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[32883] 【習作】旅人の夏(オリジナル/ゾンビもの/R-15/完結)
Name: TKZ◆504ce643 ID:c757ab0c
Date: 2012/07/24 19:37
この作品は2年ほど前まで「小説家になろう」で連載していました。
物語の終盤で削除して投げ出した作品ですが、一念発起し最終話まで書き上げたのでこちらで投稿させて頂こうと思いました。
2年も前の作品なので全体的に手直しをいれながら少しずつ再投稿させていただきます。


作品中において舞台である北海道に実在する道路や地域、公共施設については可能な限り実名で表記しています。より楽しむためにグーグルマップなどで「北海道札幌市北区篠路3条1丁目」表示していただき、そこを起点として地図で道を追いながら主人公と共に読者の皆様に北海道を旅をして頂ければ幸いです。

*注意
作品中に登場する施設等に関しては名称以外の、施設の外観や内部構造、そこに関わる人物の描写は全てフィクションです。人物の一部にはモデルが存在しますが、作中の現場に由来する人物をモデルにしていることはありません。


修正履歴

4/23 タイトルに【習作】を追加
4/25 ブロローグの誤字修正 ウェストプチ→ウェストポウチ
4/27 8話目のタイトルを修正 警察署→警察署前
4/28 タイトルにR-15を追加
5/25 35話目の修正
7/24 タイトルに完結を追加



[32883] 【プロローグ】
Name: TKZ◆504ce643 ID:c757ab0c
Date: 2012/04/25 21:00
 大学生と社会人と8年間暮らした東京からアパートを引きはらい札幌の実家に戻ったのは2009年7月12日の夜だった。


 こんなご時世に、いきなり仕事を辞めて実家に戻った息子に対する両親からの風当たりは強かった。
 「何故?」と責める様に理由を問いかけてくる母親に本当の理由を話す訳にもいかなかったが嘘を並べ立てる気にもなれなかったため、母親が疲れて諦めるまで背中を向け続けるしか出来なかった。
 自分の部屋で独りになると押入れのふすまを開く。8年間仕舞いっ放しだったダンボールを引っ張り出し、すっかりほこりを被ってしまったダンボールの中から懐かしい思い出の品々を取り出す。
 高校時代の夏休み。趣味のサイクリングで遠出をしては、泊りがけで北海道中を共に気の向くままに走り回った旅道具たちを一つ一つ手に取り確認していく。
「まだ十分使えるな」
 多少古びた感じはするものの東京などに比べると湿気の少ないため、8年間押入れに入れっぱなしであったにも関わらずカビも錆びも目立つようなものは無かった。

 その2日後の朝。まだ早朝といえる時刻に『旅に出る。毎朝連絡を入れる』と書き置きを居間の座卓の上に残すと、高校時代の愛車である自転車と共に旅に出た。
「空が違うな……」
 ペダルを漕ぎながら見上げる故郷の朝の空は東京で見上げていた空とは違う。吸い込まれそうな透明感と深い青さを備えていて何故か泣きたくなるような気分になった。

 昨日。ピッカピカに磨き上げた後に馴染みの自転車屋に持ち込んで、長年放置したために錆びたワイヤーや硬くなったタイヤ、ブレーキゴムなどのパーツ類を全て交換し、整備を済ませた愛車のペダルは何のストレスも感じさせず気持ちよく回り続ける。
 小学生の頃からの付き合いである店主の親父さんの仕事は相変わらずの丁寧さだった。
 10年選手のくすんだライトグリーンのフレームは、購入当時でさえ時代遅れの感のあったアルミ製のホライゾンタル・フレーム。(ハンドルの付け根とシートの付け根を繋ぐフレームパイプが、地面に対して水平になっている自転車フレーム。昔はこの形が定番だったが今では余り使われない)
 PTAが意味不明な理由で目の敵にするドロップハンドルに、効果を疑問視されがちなトゥクリップ。
 最近でこそロードタイプの自転車は復権を果たしたが、当時としては流行らない自転車であり、俺より一回り上の年代の男性は「ロードマン」と思わず呟き懐かしがるフォルムだ。
 タイヤは仏式バルブの700C。当時の北海道では替えのチューブも簡単には手に入らず、遠乗り中にパンクしてスペアを使ってしまうと帰り着くまでドキドキしっぱなしだった。
 フロントキャリアに装着したフレームと同系色のバックには、小型のフットポンプにスペアチューブが2セット。そして簡単な修理なら出来る程度の工具類が収まり。
 二つ取り付けたドリンクホルダーには、専用ボトルよりも使い勝手が良い900mlのペットボトルをセット。その中には高校時代に愛用した粉末スポーツドリンク──とっくに賞味期限切れだが、昨日の内に試飲し安全を確認済み──を水で解いたものが詰めてある。
 背中の大型デイパックには、数日分の着替えと食料・調理器具・アメニティーグッズ・雨具など諸々の旅に便利な小物類を詰めてある。
 デイパックの上には寝袋とマットを巻いて丸めたものを縛り付けて固定した。
 俺の自転車にリアキャリアは存在しない。タイヤ上部を完全にカバーするアルミ製の泥除けステイが、マウント用の穴を使ってしまっていて取り付けられないためだ。
 この手のロードサイクルに泥除けステーをつけない奴は多いが、雨天どころか路面が濡れていると乗れない自転車は実用性の面で無意味だと思う。
 その為に最後の大型の荷物である一人用のテントは、自転車のフレームの三角形の内側にゴムネットとフックで固定している。

 服装は普通のジャージのパンツに、吸水性の良い厚手で長袖のTシャツ。その上から吸った汗を乾かすために一回り大きなサイズのメッシュのTシャツを重ねて着込む。
 レーサーパンツにサイクルジャージなんてパッツパッツンの恥ずかしい代物を着なくても、1秒以下の時間を争う競技でもなければジャージのパンツの方が自転車に乗ってる以外の時の実用性が高い。
 泊りがけの遠乗りの場合には食料の買出しなんかでスーパーに立ち寄るがレーサーパンツとかでは敷居が高いというか、あの格好は自転車に乗ってるから辛うじて許されているのであって、俺は自転車を降りた瞬間から恥ずかしくて無理。
 手首までを覆ってくれる厚手の長袖Tシャツは転倒時の擦り傷を、むき出しの素肌に比べれば劇的と言って良いほど軽減してくれる。
 もっとも、転倒時に身体とアスファルトの間の一枚の布地の利を最大限に活かすには、多少では済まない転倒の経験が必要だ──全く自慢にならない。
 汗止めのバンダナをし、強い日差しによる髪焼けを防ぐキャップを被り、足元はソールが厚目で柔らかいゴムを使った安スニーカー。
 手首まで守れる丈夫な皮製のグローブをするのは、一度自転車に乗っていて道にまで張り出した木の枝が顔に当たりそうになり思わず手で顔を庇った時に、枝の棘でざっくりと手首を切った経験によるもので、今でも俺の左の手首には二条の傷跡がくっきりと残っている。
 もっとも夏場は、暑さの為に大量の汗をかき、中が蒸れてヌルヌルと気持ち悪くなり、しかも臭いという深刻な問題もある。
 腰には大きめのウェストポウチを取り付け、中に財布に携帯電話とサングラスを入れた。

 軽い向風をものともせず快調に加速していく自転車と俺。踏み込むペダルの確かな感触と後ろへと流れていく景色に、久々の懐かしい感覚に心の奥底で沸き立つものを感じた。
 札幌市内。国道231号線を北上していると、景色は以前と余り変わりの無い様に見えたが、高校時代に友達と何度か買い物に行った事のある大型模型屋が紳士服店に変わっていて少しセンチな気分を味わう。
 茨戸川手前で右折して道道(どうどう:北海「道」の県道にあたる道)128号線へと入り、2.5km程を走ると札幌教育大のある、あいの里地区に入る。
 最近、あいの里地区はベッドタウンとして開発が進んでいると聞いていたが、表通りを走ってる限りにおいて、高校時代の頃と大きな変化を感じられない。
 JRの線路を跨ぐ高架手前で中道に入り、あいの里公園沿いのカーブを利用した近道を走る。国道337号線への合流手前から目に入るはずの全国紙の新聞社の北海道支社の大きなビルの看板が、北海道土産として生チョコレートで有名な菓子メーカーのものに変わっていたのが唯一はっきりと気付いた変化だった。
 菓子メーカーの建物の前を通り右折して北海道最大の河川である石狩川(長さで全国3位。流域面積で2位)にかかる札幌大橋を渡り、札幌市と当別町の町境を越えると目の前に広がる風景は、これぞ北海道と言わんばかりだ。
 途中信号が一つあるだけの7km以上続く真っ直ぐな道が伸び、その周囲にあるのは畑と農家。後は川と用水路が張り巡らされるだけで、山も丘も無くひたすら平野が広がる。
 数時間後には行き交う大型ダンプやトラックが巻き起こす起こす風に煽られ、舞い上がる埃を被る事になるこの道も、今はまだ交通量は少なく空気は澄み切っていた。
 7kmの道のりを風を切って走りぬけ国道275号線にぶつかると、一旦数百mを南下し左折で農道に入る。
 比較的路面状態の良い農道を選びながら(道路状態は良くないので選ばないと酷い目に遭うが、下手に近道を選びすぎると畑の真ん中で行き止まりになったり、砂利道に出てしまう)15km先のしのつ湖を目指して走る。自動車とは違い自転車での長距離移動はこまめにチェックポイントとそこまでの時間を定めて走り、たどり着いたらまた新たな目標を設定して走ることを繰り返さないと途中ちょっとしたアクシデントでも心が折れたりする。

 しのつ湖は新篠津村にある、石狩川の蛇行部分をせき止められて出来た三日月湖。
 たぶん実家から一番近い冬場結氷し氷上で公魚(わかさぎ)釣りが楽しめる湖であり、以前から一度冬の氷上公魚釣りを体験したいと思いつつ、未だ果たせていない──何故なら、冬場に簡単にたどり着ける場所ではなく、ちょっと吹雪けば札幌に帰れなくなる。
 また何度か冬に北海道に里帰りした時に、地元の友人達を誘ってみたがことごとく断られた。曰く「寒いから嫌だ」だそうだ。生まれも育ちも北海道なのに……

 川沿いのカーブを、犬と散歩中の老人を追い越して走っていると目の前に大きな吊り橋が現れる。
「岩見沢大橋じゃ……ない?」
 何度も渡ったことのある錆びだらけの古びた橋が、見慣れない綺麗で道幅も広い新しい橋に変わっていた。
「そういえば何か橋作ってたよな」
 橋の親柱に埋め込まれた金属部レートに刻まれた名前を見つける。
「たっぷ大橋だぁ?名前も変わったのか……大体たっぷって何だよ?」
 そんな疑問を抱きつつも、しかし元の岩見沢大橋に思い入れがあったわけでもなく、新しい橋で良かった位の気持ちで橋を渡る──実際脇の歩道の部分も広く走りやすかったので橋が架け換わったことに感謝した。
 その後15kmほどを、目先が変わらなさに飽きを感じつつ農道を走り続け国道12号線は岩見沢市と三笠市の町境にたどり着いた。

 家を出て3時間弱。自転車のハンドルに取り付けてある100円ショップで買った液晶デジタル腕時計の時刻は8:39を示していた──ちなみに安い液晶は強い直射日光を浴びると直ぐに真っ黒に焼け付くので普段は液晶面を下に向けて、確認する時だけ指で回して時刻を読み取る。

「さて飯はどうしよう?」
 朝飯を食わずに家を出たためにかなり空腹なのだが、困ったことに今の今まで朝飯をどうするか何も考えないまま、ここまで来てしまった。
 高校時代、暇なときにちょっと自転車に乗って来るような場所であった気軽さゆえの失敗だ。
 もちろん、人口十万人に満たない田舎町の岩見沢市とはいえどコンビニくらいは何軒もある。現に目の前の信号を渡ればすぐコンビニだ。
 だがコンビニ弁当なんかで適当に食事を終わらせる訳にはいかない理由があった。この後予定では今日は一日中山道を走ることになっている。
 その活力を得るためにも、しっかりとした食事を是非に取っておきたい。
 この機会を逃せば、次にインスタントやレトルト以外の食事を取れるのは順調に予定をこなしても明日の昼になるはずだ。

 ここから国道12号線沿いに札幌方面、岩見沢の中心部へと行けば適当な食べ物屋は有るだろうが、この時間帯に開いてるとは期待はできない。
 だからといって店が開くだろう10時以降まで待つなら、多分今夜は山の中で一夜を明かすことになるだろう。初日からそんなのは絶対に嫌だ。
 周囲を見渡してみると三笠の方角1kmほど先に、全国展開の巨大スーパーマーケットの看板が見えた。
「ここって店によっては10時より前から開いてたような……開いてなかったような」
 あまり期待せず、軽く流す感じでペダルをこいでスーパーマーケットに向かうと、巨大な看板には営業時間が9:00~と書いてあるのが見えてほっとする。
 広い駐車場を抜けて駐輪スペースにたどり着くと、まだ開店までは10分以上が残っていた。自転車止めに自転車を停めて、しっかりと二重に鍵をかけると近くのベンチに腰を下ろす。
 そして座りながら軽くストレッチをし、太股から脹脛にかけてマッサージを施す。10代の頃とは違い20代後半に差しかかると、こまめな身体のケアを心掛けないと突如として心を身体が裏切るという事を、悲しいほど何度も思い知らされている。

 そうこうしていると、明るい音楽と共に開店を知らせるアナウンスが流れ始めたので、正面入り口へと向かう。
 店内に入ると真っ先に店内地図を探し、レストラン街の位置を確認して真っ直ぐに向かう。
 これからの旅で度々お世話になるだろうカレーや麺類を避けた上で何を食べるか考えていると、美味そうなオムライスのディスプレイが目に入ったので、迷わずその店に決める。
 明るくファンシーな雰囲気の店内に、似合わない今の自分の格好を自覚しつつ入店する。唯一の救いは他に客の姿が無いことだ。
 注文して10分少々で出てきた、卵がふわふわトロトロのオムレツに、サラダとスープ。サイドメニューにチキンナゲットで少し重た目の朝飯をガッツリ頂く。
 この後の山道を抜けて暗くなる前に富良野に出る事を考えれば、昼は自転車を漕ぎながら栄養ブロックかゼリーだろうし、夜はキャンプ場でカップ麺かレトルトカレーだと思うと、食べ終えてしまう事が惜しくすら感じられた。
 食後、時間に余裕があるわけではないのだが、アウトドア系のショップを何か良さ気なモノが無いかと見てまわる。
 するとLEDライトのコーナーが目に入り足を止める。
 色々と噂には聞いていたが、実際LEDライトに触れたのは昨日馴染みの自転車屋で自転車のライトをLEDにしろと薦められた時が初めてであった。
 その白く明るい光と消費電力の低さに興奮を覚えて即買いしたのだが、俺の中の物欲という名の魔物はまだまだ満足していなかった。
 気付くと、ヘッドマウントタイプと、手持ちタイプで明るさを2段階に切り替えられ、更にビームと拡散も切り替えられるライトを持ってレジに並んでいた。
「仕方ないよ。こんなに凄いんだから。絶対に必要になる……いつかきっと」
 アウトドアショップで会計を済ませた俺は、自分を欺きつつ慰める台詞を吐きながら食料品スペースに向かう。
 そこで昼飯用のバナナと某固形バランス栄養食品を購入してスーパーマーケットを出る。
 買いこんだライトと食べ物をパッケージや袋から取り出すとゴミを店のゴミ箱に捨てて、中身をウェストポウチとデイパックにつめた。

 再び自転車に跨りペダルを漕ぐ。道道30号線から左折して道道116号線へ入る。
 暫く平坦な道を走ると三笠市の中心部に差し掛かるが、これから辛い登りが続くと思うと小さな田舎町に感慨深い何かを見出す精神的余裕もなく一気に走り抜けてた。

 三笠市の市街地の終わり辺りから始まった細かいアップダウン有りの登り道。フロントバッグ上部のマップ入れ(グリッドの入った透明なビニール製のクリアファイルの様な物が、スナップでバッグ本体に着脱可能。そこに地図を入れて走りながら確認できる)の地図を確認すると標高はいつの間にか100mに達している。
 自転車を停めて、この先の行程を地図で確認すると次の1km程で標高160mを超えて、更に次の1kmで200mを超える。
 その後は、アップダウンを繰り返しつつ最終的には400mを超える事になる。
 単純に地図上の標高の20m単位の数字以上に問題となるのは数字に出ない細かいアップダウンだ。
 極端な話、等高線の20mの間なら何度も急な坂を上り下りしても地図上は平坦な道となっているので、地図だけを頼りにして全く知らない道を走ると酷い目に逢うこともある。
 この道を自転車で走るのは始めての経験であり、俺も地図を見て感じた、何となくこんなものだろう以上の知識は無い。
 結局スーパーマーケットを出て15kmほどの道のりを走り桂沢湖付近にたどり着いた頃には、俺は想像以上に疲れ果て、時刻は大雑把な予定として考えていた12:00を一時間以上も過ぎていた。決して想像以上に酷い道という訳で無かったにも関わらず……

 ──桂沢湖は山々の谷間に築かれたダムに堰き止められて出来た人工湖で、普通の湖の様ななだらかな湖畔ではなく、溜まった水が周囲の山々の谷間に入り込み細かい棘の生えた木の枝の様な形をしており見ていると非現実感を覚える。また湖の周辺は周囲を原始林に囲まれた美しい景観の道立自然公園である。

 本日の予定は、富良野市に入り、市街地を南下してキャンプ場に一泊する予定だった。
 だがこの先の更に厳しい山道を抜け富良野市市街地に入るだけでも40km以上。そこから平坦な道だが20km弱先のキャンプ場まで走るのはどう考えても無理。
 東京での生活で全く運動していなかった訳じゃないが、自転車で長距離を走るような事は普段の生活に組み込まれていないどころか、全くやってなかった。
 自転車を漕ぐという運動は自分の足で歩いたり走ったりするのとは異なる筋肉の使い方をするので、これは致命的である。
 また体力自体が10代の頃に比べると笑ってしまうほど低下しており、何のリハビリもなく高校時代の身体のつもりで予定を立てたが、これまでの70km以上の道のり──特にここ10kmの上りの坂道で筋肉は既に悲鳴を上げていた。
 このまま走り続け、体力が残っている間に山道さえ抜けられれば、適当に道路の端ででも一人用のテントを張って寝れば良いのだが、山の中で力尽きてテントで一泊というのは怖い。何が怖いと言うと熊が怖い。本州のツキノワグマと違い北海道の熊は羆だ。顔を見れば分かるが、どこか愛嬌を感じるツキノワグマと違い連中の強面には洒落や冗談は全く通じそうも無い。

 初日にして既に絶望的なまでに狂ってしまったスケジュールに頭が痛い。
 そんな気分を落ち着かせるために桂沢湖の美しい風景に目をやる。
 細波にゆれる湖面には空の青さと山の緑が、夏の日差しと共に揺れている。そんな美しい景色にふと言葉が漏れる。
「幸いここってキャンプ場もあるんだよな……」
 思わずそう呟いてしまった自分に驚く。幸いってなんだよ?初日から日和ってどうする俺?
「畜生。行くぞ!」
 そう自分に喝を入れるとペダルを強く踏み込む。坂道をグイグイと登りながら桂沢湖をパスしてゆく。
 ウェストポウチからバナナを取り出すと皮をむいて齧り付く。ムシャムシャと咀嚼しボトルホルダーから取り出したペットボトルを煽ってスポーツドリンクごと喉の奥に流し込む。
 力の限りペダルを踏み込んでゆく、汗止めのバンダナを乗り越えて顔中に伝わる汗も振り払わずに、まるでそうすることで10代の頃の自分を取り戻せるとでも言わんばかりに、無謀にも山道に挑んでゆくのであった。


 現在の時刻 今、日付が変わった
 現在の場所 良く分からないが山の中
 現在の体力 限界突破
 現在の気力 心が折れて真っ二つ

 結論。頑張ったところで10代の黄金期の頃の体力が戻ってくるはずは無い。
 どうにもこうにも限界だ。ペースは上がらない上に足は攣る。仕方なく自転車を降りて押し歩けば2時間もすると今度は腰が痛み出す。近年の不摂生のツケが一斉に襲ってきたみたいだ。



[32883] 【01  07/15(水)00:10 芦別市山中】
Name: TKZ◆504ce643 ID:c757ab0c
Date: 2012/04/22 17:11
 山の斜面と木々にさえぎられて月の光は届かない。さらに街灯があるわけも無いので怖いくらいに真っ暗だ。
 下りに入った山道を車載LEDライトとヘッドマウントLEDの灯りだけを頼りに走っていると、道の脇にUターン用のスペースなのだろうか車数台が停めらそうな舗装されたスペースを発見した。
 そこに自転車を停めて辺りを見渡すが、特に問題もなさそうだったので本日のキャンプ地とした。
 アスファルトの上に転がっている邪魔な小石などを足で蹴散らしスペースを確保すると、そこに小型テントを設営する。
 この手の小形テントは設営が便利なタイプも多いが、俺が使っているのは軽量かつ収納時のコンパクトさを優先して選んだので、小さいながらも設営の手間は普通のテントと全く変わりない。今回のように走れるだけ走って眠るためにテントを張るというパターンは良くあるので、暗闇の中ライトだけを頼りに作業する度に自分の選択が間違っていたのではないかと悩む。
 設営が完了すると、熊対策にテントを囲うようにガードレールや自転車等を使って釣り用のテグスを張り巡らせて、その端に警報ブザーの引き抜きリングに結びつけて簡易鳴子を作った。
 晩飯代わりにバランス栄養食品のクッキーを齧っていると疲労の限界で瞼が重くなってきたので、テントに入り足腰にシップを貼る。そして熊避けの爆竹とライターを手にしたまま寝袋に潜り込むといつの間にか眠りに落ちていた。


 薄いテントの生地を通して降り注ぐ朝の日差しと鳥達のさえずりに目が覚める。
 時計を見るとまだ7時前。こうして時間を確認できるのは幸いにも熊には襲われなかったということだ。
 テントを出てキャンプ用のカセットバーナーを用意して鍋でお湯を沸かす。その間に昨夜張り巡らせたテグスを警報ブザーともども回収してデイパックにしまう。
 温まってきた鍋にレトルトカレーのパウチを押し込み、お湯と一緒に暖める。
 蓋付きのプラスチック製の深皿にアルファ化米を袋から流し入れ、その上から沸いたお湯を掛けて蓋をして20分ほどで普通のご飯のように食べられるようになる。
 ご飯が出来るまで蓋の上に保温を兼ねてレトルトカレーのパウチを載せ、余ったお湯でインスタントコーヒーを作る。

 スティックシュガーの1/4程を加えた微糖のコーヒーを飲みつつ他の作業をする。
 先ずは寝袋やテントをたたむ。そして昨日寝る前に貼った湿布を脚から剥がしてから昨日の旅程を思い出しながらメモを取る。
 そこで、ふと家に残して来た書き置きの事を思い出し実家に連絡を入れようとペンを置いて、携帯電話を取り出すが山間部で電波状態が悪いのだろうアンテナが一本も立ってない。ついでだからニュースでも聞こうとラジオ機能を使おうとしたが、オートでもマニュアルでもどの帯域にチューニングしても携帯電話はノイズしか吐き出さなかった。
 電話の電波はともかくラジオの電波は多少のノイズが入ったとしても山道だって届くはずなのにと思ったが、そもそも自分の携帯電話のラジオ機能などほとんど使ったことが無かったので感度が低いのだろうと自分を納得させた。

 20分ほどで出来上がったご飯にパウチからカレーを掛け、コーヒーが飲み終わった後のステンレス製のマグカップにペットボトルから野菜ジュースを注いで朝飯の準備は終了。
 朝からカレーを食べることに否定的な意見は少なくないが、俺は家でカレーを作る時は一人暮らしにもかかわらず大鍋で作り、その後の一週間をカレーだけを食べ続けるのに何の疑問も持たない男だ。
 自分の手作りカレーに比べると格段に劣るとはいえ、こうして外で食べると何故か美味く感じる。
 そうとはいえ寂しい一人飯。何かに急かされるように手早くカレーを掻き込み野菜ジュースを飲み干した。
 水場が無いので洗い物はキッチンペーパーで食器を拭き取り片付ける。
 同様に洗顔に髭剃りと歯磨きは、富良野に入ってからにすることにした。

 片付けが終了し出発の準備が整ったので、地図を広げて今日の予定を考える。
 最初の予定では2日目は新得町。出来れば帯広を目指すと言うざっくりとした予定であったが、初日の段階で狂いまくってしまう程度の予定が今日の目安になるはずも無い。
 昨日の進捗状況から、必死に自転車を漕いでもサホロ湖付近のキャンプ場に到達する前に狩勝峠辺りで力尽きるのが限界だろう。
 どうせなら南富良野辺りで一泊してから狩勝峠に挑み、日本新八景の絶景を楽しむというのも……
 どんどん弱気な計画になっていき、そんな自分にどうしたものかと苦笑いを浮かべていると、岩見沢方向から車のエンジン音が聞こえてきた。
 そういえば今日初めての車だ。いや寝ている間だってもし車が通過すれば、薄いナイロン生地一枚しか隔ててないテントの中にまで音が響いて目を覚ますはずのなのに、昨晩は朝までぐっすりと眠ってしまった。
 何か引っかかるものを感じながらも、音の方を振り返るとトヨタ製の大型RV車の姿が飛び込んで来る。
「何だ?」
 どうも様子がおかしい。フラフラとセンターラインを右に左に踏み越えながら俺の前を通り過ぎて行く。その一瞬車内の様子が見えた。
 助手席で誰かが暴れているようで、後部座席で髪を振り乱す少女の顔が恐怖に凍り付いていた。

 そのただならぬ様子に、開いていたミウラ折りの地図を一瞬でたたむとフロントキャリアのバックの中に押し込む。
 そしてデイパックを背負うと自転車に跨る。後ろをざっと見渡し最終確認を済ませるとペダルを踏み込み一夜のキャンプサイトを後にする。

 道は下りが続いていたので大きく引き離されること無くついて行けたが、やがて左に切れてゆくカーブの先で視界から外れてしまう。
 追いつくために更にペダルを漕ぐ足に力を入れると、直後、キーッ!という耳を突く高いスキール音がカーブの先から響き渡り、肝を潰すがその後数秒過ぎても激突音らしい音は聞こえて来なかった。
「無事に停まれたのか?」
 そう思ってペダルを踏む足の力を緩める。するとカーブの向こうから男性が何か大きな声で叫んでいるのが聞こえる。
 次いでドンと自動車の扉を強く閉める音が聞こえ、その後も男性の声は続く。はっきりとは聞こえないが誰かを呼んでいるような声だった。

 カーブを抜けると前方100mほど先にRV車が頭を右に向けて斜めになり両車線をふさぐ形で停車していた。
 その尋常ではない様子に、俺はゆっくりと自転車を走らせ慎重にRV車に接近すると、残り50mほどに迫った所でRVの向こう側で「ぅぎゃぁぁぁぁっ!」と男性の悲鳴が上がる。
 日常生活では決して聞くことの無い心臓を鷲掴みにするような断末魔の叫びに一瞬身がすくんだ。

「面倒なことに首を突っ込んでしまったな」
 勢いで追跡してしまったことを後悔しつつも、今更知らぬ顔で逃げ出すわけにもいかない。そもそも俺の行き先はこの先だった。
 覚悟を決めてペダルを強く踏み込み加速させると道をふさぐRV車のリア側に自転車を停める。
 RV車の影から前方を覗き込むと30mほど先に髪の白い年のいった男性が倒れており、その男性に女性──男性と同じ年恰好の老女が縋り付いていた。
 自転車をその場に停めて、背中から荷物を降ろすと「大丈夫ですか?」と声を掛けながら走り寄るが、老女は俺の声に反応する様子も無く、倒れた男性の胸元に顔を押し付けるようにしてなおも縋り付いている。
 見ると男性の傍のアスファルトの上には既に広い血だまりが出来上がり、更に坂を下って血の川を作りあげていた。
 流れている血の量から素人目にも、既に生きてるとは思えない。仮に生きていたとしても生存時間は残り僅かなはず。こんな山の中では輸血することも出来ないので助かる可能性は無い。
 そう判断すると足を止める。悲しみ嘆く老女を押し退けてまで救命活動をすることに意味はない。むしろゆっくり別れの時間を与えるべきだと思った。

 ふと気付く。目の前の惨状に気をとられて忘れていたが、この状況は何故起きたのか?
 慌てて周囲を見渡してみる。
 するとRV車から男性が倒れている場所まで何かを引きずったような血の跡が続いていた。血を流しながら歩いた跡ではなく血を流した何かを引きずった跡……つまり男性が血を流しながら這った跡だ。
 男性は足を怪我し、しかもあれだけの流血を伴う大怪我をしたままRV車から離れるように這って移動した。怪我は車の様子から事故を起こして怪我を負った訳ではなさそうだ。
 すれ違ったときに見えた車の中の様子では、はっきり見えなかったが助手席の人間が暴れていた。
 多分、運転席にいたのは倒れている男性。そして危害を加えた犯人は助手席にいた何者か……そして男性は車を停めると声を出して自分に犯人を引き付けて車から犯人を遠ざけようとした。
 そして30mほど離れた場所で力尽きたのか、もしくは殺された。
 ならば犯人は何処に逃げたのだろう?男性の断末魔の悲鳴から俺が倒れている男性を見つけるまでの時間は10秒も無かった。そんな短時間に犯人は何処に?
 逃げてるはずが無い。逃げようにもこの先の道は見通しが利くので俺の視界から走って逃げられる時間は無かった。必ず近くに隠れているはずだ。
 殺人犯への恐怖感が脳内麻薬を分泌させ俺の身体と意識を戦闘状態へと移行させる。

「気をつけろ!」
 大声で老女に叫びながらRV車を振り返る。別にナイフのようなもので直接殺さなくてもボウガンのような音を立てない飛び道具を使ったなら、RV車の傍から30m離れた男性を攻撃することは出来る。何より男性がRV車の場所から逃げていたという事は犯人はRV車の傍に居る可能性が高い。
 身を低くし飛び道具による攻撃に備える。低い体勢からRV車の下や反対側の様子が見えるが、誰かが隠れている様子は無い。アスファルトの上を転がりながら場所を移し、角度を変えてタイヤの裏に犯人の姿を捜すが見つからない。
 同時に車の窓も見るが開いてる様子は無いので中から狙撃される可能性も無い……じゃあ犯人は何処に?
 ……いや違う俺は勘違いしていた。車から男性の死体のある場所まで続く血の跡は、決して少ない出血量ではないがあんな血溜まりを短時間に作るほどの大出血によるものではない。
 またあの場所で飛び道具によって止めを刺されたにしても矢が刺さった程度で起こる出血でもないだろう。銃だとしても俺は銃声を聞いてない。
 ならば犯人がいるのは──突如RV車からクラクションの音が鳴り響く。

 危うく小便を漏らしそうになる程驚きながら、運転席に目を向けると後部座席の少女が身を乗り出してハンドルを叩いてクラクションを鳴らしている。
 俺と目が合うと少女はクラクションを鳴らすのを止めて、必死な様子で俺の背後を指差す。
 つられて肩越しに後ろを見ると、俺の背後5mほどの位置に先程の老女が迫ってきていた。
 両手と口元から胸元にかけてを真っ赤に血で染め、歯を剥き出しにして真っ赤に充血した目で俺を睨みつけながら、両手を前に突き出して一歩一歩足を引きずるように歩いてくる。

「な、何だ?」
 目の前の状況が理解出来ない。状況的に老女は死亡した男性に縋り付いていたのではなく男性の血を啜っていたとでもいうのか?
 だが一般的に人間は飲血に対して強い催吐反応を示し大量に飲み込んだりすることは出来ないはずだ。
 ならば、今目の前で起きている事態は何なのだろうか?……違う。そんな場合ではない。理由なんて後回しに出来ることは後でゆっくり考えれば良い。今は目の前の現実にどう対処するのか考えるべきだ。
 混乱で数秒間を無駄にしながらも何とか冷静さを取り戻すと立ち上がり老女と向かい合う。
 老女は「あぁぅぅぅぅあ」と意味不明なうなり声を発しているが、俺にはそれが敵対であり威嚇であると感じられた。
「エライ事になったな……」
 老女が連れ合いを殺されて錯乱しているなどという状態ではない。
 白目の部分の充血して真っ赤なのはともかくとして、瞳がまるで鮮度の落ちた魚のように白っぽく濁っていて、とても人間の形相ではない。
 まるでアレだ。バイオでゾンビなクリーチャーって奴だ。
 呪いだったり、ウィルスだったり、謎の放射線に化学物質。果てには宇宙人の治療用のナノマシーンの暴走だったりと良くも色んな原因を考えるものだが、多くの場合ストーリー展開上、役に立っておらず更に説明にもなってないのだが…・・・駄目だ。まだ俺はパニクっている。思考が定まらず余計なことばかりが頭に浮かぶ。

 老女から目をそらさずゆっくりと深呼吸する。
 少し落ち着いたと思いきや、今度は別方向へ余計な考えが頭の中に浮かぶ──もしかして、これってゾンビをテーマにしたドッキリじゃねえ?と。
 今の状況を現実として受け入れる場合と、手の込んだ冗談と受け入れる場合。
 希望としては断然後者である。しかしドッキリとして考えるには目の前の状況は余りにリアル過ぎて予算が心配になるほどだ。
 ましてやこんな山の中でロケをするなんてありえない。一体誰を相手に仕掛けたドッキリなんだ?俺が山中で一泊したのだって予定外のことだし、俺が居なければドッキリは成立しない。
 だがドッキリであるという疑いが僅かでもある以上は、決定的な局面を迎えるまで老女に対して力尽くでの対応を取れないことを意味する。
 つまり、いきなりゾンビの弱点と思われる頭部を先手必勝でぶっとばすという選択は絶対にありえない。
 そうした場合。悪趣味すぎるドッキリ故に最高裁まで持ち込んでも無実を勝ち取る自信はあるが、拘置所で年単位で拘束されるなんて馬鹿らしいにも程がある。
 そうかといって、ドッキリであることを前提に「何処にカメラがあるんですか?良く出来た特殊メイクですね」などと言いながら老女の肩を気安く叩くという選択もありえない。
 常識に行動を縛られる俺は、もしカメラの向こう側で多くの視聴者に笑われる事となっても、目の前の老女をゾンビであると仮定しつつも消極的な対応をしなければならない。

「本当に死んでいるのか?」
 この状況を打開する鍵は倒れている男性だという事に気付く。彼が本当に殺されているならばドッキリであるという可能性は排除できる。
 ゆっくり近づいてくる老女に対して俺は道路の右側に寄る。釣られて右に寄った老女の左側をダッシュで大きく迂回して回り込み、そのまま倒れた男性の元へ駆け寄る。
 背後からゆっくりと迫る老女との距離を測りつつ、倒れている男性の横に膝を突いて声を掛ける。
「もしもし、大丈夫ですか?」
 次第に声を大きく張りながら繰り返し話しかけるが反応は無い。
 男性はやはり老女と同じ年かさだった。彼の首の左側の肉は熊にでも食い破られたかのように大きく抉り取られ、血塗れで真っ赤な傷口の中で白い骨が覗いている。
 欠損部分が大きく、特殊メイクでなんとかなるものではない。
 男性の胸に手を当てて見ると、まだ身体に温もりは残っているが心臓の鼓動は全く感じられない。
 また傷口には血が溢れていても、千切れた血管から血が噴出すようなことはない。
 特殊メイクで死体を演じてるのでも死体の人形が置いてあるわけでもない。これはかつて生き、そして死んだ人間の姿だと確信する。
 そして同時に自分が本当にとんでもない状況に追い込まれているのだと自覚せざるを得なかった。

「……本当にゾンビなのか?」
 首の傷に残る歯型。顔や腕などにも同様に歯形の残る傷がある。
 周囲を見ても欠損した部分の肉片は周囲には落ちていない。となれば既に老女の胃袋の中か……もう錯乱状態とかで説明がつく状況ではない。単なる猟奇事件の枠を超えている。
 現実が映画やゲームと同程度に成り下がったのだと結論づけざるを得なかった。

 ゆっくり一歩一歩足を引きずるように歩きながら、こちらに向かってくる老女。
 ゾンビかどうかは分からないが、人間とは違う何かだと認識せざるを得ない。
 そして、そう認めたことで一層強く襲い掛かる不安と恐怖に足元が砂地を踏んでるかの様に心もとなく感じられる。
 この場を逃げるためには、もう一度老女の横を通り抜けて自転車にたどり着き、更に自転車ですり抜けて富良野市方向に逃げなければならない。非常に残念だがこのまま徒歩で山を下る方法も自転車で岩見沢方面に戻るという方法も、この状況を早く警察などに通報する必要があるので選択できない。

 再び老女を道の右側に引き寄せる為に移動しようとした時、足元の辺りから「ぅぅぅあああ」とおぞましい呻き声が上がる。
「やっぱりゾンビ!」
 目の前の老女をゾンビだと疑いながら、ゾンビに噛まれた者はゾンビになるというお約束をすっかり忘れていた自分の愚かさに慄き、そして何より目の前でゾンビとして蘇った男性の姿に慄く。
「うぁぁぁぁぁっ!」
 恐怖と言う名の氷柱がケツの穴から頭の天辺まで貫き通すが、俺はその恐怖を振り払うように雄たけびを上げる。
 そして極限状態で高まった攻撃本能に身を任せ、ガクガクと身体を震わせながら起き上がろうともがく男性。いやゾンビの肉が残った右の首筋へ渾身の左ローキックを叩き込んだ。
 生木の枝をへし折る様な音と嫌な感触を残して彼が二度目の死を迎えアスファルトの上に倒れ伏す。それと同時に老女のゾンビが下り坂の勢いに乗って突っ込んでくる──といっても普通に人間が歩く速度と変わりない。
 俺がとっさに男性ゾンビの遺体を挟むような位置取りをする。しかし老女のゾンビは死体の存在に気付く様子も無く勢い良く突っ込むと遺体に足を取られ、受身も糞もなく激しく転倒しゴンッという鈍い音を立てて顔面をアスファルトに叩きつけた。

 その隙に振り返ることなく一気に走って自転車の元へたどり着くとアスファルトの上に転がったデイパックに手を伸ばす。
 その時、傍のRV車からドンドンと叩く音が響く。そういえば車内には少女が残されていたのだが余りにショッキングな事が続き過ぎてすっかり忘れてしまっていた。

 こんな異常な恐怖の中で、他にまともな人間が居るという心強さに俺は少し冷静さを取り戻すことが出来た。
「車内には他に誰もいないのか!」
 大声で質問を投げると窓越しに首を縦に振るのが見えた。
「噛まれて怪我したか!」
 今度は首を横に振るのが見えた。
 イエスとノーの二つの反応があったということは、反射的にただクビを縦に振ったという訳ではないようだ。
 そう判断すると、後部座席のドアを開けて「助手席に移って、後のハッチを開けて」と指示を出し、デイパックを後部座席の上に放り投げる。
 自転車を押して後部に回り込み後部ハッチを空けて自転車を載せようとするが、既にかなりの荷物が積んであり、このままではハッチが閉まらない。
 一瞬他の荷物を降ろそうかと考えたが、自分の自転車が輪行用にレバー操作だけで車輪の軸を開放出来ることを思い出し、前輪を外して荷物の上に載せ、開いてるスベースに自転車をぎりぎりで押し込みハッチを閉めた。
 運転席ドアから車内に乗り込むと、刺さったままのキーを回してエンジンを掛ける。集中ドアロックで全てのドアにロックをかけると、運転席の窓の向こうには老女のゾンビが立っていた。
 シートベルトを締めながら助手席の少女の肩を叩く。
 飛び上がらんばかりの反応を示して怯える少女に窓の外を示す。窓の外にいる老女のゾンビを目にした少女の表情は一瞬で凍りつく。
「アレ……あの人は君の?」
 身内を喪ってショックを受けているだろう少女に質問を投げるのは止めない。
 少女を気遣う余裕など今の俺には残されていない。
「わ、私の、私の祖母です」
 双眸から涙を流しながら震える声で少女は答える。
「そうか……もう一人は?」
「祖父です……」
 そう答えた少女は抱いた膝の膝頭に顔を埋めると圧し殺した泣き声を漏らし始める。
 そんな彼女の姿を見て胸に湧き上がった罪悪感。
 だが、そんな感情とは全く別のところで、自分を襲った非現実に対し乾ききった心の何処かで沸き立つ何かを感じずには居られなかった。



[32883] 【02  07/15(水)08:00 芦別市山中】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/23 20:43
 富良野へと車を走らせながら車載ラジオを操作するが、先程の自分の携帯電話のラジオと同じくノイズを吐き出すだけだ。
 明らかにおかしい。先ほどのゾンビだけじゃない何かが起きている気がする。

 助手席の少女がようやく泣き止んだようなので声を掛けてみる。少なくとも彼女は俺が知らない何かを知っているはずだ。
「俺の名前は北路圭太(きたみちけいた)。君は?」
「……文月、文月蓮(ふづきれん)です」
 声を掛けられて驚き、そして怯えたように彼女は名乗る。
「ふづき……ああ、ふみづきとも読む七月の文月かい?」
「……はい」
 全く会話が膨らまない。
「じゃあ文月さん。これからよろしく」
「よ、よろしくお願いします……北路さん」
 一応、握手の為に右手を差し出したのだが、彼女はおずおずと震える手を伸ばそうとしたが、あと少しというところで引っ込めてしまう。
 行き場の無くなった気まずい右手を、乾いた笑みと共にハンドルに戻す。そしてぎこちない雰囲気のままに自己紹介を続ける。

 文月さんは中学2年生で、両親を事故で早くに亡くし5歳の頃から祖父母の家で育てられた。祖父母以外には頼れる親類も居ないようで、この騒ぎが収まったとしても、決してめでたしめでたしとはいかない身の上だった。
 容姿は癖の無い真っ直ぐで深い色合いの黒髪を長く腰の辺り位まで伸ばしているのが特徴だが、それを好印象と捉えるのは今は無理な話だ。
 朝起きてから櫛も入れてないだろう髪は乱れ、ちょっと重めなボリュームと相まって、テレビ画面から這い出てくる迷惑女が有名なホラー映画を髣髴する。
 更に垂れ下がる髪に顔は隠されていて、時折前髪の間から片目が覗くのだが、それがより強く這い出し女を思わせて怖い。
 14歳の小娘に何を怯えると言われるかもしれないが、凄い雰囲気が出ている。
 身長に関しては座席に座っていて良く分からないが大柄でも小柄でも無いようだ。
 体型も大き目の淡い黄色のフード付きのトレーナーで良く分からないが、ジーンズに包まれた長いスリムな脚のラインから痩せ型でスタイルは良いと判断した。
 しかし年齢からしてもおっぱい星人である自分にとっては光年とかパーセク単位で守備範囲外だった。

「何が起きたのか教えてもらえるかい?」
 まだ打ち解けたと言える状況では無いが情報を手に入れる必要があり、彼女にとってはまだ辛いだろう核心に迫る質問を投げかけた。
 彼女は俺の言葉に一瞬息を呑み、そして躊躇いがちに口を開く。
「はい。それは私が目を覚ました時……とても大きな音と振動に目が覚めて……開けていた窓の外を見ると……」
 途切れ途切れに口にする彼女の話をまとめると、早朝大きな物音と振動に目を覚まし、窓から外を見ると国道12号線で大型のトレーラーが道を塞ぐように横転していた。
 事故現場には大勢の人が集まってトレーラーを囲んでいる。
 最初は事故自体を心配して見ていたのだが、そこで彼女はおかしなことに気付く。
 彼女が目を覚ます原因となる大きな音と振動が事故によるものだとするなら事故発生からはまだ1分も過ぎていない。
 すると集まっている人々は事故発生以前に現場、またはその周辺に居たことになる。もしかして彼らが何かをして事故をひき起こしたのではないか?
 そんな自分の思いつきに怯えていると、運転席側を下にして横転しているトレーラーヘッドのフロントガラスが割れて出来た隙間から、中に人が入って行くのが見えた。
 ちゃんと運転手を救助するのだから、やっぱりこれは普通の交通事故なのだと思い直そうとした時。男性の断末魔の悲鳴と共に網目状に細かくヒビの入ったフロントガラスが紅く染まる。
 そして運転席からゆっくりと全身を何かで赤く染めた男が現れ、その手には白っぽい折れ曲がった棒状の何かが握られていた。
 彼女が目を凝らし見つめると棒の先端部分に人間の掌のような形があり、棒が人間の腕だと理解した彼女は大きな悲鳴を上げ、そのまま意識を失う。

 その後、自分の名を呼ぶ声に目を覚ますと祖父に抱きかかえられてる自分に気付く。
 何があったのか尋ねる祖父に、上手く言葉が出てこない彼女は窓の外を指差す。
 窓の外を見て顔色を変えた祖父は、彼女に着替えと貴重品・現金。それに保存食を中心に食料をまとめて車に積み込むように指示を出す。
 その意図が理解できない彼女が理由を問うと、様子のおかしい連中が町中に溢れて、その一部がこちらに集まってきていると答えた。
 そして彼女は自分が上げた悲鳴がゾンビを呼び寄せたのだと気付く。
 手早く着替えて自分の荷物を整えた彼女の耳に一階の玄関から祖母の悲鳴が届く。
 駆けつけた彼女が見たのは、血まみれの左手を押さえて痛みに呻く祖母の姿。左手の小指の付け根付近の肉が幅3cmほどに渡って噛み千切られていた。
 ドアチェーンだけで辛うじて閉まっている玄関扉の隙間から聞こえる不気味な呻き声気付き、そちらを見ると扉の隙間から覗く先には様子がおかしい人々の姿。
 彼女は急いで祖母を抱き起こすと、家に併設された車庫へと玄関脇のドアから入り、車の助手席に祖母を座らせる。
 そして一旦家に戻り救急箱をとってくると、祖母の傷口を消毒してガーゼで傷口を押さえ上から包帯で固定する。混乱し不安な様子の祖母に傷口を心臓より高くして待っている様にと諭して家に戻る。
 何度か家と車庫を往復し、自分や祖母の着替えと貴重品。乾物や缶詰・レトルトを中心とした食品。更に車庫に置いてあるキャンプ用品を後部の荷台スペースに積み込む。
 自分の準備を終えて現れた祖父が最後の荷物を積み込み運転席に乗り込むと、車のエンジンをかけリモコンで車庫のシャッターを上げる。
 シャッターが上がると同時に何体ものゾンビが車庫に入り込んでくるが、大型RV車はものともせず押し退けながら発進し路地へと出る。
 そんなに広くない路地はゾンビで溢れていたが、RV車はものともせず何体ものゾンビをゆっくりとした速度で押し退け、倒れたゾンビを乗り越えながら国道12号線まで出る。
 札幌方向は横転したトレーラーが完全に道を塞いでいて通れそうもなく、また距離もあるので、大きい市立病院と労災病院がある美唄市を目指すが、三笠市に入っても国道12号線上に溢れるゾンビの数が減る様子は無く、それどころか直線道路としては日本一の長さを誇る(29.2km)道は何処までもゾンビに埋め尽くされていた。
 そこで美唄市行きを諦め富良野へ向かうことにして、昨日俺が通ったのと同じ道を使ってここまで来たとのことだったとの事だった。
 泣きながらも一生懸命に話す彼女の言葉が本当なら完璧にゾンビ映画なんかでお約束通りな展開だ。
 たった一夜にして、今までの俺が認識してきた現実と言う奴は、どこか遠くへと旅立ってしまったようだ。

「君のお祖母さんがあんな風になるまでは、どんな経過だったんだい?」
「……祖母は、最初傷口の痛みを訴え続けていましたが、家を出て一時間ほどで酷い熱を出してうわ言を口にするようになりました。その後1時間ほどで熱は下がり呼吸も落ち着いてそのまま眠りについたのですが、いきなり暴れ始めて。祖父の肩と太股に噛み付きました……と、とても正気な様子ではなく、目が真っ赤でまるで町の人たちのようで……」
 俺は彼女の言葉を遮ると罪悪感から出来るだけ優しく声を掛けて慰めた。自分でも偽善だと内心笑う。
 こうなることが分かっていて聞いたのだ。分かっていても知りたかったんだ。


 しかし世界はどうなってしまうのだろう?
 この騒ぎが彼女が見た範囲だけで起きてるとは思えない。たぶん札幌も、そして俺の両親も……
 今分かっているのは、噛まれた場合は死ぬ様な大怪我でなくても2時間半程度で映画のゾンビのようになってしまい、噛み殺された場合は僅かな時間でゾンビ化してしまうという事。
 何故だろう。ゾンビ化の原因は分からないが、ゾンビ化するのに対象が生きてると拙い理由でもあるのだろうか?
 文月さんのお祖父さんは、死後3分間も経たずにゾンビ化した。多分ゾンビ化したお祖母さんに襲われたのは俺がこの車を目撃する直前くらいだろう。
 最初に噛まれてからゾンビ化するまでの時間は5分を超えたかどうか位だ。
 死んだことによってゾンビ化の過程が加速したとしか思えない。
 大体ゾンビ化とは何だ?文月さんのお祖父さんは大量出血による失血死だろう。ゾンビが人間だったの頃の器官や組織を用いて動いているとするなら失血死するほど血液を失って動けるのだろうか?
 多分ごく短時間なら動けるだろうが、それにしても数分間だろう。長期にわたって動き続けることはありえない。
 なら文月さんのお祖父さんは俺が手を下さなくても暫くすればただの死体に戻ったのだろうか?
 そんな事を考えていると、左の肘を軽く引っ張られる。
「ん、どうかした?」
「これから一体どうなるのでしょうか?」
 例え不安から出た言葉だったとしても構わない。これからのことを少しでも考えてくれるのは良い兆候だと思う。
「富良野に着いた後のことなら、先ずは警察に行くよ。警察ならある程度の情報は持っているだろうけど、実際に自分の目で見た文月さんの話はぜひとも知りたいだろうし」
「あっいえ。私のことではなく社会全体というか……」
「ああ、そういうことか……」
 さっきまで泣いていた筈なのに、何だろうしっかりしているというか、しっかりし過ぎている気がする。
「この事態に政府がしっかり対応して警察や自衛隊が短期間に事態を収束させるというなら、1年も経たずに前とあまり変わらない社会に戻ると思うよ。もちろん多くの犠牲者が出たから、色んな問題が後を引くだろうけど社会の根幹は変わらないだおうね」
 言葉に出さないが、一番の問題は文月さんの様に身寄りを亡くした子供達だろう。
「そして文月さんが不安に思ってることは、この事態が長く続く、もしくは収束しない場合だね」
 そして俺が予想しているのもこちらのケースだ。
「はい。こんな状況がずっと続くなら──」
「どうやって生き延びるかだね」
「はい」
「正直なところ俺には分からない。何かを考えるにも判断するにも情報が少なすぎるから」
「情報……ですか?」
「情報だね。これから1人1人が自力で長期間生き延びなければならないなら、今出来ることは役に立つ情報を多くの人間と共有すること生き延びる武器となると俺は思ってる。だから悪いとは思ったけど君にとって辛いことも尋ねたんだ。ごめんね」
「いえ全然構いません。どんなことでも聞いてください」
 ……話しながら泣いてた人間が言う台詞ではない。
 どうやら彼女は我慢して無理してしまうタイプのようだ。警察まで送り届けるまでの短い間とはいえ注意すべきだろう。
「それに1人でも多くの救える命を守れたなら1体のゾンビを減らすということであり、結局は自分を救うことになる」
「はい」
 小さく頷く文月さんを横目で見ながら自分でもらしくない事を言っている思う。

「ところで三笠中心の市街地の様子はどうだった?やはりゾンビは多かったかい?」
 俺の質問に文月さんは「いいえ」と首を横に振る。
「居ないという訳では無かったですけど、国道12号線沿いに比べたら本当に少ない数しか居ませんでした」
 国道12号線沿いにゾンビが蔓延してるならば、札幌も旭川も既にゾンビに飲み込まれている可能性が高い。
 三笠の中心部にゾンビが多くないというのは人の少なさがゾンビの感染を遅らせていて、逆に人の多い場所ではゾンビの感染は爆発的に拡大すると考えられる。
 ならば富良野を目指すのは正解だ。

「俺も昨日の朝には岩見沢に居たんだけど、その時には何も異変は感じられなかった。文月さんは昨日、町の様子に何か異常は感じられなかったかい?」
 俺の質問に文月さんは暫く考え込むと、一つ一つを記憶を掘り起こすように答え始める。
「登校時も、学校にいる時には何も無かったと思います。夕方には家に帰りましたが、特に何も気付くようなことはありませんでした」
「ニュースとかで、変な事件とかなかったかい?直接この件に関わるようなことじゃなくても良いんだけど」
 俺は昨日は一日中自転車を漕いでいたため、何も情報は持っておらず全て文月さん頼りだ。
「いいえ。ニュースでも思い当たるような事は何も。ただ」
「ただ?」
「夜遅く、午前1時過ぎくらいに外で何か怒鳴り合うような声が聞こえて目が覚めました。一箇所じゃなく街のあちらこちらから大声が何度も聞こえて、もしかしたらそれが……」
 彼女の言葉に俺も頷く。多分その通りなのだろう。たった夜中の数時間で感染が広がったのだろう。
 はっきり言って俺だって信じられない。ゾンビ映画で一晩で町中がゾンビで溢れかえるなんて始まり方をしたら、間違いなく突っ込みを入れる。
 言っては悪いが北海道の田舎町に過ぎない岩見沢。平日の夜中に出歩く者もそんなに多くは無いのに、ゾンビが人を噛むなんて方法でそんなに早く感染が広がるはずが無い。
 家の中に居たなら、感染した家族が帰宅してゾンビ化したのでなければ彼女の家のように朝まで何事も無く過ごしたはずだ。
 大量のゾンビの出現。季節外れのサンタクロースが良い子のいる家に、一軒ずつ病原体をばら撒いて回ったとでも言うのだろうか?
 馬鹿馬鹿しい方向に思考が逸れだしたので考えを中断する。すると助手席からこちらをじっと見つめる視線に気付く。
 前髪の間から覗く、ちょっとホラーな彼女の視線に圧迫感を覚えつつ、少し迷った末に今考えていたことについて話した。

「そんなこと考えてる場合じゃないというのに馬鹿みたいだろ。昔から考えすぎというか、余計なことばかり考えてしまう」
「でも、原因について考える事も必要だと思います」
「必要かもしれないが、今やらなければならない事ではないんだ。今は考えることも行動することも常に優先順位をつけて、何を優先して何を後に回すか、何を取って何を捨てるのかを予め決めておく必要がある。世界が昨日までのままならその辺いい加減でも良かった。でも今日からは違うんだ」
「優先順位って一体何を……」
「簡単だ。君は自分が生き残る事を一番に考えれば良い。これからどうやって生きていくかを考える。他人を救うのは自分の安全が確保されている場合だけだ」
「でも、さっきは一人でも多くを救う事が大事だって……」
「救える命と言っただろ。君が自分の命を危険に晒す必要がある場合は救える命とはいえない」
「それでも助けを求めている人が居たら……」
「自分に危険があるなら見捨ててくれ。人の命の重さに違いが無いというなら、まずは君自身が助かれば良い」
「そんなこと」
「利己的だと思うかい?でも誰かを助けるために死んだ君はゾンビとなって蘇る。君が自分の命を危険に晒すという事は廻りまわって誰か他の人を危険に晒すというのと同じだ。だから何よりも大切なことは死なないこと。現状において死はゼロではなくマイナスなんだよ」
「分かります……分かりますけど」
 理屈は分かるが感情的に納得できないのだろう。まあ無理も無い。そんな考えが出来る俺の方が人間として壊れているんだから。
「頭で分かってるだけでも良いさ。でも一つの可能性を想像して欲しい。誰かを助けるためにゾンビとなってしまった自分を。何人もの人間を襲ってゾンビにしてしまう自分を。自分が生み出したゾンビたちが更に多くの人々を襲い被害者を増やしていく最悪の可能性を想像だけはしておいてくれ」
 俺の言葉に衝撃を受けたのかしばし黙り込む。そして何度も首を横に振りながら搾り出すように言葉を吐く。
「もう……この後どんな酷い目にあっても、生きるのを諦めるなんて贅沢は私たちには許されないんですね」
 俺はただ「そうだ」と答えた。
 だがもう一つ別の答えがある。自分の死がマイナスであるなら、そのマイナスを打ち消してプラスになる状況を作って死ねば良い。
 プラスが大きければ英雄的な死という奴だ。英雄ね。



[32883] 【03  07/15(水)08:20 富良野市郊外】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/23 20:45
 連なる丘とブドウのカントリーサインを超えて芦別市から富良野市に入ってすぐに山道は終わり左右を塞ぐ山が切れて景色が開ける。
「これからどうします?」
「とりあえず、君のお祖父さんの予定と同じく富良野に行ってみる。北海道でも国道12号線沿いの札幌-旭川間のように人口の多い町続きなら、ゾンビは人から人へと感染を広げることが出来るけど、それ以外の地区なら人の少なさと町と町の距離の長さが感染を食い止めてくれる可能性が高いはず。それに富良野市の北にある上富良野町には自衛隊の駐屯地も有るし、彼等が組織として機能していたらゾンビがいたとしても排除は難しくないと思うよ」
 彼女を文月さんを安心させるためにずいぶんと希望的な言葉を口にしたところで、道道135号線が国道38号線と合流する交差点へさしかかる。

 久しぶりに目にする信号機で赤信号に引っかかると右ウィンカーを出して停車する。
 その時文月さんが声を上げた。
「あれは……」
 彼女の指差す先では幾筋かの黒い煙が上がっている。
 火事だろう。それも何件もの火事が起きている起きている。
 煙の方向は、にこれから目指す富良野市の中心街であることは疑いようも無い。
 先ほど口にしたばかりの希望的発言が、舌の根乾かぬ内に覆された俺はタイミングの悪さに軽い眩暈を覚えた。

 信号が青になっても停車したまま警察に電話をかけようと携帯を取り出してみるがアンテナは一本も立ってない。
 やはり山間部の電波状態の問題じゃなく基地局かどこかで問題が発生しているのだろう。
「文月さん。富良野が今どうなってるのかは分からない」
 高まった希望を見事に裏切られた文月さんは肩を落としたまま頷く。
「それでも行ってみようと思うんだが良いかい?」
「……どうしてですか?」
「生存者がいるなら少しでも話を聞きいて状況を知りたい。今の状態じゃ次に何処に行けば良いかも判断できない。今後何をすべきかの指針となる情報が欲しい」
「わかりました」
 力ない彼女の返事に頷くと再び赤に変わってしまった信号を無視して車を走らせた。
 この状況で警察が取り締まってくれるなら抱きしめてキスしてやる。

 車内の空気の重さに居心地が悪さを覚えていると、左手を流れる空知川に掛かる橋の上に一体のゾンビの姿を発見する。
 速度を落として、周囲に他のゾンビの姿が無いかを確認しつつ車を路肩へと寄せてゆく。
 橋へと続く道は車両通行止めとなっており、その旨を記したトタン製の大きな看板と共に進入禁止を示す樹脂製のバリケードが設置されており、俺はちょうどその看板の前に車を停めた。
「悪いけど、ちょっとここで待っててくれるかな?」
 停車に気付き例のホラーな視線をこちらに向けてくる文月さんに対して、指で助手席側の窓の外に見えるゾンビを指し示す。
「あっ……やっぱりここにも居るんですね」
 僅かに残った期待をも打ち砕く現実に彼女の顔色が更に曇る。
「多分、この後沢山のゾンビがいる場所を通らなければならなくなる。だからその前に奴らの事を少しでも知っておきたい」
「で、でも危ないですよ」
「確かに危ないけど、もっと危ない状況で何の情報も無いよりは良いよ。幸い近くにはアイツの他には居ないようだ」
「はい……でも」
 まだ言いよどむ彼女を無視してドアを開ける。
「とりあえず窓やドアは絶対に開けては駄目。ついでに周囲に他にゾンビが現れないか警戒して欲しい。何かあったらクラクションを鳴らせばすぐに戻るから、その時は鍵を開けて」
 そう言ってキーを挿したまま車を降りるとドアを閉める。窓越しに文月さんがまだ何か言いたげだったが無視してロックを掛けるように指示し、ロックの掛かる音を確認してから車を離れた。

 バリケードの脇を抜けると、道は30mほど先で空知川に掛かる橋になっており、橋を渡ってすぐのこちら側に一体のゾンビが居た。30代から40代掛けての作業着姿の男のゾンビ。身長は170cmほどで、そこを噛まれたのがゾンビになった原因だろう作業着の右の肩口が破れて無残な傷を晒し、作業服の肩から胸に掛けてが流れた血で赤く染まっている。
 ヤツは俺の接近に気付いたようでゆっくりと近づいて来ている。
 ゾンビが歩く姿を見るのは文月さんのお祖母さんとこいつの二度目だが、彼女より若く体格の良いにも関わらず、歩く速さに違いを感じられない。これがゾンビ全般の移動速度である可能性を留意する。
 俺は音を立てないようにゆっくり左右に横移動すると、ゾンビも俺の動きに合わせて進行方向を修正する。
 やはり視力で俺を捉えている様だ。もしかすると赤外線とか謎の感覚器官が生まれているのかもしれないが今はこの際どうでも良い。

 足元から手ごろな小石をいくつか拾い上げて、奴の傍のトタン製の看板に投げつける。
 一投目は外れて二投目が的をとらえると看板はパーンと大きな音を響かせる。
 するとゾンビはいきなり方向を変えて看板に襲い掛かる。両手で看板を掴み何度か噛みつきを試みるが10数秒ほどで何かに気付いたかの様に諦めると、再びこちら向かって歩き始めた。
 また同じ看板に石を投げつける。再び看板が大きな音を立てると同じように看板に襲い掛かる。やはり頭は悪い。
 ヤツが看板に噛み付いている隙に左手の茂みに身を隠す。
 茂みの影から様子を伺っていると多少の学習能力はあるのか先程よりは早く看板に見切りをつけ、俺が先程まで居た場所の方向を振り返る。
 俺の存在は頭に残っているようだ。つまり最低でも二つの目標を同時に認識して優先度の高い方に攻撃を行うと思われる。

 ゾンビは見失った俺の姿を探すように周囲を見渡すが、1分も経たずに俺のことは諦めるか忘れるかしたようだ。
 俺は茂みに隠れながら先程より大きな石をいくつか拾い上げると、先ほどの看板付近の草むらめがけて、高く放物線を描くように位置とタイミングを散らして3個投げ込んだ。
 一つ目の石の落下音に反応してゾンビがそちらへ身体を向けるが、すぐに次の石が落下して別の場所で音を立てる。それに反応して再び身体の向きを変える。
 そして三つ目の石が別の場所に落ちて音を立てると、ゾンビは三つ目の石の落下地点の近くに向かい草むらの中を覗き込むような仕草を見せた。
 しばらくすると諦めたのか二つ目の石の落下点へ向かうと、そこでも草むらを覗き込むが、またしばらくして諦めたのか二つ目の石の落下点から離れた。
 しかし、ゾンビは一つ目の落下点に向かうことなく、かといって俺の姿を探す素振りも見せず所在無さ気にゆっくりと辺りを歩き始める。
 俺は茂みに隠れながら思わずガッツポーズを決める。
 たった一つのサンプルだから過剰な信用はすべきではないが、少なくともあの個体は、二つまでの目標を認識し憶える能力はあるが、三つ目以降は記憶からはじき出されるようだ。

 今度は奴の視線がこちらから外れた一瞬のタイミングを見て、まず茂みから頭だけを出してみる。
 視線がこちらに戻ってきても、奴は俺に反応しない。再び視線が外れるタイミングで今度は上半身の胸から上を晒すが、やはり再びこちらを見ても奴は俺に気付かなかった。
 今度は茂みの横に出て全身を晒してみる。すると奴は俺に反応を示しこちらに歩いてくる。
 つまり、ゾンビは人間の形を見極めて襲う対象と認識しているという事。そして何かに遮られた人間の身体の一部だけでは人間だと認識できないという事だ。
 また、茂みに遮られた体の形を認識できなかったことから特殊な感覚器官を備えているという訳でもなさそうだ。
 ダンボールなんかで身体を隠していればゾンビに発見されない可能性は高い。

 一度、車の近くまで戻り、バリケードの三角コーンの間に渡された黄色と黒のねじり縞模様の樹脂のバーを取り外して手に取る。
 120cmほどの棒を右脇で槍を持つように構えると、そのままゾンビの方へ戻り、奴の正面に立つ。
 元人間であったもの、今人間でない化け物。胸に湧き上がる嫌悪感と恐怖心を抑え込むと、奴の胸元目指して鋭く突きを送り込む。
 鈍い衝撃を手元に残してゾンビは受身も取らずに仰向けにひっくり返る。これといって特別不自然な感触や抵抗は感じられない。多分生きてる人間を同様に突いても同じ感触がするだけだと思った。

 次に立ち上がろうとするゾンビに対して棒を差し出してみる。ヤツが棒を掴むと物凄い力で奪い取られてしまう。
 両腕の握力が共に80kg前後ある俺が、力比べで一瞬たりとも抵抗出来なかった。まさに化け物級の怪力。
 文月さん話の中のトレーラーの運転手の腕が引きちぎられていたというのは、この力故のことだろう。
 ならば、その力が腕力限定とは思えない。
 脚力・背筋・腹筋などの全てが人外の力を持ってるということであり、あの壊れたロボットのような歩き方も脳の働きの低下でバランスが取れないだけで──もっとも、脳が生前と同じ理屈で働いてると仮定しての話だが──条件がそろい脚の力が発揮できるなら、撃ち出された弾丸の様に飛びついてくる可能性もあるのだろう。
 ならば頑丈なバリケードを作っても、ゾンビが前傾姿勢をとって押し込んで来れば、たった一体のゾンビによって破壊されてしまう可能性がある。
 ゾンビに前傾姿勢で物を押したり走り出す運動能力やバランス感覚が残っていないことを祈るだけだ。

 ゾンビは俺から奪い取ったバーをしばらくの間、両手で動かしたりじっと見つめたりと興味を示していたが、やがて手を離すとゆっくりと立ち上がる。
 棒状の物を武器として使うと言う知能は残ってないようで、ほっと胸をなでおろしつつゾンビを正面に置きながら俺は車道から歩道へと立ち位置を移動する。
 ゾンビは俺を追ってくるが、車道と歩道の間の縁石の段差につまづくとそのまま転倒した。
 これが最後の実験。文月さんのお祖母さんのソンビがお祖父さんの遺体に足を取られて転倒する様子が頭を離れず、どうしても確認したかったのだ。
 ゾンビが倒れている間に反対側の歩道に移動すると、手を叩いてゾンビを呼び込む。
 するとゾンビは寄ってくるが、再び縁石を越えられずに足を取られて転倒する。
 これを5回繰り返して、ゾンビには縁石程度の段差を超えられないと結論付けた。
 ならば電柱などを利用して20cm程度の高さに紐やワイヤーを張っておくだけで連中の移動は著しく制限出来る。
 階段は歩いては上れないだろう。また這って上ろうにも連中の運動能力では階段の斜面を上れない可能性もある。
 満足の良く結果と、新しい思いつきにニヤリと自然に笑みがこぼれる。

 全ての実験を終えた俺は最後の後始末に取り掛かる。
 起き上がろうともがくゾンビの手前でジャンプし全体重を乗せて奴の首の上に着地する。それと同時に足の裏で生まれた首の骨が砕ける感触に思わず小さな悲鳴が口を突いて出てしまう。
 動く死体から、動かない死体へと自らのあり方を変えた実験の協力者を振り返ることも無く、文月さんの待つRV車へと向かう。
 別に格好をつけて振り返らなかったわけじゃない。見るのが怖かっただけだ。

 車のドアをノックする。戻ってきた俺を呆然と見ていた文月さんは、ノックの音に我に返ると慌ててドアのロックを解除した。
 車に乗り込むと後部座席のデイパックの中からメモ帳を取り出して、文月さんの話やゾンビ化した彼女の祖父母の事、そして先ほどのゾンビでの実験から得た情報をまとめて書き込んでいく。
 途中はなしかけてくる文月さんに「少し時間が掛かるから、その間髪でも整えてくれるとありがたい。いい加減怖いから」と今まで言わずにいた本音を漏らす。
「髪……怖い?」
 俺の言葉に怪訝そうな声を出すと助手席のサンバイザーを降ろして、そこに付いている鏡を覗き込む。
「あっ!」
 自分の姿に驚いて小さな悲鳴を上げる。「こんな髪で今まで居たの?」という恥ずかしさか、それとも自分で自分の姿に恐怖したのか分からないが、彼女は慌てて後部座席に移動すると背もたれ越しに貨物スペースの荷物を漁りだす。

 そんな彼女を他所に、俺は自分の知りうる限りの情報を、時系列と項目ごとにまとめ10分間程度かけて書き記した。
 一度目を通して書き忘れや間違いが無いのを確認していると後部座席から文月さんが戻ってくる。
 髪型はポニーテールになっており、垂れ下がり顔を隠していた前髪はヘアピンで止められ額の左右からサイドへと流れ落ち額を露にしていた。
 そして前髪の隙間から時々見えていた時にはギョロリと言う感じの恐ろしげな印象だった目は、不思議なことに大きなパッチリ目という好印象に変わっていた。
 美少女と言って良いレベルだろう。俺が中学生の頃に新学期を迎えた新しいクラスに彼女レベルの女子が居たらテンションが上がていただろう。
「どうですか?」
「それなら怖くないよ」
 デリカシーの無い言葉を浴びせた俺に対し、次の瞬間彼女が見せた表情は……名状し難き恐ろしいものだった。
 まあ、そんな表情を見せてくれる程度には心に余裕が出来て、俺に気を許してくれたということだろう。

「これ以外に気付いた点や、俺にまだ話してない必要ありそうな話があれば教えて欲しい」
 先程まとめたメモを差し出す。
 受け取った文月さんは真剣な様子でメモに目を通していく。
「これで大体良いと思います。でも家から出る時もゾンビたちは車に軽く当たるだけで倒れて、強く押し返すという様な事も急に飛び掛ってくるとかはありませんでした」
「そうか。なら助かるな」
 それが本当なら、ある程度の強度を持ったバリケードはゾンビに破壊できないということだ、人間なら数の利を生かし力の向きとタイミングを合わせて押すということが出来るが、極端に知能が低下しているゾンビには力を合わせて押すということは出来ない。
 もっとも余程連中の興味を示すモノを目の前にぶら下げて、奴らのタイミングが合う様に太鼓でも叩いてやれば話は別なのかもしれない。
 それともう一つ、連中と戦わねばならない状況になったとしても、勢い良く飛びつかれる心配が無いなら、1対1である限り冷静に対処すれば大丈夫なはずだ。

「じゃあこのメモの内容に、今言ったことを書き加えたものを書き写して持っていて欲しいんだけど、ノートか紙はあるかな?」
「持ってますが、写しは必要ですか?内容は大体ですが頭に入ってますよ」
「誰かに俺たちが持ってる情報を伝えたい時、口頭で伝える時間が無い場合はこのメモを渡すだけで済むだろ。それに口頭だと間違って伝わったり忘れられたりもする。後で確認できるという点でもメモに残しておくんだよ」
 メモを残すのは社会人としての常識……無職だけど。
「それに何かの理由でメモを無くした時のためにも予備は有った方が良い」
「わかりました」
「それに……いや何でもない」
 俺が言い淀み誤魔化した言葉は「俺達が死んだら頭の中の情報は消えるが、紙に書いた情報は残り誰かの役に立つかもしれない」だが少なくとも今、言うべき言葉ではない。
「まあ、いいから早く書き写しちゃって」
 強引に促す俺に不思議そうに小さく首を横に傾げると、筆記用具とノートを探しに後部座席へと移動していった。



[32883] 【04  07/15(水)08:45 富良野市郊外】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/24 20:59
 文月さんがメモを写し取るのを待ってから、再び国道38号線を南へと向かう。
 車を走らせること1km少し。JR根室本線の線路の上を跨ぐ陸橋の頂上に差し掛かったところで、前方に道を塞ぐ人だかりの山を発見する。
 目を凝らすと人々は歩道だけじゃなく車道にまで溢れている。
「まずいな」
 車を路肩に止めながら、ゾンビの群れが路上に溢れているという最悪の事態が頭に浮かぶ。
 助手席でノートに書き写したメモの内容を確認していた文月さんだが、車が停まったことに気付いてノートを閉じて、不安そうにこちらを見る。
 俺は後部座席の自分の荷物に手を伸ばしながら「前を」とだけ返事をする。数秒後、彼女が唾を飲み込む音がやけにはっきりと車内に響いた。

 デイパックのサイドネットから取り出した双眼鏡を覗き込む。
 多少年季の入った手のひらサイズのコンパクトモデルで8-25倍ズームが可能。最近のモデルなら同じタイプのコンパクトズーム双眼鏡でも100倍ズーム以上のモデルが普通になっているが、そのコンパクトなフレーム故に対眼レンズと対物レンズの距離が狭く、感覚的に見たい場所を視野に捉えるのが難しい。
 使い方は、まず最小倍率で目標を捉えてから倍率を上げて観察するのだが、俺はこの双眼鏡を買った当初、最小倍率の8倍でも慣れるまでは目標を視野に捕らえるのに苦労した。
 それなのに最近のモデルでは最小倍率でさえ20-25倍くらい。一体誰が使いこなせるんだろうか?それとも単に俺が双眼鏡に向いてないのだろうか?……双眼鏡に向いてないって何?

