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[32355] 【習作】こーかくのれぎおす(鋼殻のレギオス)
Name: 天地◆615c4b38 ID:b656da1e
Date: 2012/03/31 12:04
 少年、レイフォン・アルセイフはふと窓の外を見た。
 一面に広がる灰。大地も、枯れ木も、空でさえも、全てが枯れ果ててている。悲しげに吹く風とそれに舞う砂だけが、毒素に塗れたこの世界が、まだ辛うじて生きていることを教えていた。
 終末。かつて、世界がこうなる前に。誰かがこうなるであろうと無想したものの中に、この景色は存在したかもしれない。そんな世界で、彼は生きている。未だ生かされている。
 そんな事を改めて認識しようとして、レイフォンは諦めた。特別に意味のある行為ではない。ましてや、自分が見る景色が都市の外縁部から放浪バスの窓際に変わったからといって、見え方が変わろうはずもなかった。それが変わるとすれば、心持ち次第。

(そういう意味なら、僕の見え方は変わるんだろうな)

 皮肉げに口元を歪めながら、なんとなしに窓に張り付いた砂粒がまとまって飛ばされていくのを視線で追った。翻弄されるだけの無情な光景は、まるで自分がそうされているかのようで。否定しようとして、そのままでしかない事を思い出し、やはり自嘲するしかなかった。
 下らぬ事を考えながら、窓縁に肘をついて。ふと、わずかに腹が空腹を訴えていることに気がつく。備え付けの時計を見れば、時刻は十二時を少し回ったくらい。
 バスの中は所々で話し声が聞こえるものの、それなりの静寂を保っている。寝るのも考え事をするのにも邪魔をしない、心地よい喧噪。そんな事を自覚するのは、初めてかもしれない。
 食事をとってもいいが、何となくそれは躊躇われた。特別な意味などない、本当に思いつきなだけの行為。あえて理由をつけるならば、腹は空腹を訴えていても気分はそう主張しなかったから。
 窓についた肘を肘掛けに戻して、背もたれに深く体を預けた。感触は控えめに言って堅い。何年も、幾人もの人間が座り続けたであろう座席は、有り難くもない堅さで己の苦労を主張していた。倒れた時に思わずため息が漏れて、剄息が乱れる。もう必要のない技術とはいえ、ここ数年途切らせた事のないそれを乱してしまえば違和感を残す。

(僕は……落ち込んでいるのか……。それとも、焦っている?)

 わからない。判断もできない。そして、割り切る事も。
 武芸者、つまり、武芸を扱う者。レイフォンをレイフォンたらしめていた存在。それをもう必要ないと捨ててしまうには、その業は体に染みつきすぎている。
 いっそ、全て忘れて捨ててしまえれば楽になれるのに。……本当に? それも、わからない。
 堂々巡りだけが続き、答えなど出ない。そもそも答えに向かって歩くつもりがあるのかすら怪しい。それでも、この空いた時間を潰すのは容易ではなく、つまらない事ばかりが脳裏を繰り返し渡っていき――
 がさりごそり。
 たらり、と。レイフォンの頬筋を一滴の汗が通り過ぎた。それがどういった意味のものかは、わずかに強ばった彼の顔を見ればわかるだろう。

(音なんか、してないよね? うん、してない。僕は、何も、聞いてない)

 言い訳じみた自問自答をして(実際その通りなのだが)レイフォンは気を取り直し、なるべく落ち着いて体を伸ばした。
 可能な限りリラックスできる体制をとり、ついでに活剄も使って体の緊張を取り払う。武芸云々で悩んでいたことなど棚に上げながら、とにかく今は余裕がほしい。ついでにいえば現実逃避する時間も。
 ……未だに、バッグはもぞもぞと動き続けている。目を背けるのも、限界がある。
 何がいけなかったのだろうか、レイフォンは自問しながら、ひっそりと頭を抱えた。大げさに動いて誰かに気づかれては、控えめに言っても大騒ぎになるだろう。
 ちらり、と横目で隣の席を見た。かなり大きなバッグは、時折ぼこりと中身を膨らませ、小さな音を立てている。まるで生き物が入っているかのようだ。まるで、だ。まだ確定ではない。確認をしていないのだから、かもという可能性でしかない。そう念じる。
 グレンダンを追い出されたのは、つい昨日の話だ。見送りが家族のような少女ただ一人であったというのは、犯罪を犯した自分には上等すぎる、レイフォンはそう考えていた。
 持って行く荷物は、さしたる量にはならなかった。元々物欲が乏しいのに加えて、物というのは大凡が孤児院の共有財産だったから。衣類以外にこれが自分の持ち物だと言えるような道具は殆どない。
 それでも、人一人が住居をかえると言うのであれば、荷はそれなりに嵩張る。使おうと思っていたトランクケースが使えなかったのも、理由の一つではあった。
 そして、出がけに幼なじみの少女――リーリン・マーフェスとぎりぎりまで話していたのも、まあ一因ではある。とは言っても、何が一番いけないのかと問われれば、それはレイフォンの不注意以外にありえないのだが。
 荷物が増えてそれに気づかないなんて、間抜けにも程がある。
 僅かに時間を超過してしまいそうだった事から、自然と活剄を使い身体能力を上げてバスに向かっていた。重量に違和感を持てなかったのも、これが原因であると思われる。
 かくして、それに気づきもせずにバスに乗せてしまった。しかも気疲れからか、その日はかなり早くに寝入ってしまい、起きるのも遅かった。起床してからは間の抜けた顔で何を見るでもなく外を眺めて、そして放浪バスの出発からほぼ一日。やっとそれに気づくも現実逃避を始め、それにも限界を感じる。
 額に、いやなプレッシャーと脂汗の存在を感じながら、大きなバッグに手を伸ばす。チャックに触れそうになった所でぴたりと止まり、そして手を引っ込めた。

(神様仏様悪魔様ほかにはええと……、とにかく何でもいい! 冗談であって下さい!)

 手を合わせながら最後の抵抗、神頼みを敢行。強くつぶった目をうっすら開いてバッグを見ても、やはりぼこぼこと蠢いている。
 この時点でレイフォンは、半ば泣きそうになっていた。
 決まり切らない覚悟、それでも指は伸びて、そして禁断の扉を開く。
 ――バッグの中には、人間がいた。

(決めた。僕はもう二度と神様なんて信じない。今まで信じてた訳じゃないけど、これからはもっと信じない)

 本人もよくわからない覚悟で、偶像に八つ当たりをする。
 開かれたチャックの隙間からは、小さな子供が笑顔の隙間に不安を潜ませた表情で見上げていた。その様子は「ちょっといたずらしちゃったけど悪気があったわけじゃないし、ちゃんと反省するから怒っちゃいやだよ」と言わんばかりの顔だ。
 レイフォンはいよいよ頭痛を感じた。気のせいで済ませられそうもない、本格的に脳の芯から響くような疼痛。
 旅行用バッグに入る程度の矮躯なのだから、当然背も体重も小さい。まだ男女の差が出ないような顔立ちといい、確実に幼児の域を出ていない。それでもその子供が女の子だと判断できるのは、金色の綺麗な髪が腰まで届いているからだろう。
 リーフェイス・エクステ。それが少女の名前であった。近しい者はリーフィと呼んでおり、それはレイフォンも例外ではない。
 少女は孤児院の後輩であり――そして、リーリンを除けば、レイフォンと一番縁が深かったのだから。
 一度叱ってやってはいけない事だと分からせるべきだ。それは理解していたが、レイフォンにはそうする事ができなかった。不安げに視線をさまよわせるリーフェイスを見てしまったから。それに、少女の顔の近くには、固形バランス食品の袋とストローのついた飲料ボトルが転がっている。誰かが入れ知恵と協力をしたのは明らかで、リーフェイスだけを叱りつけるのはアンフェアだと感じた。
 それに――レイフォンが今まで気づかなかったのは、それだけ息を潜めておとなしくしていたからでもある。丸一日、最低限の食料と動きでじっとする、それが苦痛でない訳がない。苦しみながらも、それでもこの少女はバスが引き返せなくなるまで堪え続けたのだ。ただ、レイフォンについて行きたい一心で。
 気づいて、喜びを感じてしまったから。もうリーフェイスを怒ることはできなくなっていた。

(本当に、僕はいつもこうだな……。いつも優柔不断で、思い切れるのは武芸をしてる時くらいで)

 と、力なく笑いながら、リーフェイスの頭をそっと撫でた。少女はくすぐったそうに体を捩りながら、不安の消えた笑顔になっている。
 レイフォンの顔からも、疲れは見えても苦々しさはなくなっていた。未だに決めかねてはいる。まだ一緒に連れて行く覚悟ができたわけではないが、既にグレンダンに戻す事もできないのだ。
 覚悟がなくても、もう連れて行くしかない。覚悟がなかろうが、義務を背負えば動くしかない。
 なんとなく。本当に、ただの思いつきでしかないのだが……背負うものがない自分はどこまでもふらふら漂っている様子が、たやすく想像できた。想像の中ですらしっかりできない自分を笑いながら、きっとこれくらいが丁度いいのだと。重荷があった方がレイフォン・アルセイフに合っているのだと、本気でそう思える。
 考えなければいけない事は沢山ある。二人が生活できるお金の稼ぎ方と住居、行き先が学園都市であれば、まあ一般的な勉強をできないという事もないだろう。他にもどこかに迷わないよう注意をしたり、向こうでの生活のルールを決定したり。ぱっと思いつくだけでもこれだけの案件が出てくる。
 しかし、とりあえず。レイフォンは相変わらずリーフェイスの頭を撫でながら、この子をバッグから出すことから始めようと思った。
 いつもリーリンが念入りにセットしている髪はぐしゃぐしゃで、毛の隙間には食べかすが付いてしまっている。それも、今度からはレイフォンがしてあげなければいけないのだ。
 少し体を動かしながら視線を上げて――レイフォンはびくりと震えた。汚染獣を見た訳でなければ、とにかく劇的な何かがあった訳でもない。ただ、視線があっただけだ。

「……」
「……」

 どちらも口を開くことなく、互いが互いを観察する。
 体までこちらに向けて立っているその女性は、一言で言えばケバい中年だった。およそ運動らしい運動はしていないのだろう、全身が満遍なく脂肪で覆われている。化粧は濃く、誰に見せれば喜ぶのか疑問なほど強烈なアイシャドウを入れている。服もやたら派手だが、それはどうでもいいだろう。今重要なのは、その中年女性が口と目を大きく開き、戦慄しながらレイフォンを見ているという事だ。
 対して、自分はどう見えるだろうと振り返った。服や持ち物は古くくたびれているものの、普通の範疇に入るだろう。……悪意を持って見れば、服を替えられないほど放浪生活を続けているともとれる。顔立ちはどうだろう。何とも気力が足りない間の抜けた顔だとは言われたことがあるが、犯罪者面だとは言われたことはない。……悪意を持って見れば、その人畜無害な顔立ちで人を騙し続けたと主張できる可能性もなくはないか。
 一つ一つを見れば、言いがかり未満の妄想でしかない。が、バッグに詰められた子供の頭を撫でながらなら、それは真に迫るものがある。

「…………」
「…………」

 今度は、さっきよりも長い沈黙。どちらも声を上げることはできず、ただ視線を交わした。嫌な空気を纏わせながら。
 沈黙を破ったのはどちらでもなく、丸まったままの少女だった。もぞりと体を動かして、もっと撫でてと言わんばかりの行為。少女が動こうとすれば、当然それを見る者の景色も動く。髪が指の隙間から勝手にこぼれ落ちて、ついでにぐいとチャックを押し広げた後頭部が、大きく露出。
 女性の体が、びくりと跳ねた。レイフォンの体も、つられてびくりと跳ねる。
 既に女性の視線は、ただの驚嘆から色を変えていた。つまり、ただ驚いていただけのものが、明確に犯罪者を見るそれへと。
 レイフォンは、先ほどまでとは比較にならない量の冷や汗をかいた。何がまずいって、今の時点でいいと思える情報が一つもないのがまずい。
 一歩後ずさる女性、その体を追う様に腕が泳いだ。それを確認した女性は、ひっと小さな悲鳴を漏らす。

「きゃああああぁぁぁぁ!」

 バスの中を金切り声が占拠した。全ての乗客が――それこそ運転手までもが――何事かと振り向く。
 とっさに耳を塞いだが、それでも精神的な圧力は相当なものであり。可能な限りの驚嘆をしながらレイフォンを指さす女性はしかし、もうバッグから顔を覗かせて唖然としている少女すらもどうでもいいのかもしれない。
 あらゆる周囲の状況を全く無視して、もう一度女性は叫んだ。

「誘拐よおおおぉぉぉぉ!」
「いやっ、ちょ、まっ、ちがっ!」
「い・や・あ・あ・あ・あ・あ・あ!」
「お願いだから話を聞いてええぇぇぇ!」

 なんとか女性を落ち着けようと、それ以上に誤解を解こうと声を張り上げながら。周囲の冷たい視線に今度こそ泣き出して。
 学園都市ツェルニで人生をもう一度やり直そうと意気込んでいたレイフォンの。なんとも幸先の悪い始まりの出来事だった。



[32355] いっこめ
Name: 天地◆615c4b38 ID:b656da1e
Date: 2012/03/25 21:48
 自分はよく後悔をする。それは、レイフォンの混じりっけのない本音だった。
 勢いで――あるいは何も考えずに――行動した時は、大抵どこかで行き詰まる。そして、行き詰まった先はやはり大抵自分の得意分野では、つまり武芸ではどうにもならない場合ばかりだった。
 いい加減学習能力がないと思うが、それでもやってしまうものはやってしまうのだ。元来、あまりものを深く考える質ではなく、その癖に思考はかなりネガティブ。おまけに運も悪いとなれば、自分は悪くないと愚痴の一つも言いたくなる。まあ、言ったところで現実は僅かも変わりはしないのだが。
 では今回、何がいけなかったのかと言うと、これは一言では言えない。
 学園に到着して一週間あまり、リーフェイスを隠すのに苦労しすぎた事だろうか。見つかれば元の都市に返されるだけかもしれないが、彼女には事情があって居場所があるとは言いがたい。それ以上に、リーフェイス自身が戻ることを望まないだろう。どちらにしてもこれから六年、一緒にやっていかなければいけないのだから、これを苦労などと言っていられない。ちなみに、時々目撃情報のある子供の影が噂を呼び、ツェルニ七不思議の一つになっている事をレイフォンは知らない。
 レイフォンも、さすがに卒業するまで隠し続けられるとは思っていない。だが、どうすれば子供の滞在が許される状況を作れるのか、というのが分からなかった。できる事と言えば、なあなあで済ませられるほど長期間ごまかし続ける事くらい。
 仕事が機関部清掃しかない事に気が滅入ったのか。確かに深夜の力仕事で拘束時間も長く、稼いでも給料は殆ど学費に消えるだろう。残りの額で二人が暮らすとなれば、かなり慎ましやかな生活になる。だが、これもまだ始まってもいない仕事、今から気がなくなる訳がない。
 ならば、入学式で考え事をしていた事だろうか。式の間はリーフェイスがフリーになり、何をしているかはレイフォンにも計り知れない。結構な生徒数が一カ所に集まってはいるが、それでも二年以上は普通に活動しているのだ。誰かに見つかってしまえば、と思うと落ち着きもなくなる。
 理由、つまり言い訳になりそうなものは数あれど、どれも致命的ではない。そして、そんな事を考えた所で時間が戻るわけでもない。
 レイフォンは今、学園の中でもとりわけ豪華な作りになっている部屋にいた。部屋自体はシンプルな作りで、細部に凝らされた意匠には年期を感じる。かなり大きな部屋の筈なのに狭苦しく感じるのは、壁面を埋め尽くしている本棚のせいだろう。いかにも機能性重視の無骨な本棚には、背表紙を見ただけで目眩がしそうな本がぎっちりと詰まっている。
 部屋の中心より僅かに後ろには、重厚な木製の執務机が鎮座していた。机の上には積み重ねられた本と、あとは立てかけられた万年筆。
 座っただけで肩の凝りそうな席は、好んで座りたい類いのものではない。ついでに言えば、この部屋――生徒会長室――にも好きこのんで来たかったわけではなかった。
 全てにおいて馴染みのない、事務的な閉塞感のある部屋で、レイフォンは直立不動で立ち続ける。視線は真っ直ぐで固定して、絶対に下げないように。もしも下ろしてしまえば、この生徒会長室の主と視線を合わせることになってしまう。
 と言っても、それで逃げられるかと言えばそんな事はなく。机に肘を付いた男も、それを考慮するつもりなどなかった。

「とりあえず、座ったらどうかね?」
「あー……その……」
「まあ、立っていた方が楽だと言うならば、それを尊重しよう」

 柔和な答えだった。もっとも語尾に、この程度の事はね、と付きそうではあったが。
 カリアン・ロス。学園の最上級生にして、生徒会長を務める男。銀色の長髪に眼鏡のアクセントが特徴的な顔立ちは、美形だと言ってそれを特別否定する者はいないであろうと思える程に整っている。あと、付け加えるならば、レイフォンを呼び出した張本人でもあった。
 眼鏡レンズの内側から、元々鋭い眼光をさらに細めてのぞき見てくる。貴公子然とした容貌に似つかわしくない、トカゲか蛇か、そのあたりのは虫類を思わせる視線。
 はっきり言ってしまえば、苦手な視線だった。グレンダンの役所や王宮につとめていた政治屋でも、とりわけ地位権力が大きかった者達と同じ瞳をしている。心の内側を見透かすような――もしくは、見透かしたつもりになっているような――視線。

「まずは生徒を代表して感謝を。レイフォン・アルセイフ君。君のおかげで、大事にならなかったとは言いがたいが、自業自得な者達以外が怪我をする事がなかった」
「はい」

 こんな時の冴えた返し方など分からず、ただ言われたことに返事をする。一方的な苦手意識を裏切った、誠実な返答に戸惑ったのも理由だ。

(案外いい人なのかもしれない。失礼な想像をしすぎた……僕もナイーブになりすぎかな)

 少し落ち着こうと、気づかれぬように深く呼吸をした。普段よりやや早まっていた鼓動が落ち着く。
 もっとも、レイフォンの予想は正しく、すぐに政治を扱う者らしい姿を見せてくれたが。

「入学早々武芸を使ってまでの乱闘、これを一瞬で鎮圧した手腕は見事の一言だ。君は随分腕が立つようだね」

 カリアンの軽いジャブ。それは、油断していたレイフォンの顔面に直撃した。
 僅かに強ばったレイフォンの体を、獲物を観察するような鋭い瞳孔が捕らえる。計られている事が分かってしまうと、彼の体はさらに萎縮した。
 こんな事ならば気を抜くのではなかった。今更思っても意味がない。いつも自分の迂闊さで後悔をする、そんな性質が嫌になる。
 理由なんてものは、結局の所どうでもいい。それが必要とされると言うのはつまり、結果が既に出てしまった後だという事なのだから。起こってしまった現実に課程を求める行為が無意味だとは言わない。しかし、今レイフォンに必要なのは結果と、それの対策だ。
 疲れか不安か嫌気か、とにかく入学式に彼の精神は浮ついていた。入学式の長ったらしい口上も右から左に抜けていく。他の大多数の生徒と同様に、堅苦しい式などとっとと終われと念じていた。
 そんな時に騒ぎが起きたのだ。最初に二名ほどの罵声が上がり、それが広がって声が音へと変わる。それがレイフォンの近くにまで迫った時点で初めて耳を傾けると、悲鳴を上げながら女生徒が倒れてきた。受け止めて軽く無事を確認し、次に騒ぎの中心を覗いて。
 暴発寸前、一言で言うなばそれしかなかった。全く制御できていない衝剄を、無理して錬金鋼なしで撃ち放つ寸前。その衝突は武芸者から見れば大したことがなくとも、一般人が対象ならば十分に驚異だった。
 つまり、危険だ。危険は排除しなければならない。ぼやけて鈍った思考は、そんな簡単な回答を導き出す。結果、一瞬で二人を叩きのめし、入学式は延期した。
 かくしてレイフォンは呼び出され、今に至る。
 投げかけられた台詞に、彼は返す事ができない。迂闊な返答は言質にとられかねない以上、下手な受け答えはできないという思考が、行動を阻害していた。
 はいか、いいえか、それとも沈黙か。どれが正解か分からない。悩み言葉を選ぶが、それはカリアンによって強制的に沈黙を選択させられた。

「それとも、ツェルニの武芸者のレベルは随分と低いのかな。所詮学生レベルと言ってしまえばそれまでだが……どう思う?」
「その、そうかもしれません」

 明確に問われてしまえば沈黙を貫くのも難しく、曖昧な肯定を返す。
 大丈夫だ、念じる。この手合いは、とにかく人を探るのが得意で、好きなのだ。そう割り切ってしまえば、心の内側を占拠してたプレッシャーも多少は除かれる。

「うむ、君もそう思うか。やはり武芸の総本山であるグレンダンの、さらに頂点に立つ元天剣授受者の言葉は違うな」

 さっと、顔から血の気が引く。貧血を起こしたかのように目の前が暗くなっていき、思わず倒れそうになる。体制を維持できていたのは、奇跡に近い。

(知られていた! どこまで知ってる……どこまで調べたんだ?)

 どれだけの過去を把握把握されているか、懸命に推察しようとするが、すぐに無意味だと気がついた。どれほど細かく知っていようが、さほどこれからの展開に影響はないのだ。
 元天剣であり、その資格を剥奪され、グレンダンから追い出された。これだけで十分だ。レイフォンを脅迫するならば、これだけ知っていれば事足りてしまう。そして、致命的な情報は全て握られていた。
 暗くなった視界で、椅子に座ったままの男を見る。相変わらずの姿勢で、しかし笑みだけは深くなっていた。
 沈黙は上手くない。ここでそれをしてしまえば、それは肯定しているのと同じだから。しかし、からからに乾いた喉とやけに痙攣している口内が、言葉を発するのを許さない。
 だが。仮に口を開けたとして、何と言えばいい?

「武芸者の質が悪い、これはツェルニの誰も否定しようのない事実だ。誰がどう言い訳をした所で――武芸大会で負け続け、セルニウム鉱山をあと一つまで削られた事実は覆らない」

 セルニウム鉱について、専門家でもないレイフォンが知っていることは、そう多くない。一般常識の範疇で述べてしまうのだとすれば、都市を稼働させるのに必要な動力源。
 むしろレイフォンに、と言うか武芸者に関係があるのは、セルニウム鉱山の獲得方法だろう。
 普段汚染獣を避けながら大地を放浪する自立型移動都市レギオスは、二年に一度同種の都市と接近する。生存競争でもするように、互いに一つずつセルニウム鉱山を賭けた戦争を仕掛けるのだ。その戦争に捻出させる戦力とは、つまり武芸者であり。武芸者の弱い都市は、いずれ糧を失って死ぬことになる。

「上の実力は他都市とそれほど差がないらしいのだが、正直に言って私はそれを信じていない。そんな希望的観測に縋るくらいならば、確実に戦力を確保する。仮にそれが正しかったとしても、今から鍛錬の質を上げてなどという悠長なことをしている時間もない。今ツェルニに必要なのは、上位陣の実力の保証でも優れた教育カリキュラムでもない、純然たる不条理だ。千の努力、万の群れを一薙ぎにする超越した圧倒的な力、それなのだよ」

 カリアンは立ち上がる。今までごまかしていた曖昧な視線、それを真正面から捕らえられた。作り笑いの消えたその顔は、容易くレイフォンを威圧する。
 強烈な、他者を踏みにじる事も厭わない熱意と、支配者層らしい人に圧力をかける事に長けた視線。その二つが精神に絡みついた。

「私はそれを手に入れるためならば、何でもしようと思っているのだ。レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフ君」

 ……知られている、全てが。不利になることが、ではなく。最も暴かれたくない事、ヴォルフシュテインがいかにしてその資格を剥奪されたかが。
 今からごまかしてどうにかなるか、考えるがそれは無理だと結論する。カリアンは最初から、レイフォンが天剣授受者本人だと確信して話している。どれほど否定しても、そういう事にしておこう以上の対応にはならないだろう。そして、天剣くらい強い誰かとして、事実を暴かれない代わりにいいように使われる。
 認めようが認めまいが、弱みはもう握られているのだ。既に詰んでいると言っていい。

「とは言え、私も好んで事を荒立てたい訳ではない。実際、君とはいい関係を築いていきたいんだ。まずは……まあ当然の話だが、武芸科に転科してもらって、奨学金ランクをDからAに変更しよう。これで金銭的な負担はかなり軽減される」

 再び人の上に立つ者らしい笑みを作って、同時にゆっくりと歩き出す。

「これで週に3日も働けば、食うに困ることはないだろう。もちろん武芸に支障がでない程度ならば、どれだけ働いてもかまわないけどね。それに……そうだな。武芸大会で結果を残してもらえば、それに応じて賞与も出そう。額までは確約できないが、少なくとも慎ましやかに暮らせば数年は持つ金額を約束する」
「別に……お金が欲しいわけじゃありません」
「そうかね?」

 レイフォンの必死の抵抗に、しかしカリアンは至極どうでも良さそうに返した。

「だが生きるのには金が必要だ。なくて困る事はあっても、あって困る事はまずない。それに、これは何ら後ろ暗いものなんてない、純粋なビジネスの話だよ。レイフォン君は労働力を、私はそれに対価を支払う、それだけの話だ」
「でも……僕は……」

 言うとおりにするしかないのかもしれない。だが、その程度の事で割り切れるのであれば、そもそも悩んだりなどしなかった。
 自分がやっていた事は犯罪だ。分かっている。事情があれば許されるという話でもない。分かっている。誰にも理解されない。分かっている。でも、分かっているつもりなだけだった。
 名誉など要らなかった。天剣だって、絶対になければならないものでもない。町の人から冷たい視線を浴びせられるのも、耐えるのにそう苦労はなかった。
 それでも、家族だけは別だ。心のどこかで理解してくれると思っていたのだろう。
 尊敬の視線が蔑むものに変わった子供達。次々と縁を絶ち連絡を拒絶する兄姉。視線を合わせる事もなくなった養父。どうでもいいものと一緒に、本当に必要なものまで掌から零れ落ちたと知ったのは、それらを味わってからだった。
 未だに思い出すだけで右手が震える。かつて天剣を握っていた右腕が。

「そう悩むことではないよ。少し実力を発揮してくれれば、君ならば容易く達成してくれる。それに、分かってはいるのだろう? この話を受けるのが一番いいとは。レイフォン君にとっても、私にとっても、ツェルニにとっても、都市に住む者達にとっても、誰にとってもだよ」
「それは……そうですけど」

 いつの間にか接近していたカリアンが、軽く肩をたたいてくる。悪魔の誘惑に似たそれに、一層気が重くなる。
 武芸者が戦えば、それがどんなに利己的なものであったとしても大義に準えられてしまう。いつの間にか、都市のために清く正しく力を振るっていると解釈され、そう動くことを強要される。
 力を示せば、恐らくツェルニでも同じような扱いを受けるだろう。そして、偶像となったレイフォンを信じる彼らにとって、カリアンとの契約などは考慮にすら値しない。勝手に信じて、勝手に裏切られたとわめき立てる。
 それが見知らぬ誰かならばどうでもいい。だが、もし親しくなった人達であったら……もう一度、同じ思いを味わう事になるのだろうか?
 過ちを繰り返すつもりはない。だが、友人が、家族が、命の危機に瀕して。犯罪行為であってもレイフォンが動けば助かるのであれば、もう一度そうしない自信もなかった。
 もっと冴えたやり方があるかもしれない。だが、武芸しか取り柄のないレイフォンに、そんな方法が分かるわけがない。

「条件に不満があるならば、可能な限り対処しよう。ないならば、ここにサインをしてくれるかな。あとは、そこの紙袋に武芸科の制服が入っている。それを持って行ってくれ」

 まるでもう決まったかのように、胸元に書類とペンが押しつけられた。見てみると書類は、奨学金ランクと転科の変更手続き。書類は見事に全項目が埋まっており、あとは名前を書くだけで決定する状態。今更ながら、最初から武芸科に行かせるつもりだったのだと思い知らされた。
 実際、脅迫で退路を断たれ、利で背中を突き飛ばされれば従うしかない。いきなり言われても追加の条件など思い浮かぶはずもなく、書類にペンを走らせようとして――
 ふと、レイフォンは閃く。その思いつきは、頭が宜しくない事を自覚する自分にしては、恐ろしく冴えたものだった。

「先輩、ちょっと、本当にちょっとだけ待って下さい! すぐ戻ってきますから! 本当に、逃げるとかじゃなくてすぐ戻ってきますからね!」
「いや、あの……レイフォン君?」
「ちょっとだけ行って、すぐ戻ってきます! 本当にすぐ戻ってきますから待ってて下さい!」

 焦りか興奮か、とにかくレイフォンはまくし立て、生徒会長室のドアを蹴破るように飛び出した。
 一人取り残されるカリアン。今まで意気消沈していた少年が急にまくし立てるのについて行けず、中途半端に伸ばした手を彷徨わせながら、ぽかんと口を開いていた。
 ちなみに。これで初めてレイフォンはカリアンに一矢報いた事になるのだが。幸か不幸か、それに気づいた者はいない。



□□□■■■□□□■■■



 フェリ・ロスという少女は。およそロマンチストであり、同時にリアリストでもあった。
 この世には神も天使も存在しない。当然だ、そういった超常存在は人が自然や理不尽に理由をつけるため、あるいは逃避するために作られた偶像なのだから。しかし、存在しないと分かっていながら、いてほしいと願うし、いてもいいのではないかと思っている。
 思考の方向が、メルヘンな嫌いがあるという自覚はあった。誰かに知られてしまえば恥ずかしい類いの考えではあったが、だからと言ってそういう要素がなければよかったとも思っていない。
 神は助けてくれる。天使は微笑んでくれる。そして、私にはきっと念威繰者以外の道がある。
 彼女が夢物語を空想し祈るのは、もしかしたら念威繰者の道しか用意されていない事への反逆かもしれない。
 誰もがフェリ・ロスという人間の念威にしか目を向けず、それは親兄弟ですらそうではない自信がない。家族ですら才能しか見ていないのではないか、そんなジレンマ。
 普通ならば馬鹿馬鹿しいと一蹴してやればいい、思春期特有の妄想だと。しかし、不幸にも彼女には簡単に笑い捨てられない程の才能があった。
 錬金鋼を持たずとも念威繰者の真似事ができ、調整された重晶錬金鋼を持てば他の念威繰者が何十人集まろうが相手にもならない。そんな力を、努力もせずに手に入れられた。
 家族が本当にこの力を愛しているのではないと言えるか? もしくは、フェリ自身への愛と混同していないと。少なくとも、フェリにはそう言い切れなかった。妄言を笑い飛ばせないだけの、才能を持ってしまっていた。
 どうでもいいと思っていた武芸者の才能に、嫌悪感を募らせるのにさしたる時間はいらなかった。二言目にはフェリを案じる言葉を吐きながら、一言目で必ず武芸を褒め称える両親が不安になる。そして、その才能に支配されて武芸者として生きる事に恐怖すら感じた。
 なによりたちが悪いのが、フェリ自身にすら、武芸者以外の道などないであろうと自覚できるほどの才能だったことだ。念威繰者以外の未来を探しているなどと言われれば、なぜそんな勿体ないことをと思っただろう。それが自分でさえなければ、だが。
 フェリはロマンチストだ。神や天使に願いを乗せてみたりする。家族は自分自身を愛していると信じているし、自分の未来は無限だと希望を持っている。きっと輝かしい明日が来てくれるはずだ――
 フェリはリアリストだ。空想の産物に願っても意味などないと理解している。家族の気持ちなど分からず、ただ自分より先に才能を褒め称える事実だけがあった。将来に選択肢などはない。彼女が武芸者意外になる事など、誰も期待はしていなかった。理想に反した嫌なことばかりが思考に居座る。
 しかし、それ以上に嫌だったのが、彼女自身が殆ど諦めてしまっている事だった。武芸者でない自分が理解される事も、武芸者以外の何かを見つけるという事も、求める感情とは真逆に何もできないでいる。
 痛烈な程に求めておきながら、ろくな行動を起こしていない自分。いつか誰かが本当の自分を理解してくれるという、本当の意味での妄言。ひたすらに惨めな姿。
 だからこそ武芸科に入れられ、やりたくもない訓練をして、今もこうして兄の使い走りをさせられていた。武芸者でない自分など、ひとかけらも見つけられないままに。
 そんなだから夢想を止められない。
 神は何者も助けない。人は人を理解しない。未来はひたすらに建設的で、恐ろしく効率と成果を優先するようにできている。一度敷かれたレールから逃れるならば、全て失い全てを賭けてもまだ足りない。非情な現実は、現実的に過ぎた。
 それでも、と。フェリはよかったと思う。自分がロマンチストで、夢の類いを未だに信じられる人間で。
 なぜならば、この世界に信じられる神はいなくとも。
 天使は、いたのだ――いたのだ!

「……ん~?」

 長椅子にうつぶせになって転がり、顔だけを持ち上げて上目遣いにフェリを見上げ、かわいらしい鳴き声を上げながら、くてんと首を傾げる。恐らく3歳か4歳くらいの少女。
 その無垢な瞳がフェリを捕らえた時、確かに彼女の心臓は何かに激しく貫かれた。それの正体などは何でもいい、ただ衝動のままに少女を視界に納め続ける。
 くりっとした大きな瞳はまるで宝石のようであり、その周囲を長いまつげが飾っていた。金色の長髪はよく手入れをされているのだろう、癖一つなく流れるような金糸が背中を隠す。長椅子に乗ったからだろうか、靴は行儀よく揃えて置かれている。黒のソックスに包まれた足は印象通りに小さく、それは前方に伸ばされた手も同じだった。年齢から考えると少々痩せ形のように思えたが、それでその子の愛らしさが褪せる訳はなく。
 昔、フェリは一目惚れというものを馬鹿にしていた。いや、一瞬前まで馬鹿にしていた。欠片も内面を知らない相手に惚れるなど、どうかしていると。
 しかし今ならば、この情動を知ってしまったならば肯定せざるを得ない。恋ではないこの思い、しかし溢れる愛おしさが止まらない。
 この世全ての可愛らしさを集めたような姿、これを天使と言わずしてなんと言う!

「おねーちゃ、だれー?」
「……え……あ」

 急に問われて、フェリはとっさに答えることができなかった。その姿に視線を奪われすぎて、上手く頭が働かない。
 上手く言えていないのは、椅子で胸を押さえられているからだろうか。そんなことは気にせずぱたぱたと足で椅子を叩く少女。その愛くるしさに、フェリは思わず赤らんだ顔を手で押さえてよろめいた。

(いけない、これではまるで変質者です)

 端から見れば完全にアウトなのだが、そんなことは気にせず気を取り直した。
 幸いにも、少女はそれを全く気にすることなく、好奇心ばかりが宿った目を向けたままだ。
 フェリは腰を落として、少女に視線の高さを近づけた。少女もそれを見てか、椅子の上に座り直すと、二人の視線の高さは殆ど同じになる。

「わたしの名前はフェリといいます。あなたの名前をきいてもいいですか?」
「ん。わたしはねー。リーフェイスってゆーの。でもね、パパはね、リーフィってよぶの」
(ぱぱって、パパ……父親、ですか?)

 一瞬その子が言った事が理解できなくて――正確には上手く連想ができなくて悩むフェリ。父という単語は、この都市においてこれほど馴染みがないものも中々ないだろう。
 学園都市とは、単純に学問所が集合したレギオスを指す言葉ではない。よほどの例外がない限り、十五歳から二十一歳までの学生のみで運用される、本当に生徒と学園しかない都市なのだ。
 そんな所で子供の存在は、極めて珍しくはあるが前例がない訳ではない。学生のうちに結婚して子供を作った例は、知識の中でだけならば知っていた。
 小さな子供であれば、親がいない方がおかしいのだが。学園都市という場所には違和感が大きすぎて、上手く思い出す事ができなかった。リーフェイスに心を奪われすぎて、その辺を失念していたのも一因だ。
 しかし、それで疑問が消えたわけではない。

(これくらいの子供がいるとすれば、確実に上級生の筈ですが……噂すら聞いたことがないなんて、そんな事があり得るのでしょうか?)

 およそ社交的な性格をしていなく、その自覚もあるフェリだったが、情報収集能力には自信がある。とりわけ手慰みに念威を飛ばしては、噂話を盗み聞きなどしていたのだから。実際、大きな噂は殆ど把握していると言っていい。
 果たして自分が、学生結婚をした上に子供までいるという、良くも悪くもゴシップのネタになりそうな話をピンポイントで逃すだろうか。少なくとも最近妙に出てきた子供の幽霊などという話よりは、よほど話しやすい題材に思えた。
 ただ聞き漏らした、もしくは聞き流したと言ってしまえばそれまでの話なのだが。なんとなく釈然としないものを感じながら、首を傾げるフェリ。
 そう言えば、そもそも学生結婚をした現役生徒の話すら聞いたことがない事に気がつく。ならば放浪バスに乗ってはぐれて来た子供か? 新入生入学の時期、可能性がなくもない。しかしその場合、なぜ子供が待たされているのが都市警察ではなく、生徒会の所有する執務塔なのかが疑問だ。第一、そうなるとパパなる人物の心当たりが完全になくなる。

(どうも……怪しいですね)

 顎に手を当てながら、一人思案するフェリ。どうでもいいと言えばどうでもいいのだが、だからといって納得できる訳でもなく。
 脳裏に何か知っていそうな人物をリストアップして――最重要参考人として自分の兄を上げながら――いつの間にか長椅子の隅を叩いていた指先。それが、きゅっと柔らかい何かに掴まれた。
 遊んでいた指を握って、楽しそうにぶんぶん振るリーフェイス。その姿を見て、フェリは胸を銃弾で撃たれたかのように握りしめた。それとは対照的に、切なそうに赤らむ顔。
 その光景の前には、どんな可能性だろうとどうでもいいものでしかなかった。

「それじゃあ、わたしと遊びましょうか?」
「んーと……あい! おねーちゃんと遊んでいい子にしてます!」

 フェリは今までの人生で一番感情を込めて語りかけた。自分ですら驚くほどに、自然で柔らかな笑み。それこそ、普段のフェリを知っている者が見れば驚嘆するほどに。
 愛らしい子供の返事に、思わずがばりと抱きついてしまった。リーフェイスは一瞬顔を白黒させるが、すぐにぱっと笑顔に戻り抱き返す。
 天使もとい天使のような少女を抱えながら、もう死んでもいいと――まるで天国にでもたどり着いたかのような状態。

「あのねー、パパはねー、すごいんだよ! 剣でねー、ずしゃーってやって、とってもつよいの!」

 フェリは少女を膝の上にのせる姿勢で、長椅子に座った。背もたれ代わりのフェリの体に、少女が体を預ける。心地よい体温が、腹から全身に広がった。
 よほど父親が好きなのだろう、リーフェイスは興奮した面持ちで指を握ったまま熱弁する。もう片方の腕をしきりに振るっているのは、恐らく剣技の真似なのだろう。

「そうですか、それは凄いですね。リーフィはどうなんですか?」
「んむ? んー、びかびかーってなって、ばりばりー?」
「そうですか。それも凄いですね」
「むん! リーフィもすごいの!」

 しかし自分の事を聞かれると、途端に曖昧な口調で疑問系になる。その様子を見ると、抱きしめる腕に自然と力が入った。肯定されて凄む様など、思わず頬ずりしたくなるほど無邪気だ。
 こうして、太ももの上で戯れるリーフェイスと一緒にいると、まるで世界が変わったかのような気さえした。普段は憂鬱でしかない執務塔の通路も、今では草原のような爽やかさを感じることさえできる。
 本当は今、兄の呼び出しを受けていたフェリだったが、すっぱりと無視する事にした。リーフェイスとの触れ合いを中断してまでするような事ではないと断言する。もし重要な話だったとしても、無理矢理そういう事にする。それに彼女の経験は、どうせ碌な用事ではないと言っていたし。

「でね、パパとせんせーはすぐケンカするの。せんせーがごわーって言うと、パパはうるさーいって」
「それは大変ですね。いつもどうやって止めてるんですか?」
「ちょっとどかーんぼかーんてやって、それで疲れたって言ってやめるの」
「先生もお父さんも、随分元気な方達なのですね」

 父親と先生、この二人は恐らく武芸者だろう。そして、先生と呼んでいる以上は、リーフェイス自身も武芸者である可能性が高い。
 こんなに小さな子供が、既に武芸者としての訓練を受けている。そう思うと、フェリの心の中に暗澹としたものが漂った。剄脈がある、ただそれだけの事で、こんなに小さな子供の未来を決められてしまうのか。……決められてしまうのだろう。今の世の中とは、レギオスの外とは、そういう脅威が蔓延っている場所なのだから。
 雰囲気まで暗くなりそうだったが、なんとか気を取り直した。笑っている子供の前でするような顔ではない。まあ、親にはリーフェイスの見てないところで、脛に一撃入れてやろうと決めてはいたが。

「パパが作るごはんね、すっごくおいしいの! リーフィ、パパのスパゲティだい好きー」
「わたしも食べてみたいですね」
「おねーちゃんもいっしょにごはん?」
「ええ。今度一緒に食べましょう」
「えへへ、いっしょにごはん、いっしょにごはん!」

 少女の父親は料理ができる、その事実になんとなく敗北感を感じながら。フェリは殆ど聞き手の状態で、時折相づちを打ちながら頭を撫でていた。
 人付き合いは苦手だ。実際友人と呼べるような相手は数えるほどしかいないし、また誰かと一緒なのも得意ではない。そんな彼女が誰かと居て心から楽しめるというのは、貴重な事だった。

(養子縁組とか、そういう事できませんかね?)

 リーフェイスの相手をする傍ら、無駄に高性能な脳を使って思考を分断。法律関係の知識を索引しつつ、かなり本気でそんな事を考えていた。
 親子でも、姉妹でも、何でもいい。とにかく家族になる、それはとてもすばらしい事に思えた。それを想像すると、顔の火照りが止まらない。まずはくたびれた服を、もっと似合うかわいらしいものに変えよう。
 その姿を想像しながら、しかしその時間は長く続かなかった。

「リーフィ!」
「パパ!」

 フェリの上で多少忙しないながらも大人しくしていた少女が、その声に顔を上げた。廊下の向こう側、丁度生徒会長室がある方向から、一人の男がやってくる。
 その男は、一言で言って冴えない男だった。顔立ちは悪くないが、どうにも垢抜けない野暮ったさがある。黒い髪の跳ねは、ファッションと判断すればいいか寝癖と判断すればいいか微妙なライン。全体像を見るとなんだか肩の力が抜けそうな、覇気が全く感じられない雰囲気。

(……あやしい)

 フェリは即座にそう判断した。
 まず制服がおかしい。リーフェイスの話を信じるならば父親は武芸者なのだが、ならば武芸科の制服を着ているはずだ。男は一般教養科の制服を纏っている。
 他にもおかしい所はある。男はどう多く見積もっても上級生(この場合は四年から六年の生徒を指す)には見えず、むしろ制服の真新しさを考えれば一年生の可能性すらあった。しかも、髪の色が茶色い。リーフェイスは鮮やかな金色だった。瞳の色も、同じ気が無きにしも非ずだがやっぱり違う。違うったら違う。
 これは、集めた情報をフェリが冷静に解読した判断であり、そこに一切の私情は挟まれていない。ついでに言うと、リーフェイスとの一時を邪魔されて苛立ってもいない。
 近づいてきた男は、フェリを確認すると一瞬ぎょっとした。まるで見つかったら不都合があるかのような態度。疑念が確信に変わる。

「靴を履いて。あと、お姉ちゃんにありがとうってしなさい」
「はい! おねーちゃん、ありがとうございました!」
「すみません、どうも世話をしてもらったみたいで。ありがとうございます」
「……いえ」

 男は、先ほどの挙動不審などなかったかのように言う。見られて不味いことなどない、そうごまかしたのだ。しかもやけに焦って少女を連れて行こうとしている。
 この時点で、フェリの中で確信が激しく燃え上がっていた。
 はっきり言って憶測が穴だらけだし、第一リーフェイスが親と認めているのだが。フェリはそんなことは些末だと言わんばかりに睨んだ。強烈な敵意を向けられた男は明らかに怯んでいる。
 子供に靴を履かせ終えた男が、だっこをしながら居心地悪そうに言った。

「それじゃあ、失礼します」
(行かせません!)

 リーフェイスを連れ去ろうとした(ように見えた)男のベルトを、両手でがっちりと掴むフェリ。進もうとして急にブレーキをかけられた男は、口元を引きつらせながら振り返った。

「あの……まだ何か?」
「失礼ですが」

 フェリは下から、男の顎をカチ上げるように睨んだ。
 完全に及び腰の男。よほど後ろ暗い事があるに違いない。

「あなたの名前、学科、学年は?」
「え? ええと……名前はレイフォン・アルセイフ。一般教養科の一年ですけど」
「今、一瞬悩みましたね?」
「いや、それは唐突な質問だったからで……」

 そんなわかりやすい逃げに騙されてやるほど、フェリはできた人間ではない。焦り続ける男を、さらに追い詰めていく。

「先ほど、リーフィから話を聞きました。お父上は随分腕の立つ武芸者なそうで」
「それは……僕が武芸者の道を希望してないだけで」
「それに容姿の特徴も随分違うのでは……」
「すみません、本当に急いでますので!」

 ベルトに捕まるフェリを、無理矢理振り払うようにして逃げようとする男。
 このまま逃がしてはいけない、リーフェイスを行かせてはいけない! 強烈な確信もとい妄想が、フェリの背中を押した。体当たりをするように男の腰にしがみつき、両手でがっちりとホールド。そして、男に向かって絶叫した。

「行かせませんよ、この誘拐犯!」
「なんで!?」

 何で、とは何の事か。誘拐犯とばれた事か、少女を連れて逃げようとした事か、どいういう経緯でバレたかか。しかしその問いは、さらに腕に力を込めるのに十分な理由だった。
 男は腕を必死に引きはがそうとするが、どうにも上手くいかない様子だ。片手でリーフェイスを抱えているのと、暴力を振るう気がないのとで、振り払える見込みもなかった。
 仕方なしに、フェリを引きずりながら歩き出す男。
 体力に優れるわけでもなく、体格でも大幅に負けている彼女には抵抗する術がない。だが、逃がすまいとする意思だけは本物だった。

「今すぐリーフィを下ろして自首しなさい! そうすれば、悪いようにします!」
「だから、なんで!? しかも悪いようするとか、さりげなく怖いこと言っているし!」
「やはり! やましい事があるから!」
「ないよ! いや、全くないわけじゃないけど……」
「やっぱり。逃がしはっ、しません!」
「あぁ……なんでこんな事に……」

 男の懐できゃいきゃい喜んでいる声、それを聞くだけで彼女の力は無限に湧いてくる。密着した腰がぎしぎしと悲鳴を上げるのも無視して、さらに強く締め上げる。
 肺から無理矢理空気を押し出され、うめき声を止められない男。それでも歩みを止めないあたり、大したものではあった。

「い・ま・す・ぐ、その子を放しなさいいぃぃ……」
「本当に後で説明するから! 今ちょっと急いでるから後でにして!」
「そうやって、言葉巧みにわたしを騙して逃げるつもりですね」
「今の台詞のどこにそんな要素があったんだあああぁぁぁ!」
「あはははは! おねーちゃ、がんばれー!」
「ほら、わたしを応援しています!」
「リーフィはちょっと黙っててお願いだから!」

 ちょっと涙声になっている悲鳴を聞いて、このまま行けば勝てる、そう確信する。何となくこの男は悪くない気がしてきたし、目的を見失ってる気もしたが、やっぱり気のせいだ。
 通常時ならば足音以外の音はまずしない廊下を、ひたすらに騒がしく通っていく三人。彼ら以外にそこを通る者がいなかったのは幸運だったのだろう。うめきながら子供を抱えてゆっくり進む男に、その腰にしがみついて引きずられる少女。控えめに言って、とても怪しい一団だった。
 がちゃり、とドアを開ける音がする。音でだけしか確認できなかったのは、フェリが半ば腰に顔を埋める状態になっているため、視界が制限されているからだ。辛うじて見える景色からは、明らかに見知った調度品が並んでいる。
 首をひねって視線を動かす。その先には兄が――非情に珍しいことに呆然としながら、フェリ達を見ていた。

「この子の滞在を認めて下さい!」

 食らいついたままのフェリを殆ど無視する形で、男がリーフィを掲げながら言う。
 カリアンは少女に視線を向けて、次に男に。最後に妹、つまりフェリに視線を投げる。再度男に視線を向けながら、口元を押さえてかぶりを振り。至極真剣な口調で、言うしかなかった。

「すまない、最初から説明してくれないか」



[32355] にこめ
Name: 天地◆615c4b38 ID:b656da1e
Date: 2012/05/03 22:13
 今、ツェルニの町並みは異様な盛り上がりを見せていた。あらゆる所で声が張り上げられ、派手なのぼりが立っている。もう少し生産力に余裕があれば、紙吹雪あたりが舞っていたかも知れない。そう思わせるだけの勢いがそこにはあり、つまり都市全体が浮かれている状態だった。
 新しく都市に来た者達の目を引く方法として、とにかく派手に騒ぐのは間違いではない。どこもかしこも同じ事をしているため、効果はあまりないのだが。しかし、全てが騒げばそれはただの勧誘から、お祭り騒ぎへと変化する。楽しく浮かれた雰囲気とは、それだけで意思と財布の紐を緩くするものだ。
 そして、騒いでいるのは何も商業科、つまり金儲けが目的の者達ばかりではない。錬金学科のある研究室が、派手に自分たちの成果を広めていたり。都市警察が正装で直立し、己の存在を誇示していたり。それら一つ一つに目を輝かせているのは、同じ制服を着ていても、やたら初々しさが目立つ新入生達だった。
 招かれる側にとっては、ただの歓迎会でしかないそれも、やる方からすれば必死の勧誘活動。一般的な都市とは言いがたい学園都市でも、成果と所属者数に応じて支援額が上下するというのは変わらないようだ。
 とは言え、今そのような些末な事を考慮しながら騒いでいる者はいないだろう。きっと誰もが、この時を全力で楽しんでいる。

(それでもあたしにいまいち蚊帳の外感があるのは、もう進路を決めてるからだろうな)

 そんな事を考えながら、喧噪から一歩引いた道をナルキ・ゲルニは歩き続けた。
 都市警察で仕事をすることは、ツェルニに入学する前から決めていた。既に進路を決めている自分がこの喧噪の中に混ざるのは、なんとなく反則のような気がするのだ。親友の片割れに言わせれば、真面目すぎるらしいのだが。こればかりは性分であり、簡単にどうにかできる問題ではない。
 本来であれば、すぐにでも都市警察本署にでも行って、就労手続きをするつもりだったのだが。それがこうして街の喧騒に混ざっているのは、彼女のもう一人の親友が理由だった。
 女性としてはかなり高い身長を生かして、人の多い道をかき分ける。あまり褒められたやり方ではないのは分かっていたが、付いてくる親友の事を考えると、そうしない訳にもいかない。
 ちらりと後ろを見て、確認をする。そこには期待したとおりに、二人の少女がいた。
 ミィフィ・ロッテン。尻尾のような二つに纏められた髪を振りながら、忙しなくあちこちを見ている。何かを見つけたかと思うと、手に持った手帳に何かを書き込んでいき。また落ち着きなく視線を飛ばす様は、猫のようだと密かにナルキは思っている。
 もう一人はメイシェン・トリンデン。腰まで届く綺麗な黒髪に、故郷でもトップクラスだった顔立ち。背が一番小さいのは彼女だったが、同時に女性らしい体をしているのも彼女だった。美少女、正にそう表現されるべき容姿なのにそれが目立たないのは、気が弱すぎていつも顔を伏せているからだ。
 二人とも、手間のかかる相手だった。そして、家族と同じくらい大事な親友だ。

「おいミィ、ちゃんと前見て歩け。人にぶつかるぞ」
「おっとナッキ、わたしにこんなお祭り騒ぎを見せて大人しくしてろなんて、それは無茶ってもんよ」
「……でも、前を見てないと、危ないよ?」
「だーいじょうぶ!」

 メイシェンの消え入りそうな気遣いの言葉に、しかしペンを持った指を立てて、断言した。

「ナッキが守ってくれてるからね」
「お前は、まったく……。ぶつかったらちゃんと謝っとけよ」

 ミィフィの言葉は、とても褒められる内容ではなかった。だが、そんな風に信頼されて悪い気がするはずもない。結局気恥ずかしくなり、ごまかすように前に向き帰った。
 背後から、かすかに笑うような気配があった。誰だと確認するまでもない、メイシェンだ。彼女は自分からは全く話しかけられないと言ってもいいほど内気で人見知りだったが、それだけに人の感情を捉えるのが上手かった。きっと内心を察せられたのだろう、さらに恥ずかしくなり、思わずうめき声を漏らす。

「おっ、あそこチェーック。しかし、予想以上のお祭りよね。流石は学園都市って感じ」
「予想以上と言うか、凄すぎだろう。ヨルテムでもこんな規模のは見たことがないぞ」

 ヨルテムとは、レギオス同士の交流の中心点であり、同時に彼女たちの故郷でもある。全てのレギオスの位置を把握しているという性格上、あらゆる人や情報が集まる屈指の大都市。
 学園都市など、都市の規模で言えば中堅がいいところ。それが数倍の経済力を持つ都市より派手に騒いでいるのは、少なくともナルキにとっては不思議だった。
 しかし、ミィフィにとってはナルキの台詞こそが意外だったのだろう。肩をすくめながら言った。

「何言ってるの、ヨルテムなんて人の行き来が常にある上に数も多いから、あんまり派手に騒げないじゃない。それに学園都市は年に一度、人口の二割近くが入れ替わるのよ? そりゃあ派手になるってもんよ」
「ああ、なるほど」
「……一年分のが、全部ここに集まるんだね」
「そういう事。まあ、だからどこも気合い入れてるでしょうし。今いい感じだからいつもこれくらい、って判断するのはちょっと難しいかな。判断するならもうちょっと落ち着いてからがいいかな」

 説明を終えると、再び見回しては記すの作業に戻る。すぐ前に参考にならないと言ったばかりなのだが。やはり、少なからず雰囲気に浮かれているのだろう。
 その様子を見ながら、申し訳なさそうな声を上げたのはメイシェンだった。いつもハの字に曲がっている眉を、一層落としながら。今にも泣き出してしまいそうな雰囲気がある。

「……ごめんね、ミィちゃん、ナッキ。わたしにつきあわせちゃって」

 彼女は、いつもそうだった。とにかく気を遣いすぎて、積極的になるという事が出来ない。しかし、そんな事は百も承知だ。
 メイシェンの役割が気を遣うことであれば、気にしないのは残りの二人の役割。自分が出来ないことを、誰かにしてもらう。そうやって寄りかかれる程に信頼関係があり、それを心地よいと思える関係を積み重ねてきたのだ。
 だから、二人で同時に笑い飛ばしてやるのも、当然の事だった。

「むしろこっちが感謝したいくらいだよ。あたしはとっとと都市警の所に行っちゃうつもりだったし、それが駄目だったらきっと部屋で引きこもってたよ」
「そうそう。武芸以外の事になると途端にいい加減になるナッキを引っ張り出した功績は大きいよ!」
「ああ、そうだな。確実に暴走するだろうミィを止める理由を作ってくれた功績は確かに大きい。だから、あたしとしては謝罪よりも感謝の方がいいな」
「ふふふっ……うん、ありがとう」

 ぱっと、花が咲いたように控えめに微笑むメイシェン。同性のナルキですら見ほれてしまいそうな笑顔だった。
 しばらく話しながら歩いて行くと、やがて人の姿が減っていく。祭りの気配を置き去りにする頃には、散歩道をぽつぽつと歩いたり、近くのベンチに座ったりなど。新入生ラッシュを忘れたような、普段の光景が映っていた。
 いくら派手に騒ぐと言っても、商業区を抜けてしまえばこんなものか。少し拍子抜けしながら、歩調を僅かに緩めた。あの大騒ぎは、場所限定での勢いでもあったようだ。
 雰囲気が穏やかになると、ナルキを盾にしていた二人が横に移動する。三人で一列になりながら、人混みからの開放感をしばし味わう。あの雰囲気も嫌いではなかったが、ただ抜けてくるだけとなると、さすがに気疲れが出てくる。肩をぐるりと回して、固まった肩の筋肉をほぐした。
 ミィフィの指示の元、さらに道を進んでいくと、今度は人気が全くなくなった。目的地は恐らく正面に見える大きな建物だろう、と言うのは分かるのだが。三人以外は誰も居ないというのは、少しばかり以上ではないだろうか。

「ミィ、本当にこっちであってるのか?」

 彼女を疑っている訳ではない。人なつっこい性格で、誰とも仲良くなり情報を集めてくる手腕は、よく知っている。だが、それは不安に思うかどうかとは別問題だ。
 しかしその台詞に気を害した様子もなく、ミィフィは答える。

「ん、聞いたところによると、メイっちの愛しの王子様は……」
「ち、違うよぉ……! そんなんじゃ、ないから……」
「わかったわかった。で、愛しの王子様はこっちで間違いないよ」

 顔を真っ赤にしたメイシェンが、必死になって訂正しようとする。
 しかし、にやにやと笑うミィフィは返事をしながらも、王子様の呼び名を続行した。俯いた赤ら顔に睨まれるが、それもどこ吹く風と受け流す。

「なんでも、入学式でメイっちを助けてくれた彼、生徒会長に呼び出されたみたい。この時期は生徒会塔に殆ど人が残ってないし、密会にはもってこいの場所よね。一体何の話をしてるのか、想像をかき立てられるわ」
「密談って……ついこの間入ってきたような新入生と、こそこそ話さなければならない用事なんてないだろ」

 呆れながら言うと、ミィフィも肩を竦めて答えた。彼女自身も信じていたわけではなく、単純に陰謀説が好きなだけだったようだ。
 ちなみに、現在生徒会の機能は大部分を生徒会塔から中央会館に移動していた。新入生が多くなる時期は、その数に比例してトラブルも発生する。迅速な対処をするには生徒会塔は少々遠いため、一時的に会館のワンフロアを貸し切ってそこで仕事をしていた。
 ならば最初からそっちに生徒会塔を建てろという話もあったのだが。大きな金が動く商業科と、街全体を統治する生徒会。この二つの距離が近くなると言うのは、控えめに言っても汚職の臭いしかしない。都市にいるのがたった六年程度では、儲けるだけ儲けて富を持ち帰ろうという、心ないものが現れる可能性は高い。そのために、現在の立地で落ち着いていた。

「でも……何の用事、なのかな?」
「そうなんだよな。ありがとう、ってだけなら臨時生徒会でも十分だし。こっちじゃなきゃいけない理由か……思いつかないな」
「わたしはあの人、生徒会長肝いりのスパイと見たね。それで新入生が騒がないか監視してたんだよ。次はきっと武芸科の制服を着ている!」
「また下らない事を……」

 確かに現在の生徒会長はあまりいい噂を聞かない。と言うか、政敵を蹴落としただの、とにかく恐ろしい噂が山のように流れている人物だ。陰謀好きが想像をかき立てるには、十分すぎる下地がある。
 もっとも、それを考慮してもミィフィの話はいい加減すぎたが。
 スパイが派手に暴れてどうする。監視もなにも、生徒会役員と警察が講堂内にいただろう。混ざるにしても武芸科でいいだろう、一般教養科の制服を着る意味がない。ぱっと浮かんだ突っ込みは、言葉にされる事なく吐息と共に流れ去った。

「じゃなきゃ、お叱りの言葉かな?」

 ぽつりと呟かれた言葉に、メイシェンがびくりと肩を震わせる。自分を助けた人が怒られる。たとえ原因が己でなくとも、そこに罪悪感を感じてしまうのが彼女なのだ。
 ミィフィの後頭部をこつりと拳で叩く。やり過ぎだ、という意思を込めて。

「いや、それはない。結果的に場を納めたんだから、褒められこそすれ非難される理由はないからな。それに、叱るだけならそれこそ臨時生徒会室で十分だ」

 メイシェンの雰囲気が戻った事に安堵する。今回の目的は、彼女を助けた男に感謝を述べること。それを完遂する前に処分が下っていたというは、たとえ想像だけでも十分なダメージだ。
 テンポ良く出てくる、相変わらず穴だらけの陰謀説。それを聞き流していれば、どれほども経たない内に生徒会塔の入り口が見えてきた。
 それを確認してすぐ、誰かが飛び出してきたのに気づく。いや、それを誰かと言っていいのだろうか。思わずナルキは迷った。その人影を誰かと言うのは、少し小さすぎやしないかと思ったのだ。飛び出てきた何かは、勢いを維持したまま周囲を走り回り、さらにこちらにまで向かってきた。

「わぁ……!」

 感嘆の声を上げたのは、メイシェンだった。続いて、いつもの自信なさげな表情がなりを潜めて、満面の笑顔となる。
 駆け回っていたのは小さな子供。それも、まだ初等学校にすら通わないような幼さ。確かに小さくはあるが、それは疑問を持つ程のものとは思えない。実際、ヨルテムではよく見た光景なのだ。
 なぜ違和感など持ったのか、その答えはすぐに出てきた。

(そっか。学園都市に来てから、合う人は全員同年代だったからだ。年が離れすぎてて、想像できなかったんだ)

 ツェルニに来てから、まだどれほども経っていないのに。自分でも驚くほどの環境適応能力だった。もっとも、それもいい事ばかりでないと言うのは、今証明されたが。
 メイシェンは膝をついて、満面の笑顔で両手を大きく広げる。普段するような、控えめな笑みではない。内向的に過ぎる少女とはとても思えない、快活にすら見える表情。

「そんな所でどうしたの? お姉さんと一緒にあそぼ」

 あたりを走り回っていた子供は、声の主を確認する。ぐるりとあたりを見回し、呼び込むような体制をしたメイシェンを見つけると、花咲いたような無垢な顔を見せた。汚れを知らぬと思わせるようなほころんだ表情は、姉妹かと思わせるほど似ている。

「あそぶの? ねえねえ、なにするの?」
「そうだねー、何しよっか」
「んっと、えっとぉ」

 子供の手を取り、上下に振って遊んでいる。まるで人が入れ替わったかのような別人っぷりだ。
 どうすればいいか分からず佇んでいたナルキに、ひっそりとミィフィが話しかける。密やかなのは、二人の邪魔はしないように、という配慮だろうか。

「あっちゃー。出ちゃったね、メイっちの子供好き」
「まさか学園都市に子供がいるとはな。予想外だった」
「学生結婚ってのもあるだろうから、絶対にないとは言い切れなかったけど。でも、こうして実際に見ると、何というか、こう、くるものがあるよね」

 殆ど直接言ったのと変わらない物言いに、顔がかっと熱くなった。隣を見れば、ミィフィも耳まで赤くしている。なんと答えることも出来ずに、少し微妙な空気が漂った。
 学園都市で偶然知り合った者達が互いを愛する、何ともドラマの題材になりそうな内容だ。現実的な、金銭面等の問題はこの際置いておく。ロマンチックな出会いに、絆を深め合う二人。数々の障害と周囲の反対を乗り越えて、最後には皆に祝福されながらゴールイン。その結果として子供が居るのであれば、当然やる事はヤっている訳だ。愛を語らう者がベッドの中でする、愛を確かめる行為を。
 ナルキに乙女を気取るつもりはない。それ以前に武芸者であると、そういう類いの覚悟を、少なくともしているつもりではある。
 だからといって、初心でなくなる訳ではなく。その手の事を考えれば恥じらう、普通の感性をした少女であるのもまた事実だった。

「ま、まあメイは料理を知らなかったら保母さんを目指してた、って言ってるくらいだからな! 仕方がないさ!」
「そ、そうよね! しょっちゅう近所の子供のお世話してたくらいだし!」

 雰囲気を変えるにしては、無理矢理過ぎる話題転換。しかし同じく雰囲気を壊したいと思っていたのだろう、すぐに乗ってきた。
 きゃっきゃという楽しそうな声を聞きながら、なんとなくする事も思い浮かばずにいる。

「しっかし、メイっちがこうなっちゃったら、今日はもうおしまいかなぁ」
「まあ、助けてくれた人を探してお礼を言おうって雰囲気ではなくなってるな」
「そっちは翌日以降でも困るわけじゃないから……と噂をすれば、あれがそうなのかな?」

 生徒会塔から出てきた、紙袋を持った青年。ナルキぐらいの身長に、少し長めの茶髪。メイシェンが言っていた特徴にぴたりとはまっている。
 何かを探しているのだろうか、きょろきょろと周囲に視線を飛ばす男。それを見たミィフィが、顎に手を当てて声のトーンを高めた。

「わぁお、イケメンだわ。メイっちやるじゃん」
「そうか?」

 感嘆の声を上げた親友の言葉に、じっくりと男の顔を観察してみる。
 柔らかな表情は、持っていた印象よりも遙かに緩い。一瞬にして二人の武芸者を叩きのめした、という行動も影響しているのだろうが、もっと鋭い雰囲気を持っていると思っていたのだ。少なくとも聞いていた印象から、やる気がなさそうなとか、見ているだけで気が抜けそうなとか、そういうイメージは持っていなかった。
 顔立ちは悪くないのだろう、とは思う。だが、先に作られていた印象に加えて、好みから外れているのも評価が低くなる理由だ。
 髪型も、素朴系なのかただ単に野暮ったいのか判断に悩む。朝起きたら時間がなくて、派手に散った寝癖の処理に失敗したら、ああいう髪になるのかも。かなり失礼な事を想像した。
 どうひいき目に見ても、イケメンという印象ではなかったが。しかしミィフィは全く別の判断をしたようだ。

「ナッキは分かってないね。あれは着飾るだけで大化けするよ」
「たぶんお前の方が正しいんだろうけどな。でも、もうちょっと覇気を持てって思うんだよ」
「そんなん武芸者だからじゃん。メイっちとかには、ああいういつも優しく包んでくれそうなタイプがいいに決まってるでしょ」
「ああ、なるほど。それは同意する」

 恋愛方面に聡くないナルキであったが、そう言われれば理解も出来る。
 確かに彼女が好むような、質実剛健で鋭い雰囲気を持つような相手は苦手だろう。下手をすると、顔を合わせただけで泣き出すかも知れない。そう考えると、確かにあのまったりした雰囲気の持ち主は、メイシェンに似合ってはいるだろう。当然、それで本人が気に入るのとは別の話だが。
 と、ふと疑問に思う。何かが――それが何かは分からなかったが、とにかく何かがおかしい。
 もう一度顔を確認するが、何がおかしいのかは分からず。そのまま視線を下ろして、それに気がついた。

「おいなんでだ。あいつ、武芸科の制服を着てるぞ。メイを助けたって事は、一般教養科の筈だろ」
「あ、本当だ! て事はなに、もしかしてミィ様の推理、会長のスパイ説が正解って事?」
「いやそれはないが」

