桃子さんが手を振っているのが見え、不発に終わった。少々唇をひきつらせながらも笑みを浮かべ、手を振り返し、その日は帰る事にする。
 おみやげに持たせられたシュークリームの袋を両手で抱えたティアナちゃんは、横断歩道のゼブラ、白いところをスキップするように踏んで渡る。なかなか上機嫌なようだ。
 そういえば今回はなのはちゃんと会う事はできなかった。もっとも滞在期間も一日二日ではないし、機会はいつでもあることだろう。勧誘の件もあるけど……
 少し先を弾むように歩いていくティアナちゃんを見る。
 先生や施設の子達に聞いたところ、私達が居ない二年の間、相当ふさぎ込んでいたようで友達もあまり作れなかったらしい。施設の子たちにも本当の意味で心を開いていたとは言えないようだった。私達が帰還した事を契機に、また住む環境を変えた事で気分を変えてくれれば良いとも思っている。
 年の近い……と言っても3歳は離れているのだけど、なのはちゃんにもそこは勝手に期待したりしている。一度会ったきりだったが、とても感じの良い子だった。確かに私もお姉ちゃんと呼ばれ、ティーダもお兄ちゃんと呼ばれる身なのだけど、いかんせん年が離れているので「一緒に遊ぶ」という事が難しいのだ。どうしても子供に対して保護者的な感覚が付きまとってしまう。
 とはいえ、結局は捕らぬ狸の何とやら。私の視点から仲良くなって欲しいと思っても、結局本人同士の事でもある。
 私は空を見て大きく息を吐き出した。さすがに時間も時間だ、夏とはいえ斜めになってきた日に照らされたわた雲がほの寂しく浮かんでいる。
 
「夕暮れの空にアンニュイな息を漏らしてどうしたんだい、ツバサくん?」

 ティーダがからかい混じりにそう呼びかけてきた。
 恭也や美由希からそう呼ばれる分には何とも思わないのだが……少々恥ずかしさがこみ上げてきた。

「……ティーノでいい」

 というか私の安直なネーミングセンスをこれ以上からかわないでほしい。
 自覚はしてるのだちくしょう。

「ティーノ」

 ティーダは思わず横を振り返ってしまいそうになる真面目な声音で言った。

「いつか話してくれるって言ってた君の事についてだけど」

 硬直する。こんな何気ない場面で突然そう話を振られるとは思わなかった。
 足が止まってしまい、町の雑踏が遠のいた気がする。

「……うん」

 私が緊張した声で言葉少なに返すと、ティーダは気が抜けたようににへらと笑った。

「とりあえずは今の反応で良しとしておこうか。変な顔も撮れたし」

 そう言って手元の成果を見せる。そこには「ひょッ!」とでも思わず言ってそうな様子の私の姿が写っていた。間抜けである。とことん間抜け顔である。

「待ていおのれ、あ……いや、でも良いの?」

 タイミングがタイミングだったとはいえ、私自身もそろそろ身の上話めいたことを話しておくべきかなとは思っていた。正直、関係が壊れるかもしれないし、反応が怖いけど。
 ティーダはこともなげに「話しやすい時に話してくれればいいよ」と笑った。少し先に行きすぎてしまったティアナちゃんを追いかけ、小走りに先に行く。
 取り残された私は再び天を仰いだ。

「……ああ、まったく。甘い。これでまたずるずる先延ばしに」

 自覚してるのに、それでもそうやって手を伸ばされるとつい甘えてしまう自分に対して嘆息する。
 亡霊さんはいつだか私のことを強いと評した事があったけど……どこがだろうか。
 気をとりなおし、二人の後を追った。
 帰り道にあるスーパーに寄って行かねば。せっかく日本にまで来たのだし、和食を食べさせてみよう。ご飯の香りは好き嫌いがあるから様子を見てだけど。生魚はちょっと刺激が強すぎるかもしれない、豆腐とかの大豆料理から行ってみるとしようか。今は精々甘えさせてもらうかわりに美味いもんでも食べさせてやるとしよう。



[34349] 三章 三話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/29 20:27
 海鳴市に来てはや一週間が経った。
 この間やっていた事と言えば、地球に不慣れなティーダとティアナちゃん二人に予備知識を教えながら出歩いていただけな気がしないでもない。
 一応定時連絡の義務があるのだが、正直報告する事もまだまだ少ないのだった。
 カーリナ姉は二日前に一度戻り、トーテムポールらしきものを部屋に置き、夕食を囲んだ後、次の朝にはまた出かけていた。
 ……あの人の放蕩具合をティアナちゃんが真似しなければ良いのだけど。

 そして私達はというと今、海にいる。
 高町家の面々……と言ってもお店があるのでさすがにご両親は来ていないが、美由希となのはちゃん、夏休みでもあることだし、久しぶりに海にでも出かけようということになったのだ。臨海公園の砂浜、さすがに海水浴客が結構多く、いかにも外国人ですよー、と主張してる容姿の私やランスター兄妹はちょっと人目を引いてしまっている。
 黙ってればイケ面とは言え、普段さほど振り返られた経験はないのだろう。ティーダが割と困惑していた。
 ティアナちゃんもまたそんな目で見られていたのだが、こちらは年が年だけにあまり気にする事もないようだ。合流したなのはちゃんと引き合わせたら、最初こそおどおどしていたが、にこやかな割に結構強引な高町家の末っ子に引っ張られ、砂浜でボール遊びをしている。
 なのはちゃんは末っ子だった事も影響しているのかもしれない。

「今日はなのはの方がお姉ちゃんなんだからちゃんと面倒見るんだよ」

 そう美由希から言われて妙に嬉しそうである。

「行こうティアナちゃん、なのはお姉ちゃんが一緒だから!」
「え、ええ!? うん、えっと、はい!」

 手をひっぱられて行くティアナちゃんに行っておいでと手を振った。
 そんな私は太陽から降り注ぐ陽光に負けてパラソルの下である。
 メラニンの薄い身には反射光でも厳しいのに直射日光など浴びてはいられない。

「っとそうだ、ティアナちゃん、てぃーあなー!」

 子供の運動能力は半端無い、あっという間に波際に行ってしまったティアナちゃんを大声で呼び寄せ、ミッドで流通してる日焼け止めを渡しておく。
 ちょっとずるい気もするが、とにかく性能が良いのだ。子供の柔らかい肌にも優しく、化粧水のように塗れば良いだけ、ベトつかない。
 こんな日差しの強い日には必需品である。
 なのはちゃんにも使って貰うように言っておいて、私はまたのそのそとパラソルの日陰に隠れた。
 ちなみに恭也は恋人とデートの予定が入っていたらしい、今日は来れないという事だった。それを伝えた時の美由希の顔がまた……何ともまあ複雑な感じだったのだけど、深くは追求しないでおこう。何か藪をつついたら蛇どころかドラゴンでも飛び出してきそうだ。

「さてと、私はここで子供達でも眺めながらのんびりしてるけど、ティーダと美由希は泳いできたらどうかな」

 気を使わせないよう、手をひらひらさせ軽い調子で言っておく。
 良い日焼け止めがあろうと、さすがに好きこのんで強い日差しの中に出ていく気分にはならない。こちとら月夜の方が過ごしやすい軟弱者である。
 ツバサ君は? とでも言いそうな美由希に目をむけた。

「男慣れしてない美由希もたまには恭也以外にエスコートされるといいよ」
「……恭ちゃんはエスコートなんてしてくれないよ」

 体付きなんてなかなか丸くてエロい事になっているというのに何ともけしからんことではある。うむ、まロ……いや、何か危険な気がする。妙な思考が混ざった。
 水色の大きめの柄がプリントされているビキニ、その胸元を見つめる。
 視線を戻し、下を向いてみる。
 一応私も水着は安いものだけど買ってある。ティアナちゃんとお揃いのパレオ付きストライプだった。何の変哲もないサイズ違いなだけで、色だけ違うようにしてある。ティアナちゃんがオレンジで、私が青だった。

「むう」

 胸の大きさは同じくらい。腰から尻へ続くラインもまた。身長との比率からすれば私もまたスペック的には負けてないはずなのに……この色気は何なんだろう。
 やはりあちこち、肩とか二の腕とかふとももの、丸さか、丸いのが正義なのか。正義なんだろうな。
 ぺたぺたと自分のを触ると、日頃の運動のせいか筋肉がしっかりついていて、柔らかさは……その、あまり……ふふ。羨ましくなんか感じてはいない。ああそうさ。あんなものただの脂肪だ。贅肉なのだ。

「ティーノ?」

 うふふと怪しく笑い、むにむにと自らの体を揉みまくっていると、奇行に走る私を訝しんだのか不思議そうにティーダが声をかけてくる。
 我に返った私は短くため息を落とした。全く何を考えているのだか。
 無言でビーチマットに横たわり、ミッド組二人が珍しいというので買った麦わら帽子を顔にかぶせる。
 ふて寝を決めこむ私の耳にひそひそとこぼれた会話が聞こえてきた。

「……何なんだろう、最近ティーノが情緒不安な気がするよ」
「え、と、ティーノってツバサ君の事ですよね、二人はもう会ってから長いんですか?」
「そうだね、最初は──」

 ……聞こえない。聞こえないぞ。何も聞こえない。
 ちょっと身悶えたくなるような自分の話なんて全く聞こえていない。
 確かに毎度毎度料理作ったり掃除したりしてたけど、墓参りも一緒に行ってるけど「通い妻……」なんていう美由希のつぶやきなんてまったく耳に入っていない。
 自然とそういう流れになってしまっただけで、それを第三者的に語られるとそれはもう恥ずかしさがマックスでビクンビクンでごろごろしたいのである。
 せっかく海に来ているんだからとっとと泳ぎにでも行ってくればいいのに。こっちをダシにして盛り上がるんじゃあない。良いダシ出るぞ! 鶏ガラだ!
 そんな茹だった頭の私を尻目に二人の話はその後も続きそうだった。耐えきれなくなった私は麦わら帽子で顔を隠したまま勢いよく起き上がる。

「なのはちゃんとティアナちゃんの様子ミテキマス」

 羞恥の針のむしろより、太陽の方がマシ、と逃げ出したのだった。

   ◇

 最近、ティーダが妙な食材を買い込んでくる事が多い。
 ミッドにはない食材が珍しくて、ついつい好奇心に負けて買ってしまうらしく、変な取り合わせの食材を何とか私が組み合わせて料理して……なんてのが一週間ほど続いていた。
 季節が季節だ、この間など見た目で選んだものだったか、ニガウリをわさっと買ってきたものだった。絶対どういうものだか判ってない、判ってないよこいつ。
 一応、苦いんだよと説明したものの、それでも食べたいというので、その日はゴーヤチャンプルを仕立ててみたのだが、案の定ティアナちゃんは一口食べてものすごい顔をしてしまった。
 ……もちろん下処理も万全、苦味は旨みに感じられるぎりぎりにまで抑えているはずなのだが……まあ、豚肉や鰹節で抑えようと油で抑えようと苦いものは苦いのである。大人の味なのだ。
 この苦味も慣れると妙に美味しく感じられてしまうものだったが……と私も一口食べるが、つい忘れていた。子供舌がまったく治ってない事を。コーヒーは飲めるようになったのに。
 私は無言でティアナちゃん用に作っておいた、普通の夏野菜炒めに箸を伸ばした。
 茄子、パプリカ、人参、タマネギをざくざく切って、豚肉と一緒にゴマ油と醤油で炒めたものだ。ゴーヤチャンプルを作る時に使った鰹出汁も使って和風にしてある。
 じゃくっとした歯ごたえの後に中から野菜の汁が出てきて美味しい。香り付けにと使ったニンニクも良い仕事をしてくれたようだった。香ばしい香りが食欲を誘う。
 パン食メインだった二人も心配していたほど米を変には思わなかったようだ。お箸はまだ使い慣れてないものの美味しいと言ってくれている。ただ、とぎすぎる程といでしまったお米なので、むしろ私は若干物足りなさも覚えたりする。癖もないし柔らかくなるので食べやすくもあるのだけど。まあ、これはゆっくり慣らしていく予定だった。今は臭いと言うだろう麹漬けや粕漬けもいずれは出せる日が来るだろう。

 現地調査……データ採取と言うべきか、二手に別れるときもあるが、今日はティーダと一緒に調査に回っていた。
 ティアナちゃんはというと、家で通信教育中である。何でも「管理外世界への居住テストの一環」なんて名目で姉が手配したものらしく、次元世界から通信教育を受ける事が出来るようになっていた。あの人はどこでどういう伝手を使っているのか、非常に気になるところでもある。と言ってもその居住テストのような事は割と各地で行われているらしく、ここのところ拡大している管理世界や、中途半端に介入せざるを得ない世界に長期赴任しやすいようにするための措置なのかもしれない。子供への教育だけでなく、様々な形での支援体制を考えているようで、本格的に運用が始まれば人手不足もだいぶ解消されるんじゃないだろうか。
 海鳴市に過去あったロストロギア、多分私が……アドニアが暴発させてしまいそのまま共に流れ着いたもの、ロコーンは以前調査に訪れた時にカーリナ姉が回収した。もっとも、当時はそんな大層なものとは姉も思っていなかったようだけど。
 私は研究者じゃないし、亡霊さんから教わった知識にしても原理とかはよく判らなかったので、大まかに推測する事しかできないのだが。多分ロコーンを世界単位で移動させた事が良かったのだろう。この世界の魔力素が流出しているような感じは以前と比べると格段に少なくなっている。それについては一つ安堵のため息をついた。
 ただ、その後の事件……ロストロギア、ジュエルシードの絡んだ一件の痕跡は未だあちこちに残っている。
 あまりに魔法的……というか、この世界の科学では説明できないような痕跡についてはアースラの修復チームが秘密裏に手を入れていったはずだったが、やはり微細な違いは残ってしまうようだった。例えば道路工事をしているところを覗きこむと、はがしたアスファルトの下地、それが線引きをしたように一定の区域で色が変わっていたりしている。
 他にも妙に建物が新しくなっているものがあったり、逆に古い建物のはずなのにありがちな蔦やコケなどが全くついてなかったりなど、細かく気にすれば疑問を覚えてしまうような箇所で一杯だった。
 とはいえ……これは事情をあらかじめ知っていたからこそ目につく程度だろうし、気に留める人のほうが少ないだろう。外壁塗装など仕事としているような人はしきりに首をひねってしまうかもしれないけど。そこは勘弁願いたい。しかしまあ、これだけの損害を細かく補修していったアースラのチームにお疲れ様と一声掛けたいところだった。
 ジュエルシードによる物理的な被害は巨大な植物の様な暴走以後、大きな被害は出ていないようだった。報告書に書かれた、ユーノ・スクライアという子供ながらも優秀な結界魔導師……クロノが優秀と形容するくらいだから相当なものなのだろう。残念ながらまだ面識はないのだけど、その子の力がある程度回復してきたのに加え、アースラの到着、また同時に探索していたフェイト・テスタロッサが非常に優秀な魔導師であったという事も大きいようだ。
 問題が残っていると言えば、なのはちゃんとフェイト、この二人がジュエルシードを取り合った時に起こってしまった魔力の暴発だった。この時小規模ながらも次元震が起こっていて、結界内の出来事とはいえ、鋭敏な人は何か感じたかもしれない。さらに言えばその後の時の庭園を中心に群発した次元震の余波も届いているらしく、これはもう少し時間を置いてデータ取りをしてみないと影響が出てるのかどうか判らない部分でもあった。

   ◇

 一通りのデータを取り終えた後、今度は変なモノを買わせまい、などと考えながら連れだってスーパーに足を向ける。
 五分も歩いた頃だったろうか、ぴりぴり来る異変を感じ取ったのは私だった。足を止め、感覚を澄ます。

「……結界?」

 私のつぶやきに怪訝な顔をして、周囲を見回すティーダ。気付いていなかったようだ。
 今この世界で結界を張れる魔導師だと、考えられるうちでは私達以外……なのはちゃんとユーノ・スクライアという少年のみのはず。もっとも、予想外という事はいついかなる時でも起こるので油断もなかなかできないのだけど……何はともあれ様子を見に行ってみる事にする。
 感覚を頼りに、10分歩いた頃だっただろうか。
 駅前通りから西の方にある高台にちょっと寂れた公園がある。違和感の発信源はそこだった。魔力消費を抑えているのだろうか? 封時結界のようなあまりがちがちの結界ではないようで、近づくにつれて人気がなくなる事から、認識を誤魔化す類の結界かもしれない。
 この手の結界は特にセンサーの役割をするわけではないので、私とティーダはこっそり気取られぬように近づいた。
 木陰に隠れたところで覗き見て、予想通りといえば予想通りの姿を確認する。

「……しかし……なんといいますか……ねえ、解説のティーダさん」
「ええと、これは本来はもっと派手な魔法に適正が向いているのかもしれません、ただそれであってもあれだけのコントロール、正直あの年であれほどのコントロールが出来るなら、ミッドチルダであっても初等科の一番を取るのは容易い事でしょう。おっと、ここでさらに追加のスフィアを出してみせた。これは難しい」

 もちろん小声でだが、ティーダもなかなかノリ良く応えてくれた。
 人の気の無い公園でなのはちゃんが魔法の練習をしている。魔力スフィアを出して一定の軌道を描くようにくるくる回していた。
 そうなると、結界を張ったのはユーノ少年のはずだけど……見あたらない。はて、と相変わらず木陰に隠れながら首をひねる。
 そんな間にも魔法の練習は続いていたのだが、さっき出した追加の魔力スフィアも同時にコントロールするようになると一気に負担が増したようでしばらく綺麗な円運動を描いていたそれもやがて軌道を乱し、集中力が一気に切れたのか、軽い音と共に雲散した。

「うぅ、暑くて集中力が……レイジングハート、どのくらい続けていられた?」
『About 20 minutes(約20分ほどです)』

 報告には聞いていたけど本当にインテリジェントデバイスのようだった。
 私は思い立ってこそこそとティーダに話しかける。

「良い機会だしそろそろ私達の事も話しておこうか」

 これまでになのはちゃんと会う機会はあったのだけど、何となく切り出せていなかった。念話を使えばすぐに知らせられるものでもあるのだけど。
 そういえば……と思い出したものがあり、ティーダにデバイスを出させ、バリアジャケットのモデルデータを渡す。

「こ……これは」
「ん、どうせならちょっと驚かせちゃおうかと思ってね」

 絶句したティーダに、私は悪戯げな顔を作って笑いかける。どうもここのところ私の中の真面目成分が欠如しがちである。我ながら困ったものだった。

「かなり前だけど、私が持ってったゲームやった事あるから何となく判るでしょ、それじゃ行くよ?」

 ティーダの返答を待たずにデバイスを起動させ、カード状の待機状態から杖の形態に。いつか使おうと設定だけ作っておいたバリアジャケットを纏う。やれやれと肩をすくめたティーダも銃型デバイスを起動させ、私が渡したそれを纏った。
 さすがに隠してもいないデバイス起動時の反応音や魔力で気付かれたらしい。なのはちゃんが警戒した目でデバイスを構えた。どこからか「なのは、注意して!」という声が聞こえる。ユーノ少年だろうか。
 私は、ティーダに目で合図するとゲームでお馴染みの台詞と共に飛び出した。

「ヒーホー、リトルシスター! 面白い事やってんじゃんホー!」

 そう、ハロウィンの定番、あるゲームでもお馴染み、かぼちゃのお化けのジャック・オ・ランタンだった。いや、好きなキャラなのだ。いつか子供の前でやってやろうと思っていた衣装がやっとお披露目である。
 そして隣では雪だるまのお化けの格好をしたティーダがなぜか拳銃デバイスを口で吹き消す動作をして格好つけていた。
 あまりのことになのはちゃんが目を丸くしている。公園の中に静寂が広がった。
 驚かせすぎたか……ちょっとスベっちゃったかも! なんて内心考えていたら突然なのはちゃんがあわわわ、と慌てだした。

「レ、レイジングハート、レイジングハート! 悪魔さんだ! 喋ってる! えっと、えっと、対抗するには、召還プログラムはないの!?」

 そのデバイスに「落ち着いて下さいマスター」とか言われているが、文字通り浮き足だっている。人の話を聞ける状態ではなかったようだ。人じゃないけど。

「そ、そうだよね、魔法があるんだから悪魔がいてもおかしくないよね。そ、そうだ、こんな時はまず交渉しないと」

 胸に手を当てて深呼吸をする。すーはー。こちらに向き直り、ぺこりと頭を下げ、挨拶と丁寧な自己紹介をしてくる。
 ……ふと思ったのだけどこんなネタ知っているとか、わりとゲーム好きなのだろうか。いや私も人の事は言えないけど。ともかく、ここまで悪ノリしてしまった以上最後までやるべきだろう、うん。

「前置きなーがーいー、オイラと仲良くしたいならマッカよこせホ!」

 さすがになのはちゃんも困った顔になって「マッカなんてどうすればいいの」なんて困惑する。
 私は首をかしげて見せた。

「持ち合わせが無い? よしゃー、それなら力で示してみるホ! オイラわくわくするホ、ひゃくばいヒーホー拳!」

 そこまでするのか、とでも言いたげなティーダを尻目に私はそのハイテンションのままなのはちゃんに襲いかかった。
 魔力弾を、ちょっと炎がかった幻影を魔法で付加して撃ち出す。昔はできなかったけど今は4発くらいまでならこんな芸当もできるのだ。
 もちろん、危なげだったらすぐにキャンセルできるようにしてあるのだが、報告書の通りだとおそらく……

『protection(プロテクション)』

 デバイスの冷静な声が響き、防御魔法が張られる。
 自動反応ではない。私が攻撃したと見るや、即座になのはちゃんの意志で防御魔法を展開したようだった。
 ……いやいや、普通無理だと思うんだけど。というか9歳にしてすでに戦闘慣れしてるってナニゴトか……少しは迷わないか?
 顔面を大きく覆うかぼちゃ型バリアジャケットの中で私も表情がひきつっていたかもしれない。
 当たった魔力弾は……うん、焼け石に水という言葉を体現した。どちらかというと焼け石に水滴の状態で、一瞬で消滅したが。しかし、制御はしっかりしているのに、魔力の分配はまだ身についてないのだろうか? 過剰なまでの魔力を防御に注いでいる。

「……そういう事なら判りやすいかも、ユーノ君、結界お願い!」
「了解したよなのは、でも相手が判らない。気を抜かないで」

 どこからか聞こえてきた返事と共に先程とは違う、位相をずらした封時結界が敷かれた。そして、白を基調にしたバリアジャケットを纏ったなのはちゃんが、起動状態になったデバイスを構える。どこか目が生き生きとしているのだけど……やはり恭也の妹ということなんだろうか。

「行っくよー」

 とスポーツでも始めるかのような声と共に誘導弾が放たれた。桃色の魔力弾が私に迫る。その数三発。
 さすがに制御はまだ甘いようで、避けるのはそう難しくなさそうなのだけど……一つ試しに受けてみる事にする。
 先程なのはちゃんも使った、魔導師なら誰でも使えるプロテクションを発動、念のため簡易のシールド魔法もデバイスの前に展開して備える。
 ──衝撃。

「うろろろろぁぁぁぁ!」

 時間差を置いた三つの魔力弾を受け止めた私はその勢いのまますっ飛ばされた。
 飛ばされる、飛ばされる、飛ばされる。

「なんでこんな魔法で初っぱなからクライマックスなんだあああ!」

 キャラ作りも忘れて思わず叫んでしまった。
 慌てて魔力の出力を強め、デバイスに込める。
 受け止める事から受け流す事に重点を置いて、魔力刃を纏わせたデバイスを振り抜いた。

「……はー」

 さすがに弾かれた弾までは制御できないらしい。空の彼方へ過ぎゆく魔力弾を見送る。
 ちょっと離れてしまって遠くに見えるティーダが念話で話してきた。

(だ、大丈夫かい、ティーノ)
(焦った……報告書は報告書に過ぎないって事だね、なんていう密度の魔法出すのかあの子は)

 あるいは……と遠くで魔法の威力に自分で驚いている様子のなのはちゃんを見る。
 これまで対峙してきた相手が相手だ。下手に加減するより、一発一発に全力を込めるようなやり方が身についてしまっているのかもしれない。

「参ったなあ……」

 こっそりとつぶやきつつ、今度は私からとばかりに魔力弾を放つ。数だけは多い一斉射撃、コントロールとかまるで考えてないし、一発一発は弱くて話にもならない。驚かせるだけのものにしかならないだろう。

「え、うそ……弾幕!?」

 この子はシューティングゲームもやってるんかい、と頭で突っ込みつつその弾幕に紛れて接近する。
 数だけは多い魔力弾が炸裂し、ことごとくプロテクションの壁に阻まれ霧消する。
 その閃光と炸裂音を囮にして至近距離に入った。

「ヒーホー! 喰らえー!」

 弾幕ではない、それなりに魔力の込められた魔力弾を間近から放つ。

「わっ」

 なのはちゃんの驚きの声が響き、魔法が炸裂した。

「……ひーほ」
「あれ?」

 障壁が抜けない。
 バリアジャケットくらいまでは何とか届くと思っていたのだけど……とんだ話である。
 その後、何度も機会はあった。とりあえず私の習得してた射撃魔法を片っ端から試したみたのだが、効かないったらない。
 もっとも、なのはちゃんの魔法もまださすがに誘導の甘さがあるし、空にあって砲撃魔法に当たるほど私の機動性も低くはない。時折バインドが飛んでくるものの、それも性格の真っ直ぐさが災いしてか素直なもので、とても避けやすかった。
 飛んでくる射撃、砲撃をかわすかわす。しかし決め手がない。いや、あるにはあるのだけど、こんな模擬戦とも練習とも呼べないような事で使うものじゃない。
 もうこのまま最後までかわしきって魔力切れを待つかと思った時だった。

「はれ?」

 がくんと動きが止まる。

(ティーノ、足!)

 様子を見ていたティーダが念話で知らせる。
 見れば足にチェーンバインドの鎖が……どこから来たのかと、鎖の先を見れば魔法を使っているフェレットの姿が。
 ……そういえばスクライア一族って独自の変身魔法持ってたっけ?
 こりゃ、うっかり。
 なんて余裕ぶっているのだが、冷や汗だらだらである。見ればなのはちゃんが照準をこちらにばっちり定めている。魔法陣が生まれ、砲撃魔法に独特の魔力チャージが行われる。
 ざん、とばかりに利き足でしっかり地を踏みしめ、発動のキーとなる魔法名を言った。

「ディバインバスター……シュート!」
『Divine buster(ディバインバスター)』

 桃色破壊光線としか名状しえない何かが迫り、飲み込まれる。
 何と私、ティーノ・アルメーラ現空曹は、わずか9歳の、魔法に触れて4ヶ月余りの子供に撃墜されるという記録を刻む事になってしまった。

   ◇

「あたた……」

 撃墜された私が地面で転がっているとなのはちゃんが駆け寄ってきた。
 降参降参、と両手を挙げてバリアジャケットを解除、姿を見せる。

「え……ええええっ!」

 とても驚いたようだった。
 しかし、すぐにがっくりと項垂れてしまう。
 予想外のリアクションに私の方が焦った。

「……仲魔にしたかったのに」

 そんなつぶやきが漏れ聞こえ、私は引きつった笑いを浮かべる。
 もしかすると、なのはちゃんの中ではちょっと面識のある、兄と姉の友達が魔導師だった、なんて事はあまり驚きポイントではなかったのかもしれない。

「ある意味これもスベったということなんだろうか……」

 気を取り直し、ティーダもバリアジャケットを解いて、改めて自己紹介をする。

「管理局の人だったんですか」

 そう言ってなのはちゃんの肩に飛びのったのは先程のフェレットである。

「ん、ユーノ・スクライア君だよね」

 小動物の小さな手を指で掴んで握手する。
 ……ちょっとキュンとした。5秒ほどにぎにぎしていると、不思議そうに首を傾げる。
 いかん、あざとい、存在そのものがあざとい。好物は何だろうか、やはりクルミ? いやいやリスじゃないんだから。肉食だとしたら茹でたササミとかはどうだろう。食べやすいように繊維を叩いて潰してから一口サイズにしてやってもいい。そういえば、案外果物とかも食べるものと聞いた事も……いや餌付けには弱い、もう少し工夫を。

「ツバサさん?」

 なのはちゃんが不思議そうに私を見ていた。ハッと我に返る。

「ティーノ、その顔……何かまた変な事を考えてたね」

 ティーダが私の頭に手を置いてそんな事をのたまった。
 振り払って髪を整える。私をからかうように手をひらひらさせた後、また頭に置く。叩こうとしたが、避けられる。今度は置いた瞬間を見計らって叩いた。華麗に躱され、私自身を叩いてしまう。
 ……いや、何やってんだ私は。なのはちゃんをほったらかしにしてしまって。
 こほん、と咳払いを一つ。

「ん、まずは、試すような真似しちゃってごめんね。ちょっと驚かせたかっただけなんだけど、それに報告書だけじゃ判らない事も多いから」

 そして私とティーダでPT事件時の事後調査に派遣された事をかいつまんで説明する。実際にはいろいろと複雑な背景もあるのだけども。
 そういえば、一応なのはちゃんの勧誘も用事のうちではあったので、軽く触れておかないといけない。

「それとね、現地協力者としてのなのはちゃんの活躍ぶりを見たうちのお偉いさんが、なのはちゃんをスカウトしたいって言っててね。私がその手先って事になるのかな」
「……え、それってどういう?」
「ん、平たく言っちゃえば、管理局で一緒に働きません? っていうお誘いだね」

 この話にはさすがに困惑顔になってしまうようだ。
 私もちょっと苦笑した。

「『魔法の力を知ってしまったから、我々のモノになれ!』とかそういう押しつけがましい話じゃないから安心して。今はそういう生き方、将来の行き先もあるっていう事だけ覚えてもらっておけばいいかな」

 もっとも局側の本音を言えば、こんなに使える戦力が居るなら何としても引っ張ってきてくれ、ってところなのだろうけど。
 人材不足、特に極端に数が少なくなる将来S級にも届きそうな魔導師なんてのは、魔法社会から見ればとんでもないお宝である。優れた魔導師は文字通り、物理的に万人を救ってしまうような真似だって出来るのだ。どれだけ育成に費用がかかっても確保すべき人材だった。
 ただ、それはミッド……管理世界の通念であり理屈なのだ。この世界で声高に言うのも違う気がする。
 それに、私個人の意見でしかないが、この世界に生きるなのはちゃんにはこの世界での将来というものも考えておいて欲しかった。ユーノ君という友人も居るようだし、管理世界との関わりはこれからもあるだろう。焦らず次元世界の常識、魔法の在り方、魔導師の立ち位置を十分に知った上で判断してほしいとも思う。
 なのはちゃんは私の言葉を真面目な顔で聞き、少し考え、ゆっくり頷いた。

「正直……まだ将来って言われてもよく判らないけど……うん。覚えて、考えてみます」

 そう言って思わず心が温かくなるような笑顔を浮かべた。
 恭也が妹自慢するのも判る気がする。
 いやいや、無論うちのティアナちゃんも負けちゃいないのだけど。
 私は思わず緩んでしまいそうになる顔をひきしめ、性懲りもなく私の頭に再び手を置いているティーダの手に攻撃を加えた。



[34349] 三章 四話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/29 20:28
 なのはちゃんとユーノ君、二人をしばらく立ち話に付き合わせてしまった。
 公園に設置されているありきたりな時計をふっと見れば、なかなかいい時間である。

「なのはちゃん、そろそろ遅くなっちゃうからね」

 と帰宅を促すと、若干慌てた様子で「それじゃ私、えっと、失礼します!」と挨拶をして帰りを急ぐ。お店を手伝う事もあってか、まだ小さいのにしっかりした挨拶を返してくるあたり、しっかりしたものだった。

「気をつけてねー」

 にこにこと最後まで笑顔で見送った。見えなくなるまで小さく振っていた手が、なのはちゃんが見えなくなるにつれてくたっと倒れる。
 何とか……何とか気付かれなかったか。
 冷や汗が背筋を伝う。我ながら重たげなため息が漏れ出た。安堵のせいか、足に力が入らず思わずバランスを崩した。

「おっと」
「あー、ごめん」

 ティーダにもたれかかる。肩の高さが丁度いい。手をかけてぶらさがった。
 魔力ダメージが半端なかった。なのはちゃんに気にさせるのも嫌なのでやせ我慢をしていたのだけどかなり限界である。

「大丈夫かい、ティーノ、少し休んだ方が?」

 ティーダがちょっと心配そうな様子で覗きこんできた。

「……いや、そこまでじゃない。だいじょぶ。ただ、あの子全力すぎる。これまでの戦闘経歴見れば仕方無いけど、必要な分の魔力を必要なだけ出すってやり方を知ってほしいかもしれない」
「ああ……確かに小手先に頼ったり持久戦に入るよりは、一撃で決めるって感じだね。バインドも併用はしていたみたいだけど」

 確かにぽつぽつとバインドは出していたが、正直避けやすい。魔法の構成そのものはえらくしっかりしてるので、捕らえられたら破るの大変そうだけど。
 バインドとか遅延発動の小型結界とか、進行方向に設置された、幻術で見えにくくなってるラウンドシールドとか、姑息な手を当然の下ごしらえとばかりに大量に投入してくるティーダとは対極的である。クロノはもう少し守備型なのだが……そういえば昔、二人の模擬戦を見た時は呆れた覚えがある。あれは魔法戦闘ではなく詰め将棋とかそっちの部類だ。
 そして正直私が目を瞠ったのは、なのはちゃんのその魔力の量もあるけど、密度である。私には到底真似できないステージに既に入ってしまっている。どうしたって拡散ビームっぽくなってしまう私からすれば羨ましい事この上ない。向き不向きは仕方無いものでもあるし、どんな魔法でも使い方次第でしかないんだけど……うん、そう思っておく。悔しくなんてない。ないのだ。

   ◇

 本日は晴天なり、あーあー。などと言いたくなるような、それはもう憎らしいほどに太陽が照りつけ、アスファルトを焼き焦がし、さしもの私も舗装路の上で鶏の照り焼きになってしまいそうな暑い日だった。
 例によって定点観測中のデータを取り終え、汗で肌に張り付くタンクトップをちょっと気持ち悪く思いながら帰り道を急いでいた時だった。
 また今日は信号に恵まれない。交差点で赤信号に止められてしまった。
 もう、帰宅はゆっくりにして、どこかで涼をとって休んでいこうか、そんな事を思う。何となく愛用になってしまった麦わら帽子をとってぱたぱた扇いで待っていると、交差点の向かいで同じように信号待ちの少年が目に止まった。

「んん?」

 目立たない少年だった。きっと変な動きをしなければ私も注意を払わなかった事だろう。
 少年はハーフパンツのポケットから取り出した何かを突き出すようにしてこちらに向けた。手を開き、握っていたそれを私に見せつけるように──

「は?」

 見覚えがあった。細長い菱形で、トパーズのような、ターコイズが透き通ったかのような色合いの鉱石……中心には文字のようなものが……
 暑さで茹だった頭が正常に回るようになるまで少々かかってしまった。
 そう、あれは資料で見た事があった。アースラチームにより回収できるものはされ、残りはプレシア・テスタロッサの手により失われてしまったはずのロストロギア。

「……うっそ、ジュエルシード?」

 いやいや、いやいやまさか。たまたまよく似ている鉱石だろう。暑さでぼうっとしているから変な方向に頭が回っているんだきっと。
 頭を振りつつそんな事を思っている間に、大きな音、道路の暑い空気をまきあげて大型トラックが横切る。通り過ぎた時にはすでに向かいの少年の姿は消えていた。
 焦る。慌てて周囲を見やれば少し離れた人混みの中に混ざって歩いていた。向かう先は……バス亭? 丁度バスが停まっている。
 交差点の信号が変わった。慌てて渡り、少年の方に近づこうとしたのだが、間に合わない。バスが出てしまった。
 クッ、と思わず小さな呻きが漏れた。
 緊急かどうかも判らないのに堂々と魔法を使うわけにもいかない、封時結界……で捕捉するには使える人が離れすぎている。自慢じゃないが私は使えないのだ。
 やむなくとても古典的な方法をとることにした。
 ドラマでは付きものの「ヘイ、タクシー!」を自分がやることになるとは思わなかった。すでにバスは動き出してしまっている、私は乗り込みながら慌てて運転手さんに追いかけてもらうように頼んだ。
 数度目のバス亭で少年が降りたのを確認して、私もタクシーから降りて追いかける。
 だが、また姿が見えなくなってしまった。場所が場所、古い住宅街のど真ん中ということもあり、建物が入り組んでいる場所だからか。
 なんてこったよ……と頭を抱えていると、目の端に少年のものと思わしき姿がちらちら見えた。
 小走りに走り寄ればどうも、うまいことミラー状になっている窓に姿が反射していただけのようで、離れたところで少年が佇んでいる。私が今度こそはと急ぐと、その先の角を曲がる姿が見える。

「ふ……ふふ、これは完全に……」

 誘い込みである。私に挑戦しているのである。
 いいだろう、いいだろう、その挑戦受け取った! 溜まっていたフラストレーションに火がついた。絶対に捕まえてやる。
 ……なんて、意気込んだは良いものの、その後、何度も何度も何度も……ちらちらと見え隠れはするのだが、一向に捕まらない。正直戦慄を隠せなかった。どれだけの隠密行動スキルを持っているのか、あいつはどこのスネークだというのか。
 気付けば既に場所も私のよく知らない土地になっていた。海鳴の隣町にまでいつしか入っていたらしい。
 ちなみにティーダには既に連絡を入れてあり、場合によっては多少人目にもついたとしても魔法を行使する可能性が出てくるとは伝えてある。本当にジュエルシードだとしたら、その被害もちょっと想定しきれないものがあるのだ。強引な手段もやむを得ないと考えていた。
 少年はぱっと見た目、本当にどこにでも居そうな容姿をしていた。よく見れば特徴はある。まだ十才前半のようだが、髪の色がうっすら茶色がかっていたり、少し鼻が高かったり。ただ、その表情というものがどうも掴みようがない。笑っているでもなし、無表情でもなし。とても茫洋とした表情をしている。おかげで、人の中に居るとすぐに埋没してしまって判別しづらいのだった……というか普段私がどれだけ人を判別するのに表情を追っているが判ってしまう。
 やっと追い詰めた場所は、広い河川にかかっている橋の下である。テトラポッドに腰掛けて暇そうに足をぶらつかせる少年に、何となく警戒を強めながら近寄る。

「遅かったね、時空管理局のお姉さん」

 少年の第一声はそれだった。
 間違いなく黒だ。次元世界の事を知っている人物であり、そうなると……いろいろ考えられるものの、ジュエルシードが本来のものである可能性もまた……いや逆にフェイクである可能性も高まっているが、用心に越したことはない。

「管理局を知っているんだね、なら話が早いと言った方がいいかな。私はティーノ・アルメーラ空曹、現在この地には調査で訪れているんだけど、君の名前を教えて貰えるかな?」
「……へえ、なるほどね」

 少年は私の問いには答えず、目を細めると何やら考え込んだ。幾ばくかの間を置いて思い出したように言う。

「……ああ、名前ね、トキノって呼んでよ」
「トキノ……土岐に野原?」
「好きなように……んん? お姉さん、管理局員なのに漢字とか判るんだ」

 試してみるか、と少年は口の中でつぶやいた。

「ところで、プレシア・テスタロッサは元気にしてるかな?」

 私は答えなかった。その個人名も知っているということは、あるいは先のジュエルシード事件に関わりのあった人物? いやクロノが気付かないということはないだろう。あるいはプレシア・テスタロッサと何らかの関与があったのだろうか。
 私は今日着ていたショートパンツのポケットにこっそりと手を入れた。待機状態のデバイスを握りしめる。
 トキノ少年は見透かしたように一つ笑うと、何とも無造作にジュエルシード……と思わしき宝石を取り出した。

「害意はないよ」

 そう言って、こともあろうにぽんと投げ渡してきたのだ。

「お……え? ええ!?」

 慌てて両手でしっかりキャッチした。変なとこに落としたらどうすんのさ。
 手に受け取った宝石はひんやりしていて、今のところ魔力らしいものは感じない。ある程度安定状態ではあるようだけど、封印らしい封印も感じられなかった。少々うげ……という顔になってしまったかもしれない。待機状態のデバイスを少し起動し、格納させる。

「それはフェイト・テスタロッサが回収に失敗した一個だよ。それにより、事態は本来より一つのズレを生じた」

 少年は一人語りを始める……いや、どうも、何故か私の反応を伺っているような目だが……

「事態は基点を少しだけずらされ、上に積もった形は本来と違うものになる。焦りを抱えたテスタロッサは本来の力を発揮することができず、ジュエルシードはその多数が高町なのはの元へ、それを通じ管理局へ渡る事になった」

 それに、と続ける。

「情報を持つ者が少しだけ違った場所に居る、それだけでも違う。傷ついたアルフは善意の第三者の手により運ばれ、迅速に情報を提供する事ができ、結果的にプレシア・テスタロッサの制圧時期については早まる事となった」

 少年は少し目をつぶり、やがて開いた。首を傾げて私を見る。

「概ね、予測の範囲に事は収まった。掌の上で全てを踊らせる事なんて到底できないが、それなりに上手くいったのだろう……ただ、ここに来て一つ、大きすぎる齟齬が生まれた」

 少年はよっと声をかけ、テトラポッドの上に立った。

「ティーノ・アルメーラ……あなたは誰だ?」

 私は少年の問いがぴんとこず、少し首をかしげた。誰と言われても困る。

「ランスターはこの時期、地球に来ることはないはず。この二週間というもの、観察を続けたが局員であること、そして高町家とそれなりのつながりがあること、ランスターと深いつながりがある事以外は判らなかった」

 ここまで語ってもその目は観察者のそれだった。なんとも居心地の悪いものを覚える。

「答えは簡単、僕と同じイレギュラー。ではそのイレギュラーであるあなたは何を目的として動いている?」
「……いや、何を目的って言われてもね、何と言えばいいか……事後調査?」

 何と答えれば良かっただろうか。どうも少年の顔が納得行かなさそうに歪んでいる。今にも嘘付きとか言いそうである。
 とはいえ、こちらもそう大きな目的を立てて地球に入ったわけでもないので、言われても困るのだけど……なんて、少年の言いたい事はおぼろげながら判った。イレギュラーとか言うならおそらく……
 私が頭を悩ませていると、何やら勝手に自己完結したのか。

「理解できない……そうか。ならいい。そのジュエルシードはそのままお渡しするよ」

 バタフライ、あるいは別の、いずれにせよ、そんなつぶやきを口の中で漏らしているようだ。考えを整理するように腕を組み、息を一つ吐いた。
 ひょいと私と目を合わせると、にっこり笑い、手を振る。私も何となくつられて手を振り返そうとしてしまい、ついつられてしまった事に憮然とし……あれ?

