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[33159] 【習作】世神もすなる異世界トリップといふものを、邪神もしてみむとてするなり
Name: ハイント◆069a6d0f ID:a5c8329c
Date: 2013/03/23 17:46
 築地孝治はトラックに撥ねられて死んだ。
 二十歳だった。
 事故の原因は色々と考えられるが、死んだ孝治からすればそんなことは割とどうでもいい。事故の教訓は生き残った者たちが参考にすべきであり、死者本人にはなんら益するものではないからだ。
 トラックの運転手に対して言いたいことはたしかにあるが、それも今となっては意味のない言葉である。死者が生者にかける言葉はなく、よしんば運転手が死んでいたとして、死者同士が語らうことに何の意味があろうか。
 故に……という前置きが必要かはさておき、死んだはずの築地孝治が声をかけるべき存在は、別に居る。

「それで、」

 孝治は口を開く。生前には友人たちから『オールウェイズ不機嫌』と妙な節回しで揶揄されたその声音は、死した今となっては陰鬱ささえ滲ませ、地獄の亡者のごとき妙な凄みさえ醸し出していた。
 そしてそれは、己が死んだ事実から来る陰鬱さのみにあらず、

「あんたは何者だ。神父さん」

 目の前の存在に対する、不信感を滲ませたものでもあったのだ。





















 暗闇に満たされた部屋――果たして真実部屋と呼べる空間であるか、孝治は確信を持てなかったが――に、その神父は穏やかな微笑を浮かべてたたずんでいた。
 アフリカ系だろうか?黒い肌に黒い神父服をまとったその男は、しかしながら暗闇の中に溶け込むことなく、妙な存在感を持って浮かび上がってさえいた。年の頃は分からない。日本人である孝治にはトンと見当が付かなかったし、仮に外見から見当がつけられたとして、それに意味があるのかどうか……ないだろう、と孝治は思った。
 少なくとも死んだはずの孝治の前に現れ、言葉を交わせるほどには化外の存在である彼は、いかにも不躾な孝治の問いに対して笑みを崩すことなく答える。

「それが私の名を問う質問であるならば、」

 神父は勿体をつけて言葉を紡ぐ。芝居がかった台詞回しに孝治の眉間の皺が深さを増したが、それを意に介さずに男は続けた。

「私は答えよう。“N”と」

 孝治は露骨に表情を歪めたが、やはり気に留めることなく、神父はさらに言葉を続ける。

「またその問いが私の存在を問うものであるならば――私は答えよう、“神”と」

 両手を広げ、神父姿の神は言う。なんとも慈愛に満ちた表情であったが、生憎と孝治はその回答を聞いて安心する気分にはならなかった。
 腹の底からわきあがる不安。そして嫌悪感をこめて、孝治は口を開いた。

「残念だが俺の求める回答はそのどちらでもない」
「ほう? ではどのような意味かね」

 余裕の表情で問い返す神に本能的な恐怖心が浮かぶが、気力で腹の底に押し込める。
 力では及ぶまい。知恵でも及ぶまい。しかしながらこのまま黙っていることは、孝治の矜持を傷つける。故にこそ、

「分かっていてわざととぼけてるな? 口に出さねば分からないほど、尋常な存在じゃないだろうが」

 ――意趣返しを行う。

「なに、これも一つのコミュニケーション・スキルというやつでね。気を悪くしたなら謝るが、尋常な人間は自分の言葉の先を読まれるのを嫌うのだよ」
「じゃあ俺は尋常な人間じゃないんだろうさ。いいから言ってみろよ」
「ふむ」

 顎に手を当て、神父姿の神は孝治の目を覗き込んだ。心を読むのにこんなアクションをするあたり、妙に人間らしい仕草をする神である――もっとも、彼はそういうモノなのだ、と、孝治は既に当たりを付けてはいたのだが。

「なるほどなるほど」

 と、数秒間かけて孝治の心を読み取っていた神が、得心したように頷いた。孝治の心中を読み取ったのだろう。

 ――仕掛けるならば、今。

「つまり君の聞きたいことはこういうことか。『自分から――」
「『俺から見た関係性の存在として、あんたは何者か』」

 孝治は先回りして潰す。おや、と眉を動かした神に向かって言ってやる。

「どうだ。尋常な人間の気持ちが分かったか?」
「……ほう」

 す、っと神は目を細め、次の瞬間には破顔した。写真に撮って人に見せれば良い笑顔で通じるだろうが、実際に直視した孝治には嫌悪感しか生じさせなかった。

「なるほどなるほどなるほど。道理で“君”が選ばれるわけだ。“私”に」
「選ばれる、ねえ……オーディションに応募した覚えはないんだがな」
「人間の世界は、既にオーディション会場なのだよ。我々から見れば」

 そうなんだろうな、と孝治は思った。それを信じさせる程度には、目の前の存在が隔絶していると、既に孝治の本能は認めていた。

「それで、オーディションにめでたく、目出度く合格した俺はこれからどうなるんだ?」
「おや、先の質問の回答は良いのかね?」
「俺は俺の未来にしか興味がない。そちらを聞けるなら、あんたの“役割”なんざどうでもいい」

 それを聞いた神は、ククククッ、っと喉で笑う。

「なるほど、なるほど、なるほど、なるほど。実に良いな。実に良い。“我が主役”に相応しい」

 ひとしきり頷き、神は口を開いた。

「君がこれから何をさせられるのか? 私が君に何を求めるのか? ……答えようではないか」

 神は右手を横に伸ばし、その先にあるものを指し示した。

 扉である。ノブのある簡素な木製のドアは実にありふれた代物だったが、ドアを取り囲む枠の造形に、孝治は顔を引き攣らせた。



 ――ボコボコと姿を変える、泡立つ虹色の球体群。



「なに、あれは単なる演出だよ。“そのもの”ではない」

 不幸にもその正体に思い当たる所のある孝治が、自らの正気を疑う前に、神は慈悲深くもそう言った。

「……別に本物とは思っちゃいない。本物にあんな安っぽいドアが付いてたら興醒めだ」
「まあ、そうだな。とはいえ、その機能については君の思ったとおりでね」

 冷や汗を流す孝治に、神は厳かにのたまった。

「異なる世界へ繋がる門。――君がこれからくぐることになる扉だ」

 沈黙が、降りる。

「……何故、と問うてもいいか」
「私がそうしたいからだ」

 呻くように、あるいは囁くように発した孝治の言葉に、神は簡潔に答える。

「何故こんなことをするのか? 私がそうしたいからだ。
 何故君が選ばれたか? 私がそうしたいからだ。
 ――神の意図を問うほど愚かなことはない。全ては気まぐれだ」

 それはたしかにそうなのだろう。だがしかし、それで納得できるほどに、孝治は信心深くもなければ従順でもない。

「下らないな。トラックに撥ねられて異世界送り、しかも神様の介入で? 一体どこの三文小説だ。神の書く脚本でありながら、あまりにも陳腐でありきたりだ」
「どこのと問われれば、主にネット上と答えるべきだろうな。君にはあえて答える必要もないだろうが」

 神は孝治の悪態をさらりと流す。忌まわしき教義に従う司祭のごとく、その弁舌には一切の躊躇いがない。

「そして君が知っているように、『単なる偶発的な異世界トリップ』と違い、『神の介入による異世界トリップ』には、神という舞台装置を登場させる意味がある」

 噛んで含めるようにゆっくりと、神は孝治に言い聞かせる。その意図するところを理解し、孝治は先回りして言葉を発した。

「“特典”、か」
「その通り」

 頷き、神は今度は左手を持ち上げる。その手には、先ほどまでなかったはずの物体――古びた一冊の書物が握られていた。

「私はこれから君を異世界へと送り込む。その際、私は君に“ギフト”を与える。そういうルールだ」
「なるほど、テンプレートだ。実にテンプレートだ」

 震えを抑えつつ、孝治は気丈にもそう返した。
 その姿を見た神は満足げに頷き、左手の本を開いて孝治に問う。

「ではどのような特典が良いか、聞き取り調査といこうではないか」




















「……言葉だ」

 数秒の沈思の後、孝治はそう言った。

「ほう、言葉?」
「ああ。全ての言語を理解し、話す能力が欲しい」
「ふむ、まあ妥当な所か。他には?」
「要らない」

 神は目を細めた。

「君が望むなら、アニメや漫画の世界に送り込むことも、不死身の肉体を手に入れることも、単独で人類を滅ぼせるほどの戦闘力を得ることもできる。そういった特典は要らないのかね?」
「要らん」

 孝治は即答で返す。

「だがまあ、少し付け足しておくか。『三千世界に存在する全ての言語を、読み・書き・理解し・話し・聞き取る』能力をくれ」
「他には必要ないと? 圧倒的な力、不死の肉体、人を惹きつけてやまない人望……そういった陳腐で使い古されたギフトは、人間なら誰もが望むものだと思ったが」
「たしかに俺だって欲しいが、あんたからは受け取らねえよ」

 神を睨んで、孝治は言い切った。

「“結果は目に見えてる”」
「……ふむ」

 孝治の目を覗き込む。その奥に強固な意志を見て、神は確認するように訊いた。

「見えているならば、その能力の結果も分かるはずだ。それでもか?」
「勿論」

 孝治は答える。

「それでいい――俺は人間だ」
「……ほう」

 数瞬の視線の交錯の後、引き下がったのは神の方だった。

「そこまで言うならば仕方あるまい。……しかし」

 くつくつと笑う。

「君もオタクなら、年甲斐もなくチート能力で己の欲望を満たすことを望むかと思ったのだがね……思ったより、気骨があるようだ」
「……随分な物言いだな。日本の創作文化に喧嘩売ってるのか」

 神は孝治の文句を聞き流した。本をめくり、一枚のページを破ると人間には聞き取れないフレーズを呟く。
 すると破いたページがどろりと溶け、闇色の液体と化して宙に浮かび、そのまま滑空して、

「!? ちょ、まっ」

 孝治の鼻の穴に飛び込んだ。

「んがっ!?」

 激痛が走った。
 慌てて鼻をかもうとした孝治をあざ笑うかのように、暗黒色の液体は孝治の奥へと入り込んでいく。
 鼻腔から耳管に侵入。中耳から内耳へ浸透。さらに聴神経を侵しつつ脳へと達し――

「っぁぁぁぁああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 爆発。
 そう形容するしかない感覚が脳内で知覚され、孝治は絶叫した。
 聴神経を経由して侵入した液体が言語野に達し、孝治の脳機能を拡張する。その際に脳神経にかかった負荷が莫大な音、言語情報の奔流として孝治に知覚されたのだが……そんな理屈を述べたところで、何の慰めにもならないだろう。

「ふむ。少々刺激が強かったか」

 果たして“神”は、そんなことを呟きつつ、絶叫する孝治を眺めるのだった。




















 ――数分後

 存分に叫び続けた孝治がまともに声も出せなくなった頃、ようやく孝治の脳は平安を取り戻した。

「落ち着いたかね?」
「ああ、お陰さまでな……」

 いつの間にか地面を転げまわりながら絶叫していたのか。そんなことを思いつつ孝治は起き上がった。
 先ほどまでの感覚の爆発が嘘だったかのように、心身は平穏を取り戻していた。倒れながらのた打ち回り、地面に打ちつけたはずの頭でさえ、なんの痛みもない。

「これで“能力”の授与は終わった。他になにかあれば聞いておくが?」
「……そうだな」

 能力を得たせいか、思考が拡張された感覚がある。今ならば、世に言う分割思考、平行思考も可能だろう。
 とはいえ、ここで聞くべき質問は、そんな異能を駆使するまでもなく思いつく。それこそテンプレートというやつだ。

「最初に聞くが、これは単純なトリップなんだよな? 転生ではなく」
「望むなら転生でも構わんが……君はどうやら望まないようだ」
「心を読むな。次に聞くが、これから行く世界はどんなところだ?」
「剣と魔法の中世が終わり、近世に入り、近代へ移行しつつある世界、とでもいうべきか。所謂“二次創作”の類ではないことは保証する」
「そうかい。それじゃ、俺が紡ぐべき物語は、一体どんな代物だ?」

 この質問を聞いて、神は笑みを浮かべた。

「それを聞くとネタバレになってしまうのだが、本当に知りたいのかね?」
「俺はネタバレを恐れない性質でね。それに、質問の意図は通じているはずだ。――答えろ」
「“君の望み通りに”」

 神は笑みを深めて言った。

「そして“私の思う通りに”。まったく、理想的な主役を得たものだ!」
「……ふん」

 眉間に皺を寄せる孝治に益々の笑みを浮かべ、神は上機嫌で言った。

「なに、褒めているのだよ、君のその物分りのよさと健気さを。大抵の者は無意味に怯えるか、さもなくば無邪気に喜ぶか、あるいは半信半疑で真面目に取り合わないかの三通りだ。
 ……君のように“私”を理解して動じず、自ら最善策を練り、私に対して通してみせる者は久しく居なかった……」

 感動するかのように瞠目する神を、孝治は醒めた目で眺める。

 ――所詮これは、相容れぬものである。

 既にそんなことは理解している。この期に及んで茶番につき合わされるのは御免だと、態度で雄弁に語っていた。
 それに気付き、神は苦笑して首を振る。

「いかんな。物語の始まりに、主役が仏頂面では格好がつかん。私も無駄口を叩くのはそろそろ止めにしておこう」
「分かっているなら言わなくていい。それで、俺はこれからドアを開けて出て行けばいいのか?」

 神から視線を切って、孝治は異形の扉の方に向かう。
 近づいてみて孝治は、虹色に輝く一つ一つの球体が、その内部に異界の景色を映しこんでいることに気付いた。異界――あるいは宇宙とでも形容するべきだろうか? 無限小の球体が膨張して映しこむ世界は、まるでミクロの世界がマクロの世界に近似するが如く、そのスケールを無段階に変動させ、さらに見るものに不安を与える生成と消滅を繰り返す球体群は、その内側に閉鎖されたおぞましく禍々しい世界を含有しつつもその境界面でお互いに干渉し合いながら変性を繰り返し、さらに衝突と離合集散を繰り返す球体群全体の運動はまるで神の作り上げた物理法則を冒涜するかの如く違和感のみを見る者に感じさせ、かといって忌まわしき作為を感じさせるかと言えば決してそんなことはない混沌とした無秩序で名状しがたい運動でありその運動を司る破滅的な意思とは一体何なのか?
 それは―――

「っ!」

 理解しかけ、孝治は慌てて頭を振った。アレは単なる演出と言っていたが……本当にそうなのか?

「ふむ。あまりまじまじと見つめるものではない」

 呆れたように背後からかけられた声に、孝治は肩越しに振り返る。

「演出じゃなかったのか?」
「演出だとも。あくまで演出だとも。しかしながら今の君には、少々刺激が強かったか」

 やれやれ、と肩をすくめる動作に苛立つものを感じつつ、孝治はドアノブに手をかけた。
 もうこんな混沌とした空間からは出て行こう――そう思いノブを回した孝治に、神はもう一度声をかける。

「待ちたまえ。もう一つ渡すものがある」

 言って投げ渡された物体を、孝治は右手をノブから手を離すことなく、左手で受け取った。
 これは何かと問うより先に、神から正体を明かされる。

「それは銀の鍵だ。もし君がこれから先、世界から逃げ出したいと思ったなら、それを使いたまえ。脱出できるはずだ」

 ニヤリと笑う神に対し、孝治は鼻で笑って言い返した。

「脱出か。帰還であれば使う機会もあったんだがな?」
「やはり君には通じないか」

 上機嫌で笑う。

「まあ、どの道それは君に付いていく。例え無くしたとしても、願えばすぐに手元に戻る。覚えておきたまえ」
「使う機会はないだろうが、まあ一応覚えておくさ」

 言って、孝治はドアを開けた。
 漆黒のような、虹色のような、あるいは真っ白なような……そんな景色に目が眩む。おそらくこの風景は、無数の異界の景色が混ざり合っているのだろう。人間の視覚が重なり合う複数の映像を処理できないせいで、色覚が混乱しているのか。
 もはや振り返らず、一歩を踏み出そうとした孝治の背中に、神の声がかけられる。

「最後まで、君は私の正体について、確認しようとはしなかったな?」

 笑いを含んだ声だった。勿論、奴は全て分かっていて言っているのだろう。
 もはや後は真っ逆さまに落ちるだけ。そう腹を括った孝治は、最後の意地とばかりにこう返してみせた。

「好き好んでSANチェックする探索者が居るものか!」

 言って、一歩を踏み出す。踏みしめる地面が無いことに背筋を凍らせつつも、そういうものだと根性で思い直し、もう一歩を踏み出した。
 落下する。
 落下としか形容できない感覚。実際はそんなに生易しい現象ではないのだろうが……認識が追いつかないことはむしろ慈悲であったのかもしれない。
 そんなことを思う孝治の頭上、あるいは足元、あるいは背後から、真に最後、神の声が聞こえる。
 嘲笑を含みつつ、まるで吠えるように放たれた言葉、その内容は―――



「残念だ。実に残念だよ築地孝治! ――100面ダイスを用意していたというのに!」



 ――そのジョークはちょっとおもしろい、というのが。
 孝治の、偽らざる感想であった。




































 くつくつと、暗黒の中で嘲笑う声がする。
 其は、闇に吠えるもの。其は、嘲笑する神。
 其は―――


「健気だな。健気だとも。実に健気な人の子だった」


 暗黒の中に、響く声がする。
 その声を聞く者は居ない。その声を聞く者は居ない?
 ―――否。


「そう。人の子だ。彼は何処までも人間だった。何所までも人間であろうとした。健気だ。実に健気な願いだ」


 語り聞かせるべき者は居る。故にこそ語る。
 其の神性は、強壮なる使者が故に。


「私は彼の願いを聞き入れた。彼の願いを受け入れた。仮にも神たるものとして、斯くも健気なヒトの願いに、応えぬ道理があるだろうか?」


 語れや語れ、混沌よ。下劣な太鼓と、か細く単調なフルートの音に合わせて。
 無知無能にして無力なる生命の、悲劇と喜劇、その始まりと終わりを見届けて!


「彼は私を知っていた。そしてさらには理解していた。力を得れば力によって、人望を得れば人望によって、不死であれば不死故に……破滅させられることを理解していた!」


 邪神は語る。語り続ける。刹那に満たぬ物語の突端を。
 無限小に等しき時間、無限小に等しき空間によって行われた、全く取るに足らぬ物語を。


「だからこそ彼は言葉を望んだのだ! 何故なら言葉とは、人と人とを繋ぐもの……故にこそ彼の願いとは、」


 だがしかし、誰が知ろう。取るに足らぬ物語なればこそ、語るに足る物語であることを。
 其は破滅の使者にして混沌の化身。盲目白痴なる神の、夢に出てきて語るもの。


「“人によって滅ぼされること”!! 最期まで人間として死なんとする、壮絶なる覚悟から生まれた願い!!」


 踊れ人の子、狂おしく。
 魔王の無聊を慰めるため。
 なによりもただ享楽のために。


「よろしい、ならばそうしよう。私は彼の希望通りに、人の全ての悪意を以って、彼の行く道を敷き詰めよう!」


 さあ、語ろう。
 矮小なる人の子の、歩み戦う物語を。












































「……おのれ邪神」

 築地孝治は自らの体を抱きしめ、神への怨嗟の声を上げた。
 その声が震えていたのは、怒りゆえではなく、恐怖ゆえでもなかった。ましてや神を呪う事への罪悪感などという、乙女じみた理由ではありえなかった。
 彼を震えさせていたもの、その正体は―――

「よもや……よもや、こんな極地に放り出されるとは思わなかったぞ――!!!」

 夜空に浮かぶ月に吠える。
 そう、彼を震わせていたものは……純粋な寒さであった。
 降り積もったパウダー・スノーに腰まで埋まり、さらに快晴の夜空からくる放射冷却現象。温度計こそ無いものの、吐く息が凍るほどの寒さ――氷点下30℃はあるだろう。
 異世界にやってきて一時間。孝治は今、死神の足音をすぐ傍に感じていた――















後書き(初出2012/5/17)

 ニャル子さんを見ていたら思い付いたので衝動的に書き上げました。長く文章を書いていなかったのでリハビリも兼ねて。
 でも絶対、私の前にこのネタで書いた人居ると思うんだ……。
 一発ネタです。続きません。


(2013/3/23)
 思いっきり続いてますが、一発ネタ時代の記念として初代の後書きは残しておきます。
 オリジナルなのに「異世界トリップ」っておかしくないかと思われるかもしれませんが、プロローグを書いた当時、作者は「神様転生」と「異世界トリップ」の区別が付いていなかったのでそれが原因です。



[33159] 『かみさまからもらったちーとのうりょく』の限界
Name: ハイント◆069a6d0f ID:a5c8329c
Date: 2012/05/19 03:13
 例によってトラックに撥ねられた主人公は、

 例によって神様からチート能力をもらい、

 例によって異世界に転移しました。

 ただ一つ、普通と違っていたことは―――――














 ―――――神様は、無貌の神だったのです。


















 知らない天井だ――などとお約束の台詞を吐こうとして、孝治は天井がないことに気付いた。
 むき出しの梁や桁の上に萱が葺かれたその屋根は、そもそも天井板が張られていない。

「……出鼻を挫かれたな」
「む? 目が覚めたか、坊主」

 聞き慣れぬ声に、隣を見る。厳つい髭面が目の前に現れ、少なからず動揺した孝治だが、表情に出すことは戒めた。
 状況から察するに、恐らく恩人の類であろう。

「失礼ですが、貴方は?」
「? 何と言っているんだ?」
「……失礼しました。貴方は誰で、私は何故こうしているのかをお聞きしたかったのです」

 どうやら日本語で話しかけていたらしい。聞き返されたので相手の言語で言い直し……ここで孝治は、邪神とのやり取りを思い出した。
 ――全ての言語を読み、書き、理解し、聞き取り、話す能力。
 早速役に立ったその能力に僅かながら感謝し、孝治は身を起こそうとする。孝治の質問に変な顔をしていた髭面男だったが、その動きを見咎めると、手で制した。

「おいおい、まだ寝ていた方がいい。昨日はナキュテクの泉の真ん中で、雪に埋もれて寝そうになってたって話だ。事情は分からんが、疲れてるんじゃないか?」
「いえ、恥ずかしながら……腹が減ってしまいまして」

 実際は熊のような髭面の大男と添い寝しているのが嫌だったのだが、おくびにも出さず孝治は言った。
 その気使いは無駄ではなかったらしく、男は笑った。

「あっはっは! こいつは俺の方が気が利かなかったみたいだな! 少し待ってろ、今温かいものを用意する」

 布団から抜け出した男の毛むくじゃらの逞しい上半身と、自身の痩せた――とはいえ、現代日本人としては標準である――体を見比べて、孝治は不安を覚えた。

 ……俺、ここでやっていけるのだろうか。

 とはいえ、初っ端から礼を失するわけにもいかない。孝治は男の背中に声をかける。

「ありがとうございます。それと、夕べは一晩暖めて頂いたようで、そのことも」
「なに、気にすんな。むしろ女じゃなくて悪かったな」
「……ははは」

 分かっているなら配慮してくれても良かったのに。
 とはいえ、命があっただけめっけものなのは孝治も理解している。どうやら指や耳が凍傷で失われたということも無いようだし、大人しく布団を巻きつけ、室内を観察しながら食事が来るのを待つことにする。
 広さとしては十二畳くらいだろうか。部屋は無く、小屋としてはそれなりに広いが、内装はさっぱりとしており、この酷寒の地ではむしろ寒々しいだけのような気がする。空き家なのかもしれない。
 上を見上げると先も言ったように天井板は張られておらず、むき出しになった梁からは、紐で吊るされ、乾燥した何かの肉や、鮭のような魚の干物が大量にぶら下がっている。
 布団は小屋のほぼ中央に敷かれており、すぐ横には砂が敷かれた大きな囲炉裏のようなものが設置され、今は炭がパチパチと音を立てていた。
 燃える炭のすぐ上には、おそらく鍋を引っ掛けるのであろう鉤状の金属棒が下がっており、さらにその上には一メートルほどの木の棒が二本、水平に吊り下げられていて、孝治の着ていたシャツと上着が掛けられていた。

「……本来は燻製用なのかね?」

 とりあえず上着を取り込み、着ることにする。春物のトレーナーがこの地で大した防寒効果を発揮しないことは身をもって体験したが、両の乳首を晒したまま食事をすることがこの土地の礼儀に適っているとも思えなかった。

「おう、待たせたな」

 服を着た孝治が内装を見回してこの地の生活習俗を想像していると、先の男が鍋を持って現れた。先ほど出て行ったときは裸だったはずだが、流石に寒かったと見えて、今は毛皮の上着を着込んでいる。
 鍋から立つ湯気を見るに、恐らく別の家から温まっているものを持ってきたのだろう。すきっ腹には中々堪える匂いがする。
 手早く鍋を先の鉤状金属棒に引っ掛けると、お椀によそって孝治に渡す。肉と野菜……というよりは山菜だろう、中々に栄養のありそうな汁物だった。

「ほら、食え」
「はい、いただきます」

 正座して頭を下げる孝治の姿が面白かったのか、男は声を立てて笑った。

「感謝してくれるのは分かるが、なにもそこまで畏まるこたぁない。大体なんだその座り方は。膝が痛くならないのか」
「いえ、慣れればそれほどでも……まあ、お言葉に甘えて」

 膝を崩す。受け取ったお椀の中身にもう一度『いただきます』と頭を下げ、椀の中身を啜る。

 ―――旨い。

 なるほど、たしかに現代日本のように、様々な調味料が揃っているわけではないだろう。しかしながら今まで食べたことの無い独特の肉の臭みと、それを打ち消すかのような……なんだろうか、ニンニクじみた独特の匂いのする野草が、なんともいえない野趣を醸し出していた。
 化学調味料に慣れた平均的な現代日本人の舌には合わないかもしれないが……幸いなことに、孝治はこの手の野生的な味が嫌いではなかったのだ。

「旨いですね、これ」
「そうだろう? 取って置きの熊(と、孝治の能力は翻訳した)の肉だ。神に感謝して食べてくれ……いや、そこまで頭を下げなくてもいい」

 お椀を頭上に掲げて深々と頭を下げた孝治に、男は慌てたように言った。

「山への祈りは俺達で済ませてある」
「は、それを聞いて安心しました」
「……面白い奴だなあ」

 半ば感心したように呟く男に、孝治は尋ねる。

「あの、ところで具は手づかみで食べれば良いのでしょうか」
「……おっと! すまんすまん、またしても気が利かなかったな」

 男は慌てて小屋を飛び出した。どうやら食器を持ってくるのを忘れたらしい。
 さて、箸が出るかフォークが出るか、それともナイフか……などと考え、孝治は椀の中身を見た。汁物の中に沈む熊肉。

「……ありがたや」

 もう一度頭を下げる。食べ物をくれる神様は間違いなくいい神様だ。何度頭を下げても構わない。……銀の鍵? いらねえよそんなもん。

 ――と、

「持ってって、って言ったじゃない! なんで忘れられるのよ?」
「あっはっは! 聞こえなかったんだよ!」
「……もう!」

 小屋の外から聞こえる声に、孝治は下げていた頭を上げた。
 豪快な笑い声は先ほどの熊親爺だが、さて、聞きなれない女の声は……

「おう、箸を持ってきてやったぞ!」

 箸だったか。
 などと感心する間もなく、孝治は続いて入ってきた少女に目を奪われた。

「あ、気がついたみたいですね。良かった」

 親爺の後について入ってくるなりそう言った少女は、有体に言って美少女だった。
 親爺の風貌から想像はしていたが、どうやらここの人間は彫りの深い民族らしく、中々にエキゾチックな魅力を漂わせている。
 一見、孝治より少し下くらいの年のころに見えたが……見た目は大人びていても実際は結構年下だろう、と孝治は判断した。

「娘さんですか? それとも奥様?」

 その質問に、少女は驚いたような顔をした。そのリアクションが面白かったのか、親爺は笑って答えた。

「娘だ。流石に今更若い娘を嫁に取るには、俺は年を取りすぎてるわい……おっと、別に衰えてるわけじゃないぞ。アッチの方でもな!」
「……お父さん……」

 豪快に笑う父親に呆れた視線を送る娘。この土地でもおっさんの下ネタは若い娘から忌避されるようだ。
 とりあえず孝治は曖昧なジャパニーズスマイルで誤魔化し、黙々と食事を続けることにした。



















「さて、それじゃあそろそろ、お前さんのことを話してもらおうか」

 先の汁物と、娘さんが持ってきてくれたおかゆ――米ではなかった。粟とか稗とかだろう――を食べ終え、孝治が一息ついた頃を見計らって、親爺はそう切り出した。
 娘さんも同席している。親爺は一応家に戻るように言っていたが、危険は無いと判断しているのか、その反対は強いものではなかった。結局孝治に興味津々の娘を押し切れず、なし崩しに居座っている。

「わかりました」

 一応、言うべきことは食べながら考えていた。
 何事も初めが肝心である。孝治の体験した“事実”は突拍子も無いものであり、ありのままに伝えたところで信用を得られるかは分からない。

 ―――ここで重要なのは、“敵ではない”と証明することだ。

 つまるところ、全てはそこに尽きる。どこから来たか、何故来たのかは問題ではないのだ。信用できる人間であるか、あるいは、何かの役に立つのか……彼らが知りたいのはそこだ。
 彼らの態度を見る限り、この村……あるいは家族、あるいは集落かもしれないが、彼らには差し迫った外敵が居るようには思えない。少なくとも異民族の風貌をした男を低体温症から救い、一食与える程度の余裕はある。
 ならば、ある程度適当な言い訳でもなんとかなるはずだ。



「俺は、空から落ちてきました」

「ああ、なるほど、道理で」



 ……だからといって、この反応は流石に予想外だった。

「え、ちょ、お父さん? 空から落ちてきたってどういう……」
「いやなあ、状況からしてそうとしか思えなかったんだよ」

 娘の困惑をよそに、一人納得する親爺。外見からしたら、むしろ若い少女の方が信じそうなものだが……見かけによらず、頭が柔らかいのかもしれない。

「見つけたイワテグの話だと、ナキュテクの泉のど真ん中に、足跡も無く埋まってたって話だ。最後に雪が降ったのはいつだ?」
「……三日前」
「な?」

 孝治は感心した。この親爺、熊のような見かけによらず頭が回るらしい。
 たしかに孝治も、昨晩の状況は覚えていた。一面の雪原、そのど真ん中に腰まで埋まった自分。空は快晴。
 途中から寒さに耐えかねて肩まで雪に埋まったが――雪の中があんなに暖かいとは知らなかった――孝治はその場を動かなかった。それは彼の邪神が、こんなところで主役の脱落を認めるとは思えない、という負の信頼と、もし死ねるなら凍死は比較的楽な死に方だから、という捨て鉢な感情のなせる技だったのだが、それはまあいい。
 重要なことは、“常識ではありえない状況で発見された”ことを、相手に認識させることである……もっとも、言われるまでも無く親爺は気付いていたようだが。
 あと、会話に出てきた『イワテグ』というのは、どうやら男の名前らしい。個人名と性別まで理解できるとは、恐ろしく高性能なチート能力である。

「いやしかし、まさかと思えば空から降ってきたとは。空の上ってのはどんなところなんだ?」
「そうですね、私がやってきたのは月の国からなのですが……」
「月の国って、もしかしてユピリイエ様の従者なの!?」

 娘が驚いた声を上げた。同時に、孝治の脳裏には『ユピリイエ=月の女神』という意味が浮かぶ。固有名詞を説明なしで理解できるとは、本当に恐ろしいチート能力である。
 とはいえ、せっかく相手から引き出した情報である。そのまま乗っかってしまうのが良いだろう。

「ええ、まあ。こちらではユピリイエ様と呼ばれているのですか、我が主は」
「え、ええ……」

 娘が怯えたように身を引いた。あれ、と一瞬孝治は思ったが、すぐに親爺の方からフォローが飛ぶ。

「ああ、娘はおまえさんに連れて行かれるんじゃないかって思ってるんだろう」
「連れて行く?」
「ああ。ほら、ユピリイエ様は死の国の門番でもあるだろ」

 一瞬遅れて、孝治は「なるほど」、と相槌を打つことに成功した。
 考えてみればこの酷寒の地域。昨夜体験したように、月の出る夜空は極度の寒さに見舞われる。野生動物さえ動きを止めるそんな夜を、死の国と重ね合わせるのはむしろ自然だろう。
 意識を集中してみれば、なるほど、『ユピリイエ=月の女神、死の国の門番、太陽神の姉…』といったニュアンスが浮かび上がってくる。

「本気で便利だな、チート能力……」
「ん?」
「いえ、なんでもありません。あと、私は別に皆さんを迎えに来たわけではありません」
「……そうなんですか?」

 怯えたように言う娘さんに、孝治は苦笑する。

「ええ。私は別に主……“元”主ユピリイエ様から使わされてきたわけではありません。……単に、追放されただけです」
「追放? そりゃどういうことだ?」
「そのままの意味です。私は月の国で罪を犯し、ユピリイエ様から地上に落とされました。今となっては、地上の人たちと変わりない身です」
「……そりゃまた」

 大変だなあ、と親爺は同情した声を出した。一方の娘さんは不審げな目つきだったが、少なくとも怯える様子は見受けられない。

「まあ、私の素性はこんなところですが……私の犯した罪について説明した方が?」
「……ああ、そうだな。それについて知っておいた方がいいだろうな」

 親爺が目で問うと、娘の方もこくりと頷いた。

 ……さて、どうするかな。

 孝治は考える。罪を犯して月から追放された、というアウトラインは竹取物語のものを拝借したが、たしかかぐや姫の犯した罪の詳細は物語中に記されていない。高校時代の古文の先生は『不倫説が有力』とか言っていたが、美女でもない俺がそれを語ったところでどれほどの信憑性があるものか。むしろ間男のレッテルを貼られ、不信感を与えるだけである。
 では主への不敬はどうか。追放されるに値する罪であることは間違いないが、これも同じ理由で却下である。男である俺が女神である主に行う不敬……性的な想像が浮かんでくる。それにこの集落、というかこの親爺を見た直感だが、どうも身分差に厳しい社会だと思えなかった。相手の想像の範囲外の罪を上げるのは……あまり好ましいとは思えない。
 殺人、強姦、暴行、窃盗……この辺りは基本的にNGだろう。そんな危険人物を喜んで迎え入れるのは、碌な集団ではない。孝治の方から願い下げだ。
 なのでここは、

「盗み食いです」
「盗み食い?」
「ええ。それも、ユピリイエ様への供物に手を付けてしまいまして……」
「あー……それはまずいな」

 これで通させてもらおう。
 食い物の恨みというのは人類普遍のものであり、同時に盗み食いに対する欲求もまた、大抵の人間は持ち合わせている。
 そして余程の極限状態でもない限り、人間社会では許容され得るものでもある。

「ユピリイエ様は仰いました。下界に降り、山の幸、海の幸を捧げよ、と。なので私は罪を雪ぐため、様々な食べ物を集め、捧げねばならないのです」
「ああ、さっき熊汁を掲げてたのはそういうことだったのか」
「……はい。そういうことです」

 親爺はすんなり納得した。自分でも気付かないうちに伏線を張っていたことに、孝治は我が事ながら驚いた。かの邪神の言うとおり、主役の才能があるのかもしれない。

「私の事情はそんな所です。なにか他に聞きたいことはありますか?」
「あー……なんかあるか?」
「……お父さん、重要なことを聞いてないよ」

 娘さんは孝治に向き直る。

「これからどうするの?」
「山海の珍味を集めるため、この地を回ろうかと」
「今、冬だよ?」
「それが問題なんです」

 ふう、と孝治は息を吐いて見せた。それは望んでいた展開がようやく回ってきたことの安堵の溜息であり、そして心底困ってますよ、とアピールするためのものでもあった。

「下界に降りた私は、御父君は知っているかと思いますが、この地の人々よりも虚弱です。とても降り積もった雪を越えて旅をすることなどできないでしょう」
「ああ、ひょろっちい体してたもんな、おまえ」
「お父さん!」
「いえ、事実です。……なので恥を忍んでお頼み申し上げますが、雪が解けるまで、この村に置いてはいただけないでしょうか」

 膝を正し、孝治は親爺の目を見て言った。

「勿論、手伝えることがあれば手伝います。狩は……無理かもしれませんが」
「うーむ……」

 親爺は娘を見た。「少し待ってくれ」と言い残すと、二人で小屋から出て行く。

「……どうなるかな」

 不安を押し殺し、正座を崩さずに孝治は思案した。
 はっきりいってここで断られるとどうしようもない。状況的には詰んだといっていいだろう。
 とはいえ、断られることはないだろう、というのが孝治の判断だった。

「どの道旅立たせるなら、食料を持たせる必要がある。さらに衣服もだ。死ぬと分かっていて放り出すほど、無情な人たちじゃないだろう。
 ……そうなると、この場合は助け損ということになる」

 無論彼らが助けてくれたのは善意からだろう。だが、“だからこそ”、その選択は無くなる。
 月の国から来た謎の男……その出自を証明するものは、実の所、昨夜の状況証拠しかない。つまりここを追い出されれば、孝治は頼るものの無い、ただの虚弱な青年と成り下がる。
 そのことに気付かないほど、あの親爺は馬鹿じゃない。そして、

「もしここを追い出されたら、雪に埋もれて凍死するぞ」

 呟く。語り聞かせるように。

「凍死は楽な死に方の一つだ。昨夜経験して確信した。雪に埋もれ、ひたすら寒さに震えているうちに、気付けば体が動かなくなり、そのまま苦痛が遠のいて死に至る。
 ……二人目の探索者が居ない以上、それでゲームオーバーも悪くない。どうせ一度死んだ身だしな」

 本当に居ないのかという疑問はあるが、どちらにせよ言いたいことは伝わっているだろう。

「楽に殺しちゃつまらんだろう。なあ、邪神―――」












 心の奥底で、警鐘を鳴らす自分が居る。











 ―――邪神に祈るか。

 これを祈りと呼ぶのなら、そうだな。

 ―――悔やむことになるぞ。

 それは後で考えるさ。

 ―――本当に、いいのか?

 今の時点で悩んでなどいられないだろう。今はまだ、チュートリアルだ。

 ―――そんな認識で、この先やっていけるとでも?

 一度死んだ身だ。軽すぎるくらいでちょうどいい。

 ―――もう一度言う。“悔やむことになるぞ”

 もう一度言う。“それは今じゃない”

 ―――………そうか。














 諦めたようなその声は、何故だろうか。

 嘲りを含んでいた気がした。














「よーう」

 親爺が入り口を開けて入ってきたのは、それから一分と経たない内のことだった。

「私の処遇は決まりましたか」
「ああ。食料には今のところ余裕もあるし、春までなら問題なく置いておけるぜ」
「……良かった」

 ほっと胸をなでおろす。偽らざる心境でもあり、相手に与える印象を考慮した仕草でもある。

「それでは、これからお願いします」

 三つ指ついて頭を下げる。頭を上げたとき、親爺が微妙な表情をしていて、孝治は少し戸惑った。

「大仰に過ぎましたか」
「……ああ、まあ、ちょっと見たことの無い所作だったな」
「一応これは、ユピリイエ様にするのと同じ作法なのですが」
「変だと思ったら拝神礼かよ! やめてくれ!」

 間違ってはいない。座礼は元々拝神の礼であり、人間に対して行うのは、本来皇族などの本物の貴人相手に限定されていた。
 閑話休題。

「とはいえ、これからお世話になるからには、やはり礼節を尽くしませんと」
「やめてくれ。うちの集落では、そんな下手に出る奴は居ない。皆家族だ」
「なるほど。では私のことは次男と思ってこき使ってください」
「あー、まあ、そんなところか」

 一応長男と末っ子を避けてのチョイスだったが、どうやら間違っていなかったらしい。

「では、改めて……いえ、思えば名乗っていませんでしたね。私は築地孝治と言います。孝治とお呼び下さい」
「ああ、俺はカルウシパ。エヘンヌーイの族長カルウシパだ。よろしく頼むぜ、タカハル」

 こうして築地孝治は、エヘンヌーイの村に居候することが決まったのだった。














「なあ、ところでお前の話し方なんだけどよ」
「なんでしょうか。できる限り丁寧に話しているつもりでしたが」
「いや、丁寧っていうか。


 ………それ、祝詞だよな






「…………ああ、敬語の概念が無いのね…………」







 ※以降、話し方は改めました。



後書き
 続きを希望されるのは様式美として期待してましたが、感想数には驚きました。興奮して一話書いちゃうくらい。
 しかし蓋を開けたらごく普通の異世界トリップという罠!
 とりあえず勢いで書いてしまったので投下しますが、続きは期待しないでください。
 ちなみに推敲してません。多分推敲したら冷静になって、投下する気力無くなります。



[33159] 辺境における異世界人の身の処し方
Name: ハイント◆069a6d0f ID:a5c8329c
Date: 2013/04/04 23:48
 この地はたしかに寒冷地であり、おそらく地球の気候区分では亜寒帯に属するだろうということは、立ち並ぶ針葉樹林で想像はしていた。
 木さえ生えない本物の極地でなかったことは幸運だった。仮にイヌイットのように生肉からビタミンを摂る生活を送る羽目になっていたら、孝治の胃腸は耐えられなかっただろう。
 消化不良や栄養失調は即座に死に繋がる……その程度の危機意識は、流石に孝治も持ち合わせていた。というより、痛感させられていた。
 この村に滞在することを決めて三日目、与えられた糸作りの仕事に慣れ始めた頃――寒さにやられたのか、腹を下してしまったのだ。

 ……流石に、あの時はきつかったな。

 孝治は回想する。エヘンヌーイ(ちなみに、現地語で沼辺を意味する)の人々の生活スタイルはアイヌ的な狩猟採集生活で、労働力にあまり余裕が無い。今は冬なので食料の備蓄はあるが、ごく潰しをいつまでも養えるほど、余裕のある社会ではないのだ。
 そのことを承知していた孝治は、多少無理をしてでも仕事をしようとしたのだが……カルウシパの親爺殿に窘められた。

『いいから体を温めて寝てろ。下痢で痩せたら、中々元に戻らないぞ』

 なんでも親爺殿は若い頃、クゥルシペ(南にある港町で、この島最大の交易所がある)でフソ(南方の異民族。海で隔てられている)の人々と交流したことがあり、この程度は想定内だったという。なんとも頼れるおっさんだった。
 とりあえず毛皮を腹に巻き、胃腸の薬だという激烈に苦い熊の胆を舐めて寝ていたら一日で治ったが、この事件は孝治に貴重な教訓を与えてくれた。
 即ち―――己の健康は、己で守らねばならないということを。





















 ―――噛む。

 ひたすらに噛む。一口につき二十回。それが孝治が己に課したノルマだった。
 可能な限り体を温めること。常に傷が無いか確認すること。食べ物は良く噛んで食べること。物を食べる時は姿勢を正すこと――日本にいた頃には殆ど無視していた祖父母からな薫陶を、孝治は徹底的に遵守することにしていた。
 体を冷やせば抵抗力が落ちる。傷口から雑菌が入れば、抗生物質どころか消毒薬も無いこの世界では命取りになる。食べ物の消化不良は栄養失調の原因であり、死に直結する。猫背で物を嚥下すると噎せる……つまり気管に物が入るということで、これは肺炎の原因になり得る。
 なるほど、こういった状況に陥ってみれば、先人の知恵というのは馬鹿に出来ない。文明社会のバックアップを失った孝治は、有体に言って弱者である。絶対的強者である自然の驚異に対抗できる武器があるとしたら、それはこういった先人からの知識と、小学校から大学二年まで、14年間の教育で培ってきた科学的思考だけだ。
 もっとも、現代日本の常識に凝り固まった孝治に、どこまで彼らを理解できるかは怪しいものだったが……。

「明日は、熊狩りに行くぞ」

 孝治は咀嚼する顎の動きを止めた。二ヶ月ほど共に食卓を囲んでいるが、カルウシパがそんなことを言い出すのは初めてのことだった。
 そんな孝治の驚きをよそに、ルゥシア――初日に孝治にお粥を持ってきてくれたカルウシパの末の娘である――は楽しげな声を上げる。

「あ、じゃあ私も付いてっていい?」
「駄目だ。……と、言いたいところだが……」

 ちら、とカルウシパは孝治を見た。

「おまえはどうする?」
「俺じゃあ付いていけるとは思えないな。歩く速度が違いすぎる」
「おまえ、まだ慣れてなかったのか」
「日頃座って仕事してるんだ。足だって弱るさ」
「あ、でもタカハル凄いんだよ。糸を撚り始めると、何時間も同じ姿勢で作業してるし……」
「そうねえ、ちょっと近寄りがたい雰囲気があるわ」

 そう言ったのは、カルウシパの妻のオクルマである。オクルマは元々別の男の嫁であったが子を生せず、十年ほど前にカルウシパが前妻を亡くした際、引き取るような形で再婚した。そんな話を、孝治は村の女たちから聞かされていた。
 現代日本人の感覚では中々理解しがたい話であるが、さもありなん、エヘンヌーイの村の総人口は100人に満たず、再婚したオクルマの前夫が四人の子を生し、その内二人が早世したことを考えると……まあ仕方ないかな、と思うのが孝治である。
 むしろ一夫一婦制が適用されてることが不思議なくらいだ……などと思いつつ、孝治は粥を口に運んだ。ちなみに具は例によって鮭に良く似た魚である。

「だがな、いつまでも女に混ざって内職してるわけにもいかんだろ」
「うーん……たしかに、うちの男どもからの評判は良くないよね、タカハル」
「それにいずれうちを出て行くんだろう? 自力で狩もできないようじゃ、まともな男と認められないぞ」
「いや、俺だって別に狩が嫌なわけじゃないんだ。ただ、座り仕事の方が“稼げる”んだよ」

 全く経験の無い狩猟の技術を一から学ぶより、座り仕事の方が手っ取り早く村に貢献できる。その孝治の判断は間違ってはいないはずだ。実際に樹皮を解して糸を撚る作業を、孝治は短期間で習得した。
 とはいえ、この土地の人々の『男は狩りに出るもの』という固定観念の強さも、孝治は肌で理解している。そしてそれは、別の文化圏に脱出しない限り変わらないだろうということも。

「一応、訓練はしてるんだがなあ」
「訓練って、おまえ、夜中に家の中で弓を引いたり戻したりしてるだけだろうが。外で実際に矢を射てみろ。あんなので上手くなるわけないぞ」
「腕の力を鍛えてたんだよ……それに、外で矢を射るのは周りの目が痛い」
「そういえば、若い子達からは小弓のタカハルとか言われてたわねえ……」

 ここで言う小弓というのは、子供用の小型の弓のことだ。この地の子供たちは、小弓を用いて魚を獲り、弓の技術を学ぶ。以前孝治は弓の訓練にこの小弓を持ち出し、この地の子供がやるように、ひたすら地面めがけて矢を放っていたことがある。『小弓のタカハル』というのは、それを見た奴らが付けたあだ名だろう。日本で言えば『補助輪の孝治』と言ったところか。不名誉な呼称であることは間違いない。

「だが、いつまでもそんなあだ名を許しておくつもりは無いんだろう?」
「……それは、まあ」
「そうか。じゃあ、そうだな」

 カルウシパは一つ頷き、

「明日は村の男衆総出で熊狩りだ。いい機会だから、おまえはその隙に射場で弓の訓練をしてろ」
「いいのか?」
「いいも何も、おまえはちょっと働きすぎだ。たまには体を動かさないと、衰える一方だぞ」
「いや、朝飯食ってから夕方までしか働いてないんだが……」
「十分働きすぎだよタカハル……」

 太陽の高さから推測するに、この土地は東京よりも高緯度にあるだろう、というのが孝治の見立てだった。そしてチート翻訳能力を信じるなら、現在は太陽暦の三月らしい。日照時間は十時間前後といったところか。食事の準備やその他に使う時間を考えれば、一日の労働時間は八時間程度。現代日本人の孝治の感覚では、長時間労働というほどのものでもない。まして余所者である孝治が村の食料を分けてもらう以上、人一倍働くことは義務である。
 とはいえ、この土地の人々からすると、無駄口一つ叩かず黙々と作業する孝治の様子は相当奇異に写ったようで、同様の指摘は以前にも受けていた。

「というわけで、タカハルは弓の訓練だ」

 意味ありげに、カルウシパはルゥシアを見る。その目は雄弁に、『それでおまえはどうするんだ?』と語っていた。
 その視線を受けてルゥシアは少し考える。

「むむ……熊狩りは一度行ってみたいと思ってたけど、そういうことならタカハルの練習を見てた方がいいかな……」

 ニヤリ、とカルウシパは孝治を見た。孝治はその意図を理解し、ルゥシアに言う。

「教えてもらえると助かるな。どうにも矢が真っ直ぐ飛ぶ気がしないんだ」

 ……流石にその言い方はどうなんだ。

 カルウシパとオクルマは少し呆れたが、若い娘にはこれくらい情け無い言い方でちょうど良かったらしい。ぱちくりと目を瞬かせ、得意気に頷いた。

「仕方ないなあ。そこまで言うなら、明日は私がタカハルに弓の技を教えてあげるよ! すぐに一人前の男にしてあげるからね!」
「ありがたい。俺にも見栄があるから、男に教わるのも辛いと思ってたんだ。ルゥシアが教えてくれると助かる」
「ふっふふー。私の指導は厳しいからね!」

 調子に乗って弓を射る真似をしてみせるルゥシア。それを受けて苦笑する孝治。
 そんな二人を見て、カルウシパとオクルマは目を見合わせて笑うのだった。



















 明けて翌日。昨夜の約束通り、孝治とルゥシアは射場に来ていた。村から獣道を通って数分の位置にある、木立に囲まれた10m×20m程度の開けた空間である。日頃は男たちが暇つぶしに――つまるところ、彼らにとっては訓練ではなく――弓を引いているのだが、今日は貸切状態だった。
 事故防止のため入り口に訓練中の旗を立てると、孝治は借りた弓を数度弾き、感触を確かめる。とはいえ引くだけなら毎晩引いている弓だ。今更特に問題もない。
 この地に自生している中でも粘りのある木を選び、削りだして作ったその弓は、全長が1.2メートルほどの短弓だ。弓としては極めて原始的な形態だが、この地の人々は熊さえもこれで狩る。狩猟用としては十分だった。

「よし、とりあえず至近距離から撃ってみるかな」

 2メートルほどの距離をとり、孝治は幹が太くごつごつとした木を狙って弓を引く。番える矢はヘラ矢と呼ばれる魚撃ち用の矢だ。木材を削りだして作られており、先端がヘラ状で矢羽が付いていない。本来は件の小弓に番えて射る為のものだが、貴重な本式の矢を訓練で損じるわけにはいかないので、今日の訓練はこれを使うことにした。幸い、長さに不足は無い。
 呼吸を止め、肩の力を抜き、静かに右手を離すと、ビン、という反動と共に矢が放たれる。

「……一応真っ直ぐは飛んだか」

 放たれた矢は先端から高い音を立てて木に当たり、そのまま下に落ちた。
 水平射は初めてだったが、矢があさっての方向に飛ばなかったことに安堵する。孝治としては及第のつもりだった。

「どうですルゥシア先生。俺の射は?」
「うーん……なにから言ったらいいのかな……」

 しかしながら、この地で幼い頃から弓に親しんで生きてきたルゥシアは、全く納得していない様子だった。頭を押さえて渋い顔をしている。

「なにか間違ってましたかルゥシア先生」
「一から八くらいまで間違ってるよ! ……あとその祝詞口調やめて」

 ……本当に全く納得していなかった。

 首をかしげつつも、孝治は二射目を射ようとする。まずは箙から矢を取り、

「そこっ!」
「え?」

 鋭い叱責が飛んだ。孝治は動きを止める。

「え、なにか間違ってたか?」
「音を立てない!」
「お、と……?」
「そう!」

 ルゥシアは言う。弓の技は獣を狩るための技であり、狩猟の巧者とは、すべからく獣に肉薄する技術の持ち主なのだと。
 つまりこの地における弓術とは、遠距離からの命中率を競うものではなく。獣に気取られること無く至近距離から射て、確実に当てることが第一なのだ。

「だから矢を取る段階で音を立てるとか論外!」
「なるほど、深いですね先生!」
「だから祝詞口調やめて」

 丁寧語でさえ祝詞に聞こえるのか……。

 翻訳技能の扱いに一抹の不安を抱きつつ、孝治は言われたとおり、極力音を立てないよう、慎重に矢を箙から抜く。幸い指先の感覚の鋭さと器用さには自信がある。
 今度はルゥシアに叱責されない程度の静かさで矢を取ると、弓に番え、

「はいそこっ!」
「また何か間違ってたか先生!」
「イワテグさんとこのナジカちゃんが見てもすぐ分かるレベルで間違ってるよ!」
「そんなに!?」

 イワテグさんとこのナジカちゃんとは、御年5歳の女の子である。ガチ幼女だ。

「よく今まで誰にも指摘されなかったね……矢を置くのは弓の左側! なんで右に番えるの!」
「いや、俺の故郷の弓はこうだったんだ。左ってこっちか?」

 矢を弓手の人差し指の上に置いて安定させる。言われてみれば、アーチェリーはたしかこちらに矢を置くはずだ。ヨーロピアンフォームとモンゴリアンフォームだったか? 高校の部活の先輩がそんなことを言っていた。

「そうそうそんな感じ……って、月の国にも弓はあったの?」
「え、ああ、いや、まあ、俺は神官だから扱った事は無いが……」
「へー、素材は? やっぱり木?」
「いや、竹って植物が生えててな……いいから練習するぞ! 先に進まない!」
「ちぇー、せっかくじっくり月の話を聞けると思ったのにー」

 薄々気付いていたが、やはりそれが目当てだったのか、と孝治は心中苦笑した。
 この娘、どうも月の話に興味津々で、ことあるごとに話せ話せと言って来る。孝治も毎度は断りきれず、日本の話を適当にアレンジして語り聞かせるのが常だった。
 孝治としては色々と切なくなるので、あまり日本のことは思い出したくないのだが……。

「でも右に番えるって変だと思うけどなあ。何か理由があるのかな?」
「番える時に楽とかそういうことじゃないのか? 俺としては左に番えるほうが違和感があるが」
「……じゃあちょっと孝治しゃがんでみて」
「? 構わんが」

 孝治は弓を持ったまま片膝を付いた。

「そのままさらに姿勢を低くして。上体を伏せるような感じで」
「雪が冷たいんだが」
「いや、ホントに伏せなくていいからね? 前足の膝に胸を押し付ける感じで……そうそう」
「なあ、この姿勢きついんだが」
「我慢して。それで、矢を番えて引く」
「……ふむ」

 言われたとおり、可能な限り姿勢を低くして弓を構えようとするが、弓の下端が地面に当たって構えられない。
 さて困った、とルゥシアを見る。

「そこはね、こうするの」

 さっ、とルゥシアはしゃがみこみ、自前の弓で射撃姿勢を取る。両足を殺すことなく、限界まで低くした姿勢。そのまま弓を“斜めに寝かせて”引く。

「――ああ、なるほど」
「ね?」

 孝治は納得した。たしかに弓を傾けて射る場合、弓道式の番え方では矢が落ちてしまう。しかし矢を左に置けば、矢は弓の上に乗り安定する。

「まあ、ここまで姿勢を低くして射ることなんて滅多に無いけど。山の中で傾けて射る機会は多いからね」
「いや、納得したよ。矢の番え方一つでえらく変わるもんだ」

 こういった細かい作法というのも馬鹿に出来ない。そう改めて思い直した孝治は、その後もルゥシアに一から八くらいまで矯正されつつ、その後の訓練を続けたのだった。




















「で、どうだったの? タカハルの弓は」
「もう全然! でも素直に言うこと聞いてくれるから教え甲斐はあるかな」
「ははは……」

 ―――などという居心地の悪い昼食を終え、午後の訓練である。

 ビンッ

「ふむ。5メートルでも安定して飛ぶな」
「……普通の矢を使って練習した方がいいと思うけどなあ」

 孝治はルゥシアからの注意点をチェックしつつ、1メートル刻みで距離を伸ばし、飛行する矢の安定度を確認していた。
 矢羽の付いていないヘラ矢を安定した姿勢で飛ばすことができれば、矢羽の付いた矢を用いる際、空気抵抗による減衰を最小限に抑えて威力と飛距離を稼げるはずだ……という孝治の理論をルゥシアは今一つ理解していなかったが、弓使いとして難しいことをやっているのは理解できたのだろう。文句を言いつつも強く反対することはしなかった。ひたすら矢を放つ孝治のフォームを、横から確認して口出しするに留めている。
 そんな静かな時間がしばらく続き、太陽が若干の傾きを見せた頃、孝治はなんとなく呟いた。

「……こうしていると、高校の部活を思い出すな」
「ん? タカハル、コーコーのブカツってなに?」

 しまった、興味を引いたか。と孝治は己の不覚を悔やんだが、指もいい加減痛くなってきたので、休憩がてら月の――日本の――話をするのもいいかと弓を下ろした。

「部活ってのは……いや、その前に学校だな。学校について説明しよう」
「ガッコウ? なんか前に言ってたよね、子供が知識や技術を競う所だって」
「まあ、そうなんだが……前にした説明だと、部活に繋げるのが難しいんだよな」

 文字を持たず、貨幣経済に親しみの無いこの土地の人々に、学校という組織について教えるのは困難を極める。なにしろ教育の基礎である『読み書き算盤』が無いのだ。以前ルゥシアに説明したときは、『同世代の子供たちを集めて狩りや物作りの技術を競わせ、一番上手い奴を決める場所』のように説明したが、理解させるのに恐ろしく苦労した。
 以下、回想である。