 とりあえず、ミィフィの都合がいい勘違いだけはきっぱりと否定しておき。
 ナルキは二つの意味で納得をした。武芸者には多かれ少なかれ、鋭い印象がある。これは、単純に戦闘技能者だからだ。子供の頃から生死のやりとりを前提に訓練されているのだ、多少なりとも尖るのは当然だろう。そんな雰囲気が欠片もないのに武芸化の鋭角的な制服を着ているから、妙なギャップと言うか違和感があったのだ。
 そしてもう一つ。たとえ不意打ちだったとしても、武芸者二人を一瞬で鎮圧するような人間が武芸者でない訳がない。それも、かなり腕の立つ武芸者。どちらがおかしかったかと問われれば、一般教養科の制服を着ていた以前がおかしかったのだ。
 男は、こちに気づいているのかいないのか。少なくとも意識はしていない様子で、周囲から何かを探している。

「リーフィ! どこ行ったのー!」

 叫ばれるのは、誰かの名前らしき単語。ナルキとミィフィは殆ど同時に、顔を合わせた。

「リーフィって……」
「たぶん、そうだろうな」

 そしてまた、同時に視線を動かす。そこには、こちらもやはり男の接近に気づいているのかいないのか。やはり考慮してはいないであろうメイシェンが、変わらぬ態度で子供と遊んでいる。
 ぱっと見の印象ではあるが、男と子供の間には結びつきを想像しづらかった。

「どんな関係だ?」
「ま、それは本人に聞いてみれば分かるっしょ。おーい、そこの人ー!」

 躊躇なく声をかけるミィフィ。こういう時は、彼女の存在が有り難い。失礼な印象を抱いてしまった手前、どう声をかけていいか分からなかったのだから。
 声をかけられた男が振り向く。最初はきょとんとしていたが、手を振るミィフィの存在に気がつくと、軽く会釈をしてきた。なんとなく釣られて、頭を下げ返すナルキ。
 小走りで寄ってきた彼の顔立ちは、思っていたよりも遙かに整っていた。やはり力強さが足りないが、少なくとも美形と称するのは否定できない。細身だががっちりした体格といい、ファッション雑誌の季節の服紹介あたりで、その内の一着を担当していそうではあった。

「ごめん、この辺で子供を見なかった? だいたいこれくらいの身長で、金色の長い髪をした子なんだけど」

 掌で作られた高さは、正にメイシェンが抱きしめた子だった。

「それならそこで、わたしの友達と遊んでるよ」
「うわぁ! リーフィ……また知らない人と。全く、いつもふらふらしちゃダメだって言ってるだろ?」
「あ、パパだー」
「お父さん、来たの?」

 少女の声に反応して、顔を上げるメイシェン。近くに男性がいるのに、子供効果と彼の雰囲気もあってか、物怖じした様子はない。だっこをしたまま立ち上がった。

「すみません、面倒見てもらってたみたいで」
「あ……いえ、こちらこそ。一緒に遊んでただけだから……」

 どちらもがぺこぺこと頭を下げ合う。随分と波長が合うのか、妙に行動が似通っていた。
 いつまでもお辞儀をし合う二人に割って入ったのは、ミィフィだ。このまま放っておけば、そのまま雑談に突入しそうな雰囲気だった。それも悪くはないだろうが、今日の目的は違うし、自分たちが居る前でやられても困る。ナルキは内心で、よくやったと賞賛していた。

「とりあえず自己紹介ね。わたしの名前はミィフィ・ロッテンで」
「あたしがナルキ・ゲルニだ。で、そっちで子供を抱えてるのが」
「うん……メイシェン・トリンデンです。よろしく、ね」

 普段であれば、恐らく誰かの背中に隠れながら挨拶をしたであろうメイシェン。しかし今日の彼女は、子供を抱えていた。それだけで人が入れ替わったのではないかと思うほど溌剌とする彼女は、初めて会う男性を前に、しかし怯える事なくはっきりと挨拶をする。
 普段その性格が容姿の邪魔をしているのに、そのマイナス補正がなくなれば。ただでさえ美少女なのに、無垢で邪気の全くない笑顔で、よろしくなどと言われれば。その効果たるや絶大だ。
 それがどれほどの威力かは……微笑まれた男が顔を赤らめよろめいたのが証明している。

「メイっちやるぅ。株価ストップ高ですな」
「あれはやばいな。同性のあたしでもちょっとどきりとしたし」

 男はなんとか立て直そうとしているのだろうが、わたわたと慌てふためいているだけで、全く上手くいっていない。

「あ、ああ。僕はレイフォン・アルセイフで……こっちの子はリーフェイス・エクステって言うんだ。ほら、挨拶」
「リーフェイス・エクステ、です! だから、リーフィです! よろしくおねがいします!」

 結局落ち着くことに失敗したレイフォンは、動揺したままだった。
 挨拶したリーフェイスをメイシェンが褒めて、頭を撫でる。それににこにこと笑って喜ぶ少女という心温まる光景があった。

「で、今日ここであったのって、実は偶然じゃないんだ。わたしたち、レイとんを探してたのよ」
「僕を? こんな何もないところまでどうして。……と言うか、レイとん?」
「お礼を言いたくてな。ほら、大講堂の入学式で、暴れてる奴らを叩きのめしたろ? その時にメイ――あ、メイシェンの事な。メイが助けられたから、お礼を言いたいって」

 ミィフィのいつもの癖、勝手に付ける妙なあだ名に突っ込むレイフォン。それをさっくり無視して、本題に入った。
 ぽんと背中を叩かれて、一歩前に出るメイシェン。やはりリーフェイスは抱えたままで――つまり、普段の何かに怯えた陰気な所のない、太陽に輝く向日葵みたいなまま。男に及び腰になる様子など欠片もない、はっきりと微笑んで、しかも感謝の念をこれでもかと込めた一言。

「助けてくれて、ありがとうございます。その……とてもうれしかった、です」
「う、ん。でも、あれだよ。そんなに大したことはしてないから。助けたのも、その、偶然だったし」
「それでも……わたしはうれしかったから。だから、やっぱりありがとうって、言います」
「じゃ、うん、受け取っとくよ」

 はきはきと、とまでは言わなくとも、滑らかに言葉が出るメイシェンに、しどろもどろになるレイフォン。彼が随分純情だというのもあるが、立場が普段とまるで逆だ。

「先生、メイシェン株の上昇が止まりません。限界を超えています!」
「うむ、そろそろ介入をするべきか。あたしもちょっとメイの乙女レベルが怖くなってきた」
「……ねえ、さっきから二人で何を言ってるの?」
「気にするなよ、レイとん」
「気にするよ……。と言うか、そのあだ名採用するの!?」

 定着を恐れたか、愕然とするレイフォン。彼はまだ知らない、ミィフィに一度付けられた時点で手遅れだという事を。
 微笑のメイシェンに顔をほてらせる姿を見て、青春しているな、などとおばさんくさい感想を思い浮かべる。自分もその青春ど真ん中なのは、棚に上げていた。ナルキにとっては、汗と努力が青春の証である。

「しかし、メイを助けた人を探しに来て、まさか子供を発見するとは思わなかったよな」
「そうそう、最初見たときびっくりしたよね。あ、そういえば、レイとんとリーフィちゃんって親子や兄妹って感じでもないし、そもそも名字が違うのは……はっ、もしかして誘拐!」
「違うよ!」

 あまりに必死な怒声混じりの否定に、思わず体を固めるミィフィ。彼女ほどではないが、それはナルキも同様だった。風体に似合わぬ圧力に、思わず身が竦む。
 叫んでからはっとした彼は、ばつが悪そうに顔を背けた。

「その、ごめん。その言葉にちょっと敏感になってて」
「ううん、いい加減な事を言ったこっちが悪かったよ。それと、何か嫌なことがあったの?」
「……聞かないで」

 どうやらよほどの経験だったらしく、背中が僅かに煤けていた。過剰な反応とその後の落ち込みように、少し引く。
 叫び声は遊んでいた二人にも届いたようで、レイフォンを見ていた。と言っても声に怯えたわけではなく、純粋に反応しただけのようだが。

「ほら、リーフィちゃん、パパだよ」
「パパー!」

 と、片手で抱えられるリーフェイス。そして、その少女の手を取って、ふるふると手を振らせているメイシェン。
 あふれ出る母性と、同年代ならではの距離が近いと思える感覚。彼女のかわいいタイプの美しさは、雰囲気も相まって手の届きそうな可憐さがあった。さらに先ほどまでとは違い、親しみやすさまで感じられたとなれば。メイシェン・トリンデンには、異性を魅了するのに十分すぎる力がある。
 今度は目を背けたりはしない。が、やはり顔は赤らめて、ナルキ達に近づいてぼそりと言った。

「なんて言うか、すっごい可愛い人だよね」
「うん、子供が絡んだメイっちはむっちゃ可愛い。思わず抱きしめて体中撫でたくなるね」
「一応言っておくが、それはただの犯罪だからな? まあ、可愛いよな。印象が爆上げすぎて不安になるくらい」

 子供がいない通常時の彼女に会って、別人じゃないかと言われたら。それを否定できないくらいイメージに差があり、その時にどうすればいいかと、少し冷や汗を流しながら考えた。どうやっても取り繕いようがない。
 とりあえずは、レイフォンがリーフェイスを。残りがメイシェンの頭を撫でた。二人は不思議そうに、きょとんと目をしていたが、それがまたいい感じに庇護欲をそそられる表情で。
 事情の飲み込めない二人は、不思議そうにしながらも、とりあえずされるがままになっていた。

「ま、いつまでも立ち話ってのも難だから、とりあえずどっか入ろうか。ミィ、チェックしてるだろ?」
「とーぜん。ちょっと区画から外れた所で、あんまり騒がしくなさそうな店があるよ」

 即座に手帳を開いてページを走らせ、店舗を見つけるミィフィ。店を調べておくのも、それをすぐに索引するのも、恐ろしく仕事が早い。情報戦が得意だと自称するだけある能力だ。
 背中を押されて戸惑うレイフォン。しかしこういう事に慣れていないのか、微妙に抵抗があった。外見通りではあったが、ここは大人しく付いてくるものだ、そう内心で思う。

「いや、僕なんかがいきなり混ざっても……」
「何を言っているんだ。そもそもレイとんがいなかったら、喫茶店に入ろうなんて話自体になってないぞ」
「そうそう、せっかく美少女三人が誘ってあげてるんだから、大人しくついてきなさいって」
「まあ、美少女を自称する痛々しい奴はおいとくとして」
「なんか今日のナッキ、キツくない!?」
「至って平常運転だ」

 二人で漫才もどきをしている内に、そっとレイフォンの袖を引く存在があった。メイシェンだ。

「その……わたしも一緒にきてくれると、うれしいです。もう少し、リーフィちゃんと遊びたいし。レイとんとも、まだ全然お話してないから」
「じゃあ、もう少しだけお世話になろうかな。……あと、メイシェンもそのあだ名なんだね」

 彼女の仕草にかなりときめいていた様子ではあったが、それもあだ名の話ですぐに霧散してしまった。
 時折いい雰囲気になる二人をにやにやと観察しながら。彼女達はレイフォンを半ば強制的に連れて、ゆっくり話せる場所へと連行していった。



[32355] さんこめ
Name: 天地◆615c4b38 ID:b656da1e
Date: 2012/05/03 22:14
 もしかしたら、人生の確変期に来てるのかも知れない。
 グレンダンでは見たことがないような、洒落て垢抜けた店内。店内を流れる穏やかなBGMと、コーヒーの入ったカップにまで気を遣われているのが分かる。一口煽ってみれば、やはり自分で入れる安いものとは全く別物の味がした。まあ、そもそも彼に、その違いを判別出来るほど上等な舌はなかったが。
 レイフォンはふと、自分の今までの生活を顧みてみた。それに満足はしていたし、充実感も感じていた。強い欲求や不満があった訳でもない。しかし、非常に泥臭く余裕のない日々であったというのも、事実なのだ。
 同年代くらいの人たちは、こうして気軽に小洒落た喫茶店に足を運ぶ。内容はなんでも、例えば中身のない馬鹿話でもかまわない。そんなもので笑いながら、少し堅めの椅子に体重を預ける。
 つまりそういうのが、普通の少年であり、学生であるのだろう。そこには当然、深い充実感はない。その代わりに、日日尽きることのないほんの僅かな満足感だけは与えてくれる。
 安寧の毎日、それに浸ってしまうことに、不安がないわけではない。物理的に体の一部である剄脈と、それを酷使してきた十余年。武芸者としてこの上なく機能していたそれは、簡単に忘れる事を許してくれない。剄を使わないと、剄脈に火をともし、強さを追求していないと荒れ狂いそうになる。
 どれだけ違和感を感じたところで、普通に生活していく上では不必要なものだ。最低限の機能だけを残して、徐々に落ち着かせていけばいい。
 とにかく、学生生活だ。小さな喜びを糧に、起伏のない毎日を生きる。つまり、自分も他人も命の心配などしなくていい。
 あとは……もう少し。ほんの少しだけ踏み込んで見れば、要領のいい者は彼女などを作って、平坦な日々をバラ色に変えている事だろう。その存在が、一体どれだけ日常を彩ってくれるか、それは彼女がいた経験のないレイフォンには分からない。加えて言えば、自分がそんなに上手くやれるとも思えなかった。
 しかし――この状況は? 何も考えずに騒ぎを収め、その時たまたま助けた人がお礼をしに来た。同級生の女生徒三人といきなり親しくなり、しかもお茶までしている。
 充実した男子生徒の学生生活、それそのものではなくとも、かなり近いのではなかろうか。
 ツキが回ってきたのかも知れない。とっくに使い果たし、なくなったと思っていたそれ。握りしめた感触に、内心だけで喝采を上げた。

(思ってみれば、グレンダンから出てから……グレンダンにいた時から碌な事がなかった)

 故郷での出来事は棚上げしておくとしてもだ。
 放浪バスに乗ると、なぜか誘拐犯扱いされた。騒いだ中年女性も、思い込みが激しい事以外は普通にいい人で。ヨルテムまでは何くれとリーフェイスの世話を(余計な事も含めて)見て貰えたが。
 いざ学園都市に付くと、恐ろしい生徒会長に思い出したくもない過去を掘り起こされ、その上に脅迫されて。
 廊下にいた娘を回収しようとすると、なぜか誘拐犯扱いされた。人が居なかったのとすぐ戻ると思っていたのとで、椅子の上で待機させておいたリーフェイスが普通に見つかる。そこまではまだ良かったのだが、問題はその人が妙に食らいついてきた事だ。しかも、レイフォンの説得方法もまずかったのか、やたらべったりと執着された。
 重苦しい精神疲労を抱えながら生徒会塔を出ると、ここでまた誘拐犯呼ばわりされたり。それは冗談交じりではあったのだが、誘拐犯という単語にナーバスな精神状態では、割と堪えた。
 とにかく、何かと誘拐犯に呪われているとしか思えない状態だった。
 それも、これまでだ。
 これからは――輝かしい学生生活が待っている。そうでなければ不公平だ!

「じゃあグレンダン出身なのか。あの、武芸の本場なんて言われてる。やっぱり凄いのか?」
「何を指して凄いって言ってるのか分からないけど、武芸に気合いは入れてるよ。毎日のように大会が開催されてるし、それに勝たなきゃ実践に出れないようになってるし」
「わたしは……汚染獣の襲撃率がすごいと思うな」
「そうだよねぇ。週一回の襲撃とか、ちょっと想像しづらいわ。恐ろしいというかなんと言うか」

 席に着き、注文した飲み物を飲んで一息入れた後。話はもっぱらメイシェン達が質問し、レイフォンが答える形になっていた。
 レイフォンから聞きたい事も当然あった。だが、彼女たち三人がかりで押されてしまうと、上手く話を切り出せない。まあ、大した内容があるわけでもなし。それに、あまり口が上手くないという自覚がある。上手い具合に話題を出してくれるのは、結構有り難かった。
 なにより、グレンダンが話題だと質問にも回答にも事欠かない。
 グレンダンの名前は、かなり広域に広がっているらしかった。曰く武芸の最先端、曰く汚染獣の集まる都市、曰く曰く曰く……。噂だけは山のようにあるのに、実態が殆ど知られていない、謎多き地。
 その理由に、グレンダンに寄るのはかなり危険だから、というのがある。汚染獣の襲撃率が高い都市、同時にそれへの備えが万全な都市でもあるのだが、それはあくまで都市に入ってからの話だ。どれほど強い武芸者を抱えていても、迎撃距離には自ずと限界がある。
 グレンダンに入るまでと出てから離れるまで、この間には強烈な死の危険が存在する、そう思われているのだ。だから好きこのんでそんな都市まで来ようとする者は少なく、おおむねその考えは正しい。放浪バスが襲撃された事件は、結構な件数が報告されている。
 噂が流れるが、実態を見た者は少ない。そこの出身者がいるのであれば、聞いてみたくなるのは当然だった。

「まあ、それだけ襲撃されてたら、武芸に力入れないわけにはいかないか。行ってみたいような、行きたくないような……」
「確かに武芸は盛んだけど、そっち関係以外に何か面白いものがあるわけじゃないよ? 実際、ツェルニに来て凄いところだな、って思ったし」

 そうかー、等と相づちを打ちながら、手帳に書き込みをするミィフィ。これ幸いにと情報収集をしていた。

「パパー! ねえねえぱぱー!」

 ぺちぺちぺちぺち、と連続して叩かれる右腕。振り向くと、リーフィエイスが満面の笑みで手を差し出していた。

「これ、あげる!」
「頑張って、作ってたんだよ」

 差し出されたのは紙細工――にしようとした努力は窺える、くしゃくしゃに丸められた紙。メイシェンに視線を飛ばすと、お願い、とアイコンタクトを飛ばしてきた。レイフォンは苦笑しながら、それに返す。
 紙を掌にのせて、もう片方の手で頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。

「ありがとう、大切にするよ」
「えへへー、ほめられた!」
「よかったね」

 二人に褒められて、顔を嬉しそうに緩ませるリーフェイス。座っているのはチャイルドシートではなく、メイシェンの膝の上である。
 最初はレイフォンが自分で抱えようと思っていたのだが、彼女が名乗り出てくれたのだ。お願い、と本人も望んでいたようなので、ありがたく世話になった。
 ふと視線を上げると、メイシェンと線が交わる。そして軽く微笑まれると、どうにも顔が火照るのを止められない。出来ることは精々、微妙に過ぎる引きつった笑みだけ。とても情けない話ではあったが――レイフォンは彼女の雰囲気に呑まれていた。

「ごめんね、世話してもらっちゃって」
「ううん、わたし子供が好きだからぜんぜん。それに子供のお世話するのとか、ちょっと得意なんだよ。ねー」
「ねー?」

 彼女が首を傾げて同意を求めた相手は、リーフェイスだ。一緒になって笑い合う姿に、また顔と心臓から熱いものがこみ上げる。
 メイシェン・トリンデンという少女は、今までレイフォンの周囲にいないタイプの人間だった。
 くりっとした大きな瞳に、それを穏やかに見せる垂れ目。眉や口など、一つ一つのパーツが恐ろしく繊細だ。それは彼女の低い身長と相まって実年齢より若干幼く見せているが、同時に美少女であるというのを否定する者はまずいまい。
 容姿のレベルで言えば、同等かそれ以上の者を複数知っている。例えば、女王とその側近。かなり切れのある美女と、それに瓜二つな従者は、ジャンルが違えどメイシェン以上だと言える。他にも、リーリンなど。近しい関係すぎてあまり意識した事はないが、綺麗系の美少女であるだろう。実際、学部では随分告白を受けたようではあったし。
 そういえば、とふと思い出す。生徒会の廊下でリーフェイスを抱っこしていた彼女も、かなりの美人だった。恐怖すら感じた追求と、その後の奇行で完全に忘れていたが。人外じみた妖艶さすら漂わせる美貌だったには違いない。
 とにかく、美人は見慣れている、と言っていい彼であったが。それでも可愛らしいタイプはいなかった。
 それが性格の話になると、差はもっと大きくなる。
 はっきり言って、武芸者は短気か冷徹か、それでもなければ傲慢だ。それが誰であっても、多かれ少なかれその傾向がある。
 ある学者は言った。武芸者の精神が高揚しやすいのは、進化の必然である。そうでもしなければ、人類の天敵たる汚染獣に向かうことが出来ないからだ。その信憑性がどれほどかは知らないが、少なくともそんな話が学会で真剣に語られる程度には、説得力があったのだろう。
 つまり、武芸者の女は皆苛烈なのだ。そして、武芸者に関わる女性も、それに影響されてか気が強い者が殆どだ。
 惚れたかどうか、というのは分からない。ただ、新鮮である事は確実だった。

「あーん、して」
「あー」

 大きく開いたリーフェイスの口に、切り分けたケーキを入れる。フォークの先端が刺さらないよう気を遣っている姿に、彼女のさりげない優しさが見えた。

「おいしい?」
「んーっ、あまくてね、ふわふわしてる……えへへ」
「ね、ふわふわしてておいしいね」

 そして、こんな光景を見て顔を赤らめてしまう程度には。彼女に惹かれているのだろう。
 その穏やかな光景の中心に、リーフェイスがいる。メイシェンに好意的な理由の一つには、恐らくそれも入っていた。

「そういえば、レイフォンとリーフィってどういう関係なんだ?」
「あ、わたしもそれ思った。親子でも兄弟でも、見た目が違いすぎるし。そもそもファミリーネームからして違うしね。そこんとこどうなのよ、うりうり」

 口で擬音を発しながら、わざわざ椅子を近づけて寄ってきた。肘を立てると、ぐりぐりと押しつけながら、同時に擬音も口にする。
 妙に知りたがりのミィフィは引くことを知らない。時にはうっとうしくも感じさせるのだが、それでもどこか憎めなかった。かなり得をしているキャラクターだ。

(しかし……何って言ったらいいんだ?)

 内心に悩みを隠しながら、言葉を選ぶ。
 実際、正直にそのままを言ってしまっていいのか分からなかった。関係――リーフィエスはレイフォンを父と呼ぶが、当然そんな関係ではない。精々保護者と被保護者という程度だろう。最も正確に表現するならば、血のつながらない兄妹というのが一番正しいか。
 そこまでであれば、別に全てを明かしてしまっても問題ない。
 ただ、もう少し二人の事情を詳しく話そうとすれば――それは武芸との関わりが強すぎる。つまり、触れられたくない過去に接触する事になるのだ。
 なんとかそれだけは避けたいのだが。しかし、レイフォンが考えつくよりも早く、リーフェイスが叫んでいた。

「あのね、パパはパパなんだよ! すごいの! すごいでしょ?」
「そっかパパなのか、そりゃ凄くてしょうがないね!」
「ん、しょうがない!」

 身を乗り出して力説する少女の額を、叩くように撫でていなしたのはミィフィだ。彼女もメイシェンほどではないが、子供の扱いに慣れている感じがある。もっとも、子供をからかう方面にではあったが。

「じゃ、凄いついでにどう凄いのか一言お願いします」
「え? ん? んーと?」

 手帳を素早く丸めると、マイクのように突き出して問いかける。急な返しに、リーフェイスは頭を抱えて悩み出してしまった。こめかみに両指を当てて眉を難しそうにしかめて、体まで捻って考えていますと主張。
 子供が膝の上で動き回るというのは、苦しくなくとも軽い負担でもない。それを知っているレイフォンは、当人に見えない位置で手を動かし謝罪をする。受け取ったメイシェンは、そんな事ないと言う代わりに微笑んで見せた。
 ちなみに、その仕草にときめいたのを誰にも悟られぬよう隠したのは秘密だ。

「ぴゅーっていって、ずしゃーってやるの」
「なんだそりゃ」

 身振り手振りで必死に表現しようとする。その様子に、全く分からんと首を傾げるミィフィ。

「だから、びょーんてなったり、どぎゃぎゃぎゃーってやるの!」
「もう少し詳しく。出来れば擬音はなしで」
「んもー、わがまま!」

 ぷっと口を膨らませるのは、不満ですという合図だ。一体どこで真似てきたかは知らないが、納得できない時はいつもこういう仕草をする。
 ミィフィはにししと笑いながら、顔の膨らんだ部分をつつきて潰した。質問そっちのけでからかい始めたあたり、それほど答えを求めてなかったのかも知れない。再度空気が注入されて膨らみ直した頬を、再び指で押しては萎れさせる。リーフェイスもやられるのはまんざらでもない様子で、その遊びにつきあっていた。子供に不満を覚えさせずからかうのが、やたら上手い。
 それを止めるきっかけを作ったのは、意外にもメイシェンだった。

「それって……武芸の事じゃない、かな?」
「ああ、確かにそうかもな」
「なるほどねー。だから、なんか男の子が使いそうな擬音だったんだ」

 言いながら、指だけは別の生き物のように頬風船を潰し続ける。それも、リーフェイスの小さな手でぺちりと叩かれて終わったが。

「じゃあレイとんが戦ってるところかは? 特に汚染獣と……ってそりゃないか」

 ジュースはもう飲み干されており、中に残った氷が少しずつ中身を薄めている。霜の薄れたコップをソーサーごとテーブルの隅に追いやり、代わりに手帳を広げていた。と、言っても本当に広げただけなのだろう。頬杖をついて、ペンの尻で眉あたりをかく姿からやる気を見いだすことは出来ない。
 それくらい、期待していないという事だ。
 リーフェイスはぴんと来た、という顔をした。次に「どうだ!」と言わんばかりに胸を張る。

「あるよ!」
「え? あんの?」

 ペン尻で額を弄るのをやめ、意外そうに声を上げた。上がった顔は若干間の抜けたものであり、それがまたリーフェイスの得意げな顔を助長させる。
 ふと、レイフォンは視線に気がついた。ナルキとメイシェンから強い視線が――お前何やらせてんだよ、という意図の視線が飛んでくる。

「いや、僕じゃないからね。当然反対したよ」

 慌てて訂正をするが、あまり効果はない。それでも彼女たちの顔つきは、懐疑的なままであった。
 汚染獣の襲撃があったら一般人はシェルターへ。これは全都市に共通する常識であるから。常識として存在する以上、シェルターが存在しない都市もあり得ない。つまり、たとえ剄脈があったとしても。年齢一桁の子供が、武芸者の勇姿を直接目撃する事など、絶対にあってはならないのだ。
 その常識はレイフォンにとっても常識なのだが、どうしたらそれを理解して貰えるか。

「本当だって! リーフィの師匠に当たる人が、その……破天荒と言うか常識知らずと言うか、ちょっと頭のネジの飛び方がおかしい人で、その人が無理矢理見学をねじ込んだんだ! むしろ僕は反対したんだよ!」
「そ……そうなんだ」
「と言うか、レイとんもさりげなく言うな。その師匠とやらと仲が悪いのか?」

 嫌いだ、きっぱりと――反射的に出そうになった台詞を、なんとか飲み込む。さりげなく出た悪口は、とりあえずなかったことにした。
 何度か深呼吸をして落ち着き、二人を見る。若干引いている様子ではあったが、なんとか理解だけはして貰えたようだ。……他の誤解を産んだ可能性を否定できないが、それは考えないことにする。

「なになに、リーフィちゃんの師匠とレイとんって仲悪いの?」
「パパとせんせーは、いつもすぐにケンカしちゃうんだよ。ケンカしちゃいけないのにねー」
「ねー」
「ミィフィさん、空気読んで自重していただけませんか」
「お母さんのお腹の中に置いてきました」
「なんでそんなに自信満々なの!?」

 やたらきっぱりと言い切る彼女に驚嘆して、レイフォンは肩を落とす。やたら肩に疲れがたまるのを、はっきりと感じた。

「でね、でね! パパはかっこいいの。リーフィがかくれても、いっつもすぐに見つけるんだよ。あとごはんもおいしいの!」
「へえへえ。あ、続きお願いね」

 リーフェイスの語りを適当にメモ取りしながら、ミィフィ。記載内容を何に使うのか聞きたかったが、聞いてしまうと後悔しそうな気がする。
 問おうか、問うまいか――僅かに逡巡していたが、レイフォンは声をかける事が出来なかった。これは情報屋を敵に回す者ではないという過去の経験から来た結果であり、決してヘタレた訳ではない。

「レイとん、料理出来たんだ……。今度グレンダンのレシピ教えてね」
「うん。僕もヨルテムのレシピって興味があるから、今度教えっこしよう」
「おいお前ら、二人の世界を作るなよ。あたしの居場所がなくなるだろ」

 ミィフィとリーフェイス。レイフォンとメイシェン。組み合わせが半ばできあがりそうになって、ナルキは少し居づらそうだった。
 メイシェンと二人だけだと、どうも緊張しすぎてしまう。申し出はむしろ有り難かった。

「その時は、ナルキも知ってるレシピを教えてよ」
「いや、あたしは料理できないが」
「なんで話題に入ってこようとしたの!?」

 真顔で言い返すナルキに思わず叫ぶ。言われた彼女は、きょとんとしただけだった。
 レイフォンが頑張る中、リーフェイス達はかなり平和に話が進んでいる。

「へえ、じゃあレイとんって捜し物が得意なんだ。意外とも言えるし、それっぽいとも言えるし……なんとも微妙ね」
「リーフィを初めてみつけたのもパパなんだよ!」
「うん? 初めて?」

 密かに聞いていたレイフォンは、懐かしさを覚えながら話を聞いていた。布に包まれていた赤ちゃんと、小さくとも人らしい重さ。そして、命の感触。全て今でも鮮明に思い出すことができる。
 メイシェンとナルキも、興味が移ったのか耳をリーフェイスの話に向けていた。

「リーフィね、パパに見つけられたからパパの《こじいん》に入ったんだって。それで、こじいんの《ぶげいしゃ》はリーフィとパパと……、だけで、だからパパはパパなの!」

 嬉しそうに話すリーフェイス。しかし場の空気は真逆に引きつっていた。聞いてはいけない事を聞いてしまった――雰囲気がそう物語っている。
 その結果を、考慮していなかった訳ではないのだろうが。親戚の子供あたりの、もっと軽い事情だと思っていたのか。あるいは可能性は低いと高をくくっていたのか。どちらにしろ、その解答は彼女たちに効きすぎたようで、雰囲気がどんどん暗くなる。同時に、話してしまった少女も不安げに見回していた。

「僕は――僕たちは気にしてないよ」

 視線が集まるのを感じる。その方が都合がいい、そのまま続けた。

「それが、僕たちにとっては当然なんだ。だから、気にされた方が困っちゃうよ。ほら、リーフィも」

 改めて見たリーフィは、少し泣きそうになっていた。
 自分が言った言葉で皆が悲しそうにしている、ならば自分が悪いのだ。そう思ってしまう程に優しく、同時に幼い。大人の指を握るのが精々の小さな手で、メイシェンの服を掴む。少女は純粋であり、同時に誠実だった。

「ごめんね、ごめんね……」
「違うよ、リーフィちゃんは何も悪くないから」
「そうだよ、ちょっとびっくりしただけだって」
「こっちこそ悪かったよ。リーフィちゃん、驚かしちゃったもんな」

 泣かないまでも、ぐすぐすと鼻を鳴らす。すぐに元通りにはならないものの、しかし雰囲気が変わったのは感じたのだろう。
 小さく頷き、膝の上で座りを直す。目は赤いままだったが、少なくともいつもの調子に戻す努力はしていた。
 自分たちも調子を戻そうとして、いざ実行する段階になると話が出てこない。話題を忘れたわけではないのだが、何となく続けるつもりになれなかった。言葉、話題。とにかく何でもいい、言って意味のありそうな事を探すが、上手くいかない。そもそも自他共に認める付き合い下手なレイフォンには、難易度の高い問題だった。
 少しばかりの沈黙と、先ほどとは別種の微妙な空気。唯一の部外者である少女だけが、鳴くような声を上げながら、小首を傾げていた。

「所で、生徒会長に呼び出されたのってリーフィちゃん関係なの?」

 いち早く話題を出したのは、誰もが予想した通りミィフィだった。高いコミュニケーション能力は伊達じゃない、レイフォンは内心で喝采を送る。ナルキとメイシェンも、似たような事を思ったのだろう、表情に現れていた。

「いや、違うんだけど……。まあ、全く関係無いって訳じゃないんだけどさ」

 と言いながら、何となく言葉を濁す。カリアンとした取引は、合法ではある。知られて誇れはしないが、非難される謂われもない。まあ、脅迫にまで触れれば話は変わってくるが。
 興味津々と目を輝かせたミィフィを、上から潰すように押さえるナルキ。

「言いたくないなら、無理に言う必要ないからな」

 手の中でばたばた暴れるのを、腕力で無理矢理押さえながら言う。
 僅かに逡巡したが、結局大して気にもせずに、言うことにした。そこから何かを知られたとしても、それで困るのは自分ではない。

「呼ばれたのは、武芸科に転科してくれって話だったよ。その……奨学金をAランクに上げるからって」
「わぁお、裏取引。それは確かに、大手を振って話はできないわ」

 ペンを回しながら、いい加減に驚いたのはミィフィだ。スクープではあるが、彼女的にそそられる内容ではなかったようだ。話が成立済みな以上、追求しても意味が無いと判断したのかも知れないが。
 対して、眉を深く潜めているナルキ。武芸者には潔癖症な人間が多いが、彼女もその類いらしい。

「……まあ、仕方ないんだろうがな」
「あれま、珍しい。ナッキが妥協するなんて」

 先ほどよりも遙かに真面目に驚嘆してみせるミィフィ。それは同時に、ナルキがこうして折れる事がどれほど少ないかも表している。

「あたしだって、何でも反対する訳じゃない。今回は入学早々に、武芸者を二人も放逐する羽目になったからな。なんとしても人を確保したいに決まっている。そこに一般教養科の制服を着た、いかにも武芸者として優秀そうな奴が居たら、誰でも勧誘するさ」

 眉を顰めたまま、まるで自分を納得させるように語る。渋くなった感情は、誰に向けられたものか。
 武芸者とは、都市の力そのものだ。それがないと言うのは、情報、技術力、生産力、他の何がないのよりも、遙かに死に近い。汚染獣の襲撃や、セルニウム鉱山争奪戦争、あらゆる厄災を払うのに、武芸者の力が利用される。
 逆に言えば、どれほど武芸者を集めたかで、都市のステータスが決定するわけだ。手段はどうであれ――そのために奔走するというのは、統治者として正しい選択だろう。

「それに……」

 続けようとして、しかし言葉を濁す。
 まるで言ってはいけない事を言おうとしてしまったかの様に、顔をやや俯かせてそっぽを向いた。

「それに? そこまで言ったら教えてよ。気になるじゃない」

 それでも、黙ろうと努力はしていたが。やがて熱意に負けたのか、口を開いた。

「ツェルニのセルニウム鉱山はあと一つだろ? しかも、ここ数年は負け続きだったって聞く。必死すぎる程に必死なんだ。何せ、完膚無きまでに後がない」

 詰まるところ、身内の恥なのだ。たとえ自分が参加していなくても、これからやればいいと言う事であっても。ツェルニ内の武芸者コミュニティ全体の失態と言うのは、ただの新入生であっても無関係ではない。無関係には、なれない。
 強いからこそ武芸者なのであり、勝利するからこそ特権が与えられる。
 弱い、勝てない武芸者。果たしてそれらに、武芸者たる資格があるだろうか。少なくとも、それに肯定できる武芸者は、厚顔無恥な愚か者だ。

「あちゃあ……そう言えば、そんな噂もあったわ」
「ツェルニ、なくなっちゃうのかな……」

 相変わらず深刻さの足りないミィフィとは対照的に、僅かに不安を見せるメイシェン。正式な入学日より一日も経っていない彼女ですらその反応なのだ、在学生の不安はどれほどのものか。

「まあ、そんな事にはあたしがさせないがな」

 むん、と胸を張って言うナルキ。この気軽さも、以前の武芸大会に参加していないからこそだろう。
 本人も、高々一個人の戦力で戦況が大きく変わるとは信じていないだろうが。しかし、不安に思っていた親友を落ち着けるには十分だった。

「んん? 聞いた話じゃ、レイとんってかなり強いんだよね。なんで一般教養科に入ったの?」

 今までで、一番致命的な質問だった。心臓のすぐ隣に突き刺さった刃に、止めることも出来ずに体が竦む。
 なんとか体が震えるのを堪えながら――堪えたつもりになりながら、残り少ないコーヒーを飲む。普段より幾分大きな音を立てて、ソーサーに戻した。

「なんて言えばいいのかな……武芸は、もういいんだ。僕は、武芸者以外の誰かになるために、学園都市に来たんだよ。だから、本当は武芸なんてやりたくない。今回だって、断れれば断りたかった。……生徒会長に推しきられたけどね」

 言えない部分を考えて、切り取りながら紡いだ言葉は、断片的すぎて意味が分からない。それでも、自分なりに精一杯の誠実さで答えたつもりだった。

「ま、とにかくレイとんも大変なんだって事だよね。大変なのはこれからかもしれないけど」

 理解したのかしていないのか。ただ、少なくとも意を汲んではくれるようだった。眼光は、隙あらば聞くと語ってはいたが。
 抜け目のないミィフィに苦笑しながら――そうするしかなかった――続ける。

「ちなみに、その時にリーフィの滞在許可ももらったんだ」
「おっとっと、それはまた、意図的ですなぁ」

 ミィフィはにんまりと――本当にそう表現するしかない表情で笑った。
 少し言い訳をしておこうかとも持ったが、それは諦めた。実際、彼女の言う通りつけ込んでいたのだから。

「やっぱり滞在許可は貰ってなかったんだな。まあ、貰ってたら噂くらいは聞いただろうしな」
「そんでメイっちも飛んで行ってただろうしね」
「もう、ミィったら」

 茶化すような物言いに、ぷっと頬を膨らませたメイシェン。それでも、そんな事はないと言わないあたり正直だ。
 ふとレイフォンは、その光景を想像してみる。
 噂を聞きながら、何でも無いように振る舞う授業中。しかし休み時間になったら、そわそわしつつ会いに行こうと足を速める。容易くイメージできる光景だった。そして、彼女にはまりすぎていた。あとは、実際に見つければ笑顔で抱きしめるという所だろう。これは想像するまでもなく、実際にそうしていたのを見た。
 何でメイシェンはあんなに癒やされるキャラクターなんだろう。大分ズレた事を考えながら、にやけそうになった口元をカップで隠す。
 一度気を抜けば、容易く嫌な緊張は消えてくれた。逆に気が抜けた、とも言えるが。危険な話題は通過できたと確信できたのも、脱力できる要因の一つだった。

「なんにしろ、離ればなれにならなくてよかったと思うよ。なあリーフィ、パパと一緒でよかったな」
「うん、パパだいすき! いちばんすきなの!」
「あひゃー! こりゃレイとん愛されてるねぇ。一番だってさ、一番」
「あはは、それは知ってるよ」
「ををっ、なんという強気発言。これは嫉妬せざるをえない。リーフィちゃんをこのミィ様によこせー!」

 ぐばっと両手を挙げて威嚇しつつ、レイフォンに迫ってくる。
 時折迫ってくる指先を適当にあしらっていると、そのままミィフィは聞いてきた。

「じゃあ強気ついでに、今後の就労予定でも一つ」
「また唐突に話が飛んだね……」

 掴んだ指で手をつなぐような形になる。リーリンの水にあかぎれた手ではなく、全体的には柔らかく瑞々しいが、所によりペンだこが目立つ手。
 慣れない感触に、少し胸が高鳴った。が、もう一人の当事者は全く気にする様子がなく、掴まれていないもう片方の手でペンを握っている。
 ちょっと過剰反応なのか……目を伏せ気味にしながら、若干落ち込む。

「ちなみにこれ、都市新聞のアンケートだから、後であめ玉くらいは出るかもよ。ちなみにミィちゃんはですね……」
「もう言ったも当然だし、そうじゃなくても誰でも予想が付くから言わなくていいぞ」



「今日のナッキほんとに酷い!」

 大げさに驚くと、わざとらしく泣き真似をして詰め寄るミィフィ。これまたわざとらしく真顔で、相手にしないナルキ。

「ちなみにあたしは都市警だ」
「それも何と言うか、すごくナルキらしいよね」
「なんだと!? っくう!」
「ふっふーん」
「いやなんで悔しがるの。それになんで勝ち誇るの」

 なぜかやたらと小ネタを入れたがる二人。ただじゃれ合っているだけなのは理解できるのだが……なぜか二人の背後に、必死に威嚇しあう子犬と子猫が見えた。
 要素だけを集めると、水と油のように見えるのだが。そこにメイシェンが混ざったことで、妙な化学反応を起こしたのだろうか。
 かなり失礼な想像をいったん隅に追いやった。

「ちなみに僕は機関掃除なんだけど……」
「うへぁ」
「それはまた、随分キツいものを」

 ナルキはいかにも嫌そうに顔を歪めて言った。
 ミィフィに至っては、ちょっと乙女にあるまじき、人に見せられない表情をしている。さりげなく女を捨てたも同然の顔を見せる彼女に、密かに汗を垂らした。
 表情について指摘すべきかしまいか迷って――選択したのは沈黙だった。かなり本気で、どう声をかければいいのかが分からない。大口を開けて上向く彼女それ自体に、声をかけたくなかったというのもある。もし、本心を隠す必要がないのなら。それは、きっぱりと腹の立つ顔だった。

「や、するつもりだったんだけどさ。奨学金ランクも上がったし、就労先を変えようかと思ってるんだ」
「懸命な判断だよね」
「深夜に時間不定期の肉体労働なんて、あたしも絶対回避する。しかも武芸をやりながらなんて、絶対に体力が持たないぞ」
「いや、体力には自信があるし、それ自体はいいんだけどさ。ほら……」

 ちらり、と視線を動かした。そこではリーフェイスが、しぼんだストロー紙を水滴で伸ばすのに熱中している。

「夜一人で待たせたくないんだ。だから、仕事内容はキツくてもいいから、時間にある程度融通を利かせられるバイト、あったら教えてほしいんだ」

 二人は同時に、おぉ、と声を上げた。ただ喉から漏れただけのものだが、しかし感嘆の色が混ざっている。

「お父さん、だなぁ」

 どちらが言った言葉か、それは分からなかったが。しかし、どちらも同じ感想を持っていたと言うのは分かった。
 恥ずかしいような、後ろめたいような、こそばゆさが背中を過ぎる感覚。実際、そんなに深く考えて選択した訳ではない。楽をしようと思った、というのも一面の事実であったし、何よりただ必死だっただけだ。それでも――自分の選択が認められたというのは、悪くない感触だった。
 そこで終わっておけば、ちょっといい話だったのだが。

「ねえお父さぁん、服とか買ってよぉ」
「なあ父さん、お茶代の支払いはもちろんそっちだろ」
「なんでたかり始めるの!?」

 やたらしなを作って猫なで声で言う、やたら気持ち悪いミィフィ。くねらせた体でしなだれかかってくるが、先ほどの顔が頭をちらついて、どうにもそういう気分になれない。
 対してナルキは、あくまでいつもの調子で言ってくる。当然顔も真顔であり、変な不快感はないのだが。普段そのものの表情が、本気と取れなくもないのが恐ろしい。
 はっきり言って、今のレイフォンに五人分の喫茶店代などない。なにげに必死だ。

「ねっえ~ん、レイとぉ~ん。おねがぁ~い」
「リーフィが真似するからやめて!」
「ああ、そういえばリーフィちゃんとメイっち。さっきから何を黙って……」

 彼女は全てを言い終えることがなく。メイシェンの方を向いて、いきなりびくん、と体を震わせた。何かに、とても驚いている。
 釣られる様にして視線を動かして、全く同じ動作でびくんと肩を跳ねる。確認してはいないが、きっとナルキも同じような状態だろう。なぜなら、そこには見なきゃよかったという光景が広がっていたのだから。
 何より、レイフォンにとって不味かったのはその相手に見覚えがあった事だ。銀色の長髪と、純白の台に宝石を散りばめたような、ある種人間を超越したと思わせる顔立ち。その超がいくつか付く美貌にアンバランスな筈の、小さく、また幼い体つき。それは見事に妖しい魅力を出していた。とにかく鋭く――男女の差異などいう些末を越えた場所にある美、それを追求したらこうなるのだろうか。その鋭利さを、武芸科の制服が強調していた。
 何もかも魅了してやまない美少女。そうである筈だが、しかし何が悪かったかと問われれば――第一印象が、なのだろうか。あとは、今の表情か。
 レイフォンはすべきでない、とにかく黙り続けているべきこの状況で、口を開いてしまったのは。

「あ、さっきの変な人……ヒィッ! ごめんなさい!」

 見られた。
 ぐりん、と首から上だけを動かす。まるでそこからだけしか生きていないかのように。真正面から合わさった顔に、表情はなかった。交わる視線にも、色が薄い。彼女に似合っていると言えば似合っている、非常に感度に乏しい姿。
 ただし、背後には極大の炎――恐らく嫉妬――を背負っていたし、瞳の奥の奥には烈火の如き感情が渦巻いている。無なのは表情だけであり、それ以外は圧倒的なほどの心情があった。
 ついでに言えば、たとえ言葉を発していなくとも「あん?」と言っているのが理解できる。できすぎて、反射的に謝った。

「…………」

 情けなく悲鳴を上げながら謝罪したレイフォン。
 それで興味を失ったのか、彼女はゆっくりと、顔を正面に戻した。つまり、リーフェイスを抱いたメイシェンへと。
 リーフェイスの様子に変わりは無い。鈍感なのか、意図して外しているのか、とにかくのんきな笑顔を見せながら、足をぱたぱたと揺らしている。
 問題はメイシェンだ。目を点にして、しかも目尻に涙を貯めながら。口は逆三角になり、正面から見ろ押してくる相手と視線を外すことも出来ずに、ウサギのように震えている。何よりつらいであろうと言う事は――彼女は自分がなぜそんな状況に追い込まれているのか、全く理解できていない所だ。正しく、蛇に睨まれたカエル。ひたすら嵐にさらされ、それが過ぎ去るのを耐えるしかない。

「あの、そこの人……ヒィッ! ごめんなさい!」

 それを見てもなお果敢に挑んだミィフィは、勇者と言えるだろう。惜しむらくは、一瞬にして敗退し、レイフォンと全く同じ謝罪をした所か。
 視線を外された後は、ぷるぷる震えながら、肉食獣に追い込まれた小動物さながらの姿に。正直、それで初めてミィフィを可愛いと思ったが、それをかみしめる猶予はない。

「せ、先輩すみませ……ヒィッ!」

 続いて挑んだ英雄は、もちろんナルキ。声をかけた瞬間、全身からぶわりと汗を吹き出したが……しかし、そこで止まらない。
 まだ続ける気だ――勘付いて、レイフォンは声援を上げた。その調子で聞き出してくれ、全力の声援を送る。が、絶対に手伝うつもりはない、怖いから!

「その、な、何のご用でしょう、か?」

 かなり震えた、聞き取りにくい声。しかし言い切った。彼女は言い切ったのだ!
 そして、ゆっくりとレイフォンの方を向いてくる。何で! 思わず絶叫しそうになった。その風体からは、既に瘴気すら溢れている。

「レイフォン・アルセイフ」
「は……はい」

 今度は彼が全身から汗を吹きだして、椅子の上で精一杯縮こまった。意味があった訳ではない。動物が身を守るのに、咄嗟にすることは体を丸めること。その程度の反応。

「用があります。一緒に来なさい」

 断言だった。相手の返事を確認する気が全くない、気遣いの欠片もない言葉。反抗は、許されない。
 レイフォンの脳内で、音楽が流れた。よく分からない、どこか仔牛が屠殺でもされそうな、そんな音楽が。今の自分に似合いすぎて、涙すら出てきそうになる。
 銀色の女生徒が、いきなり両手を差し出した。その動きに、いっそ哀れなほど狼狽するメイシェン。どうすることも出来ずにおろおろとしていたが、それに反応したのはリーフェイスだった。

「フェリおねーちゃん、あそぶの?」
「ええ、遊びましょう」

 飛び込むリーフェイスを抱き留めたフェリは、さっきまでの様子が嘘のように消える。それどころか、あの強烈な瘴気が綺麗さっぱり吹き飛んだ。やはり表情は無としか言いようがなかったが、しかし華やいだ雰囲気さえ放っている。
 同一人物と思えないほどの変化に、皆が目を点にして、次に安堵の息を深く吐いた――レイフォン以外の。彼の目は、殆ど死んでいた。
 若干頬を染めたフェリは、嬉しそうに少女を抱きしめる。表情は変わらないのに、付き合いのない人間でも喜んでいるというのが分かる。それだけ大きな変化だった。決して放すまいと腕を固定して、そして見たのは今までリーフェイスが居た場所。つまり、メイシェン。

「ふふん」
「え? ええと……?」

 いきなり勝ち誇るフェリに、なぜそうされたか分からないメイシェン。首を傾げて――やはり分からず疑問符を浮かべている。
 本人にしか分からない勝者の余裕を見せながら、フェリは反転して歩き出した。レイフォンもそれに続かなければいけないのだろうが、しかし立ち止まって。そっと振り返り、助けを求めるように三人の方を見た。
 ミィフィもナルキも、そしてメイシェンまでもが。手を合わせていた。助けられない、済まないと謝っているのではない。哀れご愁傷様と合掌している。
 神はいないし助けもない。ついでに言えば、縋れそうな相手には普通に見捨てられた。
 グレンダンを出て何度目だろうか、溢れそうな涙を堪えながら、フェリの後をついて行った。今ならば死刑囚の気持ちが分かると、そんなことを考えながら。



[32355] よんこめ
Name: 天地◆615c4b38 ID:b656da1e
Date: 2012/04/20 20:14
 カツカツと音を立てながら歩くフェリの後ろを、殆ど音を立てずに歩く。レイフォンが音を立てずに歩くのは、別に意識しているわけではない。
 舗装されている地面の上を、ゴム製の靴底で歩けば誰でも大した音は立たない。比べて彼女の足音が大きいのは、恐らく素材に合成樹脂か、もしくは金属で出来ているからだろう。普段、それだけで特別思うことなどないのだが……この時は、きっと蹴られたら痛いのだろうななどと考えて、僅かにすくみ上がった。
 会話はない。だからといって、無音でもない。遠くの話し声や、木々が擦れ合う音などは確かにある。しかし、それよりもっと近くに、少女二人の話し声があった。もっぱらリーフェイスがまくし立てるように言葉を紡ぎ、それに相づちを打つ状態。
 レイフォンは、自分が別段無視されている訳ではないと理解している。ただ、それ以上にリーフェイスとの会話が忙しいだけなのだろう。
 しかし、なぜわざわざ呼び出しをしに来たのだろう。まさかリーフェイスに会いたかったからか、一瞬考えたがすぐ否定する。やるにしたって迂遠過ぎるし、呼び出すまではいいにしても、どこかに連れて行く意味が分からない。それに、

(迷ってるような感じは、全くしないんだよな)

 目的地だけは定まっているようで、足取りに不安はなかった。リーフェイスの事はついで(彼女にとってそうであるかは定かでないが)で、本題は別にあると見ていいのかも知れない。ならば、この少女はただのメッセンジャー兼道案内なのだろう。
 視線を下ろして、彼女を見た。明確に下ろさなければ、後頭部をしっかりと捉えられない。その程度には身長差があった。
 一度目の出会いは(一方的な)口論の末にしがみつかれる。二度目は椅子に座っていた上に、彼女の姿を直視していない。落ち着き改めて見てみた少女の体は、予想よりも幾分小さかった。少なくとも、黙っている姿を見ている分には、無邪気に見惚れている事ができそうだ。
 このどう見ても十歳を少し超えた程度の少女は、上級生だと言う。
 ナルキの言葉を信じれば、なのだが、レイフォンはそれを疑っていなかった。どこで判断したのかまでは分からないが、彼女がその手の話を間違えるとは思えない。そして、先輩という発言を否定しなかったのだから、正解なのだろう。
 道はやがて整地を外れ、落ち葉を踏むようになってきた。人が通って自然と草のよけられた獣道だ。人影が少なくなり、外縁部も近い。そんな所まで呼び出される理由というのが、やはり思い浮かばなかった。

「あの……フェリ、先輩?」

 投げかけた言葉は、酷く自信のないものだった。
 名前はリーフェイスが言っているのを聞いただけ。先輩というのも、ナルキの言を鵜呑みにしただけでしかない。何一つとして自分で確認したものが無いのであれば、それも仕方が無い。

「黙って付いてきなさい」

 勇気を出して声をかけたが、即座に拒否される。
 発せられた言葉にも、ちらりと飛ばしてきた視線にも、先ほどのような威圧感はない。ただし、干渉を拒絶してもいたが。この様子なら、もう少ししつこく声をかければ、何かしらの解答を得られるかもしれない。だが、怒らせるリスクを負ってまで聞きたい質問があるかと言われれば、それは首を傾げてしまう。
 単純に重要度を考えれば、ここで少しでも情報を得て置いた方がいいのだが。

(まあ、何かあれば無理矢理逃げちゃえばいいしね)

 つまりは、レイフォンがある程度落ち着いていられる理由の根底に、そういう考えがあったのだ。
 全く持って褒められた思考ではない。力業というのはおよそ最後の手段であり、最悪の手段でもある。それを頼りにして行動をしていいものではない。
 しかし、彼には自信があった。武芸者としての活動には忌避感があっても、力そのものに対する自信が。ひたすら刀を振り続けた日々と、それを戦場で形にした経験、それらに信仰に近い確信がある。そして、実際にツェルニではレイフォンを止められる者はいないというのも、恐らく事実。
 いかにレイフォンの気が弱かろうが、結局は彼も武芸者的なのだ。
 力が正しいとは限らない、しかし力に間違いは無い。根底には、そういう考えがあった。
 無言でついて行くことさらに幾分。いよいよ都市外縁部が見えて来そうな程外周に近づいていた。嫌な予感に、たらりと汗が流れる。
 外周区域にしかないものと言うのは、当然ながら多くない。移動都市と言うのは、基本的に都市中心部分に都市機能を置いて、次に住居区や商業区等を置く。外に近ければ、それだけ何かがあったときに《振り落とされる》危険性が高まるのだから、より中心近くに重要な物を置こうというのは当然だろう。それは金や権力が中心に集まるという事であり、つまり内は便利で外は不便なのだ。危険で不便となれば、好んでそんなところに行きたがるのはよほどの変人くらいだろう。変人しか行きたがらないような場所に何かを置くのであれば、それだけの理由が必要になる。
 例えば、対汚染獣の外壁や剄羅砲、はみ出た都市資材の材料や重機の類がある。内外双方になければならない物は置いとくとして。大抵は外に対する備えか、何かしらの――大半は邪魔になるという理由で――内部におけない物を、追いやっているだけだ。

(そして……あとはとてもうるさいものとか。そう、例えば……武芸者の訓練施設)

 目についたのは、大きく頑丈そうな建物だった。とても無骨な長方形の建物は、都市の中でも屈指の強度を持っている。
 そして、今は静かにそこにあるだけの会館。しかし、一度正しく使われ始めれば、分厚い壁でも遮断しきれない轟音が周囲を飲み込む。レイフォンはそれを、誰よりもよく知っていた。
 なつかしい……と言うほどでもないが、間違いなく武芸者の訓練施設。それを確認して、大人しく付いていったのを後悔した。

「あのー、先輩。僕ちょっと用事を思い出したんで、今日は帰っていいですか?」

 言葉と同時に、フェリは振り返った。振り返っただけで、何を言うでもない。ただ胸で抱えたリーフェイスを撫でながら、酷く不愉快そうではあったが。
 帰っていいのか、一瞬甘い考えが浮かんだが、それはすぐに訂正させられる事になった。レイフォンの周囲には、数十の金属製の花びらが浮かんでいる。
 念威端子。通常であれば、端子の周囲の情報を獲得する端末。端子の操作総数や性能は術者の才能と技量によってまちまちで、半径数メルトルが限界の者がいれば、数キルメル平気で探索する者もいる。
 そして、もう一つの普通でない使い方。念威端子を意図的に暴走させて、爆弾として利用する念威爆雷。こちらは実力で爆発の威力に差が出てくるなどという事はなく、威力も低くて幼生体すらまともに倒せない。だが、人間を相手取るには十分に殺傷しうる威力を持っている。
 その殺傷能力抜群の剣呑なものが、レイフォンの周囲を漂っていた。
 殆ど密着した状態で。
 やっぱり、実力を頼りにして楽観すると碌な事がない。再確認以上の意味が無い事を反芻しながら、フェリの後に続いて会館の中に入っていった。

「……失礼します」
「おじゃましまーす!」
「え? あ、失礼します」

 フェリがぼそりと入り際に挨拶をし、それにリーフェイスも同じく声を上げた。レイフォンもそれに、咄嗟に続く。
 挨拶をしてから、それが入館の挨拶ではなかったのかも知れないと思い至った。まあ、中の人に対する挨拶でも行っておいて損はないし、今更訂正するだけの理由もない。
 中を見てのレイフォンの感想は広い、そして綺麗だ、だった。恐らく数十人が利用する前提で作られた会館は、縦横に加えて高さも、かなりのスペースが確保されている。
 なにより、外観から想像するよりも、内部は圧倒的にしっかりと保たれていた。
 少し足の裏に意識を向ければ分かる、靴底を通じて感じられる床のゆがみ。幾人もの武芸者が踏み込みを繰り返し、すり減った証。そこはしかし、新品のようにワックスまでかけられている。ずさんな管理でここまで維持するのは不可能だ。訓練の度に隅まで掃除をして、決して汚れを残さない。潔癖症なほどのワックスがけとメンテナンス、そこまでしてこそ、今の状態で維持できるのだ。
 いい場所だった。嫌いになれる筈がない。自然と零れる笑みを自覚しながら、足の裏の歴史を感じた。

「おっと、フェリちゃんお疲れさん。んで、そこの彼が例の?」
「……ええ」

 一つの返事で、二つの肯定。相変わらずの必要最低限だった。
 あの黙して語らずのスタイルは、こちらが嫌いだからではないかと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。それでどうにかなったわけでもないが、とりあえず安堵のため息をついた。

「で、だけど」

 やる気無く床に座り込んで雑誌を読んでいた男が顔を上げる。ファッション誌を投げ捨てて現れた顔は美形だったが、どこか引きつってもいた。

「その子、どこの子よ」
「わたしの娘です」
「違いますよね! あなたの娘じゃありませんよね!」

 いきなり既成事実でリーフェイスを我が物にしようとしたフェリ。それを全力で否定した。
 声を荒らげたレイフォンに向くフェリ。その顔は、余計なことをしやがって、とでも言いたげだった。

「……余計な口を」

 しかも口に出してまで言われた。ご丁寧に、その後に舌打ちまで付けて。

「もとい……、……わたしの愛娘です」
「だから違うでしょ! 一応僕の娘ですから!」
「いやお前、それもおかしいって分かってるか?」

 無茶苦茶な言葉が飛び交っている中に、正確に言葉を差し込む男。レイフォンははっとした後、わたわたと慌てながら言い訳をした。

「あのですね、僕とこの娘が親子って言うのは、書類上の処理の問題と言いますか、一番近い関係を表したと言いますか……。いえ、正確にはやっぱり違うんですが、とにかく保護者は……」
「わたしが引き取った娘です。こっちの人は誰ですか? むしろリーフィを浚いに来た誘拐犯ですね、都市警察を呼んで下さい」
「さりげなくまた犯罪者にされた!?」

 むっとした顔で、さりげなくリーフェイスを体で隠すあたり芸が細かい。むしろ腹立たしいが。
 レイフォンも必死に誤解を作られまいと努力してはいる。いるが、その挙動不審な様子が存在しなかった疑念を作る理由になると気づくのはいつだろう。

「あー、待て待てお前ら、一度落ち着け。とりあえずフェリちゃんは黙んな。嘘にしても意味不明すぎて訳が分からん。んで、そこのお前」

 ぶすっと、口を膨らませるフェリ。明らかに納得してはいないが、とりあえず言われたとおりにした。
 いきなり名指しにされ焦る。流れで次はこちらに来ると予想してはいたが、あまりに気安い、慣れぬ雰囲気がテンポを狂わせていた。

「その子供はリーフェイスって言って、僕の故郷から……」
「違う、そこじゃない。フェリちゃんは去年からいるのに、いきなり娘なんぞ出来るわけがないだろ。なら、そこの子供は確かにお前さん預かりなんだろうよ。ま、確かに事情はちょいと気になるがな。けど、おれが今聞きたいのはお前さんがどこの誰かって事だよ」
「あ、すみません。僕は一年のレイフォン・アルセイフです。一応、武芸科の」
「ふぅん、一応ねえ」

 レイフォンが一般教養科に居たのを知っている。そう言っている相づちだった。と言っても、その後の顛末までは知らないだろうが。

「しかしお前も大変だったな。ウチの会長、ヤリ手で有名だからな。えげつないとも言う。おめでとう、お前は一年の初被害者だ」
「あはは……ありがとうございます。全く嬉しくないですけど」
「お、なんだ。もっと堅い奴かと思ったけど、案外そうでもなさそうだな。ちなみにおれは四年のシャーニッド・エリプトンだ。お前には特別に偉大なるシャーニッド先輩と呼ばせてやろう」

 人なつっこい笑みを浮かべながら、レイフォンの肩を抱いてくるシャーニッド。ミィフィとは別種の、人付き合いが上手いタイプだ。
 二人のやりとりを無視したフェリは、いつの間にか無言で会館隅にある椅子に腰掛けていた。当然リーフェイスを抱えたままで、少女と遊んでいる時だけはうっすら笑んでいる。
 とりあえず、シャーニッドがいい人だろうというのだけは分かったのだが。結局何で呼ばれたのかがまだ分からない。まさか、こうして男同士の友情もとい馬鹿話をさせるために呼んだ訳でもあるまいが……。しかし当のフェリに説明するつもりはなさそうだ。先輩も、そういう雰囲気ではない。
 シャーニッドも武芸者なのは間違いない。剄の脈動を感じさせているし、それ以前に武芸科の制服を着ている。これに念威繰者のフェリも加わっているのだから、まさか武芸の話ではありません、などという事もあるまい。

(と言うことは、つまり。この人達は協力者って事かな?)