「落ちたーッ」

 何と少年がそのままの表情で何の前触れもなく後ろ向きに倒れ、川に落ちていったのだ。死ぬ気かあいつは!?
 私は慌てて川縁に駆け寄り、そのままの勢いで飛び込んだ。
 軽装で良かった。長いスカートなどだったら重くて結構な苦労をする。かなり大きな川であり、また上流で雨が続いたこともあって、水量が多くなり、水も濁っている。
 流れに逆らわずひとまず浮かんで下流を見れば、流されている少年と目が一瞬合った。すごい意外そうな表情になる。

「落ち着いて顔を上げて空を見て! 流れには逆らっちゃ駄目! 今から行くから!」

 思い切り水を切り、少年に近づく。少年は岸からますます離れて川の中心に流されていた。
 先程ちらっと確認した限りではさらに下流のところに浅くなっている川岸があった。なんとかそこに行き着けば。
 もう少しで手が届く、その時だった。

「はれ?」

 がくん、と流されていた少年が急に止まった。まるで流れに逆らうようにその場に少し留まったかと思うと、するすると横……川べりに向かって泳ぎだす。そう、まるであらかじめロープでも張ってあり、命綱を付けておいたかのように。
 少年は微妙に申し訳なさそうに手を振っていた。

「最初から仕込みかあああああああ!」

 逃がしてなるものかと流れに逆らって泳いだもののさすがに川には勝てず、ずるずると少年が遠のいて行く。
 駄目だ、このままでは……一旦陸に上がってから、とさっき見定めた地点、下流の浅くなっている場所までたどり着き、川に流されてないかちょっと心配だったデバイスを探る。うん、あった。良かった。幸い人目にはつかないし、もう魔法で追いかけて……
 そう思って向こう側の川縁を見た時には既に人影など無かった。

「……ッ! ……逃げられた」

 私が追いかけている間、消えたり現れたり、ちらちらと見え隠れしていたのも全て周到に考え尽くされた結果だったのだろう。そんな少年が逃走経路を用意しないはずがない。
 服はびしょびしょだし、髪はほどけてまとわりついて気持ち悪いし、なんだかもう散々な気分である。がっくりと項垂れるのも仕方無いと思う。

「うあ……なんてこった」

 そうそう管理外世界で魔法を使うわけにもいかず、さらに言えば一般人かもしれない相手に攻撃も憚られるという縛りがあったとはいえ……大体ここのところ、いくら素質があったといっても経験の浅いはずのなのはちゃんに撃墜されちゃうし……良いとこがない。がっくりである。
 はああ、というため息と共に座りこんで砂地に両手をついてへたりこんだ。
 わふわふという音に顔を上げれば犬が居た。野良犬のようだが、なかなかハンサムさんのシベリアンハスキーだった。ペットブームの時にでも買われて、そのまま捨てられてしまったのだろうか。この暑さだ、川で涼みにでも来たのだろう。
 そんな野良犬が近くまできて、くぅんと一声鳴くと、頬を舐められた。ゆるやかに尻尾が揺れている。

「……おお、慰めてくれるのか、ありがとう……ジョン、うん、暫定的にジョンと呼んじゃおう」

 今はこんな野良犬君の慰めでさえありがたい。泣きそうである。

「ってあれ……え、おい?」

 そんなジョン君が私の後ろに回りこむとへたり込んでいる私に覆いかぶさってきた。
 カクカクと腰を振る。ふと目に入ったものがあった。

「……ああ、ジョンはジョンだが……なかなかのビッグジョンだな」

 私は悟りでも開いたような顔をしていたのではないだろうか。
 犬にまで馬鹿にされるとは……盛るなよこんちきしょう。
 さすがに服に変なものをいつまでもすりつけられていてはアレなので、引きはがして、川の浅いところで水浴びさせてやったのだが。
 ……うんまあ、ちょっと前とは別の意味で泣きそうである。

 その日は帰ってからもさらにティーダに判断の甘さを責められ、ぐうの音も出ない理論武装に私涙目である。
 さらには、最近たるんでいるしね、とか言いだして教本を手に状況判断の基礎を復習した。どうも私は目の前の事に集中すると、他があまり目に入らなくなる欠点があるらしく……云々。鬼教官の指導は深夜にまで及ぶ事となった。眠りそうになるとアホ毛をひっぱって起こすあたり結構ティーダはサドッ気があるんじゃないかと思う。
 へろへろになった頭でベッドに入ると、私のベッドだったのだがティアナちゃんが寝ていた。うんまあ、いいやと抱き枕にして寝る。寝ぼけ眼のティアナちゃんが私の頭をよしよしと撫でてくれた。癒やされる。とてつもないヒーリング効果である。なんだっけ、こういう時使うネットスラング。ああそうだ、まじ天使。私はもうこれ以上どうデレればいいか表現できない。
 その日最後に訪れた最大のご褒美をぎゅっと抱いて、ようやく安穏とした時間を貪るのだった。

   ◇

 今思い出してみてもいろいろ疑問の多い少年だった。
 もっとも……多分と言ったところだけど予測はついている。来訪者の一人なのだろう。それもこれまで発見も接触もされなかったたぐいの。
 ただ、来訪者さん達にはお馴染みのレアスキルじみた能力や特化された魔法を使っている様子はなかった。人の波の中に入ってしまうと印象が薄くなるが、何というか、能力じみたものは感じない。
 人をチェスの駒のように言う口ぶりはちょっと引っかかるものもあったが、そういう人も居るには居るし、珍しいという程でもない。
 管理局へ報告した後、来訪者たちをまとめている形のグレイゴースト、ミッドチルダ支部にもまた連絡を入れておいた。こんな時に限ってそちらと深く結びついていたカーリナ姉が不在だったりもするのだ。時折電話はかかってくるのだが、何でもこのところアステカがマイブームだそうで、今は日本の反対側のあたりに居るらしい。頼りにならない。

 グレイゴースト側の通話に出てきたのは何とデュレンだった。
 この子もこの世界、しかも日本で出会ったのだった、随分懐かしく思う。いや、もう子供とも呼べないだろうか?
 懐かしいなあ、としばらく昔の話などで盛り上がる。
 話題は最近の話、グレイゴースト側の近況についても触れたのだが、どうも少し前まで私も含む三人……今は居ないあいつも含めると四人、が行っていた次元世界の外の世界。そこに行く方法を模索しているという。来訪者たちにとっては「行く」というより「帰る」というものなのかもしれないが。シャルードさんを中心にした研究チームが主となって調査、研究を進めているらしい。
 また、これは愚痴のようなものだったが、いろいろなレアスキルじみた能力、その多様性をもって企業運営を行うために分化した団体もあるのだが、出る杭は叩かれるという言葉の通り、最近ではシェアが大きくなってきたことから元々あった企業より厳しい目も向けられているそうだ。本来は、来訪者達の保護、そして互助組織であったはずの団体も一年前にトップである男が亡くなって以降分裂気味なのだと言う。
 デュレンは元の形、NGOとしてのグレイゴーストのままにしようという派閥に属しているらしい。ただ、年に見合わぬため息を漏らしていたところを見ると、なかなかそっちはそっちで気苦労があるらしかった。
 ともかく、そうした来訪者と思われる人物が見つかった場合、勧誘に当たる人員が派遣されるそうで、これは管理外世界にも及ぶ特例として管理局とも折衝済みとの事である。
 そこは二年の間にいろいろやっているものだと感心しきりだった。
 一通りの事を話し、通信を切る。
 背筋を伸ばしたらこきりと鳴った。

「……年?」

 いやいや早すぎる。ただ、妙に関節は柔らかいのでそう音がなるような事もなかったのだけど。
 運動不足……はあるかもしれない。ちょっと体のスペックに頼りすぎている気はする。毎朝の素振りくらいは続けているものの、訓練室もないここではちょっと大人しくせざるを得ないのだ。
 ここは一つ久しぶりに恭也や美由希の稽古に混ぜてもらうのもいいかもしれない。あれはだいぶ運動になるのだ。

「うん、それがいいかな」

 よし、と頷いた私は思いついたが吉日とばかりに、即連絡を取ってみることにしたのだった。

   ◇

  私の朝は早い。
 体内時計に最近任せっぱなしにしてしまっているのだが、太陽が昇ってしばらくすると目が覚めてしまう。
 冷たい水で顔を洗って頭をしゃっきりさせた。思わず欠伸が漏れてしまう。さすがに深夜までの特別授業は響いたらしい。体は強くても脳味噌は普通なのだ。
 髪が一房垂れてきた。まとめ損ねたようだ。何となく指にくるくる巻き付け、すっと引いてみる。巻き毛になった。

「ふへへ」

 っていけない。寝ぼけている。
 鏡に映る自分も間抜け面を晒している。
 このやたら銀色なブロンドも、アルビノかと思ってしまうくらい真っ白い肌もまた、いい加減見慣れた。左右の色の違う瞳も。
 カラーコンタクトの容器を出して、左の琥珀色に合わせたレンズを右目に装着。このコンタクトもまたミッド謹製である、こういう生活用品が妙に進歩しているのでありがたい。空気の透過率が良く、病気でも患っていない限りは2,3日の継続使用も可能という優れものだった。
 髪用に作った化粧水を馴染ませ、櫛を通す。いい加減長さが気になってきた。ショートにするという手もあるのだけど、長く伸ばすとちょっと切るのも勿体ない気がしてくるのだ。
 顔の前に垂れてきやすいサイドを三つ編みにして、それを後ろで他の髪と一緒に束ねる。さらにくるっと巻いてカチューシャで止めておいた。お団子とまでいかないけど、邪魔にならない程度にはなる。
 愛用の猫エプロンと三角巾代わりにバンダナを帽子状に頭に巻いた。何となく動くぞーという気分になる、洗面所の前に置かれた洗濯篭の中身を分別して洗濯機に入れ回しておく。さて、次は料理開始……とはいえ、今日はさほど凝った事をするつもりもない。ポテトサラダにスープを作る程度だ。

「ちゃららっちゃっちゃ」

 3分で終わるはずもないのだが、何となくどこかで聞いたフレーズを口にする。ジャガイモに火を通している間にサラダ用野菜を薄く切って塩で揉んで、小鍋に水を張って卵をつっこみ、火にかけた。
 ベーコンをサイコロに切って、同じような大きさに切った人参、マッシュルームと一緒にオリーブオイルで炒めた。香りが出てきたら水を入れ、ローリエとバジルを突っ込み、粉末のブイヨンも投入。煮ている間にジャガイモに火が通ったので、皮を剥いて熱い! 火の通ったジャガイモの皮が指にひっついて熱い! 水で少し冷やす。ともかくジャガイモを潰して、熱いうちにバターとミルクを投入、マヨネーズという便利な調味料もまた突っ込んでおく。塩もみ済みの野菜を絞って混ぜる、塩コショウで味付けを調えればポテトサラダの完成だった。
 その間に良い具合にスープも煮えていたので予め切っておいたブロッコリも入れて、火が通ったら止める。ブロッコリの煮すぎは見た目にもよろしくないのだ。
 ゆで卵の方もいい頃合いだろうか。水で粗熱を取ってから殻をむき始めた。卵はお尻に亀裂をいれておくととても簡単に剥ける。卵の膨張を逃がす事で内側の薄皮に張り付かなくなるのだとか。手頃な大きさにスライスして、皿に並べておく。レタス、キュウリ、トマトも一緒だった。
 ちょっとタンパク質が不足かとも思ったので、生ハムでチーズを巻いたのもちょっと出しておく。おつまみの定番ではあるけど、パンに挟んで食べてもいけるのだ。つまみ食いしたら美味しかった。
 パンを切り分けて大皿に盛り、スープはまだ盛りつけないがスープ皿だけは用意しておく。取り皿を人数分並べて置いた。自分でトッピングして食べるサンドイッチセットと言ったところだろうか。
 マスタードとかバターとかも忘れない。ティアナちゃん用には手製の甘すぎない苺ジャムも出しておく。

「うし」

 気分的に手をぱんぱんと叩く。食卓はセットが終わったので、ちょっと前に終了音の鳴った洗濯物の方にとりかかる。今日はまた一段とよく晴れていた。お洗濯日和である。
 タオル類を広げて干しているとティアナちゃんが起き出してきた。

「おはようティアナちゃん、早いね」
「ん、おはいょ」

 眠そうに目を擦っている。挨拶の発音がくぐもって妙な事になっていた。私のつけているエプロンの紐をなぜか掴む。
 私が移動するとくっついて動く。カルガモの親子かと。
 何となく微笑ましくなってしまい、あまり派手に動かないよう、のんびり洗濯物を干したりしていると、段々目が覚めてきたらしい。

「……トイレ」

 つぶやくと、もそもそと離れていった。
 どうも困る。可愛い。だだ甘に甘やかしたい……いやいや、駄目だ。うん、ティアナちゃんのためによくない。それはよくない。
 用を済ませてきたティアナちゃんに顔を洗わせ、身だしなみを整えさせる。もう、いっちょ前に自分の身の回りを整える事くらいはできるのだ。というか二年間空けていた間にその辺の事は施設できっちり教えてもらっていたのだった。

「もうご飯できてるからお兄ちゃんを起こそうか」

 と言うと悪戯気に顔を輝かせる。こそこそと足音を忍ばせながら、寝室を開け、タオルケットをはだけて寝ているティーダに近づいた。
 全く気持ちよさそうに寝ている。ちなみにこいつは鼾こそかかないものの、寝相は昔からあまり良くない。ベッドから転がり落ちて寝ている事も往々にしてあった。

「おねえちゃん、どうするの?」
「んー、どうしようか……」

 別に定例行事というわけではないが、たまにちょっと起こし方も工夫していたりするのだ。

「羽根くすぐりはもうやったし、蒸しタオル乗せもやった、定番の鍋叩きなんかもやったことあるし……」

 そうだ、と手をポンと打つ。
 一番の基本をやったことがなかった。
 私はティアナちゃんにぽしょぽしょとそのアイデアを持ちかけてみる。

「それ、やろう! おねえちゃんは見てて」

 そう言ってティーダのベッドによじ昇る。年の割に背が伸びるのが早いのでもう苦労もせずに大人ベッドによじ登ってしまえるようだ。
 ティーダの足元にすっくと立つと一言。

「いざ行かん大空の彼方へ!」

 びしっと指さし、トウッとばかりにティーダに飛びかかった。
 体ごとティーダの胸あたりに落ち、その衝撃にティーダもびくりと目を開く。
 胸に落ちたティアナちゃんをしっかり抱きかかえ、上半身を起こした。

「……ッへ? は? え?」

 きょろきょろと確認するように目を動かす。
 その頬をティアナちゃんがぺしぺしと叩いた。

「おはよーお兄ちゃん」
「ティアナ?」

 まばたきを2回3回と繰り返す。段々意識がはっきりしてきたようだった。ティアナちゃんを抱えている手を放し、ぼりぼりと頭を掻く。寝起きのしゃがれた声でやられた、とか言っているティーダに声をかける。

「何で今まで思いつかなかったのか不思議。妹ダイブで起こされた朝はどうかなお兄ちゃん」

 妹だよー、と主張するティアナちゃんの頭をぽんぽんと叩き、兄ですよー、なんて返しながら大きなあくびをする。

「……ああ、うん。なんだ、もう少し穏やかに起こしてくれると僕としては有り難いんだけど」
「面白くないから却下」

 大体、そんな毎回派手な事やってるわけでもないんだし、ね。
 朝食の用意はもうできてるよ、とだけ言っておき、ティアナちゃんと連れだってダイニングに戻るのだった。

   ◇

 朝食を終え、家事を終えた後は普通にお仕事である。定点観測の場所もかなりの数があり、また一カ所で出る数値も揺らぎがあるので平均を取るのに10分程はかかる。とはいえ、二手に別れれば午前中に、単独で全部データを取ってもおやつの時間くらいには終わってしまう。こう言うのも何だが緩いお仕事だった。
 ちなみに今日はティーダに調査をお願いしてしまった。恭也と美由希の剣の稽古にちょっと混ぜてもらう事になっていたのだ。
 向かった先はいつぞや拠点にしていた廃工場の跡地である。私が小さい時に見つけたここも、今では人の通りがそれなりにあるせいか見つけた時ほどの荒れ様ではなくなっていた。
 敷地に入るとその様相はさらに強まり、地面に散乱していたガラス片や朽ちて飛び散ったトタンの破片なども片付けられ、地面もそれなりに平らにならされている。

「いやはや……いつの間にかすっかり綺麗になっちゃって」

 そんな事をつぶやきながら奥まったところにある小屋に行く。私が以前生活していた場所であり、ある程度修繕はしていたのだけど、恭也と美由希が稽古場として便利に使っているという言葉通り、何やらいろいろ改装されていた。名残があるのはトタン屋根くらいだろうか? 割れの入っていた壁も交換され、板材が張られている。延長した屋根の下には木で作られた長い腰掛けが置かれ、すだれがかけられて日陰を作っていた。外から覗ける土間は以前とあまり変わっていないようだったけど、棚類は邪魔になったのか、姿が見えない。真ん中には相変わらずのダルマストーブがでんとおかれ、ヤカンが乗っている。
 夏らしく、軒下に風鈴が下げられていて、風に揺れて涼しげな音が出迎えてくれた。
 二人はまだ来ていないようなので、体をほぐしながら待つ事しばらく。
 ……ようやく来たかと思ったら恭也はともかく、隣を歩いている女性は誰だろうか、美由希じゃないし。
 日本人にしては長身の方だろう。足が長くてモデルっぽい体型と言えるかもしれない。紫がかった長い髪を無造作に後ろに流している。シンプルで動きやすそうな……うん、露出は言うまい。私も動きやすさ優先で気にしない時がある。まあ、何とも短いスカートに白地に模様の入ったTシャツをゆったりと着ていた。

「待たせたな」

 という恭也におざなりに挨拶をする。
 そちらさんの美女は? と聞く前にその女性の方から話しかけてきた。

「はじめまして、聞いてるかもしれないけど月村忍です。ツバサさん、あなたの事も噂だけはかねがね」

 どんな噂だか、気にならないでもない……が、なんだろう、何ともむず痒くなってしまいそうな目で見る。
 なぜかじっくり私を見た後、口の中でよし、とか、まずい、とかつぶやいている。

「えーと……恭也?」

 これはどういう経緯でこうなったのか、と言外に尋ねてみた。
 恭也は一つ肩をすくめた。

「稽古なんて見ても面白いもんじゃないとは言ったんだが、何でか聞かなくてな」
「だって!」

 月村さんは自分でも思わぬ大声だったのか、自分で口を手で抑え、びっくりしたような顔になった。気を取り直して恭也に向き直り、恭也の胸のあたりを指でつつきながら言う。

「……だって、最近安心できないんだよ。いつの間にか剣の同好の士だー、とか言って赤毛の美人とも親しくなってるし。昔、美由紀ちゃんと三人で一緒に剣を振っていた友達だとかで、どんな男の子かと思って美由希ちゃんに聞いたら女の子じゃない。しかもまたもや綺麗な美少女だし高町君……恭也は女の影がありすぎなのよ」

 なるほど。そういえば月村さんって確か美由希の話の中でも出てきたっけ。恭也の恋人だったはず。
 やっと先程の視線の意味がわかった。痛くもない腹を探られるのも何だけど、多分問題の根本には、今目の前で困惑している朴念仁が原因としてあるようだ。
 ちょっと考えている間に二人の会話が若干ピンク色に染まり始めてきた。うん、何だか今、うかつに口を突っ込むと馬に蹴られて死んでしまいそうな気がする。

 恋人同士の会話は時間を忘れるものなのだろう。よく聞く話だ。うん。
 二人がようやく私の存在を思い出してくれたのは、たっぷり20分程はした後だった。私はすでに風通しの良い小屋の中で涼んでいる。風鈴が風に揺られるのを眺めながら夕飯のおかず何にしようとか考えていた頃だった。

「その……なんだ。待たせたなツバサ。始めようか」

 若干申し訳なさそうにする恭也に一つ思い出した事もあり、仕返しとして言っておく。

「恭也、昔確か士郎さんと桃子さんのラブラブ空間に耐えきれないで逃げ出した事があったよね」
「ぐッ」

 あれは確か家に帰るたびに親がピンクな空間を作っているので耐えきれず、武者修行と称して短期間の旅に出ていたのだったか。

「血は争えないなー」

 にひひと笑い、からかいはこれで終わりにする。あまりやりすぎても嫌みにしかならないし。目を逸らして今にも口笛を吹いて誤魔化しそうな恭也などはなかなか見れるものではない。良い物を見た。

「ま、冗談はともかく」

 と、立てかけておいた木刀を手に取る。すっかり馴染んだそれを軽く一振りした。
 ひどく控えめな音がする。剣筋のブレてない良い音だ。
 ほう、と恭也が少し感心したように一つ頷いた。
 しかしまあ、地球に来る度に恭也と剣を合わせてばかりな気がしないでもない。
 なにぶん、私が初めて他人と深く付き合う事になるきっかけとも言えるのだ。恭也のように剣士といえるほど傾倒はしてないが、やっぱりそれなりに……私の中でウエイトを占めているのだろう。近接ではもっぱら魔力刃を使ってしまうのもやはりそこから来ている。本来の私の特性からするとあまり向いているというわけではないのだけども。
 
 今回の練習については型稽古とでも言えばいいのだろうか。それに終始することになった。
 恭也もあまり彼女の前で変態的な……変態的な……うん、それ以外にぴったり来る形容がない。剣士の動きを見せたくなかったのかもしれない。
 私もまたあまり一般人の前で人外じみた膂力とか見せたくなかったので丁度良かったとも言える。
 ゆったりした動きで打ち合わせ、相手がこう斬ってきたらこう対応し、こう踏み込んできたらこう体勢を崩し……という一種のゲームみたいなやりとりだ。
 さすがに本職? 剣士って今の時代職業にできるのだろうか……まあ、私にはどうしようもなかった。何度も相手をしてもらったのだが十合ほども打ち合えず、今回も喉もとに剣を突きつけられた。

「たはは、勝てないなー」

 両手を挙げて敗北宣言。2,3のフェイントまでは読めるのだけど、さすがに引き出しの数が違いすぎる。
 ふと見ると、恭也が訝しげな顔になっていた。

「確かに以前から固執はしてなかったが、そこまで簡単に負けを認めるようだったか?」

 そう言われても困る。そうだったっけ? としか返せない。思い返してみれば、いろいろ経験したせいなのだろうけど。ううむ、緩くなってしまっているのだろうか。
 日も高くなり、お昼は月村さんが持参したというお弁当を私もご馳走してもらった。買ったばかりの携帯でティーダに連絡を付け、ティアナちゃんのお昼の事も頼んでおく。
 炊き込みご飯とか美味しかったのだけど、やはり妙な空間を形成する二人のおかげで妙に甘く感じてしまう。

「あ、梅和え美味し」

 干してないのかもしれない。塩漬けの梅だろうか、水気の多い梅肉で、蒸した鶏のササミを和えてある。
 蒸し鶏には出汁醤油で下味がつけられていて、梅の酸味と同時に旨みも広がる。暑い日にはこういうのもさっぱりしていいかもしれない。ミッドで梅はあまり流通してないのでちょっと工夫しなければいけないけど。
 目の前ではドラマか何かでしか見た事のない、恋人同士の「あーん」というやりとりが展開されていた。いやはや、月村さんが幸せそうな顔をしている。お弁当も含めて二重の意味でごちそうさまと言いたい。ついでに言うならお腹一杯だとも。

   ◇

 先日の少年を取り逃がして以来、何となくだが周囲に目を配って歩く事が多くなった。
 キョロキョロしていれば見つかるというわけではないのだけど。
 そんな事をして過ごしているとこれまで気に留めなかったような細かい所も見えてくるものがあるようで、例えばそれはビルの合間、日当たりもそう良くないだろうに、ひっそりと蕾をつけているコスモスだったり、木と勘違いして鉄のフェンスにぶらさがり、枝に擬態するシャクトリムシだったり……また、時には、住宅街の一角で感じた方向感覚の微妙なずれだったりもする。
 不思議な感覚だった。
 おかしく思ってふらふらとその一画を歩いていると妙な気配めいたものも感じた。魔法が使用されてるようなされてないような。

「いや、でもここ海鳴だしなあ」

 何だかそれで全て説明がついてしまいそうな……いやいや。
 グレアム提督がパワースポット的なものとか言っているのも判る。私が現れてしまったのもまた数えられるのかもしれないが、ジュエルシードが落ちたり、たまたまと言うべきか、なのはちゃんという魔導師としての大才を持った子が居たり、いろいろありすぎなのだ。よくよく考えてみると恭也の剣術とかも大概だし。猫耳とか狐耳少女とか吸血鬼がいても何らおかしくない気がする。さらに退魔師だの、私みたく羽根の生えた超能力者の1ダースくらい出てきても驚きはしない。

「いやさすがにそれは驚くか……」

 独り言が漏れた、脈絡のない事を考えていた頭を軽く振る。さすがに妄想が過ぎる。
 視界の端に大きな犬を連れて散歩している金髪の人影が映った。何となく振り向くと、曲り角でも折れたのかその姿はすでにない。

「んー」

 何となく気になって私も行ってみようと思った時だった。

「ティーノ? こんなところで何をしてるのかな」

 後ろから声をかけられた。知っている声である。ただ……

「おねえちゃんが遅いってティアナが心配してる。帰ろう」

 振り向くとアリアさんが居た。何故かざっくばらんな口調といい、冷たい無表情といい、妙に臨戦態勢である。というか怖い。猫さん怖い。
 私がその事を指摘すると、アリアさんは少し空を見上げ、ほうと息をついた。
 表情から力が抜ける。よかった。私もほっと安堵のため息をつく。

「最近忙しくてね、殺気立っちゃった。ちょっとした休暇で遊びに来たんだけど」

 忙しさで殺気立たないでほしい。捕食されるかと思った。まさに猫を被ったようにおだやかな笑みになったアリアさんは私の腕を取って引っ張り出す。

「え、お、ちょっとアリアさん……」
「さ、帰ろうティーノ、お土産用意してあるから」

 私は渋々従った。決してお土産につられたわけではない。

「あ、アリアさん翠屋寄っていこう、そのお茶だときっとフルーツタルトとか相性がいいと思う。持ち帰り用に包んでもらっちゃおう」

 ちらりと見せてくれた提督愛用の紅茶につられたりなんかしていないのだ。おそらくたぶん。きっと。そうであろうと思わないでもないのだ。



[34349] 三章 五話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/29 20:28
 いつぞや取り逃がした少年、来訪者とも思われる「トキノ」君の捜索、交渉のためにグレイゴーストより派遣されてきたのは何とデュレン本人だった。
 挨拶に来てくれたのだが、モニター越しでなく間近で見ると背が伸びててびっくりである。もとより視線を媒体にした暗示能力があったのだけど、その能力を魔法を併用したりすることで、相手を傷つけずに確保する方向に特化したという。
 とはいえ、それはもし使うとしても最後の段階。まずは、デュレンと共に来ていた数名によって人捜しの人員を雇い、地道に捜してから交渉、説得が上手くいかず、さらに放置するのも危険な場合のみ使うのだとか。
 知らぬ間にいろいろガイドラインとかも出来ていたようだ。能力の使用についても魔法に準ずるものとして規制がかけられるという。
 初対面のティーダにデュレンを紹介しておく。挨拶も済み、私達が居なかった2年の間の事について愚痴のような雑談のような事を聞いていると、ふと思い出した事があったので持ちかけてみた。

「一度だけだけどデュレンも高町さんとは会った事あったよね。久しぶりだしこれから挨拶に行ってみる?」

 デュレンが固まった。背が伸びたとはいえ、まだ9才の身。私の胸の前あたりにある顔、その前で手をぱたぱたしてみる。

「おーい」
「どうしたんだい、デュレン君は?」

 不思議そうにするティーダに肩をすくめて、さあと言っておく。
 数秒遅れて、ロボットダンスのような不思議な動きで口を開いた。

「いや……その、着ていく服が……」
 
 そりゃもう言い訳じみていた。

「普通の格好でいいんじゃないかな。今の服装でも地球基準だし、似合ってると思うけど?」

 ティーダがなおさら不思議そうに言う。
 次元世界から移動する前に着替えてきたのか、普通にその辺で見かけそうな、プリントTシャツにハーフパンツという格好である。別に恥ずかしがるようなもんじゃないと思うのだけど。
 本人も苦しい言い訳だと思っているのか、若干挙動不審である。
 もしかして、もしかして?

「なのはちゃん」

 びくりとした。とても判りやすい反応である。自然と唇が緩んでしまうのを抑えられない。

「砂浜でダンス」

 デュレンは顔をそむけた。しかし盛大に耳が赤くなっている。
 なるほどなるほど。
 判りやすいリアクションありがとうってとこだった。考えてみれば、地球が出身世界だとしてもデュレンが派遣されるのは年齢的に早すぎる気がする。自分から「行く」と言いだした可能性もあるのか。さすがに詳しく追及して意地でも張ってしまうと困りものだ。下手にいじるほど子供じゃない。
 もっとも、男女の事はただ流れに任せるだけなんていうほど私も大人びてもいない。
 折良くティアナちゃんもまた翠屋のケーキが食べたいと言っていたので、ちょっと強引に誘ってみる事に。

「こ、この後行く予定があるっていうなら仕方無い、お、お茶に付き合わさせてもらいます」

 トイレを借りますとか言って、席を離れ、戻ってきた時には髪が綺麗に整えられていた。わずかに香料も感じる。というか微笑ましすぎて私がタレそうである。男の子のこういう部分がどうも好ましく感じてならない。

 ともあれ、翠屋に行き、肝心のなのはちゃんに会わせてみることに。今日は店に居るような事を言ってたのだ。
 なのはちゃんの方はかつてちょっと遊んだだけだった男の子を覚えていてくれたらしく、この子らしい笑顔で話しかけていたのだが、うん……デュレンが見事に空回っていた。

「久しぶり、前海に遊びに行った時に居た……えっとデュレン君だよね」
「お、おう! 名前が外国人ぽいのはハーフだからだ! と、年も君と同じなはずだぜ、えっと……な、な、なの……ないあるらとほてぷ」

 それはない。もう一度言うがそれはないだろうデュレン。力が入りすぎて口調が変だ。というか名前呼ぶのに緊張したからってそれはない。大体そんなの判る人にしか判らないネタだろうに……

「あはは……私は別に這い寄らないよ」

 私は思わず……空気を切る音がしそうな程の勢いで、ウエイターをしている恭也の方を振り向いた。目で問う。この間のカボチャのお化けのネタといい、なのはちゃんの趣味はどうなってんの!?
 恭也は無言で美由希を指さした。
 ぱっと目を逸らす美由希を捕まえて話を聞いてみると……

「う……中学の頃にちょっとその手の暗い雰囲気のものにはまってて……そのままなのはの部屋に置いておいたらいつの間にか」

 なんてこった。私は大きくため息をついた。

「うぅ……勘弁して。そ、その位の年頃ってほら『ダークネス』とか『混沌』とか『悪魔』とかそういう単語見るとついフラフラっと手にとっちゃうでしょ? ね?」

 私はティーダと目を合わせ、再び美由希に向く。首をふるふる振っておいた。

「……ない? うそ、あるでしょ? 恥ずかしいからって隠さなくていいんだからね? 私だけ? そんな……有り得ない……つ」

 ツバサちゃんの裏切りものー! と言って美由希はバックヤードに引っ込んでいく。
 どうでもいいけど、いつの間にか私の事をちゃん付けするようになっていたようだった。何となく年下扱いされているようで……んん? 二年空いたから実質美由希は年上になってしまったのか。少なくとも肉体年齢は。今度美由希おねいちゃんとか呼んでからかってみようか。

「ついフラフラなんてもんじゃなく、ティーノは割と平然と手に取っているしね」
「ティーダ、余計な事は言わない」

 私もまたその手のものが大好きだったりしたのはちょっとした秘密である。
 デュレンとなのはちゃんの方は相変わらずで、どうもちぐはぐな模様。
 横合いから見ていると、意識しているのはデュレンだけで、どう見てもなのはちゃんの方は自然体である。見たところそれほどなのはちゃんに悪感情を抱かせるような事にはなってない様だ、もっとも、脈が有るか無いかで言えばそりゃ無い。いやこの年齢と段階で脈が有ってもおかしいけども。

   ◇

「なんでもっとちゃんと話せなかったんだ……」
 
 と店を出ると急にがっくりしたデュレンを送っていったのもいつの日か。
 学生は夏休みが終了し、私とティーダは相変わらず淡々と調査を続け、デュレン達は例の少年の足跡を地道に追っていた。
 そろそろ風も冷たくなり始め、秋の味覚を楽しめる季節にもなり、あと2週間ほどでこの世界での調査期間も終わろうかという時だった。クロノから突拍子もない連絡が入ったのは。
 何でもフェイト・テスタロッサがそちらに行くので、迎えに行って欲しいという。

「テスタロッサ……って、あのテスタロッサ? 公判中じゃなかった?」
「ああ、正確には母親のプレシア・テスタロッサが拘留されていて、フェイトについては僕と母さんが保護する形でいたのだけど……」

 モニタに映るクロノは若干言いにくそうに言葉を切ると、一つ小さく息を吐いた。
 続けられた一言に、私も驚いた。

「プレシア・テスタロッサが行方不明……って、本局内で? 冗談でしょ」
「管理体制の問題とも言える事は言える、ただ……エイミィに表の情報だけでも調べてみて貰ったところどうも怪しい、内部からの手引きとしか思えないんだ」

 何のための査察部なのか、形骸化してしまっているとは聞いた事があるけど。

「もっとも、それは決めつけるにははまだ早いし僕らの管轄じゃない。ただ、問題が一つあって……フェイトの事なんだ」

 クロノは頭痛でも感じたかのように眉間を揉む。
 何でも取り残された形のフェイト・テスタロッサが著しい情緒不安定状態になってしまったのだとか。
 このままでは埒が明かないと見たクロノは母であるリンディさんとも相談し、先の事件でフェイトが心を開くきっかけともなった少女、なのはちゃんの側に置くのが一番じゃないかと思ったらしい。

「情けない事この上ないよ。執務官になり、アースラの切り札なんて呼ばれるようになっても、少女の心一つ救えやしない、まったく」

 自嘲するように笑う。画面の外からにゅっと手が伸びてクロノの頭を乱暴に撫でた。
 覗きこむようにエイミィが映りこみ、私に手を振る。

「ひとーつ捕捉。周りが年上ばかりだったからクロノ君にとって、初めて出来た妹みたいなもんだったのよ、あの可愛がりっぷり、ティーノにも見せてあげたかったなあ。それはもう凄かったの」
「エ、エイミィ!」

 慌てた様子のクロノがエイミィを画面の外に押し出す。
 邪魔が入った、と一つ咳払いをしてしきりなおすクロノ。私は相変わらずの2人に苦笑した。クロノも重くなっていた空気が霧消しているのに気付いているだろうか。
 フェイト自身にかかる罪状はそう重くないものなので、保護観察期間をおいてからミッドの学校に通わせてみる予定だったらしい。
 しかし、もし地球に来て、なのはちゃんの側に居る事で持ち直してくれるならと……保護しているハラオウン家ごと地球での居住を考えているらしい。

「居住……ってそこまで?」
「ああ、と言ってもミッドの家は残しておくし、どちらかというと別宅みたいなものだけど」

 かなり入れ込んでいるようである。
 私は写真とデータでしか知らないのだが、余程ほっとけなかったのか。

「それとティーノ、地球に居る期間だけでもいいから気にかけてやってほしいんだ。出来るだけ僕も時間を作るつもりだけど……」
「んー、それで過労とかで倒れたら元も子もないでしょ、後ろにエイミィの手が見えてるよ?」

 またか! と振り向くクロノ。からかうようにエイミィは手を引っ込める。
 そのやりとりに私はまた笑いを誘われてしまった。

「了解したよクロノ。私も子供は嫌いじゃないし……訳有りの子にも慣れてるしね。住む場所は大丈夫? 何だったら今借りてる場所も部屋余ってるから、もしよければ提供できると思うけど」

 カーリナ姉の為にと一部屋確保されていたのだが、ほとんど出ている状態なので実質空き部屋同然なのだ。もっとも、持ち帰ってくる土産の品が積まれているので、片付けないといけないというのはあるけど。

「そう言ってくれると助かる。僕の方も早めにそちらで住居を確保するつもりだから、そう長くはならないと思う……ただ」

 執務官だもんねえ、と私も苦笑いで応える。閑職に回されている私達とでは忙しさが違うのだ。

   ◇

 その日は若干曇り空だった。
 雨が降るような事は予報では言っていなかったのだけど、空気に湿気が混じってきたようだ。軽く一雨くらいは来るかもしれない。
 海から吹き付ける風が髪を揺らした。ちょっと寒い。
 海鳴の昔使われていたらしい旧埠頭が待ち合わせの場所だった。
 昔は貨物船が頻繁に出入りしていたらしいが、使われなくなって久しい現在では釣り客が訪れ、地元の人の散歩スポットとなっている。
 もっとも今日に限っては人の姿は見あたらない。
 ティーダに簡易的ではあるものの、人避けの結界を張ってもらっているので当然といえば当然だけど。

「──ん、来た」

 魔力が収束し、魔法陣が現れる。
 管理局員の男性に連れられ、転移してきたのは先日クロノから頼まれたフェイトちゃん、そして今は狼の状態となっている使い魔のアルフだった。
 ひとまずは、と一歩歩み寄り、挨拶をする。

「はじめまして、クロノから話は聞いてるかもしれないけど、現在調査で赴任中の管理局魔導師ティーノ・アルメーラです、任期もあって短い付き合いになっちゃうかもしれないけどよろしくね?」

 と、笑顔で挨拶をしてみるものの、どうも目の前の少女はぼーっとしている様である。写真にあった綺麗な金髪も少しくすんで見えた。よくよく見れば目の焦点がどこか遠くに行っている。
 私とティーダ、両名が臨時の保護官という事で引き継ぎを完了し、ここまで送ってきたのだろう局員は去っていった。
 反応の鈍いフェイトちゃんに対してどうしたものかとティーダと目を合わせる。
 その時だった。

「遅れちゃいました! もうフェイトちゃん来ました?」

 慌てたなのはちゃんが飛び込んできたのは。走ってきたせいか肩に乗っているユーノ君がずり落ちそうになっている。

「──あ、なのは」

 フェイトちゃんは夢から醒めたような口調でやっと言葉を出した。

「なのは」

 ふらふらとなのはちゃんに向かい歩き出す。
 アルフが心配そうな目で見つめていた。
 なのはちゃんの前まで行くと、力が抜けたようにへたりこんでしまう。

「フェイトちゃん?」
「なのは、私は……やりなおせなかった。母さんが、母さんが……居なく……」

 そのただならない雰囲気を感じたのか、なのはちゃんの顔もひきしまった。
 目の前の、糸の切れたようにへたりこんだ少女を抱きしめる。

「大丈夫、大丈夫だよフェイトちゃん」

 優しく、優しく、そしてその中にも強さを感じる不思議な声音で、ゆっくり語りかける。
 気の利いた言葉ではない。何が大丈夫なのかも定かじゃない。そんな言葉。
 言葉をかけるたびに、少女の体から力が抜けた。やがて、何か凝り固まったものが抜けるかのように嗚咽が漏れ始める。

「……う、ん……うぁ、うあぁ……」

 この少女は泣くときも大声では泣かなかった。
 嗚咽を細く漏らすフェイトちゃんをティーダがとても傷ましげに見ている。
 私は逆に少し希望を持った。泣けるなら良いのだ。表情の無さ、生気の無さ、そういったものこそ深刻だと思っていた。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 なのはちゃんは赤ちゃんをあやすように優しく、ぽん、ぽんと背中を叩く。それに一々うん、うんと小さく頷いていた少女は安堵したのか、いつしかその腕の中で寝てしまった。

「礼を言うよなのは、ほとんど寝てなかったんだ」

 アルフがいつの間にか人型になり、主人を起こさないようにそっと抱き上げる。
 なのはちゃんはううん、と首を振り、心配気に見守った。

   ◇

 なのはちゃん、フェイトちゃん、ユーノ君、そしてアルフの4人を加えて帰宅すると、大人数を見てティアナちゃんがちょっとはしゃぎそうになる。
 ただ、雰囲気を感じ取ったのか、すぐに大人しくしてくれた。
 リビングに皆を招き入れ、寝付いてしまったフェイトちゃんをソファに寝かせる、詳しい事情を聞きたそうななのはちゃんを宥めて、説明するからと椅子に座らせた。
 さて、どの辺まで説明したものだろうか……正直迷う。この子が管理局と深い関わりを持つかどうかはまだ答えを聞いてないし、教えられる事にももちろん制限がある。かといって、情報を知りたいがために管理局の魔導師となるってのは違う気がするのだ。
 そんな事を考えていると、まだ手慣れてない様子ではあるものの、ティアナちゃんがお盆にお茶菓子のクッキーを並べ、ティーポットに紅茶を淹れて運んできてくれた。

「どうぞ、なのはお姉ちゃん」
「うん、ありがとうティアナちゃん」

 紅茶を注いで一人一人の前に置いていく。
 いやはや……雰囲気が雰囲気でなければ、私は盛大にドヤァな顔でもして鼻を高くしてるところである。6才にしてこの気遣い。どうよ、どうよと自慢して鬱陶しがられているところだった。
 ティーダを見れば同様の気分なのか、小さく頷く。テーブルの下でがっちり握手をしておいた。
 若干柔らかくなった雰囲気の中で、なのはちゃんに伝えられるだけ事情を伝えておいた。
 プレシア・テスタロッサが行方をくらました事、フェイトちゃんとアルフをしばらく泊める事などである。
 ついでにクロノもこちらに住み着く事になるかもしれない、なんて談笑しているとフェイトちゃんが目を覚ましたようだった。
 自分がどこに居るのか見当もつかないのか、きょろきょろと周囲を見渡す。
 なのはちゃんを見つけると「なのは」と一言つぶやいて側に寄りそう。
 私はフェイトちゃんに犬耳とばたばた忙しなく振られる尻尾を見たような気がした。思わず目を擦る。疲れてるのだろうか、妙なものを幻視してしまった。

「それじゃあらためて、初めましてフェイトちゃん」

 と、自己紹介と……今の状況を説明しておく。どうやら今の今まで上の空だったようで、まるきり現状を把握していなかったのだ。

「あ、あの、しばらく、お世話になります」

 説明し終わると、たどたどしいながらもそう言ってくれた。
 話している間に良い時間になっていた。私はティアナちゃんの淹れてくれた紅茶を最後まで飲み、手をぱんと合わせる。

「よっし、じゃあご飯にしようか。なのはちゃんとユーノ君も食べてって? ちょっと頑張って用意してみたからね」

 と言うとアルフが「メシ!?」と良い反応を見せた。今度は幻視ではなくぴょっこりと尻尾が飛び出てしまっている。どうにも愛らしい。
 ティアナちゃんが、私がキッチンに行く前に飛び込んで子供用エプロンをつけた。ちなみに私とお揃いの猫アップリケが入っている。なぜか「じゃーん」とでも言いたげに胸を張ってみせた。手伝ってくれるらしい。
 僕は? と言いたげに自分を指さすティーダに、ホスト役らしく待ってる人を飽きさせないように、それと余裕があったら食事するダイニングの片付けもお願い、とアイコンタクト……待て、今ナチュラルに複雑すぎる事を目で伝えていたような。いや、うん、考えないようにしようか。
 実のところ料理と言っても仕込みはあらかた済んでいるのですぐに用意はできた。盛りつけたものからお盆を持って待機しているティアナちゃんに運んでもらう。
 フェイトちゃんがショックを受けているというのは判りきっていたので、さほど派手な料理ではない。されど落ち着きすぎた料理にもしない。落ち込んでる子を寂しいムードの食卓に招いても仕方無いのだ。
 とりあえず、野菜の生ハム巻き、チーズやジャムを乗せた色とりどりのクラッカー、夏野菜のマリネというオードブルを並べる。
 次いでパウンドケーキ型で焼いてみたミートローフを切り、マッシュポテト、人参のグラッセ、キノコのソテーを添えてメイン料理として出す。
 ちょっと時間をかけて煮込んだ澄んだ野菜スープを出し、行きつけのパン屋で買っておいたとりどりのパンを温め、ちょっと格好よくバスケットに盛ってみる。食べてしまえば同じだなんてティーダは言う事があるが、見た目も大事なのだ。全くあいつは判ってない。バスケットの取っ手に大きめのリボンを結んで飾りとしておく。
 アルフのためにもう一品くらい肉を用意しておこうかと思い、急遽もう一品を作る事にした。ウインナーソーセージに切り込みを入れ、チーズを挟み、ベーコンでグルグル巻いてフライパンで焼き色が付くまでじっくり焼く。とにかく肉! といった感じの一品。おつまみには良い。
 取り皿に加え、それだけ並べると、さすがにあまり広くもないテーブルが一杯になってしまった。一応飾り用の薔薇もあったのだけど並べる隙間は無さそうだ。ティーカップに活けてカウンターに置いておく。

「お疲れ様ティアナちゃん」

 小さな功労者をねぎらっておいて、ダイニングに皆を呼んだ。

 料理は好評のようで、特にアルフの肉への執着がまあ、なんとも凄かった。ミートローフも念のためタマネギを抜いたりしてあるのだが、聞いてみたら割と平気らしい。

「このあたしをそこんじょそこらのワンコと一緒にしないどくれよ」

 とのことである。
 その主人はといえば、始めはためらいがちに取り皿によそって、もそもそと食べていたのだが、やがて味が気に入ったのか、野菜スープを美味しそうに食べ始めた。
 それを気に入ってくれたのはちょっと嬉しい。実はこの中でもっとも手間暇かかってたし。
 なのはちゃんは元の姿に戻ったユーノ君に、フェレットのときの感覚なのか、マッシュポテトをすくって「あーん」とかやっていた。いやいや、ユーノ君とても恥ずかしそうである。私はにやにやせざるを得ない。
 ある程度食が進んだところで、ちょっと行儀が悪いながらも談笑しながらの食事となった。
 そしてこういう時ティーダはなかなか如才ない。

「ユーノ君の専攻は確か考古学だったよね、古い遺跡から拳銃型のものなんて見つかってないかな?」

 なんて自分の趣味も交えて話を振ったり、それをネタにボケ倒してみたり。
 ジュエルシードの一件の時に話が及び、プレシア・テスタロッサの話しに掛かってしまい、フェイトちゃんの表情が曇ったと見るや。

「なるほど、なるほど、ただ何はともあれ、お兄さんとしてはその虚数空間に飛び込んでしまう前に事件が収束してくれたのは嬉しいね。こんな将来、美人さん間違いない子がいなくなってしまうのは数ある次元世界にとっても、大きな損失ってもんだよ」

 なんてナンパ紛いの台詞を言い、わざと気障ったらしく手を翻す。現れたのは一輪の赤い薔薇である。魔法ではなくマジックだった。いきなり現れた花にフェイトちゃんは目を丸くする。
 ちょっと失礼、なんて言って髪にさし、花飾りとする。棘をとってあるから怪我はしない。

「ほーら、綺麗だ。ね、なのはちゃんもユーノ君もそう思うだろ」

 え、え? とよく判っていない様子のフェイトちゃんに向かい、なのはちゃんとユーノ君もまた笑って頷いた。
 なぜか不機嫌な顔でむくれたティアナちゃんが兄の脇腹をつんつんと突く。

「お兄ちゃん浮気」
「うん? ごめんごめん、焼き餅焼くなよティアナ。君だってそりゃ美人になるさ。間違いない。大きくなって彼氏さんでも出来てしまうのが今から怖いね。そんな事になったらきっとお兄ちゃんは悲しくなって部屋に閉じこもってしまうと思うよ?」

 流れのままティーダが軽口を叩くと、ティアナちゃんはため息をついた。

「そうじゃなくて、お姉ちゃん、お兄ちゃんが浮気! こういう時はお兄ちゃんに一言いわなきゃ」
「……うぶッ!?」

 そう来たか、突然の事で喉に芋がつかえた。慌てて水を飲む。
 ……飲み下し、ようやく落ち着いたが、一言……一言。い、いや、どうコメントすればいいのかなこれは。

「え、ええと。うん……なんだ。ティアナちゃんに彼氏できたら私も部屋に閉じこもっちゃうぞ?」

 なんてティーダに追随して誤魔化してみる。まったくろくでもない切り返しだ。オチにもなっていない。少し落ち着かないと……ともう一口水を含む。
 ティアナちゃんは首をかしげた。

「子作り?」

 ぶば、とマンガのように盛大に吹きそうになってしまい、慌てて口を抑える。ティーダも同様だった。お互い間一髪で手が間に合って良かった。
 ティッシュで丁寧に手をぬぐう。頑張って冷静を装い、何でそんな事に結びつくのかな、と聞いてみると。

「……だって、男と女が一つの部屋にこもってれば子供できるって、言ってたもん」

 さらに聞き出したところ、どうやら施設でもお世話になってるお隣さん、果樹園のナシュアおじさんが元凶だったらしい。

「おかしいの?」

 と聞かれても困る、とても困る。食事の場でまさかこのような事になろうとは。恐るべし、ティアナちゃん。きっとこの子は将来大物になる。

「お……かしくはないんだけどね。ええと、詳しくはこれから通う幼年学校でも教えられるから、うん。大丈夫、先生がしっかり教えてくれると思うから」

 などと逃げの一手を決めこんでしまった。ああもう、駄目駄目だ。
 ティアナちゃんはやっぱり釈然としないものを感じたようで、不思議そうな顔をしていたものの、何とか疑問を納めてくれたようだ。私もホッとする。
 ふと見ればなのはちゃんとユーノ君もまた何となく気まずげにしている。うん、まあ。それなりに知識はあったようだ。
 フェイトちゃんの方はどうやらまるきり判らなかったらしい。不思議そうにしていた。

「普通の子ってどうやって生まれるんだろ?」

 口の中でもぞもぞとつぶやいている。
 そういえば、この子の出生もまた普通ではなかったっけ。
 私は何となく頬を掻いた。どうも妙に私の前半生、アドニアと被る部分があるので困る。下手に感情移入してしまうのはむしろ危険なのだけど……そんな事を思いながら食事を再開した。ミートローフを取り分け、フォークで刺した時だった。

「子供の作り方、アルフは判る?」
「ん? んん、そうだねえ、私たちなんかは春頃に暖かくなってくるとこうムラムラと……」

 私は恭也も顔負けの神速のフォーク捌きでアルフの口にミートローフを突っ込んだ。

「ひゃにひゅんのひゃ」

 もぐもぐと、文句を言いながらも食べるアルフ。
 この情操教育上非常に困る事を言ってしまいそうな使い魔、どう止めようか……とりあえずミートローフをさらに追加し、私は思案に暮れるのだった。



[34349] 三章 六話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/29 20:29
 正直私はハラオウン家がこちらの世界に居住することになるという話を、話半分に受け止めていた。
 さすがに障害が多すぎるように思えたのだ。提督という立場、さらには息子もまた若くして執務官でありマスメディアにも注目されている若手の代表格といった感じでもある。
 管理局そのものがいろいろな世界を内包するようなところがあるので、二重戸籍自体は認めているのだが、第97管理外世界だけ、すでに出身者であるグレアム提督も含め二人の提督が戸籍を持つということになると、それはもういろいろ問題も出てくる。
「この世界に何かあるのではないか?」という無用の勘ぐりを招くこともあれば「この世界だけ特別扱いしかねない」という憶測を招くことだってある。やるとしても慎重に動くのではないかと思っていたのだ。
 うんまあ、何といいますか。

「1週間かそこらで戸籍と家を用意するとはさすがに予想できなかったよ……」

 私はそう言いつつも自分の頬をひねる。まだ呆れ顔が戻ってないかもしれない。

「ああ、急いだからね。エイミィにもだいぶ動いてもらったし」
「まったくだよクロノ君……報酬は覚悟しておいてね?」
「う……お手柔らかに頼む」

 私の少し前を歩く二人がそんな事を話していた。相変わらず仲が良いようで何よりだ。
 いろいろ問題があるのは確かだったようだけど、どうも管理局の方はリンディさんが「穏やかに優しく交渉」するらしい。具体的にどうするつもりかってのはクロノも言わなかったが……うん。いや、言及しないようにしよう。
 考えてみればクロノやエイミィ、二人とこうして直で会うのも久しぶりだった。
 最初に会った時などクロノなんて、まだあどけなくて可愛い盛りだった。そこからすると背などもずっと伸びて……伸びて……伸び。

「クロノ君や、握手しよう」
「え? ティーノ……急にどうしたんだ」
「握手」

 困惑するクロノの手を掴んでぶんぶん振る。
 うん、丁度いい高さだ。私達も成長期はまだこれからだよね。もう少し伸びるよね。頑張ろうね。そう心でエールを送っておいた。そんな私達をエイミィが生暖かい目で見守っている。
 クロノとエイミィだが、今回は家に入れる家具や家電を購入しておくために来たのだとか。

「ん、そかそか。確かにそういうのも現地で調達しないと、地球から見て変な内装になりかねないしね」
「ああ、フェイトが友達を連れて来て遊べるくらいにはしておかないとな」

 ナチュラルにフェイトが、と口に出ているクロノ君である。こんな調子なんだよ、とばかりにエイミィが肩をすくめた。
 ハラオウン家はお金持ちなので、もしかしたらどかんと一軒家でも購入してしまったのかと思いきや、聞いてみると一軒家ではあるものの借家らしい。不思議に思ったのが顔に出たのか、クロノが苦笑して説明してくれた。

「この世界は管理局とはつながりそのものが細いからね。通貨もまたグレアム提督がオーナーになっている会社、そこが窓口になっているからこそ手に入るわけだけど、あまり大きな金額を動かすのはそちらにも迷惑が行ってしまうんだ」

 あの爺様さりげにそんな事をしていたのか、私も全く知らなかった情報にびっくりだった。

   ◇

 さらに三日も経たない間に引っ越しの準備は整ったようだった。
 ただ、モニタに映るクロノの目の下にできたクマが慌ただしさを語っている。強硬スケジュールで体をこわさないといいのだけど。
 当日はもちろん、私やティーダも手伝う事になった。
 さらに土日ということで、なのはちゃんに加えて恭也や美由希も手伝ってくれるようだ。

「おおお、さすがにこれだけ男手がいると早い早い。やっぱり頼りになるね」

 私もそう言って感心することしきりである。
 恭也はもとより、クロノやティーダもそれなりに魔法だけでなく体も鍛えている、それはもうばんばん家具を運んでいく。まとめ買いをして、大型トラックに積まれた荷物が見る間に減っていった。
 この調子ならあっという間に搬入も終わりそうだった。引っ越し業者要らずとはこのことか。

「……あはは、ツバサちゃんには言われたくないと思うよ、うん」
「うん、お姉ちゃんに力持ちって言われても困ると思う」

 ……美由希とティアナちゃんに駄目出しをくらった。
 装飾ついたベッドを一人で担いでいるので、言われても言い返せないところではある。
 仕方無い、あまり人数入れて持ち上げるには階段がちょっと狭いし、私がベッドを下から担ぎ上げて運んでしまえば手っ取り早かったのだ。

 あらかた搬入も終わり、細々とした整理もその日のうちに終わってしまいそうだった。
 なんというスピード引っ越しだろうか。
 そして細かい整理などをしている間、お疲れ様ということでティーダ、クロノ、恭也にお茶とお菓子で一服してもらっていると、いつのまにやらこの三人、妙に仲良くなっていた。
 ちょっと聞き耳を立ててみると、まあ案の定……女の子には聞かせられない、男だけのロマンに満ちた会話をしている。
 判らないでもない。何しろ三人が三人とも、男兄弟がなくて、日常生活も女性に囲まれているような環境なのだ。そりゃ判らないでもない。

「ティーノ、何赤くなってんの?」
「……なんでもない」

 エイミィに言われてしまった。下ネタというのは自分で言う分には平気なのに、何でこう……聞いてしまうと恥ずかしいのか。すごく疑問だ。
 ……しかし、そんなに下着にこだわりがあるものか……レースの紫なんかだとあるいは私のようなのでも意外性で……いやいや、いやいやいや。何を考えているんだ私は。ガーターとか要らない、要らないから。話に釣られるんじゃない。

 さすがに全部が片付いた頃は日もとっぷり暮れて、虫の声が静かに響く頃になっていた。

「それじゃあ、今日はみんな、お疲れ様でした。本当に助かったわ。ささやかだけどお店を予約しておいたから、打ち上げに行きましょうか」

 と、リンディさん、提督の肩書きはあまり好きではなく、プライベートな時は名前で呼んでほしいのだとか。そして最近すっかり気に入っちゃったのよね日本文化、と言って連れていってくれたのはなかなかにお高そうな割烹のお店だった。
 というか見た目は完全に料亭である。数寄屋造りというのだったか、着物を着た女将さんに案内され、八人くらいが丁度座れそうなお座敷に通される。
 作りこまれた庭園に面し、鈴虫の声が時折聞こえる。
 うん、なんだ、まあ。こういう時ほど自分の庶民派感覚を感じる事はない。何となく落ち着かないのである。静かですごく良い場所なのだけど。
 隣ではティアナちゃんが私の真似をして正座をしていたのだが、早くも限界に来ているようだった。もぞもぞと足を動かしている。私は、何となくほっと気が抜ける感覚を覚えた。