「腕前なんて、そんなの普段の生活で分かるでしょ?」
「いや、初めて会う人にどのくらいの腕前なのか分かりやすく伝えるためにやるんだ。村で何番目の腕前で~って説明すると分かりやすいだろ?」
「そんなわけないよ。村によって特産品だって違うし、狩りの技や知識なんて、慣れてる山かどうかで全然違うよ」
「いや、教育ってのはある程度統一された基準があって……」
「??……仕掛け弓を上手に作れるかどうか、みたいな?」
「そうそう、どこの村に行っても通用する技術ってあるだろ? その上手い下手を分かりやすく伝えられるんだ」
「……でもそれって、生まれ育った村を離れるってことだよね? わざわざそんなことする意味ってあるの?」
「月の国だと会社ってのがあってな……ええと、共同で生産活動を行う集団なんだが、そこに所属する際に学校の成績が物を言うんだ」
「???」
「ええと、だから……この村でも、若い男がクゥルシペに出稼ぎに行ったりするだろ? そういう感じで、村と村の間で人材の交流があるんだよ」
「ああ、たしかにクゥルシペには力持ちの人とか頭のいい人とか、出来る人を出すよね」
「そうそう。そして会社ってのは……この辺で言ったらある特定の工芸品を作る集団なんだ」
「……お盆とか刺繍の衣とか?」
「そう。たしか交易品としてこの村でも作ってるよな? そして木彫り細工は、大体シムナプさんが作ってるはずだ」
「木彫りはシムナプさんが一番上手いからね。上手く出来たお盆の方がいい物と交換できるし、他の仕事より優先してもらってるよ」
「それだ。上手い人には得意なことをやってもらう。それが会社って集団なんだ」
「ええと……つまり?」
「シムナプさんは木彫りが上手いから木彫りをする。カルウシパみたいに狩りの上手い人は狩りをする。こういうのは分業って言うんだが、分かるか?」
「うん、まあ」
「この村だと皆で狩りをしたり、魚を取ったり、木の実を集めないと食べ物が足りなくなるが、月の国だと一人の人間が一日に二頭くらい鹿を仕留めて、日が沈むまでに一人で解体したりできる」
「えっ!? それは凄いよ!」
「凄いんだ。それでどうなるかというと、全員が狩りをする必要がなくなるから、上手い人だけが狩りをして、他の人は工芸品を作ったり薪を集めたり出来る」
「ふんふん」
「だから、物作りの上手い人たちが集まって交易品を作り、色々珍しいものや食べ物と交換してもらうわけだ。この集団が会社だな」
「ふーん、それで?」
「で、この会社に入るために学校での順位が重要になるんだ。学校っていうのは子供たちに狩りや物作りなど、一通りの技術を教える。だからここで子供の適性を調べて、向いている仕事を割り当てる。成績の良かった奴は、より良い会社に入れる」
「うーん……その良い会社っていうのがよく分からないんだけど」
「そうだな……たとえば木彫りだったら、木目の綺麗な木を回して貰える、とかかな。この村でもシムナプさんが一番良い木を彫ってるだろ?」
「あ、そうか。木彫り上手い人を集めて良い木を彫って売れば、より良い物が手に入るもんね!」
「そう! そのために大勢の子供を学校に集めて、向き不向きを調べるんだよ」
「へー、月の国ってややこしいんだね! それで学校ってどんな所なの?」
「…………」



 ……などというやり取りの末、結局孝治は『幾つかの村から子供たちを集めて、一緒に仕事しながら順位を決めるんだよ!』と説明をぶん投げた。
 ルゥシアも孝治の長々とした説明に嫌気が差していたのか、『楽しそうだね』とコメントしてこの時の解説は終わった。孝治の苦労はなんだったのか。

「高校ってのは、学校の一種だ。小さい子供から、小学校、中学校、高校って分けられてる。年長の子供が集まって訓練するところだな」
「へー、じゃあ私くらいの年齢?」
「……うん、まあ、それくらいかな……」

 たしかに孝治には人種の違いか高校生くらいにも見えるが……前に聞いてみたところ、ルゥシアの年齢は今年で12歳(翻訳能力によると満年齢)だそうだ。明らかに高校生ではないが、この地の基準だとそろそろ結婚適齢期である。子ども扱いできるギリギリの年齢だった。

「まあとにかく。年長の子供が集まって、高度な知識や技術を学ぶのが高校なんだ。そして部活っていうのは、その中でも特殊な技を見に付ける為の……研究集団?みたいなものだ」
「ケンキュウっていうのがよく分からないけど……つまりどういうこと?」
「うーん……」

 孝治は考える。この土地で特殊な技術と言えば何になるかと。そして孝治が高校時代に所属していた部活といえば……

「……毒だ」
「えっ、毒?」
「矢に塗る毒。あるだろう? たしか花から取る奴が」
「ああうん、たしかにあるよね。うちの秘伝が」
「そういう秘伝の技を伝えるのが部活だ」
「部活って凄いね!?」

 まあ一応、部活で習得できる技術は、大抵未経験者には真似できないものだし……この説明でいいや、と孝治は思った。

「ああ。俺は化学部に所属してたんだが、この部活は毒や薬の秘術を伝える集団だった」
「え、じゃあ孝治って毒とか薬とか作れるの?」
「いや、ここじゃあ手に入らない材料を使ってたし、それに俺の研究テーマは……」

 キラキラとしたルゥシアの目が眩しくて、孝治は言葉を濁した。
 思い出すのは狂気(SAN的な意味ではない)と混沌(這い寄らない)に乗っ取られた高校時代。先輩から無理やり言い渡された研究テーマ。明らかに化学部の守備範囲を逸脱する内容に抗議の声を上げたものの、『お前元柔道部だろ』の一言で圧殺された。訳がわからない。
 更には他の一年を差し置いて肉体労働を押し付けられ、孝治はいい加減嫌気が差して部活をバックレようとしたが……背後から忍び寄った先輩に、一瞬で拘束され連行された。もうマジでなんの部活だったのだろう。先輩方の戦闘能力は、明らかに孝治より上だった。一応孝治は県大会出場者だったはずなのに。
 まあ、二年に上がる頃にはその理由も判明したのだが……それにしても、おかしな高校に通っていたものだ。当時は諦めて受け入れていたが、大学では変な目で見られるのが怖く、高校時代の話が出来なかった。
 ついでに言えば中学も……いや、あれは柔道部と“アイツ”がおかしかっただけだ。学校自体は普通の中学校だった、はずだ。

「……まあとにかく、俺は毒とか薬は作れない。役に立てなくてすまないな」
「いや、謝ることじゃないけど……でもそっか、孝治って薬師だったんだね」
「そんな立派なものじゃない。見習いの見習いだ」

 言いつつも、孝治は高校時代に経験した実験を思い出してみる。もしかすると知識チートでヒャッハーできるかもしれない……などと思いつつ記憶を探る。
 だがしかし、高校の化学部でやる実験と言うのは、通常出来合いの薬品を用いるもので……サバイバルの役に立つようなものではない。いくら変人揃いの先輩方とはいえ、都合よくこの異世界で役に立つような知識を孝治に教えたことはなかった……多分。

「……うん、多分役には立てないな。残念だが」
「そっかー。孝治って色々知ってるし、何か凄いことが出来てもおかしくない感じなのに」
「前から言ってるじゃないか。俺が凄かったんじゃないって。月の国が凄かったんだよ」
「えー、でも私には想像もできないような話をしてくれるよタカハルは。この前のアスハ……ルート?だっけ? あれとか」
「ああ、アスファルトか」
「そうそれ! 岩を溶かして固めるとか、私には考えたことも無かったもん」

 そういやそんなことも話したことがあったなあ、と孝治は思い返す。
 この土地は寒冷地であり、春になれば日中は解けた雪で道はぬかるみ、夜になると濡れた地面は凍結する。だからイメージしやすいだろうと、アスファルトの舗装道路について話したことがたしかにあった。

「だからタカハルは、きっと何かできると思うんだけどなー」
「そんな無責任な……月の国の物は、月の国じゃないと作れないものが多いんだよ」
「うーん。あ、でも、タカハルは月の国を追放されて地上に来たんだよね?」
「ああ、そうだ」

 今更その話題に戻るのか?と孝治は首を傾げた。孝治が追放された話は、村では公然の秘密であり、あまり話題に上がることはない。他人の失敗話を話題にしないエヘンヌーイの人々の良識に孝治は感謝していたが、お世話になっている身だ、怒る筋合いでは無いとも思っている。そもそもフィクションだし。
 なので特段、気構えもせずにルゥシアの言葉を聞いたのだが、



「じゃあさ、タカハルの前にも月の国を追放された人って居るんじゃないの?」



 ……不意を打たれた。
 たしかにその通りだ。珍しい事例だとは皆思っているだろうし、孝治もそう思わせるつもりで振舞っていたが、前例が無いとは言っていない。

「だったら、タカハルの前に追放された人の話とか、タカハルなら知ってると思うんだけど……」
「…………」

 なるほど。
 孝治は少しばかり目の前の少女を見直した。つまり彼女はこう言っている訳だ。

 ―――下界に追放された人が居るなら、下界での処世術のマニュアルもあるはずだ。

 たしかに、ルゥシアの指摘は筋が通っている。前例に学ぶのは如何なる社会であっても――それが人間の社会であるなら――当然の話である。それこそが人間が言語を獲得した最大の意義なのだ。
 今まで孝治はひたすらにエヘンヌーイの流儀に従って日々を送っていた。そしてそうやって過ごす以上、孝治の生活能力が下界では極めて低い水準にあることは周知の事実だ。これを殆どの人々は、『孝治は役立たずだ』と納得しているはず。
 しかし孝治と会話する機会の多いルゥシアは疑問に思っているのだろう―――これほどに博識な孝治が、何故下界では子供並みの能力しかないのか、と。
 そしてこう思っているのだ―――タカハルの月の知識で、何か凄いことをやって見せて欲しい、と!

 ……ここまで考えると、孝治は思い違いを正そうと口を開いた。無垢な少女の期待に答えられない、己が不明を恥じながら。

「……いいかルゥシア。俺はたしかに月ではそれなりに色々な知識を修めた。だが、この土地ではあまり生かせないんだ」
「うん、それは分かってる。でも、」
「俺だって検討したさ。内政チートとか科学知識チートで一山当てられないかって。だがな、無理なんだよ。そもそも日本人が通常親しんでいる文化文明科学知識は、温暖な気候と豊富な水量による農業国家のものなんだ」
「うん。……うん?」
「翻ってこの土地はどうだ。高緯度亜寒帯性気候だ。水量には事欠かないかもしれないが、もう三月だってのに一面雪景色だ。一年の半分は雪で閉ざされると推測できる。おまけに一日の日照時間が短い。そうなると農業は絶望的だ。俺はこの村の外がどうなってるかよく知らないが、こんな小規模集落が自給自足の生活を送ってるって事は、物流が弱く経済活動が貧弱で広範囲を支配できる上位権力が無いってことだ」
「うん……なんか馬鹿にされてる気がするけど、なんだか難しくてよく分からないよ……」

 戸惑うルゥシアを尻目に、孝治はまくしたてた。
 彼自身、不本意ではあるのだ。役に立てないことが、現代知識チートできないことが。

「仕方ないことなんだ。土地の生産性が低いのも、流通が活発じゃないのも、全ては地理的条件のせいだから。だがな、土地の生産性が低いってことは余剰労働力が生まれないって事だ。そうなると文明は発達できない。言うまでも無く、製鉄技術も金属加工技術もないこの島の現状がそれを物語ってる。そして製鉄技術が無いってことは、戦争や海賊行為で領土や資産を獲得することさえ困難だって事だ。交流のあるフソの文明レベルが高度だって事は、この、」

 孝治は、腰に差していた山刀を抜いた。当然借り物である。

「山刀を見れば分かる。これの刀身はフソとの交易で手に入れたって話だが、こいつは鍛造品だ。高コストの鍛造刃物を、こう言っちゃ何だが、辺境の蛮族相手の交易に使える程度の余裕……生産力と技術力、さらに言えば軍事力の優越がある。おそらくは人口もこことは比較にならないはずだ。至近の文明がその有様じゃあ、外征による勢力の拡大は難しい。そして流通の悪さ。これも雪のせいだから仕方ないが、それにしたって統一国家がないのは辛すぎる。たとえ土地が貧しくても、気候的に農業に向かなくても、なんらかの革新的な政策を打ち出して一定の人的資源を集中できれば、状況を打開する可能性はあるかもしれない。だが現状じゃあ、小規模集落同士が低レベルの交流でお互いの生存を担保してるだけだ。これで一体どうしろっていうんだ!」

 よほど鬱憤が溜まっていたのか、孝治は地団太を踏んだ。

「俺だってなあ、できることならもっと暮らしやすい土地に落ちたかったんだよ……午後になっても雪が溶ける気配さえない、極寒の……いや、これは弱音か……」
「ええと、元気出して、タカハル」
「……すまん。とにかく俺が言えるのは、俺はこの土地じゃ役立たずだってことだ」

 心中で邪神を呪いつつも、孝治はルゥシアにそう言った。
 本当に、本当に悔しかったのだ。現代日本で14年間受けた教育が、全くもって異世界で役に立たないことが。学校の勉強なんか社会に出て役に立たないとはよく言われるが、よもやここまで無力だとは思っていなかった。せめて貨幣経済が発達していれば、帳簿をつけるくらいは出来たはずなのに……。

「期待に添えなくてすまんな……」
「……ええとね、タカハル。私が言いたいのはそういうことじゃなくて」

 項垂れる孝治に、しかしルゥシアは不思議そうに言った。

「こう、ね? タカハルの前に下界に降りた人の話を聞いてみたいなあ、って」
「ん? どういうことだ?」
「だからね、タカハルはいつも月の国の話をしてくれるけど、それと一緒に月の人の話もしてくれるでしょ?」

 たしかに、孝治はルゥシアと話す際、月の人の話と称して童話や小説などをアレンジして語り聞かせることがあった。むしろ月の国(日本)の話よりも多く聞かせていたくらいだ。

「だからこう、タカハルみたいに下界で苦労した人の話とか、聞いてみたいなあ、って」
「……え、もしかして物語が聞きたかっただけ?」
「そうだけど……?」
「Oh……」

 孝治は天を仰いだ。どうもルゥシアの言葉を深読みしすぎてしまったようだった。孝治にはどうにもそういう面があり、それは彼自身自覚するところではあった。
 なのでこれも、いつもの事といえばいつもの事かもしれないが……。

「それにしても、この勘違いは恥ずかしいぜ……」
「ええと。よく分からないけど、元気出して?」
「ああ……」

 とりあえず気を取り直すことにする。この手の切り替えの早さ、諦めの良さは、今までの人生で獲得した、孝治の得意とする能力であった。

「……よし。じゃあ下界に下りて苦労した人の話、だな」
「うん。私はこの大地……どころか、村から出たこともほとんど無いけど、いきなり遠い所に行くって大変だと思うんだ」
「そうだな、それは俺もつくづく感じてる。……しかし俺の前例、ねえ」

 孝治は、自分が“異世界トリップ”の主人公……あるいは探索者だと自覚している。
 なので、適当に思いついたトリップ物のテンプレを切り貼りして物語を作ってみようかと思ったのだが、

 ……どう言ったらいいんだ?

 困惑する。そもそも異世界トリップとは、端的に言えば異文化コミュニケーションを楽しむジャンルである。ほぼ単一の文化しか知らないルゥシアには、いささか理解が難しいのではないだろうか。

「どうしたの? 思い出せないの?」
「いや……」

 『遠くへ行く』というキーワードから、検索範囲を広げてみる。異世界トリップではなく、たとえばそう、もっと分かりやすい冒険活劇とか。

「そうだな……月から下界に降りて苦労した話よりも、もっとこう……船に乗っていて、無人島に流れ着いた話、とか……」
「船? 船って水に浮かべる?」
「そうだ。海って見たことあるか?」
「うん! 去年クゥルシペに行った時に見たよ!」
「よし、じゃあそれだ。ある所に船乗りの男が居て、船で沖に出た。すると嵐が来て……」

 行き当たりばったりに話を始めるのが、最近の孝治の語りのスタイルだった。
 最初に緻密に設定を作っていたところで、ルゥシアのイメージが追いつかなければ差し替えざるを得ない。なので、ルゥシアと掛け合いながら話すのが一番早かった。
 幸いにして、この物語のフォーマットは孝治にとっては親しんだ話である。この土地の常識にも最近は慣れてきており、差し替えは上手くいくはずだ。




















「……狼に荒らされた食料庫を見て、彼は柵を作らなくてはならないと決心した。簡単な作業じゃない。何しろ一人で丸太を切り出し、倉庫を隙間無く覆うようにしなくてはいけないのだから。だが、」
「……ねえ、タカハル」
「ん? どうした?」

 興が乗って話している所に水を差され、孝治は正気に戻った。
 先ほどから大人しいとは思っていたが、良く見るとルゥシアは詰まらなさそうな顔をしている。

「……つまらなかったか?」
「……うん」
「えー……」

 子供の頃によく読んだ物語を切って捨てられ、孝治はなんともいえない顔をした。それを見てルゥシアは、慌ててフォローしようとする。

「いやうん、結構面白い所もあったよ! 丸太で家を作る所とか、その発想は無かった!って感じで」
「あー、そういやログハウスって北欧発祥だっけ。ここでも作れるかな」
「うん! だからためにはなったよ!」
「そうか。じゃあ、一体どこがつまらなかったんだ?」
「……えーと、その」

 ルゥシアは言いよどみ、

「なんていうか……それって普通なんじゃないの、って」
「普通?」
「うん。獣を狩ったり、馬を飼ったり、穀物を育てて家を建てて……一人なのは辛いと思うけど、特別なことってしてないよね?」
「……なるほど」

 盲点だった。そう孝治が呟くほど、ルゥシアの言葉には説得力があった。
 というか孝治が馬鹿だった。生粋の狩猟採集民に、よりにもよってロビンソン・クルーソーを語り聞かせる……よく考えなくてもアホの所業である。
 さらに言えば、

「そうか。俺の生活、ほとんどロビンソン並だったのか……」

 そういうことである。
 おまけに異世界召喚であり、さらにゲームキーパーはアレだ。子供の頃に読んだ冒険物語の境遇より、二歩も三歩も悪質な状況に追い込まれていることを、孝治は今更ながら再認識した。

「……いや、言語チートで現地民と仲良くやってる現状、決して無人島漂着ほど悪くは無いはずだ。本気で異世界で無人島送りになってたら、毒草を見分けられなくてすぐに死んでる」
「タカハル?」
「なんでもない。しかし困ったな。冒険物語は駄目なのか……いや、まだ『失われた世界』と『海底二万マイル』が……」

 孝治は自分のストックしている冒険物語のタイトルを挙げていく。よほどロビンソン・クルーソーが受けなかったのがショックだったらしい。
 そもそも最初は異世界トリップについて語る予定だったのだから、こだわる必要は無いはずなのだが。

「ねえタカハル、もういいよ……。そろそろ弓の練習もしないといけないし……」
「いや、まだだ! まだ俺には虎の子の『神秘の島』が……『神秘の島』?」

 ふと、孝治の脳裏に、少年時代熱中した物語が浮かび上がった。
 『神秘の島』。十九世紀フランスの作家、ジュール・ベルヌの傑作である。無人島漂着をテーマにした所謂『ロビンソン物』の中でも、一際異彩を放つその内容は、今も孝治の脳裏に印象深く刻まれている。
 そしてこの時、孝治は、天啓の如くその内容を思い出していた。

「―――そうか、そっちか」

 思わず、呟く。

「そうか、異世界トリップと思うから、碌な発想が浮かばなかったんだ。そもそも現状を考えるなら、このシナリオの基礎は、無人島漂着、むしろ文明再建物のそれに近い―――」
「タカハル? どうしたの? タカハル?」

 不安げに揺すってくるルゥシアをスルーしつつ、孝治は一人頷く。

「となると、覚えていることを書き出し……いや、ここには紙も筆記具も無いか。せめて忘れないように、番号を振って毎晩点呼しておこう。あとは……」

 思考に没頭する孝治を、ルゥシアは困った目で見つめていた。




















 その後正気に戻った孝治は、夕方まで弓の訓練の続きをして、村に戻った。孝治がこの地にやってきた一月に比べると、最近は多少日も長くなってきている。
 村の中央では、ちょうどカルウシパ達が仕留めてきた熊の解体が行われていた。

「そういえば聞いてなかったが、熊狩りってどういうことをやるんだ?」
「えーっとね、山で冬眠中の熊の巣穴を見つけて、毒矢で射るの。雪が固まってから熊が起きるまでの間に獲らないといけないから、結構猟期が短いんだよ」

 『雪が固まる』とは、気温の上昇によって一度溶けた雪が、夜に再凍結する現象だ。極端に寒いこの土地では、厳冬期は午後になっても雪が溶けず、パウダースノーがいつまで経っても固まらない。この柔らかな雪は実に厄介で、山歩きを実質的に不可能にしてしまう。
 つまりここでルゥシアの言う熊猟は、寒さが和らぐ晩冬から春先にかけて行われる猟なのだ。

「ふーん。冬眠中の熊なんて、脂が落ちてそうだけどなあ」

 熊は秋に脂肪を蓄えて冬眠するが、実に数ヶ月に及ぶ冬眠の間、一度も栄養を摂らない。秋に増やした体重が、春には三分の二に減るとまで言われている。
 『脂がのっている方が旨いのに』という単純な孝治の論法に、ルゥシアは小さい子に対するような笑みを向けた。

「この時期の熊はお腹を空かせて元気が無いから、万が一目覚めても結構何とかなるみたい。でも夏や秋の熊は元気だから、襲われたらひとたまりも無いよ。仕掛け弓にかかるのを待つくらいかな」
「倉庫に置いてあるあれか……クロスボウみたいな構造してる」

 北方の狩猟民は仕掛け弓として、弩弓に似た仕掛け弓を使うとは小耳に挟んだことがあったが、実際見たのはこの地に来てからが初である。
 まあ、小耳に挟んでいる時点で結構珍しい方だろう。現代日本の大学生としては。

「うん。でも、人食い熊が出たときは別だよ。どんなに危険でも、自分たちから積極的に狩りに行かないと危ないから」
「人食い熊って……どうやって仕留めるんだ?」
「特性の毒があるんだって。私は見たこと無いけど、あっという間に肉が腐るから、普通の狩りには使えないって」
「肉が腐るって、強塩基じゃないだろうな……」

 恐らくは汚染の比喩的な表現だと思うが、そんなものを見る機会は無い方がいい。そう孝治は思いつつ、身震いした。
 そんな孝治を見て、ルゥシアは少し笑った。

「じゃあ、そろそろ行こっか。解体に参加しないと、取り分減るよー?」
「血を見ると未だに気持ち悪くなるんだがなあ……」
「血抜きはしてあるって!」

 あははと笑うルゥシアに、孝治は苦笑いを返す。
 苦手なものは苦手だ。ここでの生活を続けるうちに慣れてはくるだろうが、それでも、ここの人々のようにあっけらかんと解体出来る日が来るとは……この時の孝治には思えなかった。




 ―――この時は、まだ。
























後書き
 このわざとらしい説明回!

 とりあえず【習作】付けときました。
 もしかすると続きます。



[33159] 現代知識でチートできないなら、近代知識でチートすればいいじゃない
Name: ハイント◆069a6d0f ID:a5c8329c
Date: 2012/06/12 20:51
 『神秘の島』という小説がある。
 19世紀後半、帝国主義の波が全世界を覆い、とうとう極東日本までもが飲み込まれた頃――具体的には1870年代に執筆されたその小説は、それまでに執筆された無人島漂着物語の中でも一線を画す作品であった。
 その最大の特色とは、即ち、工業レベルまでの文明再現を描いたことにある。

「ロビンソン・クルーソーが執筆されたのは十八世紀前半。つまりジュール・ベルヌが『神秘の島』を書くまで、150年もの時が流れているわけだ」

 言うまでもないことだが、その間に文明は進歩している。なにしろイギリスで起こった産業革命が、地球の裏側の日本に届く……それだけの時代の変化があったのだから。
 それだけ時代が流れれば、当然物語もテンプレ化される。それこそ異世界トリップ物にテンプレが生まれ、『神様転生』『トラック事故』などの様式美がマンネリ化するように。
 さて、ここで『神秘の島』である。この物語の作者J・ベルヌは、科学技術をテーマにした冒険活劇に定評のある作家だった。『海底二万マイル』のノーチラス号といえば潜水艦の代名詞だが、これを生み出したのがベルヌだ。まさに大家といっていい。
 そんなベルヌが満を持して――いや、十五少年漂流記も書いてるけど――書き上げた無人島漂着物語が、『神秘の島』だ。これこそ無人島モノの極地であり、同時に『科学知識マジチート』の元祖……的な作品である。

「つまり何が言いたいかと言うと――現代知識でチートできないなら、近代知識でチートすればいいじゃない!」
「タカハルの言ってることが全然分からないよ!」

 熱弁をふるい終えた孝治に、ルゥシアは突っ込みを入れた。はて、と孝治は首を傾げる。
 最初は神秘の島のストーリーを語り聞かせていたはずが、何時の間にやら作品解説に移行していた。不思議なこともあるものだ。

「それで結局、孝治はどうしたいの?」

 うんざりとルゥシアは言う。
 流石に四月に入るとそろそろ雪も溶けてきており、冬眠明けの熊がうろつき始めてもおかしくない。そして最近の孝治は仕事の合間を縫っては外を歩き回ることが増えていて、ルゥシアとしては気が気ではない。暇さえあれば付いて回るようにしているものの、やる気を出した孝治は意外に活動的であり、山に慣れたルゥシアでさえ、付いていくのは一苦労だった。

「そうだな。とりあえずは鉄を作ってみたいと思う」
「タカハル、鉄なんて作れるの?」
「酸化鉄の還元は大して難しくないはずだ。それに自作できる工具が木製品や骨、石器に限られる現状。まずはこれを打破したい」

 そう語る孝治の顔が生気に満ち溢れていることに、ルゥシアは少しほっこりとした気分になる。室内作業続きだった冬の間には仏頂面ばかりみていたものだから、やる気を出してくれる事自体は純粋に嬉しかった。

 ――やっぱり男ってのは、外で働いてないと駄目だよね!

 そんなことを思う。全く一時期はどうしようもない玉無し引篭もりかと思ったが、案外やればできるじゃないか。まだ実績は無いけど。

「まあ、鉄製品の入手は村の一大事だし、誰も反対はしないと思うよ?」
「だろうな。問題は木を大量に使うかもしれないってことなんだが……」
「うーん……それはお父さんに聞いた方が良いかも」
「だな。まあ、なにはともあれ」

 孝治はいい加減鬱陶しいほど伸びてきた髭をさすり、軽く笑ってこう言った。



「まずは、炭焼きから始めよう」



 異世界生活一年目、孝治の最初の目標は、こんな所であった。


























 孝治がエヘンヌーイに来て四ヶ月以上が過ぎ、そろそろ五月も末の頃、孝治は炭焼きに挑戦していた。
 地面に開けた排気口から立ち上る白煙を眺めながら、ルゥシアは孝治に聞く。

「ねえタカハル、これで本当に炭が出来るの?」
「出来てくれないと困る。これまでどんだけ苦労したと思ってるんだ」
「でも、私は結局なにをやってるのかよく分からなかったし……」
「……俺を信じろ、としか言いようが無い」
「信じられないよ……」
「えっ」

 少しばかり孝治はショックを受けた。
 とはいえ孝治としても祈るような気持ちだった。一月前に孝治は軽く宣言したものの、実際に炭を焼く作業に入るまでは相当の苦労を重ねることになっていた。

 ……まさか、レンガ造りから始める羽目になるとはなあ。

 はっきり言おう。孝治の見通しが甘かったのだ。孝治がやろうとしたのは『伏せ焼き』と呼ばれる基本的な炭焼きだったが、現代日本であればありあわせの素材で結構なんとかなるこの技法、エヘンヌーイでは一筋縄ではいかなかった。
 最初炭焼きの窯を作るにあたり、給排気口を構成するための耐熱性のある素材を探した孝治は、炎に親しみの無いこの土地には、そもそもそんな物はないという現実にぶち当たった。
 吸気口くらいは自然石で代用できないかとも考えたのだが、煙突の代用品が見つからなかったため、結局はレンガが必要になると諦めたのだ。
 そしてこのレンガ造りだが、これまた一筋縄ではいかなかった。雪解け直後のぬかるみを歩いて良さそうな土を探し当てるところまではまだ良かったのだが、

「……スコップが無いのは、本当にきつかったな」
「村の鍬を持ち出してたでしょ、贅沢言わないでよ」
「鉄製の鍬が村に一本ってどういうことなんだよ」

 思わずこぼした愚痴に、ルゥシアから容赦ない突っ込みが入る。
 そう、粘土を見つけるところまでは良かったのだが、その後粘土を掘り起こし、村まで運ぶのが一苦労だった。ルゥシアの言うように、土を掘る道具と言えば鍬が一本。これを他の村人とバッティングしないよう、時間帯を見計らって持ち出しては粘土を掘り起こした。
 なにしろ余所者の孝治である。村の備品を持ち出すことに良い顔をされるはずも無く、夕方に鍬を持って森の獣道を突っ走り、日没まで鍬をふるって柔らかくした粘土を早朝に木の盆で運ぶ、という作業を数日に分けて行う羽目になった。
 もちろんこの間も、村に馴染む為の働きは欠かせない。午前中は男達と弓の訓練、午後は女達と内職である。以前は無駄な努力だろうと諦めていた弓の訓練だが、三月にルゥシアにマンツーマンで教えてもらったことが男連中にバレて以降、問答無用で連れ出されるようになっていた。もちろん経験の浅い孝治の腕を馬鹿にする魂胆だが、孝治も観念してシゴキに耐えている内に、それなりの腕にはなってきたらしい。孝治と歳の近いラカンシェなどは、罵声を浴びせつつも時折褒めるような言葉を口にするようになっていた。
 閑話休題。

「でも粘土をこねるのは結構楽しかったよ。子供達も喜んでたし……最初は」
「途中から遊びだしたからな、あいつら。俺の言うことなんか聞きやしないし」
「私が言っても良かったんだけど」
「それをやると、俺への風当たりが強くなるからな……」

 カルウシパの許可を取り、村の子供達を駆り出して丸一日かけて行ったレンガ造りだが、当然ながら子供達は孝治の言うことなど聞くはずも無く、労働力としてカウントしていたルゥシアが抑えに回る有様で、結局三百個のレンガの半分以上は孝治が作っていた。
 こうして作ったレンガは、数日天日で乾かしてから野火焼きで焼き上げるのだが、なにしろ雪解けの直後だ。乾かすのに思った以上の時間がかかり、孝治はその間に炭の原料となる木材の調達に走り回った。
 これがまた予想外に大変だった。木などは辺りにいくらでも生えているから調達は容易かと思いきや、炭焼き用の木材は長さをそろえる必要があり、この作業が孝治にとっては一大事であった――鋸が無いのである。
 いや、一応倉庫には一本だけ鋸があったのだが、錆付いていて使い物にならなかったのだ。
 ―――以下、その鋸をめぐっての孝治とカルウシパの会話である。





「なあ、なんでこんなことになってるんだ?」
「いやまあ、研いで無いからな」
「……なんで研いでないんだよ!?」

 孝治は唖然とした叫び声を上げた。

「いやその、俺が若い頃にクゥルシペでフソの連中が使ってるのを見て、便利だと思って買ったんだがな……研ぎ方が分からないんだ」
「分からないって、買った奴に聞けば良かっただろう」
「それがな、あいつら……研ぎに出すなら刺繍の上衣一着、とか言い出しやがって」
「は? ……つまり研ぎで儲ける魂胆だった、と?」
「ああ。あんまり腹が立ったんで、もう使わねえよと思って捨てようとしたんだが、女房に窘められてなあ……捨てるに捨てられず倉庫の肥やしだ」

 ……たしかにそういうビジネスモデルは現代日本にもあったが。

「なんというか……酷い話だな。しかし自力で研ごうとは考えなかったのか?」
「あんな細かい刃に当てられる砥石なんかない。……どうやって研いでるんだろうな、あいつら」
「……鋸はたしかヤスリで研ぐんだ。そうか、高硬度の鋼を精製加工する技術が無いと、鋸は作れない……」

 フソとの技術格差に、孝治は頭を抱えた。

「まあ、無いものねだりをしても仕方ないか。とにかく、太い枝を均一な長さに揃えられれば良いんだ」
「だったら鉈や楔を打ち込んで切るしかないな」
「……一応聞くが斧は無いのか?」
「無い」





 これである。
 しかしながら、逆境に直面したとき、かえって腹が据わるということもある。孝治もいよいよここで覚悟を決めた。足りない道具は体力で補うと言う覚悟を。遅きに失した感はあるが、無いものねだりしても仕方ないのだ。
 そうしていざ挑戦してみると、鉈による切断も思ったよりは悪く無かった。季節は春であり、木にある程度柔らかさがあったのも功を奏したのだろうか。この頃にはカルウシパから炭作りに専念してよいと言う言質を取れたこともあり、数日が過ぎる頃にはひとまずの木材を揃えることができた。
 こうして木材が揃う頃にはレンガも流石に乾いていたので、これを焼き上げていくのだが、これは射場を借りて行った。この頃には春先の狩り場の見回りに、男衆が出回ることが多かったので出来た荒業である。薪を広場の中心に積み上げ、さらに村からレンガを運んでは積み上げ、その周りにまた薪を積むのだが、いくら近場とはいえ、これは大変な作業だった。孝治はしみじみ、輸送について考えるべきだと痛感した。
 そうやって苦労してレンガを焼き上げ、一通り素材の準備が整ったところで、ようやく炭焼き窯の作成である。
 まずは乾いた地面を見つけ、ここに長方形の浅い穴を掘る。例によって鍬を使っての作業だったが、こればかりはカルウシパに頼んで半日借り出した。作業は孝治一人で行ったが、流石に異世界生活四ヶ月である。日本に居た頃より体力がついてきたのか、さほど労せず掘り切った。
 次に、長方形の短辺に溝を切る。片方は吸気口であり、片方は排気口である。山の斜面などを利用する場合は風向きを考慮する必要があるだろうが、今回は平地で行うため、孝治はとりあえず南側に吸気口を付けた。これは炭焼きの際に吸気口から風を送ることを考慮し、太陽の光が眩しくならないための配慮である。
 続いて長く切り出した直径10センチほどの丸太を二本、吸気口から排気口に向けて並べた。これは敷き木と呼ばれ、炎と煙を通すための通路を構成する。
 こうして風の通り道を確保したら、次は吸気口と排気口にレンガを積み上げ、風の入り口と出口を作る。この時孝治が苦労したのは排気口で、敷き木の高さに穴の高さを合わせるため土を掘り下げたり、煙が漏れないようレンガの隙間に泥を詰めたり、雨が降ったときに水が入らないようひさしを付けたりといった作業を行った。この穴の高さを間違えると、木材は灰になったり、生焼けで終わったりする。重要な作業だ。
 ここまでが昨日の作業だった。ここまでやった時点で日が傾いてきたので、雨が降らないことを祈りながらこの日は家に帰った。

 明けて翌日。つまり今日の朝からの作業である。
 昨日作り上げた窯の中に、先だって長さを均一に揃えた、炭の材料となる木材を並べていく。細いものを下に、太いものを中間に、さらにその上にまた細いものを並べる。隙間無くみっしりと詰めるのが基本である。
 その上には燃えやすい枯葉などをかけていくのだが、今は春先である。これの調達も中々骨だった。話は前後するが、孝治は雪の下から現れた腐りかけた笹っぽい植物を回収し、結び合わせては適当な木に引っ掛けて乾かしていた。また、拾い集めた木の枝に、燃えやすいように鉈で細かな切れ込みを入れるなど、まさしく体力勝負の方策だった。
 こうして調達した燃材を十分に被せた後は、その上に瓦……に似せて作った平べったいレンガを並べていった。これは雨や湿気から炭を守るためのものだが、正直孝治としても効果があるかは自信がなかった。
 さて、そうして最後に土を被せ――この作業は、木製の盆を使ってルゥシアと二人で行った。想像以上に時間がかかった――いよいよ、吸気口から火を付けるのだ。この作業はルゥシアがやりたがったので任せ、孝治は着火後の火勢の調整に注力する。
 火を絶やさぬよう、吸気口側に薪をくべ、うちわ……は無かったので代用品で仰ぐ。このうちわの代用品だが、小さく切ったゴザの両端を真っ直ぐな枝に巻きつけ、支柱にしただけのシンプルな品である。両手で持って上下にバッサバッサと振る必要があり、日本で一般的なうちわよりも疲労が大きい。
 そうしてしばらく仰ぎ続け、ようやく全体に火が回ったのは、太陽が高く昇った頃のことだった。

「それにしても、凄い煙だね」
「そうだなあ。木酢液とか取れれば良かったんだが」

 もうすでに吸気口は狭めてしまったので、やることがない。着火直後は煙を見てやってきた村人達が三々五々集まってきたりもしたが、流石に二、三時間もすると居なくなってしまった。
 あとは、煙が透明になるのを待って給排気口を土で埋め、半日ほど寝かせれば完成のはずである。

「……こりゃ夜までかかるかもなあ」
「暗くなったら、煙の色も見えにくくなっちゃうよね」
「昼飯も食ってないし、晩飯は食いたいんだが……」
「一回帰って食べてきたら? タカハルの分も残ってると思うよ?」
「しかし、何時色が変わるか分からないからな……」

 必要な燃焼時間を覚えていないのは不覚だった。むしろ燃焼時間を計測するためにも、孝治は離れるわけにはいかないのだ。
 西に傾く太陽を見て、孝治はため息を吐く。

「腹減った……」

 ―――結局、孝治の空腹が満たされるのは、日が沈んでからのことであった。




















「というわけで、こいつが出来上がったブツだ」
「ほう」

 明けて翌日の昼である。一晩寝かせた炭を午前中いっぱいかけて掘り返し、孝治は焼き上がった炭をカルウシパに見せていた。
 ルゥシアとオクルマは昼飯の支度中だ。部屋が仕切られているわけでもなく、会話の内容も筒抜けだが、とりあえずはカルウシパと孝治の一対一である。
 籠の中に詰め込まれた大量の木炭は、いずれも漆黒に染め上がっている。

「割ってみていいか?」
「どうぞ。言われなきゃ俺が割ってみた所だ」
「じゃあ遠慮なく」

 鉄の火箸を突き立てると、木の流れに従ってバカンと割れる。中心部まで黒く輝いているのを確認し、カルウシパと孝治は、それぞれ感嘆と安堵のため息を吐いた。

「おまえ、本当に炭焼きなんか出来たんだな……」
「むしろ俺としちゃあ、この地の人々が木炭を作らないことが驚きなんだが」
「クゥルシペあたりの港町だと、フソの連中がやってるんだがな。俺たちはどうも性に合わん」

 おそらくは宗教的、思想的な理由なのだろうと、孝治は想像した。彼らがあまり木を伐ることを好まないのは、周囲の鬱蒼とした森の様子を見ればすぐに分かる。森にすむ獣に食料を依存する狩猟民族だからだろう。農耕民族なら間違いなく切り拓いているはずだ。
 日本人の孝治も、基本的に豊富な木材を使ってどれだけ村を豊かに出来るか、という考え方で行動している。彼ら原住民のライフスタイルだと獣の生息域を減らすのは自殺行為だが、いつまでも狩猟メインの生活を続けられるわけがないと孝治は知っている。

「まあとにかく、これで『役立たずの月人』の汚名は返上か。よかったじゃないか」
「だといいんだがな……最近の俺の悪評は、むしろあんたの娘が原因のようなんだ」
「ほう?」

 カルウシパは面白そうに口の端を歪めた。
 狩りのリーダーたるこの男が、孝治に対する若い男連中の不満を知らぬわけではあるまい。そもそも年頃の乙女、それも族長カルウシパの末の娘である。余所者に独占されていい気がするはずも無い……などということに想像が及ばないほど、エヘンヌーイの族長は愚鈍ではない。
 そんな孝治の評価を裏付けるように、いかにも面白そうにこんなことを言った。

「だがしかし、最近はそれなりに仲良くやってるようだが? ラカンシェが言ってたぞ。『あの月人はどうにも亡霊じみた所がある』って」
「……あの若頭、そんなこと言ってやがったのか」

 『若頭』というのは、タカハルがラカンシェに付けたあだ名である。若い男達の取りまとめ役であり、また強面な面構えの彼を、タカハルは分かりやすくそう呼んでいた。

「まあ、正直俺も気持ちは分かるけどな。おまえ、不満とか言わないだろ?」
「食わせてもらってる身だからな。文句言って叩き出されたら困る」
「それだよ」

 カルウシパはタカハルを親指で指した。この土地では、人差し指ではなく親指で人を指す。

「どうにもおまえは頭が回りすぎる。うちの若い奴らには、そこが恐ろしく見えるみたいだ」
「……当たり前だと思うがなあ?」

 孝治は首を傾げた。

「まあ、一応気を付けておくよ。炭焼きにも成功したし、多少は発言力も上がったろう」
「いや、そういう考え方が……まあいい」

 カルウシパは言葉を切った。若い頃にはクゥルシペで過ごしたことがあり、またエヘンヌーイの族長となってからもフソの商人との交渉を行うカルウシパには、孝治の打算的な考え方も理解できるのだ。
 だがそれを、エヘンヌーイの若い狩人たちに理解しろというのは難しい。カルウシパはそのことを指摘しようか迷ったが、結局は孝治が自分で気付くしかないと結論付けた。孝治もラカンシェもまだ若い。相互理解は可能だろう。
 気を取り直し、カルウシパは木炭を手に取った。

「それにしても大したもんだ。この一ヶ月、お前が散々走り回ってるのを見てきたが……本当にやっちまうんだからなあ」

 褒め言葉に、孝治も頷く。結果を出して苦労を認められるほど嬉しいことは無い。
 とはいえ孝治としては、ここで満足するわけにはいかない。

「だが、炭焼きは俺が月に居た頃にやったことがある技術。製鉄は知識として知っているだけの技術だ。ここからが本番だよ」
「本当にやる気なのか? 鉄製品はフソとの交易で手に入る。無理に作らなくてもいいんだぞ?」

 カルウシパの言に、孝治は首を横に振った。
 そもそもの話、素人が製鉄なんぞに手を出そうというのが無茶なのだ。にもかかわらず孝治が鉄を作ることにこだわるのは……はっきり言ってしまえば個人的な感傷である。
 『神秘の島』において、鉄製品の製作は極めて印象深いシーンだった。この物語を最初に読んだとき孝治は小学生だったが、自分でもやってみようと色々と調べて回ったことがある。実際には鉄鉱石の入手で躓いたので出来なかったが、一応知識としては留めている。
 せっかくの異世界生活だし、どうせならやってみたい。これが孝治の、偽らざる本心であった。
 とはいえ、実行することによるメリットも無いわけではない、例えば。

「そうは言うがなカルウシパ。フソの連中が寄越す鉄製品はここじゃ生活必需品だが、こっちがフソに渡す品々、あれは一種の贅沢品だ」
「ああ……刺繍とか木彫りとかな」

 この地の民は、自然の恵みによって生きている。彼らは工業的な技術を持たないが、代わりに原始的な道具を用いた細工の技術に独自のセンスを持つ。交易における輸出品とはそれだった。
 これらの品々がもつ芸術性は孝治も認めるところだったが、しかし、結局はそれだけなのだ。

「フソの権力体制が安定してる限り、今の交易品は良く売れるだろうが……いつ需要が変化するか分からん以上、選択肢は多い方がいい」
「まあ、俺の爺さんの爺さんの頃は、フソとの交易も下火だったって話だ。言ってる事は分かるけどよ」
「それに最低限の鉄製品を自給できるようになれば、値下げ交渉も可能になるだろう。例の鋸じゃないが、むこうもより高級な品を商ってくれるようになるかもしれん」

 極端な文明格差がある現状、競争原理が通用するかは未知数だったが、少なくともやって損は無かろうと孝治は踏んでいた。

「で、だ。そのために物は相談なんだが……狩りに連れて行ってはくれないか?」
「狩りに? おまえが?」
「ああ。とはいえ獣を狩るわけじゃない。山に入って石を探したいんだ」
「石、だと?」
「ああ。それに山歩きもままならない今のままじゃ、俺はいつまでたっても村のお荷物だしな」

 先月、孝治は村周辺を歩き回って辺りを探索していたが、ついぞ製鉄に必要な資源は――植物を除いて――見つけられなかった。
 さらには付いてきたルゥシアから、何度となく迂闊さを指摘されており……というか、数回は命を救われた記憶がある。

「仕掛け弓を作動させそうになったり、棘のある木、触るとかぶれる木を不用意に触ったり……今思うと、かなりやばかったな」
「おまえ、そんなことやってたのかよ……」
「そうだよー! タカハル、小さな子供より見てて危なっかしかったんだから!」

 ルゥシアが話に割り込んでくる。

「私も最低限の心得は教えたけどさ、やっぱりタカハルも男だし、お父さんみたいにちゃんとした狩人が教えてあげた方がいいと思うんだ」
「ふーむ……」
「お願いしたい。いつまでもこの村に留まっていられるとも限らない。虫のいい話だが、山歩きの基本くらいは知っておきたいんだ」
「えー、ずっと居てもいいのに」

 そんなルゥシアの言葉に孝治も満更ではなかったが、最初に語った設定を忘れるわけにもいかない。いずれ出て行く。一応そういう約束だった。一冬の恩義は返したいと思ってはいるが、それがいつになるかも不透明だ。
 そういう負い目を持ちつつも、孝治がカルウシパにこのような頼み事をするのは、偏にその危機意識からだった。日本で身に付けた知識と技術を駆使するのは当然だが、既に持っている知識に胡坐をかき、学ぶことを止めて生き残れるほどこの世界は甘い世界ではない。
 少なくとも最初の冬、原始的な装備で氷点下を生き残る技術を、孝治は日本で身につけてはいなかったのだから。

「……まあ、いいだろう」

 黙考の末、カルウシパが口を開いた。

「ただしお前も分かるだろうが、俺が直接教えるのは角が立つ。他の若い奴に任せるが、構わないか?」
「ああ、それでいい。ありがとうカルウシパ」
「なに、今やおまえは俺の息子みたいなもんだ。送り出すにしても、餞別くらいやるさ」
「……本当に、ありがとう」

 孝治は、深々と頭を下げた。
 人の情けが身に沁みる、そんな昼だった。




















「で、なんでオレがテメエの世話を見ないといけねえんだ」
「カルウシパからのご指名だよ。若手筆頭殿」
「……どうにもオレはテメエを好かん」

 不貞腐れた様子でそっぽを向いたのは、若頭――ラカンシェである。
 村の若い男連中のリーダー格である彼は、当然孝治いびりの旗手でもあった。孝治目掛けて矢を射掛けたことさえある。
 いかにも機嫌の悪さを隠そうともしない彼に、しかし孝治は親しげに話しかけた。

「だが、俺はあんたが嫌いじゃないんだ」
「……へえ? そいつはどうしてだ。オレはテメエに好かれるようなことをした真似は無かったはずだがな」
「簡単なことさ。あんたの弓の腕を、俺はよくよく信頼してる」

 それを聞いて、ラカンシェはばつが悪い顔をした。孝治目掛けて矢を射掛けたのはラカンシャだけだったが、同時に、彼は孝治に矢を当てたことは無い。
 仮にも族長の客人である。当てるわけにはいかないことなど、孝治を含めた村の誰もが知っていた。にもかかわらずラカンシェは矢を射掛けて見せたのだ。絶対的な自信があるのだろうと孝治は評価していたし、実際その洞察は正鵠を射ていた。

「いけ好かねえ野郎だ。矢をギリギリに放っても、驚いたのは最初だけだったな?」
「腕前になら、毎回驚いてるさ」
「……ふん」

 視線をそらすラカンシェを、孝治は慎重に観察した。この地の男は――今となっては孝治もだが――髭面で表情を読みにくいが、流石に五ヶ月近く付き合っていれば見方も分かってくる。

 ……照れてる、のかね?

 孝治はそう判断した。どうやら褒め倒す作戦は間違っていなかったようだ、と。

「……おい、さっさと行くぞ」
「ん? ああ、待ってくれ。服が木に引っかかった」
「ハナっから何やってんだよ!」

 とはいえ、自分の不器用さは、如何ともしがたい孝治である。








 こうして始まった山歩きであるが、二人とも一応弓も山刀も携えているものの、今日のところは狩りをする予定は無かった。近所の山に登り、罠の設置場所や木の植生、崩れやすい場所など、気をつけるべきポイントをラカンシェが孝治に教えるのが主題である。

「おい」

 しばらく獣道を歩いたところで、ラカンシェが振り返って言った。

「なんだ?」
「さっきからガサガサうるさい。それと、足音が大きいぞ」
「そうは言うが、枝が引っかかるんだ」
「テメエはオレより小柄だろうが。引っかかるわけがねえだろうが」
「む……」

 そう言われては、孝治としてはぐうの音も出ない。たしかにラカンシェはエヘンヌーイでも大柄な方で、孝治より一回り以上は大きかった。孝治の身長を170として、170台後半はあるだろう。横幅はさらに差がある。

「歩き方がヘタなんだよテメエは。少しは周りを観察してみろ」
「……分かった。先に進んでくれ」
「ったく」

 ラカンシェは止めていた歩みを再開する。その後姿を、孝治は慎重に観察する。たしかに足音は小さく、よく見れば足は静かに、だが確実にぬかるみを避け、確かな地面を踏んでいた。
 またその両肩は上下左右へのブレがほとんどなく、枝に行く手を遮られた時には、滑らかに半身を切ってすり抜けていく。

 ……まるで剣道の達人みたいだな。

 孝治は内心そう評したが、しかし不整地、斜面を歩いていることを考えれば、あるいは剣の達人より高度かもしれない。木の根や岩を踏んでなお、その上体はブレが少なく、左右に視線をめぐらせても、安定した速度で歩を進めている。
 その背中を見ているうちに、ふと、孝治は懐かしい人物を思い出した。

『いいか築地、プロの歩兵は上体を揺らさずに走る。何故か分かるか?』

 高校時代、化学部の先輩がこんなことを言っていた。

『銃口を揺らさないためだ。FPSでもやれば分かるだろうが、常に視界の一点を照準しておくことで、体を向けるだけで自動的に敵兵をポイント出来るようになる』

 そんなことを言った先輩は剣道経験者で、自身も常にブレのない歩き方をしていた。空中に放り上げた沸騰石にメスシリンダーで突きを放ち、見事に中に納める、という妙技を見せてくれたこともある。化学部でも屈指の実力者だった。
 よもや異世界まで来て、彼の薫陶を思い出すことになるとは思わなかったが……思えば化学部で身に付けた技能は、孝治の血肉となっている。あるいは役に立つときが来るかもしれない。

「うおっ」

 そんなことを考えながら歩いていると、不意に木の根からあしを滑らせ、孝治はたたらを踏んだ。転びそうになるところを、とっさに近くの木を掴んで立て直す。

「おい、大丈夫か?」
「ああ、なんとか。しかし危なかったな。反射的に掴んだが、棘のある木だったらまずかった……」
「周りにどんな木があるかくらいちゃんと確認して歩け。足元も、滑らせるくらいなら逐一目で確認しろ」
「ご忠告痛み入る」

 変な言葉遣いだ、とラカンシェは渋い顔をした。

「注意力が足りねえんだよ。足元に何があるか、周囲の植物は何か、地形はどうなってるか、全体として把握しねえと獲物なんか狩れねえ」
「なるほど」
「さらに言えば獲物に接近するときは、皮膚感覚で周囲を捉える位じゃねえときついんだがな。まあ、テメエにそこまで期待しねえよ」
「まあ、当面狩りにいくこともないだろうしな……」

 ラカンシェは孝治を嫌っているが、元々若者達のリーダー格である。元来面倒見は良いのだろう。山を歩きながら教えてくれる内容は、なるほど、孝治にとっても一々頷ける内容で、そこに嘘はないようだった。
 そういった教示を受けながら山をく登り、中腹に差し掛かった頃、ラカンシェは孝治にこう切り出した。

「それで、どうなんだ?」
「ああ、おかげさまで少しは山にも慣れてきたよ」
「そっちじゃねえよ。テメエの目的の方だ」
「……なんだ、カルウシパから聞いてたのか」

 “石探し”。それが孝治の山歩きの目的だ。
 石がなんの役に立つのか、この地に住むラカンシェには不思議なのだろう。彼にしては珍しく、孝治に対して食い下がってきた。

「親爺殿から聞いたぜ。なんでも鉄になる石があるそうじゃねえか」
「ああ。というか、鉄ってのは石から作るんだよ」

 砂鉄による製法を思い出せないので、孝治はそう言った。

「赤い石、白い石、それに燃える黒い石……だったか? テメエが探してるのは」
「その通りだ。心当たりが?」

 いいや、とラカンシェは首を振る。

「それだけのヒントじゃなんとも言いがたい。親爺殿もそう言ってたんじゃないか?」
「まあな。山の上の方に行けばあるかもしれないとは思ってるんだが」
「普段の狩りじゃあ、わざわざ高いところまでは行かねえよ。一番近い山は南の“清水山”だが、登ることは滅多にねえな。クゥルシペに行く際、峠越えで近くを通るくらいだ。山頂は俺でも行ったことがねえ」

 孝治とラカンシェは村の南を見た。“清水山”はこの辺りでは一際高い山だが、緑に覆われていて、流石に遠目でどのような石があるかを判断することはできなかった。

「ある程度の高さまでは登るんだよな? 道沿いに岩が落ちてたりはしないか?」
「落ちてはいるが、種類までははっきりとはな……なんなら、テメエが直接行った方がいいだろうよ」
「結構な遠出になるな……狩りじゃあ行かないんだろ?」

 仮に一人で調査に行くとなると、熊にでも襲われればひとたまりも無い。しかしエヘンヌーイの近隣で資源を見つけたいと思ったら、清水山の山頂付近は調べる必要があるだろう。
 難しい顔をする孝治に、ラカンシェは少し目を細めた。こんなことを言う。

「ああ。だが、峠なら遠からず通る用事はあるぜ」
「なに?」

 孝治は少し驚いた。ラカンシェがこうも積極的に自分とコミュニケーションを取って来るとは思っていなかったのだ。

「峠ってことはクゥルシペに行くのか? ……交易か?」
「その通り。毎年夏場になると、うちの工芸品を持ってクゥルシペに向かうのよ」

 そして多分、孝治もその一行に参加することになる、とラカンシェは言った。

「あそこはこの島で最大の交易港だ。フソの商人は勿論、この島の南にある集落からは大抵人が集まるはずだ」
「なるほど。一人で石を探して歩くより、よほど手っ取り早く情報を集められそうだ」

 孝治は頷いた。あるいは――必要な品々を、交易によって入手することも可能かもしれない。
 とはいえ、孝治に自由に出来る資産はない。せめて交渉の材料として、炭焼きのほかにも一つくらい、技術を確立しておきたいのだが……。

 ……まあ、焦ることは無いか。海辺に行けば、海草くらいあるだろう。

「よし、じゃあその時付いていけるよう、今はラカンシェの教えを聞いておくか」
「おう、そうしときな。遅れたら置いていくぞ」

 ラカンシェは先ほどまでより速いペースで進み始める。
 孝治もいよいよ気合を入れなおし、その後を追いかけた。








「さて、そろそろ帰るか。思ったよりやるじゃねえかよ」
「はは……流石にきつかったけどな……」

 罠の設置場所をはじめ、基本となる狩場や熊の巣穴の場所などを叩き込まれながら獣道を歩くのは、中々に骨の折れる作業だった。
 とはいえ一日で全て回りきれるわけも無く、今日案内されたのは全体の数分の一程度なのだが。

「そろそろ帰るぜ」
「ああ……そうしてくれ」

 疲労困憊の孝治である。ラカンシェの言葉に一も二もなく頷いた。

「なんなら弓を持ってやろうか?」
「いや、いい。というかなんだ、妙に優しいじゃないか」
「はん、さっさと帰って飯を食いたいだけだ」

 これがツンデレかと孝治は思ったが、しかし流石に疲れた様子も無いラカンシェである。九割方言葉通りの意味だろう。

「頼みたいところだが、それだとラカンシェが弓を引けない。熊が出たらどうするんだ」
「テメエが刀を抜いて熊と戦えばいいだろうが。その隙にオレは逃げる」
「……ルゥシアには勇敢に戦ったと伝えてくれよ」
「ははっ! やなこった!」
「おい!」

 などというやり取りの末、結局孝治は弓を渡した。そもそも毒矢も持ってきていないのに、熊と戦うなど無謀極まりない。熊は先に発見して避けるものだ。最悪戦って追い払うことも不可能ではないが、それは最後の手段である。

「帰りは急斜面だ。踏み外すんじゃねえぞ」
「……なんで帰りの方がきつい道なんだよ」
「いや、テメエが案外頑張るから、予定してた下山ルートを行き過ぎたのよ」

 おいおい、と孝治は思ったが、文句を付けるのはやめておいた。内心でラカンシェの無計画さを罵るだけにしておく。

「そう不貞腐れるな。急斜面だが見通しはいい。途中で村の辺りも見える」
「そりゃあ見通しもいいはずだ。岩がむき出しじゃないか」
「なに、石を見るにはちょうどいいんじゃねえか?」

 そう言われては、孝治としては引き下がるしかない。今まで通ってきた道も所々で岩は露出していたものの、大規模な岩石を見られるような道ではなかった。基本的に獣道ばかりだったから仕方ないが。
 その点この辺りには手ごろなサイズの石が落ちており、持って帰るのは容易そうだった。

「……堆積岩っぽいな」

 坂を下りつつも、拾った石を眺める。全体的に白みがかった灰色で、小石などは混ざってはいないようだった。

「どうだ?」
「いや……これはもしかするかもしれん」
「へえ? 役に立つなら持って行ったらどうだ」
「そうしよう」

 そう言って孝治は上着を脱いだ。白っぽい石を拾い集めると、端を縛って袋状にする。

「おいおい、そんなに持って帰るのかよ?」
「実験してみる必要があるからな。少なすぎて再度取りに来るとなると面倒だ」
「持つのはテメエだ。別に構わねえが……途中でへばるんじゃねえぞ?」
「まあ、村までは持つだろうさ……しかし」

 孝治は石を背負うと、ため息を吐いた。

「熊が出たらいよいよひとたまりもないな……」
「いや、石を捨てて戦えよ」

 勿論、冗談である。




















 さて、それから五日後。

「ビン、ゴォォォオオオオオオ!!!!!!!!!」

 六月の長閑な昼下がりの森に、孝治の叫び声が響き渡った。
 何事かと飛んできた村人達が見たものは、両拳を天に突き上げた孝治の姿であり、木製の器の上で、白い粉が煙を噴き上げる光景。
 そういやここ数日、こいつの姿を見かけなかったなあ……などと思う村人達の前で、孝治は感慨深く呟く。

「長かった……長かったが、ようやく取り出せた。さあ、次は窯の温度の安定化だ。そうなるとやはり石炭が欲しいが……」

 先ほどまでの狂喜ぶりはどこへやら、顎に手を当て考えを巡らせる孝治に、村人達は顔を見合わせる。孝治のこういう振る舞いが、エヘンヌーイの村人達にはどうにも気味が悪かった。
 彼らは話しかけるべきか迷ったが、遅れて現れたルゥシアが孝治の下に駆け寄ったのを見て安堵の息をついた。作業中の孝治はどうにも近づきがたく、ルゥシアやカルウシパくらいしか相手に出来ない。そういう空気が村中に流れていることを知らないのは孝治くらいだ。
 かくしてあとはじゃじゃ馬娘に任せておけば安心とばかりに散っていく村人達……彼らも中々に薄情である。

「どうしたのタカハル!?」
「……ああ、ルゥシアか。これを見てみろ」

 そう言って器を差し出す孝治。先ほどまで上げていた煙は治まっていたが、孝治に促されて手をかざしたルゥシアは、その手のひらにはっきりとした熱を感じた。

「な、なんなのこれ?」
「石灰だ」
「……セッカイ?」
「ああ。正確には生石灰……から消石灰に変化してる途中か? とにかく、セメントの原料だ」
「セメ、ント……?」

 戸惑うルゥシアに構わず、孝治は座り込むと、別の器から茶色い粉末を流し込んだ。ルゥシアは知らないが、これは砕いたレンガである。
 次いで瓶から水を足し、砂を足すと木のヘラで練り始める。

「比率については自信がないが、原料はこれでいいはずだ。あとはどれくらいの時間で固まるかだが……これは観察するしかないな」
「ええと、このなんかべたべたしたのが、セメント、なの? 何に使えるの?」
「大型の窯や炉を作るときに使える。その前にまたレンガを焼く方が先だが……」

 最初に焼いた野火焼きのレンガも、石灰作りで結構な数が割れてしまっていた。製法は前回で確立出来たし、次は大量に作る必要があるだろう。出来れば高温で焼き固めたいが、それはさらにその次になりそうだった。窯がない。

「そうなるとまた燃料を集めて……いい加減労働力が足りないな……」
「タカハル……」

 心配げにルゥシアは孝治を見た。炭焼き以降、ルゥシアは山での山菜取りに駆り出されており、孝治が何をしていたのか把握していなかったが……昼飯時にさえ帰らず、朝から晩まで走り回っていたことは知っていた。
 今やっている作業が終われば、少しは休めるんじゃないかと思っていたのだが……どうもそういうわけにはいかないらしい。

「いい加減休みなよ、タカハル。なんだかやつれてるよ……」
「いや、気力は充実してる。それに俺のやってることは、食料の確保に直接繋がらない仕事だ。休んでなどいられない」
「そんなこと言って、体を壊したら元も子もないよ!」
「照明が無いおかげで睡眠時間は十分に確保できてるんだ。そう簡単に倒れたりしないさ。それに、」

 孝治はルゥシアを真っ直ぐに見つめた。

「俺は日本人だ――過労死には慣れてる」
「タカハル……」

 ……さっぱり意味がわからないけど、とにかく凄い自信だ……。

 そう感動するルゥシアは、間違いなく孝治に毒されている。冷静に考えれば、死に慣れた人間など居るわけが無いのだが……『過労死』という言葉のニュアンスが上手く伝わらなかったのだろうか。
 とはいえ、流石に孝治も現状の不味さは理解していた。労働力の不足、原料や燃料の調達コストを考えると、エヘンヌーイでの製鉄は明らかに採算が取れない。
 考えてみれば、フソから製鉄技術を導入する機会が今まで無かったわけもない。にもかかわらず今の今まで技術が定着しなかったのは、やはり最初に考えたように気候と地勢の問題なのだ。

「せめて石炭が大量に手に入ればな……木炭は焼く手間がかかる上に燃焼温度が……」

 孝治は天を仰いだ。春にふさわしく清清しい陽気だが、孝治の心はさっぱりと晴れなかった。
 一刻も早く成果を出したい。焦ったところでどうにもならないとは分かっていても、どうしても孝治には負い目がある。余所者だという負い目が。
 だからこそ、と孝治は思う。余所者は余所者らしいやり方で村に貢献したい。新しい知識、新しい技術。それをもたらす事こそが、外来人の役割のはずだから―――



 ―――だが、そう思っているのはお前だけじゃあないのか?