「ゾンビじゃない。人間だな」
 俺と同じく、道を埋め尽くすゾンビを想像し顔を強張らせていた文月さんが、俺の言葉にほっとして表情を緩める。
 俺はシートベルトを締めながら双眼鏡を彼女に渡す。
「何体かのゾンビがいて人々を追い回してるって感じだ。しかしどこかで見たことの有るような……あっ先にシートベルト締めてね」
 その様子に見覚えがあったのだが、とっさに思い出すことが出来ない。諦めると双眼鏡を覗こうとする彼女に一言注意をし車を発進させる。


「どうするんですか?」
 次第に迫ってくる人だかりに対し、スピードを落とす素振りの無い俺に不安げに尋ねてくる。
「ちょっと車を汚すけど良いかい?」
「えっ?」
 いきなり何をとばかりに気の抜けた返事が返ってくるが、別に彼女の許可を貰いたかったわけではない形式的な挨拶というやつだ。
「というか、汚すよごめんね」
「はい?」
「あれだけの人が居るんだ。実際に目の前でゾンビを倒して見せれば、逃げるだけじゃなく戦うという意識も生まれると思うんだよ」
 そう言うと、一旦ブレーキを踏んでスピードを落とすものの、クラクションを鳴らしながら人々が溢れかえる道に突っ込んでいく。
「えっ!えっ!待って!待ってください!」
 しかし、俺には待つつもりなど全く無い。待ったら止められるのは目に見えている。こういうのはノリでやるものだ。
 クラクションを鳴らし突っ込んでくるRV車に──といっても10km/hにも満たない速度だが──人々はゾンビのことも忘れ、慌てて左へ右へと逃げて道を空ける。
「車が突っ込んできて逃げるのは人間。逃げないのはゾンビ。寄って来るのは良く訓練されたゾンビだ!」
 馬鹿なことを叫んで無理矢理テンションを上げる。これからやろうと思ってることのおぞましさを考えれば、こうでもしないとやってられない。
「いっやぁぁぁあ!変なこと言い始めたぁぁぁっ!」
 助手席で上がる悲鳴を無視しながら、道の真ん中に取り残され立ち尽くす一体のゾンビに狙いをつけるとハンドルを微調整し直撃コースに車を乗せる。
 流石に今の勢いで衝突すると、今時めずらしい「これぞRV」といわんばかりな金属製グリルガードを装備したこの車と言えども故障の危険があるので、直前でブレーキを掛け、更に速度を落としてからゾンビにグリルガードを当てる。
 衝突時の速度は5km/hにも満たなかっただろうが、それでも2tを超える車との衝撃にゾンビは吹っ飛び5mほど地面を転がった。
 倒れこんだゾンビの頭に右前輪が乗るように再びハンドルを微調整する。
 直後、右前輪が大きく硬い何かを踏んだ感触に合わせてフルブレーキ。2tを超える車重が慣性のエネルギーと共に右フロントに集中しサスペンションはフルボトム。
 フロントガラスの向こうの景色は一瞬空が広がり、次の瞬間大きく沈み込んで黒いアスファルトが視界を埋める。
 それと同時に卵──イメージするなら恐竜の卵でも踏み潰したような音が聞こえて車は停まった。
「い……い、い、今のはぁ」
 血色が完全に抜け落ちた顔をこちらに向けて、疑い様の無い事実をあえて確認をしてくる文月さんにサービス精神たっぷりで答える。
「倒れたゾンビの頭を前輪で踏み、ブレーキを掛けて前輪に荷重を移すと……」
「いっやぁぁぁあぁぁぁぁぁっ!詳しく聞きたくない!」
 耳を劈くような悲鳴が俺の説明を遮る。キーンと鳴る耳の奥の痺れに顔を顰める。

 俺は片手で左耳を塞ぐと明るく突き放すように言い放った。
「じゃあ、次行くよ」
「もういやぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 予想通りまた悲鳴を上げたが、今度はちゃんと耳を塞いであるので無視しアクセルを踏み込む。
 クラクションを盛大に鳴らし、逃げ惑う人々の陰から現れたゾンビを跳ね飛ばす。そして再び何とも言えない音をタイヤとアスファルトの間で響かせるのであった。
 俺は全く気にしない。気にしたら負けだから。

「もう嫌……もう嫌……もう嫌……もう嫌……」
 力なく項垂れて、壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返し続ける文月さんに一言声を掛けて車を降りる。
「他のゾンビも始末してくる。中からロックを掛けて窓も開けては駄目だよ。誰かに何を言われてものね」
「もう嫌……もう嫌……えっ!ちょっとま……」
 最後まで聞くことなくドアを閉めると周囲を見渡す。
 逃げ惑う人々の流れの逆にたどると、そこにゾンビが居た。
 素早くゾンビの背後に回り込むが、ヤツは前方を逃げる人々を追うのに夢中で全くこちらに気付く様子は無い。
 ゾンビは身長180cmを超える俺から見ても5cm以上は高く、また体格もガッチリとしている。
 生前は羆は無理でもツキノワグマくらいなら絞め殺していそうな巨漢だ。
 ゾンビとなって怪物的な力を手に入れた彼の腕にかかれば俺の手足など一瞬で握りつぶされ、引きちぎられてしまうだろう。
 正面から戦うなんて気はさらさら無い。逃げ惑う人々を追ってよたよたと巨体を揺らしながら追い続けるゾンビへ、背後からの一撃で決めるべく走って残りの距離を詰めると右足を踏み切って内から外側へ脚を振り上げる。
 次いで左足が右足を追いかけるように地面を蹴って踏み切ると同時に右足を振り下ろすと反動で高く跳ね上り加速も加わった左足の足刀が、全体重を乗せてゾンビの左首筋に叩きまれる。
 次の瞬間、ゾンビの首がありえない方向に折れ曲がると巨体は棒倒しで地面に叩き付けられた。
 旋風脚と呼ばれる蹴り技だ。派手で華麗だが大振りすぎて人間相手には実用性が微妙な技。中学生の頃に映画で見て、その格好良さに必死に練習して身につけたものの、実際に役立ったのは今が始めてだった……長かったな。一生役に立つことなんて無いと思ってたよ。

 再び周囲を見渡す、塊となって逃げる人々の群れの動きを逆にたどることでゾンビの位置を探すのだが、その時ふと思い出した。
「サーディンラン……」
 先程、どこかで見たことがあると感じたのは、人々が塊となって逃げる姿が、捕食者から身を守るために塊となったイワシの群の事だと気付いた。
 思い出しても何の意味も無かったと思いつつ、目に付いたゾンビを先ほどと同じ要領で計4体次々と始末した段階で、人間とゾンビが織り成すサーディンランは収束に向かっていた。


 人々の注目が、自分に向いている状況を利用して話を進める。
「皆さん何が起こっているか分かっていないと思いますが、私にも何が起こっているのかさっぱり分かりません。ただ、死んだ人間が蘇り生きている人間に襲い掛かるという、映画のようなありえない事が現実に起こっているようです──」
 俺の言葉に人々からはざわめきが起こる。
 彼らも異常な事態が発生していることは理解していただろうが、彼らが知りたい・知らせて欲しいと思っていたのは、これで異常事態は終了で後はいつも通りの日常に戻りますよと言う安心できる話であって、死んだ人間が蘇るなんて言うふざけた事態が起きているという話などは聞きたくなかようだ。
 目の前で起こている現実と俺の説明の摺り合わせをしているのだろうか真剣に話を聞いているのが1割。
 半分がショックで自失呆然。残りは俺の言葉を否定するだけじゃなく、まるでこんな状況を引き起こした元凶が俺であるかのように敵意すら向けてきている。

「──信じるも信じないも自由だが、岩見沢市内は既に連中に飲み込まれ、国道12号線沿いの他の町も多分同じ状況。連中に掌を噛まれた人が二時間ほどで連中と同じ状態になり、噛み殺された人は一分やそこらで蘇り連中と同じ状態になった。倒すには首の骨を折るか頭を破壊すること。ヤツラは頭は良くないのでオトリと攻撃役に分かれて背後から頭や首を攻撃すれば、今俺がやって見せた様に簡単に倒せる。更に連中は縁石程度の段差でもつまづいて転倒するので、段差を利用したり足元にロープを張るなどして倒れたところを攻撃するのも効果的。ただし腕の力が凄く強いので掴まれたらお仕舞いだと思ってほしい」
 ゾンビ自体はそんなに脅威ではない、この中の1割の人間が俺の言葉に耳を傾け冷静に戦えば100や200のゾンビは簡単に撃退できると思う。
 しかし──

「出鱈目を言うな!」
 嫌な予想通りに人込みの中から怒号が飛び出す。
「嘘つきが!」
「人殺し!」
「この騒ぎはお前がやったんだろう!」
 一度始まった罵倒の声は次第に大きくなっていく。
 既にゾンビに噛まれたのだろう負傷者達にいたっては死刑宣告にも等しい俺の発言に憎悪の目を向けてくる。その家族達も同様だ。
 人格者と呼ばれるには程遠い性格の持ち主としては罵倒を10倍にして返してやりたいところだが、ここは何とか我慢をする。
「幸い川のこちら側にはゾンビは大量発生していないようだから、近くの橋を全て閉鎖できれば当面の被害は食い止められる。それと噛まれて怪我をした人たちの隔離をしてください。後2時間もすれば俺が言った事が出鱈目かどうかハッキリするでしょう。以上です」
 そう言い残すとRV車に乗り込む。
 背後で「逃がすな捕まえろ」など不穏当な発言まで飛び出し始め、群集心理で暴動が起きかねないレベルにまで連中の脳みそは沸騰し始めている。

「あれで良かったんですか?」
 運転席に戻ると文月さんが不安な様子で話しかけてくる。
「もう少し何とか出来ると思ってたんだけどね。想像以上の聞く耳の持たなさにびっくりだよ」
 出来るだけ明るく言ってはみたが、この結果にはかなり落ち込んでいる。
「でも俺の言葉に耳を傾けてくれた人たちも居たし、何もしないで素通りするよりは良かったでしょ」
 出来ることはやったが、それでも彼等を心配する文月さんに後は彼等次第と言い含めると車を発進させる。
「無事に生き延びられると良いですね」
 彼女のささやかな願いに対して、先程の連中からの罵倒に怒りが燻っていた俺は「そうだね。無事に生き延びられれば良いね……何人かでも」と本音をぶちまけそうになるのを何とか我慢できた。



[32883] 【05  07/15(水)09:00 新空知橋前】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/24 21:00
 暴徒化しかけ車を取り囲む連中をクラクションで追い散らし、走り出して1kmも行かない内に、空知川に掛かる新空知橋に差し掛かる。
 川幅50mほどの豊かな水量を誇る川の流れを見て思うのは「これならゾンビは川を渡れないな」という現実的な感想だけだった。
 300mほど先、橋の向こう側に数十人単位の人影を発見して車を停める。
 文月さんが双眼鏡で確認したところ、こちらへ逃げてくる人々と、それを追うゾンビたちが何体か集まって来ているとのことだった。

「早く橋を閉鎖しないと、こちら側もゾンビで溢れかえるのにな」
「閉鎖は無理ですか?」
「残念だけど、俺だけでは対処できないよ。人手が10人も居れば何とか出来るんだろうけど」
 まるで聖書のソドム滅亡の話のようだと思う。ソドムの町に10人の善人が居れば神はソドムの町を滅ぼさなかったというが、この場に自分たちの町を守る為に行動する人間が10人も居れば、川のこちら側に住むだろう人々は目前の破滅からは逃れることが出来るのに……
「北路さん。あれを!」
 緊張した声に文月さんへ振り返る。彼女が指差す後方に目をやると数台の車がこちらに向かってきた。
「連中頭に血が上って追って来たのか?」
 最悪の事態を想像し、車を発進させようとするが、その暇も無く一台の車に横付けされる。
「おいあんた!」
 停車と同時に五十がらみの男性が金属バットを片手に車を降りると、ドア越しに大声で話しかけてくる。
 やはり頭に血が上った馬鹿どもか?
 仕方なく窓を開ける一方でRV車の前方は車で塞がれているわけではないので、最悪こいつ等を轢いてでも逃げる覚悟を決める。
「橋を閉鎖するって言ってたな。どうやってやる気だ?」
 そう言うバット男の顔に見覚えがあった。先程の人だかりの中で俺の話に一応納得する姿勢を見せてくれていた人たちの一人だった。
 RV車の後方に停まった他の車から、続々と得物を持った男たちが降りてくる。その数は10人を大きく超えていた。

 俺も車を降りると、男たちと打ち合わせにはいる。
「トラックなどの大型車両を並べて向こう岸側の橋の入り口付近にバリケードを作ります」
「こっち側じゃ駄目なのか?」
「こちら側だと欄干を超えられたら、すぐ地面ですからね」
 橋の長さは250m近くもあるが川幅自体は50m程度しかない。何かの拍子にさほど高くない橋の欄干を乗り越えられたら数m転落した先はこちら側の川岸だ。
 ゾンビなら首の骨でも折らない限り何事も無かったかのようにすぐに動き出すだろう。
「そういえばそうだな」
 川のこちら側にバリケードを築くのに比べると作業中の危険ははるかに増すが、その必要性を納得してもらえたようだ。

「まず左側の歩道と車道を完全に塞ぎましょう。そして向こうから来るまで避難してくる人間も居る筈なので、右側の車線は普段は閉鎖しつつも向こう側から車で避難してくる場合に備えて道を開けられるようにしないと避難してくる人間が強硬手段をとる可能性が有ります」
「ぶつけてくるって事か?」
「ありえますね。追い詰められた人間が何をするかなんて分かりませんよ」
 俺の答えに男性は短く舌打ちする。
 全員が一致し協力し合えれば、今回のことだって乗り越えられるだろうが、我が身ばかりが可愛くなるのが人間というもの、エゴを押し殺せる人も居れば我慢の利かない人も居る。そして一人が足を引っ張る時、得てして多くの人の足を一度に引っ張るのだ。
「残りの右側の歩道は徒歩で避難する人を通しましょう」
「化物どもはどうする?」
「橋の向こう側に土嚢か何かを積んで、足元に段差を作れば連中は足を引っ掛けて転ぶから、その時に頭や首を狙って攻撃するのが楽で確実だと思います。でもその為に何人かを貼り付けておく必要があります」
「そいつは難儀だな」
 男性は苦りきった顔で金属バットで軽く素振りをする。
「餓鬼の頃から野球が好きで、ずっとバットを振り回してきたが、こいつで人間をぶん殴る事になるとはな……」
「もう人間じゃないと割り切った方が良い。人間だと思ってたら心が持ちませんよ」
「そうだな。そうなんだろうな」
 俺への返事というより自分に言い聞かせるように呟くと男性は強く頷いた。

「他に手分けをして、上流の橋とJRの鉄橋も閉鎖する必要があります。ですが橋の方はともかく鉄橋はトラックとか塞ぐわけにはいかないですよね?」
「分かった。鉄橋の方はこっちで何とか考える。それに川下の五条大橋も閉鎖する……ところであんたはどうする?」
「この先に警察署がありますね?」
「ああ」
「そこまで行ってみようと思います。警察が町の人たちを保護してるなら、こちらに誘導した方が安全だし、あなたたちにとっても組織だって動ける警官の助けがあった方が良いでしょう」
「まあ、そうだな。確かに俺たちだけじゃ心もとない」
「あと自衛隊がどう動くのかも知りたいですね」
「自衛隊?上富良野の駐屯地か?結構遠いぞ」
 ここから国道237号線を使っても15km位はある。
 勿論、ゾンビだらけの道だろう。
「でも行ってみる価値はあります。ヤツラを──俺はゾンビと呼んでますが、ゾンビを隔離するだけじゃなく排除して、安全な地域を確保するだけの組織力を持つのは、日本には自衛隊くらいですからね」
「ゾンビかまるで映画だな」
 苦々しくはき捨てるその肩はやりきれなさに震えていた。

 彼らの勧めで傍のガソリンスタンドで満タンに給油し終えるとエンジンを掛ける。
「行くのか?」
「はい。後は頼みます」
「頼むも何も俺の町だ。余所者のあんたが頼むっていうのも変な話じゃないか」
 男性とその仲間たちから笑いが起こる。
 こんな状況になっても、いやこんな状況だからこそ人の笑顔は温かいと感じられた。
「まあ頼まれたからには任せておけ。お前たちがやばくなった時逃げ込こめるように、ここは俺たちが守る」
 こんな場合にこそ強くあり続けようとする男の誇りに満ちた言葉だった。
「じゃあ任せましたよ」
 窓越しに右手を差し出すと、男性は硬い手でがっしりと俺の手を握る。
「そういえば、名前聞いてなかったな」
「北路圭太です。彼女は文月さん」
「文月蓮です」
 文月さんは名乗って深く頭を下げた後、折りたたんだメモを山中さんに差し出す。
「俺は山中邦夫だ・・・・・・それでこれは?」
「ゾンビについて、北路さんが調べたり、私が見たことをまとめたメモです。あの……役に立てば良いんですけど」
「こいつは貰って良いのかい?」
 受け取ったメモを開いて、ざっと中を読んで尋ねる。
「また書きます。それにこんな時の為のメモですから」
「そうか、文月ちゃんありがとうな」
 山中さんが礼を言うと、文月さんは嬉しそうに顔をほころばせた。
「じゃあ、俺たちの町を守ろうじゃないか!」
 山中さんの言葉に男達が「応!」と力強く応える声が響き渡った。

「またな文月ちゃん。それに北路」
 そんな声に送られながら俺は車を発進させる。
「でも『またな』って言葉は良いですよね。いつか必ず再会できそうな気がします」
「そうだね。さよならは別れの言葉ではなく。また会うための約束……そんな感じの歌が昔あったな」
「皆さんが無事で、また会えるといいですね」
 聞き覚えのある文月さんの言葉に、今度は心から「そうだね」と返事をすることが出来た。



[32883] 【06  07/15(水)09:20 富良野市市街】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/25 20:57
「向こう岸は安全だ。早く橋を渡って山中って人の指示に従ってくれ」
 橋を渡った俺達は、橋から100mほど離れた場所で、ゾンビを跳ね飛ばして止めを刺しつつ生存者たちに指示を飛ばす。
 出来るだけゾンビを橋の傍に近づけないようにクラクションを鳴らしては、こちらに引き付けつつ、一体また一体と片付ける。
 そうやって10分ほど時間を稼ぐと、後方から3台のトラックがクラクションを鳴らしながら橋を渡ってくる。
「山中さんたちです!」
 こちらもクラクションで返事を返すと、後の事は彼らに任せて国道38号線沿いの警察署を目指して車を走らせた。

「そう言えば、北路さんって強いんですね」
 助手席で新しいメモの写しを作っていた文月さんが唐突に口にする。
「そうかい?」
「あの飛び跳ねながらのキックは凄かったと思いますよ」
 飛び跳ね……ああ旋風脚のことかと聞き流す。
「どうかしましたか?」
 何か会話の取っ掛かりが欲しかったんだろうが、あまりに反応の薄い俺の態度に少し困った顔をする。
「あのね。いい歳した大人は腕っ節が強いとかはあまり自慢にはならないんだよ」
「そうですか?」
「喧嘩が強いとか言うのは、中学生くらいまでは自慢になるかもしれないけれど、それ以降は腕っ節の強さで生計を立てる人間か、もしくは馬鹿以外は、生きていくにも邪魔になる類の能力なんだよ」
 自分の顔に自嘲の笑みが浮かぶのが分かる。
「何でですか?」
 全く理解できていない様子の文月さんに説明することにした。

「じゃあ文月さんは、街中で突然喧嘩して殴り合ってる大人を見たことある?」
「いえ、見たことはありません」
「日本は平和だからね。精々夜の繁華街で酔っ払いが揉めてるのを見る程度で、本格的な殴り合いは滅多に見かける光景じゃない。つまり喧嘩なんてその程度の頻度でしか起こらない。極々稀なイベントなんだよ」
「でも邪魔にはならないですよね」
「ところがね。なまじ鍛えてあると技とか体力が鈍っていくのが耐えられなく感じられて、練習とかしちゃうものなんだよ。さっき言ってた蹴りは旋風脚って言う技だけど、身につけたのは中学生の頃で、今日使うまでは一度も役に立った事は無いよ。でも身体が忘れないように練習はしてたよ……無駄だったと思わない?」
「そうかもしれません」
「つまり喧嘩に勝つ事てる努力なんてするより、喧嘩をしないで済む方法を考えるのが正解だ」

 そんな話していると、前方の交差点の手前を塞ぐようにバリケードが作られているのが見える。
 またバリケードの方からは連続した発砲音のような音が響き渡り、文月さんが助手席で身をすくませる。
「警察……かな?」
 富良野は場所柄、狩猟もそこそこ盛んで銃砲店が市内にあり猟友会の支部もあったはずなので銃声だけで警察とは判断できない。ゾンビからの自衛のために猟銃を持った一般人が発砲している可能性もありえる。
 突然撃たれたりするのが怖いので、クラクションを断続的に鳴らしながら、ゆっくり徐行でバリケードに向かう──途中クラクションに反応して寄ってくるゾンビは、はね飛ばして止めを刺す。

 バリケードに助手席側を横付けさせる形で停車する──バリケードは学校でおなじみの机と椅子を積み上げてテープで固定して作られていた。
 クラクションを短く三回鳴らすと、バリケードの隙間から制服姿の若い警察官が顔を出したので助手席の窓を少し開けて話しかける。
「市外から来ました。どうなってるんです?」
「市外?何処です?」
「俺は札幌で、彼女は岩見沢です」
「札幌ですか?今札幌はどうなってるんです?」
 彼も町の外の様子が知りたかったのだろう興奮気味に尋ねてくる。
「とりあえず中に入れてくれませんか?」
 既に運転席側の窓の向こうには何体ものゾンビが集まっていた。
「バリケードのそこを開けるので一度下がってください」
 そう言って彼が指差す先はバリケードの壁が机や椅子ではなく白と黒のツートンカラーに塗られた警察仕様の1BOXだった。
「開いたらすぐに入れる場所に移動してください」
 彼の指示に従いハンドルを右に切ったままバックで下がり距離を開けて、1BOXに車の頭を向ける。
 するとバリケードの中から、この車を飛び越すように何かが飛んできた。。
 小さな火花を飛ばしながら飛んでいく赤と緑のカラフルな物体が爆竹の束だと気付いた瞬間に空中で弾けて爆音を上げ始める。
「さっきのは銃声じゃなく、この爆竹か」
 爆ぜながら車の後方に落ちた爆竹は地面に落ちた後も爆発を続け、その音と煙に興味を刺激されたゾンビ達はバリケードから離れる。
 するとタイミングをはかっていた1BOXが動いて入り口を開けた。
 手招きする警察官の指示に従い、バリケードの中へ車を乗り入れると背後で1BOXが動いて入り口を閉鎖した。

 道路脇に車を停めて下り、待ち構えていた警察官に声を掛ける。
「どうも俺は北路圭太です」
「富良野警察署の山口です」
 まだ二十歳位だろう。ひょろりと背の高い何処か頼りなく感じる警察官が折り目正しい敬礼をこちらにおくる。
「あ、あの私は、文月廉です。よろしくお願いします」
 普通に生活してる限りあまりお目にかかることの無い間近での敬礼に驚いた文月さんは深々と頭を下げる。
「こちらこそよろしくお願いします」
 文月さんへ声を張る山口さんのあまりにも嬉しそうな表情に「こいつはロリコンに違いない」と勝手にレッテルを貼った。

「先程、札幌から来たと言われてましたが、他の町の状況はどうなっているのでしょうか?」
「俺が札幌を出たのは昨日の朝で、その時点では何も異常はありませんでした。札幌から新篠津を通って岩見沢に出て、そこから桂沢湖へ抜けて昨晩は岩見沢からの途中の山の中で過ごしたから、今朝彼女と合流するまでは異常に全く気付きませんでした」
「山の中ですか?」
 不審そうな目を向けてくる。
「俺の移動手段はあの車の後ろに積んである自転車ですよ。予定では昨日の夜には富良野入りする予定だったんだけど途中で力尽きてね」
 RV車の後部の荷台を指で指し示す。
「そうですか、それは大変でしたね」
「むしろ幸いでしたよ。昨晩の内に富良野にたどり着いてテントで一泊していたら、今頃どうなってたことやら」
「そ、そうですね。では彼女とは一体?」
 その質問に、俺は文月さんを見やり「俺から話すかい?」と聞く、まだその話に自分から触れたくは無かったのだろう彼女は小さく頷いた。
「彼女は岩見沢に住んでいて、早朝異変に気付いて祖父母と共に──」
 彼女が俺と出会うまでの経緯を説明した。
「そうですか、お祖父さんとお祖母さんを亡くされたんですか」
「どうした山口!」
 山口巡査の背後から、年かさの男性が現れる。
「あ、係長。先程こちらの北路さんと文月さんの2名を保護しました」
「富良野警察署の原です」
 原さん──階級は警部補とのこと、40代中ごろから50代前半だろうか、中肉中背というより中背中年太りで山口さんには無いベテラン刑事的な威厳が感じられる。

 文月さんの事。彼女の祖父母のこと。出会ったゾンビから得た情報。橋の向こう側の状況を彼らに伝える一方で、俺たちも富良野市で起きた情報を知ることになった。
 富良野市において今回の騒動に関する一報が警察に届いたのがが午前7時頃。
 不審者の報を受けて現場に直行した警察官が発見し、二人掛かりで取り押さえようとするも抵抗を受け、警察官一人が首を噛まれての大量出血の重症を負う。
 もう一人の警察官は襲われて左の肩と腕を噛まれ負傷し、危険を感じたためその場で犯人を射殺する。
 救急車と応援の要求を無線で連絡し終えた警察官が見たのは、重症の相棒と自分の手で射殺したはずの犯人が消えた血まみれの現場。
 それから、わずか30分後には事態は通常の警察業務で対応できる段階を一気に通り越してしまっていた。

 しかし、ここまでは想定の範囲内であり、俺たちを驚かせる状況は更に時間を遡って起きていた。
 昨夜の2時過ぎ頃、突如として電話や携帯の連絡手段が途絶えテレビ・ラジオの公共放送も全て沈黙する。
 更にその後しばらくすると道警旭川方面本部との無線連絡も途絶え、異常事態の対応を仰ぐために次長を含む数人の警察官が車両で昨晩の内に旭川へと向かったが、彼らもまた音信不通となった。
 朝の事件で、めったに銃を撃たないはずの警察官が犯人への発砲したのも、そのような異常事態が後押ししていたと思われる。

「単にいきなり北海道中にゾンビが現れました。なんて状況じゃないわけだ」
「どういうことですか?」
 俺の自分に言い聞かせるための独り言に文月さんが反応する。
「ゾンビの感染拡大が速すぎるって話したよね」
「はい。人を介して感染が広がったのではなく、原因となる何かは人為的にばら撒かれた可能性があるって話ですよね?」
「ゾンビの発生と、電話やテレビが付かなくなったのは偶然重なっただけだと思う?」
「……いいえ」
「つまり人間がゾンビになるという想像もつかないインチキ。それと同じ位の出鱈目が同時に行われたんだよ……こりゃあ参ったね」
 思った以上の深刻な事態に、軽口の一つでも叩かないと精神的バランスがとれない。
「でも一体誰が……誰にそんな事が出来るんですか?」
「神か悪魔か宇宙人のどれかまでは絞れたんだけどね」
「そうですか……」
 俺の冗談はそっけなく流されてしまった。

「警察はこれからどうする予定ですか?」
 原警部補に尋ねる。
「現在、富良野高校と警察署の周辺をバリケードで固めて、校舎に市民を避難させているが、まだほとんど市民の避難が済んでいない状態だ。高校の裏にある五条大橋を渡った南側ではヤツラの姿が確認されていないから、少しずつそちらに避難させて行く予定だ。自宅などに残ってる住民にはパトカーが街中を回って避難を呼びかけている」
 よくこの短時間でバリケードを作って道路を封鎖し、避難した市民の受け入れまでやってるものだと感心する。
「それと頼まれた応援を新空知橋へ送っておいたぞ」
「ありがとうございます。それで怪我人の処置はどうします?」
「ヤツラと同じになるから拘束しておけという話か?連絡はしたが強制は出来んよ」
「断られましたか?」
「念のために、ヤツラに噛まれた怪我人と今回の騒ぎに巻き込まれ怪我した人を別の部屋に移動させるとは言ってたそうだが……」
 苦渋の表情を浮かべると語尾を濁した。
 突然警察から怪我人を治療せず拘束しろと言われて、黙って従うよう人間に医師や看護士としての適正があるとは思えない。
 実際にその身を持って体験したのでも無い彼らに、こちらの忠告など自らの仕事に対する侮辱以外何ものでもないだろう。
 彼等の職業職業意識の高さが理解できるだけにやるせない……
「医師や看護士の数と、怪我人の数は分かりますか?」
「医者と看護婦か?医者は2人で看護婦が確か5人。患者は数は全部で40-50人はいただろうか。後ボランティアが……何人だろう多分10人はいなかったと思う」
 一斉に全員がゾンビ化するわけではない、最初のゾンビ化が始まった段階で彼らが不用意に近づくのを止めさえすれば、被害は防げるし噛まれた人間がゾンビになるという実例を示すことも出来る。
「何処で治療してるんですか?」
「あそこに葬儀場があるだろ?あの中だ」
 彼が指差す方向に、大手冠婚葬祭会社の看板が出た建物を指す。
 テレビCMでは冠婚葬祭を強調しているが、その台詞が視聴者が抱くイメージを代弁していた。
「治療室は広さは?」
「大ホールを使ってるからかなり広い」
 十分な広さがあるなら、逃げるのも難しくないか?
「行く気か?」
「行きたくは無いけど、医師や看護士に死なれたら困るでしょ」
「俺は警察官だ。医者だろうが看護婦だろうが誰だろうが、所轄で死なれたら俺の責任だ」
「そういう意味じゃないんですけど……大体責任って、今更誰が文句を言うんですか?」
「今更だと?今更だろうが俺は最後の最後まで警察官だって決めてるんだよ!」
 彼の言葉に何か引っかかるものを感じながらも、不甲斐ない一離職者としては原警部補の高い職業意識に敬意を抱く。そして、だからこそ彼と同じように自分の仕事から逃げ出さない医師たちを助け無ければならないという思いが強まる。
「原警部補。今は看護婦じゃなく看護士って呼ぶんですよ」
「うん?ああそうか、面倒くさいな……っておい何処に行く」
 話をはぐらかし、後ろから呼び止める声を無視して、RV車に乗り込むと後部座席のデイパックを漁り、昨晩寝袋の中で手に持って寝た熊避け用の爆竹とライターを取り出し、ウェストポーチに押し込む。
 先程、俺達をバリケードの中に入れるために山口巡査が爆竹でゾンビたちの気を引いたのをいざとなったら真似させて貰うつもりだ。

「じゃあ、文月さんは後は原警部補の指示に従ってください。原警部補。文月さんの事をよろしくお願いします」
 そう言い残して立ち去ろうとすると、素早く文月さんが俺の腕を掴んだ。
「わ、私も連れて行って。北路さんを手伝います」
「えっ!?」
 彼女の言葉に驚く。とんでもない出来事続きの本日でも五本の指に入る驚きだ。
「いや、あの……でも」
 時折明るい表情を見せてくれる様になってきたが、祖父母を喪ったショックは未だ抜けきれずゾンビに対しても恐怖感を示す。
 そんな彼女の突然な積極的な主張に、どう断ったら良いものか咄嗟に言葉が出ない。

「私は北路さんがゾンビ相手にどんな風に戦うか見てきました。ゾンビがどんな相手かもわかっています。だから囮役でも何でも力になれます」
 確かに俺と同じくらいにゾンビの事を知り、俺のゾンビへの対処法も知る彼女のサポートは大いに助かるが……
「いや、でも危険だし」
「そうだ嬢ちゃん危険だ」
「もう危険じゃない場所なんて有りません」
「そりゃあそうだけど……」
「私行きます!」
 連れて行けじゃなく行きますときた。つまり置いて行っても勝手について行くという事だ。
 困り果てた俺は、助けを求めて原警部補を見る。
「手の空いてる奴を向こうに行かせるから待て。良いな?」
「そんな時間は無いはずです。私の……私の祖母は手を少し噛まれただけだったのに、それだけで2時間半も経たずに……」
「そ、そうかすまねぇ」
 お祖母さんのことを思い出し言葉を詰まらせる文月さんに、原警部補はどうしたら良いか分からない様子だ。
「何を押し切られてるんだ、止めろよおっさん!」
 つい俺も地が出て口が悪くなる。
「うるせえ、俺はお前が行くことだって認めてねぇよ。大体誰がおっさんだ!」
 原警部補と揉める俺に痺れを切らしたように文月さんは一人葬儀場へと歩き出してしまう。
「待つんだ!」
 追いかける俺を振り切るように走り出す。
「畜生!死ぬな!死なすな!分かってんだろうな!」
 持ち場を離れることが出来ない原警部補の叫びが背中を叩く。
「お前が死んだら責任は俺が背負う!だけどその子が死んだらお前の責任だ!例えお前が死んだってゆるさねぇ!女の子一人守れなかった糞野郎って何時までも語り継いでやる!」
「黙れおっさん!俺は誉められて伸びる子だ!変なプレッシャーは止めろ!」
「良い歳して何が伸びる子だ。お前に伸び代なんて残ってるか!」
 そんな怒鳴り合いをしながら文月さんを追って葬儀場のエントランスへと走った。



[32883] 【07  07/15(水)09:50 葬儀場】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/25 20:58
 玄関ホールに入った所で文月さんの肩に手が届いた。
「あっ」
 いきなり掴まれて驚きの声を上げるが、そんな事は構ってられない。
「文月さん!」
 肩を抑えてこちらに振り向かせると睨みつける。
「あ、あの」
「分かってるの?」
 押し殺した低い声。主語を省き質問された相手を困らせる為だけの質問をあえて投げかける。
「……私。皆が自分に出来ることを一生懸命しているのに、何もしないのが……」
「何もしないことが一番良い選択って場合もあるんだよ」
 最悪なのは他の人間の足を引っ張ること。
 こんな異常な状況下で、中学生の女の子に求められることは他人に迷惑を掛けずに大人しくしていること。
 俺も大人の端くれとして子供に危険な事はさせられない。ましてや文月さんの身柄に関して、誰との約束も契約も無くても俺は自分に保護の義務があると考えている。

「おかしいです。北路さん自分命を一番に考えろって言っておいて、みんなの為に色々してるじゃないですか?危険を冒して助けたのに人たちから責められて、それでもまた誰かを助けるために……もう、優先順位とか全然意味が分かりませんよ……」
 彼女の中の俺は一体何処へ行こうとしているのだろう、まるで何処の悲劇の英雄だよ?
 人間、思いがけず誉められたりすると背中がむず痒くなるというが、ここまで別人の事のように誉められるとむしろ寂しさを覚える。
「いや別に危険を冒したとかじゃなく、いつも安全は確保していたし、駄目ならすぐに逃げるつもりでしか行動してないよ。それに皆のためというよりも、安全地帯の確保って意味もあるから自分のためでもあるし……今回だって医者や看護士に死なれたら、最終的に自分の首をしめるからとかさ、ちゃんと打算的に動いてきたよ」
 出会ってまだ2時間も経ってないとは思えないほど濃い時間を一緒に過ごしてきた相手に、これ程までに『自分』を見て貰えていなかった事に焦りを覚えて必死に説明する。
「でも、私を助けてくれたのは北路さんです。私はあなたがいなければ今頃生きてません」
 それでか!
 俺は命の恩人を持ったことが無いので分からないが、命の恩人とは当人にとってかなりステータスが高いとは想像がつく。
 ムカつく様な嫌な相手に命を救われて感謝するのは嫌だろう。出来れば立派で尊敬できる人物に助けられて心から感謝したいものだ。
 そんな彼女の思いがどんどん俺の事を美化してゆき、いずれ、俺なんかが道ですれ違っただけで思わず「すいませんすいません。生まれてきてどうもすいません」と土下座して謝りたくなるような立派な完璧超人が出来上がるのだろう……思春期の少女って怖いと勝手に結論付けた。

「分かった。とりあえず時間も無い。俺が呼ぶまでここで待っててくれるか?」
「はい」
 文月さんをエントランス付近に留めると、ロビーへと踏み込む。
 ロビーの奥の正面に、二つの葬儀用ホールが二つ並び、右側の扉からは看護士やボランティアと思われる人たちが、病人や怪我人を運び出して左のホールへと移動させている。
 俺は右側のホールへと向かい足を進める。

「田中さん!田中さん!」と必死な声で呼びかけている男性の声がする。嫌な予感がして俺は急いで中へと飛び込む。
 広いホールの板張りの床の上に敷かれた毛布。その上に横たわる数十人の怪我人達の姿。
 そんな中で医師と思われる30代の白衣の男性が、左足の脹脛辺りを血で染まった包帯に包まれた60歳位の女性に「田中さん!田中さん!」と繰り返し名を呼びかけながら心臓マッサージを行っていた。
 俺が近寄って行くと、心臓マッサージを受けている女性の閉じられていた目が突然カッと見開かれる。
「た、田中さん?」
 意識を取り戻した患者の様子に止める医師の襟首を、背後から掴むと一気にこちらに引き寄せる。
「うっ!」
 喉が詰まり苦しそうな声を上げるのを構わず、左脇の下に俺の右肩をさし入れると一気に抱き起こした。
「な、何を一体?……田中さん!」
 混乱した状況の中でも患者の事を忘れない立派な医者だが、もう彼に医者として彼女にして上げられることは無い。
「た、田中さん?」
 先程まで心臓停止状態であったはずの患者が突然動き始め、自らの力で立ち上がろうとしている。
 昨日までなら喜ばしい奇跡だが、今日からは呪われし悪夢。
「田中さん。まさか……」
「もう田中さんじゃない。そう呼ぶのは生きていた頃の彼女への冒涜だ」
 そう言うと、俺は今日何発目かのローキックをゾンビの細い首筋に叩き込み、化物を人間へ──人間の遺体へと戻す。

 目の前で、首を真横に折り曲げ糸の切れた操り人形のように倒れ伏す自分の患者の姿に医師は激昂する。
「お、オマエェェッ!」
 胸倉を掴み上げてくるが無視して話しかける。
「この部屋にはもう病人や普通の怪我人は残ってないのか?」
「なん、何だって?」
「もう病人や普通の怪我人は残ってないのかと聞いている。時間は無いぞ」

 そう時間は無い。俺から見える範囲で2人の患者が突如として身を起こし始め、背後からも聞き覚えのある呻き声が上がり始めていた。

「時間切れだ。全員部屋を出ろ!」
 舌打ちして医師の腕を振り払い、大声で部屋の中の全員に叫ぶ。そして彼の肩を掴み引きずるようにして扉へと向かう。
「待て、まだ居るんだ。動けない病人が!」
 扉の付近まで来た時、医師が突然そう叫びつつ、部屋の奥の左隅を指差す。
 そこには担架に乗せられたまま放置されている女性の姿があった。

 よりによって部屋の左奥とは──右側のホールの出入り口は右端にあるので左奥に行くには部屋を、ほぼ対角線で横切らなければならない。
 もちろん葬儀などに使われるホールなので、廊下との壁の中央部を大きく開閉できるが、そんな真似をしたらゾンビが一斉に部屋からあふれ出す。

「文月っ!」
 緊急事態につき、敬称を排して呼び捨てで文月さんを呼びつける。
 俺の声に気付いた文月さんが、急いでこちらに駆け寄って来るのが見える。
 彼女が駆けつけてくる間に、俺を含め全員を部屋から出すとドアを中が覗ける程度に細く開けた状態まで閉める。
 そして腰のウェストポーチから先程準備した熊避け用の爆竹とライターを取り出す。
「どうしました北路さん?」
「今からこの先生と一緒に、部屋の中に戻らなければならなくなった。俺たちが部屋の奥まで走り、その場に伏せたら、反対側の右の奥に爆竹を投げてヤツラの気を引いて欲しい」
「そんなこと……」
「中に一人患者が残されている。助けるためには文月さんの助けが必要だ。やってくれるか?」
 顔を強張らせる彼女の緊張を少しでも解すために、俺は無理に笑顔を浮かべてみせる。
「でも、北路さんが──」
「文月さんが助けてくれるなら大丈夫だ」
 そう言って彼女の手に爆竹とライターを握らせた。

「行くぞ。患者を助けたいんだろ」
「あ、ああ」
 医師は顔を青ざめさせ身体を震わせながらも、強く頷いて見せた。
「絶対に喋るな。俺の動きに合わせろ。良いな?」
「あんたが何を言ってるのか分からないが、そうすれば助けられるんだな?」
「ああ、多分な。文月さん。まず一発右の奥に投げ込んで」
 俺の言葉に彼女は、長さ4cm位の一般的な爆竹のイメージとはかけ離れ小型のダイナマイトの様にも見えるそれに火をつけると、狭く開かれた扉の隙間から部屋の中に投げ込む。
 爆竹は狙い通りに部屋の右奥の壁へと飛ぶと一拍置いて爆発した。
「その調子で後も頼むよ」
「は、はい」
 緊張感に溢れる声で返事が返ってきた。
 ドアの隙間から中を伺っていると、部屋の中のゾンビのほぼ全てが部屋の右奥へと集まっていく。

「俺が担架の頭の方を持つから、そっちが後ろ。わかったか?」
 顔面を蒼白にした医師が頷く。
「行くぞ」
 医師の肩を叩くと、静かに扉を開けて一気に担架を目指して走る。
 背後に医師の走る音を聞きながら担架までたどり着くと、担架の頭側のバーを掴み身を伏せると同じく医師も担架の足側のバーを握り身を伏せた。
 だが、一度俺達の存在に気付いたゾンビは身を伏せた程度では興味を失わない。顔も伏せてじっとしている俺の耳にゆっくりと奴らの足音が迫ってくる。
 次の瞬間、俺たちの居る反対側、部屋の右奥の隅で爆発音が起こる。予定通り文月さんが爆竹を投げ入れてくれたのだ。

 爆竹の音にゾンビは俺たちに興味を失ったのだろう足音が遠ざかっていく。
 俺はそっと顔を上げて周囲の状況を目で確認するとゾンビ達は右奥に集まっていて、ここから扉までの直線からゾンビの姿は無い。
 俺が立ち膝になり上体を起こすと、それに従い医師も身体を起こす。
 だがそこで予想外の出来事が起こった。
 俺の目の前で横たわっていた怪我人がアノ呻き声を上げ始めた。
「ゾンビ化だ」
 そして目の前のゾンビだけではなく、他の怪我人たちが一斉にゾンビ化し動き始める。何故こんなタイミングで?もしかして爆竹の音が悪かったのだろうか?
 何にしても最悪のタイミングだ。

「行くぞ!」
 もはや考えている時間は無い状況は一秒ごとに悪化するだけだ。
 俺達は担架を持ち上げ、起き上がろうとするゾンビたちを避けて出口を目指して進む。
 しかし入り口付近の怪我人がゾンビ化して立ち上がり俺たちの進路を塞いでしまった。
 文月さんが再び爆竹を使うが、俺たちはヤツラとの距離が近すぎて身を伏せることなどして奴らの気を逸らすことなどしている余裕は無い。
 最早ゾンビからの攻撃を受ける事も覚悟して通り抜けるしかない。
 まあ人助けして死ぬんだ。死に方としてはそれほど無様では無いな──そう覚悟した瞬間。
 突然、扉が音を立てて大きく開け放たれると同時に文月さんが突進し、俺達の行く手を塞ぐゾンビの背中へと体当たりを喰らわせた。
「な、何を」
 止める間もなく起こした彼女の行動によりゾンビは前へと転倒し、出口への道が出来た。
 しかし彼女は反動で後ろに倒れた──周りにゾンビたちがいる状況下で。
 担架に乗せた病人を投げ出す訳にもいかず、彼女を後回しにせざるを得ない。
「待ってろ」
 そう言い残して文月さんの横を通り抜けるて部屋を出る。そして担架を下ろすと再び部屋の中に戻る。

 ゾンビに取り囲まれ、今にも襲い掛かられそうな文月さんの姿が見えた瞬簡、頭の中に痺れるような何かが走る。
 恐怖に身がすくみ、床に座り込んでいる文月さんに、彼女に突き飛ばされたゾンビが四つんばいで這いより、その顎に彼女の脹脛を捕らえようとしていた。
 俺は走りこんでそいつの顎を下からサッカーボールの様に右足の甲で蹴り上げる。
 首が折れて後頭部が背中に接したゾンビを尻目に、右から襲い掛かるゾンビの胸板に横蹴りを入れる。蹴りを受けたゾンビはその後ろに立つゾンビごともんどりうって倒れる。
 左から腕を伸ばし掴みかかろうとするゾンビは、右足を左後ろに引いて体をさばいてかわし、空振って前のめりにバランスを崩したゾンビの足に、残した自分の左足を引っ掛けて転倒させる。
 手近に居た4体のゾンビを排除すると文月さんに駆け寄り、彼女の左脇から背中へと右腕をまわし抱き上げると出口へと走った。

 俺達が通り抜けると同時に背後で扉が閉まる。
「鍵を!」
 ボランティアの人たちが慌てて扉を抑えて鍵を閉める作業を尻目に、抱きかかえていた文月さんを床に下ろす。
「文月さん!怪我は無い?」
 文月さんからの返事は返って来ない。心ここにあらずという風に呆然と床に座り込んでいる。俺は彼女の返事を待たず彼女の身体を調べ始める。
 ポニーテールの後ろ髪をかき上げ、首元を調べ、腕を取って肩から指の間まで、服がある部分は破れ目は無いか血は滲んでないか調べる。
 更にスウェットををめくりあげて背中、更には腹部や胸までも調べようとしたところで看護士の女性が俺を止める。
「だったら、ぼけっとしてないでお前が調べろ!」
 焦っていた俺は思わず看護士を怒鳴りつけていた。

 看護士たちの協力もあり一通り調べ終わり怪我が無いことが確認され安心した途端、脚の力が抜けて床へへたり込む。
「良かった……」
 ただそれしか言葉が出なかった。
 目の前の彼女を助けず病人の救出を優先させると決めた時。心臓が凍りつくような恐怖を覚えた。
 倒れている彼女の横を通り過ぎた時。心の中では救出した病人に対して的外れな怒りすら感じていた。
 そして何より彼女を呼んで協力を頼んだ自分が許せなかった。
 俺を助けるために危険を冒して飛び込んでくれた彼女を見捨てた自分が許せなかった。

「……北路さん」
 名を呼ばれて顔を上げると、目の前に文月さんの顔があった。
 先程まで焦点すら合ってなかった瞳が真っ直ぐ俺も見つめている。
「文月さん。怪我は無い?」
 素っ裸にして確認したわけじゃない。何処か確認し切れてない場所を噛まれている可能性もある。
 一番確実なのは彼女自身の噛まれた自覚の有無だ。
 だが彼女は俺の質問に答えることなく、突然俺の胸に飛び込んできた。
「北路さん!北路さん!」
 そう叫びながら俺の胸に縋り付くと彼女は嗚咽を上げて泣き始める。
「文月さん。大丈夫なんだよね?噛まれてないよね?」
 文月さんが俺の胸に額を擦りつける様に二度頷き、俺の肩から力が抜ける。
 なおも泣き止まない彼女をあやす様に後ろに回した右手で彼女の背中をポンポンと優しく叩く。
 14歳の女の子に泣かれた時にどうしたら良いかなんて、俺の心の引き出しの中には答えは入ってない。



[32883] 【08  07/15(水)10:30 警察署前】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/27 20:22
 葬儀場から戻ってきた俺は、事の顛末を原警部補に伝え終えると、今後のことについて相談を持ちかけた。

「つまり、ゾンビから逃げるだけじゃなくヤツラを倒さないと駄目ってことか?」
「一時的に川向こうに避難する事は必要ですが、最終的にゾンビを排除して町と生活圏を取り戻さないと駄目でしょう」
 こんな事態に陥ってからまだ僅か数時間だが、生き残った人間が今後も長期に渡り生き続けるためには避けては通れない。
「しかし他から救助が来る可能性も有るだろ?」
「本州。もしくは外国からですか?」
「ああ、北海道が全てこんな有様だったとしても、世界中って訳じゃないだろ?」
 俺は、何の確証も無いので口にはしなかったが、ゾンビの発生は世界中で起こっている可能性が高いと思っている。
 もしくは黒幕となる国家が存在し、それ以外の全ての国がゾンビに──などと007シリーズのような世界的陰謀だって笑い飛ばせる状況じゃない。
「わかりません。でも来るかどうか分からない救助を当てにして何もしないというのはどうでしょう?」
 だが今はそうとしか答えられなかった。
「ああ。それはわかるんだがな」
「じゃあ今後の食料はどうします?今日明日の問題なら良いですが、それ以降になると……」
「頭痛いな……」
 富良野は農業が盛んで、食べるものさえ選ばなければ町の人間の胃袋を支えきれるだけの生産力はあるだろう。
 しかし、そのためには早急に富良野全域を生活圏として取り戻さなければならない。
 これからライフラインが使えなくなる可能性が高く、また燃料の問題で機械の使用も制限される。その事を考えると今すぐにでも手を打たなければ来年どころか今年の収穫にも影響が出てしまう。
 それ以前に、現在各家庭に備蓄されてる食糧も精々1週間が限界だろう。
 当座の食料の為に、企業の店舗や倉庫から食料品の供出をもとめるにしても、やはり町からのゾンビ排除は絶対に必要だった。

「大体ゾンビってどれくらい増えたんですか?」
「詳しい数字はまだ把握してないが、1000か2000かそれくらいだろ」
 原警部補の口から出た数字に驚きを覚えた。
「意外に少ないですね」
「意外か?」
「もう一桁上かと思ってましたよ」
「そんなに増えられたら、人口1万と少しのこの町はとっくに終わってるさ。早い段階でパトカー走らせて町中の人間に注意を呼びかけたから。ほとんどが家で閉じこもってるから被害者が増えなかったんだろう」
 その程度の数なら、自衛隊の力を借りなくてもゾンビの排除は可能かもしれない。
 もっとゾンビの数が多いと勝手に思い込んで没にしていたアイデアを口にする。

「だったら、ゾンビをどこかに誘導して隔離できませんか?」
「隔離?」
「2000人くらいなら、街外れにでも深さ2mを超えるくらいの大穴を掘って、そこに誘導して落とすことは出来ませんか?」
「現実的じゃねえな。町中の重機をかき集めたって、そんな大穴掘るのに何日掛かるやら」
 専門的知識の無い俺はそう言われると黙って頷くしかなかった。
「それでは、どこかの学校の体育館に誘導して閉じ込めるのはどうですか?」
「学校の体育館じゃは2000人は入れてもぎゅうぎゅう詰めだろ。そんな狭いところに上手く入ってくれる訳……待てよスポーツ公園の体育館なら……おい、どうやってヤツラを誘導する気だ?」
「落とし穴なら、連中は目と耳で獲物を探しているようだから、夜に花火でも使っておびき寄せればと考えてたんですけど」
 それに比べると、建物の中に誘導するのは数段難しいと思う。
「目と耳か…・・・連中。鼻は利かないのか?」
「葬儀場で取り残されたゾンビに噛まれてない患者が、結構な時間ゾンビと同じ部屋にいましたが、興味を示す様子は無かったはずです。興味を示すのは動くもの人の形をしたもの──立った姿勢とか分かりやすい場合だけですけど──それに音に反応することは確認出来ましたが、臭いに反応するなら患者に襲い掛かってた筈じゃないですか?」
「おい北路、連中は所詮は元人間だぞ。犬じゃ無いんだぞ。よほど臭くなければ近づかない限り体臭なんて分からないだろ」
 原警部補は呆れ顔。俺は目から鱗が落ちた気分だ。
「そうだな。美味そうな食い物の強い臭いとかだったら連中だって反応するんじゃないか?」
 そいつはそうだ。映画の中で何処からとも無く集まって、主人公たちが立て篭もる巨大ショッピングモールの周囲を埋め尽く場面なんかで、俺は漠然とゾンビは動物のような嗅覚を持っていて、人間のわずかな生活臭を遠くからでも嗅ぎ付けているのだろうと思い込んでいた。
 だから実際のゾンビが葬儀場のホールで担架の上で動かずにいた患者を襲わなかったので、映画とは逆に鼻が全く利かない判断してしまった。
 原警部補の言う通り連中は元人間だ。生きてる人間と同程度には鼻が利く可能性が高い。
「ありえますね」
 大きく頷いてそう答える。
「だろ……試してみるか?」
「ここでですか?」
「そうだ。おい山口!」
 原警部補はバリケードの見張りをしている山口巡査を呼ぶ。
「なんでしょう?」
「俺が見張りを代わるから、ちょっと署に戻ってラーメン作って来い」
「ラーメンですか?」
「俺の机の下のダンボールの中のインスタントラーメンだ。俺とお前とこいつと嬢ちゃんの分だ。ついでに冷蔵庫に入ってるおろしニンニクを入れて、臭いくらいにニンニク利かせろよ。臭いが大事だからな」
 そう、実は今までの会話の間中ずっと文月さんはこの場に居た。
 この場というか、俺の左手にしがみ付きピッタリと身を寄せて片時も離れようとしない。
 葬儀場の一件以来、ずっとこの調子だ。

 原警部補はそう議場から戻ってきた俺たちを見た時、一瞬含みのある微妙な表情を浮かべたが、その後は文月さんに関しては今まで何も触れずに居てくれていた。
 一方、山口巡査は俺にしがみつく文月さんの姿を見て、俺へ嫉妬と羨望交じりの視線を送ってくる。
 彼がロリコンであるという疑いは確信に変わる。こんなのが警察官で良いのかと俺の中で警察全体への信頼が揺らぐ。
「この騒ぎで、朝から何も食ってないんだ。さっさと作って来い」
「でも食器がありません。係長と同じ鍋からラーメン食って変な病気を貰うのは嫌ですよ」
 この男、結構良い性格をしている。
「なっ!」
 一瞬で顔を真っ赤にした原警部補が怒りに言葉を詰まらせたタイミングで文月さん割って入る。
「大丈夫です。車の中にキャンプ用の使い捨ての食器が有りますから」
 文月さんも今日は起きて何も食べてないはずだけあって積極的だ。
「了解です!」
 原警部補が怒りを爆発させる前に山口巡査は素早く逃亡を果たした。


「凄い効き目ですね」
「そうだな」
 ラーメンの臭いに釣られて、学校の机と椅子で作られたバリケードの向こうには大量のゾンビが集まって来た。
 金属製のワイヤーで連結されたバリケードが軋むほどの圧力がかかっていて、文月さんは怯えてより一層俺に身を寄せている。
 原警部補は全く怯えた様子もなくゾンビたちを睨みつけながらズルズルとラーメンを啜っている。
 意外なのは山口巡査で怯えるとかいう以前に、バリケードをはさんで直ぐ前にいるゾンビに何も感じていないように飄々としていた。
「ところで文月さん、結構ニンニク強いけど大丈夫?食べられないなら、他のカップラーメンとか俺持ってるよ」
「いえ、大丈夫です。私ニンニクとか結構好きですから」
 流石に今は俺の手を離し、何処か小動物を思わせる仕草でラーメンすする。
 そんな彼女を、少し離れた場所から見つめながら「14歳の少女がニンニクラーメンチャーシュー抜きを……ハァハァ」と呟く山口巡査。
「誰か警察呼んで下さい。ここに変態が居ます!」
 俺は悲鳴を上げる。
「安心してください。私が警察官です」
「チェンジ!まともな警察官をお願いします」
「ずいぶんと失礼ですね」
 などと2人でミニコントをしていると、原警部補の拳骨が山口巡査の頭に帽子越しに突き刺さる。
「お前が警察官をやってることが警察と市民に失礼だ!ったく最近の若い奴は──」
「警察にもあんなのが多いんですか?」
 両手で頭を抱える山口巡査を箸で差しながら尋ねる。
「少なくないな。まあ奴も実害の無い程度だから採用されたんだろうがな」
 そう言いながら麺を啜り終えると、残った汁をバリケードの外に撒く。
 するとバリケードの隙間から、ゾンビたちが一斉に這いつくばって地面を濡らすスープに舌を這わし始めるのが見えた。
「使えますね」
「使えそうだな……上に掛け合ってみるか。山口ぃ!」
「は、はい係長!」
「ちょっくら署長に掛け合ってくるから、お前が代わりにここにいろ」
 指示を下すと原警部補は警察署を目指して駆けて行った。

「食べ終わりましたか?」
 箸を止めた俺に気付いた文月さんが声を掛けてくる。
「うん」
「じゃあ片付けます」と食器に手を伸ばそうとする彼女を「ちょっと待って」と押し留める。
 そのままスープが残った食器を片手にバリケードの一部に足をかけて登り、上からゾンビたちを眺めると、ちょうど手前にゾンビが居たので、そいつに頭からスープをたっぷりと掛けてやった。
「うぁぁぁぁぁううううぅ」
 別に熱さを感じている訳でもないのだろうが、興奮したかの様な呻き声を上げる。
 すると、周囲の他のゾンビたちはスープが掛かったゾンビの頭髪や服を引っ張り始める。
 そのまま共食いに発展するかと期待したのだが、残念ながら揉み合いへし合い程度で終わってしまった。
 バリケードから降りた俺は、空になった食器を文月さんに渡すとメモ帳を取り出して先程の葬儀場での体験と共に、原警部補の考察や今の実験結果を書き記す。
「色々やってるんですね」
 書きやすいとは言えないメモ張と格闘している俺に山口巡査が声を掛けてくる。
「情報が無ければ対策が立てられないからな。今日突然現れた未知の化物、少しでも情報を集めて対策を立てなければ生き残れないだろ……」
「そう……ですね」
 俺の言葉に山口巡査は彼らしくない神妙な面持ちで頷きながら、自分自身に言い聞かせるように呟いた。



[32883] 【09  07/15(水)11:05 警察署前】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/26 20:30
 原警部補が立ち去った後、俺と文月さんはRV車の荷台の整理を行っていた。
 自転車とデイパックを降ろすだけで作業が終わってしまった俺は彼女の手伝いをする。

 彼女自身の着替えと、使い道の無くなった祖父母の着替えを別に分けて袋詰めにして保管。
 遺品としての意味だけではない。今の様な状況下では、古着一着だって貴重な物資。今後しばらくは布一枚簡単に生産が出来なくなる可能性も高い。
 それに自分達に使い道が無くても、一着の服が誰かの命を繋ぐ場合だってある。

 彼女の家や土地の権利書等の書類が出てきたので、現金や貴金属と共に厳重に保管するように指示する。
 世界が元の姿を取り戻さない限りただの紙切れやゴミとなるのだが、いつか元の世界を取り戻すという希望が生き残る原動力となりえるので、彼女には最後まで持っているように言った。

 食料品は分類して整理するのと同時にレトルト物は箱から出してコンパクトにまとめる。
 30kg入りの厚い紙袋に入った米が出てきた時には、重たいのを堪えて積み込んだ文月さんの事を「ナイス!」と誉めたが、袋の中を覗いてみて米の一粒一粒が殻に覆われているのを見て固まる──精米どころか脱皮(だっぴじゃなく、だっぷ)すらしていないとは。
 米は籾殻付きで精白米とは違い長期保存に適している。
 彼女の家は毎年峰延の米農家から一年分を購入して今年分の最後の一袋との事で、普段は10kgずつ近所のコイン精米機で脱皮し精米するとの事。
「いざとなったら精米しなくても玄米で食べられるし、むしろこれからのことを考えると玄米を食べて米からビタミン類も摂取した方が良いんだろうけど、脱皮ってどうするの?」
「すり鉢にお米を入れて、スリコギ棒よりももっと面積の大きな野球のボールなんかで、米をすり鉢に押し付けるようにして優しく動かすと籾は外れますよ」
 時々精米した米を切らした時にそのようにして玄米を炊いていたとの事だった。
 全ての食料品の整理が終わると、その分量をきちんと調べて自分で管理するように指示する。
 彼女の命の綱となる食料。この食料の分だけは彼女は飢えずに済むのだ。

 次に出てきたのは釣り道具が一式。多分最初から積みっ放しなってたのだろう。
 海釣り用ではなく川釣り用一式が揃っていた。川釣りに関してはさして詳しくない俺から見ても良く手入れのされた高級品と思われる。

 そして大型のコンテナケースにはキャンプ用品。ターフ一体型の大型のテントに炭火コンロとテーブル・椅子などで、それぞれかなり本格的な装備で、いよいよの時にはゾンビも現われそうに無い山奥に逃げ込んで生活するならきっと役に立つだろう。
 また同じくキャンプ用品でコンテナケースの外に大型のウォータージャグがあったので、後で水を汲んでおくことにする。

 最後の荷物が入ったバックに手を伸ばそうとすると、文月さんが「あっ」と小さく声を上げた。
「どうしたの?」
 言い出しにくそうな彼女の様子を察し声を抑えて話しかける。
「多分それは鉄砲だと思います。狩猟が祖父の趣味でした」
「鉄砲……散弾銃とかライフル?」
「詳しくは、わかりません」
 中は後で確認するとして、この大型RV車や釣り道具に本格的なキャップ用品。そして狩猟用の銃。彼女の祖父の趣味ががわかってくる。
 彼は先程俺が考えたように、いざとなれば安全が保てそうな自分が知ってる山の中に逃げ込み、3人で生き延びるつもりだったのだろう。

「文月さんのお祖父さんは、富良野じゃなくどこかに行くっていってなかった?」
「……えっと、山を越えてとりあえず富良野に出ると言っていたと思います」
「とりあえずね。その後の事は?」
「いえ、何も聞いてません。途中で祖母の具合が悪くなったので、富良野で病院に行くと言っていました」
「そうか、ありがとう」
 肝心な情報は手に入らなかったが人の居ないような山奥は幾らでもある。サバイバル生活に役立ちそうな本や道具をどこかで手に入れた方が良いかもしれない。
「文月さん。とりあえずコレは警察には黙っていよう。もしかしたら必要になるかもしれないし」
 警察に知られたら没収されるのは間違いないので、銃の入ったバックには手を出さず整理を終える。

 作業を終えた俺たちは車内の前部シートでくつろいでいた。
 北海道の7月は窓さえ開け放しておけば、車内といえども冷房無しでも結構過ごし易い。
 スポーツドリンクを2人で飲みながら、俺はあえて今まで口にしなかった話を切り出す。
「どうして、あの時ゾンビに体当たりするような危ない真似をしたの?」
「…………」
「あと少し遅れていたら、君はゾンビに噛まれていたんだよ。そうなればもう絶対に助からない。なのに何故?」
 抑えきれずきつい口調になってしまった。
「……わたし、あの時……何も考えてませんでした。北路さんの前にゾンビが立ちふさがった時、何も考えられなくなって……気付いたら飛び出していて……何時の間にか床に倒れていて、私の横を北路さんが通り抜けた時、置いていかれたような気分になって不安で寂しくなって……そうしたら、目の前にゾンビたちがいて、私……お祖父ちゃんやお祖母ちゃんみたく死ぬんだと……でも、次の瞬間、北路さんが助けに来てくれて……あなたが危険な目にあって、私、私……」
 俺の責めるような言葉に、感情を高ぶらせたのか、目を潤ませ始めた彼女を見て、慌てて言葉を遮る。
「分かった。確かに俺も不注意だったし、見通しが甘かったと思う。でもあんなのはもう勘弁して欲しい。こんなのでも俺は君の安全には責任を感じてるんだ」
 こんな状況の中、自分の目の前で寄辺無き身となってしまった文月さん。彼女の今後に無責任でいられるほど俺は人でなしではない……善人だとはこれっぽちも思わないが。
「はい……」
 文月さんが小さく返事をして、気まずい空気が車内を包む。
 こんな空気だからこそ俺は言わなければならなかった。勇気をもって口にする。
「だけど、助かったよ。ありがとう文月さん」
「えっ?」
「君があの時、飛び込んできてくれなかったら、かなりまずかったと思うんだ。ありがとう。文月さんは俺の命の恩人だよ」
 俺だってちゃんと感謝はしていた。ただそれをなかなか口に出せなかっただけだ。
「えっでも、私……結局、北路さんに迷惑掛けて」
「だから、まず君が俺を助けようとしなかったら、君自身が危険な目に合うことも無かったんだから」
「だけど、私はそのずっと前から北路さんに助けてもらってます。だから助けてもらうばかりじゃなく、少しでも北路さんの助けになれれば良いって思ってて……」
「本当に助かったよ。ありがとう」
「……なのに、結局北路さんが私のせいで危険な目にあって……絶対にあんな危ない戦い方しなかったのに」
 文月さんは、俺がゾンビを戦う際に決して正面からは戦わなかったのをちゃんと見ていたのだ。
 常に背後、もしくは倒してから、しかも反撃を貰わないように一撃で倒すようにしてきた。
 正面からの場合。殴ったとしても蹴ったとしても、あの腕力で掴まれたら最後、引きちぎられるか、それとも引き寄せられて噛み付かれるかのどちらかしかない。
 だからゾンビに対しては正面から直接攻撃は絶対にしなかった──頭の中にあの痺れるような感覚が走るまでは。
「そんなにしてまで戦ってくれる北路さんに、私……嬉しいと感じてしまって。酷いですよね?」
 彼女の目から涙がこぼれる。まだ少女とは言え女の涙は苦手だ、どんな言い訳も通じない罪悪感がプレッシャーとなって迫ってくる。
「いやいや、誰かが自分の為に何かをしてくれるってのは嬉しくて当然だ。嬉しいと思ってもらえて俺も光栄だよ」
 必死に彼女を慰めようと言葉を繰り出すが、空回り感ばかりが募る。
「北路さんに抱き上げられて嬉しくって頭が真っ白になって、あなたが私を心配してくれてるのに返事も出来なくって……」
 抱き上げられて……嬉しい?何やら話が変わってきた気がする。
「私、私、北路さんのこと……」
「おい。さっきの話だが署長の許可が出たぞ」
 空気も流れもぶった切り、窓の向こうからいきなり原警部補が顔を出す。
「でな、準備に人手が足りないから悪いが手伝って欲しい」
「手伝うって何を?」
 内心、彼に感謝しながら尋ねる。
「檻の補強だ。スポーツセンターに行って、入ったヤツらが窓とかから出られないようにする」
「その手の作業なら、俺や警察よりも消防の方が向いてないですか?」
 俺の言葉に原警部補は一瞬息を呑む。
「そうだろうな……だが連中にはもう頼めない」
「何故?」
「今回の騒動で真っ先に被害にあったのは消防や救急救命の連中だ。救助が仕事だからな助けようとして逆に襲われて、多くの被害者を出した。今現場に出れるのは2、3人ってところだ」
 悔しそうに肩を震わせ歯を食いしばり口元を歪ませる。

「そうですか……道具とかは揃ってるんですか?」
「一旦ホームセンターに寄って。そこで調達する予定だ」
「勝手にですか?警察ってその辺うるさいんじゃ?」
「一応、店長とは話がついてる。鍵も預かった。オーナーとやらが文句があるならここまで来て言えってんだ」
 だんだん砕けてきたなこのおっさん。そんな風に思いながら口にせず黙って頷く。
「移動の足は?」
「署にマイクロバスがあるからそいつを使う」
「分かりました手伝いますよ」
 そう言うと、何か言いたげにこちらを見つめる文月さんと目を合わせずに逃げるように車を降りた。

 彼女が何を言いたかったか分からないと言うほど朴念仁を気取る気は無い。
 だが、助けてもらったから好きだ嫌いだなんて感情の高ぶりに任せた気持ちに向かい合うつもりはない。
 そんな事していれば、レスキュー隊員は要救助者の女性とのラブロマンスに満ち溢れ、海猿はエロ猿にタイトル変更だ。
 第一、最低限は胸はCカップを超えてくれないと、生物学的にはともかく俺的には女性と認めることは出来ない。
 そう。俺はおっぱい星生まれのおっぱい星人。生粋のエリートおっぱい星人だ──そもそも、文月さんとでは生れ落ちた星が違うのである。



[32883] 【10  07/15(水)12:30 警察署前】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/27 20:21
「じゃあ後は頼んだぞ」
「はぁ……任せてください係長」
 何か元気の無い山口巡査の声に送られて、俺たちを乗せたマイクロバスはバリケードを出て国道38号線を、先ほど渡ってきた新空知橋方向へと走リ出す。
 俺たち──俺と、ハンドルを握る原警部補。そして葬儀場でボランティアをしていた3人の男たち。
 和田さん。島本さん。矢上君の3人は、それぞれ警察署近くの紳士服・ドラッグストア・靴屋の店員で、この騒動が起きた早い段階に警察署に保護を求めており、先の葬儀場をはじめバリケード設営で警察に協力し続けていた。
 彼らは和田さんが30歳で、島本さんも同じ学年だが年は29歳。そして矢上君は23歳と若かい。しかし若さ以上に14歳の文月さんすら「さん」付けで呼ぶ俺にとってさえ「矢上君」と呼びたくなる気安さを感じさせる人だ。
 そして、もう一人参加者。今回は大人しく待っていてと必死に頼む俺のお願いを無視して同行した文月さんの6人である。

 RV車と違ってマイクロバスはゾンビを跳ね飛ばして走る訳にはいかない。
 グリルガードが無いのも一因だが、そもそもこのマイクロバスのフロントガラスの下の枠の高さが地上140cm程度。
 ゾンビとぶつかれば多くの場合にフロントガラスに頭部が当たってしまう。マイクロバスのほぼ垂直に立ち上がるフロントガラスはぶつかった場合衝撃を逃がすことが出来ないので、徐行程度の速さで当たっても簡単に割れてしまうだろう。

 従ってホームセンターへの1km程度の道のりは、人間がゆっくり歩くのとあまり変わらず20分くらいは掛かりそうだ。
「畜生!絶対にホームセンターで何とかするからな!」
 ゾンビが現れるたびに、衝突直前で一旦停止し、そこからゆっくりとアクセルを開いてゆき、押し退けるようにしか進めない状況にストレスを溜めている原警部補が吼える。

 時間は昼飯時。通りをすれ違うパトカーが、各家庭で食事を作る際はゾンビを刺激するので臭いの強い料理はしないようにとアナウンスを流し続けている。
「俺らまだ飯食ってないんだよな」
 アナウンスを聞いた島本さんが空腹を口にする。
 先程、ラーメンを食べた俺と文月さん原警部補は3人で顔を見合わせると、島本さんから視線をそらす。
 和田さんと矢上君も同様に視線をそらした。
「もしかして俺だけ?というか和田さ、お前ほとんど俺と一緒に居なかった?」
 だが返事は無かった。
「あ~あ、ちょっと何か食べ物無いの?」
 彼の言葉に原警部補は前を向いてハンドルを握ったまま、左手で運転席の後ろの席に置かれたダンボールを指差す。
「なんだあるじゃないか……」
 ダンボールに歩み寄り、開けて覗き込んだ途端島本さんはそのまま固まる。
 彼が何時まで経っても動こうとしないので、近寄って中を確認してみるとダンボールの中にあったのは、玄関開けたら2分でご飯よりも圧倒的に早い10秒飯であった。

「……力でねぇ」
 パウチ入りの緩いゼリーを啜り終えた島本さんは、そう呟くとがっくりと肩を落とした。
「贅沢言うな。死にたいならカレーのルウ。それとおろしニンニクに各種調味料がたっぷりあるぞ」
「それってゾンビをおびき寄せるためのものですよね?」
「俺達が食って臭いさせるわけにもいかないし、手早く食べられる様にゼリーなんでしょうね」
 原警部補の言葉に和田さんと矢上君が答える。

 スーパーやファストフードと共有になっている駐車場への入り口を抜けて、ホームセンター脇の資材搬入口前にマイクロバスを停める。
 俺は周囲にゾンビがいないのを確認するとマイクロバスを降り、予め渡されていた鍵で錠を解除するとシャッターを開ける。
 そしてシャッターの内側にゾンビがいないことを確認してから、大きく手を振って合図を出す。
 マイクロバスがバックでシャッターを潜り抜けたのを確認すると、俺も中に入りシャッターを下ろした。

 店舗内に入ると、原警部補が必需品のリストを見ながら、それぞれが集める物を指示して行く。
 残る俺たち5人が大型ショッピングカートを走らせて店内を回ると30分程度でリストの品目は全てマイクロバスに詰み終わった。

「よし。それじゃあこれから俺はフロントガラス周りを何とかするから、その間、お前等は自分が生き残るために個人的に必要だと思うものを取って来い」
 積み込まれた荷物と、リストを照らし合わせながら原警部補がそんな事を言い出した。
「ちょっと待て!警官がそんなこと言って良いんかい?」
 矢上君が原警部補に詰め寄る。
「お前等な。自分が生き残る努力を忘れてるんじゃないぞ。この作戦が失敗してゾンビが町中に溢れかえっても、お前等は自分だけでも生き残るくらいのつもりでいろ。それに店長には話はつけてる」
「警部補……」
「本当は、こんな危険な作業にお前等をつき合わせたくは無かった。こんなの俺たち警察官がやる仕事だ……なのに糞っ垂れが、人手が足りない……お前等が自分を助けるために使うはずの大事な時間を奪ったんだ。すまん!」
 そう言うと俺たちに深々と頭を下げる。
 その言葉に感じ入り、俺たちが何も言えずにいると「ぐずぐずするな。早く行って来い!」と原警部補は雷を落とした。

 文月さんを連れて店舗内へと戻る。
 荷物を詰めるためのカバンを取りに行く途中のキャンプ用品コーナーで、カセットバーナー用のガスボンベをカートに積む。
 今使ってるボンベは高校の頃からの使いかけで、どの程度残っているのか良く分からないのだ。

 カバン類コーナーに着くと、文月さんには彼女の身体に合ったサイズで、ゾンビの目を引かないように灰色のデイパックを選ぶ──灰色が奴らの注意を惹かないかどうかは分からないが、見た目にも一番無難な色を選んだ結果だ。
「何かあった時、このデイパック一つを持って逃げることを想定して、必要な荷物を詰めるんだよ」
 神妙に頷く彼女。そして自分用にはカーキ色の大型のスポーツバッグを選択し、肩に担がずカートに乗せる。

 次いでそれぞれの足に合うスニーカータイプの安全靴に履き替え、元の靴は俺のバックに入れる。
 足首より上までカバーしてくれるブーツタイプも考えたが、いざと言う時の機動力を考えると安全靴の中でも走りやすいものを選ぶしかなかった。
 そして30m巻きの針金を3束。布ガムテープを5個。領力両面テープと軍手を二束。
「瞬間接着剤は何に使うんですか?」
「治療用だよ。多少の傷は縫わなくてもこれで十分治療できるんだよ」
 そう言って左手首の傷を見せる。3cmと1cmの傷跡が平行して走っている。
 思わず痛そうに顔をしかめる文月さんに説明をする。
「高校の頃に自転車に乗ってて怪我したんだけど、この時も瞬間接着剤とパンで治したんだよ」
「……パンって食べるパンですか?」
「そうだよ。まあだから、多少の怪我はともかくゾンビだけには噛まれないでね」
「はい……ってそうじゃなくパンをどう使うんですか?」
「どう使うって?パンは脇に挟むに決まってるじゃないか」
 腕や手などを怪我した場合はパンは適当な大きさに千切ってから、軽く丸めて脇に挟んで強く締め上げるとちょうど良い形に変形して腕への血流を止めてくれる。
 別にスポーツタオルとかでも良いんだけど。
 この手首の怪我の場合は、荷物に瞬間接着剤もパンもタオルも無かったので、傷口をポケットティッシュと輪ゴムで押さえて自転車で最寄のコンビニに向かい、瞬間接着剤・5個入りバターロールパン・6個入りポケットティッシュ・2L入りミネラルウォーターを購入して治療した。
 治療の手順は──
 1.買ってきたものを全て取り出して、直ぐ使える状態にする。
 2.バターロールパンを1個取り出し食べて一息つく。次に3個取り出して軽く握ってから脇に挟む。
 3.ミネラルウォーターで傷口の血を洗い流し、ついでに口の中のパンを流し込む。
 4.ティッシュで傷口の血と水を拭いとる。
 5.傷口を地面に対して垂直に立てる(出血が完全に止まるわけでないので、にじみ出る血が下へと流れ落ちるようにする)
 6.右手の親指・人差し指・中指の3本で瞬間接着剤を持ち、小指で開いた傷口の断面が重なるように皮膚を寄せる。
 7.傷口の上側から(当然下側はにじみ出た血で濡れている)出来るだけ少ない量の瞬間接着剤で2-3mm程度ずつゆっくりと接着していく。
 8.1個残ったパンはその場で食べ、脇に挟んだパンは持ち帰り近所の川の鴨や魚に餌として与える。
 その後は傷を少しでも綺麗治したいなら医者に行くべきだが、見栄えなんてどうでも良いなら、出血自体は大きな血管を傷つけたのでないなら数時間で収まるので、ぬるま湯でうるかしてから(北海道弁。潤む+させるで、ふやけさせると同じ意味)接着剤をはがし、傷口を軽く洗い流し再び瞬間接着剤で傷口を固定する。これを毎日繰り返せば良い。
「パンを?……パンを脇に挟む???」
 一方、混乱を深める文月さん。これはこれで面白いのであえて答えは教えず彼女から顔が見えないようにしてニヤニヤする。

 店舗の左奥の隅でメタルラックのパーツ置き場では、173cm長のポールを人数分の6本調達する。
 体育館で作業中にゾンビに襲われても、こいつで強く胸を突けば二度目の死を与えるのは無理でも、転倒させて逃げる時間は稼げる。
「文月さんの力では腕の力だけで押しても駄目だから、脇を締めて両手で右に構えると、右足を残して身体ごと踏み込んで相手の胸を突くんだよ」
 などと説明してる暇は無かったことを思い出し、後で説明すると言って切り上げた。

 電化製品コーナーを素通りし自動車用品コーナーに行く途中、通路中央に置かれたワゴンにタオルが積まれていた。
「好きなのを適当に……10枚以上は選んで」
 タオルを選んでいる文月さんに質問を投げる。
「ところでお祖父さんの車って何時オイル交換したか分かる?」
 俺の問いかけにタオルを選ぶ手を止めると、彼女は申し訳なさそうに首を横に振った。
 少し考えた末に、壁沿いのオイルコーナーに行くと、ディーゼルエンジン用のオイル4L缶を3つ積み、次いでエレメントを探す。
「自分で交換できるんですか?」
 タオルを選び終えて駆け寄ってきた文月さんのちょっと尊敬がこめられた様子の発言に、気を良くした俺は道化て答える。
「オイル・エレメント交換とタイヤ交換は自分でやるよ。バッテリーにヘッドライトの電球。リアのウィンカーユニットの交換もした事があるよ。まあ全部交換ばかりだね」
「凄いんですね」
 交換ぐらいしか出来ないという意味だったんだが、素直に彼女が向けてくる尊敬の眼差しが痛い。
「私、ウォッシャー液の補充ならしたことあります」
「じゃあ後で頼むよ」
 そう言って棚のウォッシャー液を手に取ると彼女に渡した。
 自動車用品コーナーの隣はスポーツ用品コーナーになっていて、その中に釣具のコーナーも有ったが川釣り用の道具は既に揃っていて、海釣りは機会はなさそうなのでパスする。

 更に店を回って時計・小物コーナーでSDカードを見つける。
 携帯の電話機能は使えなくてもカメラ・ビデオ機能は生きているし、音声や文書も残しておけるので2GのmicroSDカードを5枚ほどいただく。
 残念ながらSDHCは置いてなかった。
「充電はどうします?」
「手回しの充電器くらい置いてあるとおもうけど」
 そう言って辺りを探してみると、手回しタイプ充電器とその横に小さな太陽光充電器が置いてあった。
「へぇ~、こんなのってあるんだ」
「はい。祖父も使ってました。山に行った時、外に出しておけば充電できるので便利だって」
 手回しタイプと一緒にそいつも貰っておく。
 最後にレジ前でアルカリ電池を多目に確保する。そのコーナーには繰り返し充電回数が1000回を越すという謳い文句の充電式電池と充電器のセットもあった。
 文月さんのお祖父さんの車には家電製品が使えるようにコンバーターが設置されているので走りながらにでも充電の可能性があるので、充電器に電池を各サイズ4本ずつ確保した。

 マイクロバスへ戻ると原警部補はまだフロントガラスと格闘していた。
「おう、結構取ってきたな」
 カートの上のスポーツバックは結構膨らんでいた。
「護身用に全員こいつを持っててください」
 そう言ってカートの上から、メタルラック用のポールを一本取ると彼に渡す。
「それから戻ったらRV車のオイル交換をする気なので」
 バッグの中からオイル缶を出してみせる。
「そうか、他の車のオイル交換をやっておいた方が良いかもな……最後に」
「最後って言うな」
 俺の突っ込みに彼はニヤリと笑って返す。全く面倒なおっさんだ。
「ところで補強はどうなりました?」
「……うまくいかねぇな」
 俺から視線をそらしぼそりと呟く。
「しかたないですね原さん不器用そうだし」
 俺は自分用の荷物とは別にカートに乗せておいたウレタンクッションを手にする。
 駐車場などで壁や柱の角などに貼り、ぶつかったり擦ったりした際に車を守るというより建物を守るために使われたり、小さな子供のいる家庭で家具の角などに貼り付けたりするアレだ。
 パッケージに「超強力」と記された両面テープでフロントガラスに貼り付けていく。下方視界を完全に塞がない程度に隙間を開けつつ、大柄なゾンビで無い限りぶつかっても頭部がフロントガラスに直接当たらないようにした。
 文月の手を借りたが所要時間は僅か3分間だった。
「おい、俺の立場はどうなるんだ?」
「さあ?」
 今度は俺がニヤリと笑い返してやった。

 そうこうしてる内に、他の皆も準備を終えて集まってきた。
「北路は車持ちなんだろ。これ持っておけ」
 そう言って和田さんが差し出してきたのは手動のシリンダータイプの給油ポンプと耐油ホースだった。
「何時までスタンドで給油できるか分からない。これなら電気が使えなくなったガソリンスタンドや他の車からでも給油できるぞ」
「この耐油ホースは?」
「付属のホースは短い上にプラスチック製で硬くてとり回しが悪いから使えない。ちゃんと合う径のホースだからこれを使え」
 何処か発想が堅気じゃない気がするが、確かに有ると便利なアイテムなので礼を言って受け取ると彼にもメタルラックのポールを渡した。



[32883] 【11  07/15(水)14:00 ホームセンター】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/27 20:24
 必要な資材の最終チェックを終えると、俺はシャッターと地面のわずかな隙間から外の様子を覗く。
 狭い視界の中には動く物は発見できなかった。
 ハンドサインでOKを出す。それに答えるように原警部補はマイクロバスのエンジンをかけ、俺はシャッターを上げる。
 マイクロバスが潜り抜けた後、外側からシャッターを閉めて鍵をかけ、ゆっくりとマイクロバスに向かうゾンビに先んじて乗り込んだ。
 ホームセンターを出るとマイクロバスは国道を避けて裏道に入る。
 裏道はゾンビの数も少なく、またフロントガラスに装着したウレタンスポンジのおかげで徐行スピードだが、体当たりをしながら走り続けることが出来た。
「ゾンビが相手とはいえ車で跳ね飛ばすのは気分良いものじゃないな」
 結局、運転しながら愚痴を零すことになる原警部補。どちらにしろ彼はストレスを溜めざるを得ないようだ。

 マイクロバスは道道759号線から右折で富良野総合スポーツ公園駐車場へと入る。周囲には数体のゾンビの姿がある。
 ゆっくりとスポーツセンターの玄関へ走る車内から、俺はメタルラックのポールを片手に降りる。
 玄関傍のゾンビに走り寄り、正面からポールを槍のように送り出し奴の胸を突き、仰向けに転倒した所を喉元を目掛けて力一杯ポールを突き立てる。
 先端が肉に食い込むも頚椎を捉えられなかったため奴は暴れる。まるで生きてる人間が必死に抵抗しているかのように感じる。それでも俺はポールを引き抜き二度三度と突き立て続けた。
 やがてその動きを止めたゾンビの前で、俺は背筋に張り付く嫌悪感に歯を食いしばって耐える。そうでもしなければこみ上げてくる嘔吐感を押さえきれない。
 手に残る肉を突き刺した時の感触に俺の心はささくれ立つ。

 マイクロバスを玄関脇のスロープにバックで停めるのを見ながら、玄関の扉に駆け寄るり素早く鍵で開けた。
 停車と同時に後部のドアが開き、矢上君が中から先程のホームセンターの大型カートを2つおろし、その上に和田さんと島本さん、文月さんの手によって資材が積み上げられていく。
 その間、マイクロバスに近づこうとするゾンビを相手するのが俺の役目だ。
 マイクロバスを背に庇うようにゾンビを迎え撃つ。
 正面から近づいてくる一番手近なゾンビ。この公園のテニス場で早朝テニスでもしていたのだろう右手に持ったテニスラケットを引きずりながら歩いてくる。
 その向う脛を目掛け、ポールを頭の上で大きく一周させ遠心力をつけて打ち付ける。
 骨の折れる音と共に倒れたゾンビを無視すると、マイクロバスへ向かおうとするトレーニングウェア姿のゾンビの足の間に横からポールを差し入れて躓かせ転倒させる。
 それと同時に別のゾンビが左から襲い掛かってくるのを身体を地面に投げ出して逃れるが、最初のゾンビはすでに骨折をものともせず這い寄ってきていた。

 周囲には8体のゾンビ──予想していたよりも数が多かった。
「不味……かったかな?」
 自分で引き受けた役目とはいえ己の大言壮語が忌々しい。
 ゾンビに囲まれてしまえば助からない。
 そうとはいえゾンビから距離を取れば、荷降ろし作業で音が出ているマイクロバスへとゾンビが向かってしまう。
 また距離を取った上で、大声を出すなりして奴らをひきつければ、今度は公園内外の沢山のゾンビをここに呼び寄せてしまう。
 時間を稼ぐためにはここで戦い続けるしかない。しかし、それはあまりに分が悪い。
 音を立てずに目の前のゾンビだけをひきつける。そんな方法があるだろうか?
 ゾンビが襲う対象を認識する手段の中で、音は当然使えない。
 臭いも、強力な臭いを発生させる方法は今は無い。
 残されたのは視覚か、つまり光学的刺激。次の瞬間「光」の一文字が頭に浮かんだ。
 ウェストポーチからLEDライトを取り出しスポットビームで、ゾンビの顔へと向けてみた。
 するとゾンビは光に対して興奮を示し、こちらへと向かって来た。
 続けて他のゾンビへとライトを向けると、全てが同様の反応を示した。
 後でゾンビの正の走光性(生物が光に集まる習性。逆にゴキブリのように光を嫌う習性は負の走光性)に関してもメモしておかなければならない。
 その後は危険を冒すことなく常に十分な距離を開けて、ライトの明かりでゾンビの興味をこちらに惹き付け、まるで目隠し鬼で遊んでいるかのようにゾンビを搬入に必要な時間を稼ぐことが出来た。

「おいっ!荷物の積み下ろしは終わったぞ!」
 原警部補の声に、俺はゾンビを振り切ってスポーツセンターの玄関へと走る。
「北路さん!」
 中に入って扉を閉めると文月さんがしがみ付いて来た。不安だったのだろうその肩が震えている。
「すまねぇ。無理させた……」
「謝らなくて良いから、誉めろ。俺は誉められて伸びる子だと言ったはずだ」
 頭を下げる原警部補に冗談で返す……誉められて伸びる子なのは本当だけど。
「あ、あの、えっと……その、偉いです」
「いや冗談だから、無理に誉めなくて良いんだよ」
 思わず笑みがこぼれた。お返しに文月さんの頭をポンポンと軽く2度叩く。
「だが良く光に気付いたな」
「気付いたというか、ちょっとした思い付きを試しただけで、もしあれで駄目ならきつかったですね」
 俺の言葉に原警部補は厳しい表情で頷いた。

 スポーツセンターの南東と北東側は窓の数は少なく、有っても高い位置にあるので補強する必要は無かったが、北西側の壁には廊下に沿って床から天井までの高さのある細い窓が儲けられている。そして南西側には事務室や放送室の窓があり、それらを全て塞ぐ必要があった。
 施設内のドアは一体でも多くのゾンビが中に入れるよう全て開け放ち、ドアキーパーを設置して閉じないようにする。
 ただし館内放送用の機器などがある事務所は、作戦開始後に素早く閉鎖できるように準備を整えるだけとする。

 窓を塞ぐための合板の打ちつけなどは、出来るだけ音を立てないようにする為に釘を使わず、マイクロバスのフロントガラスに使った強力両面テープと木ネジを使った。
 電動ドリルを出来るだけ低速で使い合板ごと壁までネジ穴を開けて、電動ドライバーでネジをしめる。
 作業は6人がかりでも日が傾くまでかかってしまった。

 次いで階段の閉鎖。
 以前ゾンビは階段は登れないという可能性を考えたが、それはあくまでも歩いて上れないだけで強い動機付けさえあれば這い上がって来るだろう。
 我々が立て篭もる予定の二階部分へのゾンビの侵入を防ぐために、階段の防火壁を1階と2階の両方を展開する。
 幸い防火壁の小さなくぐり戸は押せば開くタイプではなく、円形に凹んだ中にある取っ手を回さなければ開かないタイプで簡単にゾンビに開けられるとは思わなかったが、念のためノブの周囲を塞ぐ様に余った合板を強力両面テープで貼り付けた。

 作業終了後、晩飯の10秒飯を口にしつつミーティングを開始する。
「じゃあ確認するぞ。もう始まっているが作戦開始は6:00。警察車両がサイレンを鳴らし町中を回ってゾンビをひきつけて公園付近まで誘導している。十分な数のゾンビの誘導が確認できたら無線で連絡が入ったら全員持ち場に着く。これは9:00を目安とするが前後する可能性が高い。文月の嬢ちゃんは1階の防火扉のくぐり戸を開けっ放しで待つ、閉めたら俺達は2階へ逃げられなくなるから注意してくれ。俺が指示を出したら事務室の島本が全館正面点灯。その後、放送室の矢上が館内放送開始。最大音量で音を鳴らし続ける。矢上は事務所に通じる扉から逃げろよ。もう一方は既に閉鎖してるからな。2人の脱出後に北路と和田が事務室のドアを封鎖してから防火扉に向かう。嬢ちゃんは北路や和田と交代し2階の観戦室へと移動して調理器具に火を入れる。そして俺と島本と矢上が玄関を開放してゾンビを中に入れる。全員が2階に移動し終えたら和田・島本・矢上は窓から花火を打ち上げて、公園周囲のゾンビをセンターにおびき寄せる。俺と北路と嬢ちゃんは、調理して出来上がったものを吹き抜けから1階のアリーナへとぶちまける。後は外の連中がタイミングを計ってマイクロバスで玄関を閉鎖。俺たちははしご車のお迎えで窓から脱出。以上質問は?」
「ここって2階でしょ?はしご車なんて大げさな」
「普通の家と一緒にするな。脱出予定のあの窓から地面までは6m以上ある。飛び降りたければお前一人で飛び降りろ!」
 迂闊なことを言った矢上君に雷が落ちる。
「この建物の外に残ったゾンビはどうします?」
 和田さんが脱出時の危険について質問する。
「残った数次第で、外の連中が排除するか、サイレンを鳴らして一旦ヤツラをここから遠ざけるかを決めるそうだ。他には?」
「玄関閉鎖のタイミングって、何か基準があるんですか?」
 まさか適当って事は無いよなと思いつつ聞いてみた。
「玄関に取り付けた無線式の監視カメラで、センター内に侵入するゾンビの数を外の連中がカウントしてる。外に集まったゾンビが俺達の脱出に問題ないくらいに減った段階で、センター内のゾンビの数が1000を超えていたら閉鎖。超えて無くても一時閉鎖して、外の連中はゾンビ集めに町を走り回る。そしてゾンビが集まったら玄関の封鎖を解といてゾンビを中に誘い込む。これをセンター内のゾンビの数が1000以上になるか夜が明けるまで繰り返す」
「一晩中かぁ……」
 島本さんが空になったゼリーのパックを握りつぶして切なそうに呟く。
「だけどマイクロバスで玄関閉鎖って、どうやって動かすんです?」
 島本さんを無視して矢上君が疑問を口にする。
「人が乗って動かすのさ。既に部下が乗り込んでる……他に質問は無いか?」
 原警部補の言葉に皆が頷く。
「とりあえず今日。最低目標の1000のゾンビを隔離できれば、最大に見積もっても2000のゾンビを半分に減らせた事になる。そうすれば明日以降の避難のペースも上がるし、数さえ減れば一体一体倒すのも楽になる。1000で足りないなら明日以降も同じ作戦をやれば良い。ここほどじゃなくても、数百単位のゾンビなら隔離できそうな場所はまだある……だからこんな所で死ぬんじゃないぞ。お前らにはまだまだやって貰うことはあるからな」
 口ではそう言いながらも、俺たちの心配をしているのは丸分かり、ツンデレ原警部補に皆の生暖かい視線が向けられる。
 それに気付いて照れくさそうに背中を向ける彼に対する文月さんの「何か可愛いですね」という一言が止めとなり、俺たちは耐え切れず爆笑した。

 ミーティング後、花火や調理器具の設置点検を行い。もう一度センター内を隈なく点検し、作戦時の行動をリハーサルで再確認していると原警部補の無線機から呼び出しがかかる──時刻は8:50だった。
「よし。少し早いが始めるぞ!」
 原警部補の声と共に俺たちはライトを手にし、防火扉のくぐり戸を抜けて一階へと降りてゆく。
「嬢ちゃん。ここを絶対に離れるなよ。このくぐり戸が閉まっちまったら。俺たちは一階に閉め出されちまうからな」
「文月さん頼んだよ」
 一階の防火壁の前で待機する文月さんに声を掛けてから自分の持ち場に向かう。
 玄関脇の事務室の扉の前。傍に立てかけてある合板を手に取る。
 俺と一緒に事務室の扉を塞ぐ役目の和田さんは、ガス式の釘打機を手にして実際の作業をイメージして練習している。
 これから行う事務室の封鎖は音を気にする必要が無いので、2枚の合板を使って扉を塞ぐのに釘打機を使い釘で合板を素早く固定する。
「矢上。準備は良いか?」
 部屋の中から照明係の島本さんが、放送係の矢上君に潜めた声で話しかけるのが聞こえる。
「もう少し…………OK」
「じゃあ、3・2・1で行くぞ。3…2…1!」
 次の瞬間。全館に大音量で音楽が鳴り響く──思わず元気になりそうな明るいアニメソングだった。
 次いで点滅しながら蛍光灯の明かりが点いた。
「なんだよこの音楽!」
「知りませんよ。アレは警部補が山口って部下から取り上げてたんですよ」
 そう言い合いながら事務所から走って出てくると「頼んだぞ」と俺と和田さんに言い残し玄関へと向かった。

 俺が1枚目の合板を扉の下半分を覆うように固定すると、和田さんの持つ釘打機がバン!バン!と大きな音を立てて釘を打ち込んでいく。
 手を離しても板がズレないのを確認し、2枚目の板を上側にあてがい、もう一つ用意されていた釘打機で板を固定していく。
「下完了!」
「上の左側お願いします」
 先に下側の固定が終了した和田さんに指示を出す。
「了解」
「……右側終了しました」
「左側は後10秒だ」
「了解」
 和田さんの返事に俺は原警部補に呼びかける。
「こちらはもうすぐ終わります。そちらも準備よろしく!」
「分かった!」
 原警部補の返事と同時に和田さんの作業も終了する。
「終わった。逃げるぞ」
「はい」
 俺と和田さんは釘打機を持って逃げる。明日以降も使う可能性があるから置いて行く訳にはいかない。
 防火壁までたどり着いた俺に駆け寄る文月さんを押し留めると「二階に上がって火をつけて」と指示する。
 頷き階段を駆け上がっていく文月さんを見送る俺の背中で「こちらOK!」と和田さんの声が上がる。