「ティアナちゃん、ティアナちゃん」

 と呼びかけて、足を崩して座らせる。さりげにティーダもちょっと厳しかったらしい。もそもそと胡座に切り替えはじめた。何となく悪戯心が生じて足の裏をつついておく。ティーダの背筋が伸びてびくびくと震えた。恨めしそうな目で私を見る。ふはは。

「ふふ、畏まらないで楽にするのもまたマナーよ」

 その様子をみたリンディさんが少し面白そうな顔になってそう言った。
 出てきた料理はさすがの一言である。
 前八寸は五種類が盛られ、そりゃ綺麗に飾られている。季節感も抜群で秋の彩りというのが相応しいだろう。
 今日鮮度が良かったという鯛、それと「珍しくも無い魚ですが美味しいんですよ」とトビウオが薄造りで出された。
 また、リンディさんが頼んでおいたのか、肉料理もまた並べられる。炭火の香りも香ばしい牛肉のタタキが薬味や彩りと共に並んだ。
 さらに椀物も鍋も出て、他にも揚げ物、漬け物、蒸し物とたくさん並べられる。家庭ではなかなかできない作り込みと品数だった。個人的に湯葉豆腐がヒットである。とろとろの舌触りで、とんでもなく大豆の味が濃い。甘さを強く感じてしまうほど濃いのだ。なんじゃこりゃ、なんじゃこりゃと思っているうちに食べ終えてしまった。

「んー、久しぶりに和食食べたなあ」

 食べ終わり、私がそう満足げに一息つくと、美由希が不思議そうな顔をした。

「あれ? ツバサちゃんの事だから家でも和食出してるかと思ったのに」
「……ん、ランスター家は基本パンと肉がメインだったから、やっぱり比率はそっちが多くなるんだ。和食も出すんだけど……さすがに今日みたいに1から10まで和っていうのは無かったかもね」

 そういえばと、ティーダが引き継ぐように口を開いた。

「最近はご飯と一緒に焼き魚を食べたりしてるよね? ええと、この間食べたのは……」

 このくらいの大きさで……と指で示す。

「ああ、それは一昨日出した夕食だね、ホッケの麹漬け。一夜漬けくらいだったけど食べやすかったでしょ?」

 ホッケは骨を外すのが簡単だし、身も柔らかく、そう癖もない。ティアナちゃんに魚の食べ方を教えるのにはちょうど良い魚なのだ。麹漬けにすることで、魚臭さはさらに軽減されて食べやすくもなる。
 ティーダも実はあまり魚を食べるのは上手くないのだが、あれだったら良いようだった。

「うん、あの魚は美味かったね。それに今し方出たこれ……お吸い物と言ったっけ、このスープは美味しかった。今度はこれがいいなあ」
「はいはい、明日あたり期待しといて。ここのお店のはハモのお吸い物だったけど……そうだね、ハモよりはちょっと上品さが落ちるけど、タラとエビのつみれでお吸い物にしてみようか。なかなかあれも美味しいんだ」

 なんてティーダと軽く喋っていると、なぜか視線が集まっているのを感じた。
 え、え? とちょっと挙動不審げになってしまう。

「ええと……み、美由希さんや、私何かしちゃった?」
「ううん、何もしてないよ。うん」

 なんて言いながら美由希がすごい……何といえばいいのだろうか、ぬるい風呂にでも入っているような顔をしてうんうんと頷く。
 私はなんとも居心地の悪い空気の中、ティアナちゃんを膝の上に乗せた。お腹一杯食べたら眠くなってしまったようなのだ。あどけない寝顔を見て、妙な空気の事も忘れて思わず笑みがこぼれた。

   ◇

 随分と風も冷たくなってきた。
 日が落ちるのも随分早くなった10月も半ば。そろそろ任務終了の時期である。
 今まで採取したデータのをざっと見るに、この世界の魔力の乱れそのものは残っているものの段々収束に向かっている。
 ジュエルシードの暴走、そして余波、遡ってみればそれ以前のロストロギア、ロコーンが転移してきたときの衝撃もあったはずだが、この調子なら多分これから安定に向かうのだろう。もちろん、専門家に見て貰わないといけない部分でもあるのけど。
 グレイゴースト側による捜索、それにも関わらず一向に捕まらない来訪者のような少年は気になっているものの、デュレンに聞いたところこのくらいで見つからないのは当たり前らしい。中には逃走にとてつもなく適した能力者も居て、対策に酷く手こずった時もあったとか。決め手はハニートラップだったらしい。何ともかんとも……良くも悪くも人間だなあと思う。
 しばらく預かっていたフェイトちゃんに関しては、最初会った時に残っていた色濃い影は薄れ、今ではだいぶ落ち着いた様子を見せている。エイミィが冗談交じりに「なのは効果」と呼んでいたが、全くその通りだった。ちょっとべったりしすぎている気もするけど、そこは近くにクロノもリンディさんも居るので心配はないだろう。
 正直なところ、彼女について私はちょっと距離を測りかねている部分があった。
 もちろん、嫌いとかではなく、むしろ何かあれば出来るだけ力になりたいのだけど、まあその、ちょっと感情移入しすぎるのである。
 生まれが人の手によるものだったり、母親にちょっと複雑な思いがあるというくらいしか共通点はないのだけど。なんでだろうか。
 ……フェイトちゃんはアドニアとは違う。流されるままだったアドニアとは異なり、自分の意志で友人を得ているし、誰より心配している家族とも言うべき使い魔も存在する。
 クロノやリンディさんという保護者が居て、気軽に相談できるエイミィも居る。

「羨ましいってのともちょっと違うしなー」

 そう。アドニアの事は終わった物語。私が色々と感情的に割り切れてないだけなのかもしれない。

 任務終了の前日、皆が翠屋でお別れパーティを開いてくれた。
 高町家の面々には英国に帰るという事になっている。心苦しいのでいつかは本当の事が話せればいいのだけど。
 よく騒ぎ、よく喋る。
 なんともかんとも、高町家は士郎さんがやはり中心となっていた。明るく優しく力持ち、とかどこのヒーローだよみたいな人である。
 桃子さんも良い人を捕まえたもんだなあと思ったので、そのまま言うと、うん。
 ……言わなきゃ良かった。
 ここぞばかりに溢れるのろけ、のろけ、のろけ。アルコール入ってるとはいえ、その勢いナイアガラの滝がごとく。
 士郎さんが参戦すると、今度は二人でお互いの長所を言いあってはこいつめ、ははは、とか笑っている。

「……恭也もああなるんだろうか」
「やめて言わないで私となのはだけ置いていかないでピンク色に家を染めないでお願い」

 私の一言は美由希の何かのスイッチを押してしまったようだった。

「はい、ストップストップ。ユーノ君、窒息しちゃうよ」

 胸の間に挟んだまま自分の体を抱きしめてぶるぶる首を振っていたのだ。助け出したら案の定、目を回す直前だった。
 いろいろ多人数の場に連れ出しているせいか、ティアナちゃんもこういう場に随分慣れてきたようだ。いや、もともと頭が良い子だったけど。元気にはしゃいだせいか、今回は早々に寝入ってしまった。
 そんなティアナちゃんを胸に抱いて、ついでに一枚肌掛けをかける。
 ティーダとカーリナ姉にも目で合図、恭也と美由希の気を逸らしておいてもらう。
 念話でなのはちゃんに呼びかけ、縁側にさりげなく移動をするのだった。

「さてと、なのはちゃん、私達は管理局の方に戻るわけだけど……なのはちゃんがどうしたいか、答えは出たかな?」

 そう聞くとなのはちゃんは少しうつむいた。

「やっぱり、やっぱりまだ決められません」

 そう言ったかと思うと顔を上げ、私をまっすぐに見る。

「でも魔法は……やっとみつかった、私の、私だけの……ええと、あの、うまく言えないけど、この力で私が何か出来れば……って思う事はあるんです」

 きっとずっと考えていてくれていたのだろう。
 判らない、考えれば考えるほどに決められない。そんな感じもする。
 それでも、この子の魔法の力を使って何かをできれば、という思いは伝わってきた。

「なのはちゃん。焦る問題じゃないからゆっくり考えてね。考えに困ったら友達のフェイトちゃん、それにユーノ君も居るから相談すればいい」

 はい、と元気よく頷いてくれる。ありきたりな事しか言えなかった私としてはちょっと心の中で苦笑気味だったりもする。それでもやはり、自分だけの思いと同時に、周囲がなのはちゃんにどうして欲しいのか、それを考えるのも大事だと思うのだ。

「正直、恭也や美由希からなのはちゃんを離しちゃう事になりかねないな、なんて思ってあまり乗り気じゃなかったんだけどね」

 私は目の前の少女の真っ直ぐさに思わず頬がほころんだ。
 少しかがんで視線を合わせる。私もまた真っ直ぐになのはちゃんを見て、言った。

「その気になったら連絡して、フェイトちゃんに言えばハラオウン家つながりで連絡取れるからね。それから……ちゃんと家族には魔法の事についても言うようにね。昔から付き合いのある私が保証しておくよ。恭也も美由希も魔法くらいじゃ驚かないんじゃないかな」

 何せ私の馬鹿力を知ってもそう驚かなかった奴である。美由希は最初おどおどしてたけど、あれはただの人見知りのようだったし。
 風が少し吹いた。
 肌掛けを上にかけただけでは涼しかったようだ。ティアナちゃんが寒がり、無意識に体を丸くした。

「あまり長居してると風邪引きそうだね。そろそろ戻ろっか」

 そうなのはちゃんを促して会場となってるリビングに戻ることとした。
 去り際に夜空に映る綺麗なお月様を見る。
 この月ともまたしばらくの別れとなる。
 そう思うと何となく貴重なもののようにも感じられる。
 私はじっと明るい月を眺めていた。

   ◇

 「暇だ……」
「言っちゃ駄目だよティーダ」

 第97管理外世界での調査任務も終わり、報告をしてミッドに戻る事3日、依然として配属先が宙ぶらりんなままだったりする。自宅待機を言い渡されたまま放置されていた。
 理由はわかるのだ。
 グレアム提督が何だかんだで後ろ盾めいた形で見え隠れし、先の事件で一国の王室ともまた親しくなってしまった。いや、それどころか国の恩人だとか、記念貨幣とか出されてたりもするのだけど……
 そんな下士官である。部下としては非常に使いにくい。それに政治的な思惑の中で一足飛びに階級が上がってしまった事もある。「実力が階級相応のものだろうか?」という疑いは当然かけられていた。配属させようにも、人手不足と言えど、いやだからこそ実力が不明瞭な人物とかどこも欲しくないのである。
 なんというかまあ……拾い主を待つ捨て猫の気分だった。ミカン箱でにゃあにゃあ鳴いていれば誰か拾ってくれるだろうか?
 しかしまた、全く先行きも見えないままで放置されている……というわけでもなかった。
 例によって情報源はレティ・ロウラン提督なのだが「独り言だけどね」と前置きした上で教えてくれたのは、どうもティーダを隊長として、本局の防衛隊直下の特務小隊を新たに編成しようという動きだった。使いづらいなら隊を率いさせてしまえというわけである。最近は階級にはあまりこだわらずに部隊が編成される事も多くなっていたので、そんな風潮もまた後押しをしたようだった。
 呼び名はとっても格好良い。何しろ特務小隊である、この響きにはどこかロマンがある。ティーダなどは目をキラキラさせていた。きっと今こいつの頭の中では硝煙の煙る戦地で特務隊を率い、味方の窮地に颯爽と駆けつけるドラマが展開されているのだろう。
 もっともそのロマンは詳細を聞くにつれ、あえなく散っていったのだが。

「一言で言えば雑用部隊ね」

 とロウラン提督は切って捨てた。私はそんなこったろうと思っていたので、小さく息を吐いたのみだったが、ティーダは固まっていた。
 何でも人手不足解消のために現在より流動的に動ける部隊を作っておきたいのだとか。
 形としてははティーダが隊長で私が補佐という形になるらしい。ティーダは既に小隊指揮の研修も受けた事があって、なおさら任じ易いのだとか。
 隊員については、司法取引のようなもの……罪を犯した人も管理局で勤務することで減刑や保護観察期間におかれる仕組みがあるのだが、その人達で構成するらしい。というか、急遽編成するとなると、そこから人員を持ってくるのが一番手っ取り早いと言う。

「そんなに顔を曇らせないでもいいわよ、まだそういう案が出てるってだけだから」

 そうは言ってくれたものの、何となく……何となくその目は「そういう事だから覚悟しておきなさいね」と言っているように見える。
 ど……どこで人生設計を間違えたのだろうか、私は。次元犯罪者ばかりの荒くれ連中とか率いる自信は全くないのだ。横で冷や汗をかいているティーダにしたところで、いかにも見た目が柔らかく、一見したところただの優男なのだ。そんなアウトローな性格の人達には舐められるのが常なのである。一体どうなることやら、不安は尽きないのだった。

 私もランスター家でごろごろしているのは、まあ別に深い意味があるわけではなく、本局で使っていた寮はすっかり埃を被っているので今更片付けるのも面倒だったからだったりする。すっかり馴染みだったランスター家ご近所の奥様方とも2年ぶりの挨拶をできたし、これはこれで良しとすべきだろうか。
 ちなみに、ティアナちゃんの幼年学校入学手続きも済ませておいた。年に二度入学募集をしている東部11区、私の地元にある小さい幼年学校である。日本でいう小学校みたいなものだろうか。ランスター家の近くの学校でも良かったのだけど、私もティーダもいつ仕事が入るか判らない身の上なので、相談の上、預かっていてもらったこともある施設の近くがいいだろうと、そちらに通わせる事にしたのだ。施設の子も特殊な境遇の子以外は通ったりしているところだった。
 私達のどちらかが居る時はランスター宅より、去年通ったばかりの高速レールウェイで通う事になる。ちょっと時間はかかってしまうものの、直通路が引かれた事でかなりアクセスはしやすくなっていた。
 その後の進路については、私とティーダで意見も違っているのだけど……まあ、それはおいおい考える事である。

   ◇

 ようやくと言ったところだろうか。私が次の任務として言い渡されたのは、グレイゴーストが依頼してきた調査協力だった。
 第122管理世界におけるロストロギア「天の門」の発掘も終わり、解析のために協力してほしいとのこと。確かにあれは、特殊な認証になっているので扱えるものが私か、あの姫様しか居ないのだった。
 ちなみに私のその特性、ロストロギアを起動するための資質を有している事をグレアム提督に相談したところ、厳重に墓まで持っていくべき秘密とまではいかないものの、やはりできるだけ表に出さない方が良いだろうとアドバイスを貰った。また今回の任務に当たって、当世界の姫様にも制御の仕方を教えておくのがリスク分散にもつながるらしい。一応ちゃんとした形で管理局に報告しておくべきだろうかとも聞いてみたが、それはさすがにやめた方がいいとのことだった。

「一枚岩ではないのだよ。管理局も、次元世界それぞれの政体もな」

 と言っていたが、その顔色には疲れがだいぶ見えた。しばらく肩を揉んでやって辞去したのだが。

「老けたなあ……」

 年は仕方無い事とはいえ、肩の肉が思ったよりずっと細くなっていた。何となくこう、寂しいものを覚える。
 ちなみにティーダは今回の任務については一緒ではない。考えてみれば前回122管理世界に出向してからというものの、ずっとワンセットで行動していたので何となく背中が心もとない気もする。本局待機ということだったので「時間もできそうだし執務官試験のために勉強でもしておくよ」とか言っている。笑っているけど、割と目が本気っぽい。案外クロノとの再会で刺激されているんじゃないだろうか。

 任務自体はどうこう言う事もなかった……のだろうか?
 ある意味では、鍵を開けて閉めるだけの簡単なお仕事である。
 天の門から繋がる、次元世界外への道筋、その調査はシャルードさん率いるグレイゴーストの調査チームが行ったのだ。
 私は門の制御役なので、開けたら待機しているだけだった。
 調査はシャルードさんの予測を覆すこともなく、予定通りに進んでいった。
 面倒だったのは時間の流れの計測だとか。次元世界のような一くくりになっている世界と違って、まったく流れ方が安定しないらしい。詳しい事も説明されたのだけど私にはまったく理解できなかった。私達が戻った時に2年のズレがあったのはどうもそのせいらしいけど……今回の調査ではできればその変動する時間についても解決しておきたいのだとか。
 調査を始めて三日ほど経った頃、私が管理者領域である場所、不安定な空間に作られた箱庭のようなものだが、そこで待っているとシャルードさん率いる調査チームが興奮した様子で戻ってきた。

「ティーノちゃん、ティーノちゃん、あたしはかなりすごいのかも! かも!」

 いきなりシャルードさんに抱き上げられた。くるくるくるくると回る。
 いやもう、こっちゃ何が何だか……というか目が回る。

「ユグドラシルは創作物だし比較のしようもないけど、要するにここの神様モドキもまた法則であり空間であり意志をもったフィールドそのものだったんだよ! ならあの不定形さも判る、あれは人の嫌悪、あるいは望み、あらゆる強い感情を映し出していただけ、そして私の能力は偶然とはいえ象形を用いてダイレクトにそこに作用するものだったの、勝った、これは勝ったよ、いえ、それは多分魔法の根本そのものがそれに支配もされてるのだろうけど、ああもう何にしろ、繋がっちゃったのよ! 頑張った! 超頑張った! 褒めて褒めて褒めてティーノちゃん!」

 いやもう本当に何言ってるんだか判らない感じにハイテンションである。
 とにかく褒めてと言われたので、シャルードさんの頭をなでなでしてみる。

「んにゃにゃにゃー、ありがとありがと、ティーノちゃん」

 凄まじいテンションのままにぎゅうぎゅう抱きしめられた。
 なんともあれだ、出来上がっている。酒でも飲んでしまったのだろうかこの人。
 成果を聞いてみると、そのハイテンションになっている理由もわかったのだけど。
「回廊」と呼んでいたが……来訪者たちのかつて居た世界、多分私の中に含まれる人も居た世界、そこと繋がる通路ができてしまったという。これはつまり次元世界の外へつながる道筋が出来たという事を意味するが、来訪者さん達にとってみればそれ以上の価値があるものだろう。
 その報告を受け、翌日にはグレイゴースト側からかなりの人数が集まる事となった。
 いつの間にか来訪者達の集まりも馬鹿にならない人数になっていたらしい。よく調べなかった私も私なのだけど、聞いてみれば既に総数2000人を越えているという。さらに、管理局の方でも次元漂流者の特別枠として扱われるようになっていた。
 現在集まっているのはその1割にあたる200名程だが、何のために集まったかと言えば、今後のためにベースキャンプを置くのだとか。
 来訪者の世界「地球」へと繋がった事による祝いのパーティはそれはもう大変な騒ぎだった。
 ちなみに来訪者とひとくくりにしても、そりゃもう様々であり、今回のプロジェクトを推していたのは前責任者……グレイゴーストの初代会長が本来求めていた方向に賛同した派閥らしい、望郷の念が強く、帰還を第一目的とする人たちなのだという。
 宴もたけなわ、シャルードさんが私を誘って中庭に涼みに出た。
 パーティ会場はこの遺跡、かつて都がおかれていた、共和政府が最後の拠点にした場所をそのまま使っている。

「あぁー飲んだー。涼しいぃ」

 シャルードさんは朽ちて崩れた石壁に腰掛け、夜空を仰いだ。
 アルコールを含んだ吐息に虹でもかかりそうである。さすがに飲み過ぎじゃなかろうか。
 とろんとした目で未だ騒がしいパーティ会場を見てつぶやいた。

「……誰もがさ、今の自分とは違う自分になれればって思うよね」

 ぼうっとした表情で言葉を続ける。

「誰だって抱いた事のある妄想よ。できれば、できることなら誰も知る人の居ない世界が良い。できることなら力があれば良い。できることなら人より秀でていれば良い。いつもどこかで誰かがそんな事をふっと思っている」

 何かおかしみでも感じたのかくすりと笑う。

「でもまあー、そんなのが本当に叶っちゃえばこんなもんよね。外食もいいけど我が家の味噌汁が一番って事よ。残ってる記憶なんかほんのわずかなんて奴も多いのに、それでも帰りたくて仕方無い」

 パーティ会場の方に乾杯するようにグラスを持ち上げてみせる。

「んふふ、あたしも我が家の味噌汁なんてものを頂いた事があればそうだったのかなあ」

 少し寂しそうに笑ってグラスを煽った。眉をひそめる。空だったようだ。
 ティーノちゃん、おかわりー、と両手をぐにぐにと私に向かって動かす。妙なダンスを踊らないでほしい。何だその不思議な動きは、MPが吸われそうである。
 私は無言でワインを注いであげた。

   ◇

 一週間ほどで、その次元世界外との間に繋げた回廊、その動作確認や細かい調整も終わった。
 ただ、時間の変動そのものを抑えられるわけでもなく、自由に行き来が出来るという代物でもないらしい。下手に計測しないで入ると向こうの世界に着いた時には100年経ってました、なんていう浦島太郎状態になりかねないのだとか。今後はテストケースとして志願者を募り、引き続き研究を進めていくという。今後は一月に数人を目安として、安全に送り出す事を目標にするのだとか。
 検証実験の時にはまた私にもお呼びがかかるらしい。まあなんだ、さすがに姫様を使うわけにもいかないのだろう。そういえば、結局姫様には会う事が出来なかった。忙しすぎるらしい。ことさらに急ぐ用件でもないので構わないのだけど……

 本局に戻った私を迎えたのは辞令だった。本局防衛隊付、第一特務小隊の副隊長に任命するとのこと。もちろん隊長はティーダである。例の話が本決まりとなってしまったらしい。
 相変わらずロウラン提督が本来部署違いのはずなのに辞令を伝えてくれた。内示だけどね、とは前置きしていたが。

「浮かない顔だけど、よもや夫を残して逃げないわよね?」

 なんてからかわれる。なおさら私はため息を抑えきれない。散々その手の事も言われ慣れていて、どうって事もないのだけど。

「夫婦も時には離れて頭を冷やしたい時だってあるかもしれませんよ? 子供の時からの付き合いなら尚更です」

 せめてもの反抗というか愚痴を言うと、幾つも開いているウインドウをそのままに仕事の手を休め、色気たっぷりの仕草で髪をかきあげた。

「あまり冷やして涼しくすると、飛び立ってしまうかもしれないわよ? 何せ若いツバメは常に暖かい場所に巣を作りにくるのだから」

 そんな事を言い、ふう暑い暑い、などと胸元を開けた。

「て、提督……あなた既婚者でしょうが……」
「最近いろいろ持て余し気味なのよ……ふふ、それに権力って使ってこその権力だと思わない?」

 目が妙に真剣である。いや、ちょっとまて。さすがにそれはまずい、というかありえん。
 この人にも狙われるとか、どんだけティーダ美味しそうに見えるのさ!? いや、冗談だよね、からかってるだけだよね。
 でも、ロウラン提督、いや、レティさんの目はいやに真剣味があって……何か、何か言い返さないと。

「うんうん、脈有りね、良かったわねティーダ君。ティーノちゃんはあなたを取られたくなくて仕方無いみたいよ」

 画面の一つに話しかけていた。

「な、な……え、えぇ、嘘、いやこれは違!?」

 ぶわっと血が上る。嵌められた!

「あ、可愛いわね」

 撮られた。
 パズルゲームが起動しているウインドウを私に見せる。

「……ッやられた」

 がっくりである。この、管理局後方の魔女を相手にするんじゃなかった。
 ともかくまあ、辞令は受けておく事にした。さすがにティーダ一人でそういう状況に行かせるのは何ともあれなのだ。ええと、うん、今の心情を一言で表すと……

「べ、別にティーダが心配で仕方無いから助けるわけじゃないからね」

 口の中でつぶやいた後、あまりの痛々しさに転がり回りたくなった。
 ツンデレさんになったつもりはない。いやその素養もないはずなのに。まったくもってロウラン提督にペースを狂わされてしまっていたとしか言い様がない。

   ◇

 ミッドに戻り、それほど離れてなかったはずなのに、何となく久しぶりな気分のするランスター家で夕食を囲む。
 何と今回はティアナちゃんのお手製ハンバーグだった。
 形は不揃いではあるものの、スパイスもちょっと間違えてしまっているものの。

「うぉぉ、いろいろ何かこみ上げてきた……」

 涙が出てきてしまう。もうなんというか……今晩は離さない。
 美味しい美味しい、とそりゃもう堪能した。ティアナちゃんの自慢げな顔も良いスパイスである。
 普段の三倍増しに楽しい気分になった夕食を終え、夜も更ける。ティアナちゃんも疲れたのだろう、早めの眠りについた。
 紅茶を淹れ、ミルクを少々。

「ああ、ありがとう」

 ティーダの前にカップを置き、私もまた隣に座る。
 第122管理世界の事、来訪者達の事、シャルードさんの事……話す事は多かった。
 やがて、今回下された辞令の話になる。というかこの話を出すと途端にそわそわとして、こんな時ばかり分かり易いってのもどうなんだろうか。

「いろいろ問題はあるだろうけど、受ける事にしたよ。ティーダ一人じゃ心配だしね」

 と答えると、何を思ったのかティーダは飲んでいる紅茶を煽り、飲み干すと、ソーサーにカチャンと音を立てて置いた。椅子から立って襟首を正し、私の手を取って握手をする。
 にへら、と少し笑い、次の瞬間にはひどく真面目な顔を作って言った。

「君にはずっと世話をかけっぱなしでその……申し訳ないというのは禁句だったね。うん、これまでありがとう。そしてこれからは、仕事の上でも支えてもらう事になる。よろしく頼む、ティーノ・アルメーラ」

 なるほど、けじめみたいなものか。
 私はふと笑みがこぼれた。こちらも負けず劣らず真面目な顔を作って合い向かう。

「了解、ティーダ・ランスター隊長。妙な遠慮はせず、私にできる事なら何でも言って欲しい。これからもよろしく」

 そう言って手を握り返す。
 少しそのまま間を置くと、ティーダの口元がにやりと悪戯っぽく笑みを作り……

「じゃあ、早速だけど副隊長君、今晩の伽でも頼もうか」

 私は我ながら感心するほどの速度で胸ポケットに入れっぱなしのデバイスを起動、久方ぶりのツッコミ専用モードに変化させる。この間わずかまばたき一つほど。ランダムに変化する飾り文字は今回「色即是空」のようだ。
 深夜の閑静な住宅街にパアンという音が鳴り響いた。

「……何でシリアスが持続しないのかな? 本当に、本当に残念な二枚目……というか二枚目半だよね」

 ティアナちゃんが起きてる時は抑えて好青年ぶっているくせに寝るとこれである。

「まったく、いつまでも学生気分が抜けないんだからさ」
「男は常に少年たるべしという有り難い言葉を先人が残して……」

 なんて言いかけるティーダを再びはたいて黙らせた。
 そのまま書棚から移しておいた、ティーダのパパさん秘蔵のウイスキーを出してきた。
 小さいグラス二つに注いでティーダの前に一つコトンと置く。

「これは……」

 と言葉を無くすティーダ。
 私は覚えていた。パパさんが何かにつけて出来た息子の自慢をしてた事を。

「勿体ないと思うかもしれないけど、節目節目に飲んじゃう方がパパさんも喜ぶと思うんだ。自分の命日にしんみり飲まれるよりさ」
「……ん、そうかな。そうかもしれない。ティーノ、父さんは……少しは喜んでくれるかな?」
「士官学校も入らないで、子育てしながら、小なりとも一部隊を率いるようにまでなったんだよ? これで喜ばない親はいないって」

 私がそう言うとティーダは一つ、そっか、とつぶやいてグラスを手に取った。

「じゃあティーノ、何に乾杯する?」
「そうだね、部隊の今後、それに……ティアナちゃんの成長に」
「くく……後半は特に重要だね」
「そりゃ重要だよ」

 乾杯、静かに言いながらグラスを合わす。小さく綺麗な音が響いた。



[34349] 三章 七話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/29 20:29
 書類上の不備でもあったのか、部隊編成の手続きは少々混乱したらしい。
 編成されるはずの隊員達のデータを閲覧できるようになったのは、実に初顔合わせ当日の事だった。
 最低限、顔を見る前に名前と経歴くらいは覚えておこうと、ティーダと二人して閲覧したのだがそりゃもう驚きである。

「うっそ……ソウルオブザマターとか懐かしすぎる」

 ティーダが怪訝な顔をする。うん、この事件の事は細かい事は表沙汰にはならなかった、当時も話すことはできなかったのだ。
 しかし本当に懐かしい。ええと、ひいふう……5年前の事件の折、関わり合った連中だった。
 経歴の部分を見れば、犯した犯罪の一つ一つはどうも軽い量刑だったようなのだが、何しろ数がすごい。どれだけ運び屋としてこき使われていたのかとてもよく判る履歴である。
 とはいえもう年数もかなり経っているのでラグーザ以外は自由の身なのだが、5名ほどがそのまま管理局に残ってラグーザと共に辺境区域を転々としていたようだ。
 さて、いい加減ティーダも不審気な目付きになっているので、当時の事件の裏側を話しておくとしようか。
 あの折マスメディアに騒がれた事は知っていても、その背景までは知らなかったはずだ。
 今となってはまあ、ティーダぐらいになら話してしまっても問題ないはず。
 
 もっとも一通りの話を聞いたティーダは頭が痛そうにこめかみを抑えていたのだが。

「確かに今思うとマフィアに攫われて、あんな美談風になってたのはおかしかった」
「うんまあ、11才の女の子がわざと攫われてマフィアの内側から陽動プラス油断大敵作戦とか、そっちの方がおかしいとは思うけどね」

 しかもその動機が、自分を襲ってきた連中に対するちょっとした同情なのだ。我ながら何とも阿呆かと……いや後悔はしてないけど。

   ◇

 新たに編成された小隊だからだろうか、どこかの大隊隊舎の空き部屋でも間借りするものとばかり思っていたが、小さいながら独自の隊舎が用意された。場所は本局の本部の裏側、内周部にある倉庫が立ち並ぶ場所だったのだが……と言っても貰えるだけありがたい。多分、誰かの倉庫として利用されていたのだろう。2階建てとして作られているコンテナハウスを改造したもののようで、一応人数分の個室や隊長室、会議室、食堂などがある。設備などはまだ施工途中のものもあった。
 ラグーザ含め6名の前でティーダが着任の挨拶をする。あまり堅苦しいものにしたくなかったのか、基本だけを抑えた簡素な挨拶だった。
 値踏みするような目で見られ、ティーダも若干居心地が悪そうではある。
 ラグーザはティーダからふっと目を外すと私に向かって軽く頭を下げた。

「話には聞いてましたがお変わりなく。何よりですお嬢」

 かつてよりはるかに険の抜けた表情で、不器用ながらも笑ってみせる。
 さすがに年齢と共に落ち着いたようだったが、服装の趣味は相変わらずらしい。褐色の肌に短い黒髪、管理局の制服も黒が基調のものに変えてしまっていた。いいのだろうか?
 他の5名もやはり年月が経ったせいか落ち着いた様子で、かつてミッドで暴れ回っていた暴走族とは思えない。いや、それでも十分なんというのだろうか、ごろつきっぽさは残っているのだけど。ううむ、この言い方は失礼か。

 何はともあれ、ティーダ・ランスター隊長、副隊長の私、ラグーザ空曹含む6名、合わせて8名による空士のみの特務小隊が無事形となった……
 はずもなく。
 何というか……早速問題が起きてしまったのだ。
 ラグーザ達は私の事は恩人扱いしてくれていたのだけど、ティーダとはまあ初対面である。

「よろしくお願いします隊長殿」

 言葉はそう言ったものの、傲然と見下ろす。ティーダより頭半分ほどラグーザの方が大きいようだった。

「恩人のお嬢の手前、こういうのも何ですが、飾らずに言いましょうか」

 何やら空気がぴりっとしたものを含んだ。

「隊長さん、あんたの力量が俺たちにはまだ全く見えてこない。俺らは……聞いてるかもしれないが、アウトサイダーに毛が生えたようなものなんだ。正直あんたのエリートっぽさが胡散臭くも感じる」
「……なるほど。じゃあ君はどうしろと言うのかな、ラグーザ・リボー空曹」

 そういえば初めて知ったのだけどフルネームはそんな名前だった。
 ティーダが目を細めてそう聞くと、ラグーザはにやりと笑う。自分の腕をぽんと叩いて言った。

「古典的にいきましょうか。腕試しです。新規編成の特務小隊……しくじった他部隊の尻ぬぐいにあたるなんてこた予想できることですからね。ついでに言えば、あまりおおっぴらにしたくない仕事にも使いやすいでしょうし、そりゃ修羅場に投げ込まれる事もあるでしょうよ」

 だからね、と続けて腕を組む。ティーダを真っ直ぐに見た。

「この隊長だったら信用できるってところを見せてもらいましょうか」

 私はおそるおそるティーダの顔を伺う。

「わ……」

 一見、普段と変わらない。うん、一見。でも違う、目が冷たい。こ、これは……

「そう、そうか……エリート臭ね。そう言われるのも初めてじゃないし、今更だけど……そうだね。じゃあ、ラグーザ君、歴戦の君にどこまで相手になるか判らないけど『全力』でお相手させてもらうよ」

 ティーダは先に行くよ、と言い、さっさと本局の模擬戦室に行ってしまった。

「ら、らぐーざ……」

 この男踏まんでもいいところを踏んだ。ティーダの気にしてるところをピンポイントで……
 私がどう言おうかと悩んでいると、何か誤解したのか……

「なあにお嬢、そんな心配そうな顔しなくてもちゃんと手加減はしますよ。しかしまあ、あの兄さんもお嬢みたいな美人に心配してもらえて羨ましいこってすな」

 美人? あ、ありがとう、滅多に言われないから嬉しいかもしれない。
 ──いや、そうでなく。心配なのはむしろ……
 言い淀んでいるうちにラグーザ達もぞろぞろとティーダに続いて行ってしまっていた。何とも自信ありげに笑いながら。

   ◇

 私もすでにいろいろ諦めて模擬戦室の観覧席に移る。
 本局の模擬戦室といっても、本格的な演習のできる場所は完全予約制で、そちらはさすがにフィールドが広すぎるため屋外に設けられている。こちらはトレーニングルームの並びに設置されている100メートル四方ほどの空間で、屋内にある空間としては広いのだがさすがに空士のトレーニング場としては手狭と言えるかもしれない。
 障害物、フィールド設定は市街戦想定にされていた。

「おそらく僕らのような小規模、機動力のある部隊の特性上、広い場所よりこういう地形の方がメインの現場になってくるだろうからね」
 
 などとティーダはもっともらしく言っているが、私は知っている。あれがティーダの大好きな地形であることを。
 本気だ、あいつ本気だ。私は戦慄を隠せなかった。
 わりとオールラウンダーではあるものの、どちらかというと中、遠距離型のティーダの怖さは魔法そのものよりも、その戦いの組み立て方にある。
 クロノの戦い方がバインドやシールドを中心とする、水も漏らさない鉄壁を旨とするなら、ティーダのそれは一度捕まると際限なく引きずりこまれる蟻地獄のそれだった。
 どこに逃げても、死角に入ろうと……絶妙のタイミング、最高に嫌な時に嫌な角度から誘導弾が飛んでくる。立ち止まれば、足元にはバインドがじりじりと設置され、ジリ貧を恐れて正面から当たれば幻術ですかされ集中攻撃、一撃は軽いと侮って持久戦に持ち込めば隙だらけの姿を見せつける。その隙の全てが罠だったりと……とにかくえげつない事には定評のあるティーダである。
 それに、どうやら戦いは戦う前から始まっていたようだった。

「そうそう、僕は多対一が得手だから、ラグーザ、君がリーダーとして全員でかかってきてもらいたいな」

 などと言って煽る。ラグーザたちは最初から侮っていた上にカチンと来る事を言われ、気分を損ねたようだ。
 ならば、お望み通り……と全員で作戦も無しにティーダを相手取る。
 模擬戦の開始を告げる合図が鳴り数秒後、私は額に手を当て、天を仰いだ。

「あっちゃあ……」

 ラグーザ達は連携もほとんど取らず、スピードで翻弄すれば倒せるだろうと散発的に攻撃を始めた、その全てを捌きながら開始2秒後にティーダの放った6発の魔力弾が一人一人を絡め取っていく。それは例えば一人が避けた空間を別方向からくぐり抜けた誘導弾が死角から迫り、一人が撃墜され、それに少しでも気を取られれば別の方角で誰かが避けて開いた空間、そこを通りぬけ魔力弾が迫る。
 初戦はラグーザ達の本領も発揮させないままに圧倒してしまった。

「……嘘だろおい……ああ、嘘だ。も、もう一度だ!」

 呆然とした様子から立ち直ったラグーザはティーダに再戦を願った。ティーダもまた頷いて、何度でもと短く答える。

 10戦を超え、疲労困憊の体のラグーザが次々と迫る魔力弾の中、なけなしのラウンドシールドを張ってぼやいた。

「これで2年もランクがそのままとか……詐欺にも程があるぜ……」

 そして光に飲み込まれた。
 何となくだが、そのぼやきを聞くと事情が判らないでもない。
 2年の間については、今のところ政情の絡みがあって功績は表向き伏せられている。A級ランクを取った後、2年間魔導師としての成長も見せず、何の目立った功績もなしに階級だけぽんぽん上がっている形だったのだ、いろいろ想像も含めてイメージを作ってしまったのだろう。

「なんだかなあ……」

 と私もため息が出る。
 見ればティーダが私を手招きしていた。近くに行ってみると倒れているラグーザ達を目で示した。

「どうやら魔力切れのようだ。彼等に魔力供給を」

 私は間髪入れず、ハリセン型に変化したデバイスで叩いた。大きな音が響きわたる。

「どんだけ鞭打つつもりなんだティーダ」
「そんな酷い事はしないよ、ちょっと思いついてた収束弾頭の相手をしてもらいたいだけで」
「なのはちゃんの砲撃見て思いついたっていうアレ? 通常の100倍密度の魔力弾とか当てたらトラウマってレベルじゃ済まないから!」
「バリア貫通後に爆散する仕様にしたから大丈夫だよ」

 それって、プロテクションとか完全に覆ってしまうタイプのバリアだと、爆圧が逃げないでとても酷い事になるのでは。

「なおさら悪いわッ!」

 再び私のツッコミデバイスが振るわれる事となった。最近使う頻度が多すぎる気がしないでもない。根本的にデバイスの用途を間違えている気がする。
 まあ、そんな悪ノリはともかく、魔力切れを起こしているのも確かではあるので、魔力供給を行って休憩室に運び込む事になった。
 
   ◇

 この模擬戦後、さすがにティーダが舐められる事は無くなった。
 同時に管理局内でひそひそと「優しい顔して隠れサディスト」なんていう噂がちらほら聞こえるような気がしないでもない。そこは気にしたら負けである。
 ラグーザ達の魔導師としての実力というものはさすがに優れていて、魔導師ランクで言えばBからAまでの人員ではあるものの、あくまでそれは総合評価である。
 飛行能力に関しては、最低ラインがAランクであり、ラグーザに至ってはAA+とまで評価されていた。
 もちろん、そんな特徴をそれぞれ明快にランク付けするような試験は行われていない。ただ魔導師ランクというものがまた単純明快で判りやすいのもあり「あいつの魔力総量はAAA級」とか「あいつの飛行技能はS級だろう」と、そういう言い方で評価する風潮は局内でもままあることだった。非公式ながら、そんな細かい分類の魔導師能力検定のようなものを行うグループもできている。もっとも、魔力の瞬間放出量とか数字がでるものはいいのだが、例えば飛行能力などは数字で計ることが難しく、あまりあてになるものではなかったりもするのだけど。
 
 部隊編成が行われ、ティーダが隊長として活動するようになり、早くも2週間ほどが過ぎた。
 その期間というもの、めまぐるしく動いていた記憶しかない。
 平局員だったときの倍量に増えた報告書類、隊員一人一人の特性を把握するために模擬戦や一人一人の訓練を見学したり、連携をいろいろ練ってみたり。プライベートでも親交を深めるためにパーティを開いたりなどなど。やってることは隊長であるティーダの補佐と雑用みたいなものだけど、何という忙しさか。
 ラグーザの予想は半ば当たり半ば外れた。
 一週間を過ぎたところで、あちこちに駆り出されるようになり、部隊の尻ぬぐいなんて任務も多いわけだが、さすがに編成したての部隊を危険な場所に立たせる気はなかったようで、今のところ危険な場所には立たされていない。どちらかというと便利屋扱いというか……
 例えば、救急隊員から要請を受け、転移魔法だと負担がかかるかもしれないということで怪我をした妊婦さんを飛行魔法で緊急搬送したり。
 変わったところでは、地方の部隊が搬送中の小動物、鼠に似た動物なのだが……それを逃がしてしまい、繁殖すると生態系に影響が大だと言う事で捜索に当たったり。
 今日に至っては次元世界の一地方で行われたパレード内での演出手伝いだった。夜空に光源を持ってくるくる飛び回るお仕事である。飛行魔法得意な魔導師が足りなかったらしい。
 ……というか忙しい。移動時間イコール睡眠時間である。どこの売れっ子芸能人さんだと言うのか。
 
「いや、雑用役とは聞いてたので、今更文句は言わないですが、この忙しさは何なんでしょう……」

 何だかもう、この人が直属の上官なんじゃないかと思うくらいお馴染みとなってしまったが、ロウラン提督に報告する際、ちょっと愚痴る。
 さすがに少々すまなさそうな目をしたのだが。

「ごめんなさいね、あなたたちほど手軽に動かせる部隊って居ないし……しかも空士だけで構成されててそれなりに魔導師の質も良いし、人員の穴を過不足なく塞げるからとてもありがたいのよ」

 そう言ってため息を吐く。聞いてみればこの人もまた、毎日あちこちから人よこせ人よこせとせっつかれているらしい。組織拡大のスピードに人事が追いつけないのだとか。かといって放置すれば人命に関わる場所もあれば、仲介の遅れで国同士が戦争を始めてしまうことだってある。出来れば私達みたいな形の小隊を複数設けて、それを直接動かす形できめ細やかな対応をしていきたいともこぼしていた。
 そう言われると、私としても何も言えない。
 ティアナちゃんにはいつものごとく通信で今日も帰れない事を伝えるのみである。モニタ越しでは笑ってくれているものの……本当にティーダといい私といい不甲斐ない保護者である。
 若干精神的に沈みながらも、そんな忙しい日々を送っていた折だった。
 次元世界にも当然ながら無人世界というものがある。
 もちろん無人世界といってもそれは元から住んでいた住人が居ないというだけで、管理世界であれば犯罪者の収容施設が置かれたり、物好きな人が住み着いたりはしているのだが。
 それ以外の無人世界、管理局が様々な事情で管理外とした世界において最近騒ぎが起こっているらしい。
 なんでもモンスターハントをする連中が居るのだとか。もっともそういう噂が流れているだけなのだが。その噂もラグーザが友人から聞いたという話だった。

「密漁として取り締まるわけには?」

 私が何となくそう言うと、横合いからティーダが混ざってきた。お疲れ、とコーヒーを差し出してくれる。隊長さまに淹れてもらってしまった。

「命まで取っているわけではなく、不思議なことにまるで倒す事が必要であるかのように狙っているらしいよ、あるいはどこかでストライクアーツの愛好家達が腕試しにと暴れているんじゃないか……なんて事も言われているね」

 困ったもんだと肩をすくめる。
 いずれにしても動物からしてみれば迷惑極まりない事だろうと思うのだった。

   ◇

 このところ情報網に不備があるような気がしてならない。
 先だって聞いた噂もそうだけど、確認しようと端末をいじってみるも該当データは登録されていなかった。噂になるくらいだから何かあるものとばかり思っていた私は肩すかしをくらった思いである。
 そして、魔法の構成を強制的にほどかれてしまう、妙なフィールドを発生させる装置……それが、しがない末端の犯罪組織に流れていた事もまた、情報の一つさえ流れていなかった。

 それほど危険度の高い任務とは言えない。
 禁止薬物の取り締まり、その応援として拠点の出口を塞いでいた時の事だった。
 相手は街には必ず居るようなティーンエイジャー中心の若者グループであり、魔導師も確認されていない。バリアジャケットさえ纏っていれば問題はないはずだった。
 先行部隊が突入し、逃げ出してきたらしい派手に2色で髪を染めた少年が、追い詰められた様子で私達にボウガンを向けてきた。仲間内で遊ぶときにでも使っていたのか、本格的なものではない。当たり所が悪くない限り殺傷力もないだろう。
 拘束しようとバインドを放った時である。

「え……?」

 まるでバインドブレイクを受けたかのように消えた。
 いや、この感覚は……魔力が……魔法が分散?

「ティーノッ!」

 ティーダの叫びにハッとした時は遅かった。

「ッく」

 呻きが漏れる。右肩に矢が刺さっていた。バリアジャケットもまた解除されていたか。
 私は目の前で慌てて次の矢を用意しようとする少年に思い切り走り寄った。用意する暇は与えない。
 何故か少年が私の後ろを見て目を丸くしている。ああ……幻術も解除されている感覚がする。翼丸見えか。

「痛い……てのっ!」

 ボウガンを持つ手を握って捻る。そのまま体を回して少年を下敷きにするように押さえつけ、確保。
 ふう、と浅く息をついて駆けつけるティーダを待つ。
 右肩がじんじんと痺れる。傷そのものはまあ、私の種族特性ってもんでこのくらいなら綺麗に塞がるのだけど……
 痺れが段々と広がるのを感じる。出血を考えて矢を抜かなかったのだけどこれは失敗だったかもしれない。今から……いや、これは間に合わないか。
 相変わらず魔法の構成が解除されるような空間は継続中らしい、ティーダが妙に構成密度を上げたバインドを少年にかけた。
 頭がくらくらする。痺れはどうやら右半身にまで及んできた。
 私の変調に気付いたティーダが不審気に声をかけてくる。

「ティーノ?」
「ティーダ、ごめん、何か毒っぽい」

 私を支える手の大きさとか、何か一杯一杯の表情で話しかけてくるティーダの顔、それらを認識したのを最後に私の意識は薄れていった。

   ◇

 目が覚めたら変だった。
 何が変って、何だろうか。
 どうやら医務室に寝かされていたらしく、真っ白なシーツやタオルケットが目に眩しい。
 頭がはっきりしない。まばたきを意識して強く、二度三度。頭を軽く振った。

「起きたかい?」

 ベッドの側にティーダが座っていた。笑顔を作っているけど表情が疲れている。心配させてしまったらしい。
 どくん、と心臓が音を立てたような気がした。

「あれ?」

 妙にふわふわしている。頬が火照る。

「ティーノ……まだ熱でも?」

 そう言ってティーダは掌を私の額に当てた。何をベタな事を……っ!

 熱い。頬が真っ赤になっている気がする。心臓が痛いほどに脈打った。額に触れる掌に安堵してしまっているような、身を任せたいような……いや、何だ、何だ。
 変だ、私が変だ。一体どうした。

「ティーダ……ここ本局の医務室……だよね。先生……呼んでくれないかな?」

 声を絞り出した。
 ティーダが呼びに行くので離れると、私は耐えかねたようにベッドに横になり、体を丸くする。

「うひゃぁ……」

 まだ心臓が落ち着かない。顔が熱い。
 なんだ、なんだ……恥ずかしさとも違うし、トラウマから来るものとも違うし。油断すると体がふわふわと浮かび上がってしまいそうで、それしか考えられなくなりそうで……
 やがて私がグレアム提督により連れてこられた当初よりお世話になっている先生に診察を受ける。
「もしかして……」と考え込む様子で血液検査を再びしたところ、とんでもない診察結果を出された。

「矢に塗ってあったのは、何をする気だったかは知らないが、遊びか悪戯か……少年達の扱っていた合成ドラッグの一種だったのだがね。それに対して君の持つ凄まじいまでに強力な抗体が反応してしまったようでね、妙な毒素の分解をしてしまっているんだ。うん、言いにくいのだが……これは一種の媚薬と似た成分になってしまっているね」
「媚薬……ですか?」
「うんうん、惚れ薬という呼び方でもいいよ」

 んな阿呆な……
 どこか思考放棄を起こしたようにぽかんとなってしまう私に、先生はちょっとだけ気の毒そうな目を向けて言う。

「多分、その成分が代謝されれば元通りになると思うのだけどね。正直君の体は一般的とは言い難いからいつまでかかるのかは保証しかねる。あ、傷口については心配はいらないようだね。8時間ほどの経過なのにすでに皮膜が張って内部組織も結合が始まっている。びっくりするほどの治癒能力だよ」

 命に別状はないとの事。自宅のような安心できる場所でしばらく安静にしておいてと言われた。
 まあ、なんだろう。未だにぽかんとした頭が治らない。
 先生が医務室の外でティーダに同じような説明をしていた。
 媚薬とか聞いてさすがにティーダも驚いていたようである。
 しばらく経つとドアが開いて、そろそろとティーダが入って来た。

「……先生から、話聞いたよね」
「あ、ああ。うん。その……妙な事になってしまって」

 若干目が泳いでいる。口調もしどろもどろだった。かなり意識してくれているようだ。何となく嬉し……いやいや、流されるな。
 私は頭を振った。うん、この程度、どうということはない。ティーダを真っ直ぐ見る。

「大丈夫、動悸とかがあるだけだから。普通に……普通にしててもらって大丈夫」

 そして私はティーダの手を取った。にぎにぎ。
 まったく私の手とは違ってごつごつとしちゃっている。昔は似たような手だったのに。こいつめこいつめ。

「ティアナちゃんも待ってるだろうし、安静にしてろって言われちゃったし、帰ろうよ。ティーダは時間大丈夫?」
「あ、ああ。急場の仕事も入ってないし、ロウラン提督から今日明日は休むようにと気も使われてしまって……と、ところでティーノ……そろそろ手を」

 あ、にぎにぎし続けていた。
 何となく惜しい気分で手を放す……と見せかけて身を乗り出して腕にしがみついてみた。

「んー」

 ああ、ほわほわとする……
 ──そこで我に返った。

「何やってるんだ私は……」

 私は頭を抱えた。ついでに布団にもぐる。顔を見せられない。いや、任務で不覚を取ってもこの程度で済んだのなら、運がいいのだろう多分。
 ただ、どうやらそんな……負傷とはちょっと別種の苦労をたっぷり味わうことが出来そうなのだった。
 どうしようこれ?