 いつか聞いた声が聞こえてくる。不安に思う孝治自身の声だ。
 自分でも分かっている。科学技術にこだわるのは文明人としての孝治の意地であり、必ずしもこの地の人々を益するとは限らないということを。

 ―――そうだ。この地の習俗に従い、大人しく鹿でも狩って生活していればいいじゃないか。わざわざうろ覚えの知識で、新しい技術をもたらす必要がどこにある? どんな影響があるかも分からないのに。

 実際に、製鉄が大量の木材を消費することを孝治は知っている。北方狩猟民である彼らが鉄製品を輸入で賄っているのは、決して怠惰や知的水準の低さから来るものではない。
 木を切れば獣の数が減り、食料の確保に困るようになる。また北方ゆえに木の生育が悪く、一度消費した森林資源の回復は南方より遅い。全て理由があるのである。

 ―――おまえが科学知識を活かすことにこだわるのは、単なる自己顕示欲と主人公願望だろう?

 それはたしかにその通りだ。しかしこれには反論できる。孤立無援の異世界生活で他人の賞賛や評価を得ようと考えるのは、生き残るための当然の思考だ、と。
 いざこの状況に置かれてみれば分かる。何故異世界トリップ物の主人公が、現代知識チートに走りたがるのかを。つまるところ彼らは、そうすることで現地に居場所を確保しようとしているのだ。またそれは同時に故郷への郷愁と、現代文明への回顧を孕んでいる。孝治自身も現代日本で受けた教育が役に立たないことを、三ヶ月ほど前には嘆いていた。自身の半生が無駄になることを許容できる人間は中々居まい。



 ……と、ここまで考えた辺りで、孝治は二の腕を引っ張られた。

「タカハル、どうしたの?」

 眉間に皺を寄せていたことに気付き、孝治は目頭に手を当てた。

「む、いや、なんでもない」
「なんでもないって……なんか怖い顔してたよ? 働きすぎておかしくなったんじゃない?」
「いや、別におかしくは……元からおかしいといえばおかしいのか?」

 そういえば、似たようなことは日本に居たときもあった。孝治は一度思索に入ると周りが見えなくなるらしく、友人からは何度か忠告を受けていた。
 単なる思索ならまだしも、今回は考えていた内容が内容である。ルゥシアに見られたのは流石に気まずく、誤魔化すように孝治は話題を変える。

「まあ、大丈夫だろう。それよりルゥシア。クゥルシペに行くのは何時ごろになるんだ?」
「え? 多分今月末には行くと思うけど」
「そうか。俺も付いて行っていいのかね?」
「大丈夫だと思うけど……あれ、タカハルどこで聞いたの、その話」

 不思議そうにルゥシアは首を傾げる。

「ちょっとな。まあそうなると、この村で一人で作業するのは一旦打ち止めにしておいてもいいか……」
「お休みにするの?」
「ああ。ここ数日は石を運んだり窯を扇いだりで背中が痛いしな……とりあえず、芋でも掘りに行くか」
「じゃあ私が案内するよ! ただし、働くのは人並でいいからね!」

 何が嬉しいのか、ルゥシアははしゃいだ声を上げた。あまりルゥシアとべたべた引っ付いているのも外聞に悪いのだが……まあいいや、と孝治は思考をぶん投げた。内なる自分との対話で疲れていたのだ。

 ……今はとりあえず、春の陽気を満喫するとしようかね。

「じゃあお願いしようかな……ああいやちょっと待て。セメントを村に持っていかないと」
「早くしてね! じゃあ、私は先に行ってるから!」

 そう言って駆け出すルゥシアの背中を、孝治は苦笑して見送った。

「先に行かれたら、合流できないだろうが」

 あるいは、先日ラカンシェから教えられた追跡の技術を生かすときが来たのかもしれない。
 そんなことを思いながら、孝治は村へと踵を返したのだった。







 








後書き
 Q.普通の大学生が自然状態の石灰岩を判別するとか、難しくね?
 A.主人公補正です。

 実際に製鉄技術について調べるため図書館に行ってみましたが、工業や工学の本より考古学の本の方が役に立ちました。



[33159] 至誠にして動かざる者は未だ之れあらざるなりと雖も、
Name: ハイント◆069a6d0f ID:a5c8329c
Date: 2012/07/01 22:11
 中学時代、孝治の友人はこんなことを言った。

『思想、文明、宗教の優劣は、結局戦争で決まる』

 元々思想的に偏りのある友人の言葉に、当時の孝治は『ああまたか』と思いつつも、こう返したはずだ。

『戦争に勝ったほうが偉いって考え方は、差別的だから良くないんじゃないか?』

 それに対し、彼がどう返したかは記憶にない。大方当時の時事問題に絡め、日本政府の弱腰ぶりを詰ったりしたのだろう。そういう奴だった。
 そんな友人を中学生の孝治は呆れつつ見守っていたものだったが、しかし庇護してくれる祖国を失い、異世界に投げ出された今となっては――彼の思想にも、共感せざるを得ないのだ。





 ―――クゥルシペとは、そのものズバリ現地語で『交易港』を意味する名前である。
 この島の南端、巨大な入り江に存在するこの港町は、およそこの土地では最大の規模と人口を有する集落であった。
 六月も後半に差し掛かる頃である。孝治はエヘンヌーイの皆と共に、冬の間に作った工芸品を運んでクゥルシペへ来ていたのだが……。

「どうしても駄目なのか?」
「生憎と禁輸品でねえ。『蛮夷に炉を与えず、銃砲火器は銃床を見せず』。あんたなら知ってるだろう?」
「……まあ、な」

 お決まりのフレーズで断られ、孝治は肩を落とした。
 先ほどからずっとこの調子だった。フソ――どうも顔つきと言い文化といい日本に似た所があるので、孝治は扶桑の文字を当てることにした――の商人たちは、外見が自分達に似ている孝治に対しては気楽に話してくれたものの、こと商売に関しては極めてシビアだ。
 孝治が探しているのはなんのことはない、単なる鋸研ぎ用のヤスリである。例の錆びた鋸を再生できないものかと、あるいは新規の鋸を作るのに使えないかと、孝治は購入を打診していたのだが、誰一人首を縦には振ってくれない。

 ―――結局文明の優劣は、こういうところに現れるのだ。

 欲しいものを自作できず、奪うことも売ってもらうこともできない――これが孝治の、そしてこの土地の現状だった。
 諦めて孝治は、次の話題に移る。

「まあいいさ。そう言われるのは分かってたしな。しかし他の取引にも応じてもらえないってのはどういうことだ? 利益を上げるのがあんたら商人の道理だろう?」
「あんたも飽きないねえ。他の奴らにも聞いて回っていたじゃあないか」
「情報ってのは裏づけが必要だ。違うか?」
「違わん、違わん。ま、あんたはここで暮らしてるんだ。気になるのも当然の事だわな」

 やれやれ、と肩をすくめて商人は語る。

「答えは簡単さ。取引しても利益が出ないからよ」
「誰も彼もそう言うが、利益が出ないなら、なんであんたらは大海原を渡ってくる?」
「海を越えることで得られる利益ってのは、何も商売だけじゃないってのが一つ。もう一つは……まあ、こいつはあんたの“お友達”から聞いた方がいい」
「またそれか」

 この件――取引の突然の停止――について聞くと、商人たちは大抵こう言ってきた。どうも彼らの口を重くさせている原因は、“こちら”側にあるらしい。
 孝治としては気になるところだが、しかし蛇の道は蛇とも言う。無理に聞き出すこともない。
 とりあえず持っていた鮭の干物を一つちぎり、商人に差し出す。

「食うか?」
「おお、こりゃありがたい。俺ぁこいつが好物なんだが、この情勢だ。しばらく食えなくなるかもしれん」
「じゃあ、ありがたいついでに聞かせてくれ。その“情勢”の話だ」

 おや、と商人は眉を上げた。

「もしかして失言だったかね?」
「ああ、俺が本当に知りたいのはそいつだよ。今でこそ取引が止まってるが、その前には扶桑の品が極端に高騰したって話だ。そしてその原因についてはどうにも皆口が重い。本国で何があった?」
「……ま、あんたはどうやら扶桑の人だ。気付かない方がおかしいわな」

 勘違いについては訂正せず、孝治は無言で先を促す。商人は頭を掻いた。

「……参ったね。この話は口外するなと、ここの長から言われてるんだが」
「ここの長、というと族長エルマシトから?」
「ああ、そうだ。……とはいえあんたならまあ、いいかね」

 ふう、と一息入れて、商人は決心したのか口を開いた。

「一応言っておくが、この話を広めるのはエルマシトに禁止されてる。それは心得て聞いてくれよ」
「ああ、構わん。なんなら国旗に誓ってもいい」
「そいつを聞いて安心した」

 そして二人はしゃがみ込み、声を潜めて話を始めた。
 その内容に孝治が目を剥くのは、それからすぐの事であった。




















 六月も後半ともなれば、この北の大地にも短い夏が迫り、木々の緑も勢いを増す。もはや亜熱帯に近い東京の夏ほどではないが、それでも十分な賑やかさだ。
 実際に孝治は峠道を越えてクゥルシペに来る間、この地の木々が陽光を受けて鮮やかに光を反射する様を見てきている。半年前、孝治が落ちてきた頃には一面の雪景色であったことを考えると、感慨深いものを感じずにはいられない。
 とはいえ夏の訪れに、秋を驚かす勢いの草木はさておき、港の人間達の面持ちはどこか浮かないものだった。そしてそれは、今や孝治も同様である。

 参ったな、本当に鉄製品の入手が困難になってるとは……。

 昨日クゥルシペに着いてすぐ、カルウシパは交易所に挨拶に行った。それが不可解な顔をして戻ってきたのは、一時間と経たないうちだった。
『たしかタカハル、扶桑語が話せるって言ってたよな? 着いてきてくれ』
 そう言われてついて行った孝治もまた、商人たちと会話してすぐに事態の異常さに気付いた――商人が商売をしないのである。
 いや、正確には全く取引に応じないわけではない。しかしこちらの主要な輸入品である鉄製品の取引に応じず、挙句高級品のはずの刀や短剣を“仕入れていない”と断言される異常さには、孝治も疑問の声を上げた。
 結局昨日は埒が明かず、今日になってカルウシパはクゥルシペの族長エルマシトに、孝治は単独で扶桑人のフリをして情報収集に、他の村の面々は、仕方なく挨拶回りと、事態の把握の為に行動していたのだが……どうにも海の向こうはきな臭い情勢になっているようで、商人達から聞いた話は、孝治の足取りを重くした。
 彼らの語る海外の情勢を纏めると、こうだ。

 ―――曰く、東の大陸から、アトラスとかいう国が艦隊を率いて南海の島々を荒らしまわっている。

 ―――曰く、扶桑の政府は、自国の植民地を守るため、守備隊を南海諸島に駐屯させることを決定。

 ―――曰く、扶桑の諸侯は百年以上の平穏を振り払うように、金蔵や宝物庫を空にする勢いで戦支度を行っており……物価が大きく動いているらしい。

 ……まさか前にカルウシパに言ったことが現実になるとはなあ……。

 エヘンヌーイのみならず、この土地の主要な輸出品は木彫りに刺繍細工。いわゆる民芸品である。贈答用に溜め込んでいた諸侯が放出したこともあり、扶桑本土における価値は暴落しているという。
 こちらの品を安く買い叩くために口裏を合わせているのではないか、ともちらりと考えたのだが……諸々の情報を総合して考える限り、どうやら嘘は無いと孝治は判断していた。
 それにしても一月前、孝治はカルウシパに『万が一鉄製品の輸入が絶えたら~』などと言ったものだが、本当になるとは思わなかった。思わず俯きがちになっている自分に気付き、孝治は顔を上げる。

「いかんな、弱気になったら駄目だ」

 あえて声を出して自分を励ます。孝治は隠れオタらしく独り言を嫌うが、高校時代ある知人に教えられて以来、この手のポジティブな言葉は口に出すようにしていた。
 嘆いたところで状況は変わらない。ならばむしろこれはチャンスだと、孝治は思うようにした。正直孝治のうろ覚えの知識で作れる鉄など粗悪品が良い所だろうが、万が一この地が鉄不足に見舞われるなら……粗悪品でも、売れる可能性が出てくる。
 そして、他の集落に“売れる”ならば、それはエヘンヌーイを多少なりとも豊かにできるということで、カルウシパ達への恩返しになるのだ。

 狩りにも行かず実験ばかりで、肩身が狭かったからな……そろそろ結果を出さないと。

 心中決意を新たにして、孝治は木陰に腰を下ろした。港の喧騒から少しばかり遠ざかった場所である。考えを纏めるにはちょうどいいだろう。
 孝治は港を眺める。常には扶桑の商人や漁師、交易にやってきたこの土地の人々で大賑わいに賑わうというクゥルシペだが、この夏は少しばかり様子が違うと、昨晩カルウシパは言っていた。
 たしかに、と孝治は思う。なんというか、人々に余裕が無い。それは孝治が調べた限り、扶桑で起きた異変が元凶なのだが……しかしその影響が遠く隔てられたこの地にまで届くとなると、孝治はこの世界に対する認識を少々改めなければと思うのだった。

 文字通りの海外領土で、他国の軍隊同士が戦闘か……思ったより文明レベルが高いな。

 そう思う孝治だったが、そういえば、と思い出す。この世界に来る直前、アレが言っていたことを。
 『剣と魔法の中世が終わり、近世に入り、近代へ移行しつつある世界』
 忘れかけていたが、そんなことを言っていたはずだ。地球の歴史で例えるなら、『近代に移行しつつある』というのは……言葉の解釈にもよるが、おそらく18世紀ごろにあたるだろう。下手をすると、先進国には蒸気機関車や雷管式銃があるかもしれない。
 事実クゥルシペに停泊している扶桑の商船は、遠洋航海を想定しているであろう、竜骨に複数マストの大型帆船である。おそらく大航海時代くらいの水準はあるのだろう。

 ……というか、魔法があるのか? この半年で一度も見てないぞ?

 孝治はふと疑問に思ったが、しかしよく考えれば邪神の居る世界だ、あってしかるべきだろう。なにしろ100面ダイスを用意するような輩である。読んだら目が潰れる魔導書とか、その手のアイテムが後々登場する可能性は高い。
 自らの持つ『言語チート』が途端に恐ろしいものに思えてきて、孝治は思わず身震いした。

 ああ、くそ。やっぱり『何も受け取らない』が正解だったのだろうか……。

 しかしその場合、それこそ無人島に放り出されていた可能性もあった。そもそも孝治が翻訳能力を選んだのは、少なくとも人間か、言語を解する知的生命体と関わる環境に身を置けるだろうという打算からである。『言葉を話す珍しい猿』として、タコ型宇宙人の実験動物にされなかっただけマシかもしれない。

 だがここに来て戦争フラグ。いや、多分あるだろうとは思ってたが……。

 孝治は頭を抱えたが、しかしこれについては予見していた。むしろ事前にある程度前情報を与えられるだけマシだ。
 そもそも現代日本人が異世界に行って戦いに巻き込まれないと思うのは、少々都合が良すぎる。異世界召喚の醍醐味は異文化コミュニケーションだとは前にも考えたが、現代日本人の思想の基本は『平和』である。安直ではあるが、戦闘展開はお約束だ。
 第一、この“シナリオ”は―――

「……駄目だな。どうにも気が滅入る」

 思わず呟き、頭を振って、孝治は立ち上がった。

「村の皆と合流しよう。一人は駄目だ」

 そう自らに言い聞かせ、歩き出そうとした孝治は、ふと、視線を感じて横を見た。若い男と目が合って、孝治は目を瞬かせる。

「なにか?」



「ああ、失礼。見かけない顔なので少し観察させてもらっていたよ」

 そう言った男は、この地の人間らしく堀りの深い顔立ちだった。年齢は孝治と同じくらいだろうか。この半年でこの地の人々の年齢を推察するのにも慣れた孝治だったが、少しばかり自信が持てなかった。

「……俺は孝治だ。外から来た者だが、今はエヘンヌーイで世話になってる。あんたはクゥルシペの人か?」
「そうだよ。挨拶が遅れて申し訳ない。僕はアルカシト。族長エルマシトの息子をやってる」

 そう言って人当たりの良い笑顔を浮かべる彼の顔には、髭がない。
 怪訝そうに見つめる孝治に気付いたのか、アルカシトは笑って言った。

「この顔かい? 僕は仕事柄扶桑人との付き合いが多いんだけど、扶桑では髭面は嫌われるらしくてね。剃ってるんだ」

 ま、あまり家族からはいい顔をされないんだけど。などと苦笑するアルカシトに、孝治も肩の力を抜いた。
 エヘンヌーイにはそもそも剃刀が無く、孝治もやむなく髭を伸ばしていたが、このクゥルシペでは手に入れることも出来るのだろう。少しばかり羨ましかったが、それは言っても仕方ない。

「そうか。それで俺の素性は分かったと思うんだが、まだ何か用があるなら言ってくれて構わないぞ」
「ああ、そういってもらえると助かるな」

 微笑を崩さず、アルカシトは言う。どうもこの人当たりの良さは天性のようで、扶桑人との付き合いが多いと言っていたが、なるほど天職なのだろうと孝治は思った。

 ……だが、こういうタイプは案外怖いんだよなあ。

 そんな孝治の警戒をよそに、アルカシトは至ってフレンドリーに話しかけてくる。

「実は港に居た頃から、タカハルのことは目を付けてたんだ。扶桑の商人達と、なにやら話をしていたようだから」
「ああ。エヘンヌーイには鉄製の工具が足りないんだが、知ってるだろうが商人たちが売ってくれない。原因を調べようと回っていた所だ」
「それで原因は分かったのかい?」

 ふむ、と孝治は顎に手を当てて考える。ここで頷くのは、口止めされているところをわざわざ話してくれた商人たちに対する不義理である。
 孝治は言葉を濁した。

「俺は外から来た人間だ。扶桑やその他の国のことは、ある程度理解してる」
「なるほどね」

 アルカシトは笑った。嫌味のない笑みだ。

「じゃあ『あとらす』って国のことも知ってるのかい?」
「ああ。東の大陸にある大国だ。拡大主義で、近年は海軍の整備に力を入れていると前に聞いたことがある」

 仕入れたばかりの情報だと、おくびも出さずに告げた。無愛想で目つきの悪い孝治は、この手の腹芸が存外得意である。
 とはいえアルカシトも、商人たちが孝治に話したことは大方分かって聞いているのだろう。「なるほどね」などと白々しく頷き、尋ねてくる。

「孝治は外の事に詳しいようだけど、そのアトラスが扶桑と戦をするって話は知ってるかい?」
「いいや? ただ、納得は出来るな」
「へえ、それはどういう理屈で?」
「アトラス海軍の編制は、西を向いていたからな」

 完全に口から出任せだった。

「艦隊ってのは金食い虫だ。わざわざ海軍を整備するってことは、それだけの利益を見込んでるってことで……扶桑の植民地を狙うのは自然だろうな」

 偉そうに告げるが、これも完全にハッタリである。
 しかしながらアルカシトは、感心したように頷いた。

「へえ……流石だね。僕にはそう言われても、ほとんど理解できないんだけれど」
「まあ、色々見てきたのさ。それこそ月の国とかな」
「月か! そりゃ凄い!」

 アルカシトは大げさに驚いたが、どうせなら笑い飛ばして欲しかったと孝治は思った。相変わらずジョークのセンスが無いと自嘲する。
 そんな孝治の反省を余所に、アルカシトは本題に入った。

「じゃあそんな博識なタカハルに、一つ仕事を頼んでもいいだろうか?」
「まずは内容を聞かせてくれ。手伝えるようなら手伝いたいが」
「そうか、その気持ちだけでも嬉しいよ」

 こういう台詞がさらりと出てくる辺り、相当に“慣れてる”なと、孝治はしみじみ感心した。

「頼みというのは他でもない。その扶桑とアトラスの戦争について、詳しく説明して欲しいんだ」
「あんたにか?」
「いいや、うちの父上にだよ」

 孝治は少しばかり面食らった。初対面の相手、それも異邦人に頼むには、明らかにハードルの高い仕事である。
 第一エルマシトといえば、プライドが高く気難しい人柄だとカルウシパから聞いていた。それに扶桑の商人たちのあの態度……どうにも嫌な予感しかせず、孝治は断るための言い訳を考える。

「族長エルマシトに? あんたがやればいいだろう。何故俺に頼むんだ」
「僕では上手く説明できる自信がない。それに、海外の話をするときは、大抵扶桑の人に説明させる慣例なんだよ」

 孝治は一瞬自分が扶桑人ではないと否定しそうになったが、立場を考えて自重する。少なくともクゥルシペでは、扶桑人と偽っておくべきだ。

「……その言い方だと、馴染みの扶桑人が居るんだろう? 俺が彼らの仕事を取るのは、いささか申し訳ないぞ」
「いや、その心配は無いよ」

 アルカシトは首を横に振る。眉間に皺を寄せたその表情は、いかにも『困ってます』と言いたげだった。

「港の様子、君も見たよね?」
「……ああ」
「どう思った?」
「ギスギスしてるな。特に扶桑の商人達は、明らかにこの土地の人間との関わりを避けていた。俺には気安く話しかけてくれたが……」

 もっとはっきり言ってしまうなら――エルマシトに萎縮しているのだ。
 そう孝治は判断していた。そして、

「それなんだよ」
「それ、とは?」

 アルカシトはため息をついて言う。

「実は先日父上が、今回の交易品の値上がりについて扶桑の商人を呼び出して話を聞いたんだけどね」
「……ああ、大体分かった」

 やはりか、と孝治もまたため息をついた。

「これだけで分かるのかい?」
「彼らの説明が覚束なくて、エルマシト殿を怒らせたんだろ? ついでに、『適正な』価格で商売するように命じた……ってのは穿ちすぎか?」
「……凄いね、大体あってるよ」

 アルカシトは感心した様子で頷いたが、孝治としてはなんのことはない推理である。
 今回の輸出品の値下がりは、こちら側から見れば一方的に扶桑側の事情のせいである。対抗措置を取るのは当然だ。カルウシパから聞いたエルマシトの人格もまた、その説を補強する。
 そして息子であるアルカシトもまた、孝治の推理を肯定した。

「うちの父上は大層お冠でね、商人達もそれを知ってるから、せっかく持って来た扶桑の品を売るに売れなくて困ってる。僕としてはこの状況をなんとかしたいと思ってるんだけど……」

 しかしながら商取引の停止によって困るのは、むしろこの地の人々である。アルカシトの焦りを孝治はよく理解できた。
 高緯度にあるこの土地では、冬は雪と寒さで身動きが取れなくなる。そんな冬場に作った民芸品を、交易によって生活用品に代えるのがこの地のライフスタイルだ。木彫りも刺繍も彼らの文化である以上に、生きるための仕事なのである。
 もしこの交易が停止した場合、冬季の生産性は極端に下がり、単純計算で総合的な生産力――現代的に言えばGDPが数割は落ちる。さらに生活必需品まで輸入に頼っている以上、長期の停止は生活水準の致命的な低下さえもたらすだろう。
 おまけにアルカシトは知っているか分からないが、扶桑の商人たちは、海を渡るだけでもそれなりの利益があると言っていた。国からなんらかの手当が出ているのだろうと、孝治は予想していたが……もしそうなら、これは相手を取り違えた対応ということになる。完全に失策だ。
 そんなことを考えながらも、しかし孝治は気乗りせず、否定的な声を上げた。

「それで、俺にエルマシト殿の説得をしてもらいたい、と。随分と厄介な話を持ちかけてくれるな」
「お願いできないかな? タカハルは海の向こうのことに詳しいようだし、それにカルウシパ殿はうちの父上と仲がいい。彼に間に入ってもらえば、うちの父上も門前払いはしないはずだよ」
「そうは言うがな……」

 そもそも孝治は、エルマシトと顔を合わせるつもりだったのだ。しかしそれはカルウシパに紹介してもらい、珍しい異国の品を献上する、という形を予定していた。
 なにしろエルマシトはクゥルシペ――この島最大の交易港の支配者だ。その勢力は千人を優に越え、二千人に迫る勢いである。この地で現代知識による商品開発に挑んでいる孝治としては、出来上がった商品の販路を確保するためにも、知遇を得ておく必要がある。
 そしてその立場からするなら、こんな危ない橋を渡って、万が一勘気を被るのはまずいのである。

「……俺はあくまでカルウシパの客人だ。彼に迷惑をかけるわけにはいかない」
「それはその通りだろうね」
「ああ、だから……」
「じゃあ、カルウシパ殿に聞いてみよう」

 言いかけた言葉を遮られ、孝治はぎょっとした目でアルカシトを見た。
 たしかに言っていることに筋は通っているが、この言いよう……やはり中々に曲者だったようだ。睨まれたアルカシトは動じた風もなく、しゃあしゃあと言葉を続ける。

「多分、あの人なら賛成してくれると思うよ」
「一体どういう根拠でだ?」
「うちの父上に平気で意見できるのは、カルウシパ殿くらいだからね。それにあの人が、この港の現状を良しとするとは思えない」

 そんなことを言われては、カルウシパを出汁にして断ろうとした孝治としては反論の余地がない。
 一つため息を吐いて、孝治は頷いた。頷かざるを得なかった。

「……分かった。これから宿舎に戻って、カルウシパを待とう。そして彼の意見を仰ぐ事にする。ただし」
「ただし?」
「せっかくだから、俺の仕事も手伝ってもらいたい」

 とはいえ勿論、やられっ放しで済ませる孝治ではないのだが。




















 木造の広い建物の中で、二人の男が対面している。
 一人は御馴染みの熊親爺、カルウシパであり――その対面に座るのは、クゥルシペ二千人の長、エルマシトであった。
 カルウシパに負けず劣らず、筋骨隆々の偉丈夫たる彼は、いかにも不機嫌そうに扶桑の商人たちへの不満をぶちまけていた。それはある意味で、長年の友情の発露だったのかもしれないが……カルウシパとしては、いい加減うんざりしてくる。

「……少し落ち着けよ、エルマシト。お前の言っていることは今一つピンと来ないんだが、本当に状況が分かってるのか?」

 カルウシパがそう言うと、エルマシトは己の発言を振り返ったのか、一瞬気まずげな顔をした。だが生来の我の強さ、また彼の立場がそれを認めようとはしない。

「俺は落ち着いている。ピンと来ないのは当然だ。とかく扶桑の連中は、己が利を貪る事しか考えない連中で、出てくる言葉は出任せばかりだ。理解する必要もない」
「本当にか? たしかに俺たちが若い頃には、奴らはそりゃあ酷いもんだったが、最近はそうでもないだろう。そしてそいつはお前の功績だ」
「褒めてくれるのは嬉しいがな、カルウシパ。結局俺の力でも、奴らの性根までは変えられぬ。喉元を過ぎれば、というやつだろう」
「……そうか」

 カルウシパは立ち上がってその場を辞した。建物から表に出ると、空を見上げて背伸びをする。
 パキパキと鳴る背骨に年齢を感じて、カルウシパは渋い顔をした。

 俺もあいつも、年を取ったんだなあ……。

 ならばこれも仕方がないのだろうか、とカルウシパは一人ごちた。
 たしかにエルマシトは若い頃から野心家でプライドが高く、そう簡単には人を信じない猜疑心の強いところがあった。それにしても、一から十まで否定してかかるような人間ではなかったはずだ。

 そりゃあ俺だって、扶桑の商人どもは今一つ信用ならんがね……。

 エルマシトとカルウシパが若い頃には、勘定を誤魔化されたり、不良品を掴まされたりするのは日常茶飯事だった。例の鋸の件だって、カルウシパは今でも根に持っている。
 だがそれにしてもおかしいと、カルウシパは感覚的に感じていた。扶桑の商人は阿漕な連中ではあるが、しかし大海原を渡って商売の為にこの地を訪れている気骨のある男達だ。そもそも取引が出来ない状況を、彼らが良しとするとは思えなかった。

 ……まあ、考えても仕方ないか。とりあえずタカハルにでも話を聞いてみて、それからだな。

 そう思い、カルウシパは歩き出す。道中港の様子を観察するが、やはりこの季節にしては、例年より停泊している船が少ない気がする。
 そんな光景に一抹の寂しさを感じて、カルウシパは目を細める。

 ……単なる年寄りの感傷、とは思いたくないが。

 思えばカルウシパの青春は、このクゥルシペにあったのだ。
 若くして優れた狩人であり、また明晰な頭脳を持ったカルウシパは、十代の後半の頃にはクゥルシペに入り浸っていた。それは当時の族長から特別に見込まれたからであり、またカルウシパもその期待に応え、様々な人脈や知識を得た。現在彼の率いている部族がエヘンヌーイという要地に陣取っていられるのは、まさしくこの頃のカルウシパの努力の賜物である。
 そしてそんな青春時代にカルウシパが得た公私共に最大の財産こそ、エルマシトとの友情であった。幾度となく殴り合い、あるいは共闘した若き日を思い返して、カルウシパは寂寥の念に駆られた。

「ああ、嫌だ嫌だ。年なんか取るもんじゃないな……」

 そうぼやく頃には、カルウシパは彼の部族にあてがわれた宿場まで戻っていた。
 その中の一つ、孝治が私物を放り込んでいたはずの茅葺小屋から話し声が聞こえることに、カルウシパはおや、と思う。

 ……聞き覚えがある声だが、一体誰だった?

 案ずるより産むが安いと、カルウシパは入り口に手をかける。

「おーい、タカハル、ここに居るのか……って、アルカシト?」
「ん? ああ、カルウシパ、戻ったのか」
「お邪魔してます」

 予想もしていなかった人物に、カルウシパは少しばかり驚いた。
 アルカシト……エルマシトの長男であり、扶桑語に堪能で、扶桑の商人達との折衝は大抵彼が行っている。クゥルシペでも屈指の職権を有する人間だった。カルウシパとも付き合いは長いが、わざわざ宿舎を訪ねてくるほど暇では無いはずだ。

「おいおい、なんでこんな所に居るんだよ。さっきまでお前の親父と話してたが、えらく機嫌が悪かったぞ」
「いやあ、それを言われては立つ瀬も無い。しかしカルウシパ殿、僕がここに居るのはその件についてなんですよ」
「その件?」
「ええ。とりあえず時間があるなら、少しばかり話を聞いてください」
「時間があるも何も、取引が再開されないと仕事にならん」

 そう言ってカルウシパは腰を下ろす。アルカシトは苦笑したが、特にフォローも無く、用件に入った。
 ちなみに彼のエルマシトに対する発言が敬語表現になっているのは、孝治による意訳である。ここの言語には一般に用いられる敬語は無いが、敬称の概念はあるのでそれを斟酌している。

「最初に聞いておきますが、父上は何と言っていましたか?」
「扶桑の商人連中への愚痴ばかりだ。『奴らは戦を口実に、こちらの品を安く買い叩こうとしている』ってな。よもやこちらに攻めては来まいかと、危惧してもいるようだが」

 横で聞いている孝治は、まあそんなところだろうなと内心納得した。アルカシトから聞いていた内容とも合致する。
 ついでに現状の認識が怪しくとも戦争に巻き込まれる危惧をしているあたりは、孝治としては評価できる部分だった。

「で、実際はどうなってるんだ? どうも今一つ、状況が理解できなかったんだが」
「僕にもよく分からないのですよ。それで是非、タカハル殿にご教授願いたいと思っていまして」
「タカハルに?」

 カルウシパに視線を向けられて、孝治はやむなく口を開いた。

「すまないカルウシパ。情報収集しているところを見られた」
「いや、謝る事じゃないが……アルカシトが直々に頼み込むってことは、お前は何か分かったのか?」
「一応俺は月人だ、色々と知ってるのさ。……それと一つ言っておくことがある。俺が教授する相手はアルカシトじゃない。エルマシト殿だ」
「……なんだと?」
「ええ。そういうことですよ、カルウシパ殿」

 カルウシパは呆れた表情で、アルカシトを見た。

「なんでまたそんなことになる」
「カルウシパ殿の客人ならば、父上も無碍にはしないだろうというのが一つ。もう一つは……純粋に、タカハル殿の説明が上手いのですよ」
「……手を抜いて説明すりゃ良かったよ」

 孝治はぼやいたが、しかしカルウシパは面白そうな顔をした。
 孝治が存外説明上手なのは、カルウシパも知る所である。なにしろ日頃からルゥシアに月の話を語り聞かせているし、カルウシパも炭焼きや石灰作りについて解説されたときに実感していた。
 なるほど、あの独特の話術であれば、あるいはエルマシトを説き伏せられるかもしれない……とカルウシパは考えたが、しかし懸念は口にしておく。

「ウチの利益にもなることだ、出来れば力になりたいが……ちゃんと勝算はあるんだろうな? 今のエルマシトはこう言うのもなんだが、厄介だぞ」
「タカハル殿ならば、あるいはなんとかなるでしょう。そのための作戦も、考案してもらいましたし」
「作戦? おいそりゃタカハル、どういうことだ?」

 尋ねられた孝治は、嫌々ながらも答える。

「アルカシトに聞かれたんで考えたんだよ。怒っている人に話を聞かせる方法を」
「贈り物を贈る、とか第三者に説得してもらう、とかか? あー、そう考えるとタカハルはたしかに適任なのか」
「いやいやカルウシパ殿。タカハルの智謀はそんなものではありませんでしたよ」
「ほう?」

 期待した目を向けられて、孝治は心底辟易した。
 元より孝治は人付き合いを嫌う性質である。そのために返って口先が上手くなり、人から頼られるようになったというのは皮肉な話だが、異世界で初対面の権力者に諫言するなど冗談ではなかった。
 しかし無言で目をそらしたところで、カルウシパの追求の矛先がアルカシトに代わるだけである。

「たしかにタカハルは口が上手いが、しかしそんなことまで出来るとは知らなかった。どんなもんなんだ?」
「それはですね、まず……」

 アルカシトが孝治の出したアイディアを最初から順に語っていく。最初は頷きながら聞いていたカルウシパだが、その内容がパターンB、パターンCと続く頃には、感心を通り越して呆れた顔をしていた。

「……おいおいタカハル、只者じゃないとは思っていたが、俺は今初めてお前が怖いと思ったぞ」
「とりあえず光栄だとは言っておくが、しかし俺はあくまで知っているだけだ。上手くやれるかどうかはまったく別の話だぞ」

 元より活字と情報に溢れた世界で暮らしてきた孝治にとって、『知っている』ことは何ら自慢にならない。重要なのは実際の経験と想像力であって、知識などググれば済む話だ。
 だがしかし、文字さえ持たないこの土地の人間にとっては―――知識とは、“リアルな”力なのである。

「いや、謙遜するな。俺にはアルカシトの言ったことがよく分かる。お前しか居ない」
「俺はエルマシト殿を知らん。計画が上手くいくかは保証できないし、いきなり初対面の相手に、大芝居を打てと言われても自信が無いんだ」
「そうか? お前なら平然とやり遂げそうだが」

 カルウシパとしては本心で言ったつもりだったが、孝治が本気で嫌そうな顔をしているので首を傾げた。

「どうした、俺としては褒めたつもりだが」
「いや……昔似たような台詞を何度か聞いたことがあってな……」

 嫌なフラグが立ったと、孝治としては思わずにはいられなかった。
 周囲に奇人変人が絶えなかった中学高校時代、面倒なトラブルの処理は、“比較的”まともな孝治に回って来るのが常だった。
 そして大抵の場合、彼らは孝治の背中を叩いてこう言ったものだ―――『お前なら平然とやってのけるだろ』と。

 別に好きで平然としてるわけじゃねえんだよ……慣れただけなんだよ……。

 とはいえそんなことをカルウシパに言っても仕方が無い。慣らした張本人である中学時代の友人がこれを言ったなら、孝治は迷わず体落としの一つも掛けた所だが……カルウシパを投げるのは完全に八つ当たりだ。
 それ以前に、カルウシパは孝治が世話になっている相手であり、恩人だ。その彼がやる気になっているならば、無理に固辞するのは非礼というものだった。
 孝治は観念して言う。

「親爺殿がそこまで言うなら、俺としても腹を括る。だが矢面に立つのは俺になるんだ。それを踏まえた上で言うぞ―――手伝ってくれ」
「おう、任せとけ。お前はあいつを知らないだろうが、幸い俺とアルカシトはよく知ってる。なあアルカシト」
「ええ、勿論。第一失敗した所で、何の得もありませんし」
「そりゃそうだ」

 頷いて、カルウシパは孝治ににやりと笑って見せた。

「ま、安心しろ。いざとなったら俺が奴と喧嘩してやるさ。海にでも放り込めば、頭も冷えるだろう」

 ……ここの海水温だと、風邪引くんじゃないだろうか。

 孝治はそう危惧したが、口には出さなかった。
 まあいいさ、とため息をついて、孝治は口を開く。一度やると決心したら、最善を尽くすのが孝治の信条である。

「じゃあ親爺殿も交えて作戦会議だ。基本的な戦略は、『ギリギリまで目的を伏せる』こと。その為の欺瞞情報には甲案と乙案があるが、エルマシト殿の性格を考えると甲案が望ましいと思われる。まずはここについてカルウシパの意見を聞きたい。まず甲の場合は……」
「……タカハル、お前急に生き生きしだしたな」
「悪巧みが好きな性分なんでしょう。僕は短い付き合いですが、中々に性格が悪くて頼もしいですよ」
「望まぬ仕事を押し付けられて、随分な言われようだ……!」

 かくしていい年した男三人、角突き合わせての『悪巧み』が始まったのである。










後書き
 予定しているところまで辿り付けませんでしたが、このまま考え続けてもエタりそうなのでとりあえず。
 そしてようやく、作者の中で孝治のキャラクターが固まってきました。



[33159] 道徳仁義も礼に非ざれば成らず。
Name: ハイント◆069a6d0f ID:a5c8329c
Date: 2013/04/04 23:52
 クゥルシペの居住区、その中央に、それはあった。
 大型の木造建築。大工を招き、扶桑の様式で建てられたというその白亜の建物こそ、族長エルマシトの居城――という表現は、甚だ大げさだが――である。漆喰と瓦のコントラストは孝治にも馴染みのあるのもではあったが、上から見ると六角形で、鏡餅のように二段になっているその構造は、むしろ遊牧民のテントを連想させた。
 クゥルシペの居住区は港や商業区よりもやや高台にあり、また家は原始的な茅葺小屋が基本だ。この二階建ての建物は、なるほど、居住区も商業区、港に海まで一望できる有効な監視台であるだろう。それにその大きさは、周囲から一際目立っている。権威主義とカルウシパに評されるエルマシトの、面目躍如といったところだろうか。

 決して無能ではないよな、エルマシトは。……それともブレインが居たのかね。

 この建物を建てる際、エルマシトは扶桑の貨幣で決済を行ったという。それまで米による物納であった港の使用料を貨幣によって支払うよう改めたのはエルマシトで、それによって獲得した外貨はクゥルシペの蔵に入っているが、これは非常時のための保険として使えるはずだった。
 そう、非常時だ。今こそ非常時なのである。溜め込んだ外貨を放出することで、扶桑の品を『適正価格』で買い上げられる。それは他部族に対するアドバンテージになるはずだった。なのに何故エルマシトはそれを行わないのか……孝治は思考を巡らせる。

 蔵から貨幣を放出して扶桑の品を買い上げ、民芸品……は要らないから食料や労働力を対価として他部族に売る。そうやって獲得した労働力を……使い道が無いな。

 色々と考えてはみるが、しかし大していいアイディアが浮かばなかった。エルマシトもそうなのだろうか。アルカシトに聞いておくべきだったと、孝治は後悔した。
 結論の出ない思考を打ち切り、改めて孝治は、建物とクゥルシペの居住区を見回してみる。

 ……建物本体はそれなりにでかいが、しかし防御設備は脆弱だよな。

 孝治は周囲の地形を見て分析する。川も堀も無く、柵も石垣も土塁も無い。そもそもクゥルシペは基本的に平野の街であり、港から居住区まで自然の要害が存在しない。
 孝治の故郷は日本でも有数の城下町だ。東京に居た頃は皇居見学に言ったこともある。その孝治の感覚では、これはまったく心許ない代物だった。

 銃兵数百……いや、長弓だ。短弓の射程の外から火矢を放つだけで、茅葺小屋は燃える。そうやってこちらが逃げるか、消火に奔走している間に上陸部隊を上げるだけで、クゥルシペは落ちる……。

 ……などと孝治は分析してみる。先進国の海上輸送能力がどの程度か分からないが、植民地獲得戦争の動員兵力が千人以下と言う事は無いだろう。守るのは不可能に思えた。
 もっとも、この地の民の戦闘技術は山林での狩猟の技術だ。ゲリラ戦に徹し、冬の間に反攻して奪還しまえば……とも考えてはみるが、

 一夏あれば、越冬の為の準備や防衛設備も整うか……。

 どう頑張っても平野部は守りきれない。そう孝治は結論した。
 考えてみれば江戸時代の北海道も、函館の辺りは日本領だった。松前藩という名前を孝治は自信を持って思い出せなかったが、狩猟民が農耕民、それも組織化された軍隊相手に平野部を守り抜くのは難しいのだろう。

 ……大人しく森に拠って戦うべきだな。数年耐えれば和睦も出来る……といいんだが。

 そんなことをぼんやりと考える孝治だが、結局は素人考えだ。そもそも必ずしもこの土地に海外からの侵略者が訪れるとは限らないし、訪れたところでエヘンヌーイは内陸だ。孝治の出番があるとも思えなかった。
 ああ嫌だ嫌だ、全く嫌な想像をしたもんだ……などと首を振った孝治の耳に、こんな声が聞こえてくる。

「お母さーん、あの人何やってるの?」
「きっと族長のお客さんよ。話しかけちゃ駄目」
「はーい」

 …………。

 孝治は自らの装束を見下ろして……うんざりと溜息を吐いた。

 










 クゥルシペの族長エルマシトは、この島でも多忙な男である。それはそうだろう。なにしろ彼の持つ権益はこの島でも最大のものであり、また港湾施設の使用料を徴収することで成り立っている彼の部族は、単純な狩猟採集生活とは根本的にライフスタイルが違う。
 さらに現在は扶桑の商人との諍いを抱えており、常よりも懸念事項が多い。そんな多忙な男は今、目の前の無法な来客に険しい眼を向けていた。

「よう、エルマシト。また来たぜ」
「……一日に二度も何の用だ。俺も暇ではないのだぞ」

 いかな旧知の仲とはいえ、二度も押しかけてきた友人に、彼は苦言を呈した。
 己が息子に目を向ける。取り付いたのはアルカシトで、故にこそ門前払いも出来なかったのである。苛々としながら、エルマシトは重々しい声を上げた。

「しかもアルカシト、その事はお前も知っていただろう。何故わざわざ取り次いだ」
「それは父上、この件は単なるカルウシパ殿の要請ではなく、僕の意思も介在しているからですよ」
「お前の?」

 アルカシトとて、今は極めて多忙なはずだった。むしろ扶桑人との折衝担当という立場上、自分より忙しいはず――などとエルマシトはいぶかしむが、彼が思考を巡らせるより先にカルウシパが口を挟む。

「ああ。実は今、うちに変わった客人が居るんだが、そいつをお前に紹介したいと思ってな」
「客人? 島外の者か?」
「そうです父上。それも遥か遠国より、この地にやって来た男です」
「……ほう」

 興味を惹かれ、エルマシトは一つ頷いた。
 思えばここしばらくの間、扶桑の商売人共を相手に不毛な恫喝を繰り返していたばかりだった。彼ら商人も災難だが、エルマシトとて平安な心持ではない。気分転換は必要だった。
 それに海外の者ならば、今回の一件についてなにか卓越した見識を示してくれるかもしれない――とエルマシトが思ったかは定かではないが、ともあれ、彼は友人に向かって言った。

「何か面白い芸のある男なのか?」
「ああ、中々ユニークな奴だぜ」
「ふむ。では通せ、アルカシト」
「はい」

 アルカシトは立ち上がり、入り口に歩み寄ると扉を開けた。扉の前で待機していたのだろう人物は、即座に入り口で一礼して入室する。
 その姿に、エルマシトは思わず目を剥いた。

「おい、カルウシパ」
「おう、なんだ」
「なんだ、あれは」

 入ってきた男は静かな摺り足ですすすと歩み寄ると、エルマシトの対面に膝を折って座り、深々と頭を下げたまま動かなくなる。
 その格好は、一言で言うならば――奇態であった。

「おい」
「紹介しよう」

 疑問の声を上げようとしたエルマシトを遮って、カルウシパが言う。至極大真面目な顔で。

「タカハルだ――――月からやってきた」
「……はあ!?」

 今度こそエルマシトは素っ頓狂な声を上げていた。










 ……頼むぜ親爺殿。

 平伏した姿勢のまま、孝治は祈るような心持で地に顔を伏せていた。
 頭に被る熊皮の臭いが、息苦しくてたまらない。そして上半身は毛皮で暑苦しいにもかかわらず、むき出しの脛は床板とぴっちりと密着していて、はっきり言って肌寒かった。
 股間を締め上げる晒し木綿の感触だけが、今の孝治にとって人間の尊厳を示している。これが無ければ、もう発狂した態で踊りだしていただろう。
 高校以来封印していた芸風を、まさか死後に異世界で披露する羽目になるとは思わなかった――そう嘆息する孝治の頭上、カルウシパは如何にもなんでもないような雰囲気でしゃあしゃあと言ってのける。

「こいつは半年ほど前に盗み食いの罪で月の国を放逐されたそうだ。元はユピリイエ様の従者だったが、今では海の幸山の幸をユピリイエ様に奉納するため、この地を放浪しているそうだ」
「……おい、アルカシト。こいつは頭でも打ったのか?」
「おいおい失礼な言い草だなエルマシト。これでもこっちは真面目も真面目、大真面目だ」

 カルウシパが声を張り上げて、エルマシトは眉間に皺を寄せてカルウシパを睨んだ。
 目の前の“無礼な男”を指差して、吐き捨てるように語気を荒げる。

「カルウシパよ、下らないホラを吹くために、わざわざこのような無作法な男を俺に引き合わせたというのなら、今すぐここから出て行ってもらおう」
「おいおいエルマシト、その言い草は無いだろう?」

 だが、これにカルウシパは動じなかった。ニヤニヤと笑ってエルマシトを指差す。
 神経を逆撫でする態度に、エルマシトは顔面に怒気を現した。それを見たカルウシパは如何にも面白そうに、からかうような口調で言った。

「俺との長年の友誼を忘れたのか? 昔のお前はもっと、度量の深い男だったはずだ」
「それを言うなら貴様こそ、昔はもっと“純朴”な青年だったはずだ。少なくとも、忙しい人間をからかうために、こんな馬鹿な真似をするような若者ではなかった」
「父上、お言葉ですが」

 ここでアルカシトが口を挟んだ。伺うような態度だが、しかし卑屈では決して無い。彼とて一端の交渉人である。

「父上は少々お疲れの様子。旧友であるカルウシパ殿のご厚意を、そうも無情に切り捨てるとは、クゥルシペの族長として、鼎の軽重が問われますよ」
「な――」

 エルマシトは絶句して息子を見た。アルカシトは飄々としたところはあるが、基本的には真面目な男である。まして父である自分の狭量さを責めるような性格ではない。

「何を言うかアルカシト! 貴様までこのような悪ふざけに同調するとは!」
「父上、父上は誤解されておられます。彼のこの装束は月人の正装。彼は父上への礼儀の為に、敢えてこのような格好をして望まれたのです」

 アルカシトはいたって真面目な顔でそう言った。
 これにエルマシトは口を半開きにして眉を顰めた。息子は一体全体どうしてしまったのか。そんな心中を如実に表した表情に、カルウシパが『ぐふっ』と声を漏らして睨まれる。
 ……アルカシトの左手は思い切り自分の脇腹をつねっていたが、エルマシトからは死角になって見えなかったのだ。

「そのような礼儀など聞いたことが無い! こんな――」

 一瞬表現に詰まって、エルマシトは孝治を見た。
 いまだ平伏する孝治は、もはや単なる熊の毛皮の敷物にしか見えなかったが――ようやく思いついて、エルマシトは怒鳴り声を上げた。



「――――こんな、『裸毛皮』の小僧を俺の眼前に突き出して、一体どうするつもりだ貴様ら!?」



 そのエルマシトの怒声は如何にももっともである。しかし動じずカルウシパは真顔で言った。

「いやいやエルマシト。これは『裸毛皮』じゃない『褌毛皮』だ」
「大して変わらぬわ!!」

 げほっ、とアルカシトが噎せこんだ。
 髭男二人に視線を向けられて、アルカシトは僅かに震えながら答えた。

「失礼しました。痰が絡んで」
「……。貴様ら、やはり俺を担いで笑い者にする腹だろう」
「おいおいエルマシト。お前は何時からそんなに疑い深い性格に……いや、それは元からだったな」
「喧嘩を売るつもりなら買うぞカルウシパ!!」

 怒号と共にエルマシトは立ち上がった。

「殴り倒して海に投げ込んでやる!」
「面白い。他の小僧ならいざ知らず、このカルウシパを海に投げ込めると思うのか?」

 呼応して立ち上がろうとするカルウシパ。
 思えば若い頃から、この二人の関係はこうであった。年甲斐も無く血を滾らせた二人に、しかしここでアルカシトが止めに入る。流石に本当に殴り合っては、『計画』に支障をきたしてしまう。
 素早くカルウシパを目で制して、こう声を上げた。

「お待ちください! 父上、一体何時まで客人を待たせるおつもりですか」
「客人、客人だと?」
「カルウシパ殿も、本題をお忘れなきよう」
「……ああ、そうだったな」

 再び腰を下ろして、カルウシパは手で孝治を指した。
 目を吊り上げたエルマシトに、不適な笑みを浮かべて言う。

「いつまでも地面に伏せたままでは、月人殿も可哀想だ。なあ?」
「ええ、全く。父上、そろそろタカハル殿に発言の許可を」

 しれっとそんなことを言い出す二人。エルマシトは山刀に手をかけた。

「……もし粗相があれば、斬り捨てるぞ」
「その時は俺が相手になってやるよ」
「貴様……!」
「ああもう、お二人とも落ち着いて! タカハル殿、顔を上げてください」

 促されて、孝治はようやく顔を上げた。










 ……扶桑の者にしか見えぬ。

 エルマシトは内心でそう考える。顔を上げた月人とやらは、髭こそ伸び放題に伸ばしているものの、その顔立ちは扶桑人に似ている。そう名乗られれば違和感を感じないほどである。
 そしてその装束たるや、裸体に六尺褌を締め、上からすっぽりと熊の毛皮を被っているという有様で――はっきり言って、気が触れているようにしか思えなかった。
 第一毛皮を被っているとは言うものの、体の前面はほとんど覆われていないのである。まして熊の毛皮は結構な大物で、先ほど立っていた時も、下の部分は思い切り地面に引きずっていた。
 まさかこれで、この地に馴染んでいるとアピールしているつもりなのだろうか? エルマシトはそう考えて、即座に否定した。

 ……カルウシパがこんな『下策』を許可するはずが無い。一体なにが狙いだ。

 警戒して、エルマシトは山刀の柄を撫でる。
 露骨に殺気立ったエルマシトの眼光に、孝治はしかし動揺する素振りを――少なくとも表面上は――見せなかった。すまし顔を維持する。
 一応、ここまでは予定通りだ。故に恐れる必要は無い。無いのだが……あの二人後で覚えてろよ、と孝治は内心、猛烈に悪態を吐いていた。
 しかしもう賽は投げられた。己の役割を果たすしかないのである。
 正座したまま、丹田に力を込める。朗々とした声で、孝治は高らかに――詠い上げた。



「八十日日はあれども、今日の生日の足日に、掛けまくも畏きクゥルシペの大君エルマシトの大前を拝み奉りて、エヘンヌーイの稀人築地孝治、恐み恐み申したまわく」



 飛び出してきた言葉に、エルマシトは思わずぽかんと口を開けた。
 その顔が壷に入ったのか肩を揺らしたカルウシパを、アルカシトが突っついたが、幸い孝治の視界には入らなかった。
 平然とした顔を崩さず、孝治は声音を少々落ち着かせて続けた。

「我築地孝治は月より降臨せし者にして、此の地に在りてはカルウシパ殿の厚意に与り、その恩義に報いんと遠く外つ国の珍奇なる品々を再現せんと努める身。此度はその珍しき品々、エルマシト様の御前に奉りたく思います」