 ガラスの向こう側のゾンビたちが、明かりと音に引き寄せられて集まってくる。そしてガラスドアにぶつかりドン!ドン!と鈍い音を立てる。
「じゃあ鍵を開けるぞ。いいか?」
 鍵を持った原警部補が、ガラス扉を支える両脇の島本さんと矢上君に声を掛けると2人が頷く。
「せ~のでいくぞ。せ~の~でっ!」
 掛け声と同時にガチャっと開錠する金属音が鳴り、次の瞬間3人がこちらに向かって必死の形相で走り出す。
 その背後でガラス扉が内側へ押し開かれ、暗闇の中からゆっくりとヤツラの群れが姿を現した。



[32883] 【12  07/15(水)21:00 スポーツセンター】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/28 19:00
 玄関扉を開けた3人が階段前の防火扉に向かって走ってくる。
「生きた心地しねえよ!」
 1着の島本さんが叫びながらくぐり戸を通り、そのまま階段を駆け上がっていく。次に矢上君。そしてやはり最後に原警部補の順だった。
「原さんダイエットしましょうよ」
「うるせえよ!」
「じゃあ、歳のせいですか?」
「黙れ!」
 からかう和田さんに原警部補が怒鳴り返し、更に矢上君が混ぜ返す。
 俺はドアストッパーを外してくぐり戸を閉めた。そして階段を登り、2階の防火壁のくぐり戸を通り抜ける時。1階の防火壁にゾンビの群れが押し寄せたのだろうドーンと大きな音を立てた。
 奴らは逃げる原警部補たちの姿も、最後にくぐり戸を閉める俺の姿も見ている。この建物に突入したゾンビの第一陣の現在の目標は間違い無く俺達自身だ。
 2階のくぐり戸を閉めても、1階から防火壁を叩くような音が不気味に響き続ける。緊張感に思わずゴクリと喉が鳴る。
 スピーカーから鳴り響く、女の子が明るい声で歌うアニメソングが緊張感をぶち壊している様でいて、不気味さを醸し出してもいた。
「何だってこんな曲を、あの馬鹿がっ!」
 この全館放送の音源の持ち主に原警部補が怒りを募らせているが、今回の場合は山口巡査にはあまり罪は無いと思う。

 ロケット花火や手持ちタイプの打ち上げ系の花火が、和田さんたちによって点火され、窓から次々と打ち上げられていく。
 窓は1階のアリーナへとスタンドと吹き抜けを通して光を落とし込むために壁の高い場所に設置されていて、和田さんたちはバランスの悪い脚立の上で作業を続け、時折火の粉を顔に被っては悲鳴を上げる。特に矢上君が。
 彼らの脚立の足元には、これでもかと大量の花火が積み上げられていて、全てを使い果たすには大変な苦労を伴うだろう。

 目の前に四つの大鍋でお湯が沸かされているが、流石に簡単に沸く様子は無い。
 俺は別のガスコンロを使ってフライパンに火をかけて油を引く、十分に温まった所にチューブに入ったおろしニンニクをギュッと一絞り、するとニンニクが激しく油跳ねを起こしながら強い臭いを放ち始める。
 そこに醤油を一回し流し込めば、匂いだけでご飯が食べられそうな香りが部屋中に広がる。
「飯食いてぇぇぇぇっ!」
 背後から島本さん悲鳴が上がる。
 朝飯にカレーと昼にラーメンを食い、今日この中で一番食事に恵まれている俺でもそう思うくらいなので、他の人たち、特に島本さんはこれから生殺しで地獄を味わうことになるのだ。

 俺の横では文月さんが、味噌に砂糖を合わせた物をフライパンの上で、木べら使って伸ばしながら焼き、これまたご飯が欲しくなる香りを上げる。
 更にその横では、原警部補が網でスルメいかを焼いていた。今度は酒飲みたくなる。
「ちくしょぉぉぉぉぉっ!」
 背後では島本さんが身を捩じらせながら花火を打ち上げている。
 その甲斐あってゾンビたちが一階のアリーナに続々と集まり出す。

 大鍋のお湯が沸くと、カレールウのブロックを投入して、ついでにチューブのおろしニンニクもたっぷり絞り込む。
 たちまち部屋中にカレーとニンニクの刺激的な香りが広がり、その臭いを吹き抜けから1階アリーナへと送り込むために4台のサーキュレータを動かす。
 するとゾンビは匂いに誘われてアリーナに押しかけ、すぐにその数は100を軽く超えた。背後で「カレー食わせろぉぉぉぉぉっ!」と叫ぶ島本さんの声も100ホーンを軽く超えていただろう。


 そんな作業が2時間ほど続くと、1階のアリーナ部分は集まってきたゾンビで隙間無く埋まってしまう。
 和田さんら3人は既に花火を打ち上げるのを止めて、撤収の準備に入っている。
 まだ鍋のカレーと調味料が残っている俺たちは作業を続行する。
 埋め尽くすゾンビに上からカレーを柄杓でかけると、カレー塗れになったゾンビに周囲のゾンビが群がる。
 押し合いバランスを崩して転倒したゾンビの上を狙って、カレーを撒き散らすと、別のゾンビが次々と折り重なり山となるが、ゾンビが重なり合って空いたスペースはすぐ押し寄せるゾンビに埋め尽くされた。
「そろそろ限界じゃあないですか?」
 原警部補に声をかける。
「……中に入ったゾンビは1150を超えたって話だが、外に集まってるゾンビもまだ多いそうだ。もっと中にゾンビをおびき寄せろって言ってやがる」
 無線で連絡を取りながら原警部補が答える。
「もっと?、まだ入るんですか?」
 そう俺が聞き返した瞬間。二階の防火壁のあたりでドーンと音が鳴る。

「まさか?」
 抱えていたカレーの大鍋と柄杓を一階アリーナへと放り投げる。
 鍋がゾンビにぶつかった鈍い金属音に続き「おぅぅぅぅぅおおおおっ!」とゾンビたちの一際興奮した呻き声が背後で上がる。

 部屋を出て防火壁に駆け寄ると、壁の向こうからは連続的に何かがぶつかる音と聞きなれたゾンビの呻き声がする。
「駄目です!一階の防火壁が突破されました!」
 そう叫ぶと、奥にあるもう一つの階段を塞ぐ防火壁へと向かうが、こちらは防火壁の向こうにゾンビたちがいる気配は無い。
 防火壁自体が破壊されたとは思えない。多分限界を超えて大量にゾンビが詰め掛けたことで何かの拍子にくぐり戸の取っ手に被せた板が剥がされて、更に偶然ノブが回されたのだろう。
「こっちは階段は大丈夫です!」
 もう一箇所の階段は大丈夫なようだが、そちらも何時破られるかわからない。
 そして何より問題なのは2階の防火壁のくぐり戸のノブには蓋をしていない。
「和田さん。島本さん。残ったカレーをこちら持ってきて!矢上君はメタルラックの棒を!」
 二人が持ってきたカレーを廊下にぶちまけると、廊下と観客室を繋ぐ両開きの扉の取っ手にメタルラックのポールを2本差し込んで閂がわりにする。
「これで逃げる時間が稼げれば良いんですけど」
 そう言いながら、無線で連絡を取っている原警部補のもとに向かう。

「どうでした?」
「撤収作業に入る……すぐに山口がマイクロバスで入り口を閉鎖するそうだ」
「マイクロバスに乗ってるのって山口巡査だったんですか?」
 作戦を聞いて、我々以上に危険を伴う役目だと思っていたが、そんな危険な役を彼がとは──俺は彼を見くびっていた。
 マイクロバスに乗り込む俺達を見送りに来た時、何か様子がおかしかったのは、与えられた任務への緊張感だったのだろう。アニメソングが入った携帯プレイヤーを原警部補に取り上げられたためじゃないはずだ。多分。
「奴が乗ってる。入り口を閉鎖した後周囲のパトカーがサイレンを鳴らしてセンター周辺のゾンビをここから遠ざけて、その隙にはしご車が駐車場に突入して俺達を回収する」
「山口巡査の脱出はどうするんです?」
「可能なら俺たちと合流。無理なら──」
 突然、窓の外からパトカーのサイレンが一斉に鳴り響く。山口巡査がセンターの玄関を封鎖したのだろう。
「急げ、撤収準備だ!」
 原警部補の指示に、俺と文月さんは7台のカセットコンロの回収を始める。
 火を消して燃料カセットを取り出す。振ってみるとどれもほとんど空だったので本体だけを布製の袋にしまう。
 調理に使った鍋やフライパンも当然放置。逃げるのに強い臭いを放つ物は持っていけない。
 ただし残った調味料関係は全て回収した。
「北路さんサーキュレーターはどうします?」
「あっ?回収するよ。ありがとう」
 文月さんの指摘にサーキュレーターの事を思い出す。
 礼を言うと彼女は、こんな状況だというのを忘れてしまう様な嬉しそうな笑顔を浮かべる。

 その時、廊下の向こうで一際大きな音が響く。ついにゾンビが二階の防火壁を突破したようだ。
 やはり2階のくぐり扉のノブにも板を被せておくべきだったが今更後悔しても遅い。
「はしご車を頼む。急いでくれ!」
 無線で必死に指示を出す原警部補の声が響く。

 6本のメタルラックのポールの内、自分の分と文月さんが使ってないので余っている1本を手にして扉へと向かう俺を文月さんが止める。
「私も手伝います」
 強い覚悟を秘めた目で俺を真っ直ぐ見つめてくるが、今回ばかりは自分の考えを曲げるつもりなど毛頭無い。
「文月さんは最初に脱出して貰う」
「嫌です」
「これは俺が生き延びるためだ。もし連中がこの部屋になだれ込んで来たら自分だけならともかく文月さんを守りながらじゃ生き残るのは難しい」
「でも……私は」
 俺の言うことを理解はしてるんだろうが納得はしてない様子だ。
 真面目で芯が強い。これは文月さんの美点でもあるが裏を返せば頑固者だ。
 ここでしっかり説得しておかないと後で何かやらかす可能性が高い。
 突き放すような言い方から路線変更してアプローチを試みる。
「前にも言ったけど、君の身の安全は俺に責任があると思っている。だから俺が先に死んで君を守れなくなるような無責任な真似はしない」
 責任感があろうが何を約束しようが、それで死なないなら自殺以外で死ぬ奴は居ないだろうと思いつつも真顔で嘘を吐く。
 無理や無茶をすれば死ぬ時は死ぬ。そしてこの場に居ること自体が無理で無茶だ。何か一つ間違えれば命にかかわるのは分かっていたこと。
「そのためにも文月さん。先に脱出して欲しい」
「……はい。先に行って待ってます」
 納得してくれたようだが、何か彼女の様子が……あれ?
「じゃあ行くか」
 背後から声を掛けられて振り返ると、ポールを手にした和田さんが立っていた。
「良いんですか?」
「良いも悪いも、あんな話をされて、年下のお前だけに格好付けさせる訳にはいかないだろ。『先に死んで君を守れなくなるような無責任な真似はしない』か、俺が女なら惚れるね」
 そう言ってニヤリと笑みを浮かべるが、その顔には血の気が無くポールを持つ手は震えている。多分俺もそうなのだろう……違った意味で。

 扉付近で廊下の様子を伺うと、どうやら廊下に撒いたカレーにゾンビたちの興味は集中しているようだ。
 背後でエンジン音が聞こえる。
「はしご車が着たぞ!助かった!」
 はしゃぐ様な矢上君の大声に俺と和田さんは同時に顔を顰めた。
「あの馬鹿が」
 和田さんが吐き捨てると同時にドンという衝撃が扉に走る。そして扉は外から強い力で押し込まれ閂が刺さった取っ手が軋む。
 ゾンビの興味がこちら側に向いていしまったのである。
 何せこの部屋は1階部分と吹き抜けで繋がっているため、むしろ色々とぶちまけた物の臭いは1階よりも強く篭っている。
 一度興味が向けられれば、機密性の低い両開きの扉から漏れる臭いにゾンビが押し寄せるのは必然だった。

 扉の取っ手の隙間で踊る閂代わりのポールが外れないように和田さんと2人で左右から抑えつつ、背中でそれぞれの扉を支える。
 しかし、二度三度と繰り返される毎に、ゾンビの数が増えるのだろう背中を圧す力は強くなっていく。
「ポールはともかく、取っ手が持ちそうもありませんね」
「何とかするしかないだろ」
 俺の弱気を、あっさり一蹴する和田さん。全くだと同意するしかない。

「北路さん!」
 振り返ると、はしご車のバケットに乗り込んだ文月さんと矢上君が荷物と一緒に降りてゆくのが見えたので手を振った。
「北路さん……か、和田さんは無いんだな」
 名前を呼ばれなかった和田さんが俺をからかう。
「可愛い娘だね。お前はどうなんだ?」
「子供ですよ。俺とじゃ一回りも違う」
「可愛いってのは否定しないんだな」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
「じゃあ、後でじっくり聞かせてもらうさ」
 そう冗談交じりに話しながら、既に背中に掛かる圧力は限界に達し取っ手はネジが緩み今にも壊れそうだった。
「和田!北路!次はお前たちだぞ!」
 そう叫びながら原警部補と島本さんが乗ったバケットで降りて行くと同時に、扉の取っ手が音を立てて外れた。
 俺は勢いよく開いた扉に跳ね飛ばされて床に固定された座席に背中を強打する。
 一瞬息がつまり咳き込む俺の目に、扉の向こうから雪崩れ込んでくるゾンビたちの姿が映る。

 和田さんの姿が雪崩れ込んできたゾンビの壁に遮られて見えない。
「和田さん!」
 背中の痛みを堪えて立ち上がり、ゾンビ達の向こう側に居る和田さんに声を掛ける。
「逃げろ北路!」
 俺の呼ぶ声に和田さんの叫ぶ声が返ってきた。
「無事ですか?」
「……無事だ!」
 その言葉に安心し俺は窓の方を一瞬見やる。しかしバケットはまだ戻ってこない。
 座席を盾にするように位置取りし、ポールを構えるがゾンビの数は多い。
 迫ってくる一匹のゾンビの顔面に、ビリヤードのマッセを水平した様に目線より高い位置の構えからポールを送り出すと、その先端がゾンビの右目を捉える。
 しかし、ゾンビは激しく暴れるだけでその動きを止めない。
 右手の握りを持ち替えて思いっきり下に引きおろすと、左手を支点に跳ね上った先端がゾンビの脳を捕らえたのか、一度ビックンと大きく痙攣させると力尽きて床へ沈み込む。
 しかし、それはたった一体の事。俺の目の前はゾンビに埋め尽くされていた。
「これは駄目かな」
 目前に迫る避けられない死を覚悟した時、座席最前列の中央から和田さんの声が上がる。
「こっちだ化物ども!」
 何処から取り出したのか床置きタイプの小型打ち上げ花火に次々と火を着けて、それをゾンビに向かって投げつけながら最前列を奥へと逃げるが、その歩みは遅く右足を引きずっていた。
「逃げろ!北路!俺は足をくじいてもう無理だ。お前だけでも逃げろ!」
 俺を取り囲む様に動いていたゾンビは和田さんの投げた花火の音と光へと引き寄せられて行く。
 だが和田さんは追い詰められていた。周囲で花火が燃えてるとはいえ、それに火をつけて投げている彼へと少なくないゾンビが向かっている。
 和田さんはゾンビ達に追われながら脱出する窓とは反対の吹き抜けの方へと進む。俺を逃がすために反対側にゾンビをおびき寄せているのだ。
 そして足を引きずっていた和田さんがついにバランスを崩して転倒した。
「和田さん!」
「馬鹿野郎!声を出すな!」
 思わず声を上げた俺を怒鳴りつけると手にしていた花火をゾンビに投げつけるが、その直後1体のゾンビが和田さん腕を掴んだ。

「皆に伝えてくれ!生きろと。生きて必ず町を俺達の世界を取り戻せって!」
 俺は声を出さずに黙って頷く。それを見て和田さんは満足そうに笑みを浮かべた。
 次の瞬間ゾンビたちは一斉に和田さんに襲い掛かる。
 彼は最後まで助けを呼ぶ声は上げなかった。ただ最後に「彼女を守れよ!」と一言残して彼はゾンビの群れの中に消え、真っ赤な血飛沫が吹き上がった。



[32883] 【13  07/16(木)07:10 警察署駐車場】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/28 19:03
 旅に出て3日目の朝が訪れる。
 警察署の駐車場に停めてあるRV車の運転席で目が覚め、時計を確認すると7時を回っていた。
「おはよう文月さん」
 助手席でまだ眠る彼女に声をかける。
「……おはようございます」
 眠たそうと言うより、元気が無い声で朝の挨拶を返す彼女の目の周りは赤く腫れていた。
 たった一日の出来事だというのに、昨日はあまりに多くの事がありすぎた。
 気丈に振舞っていたが、14歳の少女の心に耐え難い傷を負わせたのは想像に難くない。
 多分、もう生きてはいないだろう自分の両親について、実感が湧かないせいもあるが涙一つ零していない俺には、彼女への慰める言葉を口にする資格は無いだろう。
「炊き出しが始まる。顔を洗って食事にしよう」
 慰めの言葉一つ思い浮かばなかった俺は、そう言って彼女を車外に連れ出した。


 先日の作戦は、大成功に終わった。
 玄関の封鎖直前にゾンビが階段まで踏み込んだ為に、最終的には1200体以上のゾンビがスポーツセンター内に隔離された事が確認された。
 大成功である……僅か一人の犠牲で成し遂げられた大成功である。
 誰がなんと言おうが大成功だ。
 和田さんの命を対価にしてまで得た成果だ。失敗だったなんて誰にも言わせない。

「北路さん?」
 文月さんの呼ぶ声に我に返る。
 富良野高校グラウンドの炊き出し用テントの列に並んでた俺は、考え事をしている内に自分の番になったのに気付いていなかった。
「……ありがとう」
 野菜がたっぷり入ったみそ汁を受け取ると、おにぎりが二つ乗せられた皿を取りテントから離れる。
「あそこの木陰で食べましょう」
 元々避難所として設定されている富良野高校だが、現在一極集中で4000人以上の市民が避難しているため、体育館などの建物の中では全て収容することは出来ずに、グラウンドには本来の避難用のテント以外にも避難した市民が持ち込んだテントが沢山張られている。
 その間を通り抜けながら、文月さんの後に続きフェンス傍の樹の陰へと向かう。

「こうしていると、昨日の事が嘘みたいですね……」
 食後。芝生の上に座り綺麗に晴れ上がった青空を見上げながら文月さんが呟く。
 彼女が何を言いかけて、どんな言葉を飲み込んだのか聞かなくても分かったような気がする。
「かえりたい……」
 そう呟く彼女には帰る場所はもう無い。
 富良野市を中心とした一帯からゾンビを排除できたとしても、それ以外の地域からゾンビを排除する手立ては無い。
 もし北海道に存在する全ての自衛隊基地が機能していて共同してゾンビの排除にあたったとしても、仮に500万の北海道民の半数250万がゾンビになっていたとすると、その数を倒せるほどの武器はともかく弾薬があるとは思えない。
 当然、北海道の総人口の半分以上が集まる札幌-旭川間の国道12号線沿いのゾンビをどうにかする方法なんて考え付かない。
 出来るのは人口数千程度の近隣町村をからゾンビを排除する事くらいだが、それだって簡単な事ではない。
 だがやらなければならない。富良野市を中心とする人間の生活圏を築き上げる必要がある。
「泣きたいなら泣いた方が良い。少しでも楽になれるなら悲しみをぶちまけて俺に当たっても良い。今文月さんが感じてる心の痛みは、自分ひとりで抱え込んでどうにかなるものじゃないよ」
 今の俺に出来るのは彼女の感情のガス抜きに付き合うのが精一杯だ。
「……悲しいのは北路さんだって同じはずです」
 遠慮や気遣いではなく、本気で言ってるとしか思えない彼女を悲しいと感じた。
「文月さんは良い子過ぎるな。もう少し我儘を言えばいいのに」
「良い子すぎですか?」
「いつも周りに迷惑をかけない様に、自分が辛くても我慢しちゃうんじゃないかい?」
「そ、そんなことありません……」
 小さい頃に両親を亡くし、祖父母に育てられた文月さんは今時の子供達とは明らかに毛色が違っている。
 静かな田舎の老人世帯で大事に飼われている犬が、滅多に興奮すること無い穏やかな性格に育つように、祖父母の家という環境に大きな影響を受けて育ったため「古風」というか「昭和の女」という感じだ。
 遠慮深く我慢強い。そして頑固……決して悪く思ってるわけじゃない。俺の語彙が足りてないだけだ。
 だが我慢強いだけではいずれ限界を迎えて心が折れる。折れる前に大人としての配慮を見せるのが俺の役目のはずだ。
「じゃあ我儘言ってよ」
 俺の言葉に目を見開いて驚く文月さん。
「そんな、そんなこと言われたの初めてです」
 今日初めて彼女の顔に笑みがこぼれた。
 俺だって口説く気も無い相手にこんなに優しく言葉をかけるのは初めてだ。
 何かドツボにはまっている気がするが、ではどうすれば良かったのかと考えたって俺の引き出しには何も入ってない。

「おはようございます文月ちゃん……ついでに北路さんおはよう」
 頼みもしないのに山口巡査が現れた。でも良いタイミングだ。
「昨晩は大変でしたね」
 この野郎。いきなりデリケートな話題にずかずかと踏み込んできやがった。
 折角の笑顔を曇らせてしまった文月さんの代わりに俺が返事をする。
「大変といえば山口巡査の方が大変だったんじゃないですか?」
 そういえば、こいつ何時の間に帰ってきたんだろう?
 俺たちと一緒に回収されなかったので、どうなったのかと気にし…・・・いや完全に忘れいていた。
「いや~大変でしたよ。朝方迎えが来てくれるまで、ずっとマイクロバスの中でしたからね。一晩中ゾンビがバンバン、バンバン車体を叩くから、全然眠れませんでしたよ」
 前言撤回。彼にはこの話題に触れる資格がある。思わず同情すると同時に彼の神経の太さが羨ましいと思った。
「そ、それは大変でしたね」
「そうでしょう。係長全然助けに来てくれないんですよ」
 もし俺なら、そんな緊張感に長時間耐える自信は無い。錯乱して窓から飛び出してゾンビに襲われるかマイクロバスを動かして全てを台無しにしてしまうなんて事をやりかねない。
 それを笑って話せるとは、かなりの大物なのかもしれないと本気で思い始めた。
「まあ、僕のお気に入りとアニソンが、誰にもはばかることなく一晩中大音量で町中に鳴り響いたって言うのは素敵な体験でしたけどね」
「………………」
 生まれたばかりの彼への尊敬の念が一瞬で死んでしまった。
 思えば生まれてきたこと自体が不幸な可哀想な子であった。せめて名前を付けてあげよう「残念」と。

「大体、係長は酷いですよ。僕の音楽プレイヤー奪い取って、どうやってあそこに取りに行けっていうんですか?」
 沿う言った途端、山口巡査は前につんのめる。
 俺が素早く文月さんを引き寄せると、一瞬前文月さんの居た場所に山口巡査は倒れこんだ。
 俺はちゃんと見ていた、後ろに現れた原警部補に尻を蹴られてバランスを崩しつんのめった彼は、倒れる瞬間に身体の向きを変えて文月さん目掛けて倒れたのだ。
 とりあえず無言で彼のわき腹を安全靴のつま先で蹴っておく。
 文月さんにも「蹴っていいよ」と言ったら、下から何やら切なそうに何かを期待する目を向けてきた──やっぱり変態だ!
「バカヤロウがいい歳してアニメじゃねぇだろ!」
「じゃあ何が良いんですか?」
「演歌聴け、演歌!」
 それはそれで違う。祭りの夜のカラオケ大会だって夜の10時には終わるというのに、一晩中大音量で演歌なんて呪われてるとしか思えない。
「そんな年寄り臭いの聴くか!」
「なんだとこいつ!」
 上司と部下の会話が大変楽しそうだったので、俺たちは邪魔にならないように立ち去ることにした。

「ちょっと待て!」
 背後から原警部補が呼び止める。嫌な予感しかしない。
「……何ですか?」
 出来るだけ嫌そうに、原警部補に俺の心中を察してもらえるように答える。
「今日も俺に付き合え」
 そう来る思っていたが、本当に来られてもありがたくない。
「だったら今日は文月さん抜きでお願いしますよ。文月さんも良いね?」
 和田さんの最後の言葉「俺達の世界を取り戻してくれ」彼に助けられ、その言葉を聞いた俺がこの町を守るために手を貸すのに否応もない。それは俺の義務だ。
 同時に彼は文月さんを守れとも言い残している。彼女を危険に晒すようなことはもうしたくない。
 だが現実は非情だった。
「嫌です。私も行きます」
 原警部補が返事を返す前に文月さんが反論する。
「いや、でもね」
 説得しようとする俺に彼女はきっぱりと言い放つ。
「これが私の我儘です!」
 誇らしげににっこりと笑う彼女に、俺は……何も言い返せなかった。
 何てこと言ってしまったんだよ俺は。



[32883] 【14  07/16(木)08:15 警察署駐車場】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/29 12:37
「それで何をするんですか?」
 高校のグラウンドを出て、RV車の停めてある駐車場に戻った俺は、少しなげりやりな口調で原警部補に尋ねる。
「スポーツセンターの外回りの補強をしたい。玄関もマイクロバスを置いただけじゃ心もとない」
「いっそ焼いてしまえば良いんじゃないですか?」
 やっぱりなげやりな態度ではあるが、ただ閉じ込めるよりも焼却して後腐れないようにしておいた方が良いと思う。
 万一、何かの理由──地震などで壁が崩れた場合などの不安を抱えるのは、今後の復興にも影響を与えかねない。
「真面目に考えろ、ヤツラは人間じゃないんだぞ」
 俺の態度が気に障ったのか厳しい表情で睨みつけてくる。
「人間相手なら火であぶれば全身火傷で死ぬだろうさ。だが相手はゾンビだ。火であぶった程度でどうにかなると思うか?」
「……ならないかもしれませんね」
「焼き尽くすなら別だろうが、人間の身体なんて簡単に焼き尽くせるもんじゃない。それに下手に建物を焼けば建物の強度が下がる。もし壁が崩れて中から1200体の生焼けゾンビが雪崩れをうって出て来たらどうする?」
「……悪夢ですね」
 文月さんの顔色が悪い。想像しただけで気持ち悪くなったのだろう。俺だって考えただけで当分焼肉は食いたくない気分だ。
 もっとも、どのみち焼き肉なんてこれからは食いたくても食えないのだが。
「連中は閉じ込める。絶対に出られないようにする。腐れ果てるか干からびるまで何年でもな」
 原警部補は強い口調で断言した。

「しかし、そんな作業は素人の俺らの手には余りますよ」
 山口巡査が意見を述べる。
 そんな作業は、俺達の日曜大工レベルでどうにかなるものじゃない。下手に弄る位なら手を出さない方がマシだろ。
「作業自体はプロに任せるし知り合いの工務店の人間に話は通してある。俺たちがやるのはゾンビから作業員を守ることだ」
 だがあの建物の周囲をゾンビからガードするには、どれだけの人数が必要だろう?
 高校に避難してる人たちから若くて元気よさそうな男手をつれて来たところで、彼らに冷静にゾンビの相手を出来るとは思えない。
 和田さんの代わりに山口巡査を加えたとしても、とても人手が足りない。
「警察からはどれくらい人数が出るんですか?」
 俺の質問に原警部補は言葉を詰まらせた。そして言い難そうに口を開く。
「……すまん。警察からは人は割けない」
「何故です?」
「この話は俺が署長にごり押して通した計画なんだ」
「警部補が?どうして?」
「お前は昨日、穴を掘って誘き寄せたゾンビを落として埋めれば良いって言ってただろ」
「ええ言いましたよ」
 それを却下したのは原警部補自身だ。
「昨日署長と掛け合った時に、その話も一応しておいたんだ。そうしたら署長の奴が今日になって、ゾンビの数が激減した今なら、どこかの建物を利用して閉じ込めるよりも穴を掘って埋めた方が良いと言い出したんだ。ゾンビが数を減らした今なら大きな穴を掘る必要はないから作業時間も短くて済むし作業中に現れるゾンビも少ない。手が空いてる署員を総動員すれば十分抑えられるって言い出して、そちらに人手を集中する事になった」
 そこで原警部補は一度目を閉じて、大きく深呼吸する。
「だが俺はどうしても今日の内に作業に取り掛かりたい。奴の……和田の死を無駄にしたくない」
 彼にとっても和田さんの死は、生きる限り背負い続ける重い十字架なのだろう。

 町の中にいるゾンビを一掃する事を優先するという署長の考えは間違っているとは思えない。
 人々が町の中を安全に自由に動けるようになる事が警察としては目下優先すべき課題なのだろう。
 だが防犯などの通常の警察業務がストップした状況下では、自由に動けるようになった人間による治安の悪化を招く可能性が高い。
 家を出てゾンビと向かい合わなければならなかった人達はともかく、家に閉じこもりゾンビを現実として受け入れていない人達が、この状況にどれほどの危機意識を持っているのか疑問だ。
「何か気になることでもあったんですか?」
「一部の市民が、ゾンビは病人だとか言い出してな。治療もせずに閉じ込めるなんて非人道的だと騒いでる」
 万単位の集団の中には愚かで狂気を孕んだ人間が必ず居る。その数は1人2人ではすまないだろう。
 原警部補が今日という日に拘るのは、一部の人間の暴走を考えた上でセンターの封鎖をより強固にしたいと思ったに違いない。

「やる事を前提にして聞きますが、人手が足りないですよね?」
「そうだ。島本と矢上も協力すると言ってくれてるが、他にゾンビを相手に出来るような肝の据わった連中に心当たりが無い」
 振り出しに戻ってしまった原警部補は頭を抱える。そこで俺は助け舟を出した。
「俺に心当たりが無いことも無いですよ?」
「本当か?」
「顔が近いっ!」
 抱きつかんばかりに迫る原警部補を押し退ける。
「もしかして山中さんたちですか?」
「正解」
 文月さんの言葉に笑顔で答える。
 昨日、新空知橋で会った山中さん達の力を借りようと思っていたのだ。
 彼らなら行動力もあるだろうし、橋を封鎖するためにゾンビの相手もそれなりの数をこなしているはずだ。
 それに、ゾンビの数が減った今なら彼らの手も空いている可能性が高い。
「山中って誰だ?」
「昨日、空知川の向こう側に警察の人を派遣してくれるように頼んだじゃないですか?」
「ああ、そういえばそんな事もあったな。それにしても昨日か、もう何日も前のことみたいだ」
 そう言う原警部補の顔には深い疲れの色が見えた。
「橋の封鎖とかを進んでやってくれていた。まあ自警団っていうのかな、そんな感じの人たちです。彼らの手が空いていれば手伝って貰えると思いますが…・・・会ってみますか?」
「当てがあるなら何処でも行くぞ」
 原警部補はかなり乗り気だ。
「じゃあ、文月さんこの車を使っても良いかい?」
「私も連れて行ってくれるなら良いです」
「…………」
 文月さんは、この件に関して一歩も譲る気はないようだった。
 本当に何処のどいつだよ。彼女に我儘を言えなんて言った馬鹿は?

 俺が運転席に座ると、文月さんは当然とばかりに助手席に座る。
 何か言おうとして、そのまま言葉を飲み込んだ俺をルームミラーの中の原警部補はニヤニヤと笑う。何時かこのおっさんを痛い目にあわせてやると決意する。
「本当は今日オイル交換の予定だったんですよ……」
 エンジンをかけながら愚痴を零す。
「悪いが明日にしてくれ」
 そう言いながら、早く出せと言わんばかりに運転席のシートを後ろから蹴ってきた。なんてマナーの悪い年寄りだろう。

 今日も山口巡査に見送られながらバリケードを出て新空知橋を目指す。
 ゾンビの数は昨日に比べると激減しており1km少しの道程の中で数えるほどしかで見かけなかった。
 昨日のホームセンターの駐車場にもゾンビの姿は無い。
 それでも2体のゾンビを跳ね飛ばしては止めをさして文月さんに悲鳴を上げさせた。
「まだ慣れないの?」
「慣れません!」
 涙目で睨まれ目をそらしてルームミラーを覗き込むと、原警部補が引きつった顔をしていた。ザマアミロだ。

 新空知橋の入り口は、3台のトラックによって閉鎖されている。
 そして向かって左側の歩道側の傍には、土嚢が詰まれ周囲には数十体の死体が転がっていた。
 どれも頭部。または頸部を破壊されている。この死体の処理も早い内にしないと拙い。もし細菌やウィルスの類が原因だとするなら、死体なので蚊が媒介することは無いが蝿は別だ。今もゾンビの死体に集っている奴等が病原体を媒介しかねない。
「死体は埋めないと駄目だな。やらなければならない事ばかりが増える」
 俺と同じ事を考えていたのだろう原警部補が苦々しく吐き捨てた。

「おっ!あんたは」
 車を橋に寄せると昨日山中さんの仲間たちの中に見た顔が、こちらに気付いて近づいてきた。
「おはようございます」
 文月さんと2人で挨拶をする。
「どうしたか?」
「助けが欲しいんですが、山中さんはいますか?」
「山中社長かい?あの人なら橋の向こう側に居るはずだ。呼ぶかい?」
 手に持った無線を示しながら聞いてくる。
「いえ頼み事ですから、こちらから行きます…・・・ところで山中さんって社長だったんですか」
「そうだよ。小さい運送会社の社長だよ。まあ、いいから待ってな」
 そう言って彼は持っていたトランシーバーで山中さんを呼び出してくれた。

「よう!昨日は世話になったな」
 バット片手に作業着で自転車に乗り社長というイメージとかけ離れた格好で、山中さんは颯爽と現れた。
「嬢ちゃんのメモも役に立ったぞ。ありがとうな!」
 文月さんは照れて俯くが、直ぐに車に戻りダッシュボードの中からノートを取り出し、中に挟んであった一枚のメモを取り出すと山中さんへ差し出した。
「これは昨日あれから書き加えた分です」
「おう、すまないね」
 そう言って笑顔で受け取る。手にしたメモに目を走らせるが、読み進める内に低く唸り始める。
「これは一体……あんたら。昨日あれから何をしてたんだ?」
 メモの内容から、その情報を手に入れるために俺達が無茶をしたということ読み取ったのだろう。責めるような口調が込められている。
 山中さんの疑問に原警部補を交えて昨日の顛末と、そして今日彼らの力を借りにきた理由を伝えた。

「話は分かった。仲間たちに連絡して出来る限り人手を集める」
「危険だぞ。実際仲間が死んでるんだ。それでもやってくれるか?」
 原警部補は協力を申し出てくれた山中さんに覚悟を問いかける。
「こうして町から連中の姿が目に見えて減ったのも、あんたらが命がけで連中を閉じ込めてくれたおかげだ。それを台無しにしたら和田って人の死が犬死になっちまう。そんな恩知らずな真似は出来ねぇ」
 山中さんの言葉に、彼の仲間たちは力強く頷いた。
「死ぬつもりはないが命懸けでやらせてもらう」
 そう言って差し出された彼の手を原警部補は握り締めた。



[32883] 【15  07/16(木)12:00 スポーツセンター】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/29 12:46
 スポーツセンターの周辺にゾンビの姿は少なかった。
 現在、市街地から離れた南東部の畑にゾンビ埋め立て用の大掛かりな穴を掘る工事が進んでおり、同時に市街地のゾンビを少しずつそちらへと誘導している為らしい。

 昨日の午前中でゾンビの爆発的増大は収まっており、その時点での街中を彷徨うゾンビの数は最大で2000体強と推測されていた。
 先日の1200体と今回の穴埋め目標の500体。そして既に駆除されたゾンビの数を合わせると、残りのゾンビの数は100-200体程度となる。
 明日の穴埋め作業が終われば数日以内に街中からのゾンビ駆除は終了するはずだ。後は民家内部に存在するゾンビの駆除となる。
 だからこそスポーツセンターの外回りの強化は至急必要だ。現在、避難所や自宅に待機している市民が自由に外を歩けるようになった時に何が起こるか。
 馬鹿な話だが、現実を受け入れられない人間は家族を返せとセンターの封鎖を解こうとする可能性だってある。

 ゾンビを倒すということは、対等な戦いではなく単なる作業であるべきだ。
 1対1ならゾンビ相手に遅れをとる事は無い。
 注意すべきは奴らの強力な腕力のみ、それ以外は人間が全ての面で上回る。
 近づいて来たゾンビの背後に素早く回り込み──素早く動かなくても十分に背後は取れる──後ろから突き飛ばしうつ伏せに倒れたゾンビの首を体重をかけて踏み抜く。
 運悪く仰向けに倒れたならゾンビが立ち上がるのを待ち、再びトライするだけの完全な作業。ゾンビにこちらを取り囲むだけの数がなければ、怖いのは己の油断だけ。
 それでもなお安全に作業を行うために、俺達は3人ずつのゾンビ駆除チーム作った。
 山中さんが手配してくれた12人と俺と島本さん矢上君の15人で5チームを作り、文月さん山中さん原警部補の3人にはRV車を3台周囲に配置しルーフ上から周囲の監視してもらった。

 周辺のゾンビの駆除が終わると、守るべき範囲の決定とその周囲へのバリケードの設置──と言ってもゾンビの足元をすくう為の高さ30cmにロープを巡らせるだけだが、それを3重に張り巡らせることでゾンビはロープに引っかかる度に転倒し、接近するのに時間を掛けるだけでなく駆除チームにとっては転倒したゾンビの方が処理が楽であった。

 バリケードの設置が終了し工務店チームが作業に入ると、俺達は比較的手が空くようになる。
 車を1台増やし4台体制にして監視を厚くする一方で、肉体的以上に精神的にキツイ駆除チームを4チームに減らし2チーム毎の1時間交代制にした。
 ゾンビの数が少なくなったから出来た事だが、もしも全チームであたらなければならない状況なら計画の変更が必要だった。

 午後5時過ぎ、2回目の休憩に入った俺がセンターの傍に戻ると地震対策などでコンクリート構造体の強化などに使われる炭素繊維シートを外壁に貼り付ける作業が行われていた。
 その時、突然風向きが変わり風下に入ってしまった俺は接着剤を溶かすための溶剤の揮発成分を吸い込み激しく咳き込むと酩酊感が襲ってきて、その場に倒れてしまった。

「おいっ!大丈夫か北路!」
 俺の両肩を掴んで身体を揺り動かす強い力に目を覚ますと眼前に原警部補の顔があった。
「……顔、怖いから、近づけないでください」
 軽い酩酊状態にある頭でぼんやりとしていたために、つい本音を漏らすと、次の瞬間後頭部に激痛が走る。原警部補が抱き起こしていた手を離したのだ。
「で、お前いったいどうしたんだ?」
 頭を抑えながら上半身を起こす俺に、真剣な表情で尋ねてくる。
「どうしたと言われても、立ちくらみを起こして倒れたとしか……」
「持病か何かか?」
「疲れが溜まってたんですよ。昨晩はよく眠れなかったし、その前も朝早くに家を出て深夜まで自転車で走り通しの上に道端でテント泊だったから」
「……そうか、すまない。無理させちまって」
「やめてくださいよ。どうせこの作業が終わるまでは皆で無理しなきゃいけないんだし」
 深々と頭を下げる原警部補に居心地の悪さを覚えて、俺は笑って見せた。

 富良野スポーツセンターの作業は3日にわたり続けられた。
 玄関部分は、まず入り口を塞ぐマイクロバスとガラス戸の間に鉄骨を差し込み、外壁にアンカーボルトを打ち込んで固定していく作業を繰り返し十分すぎる強度で仮固定を済ました上で、マイクロバスを移動させ、玄関上部に張り出した雨除けとコンクリート製の土台に金属製のガイドレールを固定し、そこへ重機で板金を差込みガイドレールへボルトで固定し封鎖した。これでたとえ玄関ガラスが割れても厚さ20mmの鉄の板がゾンビの脱出を阻むだろう。

 内側から合板で塞いだだけだった窓には、玄関同様20mmの厚さの板金をボルトで固定。
 外壁は炭素繊維シートを基礎のみならず外壁まで接着剤で固定し地震対策も整えた。
 最後に固定に使った各ボルトを溶接したので、例え一部の市民が暴走しても重機でも持ち出さない限り中のゾンビを開放することは出来なくなった。
 そして、作業中に50体以上のゾンビを撃退したが、俺達は1人の犠牲者も出すことなく無事に全作業が終了した。

 また、この3日の間に郊外でのゾンビ埋め立て作戦も成功し、富良野市全域におけるゾンビの駆除はほぼ終了。まだ市街地に限定だが安全宣言が出された。
 市街地の安全が確認されると富良野高校と警察署周辺一角のバリケードは解体されて、今後のゾンビ対策の主導は警察から市役所・市議会へと移行してゆく。
 人々が笑顔で避難所から各々の家に戻っていく中、俺と文月さんには戻る家はなかった。

 作業を終えた俺は原警部補に誘われ、警察署内で彼と共に5日ぶりのシャワーを浴びる。
 当然、文月さんは別室の女子シャワー室を使っており、久々に傍に彼女が居ないという状況だった。
「原さん。文月さんの事を頼めますか?」
 この機会に、隣でシャワーを浴びる原警部補にいきなり核心を切り出す。
「頼むって……それは良いんだが、お前はどうする気なんだ?」
「明日にでも上富良野の駐屯地に行ってみようと思います」
「自衛隊か」
「いずれにしろ、彼らとの接触はこの町にとっても必要でしょう」
 俺の提案に彼は頷く。
「だがよ。向こうの状況も分からない。それに俺ら警察には連中と交渉する権限はないぞ」
 富良野市としての体制が復活した現在。富良野市の今後を左右しかけない自衛隊との接触を、北海道所管の富良野警察が独自に行うわけには行かない。
「俺は札幌から自転車旅行でやってきたただの民間人。安全を求めて自衛隊に接触するのに何の問題がありますか?」
「自転車旅行って、自転車で上富良野まで行く気か?」
「国道を使わず道道を抜ければゾンビの群れと出くわす危険は少ないですよ」
 片側一斜線の道路だが、冬季には除雪した雪が溜まるスペースを考えた広い道幅があり、本州の下手な国道よりも立派だが周囲は農場ばかりで、人口が少なく仮に全ての住人がゾンビ化していても数的脅威に晒されない。
「だがな……」
「俺は自転車旅行中に騒動に巻き込まれて自衛隊機地に保護を求めるだけ──安心してください。俺は富良野市には立ち寄ってません。桂沢湖でキャンプ中に状況に気付き、岩見沢方面の状況を知って東に向かって避難し、上富良野を目指したという設定です。だから、この町の情報は向こうに一切伝えませんよ」
「向こうの情報は手に入れるが、こちらの情報は伝えないって事か」
「警察無線を貸してもらえればリアルタイムで情報を流せますよ」
「そいつはありがたいが……」
「明日の朝に発ちます。文月さんには警部補から伝えてもらえないでしょうか?」
 原警部補の言葉を遮り決定事項として自分の意思を伝える。ついでに面倒事も押し付けた。
「ちょっと待て、嬢ちゃんに何も言わずに出て行く気か?」
「文月さんのこと頼みましたよね?」
 彼には色々と含むところがあったので、してやったりと顔の右側だけで笑ってみせる。
「この後俺が嬢ちゃんに、このことを伝えたらどうする気だ?」
「警部補が?まさか」
 彼の下手糞なはったりを鼻で笑う。
「分かってるでしょ。今回は文月さんを連れて行くわけにはいかない事くらい」
 原警部補も文月さんが俺に着いて行くのは反対なのは明白。その彼が文月さんに話すはずがない。
「おいっ本気だぞ!」
「よろしく警部補」
 そう言ってお先にシャワー室を後にした。

「北路さん!」
 シャワー室を出て着替え終えた俺が、待合室で明日の事を考えていると、入り口の向こう文月さんが現れる。
 ジーンズとスウェットを着替え、今は膝丈のプリーツ入りのスカートとVネックのプリントTシャツ。その上に花のプリントが入った丈の短いボレロシャツ。全体的に白を基調とし、上品にまとまっていて、可憐という言葉が頭に浮かぶ。
 俺を見つけただけで嬉しそうに笑顔を向けてくる彼女に、湧き上がる罪悪感が心臓を締め上げてくる。
「お待たせしました……」
 ベンチに座る俺の前に立つと、はにかみながら何か期待するような目を向けてくる。
 彼女が何を期待しているのか分からないほど鈍感ではないが、色んな意味で下手なことは言えない。
 期待に沿わない言葉も、その気もないのに期待に沿いすぎた言葉も駄目だ。
 前者が「(どうでも)良いんじゃない?」なら、後者は「可愛いね」だろう。
 この場合は「似合っているよ」か、今まで服装とのギャップを考えて「見違えたよ」くらいが正解な気がする。
 ここはやはり無難に……
「似あ……」
「ああっ、文月ちゃん着替えたんだ!可愛いね!うん。凄く可愛い!」
 山口巡査が乱入してきた。
「あ、ありがとうございます」
 彼の高すぎるテンションに文月さんは困り顔と笑顔の間で返事を返しつつ、こちらに向ける期待を込めた視線は外さない。
 彼女はまだ俺の言葉を待っている──だが彼の乱入のおかげで状況が変わった。
 ハードルが上がってしまっている。今では「可愛い」が彼女にかけるべき基準ラインであり、今更「似合ってるよ」では駄目なのだ。
 俺を真っ直ぐに見つめる彼女の瞳が、早く答えろと俺に無言のプレッシャーを送り続けている様に感じられる。
「……可愛いよ」
 悩んだ末に搾り出した言葉が俺の口から出た瞬間。文月さんの顔に笑顔がはじけた。

「北路さん。何見惚れてるんです?」
 山口巡査が彼女の笑顔に目を奪われた俺のわき腹に肘を入れてくる──かなり本気で抉ってきやがる。
「いや別に」
 そう言いながら彼の足の先をプレート入りの安全靴の底で踏みにじる。
 もし俺が戻って来れなかったら、こいつが彼女に猛然とアタックをかけるのだろうと思うと無性に腹が立ってきた。



[32883] 【16  07/20(月)05:30 警察署駐車場】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/30 17:22
 翌日早朝。携帯電話のバイブレーションで目を覚ました俺は、助手席で穏やかな寝顔を見せる文月さんを起こさないように注意しながら静かに車を降りる。
 昨晩の内に外に出しておいたデイパックを背負うと朝露に濡れていた。
 自転車の横、警察署の壁に立てかけておいたメタルラックのポールをマジックテープで自転車のフレームに固定する。
 準備を終えた俺は久しぶりの自転車にまたがると、一度車の助手席の窓を覗き込んで文月さん寝顔を確認し、ゆっくりとペダルを踏み込み警察署の駐車場を出た。

 まず富良野駅に向かい、そこから線路沿いに進んで道道759号線へ向かう。
 富良野スポーツセンターの北側の道を通ると、その外壁にはたった一夜でいたずら書きが書きなぐられていた。
 和田さんの墓標が穢されたような気がし湧き上がってくる不快感と共に、愚か者たちが何時かセンターの閉鎖を解いてしまうのではないかという不安が頭を過ぎる。

 道道759号線の踏切では、待ち合わせていた原警部補が咥え煙草で立っていた。
「おはようございます」
 彼の前で停まると自転車から降りる。
「持ってきたぞ」
 そう言って彼が差し出した袋を受け取ると中を確認する。
 まるで怪しい取引の現場だが、袋の中身は頼んでおいた警察無線機だ。
「使い方をまとめたメモだ。これを読んで分からないことがあれば、今の内に質問しろ」
 受け取ったメモに目を通す。
 やはり、自分本人にとって分かりきってる事に関する説明が省かれてしまっている駄目な取扱説明書だった。
 この手の文章は書きなれていない人間には難しいのだが、それにしても酷い。あくまでも自分が基準となっていて、これを読む人間に対する配慮が全く無い。

「警部補……」
「……なんだよ」
 本人にも自覚があるのだろう、不貞腐れたような態度で答える。
 仕方なく原警部補の前で、実際に使うときの操作を彼一つ一つ確認しつつ、疑問点を洗い出したために余計な時間がとられてしまった。

「そろそろ嬢ちゃん起きて、お前が居ない事に気付いたんじゃないか?」
 そこにはいつもの冷やかす様子は無い。
「……まだ反対しますか?」
 原警部補は銜えていた煙草を吐き捨てると、俺の胸倉を掴む。
「当たり前だ。お前がやろうとしていることの必要性はわかる。だがどうしてお前なんだ?いいじゃないか他の奴に任せれば。嬢ちゃんの傍に居てやればいいじゃないか?どうして死に急ぐような真似ばかりしたがる?」
「……死に急いで見えますか?」
「ああ、お前はどこか危なっかしい。だから、出来るだけ目につく場所に置いておこうと思った」
「それで作業で人手が欲しい時に、俺に声をかけていたんですね?」
「実際人手が無かったってのもあるがな……」
「しかし、皮肉ですね」
「何がだ?」
「今暫くは死ぬ気は無いのに、死に急いで見えるって事ですよ」
「今は?」
「ええ……俺は、死ぬために北海道に戻ってきたんですよ。死ぬ気だった頃は誰にも気付かれてなかったはずなんですけどね」
 自分の死に場所探しに北海道を巡って、誰にも見つからない場所で死のうと思っていた。
 だが今は、すぐにでも死にたいと思っているわけではない。
 余りにも多くの死を見せつけられ過ぎた。
 何より、保護した文月さんへの責任を投げ出すつもりは無い。せめて彼女が安心して暮らせる場所を用意出来るまでは死ぬ訳にはいかないと思ってる。
「そうか……原因は病気か?」
 原警部補は動じない。どこかで察しがついていたのだろう。
「……ええ」
「前に倒れたのは病気のせいなのか?」
「無関係じゃありません。でも安心してください。今すぐ直接的に死に関わる病気じゃありませし無駄に死ぬつもりなんてありませんよ」
 そう、どうせ死ぬなら命の使い時があるはずだ。
「安心だと?お前は死ぬ気が無いだけで、生きたいなんて思ってないだろ!」
 いきなり右の拳で殴られる。
 容赦ない一撃は左の奥歯をぐらつかせ、左頬の内側の肉がパックリと切り裂く、口の中に溢れる血が鉄の臭いとなり鼻の奥を満たす。
「いいか!お前は、ただ死ぬのが嫌なだけだ。自殺者志願者なんて、世の中の全てを呪って、他人に迷惑をかけ、全てを巻き込んで死にたいと思うか、お前みたいに負け犬の死を飾り立て、自分のちっぽけな死を、自分の死後も行き続ける誰かにとって意味のあるものにしたいだけだ」
 口の中に溜まった血を吐き捨てる。
「ぃっ…………それが悪い?死にたいのだって理由があっての事だ。せめて自分の死に意味を求めたいと思うことが何故悪い!」
 浅ましいと分かっていた自分の本音を指摘され、頭に血が上っていくのが分かる。
「自分で捨てちまうような何の価値も無い安っぽい命で、嬢ちゃんや町の人たちの感謝を買いたいだって?吹っかけ過ぎだ馬鹿野郎っ!」
 今度は俺が拳を振るう。
 胸倉をつかまれたまま、肩から下だけを鞭のように振った拳を、彼の中年肥りでたっぷり脂肪の乗った腹に突き立てる。
「お前に何が分かる!」
 膝が崩れ、掴んでいる俺の胸倉を支えに辛うじて立っている原警部補へ怒りを込めて叫ぶ。
「うぶぅ…………分かるんだよ。分かっちまうんだよ!」
「分かるだとっ!」
「俺には家族が居た。たった数日前まではな!……妻や娘のところに、そんなことは何度も考えた。だが俺にはそんな資格は無い」
 何か引っかかる言葉があったが、彼の言葉は続いた。
「お前は、嬢ちゃんを守りたいんだろ?この町を守るのは、嬢ちゃんが安心して暮らせる場所を作ってやりたかったんだろ?嬢ちゃんを最後まで守らずに死ななければならない理由でも有るのか?」
 俺は首を横に振る。確かに今すぐ死ななければならない病気ではない。

 俺が自殺を望む動機は健康上の理由。
 子供の頃から呼吸器系が少し弱いという自覚はあったが、大学1年の秋に何でもない普通の風邪から症状が始まった。
 2日で風邪自体は治るが、何故か激しい咳が何時までも収まらず呼吸器系の専門医の診察を受けると、重たい気管支炎を起こしていると言われ、結局その咳は2ヶ月ほど続いた。
 それ以降、毎年1回か2回。多かった年には3回の頻度で、症状は起きて回を重ねる度に咳は酷くなる一方だった。
 咳は一日中続き、一度咳き込み始めると肺の空気を吐き出し切っても停まらない。
 横隔膜が完全に上がりきって吐き出す息が出なくても発作的な咳は止まらず「えっ、えっ、えっ」と呻き声が口から漏れる。
 そのまま酸欠で失神した一度や二度じゃない。飯を食った直後に激しく咳き込むそのまま食ったばかりの物を吐き出す事になる。
 それでも空腹に耐えかねて咳が酷い状況にも関わらず飯を食った時は、3回飯を食っては3回吐き出した。
 夜も眠れない。ベッドに入ろうが咳は収まらずそのまま朝を迎える。眠ることが出来るのは睡眠不足からの疲労が限界に達して気絶した間だけだが、それも精々3時間程度に過ぎない。
 やがて咳が続くことにより喉の奥が切れて、咳のたびに血を吐くようになる。
 だが一番の問題は頭痛だった。最初の1週間程度はただ咳が出るだけだが、それ以降は咳の度に頭痛を伴うようになる。そして頭痛は激しくなる一方だった。
 痛みを抑える方法はあり、咳が出る瞬間に両手で左右から頭蓋骨を力いっぱい押さえ込む。そうすると不思議に頭痛は我慢できる範囲に収まる。
 だが一日中両手をフリーにしておけるはずも無く、それに人前で両手で頭を押さえつけて咳をする姿を晒すのはご免だった。
 その結果として、俺は脳内麻薬物質の分泌過多に悩まされるようになった。
 症状が治まってから2ヶ月程度は、埃を吸い込んだりして軽く咳をするだけで大量の脳内麻薬物質が分泌され、酩酊状態に陥り酷い時はそのまま気を失うようになった。
 スポーツセンターで溶剤の揮発成分を吸って咳き込み倒れたのは、寝不足なんかではなく脳内麻薬物質の過剰な分泌によるためだ。
 痛みが伴うなら意識は保てるのだが、そうでなければ幸せ気分でラリってしまうだけ。

 病院を幾つも回り検査もしたが原因は不明。様々な投薬を試みて多少の効果が有る薬もあったが、効果の割には副作用が強いために、症状の改善前に投薬を医者によって止められてしまった。
 勤め人としては致命的な症状で嫌な職場では無かったが、限界を感じた俺は職を辞すしかなかった。

 この病気にかかって以来ずっと症状が起こる度に俺は常に死を思ってきた。
 長年続く苦しみの中で「こんなに苦しいなら死んだ方がましだ」と呟くたびに自分の中の生きていく意味が一つ、また一つと死んでいった。
 俺の頭の中のどこが何年も前から壊れてしまっているのだろう。
 今度症状が起きた時、死の誘惑に勝てるかと言えば正直分からない。
 文月さんを守りたいという気持ちがあったとしても、むしろ俺が彼女の足手まといになりかねない。
 症状が起きる前に、彼女の為にしてあげられることは全てしておかなければならない。

「じゃあ、生きて帰れよ」
 首を横に振った俺に笑みを浮かべると原警部補は俺の胸倉から手を離し、そのまま後ろに尻餅をつく。
 俺が前向きに生きるつもりになったと彼は思ったのだろう。
 だが彼の誤解を解くつもりは無かった。元々分かってもらう気も無い。
「たく、本気で殴りやがって」
「自分だって本気で殴ったでしょう?」
「当たり前だ。言って分からない奴を殴って分からせて何が悪い!……嬢ちゃん守ってやれよ。お前が自分自身の中に生きてる意味を見つけられなくても、嬢ちゃんがお前の傍で笑ってる。それだけでも生きてる意味になるんじゃないか?」
「何を似合わないことを……大体、彼女と俺をどうさせたいんですか?」
「やっちまえよ!」
 超巨大問題発言。
 俺に向かって突き出された握り拳の変なところから親指が頭を出していた。
「あ、あんた何言ってるんだ?彼女は14だぞ!警察官が犯罪を勧めてどうする?」
「やっちまって最後まで責任取れ。ついでに俺に逮捕されろ。そっちの方が嬢ちゃんのためだ」
「あ、あのなぁ……」
「それに警察官の不祥事はごめんだ!」
「……山口巡査ですか?」
 苦虫を噛み潰したような顔で頷く。
「奴は本気だ……だから必ず帰って来いよ。本当に頼む」
 勿論、嫌などとはいう気も無かった。
 とにかく、奴を何とかしなければ死ぬわけにはいかないのは確かだ。



[32883] 【17  07/20(月)06:00 富良野市郊外】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/04/30 17:23
 原警部補に見送られて道道759号線を走り出す。
 右手に住宅地を見ながら300m走ると、空知川支流の富良野川に掛かる富良野橋に差し掛かれば、そこから先は道の左右にひたすら畑ばかりが広がる景色が続く。
 軽く流しながら15分ほど走った所で、前方左手に2階建ての大きな建物が見えてくる。
 そして建物の周りや道に複数の人影を見つけた。

 デイパックのサイドネットに手を伸ばす……双眼鏡が無い。RV車のダッシュボードの上に置きっ放しにしていたことを思い出す。
 かなり大事な忘れ物に取りに戻ろうかとも思ったが、全てが台無しになりそうなので泣く泣く諦める。

 左手の親指と人差し指で円を作り、それを小さくすぼめていく。
 穴が鉛筆の先程の大きさになった所で穴を覗き込み、そこから更に限界まで穴の大きさを絞りつつピントを合わせると、視界は狭く暗いがシャープに見えるようになる。
 すると人影の動きがおかしいのが見て取れた。
「どう考えてもゾンビだな……7・8・9……いっぱい」
 2桁に達したところで面倒になり数えるのを止めた。

 建物は予め地図で調べてあった中富良野南中小学校だろう。
 こんな場所にゾンビが10体以上は集まっているということは、校舎の中に人間が居る可能性が高い。
 原警部補に無線で連絡を取る前に、まず校舎の中に生きた人間がいるかを確認することにする。
 もし児童や教師が逃げ込んでいたとしても、既に5日が経過しているので避難した人間が今も生きている保証は無い。
 原警部補が救助を要請するには、無断で俺に無線を貸し出したことを上司に話さなければならない。これで要救助者を確保できたなら彼の面目も立つが空振りじゃ立場が無い。
「仕方ない確認するか。貸し1だぞ原さん」
 原警部補が聞いたら激怒しそうな独り言が口を突いて出た。

 力一杯ペダルを踏み込み全速力まで加速する。
 風を切る音のみを立てて疾走する自転車にゾンビが気付いた時には、2体の間をすり抜けていた。
 路上に居た2体のゾンビが追ってくるのを確認すると左折の曲がり角で自転車を停める。
 愛用のメタルラックのポールが有るとはいえ多くを同時に相手にはしたくない。可能な限り1対1の状況を作り出さなければならない。
 まず先頭の主婦ゾンビを縁石の段差に誘導して転倒させると、そのまま首の骨を踏み折る。
 もう一体の同じく主婦ゾンビに対しては、こちらへと一歩一歩近づいてくるタイミングを計り重心が掛かった脚の膝を正面からポールの先端で軽く押し返す。
 後ろにのけぞりバランスを崩したゾンビの後ろに素早く回り込むと、右膝の裏を左脚で蹴りゾンビが膝を地面に突いたところを更に背中を蹴って前へと倒す。そして、うつ伏せに倒れた首の上に全体重を掛けて踏み潰した。

 小学校の校門は玄関の正面ではなく玄関からかなり離れた北側にある。学校の敷地の外側を囲む浅い堀に掛かる幅3mにも満たない橋が校門の役目を果たしている。
 その橋へと向かうと、玄関付近に集まっていたゾンビたちが団子になってこちらに向かってくるのが見えた。

 迎え撃つために、橋の左右に配置された花を植えたプランターを並べて橋を塞ぐ。
 ゾンビ的全速力で向かってきた奴らは次々とプランターに足を取られて転倒し、俺は作業的に次々と5体のゾンビに止めをさしていく。
 だが次に現れた親父ゾンビが転倒する際にプランターを蹴って向きを変えてた。それによって出来たプランターの間を抜けて迫り来るゾンビたちから距離をおくために、学校の敷地の外へと逃げた。

「残り6体か……」
 上手く7体までは倒せたがそろそろきつい。
 肉体的疲労以上に緊張感からくる精神的疲労がそろそろミスを呼び込みそうだ。
 不利な現状に一時撤退を考える。
 人間としての知能を失っているゾンビ相手だ。仕切りなおして有利な状況を作り出してから倒すのが一番だ。
 そう考えていると校舎玄関のすぐ上の2階の窓から、身を乗り出して手を振る人の姿が目に入る。
 その生存者の存在に気をとられて1秒にも満たない間だが足を止めたために、俺はゾンビの接近を許してしまう。
 何故そんな隙を作ったかと言えば、手を振っていたのは女性であり、白いブラウスの胸の部分を押し上げる膨らみがDカップ以上かどうか判断するに、50mもの距離のせいで手間取った為だ。ちなみに間違いなくDは超えていた……何か頑張れる気がした。

 どんな歯槽膿漏だと言いたくなるほどの血まみれの歯を剥き出しにして迫り来るジャージ姿の中年ゾンビ。
 小学校の教師と言えばジャージというイメージから、目の前のゾンビがこの小学校の教師である可能性を疑う。
 教師にゾンビ化した者がいるなら生存者は思ったよりも少ないかもしれない。
 そんな事を考えながらも、俺はポールの中央を逆手(鉄棒の順手・逆手ではなく、剣道における左手の握りが右の握りの上に来ること)に握り左上段に担ぐ。
 左足で踏み込み、向かってきたジャージゾンビが掴みかかろうと伸ばす右手の甲を左上から打ち払う。そして振りぬいた勢いを殺さず右手を持ち替えて左手を離すとポールの逆側でゾンビの右側頭部を殴りつけた。
 重たい鉄のポールが一撃でゾンビの頭蓋骨を砕くと、その衝撃で奴の両の眼窩から眼球が飛び出すのが見えた……朝飯を食わなくて良かった。本当に良かった。
 8体目を倒した俺は、ゾンビたちに背を向けて一気に自転車の所まで走る。
 ポール片手に自転車に乗ると、堀を挟んだ玄関正面まで道を戻って窓から身体を乗り出す人女性に声をかける……あれはEカップだと?
「そちらに何人居ますか?」
「13人居ます!子供たちが児童を含めて8人です!お願いです。助けてください!」
「分かりました。これから助けを呼ぶので校舎から出ないで──」
「お願いです食べ物だけでも早く!子供たちがかなり衰弱してるんです!」
 その一言で状況が変わった。
 13人を運ぶとしたら、マイクロバスを出す必要がある。
 無断で持ち出した無線の件もあり、その辺のいきさつを上司に上手く説明して、マイクロバス使用の許可を貰うに時間が掛かるかもしれない。
 一方、俺の背中の荷物の中には、13人を腹一杯にさせるのは無理でも、そこそこ満たす程度の分量がある。
 アルファ化米2kgの袋は、2日目の朝に食べたっきりで13食分以上はあるし、他にもスパゲッティの500g入り乾麺にインスタントラーメン5袋が手付かずで残っている。更にカレーやミートソース等のレトルト食品の袋も幾つか残っている。
「分かりました。食料はあるのでお湯をたっぷり沸かして、沸いたら教えてください」
 無線で連絡だけを済ませて立ち去ることを断念する。
「余計なことに首を突っ込みすぎだ」
 これが原警部補の言う自分の死を飾り立てたいという心理状態なのだろうか?
 それともEカップに目がくらんだのだろうか?
 どうでも良いさ、お湯が沸くまではまだ時間がかかるだろう。とりあえず残りのゾンビを排除しておくか。

 残り5体の内、3体が堀の外側の道路を歩いて接近してくる。
 良い感じに半分に別れてくれたが、やはり3体同時は危険が伴う。
 しかも先頭を倒しても、2体目・3体目が同時に襲ってきそうな嫌な間隔で迫ってくる。
 自転車から降りると、背中の荷物を降ろしてポールを構えた。

 3体同時に相手にするのを避けるために、先頭の作業服を来た男性ゾンビの胸をポールで突く。
 バランスを崩して背後のゾンビを巻き込んで転倒するのを期待したのだが、背後のゾンビにぶつかり後ろへと転倒させたが、作業服のゾンビは突き飛ばされるようにしてこちら方へとに倒れ込んできた。
 慌てて上体を反らし、掴まれたら最後という意味では鮫の顎にも等しいゾンビの両腕を避けるが、作業服ゾンビは地面に倒れこみながら右腕を伸ばして俺の左足首を掴んだ。
 足を抜こうと引っ張るが、万力の様な力で締め上げるゾンビの右腕はびくとも緩まない。
 それどころか、何の例えでもなく文字通り握りつぶされかねない握力に、口を突いて小さく悲鳴が漏れた。
 俺は足を抜くのを諦めると、ポールを振り上げゾンビの頭に力一杯先端を突き刺した。
 奴は呻き声すら上げずにその動きを止めたが、しかしその手は俺の足首を掴んだまま放さなかった。
 締め上げる力こそ無くなったが、一瞬で死後硬直を始めたかのように、がっちり握りこんだ形のままで固まった手は足を振った程度では外れない。

 すぐ傍に2体目の主婦ゾンビが迫るが、俺は距離を取ることすら出来ない。
 下から主婦ゾンビの顎を掌底で突き上げるが、人間相手なら十分昏倒させられる一撃もゾンビ相手にはダメージらしいものは与えられない。
 相手がのけぞった僅かな隙にポールを倒れたゾンビの頭から引き抜く事が出来ただけだった。
 だが折角のポールもゾンビとの距離が近すぎて攻撃するだけの間合いは無く、俺はとっさにポールをゾンビの伸ばしてきた手に掴ませる。
 自分の手に握られたポールをじっと眺める無防備なゾンビの腕を掴むと、前に引き倒し転倒したところを自由の利く右足で首を踏み砕く。

 目の前のゾンビは残り1体だが、左足は封じられ得物は手の中に無いと考えるべきか?
 左足は封じられ得物は手の中に無いが、目の前のゾンビは1体しかいないと考えるべきか?
 答えを出す間もなく最後のゾンビが迫り来る。
 殴っても意味は無く左足を封じられて蹴り技の多くも使えない。首をへし折るにも奴の手で掴まれたら俺が先に引き裂かれてしまう可能性が高い。
「くそっ」
 掴みかかって来たゾンビの右腕をの手首を右手で握る。覚悟していたとはいえ触ってはいけないモノを掴んでしまったおぞましさに、もう一度「くそっ」と吐き捨てる。そして奴が反応するよりも早くこちらに引き寄せてから、奴の左肩の後ろに左手を当てると、上体が前に流れてバランスを失ったゾンビを、足首を掴まれた左足を軸に270度回転して堀の中へと投げ入れた。
 頭から堀に突っ込み暴れるゾンビを尻目に、左足首を掴むゾンビの右腕の手首を右足で踏みつけると左足を引き抜くと地面に転がるポールを拾い上げる。
 そして堀から這い上がろうとして顔を覗かせたゾンビの頭頂部へ思いっきりポールを振り下ろし止めを刺した。

 緊張感も集中力も完全に切れそうだったが、そうもいかない。まだ2体のゾンビが堀の向こう側で待っている。
 堀の向こう側の縁で、物欲しげにこちらに両手を伸ばすゾンビたち。
 堀に落ちない程度の知能が残っているのが忌々しい……ならば落としてしまえと思いつく。
 堀の向こうのゾンビに自分の手を差し出す。そしてヤツらが掴もうとするとぎりぎりでこちらに引き戻す。
 これを何度も繰り返すことにより、片方のゾンビが足を滑らせると、都合よくもう一体のゾンビともつれ合って堀へと落ちる。後は上から容赦の無い滅多打ちを食らわせることで片をつけた。

「やべぇ……もう1日分以上疲れちまったよ……」
 血まみれのポールを傍らに投げ出して地面に座り込んだ。
 朝っぱらから頑張りすぎた。
 これから上富良野まで走ることが億劫だ。
 更に自衛隊に接触するなんて面倒な事を考えると何もかも放り出したくなる。
 そうやって現実逃避に浸りたいところだが、周りに横たわるゾンビの死骸から漂う血の臭いが否応もなく現実に引き戻してくれる。
 立ち上がると自転車の傍に置いたデイパックの元へと歩み寄り、中から無線機を取り出す。
「こちら北路。こちら北路。原警部補どうぞ」
 正しい呼びかけ方なんて知らないから、テレビドラマや警察24時などのドキュメンタリーなどで無線を使う場面の真似をして呼びかけてみる。
『どうした?上富良野に着くには早過ぎるだろ。どうぞ』
「こちら現在地、中富良野南中小学校前。校内に13人の生存者が居るとの事。内8人が児童……いや児童を含めて子供が8人です。どうぞ」
『分かった。どうすれば良い?どうぞ』
「食料も無く5日間立て篭もったので、自力でそちらに向かうのは無理かもしれません。どうぞ」
『わかった。すぐに車を手配する。それから生存者の詳しい状況はどうなんだ?どうぞ』
「今、学校周辺のゾンビの排除が終わったばかりで、これから校舎内に入るところです。医者の手配が必要なら追って連絡します。どうぞ」
『了解した。どうぞ』
「……終わる時は何て言えば良いんですか?どうぞ」
『良いから切れ。どうぞ』
「了解」

 無線をデイパックにしまうと、疲れた身体に鞭打って立ち上がる。すると玄関でドンドンという音がして振り返ると先ほどのEカップがガラス戸を叩いているのが見える。
 何も考えずに彼女のEカップのバストを10秒ほどぼーっと見つめていると、それだけで気力が蘇ってきた。オッパイは良い。実に良い。
 もっと近くで見るためにデイパックを背負いポールを拾い上げ、更に自転車を肩に担ぐと堀を飛び越えた。



[32883] 【18  07/20(月)06:25 中富良野南中小学校】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/02 20:46
「他の生存者の状況はどうなってますか?」
 女性に鍵を開けてもらい校舎内に入る。
 女性は化粧っ気も無く疲労の色が濃く目の周辺も隈が浮き唇は荒れて、食糧不足により頬がこけてしまっている。しかし素材は決して悪くは無い。いや悪くないどころか、普段の彼女はかなり俺の好みなはずだ。
 ただし今は、彼女の姿に魅力を感じる前に痛々しさを覚え、名前すら尋ねずに状況確認を行う。
「児童の多くが衰弱しています。早く何か食べ物を与えないと」
「詳しい状況が知りたい。重態な……意識が無い人はいます?」
「それは大丈夫です」
「なら自分で歩けますか?」
「子供たちは、多分無理です」
「大人は?」
「子供たちに比べれば……でも一番状態が良いのは私です」
 インフラが生きてるおかげで水が使えたのが幸いし最悪の状況ではないようだが、とりあえず自分の目で確認した上で原警部補に連絡をした方が良さそうだ。
「頼んでおいたお湯の準備は?」
「給湯室で用意してるので、もうすぐ沸きます」
「では食事を用意するので案内してください」

 案内された1階の給湯室へ入るとまず手をしっかり洗う。雑菌がどうのとか言うレベルではなく俺の手は、綺麗でも清潔でもないデイパックの中に入れることすら憚られる状態だった。
 そしてデイパックの中から食料をまとめた袋を取り出す。ここで食料を全て失うことになるのは想定外だった。
 砂漠を彷徨っている状況で水筒の中の水が半分になった時、まだ半分あると思う。もう半分しかないと思うのどちらだと訊かれたら迷うことなく後者である俺にとっては、プレッシャーのかかる状態に追い込まれることになる。
「大き目のポリ袋とダンボール箱を用意してください。ポリ袋は未使用のゴミ袋で良いです。ダンボールはみかん箱程度の大きさが有れば何でも良いです」
 大量のアルファ化米を戻す為の準備の指示を出す。
 火に掛けられている2つの鍋の内、小さい方──と言っても結構大きい──に袋から出したスパゲティーを投入し、手持ちのレトルトパウチを全て放り込んで一緒に温める。
 女性が段ボール箱を探しに給湯室を離れているため塩は何処にあるか分からないので諦める。どうせ麺に下味が云々と文句を言う余裕がある人間がいるわけじゃないだろうし、そもそも俺が食うわけでもない。
 乾燥スパゲティーは絶対にアルデンテに出来ない早茹で3分タイプ(麺の断面が円に切込みが入った形になっていて表面積が大きく、更に中央まで火が入りやすい)なので、真っ先に出来上がるだろう。

「これで良いですか?」
 女性が段ボール箱を抱えて戻ってくる。
「その段ボール箱の中で袋を広げてください」
 俺の指示に従い彼女が広げた袋の中に、アルファ化米を全て投入する。
 そして大きな方の鍋からお湯を目分量でちょっと多いなと思う位に注ぎ込んで最後に袋の口を結ぶ。
 人数に対して多いとは言えない食料のかさましの意味もあるが、何より消化器系が弱っている子供もいるので、お粥っぽく出来上がるのを期待する。

 少しお湯が残った鍋の中に給湯器からお湯を足して再び火に掛ける。
「この鍋のお湯が沸騰したら、このインスタントラーメンを入れて茹でてください。ご飯は20分掛かります。時間を計れますか?」
「はい」
「では測っておいてください」
 ご飯とラーメン作りを任せると、そろそろ茹で上がり時間のスパゲティを確認する──芯は無く全体的に一様に軟い。良く言えば上等なソフト麺風に茹で上がっていて正直なところ美味しいと思えない。早ゆでタイプを選択したのはガスの消費量を抑えるための苦渋の決断だった。自転車旅行とは荷物の軽量化との戦いでもある。
 蓋をしたまま傾けてお湯を切り、ミートソースのパウチを2つあけて流し込むが、かき混ぜてもどう見ても色が薄い。しかしミートソースはもう無かった。
 ミートソースの1食分が100gの乾麺を茹でた時の分量に対応しているのだから、500g入りの乾麺を茹でたのだからミートソースは3食分不足している。
 俺はためらった末にカレーのパウチをあけると立て続けに2つ流し込んだ。
 後ろでラーメンの麺を鍋に投入していた女性の「えっ!」という疑問の声が上がるが、無視してかき混ぜる。
「……微妙だ」
 何とも言えない色になってしまった鍋の中身から目を背けて蓋を閉じる。『カレー・ミートソース』──大丈夫だ。どちら子供は大好きだ。名前を聞いただけでご飯3杯はいけるはずだ。
 だがまだ足りないのだ。5食分の麺に対して投入したソースは4食分。俺は迷った末に中華丼のパウチに手を伸ばす。『カレー・ミートソース・中華丼』己の為そうとする暴挙に伸ばした手が震える。
 だがこれは人類の新たなる一歩のために必要な──
「止めて下さい!」
 鋭い制止の声が耳を打つ。
「駄目ですか?」
「駄目です!」
 気持ち良いほどきっぱりと否定される。
「ではラーメンが出来たら一緒に、このまま持って行きましょう。多少味が薄くても文句を言う余裕も無いだろし」
「……は、はい」
 人類の新たなる一歩を妨害した彼女は妙に疲れた様子で頷いた。

 食器を持って先を行く彼女の後に続いて階段を上り、目的の教室にたどり着く。
 教室の床には布団やクッション・座布団などが敷かれ、その上に子供たちが横たわり、大人たちは椅子に座ったり壁に力なく寄りかかっていた。
 誰の目にも生気は感じられない。
「食べ物が出来たわよ!」
 彼女のその一声に人々は一斉に動き出す。
 まるでその姿はゾンビの様で、特に目つきなどゾンビにも負けないくらい血走っており、瞳の色を覗けば区別がつきがたい。
 彼らの姿を見て思った、ゾンビたちは彼ら以上に飢えているのだろうと、無間地獄の一つ黒肚処に落とされ永遠の飢え渇きに苦しみ続ける亡者のごとく飢えているのだと。
「大人は最後!みんな、低学年から順番にならびなさい!」
 女性の鋭い一喝の声に、人々の目に理性の光が蘇る。
 大人たちはすごすごと壁際に張り付き、子供たちは一列に並ぶ。
 一瞬にしてこの学校における彼女のポジションが分かった気がする。
「これ以外にもまだ食べ物はあるから、仲良く食べるのよ!」
 スパゲティとラーメンの配膳を終えて給湯室へ戻る彼女を見送ると、子供たちに体調を尋ねようとしたが、彼女が居なくなった途端。みんな鬼気迫る形相でがっつき始めた……結構元気そうである。

 教室を出て廊下で無線を取り出し原警部補と連絡を取る。医者も居た方が良いが立って歩けないほど衰弱している要救助者はいないことを告げる。
『マイクロバスと救急車一台で良いか?どうぞ』
「それにパトカーと警官数名。そちらから学校までの間にゾンビの姿は無かったが学校周辺には13体のゾンビが居ました。他にも近くにゾンビが居る可能性があります。どうぞ」
『13?そいつ等はどうした。どうぞ』
「……こちらに着くのはどれくらい掛かる?どうぞ」
『俺の質問に答えろ。どうぞ』
「そっちこそ俺の質問に答えろ。どうぞ」
『おめぇ、また無茶したな?俺の話を何だと思ってるんだ?それに俺たちが着く前に逃げるつもりだろ?どうぞ』
 一瞬聞き流しかけたが、聞き捨てなら無い事を言いやがった。
「……あんた今、俺たちって言ったな?どうぞ」
『そんなこと言ってない。どうぞ』
 嘘だ。明らかに嘘だ。原警部補は絶対に文月さんを連れて来て俺を足止めする気だ。

 俺はそのまま黙って通信を切ると無線をデイパックの中にしまうと教室に戻った。
「皆さん。警察の救助がすぐに来るはずです。それまで校舎内には出ずにここで待機してください」
 何時救助が来るか確認もしてないのに堂々と嘘を吐いて、そのまま教室を抜け出す。
 良心の呵責なんて覚えている暇もない。1時間……いや下手したら20分位でこっちに来る可能性も無いわけではない。

 全力で走って階段を下り、給湯室に向かう。
「すぐに警察の救助が来ます。後の食事の準備等をお任せします」
 何の前置きも無く要件だけを伝えると、食料を全て供出してすっかり軽くなってしまったデイパックの肩紐を両肩に通す。
「えっ?それは構いませんが、どうやって警察と連絡を取ったんですか?」
 電話も携帯も使えないのだから当然の疑問だろう。
「富良野警察署の知り合いから警察無線を借りてるので、それを使い連絡しました。これから救助に来るのも富良野警察の人間です。では失礼します!」
 伝えるべきことだけを伝えると、さっさと足早に給湯室から廊下へと出る。
「失礼って何処へ?警察が来るまで居てくれないんですか?」
 女性は廊下まで俺を追ってくる。
「それは無理です!」
「無理なんですか?」
 先程、教室で一喝したのが嘘の様な心細そうな声──まあ、今の方が嘘なのだろう──で、すがるような目で見つめてくる。
 まあ、そんな程度では騙されない……訳でもないが、そんな場合じゃない。
 如何に俺が、生まれながらにオッパイ・スカウター機能が備わっているエリートオッパイ星人でも、オッパイだけで生きてるわけじゃない。
「そう無理なんです!……ああ、ヤツらの心配なら強い臭いや音で誘き寄せたりしない限り、今まで通りにしていれば心配はないと思います。車や人員の手配に時間が掛かっても2・3時間内には必ず救助が来ます。では失礼します!……あ、玄関の鍵は忘れずに閉めてくださいね」
 そう言って逃げるように小学校を後にした。

 外に出て、彼女が中から鍵を掛けるのを確認すると、玄関横の壁に立てかけておいたポールを手に取る。
「……うわぁっ」
 ポールの両端には、とても口にする事が出来ないあんなのやこんなのが付着していて、とてもじゃないがこのまま持ち歩く気にはなれない。
「時間が無いというのに」
 愚痴をこぼしチラチラと道路の南の方を伺いながら、玄関脇の水場でしっかりとあんなのやこんなのを洗い流す。

 自転車に向かう途中、倒れているゾンビの死骸は三つとも堀へと蹴り落とし、反対側の道端の草を引き抜いて上から被せて目隠しをする。
 救出時に子供たちが、多分彼らにとって知り合いだろう、もしかすると親だったかもしれない。そんなゾンビの姿が目に入ら無い様にとの配慮だ。
 ポールを再び自転車のフレームに固定すると、上富良野に向けて改めて出発する。
 ペダルを漕ぎ始めてすぐに校舎北側の惨状を目撃した途端に、子供たちへの配慮も何もかもが面倒臭くなってしまい見なかったことにするとそのまま走り去る。
「……あっ!Eカップ先生の名前訊くのを忘れた」
 この北路圭太。痛恨のミスであった。

 道道759号線から851号線へと入り、北上すること7kmで右折して農道に入る。
 道道851号線からそのまま上富良野に入ると自衛隊駐屯地へは市街地を抜ける必要があるため、農道を使い国道237号線へと抜けるためだ。
 そして農道を走り国道237号線の手前まで着た所で、左手からかすかな銃撃音が耳に届いた。
 その場に自転車を停めると無線機を取り出し、原警部補を呼び出す。
「こちら北路。原警部補。どうぞ」
『お前今何処にいやがる。どうぞ!』
 彼の声は明らかに怒っている。
「上富良野の駐屯地まで約1kmの地点。市街地方向から銃撃の音が聞こえた。どうぞ」
『銃撃だと?……じゃなく逃げたな!どうぞ!』
「単発の銃声じゃなく、連続していた。機関銃の音だと思う。どうぞ」
『シカトかましてんじゃねぇぞ!どうぞ!』
 しかし、ここまで来れば、原警部補が文月さんを連れて追ってこないと確信しているので余裕だ。
「これから接触するので、そちらからの通信は今後控えて欲しい。どうぞ」
『てめぇ、言いたい事だけ言って──』
 無視して切っちゃいました。
 しかし危なかった。向こうの様子から既に小学校に到着している様子だ。
 下手に小学校でゆっくりしていたら捕まっていたかもしれない。

 荷物を調べられたら無駄だとは思いつつも、無線を着替えで包んで、袋に入れて厳重に隠してデイパックにしまい込んだ。
 国道237号線から北上すると、数百mも行かない内に道路の右手の奥に自衛隊員と思しき姿を発見する。
「まさかだろ?」
 想定外の光景に驚きの声が口を突いて出る。
 彼らの警戒は、自分たちの駐屯地の敷地内へと向けられていたのだ。
 それが何を意味するかは容易に想像が付いた。


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今回のタイトルの横に「修正が済むまで投稿するな」と書き込みを発見しました。
間違いなく自分の書き込みで、最終回近くを書いてる時に何かに気付いて慌てて書き込んだのだろう事は思い出せたのですが、その修正が何なのかさっぱり思い出せなく、何度も読み直してもそれが何なのか分かりませんでした。
とりあえず、更新しておきますが後ほど大幅に修正が入るかもしれません。
ご迷惑をおかけします。



[32883] 【19  07/20(月)08:10 陸上自衛隊上富良野駐屯地正門前】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/02 20:49
 展開している自衛隊員へ100m位まで接近した所で、自転車を降りると大声で呼びかける。
「おーい!」
 国道237号線から東へ一本奥の道に展開する自衛隊員たちは、敷地内の方向へ意識を集中していた為か声の出所を探して見当違いの方向へ視線を巡らす。
「おーい!こっちだ!」
 もう一度声をかけると、驚いたようにこちらを振り返り同時に銃を向けてくる。
 半ば予想していた反応なので、冷静に素早く地面に伏せる。
「ゾンビじゃないから銃を向けるな!」
 ……で結局連行された。