[34349] 三章 八話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/08/29 20:29
 媚薬が抜けない。
 とはいえティアナちゃんだけを相手にしている間は、頭がちょっと緩い感じになっているだけなので、うん。普通に家事もできるし、ご飯だって作れた。というか一緒に作った。

「というわけで今日はラザーニャーなのだよ、ティアナちゃん」
「ラザーニャー!」
「ニャー!」

 二人してニャーニャー言いながら平たいパスタを茹でる。
 ペシャメルソースをティアナちゃんにかき混ぜててもらい、私は三種類のチーズを刻んでおく。
 ミートソースも単調じゃ飽きるので、ベーコンを使ったものと挽肉を作ったもので二種類のソースを作っておいた。
 耐熱のガラスの器を出して、ペシャメルソースを盛り、パスタをぺろんと乗せる。ミートソースを塗り、まずは伸びるゴーダチーズをわしゃわしゃ。ペシャメルソースをさらに塗り、パスタを重ね、ミートソース。二層目のチーズはとろっとろになり香りがあるチェダーチーズをわしゃっと。三層目は一番上にスライストマトを並べて上からかけるならコレ、と言った感じに主張するお馴染みパルメジャーノ・レジャーノをわしゃーである。勿体ないくらいにチーズは使わないと美味しくならないし香りが立たないのだ。香り付けに上からバジルを振ってオーブンにGO!
 そして、待っている間にティアナちゃんと踊っておく……じゃなかった。サラダを作っておく。

「キュウリ!」

 と私が野菜を高々と上げればティアナちゃんも真似をして。

「トマト!」

 と続いてくれた。

「レタス!」
「アスパラ!」
「ロースハム!」

 それ以上はティアナちゃんも出てこないのか、あれ、あれ、と言っている……というか冷蔵庫にあるサラダに入れるような品はティアナちゃんの嫌いなセロリくらいである。

「おねえちゃんずるい!」
「ふへへ」

 ティアナちゃんに責められてしまった。
 いや、いけない。やはり何かテンションが変だ。変なのにこれが当たり前のような気もするし、困った。

「おねえちゃん?」

 ぼうっとしていたらしい。ティアナちゃんに不思議そうな顔をされた。ごめんね、と一言かけて次の料理に向かう。
 もう一品くらいはあったほうがいい。スープが良い。まったりしていて、甘めのミルクスープが。

   ◇

 遅いお昼の食事も終わり、ティーダはティアナちゃんのお勉強を見てあげている。
 ここのところえらく忙しかっただけに教えるティーダの顔もどこか嬉しそうだ。
 ティアナちゃんが「ここは?」と見上げてティーダに聞くと、ティーダは「そこはこういう風に考えるとどうかな」とティアナちゃんに考えさせる。教えられた方だって頭が良い。少し考えると顔を明るくして答えを書き込む。
 その姿はまるで兄と妹というより父と娘のようで……それをテーブルでニコニコ眺めている私はじゃあ母親なのだろうか? お母さんみたいに思ってくれているのかな。何となく駆け寄ってその事を聞いてみたい衝動がむくりと持ち上がって、慌てて首を振った。

「少し散歩してくるね」

 本当に流されそうだ。私はそう声をかけていそいそと支度をはじめる。

「ティーノ、安静にしてろって……」
「大丈夫、大丈夫」

 ティーダがそう声をかけてくるけど、私は私で頭を冷やしたいのだ。うん。窓から外を見れば冬空が広がっている。頭を冷やすには丁度いいだろう。しかし低い声聞くだけでもこうじーんと来る、どうしたもんかこれ。
 ぼんやりした頭のまま、街に出た。
 デパートに入り、ふらふらと眺める。中に入っているテナントは多種多様で見ているだけでも面白い。
 何となく玄関の飾り用にガラス細工の花瓶を購入、もののついでに雑誌コーナーを眺めているとふっと目に止まったものがあった。

「……夜だけに使える秘密の魔法100選」

 20代前半をターゲットにしているのだろうその女性誌を無言でぱらぱらと捲る。

「あ、ああ魔法ね。うん魔法ね」

 魔法といっても載っていたのは別に魔導師の使う魔法というわけじゃなく……まあその、ごにょごにょなやり方とか、その気にさせるやり方とか。ムード作りのやり方とか……
 ……気付いたら既にもう良い時間だった。何をやってるんだか……帰らないと。
 帰り際、先程の雑誌で載っていた店を見つけた。
 いや、なんで気になっているのか、スルーである。スルー。
 本当に……早くこの薬物代謝されないものだろうか。

「ただいまー」

 と帰ってみると珍しい、気を使ってくれたのかティーダが夕飯の支度をしてくれていた。

「あ、用意してくれてたんだ。へええ、ほおお」

 なんてちょっとわざとらしくキッチンの後ろから覗きこむ。
 腰にしがみつかれてちょっと困惑げなティーダだった。
 そんな様子を見ただけで嬉しくなってしまい、翼がぴこぴこ動く。見えないけども。

 ティーダの作った夕食を頂いた。
 切り方は不器用だけどほっとする味のシチューだ。
 何となく心が温かくなる。

「おねえちゃん、何か変だよ?」

 食事中にこにこしてたらティアナちゃんに心配されてしまった。
 その口元についたシチューを丁寧にぬぐい取る。

「うん、今ちょっと変なんだよ、ごめんねー、ちょっとお酒に酔っちゃってるようなものだと思ってね」
「お酒はよくないよ」

 多分学校で教えられたのだろう、飲んじゃ駄目、と説教されてしまった。ミッドでは多様な世界から人が来る都合上、飲酒や喫煙の年齢制限などは設けられてはいないけど、こうやって教育しているのだね。
 うんうん、その通りだった。わりと私はその手の常習犯でもあったりするのだけど。

   ◇

 相変わらず妙なテンションは自覚している、もっともティアナちゃん相手には普通に対応できるようだった。普通に対応できてると思いたい。
 時間も時間になってしまったので、ティアナちゃんと一緒にベッドに横になり、眠りにつくまで思い出した童話でも寝物語に聞かせる。
 それは年をとったりした動物たちが人間の元を離れて、協力しながら、知恵と機転で居場所を作るお話。
 私もどこかで読んだのだろう、何となく覚えていた童話だった。
 動物たちが盗賊を追い払ったところまで話したところで、すでにティアナちゃんは夢の中だった。かなり伸びた髪が口に入ってもごもごしてしまっている、起こさないようにそっと髪を引き抜いた。

「お休みなさい」

 口の中でそっとつぶやき、ゆっくり布団を出る。
 リビングに戻るとティーダが本を読んで寛いでいた。
 私を見ると本を置き、言った。

「だいぶ落ち着いた様子に見えるけど、自分ではどう?」

 何の事だろうか……ああ、媚薬っぽい成分回っているのだった。
 お湯を火にかけておく。

「んー、正直よく判らないんだけど。ティアナちゃん寝かしつけてたら落ち着いてきたような」
「うん、顔が赤くなったりとかはしなくなったみたいだね」

 そういえばこうしていても心臓は落ち着いている。しばらく静かな沈黙が流れた。
 ……と、お湯が良い温度になった。茶葉を蒸らし、程よい加減になったらお湯を注ぐ。
 お茶が出るのを待っている間、鼻歌を歌いながらカーテンを指で動かした。外の寒さで窓が盛大に曇っている。何となく指で絵を描く。へのへのもへじと。

「はい、お茶。ミルクたっぷりで」
「うん、ありがとう」

 ティーダの前に置く。
 私も隣に座った。室内は暖色の明かりで統一してある。そんなぽかぽかするような色合いに染められた横顔ってのもまた乙なもので。
 時間がゆるやかに過ぎた。

「……あの、ティーノ」
「ん?」
「なんでそんなぴったりくっついているんだい?」
「……んー」

 何でだろうか。よく判らない。
 案外、落ち着いたんじゃなくて飲まれかけているのかもしれない。ただ……何だかもう違和感も感じることができなくなってきてて。それでもいいやって。

「んー、じゃなくて……」
「……うん、ごめん」

 困らせてしまったようだった。そんなつもりはないのに。

「その……シャワーでも浴びて、今日は寝ようと思うよ。疲れを取らないとね」
「あ……」

 離れていってしまった。
「こいつ……どうすりゃいいんだろうか」という困り顔をされた事が思ったよりきつい。何だか心に重くのしかかってる。
 ええと、上手く頭が回らない。どうすれば、どうすれば……

「そうだ!」

 思い出した。アドニアの経験、正直思い出したくもない記憶だったけど、何が役に立つか判らない。
 他に思いつかないし……ティーダになら。ん? 望むところなんだろうか。まあ、いいか。
 ちょっと寒いけど、厚着をして家を出る。行く先は先程見つけた店。いろいろ怪しいものを取り扱っているらしい店だった。

   ◇

 赤ら顔のおじさんに変な目で見られながらも買ってきたそれをひとまず自分の部屋に置いておく。
 外に出ている間にティーダはお風呂から上がったようで、交代するように私が入る。
 体中を念入りに洗った。いつもは面倒臭がってシャワーで済ませてしまう背中の羽根もちゃんと泡立てたシャンプーで洗い、椿油を少し馴染ませておいた。髪も少し切って整えてみたりする。鏡に映る姿は……うん。自分じゃよく判らないけど、多分良いんじゃないだろうか。細いあごにアーモンド型の目、プラチナの髪に真っ白い肌。全体的に白い感じがするけど、暖まっている今はピンク色とも言える色になっている。背は小さいけど、胸はそれなりにあるし、腰回りは幼児体型から遠ざかりつつあるし……足だって細くてすらっとしてる。あ、爪も切っておかないと。

 なんだかんだと時間をとられてしまって、バスルームを出たのはもう深夜と言ってもいい時間だった。
 自分の部屋で、買ってきたそれを見る。

「なんだか、おかしいような気も……でも、でも他に私にはないしなー」

 そうつぶやいて、かつては馴染みだったそれを着用する。
 それはかつて──アドニアの時と違って、どこか嬉しいようなもどかしいような。不思議な気分だった。
 ティーダは時間も時間だからか、もう自室に行っているようだった。丁度良い時間だったのかもしれない。
 私は湯上がりでほかほかしている体に大きなタオルケットを被った。この後に及んで恥ずかしさをまだ感じてるのは何なのか。湯上がりのせいだけでなく顔が火照る。
 がちゃりと──
 ドアを開ける音がやけに大きく響いた気がした。
 部屋に入るとティーダはベッドに寝転がりながら、サイドスタンドの明かりで本を読んでいる。

「ティーダ……」

 私がそっと呼びかけるとこちらに気付いたようだった。かなり驚いた表情をする。

「ティーノ? ええと……なんだいその格好は……」
「ん……その、ね」

 私は口ごもりながら、のそのそと近づいた。
 さすがに動悸が……呼吸も早くなっているみたいだ。気付かれないといいけど。
 私は何となくうつむいたまま、そのままベッドの上に上がった。ティーダに被さるように座る。

「ティーダ」

 熱に浮かされた気分だ。でもそれが悪くないから困ってしまう。
 衣擦れの音が耳につく。私が羽織っていたタオルケットをはだけた。裸の上半身が露わになる。

「う」

 と、ティーダが息を飲んだ。
 私は、自分が付けている首輪から伸びた鎖を両手で……捧げるようにティーダの前にそっと差し出した。
 ちゃら、と音がなる。

「な……な、まっ……ちょっと……ティ、ティーノ?」

 慌てるティーダの手にそれを手渡し、包み込むように握らせる。
 なんだかやっと繋がれたような気分がした。
 そうだ、と思いついてあの呼び方もしてみる。

「ごしゅじんさま……」

 呼んでみると悪くない。あの男とは本当に大違いだった。
 口の中でもごもごと転がすように、二度、三度つぶやいてみる。
 ティーダは固まってしまっていた。思わず首をかしげる。

「こういうのは……駄目……ですか」

 我ながらとても不安げな声だった。

「いや、なんだ、駄目とかじゃなくて……何で……というか嬉しい、嬉しいんだけどね、いきなりこういうのはハードルが高いというか」

 そっか、嬉しいって言ってくれた。ならもっと……
 媚びるなんて、良い意味で使われないけど……全力で媚びるようにしよう。外からどう見られるかなんて知らない。私があなたに気に入られるように、あなたが私に飽きないように。
 手をとって、頬をすりつける。安堵が体を包んだ。

「ティーダ……ごしゅじんさま。ご奉仕……させてください」

 私は体を覆っていた残りのタオルケットから抜け出るように、上半身を起こし、身を固めている様子のティーダに静かに覆いかぶさった。翼をティーダの後ろに回し、ふんわりと包み込むようにする、クッションになるように、できるだけ居心地が良いように。
 額、頬、首筋……ゆっくり、ゆっくりとキスをしていく。

「……あ」

 思わず小さく声がでてしまった。反応してくれたようだった。すごく嬉しい。

「とても元気」

 それを右手で撫で上げる。
 ティーダはびくりと背筋が少し反り返った。

「だ……駄目だよ、ティーノ、今の……君は」

 苦しそうな顔をして言う。そんな苦しい顔は見たくないのに。
 だから私はその口を人差し指で塞ぐ。

「うん……媚薬。でもいい、ティーダならいい」

 ティーダがごくりと唾を飲む音が私にまで聞こえた。

「乱暴にしてもいい、どんなことをしてもいい。私は……」

 鎖をちゃらりと鳴らす。
 さすがに恥ずかしさに耐え難くなってきて、顔が見えないようにティーダの胸に抱きつくようにして囁いた。

「私はあなたの──」

 ティーダは深く息を吸い込んだ。

「……ティーノ、言い訳はしない」

 どこか覚悟を決めたような声音で言った。強く、痛みさえ感じるほどに抱きすくめられ、今度は私の耳元で──

「頂くよ」

 と囁かれた。その低い声を聞いた瞬間、ぞくぞくとした感覚が全身を包む。体の力が抜ける。

 私はふにゃけた腕に力を込めて体を少し起こす。ティーダの目を見て頷いた。

「ごしゅんじんさま、はい。どうぞ──」

 と言いかけたところで、唐突に……唐突に意識が……まとまりを取り戻して。

「あ……」

 正気なんていう毒が広がる。戻ってしまう。
 項垂れて黙りこんだ私を不思議に思ったのか、ティーダが訝しげに私の名前を呼んだ。
 私は一瞬びくりと震えた、感情を持て余し、どうすればいいのかも判らなくなり──

「記憶を……失ええええいッ!!」

 涙を流しながら渾身のヘッドバッドをティーダに見舞い、ティーダはきゅう、とばかりに気を失った。

「わわわ、私は、私は、何を何を何を言いかけて!? 私はあなたの──なんて、うわあああああああ! 死ねる恥ずかしい駄目だもう顔出せない話せないよ!」

 転げ回りたいところだったけど下半身がずーんと動かない。力が抜けすぎている。ああもうどうしろと。

「ううう、なんかお尻もべちゃべちゃしてるし、お漏らしか、お漏らしなのか!?」

 いや、判ってる、判っているのだ。現実逃避したいだけで。これがお小水なんぞではないことはよく理解してるのだ。
 しばらくして、私はひぐひぐと泣きじゃくりながらベッドのシーツと……ティーダのパジャマも交換した。
 お風呂場で洗濯して、夜だから乾きにくいだろうけど干しておく。
 そこまで済むと、ティーダのベッドサイドの前でペンを動かす。

『迷惑をかけてしまって本当にごめん、明日まで休暇と聞いているので少し頭を冷やしに山に行ってきます ティーノ』

 そんな書き置きを残し、私は夜の闇に全力で飛び出した。
 ランスター家の鍵締めを忘れ、一度引き返し、再び全力で走る。いろいろ格好がついていない事甚だしいものがあった。

   ◇

 山を駆ける。
 すっかり葉も落ちた木々の合間をくぐり抜け、絡んだ蔦を足場に伝い、ミッドにも生息している木の上のお猿さんを時には驚かせ、慌てて逃げる狐と併走し、お腹がすいているのか、襲ってきた熊を跳び箱のように手を突き、飛び越える。
 小川の音と、水の香りを感じて木の上から飛び降りた。
 川面に映った私の影に驚いて魚たちが逃げ散って行く。
 手を入れると思ったより温かかった。どこか近いところで温かい湧き水でも吹き出しているのかもしれない。
 水をすくって顔を洗う。
 冷たい風であっという間に冷えるのを感じた。走りっぱなしで火照った今はそれが丁度気持ち良い。
 そのままの姿勢で私は盛大にため息を吐いた。
 はああ、と声まで漏れるようなため息は初めてかもしれない。
 やってしまった感がものすごい。別の意味では未だやってないのだけど。
 ちゃら、と音がする。視線を下にやると細い鎖がおへそくらいまで垂れ下がっているのが見えた。

「そういえば……付けたままで来ちゃったのか」

 本革の艶光りする首輪をもそもそとした動きで外す。
 外したモノを束の間眺め……いっそ飛んでけ! とばかりに振りかぶった。
 その姿勢で硬直する。
 昨夜の光景が浮かんできてしまった。同時に感情も。

「ご……ごしゅじんさまー……とか」

 いやいや、いやいやいや。何を思いだしているのか。

「……なんなんだ私、ありえん」

 投げ捨てようとして、思いとどまり、投げ捨てようとして、思いとどまり……
 結局捨てるに捨てられず懐にしまい込んでしまう。
 本当に、本当に何をやっているのだろう私は。
 辺りを見回す。水温の高い川の付近だからか、季節としては珍しい霧が出てきていた。厚着はしてきたもののさすがに寒さを感じてぶるっと震える。
 西部であるのは間違いないと思うのだけど……真っ暗な中、文字通り暴走していたので、方向とか把握してない。

「デバイスは……」

 そういえばランスター家に置きっぱなしだったかもしれない。
 何とも情けない気分になり、再びため息を吐いた。突然の呼び出しだって来る事もあるってのに。

「局員失格だあ」

 私はそう投げ捨てるように言い放ち、枯れた木にもたれかかるようにして、草むらに腰を降ろした。
 いつかどこかで歌った事のあるような歌を口ずさむ。何かを誤魔化すかのように次々と。
 ゆったりと、ゆったりと日が昇り、霧もだんだん薄らいでいく。
 さすがに落ち着いてきた。
 戻ってどんな言い訳すればいいのか……それだけが頭痛の種だけど。このまま家出してしまうわけにもいかない。
 さしあたって問題は一つ。
 左を見れば森だ。右を見れば森だ。目の前の川の向こうもまた森である。

「さて、どうやって戻ろうか」

 寒さに負けず元気に飛んでいるカラスが、そんな私を馬鹿にするように一声鳴いた。

   ◇

 山を下りてみれば人里もあっさり見つかり、ヒッチハイクをしながら帰り着く。運送のおじさん、その節はありがとう。
 昼過ぎにはランスター家の玄関についていたのだけど……私はなかなか扉が開けられなかった。
 いや、いつまでこうしていても仕方がない。フッと息を吸い、気合いを溜める。
 緊張のあまり、ちょっと震えてしまっている手でドアを開けようと手を伸ばした時──

「……え?」
「ひひゃあっ」

 突然ドアが開いてティーダと鉢合わせ、私は驚きのあまり変な声が出てしまった。
 ティーダもまた驚いた様子で固まっている。私は私でどう話しだせば良いのか判らず、意味もなく、右を見て左を見て……ああ、こういうのをキョドってるって言うのだろうな、なんて頭の片隅で自分にツッコんだりしている。

「その、ティーノ……」
「ええとね、ティーダ……」

 被った。
 再び一秒ほど停止。
 そちらが先にどうぞ、いえいえそちらこそ、と譲り合う事数度。
 きりがない、とティーダが困り顔で頭を掻いた。

「その、なんだ、ティーノ。昨日の事は媚薬の効果が大きかったんだろうからさ、こんな事で気まずくなるのも嫌だし……そう、日本語で確か『海に流す』ってことわざがあったよね、それでいこう」
「……海って拡散でもする気?」

 水に流してほしいものだった。こんな話を拡散するとかとんだ鬼畜なのである。
 ティーダは、そういえば水だった、とわざとらしく肩をすくめる。
 どう言えばいいのか、悩みながら来た私としては拍子抜けというか何というか……
 ため息を一つ吐く、あまりため息を吐くと幸せが逃げてしまうのに。
 なんだかどっと疲れてしまった。
 とはいえ、水に流してくれるというならありがたいのだけど。
 家に上がろうとすると、ティーダが手を私の前につきだした。

「……なに?」
「お手」

 私は無表情にその手と、それをつきだしているティーダを見やった。
 にやにやしている。これ以上なくにやにやしている。素知らぬ体で、はてと首をひねった。
 ティーダはからかうように、く・び・わと声に出さず口を動かした。
 なるほど……なるほど。私はにこりと笑いかける。

「わんわんっ」

 我ながら可愛い声である。同時にお望み通り、お手をしてあげた──力一杯。
 手と手を打ったものとは思えぬ音が響き渡る。ティーダは差し出した手をそのままにずるずるとうずくまった。

「痛い……この少年の遊び心が判らないなんて、ティーノは面白みがないよ……」
「面白み云々の前に、水に流すって言った口でそれ?」
「……なんてことだ、寒空の中に居たせいかティーノの目が冷たい。かくも自然とは厳しいものか」

 芝居がかった仕草で顔を手で覆い嘆いた。
 態度が冷たいのは誰のせいか? 何でこういう時にティーダは真面目に話さないのか。
 まったく、とまたもやため息を吐き、お風呂場に向かった。寒空の下にいたのは確かだし、ちょっと暖まりたいのだ。
 本当にこいつは……時々こう茶化すクセが無ければ普通の二枚目なのにもったいないものだった。

   ◇

 ここのところ、本局に居るよりも任務先に出張っている事の方が長くなっている。
 単純に時間のかかる任務が多くなっているだけなのだけど、現場に行ってみれば解決済みであったり、逆に先発しているはずの部隊がまるで見あたらなかったり。そうした混乱で尚更時間がかかってしまうという事も多い。何だかなあと思いつつも、そんな現場での調整もまたうちの部隊の役割ではあった。本当に名ばかり特務、雑用部隊である。

「しっかし、あちこちの次元世界、行ったり来たりしてると季節感が……」

 帰還中、航行船の中でティーダにぼやく。ぼやいたところでどうしようもないのではあるけど。

「はは、さっきまでの世界は暑かったしね。ミッドに戻れば寒いだろうけど、ああ休暇の時にティアナに新しいコートでも買ってあげれば良かったなあ」

 思い出したように腕組みするティーダ。
 だねー、と私も同意しておく。年々背が高くなるので、去年のコートはもう着られないだろうし。
 今からでも遅くないかな、とティーダが端末でカタログを見だしたので、私もその後ろから覗きこんだ。

「……いやいや、ティアナちゃんに買ってあげるのにミリタリーなコートを見てどうするのさ」
「ティアナなら理解してくれる……はず」
「いや、やめようよ、ただでさえ最近ティーダの雑誌見て影響されてるんだからさ」

 以前ティーダが買ってあげたおもちゃの拳銃で近所の男の子を追いかけ回し、泣かせてしまった事もある。
 もっともあれは野良の子猫をいじめている男の子を叱ろうという事だったらしいのだけど、お互い言いあってるうちにエスカレートしてしまったらしい。
 ティーダは、将来が楽しみな事だとか笑っていたけども……
 教育って何とも難しい。

 本局に帰還すると、寝耳に水の情報が飛び込んできた。
 ロストロギア「闇の書」
 そんなモノが地球にある可能性が高いとか。
 少し前に噂になっていた管理外世界のモンスターハントの一件、それも絡んでいたのだという。
 私はこれを聞いた時、苦虫を噛みつぶしたような顔になっていただろう。
 またしても……とでも言うべきだろうか、本当に第97管理外世界は騒動に事欠かない。
 何でもなのはちゃんが交戦の結果負傷、さらにそれを助けに入ったフェイトちゃんもまた負傷してしまい、一度は本局に運ばれて検査を受けたのだとか。
 負傷……といってもリンカーコアへの負荷だそうで、命に別状はないという事だけど。
 ……うん、いろいろ思う事はある。中でも疑問だったのは、なんで私が本局に戻ってくるまで一片の情報さえ入らなかったのかということだった。
 それについては任務報告の間も片時も手を休めず仕事をこなしているロウラン提督がこっそり教えてくれたのだが。
 何でも、少し前から散発的に発生していた情報の誤差……そう思われていたものが一気に拡大。新手の攻撃プログラムだったらしく情報部が現在地獄絵図なんだとか。それは情報部だけに留まらず、管理局の後方全体に波及、生活レベルに影響を及ぼすほどではないものの、末端の情報網があちこちで寸断されているような状況らしい。
 コンソールを一つ強く打つ。提督はため息を一つ吐くと、部下を呼び出した。

「……リンディが来た時用のスペシャルティを一つ運んできて頂戴。糖分、糖分が頭に足りないから」

 あれか……あれを嗜むのか。
 過去二人の提督の間で無意味に競い合ったと言われる糖度耐久決戦。その最後の一品、甘き氷山と呼ばれる紅茶、見ているだけで胸焼けを起こすというあの伝説の……
 私は戦慄を隠せなかった。
 提督はともかく、と前置きして私とティーダに向き直る。

「後でちゃんとした形の書類は送っておくけど、内示として聞いておいて。あなたたち二人はアースラチームに合流、闇の書の件に当たってほしいの」

 これも言っておくべきか、と少し考え込むようにつぶやいた。

「資料にも載っている話なんだけど、リンディは旦那さんのクライド提督を以前起きた闇の書事件の折に亡くしているのよ。大丈夫だとは思うのだけど……引き際だけは見誤らないように。その為の万が一の保険とも考えておいて頂戴」

 お目付役……といったところなのだろうか。
 プライベートな付き合いもある私達は確かに丁度良いポジションなのかもしれない。

「本当は追加で一個中隊くらいどーんと送ってやりたいのだけどね」

 そう言ってまた再度ため息をつく。

「情報の制御システムが駄目になっているような現状だと……どこも余裕がなくなっちゃって。正直、先発で送っておいた武装隊の維持が精一杯。それだったら半端な寄せ集めを急遽送り込むより、二人だけでも気心が知れてて、ある程度の力を有する魔導師であるあなたたちが適任という判断よ。第122管理世界での、組織から切り離された状態で成果を上げた事も含めてね」

 あの世界での事は失態だったと思ったのだけど、そんな評価をされていたらしい。
 特務小隊は隊長職をラグーザが臨時に任命され、今回の状況が終了するまで運用部が預かる事になっていた。何でも麻痺している末端への情報伝達に使われるのだそうで……うん。出立する前に栄養剤を前もって差し入れしていった方が良いかもしれない。あれはこき使う気まんまんの目である。

 ともかく私としては個人的にも付き合いのある人達ばかりなのだ。一も二もなく了解し、手続きが完了次第アースラに向かう事となった。

「ロストロギア……か」

 何となくティーダが浮かない顔をしている。
 私は渡された資料を閲覧しながら、生返事で答えた。

「そうだね、どうかした?」
「前回の任務……122管理世界の前例があるからなあ。またまた厄介な事にならないといいけど」
「……えーと」
「ティーノ?」

 私は無言でその資料をティーダに見せる。
 そこには現在判っている限りの闇の書の特性などの情報がまとめられていた。

「……アルカンシェルで消滅させても、一定期間をおいて再出現してしまう再生機能。一体一体がAA級魔導師以上の力を有する闇の書の騎士達。さらには勢力としては不明のままである仮面の男、暴走時の危険性、エトセトラ……」

 ティーダは両手を上げた。呆れたように言う。

「これはこれは……なるほどすでにして厄介だった。言い方を変えた方が良いみたいだ。これ以上厄介にならないといいね」

 私もまた肩をすくめる。ジンクスを信じるわけじゃないけど、言えば言うほど難解な事になりそうな気がした。

 向かう前にティアナちゃんに連絡をしておいたのだが。
 ──私はこの日ほど管理局に入ったのを後悔した事はなかったかもしれない。
 すごく寂しそうな目で言ったのだ。

「……また帰ってこれないの?」

 と。
 これには私も心中にざくりときた。聞いた事はある。仕事で忙しい親が言われるらしい。管理局でもままあることだ。これが悪化すると最終的には帰っても「いらっしゃい」と言われる事になってしまうのだとか……
 隣でティーダが固まっていた。私は何とか表面だけは取り繕い、通信を終える事ができたのだが……

「く、くく」

 隣から不気味な笑い声が聞こえた。
 ティーノ、と一声かけられ、私は若干の戦慄と共にゆっくり振り向く。

「いいかいティーノ、闇の書だろうが何だろうが速攻で終わらせよう、そして休暇を取るんだ。ティアナにこれ以上寂しい思いをさせちゃいけない。いっそこの後は小隊内のシフトも変更して、そう、そうだね、ラグーザには頑張ってもらおうか」

 そこには底光りする目をするティーダが居た。本人の知らぬところで割を食う事が決定してしまったラグーザには申し訳ない。心の中で線香を上げさせてもらった。
 ティーダは再び端末に映し出される今回の事件に関する資料を見る。
 芝居がかった仕草で手を突き出した。

「待っているが良い、闇の書の騎士達、有象無象の区別なく、僕の魔弾は逃しはしない」

 私の右手が閃いた。
 ぱあん、と景気の良い音が通信室に鳴り響く。最近熟練度がさらに増した気がする。ツッコミだけ。
 本人はネタのつもりだろうけど、そういう台詞はやめてほしい。縁起でもないのだ。

   ◇

 闇の書の一件に当たっているアースラへの応援として合流し、早くも十日が経った。
 とっとと仕事終わらせて帰るぞ! という私達の意気込みとは裏腹に事件は全く解決の目処が立っていない。
 勿論その間休んでいたわけではなく、散発的に出現する闇の書の騎士達の反応を見つけ次第急行、幾度か戦うような事もあったのだが……なのはちゃんとフェイトちゃんが協力員として、なぜかパワーアップもして戦線に復帰。その時を境として敵さんも方針を変えたらしく、すぐに撤退してしまうようになった。

 また、ユーノ君が私達とはすれ違うような形で本局に行ったらしい。
 無限書庫の探索という事だったのだが、まさか本当に新情報を掘り当ててくるとは思っていなかったとか。クロノが驚いていた。
 その情報によると、闇の書というものも本来は夜天の書という古代の資料備蓄用デバイスだったものが、改編され、改編され、現在のような形になっているのだとか。
 私もまた身のうちに亡霊さんが未だ居るわけだけど……魔法による人格プログラムである亡霊さんの在り方と防衛プログラム人格である騎士達は似ているのかもしれない。ラエル種もまた古代からの生き残り種族だし、複雑な思いを感じなくもない。
 首を振る。まばたきを二度、三度。
 追っても追っても追いつかないような感じで精神的にも疲労してきているようだ。思考も散漫になっているようだった。

 その日の日本はクリスマス。ミッドでは当然この行事はないのだけど、そのお祭りムードには馴染みのないエイミィやティーダもどこかその様子を見て感心していた。
 いつしかティアナちゃんもこの時期に連れてきて、キラキラ光る夜景を見ながらケーキでも頬張らせてあげたいものである。
 もちろんこっそりとプレゼントも用意するのは忘れない。熱を受けてくるくる回るキャンドルスタンド、そのほのかな灯りに照らされながらおもむろにプレゼントを手渡すのだ。きっと喜ぶ。ティーダがちょっと期待するような目で見るけど、私はそ知らぬ振りをする。枕元に置いてあるから後で喜ぶと良いのだ。そして雪化粧されたクリスマスツリーを窓の外に眺めながら、ちょっとその日ばかりは大目に見て欲しいホットワインで乾杯をする。ほっと一息吐いた私は、気分良く、クリスマスにはお決まり、Silent Nightを囁くように歌う。

 ──なんて現実逃避をしていた。
 現実は非情だ。
 クリスマスはクリスマスでも私の目に映るのは煙るようにどんよりとした夜の空。
 体は痺れたように動かず、かろうじて顔を動かすと、二人の姿が目に入る。

「なん……で」

 呂律の回らない口で独り言を絞り出した。
 何度まばたきをしても、その姿を変えたりはしなかった。
 グレアム提督、それにプレシア・テスタロッサ。二人のS級……一人に至ってはオーバーSの魔導師。
 全く感知のできなかった不意打ちに、私達は為す術もなかった。私も含め、ティーダ、クロノ、なのはちゃん、フェイトちゃんもまた倒れ伏している。
 闇の書……いや夜天の書の意志と呼んだ方がいいのだろうか、それが表に出てきている八神はやてを複雑な封印の術式が囲んでいた。

「爺さん……なんで」

 私は多分、身体のつくりが違うせいだろう。回復が早かったようだ。まだ痺れも残るものの、ゆっくり立ち上がり、よろけながら向かい合った。
 白いものが視界に映る。翼にかけている常用の幻術もまた解けてしまったらしい。
 グレアムの爺さんは何とも言い難い感情が揺れている目で私を見た。

「よもや、ここまで来るとはな。いや、お前の関わりを思えば予想しておくべきだったか」

 しかし、と言って封印の術式に手を向ける。

「情にかまけ、闇の書を『何とか出来るかもしれない』というリスクの上に投げ出す事は私には出来ん」

 向けていた手を握りしめた。
 夜天の書の意志、その身を包む魔力の光がまるで拘束具のように巻き付く。街ではあれほどなのはちゃんやフェイトちゃん相手に暴れていたのに……眠ったように大人しくなってしまっている。

「くッ」

 私が飛びだそうとすると、バインドが身を縛る。見覚えのある構成、間違えようもない。アリアさんの魔法だった。
 さらにロッテさんが私に歩みより、無表情に。

「ごめんね」

 囁きと同時に重い衝撃、魔力を伴った掌底が腹部に叩き込まれた。
 力が、抜ける。

「過去の大戦にて廃棄されたロストナンバーの世界があらゆる世界から隔絶した形で存在している。三日後にその世界にて儀式魔法による闇の書の封印を行う。ティーノ、理解するのだ。これが最善手だと」

 へたりこみ、身動きの取れない私を一瞥し、三人は転移していった。

   ◇

「かあさん……」

 フェイトちゃんもまた意識を取り戻したようだった。
 提督とリーゼ姉妹が転移した後も、悠然とした様子で腕を組み、何か考えるように佇んでいたプレシア・テスタロッサはその目を向けた。

「フェイト、一度だけ言ってあげる。共に来なさい」
「……ッう」

 フェイトちゃんがびくりと震えるのが見える。

「夜天の書を解析すればその再生システム、さらには魂の情報化への道筋も開けるかもしれない。私はアリシアを……今度こそは成功してみせるわ」

 情念の篭もった声で言い、さあ、とフェイトちゃんを促す。

「……わ、私は、わたし……は」

 うつむき、震えた。涙がこぼれ、地面に染みを作る。
 その様子をじっと見たプレシア・テスタロッサは、そう、と感情のこもらぬ声で言う。

「涙……ね。そう、あなたはもう人形でもないのね」

 しばらくそのまま押し黙った。自嘲するかのようにくく、と笑いを漏らす。

「くだらないわ、くだらない。本当にね。ふふ……じゃあ、さようならね、私の子」

 そう言い残し、転移した。

「あ……かあ……さ」

 フェイトちゃんは何かを言いかけたが、張り詰めていたものが切れたのか、気を失ったようだった。 
 封時結界が解け、世界が色を取り戻す。
 雪が舞っている。

「こんな時……どうしたらいいのさ……」

 私の小さなつぶやきは誰に聞かれるでもなく、どんよりとした空に吸い込まれた。



[34349] 三章 九話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/09/05 03:24
 気がついた時、相変わらず整ってるくせに妙にしまりの無い顔が目の前にあった。
 どうも心配させてしまったようだ。そんな表情は似合わない。平気平気とでも笑い飛ばしてやりたかった。
 私は頑張って頬に力を入れる。笑みの形になったようだった。右手を持ち上げてみる。ゆっくりだが動くようだ。

「おはよ」

 若干ひきつった笑顔で寝起きの挨拶をしてみた。
 ティーダはそんな私をからかうでもなく、なぜか頭を撫でてくる。優しく。いたわるように。お前はどこのお父さんなのか。
 普段だったら振り払うのだけど、好きなようにさせておいた。
 私は再び目をつむった。思い出せば……重たい気分がのしかかる。何故、何故、という疑問ばかりが頭に浮かんだ。ぐるぐる回って答えが出てこない。
 はあ、と息が漏れる。
 なぐさめるようにティーダが私の肩を叩いた。二度、三度。ちょっと位置がずれてきた。

「……ティーダ、どさくさ紛れに胸揉むな」
「そこに山があるから人は登るのさ」
「その名言、使う場所が間違ってる、先人に謝れ、土下座して謝れ」

 
 私はティーダの腕を払ったその手を思い切り伸ばしてみる。どのくらい寝ていたのだろうか。
 上半身を起こすと、ずっと同じ姿勢だったらしい、背中に血が回ってびりびりとした痺れのようなものが走った。翼の方はちょっと感覚がない。体の下に敷きっぱなしだったのだ、それはもう痺れに痺れていた。

「アースラの医療スタッフの話だと重いダメージは受けてないらしいけど……大丈夫かい?」
「ん、私の身体のでたらめさはティーダも知っての通りだよ。寝込んじゃったのはロッテさんの一撃のせいだろうね」

 ベッドから下りて伸びをした。アースラの医務室なのだろうか、個室が用意されているとはなかなか贅沢な造りではある。
 医療スタッフの人に挨拶してから、コーヒーの一杯でも飲んで目を覚ますとしよう。何はともあれそうしよう。そう思ってドアを開けた時だった。
 隣の部屋で何かが崩れるような物音、それに慌てるような声が聞こえてきた。というかこの声は……

「なのはちゃん?」

 私は一瞬ティーダと目を合わせ、隣の部屋にノックをして入る。
 そこには半ば這いつくばりながらも立ち上がり、部屋を出ようとするフェイトちゃんと、それを懸命な表情で止めるなのはちゃんが居た。アルフもいるが、どうしたらいいか判らない様子でおろおろしている。

「フェイトちゃん、駄目だよ! フェイトちゃんが一番ダメージが大きかったって……先生が!」

 そんななのはちゃんの呼びかけも上の空で、フェイトちゃんはただ進もうとする。

「母さん……は、私を呼んでくれた。でも私は……私でいることを選んだんだ……だから、だから、母さんに見せなくちゃ」

 思い詰めた様子でそうつぶやいている。
 私もまた、これはどうしたものかと頭を悩ませた。とはいえ、私にできることなんてのは限られている。
 ティアナちゃんがぐずついた時のように、私はいつの間にか癖でかけていた幻術を解き、翼を広げ、フェイトちゃんをやんわり抱きしめた。ついでに羽根で包んでしまう。

「あ……え……? あれ、夢?」

 私はフェイトちゃんの頭をやーさしく撫でる。

「そうだよ、フェイトちゃん、これは夢。ふわふわした雲の中。今日は頑張ったね。だから少しだけ、少しだけ休もうね」

 ゆらゆらと揺すりながら囁くように言う。

「でも……でも……」

 言葉はでてこない様子だった、それでもなお休んではいけないとでも思い込んでいるかのように抗う。
 私はちょっとだけ考え、小さな声で歌い出した。

「Sleep then my princess, oh sleep──」

 モーツァルトの子守歌、実はモーツァルトの作った曲ではなかったらしいけど、とても良い子守歌である。
 何で私が覚えていたのかといえば、ティアナちゃんへの子守のためとしか言い様がない。
 ゆるやかに揺らしながら歌うにつれて段々抵抗も弱まる。
 目が、少しだけとろんとしてきた。

「……うん、少し……だけ」

 力を失ったように眠りについたフェイトちゃんを、しばらくそのまま揺らしながら、ささやくように歌を続ける。静かに歌い終わり、起こさないようにそっとベッドに寝かせた。

「ツバサお姉ちゃん……本当に翼生えちゃってる」

 なのはちゃんが目をまんまるにして驚いていた。

「あ……えーと、あはは、次元世界にはこういう種族も居るんだよ。ほらほらユーノ君もフェレットになれるでしょ?」

 もっともユーノ君の場合はそういう魔法なんだけども。

「いつかしてみせたジャックランタンじゃなくて残念だったけどね、オキュペテーとかそっち系ではあるんじゃないかな、ほれほれ」

 と、なのはちゃんの前に翼を見せびらかすように広げてみせた。
 ティーダが小声で「良いのかい?」と聞いてきたが……先の戦闘でアースラスタッフにはばっちり見られているだろうし、何が何でも押し隠すようなものでもない。私は頷く。

「ふわ、すごい、柔らかい」

 そう言ってなのはちゃんが私の羽根を撫でる。段々表情がうっとりしてきた。遠慮が無くなって、何だか……全力でモフってきている気が……なのはちゃんの手前何でもないようにしているが、かなりこそばゆい。力が抜けてしまいそうなこそばゆさである。そういえばエイミィなどには、これの付け根部分、一番弱いところなのだけど……そこをモフってアヘらせるのが好きとか、そんな事を言われた事もある。酷い友人を持ったものだ。

「ふむ……」

 ティーダがさりげに手を伸ばしてきたので躱した。残念そうな顔になったけど触れさせない。何か妙な予感がする。

   ◇

 アースラ内の休憩室は消沈していた。無理はない。管理局内でも有名人であり、長年にわたり一線で活躍し続け、信望も厚い。数々の大きな事件を解決させ、幾つもの次元世界を救ってきた。そんなグレアム提督が敵となり立ちはだかったのである。
 さらに言えば、私やティーダはその場に居なかったが、半年ほど前の事件においてアースラチームは直接プレシア・テスタロッサと対峙している。その時の経験を思い出す者もいるらしい、暗い表情になっていた。研究者としてだが、大魔導師とか呼ばれている人なのだ。当然ながらそちらも軽く見る事はできない。
 2人だけの出向組という事もあってか、私やティーダはちょっと変わった立ち位置に居る。そこからの意見も聞きたいのか早速ティーダが捕まって、あれやこれやと聞かれていた。
 薄情ではあるものの、コーヒーを頂いた私は沈んだその場の雰囲気から逃げるように離れた、廊下の広い部分に設置されているソファに腰掛ける。
 カップを傾け、一口。

「にが……」

 顔をしかめた。やっぱり自分やティーダが淹れたのとは違う。ミルクと砂糖を入れてくればよかった。
 もう一口すする。ため息が出た。私はアースラの清潔な天井を見るともなしに見ながら思い出す。

 一連の始まりは、闇の書の意志が顕現し、なのはちゃん、ユーノ君、それにフェイトちゃんとアルフ、その四人で対処しているという一報だった。
 クロノはちょっと前から不在だった。何かを掴んだようで、本局に行っているという。私達にそれを説明するときのエイミィの歯切れの悪さが少し気になってはいたが……
 ともあれ、その時点で他の世界を巡回していた私達は現場に急行した。
 まったくもって地球は騒動に恵まれている。闇の書の意志が顕現したという現場もまた地球だった。というかまたもや海鳴市である。街そのものは結界に閉ざされているものの、あまり外部からの干渉をはじき出すような性質ではないようで、私達は結界内に入る事に成功。闇の書の意志と拮抗状態にあった現場のチームに加勢することができた。ユーノ君が言うには、魔力防壁さえ薄く出来れば念話により中で眠る少女、書の主である八神はやてに働きかける事もできるという。
 闇の書の意志……本来は夜天の書の管制人格と呼ぶべきなのだろうけど、あまり攻撃的というわけでもないらしい。というか私と髪の色とか被っている。翼も被る、こっちは白であっちは黒だが。違うのは身長……ぬう、格好良い。いや、うん、どうでもいいことだ。ともかく、回りくどいやり方が求められるならティーダの独壇場である。なのはちゃんやフェイトちゃんのこれまでのデータを元に、こちらのチームの攻撃魔法の威力と闇の書の意志の防御パターンから計算し、常に魔力防壁を一定の薄さに保ち、さらに念話で呼びかけをする要員を確保できる状態を維持する、なんてアクロバットな状況を作る事に成功、呼びかけを続けていた時だった。

 閃光。

 一瞬気を失っていたのだと思う。気がついた時には資料でしか見たことのなかった、先の事件の首謀者であり、現在失踪中だったはずのプレシア・テスタロッサその人が悠然と佇んでいた。
 
「な……」

 と驚く暇もない。新たに転移の魔法陣が閃いたと思えば、そこにグレアム提督、リーゼ姉妹が相次いで現れる。
 ──プレシア・テスタロッサの側に。
 少し遅れ、疲弊した様子のクロノが転移してきた。

「……クロノ、この状況は一体?」

 と私が問いかけるも、クロノは何も答えてくれなかった。ただ厳しい目をしてグレアム提督を睨み付けている。
 グレアム提督はふむ、と顎を撫でながらクロノと私を順繰りに見やった。おもむろにニヤリと笑う。それはまさに映画の中の悪役さながらに。

「なあに、先のジュエルシードの一件より始まり、闇の書に関する事、全てが私の計画の上での事というわけだ、皆々、よく踊ってくれたものだよ、くく」
「な……」

 と絶句するティーダを横目に、私は半眼になって言う。

「……演劇好きのお爺さん、自分で気付いてる? 何か演じる時、緊張するのか右眉が上がってるの」

 グレアム提督は無言で顔に手をやった。

「父様、カマかけられてるよ……」

 ロッテさんが困り顔で袖を引いている。む、と一言唸った後、少し間を置き、何事もなかったかのように言い直した。

「冗談はともかくとして……闇の書の処置、それについては長年に渡り仕込みを済ませておいたのだよ」

 どういう事なのだろうか、冗談と言いつつもこれは案外……頭を悩ませるも、正直この爺さんの思考をなぞるのは厳しいものがある。
 ひとまず気になった事として、現在闇の書の意志、その中で眠っている形の八神はやてについてはどうするのか聞いてみると……先程から険しい視線で提督を見ているクロノが口を開いた。

「氷結の杖、デュランダル。凍結の魔力変換に最適化したデバイスだけど、その真価は魔力素の運動すらゼロに近づけてしまうことにある。しかし……」
「……うむ。闇の書ほどのものを押さえ込むには莫大な魔力を常時つぎ込む事が必要だ。仕掛けは考えてあるが、時間稼ぎにしかならんのは承知の上だよ。だが……ここで処置すればこの先数十年は闇の書による犠牲者はなくなる。その間に完璧な対処法を研究することもできよう」

 グレアム提督の言葉にクロノは顔をけわしくした。悲しいような、悔しいような、そんな顔だ。

「それは……それはしかしッ! 管理局としてはやってはいけない事だ、闇の書の処置にあたっては個人でやるべき事じゃない。何より……八神はやてという少女はただ犠牲になるだけじゃないか……もっと、手を尽くした上で判断する事だ」

 グレアム提督は楽しげに目を細める。微妙な変化なので、見慣れてないと判らないレベルだけど。

「まったく、父親譲りの正義心だ。そして私の忘れた熱がある。それでこそ、それでこそなのだよクロノ。我らの時代の傷は我らで始末をつけるとしよう」

 クロノは唇を噛む。杖をグレアム提督に向けた。

「僕は、あなたを止める。それが僕の思い描く局員の、執務官の在り方だ」
「そうか……よかろうよ、クロノ・ハラオウン。クライドの息子よ、全力で来ると良い」

 正直詳しい事は判らない。ただ、グレアム提督を止めないと、と思った。私も皆も初撃のダメージから回復し、クロノと共に戦おうと立ち上がる。
 と、そこで黙っていたプレシア・テスタロッサが退屈そうに髪を後ろに流し口を開いた。

「寸劇はそれでお終い? ならもういいわね。主張も結構だけど通せなければただの茶番よ」

 その言葉と同時に、巨大な魔法陣が展開された。
 私達の足元に。
 感知すらできなかった。いつの間に魔法を行使、いや、シールド……間に合わな──

   ◇

 コーヒーをすする。
 このやたら苦くてコーヒーというより黒くて苦い健康飲料みたいな代物も、冷めると若干飲みやすくなった。

「プレシアさんの言う通り……ってな感じになっちゃったな」

 しかし、私は自分の魔力への鋭敏さとか過信していたのだろうか。いや、今思い出せばグレアム提督が前に出て、その後ろにアリアさんとロッテさんが並んでいた。不自然なほど位置を崩さなかったのは……プレシア・テスタロッサが儀式魔法を用意中に三人で注意を引きつけ、同時に隠蔽を? いやあるいは──
 考えれば考えるほどドツボにはまる気がする。リーゼ姉妹もまた単独でクロノと真っ向勝負できるようなとんでも使い魔なのだ。何十年単位で戦い続けた経験なんてものがあるにしても、規格外の猫である。むしろもう妖怪猫又である。
 大体にして、去り際に言った言葉……儀式魔法を行う事や、場所まで明かしたのか、それも理解できない。まるで来いと言わんばかりの……
 罠にはめるくらいだったら、こんな半端なダメージで止めない。あの場でしっかりきっちりしばらく動けないだけのダメージを与えられたはずである。
 頭を悩ませてもまったく目的が見えてこなかった。