 その流暢な――エルマシトをして今まで聞いたことの無いような流暢さをもって紡がれる“祝詞”に、エルマシトは先の怒りを忘れ、驚嘆を通り越して畏怖の念さえ覚えていた。
 思わず孝治に尋ねる。

「な、なるほど。しかし一つ尋ねて良いか」
「恐みて拝聴いたしまする」
「その“詠い”、一体どこで身に付けた?」

 さて、この辺りで少し解説しておこう。そもそも彼らの言う『祝詞』とは、一体如何なるものなのか。
 まず第一に、この土地の神話は口述詩であり、その内容は集落、部族によって異なるが、独特の節回しによって詠うように語られる点では共通している。またこの節回しは祭事における祈祷、即ち神への祈りとも共通しており、つまりこの土地の言語における唯一の『敬語』表現だった。
 そしてこの節回しはこの土地の人間以外が行うにはかなり難しく、またこの土地の人間であっても、上手に詠い上げるには相当の修練を要する。祭事においては長老と呼ばれる老人達が祈祷を行うが、彼らの唱え方は一種異様な壮大さを持ち、祭事のクライマックスに用いられる発声法は秘伝に属す。

 これを、孝治は利用した。

 今回孝治が最初に奏上した『挨拶』は、この地の長老達の秘技と同じ術をもって発せられていた。エルマシトとてこの島最大の勢力の長であり、“詠い”にもそれなりの自信はあるが、流石に孝治ほどの領域には達していない。
 珍妙な姿で月人を騙る人間が、これほどの技を見せたことに、エルマシトは激しく動揺したのである。恐るべきは言語チートであり、まったくその応用力であった。

「無論、月の国に御座います」
「……真に、月人だというのか」
「はい」

 この回答に、もはやエルマシトは強く反論することが出来なかった。
 一朝一夕には、この謳いは決して身につかない――それはこの土地の人間であればすぐに理解できるのだ。
 一度怒りを抱いたなら、後は冷めるだけである。すっかりと頭の冷えた様子のエルマシトに、孝治は内心で安堵した。

 ここまでは、計画通りだ。意表を突いて頭を冷やす。一度怒りが冷めれば、しばらくは冷静に話を聞いてくれるはず……。

 慇懃に謙りつつも、孝治は静かに背後から、木で作られた箱のようなものを取り出した。

「此度用意せし品は二つ。エルマシト様に奏じ奉りまする。まず第一に、これは家」
「家だと? この箱がか」
「より正確に申し上げますれば、これは極めて小さく作り上げた、月の家に御座います」

 膝行によって進み出た孝治が差し出した模型――木の枝を組み合わせて作り上げられたそれを手に取り、エルマシトはしげしげと見つめる。
 焼き固められた板状の土器を地面として、その上に指ほどの太さの枝を長方形に積み上げ、屋根にはこの土地で使われているのと同じ茅葺の屋根が乗せられている。これは工具が足りず、孝治が屋根を再現できなかったからなのだが、そんなことをエルマシトは知る由も無い。
 子供の頃に読んだ『大草原の小さな家』の描写を必死で思い出し、さらにルゥシアと試行錯誤を重ねて作り上げたログハウス――孝治の苦心の一作である。

「丸太小屋、と呼ばれる家に御座います。丸太に溝を切り、角で組み合わせて積み上げて作ります。これは小さいので膠で固めてありますが、本来は丸太を使い、自重で安定させるものです」
「ほう……」

 しげしげとエルマシトは見つめた。木材を組み合わせて道具を作ることはこの土地でも一般的だが、丸太をそのまま噛み合わせて家にするという発想はなかった。
 物珍しげに見るエルマシトに、孝治は言葉を続けた。

「丸太同士の間は隙間風を防ぐため、泥などで埋めます。壁が分厚いためにこの土地で使われている茅葺の家よりも、中は暖かくなります」
「なるほど。しかしこれは、一軒立てるのに結構な数の木を伐る必要があるな」
「はい。如何にもこの『丸太小屋』は、“贅沢な”品に御座います。故にこそ、エルマシト様のお目にかけようと思った所存に御座います」
「ほう」

 エルマシトは目を光らせた。元より彼は権威主義的であり、同時に扶桑の商人と渡り合うためにも、この手のハッタリを必要としている。
 あらかじめそれを知っていた孝治は、堂々とその所以を述べた。

「この丸太小屋は、畑を作るために木を伐り、切り倒した木を利用して作るのが本来の作法に御座いまするが、エルマシト様の部族は大所帯で、増えた人口を養うために、木を伐る機会があると聞きました。なのでこれをご紹介した次第です」

 エルマシトはなるほどと納得させられた。真に月人かはさておき、たしかにこの男、外の世界からやってきた人間であるらしい。このような建築様式は扶桑人からも聞いた事が無い。

「なるほど。たしかに丸太が余れば、この様式で家を建ててみるのも良いかもしれん」
「丸太に切る溝の形式が知りたければ、こちらの、」

 孝治はさらに、切り込みの入れられた四本の枝を出した。

「これも献上いたします。これを見れば、丸太小屋を建てることは容易のはずです」
「用意がいいな。ありがたく受け取っておこう」
「では、本日お目にかけまするのはこれともう一つ」

 孝治は次に、袋を取り出した。この袋自体、目の細かい木綿の布を何重にもして作り上げた、貴重な品だった。
 口を開ける。中に入っている白い粉末を、エルマシトに見せた。

「これはエルマシト様もご存知の品。扶桑で『石灰』と呼ばれる物に御座います」
「石灰? たしか石灰とは」
「この家を建てる時、扶桑の職人が白壁を誂えるのに使った物です、父上」

 素早くアルカシトが補足した。
 ああ、あれかとエルマシトは得心する。この建物を建てる時、エルマシトも扶桑の職人の仕事ぶりをつぶさに観察しており、その作業に左官工の漆喰塗りも含まれていた。

「水で練って藁などを混ぜ、塗りつけるのだったな」
「仰るとおりに御座います」

 孝治は深く頭を下げる。エルマシトが石灰の使い方を知っているのは、孝治にとっても好都合だ。有効性と利用法を説明する手間が省けた。
 しかしエルマシトの食いつきは今一つである。それはそうだろう、この品には“目新しさ”がない。その内心の不満を、彼は口に出した。

「しかし石灰は扶桑との交易で手に入る品。それほど珍しいものではない」
「仰るとおり、石灰は扶桑との交易で手に入りましょう。――交易ならば、実に容易く」
「!」

 たったこの一言だけで察したように、エルマシトは髭面の双眸を見開いた。
 やはり頭の良い男であると、孝治は気を引き締める。ここからが本番であった。





「私がこの度エルマシト様に奏じ奉りまするのは、このたった一握りの石灰には御座いません。この百倍の石灰を得る、その『製法』に御座います」
「作れるというのか、この土地で」
「不可能では御座いません。現にこの石灰は、私がこの地で作りしもの。扶桑の民も手足は二本ずつ。この地の民も手足は二本ずつに御座います。出来ない道理がありましょうか」

 あくまで慇懃に、孝治はこう語った。

「石灰とは、ある種の石を焼くことで得られる『灰』に御座います。必要なものはその石と、石を焼くための窯。そして大量の薪、あるいは炭に御座います」
「それを集めれば作れる、ということか」
「はい。作り方自体はそれほど難しくは御座いません」

 こう言って孝治は言葉を切った。
 後は、エルマシト自身に気付かせる。諫言というのは一歩間違えば命の危険のある行為で、相手の性格と能力を把握した上で慎重に行わなくてはいけない。
 孝治はエルマシトとは初対面だったが、彼を良く知るアルカシトとカルウシパの知恵を借りて、綿密に打ち合わせてあった。
 横でアルカシトが呼吸を整える気配を感じる。もしエルマシトが自分で気付かないようならば、彼が直接危惧を述べる役割を果たす。そういう約束だった。不安はない。

「……石、窯、薪。……その石というのは、どういう石だ」
「こちらの石に御座います」

 果たしてエルマシトは、思考を進めつつも孝治に質問してくる。まず石の種類に目を付けるあたり、論理的な思考をしていると判断できた。
 サンプルを取り出した孝治は、恭しくエルマシトに差し出して所見を述べる。

「私はこの石を山より採取いたしましたが、それほど珍しい石でも御座いません。良く良く探せば、“人里近くで”見つけることも可能ではないかと推測しております」
「……なるほど。山から石を運ぶのは、それなりに人手がかかるな」

 孝治が挿入したヒントに、察したようにエルマシトは呟いた。
 孝治は恭しく頭を下げる。ここで迂闊なことを言うのは逆効果だ。静かにエルマシトの次の言葉を待つ。

「次に、窯か。窯はあるが、石を焼くために使ったことはない。そして最後に、燃やすための燃料と」
「はい。その通りに御座います」
「違うな」

 追従を述べた孝治に、エルマシトは鋭い視線を送った。
 孝治は軽く目を細めて受け流す。下っ腹に力を入れて、己の姿勢を維持してのけた。

「最も重要なものがある。それは作業する『人間』だ」

 エルマシトは言い切った。
 元より族長であるならば、配下に仕事を割り振るのは日常業務の内であろう。ならばここまでは当然の思考だ。
 問題は、この先にある。孝治は頭を下げて、静かに続きの口上を述べた。

「はい。ですのでもし石灰を作れとお命じになられたなら、人手を割いていただくこととなりましょう」
「そうだろうな。だが」

 エルマシトはこう問うた。

「この石灰というもの、一体何に使えるのだ」
「石灰には、水で練り、藁や砂を加えて数日置くと、石のように固まります。窯の隙間を埋め、また白壁を塗るのに使えましょう」
「それだけか」
「はい」

 実際にはもっと他にもあった気がするが、孝治はとりあえずそう答えた。
 これを聞いてエルマシトはきっぱりと言い切る。

「ならばこれは作るに値せぬ。大量に作っても使い道が無く、またその為に人手を取られるならば」

 『何に使えるか』を理解した上で、コストパフォーマンスを考えて結論を出す。
 エルマシトは至って合理的な思考の持ち主だと、孝治は結論付けた。故に。

「ご賢察真に恐れ入りまする」

 頭を下げて平伏し、袋に入った石灰を、す、と差し出した。
 そして平伏したまま孝治は、

「“交易のため”民芸品を作り、“交易のため”港を管理する。クゥルシペの貴重な人手を石灰一つの為に裂けぬというその御深慮、この築地孝治真に感服いたしました」

 この痛烈な一言に、エルマシトは目を見開いた。








 平伏し、床を睨みつけたまま、孝治は全身に気迫を張り詰めた。全身の皮膚から磁場を発するようなイメージ。他者の圧力を跳ね返すための“膜”を、先行して自らの意志で張っておく。
 最早エルマシトの返答を待つ必要はない。朗々と語り上げるのみ。

「そう、人手は貴重です。石灰作りなどに裂けぬほど。ならば今、港で働くクゥルシペの男たちは、一体どうして働くことも出来ずに居るのでしょうや」

 すっぽりと体を覆う熊の毛皮が暑苦しくてたまらない。きっと今自分を見たら、熊の毛皮の敷物の下に人間が潜り込んでいるような光景だろうなと、孝治は少し面白く思った。

「今は夏です。彼らは山に入れば鹿を狩り、海に出ては魚を獲ることも出来ましょう。しかし扶桑の者達の監視のため、勇敢なる男たちを港に置いて置くのは、これは少々道理に合いますまい」
「アルカシト!」
「父上、タカハルの言葉をお聞きください」

 叱責の声を上げたエルマシトに、アルカシトは決然として言い返した。
 カルウシパもまた居住まいを正す。僅かに腰を浮かせ、尻の下に片足を敷いて爪先を立てる。即座に立ち上がれる体勢である。

「先も申し上げましたとおり、如何にも石灰は扶桑との交易にても手に入るもの。自ら作るまでも無く、必要ならば海の向こうから輸入してしまえばよい。この地の民の生業は狩猟と木工、そして交易。火を使う技などは扶桑の民に任せてしまえばよいのです」

 臆することなく孝治は言葉を紡ぐ。うなじの辺りにビリビリとした殺気を感じるのは、これは自意識過剰というものか。
 我が首を打ち落としたくば打ち落とし給え。いっそそこまで開き直って、孝治は魂魄を奮い立たせた。
 葉隠に曰く、諫言とは戦場の槍働きに劣らぬ武士の花道であるらしい。よろしい、ならばここが己の天王山かと、孝治は覚悟を定めた。

「そう、交易こそが夏のクゥルシペの最大の仕事! それを為さずして滞らせるならば、エルマシト様、貴方はクゥルシペの男達と、交易に訪れた他部族の者達を裏切っていることになりましょう!」
「吼えたな小童!」

 エルマシトは山刀を抜いて立ち上がった。気配を察して孝治は身を強張らせる。
 だが同時にカルウシパも立ち上がって、こちらは山刀を抜かず、拳を握り締めてエルマシトに対した。

「おいおいエルマシト! 裸の小童一人に刀を抜くとは、貴様も耄碌したもんだ!」
「何を言うか! 月人を名乗る胡散臭い小僧、貴様の客人というから通してやったものを、結局は扶桑の商人どもの差し金ではないか! 取り込まれたかカルウシパ!」
「タカハルがエヘンヌーイの客人なのは事実だし、大体今言ったことに嘘は無いぜ! はっきり言うがなエルマシト! 持ってきた工芸品が売れなくて、俺達も迷惑してるんだよ!」
「何を! 俺にはこの島の交易を守る義務がある!」
「父上! 落ち着いてください!」

 腰を浮かせたアルカシトが声を上げたが、年甲斐も無くヒートアップした中年二人は耳を貸さない。
 これは困ったと思いつつも、アルカシトは自分の山刀に手をかける。客人であるカルウシパがあくまで刀を抜かず対している以上、万が一の時は自分が父を止めなくてはなるまい。
 外見こそ柔和に見えるアルカシトも、結局は狩猟の民である。片膝立てた前傾姿勢でエルマシトの持つ山刀を注視し、息を詰めて警戒の態勢に入る。大荒れに荒れた会議場に制止役が居なくなり、一触即発の状況が完成する。

「お待ちください、ご両人」

 しかしここで、平伏していた孝治が面を上げた。
 一度はカルウシパに向かったエルマシトの怒りの矛先が孝治に向く。平伏しながら呼吸を整えていた孝治はこれをなんとか受け流し、表情を引き締めて言葉を発した。

「エルマシト様。扶桑の民を港から締め出すことは、この地の民にとって嬉しからぬことなのは、先の石灰一つをあげてもお分かりの事と存じます」
「しゃあしゃあとよくも言えたものだな、小僧」
「そして!」

 有無を言わせぬ口調で、孝治はエルマシトの言葉を遮った。

「扶桑の民の侮るべからざることもまた、石灰一つでお分かりのはず!」
「ぬっ……」

 エルマシトは図星を突かれて言葉に詰まった。
 そう、そんなことは最初から分かっているのだ。港に泊まる大型帆船。あれに使われている木材の量、巨大な一枚布の帆を見れば、そんなことは明確に理解できる。
 だがあえて、孝治は石灰を持ち出した。それは文明の格差がどういう意味を持つのか、この地の人間にも分かりやすくイメージさせるためだった。

「彼らはあらゆる物を作ります。それを作れる人手があります。それが出来るだけの、大量の、保存の利く、食料が存在します」
「米、か」
「そうです。彼らには米がある。だから石灰を焼き、鉄を作り、あのような巨大な船まで作ります。そして、」

 孝治は一旦言葉を切った。
 呼吸を整える。エルマシトはカルウシパと怒鳴り合った直後で、感情の波が沈静化したタイミング。
 やるなら今だと、孝治は決断した。

「そんな彼らをもってしても、侮れぬ大敵が――海の向こうからやってきたのです」








「此度の『鉄製品の値上がり』が、戦支度によるものであること。これはエルマシト様もご存知のはず」

 随分と回り道をしてしまったが、ようやくここからが本題だった。
 訪れる扶桑商人の減少、さらに鉄製品の高騰は、港の交易で栄えたクゥルシペにとって致命的だ。その対策にエルマシトは頭を悩ませていたし、生返事ばかりで事態を好転させるつもりのない扶桑商人に苛立っていたのである。
 思い出して渋い顔をするエルマシトに、孝治は落ち着いた声音で語りかける。

「故に扶桑の男達はこぞって剣や槍を買い集め、この地へと輸出する鉄製品が少なくなっています。物が無いから売れない。そういった単純な事情が背景にあるのです」
「勝手な話だ。150年ほど前にも奴らは戦に明け暮れていて、挙句我々の土地に踏み込んできた。今回もまた同じことが起こるというのか」
「いいえ、今回は事情が違います」

 孝治は首を横に振る。なるほど、それを警戒しているから強硬な態度なのか、と内心で納得しつつ。

「今回の戦は、扶桑内部の争いではないのです。敵はあくまで、扶桑の外から襲っています」
「扶桑の外……つまり、奴らとは全く関係のない者達だと?」
「はい。遥か東の海を渡った、アトラスという大きな国に御座います」

 実の所孝治は、アトラス帝国とやらについて詳しくは知らない。しかしここは敢えて、まるで知っているかのように振舞うことに決めていた。
 アルカシトから『エルマシトの扶桑への疑念を解消し、取引停止措置を解除して欲しい』と依頼された時、孝治が立てた目標は二つある。

 一つは『エルマシトの扶桑への疑念を解消する』こと。
 一つは『今回の事態に対する危機感を植えつける』こと。

 どうしてわざわざ条件を加えたのかなど言うまでもない。孝治自信が強い危機感を覚えていたからだ。
 『アレ』の介入を疑うまでも無く、地球の歴史にも似たような話は幾つもある。拡大戦略を取る帝国が海を渡り、それまで交流の無かった土地に目を付ける。そうして行われることは、大概において一方的な搾取だ。
 仮にも二十一世紀を生きた孝治には、どうしてもこの土地の人々――『夷』と呼ばれる人々が、それに抗えるだけの力があるとは、信用することが出来なかった。

「南の海にはここと同じように、扶桑と交易を行っている島々が在るのですが、そのアトラスと言う国は彼らを襲い、そこに住む人々を攫っています」
「なんだと?」
「しかもアトラスという国にはとてもとても巨大な船があり、その巨大な船を沖に停泊させると、たくさんの小船に大勢の兵士を乗せて上陸してくるのです」

 この話に、エルマシトは興味を引かれた。まるで見てきたような物言いは、いかにも孝治のハッタリであったが……しかし孝治の言葉には、奇妙な真実味が篭っていた。
 何故ならば孝治は知っているからだ。体験ではなく歴史として、現実に満たずとも物語として、そういう世界を明確にイメージできる。

「アトラスの船はとても大きく、クゥルシペの港に泊まる扶桑の商船とは比べ物になりません。またその側面には真っ黒い鉄の、そう、大きな筒のようなものが一つ、二つ、三つ……五つは伸びているのです」

 孝治はここで目を閉じて、まるでアトラスの戦艦を思い出すかのような素振りを見せながら、わざとらしく指折り数えて見せる。

「黒い筒……何故そのようなものが伸びているか、エルマシト様はご存知でしょうか」
「いや、知らんな。そんなものは見たことが無い」

 問いかけに、エルマシトは首を横に振る。
 彼が孝治の語りに引きこまれているのは、まさしく『詠い』の旋律によるものだ。祭事の度に口述詩の吟詠を聞いているこの地の民には、この『翻訳』技能は絶大な威力を発揮した。

「それは大砲、大筒と呼ばれるものです。巨大な鉄の塊を、雷鳴と共に打ち出して、岩をも砕く恐ろしい武器なのです」
「大砲? 大筒だと? そのようなものがあるのか?」
「はい。遠く東の国で作られるその武器は、一度轟音を発したならば岩をも砕き、木でできた家や、あるいは扶桑の大船でさえ、一たまりもありません」

 まさしく神話の情景を謳うような孝治の語りに、エルマシトは息を呑んだ。

「あの大きな扶桑の商船でも、か」
「あれほどの大きさであっても、」

 孝治は一拍置く。エルマシトの目を見て理解の色を伺いながら話す技術はまさしく、ルゥシアへの物語で得た技術である。

「一たまりもありません――何故ならアトラスの戦舟は、鉄で覆われているからです」
「なに、鉄で!」

 装甲艦がこの世界にあるかなど、この時の孝治には全く関係が無かった。力強く肯定する。

「そうです! 東の国には大量の鉄を作り出す技術があり、そしてその大量の鉄で武装した船、あるいは石造りの家々を破壊するために、彼の国の大砲は、それほどの威力を持っているのです!」
「なんと……!」

 目を見開いて驚くエルマシトに、孝治は声を落ち着かせて語りかけた。

「そのような強力な船を持った国と、扶桑は戦うつもりなのです。なので今回の一件は、決して彼らの怠慢でも、値を吊り上げるための詐術でもありません」
「むむ……」

 唸るエルマシトに、孝治は一息入れた。
 横ではエルマシトと同じく、孝治の語りに引きこまれていたカルウシパとアルカシトが驚嘆したような顔をしている。孝治の知恵と知識の尋常ならざることは知っていても、この胆力は想定外だったのだろうか。
 しかし孝治は気を引き締めなおす。力技で扶桑の状況を納得させたはいいが、はっきり言って論理的な説明ではない。交易を再開する利は先立って説いたが、それだけで納得できるほど人の良い男ではなかろう。
 実際にエルマシトはしばし唸り声を上げてはいたが、少しして顔を上げると、孝治にこれを聞いた。

「……扶桑の状況は分かった。だが――それを知る貴様は何者だ?」
「月人、では御納得いきませんか」
「納得できるはずがない」
「おいおいエルマシト、お前も少しは人を信じる気持ちを取り戻したら――」
「カルウシパ殿は少し黙っていてください」

 アルカシトがカルウシパを黙らせて、孝治はエルマシトと真っ向睨み合った。
 まあ仕方あるまい、と事前に用意してあったカバーストーリーを述べる。

「我築地孝治は幼少より扶桑を出で、七海を渡り世界を放浪せし者。今まで述べた全ては、その放浪の中で見聞したものに御座います」
「ほう。その上で、扶桑の手の者ではないと?」
「如何にも。お疑いの程は分かりますが……」
「いいや」

 意外なことに、エルマシトはここであっさりと首を横に振った。

「あれほどの詠いを見せられては、貴様が扶桑の出身であろうと瑣末なことだ。それに貴様の目には嘘がなかった」
「疑いまくってたじゃねえか」
「カルウシパ殿。髭、剃りますよ」
「やめろ!?」

 外野が何か騒いでいたが、構っている暇はない。
 エルマシトは腰を下ろすと、落ち着いた声で言った。

「貴様は信用に値する。だが、貴様以外の扶桑の者は我らを蔑み、商人は勘定を誤魔化す輩だ。その上で聞いてみたい。この戦を口実にして、我々の商品を安く買い叩こうという魂胆で無いとは、どうして言い切れる?」
「それは……」

 孝治は内心焦った。正直な所、その意見を否定する理由はないのだ。値崩れした所を狙って買うのは投資の基本であって、そのこと自体を悪とする発想が孝治にはない。
 考えを纏めるため思わず逸らしそうになった目を、腹に力を込めてエルマシトの目に向けなおす。そうして数瞬考えて、孝治は返した。

「彼ら扶桑の商人に、海運奉行からの達しが出ているそうです」

 思い出したフレーズを口走る。午前中に聞き込みに行った扶桑商人が何気なく言っていた言葉だ。

「海運奉行?」
「はい」

 言ってしまってから、孝治はストーリーを構築する。エルマシトが不審に思わない程度の間、その数秒の間に。
 日本に居た頃には到底出来なかっただろうが――今の孝治は、例の能力によって思考が拡張されている。決して不可能な業ではなかった。

「彼ら扶桑の商人は、たしかに怪しげで強欲な連中ですが、しかし彼らにも怖いものはあります。それが『お上』です」
「む……たしかに、奴らは時折そういったことを口にするな」
「はい。まさしくその通りで、彼ら商人は『お上』に逆らえません。そして『お上』が商人にそこまで言うということ自体が、まさしく扶桑が本気だという証拠になります」
「ほう、どういうことだ?」

 身を乗り出して聞いてくるエルマシトに、孝治は当然と言わんばかりの態度で答えた。

「何故なら扶桑は交易立国、つまり交易によるモノの売り買いを重視する国だからです」

 もちろん完全にこれは、孝治の想像であった。とはいえ根拠の無い話ではないのだが。

「彼の国は元より商人に強い権限を与えています。彼ら扶桑の商人、船商人たちは危険な海を渡り、南の海で、この地で、様々な商品を集めてきます。彼らからの税金で潤っている扶桑という国は、余程の事が無い限り商人の商売の邪魔をしません」
「む……? どういうことだ?」
「ご説明いたします。このクゥルシペでは、扶桑の商人たちから港の使用料を受け取っていますね?」
「ああ。それが我ら部族累代の権利だ」
「それと同じやり方が、扶桑にもあるのです」

 ほう、とエルマシトは声を上げた。孝治は続ける。

「扶桑の商人は船でこの地を訪れますが、その船は扶桑に居る間、まさか陸に上げているわけではありません」
「それはそうだろうな」
「つまりこのクゥルシペと同じように、扶桑の港に泊めています。そして扶桑では、『お上』が港の管理権を持ち、その使用料を取っているのです」
「なるほど……」

 感心するエルマシトに、さらに駄目押しで孝治は続ける。

「そして扶桑では、商人は交易に行けば行くほど『お上』が儲かるようになっています。そう、たとえば……港の出入りの回数が多ければ多いほど、商人が支払う使用料が増えます」

 実際にそんな税制があるかは全く知ったことではないが、分かりやすく孝治はこう説明した。

「商品を安く買い叩き、鉄製品の値を吊り上げる。これだけならばたしかに商人たちの小細工かもしれません。しかしこの地を訪れる商人が減っているという事実は、扶桑という国が、実際にまずい状況に陥っていることを裏付けているのです」

 こう言葉を結び、孝治はエルマシトの顔を見る。これ以上この話題を続けるとなると、流石にボロが出そうだった。なにしろ口から出任せの連発である。いい加減逃げ出したくなってきた。
 その思いが通じたのかどうかは知らないが、

「そうか、つまり扶桑の人間に、我々への悪意は無いということだな?」
「左様に御座います。むしろ今回の扶桑の態度は、この地の人々にとっても決して忌むべき内容ではないはずです」
「ふむ? それはどうしてだ?」
「何故ならアトラスの船が荒らしまわっているのは、あくまで南海諸島――扶桑の人間から見れば、単なる交易の相手です。しかし彼らは戦うつもりだということです」
「商売相手が居なくなると困るから、か」
「はい、その通りです」

 正確に言えば『単なる交易の相手』では無く『植民地』なのだが、孝治はそれについては口を噤んだ。余計な不安を抱かせる理由はない。
 それに彼らが海洋交易を重視していることは、回船商人たちとの会話で強烈に感じていて、まんざら嘘というわけでもないのである。

「彼らは商売相手を簡単には見捨てない。それはたとえ商売が困難になっても、この地を訪れる扶桑の商人がいることで証明できます」
「……なるほど、たしかに彼らとて、売れる商品が少なくなれば利益は出せないか」
「ご賢察です」

 孝治は頭を下げた。これでエルマシトの扶桑への疑念は、大体解けたと考えていいだろう。後はアルカシトの仕事だ。外様である孝治に交易の再開云々を進言する権限はない。

「以上を持ちまして、扶桑の状況への奏上は完了とさせていただきます。また何か御座いましたらご用命ください」
「うむ。ご苦労だった」

 最後にもう一度平伏して、孝治は肩の力を抜いた。
 疲れた。本当に疲れた。異世界に来て権力者に諫言……ある意味異世界物の本懐かもしれないが、現実にやるとこうも緊張するものだったとは。
 毛皮の下でぐったりとした孝治。再度敷物と化した孝治を見下ろして、エルマシトは思い出したようにこう言った。

「ところで、タカハルとやら」
「はい、何に御座いましょうか」
「……その装束は、結局何の意味があったのだ」

 …………。

 孝治は身を起こした。
 エルマシトの意表を突いて『祝詞』の効果を高める為の奇体――そう、正直に答えても良かったのだが。

「カルウシパ殿の企みです」
「よし、カルウシパ。表に出ろ」
「おいおいエルマシト、今のお前は族長だぞ? 人前で乱闘なんぞ――」
「ならばここでやってやるわ!!」

 鞘ごと引き抜いた山刀をアルカシトに投げ渡して、エルマシトは立ち上がった。慌ててカルウシパも孝治に刀を投げ渡して立ち上がり迎え撃つ。
 開始されたおっさん二人の取っ組み合いに、献上品を持って孝治とアルカシトは隅の方へ退避する。孝治は毛皮を脱ぎ捨てて壁際に放り投げると、褌一丁でアルカシトに話し掛けた。

「これでいいな?」
「もちろんだよ。良い仕事をしてもらった」
「交易は再開されると思うか?」
「後は僕の仕事だね。まあ、父上の“ガス抜き”までお膳立てしてもらった以上、何とかしないわけにはいかない」

 ニコリと笑ってアルカシトは言った。柔和だが頼もしい笑みだと、共同戦線を潜り抜けた今、孝治は頷き返してみせる。

「頼んだぞ。それと、例の件だが」
「ああ、それは問題ないよ。父上もタカハルを気に入ったようだし」
「だといいんだがなあ。……とりあえず」

 孝治は深々と溜息を吐いた。

「服が着たい……」




















 そしてそれからしばらく経って。

「ただいまー、って、何やってるの!?」

 日も傾いた頃にエヘンヌーイの宿舎に帰ってきたルゥシアは、そこで繰り広げられていた光景に目を見開いた。

「おー、ルゥシアか。良く帰った良く帰った!」
「お邪魔してるよー、ルゥシアちゃん」
「そこで俺は言ってやったのさ、『掛けまくも……』ってなあ!」
「くそ、やめろテメエ! なんでオレの方に来るんだよ!」
「え!? なんで夕方にもならない内から酔っ払ってるの!?」

 ルゥシアの目に飛び込んできたのは、もう完全に出来上がった男達――カルウシパ、アルカシト、孝治にラカンシェ……はまだ飲んではいないようだったが、とにかく酷い騒ぎであった。
 慌てて駆け寄るルゥシアに、タカハルは軽く酒盃を掲げて見せた。

「いいだろルゥシア、米の酒だぞ! 米の酒だ!」
「あっはははは! タカハルに喜んでいただけたようでなにより! しかし強いねタカハル、流石に扶桑の人だけある」
「いいや違うぜアルカシト。こいつは月の人間だ!」
「おや、本当に月人だったのかい? 凄いなあ! 月なんてどうやっていくんだい?」
「あははははははははー!! そいつはな、アルカシト。さっきも話した大砲って奴だ」
「大砲?」
「そうさ大砲だ。でっかいでっかい馬鹿でっかい大砲をだな! こう月に向かって……ドカーンッ!!!」
「おお! ドカーンッ! で月に行けるとは!!」
「そうだ、ドカーンッ!!」
「「ドカーンッ!!!」」

 アルカシトのみならずカルウシパまで参加した『ドカーンッ』は、周りの迷惑を考えない大きさだった。
 ここはエヘンヌーイの宿場だが、周りには他の集落の宿舎もある。あまり酷い醜態を晒さないで欲しかった。
 慌ててルゥシアは止めに入る。

「ちょ、やめてよお父さん! タカハルも! あとなんでアルカシトまで一緒になって飲んでるの!?」
「いやいやそれはね、タカハルが見事にやってくれたからだよ!」

 意味が分からず、ルゥシアは頭を振った。
 アルカシトとはそれなりに交流もあるし、飲むとやたらに陽気になるのも知っていた。しかしなんでわざわざ、余所の集落の宿舎に来て、昼の内から飲んでいるのか。
 ほうほうの体で孝治から逃げ出したラカンシェが、ルゥシアにこう言った。

「なんでもタカハルがエルマシトに直談判して、扶桑との取引を再開させたらしいぜ! ……あと、オレは外に出てるからな!」
「あ! ラカンシェ!?」

 ルゥシアの横をすり抜けて飛び出したラカンシェの背中に、孝治がおいおいと声を掛ける。

「せっかく俺が戦利品として手に入れた酒だぞラカンシェ! 俺の酒が飲めないってのか!?」
「気分が悪くなるんだよ! 扶桑の透明酒なんか飲めるか!」

 律儀に入り口で振り返って言い捨てる。そのままさっさと姿を消したラカンシェに、孝治はぼやくように言った。

「せっかく俺が『初めて仕留めた獲物』だってのに、気が利かないな。まあ、酒造文化が無いこの土地の人間がアルコールに弱いのは、当然といえば当然だが……」
「嘆くな孝治! 俺は信じてたぜ、お前は出来る奴だってな!」

 ばしばしと孝治を叩いて、カルウシパは言う。

「俺たちは弓矢で鹿を狩るが、タカハルは言葉で酒を狩った! ルゥシアも来い! こいつは孝治の獲物だぞ!」
「えーと……」

 酒席に呼ばれてルゥシアは戸惑ったが、いつまでも立っているのも手持ち無沙汰で、とりあえず孝治の隣に座った。
 鮭の干物を齧りながら杯をガンガン空ける孝治に聞いてみる。

「何があったの?」
「さっきラカンシェが言ったとおりだ。エルマシトに会って、話して、それで酒をもらってきた」
「……ふーん」

 今一ピンと来ていない様子のルゥシアである。
 まあ、詳しい話は後日で良いだろうと、孝治は説明を放棄した。今は酔っているので、筋道立てて説明できない。元々あまり飲むほうではなかった孝治だが、半年以上ぶりになる日本酒の味にいささか酒量が増えている。
 酒造文化も稲作文化も無いこの土地では貴重な米の酒であるが、クゥルシペでは船の入港時に物納される慣例となっているらしく、蔵にはそれなりの量が残っていた。遠慮は要らない。

「……本当は刀が欲しかったんだがなあ」
「これから当分、鉄製品の輸入が滞ると進言したのはタカハルだろう?」
「いやまあそうなんだが、あれから考え直してみたんだよ。扶桑との交渉次第でなんとかならないかって」
「へえ?」

 アルカシトは目を光らせた。酔ってはいてもクゥルシペの渉外担当である。仕事の話は捨て置けない。
 対してカルウシパは呆れたように肩を竦めた。

「おいおいタカハル、随分と熱心じゃないか。せっかくの酒席だぞ?」
「……うーん、それもそうか。アルカシト、この話は明日だ」
「むむ。気になるところで切るね」
「俺も一晩考えを纏めさせてくれ。それに、まだまだ情報も足りないしなあ」

 そう言いながら杯に酒を注ぐ孝治。その手元を隣のルゥシアがじーっと見ている。
 好奇心旺盛な眼差しに、おや、と孝治は横を見た。

「飲みたいのか?」
「うーん……美味しいの?」
「味が良い物じゃないけどなあ」

 そう言って孝治はカルウシパを見た。自らも杯を空けていたカルウシパは、その視線になんでもないように返した。

「一杯くらいなら大丈夫だろ。せっかくのタカハルの戦利品だ、ルゥシアにも飲ませてみよう」
「じゃあ、飲んでみる!」
「……大丈夫かなあ」

 とはいえ、この土地の杯は掌にすっぽり入る大きさで、流石に子供でも急性アルコール中毒になることはあるまい。
 孝治は酒を注いだ杯をそのままルゥシアに渡す。おっかなびっくり受け取ったルゥシアは、軽く匂いを嗅いで顔を顰めた。

「……やっぱり変な匂いだよね」
「とりあえず舌先で舐めるようにしとけ」
「うん」

 舌先で酒の水面を突っついて、ルゥシアは感触を確かめていた。
 手持ち無沙汰になった孝治は、今後の打ち合わせでもとアルカシトに声を掛ける。

「エルマシトに改めて挨拶に行くのは、何時がいい?」
「明日か明後日には時間を取るよ。それと『海草』だっけ? その話も直接した方がきっと早い」
「天日干しに何日かかるか分からん。その間の仕事も用意してもらえるとありがたいんだが」
「タカハルは扶桑語が使えるから、仕事はいくらでもあるよ。なんならずっと居てくれてもいいくらいだ」
「え?」

 舌がひりひりするのか、酒の水面を睨んでいたルゥシアがこの会話に顔を上げた。

「タカハル、クゥルシペに残るの?」
「しばらくそのつもりだ。ちょっとやってみたいことがある」
「……ふーん」

 そう言ってルゥシアは杯をあおった。

「けほっ! の、けほっ、喉が熱いぃっ!」
「おいおいルゥシア、何やってるんだ。そんなにタカハルをアルカシトに取られるのが嫌なのか」
「そ、そんなこと無いよ!」

 ニヤニヤとカルウシパがルゥシアをからかう。膝を叩いてルゥシアは反論したが、アルコールの臭気にやられたのか微妙にふらふらしていた。
 我関せずと孝治は、取り戻した杯で飲みを続行する。余計な勘繰りをされるのは御免だった。




















 日が沈む頃には、方々から戻ってきたエヘンヌーイの住人達も珍しい米の酒で酔っ払い、宿舎の中はやんやの騒ぎとなっていた。
 主役のはずの孝治も、もはや武勇伝も語り疲れて、宴会の輪からは外れていた。なにしろ先行してハイペースで飲んでいたため、他の人間ほど体力が残っていないのである。
 とはいえカルウシパは元気に大声で冗談を飛ばしているので、これは単純に孝治の体力が劣っているのだろう。流石に狩猟民はタフだった。
 すでにアルカシトも帰ってしまい、ルゥシアも眠ってしまったため、落ち着いて話せる相手もいない。途中でこっそり戻ってきたラカンシェもすでに潰れている。あまりの弱さに孝治も驚愕していた。

「親爺殿、ちょっと風に当たってくる」
「ん? おう、遠くまで行くんじゃないぞ」
「分かってるよ」

 一応一言言ってから、孝治は宿舎を抜けた。もうすぐ七月とはいえ、酔っているからかはたまた単にこの土地が寒いのか、風はまだ涼しさを覚える温度だった。
 すでに太陽は山の稜線の陰に隠れて、恐らく地平線からも隠れてしまったのだろう。紺色に染まりつつある空を見上げれば、いくつもの星が瞬いていた。
 そういえば昔の人は、星を見上げて視力検査をしたそうだ……などという話を思い出し、孝治はしみじみ呟く。

「……眼鏡、掛けて無くてよかったなあ」

 幸いにして孝治の視力は0.8程度で、眼鏡もコンタクトも使っていなかった。狩猟民であるこの土地の人々に比べれば悪いかもしれないが、生活に不便を感じたことはない。
 それにこちらの世界に来てからは本もパソコンも触っていないため、多少視力が上がっている気もする。『眼筋に力を入れる』という所作を、孝治は習得しつつあった。

 全体的に五感が鋭くなっている気もするし、人間慣れれば慣れるもんだなあ……。

 現代日本では考え事をしながら歩いていても、よほど運が悪くない限りはなんともならない。しかし常に周囲を警戒する必要のあるこの世界に来て半年、日本では使っていなかった領域の能力が目覚めつつあった。
 それは例えば、雨雲を見て降りの強さを予測する能力だったり、体重を掛けても切れたり折れたりしない木や草を見分ける能力だったり、不安定な足場を探りながら歩く技術だったりする。
 日本では、意味のない能力だっただろう。ブラインドタッチや自動車の運転でも出来た方が遥かに役に立つ――しかし今や、その関係は逆なのである。

 社会が変われば、必要とされる能力も変わる。当たり前の話だな……。

 幸運なことに孝治は、最初からそのことを知っていた。必要な時に必要な行動をとれ。その教えは血肉となって孝治に息づいていたし、日本でならばそれなりに実践したこともある。
 『必要な技術を習得し、周囲の求めに応じて働く』。それが人間社会の大原則だ。それこそ仮に属する集団が反社会的なものであったとしても、そこでしか生きられないならそうすべきなのだろう。そう理解できる程度には、孝治はドライだった。

 ……だがまあ、希望は見えてきたかな。

 孝治は軽く歩を進めた。夜風が顔を撫でて目を細める。
 夜の海は酷く黒く、胸の内をざわつかせる。だがそれでも、それでも――――“アレ”よりは、マシだろう……。
 大丈夫だ、と強く念じる。

 “チート能力”も活躍の機会を得た。エルマシトとの繋がりも出来た。それに俺の能力は、異世界で生き抜くのに不足という事はない。

 それは孝治にとって清酒以上の、今日の最大の収穫だった。
 今まで現代知識に頼ろうとしていたのは、ひとえに自分の居場所を作るため、存在感を発揮するためだ。“主人公”は“主人公”らしく振舞う、それがこの半年の処世術だった。
 しかし今日の交渉で、現代の知識に頼らずとも、十分にこの世界で生きていける手ごたえを感じたのである。ならばもう、“テンプレート”に従う理由はなくなる――――



 ――――では、どうする?



「……もう、必要ないな」

 自分に言い聞かせるように、孝治は言葉を口に出した。
 『必要無い』――そう、必要ないのだ。“主人公”という自分の立場も、与えられた“チート”も、これ以上は意識すればするほどボロが出るだろう。

 ……“知るべきでないこと”は、忘れよう。

 人が生きていくために必要なことは、そう多くはない。『必要な時に必要な行動を』。ただそれだけでいいのだから。
 孝治は夜風に耳を澄ませた。人の気配はそこかしこから感じるが、しかし静かな良い夜だと感じる。なにしろこの島に来る前は東京に住んでいたわけで、それを思えばこの夜の暗さと静けさは、まさしく“隔世の感”があった。

 東京……いや、思い出すな。

 頭を振って、孝治は日本の記憶も振り払った。
 そもそも自分は死んだ身である。今この瞬間に役に立つ、『知識』だけ持っていればいい。『記憶』ももう、必要ない。
 拳を握り締めて、孝治は決然と前を向いた。頼るものの無かったこの世界で、ようやく、出来る事が見つけられそうなのである。悩んではいられなかった。

「なに、大丈夫だろうさ」

 自戒するように孝治は言う。そうだ、ようやく正しい意味で、異邦人としての能力を生かす機会を得たのだ。
 だからもう、引け目を感じることはない。己の出自と能力を、誰かのために役立てよう。

「今日の一件だってやりおおせた。だからきっと、俺はこの世界でも、誰かの為に生きていける」

 エルマシト相手の直談判。カルウシパ達からも褒められたあの諫言は……最初で最後の“主人公的活躍”だったかもしれない。あの時孝治を突き動かしたものの何割かは、間違いなく“主人公”としての自意識だった。そこを偽るつもりは全く無い。
 しかしこれからは、今日を生きることが精一杯のこの地で、ただ一人の人間として誠実に生きていこう。そう孝治は心構えを切り替える。
 余計な欲など要らないと、もう一度胸の中で唱える。『築地孝治はトラックに撥ねられて死んだ』のだ。ならば今もこうして、人の輪の中に居られることが、幸いでないはずが無い。

「ああ、そうさ。決して今は、“最悪”じゃあ、無い」

 そう、築地孝治は言い切った。
 この世界で生きていくという、決意を込めた一言だった。

















 ――――そうだな、『今は』最悪じゃあないな。
















 そう嘲笑ったのは、さて――――誰だろうか。
















後書き
 長期更新停止に焦って勢いで投下したら、速攻改訂する羽目になった件。



[33159] 辺境における異世界人の身の処し方 その2
Name: ハイント◆069a6d0f ID:a5c8329c
Date: 2019/01/30 02:00
 最終話を書き上げたら投稿しようと誓って6年近く経ってしまった。
 5年以上かけてもとうとう書けず仕舞いですが、とりあえず当時書いていた分だけでも投稿します。













 異世界で生きていく――そんな物語は、巷に溢れている。
 そもそも未知の世界を旅したいというのは、人間にとって普遍的な欲求だ。それこそ神話の時代から、『ここではない場所』へ迷い込む物語は幾らでも存在した。
 ならば、その機会を得た築地孝治は幸運だったのだろうか――もしこの頃の孝治にそれを訊いたら、こう答えただろう。

「……さあ?」

 この時すでに、孝治は『自分が異世界に居る』という事実に、違和感を感じなくなっていた。
 もちろん、不安はある。“発端”たる彼の神性の存在を忘れてはいなかったし、根本的に自分が異世界出身者である事実は消せない。
 だがそれでも、それらの不安をうっちゃっておける程度には、孝治はこの世界に馴染んでしまっていたのである。

「仕事をして飯を食う。……異世界だの神様だのと言ったって、結局それだけなんだよなあ」

 あの異常な『プロローグ』から五ヶ月を過ごした今、それが孝治の実感だった。
 人の営みは、どの世界でも共通だ。だから孝治も、その理に従ってさえいれば良い。

 『誰かの為に出来ることをする』

 日本に居た頃の常識は、この世界では通用しないが……それでも、日本人として培ってきた、良識までは捨てるまい。
 孝治は、そう考えるようになっていた。
















 こうしてこの土地で、一人の人間として誠実に生きていく覚悟を決めた孝治であるが、別に自分の知識を活かす事自体を否定したわけではない。
 そもそも築地孝治の能力は、この世界の人間の水準を特別上回ってはいない。むしろ炭焼き一つに手間取る有様は、この世界の平均より役立たずでは無いかと、最近では思うようになっていた。

 だったら別に、セーブする必要は無いんじゃないか?

 ――――随分と、都合のいい話だな?

 孝治の脳内会議はそんな思考を非難していたが、しかしもういい加減、この手のネガティブな思考に付き合うのもうんざりだった。
 まさかこれから死ぬまで“居候”として、肩身の狭い思いをしているわけにもいかないのだ。自分自身の知識と能力くらい、全力で揮わせてもらいたい。
 ……というわけで開き直った孝治は、目下やらなくてはならない仕事が二つある。

 一つ目は、新製品の生産。一応の大目標は製鉄技術の確立であったが、それ以外にも思い出せるアイテムは作っていきたい。
 二つ目は、扶桑商人との交渉。これはエルマシトからの依頼であって、クゥルシペに留まるための条件でもある。手は抜けなかった。

 ついでにこれらと平行して、この世界の情報収集も進めなくてはいけない。アトラス帝国という脅威が存在する今、海外情勢の分析は孝治の重要な仕事である。

 さて、このように状況を整理した孝治が今、何をしているかというと――――







「うおぉぉーー!! 冷てえ!」

 六月も終わりに近づいた、天気の良い日の事である。
 エヘンヌーイの皆を見送ってクゥルシペに留まっていた孝治は今、浅瀬で海草を収集していた。
 午前中は仕事が無いということで、遠慮なく“趣味”の商品開発に勤しむことにした孝治である。クゥルシペにおけるメインの仕事はあくまで『通訳・交渉』であって、この手の作業は休暇を利用してやるしかない。
 とはいえ、物資の集まるクゥルシペである。好奇心旺盛なアルカシトが結構乗り気なこともあって、エヘンヌーイに留まっている頃よりも、作業の進展は遥かに良いのだが……。

「くそ、足が痛い! なんだってこんなに海水が冷たいんだ! 寒流か!」

 多分そうだろう。どうもこの土地、冬になると北の方の海岸には流氷も来るらしい。
 海水の冷たさに辟易しつつも、ブチブチと海草を毟り取っていく。服が濡れるとかえって寒くなるため褌一丁の格好で、クゥルシペの人々から裸族認定されてないかと心配になってくる。

 ……しかしまあ、たとえ変態扱いでも、仕事してる内は大丈夫か。俺の能力は替えがきかないし。

 周囲からの評価を気にしつつも、一方で冷静にこんなことも思う。以前カルウシパに指摘された『計算高さ』に、今や磨きもかかってきていた。
 春の日差しのせいだろうか。あるいは新天地クゥルシペでの生活に、スムーズに順応できて気が大きくなっているのか……妙にテンションの高い孝治であった。
 まあ、なにしろ開幕が真冬の雪原に叩き落されるという過酷なものだったのである。その頃から考えれば状況は大きく好転していて、はしゃぎたくなっても仕方あるまい。

「おーい、タカハル」

 そんな感じで一人で大騒ぎしながら作業をしていた孝治は、岸の方から声を掛けられて振り返った。

「おう? ああ、アルカシトか。どうした?」
「昼食時だから呼びに来たんだ。……随分取ったね」

 岩場の上に投げ出された海藻類は、種類もなにも雑多な有様であったが、その量だけはとにかく多い。
 こんもりと盛り上がった海草の山に、ああもうこんなに取ったのかと、孝治は頷いて陸に上がった。

「後は天日で干しておくか。砂が付きそうだが、地面に広げよう」
「下に小石か何かを敷けば良いんじゃないかな?」
「ああ、そういうのもあるか……しかしまあ、こいつらは食用にはしないからどうでもいいかなあ」

 もちろん日本人である孝治にとって、海草は完全に食材という意識である。しかし今回は、食材ではなく別の用途で使う予定だった。幸いにしてこの土地の人間は海草を食べないらしいので、遠慮なく使うことが出来る。
 やや深いところには昆布らしき海草もあったが、これは生身で取ることは不可能だった。孝治としては喉から手が出るほど欲しかったのだが、流石にこの海水温で素潜りは辛い。もし昆布が取りたいなら、小船と竿か何かを使う必要があるだろう。

「とりあえず今取った分は適当に広げて乾かしておくか。海草が乾燥するまで何日かかるか分からんが、雨さえ降らなければなんとかなるだろう」
「今日は天気も良いし、夕方までには結構乾くんじゃないかな。まあ、しばらく雨の心配はないと思うよ。……それにしても、何に使うんだい?」
「じきに分かる」
「タカハルはいつもそれだね」

 やれやれ、とアルカシトは呆れたように肩をすくめたが、孝治としてはあまり詳しく説明したくない。
 自分の知識にそこまでの自信はなかったし、説明して失敗するのは格好が悪い。作業に見通しがつくまでは、他人の干渉を避けたかった。
 とはいえ、必要な物の調達のためには、彼らに協力を仰ぐ必要もあるわけで。

「……そういえばアルカシト、油って手に入るか? 動物の脂肪で良いんだが」
「油? 灯りにでも使うのかい?」
「いや、そういうわけじゃないんだが……まあ、イメージ的には灯油が欲しい」
「灯油……そうなるとアザラシの脂かなあ」

 ……やっぱり居るのか、アザラシ

 今更動植物の生態系で驚く段階は過ぎていたが、しかしアザラシの存在が確定したのはありがたかった。あれは色々と役に立つ動物だ。
 それこそ『神秘の島』でも、かなり重要な役割を果たしている。手に入るなら是が非でも欲しい。

「でも今はこっちに入ってきてないなあ。秋になれば入ってくるだろうけど」
「夏は居ないのか?」
「一応居るけど、アザラシが居るのは北の方の港なんだよ。扶桑の商人はそっちまで直接買い付けに行くから、わざわざ陸路でクゥルシペに持って来たりしない。それに皮ならともかく、脂はあまり使わないしね」
「まあ、夜はさっさと寝るか、冬場なら暖房の炎があるからな……」

 昼夜逆転など、望んでも出来ないのがこの島である。
 しかし困った。まとまった量の脂が手に入らないなら、代替案を出さなくてはいけない。

「海草を薪に混ぜて魚や肉を焼いて、脂を垂らすか……でも大した量が取れないだろうなあ……」
「タカハルが何をしようとしているのかは知らないが、とりあえず昼食にしないかい?」

 考え事に没頭し始めると寝食を忘れる孝治に、アルカシトは呆れたようにそう言った。





 さて昼食後、孝治は扶桑商人との交渉のために港に出ていた。
 クゥルシペで働くようになって、交渉事に対する意外な適正を見せ始めた孝治であるが、今だ鉄製品の輸入再開に目処は立っていない。今日も交渉の主眼はそこにあった。

「扶桑政府は別に、刃物類の輸出に規制を掛けてるわけじゃあないんだろう? 刀はともかく、小刀や工具類まで入ってこないってのはどういうわけだ」
「専門性の高い工具類は、夷は好まんじゃあないか。それに大工道具は小刀より高い。夷細工の価値の暴落で、そちらの支払い能力も落ちてるからなあ」

 ここは扶桑の商船の中である。いかにも大航海時代然としたレトロな――孝治にとっては――船内での会談は、アルカシト達にとっては居心地が悪いものらしいが、孝治としては結構楽しいものだった。
 扶桑商人たちも孝治の事を扶桑人だと認識しているため、いたって気安く話しかけてくれる。相手のホームということもあるのだろう。外で話すよりは口が軽い。

「小刀はどうなる。あれはこの島じゃ生活必需品で、無いと困るんだ。まさか戦に使うわけじゃあないだろう」
「こいつも採算の都合だよ。……ここだけの話、仕入れてないわけじゃあないんだ」
「何?」

 初耳な内容に、孝治は目を光らせた。ここ数日、扶桑商人たちとの顔つなぎに奔走していた成果が出たのだろうか。今日の収穫は大きくなりそうだった。
 とはいえ商売は誠実と信頼関係が重要だ。神妙な態度で孝治は言った。

「あんたらは商人だろう。仕入れて売らないってのは、どういう理由か聞いても構わないか」
「商人だから、さ。去年の時点で貿易用に仕入れてあった品があるんだが……」
「……ああ、なるほど。不良在庫か」
「ご明察。戦争で夷の工芸品の価値が下がって、売り時を逃した品がある。小刀なんてのはまさにそれだ」
「本土では需要が少なく、外に持ち出せば交易品暴落で足が出る。面倒なことになってるな……」
「まったくだよ。せめて夷細工にかかる関税が下がってくれれば、話は別なんだが……」
「関税?」

 ああ、と商人は溜息混じりに頷いた。

「お上はこういう時腰が重い。戦争の長期化を否定してるってのもあるんだろう」
「……なるほど」
「本土での夷細工の売値と税額をを考えると、完全に赤字だからな。ふざけた話だ」

 おっと、こいつはオフレコにしてくれよ、と冗談めかして商人は言った。
 孝治としては頭が痛い。それでは取引が成立しなくなるのも当然だ。むしろ今、曲がりなりにも交易が成立していることがおかしいくらいだろう。

「……たしか刃物の取引は、民芸品と交換するのが原則だったな」
「ああ、木彫りだ。まさに現状だと、仕入れれば仕入れるほど赤字になる品だな」
「刺繍細工や食料との交換に、切り替えられないか?」
「難しいなあ」

 扶桑と夷の間には、交易のレートを巡って何度も対立が起きている。
 現在の交換条件も、過去の諍いの末に成立したものだ。下手にいじるのはリスキーなのである。

「『食料は食料』『衣類は衣類』って原則は、五十年近く継続してきたルールだ。下手に前例を作りたくない」
「言いたいことは分かる。しかしな、あんたらだって、商売の為に海を渡ってきてるわけだろう。わざわざ船を出す以上、利益を上げなきゃ勿体無いだろうに」
「目先の利益に食いついてるようじゃ、扶桑の回船商人は出来ないね。それに船を出すこと自体に意味がある。はっきり言って今、この島に商売上の旨みは無いが、それでも俺達は構わんのさ」
「へえ?」

 この発言に孝治は興味を惹かれる。前から疑問には思っていたが、どうも扶桑には、独特のシステムがあるらしい。
 なので冗談めかして聞いてみる。

「おいおい、商売上の旨みが無いなら、どうしてこの島を訪れるんだ。まさか避暑とは言うまいな」
「そりゃあ、補助金と交易免許の維持が目当てに決まってる。そうじゃなきゃあ来るもんか」

 この一言に、孝治は内心驚愕した。免許だけならともかく、補助金まで出ている。この表現は孝治の翻訳能力によって導き出されたものであり、ならば扶桑の社会システムは、相当に高レベルである。
 せっかくなので突っ込んで聞いてみる。海外の情報は少しでも欲しい。

「この情勢でも定期的に島を訪れないとならんとは、交易免許の維持ってのも大変だな」
「だから補助金が出るんだろ? 俺たちは交易立国扶桑の神経であり血管だ。外地との連絡は、何があっても断つことはできない」

 つまり彼ら扶桑商人は、情報機関を兼ねているのだと孝治は気付いた。たしか日本の戦国時代にも、商人を抱き込んで情報収集に当てるのは常識だったはずだ。それ自体は不思議なことではない。
 だが、わざわざ政府が損失を補填してまでその情報網流通網を維持できるということは、扶桑の政府は相当に資金力がある。というよりもはっきりと、“帝国”と表現しても良いのではないだろうか。

「今回の戦争、『本国』の旗色は?」
「……南海は広く、島は無数だ。そして船は、アトラスの方が速い」

 ……守備側が絶対的に不利じゃねえか。

 俺が扶桑の提督なら、南海は放棄して全力でアトラス本土の沿岸部を攻撃しに行くなと、孝治は考えた。相手が海賊を称しているならばともかく、既にアトラス側は正規海軍を動かしているらしい。完全に戦争状態だ。名分はある。
 しかし彼らはあくまで植民地を防衛するつもりらしい。それが一体如何なる理由に基づいた判断なのか孝治は理解できなかったが、まあ他国の戦略をどうこう言う必要はない。
 だが……。

「……一応、聞いておくぞ。アトラス海軍の別働隊が、この島に来る可能性は?」
「アトラスの連中に聞いとくれ。……まあ、五分五分ってところか」
「一体何が五分で、何がもう半分なんだ?」
「『採算』だよ。もう一度言うが、この島には旨みが少ない。主戦場が南海なのは間違いないんだ」

 だがなあ、と商人は溜息を吐く。

「アトラスの拡大主義は異常だ。北海が手薄になったと知れば、取り易い所を取りに来る可能性はある。そうなったら一たまりもないだろうな」
「そう思うなら」

 孝治はここで攻めた。身を乗り出してこう談判する。

「武器類の輸出を行って欲しい。鏃と、刀を。この島は扶桑の友邦だ。この土地の人間に自衛の手段を与えてくれよ」
「あんたの気持ちは良く分かるよ。しかしそいつは望み薄だ」
「奉行様に掛け合ってくれ、とお願いしても?」
「もしこの島がアトラスの手に落ちたら、俺たちの交易免許も紙くずになる。言うだけならこちらも望む所だが……期待はしないでくれ」
「ああ。もし協力できることがあれば、こちらとしても協力は惜しまない」