 連行といっても駐屯地の中にではなく道道299号線の駐屯地の北端に位置する交差点付近の路上。そこに設営されたテントへと連れて行かれた。
 テントと言っても、一般的にイメージされるキャンプ用のテントではなく、垂直に立ち上がる壁と三角屋根という形状の、運動会等のイベントで大会本部などに使われるタイプで、鉄パイプのフレームとポリエステル帆布を使用して外とは完全に遮断されている。
 テントの中には折りたたみタイプの長いテーブルとパイプ椅子が並べてあり、多分下士官と思わしき──階級章を見ても俺には見当がつかない──30代半ば、上背は俺と変わらぬくらいだが、がっしりとした体格の俺から見ても「人類というよりは熊だな」と思わせる身体付きの男の前に座らせられ尋問を受ける。
 尋問と言うと、一般的に警察が容疑者が容疑者を高圧的な態度で取調べをするイメージが強いが、あくまでも『職務上の必要から質問する』という本来の意味でしかなかった。
 ペットボトルだがお茶もちゃんと出してくれたし、一部の警察官の様な「おいコラ」的な態度は微塵も無かった。
 さすが世界中の軍隊の中でも一般人に対してフレンドリーなのが売りの一つにしているだけの事はある──嘘だけど。
 ともかく現在のような非常事態においても、常時と変わらぬ態度で国民に対応できるのは流石と言うべきか暢気というべきか分からないが、俺としてはありがたかった。
「それで北路さん。あなたはどうして上富良野へ?」
 互いに自己紹介を済ませた後、佐藤1等陸曹と名乗った熊男が話を切り出す。
「自転車で旅行中にこの騒ぎに巻き込まれて……」
 予想通りの質問を受けて、予め用意してあった作り話を並べる。

 7月14日の午前中に札幌を出て、桂沢湖のキャンプ場で1泊するも、翌日の朝に岩見沢方面から避難してきた人たちから、この騒ぎを知る。
 いずれ騒ぎも収束すると信じて、その後3泊するも、車で三笠の市街地まで確認しに行った者たちの話では、ゾンビは増える一方であり、更に食料は乏しくなり、その上新たに避難してきた人間の中にゾンビに噛まれた者がいて、キャンプ場にもゾンビが蔓延するようになったため、山越えで東へと逃げ、そして富良野ではなく上富良野を目指したのは自衛隊の基地がある事を憶えていたというあらすじだ。
 その場しのぎの嘘じゃないので、時系列的な整合性は取れており疑われる可能性は低いと思っていたが、俺の嘘は想像以上にあっさりと受け入れられた。
 何度か同じ話をさせて以前の内容と矛盾が出ないかチェックするくらいの事はすると思ってただけに拍子抜けした。
 だが彼らが俺の話を鵜呑みに近い状態で受け入れたには理由があった。
 富良野市ではまだゾンビすら確認されていなかった早い段階で道警旭川方面本部との無線連絡が取れなくなった富良野警察署と違い、自衛隊は無線で各駐屯地間で連絡を取り合い情報を共有していたため、その情報が俺の作り話が矛盾していなかったので信じるしかなかったというわけだった。

「この駐屯地がヤツらに占拠された様に、連絡が取れた全ての駐屯地が既にヤツらに占拠されています」
 苦々しげに佐藤1等陸曹は語る。
 旭川にある北部方面隊第2師団の師団司令部との連絡が途絶えた後、駐屯地司令の判断により町民の保護の名目出動し、全町民の7割以上に当たる9000人近くの避難者を受け入れて保護・治療に当たったが、それが仇となり基地内で爆発的ゾンビ感染を引き起こし駐屯地を放棄・封鎖せざるを得なかった事。
 そして、この駐屯地と同様の事が他の北部方面隊の駐屯地でも発生し、次第に連絡が取れなくなった事。
 現在、駐屯地外で活動している自衛隊員は、基地の外で救助活動にあたっていた隊員を中心に100名程しかいない事が知らされた。

「駐屯地内の建物の中に立て篭もっている隊員や町民がいるんですよね?」
「ええ、しかし敷地内には隊員・民間人を含め1万名以上の人間がいて、その多くが何と言いか……」
 言いよどんだ佐藤1等陸曹に助け舟を出す。
「ゾンビになったのですね」
「……正式な名称は決まっていませんが、一部でそう呼ばれる者たちが多くいます」
「ヤツらの習性はご存知ですか?」
「自分らの中にも映画やゲームが好きな者は沢山居ます。そういう自分もロメロのゾンビは見たことがあります。ですから映画やゲームの軍隊や警察の様に無駄に弾をばら撒く役立たずではないつもりなので、連中への射殺許可が下りた段階から隊員達は頭を狙って発砲しています。勿論、ゾンビだろうが元人間への発砲には大きな抵抗はありましたが……」
 自嘲的な笑みを口元に浮かべ、暗い目を自分の膝に落へと落とす。
「佐藤さん。私が言っているのは弱点ではなく習性についてです。ヤツらは人間を襲いますが、それが人間を喰らうことが目的なのか?単に手近な食料と考えて襲うのであって、食べ物なら何でも良いのか?どうやって人間を見つけ出すのか?そういったことです」
「連中……ゾンビは視力・聴力にて獲物である人間を見つけ出し襲うという認識を持っています」
「しかしキャンプ地では、ゾンビは人間そっちのけで食料の入った鍋に頭を突っ込んで、中のカレーなんかを喰らってましたよ」
「それは本当ですか!」
 勿論、キャンプ場という場所に関しては真っ赤な嘘だが、肝心な部分は紛れも無い事実だ。
「ええ、この目で見ましたから間違いありません。連中は人間以外の食べ物も食べますし、人間以外の食べ物を判断するのは嗅覚で、カレーやラーメンにニンニクを含む食品のような強い臭いに反応します」
「食べ物ですか……」
「勿論、光や音に反応する事はご存知ですね?」
「ええ、しかし音や光に興味を示すものの、音源や光源に接近し、それがただ音や光を出すだけだと認識すると興味を失います」
「しかし臭いは、臭いだけでも連中の関心を長時間にわたり惹きつけ続けますよ」
「そうか、それならば多くを一箇所に集めることが出来る可能性がありますね」
 佐藤1等陸曹の目に歓喜の色が浮かぶ。
 現状を打破しうる考えが浮かんだのだろう。
 ラーメンの臭いに引き寄せられるゾンビを見た原警部補もこのような表情を浮かべていた。
「指揮官に報告に行きます。ご足労願いえますか?」
「指揮官ですか?」
「ええ、駐屯地の指揮系統は壊乱したので、現在展開している部隊の最上位階級者の山田二尉が指揮を執っています」

 佐藤1等陸曹に続いてテントを出て、交差点傍に停めてある装甲車らしき車両に向かう彼の後を追う。
 2mを軽く越える車高。その半分程の直径をもつ巨大なタイヤを6輪も履いた車両は82式指揮通信車と言うらしい──軽く尋ねたつもりだったのだが、佐藤1等陸曹は妙に嬉しそうに詳しく説明してくれた。
「先程保護した民間人から有力な情報を入手しました!」
 82式指揮通信車の傍に立ち、通信機で受け答えをしている男に佐藤1等陸曹が声をかける。
 彼の声に振り返ったのは、歳の頃や背格好が俺と良く似た野戦服姿の男。
 表情自体は引き締まって緊張感があるのに、どこか緩さを感じさせる二世議員的なお坊ちゃん臭さを感じさせる。
「こちらは?」
「はい。札幌からの自転車旅行中に騒動に巻き込まれた北路氏です」
「私は山田弘二等陸尉です」敬礼を向けながら苦笑いを浮かべる。
「大変でしたね……と言っても過去形ではなく、これからも大変でしょうが」
「そうですね。例えヤツらが今この瞬間、全て溶けてなくなったとしても生き残った我々は、これからも大変でしょう」
 ましてや、そんな奇跡が期待できない以上は、生存者がこれから味わう苦難はどれほどのことか。

 その後、佐藤1等陸曹と山田二等陸尉の話し合いの中で、俺は意見を求められてはゾンビに関して知りうる限りの情報を伝えた。
 銃器を所持している彼ら自衛隊は常に距離をおいてゾンビと戦っているので、飛び道具無しで戦ってきた俺に比べるとゾンビへの理解が浅い。
 ゾンビを素手やメタルラックのポールで殺し続けた俺の経験は、彼らにとって貴重だったようだ。
 ゾンビについて書き溜めたメモ帳は富良野市についても言及しているため、渡す訳にも見せる訳にもいかなかったが、思い出せる限りの情報は惜しむことなく与えた。

 上富良野駐屯地を含めて陸上自衛隊の部隊の拠点は、基地ではなくあくまでも駐屯地である。
 空自や海自において駐在地が戦闘時に拠点として基地機能を必要とするのに対して、陸自は必要な場所に部隊を展開するため、駐屯地自体に防衛拠点として能力は一切無い。
 そのため、駐屯地は外周を2mにも満たないだろう普通の金網のフェンスに囲まれただけで、各所に設けられたゲートも物理的に遮断すると言うより、人間が良識の範疇行動する限りにおいてのみ外部と内部を隔てられるものに過ぎない。
 外部との遮断という意味ではビル建設の工事現場の方が遙かに堅牢である。

 駐屯地奪還を果たしたい彼らであったが、駐屯地外周付近、つまりフェンス傍には兵舎や官舎が多く立ち並び、その中に生存者が多く立て篭もっているため駐屯地内部のゾンビに対して外からの発砲は難しく、火力を集中して使えない。
 駐屯地内のゾンビに向けての発砲は、流れ弾や貫通弾が周囲の建物に飛び込まない様にしなければならず、車両の屋根などに登り高い位置からフェンス際に居るゾンビに対してのみしか行えなかった。
 そのため駐屯地内のゾンビの駆逐は一向に進んでいなかった。しかし、俺が伝えた情報によって彼らは奪還作戦への光を見出したようだった。

「誘き寄せたヤツらを長時間一箇所に集め続けられるという訳だな。ならば作戦の目処も立つな」
「はい」
「わかった。警戒任務中の以外の士官を呼び出して作戦会議を行う。1曹君も参加してくれ」
 山田二等陸尉は佐藤1等陸曹に指示を出すと俺を振り返る。
 作戦会議自体には参加出来ない様だが大体想像は付く、駐屯地内へのゾンビに向ける発砲が制限されるなら、駐屯地の外に火力を集中できる場所を設定すれば良いだけ。
 まずは音や光で駐屯地内のゾンビを可能な限り多く一箇所に呼び寄せる。そしてフェンスの一部を破壊してゾンビを外へと引きずり出す。
 そのままではゾンビは方向性も無く散らばってしまうだけだろうが、臭いを使えばゾンビを火力を集中できるポイントに留まらせることが出来る。
「それと北路さん。良ければ食事の用意をするので、あちらのテントでお待ちいただけませんか?勿論大したものは出せませんが」
「ありがとうございます」
 まだ朝飯にありついておらず、しかも食料を全て放出してしまった俺には本当にありがたい言葉だった。



[32883] 【20  07/20(月)09:00 陸上自衛隊上富良野駐屯地傍】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/03 21:55
 テントに戻ると食事が用意されていた。所謂コンバット・レーション。自衛隊では戦闘糧食と呼ばれるものだ。
 世界の軍隊の中で一番美味しいともいわれる自衛隊の戦闘糧食。
 勿論、自衛隊が贅沢をしているわけではない。
 世界を隔絶すると言うか、勝手に一人旅状態の日本のレトルト食品技術もあるが、他国のコンバット・レーションにおいて主食がクラッカーの類ばかりなのに対して、暖かい米が有りがたがられるのも一因である……とテレビか何かで聞いた事がある。
 つまるところ所詮はレトルト食品なのである。
 昔は缶詰が主流だったそうだが、現在はより軽量でゴミも少ないレトルト食品が主流になったそうだ。
 パッケージや量はともかく中身は民生用と違いは無いそうで、はっきり言って、ここ最近の食事と何の違いも無い。
 食べてみると美味い。美味いがそれ以上の何かを感じる事は無い。
 こんな状況でもなければ物珍しさがスパイスとなっただろうが、そんな感性はとっくに磨耗していた。

 量だけは満足できる食事が終わって一服と言いたところだが、俺には煙草を吸う習慣がないので、まったりとしたこの食後の無聊を慰める術は無い。
 待っていてくれと言われたものの何時まで待てば良いのやら、テントの外には人の気配もあるので無線で原警部補と連絡を取ることも出来ない。
 次第に、何もしない時間が流れることが不思議に思えてきた。
「そうか、これが退屈だ……久しぶりの退屈だ」
 旅に出て以来退屈を感じる暇も余裕が無かった自分に気付く。
 手持ち無沙汰という状況は何度もあったが、退屈を感じるということは無かったのは、常に文月さんが傍に居たという事が大きかった。
 その後、更に一時間以上放置されて、久しぶりの昼寝でもしてみるかと思っていると、突然テントの外が慌しくなった。

 叫び声とアスファルトを打ち鳴らす靴の音が錯綜する。
 ただ事ではない様子に俺は椅子を蹴って立ち上がり、テントを出てテント脇に停められた自転車に駆け寄る。
 そしてフレームにマジック・テープで固定されたメタルラックのポールを引き抜く、頼れる相棒を手にすると不安が少し軽くなった。

「早く呼び戻せ!」
「畜生っ!何もこんな時に!」
「バリケード持たないぞっ!」
 飛び交う怒号の中で、バリケードが破れそうという洒落にならない発言に、俺も交差点の先のバリケードへと向かう。

 交差点で俺が見たのは、木製の土台に直径1mくらいの螺旋状の輪のように有刺鉄線を張り巡らせたバリケードの向こう側を埋め尽くすゾンビたちの群れだった。
 ゾンビは有刺鉄線など物ともせずにバリケード全面に張り付くように押し寄せていて、その後方にどれほどのゾンビが控えているのかは確認できない。
「民間人は下がれ!」
 俺に気付いた隊員から鋭い怒声を浴びせかけれた直後、銃声が鳴り響く。
 その銃声は機関銃の連続的な発射音ではなく、散発的に鳴り響いた。
 有効なのは頭部のみな決して的が大きくは無いゾンビに、毎秒7-8発の連射で撃ってしまえば装弾数が30程度の弾倉では4秒程度で撃ち尽くしてしまう。(実際の64式7.62mm小銃の弾倉の装弾数は20発であり、フルオートで射撃した場合は2秒半で撃ちつくす。また現在ならあって当然の3点バースト機能は無い)
 4人の隊員がバリケードの両脇に横付けされた2台の1BOXの上から、流れ弾が民家に飛び込むのを防ぐためにバリケードの傍にいるゾンビの頭部を撃っている。
 流石に駐屯地周辺は避難が済んでいるだろうとに律儀なことだが効率が悪い。
 バリケードが押し倒されないように補強の目的で横付けされている1BOXのルーフには、文月さんのお祖父さんのRV車のようにルーフキャリアが取り付けられているわけでもないので足元が不安定だった。
 それでも隊員達は単発で1体1体狙いを付けて頭部を撃ち抜いていくが、押し寄せるゾンビの波に対して、十分な打撃力を与えているとは言え無い状況。
 有刺鉄線も痛みを感じないゾンビに対して効果は発揮せず、木製の土台に有刺鉄線を張り巡らされただけのバリケードは、全身を有刺鉄線の棘でズタズタに引き裂かれ血塗れになりながらも全く意に介さないゾンビに、有刺鉄線の一部は土台から引きちぎられている。
 有刺鉄線ありきのバリケードなので、このまま有刺鉄線を剥ぎ取られてしまえば、後はバラバラになった小さな土台を晒すのみ。万里の長城の西端よりも頼りにならない。
(万里の長城の内、立派な城壁のようになっているのは全体の極一部で、重点的に守る必要がある場所以外は、馬が超えられない高さの石垣だったり、更に西に行くと羊などの家畜が飛び越えられない高さの石垣というレベル)
 俺はテントまで走って戻ると、デイパックの中からホームセンターで調達した針金の束を取り出して駆け戻り、バリケードのこちら側。交差点の手前で道の両側に立つ電信柱の間に高さ20cm程で針金を渡し、力一杯に引いて張る。
 針金は線径3.2mmで、一人歩きが出来るようになったばかりの子供のごとく、おぼつかない足取りのゾンビの足元をすくうには十分な強度を持っている。

「おい!一旦下がれ、そのままじゃ逃げられなくなるぞ!」
 準備が出来た俺は4人に声をかける。
 バリケードは既に何時破られてもおかしくない状況だった。
「民間人お前は逃げろ!ここはもう破られるぞ!」
 先程、俺に怒声を浴びせた隊員──多分この留守番部隊の隊長なのだろう。小柄ながらごつごつした顔も肩幅が広い身体付きも四角形をイメージさせる体型の男……個人的に角ばって見えるので角田隊員と仇名を勝手につける──が怒鳴り返してくる。
 彼らは1BOXの上で片膝立ちの姿勢でバリケード間近までに接近したゾンビでは無く、狙いやすい少し離れたゾンビを狙う。
 その為、バリケードに取り付いたゾンビ達は何の妨害も受けずバリケードを少しずつ破壊している。既にバリケードが破られることを前提に、せめて死ぬ前に1体でも多くのゾンビを減らすことに目的を切り替えているようだ。
 俺は交差点を突っ切りバリケードに接近すると、バリケード中央で突破を試みるゾンビの胸を有刺鉄線越しにポールで突くが、後ろか押し寄せる他のゾンビに押されて倒れる事は無い。
 多少の時間稼ぎにはなるだろうが、それも気休め程度だ。
「いいから下がれ!どうせ破られるのが分かってるなら死守の意味は無いだろ!」
「だが1体でも多く減らしておけば──」
「俺に考えがあるから力を貸せ!」
 角田隊員の言葉を遮る。彼の考え方では駄目だ。大事なのはこの場で食い止めること。それ以外の選択肢は無い。
「後ろを見てみろ。横断歩道の上だ」
「……針金か?針金でどうする気だ?」
「こいつ等には、張られた針金を視認する能力は無いし、あの高さの障害物跨いで歩く能力も無い」
「つまりどういうことだ?」
「アレがもう一つのバリケードになるから、そこまで下がれって言ってるんだよ!」
「だが、ここを放棄すれば南東側に……」
 この交差点にあるバリケードがあるのは北東・北西の2箇所で、針金を張って無い南東側が無防備になる事を危惧したのだろう。
「こんな距離で銃を撃っていれば連中の注意は必ずこちらに向く。奴等が気を逸らすとしたら、応援が来た時だ」
「……分かった」
 頷いた角田隊員の命令に、残りの3人が1BOXの屋根から降り、張られた針金の向こうまで下がる。
「民間人。お前も下がれ!」
「先ずはあんたが降りろ!」
 叫び返しながら、何の役にも立ってない鉄条網の上からゾンビの頭頂にポールを振り下ろす。
「民間人より先に逃げられるか!」
「分かった先ず降りろ。そうしたら俺が下がる。いいな?」
「……分かった!」
 そう言って角田隊員は、もう一発撃ってゾンビの頭を撃ちぬくと1BOXから飛び降りる。
 彼が足をくじいたりせずに無事に降りたのを確認してから張られた針金の向こうまで後退する。
 直後背後で鳴り響く銃声。流れ弾の被害を恐れてだろう水平発射を避けていた彼らが何故と驚き振り返ると、角田隊員が拳銃を構えゾンビの群れへと銃弾を浴びせかけていた。
 威力も貫通力も劣る拳銃なら周囲への被害もないと判断したのだろう。
「ところで拳銃って、将校用じゃないの?」
 小説か何かの聞きかじりの知識で傍の隊員に話しかける。
「この数年は市街地戦用の装備として、我々一般の隊員も訓練で使用しております」
「へぇ……」
 そんな会話をしていると、拳銃の弾倉の中身を撃ちつくした角田隊員がこちらへと退避してくる。

 その後、1分と経たずにバリケードは有刺鉄線を剥ぎ取られ、有刺鉄線を支えるのが役目であった土台はバラバラにされ、その間を通ってゾンビがこちら側へ侵入してきた。
「本当にこいつで大丈夫なんだろうな?」
 低い位置に張られた針金を心許無げに見つめる角田隊員。
「心配するとしたら、倒れたゾンビを撃つ時に間違って針金を撃って切ってしまうことくらいだな……ちょっと後ろの方にも針金張ってくる」

 俺が針金を張り第二次防衛線を構築している間も隊員達は転倒したゾンビたちの頭部を次々と撃ち抜いてゆく。
 おぼつかない足取りでフラフラと歩くゾンビの頭を車の屋根の上から撃つよりは、地面に倒れたゾンビの頭を立った姿勢で撃つ方が狙いが付けやすいようで、彼らはほとんど無駄弾を撃つことなく効率的にゾンビの頭を撃ち抜いていく。
 第二次防衛線が完成した頃には、道を埋め尽くしていたゾンビの群れが目で数えられる程度にまで減り、頭を撃ち抜かれて晒される屍に、もはや針金と関係なく足を取られてゾンビが転倒するようになっていた……別に良いんだよ無駄になったって。
 すると交差点の南東方向の道からエンジン音とタイヤがアスファルトを鳴らす音が響き、82式指揮通信車と3台の軍用トラックが姿を現す。
 そして交差点手前で停車したトラックの荷台から次々と野戦服姿の自衛隊員が降り立ちバリケードに駆け寄って行った。

「田中二曹!」
 82式指揮通信車から降り立った佐藤1等陸曹が角田隊員に声をかける。
「田中……意外に普通な名前だ」
 2人の現状確認の会話を聞き流しながら、結局無駄になった針金を人目に付かない様にこっそりと一人片付けている。
 作業中の俺の背後で銃声が何発か響いた後に、どうやらバリケードを襲撃してきたゾンビの群れは全滅したようだった。
「まあ、なんだ……無駄になってよかったじゃないか」
 角田隊員……もとい、田中2等陸曹が不器用な気遣いをみせつつ俺を慰めるが、その気遣いがむしろ俺を傷つける。



[32883] 【挿話1】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/05 20:16
「……おはようございます」
 フロントガラスから差し込む朝日のまぶしさに目を覚ました私は、助手席のシートで目を擦りながら運転席にいる北路さんに声をかけ…………たけど返事がありません。
 今日はまだぐっすりと寝ているのでしょうか?
「北路さん?」
 いつもと違う様子に運転席を振り返えると、そこには居る筈の北路さんの姿が見あたらない。
 どうしたのだろう?大抵は私の方が先に起きていますが、彼の方が先に起きても私に声も掛けずに車を降りるなんて事は無かったのに。
 急に不安を感じて、手早く前髪を髪留めで左右にまとめて垂らすと、後ろ髪をポニーテールにまとめる暇さえも惜しんで車を降りた。

「自転車が無い?」
 北路さんの愛車。此処に着てからずっと定位置だった警察署の駐車場の隅に置かれていた少し古びた感じのするスポーツタイプの自転車が無くなっていた。
 慌てて車に戻ると後部ドアを開けて中に入り車内を調べる。だけど彼の荷物は何処を探しても見当たらない。
 もう二度と戻らないとばかりに何もない。ダッシュボードの上に置き忘れてしまったかのように双眼鏡が残されていただけ。
 単に車を離れたのではない。荷物を持ってここから……多分、町から出て行ったのだろうと気付いた途端、目の前が真っ暗になり、そのままシートに顔を埋めていた。

「どうして……」
 喉の奥に何かが詰まったような声が口から零れる。
 気付くとこぼれた涙がシートを濡らしていた。
 置いて行かれてしまった。北路さんが私を置いて行ってしまった。
 ただその事実だけがグルグルと頭の中でまわり続ける。

 私が北路さんと出会ったのは5日前の朝。
 まだたったの5日前。あの悪夢のような一日。一夜にして地獄となってしまった住み慣れた岩見沢の町から祖父母と三人で逃げ出した朝に出会った。
 突如、助手席の祖母が牙を剥き祖父に襲い掛かる。怪我を負った祖父は車を停めると「生きてくれ」と言い残し、まるで町の人たちと同じ様に人が違ってしまった祖母を誘い出して車を降りていった…………
 襲い掛かる絶望感に、私は祖父の最後の言葉、私に託した願いすら投げ出して、生きることを諦めかけたその時に彼は現れた。
 彼が現れなければ車を運転することも出来ない私は、あの場に一人取り残されて人ではなくなってしまった祖父母の姿に正気を失い、そして今生きている事はなかったはず。

 そんな私にとって命の恩人である彼に、私は最初から心を開いてはいなかった。
 彼が名前を名乗って「よろしく」と差し出した手を握ることが出来なかった。
 彼の大きな身体から発せられる威圧感は車内を息苦しくし、更に見知らぬ男性であることが恐ろしさすら覚えた。
 私に悲しむ時間すら与えずに次々と、思い出したくないことを尋ねる彼を、何て冷たい人だろうとも思った。

 でも時折、彼が深く考え込む様子を見て、私は悲しんでいるのは自分だけではない事にやっと気付く。
 彼の故郷の札幌も岩見沢と同じようになっているのなら、彼の家族や親しい人たちは……そう考えると自分の事しか考えて居なかった自分が恥ずかしく、彼に申し訳なかった。
 辛い現実を突きつける様なことを言ったのは私に現実を直視させるため。
 優先順位という言葉を出して、生き残るためには何よりも自分を優先させろと私に言いながら、彼は自分自身を最優先にはしていなかった。
 1人でも多くの人を救うために必要な情報を手に入れるためゾンビを相手に危険を冒すことも辞さなかった。

 多くの人が自分が生き残る意味を自分の中に見出すしかない様な状況下で、守ってくれる人が居る。
 おぼろ気な記憶の中にしか残っていない父と母。そして祖父と祖母の家族以外の誰かに守られているという感覚が心地よかった。
 失った家族の代わりを彼に求めているのでは?そんな後ろめたさと共に、私は彼へ強く好意を抱かずには居られなかった。
 彼の判断力に行動力。そして強さが、私の中の女としての本能を強く呼び覚ます。
 自分の中にこんな激しい感情が眠っていたなんて考えたことも無かった。
 強く誰か求める想い。祖父母に感じていた優しさに包まれるような暖かい感情とは全く別な熱い気持ち。
 私は彼を愛している。
 彼が隣にいるだけで胸がドキドキと高鳴る。(第4話参照)
 彼が愛おしい。彼の無骨な男臭い作りの顔が、その中で可愛さすら感じられる愛嬌のある目が、厚みのある胸板が、広い背中が、全てが愛おしい。
 町を友達を祖父母を、失われてしまった全てを埋めるように、彼の存在が私の心の中でどんどん大きくなっていく。
 私は彼に狂ってしまっているのかもしれない。
 それなのに彼は私の元を去ってしまった。私を置いていなくなってしまった。
 身体が震え出す。手が膝が、全身が震えるのを止められない。止める必要すら感じられない。
 もう何も無い。私には何も無い。生きてる意味すら感じられない。このまま何も感じない石になってしまいたい。


 気付くと私は後部座席のシートに倒れこんでいた。
 心の傷は、どんなに痛みを与えても死ぬほど辛くても、死なせてはくれない。
 ドア叩く音がする……そういえば、私はこの音に目覚めさせられた気がする。
「原さん……?」
 窓の外でドアを開けろと手振りで指示する彼に、私はドアを開けた。
「嬢ちゃん……一体どうしたんだ?」
 原警部補が何を言いたいのかは分かっている。
 でも泣き腫らした目を取り繕ったりする気は全く起きない。
「……北路さんが居ないんです」
「き、北路?」
 突然、何の根拠も無いというのに、彼が北路さんについての何かを隠していると分かってしまった。
 自然と私の両腕が伸びて、彼のくたびれた背広の襟を掴む。
「何処?」
「ど、何処って?」
「北路さんは何処に居るの?」
 下襟の生地が、私の指の間からミシミシと悲鳴を上げる。
「教えて下さい。彼が今何処に居るのか」
「わ、分かった教えるから手離せって」

「北路は今、上富良野に向かっている。自衛隊と接触したいってな」
「自衛隊……そういえば。上富良野の駐屯地にいずれ行くって行ってました」
「だから……ちょ、ちょっと待て何処へ行く」
 デイパックを背負い車を降りた私を原警部補が呼び止める。
 何処へ?愚問です。
「上富良野に行きます」
 それも走っていきます。全力疾走です。
 耳の奥で轟々と何かがうなりを上げる。アドレナリンが頭の中から零れ落ちそうです。
「まずいって。今嬢ちゃんが上富良野に行くのは色々まずいんだって」
「でも行きます!」
「あ、あのな。今行くと北路の奴に迷惑が掛かるぞ。それに用事が済んだら戻ってくるんだから」
「も、戻ってくるんですか?」
「当たり前だ。アイツが嬢ちゃんを置いていくはずが無いだろ」
「本当ですか?」
「本当だ」
 じっと彼の目を見る。
「本当だ。嘘じゃない!……そ、それにアイツが上富良野に行ったのだって……」
「行ったのだって……何ですか?」
「嬢ちゃんを守りたいからだって………………言ってたような、言ってなかったような」
「私を守りたい……」
 余り耳に心地よい言葉に、その後何か言ってたような気がしたけど、まるで耳に入りません。
「この町を嬢ちゃんが安心して暮らせる様にって頑張ってる………………んだよな多分」
「北路さん。私のために……」
 そう呟くだけで、ドクドクとエンドフィンが耳から流れ出しそうなほどの多幸感が押し寄せてきて、私の意識は白く焼け付いてしまった。
「北路……すまない。なんつうかすまない」
 原警部補が何かを言ってるような気がしたけど、今の私にはどうでも良いことだった。



 ゾックと北路の背筋に走った悪寒。彼にはそれが何か良くない事を知らせのような気がした。



[32883] 【21  07/20(月)13:10 陸上自衛隊上富良野駐屯地傍】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/05 20:19
 再びテントに戻った俺は、忙しく準備に走り回る隊員たちの気配を帆布越しに伺いつつデイパックをテーブルの上に載せると中に手を入れ、着替えを入れた袋の中から警察無線機を出して、デイパックの中を覗き込みながら無線機に携帯オーディオプレイヤ用のヘッドフォンを接続する。
 スピーカーを左耳にだけ装着し、デイパックの開口部に顔を寄せ、一見テーブルに突っ伏して居眠りでもしているように見える姿勢で原警部補を呼び出した。
「自衛隊の部隊と接触に成功。上富良野町内全域をゾンビが占拠。また自衛隊駐屯地もゾンビにより占拠。どうぞ」
『駐屯地もだ?じゃあ接触した部隊とは何だ?どうぞ』
 駐屯地がゾンビに占拠されるに至る状況と、俺が接触した部隊が、避難誘導のために駐屯地外で活動中の部隊と、一部の脱出に成功した隊員の寄り合い部隊である事を伝える。
「今晩、駐屯地奪還の作戦を実行するようですが、詳細は不明。どうぞ」
 富良野市では原警部補の独断で俺や和田さんたちが借り出されたが、流石に自衛隊は民間人である俺の手は借りる気は無い様で、最低限の情報は教えてくれるものの作戦の詳細などは一切不明だった。
『自衛隊の部隊は我々と協力できると思うか?どうぞ』
「接触した部隊は、この状況下で暴走することも無く自衛隊として行動しているので信用できると思いますが、駐屯地奪還が成功した場合、指揮権は駐屯地内で生き残っている上級指揮官に移る可能性があるため、その判断は明日以降にならないと無理です。どうぞ」
『じゃあ……失敗した場合はどうなる?どうぞ』
 失敗した場合──それを考えていなかった自分に呆れる。
 何の根拠も無く状況は良くなるとしか考えていなかった。
「想定内だから成功して、想定外だから失敗するんです……どう失敗するかが想定出来ないので、また連絡を入れます。どうぞ」
『……逆切れかよ。分かった。連絡を待つ、おい、嬢ちゃ……北路さん!』
 突如右耳から文月さんの声が聞こえる。
 多分気のせいだ.
『北路さん!北路さん……ぅぅぅ』
 気のせいじゃない。それどころか泣き始めてしまった。
「文月さん」
 ごめんの一言でも言おうかと話しかけるが、向こうは発信状態で俺の声は届かない。
『……ぅっぅぅ北路さん…………』
 彼女的には多分俺が何かを言うのを待っている状態なのだろうが、相変わらず向こうは発信状態。
『……あ、あのな嬢ちゃん。そのままじゃ向こうの話は聞けないから、まずどうぞと言った後、そのスイッチを、そうそれを……』
 原警部補の指示で、やっと向こうの通信機が受信状態になったようだ。

「文月さん?どうぞ」
『北路さん。置いていくなんて酷いです…………嬢ちゃん話し終わったら、どうぞだ──は、はい。どうぞ』
「ごめん悪かった。どうしても今回は連れて行く訳にはいかなかったから。どうぞ」
 自衛隊相手に辻褄合わせた作り話なら幾らでも考えられる。
 いざとなった時に、彼女を連れて逃げ出せる自信が無かったから置いてきただけだ。
『必ず帰ってきてください……おっもう良いのか?そうか。という訳だ。さっさと帰って来いよ。どうぞ』
 文句の一つでも言われると思ってたのだが、余りにあっさりと引き下がった彼女の態度に違和感──というより不気味さすら感じたものの、突っ込みたくなかったので聞き流した。

 腹警部補たちとの通信を終えた後、俺は机に突っ伏して一眠りした。
 今朝いつもより早起きした挙句に、疲れても仕方ないだけの仕事をしたのもあるが、一番大きな理由は何もやる事が無い退屈さが眠気を誘う。
 本当に民間人には何も手伝わせる気は無いようだ。勿論自衛隊としてそれが当たり前の対応なので、彼らに不満を持ってるわけではない。
 だが何もしない退屈さが現状において苦痛であるのは確かだ。
 仕方なく暇つぶしを兼ねて原警部補に言われた自衛隊の作戦が失敗した場合について想定してみる。
 作戦は闇の利を生かすことの出来る夜間戦になる筈だ。
 光でゾンビたちを引き寄せるのにも、闇の中から光に照らし出されるゾンビを一方的に殲滅するためにも、作戦実行は夜だ。
 作戦の失敗時の最悪の状況は『自衛隊は全滅。ゾンビはほぼ数を減らすことなく10000体弱が駐屯地から溢れ出る』だろう。これを基準にして考えるべきだ。
 正直なところ、どうやったらそんな状況が起こり得るのか疑問だが、それは考える必要は無い。その最悪の状況下で、どうやって生き延び、無事に富良野市へと戻るかだけを考えれば良い。
『自衛隊は全滅。ゾンビはほぼ数を減らすことなく10000体弱が駐屯地から溢れ出る』
 この場合は、駐屯地から出たゾンビに国道237号線上富良野─中富良野間を遮断される前に逃げ出せるかが鍵だ。
 もし遮断されてしまった場合は、国道237号線を北上してから道道へと抜ける必要があるが、そのルートは正直避けたい。
 距離は1km程度だが道沿いに住宅地がありゾンビが徘徊している可能性が高い。更に2ヶ所の陸橋があるので夜間、見通しが悪い中でスピード落ちた所をゾンビに襲われるという状況で助かる自信はない。
 つまり自衛隊の作戦開始時には駐屯地正門近く、道道299号線と国道237号線が交わるコンビニ付近に居る必要がある。
 そして作戦の失敗を確認したら、朝通ってきたルートを逆にたどり逃げる必要がある。
 その為には、作戦の状況を確認できなければならないが、それが困りものだ。駐屯地周辺なのは確かだがそれが一体何処なのかが分からない。
 更に作戦の失敗を知って逃走した場合にも問題は残る。ルートのほぼ全行程に街灯が無い。
 しかも今日は新月間近。限られたライトの照らし出す狭い範囲の外は全くの闇となるだろう。
 こちらが限られた視界しか得られないのに対して、ゾンビはこちらのライトの光を頼りに集まってくる。
 スピードを出して一気に駆け抜けるべきか、自転車を押して歩いて逃げるべきか判断がつかない。
 ゆっくりと移動すればそれだけゾンビを呼び込む可能性を高めるが、早く走った場合に正面や脇からゾンビに襲われた場合対応が出来る自信は無い。転倒して負傷した場合、それが致命的になりえる。

「実際にその場で判断するしかないか……」
 ため息が漏れる。
 命が掛かってる状況でその場、その場の判断に身をゆだねるのは、どう考えても死亡フラグだ。
 国道をそのまま南下した方が安全かもしれないとも思ったが、良く考えると北海道の田舎道なんて国道だろうが街灯なんて無い。もしくはほとんど無いのが基本だ。
 上富良野町から中富良野町の市街地直前まで真っ直ぐに続く走りやすい道だから、街灯なんてほとんど無くてもヘッドライトがあれば車の通行には何の問題も無いだろう。
 実際、今朝農道から国道237号線に出て駐屯地までの1km弱の間に街灯を見た記憶は無い。
 手詰まりだ「まあ、作戦が失敗すると決まったわけじゃないし」と現実逃避に走ってみたりもするが、小心者の俺は結局は時間の許す限り対応策に頭を悩ませ続ける。
 しかし、安全を期待できるような案は思いつかなかった。

 ゾンビはその身体能力上、人間にとって歩きやすい場所しか移動できない。
 つまり路外などの動きづらい場所にゾンビがいる可能性は低いはず。道を走る際に左の路肩に寄って走れば、前方と右の路上側だけを注意すれば、車載ライトと手持ちタイプのライトの二つで安全な視界を確保できるはず──これが辛うじてひねり出した案だが問題点もある。
 『ゾンビが路外を移動できない』は確信できる。これが間違っていたとするなら諦めもつく。しかし『ゾンビは路外にはいない』は推測に過ぎない。
 可能性が低いとはいえ万一そこにゾンビが潜んでいた場合。確実に致命的な事態に陥る。
 また路肩に寄って走るため、前方と路上側の両方同時にゾンビが現れた場合、少しでも発見が遅れればそのままゾンビに突っ込むしかなくなってしまう。

 俺はダラダラと生き続けてきた年季の入った自殺志願者だけに、死ぬ事に関して考える機会は常人とは比較にならないほど多い。
 当然、死に方にも色々こだわりがある。人に迷惑をかけずに死にたいとか、みっともない姿を晒して死にたくないとか、自殺と思われないように死にたい等々数え上げればきりがない。
 間違ってもゾンビに食われた挙句にゾンビとなって蘇るなど真っ平ごめんだ。
 いっそのこと、テントの梁の部分に紐をかけて首吊り自殺した方がマシな気がしてきた。
 いや、本来ならこの騒動に気付いた段階で自殺しているはずだった。
 どこかの山の中に入り首吊りでもすれば、誰にも見つかることなくゾンビになることもなく死ねたはずだ。
 それを選択しなかったのは、ひとえに文月さんの存在があったからだ。
 あの日の朝。彼女に出会わず、そのまま自転車で山をおりて、人々がゾンビに追われているのを見て状況を把握したなら、間違いなく人生のゴールインを選択していただろう。
 俺は彼女と出会い、彼女を守るために死を選ばずに生きてきた。しかし逆に考えれば俺は彼女に生かされてきたのだ。
 自分自身の中に生きている意味を見出せない俺が、彼女を通して自分が生きる意味を見出した。
 彼女は俺に感謝しているようだったが、何の事はない彼女は自分で自分自身を救っていた。
 思わず口から笑い声が零れる。
 ならばなおさら死ねなくなった。彼女は自分で生き残るための手段を手に入れたのだ。彼女はこの糞ったれな世界を生き残るための権利を自分で手に入れた。
 その手段である俺が勝手に役目を放り出す訳にはいかない。
 俺は彼女に必要とされる限り、死ぬその瞬間まで彼女を守り続ける。それも悪くはない。
 多分それは長い事にはならないだろう。だが俺が死んだ後も彼女が生き残れる様に可能な限り手を尽くそう。
 俺はそう決意した……決意したが、だからといって良い案が浮かぶというわけでもなかった。

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今更な古いゲームにハマリ、寝る暇も惜しんで遊んでたため更新が遅れました。
目が疲れて、今も文字が読みづらいほどですw



[32883] 【22  07/20(月)20:05 陸上自衛隊上富良野駐屯地傍】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/06 22:51
 突如としてテントの外が騒がしくなる。
 慌しく隊員たちが駆けて行く足音を聞きながら時計を確認すると時刻は20:00を過ぎている。
 作戦の為に隊員達が配置場所へと移動を始めたのだろう。
 俺はテントを出ると、布製のガムテープで自転車にLEDのハンドライトを固定する。
 前方を向いた車載ライトとは異なり、右側に30度傾けて取り付ける。結局これに懸けるしか手はなかった。
 お願いだからこれの出番がありませんようにと、こんな時ばかり神にも祈りたくなる無神論者。
 まあ自慢じゃないけど俺の場合、起きて欲しくないことは大抵起きるんだが……

 硬い靴底がアスファルトを鳴らしながら自衛隊員の一団がテントの前を通りかかる。
 その中に見知った顔を見つけて声をかけた。
「あっ!角田ぁ~中さん」
 角田と言う名前は俺が勝手に心の中で呼んでただけだという事に途中で気付き、完璧にリカバリーしたはずだった。
「一体何だ。その昭和の大汚職政治家みたいな名前は?」
 俺の前で足を緩めた田中二等陸曹の顔にははっきりと嫌そうな表情が浮かんでいた。
「作戦はどうなってるんですか?」
 緩めるも止まってはくれないので、俺は彼を追いかけて並走して話しかける。
「作戦開始は21時だ。警備以外の隊員は全て駐屯地南側に展開している……何だその顔は?」
「いや、にーいちまるまるとか言わないのかな?って思ってな」
「生まれた時から自衛隊員やってるわけじゃない。それに隊員同士でも職務外では普通に話すさ。まあ、そういう訳だからうろちょろしてないでじっとしてろ。間違っても興味本位で近づくなよ。流れ弾で死んでも知らんからな」
 ぶっきらぼうな言い方だが彼なりの配慮を感じた俺は素直に礼を述べる。
「ああ、ありがとう」
 立ち去る彼の背中を見送りながら「嘘ついてごめん」と小さく呟く。じっとしてる気なんてあるはずが無い。

 作戦開始時間は21:00。作戦で使われる場所は駐屯地南側。
 やはり正門前にあるコンビニまで移動しておかないと、彼らの作戦が失敗した場合に逃げるのに問題があった。
 北側なら何かあっても、ゾンビが駐屯地から出たとしても国道237号線を塞ぐまでには時間がある……というか塞がない可能性の方が高いな。
 俺がゾンビだとしても人間の気配が薄い国道237号線を南下するよりは、上富良野町の市街地や住宅街に向かうだろう。

 俺は隊員たちの移動が収まるのを待ち、時計が20:45を指すと俺はテントを出て自転車にまたがり道道299号線を南へと向かう。
 国道237号線との合流地点のバリケードを警備する隊員に咎められるかと思っていたが、彼らがテントに戻れと指示をすることはなかった。
 そもそも俺の存在自体が重要視されているわけでもなく。テントに拘束しろと言われているわけでもない。
 むしろ外部の情報に飢えていた彼らは積極的に俺に話しかけてくる。
 俺が佐藤1等陸曹と山田二等陸尉に伝えた話は、全ての隊員に伝わっているわけではなかった。

「札幌から来たって本当ですか?」
 まだ10代だろう若いというより高校生のような子供っぽさを残した隊員が俺に話しかけてきた。
「……実は、自分も実家が札幌なんです」
 実家の家族が心配なのだろう、札幌の様子を不安そうに尋ねてくる彼に、事件が発生する前に札幌を離れたので、事件後の札幌の様子は知らないことを伝えた。
「そうですか……」
 がっかりとした様子で肩をおとす。
 札幌の真駒内駐屯地との通信が途絶えたことは彼も知っているのだろう。彼も家族や友人たち安否が絶望的であること理解しつつも、それでも実際に状況を見た人間からの情報を知りたかった筈だ。
 両親の生存の可能性を早々に諦めてしまった俺とはえらい違いだ。

「しかし皆さんは良くこの状況下で、個人ではなく自衛隊の隊員として行動が出来ますね」
 正直疑問に思っていた事だ。
 午前中バリケードにゾンビの群れが押し寄せた時、田中二等陸曹達が逃げ出さずに死守を選ぼうとしたのを見て、何故彼らはこんな状況になっても任務に殉じようとするのか不思議だった。
 部隊は存在しても日本国も防衛省も存在しない。つまり給料を払う相手が居なければ、脱走というか部隊を勝手に離れることを裁く相手も存在しない。
 確かに自衛隊と言う枠組みの中に踏み止まり続ければ、仲間も居て安心出来て、更に以前までの日常の延長を味わうことも出来るだろう。
 だが、それは命を懸けてまでするべきなのだろうか?

「戦地では隊員一人一人が個である自分を捨てて部隊を維持し続けることが、結局自分の命を救うって事を我々は知っているんですよ」
 俺よりも年かさの下士官と思わしき隊員が笑顔で答えた。
「部隊を維持できないような状況下では、そもそも一人では生き残ることは無理ですからね。何よりも先ずは部隊を維持するんですよ」
 彼らは彼らなりに生き残る手段として、自衛隊という枠組みを活かし続けているのだ。
「なるほど……」
 彼の言葉に頷きかけた時、背後で爆音が響き渡る。
 振り返ると同時に、東の夜空を煌々とした明かりが照らす。
「始まったようです」
 俺に21:00を指す左手の時計を示しながら言うと同時に銃声が響き渡る。
 この一週間。富良野市でも何度か聞く機会のあった銃声だが、密度が全く違う。たった1秒で今まで耳にした銃声の数を軽く凌駕している。
 耳障りな音ではあるが、こうして聞くととても心強く感じられる。
「勝てますよね?」
 途切れる事無く撃ち続けられる銃の火力に、気が大きくなっていたのだろう俺は下らないことを口にした。
「勝ちますよ」
 俺の言葉に隊員たちからは力強い言葉が返ってくる。
 その言葉に笑顔で返事を返そうとした時。
 有史以来人類が築き上げてきた文明の集大成の一つが音も立てずに滅んだ。

 闇・闇・闇。
 何処を向いても漆黒の帳のみが視界を埋め尽くす。
 傍のコンビの明かりだけではない。東側を照らしていた駐屯地の照明も消えている。
 北を向いても市街地の明かりは無く、南にうっすらと見えていた中富良野の町の明かりさえも見えない。
 慌ててウエストポーチからヘッドマウントタイプのLEDを取り出して明かりを灯す。
 隊員たちも雑嚢から懐中電灯を取り出すと明かりを灯して周囲を警戒する。
「インフラが……送電が止まりましたね」
 顔を見合わせて、分かりきった事を敢えて口に出す。
 何が最悪の事態を想定するだ。
 何時までも電気や水道の供給が保たれる筈などないと理解していながら、今起きてるこの状況を全く考えていなかった……とんだ間抜けだ。

 俺は隊員たちに指示ではなく提案をする。
「山田二尉と連絡が取れるなら退却を進言した方が良いですよ。ヤツラは人が居ない場所には居ないから、何処か離れた場所……山の中にでも逃げ込めば。誘き寄せでもしない限りは寄ってこないはずです」
「山の中?」
「連中は足が遅いし、それに強い目的意識を持って人間に襲い掛かっている訳ではないから、人里から距離をおけば遭遇する可能性は一気に減るでしょう。それに連中が路上に集まるのは、僅かな障害物でも歩行出来なくなるから道を歩くしか移動できないんですよ。こちらが道を外れて移動すれば連中に出来るのは這って追っかけるくらいです」
「なら演習場か……分かりました」
 無線で連絡を始める彼らを他所に、俺は自転車へと移動してデイパックを背中に担ぐ。
 札幌出身と言っていた若い隊員が俺に気付き近寄ってくる。
「どうするんですか?」
「悪いが、一旦この場を離れる」
 思わず強い口調が出てしまったことで、俺は自分が焦りを覚えていることに気付く。
 この自衛隊駐屯地がどうなるか以上に富良野市や文月さんたちの事の方が気に掛かる。
 一刻も早く無線で連絡を取りたかった。
「ここから離れてどうする気ですか?一人でなんて無茶です」
「自分の安全は自分で守らせてもらうさ。国道237号線を1kmほど南下した位置で待機して、様子を見てもし危険を感じたら農道から山の方へと逃げ込むつもりだから危険は無い……それよりこんな状況で力になれなくて申し訳ない」
「いえ市民を守るのが自分達の仕事です。なのに力に慣れなくて申し訳ありません」
 富良野市の事は話さないと決めてるため、どうしても嘘交じりの話になるため、真摯に返事をされると心が痛む。
 俺は死んでゾンビになろうがなるまいが地獄には落ちるだろうな。



[32883] 【23  07/20(月)20:05 国道237号線。陸上自衛隊上富良野駐屯地正門より南に1km】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/06 22:52
 駐屯地を離れた俺は農道との合流地点で自転車を停めると警察無線で原警部に連絡を取る。
『北路。やばいことになっちまった。電気の供給が止まっちまったぞ。どうぞ』
 富良野市に停電が無い事を期待していた訳ではないが、万に一つの希望も打ち砕かれた。
「そちらだけじゃなく上富良野も、それに中富良野も止まったみたいだ。どうぞ」
『やはり、そうか……』
 向こうも俺と同じ考えだったのだろう。予想通りの事実に原警部補の声色が沈む。
『それで自衛隊の作戦はどうなった?どうぞ』
「現在作戦実行中……というよりも作戦開始直後に停電が起こり作戦は失敗しつつある状態。早く撤退すれば良いのだが。どうぞ」
『そいつはまずいな。こちらも混乱が酷い。一部の馬鹿どもが暴動を起こしてる。どうぞ』
「暴動。なんだってそんな事が?……どうぞ」
 こんな状況で暴動とは暢気な連中だ生き残る気はあるのか?
『市民の1割弱がこの騒ぎで死んだ。多くの奴が家族や恋人・友人を失っている。それに今後への不安とでストレスが掛かった状態が続いた中での停電だ。タガが外れちまったんだよ。どうぞ』
「それにしてもそんな事してる場合じゃないでしょう……それで文月さんはどうしていますか?どうぞ」
 無事かどうかは心配しない。その程度には原警部補を信頼している。
『まあ誰もが感情に理屈を優先させられる訳じゃない。それから嬢ちゃんは警察署の中に居るから安心しろ。どうぞ』
「了解です。俺は暫くここで様子を見ます。どうぞ」
『ちゃんと安全は確保できてるんだろうな?どうぞ』
「ええ、国道237号線の上富良野よりの場所ですから、中富良野方向からは距離もあるのでゾンビが集まってくる可能性はほとんど無いですし、駐屯地から出てきたゾンビが迫って来ても、脇の農道に逃げられるから大丈夫です。どうぞ」
『そうか、それなら夜が明けるまでは、こっちに戻ってこない方が良いだろう。こちらの暴動に巻き込まれる危険があるからな。どうぞ』
「了解。引き続き駐屯地を監視する。どうぞ」

 通信を終えて、展開している部隊の様子を少しでも把握しようと暗闇に向けて目を凝らす。
 停電の後、車両──多分、82式指揮通信車が駐屯地に向けて照明を照らし続けているが、その明かりを目当てにゾンビたちが集っている様に思える。
 はっきり見えている訳ではないが、82式指揮通信車を遠巻きにした周囲で線香花火のような小さな光──マズルフラッシュが爆ぜ続けている為だ。
 82式指揮通信車を囮として部隊が撤退しているなら良かったのだが、彼らは作戦の続行──もしくは、駐屯地にゾンビを封じ込める為に死守を選択したのかもしれない。
 だが気になる事が一つあった。82式指揮通信車が光を投げかける駐屯地側の闇の中にも少なからずマズルフラッシュを見た気がする。この距離で位置関係もハッキリせず見間違いの可能性もあるが……
 自衛隊員等は、既に水平発射による流れ弾の心配など忘れているように撃ちまくっている。やがてこちらにも流れ弾が飛んでくるだろう……などと思ってる傍から、数mはなれた左手のアスファルトの上で甲高い金属音が鳴る。
 俺は慌てて道路脇の畑へと飛び込み、畑が道路より低くなっているので道路との段差を壁にして身を隠す。

 銃声は中々鳴り止まない。これが収まるまでは危なくて頭を出すことも出来ない。
 そうしていると、それまでのアスファルトや自分の頭を飛び越えて畑の土に着弾する音とは別な、カン!という何か硬い金属に着弾したような音が鳴り響き、続いてガシャンという何かが倒れる音が響く。
 俺の自転車に銃弾が命中して壊れたと言う可能性に結びつくのに3秒ほどの時間を要した。
「あぁぁっ!」
 思わず悲鳴が口を突いて出て行く。
 自転車が!自転車が!俺の愛車が!ガッデム!シット!サノバビッチ!!!と怒るほどの思い入れは無かったりする──大学時代に実家の母親から物置で場所塞ぎになってるからどうすると聞かれて、欲しいって人が居たらあげて良いよと言った位だ。
 しかし大切な移動手段が、その有無が今後の生死に関わりかねない重要アイテムが失われた可能性が高いとなれば。そりゃあ悲鳴の一つも上げるだろう。

 銃撃は五分ほど続き、そして突然止まった。
 道路の端から慎重に頭を出して周囲を伺う。
 倒れた自転車に取り付けられた二つのライトは生きていて、それぞれの向けられた方向に光を投げている。
 ヘッドマウントライトで、倒れた自転車の状態を確認しようと道路へと這い上がろうと足を掛けた時、アスファルトをズリッズリッと引きずるような小さな音が右から聞こえてきた。
 ここ数日ですっかり聞きなれてしまったゾンビが舗装された道路を移動する音。
 音の響きからまだ、ゾンビとは距離があると判断した俺は右を振り返ることなく、路上へ身体を引き上げると自転車に駆け寄る。
 そしてメタルラックのポールを引き抜い……「あれぇ?」間の抜けた声が唇の間から抜けていく。
 俺の右手に握られているのは50cm程に短くなってしまったポール。
 先程の銃弾は自転車本体ではなくコイツに命中していたのだ。
「くそっ!」
 手元のポールを左手に持ち変えると、右手で残ったポールを引き抜きゾンビを振り返えると、2本になったポールを両手に構える。
 二刀流の心得など無いが得物を手の延長と考えた時に短い左で牽制して右で止めを刺す……そういえばゾンビが相手だと牽制もフェイントも大した意味無いよな。
 収束されたスポットビームとは違い、ヘッドマウントライトは広角で投光する反面、周囲に反射する物がある室内と違い野外では5m以上先は急速に照らし出す力を失い、10mも先となると、人影が存在することを確認できてもそれが人間なのかゾンビなのか判断することは出来なくなる。
 その光の先の闇の中からゾンビがゆっくりと姿を現した。
 左半身をゾンビに対し前に構えて、肩と同じ高さまで左の肘を持ち上げ、肘と手首だけを使って短い方のポールをゾンビに投げつけた。
 ポールは縦に回転しながら飛び、2回転と惜しくも1/4で禿げ上がったゾンビの頭に当りゴンと音を立てる。
 立ち止まり俺から注意がそれたゾンビを無視し、360°身体の向きを変えながら周囲を確認する──少なくとも、光の届く範囲に他にゾンビの姿は見当たらない。
 安全確認を終えると背後に接近してきたゾンビへ、振り返り様に横一閃した右手のメタルポールが、暗闇に赤い花を咲かせた。
 慣れてしまえば、ゾンビ相手に一対一なら戦いではなく作業に過ぎない。

 国道237号線沿いのこの一帯は、自衛隊がバリケードすら設置していない安全地帯のはずだった。
 南富良野との間は農家が点在する程度で、しかも駐屯地への避難が終了しており、人間が居ないことでゾンビを引き付ける物が無くなり、距離が壁となり中富良野のゾンビはこちらには向かってこないと思っていた。
 ならば俺の前に横たわるこのゾンビは何処から現れたのだろうか?
 間違いなく国道237号線の南から接近してきた。何かの切欠がって南富良野から流れてきたはぐれゾンビじゃなければ、この辺一帯の住人の誰かが無人となる前にゾンビ化した事になるが、農家の家族の中に町に出てゾンビに襲われた者が居たのだろうか……それともゾンビから人への感染という手順を踏まず、突如として普通に生活をしていた人間がゾンビ化したのか?
 この事件は一つの感染源から広がったものでは無いのは間違いない。ゾンビから人への感染ではなく、直接人間がゾンビ化する現象が多くの場所で起きているはずだ。
 謎の解決は俺の手には負いかねるが、それを忘れる訳にはいかない。
 このふざけた自体を引き起こした犯人は、いつか報いを受けるべきだ。

 倒れた自転車を起こすとハンドルに布ガムテープで固定したLEDライトを外すと、スポットビームで国道237号の南側と農道の先を照らしてゾンビが居ないのを確認する。
 次いで国道237号線の北側と、駐屯地へとライトを向けて確認した──少なくともここを中心に40mの範囲にはゾンビの姿は無い。
 その時、駐屯地南側で動きがあった。
「今更かっ!」
 82式指揮通信車が後退しゾンビを引き連れながらこちらの方角へバックで走ってくる。
 この状態で周囲の隊員からの発砲が無いということは、彼らは反対側へ撤退を開始し、その間の囮として82式指揮通信車はゾンビを引きつけているのだろう。
 しかし、停電直後に撤退を選択しなかった指揮官が、今になって撤退を選んだ理由を考えると眩暈がする。
 部隊に大きな損害を出して、変えたくない考えを変えたと考えるべきなのだろう。
 どの程度の被害が出たか分からないが、戦力の低下は決して少なくは無いだろう。
 しかも光を失った人間に、夜の闇は味方することは無い。
 明日以降に残った戦力でゾンビ殲滅が出来るくらいなら、何日も前にゾンビなど片付いてるはずだ。
「……畜生っ!」
 頭の中が絶望で真っ黒に染め上げられる。
 単に対ゾンビの貴重な……いや、唯一の戦力が失われただけじゃない。
 あの場には田中二等陸曹をはじめ、知ってる隊員たちだって居る。
 たった2時間程前には多くの隊員と一緒に飯も食った。友人と呼べるほど親しくは無くても全くの他人じゃない。



[32883] 【24  07/20(月)21:50 国道237号線。陸上自衛隊上富良野駐屯地正門より南に1km】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/08 20:39
 駐屯地の奪還失敗により上富良野から南富良野までの一帯からのゾンビの駆逐は、出来たとしても来年以降にずれ込むだろう。
 しかし、それでは遅すぎる。
 富良野市を中心とした数万人の生存者が生き残る上で最大の問題はゾンビによる危険ではなく食料の調達となる。
 必要カロリーの摂取は農作物がメインになるだろうが、数万人程度の人口を支えられるだけの生産能力は間違いなくあるはずだ。
 しかし、それは安心して農作業を行える環境があればこそであり、さもなければ今年の収穫に大打撃を与えるのは間違いない。
 その場合。来年の収穫まで食料が保つ保証はどこにも無い。
 なんとしても短期間にゾンビを駆逐し今年の収穫を確保して、来年以降の収穫に繋げなければならない。
 勿論、農業用機械も農薬や化学肥料も使えなくなる来年以降は、何らかの手を打たなければならないだろうが、そんな心配が出来るのも今年の収穫があってこそ。
 今年、十分な収穫が無ければ全てが無意味になってしまう。
 俺が漠然とだが考えていた富良野市を中心とした生活圏の確立は難しくなってしまった。

 呆然と立ちすくむ俺の視線の先で、後退を続けた82式指揮通信車が畑から農道に出ると東へと走り去る。囮の役目を終えて撤退を始めたのだ。
 バリケードに居た隊員達は撤退を終えたのだろうか?
 ならば俺も撤退を考えるべきなのかもしれない。
 82式指揮通信車が囮としてゾンビをひきつけながら、こちらへと後退したおかげで、ゾンビとの距離は最初の半分ほどに迫っている。
 ハンドライトを再び布ガムテープで自転車のハンドルに固定し直す。
 二つに折れたメタルラックのポールの長い方を自転車のフレームに取り付けようとした時。
「…………」
 闇の中から誰かが呼ぶ声が聞こえたような気がした。
 自転車のハンドルを握りライトの明かりを声のした北へと向けると、そこには足を引きずりながら近寄ってくるゾンビの姿があった。
 いや、ゾンビにしては足が早い。
 ポールを上段に構える。
「……待って下さい」
 ゾンビが話しかけてきた。言葉を話すゾンビは今のところ見た事が無い。つまり……
「まだ、人間ですからそんなので殴らないで下さい」
 現れたのは、先程話をした札幌出身の若い自衛隊員だった。
 彼の引きずる右足は、ズボンの太股の外側が引き割かれており、そこから下は赤く血で染まっていた。
 俺が駆け寄ると、安心したのか彼の顔の表情から力が抜けてそのまま地面に座り込む。
「噛まれたのか?」
「はい……あなたが去った後……背後から流れ弾が我々の部隊を襲い。混乱したところをゾンビにバリケードを破られました」
 最悪だ。
 俺の居る場所に流れ弾が飛んできたのは、そこに俺が居る事を部隊の連中が知らなかった為だが、バリケード警備の隊員たちを流れ弾が襲ったと言う事は、作戦実行部隊にかなりの混乱が発生した事を意味する。
 訓練された隊員が混乱を起こすほどの事態だ。部隊に生じた損害は想像以上に酷いのだろう。
 もう作戦の失敗とか言うレベルではなく、自衛隊はゾンビに敗北したのだ。
「何とかゾンビは排除できたんですが、生き残ったのは自分だけです。もう……部隊に合流するのも無理なので……自決も出来ず、そのまま一人で死ぬのも怖くて……ここなら貴方が居るだろうと思って…………」
 大量の出血で彼の意識レベルが急速に下がっていくのが素人目にも分かる。
「しっかりしろ」
 彼に声を掛けながら、デイパックの中からバスタオルを取り出し、彼の太股の傷口を強く締め上げる……気休めだと分かっていながらも、作業をする手は止まらなかった。
「……自分が死んだら……後を頼めますか?……あんな姿で、何時までも屍を晒し続けるのは嫌だなぁ……」
「分かった。任せろ……」
 弱々しく笑う彼に、俺はそう言って頷くしか出来なかった。
「よろしく頼みます……それに、死んだ仲間達から……出来るだけ銃弾を回収してきました……自分の装備を……役立ててくれると嬉しいです……」
「分かった……」
「……後、これも貰ってもらえますか……」
 彼が震える手で差し出したのは透明なビニールカバーの付いた1枚の金属片──認識票。映画に出てくる米兵がネックレスのように首にチェーンでぶら下げている通称ドッグタグと呼ばれるもの。
 陸上自衛隊を意味する「JAPAN GSDF」の下に彼の名前を示す「TAKASHI KOBAYASHI」の刻印があった。
「……小林たかし」
「たかしは……尊敬の敬です……」
「絶対にこの名前は忘れない」
「それは……嬉しいな……ありがとう……ございます……」
 最後に彼は、力なく震える右手をゆっくり自分の頭へと持っていくと笑顔で敬礼をした。

 国道脇の畑の土を掘り返す。
 小林君が残した装備の中に折りたたみ式の携帯式シャベルトがあったので土の柔らかさも幸いし、20分ほどで十分な大きさの穴を掘ることが出来た。
 小林君の遺体を左手で後頭部を支えるようにして抱き上げる。その身体は思った以上に軽い。
「随分血を流したもんな……」
 死因となった大量の出血はゾンビに噛まれた太股の怪我よりもむしろ、俺が気付かなかった背中の右脇腹の銃創からによるものだった。
 その死に顔は、まるで眠っているかのような安らかだった。
 彼が意識を失った後、俺は身体を揺すり名前を呼んで反応が無いのを確認してから、まだ死んで居ない彼の首をこの手でへし折った。
 だから彼はゾンビになっては居ない。人間として死んだ──そして代わりに俺は初めて殺人を犯すこととなった。
 だが後悔は無い。人間には人間として死ぬ権利があるはずだ。だから俺には彼を人間として死なせてやる義務があった。

 狭い墓穴の底に彼の身体をゆっくりと横たえ、足元から彼の身体に土を被せていく。
 そして最後に、顔へ土を被せる前に、見様見真似のつたない敬礼を彼におくった。
 彼の墓穴の頭のある位置の上の地面に、折れた短い方のメタルラックのポールを突き立て、そこに銃剣で小林敬の名を刻み込んだヘルメットを掛けて墓標の代わりとした。

 弔いを終え、彼の残してくれた装備品を点検する。
 先ずは拳銃を手に取る。皮製のホルスターから抜くと左側上部にSIG SAUERと刻印が読める。
 高校時代にサバイバルゲームで遊んだ経験のあったので、それがシグザウエルと読むことと、それが製造した会社名ということまでは知っている。
 だが俺が愛用していたエアガンは、シグでもグロッグでも無くベレッタだった。米軍やマクレーン刑事と同じ92Fであり、この銃に関しては装弾数も分からなかったのでとりあえずマガジンを抜いて確認する。
 マガジンのサイドには弾の数だけ穴が開いており、マガジン内に何発残っているか確認できるようになっていたが、その数は8つ。
「何だこりゃ?」
 8とはマガジン内の残弾の数ではない。つまりこの銃は8発──薬室内に+1発で計9発までしか装弾出来ない訳だ。
 正直笑うしかない。
 多弾装化という時代の潮流に飲まれ米軍では現役を退いたThe自動拳銃。黒くて硬いパスポートことコルトガバメントは、9mm弾に比べて威力はもちろん嵩も大きな.45ACPを使用しながらも7+1の8発だと言うのに、自衛隊の拳銃は今どき9mmで9発……正気か?
(手の小さな日本人でもグリップをきちんと握れるようにSIG SAUER P220を選んだという説もあるが、それは疑わしい。実際のところP220は9mm弾を使用する装弾数10発以下の拳銃としてはグリップはかなり大きい部類に入る。自衛隊向けに国内でライセンス生産されているものは、グリップを日本人向けに加工してあるが、それでも手の小さい隊員からは握りづらいと絶賛好評を得ている。それはP220が銃身やマガジンを交換するだけで.45ACP弾などを使用できるよう設計されていて、純粋な9mm弾専用拳銃ではないためである)
 折角のホルスターだが、下半身がジャージな俺はこのままでは取り付けることが出来ないので、小林君の遺体から回収した装備品を吊るすためのサスペンダー型の吊りバンドを装着してベルトを通し、その右側に取り付ける。
 拳銃用マガジンが2本入るポウチはベルトの腹側に、銃剣はホルダーごと背中側に吊るし、L字型のクリプトン球ライトをバンドの胸に取り付けた。
 次いでアサルトライフル──左側面に64式7.62mm小銃と刻印がある──は糞重たい。
 どれくらい重たいかと言うと、小林君との約束が無ければ間違いなくこの場に捨て置く位に重い。
 正直なところ、俺はサバイバルゲームで遊ぶくらいだから、これらを使いこなすのに知識も射撃のセンスも不足も無いとは思うが、これらを実際に使う気は余り無い。
 単独行動を取る俺にとって、ゾンビを引き寄せることになる大きな銃声は鬼門だ。
 精々使い道は、よほど追い詰められて銃を使うしかその場をしのぐ方法が無い場合か、ゾンビに噛まれてしまった場合に自殺するのに使うくらいだろう。
 結局64式小銃はデイパックにマジックテープで固定して持っていくことにした。何かあってもすぐには使えないが、使う予定が無いのだから問題は無い。
 水筒と携帯式シャベル。それに救急用品の入った袋はデイパックの中に押し込む。今朝小学校で食料を在庫一掃放出したのでスペースは十分だ。
 問題は雑嚢だ。中には食料や雨具などが入っていると思っていたら、ぎっしりと拳銃用と64式小銃用のマガジンの入ったポウチが詰まっていた。更にもう一丁ホルスターに入った拳銃まであった。糞重たいのも道理だ。小林君との約束があってもこの場に捨てて行くことを検討するほど重い。
 詳しく中身を確認する気力も失い、そっと上蓋を閉じると首と左肩を通して身体の前に来るように身につける。
 すると身体が自然と前屈みになってしまう。致命傷を負っていた小林君にとどめを刺したのはこいつの重さだと確信する。

 他の小間物をまとめてビニール袋に詰めて全ての準備を終えた俺は暗闇の農道へと自転車を走らせる。
 背後には駐屯地から出てきたゾンビが既に数10m傍にまで接近していた。その数は数えるのも馬鹿らしい。100や200ではない。
 暗闇の中、フラフラと車体を左右に振りながら漕ぎ続ける。
 荷物が重たいのでふらついている訳……でも無いこともないが、狭い範囲しか照らし出さないライトの明かりを左右に振ることで少しでも前方の安全を確認するためだ。
 闇をこれほど怖いと感じたのは小学校に上がる前の子供の頃以来だろう。たった100mの距離を走っただけで俺の髪の毛の全てが逆立ち、未だ生暖かい風を受けながら腕には鳥肌が立っていた。

「ワンッ!ワンッ!」
 2kmほど走った所で、ライトが向けられていない左手から突然犬に吼えられた。
 それが犬の吼え声だと判断が出来る前に、身体が反射的に竦んでしまいバランスを崩す。普段なら立て直せる程度のよろめきだったが、元々の旅の荷物 20kg弱に加えて小林君に託された銃器と銃弾等で更に軽く10kg以上が加わっていた上に、フラフラ車体を揺すりながら走っていたのが災いした。
 派手な転倒は避けられたものの、とっさに自転車から降りて地面に足を付いた時に右足首を挫いてしまう。
「イッ……」
 足に走る痛みを堪えながら胸に取り付けた自衛隊の装備品であるL字ライトで周囲を伺う。
 周囲にゾンビは居なかったが、道の左側に農家がありその庭先につながれた犬がこちらに向かって、何かを訴えかけるように必死に吼えていた。
 自転車を起こすと、俺は周囲を警戒しながら農家の庭へと挫いた足を庇いながら踏み入った。

「クゥ~ン」
 ライトの照らし出す光の中に現れたのは、鼻を鳴らしながら和犬独特の泣きそうな目を向けて来る一匹の柴犬。
 この犬が鎖に繋がれたままな理由は、この家の家族が避難する前に犬を連れて行くこと、鎖を離すことのどちらかを忘れた。もしくはその時間が無かった──犬の立場からしたら酷い話だが、これなら問題は無い。問題なのはこの家の家族が避難していない場合だ。
 多分、自衛隊員も市街地の住民の避難を受け入れる一方で、この一帯の農家の住民の避難誘導も行ってきたはずだ。だとするなら……
「ワン!ワン!」
 犬の鳴き声にせかされて荷物の中から食べ物を探す。
 デイパックの中からウェストポーチを取り出す──吊りバンドでベルトをした時に外してデイパックの中にしまっていた。
 ウェストポーチの中から旅の初日に三笠市の大型スーパーで購入して食い残した固形バランス栄養食品のブロックを与えてみる。
 すると凄い勢いで喰らい付くと一瞬にして食べ終えてしまった。随分腹をすかせているようだが、もう他には調味料くらいしか残っていない。
「クゥ~ンクゥ~ン」
 食べ足りないのだろう必死に訴えかけてくる。
 犬のそばに置いてあった水飲み用の更にペットボトルの水を注ぎながら、もしかしたら家の中に家族が、しかもゾンビ化した家族が居るという考えが頭の中で大きくなっていく。
 喉も渇いていたのだろう、必死な様子で水を飲み続ける犬を尻目に、荷物から取り出した湿布と冷却スプレーで挫いた右足首を治療する。今はそれほど酷い状況ではないが絶対に悪化させるわけにはいかない。
 最後にサポーターで足首を固定すると、メタルラックのポールを杖代わりにして農家の庭の中を歩き回る。
 すると庭の片隅に古びて錆びの浮いたトタン張りの小屋があり、中に一台の白い軽トラが止まっていた。
 そういえば田舎の農家では車のキーは常時挿しっぱなしでドアに鍵を掛けないという大学時代の友達の話を思い出し、一縷の期待を込めて近寄ってみる。
 小屋の入り口の外で中を念入りにライトで照らす。身体を伏せて車の下も覗き込んで中にゾンビが居ないのを確認してから中に入り、窓の外からライトを照らして運転席を覗き込む。
 どうやら噂は本当だったようで、キーはしっかり刺さったままになっていた。
 ドアノブをゆっくりと引いてみる。すると問題なくドアは開いた。一度ドアを閉めて、ライトで運転席と助手席の足元も照らして車内にもゾンビが居ないこと確認した。
「こいつはラッキー」と笑みがこぼれる。
 しかし朝、上富良野に向かう途中にある他の農家にも自動車はあった。その時にこの噂を思い出していればもっと楽が出来たし、長々と移動方法に頭を悩ませる必要も無かったのだ。
 車には鍵が掛かっていてキーも刺さってないものだ、という一般常識が邪魔をしたとしか言いようが無い。

 軽トラに乗り込んでキーをまわすと問題なくエンジンが掛ける。ガソリンの残りは半分を少し下回る程度だが十分だ。
 アクセルをゆっくり踏み込んで静かに走らせて小屋から軽トラを出して自転車の傍に停める。
 荷台に自転車とデイパックと雑嚢を積み込む。
「クゥ~ンクゥ~ン」
 準備を終えて軽トラに乗り込もうとしたところで、犬の存在を思い出す。
 鎖から離せば、こいつは一匹で生き残る事は出来るだろうか?
 ある映画の中では地震で廃墟となった無人の村の中で、母犬が鳥を狩ったりして小犬を育てながら生き残ったが、アレは創作で実際は壊れた家の中から食べ物を漁っていたと考えるべきだろう。
 今でも空腹で弱っている様子のこの犬が首輪を外された程度で生き残れるのかは疑問だ。

「……仕方ない」
 農家の玄関に向かうと呼び鈴をこれでもかと連打し、その後ドアをガンガンと叩く。
 一頻り派手に音を立てた後、息を殺し聞き耳を立てて中の様子を伺う。
「いるな……」
 家の中で何者かが音を立てている。
 だが、それは人間が立てる音ではなく、家の中で大型の動物が勝手に暴れているような音……どう考えてもゾンビ。しかも複数体存在する。
 これで家の中に入って食べ物を漁ることは出来なくなった。
 犬の為に、暗闇の中見通しの利かない家の中に入り、ゾンビと戦ってまで食べ物得るという選択肢は存在しない。
 俺がしてやれるのは犬の首輪から鎖を外すことだけだった。
「頑張って生き残れよ」
 犬相手に通じる訳でもないが自己満足でそう言い聞かせると俺は軽トラに乗り込む。

 軽トラのヘッドライトの明かりが照らし出す玄関では、犬が行儀良くお座りをしてドアの前で主人を呼ぶように吼え続ける。
 決して開けられぬドアを前で、あの犬は何時までも待ち続けるのだろうか?
 ドア一枚を挟んだ向こうにいるのは、あの犬が愛し、あの犬を愛した飼い主では最早無いのに……
「おい!お前も来い。明日の朝には飯を食わせてやるから!」
 俺の声に犬はこちらを振り返る。そして「クゥ~ン」と小さく鼻を鳴らすと、ドアに向き直りまた吼え始める。

 苦い思いを噛み締めて軽トラを発進させると農家を後にした。必死に訴えかけるような犬の鳴き声が何時までも耳から離れなかった。



[32883] 【25  07/20(月)22:15 中富良野南中小学校】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/08 20:40
 中富良野南中小学校。
 再びここに戻ってきたのは、一夜を明かす場所として、ここ以外に安全と思える場所が存在しないからだ。
 富良野市の暴動がどうなったのかはわからない。無線で連絡は入れてみたが『取り込み中だ。嬢ちゃんの事は心配するな。何かあったらこっちから連絡する』とだけ原警部補は口早に告げると無線を切ってしまった。
 彼のことだから本当に文月さんに危険が迫っていれば、何が何でも戻って来いと言っただろう。
 そう確信があったので、俺は夜が明けるまで此処に留まる事にした。

 校舎玄関には鍵が掛かっていた。つまり今朝の脱出時に施錠したので校舎内部にはゾンビは居ないという事だ。
 しかし肝心の鍵は当然手元には無い。
 軽トラのシートは狭く、リクライニングも申し訳程度しか出来ないので居住性は最悪だ。
 それに車高は俺の身長よりも若干低く、窓は大半の成人男性にとって覗き込むにはちょうど良い高さなので、寝込みを襲われることも考えると車内泊は避けたい。

「登るか……」
 ライトに照らし出された玄関ポーチの庇の部分を見上げる。
 軽トラの荷台に上ると、デイパックからロールマットと寝袋を外し、取り出したウェストポーチを肩に掛ける。
 折れてしまいそうな位に細い月影と星々が瞬く夜空にはそれらを遮る雲は見えない──雨の心配は要らない。
 荷台から運転席の屋根へと登り、クッションと寝袋を庇の上へと投げ上げ、次いで庇の縁に手を掛けると「よいしょ」と掛け声を上げて自分の身体を引き上げる……20代も半ば過ぎはつい掛け声が出てしまうお年頃である。

 庇の上から二階の教室へと入ることは簡単に出来そうだったがやめておく。
 もしゾンビがここにたどり着くとしたら、校舎内を通るルート以外無いのでここの方が安全だ。
 庇には校舎に向かって左奥に排水溝があり、全体的にそちらに向かって傾斜しているので、排水溝へ足が向くように袋から取り出したロールマット広げて床に敷く。
 現在時刻は22:20で寝るには早い時刻だった。しかも今日は暇を持て余して何度か1時間単位で昼寝をしているので眠れる気がしないが他にやることも無い。
 とりあえず携帯電話の目覚まし機能を5:00にセットする。
 近くに多くのゾンビの死骸が転がっているので、蚊を媒介しての感染の恐れを考えて念入りに虫除けスプレーを身体に吹き付ける。
 蚊は死体から血を吸わないと言われているが、ゾンビの死骸を人間の死体と一緒にして良いのかは分からない。連中は死後硬直があるのかさえも不明な謎の存在だ。
 とりあえずゾンビの死後硬直に関しては明日の朝、ついでに確認しておこうと心に決めて、寝袋に入りマットの上に寝転がると意外に早く眠気が襲ってきた。
 今日は色々多くのことが起こり、身体以上に精神的に疲れが溜まっていたんだろう。本当に色々と……

 鳥たちの囀りに目が覚める。
 テントの生地一枚さえも遮ることの無いダイレクトに耳に飛び込んでくる鳥の囀りは、甲高くかなり耳に障る。
 しかも正面から来る音と校舎の壁に当たった反響音とのサラウンドでやかましい。
 時間を確認すると、目覚ましが鳴るにはまだ十数分ほど時間が残っている。
 寝袋から出て庇の上から周囲を見渡すがゾンビは一匹も見つからなかった。
 昨日ここに救助にきた原警部補たちが帰りがけに駆除してしまったのかもしれない。
 寝袋とロールマットをそれぞれ収納袋に収めて、庇の縁から軽トラの荷台の上に投げ落とす。
 続いて自分も降りようと縁に手を掛けたところで嫌な気配に気付く……ゾンビだ。
 俺からみて死角である、この庇の下の玄関ポーチに潜んでいたのだろう。
 奴はトラックの荷台の後ろに立って、先に落とした寝袋やマットに手を伸ばそうとしている。
「まずいな」
 悠長に庇の縁に捕まってトラックの運転席の屋根に降りていたら襲われる可能性がある。
 普段なら飛び降りても何とかなりそうな高さではあるが、今は足を挫いており無理は出来ない。
 デイパックの中の針金の束があれば上から首に引っ掛けて吊るしてやるのだが、今の手元にある荷物は、携帯電話とウェストポーチに入った医療品とサプリメントに電池と10徳ナイフ。ベルトに取り付けた銃と銃剣とマガジンポウチにL字ライト。そして無線機のみ。
 無線で警部補に助けを求めたら、確実に面倒くさそうな声で自分で何とかしろと言われる。
 それに昨晩は暴動騒ぎで寝てる場合じゃなかっただろうと思うと、ますます呼び出しづらい。
 この状況をどう打開するか頭をひねっているとあることに気付く。校舎に入って階段で降りれば良くないか?と。
 窓を確認してみるが全て鍵はかかっていた。
 仕方が無いのでガラスを割って入ろうかと思ったが、一箇所だけクレセント鍵のつまみが最後までしっかりとはまってない窓があった。
 その窓の戸車の高さ調整ネジを10徳ナイフのドライバーで回して戸車の高さを下げる。
 すると窓枠に対して上下に余裕が生まれたので、それを利用して窓を時計回りに動かすように揺すると1分間ほどでクレセント鍵は外れる。
 音を立てないように静かに窓を開けて様子を伺う。中にゾンビの居る様子は無い。
 教室内に忍び込むと掃除道具入れからモップを取り出し、10徳ナイフのドライバーでネジを回してモップの先端の部分を取り外す。
 モップの柄はリーチは有るが丈夫さには欠け、ゾンビの頭を殴れば壊れるのは間違いなく柄の方だろう。しかし使い道さえ間違えなければ有効な武器になる筈だった。
 他にも何か使えそうな道具を探しても良かったのだが、ぐずぐずしていてゾンビにデイパックや寝袋・ロールマットを引き裂かれるかもしれない。
 持ち出すのはモップだけにして教室を出て一階へと降りる。

 一階の玄関にたどり着くと、ガラス製の玄関扉越しに、ゾンビがまだトラックの後ろで荷台に手を伸ばしてるのが見えた。
 俺は加減しつつ拳で玄関扉を叩き、ゾンビの注意がこちらに向くまで扉を叩き続ける。
 ガラスドア越しに、ゾンビがこちらに近寄ってくるのを確認すると、踵を返して校舎南端の教室へと移動し、音を立てないように静かに窓を開けると、窓から身を乗り出し窓枠から地面までの高さを確認する。
 150cm位はあるだろう、これなら窓が開いていようがゾンビが中に侵入することは出来ないだろう。
 窓の下の花壇の土にモップの柄を軽く突き刺して支えとし、窓枠の縁に手をかけると挫いた右足首を庇いつつ慎重に外へ出る。
 ゾンビはまだこちらに気付いていない。モップの柄を地面から引き抜くと窓を閉めておく。
 杖代わりでもあるモップの柄で、わざと強くアスファルトの地面を突いて音を鳴らしながら玄関へと向かって歩く。
 コーン。コーンとモップの柄が鳴らす音にゾンビは俺の存在に気付いて、ゆっくりと一歩一歩上体を揺らしながら歩いてくる。
 今まで見たゾンビの中では一番最年長の男性ゾンビで汚れた寝巻き姿だった。
 もしかしたら寝たきりだったのかもしれないが、歩けるようになって良かったね何て思いもしなければ、敬老精神を呼び覚まされたりもしない。こいつはゾンビでそれ以上でもそれ以下でもない。
 生者がゾンビに対して払うべき敬意とは速やかに真の死を与えることだけだと思う。

 ゾンビの急所である頭部を、先が尖っていないモップの柄で突いたところで頭蓋骨を貫通することは出来ない。だから狙うべきはだらしなく開かれた口。
 剣道のように両手で突き出すのではなく、ビリヤードのキュー捌きのように指で輪を作った左手をガイドにして右手のみで得物を送り出す。威力よりも狙い重視の突きは、前へと突き出されたゾンビの左右の腕の間を抜けて伸び狙い違わずその口へと飛び込み、喉の奥の柔らかな肉を貫いた。

 軽トラの荷台に登って荷物の確認すると幸いゾンビによって壊された物は無かった。
 寝袋とロールマットをデイパックに固定して荷台を降りる。
 そこで、昨夜寝る前に思いついたゾンビ化した肉体が死後硬直を起こすかを確認してみることにした。
 昨日ここでゾンビを倒してからまる1日近い時間が過ぎている。
 死後硬直が起こるには十分でありつつも死後硬直が解けるにはまだ暫く掛かる時間帯。
 玄関から正面の堀へと向かう。縁に立って下を覗き込むとすぐに、昨日倒して此処に落としたゾンビの死骸を目隠しに被せて雑草の下に見つける事が出来た。
 とりあえずモップの柄で腹の辺りを突っついてみると硬い感触が手に伝わる。
 モップの柄で堀の底を突き、中に水が無いのを確認してから下に降りる。
 そして手近な一体のゾンビの足を掴んで持ち上げてみると硬い。関節が硬い。足首も膝も股関節もカッチカチに固まっていた。
 死後硬直が起きている。つまりゾンビは生きている人間と同じく筋肉を利用して行動していたという訳だ。
 そうでなければ、ゾンビとしての活動を止めた後で死後硬直が起こるはずが無い。

「どうやって筋肉を動かしているんだ?」
 考えたら負けだと思いながらもつい考えてしまう疑問。
 ゾンビの中には致死量を遙かに越える出血をした個体が存在する。文月さんのお祖父さんをはじめとして、首を──頚動脈を食いちぎられた犠牲者がそれにあたる。
 脳を破壊。もしくは首を折れば活動を停止するということは、脳や神経が生きている可能性が高く、更に筋肉組織も生きている時と同様に活動しているならば、脳の命令が神経を通して伝わり筋肉が動くという生きている人間と同じということになる。
 だが筋肉を動かし続ける為のエネルギーは血液によって運ばれる。
 心臓をはじめ内臓器官が生きていれば、何も食事をしなくても数日間程度なら活動できるエネルギーを血液を通して筋肉に供給できるだろう。しかしゾンビは大量の血液を失っても平気で動き続けている。
 いっそのこと筋肉ではなく、得体の知れない別の何かの力で動いてくれた方が遙かにマシだ。
 それならば、不思議なこともあるもんだと思考停止させることも出来る。だがゾンビは中途半端にも筋肉を使って行動している。
 ゾンビは人類が有史以来築き上げてきた英知の結晶である科学では計り知れないオカルト的な何かだ。しかも中途半端な似非科学系オカルト。
 こいつ等には理屈が通用しない。だから何も栄養を摂取せずとも活動を続ける可能性がある。今後何年、何十年でも……そう思うと軽く眩暈がする。
 ゾンビが人間に噛み付くという行為は、栄養を摂取するためではなく、同族を増やすための生殖行為に近いのではないだろうか?
 ゾンビになることも出来ないくらい徹底的に食い尽くされた死体は一度も見たことが無い。