「ティーダさんよ。グレアム提督はどうしたいんだろうねえ」

 いつの間にか隣に立っている頭脳労働担当に聞いてみた。
 なぜか頭にぽんと手を置かれる。私が座っているせいで、なおさら良い高さになってしまっているのかもしれない。

「今の段階だとさすがに何とも言えないな。ただ、それをこれから話し合うみたいだよ。ミーティングルームに集合だってさ」

 ということらしい。私は残っているコーヒーを味を感じないように一気に飲み干して立ち上がる。

「……うぇ」

 格好つけたつもりが若干気持ち悪くなり、私はティーダの肩に手をかけぶら下がり、ため息をついた。

   ◇

  ミーティングは揉めに揉めた。
 謎めいたグレアム提督の言葉、記録を遡って以前からの情報を洗い出す事で目的を計ろうともした。
 また、プレシア・テスタロッサのかつての失踪についてもグレアム提督が関与しているものと見て、当時の収監先の人員などにも考察を向ける。
 本当なら査察官と連携し、洗い出すのがこういう場合のやり方だったのだが、情報網が切れ切れになっているのはアースラもまた例外ではなかった。時間的な猶予を考えれば考察以上の事ができないのだ。
 また、これも理解できない謎めいた事だったが、クロノも言っていた氷結の杖デュランダル。その設計データがアースラ内にも残されていた。信じられない片手落ちである。こんなミスは有り得ない。それ自体が何かの策かとも思えたが、データそのものは弄られた様子もなく、そこから使用する儀式魔法の割り出しにも成功した。
 といっても、正確に使用される魔法が判ったと言うわけではなく、あくまで傾向が判った程度だったのだが……それにしても腑に落ちない。
 どうも下手をすると次元震が起こりかねない程の魔力を集中させ、あえて世界の魔力バランスを崩してしまうような儀式魔法らしい。その過程で確かに巨大な魔力の流れはできる。ただし、それを安定した魔力の形で供給できるかというとかなり疑問だった。いや、それを為し得る人物が一人だけ居る。

「プレシア・テスタロッサはかつて中央技術開発局の局長も務めている。次元航行エネルギーの開発に携わった事もあり、今回の儀式魔法についても技術的な面については一役買っていると見た方がいい。そして制御術式を展開するならば、ここ」

 と、クロノがあるポイントを指し示す。逆算された魔法の基点だった。
 ともかく、推察、考察はほどほどに置いておき、目的をギル・グレアム提督、プレシア・テスタロッサの撃破、確保に焦点を絞り、対策を練ることとなる。

「グレアム提督のような歴戦の相手に小手先の技は通用しない。かえって逆手に取られて痛い目を見るだけだろう。基本にして単純。強い方を抑え、弱い方を集中して叩く」

 そしてクロノはこの期においても静かに、普段とまるで変わらず甘いお茶を頂く艦長、自らの母親を見た。

「グレアム提督を抑える役、頼めますか」
「ええ」

 予想していたかのように頷くリンディさん。
 部屋に緊張が走った。艦長自ら……とはいえ、考えてみれば他に単独でグレアム提督を抑えられる人もいない。魔導師として並び立てるのがこの人しかいないのだ。
 そしてある程度以上の力を持つ少数精鋭で、プレシア・テスタロッサに強襲をかけ、同時に儀式魔法のために作られているだろう魔法の基点部分を制圧。確かに単純な形である。本当に万が一のためにアースラも該当世界の外縁部に配置、臨時の際のアルカンシェル発射代行権限をエイミィが渡された。
 もちろん応援要請も本局に行っているのだが色良い返事は貰えていない。というより、Sランク魔導師を相手にして通用する人材は既に別の方面でも忙しいのだった。情報の攪乱による効果もあって、人手を割けるような状況ではないとの事。現状戦力で何とかするほかなさそうだった。
 私は今回、なのはちゃん、ユーノ君と共に後方からの支援組である。ティーダが指揮を取る武装隊の中でも攻撃に偏っている魔導師2名が中距離からの攻撃、クロノとアルフが前衛での防御と攻撃。そんな、どちらかというと攻撃に寄っているだろう組み合わせで当たる事になった。私がなのはちゃんと一緒に居るのには理由もあるのだけど、これもまたぶっつけ本番にならざるを得ないようだ。

「待って、ください」

 そう言ってミーティングルームに入って来たのはフェイトちゃんだった。後ろにアルフも続いているが、心配そうな表情だ。

「私も、加えてほしい……です」

 まだダメージが残っているのかもしれない。余裕の無さそうな顔で言う。
 クロノが眉根を寄せた。険しい顔になる。

「しかし君は……回復しきっていないし、その……プレシア・テスタロッサには相対しにくいものがあるだろう。僕としては、ゆっくり休んでもらって……いや、なんだ、その、悲しい顔をしないでくれ、君の実力は認めている」

 ……お兄ちゃんであった。あわあわしてる様子がお兄ちゃんのそれである。戦力としては認めていてもできれば前に出したくない心情がとても現れていた。
 そんなニヤニヤを隠せない一幕もあったものの、フェイトちゃんもまたティーダと共に中距離からの攻撃にあたる事となった。

   ◇

 編成が決まった時点ですでに時間は一日が経過、その後はアースラの訓練室にて連携のシミュレートを行う。時間的な余裕もないのであまり徹底的にはできないものの、多少は形になってきた。反省点などを含めてティーダとクロノが小難しい話を展開させ、私の目も点になっていた時である。

「……ん?」

 艦内が妙に騒がしい。
 私がその騒がしい方向、多分休憩室とかの方だと思うのだけど。そこに行こうかと歩き出すと、向こうからエイミィが小走りに近づいてきた。なんだか困った顔をしている。

「待った待った、休憩室はちょっと迂回して……休むなら個室の方で休んでほしいの」

 私ははて、と首をかしげる。
 エイミィは困った顔をしたままため息をついた。

「誰がリークしたか判らないけど、マスコミに知れ渡っちゃって。闇の書の一件、それにグレアム提督の離反、プレシア・テスタロッサの事も……大体が知れ渡っちゃってるのよ」
「……あらまあ、驚いた。なんてことかしら。でも本当にそりゃあない、そりゃないよエイミィさん」
「そうですわよねティーノさん、おほほ……本当にそりゃないわよ」

 二人してがっくりとため息を吐く。いかん、幸福がものすごいスピードで逃げていく。
 今の段階で報道にのってしまうとか……かなり微妙な問題も含まれているので、こういった場合本局の方からも報道規制がかかるはず……そこに手が回らないくらいにごたごたしていたのだろうか?
 そろそろと近づいて聞き耳を立ててみると、休憩室内でリンディさんがマスコミのインタビューに答えていた。なんで休憩室内かと言えば多分記者会見のような形、公式発表にしないための苦慮の一策というものだろう。リンディさんが話し終えると、闇の書とはいかなるものなのか、とかレポーターがカメラに向かって解説しているのだろう声も聞こえてくる。部屋から出てくる気配がして、私は来た時と同じようにそっとその場を離れるのだった。

   ◇

 グレアム提督が言い残したロストナンバーの廃棄世界。
 時空管理局が成立する以前、相次いだ戦争によってかなりの数の次元世界が消滅、荒廃の憂き目にあったらしい。現在の無人世界の中にもその名残を残しているものはあり、カーリナ姉などはそういう遺跡群に入り込む事が大好きだと公言している。
 ただ、その中でもひときわ特殊な例というものは存在した。どういう過程によってそうなったかは判らないが、というか想像もしたくないような凄惨な事が起こったのだろう。それは容易く想像できる。何しろその世界に隣接する世界は一つとして存在しなかった。ところどころに虚数空間が顔を覗かせ、次元そのものが不安定に蠢いている、そんな領域が広がっている。
 その世界そのものもまた荒廃していた。
 広がる一面の砂漠と、石灰質の岩。白い、死んだ世界。映像でそれを確認したときはとても寒々しいものを覚えた。
 隣接世界が存在しないというその特殊性から兵器の実験場として何度も何度も使われた結果がそれだった。
 とはいえ、管理局が成立後は微々たるものながら年々浄化を進めているらしい。有害な残留物などは魔導師ならまず大丈夫という程度にはなっているという。

 その荒涼とした世界に転移し、最初に感じたことは魔力の奔流だった。
 私はそれを強く感じたが、他の皆も感じたらしい。一様に驚いた顔をしている。

「これはまた……えらい魔力素の密度が高いところだね」

 頭を振りつつそんな事を言うティーダの背中に無言で飛びのった。
 まあ、何というか。

「気持ち悪い……うぇ……ティーダ号、ちょっと目標地点までお願い」

 敏感なのも良い事ばかりじゃないのだ。一言で言えば魔力に酔った。ティーダの背中に顔を埋める。
 一同は私の醜態を見てなぜか笑っている。うんまあ、結果的に緊張解けたなら良いけど、釈然としないものはある。
 クロノだけが真面目な顔をして大丈夫か? と聞いてくる。

「すぐ慣れるだろうし、目的地につく頃には大丈夫だと思う。ほら、時間を無駄にしても仕方がない、行こう」

 もう隠す必要もなくなっているので、幻術を解いた翼を二度三度はためかせた。拍車の代わりにティーダの頭を翼のカドのとこで小突いてみる。

「はいよー、ティーダ」
「ひひーん」

 なんて口ではふざけながらもティーダの飛行魔法は綿密で隙がない。すごい速さというわけではないものの、その乗り心地の良さは高級車の運転シートのごとくである。

「どうもあの二人を見てると力が抜けるな……」

 そんな言葉をクロノがぽつりと漏らしたのを私だけはしっかり聞き取ったりしていた。
 ……小隊でやっているうちにだいぶ私もラグーザ達のノリに毒されていたらしい。緊張の抜き方だけは上手くなっている気がする。もう少し真面目にやったほうが良いだろうか。

   ◇

「それじゃ、食い止めてみるからあなたたちも気をつけてね」

 どこまでも平静な表情を崩さないまま、リンディさんは手を振り、次の瞬間にはグレアム提督、リーゼ姉妹ごと転移していた。
 やった事と言えば極めて単純である。
 私達全員の一斉攻撃をフェイントとして潜んでいたリンディさんが転移の魔法を使用、これにより当初の予定通りにグレアム提督とプレシア・テスタロッサの分断はひとまず成功した。
 少しあっけなさすぎる気もしたものの……残ったプレシア・テスタロッサに向かい合う。
 封印時に用いるのだろうか? 魔導師が魔法の発動時に描かれる魔法陣とは根本的に違う……どちらかというとおとぎ話に出てくるような魔法が使用できそうな魔法陣が描かれている。ミッドの言語に近いものもあるが、私の知識では読み解く事はできない。
 幾重にも重ねられた円状の魔法陣が12個描かれており、それぞれが蔦のような文字のようなもので繋がれている。
 その中心にその人は居た。
 分断されてもまるで揺るがず、予定通りとでも言うように泰然と。

「バルディッシュ」
『Stinger Ray(スティンガーレイ)』

 初撃は誰よりも先に前に出たフェイトちゃんの放った一撃だった。
 私も見た事がある。クロノが得意としていた魔法のはず。
 プレシア・テスタロッサはその直射型の魔法弾を易々と受け止めた。が、怪訝な顔になり、それを放った少女に目を向けた。

「この魔法……」
「……母さん、この魔法はクロノに教わった魔法。リニスから教わった事は忘れないけど、いつまでもそのままじゃない。なのはって友達も居る。クロノにも魔法以外の勉強を教えてもらった。将来は、管理局で魔導師としてやっていきたいとも思ってる。だから……母さん。今の私を見──」

 そこでフェイトちゃんは漏れ出そうとした何かを押し止めるように唇を噛みしめた。
 プレシア・テスタロッサは不思議な笑みを浮かべる。

「だから何? 今更あなたを娘として可愛がれと? ……できない相談ね」
「判ってる……でも、それでも私にとってはやっぱりあなたが母さんだから……母さんだからこそ」

 デバイスをあらためて構えた。

「……私が止める」
『Plasma Lancer(プラズマランサー)』

 環状魔法陣を伴った魔力スフィアが浮かび、魔法弾を次々と撃ちはなっていく。
 撃ち終わりを見て前衛のクロノとアルフが前に出た。
 クロノの張ったシールド魔法にプレシア・テスタロッサの放ったらしい雷撃の魔法が阻まれる。

「君は大人しいのに時々無茶をするな。困ったものというか……」

 クロノがそうつぶやきながら、シールドを広げた。
 それを合図として、フェイトちゃんが対峙している間に散開していたティーダ、そして武装隊が同時に速射型の魔法弾を三方から交差射撃を浴びせた。
 一息いれたフェイトちゃんもまたそれに加わる。
 ……だが、押し切れない。
 少し離れた場所で空から俯瞰できるからこそ把握できる。これがS級魔導師の力というものなのだろうか。
 相手はただ防御魔法を張り、散発的に攻撃してくるだけ。攻撃そのものはクロノが完全に防いでくれているが、こちらの攻撃は──

「やってられないな、もう……」

 私はそうつぶやき、デバイスを横凪ぎに振った。
 翼を広げる。密度の濃い魔力素を取り込み、魔力に変換。

「ショット!」
『Shoot Barret Rain(シュートバレットレイン』

 飾り気のない合成音声がデバイスより響く。
 ただ、数と量だけはあるシンプルな魔法弾が文字通り雨あられと降り注いだ。

「なんていう数の暴力……」

 などとユーノ君がつぶやいたりしてるけど、これは見た目は派手だし、非魔導師相手の面制圧なら役にも立つけど……正直あんな相手では目くらましにしかならない。
 もっとも、と私は目の端に捉えていた。
 ティーダが特殊な魔法を練り上げているのを。
 拳銃型のデバイスの前に長大な環状魔法陣が生まれる。
 いつか言っていた集束型魔法弾……だったか。

「なのはちゃん」
「は、はい!?」

 じっと出番を待っていたなのはちゃんは、急に呼びかけられて慌てたようだった。
 私は少し微笑みが浮かぶのを感じた。

「ティーダがバリアを貫く。カウント始めるから砲撃の用意をお願い」

 そう言っている間も弾幕を張っておくのは忘れない。魔力素の多い世界だけにそれはもうバカスカ魔法が撃てる。段々気持ちよくなってきた。
 ティーダの方も準備が出来たようだ。

「10、9、8、7……」

 カウントをする。なのはちゃんもレイジングハートを構え、魔力を集中し始める、カートリッジが二発排出された。

「3,2,1──」

 ゼロ、と口に出す前に私の張っている弾幕の中でもある程度何かやっているのに気付かれたのか、中空に魔法陣が展開しなのはちゃんを雷撃が襲った。
 しかし──

「大丈夫」

 ユーノ君がとっさに張ったサークルプロテクションに阻まれる。そんな丈夫な魔法じゃないはずなのに大したものだった。
 そして、時を同じくしてティーダが圧縮されたらしい魔法弾をそのライフルのバレルにも見える環状魔法陣を通し、発射させた。
 いん、と妙に高い音を放ち、極端に圧縮された魔法弾はプレシア・テスタロッサの防御魔法をまるで紙のように貫き、バリアジャケットをかすめ、その背後に消えていった。
 そして私が「今!」と一声かけるやいなや。

「ディバインバスター!」
『Divine Buster(ディバインバスター)』

 直撃した。
 蟻の一穴という言葉がある。小さな穴でもそこを中心に崩壊してしまう事の例えだったが、まさにそれが起きていた。
 元々なのはちゃんの砲撃魔法もバリアに対しては強い貫通力を持っている。そして、いかに強い防御力を持っていようとティーダの一撃により穴があいてしまった上でのこの砲撃である。
 というか間近で見ると圧巻過ぎる。
 桃色の奔流と言うべきである。
 さらに威力の高いスターライトブレイカーとかいう魔法があるらしいのだが、これより?
 私は乾いた笑いしか出なかった。
 数秒のはずだったが、妙に長く感じた砲撃魔法が終わり、やがて沸き立ったような煙も晴れる。
 そこには杖で身を支え、膝をつくプレシア・テスタロッサの姿があった。

「よし、確保ッ」

 クロノがそう号令をかけ、バインドの魔法をかける。
 しかし、その魔法は対象の前で弾けて消えた。
 プレシア・テスタロッサは軽く笑うとゆっくり立ち上がる。

「遅いわよ」
「やれ、これは相済まない、ダンスパートナーが思いのほか見事な踊り手だったのでね」

 そんな事を言いつつプレシア・テスタロッサの隣に空間から湧き出るように現れたのはグレアム提督だった。

「そう、ではエスコートする紳士にすっぽかされた私はそろそろ腹を立てて行く事にするわ」
「ああ、そうしてくれ。ここは私が引き受けよう」

 そして、プレシア・テスタロッサは転移していく。
 みすみす見逃さざるを得ない事態に皆一様に表情を硬くしていた。

「くっそー、あの鬼婆……一発殴ってやりたかったのに」

 アルフがかなり悔しげだ。地団駄踏んでいる。
 ちょっとだけ余分な疑問を覚えてフェイトちゃんを見る。確か主と使い魔は感情のリンクもあるはずなのだけど……実はフェイトちゃんも奥深いところでは反抗期が来てたのだろうか?
 いやいや、こんな時に何を。本当に余分な疑問だった。

   ◇

 グレアム提督が悠然とこちらに歩いてくる。
 手には氷結の杖、デュランダル。まだ、足元の巨大な魔法陣が起動した様子もないので、八神はやては無事なのだろうけど……

「さて、リンディ君には向こうでアリアとロッテの相手をしてもらっている。ふむ……」

 レトロな真鍮作りの懐中時計を取りだし、一瞥した。

「まだ少し儀式魔法の開始まで時間がある。先だっては口を挟まれてしまったが、聞いてみるとしようか」

 クロノに目を向ける。そうして話している間も油断はない。

「クロノ・ハラオウン執務官よ、答えよ。なぜそうまでして必死になる。確かに管理局の理念からすれば認めがたい事かもしれん。しかし、かの少女一人。わずかな犠牲によって幾多の世界、幾多の民の命が救われるのだ。それではいかんのかな?」

 クロノは一瞬目を開き、悔しげに歯を食いしばった。私の耳にはぎりと歯ぎしりの音が聞こえる。

「あなたが……あなたがそれを言うのか! 多くの問題を抱えてはいるが、管理局の理念だけは本物だと僕に語ったあなたが!」
「……ああ、その通りだよ。私がそれを言うのだ。どうしようもない事というものは世界に数多ある。これもまたその一つ。ある少女が親を亡くし、闇の書として選択された時、このどうしようもない結末は決まっていたのだろう。放置すれば近隣の世界もろとも破滅にしかならん。それとも……クロノ、お前には八神はやてという少女を縛る運命を一刀両断に断ち切る手段でもあるというのか?」

 無い。そう、無いのだ。そんな都合の良いものはない。私達の手持ちのカードには救ってあげられる手段などありはしなかった。
 だが、例えそうであろうとも、とクロノは提督をにらみ据えた。

「それでも……それでも! 最後まで救う努力を惜しんではいけないんだ。前も言った通り、執務官として、そしてただの一管理局員として認められない! 少女一人救う事も早々に諦めてしまう組織、そんなものに誰が従ってくれるものかッ!」

 そこで一瞬グレアム提督が妙な方向を見た。私達の斜め後ろ? なんだこの違和感……

「良い啖呵だ。だが年寄りというものは1%の危険性でも見つけてしまったら安全策をとりたくなるものなのだよ。かつて我が子とも頼んでいた優秀な部下を失ってしまってからは特にそうだ」

 グレアム提督はそう言ってため息を吐く。
 そのため息一つで10歳も年を重ねてしまったかのようだった。

「闇の書が船の管制システムにすら干渉できるものだという可能性、それについても示唆はされていた。だが、その危険性を無視し、処理を急ぐあまりに起きた結果がエスティアの消滅だ。討ち滅ぼしたのは私の指示、私は私の手で、クライドを……お前の父親を死に追いやってしまったのだよ」

 その手に何が見えるのか、無表情に自らの手を見つめる。
 首を振り、クロノを見据えた。デュランダルを地に突き刺す。

「さて、問答はこの辺にしておくとしようか、クロノ。伝統を踏襲しよう。歴史に習うとしよう。己の意志を貫き通したいのならば、私を倒し、推し通って行け」

 グレアム提督は相変わらず演劇めいた調子でそう嘯き、私達の前に壁となり立ちふさがった。



[34349] 三章 十話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/09/05 03:25
 戦局は圧倒的だった。
 どちらが圧倒していたかといえば、残念ながら私達ではない。
 リーゼ姉妹は相変わらずリンディさんに足止めされているようで合流の気配はない。
 オーバーS級魔導師とはいえ、私達の前にいるのはただ一人の魔導師──そのはずだった。

「その程度か?」

 グレアム提督は相変わらずデバイスを地面に突き刺したまま、その場を動かず魔法を行使している。
 また、一つ、二つとやたらしつこい誘導弾が発された。
 その魔法そのものをとってみればそう珍しいものでもない。問題はその馬鹿らしすぎる程の練度の高さである。
 魔法を起動し、発動するまでが異様に早い。そして何より……読まれる。こちらの動きのことごとくが。
 防御には力をあまり割いていないようだ。無駄のない動きで大抵の攻撃は避け、大きな攻撃、なのはちゃんの砲撃魔法やフェイトちゃんの放った巨大な斬撃、そういったものは直接受けずに攻撃魔法に攻撃魔法を当てる事で軌道を逸らしている。
 そう、さらっと流してしまった気もするけど、とんでもない離れ業だった。撃たれた銃弾を射線読んで銃弾で弾くようなものである。アニメじゃないんだからと突っ込みたかったが突っ込んだら負けな気がする。
 戦闘開始から20分経ってなお、有効なダメージが与えられていない。グレアム提督もいい年こいてひどいワンマンアーミーっぷりを発揮しているのだった。この爺さん元気すぎる。
 私とティーダが時間を稼ぎ、準備のできたフェイトちゃんがバルディッシュを振るう。

「……ファイアッ!」

 幾多ものスフィアから放たれた魔力弾が連射される。
 着弾、訓練で一度見たきりだったけど何とも凄まじい数の連射だった。光の乱舞と言っても良い。いや、数だけなら私の方が一杯出せるのだけど一発一発の練り方が違う。まともに喰らったら私は耐えられる気がしない。
 それを放ち終えるのを機に、念話で示し合わせ、私達は一度グレアム提督から距離を取る。一カ所に集まった。

「う……」
「フェイトちゃん!?」

 先程の大技……フォトンランサーのファランクスシフトなんて言っていただろうか、それにより消耗してしまったようだった。目眩でも起きたかのように体勢を崩し、なのはちゃんが支え……ようとして足がもつれた。二人して倒れそうになるのを私が支える。

「はいはい、なのはちゃんもガンガン砲撃撃ってたんだから無理しない」

 私はそのままの姿勢で魔力供給を二人に行う。波長の調整が適当なので魔力が無駄に漏れてるけど……空間の魔力素が濃いのが幸いだった。
 魔力供給を終え、一息ついてティーダに話しかける。

「しっかし、判ってたけど強いね……」
「もう少し洒落た言い回しはないのかい?」
「名状しがたい凶悪さ?」
「……前追いかけられたアレが出てきそうだからその言い回しはやめようか」

 確かにいあ、いあ、とかやっている場合ではないのだ。そんなふざけている間にもグレアム提督はどうも大きな魔法を準備してしまっているようで……

「防御任せた!」

 さっきティーダと話している合間に回復した分だけでも、とクロノとユーノ君に魔力を供給する。
 巨大な……巨大すぎるほどの魔力スフィアが浮かんでいた。
 見覚えがある。確か軍勢相手にあのスフィアから誘導弾を大量に発射、さらに言えば外れたものは回収する事によって無駄を無くすのだとか。
 その馬鹿でかい魔力スフィアを……こともあろうに。

「ぶつけてきたーーーッ!?」

 その巨大な球体は大きさからは想像もできないようなスピードで迫る。グレアム提督、いつからオカマ口調の宇宙の帝王にジョブチェンジしたっていうんだ!
 いやいけない、混乱した。とりあえずもう余力を考える事なしに、防御に長けたクロノとユーノ君に魔力をありったけ渡す。と、同時に衝撃が走った。

「ぐ……」
「なんて圧力……」

 二人の重ねて張った防御魔法により私達は守られているものの……プロテクションの一部が歪みはじめ。軋んでいる。

「ユーノ君、クロノ君、私も……」
「駄目だ! 君は攻撃の要なんだ。ここは大丈夫、ユーノと僕を信じろ、何とかしてみせる」
「そうだよなのは。僕だってやっぱり男の子だから少しは良いところ見せなきゃ……ね」

 ユーノ君も汗を一筋流しながらなのはちゃんに笑いかける。
 なのはちゃんは手を揉みしだきながら心配そうに、ユーノ君……とつぶやいた。
 やがて耐える二人もじり、と押され始め──

「いつまで続くんだ……」

 そうクロノがつぶやき、今は耐える事に専念しようとティーダとアルフ、それになのはちゃんもまた防御に加わろうとした時だった。

 ──斬。
 そう、私達を押しつぶそうかとしているような、魔力の光球が斬られたとしか言い様がない。
 そしてその間隙を突くようにして一迅の影がこちらに迫り……クロノとユーノ君の前に重い響きと共に着地した。
 その広く岩のような背中を見せた男は低くつぶやく。

「盾の守護獣の本領、見ているがいい使い魔」

 アルフが驚いた顔で「あんたは……」と絶句した。
 真っ二つに斬られ、しばし勢いを失っていた光球が復元していく、その前にその男は仁王立ちした。

「おおおッ!」

 吠える。獣のように。
 ベルカ式の特徴的な魔法陣が浮かび渦を巻くようなシールド魔法が広がる、それは何層にも重なり厚みを増す。
 グレアム提督の放った魔法が間近まで迫る。魔力の塊がシールド魔法に触れた。

   ◇

 衝撃に一瞬意識を喪失していた。
 今どこにいるのか、どれほど時間が経ったのか、ふっと判らなくなる一瞬、いやそれは本当に一瞬だったのか……そういう把握能力が束の間働かなくなる。
 頭を振る。意識してまばたきを数度、状況を把握しないと。

 先程の男が膝をついている。かなり消耗したらしい。肩で息をしていた。
 いや、幾度か見た事もあった。守護騎士の一画……唯一の男性だったはず。アルフと交戦することが多かったので私はデータでしか知らなかったのだけど。そう、ザフィーラと呼ばれていたのだったか。
 アルフが駆け寄り声をかけようとした時だった。

「うひえええええええええッ! 止まらん、止まらんっ! ごめんリインやっぱ制御返すわああああああ!!」

 そんな声が空一杯に響き渡り、何かが、高速で、地面に着地──墜落した。
 どおお、と戦争映画でしか聞いた事のないような重低音が響き、濛々とした砂煙が上がる。
 ……何が起きた?
 やがて煙が晴れると大きなクレーターが出来ていた。
 その中心で砂に半分埋まりながら、よいしょとばかりに身を起こす少女。ぷるぷると頭を振る。
 皆の視線が集まっているのを感じたのか、少々慌てた様子で赤くなりながら。

「て……てへぺろ」

 と言いながら舌を出した。
 場が静まり帰った。
 その様子を見て慌てる。なおさら顔を赤くした。

「あ、あ、あれ? もしかして、盛大に滑ってしもた?」

 その姿は私も見たことがある。データ上で、だけど。しかし……

「なのはちゃん、フェイトちゃん……八神はやてってこんな子だったの?」
「あ、あはは。私も直接会ったのはここ最近だったから……」
「明るい子……だったよ?」

 その明るい当人は地に手をついて落ち込んでいる様子だった。

「あ、あかん、こんな時にぼっちだった弊害がでてしもた、何やってるんや私は……」

 などと小さい声でつぶやいている。
 いつしかその隣に小柄な影が落ちた。

「というか敵がいる前で何やってるんだよ、はやて」

 呆れたように言う。

「あかん、あかんよヴィータ、芸人にとっては一度滑ったのは良いとしてフォローまで滑るのは痛恨もいいところなんや!」

 ふわりと浮き上がり、赤い、小柄な騎士、ヴィータに「ここ大事なところ」とでも言うかのように人差し指を突き出した。
 ……しかし、まあ、何と言うべきか……先程まであったシリアスな雰囲気は雲散霧消してしまっている。というか、どういう事? 拘束されていたんじゃ……

「自力で目覚めたのかね? それに、書の制御も見事に行っているようだな。大したものだよはやて君」

 グレアム提督が声をかけると、はやてちゃんはぴたりと真剣な表情になった。ゆっくりと提督に向き合う。ヴィータがさりげなくその前に出て主を守った。

「リインフォースに教えてもらって、外の事も少しは判る。その、グレアムおじさんが何を思っているかは私には正直判らんけど、その、な……私は……」

 私は……というその続きが出てこないようだった。悲しげな顔になり、うつむく。
 その主を気遣うように、残りの騎士達もまたその前に集まった。
 提督の頬にかすかな笑みが浮かんだ。

「理解しているなら早い、今更言葉で止まるものでもないというのは判っているだろう」

 私は何と無い違和感を覚えた。何なんだろうか。ティーダも疑問を感じたようだ、目を細めてグレアム提督を見ている。
 しかし悠長に考えている暇は無かった。ヴィータがさらに一歩前に出る。

「はやて、あいつとはやりにくいだろ、言ってた通りあたし達が相手をする」

 うつむいていた八神はやては顔を上げた。少し涙が見える。しっかりとヴィータを見据え、口を開く。

「あかん。私も含めた問題なんや。家族の事は家族で解決しないとあかん」

 グレアムおじさん、と提督に呼びかける。目をつむり、開く。深呼吸を一つした。

「いろいろ考えたんや、でも私だって、私達だって好き勝手にされるわけにはいかへん……シグナム、ヴィータ、ザフィーラ、シャマル! ヴォルケンリッターの四騎士、そして夜天の書の主……八神はやてが相手やっ!」

   ◇

 さすがに闇の書の……いや、夜天の書の騎士たちは強かった。
 戦闘能力のみならSランク魔導師とも言えるフェイトちゃんやなのはちゃんと互角の勝負である騎士たちだったけど、四人が協調して戦うとこれは手に負えない。いや、本来の形が、こうやって四人が連携を取りながら戦うものなのかもしれない。
 グレアム提督も攻撃をすべて捌く事が難しくなったのか、先ほどとは違い表情に余裕がない。戦術を熟知している私たち相手ではないというのもまた大きいのだろう。防御魔法に力を注いでいる。
 炎の剣閃が走り、地から伸びた魔力の束が拘束しようと迫る。小柄な体に見合わぬ大きさのハンマーを掲げた赤い影が一直線に接近し、その勢いに加え噴射された魔力の推力を加算された一撃が放たれた。
 しかし、大振りなその一撃の間隙を縫い、グレアム提督もまた誘導弾を放つ、狙いは……八神はやて?
 着弾する寸前、風が一瞬巻いた気がした。彼らの主の前に鏡のようなシールド魔法が張られ、攻撃を完全に防ぐ。

「……っは、見とれてた!」
「ティーノ、君ってやつは……静かだと思ったらそれか」

 ティーダが呆れたようにいう。

「確かに良い連携だ。互いが互いを信頼し、主の危機と見紛うような事があっても気を逸らさずに自分の領分を全うする。見とれるのもわかるよ」

 クロノがそう言ってくれる。言いながらこちらに向き直り、デバイスを握り締めた。

「僕たちも加勢しよう。状況は変化したけど作戦目標は変わっていない」

 私たちは一様に頷いた。

 ヴォルケンリッター四名に加え、八神はやてもまたとんでもなかった。魔力の出力、総量共になのはちゃんやフェイトちゃんを足したものもより大きいかもしれない。さすがは闇の書の転生先に選ばれてしまったことはあるというか……ただ、まだ魔力の扱いについては自分のみではうまくいかないらしく、ユニゾンデバイスである夜天の書に頼りきっているようだったけども。
 そこに戦闘力、攻撃力という部分だけならすでにS級と言っても良い二人、なのはちゃんとフェイトちゃん。実質S級魔導師並みとも呼ばれるクロノ。模擬戦ではそのクロノに伯仲してしまうティーダ。私も含む、武装隊からの出向組である二人の魔導師のような、ちょっとしたおまけのようなのも居るが……
 大抵の難事件なら力押しで何とかなってしまうような酷いパワープレイである。ここまで戦力が揃うとワンサイドゲームも良いところになってしまうことはほぼ間違いない。
 そんなのを一人で相手に取り、グレアム提督はさらに30分以上も拮抗してみせた。
 私は帰還したら管理局の魔導師ランクのつけ方について上申しようと思う。作戦能力や純粋な魔導師としての力を鑑みて総合的な評価がそれなのだが、S級の上に何か設けた方が良い。それより上のランクがないのでオーバーSランクとか慣習的に呼んでいるだけなのだ。
 その文面を考えながらも、回復してきた自分の魔力を足りない面々に分け続ける。拮抗しているならばこそ、後は息の長く続く方が勝つ。こいつらはもう少し感謝すべきなのだ。私は八つ当たりとして魔力供給ついでにティーダの腕をつねった。

   ◇

 総攻撃を真っ向から防御魔法で防いだことにより魔力切れを起こしたらしい。
 ようやくにして……と言おうか、あるいは何とか……と言おうか、グレアム提督を確保することができた。
 と言っても、攻撃して意識を刈り取った、などではない。
 グレアム提督は杖を地面に横たえると、深いため息を吐いて座りこむ。目を伏せ、どこか穏やかな声で私たちに言った。

「諸君らの勝利だ」

 私は一瞬固まった、実感も何もない。巨大な壁を押していたら不意に崩れ落ちたかのような、つっかえ棒がはずされてしまったかのような感覚を覚えていた。
 クロノはさすがに落ち着いており、ゆっくり歩み寄って提督の前に立ち、おもむろに口を開いた。

「ギル・グレアム提督、次元犯罪者の逃亡幇助及び遺失物管理法違反により逮捕」

 ──揺れ。次元震とも違う、異質な揺れ。いや……これは吠え声?
 ヴォルケンリッターは咄嗟に臨戦態勢を整えている。
 私達も軽く身構え、何が起こったのかと顔を見合わせた。
 グレアム提督は一つまばたきをすると、クロノに向かって言った。

「いかんな。封印に使用している魔力バランスが崩れたのだろう。現段階では仮の封印でしかないあれは、闇の書そのものの力も用い、単純にエラーコードを吐き出し続けている部分を抑え込んでいる。言うなれば闇の書の闇とも言うべき部分を縛る鎖のようなものだ。既に半暴走状態にあるそれが管制人格と、主が切り離されたとすると……」

 騎士の中でもひときわお姉さんオーラをまき散らしているシャマルが冷や汗をかいた。

「ええと……暴走しっぱなし……でしょうか?」
「ま、まずいんちゃうそれ!?」

 慌てた様子ではやてちゃんが言うと、グレアム提督が苦笑し、口を開く。

「なに、管制人格も主もなく、暴走部分のみ……指向性のない魔力の塊のようなものだ。転生機能については君の方がよく知っているかもしれんが、あれは基幹部分にあるプログラムのはずだ、暴走部分のみでは働かんだろう」

 それに、とクロノを見て続ける。

「かつての事例でも暴走状態時には理性も働かず、複合式のバリアはあれど、回避行動を起こすわけではない。やり方にもよるがかえって魔法は通りやすくなっているはずだ。攻撃により消滅させられるならば良し、あるいはここは生命の無い土地だ。いざとなれば地表ごとアルカンシェルにより吹き飛ばしても良い。お前の事だ、そのくらいは用意があるのだろう?」
「……グレアム提督」

 複雑そうな顔でクロノがつぶやいた。
 何故今更になって助言を重ねるのか、何で最初からこちら側に居てくれなかったのか……その心中は私には理解し難い。ぶつかる必要があったのだろうか。そして、クロノの複雑そうな表情もまた、私には読み解けそうになかった。まったく面倒くさい人達なのだ。

「ふふ、助言はここまでだ。だが助力の方は期待するな、お前達と戦っている合間にも封印に魔力を割いていたのでな。さすがにもう余裕はないよ」

 さりげなく言った一言に空気が凍った。
 私の口の端もまた何か言いかけようとして止まり、ひくひくしている。
 ぎぎ、と動きの悪くなった気がする首を動かし見回せば、一同そろって顔を青くしていた。

「……あれで?」

 ため息しか出ない。
 グレアム提督はその様子を顎を撫でながら見やるとからかうような調子でクロノに言った。

「そう驚いた顔をされては困るなクロノ。お前には私やクライドを超えてもらうつもりなのだが」

 つまり、単騎でもって10人近くの戦闘に優れた魔導師を退けられるだけの魔導師になれと。それでいて、指揮能力も磨けと。
 クロノを見ると手を握ったり開いたりせわしない。表情は何とか取り繕えている様子だが……
 なんともこう……うん。この件落ち着いたらエイミィと一緒に労ってあげるとしよう、あの若さで執務官でも大したものだと言うのにさらにハードル上げられるとは、お疲れ様過ぎる。

   ◇

 空間がたわんだ。
 荒涼とした風景が万華鏡のように歪み、崩れていく。
 黒い、それでいて何かが混ざり合ったような黒い球体が風景と、元の光景と混ざり合うように実体となってきた。
 私にはよく判別できないが、特殊な結界中にはやてちゃんごと封印されていたのだろう、どこかの管理外世界に生息しているサンドウォームのごとく、巨大な触手がうねり、暴れ回った。

「……思ったより巨大だ。みんな、少し距離を取ろう」

 クロノがそう言って、力の入らない様子のグレアム提督に手を貸そうとした時、小さな影が転移し、提督の肩に駆け上がる。それを追うように少し遅れて転移の反応があり、ところどころバリアジャケットが破れ、妙に色っぽくなってしまっているリンディさんが姿を見せた。

「こんの、性悪猫ーーーッ! 待ちなさああッ……あれ?」

 走り出そうとして、私達の目が向けられているのに気付いたのか、目をぱちくりとさせる。
 私は頭の中になぜかお魚を咥えたドラ猫を追いかける主婦が連想された。ぶるぶると頭を振って妙な妄想を振り払う。

「あ、あら、ええと、ええと……うふっ」

 ──一陣の風が吹いた。
 笑って状況を誤魔化した母親を見てクロノが深いため息を吐いた。負けるな、頑張れ少年。しかし、リンディさんをあそこまで激昂させるなんて、アリアさんとロッテさんはどんな事をしていたのやら……想像したいような、想像したくないような。
 そんなリーゼ姉妹はというと猫の姿に戻り、グレアム提督を心配そうな瞳で見ていた。時折頷くような仕草を見せているので、多分指向性の念話で会話でもしているのだろう。
 グレアム提督は一つ頷くと、リンディさんに向き直る。両手を上げて言った。

「ハラオウン提督、今にいたっては私もこの通りだ。投降するとしよう」

 リンディさんが真面目な顔になり、クロノを見た。
 クロノは軽く頷き、ざっと状況を説明する。

「……わかったわ。ギル・グレアム、及び使い魔リーゼアリア、リーゼロッテの投降を受け入れます。三名に伴い、私もアースラに帰還するけど……みんな、重ねて言いますが無理はしないようにね」

 そう言い、リンディさんはグレアム提督、リーゼ姉妹と共に転移していった。これからの対処にリンディさんが居てくれれば心強いのだろうけど、グレアム提督の護送を適当な人物に任せるわけにもいかない。これが順当だろう。
 そんな中でも状況は刻一刻と進行中だった。
 ある程度距離を取り、上空からそれを見れば、完全に結界内から解かれたのだろう、黒い球体は完全に実体となっている。

「まるで繭みたいだ」

 ティーダがぽつりとそう漏らす。
 私もおおむね同感だった。
 その繭の中からは声が響いている。まだ、私以外には聞こえていないみたいだけど……何となくもの悲しくなってしまうような声だ。
 現在の状況はといえば、暴走しきっているというわけではないらしい。アースラでモニタリング、そして計測したところ、臨界状態になるまで数分といったところのようだ。
 万が一に備え、戻ったリンディさんがアルカンシェルの準備を始めたとの知らせが届いた。
 私はクロノに話しかけた。

「クロノ、この状況下なら前、話しておいたやつができると思う。濃密な魔力素、そして直前まで魔法が大量に放たれていたこの状況なら」
「……あれか……理論は良いとして、魔力の制御はどうするんだ?」
「私のデバイスは元々処理能力と空き領域が大きいストレージだから。その領域を全部演算機能に割り当てるつもり」

 頭に手が置かれた。毎度毎度こいつは……首をぶるぶる振ってふるい落とす。

「僕の方でも近くでサポートするよ。カオス演算なら僕の十八番だからね。ここからは近接戦闘ってわけでもないだろうから、武装隊員の指揮はクロノ、君に頼む」

 クロノが頷いた、前後してエイミィから暴走臨界間近の連絡が入る。
 黒い繭のようなものが一瞬、震えたような気がした。
 繭の表面をさざ波が走るようにも見え、一瞬の間を置いてそれははじけ飛んだ。

 それは竜のようにも見えた。
 獅子のようにも見える。
 あるいは蜘蛛とも呼べるかもしれない。
 夜天の書の管制人格を模したのか、女性の姿がその何とも言えない怪物から生えている。
 歌うような声はその口から漏れ出ていた。

「今日の締めくくりは怪物退治……何ともまあ」

 ため息も出るというものである。
 とはいえ、なのはちゃんやフェイトちゃん、何より魔法の事なんて知って間もないはずなのに、弱音を吐かない八神はやて。
 そんな子供達が頑張っているなら、私が張り切らないわけにはいかないのだ。
 翼を思い切り広げる。
 濃密な魔力素が流れているのを感じた。

「よっし」

 最初にして最後と言ってもいいかもしれない。こんな状況下でないと同じ真似はできないだろう。
 私は自分を奮い立たせるかのように一つ声を出した。

「始めようか」

   ◇

 暴走した防御プログラム、言葉でそう言えば、大した事がないようにも思える。それが言葉通りであれば楽だったのだけど。
 グレアム提督がさらっと言ったように攻撃が通りやすいなんて事はなかった。
 複合式バリアとか言っていたけど、それがまたえらく固いのである。そして転生機能は動いていないのだろうけど、再生機能そのものは健在だった。魔力がある限り、ダメージを与えてもすぐに復元してしまう。
 かつてエスティアを取り込んだという浸食、融合する特性については、この世界が言ってみれば死の世界であったのが幸いした。いや、あるいはグレアム提督はそこまで考えていたのだろうか?
 私は何となく空を見て、少し考え込んだ。視界をとんでもない大きさになったハンマーが横切る。
 インパクトの瞬間、空に浮かんでいるはずなのに、地震のようなびりびりした衝撃が伝わってきた。
 ……うん、後で考えよう。

「じゃあ、ティーダ。演算補助よろしく、あと出来ればなのはちゃんの砲撃補正も」
「はは、いつになく人使いが荒いね。了解した」

 私は目をつむり、広げた翼の隅々まで意識を広げる。
 形は翼、ただそれは感覚器であり魔力素の取り入れ口でもある。一枚一枚の羽根にリンカーコアと結びつく魔力を通す神経網が巡らされていた。
 ……というのも私の中の亡霊さんから教えてもらった知識でしかないのだけど。
 もとより、私の種族そのものがあのわけの判らない神様モドキ、シャルードさんはフィールドそのものでもあるとか言っていたような気もしたけど、そんな「無色の力」なんてのを取り込みエネルギー資源とするための鍵でもあり導管でもあるらしい。魔力の常時回復、出力に比べて異常に丈夫な魔力経路、魔力に関する鋭敏な感覚はその本来の機能に不随するものでしかない……ない、ない。

「……微妙に恥ずかしい……本来の機能に付随するもの、とか……」

 布団に潜ってキャーとか騒げれば良いのだけど、残念ながら本当にそんなものなのだ。ラエル種は最初にそう設計された。後の時代になって当時の主人だった連中のために良いように改造されていき……夜のお供的な方向に特化されたりもしてしまったけど。
 多分現状でも、現存しているロコーンなどの門の機能を持つロストロギア扱いのそれを使用する事で、そんな「形になっていない魔力」を取り込み、魔力として吐き出す事は可能だろう。ただ、その量は私が魔法を使うのとは出力の桁が違う。集積しすぎた魔力が暴走事故を起こして、かつて自滅したゴドルフィンとかの二の舞になるのが落ちなのではなかろうか。本来さらに一工程、専属の種族を通す事で実用的なエネルギーとなるのだった。
 また、普通の空間上で私がその特性を上手いこと活用しようとしても、それはせいぜい魔力を一カ所に集積させる程度なのだった。全く役に立たない特技である。本来ならば。

 ──集中する。
 どちらかというとこれは魔法ではなくレアスキルとか呼ばれるものの範疇かもしれない。
 無意識に行っている魔力の自動回復を認識する。経路を認識する。私の周囲にある溢れんばかりの魔力素を認識する。
 私を導管とし、取り入れた魔力素をひたすら魔力に変換、結合し、出力する。
 出力する、出力する、出力する。ただただ集積させる。
 集積した魔力によって空気が震えるような感じがする。
 私のデバイスはフル稼働、魔法を使用しているわけでもない、ただ集積した魔力の流れに指向性を付け、渦を巻かせるようにするための演算でも一杯一杯の様子だった。
 不意にデバイスの負荷が減る。
 ティーダが自らのデバイスにより演算の一部を引き受けてくれたようだった。
 私のデバイスは主に似てしまったのか、複雑に初期値が変動するような演算には向いていない、そういう用途に組んでないだけというのもあるけど。
 ともあれ、これでぐっと楽になった。

「さんきゅ、ティーダ。もうちょっといけるかな」

 私は目をつむったままそう小さく言った。
 これだけ空間の魔力素を吸い上げてもまだ空間に余剰の魔力が残っている。
 それはそうだ、先程まであれだけの数のとんでも魔導師がドンパチをしていた空間である。もとよりあった空間の魔力素に混じって、結合が解かれたグレアム提督の、プレシア・テスタロッサの、クロノの、なのはちゃんの、フェイトちゃんの、八神はやての、夜天の書の騎士達の、武装局員たちの、そしてティーダの魔力もふよふよと浮いている。もちろん感覚的なものだけど。
 それを取り込み、ただの魔力の塊に変えて出力する。
 今こうしている間にも暴走した防御プログラムに対して皆が攻撃をしかけ、バリアを破壊しているはずだ。
 急がないと。

「うわぁ……」

 というなのはちゃんのちょっと引いたような声で、目を開ければ、もう飽和量を超え、蛍のような光を放つ魔力球が無数に渦を巻いていた。
 真っ暗な中で見れば銀河のようで綺麗だったかもしれない。そんな場違いな感想を覚える。
 導管兼、魔力の濾過フィルターみたいなものを務めた私はとっくに感覚が麻痺していて、どのくらいの魔力が堆積しているのかちょっと判らないのだけど。
 なのはちゃんの反応を見る限り、かなりびっくりの量が集まったようだった。まあ、単純な見た目でもかなり圧巻ではあるのだけど。

「さ、さすがにこの状態で……大丈夫デショウカ」

 語尾が固くなっている。
 私はふ、と浅く息を吐いて緊張をほぐすように笑ってみせた。

「あまり制御を考えなくてもいいんだよなのはちゃん。この魔力渦に強い方向性を与えてやれればいいだけだから。ま、何かあったとしてもお姉さんが抱えてびゅんと飛んでってあげるから、心配せずにどーんと行って、どーんと」

 そんな軽い口調で言う。
 そして、なのはちゃんの後ろで支えるように位置を変えた。
 ティーダが「僕は?」とでも言うかのように自分を指さしていたが、自分で何とかしてほしい。寂しげな顔をしないでほしい。私が慌てると同時に舌を出さないでほしい。後で仕置きだ。
 どこで見ていたのか、フェイトちゃんが飛んできた。

「なのは、私もいる」

 そう言ってなのはちゃんの肩にそっと手を置いた。
 どこか困ったような目付きで私を見た。ああ……なるほど。独占したいと、なんともまあ。

「んふふ、モテてるねえなのはちゃん」
「あはは……」

 私がどこかにやにやしながら言うと、笑って頬を掻く。良い感じに力が抜けたのか、澄んだ目で前を向いた。

「レイジングハート!」
『Yes, my master』

 インテリジェントデバイスとの息もばっちりだった。
 その少女が振るうには長大な杖を構えた。
 巨大な魔法陣がなのはちゃんの前に生まれる。
 砲撃魔法という規格も超えてしまうような量の魔力が集中した。
 さらにはそれを呼び水とするように、私が集めた魔力、そして周囲の魔力を集め始める。

「スターライト……」

 星の輝きが集まり、一個の恒星になるかのように集中した。魔力スフィアはすでになのはちゃんの身の丈を超え、二倍以上にも達している。
 さらにはその射線上にある、私が集め、ティーダと共に集中させた魔力の渦。
 一瞬なのはちゃんもためらいの色を見せたが、それは一瞬だった。レイジングハートを魔力スフィアに叩きつけるように、魔法を放つ。

「ブレイカーーーッ!」
『Starlight Breaker』

 集束された魔力の奔流が一直線に魔力の渦、その中心を貫いた。
 一瞬の静寂の後、始めはゆっくりと、次第に速度を増しながら形を変え、なのはちゃんの魔力の奔流に耐えかねたかのように大きく膨らみ──
 膨張が……あれ、計算超えている気がする。