 脅迫と裏取引でねじ込んだ、武芸大会の秘密兵器という事になっているレイフォン。それを単体で運用して「さあ行ってこい」と言うわけにも行かないだろう。なにしろ、生徒会長に武芸者に対する指揮権などない。
 ならば、有力な者と顔通しをさせる。そして、それらを通じて意図通りに運用されるよう調整すればいいのではないか。
 もっと早くて楽なのは、レイフォン自身を目立たせることだろうが。そこら辺は、カリアンも意を汲んでくれたのだろう。もっと強引で非情な人かと思ったが、案外調整をしてくれる人らしい。
 レイフォンはとにかく、目立ちたくない。彼が目立つと言うことはつまり、武芸以外にありえないからだ。そして、武芸で目立つというのは期待を背負うという事である。そんなのはもうごめんだ。二度とごめんだ。彼らの一員として、もしくは彼らに指揮される人間の一人として居るのであれば。その賞賛や期待はレイフォンに向かない。武芸者として、実力以上の、それも自分で成していない事を称えられるのは業腹だろう。だが、あの生徒会長の仲間だと言うのであれば、それを背負っても都市を救いたいと思っている人間の集団なのだろう。
 そう思うと、すっと心が楽になった。考えすぎていた自分が馬鹿みたいで、なんだか笑えてくる。
 気分が浮いたのと、シャーニッドの軽快な語りで、緊張がかなり解ける。ぽつぽつとだが自分から話しかけられるようになった。
 そんな頃である。がらがらと、けたたましい音がしたのは。

「おっと、そっちの彼がそうなの?」
「おーう、期待の一年くんだ。名前はレイフォン・アルセイフだとよ」
「へえ。あ、僕はハーレイ・サットン。錬金科の三年だよ。君の錬金鋼調整を担当することになる。よろしくね」
「先に紹介して貰いましたけど、レイフォン・アルセイフです。よろしくお願いします」
「ちなみに、僕相手にそんな堅くなることないからね。気軽にしてくれていいよ」

 薄汚れたつなぎを腰で縛り、上半身に黒いシャツ。両手には軍手をはめて、頭の帽子は落下物で頭部を怪我しないためだ。見事なまでの技術系生徒だった。
 こちらはシャーニッドのような、要領のよさは感じない。しかしいい人であるというのは間違いないだろうが。上手くつきあえそうだ、そう感じられてほっとする。
 キャスターに押されて持ってきたのは、錬金鋼の調整器だろうか。かなり大型な道具だ。錬金鋼という質量までもを変化させる錬金術の傑作を調整するには、それだけのものが必要だった。同時に、それに見合うだけの大電力が必要になるのだが、そこら辺の事情をレイフォンはよく知らない。

「ニーナは?」
「小隊長の集まりがあるらしいから、もう少しかかるかな。でも、すぐ来るって言ってたよ」
「んじゃ先に錬金鋼の調整すんのか?」
「いや、それは後。と言うかニーナに絶対にやるなって止められた」
「お前はやり出したら止まらないから。あとからゆっくり時間をかけて調整してやんな」

 ハーレイは持ってきたキャスターを、壁際で止める。つま先でキャスターのロックを入れると、そこでしっかりと固定した。
 そのすぐ横にはずらりと並んだ棚がある。そこに、色々な種類の簡易模擬武器が、無数に立てかけられていた。同じ種類の武器がいくつも並んでいるのは、ここは授業でも使われるからだろう。
 簡易模擬武器、錬金鋼もどきなどとも言われるもの。剄の通りは悪く、収束率も微妙。さらにすら調整できないとなれば、訓練用にするしかない道具だ。しかし、逆に言ってしまえば――それは錬金鋼以外で唯一剄を運用できる物質であるとも言える。生産も容易であり、訓練をするにはもってこいの道具だった。レイフォンも、かなり昔に何度かお世話になった記憶がある。
 部屋の隅、錬金鋼調整器の横で何かの設定をしているハーレイ。武芸者でなければ運動服も着ていない人が訓練場にいると言うのは、どこか新鮮で不思議な光景だった。いや、グレンダンでもそういう事はあったのだろうが、レイフォンに見た記憶はない。
 惹かれて後ろ姿を眺めながら、ふとレイフォンは、思い立った事を口にしていた。

「あの、ハーレイ先輩、ちょっといいですか?」
「うん? なんだい?」

 人の良さそうな先輩はその印象通りに快諾し、背後を向いた。どうやら設定ではなく機械の調整をしていたようで、手にレンチを、顔に油を付けている。

「その……僕って、誘拐とかしそうに見えます?」
「……は?」
「ぶわぁははははは!」

 予想外の質問にハーレイは惚けて、そしてシャーニッドが爆笑した。床に転がって腹を抱え、両足をだんだん床に叩きつけている。
 確かに、密談をした訳ではない。大して大きな声は出さなかったが、だからといって誰にも聞かれないほど気を遣ったわけでもない。ちょっと耳をたてれば、或いは耳が良ければ、簡単に聞き取れるのだが。

「そ……そんなに笑わなくてもいいじゃないですかぁ!」
「いやだってお前……ははははははは! ひいい~~~、っくくくっ……!」
「いやあの、何がどうしたの?」

 完全においていかれ、何が何だか分からないとハーレイ。その様子がツボにはまったのか、さらにシャーニッドは声を大きくした。
 考え直してみれば、確かに質問の内容が馬鹿馬鹿しい。むしろ馬鹿馬鹿しすぎて答えようのない質問でもある。それでもレイフォンは真面目に考えているのだ。放浪バスの中で誘拐犯扱い。ツェルニについても誘拐犯扱いの連続。レイフォンでなくとも、自分に自信が持てなくなると言うものだ。
 ちなみに。爆笑し続けるシャーニッドに、恥ずかしさに悶え苦しむレイフォン。その様子を見て、フェリはこっそりとため息を吐いていた。

「くひぃぃ~っ。安心しろよ、お前さん全く誘拐やらかすようには見えないさ。どっちかって言うと、ビビりながら誘拐しようとするけど、子供にあしらわれて慌てふためいているような印象だぜ」
「それって結局誘拐犯っぽいって言ってません!?」
「ちょっと都市警呼んできますね」
「やめて! って言うかこんな時だけ話に混ざってこないで!」

 絶妙なタイミングで愛の手を入れたフェリに、即座に突っ込む。一瞬スルーしようかとも思ったが、手が腰の錬金鋼に添えられていた。いつでも通報できる体勢だったのが、リアリティを増して恐ろしい。

「ははは……。まあ事情はよく分からないけど、少なくとも僕にはそんな事するように見えないよ」
「ううぅ、ありがとうございます。味方はハーレイ先輩だけです」

 ぽんぽんと肩を叩かれながら慰められる。制服に気を遣ってか、軍手は外されていた。唯一の良心である。

「なんだよハーレイ、ノリ悪いぞ」
「君たちは悪のりしすぎだよ」
「わたしは本気でした」
「なお悪いよ。もうちょっと自重して。……と言うか、君ってそんなキャラだっけ?」

 ハーレイにじと目で見られても、気にすらしない。
 仲間内から見ても、すっかりキャラの崩れているらしいフェリ。やはりと言うか、避難の目もスルーしてマイペースっぷりを発揮していた。今も、リーフェイスの手をぷにぷにする仕事に余念が無い。
 肩に残る疲れを感じながらも、レイフォンはこの出会いに感謝した。クセは強いが、悪い人たちではない。いや、それどころか自分には勿体ないくらいいい人ばかりだ。……フェリだけは、手放しにそう言うには釈然としないものがあったが。とにかく、上手くやっていけそうな人たちではあった。
 などと考えていると――いきなりずだん、という音が会館内に反響した。
 急な音に、思わず緊張したレイフォン。しかしそれは彼だけだったらしく、他の皆は至って普通の態度だ。

「すまん、遅れた!」

 と言いながら早歩きで来たのは、金髪でショートヘアの女性だった。背が高い。男性の平均身長ほどあるレイフォンと、視線の高さが殆ど同じだった。かなりの長身である事も印象的だったが、それ以上に瞳が強く心に残る。
 確かに、彼女の目つきは鋭い。獲物をじっと捉えて、食らいつくような肉食獣を彷彿とさせる鮮烈さ。だが、真に注目すべきはその内側の眼光だった。それだけを見て、何が分かる訳でもない。レイフォンのそれも、結局の所はただの印象でしかないのだから。しかし、それで済ますには彼女の視線は――意思が強すぎた。高望みでしかないかもしれないし、夢物語かも知れない。だが、それだけでは終わらせない。そう雄弁に語っている、レイフォンにはそう見えた。
 それは、とてもまぶしい目だった。そして、覚えのある目でもある。
 かつて――レイフォンもあんな意思を宿していた時があった。もう無くしたものだ。一年と少し前に。だから、それを見続けることができなくて。視線が合わさったわけでもないのに、自然と目をそらしていた。
 目の前を通過すると、持っていたバッグを乱暴に部屋の隅まで投げる。それが落ちるのを確認もせずに、ハーレイに向きかえった。

「準備はできてるか?」
「ばっちりだよ。いつでも調整できる」

 聞いて、女性は満足げに頷いた。そしてまた忙しなく動き、訓練所の中心あたりまで移動する。そこで、肩幅より僅かに広いくらいに足を広げて、しっかりと立って見せた。視線は、今度こそレイフォンを捉えている。

「お前の名前は?」

 言われて、しばらく惚ける。レイフォンがその言葉が自分に向けられたのだと気づいたのは、彼女が眉を潜めたからだ。

「レイフォン・アルセイフです」
「そうか。わたしはニーナ・アントークだ。三年で、見ての通り武芸科だ」

 一つ一つ、まるで何かを確認するように言う。もしかしたら、こちらに記憶させるためにわざとそうしているのかも知れない。
 しばしの沈黙。ニーナの指が、両腰に付けられた剣帯の、左側にある錬金鋼の柄を叩いた。
 さらにしばらく、かつかつと金属と爪の先がたたき合う音だけが響く。レイフォンは困惑に顔を歪めて、そしてニーナは不機嫌そうだった。

「おい、何をしている。さっさと取ってこい」
「……すみません、何をですか?」
「何を、だと? そうか、武器はいらないと言うことか。……新入生、いい根性だな。その根性が曲がらない事を祈っているぞ」
「いやちょっと、待って下さい! 本当に何の話ですか!?」

 肉食獣の眼光が、いよいよ獲物を刈り取る段階になる。本気の剄の流れ、それを感じて、レイフォンは慌てて手を振った。
 ニーナの目尻がさらに傾く。

「レイフォン・アルセイフ、まさか自己申告だけでポジションが決定するとは思っていないだろうな。お前には小隊員として持ちうる技能を全て出し切る義務があるし、わたしには小隊長として隊員の全能力を把握する義務がある。まだ一般武芸科生徒気分が抜けていないなら、今すぐそれを捨てろ。出来なければ、無理矢理たたき出してやる」
「ちょ、ちょっと待って! 本当に、小隊とか一体何の話です!」

 いよいよ、ニーナが剣帯から錬金鋼を引っ張り出したところで。レイフォンの台詞に、ぴたりと止まった。

「お前、ここに何をしに来たか分かっているか?」
「ぜんぜん」

 錬金鋼を半分抜き出した姿勢のまま、問いかけて。その解答に、びしりと固まった。
 レイフォンに向けられた怒りは、そのまま横にスライドした。移動した視線に習って向けてると、そこではやばい、というような顔をしたシャーニッド。そして、リーフェイスと戯れて気にしない振りをしているが、僅かに動きがぎこちないフェリ。

「貴様ら、まさかとは思うが……事情を説明していなかったのか? あれほど先に済ませておけと言ったのに」
「わたしは言われたとおり、レイフォンを連れてきました。ならば、説明はあっちの人がやるべきです」
「いやちょっと待ってよフェリちゃん。それは移動しながら言えばそれで済んだんじゃない? それに言ってくれれば、おれだって説明したさ」
「同罪だ馬鹿者ども。失敗は訓練で取り返して貰う。覚えておくように。……と言うか、その子供は一体何だ?」

 見苦しい責任の押し付け合いをする二人を同時に切り捨てて。今まで気にならなかったか、それとも計っていたのか。今は膝の上を横断するように、俯せに転がっている少女を見た。
 自分が指されたのを感じたのか、リーフェイスは顔を起こした。僅かに視線を彷徨わせ、呼んだ張本人を捉える。無垢で純な視線に、ニーナは思わずたじろいだ。

「あい! リーフェイス・エクステです!」
「いや、聞きたいのはそういう事ではなくてだな……。ああ待て、だが間違っている訳でもないんだが……」

 かぶりを振って否定し、しかしもう一度同じ動作をする。くくっと、疑問符を浮かべて首を捻るリーフェイスに、今度は息を詰まらせた。
 聞きたいことは決まっている、しかしそれをどう表現すれば伝わるかが分からない。そういう感情が、傍目から見ているレイフォンからも見て取れた。シャーニッドなどは、その様子を面白そうににやつきながら外野をしている。
 そして、やはり。フェリが余計な事を言い始めた。

「そして、わたしの娘になりました」
「違うよ! だから僕が保護者ですからね!?」
「ええ、そうですね。昨日まではそうでした」
「昨日も今日も、そしてこれからも変わりませんよ!?」

 殆ど絶叫をしながら――と言うかそれくらいしか出来ることがない――否定をしていく。フェリはつんと態度を鋭くさせて、レイフォンの主張を突っぱねていた。

「おい、シャーニッド。フェリは、その、どうしたんだ?」
「おれも知らね。ただ、あの子がお気に入りで、その保護者に嫉妬中って事くらいは予想できる」
「嫉妬ではありません。純然たる事実です。……事実にします」
「こわっ! この人何か怖いこと言っている!」

 ぎゃーぎゃーと、にわかに騒がしくなる室内。音が反響するためか、妙に耳障りに響いた。
 と言っても、それも長続きはしない。ニーナの咳払いと同時に、強制終了させられた。彼女にとっては、こんな下らないことで取っていい時間ではない。

「まあ、許可を取ってあって、邪魔さえしなければ何でもいい。それよりも続きを……じゃないな。まずは説明からしなければならんのか」

 手に持っていた錬金鋼を剣帯に戻して、ニーナは語り始めた。鋭いと言うか、剣呑な雰囲気は完全に途切れている。勘違いだったというのもあるが、それ以上にリーフェイスの件で空気を遮断されたからだろう。
 曰く、小隊とはツェルニ武芸者のトップエリートの事で、名誉な事である。曰く、武芸大会もしくは有事の際に、一般の武芸科生徒を従える指揮官として動く役割がある。曰く、これは大変名誉な事であり、武芸者であるならば拒否は許されない。そこまではまあ、良かったのだが……。
 彼女の言葉を信じるのであれば、レイフォンが小隊入りをするのは許可済みであるらしい。これを聞いたときに、レイフォンは思わず目眩を覚えた。
 カリアン・ロスは、多少はこちらのことを考慮してくれるのかと思ったが、全くそんな気はないらしい。それどころか逆に、徹底的に使い潰すつもりすらある様子だ。
 目立てば、それだけレイフォンに注目が集まる。注目が集まれば、調べようとする者が出てくるだろう。そういう者達を前に、どれだけ過去を隠し通せるだろうか。いや、隠し通せたとして、それだけ頑なに秘匿するのは怪しまれるのではないだろうか。強烈な不安が、胸に押し寄せた。
 勿論、生徒会長はそれについて対策を立てている可能性は大いにある。だが、立てていない可能性もある。そして、レイフォンに前者だと信じることができない。僅かに上げたカリアンへの評価が、一気に落ちていくのを自覚する。

「いや、その……僕は小隊とかそういうのは、ちょっと遠慮したいと言うか……」

 それでも、なんとか抵抗をしてみる。ささやかなものでしかない。本当にないよりマシかを問いたくなるような、小さな抵抗。
 ニーナの反応は、レイフォンが予想していたものだった。眉を跳ねて、視線を鋭くする。つまりは怒りと苛立ち。

「もう一度言うが、既に生徒会長の承認は貰っている。厳密に言えば、お前は既に小隊員だ。なぜそんなに嫌がる?」
(契約したのは武芸大会で勝つことだけだからだ!)

 思わず絶叫しそうになって、必死に口をつぐむ。一応は正式な契約でも、裏取引の内容など誇って語れるようなものではない。それに、そこにつけ込んでリーフェイスを認めさせたのも事実なのだ。後ろ暗さはなくとも、負い目は十分にある。
 しばらく。レイフォンが拳を握りながらも次の句を告げないと見て、ニーナは口を開いた。

「それに、奨学金ランクがAになったんだろう。なら他に何ができるんだ?」
「……うん?」

 奨学金ランクがAだと何になるのか、意味が分からない。小首を傾げたレイフォンを見て、ニーナはため息をつきながら続ける。

「そもそも、奨学金Aランクは学園側が学費を全額負担することになるのだぞ。それを認める相手とは、つまりそれだけ能力がある相手となる。お前、武芸に関して実力以外に何か、取り柄があるのか? 学費全額免除されるだけの何かが。ちなみに、現在小隊員以外でAランクを持っている武芸者は、武芸大会戦術開発の専門家だ」
「な……え?」

 言われてみれば当然の話だ。学園都市が学生の学費を免除するのであれば、それだけのものが必要になる。レイフォンはそれだけのものを持っている自信があったが、問題はそこではない。持っている、というのを対外的に証明するのが必要だった。
 つまり、戦うことしかできないなら、小隊に入って披露するしかない。最初から、仕組まれていたのだ。

「だ、騙された!」
「何が騙されただ。それに、武芸者がその力を発揮するのは義務だ。それを使わないと言っている時点で、お門違い極まりない。全てが的外れだ」

 剛健とした雰囲気を僅かも崩さず。小さく唱えて復元した錬金鋼で、ぴっと壁際の模擬武器を指した。

「つまらん事を言う暇があったら、とっとと武器を持ってこい」
「……はい」

 抵抗するまでもなく負けているのを自覚して、項垂れながら取りに行く。
 手に取ったのは、ごく普通の細身剣だ。別に選んだわけではなく、一番近くにあった刃物の武器がそれだったと言うだけである。あとはそこそこの、振って不快感がない程度の武器であればなんでもよかった。
 右手に剣を垂らしながら、ニーナの正面に立って。怪我しない程度に真面目にと思っても、全くやる気が出てこない。

「パパ、くんれんするの? じゃあリーフィもするの!」

 両者が対峙して間もなく、まだ始まりの合図もない頃。やや空気が緊張に帯電し始めて――その空気を察知したのだろう、リーフェイスが言ったのだ。
 フェリの膝の上から飛び降りて、簡易模擬武器を物色し始める。刃が付いているわけでもないので危険はない。それに付き添ったのはフェリとハーレイだった。三人で、リーフェイスが押しつぶされない程度に小型な武器を探し始める。その様子に、レイフォンは明らかに狼狽した。

「先輩、その子に武器を持たせないで!」
「おいレイフォン、集中しろ!」
「大丈夫だよ、危険なものは持たせないから。ちゃんと見てるから安心して」
「まったく、騒がしい人ですね。ほら、これなんかどうですか?」
「そういう意味じゃないんです! 本当に武器を持たせないで!」
「おい、貴様いい加減に……」

 武器を放り出して、三人に寄ろうとする。いよいよニーナの我慢が限界を迎え、レイフォンにつかみかかろうとした時。
 会館内に、甲高い破裂音が響いた。強烈な音は、続く小さな打撃音に彩られる。フェリは驚きに座り込み、シャーニッドは体を起こし、ニーナは目を丸くしていた。絶叫が響く。泣き声、小さな子供が声を上げてわんわん泣いている。
 酷いのはハーレイだった。床の上でばたばたと悶えているのは、恐らく粉砕して飛び散った金属片の直撃を受けたからだろう。悲鳴を上げながら、ばたばたと床を転げる。
 リーフェイスの手には、何もなかった。正確に言えば、握り部分以外何も。その先にあった、何かの武器を模した金属は、全てはじけ飛んだのだ。内側の圧力に負けて、風船が限界を迎えるように一気に破砕した。誰もが事実について行けず、ただ時に取り残される中、レイフォンだけが冷静に動く。

「ほらリーフィ、おいで」
「うあああ゙あ゙あ゙あ゙! ぱぱぁー!」
「そうだよね、いきなり大きな音がしたらびっくりするよね。けどもう大丈夫だから、怖くないからね」

 服にしがみつく子供の背中をぽんぽんと叩きながらあやす。今でこそこんな事は起きていないが、昔は何度かあったのだ。対応は覚えている。
 いち早く起きたのは、さすが隊長と言うべきか、ニーナだった。

「な……何が起きたんだ?」
「剄の過剰供給ですよ」
「なに? 何だそれは?」
「剄の量が多い人に、割とあるんです。錬金鋼が剄の量に耐えきれなくなって、自壊するって事が」

 涙こそ止まったが、未だにしゃくり上げるリーフェイス。背中を優しくさすって、なんとか体から力が抜けてきていた。

「この子の剄に、普通の錬金鋼は耐えられない。だから、錬金鋼より許容量の少ない模擬武器なんて持たせたくなかったんです。すみません、先に行っておけば良かったですね」
「いてて……いや、たぶん聞いても信用できなかったと思うからいいよ。こうして体験しても、信じられないくらいだ。世の中、冗談みたいな本当の事ってあるもんだね」

 体をさすりながら、なんとか持ち直したハーレイ。肌の露出した腕部分は特にダメージが大きかったようだ。見るからに痛い、真っ赤な腫れがいくつも作られている。そんな目に遭いながら、しかし彼の目は好奇心にらんらんと輝いていた。なんと言うか、わかりやすい人だ。

「フェリ先輩。すみませんけど、またこの子を預かって貰えますか?」
「ええ、それはかまいませんけど。むしろ歓迎しますが」

 ぎゅっと胸元にすがりついていた少女は対象を変えて、フェリの胸を掴んで小さくなった。
 虫のように体をたたむリーフェイスを撫でている。その彼女の耳元に、そっと顔を寄せていった。

「それと、できればリーフィをつれて、どこか別の場所に行っていただけませんか」
「それは構いませんが……しかしなぜです?」
「……あまり、僕が戦っている所を見せたくないんですよ」

 なんとも曖昧な答え。なぜ、が何にかかっているのかもごまかしながら答える。それで納得して貰えたかどうかは分からないが、少なくとも満足はして貰えたようだ。少女を大事に抱えながら、通路へと消えていくフェリ。
 その姿を見届けながら、レイフォンは満足そうに頷いた。実際、満足している。
 転がしたままの剣を手に取り、軽く構えた。ニーナはやや面食らったが、すぐに一対の鉄鞭を掲げる。ハーレイは、試合を見ようか二人を追うべきか迷っていたが。

(よかった)

 頭の中でだけ反芻する。これだけで、随分やりやすくなった。変な義務感が、体から徐々に消えていく。
 これで良かったのだ。適当に戦い、最低限の実力だけは見せておき、そこそこの評価で満足して貰えばいい。
 あとは、試合はそこそこのあたりで負けてしまえばいい。並の一年よりは結構使える、そうも思って貰えれば最高である。
 だが、そんな無様な姿を、リーフェイスにだけは見せたくなかった。その懸念も、もう解消された。
 まずは、さしあたって――迫り来る鉄鞭をいなすところから、始めればいい。



[32355] ごこめ
Name: 天地◆615c4b38 ID:b656da1e
Date: 2012/04/24 21:55
 ぱちり、と。リーフェイス・エクステは目を開いた。
 自分の体を優しく包むシーツを、惜しげもなく跳ね上げる。意識は一瞬で覚醒しており、まどろむなどと言う事は全くない。
 ベッドから起きてスリッパを履くと、父――レイフォン・アルセイフはまだ寝ていた。これはいつもの、それこそグレンダンの頃からずっとそうである。昔は武芸に、今は仕事に夜遅い父は起床が遅い。そうでなくとも朝に弱いのだ。時間に余裕があるのに、無理に起こすような事はしない。
 今は『機関掃除』なる仕事をしており、そのせいで、いつもリーフェイスが寝てから帰ってくるようだ。その内仕事を変えて、一緒に寝られるようにする、と言っていた。負担になるのを恐れて口にしなかったが、その日を心待ちにしていた。
 朝起きてまずするのは、着替えである。脱いだパジャマは洗濯かごのなかに入れておき、前日に用意して置いた服を着る。最後に鏡を見ながら整えて、着替えは完了だ。
 続いてやるのは、朝食と昼食になる弁当の準備。楽な仕事ではないものの、孤児院でも相応の仕事はしていたのだ。仕込みさえしてあれば、そう難しいことではない。
 冷蔵庫を開いて、中身をあさる。食材を胸に抱えては、脚立を上って調理台の上に並べていった。調理は決して手際のいい物ではなかったが、しかし手慣れている様子ではあった。
 パンをトースターで焼き、バターを塗る。レタスは手でちぎって、冷水の入ったボールの中に。お湯はポットの中に水を入れて、コンセントを指しておけば勝手に湧く手軽なものだ。卵を数個ボールの中に落として、続いてチーズを入れてよくかき混ぜる。塩こしょうを振っておくのも忘れない。
 ここまで準備をして、いよいよ本番だ。リーフェイスはフライパンを持って、真剣な顔をした。火でフライパンを熱し、暖まってきたら油を引いた。全体にのばした後に、溶き卵を投入。じゅっという心地よい音を響かせながら、しかしリーフェイスは必死だった。フライパンをがしゃがしゃと動かしながら、木べらで中身をかき混ぜる。普通であれば簡単に作れるスクランブルエッグも、小さな少女にとっては重労働だった。

「ふー」

 汗をぬぐいながら、用意した皿にスクランブルエッグを乗せる。正直形は悪かったが、リーフェイスは満足げだった。
 油を引き直して、続いて切り分けられたベーコン。さっきよりも油が跳ねて大変だったが、なんとかカリカリのいい焼き具合に仕上がった。
 そして、最後に。ここからが本当の敵である。ビニール袋を開いて、中から取りだしたのは鶏肉。キッチンペーパーで拭いて、新しい油になじませたフライパンに投入した。分厚い肉は、火加減が難しい。リーフェイスの目は真剣そのものだ。
 片面は強めの火で焼き後をつけて、肉をひっくり返し少量のワインを入れる。すぐに蓋をして、あとは蒸し焼きになるのを待つだけだ。この時、火から離れるような事は絶対にしない。火は、熱くて怖くて、ほっといたら苦しい事になる。それをよく知っている少女は、絶対に油断をしなかった。
 頃合いを見て、肉に串を刺し、火が通ったことを確認して取り出す。皿の上に開けておくのは、余熱を飛ばすためだ。
 スクランブルエッグとベーコンの乗った皿を、テーブルに移す。パンはリーフェイスが一枚、レイフォンが二枚。あとはインスタントのコーンスープで、完璧な朝食になる。
 休む間もなく戻って、今度は弁当の準備だ。レタスとハムのシンプルなものから、ポテトサラダ、残ったスクランブルエッグとボイルウインナー。最後にメインとして、焼いたチキンにジャムを絡めたものを挟み込んだ。こちらも、自分にしてはなかなかのできばえ。思わず胸を張り、吐息を漏らした。
 あとはパックにでも詰めれば完璧なのだが、それはできない。サンドイッチはまだ挟んだだけであり、切り分けられてはないのだ。
 ちらり、と流し台にある包丁を見る。しかしすぐに、かぶりを振った。

「火は、つかっていいの。でも『はもの』はダメ」

 それがルールだ。孤児院では、火と刃物、どちらもその恐怖を知ったら使い始めていい事になっている。リーフェイスは、火の恐怖をとてもよく知っていた。いや、たたき込まれた。だから、火を使っていいのだ。絶対に侮らないから。
 レイフォンも同じように、刃物を使い始める年齢は早かったらしい。同じように早くに使い始められたのが、なんとなく嬉しかった。ちなみに、どちらも通常は8歳から9歳あたりで使い始める。
 全部終わったら、石けんで手をよく洗う。使った道具を洗わないのは、それはリーフェイスの役割ではないからだ。
 父の負担にばかりなりたくなかった。だから、出来ることをする。そう決めた少女は、まず料理の一部を負担することから始めた。最初はレイフォンに断られたが、その熱意に最近折れたのだ。その裏には、多少なりとも今の生活の苦しさもあっただろう。
 夕飯を作るのは、レイフォンの役割。その時に同時に仕込みもしておき、朝に調理をするのはリーフェイスの役割。その役割分担をなんとか作れた。
 タオルで手を拭きながら、時計を確認し大きく頷いた。ちなみにこれは見ているだけで、あまりよく時間を理解していない。分かった気になって、だいたいいつもと同じくらいだと思っているだけだ。

「パパー、ぱぱー! あさですよー!」

 ベッドには入らずに、縁をぺちぺちと叩きながら声を上げる。しかし、レイフォンはシーツにくるまって身を捩るだけ。まだ起きる気配はない。

「パパー、パパー! ぱ、ぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱっぱぁー!」

 起こしている内に、何かが楽しくなる。いつの間にか謎のリズムを取りながら、即興の歌を歌っていた。
 ううん、ベッドからうなり声が聞こえてくる。伸びた手は、まず目覚まし時計に伸びた。かちかちと何かをする動作をして、次に伸びた手はリーフェイスの頭。それは時計を操作した時より遙かに優しい手つきで、優しく頭を撫でる。

「んんぅ……リーフィ、ありがとね」
「えへへー。パパ、ごはんたべよ!」

 のそりと起きたレイフォンは、武芸をやっている時のような鋭さはない。普段の優しげなものでもない、緩慢で緩い雰囲気。しかしリーフェイスは、そんな父も好きだった。
 一緒に顔を洗って、テーブルにつく。適当に会話をしながら、しかしゆっくりしている程の余裕もない。手早く済ませ、レイフォンが食器をもって流し台に。
 父の準備が終わるまでに、リーフェイスも準備をしなくてはいけない。自分専用の小さなバッグを持って、今日の所持品を至極真剣に吟味するのだ。今見ているのは、リーフェイスの本棚と道具箱。それらは故郷を出る時に、事前に用意され、放浪バスの中に入れられていたものだ。そのため、所持している私物自体は、レイフォンよりも多かった。
 うんうん唸りながら、いくつかの道具をバッグの中に放り込み。チャックとマジックテープをしっかりと閉じた。

「リーフィ、今日は家にいる? それとも外に出てる?」
「おそと!」

 制服姿でネクタイを確かめているレイフォンに、元気よく答えた。ちょっと前まで外に出れないか、人の居る場所に行ってはいけなかったのだ。今では危険な場所と迷う場所以外、どこに行ってもいい。それが嬉しくて仕方が無く、連日外に出ていた。
 ちなみに、どちらかしっかり決めなければいけない。単純に、リーフェイスの身長ではドアノブに手が届かないからだ。出るのも入るのも、誰かがいなければできない。
 外に出て、一緒に戸締まりを確認する。リーフェイスも一応合い鍵を持っていたが、それを使ったことはない。

「リーフィ、いつも言ってる事は分かってるね?」
「あい! あぶないとこに行かない、わかんなかったら人にきく、ぴーって言ったら『かいかん』に行く!」

 アラームが鳴ったら、所定の場所に行ってレイフォンを待つ。場所と時間は、訓練があったりなかったりでまちまちだが。これが守れないと、外で遊んで待っているのは駄目なのだ。

「よし、ちゃんと忘れないようにね」
「はーい、行ってきまーす!」

 ぱたぱたと、レイフォンを置いていくように駆けていった。
 いつも家を出る頃は、人が一杯だ。今日も一緒の服を着た人たちが沢山居て、その人達に挨拶をする。

「おはよーござまーす!」
「おー……」
「リーフィちゃーん、今度こっちにも来てね!」
「転ぶなよ、おちび」

 元気がない人、いい人、ちょっと意地悪な人――いろんな人が挨拶を返してくる。最初はなぜか凄く驚かれたが、今では普通に挨拶を返されていた。
 人の流れに逆らって歩きながら、今日はどこに行こうかと考える。目的など無く、最低限の荷物だけ持って歩くのも、いつもの事。
 今でこそ人は多いが、もう少しすると殆ど人が居なくなってしまう。人がいないのだから、当然遊んでくれる人もいない。……と言っても、どの時間であっても誰も外に居ないなどと言う事はないのだが。とにかく、どこでどうやって遊ぶかというのは、彼女にとって一つの命題であった。
 むむむ、と悩みながら、レイフォンに言われたことを思い出す。一つ、建物の中に居る人に突撃してはいけない。それは多くの場合仕事や授業中であり(それがどういう意味かは分からなかったが)声をかけると迷惑になるのだ。一つ、外に居る人でも、大勢が集まっている場合は突撃してはいけない。理由は一つ目と同じ。一つ、初めて会う人にはしっかりと挨拶と自己紹介をする。これは当然だ、とリーフェイスは大きく頷いた。初対面でなくともしっかりとした挨拶は必要であり、それが出来ている自信もあった。グレンダンでは、元気な挨拶で何度も褒められたことがある。自分の得意な事の一つだ、と自画自賛しながら、鼻を高くした。
 ともあれ、今日の遊び場である。つまり、人の迷惑にならないように遊ばなければいけないわけだが。

「むむむむ……」

 かといって、ぱっと思いつくものでもない。ツェルニに来てから日が浅く、探索しようと思えばいくらでも場所はある。だが、それが逆に向かう場所を惑わせてもいるのだった。
 悩みに悩んだが、結局決めかねて。リーフェイスはそこらに転がっている木の枝の一本を拾った。使い方は簡単、その場に立てるだけだ。
 倒れる枝を目で追って、その先にあったのは垣根だった。背の低い縁石に、放置され気味なのか、乱れた植木が乗っている。誰が見ても分かる、これは道ではない。僅かに悩むように首を傾げたが――結局、枝の示すままに行くことにした。つまり、垣根の強行突破である。
 服に絡まる枝葉を強引に払いながら、一気に突き抜けた。
 全身に絡まった葉っぱをいい加減に払いながら、先へと進んでいく。真っ直ぐ人工林の中を突っ切っていくと、その先は公園だった。
 遊具があるわけでもない、ちょっとした広場。円形の四隅には、申し訳程度にベンチが並んでいた。男女で歩く者、木陰でクレープをぱくつく者、ジャージでジョギングをしている者――最後に、ベンチの上で寝転がっている者を見て、リーフェイスは駆けだした。

「ねー!」
「おわぁ! すみませんサボりました! すぐ戻ります!」

 ばしん、とベンチの縁を叩くと同時に、その上で寝ていた男は飛び起きた。慌てふためきながら顔を起こし、リーフェイスを確認すると脱力する。

「なんだ、お前か……脅かすなよ」

 こめかみを押さえながら、ふぅと息を吐いて脱力。緊張した体をほぐし、そのまま背もたれに体重をのせた。
 その様子を見て、リーフェイスはにししと笑う。

「いけないんだー、サボっちゃいけないってパパもいってたもん」
「あー……そうだな悪い事したなぁ。今度はサボらないから許してくれよ」
「ん」

 頭が左右に揺れるほど、乱暴に撫でられる。が、彼女はこれが嫌いでなかった。
 男は、一言で言って背が低い。そして、ちょっと横に広かった。肥満という程ではないが、どことなく丸い印象があるのは雰囲気のせいか。

「ねーねー、エドにーちゃなにしてるの?」
「何って、サボってるんだよ」

 男――エド・ドロンの意味の無い解答に、ぷっと頬を膨らませた。

「ちがうもぅん、サボって何してるのってことだもぅん」
「サボった意味? ああ、うーん、だらだらするため、とか?」

 何かがあるからサボったわけではない。あえて言うならば、何となく授業をする気分になれなかったという程度のもの。しかし、いざ理由を問われれば、なんと返していいのか言葉に困っていた。
 エドが首を傾げるのと同じように、リーフェイスも傾ける。曲がった首をやんわりと手で戻されながら、

「まあ、何でもいいだろ。けどそれがどうしたんだよ?」
「あそんで、あそんでー」
「いやだから。そういう気分じゃないんだって」

 両手でベンチを太鼓のように叩く。響く音にため息じみた吐息を吐くエド。しかし、頭の両側を持ち揺らして遊んでくれるあたり、付き合いのいい人でもあった。
 頭をぐるぐる回されて、きゃっきゃと喜ぶリーフェイス。その少女を見ながら、だるそうに背中を丸めて――ふと思いついたと、顔を輝かせた。

「よし、まあ遊ぶんじゃないけど、ちょっとお茶するか。ジュースくらいならおごってやるぜ」
「わーい! なにしてあそぶの?」
「だからお茶だって。休憩するんだよ」

 立ち上がったエドから差し出される手。その指二本だけを掴んで、ぶんぶんと振り回す。彼の手の高さは、リーフェイスにとって丁度いい高さなのだ。レイフォンだと、少し高すぎる。逆にフェリやメイシェンでは、少し低めだった。丁度いい具合だから、遠慮無く手をぶんぶんと振り回せていた。
 たどり着いたのは、普通のオープンカフェ。行きがかりにも何店舗か喫茶店があったが、彼は迷わずこの店を選んでいた。
 何か特別な所があるようには見えなかったが、なぜかエドはよそよそしい。挙動不審で、しきりに何かを気にしている。

「エドにーちゃ、どうしたの?」
「な、何でもないっ! 大人には色々あるんだよ」

 明らかに何でもある、うわずった口調で答えるエド。心なし、体も強ばっていた。
 ほぼ中心にあるテーブルを選んでエドが座り、その上にリーフェイスが乗せられた。普通の椅子では頭が届かないし、子供用の椅子もないためにこうするしかない。誰も居ないカフェテリアの中心は、まるでその場を占拠しているみたいであり、なんとなく心が躍る。
 頭上で、生唾を飲む音が聞こえた。心なしか手も震えている。
 エドはこの上なく緊張しながら、呼び鈴に指を添えている。添えているだけで、その指を押し込む気配はないが。あたりを見回したたり、メニューを見直したり、何かを諦めたようにしながら、しかしもう一度呼び鈴に触れて――

「注文、決まったかしら?」
「っーーーーーー!!」

 声にならない悲鳴を上げた。緊張で心臓が破裂してしまうのではないかと言うほど高鳴らせ、本人にも正体不明の鳥肌と冷や汗が一斉に飛び出る。声をかけたウェイトレス女性の方を向いて、顔のこわばりはさらに強まった。

「こんにちわ!」
「ええ、こんにちわ。ここは初めて?」
「あい。お茶するからって、一緒に来たの。ジュース飲むのー」

 えへへ、と笑いながら、動かぬエドの代わりに答える。
 答えたウェイトレスの女性は、随分と柔らかい雰囲気の持ち主だった。強めにウェーブのかかった長い髪に、垂れて優しげな印象の目。どちらかと言えばゆったり目の制服によく似合っている。身長や体つきも併せて考えれば、いかにもな優しいお姉さんだった。

「エドくんも、いらっしゃいね。今はお客様も全然いないから、ゆっくりしていってね」
「あ、う、はい」
「それで、そっちの子供は……」
「リーフェイス・エクステです! よろしくおねがいします」
「まあ、挨拶が出来て偉いわね」

 女性は、優しくリーフェイスの頭を撫でた。印象の通りの手つきだ。

「じゃあ、やっぱりこの子が生徒会から通知があった子なのね。と言う事は、子連れ狼の子の方なんだ」
「え……ええ、そうなんですよ! さっきそこで会って、じゃあせっかくだからちょっと休もうかなって!」

 ようやくフリーズ状態から解除されたエドは、まくし立てるように言った。まだ顔は赤らんだ状態であり、緊張しているのは丸わかりだったが。
 ちなみに、子連れ狼の名称は自然と広まったものである。何を思ったか、故郷から扶養者同伴で来た一般教養科学生。それが一日足らずで武芸科に転科し、しかも即日小隊入りするほどの腕前なのだ。どちらだけでも新聞の一面を飾りそうな内容なのに、両方ともなれば広まりは恐ろしく早いものだった。ある意味、今のツェルニで一番ホットな話題と言える。もっとも、小隊での対戦成績まで話題になってくれないというのも、一緒に噂だっていたが。

「けど、エドくん知り合いだったのね。驚いたわ」
「ああ、うーん。それは何と言うか、おれにもよく分からないんですけどね。さっきの調子で話しかけられて、それからちょこちょこ会っている内にいつの間にかこんな感じに」
「ふふふ……それはきっと、エドくんがいい人だって分かったのよ」

 穏やかな微笑を見せる。伝票のついたクリップボードは掲げたままであるものの、ペンを持った右手は完全に下ろされている。あまり真面目な勤務態度ではなかった。が、客の入りを見ればその様子も仕方が無い。
 話し込んでいる内に、エドの顔のこわばりも和らいでいく。それと同時に口もよく回るようになっていた。どれほどか世間話をしている内に、ふと、ウェイトレスの女性は何かに気づいたように言った。

「そういえば今の時間は、一年生は皆授業中だと思ったけど、エドくんはどうしたの?」
「あーいや、それは……」
「さぼったんだよ。わるいことしたから、リーフィがこらーってしたの」
「まあ、そうなの? リーフィちゃんは偉いわね。今度も、サボっているの見つけたらこらーってしてあげて?」
「ん、ちゃんとしかっとくの」

 代わりに答えたリーフェイスに、まずいと顔を引きつらせたエド。そんな様子など知らずに、少女は僅かに背中を反っていた。
 ウェイトレスの女性が、僅かに怒ったように顔を顰める。顔立ちと元々の雰囲気のせいで、全く怖くなかったが。

「ちゃんと授業は受けなきゃだめよ。エドくんなんか特に、こうやって小さな子供まで見てるんだから、見本になるようにしなきゃ」
「はい、面目ないです」

 まるで萎れるように項垂れる様子に、ウェイトレスの女性はよしと声を上げた。

「じゃあ、この話はこれでおしまい。それで、注文は何にする?」
「おれはコーヒーで、お前どうすんだ」
「えっとねー、リーフィはねー、じゃあピーチジュースにする」
「それ一個ずつお願いしますね」
「はい、ご注文承りました」

 手早く注文を記入して去って行くのを見届けて、エドは深く息を吐いた。体から何もかもが抜け落ちてしまいそうなほどに脱力。
 ある意味尋常ではない様子に、リーフェイスは心配そうに声をかけた。

「ねえねえ、どうしたの? どっかいたいの?」
「いや違うよ。……まあ、今回はお前がいてくれて良かったって事」

 やはり、分からないと首を傾げるリーフェイス。分からないのは分からないままだったが、とりあえずは体調不良ではなさそうだと判断して。初めて飲むピーチジュースとやらに心を踊らせた。
 待つだけの時間というのも、相手が居れば苦痛にはならない。意外なことだが、この二人の組み合わせは以外と会話が進んだ。基本リーフェイスが放しているのだが、時たま相づちを打つだけだったがエドが口を挟む。そうすると反論か同意か、とにかく会話が進んでいくのだった。ちなみに、内容はどれも大したことではない。

「お待たせ、二人とも。これがご注文の品になります」

 二つの飲み物がテーブルに置かれる。
 早速手を伸ばして中身をストローで吸い出す。甘みがかなり強かったが、くどさのない爽やかなものだった。ジュースの味で幸福を満喫する。
 その姿とは対照的に、エドはコーヒーに手を付けようとはしなかった。それどころか意識すらしていない様子で、再び緊張し始めていた。そして、意を決したように声を上げる。

「あの、先輩!」
「ちょっと待ってね。これは彼とわたしからのサービスって事で」

 置かれたのは、シュークリームだった。外側をさくさくに焼いたシューを半分に割って、中にたっぷりとカスタードクリームを詰めている。粉砂糖を振ってアクセントを付け、その横に二股フォークが置かれていた。サービスとは思えない豪華さに、リーフェイスは思わず目を輝かせる。

「たべていいの!?」
「ええどうぞ」
「わーい! おねえちゃん、ありがとう!」
「お礼はあっちのお兄さんに言ってね。用意してくれたのはあの人だから」
「うん! おにーちゃん、ありがとー!」

 ばたばたと元気よく手を振ると、カウンターの中で作業をしていた男の人が手を振り替えす。こちらも、遠目で判断しづらいが、しかし人が良さそうな雰囲気だった。ウェイトレスの女性とよく似合う。
 しかし、その様子に凍り付いたのはエドだ。先ほどまでの緊張とは全く別種の、体温を失った硬直をする。なぜなら、その女性とパティシエの彼の間には、えもいわれぬ甘い空気があったのだから。

「あの、先輩……つかぬ事を伺いますが、あちらの方は?」
「あ、彼? ちょっと無理言ってスイーツ用意して貰ったんだけど、やっぱりこういう所を見れると、お願いして良かったって思うわ」

 とろけるような笑みの先には、口の端にカスタードを付けたリーフェイス。女性の笑みよりさらに柔らかく崩れた笑みで、口にシュークリームを運んでいる。

「彼だって本当は子供が好きなんだから、もっと素直になればいいのに。あ、けど優しくないとかそう言うのじないのよ。ただ、それがちょっとわかりにくいってだけで」
「あ、はは……あはははは……。そうですか……」

 殆どのろけ話に突入した女性に、エドは笑いかけた。そうするしか出来なかった、とも言える。ちょっと涙目でもあった。

「自分の事ばっかりごめんなさいね。それで、さっき何か言いかけてたけど」
「いえ……、何でも無いです」
「あら、そう?」

 ウェイトレスの女性はあらかたリーフェイスを堪能して、持ち場に戻っていった。奥では、まあきっと、スイーツを用意した男性と話しているのだろう。
 シュークリームを征服し終わって、後ろを向く。エドは暗い雰囲気で、思い切り項垂れていた。

「元気だして、なー?」
「ああ……うん……そうだな。……やるせねえ」

 そんなこんなで。
 午前中は、ひたすら元気がなくなったエドを、リーフェイスが振り回すように連れるのだった。



□□□■■■□□□■■■



 昼食は、いつも決まった場所で決まった時間に食べている。殆どの場合、父と、同時にメイシェン達も一緒に。大抵は誰かに抱きかかえられながら弁当を広げる。
 リーフェイスとレイフォンの弁当はいつも代わり映えのないサンドイッチ。たまにメイシェンが弁当をくれると言うと、持参はせずにそちらを貰っていた。彼女の料理はとてもおいしい。少なくともリーフェイスは、自分が作る物より遙かにおいしいと思っていた。その内教えて貰おうかと思っている。
 そこそこの割合で、レイフォン達がこれない事もあった。レイフォンだけが来る時もあったし、逆にレイフォンだけがいない事もあった。父とメイシェン達、どちらもが来られない事も、稀にだがある。授業の都合らしいのだが、詳しいことは知らないし、どうでもいい。重要なのは、誰も一緒にいないという事だ。
 一人で食べるご飯は寂しく、寂しいのは嫌いだ。一緒にご飯を食べられる人を探すのだが、いつもの食事場所は人が多くない場所だった。
 少し前までは、それで苦労していたのだが。泣く泣く一人で食事をしていた事さえある。しかし今は、もうそんな心配は要らなかった。

「では、食べましょうか」
「あーい、いたあきまーす」

 そこが指定席であるかのように、リーフェイスを膝の上にのせたフェリ。その顔はいつもの仏頂面ではなく、ほんのりと微笑を乗せていた。
 一年が授業の時は、フェリが必ずここまで出向く。二年とは授業が必ず互い違いになるから、これない事は絶対にない、とは彼女の弁だ。

「ふふ……二人で食べるお弁当はおいしいですね」
「いや、さりげなく僕をいない事にしないでくれないかな?」

 二人の正面に最初から居たハーレイが、うめくように言う。具のたっぷり入ったパニーノを、ちぎっては口に放り込んでいた。
 フェリはいつの間にか来ていた彼を見て、いかにも鬱陶しそうに視線を投げた。乱暴なものではなかったが、態度はあからさまだ。

「……なんで居るんです?」
「レイフォンに頼まれたからだよ。一人でもちゃんとやってるか、様子を見てって」
「わたしがいます」

 少々むっとしながら答えたフェリだったが、それは簡単に返された。

「それを彼にはまだ言ってないでしょ? そうならそうと言えば、僕だって頼まれなかったろうに」
「むぅ」

 軽く言い返され、言葉に詰まる。実際、正しいのはハーレイだった。親が子を心配するのも、それで誰かに様子見を頼むのも、当然の事だ。そもそも、二人だけでいたい、というのもフェリのわがまま以上にはならない。
 理解はできるが釈然としない、そんな顔のフェリ。太ももをぺちぺちと叩いて気を引いた。

「ねーねー、おねーちゃん」
「何ですか? あとわたしをママと呼んでくれていいですよ」
「またそういう事を……。だからレイフォンも嫌がるんだよ」

 またと言うかいつもと言うか、フェリはしきりに自分を母親にしようとしていた。ちなみに、リーフェイスはレイフォンから「何と言われてもお姉ちゃんと言いなさい」とい言われている。仲がいいのか悪いのか、よく分からない二人だった。
 顔を向けた彼女に、サンドイッチを差し出した。今日の渾身の出来、チキンのジャム和えサンドイッチである。

「はい、あーん」
「ん……ありがとうございます。じゃあ、こっちをあげますね」

 フェリは自分の弁当(購入品)からパスタを絡めて、リーフェイスに差し出した。青野菜と鳥ささみの、少し高級感漂う一品。差し出されたそれを、少女は目を輝かせて食べた。
 彼女の好物はパスタだ――フェリはそれを知っている。何となく予想していたし、レイフォンからも確認を取っていた。今日も、わざとリーフェイスが好きそうな料理が入った弁当を選んだのだ。

「おいしーねー」
「ええ。サンドイッチもとても美味しかったですよ」
「えへへー」

 満足そうに、そしてどこかこそばゆそうに笑う少女。フェリも釣られて笑った。さらに、それを見たハーレイも微笑む。

「なんです?」
「ん? いやさ、君はよく笑うようになったなって。ちょっと前からは想像できないよ」
「そうですか? まあ、どっちもでいいですけど」

 興味なさげに言う。それだけで、彼女の意識から今のやりとりは消えていた。問いかけたのすら、ただの気まぐれでしかないのかもしれない。
 リーフェイスは続いて、ハーレイにもサンドイッチを差し出す。

「ハーレイちゃんも、あーん」
「ああいや、僕はいいよ。リーフィちゃんが食べな」

 口元まで迫ったそれを前に、ハーレイは慌てて否定する。今までの、はち切れんばかりの笑顔が一瞬でしょぼくれる。フェリの眉が僅かに跳ねた。

「リーフィがあーんしてるんですから、黙って口を開きなさい。それで代わりに何かあげればいいでしょう」
「その、代わりにあげる物がないから言ってるんだって。今日は一品しか買ってないんだよ」
「使えませんね。だからハーレイちゃんなんですよ。ニーナさんに言いつけますよ?」
「その言い方やめて! あとニーナにも言わないであげてよ。凄く気にしてるんだから……」

 ちなみに。リーフェイスは、ハーレイを女、ニーナを男だと思っている。理由は、ハーレイは髪が長く、ニーナは髪が短いから。あとは雰囲気で、そう判断してるとレイフォンは言っていた。その割には、ナルキは女性だと判断しているあたり、どうも基準が分からないのだが。
 ハーレイは勘違いを直して貰うのを早々に諦めたが、ニーナは訂正を続けた。曲がったことを放置できない性質だとも言う。もしくはリーフェイスの「おにーちゃん、男なのに女の子の恰好して変なの」という台詞がよほど利いたのか。とにかく、未だに性別が間違っているのを理解してもらう作業は続けているが、今のところ成果は上がっていない。
 サンドイッチを胸に抱えながら、蚊が鳴くような声で言う。

「リーフィの作ったサンドイッチ、たべてくれない?」
「え、これってリーフィちゃんが作ったの?」
「……うん」
「へえ、じゃあちょっと貰おうかな」

 受け取ったそれを一口で食べる。少女はそれを、はらはらと見つめていた。咀嚼し飲み込み、にこりと笑うと、リーフェイスも元以上の笑顔になった。

「うん、おいしいよ。料理ができて凄いね。パンに挟んだりとかしたのかな?」
「そうなの。あとね、お肉やいたり、バターぬったり、おやさいちぎっりとかたくさん! でも切るのだけはパパがやったの」

 という、さりげないリーフェイスの爆弾発言に、二人が目をむく。
 彼女が嘘をついたり、見栄を張るような子供ではないと二人とも知っている。ならば、今の言葉は全て真実なのだろうが。サンドイッチの仲には、子供がやるような域を超えた料理も混ざっている。

「あの……火を使って、お肉を焼いたりとかしたんですか?」
「ん。リーフィ、もう火だってちゃんとつかえるもぅん。でも、はものは、まだつかっちゃダメなの」
「それは凄いね。正直、なんで火はいいのかよく分からないけど……」

 理解しがたい。彼の表情は、その心情をはっきりと写していた。それでも、嘘だと断じないのは、人の良さかリーフェイスの信頼か。
 と、ハーレイはその程度で済んでいたのだが、

「そうですか……これはリーフィの料理で……つまり、料理が出来るのですか……」
「あの、フェリさん?」

 うなされるように呟きながら、心なしかうっすらとしたフェリ。その姿は、ハーレイが思わずさん付けをしてしまう程。
 煤けるフェリに、首を傾げたリーフェイス。そして、おそるおそるとハーレイ。

「もしかして、料理できない?」

 彼女は答えなかった。ただ、燃え尽きたように白くはなる。
 そうなってしまうと、もうハーレイに出来ることはなく。時々慰めるように声をかけるのが精一杯だった。
 リーフェイス・エクステ。本人は全く悪くないが、本日二度目の撃沈である。



□□□■■■□□□■■■



 食事し終えて一休みし、フェリ達と別れた後。午後からは、いつも訓練の時間になる。
 一日最低三時間、必ず武芸の訓練に当てろ。特に未熟なお前は、集中して制御訓練を続けるんだ――リーフェイスの師の言葉である。グレンダンの人間は僅かな例外を抜いて嫌いであるが、その数少ない例外の一人が、師匠だった。と言っても、特別好きだと言うわけでもないのだが。
 とにかく、彼の言葉に特に逆らう理由もない。彼女自身が武芸に何かしら特別な感情があるわけでもなく、強いて言えばそれが習慣だからか。師匠に貰った自分専用の特別製錬金鋼を持って、今日の訓練はどこでしようかと考えていた。……彼女の武芸者道具一式はグレンダンに置いてきたはずなのだが、なぜか父が持っていた。不思議な事ではあったが、まあどうでもいい事でもある。
 なるべく人の居ない場所で、なおかつ広くスペースを取れる場所が望ましい。これは、万が一剄が暴走した時に、どこにも被害を及ぼさないためである。頑丈な建物の中か、障害物のない広い場所で訓練をする。通常の錬金鋼で耐えられない剄を持つ者の常識だ。
 決して軽くないバッグを振り回す。中には錬金鋼に玩具に、師匠直々に執筆した訓練手引きノートの三冊目。これがないと鍛錬がいい加減になるため、全十冊を手渡されたものだ。
 場所は、外縁部まで行ってしまうと時間がかかるし、第一寂しい。決まった場所はないので(広い場所は大抵グラウンドであり、人が居るときと無人の時の差が激しいため)今日も場所を探す事から始めなければ。
 当てもないので、殆ど彷徨うようにぷらぷら歩く。

「なんだ、お前?」

 と、いきなり背後から声をかけられた。振り向くと、そこには一人の小柄な女性が。
 猫のようだ――彼女を言葉で表すならば、まさにそうであろう。鋭い目つきに鋭い眼差し、赤く癖の強い髪は背後で一纏めにしている。気の強い印象を受けるには、どうにも気まぐれそうな顔立ちが全面に出過ぎていた。何かを摘んだのか、口の中をもごもごと動かしている。無地の運動シャツに下はジャージを着て、それを濡らした姿はいかにも運動をした後という風体だ。
 フェリくらいの身長の女性に、リーフェイスはぴっと手を上げながら答える。

「あい! リーフェイス・エクステです!」
「ふーん、そうか。あたしはシャンテ・ライテだ。で、お前ここで何してるんだ?」
「くんれんのばしょさがしてます」

 やや前傾した手を伸ばしたまま答える。
 シャンテはしゃがみ込んで、視線を揃えた。近づいた顔はやはり猫のようであり、同時になぜか親近感を感じた。

「訓練場所か、お前武芸者か?」
「あい。がんばってぶげーしゃのくんれんしてます」
「そうか、ん、偉いな! お前も食え」

 差し出された紙袋の中には、パンの耳が入っていた。ただのパンの耳ではない、油で揚げて砂糖を塗したものだ。さくさくしていて美味しい。
 二人してパンのかすをぼろぼろ溢す姿は、まるで年の近い姉妹のようだった。ちなみに、シャンテ・ライテは正規のツェルニ学生で、五年である。

「ちなみに、何ができるんだ?」
「んふふ、なんとリーフィは『かんれんけー』ができます!」

 凄いでしょ、ほめてほめて。そう言わんばかりに胸を反らすリーフェイス。しかしシャンテは、それ以上に大きく胸を張って言った。

「ふふん、そんなのあたしだってできるぞ! あたしは副隊長だからな。活剄だって衝剄だって、槍だって全部できる!」
「すごーい! おねーちゃんぶげーしゃの人だ!」

 自慢そうにしていたシャンテの動きがぴたりと止まる。空に向かって開かれていた目は、どこか輝き感動していた。――お姉ちゃん、その言葉は、予想外にシャンテの琴線に触れていたらしい。
 シャンテは五年という上級生の立場であったが、上級生として扱われた事は殆ど無い。いや、普段はやはり敬語で話されたりはするのだが、その中にも侮るのとは違う気安さがあった。ぶっちゃけ年下のように思われていた。ナメられている、と言い換えてもいい。彼女が名実共に上の立場になるというのは希であり――精神年齢で言えば間違ってないのが、それに拍車をかけていた。
 そこに来ての、リーフェイスという明確にシャンテが『年長者』となる相手。しかもその子は、自分に尊敬の眼差しを向けている。シャンテの心の中に、形容しがたい感動が生まれた瞬間だった。

「しょ……しょうがない奴だな! 本当に、まったくしょうがないぞ! しょうがないから、あたしが武芸を教えてやる」
「わーい。よろしくおねがいします、シャンテおねーちゃん」
「ふふん、あたしの事は師匠と呼べ!」
「あい、ししょー!」

 呼び方について、特に意味やこだわりがあった訳ではない。ただ、指導者と言えば教師か師匠という印象があっただけだ。だが、呼ばれた本人には言葉以上の効果があったようであり。ただでさえ高かった鼻が、さらに高くなった。

「とりあえずは……錬金鋼だな。レストレーション」

 剣帯から引き抜いた錬金鋼を、引き抜いて形状を復元した。強めの光と共に、鉄束が前後に伸びる。穂先を上にして、彼女の矮躯が扱うには長すぎるようにすら見える長槍が現れた。

「あたしの錬金鋼は、槍型の紅玉錬金鋼だ。リーの錬金鋼は何だ? それとも錬金鋼持ってないか?」
「もってる! さんかくのやつ」
「三角? なんだそれ」

 バッグの中に手を突っ込んで、ごそごそと探る。目的のものはすぐに見つかった。取り出した錬金鋼は、通常のものより大分大型だ。少女は自分の手に余る握りの柄を、掲げたまま下に向けて言う。

「れすとれーちょん」
「……」
「……」

 何も起こらない。いや、少女の手が重さに負けてゆらゆらと揺れてはいた。
 錬金鋼とは、二種類の手順によって形状復元される。一つは剄の波長。流す剄によって、錬金鋼が形状復元の為の待機状態を作るのだ。これが合わないと、そもそも錬金鋼が待機状態になってもくれない。逆に、器用にも剄の質を複数作れるものであれば、一つの錬金鋼にいくつも武器を登録する事ができた。もっとも、そんな器用な者はまずいないが。そして二つ目は、音声入力である。こちらは剄承認よりも大分アバウトで、声質が変わっても正しい言葉で発声さえ出来ていれば(波長域を広めに取ってあるので)問題ない。音声承認により、待機していた錬金鋼は復元し、錬金鋼として機能する状態になる。
 剄の質と声、両方がそろわなければ錬金鋼を使える状態にすら持って行けない。つまり、所持者以外では使えない専用武器なのだ。これは勝手が悪いという意見はないでもないのだが、それが主流になることはなかった。
 専用武器として調整するのは、それだけ本人の能力に適合した道具になると言うことである。つまり戦場でそれだけ生存させてくれる。同時に、本人以外には十全に性能を引き出せないのだ。数値入力だけで容易く自分の専用武器を作れ、また作り替えられるという気安さもある。わざわざ量産品を使い回して、生存率を下げる事を喜ぶ者が居るはずもなかった。
 まあつまり、錬金鋼を使うには本人でなければならない。そして、しっかりと剄を通して『発声』しなければならない。言葉を間違えれば、錬金鋼は武器にならないのである。
 沈黙する空間に、ぷっという息を吹き出す声。シャンテのものでだ。
 顔を真っ赤にして口をへの字に曲げたリーフェイスが、ぷるぷると震え始めた。

「悪かった、悪かったって。もう笑わないぞ。だから機嫌なおせ、な?」
「……れすとれーしょん」

 ぶすっとした顔のまま、起動鍵語を唱える。先ほどのものより強い白光をしながら、単純に質量で勝るため。ずん、と音がしそうな程の重量感をもって、その武器は具現する。
 でかい、としか言えないそれを見て、シャンテは沈黙した。彼女の武器とて重量級武器に分類される、重く扱いの難しい武器であるのだが。それは、槍よりも遙かに重そうだった。
 まず目に付くのは形状である。武器の説明を求められて、三角形と説明をする。何とも馬鹿馬鹿しいとしか言えないが、シャンテでもそれは三角形としか言えなかった。中心に穴の開いた――つまり円環状の三角形。おまけに白と赤のマーブル模様なのは、工事現場の片隅にでも置いてありそうだ。長さもずいぶんなものである。リーフェイスの身長が低いとは言え、柄まで合わせれば頭頂部近くまであるのだ。
 どう考えても、まともに扱うことを前提に作られていない。まるで訳の分からない道具だった。

「なんだこりゃ?」
「だいとだよ?」
「それは分かってる。……いや、やっぱり分からないぞ」

 シャンテはもう一度まじまじと見てみたが、やはり怪訝そうな顔をする。それはリーフェイスも、概ね同意だった。こんなものを錬金鋼に持っている者を、彼女は見たことがない。

「ちょっと借りていいか?」
「いいよ。はい」
「おう……重っ! なんだこれ」

 柄を受け取って剣のように持ち上げようとして、シャンテは悲鳴を上げた。体感での重量は、槍の数倍はありそうだ。しっかりと腰を入れなければ、持ち上げることも出来ない。振ろうなどとは絶対に思えないような、そんな重たい武器だった。いや、武器として設計されているのかどうかすら分からない。
 ずどん、と下ろした時の音は、やはり重苦しい。柄は倒すように、リーフェイスに返された。

「変な武器だなー」
「ねー。せんせーにもらったんだけどね、カラーコーンみたいなの」
「ああ、そうそうそれ。そんな感じだ。お前の先生、何考えてたんだ?」
「わかんない」
「だよなぁ」

 それを最初に渡されたとき、不満しかなかった――父と同じ形状の武器ではなかったから――が、今では愛着もある。それなりに長い付き合いなのだ。
 錬金鋼を元に戻して、バッグの中に詰め直す。あの重量が嘘のように消えて、少女が軽く振り回せる程度になっている。

「あんなの役に立たないだろ。あれで何してるんだ?」
「かれんけーのれんしう」
「んー……それでもなあ……。こんな感じの、何かしてないのか?」

 言いながら、シャンテは槍を振って見せた。それは型の訓練と言いたいのか、それとも純粋に格闘訓練と言いたいのか。どちらにしても、リーフェイスはしていない。首を横に振る。
 彼女自身、そういう類の訓練をしたくない訳ではないのだ。特に剣。ただ、師匠は「化錬剄超派手! マジ最高!」という人物であり、父にも剣の才能はないとばっさり切られている。より才能がある方面を伸ばすというのは、ごく普通の教育方針だ。逆に言えば、機会に恵まれなかっただけだとも言える。
 だが、それはシャンテにとって、まさに最高の状態でもあった。

「よし、じゃあリーにはあたしが槍を教えてやろう、うん」
「えー……剣がいい」
「な、なんでだ!? 槍は強いし凄いんだぞ!」

 いかにも年長者という風格を(彼女にとっては)漂わせて、言ったのだが。それはリーフェイスの乗り気でない返事に、即座に否定された。一転、おろおろとし出す。

「だってパパ、剣つかってるんだもん。リーフィも剣がいいもん」

 とはいえ、そこはリーフェイスもおいそれと譲れないラインだった。今でこそ受け入れているが、当時化錬剄の名門ナイン武門(正確には違うが)に入れられると言うのも嫌だったのだ。今度こそは、やるなら剣をやりたい。
 その思いが分からなくもないのか、シャンテはむむむと口に出しながら悩む。彼女の主張は、ごく一般的なものなのだ。武芸とはまず自分の両親から引き継ぐものであり、次に道場に通うものだる。父が武芸者でありながら道場に通わされて、父の技に憧憬を覚える――何も不思議ではない。
 が、シャンテとてせっかく出来そうな自分の弟子、そうそう手放したくない。

「でも、あれだよ! その……そう、いきなり強くなってたら驚かれるんじゃないか! あたしも技を覚えてゴルに褒められたりしたからな。お前の父もきっと驚いて褒めてくれるぞ!」

 言われて、リーフェイスは自分にもその経験があるのを思い出した。よく化錬剄を一つ覚えては父に見せて、それを褒められたものである。最近は基礎固めと制御力向上に訓練内容を傾けているため、それで褒められていないのだが。とはいえ、無理して化錬剄を覚えるわけにも行かない。それは一番やってはいけない事だ。武芸者の力と同じく、武芸の訓練も管理されていなければいけない。踏み外した時に待っているのは、身の破滅だ。
 しかし、それが化錬剄ではなければどうだろうか。ちゃんとした(かどうかは分からないが)指導者がいて、化錬剄の訓練に干渉しないのであれば。そして、強くなった自分を見せて父に褒めて貰う。
 ……最強で、完璧だった。

「ん! やる! やりやる! 強くなる!」
「お、おおおおぉぉぉ! そうか、やるか! よし、あたしについてこい!」
「おー!」

 ずだだだだ、と走り始めるシャンテ。それに続いて、リーフェイスもずだだだだ、と走った。
 フリーダムだとか、暴走機関車だとか、とにかくそんな感じで走る二人。その終着点は意外に早く、そして近かった。
 それは、一言で言って物々しい建物だ。武芸者が使う道場などとはまた違う感じの無骨さ。入り口に扉はない。いや、よくあたりを見てみれば、遙か上にシャッターが付けられているのが分かる。中に入るまでもなく幾重もの機械の駆動音が響き、それはまるで巨大な獣のいびきのよう。
 初めて見る光景に、リーフェイスは目を輝かせた。巨大な機械が巨大な金属の塊を押しつぶす様には、恐ろしい迫力がある。そこを走り回る男達には、それと互角の熱気があった。武芸者が訓練をするような、一点への直向きさはない。だが、あらゆる物へ執着するような、欲望の渦のようなものが確かに見て取れた。

「おおおぉぉぉ……すごい! あとうるさい! すごくてうるさい!」
「なんだ、お前。これ見るの初めてか。あたしも初めて見たとき驚いたぞ。あのがしゃーんとかやってるやつが、中々恰好いいぞ」
「ほおおぉぉ、どかーんてっやった! すっごーい!」
「あの……先輩? 今日は何の用っすか?」

 目的そっちのけでプレス機を眺める二人に声をかけたのは、学校指定のつなぎを着崩した男だった。頭に安全用ヘルメットをかぶって、恐る恐ると声をかけてくる。
 声に反応し、シャンテは振り向いた。視線が交わった男はそれだけで縮こまり、さらに胸元の小隊バッジを見てさらに萎縮する。さらに男の背後では、ちらちらと様子をのぞき見している人たちの姿があった。早い話が、人柱にされたのだろう。

「錬金鋼を作りに来た」
「ここまで来たって事は、調整じゃなくて新調って事っすよね。や、無理ですって」
「なんでだ?」

 少女が眉を潜めると、男はあからさまに顔を歪めた。厄介ごとになった――その感情を隠しもしない。もしかしたら、最初から隠すつもりが無かったのかも知れないが。

「材料が足りないんすよ。や、普通の錬金鋼を作るなら十分なんすけどね。先輩みたいな小隊員の人に満足して貰えるような獲物となると、材料が普通のものより高品質なんす。事前に予約して貰わないと、材料を揃えられません。と言うわけで、予約自体はここでもできますんで、後日改めて来ていただいて欲しいんすけど」
「別に満足とか、そんなのどうでもいい。作ってくれ」
「いやだから……」

 本当は厄介払いだろ、という懐疑的な目ではなく。本気で内容を分かっていなそうな、怪訝な表情で繰り返すシャンテ。
 男はうんざりしながら繰り返した。

「いや、ですから。小隊の人が使う錬金鋼に下手なもの渡したとなったら、錬金科の沽券に関わる話になるんですって」
「使うのはあたしじゃないぞ」
「え?」
「リーが使うんだ」
「はい?」
「あい、リーフェイス・エクステです」
「はあ、どうも。……え、どういう事?」

 リーフェイスはぴっと手を差し出した。握手である。
 男は反射的にその手を掴もうとしたが、すんでの所でそれを止めた。手には機械を弄った為に、油に塗れた革手袋が付けてある。それを急いで引き抜き、再び差し出された。指二本で限界の小さな手が、元気よく振られる。その様子を見ながら、男は呆然としていた。

「え……この子供のっすか?」
「そうだ。リーに槍を教えるから、小さい槍を作ってくれ」
「よろしくおねがいします!」
「ああ、よろしく。……じゃなくて、ちょっと待って下さいね」

 思わず返事をした男、仕切り直すようにかぶりを振る。背後に上半身だけ振り返ると、大きく丸を作った。その合図に、他の錬金科生徒――恐らく上級生達――が寄ってきた。

「なんだ、厄介事じゃなかったのか?」
「ちょっと指示を仰ぎたくて……」
「バカヤロウ、お前に一人で判断させるために向かわせたんだろうか」

 と、どでかい拳が男の頭頂部と衝突する。衝撃は安全ヘルメットを貫通したのか、男の頭が大きく泳いだ。

「で、第五小隊の副隊長殿はどんな用で?」
「リーに錬金鋼を作ってくれ。槍型のやつだ」
「まあ、小型の一機じゃ大した手間にゃならないから、それはかまやしないが……今は時期だから、大した物は作れんぜ」

 リーフェイスの元気いい挨拶に豪快な笑いで答えながら、班長らしき男が言う。
 時期、というのは新入生入学の事だ。新しい武芸者が数百と入ってくるのだから、それだけの道具が必要になる。こればかりは、旧六年生が使っていたものをそのまま回すという訳にはいかなかった。
 いくら錬金鋼が冗談のような性質、性能を持つとは言え、物理的な消耗を無視できるわけではない。再調整で疲労を散らすことは出来るのだが、それとて完璧ではない。普通の道具より遙かに長持ちするが、同じ物を永久的に使い続けられる程便利ではなかった。程度のいい物は、設定を完全消去するだけ。疲労の大きなものは、完全に潰して新しい物にするのだ。
 今はその作業に加えて、一年用に調整をしてやる必要もある。同時に、調整の必要性をたたき込んでやる仕事も。錬金科にとっては、一年の中で一番忙しい時期である。なにしろ、全ての研究室が研究を中断して、その作業に当たらなければいけないくらいなのだから。

「お前の言う事はよく分からない。とりあえず、槍の練習ができればいいぞ」
「いや分かれよ。お前小隊員だろうが」
「分からないもんは分からない。しょうがないだろ」
「ったく、なんて副隊長だよ」
「本当は適当に模擬槍取ってこようと思ったんだけどな。リーにはでかい上に持ち運びに不便だ。仕方ないからこっち来た」
「窃盗を候補の中に入れるな! 本当になんて奴だ……」

 大きなため息をつく班長。頭を手で押さえそうになって、油汚れに気づいて止める。手を腰に戻して、今度は小さなため息を吐いた。

「おい坊主」
「なんすか」

 班長が声をかけたのは、最初に声をかけてきた男だった。拳骨に悶えていた――という訳でもないだろうが、しかしそれ以降後ろで大人しくしてはいた。
 呼ばれて前に出てきた男にやはり豪快にヘルメットを叩く。機械音でうるさい中に、景気のいい音が響いた。あまりの衝撃に揺れたヘルメットを、男は直す。

「お前が作ってやんな」
「うっす……え!? マジでいいんすか!?」
「おーう。まあ今回はそんな大層なもんでもないしな。対応したのはお前だから、最後まで責任取んな。材料は……削り屑に入ってるのを仕え」
「はい! ありがとうございます! イヤッホォォォー!」
「くそ、ずりぃ!」
「おれが行けばよかった」