 時刻は5:10を過ぎ。まだ朝というよりは早朝だが、とうに日は昇り暴動も収まるか最低限下火にはなっているはずだ。
 軽トラに乗り込みエンジンをかける。シフトノブをRレンジに放り込みアクセルを踏み込む。
 シートの下から響くエンジン音と、バックで走行しながら引っ張られる感じがこいつがMR車であること思い出させてくれる。
 何となくMRという言葉の持つスポーティーなイメージが損なわれる気がした。

 小学校の敷地を出て、5分ほど走っただろうか手前に富良野橋が見えてくる。
「……うん?」
 富良野橋を一台の車が渡ってくる。
 見憶えのあるRV車。
 最近のRV車とは名ばかりの、軟弱な車高が高いだけのステーションワゴン車のようなスタイルではなく無骨に角張ったデザイン。
 そこらの樹脂製のバンパーとは一線を画す、大きく突き出した金属製のバンパーに大げさな逆Uの字のグリルガード。
 オフロードを走る為に作られた男の玩具。どう見ても文月さんのRV車である。

 路肩に停め車を降りてRV車を待つ。
 誰が運転しているのか分からない。最悪暴徒がRV車を盗んだ可能性もある。
 腰のホルスターの蓋を開けて何時でも抜けるようにしておくが、その必要は無かった。
 次第に近づいてくるRV車のフロントガラスの向こうには、原警部補と文月さんの顔が見える。
 たった一日振りだというのに2人の顔が酷く懐かしく思える。
 俺は待ちきれなくなってこちらからRV車に走り寄ってしまった……しかも恥ずかしいことに手まで振って。
 文月さんが俺よりも大きく手を振っていたことが唯一の救いだ。



[32883] 【挿話2】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/08 20:43
 目の前に広がる光景は、まるで祭り騒ぎのような有様でありつつも、そう例えるには物騒すぎた。
「まずいですよ。これは……」
 隣で山口が不安そうな声を上げる。警察官の癖にだらしない奴だ。
 そうは思ったが、いつもの様に雷を落とすことは出来ない。何故なら奴の意見自体には俺も同感だった。
 目の前柄発生した暴動は、倒れたコップの中身がテーブルクロスに染みを広げるように瞬く間に市街地を飲み込んでしまった。

 暗闇の中を悲鳴と怒号が飛び交い、警察車両のヘッドライトの明かりの中に人影が踊る。
 どいつもこいつも、頭の箍が外れてしまったみたいだ。
 今日の午後、市議会が発表した食料の配給制に反発し集まった市民達が市役所の駐車場で騒いでいたのだが、この突然の停電を機に抗議集会は暴動へと変貌を遂げた。

 まるで外国の暴動騒ぎのようだ。
 たまにニュースなどで海外の暴動シーンが放送されたりするが、そんな騒ぎ日本では起こそうと思っても起こせるものじゃないと対岸の火事として以上の感想を持つことは無かった。
 停電で暴動。地震で暴動。何でも機会があれば暴動したいだけだろ。日本人みたいに先ずは助け合え。そんな風にも思っていた。
 暴動は起きるにはきっかけ以前に、社会的な下地として民衆の中に溜まりに溜まった不満が必要だ。
 以前の日本には、そんな下地が存在しなかった。そして今の日本──この町にはその下地が存在する。
 家族や恋人。友人を失った悲しみ。今後の生活への不安。このような絶望的な事態が起きた事へのぶつけ所無い怒り。
 それらが一人一人の胸底でぐつぐつと煮えたぎっていて、それがこの停電を機に爆発した。

 もう誰にも止められない。数千人……いや下手をすれば5桁届くかもしれない暴徒相手に警察官が数十人で、一体何が出来るというのだろうか。
 これならゾンビどもの相手をしている方が遙かにマシだった。少なくともヤツラは走り回らなければ武器も持っていない。

「係長。威嚇射撃を試してみましょう」
 山口が思いつきで下らないことを口にする。
「馬鹿野郎!そんな真似して連中の矛先がこちらに向いて警察と連中の対立構造が出来てしまったら。本当に収まるものも収まらなくなる」
 こんな当たり前の事、言わせるんじゃない!と怒鳴りたくなるのを我慢する。説教なんてしている場合では無かった。
「じゃあどうすれば良いんですか?」
「……時間だな。時間を置いて連中の頭が冷えるのを待つしかない。後は呼びかけだ。で・き・る・だ・けソフトにな!畜生。まどろっこしい!」
 自分で言ってて腹が立つ。
 言葉で言って分からない相手というのは警察官にとってお得意様だが、団体客にも程がある。
「分かりました。ソフトにソフトにですね」
 俺の剣幕も何処吹く風。アイツのお気楽さはこんな状況下では貴重な資質だ。ああでもなければ、これからの世界を生き残ることは出来まい。
 それに対して、平和な日常生活から放り出されたストレスに耐え切れなかった者──暴徒たちはまず生き残れまい。
 すぐにどうこうと言う訳ではないが、今後より一層厳しさを増すだろう現実に耐えることは出来ないだろう。

 欲望のままに暴れ続け、町を破壊する暴徒たちを俺は醒めた目で眺めやる。
「北路や和田達が命懸けで守ろうとした町だと言うのに……何をやってやがるんだ……」
 これじゃあ死んだ和田が報われない。
 嬢ちゃんが安全に暮らせる町を残したいと危険を買って出た北路が、自分達の町を守るために我が身を省みずゾンビたちと戦った島本や矢上の努力が報われない。
 守るべき市民。この言葉の意味が20年以上警察官として生きてきた俺の中で揺らぎ始める。

 今の自分に守るべきものが存在するのだろうか?俺にとって守りたいものとは?
 7月15日。たった5日前に俺は本当の守るべき者を守りたかった者を失った。
 あの日、この町で失われた命。2000近くの人々の中の2人。
 俺にとって何者にも代え難き17年連れ添った妻と、もうじき14歳になる……いや、なる筈だった娘。

 この異常事態に気づいた時、職務を放棄してでも2人の元へ駆けつけていれば、助けられたのではないか?
 それは無理でも、2人の死に目には会えたんじゃないか?最後に手を握ってやることが出来たんじゃないか?
 そんな無意味な仮定が、あれ以来ずっと頭の中をグルグルと掻き回し続けている。

 心の奥で後悔は尽きない。
 もしあの時に戻れるならば俺は間違いなく妻と娘を守るため全てをなげうつだろう。
 しかし、実際俺はそうせずに警察官としての職務を優先させた。市民を守るという警察官の誇りが自分を縛った。
 もう既に俺の警察官としての誇りは後悔という土に塗れてしまった。
 あの日から俺は汚れ傷ついた誇りと共に警察官であり続けてきた。
 妻と娘よりも優先させた警察官である自分。今更それを投げ出す訳にはいかない。
 それは妻と娘を二重に裏切ることに他ならない。
 何よりも妻と娘の元へ行くことを望みながら、それを許されることは無い。自分で許すことが出来ない。
 だからこそ、目の前で繰り広げられる光景は、俺を心底やりきれない気分にさせてくれる。

 突然、無線機に呼び出しが入る。北路からの連絡だった。
『そちらだけじゃなく上富良野も、それに中富良野も止まったみたいだ。どうぞ』
 俺がこちらの停電を伝えると、奴から返って来たのは最悪の返事だった。
「それで自衛隊の作戦はどうなった?どうぞ」
『現在作戦実行中……というよりも作戦開始直後に停電が起こり作戦は失敗しつつある状態。早く撤退すれば良いのだが。どうぞ』
 最悪の先にまだ最悪が待っているとは……自衛隊との協力が不可能ならばこの騒動を、これ以上大事にすることは許されない。
 この後、どんな事態が起きようとも、外からの助けは期待できないのだから。
 北路には嬢ちゃんが警察署内にいる事を伝え、そして無理をしないように釘を刺して連絡を終えた。

 北路とのやり取りで少しは俺の頭も冷えた。
 奴にあったばかりの時の会話を思い出す。
『俺は警察官だ。医者だろうが看護婦だろうが誰だろうが、所轄で死なれたら俺の責任だ』
『そういう意味じゃないんですけど……大体、責任って、今更、誰が文句を言うんですか?』
『今更だ?今更だろうが最後まで警察官でいる気なんだよ!』
 売り言葉に買い言葉でつい奴に言わされてしまった言葉だが、これが俺の本心だった。
 死ぬまで警察官でありたい。警察官という職業が好きな俺の本心だった。

 町の人間の全てが暴動に参加しているわけではない。
 そして今もこの町を守ろうと戦っている者たちが居る。
 同僚たち。北路。島本。矢上。山中さんと彼の仲間たち。
 守るべき市民が一人でも居る限り、俺は警察官は続けられる。命ある限り警察官を続けられる。
 妻と娘を待たす事になっても、その分胸を張って会いにいけるだろう。

 暴徒に向かって穏便に呼びかけ続ける山口に声をかける。
「山口。俺が戻るまで呼びかけを続けておけ」
「えっ!何処行くんですか?」
「一旦署に戻る」
「文月ちゃんに会いに行くんですね?ずるいな係長だけ……」
 睨み付ける俺の視線に山口は尻すぼみに黙り込む。
 先ずは嬢ちゃんだ。警察署から出ないように言い含めておかなければならない。
 署内に残ってる連中にも、彼女の事を頼んでおかなければならない。
 あの子の安全は例え命に代えても守らなければならない。北路との約束。失った娘の代償行為。そして警察官としての誇りにかけて。



[32883] 【26  07/21(火)05:20 富良野市西学田二区】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/08 20:43
 手を振る俺に、一見文月さんが窓から手を出し振り返してくれてるようだが、次第に近づくに連れ違和感を覚える。
 再会を喜んでくれているにしては、その手の振り方が必死すぎる。
 更に近づき、フロントガラス越しに映る彼女の表情に嫌な予感が背中を走り抜ける。

 路肩に停められたRV車の助手席の窓に駆け寄る。
「何かあったのかっ!」
「原さんが、原さんが……」
「警部補が?……どうしたんですか!」
 奥の運転席に座る原警部補に呼びかける。
「よう北路ぃ……噛まれちまった」
 そう言って彼は血に汚れた包帯が巻かれた右腕を掲げて見せた。
 その瞬間俺の中の時間が凍りつく。窓枠を掴んだ右手が動かない。言葉が出ない。呼吸すら忘れてしまった。
「どじ踏んだもんだよ……」
 脂汗の浮き出た真っ青な顔で、彼は自嘲気に鼻で笑って見せた。
「それからすまねぇ。町を守れなかった」
 彼の口から出た衝撃的な言葉によって俺の止まっていた時間が動き出す。
「町を……守れなかった?」
「ああ、暴動を起こした馬鹿の一部が略奪の為にスーパーを襲って警備の人間を殺しやがった。暴動の無理な鎮圧には消極的だった上の連中も、流石に見過ごすことも出来なくなって逮捕に動いた。車で北に逃げようとしたんだろうが国道も道道も閉鎖していたからな、追跡されて逃げ場をなくして最後にはスポーツ公園に逃げ込もうとして……」
「まさか?」
「そのまさかさ。無理に車両止めを避けようとして、コントロールが利かなくなったんだろ。そのままスポーツセンターに突っ込み封鎖した玄関を破壊して爆発炎上だ」
「…………」
 言葉が出てこない。怒りすら沸いてこない。呆然と開いたまま塞がらない口から魂が抜けていきそうだ。
「1200体のゾンビが停電中の暗闇の中。しかも町中で数千人の暴徒が無秩序に暴れまくってる中に現れたんだ。パニックがパニックを呼び……俺たち警察は何の手も打てなかった。全く面目ねぇ」
「……いや。警察や警部補のせいじゃないですよ」
 それは端から、富良野警察署の人員だけで何とかなるレベルの問題じゃない。
「……ところで今の町の様子は?」
 頭の切り替えて現状の把握でもしなければ、どうにかなってしまいそうだった。

「空知川の西側と南側に出来る限りの市民を避難させて橋を閉鎖したが、向こうの正確な人数は分からない。ゾンビの数は……前回の2000どころじゃないだろう」
「大まかな数字で構いませんよ」
「5000。いや6000より少ないって事は無いだろう」
「そりゃあ……」
 どうにもならないと言いかけて言葉を飲み込む。通りすがりの旅人である俺とは違いあの町は彼のホームだ。
 特に今は、間もなく死を迎える事を避けられない原警部補の前で、余計な軽口は叩きたくなかった。
「向こうに合流するなら、北側に回りこんで上流の橋を渡らないと駄目だ。街中はこいつでも抜けられないぞ」
「分かりました」
「後は……そうだな。後は嬢ちゃんに聞け。此処に来るまで車の中で説明してある」
 突然。原警部補の口調が変わった。
「北路。頼みがある」
「……頼み?」
 半ば……いや、彼が何を言おうとしているのかはっきり分かる。それでも動揺は抑えきれず鸚鵡返しに答えてしまった。
「噛まれてからとっくに一時間以上経つ、後一時間も掛からずに連中の仲間になってしまうだろう……このままじゃな。自分で始末はつけるつもりだが骸は晒したくない。墓穴を掘るのを手伝ってくれ」
「……分かりました」
 今更、気休めも慰めも何の意味が無いことが分かっているだけに、その言葉にただ頷くしか出来なかった。
 傍で文月さんの漏らした嗚咽がやけに強く耳に響いた。

 道の脇の畑の土を文月さんと一緒に掘り返す。
「おい、自分の墓穴だ。俺にもやらせろよ」
 もう立っているのでさえ辛いだろうに、気丈に振舞う原警部補。
「いいからそこに座って。座って何でも良いから自分の事を話していてください」
「俺の話?」
「昔話でも何でも良いですよ……」
「……わたし。絶対に、絶対に忘れません」
 文月さんの頬を涙が伝う。それでも彼女は手を休めず必死に穴を掘り続ける。
「そうか……」

 原警部補の語る昔話を聞きながら、俺達は作業を続けた。
 彼の少年時代。両親や兄弟・友人との出来事。
 進学と就職。警察学校時代の仲間との馬鹿騒ぎの話。
 そして昔話は、彼が家庭を持つ件に差し掛かった。
 普通のありきたりで幸せそうな家庭の様子が語られ、家族にはもう一人女の子が増えていた。
 やがて俺達の作業が終わりに近づく頃には、家族の物語も終わりを迎えようとしていた。運命の日──7月15日へと。そして最愛の家族の死。
「家族を失い。頭が真っ白になって目の前の仕事に逃げ込んで、俺も死に場所を探していたのかもしれない……」
「!」
「そんな時だよ。お前と嬢ちゃんに会ったのは。何処かあぶなっかしい足元の浮ついた若造と、娘と同じ年頃の女の子が現れて……くっくっく」
 何かを思い出すように含み笑いを漏らす。だがその笑うという動作に彼は苦しそうに身をよじる。
 文月さんが駆け寄るのを彼は手を上げて制止する。
「北路。お前のせいだ。お前のせいで女房や娘を待たせることになっちまったんだ……だからお前は責任を持って嬢ちゃんを守れ。最後までな」
 やけに力を入れて最後までを強調したのが引っかかるが、俺は黙って頷いた。
「それから嬢ちゃん。例のあの事は忘れるなよ」
「は、はい。必ず」
 あの事が何か分からないが、顔を赤らめる文月さんに嫌な予感がした。
「警部補。何か話が繋がってないような」
「分からんか?……分からんならそれで良い。だが俺はお前との約束を果たした。次はお前の番だ……嬢ちゃんをよろしく頼むぞ」
 俺が上富良野の自衛隊駐屯地に行く前に彼に、文月さんの事を頼んだ事を言っているのだろう。
 差し出されたゾンビに噛まれて怪我をした右腕の手を握り締める。
 彼も力一杯握り締めてきた──死に逝く者との誓いの証としての握手。

「なあ……そろそろ……限界みたいだ」
 彼の顔色は既に土色に染まり、脂汗が顔中に浮かび流れていた。
「嬢ちゃん……北路をよろしくな。こいつは、こいつなりに……色々抱え込んじまった男だ。情けなさも弱さも……もろさも持っている。嬢ちゃんを守れるのがこいつなら、こいつを生かすのは嬢ちゃんだ……しっかりやれよ」
「原さん……うっうぅぅ」
「寄るな!……もう、いつゾンビになっちまうかわからない……」
 原警部補は最後の力を振り絞ると立ち上がる。そしてゆっくりと立ち上がり自分の墓穴へと向かって歩き出した。
 一歩一歩足を進めながら背広の胸元へ手を入れると、ショルダーホルスターから回転式拳銃ニューナンブを引き抜く。
「お前の手は汚させない……手間をかけさせるが、俺が死んだら土をかけてくれ」
 右頬だけを吊り上げて痛々しいまでの笑顔を浮かべる。
「警部補を人間として送り出すのを手を汚すだなんて思わないですよ……」
 この手に未だ残る小林君の首を折ったあの感触。それを手を汚しただなんて思うものか。
「北路……まさかお前?」
「向こうで知り合った自衛官を……」
「そうか。だが俺は警察官だ。お前にそんな真似をさせる訳にはいかない……自分の命くらい自分でケリをつけるさ……最後の瞬間まで警察官でいたいんだ……見栄張らせろよ」
 そう言って自ら墓穴に足を踏み入れる。
「北路。嬢ちゃん……生きろよ。最後の最後まであきらめずに生きて、生き抜いてくれ……頼む。頼んだぞ」
 原口警部補は拳銃のシリンダーを開放し、中の銃弾を確認してフレームに納める。
「原さん……私……ごめんなさい……私のせいで……」
「俺は……警察官として嬢ちゃんの役に立てたかい?」
「はい……それ以上の事を原さんは私に……」
「だったら、謝ることなんて無い……ありがとうって言ってくれるか?……警察官になって……初めて人の役に立てて……ありがとうお巡りさんって言われた……思えば、それが俺の警察官としての……原点だったんだ……」
「原さん……ありがとう……ありがとうお巡りさん」
「……どういたしまして。お嬢さん」
 原警部補は嬉しそうに。心の底から嬉しそうに笑った。
 目を細めて厳つい顔を崩し、苦痛をも忘れたように自然な笑顔を浮かべた。
 俺も何か言おうと口をひらきかけると……
「北路……お前は止めとけ。折角の想い出が穢される」
 そう言って今度は人の悪そうな笑みを浮かべる。えらい差別だ。
「お前たちに会えてよかった……じゃあな」
 拳銃の撃鉄を引き上げて引き金に指を乗せると、銃口を自分のこめかみに押し当てる。
 俺は文月さんの頭を両手で抱きかかえて身体ごと後ろを向かせる。
 数秒後。鳴り響く銃声が耳を打つ。遅れて柔らかな畑の土の上に倒れる音。俺の腕の中で上がる文月さんの悲痛な叫び。そして俺の口からも低い呻き声が勝手に漏れていた。
 原警部補の死に、俺は泣きじゃくる文月さんをただ抱きしめ続ける事しか出来なかった。



[32883] 【27  07/21(火)06:00 富良野市西学田二区】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/17 20:37
 町外れの道脇の畑の中、周囲より10cmほど盛り上がった場所。この土の下に原警部補が眠っている。
「私が北路さんの所へ行きたいと我儘を言ったから……原さんはあんなことに」
 自分の事を責める文月さん。元はといえば俺が彼女を置いて町を出たせいだ。
 しかも何の収穫も無かった。あのまま彼女の傍に居てあげれば良かった。そんな後悔ばかりつのるが、それを表に出している場合ではない。
 互いの傷を舐め合うような情けない真似は出来ない。自分の感傷を押し殺し彼女の心を心配するのが俺の役目だ。
「私を助けようとして……」
「警部補は文月さんを助けたことを後悔なんてしてなかったはずだ。どんな状況で警部補がゾンビに噛まれることになったか知らないけど、もし同じ状況になったなら彼は何度でも同じように文月さんを助けるよ。何の迷いも無く。それを疑うことは彼を侮辱することだ」
「……原さん。助けてくれた時。自分の怪我の事よりも、私の身体のことを心配して……無事だと分かると、良かったって笑って…………」
「彼らしい……」
 多分。警部補は文月さんを通して亡くなった娘さんを見ていたのだろう。
 笑顔も浮かぶだろう。彼にとっては助けられなかった娘を助けられたに等しかったのだから。
 だが、今はそれがとても切なく胸を締め付ける。

 畑の脇に積み上げられていた廃材の山の中から、腐っていない状態の良い太い角材を取り出し、彼の名前『原 靖史』を刻み込み、それを墓標とした。
「文月さん。警部補に最後にかけてあげる言葉はあるかい?もう此処へは戻ってこれないかもしれない」
 俺は富良野市を離れるつもりだった。
 生き残った人々が郊外へ脱出し空知川を盾にして安全を確保したといえども、食料事情や住居の問題は昨日まで想定していた状況より遙かに悪化している。
 着の身着のまま市街地側から川向こうに避難した人間と、元々そこに住んでいる住民との間に確執が生まれるのは想像に難くない。
 ましてや俺達は余所者。町の人たちと同様に扱ってもらえる保証は無い。
 何より、俺は集団としての人間を信用する気になれなくなっている。
 ルールやマナーとは、それを一人一人が守ることで社会の秩序が保たれ、結果として自分達の利になるから守られる。
 しかし、全体の僅か1割の人間が積極的にルールやマナーを破るような振る舞いをすると、残りの9割の人間はルールやマナーを守ること利を得られなくなってしまう。
 そうなると秩序はあっけなく崩壊する。社会は人間の自然状態である闘争状態へと姿を変えるだけ。
 町は今や、その境界を越えつつある。いや既に一度越えてしまっている。現在落ち着きを取り戻しているとしても……

「もう戻って来れないって、どういうことですか?」
「俺は、この町を……富良野を離れるべきだと思う」
「…………そうですか」
 彼女の表情には驚きも疑問も無かった。彼女も察してはいたのだ──俺達が余所者であるという事実を。
 この状況で文月さんを守る自信が無い。彼女が安心して暮らせる場所を確保出来るという確信をもてない。
 もちろん、あっさりと立ち去れるほど富良野という町に思い入れが無いわけではない。この町を以前の様にとは言わないが、多くの人が人間らしく生きていける場所にするために原警部補たちと今までやって来た。
 だがそれが全て無に還ってしまった。余所者だろうが受け入れられるための貢献が失われた。

「この町を離れても、北路さんは一緒に居てくれるんですよね?」
 俺が黙り込んだ事に、不安そうに文月さんが問いかけてくる。
 そう言われて、彼女を置いてこの町を去るという考えが、全く無い自分に少し驚く。
「……文月さんに嫌だといわれない限りはね」
「じゃあ、絶対に嫌とは言いません。二人一緒なら何処へ行っても平気です」
 そう答える彼女の笑顔に、自分が抜き差しなら無い状況に足を踏み入れたことを自覚する。
 この町を離れるということは彼女と二人っきりで生活するということだ……まずいだろ流石に。
 だが、どうするにも代案が無い。仕方が無いので笑って流した。

 RV車を走らせて少し離れた軽トラを止めた場所に戻る。
 後部の貨物スペースから、キャンプ用品などが入った樹脂製の大型コンテナケースを、軽トラの荷台から俺の自転車をRV車後部ハッチのリアラダーからルーフキャリアの上へと運び上げる。
 ルーフキャリアといっても、スキー板などを載せるための屋根の上に数本のバーを渡した様な簡単なものではなく、ステンレス材をメッシュ状に組んだ床を、10cm程の立ち上がりのある枠が囲んでいて、広さも俺が二人並んで足を伸ばして寝転がれるスペースがある。
 文月さんのお祖父さんは、アウトドアに趣味がとことん傾倒した人物のようで車には実用性重視で手が入っている。
 ルーフキャリアの上でコンテナケースや自転車をゴムバンドで固定する作業の手を休めて、富良野市の市街地を振り返る。
 一週間足らずとはいえ、生き残るために必死で戦い続けた時間を過ごした街。
 保護した文月さんの未来を託すべき場所として決めた街。
 だが、もうあの場所には人の営みは無い。ゾンビばかりが徘徊する死の街と化してしまった。
 生死も分からない知り合い達。島本さん。矢上君。山中さん達。彼等は無事だろうか?
 そして山口巡査は持ち前の図太さで生き抜いているだろうから心配する気にもなれなかった。

「文月さん。そろそろ出発するよ」
 文月さんに一声掛けてから運転席に座るとドア・ポケットからロードマップを取り出す。
 2000年度版と10年近く前の地図だが、良く使うルートに赤線が引かれていたり、新しい施設や道の書き込み、更に本人が実際に行った場所の簡単な説明が付箋で貼られていて、大事に使い込まれていることが分かる。
 今時カーナビが付いていないのも納得な使い倒しっぷりだ。
 地図を眺めていると、さすが北海道だけあって周囲から切り離された小さな集落が幾つか見つかる。
 人口が100人程度で、しかも生存者が1人も残っていないような集落を見つけたら、ゾンビを駆除して生活の拠点とするつもりだ。
 決して楽な作業じゃないし危険も伴うが、やってやれない事は無いと思う。
 もしくは人里はなれた山中のキャンプ場。
 このゾンビ騒動が始まった7月15日は、まだ学校が夏休みに入る前だった上に平日なので、当時キャンプ場には人が少なかったはずだからゾンビはいたとしても極僅か。
 取りあえずはテントや車中で寝るとして、冬が到来する前までに狭くても良いから、中で火を使える程度の小屋を建てる必要があるが、ゾンビの駆除に比べれば危険は少ない。

 そうして地図を眺めていると文月さんも車に乗り込んできた。
「難しそうな顔をしてますが、どうかしましたか?」
「何せ急に富良野を離れることを決めたから、まだはっきりとした目的地もきまってないからね。生存者が残っていない小さな集落のゾンビを駆除するか、人里離れた山中のキャンプ場を拠点にするかどうか……」
「キャンプ場ですか?」
「幸い。文月さんのお祖父さんは。人里はなれた山の中へ避難して生活することも想定して荷物を積み込んでいるみたいなんだ」
「祖父がですか?確かによくキャンプに連れて行ってくれました。祖母がすこしは落ち着いて家ですごしてくれると良いんだけどと愚痴をこぼすくらい」
 よくある事だが、お父さんが張り切って家族サービスをするのだが、家族にとっては、それに付き合うことがお父さんへの家族サービスになるという悲しい現象。
「あ~そいうこともあるさ。それでね。山の中ならゾンビの心配はないし、飲み水を確保できる場所の近くに小屋を建てれば、今年の冬は越せるはずだ」
「小屋ですか?」
「この車に積んであるのは、かなり本格的な大型テントだけど流石に冬を越すのは無理だから、小さくても中で火を使うこと出来るような小屋が必要になるんだ。それから主食になる穀類を確保し……」
「あの……山の中で長期間暮らせる小屋ですよね。心当たりがあります」
「はい?」
 思いがけない言葉に思考停止する。
「祖父と祖父の友人たちで建てた山小屋があるんです」
「はい?」
「祖父の友人の1人が山林地主だとかで、使ってなかった土地に何年もかけて山小屋を建てたんです。2年前に完成して鹿狩りの時なんかにそこで寝泊りして猟に出かけていたみたいです。夏休みの禁猟の時期にはキャンプで連れて行ってもらったこともあります。山小屋といっても結構広くて暖炉もあるので火も使えますし、それに離れの小屋に五右衛門風呂もあるんですよ」
 ……何そのいたせりつくせりの快適設備?
「もしかしてお祖父さんは、そこに逃げ込もうとしてたんじゃないかな?そんな話は聞いてなかった?」
 俺なら間違いなくそうするだろう。
「すいません。そんな話は何も……でも祖母の治療をした後。そうするつもりだったのかもしれません」
 お祖母さんの治療が第一で、それどころでは無かったのだろう。問題は場所だ。
「場所はどこか憶えている?」
「私あまり道を覚えるのは得意じゃなくて……ごめんなさい」
 折角の情報が台無しになったと落ち込む彼女だが、まだ場所を探す手がかりは残っている。
「大体の場所とか分かる?」
「大雪湖の……大雪山の東側にある湖の南だったと思います……でもそれだけでは、結構分かりづらい場所ですし」
 ロードマップの広域図から、大雪山周辺のページを開き、文月さんのお祖父さんの書き込みを探していくと目的の書き込みがすぐに見つかった。
「いや十分だよ」
 彼女に開いたページを見せる。
 そこには、国道から赤ペンで線が延びていて、その先には三角形の下に四角形を配置した記号が書き込まれていた。
 赤ペンの線が山道で、記号が小屋を示しているようだ。
「多分、山道への入り口は分かりづらいと思うけど、近くまで行けば文月さんなら分かるかな?」
「はい。分かると思います」
 そう答える彼女の顔に笑顔が戻った。

 軽トラはここに放置していくことに決めた。
 もし誰かがここにたどり付いて車が必要な場合を考え、窓は全て閉めたがドアのロックは掛けずに鍵はキーシリンダーに挿したままにした。
 多少の食料や水を置いていくかどうか迷ったが、それらが無駄になる可能性を無視して置いてゆくほど余裕がある訳では無いのであきらめる。
 その代わりに上富良野と中富良野の間に点在する農家は、早い段階で上富良野の自衛隊駐屯地への避難が進められたために、住人も元住人のゾンビも居る可能性が低く、適当な農家で食料を調達するようにとメモを残した。



[32883] 【28  07/21(火)06:30 中富良野町 道道861号線】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/17 20:39
 俺と文月さんを乗せたRV車は、昨夜軽トラで走った道を逆に辿っている。
 山小屋へと向かう前に人の居ない農家を家捜しして、食料等をの確保するのが目的だ。
 運転しながら左手でコンソールボックスの蓋を開けて中にしまっておいたものを取り出す。
「文月さん。これを持っていてもらえるかい?」
 左手の中の拳銃を彼女に差し出す。
「これは……」
 おずおずと伸ばした両手で銃を受け取る彼女の顔は強張っている。
「原さんのだよ。ニューナンブ……M60だったかな?これは文月さんが護身用に持ってるんだ」
「で、でも私、銃なんて使った事ありません」
「そりゃあそうだろう。実際の拳銃を撃ったことなんて俺も無いよ」
 銃関係は嫌いじゃないが、エアガン・ガスガンはサバイバルゲームの道具としての感覚であり、ガンマニアというほど熱は入ってない。
 BB弾を発射できないモデルガンと同じくらいに銃弾が飛び出る実銃にも興味は無かったので、海外に行って銃を撃とうなんて考えたことも無かった。
「安全装置なんて無いから引き金を引けば弾がでるよ」
「えっ!」
 弾が出るという言葉に彼女は驚き、拳銃を取り落としそうになるのを、咄嗟に左手を伸ばして横から掴む。
「弾は入ってないから安心して」
 銃身を反対向きに握ってグリップ側を差し出す。
「は、はい」
「右手で銃を持ったまま親指を上に伸ばして、そうそこのレバーに指を……」
 彼女の手には余る様で、拳銃の左側面(銃の右側面・左側面は銃を握った状態から見て、右か左かで決まるようだが、何故か正面は銃口がある側らしく意味不明)にあるシリンダーを開放するためのシリンダーラッチには、グリップを握ったままの指は届かなかった。
「じゃあ、左手をグリップから手を離して、さっきのレバーを手前に引いて……シリンダーを右から左側に押し出す」
 コンソールボックスの中から弾を取り出し、一発装填してみせる。
「今みたいにして残りの穴に弾を詰めて、シリンダーを元に戻して引き金を強く引けば撃てる」
「でも、ゾンビを誘き寄せてしまうから、出来るだけ使わない方が良いんですよね」
「ああ、だけど山小屋に着くまでは必要と感じたら撃って構わない。車で逃げれば良い状況ならゾンビが集まる事を心配する必要はあまり無いから。だけど……」
「だけど?」
「使う相手が人間である可能性もあるって事だけは覚悟しておいて欲しい」
「…………」
 文月さんは俺の言葉に息を呑む。
「銃は、特にその拳銃って奴は人を傷付け殺すためだけに作られた道具以外何ものでもない」
「人を……人を殺す」
 怯えた目を自分の手の中の拳銃に落とす。
「それでも、俺はその拳銃を文月さんに持っていて欲しい。そして必要ならば躊躇うことなく使って欲しい。結果、人を傷つけても……たとえ殺すことになっても、文月さんには生き延びて欲しい。人の命の重さが同じでも、君と他の人間の命では、俺にとっては金と石ころ程も違う。だから俺の為だと思って、どんな事をしてでも生きるという覚悟を持ってくれ。頼む」
 俺自身、彼女を守るためなら何人たりとも容赦せずその命を奪う覚悟は済ませている。
 他の誰かが生き延びるために彼女を害することを許すつもりは微塵も無い。
 もう俺の中で優先順位は付けられてしまったのだ。後は迷い無くそれに従うのみ。
 その結果が何をもたらしても後悔はしない。どれほどの痛みを、どれほどの重荷を一生背負うことになっても後悔だけはしないつもりだ。
 そんな俺の決意をよそに文月さんの意識は、成層圏の彼方まで飛んでゆこうとしていた。
「そんな……私のことを……そこまで」
 一体何を間違ったのだろう。
 クネクネと身を捩じらせている彼女の手から、そっと拳銃を取り上げる。
 今の彼女に拳銃は持っていて欲しくない。危なっかしいったらありゃしない。


 山小屋のある道東へと移動を始める前に付近の農家を回って、これから必要と思われる物を集めることにした。
 先ず一軒目の農家で周囲にゾンビの姿が無いことを念入りに確認した後、庭でリストを製作することにする。
 食料関係のリストアップは文月さんに一任した。
 俺自身一人暮らしが長く一通り料理は出来るが、やはり所謂る男の料理であり基本肉料理で、肉が気軽に手に入らないだろう今後の食生活を考えると余り役立たないスキルだった。
 そんな俺に対して文月さんはさすが女の子。お祖母さんから家事全般をしっかり仕込まれているようでとても頼りになる。
「樽って何に使う気?」
 車のボンネットを机代わりにリストアップ作業中の彼女のノートを横から覗き込んだ俺は、樽x5という項目に思わず声をかける。
「漬物を作ろうと思います。大根とかなら余程天候が悪くない限り、誰も世話をしなくても幾らか収穫できると思うんです。それと白菜なんかは時期的にもう種まきも済んでいるはずなので……もしかして、漬物とか嫌いでしたか?」
「いや、そんなことは無いけど……その。すごいなと思って」
 お世辞でなく本当に凄いと思った。冬場のビタミンなどの栄養不足を考えると保存できる漬物は必須であり、俺はそれに気付いてなかった。何処かでサプリメントを入手しようと考えていたくらいだ。
「凄いなんてそんな……でも、本当に漬物を漬けるの得意なんです。祖母も上手だって誉めてくれて……」
 珍しく嬉しそうに自分の事を話す文月さんに、自然に自分の顔にも笑みが浮かぶのが分かる。
「助かるよ。今時漬物を一から漬け込める中学生がいるなんて思ってもみなかった」
 俺の不用意な一言が状況を変える。
「……もしかして年寄り臭いとか思ってますか?」
「何故?」
「学校でこの事を話したら年寄り臭いって皆から笑われたんです。それに北路さんも笑ってたし……私って料理のレパートリーも祖母から教わってるから古臭いと思われるような……」
 この事が原因で学校でいじめにでもあったのだろうか?行き成り落ち込んでしまった文月さん。
 学校の問題だけじゃないだろ。やはり過酷な状況が続きすぎたせいで情緒不安定になっているのだろう。先ほどから彼女の感情の振幅が大きいような気がする。
 今後は彼女の精神面も支えていく必要があるのだろう……とはいえ、この件に関して全くといって良いほど自信が無い。だがやるしかない。
「文月さんを育てたのはお母さんじゃなくお祖母さんだっただけだよ。母親に育てられることの良い面もあれば、お祖母さんに育てられることの良い面だってある。俺はあの日の朝。出会えたのが今の文月さんで良かった。お祖母さんが大事に育てた今の文月さんと出会えて良かった。だから自分を卑下するのは止め……文月さん?」
 突然胸に飛び込んできた彼女の肩を抑えて抱きとめる。
「私も、私も、あの時出会えたのが北路さんでよかった」
 俺の胸に顔を埋めながら、そう小さく呟く。
 彼女の肩に置かれた自分の手をどうしたら良いものか迷う……迷ってどうする!
 つい流れに任せて、手を彼女の背中に回しても良いんじゃないかなどと僅かでも考えてしまった自分に驚く。
 動揺した俺は、状況を変えようと話題を振る。
「そ、そういえば、原さんが言ってた。例のあの事って何?」
 藁にもすがる様な思いで切り出した話題だが、それが更に状況を進行させるための原警部補の罠だとは神ならぬこの身には知る由も無かった。

 俺の言葉に、まるでバネで弾かれたように顔を上げる文月さん。
 その顔は一瞬で真っ赤に染まる。写真の一部の色がゆっくり変わっても人間の脳はなかなか気付かないというが、これだけ早く変わるとすぐに気付く。
「……あっ!……えっとあの……その……例のっていうのは原さんとの約束で……」
 しどろもどろな彼女の様子に、これは薮蛇という奴だと気付く。
「…………え~と、約束って?」
 そんなことは尋ねたくなかった。聞いたって更に追い込まれるだけだと本能が警鐘を鳴らす。
 だが俺の胸に顎を付ける様にして真っ直ぐ見つめてくる彼女の目が「尋ねろ」と訴えかけているように見えて、その圧力に耐え切れなかった。
「は、はい!……そ、その~。お願いです少し目をつぶってください」
「あ、ああ。良いけど」
 言われるがままに目を瞑る。
 何かガチャガチャと金属音が耳に届く……何をする気だろう?
「ちょっと右手を出してください」
「こうかい?」
 俺が声の方に伸ばした手を、柔らかな彼女の手が握り締める。
 次の瞬間。手首の辺りに金属の冷たい感触を感じたと思ったらガチャ!と音が鳴り、硬い何かに俺の右手首は拘束された。
「何???」
 目を開くと、手首には手錠がはめられていて、繋がった鎖のもう一端の輪っかには文月さんの左手首がはっていた。



[32883] 【29  07/21(火)06:30 中富良野町 農家】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/17 20:39
「これは一体……何?」
 改めて見てみても、俺の右手首にはまってるのは手錠だった。
「すいません!すいません!……私も恥ずかしいんですが、でもこれは原さんとの約束なんです」
 ペコペコとこちらが申し訳なくなる程必死に頭を下げ続ける文月さんの姿に、怒る気すら起きない。
「これが約束?何を考えて?」
「自分が死んだ後に必ずこうしろと……本当にすいません!」
 そういうと、右手でポケットから取り出した小さな鍵……多分、この手錠の鍵を、止める間もなく口に含んでしまった。
「あの~一体?」
 文月さんは、俺の質問を無視すると、赤い顔を更に真っ赤に染めて、ゆっくり目を瞑ると、細い頤(おとがい)をついっと持ち上げる。
 どう見てもキス待ちの体勢である。
「あ、あのジジィ~。……一体何を吹き込んだの?」
「こーひて、ひゅーひてほってもらへって(こうして、チューして取って貰えって)」
 怒りが沸々と込み上げてくる。最低だ。あのおっさんが死に瀕してなお、こんなこと考えて俺の見てないところでニヤニヤしてたかと思うと悔しい。

 深呼吸して怒りを静める。
「……じゃあ、そのまま目を瞑っていて」
「ふぁい!(はい!)」
 俺は左手を彼女の口へと伸ばすと、指でその唇にそっと触れ、輪郭に沿って軽くなぞる。
 その感触に彼女は肩を震わせ身をすくめ、顔だけじゃなく耳も首筋も真っ赤に染める。
 そして彼女の唇から吐息が漏れた一瞬の隙を突いて、俺は人差し指と中指を彼女の口の中へと差し入れた。
 柔らかな濡れた唇の間を滑りぬける感触にゾクリと背中から尾てい骨に走る痺れを感じながら、生暖かな舌の上の鍵を指先に捉えると、2本の指の間に挟みこみ一気に引き抜こう……として思いっきり指を噛まれた。
「あたっあたたたたっ!ギブギブ!もうしない。もうしません!」
 かなり本気で噛み付かれたため、指を食いちぎられそうな恐怖になりふり構わず必死に懇願にする。
 懇願が通じたのか彼女の顎から力を抜ける。その瞬間に慌てて指を引き抜いた。
 ズキズキと痛みの残る2本の指の第一間接と第二案節の間にはくっきりと歯型が残っていた。勿論鍵なんて取ってくる余裕なんてあるはずも無い。
「するふぁダメです(ズルは駄目です)」
 鋭い目でこちらを睨まれた。
「でもね……」
「いあれすか?(いやですか?)」
 ず、ずるい。そこで涙を浮かべますか?しかも14歳の子供の癖に何て目をする?アレは女の……魔性の目だ。子供でも女って奴は恐ろしい。
 だが俺も20代後半に差し掛かった大人の男として、一回り下の文月さんに手玉に取られる訳にはいかない!
 そんな事を考えた段階で負けな気が……いやいや、そんな事あるものか。
 原警部補。確かにあんたの企んだ通りに、この騒ぎで文月さん気は紛れたかもしれない。俺も少し気が軽くなったような気がする。
 だがやりすぎだ。そう簡単にあんたの思い通りになってたまるか、俺は毅然とした態度で臨む事にした。
「文月さん。鍵を渡してください」
 彼女の目を見据えて、ゆっくりと低い声で話しかけると、威圧感に怯んだ様に目を伏せて首を横に振る。
「渡してください」
 繰り返し話しかけながら左の掌を上にして彼女の前に差し出す。
 すると左手でポケットから取り出したハンカチを口元に持っていき、ハンカチの中に鍵を落とし付着した唾液を拭い取る。
「……どうして」
 身体を震わせながら小さく呟くと、俺の掌の上に小さな鍵を載せた。
 俺は受け取った鍵で自分の右手首の輪を外し、次いで彼女の輪も外すと鍵と一緒にポケットにしまう。

 メタルラックのポールを持つと農家の玄関へと向かう。
「中を確認してくるから、文月さんは此処で待ってて」
 途中振り返り声をかけと駆け寄ってきた彼女が、俺の胸に飛び込んできた。
「……私じゃ駄目なんですか?」
 震える唇から搾り出すような哀しげな声。涙に濡れた黒目がちの大きな目。
 そのすがる様に見上げてくる瞳に俺は目を奪われる。

「文月さんが駄目なんじゃなく俺が駄目なんだよ」
 俺は文月さんに自分の病気のことを話した。そして自分が死に場所を求めて旅をしていたことも。
「病気の症状が現れれば、俺は文月さんの負担に……」
 突然、飛びつくようにして首に腕を回し抱きついてきた文月さんの唇に俺の言葉は遮られる。
「…………」
 僅か数秒の時間がとてもゆっくりと流れる。
「あなたに頼っているだけの存在なんかにはなりたくありません。支えあって一緒に生きていきたい」
 文月さんは美少女と呼んでいいだろう。
 こう言うと微妙な表現のようだが、彼女は容貌は可愛い美少女というよりも美形だ。
 小顔で卵形の輪郭に鼻筋は細く通っていて、唇は小さくふっくらと柔らかな曲線を描く。
 アーモンド形の目に優美に被さる眉が知性を感じさせる。
 歳相応の少女らしさよりもノーブルなイメージが先立つ。現在は将来の美人としての完成形への通過点として美少女のカテゴリーを掠めながら通過中というか、何か旨く表現できないが、つまり俺は彼女のに見惚れていて話を聞いてなかった。
「だから……だから」
 文月さんの目に浮かぶ涙を見た瞬間、ドクンと下半身の一部に熱いものが流れ込むのを感じる。
 自覚してみると俺の性欲は、この一週間何のメンテナンスも行っていなかった為。また生命の危機に晒されると繁殖欲が高まるという生き物の宿命ゆえに、未だかつて無いほどに高まっている。
 まずい。こんなことなら昨晩抜いておけば良かった。
「迷惑ですか?……私じゃ駄目ですか?」
 駄目だ。駄目だ。駄目だ。耐えろ俺の理性。流されるな!性欲に流されたら駄目だ!駄目だ!駄目だ!駄目だ!もう駄目だ俺…………
 なんというか、美形がどうこうとかノーブルな顔立ちがどうのとか細かいことは全部どうでもいい。
 文月さん可愛い。ただひたすらに可愛い──俺の理性はあっさりと白旗を上げて、原警部補の策に屈するのであった。

「文月さん」
「……はい?」
 俺を見上げる彼女の目には不安の色が浮かぶ。俺に拒絶されることを畏れるかのように。
 彼女の細い顎の先端に左手の人差し指と親指を添えて固定すると、その唇に軽く自分の唇を合わせた。
 驚きに大きく見開かれる彼女の目。それと視線を合わせたまま、ゆっくりと唇を離した。
「き、北路さん?」
「好きだよ」
 どう好きとか詳細は口にしない。性欲に流されてしまった部分も少なからず……多分にあり、後ろめたさもある。
 だけど俺の言葉にはじける様な笑顔を見せる彼女に、その後ろめたさも霧散する。
「私も好きです。大好きです」
 好きで始まった関係が嫌いで終わることなど良くあることだが、彼女との関係は長く続くだろう。
 これからの世界を生きていく為に互いを必要とし合うパートナーであるのだから。

「目を閉じて」
 俺の言葉に頷き、瞼を閉じた彼女の唇を再び奪う。
 今度は長く。唇を合わせるだけでは無い。その唇を啄ばみ吸う。
 俺のリードにぎこちない動きで健気に応えながらも、彼女も性的興奮を覚えているのだろう。
 合間合間に零れる吐息が熱い。
 彼女の首の後ろに右手を回すと引き寄せて強く唇を合わせる。そして同時に、伸ばした舌で彼女の唇を割り開いた。
 突然の刺激に驚き、彼女が身をよじらせても引き寄せる右手の力は緩めない。
 舌先に触れる彼女の唾液が甘い。歯で閉じられた彼女の口の中には侵入できないが、代わりに舌先で上の歯と歯茎の境目をゆっくり左から右へと滑らせて、閉じられた上下の歯の間を舌先でノックする。
 俺の意図に気付いたのか、ゆっくり上下に開かれていく歯の間に生まれた隙間へ舌を差し入れて、先程指で触れた唇を今度は舌先で軽く触れる。
 おずおずと差し出された彼女の舌に自分の舌を絡ませ、表面の細かな突起をすり合わせ、溢れる唾液を交換し合う。

 父さん。母さん。
 申し訳ないが貴方達の息子は、一回りも年下の14歳の少女に手を出す犯罪者になってしまいました……本当に申し訳ない。



[32883] 【30  07/21(火)09:00 上富良野町 農道】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/17 20:40
 その後三軒の農家を回って、リストの中の優先順位の高いものは全て抑えた俺たちだが、まだ目的地の山小屋の
ある上士幌町へは向かっていない。
 ここを離れる前に上富良野の様子を確認するのと、ついでに一箇所道すがら確認したいことがあった。
 道道851号線を右に曲がり農道に入ると緩やかな左カーブを曲がり、国道237号線に直角に交わる農道へと右折するした。
「あっ!あそこを見てください」
 フロントガラス越しに彼女の指差す先には、見覚えのある農家への入り口のある道路の右脇に小さな小犬の姿があった。
 大きさから見て昨夜の犬ではない。
 小犬が飛び出す危険性を考えて徐行しながら接近する。
「可愛いですね。柴犬でしょうか?」
 コロコロとした茶色の毛玉の様な小犬の姿に文月さんが喜ぶ。そういえば昨夜の犬も柴犬だった……あの犬の子だろうか?
 小犬の手前10mほどの道路の左脇に車を停めて車を降りると、小犬はキャンキャンと庭の中に向かって吼えている様だった。
 その様子にただならぬ事態を予感して、車を降りようとする文月さんに声をかける。
「文月さん。車の中に戻って」
 彼女が黙って頷き車の中に戻るのを確認してから、ルーフキャリアの上に手を伸ばす。
 手探りする指先に硬い物が触れる。そいつを握り込むとルーフキャリアの上で太陽に照らされ続けた金属が掌にじりじりと焦がすような熱い刺激を伝える。
 そのまま固定するゴムバンドの抵抗を無視して一気に引き抜いたのは長さ170cm超のメタルラックのポール。
 昨夜銃撃で折られた相棒が完全復活を遂げたのだった……そんな大層な話ではない。
 先程までの農家の家捜しツアーで大型メタルラックを発見し分解して4本確保してある。
 重さと長さと丈夫さ。それにゾンビの頭蓋骨をより少ない力で叩き割る為の棒自体の細さを考慮すると、金属製であることが必須であり、丁度良さそうなものがこれしかなっただけで、別にメタルラックのポールに強い拘りがあるわけではない。

 小犬の鳴き声は、どうやら一頭だけではないようで2、3匹の鳴き声が聞こえる気がする。
 そして、小犬たちが吼える相手とは死者か生者か──ポールから右手を離して、腰のホルスターの蓋をとめるスナップを外しておく。
 農家の入り口へと慎重に足を進めて庭の中を覗き込む。
 農家の玄関扉は中から打ち壊されて地面に転がり、そのすぐ傍に赤い地溜まりと縫いぐるみの残骸のようなもの……違う昨夜の柴犬だ。あの犬の主人への想いが報われる事は無いと分かっていたが、こんな結果を迎えることになるなんて。
 あの時、首輪から鎖を外すのではなくそのまま引き摺ってでも連れて行けば──そんな意味の無い仮定と後悔に胸が詰まる。
 この農家の元住人。犬の元飼い主である3体のゾンビはこちらに背を向けて、犬小屋に群がっている。
 道路脇に居る親と同じスタンダードな茶色が一匹と、気丈にゾンビのすぐ後ろで吼え続けている白毛が一匹。そして犬小屋の中に追い込まれた鳴き声だけが聞こえる姿の見えないもう一匹。計3匹の小犬がいるようだった。

 素早く駆け寄り、振りかぶったポールを一番体格の良い熟年男性ゾンビの頭頂部へ叩きつけ、頭蓋骨の中にまでめり込んだ先端部分を素早く引き抜く。
 ヌチャという不気味な音を無視して再び振りかぶったポールを、こちらを振り向こうとした二番目に体格の良い熟年女性のゾンビの右前頭部に叩き付けた。
 ポールの先端が割れた頭蓋骨の隙間に引っかかり、引き抜こうとしてもポールにゾンビの頭が付いてくる。
 そこに老婆のゾンビが這いつくばって俺の足元に襲いかかろうとしていたので、ポールから手を離してジャンプしてゾンビの手をかわすと、その背中に着地する。しかし老婆のやせ細った骨の脆さはゾンビになっても変わることなく、着地の衝撃でその背骨と肋骨をまとめてへし折ってしまいバランスを崩すと痛めていた右足首を更に酷く挫いて転倒した。
「クソっ!」
 地面に横たわる俺を目指して老婆のゾンビが肘で這いながら接近してくる。
 背骨と肋骨を砕かれたというのに口から大量の血を吐きながら悪魔の様な形相で襲い掛かってくる。
 咄嗟にそのまま地面を転がって距離を開けようとして背中に何かがぶつかる。
「しまった!」
 最初に倒した熟年男性のゾンビの死骸が俺の退避を塞いでいた。
 身体を起こして、駄目だそれでは間に合わない。
 その時、俺の目の前に小さな白い毛玉の様な子犬が俺とゾンビの間に割って入る。
「キャンッ!キャン!キャン!」
 果敢に吠え掛かり、ゾンビが掴みかかろうとすると右へ左へと避けて、ゾンビの気を引き続けてくれる。
 その時間を無駄にせず、俺は立ち上がる右足を引き摺りながら熟年女性ゾンビに歩み寄りポールを拾い上げ、
痛みを無視して右足でゾンビ頭部を抑えるとポールを引き抜く。
「もういいぞ。離れろ!」
 まるで俺の言葉が分かるかのように白い小犬が飛び退いた次の瞬間。振り下ろしたポールがゾンビの頭部を完全に破壊した。

 命の恩人ならぬ恩犬を抱き上げて、頭を撫でる。
「クゥン」
 小さく鼻を鳴らす姿が実に愛くるしい。
 ふかふかかつ、滑らかな手触りの耳朶を触ると、首を曲げて必死に俺の手を舐めようとする子犬に、これはお持ち帰りするしかないと思った。
 柴犬は元々狩猟犬。主人に対して忠実で敵に対して高い攻撃性を示す。きちんと躾ければ山暮らしでは心強い味方となってくれるだろう。なんて打算はどうでも良いのであった。

 子犬を地面に下ろすと、右腕で拳銃をホルスターから抜いて左手に持ち変える。
 そして、左手で構えた銃を親犬へと向けたままメタルラックのポールを杖に近寄っていく。
「……死んでる?」
 前足は食い千切られ腹も食い破られて死んでいる──死んでいるとしか思えないのにゾンビ化していない。
 犬はゾンビに噛まれてもゾンビにはならないのか?
 見る限り、頭部や頚部には大きな損傷は無い。
 目の前の状況に納得出来ない俺は、更に近づきポールの先端で親犬の身体を突っついてみるが反応は無い。
 突然ゾンビ化して暴れても大丈夫なように、慎重に右手を伸ばして上顎と下顎を同時に掴み、左手で胴体の下に手を差し入れ、首を揺すってみると死後硬直のため硬く首の骨が折れているかどうかは分からなかった。
 ゾンビ化の原因が何らかのウィルスによるものだとして、それが犬には感染しない。もしくは感染しても発症しないという事は十分にあり得る。
 一方で、本当にこのゾンビ化という現象がウィルスの感染によるものなのか?そんな疑問も俺の中で大きくなっていく。
 どうしたものだろう?この犬の遺体も運んで死後硬直が解けた段階で首の骨を調べて、骨折しているかどうか確認すべきだろうか?

「クゥ~ン」
 そんな事を考えていると白い小犬が親犬──下腹部を中心に大きく食い破られていて性別は不明だが多分母犬なのだろう──の傍で哀しげに鼻を鳴らす。
「そうだな、お前の母さんに墓を作ってやらなきゃな」
 犬にゾンビ化が起こるかどうかよりも、この母犬を弔ってやるべきだった。
 拳銃をホルスターに戻し、小犬を左手で抱き上げる。その身体はまだ胴体が掌にスッポリ収まる位に小さい。
 先程は機敏な動きでゾンビに立ち向かってくれた勇者だが、この軽さではやっと離乳食を始めたばかり位なのかもしれない。
 そして、まだ母犬が母乳を出せてお乳を貰えたから、痩せ細っていた母犬に比べて小犬たちは元気なのかもしれない。
「お前は昨日の夜は犬小屋の中で寝てたのか?」
「キュ~ン」
 首を傾げる様にして小さく鼻を鳴らす愛嬌たっぷりな姿に、思わず自分の顔に笑みが浮かぶのが分かる。

 犬を抱いたままポールを杖にして、文月さんの待つRV車へと歩くと、後ろから「ワン!ワン!」と吼えながらもう一匹が現れる。
 黒毛の小犬。犬小屋の中に追い込まれて鳴き声を上げていたのがこの子だろう。

 道路に出ると、俺の様子に気付いた文月さんが車を降りてこちらへ駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか!」
「大丈夫。噛まれてはいない足を挫いただけだよ」
「大丈夫じゃありません。座ってください」
「そんなに大騒ぎするような……」
「座ってください!」
「……はい」
 彼女の剣幕に圧されてその場に腰を下ろす。
 俺の手の中の小犬も先程ゾンビに立ち向かった勇敢さは何処へやら、股間に尻尾を巻いてすっかり怯えてしまった。
 文月さんはアスファルトの上に投げ出した俺の右足のズボンをめくり上げ、スニーカーと靴下を素早く脱がせる。
「かなり腫れています。それに肌に湿布を貼ってあった跡があります……どういうことですか?」
 文月さんの目が怖い。出会ったばかりの頃の前髪を振り乱した貞子状態の時に、この目で睨まれたら心臓麻痺であの世行きだったかもしれないくらい怖い。
「昨晩。自転車で転んで……」
「どうして言ってくれないんです?私はそんなに頼りになりませんか?」
「……ごめんなさい」
 素直に謝った。一回りも年下の女の子に叱られて何も言い返せなかったのは、決して怖かったからじゃない。
 彼女に心配をかけたことを心から申し訳なく思ったからだ……ということにしておいて貰いたい。
「自分は無茶ばかりするのに……私に向ける半分でも自分の事を大切にしてください」
「……はい」

 文月さんに湿布とテーピングで治療してもらうと、文月さんに母犬を埋めるために穴掘りを頼んで、自分はポールを杖代わりにして壊れた玄関から農家の中へと入ろうとした。
「止めてください。まだ中にゾンビが居るかもしれません」
「多分大丈夫だよ……いやいや、違うちゃんと根拠はあるんだよ。ほら表札を見て三人分しか名前が無いでしょ」
 また凄い目で睨まれた俺は必死に弁解する。
 俺が指差した先の表札には、家主と思われる男性の名前と2人の女性の名前が記されていた。
「そうですね」
 納得して貰えたようで良かった。本当に良かった。

 玄関の中へと入ると、先ず耳を澄ませて中の気配を探る。
 目を瞑り呼吸を止めて、ただ音だけに集中する──自分の心臓の音と、背後から聞こえてくる小犬たちの鳴き声しか聞こえない。
 次いで、壁に寄りかかりポールで壁を左右二度ずつ強く叩いて、再び音に集中する──ゾンビの気配は無かった。
 ホルスターから拳銃を抜いて左手で構えて、右手でポールを突きながら内部へ進入する。
 家の中なら発砲しても、それほど大きな音は外には響かないだろうから、ゾンビが居た場合は躊躇わず撃つつもりだ。
「ワンっ!」
 俺の後を白い小犬がついて来る。他の二匹は文月さんに懐いたのだが、こいつだけは俺に懐いたというか文月さんに怯えてる?
 玄関から一直線に伸びる廊下の突き当たりの部屋は居間だったが、中はゾンビと化した住人たちに荒らされて酷い有様だった。
 右手の奥に和室の部屋があり、開いた襖の向こうに覗く壁には赤黒い飛び散った血の跡が生々しく残っていた。
 左手には食卓があり、ダイニングスペースのようだがキッチンがない。
 部屋にあったありとあらゆる物が散乱する床に注意しながら中に踏み込むと左手奥の左側の壁に扉があり、開けてみるとそこがキッチンだった。
 キッチンはドアが閉まっていたためかゾンビに荒らされた様子は無い。
 中をぐるりと見渡すと、冷蔵庫横にドッグフードの大袋が見つかった。
 ドライタイプの4.5kg入りが8部入り程度で残っていたので、当面の小犬の餌には十分だろう。
 袋の中から少しドッグフードを取って、小犬の前に置いてみる。
「クゥ~ン」
 しかし小犬は目の前に置かれた餌を口にしようとはせずに、何これ?と言わんばかりにこちらを見上げて尻尾を振る。
「お前まだ離乳してないのか?」
 犬に聞いても仕方無いのについ口を突いて出てしまう。
 困った。牛乳は成犬ならともかく小犬に与えれば下手すれば下痢で体調を崩して命に関わる。
 脱脂粉乳を水で溶いたものならまだマシらしいが、余りお勧めできない。
 一通りキッチン内を探してみたがやはり子犬用のミルクは見つからない。母犬が居て問題なく母乳を与えられるなら必要が無いから当たり前ともいえる。
 念のため冷蔵庫の中をあたってみるが、まだ薄っすらと冷気の残る庫内には小犬が食べられそうなものは見つからない。
 ついでに冷凍庫の中を確認すると、半解凍状態のご飯の入ったレンジパックを発見。
「そういえば子犬の離乳食におかゆを与えるって聞いたことが……」
 鍋に水──は、水道が使えないので、冷凍庫の中のアイスボックスに半分解けかけて溜まっている氷水を入れて、ガスレンジで火に掛ける。
 北海道は都市ガスよりプロパンガスが大半を占めるので問題なく火は着いた。IHヒーターだったらこうはいかない。
 そこにレンジバックから鍋の中にご飯を流し入れ、ドライタイプのドッグフードをご飯の三割程度入れて蓋をして煮込む。

「クゥ~ンクゥ~ン」
 たちまち部屋中に広がる食べ物の匂いに、小犬は切なそうに鼻を鳴らす。
 小犬たちのご飯の目処が立ったので、ついでに自分たち人間用の食べ物を漁る。
 壁のハンガーに束ねて掛けてある使用済みの買い物袋を抜き取り、冷蔵庫の中のハム・ベーコン・チーズなどの常温でも数日は持つであろう保存食の類を頂いて袋に詰める。
 更に食品棚からは調味料や穀類・缶詰類。ついでに犬用の缶詰も発見し全て袋詰めしていく。

 鍋に火を弱火で掛けたまま玄関まで何度か往復し、袋詰めした全てを運び終える頃には鍋の中身が完成していた。
 しかし、出来立ての熱々を与えるわけには行かない。
 餌が欲しくて欲しくてたまらないのだろう。興奮状態で俺の周りでジャンプし続ける。
 仕方ないので冷凍庫の中の半解凍状態の食材を流しのシンクに放り込み、それらで鍋を包むようにし、菜ばしで中を掻き回し息を吹きかけ熱を冷ますが、糊状になったご飯が子犬の口に入っても大丈夫な温度に下がるには5分ほどの時間を要した。

 文月さんの膝の上でポンポンに膨らませたお腹を見せて眠る小犬たち──白い小犬も、機嫌が直った文月さんにはちゃっかり甘えていた。
「これから、この子達は……」
 茶毛の子犬の喉を人差し指でくすぐりながら、上目遣いで見つめてくる瞳には『飼いたい!お願い!』という文字が浮かんでいるかのようだった。
「連れて行くよ。この子達は単に可愛いだけじゃなく頼りになると思うから」
 勿論、俺に反対する理由など何処にも無い。
「じゃあ名前も考えないといけませんね。私犬を飼うのって初めてなんです」
 余程飼える事が嬉しいのだろう。ニコニコと歳相応の女の子らしい無邪気な笑顔を浮かべている。
「茶色い毛のこの子は女の子だからココアにしましょう」
「いいね」
 確かに茶色だが、ココアというよりはむしろ紅茶色。もっと正確に言うならほうじ茶とかの色だとは思ったが、彼女の女の子らしいセンスを尊重したのと、ココアなら呼びやすいし悪くは無いと思ったので頷いた。
「この白い子は男の子だからマシュマロかな」
「……えっ?」
 男の子だからマシュマロ?全く意味が分からん。しかもマシュマロじゃ呼びづらそうだ。
「そして最後に、この黒い子は女の子なので……」
 俺が上げた疑問の声は無視された。
 一見、俺にも意見を求めているようでいて、実際は犬を飼える事に舞い上がっていて自分の世界に入り込んでいるのだろう。
「…………ゴマ団子?」
 意味わかんねえぇぇぇっ!胸の内で大絶叫する。
 マシュマロ以上に意味不明だ。彼女の中では団子は女の子なのか?
 わからん。14歳の女の子が何を考えているのかは、26歳のお兄さん……いやもうおっさんで良い。これだけジェネレーションギャップを感じさせられた以上はおっさんで結構……にはさっぱり分からん。



[32883] 【31  07/21(火)09:45 上富良野町 国道237号線付近】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/18 21:17
 双眼鏡で見渡した上富良野の状況はかなり酷かった。
 数千体のゾンビが国道237号線を埋め尽くしている。
 そして、どこにも自衛隊の姿は無い。いたとしても彼らがこの状況を変えられるとも思えなかった。

 その後、俺達は道道851号線まで戻り、そこから南に下り道道759号線へと入ると、原警部補の墓の方へと道を戻る。
 距離的には旭川周りで向かった方がずっと近いが、多分ゾンビだらけになっているだろう30万人都市に近寄るのは遠慮したかったので安全重視で南回りルートで向かうことにした。
 富良野市の市街地の手前で左折し、JR学田駅──駅といっても無人駅。しかもホームの長さが1車両分しかない小さな駅が、畑の真ん中にぽつんと立っているだけなので、周囲にゾンビが現れる心配は無い──の脇を抜けて農道を5km走り、山の手前、鳥沼という地区で右折し道道253号線を通って山の中へと入る。

 山道を10kmほど、ぽつぽつと点在する農家の前を通り過ぎながら進むと、ドラマ『北の国から』の舞台となった富良野市麓郷地区へと出た。
「こんなところにもゾンビが……」
 眠る小犬たちを入れた籠を膝に抱いた文月さんが低い声で呟く。
 人口数百人程度しかいないだろう、こんな小さな集落でさえ、路上にはゾンビの姿が散見する。(麓郷地区の人口は100人強で、この事を北路が知っていれば銃を使ってもゾンビを排除して、ここを拠点とした可能性が高い)
 元々の人口が少ないのに、これだけのゾンビが歩き回っている状況では生存者を期待するのは難しい。
「先へ行こう。ヤツらの居ない場所へ」
 文月さんは黙ってただ頷いた。

 南下して国道38号線沿いの富良野市西達布地区を目指す。
 地図上では人里を通らずに一気に中富良野町に出ることの出来る山道があり、ゾンビがいる場所を避けたい俺としてはそちらを選択したかったが、かなり遠回りな上に、地図で見ただけでも車が通れるのか不安になるような道だったので、こちらのルートを選択せざるを得なかった。

 西達布地区は先程の麓郷地区に比べると人口が多いのだろうかなりゾンビの数も多く、道を選び出来るだけ避けて通るが、全てのゾンビは避けられず何体かをグリルガードではね飛ばさねばならなかった。
 そのためゆっくりと徐行でしか走ることが出来ない。
「ここには生き残った人は居ないんでしょうか?」
 文月さんの質問に、俺は黙って前方左上を指差す。
「あっ!人が」
 俺の指差す方向を目で追った彼女は、50m以上先の道路の左に建つ家の二階の窓に人影を発見する。
「今までにも何軒か中に生存者が居る家は有ったよ」
 大型のディーゼル車のエンジン音は家の中にも届くだろうし、ゾンビをはね飛ばす時にも大きな音を立てている。
 俺達以外には外には音を立てる生存者はいないのだから、家の中に潜んでいる生存者たちが気付いて窓からこちらを見るのは当然だった。
「助けて上げられ……ないんですよね?」
 文月さんは優しい子だ。彼らを助けてあげて欲しいと思っているのだろうが俺に負担を掛けることを遠慮して、こんな言い方しか出来なかったのだろう。
「何をもって『助け』とするかが問題なんだ」
「何をもってとは、どういうことですか?」
「もし彼らを家から脱出させて、安全にゾンビの居ない場所にまで移動させれば助けたことになると思うかい?」
「少なくとも当面は助かると思います」
 彼女の答えに俺は大きく首を横に振る。
「住む場所は?食事は?彼らを脱出させても、それが用意できなければその日の内にも彼らから責められる事になるよ。どうして脱出なんてさせたんだってね」
「そうかも……しれません」
「大体、田舎暮らしの彼らにとって各家庭に一台の車は必須だし、脱出を考えたなら自力で何とかしたはずだ。彼らにもわかっているんだよ。逃げ出した後の居場所が無いって。だから彼らは窓からこちらを見るだけで、助けを求めようとはしない」
「そんな!」
 俺の言葉に彼女は窓ガラスに顔を近づけて、建物の二階の窓を見つめる。
 窓から疲れ切った様子の老人がこちらを見ていた。全てを諦めてしまったうつろな眼で……
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 額を窓ガラスに押し付けるようにしてうな垂れる。こちらからは見えないが涙を流しているのだろう声が鼻声になっている。
「辛いかもしれないけれど。これから多く人を見捨てて……切り捨てて生きていく事になる。そうでなければ生き残れない」
「私は……生き残ります。どんなに辛くても生きることを選びます。父と母が産んでくれて、祖父と祖母が育ててくれて、北路さんや原警部補たちに守られて助けられてここまできたんです。絶対に死ぬわけにいきません」
 優しくて強い子だ。彼女の目には先程の老人の目には無かった生きる力を感じる。
「そうか……」
「でも、でも私がそう思えるのは、北路さんが……貴方が傍に居てくれるからなんです。貴方が居ないと私は……」
 その瞬間、シリアスだった車内の空気が変わる。
「ずっと、ずっと一緒に居てください」
 その後、まあ何というか、甘ったるい空気に浸りながら南富良野まで車を走らせることになった。
 かなり流されやすくなってる自分に反省。

 地図には南富良野の詳細図どころか周辺図すらなく、25万分の1の広域図しかなかった無かった。
 南富良野の市街地には最低でも4桁の人間が暮らしている。いや暮らしていたはず。広域図に唯一載っている路である国道38号線に沿って町の中心部を抜けるのは自殺行為という程ではないがかなりの危険を伴う。
 空知川──富良野市からはかなり下流になる──を渡った直後に川沿いにのびる地図には無い道を発見する。
 何処まで続いているのかは分からないが、ゾンビの数が少ないなら駄目だったとしてもそれほど大きなロスにはならないだろうと判断して川沿いの道を選択する。
 結果は、選択は正しく市街地中心部から2km少し離れた場所で国道38号線に合流することが出来た。

 谷間の川沿いを走る車窓の外に広がるのは、本当に良い景色だった。
 信号も大きなカーブも無い飛ばしやすい道だが、速度は時速40km程度に抑える。
 燃費を考えるならもう少し速度を上げた方が効率が良いが、飛び出しに──ゾンビではなく野生動物。特に鹿に備えての事だった。北海道に生息する鹿。エゾジカはでかい。
 奈良の鹿とかあんな可愛らしい生き物とはモノが違う。ツキノワグマと羆が別物なのと同じくらい奈良の鹿とは別物だ。体重は軽く100kgを越える。時には老人が襲われて角で刺されて大怪我したり、酷いときには命を落とす。まさに危険生物。
 このグリルガード装備の大型RV車と言えども、高速走行中にぶつかれば只では済まない。
 以前なら鹿に衝突して車が壊れてもJAFを呼べば済む話だが、今はそうはいかないので速度を落とすしかない。
 次第に全く変化を感じない嫌味なほど良い景色にイライラが募り始める。
 北海道とは法廷速度以下でタラタラと走って良い場所ではない。日本の1/5以上が北海道。広い。無駄に広い。
 スピード違反の取り締まりでも、郊外の一般道では時速100km位は出さないと警察も相手にしないと言われる土地柄だ。

「ごめん。この調子だと今日中にはたどり着けない」
 現在時刻は午後2時半を過ぎようとしているのに、国道38号線南富良野町落合地区のJR落合駅数km前にいる。
 安全を考えれば陽が落ちた後に車を走らせることは出来ない。
 夏とはいえど、日本で一番日の入りが早い北海道。しかも山間部なので西に山を背負う様な場所では後2・3時間も経たずに太陽は山に隠れるだろう。
 漠然と以前までの感覚で200km程度なら今日中にたどり着けると思ってた自分の浅はかさに笑ってしまいそうになる。
 目的地までの残りは、ざっと見て軽く100km以上はある。ゾンビが現れるような市街地は可能な限り避けるが、それでも避けきれない小さな集落などでは徐行を強いられ、これから3時間走ったとしても目的地にたどり着くのは無理だ。
「良いじゃないですか。ゆっくりでも安全に行きましょうね」
 にっこりと笑顔で優しく言われると、勝手に焦ってカリカリしていた自分が餓鬼臭く思える……と言うよりも、その悟りっぷりは、ちょっと年寄りぽいよ文月さん。
「どうかしました?」
「えっ?……いや、文月さんが大人っぽく見えてね」
 物は言いようである。
「そ、そうですか。嬉しいです!やっぱり12も離れてるから子供っぽく見られてたら……だから……」
 嘘とは真実の中にこそ隠すべきである。ちょっとした誤解をしたまま嬉しそうに話し続ける文月さんの様子にほっと胸を撫で下ろす。
 嘘も方便。昔の人は良い事を言う。

 狩勝峠を越えて暫く進むと、ホテルやスキー場。ゴルフコースにサーキット等の施設が立ち並ぶリゾートエリアに差し掛かる。
 幸いゾンビが発生したのは7月中旬で、リゾートと言ってもそれほど混雑した時期でなかったようで助かった。
 もしも8月に入っていたとしたら、ゾンビの数は10倍以上に膨れ上がっていただろう。とはいえゾンビの数は決して少なくない。
 路上には溢れると言うほどではないが、多くのゾンビが集まっている。
 ギアをローに入れて、ゾンビをタイヤハウスに巻き込まないように、歩くよりもゆっくりとした速度でゾンビの群れの中を進む。
 この低速度でも力強いトルクで、何体ものゾンビを押し退け押し倒し、ひき潰しながら進めるのは、さすが本格的RV車というしかない。文月さんのお祖父さんに感謝。

「あれってコンビニですよね?」(古い地図には残っていますが、現在この周辺にコンビニは存在しません)
 文月さんの声に視線を遠くに向けると前方右手に白と青の看板が見える。
 時計を見ると3時少し過ぎ。時間は無いがこの先東に進めば、安全に車内泊出来そうな人気の無い場所は幾らでもあるから、暗くなり始めたらすぐに場所を探せば良いだろう。
「寄ってみるかい?」
「良いんですか?」
「何か残ってるかもしれないしね」
 特にエロ本とかエロ本とかエロ本とか、文月さんに手を出さないように自分を抑えるには、下半身のメンテナンスがどうしても必要。

「やっぱり食べ物とかは残っていませんね」
 踏み込んだ店内は、先客に荒らされていて食料品はほぼ持ち去られていた。
 笑ってしまったのは、レジが壊されて中の現金が持ち去られていたことだ。どこで使う気なのやら。
「俺達の食べ物は無くても……ほら、犬缶!」
「あっカリカリタイプもありますよ。あの子達のお土産になりますね」
 棚に残っていたドライタイプのドッグフード2袋を両脇に抱えてご満悦な文月さんから受け取る。
 子犬たちもすぐに離乳食に移行し、さらにドッグフードをたべられる様になるはずだ。
「じゃあ、こいつは車に積み込んでおくから、他に使えそうな物を探しておいて」
 さっさと車に積み込んで、エロ本を漁らなければ……しかしどうやって?どうすれば文月さんに気付かれないように持ち出せる?
 考えろ。考えるんだ圭太……やはり買い物カゴの底に置いて、上に品物を載せて買い物カゴごと持ち出すしかない。
 だが、勝負は一瞬品定めをする余裕は無い。

 後部座席にドッグフードの袋を積むと即座に踵を返す。
 ドアを通り店内に入ると、入り口脇に積まれた買い物カゴを手に取り、窓側の棚を探す振りをしながら文月さんの様子を伺う。
 作業中でこちらを見て居る様子は無い。そのまま奥まで進み、振り返り一歩踏み出しエロ本コーナーの前に立つ。
 一冊一冊吟味して最良のオカズを手に入れたいという欲求を抑えて、エログラビア系の雑誌を棚から素早く3冊抜き取るとカゴに入れ、何事も無く振り返ると、こちらを向いている文月さんとばっちり目が合う。

 頭の中で試合終了のロングホイッスルが鳴ったような気がした。



[32883] 【32  07/21(火)15:20 新得町コンビニ】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/23 20:32
「北路さん。何をカゴに入れたんですか?」
 文月さんの顔には能面のような笑顔が浮かんでいる。その笑みの裏側に夜叉が潜んでいる。
「何を入れたんですか?」
 口元にのみ笑みを貼り付けたまま、ゆっくりとこちらに向けて一歩一歩足を進める。
「何のことかな?」
 そう言いながらエロ本の入ったカゴを背中に隠す。
「何故カゴを隠すんです?」
 低く響く彼女の声に気圧されて思わずのけぞり一歩下がってしまった。
「いや、別に隠すなんてつもりは無いよ」
「じゃあ、見せてもらっても良いですよね?」
「だ、駄目だ!」
 何時の間にか文月さんは俺の目の前にまで迫っていた。既に一歩も後ろにさがるスペースは無い。
「どうしてですか?何故私に見せてくれないんですか?」
 目が怖い。彼女の黒い瞳の奥に、俺は底知れぬ闇を見出す……というか瞳孔開ききってない?
「そ、それは……」
 考えろ考えろ。全力で考えろ。
「それは?」
「それは……18歳未満には見せてはいけないから」
「……18歳未満って?やっぱりエッチな本じゃないですか!!」
 愚かにも、思いついた瞬間は良い言い訳だと思えたのだが、当然のように文月さんの怒りは爆発する。
 俺は足の痛みも堪えて必死に逃げた。狭い店内すぐに捕まったけど逃げることに意味があった。
 文月さんは俺からカゴを取り上げると、中の『2冊』のエロ本を手にする。
 逃げながら1冊隠したのだ、後はほとぼりがさめて店を出る時に密かに回収すれば良い。自分の狡賢さにうっとりする。

「どうしてこんなものが必要なんですか!」
「どうしてと言われても、どうしてもとしか言いよ……」
 口答えは許さんとばかりの彼女の冷たくて熱い一瞥に、声帯が強張る。
「北路さんには私が居るじゃないですか。どうして浮気するんですか?」
「う、浮気?……」
 俺と文月さんの関係は恋人同士と呼ぶにはまだ微妙だ。だが俺が他の女性に手を出したら浮気と彼女に責められても仕方ない関係には違いない。
 いやしかし、それにしてもエロ本相手に……
「浮気は違うでしょ?」
「浮気です!」
「いや、だって本だよ。裸の女性のグラビアがついてるだけの本だよ」
「浮気です!」
 ゆ、揺るぎない。思わず『その通りです』と言って頭を下げたくなる程の力強い説得力を感じる。
 ともかく、ここは浮気かどうかを争うのは相手の態度を硬化させるだけで意味は無い。冷静に大人な判断を選択する。
「……だとしても、これは仕方ない事なんだよ。俺だって男なんだからさ」
 男なら誰だって俺を支持するだろう。しかし残念なことに今俺の前に立つのは女性だ。
「どうして他の女性の裸なんですか?見たいなら私に言ってください。貴方が言うならどんないやらしい格好だってします。貴方が望むことならどんなことだって私……だから、だから私だけを見てください!」
 顔どころか首筋までも羞恥に紅色に染める文月さん。その必死に訴えるような目には涙が浮かんでいた。
 ズドンと大砲でも食らったかのような衝撃が俺の胸を襲う。
 そりゃあ~ね~よ。ずるいね。カートレースにF1マシンで乗り込んでくるような重大なレギュレーション違反だ。
 勝てるはずが無い……というか立ち向かおうと言う闘志さえも一瞬で蒸発するね。
 俺の理性よ。お前は良く戦った。十分だ。もう十分だから森に帰ろう。

 気がつくと俺は文月さんを抱きしめて唇を奪っていた。
 同じディープキスでも前回のとはモノが違う。そこには彼女への気遣いも優しさも無い。
 ただ彼女の口腔内を本能の赴くままにひたすら蹂躙する。
 すぐに膝から力が抜けて崩れ落ちそうになる文月さん。俺は背中から腰へと滑らせた左手で彼女の右の尻をぎゅっと鷲掴みにすると耳元で冷たく命じる。
「しっかり立つんだ文月」
 呼び捨てだよ俺。
「あぁぁ……は、はいぃ……」
 半ば意識が飛びながらも必死に返事を返す彼女の唇を奪う。
 舌と舌を絡み合わせ、溢れ出る唾液を音を立てて啜る。
「ぅぅ……ひぃぃ」
 恥ずかしさに耐え切れなくなったのだろう。文月さんは涙を浮かべると、身を捩り俺の腕の中から逃れようとする。
「ああ……いやぁ……」
 涙に濡れる許しを乞うような瞳。その目尻にキスをして溢れる涙を啜る。
 そしてにっこりと笑みを浮かべて告げる。
「駄目だ。まだ許さない」
 俺を本気にさせたのは彼女だ。これ以上自分の理性に仕事をさせる気は無い。第一、既に奴は森に帰った。
 もう止めるものは何もない。俺は今ここで彼女の全てを奪う。
「あぁぁぁ……」
 小さく絶望の悲鳴を上げる彼女の唇を、自分の唇で塞ぐ。
 再び始まる蹂躙に次第に蕩けるような表情を見せ始めた彼女は、遂には自分の両腕を俺の首に回し自ら積極的に俺の唇を求め始める。
 その態度の変化にニヤリと笑みを浮かべると両手で彼女の尻を下から掴み抱き上げる。
 自分の体重に加えて彼女の体重が加わり、悲鳴を上げる右足首を無視して、そのままレジカウンターへと向かう。その間も俺の両手は強弱を加えながら、彼女のまだ肉付きの薄い尻の感触を楽しみ続けた。
 たどり着いた俺は、文月さんをそっとレジカウンターの上に座らせる。
「良いか?なんて尋ねない。もう文月が14歳だろうが構わない……」
「蓮です……蓮って呼んでください」
 ああ、もう可愛いったらありゃしない。
 そのまま彼女を後ろに押し倒しながら耳元で「蓮」と一言囁く。
「はい……」

 その時だった。車内に残してきた小犬たちが一斉に吼え始めた。
 これからって状況で冷や水をぶちまけられた野良猫のように、一瞬で理性が職務に復帰する。
 吼え声に続いて低く響くディーゼルのエンジン音が耳に届く。
 身体を起こそうとする俺の胸元を文月さんの手が掴む。
 すがるような目で見つめる彼女と目を合わせたまま、その手を上から握りそっと引き剥がす。
「お預けだ。続きは明日の夜……山小屋で」
「……はい」
「俺が良いと言うまで中に居て。そうだなカゴの荷物を持ってトイレの中にでも隠れ居ていて」
 そう言い残すと俺は出口へと向かった。

 ドアのガラス越しに1台の黒いワンボックスのコンビニ前の駐車場に入ってくるのが見えた。
 腰のホルスターの蓋を開けて、何時でも銃を抜けるように備える。
 ワンボックスはRV車の前に横付けすると中から三人の若い男たちが次々に降りてくる。
 彼らの手には黒いT型の棒のようなモノが見て取れた。
「……ボウガン?」(正式にはクロスボウだが、北路には詳しい知識が無い)
 次の瞬間、男たちの一人がこちらに気付いて声を上げる。
「中に居るぞ!」
 そしてこちらにボウガンを構える。それと同時に俺は床へと身を投げ出した。
 床の上を転がりながら、店の奥──弁当コーナーの辺りでドンと音が鳴るのを耳にする。ボウガンから打ち出された矢は、ほとんど音も立てずに分厚いガラスを貫くと壁に突き刺さったのだ。
 あんなもの喰らったら只じゃすまない。
「止めろ!俺は人間だぞ!!」
 そう叫びつつ、ホルスターから拳銃を抜き、遊底を引いて戻し薬室に初弾を送り込む。
 店の前に車が停まっているのだから、店内の人影が人間である可能性を疑うはずなのにいきなり撃ってきた。
 つまり連中は俺を人間だと分かっていながら矢を射たのだ。
 案の定。叫んだ後一呼吸置いて俺の頭上を矢が飛び去り奥の壁に突き刺さる。
 それを認識した途端。俺の頭の中で興奮や怒り、そして恐れなどの感情がすっと醒めていく。
「止めろ!撃つな!」
 もう一度だけ警告した。
 しかし返ってきたのは罵声と嘲笑、そして放たれた矢だった。
「人間だ?知ったことか!お前を生かしておいて俺達の得になるのか?」
「お前が女なら生かしておいてやっても良かったけどな」
 連中の言葉に俺は腹を括る。ただでさえ広い北海道。生き残った人間は僅かだろうが、それでもあんな連中と共に生きるには狭すぎる。