「……お、思ったよりやばいかなーなんて、ユーノ君、クロノ、ティーダ、ええと、そこのわんわん! 防御、後先考えないでッ!」

 守護獣だ! という叫びを聞くか聞かないか、本当にぎりぎりのタイミングで防御が間に合った。
 爆風。
 閃光。
 音。
 揺れる、揺れる、防御魔法で保護されてても揺れる、そりゃもう酷いものである。
 私はなのはちゃんとフェイトちゃんをしっかり抱きかかえて耐え凌ぐ。ティーダの防御魔法も相変わらず隙が無い。
 時間の経過は判らない。
 体感時間にすると長かったけど、実は短かったのかもしれない。
 ようやく荒れに荒れた空間が落ち着きを取り戻してきた。
 さらに少し待つと、吹き上がっていた煙もまた。
 そして、そこに残っていたものは──

「おらん……なあ」

 はやてちゃんがぽかんとした表情でつぶやく。
 ひょう、と風が吹き抜けた。
 残っているのは巨大な、巨大すぎるクレーターのみだった。
 かなり上空から見下ろしているのだが、相当遠くにクレーターの縁が見える。
 ……巨大隕石でも衝突したのかってな具合だった。
 私は呆然としているなのはちゃんの肩をぽんと叩いた。

「なのはちゃん……戦艦の主砲と単身並び立った気分は?」
「え、ええ!? えっと、ええと……いや、その……うええ?」

 慌てるなのはちゃんがとってもラブリーである。アルカンシェルと匹敵する砲撃少女爆誕の瞬間だった。

   ◇

 ようやく終わった……と皆々安堵のため息をついた時だった。
 どこか慌てた様子で小型の航行船が近づいて来る。
 私達が何となく緊張しながら様子を見ていると、近くに降りた航行船から、やはり慌てた様子で二人一組っぽい男女がこちらに走り寄ってきた。

「さ、さ、先程の爆発は、どういう事なのでしょうか!? まさか闇の書の封印に失敗したなんて事は? あるいは暴走事故による次元災害の可能性も視野に入れなければならないのでしょうか、一つ返答をお願いします!」

 さすがに地球でのそれよりは小型化しているものの、それなりに重そうなカメラをこちらに向ける。
 ……どうやらマスメディアの皆々様、アースラにも乗り込んできていたけど……その人達が遠巻きに様子を見ていたようだった。
 しかし、どうやってこの世界に入ったのか……封鎖されていて民間人の渡航はできないはずなのに。
 私は何とも言えない気分になった。
 んー、と空を眺めつつちょっとだけ考える。
 まあ、いっか。ここは悪いけど……

「クロノ・ハラオウン執務官、確保及び護衛対象の少女も疲労しているようですし、私達は帰投します」

 インタビューワさんによく聞こえるよう、執務官と強調しておく。
 クロノが一瞬、な、と驚いたようだったが、報道に映っているのを思い出したのか、渋々頷いた。

「君ってやつは……」

 ティーダが呆れたような苦笑いを浮かべた。

(……後で覚えていろよ)

 そんなクロノの念話を聞き流しつつ私は皆に声をかけて撤退することにした。それはもうそそくさと。
「僕も残ってあげるから元気だしなよ」とクロノの肩に乗って声をかけるユーノ君はとても優しいのだろう。小動物に変身していなければ。
 背中が煤けて見えるクロノに若干申し訳の無さも覚えるが、厄介事を押しつけ安いのもまた、執務官としての大切な資質なのだろうと思う。きっと。

「あぁ、今回は疲れた。早く家かえりたい」

 魔力を通しすぎたせいか、まだ感覚が戻らない。元々そういう用途でデザインされてる種族だけに後遺症とかは無いと思うけど……どっしりとした疲労を感じる。
 使い慣れない魔法を乱発したはやてちゃんもまた疲れからか、シャマルさんの腕の中に眠っている。そういう意味では帰投の理由も嘘ではないのだ。
 エイミィから座標設定が完了したという連絡を受け、私達はアースラに帰投を始めるのだった。



[34349] 三章 十一話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/09/05 03:26
 アースラ艦内にて、闇の書事件の後始末、それにマスコミ対策も何とか一段落し、今は打ち上げが行われている。

「今回の事件はみんな、本当にお疲れ様でした。これで昔から続いてきた闇の書の悲劇ももう起こる事はないでしょう。それに新たな犠牲者を数える事もなく済みました。皆の尽力のおかげです、では乾杯」

 リンディさんが微笑みながらそう音頭を取り、グラスを上げた。
 グラスの中で淡いライムグリーンの液体が揺れる。
 とびきり甘いライムジュースとジンのカクテル。慣れない手つきで自らそれを作っていた。
 グレアム提督に借りた本、故クライド・ハラオウンも愛読していたという。その中の一節に登場するカクテル。

「早すぎたギムレットもようやく……と言ったところね」

 気取りすぎかしら、と私に向かい言う。どこか複雑な、寂しそうな笑顔が印象に残っていた。
 穏やかな音楽が流れ、クルーの笑い声が絶えない会場。
 出されたワインを一本……さすがに公の場なので堂々と飲むわけにもいかない。ワイングラスを自分の分ともう一つ……少し考えて、お盆を借り、ローストビーフと、オードブルに出されたチーズなど盛りつけた皿を一緒に乗せる。
 頃合いを見て、気付かれないよう、さりげなく会場を後にした。

   ◇

 打ち上げ会場の賑やかさとはうってかわって静かな廊下を歩く。
 ある一室まで行き、三重になっている認証を通してその部屋に入った。

「やほ、お疲れさま、グレアムの爺さん」

 と軽い感じで声をかける。
 その爺さんはうたた寝しているリーゼ姉妹を膝に乗せ、テーブルの横にしつらえられた椅子に座り、静かに本を読んでいた。

「……ん、ティーノか。夕食はもう頂いたが、さらに差し入れかな? 今のところ私はまだフォア・グラを提供できるような太ったガチョウになるつもりはないのだがね」

 そんな皮肉めいた事を言いながら顔をこちらに向ける。
 その顔には重荷を下ろしたようなほっとしたものが見えた。私はやれやれ、と軽くため息を落とす。
 テーブルにお盆を置き、私も腰を降ろした。
 グラスにワインを注いでグレアム提督に差し出し、もう一つのグラスにワインを注ぐと、私は無言で軽く持ち上げた。
 グレアム提督は何がおかしいのか、くっと小さく笑うと私に倣い、グラスを持ち上げる。空調の音だけが静かに響く中、二人してゆっくりグラスを傾けた。
 一口含み、グラスを揺らす。喉を湿らすようにゆっくり飲み込み、後味のふくよかな香りを感じながら、私は天井を見て、口を開いた。

「……で、結局どこまで思惑通りだったの?」

 グレアム提督は少し含み笑いをしたかと思うとグラスを傾け、空にした。ことりとテーブルに置く。

「演技派であったとは言ってくれないかね?」

 私がその空になったグラスにワインを注ぐと、手に取り、今度は味わうように口に含む。どこか面白がるような目で話しだした。
 なんでも、当初は闇の書の暴走の間際を狙い、次元の断層、もしくは先程のような廃棄された世界にデュランダルを用いた凍結魔法にて封印するつもりだったらしい。
 それはアースラでも予測した通りのプランだった。予測と違ったのは、プレシア・テスタロッサを頼るのではなく、独力での封印を施す予定だったとか。
 封印そのものは持っても実質的には数十年、そしてどこからか情報が漏れればそれを利用しようという人間も現れる。その危険性もまた承知の上だったという。
 そのプランが大きく変わったのは、数年前に台頭してきた組織、グレイゴーストと接触を持つようになってからだったらしい。そして……

「私?」
「うむ……最近の事だが、お前達の小隊が編成される直前、グレイゴースト側の協力要請で行った場所があるだろう」
「って、まさか……次元世界外のあそこ?」

 次元の狭間とかそう呼んでも良いのだろうか? 現在はシャルードさんが研究中のはずである。
 グレアム提督は髭を撫で、頷いた。

「そう、そこだ。その場所が最後の一押しとなった」
 
 闇の書の封印場所にもってこいだったらしい。
 確かに、あそこはシャルードさんみたいなスキルか、あの神様モドキみたいな存在でもない限り、空間を安定できない。というか素のままだと魔力素すら魔力素の形で存在していなかったはず。凍結封印した闇の書を安定した形で置いておくには丁度良かったのだとか。

「ただ……正直、八神はやての覚醒、あれは完全に予想外だったものだ、私も老いたという事だろうな」

 闇の書に取り込まれた八神はやてについては、闇の書の封印が安定次第、支援をとりつけたグレイゴーストより精神探査の能力を持った者が派遣され、切り離される予定だったのだとか。
 その間にデバイス知識、魔導エネルギー、生体工学にも優れたプレシア・テスタロッサも含め、グレイゴーストを通じ協力を取り付けた形の聖王教会の技術者達により、闇の書のバグ部分の処理、暴走部分についてはそのまま凍結封印を施す予定だったという。
 
「……そんなプランが出来てるんだったらさ、管理局に居たままでも……造反したなんて事にならなくてもよかったじゃないか」

 なんで……と私はそれ以上言葉が出なくてうつむいてしまった。
 ふと頭に手が乗る感覚があり、わしわしと撫でられる。全く無造作で乱暴。そして温かい手だ。何となく恥ずかしくなり、できるだけさりげなく目尻を拭った。

「そうだな、だがな、ティーノ。万が一……というものはいかなる時にも存在する。それが起こった時、汚れ役という立場で居るためには管理局の制服は少々似合わなかったのだよ」

 グレアム提督は目を細めた。

「そのプランとて穴は幾つも存在する。それを塞ぐための余裕もまたなかった。ティーノ、私はな、最悪の場合お前達もろとも闇の書を消し飛ばすだけの用意もしてあったのだよ。そしてその場合、私はまたのうのうと生き延び、事後の処理に当たるつもりだった。次元犯罪者と呼ばれる事になろうともな」
「爺さん……」

 私が何とも言えずにいると、チーズをひとつつまんだ。
 一つ頷き、これはいけるな、とつぶやいた。

「暗い顔になるものではないよ、そうはならなかったのだから。次代の者達も報道を通じ、次元世界中に見せる事ができた。それにな、お前の翼も隠すのが難しくなってきたところだ、この大事件と共に大っぴらに情報を公開する事もまた出来た。政治家めいて好きなやり方ではないが、おおごとを明かすにはそれ以上のおおごとを以てすべしなのだよ」

 私は頭を抱えた。そうだ、そう言えば撮られていたのだっけ。そんな、グレアム提督はそんな事を言うけど、本当に大丈夫だろうか。
 というかあちこちで不自然なものを感じていたけど、やはりあのマスコミの方々も仕込みだったのだろうか? いや、だとすればどこから、どの時点から仕込みだったのか。
 グレアム提督は私のそんな困惑の色を感じ取ったのか、にやりと笑った。

「もっとも……本当にはやて君については計算外だったがな。闇の書に怨みを抱くものは数多い。だからこそ闇の書に巻き込まれた哀れな少女、と報道を通じ印象付け、情による救済、あるいは保護を狙っていたのだが……まさか自力で何とかしてしまうとは、大したものだよ」

 私はため息をまた一つついた。何だかこれ以上同じ事を聞いても煙にまかれてしまいそうな気がする。話題を変えるために気になっていた事を聞いてみた。

「ところで、プレシア・テスタロッサについては? 技術者としてとびきり優秀だってのはデータに載ってる事だけでも十分に分かるけど……」

 疑問に思っていた事を訊ねる。

「プレシア・テスタロッサか、彼女はな……どうやら研究が行き詰まっていたところに、ジュエルシードという誘惑の実が落ちてきたようでな。たまらず暴走してしまったという面が大きいようなのだ……接触し、話してみれば自責の念と深すぎる愛情にがんじがらめに縛られた、ただの母親であったよ」

 どこか物思いにふけるように言った。喉を湿らすためか、もう一口ワインを運ぶ。

「……たとえ夜天の書を完全に解析したところで、彼女の娘を蘇らせるのは無理だろう。アリシア・テスタロッサの遺骸は、まだそのままの状態で保存されているが……ふむ。もしかしたら、あの執念ならば、魂というあやふやな存在を情報化、あるいは魔法化する形でも……何らかの糸口を見つけ出してしまうのかもしれんがな。だがそれは果たして、幸せな形であるものかどうか……」

 独りごちるようにそう言い、ふと我に返った様子で続けた。

「プレシア・テスタロッサについてはいずれ聖王教会を通じ、夜天の書の解析を社会奉仕の一環とした、情状酌量の嘆願が行く事になっている。逃亡については私の示唆した事であるしな。先の件も含め、重罪には問われんだろう。できれば彼女の娘……フェイト・テスタロッサともども幸せになってもらいたいものだが……」

 しかし、先程から言葉の節々に妙な湿度を感じないでもない。
 これは……もしかして?
 私はテーブルに頬杖をついた。ジト目というやつを作って見上げる。

「もしかして……だけど、爺さん、年甲斐も無く?」

 グレアム提督は私から視線を外し、グラスを煽った。残念ながら空である。むぅ、と唸ってグラスを置く。私は頬杖をついたまま片手でワインを注いでやった。
 注がれた色濃いワインをゆらゆら揺らしながら言う。

「幾つになってもな、ティーノ。男は美人に弱いものなのだ」
「い……色ボケ爺さんめ」

 私が呆れたように言うと、さて、な……などと誤魔化してみせる。
 やがてふと思い出したように、私を見た。

「しかし、ティーノ、読むようになったものだな。私の元にまず訊ねてくるのはお前の相方あたりと思っていたのだが」
「いや、ある程度読んでいかないと、ティーダやクロノの話についていけないし。というかそこはクロノの名前が出るのが先なんじゃないの?」

 グレアム提督は目を細めた。ふむ、と考え深げな顔で言う。

「そうでもない。クロノはな、表面上固く、物静かにしているが、内面はひどく熱く情に脆いところがある。もっともそれは自分で認識している限り、短所にはなり得んのだが」

 対してお前の夫は、などと言いだしかけたので「夫じゃない」と抗弁しておいたのだが、鼻で笑われた。

「そうだな、ティーダ・ランスターはその逆と言っても良いだろう。クロノを将とするなら彼は策士と言っても良いかもしれん。普段から柔和で優しく、社交的に見えるが、その内面はどこか冷たいものをはらみ、自らも含めて駒として扱えるという側面がある。それもまた、理解者たるものが居ればそう短所にはなり得んだろうがな」

 ……だからこっちを見るな。にやにやしないでほしい。さっきの色ボケ爺発言の仕返しなのだろうかコレは。というか言う程ティーダは冷たくもないと思うのだけど、戦術とかは別として。あいつだって相当に感情的なところはあるのだ。
 ……いや、ペースを乱された。
 私はこほんと一つ咳払いをして言った。

「大体ね、アースラで想定してた事から考えると、八神はやてが目覚めた時点でグレアム爺さんにはもう戦う理由がなかったはずなんだよ。感情的になっているのかとも一瞬思ったけどやっぱり違和感が強すぎたし。多分そこはティーダも疑ってたと思う。どちらかというとそこで戦闘継続することで、先に逃がしたプレシア・テスタロッサが何かするんじゃないかって警戒してたみたいだけど」

 なるほどな、とほのかにアルコールが回ったらしい顔で頷いた。

「確かにあれは私らしくなかったか。マスメディアに『グレアム提督に勝つクロノ・ハラオウン』などを見せる意図があったのは確かだが……」

 そう言って腕を組み、難しい顔をした。

「どう話せば理解してくれるものか……あれはな、はやてくんが自力で起きた以上、既に予定から外れた。少々の意図もあれど……なかば手向けのようなものだったのだ。はやて君が目を覚まし、夜天の書を制御しているのを見た時、もう私の役割は終わっていたのだと感じたのだよ」

 グレアム提督は目を瞑り、静かに言った。

「私の前に立っている者たちなら、この後の処理も何とかできよう。そう考えた時、ふと思い出したのは、以前の闇の書事件の犠牲者達……クライド、そしてそれ以前にもあった暴走事故で亡くなった被害者の遺族達。私に望みを託して息を引き取っていってしまった者も居る。私は全力も出さないままに膝をつくわけにはいかなかった」

 提督は黙祷を捧げるようにしばしうつむいた。
 しばらく静かな時間が過ぎる。やがて顔をあげると、そうだ、とでも言いたげな顔になり、私を見る。

「ところでティーノ、お前は私にとって年の離れた娘のようなものだ。名付け親でもあるわけだしな」

 何を突然言い出すのだろうかこの爺さんは。
 ただ……ひどく真面目な顔だった。
 とんでもない重大事を明かすような空気、背筋を正して聞かざるを得ない。一体何を言い出そうというのか。
 グレアム提督は私の目を真っ直ぐに見据えると静かに、厳かに言った。

「孫はまだかね?」

   ◇

 廊下を歩く。
 結局私は最後までからかわれてしまった気がする。
 今し方、私が出てきた部屋から愉快そうな笑い声が聞こえた。

「……ぬぅ、まったく。まったく。重荷を降ろしてすっきりしたような笑い声させちゃって」

 私はもう一つ、まったくと独り言を漏らして歩く。廊下の角で壁にもたれているティーダが片手を上げて挨拶してくる。

「随分とご機嫌が麗しいようだね」
「ティーダ……率直に答えてほしい。私って何というか、騙しやすいというか、からかいやすいというか……そんなところがあるのかな?」

 私がそう聞くと、ティーダは大きく頷いた。

「翼の生えた猪娘だね」
「……あまりに、あまりにたとえが酷すぎる」

 私はがっくりと肩を落とした。
 ところで、とティーダが目で問うてくる。私は一つ頷いた。

「ん、まあ……どこまでグレアムの爺さんの掌の上だったかは判らなかったけど……」

 と、前置きして先程グレアム提督と話していた事をティーダに話す。
 なるほど、と一つ頷くと考え深げな顔になった。

「嘘は言ってないと思う。ただ、腑に落ちないのは……いや。クロノを表舞台に出したいというのは理解できる。彼に足りないのはその実力に見合った評価だったからね。多分今回のような事が無くても、何らかの方法で表に出そうとはしたのだろうけど」
「口ぶりでは、はやてちゃんや私を保護することにもつながるような事を言っていたけど」

 と言うと、ティーダは肩をすくめた。

「不特定の危険が多数迫っている状況ならそれはむしろ大いに『有り』だよ。知名度が高いと言うことはそれだけで安全を確保するために有効だ。八神はやてについては、その経緯、そして夜天の書そのものについても誤解を招きやすい要素が多いからね。出元からして、多分今回の事件後、聖王教会の管理下に入ると思うけど、それもまたメディアにより流され衆知されるんじゃないかな……その事もグレアム提督は折り込み済みだと思うよ」

 その説明だと、私にも不特定多数の危険がぞろっと迫っているような気になってしまう。
 顔をしかめるとティーダが笑った。

「言っては悪いけど、ティーノ、君の場合は狙われるとしても八神はやての危険度から見れば無いも同然なくらいだと思うよ。だからこそちょっと腑に落ちない部分もあるのだけど……」

 そう言ってティーダは珍しく歯切れの悪い様子を見せた。
 私が下から覗きこむと小さな声で言う。

「もしかしたら局内、身内の敵を想定しているのかもしれない」
「……えー」

 気楽だな、とでも言いたげに呆れた顔をされた。
 そんな顔をされても……正直想像がつかないのだ。身内に敵がいると言われたところで想像できなければ実感もないし……その、困る。
 考え込んだ私の頭にぽんと手が置かれた。またか。身長的に置きやすいのだろうけど、毎度毎度こいつは……

「いいさ、そういう事は任せておいてくれれば。君は僕が──」
「ティーーーノぉーーーッ! パスッ」

 唐突に土煙でも背後に見えそうな勢いで走ってきたエイミィが私に何やら渡してきた。そのまま走り去る。
 少し遅れてクロノが必死の形相で走ってきた。あまりの様子に私とティーダはさっと通り道を開ける。なぜか服装が乱れていた。

「くッ……! 待てエイミィ! それを渡せ!」
「あーーーばよーーーッ! クロノ君!」

 そんな声が遠ざかっていく。
 私はティーダと顔を見合わせた。

「なにやってるんだか……」

 そういえば、と渡されたものを確認すると以前地球で買っていたデジタルカメラである。次元世界だと帰って珍しいのかもしれない。
 中身のデータを確認すると──

「ブ」

 覗きこんでいるティーダが吹いた。
 私もまたうわぁ、と口の中でつぶやく。
 二人が走っていった方向を見てつぶやいた。

「女装少年、クロノとユーノ、二人は仲良し。始まるよー」
「や、やめっ、く……くくく、ふ、二人に悪い」

 ティーダがお腹を押さえて悶えた。うん、それだけ破壊力のある画像だった。微妙に似合っているのが凄い。特にユーノ君、この子はあれだ、大きなお友達の前にはちょっと出せない。
 私はおそらくまだ会場でリンディさんや悪ノリしたなのはちゃんにいじられているだろうユーノ君を思い、しばし黙祷を捧げるのだった。



[34349] 三章 十二話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/09/05 03:26
 闇の書事件の解決、そしてアースラでの賑やかな一夜を思い出す。
 事務所のカーテンが風に吹かれ大きく膨らんだ。
 あの時撮った集合写真は思い出としてデスクの上に飾ってある。
 ちなみに愉快犯のエイミィから渡されたクロノとユーノの女装写真も大事に保管されている。後で冷やかしてやるのに丁度いいだろう。

「しかし、あの頃はほんとにちんちくりんだったなぁ」

 なんて、自分の姿を思い出してぼやいてみる……もっとも、4年経った今でもあまり身長は伸びてなかったりするのだけど。
 ……いや、2センチは伸びた。うん。鏡を見ればなかなか良い体付きなのだ。胸とか張りがあるけど柔らかいし、尻や足とて良い形をしている。変な方向に改造された種族なだけあって、肌もすべすべで毛も……無駄毛処理にかかる手間が少なくて大変助かっている。ただ、身長が伸びない……ついでに顔もあまり変わらない。容姿のかぶる夜天の書の管制人格、リインフォースが20歳前後の見た目とすれば私は15歳前後だろうか。あまりに以前から代わり映えしないので、せめて服だけでもとバリアジャケットを大人っぽいスーツ型にしたこともあった。笑いを取ることだけには成功したけど、あれも一種の黒歴史というものなのだろう。
 私は仕事場のデスクに頬杖をついてぼんやりした。
 時節は春。今眠ると暁を覚える事は無さそうだ。
 隊舎の中は現在私と、データの山と格闘している二名のみ。
 ティーダを含めた主力は現在出払っており私達がお留守番というわけだった。

「くぁ……」
「副隊長、眠たげにしてないで手伝って下さいよ」
「私が手伝ったら君たちのためにならないから」
「じゃあせめて、仮眠室行って休んで下さい。目の前で眠そうにうつらうつらされると暗雲のごとき感情がこみ上げてきてたまりません」
「詩的な怨念を感じないでもないよね」

 そう軽口を叩き、私は画面を親の敵でも睨むような顔でコンソールを叩き続ける隊員のため、コーヒーでも淹れようと席を立った。

   ◇

 時が過ぎるのは本当に早い。
 私やティーダも既に戸籍年齢21歳、肉体年齢は多分19歳くらいである。地球であれば成人式をどっちの基準で行うのか悩まなくてはいけない頃合いだった。
 ティアナちゃん……ティアナもまた今年の夏で10歳となる。反抗期というわけでもないのだろうけど、私としては複雑な思いだった。最近一緒に寝てくれないのである。ちゃん付けで呼ぶと怒るのである。ティーダにもなかなか甘えてくれなくなってしまい、二人して愚痴を言う事も多い。
 なのはちゃんはフェイトちゃんと共に、闇の書の事件後、二人してミッドの訓練校に入学、本人は短期でと希望したみたいだけど、あの折の映像を見た教師達が基礎を学ばせるべしという方針の元、通常よりは短いものの、半年をかけてみっちり基礎を固めてきたのだとか。フェイトちゃんは魔導師としては基礎過程からしっかり教育されていたらしく、実質的になのはちゃんの強化合宿みたいな感じになったらしい。
 その後は、管理局員として破竹の快進撃。二人は魔導師としての能力もさることながら、例えばレティ・ロウラン提督などはその判断力や、モノに動じない胆力など、内的なものについて高く評価していた。
 ただ、二人とも初めて飛び出た社会というものにのめりこみ過ぎている気もする。根を詰めすぎているようなのだ。
 ティーダともちょっと話し合った結果、恭也と美由希に魔法を使い過ぎた際の体への負担などを説明し、なのはちゃんの体調管理をするように言い含めた。フェイトちゃんの方はクロノがついてるし、そうそう無理はさせないだろうけど、なのはちゃんの家族は魔法というものをよく知らない。本人が説明すると言ったので「そう言うなら……」と以前は引いてしまったのだ。
 恭也と美由希、二人の監督がついた効果はてきめんである。私と会う事に不服そうな顔で口を尖らせ「一人でできたのに……」と言うなのはちゃんもまた乙なものだった。思わずかいぐりかいぐりしてしまい、その子供扱いにますます口を尖らさせてしまった。
 ちなみに、なのはちゃんが訓練校に行くと決めた時、高町家に同行し、私も含めて魔法を使える事を説明したのだったが、その時の反応は忘れられない。
 少しは驚けばいいものを……恭也などは少し考える風に目を細め、一つ頷くと「まあ、そんな事もあるか」などとあっさり納得してしまったのだ。

「いや……そんだけ!?」
「まあ、世の中にはいろいろ不思議な事があるからな、子供向けアニメのような魔法少女の一人や二人いてもおかしくはない」

 私としてはもう少しくらいはびっくりしてくれるものと思っていたので、何だか上手くすかされた感じがする。よし、ならばと……

「実はそれだけじゃないんだ。何とユーノ君は魔法フェレットだったのだよ!」

 なのはちゃんの肩に乗っていたユーノ君を呼んで、元の姿で挨拶してもらう。
 さすがにこれには恭也も固まった。天井を仰ぎ見る。

「ああ、まあ、狐も化けるしな……鼬が化けても不思議ではない。うん、だが慣れてしまっていいのだろうか俺は……」

 どこかそんな自分に呆れたように、口の中でつぶやいていた。
 恭也は手強かった。その後幻術魔法とかも見せたり、私の持ち前の翼を見せたりもしたのだが、一向に驚かない。思っていたリアクションと違う。なんなんだ。
 ちなみに、美由希は無言でユーノ君の手を引き、自らの膝の上に乗せ、満面の笑みで抱きしめている。ユーノ君は困惑を隠せないようだった。

「ええと念のため……美由希さんや、光源氏計画は禁止だよ?」

 そう言うと美由希は絶望した表情で私を見た。まさか本当に考えていたのだろうか。
 大きくため息をつく。なのはちゃんには聞こえないように近づいて耳元でこそこそ。

「将来有望そうな美少年だからって、妹と仲良い子に手出そうとするもんじゃないよ、冗談だったとしても」

 そう言うと恨めしそうな目で見られた。

「ツバサく……ちゃんが男の子だったら良かっただけなのに……ねえねえ、魔法なんてものがあるんだったら、ええとその、生やしたりする魔法なんてないの?」

 何が? とは聞き返さない。私は冷たい目でじっとり見るだけである。

「……あうぅ」

 へたれた。

「というか美由希は最近必死すぎるんじゃ」
「だ、だって、高校生なの、花の季節でしょ? でもでも、私はというと右手に剣、左手に本、顔には眼鏡のフル装備。ふっと振り返ってみるとそのあまりのモノトーン調の自分に絶句しちゃう時だってあるんだよ!」

 まくし立てた美由希は力を失ったようにがっくり項垂れた。
 力を失った瞳でぶつぶつと「えへへ、もういいよ私は剣に生きてやる」なんてつぶやく姿は何かの暗黒面に墜ちるまで後一歩な感じである。

 ……そんな色々と悩み深きものを抱えていた美由希も今では大学生となった。何か用事があるとかでここのところ香港に行ったり来たりの毎日らしい。
 未だ美由希のお眼鏡にかなう彼氏は現れていないそうで、素敵な出会いがあることを祈ってやまない。
 恭也は既に結婚してしまったのだ。そちらに子供が生まれて、彼氏の一人もできないままに、いつ「おばちゃん」と呼ばれる身になるか戦々恐々としているという。

 八神はやて。闇の書事件の中心人物であり、現在は夜天の書の主である彼女は、聖王教会の庇護下に入った。
 夜天の書に存在した管制人格についてなのだが、バグ部分が取り切れなかったとかで、次元世界外の世界、シャルードさんが作った封鎖空間に現在封印されている。はやてちゃんは、いずれは管制人格……リインフォースを完全に復活させてあげたいとの事で、魔導師としては研究者的な方向に進んでいる。
 ただ、最近では何か思う事でもあったのか、管理局に入り、忙しく仕事をこなしていた。実体験の中から何かを得ようとしているのかもしれない。彼女は彼女でティーダやクロノとは違った意味で頭が良い。よく考えた上でのことだろう。
 闇の書がこれまで起こした事件、それへの責任をどこに問うかについてはかなり揉めたらしい。
 もちろん法的にはそれを問うことはできないのだけど、感情的な問題が残っている。ただ、グレアム提督が意図した、報道に乗せての印象付け……最後は不発に終わったけど。それにより軟化していたようで、聖王教会が管理責任を負い、またそれまでの犠牲者の遺族たちにも手当を出すことになった。はっきりとそういう保証がされた事で心情的にも区切りとなったらしい。一時は騒々しかったはやてちゃんの周辺もだいぶ落ち着きを取り戻している。
 もっとも、その代償というものだろうか、夜天の書についてはその所有権を聖王教会に引き渡される事になり、現マスターに貸与するという形になった。
 現マスターの死後、ヴォルケンリッターの面々も夜天の書ともども教会に引き渡される事になり、その契約にはやてちゃんは何度も謝っていたのだが、肝心の当人達はその辺にはあまり頓着していないようだ。ただ、はやてちゃんのその心に感じる部分は相当あったらしい「シグナムが泣いたんだ、あのシグナムが」と後にヴィータが話してくれた事もあった。

 それぞれが穏やかな色合いに包まれる中、フェイトちゃんだけは沈んだ色合いだった。
 闇の書の事件後、次元世界外に封印された夜天の書の管制人格リインフォース、依頼という形ではあったが、何より自分の娘、アリシアのためにその解析に力を注いでいたプレシア・テスタロッサが病で倒れ、眠るように息を引き取ったのがつい先週の事である。一度は私も見舞いに行ったのだが……うん、意識があまりはっきりしないらしく、フェイトちゃんをアリシアと思いこみ、穏やかに微笑む姿は、とてもあの闇の書事件時の姿と一致しなかった。
 私も複雑な気分のまま、ただ「いいの?」とだけ聞いた事がある。
 フェイトちゃんは頷いて「今は優しいから……それに母さんって呼ぶと、こっちを向いてくれるから」と嬉しそうに言うのだ。それはもう嬉しそうに。
 正直こちらが貰い泣きしてしまいそうだった。
 余談がある。後でクロノに聞いた話だったのだけど、入院中、医学的にはプレシア・テスタロッサの意識レベルは低下していなかったというのだ。

「わざとフェイトちゃんを間違えていた?」
「……その可能性もある」

 クロノも私も押し黙る。
 多分、この謎は解かなくても良い謎なのだろう。そんな気がした。

 そのクロノは当時の映像で流れた活躍っぷり、さらにその後の案件を次々片付けて行ったこともあり、今や管理局の次代を担う一番手と目されている。
 無限書庫に勧誘され、いつの間にか司書長になっていたユーノ君とは今でも仲が良い。うん、普通に仲が良いだけなのだが……知っているのだろうか、二人を題材にした……激しい腐臭を漂わせる画像データが世に蔓延っている事を。いや、知らないままの方が良いのだろう。世の中にはこんなはずじゃなかっただろう世界が多すぎる。こんな世界は知らない方が良いはずだ。エイミィが一冊持っている事も黙っておくのが懸命だろう。
 現在では若年ながら、すでに母であるリンディ・ハラオウン提督に代わり、アースラの艦長ともなっていた。士官学校時代から一緒のエイミィもまた何食わぬ顔で副官として付き従っている。

 一番状況が変わったのはグレアム提督……いや、もう称号、階級は剥奪されてただのギル・グレアムとなった爺さんだっただろう。
 四年前のあの事件、長年の功績や知名度などを考慮され減刑はされたのだけど、それでも当然ながら罪を問われる事になった。
 管理局全体への情報操作、遺失物管理法違反、騒乱罪などなど……造反罪に問われなかったのは良かったとも思うが、その背後にはいろいろ政治的な思惑が巡っていると考えるとちょっとモヤッとしなくもない。最終的な処分は、管理局からの除名及び使い魔の維持以外の魔法使用禁止、管理世界からの追放といったものである。
 ミッドの感覚からするととても重い処分とも言えるかもしれないが、内実は故郷に戻って引退しろという事だろう。
 プレシア・テスタロッサとはアナログな手紙のやり取りなどをしていたようだったが、管理世界に入れない都合上、亡くなった時も葬式に参列することはできなかった。
 入院している時、手慰みに作っていたという薔薇の造花。
 フェイトちゃんが遺品として、グレアムさん宛てにと渡してくれた手紙にはそんな造花が飾られていた。

   ◇

 コーヒーのドリップは音を立てないのがポイントだ。
 細い注ぎ口のケトルでお湯をそっと注ぐ。
 豆を蒸らしている間に、ぽこっと穴が開いてしまえば失敗だ。
 上手く膨らんだら、その中心にはじめは勢いよく、段々ゆっくり、お湯を注ぐ。
 一定に、なるべく一定に。
 ふわりと良い香りが鼻孔をくすぐった。
 疲れには甘いもの、疲れ目にはアントシアニン。暇なときに焼いておいたレーズンたっぷりのクッキーを小皿に添え、疲れた目をこすりながら仕事をしている隊員に一時の安らぎを届けに行くのだった。

 この4年で、私は二等空尉、ティーダにいたっては一等空尉となった。
 いつ頃からか、どうも二人で一人前というか、ワンセットで考えられているふしがあるのだけど……それはともあれ、現在はこれこの通りミッドチルダ首都航空隊である。隊舎がでかい。綺麗。設備もばっちり。新規発足の特務小隊であわあわしていた時とは待遇が段違いだった。
 なぜ本局勤めが首都航空隊に行くことになったかと言えば、ミッドチルダの治安の悪化が最近酷くなってきたというのが主な理由だ。なにぶん、管理世界を広げるたびに防衛隊を駐留させる必要があるので……まあ、何というか人手不足である。それにあまり海や陸の軋轢にも関係のない、ちょっとメインの実働部隊とは離れた場所にあった小隊だというのもまた使いやすかったのだろう。特務小隊という名前の雑用小隊も新たに数を増やした事もあり、うちの特務小隊がまるごと引き抜かれる形で首都航空隊所属にされたのだった。
 ついでに言えばミッドチルダ勤めという事で。実家……いや、ランスター家に戻るのが楽になり、プライベート的には歓迎だったりもする。ぐんとティアナちゃんと一緒にいる時間を作りやすくなった。
 特務小隊もまた、首都航空隊に組み入れられた事で人数を増やした、名前も変わり、首都航空隊、第18小隊と呼ばれている。そして私もまたクロノにくっついているエイミィを馬鹿にできないかもしれない、首都航空隊に来ても私は副隊長である。一応小隊指揮官の研修も通ったし……実績もそれなりにあるので、不思議がられる時もあったのだけど。うんまあ、単純に居心地の問題だった。

    ◇

 そんな忙しくも充実した日々の中での出来事だった。

「また誤情報かなあ」

 私はやれやれとため息をつきながら周囲を眺めた。
 廃村と言ってもいい。
 朽ちた家が並び、ここに潜んだという違法魔導師を検挙するのが今回のお仕事である。
 ただ、聞き込みをし、周囲の調査をしたところ、何と言うか……
 私はため息を吐き、連れてきた人員と片っ端から廃屋の調査を始める。
 このところ、情報が変になってきている。かつての闇の書事件の時とは違う形で。
 例えば違法魔導師が暴れているという報告を聞いて駆けつけようとすれば逆方向に誘導され、ようやく行ってみれば既に解決済みだったり、ロストロギアの回収作業で作業地点まで行けば何も準備していなくて、一から段取りを始めなくてはならなかったり。あげくに肝心のものが無かったというのだから目も当てられない。
 今のところ嫌がらせより酷い事にはなっていないので黙っていたのだけど、さすがに何度も何度も続くといい加減にしろとも言いたくなってくる。
 もともと特殊な立ち位置にいた部隊だったためか、首都航空隊に入ってもなかなか馴染ませてもらえず……いや、まあ次元犯罪者上がりの構成というレッテルもかなり大きいのだけど。
 端的に言えばかなり煙たがられていた。本来は同僚たる隊長達から。
 もしかしたらティーダがキャリア組というわけでもないのに若くしてどんどん昇進してしまっているので、その辺の妬みもあるのかもしれない。いや、さすがにそう悪い方向へ憶測を重ねるのは失礼なのかもしれないけど……とはいえ、悪戯めいたものでもあまり続くとなると立派な妨害だった。報告を受ける事務方も混ざっているので手に負えない。立場もあるしこの小隊自体叩かれる要素を元から持ってる。私としてもまた、長らくグレアム提督のネームバリューに助けられてきたという負い目もあった。いろいろあって抑えてきたのだけど、そろそろがつんとかましておいた方が良いのかもしれない。
 はあ、とため息と共に、心に溜まってしまった毒気を抜く。
 そんな嫌がらせも本来の任務との割合からすれば1割くらいなのだ。大体はまっとうな任務であり、今回も本当に違法魔導師が逃げ込んでいるのかもしれない。まったく痕跡が無いだけで。
 空っぽの廃屋に突入し、制圧し、調査し……虱潰しに一軒一軒調査を進める。

 結果は白。全く問題のない廃村だった。雨風避けに住んでいるらしい野良猫の一家を脅かしてしまったのはちょっと申し訳ない。
 若干、またか、と暗い感情も湧いてきてしまったけども、何もないならそれに越したことはないと割り切る。
 気の抜けた声で撤収を告げると、隊員もまた緊張が抜けたのか、軽口を叩いてきた。

「そういえば副隊長の統率で主力が出るってのも珍しいですね、もしかして隊長どのと何かありました……ハッ!? もしや破談? これは俺にもチャンスが?」

 私は無言で、デバイスを構えた。数あるデバイスの中でもこれほどにフォームチェンジが早いものもないだろう。最適化の結果である。所要時間は以前の測定で0.04秒。ハリセン型に変化したそれには一罰百戒という四文字熟語が浮かび上がっている。
 閑静な田舎の廃村にツッコミの音が鳴り響いた。

「ああ……癖になりそうっス」

 変態じみた事を言う隊員をさらに一つはたいておく。
 まったく、とつぶやいて私は皆より先にずんずん歩き出した。
 現在ティーダは、違法魔導師の捕縛にあたり、増援要請があったのでそちらに出向いているのだ。人数より少数精鋭が欲しいような事を言っていたので、隊長補佐であるラグーザと二人で行ってもらっていた。状況次第ではあるものの、早ければ私達が帰投した時にはすでに戻っているかもしれない。

   ◇

 近くの転送ポートまでは車で移動することになる。
 まったく舗装されてない悪路なので、さすがに揺れがものすごい事になっていた。

「うええ……飛行許可取れば良かった」

 行きがけにもそう思ったのだけど、かなり辟易としてしまう。別に都市部というわけでもないのだから、簡単に許可は下りると思うのだ。速度を要求される任務でなかったとはいえ、面倒臭がらなければよかった。
 途中開けたところにさしかかった時だった。
 突如、緊急連絡のコール音が鳴り響いた。
 私は車を停めさせた。魔力が空になっても緊急時に使えるようにと、隊員一人一人に持たせているもので、水の中でも火の中でも使用できる。ミッドでは旧型だが、なお根強い人気のある無線式だった。
 その連絡はラグーザからだった。息が荒い。

「……嬢……すまねえ、隊長が……いや、応援の要請は……そちらには行っては……?」
「いや、来てない。ティーダがどうか……いや、現状を報告してほしい」

 少しの沈黙があった。先程よりは息を落ち着かせ、応えがある。

「隊長は一人で……多数の魔導師と交戦中、罠だ。負傷した俺に……応援を要請するようにと……ぐ、お嬢、こりゃ、悪意を感じる。誰かの悪意だ。何でもない悪戯のように見せて全部が仕込みだった。俺も慣れた感覚だ、かつての──」

 通信状況が悪くなったのか、負傷によるものか、声が途切れた。
 私は唇を噛んだ。血の味がする。落ち着け、落ち着かないと。ここには現状、私以外に判断し、なんとか出来るものはいない。私が、私が判断しないと。
 応援の要請がこちらに届いていない、本部を経由し、他から人員を補填するとしても、最低限同じ部隊であるこちらにも通達は来るはず、どこでストップがかけられた?
 いや……疑い出せばキリがない。怪しきものには触れず、慎重に、迅速に動くのが最善だろうか。
 転移は……いや、最悪転送ポートも抑えられている可能性が。単独での転移に使えるほど転移先の座標は判っていない。なら……
 私は命令待ちで待機している隊員に向き直った。

「聞こえただろうけど、現状とても不鮮明な状況下に置かれている。事態がはっきりと判明するまで、軽挙盲動は禁じる。ラグーザの通話ポイントは割り出せた、恐らくかなりの負傷している。ラグーザを回収次第もっとも近い病院に搬送、治療を受けさせ、そのまま待機していてほしい。指揮はシリン、君にお願いする」

 特務部隊の立ち上げ、それ以前よりラグーザと一緒に居る古株だ。口数が少ない。
 シリンは一つ頷き「お嬢は?」と短く問うた。

「私は現地に行く。本部には近づかないで欲しい、それと隊舎にも。もし敵というものが居た場合、真っ先に抑えられている。出頭命令を受けても本部以上のものが出てこない限りは受けなくて良い。責任は私が持つよ」

 そう口早に言い、車両から、航空隊本部ではなくその上の司令部に直接連絡をした。
 オペレータに短く現状報告とティーダの出向いた任務地点までの空域を全力飛行することを告げた。突然の事に驚き、慌ただしくもう一度聞き返すオペレータに、許可を待つ時間もない。と言って通信を。
 背中の翼を開き、幻術を解く。映像で知れ渡ってはいたけど、慣習というものでやはり普段は隠していた。
 大気の清涼な魔力の流れを感じた。山の方がやはり魔力素も綺麗に思える。
 それを楽しめるような気分でも状況でもないのだけど。
 空に浮かび、一つ大きく翼をはためかす。
 方角を確認し、魔力を推進力に変え、一直線に飛び出した。
 加速する、加速する。
 空気が重い。
 音の速さに近づき、空気がそのまま圧力となる。バリアジャケットへ注ぐ魔力を強めた。
 爆発のような感覚と共に空気の壁を突き抜けた。
 水蒸気の雲がはるか後方に流れていく。
 なぜだろう、判らない。本当に判らない。
 理屈では説明できない不安が心に染みを作り、広がっていく。
 日頃動物的とか言われる直感が悲鳴をあげる。
 こんな時こそ、グレアム爺さんがくれた私の名前、理性なんていう、私の名前の意味が必要なのに。
 歯がみをした。

「もっと、もっと速く」

 魔力をありったけ込め、私は飛んだ。



[34349] 三章 十三話
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/09/05 03:28
 雨が降り出した。
 陰鬱な雨。
 暗い雲。
 地表に影響を与えないように高々度で飛行していた私は、その勢いのまま雨雲に突っ込み、閉ざされた視界に舌打ちをする。

「なんで私はこんなに焦って……」

 首を振る。

「ティーダなら大丈夫、あいつはデバイスこそ変わっているけど、管理局魔導師の正当派。しぶとく立ち回ろうと思えばあいつほど粘れる者はない……」

 大丈夫、と再び口に出す。
 デバイスの演算によれば、ティーダが出向いた地点の上空にもう少しでさしかかるところだった……っと、隊員達から連絡が入っている。ラグーザは無事救出したらしい。命に別状はないようでまずは良し。
 私は減速しながら、高度を下げ始めた。

   ◇

 上から眺めるとそこは活気のない、片田舎と呼んでもいいだろう、どこにでもあるような街だった。
 小雨が降り続く街は、まだ日暮れには少し早いというのに薄暗く見える。
 焦る気持ちを押し殺し、オプティックハイドの魔法で身を隠した。建物の屋上に、極力音を立てないように着地する。
 激しい魔法戦闘のようなものは感じられない、とするとティーダの事だ、地形を利用して潜伏しているはず。
 私は幻術魔法が解けないよう、慎重に移動を始める。今更だが闇雲に来てしまった。まずは情報収集から始めないといけない。
 集合住宅らしき建物の管理用はしごを降りていると違和感があった。

「人がいない……」

 人の声、歩く人の姿、生活音……この雨の中、通りに人影が無いのは判るが、室内からもまったく聞こえてこない。
 ベランダ部分まで降り、部屋の中を覗きこんでもやはり人の姿がない。いや、少し前まで人が居たようだ。ネットワーク端末の電源が入ったまま放置されている。その画面には大きな文字で警告が流れていた。

「緊急避難勧告? A級次元災害の可能性……」

 そんな情報は通達されてなかった。まさかと思い、私のデバイスの機能で管理局のデータベースに接続してみると……エラー。おかしい。
 ラグーザは罠と言っていた。もしかすると、これは一帯の情報が何らかの手段で断たれている? その上で偽の避難勧告を出したのか。
 住人を巻き込まないためだとしたら、良心的と言えばいいのか、あるいは単純に不確定要素を入れたくないゆえか……どのみち計画的なものだった。しかもこれだけ大がかりにするとなると余程に周到な──
 何か感じた。
 魔力の動きが続く。
 交戦を始めたらしい。規模は小さい。小競り合い、あるいは探り合いのような……
 私は身を翻しベランダから飛び出した。地面まで20メートル少々、翼を広げて空気を掴む。さすがに飛べるわけではないものの、勢いを殺す事くらいはできる。
 たん、と軽い音を残し、私はそのまま走り出した。魔力の揺らぎは近づいている。
 建物の向こうに空に飛んで行く魔法の残滓が見えた。
 息を飲む。慌てる自分を抑え、指向性の念話をその方向に向けて放った。

(ティーダ?)
(……君が来たのか!)