 歓喜の声を上げて、小躍りすらする男。その男にやっかみのこえが集中した。
 一定期間は錬金鋼の製造をやらせて貰えないだろう。武芸者の世界にも、入門して一定期間は武器を持たせて貰えないという事はある。つまり、班長の粋な計らいという事という訳だ。

「じゃ、二人ともこっち来てもらえます? あー、ちょいちょい! 危ないから機械に触らないで、指が輪切りになったりとかするから!」
「う? ごめんなしゃい」

 暇をしていたのか、それともただの好奇心か。高速で稼働する機械に触れようとした、まさにその瞬間だった。声にびくりと手を引っ込めて、しょぼくれるリーフェイス。

「そうだぞ。指とか切ると、痛くて嫌だからな。危ないから、あたしの手を握ってろ」
「あい」

 連れられて、正しく廃材置き場という雰囲気の場所まで連れられる。
 男は機械の電源を入れて、何かの入力をしていった。

「で、どんなの作るんです?」
「槍」
「いやそういう事聞いてるんじゃないっすから。てかそれ、さんざん聞いたっすし。どんな感じの錬金鋼作りたいか聞いてるんすから」
「どんな感じの? ……って、どんなのがいいんだ?」
「う? わかんない」
「つまり、決まってるのは子供サイズの槍って事だけっすね」

 脇に置いてあったコンテナの一つを引っ張り出し、中のプラスチック箱を開く。中には何本も棒が入っており、その中でも一番細い物を取り出した。

「これちょっと握ってみて。……あー、やっぱり全然太いよなぁ。7ミル……いや9ミル直径を減らしてみるか」

 廃材を機械にざっと流し込んで、数値を入力。機械が物々しい音を立てて幾ばく、先ほどの物よりも随分細い棒が出てきた。

「じゃ、次はこれね。うん、こんなもんかな」

 リーフェイスの手を倒させて、握り部分を確認する男。親指と人差し指が僅かに重なる程度なのを見て、満足していた。
 作った棒を再び廃材の中に投げ込み、話を続ける。

「とりあえずサイズは取りましたけど、長さと性能どうします? 個人的な意見言わせて貰えば、あの細さの錬金鋼に通常並の性能を求めるのは無謀なんですけど。もしわかんないんなら、どんな事に使うか教えて貰えばこっちで判断しますよ」
「そうだな……とりあえず槍の訓練はしたいし、槍型の錬金鋼にも慣れさせたいぞ。衝剄とかの方はあんまり考えてないな。活剄を使うのに邪魔にならない程度でいい」

 シャンテは感覚的すぎるし、そもそもあまり頭は良くない。だが、武芸方面の話となれば脳の回転はまるで別物のように加速した。リーフェイスの化錬剄を使えるという申告を考慮し、衝剄は訓練の想定から外し済みだ。その訓練プランの作成能力と決断力は、さすが小隊副隊長と言わせるだけの物がある。……もっとも、その通りに訓練できるかとは別の話であるが。
 すらすらと並べられた内容に、多少面食らう男。しかしすぐに再起動し、内容をメモしていった。
 聞き終わって、さらにしばらく。何かの計算や、仮想の構築を繰り返して。それを終えて、二人へと向いた。

「おれが一番いいと思うプランは、軽金錬金鋼を基礎6割使用、残りを青石錬金鋼、紅玉錬金鋼、白金錬金鋼を混ぜ合わせる方法っす。長さはお嬢の身長と同じ位にしますけど、その代わりに極限まで軽くします。形状考えればそれなりの強度を確保できますけど、その代償に基礎密度はすっかすか。早い話が、まともな剄が通らない、出し入れが錬金鋼みたくできるってだけの、殆ど普通の武器って感じっすね」
「それは槍を合わせても大丈夫なんだな?」
「そりゃ勿論。ただ、先輩が全力でぶったたいたりすりゃ話は別っすけど」
「しないな。よし、それでいいぞ」

 許可が下りた所で、すぐに作成は始まった。廃材を投入し、数値入力を経て。後は機械任せになる。
 その様子を、リーフェイスはそわそわと待っていた。剣の方がいいとは言っていたが、やはり自分専用の武器が出来るとなれば、楽しみでない筈がない。まだかまだかと、立つ場所を変えては機械に触れぬよう見回してた。
 がちん、とひときわ大きな音がして蓋が開く。リーフェイスは槍を取り出す男の所に、飛ぶように駆けていった。

「ねえちょうだい! ねえねえ!」
「分かってるって。ほら、持ってみな」

 渡された槍は、細身で鈍く輝く。時折滲んだように光を反射するそれは、間違いなく世界にただ一つの、自分だけの武器だった。およそ武器っぽくない錬金鋼を持っていた彼女にとって、僅かならぬ感動が胸に染みる。

「ししょー、リーフィのやりなの……えへへ」
「うむ、そうだ。だから、ちゃんとやらなきゃダメだぞ」
「あい! ……えへへぇ」

 いくら顔を閉めようとしても、次の瞬間にはにんまりと蕩けた。
 まるで欲しかった玩具を手に入れたかのようにはしゃぐ少女。男はそれを満足げな笑いで見下ろしていた。

「じゃあ、最後に調整だけしちゃいますか。あと少しだけ待ってな」
「ん。おにーちゃん、ありがとう!」
「お礼はあっちの先輩に言いな」
「ん? なんでだ?」

 シャンテは不思議そうに首を傾げた。

「いや、だって先輩がこの子に作ってあげるように来たんじゃないっすか」
「それでも作ったのはお前だし、調整してくれるのもお前だろ? そのありがとうは、お前が受け取るものだ」
「あー、そうかもしれないっすけど……」
「それに、あたしの頼みでもあるからな。ありがとう」

 言って、笑う。ごく自然に。
 その笑顔は美しい、という類いの物ではなかった。だが、野性味の溢れる物であり、故に完膚無きまでに純粋だった。彼女たちをだしにして錬金鋼を作る機会を得た男。そんな彼が感謝を素直に受けるには、シャンテはストレート過ぎた。

「その、じゃ、どういたしまして」
「お前はいい奴だ、自信を持て。遠慮なんてするな」

 あからさまに女慣れしていない様子の男であり。同時に、子供のようでありながらも女だと思わせたシャンテに恥ずかしくなり、そっぽを向いてごまかす。そのまま作業に集中しようとして、

「そういや帯剣許可ってどうなってんだ?」

 ふと、出てきた疑問が口から漏れる。だが、小隊の人の注文だし大丈夫だろうと流すことにした。どちらだったとしても、これ以上彼が干渉できる事でないのだ。
 そして、調整も無事終わり。手を振りながらそこを後にして、開いているグラウンドへと向かっていき。
 槍の訓練もそこそこに殆ど遊んで終わったのは、まあ余談だろう。



□□□■■■□□□■■■



「ただいま」
「たあいまー!」

 ドアが開かれると、リーフェイスは家の中に飛び込んだ。一日中遊びと訓練をしても、なお元気が有り余っている。
 それに遅れて入ってきたレイフォンには、少々の疲れが見えていた。肉体的な疲れではなく、精神的な気疲れが。我が強くまとまりのない小隊と、学内対抗戦で見世物のように戦うための訓練をする日々。それは、実際の所かなりのプレッシャーだった。人間関係も、目立つと言う事も、どちらも得意ではない。

「パパー、きょうもいちにち、おつかれさあでした」
「うん、お疲れ様。リーフィも元気してた?」
「あい! くんれんもしたし、たくさんあそんだ!」

 相変わらず元気が品切れを起こさないリーフェイス。朝と変わらぬ笑顔の切れは、正に彼女を象徴していると言えた。
 ドアの隙間から覗く空は暗い。今ツェルニがいる位置は日の落ちが早めだとは言え、完全に落ちてしまえばそれなりの時刻になる。時間に余裕のないレイフォンには、少々辛くあった。

「リーフィ、お皿の用意お願いね。すぐに料理作っちゃうから」

 学生服の上着だけを投げ捨てたレイフォンは、その上からエプロンを装着。すぐに材料の入った買い物袋を開いて、包丁を動かし始めた。無駄のない動きが、厨房に命を吹き込む。
 リーフェイスはまずバッグを開いて、中身を戻し始める。玩具を道具箱へ、本は本棚へ。そして取り出した二つ目の錬金鋼、それを手にとってしばらく悩んだが――道具箱の一つ目の錬金鋼、その隣にゆっくりと下ろした。お古ではない正真正銘自分のためだけに作られた錬金鋼である。大事にしなければ罰が当たる。
 片付けを終えて洗面台へ。レイフォンの作った踏み台を上り、手洗いとうがいを済ませた。
 皿の準備まで終えて、椅子で大人しくすること十数分。もうもうと湯気の立った料理が、食卓に並べられた。スパゲッティ・ボンゴレをメインに、サーモンのマリネが今日のメニュー。鮭はちょっと苦手だったが、しかしレイフォンの料理であれば例外だ。
 並んだ料理を、詰め込むように口にしながら、リーフェイスは語った。夕食の時間は、いつも一日何があったかを聞いて貰う場だ。

「でね、エドにーちゃ、しょぼんとしてたの」
「それは大変だったね。……明日エドにはお礼言っとかないと」
「ん?」
「何でもないよ、こっちの話。それで?」
「あと、おひるはフェリおねーちゃんとハーレイちゃんがいたの」
「ん? ハーレイ先輩はまだしも、フェリ先輩もいたんだ」

 言いながら、レイフォンはフェリの様子を思い出した。リーフェイスが関わると理性が飛ぶが、それ以外では普通の無愛想な人である。理性が飛ぶと、自分に被害が来るのが困るのだが……。とにかく、時間を見てはリーフェイスに会いに来るだろう、そう思える人ではある。
 表現が苛烈なのはともかく、心配している気持ちに偽りはないだろう。レイフォンが時間を取れない以上、そうして気にかけてくれる人の存在は有り難かった。

「んう。パパがいないときは、いつもいっしょにごはんたべるの」
「そっか。じゃあフェリ先輩にありがとうしとかないとね。あと、ハーレイ先輩はまだちゃんなんだ……」
「だってハーレイちゃんはハーレイちゃんだよ?」

 不思議そうに首を傾げる少女。苦笑いで諦めるしかなかった。いや、この場合は諦めて貰うしか、だろうか。

「あとね、きょうのじゅーだいはっぴょーです。なんと、リーフィにししょーができました!」

 ぱっと――フォークを持ったままの手を掲げて、いかにも大事だぞと見せる。少女の顔は満足げであり自慢げだった。しかし、レイフォンの顔は対照的に厳しい物になっていた。
 場合によっては、喜びに水を差さなければならないかもしれない。

「それは凄いね」
「ん。リーフィ強くなって、パパに見せるの」
「あはは、それは楽しみだな。ちなみに、それってどんな人でどんな訓練してたの?」

 口調こそ優しいそれであったが、しかし彼の心境は真剣そのもの。
 武芸者の訓練は、必ず場合危険を伴う物である。そして、その危険にどれだけ見合った成果を出させられるか、というのが指導者の能力を決定するのだ。中には危険ばかりで、全く意味の無い訓練をさせるような者すらいる。と言うか、レイフォンはツェルニにいる武芸者の殆どはそういうレベルだと半ば確信していた。そして、リーフェイスを拾った誰かがそうでない保証はない。
 とは言え、彼女もグレンダンの中でも最高の教育を二年以上受けている。レイフォンはやりたくないならやらなくていい、そう思っていたが、こういう時は有り難い。なにしろ、本物の指導というのを体感しているのだ。下手な自称指導者に騙される、それだけはないと信じられるのだから。

「えっとね、さっけーのくんれん。かくれてるひとを、もうひとりが見つけるの。見つかったらこうたい」
「……それはかくれんぼじゃない?」
「ちがうよ、くんれんなの! それと、かっけーでおいかけるくんれん。つかまえたらにげる」
「それは鬼ごっこって言うんだと思うよ」
「かいしゃくによっては、そういえなくもないかもしれない」
「どこで覚えたの玉虫色の解答!?」

 予想外の反撃に驚かされつつ――安心もしていた。いや、別の意味で心配にはなったが。
 とりあえず、師匠とやらはあまり真面目に指導をする気がないらしい。もはやただの遊び相手である。

「しょーたいのふくたいちょーなんだって。ししょーすごい?」
「ああ、うん……すごい、のかな?」

 とリーフェイスは問うたが、レイフォンの解答は微妙なものだった。なにしろ、彼の頭に浮かんだのはシャーニッドである。
 武芸者としての能力は高いだろう。自己主張が強い武芸者の中にあって、自分から援護に努めてくれるあたり、中々の人物でもある。と、これが武芸者単体で見た評価になるのだが。部隊の副隊長として見た場合、言葉に難しい人物でもあった。いや、はっきり言って隊長としての業務は全てニーナに投げて何もしていない。そのしわ寄せがレイフォンに来ることも度々あり、彼が凄いと言われると、どうしても釈然としなかった。
 とにかく、身元も実力もしっかりした人ではありそうだ。もし真面目に指導しても、下手な事はやらないだろう。

「だいともつくってもらったよ」
「え? 新しく? 後でそれ見せてくれる?」

 言われてすぐに、リーフェイスは椅子を飛び降りた。制止が入るよりも早く、道具箱から錬金鋼を取り出して復元する。自分と同じくらいの高さがある細槍を、ずいっと差し出した。

「あいこれ」
「後ででよかったのに……」

 それでも良かったのだが、リーフェイスの顔を見て今見ることにした。目が恐ろしく輝いており、それほど自慢したいのだろう。
 受け取った槍は、一見して何が素材だか判別できなかった。鈍い銀のような色合いだが、光を滑らせると別の色が薄く滲む。それをよく見てみたが、やはり判別がつかない不思議な材質だった。
 試しに剄を通してみるが――まるで空洞か何かのように、全て抜けて言ってしまう。

「うわ、これじゃまともに剄なんて使えないじゃないか」
「やりのれんしゅーよーだから、それでいいんだって」
「そうなのかなぁ? でもこの人、思ったより考えてくれてるのかも」

 普通の錬金鋼を使って、破壊して仕舞わないかを心配していたレイフォン。偶然かそこまで考えられたかは知らないが、その考えは杞憂だった。子供だから形だけ真似たものを用意した可能性もあるが、もし剄量まで考慮してくれていたのであれば――想定していたのよりも遙かにいい指導者だ。

「どっちにしても今度挨拶に行かないとな」
「うゆ?」
「リーフィの指導、お願いしますって言いに行くって事」
「あい、リーフィも頑張ります!」

 話の終わりとほぼ同じに食事も終わり。 
 片付けと明日の仕込みの後は、一緒に風呂に入る。出て髪を乾かした後は、殆どの場合レイフォンはすぐ寝てしまうのだ。ベッドに潜り込みながら、

「僕は寝ちゃうけど、あんまり散らかしちゃダメだよ」
「ちゃんと片付けるもぅん」

 ぷっとふくれるリーフィに苦笑いをして、レイフォンはすぐに寝てしまった。これで数時間寝た後は、機関部掃除の仕事が待っている。彼女が寝るにはまだ少し早いため、寝る時間がずれるのはいつもの事だ。
 それは同時に、一緒にいる時間が短いことも意味している。
 リーフェイスはいつも戦っていた。胸に湧く寂しさと、そしてそれを表に出さぬよう押し殺して。……早く、もっと一緒に居られるようになればいい。そう願いながら、レイフォンの寝顔を眺めていた。今までの笑顔が嘘だったかのような、悲しそうな顔で寄り添っている。
 泣きたくなるのを堪えながら、本棚から一冊のノートを取り出した。それは、その日何が起きたか、何が楽しかったかを記すノート。日記帳だった。
 エドの事、フェリの事、ハーレイの事、シャンテの事。全て大切な思い出。一つも漏らさぬように、大事に大事に記録する。最後に――少し寂しいと書いて、すぐに横線で消した。そこには、楽しいことだけを書けばいい。わざわざ悲しいことなど、残しておかなくてもいいのだ。
 しばらく本を読んだり、玩具で遊んだりしていたリーフェイス。しかし、その内暇になり、同時に眠気も襲ってきて。レイフォンの隣に、もぞもぞと潜り込む。
 父は好きだ。大好きだ。間違いなく、世界で一番好きだった。その父と一緒に寝る瞬間も、やはり大好きだ。ぎゅっと抱きついて、目を閉じる。その顔には、先ほどまで陰って見えなかった笑顔があった。
 レイフォンのぬくもりを存分に味わいながら、迫る睡魔に抵抗することなく飲まれて。
 これが、リーフェイスの大体いつもの一日であった。



[32355] ろっこめ
Name: 天地◆615c4b38 ID:b656da1e
Date: 2012/05/16 19:35
 しくしくと痛む腹を抱えながら、レイフォンはそこにいた。何とかごまかそうと試みるが――それで疼痛が和らぐ事はない。唯一の対処法は、封じられて久しかった。
 制服でも訓練服でもない、いわば学内対抗戦のユニフォームとも言える服。それを着て、レイフォンはうなり続ける。自分用にと調整された錬金鋼に、同じく専用にされてしまったユニフォーム。普通の武芸者であれば喜ぶようなそれらも、レイフォンには重荷にしかならない。
 これから、また武芸をしなければならない。どれだけやる気がなくても、自分の力を知らしめることになる。一歩間違えれば――グレンダンの二の舞だ。まるで悪夢のようなプレッシャー。そんな圧力に晒されているのに、良いとこ探しや気を抜いて楽になどなれない。少なくとも、レイフォンはそんな図太さを持ち合わせていなかった。
 一度苛立ってしまえば、何に対しても神経質になってしまう。例えば、

「相手の最大の武器は機動力だ。我々がしなければいけないのは、まず敵の足を止める……」

 さっきから、都合三度は繰り返されている作戦とか。それが、戦いたくもない戦場で勝つためのものだと思ってしまえば、不満も一層だった。
 揺れた指先が、剣帯に刺さった錬金鋼に触れる。いい加減に重心だけ設定を合わせた、青石錬金鋼。そんなものは、重荷以上の何にもなってくれない。いや、むしろ。
 小隊員となり、小隊全体に集まる羨望の幾ばくかを負わされる事になる。それはかつて背負ったものよりは遙かに小さいだろうが、しかし同質である事には変わりない。そして、有り難くもないものを得て、さらに負わされるものがある。責任だ。戦って勝つ事ではない、武芸者として模範となる責任。どうあがいても、逃げようもなく津波のように襲いかかるそれ。
 いつの間にか、錬金鋼に触れる指が震えていた。それを誤魔化すこともできずに、立ち上がる。

「少しトイレ行ってきます」
「おお、もうすぐ始まるからな。そのままバックレんなよ」

 ははは、と笑いながらシャーニッド。彼としては、ジョークで言ったのだろう。それに釘を刺されたと感じてしまうのは、レイフォンに後ろめたさがあるからだ。
 選手待機室をとアリーナを繋ぐ通路には、見事なまでに誰も居ない。これは試合直前は選手を落ち着かせようという配慮と同時に、スパイ等の不正を防ぐためでもある。つまり、誰に見られる心配もない場所だった。気と一緒に息を吐いて、思い切り脱力するレイフォン。
 馬鹿正直にトイレに行って戻ってくる気にもなれない。しばらくゆっくりと歩いて気持ちを落ち着かせていたが……すぐに、外にで無ければよかったと後悔した。
 本来人が居ないはずの場所に人影。こんな、立ち入りの許されていない場所に入ってこれる人間など、そうそういるものではない。そして、レイフォンの知っている人間でここまで入ってこれる者は一人しか居なく……その最低の予想は、最悪な事に当たってしまった。銀光を反射する眼鏡と白の装飾が多い学生服は、二度見たいものではなかった。

「やあ、偶然だね、レイフォン君」
(どの口が……)

 心からにじみ出た悪態は、堪えるまでもなく口に出なかった。どうやったところで、目の前の男に口で勝てる気がしない。あきらめにも似た心境で、堪えた思いは心中で黒い渦になる。
 わざわざこんな、申請しなければ入れないような場所まで来て、一体何を言うつもりなのか。

「随分緊張しているように見えるね。こんな試合、君には慣れたものだと、わたしは思っていたが。記憶違いだったかな? それとも何か、緊張しなければいけないような事でもしているとか?」

 鋭くレイフォンを捉える目。それに思わず動揺してしまうが、それははっきりと失敗だった。カリアンがいつもの胡散臭い微笑に戻るが、しかし目つきは全く笑っていない。

「いや失敬。邪推に過ぎたね。まさか……まさかさ。そんな不義理で無意味な事をするはずがない。そうだろう?」

 求められる同意。カリアンから、肯定しろという圧力がかかってくる。蛇に睨まれた、そう思ってしまうほどのそれ。目をそらす事すら出来そうにない。
 手を強く握る。なんとか、反発するだけの力を絞りだそうとして。こんな事は、自分がすべき事ではない。契約に入っていない。

「何か言いたげだね」

 言葉に、心臓が跳ねた。強烈に、それこそ破裂するのではないかと思えるほどに。ただ一言で、蓄えた力が抜け落ちる。空かされた力に、絶望しそうになった。
 レイフォンはカリアンを見るが、そこにどんな感情があるのか分からない。そんなに自分は上手くないというのも、自覚はある。ただ、ほんの僅かでも何かつかめることがないかと期待をしたが、上手くは行かなかった。

「言ってくれて構わないよ、何でもね。君とわたしの仲じゃないか」

 遠回しに、契約の事を引き合いに出されて。黙ることすら許されていないと知る。
 萎えきった、殆ど屈服していると言っても良い精神状態。何も言いたくなどなかった。だが――いや、だからだろうか。口が開くのも止めることはできなかった。

「僕が、約束したのは……ツェルニの勝利についてでしょう? こんな……こんな風に戦うなんて、約束していない」
「前者については、その通りだ。そして後者については、君が勝手にそう思っていただけだろう」

 下らない事を――態度がそう言っていた。当てつけの用に息を吐く仕草一つとっても威圧を覚える。いや、事実プレッシャーを与えるために、計算し尽くされたものなのだろう。無駄なことは絶対にしないし、有用であれば何でもする。そういう、本物の政治家であるとは、嫌と言うほど思い知らされていた。

「君は最強だ。誰も勝てない。少なくとも、学園都市という未熟者の集まりでは。そうだな、君に勝てるとすればそれは……何か、予期せぬ出来事が起きた場合くらいだろう。それが、都市対抗戦にないと言い切れない」

 確認をするように、一つ一つ念を押すように。重苦しい空気に見合った、重苦しい言葉。それが、レイフォンに刻みつけられる。

「都市の武芸者が、弱くて良い理由など何一つ無い。『もしも』が起きた時に、最低限盾になる程度の力は必要なのだ。今のままではそうなってくれない、弱い武芸者のままだ。だが、一年の小隊員が華々しく活躍してくれればどうか。そうだな、それはカンフル剤になり、同時に「このままではまずい」という危機感にもなってくれる。これも、ツェルニ勝利の為に必要な事だ。違うかね?」
「……詭弁でしか、ない」
「そうだね、そうかも知れない。では、負けてみるかね? その、負けた誰かがどんなつもりかは知らないし、考慮すつもりもない。ただそこには、敗北という結果だけが残る。わたしは、そんな事すらできない負けた誰かの為に、金銭や時間を浪費してやる事などは出来ないよ。何せ、ツェルニ存続のためには金がいくらあっても足りない。しかし、勝つならいくらでも払うし、どういう形でも報いる。これがわたしなりの誠意さ。そして、まだ結果を全く残していない誰かは、どういう形で誠意を見せてくれるのか……」

 レイフォンの肩が、ぽんと叩かれる。通り過ぎる直前だった為に、カリアンの顔は見えなかった。それで良かったか悪かったか、それは分からないが。少なくとも余計なプレッシャーだけは味わわずに済んだ。
 安心は、すぐに不安に変わった。何が出来るわけでもないのに、結果だけは強要される。覚悟の出来ていない心に、新たな錘が落とされた。その重さは、胃の痛みにダイレクトに伝わる。藻草のびっしり生えたプールに落とされても、こんな気分にならない。そんな下らない事を確信できるほどに、最低の気分だった。
 親指が、自然とたこをこする。僅かな期間では消えてくれない、武芸者であった証明。レイフォンが唯一誇れた、確たる自信の源泉。しかしそれが、忌まわしくて仕方が無い。あれだけ昼夜を問わず極め染み付けた技が、今は己を呪うことしかしてくれない。
 かつては刀を、そして少し前までは剣を。いずれにしても武器を握り続けた手。見下ろした自分のそれは、武器以外に何が握れるのかも分からない。

(少し……。武芸だけしてればいいなんて思わずに、他のこともしてればよかったなぁ)

 握るものを知らないから、結局最後は武芸に頼る。唯一の拠り所に寄ることすらできずに、ただ、武器の末端である右手を見続けた。
 体が力を失って、肩から壁に寄りかかる。それでも座り込まなかったのは、まだ体のどこかに力が残っていたからではない。義務が残ってるからだ。欲しくもない義務が。
 結局、レイフォン・アルセイフとはそうなのだ。武芸意外は何も出来ない。そして、武芸に頼れば失敗をする。今回もまた、武芸に頼って失敗をした。学内対抗戦、それに――勝つか負けるかはまだ決めていなくても――出なければいけない。安易に契約など結んだ結果が、このザマだ。
 ずるずると体を引きずるように、来た道を戻っていく。何のために選手控え室に戻るのか、彼自身も分からなかったが。カリアンの言葉と、あとは義務か。それらに背中から急かされる。
 もはや、ため息すら出ないほどに疲弊して。たどり着いた控え室は、先ほどよりも遙かに居心地の悪い空気だった。



□□□■■■□□□■■■



 関係者用観戦室に戻ったカリアンは、体に優しくない椅子に、倒れるように座り込んだ。ぎしり、と鳴る堅い椅子。そして音には出ていないが、同じような音が出そうな軋み方をする体。
 良い所など探しても見つからない椅子。あえて長所を挙げるとするならば、それは肘掛けがある事だろう。無駄に疲れた精神には、そんなものすら有り難さを感じる。
 密度の薄い林を想定して作られた試合会場、それを一望できる大きな鏡張り。試合を観賞するのには、この上ない環境。そんな場所を占拠しているのを良いことに、カリアンは思い切り力を抜いた。絶対に誰にも――それこそ妹にすら見せられない顔。為政者としての仮面を脱ぎ捨てて、一学生に戻る。その顔には、強い疲れが浮いていた。そして、そんな場所でしか、彼は素顔になれなかった。
 カリアン・ロスという人物を表現するならば、政治の怪物。そう言って間違いはない。だが、それでも彼はまだ学生でしかなく、人生経験が豊富だと言いがたい。ツェルニという弱小学園を強化しつつ運営するには、圧倒的に経験が足りなかった。足りない分は、どこかから補わなければならない。それが彼にとっては、冷徹な貌と恐怖支配と言われかねない強引さだった。
 無茶である事は承知している。それが長続きしない類いのものである事も。人を叩き伏せて得た力は、弱みを見せれば一瞬で食い散らかされる。それでも、その愚かな選択をしてしまったのは。ツェルニにもカリアンにも、時間がなさ過ぎたからだ。そして、誰の指示も得られないような、恨みばかりを買うような真似までして。なおツェルニには力が足りなかった。
 絶望の……死の足跡が聞こえる。愛する第二の故郷が、永遠に失われる音だ。
 意思を同じくしているはずの武芸科長ですら、助けにならなかった。次は勝てるという楽観と、自分の実力に対する根拠のない自信。それが通用しない事など、二年前に嫌と言うほど味わった筈なのに。
 誰も当てに出来ない。同じくツェルニを愛する者ですら、泥を噛む覚悟がない。カリアンの孤独な戦いが始まり――しかし、それを続けるごとに絶望ばかりが広がった。どう頑張っても、あがいても、ツェルニを守れるという見込みを作る事すらできない。都市の最高権力者になった所で、武芸者を変えられるのは武芸者だけだという常識を突きつけられただけだった。
 武芸者を変えるには、意識から改革するしかない。だが、一般人が武芸者の意識に触れる事はできない。つまり、カリアンでは彼らを変えられない。
 いつしか、もう武芸者の相手をしていられる余裕はなくなっていた。焦燥に駆られながらも、なんとかツェルニ有利に武芸大会を運ぼうと、そう苦心している時だった。入学申請書の中に、ある学生の書類を見つけたのは。
 レイフォン・アルセイフ。グレンダン出身の十五歳。
 その名前と顔を、カリアンは五年経った今でもよく覚えていた。街の片隅あたりを、同年代の子供達と駆け回っているのが似合う、そんな年齢の少年。それが、輝かしく羨望を一点に集める姿。記憶に焼き付かぬはずがない。
 五年経って少年は青年となり、しかし面影は濃く残していた。だからこそ、ぱっと見の書類で勘付くことが出来たのだが。
 重要なのは、そこではない。レイフォン・アルセイフという、およそ最高の武芸者がツェルニに来るという事実だった。――奇跡が起きた。神は、人を助けるのだ。本気でそう信じられるほどに、彼の到来は救世的なものであった。それこそ、普段意識して冷徹を貫くカリアンが、人目を憚らず踊り出しそうになるほどに。
 問題がない訳ではない。グレンダンという都市が、天剣なる武芸の傑作を放逐する事態、安い理由などではないだろう。加えて、レイフォンは一般教養科として入学する事を希望していた。これこそが、訳ありなのを確信させる。
 だが、そんなことは些末事だ。勝利の目処すら立たぬ状態から、ほぼ確定できる状態にまで持ってこれるのだから当然だろう。
 新入生の入学前にはレイフォンが学園に来る経緯も手に入れた。確かに問題がある行為だが、それは自分で調整してやれば何とでもなると判断。いや、たとえ毒杯であったとしても、カリアンは煽っていただろう。それに比べれば、随分とましな状況ではあった。
 可能な限り準備を整えて、何とかレイフォンを上手く使おうとして。新たな、そして最大の問題が溢れた。
 彼からは、気力ややる気というものが、すっかりと抜け落ちていたのだ。

(何が彼をそうさせたのか……いや、それはどうでもいいのだ。問題は、どうやって彼をその気にさせるか)

 気力に欠ける、それは何よりも恐ろしい。もしも、その何かが抜け落ちた状態で武芸大会に出て、万が一集中が切れてしまったら。ツェルニは、それで終わってしまう。決定的に。
 実力は信じられる。が、彼の無気力さにも同じくらい負の信頼があった。今のレイフォンを見て、武芸大会だけはしっかりやってくれる――そんな楽観など、絶対にできない。なんとかして本気になって貰わねば。彼の本気を、引っ張り出さなければツェルニの未来を守れない。
 さりげなく挑発したり、煽ってみたり、逆に懐柔を試みたり。手を尽くしてみたが、結果は全て空振り。分かったのは、レイフォンは気が弱い性質だと言う事だけだ。交渉はカリアンに上手く行ったものの、しかし真に知りたいことは全て隠された形になってしまった。

(怒りでも、悲しみでも、喜びでも、何でもいい。どこかに、彼の本気を見つけなければ……対処のしようが無い)

 深く座り直し、足を組む。顔はいつの間にか、個人の者ではない、学園の代表である生徒会長のそれに戻っていた。
 つい先ほどの一幕――レイフォンに勝利を強要した話。それに従う従わないというのは、カリアンにとって重要ではなかった。はっきりって、無様に負けようが全く構わない。いや、むしろ反逆して負けてくれた方が、レイフォンという人物が分かるというものだ。もしくは、試合が終わった後に何かしらのアクションを見せてくれれば。それで目的は達成される。
 一番厄介かのは、中途半端にこちらに従われる事だ。多少でも我を通してくれれば、そこに意思を見ることが出来る。だが、流されてしまっては何も発見できないのだ。そうされては、カリアンはまた不本意な動きをしなければならない。
 レイフォンとは友好的な関係を作りたいのだが。しかし、学園と彼の状況がそれを許してくれなかった。

(最悪の場合、彼の怒りの矛先はわたしに向けないと……。嫌うのはあくまでカリアン・ロス個人であって、ツェルニは心地よい場所でなければならない。可能ならば、自分から都市を守ってくれる程に)

 それは、恐ろしいことだ。武芸の本場であるグレンダンの、さらに最強の戦士。そんな超存在の怒りを一身に受ける……想像するだけで震え上がる。

(義務だ。これはわたしの、受けねばならない義務。自覚しろ、わたしの地位と権力と、そして命まで。全てがツェルニのためにあるのだ)

 カタカタと振動する拳を、もう片方の手で無理矢理押さえつけた。それでも止める事は出来なかったが、せめて目だけは反らさない。自分に言い聞かせるように言った言葉は、気休めでしかなかった。だが、責務を思い出せる程度の効果はあってくれる。
 レイフォンに悪いことをしているという自覚はある。が、今更止まれはしない。どうしても、彼の人となりを知りたいのだ。その気になってくれる事を、ただの無気力でない事を知らなければいけない。

「最悪の場合は、もう一つ仕込まなければならないかな……」

 その言葉は、自然と漏れていた。思い出すのは、レイフォンが所属する小隊の隊長、ニーナだ。実直すぎる正確の彼女を隊長として許したのは、その為でもある。自身と同じく、学園存続への生け贄とするために。
 間違いなく外道の所行だ。誰に後ろ指を指されても、言い訳など全く出来ない悪魔じみた行為。それを実行する事を本気で考える自分に対し、自嘲するしかなかった。
 カリアンはフィールドを見下ろして、ため息をつく。窓越しに広がる林には、小規模な土埃が舞っている。
 試合終了のコールが鳴った。会場は歓声に包まれ、実況が熱に浮かされてまくし立てた。その中身は、レイフォン・アルセイフという新人を褒め称えるもの。つい先ほどまでは、第十七小隊劣勢の実況ばかりがあったというのに。
 気分は、最悪だった。



□□□■■■□□□■■■



 試合が終わってすぐに、レイフォンは控え室を飛び出した。とてもそこに居られる雰囲気ではなかったし、居たら無事に済まなかっただろう。
 結局――レイフォンはまた失敗をした。いつものように、状況を打開するのに力に頼って。もしかしたら、カリアンに脅されなくてもそうしていたのではないか、そう思えるほど自然に。
 アリーナを後にして、控え室に付くまで。ニーナが目を合わせようとしなかったのは、最後の自制心を働かせたからだろう。
 控え室に付いた瞬間に投げられた、あの射殺さんばかりの視線。それが自分に向けられたものだと自覚した瞬間、レイフォンは部屋の外に逃げていた。背後から届く怒号、それを振り切るようにして。
 武芸者が短距離を全力疾走したところで、汗一つかきはしない。だが、今のレイフォンは汗どころか、呼吸すら乱れていた。息が乱れれば、剄が発生しない。剄が何のであれば、武芸者たる力を発揮できない。そうなってしまえば、発揮できる力など鍛えた一般人程度にしかならないのだ。
 肩で息をつきながら、忘れようとしても離れない視線を意識してしまう。それは、よく知っている視線だった。グレンダンに居たときに、似たような視線はごまんと浴びてきた。過去の間違いを象徴するそれ。残りの三人もそんな目で自分を見ていると思うと、恐ろしくて仕方がなかった。
 会場内のどこかの廊下で、ひっそりと膝に手を乗せて呼吸を繰り返す。運動のためか、それとも恐怖心にか、或いは両方か。吹き出た汗は一向に引かない。体はまるで、そのやり方を忘れてしまったかのように、剄息を行ってはくれなかった。
 ひっそりと、泣きたくすらなる。思わずその場で座り込みそうになり、

「……あの、レイとん?」

 声をかけられて、びくりと体を震わせた。怯えるように、発信源を向く。
 向けた先には、いつも通りの筈だが見慣れない、メイシェンの泣き出しそうな顔があった。恐れていた相手でなかった事に、深く安堵する。

「ごめん、驚かせたね」
「ううん、それは大丈夫だけど……どうかしたの?」

 心配そうに顔をのぞき込んでくるメイシェンに、心が癒やされた。それと同時に、痛みもする。過去の罪も、逃げ出してきた理由も何も告げていない。なのに優しさだけを当然と得るのは、裏切りだ。それを自覚したところで、言えようはずもなかったが。表情だけは取り繕って――取り繕ったつもりで――答える。

「ううん、何でも無いよ」

 言ってはみたが、メイシェンの顔はその言葉を信じていなかった。表情には心配の色が、さらに扱くなる。それでも追求がないのは――レイフォンがわざと彼女のそういう気質を利用したから。
 気が抜けたためか、膝からも力が抜けていく。壁により掛かるようにして体は下がっていき、地面にたどり着く前に支えられた。不意の衝撃に少々驚きながら下を見ると、そこには長椅子が。それにすら気づけないほど動揺していたらしい。
 レイフォンが座り込んだのは、そこで落ち着いて話すためだと思ったのか。メイシェンも動揺に、椅子に座った。二人の間に一人分の隙間があるのは嫌われているからではなく、彼女らしさだろう。加えて言えば、いつもであればその隙間には、子供一人が入っているのだ。

「メイシェンこそ、こんな所までどうしたの?」

 彼女がここまで一人で来たというのは、少し考えづらい。ただでさえ人が苦手なのだ。

「わたしは……ミィ達と来てたんだ。それで、さっきまで一緒にレイとんを探してたんだけど、わたしはちょっと……」

 うつむき加減で話す彼女に、リーフェイスと一緒に居る時の快活さはない。いつも猫背で他者を伺う姿は、最初は同一人物だと思えなかったものだ。今でも双子だと言われた方が、しっくりくるくらいである。
 気の弱いメイシェンを単体で見ると、惜しい美少女という感じなのだが。子供と戯れている姿を見ると、ギャップがまた可愛らしく見える。あの向日葵のような笑顔の美少女が、ちょっと涙目で上目遣いをしている。それも中々悪くないでしょ、と言うのはミィフィの弁だ。それにはレイフォンも大いに同意したのだが、それは余談だろう。

「はぐれたの? 一緒に探そうか?」
「あ……違うの、そうじゃなくて……!」

 申し出に、慌てて訂正を入れるメイシェン。あまりに必死な姿に、レイフォンは疑問符を浮かべた。
 付き合いの期間で言えば、大したことの無い二人なのだが。しかしリーフェイスの事もあってか、今では遠慮無く話が出来る程度の仲ではある。少し秘密があった所で、それにショックなどは覚えないが。しかし、心配になるのも確かだった。
 首を傾げるレイフォンに、メイシェンは顔を赤くする。ついには目を強くつむって顔を俯け、視線すら合わせられなくなった。

「お……お化粧室に用が……あったから」
「……」

 なんと答えればいいか分からず、レイフォンは沈黙するしかない。自然と顔が火照り、なんとなく視界から彼女を外す。トイレに行きました、などと言われて気の利いた答えなど出ない。それが出来るのであれば、世の中をもうちょっと上手く渡っている。
 ただでさえ小さく座っていたメイシェンが、さらに小さくなった。放っておけば、その内消えてしまいそうだ。

「その、大丈夫?」
「……帰りだったから」
(……ごめん)

 さらに小さくなったメイシェンを見て、また余計なことを言ったと悟る。謝罪は内心だけで済ませて置いた。直接言えば、さらに萎縮しさせてしまうのは目に見えている。

「ところで、僕に何か用があったみたいなんだけど」

 なるべく自然に、話題を変えたつもりだったのだが。声がうわずるのは押し隠せなかった。
 問われたメイシェンはごく普通に顔を上げた。レイフォンの緊張には気づかない……と言うよりも、それだけの余裕がなかったのだろう。頬にはまだ赤らみの後を残し、目も潤んでいる。

「試合の後はお腹が空いてると思って、お弁当持ってきたんだけど……その、バスケットはナッキに預かって貰ってて……」
「いや、それは仕方ないよ。それじゃあ、後で貰えるかな」

 まさかトイレに持って行けないしね。などと、また余計な事を滑らせそうになったが。なんとか止めることに成功する。
 気まずい雰囲気こそは改善されたが、今度は別種の沈黙が訪れる。居心地の悪さこそないが、なんとなく言葉が出てこなかった。そういえば、メイシェンと二人きりなのは、これが初めてだと気がついた。彼女はいつも親友二人と行動を共にしていて、別行動をすることはまず無かった。たまに居ないときでも、間にはリーフェイスが挟まっていたのだ。
 なんとなく続いた沈黙を破ったのは、メイシェンだった。

「そうだ……レイとんの試合、凄かったよ」

 その言葉は、忘れかけていた重さを思い出させる力を持っていた。多少は楽になっていた心が――ただ逃げていただけ――再び沈み込む。
 いつの間にか、汗は引いていた。そして、それに見合うだけ体は冷ややかだった。感情と連動したかのように、芯から冷気が漂う。肌を通るままだった滴の残りは、運動後の火照った体に寒いとさえ感じさせていた。
 雰囲気を一変させた――元に戻してしまったレイフォンに、メイシェンは戸惑うばかり。和らいだ雰囲気が一瞬で息苦しさすら持ったのだ。しかも、その原因を作ったのは、恐らく自分の発言。とても気を遣う、いや、使いすぎる彼女にとっては、その状態を作った自分を許せるはずがなかった。
 普段の涙しそうな顔をさらに歪めて、太ももを強く握る。それを見てしまったレイフォンは、大きくかぶりを振った。すべきではない。彼女がそんな顔をすべきでは、絶対にない。そうであるべきなのは、それを背負わなければいけないのはレイフォンなのだ。断じて、他の誰かではない。
 一つ、大きく息を吸った。わき上がる恐怖を、無理矢理押さえ込むために。震えそうになる体を叱りつけながらする事など、一つしか無い。懺悔だ。

「ちがうよ、メイシェン。君が悪い事なんて、何一つ無い。僕が、勝手に失敗して、自爆しただけなんだ」

 呟くように、ささやきにも似た言い方のそれ。こんな時ですら、言葉が聞こえなければ良いとでも、思ったのかもしれない。つくづく、自分がどれだけ愚かかを実感させられた。
 言って、しかし反応はすぐには返ってこなかった。普段であれば、相手など見ていなくても、これほど近距離であれば挙動すら掴める。しかし、今の精神状態では相手がそこに居る事すら察知するのは難しく。もしかしたら、本当は誰も居ないのかもしれない。その方がいい。レイフォンの弱い心が囁いた。
 そんな、都合のいいもしもがあるわけもなく。

「……失、敗?」

 ――聞かれて、しまった。
 沈みゆく心を処理することも出来ない。問われたことを処理するのにすら、時間がかかった。
 俯いたまま、言葉を紡ぐ。もし顔を上げて彼女の目を見てしまったら、何も言えなくなりそうだったから。

「本当は、負けるつもりだったんだ。適当に手を抜いて、適度なところでやられて。勝とうなんてつもりはこれっぽっちもなかった。本当だ」

 手が、自然と頭を抱えていた。ぐしゃりと、堅い髪質を手がこじ開ける。

「武芸なんて、もうどうでもいい。長年やってたし体にも染みついてるけど、続けたいとも、どうしても思えない。人前で武芸を披露するなんて、もうごめんだ」

 もう、と言った時に、レイフォンの手には自然と力が入っていた。そして、メイシェンはそれを見逃さなかった。指が僅かに閉じて、髪の毛をかき分ける。隙間から見える地肌は、赤くなっている。その僅かな動きで、どれほどの力が入ったのだろう。どれほどの感情が込められているのだろう。そして、恐らくそれを理解しきれないであろう――そこまで、彼女は分かっていた。

「でも……隊長は勝つぞって言ったんだ。会長は、勝てと言った。もう何がなんだか分からなくなったよ……。そのまま試合に出て、負けきる前に訳が分からなくなって……結果はあの様だった。僕は、どうしようもない奴だ」
「負ける……つもりだったの?」

 レイフォンは頷きながら、自嘲した。それ以外にどうしていいかすら分からなかった。
 力なく垂れた右腕が、視界に映る。恐らく、体の中でどの部分よりも精密に動かせるであろう部位。剣が右手の延長なのではない、右手が剣の根元なのだ。そう言われて、そう信じて、ひたすら武芸に打ち込んだ。今では、なぜそれほど熱中できたのかも思い出せない。
 なぜ、自分はどうしようもなく武芸者なのだろう。幾度も自問した問いに、やはり今回も答えはでない。ただ剣を握り、その結果だけが残る。

「わたしは、そういうの、よく分からないけど……勝っちゃ、いけなかったの?」

 内心で、思わず笑ってしまった。その問いかけは、彼が自問するに当たってもっとも無意味なものであったから。
 確かに他者から見れば、勝ってはいけないなどと言う方が理解しがたいだろう。聞きようにによっては、八百長だと取れるかも知れない。馬鹿馬鹿しい、しかし当然の問い。大前提。詰まるところ、それを知るというのは――レイフォン・アルセイフが、いかにしてレイフォン・アルセイフに『戻ったか』という事なのだ。

「故郷でも、失敗をしたんだ。だから、グレンダンを出てきた。……いや、正直に言うよ。僕は逃げ出してきたんだ、故郷から。だから、ここにも一般教養科で入ったのに、結局、こんな恰好でこんな場所にいる。まるで武芸者を続けるみたいに見えるよ、笑っちゃうよね」

 言いながら出た笑いからは、乾いた物しか出てこなかった。馬鹿馬鹿しい、何もかもが。自暴自棄になっているのは分かっていても、止めるだけの気力が残っていない。
 理性は必死になって、レイフォンの口を閉じさせようとしてた。言うべきでない事が、山のように口から出ていく。そして、これからも出続けようとしている。こうなってしまえば、どうせ時間の問題だ。遅かれ早かれ――なら、ここで吐き捨てたところで、どうせ何も変わりはしない。
 滲みかける視界に、何かがぼやける。見間違えるはずもない、家族だ……家族だった人たちだ。だが、その顔は、視界以上に滲んで表情すら分からない。

「良くない事をしている自覚はあったよ。けど、僕には他にどうすることも出来なかったんだ。みんなで生きていく為にはそうするしかない、だからそうした。きっと僕は許されない、それも分かっていた。でも……それでもさ、どこかで甘えていたんだ。みんななら、僕を許してくれるって」

 伸ばし駆ける手。そこには誰も居ない。
 中を泳いだ手は、力なく懐に戻っていった。

「でも、現実はそんなに甘くない。誰もが僕を非難して、後ろ指を指して……それは家族も例外じゃなかった。馬鹿だよね、その時になって初めて、それが絶対に許されない事なんだって知ったんだ」

 つま先が揺れている。いや、揺れているのは頭だろうか。分からない。上下の区別も、善悪も正邪も常識も、なにもかもが狂って曖昧になる感覚。運命の日に、全てこぼれ落ちた時に味わった。それを薄くしたような、しかし確かな悪寒。

「……もういいじゃないか。ただ普通に……武芸者じゃない生き方が欲しいだけなんだ。いや、武芸は続けていたとしても、武芸者ではいたくない。それなのに、また武芸者になって、しかも小隊員だなんて、何の冗談だ? こんなのは、ただの悪夢だ。馬鹿馬鹿しい。……でも、本当に馬鹿なのは僕自身だ。結局、何かがあれば咄嗟に体が動いてしまって。こんなになってもまだ、僕は武芸に頼っているんだよ。つくづく、救いようがない」

 自然と、体が軋むほど強く抱いていた。指先が頑丈な戦闘服を押しつぶし、腕に食い込む。
 感情が垂れ流すのに任せた言葉が、整然としている筈もない。めちゃくちゃで主語もないそれを聞いて、状況を理解できるようなものなどなく。精々が考えの足らない男の愚痴という程度だろう。もっと言えば、つまらない弱音が精々。
 メイシェンが立ち上がる。情動をはき出した為か、幾分余裕が戻ったためにそれが分かった。愛想を尽かしてどこかに行ってしまうかも――そう思ったが、しかしメイシェンはレイフォンの前に立ったままだった。

「……レイとん、わたしは……レイとんが、間違ってると思います」
(ああ、またか)

 自然と、心が諦めたように呟いていた。温度は違えど、幾度も投げかけられた言葉。それでも、慣れることは決して無い。
 またどこか、勝手な期待をしていたのだろう。彼女であれば、受け入れてくれるのではないか。懲りもせずに、根拠もなく。甘いことばかりを考える自分が嫌になる。
 幼い子供のように膝を抱えるレイフォン。彼を見下ろして、しどろもどろになりながらも、しかしはっきりとした口調で言う。

「……わたしには、レイとんがどんな経験をしてきたのかは分かりません。どんな……どれほど辛い経験をしたのかも、分かりません。それが正しいのか、間違ってるのか、それすら判断出来ないです。でも、一つだけ。絶対に間違ってるって、言い切れることがあります」

 視線を感じた。とても力強いものだ。
 レイフォンの知るメイシェン・トリンデンという少女は、気が弱い少女だ。少なくとも、こういう類いの力強さを見せたことはない。その強さは、どこからどうやって絞り出したものだろう。それが、無性にうらやましくなった。

「勝って、ください。試合に……嫌かもしれないけど、でも、わたしは、レイとんは勝つべきだと思います。ううん……勝たなきゃ、いけないんです」

 メイシェンはレイフォンの手を取り、無理矢理引きはがした。二の腕を食いちぎるように握っていた手が、彼女の手の中に収まる。
 いくら、それに抵抗しなかったとは言え、活剄を使用していなかったとしても。レイフォンは素の筋力だけでも、学園都市で五指に入るのだ。さらに言えば、メイシェンは女子の中でも非力な方である。筋肉の強ばった腕を動かすのは、並ならぬ事であった筈だ。しかし、そうまでして見せた。
 手は力強く握られていた。顔を上げる。しばらく見ていなかった気さえする彼女の顔には、目に涙すら貯めていた。
 こんな事は苦手なはずだ。人を諭すのも、力に力で抵抗するのも。そうするために、半ば泣いてまでいて――そうまでして、絞り出した力なのか。

「リーフィちゃんに試合を見せないのって、負けるつもりだから、です、よね? そんなのは、ダメです。リーフィちゃんは、レイとんを信じています。信じ続けます。だから、きっと……それだけのものを見せてあげなきゃ、ダメなんだと、思います」

 握る手が強くなる。精一杯力を込めているのが、よく伝わってきた。

「勝って、教えてあげて下さい。お父さんは、こんなに凄いんだぞって……その背中を、リーフィちゃんに覚えさせてあげなきゃ、絶対にダメです。レイとんには、それができるんだから」

 恰好良い――メイシェンの姿を言葉で表すならば、それ意外に考えられない。泣いていても、震えていても、顔が情けなく歪んでいても。これより恰好良い姿など、思いつかない。そして、レイフォンは最悪に恰好が悪かった。天剣の実力、現役の小隊員、ツェルニ武芸者のホープ。そんなものは、今の彼女を前にして何の役に立つと言うのだ。

「だから……お願いです。今までもそうしてきたはずだから、こんな事を言うのは、失礼だと、思う、けど……。頑張って……下さい……!」

 それは、今まで一度も言われたことのない言葉だった。握られた手の熱さが、じわりと体に芯を通す。体からすっかり無くなったと思っていた力が、どこからか、少しだけ湧いてくる。
 言い切って、メイシェンはすぐに目を伏せた。手からも力が抜けるが、未だに握ったまま。離すことが出来ず、さりとて力を入れ直す事もできず。戸惑うように、あるいは後悔するように彷徨っていた。それを包むように、レイフォンは握り替えした。これは、彼女から貰った力だ。
 手を握られた事に驚いたのか、顔が上がる。僅かに充血した目が、レイフォンに重なった。

「僕は駄目な人間だ」

 指から、力が抜け落ちそうになる。それを支えるのすら、今のレイフォンには難しかった。それでも、なんとか彼女の手を包み続けた。

「優柔不断で、情けなくて……メイシェンにここまでして貰って、まだ覚悟なんてできないよ。でも……」

 今度はレイフォンが、力強く手を握る番だった。いつの間にか指先が冷たくなっていた彼女の手。それに、出来るならば、自分の手の温かさが伝わってくれればいいと願う。
 膝に力を入れると、すんなりと立つことができた。さっきまではもう立てないかもしれない、とすら思っていたのに。彼女に励まされて、それだけで容易く出来るようになるのだから、現金なものだ。しかし、それが嫌ではない。むしろ、自身のそういう部分が好ましいとすら思っていた。

「頑張ってみるよ。ありがとう、メイシェンのおかげだ」
「う……うん! レイとん、がんばれ……!」

 それは、泣き笑いのようだったが――確かに笑っていた。笑って、レイフォンに返してくれた。なら、多分これが正解だ。笑ってくれる人がいるならば、それは間違いじゃない。
 こんな風にも出来るのだ、自分は。そう思えば、随分と体が楽になった。何でも出来る気がする。気がするだけだ、それは分かっているのだが。その感覚というのがまた、悪くない。とても悪くない。

「僕はもう行くよ。リーフィを待たせてるから」
「あ……わたしは、二人が待ってるから」
「駄目になりそうな時は、またこうしてくれるかな?」
「それは……ちょっと難しいかも」

 冗談めかして言った言葉に、メイシェンもくすりと笑って返してきた。いつも通りのやりとりが出来るならば、もう問題は無い。
 解決できた事など何もない。会長の事、小隊の事、試合の事、大会の事、問題は山積みであり、解決の目処は全く見えず。ただ、悔いる前に。もう少しやってみようと、そう思えるようにだけはなった。
 今は、それだけでいい。



□□□■■■□□□■■■



 去るレイフォンを見送っても、メイシェンはずっとそこに立ち尽くしていた。
 何かを考えているようには見えず、さりとて何かをしている訳でもない。ただ同じ姿勢で同じ方をずっと見て、呼吸や瞬きすら薄くしている。実際、彼女は目的もなくそのままだった。まるでそうしている事こそに意味があるとでも言うように、そうしていた。
 自覚がなく、自意識も希薄だ。ただ、熱さだけがある。顔と頬にだけ残る、確かな熱さ。つい先ほどの、記憶にある時間が確かに存在したと証明する証。
 指すら動かない。暖かな波紋、それだけが現実として残る。

「メイっちいたぁ!」
「なにぃ? 本当だ!」

 急に――先ほどまでは二人で、今は一人の空間がにわかに騒がしくなった。
 こんな誰も居ないような、設計ミスをしたとしか思えないような使い勝手の悪い通路。そこが騒がしくなるというのは、とても以外であった。そして、その感想は恐らく正しいだろう。そんな事を思いながら、やはり微動だにしない。

「トイレにどれだけ時間かけるのかと思ったら、こんな所で何をしてるんだ! そのまま流されていったのかと思ったぞ! よくやった!」
「こえーマジコエー……。なんで隊長さん、試合に勝ったのにあんなに機嫌が悪いのよ。なんかもう、あの目つき夢に見そうだわ」

 半ば絶叫しながら近づくミィフィとナルキ。二人は半ば錯乱しながら、人気の無い通路に活を入れる。
 その声がすぐ背後まで迫っても、やはりメイシェンは動かない。

「もー、レイとんは探しても全然いないし。フェリ先輩は我関せずと帰っちゃうし。シャーニッド先輩に至っては、空気読まずにナンパなんてしてくるし……」
「顔がにやけてるぞ」
「し……仕方ないじゃない! ミィさんはあんた達と違って乙女レベル低いんだから、ナンパなんて初めての経験だったんです!」
「いや、最近乙女パワー全力のメイシェンはともかく、あたしの乙女力が高いってのは初耳なんだが」
「何言ってるの、ナッキも人気があるんだから。……男装の麗人的な意味で、主に女の子に」
「よし決めた。お前はあとで泣くほど泣かす」
「処刑宣言!?」

 いつもの調子で騒ぎ立てながら、しかし全く反応がない。ナルキは怪訝に思いながら、眉をしかめた。
 肩に触れる手。しかし今の感覚は、触覚すら遙か彼方に置き去りのようで。そんな確かなものすら、遠すぎた。

「おいメイ、何か反応してやれ。このままじゃミィが馬鹿みたいじゃないか」
「いやなんでわたし限定!? わたしじゃないから、ナッキがそうだから!」

 ツェルニに来て妙に弄られるようになったミィフィが、声を張り上げる。
 いくら声や触れ合いが彼方に感じられても、変わらぬ事がある。それは、そこに確かな存在として在るという事だ。どんなに現実感が希薄になったところで、現実ではなくなることなど、決して無い。耳や肌から届くそれが、どれほど茫洋としていても。受け取ってしまえば、それらは事実として処理される。つまり、知ったという事だ。
 到達したのであれば、そこにどれほど微かでも刺激が生まれる。そよ風ほどもない程度でしかない。しかしそれでも、メイシェンの意識を無理矢理現実に戻すには十分すぎた。
 膝が、今までは冗談だったと言わんばかりに力を失う。ナルキにもたれかかり――と言うよりも、殆ど抱きつくような形になって。それでやっと立っている状態を維持。

「うわっ、メイ、どうしたんだ?」
「あうあうあう……」

 聞かれながら、意味のない言葉を発する。それが言葉にならなかったのは、単純にナルキの言葉を聞いていなかったら。衝動だけで出た、言葉未満の声である。
 今、何を感じればいいのか、メイシェンは必死に探していた。勢いに任せて偉そうな事を言ってしまった。それをどう処理して、どう折り合いを付ければ良いのか、全く分からない。罪悪感、羞恥心、勢い任せの説教と、恥ずかしく偉そうな言葉。空気に飲まれた結果がこれである。
 少し、積極的になってみよう……そう思って動いた結果がこれである。結果は成功失敗以前に、斜め上過ぎた。勿論、自分が。レイフォンとの距離が少し近くなり、それだけは良かった――そうでも思わなければやっていられない。冷静になって自分の所行を思い出すと、思わず吊りたくなった。
 ナルキに優しく背中をさすられる。誰が見ても、彼女は錯乱していたのだから。
 しかしその程度では落ち着けるわけがなく。むしろ時間経過でどつぼにはまっていった。感情がぐちゃぐちゃにかき混ざり、処理落ちを繰り返す。そんな中、苦労してひねり出した一言、

「こしが、ぬけた」

 そんな、先ほどと同一人物だとは思えない情けない声を上げながら。必死にナルキにしがみつき……しかし視線だけはやはり、同じ方を向いていた。



[32355] ななこめ
Name: 天地◆615c4b38 ID:b656da1e
Date: 2012/05/12 21:13
 レイフォンは足取りを軽くしながら歩いていた。
 相変わらず状況は最悪だ。しかし、気持ちだけは嘘のように軽い。そうしてくれたメイシェンに感謝をする。
 気分だけは上々でリーフェイスを待たせている場所にたどり着き……勢いのままに、壁に激突した。

「パパ、おかえりなさーい」
「随分遅い到着ですね」

 なぜか、当然のようにフェリが居る。澄ました無表情――つまりいつもの顔――でしゃがんでリーフェイスの手を取っていた。
 傾いた世界を真っ直ぐに戻すため、壁に手をつく。とは言え、当然なのだが。世界が元に戻ったからと言って、目の前の光景の何が変わるわけでもない。いつも通りのフェリが、日常を切り取ったままに過ごしている。少なくとも、横目だけでレイフォンを確認して、すぐ興味を無くして視線を戻す姿からは、ぎこちなさを全く感じない。彼の知るフェリという少女そのままだ。
 ……本当にそうなのだろうか。疑問に思い、レイフォンは彼女をつぶさに観察した。つい先ほどの試合で、レイフォンがやってしまったこと。武芸者に取って……いや、武芸者でなかったとしても。誰もが今までの努力と全力で出し合う舞台の中で、ただ一人だけ手を抜いていた。そんな裏切り行為。それを見て何とも思わないなどと言う事が、果たして本当にあるのだろうか。

「行かないんですか?」
「あ……いえ、行きますけど」

 フェリの目つきは、眠たそうであり、睨んでいるようでもある。どちらかだけではない、一見両立しなさそうな二つの要素を、見事に併せ持っている。だから穏やかな人間味があるのに、同時に人形のような冷たさを持つ。彼女が『妖しい』と言われる所以であり、美貌をただ美しいだけで終わらせない源泉だった。
 温度のない柔らかさ。春に訪れる吹雪。視線が、またレイフォンに向いた。
 彼女を相手にして気後れしてしまうのは、苦手意思だけではない。触れてはいけないと強く思わせる、独自の容姿と雰囲気。ただでさえそうなのに、リーフェイスが関わればそれ以上だった。
 メイシェンとフェリ。どちらもがリーフェイスと関われば印象が一変するが、その方向性は真逆だ。メイシェンであれば、弱気と人見知りという短所がつぶれる。それが無くなった姿を知るクラスメイトの間では、話題に上がることが非常に多い。
 対してフェリは、長所が伸びていた。ミステリアスな雰囲気が、より強さを増す。それでいて普段は全く見せない微笑みを見せるものだから――その姿たるや、聖母のようであった。それにやられた人間は多いし、レイフォンも危うくやられそうになっている。
 微笑をもっとも近く、もっとも多く見ている。それで傾いてしまわないのは、普段の姿を知っているからだろう。さすがにあのファーストコンタクトと、普段の素っ気なさがあれば目も覚める。それを知っていてなお効果があるのが恐ろしくあったが。
 そして、彼女の視線はこんな時でも変わらない。少なくとも、レイフォンに違いを判別できなかった。

(何のつもりなんだろう)

 リーフェイスの手を取って、真っ直ぐ進む。後ろを歩く彼を気にしないところまで、いつも通りだ。
 ひっそりとため息をつく。これで露骨に蔑んででもくれれば、まだわかりやすいと言うのに。覚悟が出来るかどうかは別にして、だが。全くいつも通りの反応では、どう対応して良いか分からない。いや、真正面から言われていたとして、何かが出来たとは思えないが。出来るなら、そもそもニーナから逃げていない。
 何か判断材料はないのかと考えて。ふと、ある一言に気がついた。

(行かないんですか? それじゃあまるで……)

 付いてきて欲しいみたいだ。
 いつものフェリであれば、疑問系では言わない。行きます、と、一言事実だけを告げて歩き出すのだ。

(あんな事があったから気を遣ってくれた? ……まさかね)

 あり得ない。絶対に。深く考えるまでもなく否定した。
 彼女は怒りこそすれ、レイフォンを慮る理由などはないのだ。それを言ったら、普通に接する理由もないのだが。
 意図が分からない。なんとなくおかしいというのは分かるのに、その理由だけが抜け落ちている。唸りながら後ろ姿を見ても、何もうかがい知れる。すっかり見慣れてしまった後ろ姿、それと銀髪が揺れているだけだ。
 昼と夜の隙間にある赤。伸びる二つの小さな影と、少し後ろの大きな影。何一つ変化のない日常なのに、そこに緊張感を感じる。いや、レイフォンが勝手に強ばっているだけだったが。

「少し休憩しましょうか」

 いきなりフェリが切り出したのは、見慣れない広場に入ってだった。と言っても、今日は会館ではなく対抗戦会場からの帰り。広場に限らず、道全てが見慣れないものだ。
 周囲を背の高い建物に囲まれた、薄暗い場所。夕方だとなおさらそう感じる。そもそも広場自体が、そう言えるほど上等な場所ではない。言うなれば、街を作る時に出来てしまった空白、そう呼ぶのが相応しい。加えて、人通りも少ないのだろう。街灯の少なさは、そのまま利用頻度の低さを証明している。
 フェリは申し訳程度に作られた段差を椅子代わりに座った。
 急に休憩を求めた理由が、なんとなく分からない。試合で疲れていたのかもしれないが、そんな様子は見えなかったのだが。悩んでいると、いつの間にか宝石のような色合いの虹彩に、レイフォンが映っていた。

「立っているのが趣味な人ですか?」
「いえ、そんな事はないですけど……」

 一応否定をしてみる。どうでも良くはあったが。
 フェリのすぐ横に座ったのは、その距離に慣れてしまったためだ。リーフェイスを膝の上に乗せるのを好む彼女とは、メイシェン以上に距離が近い。
 彼女の膝の上には、いつもクッションが乗っている。リーフェイスが座って不自由しないためにだ。しかし、今日はその光景になぜか新鮮さを覚えて――すぐに理由に気がついた。上にいるべき少女は、現在元気に跳ね回っている。
 明らかにおかしい。リーフェイスが近くに居れば、絶対に離れないのがフェリだ。それを、自分から離すのと言うのは、レイフォンの記憶にない。

「あなたに、少し聞きたいことがあるのですが」

 言われて、思わず身構えた。彼女の姿からは、怒気やそれに類するものは感じられない。リーフェイスが関わっているのでもなければ、露骨な感情の変化を見せないので、あまり当てにならないが。
 言葉を発しようとした薄い唇が動いたが、直後停止した。悩んでいるのか、ふわふわと頭を彷徨わせる。幾ばくかそれを続けて、再度口が開く。

「なんで敬語なんです?」

 と、出てきたのは。レイフォンにとって予想外すぎた。そして、どうでも良かった。

「いや……だって先輩ですから」
「初対面で思い切りタメ口だったのに、今更取り繕う事なんてないでしょう」

 全く持ってその通りである。相手が気にしない以上、敬語に変える理由などない。とはいえ、変えない理由もないのだが。

「まあ、好きにすればいいですけど」

 視線でリーフェイスを追いながらフェリ。問うた本人ですらどうでも良さそうに。
 しかし、用事というのはこの事なのだろうか。ならば、楽ではあるのだが。

「そんなことよりも、本題があります」
「でしょうね」

 むしろそうでない方がおかしいと同意した。今の話など、訓練の後に飛ばしてみれば済む程度の話題である。わざわざ人気の無い場所で、座り込み話をするような事ではない。何を問われるか――まず間違いなく先ほどの試合の事であろうが。身構えるレイフォンの手は、自然と汗ばんでいた。
 レイフォンの勝手な印象であるが、彼女は全く物怖じしない性格だ。そして、それをあえて否定する者がいない事も知っている。いつも、遠慮という言葉をどこかに置いてきたのではないかと言うほど、ずけずけと物を言うのだ。その理由は、とても簡単な所にあった。シンプルすぎて、思わず見逃してしまう程に。
 大して彼女の事を知っているわけではないレイフォンが言うのも、どうかという話なのだが。フェリ・ロスという人物に、およそ親しいと言えるような相手はいなかった。少なくとも、リーフェイスのおかげで無駄に一緒に居ることが多いレイフォンは見たことがない。友達が欲しいとは思っていなくもない様なのだが、芽が出ることはないだろう。人に話しかけられると素っ気なく、次第に鬱陶しそうに変化する彼女。どう控えめに見ても、切実な欲求ではない。他人を求めないから、好かれるための行動など、そもそも考慮しないのだ。友達が欲しいというのも、子供が玩具をうらやましがる程度のもの。なんとなく皆がそうだから、程度の話でしかない。
 つまり、他人が必要ないから気を遣うこともない彼女。そうである筈なのに、レイフォンに気を遣って人気の無い場所で話し出した。これであまりいい話が聞けるというのは、楽観に過ぎるだろう。
 フェリは頭を傾けて、顎に手を置いた。何を考えているのか、それとも悩んでいるというポーズなのか。顔つきがいつも通りでは、どちらとも判断できない。

「あなたは、自分が武芸者である事についてどう思いますか?」
「はっ?」

 しかし、実際に飛んできた質問はどうも意図の見えないものであり。間の抜けた声で返すと、フェリの非難がましい視線が飛んできた。慌てて目をそらし、言葉を選ぶ。

「えっと、そうですね。仕方ないことなんじゃ、ないかな?」
「何ですかそのやる気のない解答は」
(じゃあどう答えろって言うのさ)

 反論を漏れる前に止める。下手に刺激するような言葉は控えるべきだ。

「……まったく。わたしたちは、剄脈を持って生まれてきました。ですが、それだけの筈です。そうであるだけで……そして、ちょっと才能があるだけで、そうであり続けなければいけない。そんなことは無いと、そう思いませんか」
「はぁ……そうかも知れないですね」

 フェリの顔は、いつも通りに見える。しかし、それは外見だけだ。その瞳には、いつもと違う熱の色が……本音が見て取れる。
 だからといって、どう答えて良いか分かるわけでもない。
 要は、武芸なんてやりたくない――そう主張しているのは分かるのだが。それだけ聞いて、どうしろと言うのだ。その問答は、武芸者であれば大半が思い浮かべる、疾患のようなもの。大抵は仕方が無いと諦めたり、どうでも良いと放り投げたりしている。そして、フェリは前者に見えていた。
 そんな事を聞いてどうするのか。いや、そもそも質問の体をなしてない。これでは、人が居ない場所で都合が良い相手に弱音を吐いているだけだ。そして、それはフェリという相手にもっとも似合わない行動だった。
 大きなため息が聞こえる。レイフォンに向けられたものではなく、自分自身に向けたものだ。

「やはり、回りくどいのは向いてませんね。単刀直入に聞きましょう」

 そして、彼女は呼吸を置きもせずにいとも容易く言った。

「あなたが、グレンダンで天剣とか言う名誉号を持っていたのは知っています。そして、闇試合に手を出して故郷を追放されたのも」

 そんな、致命的すぎる一言を。
 予想外の言葉。そして、想像すらしていなかった言葉。呼吸が止まる。心臓と――生命活動すら、止まった気がした。体のこわばりは限界で、全く動いてくれそうな気配がない。
 どうすればいい? 何度目になるかも分からない自問は、やはり答えなどでずぐるぐると回り。フェリをどうにかするしかないのかも知れない。そんな黒い考えが出てくるほど、レイフォンは追い詰められて、

「まあ、それ自体はただの前置きで、どうでも良いのですが」

 などと気軽に言われてしまえば、全身が脱力するのも仕方が無い事だろう。
 階段に突っ伏すように体を脱力するレイフォン。その様子を、フェリは若干蔑んだ目で見下ろした。

「何をやってるんです?」
「いや、ええと……色々と聞きたいことはあるんですけど」

 地面と口づけしそうな姿勢をなんとか戻し、うめくように言う。実際、どこから聞いていいものか分からない。

「とりあえず、その話はどこで聞きました?」
「……ツェルニにある情報で、わたしが集められないものはありません。兄はこそこそと隠しているつもりの様子ですが、そんなものは『隠している』のが発覚した時点で無意味です」

 面倒くさそうに、投げやりに答えてくる。口調も視線も、質問に質問で返すなと言っている。

「すみません、あと一つだけ。それを聞いたフェリ先輩は、何も思わなかったんですか?」
「……」

 レイフォンとしては、精一杯に確信を訪ねたつもりだった。しかし、問われたフェリは……有り体に、とても嫌そうな顔をしている。

「わたしは、あなたの過去の経歴そのものには、興味がないしどうでもいいと思っています。ついでに言うと、それを知ったのは結構前です。はっきりと言って、それ自体は「ああそう」で済ましてしまった話でしかありません。……と、わたしは先ほど簡潔に告げたと思うのですが、あなたはどう言ったら納得しますか? 言って下さい、その通りにしますので」
「……いえ、結構です。ありがとうございます、すみませんでした」

 はっきりと苛立たしく口調が変わったフェリ。目つきも危険な鋭さを帯びていた。はっきり言って、怖い。
 これ以上神経を逆撫でするような事を言う勇気があるはずもなく。平身低頭して、何とか納めて貰うのを期待するしかなかった。それが届いたか届かないかは分からないが。フェリは視線を鋭く保ったまま、それ以上追求することはなく。しかし、言葉だけはなぜか、いつもよりも遙かに柔らかかった。

「あらかじめ言っておきます。私は知ったかぶりをするつもりはありません。……ただ、あなたの闇試合が発覚してから後の扱いは、碌でもないものだろう、そういう想像をしただけです。それは、分かっていて下さい」

 歯切れが悪く、勢いもない言葉。普段の彼女から想像するには、その姿は弱々しすぎる。
 顔を上げた。やはり、表情は仮面のように変化に乏しいものだった。だが、視界の端に映った指は、震えていた。自分の発した言葉に罪悪感を感じたのだろうか。……違う、とレイフォンは思った。多分は――これから言わんとしていることが、それだけ彼女の確信に迫る事なのだ。
 フェリは深く息を吸った。必要な儀式だ。それはただの人でも、人以上の武芸者でも変わらない。落ち着くためには、覚悟をするためには、そういった種類の祈りに似た何かを求めてしまう。弱さを自覚してしまえば、なおさら。

「わたしには分かりません。なんであなたは、まだ戦えるんですか? グレンダンでの話は……実際にあなたが悪くても、そうでなくても。武芸を続けられないほどの事であったはずです。けど、あなたはまだ剣を持っている。……戦って、戦えている。分からない、そこまで出来る事が。あなたが、未だに武芸が続けられる程の理由……それは何ですか?」

 社会も、常識も、罪科すらをも無視して問いかけられる言葉。ただ純粋に、レイフォンの感情だけを――いや、決意だけを知りたいと思っている。
 武芸者であることをやめたくてもやめられず、ふてくされるように流されていた少女。そこに現れた、武芸のせいで地獄と言っても差し支えないような経験をした男。レイフォン・アルセイフが現れたのだ。罪悪感? 義務感? それとも、惰性? 本当にそんなもので、武芸を続けられるものなのだろうか。
 そうかもしれない。しかし、そんなわけがない。フェリは断言する。

「今の世界は、まるで呪われているようです。……いえ、実際にわたしたちは、呪われている。誰も武芸者という呪縛から逃れられない。才能なんていう、欲しくもなかったものがあればなおさらです。けど、あなたはそこから抜け出すきっかけを得られた、のに。……正直に言って、わたしはあなたがこのまま武芸をやめてしまうのを期待していました。兄が何と言おうが、そんなものは無視してしまえばいい。実際、あなたがどうしたところで、何も出来やしません。なのに、あなたは戦って、勝った……」

 フェリの視線が、確実に、しっかりと。レイフォンの瞳を捉えていた。そんなわけがないのに、初めて目を合わせた気がして――それも当然だと知る。
 今までの彼女は、レイフォンをレイフォンとして見ていなかった。その他の中の一人、関わりの無い他人の中の一つ。精々がチームメイトだろうか。しかし、今は目の前の人物を、ただ一人の個人として認めている。変わりなど他に居ない、レイフォン・アルセイフとして見ているのだから。
 瞳が、青みのかかった銀の虹彩に吸い込まれる。それで初めて、レイフォンも彼女を知った。――意外に感情的、そんな、彼女の本当の姿が見える。

「何があなたを突き動かしているんですか? 何か、必ずある筈です。未だに武芸に関わり続ける、そうしてでも欲しい何かが。どうすれば――戦うことが出来るんですか?」

 移ろう瞳の中の感情。そこには僅かに、それこそ本人も自覚していないほど小さいものだが。確かに、怯えが混ざっていた。レイフォンに、ではない。彼を通して、もっと遠くの何かに。
 戦わないのか、戦えないのか、そこまでは分からない。だが、彼女にもそれだけの理由があったのだ。諦めきる事も、貫ききる事も、どちらもできないだけの理由が。
 問われて、初めて自覚する。なんで、また武芸をやるつもりになれたのか。
 久しく、意識を深く思考の海に沈めた。
 最初は、剣を見るのも苦痛だったはずだ。握ると恐怖に体が強ばって、動くことも出来なかった。一瞬にして反転した少年の世界は、それだけ大きく心に傷を付けていたのだ。それでも、時間はまた普通に剣を振れるまでに回復してくれた。そして、リーフェイスが鍛錬をする時に、その様子を監督する程度には、武芸に関われる。
 だからと言って、人前で武芸を出来るようにはならない。それだけは、本当に駄目だ。小隊戦直前など吐き気を押さえるのに必死だった。試合が始まったらもっと酷く、どう戦っていたのかすら思い出せない。

(……なのに、なんで僕は会場に立てたんだ?)