 言い切った孝治に、やれやれと商人は肩を竦めた。

「これほど話の通じる渉外担当が居るんじゃあ、お奉行も無下にはしないだろうな。惜しむらくはせめてあと一年早く、窓口になってくれていればというところか」





「ああ、タカハル。会談はどうだった?」
「色々と、面白いことが分かった。……しかし報告は少し待ってくれ」

 今日仕入れた情報が頭の中をグルグルと回っていて、孝治は生返事を返した。

「もう少しで思い付きそうなんだ。やっぱり商売で重要なのは、『利益を提供する』ことで……」
「いや、説明は後で良いよ。まとまってからで」

 アルカシトは孝治の発言を遮った。語りだすと長くなるのは、ここ数日で思い知っている。
 孝治も会談で少々疲れていたため、一旦思考を打ち切る。やるべきことはたくさんあって、考えるのは後でも出来た。

「なら、とりあえず海岸で海草をひっくり返そう。もうすぐ夕方だ」
「手伝うよ。ああそうそう、タカハルが昼に言っていた油の件だけど、なんとかなりそうだよ」
「本当か!?」

 さっきの今でそんな回答がもらえるとは、と、孝治はアルカシトの顔を見た。
 ニッと笑ったアルカシトは、『運が良かったよ』と孝治に言う。

「さっき、狩りに出ていた連中が鹿を狩ってきてね。そこまで大量には必要ないんだろう?」
「ああ。しかしいいのか? 貰っても」
「分かってないね孝治。鹿は赤身が旨いんだよ」

 それはアルカシトの個人的好みではなかろうか。

 いや、言わんとするところはたしかに分かるが、そもそも獣脂というのは食用ではない。
 とはいえこの一言はアルカシトの配慮だろう。この地の夏は短い。作業の進行が一日でも速く進むならば、それに越したことは無いのである。

「皮の裏側の脂身をこそぎとって、一旦加熱して脂を取ろう。動物性脂肪は冷えれば固まる。保存は容易だ」
「何をやるつもりかは知らないけど、楽しみにしてるよ」
「まあ、それなりに面白いものにはなると思うぞ。……お」

 海岸に着いた孝治は、海草を見下ろして軽く眉を動かした。

「乾くのが早いな。……数日中には、燃やせそうだ」
「燃料にするのかい?」

 そいつは後のお楽しみだ、と孝治は口の端を吊り上げた。










 数日後。

「うおおぉぉーーー!! 寒い!!」
「……タカハルは元気だなあ」

 悲鳴を上げながら海から飛び出してくる孝治を見て、アルカシトは穴に海草を放り込む手を止めた。赤く燃えた薪が海草を焼き尽くしていく。
 海から上がってきた孝治の手には、大型の海草が掴まれている。恐らく昆布だろうと当たりを付けていた例の海草である。結局我慢できなかった孝治は、倉庫で見つけた錆びた小刀片手に素潜りでの採取に挑戦していたのだった。
 小石を敷き詰めた乾燥台に昆布を放り出して、褌一丁の孝治はアルカシトの下に駆け寄ってきた。火に当たりたいのだろう。

「暦の上で七月に入ったから大丈夫かと思ったが、やっぱり尋常じゃなく冷たいぞ! いつになったら暖流が来てくれるんだ!」
「海水ってのは冷たいものだよ」

 唇を紫にしてガタガタ震える孝治に、アルカシトはのんびりと返した。
 諦めて孝治は横に座って暖を取る。北海道の海水浴は焚き火しながらやると聞いたことがあるが、まさにそんな感じであった。
 それにしても冬場はあれほど体調管理に気を使っていたのに、夏になるとこんなことを始めるのだから孝治も肝が据わっているというか、大概変な男である。

「そんな苦労をしてまで、あの海草には取る価値があるのかい? 海の中には昔から生えていたけど、誰も使い方を知らないんだよ」
「扶桑人でさえ海草を食わないらしいからな……日本人以外は食わないって話は聞いてたが……」
「食べるのかい?」
「多分食える、と思う」

 実際に食ってみないと良く分からないが、と、孝治は一応断ってはおいた。少なくとも出汁位は出ると思うが、どんな味かは正直想像がつかない。

「もし出汁に使えるなら、有望な新商品になるだろうな。……まあ、期待はしないでおくか」
「こっちとしては期待したい所だけどね。でも、取るたびに潜っていたら身がもたないよ」
「そのことについても少し考えてみたんだが」

 パチパチと燃える炎に手をかざしながら、孝治は思い付いた案を述べる。

「先端に鉤状に曲がった骨なり尖った石なりをつけた長竿を用意して、船の上から岩を引っかくようにして取れば良い。丸木舟はあるだろう?」
「あるね。それに小船なら、扶桑の技術で作った物もある」
「じゃあそれだな。とりあえず最低限のサンプルは確保したから、後はアレを乾かして味見を……ヘャックシ!」
「……体、壊さないでよ」

 いや、すまん。と孝治は軽く頭を下げた。
 ざるに乗っていた最後の乾燥海草を投げ込んで、アルカシトは孝治に尋ねる。

「で、これで乾かした海草は一通り火にくべたわけだけど。これからどうするんだい?」
「燃え尽きるまで待って、天然ソーダ……というか海草灰を取る。それから真水に沈めて温め、溶かした脂と混ぜるんだ。火を使う必要があるから、この作業は屋内でやろう」

 石鹸の作り方はこれでよかったはずだよな、と、孝治は多少不安になりつつも説明した。
 本当はガラスの容器と蒸留水が欲しいのだが、今使えるのは陶器の瓶と湧き水くらいだ。この島の湧き水は味からして軟水のような気はするが、うまく反応してくれるかはやってみなくては分からない。
 蒸留水を得る方法も色々と考えてはみたが、日光を使用する方法はビニール無しではどうしたら良いか分からないし、やかんの蒸気を集めるには燃料が必要になる。この土地では本当に燃料が貴重だ。迂闊に消費できない。
 それに海草灰に含まれるソーダの量も全く見当が付かず、はっきり言って成功するかは運だった。仮に上手く鹸化してくれたとしても、PHの調整が上手くいくか――――

「……研究と生産にかかるコスト考えると、採算取れない気がする……」
「え?」

 ただ、石鹸が扶桑でも生産されていないことは既に確認してある。上手く生産できれば、輸出品になる可能性は一応あった。
 ……そう、輸出だ。当初は八割方趣味で行っていた『新商品の開発』だが、ここ数日の交渉の進展によって、また違った意味合いを帯びてきていたのだ。

「売れれば良いんだが。でも、動物性油脂の石鹸は臭いらしいんだよな……」
「良く分からないけど、とりあえず今は燃え尽きるのを待てばいいんだよね?」
「ああ。とりあえず俺は火を見ているが、アルカシトはどうする?」
「今日は割と暇なんだ、タカハルがいろいろ動いてくれたお陰もあるしね。せっかくだから海の向こうの話を聞かせて欲しい」
「……そろそろストックも尽きそうなんだよなあ」

 外国語を操るだけあってアルカシトは中々に好奇心旺盛な男で、暇さえあれば孝治から日本の話を聞きたがっていた。
 アルカシトが興味を持つのは、主に思想や戦略的なものが多い。扶桑人との考え方の違いに日頃から悩んでいたのだろうか、孫子や六韜、論語あたりから適当に抜粋したうろ覚えの戦略論、人間論にやたらと食いついていた。
 おそらくは次期族長であろうアルカシトが、その手の知識に興味を持ってくれるのは非常にありがたいことだ。そうでなくとも現時点で、クゥルシペの政治と経済を担っているわけで――ああそうだ、と孝治は思う。いい加減“これ”の説明もしておかなくては。

「……そうだな。じゃあちょっと今日は趣を変えて、なんで俺がこうして海草を燃やしているのか、その辺について説明しようか」
「セッケンとかいう物を作るため、じゃなかったのかい?」
「直接的にはその通りなんだが、石鹸を作ることにどういう意味があるのか、考えたことは?」

 はて、とアルカシトは首を傾げた。

「深く考えたことは無かったな。『珍しいものを作る』ってだけで」
「俺も今まで言ってなかったからな。……俺のクゥルシペでの仕事はなんだ?」
「渉外担当だね。目下の目標は、刃物の入手」
「その通りだ。そしてこの石鹸作りも、その一貫なんだ」
「へえ? てっきり、趣味でやってるものだと思っていたけど……」
「途中までは実際、そのつもりだった」

 正直に孝治は白状した。

「ただ、実際に扶桑の商人達と話し合って分かったんだ。彼らが刃物を売ってくれないのは、結局こちら側に魅力的な商品が無いことが理由なんだと」
「言わんとするところは分かるよ。今年に入って、彼らは工芸品に見向きもしなくなったからね」
「だから、新しい商品……目新しい輸出品を、開発する必要がある」

 当初孝治が新商品を開発しようとしていたのは、第一に日本への郷愁のためであり、第二にエヘンヌーイへの恩返しのためであった。しかしここクゥルシペに来て、その目的は変化せざるを得なくなった。
 刃物の輸入はこの島の至上命題。それを担わざるを得なくなった孝治は、様々な可能性を考慮した上で、こう結論を付けていた。

「『珍しいもの』を作って、売る。とにかくそれだ、それしかない」
「……それはつまり、今までと同じものを売ってちゃ駄目、ってことかい?」
「ああ、そうだ。『今まで見たことないもの』を紹介してやれば、後は商人達がなんとかする」
「商人達が? タカハル、それは……」
「ああ、彼らとの間に、そういう方針でまとまりつつある」

 初耳である。アルカシトは驚いた。

「……そういうことは、もう少し早く言って欲しいんだけど」
「実際に商品を提供できるか、全く見通しが立ってないんだ。中途半端な希望を持たせて失敗したら、碌な事にならんだろう」
「それはまあ、一理あるけど」

 父親の気性を思い出して、アルカシトは引き下がった。
 しかし一応、釘は打っておく。

「でも、とりあえず僕には言っておいて欲しい。万が一の時に、引継ぎをしないといけないからね」
「それもそうか。すまなかった」

 報告・連絡・相談は社会人の基本である。孝治は素直に謝った。
 ここ数日で、アルカシトとの信頼関係も大分築けてきている。そろそろ信用してもいい頃だ。
 さて、と前置きして孝治は説明する。

「数日前に聞いた話だが、こちらが工芸品を倉庫に眠らせてるように、商人達も小刀を不良在庫として抱えてるんだ」
「……それも聞いてないんだけど」
「まあ連中は、俺に対しては口が軽いからな。……ともあれそんなわけで、実は刃物を入手したい俺達と、刃物を放出したい商人達の間で、利害は一致してる」

 そう、たしかにこの点において、利害は一致している。
 問題は、扶桑における物価の変動であり、『交易』に対する夷側の無知だった。

「干し鮭や鹿の燻製を大量に用意できれば、おそらく商人達は小刀を売ってくれるはずなんだ」
「干し鮭や燻製? ……食料は食料と交換するのが原則じゃなかったっけ?」

 貨幣経済が存在せず、また長年扶桑との間に独占的な交易を行っていたこの島の人間には、『価値の定量化』という概念が薄い。また狩猟民族のため、食料の価値が農耕民の扶桑人とは比較にならないほど高い。
 『食料が欲しければ食料を』『刃物や生活雑貨が欲しければ工芸品を』というのは、双方の価値観をすり合わせるために自然発生した原則である。この単純な交換原則はこの島の人々にも理解しやすかったし、老練な扶桑の商人達もまた、これを利用して『公平さ』を演出していた。
 ……そう、あくまで、『演出』なのである。絶対的な文明の差がある限り、どう足掻いても公平など望めない。なにしろこの島の人間は、自力で島外に出ることがほぼ不可能――これでどうやって、交渉しろというのか。

「原則は原則だからな。どうしようもなくなったら、そういう手もあるって話だ」

 まあ、そんな事実をアルカシトが知る必要はない。なので孝治はこう言っておくに留めた。知らないほうが幸せなこともある。

「……まあ、食料との交換はレートで揉めるだろうから最後の手段だ。新商品を作って売り出す方が、角が立たないのは間違いない」
「つまりそれがセッケンになるのかい?」
「それはまだ分からないが、上手くいけばそうなるだろうな」

 正直半信半疑だったが、とりあえずはそう答えておいた。
 この辺りは、完全に商人達のプロデュース能力が頼りだ。なにしろ、

「『珍しいもの』ってのは、買う人間も価値がよく分からない。ついでに新規開拓商品は最低一年は関税がかからないんで、利益率が高い。だから有望そうな商品が生まれたら北海商人の間でカルテルを結び、相場が落ち着くまでの間に値を吊り上げて全力で売り捌く。そういう約束だ」

 既にこういう方向で、話はまとまりつつあるのである。
 結構えげつない商売であるが、詐欺とまでは言い切れまい。目新しい新商品を大袈裟に宣伝して荒稼ぎするのは、現代日本でもよくあることだ。流行が落ち着けば値下がりする所までお約束である。
 そしてこういう悪巧みは、連帯感を生じさせる――この共犯者意識が、短期間で孝治と商人達の間に信頼関係を生み出したのは偶然ではない。

「要は、あいつらを儲けさせてやればいいんだよ。儲けが出る限り、商人達はこの島を見捨てないだろうさ」
「はあ」

 今はまだ、アルカシトも理解が追いついていないが。
 この方針はこの先しばらくの間、クゥルシペの対扶桑外交の柱となる。




















 季節も七月ともなれば、いくら北方のこの島とて、植物は勢い良く伸び始める。それは野生の草花のみならず畑の作物にも言えることで、同時に畑の雑草もまたそうだった。
 エヘンヌーイの村の一角、畑の雑草をぶつりぶつりと抜いていたルゥシアは、立ち上がって軽く伸びをした。

「うーん……はぁ」

 溜息を吐く。別に畑仕事が嫌なわけではない――というより、仕事を嫌がるという“贅沢な”感性はこの土地の人間にはない――が、しかしもっと面白いことが無いものかと、ルゥシアはここ数日頭を悩ませている。
 タカハルが居た頃は毎日楽しかったのになあ、などとぼやきつつも日々は待ってはくれない。雑草を抜かなくては畑の作物は育たないし、作物が育たなくては食料に困る。
 労働効率の悪いこの土地では、働くべき時には働かなくては生きていけない。逆に貨幣経済に染まっていないため、働かなくて良い時は働かなくても良いのだが……。

「月の国なら、このくらいの仕事はパパッと出来るのかなあ」

 はぁ、と再び溜息を吐く。月の国には便利な道具があって、一人の人間が短時間に多くの仕事をこなせるのだと、孝治は以前ルゥシアに語っていた。
 羨ましいなあ、とルゥシアは思う。もしこの草むしりが半分の時間で終わるなら、空いた時間で矢を飛ばしたり、タカハルの話を聞いたりも出来るのに。

「……タカハルが居ないとつまらないよ。帰ってこないかなあ……」

 クゥルシペでの孝治の働きぶりはルゥシアも間近で観察していて、その仕事ぶりは知っている。具体的に何がどう凄いのか、今一彼女には理解できなかったが、少なくとも扶桑の人間と話を合わせて信頼関係を構築する技術は、この地の人間には持ち得ないものだ。
 それにクゥルシペを発つ前、カルウシパの縁でルゥシア達エヘンヌーイの代表者はエルマシトと宴席を共にしたが、そこでの孝治の振る舞いは堂々としたもので、正直ルゥシアはちょっと驚かされていた。
 ルゥシアだけではない。ラカンシェ達もあれで孝治を見直したらしく、別れの時には下にも置かない扱いで遇していた。というか今の孝治の立場は、いつぞや語っていた『エヘンヌーイの駐クゥルシペ大使』に近い。下に置けるはずが無い。
 そしてそんな立場である以上、あまり早く帰ってこられても困るのも事実なのだ。

「……ラカンシェも置いてきたら良かったのに」

 ポツリと呟いて、ルゥシアは草むしりを再開した。









 そんなことを考えていたので。

「ただいまー」
「よう、ルゥシア。帰ってるぞ」
「なんで居るの!?」

 こういう展開になるのも無理の無いことであった。










「……アザラシ?」
「ああ」

 別れてから半月しか経っていないというのに、一体全体どうして帰ってきたのやらと、詰りそうになったルゥシアであったが、孝治の土産の昆布を齧らされて少し大人しくなっていた。
 まだカルウシパが帰ってきていないため手持ち無沙汰だった孝治も、久方ぶりのルゥシアとの交流にほっと一息吐いていた。オクルマと二人きりは居心地が悪かったらしい。
 ちなみにそのオクルマは、ルゥシアと入れ替わりに出かけていた。どうも他にも仕事があったらしく、引きとめてしまったのは不覚だった。

「アザラシって海辺に居る動物だよね? 見たこと無いけど」
「ああ。加工された形でしか、クゥルシペには入ってこないんだよな」
「何に使うの?」

 ルゥシアは首を傾げた。その質問に孝治は端的に答える。

「石鹸作りのために大量の脂が欲しい。……そういう建前でクゥルシペを出てきた」

 鹿の脂で試作した石鹸は無事に鹸化していて、現在はクゥルシペの倉庫で乾燥中だった。
 アルカシトが鹸化反応にやたらと興奮していたのが印象的だったが、試作品一つで満足するわけにもいかない。試作を繰り返して完成度を高めなくては、輸出品になど出来ないのだ。
 というわけで脂を手に入れてくると言い残し、孝治はクゥルシペを出てきたのである、しかし。

「だが本当に欲しいのは、皮だ」

 孝治は両手を大きく広げる。

「これくらいのでっかい一枚の皮が欲しい。それも複数だ。色々考えてみたんだが、やっぱり炉にはふいごが必要になる」
「……ろ?」
「ああ。石を鉄に還元するのに必要な物だ」

 クゥルシペでの生活の中でも、孝治は初心を忘れてはいなかった。
 『製鉄』――その大目標のために、夏の間にも進めておきたい作業は幾つもある。皮の入手はその一つだ。

「どうしても最初の製鉄はエヘンヌーイでやりたい。世話になった恩義もあるし、それに最初に『鉄を作る』と宣言した相手はルゥシアだからな」
「そうだっけ?」
「そうなんだよ。だから製鉄に必要な機材と素材はエヘンヌーイに集め、出来れば今年中に小型の炉での製鉄を成功させてしまいたい」

 効率だけを考えるならば、交通の要衝とはいえ内陸部のエヘンヌーイは製鉄に適しているとは言い難い。何しろ鉄鉱石は石である。その重さ故に輸送が面倒だ。
 なので最終的には港であるクゥルシペか、あるいは発見した鉱床の近くに製鉄所を設置する必要があるとは孝治も理解している。鉄の輸入が途絶えた現在、製鉄所の設置は夢物語ではなくなっていた。
 だがそれにしても、まずは小規模な実験を成功させておく必要がある。そしてその時点でエヘンヌーイの皆に技術を伝えておけば、それは他部族に対するアドバンテージたりえる――――

「良く分からないけど、タカハルは私達のために働いてくれるってことだよね?」
「いや、まあそうなんだが……」
「義理堅いね! 流石に私が見込んだだけの事はあるよ!」
「……あれ、見込まれたことなんてあったか?」

 孝治は首を捻ったが、バシバシとルゥシアは背中を叩いた。この動作は父親譲りなのだろうか。ひどく上機嫌である。

「タカハルはずっと、エヘンヌーイの仲間だからね! 忘れないでよ!」
「いや、忘れてはいないぞ? こっちに来て以来、俺の拠り所はずっとこの村だし」
「だよねー! こんぶちょうだい!」
「……はいはい」

 妹がいたらこんな感じなのだろうかと、孝治はふと思った。










「よし、ラカンシェを連れて行け」
「即答だな親爺殿」

 少しして帰ってきたカルウシパにアザラシ狩りの助力を頼むやその返答が返ってきたことに、孝治は少々面食らった。
 ルゥシアは隅の方で昆布を齧っている。男二人の会話に口を挟む気はないらしい。

「あいつは若い衆の纏め役だろう。遠出させていいのか?」
「纏め役だからこそ、色々経験させておく必要がある。アザラシ狩りならナハンカシペだな。俺も若い頃にやったことがあった」

 懐かしげな表情でカルウシパは語った。

「陸上では動きの遅い動物だ、現地の連中は棒で叩いて捕まえる」
「棒で?」
「ああ。孝治もせっかくだから経験しておけ。まだ獲物を狩った事が無いだろう」
「……そうだな」

 少し考えて、孝治は首肯した。
 この地で生きるなら、最低限の狩猟の技術は必要である。鹿の解体には何度か参加していたが、自ら生き物に止めを刺したことはない。たしかにこの辺りで、経験しておいた方が良いだろう。
 殺生に対する忌避感はそれほど残ってはいないが、しかし目の前で生き物が死んでいく姿を見るのはどんな気分かと、孝治は少々不安に思う。

「本当なら皮や脂の輸送のために人を出すべきなんだろうが、流石に何人も人手を割くわけにはいかん。ラカンシェと二人で行ってくれ」
「それは構わないが、ついでに道々の集落に顔つなぎもしておきたい。カルウシパの名前を出しても良いか?」
「お前は息子みたいなもんだ。一向に構わん。ついでにラカンシェも売り込んでおいてくれ」
「ついでかよ。ラカンシェも報われないな」

 軽口を叩きつつも、孝治は不思議な安堵を得ていた。家族だと明言された事実が、ゆっくりと心に染み渡っていくのを感じる。
 にやけそうになる口元を押さえる。すっかりと伸びた口髭の感触、その長さにこの世界で過ごした時間の長さを実感して、不覚にも孝治は泣きそうになった。
 それは故郷への郷愁か。それはこの世界への愛着か。判断できない孝治は、奥歯を噛み締めて涙を飲み込んだ。泣くのは何時でも出来るはずだ。今は仕事の話をしよう。

「それじゃあ、明日には発つとするか。ラカンシェにも今のうちに会いに行かないと」
「明日!? 随分と急だな!」
「雪が降る前に、なんとか最初の鉄くらいは作っておきたいんだ。素早く行動する必要がある」

 言い切って孝治は腰を上げた。その動きの意外な機敏さに、カルウシパは頭を掻いて苦笑する。張り切っている息子を見る父親の笑みだった。

「それはいいが、少し待てタカハル。道々の集落に挨拶に行くなら、手土産を用意しないとならん」

 カルウシパの名前を出すなら、彼の面子にも関わる話である。さて何があっただろうかと、頭を回すカルウシパに、孝治は言う。

「手抜かりはないぞ、親爺殿、手土産ならこっちで用意してある」
「ほう?」

 また何か作ったのかと感心するカルウシパ。孝治はルゥシアにちょいちょいと手で合図した。

「んー? これ?」
「ああ」

 差し出された昆布を、孝治は軽く手で裂いてカルウシパに渡した。

「輸送の際に割れるのが難だが、味は変わらないはずだ。親爺殿、食ってみてくれ」
「……なんだ?」
「海草だよ。海の中に生えてるあれだ」
「ああ、あのヌルヌルしたやつか。食えるものだったのか……」
「結構美味しいよ?」
「ルゥシア、量に限りがあるんだから、あまり食いすぎないでくれよ……」

 それに昆布は腹に溜まる。今夜の夕飯は食べられるのだろうか。そう危惧する孝治であるが、食うなとも言えなかった。弓を教えてもらったこともあり、なんだかんだでルゥシアには甘い。
 一方昆布を渡されたカルウシパは、軽く口に咥えて味をみる。

「なんだこりゃ、塩っ辛いな!」
「軽く水で戻したら食べやすくなるよ。ねー、タカハル?」
「塩抜きして食うのはやめてくれ! どれだけ食う気だ!?」

 ルゥシアはすっかり昆布が気に入っていた。何が彼女をそこまで引きつけたのか、日本人である孝治にもよく分からない。
 しばらく噛んでいる内に味が分かってきたのか、眉間に皺を寄せてカルウシパも唸った。孝治に向かって言う。

「変わった風味だが、不味くはない。磯臭いが」
「俺は結構好物だぞ。それに歩きながら食うと塩の補給にもなる」
「ああ、たしかに夏場に外を歩いていると塩気が欲しくなるな。そうやって使うのか」
「私は美味しいと思うけどなー。お母さんも結構美味しそうに食べてたよ?」

 ルゥシアはやたらと昆布を押しているが、こればかりは味覚の違いだろう。
 クゥルシペで生産した干し昆布、孝治も散々食い尽くして使い方を確認したが、日本のものと遜色ない風味である。流石に加工法が未熟なので品質は安定しないが、こればかりは経験を積んでなんとかするしかない。
 内陸の交通の要衝であるエヘンヌーイは、流通の中継点として有望だ。この地の商業活動は生産者と消費者の直接取引が基本で、流通の便が悪すぎる。実験的に昆布の出張販売所を設置してみたい。
 人が集まればその土地は活性化する。エヘンヌーイの発展は孝治の本望だ。問題は、それだけの購買力を持った顧客がいるかと言う事なのだが……。
 いつものように思案に入る孝治に、カルウシパは声を掛けた。

「そういえば孝治、おまえクゥルシペから一人で戻ってきたのか?」
「ん? ……ああ、そうなるな」
「随分と逞しくなったなあ。何日かかった?」
「一昨日の朝にクゥルシペを出たから、二日半って所か。荷物が軽いから楽だったな」
「そりゃそうだ。一人なら身軽だし、自分のペースで進めるからな。……だがまあ、そうか。二日半か」

 行きは三泊かかった行程だ。二日半というのは遅くはない。特別に早いというほどでもないが、ラカンシェの足は引っ張らないだろう。

「ナハンカシペは片道四日って所か。準備は怠るなよ?」
「ああ、今日中に用意は済ませないとな。とりあえずラカンシェと打ち合わせてくる」
「タカハル忙しそうだね。……久々に月の話、聞きたかったのになあ」

 残念がるルゥシアに、孝治はやれやれと肩を竦めた。

「夜にでも話してやるよ。クゥルシペでの事も含めてな」
「ホント!? じゃあ、早く帰ってきてね!」

 そんなやり取りを、カルウシパは穏やかな目で見つめていた。




















 人の移動の乏しいこの土地にも、街道らしきものは存在する。もちろん管理者が居るわけもないので、獣道に毛が生えたような代物であるが、迷わない程度の役割は果たしていた。
 とはいえ下草は伸び放題だし、道幅も狭い。せめて木を切り倒して道幅を広げるくらいはしても良いのではないかと孝治は思ったが、そういえばエヘンヌーイにも斧は無かった。

「前途多難すぎる……」
「なんだ、もうバテたのか? 立派な山刀を持つようになったってのに、情けねえ話だな!」
「体力はまだ大丈夫だ! それとこの刀は借り物だ。俺の私物じゃない」
「ハン、エルマシトから刀なんぞ借りやがって。テメエの立場なら、カルウシパから貰うのが筋だろうによ」

 不機嫌そうにラカンシェは鼻を鳴らした。
 刀の授受に特別な意味があるのは、孝治にも割と理解できる。とはいえクゥルシペからエヘンヌーイまでの道中、丸腰というわけにもいかなかったのだ。割り切らざるを得ない。

「そう言わないでくれよ。刀も無しに熊に襲われたら、ひとたまりも無い」
「刀があったって、テメエじゃひとたまりもねえだろ。立ち上がった瞬間に心臓を一突きにでもしないと熊は仕留められねえよ」

 それはそうだが。

「大体テメエ、刀の使い方が分かるのか?」
「む、そいつは聞き捨てならないな」

 孝治は腰に指した山刀の柄を、左手の甲で軽く叩いた。
 ゲームにおいて武器は装備しなくては意味が無いが、現実では装備しただけでも不足である。幸い孝治は多少とはいえ武器の使い方を学んだことがあり、経験からそれを知っていた。
 実際にクゥルシペからエヘンヌーイへの道中、何度か小枝に斬り付けて感触を確かめている。抜いて振り下ろすくらいは出来るはずだ。

「鹿は狩れないが、戦い方はそれなりに知ってるんだ。人間相手ならな」
「鹿が狩れなきゃ意味ねえだろうが。少しはマシになったようだが、テメエの歩き方はまだまだ騒がしいぜ」
「手厳しいな……」

 とはいえ、ラカンシェの言うことには一理も二理もあった。鹿狩りも人間相手のゲリラ戦も、山で戦うなら同じ技術だ。
 タイマンや平野での乱戦なら柔道技も多少は有効だろうが、そもそも平野での戦いになれば火力が物を言う。扶桑にせよアトラスにせよ火砲の技術はあるはずで、ならば対外戦争で役に立つ技術にはならないだろう。

 それでもクゥルシペに戻ったら、若い奴らと格闘技術の訓練をしてみるべきだろうか……いや、エルマシトに余計な疑いを持たれかねないか……?

 そこまで考えて孝治は首を振った。クゥルシペでは渉外担当をやっていたせいか、どうも最近、扶桑とアトラスの戦争の事が頭から離れてくれない。
 分かっているのだ、戦争になれば負けることは。第一に考えるべきは扶桑と連携することであって、二の矢はない。攻められれば落ちる――――

「……うおっ」
「おい! 気を付けろ!」

 などと考えていた孝治が足を滑らせて、ラカンシェは慌てて二の腕を引っ掴んで支えた。
 いかんいかん、周囲への警戒が散漫になっていた……そう反省する孝治に、ラカンシェは呆れる。

「テメエは本当に危なっかしいな……ルゥシアが心配するわけだぜ……」
「面目ない。……ルゥシアは俺の保護者ぶってる所があるからなあ」
「似合いだと思うぜ、あのじゃじゃ馬とはな」

 足して割ったらちょうど良くなるんじゃないか、とラカンシェは呟く。

「あいつもそろそろ婿を探さなきゃならん頃だ。いっそテメエが引き取ってやれ」
「おいおい、年齢差……はいいとしても、余所者の俺が族長の娘を娶るわけにもいかんだろう」
「余所者だから、よ。テメエは役に立つ、村の一員になってもらいたいと、今では少なくない人数が思ってるぜ」
「……クゥルシペとのパイプか」
「ああ」

 はっきりとラカンシェは断言した。

「残念だが、オレじゃあエルマシトと渡り合えねえ。アルカシトとも話が合わない。今後のことを考えるなら、エヘンヌーイに必要な人間はタカハル、テメエだよ」
「あの一件で、俺の立場も変わったもんだなあ」

 そう孝治は呟いたが、ラカンシェは少し違う感想を持っていた。
 確かにクゥルシペに行く以前の孝治はたしかに変人扱いではあったが、しかし決して侮られてはいなかった。春先の炭焼きで、朝から晩まで狂ったように動き回っていた孝治の姿を、村人たちは目撃している。
 現代日本人である孝治は、仕事のスケジュールさえ決めてしまえば実行が極めて早い。孝治はあまり気にしていなかったが、この段取りの良さはこの土地の人間には持ち得ないものである。
 クゥルシペでの働きは確かに瞠目すべきものではあったが、それ以外にも見るべき所はあったのだ。

「……まあ、そいつはオレがどうこう言うことじゃねえな。ところでタカハル、『戦い方を知ってる』とか言ってたが、一体何が出来るんだ?」
「なんだ、興味あるのか?」
「ああ。月の国の話は多少聞いてるが、具体的な月人の技ってのを見たことがねえ。何か芸があるなら見せろ」
「芸、ねえ……」

 下草を踏みしめて歩きながら、孝治は少し考えた。
 まさか山道で投げ技をかけるわけにもいくまい。二人旅である、怪我でもさせたら大変だ。
 そうなると……。

『よし、築地君。君の研究テーマを決定した』

 高校時代、先輩達の熱烈な勧誘に負けて入った化学部で、言い渡された一言が孝治の脳裏をよぎった。
 あれはそう、たしかまだ五月になる前の出来事だ。孝治の高校生活を決定する一言を、当時の部長が発したのは。

『君の研究テーマは、「飛翔体の観察」だ。引退までこれに打ち込んで欲しい』

 いまや五年も前の出来事となったあの日の情景を思い出してしまって、孝治は強烈な寂しさを覚えた。
 当時は酷い部活に入ってしまったものだと後悔したものだが、今となっては忘れがたい、遠い世界の思い出である。

 ……ああ、くそ。もう思い出すまいと思っていたのにな……。

 それはもう、別の世界の出来事だ。世界の壁という絶望的な断崖によって隔てられた、隔絶した“物語”なのだ。
 諦めなければならない。余計なことは、忘れなければならない。最早孝治の立つべき大地はこの島で、ここでただ生きて死ぬ。それ以『上』は考えるな――

「……ん?」

 なんとなく違和感を感じて、孝治は首を捻った。

「どうした?」
「いや……気のせいだろう。それより、少し思い出した技がある」

 そう言って孝治は、山刀の柄を軽く撫でた。

「お、なんかあるのか」
「先に言っておくが、あまり使える技じゃないぞ」

 自嘲しつつ、山刀を抜く。
 日本に居た頃は、まるで役に立たないと思っていた技だった。そして実際、この世界でも役に立つとは思えない技だ。

 それでもこれが、あの高校時代の唯一の遺産、か……。

 抜いた山刀を観察する。刃渡りは三十センチほど。形状はいわゆる剣鉈に近く、先端は刺突に適した構造になっている。少々どころではなくでかいが、まあ自分なら出来るだろう、と孝治は踏んだ。
 右手で柄を持ち替えて、重心のバランスを確認する。重みがあるため威力もでかいだろうなと、孝治は経験的に感じ取る。

「ちょっと下がっててくれ」
「おう」

 ラカンシェに警告を発した孝治は標的を定める。ちょうどおあつらえ向きな立ち木が前方にあって、距離は目測で五メートル程度。“打法”を悩む距離ではない。
 木の幹は丸みがあるため、中心を捉える必要がある。右手を静かに振り上げた孝治は、一呼吸だけ間を置いた。

 ……久しぶりだよ、本当に。

 大学に行ってからは、一度も練習していなかったはずの技能。錆び付いていることは間違いないが、それでも。
 脳裏に蘇るのは、高校時代の風景。胸を締め付けられるような感情を飲み込んで、孝治は右手を振り下ろした。

 ――“離れ”は、かつてと同じ感触。

 ドスッ、という重みのある音に意識を引き戻されて、孝治はただ静かに、己の為した技を評した。

「……かなり腕、鈍ってるな」

 投げ放った山刀は、狙った位置から二十センチほど下に突き刺さっている。孝治は手首を振りながらぼやいた。ぼやかざるを得なかった。
 左右にズレない程度の技量は残っていたが、山刀の重さで完全に腕の振りが遅れた。初速が足りなかったために、狙った位置より下に刺さってしまったのだと反省する。
 少しは柔道共々訓練しておいた方が良さそうだ……そんなことを思いつつ孝治はラカンシェに言った。

「酷い出来だが……どうだラカンシェ。一応俺の得意技だ」
「いや……たしかに凄いのは凄いんだけどよ」

 ラカンシェはコメカミを抑えながら言った。山刀を投げて五メートル先の立ち木に突き刺すナイフ投げの技術は、確かにこの土地には存在しない。
 しかし。

「……弓矢で良いよな?」
「俺もそう思う」

 貴重な刃物を投げてどうする。
 そんなラカンシェの突っ込みに、孝治は反論する論理を持たなかった。




















 その後も時折ナイフ投げについての雑談をを挟みつつ、ラカンシェとの道中はつつがなく進んだ。道々の集落で昆布の宣伝をしたり挨拶回りをして、出発五日目の午前中にはナハンカシペに到着する。
 ナハンカシペとは『岩のある港』といったニュアンスらしい。海岸なんだから当たり前だろと思うが、現地にきた孝治はなるほどと納得した。海の中から突き出した特徴的な岩がある。あれが名前の由来だろう。
 とりあえず現地の集落の人間と挨拶をして、アザラシ狩りの打ち合わせをする。ついでに扶桑の商船を見つけた孝治は、こちらにも挨拶に行った。やはりアザラシの皮や脂はこちらで直接買い付ける方が安いらしい。
 滞在中の商人の中には、クゥルシペで孝治と面識のあった者も居た。

「脂がご入用なら、クゥルシペまで運んでも構いませんよ」

 そう言われて、孝治は少しの間思い悩むことになる。漠然と思い浮かべていた『鉄鉱石の水運』、その実現のための第一歩が、思いもかけず浮かんできたのだ。

「……そうだ、そもそもこの島には、島内で水路を使って物を運ぶって発想が無いんだ。だったら……」
「テメエは何を言ってるんだ? さっさとアザラシを狩って帰るぞ」

 ブツブツ呟く孝治を引きずるようにして、ラカンシェは猟場に向かった。





「……本当にこんなので狩れるのか?」
「ナハンカシペの連中から借りたんだ。連中に出来るならオレたちにもできるだろうよ」

 ラカンシェと共にナハンカシペから少し離れた入り江に来た孝治は、砂浜にアザラシの群れを見つけて息を潜めていた。
 握り締める棍棒に視線を落とす。直径五センチほどの固い木の枝の先端に石を括り付けたそれは、ハンマー、あるいは石斧と表現しても良いかもしれない品である。尖った石の先端を見て、孝治は複雑な心境になった。

 こいつでアザラシを撲殺……あの平和そうな丸っこいのを……。

 獣を殺すのは良い、別に良い。しかしまさか最初の狩猟が“接近戦”になるとは、孝治もちょっと予想外である。確かにアザラシを棒で袋叩きにするシーンは『神秘の島』にもあったのだが……。
 悩みながらも軽く振ってみる。トップヘビーで威力はありそうだが、棒による撲殺というのはちょっと孝治には想像できない領域である。

「……弓矢を使いたかった」
「毛皮に穴が開くだろうが。それに矢が勿体無いだろ」
「いやいや、俺の腕力で殺しきれるか不安でな」

 思わず漏れた不安をラカンシェに聞きとがめられて、孝治は慌てて弁解した。
 理屈では孝治もわかっている。いや、むしろ理屈を語らせたらラカンシェよりも詳しいくらいだろう。
 アザラシは動きが鈍く、また毛皮と分厚い脂肪によって弓矢ではダメージが通りにくい。致命傷を負わせてもそのまま海に逃げられ、沖に流される可能性もある。サイズにもよるが、小型の物なら棒による狩猟が最適なのである。

「ナハンカシペじゃ子供だってアザラシ狩りをやるんだ、テメエに出来ないはずが無い。問題はむしろ、仕留めた獲物を持ってナハンカシペに戻ることだろうよ。結構でかいぞ、あれ」
「俺達が必要なのは皮と脂だ。肉と内臓と骨は……ナハンカシペの人達に何とかしてもらおう」
「どっちにしろ持って帰る必要があるだろうが。まあ、仕留めてから考えるか……」

 棒を軽く振って、ラカンシェは呟いた。
 現地の人に聞いた話だと、アザラシは陸で昼寝をするらしい。つまり眠った所をそろそろと近づいて、起きそうになったらダッシュして殴る。非常にシンプルな狩りだった。
 逃げ遅れて群れから脱落した奴を叩けばいいんだなと、孝治は深呼吸して覚悟を決める。今更グダグダ言っても仕方ないのだ。

 ……そうだ、俺の生きるべき世界はここだ。そう決めたんだ。

 それからしばらく岩陰から二人揃って待機して、アザラシの群れが眠るのを待つ。
 岩陰にもたれかかり、数分から数十分ごとに顔を出して様子を伺う。太陽の位置が二個分ほどずれた頃、何度目かになる確認の声を孝治は上げた。

「……眠ったか?」
「……そのようだ」

 言われて孝治も腰を上げた。音を立てないように注意する。長時間ならともかく短時間なら、今の孝治は十分に狩人として振舞えた。
 様子を見る。視線の先のアザラシの群れは、たしかに昼寝をしているようで、鳴き声も聞こえなければ身じろぎも無い。

「それじゃ、行くぜ。遅れるなよ」
「了解、先導は頼んだ」

 軽く腰をかがめて、ラカンシェは砂浜に身を晒す。中腰の姿勢でも上体が揺れないのは見事な技だった。足元が砂なので多少やりにくそうだが、なるほどこれが獲物に近づく呼吸なんだなと、後を追う孝治は注意深く観察する。
 そろそろと足を運びながらおよそ二十五メートルまで近づいて、ラカンシェは一度立ち止まって身を低くした。呼応して孝治も姿勢を低くする。視線の先、わずかにアザラシが動いたのである。

 ……起きたか?

 緊張の一瞬。しかしどうやら単なる寝返りだったようで、数秒待ってもアザラシは身を起こす気配がない。声を潜めて孝治は聞いた。

「走るか? ラカンシェ」
「いいや、まだだ。逃げる素振りを見せてからでも遅くねえ」

 そろりそろりと、二人は歩みを再会する。二十メートル、十五メートル。流石のアザラシも違和感を感じたのか、僅かに身じろぎをした。
 ラカンシェはここで大股に踏み出す。決して雑な動きではないし、音もほとんど立ててはいない。だがそれでも、衣擦れの音でも聞こえたのかアザラシは目を覚ました。
 身を起こして、

「ウォォオオオオオオオ!!!!!!!!!」

 刹那轟いたラカンシェの喊声に、アザラシたちは一斉に驚いて動き出す。全く同時に駆け出していたのはラカンシェで、驚いて反応の遅れたアザラシに造作もなく追いついた。
 遅れたのは、孝治である。この怒号は全く打ち合わせになかった動きだった。狩人としてのラカンシェの直感的な反応なのだろうか。どちらにせよアドリブでこういうことをするのはやめてほしい。

 そういうことするなら事前に打ち合わせしとけやラカンシェーッ!!

 声に出さないで非難の声を上げ、一拍遅れて孝治も続く。砂浜に足を取られそうになりつつも、体を傾けて勢いに乗った。この辺りの動きは流石に、昔のままではない。
 地面を蹴るのではない、踏むのである。不整地を長距離に渡って歩き続ける技術とは、膝に負担をかけない歩法だ。知らず知らずのうちに孝治は、そんな技術も習得していた。
 走る。アザラシの動きは確かに遅く、多少遅れたとはいえ海に逃げ込まれる前には確実に追いつける。群れの内側にいる個体には届かないため、群れの外周部に居る固体の中で、大きなものに目を付けた。

 ――狩る!

 丹田に力を込めて、孝治は殺意を沸き立たせた。両目をクワッと見開いて、意識的に仁王のような形相を作る。『表情は精神状態に関与する』とは、誰の教えだっただろうか。
 走る勢いのまま棍棒を振り上げた孝治は、狙ったアザラシの頭部目掛け、棍棒を振り下ろした。

 ゴン、という反動。

 こちらを向いていなくて良かったな、と、再度棍棒を振り上げながらも孝治は思った。目が合っていたら振り下ろせなかったかもしれない。
 それでも、殴られたアザラシが身を跳ねさせたのには心が痛む。しかしこれも自然の摂理だ。出来る限り顔を見なくて済む位置に立って、後頭部だか頭頂部だかに二撃目を振り下ろす。
 自らの頭部に幻痛を感じる。人間には想像力がある。日本に居た頃でも鼠くらいなら処分したことのある孝治だが、やはり人間と同程度のサイズの哺乳類は勝手が違う。今夜辺り撲殺される夢を見そうだなと、心のどこかで予想した。
 それでも三撃四撃と振り下ろしていくうちに、抵抗感というのは薄れていくものだ。慣れが感覚を麻痺させて、無表情に孝治は棍棒を振り下ろし続けた。





「……はぁ」

 アザラシが動かなくなったのは、一体何発目だっただろうか。最初から数えてはいなかったし、途中から夢を見ているような感覚で、どうも意識がはっきりしていなかった気がする。
 へたり込んだ孝治は、自ら殺したアザラシの死体にもたれかかった。とっくに群れのアザラシは海に逃げ込んでいて、残っているのは死体だけだ。まだ暖かいアザラシの体に、孝治は失われていく生命の重さを感じ取る。

 これがこの土地で生きていくって事、なんだろうな……。

 空を見上げて、孝治は思う。もちろん日本に居た頃にも肉は食べていたが、しかしこの地では人間と獣の距離が近い。というより、人間もまた自然の一部であり、一種の獣と言った方が適切に思える。
 俺もまたこうして死ぬのだろうか。そんな感傷的な気分に浸る孝治だが、気だるい気分を振り払って身を起こした。
 さてラカンシェはどうなったか――首を回して、孝治はおいおい、と声を掛ける。

「二頭も仕留めてどうするんだよ、ラカンシェ」
「いざとなりゃ人を呼べば良いだろ。アザラシの皮を手に入れる機会なんてあんまりねえんだよ」
「ふいごに使うつもりなんだが……」
「だから多目に狩ったのよ。さて、解体するか」

 山刀を抜くラカンシェに、孝治は疲れ切った声を上げた。

「ナハンカシペでやろうぜ。現物見て確信したが、とてもじゃないが全部の脂は持って行けない。放棄する代わりに仲介料にして、ナハンカシペの奴らに手伝わせよう。勿体無い」
「皮が一番価値があるんだぞ? それを持っていかれたらどうする気だ」
「皮だけは死守する。脂はいざとなったら、扶桑の回船商人に運ばせる」
「……扶桑人に?」

 ああ、と孝治は頷いた。

「今までクゥルシペにはアザラシ脂の需要がほとんど無かったが、儲かるなら運ぶのが回船商人だ。関税の入らない新規航路が開拓できるなら喜ぶだろうさ」

 それは島内流通経路の新規開発という点で、結構革新的なことであったのだが。
 興味の無いラカンシェは、はあ、と生返事をするばかりだった。



[33159] 出来ること、出来ないこと
Name: ハイント◆069a6d0f ID:a5c8329c
Date: 2019/01/31 00:14
 輸送というものについて、孝治は日本に居た頃、深く考えたことが無かった。
 何しろ日本は世界でも最高水準のインフラが整備されている国である。道路は舗装されていて全国津々浦々まで通じているし、金さえ払えば北海道から沖縄にだって物は送れる。
 道路は基本的に通じていて当然。どんな田舎でも毎日電車なりバスなりが通っていて、離島には定期航路がある。稀な自然災害を覗けば、人と物の行き来は絶える事が無い。
 社会人ならいざ知らず、一介の大学生だった孝治は流通について頭を悩ませた記憶が無く、……しかし今こうして、荷物を背負って歩いていると思うのだ。

「せめてリレー輸送を……運送屋とは言わないから問屋とか……もしくは物資の集積拠点を内陸部に作って、そこを市場にできれば……」

 この島では生活物資を島外から輸入している関係上、毎年港に出る必要がある。なので港が市場の役割を独占しており、そのため内陸部には市場と呼べるものが存在しない。
 エヘンヌーイは、内陸部からクゥルシペに向かう重要な交通の要所である。交易のシーズン中は他集落の人間も結構訪れるため、倉庫を設置してしまえば流通拠点として使えるのではないか……以前は漠然としていた構想が、次第に固まっていく。現実逃避も中々侮れなかった。

「最初に昆布の出張販売所を設置して……売れ行きが良ければ他のクゥルシペの商材も倉庫に保管して取り扱い品目を増やして……エヘンヌーイで取引を行う土壌が出来れば……その後は市場として自然に成長していくはず……」
「口を開くと余計疲れるぞ。黙ってろタカハル」

 ラカンシェに窘められて、孝治は黙った。
 ほとほと呆れた風情でラカンシェはため息を吐く。

「というか、そんなに荷物が重いなら石なんか拾うんじゃねえ。テメエは何がやりたいんだ」
「鉄鉱石を見つけたいんだよ。火山の近くにありそうな気がするんだ……」

 往路である程度の目星は付けておいて、復路で幾つかのサンプルを拾っていた孝治である。相変わらず石拾いに妥協しない奴だと、ラカンシェは呆れ果てていた。

「鉄鉱石自体は珍しい石じゃないはずなんだ。とにかく木炭と混ぜて焼いて、スポンジ状の鉄が取れれば、後はひたすら加熱してぶっ叩いて成形して……」
「鉄の作り方を説明する前に石を見つけろよ。何度聞かされたと思ってる」
「……すまん、なんだか意識が朦朧としてきてな」
「早く言え! 休憩を取るぞ!」

 荷物を下ろして、孝治は空を見上げた。
 エヘンヌーイに着くのはおそらく明日の夕方になるだろう。まだ高い太陽に孝治は溜息を吐いた。









「今帰ったぞアルカシト。ところで舟による海岸伝いの島内輸送航路を開拓したいんだが」
「ああ、おかえりタカハル。舟って言うとナハンカシペまで? この島の丸木舟じゃ無理じゃないかなあ」

 帰ってくるなりそんなことを言い始める孝治に、即座にこう返せるアルカシトは、相当に孝治に慣らされている。
 エヘンヌーイでオクルマにアザラシの皮を袋状に縫い合わせてくれと頼み込んだ後、孝治はそのままクゥルシペにとんぼ帰りだ。本当に一日も休みを取っておらず、ルゥシアは結構悲愴な感じで引きとめようとしていたが、完全に無視して村を飛び出していた。

 ルゥシアも心配性で困る。実際に倒れたことは一度もないんだが……。

 喉もと過ぎれば熱さを忘れるとは、まさにこのことだった。
 とはいえそんなことを思いつつも、ルゥシアに心配されるのは満更でもない。元々一人っ子でおまけにオタクの孝治、多分に漏れず妹に憧れがあったのだ。萌えないはずが無い。
 閑話休題。

「積載量が少なすぎるよ。航続距離も。扶桑から小船を買うにしても、予算が……」
「いや、積載量の問題はまだ何とかなる。網を買うんだ」
「網?」
「ああ。網で包んで船の下にぶら下げる。これなら水の浮力で重いものも運べる。濡れても良いものなら」
「どういうことだい?」

 疑問を発したアルカシトに、孝治は浮力について簡単に説明する。正直、外洋には適さない運搬法のような気もするが、何しろ扶桑の商人がいつまでこの島を訪れてくれるか分からない。孝治は何とか早い内に、島民による独自の島内海運路を開拓したかった。
 最初はアザラシの脂から始め、将来的に都合が付けば鉄鉱石と、あるなら石炭をクゥルシペまで運びたい。もちろんその前には扶桑の商船を利用して、『水運は儲かる』という価値観をこの島の人間に植えつける必要もあるだろう。

「……なるほど、たしかに水の中の石は軽く持ち上げられるね。それを使うのか」
「大きな魚やアザラシなんかを仕留めた時は、水中をひきずって運んでるだろう。別に難しい話じゃないと思うが」
「ああ、そうか。確かにその通りだ。あれを船の上に揚げたら転覆しかねないね」

 しきりにアルカシトは頷いていた。これは極めて原始的な輸送の技術で、別に目新しいものではない。この土地にも浮力を利用した水運の技術はある。
 しかしクゥルシペでは船といえば真っ先に連想するのは扶桑の大型商船で、これを見慣れていたらたしかに失念してもおかしくはない。アルカシトは漁に出る機会もほぼ無いことだし。

「前から思っていたんだが、この島は人と物の移動が少なすぎるんだ。このアザラシの脂だって、クゥルシペから半月近くかけて取りに行かないとならなかったんだぞ?」
「それは仕方ないと思うけれど。働かないと食べていけないんだから」
「いくらなんでも限度がある。これから先、石鹸作りの度にナハンカシペまで人を出すわけにはいかないだろう」
「それはまあ、たしかに」

 ところで、とアルカシトは前置きして話題を逸らした。

「タカハル、そのセッケンだけど……」
「一ヶ月は乾かす必要があるって言っただろ。俺だって気になってるんだ。我慢してくれ」
「でも、脂は手に入ったんだろう?」
「ああ。……作るか?」

 アルカシトはニヤリと笑う。彼に案外腕白な所があるのは、孝治もよく知るところである。

「実はタカハルが居ない間にも、村の子供達と試していてね」
「子供に? アルカリは危険だと言っただろうが」

 海草灰の水溶液がどの程度危険かは孝治もよく分からないが、あまり子供に弄らせたいとは思わない。安全志向は文明人として当然の思想である。しかしアルカシトはこう言ってのけた。

「まあ、何人か肌を痛めたけど、大したことじゃないよ。むしろ危険性の周知に役立ったくらいで」
「人体実験じゃないか!? 何やってんだ!」
「実際に体験しないと、危ないかどうかは分からないものだよ。僕も指先を少し痛めたけど」

 かざしたアルカシトの右手のがガサガサに荒れていることに、孝治は顔を引き攣らせた。犠牲が出なければ危険性が周知できないという理屈はよく分かるが、これで本当に良いのだろうか……。

「それで子供たちに好きなように脂と灰を混ぜさせて、それぞれの家で保存させてるんだ。一番上手く出来た子に、セッケンは任せようと思う」
「なんで子供達に……ああ、いや、そうか。計量器具がないからその方法しかないのか」

 まず最初に、まぐれでも良いから一番結果を出せた人間を選び出して仕事を任せる。
 それからは経験を積ませ、勘を頼りに安定して生産できるように鍛え上げる。
 最後に作成方法がその人間の中で確立したら、その時に初めて『観測』を行って一般化する――――

「……原始的だが、たしかにこれしかない。計量器具も記録用の紙や文字もない以上、『人間』が全てだ……」

 もちろん、孝治なら科学的手法で試行を繰り返して、最適な比率を割り出すことも出来るだろう。孝治には文字に記録を取る能力がある。
 だが、孝治は忙しい身の上だ。採算が取れるかも分からない石鹸作りに、いつまでもかかずらっているわけにもいかない。

「子供達なら時間もあるし物覚えも早い。タカハルならもっと上手くできるかもしれないけど、タカハルには他にも仕事があるからね」
「ああ……その通りだ。配慮に感謝する」
「いやいや。タカハルの能力は貴重だ。もっともっと働いてもらわなくちゃいけない。他の人間に出来ることはどんどん割り振るよ」

 やはりこいつは生まれついてのリーダーなんだなと、孝治は心底感心した。
 集団の采配を取る能力は、孝治の持ち得ないものだった。子供達に競わせて一番上手くできた者に任せる。大人ではなく子供に、指名でも立候補でもなく競争で――角を立てないやり方を心得ている。
 リーダーシップは立場と経験によってしか養成されない。こればかりは頭で考えてどうなるものでもないのだ。

「それにね、タカハル」

 アルカシトは不適な笑みを浮かべた。何処かで見たような笑いだと孝治は思う。

「失点は少ないほうが良い。もう一度言うけどタカハルの知識と能力は貴重だ――セッケン一つで計って良いものじゃあない」
「……ご忠告、感謝する」

 ……ああ、なるほど。

 こいつはエルマシトの息子だったな、と、孝治は今更納得した。




















 そんなやり取りからも時は過ぎ、季節は八月に入っていた。
 流石に八月になるとこの土地も暑い。ならば今こそと孝治は海に飛び込んだが、

「うおおぉぉーーー!! 寒い!!」
「海水ってのは冷たいものだよ」

 一ヶ月前と同じやり取りを繰り返していた。

「海水浴は望み薄か……それでも気温が高いから、海から出ると体温は戻るな」
「なんでタカハルはそう泳ぎたがるんだい? というか、寒いから止めておけって言ったじゃないか」
「海ってのは泳ぐもんなんだよ」
「前から思っていたけど、基本的にタカハルは自分の主張を曲げないよね」

 生来気が荒くて無鉄砲な部分のある孝治、この夏はブレーキ役を得て、結構調子に乗っていた。
 例によって褌一丁である。手ぬぐいで体を拭いつつ、孝治はアルカシトに話しかける。

「しかし良かったな、昆布が扶桑の商人たちに受けて」
「本当だよ。お陰で小刀も手に入りそうだしね」

 石鹸の完成より先に商品化に成功した昆布は、どうやら扶桑人の味覚に合致したらしい。試食した商人達が『これは売れる』と断言し、小刀との交換を約束させるに至った。
 いずれは価格が下落したり、模倣商品が出てきたりもするだろうが……今は戦時である、急場をしのげればそれで良いと割り切っている。
 さて、そんな昆布より一歩遅れて試作品が完成した石鹸であるが……。

「石鹸の出来が今一だったからな……。アルカリを恐れるあまり脂を入れすぎたか、あるいは不純物の問題か……」
「汚れが落ちれば十分だと思うけれど。別にあれも悪くはないよ」

 アルカシトはそう言うが、しかし孝治としては納得のいかない出来だった。使い物にならないというわけではないが、やはり精製度が違う。
 一応、諦めずに研究は進めているが、そもそも孝治のイメージする現代式の石鹸と原始的な天然石鹸では、根本的に製法が違う。水酸化ナトリウム無しで現代的な石鹸が作れるはずが無い。
 その程度のことは孝治も承知していたが、しかしその水酸化ナトリウムをどうやって得るというのか……。

「電気分解じゃなくても、石灰を使って作る製法があったはずなんだが……この辺が俺の限界かな……」
「随分と弱気だね。悲観するような結果ではなかったと思うけど」
「工業ってのは、知識の広さだけじゃどうにもならないんだと痛感したんだ。深さも要る……ああ、なんで俺はあの時、先輩の反対を押し切って文系に進んだんだ……」

 『化学部員の癖に文系』。……悔やんでも悔やみきれない過去であった。

「元気出しなよ。タカハルには他にも色々とやってほしいことがあるわけだし」
「ああ、そうだな……。というかむしろ、最近は交渉事の方が向いてる気がしてならないんだが」
「向いてるよ、実際。そろそろ僕の出番がなくなりそうなくらい働いてるじゃないか」

 翻訳能力のお陰と限った話でもないが、孝治の存在感は日に日に港で増していた。
 今や扶桑の商人たちにとって最大の窓口といって良い。なにしろ海外事情について突っ込んだ話が出来るのは夷側で孝治くらいだ。
 おまけに商人達に利益を与えて懐柔する方針で行動しているため、向こうも積極的に孝治に成果を上げさせようとしてくる。クゥルシペにおける孝治の権限の拡大は、そのまま商人達の利益になるのである。

「それにアトラスと扶桑の戦の話題になると、僕じゃあ到底理解できないからね。正直孝治にはずっと居てもらいたい位だよ」
「そうなんだよな……」

 この土地の人間には根本的に国際政治に対して無知であり、人間同士の戦も絶えて久しい。孝治は別に専門家でもなんでもないが、それでもこの島ではそのように見なされていた。

「というわけで午後から頼むよ。また新しい商船も入港したし」
「新しい情報、入ってると良いんだがな……」

 それが吉報であれ凶報であれ、無知でいるよりはマシだろう。
 そう、孝治は一人ごちた。






「……守備隊の駐屯?」
「ああ。そういう話が出てきてる」
「おいおい……」

 孝治は天井を仰いだ。
 例によって扶桑の商船の中である。この商人とは初対面であったが、孝治のことは扶桑の港でも話題になっていたらしい。最初から気安く話しかけてきた。
 しかし、守備隊の駐屯? 孝治は再度胸の内で呟く。そいつは幾らなんでも呑めない――――

「俺はともかく、エルマシトが肯うわけがない。たしかにこの島、というかこのクゥルシペを本気で守るなら、扶桑の陸軍でもなきゃ無理だろうが……」

 だがその場合、間違いなくクゥルシペは扶桑の植民地扱いになる。良くて租借地だろうか。どちらにせよあのエルマシトがそんな条件を呑むはずがない。
 そもそもクゥルシペの人口は現時点で二千人。港の利権を扶桑に掌握されてしまったら、この人口を支えきれなくなる。分裂して山の中に散るか、あるいは新しく来た扶桑人たち相手の商売をするか……この地のライフスタイルは大きく変わってしまう。
 扶桑人はアトラスのように人攫いはしないかもしれない。しかし自ら従容として異民族の支配を受け入れることが出来ようものか。

「エルマシトに報告したら俺の首が飛ぶ。悪いが聞かなかったことにするぞ」
「ま、そうだろうな」

 商人もまた肩を竦めた。

「しかし実際、アトラスが攻めてきたらどうする気だね?」
「どうすると言われたって、向こうの出方次第としか言いようがない。出会い頭に砲撃してくるようなら、これはもうどうしようもないが……」
「交渉で何とかすると?」
「戦って勝てると思うのか?」

 いんや、と商人は首を振った。

「はっきり言うが、アトラスの兵器はうちの軍より強力だ。特にアトラスの戦船に搭載されてる砲は、うちの物より遥かに強力らしい」
「おいおい、速力で負けてるって話は聞いてたが、まさか射程でも負けてるのか。南海の戦況は……」
「悪い」

 言い切られて孝治は眉を顰めた。戦略段階で圧倒的に不利だとは気付いていたが、純粋な軍事力まで優越されていてはどうしようもない。

「……それじゃあなおさら、守備隊駐屯は悪手だ。うちの島の食料生産力は低い。下手に兵を入れて海路を絶たれたら内紛になる」
「ああ、なるほど。確かにその通りだな」
「だからこちらの理想としては、陸戦ではなく海上で敵艦を撃破してもらうことなんだが……」
「艦隊の駐留か。……そいつは望み薄だな、金がかかりすぎる」

 だろうな、と孝治は頷いた。
 軍船の数には限りがあるはずで、攻めてくるか分からない相手を迎撃するためにこの島に貼り付けておくのは非効率だ。
 陸上部隊の駐屯であれば、現地から食料と住居を供出させれば楽に維持できる。それに陸軍を駐屯させていれば、仮に負けたとしても後から領有権を主張することも出来るはずで、もしかすると真の狙いはそれかもしれない。

 しかし南海諸島での機動防御は失敗してるんだよなあ……方針の転換もありえるんじゃないか……?