 驚いた様子が伝わる。
 念話で、一声聞いただけで、安堵の感覚が広がるのを私は覚えた。何とも呆れる。我ながら現金なものだった。

(来ちゃった、てへとでも言っておこうか? ラグーザは主力メンバーが救出、病院に行ってる。命に別状は無し。私はティーダの位置から南側400メートル付近で隠匿状態。さて、ご注文は?)
(それは丁度よかった、店員さん、魔力切れなんだ。満タンで頼むよ。合流地点は座標を送る。合図と同時にいつものをセットで)

 了解、と答えると同時に合流地点の座標指示がデバイスに転送されてくる。
 いつもの、というのはお馴染みというか十八番ともなってしまった広域射撃魔法である。基本中の基本のシュートバレット、それを私の特性に任せて大量放出する魔法だった。
 何時までも安直な名前じゃなんだし、せめて名前だけでも強そうに、という周囲の意見を取り入れ、デバイスに登録された魔法名はちょっとだけ格好良くなっている。
 中身も最適化することで、少しは威力も使い勝手も上がっているはずなのだけど、やはりこれの使い所は後方からのアシストにあった。
 念話で短く合図が送られ──

「ショット!」
『Shooting Star』

 小型魔法陣が24、発射台たる魔力スフィアが同じ数だけ浮かぶ。その一つのスフィアより80発。大量の魔力弾をひとまとめにティーダの居る一帯に撃ち込んだ。
 魔力識別のルーチンを取り入れることで、フレンドリーファイアを防いでいる。誘導弾ほどしっかり操作できるものではないものの、登録された魔導師の近くは避けるようになっていた。
 一発一発の魔力弾そのものはやはり大した威力でもないのだけど、目くらまし、牽制、攪乱何にでも使える便利な攻撃魔法となっていて、最近では私の攻撃といえばこればかりだったりする。

「……しまった、民間人の確認してなかった」

 やはりまだ慌てた部分が残っていたのだろうか。多分もう民間人は居ないと思うけど、万が一を忘れていた。いやまあ、当たっても魔力ダメージで気絶するくらいの威力なのだが、その場合は日本式土下座で許しを請うことにしよう。
 ともあれ、軌道計算通り、魔力弾の爆撃じみた私の射撃はしっかり届いたようだった。
 目に痛い銀色の魔力光が着弾地点一帯に広がる。前情報無しにこれを受けた敵方はそれはもう驚くんじゃないだろうか。
 この騒ぎでティーダは離脱したはずだった。私もまた幻術魔法で身を隠し、合流地点である場所に向かう。

   ◇

 魔導師が追撃を躱しながら撤退を考える時、上へ上へと行くのはある意味セオリーだった。
 浮遊の魔法だけならわりと誰でも扱えるので、魔力切れ、あるいは負傷でもしているのでなければ落ちてしまう事も少ない。
 周囲にビルなどの背の高い建物があり、飛び出せばすぐに遮蔽物に隠れられる。そんな場所が一番良かった。
 そう、こんなあるホテルの3階付近などはおあつらえ向きである。
 ただ……

「理由が合理的なものってのはわかるけど、何だかそう、釈然としないんだけど」
「ぼやかないぼやかない。屋外プレイを見られないように設計したんだろう。こんな遮蔽物だらけで、かつ接近してくるのが確認できるような場所はないよ」

 そう軽そうに口を動かすティーダもさすがに表情は疲労困憊といった感じである。どこに潜伏していたのか、服は薄汚れ、髪もまたぼさぼさになってしまっている。どうでもいいがプレイとか言うな恥ずかしい。
 左腕を怪我していたので、治癒魔法と、応急の血止めとして救急キットの包帯を巻いておいた。最後にばしんと叩くと、痛みで硬直する。非常に面白い顔になった。

「……うぐ、ティーノ、それは、ない」
「心配させた罰、大体負傷したからってラグーザを先に逃がして……ティーダの事だから囮役とかやってたんだろうけど、私が間に合わなかったらどうなっていたか判る?」
「どうにかなってたら、君は泣いてくれるだろうか」
「遺品として出てきたティーダの机の上から二番目、二重底の中に入っている秘密ボックスの中身があまりに情けなくて泣いてあげる」

 ティーダの口があんぐりと開いた。わなわな震えて、なぜそれを……とつぶやき絶句する。隠し通したつもりだったのか。

「それはともかく……」
「い、いや、ともかく……じゃなくて、中身は見て……いや何でもない」

 分かり易く動揺している。うむうむと頷き、座っているティーダの後ろから頭に手を置いた。
 はねている髪を軽く手串でなでつける。本当に、間に合わなかったらどうなってしまったのだろうか、まったく、こいつは。

「……ともかくとして、あの子は? 民間人みたいだけど」

 ティーダが保護していた様子の女の子、年齢は見たところ6歳かそこらだろうか。どこかぼやけたような目をしている、長い黒髪の女の子だった。どこでも見かけるような白いワンピースを来ているが、ところどころが汚れ、ほつれている。どこかぼうっとした様子でそのホテルの室内をガラス戸から覗いていた。何というか非常に教育によろしくない。その手の用途に使われるホテルなのだ。しかもお金持ち用の。子供に覚えさせたくないような設備もまたしっかりばっちり揃っている。

「ああ、多分住民じゃないかな? 避難勧告がこの地域に限って出ていたのは知っているかい? 多分その時にでもはぐれたのだと思うよ。敵部隊に追われている時に巻き込みそうになったから保護してきたのだけど……どうも、話しかけても何も答えてくれなくてね」

 困った顔で頭を掻く。せっかく整えたのにまた乱れてしまった。
 私も近づいて話しかけてみたのだけど、こちらを向いてくれもしない。
 どうしたものかと悩んでいたのだが……どうやら悩むだけの時間も私達にはなかったらしい。

「……ティーダ、微弱な魔力反応がある。多分飛行魔法でこっちに来てる」
「それは、また思ったより早い。この戦闘が始まってからずっと思ってる事だけど、よほど優秀な狩人がいるようだね」

 ティーダは顎に手をやり、目を細めた。集中し、考えを纏めているのだろう。
 よし、と口の中でつぶやき、私を見た。

「ティーノ、魔力は回復させてもらったし、僕が抑えている間に君はその子を連れて……」
「さすがにそれが合理的じゃないのは私でも判るんだけど」
「うん、言ってみたかっただけ」

 私はすかさずツッコミを入れておく。敵も迫っているというのに何を言っているのか。

「用意周到に練られた計画だというのは交戦しててもよく判る。この地域ごと封鎖されている可能性もまたあるだろうし、保護対象を抱えたままでの撤退行動は危険すぎる。だから、ここで叩こう。少なくとも僕らが余裕を持って撤退出来る程度のダメージを。僕が確認した限りでは相手の魔導師はランクで言うならAそこそこ、印象を一言で言うなら元軍隊の傭兵。数は多分10人。逃げてる間の交戦で3人は何とか無力化したから残りは7人だ、個々人の戦闘方法は……」

 ティーダの前に手をかざす。どうやらタイムアウトのようだった。
 魔導師がこちらに近づきつつあった。遮蔽物があるので直射的な攻撃は飛んでこないが、そろそろサーチャーと共に誘導弾を届けてくるかもしれない。
 私はティーダとアイコンタクトを取ると、一つ頷いた。

「ごめん、ちょっと騒がしいけど大人しくしててね」

 そうできるだけ優しく声をかけ、少女を抱え、高そうなガラス戸を破り室内に入る。
 後ろでティーダが魔法を使う感じがする。遅延型魔法で罠を張っているのだろう。
 ホテルの通路を走り、豪奢な階段を一飛びに降りる。一階のロビーの奥に管理人室があるのを見つけた。

「ここでちょっと待っててくれるかな? お姉ちゃんとお兄ちゃんは少しやってくる事があるからね」

 相変わらず女の子は反応を返してくれない。ただ私の目を見返すだけだった。困った気持ちになりながら、ドアを閉める。あまりのんびりもしていられない。
 私はデバイスの周囲に魔力刃を展開させた。
 さすがにフェイトちゃんやシグナムと真っ向から挑めるほど近接が強いわけでもないけど……こういう屋内のような限定空間では私とティーダの立ち位置は往々にして変わる。
 階段を降りたすぐの広間に戻ると魔力の揺れをかすかに感じた。
 一瞬はっとするが、私はため息を吐き、念話で呼びかけた。

(首尾は?)
(上々、篭に閉じ込めて、後は蓋をするのみだね)

 ティーダは幻術魔法で姿を隠したままそう答える。上々と言うからにはかなりえげつない罠になっているのだろう。こいつと模擬戦する度に思う。そうだ、京都行こうって。そんな現実逃避を覚えてしまうくらいにはえげつないのだった。
 私は顔も知らないまだ見ぬ敵さんが酷い目に合うのを予測し、ちょっとだけ同情を覚えた。

   ◇

「でめぇ……らあ……よくも」

 言いかけたへろへろになっている男を魔力刃でさくっと刺して昏倒させる。
 ぐったりした男を広間の端っこに寝かせた。
 これで五人目。
 と、もう一人が勢いよく飛んできた。
 個別に来ているのはティーダの罠によって分断されたのだろう。多くても二人が一度にかかってきたのみだった。
 この一人は威力のありそうな魔法を溜めている。砲撃のアレンジなのだろう、砲撃魔法は、密度の高まった魔力の制御や、魔力減衰だのを考えた複雑な計算も必要になってくる。撃つことはできても、まともに当てるのが難しい。そんな連中の考える事はやはり同じで、至近距離、クロスレンジでの砲撃魔法ぶっぱなしだった。
 しかし残念。
 私が広間の真ん中に立っているから突っ込んで来たのだろうけど、実のところ囮役でもあるのだ。私はパッと見すごい弱く見えるそうで、たとえ罠でもこれなら強行突破できる、と思わせてしまうのだとか。極上の釣り餌だとティーダに言われた事があった。なんちゅう例えか、とその日は釣られる魚をかたどったニシンパイにした覚えがある。
 幻術魔法で隠れているティーダのバインドが足首にかかる。
 減速し、体勢を崩した男を横凪ぎに凪いだ。
 6人目。ティーダが確認した人数だとあと1人。

「ん、ひとまず終了だよ」

 そう言ってティーダが姿を現した。
 何でもバインドにかかって、バインドブレイクをしようと頑張っているうちに魔力切れになってしまったのが1人いたのだとか。

「なんて……間抜けな……」

 でも判る。判ってしまう。バインドもすぐ解けるように見えて延々ループするから。
 新年に遊びでやったクロノとティーダのバインド地獄を思い出す。
 あれは模擬戦室で遅延発動のバインドを2人が次々と設置し、ゴール地点までたどり着ければ豪華賞品プレゼントという催しだった。
 2年ほど連続でやってるものの、今のところ豪華賞品をとった猛者は出ていない。

 確認作業をしていたらしい。
 ティーダがサーチャーを戻し、少し迷うそぶりを見せると別方向にも飛ばす。
 私はその間に女の子を迎えに行き、連れて戻ってみるとティーダが訝しげに眉をひそめていた。

「おかしい。さっきの連中はほぼ前衛ばかり、鼻の利きそうなのはいなかった。なら後方にそれが居るはず、人員に動きが出ないのは……」

 おかしい、と再び言った。
 考え込むティーダの手を引く。

「向こうからの動きがないなら、こちらが動くしかないよ。救援が来る前提なら持久戦もいいけど」

 なおも考えながら、そうだね、とティーダが言った時だった。
 時を知らせる教会の鐘が鳴り響く。もうそんな時間になっているのか。

「やれやれだね。早く帰らないとティアナちゃんに叱られちゃうよ」
「うん、まったくだ──」

 ティーダの目が開かれた。
 私の右後ろを見ている。
 なんだろうと、私が振り向くと、悪い夢から醒めたような女の子の目とぶつかった。
 私は思わず固まってしまった。息を飲む。なんという目なのだろうか。
 憎しみに凝り固まり、それ以外に存在しなくなったような……まるで地獄のような目。子供の目とはとても思えなかった。
 女の子は一言「かたき」とつぶやき、私に手を伸ばした。

「離れろッ──」
 
 ティーダが割り込んだ。

 爆発音。光。煙るような嫌な臭い。

   ◇

「ああ」

 声が聞こえた。

「ああ、ようやく、だよ。はは……」

 足音にぐちゃ、という湿った音が混じる。

「ティーノ・アルメーラ。幾度もお前を憎んだ、だがこれは愛情とも似ているか。ああしかし、ようやく手にできるな、お前を」

 名前を呼ばれた事からだろうか、目が覚めた。
 体がきしむ感覚がある。
 目を開ける。焦げた天井が見えた。

「……なんだお前は? もうこの娘を手にした今、用済みだぞ?」

 首を動かす。
 ティーダが見えた。怪我をしている。
 血が……ああ、そんなに血が出たらお前、危ないんじゃないか。

「まあ、こんな時くらい、盾にならないと、ね」
「そうかね? まあいい」

 銃声がした。
 魔法じゃない。
 ティーダの足、血が飛び散って。
 体が崩れ落ちた。

「あ……」

 なんでこんなに喉が渇いているのだろうか。
 声が出ない。
 認識する。
 理解してしまう。
 ティーダが深く傷ついているのを。

「……あぁ」

 身を起こした。
 体がぎしぎしする。
 右手が折れ、ねじ曲がっている。
 でもいい、左手は無事だ。
 足も動く。
 頬に火傷をしてるようだがどうでも良い。

「おお、起きたか、起きたかティーノ、くく。どうだ、お前の男はこのザマだぞ、どうした、悲しまんのか?」

 太い男が居た。拳銃を持っている。
 かつて、私が初等科に通っていた頃、マフィアを潰すためだったが潜り込んだ事がある。その時のボス。
 私達が122管理世界に派遣された時も少し見た覚えがある。トロメオ……だったか?

「ああ長かったよ……あの折生まれたゴドルフィンの娘を養育し、お前達への憎しみで心を染めさせるのは、本当に良い成果をあげてくれたものだ」

 やっと理解できた。
 女の子の肉片があちこちに散らばっている。
 もう痕跡も留めない……そのくらいにばらばらになってしまったものが。
 この男はそれを踏みつぶし、あざ笑っている。

「どうだ、悲しまないのかな? 私はそれが楽しみだったというのに……ふむ」

 やはりこの男か、とティーダに再び銃を向けた。
 無造作に撃つ。肩から血がしぶいた。

「あ……あ、ああッ!」

 私はよろけた体で飛びかかる。
 男が私に発砲した。銃弾が私の足を抉る。
 魔法でもないのに防げない、当然か、バリアジャケットは解けてる。
 呻き、たたらを踏む。勢いを殺され、前のめりに倒れた。ばちゃりと血溜まりの中に顔が浸かった。鉄の味がする。
 男の肩あたりには黒光りするサッカーボールほどの球体が浮かんでいる。

「最近、どこからか流れているものでな。魔導師への切り札とも言える。使い終われば回収していくらしいな。誰かが試験運用でもしてるのかともっぱらの噂だ」

 男は軽口を叩くようにぺらぺら喋ると楽しげに笑った。
 私は崩れそうになる体を何とか持ち上げ、立ち上がる。
 男はそんな私を見ると一層楽しげな笑みを浮かべ、右手を上げた。
 意識がそいつに集中していて気付かなかった。囲まれている。
 何人だろうか……魔導師というわけではないようだ。皆ごてごてしい武装をしていた。

「手足を狙え、体と頭は綺麗に残すのだ」

 男がそう命令を下し。上げていた手を振ると、囲んでいた連中は一斉に撃ち始めた。
 銃弾が太ももに食い込み、抜ける。
 痛みは感じない。熱いだけだ。
 私は歯を砕けるかというほど食いしばり、一歩前に踏み出した。
 銃弾が肩口にめり込んだ。骨で止まったのだろう。
 姿勢を低くしてもう一歩。
 止まらない。止まれるはずがない。
 顔をしかめた男がさらに合図をした。
 何発もの銃弾が手足を削ってゆく。
 私は獣のように叫び、飛びかかった。

   ◇

 気がついたら私は、私自身も血を流しながら、ティーダの頭を抱えていた。
 周囲には私達をこんな目に合わせた連中が倒れている。結構ひどい事になっているのだが、正直何の感慨も湧かない。感覚が麻痺している気がする。
 私は頭を振った。まずはやること……病院にいるはずのラグーザとシリンに向けて連絡を入れておかないと。
 すぐに返事が来た。どうやらかなり上の組織が動いてくれたらしい。既に動き始め、こちらに到着するという。

「……そんなに傷だらけになって……勿体ないなあ、肌綺麗なのに」

 ティーダがそんな事を言った。
 こいつは判っているのだろうか。

「馬鹿、私は……どうでもいいんだ。こんなの治る。ラエル種舐めるな。でも、でもさティーダ、お前はそんな……治らないんだぞ?」
「それも……そうだったね」

 くく、と小さく笑う。

「あれ?」

 ティーダの焦点が合わなくなった。まずい。

「駄目だ、駄目だよティーダ、今気を失っちゃ、しっかり意識を持って!」
「……ティーノ、一つだけお願いを聞いて貰えるかな」

 にへら、と笑う。こんな時でも茶化すかのように、こんなに危ない時にも。私は縁起の悪い事を抜かすなと内心罵り、耳を傾けた、

「欲しいものがさ……あるんだよ」
「うん……うん」

 声が段々小さくなる。息が細切れになっている。

「前から……欲しかったんだ、もらえるかな」
「……まって、何でもやるから、気をしっかり……ね?」

 ティーダは途切れ途切れに言った。さすがに声が小さすぎ、私は耳を寄せる。
 どこか笑いを含んだような声でぽそりと囁いた。

「君のしょじょ」

 私は吹いた。

「……ティーダ、こんな時に何を馬鹿な事を言って」
「くく……そんな泣き顔見せるから……馬鹿な事の一つも、言いたくなる」

 荒い呼吸の中、ティーダは口角を少し持ち上げた。

「で、答えは?」

 と言うので、私はそっぽを向いた。
 涙を拭う。
 今更なんというか、なんといえばいいか。ああもう頭がまとまらない。
 大体少しは時と場所を考えれば良いのだ。あの女の子の事もある。何で死ななくちゃならなかったのか。何でこんなにティーダが傷ついているのか、何で私はこんなに治癒魔法がへたくそなのか。
 むせ返るような血の臭いと硝煙、焦げ臭さの中、頭の中もぐちゃぐちゃだと言うのに、そんな事を言われても困る。困りすぎる。
 混乱し、答えに窮した私はとうとう白旗を上げた。

「うう、もう……いいよ勝手にすれば。望むなら処女だろうが何だろうが勝手に持って……ん、処女?」

 そういえば私の場合どういう扱いになるのだろうか。
 精神はいろいろ混ざりものだけど……体はアドニアのわけだし……とすると、あれ?
 私は思い出すがままに答えた。

「あ……ごめんティーダ、それはちょっと……とっくにないかもしれない」
「な……に……!?」

 ティーダは目を大きく開き、慌てて上半身を起こそうとした。
 傷口から血が噴き出す。

「おぁ……?」

 一声残して倒れる。そのまま昏倒してしまった。
 私はあっけにとられていたが、我に返ると慌てた。それはもう慌てた。

「ティーダ、ティーダ! 馬鹿阿呆間抜け! そんなんで意識失う奴がいるかッ! 処女厨か? ネット掲示板とかでたまに見る処女厨とかいう奴の1人だったのか!?」

 私は襟首掴んで揺すりたい衝動をひたすら抑えた。
 まさかこのまま、最悪の方向に行ってしまうとしたら……

「そんな最後は間抜け過ぎるぞ、ティーダあああッ!」

 私の渾身の叫びが、静まりかえり動くものも居ないホテルの中にこだました。



[34349] 三章 十四話(本編終了)
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/09/15 02:32
 しゃり、しゃり、という音が妙に響く。
 静けさゆえだろうか、あるいはこの部屋の音響のせい?
 別に何か問題になるわけでもないのだけど、何となくこだわり心が疼いて、包丁捌きに集中する。
 綺麗に丸く剥くには角度を一定に、細かく上下に揺すりながら剥くのがコツだ。かつらむきの要領である。
 少々時間がかかりながらも皮も途切れず綺麗にリンゴを剥き終えた。うむ、自己満足でしかない。
 切り分け、爪楊枝を刺す。

「ほりゃ食え」
「ん」

 ティーダが口を開けるので、切ったリンゴを食べさせる。
 ドラマとかでよく見るシーンだったけど、実際やってみると何とも普通というか。何の感慨もないものだ。普通に介護する気分である。
 私も一個リンゴを口に運ぶ。程よい酸味と甘みが口いっぱいに広がった。
 ベッドのサイドテーブルに頬杖をつく。

「まったくねえ、あんな事言って倒れた時はどうなるかと。心配させてくれちゃって」
「……いやいや、さすがに僕もあれを最後の台詞にくたばるのは勘弁願いたいね」

 そういうティーダは左腕を欠損させていた。
 右手は無事であったけどそちらも負傷により現在包帯でぐるぐる巻きにされてしまっている。
 リンカーコアの伝達経路も破壊されてしまったとかで、魔導師としてはピリオドを打たれた形になってしまった。
 それでも……うん。

「普通の二枚目だったら死んでいた所だったね。こう、ドラマの中で最後の格好良い言葉を伝えて逝く役」
「……二枚目半とかいう奴で良かったよ僕は」

 まったくだよ、とリンゴをもう一つティーダに食べさせる。
 静かな病室にしゃくしゃくという、小気味良い咀嚼音が響く。
 
 先の事件からすでに二日ほどが経過していた。
 搬送されて丸一日目を覚まさなかったティーダも、意識を回復して以後は容態も安定し、命には問題無いらしい。
 私に至ってはある意味ティーダよりはるかに重体だったのだけど、そこはまあ、ちょっとちぎれたくらいなら生えてきてしまう、トカゲもびっくりの種族である。栄養を取り、一晩寝たら動けるくらいには回復していた。
 私達が病院に搬送された後もいろいろ動きはあったようだ。
 かつて、闇の書事件の折に役に立たなかった事への反省から強化された査察部が本局より派遣され、様々な不祥事が明るみに出てしまったのだとか。
 元々は首都航空隊の予算の使い込みから始まった事だったらしい。ギャンブルで溶かしてしまった中隊長3名に金銭の工面をつける形でつけこんだのが、あのマフィアのボスだったようだ。ここにきて初めて名前を知ったのだけどバイロン・トロメオなんて名前のようだ。さらには本部の事務方、オペレータ含む8名も検挙される事態となってしまった。
 犯行の動機については、まあ……何というか私怨である。しかも私への。二度関わった事でとんでもない怨みを買っていたらしい。
 また、122管理世界での、かつての共和政府軍の残党を取り込んでいたとかで、今回私達が戦っていた魔導師達はそんな連中だったようだ。
 亡くなった少女については、名前も調べがつかなかった。
 本当にあのヴェンチア・ゴドルフィンの娘であったのかすら判らない。ただ、あんな死に方はどんな理由があっても認められるものではなかった。あまりにも救いがない。
 マスコミにも当然隠しておけるわけがなく、航行隊本部は蜂の巣を突いたような騒ぎになっているらしい。私も今回はいろいろ無茶を押し通してしまったのだけど、今はそれどころではない様子だった。

   ◇

「ところでさ」

 ティーダがふと思い出したかのように言った。

「もうかなり長い付き合いだけど、その、君に男の影とかはまったく見えなかった……ええと、彼氏とか……いるのかい?」

 私は頬杖から自分のあごがずりおちるのを感じた。
 何を言い出すのか、私は呆れて、いやいや、と手を振る。

「いるわけない、いるわけない」
「でも、ええと、そのなんだ。あの時処女はとっくに……なんて言っていたのは、そういう事なんじゃ……どういう事なのかな、なんてね」

 ティーダは頬を掻き、私から目を逸らし、妙に歯切れ悪くそう言った。
 そうか、うん。そうだよね、普通はそう思う。それであんなに驚いていたのか。
 私は軽く唇を噛む。何となく空中を眺め回した。目が泳ぐってのはこんな感じなのだろうと自分で思う。目を閉じ、ため息をついた。
 年貢の納め時、というやつなのだろう。
 私の過去の話はずっとティーダには言ってこなかった……というか、ティーダはティーダでいろいろ勘づいていたふしもあるけど。
 今までなあなあで済ませてしまい、ちゃんとした話はしていなかったのだ。1年経つ毎になおさらその事は話しにくくなってしまって……時に「話さなくちゃ」と思う事はあれど、同時に「何事も無しにいけるならむしろこのまま……」などと思ってしまう事があった。
 私は病室に備え付けの冷蔵庫から冷たくしてある紅茶を出してきた。
 グラスに注ぎ、ティーダに渡す。
 私も自分のグラスに注いで、一口飲んだ。
 笑顔を作り、ティーダを見る。ああもう……困ったものだ。力無い笑顔とやらになっているのが自覚できる。

「ティーダ。いつか言おうと思ってた話をするけど……引かないで? いや……引いても良いんだけどさ。正直、私も結構な覚悟して話すから」

 雰囲気を感じ取ってくれたのか……ティーダは真面目な顔になり、静かに頷いた。
 私はどこから話そうかと思い、考える。また一口、紅茶を含み、ゆっくりと切り出すのだった。

「朝起きたら蜘蛛になっていた男の話って知ってるかな、以前古本屋で見つけてつい買っちゃった本。リビングに置いてあるんだけど……私もまた、似たような事が出発点になってるんだ」

 気付いたら自分が何者かも判らない存在になっていたこと。
 その原因があの次元世界外で出会った神様モドキの仕業だろうという推測。
 来訪者だったのだろう薄れ行く命だけで身体のない男性、死んでしまったアドニア、元よりアドニアに封入されていたプログラム人格。それらがこね合わされ、乱雑にまとめられた存在であったこと。
 混ざっている男性の記憶は、段々薄れてはいたのだけど、初潮を境にその勢いが増し、もうほとんど脈絡ある形としては残っていない。ただ、やはりジェンダーについての悩みは色濃く付きまとっている事。
 そして今の私の中核ともなっているアドニアの過去。
 心は身体に隷属するのか、身体は心に隷属するのか。正直判らないけど……不安定だった様々な記憶が統合され、安定して以来、もっとも自分の記憶だと感じられるのが彼女の記憶だった。
 もっともこの記憶は穏やかとはほど遠い。
 偶然、一番初めに最高の存在が出来上がってしまったゆえの研究所の暴走。そこで生まれた、本来なら使い潰されてしまうはずだった命。
 いずれ父と呼ぶ事になる研究員に助けられた後も、紆余曲折の果てに苦しんで、すり潰されるように消えていった。
 研究所において封入されていたプログラム人格……私が亡霊さんと呼ぶその存在の事は、ティーダの長年の謎を解決したようだった。私が時折ひょいと持ち出していた知識がどこから来るのか不思議だったらしい。

 一通りを話し終えた時、すでに日が傾きはじめていた。
 沈黙が空間を占める。
 私もまた、その沈黙をあえて破ろうとは思えなかった。
 空になったグラスをふらふら揺らす。
 あごに手を当てて、考える様子を見せているティーダが息を吐いた。微笑を浮かべて私を見た。

「いろいろ過去にあったのは判ったけど……ティーノはティーノだよね?」
「ん……?」
「君は、不幸であったアドニアでもなければ、名も思い出せない男性でもない。ましてや古代より蘇った亡霊でもない」

 包帯だらけの右手を私の頭の後ろに軽く回す。引き寄せられた。間近で視線を合わせる。ほっとしてしまうような笑顔が浮かんでいるものの……その目は真剣だった。

「10歳の頃から僕と一緒にいて、気付けばよくつるむようになっていて、料理好きで、子供好きで、サブカルチャー系も大好き、しっかり考えているようでいて、その実いろいろ抜けてるところが多い」

 顔が近づいた。

「君がどういう存在だったとしても、過去にそんな事があったとしても。僕にとって何より大事なのは、子供時代をずっと一緒に過ごし、ずっと隣にいてくれたティーノ・アルメーラって事だよ」
「わ……」

 殺し文句だ。ひどい殺し文句。
 私なんかが……と言いかけた言葉が口の中で溶け、消えていく。

「だからティーノ」

 ゆっくりと引き寄せられていく
 ティーダの顔も静かに近づき。
 私はぎゅっと目を閉じた。

「お兄ちゃん、お見舞いにき……」

 がちゃりと音がして、ティアナちゃんの声もする。私は思わず目を見開いた。
 そろーっと目だけ動かして見てみると、紙袋をもったティアナちゃんが驚いた様子で固まっている。
 唐突にベッドの陰に隠れるようにしゃがみ込むと、じっとこちらを見た。親指をぐっと上げて一言。

「続きを早く」

 私はティーダと顔を見合わせた。
 同時に向き直り口を開く。

「できるかあッ!」
「もちろん!」

 え? と疑問の声を上げる間もなく、私は強引に引き寄せられ、口を塞がれた。

   ◇

「お兄ちゃん、やる時はやるんだね!」
「うん、そりゃお兄ちゃんだって男だからね」

 ティアナちゃんとティーダが弾む声でそんな事を言っている。
 一緒に見舞いに来てくれていたというなのはちゃんとフェイトちゃんにもまたばっちり目撃された。

「つ、ツバサお姉ちゃんが……お、男の人にキスされるとあんなになっちゃうのかな?」
「うん、あんなへろへろになっちゃうんだ。真っ赤だし……す、すごいんだね。なのははユーノとの進展は? なのはもあんな風になってるの?」
「うぇ!? まさか、私はユーノ君とはその……そにょ」

 などという恥ずかしいトークも耳に飛び込んでくる。
 へろへろになってしまうのはラエル種の特性なのだ。きっと。そうに違いない。
 ああもう……あんな……風に。
 ……うあ。
 気付けば無意識に唇を指でなぞっていた。
 何やってるんだ私。転げ回りたい恥ずかしい自分を消し去りたい。
 真っ赤に火照っている顔を見せないように縮こまるようにしてリンゴを剥く。
 3個目を剥き終わった。
 果物を盛りつけた皿がてんこもりになってしまっている。
 一切れ取って口にいれた。甘くて酸っぱい味が広がる。
 唐突に私にだけ聞こえるような小さな声で、ティーダがつぶやいた。

「続きは帰ってから……だね」

 私を半ばからかっているのは判っている。それでも反応してしまう自分が憎い。
 私は固まった。顔が熱い。ぎぎぎとティーダを見ればにやにやと憎らしい笑みがを浮かべている。
 いろいろな感情がこみ上げてきてしまい、誤魔化すために私は、四個目のリンゴに包丁を入れ始めた。

   ◇

  この事件の後、一ヶ月の入院生活を経て、ティーダは管理局を引退する事になった。
 私と違い、指揮能力もまた評価されていたので、魔導師としてやっていけなくなったとはいえ、引き留める声も大きかったのだけど……

「この機会に、他人に期待される生き方を外れて、自分がしたい生き方をしてみようと思う」

 という事だった。
 二年も経った頃には、ある理由から私もまた管理局を辞める事となった。
 小隊の長は現在、隊長補佐だったラグーザがその任にあたっている。本来、小隊長くらいはこなせる彼も、前科があるということがネックとなって中々その立場に就けなかったのだが、そろそろ勤続年数も長い。その間の功績が認められる形だった。
 私が辞める理由は、魔導師としての相方がティーダ以上に噛み合う存在が居ないというのもあったのだけど……それは些事だ。極めてプライベートな事と、何よりも、私が育った養護施設のことが大きい。
 そちらの一切をしきっていたカラベル先生がさすがの高齢となり、同時に多額の援助金を出してくれていたグレアム提督も現在は次元世界へおいそれと干渉できない事から、運営がなかなか厳しい事になっていたのだ。カーリナ姉や巣立っていった子達もまた寄付金を送ってはくれているのだけど、元々訳有りの子供が多く預けられている場所である。出て行くお金もまた大きい。私としても何とかしたかったので、それならいっそ……と施設の事に専念する方向で調整していたのだった。

 養護施設の方針を変えるつもりはなかった、ただ、赤字を何とかするために当面は私の退職金を補填し、闇の書事件の時のネームバリューを利用して寄付金を募った。さらに、これまでやってなかった新しい事として、レストランの経営も始めている。管理局員としてあちこちの世界を渡り歩いていた時にも思った事だけど、外食産業は基本的にどこの世界にもあるのだ。食いっぱぐれのない仕事とも言えた。
 子供達に契約書を作る所から教え、雇用契約を結ぶ。ちゃんとお給料も払うのだ。日本での人権団体が見たらいろいろ言われそうだけど、ミッドでは子供でも就業できる以上、こういう知識は必要だと思う。また、どこの世界でもある外食産業での働き方を知っておいてもらうだけでも、将来に役立つだろうと考えたのだ。もちろん収益が出たら施設の運営費に充てるつもりなのだけど、今は店の経営費で赤が出たり黒が出たりという所である。そこはまだ将来の課題と言ったところだった。

   ◇

「オーダー入りましたー」

 昔は年少組のまとめ役として頑張ってくれていたラフィが今日も明るい笑顔を振りまいている。
 この子は両手両足が義肢で、技術の進歩で昔より格段とスムーズに動けるようにはなったものの、やはり力加減が苦手だったりする。調理はさすがに難しいので、ウエイトレスをやってもらっているのだけど、性格的にもぴったりくる様子だった。近隣のお爺さん、お婆さん達のマスコット的な存在として可愛がられていたりもする。
 ご注文は今日のお薦めランチセット。
 施設の隣の果樹園農家から頂いたブルーベリーをアイスにしてデザートとして付けてみたら、今日の売れ筋となってしまった。
 他の品も結構力を入れているのだけど、何が目玉になるか判らないものである。
 ランチタイムも終了間際となって、厨房も落ち着いてくる。
 今のうちに溜め込まれた洗い物でも……と思っているとひときわ騒がしさを感じた。
 店のドアに付けた鈴の音が響き、来客を告げた。翠屋のベルの音が綺麗だったので真似てみたのだ。
 私は調理用のエプロンを外した、ラフィに「私が出るよ」と言って、お盆にお茶とおしぼりを乗せて応対に出る。

「いらっしゃい、ゲンヤさん。お疲れさまスバルちゃん、ティアナ、今日は学校は?」
「お姉ちゃん、今日は午前で終了って言ったじゃない。それでね」
「てぃあー、お腹すいたー、ごはんごはんごはん」
「ああもう、スバルは……ちょっと待ってなさいよ、お姉ちゃん、欠食児童が居るから私も手伝うね!」

 すまねえな、いつものを頼むと手を振るゲンヤさん。
 私は苦笑して、頷いた。西部からここまで、アクセスは直通路が出来たから早くなったけど、最近は道も混む事が多い。運転手を務めてきたのだろうゲンヤさんにはお疲れ様と言うしかなかった。
 ティアナちゃんは本人の強い希望で、西部エルセア……ランスター家もある地域なのだけど、そこの魔法学校に編入したのだった。さらに数ヶ月して編入してきたのがこのスバルちゃんである。聞けば今年の春に起きた空港火災の折に巻き込まれてしまったそうで、その時なのはちゃんに助けられた事から魔導師への道に入る事を決めたのだとか。訓練校に入る前の基礎過程を学ぶために地元の魔法学校に入学した、という事らしい。
 お互い編入組だからか、妙にウマがあったようだった。ティアナちゃんは今まで一番下だっただけにお姉ちゃんぶりたい様子で、スバルちゃんにあれこれと世話を焼いている姿を見ることができた。私としてはそんな姿を見る度にほくほくである。
 そのスバルちゃんがこのレストランに家族を連れて来た事がある。
 ナカジマというファミリーネームの通り、ご先祖は97管理外世界の日本が出身らしく、ものは試しと日本料理……オーソドックスなご飯と魚、味噌汁にお漬け物、なんてものを出してみたら、見事にハマった。それ以来何かというとご贔屓にしてくれる常連さんなのだった。

「じゃあ私はゲンヤさんの和食セット作るからティアナはそっちをお願いね」
「うん、あ、でもソースはお姉ちゃんお願い」

 了解了解、と言って2人して調理を始めた。
 小さい時からティアナちゃんも料理を手伝ってくれていたのだけど、レストランを始めてからはこうやって手伝ってくれる事も多くなった。12歳でこれだけ料理上手な子もなかなかいないと思う。なまじの男に渡してやるわけにはいかないのだ。ちなみにティアナちゃんが作っているのは、ピラフのお代わり無料、スタミナセットだった。これはかなりのボリュームがあり、大人2人分を想定している。もっとも、スバルちゃんは気持ち良いくらい一杯食べていくので、最初からさらにピラフを追加で盛りつけているようだった。

 出来上がったものをティアナちゃんが運んで行く。
 その間に先程ゲンヤさんの和食セットと並行して作ったものを盛りつけた。
 スバルちゃんのスタミナセットを運んで行ったティアナちゃんを追いかけるように、私もまた運び始める。

「お姉ちゃん?」
「ん、今日はお客さんもそんなに居ないから大丈夫だよ。せっかく友達と来たんだから一緒に食べなさいな」

 そう言って空いている席の前にティアナちゃん用に先程作ったパスタセットを置く。
 大人ぶっているというか何というか、昔のようにストレートに感情を出す事はなくなってきたものの、一瞬目と口がほころんだのを私は見のがさなかった。

「あ、でも……」と躊躇するように言って私のお腹に目をやった。
 ああ、なるほどねと思い、ティアナちゃんの腕をぽんぽんと安心させるように叩く。

「ティアナ、さすがに気を使いすぎだよ」

 ゲンヤさんは目ざとくそのやり取りで判ってしまったらしい。
 ほほぉ、とつぶやく。

「ようやくティーダの奴もこれでパパさんかい。こりゃあ、祝いをしてやらにゃな」
「ありがとうゲンヤさん、でも、まだお祝いには早いですけどね。三ヶ月なんです」

 私が自分のお腹を優しく撫でた。何度も検査して、正常な妊娠が可能だというのは判っている。
 ただ、こうして私が精神的に落ち着いてきたのはほんの一月前だった。それまでは夜になると不安で、それはもう情けなく泣き出していたものだ。
 不安要素が多すぎる。
 122管理世界の姫様がそうであったように、ラエル種は人との混血が可能なのだった。ただ、さまざまな特徴は優性遺伝してしまうものらしい。未だ狙われる事もありうるラエル種の特徴を、である。それに私……アドニアは生育の過程でいろいろ実験対象にされていた。色素異常はその副作用でもある。何度医師に大丈夫と言われても、過去投与された薬剤による副作用が出るのではないかという不安は消えなかった。
 ティーダと……それに「いい年して……」なんてとぶつぶつ言いながらも一緒に寝てくれたりするティアナちゃんが居なければとても持たなかったと思う。本当に私は弱くなった。

 からん、とまたドアの鈴が鳴り響いた。
 目を向けるとティーダが来ていた。義手をつければ良いものを、苦手らしい。中身の無い左の袖がひらひら揺れる。

「お、子供達の授業終わった?」
「うん、今はお昼を食べさせているよ、ちょっと様子を見に来たんだ」
「ティアナといい、揃いも揃って心配症だなあ」

 と言っても心配されて嬉しくないわけでもない。私はティーダに近寄って、少し曲がってしまったネクタイを直した。
 まだお腹もそう大きくなってないし、つわりが重くなってるのと、胸が大きくなりすぎてきついくらいである。大変なのはこれからだろう。
 と、そこでようやく、話の流れが掴めてなかったらしいスバルちゃんがピンと来たようだった。

「おめでたッ!?」

 ガタッと音を立てて立ち上がる。

「え、えっと、父さん父さん、赤ちゃんのオモチャとか、ぐるぐる回るやつとか、うちにあったっけ!? 何かお祝い、お祝いしないと!」
「落ち着きなさいよスバル。気が早すぎる」

 ティアナちゃんがべしんとツッコミを入れた。うん、素質がある。
 ゲンヤさんが豪快に笑っていた。

 私はその楽しげな声を聞きながら自分のお腹に再び手を当てる。
 静かにしていると時折鼓動のようなものを感じるのだった。
 自分の中に新しい命が生まれ、育つというのはこんな感覚なのだと不思議にも思う。怖くなってもおかしくないと思うのに……不思議と怖くない。
 そういえば、予定だと結婚記念日とこの子の誕生日は重なるかもしれなかった。
 そんな事になったら将来文句を言われる事になるのだろうか。
 誕生日祝いなのか、結婚記念日の祝いなのか判らないって。口をとがらせて抗議してくるのだろうか。
 ふ、と息を吐く。

 ……気付けば皆の視線が集まっていた。

「す、すごい幸せそうな笑顔だったね……びっくりしたぁ」
「最近じゃ割とこんな感じなのよ……ちょっと前はかなり不安定だったのにね」

 スバルちゃんとティアナちゃんがひそひそと話している。
 その向こうではティーダがゲンヤさんに、しっかりやる事はやってやがったな、なんてからかわれていた。
 辟易している様子に私はついくすくすと笑いが出てしまう。
 困った。
 本当に困った。
 何気ない今日や明日が楽しくて仕方がなくなっている。
 子供が生まれれば、きっと名前を悩むのだろう。
 精一杯良い人生が送れるように、子供に親が与えられる一番初めの贈り物を悩むのだろう。
 離乳食を卒業できるようになったらティアナちゃんにまだ伝えてなかったランスター家のママさんが得意だったパイを焼こう。きっと頬をほころばしてくれるに違いないのだ。

 これまで、あっちに行ってはこっちに行って、本当にフラフラと彷徨っていた気がする。
 ただ、どうやら私の道行きは定まったようだった。
 決して珍しいものでもなんでもない。
 家族と一緒に穏やかに生きるただの日常──

 きっと、おそらく。私の物語はすでにして終わっているのだろう。
 波乱続きだったティーノ・アルメーラは既にティーノ・ランスターと名が変わり、日常に、誰にでもある日常に埋没しているのだから。

 fin



[34349] 外伝一 ある転生者の困惑(上)
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/09/15 02:33
 私、いや、僕だろうか……
 自称すら曖昧としている自分が「生まれる前」を思い返せるようになったのはちょうど五才になった頃だった。
 最初はぼんやりとしていたそれは段々鮮明になる。日を追う事に事細かに思い出せるようになってきて……一年も経った頃には、なぜそんな記憶があるのか、唐突に蘇ってくるのか……その理由もまた思い出す事ができていた。

 神様。そんな馬鹿げた存在である。いや、馬鹿げたと言ってしまっては宗教関係の方に申し訳がない。
 ただ、少なくともその言い分そのものについては馬鹿げたと言っても良いだろうと思う。ありえないほど稚拙なミスで私は殺されてしまい、そして転生させてくれるというのだ。
 正直有り得なかった。いろいろと。
 私はこれでも若い時から溜めた資金でもって、時には赤字を出したりしつつもネットショップを運営して生計を立てていた。ネットショップなどというと簡単に思われがちだが、顔を直接見れない分、とてもデリケートな側面もある。文面一つ間違えただけ、あるいは契約書の誤字一つをもってしてもとんでもない事になりかねない。いや、実際になった事もあり、身に染みている。
 あまりのありえない事態にも関わらず、流されないで疑問を感じる事が出来、用心深く相手の言葉を聞く事ができたのはその辺もあるのだろう。
 目の前のお髭の立派ないかにもな神様? は肝心な事を話していなかった。無条件に目の前の存在を神様だと信じられる部分も何かおかしかった。
 言い回しは何度も変えるものの、言っているのはただの二つ。転生のチャンスがあることと、それに重ねて何か一つ、次の生で願いを叶えてくれる事。
 それに何か既視感がある。問答を重ねるごとにそれは増し、ひどく不気味にも思えるようになってきた。
 悩んだ末、願ったのは記憶の保護だった。
 能力はいらない、良い家庭でなくても良い見た目でなくても構わない。ただ、これまで生きてきた自分の人生、23年間の記憶。それを脳が耐えられる状態になれば完全な形で思い出せるようにしてほしいと願ったのだ。
 もしかしたらこれはひどく見当違いなのかもしれない。記憶などは最初から持ち越せる事が前提なのかもしれない。
 しかし、その記憶の扱いについて聞いても、まったくこの神様は答えてくれないのだ……いや、いつ聞いたのか。私はこの質問をしていない。ただし答えてくれない事は知っている。
 また既視感だった。寒々しいものを感じる。
 その願いを聞いた神様はたまらないと言ったような嗜虐に満ちた笑みを浮かべると、その表情とはまるでちぐはぐな、好々爺とした調子の声で言った。

「そんなもので良いのかね、謙虚なのじゃなあ、まあよかろう。良い生涯を、の」

 どこかで、顔まちがえたという子供の声が聞こえたような気がした。

   ◇

 その記憶を最後に「私」の主観は途切れている。
 記憶をぽつぽつと思い出すようになったのは5才の誕生日をいくつか過ぎた頃だった。日を追う事に記憶を思い出し、思い出し……脳には相当な負担がかかっていたのだろう。その後は度々、体調不良を引き起こしていた。
 神様なんていう妙なものが出てくる記憶まで完全に思い出す事が出来たのはちょうど一年が経った頃だった。
 ため息を吐く。
 確かに能力もいらない、家庭も見た目も気にしない。
 ただ、転生という印象から、無意識に人に生まれ、性別はそのままだろうという思いこみがあった。今思えば何という甘さだったのか。あれはきっと明確に約束した事は守るがそれ以外は好き勝手にする。そんな存在だろうと今となっては思える。後の祭りでしかないが。まあ、だとすれば虫や植物などに記憶を保持したまま生まれ直してしまう可能性もあったわけで、そういう意味では幸運であったのかもしれない。
 土岐野という家に生まれ、実という名をもらった。日本人である。父親はちょっと仕事に情熱をかけすぎ、母親はいつもそれに文句を言っているような、普通の家庭だった。

「ときの……みのる、ね……」

 一人笑う。そして諦観のため息をまた吐いた。
 かつて女性であった記憶は少年の身としてはいろいろ……そういろいろきついものがあった。精神的なもので。
 性同一性障害とやらにかからなかったのはやはり運が良かったのだろう。あるいは成長に従って出てくるものなのかもしれないが、男女の差があまりない幼児期に記憶が戻った事もまた馴染めた理由だったのかもしれない。
 
 さてここで一つさらなる問題があった。
 改めて現状を認識して、確認してみると、嘘だろうと言いたくなるような事に突き当たったのだ。
 いや、生まれ直した身としては自分自身が嘘だろうと言ったような存在でもあるのだが。
 昔、生まれる前……女性であった時、私は恥ずかしながらネット掲示板でもじょとも呼ばれるような女だった。ただしもこっちのような綺麗なもじょではない。あれはもじょとは言わない。
 オタ気質でもあった。半ズボン少年などに「動けもじょっ」と言われれば「も゛!!」と即答する事が出来る筋金入りである。さらに魔法少女ものなどは好物でもあった。それが何かと言えば、若い時分に見ていたリリカルなのはというアニメと地名がとても被っている事に気付いたのだ。
 海鳴市、よく鳴海市とか間違える人がいるが、海が鳴く市だ。
 電話を契約していると配布してくれる、お馴染み黄色い電話帳をめくれば、飲食店のページに翠屋という喫茶点もあった。
 お茶を飲んで一息。
 今度は青い表紙のお馴染み地域ごとの世帯別電話番号も書かれている電話帳をぱらぱらと。
 ……あった、高町家。やはり居るのか魔法少女。
 思わずがっくりと項垂れた。いや、まだ判断するには早計だ。確かリリカルなのはには元ネタになったゲームがあるはず、よく知らないがそっちの可能性もある。いや、何でアニメとかゲームの世界と被っているってだけで、ここまで動転しているのか。実は現実の市をモデルにあの作品を作ったっていう可能性だって……
 うん、無いか、無いな。何せ記憶の中の歴史とこちらの歴史は違う。こちらでは阪神淡路大震災が起きていない。いやそれ以前に日本列島だって少し形が違ったりもする。
 考えて、考えて、考えあぐねた。ひとまず置いておく。
 まずは下調べが必要だろう。幸い、記憶が戻ってない頃からも何か影響するものがあったのか、非常に頭の良い子だと思われている。手がかからない子供とも思われていて、一人で動いていても親はそれほど心配しないだろう。体力をつけるためにも外で遊ぶ事については寛容だろうと思う。
 しかし今思うと、記憶を残したのは独りよがりの結論でしか無かったのかもしれない。あの時、生まれ直すなら当然親となる存在も当たり前に居る……なんて事などはこれっぽっちも浮かばなかった。
 父と母には黙っておこう。墓まで持っていく秘密だ。我が子が誰とも知らない記憶を引き継いでいるなんてのは気色が悪すぎるだろうし、下手に明かすよりは隠し通す方が良い。明かせばしこりが残る。こんなつまらない事で家庭が空中分解とかしてしまう方が嫌だった。
 
 子供というのは体が軽い。
 記憶の中の自分と比べてしまうから尚更そんな思いを抱くのだろう。普通の子は体が軽いのがあまりにも当たり前で、きっと体重計に乗る時に一喜一憂なんてしないのだ。
 そんな自分は一年ちょっと不健康な生活をしていたせいか、平均的な同い年の子供と比べてもなお軽いようだった。身長は割と平均的だが、やはり筋肉の付き方が今ひとつなのだろう。
 しばらくは幼稚園から帰った後も昼寝とかはせず、親の心配をよそにひたすら外で遊び回っていた。リハビリも兼ねているのだが、何というか、別の意味でも体が軽く、動くのがとても気持ち良かったりもする。走ったり跳ねたり、木に登ってバランスをとってみたり。うんうん、昔は男の子がばたばたしていたのを絵本を読みながら「馬鹿みたい」と思ってたものだが、いやこれは楽しい。
 ……半ば目的を忘れていたりもした。
 いや、ちゃんと情報は集めている。ただ遊び回っていたわけじゃない。うん。
 やはり、高町家に高町なのはという子は居るようだった。ただし、自分より3歳年下。魔法があるかどうかはまだ確認出来てないけど……まあ、多分あるんじゃないかと思う。なにしろ猫さんが居た。いや、猫耳や尻尾は隠しているのか、確認できないけれども……あれは恐らく闇の書事件の時に登場してくる猫姉妹だ。なぜか本屋で家庭の料理本を品定めしている。
 こんな子供を警戒するわけもなし、立ち読みをしながら聞き耳を立ててみると、別に偽名を使ってるわけでもなく普通に名前で呼び合っていた。八神はやての名前も聞こえたが、細かい部分はまではさすがに聞こえない。
 ともかくもはっきりしたことがある。
 あの高町なのはに加え、あの猫さん達が居るなら……間違いなく。頭湧いているのではないだろうか。いや、それでも信じるしかないのか、ないのだろう。
 ここがリリカルなのはの世界であるのだろうと言う事を。

   ◇

 ジュエルシードの一件に関わるつもりはなかった。いやそもそも魔法関係に関わるつもりがなかったと言える。
 記憶があったとしても結局は力を持たない一般人。関わりを持ってもどうしようもないのだ。
 ただ、確実に関わりないようにするにはどうすれば良いか……その問題はあっけなく解決した。
 きっかけは父の単身赴任だった。隣の市の営業所長になるらしい。
 当初、父は母と息子には海鳴に残っていてもらうつもりだったのだが、うん。盛大に泣きついた。お父さんと離れるの嫌ー! と。内心結構クるものがある。とはいえそこは勝負所だった。そして勝負には勝った。普段あまり面倒もかからない一人息子に泣きつかれてしまってはなかなか強くも出れなかったのかもしれない。家族揃って引っ越す事となったのだった。
 安全圏確保。あくまであの物語は海鳴市を中心に巻き起こるもの。ある程度距離を置けば問題はないだろう。サイヤの戦士っぽい魔法少女が幕を引いてくれるはずだった。
 新たな住まいはちょっと郊外のアパートを借りることになっている。父はまだ転勤があるかもしれないが、私……いや僕が中学を出るくらいまでは大丈夫だろうと笑っていた。
 引っ越しもあらかた終わり落ち着いてみると、一気に体の力が抜ける感覚があった。
 何だかんだで記憶が戻ってからというものの、ずっと気を張っていたのだろう。無意識のうちにも。そこまで神経質にならなくても良いと頭では考えられるのだが、仕方無い。神経の細さはどうやら生まれ直しても変わらないようだった。

 時が経った。一応当時の記憶を風化させないためにノートに事細かく書き残してあったものの、ジュエルシードとか闇の書とかほとんど忘れ、ただ日々を謳歌していた気がする。
 かつての記憶を持っていた身からすれば、子供の時期の吸収力というものがどれほど大事なものかはよーく理解していた。それはもう勉強に費やし、体を動かし、そしてよく寝た。
 単調な生活でもあり、普通の子供の感性からするととっくに投げ出していたのだろう。
 ただ、自分がぐんぐん知識を吸収し、体はどんどん成長する……その感覚がとても楽しくなってしまったのだ。遊ばない子供と思われていたけど、多分自分の成長こそが唯一の遊びになってしまっていたのだと思う。
 最初は神童と呼ばれる事もあった。そりゃ小学校一年の分際で中学でやることをこなしていればそうも言われる。復習のつもりだったのだけども。いや何しろ高校卒業してから年数が経ち、さらに生まれ直してしまえば忘れてしまっている事も多い。因数分解とかちんぷんかんぷんだった。
 そして、いつしか頭は良いけどとんでもない変わり者、と見られるようになっていた。交友関係は普通だけど、深い付き合いは無く、子供にはありがちの男子女子でどうこうという事にも一切頓着しない。折しも担任教師が発達障害の事について講習でも受けてきたのか、変なテストを受けさせられた事もあった。サヴァン症候群がどうこう言っていたが、サヴァン症候群ってそんなものだっただろうか? 何か間違っている気がしてならない。
 また、ちょっとした小遣い稼ぎにも手を染めた。父の面目を潰してしまうかもしれないので今のところ母と秘密でやっているのだが。うん、株である。
 世界そのものが違うとはいえ、大まかな歴史はあまり変わっていないのだ。もっとも、最初は自分の記憶の中の社会とこの世界の社会にどれほど差違があるのかを確かめるために新聞を見て株式予想をしていただけなのだが、当たる当たる。どうやらIT産業が盛んになるのはこちらの世界でも同様なようだった。だとすれば生かさないと勿体ない、ということで母に予想の成果を見せて巻き込み、株を買って貰ったのだ。
 もちろん元手が母のへそくりなので、そう大きなものにはなっていないが、そろそろ父母二人が老後をゆったり過ごせるくらいにはなってきている。また予想料として普通の子供よりもかなり大目のお小遣いなどを貰っていたりした。母も最初は子供にあまりお金を持たせるのは……と思っていたようだったのだけど、何しろ購入するものと言えば、機械いじり用の部品の購入である。学習の一環とでも思ってくれたのかもしれない、あまりうるさく言われる事もなくなっていた。
 さて、何のための機械いじりかというと、生まれ変わる前とは違い、妙にこう……興味が湧いてきてしまっているのだ。妙に面白いのである。もちろんそんな趣味的なものとは別に目的もあるのだが。