 そう、とっくに諦めてしまって良い状態だった筈なのに。なぜか、レイフォンは会場に立てた。立つことが、できた。
 義務感ではない。既に義務以上の対価を求められているのだ。では、期待に応えるためだろうか。もっとない。それこそが、レイフォンがもっとも恐れるものなのだから。どれも答えのようであって、ずれている。それっぽいものではあっても、自身がそれではないと確信していた。
 さらに深く思考を沈めて――いや、記憶をかき分けた。考えて、釈明のような理由を答えるのではない。真なるものを。自分を突き動かすものが、必ずある筈だ。
 一つ見つけては否定し、さらに過去へと遡り。無数の顔が浮かんでは消えて、それでも奥へと入っていく。そして、目の前には。小さな子供の泣き顔が――

「――ああ」

 自然と、呟きが漏れる。
 思い出した。どうして、こんな簡単な事をすぐに思いつかなかったんだろう。
 感情が溢れた。嬉しさだ。他には何もない、純粋な歓喜。思わず涙が溢れそうになる。何もかもを無くしてしまった昔の自分。しかし、それで何一つ残らなかった訳ではなかったのだ。
 視線が、自然と自分を救ってくれた相手を追う。金色の長髪を流した小さな救世主は、嬉しそうにあたりを駆け回っていた。
 全てが消え失せたあの日。しかし、何か一つ信じられるものがあれば。誰か一人、信じてくれる人がいれば。自分は、大丈夫なのだ。それを知ることが出来たのだ。

(そうだ、だから僕、必死だったんだ)

 内心で、自覚もなくせめぎ合っていたのだ。武芸に関する全てに対し手への忌避感と、リーフェイスを守らなければいけないという思いとが。そして、その思いは過去の失敗に再び立ち向かおうとするほど強いものだったのだ。だから、たとえ吐き気を覚えながらでも戦えた。その対象が武芸だったのは、ただの結果だ。
 ――愛しているか。そう問われれば、間違いなく愛していると答えよう。リーフェイスを守る為ならば何でもできるし、命だって賭けられる。それだけの物を貰ったのだ。そして、今になっては何を貰ったかなどと言うのは関係ない。ただ純粋に、彼女がいるのが自然であり、それを守るのもまた自然だった。あまりにその当たり前は近すぎて、だから逆に気づけなかったのだろう。
 次々と、思い起こされる。
 当たり前の事だったとは言え、なぜこんなに大事な事が分からなかったのだろう。フェリに問われなければ、もしかしたら、風化してしまっていたかもしれない。大事な事に気づきもせず、いずれ義務感に成り下がっていたのではと思うとぞっとした。
 今と、そしてあの子を大切にしよう。

「僕はもう」

 間違えも、後ろを向きもするだろう。もう一度同じ状況になれば、また同じ間違いを繰り返すだろう。だけど。
 たとえどんな結果になろうとも、リーフェイスだけは守ってみせる。



□□□■■■□□□■■■



 フェリに取ってのレイフォンという人物は、最初はおまけでしかなかった。リーフェイス・エクステがツェルニに滞在するために必要な、いわば楔。その程度の存在でしかなかった。後々、自分と同じように、兄に無理矢理転科させられたと知るが。だが、その程度ではリーフェイスの魅力に一瞬で霞んだ。
 彼に興味を持ち始めたのは、経歴を調べてからだった。あの兄がほぼ無条件で奨学金ランクAを渡すような人間だ、必ず実力に裏がある。それを知れば、兄に対してもレイフォンに対しても、優位に立てると思ったからだ。主にリーフェイス関係で。
 情報を得るのは簡単だった。確信できるだけの理由を持っていると知っていれば、後はかすめ取るだけでいい。深夜、兄の端末にそっと念威端子を近づけて、ハッキング。それだけで求める情報の全てが手に入った。尤も、手に入った情報は求めた物以上のものだったが。
 目を通した電子情報には、簡潔な経緯と当時の新聞スクラップ。そこには賞賛があり、同時に怨嗟と侮蔑が渦巻いていた。
 最年少の天剣、誕生! まず目に入った見出しがそれだった。新聞の一面を占拠し、大きな写真まで掲載してある。元が荒く、しかも滲んでいては判別断言できない。だが、恐らく写真の中心に居るのがレイフォンなのだろう。記事によれば『ヴォルフシュテイン』なる装飾剣を掲げている。たったこれだけでも、ただ事ではない実力なのだろうと思わせた。そこがどれほど輝かし舞台だったのか、そして彼にとっては、どうだったのか。
 次の記事は……正直見ていて気分の良い物ではなかった。堕落した天剣、武芸者の恥さらし。そんな言葉が各所で見受けられる。肝心の記事は、途中で読むのをやめた。どれも客観性を欠いた物ばかりであり、要領を得ないものばかりだ。レイフォン憎し、その感情ばかりが前に出ている。
 一通り確認し終えてから、フェリはすぐこの話を胸に秘めると決めた。彼女自身はこれを知ったからと言って、彼に思う所など無かったが――ツェルニの住民はそうではあるまい。
 そして、思い出す彼が剣を握る姿。今し方確認したばかりの情報の隣に、その姿が思い出された。
 こんな事があってまで、なぜレイフォンは武芸を続けるのだ。本来の実力と訓練時の様子を比べれば、明らかにやる気がないのは分かるのだが。それでも、武芸をしている姿には強烈な違和感がある。
 ……知りたかった。彼が、それでもなお武芸を続けられる理由を。それを知れば、或いは。自分も武芸を――どちらにするにしても――決断しきれるかも知れない、そう思ったのだが、

「僕はもう」

 いざ聞いてみると、彼は一人で長考し出す。その上、勝手に納得したような、感慨深い言葉を吐いた。
 さんざん自分は質問しておいて、いざ自分の番になるとこれである。早くしろという視線の催促は、無事気づかれたようだ。レイフォンは慌てて言う。

「ああ、すみません勝手に悩んでて。……その、少し長くなりますけどいいですか?」
「それが質問の答えであれば問題ありません」
「分かりました。先輩は、リーフィが昔はよく泣く子だったって言われたら、信じますか?」

 それにどういう関係があるのかは分からない。考えたままに責めようかとも思った。だが、内容がリーフェイスのことであったため、黙って聞くことにした。
 フェリにとってリーフェイスは、いつでもにこにこ笑顔でいる子だった。転ぼうが何かにぶつかろうが、とにかく笑うのだ。まるで大輪の花のように。だからこそ、一目であの娘に射止められたとも言える。
 つまり、そういう印象の子供なのだが。そのリーフェイスが泣いてばかりだった、などと言われてそれを想像できるだろうか。答えは否だ。首を横に振った。
 フェリの反応を確認して、レイフォンは頷いた。そして、悲しそうに顔を伏せる。

「あのときは、本当に見ていられませんでした。いつも顔を伏せて、泣いていて……悔しそうに唇を噛んでいるんです。話し相手なんて誰もいなくて、それどころか罵られすらした」
「なんで……そんな事が……」

 嘘だ、そう否定してしまいたかった。だが、レイフォンの表情がそれを許さない。
 彼の表情は怒りに染まっていた。誰に対してでもない、自分に対しての、やり場のない憤り。握り込んだ拳からは、みしりと骨の軋む音が聞こえそうですらあった。横から見る形相はあまりにも恐ろしく、思わず息を呑んだ。

「僕のせいです」

 簡潔な言葉。しかし、含まれた感情の要領は膨大に過ぎた。フェリにはとても受け止めきれないほどの波濤。そしてその波は、今もなおふくれ続けている。

「あの子は、孤児院の誰よりも僕を慕ってた。僕が父親だと思っていたくらいだから、当然ですけど。……それが裏目に出てしまった。僕が罪を犯したあの日、リーフィはただ一人、僕を庇ってしまったんです」

 瞬間、自分の息が止まるのを、フェリは自覚した。まだ記憶にあたらしい新聞記事。内容などは問題ではない。あれがどれだけ感情的であり、レイフォンを許せぬと語っていたか。知っただけで恐怖を感じるような怨念が支配していた。
 レイフォンの側に立つというのは、あの暗い情念を同じく浴びると言う事だ。当時、僅か三歳の少女がである。
 当然、同じほど迫害された訳がないだろう。だが、それでも周囲の輪から弾かれるには十分な理由だったはずだ。そして独りになれば、さらにレイフォンへと依っていく。後は同じ事が繰り返される、悪循環。

「パパは悪くない――そう言ってくれたのが何より嬉しかった。その言葉だけで、僕がどれほど救われたか……。でも、それでリーフィが近くに居るのとは別問題です。僕はあの子から離れようとした。兄弟みたいな人も、何とか輪の中に戻れるようにと頑張ってくれた。結局、リーフィは僕から離れず上手くいきませんでしたけど。僕のせいで、あの子が笑わなくなったのはすぐでした」

 今笑えているのが、奇跡のようだ。レイフォンの視線に含まれたその思い。

「どんなになっても、どんな思いをしても。最後まで僕を信じ続けてくれたんです。僕は……こんなに駄目な人間なのに。ははは、みっともないですよね。いい年をして……天剣なんて呼ばれてたって……子供一人、助けることが出来ない」

 悔しさでうめくように、いや、実際にうめきながら絞り出している。

「これが報いなのかと、いつも思ってました。僕が罪を犯したから、リーフィがこんなに辛い思いをしているのかと」
「そんなのは……」

 違う。そう言おうとして、レイフォンの表情に気がついた。何かが抜け落ちたような、空っぽの表情。
 彼の視線は、真っ直ぐフェリを捉えている。たったそれだけで、持っていた言葉が全て役立たずになった。

「違いますよね、分かってます。でも、先輩。先輩は自分が悪いことをして、それをリーフィが庇った。それで笑わなくなったあの子を見て、本当に自分は悪くないと、そう思えますか?」

 ――思えない。思えるわけがない。
 たとえ、自分がやったことをどれほど誇れたとしても。全く関係ないとしても。その姿を見てしまえば、自分は悪くないなど、絶対に思えない。
 少女のおかげで救われた少年は、同時に少女の姿を見てさらに深く傷ついた。間違った時点で、間違いが発覚した時点で、既にどうしようもない。どう進もうと袋小路に陥るそこは――本当に地獄だったのだろう。何をしても裏目に出る、よかれと思っても誰かを傷つける。自分は何もしてはいけない人間なのだと錯覚さえしてしまいそうだ。彼の何に対しても後ろ向きな考え方は、もしかしたらこの頃に構築されたのかも知れない。

「その後は、まあ語るほどの何があったわけでもないんですけどね。リーフィをグレンダンに置いてこようとしたけど、結局ついてきちゃうし。……今となっては、それでよかったと思っています。残っていたらどんな思いをしていたか、当時の僕にはそんなことすら想像出来ませんでしたよ。……多分、それだけ余裕がなかったんでしょうね」

 グレンダンを離れるバスで、少しずつ人との話し方を思い出すリーフィ。一週間もする頃には、放浪バスの狭さを思い知らされる程になった。ヨルテムに到着したら、それまでの鬱憤を晴らすように暴れていた。今となっては良い思い出、で済ませられる話だ。そう語る。
 何となく不思議に思っていた部分の答え――つまり、リーフェイスがなぜツェルニに着たのか。納得して、フェリは頷いた。そうであれば、確かにしがみついてでもついて行こうと思うし、レイフォンも途中で帰させようとはすまい。……まぁ、レイフォン・アルセイフという人間がいかに情けないか、そこまで知る羽目になったのだが。
 しかし、なぜだろう。
 レイフォンは本当に決断力のない、とにかく逃げの一手に走る人間だった。最初は本当にどうしようもなく、その後も心理的にさぞ動きにくかっただろう。だが、それを差し引いても、彼は優柔不断だった。恐らく、当時フェリがその近くに居たら、ひっぱたいて板に違いない。
 それでも。そんな極めつけに情けない人間だと知っても――フェリは、彼のことを。恰好悪い人間だとは、思うことができなかった。
 将来はリーフェイスを浚っていこう、かなり本気でそんな未来図を描いている。そんな彼女からすれば、レイフォンは底なしの駄目人間に越したことはない。そうすれば、こいつには任せられない、そう思えれば。強引に養育権を浚おうとも、何も思うことなど無いはずだったのに。
 その横顔は、生きてきた道は――相応しくないなど、全く思えないもので。リーフェイスという少女がどうやって育ったのかすら語っていた。

「僕は何も出来ない人間です。唯一の特技、武芸ですら失敗しました。それでも、僕がやらなきゃならない事って言うのはあるんです。……まだ、あってくれたんです。だから、今更になってやっと決めることができた」

 レイフォンが振り向いた。見たことのない表情で、見たことのない強い瞳。その中に、自分が映る。今目の前にいるのだ誰だか、一瞬分からなくなった。
 胸の内から、何かがわき上がった。それは摘み取るほど大きくないが、無視できるほど小さくもない。確かに自分の内からわき上がったそれ。認めがたい筈なのに、危険な心地よさがある。暖かな光に照らされて、レイフォンから視線を外せない。心臓は動きを加速し、血流は顔に集まっていく。
 なんだこれは。自分に今何が起きているか、フェリには全く理解できない。自分の体が、自分の制御を離れて動いた経験など無いのだ。ただ彼女の中の何かだけが、執拗に『彼』を求めている。この瞬間だけは、リーフェイスよりも強く。
 レイフォン・アルセイフの。薄暗くなっても確実に輝く微笑み。それを見て――多分その顔を、一生忘れられないであろう。それを自覚した。認めるしか、なかった。

「父親に、なるんだ。孤児院の仲間でも兄弟でもない、僕は……あの子の親になる」

 常日頃は間の抜けた、そして肝心なときには情けなく歪むのに。その顔の内側には、こんな物が隠れていた。
 反則だ、こんなのは。ギャップが大きすぎる。もう一つ大きく高鳴った心臓は、フェリの制止ではもう止まらない。自覚できるほど発熱した顔は、既に無視できるレベルを超えていた。
 これが本当のレイフォンだとでも言うのか。ならば、今度こそ認めるしかない。

「フェリ先輩、有り難うございます。先輩のおかげで、僕は気づくことが出来ました」

 彼は――とても格好がよかった。
 それを心が理解してしまう前に、フェリは動いた。膝の上に置いてあったクッションを、思い切りレイフォンの顔に押しつける。綿の内側から、悶える声が響いた。同時に、顔を伏せて見られる可能性を可能な限りゼロに近づける。今の自分がどんな顔をしているか、恥ずかしすぎて考えたくもない。

「ちょ……もがっ。何なんですかいきなり」
「うるさいですね。さっきから恥ずかしいことを。もう少し自重できませんか?」
「うぐっ、そんなに恥ずかしかったですか……」

 顔を布地に覆われたまま、抵抗をやめるレイフォン。
 本当に恥ずかしいのは、彼女の心であり彼女自身でもあり。でも、今更取り繕わない訳にはいかなかった。
 若干傷ついた風に黙り込んでしまう。違う、悪いのは自分であると、そう叫んでしまいたかった。だが、もう一度彼の顔を直視するには。勇気が、全く足りていない。臆病で、恥ずかしがりで、格好付けで。そのくせに、言いたいこと一つ言えやしない。自分にこんな面があるなど、知りもしなかった。そして、新しい自分はなお胸に芽生えた双葉を、大切に育てようとしている。
 ただ彼が隣にいるだけで叫び出したくなる情動。全く、本当に、意味が分からない。認められない。隣に座る人が、彼であると言うだけで、こんなに満たされているなんて。
 自覚してしまうと、押す力がまた強くなった。レイフォンのうめきが、悲鳴に近くなる。

「あなたは……正しかったと思いますよ」

 ささやかながら続いていた抵抗が、ぴたりと止まった。クッションを握ろうとしてた手は、すとんと落ちる。

「わたしは、部外者でしかありませんから。グレンダンで本当は何があったかというのは、知りませんし知ろうとも思いません。ですが……あなたはリーフィを守りきりました。その一点だけは、誰がなんと言おうとも、あなたが正しい。少なくとも、私はそう思ってあげます。それだけは、覚えておいて下さい」

 普通に言えば良いのに。恩着せがましく言うあたり、つくづく根性が曲がっている。素直に言えないこと、本心を隠している事、二重の意味で情けない。
 知りたくなかった自分の発見に、背中を煤けさせて敗北感を感じるフェリ。そんな彼女の手が、ぎゅっと力強く握られた。
 予想だにしなかった手からの感触に、思い切り体を強ばらせる。今、手を握るような相手など、一人しかいないのだ。緊張は全身へと伝播し、ついには全く動けなくなる。低いはずの体温が、どんどん高くなっていくのが分かった。
 何のつもりだ、自分はどうなってしまう。そんな緊張の意識は、長続きしなかった。なぜなら、気づいてしまったからだ。フェリの手を掴むレイフォンの手は震えていた。いや、手だけではない。全身が小刻みに――まるで泣いているように、痙攣しているのだ。手は、痛いほどに強く握られている。

「……ありがとうございます」

 今にも、無風の闇に溶けてしまいそうな儚い声で、たったそれだけを。しかし、僅か一行に使われた労力は計り知れない。
 レイフォンが正気を取り戻すまでの時間、それは長くもあったし、短くもあった。実際の経過は感覚が狂いすぎて全く分からない。だが、終わりを察知するのは容易かった。レイフォンの震えが止まると同時に、手が離される。再び向き合った彼の瞳は、酷く赤らんでいた。

「みっともないところをお見せしまして……」

 ずっと、鼻をすすりながら言うレイフォン。すぐ元通り、とは行かないようだ。

「全く、本当ですよ」

 強く握られすぎて痺れ始めていた手、それをさすりながら言った。たったそれだけで、レイフォンは萎縮したように縮こまる。

「これはもう……そうですね、わたしのあだ名でも考えて貰いましょうか」
「なんで!?」

 言われて、レイフォンは即座に悲鳴を上げた。レイとんというあだ名を付けられた事が、よほど堪えて居るのだろうか。今では諦めている様な様子だったが、それは堪えていただけらしい。
 打って変わって、顔立ちが情けない物に戻った。その表情も、今までと違う見え方がするのは、フェリの方が変わったからだろう。

「ごちゃごちゃ言っていないで、早く考えて下さい」
「いやそんな。いきなり無茶苦茶ですよ先輩……」
「先輩、ではありません。早く考えて下さいフォンフォン」
「それってもしかして僕のあだ名ですか!?」

 テンポよく突っ込みを入れるレイフォン。漫才組(だとフェリは思っている。当然メイシェン達の事だ)とつきあってるからか、妙に上手い。

「でも、先輩に対してそういうのはちょっと抵抗があると言うか」
「先ほども言いましたが、初対面であんな態度を取っておいて、今更どう取り繕うつもりなんです?」
「正直、初対面の事に対して、先輩にだけはとやかく言われたくありません」
「その調子でやればいいでしょう」

 じと目で、口を滑らせた後輩を睨む。視線は既にそらされていた。

「やっぱり先輩に対しては、抵抗があると言うかですね。小心者の僕としては、先輩に大きな態度をとっておいて、はいそうですかとはならないんですよ」
「――腕が」

 と、レイフォンから若干視線をそらして手をさすって見せた。隙間から差し込む光に丁度当たるように位置を調整して、露骨に見せつける。

「痛いですねえ。これは明日、青あざになっているかもしれません。わたしも抵抗しませんでしたから、別に誰のせいとは言いませんけど、ねえ?」
「すみません、本当にあだ名とか考えるのは苦手なんです。なんとか別の事で許して貰えませんでしょうか」

 即座に頭を下げたレイフォン。その様子を見て、フェリはくすりと笑った。

「フェリで許してあげます」
「フェリ先輩、ですか?」
「フェリ、です。二度は言いませんよ」

 困った様な、こそばゆそうな、そんな曖昧な笑いをするレイフォン。
 強引だったかもしれない。そう思ったが、こうでもしなければもう名前で呼んで貰うことは無理そうだった。次にこんな機会があるなんて、そんな楽観はできない。緊張が悟られてしまわないか、心配になる。

「じゃあ、その……フェリで」
「まあ、今回はそれで許してあげましょう」
「ううぅ……まだこれ続けるんだ」

 表面上は済まして見せたが、内心は花吹雪が舞っていた。自分でも驚くほどに舞い上がっている。もう少し距離を近づけたい、そんな軽い気持ちで言っただけなのだったが。二人を繋ぐもの。当事者間のみで通用する呼び名というのは、フェリの予想を遙かに超えた破壊力があった。
 とは言え、それでも彼と親しい者達にぎりぎり並んだだけだ。油断を出来る立場ではない。

「……」

 と、気づくと、まじまじと顔を見られていた。

「なんです?」
「ああ、いえ。別に変な意味じゃなくてですね」

 焦った様子もなく、普通に堪えられて。今までも同じようなやりとりをする事はあったが、その時は酷く狼狽されたものである。当然だが、やはりそういう人間だと思われていたのだろう。事実を確認して気落ちこそしたのだが、仕方が無いと思っている。そもそもフェリこそ、彼を置物か何かのように見ていたのだ。それで好意的に思われていたら、それこそ恐ろしい。

「先輩って……」
「フェリです」

 呼称を即座に訂正する。レイフォンはうめきながらも、しかしそれに対応した。

「フェリって、かなり印象が変わりましたね。何と言うか、もっと取っつきにくい人だと思っていましたよ。リーフィ以外に興味を示しませんでしたし」
「そうでしょうね。わたし自身、あなたを相手に、ここまで饒舌になるというのは意外でした」

 同時に、それをとても悪くないと思っているのだが。その言葉は秘めておいた。
 そう――世の中分からないものだ。フェリがツェルニに着たのなど、所詮家族に対する反抗心でしかない。そこで何かがある事など、本当は期待して居なかった。しかし、フェリはリーフェイスに出会った。今もこうして、レイフォンと語り合っている。それだけでも、ここに来てよかったと、心の底から思えた。

「ありがとうございます」
「それはもう聞きましたよ」
「それでも、もう一度言いたくなったんです」
(……卑怯者)

 熱くなった顔を隠すように肩をすくめながら、内心で罵った。そんな事を言われてどうすれば良いかなど、全く分からない。無駄にため込んだ知識の、どこにも答えが存在しないのだ。
 何となく、手が錬金鋼に添えられた。開放状態のそれは、外見の真新しさに反してかなり年期が入っている。事実上の専用装備。故郷から愛用しているものだ。己の道を嫌いながら、こんな物を使い続けているというのもおかしな話だ。しかし、実際に使い慣れた物ではある。なにより、それを使った方が、情報的な意味で数倍雄弁になれた。
 当然、現実がそんなに上手くいくはずがなく。ただの気休めでしかない。
 それからしばらく、レイフォンは立ち上がり、リーフェイスを呼び寄せた。体当たりするように抱きつかれ、しかしよろめきもせずにしっかりと捕まえる。フェリはそれを見送り、立つことはなかった。
 太陽は、あと数分もすれば沈みきる。そんな位置だ。数の少ない街灯が灯り、少ない日光よりも強くあたりを照らしている。

「じゃあせんぱ……フェリ、僕たちはこれで」
「ええ。また、明日」

 いつもであれば「さよなら」の一言で済ますのに、今日は違う言葉が出る。それは、明日再会するのを願っているようで。どちらともなく、笑顔が漏れた。

「フォンフォン、一つ言っておきます。この先には」

 言いながら、一方を指した。そちらは、丁度レイフォン達が進む方向。
 錬金鋼に振れた指先、それはごく自然と剄を流していた。それは同時に、念威も流すと言う事。ほぼ反射的に散った念威端子は、いつものように周囲を探索した。その中の、自動収集した情報の一つ。

「隊長がいますよ」
「……。そうですか、ありがとうございます」

 礼を言ったレイフォンであったが――その足が進む先は、まさにフェリが指した方向だった。
 それについて、とやかく言うつもりはない。そんな資格自体、最初からない。ただ、一つだけ聞いておきたかった。

「迂回すれば、面倒はないと思うのですが」

 そして、三日ほど顔を合わせないようにして。あとは熱が冷め始めた頃に、拒絶でも謝罪でもすればいい。それが、一番角の立たないやり方なのだろうが。
 だが、レイフォンは首を横に振った。視線に頼りない物はなく、しっかりとしている。

「避けては通れない道ですから」

 ここで引けば、自分を偽ることになる――果たして、レイフォンがそう思っていたか定かでないが。フェリには、彼の背中がそう言っているように見えた。
 そう決めたのであれば、書ける言葉があろう筈もなく。
 ただ彼らの背中を、暗がりに消えて見えなくなるまで、フェリはずっと見送っていた。



[32355] はっこめ
Name: 天地◆615c4b38 ID:b656da1e
Date: 2012/05/19 21:08
 お前は今、何を踏みつけている。そう問われて、人はどう行動するだろうか。もしかしたら、律儀に、かつ冗談めかして「地面さ」とでも堪えてやるのかもしれない。ある者は、視線を合わせないように努めながら、その場を歩き去るだろう。もしかしたら、ため息の一つでも残して。そして、レイフォン・アルセイフの場合は、足を上げて足元を確認するだった。何も見つからなければ、困ったような顔をして何も言えなくなる。ガムでもあれば足を床にこすりつけて、取り払おうとするだろう。何か、が見つかれば。それを拾い上げた後、服の袖で丁寧に拭いて、謝りながら返す。つまり、そんな人間だ。
 踏んでしまう事は悪いことではない、とは言わない。気づかずに踏んでしまうのは、悪意がなくとも悪いことだ。だが、仕方の無いことでもある。問題は、それをどんな尺度で判定するかだ。善悪で計るのか、もしくは好悪か。それとも、法か、道徳か。何を基準に計り、どう決着を付ける。
 そう、重要なのは、明確に決着を付けることである。決着とは、すなわち清算だ。人が二人居る以上、どちらも満足して終わるなどと言う事は絶対にないだろう。片方が満足し、片方が不満を残し、そして遺恨が生まれる。それでも、両者手の出せない状況になるのであれば、それは決着と言っていいだろう。あとは――後に問題が起ったとしても、それは別の話だ。
 さて、踏んでしまったという行為に対してであるが。それを指摘されて、踏んだことに気づかない者というのはまず居ないだろう。それと同じように、言われなくとも気づける者と言うのは、まずいない。そして、指摘されないのであれば、やはりそのまま通り過ぎてしまうのだろう。そこに、踏み荒らされた何かを残して。
 つまりは、そういう相手であったのだ。レイフォンにとって、ニーナという女性は。
 少し先で、何かを探している彼女。……いや、とレイフォンは首を振って、取り繕うのをやめる。明らかに、探しているのは自分なのだ。
 服装は厚手のコートを羽織っている。内側は、もしかしたら試合服のままかもしれない。それだけの時間、探し回っていたと言う事か。

「隊長」

 かけずり回っていたその背中に、声をかける。振り向いたニーナは最初、大きく目を見開き――そして次には、無表情になった。ただし、フェリのような無機質なものではない。感情を抑えて爆発させまいと努力をした末でのものだ。
 静かに、と言うには剣呑すぎる雰囲気。しかし最低限の足音以外、一切音を立てずに迫ってくる。
 それを静かに舞っていると、腰のあたりをくいくいと引っ張られた。リーフェイスを見てみると、目を擦りながら眉をしかめていた。

「ぱぱぁー……」
「ん、ごめん。もう少しだけ待ってね」

 背中から抱き寄せると、そのまま腰にもたれかかってくる。日が暮れたと言っても、時間的にはさほど遅くはない。眠いのではなく、疲れたのだろう。
 あやし終えて視線を正面に戻すと、ニーナは眼前にまで迫っていた。振れれば破裂しそうな怒気が、正面から叩きつけられる。

「言いたいことは色々ある。だが、まずは歯を食いしばれ」

 と、それに何か言う前に、レイフォンは歯と歯を強くかみ合わせた。言葉が思いつかなかったのではなく、ニーナの振りかぶった拳が見えたからだ。それでも、避けようとは思わなかった。
 突き刺さる拳。顎が、頭ごと揺れた。脳がぐらりと揺らされて、思わず倒れそうになるが、それだけで済んだ。彼女が放った拳は、およそ武芸者が使うような、技と言えるものではない。足も腰も入れず、ただ手の振りだけで当てる、所用手打ちだ。これが、精一杯の自制の結果なのだろう。
 揺らいだ視界の端に、驚嘆しあたふたしているリーフェイスの姿が映った。突然父が殴られたのだ、さぞや驚嘆しただろう。済まないことをした、心の中で謝罪する。
 口の中で広がった血を飲み込みながら、顔を正面に戻す。

「わたしを侮辱するのはいい。自分でも、未熟である自覚はある。それで侮られると言うのであれば、わたしはそれを甘んじて受け入れ、改善せねばならない」

 瞳を閉じながら、押し殺した声で言う。次第に声は震えていき――いや、声だけではない。握った拳までもが、軋むほど強く握られていた。

「だが、貴様はツェルニの武芸者全員をあざ笑ったのだ! お前にとってはこの程度の事なのかもしれん。だがな、わたし達はそんなことに真剣で、全力だ! お前にはお前の事情があるのだろう。だがな、わたしはどんな事情があろうとも、今回お前がやったことは絶対に許せん!」

 ついに堪えきれなくなった怒気が噴出し、それが怒濤に迫る。血の味がやけに苦く感じた。
 ニーナには――いや、全ての武芸者には。レイフォンの行為は、まるで自分たちを鼻で笑っていたように感じただろう。最初いいようにやられていたのに、後から一瞬で片を付けてしまったのだ。彼女の怒りは当然であり、正当であった。実際、やる気無かったけど勝手に体が動いた、なのだ。程度に変わりは無い。
 つくづく、上手くやれない人間だ。それを痛感してしまう。

「この件はこれで終わりだ。……いや、今度お前には、しっかりと理解はして貰うがな」
「……はい」

 未だ冷めやらぬ怒り。レイフォンは素直に頷いた。

「それと、もう一つ。聞きたいことがある」

 そう切り出したニーナの圧力は。その言葉で一回り大きさを増した。今度のものは、ただの怒りではない。その正体までは分からないが……とにかく、よくないものだった。

「お前が天剣授受者とやらで――グレンダンで何をしたか、だ」

 睨み付けるニーナの視線は、はっきりと暗さが宿っている。不純物の正体が分かった。あれは、侮蔑だ。強い、とても強い嫌悪感が、レイフォンに向けられている。慣れたものだ。有り難くもない。
 レイフォンはそれを聞いて、静かに目を閉じた。動揺しなかった訳ではない、ただこんな時がくるのを、覚悟していただけだ。予想より早かった、それだけの話でしかない。
 同時に、自覚をする。これが普通の反応なのだと、改めて覚えておく。フェリとメイシェン、二人の理解者に恵まれてしまったせいで、忘れそうになっていた事を。自分がやったのは、つまりこう言う事だ、そう焼き付けておかなければ、またやってしまいそうだ。あの二人は、あくまで例外なのだと。
 腰を掴む力が強くなった。リーフェイスの動揺は、レイフォンを遙かに超えていた。寒さに凍えるようにして、頭を擦りつけてくる。つまり、少女は俯いてしまったのだ。ああ――また、そんな顔をさせてしまった。ただそれだけを悔いた。

「それは誰から……って、生徒会長しかいませんね」
「ああ。その通りだ」

 肯定の言葉すらとげとげしい。
 あからさまな悪意に晒されながらも、しかしレイフォンが考えているのは別のことだった。

(何のつもりなんだ? 契約違反をした覚えはない。なら……警告か?)

 まさか、と思いながらも考える。態度こそ消極的に反抗しているかも知れない。だが、最終的には相手の思い通りに進んでいる筈だ。ここで過去をばらされる理由が、全く思い浮かばない。
 メイシェンはレイフォンの過去を知らずとも、受け入れてくれた。フェリは過去を知りながらも、行いを肯定してくれた。だからだろうか、レイフォンには少しの余裕がある。急に積極的になれるわけではない。が、それでも身に覚えのない理不尽に、怒りを覚えるくらいには前向きだ。……それが本当に前向きかは、意見が分かれる所だが。
 彼がカリアンに怒りを覚えるのは間違っていない。だが、それ以上にニーナがレイフォンの行いを嫌悪するのも当然の事だった。
 彼女の目は、確かに怒りを向けている。だが、その中にもまだ疑いがあった。本当はそんなことをしていない、ただの言いがかりだ。ほぼ事実だと思うだけの何かがあったろうに、まだレイフォンを信じているのだ。それが胸に響く。しかも――これから、それを肯定しなければいけないのであれば余計に。

「別に、特別な理由があったという訳でもないんですけどね」

 ため息を一つ吐く。自分に対してだ。だが、ニーナはそう思わなかったらしく、目がさらに鋭くなった。

「お金が必要だったんですよ、どうしても。だから、稼げる方法を選択した。それだけです」

 それも、小遣い程度の額では話にならない。何十人もの子供が食べていけるほどのお金を、用意しなければいけなかった。
 レイフォンは武芸者だ。手っ取り早く大金を得る為に、何を頼る。武芸だ。それしか能が無いのだから。だから、武芸を使って稼いだ。恐ろしくシンプルな結論。それ以上の思考が入り込む余地がないほど、それは正しかった。あの日までは。
 投げやりに飛ばされた言葉に、ニーナは歯を噛みしめた。それこそ、砕けるのではないかと思うほどに。

「事情があるのだろう! それを言え!」
(どうせ許されはしないのに?)

 かみつかんばかりに怒り狂うニーナを、どこか冷めた部分で見る。
 武芸者が実力を証明する場、学内対抗戦。そこで手を抜いたレイフォンを許さなかったように、彼女はまたどんな理由でも許さないだろう。
 彼自身、人が真剣に戦っている場で手を抜いたのは悪いと思っている。闇試合に手を染めたのよりも、遙かにだ。しかし、同時にツェルニの武芸者も悪いと思っているのだ。実力などと言うものは、所詮尺度でしかない。尺度を隠した、それは確かに悪いだろう。言い訳のしようも無い。だが、隠した尺度を見抜けない、その程度の実力しかない武芸者を、誰が悪くないと言える?

(僕は彼女たちを踏みにじった)

 事実だ、寸分の狂い無く。加えて言えば、グレンダンに続いてまた。
 ……本当にそれだけなのだろうか。レイフォン・アルセイフは、いつでも一方的に踏みにじるだけであったか。

(僕の抵抗は……天剣を使って金を稼いだのは、そんなに不当な物だったのか?)

 不満はあった。いつでもだ。それこそ、故郷にいた時も。
 統治できない王家。金策を練れない経営者。増えない食料。約束を守らない契約者。勝てない戦争家。そして、理解しようとしない理解者。
 自分が悪いと言う事など、とっくに理解している。理解させられたのだ。だが、だったらダメなのだろうか。もう沢山だ、そう思うことすら許されないのだろうか。わき上がる感情は、押さえようとしても矛先を定めていく。彼女が悪いわけではない。ニーナばかりが悪いわけではない。ただ、目の前にいるのが今なだけだ。
 昏くわき上がる物が、首元まで迫るのを自覚した。理不尽な怒りであり、理不尽に対する怒りでもあり。やり場のないもの同士が、八つ当たりとして形になろうとしている。
 真正面から捉えた彼女の視線は、とても嫌いなものだった。何度も浴びた、グレンダンの住人のそれ。思わずやめてくれ、と叫びそうになる。ニーナの事を、嫌いたくない。

「僕が孤児院出身なのは知ってるでしょう?」

 問うような言い方をしておいて、しかしレイフォンは答えを待たない。視線すら背けて、溢れるままに続けた。

「だからですよ。とても分かりやすい話だ。都市にプラント異常が起きて食料が足らなくなり、泣いたのは弱い立場の人間……例えば孤児院とか、だった。生きるためには金が要る。だから、稼いだ。それだけだ」

 ニーナがどんな顔をしているか、分からない。気配さえも、努めて探らぬようにした。

「天剣だって、所詮はその為の道具でしかない。闇試合だって、武芸を売り込む場所と相手が違っただけです。天剣って言うとてもいい道具を無くしたのはちょっと惜しいけど……。それだけです」

 それ以上は言うな。理性が警告した。ニーナの雰囲気は、感覚を愚鈍にしてすら伝わってくる。リーフェイスが怯えて、さらに強く抱きついてきた。
 しかし、レイフォンは止まれない。

「とても高く売れましたよ、天剣の栄誉は」
「貴様はぁ!」

 周囲に烈波を叩きつけながら、ニーナが胸ぐらを掴む。レイフォンはされるがままに、しかし冷ややかな視線だけは向けていた。なるべく彼女が嫌いそうなものを、子供らしい意趣返しで。笑ってしまいそうなほど、惨めな仕返しだった。
 それを見ていたかどうかは知らない。ただ、ニーナが勢いのまま怒声をあげたのだけが現実だ。

「ふざけるのもいい加減にしろよ! 武芸者の名誉を……誇りを、一体何だと思っているんだ!」

 言われた瞬間、レイフォンの視界は真っ暗になった。次に、灼熱の様な赤に染まる。色に相応しく、焼けるような熱がまぶたの裏から眼球に伝わった。
 何度も言われたことだ。名誉を失って、天剣を奪われて。王宮の武芸者詰め所でも、町中を歩いているときでも、偶然武芸者にあっても。家族に言われるのは悲しいが、同時にあきらめも付く。だが、街の人間はどうだ?
 お前達が言うのか。
 満足に清潔な服で、栄養の足りた赤らんだ顔で、痩せこけて今にも死にそうでない体で、そう指さした。誰も彼もがそうだ。レイフォンをそうやって後ろ指指して、そして満足そうにする。誰も何も思わない。悪いのは、名誉を穢した者であり、自分たちではない。正しいのだ。
 お前達が、それを言うのか! 食うに足るお前達が!

「ふざけるなぁ!」

 体中に貯まっていた悪意の滞留が、ついにはじけ飛んだ。目の前の女性を、もう仲間だとも隊長だとも認識することは出来なかった。敵だ。悪意を叩きつけるべき、敵だ。
 この感情が不条理であることなど、分かってる。それでも止められない。なぜならば、レイフォンに向けられたそれも、また不条理だったのだから。ニーナにそれを言うのは間違いだ、それも分かっている。彼女は、あの時レイフォンを責めた人間ではない。しかし、どうしようもないまでの高潔さが――汚れのない純白さは、泥を啜った者にとって、憎さしか感じられない。
 掴まれた胸ぐらを、力の限りたたき落とした。強い力で握られていたそれは、しかしあっさりと離れる。正面には、驚嘆した表情のニーナがいた。いい気味だ――レイフォンの中に潜む何かが、そう言った。

「誇りや名誉、そんなものが食べ物をくれるのか! 明日まで生かしてくれるのか! 僕たちに必要だったのはプライドじゃない、生きていけるだけの食料だった! そんなに誇りが大事なら……汚染獣にでも唱えてろ!」
「ならば裏切ってもいいと思っているのか! 今日食べるものにすら困る、確かに苦しいだろう。わたしの体験した事がない苦しみだ。だが、それとこれとは話が別だ! お前が犯した罪が無くなる訳ではない!」
「何が悪い……生きるために武芸を使って、何が悪い! 皆もそうだろうが! 生きるために汚染獣と戦った、だから僕も生きるために闇試合に出たんだ! そんなものは、ただの綺麗事だ! 今日に満足できる人間だけが言える言葉だ!」
「っ……お前はぁ! まだそんな事を! ならば他に方法はなかったのか! 間違っていたから、都市を追い出されたんじゃないのか! お前ほどの力があれば、もっと大きな事が出来たはずだろう!? ツェルニで、また同じ事を繰り返すつもりか!」

 その言葉に、レイフォンは怒るよりも早く呆れてしまった。馬鹿な問いだ。つまらない、意味の無いもの。下らない妄想が混ざった、ただの戯言だ。

「僕を、何だと思ってるんです?」
「なに?」

 急に勢いを無くすレイフォン。出た声は、力ないものだった。
 あまりの急変に面食らったニーナが、意味の無い言葉だけを溢す。

「僕はただの人間だ。武芸がちょっと強いこと以外、あなたたちと何も変わりはしない。聖人君子でなければ、武芸者の模範でもない。ただちょっと力が強いだけの子供に、一体何ができる? そんなもの、武芸だけに決まっているだろうが! それしかしてこなかったんだから!」
「それは……」

 まただ。何度目かの既視感。誰もが武芸の才能ばかりを見た。そして、実力に見合った人物像を勝手に構築する。
 それが悪いとは言わない。だが、その勝手に妄想されたレイフォン像で見られた所で、何も出来やしないのだ。想像だけならば勝手にすれば良い。だが、それを元に理想を押しつけられた所で、迷惑なだけだ。
 倦怠感で、膝をつきそうになる。つい先ほどまでは、理解し合おうとしていたのに。何でこんなに食い違うのだ。何でこんなに理解されず、相手を理解できない。

「そんなに武芸者の誇りが大切なら、そうすればいい。僕みたいな、犯罪者風情に頼るな。それで、何かが出来るはずだと思ってやってみればいいでしょう。それで……ツェルニを滅ぼして、思い知ってみればいい!」

 ――余計な一言だ。たとえどんな状態でも、絶対に言ってはいけない言葉。
 ニーナが絶叫した。ツェルニ中に響き渡りそうな、怒りの対流を言葉にする。

「このっ……卑怯者が!」

 それに反応したのは、レイフォンでもニーナでもなかった。
 レイフォンの視界が、突如はじけ飛んだ。すぐに弾けたのは自分ではなく、景色の方だと確認する。もっと言えば、ニーナの頭。
 彼女は一歩下がり、続いて額を押さえる。目を見開いて、全く理解できないという顔。目的を無くし彷徨う視線は、レイフォンの腰のあたりで再び焦点を結んでいた。釣られて、レイフォンも視線で追う。そこにはぼろぼろと泣きながら、しかし怯えた様子をなくして、怒りに己を染め上げたリーフェイスが。
 ただ睨む。子供の純だが稚拙な憤怒だ。だが、気づくとニーナは、一歩下がっていた。

「うるさいっ! あっちいけばかぁ! こっちくるな、どっかいけ! ばかばかばかぁ!」
「おっ、おい、やめ……っ!」

 リーフェイスは絶叫をしながら、とにかく全力で叫んだ。掴んだものを手当たり次第に投げ飛ばす。それは威圧か、それとも排除か。いや、彼女は何も意識してはいないだろう。ただそこに――どうしても消さなければならないものがある。その思いだけで動いていた。
 普段であれば軽くあしらえる程度の射石。しかし動揺の激しいニーナは、手で顔を覆うのが精一杯だった。

「かえれっ、かえれー! パパはわるくない、わるいのはおまえだ、どっかいけー」
「リーフィ、やめっ、やめないさい!」

 飛び散っていた石礫は、レイフォンが腕を掴むことで終わった。体を拘束されながらもばたばたと暴れて、さらに罵詈雑言を絶やさない。だが、その勢いも次第に減衰していき……やがて言葉もなくし脱力しきった。
 掴んでいた手を離す。リーフェイスはその場でへたり込んだ。涙でぐしゃぐしゃにした顔を、泥の付いた手で無理矢理押さえ込み。さらに地面に突っ伏して、小さく、しかし悲しげな呻きを上げだした。
 呆然としたままのニーナ。レイフォンは……感情をなくしたような虚ろな瞳になっていた。
 まるでそのまま、グレンダンを焼き増したかのような出来事。あの、最後の一年に戻ってしまったかのように、リーフェイスは泣きじゃくった。声を上げることも出来ずに、ただ悔しさを押し殺して、唸り続ける。
 どうしようもなく、後悔がわき上がった。なぜこの場に、リーフェイスを連れてきてしまったのかとういうものではなく。思い浮かんだのはもっと根源的な、なんでこの都市に来てしまったのかという事だ。別に学園都市になんて、無理していかなくてもよかった。傭兵をして、各地を転々として。そんな生活でも――リーフェイスが泣かないのであれば、十分だったのだ。こんな……弱い都市の、弱い武芸者しかいない場所でさえなければ。
 こんな所に、来るべきではなかったのかも知れない。ここに居るべきでは、ないのだろうか。

「うー、うううぅぅぅぅ……! あああぁぁぁ……」

 どこにもたどり着けない悲しみを抱えたまま、リーフェイスは走り出した。咄嗟に追おうとしたが、すぐに足を止めた。ここから子供の足で行ける場所は限られており、よほどの事がない限り見失うことはない。それに、まだニーナとの話の決着がついていなかった。
 振り向いて、見たニーナの顔はまだ呆然としていた。しかし、その中の色に後悔があるのを見つける。まるで自分みたいだと、何となくおかしくなった。
 正直、もう話したくはない。わかり合えない、それを再認識させられるだけにしか思えなかったから。それでも、これを始めたのは自分である。筋だけは、通さなければいけなかった。

「先輩」
「あ……いや、わたしは」

 声をかけられたニーナは、しどろもどろになって言葉を濁す。後悔するなら言わなければいいのに、そんな風に思えてしまう所までが似ている。

「すみませんでした。ツェルニが滅べばいいなんて、言い過ぎでした」
「いや……わたしも、勢いに任せて随分と言い過ぎてしまった。すまない、許してくれとは言わないが、猛省している事だけは知っておいてくれ」

 謝罪の時にまで生真面目に、彼女がそう言った。謝れるような事ではない。なぜなら、これからさらに罵られるような事を言うのだから。

「その上で、一つだけ言わせていただきます。先輩、さっきの質問を覚えていますか?」
「質問……? いや、すまん。分からん」

 だろうな、と半ば納得した。彼女にとっては、そういうつもりで言ったのではないだろうから。
 馬鹿だな、自分に呆れる。わざわざこんな事を言う必要はないのに。

「もう一度同じ事を繰り返すつもりか、っていうやつですよ。答えは、はい、です」
「……なに? 貴様は今、何と言った?」
「もう一度繰り返すと言ったんです。いえ、何度でも繰り返します。僕は、絶対にやめない」

 力を無くしていたニーナの顔に、再び注がれる怒り。しかし、ここに来て、知ったことではない。言うべき事だけは、言っておく。

「先輩がツェルニのために動いているように、僕もリーフィの為なら何でもします。もう間違えない。僕は何度でも繰り返して、絶対にあの子を守る。……何を犠牲にしてでも」
「……ずるいぞ」

 いつの間にか伏せられていたニーナの顔。両手をわななかせ、肩を怒らせている。そして、持ち上がった彼女の顔には、瞳一杯の水滴が……。
 思わず息を呑む。ニーナが泣いたと言うのは、それだけ衝撃的だった。質実剛健で、どこまでも真っ直ぐな武芸者、それがニーナに対する感情だ。表現するならば、鋼のような、というのが一番しっくり来る。そんな彼女が涙しているのは、それだけ大きな衝撃を与えていた。

「なんでお前は、それだけの力がありながら、人の思いを裏切るんだ……」
「そんなのは……」

 さっき言ったとおりだ。そう言おうとしたが、すぐに止まる。彼女は問うてるのではない。答えなど、求めていない。ただの感情の発露だ。
 手が突きのように、レイフォンの肩を押さえてきた。先ほどまでの力は見る影もない、ただ掴んでいるだけの弱々しさ。払うのは簡単な筈なのに、そうしてはいけない気がした。

「お前なら……お前ほどの力があれば、何だってできる! 都市を救うのも、人を導くのも、望めば何だってできる! なのに、なんでお前はそうしないんだ! なら……お前がそうしないなら……わたしにあってもいいじゃないか! 何でお前なんだ! 何で……わたしにツェルニを救うだけの力がないのに……お前に……」

 今更――本当に今更、知りたくもない事だ。
 彼女の暗い視線の正体。必死になって理性の裏に隠していたもの。それの正体は、嫉妬だったのだ。グレンダンの時代に何度も浴びせられたものとは質が違う、もっと切羽詰まったもの。切実、と言い換えてもいい。力の足りないもどかしさと不甲斐なさ。そして、相手をうらやんでしまう惨めな己の発露。所詮、醜い欲望の表れでしかないが――だからこそ、本当の彼女がそこにいる。

「なんで……何もしないお前に力があって……わたしには、ないんだ……」

 嗚咽を漏らしながら、言葉を漏らすニーナ。やめてくれと叫びたくなる。そんな言葉は聞きたくない。聞いてしまったら、彼女を憎めなくなってしまったではないか。
 この世は理不尽だ。武芸の才が無ければよかったとは思わない。あってくれて感謝すらしている。そうでなければ、確実に仲間内から餓死者が出ていただろうから。だが、それだけで終わってくれなかった。だからレイフォンは、こんな場所でこんな事をしている。 ニーナ・アントークという少女はどうなのだろうか。きっと、今それに取り込まれている所なのだ。
 安っぽい正義感を振りかざしているのではない。ただ、上手くいっていないだけ。そんなものに気づいてしまったら、同情などをする羽目になる。
 それでも、もう自分には関係がない事だ。そう思い込み、ニーナを振り払おうとして。
 足下から、感覚が消え失せた。

「っ……何だ!?」

 突然の浮遊感。続いて、大地そのものが傾く。倒れ込みながら体を固定して、何とか堪える。見てみれば、ニーナは立ったまま揺れに翻弄されている。明らかに慣れていない。

「都震です! 伏せて体を固定して!」
「あ、ああ!」

 レイフォンと同じように、四つん這いに近い体勢になるニーナ。小隊長だけあって、対応能力は高かった。
 揺れは長く続かない。数秒だけ派手な縦揺れを起こしたが、その後はいつも通りに戻っていた。いや、街からぽつぽつ声が聞こえるあたり、被害が全くないとは行かなかったようだが。しっかりと収まったのを確認して、二人は立ち上がる。お互いユニフォームのままで、汚れても痛手ではないのが救いだ。

「どうしたのだ……?」
「谷あたりにでも足を踏み外したのでしょう。都市は傾いてませんから、本数は四本以下でしょうね。まあ、これなら、復旧にそう時間はかからないでしょう」
「よく分かるな」
「グレンダンは割とこう言うことが多かったので」

 服で目を擦り、充血を誤魔化す仕草に気づかないふりをしながら。しかしレイフォンは、どうもそれだけでは満足できなかった。何かを見落としている、そんな不安が心の中にある。
 はじめは、空気だ。エアフィルターに囲まれているレギオスで、外の空気を感じる機会はない。だが、それは外の雰囲気を掴めない訳ではないのだ。次に、音。都市の足音が聞こえない、珍しい静寂。だがその隙間に、恐ろしくか細い何か、甲高いものが混ざっている気がする。
 不安はふくれあがり続け、やがては予測となり。ついには、勘が警告を鳴らした。長年戦場で培った勘がだ。

「汚染獣が来る」
「なんだと?」

 その言葉を聞き届ける者がいたが、それを考慮する余裕はレイフォンになかった。脳裏を過ぎるのは、小さな少女の姿。
 離れるべきではなかった! 自分を罵りたくなる。すぐに見つけられる、近くに居なくても、ここであれば危険はない。そんな甘い見込みが、今彼女に危険の可能性を生み出した。いや、これでレイフォンを責めることは出来ないだろう。このタイミングで汚染獣の襲撃など、運が悪かったとしか言いようがない。

「リーフィ!」
「おい、待てレイフォン! 汚染獣とはどういう事だ!?」

 背後から制止がかかったが、そんなものはもう考慮するにあたわない。
 絶対にリーフェイスだけは守る。それだけを考えて、レイフォンは全力で走った。



□□□■■■□□□■■■



 既にどれだけの距離を走ったのか。全身から吹きだした汗が、鬱陶しいほどにまとわりついてくる。体は剄で援助してもなお、悲鳴を上げ始めていた。
 リーフェイスが見つけられない。これだけ探し持ても、まだ。剄から探ろうにも、街中で剄が渦巻いており、とても一人を探せるような状態ではない。彼女が全力で剄を使えば話は別なのだが。しかし、普段の呼吸で生成される量で探るにはあまりにも微弱すぎ、そして街が騒がしかった。
 ツェルニは今、地獄の様相を呈していた。都震発生から数分、そこには僅かな困惑があった。それは都市内全域放送で混乱に変わり、やがて無人の静寂になる。それから幾ばくもしないうちに、ツェルニ全域で剄が膨れあがり、それに比例するような轟音が響く。戦火はすぐに拡大し、今あるのは怒号と悲鳴、そして耳障りな羽音だ。
 そのどれもが捜索の邪魔をする。全ての要素が、リーフェイスの安全を阻害する。刻々と悪化する状況に、レイフォンは思わず舌打ちをした。

(なんて弱いんだ)

 ライトに照らされた広域の戦場を横目に見て、思わず毒づく。見た限りでは幼生体しかいないのに、悲しいほどに押されていた。今はまだ、防衛ラインを保っているが、それで敵を排除できる訳ではない。通さない事を第一に考えれば、後続が次々と到着してくるだろう。数の暴力で圧殺されるのは、そう遠い話ではない。
 ならツェルニは敗れるか、と言われればそうでもないだろう。市街におびき寄せてしまえば、有利になるのは人間側だ。障害物の多い場所で汚染獣は自由に動けず、同時に地の利で一方的に攻撃することも可能だ。耐えていれば踏み外した足を戻し、逃げられるだろう。この様子では、それまでに幼生体を殲滅し、母体を呼び寄せる恐れは殆ど無い。
 それまでに、恐ろしいほどの物的被害が出てくるだろうが……それはレイフォンの知った話ではなかった。
 都市は、存続さえしていてくれればいい。リーフェイスが安全に逃げられるまで。彼が持つ都市への愛情など、所詮はその程度だ。
 武芸者の集団から意識を切り離し、再び感覚を全力で広げる。どこかに居るはずの少女の痕跡を、僅かでも探し当てようと。しかし、ただでさえ剄と気配がぐちゃぐちゃに混ざり合った戦場がある。その上に彼自身焦燥に焼かれているのだ。元々念威繰者ではないのだ。どれだけ探索に能力を割り振っても、限度がある。
 シェルターに避難済みかとも持ったが、すぐにその考えを否定した。幼子の居ない学園都市に、子供の待避をチェックする機能は存在しない。つまり、誰かがあえて連れて行かなければシェルターには行けないのだ。
 それ以上に、リーフェイスは汚染獣を舐めている所がある。それは、彼女を戦場に連れて行った時の経験が原因だ。レイフォンと彼女の師が、幼生体を容易く鏖殺したのが記憶にあるのだろう。実際幼生体は雑魚であるし、リーフェイスに似たような事が出来ないかと問われれば、出来ると堪えるのだが。問題は、そこではない。彼女に致命的な欠点があるのを、レイフォンは知っている。
 きっと、リーフェイスはまだ街の中にいる。そして、そこで汚染獣と遭遇してしまえば――想像しただけで、全身から血の気が引いた。
 今のレイフォンにとって、彼女は全てだ。依存していると言ってもいい。父親であると定義して、自分を辛うじて肯定している状態なのだ。何より厄介なのが、ぼんやりとだが、本人に自覚があると言う事だった。
 だからこそ、彼は焦る。

(今度無くしたら僕は……今度こそ)

 かつて罪を犯した時は、家族が拠り所になった。別段闇試合に出たことを悪いと思っては居なかったが、それでも犯罪は犯罪だ。それも、手を払われてしまったが。
 それでも持ちこたえられたのは、リーフェイスと幼馴染、リーリンが居たから。それも、リーリンはどちらかと言えば中立の立場。これでリーフェイスがいなくなれば、彼を肯定する人間が誰一人としていなくなる事になる。
 求められない人間に存在価値はあるか。それは人により変わるだろう。しかし、その対象が自分になった場合はどうだ。恐らく、それでも生きる気力を湧かせられる人間は少ない。そして、レイフォンは、なお戦える人間ではなかった。
 かつて真っ直ぐだった心は折られた。一度は修繕されたが、もろくなったのには変わりない。今度は、粉々に砕け散るだろう。

「頼む、無事でいてくれ……!」

 祈るような言葉は、どこにも届かず豪風にかき消され。新たな風の悲鳴を産みながら、丁度屋根を蹴った時、それは起こった。
 それは突然だ。何の前触れもなく――ツェルニから、全ての光が消える。証明は全て落ち、月と星の光だけが頼りになった。数多の混ざり合った音から、一つだけがぽっかりと消え失せる。剄羅砲が、錆びたレールの上を無理矢理滑る雑音だ。

(何が起きたんだ!?)