 不安な気分を押し殺して、孝治はそう思考する。
 それに上陸後に海路を断たれて困るのは、アトラス側も同じのはずなのだ。

「こっちの得意は山での持久戦だ。敵の上陸を許しても、二ヶ月は耐えられる。……それだけ伝えておいてもらえるか」

 どうせ扶桑の人間は、『蛮夷』の提案など素直に受け入れないだろう。
 なので孝治は、そう言っておくに留めた。





 会談を終えて港に下りた孝治は、軽く首を回して空を見上げた。先ほど海に入っていたことからも分かるように、今日は良い天気である。
 扶桑とアトラスの戦争に関する情報は何度も聞いていたが、そろそろ本格的にやばそうな情勢である。うかうかしてはいられないな、と肝に銘じた。

 ……しかし、本格的にクゥルシペの防衛を考える必要があるな。

 アザラシ狩りの往路でナイフ投げをやった際、思い浮かんだ『格闘訓練』の構想。そろそろ実行してみても良いのでは無いだろうか。
 扶桑の海軍力の援護を得られるなら、陸戦も無意味ではないはずだ。最終的にどう転ぶかは分からないが、軍事力はあるに越したことはない。
 そう決心して、孝治はアルカシトの元に足を運んだ。

「アルカシト、今、暇か?」
「切羽詰った仕事はないね。……何かあったのかい?」
「緊急ってわけじゃないが、やってみたいことがある」

 連れだって歩きながら、孝治はアルカシトに説明する。扶桑の戦況が芳しくないこと。万が一アトラスが攻めてきたときの為に、防衛の準備をしておきたいこと――――

「具体的には、避難の準備とクゥルシペの『奪還』作戦の考案だな」
「『奪還』? 防衛じゃなくて?」
「艦砲がある以上、中途半端な柵や空堀に意味はない。一度山に逃げて、上陸した相手が油断した所を夜襲で脅かすべきだ」
「……孝治が言うならそうなのかもしれないけど。しかし父上が許可するかな……」

 孝治の戦略は合理的ではあったが、大砲の脅威を知らないこの土地の人間に納得させることは難しい。ましてエルマシトはあの性格で、戦う前から消極策など提案したら孝治の身も危ない。

「別に最初から逃げようとは俺も思ってない。ただ、山の中に避難場所や倉庫を作ったり、地形を観察して戦術を立てておきたいってだけだ。それと、戦闘訓練だな」
「戦闘訓練?」

 聞き返したアルカシトに、孝治はのんびりとした口調で言った。

「ああ。……ま、そっちはそんなに深く考えることはないぞ」





 自らの左足を右足で刈り払い、達磨落としのように急落下した孝治が、土の上にバンッと落下する。
 顎を引いてへそを見る。足の裏と手の平で衝撃を吸収して、背骨や骨盤を保護する。基本的な受身の技術は、しかし山の中や岩の上で行う時は、ある程度変化させて行わなくてはならない。そのことは既に実験済みだった。
 くるりと軽快に起き上がる。体の柔軟性は昔より衰えているが、そもそも柔軟体操の概念が無いこの土地の人間に比べれば、格段に柔らかいと言って良い。

「……凄いね、タカハル」
「曲がりなりにも高校時代に二段取ってるし、これくらいはな。一応、古流の技も少し齧ったが……」

 所詮護身術程度の物だ。弓矢あり刀あり、あるいは大砲や鉄砲の出てくる戦いでは役に立たない。
 ……とは言ったものの、現代の軍隊においても、徒手格闘の訓練は行われている。原始時代から繰り広げられた人と人との戦い、その原点である『相撲』は、銃弾飛び交う時代になっても、完全に無意味と言うことはないのである。

「闘争心の養成だの、弾薬の節約と時間潰しのためだの、下士官による兵の掌握のためだの、色々言われてるが……とりあえず皆で相撲をやろう」
「子供ならともかく、大人同士の取っ組み合いは怪我が怖いよ」
「だから、受身の訓練とルールの厳守を徹底する」

 言いながらも孝治は、あたりをぐるりと見回した。ここは集落から少し山側に入ったところで、木々は開けていて土は柔らかい。

「石と枝を拾って下草を刈ろう。ここに土俵を作るんだ」
「まあ、地面が柔らかければ少しはマシだろうけど……でも、喧嘩の種にならないかな」

 アルカシトの不安も理由の無いものではない。基本的に狩猟民である彼らは、身内同士の結束を重要視する。内部に不和があれば集落全体を危険に晒しかねないし、それに大型哺乳類を狩って生活している彼らは、“いざ”となれば恐ろしいのだ。
 しかしクゥルシペは人口が多く、エヘンヌーイなどの少数集落に比べれば格段に文明化された港町だった。労働力に多少の余剰もあって、暇そうにしている大人もちらほら見る。

「クゥルシペは娯楽が少ない、新しいゲームはきっと受ける。子供が小弓で遊ぶようなもんだと考えればいい」
「あくまで遊びだ……って?」
「ああ。『敵が攻めてくるかもしれないから戦う訓練をしましょう』なんて、言えるわけない」

 今の段階で民衆の危機感を煽るのは、はっきり言って下策だった。不安を煽った挙句、まかり間違って扶桑の人間と揉め事を起こされたりしたら、逆効果になりかねない。
 なのであくまで平常を装いつつ、戦時に備えていく必要がある。

「格闘は戦闘の基本だ。実際どれだけ役に立つかは分からんが、まあ無駄にはならないだろう」

 それに、孝治自身――久しぶりに柔道の練習もしたかったのである。




















 このようにして始まった相撲の競技化であるが、孝治の期待を裏切らず、村の若者達に好評を博した。
 それは孝治が教える柔道技の目新しさが、彼らを惹きつけたこともある。やはり高度に洗練された格技というものは、古今東西魅力的に映るものなのだ。
 そして同時にこれは、今まで『異人』として敬遠されてきた孝治を、クゥルシペに溶け込ませる結果ももたらしたのである。

「センセイ、ありがとうございました!」
「おー、怪我しないように稽古しろよー」

 九月になる頃には、すっかり子供達から慕われるようになった孝治だった。十分ほどかけて今日の課題技を与え、手を振って彼らと別れる。
 忙しい身分なのでつきっきりで稽古を見るというわけにもいかないが、それでも毎日一応は顔を出して、練習課題を与えるようにしていた。常に新しい技を教え続けることで興味を引いて、求心力を保つ――このやり方は、中学時代の柔道部顧問から学び取った指導法だ。
 古流柔術の経験者だった柔道部顧問は、週に一度は古流の研究会を開いて変わった技を教えてくれた。中学柔道部としてはどうかと思うが、間違いなく部員達からは慕われていたのである。

「変な人だったが、子供の興味を惹くやり方は、本当に凄かったんだなあ……」

 今更ながらに感心する孝治だった。
 思えば日本に居た頃の友人知人は、そろいも揃って変人ばかりだったが……そんな変人達との付き合いが、己を鍛え上げた事実は否めない。少なくとも異世界の常識にすんなりと順応できたのは、非常識な連中と渡り合ってきた経験の賜物であろう。
 そんなことを考えながら港に戻ると、アルカシトが寄ってくる。

「タカハル、ちょっと来てくれるかい?」
「ん? どうした?」
「ナハンカシペからアザラシ脂の輸送だよ。第一便が届いたんだ」
「おお、ついにか!」

 孝治としては不満のある出来の石鹸であったが、それでもこの地の人々には評判は悪くなかった。
 それに扶桑の商人達も物珍しさに引かれたのか、はたまた連日昆布料理で接待漬けにした孝治への感謝の表れか、出来のいい試作品を幾つか買ってくれた。
 なので採算が取れるのではないかと踏んで、ナハンカシペからクゥルシペへのアザラシ脂の輸送を打診していたのだが、とうとうその第一便が来たのである。

「これでこの島の流通も、少しは風通しがよくなるな。……扶桑の商人が居る限りは」
「だから丸木舟じゃ無理だって、何度も実験したじゃないか」

 上手くいったものもあれば、失敗したものもある。結局丸木舟による海運の計画は、数度の実験を経て断念されていた。
 孝治自ら漕ぎ出して、海岸伝いを移動できないか試してみたのだが……体力の限界による航続距離と、海岸沿いに点在する補給・休憩地点の少なさは、圧倒的だった。どう足掻いても無理だ。
 無念ではあるが、仕方ない。やはり扶桑との連携無しでは、この島の文明水準は維持できないのだ――

「まあいい。とりあえず脂の決済は予定通り、昆布でやってくれ」
「少しもったいない気がするけど、仕方ないね。でも、干しただけの昆布がここまで重要な商品になるとは、思わなかったよ」
「ほとんど通貨扱いだからな。随分と便利に使わせてもらってるよ」

 八月頭には輸出を始めていた昆布であるが、これがかなりの売れ行きを博したらしい。今ではクゥルシペの倉庫には、結構な数の小刀が放り込んであった。
 また、開発者である孝治は昆布の使途に関しては結構な発言力があったため、独自に交換レートを設定してしまっていた。『通貨扱い』という表現は、もはや比喩でもなんでもなかった。

「ま、これで石鹸の研究を本格的に始められるな。俺は関与しない方がいいか?」
「うん。なにか事故があったとき、孝治が批判されることになると困る」
「俺も偉くなったもんだなあ」

 孝治は表面上興味なさげにそう言ったが……実際、偉いのである。
 立場的にはアルカシトが上司に当たるのだが、そのアルカシトが孝治に重要な仕事を投げてしまっている。『島外情勢への対応』を一任されている孝治の職権は、気が付けば軍事・外交・商業・教育まで広がっていた。
 いい加減別の人間に仕事を引き継いでいかないと、パンクしかねない。それ以前に、そろそろエルマシトから警戒されるのではないか――そんな危惧は孝治にもあった。

「石鹸以外も、他人に任せられる仕事は任せたいもんだ。久しぶりに物作りがしたい」
「なにかまだ、ネタがあるのかい?」
「正直そろそろ尽きてきてるんだが……そうだな、土焼きとかしたいな」
「土焼き釜ならウチにもあるよ。あまり使ってないけど」
「……あったのか?」

 うん、まあ、とアルカシトは頷いた。

「じゃあ丁度良い、土管でも焼くか」
「土管?」
「ああ、暖炉って知ってるか?」

 孝治はこう尋ねたが、翻訳能力の発動で、存在するかどうかは言った瞬間に分かった。
 正直頼りたくないチート能力だが、こういう使い方も出来るのかと、意識の端には留めておく。

「いや、知らないね。暖房器具のようだけど」
「じゃあせっかくだ。作ってみるか。そろそろ交易シーズンも過ぎるしな」

 それに土管は、製鉄にも必要になる。
 そんな本音を隠したままに、孝治はこう提案した。




















 そうして九月も後半に差し掛かり、季節は冬篭りの時期に突入したのである。

「……というわけで、エヘンヌーイの冬篭りの手伝いの為、一旦村に戻らせてもらいます」

 一通りの連絡事項を終えて、孝治はそう言って頭を下げた。
 村に帰ること自体は前から打診していたし、仕事の引継ぎも一応は済ませてある。外交に関して孝治の代わりになる人間は正直居ないが、平年通りの作業に不足が出るはずも無い。
 もっとも孝治はこの島の行き先に不安を抱いていたため、長くクゥルシペから離れるつもりもなかったが。

「十二月の漁の季節には戻り、そのまま春まで滞在するつもりでおりますので、その時はまたよろしくお願いいたします」
「うむ、ご苦労だった。カルウシパに土産も持って行け」

 差し出された山刀を押し頂いて、孝治は深々と頭を下げる。山刀は高価だ。孝治の働きにそれだけの価値があったと端的に示す、エルマシトからの配慮であろう。

「ありがたく拝領いたします」
「……今日は久しぶりに“詠い”なのだな」
「節目ですゆえ」

 真面目な顔でそう言った孝治に、エルマシトは微妙な表情をした。

「そうしていると、貴様と初めて会った時の事を思い出すな。結局あの熊の毛皮はどうなったのだったか」
「今頃は扶桑でしょう。元はエヘンヌーイの輸出品でしたので」
「あの時は変な小僧だと思ったが……夏の間も褌姿で海岸を歩き回っていたな。今思えば毛皮があっただけマシだったかもしれん」
「あれは泳ぐためであって他意はありません」

 キリッとした表情でそう断言されて、エルマシトは閉口した。

「……。まあいい、下がれ。雪で道が閉ざされる前には戻れ」
「はい。この夏はお世話になりました」

 頭を下げて、孝治はエルマシトの前を辞した。
 建物から出ると、秋の風が頬を撫でる。今日は服を着ているので多少涼しいくらいだが、濡れた裸体なら風邪を引いてもおかしくはない。とっくに海水浴の時期は過ぎている。
 何気に今夏、クゥルシペで一番海に入っていたのは孝治である。そもそもこの土地の人間に海水浴の概念は無い。海水が冷たく泳げる時期が極めて短いため、泳ぎの練習をする機会も乏しい。カナヅチが珍しくないのである。

「……扶桑の商船も随分減ったな。漁期になれば漁船が来るというが」

 今までの経験から推測するに、大方ニシン漁的なものなのだろうが、漁業利権というのは馬鹿に出来ない。この島と扶桑の関係を考える上で、孝治も是非確認しておきたい光景だった。交易と漁業権。扶桑がこの島を守る理由があるとしたら、この二点だろう。

「おーい、タカハル。出発の用意は出来てるよ」
「ん? ああ、すまん」

 ついいつもの癖で港の様子を観察していた孝治に、寄ってきたアルカシトが声を掛けた。
 最初から結構馬は合っていたが、この夏で随分と親しくなった二人である。そういえば色々世話になったなあ、と孝治はしみじみ思う。

「すまんな、わざわざ準備してもらって」
「いやいや、別にどうってことないよ。礼を言うなら、早く帰ってきて欲しい所だね」
「何、十二月には戻る。扶桑から漁船が来るんだろう?」
「大量にね」

 連れだって歩きながら、アルカシトは説明した。

「今年の夏は商船の数も少なかったし、あれよりは遥かに多いと考えて良いよ」
「へえ……」

 そいつは普通に見てみたい風景だなと、孝治は思う。しかし入り江の中で接触事故などは起きないのだろうか。夏場の商船も結構な数だったのだが。
 そんな会話を続けながら村外れまで歩くと、木の陰に山と置かれた荷物が目に入る。
 少しでも楽が出来るように、わざわざ運んでくれたのだろう。気を利かせてくれたことに感謝しつつも、孝治はじーっと荷物の山を見つめた。

「……一応出来る限り、荷物は軽くするように努めたんだけどね」
「……土管で台無しだな」

 孝治が用意した土管は、そこまで大きなものではない。しかし土管は土管であって、土の塊なのだからそれなりに思いし、かさばる。
 しかしこれは重要物資なのである。製鉄用のふいごの吹き口を構成するための。なので持って帰らないわけにはいかない……。

「いっそ土管の中に土産物を詰めて、両口を塞げば良いとも思ったんだけどね……引っ掛かりが無くて上手く塞げなかったよ」
「ああ、ただの筒状だからなあれ……端に引っ掛かりつけておけば良かったか……」

 孝治は後悔したが、時すでに遅し。一応割れを防ぐために両端は厚くしてあったが、それだけである。

「しかし、何に使うんだい? エヘンヌーイで暖炉でもないだろうし」
「成功したら教える。上手くいくかはまだまだ分からないからな」
「楽しみにしてるよ。……ああそうそう、余ってる土管は使っても良いんだよね?」
「別に構わんが……レンガが余ってないから、そこからやらないとならんぞ?」
「レンガの作り方は覚えたからね、問題ないよ。それにしばらく放置されてた窯も、使ってならないと可哀想だ」

 クゥルシペの土焼き釜は、数年は放置されていたらしく、土管を焼くのも一苦労だった。
 せっかく整備しなおしたので、保守を兼ねて使ってくれるのは孝治としてもありがたい。

「せっかくなら耐熱レンガを作っておいてくれると助かる。どうせ焼くなら大量に焼いてくれ。後で使うから」
「燃料を使うなら、無駄にしないようにやるよ。炭も貴重だしね」
「……石炭があればなあ」
「『燃える黒い石』だっけ? 見つかったら連絡が来ると思うけど」

 この夏、孝治は様々な布石を打ったが、クゥルシペを訪れた各部族への聞き取り調査と、原料調達の協力要請もその一つだった。
 特に石炭は特徴が分かりやすいため、見つけたら直ちに持ってきてくれるように頼んである。仮に地上に露出していたら、とっくに使われているとは思うが……万が一、崖崩れか何かで露出する可能性もある。
 天然に手に入る素材があればそれに越したことはない。木炭の製造にはコストがかかるし、それに燃焼温度も石炭の方が高い。高温を得られるかどうかは工業と文明の発達に大きく影響する。疎かにはできなかった。

「今年はもう無いと思うが、仮に連絡があったらサンプルを取っとくのを忘れないでくれよ? 燃えるかどうか試してみるのはいいが、俺の分をな」
「了解了解。それじゃ、もう出発するかい?」
「おう、昼飯は歩きながら食うとするよ」

 気付けば一年の三分の一はクゥルシペで過ごすことになるんだなあ、と孝治はしみじみ思う。
 そして恐らく来年は、クゥルシペを本拠として活動することになるだろう。孝治はクゥルシペで外界の情報に触れる機会を欲しているし、クゥルシペという土地もまた、孝治の能力を必要としている。

「それじゃ、行くかな」

 孝治は荷物を背負った。どうせすぐに戻ってくる土地である、特に未練も無い。
 アルカシトも土管を担いだ。

「途中まで送るよ。土管も持っていこう」
「助かる。……いやほんと、助かるわ」
「……本当にこれ、エヘンヌーイまで持って行くのかい?」

 結構重いよ、とアルカシトは引き攣った笑みを浮かべた。
 孝治もまた、曖昧な笑みを返すしかなかった。





 かくして築地孝治の、異世界最初の夏は終わりを告げる。
 雪の中で死に掛けてから九ヶ月。この世界の人間として、生きていく覚悟を決めてから三ヶ月。
 無力であった冬や春とは違う――この夏の孝治は、十分にこの島に貢献できたはずだ。

「……良い気分だな。自分の仕事が、成果を上げるっていうのは」

 達成感に満足して、孝治は山道を歩きながら呟いた。
 この夏の経験は、確実に孝治の生きる自身に繋がっていた。間違いなく自分の仕事は、この島に貢献している。その実感が、ある。

 ――――本当に、自分の力だけか?

 心のどこかでそんな不安もあったが、いいや、と首を振って振り払う。
 今更、そんなことを気に留めるのも馬鹿らしい話だ。孝治はもう、この世界で生きると決めている。
 自分で自分に枷を嵌める必要など無い。そんな余計な雑念に気を払うことは、かえってこの世界に対する侮辱となろう。
 気負いもせず、増長もせず、着実に出来る事をやっていこう。なあに、自分なら出来るさ――

「……よし!」

 気合を入れなおして、孝治は進む足に力を込めた。




















 季節も九月の後半ともなれば、山は紅葉に包まれ、風もそろそろ冷たく感じるようになってくる。
 土管を担いで峠道を歩きながら、“清水山”の紅葉を見上げる。感慨深い光景だった。春先にラカンシェと、山歩きをしていたときの事を思い返す。

「そういえば、まだこの山の石拾いしてなかったな……」

 ラカンシェでさえ行ったことが無いという山頂を、拝みに行くのも悪くないなと、孝治は土管を担ぎなおしながら思った。
 峠を越えた下り坂。エヘンヌーイの集落は木々に覆われて見えないが、しかしわずかに見えるあれは炊飯の煙だろうか。『人の気配』を遠距離から感じ取って、孝治は口の端を吊り上げた。

 ……俺も随分と、鍛えられてきたもんだなあ。





「あ! タカハルだ!」
「おおルゥシア。今帰ったぞ」

 村の外れでルゥシアと鉢合わせ、孝治は軽く片手を挙げて挨拶した。
 二ヶ月ちょっとぶりである。久しぶりに会ったルゥシアは以前と変わりない様子であったが、成長期だからだろうか、多少体が丸みを帯びてきている気がする。

 ……最初見たときは高校生くらいに思ったが、そうか、今思うと体格細かったんだな。

 はー、と感心した吐息を漏らす孝治。親戚に女の子がいなかったため、子供の成長を客観的に観察した覚えが無い。中々に新鮮な発見だった。

「? どうしたのタカハル」
「いや、前に会った時より胸が大きくなったかと思ってな」
「胸?」

 首を傾げつつも、ルゥシアは自分の体に触れた。

「うーん、言われてみればそんな気もするけど……」
「まあ、ブラジャー無いなら測る必要も無いからなあ。髪も伸びてるかもしれないが……」
「今更伸びても分からないよ」

 刃物が貴重なためか、あまり髪を切るという発想の無い土地であった。

「まあ『お約束』はどうでもいいか。ところでカルウシパは?」
「お父さんなら今は出かけてるよ。ところでタカハル、お土産は?」

 小走りに孝治の後を追いながら、ルゥシアは聞いた。

「こんぶがあると嬉しいんだけどなー」
「すまんがルゥシア、あれは人気商品なので持って帰れなかった」
「えー! 楽しみにしてたのにー!」
「俺も何とかできないかとは思ったんだが、今年のこの島の『外貨獲得』は昆布頼りなんだよ……」

 昆布は本当に良く売れた。それこそ大航海時代の黒胡椒かというほどに。
 それは単純に扶桑人の味覚に合致したということもあるし、扶桑の商人たちに対して便宜を図り続けた孝治の立場を慮って、彼らが色を付けている部分もある。
 どちらにせよ現在扶桑から鉄製品を輸入しようと思ったら、昆布に頼らざるを得ない。僅か数ヶ月にしてそれほどの重要輸出品と化したことに、孝治自身戦慄していた。

「代わりに石鹸を持って帰ってきたぞ?」
「……セッケン?」
「それと山刀を調達してきたから、そいつで勘弁してくれ」
「え、刀を手に入れたの? それは凄いよ!」

 目を輝かせるルゥシアに、孝治は癒される。こういうストレートな賞賛は久しぶりだった。
 苦労した甲斐があったなあ、としみじみ思う孝治に、そうそう、とルゥシアは声を掛けてきた。

「さっきから物凄く気になってたんだけど。……それ、なに?」
「ん? ……ああ」

 担いでいる土管を軽く持ち上げて、孝治はルゥシアに笑いかけた。

「後で使う。ま、楽しみにしてろ」

 とりあえずカルウシパの家で土産の整理でもしながら、カルウシパの帰りを待つとしよう。
 そう言った孝治の後を、ルゥシアは追いかけた。
 何時の間にか、後を追う側が逆転してるな、と思いつつ。





 結局カルウシパが戻ってきたのは、夕方近くなってからのことであった。
 どうも罠に鹿がかかっていたらしく、その処理と輸送に時間がかかった様子だ。村としては嬉しい出来事ではあるが、そろそろ待ちくたびれていた孝治は、さっさと家を出てカルウシパに会いに行った。
 村の広場では、男衆によって今まさに鹿肉の処理が行われている。切り分けられた肉は各家庭に持ち帰られ、炉の上で燻されて燻製にされる。冬場の貴重な食料だ。
 そんな輪の中に割り込んで、孝治はカルウシパに声を掛けた。

「カルウシパ!」
「おお! 戻ったのかタカハル!」
「おうよ! ささやかだがクゥルシペから土産の品がある。後でちょいと見てくれないか!」

 肉の分配は長であるカルウシパの仕事である。集落は運命共同体なので飢える時は持ちつ持たれつだが、それでもどの部位の肉が配られるかは重要な案件だ。
 なので気を遣った孝治は、一旦こう告げるに留めた。しかしカルウシパは思いのほかこの孝治の言葉に興味を惹かれたようである。

「後でと言わず今見てやる! ラカンシェ! あと見てろ!」
「え、俺!?」

 急に重要な仕事を割り当てられて、ラカンシェは仰天した。
 村人達から値踏みする視線を向けられて、やむなくラカンシェは解体の指揮を執る。露骨に緊張したその表情に、孝治は同情を禁じえない。

「カルウシパ、大丈夫なのかあれ」
「あの鹿はラカンシェが仕掛けた罠に掛かってたから、別にあいつが分配してもおかしくないんだがなあ……」
「ああ、そういう理由か……」

 とはいえ、ラカンシェはあれで妙に小心なところがある。体育会系というか、上の人間に頭が上がらないタイプなのだ。
 年長者に睨まれている状態では、ミスを犯しかねない。早く戻った方が良いな、と孝治とカルウシパは思った。





 さて、今回孝治が渡された土産は量こそ少ないが、その価値においては中々のものである。なにしろ孝治では量を運べないため、必然的に小さく価値のある物ばかりになっていた。
 つまり、鉄製品である。

「……おいおい、こりゃあすげえな」
「だろう?」

 足早に家まで戻ったカルウシパは、夕飯の支度をするルゥシアとオクルマに挨拶を交わして土産の品に目を通し、そこで心底感心した声を上げた。
 ニヤリと笑った孝治の得意げな表情は、故無きものではない。実際クゥルシペでそれだけの働きはしたし、土産もそれに応じたものである。

「小刀四、山刀一、それに楔、タガネと……金槌?」
「ああ。本当は斧も欲しかったんだが、まあこれで多少は楽になるだろうな」
「そういえばお前、春の炭焼きで偉く苦労してたな……」

 正直新品の鋸と研ぎ用のヤスリが一番欲しかったのだが、流石にそれは無理というものだ。仕方ないので木材の切断は鉈でやるとして、ならば石割に使える工具を……と考えた結果、金槌と楔という結論に達した。
 製鉄のためには鉄鉱石を細かく砕く必要がある。また岩盤から削りだす必要も出てくるかも知れず、携帯に便利な金槌とタガネは『石探し』のお供になるのではないかと孝治は考えていた。
 ともあれ、エヘンヌーイに真新しい鉄の工具が入ったことは大事だった。特に小刀と山刀は、この島では重要な意味を持つ。小刀は木工に、山刀は狩りに――ライフスタイルの根幹に関わってくるのである。

「春の交易で刃物が手に入れられなかったってのに、よくぞまあこれだけ持ち帰ってくれたなあ!」

 予備が無いわけではないが、鋼の刃物は重要物資である。あって困ることはない。
 喜ぶカルウシパに、孝治もまた胸を張る。今年の夏の彼の働きは、まさに自慢するに値するだけのものだ。世話になった親爺殿に堂々と報告したい、そう思う。

「今年の夏、扶桑の商人たちから鉄刃物を手に入れられたのは、ひとえに俺の活躍によるものだったと言っても過言じゃないからな! 冬のあの日に俺を助けてくれた親爺殿の恩義、多少なりとも返せただろうか」
「恩だのなんだの、細かいことはどうでもいいが、たしかにこれだけ持ち帰るんだから凄かったんだろうな。いや、月人の力恐れ入った!」

 力強く膝を叩いて、カルウシパは孝治を褒めた。応えて孝治も笑顔で頷き返す。
 本当に嬉しかったのだ。この世界に落ちて九ヶ月、こうして結果を出して恩を返せることが。孤立無援だったこの場所で、新たな人間関係を築き、他人に感謝される存在になれたということが。
 築地孝治は人間として生きている――それ以上を望まない代わりに、それ以下にはなるまいと、孝治は強く決意している。

「クゥルシペでのタカハルの活躍を聞きたいところだが、流石にラカンシェを待たせているからそれは後にしよう。……ただ、戻る前に、だ」
「なんだ、親爺殿」

 ひとしきり喜んだ後、そう言ってカルウシパは居住まいを正した。
 呼応して孝治も背筋を伸ばす。改まった雰囲気でカルウシパはうやうやしく山刀を取ると、孝治に向かってずい、と突き出した。

「この山刀は、タカハルの物だ。受け取れ」
「……いいのか?」
「良いのかも何も、エルマシトもそのつもりだろう」

 少し躊躇いつつも、孝治は両手で山刀を受け取る。鞘に刻まれた彫刻は簡素な物であるが、その刀身の頑健さは確認済みである。刃渡りは四十センチほどで、以前ラカンシェの前で投げて見せた山刀よりも大振りだ。
 刀をじっと見つめる孝治に、カルウシパは微笑を浮かべて言った。

「タカハルはエヘンヌーイの客人で、エルマシトから直接渡すと角が立つだろ? だからそれは俺から与える。大切に使ってくれ」
「……有難く拝領仕る」
「はっはっは! 久しぶりに聞いたな!」

 神妙な面持ちで頭を下げた孝治に、カルウシパは大笑いした。
 横で調理をしていたルゥシアも、軽く笑って孝治に声を掛ける。

「良かったね、タカハル! 一応これで一人前の男だよ! 鹿は狩れないけど!」
「鹿は他のやつに任せるよ……俺はもっと別の仕事をする」
「ま、それが良いだろうな。人には向き不向きがある!」

 そう言ってカルウシパは腰を上げた。孝治に手招きして、

「それじゃあ鹿の解体に行くとするか! タカハル、せっかくだからそいつの切れ味を試してみろ!」
「りょーかい。……急がないと解体終わってそうだなあ」

 ともあれ二ヶ月ぶりの再会は、こうして恙無く完了した。
 しかし孝治にとっての正念場は、これからである。



[33159] プロメテウスの火
Name: ハイント◆069a6d0f ID:a5c8329c
Date: 2019/02/05 01:21
 人類史において大きなターニングポイントとなった『製鉄』であるが、化学的にはそこまで困難な技術ではない。
 最も単純な方法は、酸化鉄――砂鉄や鉄鉱石など――を炭素によって還元する方法である。ある程度の大きさに砕いてから石炭あるいは木炭と交互に重ねて燃焼させ、発生した一酸化炭素によって酸化鉄中の酸素を奪う。実験室で行うなら、それこそ中学生レベルの実験である。
 また、鉄元素は自然界に多く存在する元素の一つだ。単体では不安定なため、化合物の形で存在するのだが、しかし鉄鉱石というのは結構ありふれた石のはずだった。
 そう、そのはずなのだ。手段は分かっているし、原料の調達も多分、不可能ではない。
 では何が、孝治にとって最大の難関となっているかというと――――

「さあ、鉄鉱石を特定する作業に入ろうか!」

 テンション高く言い切った孝治に、『おー』とルゥシアは眠そうな声を上げた。
 そう、『原料の特定』である。高校時代に地学教室や科学教室で鉱物サンプルくらいは見たことがあるが、大学以降完全に文系の孝治、石の鑑定能力が少々ならず怪しかった。
 とりあえず酸化鉄なんだから赤錆か黒錆だよな、程度の認識でそれっぽい色の石を拾い続けてきたが、果たしてこの中に本当に本物があるのだろうか。並べた石を見て孝治は不安になる。

「……だが、やってみるしかない! 行動あるのみ!」
「おー」

 ルゥシアは欠伸を噛み殺しながらも律儀に返答した。
 なにしろ時刻は早朝である。前日には村の皆と燻製作りを行ったばかりで、ルゥシアは結構疲れていた。しかし孝治は一向に元気そのもので、正直ちょっと驚きだった。

 冬にはあんなに頼りなさげだったのになあ……。やっぱり男の人なんだね……。

 つくづく目を瞠る成長振りである。鹿一頭狩ったことの無い男とは思えない。
 眠い目を擦るルゥシアにどうこう言う余裕もなく、孝治はうちわを取り出した。春に炭焼きに使った物と同じ、二本の支柱と布で構成される代物だ。
 自分自身に言い聞かせるように、力強くうちわを握り締めて宣言する。

「春先に焼いた炭が残っていたので、今回はそれを使う。拾ってきた石を二つに割って、片方ずつ順番に焼いていくぞ」
「……うちわで扇いで出来るものなの?」
「正直知らん。……まあ、表面の一部が還元されれば今回は十分だからな」

 カンゲンってなんだろうな、と首を傾げるルゥシアに構わず、孝治は炭と石を積み上げていく。
 本当はレンガを積み上げて炉を作るべきなのだろうが、今回は焼くべき石の量も少なく、それにレンガのストックも無かった。余っていた木炭を惜しげもなく使い、包み込んで焼くことにする。

「多分出来ると思うんだが……やっぱり本番までにレンガ焼かないと駄目かな……」
「レンガなら子供達に作らせるよ? 土を練って四角くして、乾かしておけばいいんだよね?」
「あー、頼んで良いか?」
「任せてよ!」

 ようやく眠気が晴れたのか、元気良く返事したルゥシアに、孝治は『じゃあ頼む』と頭を下げた。
 他人に投げられる仕事は丸投げする。クゥルシペで学んだ知恵である。

「鉄鉱石が特定できたら、俺は石拾いに行かないとならん。近場ならいいんだが、遠出になる可能性もある。大丈夫だとは思うんだが……」
「え、タカハルまた出かけるの?」
「石が無いと話にならないからな。……炭は焼いた、レンガはルゥシアに頼む、それとふいごが……ああ」

 うちわでばっさばっさと扇ぎながら、孝治は天を仰いだ。

「ふいご作りも俺が直接監督しないと駄目か。……イカダ二つで袋を挟み込んで重石を載せて、てこの原理で持ち上げるための操作レバーを付ければ良いんだよな……?」
「何を言ってるか良く分からないよ……」

 本当に初雪が降るまでに終わるのだろうかと、孝治は不安になる。
 しかし、既に賽は投げられているのである。とにかくやってみるしかないと、孝治は腹を括っていた。





「カルウシパぁー!!」
「うおっ!? なんだいきなり!?」

 昼食時に家に戻っていたカルウシパは、いきなり駆け込んできた孝治に仰天した。

「どうしたタカハル! 朝早くから作業に出てたみたいだが、一体今度は何があった?」
「こいつを見てくれ!」

 単刀直入に孝治は、手に持っていた塊を床に叩き付けるように置いた。
 水で濡れたその塊を、カルウシパは手に取って見る。濡れているのは冷やすためだったのだろうか、まだかすかに熱を持つそれに、カルウシパは目を見張った。
 表面に細かな穴が開いたそれは、明確な金属の光沢を放っている――――

「石の特定に成功した」

 孝治は勢い込んで言う。

「炭の量が足りなくて還元は不完全だが、ようやくこれでスタートラインに立てる。炭焼きに人手を出して欲しい。これから先大量に必要になるぞ」
「ま――待て、タカハル。その肝心の石は、一体何処にある?」

 興奮する孝治を抑えつつも、カルウシパは深呼吸して質問する。
 『炭の調達』と『石の輸送』が最大の難所になるとは、カルウシパも孝治から何度も聞かされている。孝治は自らの知識を整理するために他人に説明して回っていて、カルウシパも製鉄計画の概略くらいは既に脳内にイメージを持てていた。

「石は重い、運ぶのが面倒だから現地に炉を作って、そこで『カンゲン』を行う。そう言っていたのはお前だろう。それでその石は何処にあるんだ?」
「すぐそこだ、カルウシパ」

 孝治は親指で南を指した。クゥルシペへの峠道の方向だ。

「峠に通じる道の麓に、断層が露出している場所がある。その下の方に大量に落ちてた赤い石が、やはり赤鉄鉱だ。こいつでいける」
「……いつの間にそんな所で石を拾ってたんだ」
「クゥルシペからの帰りにな。しかし運が良かったよ」

 近場で見つかったのは僥倖といって良い。最悪遠出してまで拾いに行く覚悟を決めていた孝治だ。日帰りで持ち帰れる距離は願っても無い。

「石の見つかった近くには、地面が平らな空間がある。あそこを切り開いて炉を設置してしまえば、一気に大量の鉄を作ることも出来るかもしれない。エヘンヌーイの基幹産業になりえるぞ」
「炉ってのは、レンガを組み上げて作るやつだよな?」
「ああ。地面に直接鉄鉱石と炭を積み上げて送風しただけでも、還元は進むようだが……やっぱり壁で囲って、ふいごで下からガンガン風を送ったほうが効率が良いと思う」

 鉄を還元するのは熱と一酸化炭素の働きだ。吹きっさらしで反応させるより、ある程度密閉した方が良いのではないか。そう考える孝治の思考は妥当であろう。

「というわけで、しばらくはレンガ造りだ。それと炭焼き。レンガは輸送の手間を省くため、現地の近くで粘土を見つけて作る。炭は軽いからいつもの場所でもいいだろう。問題はふいごなんだが……」
「ちょ、ちょっと待ってくれタカハル」

 カルウシパは慌ててストップをかけた。

「一度に言われても分からん。それに今は秋だ、人を出すにも限界がある」
「じゃあせめて、炭焼き用の木の調達だけでも手伝って欲しい。どの道冬に向けて、薪は必要になるだろう?」
「まあ、それはそうなんだが……今の時期、薪は燻製に使いたいんだよな」

 カルウシパは囲炉裏の方を見た。今は昼飯の準備中で、囲炉裏には薪が燃えている。
 その上には鮭や鹿肉が吊るされているが、これは既に燻製にされたものだ。この土地での燻製の作り方は、天井に肉を吊るしてから囲炉裏に薪を放り込んで昇る煙で燻すやり方で、孝治も何度か参加したが、室内中猛烈に煙い。

「タカハルも分かるだろうが、今は重要な時期だ。もう少し待て」
「……もしかしてルゥシアを連れ回してるのもまずかったか?」

 孝治はそう尋ねた。夏に成果を挙げたお陰で調子に乗っていたが、改めて思うと今の季節、食糧の備蓄に貢献しないのは問題ではなかろうか……。

「いや、その程度は俺の方でカバーできる。ルゥシアには色々と教えてやってくれ」
「俺もそのつもりだが……」
「頼む。これから先、うちの集落にとっての鍵は多分、タカハル、お前だ」

 急にそんなことを言われて、孝治は困惑した。

「そういってもらえるのは嬉しいが、俺は元々客人だ。それに俺の知識はそろそろ打ち止めで、鉄以上のものは……」
「知識とか知恵じゃない。お前には“貫禄”がある」
「貫禄?」

 考えたことも無かった、という顔をした孝治に、カルウシパは言い聞かせるように言った。

「何事か起きた時、他人の顔を見ないでじっと考え込むだろう? そういう部分が重要なんだ」
「それはまあ、最初に自分の頭で考えるタイプではあるが」

 そこが重要だと言われると、そうなんだろうか、としか答えられない。
 孝治が他人の意見を参考にしないのは、元々の性格によるものでしかない。自分の行動の責任を自分でとるために、他人の意見には流されない、という。自分でも以前から協調性に欠けるという自覚はあって、そこを褒められても違和感しかなかった。
 しかしカルウシパは、そこを買っているのである。

「人間は不安になると口数が多くなるだろ? そこで沈黙を守れるのは、肝が据わってる証拠だ」
「……そうかなあ」

 このような原始的な集落では、周囲との協調は生き残るための必要条件で、全ての人間が等しくその能力を身に付けている。非常時にまず周囲の様子を伺うのも、その延長線上のものである。
 しかし集団には指針を示す人間が必要だ。リーダーであれ参謀役であれ、そういった人間は軽々に他人の顔色を伺ってはいけない。そしてカルウシパは孝治に、その為に必要な貫禄を見出していた。
 面倒見が悪いためリーダーには向かないが、知恵者として意見を求められる立場にはなりえる。それがカルウシパの孝治への評価だった。

「それにタカハルはエルマシトに評価されてる。クゥルシペはウチと違って大所帯だ。鉄作りに人を出す余裕もあるだろう」
「……エヘンヌーイで製鉄は無理だと、カルウシパはそう思っているのか?」
「お前だってそうだろ?」

 言われて孝治は沈黙した。
 エヘンヌーイは結構な交通の要所であって、夏にはクゥルシペに向かう他部族が宿場扱いで集まってくる。彼らに鉄製品を卸して集落を栄えさせよう、というのが孝治が描いていた計画だった。
 だが、

「……人手、そこまで足りないのか」
「炭焼きの季節が秋、ってのが大きい。それに春に作業してるのを見たが、ここはエヘンヌーイ(沼辺)だ。木を大量に切れば……」
「……獣達が困る」

 目を閉じて、孝治は湖畔の風景を思い浮かべる。確かにこの辺りの風景は、日本なら道東にでも行かなければ見ることの出来ない絶景だ。この風景を壊すのは、たしかに罪悪感がある。
 それに以前にも考えたことだが、寒冷地では森林資源の回復が遅い。そして製鉄は、大量の木を必要とする――――

「率直に言おう。タカハルの力を存分に振るうには、エヘンヌーイは適してない」

 ズバリと言われて、孝治は渋面を作った。

「この村には、愛着もあるんだが」
「それは分かってるし、そう思ってもらえて俺も嬉しい。だが事実だ。タカハルは、クゥルシペで働くべきだ」

 この島に留まる限りはな、とカルウシパは一応前置きした。
 その上で、こう言った。

「そしてもし、クゥルシペで働くなら、ルゥシアも連れて行ってくれないか」
「ルゥシアを?」

 孝治は聞き返した。いや、カルウシパの娘であるルゥシアをクゥルシペに常駐させるのは、集落同士の関係を考えるならおかしな話ではない。
 それにルゥシアは前から孝治の仕事の手伝いをしていて、炭焼きやレンガ造りのノウハウも持っている。物覚えも早く、作業助手としては結構優秀だった。彼女がクゥルシペで活躍してくれれば、集落の評価は上がる。先を見据えるなら悪い判断ではない。
 レンガの製造はクゥルシペの若い衆にも仕込んでしまっているが、製鉄関係のノウハウはこれから作る。今から叩き込めば多少のアドバンテージにはなるか……などと考えつつも、そういう意味じゃないな、と孝治は感じ取っていた。

「連れて行くのは構わないさ。ルゥシアも好奇心旺盛だ。港の仕事にもすぐ慣れると思う」
「だろうな。あいつはこの村に置いておくには、少しばかりはねっかえりだ。……ただまあ、そういう意味じゃなくてだな」

 ゴホン、と咳払いしてカルウシパは言った。

「その、なんだ。……あいつのことを、嫁に貰っちゃくれないかと思ってだな」



 その一言を、孝治は妙に冷静な気分で聞いていた。
 なんとなく。……なんとなく、そんな気はしていた。七月のラカンシェの発言といい、“伏線は張られていた”気がする――――



「……?」

 違和感を覚えて、孝治は頭を掻いた。
 そんな様子をどう捉えたか、カルウシパは『ああいや』と前置きして続けた。

「今のタカハルは難しい立場だ、無理にとは言えないが……」
「いや、そうじゃないんだが……」

 慌てて孝治は手を振った。ようやく思考が現実に追いついて、背中に脂汗が滲むのを感じる。

 ……結婚、結婚だと? 俺とルゥシアが?

 自問自答して、孝治は頭を抱えた。どうにもイメージが浮かばない。
 ルゥシアは妹のようなもので、そういう目線で見たことはない。それは実年齢がまだ12歳だか13歳だかということもあるが、なによりこの世界に来て最初の家族だったという、立ち位置の問題が大きいのである。
 頭では理解できるのだ。異邦人が現地に根付くためには、現地の人間と結婚してしまうのが手っ取り早いということも。しかし基本がオタクの孝治は、結婚というものを必要以上に仰々しく捉える傾向があった。

「……しばらく考えさせてくれ。この話、ルゥシアには?」
「してない。まあ、あいつは嫌がらないと思うぞ。タカハルより親しい男も居ないはずだからな」
「いつの間にそんなことに……」

 この土地の感覚だと、ルゥシアがそろそろ結婚適齢期なのは、たしかに孝治も知っていた。
 嫁入り前の娘を連れ回していた事実に気付いて、孝治はいよいよ頭を抱えたのである。





「……どうしたの?」
「いや、なんでもない……」

 その日の午後の話である。粘土を練って成形しながら、孝治はルゥシアから目を逸らした。
 ここは沼――あるいは湖の近くである。先ほどまでは鉄鉱石の鉱脈の近くに炉を作る予定だったが、エヘンヌーイでの本格的な製鉄が不可能という事情を鑑み、せいぜい人間の肩の高さくらいの小型の炉で、実験的な製鉄装置を組み上げるに留めることとしていた。
 よくよく考えると製鉄は火を使うため、山の方で行うのは中々リスキーなのだ。山火事になると困る、というのはカルウシパの指摘で、孝治は自分の浅慮をつくづく悔いていた。まだまだ未熟である。

「結局水辺が一番安定なんだよな。粘土を練るための水もあるし、ここには粘土もちょうど有るし」
「村の近くだから作業も楽だしね。石を運ぶのは面倒そうだけど」
「今回は少量だから、最悪俺一人で運ぶさ。……男連中には、ふいごの製作に協力して欲しいしな」

 例によってふいごも小型の模型を作って試行錯誤した孝治である。基本構造は確定したが、現物サイズだと製造にどれだけ労力がかかるかは未知数だった。
 猟期が終わってから雪が降るまでの一時期、そのタイミングを見計らって協力を仰ぐつもりでいる。夏に仕留めたアザラシの皮は、オクルマの手によって立派な皮袋となっていたが……二頭分の皮を丸々使った結果、妙に大きくなってしまっていた。
 正直もう少し小さくても良かったかな、と孝治は後悔していたが、そんなことを言ったらラカンシェやオクルマに悪いので口を噤んでいる。まあ来年、クゥルシペに持って行けば無駄にはなるまい。

「木々を結び合わせるロープワークの技術、俺はほとんど持ってないからな……早く覚えないと」
「私も一緒に練習するよ! ……ところでタカハル、なんでこっち見ないの?」

 むー、と頬を膨らませるルゥシアは可愛かった。ほんの数日前なら、孝治もまったりと彼女を愛でていただろう。
 しかし、今となっては虚心で居られないのである。今までは子供相手の対応で済ませてきたが、結婚するかもしれないとなれば女性として扱わざるを得ない。その程度の分別は孝治にもある。
 最低でも学生時代、部活の後輩に接していた程度の扱いはしなくては……などと考えて孝治は首を振った。

 ……そういえば後輩女子の扱い、結構酷かったな、俺。

「はあぁー……」
「……疲れてるの? 今日は休みにしようか?」
「そんな暇はないよ、ルゥシア……」

 ルゥシアの名前を呼ぶ時、少しだけ舌がもつれた気がする。そんなことを考えて孝治は視線を泳がせた。
 割と何事にも動じないタイプの孝治であるが、恋愛経験はほぼゼロだ。自分でもビックリするほどナイーブになっているのを感じる。
 せめて製鉄を成功させるまで待っていてくれれば……などとカルウシパを恨んでも仕方がない。明らかにこれは、共同作業で仲を深めろという意図である。孝治としても、いつまでもこの状況に甘んじているつもりもない。早く慣れなくては。

「よし、ルゥシア。握手しようか」
「なんで!?」

 そして煮詰まると極端な行動に走るのが孝治だった。
 ……こういうちょっと間違った行動力が、異世界で生き抜く原動力となっている部分もあるのだが。










 さて、こうして九月も過ぎ去って、再び調達したレンガを厚く積み、孝治はまず炉を仮組みしてみた。
 野火焼きのレンガを円形に積み上げる。内部の直径は五十センチ程度、高さは孝治の胸の高さだから、せいぜい百二、三十センチ程度だろう。耐火レンガを焼くのが面倒だったため、高温に耐えるために外壁は厚くする。再利用は考えなくていい。
 隙間は泥で埋めてしまえば、還元作業中に勝手に焼きしまるだろう……そう判断して、一旦このレンガは倉庫に仕舞い込んだ。製鉄作業は一ヶ月以上先で、この間雨ざらしにするのは少々不安がある。
 その次は炭焼きを行ったが、炉を二回分満たすに十分な量の炭を確保したら、これはすっぱりと打ち切った。大量に使っても使い道が無い。この地の燃料は薪が基本だ。煙が出るのにも意味があって、安易に炭に置き換えるのは孝治も不安だった。
 炭焼きが終わったら、原料である鉄鉱石を村まで運んだ。孝治がひたすらタガネで砕き、一日だけ人を出してもらって一斉に運ぶ。近いといっても集落からは一時間以上は離れていて、少人数で何度も往復すると熊が怖い。
 こうして炉、木炭、鉄鉱石が揃った所で、孝治は一旦作業を中断する。ふいごの製作には人手がかかる。食料の調達が一段落する十一月の下旬までは、無理にルゥシアと二人で進めても効率が悪い。そういう判断だった。
 こうして十月の十日になる頃には、孝治は村の男達に混じって、狩猟に参加することとなったのである。





「今回も全く当たらなかった……」

 鹿狩りから戻って火に当たりながら、孝治は消沈したように呟いた。山歩きには慣れたものの、流石に野生の鹿は俊敏だった。そうそう矢に当たるものではない。
 既に日は落ちている。十月も半ばともなれば日照時間はかなり短くなっていて、この土地の生産性の悪さを肌で実感させてくれた。照明用の燃料に余裕など無く、夕飯が終わったらさっさと寝るのが基本だ。今使っている火も夕飯の残り火で、本当に厳しい土地だと孝治はうんざりする。まだ六時前なのに。

「気を落とすな、誰だって最初はそんなもんだ。それにタカハルは十分に役に立ってる」
「解体にはかなり慣れてきたと自分でも思ってる。しかしそれとこれとは別だろう」
「ま、そりゃそうだな」

 カルウシパは軽く頷いた。獲物に矢が当たらない悔しさは、狩猟経験者なら共感できるものだ。

「接近して射る役、まだ任せてもらえないのか? 俺の腕だと、手負いで逃げる鹿には到底当たらんぞ……」
「接近する所までは、今のタカハルでもできるとは思う。止まっている鹿にも一応は当たるだろうが、しかし急所に当てられないだろうからなあ」

 毒矢を使えば別であるが、あくまで鹿は食用である。毒はあまり使いたくないし、使うとしても弱い物だ。どちらにせよ急所に当てなくては効きが悪い。
 なので鹿を見つけたら、最も弓の腕に長けた人間が接近して矢を放ち、急所を狙う。これで倒れればしめたものであるが、現実には致命傷に至らないことも多い。そのため保険として、鹿の逃走系路上に射手を配置して追い込んだりする。孝治に割り振られた仕事はこれだった。
 弓の技量からいって妥当ではあるものの、当たらない矢を射る作業は気分のいいものではない。憂さ晴らしに肺を切り刻む――食用にならない鹿の肺は、細かく刻んでカラスに与える――手にも力が入るというものだった。

「まあ、訓練だと思って我慢してくれ。正直今のお前の弓の腕じゃ、任せられん」
「……夏の間、弓も練習しておけば良かった」

 クゥルシペでは投石や相撲、ナイフ投げの練習はしていたものの、弓の練習は怠っていた。
 他の人間が持たない技能を持つことは、別に無意味なことではないが……日本だろうが異世界だろうが、やはり『一般常識』は、優先して身につけておくべきなのである。





 さて、このように弓矢の腕には良いところのない孝治であるが、何も弓矢で獲物を追いかけることだけが猟ではない。
 翌日には気を取り直して、別のやり方を試みていた。

「カルウシパ、どうだ?」
「……ふむ」

 出来上がった仕掛け弓を囲炉裏の炎にかざして、カルウシパは目を細めた。
 そう、狩猟とは弓矢で獲物を追うだけではない。というよりも人類の狩りは、むしろ仕掛けによって獲物を捕らえる方が主流である。それはこの地でも同じことだった。

「弦の張りはまあまあだな。『矢筒』の出来は……ま、大丈夫か」
「本当か?」
「ここが命だ。嘘なんか言うものか」

 この土地で使われる仕掛け弓には毒矢が用いられるが、設置した毒矢の毒が雨で流れないよう、また矢の直進性を高めるために筒状の覆いをかける。基本的に単純な構造の仕掛け弓だが、防水性を持たせる必要のある『矢筒』の部分は、結構手間がかかるのである。
 手先の器用さに自信のある孝治も、作りながら何度か注意を受けていた。ここが問題ないならまあ大丈夫か、と、孝治は肩の力を抜く。

「慣れない作業ってのは疲れるもんだな……。いや、この島に来てからずっと、そんなことの連続だったが……」
「おいおいタカハル、気を抜くのは早いぞ。むしろ仕掛け罠はここからが本番だ」
「分かってる、分かってる。設置する場所、タイミング、隠し方……だろ?」

 横に置いていた設置用の支え木を持ち上げて、孝治は言う。
 知識だけは、空いている時間にひたすら叩き込まれてきているのだ。後は実践あるのみである。

「タヌキ箱、鳥バサミ、ウサギ糸と作り方だけは習ってきたが、このままだと仕掛ける間もなく冬になってしまう。早く実地で教えてくれないか」
「随分とやる気じゃないか、タカハル」
「そりゃあそうさ。自力で獲物を捕らえない事には、いつまでもルゥシアにグチグチ言われる羽目になるからな」

 この孝治の物言いにカルウシパは苦笑する。狩りができない狩りができないと言い続けたルゥシアの言葉を、孝治も結構気にしていたのか。
 まあ男として気持ちは分からんでもないなと、カルウシパは孝治の肩を叩いた。

「ようし、じゃあその意気だ。明日早速、仕掛けに行こうじゃないか。いい加減ルゥシアを見返してやれ」
「ありがたい。これで『小弓』は返上だな」
「代わりに『置き弓』になるだけじゃあないか? そもそも『小弓のタカハル』なんて、もう誰も言って無いぞ」

 懐かしい話に二人揃って笑う。まだ孝治が村に馴染んでいなかった晩冬、そんなことをいわれていた時期もあった――そんな思い出深い笑みだった。





「……だからなんで、毎度毎度オレがテメエの指導担当なんだ」
「ラカンシェが一番上手いからだろ。歳の近いのもあるだろうし」
「納得いかん……」

 ブツブツと言いながらも、ラカンシェの獣道を進む足取りは確かである。罠を仕掛けるにちょうど良いポイントというのは大体決まっていて、彼らにとっては迷うような場所ではない。

「カルウシパも世代交代を考えてる節があるからな。お鉢が回ってくるのはむしろ光栄じゃないか?」
「……オレとテメエでこの村の将来を担えってか?」
「そうみたいだな。……ここだけの話、ルゥシアとの結婚を打診されてる」