[32883] 【33  07/21(火)15:35 新得町コンビニ】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/23 20:33
 俺としては連中が店内に踏み込んできた所を攻撃したいが連中に時間を与えるわけにはいかない。
 文月さんのお祖父さんのRV車は良く手入れされているが年式は古い。そおの当時は高級車でもイモビライザーなどは搭載されてない。
 キーは抜いてあるが知識のある奴ならエンジンを掛けることくらい出来るだろう。
 それに、もし俺が連中の立場なら絶対に行わないが車を破壊される可能性もある。連中に理性や知性を期待できるとは思えない。
 こちらか打って出るしかない。
 幸い、停電のおかげで店内は外よりも暗い。外の光が届く窓やドアの近くに寄らなければ外からは俺の姿は見えないはずだ。
 床の上を這って窓際の本棚の下の隙間から外を伺う。
 車の外に3人。そしてワンボックスの運転席に1人。外の3人はそれぞれボウガンで武装している。
 左から、窓を挟んでほぼ俺の正面10m弱先に立つのが1人目。ワンボックスの傍で助手席の男と何か話しているのが2人目。店の入り口の5mくらいに陣取っているのが3人目。
 どいつも野戦服やSWAT風の黒い戦闘服などを着込んでいるが、何処かサイズがあっておらず、入り口付近の小男にいたっては、袖や裾を折り返して着込んでいる。
 手に持つのは随分とごっついボウガンだ。滑車つきで鹿撃ち用と思われる強力な大型ボウガンにはスコープまで載せている。
 この騒ぎに乗じて、何処かのショップからボウガンを調達しただけなら、それほど恐れる事は無いだろ。
 動かない標的ならともかく、動いている標的に命中させることは、どんな飛び道具においても熟練を必要とする。
 しかもボウガンは速射性に優れた武器ではない。
 連中の前に飛び出し素早く移動して無駄に矢を打たせた後、拳銃で片付けていけば良いだけだ。
 しかし、その可能性は低いだろうが、もし連中が熟練者なら覚悟が必要だ。
 大型ボウガンの威力。特に貫通力に関しては普通の拳銃とは比較にならないほど高い。
 実際の事件で、スーツの内ポケットに入れたたっぷりと札の詰まった二つ折りの財布が拳銃弾を食い止めて命が助かったという話も聞くが、何かのヤクザ映画を真似てズボンのウエストに目の前の雑誌を数冊差し込んだとしても、あのボウガンで撃たれたら簡単に貫通されて終わりだろう。
 先ず相手に撃たせなければならない。最低でも二人に無駄矢を放ってもらわなければ、連中が熟練者の場合、店から出た途端に俺は射殺されるだろう。

 一旦窓際から退いて、窓側の列の棚の端に備え付けられた側棚を冷蔵扉の傍へ移動させる。
 薄暗い店内。こいつを俺と見間違えてくれればありがたい。
 そして奥の棚の側棚を肩の上に担ぎ上げる。
 そのまま窓際に向かって走り、担いだ棚を窓ガラスへと勢いのままに投げつけた。
 大きな音を立てて派手に砕け散る窓ガラス。弁償するなら何十万もするだろう。
 普段なら絶対に出来ない破壊行為に、こんな状況だというのに妙にスカッとした気持ちになる。

 窓際の棚の裏を走り入り口に向かう。右後方で壁に矢が刺さる音が響く……先ず1発目。
 レジカウンターにたどり着く。ワンボックスの傍に立つ男が割れた窓ガラスの方を目掛けて矢を放つのが見えた……これで2発目。
 作戦成功を確信しつつ、腰のホルスターに右手を伸ばしながら入り口の扉に取り付こうとした、その一歩手前で入り口近くの小男と目が合った。
「畜生っ!」
 奴は矢を放っていなければ、注意を入り口からそらしてもいなかった。
 口元に下卑た笑みを浮かべる小男は冷静だ。ゆっくりとこちらに向かってボウガンを構える。
 勢いのついた今の俺の態勢からは伏せる位しか回避行動は取れない事を奴は理解しているだろう。伏せれば、冷静に狙いを付け直して矢を射るはずだ。
 俺はわざと分かりやすい大きい動作で、腰のホルスターに右手を伸ばして拳銃を抜こうとする。
 差し込む光が、ガラスドアの奥に立つ俺の姿を浮かび上がらせる。それを見た奴は俺が銃を持っていることを理解したのだろう。一瞬にして口元から下卑た笑顔が消え去る。
 奴は慌てて銃尻に頬を乗せて俺に照準を合わせる。眉間の辺りにちりちりと焼け付くような圧迫感を覚えた次の瞬間。ホルスターから抜いた拳銃の銃口が奴に向かう前に、奴はボウガンの引き金を引いた。

「何っ!」
 小男が驚きの声を上げる。
 ドアガラス越しに俺を射るはずの矢は狙いをそれて、隣の窓ガラスを突き破り棚の柱へ突き刺さった。
「残念だったな」
 信じられないという様子で呆然と立ち尽くす小男に銃口を向けると2度引き金を引く。奴の腹と胸で血飛沫が舞った。
 俺が拳銃を抜こうとしたのは奴より先に撃つのが目的ではなかった。
 奴を焦らせて冷静さを失わせた状態で引き金を引かせるのが目的だった。
 俺は右手で拳銃を抜きながら、同時に左手でドアを押し開き、矢の射線上にガラスのドアを斜めになるようにした。
 如何に貫通力に優れた鹿撃ち用の大型ボウガンの矢とはいえ60度程度傾いた強化ガラスを貫通する事は出来ず弾かれて軌道を変えたのだった。

「クソ!クソっ!」
 仲間を目の前で殺された恐怖。一方的に狩るべき対象であった俺が自分たちより強力な武器を持っていた事への驚き。
 次の矢を番えるために必死に弦を巻き上げようと銃尻のクランクハンドルを回すも焦りばかりが先立ち、上手くいかないワンボックスの傍の男。
 俺はそいつに駆け寄ると、至近距離から胸の真ん中めがけて2発の銃弾を送り込む。
 次いで運転席の男にフロントガラス越しに顔面目掛けて1発打ち込むが、フロントガラスに対して斜めに入った弾は狙いを逸れて、男の顔の左横を抜けて後ろのヘッドレストに穴を開けた。
 最初に射殺した小男と同じ間違いを犯すとは、俺も学習能力が無い。
 苦笑を浮かべながら改めて狙いを付け直す。一発目でフロントガラスには網目状のヒビが走っているが人間の顔の位置くらいは識別できる。
「止めろ!撃つな!人間なんだぞ!」
 何処かで聞いたような台詞だ。冗談としては面白い。傑作と言っていいだろう。だが命を張って言う程の冗談とは思えない。何より今の俺に全く笑えなかった。
「もっともな台詞だが、お前にそれを言う資格は無い」
 そう冷たく言い放つと悲鳴を上げて許しを乞う男を、銃弾の熱いキスで黙らせた。

 20秒足らずで3人を始末した俺は最後の一人へと向き直る。
 奴は弦を巻き上げようとクランクハンドルを回すが、恐怖に混乱し作業は進んでいなかった。
 そして俺と目が合うとボウガンを投げ出し悲鳴を上げて逃げ出す。
「ぅわぁぁぁぁぁっ!!!」
 俺はその背中に向けて1発放った。
 すると奴は後ろから肩の辺りを見えない手で突き飛ばされた様に前のめって転倒する。
「動くな!」
 そう忠告を与えるが、奴の耳には全く届いていないようで意味不明な事を叫びながら立ち上がり逃亡を図る。
 その尻を後ろから、金属カップの入った安全靴の左のつま先で蹴り上げる。蹴りは尾てい骨の辺りに入り、つま先に骨に当たった感触を残す。
 絶叫の如き大声を上げながらののたうち回る男を見下ろしながら、拳銃からマガジンを抜き出し、マガジン・ポウチから取り出した予備マガジンと交換する。
「今まで何人殺した?」
「……わ、わかんねぇよ」
 答え方が気に障ったのでわき腹に1発蹴りを入れる。今の俺は少々どころでなく気が立っている。まさにガラスの様にセンシティブ。ちょっとした事でも激発する気十分だ。
 人を殺したのは二度目だが、小林君を手に掛けた時は全く状況が異なる。
 同じ必然性のある殺人だとしても、こいつらに対しては俺の手を汚させやがったという怒りしか沸いてこない。
「……殺してない。人なんて殺してない」
 見え透いた嘘に、再びわき腹を蹴り上げる。
「殺してないなら何で、分からないと答えた?」
「いや、殺したかもしれない……ひ、1人だ1人だけ殺した」
 三度蹴り上げる。回数と共に力も強く強くなるように蹴る。
「お前は馬鹿か?蹴られる毎に1人ずつ人数増やす気か?」
 実に怒りっぽくなっていると自覚がありながらも止まらない。そして止める必要性も感じられなかった。
 だがこいつを尋問して殺した人数を聞き出しても仕方ない。どうせ分からないほど多くの人間を手に掛けてきたのだろう。
 それほど、こいつらの行動は迷いも無く手馴れていた。
 故に殺さなければならない。生かしておくことに意味が無いどころか、生かしておけば再び誰かの命を平然と奪うだろう。
 更生?生まれ変わってやり直すというなら、例えじゃなく文字通り来世でやってくれ。
「まあ良い。お前等はボウガンや装備を何処で手に入れた?」
「あ……だ、ダチの家から持ってきた。こんなのが好きな奴がいて……」
「そいつはどうした?」
「奴は…………」
「殺したんだな?」
「ああ……俺たちには渡さないとかいうから……」
「そいつの家は何処だ?」
 正直ボウガンは欲しい。銃なら音を立てるがボウガンなら無音とは言わないだろうが遠くからゾンビや人間の注意を引くほどの音を立てる事は無いだろう。
 こいつを使いこなせる事が出来たなら魚以外の蛋白源を確保出来る。

「奴の家がある辺りは、今頃ゾンビだらけだ……だけど、奴のコレクションのほとんどは俺たちが持ち出して車に積んである。それをやるよ。お前に渡すから殺さないでくれ!」
「そうか分かった……」
 そう言って拳銃をホルスターに戻す。
「やった助かった……助かった……」
 何か勘違いして喜んでる男を無視して、先程こいつが投げ出したボウガンを拾い上げる。
 手にしたボウガンの銃尻のハンドルを回して弦を引き絞ってみる。さほど力が必要ない分巻き上がりには大体30秒ほど掛かった。慣れればもっと速くなるだろう。
 地面に散らばった矢を2本拾い上げる。思ったより軽いアルミ製のようだ。
 そして手にした矢の内1本をボウガンにセットすると地面に腹這いになってる男に向けて狙いをつける。
「お、おい何をするつもりだ?……約束が」
 その言葉を無視して、狙いをつけると引き金を引く。ガシャンという音と共に銃尻が肩を軽く蹴る。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 男は矢によってアスファルトの地面に縫い付けられた自分の右膝を押さえながら悲鳴を放つ。
「お前に殺されたお友達からのプレゼントだ貰っておけ」
 そう言い捨てると、再びハンドルで弦を巻き上げる。先程よりはスムーズに回せた気がする。
 そして矢をセットして狙いをつける。
「止めろ!止めろ!止めてくれ!!」
 耳障りな叫びを無視して引き金を絞ると、飛び出した矢が今度は左膝に突き刺さり間接を破壊しながら貫通し、アスファルトへと深く突き刺さった。
「ぐぅああぁぁぁぁっぁぁっぁっ!!」
 両足の膝に矢を突き立てられ、後ろに仰け反り、狂ったように後頭部を地面に叩き付けながら悲鳴を上げ続ける男に俺は吐き捨てる。
「約束通り俺はお前を殺さない。銃声を聞いてやって来るゾンビに喰われろ」



[32883] 【34  07/21(火)15:40 新得町コンビニ】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/23 20:35
 狂ったように悲鳴を上げ続ける男を無視して店内に戻るとトイレの方に向かって呼びかける。
「文月さん。面倒は片付いたけど後始末があるからもう少しそこにいてください」
「怪我はありませんか?」
 そう言いながらトイレから出てきた文月さんは、俺の言葉を無視して駆け寄ってくる。
「ちょっと暴れすぎて、足首を痛めたみたいだから、一仕事終えたら、もう一度見てもらえるかい?」
 結構痛む。だけどそれは連中との戦い以前。文月さんから逃げたり、文月さんを抱き上げたりした分も大きい。
「私も手伝います!」
「いや、でもね」
「誰かを……殺したんですよね?」
「……3人殺した。そしてもう1人死なせることになる」
 彼らを殺したことは後悔していないが、その事で彼女に恐れられるのは、当然ではあるが哀しいことだ。
 そう考えていると文月さんが俺の胸に飛び込んできた。
「自分を責めないで下さい。私にだって何があったかは聞こえてました。北路さんが戦う気が無かったことも、あの人たちが何て言っていたかも」
 感情を顔に出てしまっていたのだろう。彼女は腕を背中にまわして抱きしめながら慰めの言葉を口にする。
「情けないな。心配させるなんて」
 本当に情けない。出来れば彼女にはずっと笑っていて欲しいのに、悲しませたり心配させてばかりいる気がする。
「せめてこんな時くらい私を頼ってください。貴方が悲しい時は一緒に悲しませてください。私は貴方に守られているだけでいたくない。本当は貴方と一緒に支えあって生きてゆきたいんです」
「文月さん……」
 彼女はこんな短い間に守られるだけの少女から、一人の女へと成長してしまったようだ。
 下手をしたら俺が置いていかれそうだ。
 彼女の背中に腕を回し、俺からも抱きしめ返しながら「ありがとう」とだけ口にする。
「でも、また『文月さん』に戻ってしまったんですね」
 少し恨めしそうな上目遣いでこちらをじっと見つめる文月さん。
「いや、あのぅ~まだその場の雰囲気次第というか、その内に普段からでも名前で呼べるようになると……多分」


 文月さんには引き続き、店内の物色を続けて貰い俺は外での作業を行うことにした。
 彼女の気持ちはありがたいが、ゾンビを倒すのとは違う殺人を犯した現場を彼女に見せるのは心理的な抵抗があったのだ。
 先ずは生き残っている男の所へと行く。いい加減やかましくうんざりした。背後から回り込んで首に腕を回し頚動脈を圧迫するように締め上げる。
 奴の様な興奮状態において脳は通常よりはるかに酸素を必要とするため、2本の頚動脈の血流を遮断されることで僅か10秒足らずで意識を失った。
 このまま頚骨をへし折ってやるのが慈悲だとは思ったが、殺さないという約束を口実に俺は捨て置く。
 俺も好きで殺人を犯しているわけではない。こんな奴らだとしても1人殺すたびに自分の中の何かが壊れていく気がした。
 殺す価値も無い奴の為にこれ以上負担を背負う気にはなれない。

 しかし、このまま放置しておくと別の人間が来て善意で助けてしまうかもしれない。
 地面に転がっていた矢を一本拾い上げると、気絶した男の傍のアスファルト面を引掻き文字を刻む。
『この者 殺人者 故にこの場に晒し捨て置く』自分で書いておいてなんだが、お侍さんかと突っ込みたくなる。流石に時代がかりすぎている。
 考えた末に最近良く使われる今風の言葉を書き加える。
『助ける場合は自己責任』……これで大丈夫だろう。
 ついでに、ボディーチェックも行っておく、他に凶器を持っていて近寄った人間に斬り付けて犠牲者が出ても困る。
 胸のポケットからは煙草とライター──ZIPPOが出てきた。俺は煙草を吸う習慣は18歳までに止めていたが、これから火を起こさなければならない機会が多くなるのは確実なので貰っておく。
 財布はスルー。現金は電気が止まる前なら自販機から品物を取り出すのに便利だったろうが、今では何の役にも立たない。
 腰のベルトにナイフケースが取り付けてあった。かなり大型で太いグリップハンドルを握りケースから抜いてみると刀身には銃器メーカーとして有名なSmith&Wessonの刻印がある。
「スミス&ウェッソン……ナイフも作ってたの?そりゃあフェラーリも自転車を作るわけだ」
 刃渡りは20cm以上。刀身は分厚くナイフというよりは鉈のようだった。ありがたく頂戴する。
 他にめぼしいものは無かったので、次はワンボックスカーへと向かう。

 後部ハッチを開けると貨物スペースには、連中が持っていたのとは別のボウガンが幾つか積まれていた。
 小型で銃尻の無い片手で保持するタイプが3つに、連中が持っていたのと同じタイプのボウガンが1つ。そして連中が持っていたのより大きな弓を着けたボウガンが1つ。

 RV車もそろそろ荷物で一杯なので、全てを持って行くのはあきらめて、ハンドガンタイプを1つと連中が使っていた弦の巻き上げ機能付のを2つ。そして一番大きなボウガンを選んだ。
 他に矢と交換用の弦に弓。整備用の部品やアクセサリー(この場合は武器に取り付けるスリングベルトやスコープ等の小物類)などもあったので全て回収した。

 残ったボウガンの始末に頭を悩ませる。矢は無くても他の棒状の物でも代用は利き武器として使える。だが誰の手にこれらが渡るか?と考えると、目に付く場所に置いて行くか、それとも破壊しておくかが微妙で判断に困る。
 生き残るために有効に使って貰えるならありがたいが、連中のように他の人間に向けて使うような奴等の手に渡る可能性もある──とりあえず保留にすると、持っていかない分のボウガンはまとめて店の入り口の傍に置いた。

 そのほかに缶詰などの保存食を回収し、後部座席も覗いてみるといくつも酒瓶が転がっていた。
 飲みかけの瓶や空瓶も見える。連中は酒を飲んでいたのだろう、もし素面だったら殺されたのは俺の方だったかもしれない。そう考えると肝が冷えた。
 俺は酒は飲むことは飲むが、付き合いで飲む程度で飲まなければ飲まないで困らない。14歳の文月さんにも必要はなさそうだったので、何かに使う可能性もあるので一番アルコール度の高いウォッカを1瓶だけ頂いておく。

 次にRV車の給油口カバーを開けてシリンダータイプの給油ポンプを持ち出す。富良野のホームセンターで和田さんに渡されたヤツが役に立つ時が来た。
 ワンボックスの運転席のドアを開け、中の死体を助手席へと蹴り飛ばす。そして血まみれのシートカバーを外して助手席の足元に転がった死体の上に放り投げた。
 運転席に座りエンジンをかける。燃料メーターを確認するとまだ半分以上残っていた。
「余るな……もったいない」
 一旦前に出してハンドルを大きく右に切りバックでRV車の右側に横付けすると、エンジンを切り足元のレバーを引いて給油口カバーを開け車を降りた。

 ポンプを使いワンボックスの燃料を移してRV車を満タンにしたが、やはりまだワンボックスの燃料タンクには軽油が残っている。
 俺はポリタンクを探しに車から離れてコンビニの裏手に回る。
 バックルームを覗いた時に石油ファンヒーターがあったので、屋外の大型灯油タンクとは別に石油ファンヒーター用の灯油を入れるポリタンクがあるはずだ。
 裏手には物置があり、薄っぺらな鉄板扉の鍵の辺りを数発殴りつけると扉は歪んで簡単に鍵は外れた。
 扉を開けて中を覗くと、物置の奥から空の灯油のポリタンクを1つ発見した。
 物置の中には他に、今の時期には必要としない除雪道具などが仕舞われていた。
「そういえば冬場は雪かきの準備も必要だな……それに防寒具も手に入れなければならないし、暖炉があるとしてもそれ以外に電気を使わないポータブルストーブか、なら軽油だけじゃなく灯油も必要だし、発電機も出来れば欲しいな。あれってガソリンで動かすんだろ?ガソリンはポリタンクは駄目だし金属性タンクか……ふぅ」
 明日山小屋に着いたとしても、何度か人里まで降りて色々手に入れて回る必要がありそうだ。

 戻ってポリタンクに軽油を入れると、RV車へと入れた分とポリタンクの分で丁度ワンボックスの燃料タンクは空になった。
 ポリタンクをRV車に積み込むと、ほぼ空になったワンボックスの貨物スペースに外の死体を積み込み駐車場の端に移動させると取り合えず、俺の仕事は一段落ついた。

「こっちの作業は大体終わったけど、そちらはどう?」
 入り口の扉を開けて中へと声を掛ける。
「ちょっとこっちに来てください」
 文月さんの声が硬い。何かがあったのだろうか?
「どうしたの?」
 急いで店内に入り、奥の棚の裏側に居る文月さんの元に向かう。
「これはなんですか?」
 突然、目の前に突きつけられる一冊の雑誌……まずい!それは先程俺がドサクサにまぎれて隠したエロ本だった。
「私が最初に、この棚を見てまわった時には、こんな雑誌は棚の中にはありませんでした。それなのにどうしてこんな物がこの棚にあるんでしょう?おかしいと思いませんか?」
 彼女の言葉で店内の空気が凍りつく。優しげな声が怖い。柔らかな言葉遣いが怖い。
 14歳の少女の迫力に気圧されて声が出ない26歳の男。
「知らないなんて言いませんよね?店の中には私たち二人しか居なかったんですから」
 言い訳を考える間もなく逃げ道は塞がれる。だが逆に考えるんだ『知らない』と言う前に先回りされて良かったと。
「どうして黙ってるんですか?北路さんは私を抱きしめて……あんな激しくキスしながら、こんな本の裸の女のこと考えていたんですよね?」
「いや、それはない。今まで隠してたこと自体忘れてたんだから」
 これは本当だ。連中の襲撃が無ければ、そのまま最後まで行為は及んでいただろう。
 最後まで行かないように、ガス抜きする為のオカズだ。
 彼女を抱くと決意した時点で既にエロ本には意味がなくなっている。
「本当……ですか?」
「この際だから全部ぶちまけるけど、俺はまだ文月さんと……何というか、セックスするのは早いと思ってるんだよ」
「そんな、明日の夜って約束しました!」
「うん分かってる。今更に何言ってるんだと自分でも思うよ。でも決して文月さんとセックスするのが嫌だとか言うわけじゃなく、むしろ今すぐにでも抱きたいという気持ちを抑えてるくらいだよ。良識とか法律とか社会通念とか、ロリコン変態と後ろ指を差されたくないとか、そういう枷を全て吹き飛ばした上で、君を一人の女性として抱きたいと思うほど強く魅力を感じている」
 オッパイ星人の看板だって下ろす覚悟もした。
「それなら何故?」
「やっぱり14歳の君の身体は性的に成熟し切れてないと思うんだ。セックス自体は俺が君の身体を気遣えば問題なく出来るだろうけど、その後妊娠の可能性を考えるとね」
「妊娠ですか?」
「もちろんセックスをするなら避妊はする。これからのことを考えると無責任に子供を作るわけにはいかないし、何より君の年での妊娠出産は大きなリスクがあるから。でも避妊に100%はないんだ。コンドームなんて物理的に遮断するわけだから正しく使えば確実に避妊出来るはずなのに避妊率は100%じゃないんだよ。所詮人間のやること、しかもセックス中なんて男が一番馬鹿になる時間だから、どうしても正しく使われない場合が妊娠の可能性が発生するわけで……」
 実際、過去にヒヤリとしたのは一度や二度じゃないと言いそうになって、まさしくヒヤリとした。
「……セックスすることでリスクを背負うのは常に女性だから、14歳の君にそんなリスクを背負わせたくない。でも俺も男だから二人で居れば君に性欲を向けるのを抑えきれなくなるかもしれない。その前に性欲を発散するために、そういう本が必要なんだ」
「嫌です!」
 即答で否定されてしまった。
「あなたの言うとおり、妊娠してしまうかもしれない。今妊娠しても、ちゃんと産んであげられないかもしれない。ちゃんと育ててあげられないかもしれない。でも、それでもあなたに抱かれたい。それが私の本当の気持ちです」
「あ、あのね……」
 本心なら俺だって同じだ、でもねそれを抑えるのが人として……
「あたなは『俺も男だから』と言ったけれど、私だって女です。女にだって性欲はあります」
「ご、ご尤もで」
「大体、あなたがこんな本相手に性欲を発散している傍で、私に悶々としていろとでも言うんですか?」
「お、女の子が悶々とか言うのはどうかなぁ~って」
「悶々もムラムラだってします!」
 そう断言されて、俺はもう何も言い返せなかった。

 持っていく荷物を選び終える。
 食料品関係が根こそぎ、電池や懐中電灯・ライター・煙草などの嗜好品は全て無くなっていた。
 しかし、洗顔・入浴などのアメニティ系グッズは意外なほどそのまま残っていたで頂く。
 特に既に持ってはいるが、歯ブラシや歯磨き粉は全て持っていく。虫歯になっても、もう治療は出来ないのだから。
 更に文房具の類も出来る限り持っていくことにした。

「これはどうするんですか?」
 入り口の傍に置きっぱなしになっているボウガンに文月さんが気付く。
「どうするか悩んでるんだ。これ以上は荷物になるだけだし、置いて行けば誰かの役に立つかもしれないけど、あいつらみたいな連中の手に渡ってもまずいし」
「それなら持っていって、渡しても大丈夫だと思える人に会えたら渡せしましょう」
 まさしく正論だった。そんな事も思いつかない自分にあきれ、自分の精神状態に不安を覚える一方で、今のような状況下で心のバランスを失っていない彼女に尊敬の念を覚えた。

 荷物を持って車に戻ると、買い物カゴの中から北海道温泉ガイドを取り出す。
「ねえ文月さん。温泉に入りたくない?」
 と言うよりも自分が入りたい。ゆっくりとはいかなくても久しぶりにお湯に浸かって心を休めたい。
「一緒にですか?」
 それじゃ全く気が休まらない。
「……俺が我慢できなくなるから駄目」
「しなくて良いのに」
 ありがたくて血の涙が出そうだ。
「今日中に目的地にたどり着くのは無理かだから、どこかで一泊する必要があるんだけど然別峡へ向かうと野湯のあるキャンプ場があるんだ」
 聞かなかった事にして話を進める。
「……ところで野湯って何ですか?」
 今何か、小さな舌打ちが聞こえたような気がしたんだが……問い詰めたかったが、薮蛇になるのは目に見えているので堪える。
「要するに露天温泉なんだけど、自然の中で湧き出た温泉で宿泊施設とかが併設されてる訳でもないので、人も居なければゾンビも居ないと思うんだよ」
「一緒に入れないなら私は別に……」
「そこから離れよう。お願いだから」
 運転席のシートの上に正座すると土下座してお願いした。



[32883] 【35  07/21(火)16:20 鹿追町】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/25 20:04
 コンビニを出て農道を10数km走ると、その先は北海道の面積の10%。日本の面積のの2%を占める十勝平野が広がる。
 異なる作物が植えられた幾つもの畑が、何処までも広がる広大な十勝平野をパッチワークのように彩っている。
 道道593号線を東へと進むと、前方の青い道路案内案内標識に国道274号線の文字が目に入る。
「国道274号線?……札幌からこんな所まで続いてたのか」
 札幌の人間にはなじみのある国道であるが、こんなところにまで続いているとは思わなかった。
「あっ、次を右に曲がると自衛隊の駐屯地があるみたいです」
「無駄だとは思うけど、一応様子を確認するかい?」
 地図に自衛隊駐屯地の文字を見つけて、嬉しそうな声を上げる文月さんに、俺は少し投げやりに答える。
「どうしてですか?北路さんは自衛隊を頼りにしていたと思うんですけど」
「上富良野の駐屯地で聞いた話だけど、もう北海道には駐屯地単位で組織的に動いている部隊は存在しないそうなんだ」
「そんな!」
「今回の事態に上富良野の駐屯地を含め各駐屯地はそれぞれの判断で駐屯地内に避難者を受け入れたけど、結果的にそれが駐屯地という閉鎖された場所と沢山の避難者という条件を揃えてしまい爆発的な感染拡大を引き起こしたそうだよ」
「そうなんですか……」
 これまで文月さんは岩見沢と富良野町。そして今日の移動途中で見た範囲でしか現状を把握していなかった。
 頭の中で想像はしていたのだろうが、この状況が北海道全体に広がっているという根拠を示されて表情を暗くする。
「様子を確認してみるのもアリだとは思うけど、もし駐屯地でゾンビが大量発生した時に、一部の隊員が組織だって脱出に成功したなら良いんだが、さっきの連中みたいなのが武器を持ち出したりしてると危険だから」
 俺がそういうと文月さんは黙って頷いた。

 市街地へ向かう国道274号線を避けて、道道85号線を北へと向かう。
 自衛隊演習場──自衛隊の姿も、ゾンビの姿も見えない──を抜けると、道道85号線は然別湖へと向かい。俺は然別峡を目指して別れて左へ伸びる道道1088号線へと車を走らせる。
 間もなく道は険しい山の中へと入り、傾いていた太陽は山の陰へと姿を消し、辺りは7月の17時過ぎたばかりだというのにヘッドライトの点燈が必要なほどの暗さに包まれる。
 結果、速度を更に落とす必要があり、目的地近くまでの10kmほど道のりに走りきる頃には18時近くになっていた。
 まあ温泉ガイドには、虻が多いが18時以降は出なくなると書いてあるのでむしろ良かった。

 然別峡は日本100名湯にも選ばれる温泉地であるが、唯一の商業温泉施設で温泉マニアには秘湯として有名な菅野温泉宿が、昨年(作中の時間は2009年なので、2008年のこと)末から休業中で再開のめどが立っていない……と温泉ガイドには書いてあった。
 関係者には申し訳ないが、俺にはそれがありがたかった。
 他には300mほど離れた場所に然別峡野営場があるだけなので、もしこのキャンプ場が一週間前のゾンビ発生時に営業していたとしても、客や従業員が突然ゾンビ化を起こさない限り、既に此処を離れて人里に下りているはずで他の人間やゾンビに出会う心配は無い。
 そして予想通り、キャンプ場には人もゾンビもおらず、管理事務所も閉鎖されていた。

 ガイドブックでは然別峡野営場の周囲には4箇所の野湯のポイントがあり、その中で比較的簡単にたどり着けそうだった鹿の湯を選ぶ。
 今俺は、10人くらいが入れそうな、岩とコンクリートで作られた円形で中央に岩のあるドーナツ状の湯船に浸かっている。
「ふぅ…………」
 乳白色のお湯に浸かると思わず大きく息を漏らすほどの気持ち良さだ。
 俺の手の中で小犬のマッシュ──三匹の子犬の中の白毛で唯一オス。文月さんによりマシュマロと命名されたが、俺は男らしく育って欲しいという願いを込めて愛称をマッシュとした──も気持良さそうに鼻を鳴らしている。マッシュはまだ自力では泳げないが、水面で下から掌で胴体を支えてやると手足を動かし犬掻きの片鱗らしきものを見せてくれた。
「やべぇ。何この可愛らしい生き物?」
 この感情が萌えってヤツなのだろうか?マッシュの愛らしい姿に心のときめきが止まらない。
 両手でマッシュを掴むと、ムツゴロウさんのように「ヨーシヨシヨシ」と言いながら全身を撫で回す。
「気持ち良かろう?俺のゴールドフィンガーに敵う犬など居ないんだ」
 などと言いながら、思う存分に可愛がりマッシュの事を気持良さそう鳴かせ続けるのであった。

 お湯から上がり服を着てメタルラックのポールを杖代わりにして車を止めた場所へと戻ると、文月さんが夕飯の支度をしていた。
 俺より先に他の小犬──俺はマシュマロにマッシュという愛称をつけた時、ついでに茶毛のココアにガイア。黒毛のゴマ団子にはオルテガの愛称を密かにつけている。知られると怒られるので文月さんには内緒だ──と一緒に先に入浴してもらい、その間は俺が見張りをしながらテーブルや椅子にコンロなどの準備しておいた。
 そして俺の入浴中は文月さんが見張り兼調理と役割分担した。
 キャンプ用の折りたたみ式テーブルの上で、農家から持ってきたカセットコンロと圧力鍋を使いご飯を炊き、俺のポータブルガスコンロで小犬達用のおかゆを炊いていた。
「もう暫くまってくださいね」
 たまねぎを刻みながら話す彼女の足元では、強いたまねぎの臭いに抗議するように小犬たちがキャンキャンと吼えている。
「ところで何を作るの?」
「こんな場所では余り手の込んだものは無理ですし、海鮮はお肉と比べても痛みが早いと思うのでシーフードミックスを使って、簡単にシーフードの野菜炒めとおみそ汁にします」

 残った食材を確認するためにクーラーボックスの中を確認してみる。
 今朝、農家で手に入れたクーラーボックスに、解け掛かった氷と一緒に冷凍庫内の食材も詰めてきたのだが、その氷もほとんどが解けてしまい、中の食材を確実に食べられるのは明日くらいまでだろう。明後日以降となると万一痛んでいて腹を下しても病院に行けない現状ではやめておくのが無難だ。
 ハムやソーセージは冷暗所で保存すればもう数日保つだろうが、それ以降肉や魚等の動物性蛋白は、燻製や乾物・缶詰を除けば、自分の手で狩るなり釣るなりしなければならない。
 人類の文明社会が崩壊したんだと改めて思い知らされる。

 魚は川魚メインで、海の魚は精々岸辺で釣れる魚だけでマグロなどの遠洋漁業の賜物は、もう一生食べられないのだろう。
 牛や羊は草食性なので、放牧されていればそのまま野生化して生き残れるだろうから、まだ口にする機会もあるはずだ。
 鶏は工場の檻の中で飼育されてるブロイラーならともかく、農家で飼育されてるのは半ば放し飼い状態だったりするから野生化してくれれば、いずれ、肉もタマゴも手に入れる事もあるだろう。
 しかし豚は……駄目だろうな。根拠は何も無いが野生で逞しく生きる豚のイメージが浮かばない。せめて猪の肉が手に入れば良いのだが、残念ながら北海道には猪は居ない。
 ふと昔友達と死ぬ前に最後に何が食べたいかという話をした時、俺は特別じゃない普通のポークカレーが食べたいと言って、どれだけカレー好きなんだと笑われた事を思い出す。
 絶望の二文字が頭を過ぎる。これでは死んでも死に切れない。俺は死後、未練を残し成仏することなくこの世をさまよい続けるのか?
「文月さん。お願い明日カレーにして。豚バラの塊でポークカレー作って。肉をゴロゴロっと大きく切って入れて作って」
「えっ?でも塊は燻製にして保存しようかと……」
「お願い。燻製じゃポークカレーにならないんだ」
「は、はい……ポークカレー好きなんですか?」
「大好きだ。他にもっと美味しいと思う食べ物はあるけど、でも美味しい美味しく無いを越えた俺の心の中のもっと大事な所にポークカレーは居るんだよ」
「は、はぁ」
 魂を込めて力説する俺に引き気味の文月さん。
「それに、もう豚の精肉はもう手に入らないから、ポークカレーを食べられる機会は明日が最後だし、どうしても食べたい」
「そうですか、分かりました。じゃあ明日の晩は腕によりをかけてポークカレーを作りますね」
 笑顔でそう答えてくれる文月さんが俺には天使に見える。我ながら単純なものだ。

 食後のまったりとした空気の中での寛ぎの時間。
 小犬たちは、寝るのが仕事と言わんばかりに食後すぐに折り重なって寝てしまった。
「星が綺麗ですね」
 テーブルの上のキャンドルの明かりに照らされながら、文月さんが呟く。
 こう表現すると、何か美しく幻想的なイメージだが、キャンドルといっても虫除けキャンドルで蚊こそ寄ってこないが、少し前にえらく大きな蛾が飛んできて二人してあたふたし、やっと呼吸が落ち着いたばかりだった。
「現実逃避してるね?」
「だってあんなに大きな蛾が飛んで来るなんて思ってなかったから」
 恥ずかしそうに顔を赤らめながら睨んでくる文月さんの様子に思わず吹き出してしまう。
「ひどい!そうだ。北路さんだって蛾を見てびっくりしてたじゃないですか!」
「流石に蛾でもあんなにでかいと駄目だな。それに歳を取ると虫系は駄目になるもんだよ。俺だって子供の頃は……文月さん位の頃までは、虫は全然平気だったんだけどね」
 そう言って笑ったが、文月さんの俺を睨む目力は全く衰えない。それどころか強さを増している。
「あの~文月さん?」
「何ですか!」
 不機嫌そうに横を向いてしまう。
「どうして怒ってるんですか?」
「……子供じゃないです」
「はい?」
「私は子供じゃないです」
 そう言って椅子ごと向きを変えて背中を向ける。
 参った。完全に地雷を踏んでしまったようだ。
 そうだよな、自分で手を出しかけた……と言うか、邪魔が入らなければ確実に行き着くところまで行ったはずの相手を子供扱いは失礼だ。
 そんな事を考えながら、拗ねてる文月さんも可愛いと思い始めてる俺は、着々とロリコンへと続く暗くて険しい道を歩み始めてるのであった。

「あの……文月さん?」
「…………」
 何か良い言葉が思いついた訳でもないのが、長い沈黙が事態を悪化させそうで声をかけるが返事は無い。
 これは本格的に怒らせてしまった様だと思っていると、ゆっくりとこちらを首だけで振り返る。
 怒っているとかそういう表情ではない。
「文月さん?」
「…………」
 再び声をかけるがまた返事は無い。彼女の表情は何かに怯えるように強張っている。
「どうしたの?」
 様子のおかしさに気付いて椅子から腰を上げると、彼女の右腕が震えながら前方に伸ばされる。その手の指は何かを指し示していた。
 闇の向こうで黒い影がゆっくりと動く。
「……熊?」
 俺の言葉に文月さんは大きく首を二度縦に振る。
 このピンチに、小犬たちはすやすやと眠っていた……お前ら、お願いだから吼えてよ。



[32883] 【36  07/21(火)20:00 鹿追町然別峡野営場】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/25 20:08
 北海道の熊──羆は本州に生息するツキノワグマとはモノが違う。
 雄のツキノワグマが最大クラスで体長1.5m体重120kg程度まで成長するのに対して、雄の羆は最大クラスは体長2.4m体重400kg程度まで成長する。
 もしもツキノワグマが口を利けたとして、羆と出会ったとしたら「化物だ」と言うだろう。
 実際、羆は他の種類の熊と生息域が重なる場合は、他の熊を襲って喰らう。食物連鎖の最上位に位置する生物。

 一方、熊と言う生き物は野生動物の多くがそうであるようにとても臆病である。獲物と認識している対象以外と遭遇し場合。示威行為として一度だけ攻撃を加えた後はその場を立ち去る傾向にある。
 つまり、熊との遭遇において最初の攻撃さえ凌げれば生き残れる。
 相手がツキノワグマなら自惚れでもなんでもなく、素手でも生きて、いや大怪我を負うことなく撃退する自信はある……当然怪我を負うのは前提だ。
 だが羆は駄目だ。端から勝てる気がしない。最初の攻撃?それが致命的、一撃で死んでしまう。
 今こうして実際に熊を目の前にして、死の予感をビンビンに感じているんだから間違い無い。
 闇の向こうからその全貌を現した羆は、最大クラスとは言わないまでも体長は2mはあるだろう、かなりの大物だった。

 車に乗り込んで逃げることを考えたが、襲われる前に車に逃げ込めて走り去ろうとしても羆は逃げるものを追う性質を持ち、しかも時速50kmで走ると言う。
 あちらこちらに木々が立ち並ぶ夜のキャンプ場である。追いつかれる前に車に乗り込めたとしても十分に加速する前に車体後部に体当たりの一発は貰うだろう。
 単にボディーが凹む程度なら問題は無いのだが、ガラスを割られた場合。場所によってはゾンビの侵入を許しかねなく、別のRV車に乗り換えることも検討しなければならなくなる。
 文月さんにとってはお祖父さんの車だ。
 それに、このまま逃げるなら多くの物資を置き去りにしなければならない。
 特に生鮮品が入ったクーラーボックスの放棄は、明日のポークカレーを失うことであり、断じて許すわけにはいかない。
 俺の闘争本能に火がついた。羆よお前がポークカレーの障害となるなら、俺はお前をクマカレーにして食ってやる!……膝の震えが止まらない。

 と思ってはみたものの、文月さんのお祖父さんの猟銃や64式小銃。ボウガンなどの熊に対しても有効と思われる強力な武器は全て車の中。
 今俺が手にする事の出来る範囲にある武器は、拳銃と64式小銃用の銃剣。大型ナイフと調理に使った包丁。そして愛用のメタルラックのポールだけである。
 その内で包丁は論外として、銃剣やナイフは共に刃渡りが30cm以上あり、羆に対しても有効な攻撃手段となるだろうが、問題は俺がそれらで攻撃できる範囲は羆の攻撃範囲でもあるって事だ。その範囲にこちらから踏み込む気は全く無い。
 残されたのは拳銃とポールだが、やはり拳銃は音のことを考えると最後まで使いたくない。

「文月さん。子犬を連れて車に戻って。奴から目をそらさず走らずゆっくりね」
「で、でも」
「早く!文月さんや犬達を守りながらじゃ戦えない」
「わかりました」
 熊を睨んだまま頷くと、警戒心の欠片も無く未だまどろむ小犬たちを両手で抱きかかえ車へと歩く。
 やはり彼女には打てば響くような賢さがある。現状で今、自分が何をすべきかを判断し行動できる良い女だ。
 言うならばホラー映画で一番最後まで生き残るタイプ。俺はラスト前で死ぬタイプだろう。

 車へと向かう文月さんとは反対方向へポールの端を地面に引き摺り音を立てながら歩く。その間、ずっと羆の目を見てそらさない。
 車に乗り込もうとして一瞬目をそらした文月さんに、羆の注意が向かう。
 それに気付いた俺は、ポールで思い切り地面を打ちつけた。
「ごぅっ!」
 突然鳴り響いた大きな金属音に羆の注意はこちらに向いた。
 だが今の音をきっかけに奴の興奮が高まる。
「ごぅごふぅ!」
 獲物(文月さん)から縄張り争いの相手(俺)へと目標を変えて、ゆっくりとそして注意深く警戒しながらこちらへ迫る。
 それに対して、俺が構えたのは170cmを越える金属製の棒一本。
 ゾンビの弱点である脳組織を頭蓋骨ごと一撃で砕く重さと強度を持つが、羆相手にどれほどの効果があるか。

 このメタルラックのポールのように、先端が尖っている訳でも刃がついている訳でもなく、鈍器として使用する棒状の武器の威力は、武器の重さと速度だけで決定するわけではない。
 速度と重さから得る力を、インパクトの瞬間に対象にいかに伝え切るかが重要だ。
 野球の軟式のボールを200km/hの速度でコンクリートの壁にぶつかっても壁を破壊することはない。
 しかし軟式ボールと同じ大きさと同じ重さで作られた中空の硬い金属球を200km/hの速度でコンクリートの壁にぶつかれば、ぶつかった部分の壁表面を壊すだろう。
 この違いは、軟式ボールと金属の硬さの違い。硬い金属に対して軟式ボールはぶつかった瞬間に変形することで、自らに与えられた力の全てをぶつかった相手に伝えることなく熱などとしてボール内部に吸収するためである。
 人間の力で殴りつけた程度では極僅かな変形しか起こらない、硬い物質で出来た棒を振って物を打ち付けた時にも同じことが起こる。
 例え棒自体が変形しなくても、インパクトの瞬間に生まれる反発力で弾かれ押し返される。この弾かれて押し返されるのが軟式ボールの変形と同じで力のロスになる。
 剣道で竹刀を握る場合、左手が主で右手は添え物であり、単に素振りをするなら左手一本の力だけで出来なければならないと言われるが、基本は両手で握る。
 試合で二刀流を使い、一見十分な打ち込みを見せても審判は簡単には旗を揚げないのは、二刀流を邪道とみなして意地悪している訳ではない。
 肉を斬るだけでなく骨を断つためには、二本の腕を使い二点で反発力を押さえ込む必要があるため、それが出来ない片手で持つ二刀流の場合は、有効打としての判断基準を厳しくするのである。

 しかし、メタルラックのポールを両手で打ち込んだところで、この大きな羆相手に十分な打撃を与えられるイメージが全く湧かない。
 精々、羆を本気で怒らせるというイメージしか湧いてこない。
 効果があるとするなら力の一点集中。つまり突きしかない。
 だが突きという攻撃が一番の力を発揮するのはカウンター。剣だろうが槍だろうが突きという動作では得物に乗せることの出来る運動エネルギーは決して多くは無い。
 棒状の物体に一番運動エネルギーを与えられる動作は何かというと全身を使った投擲である。
 しかも、棒の両端を結ぶ線と力のベクトルを重ね合うように投げて相手に正面から当たれば、与えた運動エネルギーのほぼ全てがぶつかった場所に伝えられる素晴らしさ。
 とはいえ、力を上手く乗せられなければ、羆の急所を正面から捕らえられなければ……ちなみに槍投げの経験など高校の体育の授業で2度ほど投げたっきりである。
 ……とりえあえず、拳銃は何時でも抜けるように、ホルスターの上蓋のスナップを外す。

 右手でポールの中心より少し後方を握り肩の上に担いで構えると、雄たけびを上げながら羆へと全力で走る。
 俺の雄たけびに呼応するように、羆は後ろ足で立ち上がり前足を大きく広げ威嚇であり攻撃である構えを取る。
 羆の目前で、右足──風呂上りに湿布を貼ってテーピングしなおしてもらった──が痛むのを無視して地面を蹴る。
 身体を大きく開きながら、左足を羆への直線コースから足の幅一個分左にずらしながら前へと伸ばす。
 そして左足が地面を踏み込んだ瞬間大地が震えるほどの衝撃が生まれる。
 身体全体の突進力の全てを左脚一本で全て受け止める。
 しかし全身を包む慣性の力は、左へと軸がズレた左足の制動により、左足を中心とした強い回転力を発生させた。
 直進と言う無限の回転半径を持つ巨大な円運動に等しい状態からの急激な回転半径の減少は、俺の右半身に強力な円運動を生み出し、その力に乗せて羆の首もと目掛けてポールを投げ放った。
 時速100kmを大きく越える速度で、わずか3mほどの距離を飛翔した重量2kg弱のポールは、自らに与えられた運動エネルギーの全てを、羆の顎の下20cmの場所にぶちまけた。
 その威力は、適当に計算すると俺の腰のホルスターに収まっている拳銃の2倍以上…………あれ、意外に大した事無い?

 勿論、その程度の威力では羆は死ぬはずが無い。だがダメージは与えられたようで喉元への一撃に対してクマはのけぞりひっくり返ると苦しそうな鳴き声をあげた。
 問題は奴から戦意を奪えるか否か。ホルスターから拳銃を引き抜き、マガジンポウチから予備マガジンを取り出す。
 使えないのと使いたくないとは話が別。逆に今使わないで何時使うのか?
 全弾撃ち尽くしてでも、こいつを追い払い。さっさと荷物を片付けてこの場を引き払う。どのみち熊の出るこんな場所で一泊なんて出来るか。
 こんな場所で温泉とか入ってた自分の馬鹿さ加減が腹が立つ。

「ごぅごぅ」
 低く喉を鳴らしながら体勢を立て直すと、頭を下げた低くい位置からこちらを伺うように見つめてくる。
 視点が一定ではなく時折ぶれる。迷いかかえて自分より強いか否か測る目付き。ならば追い討ちをかけるのみ。
「くぁらぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 もう銃声がどうのとか言うレベルではない。大音声の一喝を加える。
「ぐぉっ!」
 羆は身を一瞬すくませると、頭を低く下げたまま後ずさりしながら退いてゆく。
 10mほど距離をあけると、奴はこちらを一瞥してから後ろを向いて立ち去る。
 ゆっくりとした足取り、気圧されて逃げ出したくせにまるで王者のような風格だ。
 あまりの遅さに苛立つが追い討ちはしない。本気になって逆襲してくる可能性があるからだ。
 やがて、奴の姿が闇の向こうに消えるのを確認すると、膝から力が抜けて地面に崩れ落ちた。
「羆こえぇぇぇっ!」
 そう叫ばずにはいられなかった。



[32883] 【37  07/21(火)20:05 鹿追町然別峡野営場】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/26 19:07
「北路さん!」
 車から飛び出すと地面に座り込む俺の肩にしがみ付いてくる文月さん。
 こんな場面は今まで何度もあったが、もういろんな意味で精神的に壊れてきている俺は、両腕を彼女の背中に回して抱きしめ返しながら『髪からシャンプーとかとは違う文月さんの良い匂いが~』とか考えてしまう。
 だが何時までも現実逃避しては居られない。彼女の背中に回して、少しずつお尻の方へと移動しつつあった腕を理性全開で解く。
「文月さん。すぐにここを出るよ」
「えっ?あっはい」
 すっかり良い雰囲気を醸し出していた文月さんは、俺の態度の変化に戸惑いながらも頷く。
 確かに急だ。でも心のスイッチを入れないと状況に流されたくて仕方なくなってきている。本当に疲れてきているんだ。
「熊が出るよな場所では泊まれないから山を降りるよ。全くなんでキャンプ場に熊が出るんだ?」
 本来キャンプ場とは羆が出没してはいけない場所だ。
 管理する人間が居なくなったからって1週間やそこらで羆が出没するようになるものか?(然別峡野営場は2005年には熊が出没して閉鎖された事もあり、元々熊が出やすいと言うことで舞台として選択)
「でも暗くなってからの移動は危険なんですよね?」
「確かに暗くなってからの移動は危険だよ。でも熊はもっと危険だ」
 先ほどの羆を思い出したのだろう。文月さんは黙って大きく頷いた。

 しかし、夜の林道──町道然別峡峰越線──は思った以上に、羆にも劣らず危険な場所だった。(町道然別峡峰越線は道路の崩落で何時の間にか閉鎖中で、作中の2009年時には実際は車では絶対に通れません)
 全て未舗装のダートコース。きつく曲がりくねった上り下りの細い坂道が延々と続く。
 明日は新月。街灯ひとつ無い闇を照らすのは車のヘッドライトのみで、光が反射するようなものが少ない自然の中では、ライトに照らし出される狭い地面の外に広がる光は全て闇に吸い込まれてしまうようだ。
 きついカーブの途中で突然ガードレールが光の中に飛び込んでくる。一歩間違えれば深い崖の下に落ちるだけ。
 だがガードレールがある場所はまだ良い。場所によってはガードレールや路肩どころか道路の一部が崩落しており、車幅ぎりぎりで崩落の危険に怯えながら通らなければならなかったりもする。
 隣の助手席に文月さんが座っていなければ、泣き言の一つも漏らしていただろう。
 男の見栄でなんとか堪えることは出来たものの、緊張感に満ち溢れた沈黙が車内の空気をよりいっそう重たくし、文月さんの顔は真っ青に強張っていた。

 歩くのとさほど変わらないペースで町道然別峡峰越線を走破し終えて時計を見れば既に22:40。
 結局2時間以上の時間を費やしてしまった。
 この1週間。すっかり朝方の生活が続き、今朝にいたっては朝5時前から起きているため睡魔がゆっくりと身体と心を侵し始める。
 文月さんにいたっては昨晩はほとんど眠れて居なかっただろう。それにもかかわらず移動中にも眠らずに起き続けていたのと、危険な山道を抜けて安心して気が抜けたのもあるのだろう。既にうとうとしながら首がガクッと落ちては意識を取り戻すという動作を数秒毎に繰り返している。
 小犬たちはキャンプ場での食事以来、何事も無かったかのように気持ちよく眠っている。
 町道然別峡峰越線と道道85号線の合流ポイントから北に500mほど行った先で、右側に休憩に使えそうな開けたスペースを見つけ、その隅に車を停めると、車が停まったことに気付いた文月さんがトロンとした眠たそうな目をこちらに向ける。
「お疲れ様。今日は此処で一泊するから、もう寝ても良いよ」
「ふぁい……おやぁすみなふぁい」
 そう言うなり彼女は、俺が「おやすみなさい」を返すよりも早く眠りに落ちていた。
 苦笑いを浮かべながら、彼女の腕の中から眠る小犬たちが入った籠を取って後部の荷台に載せ、助手席のシートを後ろに引いて背もたれを倒してやり、ふくらはぎの下にフットレスト代わりにデイパックに毛布を被せたものを入れる。
 こうしないで車内泊をするとエコノミー症候群を起こす危険がある。もっとも発症するのは年寄りに多く見られる傾向だが、健康に関しては慎重すぎるほどで丁度良い。
 自分の足元にも同様にフットレストの代わりを作ると、運転席のシートを深く倒して身を横たえる。
「今日も長い一日だった……お休み文月さん」
 そう呟くと、急速に意識が遠のいて行った。

「……ッくしょん!」
 突然何かの飛沫のようなものが俺の顔にかかり目を覚ますと、更に顔の上を何かが横切って行った。
 重い瞼を持ち上げると、手で口元を抑えて、大きく見開いた目でこちらを見ている文月さんの顔が目の前にあった。
「お、お、おはようございます」
 そう挨拶をする彼女の鼻先が何故か濡れて、フロントガラスから差し込む朝日を反射して光っていた。
「……おはよう。何かあった?」
 顔の上に残るむず痒い様な感触の跡に手を伸ばして見ると、掌に水とは違うヌルリとした液体の感触が伝わる。
「あっ!あ、あの……それ、ごめんなさい!」
「……ん、何?」
 起き抜けで、まだ頭の回っていない俺は、突然謝りだす文月さんの様子についていけない。
「えっと、その……北路さんの顔に掛かったのは……ね、寝ていたら突然鼻がくすぐったくなって、くしゃみをして目が覚めたら北路さんの顔が目の前にあって……だから、その……」
「これは文月さんの……」
「すいません!本当にごめんなさい。何故か突然くしゃみなんてして……」
 余程盛大にくしゃみしたのだろう。俺の顔にはべったりと彼女の唾が掛かっていた。
「文月さん。鼻の頭が濡れてるよ」
「えっ?……本当だ」
 彼女が鼻の頭に手を伸ばすと同時に、俺の右の耳朶にいきなり何者かがしゃぶりついて来た。
「くっへへへっ……エヘッヘヘ……」
 くすぐったさに身を捩じらせるが耐え切れずに妙な笑い声が口を突いて出る。
「えっ?えっ?えっ?」
 文月さんは突然の俺の奇行に困惑しているが、俺はそれどころではない。
 右手を頭の横に伸ばして、右耳朶を口に含んで吸い続けている何者かの首根っこを掴んで持ち上げた。
「ココア?」
 文月さんはそう名前を呼んだが、俺的にはガイヤだ。
「犯人はお前か」
 真相は、早起きして腹をすかせたガイアが、寝ている文月さんの鼻の頭を母犬のおっぱい代わりに吸い、そのせいでした文月さんのくしゃみに驚き逃げる。その時に寝ている俺の顔の上を走って逃げ、更には俺の耳朶も吸ったというところだろう。
 持ち上げたガイアを顔の前に持ってきて睨みつける。しかし、怒られているという事すら理解していないようでこちらを真っ直ぐ見つめ返している。
 俺はため息を漏らして、文月さんにガイアを手渡すとリクライニング・レバーを引いてシートを起こす。
「顔を洗って飯にしよう。こいつらも腹をすかせているようだし」

 食後、後片付けを済ますとすぐに車に乗り込み出発する。
 先程地図を確認すると、この500mほど南に温泉があって人かゾンビ。多分ゾンビが居る可能性が高いことに気付いたからだ。
 パールスカイラインこと道道85号線を北へと車を走らせる。
 自動車道が通る峠としては北海道で一番高い標高1139mの幌鹿峠まで、緩やかなワインディングロードが続き、そこからは直線で2.5km程度の距離で600m標高下の糠平湖湖畔に下りるために、ヘアピンカーブのばかりの折りたたんだ様な道が続く。
 走り屋なら喜んでアクセルを踏み込みそうな道を先日と同様ゆっくりとしたペースで1時間弱走り続けると糠平湖が眼前に姿を現す。

 ──糠平湖はダム湖としては北海道で二番目の大きさで、湖の周囲は32kmで1番広い幅が8kmほどある。そして南西部に10軒の温泉宿が軒を連ね、キャンプ場やスキー場が併設されたぬかびら温泉郷がある。(2009年時)

「ここも……」
 国道273号線との合流ポイントから見下ろす温泉街の通りには壊れたロボットのようにぎこちなく歩く見慣れたゾンビたちの姿があった。
「行くよ」
 車を発進させると温泉街の手前を左折し、国道273号線を北へと走らせた。
 すると直ぐに前方の道を塞ぐように5体のゾンビが姿を現す。
「もしかすると、この先の小学校に生存者がいるのかもしれない」
「本当ですか?」
 文月さんの顔に喜色が浮かぶ。
「地図のこの先を見る限り住宅地らしい場所は無いのに学校の前に奴らがいるということは、音か臭いか光なの何かがこの場に引き寄せてるはずだから、学校周辺に生存者がいる可能性はかなり高いよ」
「なら、北路さんのメモの写しが久しぶりに必要になりますね」
 笑顔の文月さんはパーカーのポケットから、昨日の移動中に新たに書き写したゾンビに関するメモを取り出す。
「これを役立ててくれる人が居てくれると信じよう」
「はい」
 この後、彼女の笑顔が曇るような事態にはならないで欲しい。そして原警部補達のような信じられる人間がもっと沢山生き残っていることを確信したい。

 あえてゾンビを轢き殺さずに避けて道を進む。
 この先にいるのが大人だけなら問題は無い。
 彼らもこの一週間で状況は理解できているだろう。例え親しい人間の顔をしていても、それが既に人間ではないと。
 だが向かう先は小学校。子供がいるなら駆除する様子を見せない方が良いという配慮が出来る程度には今の俺には余裕があった。
 ゾンビとの戦いの経験が、油断ではなく慣れを、そして信頼できる相手が傍にいる事もプラスに働いている。

 右手に2本の柱の間に渡された黒い板に白い字で書かれた『糠平小学校』の5文字を見て、ハンドルを右に切り学校敷地内へと車を進めるが、入り口から玄関へと続く道には10体ほどのゾンビの姿が見えた。
 俺はゾンビを避けてハンドルを右に切ると、玄関前を避けて脇道からグラウンドへと抜ける。
「学校には入らないんですか?」
「とりあえず、車を降りずに窓越しにでも話がしたいから、一度グラウンドにゾンビを引き寄せるよ」
 グラウンドの北東の隅に車を停めると、クラクションを断続的に鳴らしてゾンビの注意を引く。
 すると10分間ほどで10体を超える数のゾンビが車を方へと集まって来た。
「玄関の様子は?」
 助手席で双眼鏡を覗く文月さんに声を掛ける。
「ここから見える範囲では玄関の傍にゾンビの姿は見えませんし、私達が向こうに移動してもゾンビの足では直ぐには戻れないと思います」
「良い報告だ」
 褒められてはにかむ彼女の様子に、俺も自然に笑みが浮かぶ。
 彼女と俺の関係は、初恋の頃のような初々しさを感じると言えば通じるだろうか?
 もっとも俺の初恋は実らなかったし、最初に付き合った女性とは……仮にも元彼女を貶めるような事は言いたくないが、こんな心地の良い心の距離感を感じたことは無かった。

 ゆっくりとアクセルを踏み込んで、取り囲むゾンビの輪を押しのける様に脱出すると、スピードを上げて走らせ玄関前に横付けすると、クラクションを鳴らし続けていたこの車を監視していたのだろう一人の男が走って来て、玄関のガラス扉越しに姿を現す。
「学校の中の様子はどうだ?」
 運転席側の窓を開けて、ドアガラス越しに声を掛けるが、ゾンビがこちらに戻ってくるまでは余り時間が無く言葉遣いまでは気を回していられないため、どうしても口調はきつくなる。
「救助に来てくれたのか!」
 男は50がらみの白髪交じりで七三分け中背痩せぎす。
 普段なら真面目な公務員が似合うだろう風貌は、くたびれきっているが目にはまだ力が残っていた。
「何人いるか知らないが、こちらにも救助出来るほどの余力は無い。だが出来る範囲で力を貸す。そちらの状況を教えてくれ」
「二人だけなのか?他にはいないのか?」
「ああ、他にはいない」
「そうか……こちらの人数は27人だ。食料も水もしばらくは持つが外部との連絡が全く取れない。町の外がどうなっているのか知りたいんだ」
「今ここで起きているのと同じ事が北海道全域で発生しているはずだ」
「北海道全域?では道外は、本州はどうなっているんだ?」
「分からない。分からないが、上富良野で駐屯地の自衛官から聞いた話だが、北部方面隊の全ての駐屯地との連絡が途絶えたそうだ。それにここに来るまでに通った人の住む場所は小さな集落にいたるまでこんな状況だった。まるで何者かが意図して小さな集落まで漏らすことなくこの状況発生させたとしか思えないのに、それを北海道だけで済ますとは俺には思えない」
「なら救助は今後も期待できないと言うのか?」
「救助はあきらめた方が良い……とりあえず今、俺が手を貸せるのは、この周辺にいる奴らを排除することくらいだが、それを望むか?」
「排除?殺すのか……いや。ここは小さな温泉街だから住民は皆顔見知りだ。例えあんな状態になったとしても……多分、他の皆も望まないと思う」
「奴らと戦わず、来るあても無い救助を待って食料が尽きるまでここに立てこもる。それで本当に良いんだな」
 それも一つの判断だろうが、俺は失望感を感じて突き放すように言う。
 男は俯いてしばし考え込む。
「……皆と相談がしたい。少し時間をくれないか?」
「北路さん。ゾンビが近づいてきてます」
 文月さんの警告にドアミラーで後方を確認すると、車の直ぐ後ろにまでゾンビが迫っていた。
「一時間後にまたここに来る。それまでに意見をまとめてくれ」
 そう告げると、窓をして閉めて車を出す。
 国道273号線を東へ1kmほど移動し車を停め、周囲を見渡しゾンビの姿が無いのを確認してからエンジンを切った。

「ちゃんと決断してくれると良いですね」
 文月さんが重たい沈黙を破る。
「彼らのためだけでなく、僕らのためにもそうであって欲しいけど」
「私達のためですか?」
 地図を開いて目的地である山小屋とこの町の位置関係を説明する。
「現状で、確実に生存者がいる集落で目的地の山小屋から一番近い集落がここなんだ。だから彼らが生き残る手助けをすることで、生き残った彼らと何らかの協力体制を取れるようになれば、俺と文月さんの二人だけでやれることより多くのことが出来るようになる……と良いな。という打算があるんだ」
 本当にそうなって欲しいが、難しいだろうと思う。
「打算だけじゃないですよね?」
「確かに和田さんとの約束もある。ゾンビが現れる前までの普通の日常を送れる世界を取り戻す。現状ではちょっと無理な気もするけど、それに少しでも近づけていきたい」
「そうしていくことは、自分だけでなく相手にも、そして自分と相手だけじゃなく全ての人々の為になるんですよね」
 そう言い切る文月さんに俺は少し驚いた。全ての人々か……俺にはそこまで大きなスケールの考えは無かった。俺達と俺達に関わった相手の間でWin-Winの関係を築く事までしか考えていなかった。だが言われてみればそうなって欲しいものだ。そう考えると少し気持ちが晴れる。
 お礼代わりに、左手を助手席の彼女の頭へと伸ばす。
「えっ?もう、突然何ですか……」
 突然頭を撫でられて驚きながらも、嬉しそうにのぞかせる笑顔に、彼女と出会えた事に対する感謝の念を新たにした。

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今回の37話からが、以前小説家になろうで投稿していた分よりも先の話になります。



[32883] 【38  07/22(火)09:30 上士幌町ぬかびら温泉郷】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/05/30 20:39
 しばらく時間が空いたので、文月さんに外に出ないかと声を掛ける。
「あの、この子達は駄目ですか?」
 三匹を腕に抱いた文月さんが、控えめながら一緒に降りたいと目で訴えてくる。
「まだ首輪もリードも用意してないからね。こいつらが外で好き勝手に動いたら何処に行ったか分からなくなるよ」
 俺の言葉に文月さんは血相を変えて子犬たちを素早く籠の中に入れた。

「気持ちよい風ですね」
 ゆっくりと深呼吸した後に文月さんが口にした言葉に黙って頷く。
 湖上を渡る微風は、7月下旬としては涼しく心地好い空気を運んでくれる。
 湖を見下ろすと、細波に陽光が反射してきらきらと輝いている。
 この場から見える湖の姿は東西2km以上、南北200m程度のそれほど大きくは見えない。
 だが、ここから国道273号線を北に向かいトンネルを抜けると、まるで似たような形でスケールを大きくしたようなもう一つの湖が現れたように見える。
 これだけ大きければ、魚を獲ればそこそこの人数を食わせ続けることが出来るなどと、現実的なことに意識が向いてしまう。
「北路さん」
「えっ……ああ」
「また考え事ですか?」
 図星を突かれて苦笑いを浮かべる俺に、彼女は仕方がないなと苦笑いとも違う、困ったような笑みを浮かべる。
 今の俺はおかしい、そんな彼女の表情一つに見惚れてしまう。
 彼女のことを1人の女性として受け止める決意をして以来、時々心が浮つくのを抑えきれない。
 まるで、思春期の少年の頃のように彼女に対して胸が高鳴る。
 彼女の癖の無い長く艶やかな黒髪が俺を魅了してやまない。一体誰だ貞子みたいで怖いと言った馬鹿は?
「そ、そんなにじっと見つめないでください……」
「本当に綺麗な髪だよね」
 髪の一房に指を絡めて梳きおろすと滑らかな手触りを残して指の間をするりと通り抜ける。この感触は子犬たち──柴犬の耳の手触りをも凌駕する。
「か、髪には自信があります」
「だよね。手入れも大変だろう。そうでもなければこんなに長くはしないだろうし」
「違うんです……」
「えっ、何が?」
「私。両親が事故で死んでからずっと髪を伸ばしてるんです。小さい頃の事なので余り二人の記憶は残ってないんですが、私の髪をよく褒めてくれていたので……それで、髪が父や母との絆のような気がして、どうしても切れなかったんです」
 どうして俺という人間は、こうも広げようの無い話題のネタばかり掘り当ててしまうのだろう?
「あっ、気にしないでください。もう10年近くも前の話ですから、ちゃんと心の整理は出来てます」
 俺の顔色を読んだのだろう。12歳も年下の女の子からフォローされてしまった。
「でも……この髪とも、そろそろお別れですね」
 自分の髪を一房持ち上げ、掌からさらさらと流れ落ちていく様子を寂しそうに見つめながら呟いた。
「どうして?」
「北路さんの言うとおり、やっぱり手入れが大変なんです。これからのことを考えたら……」
「この綺麗な長い髪を守れないほど、俺は不甲斐ない男かい?」
 確かに、我ながら色々と不甲斐ない部分を多分に持ち合わせているが、彼女からそう思われるのは男としての沽券に関わる。
「確かに、これからは以前のような暮らしをすることは出来ないだろうけど、生きていくだけで精一杯で日々の生活に疲れ果てるなんて事はさせないよ」
「北路さん」
「どんなに困難があっても笑って乗り越えて──」
「北路さん。北路さん!」
 俺の台詞は泣きながらしがみ付いてくる文月さんに遮られた。
 この状況を内心「よしっ!」と思ってしまった。俺も随分変わってしまったものだな。


 約束の一時間が迫り移動を開始する。
 今回はグラウンドへと直接繋がった入り口から入り、先ほど同じようにグラウンドの隅へとゾンビをおびき出してから玄関正面へ車を寄せた。

 玄関のガラスドアの向こうには、先ほどの男性以外にも数人の姿が見えた。
「結論は出ましたか?」
 窓を開けながら声を掛ける。
「ああ、彼らを……いや、ゾンビを排除して欲しい」
 まだ納得し切れていないのだろうが、あえてゾンビと呼ぶことで気持ちを切り替えようとしているのだろう。
「他の人たちも納得したのか?」
「そうだ。だから学校周辺のゾンビの何とかしてもらえるか?」
 40代半ばほどの小太りの男性が答える。
「奴らを倒す方法は、首を刎ねるか首の骨を折るか頭を潰すしかない。今回はこの車で倒すから、車をぶつけて倒したところを前輪で頭をひき潰す方法を採ることなる。その後始末はそちらでしてもらうことになるが良いか?」
「……ああ、分かった──」
「ちょっと待て!何も殺すことは無いだろ。遠くに誘導するとか、どこかに閉じ込めるとか他に方法はあるだろ!」
 まだ20前と思われる茶髪の男が会話に割り込んできたので答える。
「俺達はここに来る前に一週間ほど富良野に居た。そこで体育館にゾンビを誘導して閉じ込める作戦に参加して仲間の犠牲者を出しながら1200体のゾンビを閉じ込めることに成功した」
「ならそうすれば。ここにはそんなに沢山人は居ない。平日だったから観光客も少なかった──」
「その後も駆除は進んで、ほぼ全てのゾンビが町の中から居なくなった翌日。馬鹿が暴れて閉鎖した体育館の玄関を破壊して1200体のゾンビが街中に溢れ出て、生き残っていた住人の半分以上が一夜にしてゾンビになった」
「そ、そんな……」
「ゾンビは倒す。その覚悟が無いなら、これから生き残り続けるのは無理だ」
 若い男から視線をもどして尋ねる。
「それでどうする?まだ意見はまとまってなかったようだが?」
「いや、先ほどのは山本君の……彼の個人的な疑問だ。それに彼も君の話に納得しただろう。頼むゾンビの駆除をしてくれ」
 そう言って頭を深く下げてきた。彼に続き他の人も頭を下げ、俺に食って掛かってきた山本君とやらも項垂れるように頭を下げた。
「分かった。これから作業にかかる」

 学校周辺のゾンビは1時間もかからずに駆除が終了した。
 駆除した数は全部で27体。最初に確認した時より数が多いのはゾンビを引き寄せるために鳴らしたクラクションの音に、温泉街に居たゾンビの一部がこちらに寄ってきたのだろう。
 小学校と温泉街は、国道273号線以外にも獣道というか、茂みを人が踏み分けて出来た近道があるが、温泉街から見るとこちらへは上りになっていて、更に途中で幅2-3m程の川が流れているようなので大量のゾンビが一気にやってくることは無いだろう。

 最後に学校の周辺を一回りしてから玄関正面に車を停める。
「文月さんは車の中に居て周囲の警戒を頼むよ」
 そう言ってからもう一度窓の外を確認してから車を降りた。
 すると玄関のドアが開き、一番最初に言葉を交わした50絡みの男性が中から出てきた。
「私はこの学校の校長の佐々木と申します。協力に感謝します。ありがとうございました」
 そう言って頭を深々と下げた。
「私は北路です。あなた達が生き残るために覚悟してくれたことに、こちらから礼を言わせてもらいます」
「私達が生き残る?」
「はい。あなた達が生き残るということは、明日以降は自分達でゾンビと戦うということですよ。そうなればゾンビの数は確実に減ります」
「私達が戦う?」
「明日になればまた同じような数のゾンビがここの周辺にやってくるだけですよ。そして明日からはあなた達が自分の手でゾンビを倒さなければならない」
「やはり、やってきますか?」
「はい、クラクションの音に引き付けられてこちらに来たのでしょう。最初に確認した時よりも倒したゾンビの数が多くなりました」
「そうですか」
 突きつけられた現実に肩を落とす。
「ですが、一体一体のゾンビは人間にとって脅威ではないことを理解して下さい」
「脅威ではない?しかし、たった一日でこんな状況になってしまったんですよ。夏休み前の平日とあって少なかったとはいえ観光客を含めれば500人以上居たのに」
「ゾンビに対する知識さえあれば安全に戦う方法があります」

 俺はこの1週間で体験し身に着けたゾンビの知識と戦う方法を彼らに伝える。
「ゾンビと化した人間には知能はほぼ残っていないので、昆虫などと同様に、こちらのアクションに対するリアクションがほぼ一定になるのが特徴です。したがってマニュアル化した作業が有効になります。チームを組んで数人で1体のゾンビに当たり常に安全のためのマージンを確保して手順を守って行動する。そして無理はしないで常に退路を確保し、安全が脅かされるなら速やかに撤退する。そして改めて、こちらの都合の良い状況を作り、そこに誘い込んで処理します」
 更には話している間にやってきたゾンビを使って実際に倒すところも見せ、また彼らにも数体のゾンビを倒させた。
「どうです。自信はつきましたか?」
「これなら、少しずつでも倒していき、この町をゾンビから取り戻すことも出来るとは思いますが、まだ慣れませんね」
 佐々木校長は杭うち用のハンマーでゾンビの頭を叩き潰した自分の両手をじっと見ながら答える。
「慣れる必要はありません。嫌なものは嫌で良いんですよ。肝心なのは嫌だろうが必要なら実行するだけの覚悟。それだけですよ」
 2時間ほどの説明とゾンビ相手の訓練が続き、27人の生存者の中で、対ゾンビの戦力となったのは男性を中心に11人。彼らは富良野で共に戦った仲間達と遜色ない戦力となったと思う。というよりも和田さん達や山中さん達はいきなり実戦投入だったからな……

 その後、学校に備蓄してあった非常食で昼食をご馳走になった。
「ぬかびら温泉郷はピーク時で3500人程度の来客を想定していますから、この小学校だけでも1000人以上が、災害時に2週間程度避難生活が出来るように物資が備蓄されているので当面の食料には困りません」
 それは避難者が少なかったおかげだろうが、この人数では逆に出来ることが少なくなってしまう。
「もう他には生存者は居ないんですか?」
「分かりません。我々は一週間、ずっとここを出ていませんでしたから」
「なら食事の後に、散歩に付き合ってもらえませんか?」
「散歩ですか?」
「ちょっと物騒な散歩ですけどね」
 困惑気味の佐々木校長に俺はニヤリと笑みを浮かべて見せた。

 文月さんのRV車と、佐々木校長をはじめとする教員の通勤用の車に分乗して国道273号線を道道85号線との合流ポイントまで戻り、そこから西へと150m程進む。
 まだこの辺りはゾンビの数も少ない。
「予定通り俺と文月さんが、この先でゾンビを引き付けるので、佐々木さん達はホテル内に取り残されてる人が居れば救助してください」
 そう告げると、そこから350mほど先の郵便局がある一画をクラクションを鳴らし続けながら周回し始める。
 10分間ほど続けると、ざっと見ただけで200体ほどのゾンビがこの一画に集まって来たため──ぱっと見でゾンビの数を判断出来るようにならざるを得なかった状況が憎い──危険を感じたので、場所を北へと移動しながら更にゾンビを誘引し続ける。
 最終的には時間を稼ぐと約束した30分間を全て使い300体程度まで集めることに成功したが、これ以上はこちらが身動き取れなくなりそうなので、道ではなくホテルの敷地を抜けてゾンビの囲みを突破し佐々木校長たちの元へと向かった。

 戻ってくると、そこには佐々木校長の車が1台だけ残っていた。
「生存者はみつかりましたか?」
 彼の車に横付けして窓越しに話しかける。
「付近のホテルや宿に23人の従業員や宿泊客が残っていたので他の車で全員学校へと送ったところです」
「まだ生存者はいそうですね」
「ええ、でも救出を急がないと、十分な食料を確保できた人たちは良いのですが、そうでない人たちはかなり衰弱していました。多分飢えで亡くなった人たちも居たそうです」
 宿の中にある程度の食料があったとしても、客室に閉じこもるしかなかった人間は一週間生き残るのは難しかっただろう。
「救出作業はうまくいきましたか?」
「幸い建物の中に残っているゾンビの数は多くなかったですし、移動時に周囲の確認さえ怠らなければ決して怖い相手では無かった。我々がもっと早く決断して立ち上がっていれば……」
 沈痛な表情を浮かべる佐々木校長に掛ける慰めの言葉は見つからなかったのでとっさに話を逸らす。
「救助作業で怪我をした人は出ませんでしたか?」
「ええ、皆無事です」
「それは良かった」
 少し強引かとも思ったが、佐々木校長も感じたのだろう苦笑いを浮かべていた。



[32883] 【39  07/22(火)13:40 ぬかびら温泉郷】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/06/01 20:51
「文月さん。俺、俺……ポークカレーあきらめるよ」
 佐々木校長の車の後について小学校に戻る車内で、俺は血を吐くような思いでそう口にした。
 どう考えても、今更、小学校に着いて「さよなら、後は任せたよ」と言って立ち去れる雰囲気でもない。
 残りの生存者の救出も手伝う必要もあるし、他に情報を共有しあったり、今後について話し合いをする必要があるだろう。
 それを投げ打って「今晩はポークカレーを食べたいから、そろそろ出発しよう」なんて、全ての人々の為とまで言った文月さんを前にして言えない。言えるはずが無い。
 彼女に嫌われるならともかく軽蔑されるのだけはご免だ。
「えっ?今日中に山小屋に着く予定じゃなかったんですか?」
「ごめん。残った生存者を助け出すためにも、まだやることがあるんだ。それから向かったんでは日も暮れてしまうだろうし」
「そうですね……仕方ないですね」
 何だろう?文月さんまで落ち込んでしまった。

 小学校まで戻ると、救出された人たちだろう10名ほどが玄関前に力なく座り込んでいた。
 救助された生存者は23名の内13名が観光客として糠平を訪れた人たちで、その中の6名は十分な食料が無いままホテルなどの部屋に立て篭もったために栄養状態が良くなく、更にその中の2名は自分で立って歩けないほど衰弱していたそうだ。
 健康状態に全く問題が無かったのが10名で、その多くが女性だったのは、少なくない男性従業員が客の救出を試みて命を落としていたためだ。

「これから残りの生存者を救出する予定なのですが協力してもらえませんか?」
 佐々木校長の頼みに頷く。
「今日一日は付き合いますよ。ただし明日以降は俺と文月さんはここを離れる事になります」
 ずるずるとこのまま、ここのコミュニティーに引き込まれることを避けるために、はっきりと一言断りを入れておく。
「そうですか。出来るならここに残って、協力していただきたかったのですが」
「申し訳ありません俺達にも目的があるので」
 佐々木校長は強くは引き止めなかった、今回の救出作戦の成功により彼等だけで生き残っていくだけの自信が生まれたのだろう。
 話を打ち切るために、俺はこの後の救出作戦について話を切り出す。
「残りの生存者を救出するためには、何処かにゾンビをおびき寄せる必要がありますよね」
 安全に残りの生存者を救出するためには、先程より東側へ、つまり温泉街の外へとゾンビをおびき寄せなければならに。そのためには国道273号線を上士幌方面へとゾンビを誘引する必要がある。
 しかし、囮役が救助作業終了後に300体以上のゾンビがひしめく273号線を通って、こちらに戻ってくるのは難しいだろう。
「サイクリングロードがきちんと整備されていれば……」
 佐々木校長が小さく呟く。
「サイクリングロードですか?」
「ええ、糠平湖を自転車で一周するためのサイクリングロードがあったんですが、最近は通行禁止になってるんです」
「どこか道が崩落して使えなくなってるんですか?」
「そう言う訳ではないんですが、森の中を通る道なためどうしても大きな枝が落ちたり、倒木の危険性を行政から指摘されまして、きちんと管理維持するには距離も長く、予算的にも難しいので通行止めにしてしまったんですよ」
「舗装はされてないんですか?」
「一部は舗装されてますが、自転車での通行に問題がある場所は未舗装ですよ」
 そうすると俺の自転車では難しい。
「マウンテンバイクはありませんか?……ええと、太いボコボコの付いたタイヤを履いた自転車なんですけど」
「学校にはありませんが、サイクリングコースを使えた頃はホテルで貸し出しを行っていたはずなのでホテルになら多分。ちょっと聞いてくるので待ってください」
 そう言うと佐々木校長は校舎に入って行き、5分程経って一人の男性を連れてきた。

「どうもはじめまして。先ほど救助された柴田と申します。ご尽力いただきありがとうございました」
 佐々木校長と同世代くらいだろう。『折り目正しい』という言葉が良く似合うという点においては佐々木校長をも凌ぐ紳士だった。
「彼は自転車の貸し出しを行っていたホテルの支配人ですよ」
「今更、ホテルの支配人でもありませんがね」
 佐々木校長の言葉に、上品かつ嫌味の無く笑う柴田さん。
「自転車に関しては、多少埃を被っているはずですが使えると思います。役立てていただけるなら喜んでお貸しします」
 これで作戦の目処が立った。

 その後、救出作戦の具体的な方法について話し合い入った。
 まずはマウンテンバイクの回収。
 これは、先ほど温泉街の東へと引き付けたゾンビがこちらに戻る前に行う必要があったので、既に柴田さん他4名にホテルの倉庫へと向かってもらっている。
 次にゾンビを再び温泉街の東へと誘い込むのは、俺と山本君──ゾンビを倒すことに異を唱えた若者。去年高校を卒業したばかりの19歳で飲食店でバイトしているそうだ──彼が引き受けてくれた。
 彼が学校の軽トラを運転して、俺がマウンテンバイクと共に荷台に乗り込む。そこで学校の備品の拡声器を使い。ゾンビを引き寄せつつ生存者に対して、目立つ布を使って目印を作り、窓などの外から見えやすい位置に掲げるように指示を出す。
 そして前回と同程度のゾンビの数を引き寄せることが出来たら、町の外れでマウンテンバイクと共に荷台から降りて、拡声器でゾンビを引き寄せつつ国道273号線を東へとゆっくりと移動する。
 山本君の軽トラは、南への細道に入りエンジンを切り救出終了までゾンビの気を引かないように待機。
 通りにいるゾンビたちを温泉街から十分に引き離したのを確認したら、国道273号線にあるトンネル。そして国道273号線の北側を平行してはしる旧国道にある橋とトンネルの3箇所を大型車を利用して封鎖。
 それと同時に残った動ける人たちが総出で、目印を頼りに救出を行うという作戦に決まった。
 正直ザルな作戦だが、じっくりと完璧な作戦を立てている時間的余裕は無い。巧遅より拙速、今日助けられなかった人が明日も生きている保証など何処にもない。

 ホテルから回収してきたマウンテンバイクを軽トラの荷台に載せ、自分も乗り込もうとした時、背後から誰かがしがみついて来た──誰かといっても文月さんしかありえない。
「必ず無事に帰ってきてください」
 俺の背中に顔を埋めながら不安そうな震える声で呟く。
「心配ばかり掛けてごめんね」
「そうですよ……でも心配することしか出来ない自分が一番嫌なんです。あなたが危険を冒す時に私も傍にいたい。でも出来るのは足手まといにならないように待つことしか出来ない」
「待っててくれる人が居るなら。笑顔で帰りを迎えてくれる人が居るなら。その人のためにも無事に帰ろうと思えるのが人間だよ。だから俺は自分が幸せだと思ってる」
「北路さん」
「心配しないでなんて言わない。ただ帰って来たら笑顔で迎えて欲しい」
「……はい」
 自分でも随分と臭い台詞を言ったものだと自覚があるので、出発後にしつこく冷やかしてきた山本を荷台から運転席の窓越しに思いっきり殴りつけた。

「──繰り返します。生存者の方々は、通りから見える位置に出来るだけ目立つように、派手な色のタオルや服を窓などから外に吊るすなどしてください。それを目印に救助に向かいますので音を立てず静かにお待ちください。感染者は臭い・光・音に強く反応します。現在行われている安全な救助作業を進めるために町中よりゾンビを引き離す作業が終了次第救助が始まるので、臭いや光や音を出さずにお待ちください──繰り返します」
 移動を続ける軽トラの荷台の上で繰り返し同じことを話し続けるが、時折窓から手を振り大声で救助を求める馬鹿が現れるので「人の話を聞け馬鹿野郎!死にたくないなら黙ってろ!」とやさしく諭す。

「そろそろ時間ですけど良いですか?」
 運転席の山本が尋ねてくる。時計を確認すると15:30そろそろ予定の1時間になろうとしており、ゾンビも十分な数を引き付けている様だ。
「じゃあ、町の外れにゆっくりと移動しろ」
 彼に対して俺は、俺の前では「はい」と「イエス」しか言えないように立場というものを明確にしておいた。

 湖畔のキャンプ場へと向かう分岐の先80m地点に着くと山本はクラクションを長く3回鳴らす。これが救助開始の合図だった。
 クラクションと同時に俺はデイパックを背負い拡声器を肩から掛け、マウンテンバイクをもって荷台から降りる。
「行け!」
 俺の指示に山本は国道273号線から南に続く生活道路へと車を移動させ、ゾンビたちから見えない建物の影に車を停めてエンジンを切り、外から姿が見えないように座席に身を伏せた。
 それを確認してから、俺は拡声器の音量を最大にして「おーい!こっちだゾンビども!」などと叫びながら、ゾンビを引き離してしまわないようにゆっくりと自転車を押して歩く。
 300mほど歩くと糠平トンネルに入る。送電が途切れたトンネル内はまさに漆黒の闇。ほぼ一直線のトンネルなのでずっと先に入り口の光は見えるが想像以上の圧迫感を覚える。しかしそれ以上にゾンビを引き寄せるために休み無く叫び続ける拡声器越しの自分の声が反響するのが辛い。耳栓を用意すべきだった。
 ライトを取り出して前方の闇を照らす。背後に迫るゾンビとの距離を保つのも大切だが、万一進行方向にいるかもしれないゾンビへの警戒を怠るわけにはいかない。