 あまりの自体に、レイフォンは思わず立ち止まった。
 都震、汚染獣襲撃――レギオスの経験する異常事態の、殆どを体験したと思っていたのだが。さすがに、ほぼ完全な停電は経験したことがない。全身が凍った気にさえなる。
 彼がまず目を向けたのは、汚染獣と交戦中の武芸者達だった。彼らはまだ停電の混乱から復帰しきっていない。しかし、所々で戦闘を再会していた。幸い今日は月の光が強い。戦うのに、大きな支障は出てこないだろう。
 無事に戦い続ける姿に、膝が折れそうになった。彼らが戦えるというのはつまり、エアフィルターが生きていると言う事だ。即座に都市ごと全滅、その危険だけはなくなったと言っていい。

(けど、これで……ツェルニが本当に滅びる可能性が出てきた)

 戦況だけではない、状況までもが最悪の一歩手前になってしまった。
 停電したという事は、つまりエネルギーが存在しないと言う事だ。当然だが、都市が動くにはエネルギーがいる。それも莫大な量がだ。果たして停電状態でそれを賄えるか、答えはノーだ。ツェルニは、汚染獣から逃げられなくなった。
 持久戦になれば、戦況はどんどん汚染獣側に傾くだろう。ツェルニの武芸者は、既に大半の者が息を荒らげている。加えて幼生体は、消耗戦が大得意なのだ。よしんばそれを殲滅できたとしても、後から出てくるのは母体である雌性体。倒すのに手間取れば、他の汚染獣さえ呼ばれるだろう。
 そうなれば、ツェルニは終わりだ。もし呼ばれた汚染獣の中に老性体がいれば、レイフォンが戦ったとしてもどうにもならない。
 歯ぎしりをする。そんなことをしている暇はないのに。今すぐにでも、リーフェイスを見つけなければ行けないのに。感情がどれほど叫ぼうとも、理性はもっとも賞賛の高い方法を提示した。悔しいが、こと戦場において自身の作戦が外れた事は、殆ど無い。

「っくそ!」

 その場に悪態を残して、レイフォンは急反転した。そして轟音の方、つまり戦場へと駆け出す。
 逃げ切りを期待できない以上、都市部に汚染獣を進入させない。それが、彼の経験が導き出した最善の方法だった。



[32355] きゅうこめ
Name: 天地◆615c4b38 ID:b656da1e
Date: 2012/05/27 19:44
 父は、偉大な人間であった。リーフェイスが自分の最も誇るものを一つあげろと言われれば、間違いなく父を上げる程に。
 最年少の天剣。早熟の天才。父を指す言葉はいくつもあった。どれもが正解であり、どれもが正しくはない。リーフェイスはそう思っている。
 レイフォン・アルセイフ――それが父の名だ。親子とは本来ファミリーネームが同じらしいが、彼女と父はなぜか違った。だが、その程度はどうでも良い事だ。彼女はレイフォンの娘であり、彼はリーフェイスの父である。もっとも重要な部分であるそこが変わるわけではない。
 毎日が最高の日々だった。陰りなど全くない、本当に最高の日々だった。
 そんな日々は、長く続かなかったが。
 ある日、突然発覚する事実。父が裏試合なるものに出場していたという話だ。リーフェイスにはよく分からないが、それは悪いことらしい。
 皆がレイフォンを非難した。腹が立ちはしたが、それ自体は仕方が無いと思っている。悪いことをしたら、怒られるのは当然なのだ。リーフェイスも、黙って包丁を持って凄く怒られた経験がある。
 自分が浅はかだったと知るのは、それからすぐだった。
 誰もがレイフォンを非難する。様子がおかしい。皆怒っているのではなく、憎み、非難しているのだから。おかしいではないか、なんでいつものように諭す事をしないのだ。全く理解できない皆の態度に、少女は次第に会話をしなくなっていった。
 それかからすぐに、リーフェイスは真実を知った。レイフォンは、闇試合でお金を稼ぎ、天剣の名誉を穢したのだと。リーリンから、半ば無理矢理聞き出した。そして、現実を思い知った。
 おかしい。リーフェイスには、そうとしか思えなかった。なぜ、皆がレイフォンを批難するのか、全く理解できない。だってそのお金は――自分たちがご飯を食べるためのものだったのだから。
 皆はご飯を食べていたはずだ。笑って食べていたはずだ。そして、レイフォンに感謝していたのだ。皆言っていたのに。レイフォン、ありがとう。お前のおかげで今年もなんとか凌げるよ。でも、あまり無理をしないでね。体をこわしたら元も子もないぞ。お前が元気でいてくれるのが一番だ。皆が、そう言っていたはずなのに。
 おかしいではないか。なんでいきなり掌を返すのだ。父は今も昔も変わりなく――皆のために、戦い続けていたのに。
 悲しみは、容易く不信感に変わっていく。仲間を、家族を、兄弟を、昨日までのようにそうだと思えなくなった。彼らは裏切り者だ。少なくともリーフェイスにとっては、許されざる裏切り者だった。
 それでも、信じる者はいた。リーリンとデルクだ。レイフォンに一番近い兄弟と、父の父。この二人ならば、理解してくれる。そう思ったのに。

「恥さらし」

 それが、デルクが、レイフォンに、向けて、言った、言葉だ。
 信じられなかった。彼女にとって、デルクは父よりも慈愛に満ちあふれていた人間だと言うのに。しかも、そんな言葉を。あろう事か、レイフォンに向けて言ったのだ。
 言ったのだ! 家のために稼いでいたのは父だ! 皆が穏やかに生活できたのも父のおかげだ! なのに、あいつは言った! 何もしなかったくせに! 父に頼るだけだったくせに! 自分のことを棚に上げて、奴は批難したのだ!
 その日から……リーフェイスは誰ともしゃべらなくなった。例外は父と師匠のみ。リーリンも、皆と上手くやっている姿を見ると、誤魔化してるだけに思えたからだ。
 リーフェイス・エクステの家族は父ただ一人。それ以外は全て――敵。そう、グレンダンはもはや、彼女にとって敵の巣窟だった。
 ここは地獄だ。父と、自分にとっての地獄。
 父の追放が決定したのは、いつだったか。彼女は覚えていないが、それでいいと思っていた。むしろせいせいするとさえ思っていたのだが。それは、父が自分を置いていくつもりだと知るまでだった。嫌だ、絶対に離れたくない、こんな所にはもう居たくない。大好きな父と離れたくないと、悲しみに暮れていた。
 そんな時だ。一人の敵が現れたのが。

「あなたがリーフェイス・エクステちゃん? わたしはシノーラって言うの。よろしくね」

 なれなれしく話してくる、変な女だった。なぜか、絶対に好きになれないと確信できる、嫌な女だった。
 いつものように衝剄で吹き飛ばしてやろう。父を批難した奴を、少しでも痛めつけてやるのだ。そう思って剄を集中したのだが、女は慌てて言葉を続けた。

「待って待って! あなたレイフォンについて行きたいんでしょ? わたしなら、一緒に行けるようにできるわよ」

 一緒に行ける――その言葉さえなければ、リーフェイスは剄を放っていただろう。悪魔の誘惑だった。思わず敵の言葉に、耳を傾けてしまうほどに。
 長く悩んだが、結局リーフェイスは話を聞くことにした。藁をも掴む心地で、話を聞いて。その作戦の成功率がどれほどのものか、彼女には判断がつかなかった。だが、他に頼れる者はいない。唯一味方と言っていい師匠は、彼女がグレンダンを出るのに大反対しているのだ。
 結局、差し出された手を取ることにした。これに失敗したら、もう死んでしまおう。そこまで考えて。

「ごめんね、リーフィちゃん。あなたがグレンダンにいるのは、この都市の為にも、あなた自身のためにもならないのよ。……本当に、わたしのせいで……ごめんなさい」

 それが、シノーラと名乗った女の最後の台詞だった。だが、それをリーフェイスはもう覚えていない。無事父について行く事ができると、少々の感謝の後に存在すら忘れたくらいだ。
 ツェルニまでの旅と、都市に付いてからの日々は本当に楽しかった。やはり、あそこがおかしかったのだ。そう確信できる日々。
 しかし、ここにも敵は居たのだ。ニーナという敵だ。こいつはあろう事か、最初は味方のような顔をして近づいてきた、悪魔のような奴だった。
 感情のままに怒り狂い、走り出して、やがて汚染獣の襲撃があるのだと知る。その程度で動揺はしない。グレンダンでは日常茶飯事だったのだから。それどころか、彼女はチャンスだとさえ思ったのだ。
 父は強くて正しい。誰よりもだ。自分が汚染獣を倒して、それを証明するのだ。
 それが正しいことなのかなど、彼女はそもそも考えてもいない。機会が来た、それだけで十分だった。とにかく、何かをしなければ、証明をしなければ。狂ってしまいそうだ。
 師から貰った錬金鋼を片手に、彼女は走り出した。目指すのは近くで一番背の高い建物、鐘楼である。
 その後を一枚、金属の花弁が追っている事には気づかずに。



□□□■■■□□□■■■



 その部屋にいる者の中で顔色がよい者は、一人もいなかった。誰もが緊張と集まる情報に恐怖しており、特に中央に陣取った者達にはそれが顕著だ。
 外縁部より幾ばくか離れた、堅牢な塔。分厚い金属と人工石に囲まれ、窓を覗けば戦場を一別できる。普段は掃除と整備以外に立ち寄る者がいないそこに、今は幾人もの人が詰めている。対汚染獣の司令塔として建造されたそこは、ここ以外にもあと三カ所に存在した。
 できれば、使う機会などなければ良かったのだが。そう考えずには居られなかったが、すぐにその思考も排除する。今はそんな余計なことを考えている余裕など無いと、カリアンはかぶりを振った。

「三、四区画はどうなっている?」
「防衛ラインは突破されていません。ですが、汚染獣の数も減っていません」

 武芸長であるヴァンゼの問いかけに、一人の念威繰者が答える。帰ってきた言葉は予想通りであり、ヴァンゼもカリアンも苦い顔をした。
 何か対策を立てなければ不味いのは分かっている。だが、具体的にどうすれば汚染獣を倒せるか、全く分からなかった。第一、手札は殆ど切ってしまっている。手元の札には、もう僅かな予備兵力しか残っていないのだ。それを切れば、一時的に押し返せはするだろう。そしてその後に、息切れを起こして負けるのだ。
 都震が起きてから約一時間、汚染獣襲撃から四十分弱が経過しようとしていた。それまでの間に、一度として心の軽くなる報告を受けていない。つまり、ほんの一瞬でも優位に立てていない事の証明だった。ツェルニの武芸者が強いなど、そんな都合の良いことを夢想していたわけではない。だが、この弱さは予想以上だった。
 予想以上と言うのであれば、汚染獣の強さもであった。
 単純な戦力であれば大した事はないのだろう。事実、剄羅砲で打ち落とすのにさほど苦労はしていないし、足止めにも成功している。だが、あの防御力は想像の遙かに上を行っていた。小隊長クラスですら、正面から打ち崩せないのだ。ましてや一般武芸者では、圧殺されるのが落ちである。それでも囲めばどうにでもなるのだが、物量がそれをさせてくれなかった。
 足を止めてもとどめを刺す前に次が来る。第一、殺しきるには多量の剄が必要だ。そんなものを一々生成していたら、あっという間に力尽きる。だから追い返すだけで終わらせるのだが、それでは敵の数が減らない。
 それ以外にも、まだ問題はある。

「戦場は広がっていないかい? あと五区画あたりが突出してる。挟まれないうちに下げてくれ」
「はい、あ、そのっ……」

 重晶錬金鋼を持った武芸者が、混乱しながら念威を飛ばす。その姿に、思わず舌打ちしそうになった。
 情報が上手く集まらず、また伝わらない。今いる念威繰者は、能力が低いのもさることながら、経験がなさ過ぎた。ただでさえカバーできる範囲が狭い上に、武芸大会の狭い戦場に慣れすぎている。はっきり言ってしまうと、全く役に立たなかった。居ないよりはマシという程度である。
 汚染獣が攻め込んできているのは、足を踏み出した面のみ。外周の約四割程度でとどまっている。だからこそ、満足な防衛ラインがぎりぎり機能しているのだ。しかし、これ以上戦場が広がれば、防衛網を縫う者が出てくるだろう。
 何でも無い風を装うカリアン。指揮官が動揺をしては士気に関わるから。だが、内心は荒れ狂い、握る手に指が食い込んでいた。こんな時に、妹の才能があれば。そう思わずに居られない。フェリであれば、ツェルニ全域を鼻歌交じりにカバーする事が出来るのに。

「カリアン……!」

 ヴァンゼが誰にも聞こえぬ押し殺した声で、しかし強い怒りを混ぜながら。

「試合に不真面目なのはまだいい。だが、この緊急時に全く協力をしませんじゃ話にならんぞ!」
「分かってる、わたしの責任だ。だから追求は後にしてくれ。それとも今言おうかい? 戦っている武芸者をそっちのけにして」

 彼の眼力を押し返しながら、嫌みも混ぜて言う。自分が冷静でない自覚はあったのだろう、ヴァンゼはすぐに黙った。顔は納得していない、と語ってはいたが。
 レイフォン・アルセイフとフェリ・ロス。カリアンが無理矢理武芸科に入れた二人は、未だ戦場にすら現れていなかった。妹の方は完全に消息不明。レイフォンも、ニーナから娘を探しに行ったと報告だけは受けたが。たとえ見つかったとして、協力してくれるか怪しい者だ。
 いや、正直に言うべきだろう。彼がツェルニを見殺しにする可能性は、悲しいほどに高い。カリアンのせいで。彼の本音を引っ張るために仕込んだ爆弾は、最悪のタイミングで起爆した。
 本当の切り札は使用不能。敵を倒せる見込みもない。味方の消耗限界も、予想より遙かに早いだろう。

(何か……何か手札が!)

 せめて、二人の内どちらかが見つかれば。どんな手段を使っても説得して、力になって貰うのに。決め手がないまま、ツェルニが一瞬でも早く復旧し、逃げ切ることを願った。
 その願いが届いたかどうかは分からないが。ただ現実として、それは起こった。

「えっ!?」

 突如、念威繰者の一人が声を上げる。

「どうした?」

 何か異常事態があったのか――そんな意図を込めてヴァンゼが問う。
 部屋中の注目を集めた念威繰者。早く答えねばと焦っているが、しかしそれは、まともな言葉にならなかった。

「いや、でも……こんな事はありえない!」
「君は見たままを報告すればいい。それを判断するのは我々だ」

 戸惑うばかりの男を、子供を諭すように落ち着かせるカリアン。それでもしばらく口ごもっていたが、やがて恐る恐ると口を開いた。

「汚染獣の生体反応が、次々に消えていきます。一度に数体から十数体、空を飛んでいる個体がです……あ、また!」
「何を馬鹿な……!」

 一歩踏み出し、怒鳴ろうとするヴァンゼ。その前に、手が差し出される。カリアンのものだ。
 室内の誰もがその言葉を信じていない。呆れるか、怒りを露わにするか。どちらにしろ、念威繰者の男を侮蔑していた。ツェルニのどこを探してもそんな戦力がないのは、この場にいる者達が一番知っているのだ。狂ったか、もしくは下らない嘘か。そんな風に思われていたし、言った本人すらそう思われると考えていた。
 しかし、一人だけ違う反応を見せた者がいる。カリアンだ。

「君は第一区画から第四区画までが担当だったね?」

 問われた男は、ぽかんと口を開けていた。いや、カリアン以外の全員が、彼を見ながら惚けている。
 反応の鈍い男に、カリアンは視線を鋭くする。男はそれに気づいて、慌てて頷いた。

「お、おいカリアン?」
「ヴァンゼ、いいから君も来るんだ」

 戸惑うヴァンゼにそれだけ残して、カリアンは窓際に寄った。殆ど身を乗り出すようにして、そちらの方を見る。追いついたヴァンゼも同じ体勢になったが、しかし真剣な風には見えない。こんな下らないことをする暇があるなら、もっと他にやるべき事がある。態度がそう語っていた。
 どれほども時間が経たない内に、闇夜を切り裂くような閃光が走った。無軌道なものではない、都市から汚染獣に向けて、真っ直ぐに。建物に遮られて殆ど見えなかったが、しかし確かにそれは存在した。

「反応は?」
「は?」
「汚染獣の反応は消えたかと聞いているんだ! しかりせんか!」
「は、はいっ! たった今、八の反応が消えました!」

 怒鳴りつけられてやっと再起動した男は、すぐに活動を再開。報告は、両者が期待した通りのものだった。
 また、閃光が走る。今度は汚染獣にあたりをつけていたためか、割としっかりその光景を見ることができた。光の筋に触れた数体の幼生体は、一瞬にして蒸発。体の半分を文字通り消し飛ばされて、固い地面へと墜落した。遠くから観察しただけでも、寒気がするような威力だ。

(だが、あそこにいるのは本当にレイフォン君なのか? ……いや、誰でもいい。この窮地を救ってくれるのならば)

 カリアンの知る限り、レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフは剣を主武器として扱っていた。一度だけ見た試合も、接近戦闘が主だったと記憶している。尤も、それは試合向けの戦術だと言ってしまえばそれまでの話だ。実際は彼の戦い方など知らぬに等しく、こういう戦い方をしてもおかしくはない。
 いや、彼で無くとも。たとえ密航者だったとして、今のカリアンに追求する力はないのだ。

「攻撃している者の位置は?」
「あっ! 済みません、今割り出します!」
(何を今更!)

 咄嗟に怒鳴りつけそうになり――それをぎりぎり押さえられたのは、僅かに事態が好転したからだろう。
 フェリ・ロスであれば、言われずとも割り出しを終えている。いや、それ以前に、調べようとするまでもなく把握しているかも知れない。高望みをしている自覚はあった。しかし、それでこの男の鈍さに対する苛立ちが消える訳でもない。

「判明しました。砲撃の位置はおよそ第一区画と第二区画の中間あたり。高度から考えると、候補は六つです」
「それならさほど時間はかからないか……。すぐに念威端子を飛ばし、コンタクトを取れ。ヴァンゼ、連携を前提にした作戦を。上手くすれば、一気に殲滅できる」
「もうしている。交渉は任せていいんだな?」

 彼は、こんな事が出来る者が学生をしている可能性など、全く考えていない。最初から密航者前提での言葉だ。

「ああ。必ず成功させる」

 力強く頷きながら、頭を高速回転させる。レイフォンの可能性、そうではない可能性、どちらでも対処できるように。
 それは、大きな希望だった。ここに来て初めて、明確に勝利する可能性が生まれたのだから、当然だろう。その場の誰もが、それを信じてやまない。
 希望を裏切られたのは、すぐだった。突然――本当に突然、一切の前触れ無く――ツェルニから、光が消えた。
 何が起きたのか、全く分からない。誰一人として例外はなく、その瞬間に動きを止めていた。呼吸から何から――それこそ世界まで制止したと錯覚するほどの唐突さ。ただ漠然とした、思考もままならぬ空間。そこでカリアンは、これはまるで、自分たちの未来を暗示しているように感じた。奈落の底に、引きずり込まれる。それはきっと錯覚ではなく――
 一番早く現実に戻ったのは、ヴァンゼだった。念威端子ごしに響く悲鳴、それを聞いた瞬間、即座に決断。暗闇の恐怖を振り払うように絶叫した。

「全体に告ぐ! 現時刻で第二防衛ラインを破棄、負傷者を保護しつつ下がれ! 剄で目を活性化させろ! これだけ光があるなら、それでも十分戦える!」

 まだだ。ツェルニが滅んだわけでなければ、汚染獣を撃退した訳でもない。何一つ終わってない。声で我を取り戻したカリアンは始めにした事は、窓の外を見る事だった。
 建物の影に隠れて分かりにくいが、光線の狙撃は健在だった。最初から暗い場所に居たからなのか、それとも他に探知方法があるのか。カリアンには分からなかったが、汚染獣にしっかりと命中させている。援護が健在なのに、胸をなで下ろした。そして、すぐに指示を送る。

「砲撃者に送った念威端子を、直ちに機関部に送れ! 同時に第一、第四区画間の剄羅砲の四割を第五区画以降に回すんだ!」

 指示を出した瞬間、ヴァンゼの批難する視線が飛んでくる。だが、それだけだ。
 戦場のどこにも余裕はなく、むしろ等しく追い詰められている。突如の停電による被害は甚大だ。それでも体勢を立て直そうとするのであれば、尤も強い者――つまり砲撃を繰り返す武芸者――の負担を増やすしかないのだ。一言で言って、恐ろしい賭だ。誰とも知れぬ者に、事前連絡も無く汚染獣の多くを押しつけるのだから。だからこそヴァンゼはカリアンを批難し、しかし何も言えなかったのだ。それ以外に方法がないのだと、カリアン以上に理解しているから。

『こちら機関部! 本部、応答願います!』
「こちら本部だ、なぜ電源が止まっているのだ! 復旧はいつになる!」

 つながった通信に、カリアンは咄嗟に絶叫する。もはや取り繕う余裕すら失っていた。

『都震の際にぶつけた底部の一部が披露限界を迎えていました! そこを汚染獣に突破され、内部に侵入、動力部の一部を破壊されました! 動力部が爆発した際に汚染獣は外に逃げましたが、機関は停止、現在開いた穴を発泡剤で塞いでいる所です!』

 ぞわりと、全身を寒気が包んだ。凍り付いたかのように、体が動かない。カリアンだけではない、その場に居る全員が、強く緊張していた。
 体が震える。それは指先も、今から言葉を発しようとする口もだ。もう何も聞きたくない。凶報は沢山だ。だが、聞かないわけにはいかなかった。カリアン・ロスは生徒会長であり――他の何を裏切っても、それだけは裏切れない。

「無理矢理でもいい、動力を動かすのにどれだけ時間がかかる!」
『無茶だ!』

 悲鳴が上がる。言葉を取り繕うことさえ忘れて。

『こっちは消火で精一杯だ! まだ被害状況すら把握していない! いや、それ以前に汚染物質がかなり紛れ込んでて、動けなくなった者も多いんだ! 少なくとも、半日は必要になる!』
「そうか……無茶を言った。きついとは思うが……引き続き、作業を続行してくれ」

 絞り出した言葉には、もう力を入れることさえできない。ねぎらいの言葉を入れられたのは、最後まで生徒会長であろうとしたからだろう。気休め以下でしかないそれは、嘆きのようにも聞こえた。
 絶望がその場を支配する。
 汚染獣。人類の天敵。世界の支配者。その力は、世界を制するに相応しいものだと、身をもって体験した。生き残るならば、逃げるべきだ。誰もそれを否定しないだろう。汚染獣を殺すと息巻いていた武芸者でさえ、その意見に反対する者は居まい。それほどまでに、ツェルニは追い詰められていると言うのに。電気がなければ、剄羅砲を動かすのすら手動で行わなければならない。
 幸い、と言っていいのか。エアフィルターに直結してある小型の予備動力だけは、正常に機能している様だったが。そんなものは、死までの時間を僅かに長くしたけかも知れない。もしかしたら――エアフィルターが止まってしまった方が、楽に死ねたのか。そんな考えさえ、浮かんできた。
 カリアンは倒れ込むように、椅子に座り込んだ。机に肘をつき、指を組む。それは開き直りか諦めか、どちらだろうか。彼自身が、その答えを求めていた。

「諸君。我々が生き残るには、汚染獣を殺し尽くす以外に手段がなくなった。各自……尽力してくれ」

 それは、一言で言って。
 死の宣告だった。



□□□■■■□□□■■■



 レイフォンがそこにたどり着いた時、そこは地獄のようだった。
 地面にシートを引いただけの場所に、幾人もの人間が寝かせられている。誰もが軽くない負傷をしているようで、か細いうめき声が充満していた。さらにその周囲を、救護班らしき人間がかけずり回っている。手を尽くしている様子だが、資材が足りないのか難航しているようだった。
 哀れだとは思うが、それを気にしている余裕はない。すぐに意識から切り離し、周囲を見回した。
 これだけ大規模な戦争であれば、必ずどこかに中継拠点があるはずだ。が、見つからない。そう言えば、と思い出す。上から見たときに比べて、戦線は大分後退していた。戦場に近くなりすぎ、余波を受けかねなくなったから放棄したのだろう。
 一足で野戦病院を飛び越えて、近くの建物に近づいた。それはボロ小屋だったが、外には中に入っていたらしきものが山のように詰んである。中からはひっきりなしに響く怒号と、念威端子独特の音波。
 臨時拠点を見つけたレイフォンは、さらに周囲を探った。余裕のなさに焦りながら見回すが、幸いなことに目的のものはすぐに見つかってくれた。濡れた肌で夜の寒さを知りながら、声を上げた。

「ハーレイ先輩!」
「もしかしてレイフォン君!? 君は今まで一体何をやってたの!」

 レイフォンを確認した瞬間、ハーレイの鋭い視線が飛んできた。当たり前だ、戦うための武芸者が、戦闘を放棄して今更現れたのだから。
 浴びせられる非難を、しかしレイフォンは受け流した。言い訳のしようがない、というのもある。しかしそれ以上に、こんな事に割く時間などないと言う方が大きい。
 剣帯に納められた錬金鋼を引き抜き、ハーレイに差し出す。彼の顔が大きく引きつった。

「すみません、安全装置の解除をお願いします。それと……」
「無理だ!」

 絶叫するハーレイの顔には、悲壮ささえあった。

「錬金鋼を調整するには大電力がいる! 今のツェルニに、それを賄える電力なんてどこにもありはしない!」

 今度は、レイフォンが顔を引きつらせる番だった。錬金鋼に新たな設定を入れるどころの話ではない。今持っている錬金鋼では、汚染獣より遙かに脆い人間すら殺傷できないのだ。
 錬金鋼は通常時、全能力の四割が遮断されるよう設定されている。元々人より遙かに頑丈な汚染獣を倒すための道具。出力を十全に通せば、たとえ剄の量が少ない者でも軽く人を殺せてしまうのだ。四割と言う数字は、悪意を持って使わなければ人を殺しはしないだろうと見込まれての数字である。この上で、刃物は刃引きをし、打撃武器は剄の出力をさらに下げる調整を行う。つまり、レイフォンの持っている剣は、四割も力がカットされる切れない剣なのだ。ただでさえ全力が出せないというのに。
 問題はそれだけではない。錬金鋼の調整ができないと言うのは、それだけ武器の破損率を上げると言う事だ。武器は使えば疲労が蓄積し、限界を超えれば破損する。しかし、錬金鋼は調整することで、疲労を全体に拡散する事が可能なのだ。時間をかけて調整すれば、疲労そのものをなくすことも出来る。しかし、電気がなければ最低限の調整すらできないのだ。
 錬金鋼と言うのは、その殆どが刃物である。当然と言えば当然の話だ。遠距離武器を除けば、鋭い道具というのは、殺傷兵器として非常に優秀なのだから。幼生体の外郭は堅く、錬金鋼で切るだけでは破れない。が、それでも貫く可能性は打撃武器より遙かに高いのだ。その代わり、衝撃を刃の面が集中して受けるだけ、疲労が早い。
 ツェルニの学生は、衝剄を上手く活用して、武器を壊さずに戦うことなど出来ないだろう。武芸者など、錬金鋼がなければ普通の人に毛が生えた程度だ。消耗が激しければ、錬金鋼を取り替えざるをえない。戦闘力はがくりと落ちる。時間と共に、汚染獣が都市部まで進入する可能性が高くなってしまう。それは、リーフェイスに危機が及ぶ可能性が高くなる事も示していた。
 この場に錬金鋼を調整する人間がハーレイしかいない理由が分かった。いても意味が無いのだ。

「今ある武器がなくなったら、どう戦うんです?」
「……未調整の錬金鋼で戦って貰うしかない」

 沈痛な面持ちで、宣言される。それは、レイフォンにも未調整錬金鋼で戦場に出るしかないと行っているからだ。
 半ば予想していたとはいえ、くらりと頭が揺れる。未調整錬金鋼とは、最適化前の錬金鋼であり、性能を一言で言えば、悪い。最悪でない程度に、というのがまた嫌らしかった。能力を平均的な数値にしておき、調整すればすぐに使えるようにしてある錬金鋼。間違っても、そのまま使うようなものではない。
 剄の通り、変換、放出も。当然剣そのものの使い心地も、全てに違和感があるだろう。

(今の剣を使うか?)

 一瞬迷った。次の瞬間には、迷ったこと自体が馬鹿馬鹿しくなる。剄を四割も封じられるならば、まだ使い慣れない方がマシだ。
 しかし、これでは広域攻撃の手段がない。鋼糸は使えず、剣にはそんな冗談みたいな技はない。いや、ないとは言わないが錬金鋼が耐えられない。他に、せめて遠距離攻撃専用の武器があれば――ふとした思いつき。無い物ねだりの延長で思いついただけだが、考慮する時間も惜しい。使えなければ捨てればいいと、すぐにそれを採用した。

「先輩、剣の他に、銃もお願いします。なるべく高出力で、連射ができるものを」
「銃って、そんなもの使えるの?」
「使った事なんてありませんよ! でもないよりましでしょう!」

 絶叫するレイフォン。こんな問答で潰していい時間など、一秒もありはしない。その必死さに驚いたハーレイは、すぐに駆けだした。
 戻ってきたハーレイは、胸に抱えた錬金鋼を地面に転がす。重い音を立てて落ちたそれを見て、まず思ったのは大きいという感想だった。

「こっちの剣は、君のものとなるべく似た長さと重さのものを選んだ。さすがに重心まではどうしようもないけど、それは我慢して。銃の方は……正直かなり重いけど、その代わり連射性と威力は約束するよ。扱いにくいって言うなら、小型で連射性が高いものも用意してある」

 置かれたのは、先のものよりかなり小型な銃だった。銃よりも砲と言った方が正しそうな前者と比べて、全長は半分ほど。小回りも利きそうであり、便利性を追求したタイプの銃なのだろう。その武器は、確かにいいものではある。だが、ハーレイは腕利きの錬金鋼技師ではあっても、戦闘技能者ではなかった。接近戦まで考慮された武器は、今は必要ない。
 レイフォンは大型の銃を取った。確かに重いが、脇を締めて体に密着させれば、剣を振る邪魔にはならない。重量も、彼の活剄であれば十分カバーできる。

「使い方は分かる?」
「剄を込めて、引き金を引く。多少軌道を操れても、威力の調整はできない、でしたよね」
「うん、その通りだよ。……君には聞きたいことが沢山ある」

 小型の銃を回収しながら、ハーレイは言った。顔を上げて、視線を合わせてきた。そこにはもう、批難の色はなかった。

「だから、絶対に生きて帰ってきてよ。どれだけ責めたくても、君がいないんじゃ文句の一つも言えない」
「……はい、必ず」

 足に力と剄を込めて、一瞬で消え去るように飛ぶ。戦場までは、数秒で到達できるだろう。
 ハーレイ・サットンは善人だ。レイフォンにどんな事情があろうとも、それは責めない理由にはならない。なのに、彼の目からはわだかまりが感じられなかった。本当に、ただ純粋に。言葉で茶化しながら、無事を祈っていた。なぜ自分の周囲にこんな善人ばかりが集まるのか、嘆きたくなるほどにいい人達だ。
 レイフォンには、自分が碌でもない人間だという自覚があった。さらに手に負えないのが、それを直す気が無いと言う事だ。誰かのための行動であっても、その中身は利己的な方面に寄っている。他者に被害が出ない程度に悪事を働くことを、良しとしてしまうのだ。
 レイフォンの行いで、確かに誰かが救われているだろう。だが、それは同時に多くの人間から見て、許されざる行為でもある。批難されて当然の人間。なのに、それを認めたり、割り切ったりとしてくれる。
 ……余計な考えを振り切るように、頭を振った。今はとりあえず戦おう。どれだけ自己中心的だろうとも、リーフェイスのために。レイフォン・アルセイフはそれでよく、またそれだけでいい。そして、それ以外の選択はできない。
 親になると決めた。それはいびつな関係で、無様な姿を晒す父親。他者から見れば、さぞかし滑稽だろう。それでもいい。どれだけ不自然でも、確かに親子なのだから。子を愛する思いだけは、本物なのだから。
 子の為に、命を賭けぬ親はいない。そして、誇りや名誉を惜しむ親もいない。
 戦場の空域に体が突入した。幾度も触れた空気は、レイフォンに安心感さえ与える。やはり、自分は武芸者なのだろう。自嘲ではなく、それを確認する。
 レイフォンの瞳から、色が消えた。感情の揺らぎは、力を与えるが、同時に油断と隙を産む。不必要なものを排除。いや、感情だけではない。戦闘を行うのに不必要なものは、全て排除した。武器が自分の延長になるのではない、武器こそが自分の本体であり、人はそれを使うための道具。武器とは戦闘兵器、殺戮の具現。ならば武芸者とは、戦闘人形でなければならない。
 圧倒的な剄と技を持つ武芸者は、汚染獣に勝るだろうか。一降りで数百の幼生体を粉砕し、余波で雄性体を塵と化し、雌性体を大地ごと消滅し、老性体を一刀のもとに斬り伏せる。そんな武芸者は、汚染獣より上の存在か。
 答えは否だ。人はどうあがいても、汚染獣に勝ることはできない。
 どれだけ圧倒しようとも、汚染された空気に僅かでも触れれば死に近づく。雄性体の直撃を食らえば、体は容易く砕け散るだろう。幼生体ですら、隙を突かれれば骨まで食い荒らすのは容易い。
 人は脆く、汚染獣は強靱だ。どれだけ強くなろうとも、生命体として劣るという事実は決して覆らない。
 だからこそ、戦場において。命を置く場所で、レイフォン・アルセイフに油断はない。圧倒する力がなかろうとも、ただの一つの失策も許さぬ。それこそが生き残る為の、ただ一つの条件であり。レイフォンが模索し確信した、生き残ることを何よりも重く見たサイハーデン刀争術の極意だった。
 音も意識も、何もかもを置き去りにする、超高速の空間。視界の情報すら遅すぎるような世界に身を置き、最大に広げた感覚を頼りに疾駆する。
 汚染獣も周囲の武芸者も、誰も気づく事すらできない。ただ一人、レイフォンだけが加速した世界の中で、緩慢に動くそれに刃を突き立てた。交差は刹那の内に終わる。影のようにしか見えぬそれは通り抜け、一瞬遅れて汚染獣の上体が弾けるように飛んだ。周囲に体液が飛び散るが、それすらレイフォンには届かない。右手に残る僅かな痺れだけが排除の完遂を教える中、彼は内心で罵った。

(鈍い!)

 未調整の青石錬金鋼剣は、刃引きされたものよりはマシという程度の切れ味だ。調整された剣であれば、切ったものが飛ぶような事はない。
 不満に感情が揺れ、それにまかせて強ばりそうだった体を急いで戻した。起伏の生まれかけた精神を、平坦化するよう努める。焦りは己を殺す、戦場を思い出せ。

(雑な仕事を)

 あまりにも不条理な物言いだと知りながら、錬金科を罵らずにいられなかった。手にした武器は、予想より遙かに違和感が強い。
 未調整の錬金鋼が鈍いのは、責められるような事ではない。錬金鋼事態、調整してから使うことが前提である。ただの金属の塊状態で置かれていても問題ないのだ。汚染獣との戦闘中に、都市の電力が落ちることなど、グレンダンでも想定されていない。だから、彼らに落ち度はない。だが、それで違和感が消えてくれるわけでもない。
 慣れない重心、悪い切れ味、通りの悪い剄。一つ一つであれば耐えられる。だが、全て集まればこれほど扱いにくいとは思わなかった。今まで、普通の錬金鋼に不満を覚えなかったことはない。しかし、これはそれとは全く別次元のものだ。
 立て直す必要がある。問題の一つ、出来れば二つは解決したい。その為の剄技を、膨大な技術の中から検索し、そして一つを選んだ。
 鈍らな剣に、慎重に剄を流し込む。入れすぎれば崩壊する。あくまでそっと、慎重に扱ってやらねばならない。許容量限界まで流し込み、剄はレイフォンの意思に呼応してその形を変えた。
 外力系衝剄が変化、刃鎧。
 本来の使い手、カルヴァーンの様に全身に纏いはしない。刀身それだけを覆うように、半透明の幕が現れた。
 低空を飛翔する幼生体、その下に身を屈めて滑り込む。ただ、その鋭さに任せて通り過ぎただけ。しかし、今度は負担など全くかからなかった。足下を何かが通ったことさえ気づかなかった幼生体は、そのまま着地し――最初からそうであったかのように左右に割れる。体液は暴れもせず、その場で零れ、水たまりを作った。

(よし)

 満足行く能力だ。少なくとも、剣としては。その代償に、常時錬金鋼許容量の二割ほどを閉めるのだが。
 刃鎧よりも切れ味が良い剄技はある。その上で、剄の消費が少ないものも。そもそも、この技は全身に纏い、攻防一体の要塞と化す技だ。使い方が違う。それでもあえてこれを選んだのは、剄を半物質化するという性質があるからだ。物質化すると言う事は、つまり重さが生まれる。重さが生まれるのであれば、その比率を調整すれば、重心の位置も変えられる。
 元よりこの剣で大出力の剄技を扱えるとは思っていない。ならば、優先すべきは慣れた感触の武器だ。
 若干手になじむ剣のためか、レイフォンからさらに情動が消えていく。集中はさらに深まり、戦場全体を見渡せる気さえ起きる。
 細胞の一片にまで剄を浸透させ、爆発的な加速。残像を置き去りにして、さらに近くの汚染獣を切り飛ばした。

「あ――」

 誰かの悲鳴が聞こえた気がした。それは気のせいか、本当に聞こえたのか。意識をそちらに向けると、今正に汚染獣に食われようとしている武芸者に気づけた。
 左手を振り回す。銃口を大ざっぱに向けて、とにかく剄を叩き込み引き金を引いた。慎重に照準など付けはしない。どうせ使い慣れぬ武器、狙ったところでその通りに飛ぶ訳がない。暴力的な剄弾の嵐は、汚染獣の下半身を近くの地面ごと蹂躙した。着弾ごとに地面が爆ぜ、コンクリート片をまき散らす威力。しかしそれでも、幼生体の装甲を潰しただけで、絶命に至らない。
 銃ではよほど上手く当てない限り、幼生体を殺しきれない。しかし、レイフォンにはそれで十分だった。下肢に欠損が生まれれば、得意の突撃は行えない。妨害さえ行えるのであれば、あとはツェルニの武芸者がなんとかしてくれる。今レイフォンが撃った幼生体も、食われようとしていた武芸者にとどめを刺された。
 防衛ライン後部に食い込んだものと、低空を飛ぶもの、それが標的だ。幸いにも、剄羅砲はそこそこの段幕を維持している。上空から強襲しようとしたものは、すぐに落とされていた。
 孤立した武芸者。防衛ラインを抜かせまいと、体を張って止めようとしている。すれ違い様に汚染獣を切り捨て、その遠心力を利用し銃を振る。斜め上に構えて横薙ぎし、強襲する数十発の弾丸。運悪く当たった数体の汚染獣が、足を砕かれて墜落した。

「おい――」

 背後から、自分に向けられる声。誰だ――振り向こうとして、すぐにやめた。今、相手にする余裕はない。
 今すぐ危機がある者はいない。だが、目の前の敵に気を取られて、すぐに危険になりそうな者は沢山居る。間に合うのか――疑問が芽生えた。八歳で始めて戦場に出てから、一度たりとも誰かを守りながら戦った経験が無い。漏れそうになる弱音を、無理矢理否定した。出来なくとも、やらねばならない。
 刃鎧を伸ばし、振り下ろし。横合いから、首の半ばまで食い込ませた。そのまま背中に足を乗せて、地面と水平に低空跳躍。足場にした甲羅は、足の裏から発散した剄の衝撃で砕け散った。
 低空を飛んでいた汚染獣に、体当たりをするように剣を突き出す。刃鎧を展開するのは、先端部のみ。鈍い刃が表皮を砕けば、それがブレーキ代わりになる。剣を相当痛めるが、そんなことは知ったことではない。飛び散る内蔵の飛沫を背にしながら着地。浮いている内に向けていた銃の先端が火花を散らしたのは、それと同時だった。吸い込まれるように三体の汚染獣に向かう弾丸。底部で爆裂を起こし、ひっくり返るように吹き飛んだ。それでも殺し切れていないが、それで十分。あとは誰かが始末してくれる。

「第十七小隊の――」

 またしても、届く声。そして、確かに聞こえた第十七小隊という単語。自分が誰だか特定された――動揺しそうになり――すぐに収まってくれた。
 ばれたって構いはしない。たとえグレンダンでの事情が広まったとしても――そうでないに超したことはないが――剣を納めるつもりはなかった。誰かのためになどという、そんな漠然としたものではなく。ただ一人のために。リーフェイスを守れるのであれば、どうなろうと構わない。
 以前のレイフォンであれば、動揺に手を止めていただろう。今戦える強さをくれたのは、間違いなくフェリとメイシェン。
 なぜだろう――感情の動きが厳禁の戦場であるはずなのに、嬉しさがわき起こる。そして、それをどうしても否定したくなかった。
 次の気配へと銃口を向けて、しかしレイフォンは、引き金を引けなかった。レイフォンと汚染獣を結ぶ線の上に、武芸者がいる。僅かに横にずれているが、それを縫って狙撃するような技術は、レイフォンにはない。まずい、焦りの代わりに、背中に寒い電気が走った。幼生体の腕など、レイフォンであれば問題なく弾ける。だが、人体を破壊するには過剰なほどの威力なのに変わりは無いのだ。それが、目の前の武芸者に向けられている。
 咄嗟に脇を締めて、銃を体に引いた。勢いは体に密着しても衰えず、体を中心に半回転させる。前に出る右腕を構えて、剣を突き出そうとしたのだが。それは止めざるを得なくなった。
 それは回避しようと直前まで足掻いたからか、それとも単純に腰を抜かしたからか。レイフォンが予定していた斜線上に、体を割り込ませてきたのだ。剣内の剄の清流が、混沌と崩れる。予定していた技では、幼生体を殺すのに彼の右肺ごと潰す事になる。荒れる高波と化した剄、しかし、次の瞬間には別の清流へと変化していた。
 未調整錬金鋼とは、深く考えずともまともに剄を扱うものではない。ごくごく基本的な衝剄すらもだ。ましてや、剄での精密射撃など考慮もしないだろう。それが、一般的な武芸者による評価である。しかし、レイフォン・アルセイフは一般的な武芸者の枠に収まらない。
 剄が鈍く言う事を聞かないのも、常時展開している剄技と並列処理するのも、彼にとっては些事。所詮、己が技量で補いきれる程度の事でしかない。
 さらに深く集中する。剣から続く神経、それをさらに太く自分に接続する。世界は揺らめく刀身の延長上にしかない。
 自分こそが剣であり、剣は我の現し身。其れ即ち、己は剄そのものである。振り下ろしていた剣を、僅かに外側に開く。最小の動きかつ最大効率。たったそれだけで、軌道修正は完了していた。そして、漏れ出るように現れた薄刃の衝剄。冗談のように、それこそ紙よりも薄いそれ。しかし、いや、極限まで圧縮されているからこそ、鋼鉄すら苦も無く両断する性能になる。
 飛刃は汚染獣への道よりも、僅かに右にずれていた。しかし、そのおかげで斜線上の武芸者が切り裂かれる事はない。それでは彼の運命、つまり死は変わらないのだが……それは刃がそのまま真っ直ぐ進めばの話だ。
 刃は男を通り過ぎた直後、左へと軌道を変える。それは何の抵抗もなく汚染獣の装甲を浸食し、背後まで一気に抜ける。後に残ったのは、死んだことにすら気づかず割れ落ちる汚染獣と、それを見て腰を抜かした男だけだ。
 剄を刃状にして飛ばすというのは、外力系衝剄の基本技術だ。こればかりはどの流派でも変わりあるまい。むしろこれが基礎でない所はやめた方が良い。自分の体から離れた剄を、一度方向転換させる。これも化錬剄を扱う流派であれば、まず最初に教えられるような技だ。
 一つ一つは基礎の組み合わせでしかない。しかし、それを基礎を極めた者が行えば、ただそれだけで必殺の一撃になる。

「っ……はぁー」

 大きく息を吐く。自信があったとは言え、誰かの命を秤に乗せるというのは、予想したよりも遙かに大きな精神的負担だった。とにかく少しでも心を軽くするために、ため息を吐く。同時に、確信する。
 やはり自分には、誰かと戦線を共にすると言うのは向いていない。同じ天剣とでは一緒に戦ったことはある。だが、あれはそれぞれが干渉し合わぬよう戦ってただけだ。連携とは別の何かだ。実力差がありすぎて、誰かを助ける事にだけ注力させられている。
 まあ、それでもいい。どうせこんなのは今日だけだと、無理矢理自分を納得させる。
 周囲の気配は、もう弱々しいものしかない。これで、この場の戦線は立て直せるだろう。既に、ここにいる意義はなくなっていた。
 足に剄を貯めて、一気に加速しようとした時だ。指揮官らしき男が、大声で言ってくる。

「すまん、恩に着る!」

 投げかけられた言葉に、どう答えて良いかすら分からず。
 一別だけを返して、次の戦場へと身を躍らせた。



[32355] じゅっこめ
Name: 天地◆615c4b38 ID:b656da1e
Date: 2012/06/02 21:55
 フェリ・ロスはある建物の屋上で、うんうんと声を上げて唸っていた。頭を抱える右手には、既に開放状態の錬金鋼が握られている。当然ながら、搭載された念威を伝達する花弁は散っていた。
 彼女が悩む理由というのは、至極簡単だった。今の自分が、恐ろしく格好悪いからだ。
 武芸者が一丸となって戦う戦場を間近にしながらこんな所に居る理由。それは色々あった。例えば、このまま参加すれば兄の言ったとおりになるようで、とても気に入らないとか。まあ、それはどうでも良い。少なくとも彼女視点では、その件でどう貶されようと構わなかった。武芸者をやめろとでも言ってくれれば、喜んでその通りにするだろう。つまり、それは彼女に頭を抱えさせる理由ではない。
 真に、フェリをそうさせているものは、念威の先にあった。超感覚を持つレイフォンすら遠く及ばない。感覚器官を拡張、延長することに特化した器官。それをさらに錬金鋼で拡張すれば、何十キロという距離、範囲でも把握しきれる。そんなのを使えば、そう、例えば。四歳くらいの小さな子供に気づかれぬよう尾行することなど、難しくないのだ。
 その少女が何をやっているかと言うと、一言で言って戦ってる。汚染獣と。当然、フェリが戦うのを放棄した相手でもある。重そうな錬金鋼を必死になって抱えながら、冗談のような威力のある光線をバカスカ撃っていた。
 こんな子供が戦っているのに、自分は何もしないのか。いや、リーフェイスがこうしているのと自分で戦うのとは別問題だ。と言うか、彼女がここでこうしてるのを誰かに言うべきだろうか。しかし、レイフォンは見つからない。兄に声をかけるのは、正直凄く嫌だ。それは最後の手段だ。
 無数の思考が、彼女を葛藤させる。逆に言えば、葛藤できるだけの余裕があったのだ。
 フェリの目から見て――いや、ツェルニの誰の目から見ても、彼女は圧倒的だった。幼生体の一体すら、人数を集めて袋叩きにしなければいけない武芸者。その中で一人、光線で無数の汚染獣を殺し続けるその力。あまりにも強い輝きは、本当の意味でリーフェイスはまだ子供であると言う事を忘れさせていた。
 ツェルニ中が停電になっても、さして気にしなかった。殺戮光線は相変わらず健在であったし、汚染獣の脱落状況も変わらない。無双と言って差し支えない武力に、僅かな陰りも見えなかった。少なくともフェリからは、全く変わらないように見えた。
 だから、この期に及んでも彼女は頭を抱え続けられた。それだけの余裕が、あると思っていたのだ。
 フェリは知らない。リーフェイスは暗闇になっても、変わらず目が見えていたわけではないと。少ない明かりで見えたものを、優先的に落としているだけだと。
 闇の隙間から密かに迫るものには、誰も気づかずに。
 彼女がこの判断を死ぬほど後悔するのは、この直後だった。



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 やりづらい。精神制御の隙間から漏れ出した感情、それが勝手に毒づく。
 体は相変わらず、汚染獣を殺戮するための機械と化していた。右手に持った剣も、左手に持った銃も。機械的に、効率よく汚染獣を駆除する選択をする。それは全く持ってレイフォンの意思通りであり、何も外れるものではない。ただ一つだけの誤算。いや、性格に言えば分かってはいたのだが、本当には理解し切れていなかった事。周囲の武芸者達は、予想以上に邪魔であった。
 とにかく敵を倒す事だけ思慮するのを許されず、何度も集中を寸断される。状況の分からぬ武芸者が、わざわざ敵の前に割って入ってくる。戦線の立て直しが遅く、余計に多く汚染獣を狩っていかなければならない。

(グレンダンではこんな事なかったのに)

 それは当然だ。グレンダンにあって、ツェルニには無いもの。単純に、天剣授受者というという存在に対する畏怖がない。
 天剣の戦場には、天剣以外の武芸者が入っても邪魔になるだけだ。それが、グレンダンでの共通認識である。つまり、レイフォンが立った時点で他の武芸者がいる事など、まず無かった。天剣以前でも、邪魔になるような武芸者はおらず、いたとしてそれは邪魔になった奴が悪い。そう処理されて当然の場所だった。
 しかし、ツェルニでは違う。弱さが罪にならない。どんな実力でも、武芸者を名乗れる。また、レベルが小隊員までいってぎりぎり一人前、という程度だ。当然ながら、平均的に低い能力は無駄な自信を持たせる。幼生体程度にこれだけしてやられても、なお実力に自負を持って立ち向かう。
 今の装備であっても、レイフォンだけであればとっくに殲滅している数だ。いや、主目的は敵を通さないことなので、それを言っても仕方がないが。それに、殲滅が目的であれば銃など持ち出さない。邪魔になるだけだ。
 どう足掻いても、思い通りにいってくれない戦場。邪魔にならぬよう引いていてくれ、それすら理解してくれない。自分の実力を把握できない武芸者達。
 不満は、錬金鋼にも及んでいた。剣の方はまだいい。程度が劣悪でも、勝手知ったる武器だ。多少余裕を持って動かすことができる。しかし、銃は別だった。実践では使ったことのない武器では、限界を見極めきれない。また、引き金を引いて剄を飛ばすという特殊性も、悩みの一つだ。注入しすぎて逃げ場のない剄が、錬金鋼を内圧で砕きかけているのだ。ただでさえ、剄弾を打ち過ぎて砲身が赤熱しかけているというのに。
 限界が近い。それを悲痛な程に感じ取っていた。
 銃は、こんな武器でも今回の要だ。使用に必要な動作は、照準を合わせるだけ。たったこれだけで遠距離攻撃を可能とする。剣と剄を共通せずにそれが出来る利点は、恐ろしく有り難い。
 それは同時に、銃の崩壊と共に戦線の崩壊をも意味していた。
 接近戦と遠距離攻撃。この二つを可能とする剄、それを剣は受け止めきれない。今度は剣に限界が迫り、遠からず砕けるだろう。ただでさえ剣に負担をかける戦い方をしており、消耗は今の時点でも無視できない。
 戦場を全体的に見てこそ立て直しているが、それだけでは意味がないのだ。何れ来る限界、それを先延ばしにしているだけなのだから。レイフォンが余裕を与えたとしても、それでツェルニの武芸者が幼生体を倒せるようになる訳ではない。どこかで、何とかして汚染獣を消滅させなければいけない。
 どういう行動を取るにしても、新しい錬金鋼の確保は必要だ。欲を言えば、前線部隊を撤退させたい。

(そういう意味なら、まだ希望はある)

 今武芸者達の指揮をしているのが誰か、レイフォンは知らない。……いくら一年とは言え、小隊員がそれはどうかと自分でも思うのだが、知らないものは仕方が無い。とにかく、誰だかは知らないが。しかしかなり大胆な決断を出来る人間なのだろうとは思っていた。それは同時に、レイフォンの追い風になる。
 今彼がいる区画には、手練れらしい人間は全くいない。小隊が壊滅したのか――最初はそう思ったが、それも毛色が違うようだった。武芸者に混乱はなかったし、なにより指示を出している人間が見える。個人の武勇が高い、エースと呼ばれる者達だけが、ごっそりといなくなっている。
 それが分かれば、エースがどこにいるのか考えるのも容易い。おそらくはレイフォンがいない戦場――恐らく第一区画から第四区画に再編成されたのだろう。
 飛び抜けて武力の高い者がいる戦場でもっとも影響があるのは、やはり士気だろう。強い仲間がいる、それだけでなんとかなりそうな気がするのが、人間というものだ。逆に、どこかに希望がなければ、人間の心は簡単に折れる。
 その希望という意味で、第五区画から第八区画に、彼らは必要なかった。なぜならば、より大きな輝きを放つレイフォンがいたから。各小隊のエースとて相応の光を持っているが、それで太陽と蝋燭を比べろというのは酷だろう。彼の輝きに対して、他者のそれはないも同じだ。ならばいっそ、第四区画以降に移してしまえばいい。
 それは、単純に戦力増強という意味だけでは終わらない。援軍が来たという希望は、現地戦力の士気を大いに高めてくれるだろう。とりわけ指揮官には、その存在は大きな希望になるはずだ。なぜなら、小隊員はかなり正確にツェルニの戦力を把握している。念威からの通達等を計算すれば、既に予備兵力が殆ど枯渇しているのを推察できた。
 効果は、それだけにとどまらないだろう。明らかに別方面からの援軍、それもエース級が来たのだ。エースを回しても問題ないほど戦況を有利に進めている、そう察するのは容易い。
 たとえそれが虚構でしかなくても、勝利という終わりが見えてくる。見えてくれば、気合いはさらに入る。
 そこまで考えて行動した指揮官であれば、耳を貸してくれるはずだ。
 剣を回転しながら薙いで、周囲の汚染獣を二枚におろした。銃で飛翔する的を打ち落としつつ、引きつけた汚染獣。周りに切ってはいけないものがないのであれば、幼生体の殲滅それ自体は容易い。
 血の一滴も付いていない剣を、癖で払いながら。やはり、剣筋を伸ばしきれるというのは心地よい。味方を案じて縮こまる軌跡では、幼生体の外鎧ですら切り損じそうな気がする。
 第五区画から始まったこの戦線再構築支援も、第七区画まで終えた。残りは一区画、戦場の最端であれば、汚染獣の数もそう多くはないだろう。そこまで行けば、あとは簡単な作業だ。第五区画まで戻って、汚染獣を纏めて吹き飛ばせばいい。万が一また戦線崩壊しているようであれば――非常に面倒だが――その後押しを優先する。
 この、嫌な緊張感の中で戦うのもあと少しだ。そう思いながら走り出そうとした時に、ふと、肩に何かが乗った。レイフォンは当然、それが到着する前から気づいていた。だからといって待っていたわけではなく、ただ単に振り払う理由もなかっただけだ。
 レイフォンが空気の壁にぶつかりながら走っても、それは落ちない。どういう仕組みかまでは知らないが、念威端子とはそういうものなのだ。
 殆ど端子を意識せず走る。ガリガリという不快な音が、鼓膜に届く。聞いたことのある音。同じく天剣であり、念威繰者でもあったデルボネ。彼女以外の念威繰者が扱う端子は、たまにこういう音を混ぜていた。
 唐突に、異音は途絶える。これもどこかと繋がったためだ、と言うのを経験で知っていた。

『レイフォン、レイフォン・アルセイフ君か?』

 届いた音に、レイフォンは思い切り嫌そうな顔をした。感情を殺すことすら忘れて、だ。
 念威端子を放置しておくべきではなかった。すぐにでも払ってやれば良かったのに。いや、今からでも払ってやれば……いや、無理だ。背後から声が聞こえる。カリアンは一人ではない。この情勢なら、間違いなく作戦本部あたりにいる。無意味なあがきをして、他の者の印象まで悪くするのは、得策ではない。

『君がわたしを嫌っているのはよく分かる。それだけの理由があるのも』
(よく言う)

 声には出さずに、吐き捨てた。そんな言葉を今更言われたとて、どうしろと言うのか。まさか、そんな一言で和解を望んでいる? それこそ、悪い冗談だ。
 カリアン・ロスとは契約をした。しかし、彼は契約を破棄した。一方的にだ。そして、もっとも秘しておきたかった過去を明かした。過去を明かした相手がニーナだけである、そんな楽観はできない。
 レイフォンはもう、カリアンを信用できないし、しない。どれほど言葉を尽くそうと、それは嘘だ。態度で示そうとも、欺瞞の前段階。そうとしか考えられない。
 その声を聞くだけで、体が鈍るのを感じた。今すぐ念威端子を砕きたくて仕方がない。

『不満はあると思うが、今だけは我々の指揮下に入ってくれ。ツェルニの為なんだ……頼む』

 都合がいい言葉だ。そして、安い言葉でもある。
 誰かの為に、何かの為に。非常に道徳的かつ、社会的な思想。そう行動すれば、誰もが賞賛するだろう。逆に、それに逆らえば誰もが批難する。人を型に押し込めて動かすのに、これほど簡単な言葉はない。
 カリアンは覚えているだろうか。ツェルニの為に――レイフォンを武芸科に押し込んだ時も、そう言ったのだ。そして、裏切った。もはやそんな言葉には、誠実さは欠片もない。いや、逆に彼の言葉の安っぽさすら強調する。
 苛立ちが湧いた。念威端子の先の相手にも、自分にも。こんな言葉に、僅かでも共感してしまっていた。馬鹿だった。やはり彼は政治家であり、同時に大嘘つきだ。どんな言葉、どんな態度、どんな感情であろうとも、信じるべきではなかったのに。
 レイフォンは口を噤み続ける。もう、彼と話すことなど何もない。

『カリアン、もういいな。おい、レイフォン・アルセイフ。お前が招集から今までどうしていたとか、過去についてとか、今は問わん。これから戦地を指示する。そこに直ちに向かえ』
「――ああ」

 その声は、答えようとして出た言葉ではない。ただの吐息が、そんな音になっただけだ。
 レイフォンの過去を知る、四人目。もう落胆もなく、ただ、やはりか――それだけの感情。もしかしたら、感情ですらなかったかもしれない。すでに、自分がどう機能しているか、それを思い出す事すら億劫だ。

『何か言ったか? 風の音でよく聞こえん』
「いえ、何も」

 過去を知る、その時点で苦手だ。高圧的ならばなおさら。だが、カリアンと会話をするよりは遙かにマシである。素直に返事したのは、相手を変えられない為だ。
 途中遭遇した汚染獣を切り払いながら、とにかく進んでいき。そして、汚染獣と武芸者の一塊を見つけて、そこに降り立った。そこで戦おうと剄を練った所で、声をかけられた。

『待て、そこではなく三つ先の地区に向かえ。そちらの方が危険な状況だ。そこはまだ持つ、後回しでいい』
「はい」

 小さく返事をする。鋼鉄となりかけていたレイフォンの体は、再び疾風となり夜を飛ぶ。通過する瞬間に、銃弾をばらまき置いていくのも忘れない。
 地区三つ分、普通に歩けば相応に時間のかかる距離だ。だが、レイフォンが走ればどれほどもしない内に到着する。
 そこが見えたときは、地区担当の武芸者は既に追い詰められていた。壁を背にした三人は、互いに密着するようにして、それでも武器を構えている。それを囲む汚染獣の数は、八匹。確かにこの状況は、未熟な武芸者からすれば死の宣告にも等しいだろう。熟練の武芸者でも、正面から装甲を砕く力がなければ、幼生体でも状況によっては脅威になる。
 危機的状況に、しかしレイフォンは眉一つ動かさない。確かに猶予はないが、その代わりに両者の間にはそこそこ隙間がある。レイフォンが剄を放っても、巻き込まれない程度の空白が。ならば、やることは簡単だ。いつも通りに剄を練り、いつも通りに振るえば良い。
 地面の代わりに、武芸者達が背にしている壁に足を置いた。急な乱入者に、誰一人気づかない。気づいたとして、何も出来ないだろうが。
 弧を描くような剣の軌跡。その延長上には、八匹の汚染獣がいる。
 全て成し終えたレイフォンは、汚染獣を背にいして着地した。背後を見て確認、などはしない。手に残った必殺の感触は、目で見るよりも遙かに信頼できる。そんな事をするくらいなら、と、銃を持ったままの左手をかざした。剄を叩き込んで、無造作に引き金を引く。重苦しい重低音と、剄が内部で破裂するように前進する圧力。それが、左手の骨に響く。
 四匹の墜落を確認して、銃を肩に掲げた。三十発撃って、命中はたったの四。これはばらまいたのだから、ある意味当然なのだろう。だが、動いていれば狙っていても七発に一発当たれば良い方だ。一言で言って、酷い射撃能力である。

(これが終わったら、二度と銃なんか使わないぞ……)

 どうでもいい決意をしつつ、レイフォンは頭を抱えた。どうも、気が緩んでいる。致命的にならぬ程度に締めているつもりではある。だが、本当に大丈夫かは、戦闘を終えてからでなければ分からないのだ。
 何が理由で、集中力を欠いたのだろうか。弱すぎる敵か、慣れない戦場か、もしくはカリアンの登場かも知れない。いや……思いついたまま上げた候補を、即座に否定する。その程度で欠くような場数ではない。何か、見落としている気がする。正体の分からない疑問が脳にこびりつき、離れてくれない。割り切って無視するには、その不安は危険な気がした。
 どうにも煮え切らない感情。それを振り払う様に、レイフォンは問うた。

「次はどっちに行けばいいですか?」
『……』

 しかし、念威端子から帰ってきたのは沈黙だった。何か不調でもあるのか、眉を潜める。

「すみません、聞こえていますか?」
『あ、ああ、すまん。聞こえている』

 念威端子を軽く叩きながら問うと、返事が返ってきた。随分と狼狽した様子だ。一瞬問おうかとも思ったが、やめておく。戦場の司令塔なのだから、こちらにばかり構ってもいられないだろう。

「で、次はどっちに行けば良いですか」
『北側の戦場端まで走ってくれ。そこで、汚染獣が広がらないように押し込んでいる』
「押し込む? なんでまた」

 当然だが、敵は広がってくれた方が有り難い。薄く伸びて孤立してくれれば、各個撃破の機会になる。しかも、幼生体は数を頼りにした正面突撃がもっとも得意なのだ。一カ所に集中させるというのは、得意戦術を行わせるお膳立てをしている、とも言える。あまり上手い手ではない。

『言わんとする事は分かる。奴らの驚異は身に染みた。だが、現時点ですらツェルニの外周四割が戦場と、広すぎるのだ。これ以上広がれば、防衛ラインの構築すらできん。多少の犠牲を払ってでも、これ以上広げてはいかんのだ』

 と言われるが、正直レイフォンには理解できない話だった。まともな指揮官経験のない彼に、戦場は理解できても戦況は理解できない。より正確に言えば、作戦を練るよりも単騎で戦った方が遂行率が高く、作戦を理解する必要がなかった。
 とにかく、レイフォンに作戦立案能力は皆無だ。それが正しいと言うのであれば――少なくとも、レイフォンが考えた作戦よりは正しい。反論などあろう筈がなかった。

「了解しました。ただ、ちょっと遠いので少し時間がかかりますよ」
『少し、か』

 端子の向こうから、苦笑いの気配。

『構わん、行ってくれ』

 到着までには、数分ほど必要だ。殆ど一区画走るには、さすがのレイフォンでもすぐにとはいかない。鋼糸があれば三倍近い速度で移動できるのだが、それは無い物ねだりだろう。
 そして、移動のみに費やされる、ふと開いた時間。僅か数分だが、その僅かな合間すら今までなかった。単純に、見つけた端から戦っていた、というだけであるが。
 不意に出来てしまた余裕に、ふと、思いついたことを聞いてみる。

「そういえば、僕こっち側半分でしか戦ってませんけど、向こうは大丈夫なんですか?」
『ああ、問題ない。対空攻撃が恐ろしく優秀だ、飛ぶ端から吹き飛ばしてる。戦力のほぼ全てを正面戦闘力に振り分けられるからな、余裕がある』

 その言葉に、レイフォンは思わず見上げた。視線の先には、剄羅砲がある。放たれた剄の衝撃波は、そこそこ広域に広がって汚染獣を巻き込んだ。はっきり言って、威力は大したことが無い。レイフォンが持つ銃よりも僅かに劣る、威力より攻撃範囲で勝負する兵器である。
 考えている事を察してか、訂正の声が上がった。

『剄羅砲ではない。そもそも、現在剄羅砲の七割を第四区画以降に移している』
「え?」

 思わず惚けた声を出す。と同時に、なるほどとも納得した。随分弾幕が厚いと思っていたが、そういう事情があったのか。
 そして、ふいにぶわりとわき上がる。一瞬にして体を満たしたそれの正体を探り、見つけだした。
 不安だ。堪える暇さえ与えず、体を恐怖で縛った。ずっと燻っていたそれが、明確な形となってレイフォンの前に現れようとしている。気づけば、両手があせでべったりだった。両手の武器を取り落としそうになるのは、しかしそのせいではない。重大な現実、それが突きつけられそうになっているから。

『あれは化錬剄、なのか? 次元が違いすぎて断言できないが……とにかく桁違いの威力の光を放っている』

 聞いた瞬間、レイフォンは足を地面に突き刺す勢いで踏み抜いた。
 舗装された地面が割れる。圧倒的だった加速は、衝撃を脳天まで運んだ。それを代償に差し出して、レイフォンは急停止を成功させる。そして、それだけでは終わらない。足の裏に集中した剄、それを一気に爆発させる。今度砕けたアスファルトは、先ほどの比ではない。周囲一メルトルを粉砕する、正に剄の暴風。
 今度は、混じりっけなしの全力で走り出す。風の抵抗で体が悲鳴を上げるが、それでもまだ速度が足りない。いや、どれだけの速さが出ても満足できない。ほんの一秒でも早く、たどり着くための速度が必要だった。

『おいレイフォン・アルセイフ、どうした!? 何をしている!』
(好き勝手な事を!)

 内心で絶叫する。それが口に出なかったのは、言葉に消費する酸素すら惜しかったから。

『緊急事態かね!?』

 通信に割り込んできたのはカリアンだ。今まで沈黙していたが、レイフォンの取り乱しように口を出したらしい。
 できれば聞きたくない声であったが、今だけは有り難い。彼は唯一、レイフォンの事情を完全に把握している人間なのだ。

「それはリーフィです!」
『……は?』
「だから、剄で砲撃をしているのはリーフィなんです!」

 理解が遅い――苛立ちに負けて怒鳴りつける。念威端子の向こうにある雰囲気は、困惑だった。リーフィを知っている者からすれば、何を言っていると言う。そして、知らぬ者はそもそも誰だと囁いていた。カリアンですら、その様子には少なからず戸惑いが残っていた。

『すまない、わたしには、それがどう問題なのか分からない。彼女は圧倒的だ――それこそ、君と同じくらい強く見える。小隊員ですら苦戦する汚染獣が、手も足も出ていない』
「違う、そうじゃないんです……!」

 歯がみをしながらうめいた。カリアンは――そしてその場にいる誰もが、全く分かっていない。言われればすぐに思い至ることでありながら、目を曇らせている。
 力とは、麻薬だ。それに寄ってしまえば、容易く人を狂わせる。甘やかな全能感は、些細なきっかけで容易く選民的な優越感になるだろう。さらに、その麻薬は厄介で、他者までをも汚染するのだ。その立場に自分がいたら、もし自分がそんな力を持っていたら。ただの空想で終わっている内はいい。最悪なのは、感情と繋がってしまった場合だ。
 かつて、レイフォンを脅迫し、陥れようと画策した男がいた。結局、男の企みは失敗したのだが、それはどうでもいい。彼は、天剣という力に酔い、それが嫉妬と繋がってしまったのだ。よく考えなくても、そんな手段で天剣を手に入れたとて、天剣授受者に任命される訳がない。実力不十分とされて、剥奪されるのが落ちである。しかし、彼はそう考えられなかった。麻薬は脳を冒し、容易く正常な判断力を奪う。
 カリアンらも同じだ。リーフェイスという飛び抜けた才能と力が、希望と繋がってしまった。都合の良い現実だけを見ている。あり得ない事実を前に、しかし容易く目を曇らせた。

『あの子がまだ四歳だと言うのは、わたしも重々承知している。そして、そんな子供に戦って貰わねばならない不甲斐なさも。だが……』
「違うんだ! 僕が言いたいのはそこじゃない! あの子はまだ子供だ、たったの四歳でしかない」

 足に思い切り力を入れて、前に突き出す。悲鳴を上げるほど酷使しても、速度はどれほども上がってくれない。鋼糸が封じられ、武器も不慣れなもの。たったそれだけが、これほどもどかしいとは思わなかった。左手に持った銃を、少しでも軽くなればと投げ捨てる。だが、その程度の重量ではどれほども変わりはしない。
 輝きとは美しく、そしてまぶしい。だからこそ、細部にまで注意を払うのは難しい。
 例えば、天剣授受者。人格検査をしたわけでもなく、ただ実力によって選抜された戦闘集団。人生の多くを武練に費やしたのだから、当然まともな人間の方が少ない。だが、驚くべき事に。世間の噂では、天剣は武芸者の模範たる人格者で占められている事になっているのだ。
 天剣という最高峰の輝きは、誰も直視が出来ないほどのものだった。それこそ、その輝きが全方面に向いていると勘違いするほどに。
 リーフェイス・エクステという、たった四歳の少女。圧倒的な化錬剄の腕を持ち、幼生体を容易く焼き尽くす。並の武芸者では太刀打ちできない実力者。本当に、そうなのだろうか。
 はっきり言ってしまえば。そんな訳がないのだ。

「どれほどリーフィの技が輝かしく見えても、所詮は子供なんだ! 死ぬ思いで努力して、優れた技を身につけたとしても、それは優れた武芸者であるという事にはならない!」
『それはどういう……』
『あ……ほ、砲撃が停止しました! 原因は不明です! まずい、上空から汚染獣の強襲、防衛網に食い込んできます! 剄羅砲の数が足りません、被害拡大しています!』
『何だと!?』
「最悪だ……!」

 想定していた中でも、最悪の状況。それが、目の前に突き出された。
 あと、どれくらいで到着するか。レイフォンの中で僅かに残る冷静な部分が、十分以上かかると答えた。その間、リーフェイスが無事でいる可能性は、殆ど無い。目眩を覚えた。
 限界まで活剄で強化していた体に、さらに剄を流し込む。体のあちこちが悲鳴を上げ、少しずつ壊れていく、それを感じた。どうでもいい。リーフェイスが無事であるならば、体がどうなろうと構わなかった。
 そんな時だった。肩にある念威端子が、干渉を受けたのは。

『……フォン、レイ、フォン……。聞こえますか……?』
「その声、もしかしてフェリ先輩ですか?」
『あぁ……よかった、やっと繋がりました』

 声から感じ取れる、深い疲労と緊張の色。あの変化に乏しいフェリが、声だけで分かるほど疲弊しているのだ。ただ事ではない。

『お前、フェリ・ロスか! 今まで何をしていた!』
『いきなりですみません。ですが、こちらも緊急なんです。……リーフィを助けて下さい』

 聞こえていないのか、それとも意図的に無視したのか。どちらにしろ、今のフェリに相手する余裕はない。焦った口調のまま、レイフォンだけに向けて言った。

「リーフィを!? 今はどういう状況ですか!」
『三体の幼生体に囲まれています。今はリーフィが持っている大きな錬金鋼が盾になっているのと、わたしの念威爆雷でなんとか持たせていますが……あまり長くは持ちません。念威端子が、もう殆どないんです……!』
(無事なのか!)