 声を潜めてそう言った孝治を、ラカンシェは驚いた表情で振り返った。

「おいおいマジか。そうなるんじゃないかとは思ってたが、話が早すぎるぜ」
「……そういえばアザラシ狩りの時、ラカンシェも言ってたな」
「忘れんな。……しかし、そうか」

 へえへえと頷きながら、立ち止まったラカンシェは孝治を値踏みするように見た。狭い獣道で髭面の男とお見合いする羽目になった孝治、居心地が悪くなって視線を逸らした。

「なんだよ、文句あるのか?」
「文句なんかねえが……いや、テメエが正式に村の人間になるなら、多少は態度を改めてやらねえとな」
「……今まででも十分、仲間として扱われてた記憶があるが」
「おいおい、どの辺がだ?」

 不服そうな顔をするラカンシェに、孝治は『いや、まあ……』と言葉を濁した。薄々そうじゃないかとは思っていたが、やっぱりこいつツンデレなんだろうか。そんな思考が頭を過ぎって、それも嫌だな、と自分で否定する。誰得だった。

「それで結婚はいつになるんだ?」
「知らん。……個人的には色々と、迷う所もあるんだが」
「迷うようなことじゃないだろ。月に恋人でも残してきたのか?」
「……いや……」

 孝治は僅かに返答を躊躇ったが、ラカンシェは気にせず続ける。

「だったらいいじゃねえか。テメエは狩りの腕は半人前でも、クゥルシペでは一人前以上の働きをしたんだろうが。今更女一人養う甲斐性が無いとは言わせねえぞ」
「ああ、そうか。そういう考え方になるのか……」

 家族を養う甲斐性があるなら、さっさと結婚して子供を作る。そういう思考になるのはむしろ当然の事だなと、孝治は納得して頷いた。
 なにしろこの土地では人口が少ない。『人口は国力』という標語を孝治は何処かで見たような記憶があったが、そんな言葉を思い出すまでも無く、身内は多いほうが良いと、この地で生活して痛感していた。

「……というかラカンシェ、お前こそ独身だろうに。結婚しろよ」
「オレのことはいいじゃねえか! なんか毎回タイミングずれてんだよ!」
「タイミング……?」

 ラカンシェの過去の女性関係も気になったが、尋ねるより先にラカンシェが足早に歩きを再開してしまったので、慌てて孝治は追いかけた。

「ほら、ここだここ! ここに仕掛けろ!」
「って、近っ! 設置作業しながら話せばよかったじゃないか。なんで設置場所のすぐ手前で話し込んでたんだ」
「その時々で最適なポイントってのは変わるんだ。覚えとけ!」

 フン、と鼻を鳴らして腕組みするラカンシェに、それはそうなんだろうが、と返しつつも釈然としない孝治である。とりあえず持ってきた罠を助言を受けながら設置しつつも、世間話風にラカンシェに相談する。

「しかし本当に良いものなのかね、ルゥシアを俺が娶っても。これを言うのも今更だが、俺は月人としてやるべきことがあるんだが」
「少なくとも表立っては、誰も反対しないだろうよ。ルゥシアは一部から人気があったから、妬む奴は出るかもしれねえが……しかしテメエはクゥルシペに行くんだろ?」
「そうだな。エヘンヌーイで狩りをするより、クゥルシペで扶桑の商人たちと取引してる方が性に合ってる」
「だったら関係ねえな。どうせルゥシアも連れて行くんだろうし、こっちに戻る頃には子供も出来てるだろ」
「子供、ねえ……」

 ……今のルゥシアで産めるのだろうか。
 孝治はそう危惧するが、体格的にはルゥシアより小さい成人女性だって珍しくはない。帝王切開が必要になるほどではないだろうと、適当に納得しておいた。
 ローティーン相手に子作りするのはどうよ、という倫理的な問題は放り投げておく。この手の良識は異世界では邪魔なだけだ。出生率向上だけ考えるなら、出産適齢期になったらガンガン産むのがベストだろうし。……つくづく合理的なのが孝治だった。

「……やっぱイメージ湧かないなあ」
「なっちまえば何とかなるもんだろ。ところでこの話、他にして良いのか?」
「いや、ルゥシア本人にもまだ言ってないはずだ。伏せといてくれ」
「どうせなら早く言った方が良いと思うぜ? ……というか、俺の方が先に話を聞かされるってどういうことだ」

 他に相談できる奴が居なかったんだよ、という一言を飲み込んで、孝治は黙々と作業を続けた。










 罠の設置にもコツがあって、足跡やフンから獣の行動パターンを把握して的確に設置する必要がある。
 最初は他人に指示されながら設置するのがいっぱいいっぱいだった孝治も、数をこなしているうちに段々と要領が掴めてくるもので、暦が十一月に入る頃には、一人でも問題なく罠を仕掛けられるようになっていた。
 これはラカンシェがわざわざ時間を取って、根気強く教えてくれたお陰である。本来この辺りの文化では、狩猟の技術は先達と一緒に作業をしながら覚えていくものなのだが、孝治には何しろ時間が無かった。
 十二月にはクゥルシペに行くことになるため、それまでに最低限の狩りの技術を教えておかなくては、後で孝治に恥をかかせかねない。そう言ったカルウシパの真意は明らかにルゥシアとの結婚を見据えたものだったが、孝治もこの頃にはいい加減腹を括っていた。この世界に骨を埋めるなら、遅かれ早かれ所帯を持つ日は来るのである。
 未だルゥシアは知らないが、とっくにこの縁談はカルウシパとラカンシェにとっては規定事項で、他にも村の大人達で勘の良い者は薄々察している様子だった。逃げ遅れたな、と孝治は冗談交じりにラカンシェにこぼしたものである。
 というわけで花婿修行の意味合いを帯び始めたこの狩りの訓練であるが、これが中々に難しかった。仕掛けに獲物がかかるかどうかは運の要素もある。それでも一ヶ月という期間は、短くはないはずだったのだが……。





 日課となった山の巡回で仕掛けた罠を確認して、孝治は溜息を吐く。
 吐いた息がわずかに白く見えるのは、既に冬に入り始めているからだろう。木々の紅葉もすっかり落ちて、山道もそろそろ冬景色に近づいている。下草も枯れて垂れ下がっていて、仕掛けた罠も風景から浮き上がっていた。
 いくらなんでも、ここまで獲物がかからないというのも珍しい話だった。カルウシパ達曰く、今年は全体的に山の実りが少ないらしいが……それにしたってこれは酷い。一ヶ月近く仕掛け続けて、全くかからないとはどういうことなのか。
 一応点検だけ済ませて、孝治は村に戻った。この巡回作業も獲物を期待してのものではなく、孝治の狩猟技術の鍛錬のためという意味合いが強い。
 だが、獲物のかからない罠をひたすら点検して回るのも空しい話だ。目的が分かっていても徒労感はあるし、なにより――――

「あ、タカハル。今日はどうだった?」
「残念ながらいつも通りだ」
「そっかー……」

 村に戻るや駆け寄ってきたルゥシアにそう返事して、孝治はこっそりと溜息を吐いた。
 ルゥシアとて、今年の不猟は知っている。……しかしそれでも毎日繰り返されるこのやり取り、結構孝治の心にのしかかっていた。

「まあ、気にすることはないよ! 獲物がかかるかどうかは時の運だし、それにタカハルの良さは狩りの腕じゃないしね!」
「……ふむ、じゃあ俺の良さってのはどの辺だルゥシア」
「え?」

 フォローするルゥシアに、ふと気になって尋ねてみる。
 これは完全に悪戯心の発露だった。孝治としてはルゥシアを嫁に取る覚悟で罠の見回りをしているのだ、これくらいは聞いても罰は当たるまい。

「えっと……とりあえず物知りだし、頭は良いよね」

 指折り数えてルゥシアは答えた。

「それと働き者だし、面白い話をしてくれるよね」
「基本的に能力ばっかりだな」

 いや、仕事が出来るかどうかは、全人類共通で男の価値ではあるのだが。

「せっかくならもう少し、俺がやる気を出すような褒め方をしてくれないか?」
「具体的にはどんな感じで?」
「そうだなあ。『カッコイイ』とか『頼りがいがある』とか言われるとグッとくる」
「……その二つは違うと思うなあ」
「えっ」

 切って捨てられて、孝治は結構ショックを受けた。
 しかしルゥシアは『あ、でも』と前置きして、

「一緒に居て楽しいよ。少なくとも私は」

 にっこり笑って、こう言った。





「ラカンシェ! 罠を増やせないか!?」
「いきなりなんだ!?」

 村の保存食も十分な量が確保できたため、そろそろ暇なラカンシェである。孝治が飛び込んできて驚いた。

「なんとかこの冬の間に獲物を獲りたいんだよ! 毎日毎日ルゥシアに猟果を聞かれる俺の身にもなってみろ!」
「知るかぁー!!」

 横になったままのラカンシェに蹴り飛ばされて、孝治は土間に倒れた。
 しっかりと受身を取っているのでダメージはないが、冷静になる程度の効果はあった。起き上がって口を開く。

「……なんとかならないか?」
「あのなあ……罠の設置場所には限界があるし、作るのだって労力が要るだろうが。もう冬になるってのに、一日中罠を作り続ける気か?」
「ううむ……」

 腕組みして唸る孝治に、先ほどの興奮した様子を思い出してラカンシェは笑った。

「そんなにルゥシアに獲物を持ち帰れないのが辛いのかよ? 所帯じみてきやがったじゃねえか!」
「む……。そう見えるのか?」
「それ以外の何に見えるってんだ。以前のテメエなら、獲物が獲れなきゃもっと別にやることを見つけてたんじゃねえか? それを狩りにこだわるとは、らしくねえぜ?」
「……たしかにそうだ」

 というか、そろそろ製鉄に取り掛かる時期に来ている。この期に及んで狩猟に没頭するとは、はっきり言って不合理だった。
 ルゥシアの笑顔に高揚して思わず暴走してしまったが、孝治の本領はたしかに狩猟ではないのだ。……そう分かっていてもなお、今一つ納得できない部分があるのだが。
 そんな孝治にニヤニヤ笑って、ラカンシェはからかうように言う。

「まあ世間の父親ってのは、そういうもんじゃねえのか? 夫としての自覚が出てきたことを喜べよ」
「夫……なのかなあ?」
「夫だろ。まあルゥシアはまだ子供だ、父親や兄のような心境かもしれんが」
「ああ、そっちの方がしっくり来るな」

 どちらかというとこの感情は『妹萌え』だ――そう考えて孝治は納得する。この期に及んでこんなことを考えられる辺り、本当に図太いというか、いささかねじが飛んでいる。

「しかし、そうだな。狩りはそろそろ打ち止めにするか……」
「諦めるのか? って、ああそうか。雪が積もる前にクゥルシペに行くんだったな」
「そうなんだよ。それで、その前に製鉄をやらないとならん」
「鉄、ねえ……前に作った塊は見たが、あそこから刃物に出来るのか?」
「金槌はあるからな。岩を金床にして加熱してぶっ叩けば、棒状には出来るはずだ。そこから刃物にするのは難しいだろうが……」

 一応、刃物の基本的な作り方は知っている。炭素を混ぜる、水で焼入れをする……しかし扶桑からの輸入品に匹敵する高品質なものは作れないと、最初から孝治は諦めていた。

「少なくとも、鏃と彫刻刀くらいは作れるだろう。山刀に関しては、正直作れる気がしない」
「鉄の鏃か、中々良いじゃねえか」
「俺も鏃が狙い目だと思う」

 骨や石で賄えるため、鉄の鏃は扶桑から輸入しない。扶桑政府も武器の輸出には慎重で、扶桑の商人たちも鏃は扱いたがらない。下手に大量に輸出したら、お上に目を付けられかねないのである。
 だからこそ孝治は、鏃を主力商品にするつもりだった。競合品が無いため質が悪くても売れるだろうし、商人たちから反感を買う可能性も低い。絶対に彼らの『商売敵』になるわけにはいかなかった。
 それに万が一の場合、鉄の、あるいは鋼の鏃は侵略者に対する強力な武器となる。誰にも言っていないが、孝治が製鉄技術の確立を急ぐのにはこういう理由もあった。

「そうだな……明日から鉄作り、始めるか」
「相変わらず行動が急だな。とりあえず人手が要るようなら、俺が暇な時に集めろよ? テメエはなんというか、人望がねえからな」
「……肝に銘じとく」

 ……長の娘を娶ろうって人間に人望が無いって、大丈夫なんだろうか。

 不安になりつつも孝治は頷いた。
 まったく、持つべきものは友人である。










 さて、こうして第一次製鉄計画の最終段階は開始された。
 季節はすでに十一月も半ばを過ぎていて、気温は低い。白い息を吐きながらも孝治たちは、まず最初にふいごを作ることにした。
 中核となるのは、一抱えもある大きなアザラシ皮製の袋だ。はっきり言って今回の実験的製鉄には不都合なほどに大きいが、今更縫い直すのも面倒だった。
 ふいごというのは基本的に、袋を板で挟んで、膨らませたりしぼませたりして風を送る装置だ。なのでまず、この巨大な袋を二つの大きな板状のもので挟む必要があるが、これには細長い丸太で枠を組み、木の枝などを張り巡らせた物を使う。
 材料となる木材は、孝治が罠の見回りをしながら地道に拾い集めていて、特に不足は無かった。この辺りは流石に経験を積んで段取りが良くなっていた。
 ……なので問題となったのは。

「おいタカハル、やることは分かったが、この丸太を縛るための縄は何処にあるんだ?」
「縄なんぞその辺の蔓で足りるんじゃないのか?」
「今、秋だよ?」

 ラカンシェとルゥシアの指摘に、孝治は沈黙せざるを得なかった。
 一応枯れたつる草を編んで使ってはみたものの、強度的にも不安があって、結局村の倉庫にあった、強靭な背負い縄を一時的に借りる形で使用することになる。
 スリングでも使ったこの背負い縄は、樹皮の繊維を編んで作る。強度は十分であるが、しかし本来は消耗品ではなく日用雑貨だ。重い丸太を縛り上げることで痛めてしまうのは、正直かなり勿体無い。
 とはいえ他に方法も無いので、使う縄が少なくてすむよう、孝治は慎重に木材の組み方を調節した。こうして出来上がった二つの枠は、炉の設置予定場所まで運び、そこでアザラシ袋と縫い合わせる。
 次にふいごの操作レバーを作るのだが、これは案外簡単に済んだ。三本の丸太を縛り上げて三脚とし、その上にもう一本の丸太を水平に乗せ、一端はアザラシ袋の上の木枠と繋ぎ合わせて連動して動くようにする。レバーと三脚の固定の必要はない。
 最後は袋の先端に土管を差し込んで縛り、こうしてふいごの設置が完了したら、倉庫から持ち出したレンガで炉を組み上げていく。
 このような苦労を経て、なんとか初雪が降る前に、製鉄装置の準備は完了したのである。





「……長かったなあ」

 朝の太陽の光に照らされた炉を眺めて、孝治はしみじみと呟いた。
 現在、炉にはルゥシアが木炭と鉄鉱石を交互に詰め込んでいる。彼女がやりたがったので任せたが、ちょっと自分でもやりたかった気もする。炭と鉄鉱石の配分は重要なはずだった。
 四月の宣言から八ヶ月近く。ようやくここまで辿り着いたのだ――そんな感慨に、孝治は眩しいものでも見るかのように製鉄装置を眺める。

 ……たったこれだけの装置を作るのに、本当に苦労したもんだな。

 モノに満ち溢れた現代日本。そこで育った孝治にとっては、『工具も材料も無い』というのは全く未知の体験だった。あるのは材料以前の原料、そして己の知恵と五体――まったく文明というのは偉大なものだ。
 次第に遠くなった日本への郷愁を蘇らせて立ち尽くす孝治に、今やすっかり相棒となったラカンシェが近づいてくる。今回の製鉄においては、彼はルゥシアと並んで助手の立場にある。

「おいタカハル、これで本当に出来るんだろうな?」
「出来るはずだ、ラカンシェ。ルゥシアの作業が終わったら火をつけて、後は炭が燃えている間中、ひたすらレバーを動かし続けるくらいだ。まあ……見物客が多いから、いざとなれば人手には困らないだろう」

 ぐるりと孝治は見回した。流石に皆興味があるらしく、今日は大盛況である。
 しかしその中にカルウシパが居ないのが、孝治としては残念だった。彼は今族長として、付近の集落との連絡に奔走していた。本格的な冬の訪れを前にした連絡会は、厳しい冬を乗り切るための保険である。

「……分かっちゃいるが寂しいもんだなあ。親爺殿にも見て欲しかったんだが」

 とはいえ、これ以上日にちを遅らせるわけにもいかなかったのである。十二月の迫るこの時期、いつ初雪が降ってもおかしくない。初雪が根雪になる可能性は低いが、しかしエヘンヌーイとクゥルシペの間には峠がある。
 多少の積雪なら強行突破できなくも無いが、足を滑らせて怪我でもしたら厄介だ。カルウシパも数日中には戻るはずで、そうなったらすぐにでもクゥルシペに向かわなくてはならない。

 その時はルゥシアも連れて行くことになるのか。……随分遠くに来たもんだな。

 正式に夫婦となるのはもう少し先のことだろうが、クゥルシペでは同棲生活を送ることになる予定だ。
 女性経験は皆無に近い孝治であるが、この世界に来て以来、環境の変化にはいい加減慣れてきている。意外なほどに冷静であった。
 最初こそ戸惑ったものの、二ヶ月あれば覚悟も定まる。恋愛感情と呼べるものかどうかは分からないが、今では孝治もルゥシアとの結婚生活をイメージできるようにはなっていた。
 とはいえそんな孝治に、ラカンシェは近づいてきてもう一度先の質問を繰り返す。

「……もう一度聞くが、成功するだろうな? これだけ注目集めて失敗したら、面倒なことになるぞ」
「面倒? ……あ」

 ラカンシェの言わんとするところを悟って、孝治は少し硬直した。
 これだけの人手を借り、村中の注目を集めての作業である。ここで失敗したらエヘンヌーイでの孝治の評価は地に落ちる。いや、彼の本領はクゥルシペでの外交であって、別に一回製鉄に失敗したくらいでどうこう言うことはない、ないのだが……。

 そうか、これが終わったらすぐクゥルシペだ。失敗したら再挑戦する時間はない……。

 いつぞやのアルカシトの発言ではないが、孝治の立場は製鉄の失敗一つで吹き飛ぶような脆弱なものではない。しかしそれはあくまでクゥルシペでの話である。
 ルゥシアの帰属はあくまでエヘンヌーイだ。ここで村人から失望されれば、結婚話は流れるだろう。

「……どうしようラカンシェ。今更ながらに緊張してきたんだが」
「タカハル、テメエ本当に危機感足りてねえ所あるよな……」
「タカハルー! 大体こんな感じでいいかなー!」
「ちょ、ちょっと待ってくれルゥシア、今行く!」

 慌てて炉のほうに駆け寄って、孝治は内部を覗き込んだ。

「ちゃ、ちゃんと交互に並べたか?」
「うん、混ぜれば良いんだよね?」
「たしかそのはずだ。石の大きさは事前に揃えてあるし、あとは……」

 頭を働かせてはみたものの、事前に思いつく限りの準備はしてある。
 鉄鉱石は事前にある程度の大きさに砕いているし、使用する木炭と鉄鉱石の比率、量はあらかじめ決めてある。鉄鉱石を炭の下に敷くような真似をしない限り、還元は進むはずだ。

「……よし」

 覚悟を決める。これは孝治にとって、この世界に来て二度目の正念場だ。
 失敗は出来ない。しかしそれを自覚してなお、後退しない程度の肚は出来ている。
 それに。

「いいの?」
「ああ。火を点ける準備をしてくれ」
「上手くいくかなー」

 ルゥシアは期待と不安の混じったような声を上げていたが、しかしそれでも。

「大丈夫だと思うぞ」
「本当?」
「ああ。……どうしてだろうな、」

 “失敗はない”

 孝治はそう、確信していた。





 ……とは言ったものの、実際には作業は難航した。
 まずはふいご。レバーを動かすたびに三脚がグラついて、安定させるために三人がかりで押さえ込む必要がでた。
 さらにそのレバー自体が何度も三脚から外れそうになって作業が止まり、またふいご本体に乗せていた重石の重さが足りなかったのか、送風の勢いが弱い。仕方ないのでこれまた重石の代わりに両脇に人を置き、人力で押し潰すようにして――――

「レバー要らねえよな!?」
「本当だよ! 三脚撤去して直接手で動かすぞ!!」
「えー! 苦労して作ったのに!」

 というわけで地面に固定していたわけでもない三脚は即座に撤去され、レバーの切り離しを行った上で、板を直接三人がかりで上下させて送風するようにした。結局最後は力技である。
 動きが大きいため体力の消費は激しいが、幸い人手だけは大量にあった。見物人も動員して、ひたすら交代で送風を続けると、安定した送風によって赤熱した木炭がゴウゴウと音を立てて、炉の上部から炎を吹き上げた。

「凄い炎……」
「俺も驚きだ。人間サイズの小型炉でも、風を送るとこんなことになるのか……」

 この島ではお目にかかれない光景に、ルゥシアが感嘆の声を上げた。他の皆もまた同様であり、同時に孝治も感動を覚える。
 製鉄炉の吹き上げる炎――――これこそ、文明の火である。

「……理系だったら、もっと色々作れたのかなあ」
「おいタカハル! そろそろ交代だ!」
「ああ、分かった!」

 こうして送風を続け、午後には炎も落ち着いた。人手はあるといっても結構な重労働で、孝治が終了の合図をした頃には、村の若者達は疲れ果てていた。
 これで失敗したら本格的に恨まれるな、などと思いつつも孝治は火の消えた炉を覗き込む。

「……どう?」

 不安そうに見守るルゥシアの視線を感じつつも――火箸で灰をかき回していた孝治は身を震わせた。
 灰の中から取り出された紛れも無い金属の輝きに、感極まった声を上げる。


「成功だ!!」


 掲げた鉄の塊は、太陽の光を反射して銀色に輝いていた。

 ――――こうして孝治の一年目の大目標は、一応の決着を見たのである。










 とはいえここで手に入れられた鉄はスポンジ状で、放っておけばすぐに錆びて駄目になることは目に見えていた。保管するにもある程度形を整えてやる必要がある。
 炉内の温度が鉄の融点に達しなかったのだろう。孝治も予想はしていたのでぬかりはなく、還元作業の翌日には準備を整えていた。

「というわけで今日はこのスポンジ状の鉄の塊を、叩いて棒状にする作業を行う」

 水辺の岩場に余ったレンガで火箱を作り、さらに余った木炭で火を熾す。その中で昨日手に入れた鉄を加熱して、岩を金床代わりに叩いて成形するつもりだった。
 腕まくりして意気込む孝治に、見学するルゥシアはふんふんと頷く。今日の作業はルゥシアと二人きりだ。鍛冶仕事もこの島ではお目にかかれないものではあるが、孝治はずぶの素人である。下手な作業を見せて先入観を持たれたら逆に面倒だった。

「大工用なのが不安だが、とりあえず金槌はある。岩も平面というわけではないが、とにかくやってみよう」
「大丈夫? また見落としがあったりしないかな?」
「そうそう失敗してたまるか」

 孝治は自身ありげにそう言ったが、ルゥシアは不安だった。ふいごの製作の時といい、孝治が意気込んでいるとなんだか失敗しそうな気がする……この短期間でフラグというものを覚えたルゥシアである。
 一方の孝治は孝治で、案の定『鍛冶仕事』という響きにテンションを上げていた。彼は中学時代、『刀匠になりたい』と進路志望に書いて担任に頭を抱えさせた男である。それはもうやる気だった。
 火箸を使って火箱の中から熱された鉄塊を取り出す。熱され赤くなった塊を火箸で押さえたまま、左手で大工用の金槌を構えた孝治は、勢い込んで振り下ろした!


「せりゃぁぁあああああああっっづぅぅうううううう!!!!!!!!!!!」
「タカハルーっ!?」


 そしてそのまま飛び散った火花で火傷して、十一月の沼に転がり落ちた。





 そんなトラブルに見舞われつつも、鍛冶仕事は続行された。一度着替えに戻った孝治は、水で塗らした毛皮を手に巻きつけて、飛び散る火花から守ることにした。
 数をこなしていく内に孝治も作業に慣れてきて、午後には数十本の鉄の棒がずらりと並べられた。夕方までまだ時間があると見た孝治は、実験的にこの中から一本を選ぶと、先端を鋭く打ち伸ばしてみる。
 カンカンと針状に引き延ばされた鉄棒は、どんどんと細く長く伸びていった。バランスをとるために根元の側も叩いていって……。

「……何作ってるの?」
「鏃のつもりだったんだが……」
「串にしか見えないよ」

 ……ひたすら叩き続けた結果、出来上がったものはルゥシアの言うとおり、串にしか見えないものとなっていた。

「針状に引き延ばしたら、途中でタガネで切り離すべきだったんだな……それが分かったのが収穫か」
「それはいいけど、どうするの、これ」
「……肉を刺して焼こう」
「肉を焼くのにわざわざ鉄の串って……あ、そうだ」

 ぽんと手を叩いてルゥシアは言った。

「ちょっと貸して?」
「何に使うんだ?」
「ふふふー。ちょっと向こう向いててね」

 渡された串を受け取って、ルゥシアはニマニマと笑った。首を傾げつつも孝治は言われたとおり、ルゥシアに背を向ける。
 わさわさとルゥシアが身じろぎする気配。

「えーっと、ここがこうで、たしか……」

 ……何やってるんだ?

 気になりつつも孝治は、意識的に背後の気配から気を逸らした。こういう時に焦っても意味が無い。
 仕方ないので晩秋の山の風景を眺めることにする。すでに葉の落ちた木々は雪の訪れを待っているようで、孝治にこの世界にやってきたばかりの頃を思い出させた。
 あと一ヶ月もしたら、あたり一面は雪に覆われるだろう。孝治がこの世界に来たのは今年の一月だった。その季節が近づいている――――

「いいよー」

 物思いにふけっていた孝治に、ルゥシアが声を掛けた。
 ようやくか、と振り返る。視線の先のルゥシアは軽く横を向いていて、常は隠れているうなじの辺りを孝治に見せ付けるような姿勢だった。
 そして隠れているはずの首筋が露出しているのは、

「じゃーん! どう? 扶桑風だよ!」
「……なるほど、かんざしか」
「反応薄いよタカハル!」

 感心して頷く孝治に、ルゥシアは抗議の声を上げた。確かにこのリアクションは酷い。
 後頭部で髪を纏めたルゥシアはたしかに目新しかったが、驚いてみせるタイミングは喪失してしまっている。どうしたもんかと孝治は少し考えて、当たり障りの無い反応を返した。

「そうやって髪を纏めるのもアリだな、うん。雰囲気が変わる」
「そうかな? 綺麗に見える?」
「見える見える」

 もう一言くらい付け加えるべきだろうかとも思ったが、気の利いた言葉も浮かばなかった。これまでの人生で碌に女の子を褒めたことが無いのが痛い。
 それでも、嫁になる相手である。孝治は咳払いしてこう続けた。

「ああ、その……可愛いよ? ルゥシア」
「えっ……どうしたの、タカハル」
「いや、その」

 あまりにも唐突だっただろうか。怪訝な目で見られて孝治は視線を逸らした。一方的に意識している立場というのは、実にやりにくい。

 ……まあそれも、もう少しの辛抱か。

 鉄作りに成功した以上、カルウシパが戻ったら婚約発表だろう。今までが一方的に意識していた分、これからは有利になる……はずだった。
 まあルゥシアの事なので、大して深刻に受け止めない可能性もあるのだが……。

「ま、まあいい、気に入ったなら使え。力を入れたら曲がるから気を付けろよ」
「あ、くれるんだ。ありがとうタカハル! 大事にするよ!」
「……一応言っておくが、すぐ錆びるからな?」

 髪の油である程度はコーティングされる気もするが、なにしろほぼ純鉄だ。あっという間に錆は浮くだろう。
 それでもルゥシアは嬉しそうに言った。

「錆びたって平気だよ。だってタカハルから貰ったものなんだし!」
「そ、そうか?」

 その笑顔に、孝治も釣られて笑みを浮かべる。

「当たり前だよ、一生大事にする! タカハルがあんなに頑張って作った物なんだから!」
「そんなことも……あるな。すげえ頑張ったな、俺」
「うんうん、タカハルは頑張ったよ。レンガを作って炭を焼いて、アザラシを狩って石を拾ってふいごを作って、他にもクゥルシペでも色々やってたんだよね?」
「……まあな」

 異世界生活最初の一年、確かに色々なことがあった。
 真冬に雪原のど真ん中に落とされた時はどうしたものかと思ったが……それももう十ヶ月という時間に隔てられた、過去の話となっていた。
 最初の冬、ひたすら自分に出来ることを探した。食事が合わなくて腹を壊したこともあった。屋内で樹皮から糸を紡いでいたこともあった。ルゥシアに物語を聞かせたり、弓の訓練を見てもらったこともあった。
 春になってようやく目標を掲げた。製鉄を大目標として始めた『技術開発』は、最初にレンガ作りと炭焼きから始まった。石灰、石鹸……そしてようやく今、こうして鉄の精製に成功したのだ。

「そうだな、これは俺の一年の集大成みたいなもんか」
「うん!」

 頷くルゥシアを、孝治は無性に抱きしめたくなった。
 別に良いかな、と思う。きっと彼女は嫌がるまい。それにもうすぐ、彼女にも婚約の事実は伝えるはずだ。

 だ、大丈夫だよ……な? この十ヶ月のご褒美ってことで……。

 らしくもなくどぎまぎしながら、孝治は手を伸ばす。
 もちろん、クゥルシペでの仕事には決着がついていない。扶桑との交渉も、アトラスの問題も、すべてはこれからだった。

 だがそれでも、こうして、“結果は出た”。“成果は上げた”。“成功した”。

 その上で、この一年間の努力の結晶を、ルゥシアに渡せるというのは、きっと、きっと素晴らしいことで。
 そしてこの成功を糧に、彼女を娶れるというのは。多分、とても、素敵なことだろうと。孝治は“喜びを露にして”ルゥシアを――――




















           見られている。




















 伸ばした手を――――孝治は止めた。

「? どうしたの、タカハル」
「……い、いや、なんでもない」

 ……やっぱりやめておこう。こういうのは、うん、順番とか色々とあるしな。

 いやまあ、物作りの成功を祝って抱き合うくらいは、別にしても良いような気がするが……奥手なんだよと、自分に言い聞かせる。
 やはり彼女居ない暦二十年――もう二十一年か? の孝治としては、こういった異性との触れ合いに抵抗があるのだ。

「作業も終わったし、そろそろ戻ろう。……うん、寒くなってきたしな」
「言われてみればそうだね。もう太陽もだいぶ下がってるし」

 テキパキとルゥシアは炭を片付けた。すっかりと作業助手として成長している。これならクゥルシペに行っても、物作りは任せられそうだった。
 孝治も作った鉄棒を風呂敷よろしく布で包んで、さて帰ろうかと立ち上がった。火箱にしていたレンガは放置する。回収しても使い道が無い。

「カルウシパ、そろそろ戻るかな」
「そうだね、今日あたり戻っててもおかしくないと思うよ」

 村までの道を歩きながら、そんな会話を交わす。
 快活に笑うルゥシアだが、しかしカルウシパが戻れば婚約発表だ。その時彼女はどんな顔をするやら……そう思うと孝治は緊張を覚えた。

 ……嫌がられることはないはずだ、多分……。

 掌に浮かんだ汗を拭う。そうだ、これは緊張の汗だ。結婚という人生の一大事を前にして、自分は今緊張している――――

「タカハル? どうしたの?」
「……え?」
「なんだか顔色、悪いよ?」

 心配げに見上げるルゥシアに、慌てて孝治は心配ない、と両手を振った。

「あー……昨日は製鉄の成功で興奮して、あんまり眠れなかったからな。きっとそのせいだろう」
「タカハルはいっつも、そうやって一人で突っ走るよね。子供じゃないんだから自分でちゃんとしなよ」
「……はい」

 指摘されて孝治は項垂れた。
 なんというか、なんだ。今からこんなことで、大丈夫なのだろうか。
 しかし実際、“頭の中に靄のかかったような感覚”があるのも事実である。そしてこの土地では、体調不良は命に関わるのだ。

「そうだな、うん、これからはちゃんとしないとな」

 製鉄の成功やルゥシアとの縁談で浮かれていたのかもしれない。軽く顔を叩いて孝治は気合を入れなおした。
 これからは一人ではなくなる。所帯を持つからには今まで以上の働きをしなくてはならないし、下手を打った時痛い目を見るのは自分だけではない。それを思うと身の引き締まる思いになる。

「よし、じゃあさっさと帰ろう。いっそ競争するか?」
「へー。タカハル、私に勝てると思うの?」
「そろそろ良い勝負できると思うぞ? 足の長さが違うからな」

 春先ならいざ知らず、今のならこの土地の環境に適応して体力が付いている。体格差も男女差もある以上、そうそう負けることはないだろう。
 そう思った孝治の発言に、しかしルゥシアは、む、と眉間に皺を寄せた。

「それは聞き捨てならないよ。じゃあ勝負してみる?」
「いいだろう。じゃあゴールは村の入り口までだ」

 乗っかって、ルゥシアとの勝負を決める。
 こういう戯れをする機会も、じきに無くなる。この時孝治はそんな予感がしていた。
 軽く膝を曲げて、駆け出す体勢をとる。不適な笑みを浮かべたルゥシアも呼応して膝を曲げる。

「よーし。じゃあヨーイ……」

 やる気十分に掛け声を上げながら、思う。そういえばルゥシアと勝負をしたことはなかったような気がするな、と。
 冬からずっと、二人は教え合い協力し合う関係だった。互角の勝負というのはきっと、初めての体験で――そしてこれが最初で最後になるのではないかと、孝治は漠然と感じ取っていた。

「ドン!」

 だったら、悔いの無いように、と孝治はスタートの合図を出して。
 そうして二人揃って、駆け出した。



 この時の予感は正しかったと――ずっと後になって、孝治は思い出すことになる。




















「やった! 私の勝ち!」
「畜生っ……」

 枯れ草に覆われた木々の間を駆け抜け、村の入り口まで走り切った二人だった。
 まずルゥシアが到着し、数秒遅れて孝治が着く。蓋を開けてみれば結構な大差で、孝治は少々ショックだった。

「序盤のリードをあっさり奪い返されるとは……」
「ふふーん。タカハルもまだまだだね!」

 荒い息を吐いてへたり込む孝治を、まだまだ余裕綽々にルゥシアは見下ろした。
 見上げる孝治は悔しげな表情ではあるが、手に持った包みを掲げて負け惜しみを吐く。案外大人気なかった。

「一応、俺は荷物の分ハンデがあったんだからな」
「むむ、言われてみれば……。でも、勝ちは勝ちだよね」
「……否定はしない」

 溜飲を下げた孝治はあっさりと引き下がった。これにかえってルゥシアは嫌な顔をして、そっぽを向いて言う。

「でもタカハル、もっと足を鍛えないと駄目だよ? もうすぐ冬だけど、来年は……」
「おーい! タカハル! ルゥシア!!」

 村から聞こえる声に、ん? と二人は揃って顔を向けた。

「あ、お父さん!」
「カルウシパ? 帰ってたのか……」

 広場に居るのはカルウシパである。数日振りに見る顔に、二人は歓迎の声を上げた。
 だがその周囲に、弓を持った男達が集まっているのに気付き、揃って怪訝な顔をする。

 ……なんだ?

 疑問を持ちつつもどっこらせ、と腰を上げて、孝治はルゥシアと共にカルウシパの傍まで寄る。見ればカルウシパも弓を手に、険しい顔をしている。
 重苦しい雰囲気に不安を覚えつつも、聞いた。

「どうしたカルウシパ、もうすぐ夕方だぞ」
「いや……少し面倒なことになっててな」

 険しい表情のままに、カルウシパはそう答えた。

「タカハルは、クゥルシペに行くんだよな?」
「ああ、そのつもりだったが」
「しばらく出発は見合わせてくれ」
「……どういうことだ」

 孝治は不安を押し殺すように低い声を上げる。
 ルゥシアもまた、痺れを切らしたようにカルウシパに聞いた。

「何があったの?」
「熊だ」

 対するカルウシパの答えは、簡潔だった。ここまで言われれば大体の察しは付く。

「熊? ……この季節にか」
「ああ」

 孝治とてこの島で十ヶ月を過ごしている。熊の習性についても多くを学んでいて、今の時期が熊の冬眠期であることも知っていた。
 冬眠に失敗した熊は、食料が取れなくて凶暴化する。そしてこの物々しい雰囲気――おおよその予想は付く。
 そんな予想を裏付けるように、カルウシパは険しい顔で山を睨む。落ち着いた、しかし固い声で、

「熊が人を襲った、山向こうの集落で。……すでに三人、食われてるそうだ」

 築地孝治、異世界生活一年目。
 最後の“イベント”は、こうして向こうからやってきた。



[33159] 『人食い』
Name: ハイント◆069a6d0f ID:a5c8329c
Date: 2019/02/07 04:31
 地球において熊という生き物は、暖かい地域では小さく、極地に近づくほどに巨大化する傾向がある。
 その法則がそのままこの世界に当てはめられるかは分からないが――しかし孝治の知る限り、この島に生息する熊は、大きい。
 例えばエルマシトとの初対面の時に孝治が被っていた毛皮は、余裕で地面に引きずるほどの長さであった。それでもまだ、この島では決して大型というほどのサイズではない。
 孝治が熊を見た経験はさほど多くはないが、春先の解体にクゥルシペの市場で見た毛皮――体長三メートル近いものもあったはずだ。

「そうだな、でかいのは三メートルもあり得る。……今回の『人食い』がどの程度かは分からないが、見た奴の話だと、それなりにでかいみたいだな」

 一旦家に戻って、熊について訊いた孝治に、カルウシパはこう答えた。
 この島に統一された長さの単位など無いはずなのだが、『三メートル』という表現が通じているのは、これまたチート能力の恩恵である。ここ最近は孝治も意識していなかったが、相変わらずかゆい所に手の届く能力だった。

「そんな大きさじゃあ、茅葺小屋なんか一撃だろう。家に入って身を守れるものなのか?」
「だから寝ずの番を立てる。今夜は絶対に家から出るなよ、動くものがあったら迷わずに毒矢で射るからな」
「例の肉が腐る奴か」
「ああ、一番強い奴だ。半端な威力じゃない、当たればすぐに死ぬぞ」

 人肉の味を覚えた熊というのは、およそ人食いの獣の中でも最も凶悪な生き物だ。
 知恵、移動能力、怪力、そして巨大な体躯と毛皮による防御力――それらを突破して仕留める為には、こちらも強力な武器が要る。この地で使われる鏃は石器や骨器で貫通力には多少難があるが、毒矢であれば問題はない。
 毒矢は肉を汚染するため、通常の狩りではそこまで強力な物は使わない。しかし相手が人食い熊では、そんな悠長なことは言っていられないため、即死級の毒を使うのである。

「……そこまでやるってことは、その熊はこっちに来てるのか?」
「その可能性が高い」

 もちろん、犠牲を出した村の狩人たちが人食い熊を許しておくわけがない。すぐに討伐隊を編成して、熊の痕跡を追いかけた。
 どうやら相手は相当に賢い熊だったようで、その痕跡は途中でぷつりと途絶えていたが、しかしルートからして山を越えているだろうと踏んだ狩人たちは、山を越えてこちら側の集落に注意を促し、協力を呼びかけて回っていた。
 人食い熊というのはこの島の人間にとって共通の敵だ。何が何でも追いかけて殺さなくてはいけない。挨拶回りの途中で彼らと遭遇したカルウシパも、当然協力することを決めて村に戻ってきたのである。

「とにかく、熊を仕留められるまでは山狩りだ。人の味を覚え、しかも追跡を振り切るほどの大物を、放っておくわけにはいかない」
「それまでは村を出ないほうが良いんだな?」
「そういうことだ。『人食い』は待ち伏せを覚えてる。正直、熟練の狩人でも危ない」

 紛れも無く熟練の狩人であるカルウシパがそこまで言うのだ。相当にやばい手合いなのだろう。
 もちろん、ここに至って孝治にできることなどほとんどない。だが、何もせずに待っているだけというのも性に合わないし、それに漠然とした不安もある。何でもいいから仕事をしていたかった。

「手伝えることはあるか? 一応、仕掛け弓の材料はまだ少し残ってるが」
「仕掛け弓か……。いや、使えるものは使うべきだな。設置しに行くのは俺達がやるから、タカハルは家で弓作りを頼む」
「了解。……正直助かる」

 いや、とカルウシパは首を振った。彼とて熊狩りに参加できない孝治の不安は見抜いていたが、弓作りが無意味でないことも確かだ。単なる気休めではない。

「私は?」
「ルゥシアはタカハルを手伝ってやってくれ」
「うん、分かった」

 男同士の会話が途切れた隙を見計らって声を掛けてくるルゥシアに、カルウシパは端的にそう告げて、立ち上がった。

「それじゃあ、俺は今夜の打ち合わせをしてくる。夕飯には戻るが、お前らは家から出るなよ」

 そろそろ太陽の赤くなる頃だった。




















 夕飯を終えた残り火を灯りに、孝治は仕掛け弓の製作に勤しんでいた。
 すでに太陽は沈み、外は夕闇に包まれている。カルウシパは夜間の見回りを見越してもう眠ってしまっていたが、到底眠れるような心境ではない。
 元々現代日本人だった孝治は夜更かしにも慣れている。今夜は火の番をしながら、遅くまで手を動かしていようと考えていた。オクルマやルゥシアも同じ気持ちなのか、手持ち無沙汰に作業を眺めていた。

「……お母さん」
「大丈夫よ、ルゥシア。今はお父さんだけじゃなくてタカハルも居るもの」
「お役に立てるかは微妙な所ですが」

 とはいえ、養ってもらった恩がある。命を救われた恩は、命懸けで返さなくてはならない。その程度の仁義は孝治にもあった。
 そもそも自分は一度死んだ身である。今更惜しい命ではない。恩人のために死ねるなら、むしろ本望というものだった。

 ……いや、こういう考え方は良くないな。

 勝手に先走りそうになる発想を、孝治は戒めた。
 そもそも現状では、熊の足取りは掴めていないのである。山を越えたのは間違いないらしいが、一言で『山のこちら側』と言っても集落は複数あって、こっちに来るという確証はない。
 そうだ、“確証は無い”のだ。自分で勝手に先走って、勝手に覚悟を決めるなど、滑稽な話ではないか。


 ――――たしかに、確証は無いな。“現在開示されている限りの情報では”。


「……痕跡が消えてる、っていうのが、不気味だよね」
「え?」

 思考に没頭しかけた孝治を引き戻したのは、ルゥシアの声だった。

「……熊ってのはそういうもんだろ?」
「それはそうなんだけど、でも……」

 ルゥシアは言葉を迷うように視線を泳がせた。

「なんていうのかな……人食い熊って、人を恐れないはずなんだよ」
「まあ、人間を弱いと思って襲ってくるわけだからな」
「それにこの時期に冬眠に入ってないってことは、お腹を空かせてるはず」
「そうでなくても、今年は山の恵みが少なかったからな。……いや、だから冬眠に失敗したのか?」

 孝治自身も獲物の少なさを嘆いていたが、もしかすると熊もそうだったのだろうか。だとすると多少の親近感を感じないでもない。

「だったら、もっと積極的に人を襲ってもおかしくないはずなんだよ。普通人食い熊はある集落に狙いを付けたら、そこを狩場にするって聞いたことある」
「……そういえば、熊が大移動して追跡を振り切るのは、手負いになった時くらいだったか」
「うん。だけど山向こうの集落の人たちは、まだ一矢も当ててないっていうし……」

 嫌な感じがする、とルゥシアは語った。孝治としては反論の言葉も無く、無言で弓の製作を続行する。
 ルゥシアが感じている不安を、熟練の狩人であるカルウシパが気付いていないはずもない。こういう場合はリーダーの判断に黙々と従うべきである。

「それどころか、追撃に出た狩人が返り討ちにあってるんだよ? なんか、私が知ってる熊とは行動が……」
「ルゥシア、少し落ち着け」

 饒舌になる気持ちは痛いほどに分かるが、もういい加減夜中だ。それに作業にも集中できない。

「不安な気持ちは分かるが、カルウシパが寝てるんだ。ゆっくり寝かせてやれ」
「そうよルゥシア。タカハルの作業の邪魔をしないで、もうそろそろ寝ましょう?」
「……うん」

 オクルマに促されて、ルゥシアは素直に頷いた。一緒にごそごそと布団の用意をする。起きていても出来ることなど無いのは、分かりきったことだ。

「私も寝るわ。火の番をお願いね」
「了解。おやすみなさい」

 オクルマもまた布団に入って、孝治は一人、囲炉裏に薪をくべながら作業を続行した。





 家人の寝静まった茅葺小屋の中、孝治は丸めた木の皮に糸を巻いていく。
 矢筒の製作はこの秋に何度も繰り返した作業だ。何も考えなくても自然に手は動く。それはつまり、考え事をする余裕があるということだ。

 ……人食い熊、か。

 熊の性質については孝治も教えられていたし、山歩きの途中で見かけたこともある。糞の鑑定や足跡を追跡する技術も、一通りは学んでいた。
 追われている熊は追跡を振り切るため、様々な手段で足跡を撹乱する。『止め足』は代表的な技術で、一度付けた足跡をそのままバックして戻り、途中で足跡を残さないように横に逃げる技だ。よほど注意深く足跡を観察しないと、これを見破ることは難しい。
 これが手負いになると、逆襲の技に変わる。深手を負った熊は遠くまで逃げる体力を失うため、追撃者を振り切るのではなく反撃して生き残ろうと考えるようになる。
 この時熊は、足跡を残した脇の茂みにじっと伏せて追跡者を待つ。熊を追う狩人は足跡に注意しているため、狩人が行き過ぎたところを背後から襲うのである。

 今回の熊は、その技を使って狩人を仕留めたらしいんだよな……。

 ルゥシアと同じ危惧を、孝治もまた抱いていた。
 通常人食いの熊は人を恐れず向かってくるため、かえって仕留め易いという。熊は基本的に人を一律に恐れる。一度人間を殺した熊は自信過剰となって弓矢の脅威を忘れ、狩人に対しても堂々と向かってくるようになるらしい。
 一度人食い熊が出れば、周辺の狩人は総出で毒矢を使って山狩りに出る。警戒を忘れた熊など良い的で、一流の狩人にとっては組しやすい相手だそうだ。
 だが、今回の熊は人間への警戒を忘れていない。その上で明確な意思を持って、人間を食料とするために行動しているように、孝治には感じられた。

 冬場の食料として、人間の方が鹿より狩りやすい……みたいな判断か?

 だとしたら思い違いだ。たしかに殺すだけなら人間は楽に殺せるが、その反撃は執拗で周到である。
 この十ヶ月を通して、孝治は自然界における人間の恐ろしさを痛感していた。人間は執念深く、また本人が死んでも別の人間が遺志を継ぎ、目的を達成する。
 集団として共有され継続される意思――それが人間の凄味だ。これはどんな野生動物にも無い、人間のアドバンテージだった。

 ……そうだな、俺も村の一員として、自分の仕事を果たさなくては。

 嫌な感覚を振り切って、孝治は再度、己の立ち位置を見定めた。
 五体は満足に動く。戦うための力はある。この世界で生きてきた経験も、この世界に対する愛着も、この世界の人々との絆もある。
 最初の冬、孝治は生きるのに必死だった。苛酷な環境と直面した命の危機に対して、全力で生き足掻いた気概を思い出せ。

「俺は、生きると決めたんだ」

 そう、『辞退』するタイミングは既に通り過ぎている。
 すでに孝治は、この世界に居場所を作ってしまったのだ。今更別の世界の記憶を持ち出して、他人のふりなどできるはずも無い。
 ルゥシアを見る。彼女に至ってはこれから家族になろうかというのだ。ならば孝治がこの地で果たすべき責任は、十分すぎるほどにある――

「ああ、そうだ。来るなら来い。今更この地で生きることに、俺はもう迷いなど――」

 そしてそう呟いた孝治は、次の瞬間。




「熊だ! 大きいぞ!!」




 見張りの男達の怒号を聞いた。










「しまった、フラグを立てちまったか!?」

 自身の迂闊な発言を後悔しつつも、作りかけの矢筒を壁際にぶん投げて、孝治は慌てて立ち上がった。
 寝る前だったので、山刀はまだ腰に着けてある。弓を取るべきか一瞬悩んだが、毒矢でなければ効果は薄い。それよりもカルウシパを起こさなくては――

「お父さん起きて!」
「くそ、なんだ!? 熊か!」

 孝治が動くより早く、目を覚ましたルゥシアが叩き起こしていた。やはり不安で眠りが浅かったのだろう。対して熟睡していたカルウシパは、『寝るべき時に寝る』を実践していたわけで大したタマだった。
 枕元の弓を引き寄せたカルウシパを横目に、孝治は耳を澄ませて外の様子を探る。目を覚ました村民のざわめき声。しかし派手な物音は聞こえなかったし、最初の一声以降追加の呼び声も無い。
 外の様子を見に行こうと、山刀を引き抜いて外に出ようとした孝治を、カルウシパは制止した。

「待て、タカハル。まだ出るな」
「あ、……そうか、そうだな」

 言われて孝治は動きを止めた。恐らく今、外の狩人たちは殺気立っている。下手に外に出たら誤射されかねない。

「壁から離れて家の中心に寄れ。ルゥシアはタカハルの弓を持て。タカハルは山刀をそのまま使え」
「背中合わせで四方の壁に向き合う?」
「そうだ」

 孝治の確認にカルウシパは頷いた。
 熊の膂力ならば茅葺小屋などどうと言う事はないが、基本的に熊は慎重な生き物だ、壁越しにいきなり突っ込んでくるような真似はしない。必ず先に壁を破壊して、目視で獲物を確認してから襲ってくる。
 全員言われたとおりに構える。オクルマはカルウシパの山刀を借りていた。
 数分、緊張した時間が流れて……。

「カルウシパ、来てくれ」
「エクトトか。外は?」
「熊は逃げた、負傷者も居ない」

 その言葉に、ルゥシアはふぅ、と一息吐いた。へたり込みそうになるのを孝治は支える。オクルマも気が緩んだのか山刀を下ろしていたが、孝治はまだ構えを解く気にならなかった。腐っても黒帯である。残心の習慣が残っていた。

「タカハルは残ってろ。ちょっと行ってくる」
「分かった。俺も外に出る準備をしておいた方が良いか?」
「……そうだな」

 カルウシパは頷く。近くに熊がいるなら警戒レベルを上げる必要がある。賑やかし程度の歩哨でも、居る方が良い。
 出て行ったカルウシパを見送って、孝治は外套の準備をした。










 はたしてその夜、孝治は見張りとして朝まで過ごすことになった。
 昇る朝日に欠伸を噛み殺し、握り締めていた弓を持ち直す。元は日本人とはいえ、この世界で十ヶ月も過ごせば生活リズムも慣れる。徹夜は身に沁みた。

「……おい、大丈夫かタカハル。交代してもよかったんだぞ」
「ラカンシェか、おはよう。……そうは言っても、俺は山狩りには出られないからな」
「テメエの仕事は見張りになるぞ」

 そう言われて孝治は、ああ、と一つ頷いた。

「やっぱり熊だったか」
「ああ。見間違いなら良かったんだがな……」

 昨夜の茂みの中に、熊の足跡が残っていた。疑いようも無く大物で、しかも人に近づくことを恐れていない……。

「ほぼ間違いなく、例の『人食い』だろう。朝飯を食ったら足跡を追跡する。テメエは寝てろ」
「男衆総出でか?」
「いや、大半は残すそうだ。はっきり足跡が残っている以上、ゾロゾロ行っても人手の無駄だ。それに万が一、熊が戻ってきたときに備える必要がある」
「大変なことになったなあ……」

 遠い目をして、孝治はぼやいた。
 本当に、大変なことになってしまった。昨日はルゥシア相手にドギマギしていたはずなのだが、一夜にして臨戦態勢だ。展開が早過ぎる。

「クゥルシペ行き、何時になるかな……」
「なあに、すぐに仕留めてやるよ」

 肩を落とす孝治の背中を、ラカンシェは励ますように叩いた。

「お前とルゥシアの話も、今のままじゃ進展のしようがないからな。とっとと終わらせてやる」
「……ラカンシェ、そういう態度は命取りになるぞ」
「ハン、人の心配している暇があったら、テメエこそ自分の役割を果たせよ」

 ラカンシェは鼻を鳴らしたが、昨夜迂闊にフラグを立ててしまった孝治は、ラカンシェのこの態度は死亡フラグに思えて仕方なかった。

「……ラカンシェは山狩りに出るのか?」
「ああ。オレが行かないでどうする」

 ……物凄く、嫌な予感がする。
 とはいえ実際、ラカンシェが出ないで誰が出るのかという話である。誰かがやらなくてはいけない仕事なら、優秀な人間にやらせるしかない。
 孝治はもう、この世界の人間なのだ。この世界の道理を曲げる論理は、すでに捨ててしまっている。

「本当に、気を付けてくれよ……」

 くれぐれも念を押して、孝治はラカンシェと別れた。
 ――今の孝治には、これ以上言えることはない。




















 さて、そんな孝治の不安はさておき、こうして山狩りは開始された。討伐隊はカルウシパを筆頭に、若手壮年から選りすぐった狩人七名。
 熊狩りというのは数日がかりの仕事になる。季節もそろそろ冬で、食料の携帯は必須だった。差し当たり背負えるだけ、十日分ほどの食料を持って行ったが、足りるかは不安な数字である。
 孝治を含む残りの男たちは、交代で弓を持って集落の見回りをする。例の強力な矢毒を孝治は当初おっかなびっくり扱っていたが、三日も経つ頃にはすっかりと慣れてしまっていた。

「ふぁあ……」

 カルウシパ達が出発して四日目の朝、例によって夜番を務めていた孝治は、恒例の朝日を見ながら欠伸をしていた。
 初日の夜の騒動以降、熊の気配は感じられない。いや、野生の熊が気配を消したら、そう簡単に見つけられるものでは無いのだが……居残り組による集落近郊のパトロールは継続されていて、彼らが痕跡を発見できない以上、今は安心して良いだろう。
 追跡隊からの連絡も無いが、案外今頃は、熊も遠くに行ってしまっているのではないか――そんな楽観を持ちたくなる程度には、この数日は平穏だった。

「もしそうなら、いいんだがな……」

 熊は獲物に執着する性質がある。一度この集落を下見に来ていた以上、楽観は出来なかった。
 と、交代の人間の気配を感じて、孝治はそちらに視線を向ける。視線を受けた年若い少年は、軽く片手を挙げて挨拶した。

「タァカル兄、代わるぜー」
「マンナクルか。……そのタァカルって表現、あまり流行らせないでくれるか?」
「なんで? いーじゃん別に」

 交代に来たマンナクルに、孝治は苦言を呈した。
 十六歳のこの少年は、どうも万事に適当な所がある。孝治に対して物怖じせずに話しかけてくるのはそれが良い方向に出た結果だろうが、しかし名前を略されるのは、孝治としては気に入らない。

「俺の名前は月人としての名なんだよ。下界風に改名されるとアイデンティティに関わる」
「ツキチタカハルって言いにくいじゃん。すげー言いにくいじゃん。ツァキ・タァカルでいいと思う」
「ツキチじゃねえ築地だ」

 大体カルウシパ達は、問題なく『タカハル』と呼んでいる。たしかにこの地の人々には耳慣れない名前だろうが、そこまで発音しにくい訳ではないはずだ。

「それに、どちらかというとタカァルだろう。なんでタが伸びるんだ」
「突っかかるなあ、タァカル兄。機嫌悪い?」
「徹夜明けなんだから当たり前だ。……まあ、いいや。帰って寝る」
「おやすみー」

 ふらふらと孝治は家路に着いた。
 カルウシパもラカンシェも居ないとなると、必然的に他の男衆との絡みが多くなる。元々孝治は人付き合いが苦手で、今までそれほど親しくなかった相手と話しを合わせるのも、中々億劫な話だった。
 クゥルシペでの幾多の交渉を乗り越えて多少は成長したかと思っていたが、やはり基本的な性格は変わらないものである。仕事がらみならともかく、それ以外の世間話は苦手なままだった。
 もう少し、会話のレパートリーを増やすべきだろうか……そんなことを考えていると家に着いたので、孝治はおもむろにルゥシアにこう言った。

「あ、タカハルお帰り」
「ああ、ルゥシア。今日も可愛いな」
「タカハルが壊れた!?」

 気持ちは分からないでもないが、失礼極まりないリアクションに、孝治は顔を顰めた。
 別に冗談のつもりではなかったのだが……しかし本当ならとっくに済んでいた筈の結婚の話も、熊騒動で棚上げになっている。カルウシパが熊狩りに出ているこの状況で、そんな話を持ち出すわけにもいかない。

「ああ、嫌だ嫌だ。とっとと熊を仕留めないと、クゥルシペにも行けやしない」
「そうだよね。そろそろ雪も振る頃だし」

 孝治の真意など知る由もなく、ルゥシアはのほほんとそう返した。

「タカハル、朝ごはんは?」
「食わん。昼に温めなおして食うから、とっといてくれ」
「わかったー」

 ルゥシアにそう言い置いて、孝治は布団に入った。
 この騒ぎが一刻も早く終わりますように、と――そんな、虫のいい考えを浮かべつつ。










「大変! 大変だよタカハル!!」
「――!? なんだ、どうした!?」

 眠りからたたき起こされて、孝治は仰天した。
 悲鳴じみたルゥシアの叫び声。常は気丈な彼女の狼狽した様子に、意識が急速に覚醒する。
 すわ熊かと体を起こし、急いで枕元の山刀を引き寄せる孝治に、ルゥシアは続けて言った。

「ラカンシェ達が怪我してる!」
「ラカンシェ……。カルウシパ達が帰ってきたのか!?」
「うん、でも熊は仕留められなくて、それで大怪我して帰ってきて」

 掛け布団を蹴り上げて、孝治は飛び出した。パニック気味のルゥシアの説明では埒が明かない。
 家を出て、辺りを見回す。騒然としている集落、人だかりの出来ている家に当たりを付ける。

 負傷者を運び込んだのは、あそこか!?