 里帰りというわけではないが、海鳴市には数年前からちょこちょこ足を運んでいた。
 地理を把握し、どこに誰が住んでいるかを覚えた。顔を覚えられるのを恐れて高町家周辺はあまりうろついていないが、翠屋には数回足を運んでいる。
 当初は関わるまいと思ったものだったが、時間を置いて考えているうちにそれで良いのかと思うようになったのだ。
 本当に、離れているだけで事件は解決してくれるのか? あの物語と同じ通りに丸く収まるのだろうか? そんな不安が芽生えるとあっという間に頭の中に根を張り、こびりついてしまったのだ。そんな不安から選んだ行動は、事件の間の監視だった。もちろんこんな子供の身で何が出来るかと言えば、異常事態を迎えても人を呼ぶくらいしかできないのだろうが、きっと無いよりはマシだろう。その為に制作した盗聴器や集音器、そして監視カメラだった。三年をかけて準備したのだ。制作キットなどでは実用的なものとなってくれないので、いろいろ工夫した。基盤屋さんに注文するのも大分こなれてしまった気がする。ゆくゆくはこのまま電気工学の方向性で行くのも良いかもしれない。

   ◇

 僕となった私が12才ともなり、小学校もあと一年。春のことだった。
 漠然と感じていた不安は的中した。偶発的な出会いによって。あるいは異端は異端を呼んでしまうとでも言うのだろうか……
 いつも通り、学校が終わり、運動着に着替えてランニングがてら海鳴市に入ってゆっくり走っている時だった。そろそろあの物語が始まる頃合いだ。注意しないと。
 そんな事を思い、通りの桜に見とれていると、何かを踏んでしまったような感触がある。暴れるような感触に慌てて飛び退くと、みぎゃみぎゃと言いながら猫が逃げていった。
 ……尻尾を踏んでしまったらしい。ごめん猫。
 道ばたに何かが落ちていた。さっきの猫がもっていたのかもしれない。意中の彼女にでもプレゼントするつもりだったのかもしれない。とっても綺麗な宝石だ。そう、菱形で青くてナンバーが打ってあって……

「どういうことだ嘘だろ正直これはない一体何が起こったこれがスタンド攻撃というものか」

 混乱した。何だか顔もとても劇画タッチになってしまった気さえする。
 ドドドという効果音さえ脳裏に閃いた。
 思考が真っ白になりまとまらない。荒い呼吸とばくばく鳴っている心臓がまるで他人のもののようだ。
 ゆっくり歩み寄り、おそるおそる手に取った。
 陽光に照らされ、ジュエルシードはとても綺麗に輝いている。
 いけない。
 周囲を確認する。人気はないようだった。なら良い。ポケットに突っ込み、きびすを返す。
 いつ頃だったか忘れたが、フェイト・テスタロッサが広域探査を行うはず、また近くにいれば魔導師は独自に感じ取る事も可能だった気がする。
 何はともあれその場を離れ、極力何食わぬ顔で自宅に帰り、自室に入った。ジュエルシードを厳重に紙で包んで包んで、封筒に入れて机にしまう。
 少年の部屋に置くにはちょっとばかり少女趣味めいた色合いのベッドに座り込み、思い切り息を吐いた。緊張が解けたせいか汗がどっと出る。

「落ち着け、落ち着け、落ち着け……」

 ぶつぶつとつぶやいて自己暗示めいたものをかけてみる。
 どうしてこうなった。いやあれはどうしようもない。まさか様子を見に行くだけであんな事になるなんて思ってもいなかった。大体なんで拾ってしまったのか……放置しておけば勝手に……
 いや、それは判らない。もし、あのジュエルシードが猫に運ばれた先で主人公達に回収されるという物語だったのであれば、どのみちその機会を潰してしまったという事だ。
 そうだ、考えないと。考えないといけない。
 これをあるべき場所に戻すという手段はとれない、可能性が高いのは猫が一杯いるはずの月村家、その敷地に転がっていたジュエルシードだと思う。その敷地内に持っていく途中だったのかもしれない。ただ、これは確証がない。それ以前にあのお屋敷に忍び込むとか悪い予感しかしなかった。
 関与する他はなかった。これがテレビの中の物語だとしたら、そんなもん主人公達に丸投げして放置だ放置って言ってるところなのだが、あれは世界単位でやばい代物のはずなのだ。責任感云々以前に怖くて放っておけない。自分が一個ずらしてしまったバタフライ効果で原作より酷い事態などになったら……勘弁してほしい。いやいや、時空管理局なんていうものが途中から出張ってくれるはずなので、そこまではなかなかいかないとは思うけど。
 うん、そうだ。さすがにこの事態までは予想できたものではなかったが、どのみち様子は伺うつもりだった。関与と言ってもそう、ちょっとした関与で良い。
 恐らく危険なのはプレシア・テスタロッサのジュエルシードの使用。時の庭園と呼ばれる舞台がどこにあったかは判らないものの、こちらの世界で探索に当たり、直通の転移で帰れる地点にはあるはずなのだ。魔法っていう仕組みがそこら辺どうなっているのかはよく判らないものの、この世界と近い地点に時の庭園がある可能性は高いと思うのだ。だとすれば、危険なのはプレシア・テスタロッサの手に原作よりも多くのジュエルシードが渡る事だろう。
 次に危険なのが、やはり偶発的な暴走だろうか。人間が動かしてしまった場合は通常より被害が大きくなるはず。自分も気をつけないといけない。
 そして高町なのはとフェイト・テスタロッサの激突もまた危険要素があったはず。もし、今回拾ってしまったジュエルシードが月村家の敷地にあるものだとしたら、最初の二人のコンタクトを無くしてしまった形となる。それがこの後どう出るのか。

「いや、不安要素を挙げればキリがない……」

 ジュエルシードをしまいこんだ机を見る。
 大きくため息を吐いた。本当にどうしてこんな羽目に。

   ◇

 大過なく事を収めるために、やっておかないといけない事があった。
 記憶が鮮明なうちに書き留めておいたノート、それによれば……
 フェイト・テスタロッサの居場所は恐らくこの物語通りとするなら、きっと遠見市の住宅街、他の建物より一際飛び抜けて高いマンションに居を置いているはず。
 該当する場所は一カ所しかなかった。
 換気口というのはどの部屋にも存在する。
 そこに集音マイクと盗聴器を仕掛けた。普通ならこんな手段は使えないだろう。ただ、フェイトもアルフも探索に赴いた世界で、既にして自分たちが知られているなんて事はまず思わないはず。警戒もしていないだろう。魔導師の感覚がどこまでカバーするものか判らないので悩んだが結局無線式にした。
 この試みは成功し、今のところ会話については筒抜けである。設置時にちょっと怖い思いをしたのは置いておく。
 テスタロッサ組の動向を把握しつつ、バッティングしないようにジュエルシードを先んじて見つけ、高町なのは、及び時空管理局の手に入るようにし、回収ペースを早める。それが恐らくもっとも波風立たない帰結に繋がると踏んだのだった。こちらの顔が割れてしまうが、いざとなればテスタロッサの動向についての情報をそのまま管理局に渡しても良い。
 狙いは温泉付近のジュエルシードである。
 他は正直タイミングが読めないし、戦闘を伴ってしまえば付け入る隙もない。
 事前に回収出来るものはこれ以外に考えつかなかったのだ。
 学校を誰の目にもばればれな体調不良という名で抜けだし、探索を続けること二日。
 川の縁にそれを見つける事ができた。ほっとする。盗聴した会話を聞く限りでは、まだこの地点のジュエルシードは見つけていないようだったのだ。
 ジュエルシードの持ち運びには注意を払わないと……
 いや、そうぽんぽん暴発するものだったら初日の段階で海鳴はそれこそ滅びていただろうし、暴発させてしまった少年も、拾って持ち運びができるくらいには安定しているのだ。おそらく強い願いと、直接接触すること。その二つがトリガーになっているものと思える。こうして小袋に入れ、さらにバッグなどに入れれば、持ち運ぶ分には多分問題ないはずだった。

 4月も末に入る頃、クロノ・ハラオウン……管理局の登場はおおむね予定通りのようだった。
 結界内の事なので詳細は判らないが、その後すぐフェイト、アルフ組が遠見市のマンションを引き払ったのだ。管理局に嗅ぎつけられるのを考えてこれ以後は時の庭園を拠点に探索をするつもりなのかもしれない。まさか野宿とかしていない……よな?
 ともあれ、ここまでは一先ず良し。恐らくだが、本来の物語よりフェイト・テスタロッサは焦っていた。会話を聞く限りでも魔力を使い過ぎ、無理を重ねている。そんな流れにしたのは自分なのだろうけど、自分の身と世の中の平穏の為だ。仕方無い。
 なんて思って割り切ろうとしているものの、やはり罪悪感というか苦いものは口に残る。まったくもって子供に苦しい思いをさせるものではなかった。
 いや、まだだ。あと一つだけ動かせる事態がある。
 5月に入りゴールデンウィークも過ぎた頃、やはり学校を抜け出してある場所に連日のごとく来ていた。
 かねてからチェック済みだった山間の道路沿い。森の中に一部開けたところがある。時期によっては山菜採りの人が結構居たりする広場めいている場所だった。目の前の道路は海鳴で一番のお屋敷とも言えるバニングス家に続いていたりもする。
 夕方にはまだちょっと早い……そんな時間だっただろうか、怪我をしたアルフが転移してきた。少し歩き、倒れ伏す。

「フェイト……」

 と呻くように言い、人の姿を保てなくなったのか、元の姿に戻った。
 息はあるが、かなり苦しそうだ。なるべくここでキャンプでもしてた一般人を装い、おっかなびっくりといった感じで近づく。

「こりゃ……結構重傷だな……」

 実際に怪我を見てみるとかなりエグい。
 タオルを顔に被せ、こちらの姿を見られないようにし、応急処置を施す。子供の身にはかなり重いが、ロープをおんぶ紐のように使い、背中に抱えた。少し抵抗するような素振りがあったので、ちょっとした思いつきのようにつぶやいてみる。

「大型犬……高町さんなら頼めるかな、顔広いし」

 しばらく考えるような素振りを見せた後、アルフがぐったりと背中にもたれる感じがした。
 これで良い。本来アリサ・バニングスに拾われ、手当を受けるはずだったのだが、そのまま高町家の前に運び込む。途中で拾ったタクシーの運転手には変な目で見られたものの、知ってる獣医がいるんですと誤魔化したら信じてくれた。今の時間なら誰も居ないはずなので、高町家の面々に見とがめられる事もないだろう。置き去りにするのはちょっと心がとがめるが仕方無い。タオルを敷いた上にアルフを横たえた。
 ちょっと離れた高台から双眼鏡で見ていると、どうやら帰宅した高町なのはとユーノ・スクライアが驚き、どうしようかと相談している様子だった。しばらくの後、魔法陣が現れアルフごと姿は見えなくなった。おそらく怪我を見て、緊急事態という事でアースラに転移したのだろう。
 それを見届け、大きく息を吐いた。緊張が抜ける。
 これでおそらく最短での事件収束になるはず。温泉の近くで発見したジュエルシードについてはアルフと共に紙袋に入れて置いてある。高町なのはが、何かなと覗きこんでえらくびっくりしていた。あわあわとする様子がとても可愛いものだ。

   ◇

 その後は順調に収まったようだった。少なくとも普通に住んでいる限りでは異常を感じる事はない。きっと舞台がアースラや時の庭園に移ったんじゃないだろうか。
 記憶の中でもひときわ印象深く残っている二人の決戦、あったかもしれないが確認することはできなかった。結界の中で行われたのだろう。
 5月も末に入った頃、港の展望台がここ数日の居場所だった。覗きこんでいるのは海の向こう……ではなく、自前の双眼鏡でもって海に流れ込む河川、そこにかかっている橋の上を覗きこんでいる。
 視界の中では二人の少女がリボンの交換をしている。別れを惜しんでいるようだった。
 今更だけどこれ以上は見るのも気が引け、切り上げた。やはりあの二人は結びつくべくして結びついたのだろう。少々の揺らぎ程度ではどうこうなるものでもなかったようだ。出会う場面を潰してしまった気がするし、心配していたのだが、杞憂だったようだ。

「さって」

 初夏を感じる日差しの中、ぐっと背を伸ばした。
 次の問題は闇の書事件である、それさえクリアできれば地球は安泰のはず。今回のようなジュエルシードの絡んだものと違い、魔導師でもない者が絡んで何かをできるというわけでもないのだが、いざとなれば管理局にこの記憶の事を話すだけでも違うだろう。今回の事でどのくらいのバタフライ効果が生まれてしまったかは定かではないし、これからまた情報を得るための下ごしらえを始めないといけない。

「……とはいえまずは」

 学校の出席日数を取り戻す事から始めるとしようか。
 小学校だし、成績さえよければ中学は入れるけども。親が最近、夜中になると子供の育て方について議論していたりもして……何というか本当にごめんなさいなのだった。



[34349] 外伝二 ある転生者の困惑(下)
Name: ガビアル◆dca06b2b ID:8f866ccf
Date: 2012/09/15 02:34
 強い日差しが照りつけ、肌を焦がす。街路樹ではアブラゼミとミンミンゼミがけたたましく合奏していた。
 夏休みに入ったのだろう、部活帰りの中学生達がふざけあいながら歩いている。それを見て何か思う事でもあったのか、妙に哲学者めいた表情で、休憩中である工事現場のおじさんがペットボトルのお茶を煽った。
 自分という自称もさすがに往生際が悪い。そろそろもう「僕」と言っても良いのかもしれない。もっと大人になれば、以前とは違うニュアンスでもって「私」という自称を使えるようになるのだろうけど……うん。未だにいろいろ慣れないものを感じる。肉体的な変化は割と平気だったのに、こういう部分で慣れないというのはどういう事なのだか。部屋の内装や小物の趣味もまたちょっと少女趣味が入ってしまっているものだったりする。今更女装したいなどとは思えないのに何故なのか、まったく不思議なものだった。

 ジュエルシードの事件より数ヶ月が経っていた。
 夏休みに入ったので自由な時間も増えている。もちろん宿題などは最初の三日で片付けてあった。
 いつものように海鳴市に散策しに行き、商店街をぶらぶら歩いた。闇の書事件への対応をどうしようかと考えながら。
 ここまで関わる事じゃないだろう、という思いもまたある。
 ただ、ジュエルシードの一件のことを考えると、力を持たなくても物語には簡単に影響を与える事ができてしまった。ならこの先知っている通りに進むかはまったく判らない。

「まったく、怖いなあ……」

 ため息を吐く。なまじ妙な記憶を持っているからこそ怖い。きっと本来の物語のあれ、闇の書の解決は相当綱渡りの上での成果だった。いや多分描かれていないところでちゃんと何とかなるような体勢も整えていたのだろうけど……そう信じたい。
 闇の書事件については、ジュエルシードの一件とは違い、期間を縮めれば良いというものでもないと思うのだ。
 ギル・グレアム提督、時空管理局、ヴォルケンリッター、それぞれの思惑があり下手にタイミングがずれたりすると途端に悲劇が待っている……なんて事になりかねない。
 結局の所、情報収集だけは欠かさないようにして、臨機応変に対処するしかないのだろう。行き当たりばったり、でたとこまかせも良いところだった。
 何も知らない振りをして逃げてしまえ、耳を塞ぎ、目を閉じ普通に暮らしていけば良い。きっとあの頼りになる主人公達が何とかしてくれる。
 そんな誘惑の言葉が脳裏によぎる。

「なんて事ができたらなあ……」

 小心な自分の性格は把握している。今の状態で逃げ出したら、それはもうウジウジと悩みに悩んで不安と後悔に苛まれて、胃に穴でも開いてしまうに違いない。せめて、大丈夫だという確信を得ておきたいものだった。

   ◇

 足繁く海鳴市に通っているのは、情報を得るためや地理を体に覚え込ませるという面白みのない事とは別にちょっとした楽しみもある。
 商店街など歩いていると、たまーに高町恭也を目にしたりもするのだ。しゅっとしている。タレント的な格好よさではないものの、精悍と言えば良いのだろうか。そして武術をやっているだけあって、歩く姿勢が非常に良い。まあ、生まれる前の感覚を引きずっているのかもしれない。ちょっとしたファン心理が働いていた。声も良い。いつか自爆について言及する台詞を引き出したいものだった。
 ……といっても、それはどちらかというと過去の自分の感性を懐かしんでいるような感じもあり、何とも複雑であったりもする。
 多分「僕」自身はもう恋には無縁になってしまっているのだろう。
 異性として男性を見る事も出来ないし、異性として女性を見る事もできない。ちなみに元から同性愛には興味がない。まったく難儀なものだった。

 そして本来の物語の主人公たる高町なのは、彼女は非常に可愛い。元気で明るく、何より真っ直ぐな優しさで溢れている。
 覚え違いなのか、あるいはどこかで知識が何かと混ざったのかそうあまり「なのなの」とは言っていないようだった。ちょっと聞いてみたかったのだけども。
 別につけ回したりしているわけでもない。どうにも高町家の面々というのは目立つのだ。オーラが違うと言えば良いのだろうか。大衆に紛れ込み、埋没するのが得意な自分とはまったくもって逆を向いている。正直羨ましいと思わないでもないが、文字通り生まれる前から自分に対して諦める事には慣れていた。
 
 その日も商店街を冷やかしながら散策している時のこと。
 すれ違った、とある三人組に目が釘付けになってしまった。
 日に照らされるとオレンジ色にも見える、暖かい髪の色をした小さな女の子、ツインテールを作っている。小学校に上がったかどうか、そんな年頃だろうか、活発な印象の子だった。その子が手を繋いでいる二人……そう、何か違和感を感じたのだ。
 見た目が明らかに日本人離れしているからというわけでもない。大体海鳴に住んでいる人は結構多国籍なので、外国の人が珍しいというわけではないのだ。
 何か記憶にひっかかる。どこかで見た事があるような。
 その元気そうな子の手を握っている二人のうち片側の男性は、柔和な笑みを浮かべ、辺りを物珍しげに見回している。細身で身ごなしも軽く、育ちの良さを感じさせた。顔立ちは整い、いかにも日本人の女の子受けしそうな容姿でもある。若干くすんでいるものの髪の色が少女とよく似ていた。
 もう片方は……何と言えば良いのだろうか。綺麗な少女だった。男性と一緒に並んでいるので余計目立ってしまうが、小柄なようだ。漂白でもされたかのように色が白く、髪もまたプラチナブロンド、むしろ銀髪と言ってもいいかもしれない。小柄なのにスタイルは……胸が揺れている、ありえん。バランスがとれているのは、全体的に細身なのと、顔もまた小さいせいだろう。北欧、いやロシアの雪景色か、そんな風景によく似合いそうな少女だった。強く触れば壊れてしまいそうな妖精じみた美しさがある。
 ただ残念だったのは表情があまりに生き生きとしすぎているということか。ドールのように整った顔をしているというのに、それが感情につれてころころ変わる様子は何とも言えないもどかしさを覚える。無表情か、モデルがよく浮かべる微笑、そんな表情であればぴったり合うというのに、その一点が美しさを台無しにしていた。

 しかしどういう組み合わせなのかよく分からない。三人の兄弟姉妹と言うにはちょっと違うようだし、若い夫と妻というにはあまりに妻が少女すぎる。今の自分と同じくらい、小学校と中学校の間くらいの年齢にしか見えないのだ。友人というにはちょっと距離が近すぎるというか家族的な感じしかしないし、不思議な三人だった。
 興味をそそられるがままに、商店街の人の波に混ざって目立たないよう聞き耳を立てていると聞き捨てならぬ名前が。

「ティーダ? それにティアナって……はあ?」

 っと、勘が鋭いようだ。口の中でつぶやいただけだったのに、銀髪の少女がきょろきょろと不審気に見回している。
 しかし思い起こせば確かに少女には……ティアナ・ランスターの面影が、とするとあの男性がティーダ・ランスターか。作中ではティアナ・ランスターの過去を語る中でしか出てきてないと思ったが……確か21才で殉職してしまうはず。いや、それ以前になぜ地球に居る? 首都航空隊勤務ではなかったか? プライベートな旅行? いや、わざわざ海鳴市を選んで来るなんて天文学的な確率になる。何か理由があるはず。一体、一体どういう事なのか……
 混乱する頭を抱えながらも、もはや習性となっているかのように、周囲に混ざり込み、付きまとってみた。
 どうやら日用品を買い出しに来ているらしい。皿やグラスなども買っている。趣味はどちらかというと実用的で、あまりデザインにはこだわらないようだ。しかし三人で楽しそうである。ああいうのを見ていると切実に出会いが欲しくなる。いや、だからといって恋人は出来ないだろうけど。むう妬ましや。
 馴染みであるかのように翠屋に入っていく姿を見送った後、怪しまれないように少し間を置いて入店する。どうやらあの三人は奥まった窓際の席に陣取ったらしい。応対に出てきたウエイトレスさんに、窓際が良いんですが、と示して仕切り板を挟んだ隣のテーブルに座らせてもらった。
 注文したのはカフェオレとチョコバナナサンデー。先程ちょっと時間をとった時に買った本を取り出し、時間つぶしでもしている風を装う。
 しばらく待つとウエイトレスさん……余裕が無かったので先程は気にしてなかったのだけど、高町なのはのお姉さん、ええと美由希さんだったか、が注文した品を持ってきてくれた。しおりを挟み、本を置く。
 バナナの乗ったアイス部分にスプーンを入れ一口。もっちり、ふわとろ。濃厚アイスクリームだ。バナナは柔らかく甘みも強いはずなのに、この濃厚アイスクリームの後に食べると不思議とあっさり感が強く、そのギャップがまた面白い。そしてこのかかっているチョコレートシロップがまた本格的で……

「んぅー」

 思わず満足気な呻きが出てしまう。
 チョコバナナサンデーなんて誰が作っても同じようなものと思いきや、さすがだった。何度か雑誌でも取材されてるお店だけのことはある。美味いでござる美味いでござる。
 なんて夢中になっている間に、高町兄妹もまた先程の三人と一緒の席で歓談を始めたようだった。時計を見るとランチタイムが終了したらしい、忙しい時間を抜けたので休憩にでも入ったのだろう。
 カフェオレを少しすすり、また読みかけの本を開く。何食わぬ顔で、仕切り越しの会話に耳を澄ませた。
 どうやらあの全体的に真っ白い少女はツバサと言うらしい。呼び方が君だかちゃんだかで安定しないが、何なのだろうか。しかし、道すがら話していた感じだとティーダ・ランスターはティーノと呼びかけていた。どっちか偽名なのかもしれない。
 高町恭也、美由希兄妹とはかねてからの知り合いらしい。ただ、ティーダ・ランスターと共に居るってことは多分管理局絡みの人間なんだろう。
 記憶の中の物語にはこんな人物はいなかった。
 いや、記憶を頼りにしすぎているのかもしれない。またはこれもバタフライ効果の一端だと言うのだろうか。
 だとしたらどこがどうなってこうなったのだか……
 考えに没頭し、カフェオレをまた一口飲もうとして空になっている事に気付いた。

   ◇

 その日以降、記憶の中の物語には存在しない人物、ツバサの情報を集める事に集中した。
 幸い彼等は自分たちが見張られているとは思っていないようで、監視カメラやら野外用集音器などを一時的に設置しておくだけでもかなりの情報を得る事ができていた。
 まず、管理局の魔導師であることは間違いないようだ。街中でも普通に次元世界の話などしている時もある。隠す気が無いというより、この世界だと聞かれたところでSF小説か何かにしか思われないという判断なのだろう。時折ぼかすような表現をするところをみると、さすがにこの世界では軽々しく口にできないような事もあるのだろうけど。
 十日ほどもそうやってひたすら情報を集めていたのだが……
 正直考えあぐねていた。
 ティーノ、こちらの世界の人相手にはツバサと名乗る少女、彼女がどうにもよく判らない。
 グレアム提督の名前やリーゼアリア、リーゼロッテという名前、さらにはクロノ・ハラオウンという名前も出ていた。
 そしてランスター家とのつながり……というかほとんどあれは夫婦だろう。本人達が無自覚なのがまたタチが悪い。見ていて何度か砂糖を吐いた。口直しに塩飴は必須である。まあ、知っている物語そのものにはティアナ・ランスターにああいう年上の姉のような存在は出てこない。となると、この後ティーダ・ランスター共々殉職してしまったということなのかもしれない。
 ……あるいは「自分と同じような存在」か。
 自分だけが特別、なんてことがいかに有り得ないものか、生まれる前からよく知っている。
 未だに会った事はないが、生まれ変わりなんてプロセスを経たのが自分だけだとは考えられない事でもあった。
 とすれば、グレアム提督や猫の使い魔、高町家とも知己であり、クロノ・ハラオウンとも接触のある彼女によって事態がどう動かされているか、まったく読めない事になる。
 もし自分があの立場であれば、闇の書の危険性はよく知っているはずだし、既に管理局内で動いているかもしれず。その為の人的つながりと見ることもまたできる。こちらが何か要らない手を入れる事で変にこじらせる可能性だってあった。

「ああもうまったく……」

 髪をかきむしる。自分から出るなんて趣味じゃないのに。今回はこれしか思いつかない。
 机の中から箱を取り出す。鍵を開け、さらに何重にも紙で包まれた宝石を取り出した。極力触らないように、束の間その青い輝きに見惚れる。
 交渉の切り札に、とも考えていた、最初に拾ったジュエルシードだった。どのみち個人で持つには危険すぎる。いずれは管理局に渡そうとは思っていたものだ。
 まだ幼いティアナ・ランスターはなんで居るのかよくわからないが、ティーノとティーダ・ランスターについては先の事件の現場調査をしているということは知っている。ジュエルシードを見せれば見過ごせないはずだった。

 入念に準備をする。おびき寄せ、導くルートを選定し、多少変更があってもすぐにリカバリーできる柔軟性を持ったプラン、これを考えるのに丸二日もかかってしまった。
 またゲームセンターで目星をつけてあった、同じくらいの背丈の子に自分と似たような服を着させ、攪乱用に動いて貰う。ちょっとしたお小遣いで動いてくれた。
 聞きかじった限りでは、管理局の魔導師はどうやらこの管理外世界では魔法の使用に制限がつくようなのだ。おそらくだが、こちらが地元の民間人である限り、おおぴらに魔法を使用してくる可能性は低いということでもある。それがこちら側のつけいる隙になる。
 魔法を使わないただの人であるなら何とかなるのだ。懐から手帳を取り出し開く。これまでのティーダ・ランスターとティーノ二人の動きを判る限りで記録しておいた。観測点はかなりの数になるようで、連日観測データをとる時もあれば、一日置き、二日置きにデータを取りに行くポイントもあるようだ。それによって一人で動く時もあれば二人で一緒に動いている時もある。今回については、もっともその2人の物理的な距離が開く時のパターンだった。その帰りを狙い、おびき寄せ、接触を図る。
 時折動向を確認しながら待つ。緊張に手が震えた。

   ◇
 
 さて、あのやたら綺麗な少女、ティーノと接触してみれば、思っていたよりさらに一枚上を行く単純さだった。

「お、またこけた」

 持ち主には迷惑だろうが、壁に貼らせてもらったミラーフィルムの罠にかかったらしい。いやまあ、全力疾走しているときにかき消えるようにターゲットが消えれば足元もお留守になるか。紐張ってあっただけなので、本当に子供のいたずらレベルなのだが。それに、こんな年齢の子供があちこち罠を張って誘い込んでいるとかは普通思わないだろうし、うん。判らなくもない。
 そして、大きく距離を引き離すための仕掛けがある河川、橋の下あたりで接触を計る。
 テトラポットに座り、息を整える。自分を出してはいけない。個性を極力押しつぶすように、物語を読み解く第三者であるように振る舞うのだ。これからは言葉の駆け引きも混じるのだから。

「遅かったね、時空管理局のお姉さん」

 そう声をかける。かなり面食らった様子だ。管理局の名前を出した事でイニシアチブは一先ず取れたようだった。
 驚きの後、名前を名乗ってきた。ここでやっとファミリーネームが判った。アルメーラさんというらしい。空曹、空曹か……管理局の空曹って言うのがちょっとピンとこない。
 何も返さないのもあれなのでこちらも名乗っておくと。

「トキノ……トキに野原?」

 後半はぼそっとつぶやくようだった……好きなように呼んでと言いかけ、違和感を覚えた。そう、漢字だ。彼女は漢字を理解している。
 なるほど、これは……うん。カマをかけてみるとしよう。

「ところで、プレシア・テスタロッサは元気にしてるかな?」

 そう声をかけると目を細め、あからさまに警戒している様子になった。
 何というか可愛くてならない。こうも引っかってくれると、なんだかたまらない気持ちになってしまう。お前はそれでも女なのかと、そんなあからさまに表情が出てはバレバレだった。
 どうやら今の反応からするとプレシア・テスタロッサは生きているらしい。予測のうちの一つではあったが……死ぬ人が生き延びられたならそれはそれで良い結果だろう。
 考える暇を与えないために、用意しておいたジュエルシードをいとも軽々しく投げ渡した。
 ティーノ・アルメーラはひどく慌てた様子でそれを受け取り、顔をしかめた後、デバイスに格納する。
 ……しかし起動状態のデバイスを生で見るのは初めてなのだが、何というか随分重量感があるものだった。というかでかすぎないだろうかそれ。少女が持つような物体じゃない。ところどころに頑強そうなフレームが付けられてるし、杖というより槌だろうと言いたい。声を大にして言いたい。
 いや、少し呆気にとられてしまった。いきなりごついものを出すから。
 こほんと小さく咳払いをし、ペースを取り戻す。そう、見透かしているかのように、手の上で何もかも動かしている策士気取りで雄弁に。

「それはフェイト・テスタロッサが回収に失敗した一個だよ。それにより、事態は本来より一つのズレを生じた」

 目の前の少女はそれほど驚いてはいないようだ。目は細めているけど。

「事態は基点を少しだけずらされ、上に積もった形は本来と違うものになる。焦りを抱えたテスタロッサは本来の力を発揮することができず、ジュエルシードはその多数が高町なのはの元へ、それを通じ管理局へ渡る事になった」

 ってなところだろう。実際にはジュエルシードを高町なのはが多数回収せしめたかは未確認。テスタロッサ側はある程度動向確認もできていたが。
 本来と違うもの、という言葉を入れてみたが反応しない。これは違う……かな?

「情報を持つ者が少しだけ違った場所に居る、それだけでも違う。傷ついたアルフは善意の第三者の手により運ばれ、迅速に情報を提供する事ができ、結果的にプレシア・テスタロッサの制圧時期については早まる事となった」

 かもしれない。実際に早まったのかどうかまでは判らない。いや、これも驚かないか。

「概ね、予測の範囲に事は収まった。掌の上で全てを踊らせる事なんて到底できないが、それなりに上手くいったのだろう……ただ、ここに来て一つ、大きすぎる齟齬が生まれた」

 勿体ぶったように言い、座っていたテトラポッドの上に立つ。
 表情の変化を見のがさないように注視しながら言った。

「ティーノ・アルメーラ……あなたは誰だ?」
 
 ……なんて。その後も二言三言交わすもどうも要領を得ない。僕と同じような存在ではないかと疑ったが、カマかけどころか、直接的に言っても誤魔化すような素振りは無かった。
 この少女の性格については大体読めている。誤魔化したり嘘をつけばおそらく判るはず。
 だとすると、バタフライ効果がどこかで起こったか。プレシア・テスタロッサが生きていたのならそれはかなり大きな変化とも言える。それがさらに波紋を呼んでもおかしくはない。グレアム提督ともつながりがあるようだし、あるいはその関係……本人は意図せずともグレアム提督の思惑で動かされている可能性もあるか。

 ふ、と息を抜く。あまり時間をかけているともう一方、ティーダ・ランスターが駆けつけてくるかもしれない。ジュエルシードも渡せた事だし、ここはそろそろ引くとしよう。
 そのまま後ろに軽く飛ぶ。
 ある程度の深さがあるのは確認済だった。
 仕掛けと言っても単純なもので、向こう岸の鉄杭にロープを結びつけてある。流れに任せておけば勝手に向こう岸に行き着けるようにしてあった。実験したところ流れに乗って変なゴミでも当たってこなければ割と楽に渡れるようだ、渡った先は高低差のためか複雑な地形になっていて、橋から通じる道からは回り込んだ道でしか繋がっていない。古い住宅地の隙間から通り抜けられる道もあり、人を撒くのには絶好の場所だった。木々に覆い隠されていて上空から確認されにくいのもまたここを選んだポイントだったりする。

「と、え……」

 驚いたのは、こちらが川に落ちると間髪入れずに少女が走った勢いのままに飛び込んできた事だった。
 服着てるんだから少しは躊躇しろ、というか魔導師なんだから無茶すんなと言いたい。
 いや本当にこの少女、魔導師か? 戦闘機人じゃないのか? いやそれだったら沈みそうな気がするが。えらい勢いでざぱぱぱぱと水しぶきを上げ迫ってきている。こちらを心配するような声をかけてきた。何となく……ちょっと申し訳ない気分になってしまう。
 ロープがぴんと張った。ぐぇと漏れそうになる声を抑える。川の流れのままに動いていた勢いが止まり、向こう岸に動き出した。
 何やら叫びながらも川の流れには抗えず押し流されていく少女に手を振っておく。うむ、今度機会があったらケーキでもおごるとしようか、お人好しなティーノ・アルメーラに。
 川の水が鼻に入り咳き込む。口の中に詰めていた綿がついでに吐き出されてしまった。

   ◇

 ある程度予想していた事だったが、その後海鳴市にはとても近づきにくくなった。
 当然ながらそんな怪しい接触をしてきた人物を放置できるわけもなく、探されているようなのだ。
 と言っても、あまり心配はしていない。管理外世界の事であるし、ロストロギアをまだ持っている可能性があれば別だろうが……今回渡したジュエルシードで数は揃った、そう本腰を入れてはこないだろうという予測だった。今来ているティーダとティーノ両名も任期が終了すれば管理局に戻るはず。今は何食わぬ顔で生活しほとぼりを冷ましていれば良い。闇の書事件まではまだ時間がある。トキノなんて名字は付近でもこの家くらいしか無い。逆にあからさま過ぎて偽名扱いすることだろう。騙し合いの中に真実を混ぜてもそれは嘘としか思われない……なんて。うん、いろいろ前向きに考えてはいるものの、緊張してつい口から出てしまっただけだったりした。今になって後悔しているが手遅れも良い所だろう。
 とはいえ、あの程度の接触ならそう重要人物とは見なされないだろうし、管理局もいつまでも関わってくるほど暇じゃないと思うのだ。

 しばらく経った頃、頭を抱える事になっていた。まさか現地に合った形で調査の手を広げてくるとは想像していない。記憶の中の管理局のイメージにより先入観が出来てしまったとでも言うのか。
 張り紙が張られ、またその手の人探しでも雇ったのか、かつて攪乱のために手伝って貰った少年達から妙な聞き込みを受けたとフリーメールに連絡が入っていたりもした。
 律儀に連絡してくれてありがたいのだが、その少年達に合ってお願いするときも一々細かく見た目を変えたりしている。印象はちぐはぐなはず。そこからたどられる事はないだろうが……
 また新聞の尋ね人の欄にも妙な一文が載っていた事がある。失せ物『宝石の種』を持ち込んできてくれた方、依頼主が探しておりますお礼を差し上げたく……うんぬん。
 結構こういうのって掲載にもお金かかるはずなのだが、そこまでするか……いやまあ見つけられたら見つけられたで管理局も悪の組織ってわけじゃないだろうし、魔法の素質はないだろうから問題ないと言えば問題ないのだが。できればこのまま諦めて欲しい。闇の書関係の情報集めにも出向けない。

 悶々としながらも身動き取れず、いつの間にか秋も深まってきた頃、学校からの帰り道、見知らぬ子供に絡まれた。

「こんにちわ土岐野 実さん。ロストロギア回収の件でお伺いしました」 

 人違いですと言いそうになったが、口をつぐむ。フルネーム、そして学校の帰り道に待ち伏せ……よく調べてある。これは駄目か。見た目自分より2、3歳下だろうか、いや……地球とは水準が違う。管理局の魔導師なら見た目の年齢で推し量る事はできない。
 どう突き止めたのか聞いてみれば、どうやら名前での探索などは最初から行わず、似たような年格好の子の目撃情報を丁寧に集め、さらには周辺地域の小中学校で海鳴市で目撃された時間帯に不在だった子供という条件で絞っていったらしい。堂々と本名を名乗られているのだったらそっちから調べれば良かったですね、とか言われた。
 まあなんだ。正直そこまでやるか、と思う。管理局って案外暇なのかと問い詰めたい。
 頭痛を感じながらも、詳しい話をしたいというので、その子に続いて近くのカフェに入った。
 そこで聞かされた話はもう、頭痛を感じるなんてもんじゃなかった。
 どちらかというと現実逃避をしたくなる。
 なんでも目の前で甘そうなミルクコーヒーを飲んでいる子供は、管理局の関係ではないらしい。

「グレイゴースト?」
「ええ、来訪者達の保護を目的とした次元世界のNGO団体です。本拠はミッドチルダ北部ベルカ自治区にあり、来訪者達の情報交換、生活、就職支援などを行っています」

 来訪者というのは、要するに僕のような存在の事を指して言うのだとか。意識のどこかでこの世界に「来た」という意識があることからそんなネーミングになったらしい。
 どうも来訪者達というのは様々な出現の仕方があるようで、普通に生まれてくる場合はむしろ稀なんだとか。
 その場合生活のバックボーンを持たず、さらに社会にも馴染めない。苦労する事が多いらしい。さらには、大抵がレアスキルじみた能力を持っていて、しかもその使い方はなぜか理解できているために、そのまま犯罪者になってしまうケースも後を絶たないのだとか。そんな事情もあって、互助組織的なものとしてグレイゴーストを設立したらしい。
 ……頭痛が痛い。そんなアホな事を言いたくなる。
 もはや本来の物語がどうとか、そういうレベルじゃない。
 そりゃ、僕のような存在が1人だけって事はないと思ってはいたが、まさか管理局と交渉できるほどの組織を作り上げてしまう程に数が居るとは予想外にも程がある。
 また来訪者というものを聞くにつれて、ある意味ではやはり自分の選択が正しかったという事も判った。
 記憶が曖昧になっているらしい。個人差は相当あるようだったが……よく覚えている者でも、せいぜいがとこ自分がどういう生活をしていたか、どんなものを食べていたか、などなど非常に断片的な記憶でしかないと言う。関連する単語を聞かされた時などはふと蘇る記憶もあると言うが、それもまたぶつ切りの記憶でしかなく、脈絡というものが一切無いのだとか。
 またその能力についても話してくれた。そちらもまた十人十色で例えば視線でもって人を支配してしまうもの、あるいは意識の中を覗き見てしまうもの、あるいは攻撃的なものなど様々らしい。その為、非合法組織などからも魔導師では出来ない事もやれる存在として非常に重宝され、当初懸賞金をかけられて捕縛されていたことなどもあったという。

 カップに口をつける。温くなってしまったコーヒーはあまり美味しくない。
 目の前の子、デュレンと名乗ったがこの子はまだ気付いていないのだろうか。いや……多分気付いている。僕が来訪者達が失ってしまったはずの記憶、それを保持していることを。あるいはそれに類する情報系の能力を持っていると思われているか。
 わざわざ人を支配できるだとか、意識の中を覗きこむだとか、そんな例を挙げる事自体気付いている証拠だろう。遠回しな恫喝のようなものだ。
 これは観念する時か、半ば諦めた思いになり、要求を聞いたところ……えらくあっけないものだった。
 グレイゴーストに所属してほしいのだと言う。
 出されたのは一枚の書類、契約書か……規約を読むと、まあ、大雑把に言うと来訪者があまり常識から逸脱した行為をした場合はグレイゴースト側から罰則があり、あまりに悪質な場合は管理局に突き出すというような事が書かれている。書き込む欄は名前と能力の詳細、生活基盤がある場合にはそこの住所、そして連絡先くらいだった。
 しかしまあ、規約を読んでみるとかなり緩い。これで良いのだろうか……?
 不思議に思ったのが表に出ていたかもしれない。デュレン君に笑われた。
 あくまで来訪者保護の組織であり官憲ではないと言う。
 また報告も兼ねて毎月、来訪者達が自分達で発行している月刊誌が届いたりするらしい。セミナーや講習会などのお知らせ、求人情報なども掲載しているのだとか。
 ともあれ、心配していたようなものではなくて安心した。
 ほっと胸をなで下ろしたのだが、問題は能力の書き込み欄である。いや多分、ここで隠しても良い事にはならないだろう。恐らく管理局のティーノ・アルメーラを通じて話した事は伝わっているはずだし、能力が無しというのは信じてくれるとは思えない。支配、あるいは意識を探る系の能力を持つ人間が居るというのは、あるいははったりかもしれないが、それに賭けるのはリスクが高すぎる。
 しばらく悩んだ末、打ち明ける事にした。闇の書事件がどう動くかも怪しいし、先延ばしもまたリスクがある。今言っておくのが一番なのだろう。
 記憶がほぼ残っている事、その中で覚えているアニメの物語がそのままこの世界のものと被る事。アニメとか聞いた時、最初は眉をひそめ、何を言っているんだと言うような表情だったデュレン君も、闇の書が実は夜天の書であった、なんて事まで話が進む頃にはすっかり真顔になっていた。
 ……真顔過ぎる。やはりというか何というか、相当のレアケースだったらしい。断片的な記憶を持っている人間ばかりで、完全に覚えている人というのが居なかったのだとか。
 デュレン君が上と連絡を取り合った結果、グレイゴーストの本部で話して欲しいという。
 正直、えー、とでもぼやきたいところだった。ぱっとしない生前の自分なんてそうそう語りたい過去じゃないのだ。
 いやまあ、本当なら危機感を覚えなくてはいけない場面なのだろうけど、生憎、安堵の方が大きかった。この記憶、世界を先読みできるほどの知識、自分でも相当重荷になっていたらしい。共有してくれるというなら願ったりかなったと言ったところだろう。

 翌日にはグレイゴーストの本部に到着していた。
 家族の方には、どこからか大人2人が現れ、親を説得する。僕はどうやら原因不明の難病の検査により一週間ほど学校を病欠する事になったらしい。もちろん普通ならそんな事信じないのだが……信じてしまった。弱くではあるもののデュレンが何かしら自ら能力を使ったのだと言う。能力というものがどういうものなのか、それを実感してほしかったのだと言うが、正直あまり良い気分はしない。
 ミッドチルダという場所がどういうところなのか内心かなり楽しみだったのだが、残念ながら悠長に観光する機会はなかった。
 本当なら、定期運航されている次元航行船でのんびり行くらしいのだが、グレイゴースト側の手配により管理局員も派遣され、転移により最短距離で行く事になったのだとか。次元空間が安定していたのも良かったらしい。
 本部と言ってもそう変わった建物というわけでもなかった。
 ベルカ自治区の建築様式がそうなのかもしれないが、何というか、いかにも洋館と言った感じの建物である。
 物静かなたたずまいとは違い、中に入るとかなり忙しく人が動いている様子である。ぶっちゃけ言葉が通じないので言っている意味が判らないのだが、新聞社の編集を連想させる感じだった。
 さて、ついてしまえば最早まな板の上の鯉である。人事を束ねている人というのが出てきて「今回は特殊で重要なケースだから」という事で遮音室に連れていかれる。話が漏れないようにという配慮らしい。

 プライベートな事以外、洗いざらいを語り終えたのは三日も経とうかという頃だった。
 記憶というのは言葉にすると莫大な量になるものらしい。もちろんその三日間ずっと喋りっぱなしだったわけではないが。
 ともかくこれで重荷を下ろせた気がする。その知識を使って何をするかはもう完全に僕の手を離れた。
 ……と言っても、あの物語のようにはいかないだろう。既にしてかなりの差違もあるのだし。指針程度にはなるのだろうけど。
 またジュエルシードについては回収に力を貸した事により金一封を貰った。管理局からの報奨らしい。
 そしてこの記憶の事については人には決して漏らさないようにと注意を受ける。言われずとも話す気はないが……何でも、グレイゴースト側でもまたこの記憶の件に関しては一部の人間に教えるのみで留める方針だと言う。来訪者の根本に関わる問題だったし、闇の書の事など「これから起こるはずの事件」に不用意に手を突っ込みかねない人もまた多いのだとか。統制にはなかなか苦労している様子だった。
 二日ほど観光でベルカ自治区を見物させてもらい、大いに楽しんだ。地球レベルから見るとまるっきりSFの世界なのだ。売っているお土産一つとってしても面白いものが多い。買っても地球への持ち込みは制限されるらしいのでお土産として持ち帰れるのは生活雑貨くらいのようだが。とりあえずシャンプー、コンディショナー、基礎化粧品、爪切り、鼻毛切り、などなど。
 買い物に付き合って貰ったデュレン君には呆れられた。そういえば、このデュレン君は我らが主人公、砲撃少女高町なのはに懸想しているらしい。なんでも以前会った事があるらしく、とても照れながら話してくれた。というか、地球出身らしいし、そんなに気になるなら次元世界に居ないで海鳴に住み着いてしまえば良いのに……と言ったら、それは、デュレン君が男として何か駄目らしい。いっぱしになってから改めて声をかけるとか言っているが、ううむ……ユーノ君という厚い壁があると思うのだが……まあ、人の色恋に口を突っ込むほど野暮はない。

   ◇

 地球に戻り、以前の生活にもまた復帰した。検査入院の結果、ただの誤診だったという事になっている。その事に対して疑問を感じさせないのが来訪者たちの使った能力の怖いところだとも思う。
 闇の書事件の経過が気になり、時折海鳴市をうろついたり、高台から望遠鏡で覗きこんだりもするのだけど……ジュエルシードの事件の時とは違って、何かある度に結界を張っているのだろう。観測する事はとうとうできなかった。クリスマスの日も同様である。静かなものだった。冬空に大きく息を吐き、一つ身震いをする。

 中学生にもなり、割とよくその辺にいる……幼少時は天才、今となってはちょっと変わった子供なんて目で見られながらも普段通りの穏やかな生活は続いていた。
 大きな事件は二つ。プライベートな事とプライベートではない事。
 プライベートな方は精通がとうとうあった事だろうか。いや、あれ以来まずい。本当にまずい。男の子が性欲抑えるのが大変だとか言っている気持ちがようやくにして判った。きっと男ってのは恐竜のように、下半身にもう一つ脳の代わりをする神経瘤でもあるに違いない。手が勝手に動きかねない。未だに男にも女にも惹かれるものが無いというのに性欲だけはあるってどんな拷問だろうか。処理した後の虚しさと言ったら無いのだ。
 そしてプライベートでない方は、グレイゴーストから送られてくる月報誌にあった。
 とうとう来訪者たちも元の世界、次元世界ではない……元に居た世界に帰れる可能性が出てきたらしいという事だ。
 ただしまだまだ技術的に未知の部分があるそうで、安定して人が行き来できるような代物ではないらしい。現状ではテストのための人員を募集しているようだ。
 もっとも、あの元の世界に帰るつもりもないのだが。
 やはり父と母を残してあの元の世界に行ってしまう事はできない。いや、元の世界にもかつて「私」であった時の親は生きてるはずだし、懐かしむ感覚もあることはある。だからといって今の親を感情的に切り捨てる事もまたできないのだ。
 これもまた記憶を持っていなければ無かったジレンマかもしれない。きっといつまでもうじうじ悩み続けるのだろう。
 人生をもう一度やり直せればそれは天才になれるのではないかと思っていた事もあった。
 ただ、それは無理という結論に至る。
 天才というものは天の才と書くだけあって、努力してどうこうなるものではないのだろう。秀才が100年かけて突き詰めた理論を一年で完成させてしまうのが天才なのかもしれないと思う。どれだけ物覚えの良い幼少期に勉強しようが、比べるのもおこがましい。
 今の自分はちょっとだけ勉強が進んでいる中学生に過ぎなかった。工学系の知識があって、ちょっとした回路図くらいなら設計できるが、それも仕事でやっている専門家には到底叶わないだろう。
 その学業面の優位も、大学レベルまで進めば関係が無くなる。向き不向き、のめり込めるかどうかが鍵となるようだった。
 生まれ直した事でズルをしているという意識もなかなか消えず、自信満々に「自分の力です」とは言いにくい事もある。
 人生イージーモードではあるはずなのだが……心情的にはどうだろうか。
 なかなか世の中楽には行かないもののようだった。
 中空にため息一つ。まだまだ先行きは見えてこない。


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