 萎えかけていた心が、活力を取り戻す。力任せでしかなかった剄の流れを、穏やかなものに調整し直した。最効率化された剄は、速度を同じくしながら、段違いに効率が上昇した。同時に、余波で崩壊の進んでいた体も、ストップがかかる。

『待ってくれ、なぜそんな状況に陥る? 彼女であれば、その前になんとか出来たのではないのか?』
「言ったでしょう、そして、あなたも分かっているはずだ! リーフェイスは子供でしかないという事に!」

 なぜそうなってしまったのか分からない。そう叫ぶカリアンに、レイフォンも返すように絶叫した。

「あの子には才能があった! 短期間で、グレンダンでも有数の化錬剄の使い手になりましたよ! でも、それは化錬剄だけを集中して納めたからなんです!」

 端子の向こうの、声が止まる。
 リーフェイス・エクステが才を見初められ、化錬剄を習って約二年。たったそれだけで今程化錬剄を使えるのは、それ以外の全てを放棄したからだ。剄の動きも、技も、知識でさえ、化錬剄に関する事しか学んでいない。活剄に至っては、基礎の基礎である安定した発動すら出来ないのだから。
 高々四歳の子供が、全てを不足無く修めているはずがない。飛び抜けた能力があるとすれば、それはそこだけに集中したから。当たり前なのだ。どう考えても、時間が足りないのだから。化錬剄という飛び抜けた一点が、彼女の姿を実際よりも遙かに大きく錯覚させていた。
 戦い方だって、当然知らない。ましてや――明かりの少ない中、暗がりからの接近に注意しつつ、敵を倒していくなど、出来るわけがないのだ。そんな戦略など、誰も彼女に教えていない。

「リーフィに接近戦闘能力は皆無だ! 近づかれたら、それだけでなぶり殺しになる!」

 声を張り上げた。そうせずにはいられない。血を吐くように、喉を震わせる。
 汚染獣に怯えるリーフェイスを一刻も早く助けなければ。そして、泣いている彼女を抱き上げて、安心させてあげなければいけない。本当の意味でそれができるのは、レイフォン・アルセイフただ一人なのだから。

『待て、レイフォン・アルセイフ! 今すぐ止まって、指定地区に戻れ! 戦線が危険なのは向こうも同じなのだ! こちらは我々が向かう!』

 なのにだ。この男は、一体何と言ったのだろう。レイフォンはそれを理解するまでに、かなりの時間が必要だった。
 自分が命令されている理由は。男が、武芸者の指揮官だからだ。なぜ指図される。今、幼生体の襲撃にあっているから。ならば――リーフェイスの危機を前にして、武芸者を助けに行く理由は、何だ。そんなものがあり得るのか。いや、あったとしても、絶対に従えない。

『もう一度言う、今すぐ戻れ! こちらは任せろ!』
(誰を?)

 自問する。答えなど、一つしか無い。リーフェイスをだ。それを、彼に任せる? 全く意味が分からない。
 なぜこの男は、こんなに自信を持っているのだ。ツェルニの有様を目の当たりにして、なぜ任せろなどという言葉が出てくる。自分の能力を、本当に把握しているのか。何一つとして、理解できない。
 そもそも自分が、大人しく従うのはなぜだ。武芸者が弱いのは罪だ。死罪に値する。そして、無知も罪だ。両方合わされば、救いようがない。この男は、自覚したはずだ。自分の――自分たちの弱さを。なのに、なぜそれを理解しない。納得できず、そして許せない。なぜ、それを確実に遂行できる能力がないと判断できないのだ。
 思考能力を粉砕されるほどの衝撃を受けて。それが溢れた瞬間――

「ふざけるなぁ!」

 レイフォンの中で、何かが切れた。



□□□■■■□□□■■■



『ふざけるなぁ!』

 その絶叫に、カリアンは思わず身を竦ませた。恐怖から、反射的に動いたのではない。迫る危険、それに備えるための挙動だった。つまり、今の声にはそうさせるだけの敵意――いや、もう殺意と言っていいだろう。明確に自分を害すると思わせる感情が、込められていたのだ。
 武芸長であるヴァンゼですら頭を抱えている。声を直接浴びた念威繰者などは、哀れなほどにうろたえていた。

『任せろだって? 悪い冗談だ、悪夢でだって、そんな言葉は出てこない!』

 レイフォンがどれほどの活躍をしても、圧倒的な技を見せても。それは所詮、念威端子ごしの映像でしかない。それを痛感させられる圧力。
 ツェルニの武芸者だからか、後輩だからか、それとも同じ人間だから。結局は彼がこちらを害することがないと、誰もが思っていた。そして、なんだかんだ言っても、最終的には言う事を聞かせられる。そんな楽観が、無意識の内にあったのだろう。それを、真っ向から砕く罵声だった。
 司令部の誰一人として、生きた心地がしていない。彼は汚染獣という化け物を屠殺する、極めつけの超人。それを、今更実感できた。牙が自分に向かうことによって。

『まさか、あなたは、自分がリーフィを助けられると思っているのか? 半人前の武芸者しかいない都市の、御山の大将……それがあなただ! 今の都市の有様を見てみろ! これが、あなたの中心にいる武芸者の実態だ! これを見て……誰があなた『程度』に娘を任せると思っているんだ!』

 ガリリ、音声にノイズが走る。レイフォンが漏れ出る剄、それが念威端子を圧迫したのだ。悲鳴のような異音は、次第に大きくなる。それに比例して、殺意も増大していった。

『何も出来やしない! 武芸者ですらないあなたに出来ることなんて、なにもない! ああ、幼生体くらいいくらでも撃退してやるさ、口ばかりのあなたとは違って! だから……そこで黙ってみていろ!』

 それこそが、彼の本心だ。多少口汚くはあっても、全くの本音。疑う者はいなかった。
 レイフォン・アルセイフにとって、ツェルニの武芸者は武芸者ではない。ただの半人前。将来、武芸者になるかもしれない者達。だから、期待などしないし……仲間だとも思っていない。ある意味、ツェルニの武芸者は、彼の庇護の対象だったのだ。
 ヴァンゼの顔が、屈辱に染まった。いや、彼だけではない、その場にいる武芸者全員の顔が、苦渋を飲んだものになる。しかし、誰も言い返せない。レイフォンを恐れているからではない、全くもって、彼の言葉に嘘偽りがなかったから。不測の事態があった、そう言い訳するのは簡単だ。だが、結果として。彼らはツェルニを守れていなかった。それだけが結果だ。そして彼は、圧倒的な戦果で結果を出している。大言を吐く実力があると、誰もが思い知らされていた。
 悲しいほどに、何も出来ない。彼の言う通り、ただ偉そうにふんぞり返っているだけだった。
 しかし、それで引いてはいけないのだ。指揮官という立場にいる以上は。
 ヴァンゼは決意する。

「待て……いや、待ってくれ!」

 がたがたと震える体を押さえ込みながら、それだけを言うのに恐ろしく苦労した。レイフォンの殺意が、一点に集中した。たったそれだけで、気絶してしまいそうになる。一都市の頂点に立つ武芸者とは思えない、情けないばかりの姿。それが自分の本当の姿だと自覚させられて、苦笑すらできない惨めさ。

(おれは、いつからこんな風になってしまったんだろうな……)

 ツェルニに入学して、突出した武もなく、ただの一年として努力した。進級するごとに実力を上げて、ついに武芸長として君臨した。それで、満足していたのだ。他都市を見れば自分くらいの人間などいくらでもいる。同じ学園都市にすら、実力に勝る者は多い。それを知りながら、今の地位であぐらをかいていた。そこにいるだけで皆が傅く権力を、いつから自分の力だと錯覚していたのだろうか。
 頂点に座り続けた。今更降りられないそこに、卒業まで居続ける事になるだろう。だからこそ、責任を取らなければならない。どれほど泥に塗れようと、汚辱を浴びようと、義務を果たさなければいけないのだ。それが、自分に出来る唯一取れる責任の取り方。

「お前の言うとおり、おれには何も出来ない。半人前にすらならないと、今更思い知った」
『なら……』
「だが! 地位がどんなに分不相応なものだとしても、責任はある! おれは武芸長として、一人でも多くの武芸者が生還できる作戦を選択しなければいかん!」
『そんなことは、僕に関係が無い!』

 拒絶の言葉。当然だ、彼の向かう先にいるのは、見知らぬ誰かではなく、娘なのだ。誰が、半人前と分かっている者に任せる。
 ただの決意では、納得しないだろう。レイフォンは実力も、言葉も、何もかもを信用していない。その上で耳を傾けて貰うのであれば、相応のものを差し出さねばならない。そして、ヴァンゼに差し出せるものなど、一つしか無かった。

「命を賭ける」
『……え?』
「命を賭けると言ったんだ。彼女に、絶対に汚染獣を通さない。生きたまま食われたとしても、絶対に無事に返す。ツェルニの武芸者を救ってくれ。お願いだ……お願いします……!」
『今更……その程度で……』

 その程度で、ヴァンゼを信用できるようにはならないだろう。命を賭けた程度で劇的に強くなれるのであれば、弱さに嘆く者などこの世にいない。だが、覚悟だけは見える。リーフェイスに汚染獣が迫った時、その身を餌にして、逃げる時間を稼ぐ。本当にそういう選択をするだろうと思わせる、意思だけは見えるのだ。
 命を賭けたところで、強くはなれない。だが、命を差し出せば不可能を可能にすることはできる。
 レイフォンの歯ぎしりが聞こえた。ヴァンゼの覚悟は、容易く切り捨てていい類の者ではない。

「足りないなら、わたしの命も賭ける」
「カリアン、お前……」
「ツェルニの為であれば、わたしは何でもする。ここで命を渡せば助かると言うのであれば、喜んでそうしよう。だから……頼む。これが終われば、どんな報いでも受ける。だから、お願いです……ツェルニを、救って下さい」

 端子越しに頭を下げる。それが相手に見えていなくとも、そうしない事はできなかった。
 カリアン・ロスは、誰から見ても悪辣な男だ。他者を騙し、引っかけ、脅し、生徒会長になった。その地位にありながら、好む者よりも嫌う者の方が多いのが現状だ。そして、口癖はツェルニを救う、その為なら何でもする。
 他の何が嘘であっても、それだけは嘘ではない。その為であれば、命もいらない――それだけは、本当だ。

『……く、ぅ。卑怯だ、そんな事……』

 レイフォンの歯ぎしりが大きくなった。念威端子の悲鳴も、いよいよ限界が近い。
 葛藤する彼に、誰もが祈る。この場にいる者で、自分の不甲斐なさを感じない者はいない。そして、都市の運命を一人に押しつける惨めさを感じない者も。それでも……いや、だからこそだろうか。ただ、祈り続けた。

『くそおおおぉぉぉ!』

 端子の悲鳴が止まるのと、爆音が響いたのは同時だった。
 絶叫と、轟音。二つが室内に響き渡る。前進がはじけ飛びそうな衝撃波を、別の場所にいながら感じそうだった。

「レイフォン・アルセイフの反応、反転しました! 指定区画へと向かっています!」

 希望は、再び戻った。ツェルニは救われる。その言葉を代弁するように、声が踊るままに言う念威繰者。
 彼は約束を果たした。守る必要の無い約束をだ。自分を裏切り続けた都市を守りに、自分が守るべき者に背を向けて戦いに赴いている。ここで惚けていれば、ヴァンゼは本当にただの裏切り者になる。

「戦える者は全員おれに付いてこい! カリアン、指揮は任せる。と言っても、これで正真正銘、予備兵力もない以上、やる事なんてないんだがな」

 微笑を浮かべながら、防刃ジャケットの前を止める。そして、すぐに真剣な顔に戻した。

「おれは帰れないかもしれん。その時は……頼んだ」
「戻らなくていい、とは言わない。君はまだ、ツェルニに必要だ。だが、君がそうして義務を果たすというならば止めない。わたしは、生き残って義務を果たそう」

 二人の視線が合わさる。思えば、随分といがみ合ったものだった。それも、大抵の場合はヴァンゼが泣きを見たが。
 だが、そのどれもが。ツェルニ存続の為に、全力であった。それらも、今であれば笑い話に出来る。今回の事も、笑い話に出来るようにしなければならない。

「また」
「ああ、また」

 最後になるかも知れない、別れの挨拶を済ませる。
 外に出て錬金鋼を復元し、すぐに近くの屋根へと飛び乗った。単純な速さであれば、地面を走った方が早い。だが、リーフェイスがいる場所を考えると、この高さは維持した方が良い、そう判断した。
 目的地まで全力で走りながら、強く錬金鋼を握った。遅すぎる……いや、違う。レイフォン・アルセイフが早すぎただけだ。どれほど軽く見積もっても、彼は倍以上の速さがあった。ヴァンゼですら、速力持久力共にツェルニ最高水準であるというのに。いかに自分が未熟か、走るだけで思い知らされる。

「た……隊長……追いつけま……少し……速度、落として……」
「待っている暇はない! 後から追いつけ!」

 今ですら、小隊員レベルでも脱落者が出る速度を維持しているのだ。ヴァンゼも、今の状態で長くは持たない。これ以上の速度を維持し、長時間戦闘していたレイフォンには、一生かかっても追いつける気がしなかった。
 戦闘を走るヴァンゼに、ひらりと一枚の金属花弁が寄ってきた。彼配下の念威繰者のものよりも、遙かに洗練された動き。

「丁度いい、道を案内してくれ」
『何で、来たのがあなたたちなんですか……レイフォンはどうしたのです?』
「彼には向こう側の戦場を見て貰っている。だからおれたちが来たのだ」
『……どうせ、無理矢理そうさせたんでしょう。本当に最低です』

 レイフォンよりも遙かに直接的な侮蔑の言葉。それを聞いて、ふと、彼女もまた天才だと言う事を思い出した。
 もしかしたら、天才と凡人では、世界が違うのかも知れない。下らない考えを笑った。そんなわけがない、どちらもこの世界に生きる、ただの人間だ。もしそうでないなら、こんなにも彼らが怒る事にはならなかったはずだ。理不尽を感じることはない。兄に強制されて、武芸科に転科するような事もないはず。

「自分が最低だというのは、今日一日で嫌と言うほど自覚したさ。だが、だからこそこれくらいはしなければならん」
『……早く来て下さい。あなたたちに割り振る端子すら惜しい状況なんです』

 苦しそうにそれだけを伝えて、通信を終える端子。ヴァンゼのすぐ前に出てくると、速度をやや早めに設定し先導を始めた。フェリは優秀だ。能力も考慮して、最短距離を算出済みだろう。
 ついて行くこと幾ばくか、二人目の脱落者が出たあたりだろうか。正面に目的地――鐘楼を持った教会――を肉眼で確認できる距離になった。その時だ、念威端子が、ふっと消えるように急加速したのは。

(なんだ?)

 唐突すぎて、自問した。理由など一つしか無いと思い出したのは、すぐ後だった。
 教会にある塔の頂点で、ちかりと光が瞬く。見慣れたものだ、見間違う筈がない。小隊での連携訓練に、武芸大会の時に、何度も目にしたそれ。念威繰者唯一の攻撃手段。本来情報収集に使われるそれを意図的に暴走させ、端子の消滅と引き替えに爆発を起こす。念威爆雷が弾ける時、剄が念威と反応して起こす光。
 教会に間近まで近づいた時にもう一度、今度は連続で発光が起こった。まずい……今ので全ての端子を使い切った可能性が高い。今教会の屋根に飛び移ったとは言え、頭頂部まではまだ結構な距離がある。のんきに階段を上っていては間に合わない。ヴァンゼの決断は早かった。

「お前達は後から付いてこい!」

 屋根がへこむほど踏み込んで、一気に数メルトルも跳躍。棍状の錬金鋼を壁面に突き刺して、足りない距離を稼ぐ。同じようにさらに二度壁を蹴って、やっと鐘楼にたどり着いた。
 体をすっぽり隠せるほど巨大な錬金鋼を正面にして、怯え縮こまる少女。半ば体をはみ出して迫る三体の汚染獣。その内一体が、今少女を害さんと、鋼鉄すら抉る爪を振り上げていた。すぐ盾になるべく飛び出そうとして――からだが動かない。道中に無理な速度を出したせいで、体が上手く動かない。剄は一時的に枯渇し、膝が笑って今にも倒れ込みそうだ。そうしている間にも、爪は少女へと迫っていき。
 いきなり、階段から何かが飛び出した。それは汚染獣に立ちはだかると、何かを掲げて立ちふさがる。強烈な一撃に、小さな影は容易く壁まで吹き飛ばされた。重い音が響き、銀色の髪が散るように横たわる。そのままぴくりとも動かない肢体の傍に、くの字に折れ曲がった念威繰者専用の重晶錬金鋼が転がった。
 フェリ・ロスだ。彼女は念威端子を操作しつつも彼女の元に走り、今やっと到着したのだろう。端子を通じて汚染獣の驚異を知りながら、戦闘力もないのに立ちはだかる。並大抵の事ではない。
 彼女が稼いだのは、ほんの一瞬、たった数秒だけだ。だが、それで十分だ。その僅かな時間で、ヴァンゼは体勢を立て直せる。いや、仮に立て直せていなかったとしても、その前に飛び込んでいただろう。
 別方面から突き立てられる牙、それを錬金鋼で受け止めた。念威繰者の錬金鋼と違い、最初から打ち合う事を前提に設計されている。たとえ汚染獣の一撃だろうと、折れ曲がるような事はない。接触面から火花が散り、ヴァンゼは体が壁にめり込む錯覚を覚えた。それほどの衝撃だ。

「う……おおおぉぉぉ!」

 汚染獣と正面から力比べができる者は、ツェルニに殆どいない。逆に言えば、ごく限られた人間は幼生体を押し返せる力があるという事だ。ヴァンゼは、その数少ない人間の一人だった。
 錬金鋼に軌道を反らされた爪が、脇腹に刺さった。深い。だが、内蔵には届いていない。まだ戦える、それを感じて、両足を思い切り踏ん張って腕を突き出した。汚染獣は力負けし、爪を押し戻される。
 腹から冷たい感触が消えたのを確認して、思い切り衝剄を放った。技と言えないような、集中されてもいない衝撃波。しかし、体が半分はみ出た汚染獣を落とすには、十分の威力だった。
 すぐに振り向く。まだ汚染獣は、二体も残っているのだ。またも迫る、命を刈り取る鎌。錬金鋼を突き出すがしかし、今度は耐えきれず壁に叩きつけられた。がは、と肺から空気がはじき出される。剄とは呼吸によって発生するものであり、つまり呼吸できなければ剄を生成できない。剄を生成できない武芸者など、ちょっと身体能力の高い人間だ。
 振り上げられる腕に備えて、錬金鋼を持ち上げる。それが無意味なのは分かっていた。活剄で体を強化しても、完全には受け止めきれなかったのだ。剄の補助がない今、受け止めきれる筈がない。分かっていても、逃げようとは思わなかった。死の際に思ったのは、自分が死ねば少女が逃げる時間を稼げるだろうか、と言う事だ。
 しかし、想像していた死の瞬間はやってこない。

「隊長おおおおおっ!」

 追いついた隊員が、汚染獣を横合いから思い切り叩く。その程度で死ぬ汚染獣ではないが、しかし隣の汚染獣に思い切りぶつかった。間にあった柱も砕き、けたたましい音が響く。爪は思い切り床を抉って、石のかけらをばらまいた。
 好機だ。呼吸を整える余裕ができた。汚染獣は、体勢を崩されて次の行動に移れない。
 ただ空気を吸うだけの行為が、周囲を震動させるほどの気合い。思い切り一歩を踏み込んで、重なり合う幼生体をすくい上げるように一撃を見舞った。衝剄を纏わせた、今できる最高の一撃と確信できるもの。派手に吹き飛んではいたが、死んでいないだろうというのは、腕に重く残る感触が伝えている。
 驚異は去った。この場にはもう、汚染獣はいない。倒れ込みたくなるほど体が重くなったが、なんとか棍で支える。

「すまん、助かった。引き続き、護衛をする」
「何を言ってるんですか、隊長! 早く医者に診て貰わないと!」

 隊員の視線は、血を流すヴァンゼの腹に向いていた。彼の体が休憩を求めているのは、酷使した体と無茶な剄の使い方だけではない。

「肉は切られたが、内臓までは届いてない。続行可能だ」
「ですが!」
「何度も言わせるな。こんな子供まで戦わせておいて、ちょっと怪我をしただけで戦線離脱、などという情けない真似ができるか」

 ヴァンゼと隊員の視線両方が、うずくまったままの少女に向かった。汚染獣が去った後も、錬金鋼に隠れるようにしてしゃくり上げている。実際に目で見た少女は、思っていたよりも遙かに子供だった。知らなかった、等というのは言い訳にならない。自分はこの子に戦わせながら、司令部でふんぞり返っていたのだ。そして、この子が驚異に晒されていると知りながら、レイフォンを返させた。救いようのない、愚かな人間だ。
 無知は罪、まさしくその通りだ。自分の無知さは、百回死んでも許されない。せめて、死ぬ気で守るしかないのだ、ヴァンゼ・ハルデイという人間は。
 ヴァンゼは隊員にフェリの様子を見させながら、自分は周囲を警戒した。

「どうだ?」
「だめです、意識が戻りません。後頭部を強打して、血を流しています。すぐにでも見て貰った方がいいのですが……」

 第一区画から第三区画は、市街地にまで汚染獣が進入してきている。とても救護班がこれる状況ではない。

「ここはおれに任せて、お前はフェリを抱えて行け」
「ですが! 彼女も武芸者です、こういう覚悟はできている筈です!」

 叫ぶ隊員を、ヴァンゼは強く睨んだ。それだけで黙る。

「いいか、我々の価値は平等ではない。この子やフェリは、我々が何人死んでも守らなければいけない能力を持っているんだ。行け」
「それでは、隊長が……」
「二度言わせるな。ツェルニの武芸者が、これ以上ツェルニのお荷物にならないために」

 渋っていた隊員も、その言葉に、下唇を噛みながら従った。フェリを体に、特に頭をしっかりと固定して、階段を下りていく。
 後に残った二人。少女はいつの間にか泣き止んで、錬金鋼の隙間からそっとヴァンゼを伺っていた。少女の視線を捉えながら、ふっと笑う。どんな類いの笑いか、分からなかったが。

「すまない、我々が弱いせいで、恐ろしい思いをさせて。だが……できるなら……まだ、戦ってくれ。情けないのは承知している。だが、おれでは誰一人救えないんだ。武芸長などと行っていても、いざとなればこの様だよ。すまない……おれのツケを払わせるような事をして……。頼む、彼らを助けてやってくれ。おれには、できないんだ……」

 少女は、ただ首を傾げるばかりだった。ヴァンゼの言葉など、全く理解できていない。当然だ、ヴァンゼも理解されると思っていって無かったのだから。ただ、自分のなさけなさを吐露しただけだ。
 だが、少女は動いた。思いが伝わったわけでもなく、ただ自分の意思で。思い錬金鋼を引きずって、塔の端まで持って行く。そして、剄の砲撃を再開したのだ。
 強かった。自分などよりも遙かに。……いや、違う。否定した。

(おれたちが弱いだけだ。誰もが強かったのに、ツェルニの武芸者だけが決定的に弱かった。だから、こうして強い者に頼らねば生きることすらできない)

 何も言わず戦ってくれる少女に、ただ感謝をする。
 走る光を視界の端に映しながら、知覚領域を最大まで伸ばす。点滅する光によって、視覚で闇に潜む汚染獣を見つけるのはほぼ不可能。とりつかれる前に落とすには、それ以外の方法で発見するしかない。
 ばたばたと、下から慌ただしい音が響く。おいて行かれていた隊員達が、やっとおいついてきたのだ。
 超絶的な技量で、剄の閃光を放ち続ける少女。それを発見した二人は、ただ呆然と、その光景を眺めていた。
 気持ちは痛いほど分かる。この業を見て、目を奪われない訳がない。しかし、今の状況はそれを許していなかった。

「何を惚けている! 彼女を囲んで警戒だ! 何をしに来たか思い出せ!」

 言われた二人は、慌てて少女を囲んで武器を構えた。視覚が頼りにならない時の警戒方法、それを行いながら。
 少女が汚染獣を軽々焼き払う光景を見ながら、ヴァンゼは祈った。ツェルニが無事であるようにと。
 もう、ヴァンゼに出来ることなど、それしか残っていなかった。



[32355] じゅういっこめ
Name: 天地◆615c4b38 ID:b656da1e
Date: 2012/06/09 22:06
 こんなに落ち着かない気持ちで戦うのは初めてだ。今すぐ戻りたくなる気持ちを抑えるのがこれほど苦しいというのも、初めて知った。
 剣に目を落とす。白金錬金鋼らしき剣の輝きは、はっきり言って鈍い。まるで切れ味を感じさせず、見た目だけならばなまくらとも思わせるそれ。剣に揺らぎがある時、それは己の心が揺らぐときである。まさしくその通りだ、レイフォンの精神は、戦闘中だと思えないほど崩れていた。
 それほど酷い状態でも、汚染獣の討伐それ自体は、つい先ほどまでよりも楽だ。左手に余計な重りがない。右手の剣を振り切ることが出来る。鈍りきった集中力でも、腕を伸ばすのに躊躇する必要が無い、それだけで生きた技になるのだ。
 今、この場にはレイフォンしかいない。いや、正確に言えば、この戦場の中心地にはレイフォンだけがいる。そこには、彼の剣を阻むものは、何もなかった。
 ツェルニの武芸者は、戦線を維持できるぎりぎりの位置まで下がっている。汚染獣を押し返す、それを考えないのならば、後退するのは簡単だ。前進する汚染獣を無視し、接敵してしまった者を助ける。それだけすれば、後は脇目もふらずに逃げれば良いのだ。それは同時に、武芸者に「お前にはそこを守る能力がない」と行っているのと同義であるが。
 普段では反感の一つでは済まされない命令に、しかし文句は出なかった。誰もが感じていたのだ、自分たちはもう限界だと。それ以上に、もう戦えるだけの体力が殆ど残っていなかったというのもある。それは、レイフォンやカリアンにとっての追い風であり。同時に、武芸者達にとっても救いの神であった。
 レイフォンは跳ねる。自分だけの戦場、もっとも慣れ親しんだ戦況。懐かしさを感じさせる空気は、どこもかしこも違和感ばかりの彼には有り難かった。
 剣に剄が集まる。膨大かつ暴力的な、衝剄の予備動作。こんなものに巻き込まれたら、ただでは済むまい。通常考えなくても良い可能性を、今まで考慮しなけければならなかった。だが、その心配ももうない。
 右足を軸にして、思い切り体を捻る。体も、腕も、剣も、何もかもが自由だ。助けなければならない者がいないなら、銃はいらない。銃を必要としないならば、剣の筋はより理想に近づく。揺らぐ精神の中、自由さだけを頼りに剣を振った。汚染獣が自分を囲んでいるが、そんなものは全く問題にならない。なぜならば、すぐに全て消え去るのだから。
 回転に合わせて、剣から膨大な剄が吹き出た。先端から収束した剄を吹きだし、圧縮剄の刃を飛ばす。外力系衝剄に分類される閃断に似た技だが、レイフォンのそれはもっと荒々しい。上下方向にも乱れた剣閃は、周囲にあったあらゆる物をなぎ倒した。
 堅い装甲が壁に突き刺さる。肉片が地面を埋め尽くし、体液が抉られた地面を埋めた。約三十体、レイフォンが一撃で屠った幼生体の数である。この戦場で殺した総数となれば、五十をゆうに超えていた。それほどの大戦果を上げながら、しかし汗一つ流さず涼やかな顔をしている。
 柄の握りを確かめ直した。感触自体は変わらないが、温度は遙かに高い。刀身が剄の過剰供給で内部から圧迫されすぎ、煌々と赤く熱を放っている。剄が錬金鋼の限界を超えたときに、よく起こる現象の一つだ。
 レイフォンはその場に剣を投げ捨てると、武芸者の一団へと歩いて行った。正確に言えば、その中の一人、錬金科の生徒の元に。

「換えの錬金鋼をお願いします」

 現在用意できる錬金鋼で殲滅し切るのが難しい。であれば、錬金鋼を使い捨ての道具にしてしまえば良いのだ。既にカリアンから了解も貰っており、各所にいる錬金科の生徒にも通達済みである。
 ……はずなのだが、目の前の錬金科生徒は無反応だった。レイフォンを見上げて、ただ呆然と目を見開いている。そこには恐怖も憧憬も感じられない、ただ目の前の光景が信じられないという驚愕。
 苛立ちながら、催促するように手を差し出す。

「換えの錬金鋼です」
「あ……ああ、はい! すみません!」

 錬金鋼を受け取り、すぐにきびすを返した。相変わらず、手で収まりの悪い感触を確かめながら。
 その場を離れる時に、誰かが何か叫んだ気がした。が、今のレイフォンにそれを相手にする余裕などはない。言葉を聞きもせずに、すぐに走り出した。
 体を苛立ちが包む。理由は分かっている、リーフェイスがまだ戦っているからだ。念威端子ごしに無事を聞いたときは、恐ろしく安心した。一時的にだが、その場に崩れ落ちた程だ。しかし、その感情はすぐに反転させられる事になる。リーフェイスがその場に残って、戦闘を継続していると言うのだ。
 リーフェイスは戦うことを選択した。それはつまり、自分が武芸者であることを肯定したと言う事だ。年齢も、性別も、一切の区分無く能力と結果だけで計られるのが戦場だ。たとえ四歳だとしても、それを選択した以上は、受け入れなければならい。……だからと言って、レイフォンの親である部分が認められるかというのは別問題なのだが。
 とにかく心配で、集中できない。変えたら思い切り怒ってやろうとか、そんな考えばかりが浮かぶ。
 後からどうするにしても、とにかくこの騒ぎを終わらせなければ話にならない。その思いが、レイフォンに錬金鋼の使い捨て戦術をとらせていた。
 次の戦場までたどり着いたのだが、その場には武芸者が残っていた。
 戦場で戦い続けていたのではなく、撤退し切れなかったために取り残されたのだ。その場合に、小隊員が囮となって残るのだが、今は正にその状況である。
 確かに状況それ自体は宜しくないのだが、しかしレイフォンには楽な戦場だ。武芸者が受けに徹してくれているために、広域攻撃をしても巻き込む心配が無い。下手に飛び跳ねられては、迂闊に攻撃も挟めないのだ。そして、人数がいても必ず固まっていてくれる。ばらけられると面倒を見る盤面が一気に増す。そうなれば、剣では処理が追いつかない可能性が出てくる。
 頭上から強襲、まず頭を武芸者に向けている汚染獣を切った。幼生体の攻撃手段は、正面に偏っている。つまり、武芸者の方向を向いている者を倒してしまえばいい。そうすれば、ほんの一瞬だが、命の保証をできる。
 状況は、レイフォンにとってとても都合がよかった。残された武芸者を食い殺そうと、近くの汚染獣が集中している。本人からすれば、生きた心地のしない絶体絶命だろう。しかし逆に言えば、大規模な剄技一発で殲滅できる状況でもあるのだ。
 汚染獣と自分たちの間に空白を作る。剣を伸ばしきっても余裕を持てる隙間だ。あとは、その場にいる武芸者が動き回りさえしなければいい。

「すみません、その場を動かないで……っ!」
「やはり、お前だったか」

 振り向いたレイフォンは、目を見開いた。その光景にどう反応すれば良いのか、感情が追いつかない。ただ驚きばかりが先行して、彼女に対し、どんな思いを抱けば良いのかすら分からない。
 つい先ほどに諍いを起こし、けんか別れをした女性、ニーナ・アントークがそこにいた。しかし、先ほどまでとは似ても似つかない姿だ。
 一対の鉄鞭を我が手のように扱う彼女は、しかし一本しか持っていない。もう一本は、汚染獣に踏み荒らされてひび割れた地面に転がっている。錬金鋼を取り落とした左手、その肩からは、大量の出血をしていた。傷口を見るに、爪を避け損ねたのだろう、斜めに深く抉られている様子だった。残された右手も、剄が通っている様子はない。疲労とダメージで、もはや剄技らしい剄技は使えないだろう。完全に死に体だ。しかし、もう鉄鞭を振り上げるのすら難しい状態でも、ニーナの目だけは死んでいなかった。
 死を間近にした状況でありながらも、輝きを陰らせない瞳。うらやましいとは思わない。だが、凄いとは思う。自分が一度折れただけ余計に。

「そうか、お前は、戦ってくれたのか……」

 そして、今もなお。窮地を脱した直後でありながら、思うのは自分の身ではなくレイフォンの事だ。
 自分もかつてはこの様な輝きを持っていたのか、考えて、すぐ否定した。少なくとも、レイフォン・アルセイフの思いはもっと不純なものだった。目的の為に、武芸者の誇りを踏み台にしたのだから。そして、同時に。いや、だからこそだろう。その汚れなさに怒りもした。
 その瞬間、確かに彼はニーナに気を取られていた。一瞬、戦場だという事を忘れてしまう程に。

「あ……危な……!」

 しかし、そうだとしてもだ。レイフォンの武芸者としての練度は桁違いなのに変わりは無く。隙を見せたと言っても、それで汚染獣につけ込まれるほど、弱くはない。
 上半身だけを半回転させ、汚染獣に対して半身になる。右前と左前、両側から僅かにタイミングを変えての連撃。まず一つ目、右側から先行する一撃を、剣の先で軽く撫でてやる。優れた武芸者とは、力学を実学で極めた者、と言ってもいい。どれほど力に優れていようが、そこに散漫さが残っていれば、軌道を変えるのなど容易だ。
 鋭い爪撃が地面にめり込むよりも早く、一瞬遅れてやってくる左側の攻撃に向く。今度のそれは横薙ぎの一撃、爪の外側から押して、通過させようとした。だが、

「あ」

 短く小さく呟く。変な体勢だったために、持ったよりも力が入らなかった。爪は依然、レイフォンの体を抉るコースだ。集中力が低下した弊害、散漫すぎる意識が招いた事態。本来であれば致命的なミスだが、それは彼に当てはまらなかった。
 半歩分、左足を引く。同時に、重心を残すようにして上体を反らした。それだけで、爪は胴の前を、服すら切れず通過する。

(幼生体相手でも死ぬときは死ぬ。分かっているつもりだったんだけどな……どうも集中しきれない。ここに来て、余計なことを背負いすぎたか)

 戦い、勝つことだけを考えればよかった昔とは違う。天剣も何もない、ただの武芸者。力と立場がずれているだけで、これほど面倒を被るものなのか。
 脇を締めて構えていた剣、それを左から右に払う。無造作にやったようにしか見えない一撃。しかし、攻撃を仕掛けた汚染獣の顔が、上下に二分される。
 さらに翻る剣。烈風のごとき衝剄を従えたそれは、付近だけではなく、周囲の汚染獣全てを薙ぎ払う。作られた余裕は、先ほどよりもずっと大きなものだった。
 息を吐きながら、剣を肩に乗せる。

「……わたしが言うまでもなかったな」
「ああ、いえ……」

 ニーナは錬金鋼を構えていた。持ち上げるのも辛いだろうに、それでも助けようと力を振り絞っている。
 レイフォンは彼女の言葉に、何と答えて良いか分からなかった。否定したくはあったが、実際言うとおりなのだ。声をかけられるより早く、体を背後に向け始めていた。こと武芸において、彼女にできてレイフォンに出来ないことは一つも無い。技術的にも剄の量的にも、それだけ隔絶した差がある。

「とりあえず、ここのを片付けちゃうんで。少しそこを動かないで下さい」

 忠告だけ残して、また向き帰った。これで前に出てきて、巻き込まれるようであれば、その時は自己責任だ。
 腰を落として剣を後ろ側に構える。剄を収束させるのに、特別な意識など必要ない。呼吸や体を動かすのと同様、全く自然に行われる。それほどまでに繰り返してきた動作。その爆発的な剄の量と収束率に、剣に一筋、亀裂が走った。背後で息を呑む声が聞こえる。
 思い切り上半身を回転させ、自身を竜巻と化す。扱っている獲物が剣ではなく、ハンマーと錯覚するような荒々しさ。それを肯定するかのように、放たれる衝剄も暴力的だった。瀑布、としか言いようのない、十数の巨大な衝剄弾丸。汚染獣、壁、とにかく何かに接触すると同時にそれが炸裂。指向性を持った弾丸は、例外なく恋うか範囲内の物を巻き込み、粉砕した。

「凄まじい……」

 砕け散った何かが剄に巻き上げられて作った壁。それを見ながらニーナは、それしか口に出来なかった。同じ武芸者がやったとは思えない、それほど現実離れした光景だ。
 レイフォンは、手に持っていた剣をその場に捨てる。地面に落ちると同時に、刀身が半ばで二つに分かれた。今度は圧力に耐えきれなくなる前に、瞬間出力に負けたようだ。どうせ一発限りの道具、惜しさは全くない。

「次の剣、持ってきて貰って下さい。あと、けが人が一人です。救護班を」
『了解しました』

 体についたままの念威端子に注文した。もっとも、言う前に動いていてくれた可能性の方が高いが。
 戦場にいるのに錬金鋼を持っていない事に、少し妙な気分になる。戦うための機能である自分に、戦闘するための道具がない。錬金鋼がなければ戦えない、と言う事もないのだが……幼生体程度ならば素手でも相手にならない。だからといって、この空白を埋めてくれはしないのだ。
 改めて見たニーナは、本当に酷い姿だった。全身薄汚れており、裂傷も激しい。戦闘衣が所々破けているのは、汚染獣の攻撃を受け損なったかだろう。
 武芸者の着る戦闘衣は、錬金鋼ほどではないが錬金術が生み出した優れものだ。それですら、汚染獣の爪を前にしてはないも同然、気休め程度にしかならない。とりわけ深そうな左肩の傷は、それほど時間が経っていないのだろう、まだ血を吹きだしている。死にはしないだろうが、放って置いて良い傷でもない。

「先輩、手をどけて。あとそこに座って下さい」

 腰についたポーチから、包帯と消毒液を出す。汚染獣との戦いは、近くにいるだけで汚染物質に感染する危険を孕んでいる。その為に、汚染物質を除去する道具は、実践時に必ず配布される。
 慣れた手つきで、簡単に殺菌と止血処理を施す。といっても、道具が道具なので大したことはできないが。本格的なものは、あとから見て貰うべきだ。

「しかし、お前にはまだ……」
「どうせ錬金鋼が来るまで何もできませんよ」

 言いつのるニーナを、無理矢理瓦礫の上に座らせた。抵抗はない、と言うよりもできないのか。彼女の気丈さも、さすがに体力までは補ってくれないようだ。
 錬金鋼を持ったまま傷口を押さえていた右手をどかす。それと同時に、右手から鉄鞭がこぼれ落ちた。大小様々に刻まれた傷が、どれほどの激戦であったかを物語っている。
 レイフォンは、彼女の腕前をよく知っている。お世辞にも強いとは言えないが、幼生体にそう遅れを取るほど弱くないことも知っているのだ。ただ囮を請け負うだけであれば逃げ切れるだろう、それが彼女の実力だ。そんな彼女が窮地に陥るなど、運が悪いの一言だけで終わる物ではない。

「撤退支援のために、汚染獣を集めましたね?」
「……ああ。わたしはここの責任者だ。皆を生きて返す義務が、わたしにはある」

 レイフォンの責める様な言い方に、しかし断固とした態度で返した。作戦を失敗したのは認める、しかし選んだ作戦事態は間違っていない、そう態度が言っている。
 無残に切り裂かれた服を引きちぎって、傷口を確かめた。指で軽く摘みながらそこを開くと、奥に削られた骨が見えた。予想よりも深く抉られたかもしれない。

「痛みます。歯を食いしばって」
「ぐ……っ……づ、ぅ……あ゛」

 消毒液を撒いた瞬間、形容しがたいうめき声が届いた。これが相当痛いというのは、レイフォンも知っている。だが、やっておかないと、入り込んだ汚染物質がどうなるか分からない。最悪、気づかぬ内に体の中から腐って死ぬ可能性もあるのだ。
 スプレーをした部分が、血を洗い流されて赤い肉が見えた。繊維質が蠢く様のよく見える筋肉。その周りをうっすら覆う、黄色がかった白の光沢は、脂肪だろう。爪に抉られて崩れた脂肪が、血液と消毒液に混じって流れる光景が生々しい命を感じさせた。

「先輩は背負いすぎですよ。どんなに偉大な意志だろうと、死んでしまったら元も子もない」

 歯を食いしばったまま、荒い呼吸を繰り返す。激痛に犯された体を、なんとか活剄で調整しようとしているのだろう。しかし、呼吸がままならない状況で上手くいくはずもない。それを可能にするには、経験が必要なのだ。度重なる戦闘の経験と、そこで幾度も痛みを覚え、堪える経験が。彼女には何もかもが足りない。
 ひゅーひゅーと、口笛のような音が鳴る。活剄を使うのは諦めたのか、とにかく深く呼吸を繰り返していた。
 そして、激痛の並に浚われながらも、口を開いた。

「それでも、だ。私がここの、指揮と、皆の命を預かった以上、それより、生き残ることを、優先は、できない」

 痛みに途切れながらも、ぽつぽつと語るニーナ。

「ここは戦場で、僕たちは武芸者です。彼らがここで死ぬのなら、それは誰のせいでもない、本人が弱いせいです。先輩が背負う事ではないし、背負っていい事でもない」
「……」
「先輩のそれは希望的観測であり、理想論だ。こんな言い方をしたくはありませんが……あなたにそれを実行する力はありません」

 断固とした口調で言う。言っておかなければならない。
 武芸者の誇りをどれだけ語ろうが、ここは戦場という、命がもっとも安い場所だ。己の分を量り間違えれば、あっけなく容易く死ぬ。彼女の言葉は、強者の理論。それをやって出来る者が言うのでなければ、ただの自殺志願者でしかない。
 なにより、ニーナは今それを体験したはずだ。それなのに、

「なあ、レイフォン。わたしの言葉がただの綺麗事だというのは分かっている。それを通すだけの実力も、実績も、何もない事もだ。だが、わたしはやめんぞ」

 まだ、そう言い続けられるのだ。ニーナ・アントークという人間は。

「ここで誰かを犠牲にして、後から都市は助かった、よかったなどと言えん。武芸大会も同じだ。誰かが泥をかぶったり、手段を選ばずに汚い真似をしてツェルニが助かっても、これで良かったとは絶対に思えない。世間知らずで、綺麗事ばかりを言い続けた。だが……いや、だからこそ、これからも言い続ける」
「……そんなやり方、死のうとしているのと同じです」
「分かっている。いや、今分かった。それでも、わたしはわたしの性分を変えられなかったのだ」

 患部に包帯を巻いた後、残った布地を紐状にして、腕を縛り上げた。患部を圧迫し、少しでも血を止めて、汚染物質の回りを減らすために。
 恐らく、今回の件にだけ言っているのではない。レイフォンが武芸者の、さらに名誉ある立場にいながら闇試合に出ていた、それに対してもだ。

「闇試合に出たお前の気持ちも、お前に助けられたあの子の苦しみも、何一つ理解できない。わたしは所詮、足らないものなどなく育った。ならば、それを言い訳にして不正に目をつぶるのか? それだけは違うと断言できる。私は、苦しみを知らないからこそ、理想に準じねばならないのだ」

 治療を終えたレイフォンの手をぐっと握る。それには、振り払えない力強さがある。単純な握力ではない、意志に根ざした強さが。

「だが」

 人と話すときに、決して目をそらさないニーナが目を伏せた。いや、これは頭を下げているのか。苦痛に顔を歪ませながらも、体を前に倒していく。

「お前の行いと、リーフィの思いを侮辱したのはわたしが悪かった。許せないからと、お前達の事情を知らずに一方的に糾弾していた。すまない」
「いえ、いいんです。どんな理由があろうとも、先輩が言った事の方が正のは事実ですから」

 元より、誰かの理解を得たくてやっていたわけではない。家族だけは違ったが……。とにかく、他人にどう思われようと、どうでも良かったのは事実だ。
 だから、これで十分だ。彼女はメイシェンのように受け入れたわけでも、フェリの様に認めたわけでもない。だが、許せなくとも、理解しようと努力はしている。それだけでいい。一方的な排除ではないというだけで、事情は全く違ってくるのだから。これがグレンダンの時にあったら……今更考えても詮無い事である。
 複数の足音がこちらに向かってくるのが聞こえた。替えの錬金鋼と、ニーナの迎えだろう。つまり、この時は終わりだ。
 彼らが到着する前に、ニーナは口を開いた。どうしても、言いたいことがあったのだ。

「なあ、レイフォン。わたしはお前がうらやましいよ……。ツェルニが死ぬ危険さえなければ、素直に賞賛して、自分も頑張ろうと思えたかもしれない。お前を糾弾したのだって、実は嫉妬が理由だと言われても、否定できない。それほど、その力がうらやましかった。あんな事をしておいて、今更ツェルニを生かしてくれなどと都合が良いことは言えない。その上で頼む、今戦っている武芸者を助けてやってくれ。私たち隊長クラスの愚かな慢心のツケを、支払わされているんだ」
「最初からそのつもりですよ。ですが、一つだけ訂正させて下さい」

 たどり着いた錬金科生徒から、錬金鋼を受け取りながら答える。

「彼らが弱いのは彼らの責任です。それを背負うのは先輩でも誰でもない、本人だ」

 そうだ。彼女が引けないのと同じように、レイフォンもそれだけは引いてはならない。
 武芸者が弱いことは、絶対に肯定してはいけないだの。それを許すと言う事は、汚染獣に負けても仕方がないで済ませられるという事。過程がどうであれ、たとえ強制されてだとしても、強くなければならない。そうでなければ、いつか本人が、その弱さに殺される。必ずだ。

「もし先輩に責任があるとすれば、それは他者の弱さを認めてしまったことです。その結果が、今のツェルニの有様だと思って下さい」

 その言葉に、ニーナは打ちのめされたような顔をした。その場にいた救護班と錬金科生徒は、訳が分からないと疑問符を浮かべている。
 レイフォンは、ツェルニ武芸者の弱さを許すことは絶対にないだろう。そして、弱さを肯定している彼女の発言も、絶対に認めることはできない。――今この時も、リーフェイスは戦っている。そうさせる彼らの弱さを、どうして許せようか。
 彼らの弱さは、ただの怠慢の結果だ。怠けていただけなのだ。努力の結果、弱いのですらない。そうであってすら、戦場は例外を認めてくれないと言うのに。

「お前は……」
「先輩には悪いですが、僕はこの都市が嫌いです。リーフィに戦うことを強いるこんな都市、無くなれば良いとさえ思ってしまっている……」

 レイフォンの独白にびしりと固まったのは、ニーナではない。運悪くこの場に居合わせた生徒と、端子の先にいる念威繰者だ。顔から血の気が引いていき、狼狽する。武芸者でない彼らですら理解しているのだ。いや、どう目をそらしても認めないわけには行かないと言うべきか。
 今ツェルニが攻略されていないのは、彼の力によるものだと。学園都市で鍛え上げた武芸者など、小隊員ですら汚染獣を前にすればどれほども役に立たない。力という意味では、彼のみが希望なのだ。
 レイフォンは迷いを振り払うように、頭を振った。彼が何を振り払ったのか、それはその場のだにも分からない。

「つまらないことを言いましたね。僕はもう行きます。先輩は……自分では戦えないでしょうけど、指示だけならなんとかなりますよね。最低限の人員だけ残して、都市部に進入した汚染獣の駆除に向かって下さい」
「しかし、それではお前が一人に……」
「いても邪魔です。付いてこられたら、その人を守って戦わなければならなくなりますから。それ以上に、単独で戦う方が慣れてますよ」

 手に持った剣を、一度横に振るった。僅かに下に落ち込もう感覚。入力した数値がいい加減だったので、一本一本感触が違うのだ。
 続いて、縦に一度。握りを直した後に、もう一度、二度と振り折りした。感覚を掴んだところで、刃鎧を発動、さらに一度振って、いつもと同じになったのを確かめる。こうして一々調整しなければ、怖くて振れたものではない。
 剣からニーナに顔を戻すと、彼女の顔は、酷く傷ついたそれだった。しかし、レイフォンはそれでいいと思っている。意地悪でそう思ったのではなく、それを知れれば直すことが出来るのだ。
 弱々しかった顔は、すぐに力強さを取り戻した。救護班の人間に肩を貸されて、レイフォンと殆ど同じまでに視線を上げた。それもあって、まるで彼女が復活したかのように感じる。

「いつか、お前の隣で戦ってみせる。その時は邪魔だ等と言わせんぞ」
「……楽しみにしていますよ」

 冗談やお世辞ではなく、本気でそう言う。それがどれほど難しいかも承知しながら。
 レイフォンとニーナが背を向けたのは、殆ど同時だった。のろのろと連れられるニーナを身もせずに、高く飛び上がる。空から視線と感覚の二つで、汚染獣がいない事を確かめた。多少ならばどこかに潜んでいるかも知れない。だが、大ざっぱにでも確認して分からない程度であれば、誤差の範疇内だ。ツェルニの武芸者に任せても問題ない。
 次の場所へ向かう。そこが、最後の地区だ。だがその前に、意識を深く自分に沈めた。

(集中しろ。僕が剣を扱うんじゃない、剣のために僕が機能するんだ。この先の戦場に、味方なんてものは存在しない。あるのは敵か、その他だけだ。いつも通りの戦場……場所が違っても、武器が違っても、それだけは変わらない)

 レイフォンの目がすっと細まり、同時に色も抜け落ちていく。余計なことを考えそうになる意識も無理矢理砕き、彼は人間からただの殺戮機械になる。ただし、それはただの道具ではない。このツェルニは決して止められない、かつて最強の一角を担ったとても切れる刃。
 彼の行った行動に、特記すべき点はない。
 まずは索敵。数は分からずとも問題ない、必要なのは正確な位置情報だ。そして近づき、切りつける。もし遠いならば、衝剄を飛ばし、多数であればその規模を大きくする。敵が散っていたら、さらに範囲を広くするか、多少面倒だが何度かに分けて攻撃する必要があるだろう。
 特別な事など何もない、当然の事ばかりが列挙される。しかし、これを真似できる者はまずいないだろう。
 まず、一つ。レイフォンが、これだけは他の天剣授受者と比べても優れている、そう言えるもの。彼より早く動く者や、感覚器官が鋭い者はいる。だが、戦闘機動力の高さで追いつく者はいない。やろうと思えば出来る者はいる。ただし、それは動きだけだ。同じように戦えるかと言われれば、答えは否だ。真似てみた者はこう言うだろう「目が追いつかない」と。
 レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフの、天剣授受者としての彼を象徴する能力。それを上げるならば、誰もが学習能力と答えるだろう。観察しただけで奥義級の技すら盗みだし、時を置けば自己流に改良さえしてみせる。歴代の天剣でも最多の技を持っていたと言われているのは、伊達ではない。
 ならば、その学習能力を支えているものは何か。それは、力を見切る能力だ。いや、正確には目で見えているのとは少し違うのだが。まあ、見えるでも聞こえるでも感じるでも、言い方は何でもいい。とにかく、それを見ることができる。
 筋肉から筋肉に伝わる流れと、その強さ。一つ一つは無意味でも、全て集まればそこに意味が生まれる。それが即ち、技だ。さらに、体の中と錬金鋼でより大きく渦巻く剄の波。それは肉体のみで生まれた力など比べものにならないほど多彩であり、同時に変幻自在だ。それを持って、技は剄技となる。
 レイフォンにしか理解できない超感覚、それが彼に、ある種の確信をさせる。
 この世は力によって成り立ち、そして動いている。何一つ例外なく、物質は力の流れに沿って動くのだと。そして、それに触れる事は叶わずとも。観測することだけは出来るのだ。
 目で見る必要は無い。世界に力のない場所など、力学の届かない場所などありはしない。たとえ目に見えずとも、意識をすれば必ず、そこで力が流れている。
 彼の体は上下左右、あらゆる方向に揺れている。肉体の負担は活剄で強化できるが、視力まで不可能だ。連続してぶれる視界からは、信頼できる外部の情報など得られない。そんな状態であっても、敵、自分、障害物、全ての位置を正確に把握し続ける事ができた。これに鋼糸が加われば、さらに異常な軌道が可能になる。
 膨大な剄、高い判断力、精密な技法。その全てを支える、正しく異能。これに比べれば、剄の絶対量ですら見劣りする。
 地を蹴り、壁を蹴り、横合いから強襲するように接近した。視界ゼロの異様な世界はしかし、慣れ親しんだものでもある。力の流れは残酷なまでに事実だけを映し出す。だからこそ、目で見るよりも信頼できる、確実なものだった。
 接触まであと五歩――と言っても、レイフォンの五歩は数十メルトルにもなるのだが――そこに全く変化はない。汚染獣の力の流れには淀みも見えぬ、全くの無反応。この場にある強烈な流れは、レイフォン・アルセイフだけだ。
 まず、一つ。勢いのままにすれ違い、幼生体の首をはねる。二つ、放った突きは、的確に汚染獣の急所を貫いた。三つから八つ、三枚の刃板に形を開けた刃鎧を斜めに振り上げ、飛び上がろうとしていた個体も巻き込んで分解した。それと同時に、錬金鋼が悲鳴を上げる。レイフォンは思わず舌打ちした。
 刃鎧という技は見た目以上に錬金鋼に負担をかける。剄の量で、ではない。剄を半物質化すると言う事は、錬金鋼の中に異物を押し込むという事だ。刃鎧で負担を与えぬ為には、剄の精密な操作が必要になる。調整済み錬金鋼ならばいざ知らず、未調整で細かい操作の望めない武器では、やるにも限界があった。こんな武器でもなお錬金鋼に負担をかけずに扱えるとすれば、それは天剣の中でもただ一人、リンテンスだけだろう。もっとも、彼は剣も刃鎧も使わないので意味の無い仮定だが。
 刃鎧を放棄するには、その技は便利すぎる。錬金鋼の限界を超える能力を発揮する技、そんな構想がないこともないが、上手くいった試しはない。
 元より使い捨てなのだが、今限界が来られては困る。代用品になる錬金鋼を調達できないのだから。しかし。
 レイフォンは空を見上げた。正確に言えば、暗闇の中でひときわ輝く方向を。幾筋もの光線が帯を作りながら、夜を切り裂いている。
 その光景に、彼の心に二つの矛盾した感情、安堵と忌避感が生まれる。
 あの光を生み出しているのは、当然リーフェイスである。つまり、あれが見える限り彼女が健在であると言う事だ。だが、それは同時に戦い続けているという事でもある。彼女が武芸者であり、また武芸者である事を選択した以上は、それを否定しない。だが、実践で戦うには早すぎる。
 最も効率的な戦略を、そう思っても、体は上手く動いてはくれない。彼の意識は自然と空を飛ぶ汚染獣に向き、優先的に排除してしまう。ただでさえ刃鎧を常時展開しているのに、並列して衝剄を放つのだ。負荷は加速的に増していく。
 そういえば、と。手近な汚染獣をまた数体纏めて屠りながら、自分の体を確認した。
 レイフォンの姿は、ニーナのそれとは別の意味で、酷い有様だった。血と埃と砂と、とにかくいろいろなものを全身に浴びている。最初から殆ど気を遣っていなかったが、リーフェイスに気づいてからは完全に無視していた。それだけ余裕を無くしていた、という事なのだろう。
 幼生体が群れている場所の中心部に飛び込む。剣を軽く振るだけで、前方にいる汚染獣は全て絶命した。さらにすぐ背後に、蹴りを叩き込む。鋭い後ろ蹴りは装甲を陥没させ、圧力で内蔵を押しつぶす。さらに左側の者に軽く左手を添えた。放たれるのは衝剄とも言えないような不出来なもの。だが、それが甲殻を通過し体内で暴れ回るのであれば、話は全く変わってくる。内側から外にかけて血肉を押しつぶされて、体のあらゆる隙間から血液と挽肉の混合物をはき出した。
 そこで初めて、深く息を吸い直して。あたりに命ある力の流れを持つ者は、レイフォンしかいなくなっていた。

(あとどれくらいいるんだ?)