 無事に糠平トンネルを抜けると背後のゾンビの様子が気になる。ちゃんと着いてきているのだろうか心配になり「おーい!ちゃんと着いて来い!」とついついゾンビ相手に話しかけてしまう。
 次の不ニ川トンネルと糠平トンネルとの間は100mほどの橋が架かっているだけでゾンビたちは道なりに長く連なって歩いているので、不ニ川トンネルの入り口からゾンビの群れを見ても、列の終わりは糠平トンネルの中にまで伸びていて見えなかった。
「このまま良いやでは済まないよな」
 いい加減な仕事は他人の命に関わると思うと気は進まないが、この場でゾンビたちの先頭を足止めして、伸びてしまった列を短くまとめる必要があった。
 そうとは言っても幅10mはあるだろう道一杯に広がったゾンビの最前列を食い止めるのは人の力では不可能。いつものRV車なら群れの先頭中央に軽く突っ込んで直ぐに後進し、距離を開けるのを何度も繰り返せば出来るだろうが……などと考えていると爆竹のことを思い出す。富良野を出て以来、大きな音を出すということが禁忌にも等しかったためすっかり忘れていた。
 デイパックの中から取り出した爆竹に火を着けると、ゾンビの先頭集団の後方へと投げ込む。
 背後で連続的に発生した爆発音に、先頭を歩くゾンビの注意は俺から逸れて後ろを振り返り足が止まり、一方後方のゾンビの歩みは若干速度を増す。
 これを3度ほど繰り返すと糠平トンネルから出てくるゾンビの姿が疎らになり、トンネル間の道の上にいるゾンビの数は予定の300体を上回っているようだったので拡声器を使って声を出しながら不ニ川トンネルへと踏み込む。
 不ニ川トンネルは入り口が若干カーブになっていた糠平トンネル以上に一直線に作られており、トンネルに入る前から出口の光が見える。
 その時だった。万一が現実となる瞬間が訪れる。
 トンネルの途中、100m以上は先で出口の光の中を人影のようなものが横切った。

 緊張感が一気に高まる。
 見えたのは1体だが、この闇の中に潜むのが1体だけとは限らない。ましてやゾンビじゃなく人間で敵対的行動をとるとするなら更に危険度は上昇する。
 今更後戻りは出来ない。背後のゾンビたちは既にトンネル内に踏み込んでおり、俺に出来るのは前に進んで安全を、命を勝ち取るしかない。
 背後のゾンビと距離をとるために自転車に乗って50mほど先まで進む。その間に再び人影が出口の光の中を横切った。
「人間じゃない。ゾンビだな」
 相手の動きからそう確信する。この際ゾンビの振りをした人間という可能性は排除する。
 マウンテンバイクのフレームに取り付けてあった愛用のメタルラックのポールは引き抜かず、デイパックの中から隠してあった拳銃を取り出すとパンツのウェストに差し込んだ。
 既に良いだけ騒音を撒き散らしてきた今回は拳銃を使うことを躊躇う気は無い。
 糠平の人たちに、俺が銃器を保持していることは隠しているが、ここはトンネルの中で、外にはそう大きく音は響かないだろうし、もし音が届いたとしても先ほど使った爆竹との区別が付くとは思えない。
 左右にライトを振って前方の闇に潜むゾンビを見逃さないように細心の注意を払いつつも急いで自転車を押して前進する。
 1体ならポールを引き抜いて撃退すれば良い。2体以上なら躊躇い無く拳銃を使えば良い。だがこの闇の中10体以上なら?それどころか背後に迫るゾンビと変わらないほどの群れがいたら?
 嫌な汗が額に浮き出て流れ落ちる。一瞬目に入りそうになるそれを右手の袖で拭い去る。
 その瞬間、ライトに照らし出される3体のゾンビの姿が目に飛び込む。
 距離はおよそ20m先。更に注意深く確認すると。更に2体のゾンビの姿が見える。
 自転車を停めると、左手にライト。右手に拳銃を構えてゾンビに接近する。
 前にいる3体のゾンビの5mほどまで近寄ると、右のゾンビの眉間に向けて照星と照門を重ねると引き金を引いた。
 テレビの刑事ドラマ中での銃声に比べるとはるかに安っぽい音と同時に、拳銃を握る右手の親指の付け根部分が反動で蹴られるが予想したよりは軽かった。
 弾が眉間のやや右上に着弾するとゾンビは仰け反り倒れる。
 そして俺は機械的に次のゾンビに狙いをつけて引き金を引いた。

 前方に新たなゾンビの姿を見つけ出せなかったので自転車の元へ走って戻り、また前へと歩き出す。
 倒した5体のゾンビを避けるように脇を通り抜ける。その間も前方の確認は怠らなかったが、他のゾンビに出くわすことなくトンネルの出口にたどり着き背後を振り返ると、後方のゾンビとの距離が開きすぎているのに気付きため息を漏らす。
「ビビりすぎだよ」
 そう自分を笑うと。拡声器を持つと振り返り大声で叫んだ。
「ビビりすぎだ。この馬鹿野郎!」
 そして大声で笑った。

 不ニ川トンネルを抜けるとまた直ぐに次のぬかびら湖畔トンネルの入り口が目に入る。今度は橋ではないが同じく100mほどしか間は無い。
「ん?」
 ぬかびら湖畔トンネルの入り口の左側に見える小道の少し入ったところに1台の車が見える。
 どうやら路肩に乗り上げる形になって停まっているようだ。
 ゾンビとの距離も気になるが、あの車が使えたら多少は楽が出来そうなので、再びゾンビの群れへ爆竹を投げ込んで足止めすると、車に向かって自転車を走らせた。
 ぬかびら湖畔トンネルの入り口──アスファルトの上に車がスピンしたらしい真新しいタイヤマークが刻まれていた──の左脇に自転車を停めると、ポールを右手に持って車に駆け寄る。
 車はRV車ブームの頃に作られた、駆動方式が4WDであること以外は乗用車ベースの見た目だけの街乗りRVだった。
 右前方から路肩に乗り上げて、傾いた左側のドアが前後共に開いていて、その下の地面には黒っぽい血の染みが広がっていた。
 周囲にゾンビの姿が見えないことを確認してから、車の下や路肩の先などを見て周り、後ろの窓からラゲージルームを確認。そして最後に開いたドア越しに車内の様子を伺う。
 何処にもゾンビの姿は無かった。多分先ほどの5体のゾンビがこの車に乗っていたのだろう。
 そして車内で既にゾンビに噛まれていた誰かがゾンビ化し次々に噛まれていった。そんなところだろう。おかげでシートが固まった血液でガビガビになってる。
 とりあえずキーを回してみると、幸いエンジンはかかった。後部座席からラゲージルームに手を伸ばして荷物をあさると、中から薄汚れた毛布が出てきたので、それを運転席に敷いてから座る。
 ギアをバックに入れてアクセルを軽く踏み込むと、腐っても4WDだけあってあっさりと路肩から抜け出すことが出来た。
 ゾンビはこちらに近づいてきているが、先頭のゾンビがいるのがトンネルとトンネルのちょうど間くらい。
 国道273号線に戻り後部座席を倒してラゲージスペースを広げると、先に積んであった荷物を右側に寄せて、空いたスペースにマウンテンバイクを積み込む。
 運転席に戻るとクラクションを鳴らしながらゾンビの群れに向かって車を走らせた。
 ゾンビの群れの前でUターンするとバックでゾンビに車体をぶつけた。この車には生意気にもアニマルガードらしいものが着いてはいるが、良く見ると単なる樹脂製の飾りというふざけた車だ。文月さんのお祖父さんのこだわりのRV車と同じ様に前から当てたら一発でラジエーターから蒸気を吹き上げそうで怖い。

 ゾンビを十分に引き付けた後、こんなことになる前に他人がやってるのを見たなら「馬鹿野郎!」と吐き捨てるほどクラクションを鳴らしながらゆっくりとぬかびら湖畔トンネルへと入っていく。
 ヘッドライトは右側が壊れているようで、片目状態だが手持ちのライトに比べたら贅沢なんて言ってられない。ハイライトにすると100m近くは先を見通せるヘッドライトとクラクションを鳴らしても車内にいる為にストレスを感じることなくトンネルを通過出来た。

 ぬかびら湖畔トンネルを出て100m先で糠平ダムへと続く脇道へ入るために右折する。
 状態の良くない道路のため、後を着いて来るゾンビの速度があまり上がらないが、それでもここまで来てしまえば、ゾンビの気を引くような存在はこの車しかないので多少距離が開いたぞんも一生懸命に着いて来る──と言えば、少し微笑ましい情景が頭に浮かぶが、実際に見てみるとやっぱり地獄の様相だった。
 ゾンビの歩みが遅いので、時折車を停めて積んであった荷物を確認する。100%泥棒以外何者でないが今となっては勿体無い精神による有効利用だ。
「水か……」
 2Lペットボトルのミネラルウォーターが6本入った箱が3つ。確かに人間にとても大事なものだが、現在水に困っているわけでもなく、この先は車では進めないためもって行くことは不可能。
「缶詰……」
 5つの段ボール箱に入った缶詰。さんまの蒲焼缶。鯖の水煮缶。焼き鳥缶。ツナ缶。そして桃缶。選択に問題を感じないでもないが必要性は水よりも高く持って行きたいが、10や20くらいならともかく全部を持っていくのは不可能。
「サプリメント……」
 コンビニのレジ前のコーナーの棚に良く並んでいるビタミン類をはじめ様々な栄養素を補給してくれる素敵アイテムが幾つもの箱に詰められていた。
 十分な水と、缶詰でカロリーベースを維持して、サプリメントで栄養補給。正しい様でどこか間違っている選択に頭が痛いが、正直サプリメントはありがたかったので、缶詰よりも優先的にカバンへ詰め込んだ。

 ダムの手前で車を降りる。
 この先からは再び自転車で進まなければならない。
 山本と分かれた地点から約2kmでここまでにすでに2時間近くの時間が過ぎており。
 予定では生存者の救助と糠平トンネルの封鎖が終了しているはずなので、後はゾンビを振り切って糠平湖の東岸を北上し国道273号線の合流ポイントまで出れば迎えが来るはずだった。

 これまでのゾンビを引き連れてゆっくり移動していた鬱憤をペダルに叩きつけて自転車を走らせるが、直ぐに折れた大きな枝に道がふさがれており、この先これが15km位続くのかと思うと気が重たくなった。

 使われなくなった道は短時間で荒れる。
 この言葉を俺は一生心に刻み込もうと決めた。というよりも忘れられそうも無い。
 それに茂る木々に囲まれた林道の日暮れは早い。陽が傾くと直ぐに暗闇が襲ってくる。
 そんなサイクリングコースを走り切って合流地点に見えた時、俺は自分を「さすがやれば出来る子だ」と褒めてあげたい気持ちで一杯だった。
 ところが予定時間を大幅に遅れて合流地点にたどり着いた俺を待っていたのは、俺の顔を見て突然泣き出す文月さん。
「笑顔で迎えてくれる約束は?」と口にする前に、抱きつかれたと思ったら今度は号泣。
 結局、自分を褒めるどころか「心配した」と言いながら泣き続ける彼女に謝り続ける羽目になった。



[32883] 【挿話3】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/06/01 20:51
 北路圭太は良く分からない奴だ。
 見るからに体育会系。しかも柔道とかの格闘技系の身体つき。長身に広い肩幅と厚い胸板。腕や脚も発達した筋肉に覆われている。
 俺なんかは睨まれただけでビビってしまう。まるで歴戦の兵士のような迫力を持った男なのに、先月までは普通にサラリーマンをやってたというのだから良くわからない。
 更に分からないのは奴が連れている文月蓮という少女だ。
 話した事もないが、見た目は美少女と言っていい。アイドルグループに混ざっても違和感はない位に整った顔をしているけど、凛とした雰囲気がアイドルに収まるタイプじゃないと思う。
 別に彼女自身が変な訳じゃない。奴の傍に彼女がいることに違和感を覚えるんだ。
 美女と野獣ならぬ美少女と野獣。どうにもしっくりとこない。というより犯罪の臭いがする位だが、二人の関係を俺が見る限り積極的に行動を起こしているのは彼女の方だ。
 北路は彼女に迫られて、あの厳つい顔に困った表情を浮かべながら受け入れるといった感じだ。
 そのギャップがおかしい。特に出発の為に奴が軽トラの荷台に乗り込む時は笑えた。
『心配しないでなんて言わない。ただ帰って来たら笑顔で迎えて欲しい』などと奴が言った瞬間。腹筋がねじ切れるかと思った。
 余りに面白かったので奴を甘く見てしまった俺は、つい運転中からかってしまい。次の瞬間後頭部が陥没してめり込んだんじゃないかと思うほどぶん殴られて、世の中には敵に回しちゃいけないって人が存在する事を身をもって思い知らされた。

 北路が軽トラを降りた後、予め奴から出されていた指示通りに、俺は国道273号から南へ向かう細道に軽トラを乗り入れて、運転席側を建物の壁に擦らんばかりに寄せて停めてエンジンも切った。
 ドアに鍵を掛けて助手席側の窓を締め切り、助手席に上半身を預けるように身を伏せると、その上に毛布を掛けて、窓から覗き込まれても姿を見えないようにして予定の時間をじっと待つ。
 北海道とはいえ7月下旬の暑さの中、壁を背にした運転席側の窓を開けていなければ脱水症状を起こしていたはずだ。

 最初の内は何体もの感染者、いやゾンビが軽トラの傍を通り過ぎる気配を感じたが、10分ほど過ぎるとその気配は感じられないようになったが、俺はそのままの姿勢で予定の一時間を過ごした。
 予定通りなら北路がゾンビたちをダムまでおびき寄せているはずだ。
 耳を済ませて周囲の気配を探る。虫の音や鳥の鳴き声は聞こえても奴らが歩く時に立てる脚を引きずる音は聞こえない。
 毛布を被ったまま、両手で上半身を持ち上げると、窓の下枠の上に目を出して周囲の様子を伺うが視界にゾンビの姿はない。
 俺は完全に身を起こすと身体から毛布を引き剥がして助手席に投げ出すとドアを開けて空気を入れ替える。汗まみれの肌が空気に晒されて蒸発していくのが気持ち良かった。
 国道273号線を東へと数台の大型車が走り抜けていく。北路がダムの方へおびき寄せたゾンビが戻って来れないようにするために国道と旧国道を封鎖するチームだろう。
「俺も行きますか」
 救出した生存者や回収した荷物を運ぶの仕事が待っている。

 温泉街と学校の間を3往復したところで北路を迎えにいく時間になった。
 奴なら放っておいても勝手に帰ってくると思ったが、迎えにいかないと後でどんな目に合わされるか想像もしたくなかったので現場を取り仕切っている校長に声を掛ける。
「そろそろ迎えに行ってきます」
「ああ、すまないね。こっちの作業も今日の分はそろそろ終了ですし行ってきてください」
「じゃあ飯の準備よろしくお願いします」
 軽トラに向かおうとすると後ろから声を掛けられた。
「あの、私も連れて行って貰えないでしょうか?」
 振り返ると文月って女の子が立っていた。軽トラは二人乗りだが荷台に北路を乗せるか、逆に奴に運転させて俺が荷台に乗っても良いので別に断る理由もない。
 とりあえず校長に「どうする?」と視線を向ける。
「文月さんもこれまで頑張ってくれたことだし、連れて行ってあげてください」

 合流地点にたどり着いても北路の姿はまだなかった。
 約束の時間が10分が過ぎ、20分が過ぎても北路は姿を現さず、手持ち無沙汰に俺は思い切って質問を投げかけてみた。
「君と北路さんてどういう関係?」
「恋人同士なんだと思います」
 予想通りの回答。
「まあ、そんな感じはしてたんだけど、でも随分歳が離れてるよね。やっぱり北路さんってソッチの人?」
「えっ、ソッチって?」
「いや、だからあの……」
 そこで一旦言葉を切って、周囲を見渡してから北路がまだ来てない事を確認してから「ロリコン?」と聞いてみる。
「北路さんがロリコン?まさか」
 何を言ってるんだとばかりにあきれた風に返される。
「でも恋人同士なんだよね」
「だから苦労したんです!」
「く、苦労……そうなんだ……じゃ、じゃあどんなきっかけで知り合ったの?」
 その苦労とやらに余り突っ込みたくなったかった。
 14歳の少女が26歳の男を落とすために苦労している状況なんて考えただけで女性観が変わってしまいそうなので俺は素早く話題を変える。
「きっかけですか……」
 突然、口が重たくなる彼女の様子に、自分が随分拙い質問をしたことに気付く。
 彼女もこのゾンビ騒動に巻き込まれて家族を失うなりしたんだろう。そうでもなければ未成年の彼女が家族でもない男と二人っきりというのはおかしい。
「あっ言いたくないなら別に──」
「いえ、構いません。北路さんと出会ったのは……」
 彼女の口から住み慣れた町にゾンビが溢れかえってしまったこと。祖父母と一緒に車で逃げ出したこと。祖母がゾンビに噛まれて、やがて車中でゾンビになり祖父を襲ったこと。そして身寄りを失った彼女は北路に守られて、今まで生き延びてきたことを語る。
「へぇ、良い奴だな」
 こんな状況で、下心もなく一人の女の子をずっと守り続けるなんて中々出来ることじゃない。
 そりゃあ、彼女も惚れるだろうさ。もっとも随分と奴のことを美化してしまっているようだが、それすらも仕方ないことなのかもしれない。
「はい。良い人なんです」
 彼女は北路が褒められて、まるで自分の事のように誇らしげに胸を張って見せた。

「それで、二人の歳は?」
「北路さんが26歳で、私が14歳です」
「………………や、やっぱりロリコンだぁぁぁぁっ!」
 俺の魂の叫びが夜の湖畔に轟いた。



[32883] 【40  07/22(火)22:25 国道273号線 糠平湖西岸】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/06/08 20:28
 俺にしがみついたまま泣き疲れて眠ると文月さんと一緒に、俺は狭い軽トラの助手席にいた。
 はっきり言って狭い。だがどうしても彼女の手は俺を離してくれなかった。
 運転席の山本がこちらをチラ見して、一瞬だけ凄く意味ありげな表情を浮かべたので、無言で奴の鼻っ柱に右の裏拳叩き込む。
「アザーッス!」
 殴られて鼻血を流しながら元気に返事をする変な奴だ。

「それで今回の作戦の首尾はどうだったんだ?」
 車内の空気を変えるためには話題を振る。
「保護できた生存者は62名です」
「へぇ、思ったより多かったじゃないか」
 この作戦を実行する前の状況は、生存者の数は、小学校に避難していた生存者が27名。その後に救出した生存者が23名で合計50名。
 それに対して倒したゾンビの数は、俺が学校周辺で倒したゾンビの数が27体。学校にいた生存者が練習がてらに倒したゾンビの数が8体。俺がゾンビのおびき寄せ中についでに倒したゾンビの数が6体。更に救助活動中に倒したゾンビの数が16体で合計57体。
 温泉街の路上にいたゾンビの数がおよそ300体強。
 その全てを足すと400を超える。それに対してゾンビ発生前にこの糠平周辺にいた人間の数は500人を超える程度なので、残り100ほどの未発見の生存者とゾンビ、そしてゾンビ化しなかった死体か、ゾンビ化後に、こちらが把握しないところで倒されたゾンビの死体が存在することになり、事前の話し合いの中では生存者は全体の1/3~1/2。つまり30~50人程度の間だろうという予想だった。
 だが、62名の生存者が発見されたということは、残されたのは40程度の未発見の生存者とゾンビと死体ということになる。
 この分なら明日以降の作業も楽になるはずだ。
「トンネルの封鎖は?」
「273号線は不ニ川トンネルの西側を封鎖して、旧国道は旧不ニ川トンネルの東側と不ニ川橋の東側の二箇所で閉鎖しました」
「他に報告は?」
「救助作業中に観光客と思われる2名の餓死者が発見されました。明日以降本格的な捜索が行われるのでその数は増えるものと思われます。また本日の作業中において死者・負傷者は共にありません」
 鉄拳という名の薬が効きすぎたのか新兵か体育会系の下級生部員のようになってしまった山本だが、正直どうでも良い。ただ彼の報告の内容には満足した。

「文月さんそろそろ着くよ」
 グラウンドを抜けて玄関前の駐車場に向かう車中で文月さんを起こす──というよりこの娘、寝た振りしているような気がする。
 このまま彼女が起きなければ、俺が抱きかかえたまま車を降りる必要があるが、羞恥プレイはごめんなので彼女の脇に手を入れてくすぐってみると即反応して身を捩せた。
「ふっふ、くっくっくくぅ……や、やめて……起きるから……やめて」
 息も絶え絶えに悶える文月さんの様子に、また新しい自分が芽生えそうになる。この数日で幾つ芽生えてしまったのだろうか……とりあえず、余所見運転でこちらを見てる山本に裏拳を叩き込んだ。

 出迎えに出てくれた佐々木校長らと共に校舎2階の理科実験室に向かう。
 窓のカーテンに暗幕が使われている理科実験室なら蝋燭の明かりが外に漏れないこともあり、まだ眠るにも早い時間だったので30人ほどが蝋燭の炎が揺らめく薄暗い部屋に集まっていた。
「たいしたものじゃないけどどうぞ」
 席に着いてしばらくして、割烹着姿の中年女性が運んできてくれた料理は、温かいうどんと握り飯だった。
 麺は乾麺だがいんすたんとなどではない。しかもうどんの薬味にはフリーズドライではない生の葱、更に卵が落とされた月見で、それだけでなく何とかしわ──鶏肉までも添えられていた。
「ああ、宿の厨房から残ってた食材も全部持ってきたからね。足りないならまだ麺を茹でるよ」
 缶詰やレトルトではない鶏肉にテンションが上がっていた俺に苦笑いを浮かべる女性に、俺はすかさず「もう一玉追加」と声を上げた。


 子供達や体調が良くない人たちは既に寝ているし、家族や友人を失った精神的ショックから立ち直れずに他人を避けている人達、そして周囲を警戒するために見張りに立っている人を除く、ほとんどの生存者がここに揃っていた。
 俺と文月さんは明日の朝にはここを立つ予定なので、この糠平地区の人間が今後も生き残れるかどうかは、この部屋に居る彼ら次第ともいえる。

「ご苦労様でした」
 佐々木校長の労いの言葉に耳を傾けながら、うどんを啜る。
「随分と遅くなったので心配しましたよ」
「ゾンビの歩みが想像以上に遅かったのでダムまで連中を引っ張っていくのに2時間もかかってしまいました」
 やはり音だけだとゾンビを引きつける要素が足りなかったのだろう。
 声を出すのをサボると後も戻りする固体も存在した。
「そのせいで日が暮れてしまって、ゆっくり戻ってくるしかなかったんですよ」
 そう答えた後で詳しい状況を尋ねてみる。
 保護出来た生存者の数は62名で、18名が観光客で残りがこの地区の住人達。
 予想通りに地元の人間に対して観光客は逃げ場所を確保できずに犠牲となる確率が高かったのに対して、生存者の男女比率は男性が32名で女性が80名と予想していたことだが、それでも予想を超えて男女差がはっきりと現れた。
 また救助活動中に3名の餓死者の遺体が発見されて、その全てが男性で、救助された人たちの中で栄養状態の悪さから衰弱している人も男性が多かった──これは生物として男性は筋力などの少ない要素を除けば女性に劣る弱い生き物である証拠だな。

 その後、佐々木校長達は明日以降の方針について話し合いを始めたが、明日にはここを立ち去る部外者の俺が口を挟むことは無いと思って、食事を続けたが、彼らの話の中にある重要な事に関するものが含まれてないことに気付く。
 気付かないのか、それとも気付いて避けているのか……多分後者だろう。
 それを口にすることが好意的に取られないと分かってはいるが、俺はあえて口にした。
「町の外のゾンビはどうするんですか?」
 俺の発言と同時に部屋の中は、水を打ったように静まり返る。
「前にも言いましたが、富良野市は、中心部だけでも1万人以上を大きく超える生存者が居た富良野市は、封鎖を破った1200体のゾンビによって一夜にして壊滅的な被害を受けました。ここではバリケードの向こうに居るゾンビの数は、生存者の3倍も居るんですよ。何かが起こってバリケードを突破されたら、どうなるか想像してみてください」
「し、しかしバリケードは明日にはきちんと補強して簡単には破られないようにする……」
 佐々木校長が俺に反論をするが、その言葉は途中で遮られた。
「富良野でもそうしました。大きな地震が起こっても大丈夫なように皆で……でも封鎖は人の手で破られたんです!」
 文月さんが大きな声を上げると、佐々木校長達、最初から学校に避難していた人たちは、既にこの話を知っているので一様に黙りこむ。
「そんな馬鹿な話があるはずがない!なんで態々バリケードをこわして……」
 しかし、今日救助された人たちは納得しなかった。
「今は平時なんかではない。不安に不満に恐怖。今自分がまともで居られるなんて運が良いと思っていてください」
 だが俺は反論する相手の言葉を遮り、厳しい口調で気って捨てた。
「別に明日、全てのゾンビを始末しなければならないわけじゃない。明日から毎日、1日に10体、20体のゾンビを始末していけば、そう長くない期間でゾンビの直接的な脅威を取り除くことが出来ます」

 賛否は別れたが、バリケードがあるとはいえ、自分達の生活圏のすぐ傍に自分達の3倍ものゾンビが存在するという潜在的な恐怖から開放されたいという思いがあったのだろう、結局は俺の意見が取り入れられた。
 現在はその方法論について議論がなされているが、今度こそ俺が口を挟む問題じゃなく、黙った推移を見守ることにした。
 などと思っていると、いつの間にか近づいてきたのか背後から声を掛けられた。
「ねえ、ところであなた達ってどういう関係?」
 20代半ばくらいの快活そうな見た目の女性。
 その浴びせられた質問の内容に、俺は軽いパニックに襲われる。
 この局面をどう切り抜けたら良いものか答えも出ないままに口を開こうとしたその直前──
「恋人同士です」
 文月さんが答えてしまう。嘘じゃない。少なくとも俺は嘘だと言える立場では無いが、他に何か言いようがあったのではないか文月さん?
「……恋人」
 周囲の空気が変わる。
 普通に驚く人。やっぱりという顔をする人。目を輝かせ興味津々な人。そして、このロリコンめと軽蔑の目を向ける人。
 まあね、もうロリコンというのを否定する資格はない。けどね、やっぱり公然の事実にする必要はなく、その辺を曖昧なままにしておきたいと言うずるい考えもあった訳で……これが穴があったら入りたいという心境なのだろう。
「じゃあ、この娘。文月さんだったはね。一体幾つなの?」
 文月さんお願いだ。お願いだから嘘で良いから高校生と答えてくれ。それなら同じ犯罪者でも執行猶予が付くと付かないのぐらいの違いがある。
「私は14歳で、北路さんは26歳です」
 文月さんの口から死刑宣告が下された。
 軽い眩暈を覚えてうなだれる俺の肩に、誰かが手を置く感触に振り返ると佐々木校長が立っていた。
「あぁ、何というか北路君。個人の恋愛観に口を挟むのは無粋だとは思うし、こんな現状で法を持ち出しても仕方ないだろう。だが、こんな状況だからこそ自分を抑えられなかったのかね?……」
 などと沈痛な面持ちで懇々と諭し続けるが、今更説教一つで何とかなるなら文月さんとの関係がこんな風になってはいない。
「別に良いじゃないですか?」
 思わぬところから助けの手が差し伸べられる。隣で飯を食っていた山本だ。
「良いはずがないでしょう。私は教育者としてね──」
「じゃあ、一つ聞きますが、俺達は彼に助けれましたよね。彼が来てくれなかったら俺達はどうなってました?」
「そういう問題じゃなくね──」
「そういう問題なんですよ。決断力があり行動力もある。彼はこんな時に頼れる男なんですよ……ロリコンだけど。文月さんはそんな頼れる男を自分の魅力でモノにしたんです。その文月さんとの仲を引き裂くということは、彼女がこれから生き残っていくための術を奪い取るのと同じじゃないですか?校長は彼女に死ねとでもいうんですか?」
 彼の言葉に佐々木校長は口ごもる。
 山本。いや山本君。ありがとう。本当にありがとう。殴ってごめんね。俺は彼への感謝の気持ちで胸が一杯になり涙がこぼれそうになった。だけどロリコンと言ったことは絶対に忘れないからな。
「そうね。私だって頼れる男が欲しいわね」
 最初に俺達の関係を尋ねてきた女性が山本君に同調すると他の女性達もそれに追従する。
「あ~あ、ここって男性が少ないしイケメンとか贅沢は言わないけどねぇ。どう君、私は?」
 山本君よりは年上。多分俺と似たような年頃であろう少し派手な容貌の肉食系女子が彼に秋波を送る。
「ははっ、どうって言われても」
 一方、山本君は草食系のようで気弱な笑みを浮かべながら女性から少し距離を置こうとしている。
 蝋燭の光に照らされる薄暗い理科実験室で、他の女性たちも積極的に動き始めたようだ。皆狩人の目をしている。
 そんな様子を眺めていると、文月さんが俺の肩に頭を預けてきた。
「私が恋人で良いんですよね?」
「俺はロリコンだそうだから、他に相手は居ないんじゃないかな」
 自分にとって一番大切な相手が14歳だっただけで俺は自分がロリコンだとは思ってない。もっとも他人から見れば「それがロリコンなんだよ」と一蹴されるのがオチなんだろうがね。
「北路さんはロリコンなんかじゃないですよ。私が北路さんと同じ歳とか年上だったとしても、こうして恋人同士になってたと思います」
「文月さんが大人だったら、今よりももっと魅力的だろうし、俺は必死になって文月さんを口説いてただろうね」
「口説かれてみたいな……」
 見事な上目遣い。完全に女の武器を使いこなしている。
「そ、その内にね」
「じゃあ、もし私が今よりも若かったらどうなってました?」
 文月さん。14歳の君より若いというのは、既に若いじゃなくて幼いなんだよ。
「流石に無理だよ。1年後の文月さんは今よりも魅力的だろうけど、1年前の文月さんは今の文月さんには及ばない」
 文月さんの機嫌を損ねるかもしれないが、はっきりそう答えた。だが彼女はくすくすと笑い始める。
「だから北路さんはロリコンではないんですよ……他の人にはわかってもらえなくても」
「オチはつけないで欲しい」
「私としては、北路さんがロリコンと誤解されていて欲しいです。特に女性達からは」
 俺の口から力のない乾いた笑いがこぼれた。涙もこぼれそうだ。

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次回で最終回です。



[32883] 【最終話  07/23(水)08:00 糠平小学校】
Name: TKZ◆504ce643 ID:ffc8fb00
Date: 2012/07/24 19:19
お久しぶりです。
約束通り今回で最終回です……行数で何時もの12話分くらいあるけど。
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「少ないですが、これを持っていってください」
 目的地の山小屋に行くために出立する俺たちを玄関まで見送りに来てくれた佐々木校長が段ボール箱に詰めた非常食を分けてくれた。
「良いんですか?」
 112名の生存者は112人分の食料を必要とする。これからそれだけの量の食料を賄っていくのは決して楽なことではない。
「当分の食料は備蓄されているから気にしないでください。それに我々も腹を括りました。早くにバリケードの向こうの……ゾンビたちを駆除して上士幌の方へ出てみるつもりです。そしてあちらの生存者と接触してみることにしました」
「そうですか」
「ええ、上士幌は農業が盛んな土地ですから、ゾンビさえ何とかできればきっと……精一杯、我々に出来ることをやっていくつもりですよ」
 佐々木校長の言葉に、見送りに来てくれた皆がしっかりと頷く。彼らの胸にはもやは絶望だけではなく希望が芽生えているのだろう。

「ちょっと待ってください。俺達からも皆さんに餞別があります」
 そう言って車の荷台から、俺が巻き上げ機能付の大型ボウガンを2丁。そして文月さんが片手持ちの小型ボウガンを3丁を取り出す。
 昨晩、文月さんと相談して、ここの人たちならこの武器を有効に役立ててくれるだろうと譲り渡すことを決めていた。

「これをどうぞ」
 俺が差し出した大型ボウガンを佐々木校長は両手で受け取る。
「これはクロスボウですね」(正式名称がクロスボウで、ボウガンとはいわゆるティッシュと同じで、その商品を代表するような1商品名・ブランドが、一般名詞として定着したもの)
「矢は自作するなり、何かを代用してください」
 正規品の矢はアルミ合金製だが、実際飛ばすものは形さえ細長ければ別に何でも構わない。大型のボウガンならボールペンを撃ち出しても至近距離なら殺傷能力があるとも言われるくらいだ。(もっとも、当たり所によっては殺傷能力を有すという話であり、普通に胴体部分にボールペンを撃ち込まれても生死に関わるようなことはない)
 竹を切り倒し、縦に細く割り裂いたものを削って、更に熱を加えて真っ直ぐに形を整えたものでも、正規品の矢と比べても性能的にさほど劣らないものが作れるはずだ。
「良いんですか?これなら十分武器にもなりますし、それに狩にも、そう鹿狩りにも使えますよ」
 佐々木校長も食料としての鹿に気付いたようだ。もっとも道東に住む人間なら札幌が実家な俺なんかより鹿を身近に感じているから当然なのかもしれない。
「我々が使う分は他にあります。これは是非とも皆さんで使ってください」
「でも、どうやってこんなものを手に入れたんですか?」
 昨晩。食後にこれまでの事について互いに情報交換した際に、ゾンビ騒動が始まった時に俺が自転車旅行中だったことを佐々木校長達にも話している。つまり常識的に考えれば俺の所持品ではない。そして文月さんとその祖父母の所持品とも普通は思わないだろう。
 実際の文月さんのお祖父さんは、猟銃を所持し狩猟を含めたアウトドアが趣味で、文月さんの家にボウガンがあったとしても俺は驚かないのだが、それを知らない佐々木校長にとっては、ゾンビ出現後の混乱の中、どうやってこんな物騒なものを手に入れたか?それを疑問に思ったのだろう。

「ここに来る前、昨日の夕方に新得町のコンビニで、これを持ってた連中に襲われたんですよ」
 俺は正直に答えた。彼らが生き残るためには知っておいた方が良いだろう。
「襲われた……」
 言葉を失う佐々木校長。周囲の人たちからはざわめきが起こる。
「ええ、連中は元々の持ち主を殺して奪ったと言ってました。多分それ以外にも人を手にかけていたと思われます」
「な、何てことを、こんな時に協力し合わないで争うなんて……」
「俺たちがコンビニで食料などを物色していると、車で乗りつけて行き成り矢を撃ち込んできました。人間だから撃つなと言っても、笑いながら撃ち込んできましたよ」
 そこで話を止めて一拍間を空ける。
「これからはゾンビ以上に生きている人間が脅威になる可能性があることを忘れないでください」
 俺の話に衝撃を受けて声も出ない彼らに一度頭を下げると、食料の入ったダンボールを車に積み込むと直ぐに出発した。
 どうやって襲撃者を撃退して武器を奪ったか?それを聞かれて説明することになってしまう。敢えて知らせる必要の無い話だ。


 糠平小学校を後にして国道273号線を北へと、相変わらずのゆっくりとしたペースで車を走らせる。
 途中、糠平湖の対岸近くの水面に浮き出たタウシュベツ川橋梁が見えた。
 旧国鉄時代に今は廃線となった士幌線を通すためにタウシュベツ川に架けられたアーチ峡がダム建設によって作られた糠平湖に水没し、その上部だけを湖上に浮かべている幻想的な雰囲気を持った名所だと言う話を、先日地元の人から聞かされたが、ここからは遠すぎて良く分からない。
 実は先日、林道を走った際に直ぐ傍を通ったのだが見ている余裕なんて何処にも無かった。

 3匹の子犬たちは一日ぶりの車での移動に、少し興奮気味のようだが元気一杯だ。
「大勢の人たちと居るのも良いですが、こうしていると落ち着きますね」
 自分の膝の上でじゃれ合う子犬たちを見つめる目からも彼女が寛いでいる様子が良くわかる。
「もしかして文月さんって、人見知りする方?」
 何となく思いついただけの疑問を投げかけてみる。
「えっ……自覚はないんですが……たまにそう言われます」
「俺と会ったばかりの時は、そんな様子はなかったけど、やっぱりあんな状態じゃ人見知りしてる場合でもなかったのか」
「あの時は……どうなんでしょう?でも不思議と北路さんに対しては抵抗を感じなかった気がします」
 そんな運命的何かを感じたかのような発言をされても、俺は当時文月さんから少しでも多くの情報を引き出すことしか考えていなかった。
 むしろ事務的というべきだった俺の対応が人見知りさせなかったのだろうか?
 そんな疑問もあったが、まるで平和だった頃にドライブに出かけているみたいに大して意味の無い会話を楽しみながら大自然の中を車を走らせた。
 本州からわざわざこの道を走るためにツーリングに来るバイク乗りが多く来ると言うだけあって、外を流れる景色が会話をはずませる。
 だが緑深橋から南側の松見大橋を眺める景色の見事さは、思わず言葉を失うほどだった。

「この辺のだと思うんだけど」
 糠平から1時間半ほど走り、地図には本来は載ってない文月さんのお爺さんが書き入れた私道への入り口の近くと思われる場所が近づいてきたので、助手席の文月さんに声を掛ける。
「えっと多分もう少し先で……左側に入り口があるはずです」
 特に目印となるものも無い山道の中、ちょっと自信なさ気な様子で文月さんは答える。
 急ぐ理由があるわけでもないので、速度を落としてゆっくりと坂道を下りながら探し続けるていると、文月さんが声を上げる。
「あっ、あそこです!」
 文月さんの指差す先には、国道脇に車が数台停まれそうな未舗装で砂利が敷いてあるスペースがあった。
 そこへと車を寄せていくと、国道からは見えづらい少し奥まった場所に緑色の金網の柵の扉が見えた。
「あそこから山小屋に上るんだね?」
「はい。ここまで来れば山小屋までは車ですぐです」
 目的地を前にして、文月さんの顔に笑顔が浮かぶ。

「文月さんは車から降りないでね」
 そういい含めて車を下りるとまずは周囲の様子を伺う。
 ゾンビを警戒してのことではない、俺が恐れているのは羆だ。
 然別のキャンプ場での恐怖がちょっとしたトラウマで今も拳銃を右手に握っている。
 目を凝らし耳を済ませて周囲の気配を探る。まあそうしたところで羆が周囲に潜んでいたとしても発見できる観察力があるわけでないが、自分のわかる範囲で羆が見つからなかったことに自分を安心させると入り口の柵へと近づいた。
 入り口の柵には鎖が巻かれ南京錠が取り付けられているのが見える。
 傍まで近寄って鎖を手に取り引っ張ってみるが、錆びこそ浮いているが丈夫な鎖で南京錠を解かないと柵は開きそうも無かった。
「ごめんなさい忘れてました。そこの鍵はこれです!」
 どうしたものかと考えていると、車中で俺の様子を見て状況を察した文月さんが、窓から鍵を握った左手を出していた。
 車まで戻って鍵を受け取る。すると一目でそれと分かる南京錠の鍵だけでなく、家の鍵のようなディンプルキー。そしてシリンダー錠用の三つの鍵が一つキーフォルダーに付いてた。
「これは?」
「山小屋と物置小屋の鍵も一緒になってます」
「そうか。ありがとう……そういえばここに来たのって今回で3回目だったんだよね?」
 山小屋が出来たのが2年前なら、ここへ来たのは今が3回目のはずだ。
「この場所には山小屋が出来より前、子供の頃から毎年夏にはキャンプに連れて来て貰ってたんですよ」
 今だって子供じゃないかとは言わない。思っても言わない。
「じゃあこの辺の山は慣れたものなのかい?」
「え~と」
 俺の質問に行き成り視線を泳がせる。残念ながら余り頼りにはなりそうも無い。
「だって、あんまり遠くに行ったら危険だって言われてたから」
 俺が笑っているのに気付いて、少し拗ねたみたいだ。
「じゃあ後で、2人で探検してみよう。取りあえず目的地にゴールするのが先決だ」
 笑って誤魔化すと彼女も俺に微笑み返す。

 鍵を持って入り口への戻りがけに、ふと地面の様子に違和感を覚えた。
「……?」
「どうかしました?」
 足を止め腰を落として地面を見つめる俺に、文月さんは窓から身を乗り出し緊張した声で尋ねてくる。
 彼女の問いかけに、俺は入り口へと向かう砂利の轍を指差した。
「多分、ここ数日中に車がこの轍の上を通ったみたいなんだ」
 砂利に出来た轍自体は簡単に消えるものではないので、何時出来たものなのかは俺にはわからない。だがその轍の部分だけから生える雑草の丈が他よりも明らかに短いのが妙だった。
 この時期の雑草はまさに伸び盛り、綺麗に刈り取ったとしても短期間で再び生えてくる。
 例え車のタイヤで踏み固められた轍であっても、生命力の強い雑草は生育に差が出たとしても必ず生えてくるはず。
 だが明らかに轍部分とそれ以外での草の生え方が違っている。
 元々砂利を敷く目的の一つが雑草対策で、車や人間が砂利の上を通り踏みしめることで砂利は動き、地面から砂利の隙間を通って育った雑草は茎や葉が切断されてしまう。
 つまり考えられる理由は最近この轍の上を車が通ったため、ここだけ草の丈が短いと結論付けるしかない。
 そして草の丈の短い轍は、入り口までずっと続いている。

「それってもしかして?」
「第三者がここを通ったなら、鍵を壊して侵入しているはずだし、君のお祖父さんの友人がここに来ている可能性が高い」
「…………よかった。本当に良かった……」
 文月さんは感極まったように身を震わせると、その後はもう言葉にならず無言で喜びの涙を流した。
 ゾンビが現れたあの日。故郷と共に家族や友人隣人達の全てを失った彼女にとって、平和だった頃の思い出を共有できる知り合いが生きていたことがどれほど嬉しく力強いだろう。

 鍵を使って南京錠を開錠すると鎖を解いて入り口を開ける。
 車で入り口を通り中へと入り、再び車から降りて入り口を閉じて鍵を掛ける。
 ゾンビではなく他の生存者の侵入を防ぐためだ。相手が友好的な対応をしてくるとは限らない以上は、必要の無い限り他者との接触は避けたい。
 軽自動車でも2台がすれ違うのはギリギリ無理なほど狭い山道を車を走らせる。
 狭いだけでなく勾配もかなり急で、トルクの太いこのRV車でも1速の出番が少なからずあったほどだ。
 地図上では国道から距離的には直線で2km程度だが──もっとも、文月さんのお爺さんの手書きだから、山小屋の位置が実際の位置と一致しているとは鍵らにけど──メーター上では4kmは走っただろう頃、前方の坂道が道が途中で青空にかかり、登り坂の終わりを知らせてくれた。
「あそこまで登れば到着です」
 嬉しさにいつもよりトーンが高い文月さんの言葉に頷きつつ、ゆっくりと坂を登りきった先には、ほとんど傾斜の無いなだらか平地が広がる。
 山頂より続く刀の刃のような険しい尾根。その一部が刃こぼれを起こした様にして出来た土地で、文月さんの話では高さ200m底辺100m程の面積の長細い二等辺三角形状の土地。
 三角形の頂点から底辺に向かって緩やかな勾配が続き、高度差は4m以下ということなので、1mあたり2cm弱程度高度差の勾配なら、建物を作る野でもない限り平地と考えても差し支えは無いだろう。

「えっと文月さん?……あれは山小屋じゃないと思うんだけど」
 奥の切り立つ崖の手前に見えるのはログハウス──高さこそ無い平屋だが俺が想像していたものとは規模が違う。
 ここから奥行きは分からないが正面から見える幅は10mくらいはあるだろう。切妻造(いわゆる三角屋根。開いて伏せた本のような、1本の棟木と傾斜のある2面によって作られた屋根)の妻入り(切り妻造家の壁を正面から見たときに四角形に見える面を「平」と呼び、五角形に見える面を「妻」と呼び、妻に玄関がある家のこと)で、簡単なつくりにはなっているが、窓は冬季の寒さを考えてか比較的小さな窓が、しかも結構高い位置に設置されている。
「祖父たちは山小屋と呼んでいましたよ」
 違うんだ文月さん。俺が想像していたのは荒天に見舞われた登山者が逃げ込むようなもっと小さな小屋で、4人の遭難者が眠って凍死しないために部屋の4隅に位置取って、順番に隣の隅まで移動してそこにいる人を起こし、起きた人がまた隣の隅へと移動して相手を起こすという作戦を立てて実行するが、何故か全員死体で発見される……そんな山小屋の少し立派にした程度のモノだったんだよ。
 例えるならログハウスの手前にある、小さな小屋──多分文月さんが言っていた物置小屋だろう──が俺のイメージに近い。
 その旨を、もう少し穏便な言葉で伝えると。
「北路さん。夏にはここに祖父と祖父の友人3人と、その奥さんたちと私の9人が泊まりに来るんですよ」
「あっ、そうだったね」
 爺様たちが4人が狩りの拠点として狭いのを我慢して寝泊りするイメージを持っていたが、9人が数日間に渡り泊まれる施設と考えれば、この規模になるのは当然だ。
 少し呆れた様子の文月さんに、俺は笑って誤魔化した。

「あっ車が!」
 更に車が進むと、右手にある林に隠れいていた車が姿を現す。
 ログハウスの東側、10mほど離れた場所に3台の大型RV車が停まっていた。
 つまり、この山小屋を知る3家族全てが集まっているという事実に文月さんのテンションが上がる。
 一方俺も、一目見ただけで違いが分かる、そこらの車とは桁違いなオーラを発した3台。一般的に大型RV車に分類される文月さんのお祖父さんの車が小さく思えるほどの高級大型RV車を目にしてテンションも上がる。
 ハマー H1。米軍──陸軍のみならず、海兵隊や海軍特殊部隊でも使用される高機動多用途装輪車両。ハンヴィーの民生仕様と銘打っているが、真に軍用車両の民生バージョンと呼べるのはこの初期型のH1のみ。
 別にマニアというほど詳しいわけではないが、H1の後継車であるH2やH3は中身のみならず外見のデザインやサイズも全く別で、軍用車両の原型を全く受け継いでいないのでひと目でH1との区別がつく。いや区別がつくのではなくH2やH3を見てもそれがハマーだとは、俺は気付くことは出来ないと思う。

 むしろ区別がつきづらいのは、その隣に停められた国産車だ。H1と同じく軍用車両──自衛隊の高起動車──の民生バージョンであるトヨタ製メガクルーザー。そもそも原型である自衛隊の高起動車が米軍のハンヴィーにかなり似ているのが原因で、その民生バージョンである両者が似ているのは当然といえる。
 H1もメガクルーザーも道ですれ違えば一目でどちらかに絞ることが出来る特徴的な外見だが、ヘッドライトが丸目ならH1で角目ならメガクルーザーと判断できる。

 そして一番驚きなのは、フロントにベンツのエンブレムが刻まれた車両──ウニモグだ。ハマーやメガクルーザーと違い、これという決まった形があるわけではない。
 用途によって複数のモデルが存在し把握していないが、その物々しい足回りと車高が普通のベンツ製の小型トラックのものとは思えなかったのでウニモグだと決めつけた。
 多分、高起動型のトラックモデル改造キャンピングカー。(日本でRVと呼ばれる車両の正式名称はSUVで、本来RVはキャンピングカーを意味する)
 キャンピングカーの弱点である走光性能の低さを補うためのウニモグなのだろうとは分かるが、高くなった車高が足を引っ張っている気がするが……それにしてもどれだけの金をつぎ込んだ?羨ましくもあり一方呆れる気持ちもある。
 今乗ってるのも良い車ではあるが、なんと言うか他の3台は年寄りの道楽には過ぎるだろう……だが眼福だ。
 しかし、そんな上がりきった俺たちのテンションは、次の瞬間どん底まで叩き落される。

「ゾンビ!」
 メガクルーザーとキャンピングカーの間から、ゆっくりとゾンビが姿を現した。
「そんな、石田のお爺さん!」
 その姿に文月さんは目を見開き顔を強張らせて悲痛な声を上げる。白髪頭の男性のゾンビは文月さんの知り合いの一人のようであり、彼女の期待は最悪の形で裏切られてしまった。

 俺はそんな文月さんの心を心配する一方。頭の中の醒めた部分で冷徹に今何をすべきかを考えている。
「文月さん。これからクラクションを鳴らすから双眼鏡でログハウスの窓を良く見ていて」
「クラクション?でも音を立てたら」
「人里離れているからおびき寄せられるゾンビはここにしかいない。他の生存者に聞こえたとしても、周囲の山の斜面に反響して、簡単にはこの場所を特定できないはず。それにクラクションだから山の中で鳴っていると考えるより、自分の前か後ろを走る車が鳴らしたと考えるはず。多少のリスクよりも今は状況を確認しないと」
 両の目に涙を浮かべる文月さんへ感情を込めずに押し殺した低い声で指示を出すと、クラクションを鳴らしてゾンビの注意をこちらに集める。
 まだ他にゾンビが居るならその数を確認しなければならない。またログハウスの中に生存者が居るならこの音に気付いて窓から外を確認するはずだ。

 クラクションを鳴らしつづけながら周囲に視線を走らせていると、ログハウスから離れた位置にある物置小屋の影からもう一体、女性のゾンビが姿を現す。
「窓の様子は?」
 一縷の期待を込めて文月さんに声を掛ける。
「駄目です小屋の中も……加藤のお婆さんが……ゾンビに」
 駄目か、確認されたゾンビは3体だが、ログハウスの内と外の両方で確認されということは、残りの福島夫妻と加藤さんの旦那さん。この3人が生存している可能性は絶望的だ。
 それに、もし生存しているなら、俺が鳴らしたクラクションの音に何らかの反応をこちらに伝えようとするはずだ。

 俺は文月さんに提案を行う。
「文月さん……選択肢が二つある。文月さんの知り合い達のゾンビを排除して予定通りにここを拠点として生き抜くか、ここを立ち去り別の場所で生存の道を探すかだ。俺としては後者をお勧めする」
 楽なのはむろん前者だ。数体のゾンビを排除するだけで生活の拠点──しかも現状で望みうる最高の場所だろう──が手に入る。
 だが文月さんの心が折れてしまう可能性を考えるなら後者を選択したい。
「こんな状況だからこそ無理に背負い込む必要は無いよ。避けて通れば済む事なら避けて楽にいこ──」
「嫌です!私なら嫌です!死んだ後もあんな風にして居続けるのは絶対に嫌です!」
 激しく感情を爆発させて叫ぶ、そんな初めて見る彼女の姿に圧倒された。
「お願いです。お願いします。皆を、皆を眠らせてあげてください」
 俺は黙ってただ頷く。文月さんが決めたのなら俺はそれを実行するだけだ。


「あ、あの……文月さん?」
「何でしょうか?」
「やっぱり止めない?」
 俺はあっさりと先程の決意を翻した。何故なら彼女が俺だけに任せるのは嫌だと言い出したのだ。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。でも今回だけは私にも手伝わせて下さい」
 そう言い切る文月さんに俺は困まり果てる。真剣な眼差しは彼女がこの件に関して一歩たりとも譲る気が無いことを雄弁に語っている。
「私が危険な目に遭わないように、北路さんがいつも気遣ってくれていることは分かります。でもこれだけは私が何もしない訳にはいかないんです」
 彼女の言いたい事は分かる。大切なことだからこそ自分の手を汚すことになっても関わらずにはいられない。
 だが俺の心情としては、彼女を危険に晒すならゾンビの口の中に自分の手を突っ込む方がマシと思える。
 暫しのにらみ合いの結果俺が折れた。
「……出来るだけ傷付けないように彼らを『眠らせる』つもりだけど、いざとなったら手段を選ばないよ」
「はい」
「俺の指示には絶対従ってよ。どんなことがあっても絶対にね」
「はい」
「……はぁ」
 14歳の女の子を説得できない自分。14歳の女の子にもっと楽な生き方を選ばせてあげられない自分。己の不甲斐なさにため息がもれる。


「まずは蒸れるだろうけど我慢してこの買い物袋を首に巻いて、その上にタオルを縦半分に折って二重に巻きつけて」
 スーパーのレジでもらえるポリエチレン製の買い物袋と富良野のホームセンターで手に入れたタオルを2枚渡しながら指示を出す。(最近はもらえませんが、この作品中では2009年です)
「でも、もし噛まれたらタオルくらいじゃ……」
「確かに文月さんの長くて細い首は噛みつき易すそうだけど、それでも人間の口で噛み付くには太いんだよ」
 そう言ってから俺は口を全開に開いて上顎の前歯の先に右手の人差し指の先を当てて、下顎の前歯の先に指の内側を押し付けて歯形をつける。
 そして右の人差し指を彼女の目の前に突き出し、上の歯と下の歯の間がどれくらい開いていたかを示す。
「大体5-6cmくらいだろ?よほどの大口じゃない限りこれくらいしか人間の顎は開かない。だから太いものに噛み付くには柔らかな肉に歯を食い込ませる必要があるんだよ。だけど間に滑りやすいポリエチレン製の袋と厚いタオル生地を挟むことで皮膚の上を滑って噛みつけなくなるんだ」
 俺の話を聞きながら文月さんは自分でも試してみるが、思ったよりも大きく開かない口に少し驚いていた。
 皮下に柔らかな脂肪をたっぷり蓄えてるならタオルやポリエチレンの袋ごと皮膚に刃を食い込ませることが出来るかもしれないが、文月さんは少し痩せ気味なくらいなので気休め以上の効果は期待できるはずだ。
「試しに噛んでみる?」
 ポリエチレン製の買い物袋の両サイドをナイフで切り裂き袋を上下に開くと、それを左の前腕の肘関節の直ぐ下の一番太い部分に巻きつけて、その上を覆うように縦半分に折ったタオルを巻きつける。
 俺の前腕の太い部分なら文月さんの首の太さと大して変わりないはずだ。

「え、はい……じゃあ失礼して」
「思いっきりガブっといって」
 文月さんに思いっきり噛まれた程度で歯が食い込むなら、タオルを巻くのが云々以前に作戦は中止だ。絶対に文月さんには車の中に待機していてもらう。
 差し出した左腕に勢いよく噛み付く文月さん。
 強く押し付けられた歯の感触と同時に挟み込もうとする顎の力が掛かるが、腕に力を入れて筋肉を緊張させると、彼女の犬歯がタオル越しに食い込むことなく皮膚の上のポリ袋によって滑っていく。
 続けて二度三度と噛み付くが結果は変わらず、俺の腕から口を離すと納得の表情を浮かべた。
「どうだい?」
「歯が全く食い込まずに滑る感じでした。これなら噛まれても大丈夫だと思います」
「でも、あくまでもこれは気休め程度に考えて、それに噛まれるのが首と決まっ照るわけじゃないんだから、決して無理したりしては駄目だからね」
 噛み付かれても大丈夫なんて変に自信をもたれても困るので釘を刺しておく。

 まずは俺が先に車を降りて、ルーフキャリアに固定しているメタルラックのポールを自分と文月さんの分を2本引き抜く。
「降りて」
 文月さんは俺の指示に窓ガラス越しに頷くと車を降りポールを受け取る。
「まずは、あの小屋の傍にいる女性からいくよ」
「石田さんの奥さんで、歌子さんです」
「わかった。文月さんには『歌子さん』の注意を引き付けて貰うよ。まずは正面からポールを引きずって音を立てながら接近して、余り近寄りすぎないで、5mくらい手前から右側に回り込んで」
 文月さんの手前、彼らをゾンビと呼ぶのはやめることにした。
「わかりました」
「文月さんに注意が向いていれば良いのだから、ぎりぎりまで引き付ける必要は無いし常に最低でも5mくらいは距離を開けるように動いて。後は俺が『歌子さん』の背後に回り込んだら、文月さんはポールを彼女に差し出して掴ませることが出来たら手を離す。差し出す時は端を両手で持って、その時は強く握っていると急に引っ張られると危険だから、強く握りこまないで、ポールと指や掌との間に遊びを作る感じにしておいて。そして彼女がポールを握って注意がそちらに向いたら俺が首を折る」
 首の骨を折る。無傷で倒すのが不可能である以上は仕方が無い。だが頭蓋骨を叩き割るよりは綺麗な姿で眠りに就けるはずだ。
「……お願いします」
 首の骨を折るという手段に一瞬、言葉を詰まらせるが、理性を感情に優先させたのだろう頷きながら答えた。

 俺の前を文月さんがポールを引きずって音を立てながら歩き、『歌子さん』へと近づく。彼女の首の右側が大きく皮膚を食い破られている。それが彼女をゾンビへと変える原因となったのだろう。
 俺は自分のでかい図体を文月さんの影に入るように出来るだけ小さくして3mほど距離を開けて後に続く。
「あぅぅぅあああ」
 不気味なうめき声を上げながら、こちらに向かってくる姿には人間としての尊厳など感じられない。死んだ後にこの姿を晒し続けるのは本人にとっても、以前の彼女を知る文月さんにとっても不幸以外何ものでもない。
「右に回り込みます」
 彼女の声に、俺はポールから手を離すと膝と手を地面に突いて身体を伏せて注意を引かないようにする。
 一瞬『歌子さん』の視線が俺の方に向いたが、直ぐに文月さんへと注意を向けると回り込んだ彼女を追って身体の向きを変える。
 それを確認した俺は立ち上がり、背後から忍び足で接近する。
「ポールを渡します」
 その声に俺が頷くのを確認すると、文月さんは足を止めて、両手に持ったポールを腕ごと真っ直ぐに伸ばし、近づいてくる『歌子さん』へと差し出す。
「掴みました」
 富良野に入って最初に出会ったゾンビと同様に『歌子さん』は本能的にポールを掴むと興味を示して、両手でしっかりと握った。
「うぁぁぁぁ」
 両手に持ったポールを目線の高さまで持ち上げ、首を傾げながらしげしげと眺めるような人間臭い仕草の後姿に、思わず噛み締めた奥歯がギリリと音を立てる。
 そして一気に間合いを詰めて、彼女の肩越しに両腕を伸ばすと右手で額から左こめかみの辺りを掴み、左手で顎を下から掴み、一瞬たりとも時間をおかず同時に両腕に力を込めて彼女の首をへし折った。
 彼女の首で鳴った鈍い音と共に、文月さんの口から小さく何かを飲み込むような声が漏れる。

 糸の切れたマリオネットの様に地面に崩れ落ちた『歌子さん』に俺は自然に両手を合わせていた。
 信心深いわけではないが、文月さんに喜びの涙と悲しみの涙を流させる人だと思うと、そうせずにはいられなかった。

 『歌子さん』の手からメタルラックのポールを外すと、『歌子さん』の遺体にすがりつく文月さん声をかける。
 背後からはズリズリと引き摺る様に歩く音が迫ってきていた。
 涙を拭いながら立ち上がった彼女にポールを差し出しながら「早く終わらせてあげよう」と言うと、彼女は小さくうなづきながら受け取った。
 地面に転がる自分の分のポールを拾い上げて振り返る。そこには最初に発見した男性の姿があった。
「彼の名前は?」
「歌子さんの旦那さんで……石田吉三さんです」
「なら、早く歌子さんと一緒に眠らせてあげよう」
「はい」
 頷く彼女の背中を押して『吉三さん』に向かって歩き出す。


 俺が地面にしゃがみこむと、文月さんはポールを地面に引き擦り音を立てながら開けた左側へと歩いていく。
 顔の目から下を左手で覆いながら、薄目をあけて『吉三さん』の様子を伺う。
 上着の左の二の腕と肩の二箇所がどす黒く染まっている。
 ここにたどり着く前に『歌子さん』がゾンビに首筋を噛まれて、その後、車内でゾンビ化し文月さんのお爺さんと同じように『吉三さん』も襲われたのだろうか?
 文月さんへと向かって歩いていく『吉三さん』の背後5mほどの位置に回り込んだところで文月さんの声が上がる。
「ポールを渡します」
 少しタイミングが早いと文月さんを見やると、彼女の両の手がポールをしっかりと握り締めているのを見つけ慌てて声を上げてしまった。
「手を緩めて!」
 焦りのため、その注意する声は鋭すぎ、大きすぎ、そして余りにもタイミングが悪すぎた。
 俺の声に文月さんは反応するどころか驚き反射的に身をすくめてしまう。
 そして次の瞬間、『吉三さん』はポールを掴むと勢いよく引き寄せる。

 視界の中で、文月さんはバランスを崩し前へと倒れていく様子がやけにゆっくりと、そしてはっきりと見える。
 彼女はとっさに間に合った左手を地面に突くと、右の肩から地面にぶつかり、次いで額の右を地面に打ち付け反動で小さく頭が跳ね上がる。
 俺はその時、やっと1歩目を踏み出した。

 文月さんは、そのまま身体を横にして地面に倒れこむ。
 俺は2歩目で地面を蹴る。

 文月さんを引き倒した反動で同じくバランスを失った『吉三さん』が横たわる彼女の上に倒れこんで行く。
 俺はその背中へ手を伸ばし、言葉にならない何かを大声で叫びながら3歩目を踏み切る。

 俺の伸ばした手は宙をきり、倒れこんだ『吉三さん』の腕が文月さんの肩に掛かり、同時に彼女の悲鳴が上がる。
 ゾンビ化してしまった人間の腕力は、例え女子供であろうとも俺の腕力を凌ぐ。一度掴まれてしまった以上、もう文月さんから引き剥がすことは出来ない──恐慌が俺の心を嵐のようにかき回していく。
 悲鳴を上げた後に恐怖に意識を失ったのか、ぐったりと頭を傾けたために晒された彼女の首筋に『吉三さん』の頭が近づいていく。
 彼女の首にはタオルが巻かれている。1度や2度の噛み付なら十中八九は大丈夫なはず。
 そう思いながら『吉三さん』の背中に飛びつくと、彼の背中越しに文月さんに噛み付こうとするその口に自分の左腕を押し付けた。
 十中八九を十中十にするために。

 十中八九──つまり8割、9割。そんな確率に賭けて勝負に挑めるのは、他と替えの利くものを賭けている時だけだ。かけがえの無いもの、自分の命より大事なものをそんな確率の天秤にかけることは出来る数字ではない。
 朝家を出て、交通事故に遭わないで無事に家に帰ってこられる。それと同等以上の確率でもない限り応じられる賭けじゃない。

 文月さんの噛み付きとは比較にならない強い咬合力に負けじと、全力で腕の筋肉に力を入れて抵抗する。強い痛みと共に『吉三さん』の歯がタオル越しにポリ袋の上を滑っていく。
 右手で額から左側頭部を抱え込み、両腕に力を込めて右に捻っていく。その力に抵抗するように力が大きくなった瞬間、逆に捻って首をへし折った。
 人間の頚骨は非常に弱い。強い首の筋肉に支えられて初めて人間は日常生活を送れる。それはゾンビになっても変わらない。
 首に対して一定方向に外から力を加えられると、反射的に加えられた力に抵抗するため首の筋肉は反対方向に力を入れる。その時に首に加えられる力の方向が突然逆になると、頚骨は自らの首の筋肉の力も加わることで損傷する。
 身体から力を失った『吉三さん』をそのまま後ろに引き倒すと、膝を突いて地面に横たわる文月さんの様子を確認する。

「文月さん!」
 彼女に呼びかけをしながら、首筋などの肌の露出した部分を確認していくが、幸いにして噛まれたりした様子は何処にも見当たらなかった。
 次いで、転倒したときに打った額の様子を確認すると、額の右側の皮膚が赤く染まって位で、出血している様子は無い。
 頭を打ちつける前に左腕を突いて勢いを殺しているので、脳内出血などの可能性はゼロではないが万が一のレベルなはず。確かに軽い衝撃でも脳内出血を起こす場合もあるが、まだ10代の健康な身体ならその心配は少ないはず。
 何よりあの程度で衝撃で脳内出血を起こすなら俺はとっくに死んでるはず。そんなことを考えて自分を安心させる。それ以外に俺には何も出来ない。
 文月さんの無事を確認しほっとため息を漏らした後、自分の状態を確認するために長袖の右腕を捲り上げ、巻きつけてあるタオルとポリエステル袋を引き剥がした。
 その下から現れた肌の上には、『吉三さん』の犬歯が滑った跡が赤い線となって刻まれていたが出血している様子は無く、またポリエステル袋も破れた跡は無かった。

「……き、北路さん」
 少し呂律が回らない様子で文月さんが声を出した。
「痛みはどう?後は眩暈とか吐き気とかは感じない?」
 俺の言葉に彼女は自分の額に手を伸ばす。
「いっ……はい。だ、大丈夫です」
 痛みに顔を顰めながら言われても全く説得力が無い。
「強がりとか無理するのは無しだよ。そんな事はされた方が迷惑だから」
「……おでこが痛いです」
「おでこだけ?頭が痛いとかは無い?」
「……はい。特に頭痛はしません。めまいはよく分かりませんが、ちょっと頭がぼーっとしてまいます」
「意識はずっとあった?」
「は、はい。でも、一瞬頭が真っ白になって、何が起きてるのか良く分からなく……石田のお爺さんが覆い被さってきて……口を大きく広げて私の…………」
 そう言ったまま固まってしまう。
「文月さん……大丈夫?」
「北路さん。腕!」
 行き成り文月さんは文字通り飛び起きるという感じに状態を起こして俺の左腕を掴んで見つめ、前腕の肘関節手前に走る赤い内出血の跡を発見する。
「そ、そんな……」
 大きく見開いた目から涙が零れ落ちていく。
「何か勘違いしてるみたいだけど、別に出血してないし、第一腕に巻いていたポリ袋も破れてないから感染はしていないよ」
「本当ですか?」
「こんな嘘をついても仕方が無いよ」
 そう言って笑って見せると、彼女は掴んでいてた俺の左腕から手を離すと、俺の胸の中に飛び込んできた。
「心配した!本当に、本当に怖かった!貴方が死んだらって考えたら!」
 そう叫びながら俺の胸を叩く。
「俺だって心配したよ。焦ってパニクって訳のわからないこと叫んだよ」
 背中に腕を回して抱き寄せ耳元でそう呟くと、そのまま彼女を横抱きに抱えあげた。
「えっ?」
「取りあえずはしばらくは安静にしてもらうよ。頭を打ったんだから」
 腕の中でおとなしくしている文月さんを抱き上げたまま、車へと戻ると運転席に彼女を座らせる。
「あ、あの……」
「ちょっと待ってて、後部座席にスペースを作るから」
 そういうと後部座席に置いてある俺や彼女のデイパックやカバン。そして中で子犬たちが寝ている籠などを助手席に移して彼女の寝場所を確保すると、再び抱き上げて後部座席へと寝かせる。

「今日はここまでにして、中の人たちの事は明日にするよ」
「でも……」
「そんなに気にするほど強く打ったわけじゃないから大丈夫だとは思うけど、今は万一何かあったとしても医者に見てもらうことも出来ないから、可能な限り慎重にいこう」
 申し訳なさそうな目でこちらをじっと見つめてくる文月さんを何とか説得する。
「じゃあ、俺はこれからやることがあるから大人しくして休んでるんだよ」
「何か……もしかして?」
 俺が1人で山小屋の中の人たち……そう思ったのだろう表情が曇る。
「今日は穴を掘るだけだよ。石田さん夫妻。それに皆も、出来ればきちんと火葬して上げたいけど、今は埋めるしか出来ないから」
 後部座席のドアを閉じようとする俺に文月さんが思いつめたような声で話しかける。
「ごめんなさい。私……北路さんに迷惑ばかりかけてます。今回の事だって私の我儘で北路さんを死なせてしまうところでした……どうして私って……お祖母ちゃんを死なせたのも……お祖父ちゃんが死んだのも、全部私のせいなんです…………」
 シートの背もたれに顔を埋めて泣きはじめた。
 この状態。根本にある原因を一言で表すなら自意識過剰。風が吹くのも雨が降るのもポストが赤いのも全部自分のせいだと思い込むのも自意識過剰。俗に言う中二病の一種だ。
 だがそれを指摘しても始まらない。『全部お前のせい?お前はそんな責任を負う立場にあるほど偉いのか?選挙で選ばれた政治家か?国王様か?神様か?誰かに保護される立場の中学生の分際で、随分立派なことを言うもんだ』と正論を吐いても仕方ない。
 考えるんだ圭太。お前だって過剰な自意識にまみれた恥ずかしい思春期を送った立派な中二病患者だったはずだ。
 思い出せ。自分がどんな病を患っていたか、そこに解決の糸口があるはずだ……………………軽く死にたくなった。
 やっぱり無いね。この手の病気に解決策なんて。時間だけがゆっくり傷口を癒してくれるだけだ。俺に出来るのはとりあえずこの場を収めて文月さんを落ち着かせることだ。

「今回の事は俺の不注意とミスだよ。吉三さんに向かう前にもう一度手順を確認するべみだったし、文月さんがポールを握りこんでしまってたことに気付くのが遅すぎた。それにお祖父さんやお祖母さんのことは文月さんには何の責任も──」
「違うんです!私が、私が悲鳴さえ上げてなければ、家にゾンビが集まってくることも無かったんです」
「悲鳴って、最初にゾンビを見た時の話かい?」
 横転したトラックの中から、引きちぎった運転手の腕を持ってゾンビが現れたのを見たら、そりゃあ悲鳴くらい上げるだろ。
「……気絶なんてしないで、直ぐにお祖父ちゃんを呼んでいれば、お祖母ちゃんが噛まれる事も……」
 文月さんのマイナス思考がフル回転を始める。
 文月さんは気丈に振舞い続けているとはいえ、こんな状況だ、やはり精神的に不安定になるのは仕方の無い話だ。
 もっとも俺の様に心のどこかが狂ってる人間と違い、彼女が示す精神の不安定さこそが正常な人間の証しなのだろう。
 そうとはいえ、今は彼女を落ち着かせる必要がある。身体を横たえていても興奮状態にさせていては安静の意味が無い。
「文月さん。文月さん……」
 低い声で静かに彼女の名前を呼びかけ続ける。
 こんな場合は彼女の考えを肯定しても否定しても意味が無い。ただ思考の方向を逸らすことが必要だ。
 呼びかける回数が2桁に達したところで、彼女の呼吸が落ち着き始める。
「…………」
 無言でこちらをじっと見詰める文月さんへと伸ばす。怯えた様子でぎゅっと瞼を閉じる彼女の頭の上に手を置くとゆっくりと撫で続けた。

「いいかい?文月さんに我儘を言ってくれと言ったのは俺だよ」
「でも──」
「でもは無し。俺が我儘を言ってくれなんて言う相手は文月さんだけ。特別なんだ」
 まあ、ただし今回のように文月さん自身を危険に晒すような事は、心臓に悪いので今後は勘弁してもらいたい。
 それを言えば、彼女を落ち込ませる事になるので今は言えない。いつか言おう……多分、きっと。
「それに悲鳴を上げた事だって、行き成り血塗れの引きちぎられた人間の腕を見せられたら仕方ないだろ」
 その結果失われたのは、幼い頃から父母の代わりとなって自分を育ててくれた祖父母。彼女にとっては仕方ないで済む問題ではないだろう。
 実際彼女も俺の言葉に納得した様子は無い。だが、この問題は姑息に今さえ乗り切れば良い。しばらく後に彼女が落ち着いて考えて、やっぱり納得いかずに思い悩むとしても今よりは冷静に考えられるはずだ。
 その時にゆっくりと彼女が自分で答えを出せば良い。今は安静にさせて休ませるのが先決だ。
「大体、そんな状況で冷静に状況を判断して人を呼びに行ける女子中学生は何か嫌だ」
「いや……ですか?」
「初めてゾンビを見て、悲鳴上げて失神しちゃうくらいの文月さんが良いよ」
「そんなの変です……」
 そう言いながら困ったような笑顔を浮かべる。彼女にも俺が話を逸らしたことは分かっているみたいだ。それでも先ほどまでの焦燥感を彼女から感じられなくなっていた。
「変じゃなくて普通だよ。普通で良いんだよ」
 世界がこんな異常な状況下でも、俺は彼女に普通で居て欲しい。出来るだけ普通でいさせてあげたい。


 『少し眠ります』と言って目を閉じた文月さんを車に残すと、子犬たちが入った籠を持って車を後にする。
 穴掘りを始める前に、まずは、子犬たちの入った籠を木陰において、入り口を開けておく。そして水飲み皿に水を張っておく。
 子犬たち籠の中で暢気に眠っているので、そのまま起こさないで立ち去る。

 ログハウスの傍に来ると、そっと窓から中の様子を覗きこむ。
 内部は仕切る壁も柱も無い作りで、広いワンルーム状態だ。そして動く人影が四つ……やはり生き残りはいない墓穴は6人分必要だな。
 中のゾンビに見つからないように慎重に周囲を1周すると、やはり窓は数は多いけど小さく高い位置に取り付けられている。
 南側の『妻』側の壁の上部──梁より上の『妻壁』と呼ばれる三角形の場所に広い明り取りの窓があるので内部は広く照らされているが、こんな場所に建てるなら目線の高さに広い窓から自然の景色を楽しみたいだろうに不思議な造りだ。
 他には北側の壁に、積み上げられた大量の薪にブルーシートが被せてあるのを見つけた。

 何処に墓を作るか、何か考えや当てがあった訳じゃないが、やはり見晴らしと日当たりの良い場所が良いだろうと平地の南端へと向かう。
 途中道から外れて、草むらの中を雑草を踏み分けながら進んでたどり着いた南端部分からは360度のパノラマ。とはいえないが視界よりも広く全てが見渡すことが出来る。
 そしてそこから見渡す景色は見事としか言い様が無い。墓を作るならここにすべきだと一目見て決めた。

 試しに穴を掘ってみようと、雑草を引っこ抜き現れた土の地面にスコップを使おうとして直ぐに気付いたことがある。
「使いづらい……」
 自衛隊の折り畳み式スコップ。小林君の持っていた装備の一つで銃器のついでに頂いておいた物だが、実に使いづらい。
 柄から何まで全部金属製な割には非常に軽く1kgくらいしかなく、更に折り畳んだ状態の長さは、俺の中指の先から手首の一番深い溝までが20cm強。そこから先に伸びた分は、人差し指の第一間接部分の横幅が2cmなので、その1.5倍で+3cm。合計23cm程度となる。
 軽量コンパクトの優れものだが、その分使い勝手を無視したとしか思えない。なぜなら伸ばしても折り畳み時の2倍半で60cmくらいしかないのだ。
 つまり、成人男性では穴を掘るのに立った姿勢で使うことが出来ない。いや無理すれば使えないことも無いだろうが短時間で腰を痛める自信がある。
 これで穴を掘るには地面に両膝を突いた状態で上半身の力のみで掘り進まないとならない……
「やってられるかっ!この不良品!」
 そう叫ぶとスコップを投げ出した。場所が雑草が生え茂った場所だけに、上半身の力だけでは張り巡らされた根を切って土を掘り返すのは体力と忍耐共に俺の限界を超える。(もちろん不良品ではなく、普通のスコップに比べると短く使いづらいが、軍用として考えると、携帯性の高さだけでなく立ち上がらず身を低くした状態で使えることに意味がある)

 しかし文句を言ったところで穴が勝手に出来るわけでもない。
 まずは普通のスコップを手に入れなければ話は始まらない。ここまで乗ってきた車にはスコップが載ってないのは分かっていたので、ログハウスの傍に停められた3台へと向かうことにした。

「やっぱりな」
 他人が簡単に入ってこられるような場所ではないため、予想通りにドアに鍵は掛かっていない。それどころかキーシリンダーに差したままになっていた。
 しかし、その後全部の車の荷物を探してみたが、スコップは自衛隊の折り畳み式スコップどころか、スタック時の脱出作業用の物しか見つからなかった。
 生前に直接会ったことも無い相手だと言うのに、文月さんのお祖父さんと、その仲間達なら様々な状況を考えてスコップの1本くらい用意してる筈だと、勝手に思い込んでいたのだが当てが外れてしまった。
「まいったね」
 土に埋めるにしても、ここは野生動物は多い場所だけに最低でも1mは、いや出来れば俺の身長程度の深さが欲しい。さもなければ掘り返されて食べ散らかされるだろう。
 掘り返された遺体がバラバラに食い千切られて周囲に散乱している惨状を想像するだけでこみ上げてくるものがあるのに、ましてやそれを文月さんが目にしたら……考えたくも無い。

 振り出しに戻った俺は発想を転換することにした。
 掘るための道具がないなら、埋めるという目的に沿った場所を探すべきだと。例えば最初から窪んだ場所を見つけて其処を埋め立てる……そんな都合の良い場所は無いだろうが、見つかる見つからないは別として周囲の状況を確認しておくのに時間を割くのは必要なことだ。
 この二等辺三角形の形をした平地、更にその周辺の状況を確認する。ちょっとした探検だ。
 折り畳みスコップとメタルラックのポール。拳銃とその予備弾倉を身に着けると探索を開始した。

 駐車スペース周辺は草むらになっているが、その東側は林になっていて、針葉樹のエゾマツなどの針葉樹と広葉樹で樹皮が赤茶色がかった白樺に似た木(ダケカンバ:樺の木の仲間で白樺に似ている)が1:1くらいの割合だ。その先が急斜面になっていることを考えれば、斜面付近の木々に手を付けると崩落の危険がある。

 駐車スペースから北側に向かえば30mほど先で崖と言うほどではないが、高さ20m以上はある岩場の急斜面になっていてフリークライムの経験者ならともかく、素人にはとても上れそうも無い。
 そのまま急斜面沿いに西へと移動すると、斜面の5mくらいの高さから水が湧き出して、まるで小さな滝のようになっている。
 水量は中々のもので、流れ落ちた水が小さな滝つぼみたいな池になっており、そこから50cmくらいの幅の川になって南へと向かって流れている。
 そして、水の湧出ポイントの下にプラスチック製の水道管が設置されており流れ落ちる水を受け止めている。その水道管は、数本立っている松の木で出来た柱に渡されてログハウスの方へと延びていた。これが水道の代わりなんだろう。

 更に西へと進むと、小川の向こう10mほどで東側と同じく林となっていた。
 小川に沿って南へと進むと40mほどで林の中へと入るが、その直前でログハウスの方角から流れてきている別の細い小川が合流している。いや小川と呼ぶのも躊躇われるくらいの幅20cm位の排水路だ。
 川と共に林の中に踏み入ると10mくらい先で平地部の縁に達して、その先の下りの斜面を流れ落ちた小川は、下の沢を流れる川へと合流していた。
 斜面の縁から沢の様子を確認すると、50mほど南側の先に平地部分から蛇行しながら沢へと下りる小道らしきものが、木々の間に覗いて見えた。
 一旦、小川にそって引き返し、合流地点から今度はログハウスの方へと向かう排水路に沿って進んだ。

 湧き水のポイントから延びる水道管は、ログハウス脇にある直径1m深さ1mほどの金属製の巨大な釜の様な物の周囲をレンガで囲った水場まで延びて、そこへ水を注いでいた。
 そして水場から溢れた水が排水路の源流となっていた。
 水場の上には屋根が掛かっておりゴミなどが入らないようになっているみたいだが、その屋根を支える四本の柱は太く立派な丸太で、柱に渡されている梁も不自然なほど太い。
 ログハウスを作った時に余った材料で作ったのだろうか?