 駆け出した孝治は人だかりをかき分けて声を上げた。

「カルウシパ!」
「タカハルか! ちょっとこっちに来てくれ!」

 許可を得て家の中に入った孝治は、並んで布団に寝かせられた負傷者を見て表情を歪めた。
 人数は三人。非武装ならともかく、熊を追跡中の狩人である。一度に三人が重傷を負わせられるというのは尋常な話ではない。
 慄きを隠して、孝治はカルウシパに尋ねる。どうやらカルウシパは無事のようで、その点だけは安心できた。

「どうしたんだ、一体」
「待ち伏せだ。それも、崖の上からいきなり“降ってきた”らしい」

 痛恨の表情で答えるカルウシパに、孝治は慄然とする。

「夜襲じゃなくて、追跡中の奇襲? それで三人やられたのか?」
「俺だって信じられん。気付いてすぐに救援に向かったが、弓の射程に入る前に逃げやがった」
「どうも……毒矢を知ってるみたいだな……」

 苦しげな声に、孝治は布団の方を見た。
 顔に血まみれの布を巻きつけたラカンシェが、眼球だけでこちらを見ている。

「オレが……山刀で切りつけても、ほとんど、怯まなかった……だが、カルウシパが弓を構えるのを、見たら……跳んで、逃げた」
「大丈夫かラカンシェ、傷の具合は?」
「ラカンシェは顔の左側を岩で切った。それと左腕を噛まれてる」

 孝治の問いに、カルウシパが代わりに答えた。

「エクトトは引っ掛かれて胸を裂き、アバラを折られた。アクナプは左腕を折られて、それに右脚も噛まれて血だらけだ。……最初に熊の下敷きになったイワテグは、連れて帰れなかった」
「……イワテグも、だと」
「ああ……」

 カルウシパは肩を落とした。
 それはそうだろう――――村の仲間が、死んだのだから。

「……っ」

 ガクリと力が抜けて、孝治は地面に膝を付く。死の近い世界であることは知っていた。だがそれでも、実際に知っている人間が死んだのは、初めてだ。
 イワテグは二十代後半の男だった。妻も子供も居る。山刀の鞘や柄を彫るのが趣味で、自分の山刀にいくつもの鞘を用意しては、日によって取り替えていた。孝治もある時、刀の装飾を自慢されたことがある。
 いくら孝治が人付き合いが悪いといっても、狭い集落の中だ。皆、顔見知りなのである……。

「落ち込んでいる暇はないぞ、タカハル。手を貸してくれ」
「……貸せる手があれば幾らでも貸すが、一体俺に何が出来るんだ……」

 無力感に苛まれて落ち込む孝治に、カルウシパは声を掛けた。
 正直、今は気力が湧かなかったが、孝治も何とか搾り出すように返事した。消沈した声に、カルウシパは発破をかけるように言う。

「怪我人の治療を手伝ってくれ。それと、知っていることがあれば知恵もだ」
「治療? ……俺の知識は大したことない、こんな重傷者を治す技なんぞ……」

 ……いや。

 弱気な発言を、孝治は途中で打ち切った。ネガティブは発言は口にしてはいけない。まして目の前には、当の患者が居るのである。
 力の入らない両足に無理矢理力を込めて、どうにか孝治は立ち上がる。膝は震えていたし、手も震えていたが、……そんな状況では、ないのだ。
 ラカンシェを見る。この世界に来て何くれと無く世話を焼いてくれた彼は、今やヒューヒューと荒い息を吐いていて、既に意識は朦朧としている様子だった。

 恩義は……返さなきゃならん。ラカンシェだけじゃない。エヘンヌーイの皆は、俺の恩人だ。

 深呼吸して、なんとか孝治は気分を落ち着けた。もちろんまだ本調子ではない。イワテグの死のショックも、重傷を負って死に掛けている三人の重さも、ずしりと胃袋の辺りに圧し掛かっているし、それに例の不安も、晴れてはくれない。
 それでも――『必要な時に必要な行動を』。
 己の信念を思い出して、孝治は、

「鉄鍋に水を張って、湯を沸かしてくれ。それと石鹸の用意だ。患者に触れる人間は、先に手を洗わないと駄目だ」

 まず最初に、そう指示を出した。










 この土地にも薬草を用いた原始的な医療技術はあって、彼らの治療は基本的にそれに則って行われた。
 そもそも消毒薬も抗生物質も無いこの島では、出来ることなど高が知れている。清潔を保って化膿を防ぐ。創傷に対して、それ以上出来ることは無い。
 なので孝治は余計なことはせず、患部の衛生を保つことだけに集中した。

「湯が沸いたら、布を浸して煮込むんだ。それと患者の傷口を流水で洗おう。石鹸も使うか。水瓶に水を……いや、鍋のお湯を水瓶に注いで、冷やしてから使ったほうがいいな」

 重要なことは、雑菌を入れないことだ。傷口を洗浄した上で、傷口に触れる可能性のある物を徹底的に消毒する。
 こういう場合は酒を使って殺菌するのがお約束だが、エヘンヌーイには酒の備蓄が無い。代わりに孝治がクゥルシペから持ち帰った石鹸があったのでそれを使ったが、効果の程はどうだろうか。
 さて、こうして傷の洗浄までは孝治が問題なく行ったが、この次に薬を塗りこむ段になって、見解が分かれた。

「肉と肉はくっつくようになってるんだ。そこに余計なものがあったら、いつまで経っても傷が塞がらない。止血と消毒が済んだら、薬は一度水で流してから清潔な布で巻こう」
「いや、傷を治すのは薬の力だ、薬はしっかり当てておいた方が良い。取り除くなんてもっての外だ」

 カルウシパも傷の治療に関しては、相当の経験の持ち主である。『傷が膿むのは不潔な悪い気が入るからだ』という孝治の感染症の説明に納得は見せたが、伝統的な創傷の治療法までは譲らなかった。
 結局これに関しては、カルウシパの意見が優先される。ダメ押しとなったのは患者達の意見だ。

「薬は塗っておいてくれ。何もないと落ち着かない」

 そう言ったラカンシェの表現が、一番分かりやすかったろう。やはり怪我人は『薬を塗った』という安心感を求めるものなのだ。
 それに衛生の管理が難しいこの土地では、殺菌効果のある薬剤を患部に直接塗布するのも、別に間違っては居ないだろう。そう思いなおして孝治は、『定期的に薬を洗い流して塗りなおすように』という忠告に切り替えた。
 こうして煮沸した包帯を巻き上げて、創傷の治療は完了した。いずれの傷も縫合が通用するような傷痕ではないが、不幸中の幸いで動脈は無事だったらしい。後は彼らの生命力次第だ。
 最後にアクナプの左腕に添え木を当てる頃には、すでに夕方になっていた。

「……終わったな」
「ああ、ご苦労だった、タカハル」
「そちらこそ」

 病室と化した茅葺小屋から出て、孝治とカルウシパは互いの労を労う。
 今後の治療方針は、すでに村の女衆に引き継いでいる。他の男達はすでに、今夜のローテーションの話し合いに入っていた。

「……助かるといいんだが」
「ああ。しかし、エクトトは……」

 カルウシパは言葉を濁したが、言わんとすることは孝治も分かる。
 強力な熊の前腕による一撃を食らったエクトトは、三人の中でも一番の重症だった。爪が引っ掛かった胸部の裂傷は深く、肋骨は折れて、恐らく肺にもダメージがあるだろう。それどころかラカンシェの話だと、倒れたときに頭を打った恐れがあって……すでに、虫の息と言っていい状態だった。
 明日の朝まで、命は持つまい……二人とも口にはしなかったが、それが共通認識であることは、お互いに察していた。

「アクナプとラカンシェが、手足しかやられてないのは流石だったな」

 重くなった空気を振り払うように、孝治はそう言った。

「熊は動くものを攻撃するんだろう?」
「ああ、そうだ。手足を振り回していれば、必ずそこに噛み付いてくる」
「だったら、最後まで抵抗を諦めなかった証拠だ。ウチの狩人は、肝が据わってるよ」
「……ああ、そうだな」

 ――それが、孝治が『ウチ』という表現を使ったが故だとは、孝治は気付かなかったけれど。
 カルウシパが薄く笑って、孝治は少し安堵した。

「それじゃあ……おっと」

 安堵ついでに腹がぎゅうと鳴って、孝治は胃袋の辺りを押さえる。
 そういえば、今日は朝から何も食べていない。夜番が終わった後は朝食を取らずに寝てしまったし、ルゥシアに叩き起こされてからは、怪我人の治療でそれどころではなかった。

「……腹減ったな」
「ははは、言われてみれば俺も減ったなあ!」

 カルウシパの笑い声は、常のものより威勢が弱かったが――たとえ空元気でも笑って見せる度量は、流石に集落の長だった。
 孝治もまた気を取り直す。いまだ熊を討てていない現状、沈み込んでいても得はない。

「家に帰って晩飯を食おう。今夜はゆっくり眠っていいぞ」
「言われてみれば、昼寝も足りてなかったなあ」
「俺も今夜はゆっくり休む。明日からは、また色々とやらなきゃならないからな」
「他の村とも連携するか?」
「そうだな……おっ」

 ひやりとした感触に、カルウシパは空を見上げた。釣られて孝治も上を向く。
 分厚い冬の雲に覆われた空、ちらほらと降り注ぐ小さな欠片。

「初雪か……」
「そろそろ降るとは思ってたがなあ……送り雪、か……」

 鉛色の雲は切れ目を見せず、夕日の赤も雲の向こうに閉ざされている。
 明日も雪だ――それに気付いて、二人は揃って溜息を吐いた。カルウシパは明日以降の熊狩りを、孝治はクゥルシペへの移動の困難さを、うんざりとして予感する。
 本当に、熊が出てから孝治の予定は狂い続けだった。それまでがスムーズに運んでいただけに、ここ数日のストレスは酷く身に沁みる。
 畜生、と口の中で悪態を吐いて、カルウシパに向かって言った。

「明日には周囲の村に使者を出して、一刻も早く熊を倒そう。俺だって、クゥルシペ行きをこれ以上遅らせたくない」
「そうだなあ……狩場に余所者を入れたくないが、四の五の言ってる場合じゃ――」





 絹を裂くような女の悲鳴が、集落に響き渡った。





「――なんだ!?」
「待て! タカハル!」

 弓矢を持った男達が悲鳴の方に駆けて行くのを、反射的に追いかけそうになった孝治の肩を、カルウシパは慌てて掴んで制止した。

「家に帰って弓矢を取って来い!」
「あ、ああ、そうだな! カルウシパは?」
「俺は先に行ってる! だから俺の分も弓を忘れないでくれ!」

 そう言って駆け出すカルウシパ。先に言った男達が、『熊だ!』『畜生、追いかけてきたのか!?』などと叫ぶのが聞こえてくる。

 くそ、なんで見張りが――そうか、夜番のローテーションの組み直しか!

 まさに一瞬の隙を突かれている。そういえば今日は昼から怪我人の治療に村中大わらわで、周辺のパトロールが疎かになっていた……。
 恐らく、朝に仕留め損ねたラカンシェ達を追いかけて来たのだろう。そして村の近くに潜伏して、警戒が緩むのを待っていたのだ。

「タカハル! 一体何が……」
「ルゥシア! 弓! カルウシパのも!」
「わ、分かった!」

 家に飛び込むや弓と毒矢を受け取って、孝治は踵を返して飛び出した。
 向かう先、今は倉庫として使われている空き家に、男達が群がっている。どうやら熊は倉庫の中で食料を漁っていて、取りに来た村の女と鉢合わせになったらしい。鉢合わせた彼女は何とか難を逃れたようで、呆然の体で避難していた。
 カルウシパに弓矢を渡して、孝治も包囲に参加する。賑やかしの矢でも、あった方がいい。

「……どうなってるんだ」
「中に居る。絶対に近づくなよ」

 どうやら熊は倉庫の中に隠れてしまったらしく、恐ろしいほどに静かだった。
 気配を消した熊というのは、驚くほど身動きをせず音を立てない。茅葺小屋は防風のため、入り口が直角に折れ曲がっている構造で、倉庫のどのあたりに熊が居るかは判断が付かない。やむなくじりじりと包囲の輪を広げ、不意の襲撃に備えざるを得なかった。
 時折入り口から矢を射込んではみるが、反応はない。孝治もしゃがみこんで弓矢を構えるが、刻一刻と暗くなっていく風景に焦りを覚える。
 熊は夜目が利くが、人間は利かない。このまま夜になれば、飛び出してきた熊への対応は確実に遅れ、犠牲も出しかねない……。

「……カルウシパ、火をかけよう」

 痺れを切らして、孝治はこう提案した。

「茅葺小屋はよく燃える。火を掛ければあっという間に炎上して、熊はたまらず飛び出してくるだろう。もう時間が無い」
「……あの中には冬場の食料も入ってる。それに、延焼したらまずい」
「イワテグの仇だ、カルウシパ」

 この孝治の一言に、カルウシパは沈黙した。額面どおりに受け取ったわけではない。既に出た犠牲を思い出すことで、これから出るかもしれない犠牲に思い至ったのだ。
 食料が無くなれば、冬を越すのは難しくなる。しかしだからといって、熊を放置したまま夜を迎えれば、また犠牲を出すことになりかねない――三呼吸ほどじっくりと悩んで、族長は決断した。

「……タカハル、火の用意を頼む」
「了解した」

 言われて孝治は即座に動いた。火の用意など何も難しいことはない。夕食時のこの時間帯、適当な家に飛び込めば囲炉裏に火は点いている。
 素手で掴める程度に火の点いている薪を引っ張り出して、カルウシパの元に舞い戻る。冬の日没は早い。視界は既に薄闇に閉ざされつつあって、最早一刻の猶予も無かった。

「裏手に回って火をかける。入り口側に人を集めてくれ」
「……ああ、分かった」

 味方同士の誤射を恐れてそう提案したタカハルに、カルウシパは一瞬、周囲の男達と目配せを交し合って頷いた。
 倉庫に潜んでいる熊は、集落全体の敵だ。何が何でもここで仕留める――一致した決意を胸に、男達は弓を構えた。見届けて孝治は裏手に回り、火の点いた薪を放り投げる。
 放物線を描いて飛んだ薪は狙いを過たず茅葺小屋の壁下に転がり、壁から屋根へと燃え移らせた。この地の家は壁から屋根までが萱で葺かれていて、炎上はあっという間である。
 メラメラと燃え上がる倉庫。グオォという驚いたような熊の唸り声に、急ぎ表に駆け戻った孝治は、自分も弓を取って入り口の辺りに狙いを合わせた。

 姿を見せてから一拍置いて、狙いをつけてから、射る!

 気を静めて、孝治は心中に決した。野生動物の動きは速く、慌てて射ても中りはしない。
 番えた毒矢は必殺の矢で、手足にでも当たれば命を奪える。焦る必要は無い……。
 一秒、二秒と時を刻んで、引き絞った弓の先を睨む。熊の唸りは先の一回、しかしその後は音沙汰が無く、今や炎は倉庫をほとんど飲み込んでいた。

 ……まだか、まだ出てこないのか?

 動揺した空気が、包囲する男達の間に流れる。
 野生動物が炎を恐れるというのは一種の迷信だが、この状況で危機感を覚えないのは、動物として異常である。
 どういうことだ、と一人がポツリと声を出した。釣られてざわざわとささやき声が聞こえる。まさかこのまま、炎に巻かれて死んでくれるのではなかろうか。
 すでに燃え移った炎は入り口に達していて、今更飛び出してきたとしても、炎に巻かれるのは避けられまい――

「――まさか!?」

 孝治の思考が、状況の理解に追いつくのと同時に、
 ドーン、という音と共に、炎上した倉庫が揺れた。

「なんだ!?」

 カルウシパが叫ぶ。
 孝治は答えた。

「裏手だ! 燃えて脆くなった裏の壁を突き破って逃げる気だ!」
「何ィ!?」

 男達が反応するより早く、バリバリと音を立てて倉庫が崩れる。
 ガサガサと音を立てて木立の間を疾走する黒い影に、慌てて射掛けられる毒矢の群れ。
 それを振り切って、熊は茂みの向こうへと消えて行った。





「……やられた」

 呆然と孝治は呟いた。眼前の倉庫は今まさに燃え落ちようとしていたが、それに対処する気力も湧かない。
 炎に巻かれてなお、あの熊は包囲する狩人たちを忘れなかったのだ。炎の危険性と毒矢の危険性を、冷静に天秤にかけて気配を消した。
 そして動揺した男達が漏らしたあのざわめき――あれで包囲の偏りを把握して、その逆へと逃げたのである。

「千載一遇の好機を、みすみす……」
「気を落とすな、タカハル」

 カルウシパも残念そうな様子であったが、流石にもう切り替えていた。

「お前が火をかけることを提案してくれなかったら、どう転んでたか分からない。少なくとも今夜、無傷で撃退することには成功したんだ」
「無傷じゃない。倉庫の食料を失った」
「だとしても今夜、犠牲を出さなかったのはお前のお陰だ」
「『出さなかった』と言い切るのは、夜が明けてからだ、カルウシパ」

 励まされて、しかし孝治の気分は晴れなかった。
 食料の事もあるが、それ以上に猛烈に嫌な感じがする。間違いなく今の包囲は、熊を討ち取る絶好の好機だった。
 余計なことをしてしまったのではないか、“自分が居なければ”、上手くやっていたのではないか――

「……タカハル」

 心配した口調で名前を呼ばれて、孝治ははっとして顔を上げた。

「すまない、暗くなってしまっていた」
「……いや」

 カルウシパは首を振った。半端な慰めの言葉は無意味だろうと悟って、端的に告げる。

「火をかけると提案したのはタカハルだが、同意したのは全員だ。お前一人が悪いわけじゃない」
「……ああ」
「お前はもう戻れ、タカハル。昼から働き続けだろう」
「ああ……そうだな」

 弓を拾って、孝治はふらふらと立ち上がった。
 今更ながらに空腹を思い出す。朝から何も食べていないのだ。それは元気が出なくて当然だった。
 とにかく飯を食って、寝よう――憔悴して孝治はその場を離れたが、嫌な気分は晴れてくれなかった。



















「……う」

 朝の光を感じて、孝治は目を覚ました。
 熊が出てからは夜番続きで、朝日で目覚めるのは数日振りのことだ。久しぶりの感覚に、『うあー』と安堵の息を漏らす。
 だがすぐに、昨夜の事を思い出して、孝治は眉間に皺を寄せた。

「まだ、熊は討ててないんだよな……」

 昨日盲射ちに射た矢の一本でも刺さっていれば、今頃は毒が回って死んでいるかもしれないが……少なくとも孝治には昨夜、そんな気配は感じ取れなかった。
 どの道死体を見つけるまでは安心できないのだ。今日も自分の仕事をこなさなくてはならない。

「あ、タカハル。起きた?」
「ああ……何か昨夜の内に、進展はあったか?」

 先に起きていたルゥシアに声をかけられて、孝治はまずそう訊いた。昨夜は夕食後すぐに寝てしまったため、あの後どうなったのか把握していない。
 カルウシパはまだ眠っている。思えば彼も昨日は働き詰めだったはずで、後始末を押し付けてしまったのは不覚だった。

「倉庫はどうなった。延焼したりはしなかったか?」
「延焼はしてないよ。消火も出来なかったけど……今朝になって、燃え残りが無いか、皆で掘り返してる」
「……そうか」

 なにか見つかればいいんだが。
 そう祈りつつも布団から這い出した孝治は、気温の低さに身震いした。朝方というのは一日で最も気温の低い時間帯だ。寒いのは当然だが……。

「そうだ、雪は」
「昼になったら解けると思うよ。今はまだ薄っすら積もってるけど……それより、タカハル」

 暗い表情でルゥシアは言った。

「……エクトトさんが」
「……ああ」

 そういえば――そうだった。

 熊との戦いで頭から抜け落ちていたが、今、エヘンヌーイには重傷者が三人居た。
 その中でも最も重篤だったエクトトは、昨夜の時点で虫の息で……。

「……怪我人の様子を見てくる」
「うん、いってらっしゃい」

 重苦しい空気を吐き出しながらも、孝治は外套を羽織った。

 自分に出来る事を、する。
 ラカンシェとアクナプは、生かさなくては。





 エヘンヌーイの集落は、朝から重苦しい空気に包まれていた。いや、本当は昨日の時点でそうだったのかもしれない。なにしろ昨日の孝治は負傷者の救護で大騒ぎしていて、周りに気を配る余裕が無かった。
 最初に救護施設となっている茅葺小屋に向かった孝治は、すでにエクトトの遺体が運び出されている事実を知る。先に弔問に行くべきかとも悩んだが、それより先にラカンシェとアクナプの容態を診ることにした。孝治は日本人だ。死の穢れを付けたまま、塩も振らずに重傷者を見舞うのは嫌なものがあった。

「よう、元気か、ラカンシェ」
「ああ、お陰さまでな……」

 努めて軽く挨拶した孝治に、ラカンシェはそう答えた。
 アクナプは眠っている。骨折が痛むのか、噛まれた足が痛むのか、時折うなされている様子だった。

「先にアクナプを診てやってくれ。オレはまだ大丈夫だ」
「傷の腫れはどうだ?」
「顔はともかく、左腕は痛むな……」
「傷口を洗って、薬を塗りなおすべきだろうな」

 ラカンシェの左腕を軽く触って、これならまだ大丈夫かと孝治は一安心した。
 言われたとおり、先にアクナプを診る。折れた左腕は案の定腫れ上がっているし、噛まれた右脚も化膿したのか腫れている。それに熱も出しているようだ。
 骨折の腫れも化膿も、今更出来ることはほとんど無い。化膿した傷は膿を出して流水で洗うべきなのだが、流石にその作業は男手が要る。後でやるしかない。アクナプに関してはとりあえず手伝いの女の子を呼んで、濡れ手ぬぐいを額に乗せるように指示しておく。

「ラカンシェ、立てるか?」
「ああ、なんとかな……」
「じゃあ、傷口を洗いに行くぞ。……その前に湯を沸かすか」

 どうやらラカンシェはまだ体力が残っている様子なので、今の内に膿を抜いてしまうことにする。
 沸かしたお湯で小刀を煮沸して、ブスブスと膿を抜く。外に連れ出して、川で傷の内側まで洗い流し、ついでに石鹸まで使って洗浄した。
 ギャアギャアとラカンシェは悲鳴を上げていたが、孝治は関節を極めて抑えこみ、無理矢理洗浄を完了した。

「ラカンシェ、体力の消耗は命取りになるぞ」
「テメエ後で覚えてろよ!?」

 洗浄後真顔でそう言った孝治に、ラカンシェは地面を叩いて抗議の声を上げた――当然である。
 最期に石鹸による手洗いの徹底を再度念押しして、孝治は茅葺小屋を出た。とりあえず朝の診察は、終わりである。





 さて、治療もひとまず終わったので、孝治は弔問に回ることにした。
 そろそろ朝食の時間であったが、流石に食事を取る気にもなれなかったのだろうか。エクトトの妻は静かに自宅で過ごしていて、尋ねた孝治を出迎えてくれた。
 布団に寝かせられたエクトトの遺体に、孝治は言葉を失う。昨日治療した時には温かかった体も、もう冷たくなっている――

「……お悔やみ申し上げます」
「いえ……」

 否応無くこの地の現実を孝治に思い知らされて言葉に詰まる孝治に、エクトトの妻は――今は未亡人となった彼女は、涙を見せることはなかった。
 無論、悲しんでいないわけもない。しかしそれでも彼女には、悲しんでいられない理由があった。

「それでも最期に言葉を交わせただけ、まだ幸せでしたから……」

 そう、犠牲となったのは、エクトト一人ではない――遺体でさえ帰れなかったイワテグもまた、そうなのだ。
 エクトトの家を辞した孝治は、次にイワテグの家に向かう。遺体が無い今、弔問に行くのは逆に残酷な感じもするが、どうしても様子を見ておきたかった。

「すみません、サットマさん。今日は――」
「あ、タァカ兄だ!」

 そうして足を向けた孝治を出迎えたのは、イワテグの妻のサットマではなく、娘のナジカちゃんだった。
 御年五歳の彼女にこう言われて、孝治は己の短慮を恥じることになる。

「おとーさんは、出かけてるよ!」










「……どうした、大丈夫かタカハル」
「ああ、カルウシパ、起きてたか……。いやなに、ちょっと自分の迂闊さを悔やんでいただけだ」

 朝食に戻るやカルウシパに声をかけられて、孝治はそう答えた。
 大分この世界には慣れたと思っていたが、やはりまだまだ経験が足りない。それも『この世界での』というよりは、純粋な人生経験が。
 強くならないとな、と思う。何事にもソツなく対峙できる胆力を、対応力を――そのためには、経験が必要だ。

 ――――“七難八苦を与えたまえ”、か。

 冬に比べて大分逞しくなった自覚はある。だがそれでも、まだまだ足りていない。
 足りないのだ。“こんなものでは、届かない”。

 …………届かない?

 一体――何に届かないというのだろうか。

「……まあいい。そんなことより今日はどうする、カルウシパ。このままにしてはおけないぞ」
「ああ、もちろんだ。今日は、周りの村に救援を頼みに行こうと思う」

 朝食の粥をすすりながら、カルウシパは今日の予定を述べる。

「朝飯を食ったら、すぐにでも使者を出す。他の人間は見回りだ」
「足跡の追跡は?」
「今の人数だと、村が手薄になりすぎる。増援待ちだな」

 エヘンヌーイは総人口百人に満たない集落である。熊狩りに動員出来る成年男子の人数は、その内の四分の一程度。腕利きの狩人四人という損失は、極めて大きい。

「今から人を出せば、日没までには戻れるはずだ。流石にこれ以上、夜の警備を疎かにはできない」
「そうだな。熊はうちの集落に狙いをつけているようだし……いっそ、追跡するよりおびき出した方がいいんじゃないか?」
「それも考えてはみた。……だがなあ、あの熊がそんなに簡単に、釣れるとは思えん」

 はあ、とカルウシパは溜息を吐く。たしかにな、と孝治も頷いた。
 完全に裏をかかれた昨夜の一件は、二人の脳裏に鮮烈に印象付けられている。

「長期戦になりそうだな……」
「ああ、こんなに大変な狩りは俺も初めてだ。……色々と、ケチが付いちまったなあ」

 カルウシパはちらりとルゥシアの方を見た。
 めでたい話題もあったのにな、という言外の意図を汲み取って、孝治は気分を重くした。

 ……嫌な感じだ。

 そう思う。本当に、本当に嫌な感じだった。
 胃袋の辺りに言い知れぬ不快感を感じて、孝治は残りの粥をかっ込んだ。椀を置いて手を合わせる。
 ご馳走様、という祈りの中に、別の祈りを混ぜた。他の何者にではない、自分自身への祈りを。

 必要な時に、必要な行動を。

 自分に出来る事を、誰かの為に。

 そうして祈っていれば、己のやるべきことも見えてくる。
 今は集落の危機である。“余計なこと”を考えている場合では、ない。

「……カルウシパ、使者を出す前に、アクナプの治療に手を貸してくれ。傷を洗ってやりたい」
「ああ、わかった」

 じゃあ、先に行ってるぞ、と言い残して、孝治は家を出た。
 今はとにかく、体を動かしていたい気分だったのだ。










 膿を出したアクナプの右脚に、布を巻いていく。
 化膿した傷は、とにかく膿を出さなくてはならない。傷を膿ませるのは細菌の働き以上に、壊死した細胞の悪影響が大きいそうだ。

「大丈夫か、アクナプ」
「……ああ……」

 アクナプの返事は朦朧としていた。なにしろ先ほど川で傷口を石鹸で洗われて、大騒ぎしていたのである。仕方のないことだった。
 この体力の消耗が、後に響かなければ良いのだがなあ、と孝治は思う。抗生物質が無い以上、細菌感染を防ぐのは免疫力の働きだ。処置によって失われる体力と、処置しないことで出る悪影響――この二つを天秤にかけなくてはならない。
 文明社会は偉大だったと、今更ながらに痛感する。同時に自分も気を付けなくてはならないと、覚悟を新たにした。

 ……俺だって、他人事じゃない。

 今となっては孝治も、この地に生きる一人の人間だ。傷を負えば同じように、命の危機に晒される。
 いや、むしろ免疫力という観点では、孝治こそ弱者では無いか――

「おい、タカハル。どうした」
「いや、なんでも……というかラカンシェ、起き上がって大丈夫なのか?」
「朝より大分楽になったからな。あの時は死ぬかと思ったが、たしかにテメエの治療は効いたぜ」

 左腕を軽く動かして、ラカンシェは言った。膿を抜いたお陰で、一時的に楽になっているのだろう。

「またしばらくしたら膿んでくるかもしれないぞ。大人しくしてろ」
「傷が治るまでは大人しくしてるっての。しかし昨夜は残念だったらしいな」
「……聞いたのか」

 おうよ、とラカンシェは頷く。

「熊を仕留め損ねて随分と落ち込んでたそうじゃねえか。今朝はそうでもなかったが、どうも今の様子を見てたら気になってな」
「まあ、な……。引っ掛かってるのは、たしかだ」

 昨夜感じた、強烈な後悔――その感触を、孝治はまだ覚えている。

「冬のための食料を燃やして、熊を討ちもらした……俺の提案のせいで、そうなった。……そのことがな」
「直接見たわけじゃないから何とも言えねえが、倉庫に火を付けた判断が間違ってたとは思わねえよ。カルウシパ達も賛同したんだろ?」
「ああ……」
「だったら、いいじゃねえか。何がそんなに気になってやがるんだ」
「何が……何、だろうな」

 ラカンシェの指摘に、孝治は考える。
 あの時感じた後悔の正体。それは、そう――

「“余計なことをしてしまったんじゃないか”……」

 たしか、そういうものだった。
 自分の提案が無ければ、自分が居なければ、カルウシパ達はもっと上手くやっていたのではないかと――そういう不安だ。

「俺が提案したことで、カルウシパの判断を惑わせたんじゃないかと、そう思ったんだ」
「自意識過剰だな」

 ラカンシェはそんな孝治の不安を切って捨てた。

「カルウシパは一人前の狩人だ、テメエの意見程度で判断を誤ったりしねえ」
「……ああ」
「仮に間違ったとしても、その責任を自分で取る覚悟だってある。馬鹿にするんじゃねえよ」
「そうだ、な……その通りだ」

 ……そうだ。

 築地孝治に、そんな影響力は無い。

 こんなことを考えるのは、この世界に生きる人間への侮辱だ。

「……クゥルシペで色々やって、ちょっと思い上がってたかもしれないな」
「クゥルシペか。そういや詳しい話を聞いてねえが、その様子だと随分な活躍だったみてえだな」

 気を取り直した孝治の様子に安堵して、ラカンシェは笑って声をかけた。

「今度話を聞かせろよ」
「いいぜ。そのためには、ちゃんと傷を治してくれ」
「おうよ。まだ嫁も貰ってないのに、死ぬわけにはいかねえ」
「その時は、酒も用意しよう」
「やめろ!?」

 元気そうなラカンシェの様子に、孝治も安堵する。
 それにしても――友人というのは、ありがたいものだった。










「……タカハル」
「ん? カルウシパか」

 治療を終えて外に出た孝治は、カルウシパに声を掛けられて足を止めた。
 これから見回りだ。すでに使者は出してしまっていて、男手が足りない。今日は夕方まで、ずっと外で張って居なくてはいけなかった。
 なので弓を取りに戻ろうと思っていたのだが……真剣な表情に、何かあったのかと不安になる。

「ちょっと来てくれ」
「あ、ああ……。構わないが」

 なにか重大な話があるのだろう。
 察して孝治はカルウシパについていく。向かった先は集落の中心部から少し離れた、普段は空き家となっている茅葺小屋だ。
 中に入ると、吊るされた鮭の干物が目に入る。今は空となっている囲炉裏に刺さった火箸と、天井から吊るされた鉄の棒。他の家と同じ構造のはずの内装は、しかし孝治の記憶を想起した。

「……懐かしいな」
「ああ、覚えてたか」
「もちろんだ。最初に俺が運び込まれた空き家だな」

 雪原のど真ん中に埋まっていた孝治は、救出されてここに運び込まれた――もう、十ヶ月以上前の話である。
 囲炉裏に火をつけると、カルウシパと孝治は向かい合って座った。しばしの沈黙。

「……相談したいことがある」

 真面目な顔をしたカルウシパは、ゆっくりと思考を纏めてから口を開いた。

「この村の将来についてだ」
「……将来?」
「ああ。といっても、そんなに遠い未来の事じゃない。……今年の冬、来年の春の話だ」
「まさか、食料か?」

 それもある、とカルウシパは頷いた。

「昨日燃やした倉庫の跡を掘り起こしてみたが、やはり食えそうなものは見つからなかった。今残っている食料だけで冬を越せるかというと、かなり厳しい」
「周囲の村に協力を頼む……ってわけにはいかないか、やっぱり」
「ああ。食料は貴重だし、何が起こるかわからん……こういう場合、女を嫁に出したり子供を養子に出すのが普通なんだが……」

 それは出来ればしたくない、とカルウシパは言った。
 孝治としても完全に同意だった。倉庫を燃やしたのは、自分の意見である。それが原因で口減らしが起きるのは耐え難い。

「熊を討った後に鹿狩りにも出てみるつもりだが、なにしろ四人も戦力外だ。今年の冬を乗り越えられるかは、相当厳しい」
「それで、俺に何をしろと?」
「クゥルシペに行って、漁の手伝いをねじ込んできてくれ」
「漁……十二月の?」
「ああ」

 十二月にクゥルシペで行われる漁は扶桑の漁船がメインであるが、この島の人間も手伝いとして参加する。
 大半はクゥルシペの人間だが、食うに困った他集落からの出稼ぎ人も参加することがあるらしい。

「参加枠にはあまり余裕が無いんだが、なんとかうちの連中を参加させてくれ。そして春まで居座らせるんだ」
「……そんなことして大丈夫なのか?」
「あまり大丈夫じゃないが、クゥルシペには余裕がある。……後でエルマシトに色々言われるだろうが、一応は面倒を見てくれるだろう」

 それが苦渋の決断なのは、カルウシパの顔を見れば分かった。
 カルウシパとエルマシトは友人同士だが、だからといって無条件に甘えられるわけがない。そんなに余裕のある世界では無いのだから。

「頼む。俺はこの集落を離れられない。熊を討ったら、すぐにでも向かってくれ」
「ああ、分かった。どの道クゥルシペには行く必要があったんだ、連れて行く人間が増えるだけだ」
「……すまん。お前はこれからが大事な時期だというのに」

 孝治の立場を慮って、カルウシパは頭を下げた。
 幾ら言い訳しても、これは褒められた真似ではない。夏の間に孝治が挙げた功績は孝治自身のものだ。それを頼るのは、集落の長として無念であった。

「余計な重荷を背負わせてしまうことになる……」
「頭を上げてくれ、カルウシパ」

 慌てて孝治は手を振った。

「何も気にすることはない。あんたが居なかったら死んでいた命だ、恩を返せることを嬉しく思うよ」
「そう言ってもらえると、助かる」
「なあに、むしろ俺も出世したもんだな、と誇らしくなるくらいだ」
「出世?」
「ああ。村の居候だった俺が、村の将来について相談されるようになったんだぞ?」

 ニヤリと孝治は笑ってみせる。

「大出世じゃないか。だからこう言ってやる。――任せろ」

 『誰かのために出来ることをする』

 忘れてはいけない。それが孝治の、この世界で生きるための信念だ。
 だからこれは、幸いであっても不幸でなどない。村の将来? 上等だ、全力で背負ってやろうじゃないか。

「だから心配するな、カルウシパはどんと構えていればいい。カルウシパの手の届かない所では、俺が村の為に働くさ」

 この孝治の宣言を、カルウシパは驚いたような表情で見て、そして次に苦笑する。
 随分と頼もしくなったものだと、感動さえ覚えていた。家族――そう、もう孝治は、彼にとっても家族なのだ――その成長を、素直に喜ぶ。

「ハハハ。じゃあいっそ、村の将来はタカハルに頼むとしようか!」
「ああ、任せろ。エヘンヌーイもルゥシアも、いっそまとめて面倒見てやる」
「おいおい、こりゃあ、俺の引退も近いかな!」

 ゲラゲラと笑って、カルウシパは膝を叩いた。
 一緒に笑いあいながら、孝治は天井を見上げる。天井板の張られていない茅葺屋根は、あの日布団から見上げた物と同じだ。
 思い出して、なんとなく口にする。出会った頃の思い出を。

「そういやあ、一緒の布団で寝たこともあったっけなあ」
「おう? ……ああ、そんなこともあったな」

 カルウシパも思い出したのか、くっくっと喉の奥で笑った。

「月から来た、って話を聞かされたの、そういやこの家だな。懐かしいなあ!」
「本当にな。あの時食った熊の汁物、あれは旨かった……」

 しみじみと語って、孝治は目を閉じる。
 ルゥシアと初めて会ったのも、この家になる――あれ以来数えるほどしか訪れなかったが、ここは思い出の場所だった。

 随分と、遠くまで来た気がするな……。

 無力なままに保護された、一月の事を思い出す。必死で仕事を覚えた、二月の事を思い出す。
 レンガ作り、炭焼き、エルマシトの説得、クゥルシペでの交渉と石鹸作り。ラカンシェと一緒に行ったアザラシ狩りと、秋に実施した製鉄作業。
 この世界での経験は、確実に孝治の血肉となっていて……だったらもう、“それ以前”は、どうでもいいじゃないか、と思う。

 『俺はあの日、月から落ちてきた』。……もう、それでいい。それでいいんだ。

 そうだ、もう、思い出すまい。
 日本での事も、“この世界に来た原因”も――

 ――――。

「……と、いかんいかん。感傷に浸ってる場合じゃないな」

 頭を振って、孝治は雑念を振り払った。
 そろそろ見張りに出なくては、他の連中から怒られる。

「カルウシパ、話ってのはそれだけか?」
「ああ、そうだな。……本当は春から先の話もしたかったが、それはその時でいいか」
「じゃあ、そろそろ戻ろう。……その前に火の始末か」

 薪はまだ燃えていたが、放って置くわけにもいかない。手早く火を消そうと火箸を取って、孝治は火消し壷が無いことに気付いた。
 灰を被せておけばいいだろうか、とも思ったが、ここは空き家である。放って置いていつの間にか火事になっていたら大変だった。

「……ちょっと壷取ってくる。火を見といてくれ」

 分かったと頷くカルウシパを確認して、孝治は立ち上がった。
 そのまま空き家を出ようとして、あ、おい、とカルウシパに声を掛けられて振り返る。

「どうした?」
「そう言うなら火箸を置いてけ、タカハル。どうやって火を見ろって言うんだ」
「あ」

 手に持ったままの火箸に気付いて、孝治は気の抜けた声を出す。
 どうせすぐ戻るから大丈夫だと思うが、たしかに火箸無しで火を見るのは無理だ。注意力が切れていたのかもしれない。
 思い出に浸っていたとはいえ、精神的な疲れは抜けていなかったか――溜息交じりに苦笑して、孝治は囲炉裏の方へ足を向ける。

「これはうっかりしてたな。今――」

 次の瞬間、強烈な衝撃に、孝治は一瞬で昏倒した。










「……う……」

 最初に感じたのは、冷たい地面の感触。
 床板など無いむき出しの土は、十二月の迫るこの季節に相応しい冷たさで、孝治の体を冷やしていた。
 寒い――意識の浮上と共に温感が戻り、次いで痛覚が戻って、体の痛みを認識する。

 痛い。

 左腕と肋骨の辺りがズキズキと痛む。他にも頭が――ああ、これは脳震盪だろうか――芯の方から痛み、意識が朦朧としている。
 起き上がるのが酷く億劫だ。この調子だと三半規管もやられているのだろうか。耳鳴りがして周囲の音が聞こえない。

「う、ぁ……」

 生臭い臭いがする。酷く不愉快な匂いだった。胸の辺りがむかむかして、吐き気のする腐敗臭。
 ここに居てはいけないと、本能が警告する。山の中では何度か経験した感覚――“危険”の存在を示す臭い。
 がり、と右手の指先が地面を掻いた。指先の触覚が地面のざらつきを感じ取って、ここでようやく、思考が戻ってくる。

 仰向けに倒れているの、か。

 霞んでいた視界が焦点を結んだ。自分は今、ぼんやりと屋根を見上げている。そのことに気付く。
 一体、何が起きたのか……この期に及んでそんな愚問は浮かばなかった。何が起きたかなど、決まっている。
 ゆっくりと倒れたまま首をめぐらせて、孝治は室内を見た。

 ……近い。

 三メートルほどの距離に、黒い巨体。こちらに尻を向けた大きな熊が、孝治には目もくれずに体を揺らしていた。
 恐怖に浅くなりそうな呼吸を、無理矢理に宥めた。熊はこちらを向いてはいない。今なら――今なら、逃げられる、かもしれない。
 左半身はまだ痛む。なので体を右に転がして、体の下に敷いた右腕で地面を押すように、ゆっくりと体を起こした。

 まだだ、まだ、熊は気付いていない……。

 両足に力を込める。左腕は痛むが、幸い足は無事だったようだ。立ち上がる力は、ある。
 先ほどの耳鳴りも、もう聞こえない。回復した聴覚で周囲の状況を探った。ざわざわとした空気は、この空き家を包囲する狩人たちのものだろうか。

 だったら、大丈夫だ。外に逃げれば、弓矢の援護を得られる。

 そのことに気付いて、孝治は少し冷静さを取り戻した。幸いにして、今居る位置は空き家の入り口付近だ。外に飛び出すには三秒とかかるまい。
 とはいえ急な飛び出しは、誤射の危険性を高める。熊から目を離さないよう、ゆっくりと後退して空き家から出るべきだろう――

 ――――そうだ、逃げろ。

 音を立てないよう、慎重に孝治は立ち上がった。
 そろそろと腰を上げる。大丈夫だ、熊はこちらに気付いていない。今も一心不乱に、地面に向かって、その巨大な頭を動かしていた。

 ぐちゃぐちゃという音が、聞こえる。

 逃げられる。
 今ならば、逃げられる。
 熊から視線を離さないままに、孝治は一歩、足を後ろへと運んだ。
 そうだ、逃げられる。“熊が気を取られている今なら”、十二分に逃げられる可能性はある。
 もう一歩、後ろに下がる。視線は熊から離さない。熊の背中を凝視して、決してそこから離さない――


「ぐ、あぁ……」


 呻き声が、聞こえる。
 聞き知った人間の、聞き慣れぬ声だ。
 もう一歩、下がろうとした、孝治の足が止まる。

 ――――見るな。

 視線は熊から離さない。離してはいけない。
 絶対にそれ以外を見てはいけない。

 警告するのは理性の声だ。状況を俯瞰的に見る孝治の理性。冷笑的な自己。
 “それ”はきっと、分かっている。何が起きているのか。自分が逃げられるのは、“一体どうしてなのか”。
 全部分かった上で――生き残るための最善の判断として、見るなといっているのだろう。

 ……だが。

 血の臭いがするのだ。先ほどから強烈な。
 荒い熊の吐息と、それに紛れて聞こえるうめき声は、すでに孝治の脳に明確に認識されている。
 耐えられなくなって、ちらりと視線を床に向ける。熊の体の下、敷かれるように広がるどす黒い血液の色彩が、目に入る。
 そこからさらに、ゆっくりと視線を巡らせて。
 熊に押さえ込まれるように倒れる、すでに土気色となった、カルウシパの顔を見た。










 …………ああ、なるほど。










 一瞬だけ浮かんだその納得が、一体何に対するものであったか。

 それを考えるより先に――――孝治は絶叫した。










「そこを動くんじゃねえぇぇええええ!!!! ぶっ殺してやらぁぁああああああ!!!!!!!!」










 そして孝治は、地面に落ちていた火箸を引っ掴んだ。




















 ――――『彼』が生まれたのは、この島の北部にある山の中だった。
 穴の中で産み落とされた『彼』は、大抵の熊がそうであるように、同時に産み落とされた兄弟と、母熊との三頭家族で過ごしていた。
 母と兄弟と共に過ごしていた『彼』は、親離れを間近に控えたある日、人間の狩人に襲撃された。

 ――一撃であった。

 兄、あるいは弟であった『彼』の兄弟は、狩人の放ったたった一矢の矢によって地に倒れ伏した。
 その直後、気付いた母熊の反撃によって、狩人を撃退することには成功したが、『彼』は兄弟があっという間に衰弱して死んでいく様を、間近に観察することとなる。

 ああ兄弟、人間というのは、恐ろしいものだなあ。息が苦しくて苦しくてたまらないよ。

 言葉は無くとも意思は通じる。兄弟の遺言を、『彼』は間違えずに受け取った。
 山の生き物にとって、人間は恐怖の対象であったが、しかしまざまざとその力を見せ付けられて――『彼』はその恐ろしさを痛感したのだ。

 人間というのは怖いものだ。見つからないようにしなくては。

 こうして『彼』は、親離れの後に深山に入り、徹底的に人を避けて生活するようになる。
 人間さえ避ければ、この島に熊に敵い得る敵などいない。山の奥でひっそりと年を重ねた『彼』は、やがて魁偉な体格を得るに至る。

 転機が訪れたのは、彼が十五歳を超えてからの事だ。
 ある春、冬眠から覚めて巣穴を出ようとした『彼』は、熊狩りに来ていた狩人達と、ばったりと鉢合わせてしまった。
 『彼』はビックリ仰天したが、狩人達も仰天した。そしてその中に一人、不慣れな若い狩人が居て、迂闊にも背中を見せて逃げ出してしまった。

 追いかけて、引き倒した。

 これは熊の本能だ。反射的に逃げる相手を引き倒した『彼』は、恐れていた人間の、あまりの非力さに驚いた。
 打ち所が悪かったのもあるのだろう。地面に倒れた時たまたま頭を岩にぶつけてしまったその若い狩人は、『彼』が気付いた時には絶命してしまっていたのだ。

 こんなものか。こんなものなら、倒せるのではないか。

 彼はこの瞬間、こう思ったが――しかし次の瞬間矢が放たれて、身を翻して慌てて逃げた。
 それは兄弟の最期が記憶に残っていたからだ。そうして慌てて山を駆け下りて、しかし射られた矢の一本が、毛皮を掠めて皮膚を裂いた。
 その場は気に留めなかったものの、しかしその夜、息苦しさと激痛に苛まれた『彼』は、茂みの中に身を伏せながら、こう思った。

 人間そのものは、あまり強くない。しかしあの、飛んでくるヤツは厄介だ……。

 だが、彼の災難はまだ終わらなかった。仲間を殺されたことに怒った人間達が、山狩りを実施したからだ。
 これに対して、彼は必死に逃げた。毒によって弱った体を引きずり、山から山へと逃げ続けた。
 途中で、追っ手を襲って殺したこともある。茂みに引きずり込んで食らった人間の肉は、たしかに美味であったが……その直後、応援に来た人間の気配を感じ、即座に逃げざるを得なかった。

 やはり人間は、敵に回してはいけない。一人を楽に殺せても、すぐに仲間がやってくる。

 何とか追っ手を振り切った『彼』は、以前にもまして人里を避け、深山に潜むようになる。
 そうして『彼』は数年を過ごしたが、ところが今年の秋、不作であった山の恵に空腹を耐えかねて、人里に下りることになる。
 人間の里には食料が豊富だった。里の倉庫を物色していた『彼』は、そこで人間と鉢合わせて反射的に叩き殺してしまう。
 やはり人間は鹿などより余程狩り易い獲物で――しかしその苛烈な反撃に、『彼』は住み慣れた山を離れざるを得なくなった。

 『彼』の体格は巨大である。冬眠用の穴など、そう簡単に見つかるものではない。
 やむなく『穴持たず』となった『彼』は、冬場の食料を人里に求めるしかなくなって……そうして人間と、衝突するようになったのである。



 そして、今。

「そこを動くんじゃねえぇぇええええ!!!! ぶっ殺してやらぁぁああああああ!!!!!!!!」

 突然の背後からの大音声に、『人食い』は獲物を食らうのを止めて、慌てて振り返った。










 築地孝治は激昂していた。この世界に来て最初に出会った人間、命の恩人が、無残にも食われていたからだ。
 勝てる勝てないとか、生きるとか死ぬとか、そんなことはどうでもいい。とにかく目の前の存在をブチ殺してやらなくては気が済まない――!!

 ――――だから、見るなと言ったんだ。

 自分自身に対する呆れの声が聞こえて、うるせえ、と孝治は一喝した。
 テメエも俺の一部なら、大人しく俺の決定に従え――!!

 生来孝治は激情の気質がある。その本性が、この土壇場で惜しみなく発揮されていた。
 左手に把持する火箸は二本、その一本を右手で構える。振りかぶりは熊が振り返るのと同時。眼前の熊は、急いで孝治を黙らせようと飛び掛りの姿勢を見せる。
 攻撃時の熊の瞬発力は、鹿をも超える。人間が回避できるような速度ではない。
 だが、その瞬発力が発揮されるより一瞬早く、孝治の右手は振り下ろされていた。

 ――――目を狙え。

 己の生還すら放棄させる激情の中で、しかし孝治の判断力は揺るぎがなかった。
 飛び掛ろうと熊が背中を丸めた一瞬、その左の眼球目掛けて、火箸は飛んだ。

 グァア、という声。

 静から動へと移行する、その一瞬の居着きを突いて、火箸は見事に突き立っていた。










 なんだ、これは。

 走る左目の激痛に、『人食い』は驚愕する。
 元より人の恐ろしさを知る『人食い』である。丸腰に見えた先の獲物がもたらしたこの痛みに、恐怖して全身の毛を逆立たせる。
 まさか、毒か。しかし毒を食らった時のような、体の重さは感じられない。

 攻撃だ、見知らぬ攻撃だ。

 眼前の『獲物』が再度、右手を振り上げる。先ほどと同じモーションに、危機感を煽られて『人食い』は横っ飛びに避けた。
 どおん、と、勢い余って壁に激突する。その巨体の俊敏な動きに、しかし『獲物』は冷静であった。『獲物』から目を離さなかった『人食い』は、飛びながらその事を理解していた。
 力強い振り上げは、フェイント。着地の瞬間、激突の衝撃で僅かに硬直したその隙を突いて、『獲物』はようやく、右手を振り下ろす。

 咄嗟に、『人食い』は頭を振った。

 放たれた『矢』は、『人食い』の頬骨に当たった。鈍い痛みが走り、しかし毛皮を貫かれなかったことを、『人食い』は感覚で理解した。
 グオォ、と威圧的な唸りを上げる。しかし『獲物』は怯む様子もなく、滑らかな動きで『刀』を抜いた。
 放たれる金属の輝き。だが――『それ』は知っている。

 『あれ』なら、問題ない。

 歴戦の『人食い』は、そのことに気付いた。大丈夫だ、『あれ』は大して痛くない。
 それでも、慎重な『人食い』は、本能的な働きで前足を上げて立ち上がった。










 両眼を潰すのは、失敗したか。

 山刀を抜いた孝治は、目論見が潰えたことに気付いた。
 完全に視力を奪えていれば、多少は勝ちの目があったかもしれないが――まあ、一パーセントが二パーセントになる程度だろうか。大した違いは無い。
 もはや孝治は覚悟を固めているのだ。『やるといったら、やる』。とうに失ったはずの命、なんぞ惜しいことがあろうか。

 ――――捨て鉢だな。

 それに、何の問題がある。命を長らえて、一体何の意味がある。

 自問自答は、刹那に満たぬ時間。
 踏み出して孝治は、熊に向かった。視線の先の熊はおあつらえ向きに、後ろ足で立ち上がろうとしていた。
 渾身の力で胸を刺突する、上手くいけば、心の臓に達するやも知れぬ――


 ――――何の意味が、だと?


 走り出す孝治の胸の内に、不意に、疑念が浮かび上がった。
 孝治と熊の距離は、至近。余計なことなど考えている暇は無いし、事実この時孝治は、浮かんだ疑念を聞き流した。
 立ち上がった熊は両の前腕を上げている。恐らく飛び込もうとする孝治を迎え撃ち、強力なベアクローで頭を叩き潰して殺すつもりだろう。

 だったら、それでいい。

 酷く清清しい気分で、孝治は疾走する。たった数歩の距離だ、何秒も掛かるわけがない。
 ここで死のうと、覚悟を決める。先ほど熊が横っ飛びに飛んだ瞬間、ちらりと見えたカルウシパの姿――あまりにも無残な有様は、孝治から気力を奪っていた。
 そうだ、結局“そういうこと”なのだ。だったらもう、いい。“この先”には、進まない、進みたくない。

 ここですっぱり終わらせよう。恩義に殉じて死ぬ。それで終いだ、“ゲームオーバー”だ。

 目の前の熊が前腕を振るおうとするのを認識して、ざまあ見やがれ、と孝治は悪態をついた。
 もう、熊の殺傷圏内に入る。もうすぐ、終わる。
 だからもう一度、孝治は悪態を吐いた。

 ざまあみろ、邪神。もう付き合ってなど居られるか――――










 迫り来る死を前にして、孝治はとうとう、自分の存在に対する欺瞞を止めた。

 そんな孝治の心の中に、先ほどの疑念の続きが浮かび上がる。










 ――――意味はある。





 熊が、残る右目に殺意を燃やした。





 ――――あるから、お前は、“ここまで付き合ってやった”んだ。





 前腕が、唸る。単純な特攻の体勢を取っていた孝治は、それを避けられるはずがない。
 ああこれで楽になれる、と、心のどこかで安堵して、





 ――――だがまあ、仕方ないか。“忘れている”のだから。思い出したいとさえ、思わなかったのだから。





 どういうことだろうか、と、ほんの僅かの疑問が浮かんだ。

 しかしもう、遅い。その疑問を解決する機会は、永遠に失われるのだ――――





 ――――だからまあ、仕方ないか。




















 ――――“手を貸してやろう”




















「――!?」

 孝治の右膝から、突然、力が抜けた。
 死を目前にした恐怖から、弛緩してしまったのだろうか。まさかそんなはずは――

 ごうと振るわれた熊の腕が、孝治の頭を掠める。

 回避したのだ、と遅れて認識が届いた。いやおかしい、と理性が叫ぶ。そんなつもりではなかったはずだ。
 しかし孝治は、孝治の殺意は、その好機を逃さなかった。傾いだ体は右前方へ、即ち熊の死角となっている、左脇腹へと突っ込んでいる。
 遮二無二山刀を突き立てる。体重を乗せた刺突は、アバラ三枚と呼ばれる急所に、見事に突き刺さった。
 深々と、刺さる。強靭な熊の筋肉を貫き、“奇跡的な強運で”頑丈な肋骨を回避して、鍔元近くまで。

「ぐ、……!」

 だが、まだだ、まだ終わらない。
 突き立てた切先は肺腑まで達したはずで、傷そのものは致命傷だ。しかし致命傷を負ったくらいで、野生の熊は止まらない。
 孝治を振り払おうとする『人食い』の一撃を、甘んじて受ける一瞬――指先で、鍔元を引っ掛けた。
 吹き飛ばされる。その勢いを利して、山刀を引っこ抜く。

「がはっ」

 茅葺の壁は柔らかく、孝治の体を受け止める。しかし吹き飛ばされた衝撃は大きく、一瞬視界がブラックアウトする。
 途切れそうになる意識を、何とか繋ぎとめた。視線は熊から離さず――その熊が、こちらに向かって血走った目を向けたことに気付き、痛む体で強引に、横っ飛びに避ける。
 どおん、と先ほどよりも大きく小屋が揺れて、孝治は辛うじて回避に成功していた。

「げほっ……くそ、どうなって……」

 わけがわからなかった。何故自分が生きているのか、何故熊が脇腹から、おびただしい量の血を流しているのか。
 ぶちまけられた血液は、完全に室内を血の海に変えていた。無論、カルウシパの分の血液も混ざっているだろうが……しかし最早、その大半は熊の物ではないだろうか。
 壁に激突した熊は、すでに先ほどまでの元気を失っていた。戦意は衰えていないようだったが、足取りをよろめかせている。

 だが、まだだ、まだ終わっていない。

 山刀を構えなおして、孝治は熊を睨んだ。
 傷は深い、もう長くあるまい。それでも、野性の本能は、『人食い』を闘争へと駆り立てていた。
 彼にとってはもう、孝治は獲物ではない。己を殺そうとしてくる、狩人なのだ。敵が居るなら食い破って生き残る――そんな強烈な野生の意思が、孝治を貫いた。

 ……上等だ!

 応じて孝治も、一歩を踏み出す。先ほどまでの捨て鉢な感情は鳴りを潜めて、今はただ、目の前の敵を殲滅しようとする意思が、前面に押し出されていた。
 勝算があるならば、相手が弱っているならば、全力で殺意を完遂する――それは目的達成の意思だ。冷静な分析力と一貫した意思。人間特有の心の働きが、孝治を突き動かしている。

 ――――そうだ、それでいい。

 すでに脇腹の傷は致命傷で、『人食い』の命は長くはあるまい。後は時間を稼ぐだけで、良い。
 腰を落とした孝治は、飛び掛ってきた『人食い』の攻撃を、紙一重でかわす。

 ……ここからわずか数十秒間の死闘を、孝治は後々になっても思い出せなかった。


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