 水場の傍には小屋があり、屋根からは煙突が突き出ている。一瞬、炭焼き小屋だろうかと思ったが、ここで自給自足するつもりだった訳じゃあるまいし炭は必要なら買ってくるはず。
 そう思って中を覗くと中は風呂場になっていた。湯船は文月さんの言ってた通りの風情のある五右衛門風呂……
「えっ?」
 目に入ったものが理解できなかった。そこにあるのは俺が予想していた丸い鉄製の風呂釜ではなく、表面の光沢具合から見てホウロウ製の四角い普通の浴槽だった。
「何故?」
 色こそ渋い濃紺だが、実家の風呂の浴槽と大して違いの無い姿に混乱する。
 浴槽の外側は耐火煉瓦に覆われて窯となっており、下から火を入れて熱するのだろうが、直火にかけて大丈夫なのかという疑問と、何よりも『これは違う』という思いが強かった。(作中のホウロウ製の五右衛門風呂は実際に存在します)
 湧き水ポイントからの水道管はこの湯船にも水を流せるように分岐していてた。浴槽に水を溜めるのに手間が掛からなくて何よりだ。

 風呂小屋を出ると、駐車スペースの南にある物置小屋に向かう。
 ログハウスや風呂小屋が丸太を組んで作ってあるのに対して、物置小屋は木製ではあるがホームセンターなどで手に入る既製品の材木。多分、材料一式セットで販売しているDIY用の小屋セットを組み立てたと思われる。
 ログハウスを作る前に腕試しついでに、必要な道具の保管場所として作ったのだろう。
 入り口のドア横の窓から中を覗くと備え付けられた棚の端に三角スコップが立てかけられていた。
 なるほど文月さんのお祖父さん達はスコップを持ってこなかったのではなく、最初から用意してあったのだ。

 入り口のドアに掛かっていた鍵は、南京錠の鍵と一緒になっているシリンダー錠用の鍵で開いた。
 ムアッとくる暑い空気が篭っている小屋の中、2坪くらいの広さの空間。奥の壁一杯に天井まである作り付けの大きな棚設置され、様々な道具類がまとめられていた。
 一般的な工具類や鉋、鋸、鑿などの大工道具から、ツルハシや鍬に工事現場で使うような大型のハンマー。埃を被った空のポリタンクが4個。バールと呼ぶには大きすぎてバールの様なものとしか呼べない長さが俺の身長ほどもある金属の棒。後は資材を運ぶための、猫車、またの名を猫こと手押し一輪車などがある。
 また、電動工具やエンジンを動かすタイプの工具は置いてなかったが、棚の一番下の段に隅に、二重に袋に入れられていた発電機を見つける。更に棚を探してみると中身の入ったガソリンの携行缶。更に混合用のツーサイクルエンジン用のエンジンオイルも見つかった。
 これで発電が可能だが、現状で電気を使う予定はない。あったとしても太陽光システムが欲しいな。基本的にパネルとコンバータさえあれば使えるシステムなので、日中は放置車両からバッテリーを回収して回り、それに充電して、夜はバッテリーの電気を使えば良い。たとえ一部とは言え電化製品を使えれば楽になるはずだ。
 他にも紙袋に入ったセメントや砂。それに湧き水を水場に導いていた水道管がまだ結構な量が壁に立てかけられていた。
 それら以外の荷物の残りの半分は、丈夫なビニールシートのロールなど何に使うのか良く分からないものが占めていた。
 また麻袋に入ったアルミフレームの背負子も見つけたが、入ってた麻袋や背負子のベルトなどに赤黒い染みがあり、使い道は想像できるが使い道が分からないものに分類する。

 目的のスコップと工具箱の中にあったメジャーを手にすると小屋を出る。
 小屋の裏側に、ブルーシートを被せた何かがあったのでめくって見ると、大量のレンガが積み上げられていた。
 風呂の浴槽のしたの窯に使われているものと同じ様なので、多分耐熱煉瓦なのだろう。
 文月さんのお祖父さん達は、まだ何かを作る予定だったのだろう。レンガ造りの石釜でも作ってピザやパンでも焼く気だったのだろうか?今となっては知る由も無い。
 いつかこれを使って俺も何かを作る……となると大変だなぁと俺はその場を立ち去った。


 物置小屋を後にして、先ほど見つけた沢へと下る小道を探しに国道へと繋がる道沿いを南へと歩くと、すぐに南西へと向かう小道が現れた。
 高さ50-60cmくらいの草むらの中を10mも歩くと、黄色い五つの花弁を持つ小さな花が群生地が広がっていた。
 地面は、それまでの土。多分腐葉土から、砂と小石になっている。試しにスコップで掘りかえしてみると土よりも重たいが、スコップの刺さりは良く簡単に掘れる。
 ここを墓とするべきかとも考えたが、土に比べると掘り易い分隙間も多く、埋めた遺体の腐敗が進めば臭いを地表まで漏らしてしまうだろう。
 それはちょっと勘弁してもらいた。6人分の遺体から上がる腐敗臭なんてごめんだ。それにもし人間の鼻には分からなくても動物の鼻なら必ず、しかも遠くからか嗅ぎ当てるだろう。そうなれば、多少深く掘ったところで動物が──羆が掘り返しにくる恐れがある。
「とりあえず保留だな」
 そう自分に言い聞かせて小道の先を進む。

 小道は直ぐに斜面に差し掛かり、そこから道は左右に蛇行しながら沢へと続いていた。
 10mほどの高度差を50mほど歩いて下りると、周囲の斜面から落ちたのだろう幾つもの岩が転がる間を幅5mほどの川が流れている。
 流れる水は澄んでいてで、まさに清流といった感じで、水面から川底までが深いところでは1mほどありそうだが見ることが出来た。流水量もかなりのもので、ここなら魚が釣れると言うのも頷ける。
「早く穴を掘って釣りでもするか……」
 とはいえ渓流釣りというのは、川釣りは餓鬼の頃にフナとついでにドジョウくらいしか経験がない俺には敷居が高い気がしてならない。まあ何とかなるだろう……何とかなれば良いなあ。

 だが、その前にどうやって穴を掘るか良い考えが浮かんでいないし、ここまで見て回った範囲には都合の良い場所なんて無かった。
 1mの深さがあれば、臭いの問題は遠く離れた場所にいる羆などを呼び寄せるような事は無いと思う。
 テレビで見たことがある鯨の骨格標本作りの時でも、あの巨体を埋める穴でさえ深さは2mだったはずだ。(北路の間違った思い込みで、それは熊などの野生動物が出現しない場所で行われただけでと思われる)
 つまりその程度の深さがあれば、問題になるほど周囲に悪臭を放つ事は無いということになる。
 問題は、近くまで来た野生動物が墓の傍で臭いに気付くことだ。犬のように人間の1億倍などという嗅覚は動物の中でも破格な数値だろうが、それにしても何十倍や何百倍の嗅覚を持つだろうから気付かれるはずだ。(実際は北路の予想以上に羆の嗅覚はとても優れていて3km離れた死骸の臭いも嗅ぎ取る事が出来る)
 ならば、気付いても掘り返せない状況を作れば良いのではないだろうか?
 これまで見て回った現状において対応可能な方法が3つある。
 1つ目は、コンクリートを作り、埋め戻した地面を固めてしまう方法。(セメント+砂+砂利=コンクリート)
 2つ目は、レンガとモルタルを使い、埋め戻した地面を覆う方法。(セメント+砂=モルタル)
 3つ目は、沢から大き目の石を運んで、埋め戻した地面の上に積み上げる方法。
 単純かつ効果的なのは3つ目で、疲れるのも3つ目だろう。
 セメントやレンガなどの資材を消費しないのが助かるが、高さ10mの斜面を沢山の石を担いで何度も往復する必要がある。
「穴を掘りながら考えるか……」
 スコップを肩に担いだまま、来た道を上って戻る。

 最初に穴を掘ると決めた平地部の南端へと向かう。
 途中、道から外れてスコップで草むらを切り開きながら前へと進むこと60mほどで、平地部分の南端に到達する。
 此処で一つ疑問が生まれた。
 最初は東西南の3方が開けて見晴らしの良い斜面側の方に頭を置いて埋葬するのが良いと思っていたのだが、死んだ人間は北枕に寝かせるという説を思い出した。
 さて土葬する場合は北に頭を向けて埋葬するのが正しいのだろうか?
「土葬の方法なんてネットで検索したって出てこないだろう……やっぱり北枕なんだろうな」
 そう結論付けると、たどり着くとコンパスで方向を確認すると地面にスコップで大雑把に南北の方向に直線を引き、メジャーを使って掘る穴の大きさを決める。
 石田夫妻も、先ほど覗いたログハウスの中の人影も長身の人間はいないようなので、余裕を持って180cm。1人分の横幅を70cmと考えて350cm。持ってきたメジャーの長さとちょうど同じだった。
 西側から穴を掘り始める。普通のスコップを普通に使えるというのは実に素晴らしい。表面に生えている雑草ごと掘り返して行くとプチプチという音と共に根が切れていく。
 表面近くは硬く締まっていて、また根も張り巡らされていて掘りづらいが、携帯スコップと違いブレード部分の肩に足を乗せて力を加えることが出来るのがありがたい。
 また普通の土に比べて、木の葉や草が枯れて出来た腐葉土は軟く軽かったので作業は思ったよりはかどりそうだ。


 2時間後。何とか180cmx220cmほどの広さの穴を1m-1.2mの深さまで掘ることが出来た。
 この穴を埋め戻して踏み固め、そこを木の枠を組んで囲い上にコンクリートを流し込む……このスペースをある程度の厚みを持たせて埋めるには、物置小屋にあるセメントだけでは足りないだろう。
 またレンガを使って覆うには、埋め戻した場所をしっかり平らに整地しなければならない。その手間を考えるなら……
「やっぱり石を積むしかないか……とりあえず飯だ」
 時刻は午後1時を過ぎたところ。土まみれになった身体で穴から出ようとしたところを甲高い鳴き声を浴びせられる。
 振り返ると、そこには白い子犬。マシュマロことマッシュが丸めた尻尾を左右に振りながら、相変わらずの泣きそうな哀愁をたたえた目でこちらに何かのアピールをしていた。
「何だ来てたのか」
 俺が気付いたことに喜んでいるだろうか、前足を上げて応える。
「お前も腹が減ったのか?」
 穴の縁に手をかけて、疲れて重たい身体を引き上げる。
「くぅん」
 まるで返事をしたかのようなタイミングで、短く鼻にかかった声で鳴いたマッシュの身体を、下から救い上げるようにして持ち上げる。
 左手で下から鷲づかみ状態のところを、右手で頭から尻尾の付け根までをゆっくりと撫で付けると、気持ち良さそうに目を細めて身をゆだねてくる。
 そんな警戒心の欠片もない姿に、苦笑いを漏らすと、マッシュを抱いたまま文月さんの待つ車へと戻る。
「早く大きくなって、羆が来たら吼えるようになってくれよ」
 最初に会った時、果敢にゾンビに吼えかかってくれたのは、本当にこの子だったのだろうかと疑問に思うほど緩みきった表情をマッシュは浮かべていた。

「文月さん戻ったよ」
 後部座席の窓を覗き込みながら、上が少し開いた窓の隙間から声をかける。
 一応寝ているみたいだが、彼女のことだから気を回して寝た振りをしただけで、まだ思い悩んでいたのかもしれない。
「……お帰りなさい」
 起き抜け特有の鼻声に彼女がちゃんと安静にしてくれていたことがわかり、ほっと胸をなでおろす。
 人間の脳は、一度なら問題のないような刺激でも短時間に複数受けることで重篤化する場合上がる。
 一度強い刺激を受けた場合は、しばらくの間は安静にして回復させるのが現状では唯一の対応策だ。
「少しは眠れたみたいだね?」
「……はぃ」
 前々から思っていたのだが、文月さんは寝起きが悪い。
「頭は痛くない?眩暈や吐き気は?」
 これらの症状がある場合は、数日間安静にしてもらう……それしか出来ることはない。
「えっと、頭が」
「頭が?」
 まずい何か症状が出たのだろうか?
「頭が、寝すぎたみたいで重いです」
 判断つきかねる!

 結局、しつこく確認をとったが、頭痛・眩暈・吐き気の症状はなかったようで、一先ず安心した。
「食事の後にキャンピングカーへ移動するから、大丈夫だとは思うけど今日一杯は静かに寝ていて」
「福島のお爺さんの車ですね。中は思った以上に広いんですよ」
「さっき調べたら、鍵が掛かってなかったから、今晩はあそこに泊まろうと思うんだ」
 ログハウスは中の片付けも考えると、明日も使えない可能性が高い。
「いいですね。一度泊まったことがあるんですが、運転席の上のベッドがとても面白かったですよ。寝ながら空が見えるんです」
「いいね。じゃあ、そちらは俺が使わせてもらうよ」
「え~っ」
 可愛く抗議の声を上げるが譲らない。
「まだ上り下りさせるわけにいかないんだから駄目……これからは使いたい時に幾らでも使えるから、今晩は我慢して」
 そう言うと、文月さんのお腹の上にマッシュを乗せて昼食作りに取り掛かる。
 昼は簡単に佐々木校長に分けてもらった非常食を調理する。調理と言っても沸かしたお湯を注いで20分間待つだけだが、むしろ子犬たちの離乳食を用意する手間の方がかかった。

「晩御飯は私がちゃんと作ります」
 車の後部座席で上半身を起こし昼食を食べながら文月さんは、そう宣言した。
 文月さんは料理を作るのは自分の役目だと言う自負を持っており俺が調理に手を出すことを嫌う。
 然別峡のキャンプ場で夕飯を作る時に手伝おうとして『男子厨房に入るべからず』と怒られた。その時は当然ながら野外調理で『厨房って何処?』と聞きたくなったくらいだ。
 だが今はあえて言おう。
「駄目。今日一杯は安静」
「……台所は女の戦場で、一家の主とはいえ口出し無用の絶対的聖域です」
 こ、この娘は、昭和の女どころか近代史以前の存在だ。お祖母さんの躾だろうが極端すぎる気がしてならない。
「はいはい、本日聖域は臨時休業です。明日は通常通りの営業を行いますので、なにとぞご理解とご協力をお願いします」
 俺も負けずに軽く流してやった。
 何だろう。14歳の女の子に口で勝って満足してる俺って?

 食後に車ごと駐車スペースまで移動すると、ベッドの用意をするために先に車内に入る。
「しかし広いな」
 文月さんは思った以上に広いといっていたが、はっきり言って外から見ても大きく、隣のメガクルーザーより1m以上は全長が長いだけに、中の広さはかなりなものだ。
 設備も充実しており、テレビや冷蔵庫とか当たり前な装備だけではなく、入り口には電動の昇降ステップが付いており原型がウニモグの高起動型トラックだけにどうしようもない車高の高さを補って、乗り降りだけじゃなく重たい荷物を運び込むのも楽になっている。
 また運転席と助手席のシートが回転して後ろに向ける事が出来るとか、個人的にキャンピングカーを日本で使う場合に、一番いらない設備の筆頭だと思っているシャワールームまで付いている。
 国内でキャンピングカーで旅行するなら、シャワーなんて使わないで各地の温泉を楽しめと言うのが俺のスタンスだ──キャンピングカーを持ってもない癖に。
 多分、爺様方はログハウスを作る時にこの車に寝泊りしてシャワールームも活用していたのだろう。それ以外にも彼らなら温泉も商業施設もないような場所まで車で乗り入れるのだろうから、この手の車が必要だったのかもしれない。

 全長6mはある大型のキャンピングカーだけあって、車体後部はカーテンで仕切られる独立したベッドルームになっていて常設のベッドが2つ並んで設置されている。更にベッドの間のチェストを展開するとダブルベッドになった。
 ベッドの用意が終わると、一旦文月さんの元に戻り彼女を抱き上げてベッドルームに戻り寝せる。
「じゃあ、俺は作業に戻るから、文月さんは寝ろとは言わないけど、ベッドで大人しくしててね」
 昨晩はしっかり寝たはずだし、先ほども2時間は寝ている文月さんに、これ以上眠れと言っても無理だろう。
「何か必要なものはある?文月さんの荷物に本とか時間を潰せるものがあるなら取って来るけど?」
 俺の言葉に彼女ははっと息を詰まらせ、そして肩を落として俯き言葉を漏らした。
「家から何も持ってこなかった……」
 今更ながら気付くということは、彼女も暇つぶしをしなければならないほどの余裕がなかったということだ。今後は少し余裕を持てるような生活に戻してあげなければならないと思うが、そうなった時に暇を潰す手段が無いというのも困りものだ。
 俺自身、旅の目的が目的だけに暇つぶしになるような物は持ってきていない。
「ここで落ち着いて生活できる状況になったら、必要な物を集めに外に町に出るからその時に、暇潰しの道具も手に入れよう」
「はい!」
 良い返事だ。
「その為には、文月さんにも車の運転を憶えて貰うから」
「運転ですか?」
「町に遠征に出て、物を運ぶのにトラックを見つけたとしても、俺しか運転できないなら乗って行った車を置いて戻って来る事になってしまう。文月さんにも上手く運転出来るようになってとは言わないけど、俺の運転する車の後を付いて来ることくらい出来るようになって貰う必要があるんだよ」
「で、でも山道なんかは私には無理です」
「ああ、ここまで上って来るまでの山道は俺が運転するから良いよ。その他も出来るだけ広くて走りやすい道だけを運転して貰うように考えてるから……最初の内は」
 最後の言葉は小さく呟いたので文月さんの耳には届かなかったようだ。
 山道自体は4mkくらいあったけど、自転車を使えば全コースが下りだからスピードの上がり過ぎにさえ気をつければ、ほとんど漕がなくても短時間で下りられる。
 その為にはマウンテンバイクも手に入れる必要があるな。

 文月さんと、腹いっぱいになって昼寝中の子犬たちをキャンピングカーに残すと物置小屋に向かう。
 小屋の中から猫車と背負子を持ち出すと、今度は沢へと向かう。
 途中、斜面の手前に猫車を残すと、背負子を背負いメタルラックのポールを杖にして沢への小道を下りた。

 天気の良い7月下旬の昼過ぎ。気温は27・28度くらいまでは上がってるだろうが、沢は流れる川のおかげもあって随分と涼しく、これからの重労働の唯一の救いだ。
「さてどんな大きさの石にするか……」
 あまり大きくても数が揃わないし、小さい石では簡単に羆に掘り返されてしまう。
 そこそこの大きさの石を揃えて、綺麗に積み重なるようにしておかなければ強度も出ないだろう。
 しばらく地面に転がる石を観察してみて比較的多く見当たる、大きさが両の手に持って少し余す位で重さは多分5kgは無いだろう石を基準として使うことを決める。
 麻袋をバンドで背負子に固定して、簡単に背負えるように俺の腰の高さくらいの岩の上に置く。そして拾った石を麻袋の中に入れていき、とりあえず6個入ったところで背負ってみる。
 予想では背負子の重さも入れて30kg弱。まだ石を積んでも大丈夫だとは思うが、そのまま小道を上る。
 これから何度も往復するのに限界まで持っても仕方ない。学生時代に建設現場のバイトをした事があるが、足場の解体作業で解体した鉄管を運ぶ作業をした時に、最初は一度に5本まとめて担いでいた鉄管が、昼飯を食った後には4本しか運べなくなり、最終的には1本しか運べないほど体力を消耗して、現場のベテラン作業員に『最初に持てると思った重さの半分にしておくのがペース配分だと』と笑われたことがある。
 荷物が無くても坂道を上るだけで体力は消耗する。バイトの時のように鉄管1本しか運べないほどまで消耗したら、そもそも坂道を上れない。

「死ぬ。絶対に死ぬ。明日は筋肉痛で死ぬぞっ!」
 4時間後、俺は石を運び終えて、石田夫妻を埋葬し終えた後に穴の残りの部分も掘り終えると地面にひっくり返るとそう叫んだ。
 既に夕方の6時半。空はまだ明るいが、太陽は山の端に沈んであたりは薄暗い。
 まだ石は積んでいないが、代わりに昼飯前に掘り残していた部分を掘る時でた土も上に積み上げているので大丈夫だと自分に妥協した。というか妥協せざるを得ない。
 実際本当にもう力が出ない。日が暮れ始めてラストスパートをかけたため最後の一絞りまで体力を使い果たした感じだ。
 そのまま地面に寝そべること5分……10分……月が綺麗だ……いかん!一向に立ち上がろうと言う気が起きない。このままではここで寝てしいそうだ。
 仕方なく身体を起こす。晩飯を作って、食ってシャワーを浴びよう。そしてシップを貼って今日はさっさと寝よう。
 そう決めると早くスケジュールを消化して楽になるためだけに立ち上がると、スコップも猫車も片付けずに杖代わりのメラルラックのポールにすがるようにしてキャンピングカーへと戻った。

 昼と代わり映えしない非常食をお湯でもどしただけの物に、野菜ジュース──別に手作りでもなんでもなくペットボトル入りのものをコップに注いだだけの晩飯に文月さんは何も言わなかった。
 いや本当に何も言ってくれなかった。目だけが『だから私が作ると言ったのに』と言ってる気がするのは被害妄想じゃないだろう。
「明日の朝、身体に何も違和感が無かったら、激しい運動は駄目だけど、無理しない範囲で普通にしていて良いと思うよ」
「では明日はちゃんとした料理を作るので楽しみにしてください」
 場の空気を換える為に話題を振ったら笑顔で止めを刺された。
「今日は忙しかったから手を抜いただけで、ちゃんと普通に料理は作れるよ」
「はいはい」
 軽く流された。明らかに昼の事を根に持っている。
「チャンスをください!」
「駄目です。料理を作るのは私の仕事です」
 完全に一本取られたと思った時、文月さんは言葉をつなぐ。
「でも本当に明日の料理は期待しててください。腕によりをかけて作りますから」
 不意打ちに、先程までのとは違う屈託の無い笑顔でそう言われたら「お願いします」としか返事が出来なかった。

 食後にシャワーを浴びる。
 俺だけずるいと言う文月さんの抗議を無視して、トイレ兼シャワールームに入ると、ナイロン製のカーテンを引いてトイレ部分の空間と仕切るとノブを捻る。
 温水ボイラーは使っていないのでシャワーヘッドから噴き出すのは水だが、日中の陽気で暖められたタンクの水は温く。不快感を感じるほどではなかった。
 備え付けのシャンプーで髪を洗うが、水温の低さに加えて、2日ぶりでしかも昨日も今日も大量の汗をかいた上に今日は穴掘りで頭から土塗れであり泡が立たない。
 良く見るとボトルには油性ペンで『環境にやさしいが、人に優しいかどうかは分からないシャンプー』と書かれていた。
「……嫌なシャンプーだな」
 同時に、この排水をどうするのか気になった。
 以前までは排水タンクに溜まった排水は家に持ち帰るなり、ガソリンスタンドで捨てさせてもらうのだろうが、これからはどうするべきか?
 いや、シャワーや台所からの廃水だけではないトイレの汚物はどうなる?実際、今日は木陰で用を足したりしたけど、ずっとそれを続ける訳にもいかない。
 川に流すにしても、微生物が食べるなどして食物連鎖の循環の中で魚が食べるなら問題は無いだろうが、結構魚って糞でも平気で食べる……その魚を食べるにはすごい抵抗がある。何とか早く方法を考えないと。

 問題は後回しにしてシャワーを浴び終えると身体以上に心がすっきりとする。俺は毎日風呂に入らないと駄目になる子だからシャワーだけとはいえ、明日は風呂を使えるように頑張ろうと言う気力も湧いてきた。
 シャワールームからバスタオルを使って頭をワシワシと両手で揉んで水気を拭い取りながら出た俺が、思わず「ああ、気持ち良い」と声に出した瞬間、文月さんから凄い目で睨まれた。


「北路さん。まだ起きてますか?」
 運転席上のバンクベッドで天井のサンルーフから星空を眺めていると、ベッドルームから文月さんが声をかけてきた。
 時刻はまだ10時前。普段は俺より寝つきの良い彼女も2時間ほど昼寝をした今日は、こんな時間からは眠れないのだろう。
「どうかした?」
「明日、私の体調に問題が無くて、今日の続きを……お爺さんたち……加藤さん夫婦と福島さん夫婦を……」
「人として眠らせてあげることだね」
 言葉を飾る。余り良い意味に使われない言葉だが、率直であれば正しいなんて思ってるのは馬鹿だけだ。
 人に率直さが求められる場面など極僅かだ、だから人は色んなものを飾って生きていく。

「出来るだけ傷をつけずに眠らせると言うのは、明日は止めてください」
「……文月さんはそれで良いの?大切な人達なんだよね」
 彼女が俺に気を使い。無理にそう納得しようと思っているなら、俺はその言葉を受け入れる事は出来ない。
 俺の彼女を守るという決意は、単に彼女が生き残れれば良いというものじゃない。彼女が笑ってこれからも生きていけるようにすることだ。
「大切です。でも貴方が私のことを特別だって思ってくれてるように私だって貴方の事が特別なんです。だから無理はして欲しくないんです」
「…………ありがとう」
 彼女の言葉が少し嬉しかった。そして大切な人に優先順位をつけなければならない彼女が悲しくもあった。
 おやすみと声をかけて目をつぶったが寝付けない。身体は疲れているのだが、筋肉の張りを感じた部分にシップを貼って冷やしているものの、それでも感じる火照り。そして文月さんに怪我をさせてしまった後悔のせいで、なかなか眠りに落ちることが出来なかった。
 まんじりともしないまま時間が経過していく中、俺は文月さんが小さく漏らす嗚咽を耳にする。俺が眠りに付くまでじっと悲しみをこらえていたのかと思うと切なかった。


 人の動く気配に自然に目を覚ます……敏感になったというか眠りが浅くなってしまったのだろうと思う。
 時計を確認すると6時前。バンクベッドから車内を見下ろすとカーテンで仕切られた後部のベッドルームから文月さんの笑い声が聞こえる。
 バンクベッドの隙間から、身体を引き出し不自然な体勢で梯子に足をかけて慎重に下りる。バンクベッドは俺にはちょっと狭く肩をすくめないと寝返りもうてないほど狭いので出入りが面倒だった。
 無事に床に降り立つと手早く着替えて、カーテン越しにベッドルームの文月さんに声をかけた。
「おはよう」
「おはようございます」
 カーテンの向こうから元気な挨拶が返ってきた。寝起きの弱い文月さんだからもっと前から起きていたのだろう。
「あけても大丈夫?」
「はいどうぞ」
 許可が出たので、カーテンを引くと、文月さんは広いベッドの上で上体を起こして、元気に転げまわる子犬たちと戯れていた。
 昨晩はかなり早く寝たのに早起きは文月さんに軍配が上がったのだが、その文月さんを起こしたは、今日も朝から元気な子犬たちだった。
 食って寝て、じゃれて転がるそんな生活をしながらも、子犬たちは一日一日確実に成長している……具体的に言うと毎日200gくらい?
 現状は太ったと言う訳ではなく、元々が痩せすぎていた。
 本来なら飼い主から離乳食が与えられている時期だったのだろう。それが途絶えて母親の母乳で凌いだのだろうが、母犬自身も餌が貰えずが乳の出も悪かったはずだから子犬たちはかなり痩せていたのだ。
 その反動もあってか餌の食いっぷりが尋常ではなく、食後は毎回ボッコリと膨らませたお腹を晒して寝ている。
 だが、このままではデブ犬になってしまわないか不安がつのる。

「具合はどう?」
「頭痛も眩暈も吐き気もありません。気分は良いです」
「じゃあ今日は普通に動いても良いけど、急激な運動とかを控えて……後は転んだりして頭打たないでね」
「もう、転びませんよ」
 文月さんは俺の冗談に笑いながら答えた。
「じゃあ、朝ご飯は頼むよ。俺は少し外を見回ってくるから」
 そう言い残してキャンピングカーを出ると、まず墓へと向かった。

 幸い墓は荒らされている様子は無かった。
 まあ、元々羆の良く出没する場所なら此処にログハウスを建てたりはしなかっただろうし……でも然別峡のキャンプ場に出没したので、この考えは余り当てにならない。
 昨日は使った道具を放置して帰ったが、スコップは今日もここで使うので良いとして、猫車は遺体を運ぶのにも使うのでログハウスの傍まで運んでおいた方が良いだろう。
 墓の周囲の雑草をスコップで根ごと断ち切り、多少は見栄えを整える。そして背負子と携帯スコップを猫車に積むとログハウスの方へと草むらを踏み分けただけの小道を戻る。

 小道を出ると、そのまま北に向かい沢へと続く道が合流する三叉路に猫車を置くと、携帯スコップを持って沢へと向かった。
 斜面の上から見下ろすと、まだ登りきっていない太陽が遮られている沢は薄暗い。足元を確認しながらゆっくりと下りていくと、川下の遠く先の方ではすでに日が差し込んでいるのが見える。
 その差し込んだ光の中で、一頭の大きな角を付けた牡鹿の姿があった。牡鹿は対岸の川の縁に立ち、頭を水面へと下げて水を飲んでいる様子を何とか見取ることが出来た。
 距離は200m以上。ライフルならスコープを使えば胴体のどこかに当てられないことも無いだろうが、ボウガンでは難しいだろう。気軽にライフルを使う訳にはいかない以上は、あの鹿を仕留めるならもっと近くに……50m以内まで近寄る必要がある。
 木の陰に身体を隠して息を殺してじっと様子を伺っていると、水を飲み終えた牡鹿は周囲を見回した後、俺に気付く様子も無く反対側の尾根の斜面を登って木々の間に消えていった。


 川岸まで降りた俺の目の前で一匹の大きな魚が跳ねて宙を舞い、尾びれで水面を叩いて川の中へ消えた。
 それを見た俺は、近くに転がる重さ20kg以上はあるだろう自分の頭ほどもある石を両手で持ち上げると、斜面から川の中まで転がり落ちた1mほどの岩めがけて思いっきりたたきつけた。
 ゴン!という鈍い音が辺りに響き渡ると同時に、周囲の木々から鳥達が一斉に飛び立つ。
 それを無視して水面をじっと見つめ続ける俺の目に、数秒後水面に腹を向けて浮かび上がる魚の姿が映る。
 かなり速い川の流れに流されようとする獲物に、何も考える余裕が無く反射的に飛びついて水面で派手に水飛沫を上げた。

「我を忘れてしまった……」
 思いつきと勢いでやってしまったガッチン漁。海でやる場合は豪快にダイナマイトを使って魚を失神させて浮き上がってきた魚を捕まえるらしいが、川の流れを計算に入れていなかったために、思わず川に飛び込んで浮き上がってきた魚を熊の鮭狩りのように右腕の一振りで岸へと弾き飛ばしたが、結局捕まえられたのは僅かに4匹で、その倍以上の魚が下流へと流されてしまった。
 川から上がり、びっしょりに濡れたTシャツを脱ぐ、夏だというのに凍えるほど身体が冷えてしまった。
 辺りを見渡すと飛び込んだ場所から、僅かな間に20mは下流に流されていた。
 岸に打ち上げられて必死にバタバタと暴れる音を頼りに魚を探す。目に付いた大きな魚を狙ったため、捕まえたのはどれも20-30cm位の比較的大きな個体でだったが、正直川魚の名前は良く分からない。
 とは言え、身に毒をもっていて焼いても食べられないというような魚は無いだろうから、まずは焼いて食ってみて味を判断し、今後捕まえるかどうかを判断すれば良いだろう。(川魚で毒を持っているのは、ナマズの仲間がヒレ等に毒を持っている場合がある。また河口などの汽水域に生息する魚には身に毒を持つ魚がいる。代表例はウナギで血に毒を持つ。だがウナギの毒は熱によって無害化する)
 打ち上げられた魚を回収して脱いだTシャツに包んで持ち帰ることにした。

 斜面を上って道をキャンピングカーへと歩いていると、手前にある物置小屋の辺りから、子犬たちが俺めがけて走ってくる。
 3匹が「ワン」と言うよりは「キャン」と吼えながらこちらに向かって走ってくる様子に頬が緩む。
 白いマッシュを先頭に、茶毛のココアことガイア。黒毛のゴマ団子ことオルテガが続く。
「よう散歩か?」
 足元にじゃれ付く子犬たちに声をかけつつ、マッシュに右手を伸ばしてすくい上げる。やはり今日も少し重たくなって、見た目もマルっとしてきた気がする。
 次いでガイア・オルテガと順番に持ち上げて確認するがやはり重たい。
 今までのように3匹分まとめて1皿に盛り付けて、足りなくて喧嘩しない様に多めに作るというのはやめて、多少量を減らしつつ1匹毎に専用の皿を用意して食事量を管理する必要があるのだろう。

 猫車を押して進む俺の後を追いかける様についてきた子犬たちだったが、駐車スペースの手前、物置小屋からは先にはついてこようとはしなかった。
「おい行くぞ」
 そう声をかけるが、子犬たちは尻尾を垂れさせ耳を伏せて一歩も前に進もうとはしなかった。
 普段なら子犬たちの様子に文月さんの身に何か起きたんだろうかと焦るところだが、ここからは何事も無く普通に調理をしている文月さんの姿も見え、周囲にゾンビなどの姿は無い。
 俺は首を傾げながら、調理作業を続けている文月さんへと歩み寄る。
「ただいま」
「おかえりなさ……どうしたんですか?」
 キャンプ用の簡易テーブルの上で包丁でなにやら食材を刻んでいた手を止めて振り返った文月さんが、ずぶ濡れで上半身裸の俺の姿に驚きの声を上げる。
 彼女の疑問に答えず、俺はTシャツをテーブルの上に乗せると解いて中の魚を見せる。
「川に落ちたんですね」
「というより飛び込みました」
「…………」
 何よりも無言の時間が俺には厳しかった。

「玉子焼きを作るのをやめて焼き魚にしましょう」
 文月さん曰く、俺が取ってきたのは2種類で30cm位の大きいがアメマスで、20cm強の小さい方がオショロコマと言うそうだ。
 獲りたてなら、特にオショロコマの方は塩焼きにして食べると美味しいとのことで、早速、車から炭とバーベキューコンロを持ち出して準備を始めるがストップが掛かる。
「調理は私がします」
「でも、こういう野外での料理をするのは男の役目でしょう」
 そう言うとしばらく考え込んだ末に彼女が折れた。
「確かに祖父もキャンプの時は率先して調理してました」
 キャンプでの野外調理。それは父親の威厳の象徴。バーベキューで男にしか出来ない大雑把さで、適当に切った肉を鉄櫛を打つ姿に子供達はしびれるのである……しびれるのか?

 バーベキューコンロを組み立てて、炭を入れて着火剤で点火する、火が育つまでの時間に魚を持って水場に向かう。
 水場の脇にあるバケツに魚を入れると、縁から流れ落ちる水をバケツで受けてながら、10徳ナイフの鱗とりで魚の表面のぬめりをしっかりとこそぎ落す。
 続いて、肛門から刃先を寝かせて差込み頭の方向へと腹を切り開くと、腹の中に親指を差し入れて背骨に沿って内臓をかき出す。
 はっきり言って、川魚だからといって腸ごと焼いて食うのは俺的には無しだ。そこまでワイルドになりたくない。
 全ての魚の下処理の終えると再びTシャツで包み、取り出した内臓は水を捨てて空になったバケツに入れて調理場の方に戻る。
 バーベキューコンロの炭には十分に火が回っていたので、バーベキュー用の鉄櫛を魚に打ちオショロコマの方にだけ塩を振り火にかける。

「ところで文月さん。その玉葱は何につかうの?」
 既にご飯は炊き上がり蒸らし中。汁物も味噌汁が仕上げに、斜め切りにした長ネギを入れて一煮立ちさせれば完成状態で待機中。更にいつの間に作ったのだろう白カブの浅漬けも完成していた。
 そしてメインが玉子焼きを取りやめて、魚の塩焼き。
 ついでに言うと、子犬たちのドッグフード(カリカリ)と野菜を一緒に煮込んだミルク(脱脂粉乳)粥風も既に完成している。
 何処にも玉葱の出番は無い。しかもやけに多くみじん切りにしている。
 子犬たちが寄ってこないのはこの玉葱を刻んだときに出る強い刺激臭のせいだろう。
 そういえば犬に玉葱を与えると死ぬと言う話があったが、それはどうやら嘘だと言う説が最近は有力らしい。
 だが俺もこの刺激臭が人一倍苦手で、カレーを作る時に大量に玉葱を刻んでいると涙で完全に視界が奪われ、手探りで玉ネギを刻むことになるのだが、鼻水は流れ放題で注意力も散漫になり、たまに包丁で指を切る。
「…………ってカレー作ってるの?」
「はい」
 文月さんは笑顔で答える。
「えっでも豚肉は──」
「肉はちゃんと処理してあるので痛んでませんよ」
「でも氷も解けて、この季節に常温で2日も経てば肉は腐る──」
「2日前の朝にちゃんとカレー粉をたっぷり表面にまぶして揉み込み、更に真空パックにしてあるので大丈夫ですよ」
「し、真空パック?どうやって」
 そんな機械は車に積んでなかったはずだ。
「ボウルに水を張って、ビニール袋に入れた豚バラの塊を沈めると水の圧力で袋の中の空気は押し出されます。そこでしっかり袋ごと揉んで中の空気を追い出せば、袋の中は真空状態になるんです」
 誇らしげに胸を張って説明する文月さんは俺にとって女神だ。正確に言うとカレーの──否。ポークカレーの女神様だ。
 感極まった俺は、その場で彼女を抱きしめると「文月さん大好き!愛してる!」と叫んだ。
 俺の腕の中で彼女が何か抗議していたが、無視して彼女に頬ずりしていた。

「納得いきません!」
 感動の余り暴走してしまた俺は、お怒りの文月さんの前に俺は正座させられていた。
 カレーを盾に取られた俺は、正座しろと言われたら正座する。足の裏にだってキスするさ。
「北路さん。以前私に『好きだ』と言ってくれたことがありますよね」
 正直、そんな記憶は残ってないが「はい」と答えた。正直に「憶えてません」と答えるのはリスクが大きすぎる。
「でも、大好きとか愛してるなんて言って貰った事は先程まで無かったんですよね」
 好きと言った記憶も残ってない俺に、身に憶えがあるはずも無い。深々と頭を下げると「申し訳ありません」と答えた。
「私たち恋人同士ですよね?」
 俺としても、まだその言葉に抵抗があり、言いたい事もあったが全てを飲み込み「はい」と再び答える。
「なのに、どうして大好き。愛してるの言葉のきっかけがカレーなんです?私にはそんなに魅力がありませんか?」
 ヤバイ。文月さんの目に涙が浮かんでいる。
「もうカレーなんて作ってあげません」
 彼女が投下した言葉の爆弾に、俺終わった……カレーが、ポークカレーが……いやまだだ、まだ終わってたまるか。

「馬鹿なことを言うな!」
 いきなり立ち上がってそう叫んだ俺の声の大きさに文月さんは驚き固まる。その心の空白に踏み込むように言葉を続ける。
「文月さんは魅力的に決まってるだろ」
 彼女の目を覗き込みながら、一転抑えた声で優しくそう告げる。
「ロリコン趣味の無い俺を、ロリコンと人から後ろ指を差されるようにしたのは文月さんだよ。オッパイ星人の俺を、巨乳という武器も持たずにその気にさせたのは文月さんだよ」
 他に言い様は無いのかと心の中で自分に突っ込みつつも、今しゃべるのをやめることは出来ない。渡り鳥は羽ばたき続けなければ群れからはぐれて死ぬ。モグラは食べ続けなければ餓死する。鮫は泳ぎ続けなければ窒息する。そして俺にはしゃべり続けるしかない。
「文月さんは魅力的だよ。見た目も内面も、顔なんて上品な感じさえする美少女で、手足もすらっとしてスタイルも良い。髪なんて見事としか言い様の無い長くて綺麗な黒髪で、性格も穏やかで優しい思いやりもあって、それでいて芯が強くて。それに育った環境のおかげだろう古風な感じのする家庭的な雰囲気もとても良い。料理も上手いし、掃除裁縫何でもこなす若い女性なんて、今時日本中探しても他にいないよ」
 文月さんに着いて思いついた全てを褒め上げる。そもそも今時若い女性が日本に何人生き残っているのやら。
「そんな文月さんの作るカレーだから食べたいんだよ。好きな人が作るカレーだから食べたいんだ」
 突っ走る俺の口と舌にブレーキはついてない。
「誓うよ。これから俺は、カレーは文月さんの作ったカレーしか食べない。レトルトカレーだって文月さんが温めてくれないなら食べない」
 今後カレーは簡単に食べられるメニューではなくなるし、これから彼女と2人で暮らしていくのに彼女以外の誰も俺に料理を作ってくれる訳でもない。つまりこの誓いは俺に何のデメリットも無い。
 さあ判決は如何に?
「…………じゃ、じゃあ、今晩はカレーなので期待してくださいね」
 耳を真っ赤に染めた文月さんは俯きながら無罪放免の判決を下した。


 玉葱を刻み終えると文月さんはカレー作りを中断して、刻んだ玉葱をご飯を炊いているのとは別の圧力鍋に移して、味噌汁の仕上げに入った。
 鍋を火にかけてまな板の上の切った長ネギを入れる。
「文月さん玉葱は炒めないの?」
 俺は生のまま圧力鍋に入れられてしまった玉葱が気になって仕方ない。
 自分でカレーを作る場合は、じっくりと2時間ほどかけて飴色になるまで炒める。
 もちろん、文月さんが玉葱を炒めもせずに作るなんて暴挙に至るとは思えないが、万一に備えて尋ねずにはいられなかった。
「後で一口大に刻んだ豚バラを圧力鍋に入れてから、かき混ぜてしばらく寝かせるてから、一緒に炒める予定です」
 あれ?肉と一緒に炒めるの?玉葱と一緒に肉を寝かせるのは良いよ。玉葱の酵素が肉を柔らかくするんだよな。でも玉葱は長時間炒めないと甘味がでないし、一緒に長時間炒めたら肉が駄目になるよね。
 俺の表情を読んだ文月さんは不敵に笑みを浮かべると説明を続ける。
「北路さんは心配してるようですが、炒める時間は数分程度で肉の表面に焦げ目が付く程度です。でも、それでは玉葱の甘さが出ないと心配になりますよね。玉葱の辛味成分である硫化アリルをプロピルメリュ……プロピリュ……プロピル何とかに変化させるには、100度以上の温度でじっくりと加熱する必要があります。通常フライパンで炒める場合、フライパンの地肌に触れる玉葱表面の一部だけが100度以上に熱せられますが、中は大量に含んだ水分のために100度までしか上昇しません。そこで長時間炒めることで水分を飛ばし、中まで100度以上に加熱するのです。また普通の鍋で幾ら煮込んでも100度以上には加熱できません。しかし圧力鍋は120度程度までの高温加熱が可能です。玉葱をみじん切りにしてみじん切りにして炒めることにより柔らかくなった玉葱を軽く潰して表面積を増やすだけでなく、硫化アリルを含む水分を外に出すことで、圧力鍋で煮込むと短時間で硫化アリルをプロビル何とかに変えることが出るんです」
 文月さんは理系だな。プロピルメルカプタンを噛みまくって諦めたが、料理に対する科学的にアプローチを持っている。
「普段なら刻んだ玉葱を冷凍庫で凍らせて細胞膜を破壊しておけば、後は圧力鍋で煮込むだけで中なら硫化アリルを含んだ水分が流れ出て、鍋の中で120度に加熱されるので簡単なんです。けれどこの方法でも、フライパンで飴色になるまで炒めるのに比べたらずっとガスの節約になるんです」
 しかも状況に応じて工夫までこなし、更にはガスの節約まで考えているとは恐るべき文月さん。脅威の中学2年生だ。
 とりあえず料理に関して今後一切口を挟まない方が良いということだけは分かった。

 圧力鍋で炊いたご飯はふっくらと炊き上がり、味噌汁もインスタントの様に直ぐ舌の上に広がるような旨みと違って、飲み込んだ後にゆっくりと湧き上がってくるような旨みを感じる。白カブの浅漬けも短時間で作ったとは思えないほどしっかりとした味で旨かった。
 母親が作る実家の飯よりも旨いかもしれない。
 川魚の方は、塩をしなかったアメマスの方を一口味見をしてみたが、淡白というか淡白すぎる味わいで手を加えたら美味しく食べられないこともなさそうだが、このまま塩や醤油をかけて食べても食べられないことは無いが、美味しいと言える味ではなかった。
 一方、オショロコマは普通に旨いと思え、これから毎日でも食べ続けられる味だ。
 アメマスの方も少し水分量が多めな身を、軽く干したり塩をして水気を減らせば、十分食べられる味だとは思うのだが、その辺は文月さんに任せた方が良いだろう。
 とりあえず残りのアメマスは骨を外して身をほぐして、子犬たちの餌に加えたら見事に完食された……こうなることを前提にアメマスには塩をしなかったわけだが、ダイエットはどうする?

 またもや膨れたお腹を上にして緊張感の欠片もなく食後の惰眠を貪る子犬たちを、尻目に文月さんはカレー作りを再開し俺は食器洗いに向かう。
 文月さんは何か言いたげだったが、この後にやる事が控えているので「早く用事を済ませよう」と言うと納得してくれた。
 用事。それは1日予定を先延ばしにしたログハウス内に残った加藤・福島夫妻を安らかに眠らせること。

 今回も作戦は立てる。しかし昨日のように文月さんを直接的に危険に晒しかねない方法は絶対に避ける。
 その為には、複数を同時に相手にすることの無い状況を作り上げるのが大前提で、必ずログハウスの中から1人ずつ外へと誘き出す必要がある。
 ここで問題となるのが、どうやって玄関のドアを閉めて1人だけ締め出すのかだが、具材を全て入れた圧力鍋を火にかけて手の空いた文月さんから解決策に繋がる一言が飛び出した。
「玄関の扉は内開きですよ」
 内開きの扉なら1人でも何とかなる。最初の1人が通過した後に、ノブに括りつけた紐か何かで扉を引っ張れば、後に続く人がぶつかり勝手に閉まる。だがどうして内開きなんだろう?
「最初は外開きに扉を取り付けたんですけど、冬に雪が積もると支えて(つかえて)出入りが出来なくなるんです。それで付け替えたそうです」
 朝起きたら雪が積もって玄関が開かなくなる。しかも窓から出ようにも、このログハウスは窓は小さく位置が高い。それは大変だろう……いや、そんなことより疑問がある。
「文月さんのお爺さんって冬にも、ここまで来るの?」
「鹿狩りの期間は秋から春先までですから」
「いやそうじゃなくて、どうやってここまで来るの?」
 冬場だから国道までは車で何と来ることが出来ても、ここまで4kmはある山道を歩く。それだけでも十分嫌になる大変さなのに、高く降り積もった雪をラッセルしながら装備一式を持って上がってくる状況はちょっと想像しづらい。下から除雪機で道を作りながらここまで来るのだろうか?
「下の国道まで車で来て、そこから先の山道はキャリアに積んだスノーモービルでここまで上がってくるそうです」
 へぇ~なるほどね~爺様方はとことん趣味に生きてたんだなぁ~。べ、別に羨ましくなんて無いからな……でも、スノーモービルか冬場の移動手段として出来れば確保したい。まあ今後の課題だ。

 文月さんが最大圧が掛かった状態を3分ほど維持してから火を止めて圧力鍋をバーベキューコンロからおろし鍋を毛布で包んで保温する。
 このまま1時間ほど余熱で温めると、肉がほろほろ状態の柔らかさになるそうだ。
 俺は残った炭を火消し用の壷に入れて蓋をする。これで酸素を絶たれた炭の火は消えて再利用可能になる。


「じゃあ行くよ」
 最後に子犬たちを籠に入れて準備が終了した俺は文月さんに声を掛ける。
「はい」
 同じく準備を終えて頷く彼女と2人でログハウスへと向う。
 まず玄関扉正面2mほどの地面に長さ1.2mの2本の杭を、杭と杭を結んだ線が玄関扉と平行になるようにハンマーで地面深くしっかりと打ち込む。
 そして、長さ40cmほど頭を出した2本の杭の間に20cm位の高さで地面に平行に針金2重に張り渡す。
 次にドアのノブにロープを結びつける。
 そして文月さんに目で合図を送ると、彼女は頷いてログハウスの裏側へと回り込むと壁を叩く音がなり響く。
 窓からログハウスの中を覗き込むと、壁を叩く音に引き寄せられて奥の壁の方へと向かっていく人影が見えた。
 それを確認した俺は玄関に回って、扉の鍵穴にディンプルキーを差し込み、ゆっくりと回すとカチッというクリック音(本来clickは金属同士がぶつかり短く音が鳴ること)が意外に大きく響いた。

 素早くドアを開くと、その音に反応して一番手前に居た男性が振り返る。
 豊かな白髪を蓄え服の趣味も良い。生前は格好良いお年寄りだったのだろう。だが今は全てが醜悪でしかなかった。
 玄関の扉が開いたことに気付いたのは彼だけだ。ゆっくり俺を目指して迫ってくるのを黙ってじっと待つ。
 待つということは辛い事だ。目の前に脅威を迎えながらじっと待つのはなおさら辛い。脅威があるなら排除したい逃走したい。そんな欲求がじりじりと俺を苛む。
 玄関扉のドアノブから垂れ下がったロープを踏み越えると同時に唸り声を上げて速度を上げる。そしてドア枠を超えたのを確認してから一呼吸置いて手の中のロープを強く引く。
 自分の背後で響いた扉が閉まる鈍い音に反応して、一瞬立ち止まり振り返るが、直ぐに俺に向き直り迫ってくる。
 だが俺との間にある針金のトラップに足を取られると、勢い良く前のめりに転倒した。
 立ち上がろうと地面に両手を突くが、彼が起き上がるよりも早く俺は彼の首を上から踏み砕いた。
 一瞬の硬直、そして永遠の弛緩と眠り。これで彼も人間としての死を迎えられた。欺瞞だと分かっているが、それでもそんな考えに縋りたい。
「あの……」
 そんな思いに囚われ考え込んでいたら、背後から文月さんに声を掛けられる。
「悪い。ちょっと考え事をしていたよ……この人は加藤さん?」
「いえ、福島のお爺さん、福島市正(いちまさ)さんです」
「そうか、キャンピングカーの持ち主の」
「はい」
 取り乱すことなく冷静に答える文月さん。だが昨晩は声を殺して泣いていたのを憶えている。
 何か気の利いた言葉でも掛けてあげたかったが、何も思い浮かばない。
「早く皆を楽にしてあげよう」
 俺の言葉に頷く文月さんの肩をそっと抱きしめた。


 その後、同様の手順で加藤清子さん福島照さんの2人を『眠らせた』
 最後の1人である加藤正さんを残すところになった。油断することなく扉を開きこちらに迫ってくる加藤さんを待ち受けていると、突然キャンピングカー傍の木陰に籠ごと置いてきた子犬たちが吼え始める。
 反射的に何事かと振り返り、辺りを見渡し我が目を疑う。
 南から緑の草むらを掻き分けやって来る黒い巨大な塊──羆だ。大きい。然別峡のキャンプ場で出会った熊よりも2周りは大きい。
 多分内陸部に生息する羆としては最大クラスの大きさだ。(羆は内陸部よりも沿岸部。特に遡上する鮭を捕食できる地域に生息する個体は大きく育つ。鮭資源の豊富なカムチャツカの羆はカロリーベースでは鮭が主食と言って良い程で、雄の平均は体長3m体重500kgを超え、最大クラスでは体重1tを超える個体もいたという話もある)
「拙いな……」
 少し余裕ありな発言だが、実際は『拙いなんてものじゃない。どうするやばすぎる!』と言いたかったが最初の部分しか声にならなかっただけだ。
 前回遭遇した羆とは体重で100kg以上違うだろう。同じ手は通用しないと考えるべきだ。腰のホルスターに収まった拳銃には9mm弾が8発──暴発が怖いから薬室には初弾を送り込んでいない。
 後は銃剣とナイフに何時ものメタルラックのポールだけ。とても目の前の化け物と遣り合える装備ではない。

「うぁぁっぁぁぁぁぁぁううぉぉぉぉ」
 すっかり忘れていた『正さん』が、背後で針金に足を引っ掛けて転倒する。
 本来なら、驚き肝を潰す場面なのだろうが、感情が飽和状態でそんな些細なことに驚いている余裕は無い。
 『正さん』の上げた声によって、こちらに注意を向けた羆から視線を逸らさず、3歩ほど下がるとうつ伏せ状態の『正さん』を見やる。近寄ってきた俺の足に伸ばしてきた左手をジャンプしてかわすと、そのまま彼の頚骨の上に着地して仮初の生を終わらせた。
 これで6人全員を『眠らせる』ことが出来たのだが、このままでは俺も文月さんの人生も終わってしまいそうだ。唯一の救いはゾンビとして蘇らずに済むと言うこと。
 素晴らしくて涙が出てきそうだ。

 これから始まる戦いの最大の目的は、文月さんを無事に生き残らせること。
「文月さん!何があっても返事はしないで、声も出さないで俺の指示に従って欲しい……羆が出た。文月さんはログハウスの裏から動かずにいて、俺が指示を出したら裏からそのまま車まで走って、乗ったらドアを閉めて何があってもじっとして隠れていて」
 そう大声で叫びながら、腰のホルスターから拳銃を引き抜きスライドを引いて初弾を薬室に送り込む。叫んだことで羆の視線はこちらに向いている。
 だが、もっとこちらに注意をひきつけてからでなければ、文月さんを車へと逃がす訳にはいかない。

 文月さんがログハウスの東側にある車まで羆に気付かれずに移動するには、もっとこちら側に引きつけてログハウス自体を目隠しとして利用する必要がある。
 じりじりと摺り足で、少しずつログハウスの西側へと移動する。羆も俺を注視し警戒しつつ西側へと回り込もうと動く。
 改めてでかいと認識する。何で俺は羆対策をしなかったんだろう?前回あれほど後悔したのに、このポールの先端を尖らせるとか、銃剣を取り付けられるようにするとか何故、何の対応もしなかったのか?全くアホの末路だ。
 最低でも常にライフルを手の届くところに用意しておくべきだった。確かに銃を使うことでこの場所が他の人間に知られるデメリットはあるが、まずはこの周辺の熊を積極的に駆除するくらいの考えを思いついているべきだった。

 羆──エゾヒグマの仲間である北米の灰色熊のテリトリーは約50平方kmと聞いたことがる。つまり東西南北7km四方の範囲を1個体が縄張りとしていることになる。
 一概に灰色熊と同じ縄張りを持つとは言えないが、北海道の自然が北米の自然に比べて極端に羆の食料が多いとは思えない。エゾヒグマも灰色熊と同等の縄張りを維持しなければ生きて行けないはずだ。
 つまり2・3匹の羆を駆除すればしばらく間、この一帯から羆がいなくなり安全が確保されるということだ。

 だがもう遅い。多分俺はここで死ぬことになるだろう。生き残る可能性をイメージできない。もし俺にゾンビ並みの怪力があったとしても勝てるとは思えない。限界以上の力が出せても所詮は羆と人間では筋肉の量が違いすぎる。
 大型ナイフ。5mm以上の分厚い刀身を持ち、刃渡りは20cm代半ば。もしライオンのような大型肉食獣に対しても力いっぱい斬りつける事さえ出来れば、当たり所によれば十分に致命な一撃になりえるだろう、このナイフでも目の前の羆に対しては何処に切りつけたところで大した手傷は負わせられそうも無い。
 今一番頼りになりそうなのは拳銃。大きな音を出すという問題はあるが今はそれどころではない。
 だが拳銃をもってしても、この羆と渡りあうためには足りない。拳銃の9mm弾で致命傷を与えるは、それこそ機関銃のように弾丸を浴びせる必要があるだろうが、この拳銃には8発。予備弾倉にもう8発の全部で16発しかない。
 そして銃剣。剣と言いながらこいつには何故か刃が付いてない。しかし先端は鋭いので刺すという機能はあるのでヒグマ相手でも十分に突き刺すことは可能だろうし、刃渡りが30cmほどあるので水平に寝かせて胸を突き刺せば肋骨を抜けて心臓まで届かせることも可能だ……もっとも、この巨体の胸の何処を刺せば心臓に届くのか俺にはわからない。(自衛隊の銃剣には刃はなく、有事の際に砥いで刃を作るとの事。北路はそのことを知らない)
 だからといって腹部に刺して運良く致命傷を与えたとしても、羆には懐に飛び込んだ俺を10回以上噛み殺す時間的余裕があるはず。
 それでも良い。こいつに致命傷を与えて、文月さんの無事が確保されるなら……だがしかし、そうなった場合に文月さんは生き残れるのだろうか?
 1人でここで生活していくのは難しいだろう。ならば糠平に行くしかなくなる。
 しかし自動車を運転できない彼女は、自分の足で歩かなければならない。ここから糠平まで1日でたどり着くのは無理だ。車の中のような安全地帯が無いままの野営。
 それこそ羆に襲われたらどうなる?

 彼女が無事にたどり着けると言う確証が無い以上は、簡単に死ぬわけにはいかない。例え勝ち目が無くとも出来る限り生き残るためにあがく必要がある。
 だが今手元にある最強の武器である拳銃を使ったとしても、手足や胴体を撃ったところで致命傷を与えるどころか怒らせるくらいにしかならない。
 狙うなら頭部だが、頑丈な頭蓋骨は拳銃弾などの貫通は許さないだろうし、目や鼻などの急所を狙うか口の中だろうが、どちらにしても簡単に狙える場所ではない。
 俺に喰らい付こうとした瞬間に撃つ……反撃の一振りで致命傷を負う可能性が高い。
 しかも、ツキノワグマなどとは違い。この巨大な羆が相手では一撃でもまともに喰らったらおしまい。死ぬか無傷で生き残るかのどちらかしかない。
 そう考えている間に、熊は少しずつ間合いを詰め、やがて駐車スペースがログハウスの陰に入る位置にまで来た。

「文月さん!車へ走って」
 同時に注意をひきつける為に空に向かって一発撃つ。
 羆は一瞬ビクッと身を竦めるが、軽く周囲を見渡してからこちらを向くと牙をむいて威嚇をはじめた。
 驚きはしたが、戦意を喪失して逃走するほどではない。
 こちらに注意をひきつける事には成功したが、奴の俺への警戒心は最大に高まり、こちらの一挙一動を見逃さないとばかりに、穴が開きそうなほどじっと睨みつけてくる。
 もう戦わずに済ませることは出来ないだろう。

 俺も負けじと羆を睨み返す。すると駐車スペースの方から車のドアが閉まる音が聞こえた。文月さんが車内に逃げ込むことが出来たと言うことだ。
 ドアの閉まる音に羆の意識が一瞬、車の方へと向かったので左手に持って持っていたポールで地面を強く打ち付ける。
「余所見してるんじゃねえぞ!この熊がっ!」
 そう叫ぶ俺の口元に笑みが浮かぶ。文月さんがこの場で襲われる心配は無くなった。ならば、後はこいつが後悔するほどのキツイ一発を食らわせてやるだけだ。
 ポールを右手に持ち替えると、振り上げて頭の上で大きく円を書くように振り回す。風切り音を立てて回るポールに羆の注意が向く、視線は回るポールの先端を追っている。
 俺と羆の間にある30cmほどの大きさの石に狙いを付けてポールを振り下ろすと同時に、左手に持った拳銃でその石を撃った。
 ポールが石に叩きつけられた瞬間に爆音が響き、石から火花が飛び砕けた石の欠片が飛び散る。その状況が羆にとってどう認識されたか?
 再びポールを頭上に振りかぶって回し始めると羆はじりじりと後ろに下がって距離を開ける。
 どうやら狙い通り、ポールの一撃を脅威だと勘違いしてくれたようだ。

 しかし、羆も一旦距離をおいたものの、逃げに移ろうとはしなかった。
 これだけの巨体を持つ個体だ。他の羆との縄張り争いにおいても引き下がった経験など成長してからはほぼ無いだろう。全く厄介な奴だ。
 振り回すポールをじっと凝視する。まるでポールが本体であり、それを振り回す俺などオマケだと言わんばかりの態度。
 一方、俺は僅かな時間の間に精神的な疲労が溜まっていくのが自分でも分かる。
 明らかに自分よりも強い相手からの絶え間ないプレッシャー。いっその事、攻撃に出て楽になりたいと思わずにはいられない緊張感の持続。
 勝機を見出さずに仕掛ければ死。だが気力が尽きても待つのは死。
 羆は前足を地面につけたまま頭ごと動かしながら、俺の頭上で回るポールの先端の動きを注視している。
 拳銃で撃ちやすい位置に頭部を晒しているわけだが、この角度から撃っても丈夫な羆の頭蓋骨を9mm弾が貫通することは無いだろう。

「おおおぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおお!」
 突然、羆が興奮し低く唸り声を上げ始めた。何処でスイッチが入ったのかさっぱり分からないが、先に痺れを切らしたのは奴の方だった。
 一気に間合いを5m以内につめると後ろ足で立ち上がる。
 勝機は無いのに機だけが来た。
 どのみち羆にこの体勢になって貰わなければ、打つ手は何もないのは事実だが、ここから奴の懐に飛び込む手段が無い。そして攻撃に成功しても逃げる手段が無い。
 このままでは、なす術も無く羆に食い殺される。どうせ死ぬなら……なんて考えるつもりは無い。俺は生き残らなければならない。だが生き残れないなら、せめてこの羆を倒す必要がある。羆を倒しても、文月さんが生き残れるとは限らない。この機を逃すのか?羆にとっては攻撃態勢だが、こちらにとっても急所を晒してくれているチャンスだ。
 どうする?どうする?どうする?どうする?どうする?どうする?…………
 突然、頭上で振り回していたポールが、手にかいた汗ですっぽ抜ける。元々全力で振り回していたのではない、大した速度ではなく山なりに羆へと向かって飛んだ。
 ポールを脅威と感じて警戒していた羆は、驚いたように後ろへとバランスを崩しつつ一閃した右腕がポールを捉えた。
 その時、俺は何も考えていた訳ではなく勝手に身体が動く。
 右の腰に吊るした銃剣を右手で逆手に鞘から引き抜くと自分の顔の真横に構える。そして身を低くする。
 地面に叩き付けられたポールが、カーンという少し間延びした金属音を響かせ、地面から高く跳ね返る様子を羆の目が追っているのを確認した瞬間、地面を蹴って飛び出した。
 俺の動きに気付いた羆が左腕を振り下ろす前に、爪の攻撃範囲の内側の懐に入り込み、そのまま横に寝かせた銃剣の薄い刀身が羆の胸を捉えると、あっけないほどするりと肋骨の間をすり抜けて30cmほどの刀身を、その胸の奥に収めることに成功した。
 銃剣が心臓を貫いたかどうかは俺にはわからないが、次は左手の拳銃を奴の顔に突きつけて引き金を……
 ……どうしたのかな?どうかしてるんだろう多分……気付けば俺は地面を転がっていた。いや違う転がり続けてる。肘・肩・腰・背中・膝。そして頭。色んな場所を地面にぶつけながら転がり、そして背中を何かに強く叩きつけて止まった。

「いっ……」
 痛いと叫びたくとも呼吸も出来ず言葉が出ない。ぶつかった強い衝撃で呼吸が出来ないのだ、軽くパニックを起こし必死に息をしようとするが空気は入ってこない。
 30秒ほど喉を押さえて耐えてると、次第に喉の奥が『ヒッヒッヒッヒ』と鳴り始め、少しずつ呼吸が出来るようなった。
 こんな事は、高校の頃スキー場でスキーの金具が壊れて転倒し、5m下の斜面に転落して胸を打って以来だ。
 呼吸が再開して一安心すると、今度はちょっと転がりすぎて目が回ったのかな……何だか頭がぼっとしてきた……立ち上がろうとするも起き上がれない。
 まずいなぁ……意識が…………
「ぐぉっぐぉっ」
 ああ……血を吐きながら羆がこっちに向かって来る……武器、何か武器……左手に何かが握られてる……そうだ拳銃だ。拳銃があった。
 俺は慌てて急いで、それでもゆっくり拳銃を握ったまま左腕を羆へと向けた。
 しっかり狙って……頭だ……目に当たれば……眼底を突き破ってくれたら……まあ、無理なんだけどね……
 そんなことを思いながらも、拳銃を構えると羆の顔に狙いを付けると引き金を引く──同時に羆の頭が血飛沫と共に吹き飛んだ。
「あ……れぇ?」
 凄いな9mm拳銃……自衛隊万歳だ……こんなに凄い威力なら……何でこんな苦労したんだよ?……俺の苦労を……返せ…………もう駄目だ…………………………寝る。


「北路さん!北路さん!」
 誰かが呼んでいる気がするが、多分気のせいなので無視する。
「北路さん!北路さん!北路さん!」
 どうやら俺の事を呼んでいるようだが、眠たいので無視する。
「北路さん!北路さん!北路さん!北路さんっ!」
 耳元で俺の名を呼ぶ声が煩すぎて耐え切れず目を覚ます。
「んっ?」
 重たい瞼を持ち上げる……凄い重労働だ。こんなに頑張ったんだからボーナスはずんで下さいよ。
「北路さん?」
 目の前に文月さんの顔がある。そんなに涙を流してどうしたんだろう?
 彼女の顔に手を伸ばそうとして腕に思いがけず痛みが走る。
「いつっ!」
「動いちゃ駄目です。どこか痛いところは……こんなに傷だらけで、痛くないはず無いですよね」
 俺の様子を確認して改めて涙を浮かべる。そんなに酷いのだろうか?
「泣かないの……身体は、えっと、何でこんな状態になってるか良く分からないけど、骨折とかは無いみたいだね」
 手足を動かしてみて、大きく息を吸ってみる。身体がきしむように痛みが走るが、骨折などの異常な感じは無かった。
 といっても、強い痛みを感じた際の脳内麻薬の分泌が多い体質になっているため、痛みに鈍感というか持続しないので俺の自己判断は余り当てにならないが、少なくとも手足は痛みはあるものの動かせるので四肢の骨折の心配は無いだろう。

「憶えてないんですか?まさか頭を打って記憶喪失?」
「いや、ちょっと待って記憶はあるよ」
「よかった」
「安っぽいドラマじゃあるまいし、人間そんなに簡単に記憶喪失にはならないよ……で、何が起きたの?」
「羆が出たことを憶えてないんですか?」
「羆?……羆ね……あっ羆!痛っ!」
 慌てて上体を起こそうとして激痛に見舞われる。これは全身打撲だ──子供の頃に車にはねられた時みたいだ。
 そうだ羆の胸に銃剣を突き刺した直後に羆が身を捩った。それは一瞬視界が歪むくらいの凄い勢いで、俺の身体が羆から離れたと思ったのと同時に、黒い何かが視界の端から飛んで来て、次の瞬間には物凄い衝撃が襲いかかり、俺の身体が真横に弾き飛ばされた。
 そして地面を転がり、何かに叩きつけられ、迫ってくる羆に必死で拳銃を向けて撃ったら頭が吹っ飛び……そうだ羆。
「羆はどうなったの?」
「えっ?……あ、あのぅ……」
 俺の質問に文月さんは何故か驚き、慌てふためく。
「どうしたの?」
「あの……そ、その……私が撃ちました!」
 そう言う彼女の視線の先を首を捻って追うと、そこには見事に鼻から上を吹き飛ばされた羆の死骸が転がっていた。
 そうか、やはり9mm拳銃で羆の頭を吹き飛ばすのは無理だよな……って、どうして文月さんが?
「文月さんが撃った?でも、銃を使ったことなんて無いって言ってたよね?」
 原警部補の拳銃を渡した時、確かにそう言われてたのを憶えている。
「本当に本物の銃は初めてなんです。確かに祖父の勧めで今年の春からエアライフルを嗜み程度にしてるだけです」
 いや、エアライフルも銃刀法が適用され使用や保持に資格を必要とする本物の銃だよ。(文月さんは4月生まれで、14歳から得られる年少射撃資格をすぐに取得)
「…………」
 そう思うが、突っ込んで良いのやら困る。
「撃っても全然反動もないし本物のライフルと比べたらやっぱりおもちゃみたいなものですよ」
 資格を取得するのに、ちゃんと教習を受けているはずなんだから、その認識はおかしい。
「それに、あの時に渡されたのは拳銃だったし、嘘を言うつもりなんて無かったんですよ!」
 必死な様子で取り繕うとする文月さんが可哀想になってきた。
「いや、別に文月さんが俺を騙したとか、そんなことを言ってる訳じゃないから」
「だって、女だてらに銃を使うなんて……北路さんは嫌じゃないですか?」
 気まずそうに俯きながらも、目だけは上目遣いでこちらを伺っている。
 そんな可愛らしい姿に、思わず自分の顔が緩むのが分かる。そして期待を裏切らないように答える。
「隠す必要なんて無かったよ。俺は全然嫌じゃないし」
 そう答えた次の瞬間、胸に飛び込ん出来た彼女の下敷きになり、痛みに声を上げないように堪えるのに苦労した。


「実はライフルの扱い方も、祖父から教わっていて。将来私が猟銃免許を取ったら一緒に狩をしたいと良く言ってました」
 もう隠す必要が無いと分かったのか嬉しそうに話す文月さんに対して、それは銃刀法違反だろうという言葉を飲み込む。
 しかし趣味に傾倒した挙句に孫にまでも巻き込むとは恐るべし、彼女のお爺さんとは何という駄目修羅の道を行く人だったのだろう。
「とにかくありがとう。おかげで助かったよ」
 突っ込みどころが満載すぎて頭が痛くなってきた……というか血が垂れてきて目に入る。頭も切ってるみたいだ。
「大丈夫ですか?」
 文月さんがハンカチで血を拭い、出血した場所を押さえてくれる。
「酷い傷です。どうしよう縫わないと」
 俺は痛みを堪えつつ上半身を起こす。そして背後の何か……水場か、そこに背中を預ける。良く見ると酷い状態だ。ジャージのパンツの膝が破れてその下は血塗れだ。
 肘も擦りむいたなんて可愛い表現で済むレベルじゃなくボロボロになってる。右手の小指の付け根も皮膚がめくれている。一体どれだけ凄い力ではね飛ばされたのだろう。
 幸い、痛みに鈍感という特技のおかげで、身体を動かしたりして新たな痛みを掘り起こさなければ痛いと感じるわけでもない。
「文月さん……処置を頼めるかい?」
「私がですか?」
「大丈夫。文月さんなら出来るから。まず傷口を水で洗い流してから、傷の裂け目傍で、裂け目を挟んで反対にある髪の毛同士を結んでもらえる?何箇所か結んで貰えれば縫うのと同じ効果が得られるはずなんだ」
 漫画で見たことがある応急処置だ。前から機会があれば一度くらいやって貰いたい処置だと思っていた。
「瞬間接着剤は使わないんですか?」
「自分1人でで処置しなければならないならそうするけど、髪に接着剤が付くからね」
 そろそろ頭髪のケアについて敏感なお年頃なんだよ……

「では傷口を洗い流します」
 車から薬箱を取って戻ってくると文月さんは処置を開始した。
 俺の髪の毛を傷口に沿って左右に倒して分けると、倒した髪の毛をピン止めで固定していく。そして露出した傷口に水をかけて行く。滴る水で俺のTシャツの前はビシャビシャだが仕方ない。
 その後、ピンセットとコットンで丁寧に傷口に入った土や砂を取り除いてくれる。時折左側頭部に彼女の胸が当たるがノーコメントだ。
 そして再び、水で傷口を洗い流してくれた。
「じっと動かないでくださいね」
 そう言うと彼女はピンセットを使って俺の髪の毛を弄り始める、ピン止めで固定された髪の毛の傷口に近い数本を引っ張り出し、傷口を挟んだ反対側の髪の毛も同様に引っ張り出してそれを結ぶと説明してくれた。
 この作業中も時々、彼女の胸の膨らみが俺の側頭部に当たるが、物足りないなんて思ってても言わない。
「終わりましたよ」
 結び始めてからものの5分程度で処置を完了してしまう。
「器用だね」
 裁縫も得意だと言う彼女だからこその早業だろう。その内大きな怪我をしたら彼女に縫合してもらおう。そう言ったら「二度と怪我はしないでください」と怒られた。

 手や肘・膝・腰に二の腕と合計10箇所以上の擦り傷の治療が終わる頃には、俺はパンツ一枚になっていた。衣服は全部穴だらけで着衣としての役割は終了していた。
 今後はただの布切れとして、何時か何かに役立つことだろう。
「駄目ですまだ立ち上がったら」
 文月さんが持ってきてくれたキャンプ用の椅子に座っていたのだが、痛みも大分退いたことだし立ち上がろうとすると叱られる。
「おかげで大分楽になったし、それに何時までもここで座ってる訳にもいかないよ。着替えて皆を埋葬して……いや、その前にこいつも何とかしないとね」
 そう言って羆の死体を指差す。

 放っておけばこの暑さだ、数百キロの肉の塊が腐って虫が集り悪臭を放つ。それだけでも十分悪夢だが、何よりも他の羆をおびき寄せる可能性があるのが拙い。
 今でも十分に血生臭い臭いが周囲に満ちている。傷ついた身体に鞭打とうとも、これを片付けるのは急務だ。
「そうですね。一部は解体して食肉にするとしても、でも全部は私1人では解体できないし、それに食べ切れませんから何か処分する方法を考えないと」
 うわっ、何か凄いことを言い出した。女子中学生が羆を飼いたい……いやいや解体だって?
 それに今更気付いたけど、目の前に転がってる頭吹っ飛ばされた羆の死体を見たら、それこそ普通の女の子は『いやー』とか『キャー』とか叫んで失神するべきじゃないだろうか?

「解体できるの?」
「羆を解体した経験はないですけど、鹿は何回か手伝ったことがありますよ」
 文月さんはエリートだよ。幼い頃から駄目な祖父に英才教育をほどこされたエリート狩人の卵だよ。
 ついでに先程の疑問をぶつけてみる。
「でも、人の死体とかゾンビの死体は駄目だったよね?この羆の死体は平気なの?」
「えっ?だって動物ですよ。北路さんだって牛とか豚の死体を食べるじゃないですか?」
 文月さんは不思議そうに尋ねてくる。正論だが確かに正論だが、昨日文月さんに向かって『普通で良いんだよ』とか言ってた奴は救いがたい馬鹿だと思う。

「でも、これだけ大きいと私達だけでは1日や2日ではちゃんと解体するのは無理です」
 そりゃそうだと頷く俺に、文月さんは驚きの言葉を投げかけてきた。
「まずは吊るして血抜きしてから、内臓を取り出してから鋸でバラバラにしないと、埋めるにしてもこの場から動かせませんね」
 男の俺でも想像するだけで具合が悪くなりそうな作業を、さらりと説明する文月さんが凄すぎる。
「吊るすってどうやって?」
 俺の疑問に対して、俺が水場だと思ってる場所は、実は元々は風呂であり中の鉄製の釜は本当の五右衛門風呂の釜だったのだが、爺様たちは作ったものの、丸い釜の風呂では足を伸ばせない事を不満に思い、隣に新しい風呂場を作り、ここを狩って来た獲物を解体するための作業用スペースとしたとの事だった。
 あの立派な柱と梁は、解体する獲物を吊すための物で、実際梁には滑車が取り付けられていて、車に装備されているウィンチを使って引き上げると説明してくれた。

 羆の解体の前に、加藤・福島夫妻の遺体を外に出しっぱなしにする訳にはいかないので、ブルーシートで包んで一旦ログハウスの中に入れる。
 文月さんがヒグマの両足をロープで縛っている間に、俺は駐車スペースに戻りH1に乗って戻ってくる。
 キャンピングカー以外の3台には全てウィンチが着いていたが、その中でも一番重いはずのH1を選択した。6Lオーバーの馬鹿でかいエンジンを積んだこいつなら、羆を持ち上げてもフロントが持ち上がる心配は無いだろうとの判断だった。
 ウィンチのワイヤーを伸ばして滑車に通して、羆の足を縛ったロープにフックを引っ掛けて、ウィンチでワイヤーを巻き上げていくと、見事に400kgはあろう巨体が逆さになって吊り上げられた。
 釜の底の側面に開いた排水口の栓を抜いてあるので、上半分が吹き飛んだ頭部と切られた手首から流れ落ちる大量の血は、水道管から流れ込む水と混ざり、排水口を抜けて赤い川となって流れていく。
 血液だけなら、沢の川に流れ込めば短時間で流され臭いが拡散するので問題は少ないと自分に言い聞かせるしかない。

 血抜きに平行して内臓を取り出す。
 この糞暑い中、随分と大き目のビニール製の合羽を着込んで、羆の死体の下腹部に、だらりと垂れ下がる男性器を左手で脇に避けて切れ味の良い出刃包丁を突き刺すと、そのまま押し下げ臍を通過して胸骨の真下まで腹を縦に切り裂く。
 すると開いた裂け目から顔を覗かせた太い腸がまるで巣穴から顔を覗かせた大蛇のように零れ落ちていく様は非現的過ぎて軽く眩暈を覚えた。
 一方、咽るような独特の生臭さにこそ顔を顰めるも、ビジュアル的には全く平気な様子で作業を進める文月さんが、あまりに男前過ぎて兄貴とお呼びたくなる。

 食道をこみ上げてくる甘酸っぱいものを感じて、一旦水場を離れて深呼吸した俺の背中に文月さんが呼びかけてくる。
「北路さん見てください」
 振り返る俺の目に飛び込んできたのは、文月さんが笑顔で俺に向けて突き出して見せる左手で鷲づかみにした血まみれの赤い塊。
「ちゃんと心臓の真ん中をとらえてましたよ。凄いです」
 彼女が左手に持った羆の心臓をぎゅっと強く握ると、その中央部に開いた裂け目から血がピュっと噴き出した……そのあまりのワイルドさに、文月さんが遠くに行ってしまったような寂しさを覚える。
「心臓を捉えた割には、即死しないで反撃し上に、更に襲ってこようとしたけど?」(即死とは瞬時に死ぬの言う意味ではなく、致命傷を受けたその現場で死ぬこと。ニュースなどで伝えられる即死という言葉には、事故で大怪我を負い、何らかの理由で救急車の到着が遅れて30分後に事故現場でそのまま亡くなった場合も含む)
 文月さんが撃ってくれなければ、俺は殺されていただろう。
「羆はライフルで撃ち抜かれて心臓が破裂しても直ぐ死はしませんよ。何十mも離れた場所から羆の心臓を撃ちぬいたハンターが逆に襲われたって話も聞きます。まして心臓に刃物が刺さったくらいでは駄目です」
「マジで?」
「はい。マジです」
 いかん。ボウガンを使って鹿でも撃って狩猟の経験を積んでから、周辺の羆を狩ることも考えていたのに全く自信が無くなった。
 いや、そもそもボウガンで羆を狩るのは不可能だとはっきりしたはありがたい。実践してみる前で助かった。文月さんが狩りに詳しくて本当に良かった。これも素晴らしい御祖父さんの薫陶のおかげだ。

 抜き取った内臓。特に消化器系は、各部を文月さんが各部の入り口と出口を手早く縛って内容物が飛び出さない処置をしてから、切り離し、更に内臓を腹壁に固定している腹膜を引き剥がしてゴミ袋に入れて縛る。(詳しい描写は控える)
「内臓もきちんと処理すればもちろん食べられると思います。でも私も胃の内容物を見たいと思いませんし。腸の中も洗浄したいとは思いませんし……」
 文月さんの言葉に、千切れんばかりに首を立てに振って賛同した。
 同様に毛皮もそのまま廃棄することにした。十分に冷やして皮下脂肪を固めてから足の方から剥ぎ取り、更に皮の裏側にはり付いた肉や皮下脂肪を丁寧にはがして、乾燥してなめしてという大変手間が掛かる作業を経てまで手に入れたいものではなかった。

「この羆からどれくらいの食用肉が取れるの?」
「羆は分かりませんが、鹿の場合はきちんと丁寧に解体すれば、大体獲物の体重の1/4位の食肉が取れます。でも今は簡単に取れる部位だけを取るつもりなので、更にその半分にもならないと思います」
 それでも鹿と同じだと考えるなら50kg近い食肉が取れるのか、だがそんな量を食べきれるはずもない。冷蔵庫……まあキャンピングカーに備えてあるが、今は電源は入ってないし、入れるつもりも無い。そんな状況では、腐りづらいように処理を施しても、この気温が続くなら2-3日が限度だろう。
「なら、そんなに取らなくていいんじゃない?どう考えても腐る前に10kgも食べられるわけじゃないんだし」
「そうでもありませんよ。味噌漬けとか糠付けにして、袋に詰めてこの釜に沈めておけば1月くらいは持ちますし。他にも燻製にして長期保存することも出来ます」
 そうか、冷たい湧き水が流れ込んでいる水場の釜の中の水温はかなり低い。その中に沈めておけば冷蔵庫代わりには使えるだろう。
「……改めて本当に文月さんが居てくれて良かったと思うよ」
 こんな血塗れ肉片塗れの状態じゃなかったら、抱きしめてキスの一つもしたいくらいだ。

 そのまま作業を続けること3時間。羆を骨ごと解体するための鋸さばきも上達した頃。俺の解体作業は終了した。
 時計を見ると午後2時前。文月さんはまだ食肉部位の切り分け作業をしている。
 血塗れの軍手を脱いで、水道管から流れ落ちる水で手を洗う。水ですすいだだけだから血生臭さは残ったままだろうが、両手で鼻を覆って臭いを嗅いでもすっかり鼻が馬鹿になっていて良く分からなかった。
 子犬たちは、切り分け作業で出た肉の切れ端を包丁の背で叩いて潰したものを、文月さんから時折貰って食べている。
「子犬たちはもう離乳食だけでなく、固形物も食べられるみたいだね」
「様子を見て、少しずつ食べさせていきましょうか?」
「そうだね」
 小さい頃から熊の肉を食べさせた犬は、熊とも勇敢に戦う狩猟犬に育つと聞いたことがあるような無いような。
 まあ、柴犬は小型犬だからどのみち熊と戦うのは無理だけど。
「そういえばお前達、今回はちゃんと羆が来たことを吼えて教えてくれたな。偉いぞ」
 しゃがみ込んで子犬たちの頭を撫でる。褒められたことが分かるのか嬉しそうに尻尾を振りながら鼻で甘えたように鳴く。それを見ているだけで優しい気持ちになれる。
 俺と文月さん。そして子犬たちは、一緒に生きていく家族だと言う感情が生まれるのを初めて感じた。

 文月さんの作業を待つ間、俺は羆の内臓や骨に毛皮などの不要な部位を富良野市の緑色のゴミ袋や、上富良野町のピンク色のゴミ袋に詰めていく。
 その重さは、食肉として確保する分や、川に流した血の分を除いても350kg程度はあるわけだ。
 それは、先に埋葬した石田夫妻と、加藤・福島夫妻の6人分の体重の合計を大きく超えるはず。つまり埋めて処理するなら、先日掘った墓穴に匹敵する穴を掘る必要があるが、正直今はとても無理だ。
 結局、車に載せて地図で確認した橋まで移動し、橋の上から川へと投棄することにしたのだ。
 だが道端などに放置するよりは他の生存者の目には付きづらいだろうが、川に十分な水量が流れていなければ、長期に渡り死骸が残って人目に付く可能性がある。
 見つかってしまえば、死骸の処理に人間の手が加わっているのは一目瞭然。なにせ骨の一部は鋸で切断されている。
 解体して捨ててあるということは、解体しなければならなかったということであり、つまり羆の死骸を現場から移動させる必要があった。
 それだけの情報があれば、羆を倒せるだけの手段を持った人間が、そう遠く離れてない場所に隠れ住んでいる可能性にたどり着けないことは無いだろう。
 そして疑いを持って周囲を探索すれば、山道への入り口を見つけるのは難しいことでは無い。
 それゆえに気は進まない。しかし他に方法が無かった。

 H1の後部の荷台から荷物を降ろして、ログハウスの中に運び込む。
 荷台部分は完全防水で簡単に中の汚れを水で洗い流せるように排水口まで付けられていた。
 文月さんの話によると、撃った鹿は荷台に載せてここまで運んでから解体するので、荷台が汚れてしまうのは前提のため、このように改造されているそうだ。

 文月さんの作業が終わるまでの間に、水場の釜やその周辺の掃除。そしてライフルで吹き飛ばされた羆の頭部のパーツ──そうオブラートに包んだ表現をしないとつらい──を拾い集めた。
 釜の排水口に栓をして水を張り、空気を抜いて袋詰めした食肉を中に沈める。脂肪の多い部位などはどうしても浮くので石を括りつけた。

 助手席に女の子を乗せてハマーでドライブ。なんて心沸き立つシチュエーションだろう……助手席の女の子がライフルを持ってなければ。。
 それにしても左右の感覚が麻痺しそうな車幅2mを大きく超える大型車。しかも慣れない左ハンドルで、狭い山道を下るのはかなり神経を使った。
 H1よりも更に大きなキャンピングカーだったら危なかったかもしれない。
 また文月さんからもこの車は不評だった。助手席と運転席が離れてると言われたら、くすぐったい気持ちになる。
 まあ、どんな雰囲気も窓を全開にしてもなお後部荷台から迫り来る臭いが全てを台無しにしてくれた。

 5kmほど東へと走った先にある橋の中央に車を停めると、欄干から下を覗き込む。
 下を流れる川は、棄てた死骸を直ぐに下流へと押し流してくれるほどの強い流れではなかったが、一度強く雨が降って増水してくれれば、この橋から見下ろして死骸を見つけるのは難しくなるだろう。
 後部ハッチを開けてバラバラになった死骸の入ったゴミ袋を取り出す。そのまま袋ごと橋の下を流れる川に投棄しようかとも思ったがやめる。
 今更、環境問題とか言い出す気は無いが、バラバラのまま流されてきた死骸の方が、カラフルなゴミ袋入りの死骸よりも目を引かないだろうし、魚などが生物が食べて始末してくれることを期待できる。
 俺が袋を欄干の外に出して支えて、文月さんがナイフで袋を切り裂いていくと、後は重みで勝手に袋が破けて中身をぶちまけていく。
 今となっては貴重な10枚近くのゴミ袋を無駄にしたが、おかげで橋の上にはほとんど汚れが残らないで済んだので、後で誰かがここを通ったとしても車なら確実に見逃してくれるだろうし、一度軽く雨さえ降ってくれれば歩いて通ったとしても気付くこと無いだろう。

 帰る途中に車を道の端に停める。
 別に後方から来る車のために道の端に停車するなんてルールもマナーも全て過去の物だが、未だそれに囚われている自分が少しおかしくなり笑いだし、文月さんに怪訝な顔をされる。
「つい以前までの常識に従っている自分がおかしくて、笑っちゃったんだよ」
「良いじゃないですか無理に変えなくても。以前の通りでいられるなら以前の通りでいましょうよ」
「そうだね」
 そう笑って答えるも、俺は以前の俺ではなく確実に変わってしまった。人だって殺した。
 俺が変わってしまっているように、文月さんも変わっているのだろう。その変化が何であれ成長と呼べるものなら、彼女があるがまま、そしてなすがままに変わっていく様を見守りたい。

 車を降りた俺は、道路の北側に切り立つ岩肌の斜面から崩れて、道路脇に積もっている砂利を道路のアスファルト上に蹴り散らした。
「これは何のためです?」
 以前なら「こらーっ!」と叱られそうな突然の子供の悪戯のような俺の行動に戸惑う文月さん。
 まあ、悪戯と言えば悪戯だろう。文月さんのそんな様子を楽しむために、説明無しにやってる訳だから。
「この様子をカメラで撮っておくんだよ」
 そう言ってウェストポウチから、今となって名前倒れの携帯電話を取り出すと少し退いたアングルで砂利の散らばる道路を撮影した。
「今度ここに来た時に、撮影した今の状況と見比べて、人が通ったのか、どれくらい通ったかが分かるから」
 俺の言葉に文月さんは感心してくれたが、単に俺は臆病なだけで、こうしておかなければ安心出来ないだけ。
「さあ帰って、今日の本当の目的を終わらせないとね」
 文月さんをそう促して車に乗り込む。


 戻ってきた俺と文月さんは、ログハウスの中の加藤・福島夫妻の遺体を1体ずつ猫車に乗せると墓へと運ぶ。
 俺が遺体を穴の底に寝かせている間に、文月さんは沢へと下りる道の手前に咲いている黄色い花を摘んできて、横たわる彼らの胸に一輪ずつ添えていく。
 昨日埋めた石田夫妻も顔と上半身の辺りを掘り返して、同様に胸に花を添える。
 生きてる人間の下らない感傷かもしれないが、そう分かっていてもやるべきだと思う。
 死者とって意味の無いことでも、生きてた頃は同じように下らない感傷を抱えて生きていたのだ。
 宗教には関心が無い俺には、死者を慰める祈りの言葉など知らなかったが、文月さんがお経を唱えてくれた。
 本当に今時の子供じゃないなと思うが、それがマイナス要素だとは全く思わない。


 気付けば太陽は西に大きく傾き山の端にかかろうとしてた。
 南斜面を見下ろす場所に六つの墓標が立っている。
 棺桶も何もなく、ただ深く掘った穴に遺体を埋めて、動物に荒らされないように上に石を積んだだけの墓。
 墓標にはまだ名前さえ刻まれてないが、文月さんのお祖父さんと共にここで山小屋を建てた友人達とその奥さん達がここに眠っている。
「ただの自己満足なのかもしれません。でもこうやってお墓に入れて喜んでると思うんです。ありがとうございました」
 埋葬が終わり、改めて襲ってくる悲しみをこらえて無理に笑ってみせる文月さんの顔は土に汚れていた。俺の顔も同じように汚れているだろう。

「文月さん。ここでの生活が落ち着いたら、俺たちが最初に出会った山に行こう」
「え?」
「この墓の隣で、皆と一緒に眠るべき人達がいるよね?」
「……はい!」
 返事と同時に文月さんは俺に抱きつき、堰を切ったように身体を小さく震わせながら泣く。
 今まで堪えてきたものを全て吐き出すように大声で泣く。
 とても強くて弱い。俺が守るべき存在であり俺を救う存在。腕の中にその温もりを感じながら、これからも彼女と一緒に生きていきたいと思う。
 文月さんを守るために生きるのではない。誰かのためではなく自分のため、彼女と共に生きたいと思う自分のために生きたいと心の底から願うことが出来た。

 こうして死に場所を求めて始めた俺の旅は、生きる意味を見つける事で終わりを告げた。
 だが古来より「人生とは旅である」と言う言葉が多く残されているように俺はまだ人生という旅の中にいる。
 俺はこの旅を最後まで楽しもうと思う──彼女と共に。


 おわり

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あとがきと言い訳と解説はまた後日に。


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