 既に600近い数の汚染獣を始末している筈だ。手傷だけ与えて、後始末を任せたものを合わせるならばさらに100増える。リーフェイスの能力と戦い方を考えると、今までに倒した敵の数は恐らく200前後。
 雌性体が産む汚染獣の数は、およそ700から800。これが、グレンダンが経験の上に理解した数だ。少ないと500くらい、多ければ1000を超える事もあるが、つまりその程度だ。
 多めの1000だと見積もっても、そろそろ頭打ちの筈である。筈なのだが、レイフォンにはそうだと断言できなかった。
 彼には雌性体に対する知識が全くと言っていいほどない。一般に武芸者が知っていることならば知っているが、経験に付随するものがないのだ。そもそも幼生体の山と戦ったのなど、武芸者になって最初期だけである。すぐに雄性体の討伐隊に編成され、その後は天剣授受者として老性体の相手をしていた。
 終わりが近いのであれば、そろそろ「来る」筈だ。

『レイフォン君!』

 念威端子からカリアンの声が届いたのは、そう考えたのと殆ど同時だった。念威繰者の取り次ぎがないのを見ると、それだけ緊急の事態なのだろう。
 予想はつくが、聞き返しておく。確証があるわけではないのだ。

「どうかしましたか?」
『たった今、地下から大きな震動源を探知した。もし生き物なのだとすれば、今いる汚染獣の軽く百倍は大きい。正確な所を調査しているが……』
「いえ、結構です」

 予想を確信にするには、その言葉だけで十分だった。

『心当たりがあるのかね?』
「恐らく母体――雌性体でしょう。幼生体を産んだ汚染獣が、動き出したんです」

 沈黙したままの端子を指先で小突く。次の戦場を示せと、催促をしたのだ。
 力の流れを掴むのが人並み外れて上手い。だが、だからといって探索範囲が広がるわけではなかった。鋼糸があれば、念威繰者の真似事くらいはできるのだが。それだとしても、直接見ることが出来るのと、糸伝いの触覚を見極めているのとでは大差が付く。
 端子は慌てたように光を放ち、それを一方向に固定する。そちらに向かって、レイフォンは走り出した。そのまま説明をする。

「雌性体が動く条件は、主に三つ。一つが、出産の傷が癒えた時。一つは、短時間で幼生体を全て殺した時。最後に、幼生体が戦闘を始めて一定時間経ち、かつ損耗が八割を超える時です。特に後ろの二つの場合は、雌性体が生き残るための行動を開始します」
『子を助けるために、こちらに向かってくると言う事か? それは……』
「いえ、そうではないんですが……。まあ、それは問題ないです。雌性体は大きく堅いけど、その代わりに鈍足ですから。ツェルニでも、武芸者半分の死と引き替えになら、十分倒せます」

 レイフォンの言葉に、カリアンが言葉を詰まらせる。
 残酷な言い方になってしまったかもしれないが、事実である。それに、これは彼らの命を安く見積もったのではない。上手く戦えば、武芸者の半数を犠牲にするだけで、都市は助かる。そういう事なのだ。その引き算は、冷酷に過ぎるだろうか。だが、知っておけばそれで助かる事ができるかもしれない。
 意図を理解したかどうかは分からないが、カリアンは自分を立て直し聞いてきた。

『ならば、どう動くというのだ?』
「簡単です、助けを呼ぶんですよ。広域に音波を発して、数十キロ以内の汚染獣が一斉に集まってきます。これが実行されたら諦めた方がいい。まず助かりません。よほど運良く汚染獣の居ない場所でなければ、逃げようとすら思えなくなる」

 淡々と、事実だけを告げる。
 念威端子の先から、悲鳴が上がった。それを無視しながら、次の汚染獣の群れに突入する。正直、彼らに咲いてやれる手間というのはあまり多くない。

『何か対策があるのだろう? わたしはどうすればいい。遮断スーツを持ってくるにも、時間がかかる』
「いりませんよ。狭い洞窟内を、桁違いの巨体が飛んでいくんです。逃げようにも逃げ場なんてないです。今から行っても何も出来ませんし、それに、僕は何もしない」

 レイフォンは対汚染獣の専門家であり、ツェルニ唯一汚染獣との戦闘経験が豊富な武芸者。その彼が何ともない顔をしているのは、問題ないという確証があるから。そう思っていたからこそ、カリアンは他者とは違い、冷静でいられた。しかし、レイフォンの諦めたようにも取れる言葉に、さすがに焦りを隠せなかった。
 カツ、カツ、と鳴っているのは、爪で机を叩く音か。

『ならばどうやって撃退するのだ……!』
「僕は……」

 言ってから、一瞬迷った。別に言うべき事ではないように思えたから。しかし、今は考えるのも億劫だった。口が滑るままに、言葉を紡ぐ。

「あの子の能力をよく知っている。鍛錬をさせられなくても、監督ぐらいは出来たんですから当然ですけど。でも、それ以上に、リーフィの師匠の能力の方が、よく知っているんです」
『何を……』

 全く要領を得ない物言いに、カリアンの言葉が挟まる。しかし、気にせず続けた。

「同僚ではありましたし。同時に、まあ、戦友と言ってもよかった。あまり認めたくありませんが、能力は確かなんです。リーフィがあの人の後継者と言われたのは、異常とも言える膨大な方程式の上に成り立つ、化錬剄の極み、それを覚えられたからなんです」

 説明を、勝手に回る口に任せながら、戦いに集中した。数だけは多い邪魔な汚染獣。いったん武芸者が引いたことで再集結し、次に攻撃する準備を整えていた。その行動は正しい。側面や背面からの攻撃に弱い幼生体は、数を集めて一斉突撃が最も効果的な攻撃なのだ。ここにレイフォンがいなければ、それは正しくあり続けられた。
 固まっているならば、やりようなどを考える必要も無い。刃鎧を伸ばして一回転、それだけでいい。
 かつん、と再び端子を叩いた。今度は小さく二度、点滅する。まとまった数の汚染獣はなし、の合図。後は残敵排除だけだ。
 そう、この時点で、既に消化試合でしかないのだ。雌性体が残っていようとも。

「丁度良い機会だから、見てみると良いでしょう。グレンダンでも化錬剄の極みと言われた、その奥義の一端を」

 言いながら、レイフォンはリーフェイスの方に走り出した。同時に、ちらりと都市の外を見る。
 そこには、巨大な影があった。矮小な人間の戦場など、丸ごと踏みつぶせてしまいそうな巨体。世界の覇者、汚染獣の母。その我が子を愛する慈愛の姿は、しかし人間には禍々しいものにしか映らない。ただの姿だけで、強烈な恐怖を与える。人類の天敵である汚染獣の姿とは、つまりそういうものだった。
 しかし。今のツェルニに、それに注目している者は誰も居なかった。その姿が、夜にも関わらず、鮮明に細部まで照らされているのにだ。
 いや、汚染獣だけではない。都市中を包むほど、膨大な光が発せられている。誰もがそれを見上げた。汚染獣ですら。教会に設置された塔、その頭頂部にある鐘楼。
 そこには――太陽があった。



□□□■■■□□□■■■



 この世界は、恐ろしく小さなもののを折り重ねて出来ている。それは、自分ですら例外ではない。
 レイフォンは力の流れこそを世界の真理だと確信した。それと同じように、リーフェイスもまた、それこそが世界の真実だと知っているのだ。
 とても、目で見えないものよりさらに小さいそれ。それをなんと言っていいか、彼女は分からない。ただ、それは何にでも影響され、同時に何者にも左右されない。この世の何よりも自由なもの。そこにリーフェイスは、剄を垂らした。無軌道であったそれは特性をそのままに、少女の意志を映し出す。
 何にでもなれるそれを、粘土をこねるように変化させていく。それらにちょっと干渉してやれば、びりびりと電気を生み出した。電気もまた、いろいろな性質を持っている。引っ張る力と、弾く力。それを綺麗に整列させて、さらに剄を通して遙かに大きなものにした。
 この時点で錬金鋼の先に出来た化錬剄の束は、目を開けていられない程眩しい。しかし、そんなものはリーフェイスには関係なかった。一度彼女の剄が通されたそれは、思い通りに動かせる。光は彼女の目に届く寸前で、その殆どが外側にねじ曲げられた。
 光の中心点に、沢山の小さな粒を集める。ただの粒ではない、それは外の光と思い切り反発する性質。さらに、集まったそれに、自分の破壊的な意志を大量の剄と共に送り込む。光はさらに膨れあがり、ついに都市の闇を切り裂くほどになった。それでも、まだ満足できない。さらに粒を集めて、精緻に形を作り、剄を送り込み続ける。
 彼女の錬金鋼は最悪だった。重いし格好悪いし、第一剣じゃない。だが、一つだけ良いところがある。全力で剄を叩き込んでも、壊れないのだ。正確には違うのだが、とにかく、彼女はその一点においてとても満足している。そして、その錬金鋼は。剄の許容量を解決するためだけに作られたものなのだ。
 小さな粒が、所々でばちばちと弾け始めた。余波が雷光の筋を生み出し、球体の周囲を囲む。これでいい、小さな粒が弾ければ、より大きな反発力を産む。
 そして……それが姿を現した。昆虫の様で、そうでないような。生き物のようで、そうでないような。しかし、確実に人を食い殺すであろうそれ。
 リーフェイスに、恐怖心はなかった。汚染獣の桁違いな巨体を見ても、なんとも思わない。つい先ほど、小さな汚染獣の群れに殺されそうになった後でさえ、それを怖いと思わなかった。彼女は既に、汚染獣を侮ってはいない。食い殺される寸前の恐怖は、慢心を取り払っていた。普通ならトラウマになっても、何もおかしくない体験。しかし、リーフェイスはあえて言うだろう。何も怖くない。
 ちらり、と、彼女はある一点を見た。そこには自分が作った光に照らされて、父がこちらに来ているのが見える。この頼もしさに比べれば、汚染獣の恐怖など無いも同然だった。
 とてつもない巨体のそれが、大きく口を開いた。それが助けを呼ぶための行動だと、彼女は知っている。だから、させてはいけない。そして、させないのはとても簡単だった。
 その瞬間、生まれた光で、ツェルニに届かなかった場所はない。
 太陽が、汚染獣に向けて真っ直ぐに放たれた。光の道筋は、もはや帯などという生やさしいものではない。太陽が空気に接触するだけで、それを焼いて壊し、大気そのものを発光させる。光脈の葬列、それが汚染獣とリーフェイスを繋ぐ道に作られた。
 着弾したのは一瞬だった。いや、着弾した事に気づけた者はいないだろう。亜光速にまで加速されたそれを知覚出来る存在など、この世に存在しない。
 太陽と汚染獣がふれあった瞬間、まずさらに大きな光が生まれた。目の前の何も見えない、まさに白としか言えないような視界。都市外縁部に落ちていたものを、例外なく弾いてまき散らす。備えを怠っていた武芸者は、ごろごろと何メルトルも転がる羽目になった。最後に、轟音がとどろいた。何かが爆発するような音も出ない、とにかく轟音としか言えないそれ。
 世界が絶叫する。都市が悲鳴を上げる。世界を構成する全てのものが、飲み込まれ尽くしていく。
 汚染獣によって、僅か一晩で入れ替わってしまった世界。これに勝る情動などありはしない、多くの武芸者がそう考えていただろう。
 しかし、この瞬間。一瞬にも満たない刹那で、世界はまたひっくり返った。
 光、衝撃、音。全てが落ち着いて、誰かが目を開いた。そして、口を開いてただ呆然としていた。次々に我を取り戻し、現状を把握する武芸者。しかし、誰一人としてそれを理解できなかった。
 いや、本当は誰もが分かっているのだ。ただ、認めがたいだけ。
 汚染獣は、跡形も残っていなかった。塵すら存在しない。まるで出来の悪い悪夢でも、見ていたかのような気分。唯一、指から先と思わしきパーツが、汚れた大地にぽつんと転がっているのだけが、そこに雌性体がいた証。
 都市中を巻き込み、辛い戦いを強いられてきた。その終わりは、なんとも呆気ないものだ。
 長かった夜は終わる。生き延びたのは、ツェルニだった。



[32355] おしまい!
Name: 天地◆615c4b38 ID:b656da1e
Date: 2012/06/09 22:19
 自宅に着くなり、レイフォンは倒れ込むようにベッドに突っ伏した。普段は心地よく感じる弾力も、今は意識する余裕もない。
 幼生体の完全討伐が確認されて30分ほど、一端警戒態勢は解かれる事となった。シェルターに避難していた住民も、徐々に街に戻って行っている。
 戦争こそ終結したものの、むしろ大変なのはこれからだ。予備兵力だった、比較的消耗の少ない武芸者は、今も待機所に詰めている。と言っても、また汚染獣が来たとして、彼らに止める力はあるまい。地下で汚染物質に感染した者は、急いで病院へと搬送された。今の病院は、負傷兵と感染者でベッドの数も医者の数も足りない位である。機関部修理の人員の不足は深刻であり、他科の生徒を人海戦術で投じて何とかしようとしていた。
 どこもかしこも不足ばかりで、備えも足りない。未熟者の集まりな上に、最長で6年しか人の居着かない学園都市。その弱みが一気に現れる形になった。熟練者がいないのは諦めるとしてもだ。今後は組織の大幅効率化、余裕を持った編成に、上層部は悩まされる事になる。だが、これはレイフォンに関係のない話だ。
 彼は、緊急事態が起きれば、何を置いても招集される事になっている。地下から使われていない小型発電機まで引っ張り出し、錬金鋼の調整をした位だ。どこもかしこも必死である。
 手を伸ばして、枕を引き寄せる。それを顔の下に敷いて埋めた。
 とにかく、今日は疲れたのだ。肉体的には、所々軋んでいるが大したことはない。精神的な疲労が、全く抜けていなかった。
 フェリのこと、メイシェンのこと、ニーナのこと。汚染獣の襲撃から、リーフェイスの心配まで。とにかく、感情を揺り動かされる事が多すぎる。善し悪しはまた別として、濃密な一日ではあった。濃密すぎて、二度と来て欲しくはない。

「パパー! ぱぱぁー! ねー、リーフィどがーってやったの、ねーねー!」
「はいはい、見たから分かってるよ。何でそんなに元気なの……」

 レイフォンが迎えに行ってすぐの時、リーフェイスは泣いて抱きついてきたのだが。何か変なスイッチが入ったのか、今ではこの通り、興奮しっぱなしだ。未だ目は涙で赤いままなのに、良くやるものだ。
 そういえば、と時計を確認する。時刻はもう、深夜と言っていい時間だ。リーフェイスがこんな時間まで起きていたことは、今までない。興奮の理由は、だからかもしれない。
 いい加減寝かしつけよう、そう考えていると、玄関のチャイムが鳴った。居留守をしてしまおうか、そう考えるが、意味が無いと気がついた。今の時間に訪ねてくるような人ならば、レイフォンに自宅待機がある事を知っているだろう。
 ひたすら億劫だが、対応しなければ。そう思い体を起こそうとしたが、その前にリーフェイスが駆けていった。相変わらず、ドアに突撃せんばかりの勢いだ。
 本来ならば、レイフォンが対応しなければならない。この緊急時であればなおさら。だが、あまりのだるさから、全くそうする気にはなれなかった。
 だだだだ、と勢いよく戻ってきたリーフェイス。速度を維持したまま、レイフォンに思い切り体当たりした。

「ぐふっ」
「パパ、シャニー来た! お土産持ってきたって!」
「よう、レイフォン。やっぱり死んでんなあ。お疲れさん」
「いや、これはリーフィの頭突きで……それより、何の用です?」

 現れたのは意外なことに、シャーニッドだった。相変わらず人好きする笑顔で、恐ろしく自然に部屋の中に入ってくる。

「大した用事じゃない。お前らに弁当を持ってきたんだ。配給品でうまくはないが、とりあえず腹に入れとけ。晩飯も食ってないだろ?」
「ああ、有り難うございます。お腹、結構キツかったですから」

 そっと腹を撫でてみる。戦闘の余韻で目立たないが、確かに空腹だ。

「パパ、ごはん? ごはんするの?」
「駄目だって。リーフィは明日にしなさい。調子悪くするから」
「やーだー! たーべーるーのー! リーフィもご飯たべるー!」
「仕方が無いなぁ……じゃあ僕の一緒に食べようか。ほら、おいで」
「わーい!」

 リーフェイスを膝の上に乗せて、椅子に座った。その正面には、なぜか当然のようにシャーニッドも座っていた。

「んでもって、これはおれからの差し入れだ」

 にやりと笑いながら取り出したのは、深赤色をした液体の入った瓶。コルクが引き抜かれると、何とも言えない陶酔感を思わせる香りが漂う。
 それに、レイフォンは驚きに目を見開いた。

「酒ですか?」
「いんや、酒の気分を味わえるだけのジュースだ。さすがのおれでも、準戦時体制に酒は飲まん」

 ジュースの注がれたコップを差し出される。見た目も香りも、完全にワインのそれだった。少しばかり口に付けてみるが、たしかにアルコールっぽいだけだ。ジュースの入ったコップは、リーフェイスの前にも出される。注意しようかとも思った。が、ノンアルコールであればうるさく言う事もないかと考え直した。
 にこにこと口に付けた少女の顔が、一瞬で渋い者になる。そして、コップごと押し返した。その様子を観察していたシャーニッドは、けたけた笑いながらコップを受け取った。

「ま、とりあえずお疲れさん。おれは生き残った、お前も生き残った。ついでに他の奴らも生き残った。ほれ乾杯」
「……そうですね、乾杯」

 かつん、コップ同士が音を立てる。
 シャーニッドは、意外なことに食事中静かだった。ものを食べるときはしゃべらない主義なのかもしれない。ふと、彼も今日の事で疲れているのではないだろうか、と思い至った。汚染獣との戦闘は、慣れていないと言うだけで大きな負担を与える。しかも長時間の戦闘となれば、今すぐ倒れたいほどだろう。
 そして、汚染獣と戦って疲れたのは、何もシャーニッドだけではない。リーフェイスも同様に、もう限界だった。レイフォンの上のまま、口から食べ物を溢しながら、うとうととしている。こうなるとは思っていたので、あらかじめ膝にハンカチを置かせておたいが、正解だったようだ。
 口元を拭いてやり、ベッドに運ぶ。その寝顔が僅かに曇っているのは、今日の経験からだろう。少しでもそれを和らげるようにと頭を撫でて、テーブルに戻った。そこではシャーニッドが、既に食べ終えて二杯目のジュースをついでいる。
 一息つくすがたを尻目に食事を再開し。そして、投げかけられた言葉はストレートすぎ、同時に予想外だった。

「なあ、お前さ。何か過去、こっちに来ることになった件で、何か隠し事あるだろ?」

 持ち上げたフォークは、音を立てて弁当箱に落ちた。全くもって予想外のタイミングだ。
 レイフォンが固まったのを見て、しかしシャーニッドはけたけたと笑い飛ばした。

「別に聞き出そうってんじゃないさ。ただ、そういうのと上手くやっていくこつみたいなもんを教えてやろうと思ってな。ニーナの態度見た限りじゃ、よっぽどの事だったんだろうし」

 確かに、試合であんな事があれば、ニーナが問い詰めぬ訳がない。さすがにカリアンから過去を聞き済みな事は分からないだろうが。そして、招集時の彼女の様子を見れば、予想は簡単に付く。
 しかし、まあ、なんと言うか。レイフォンが思っていたよりも、彼は世話焼きな性格だったらしい。それに、どちらかと言えばもっと聞きたがりなタイプだと思っていたのだが。レイフォンの視線に気づいたシャーニッドは、皮肉げに笑って見せた。どこか、強がりのような印象を残して。

「なんだ、お節介だったか?」
「あ、や、違いますよ。ただ、ちょっと聞かれなかったのが意外だったなって……」
「あぁ……そうか」

 コップに口を付けるシャーニッドの顔は、少し寂しげだった。一口、飲んだのか飲んでないのかも分からない程度浅くコップを傾ける。

「おれは昔、別の小隊に居たんだよ。そこ辞めた後ニーナに誘われて、第十七小隊に入った訳だ。その前の所で色々あった訳だが……聞きたいか?」
「は? あ、はい」

 レイフォンの間の抜けた返事。興味があると言えばあるし、無いと言えばない。ただ、過去の経験から無理に聞き出したいとは思わなかったが。曖昧でも肯定的な返事が出たのは、聞かれて咄嗟に出た返事がそうだっただけだ。
 その答えにシャーニッドは鷹揚に頷く。そして、いたずらっ子のような笑顔を浮かべた。

「嫌だ」
「何ですかそれ……」
「つまりそういう事だよ。真実は当事者だけしか知らんでも、大筋は今の二年以上なら誰でも知ってる。だからって、それを誰かに聞かれて言えるかって言われたら、言えないよなぁ」

 確かに、小隊員が小隊を辞めたとなれば、少なからず騒ぎになるだろう。平時ならば、複数の新聞に、一面で載るかも知れない。誰でも知っていることだ、本人に聞くまでもなく。だが、ならば自分でそれを説明できるのとは別問題なのだ。レイフォンだってそうだ、グレンダンでそれを聞かれても、心情が邪魔をする。聞いた相手を邪険に扱いもするだろう。

「おれとお前の苦しみが同じだとは言わないけどな。けど、そうなったらどうなっちまうかは、似通うもんだ。そこでこの先輩様が、いっちょ後輩にご教授してやろうかと思ったわけだ」
「あはは、人生の先輩がですか?」
「ちげーよ」

 シャーニッドがジュース瓶を掲げた。大人しくコップを差し出すと、なみなみと注がれる赤色の液体。口に含んだそれは、苦みが増した気がした。

「情けない男、の先輩がさ。なっさけないのはどうしようもない、けど日々をそこそこ上手く生きてかなきゃならん。そんなやり方を教えてやる」
「いや、本当にそれ、笑えませんよ」

 言いながら、二人して笑った。酔いが回ったようだ。そういう事にしておく。
 それから、どんな話をしたのかは、良く覚えていない。シャーニッドの講釈なんだかよく分からない蘊蓄は、やがて愚痴に変わり。レイフォンもそれを漏らし出すと、もう二人して止まらなくなっていた。何時間しゃべり続けたのかは分からないが、とにかく長時間馬鹿話をしあう。
 いつしか、部屋に光が差し込み始める。レイフォンとシャーニッドが、ほぼ同時に窓の外を見た。そこには、砕かれた大地にもなお負けずと、朝日が顔を出している。

「なあレイフォン、つまりああいうこった」

 コップを持った手で、太陽を指さす。ゆらゆらと揺れる指先は、太陽をなぞっているのだろうか。

「こうやってだべって不満ぶちまけて、ついでに大騒ぎすれば気は楽になる。けどそんなもん、結局何の解決にもならんわけだ。そして、解決なんか出来るはずもない。なぜなら、それは太陽だからだ」

 うらやましそうに、シャーニッドが言う。そこにある憧憬を、レイフォンはなんとなく共感できた。

「自分で昇らせようと思って昇るもんじゃない。あれは勝手に昇るもんだ。俺たちは、そうなるまで耐えなけりゃならん。歯を食いしばりながら、みっともなくな」
「消極的ですね……」
「そりゃそうだ、本当にどうにもならんからな。努力すれば、行動すればなんとかなる? うるせー! したり顔で言うんじゃねー! おれらが何もしてないと、本当に思ってんのかー!」

 大騒ぎを始める。掲げたコップから、僅かに残ったジュースが飛び出た。だが、注意しようという気にはならない。何というか、どうでもよくなったのだ。
 その時だ、都市が揺れたのは。まず地面に体が置いてかれるような感覚、次に一瞬の浮遊感。やっと都市が再起動したのだ。耳に慣れた、巨大な足が大地を踏み砕く音が聞こえる。

「ほらな? ほっときゃなんとかなるもんだ」
「ちょっとそれは下らなすぎますよ」
「けどそんなもんだよ。人生こんなもんだ。お前も、あれこれ深く考えるよりは、毎日を楽しく生きる事を考えろよ。その方がお前の為だし、お嬢の為だ」

 そんなものなのだろうか。思いながら、レイフォンはまだ寝ているリーフェイスの頭を撫でながら、朝日を見た。
 やはり、何かが変わるわけでもないのだが。とりあえず、すぐに機関部掃除の仕事をやめよう。そして、時間を多く取れるバイトを探そう。そんな事を考えながら、いつまでも昇る太陽を見続けた。






























あとがき

たくさんのご意見、ありがとうございます。皆様にいただいたご意見は全て、何度も読ませていただいております。
私は感想返しを繰り返すと失言をするタイプなので、ここに纏めさせていただきました。ご了承下さい。
ニーナについて、私は彼女を、こう、原作よりマイルドに書いたつもりでした。なので、皆様の意見でニーナコノヤロウ的なものが多かったのには、実は驚きました。ひとえに、私が客観性を欠いたのが理由です。申し訳ありませんでした。
カリアンについても同様です。原作のある種超越した印象を持つキャラクターではなく、もっと必死さと貪欲さを持つが、空回りをしてしまった。そんな感じに描こうとしたのですが、結果は愚かさばかりが前面に。自分の実力不足を痛感するばかりです。
レイフォンがリーフェイスに背を向け、ツェルニの武芸者を助けに言った件。これについては、私もどうかと思いましたごめんなさい。心情的にはそうしたいけど、情勢がそうさせないというのを表現しきれていませんでした。また、そこで本当に向かっていくと被害拡大、下手すると滅亡し、レイフォンについてなあなあで済まされないという事情もあったので、難しい点でした……。さすがに敵前逃亡して死人が多数出ると、弱いから云々で済ませられませんし。
今回、皆様にたくさんのご感想をいただき、とても勉強になりました。至らぬ点、多数あったにも関わらず、最後まで読んでいただきありがとうございます。ご意見の全ては保存し、今後の執筆活動に生かさせていただきたいと思います。
こーかくのれぎおすはこれでいったん終了です。続きを書くとしても、もう少し時間がたってからになると思います。楽しみにされていた方がいらっしゃいましたら、申し訳ありません。あ、あと一作、本編とは全く関係ない番外編を投稿しようとは思っていますが。
最後に、皆様本当にありがとうございました!



[32355] あなざー・労働戦士レイフォン奮闘記
Name: 天地◆615c4b38 ID:b656da1e
Date: 2012/06/18 02:06
この作品は、本編と一切関係がありません



















 槍殻都市グレンダンの、ある林道を一人の少年が歩いていた。
 身長も顔立ちも、そして雰囲気も、全てが青年と言うにはあどけなさ過ぎる。まだ10歳を超えていくらも経ってないと思われる少年。
 薄汚れた長ズボンに、黒いくたびれたタンクトップだけのラフな格好。全身が汗だくなのは、日差しが強いからではなく今まで運動をしていたから。収まりの悪い髪を後ろで乱暴に縛り付け、無理矢理一纏めにしている。
 外見だけでいえば、どこにでも居そうな少年だった。腰から下げられた錬金鋼は特徴と言えば特徴なのだが、それもただの少年から武芸の鍛錬帰りの少年に変わるだけ。早い話、年齢二桁になるかならないかの少年が錬金鋼を持っていたところで、ここグレンダンではさして注目するような光景ではないと言うことだった。
 しかし、そんな平凡なはずの少年を、今のグレンダンで見間違える者などはいない。それは、先日行われた大会が原因だった。
 天剣授受者、武芸の本場と言われるグレンダンで、さらにその頂点に達する究極の武芸者。ただ女王のためだけに振るわれる十二本の錬金鋼。
 その最大の名誉を決する戦いが行われた。それだけならば別に珍しくないのだ。選考戦自体は割と頻繁に行われており、選考の結果該当者なしというのも、ありふれた結果である。
 問題は、選考戦の結果新たな天剣が生まれた事。そして、その天剣がまだ剣を引きずるような少年でしかなかったことだ。
 最年少の天剣授受者記録を実に3年も縮めた、最新の天剣。それがこの少年、レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフだった。
 とは言え、当のレイフォンには実感などなかったが。彼にとってはいつも通りに試合をしただけであり、特別普段と違うことがあったわけでもない。天剣は確かに便利だが、それ以上の感情などなく。賞金や給料も振り込みで支払われ、彼がその額を確認することはないだろう。女王からのお褒めの言葉が特別と言えば特別だが、それは上位の大会で優勝してももらえるので今更である。

(僕が変わったんじゃない。変わったのは、僕の周りだ)

 念じながら、ゆっくりと歩いて行く。いつも通りの鍛錬をして、いつも通りにクールダウンがてら帰宅。レイフォンの日常は、どこも変わっていない。
 家族が豹変したかと言えば、そんなドラマのような事もない。大会に優勝した事での賞賛は、天剣という付属品もあっていつもより過激であったが。それらの話題も、天剣授受者の流派に入門しようという者が大挙して集まり、その処理の多事にすぐ押し流された。
 レイフォンも手伝おうとはしたが、それはやんわりと断られた。曰く、レイフォンの仕事は武芸であり、雑事ではないと。……それでも手伝おうとしたら、リーリンにストレートに邪魔だと言われて少なからずへこんだが。
 とにかく、いつも通りに外縁部近くの空き地で鍛錬をしていたのだ。家に居ても邪魔にしかならず、居心地が悪いから逃げたわけでは断じてない。
 技の鍛錬であれば道場が適しているが、基礎能力を高めるのであれば少し手狭だ。そんな時は、人気がなく少々暴れても迷惑にならない事も手伝って、よく足を伸ばしていた。それも、昨日までの話でしかない。

「あれがヴォルフシュテイン卿」「さっきの轟音は……」「さすが、あの年で天剣になるだけある」「あの技の冴えもすばらしく」「俺はそれより、見事な剄の流れが」
(……どうしよう)

 無数のささやき声が、レイフォンの耳に届く。それを努めて聞こえないふりをしながら、僅かに歩調を強めた。
 天剣効果、と言えばいいのだろうか。実際それしか心当たりがないのだから、別の理由で注目されていたら困るが。数年かよって数えるほどしか人とすれ違わなかった場所は、今日だけでも三十人見かけている。
 特別隠していた場所ではないので、調べればすぐに見つけられるだろう空き地。しかし、そこに自分の鍛錬を見ようとする者達が集まるのは予想外だった。
 鍛錬そのものを見られる事自体はかまわない。所詮普通の鍛錬を拡張した内容でしかなく、見られて困ることは自制するまでもなく行っていないから。空き地もレイフォンが占拠していい理由はなく、わざわざ訪ねてきて文句を言うのでもなければ、好きにすればいいと思っていた。
 問題は、そんな事ではない。

「ちょ、ちょっとボクの技見てもらったりとか、お願いしても大丈夫かな?」「なら、あたしも教えてほしい!」「同じ刀使いとして」
(お願いだからやめてくれ)

 額に一滴生まれる脂汗、それは普通の汗と混ざって見分けが付かなくなったのは幸運だった。
 鍛錬を見られるのはかまわないし、一緒に切磋琢磨するというのも問題ない。ただ、教えを請うというのだけはやめてほしかった。
 レイフォンは技に対して感覚的すぎる。こういう技があるとは教えられても、じゃあこうすればいいとは言えないのだ。それ以前に、彼はまだ教えを請う立場の人間である。精神的な熟成度も手伝い、人を指導するという責任を負う覚悟はできない。

(頼むから話しかけられませんように)

 ひたすら情けない内容を祈りながら、顔を引きつらせないように努める。
 とにかく、とにかく孤児院まで逃げ切ってしまえばいいのだ。その後は、今度から天剣授受者専用の訓練室を借りるか、新しい空き地を見つける。そして見つからないようにする。
 武芸以外だととにかく後ろ向きな考えになるレイフォンだった。

(それに、僕にはまだ考えなきゃいけない事がある)

 現実逃避、という訳でもないが。より切羽詰まった内容、孤児院の現実的な問題に思考を向けた。
 金がない。非常にわかりやすく、これ以上に理解を得られる理由も中々ないだろう。
 生きるのには金が要る。そして、その数が二桁にもなれば、ただ生きるためだけの金を得るのも楽ではない。論法だけはわかりやすすぎるほどわかりやすいそれに、レイフォンとその家族は長く苦しめられた。
 いや、実際は苦しめられたなどという軽い一言で済ませられる環境ではなかった。飢えない日はなく、寒さに震えぬ時はなく、そして家族の命の火が消える恐怖を忘れられる瞬間もなかった。……そして皆が苦しむ中、自分が武芸者と言うだけで満足に食べられる悔しさを忘れたことも。
 偉い大人は、グレンダンの食糧危機は去ったという。しかし彼らは、そんな言葉を全く信じていなかった。孤児は未だに飢えている。都市からの援助では生きていられぬ程に。
 レイフォンが天剣となった事で、孤児院は食べていけるだけの金を手に入れられた。だが、それは所詮彼の孤児院だけだ。
 グレンダンには無数の孤児院がある。そして、それらの大半が飢えている。彼らの事を関係ないと言うには、レイフォンが知った仲間の死は重すぎた。

(とにかく、何とかしてお金を稼ぐ。うちだけは道場の収入で、その内自立できるようになるだろうけど……でも天剣の給料じゃ、どの道孤児院一軒が限界だ。もっと沢山お金がないと)

 実際は援助もあるのだから、三軒くらいは養えるのだが。それもグレンダン中の孤児院の事を考えれば、焼け石に水という程度。
 どれほど悩んだところで、レイフォンの芸など剣一本。それで全ての孤児を救うというのは、殆ど不可能に近い。
 足りないという自覚のある頭を、精一杯回転させる。もっとも、それで冴えた考えが浮かぶならば苦労はないのだが。

「レイフォーン!」

 随分と悩むのに集中していたのか、いつの間にか家の近くまで戻っていた。少し先には、サイハーデン流に入門するつもりなのであろう、長い行列が見える。
 考えすぎたかな、そう思いながら、左腰に吊してある錬金鋼に指を柔らかく握る。
 錬金鋼を、刀を振るうときは極限まで集中せよ。武芸の修行を始める時、最初に教わった言葉だ。それは忠実にレイフォンの中で生きており、今では錬金鋼さえ触れば落ち着けるようになっている。

「ちょっとレイフォン、聞こえてないの?」
「そんなに何度も言わなくても分かってるよ、リーリン」

 少し棘のある言い方で幼馴染に返す。それに対して、少女は腰に手を当て唇を尖らせて、不満を露わにした。
 レイフォンは実のところ、自分の半身とも言えるほど近しい彼女が、少し苦手だった。

「だったらちゃんと答えてよ、まったくもう」
「聞こえてるんだからいいじゃないか」
「ダメに決まってるでしょ。返事をしてくれなきゃ分からないじゃない」

 近くにまで寄ってきたリーリンは、正面に立つと僅かに見下ろしながら言った。そう、レイフォンはつい最近、身長を抜かれたのだ。
 元々二人には身長差がなかったのだが、ここ数ヶ月で明らかな差がついてしまったのだ。見下ろされるのは悔しいし、それを気にしてないという風なリーリンの態度も気に入らない。
 彼女は頭がよく、年上の兄弟に教わって家計簿をつける勉強などをしている。武芸一辺倒のレイフォンが頭脳で勝てる相手ではなく、その上身長でも負けたとなると、弟扱いされている気がするのだ。
 実際はリーリンの態度など全く変わっていなく、元から世話を焼かれているのを自覚しただけなのだが。少年にとってはそれは大事であり、ちょっとした屈辱が理由で反抗的になるのも仕方のない事だろう。
 年が少し上の兄曰く、そのうち抜き返す、らしいのだが。残念ながら、身長がほしいのは未来ではなく今だった。

「分かってるよ、うるさいな。そんなに何度も言わなくていいよ」
「何度言っても分からないのがレイフォンじゃない。言われたくないなら、一度目でちゃんとしてちょうだい」
「はいはい、わかってるよ」
「もう、仕方がないんだから。アルジストさんの所に行って、一番大きなお鍋を借りてきてもらえない?」
「なんでそんなものを? うちのじゃ足りないの?」

 怪訝そうなレイフォンに、リーリンは苦笑いで答えた。

「わたしたちだけで食べるならそれでもいいんだけど、ほら、今って入門しにくる人がおおいじゃない?」
「遊びに来てる訳じゃないんだから、ほっとけばいいのに。養父さんもそう言ってたでしょ」
「まったく、レイフォンも養父さんもそういう所はとことん無頓着なんだから……。剣を習いに来てるからって、終わったらはいさようなら、とは行かないものなの! 月謝もらってるんだから、こっちもちゃんとやらないと」

 全く理解はできなかったが、とりあえず分かったような返事だけはしておく。リーリンもそれは分かっただろうが、態度だけ憮然とさせておいて何も言わなかった。
 武芸者は武芸のみをしていればいい、とまで極端な事を言うつもりはない。だが、武芸を疎かにしてまで他のことをすべきでもない。それはレイフォンもデルクも、そしてほぼ全ての武芸者もが思っている事だ。彼らの主張も十分理解できるからこそリーリンはあまりうるさく言わないし、だから言われないとレイフォンも分かっている。
 と、他愛のない会話をしながら。ふとレイフォンは、リーリンの台詞の中に引っかかりを覚えた。
 特別な事を言われた訳ではないが……そう、その中には、何か重要なものが潜んでいる。ぐっと眉に力を入れながら脳を高速回転させて――レイフォンは、見つけたのだ。

「ちょっとレイフォン? 急に黙ってどうした――」
「これだぁ!」
「きゃあっ!」

 今日の自分は冴えている、恐ろしいほどに。もうリーリンに頭が悪いなど言わせない、そう断言できるほどの名案だった。
 急な大声に驚いて尻餅をついたリーリンを見下ろしながら、ふっと不敵に笑う。その様子を哀れむ目で見られた気がしたが、気のせいだと処理しておく。
 そしてレイフォンは、その場を思い切り跳ねた。計画の準備をするために――正確に言えば、計画の準備をするための情報を集めるために。

「お鍋忘れないでねー!」
(何度も言わなくても分かってるよ)

 心の中でだけ言い返して、レイフォンは振り向きもしなかった。
 ちなみに。やはりと言うか予想通りと言うか、レイフォンは鍋を借りてくるのを忘れて。リーリンに二時間説教される事になった。



□□□■■■□□□■■■



 その日は、デルク・サイハーデンにとって人生最悪の日だった。道場の中心でただ呆然と床を、その上に置かれた黒鋼錬金鋼を、焦点の合わない瞳で見続ける。
 錬金鋼は標準的な長さの刀状に復元されたまま、横向きに置かれていた。黒い刀身は、刃の部分だけが蛍光灯に照らされて銀色に輝いている。鏡のように磨かれたそこに映っているのは、道場の板張りと自分の顔。酷い表情だ、輝きに反射した自分の目を見て、素直にそう思った。
 この錬金鋼の刀は、何か特別な機能がある訳ではない。黒鋼錬金鋼をダイトメカニックに持って行って、設定数値を告げればすぐに全く同じ物を作ってもらえるだろう。しかし、そんなものが。デルクにとっては確かに特別なものであったし、それはレイフォンにとっても同じだと信じていた。

(果たして、本当にそうであってくれたのかな……)

 実際はどうだったのだろうか。大事でも手放さなければいけない理由があったのか? どうでもいいから手放すのに躊躇など必要なかったのか? それとも、別に何かがあったのだろうか?
 自嘲しながら、床に転がったままの錬金鋼を見る。未だに手に取ろうと指を伸ばすことさえできないそれ。
 一時間か、二時間か。もしかしたらほんの数分前だったかもしれないし、あるいは半日経っているかもしれない。確実なのは現実だけだ。デルクが項垂れ、刀が転がされた事実だけが、時の中で取り残されている。そして、ほんの少し前の現実にはレイフォンも加わっていた。今は、そして永劫に失った現実。
 これまでは、レイフォンの物だった刀。しかし、再びデルクの手に帰ってきた錬金鋼。
 何を間違えたのだろう。浮かんでは消える疑問には、レイフォンも刀も答えてくれない。

(ついこの間までは、人生最高の日だと思っていたと言うのに。全く……侭ならぬな、人生とは)

 サイハーデン流とは、はっきり言ってしまえばマイナーな流派だった。いつ流派が消えた所で誰も気づかないような、そんな弱小武門。それが脚色を浴びるようになったのは、間違いなくレイフォンのおかげだった。
 最年少の天剣、ヴォルフシュテイン卿。デルクが手塩にかけて育てた弟子が、ついに武芸者の頂点へと立った。それは最高の名誉を得たのと同時に、我が子が文字通り血反吐を吐いて積み重ねた努力が認められた瞬間でもあった。それは我が事のように、いや、自分が天剣になれたとしてもそれほどの喜びを感じられなかったに違いない。
 人生の絶頂。黄金時代。まさにそう言ってよかっただろう。
 それに比べれば、道場に人が集まったのなど些末な余録に過ぎない。もっとも、それを子供達(主に家計を預かっている年長者)の前で言うと怒られるのだが。
 道場には人が溢れて活気が宿り、それにつられて孤児の子供も元気になる。人が集まれば金も集まり、苦しかった経営に余裕ができた。唯一レイフォンだけは、教えを請われるのに苦い顔をしてはいたが。それは時間が解決する問題であり、あと五年も同じ事をしていれば立派な指導者になれると思っていた。
 ……全てが夢だ。崩れ去った、夢。

(何を……間違えたのだ?)

 分からない。だから、愚かなのだろう。
 レイフォンが刀を返上しにきた。それはかまわない。むしろ常識的な判断だ。
 天剣という、圧倒的な性能を持つ武器を所持している以上、黒鋼錬金鋼の刀など保険にもならないのだから。そして、多少財政状態がよくなったとしても、大きな余裕があるとは言いがたい。入門者の道具を揃えなければいけない以上、錬金鋼一本でもあるのは有り難いのは事実だ。
 問題は、正式に破門を言い渡してくれと言い始めた事だった。
 この台詞に、デルクが焦らない訳がない。既にサイハーデンの全ての技を修め、武芸者の頂へと至った少年。いくら僅か十歳だったとしても、免許皆伝を渡さぬ理由の方がなくなってきていた状態。そう考えていた矢先の事だった。
 当然デルクは言葉を尽くして、何とか取りやめさせようとした。免許皆伝の準備もあると。しかしレイフォンの決意は固く、同時にあくまで破門に拘ったのだ。
 さらには孤児院を出て行くとすら言い始めた。天剣だろうが僅か十歳の子供、いくら普通の子供より自立しているとは言え、無茶苦茶な話だ。それも止めようとしたが、結局止めきる事は出来ず。
 レイフォンは刀を返上すると、デルクを置き去りにして道場を去って行ってしまった。

(レイフォン……何がお前にそう決断させたのだ。なぜ、そんな事を決断させてしまったのだ……)

 破門も、そして孤児院から出ることも。どちらも決して安い事実ではない。そして、それが理解できぬほど幼稚なレイフォンでもない。
 つまりは、そうしなければいけないだけの理由がある。そして、それを決断させてしまうような所が、デルクにあったのだろう。
 それがひたすら悔しくて、悲しくて。自分の不甲斐なさを呪うことしかできない。
 レイフォンが天剣になり、同時に刀を捨てて剣を選択した時。デルクはそれを傲慢だと断じていた。だが、果たしてそれは本当だったのだろうか。もしかしたら、傲慢だったのは自分だったのかもしれない。なぜ刀を捨てたのだろう、その理由を理解しようとしなかったデルクに、誰が責任がないと言える?
 ただただ己の無様さを責めて。なぜもっと息子を見ていなかったのかと、遅すぎる後悔に、床に思い切り拳を叩きつけた。

「ひゃっ!」

 道場中を反響するけたたましい打撃音に、小さな悲鳴が上がった。
 顔を上げて小さな影を捕らえながら、今更刀から目を離せなくなっていた事に気がついた。この僅かな間で、随分と弱くなったものだ。自嘲しながら、その影に声をかける。

「リーリンか」
「ちょっと養父さん、どうしたの!?」

 レイフォンと殆ど変わらない体躯の少女が、焦りながらデルクに駆け寄る。しばらくは項垂れる養父を前にして、どうすればいいか分からずおろおろしていたが、やがて背中をさすり始める。その気遣いに、胸が痛くなった。
 リーリン・マーフェス。レイフォンと同時期に孤児院に入り、同時にレイフォンと殆どの時間を共有して育った。彼がいなくなって一番悲しむのは、確実に彼女であり。こうして労ってもらう価値が本当に自分にあるのかと、問わずにはいられなかった。

「どうしてここに?」
「え? わたしはさっきレイフォンにあった時、養父さんの事を頼むって言われたからだけど」
「そうか……まだレイフォンに心配してもらえるのだな」
「その、本当に何があったの? レイフォンの様子も、何というか、普通じゃなかったし……」
「…………」

 問いかけてくる少女になんと答えようかと逡巡し、すぐにかぶりを振った。言葉を選ぶと言うのは、つまりごまかすつもりがあるという事だ。ここまでの失態を犯しておいて、さらにそれを取り繕うための言葉を吐く。どこまでも誠実さを欠く思考に、反吐が出そうになった。
 正直に話そう。たとえそれで、見放されたとしても。これ以上自分に失望したくはない。

「あの子は、破門を願い出てきたのだ。そして、近々園から出て行くとも」
「え!?」

 リーリンが驚愕の声を上げるが、それも無理のない事だ。つまりそれは、デルクの孤児院と完全に縁を切ると言っているのだから。

「養父さん、それって本当なんですか? ちょっと信じがたいと言うか……」
「残念ながら、本当の事だ。レイフォンが返上したこの刀、これが何よりの証明になる」
「じゃあ本当に……? 何かあるとは思ってたけど、こんなに大事だったなんて」

 信じがたいと確認をとる彼女に、デルクはただ肯定の返事だけを返した。
 罵られたとしても、それは受けなければならない。それが自分の不甲斐なさの結果であり、責任でもある。そう覚悟していたが、しかしリーリンの反応は違った。
 顎に手を当てて、ひたすら悩んでいる。と言うよりも、何か釈然としないという表情だ。

「えー? 養父さん、もう一度確認するけど、レイフォンが破門してくれって言いに来て、ついでにここからも出てくって言ったのよね?」
「ああ、その通りだ」
「それにしては何というか……こう、後ろ向きというか、ダメな感じの雰囲気がなかったのよね。むしろ、これから頑張るぞ、って感じで気合い入れてたわ」
「それは……むぅ」

 リーリンから見た、混じりっけない第三者からの言葉に、さすがにデルクも悩む。
 息子の全てを知っている、とは今回の件もあり、口が裂けても言えないが。だが、十余年とつきあって、全く人となりを捕らえられていないなどと言うこともない。そして、彼から見たレイフォン・アルセイフという少年は、こういった類いの話を軽く終わらせる性質ではないと断言できる。
 武芸に関してか果断だが、日常生活では不断。孤児院の中で誰一人否定しないレイフォン像である。デルクとの師弟関係だけならばともかく、孤児院から出て行くとの話まで発展して、それを引きずらない筈ない。逆方向に厚い信頼があった。
 もしそれが本当なのだとすれば、今回の件をあまり重く捉えていないのか、もしくはそれが霞むほどの何かを隠しているのか。そこまでは分からないが、もしそうであれば。
 まだ取り返しが、付くのではないか?

「まあどうだったとしても、あんまり深く考えない方がいいと思うわ」
「しかしな。実際、大事にまでなっているのだ。これを気にせんと言うのは……」
「と言うか、気にするだけ無駄よ。だってレイフォンって、馬鹿だもの。どうせ目的を見過ぎて他のことが見えてないだけ」

 きっぱりと断言する娘に、思わず口元を引きつらせるデルク。その馬鹿な奴を育てたのは、間違いなく自分なのだが。しかしそれを言う勇気はなかった。

「その癖に、一度決めると無駄に頑固だから困るのよね。どうせ成功するか、大失敗すれば戻ってくるわよ。笑っているにしても、泣きつくにしても。まったく、フォローするこっちの身にもなってほしいわ」

 頬を膨らませながらぷりぷりと文句を言うリーリンに、自然と浮かんだのは笑みだった。それさえ出来るようになってしまえば、鉛のようだった心は大分楽になる。
 本当は、レイフォンが出て行って一番つらい筈なのだ。半身と言えるほど近しい関係だったのも理由の一つではある。しかし、それ以上に少女はしっかりした内面に反して、かなり甘えたがりなのをデルクは知っていた。
 取り繕いも気を遣いもしない、そして自分の感情を思う存分叩きつけられる相手、それで許してくれると思える唯一の存在。そんな相手が離れるのに、つらくない事などない。それでも意地を張れるのであれば、それはわがままを超えられるほど相手を信じているからだろう。
 レイフォンもリーリンも、とてもいい子だ。自分には勿体なすぎるほどに。自慢の子供達。
 信じよう、そう思った。絶望するのも諦めるのも簡単だ。だが、それでは本当にそこで終わってしまう。愚かな自分は信じられなくとも、レイフォンであれば信じられる。あとは、そうし続ければいいだけだ。
 帰ってきたら笑顔で迎えよう。成功したならば褒めよう。そして失敗したならば、今度は全力で力になる。
 まだ何かが解決したわけでもない。むしろ何も解決してはいない。心に残る重圧も未だに締め付けてくるが――
 床の錬金鋼に手を伸ばす。指はあっさりと柄に絡まり、慣れた重量を手に与えた。
 せめて、身につけた技が、息子の身を救ってくれますように。そう、レイフォンの残した刀に祈った。



□□□■■■□□□■■■



 グレンダン全域にうっすらと霧の乗ったある日、リンテンスはある人気のない道を歩いていた。
 目的があると言えばあるし、ないと言えばない。どこか目的地があったわけではなく、人気のない道であればどこでもよかった。逆に言えば、誰の目の届かないような場所に足を運ぶ必要があった、とも言えるのだが。
 光を撹乱する水の粒子は、五メルトルもすれば全体像を怪しくさせ、十メルトルも離れると判別が難しくなる。早い話が姿を隠すには――視界から消えただけで隠れた気になるには――絶好の天気だ。馬鹿が馬鹿なことを企てるには、さぞや都合がいい事だろう。だからこそ、リンテンスがわざわざこんな所まで足を運んだのだ。
 鼻を一度鳴らし、歩みを止めた。コートに手を突っ込んで、咥えたタバコの灰が落ちるに任せた、いつものスタイル。ただし雰囲気だけはいつも以上に不機嫌そうだ。実際、すこぶる機嫌が悪い。

「いい加減に出てこい。二十五万九千二百秒待ってやったのに、これでもまだ足りないか? ガキのお遊戯につきあうのはうんざりだ、これ以上待たせるなら、もう終わらせる」

 言いながら、リンテンスから放たれる威圧感。それは実態のないものではなく、剄という確かに存在する圧力として放たれる。
 リンテンスという天剣のネームバリューでも、放たれる膨大な剄の片鱗でも、それを恐れない者はまずいない。実際、彼が少しばかり脅した、それだけで周囲の物質が軋んでいるのだ。最強の代名詞である天剣授受者が、機嫌を損ねて敵意を向けている。しかし、もしそれに耐えて目の前に出てこられるとしたら。
 それは同格の者以外にあり得ない。つまりは、同じく天剣授受者。
 物陰から現れたのは、少年だった。それも、リンテンスにこの年頃の子供がいてもおかしくないと思える程度の、そんな幼い容貌。ついでに言えば、彼が見た目通りの年齢だという事も、よく知っていた。
 レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフ。世間ではヴォルフシュテイン卿などと呼ばれていても、リンテンスにとっては尻の青いガキでしかない。付け加えるならば、最近は気まぐれと暇つぶしに鋼糸の扱いを教えてもいる。実力は……天剣の中でも平均より少し下程度だろう。年齢を考えれば十分すぎる。
 だが、それで思い上がりをしたというのであれば、話は別だ。

「…………」
「どうした、何か言ってみろ。おれを満足させられるだけの何かを。そのためにわざわざこんな所まで来てやったんだ」

 その口調は、お前などどうという事もないという風な、至って適当なものだった。しかし、もし女王あたりが聞いていたら目を丸くしていただろう。彼の言葉の中には確かに、挑発的なものが混ざっていたのだ。
 終始気怠げで、とにかく何に対しても無頓着な男、それがリンテンスだ。気を遣う気がなくて相手を苛立たせる事はあっても、自分から挑発すると言う事はありえない。そんなことをしても意味がないと知っているのだ。結果をいくら達成した所で、課程に意味を見いだせなかった。だからこそ、グレンダンにたどり着き天剣をやっている。
 最後に鼻で笑ってやり、思い切り侮辱をしてみたが、しかしレイフォンは眉一つ動かさない。それどころか、剄の流れすら全く乱さず、充実した気力と緊張感だけを携えていた。
 なるほど、明らかに格上の力を前にして、圧倒されないのは見事の一言だ。しかし、気に入らない。
 リンテンスとレイフォン、両者ともが同じ天剣であるが、その同格というものが実力にまで適用される筈がない。ついこの間入ってきたばかりの小僧と、天剣最強の男。その間には、埋めることの出来ない差が確かに横たわっている。
 それを鼻にかけるわけではない。が、感情がそれではいそうですかと納得しないのもまた事実。
 何のつもりか、どうしてそういう考えに至ったかは分からない。分かるつもりもない。ただ現実として、小器用なだけの未熟者が目の前で立ちふさがっている。
 少しばかり鋼糸の動きを覚えたからか。老性体を一体屠ったからか。天剣という自分の剄を十分に受け止められる武器を手にしたからか。経験が、勘が、技量が、決然さが、視野が、剄の扱いが、何もかもが足りない愚か者を調子に乗らせた要因は、どこにあるのだろうか。
 ようは、舐められているのだ。
 天剣だとかそんなものは関係なく、リンテンス・サーヴォレイド・ハーデンという一人の武芸者が。
 それを許せるような寛大さなど、最初から持つ気はない。

「口も落としてきたか? ならばこれで終わりだ。全てな」

 コートのポケットから取り出された彼の手には、天剣がなかった。完全な丸腰だ。
 リンテンスの記憶に間違いがないならば、レイフォンの天剣もメンテナンスに出している筈である。だが、こうして襲撃を企てていたならば、普通の錬金鋼くらいは持っているだろう。実力の何割も出せないような、不満しかない道具。それでも実力を一パーセント出せるかも分からない素手よりは大分ましなのだが。

(だから、勝てると思ったか?)

 レイフォンは知らない――恐らく女王すらも、リンテンス自身以外は知らないであろう事実。彼は無手でありながら、剄で数百本の糸を作る事が可能だった。
 指に力を込める。剄の奔流は纏められていき、掌にうっすらと靄が現れた。本物の錬金鋼ほど精密な動きは出来ないが、未熟者一人を刻むくらいは、これでも十分すぎる。
 戦場の雰囲気を察してか、レイフォンの腰が僅かに落ちた。距離は、霧の空気であれば輪郭がぼやける程度には離れている。だが、武芸者にとっては一歩の間合いでしかない。そして、レイフォンはその一歩を天剣の中でもとりわけ上手く踏み出せる、その程度には実力を把握していた。
 空気が重い。苦痛すら感じるほどの、赤色に染められた世界。たとえ十全に振るえる武器を持っていなかったとしても、天剣授受者同士が相対すればそれだけの圧力が空間を満たす。
 じりり、とレイフォンのつま先が地面を噛む。リンテンスはそれに、悠然と無反応。
 そして少年の体が弾けて前へ飛び――しかし、遅い。天剣がない、調子が悪い、油断しきっている。どの可能性を考慮しても、遅すぎる。まるで歩いているのではないかと言うほどに。
 失望も、嘲笑も。あらゆる感情が生まれる前に、右腕は勝手に動いていた。手の中に形成した数百の鋼糸が、敵対者をただの肉片にしようと躍り掛かる。慣れた指先の感触が、人間が血液を周囲にばらまいて汚す光景を想像させて。
 現実が、予想を裏切った。
 レイフォンの体が大きく倒れ込み、糸で作られた網の下を滑る。驚嘆に見開かれるリンテンスの目は、確かに糸を通過しても健在な少年の姿を捉えていた。

(馬鹿な!)

 内心で思いきり、結果を罵る。その罵倒は同時に、自分にも向けられた。
 どれほど未熟であろうが弱かろうが、油断していい相手ではなかったのだ。天剣、その中でも確かに実力差はある。だが、それは同時に同じ天剣であれば、殺しうる何かを持っていると言うことでもあったのだ。
 小器用なだけだと思っていた小僧が、こうして自分の技をかいくぐり、命を脅かそうとしている。リンテンスの油断と慢心が招いた結果。舐めていたのは、自分だった。
 予想外すぎる行動だ。まさか剣を捨て置いて素手で攻撃してくるなど。武芸者が最初に、そして最後に頼るもの。自分が極めた武器、およびその技。それを最初から捨ててかかってくるなど、予想できよう筈がない。
 レイフォンの体がさらに小さくなって倒れ込む。武器は見当たらない……だが、手を伸ばせば足に届く。足に届けば、それを破壊するのなど難しい事ではない。大した事のない威力でも、剄の防御がない部位など、普通の人間の耐久力以上にはなれない。
 リンテンスは即座に決意した。右足を犠牲にして、大きく背後に飛ぶと。確実に片足を壊されるが、その代わりに距離を得ることが出来る。剣の届かない距離、五メルトルも離れられれば、戦場はリンテンス優位に作り替えられるだろう。あとはもう、絶対に油断しない。距離にさえ気をつけてしまえば、レイフォンを倒すことなどそう難しくはないのだ。
 左足を大きく引いて、右足を残し――しかし倒れ込んだ少年は、足に手を伸ばさない。不味い、思わず歯ぎしりをしそうになる。また予想を外された。どうしてこうも裏をかかれる!
 今更行動の変更が出来るはずもない。出来るだけ大きく距離が開くことを祈りながら、レイフォンが地面に突っ伏すのを見届けて。

「お願いしますリンテンスさん! 僕にお金を貸して下さい!」

 見事な土下座を披露しながら、少年が哀願した。
 一瞬にして全身から剄が抜けて、飛び退るのに失敗。下げた左足はそのまま地面を踏んで、その差だけ体が左に傾く。
 後退に失敗した体制のまま、沈黙するリンテンス。少年に目を向けても、彼から見えるのは後頭部と背中だけだ。
 答えがないからだろう、レイフォンは同じ体制のまま、もう一度叫んだ。

「お願いします! その……できれば生活に必要な分以外全部!」

 こいつは何を言っているんだ。リンテンスの、偽らざる本音だった。
 お願いの内容などどうでもいい。聞き届けることも含めて。それよりも、重要な事がある。額を揉みほぐし、やっと傾いた体制を戻しながら、問いを発した。

「お前、この三日おれを追けてたのは何でだ?」
「追けてたなんてそんな。ちょっと言い出す機会がなくって」

 正座はそのままに、少しだけ顔を持ち上げたレイフォンが、えへへと愛想笑いをしながら答える。正直、その様子に苛立ったが、とりあえず続けた。

「さんざん煽ってきただろう」
「そんな事してませんって! ずっと機嫌が悪そうだったから、機嫌がいい時に相談するべきかな、と思って様子見してましたけど」

 そう言われれば、そんな気もする。いらいらしてたから視線にさらに苛立ち、その内苛立ちの理由が何かから視線に変わった。そう考えると、まあ筋は通っている。
 レイフォン、もとい馬鹿の、再び土下座の姿勢に戻った頭を見る。既に苛立ちも戦場の空気も、どこかに消えていた。後に残ったのは、やたら肩に残る疲れだけ。細く長いため息は、止める気になれずそのまま垂れ流した。
 つまりは、認めたくないが、ただの勘違いだったのだ。行動が予想を裏切るのは当然だろう。リンテンスが戦闘をするつもりだったのに対して、レイフォンはただお願いをしに来ただけだったのだから。

「一度目に聞いた時、なんで答えなかった?」
「恥ずかしながら、いざ言うとなると緊張しちゃって。やっぱり、ありったけのお金貸して下さいって、言いにくかったです」

 いよいよ――リンテンスは、天を仰いだ。ひたすら馬鹿馬鹿しく、馬鹿な話。主演は大馬鹿のレイフォンで、共演にクソ馬鹿のリンテンス。泣けてくるほど下らなかった。

「それで、ですけど……貸してもらえます?」

 やたらに高い、甘えた声色で言う土下座少年。リンテンスは視線をレイフォンに戻して。
 とりあえず、その後頭部に思い切り踵を落とした所で、誰も責められないだろう。



(そうだよ、お金がないなら、ある人から借りればいいんだ)

 金策に喘ぐレイフォンが出した解答が、つまりそれだった。
 一時期、それこそ天剣になったばかりの頃は、もう闇試合に出るしかないかと考えた事もある。実際、もう少しで天剣をエサに出場していた事だろう。
 だが、それで問題になったのは確実性がないという事だった。出場してもどれほど稼げるかなど、分かったものではない。カモられてしまえばそれまでだ。それに、出場料だか賞金だか、とにかくそれらは交渉しなければいけないのだ。当然交渉の経験などなく、むしろ口が回らず金銭感覚も微妙なレイフォンでは上手くいくはずがない。
 しかし、お金を稼ぐ、それに拘る必要などなかったのだ。
 お金は、ある所にはある。そして、稼ぐのではなく借金をするというのは、まさに天啓だと思えた。なにしろリスクが少なく、確実性があるのだ。
 そして目をつけたのが、自分と同じ天剣だった。
 天剣は人格破綻者ばかり。レイフォンの偽らざる本音だ。しかし、だからこそ。金銭に執着がなく、必要な分だけを使いあとは貯まるのに任せている者が多い。多額を借りてもあまりうるさく返済を求めなさそうな同僚は、借金をするのに絶好の相手だと言えた。
 それを決めてしまえば、レイフォンの行動は早かった。まず王宮へと走り、中の図書館へと入る。その辺の司書へと声をかけて、情報を集めてもらう。願ったのは、もし犯罪を犯した時にどの程度の相手まで累が及ぶか、を大ざっぱに集めてもらった。ちなみに、金銭トラブルでの法令は要求していない。数字を見ると頭が痛くなると言うバカ極まりない理由で、最初から読むことを放棄していた。
 聞いたと時には、レイフォンが天剣である事も手伝って、恐ろしく訝しげな顔をされたが気にしない。その資料は罪科の程度ごとに、恐ろしく簡潔かつ効率的に纏められていたが、ここでもバカが発揮された。
 読むのが面倒くさくなったレイフォンは、課程をすっ飛ばしてページの最後、つまり判決の内容だけを見たのだ。従犯であるから家族も裁かれた。監督不行届だから師が武門を潰された。そういう理由を無視して、結果だけに目を通した。

(そうか……サイハーデンを破門してもらって、孤児院も出れば借金を求められる事はないのか)

 結果だけを言えば、法律上の家族でもないのに借金の肩代わりを求められはしない。そんな事がまかり通れば、孤児の一人に借金を作らせて、同じ孤児院出身の者に返済を強制するという無茶が通るからだ。
 デルクだけは、その責任を負わされる可能性があったが。今回の借金は個人間のやりとりであり、よほどの事がない限り養父師匠に支払いが命じられる事は、少なくともグレンダンの法律ではない。
 本当に見なければいけない部分をさっくりと飛ばしたレイフォンは、すぐに孤児院を出た。格安で借りられたアパートの一室に移り住み(天剣授受者である事が何よりの保証になった)同時に仕事も探す。
 天剣の給料は全額寄付に回すため、後々は借金返済に回すために、別の収入源が必要だった。一人で暮らせる程度の金を稼ぐのは、武芸者であれば楽なものだ。武芸で稼げなくとも、活剄を生かした力仕事をすれば簡単に稼げる。また、仕事を探す際に、運が味方したのも大きかった。
 こうして準備が整った所で、レイフォンは次の事を考えた。つまり、金を借りる相手の事だ。

(まず、頼めば貸してくれそうな人)

 ベッド一つに小さな机を置けば、体を伸ばすにも苦労しそうな小さな部屋。小さなテーブルに薄汚れた紙を広げながら、うなり声を上げた。
 まず頼りになりそうな人が、リンテンスとリヴァースだ。リンテンスは単純に金銭に無頓着だからであり、リヴァースは天剣授受者一の人格者だから。
 他にもデルボネ、ティグリス、カルヴァーン、カナリスあたりは貸してくれる可能性がある。と言っても、この人選は人格が比較的まとも、金銭に余裕がありそうという基準で選んだので、借りられればもうけたという程度だ。第一、カルヴァーンはなぜかレイフォンを睨んでいたりするので、そういう意味でもあまり過大な期待はできない。

(次。すっごくしつこく頼めば貸してくれるかもしれない人。……いるか?)

 あえて名前を挙げるならば、カウンティアとバーメリンだろうか。と言ってもこの二人は(レイフォンの偏見で)金遣いが荒そうだ。その上、あまりしつこいと本気で殺しにかかってくる可能性もある。
 ちなみに、デルボネ以下四名をここに入れなかったのは、彼女らは駄目と言えばどれだけ頼んでも駄目だと思ったからだ。
 デルボネとカルヴァーンは、その完成された精神が却下だと判断したなら、絶対に覆しはしないだろう。王家の二人(カナリスは、正確には王家ではないが)はもっと無理だ。政治に携わる者達が、判断の誤りなど許しはしない。

(最後に……すっごく嫌だけど、条件付きで貸してくれる人)

 レイフォンは本気で心底嫌そうに、名前を挙げた。正直、この辺に借りるならば、闇金に手を出すか闇試合に出る方がマシかもしれないとさえ思う。
 まずトロイアット。常にべらべらとしゃべり、女の尻を追うのに余念のない男は、女を紹介すれば金を貸してくれる。それで駄目でも、誰か女性伝いに頼めば確実に借りられるだろう。鬱陶しい事極まりないが。
 だが、トロイアットはまだマシな方だ。非常に鬱陶しいが、鬱陶しいだけで済むのだから。問題はもう一人、サヴァリス・クォルラフィン・ルッケンスである。
 彼からは確実に借りられるであろう。むしろ嬉々として最高額までの借金をさせてくれるだろう。……その代償として、殺し合いと変わらないような勝負をする事になるのが、はっきりと想像できる。
 サヴァリスは戦闘狂、それは誰も否定できない事実だ。天剣中最も人を気遣えるリヴァースすら否定しない。あらゆる人間的欲望を全て戦闘に集中したような、そんな正気とは思えない欲求を持っていた。
 そして彼は、自分が命を削る殺しあいができる相手、つまり天剣と戦える機会を虎視眈々と狙っている。そんな所に「真剣勝負を受けるのでお金を貸して下さい」などと言う天剣がいて、その機会を逃すだろうか。……ありえない。彼は最も確実に金を借りられる相手であり、同時に戦闘地獄に引きずり下ろしてくる相手でもあった。
 凄く嫌だが、本当に嫌だが――命には代えられない。危険な人物であったが、同時に一番多くの金を貸してくれる見込みがある相手でもあるのだ。
 本当に最後の手段として、控えておく必要はあった。

(最後。問題外。終了)

 残った一人、ルイメイを切り捨てて、リストアップを終了する。所持する金が少なそうで借りられる見込みもなく、さらに嫌いな相手となれば考慮するのも億劫だ。
 紙に書いた名前を睨みながら、レイフォンは覚悟を決めた。恐らくこれを実行してしまえば、一生金に困る事になるだろう。慎ましやかな生活以外は許されない。それで、自分は本当にいいのだろうか。

(いいに決まってる)

 今更引き返すつもりはない。そして、これ以上孤児の子供達から犠牲者を出すつもりも。
 翌日から早速行動しようと、レイフォンは硬いベッドの中に潜り込んで目を閉じた。
 ちなみに、リンテンスから金を借りるのに成功するものの、死ぬほど蹴飛ばされるのはこの四日後の事である。



□□□■■■□□□■■■



 グレンダン王宮のある一室、あらゆる書類が所狭しと詰められ、いくつか机の並んだ部屋。そこに、アルシェイラとカナリスだけが詰めていた。
 本来であれば、都市の心臓として機能しなければならないこの部屋はしかし、実際の所殆ど使われていなかった。女王が無軌道すぎて、場所に拘らずに書類を裁いているというのも理由の一つだ。それだけ聞けば柔軟性に富んだ良い統治者と取れなくもないが、実際はサボっているから使われない事の方が遙かに多い。
 まあとにかく、そんな滅多に使われない仕事部屋が珍しく使われている訳だが。アルシェイラはまた一枚の書類を読み終えてサインを加えると、それを投げ出してぐっと体を伸ばした。

「っくああぁ~! よく働いたわ。今日はもうこれで終わりにしましょ」
「いけません陛下、まだまだ仕事は残ってるんですから」

 アルシェイラの甘えるような声に、憮然として応えるカナリス。諫めながらも、その手は休まらない。
 注意されたアルシェイラは、それでも堪えきれないとばかりに、処理したばかりの書類を投げ捨てた。それを見たカナリスが、小さくため息をつく。

「はぁ……どうせ陛下が最後までして下さるとは思ってませんでしたけど」
「そお? じゃ、今日は終了って事で」
「ダメです。少なくとも、今日中に絶対これだけは処理していただきます」

 と、突き出されたのは、隅をホチキス止めされた紙束だった。表紙には、滲んだ粗末なインクで『天剣授受者・ヴォルフシュテイン調査結果』と記入されている。それを確認したアルシェイラは、とても嫌そうに顔を歪めた。

「あのさ、これがあるからもう仕事をしたくないんだけど」
「これがあるから陛下に詰めていただいているんです」

 笑顔で言われる言葉に、カナリスもまた笑顔で手を突き出す。一見して満面の笑みに見えるが、しかしそれが怒りで引きつっているのをアルシェイラは理解した。これまた珍しく根負けした彼女は、嫌そうながらも大人しく紙束を受け取り、その中身を確認せずに机に落とす。それで注意されないのは、両者ともに中身を完全に把握しているからだ。こんなものは、知っていることを形式的な形にしたにすぎない。
 アルシェイラは深くため息をついて、軽く頭を押さえた。実際、頭が痛くなる問題ではあった。曖昧に済ませるには話が大事になりすぎており、処断で済ませるには悪人が居なさすぎる。

「まったく。なんであの子、こんな面倒な事をしでかしてくれたのよ」
「閣下がちゃんと政治をなさらないからです。むしろ彼は代わりにツケを払ったのですから、文句を言われる筋合いはないと思いますけど?」
「うぐっ……言うようになったわね」
「そうでなければ閣下の傍は勤まりませんから」

 今度はアルシェイラが引きつった笑みを浮かべる番だったが、彼女はそれを全く無視して澄まし顔だった。
 実際、カナリスの言うとおりなのだ。政治に関心がない――なさ過ぎる女王は、最低限のラインに挑戦するかのように仕事をしていない。そんなまねをすれば政治は停滞するし、経済その他に少なからず影響が出てくる。そこを突かれてしまえば、反論のしようもなかった。
 皮肉から逃げるように、一度は投げ出した書類を手にとってページをめくる。ぱらぱらと紙が踊るのだけを確認し、内容は見ていない。本当に逃げるためだけの仕草。

「しかしこれって、公表するしかないわよねぇ……」
「しないのであれば、追放するしかありません。その場合は、事情を知る者から少なからず反感が出てくると思います。わたしを含めて」
「分かってる、分かってるわよ。だからそんなに睨まないでって」

 非難がましい視線にさらされて、ぱたぱたと手を振って訂正する。
 カナリスは年齢的にも、天剣になった時期的にも、レイフォンに一番近い。だからなのか、今回の件に一番同情的な人間だった。政治に関わる人間が私情を挟むのは宜しくない事なのだが、今回ばかりは原因がアルシェイラにあるだけに、何も言えない。もっとも、そうでなくとも仕事をしていないのだから、言った所で説得力があったとは思えないが。
 面倒そうに視線を落として、偶然開いていたページの文字を追う。そこには、レイフォンが《しでかした》事の数々が、子細余すことなく記されている。

(なんでもうちょっと簡単に処理できる程度に止めてくれなかったのかしら)

 それが八つ当たりであると分かっていながらも、思わずにはいられなかった。これをどこからも文句が出ないように処理するのは、恐ろしく骨が折れる。
 悪人がいれば、そいつに全部押しつけてしまえばいい。しかし、これたただの行き違いと思い込み。押しつける相手のいない問題というのは、それだけで厄介だ。
 所々内容を呼び飛ばしながら、ページをめくった。そこには意識調査として、レイフォンに対する一般的な意見が書かれている。

(支持率は僅か十二パーセント。まあ酷いもんよね。天剣剥奪希望も過半数と、よくこれだけ酷いことになったもんだわ)

 かなり本気で呆れるが、それは何の対応もとってこなかった自分にも言えてしまう事だ。これとそうレベルが変わらないと思うと、少しは真面目に仕事をしようかと思ってしまう。思うだけで、ぜったいにやらないが。
 レイフォンに対する世の中の認識は、異常な拝金主義で非常な守銭奴だった。
 情など欠片も解せず、容易く家族や師匠との縁を切る。粗末な部屋に一人暮らししだしたかと思えば、アルバイト等まで始めだした。挙げ句の果てに、同じ天剣授受者から節操なく金を借りまくっている。しかし、金の使い道は不明。
 はっきり言って、これで良い印象を抱けと言うのは無理がある。アルシェイラですら、最初に聞いたときは眉を潜めたくらいだ。天剣に人格は問わない。問わないが、限度はある。

「このお馬鹿が」

 指で紙束を叩く。

「自分の給料も借りたお金も全額孤児院に寄付しました。家を出たのは借金の返済義務が移るのを防ぐため。今はアルバイトの稼ぎのみで生活してますなんて、誰か予想したかしら」
「何をやっているかは全く隠さないのに、何をしたいかは誰にも語らない、変な秘密主義でしたからね」
「そんだけじゃないわよ。要所要所を見ると珍プレー連発してるのに、全体で見ると聖人君子だなんて、どこのコメディなの。最初に聞いたときは大爆笑しちゃったわ」

 いよいよレイフォンを処断しなければ示しが付かない、そんな段階になって調べ始めた時、一番問題になったのがその珍プレーだった。
 はっきり言って、行動の意味が不明だったのだ。金に関係があるようで関係ない、もしくは状況を悪くするような行為の数々。孤児院を出たのも、金を独占するためだと思われていたのだ。
 一貫性があるようでない、専門家を悩ませた謎の行動。それがまさか、ただの無知だとは。

「調べた時、あの二人がにやにや笑ってる訳よね」

 あの二人――デルボネとティグリスの顔を思い浮かべて、肘をつく。

「だから気前よくお金を貸したのでしょうね」
「まったく、知ってたんなら教えてくれればいいのに」

 愚痴るが、これについては完全に知らない方が悪い。
 そういう情報には敏感でなければいけない立場でありながら、実に二年も真相を知らなかった。これだけで、呼び出され怒られても仕方のない事態である。

「まあとにかく、事実を公式発表すれば一般の評価は逆転するでしょ。で、天剣の方は?」
「殆どが無関心です。問題ありません」
「それは別の意味で問題ありなんだけど……まあいいわ」

 天剣授受者は人格破綻者、その看板に偽りない結果だ。
 レイフォンの処断に一番積極的だったカルヴァーンも、真実を知ってからは肯定派に鞍替えした。武門の誇りと規律を重んじる彼にとっては、当然の動きだっただろう。今ではむしろ褒め称えてさえいる。天剣のメンツがメンツなので、気持ちが少し理解できてしまうのがちょっと悔しかった。

「カルヴァーンが陣頭に立って援護してくれるのは、正直有り難かったわ」
「彼じゃあ、本気でどうしようもありませんからね……」

 二人して大きく、そして深いため息をつく。事実が発覚するまでレイフォンを庇っていたのは、なんとサヴァリスであった。
 意外な話ではあったが、真相を知ってしまえば当然と思える程度の事であり、同時に馬鹿馬鹿しくもある。
 誰もが簡単に予想できる話ではあったが、サヴァリスに借りを作れば彼と戦うことで返却を求められられる。そしてその通りにレイフォンは借りを作って、予想と寸分違わず戦うことになったのだが。問題は、レイフォンが彼から借金した額だった。
 ルッケンスという武門は、グレンダンでも最大勢力の一つである。それこそサイハーデンなど相手にならないほどの門弟を持ち、道場から活気が絶える日などない。つまり何が言いたいかというと、そこの長子であるサヴァリスが、普通に生活する上で金を使うような事はないのだ。
 過去に一度大きな出費をしたが、それ以外に出費らしい出費はない。彼が天剣になってから十数年、それだけの天剣の給料がまるまる残っているのだ。借金全体の二割半ば、約十年分の給金に目がくらんだのは、事情を考えれば仕方ないだろう。
 戦いについては、天剣は天剣同士の私闘は禁じているものの、合意の上での試合までは禁止していない。と言うか、そこまで禁止できない。あくまで切磋琢磨が目的だと言われてしまえば、むしろ表だって禁ずる方が問題になる。
 必死になって訓練目的で試合を申し出るレイフォンと、その後ろでやたらうれしそうな笑顔のサヴァリス。それを見た時、アルシェイラは「こいつ、ついにやっちゃったわ……」と思わず漏らしたとか。

「まったく、普段は何も考えてないくせに、戦いが絡むと妙に頭が回るんだから。本気でろくでもない」
「月一ペースですもんねぇ。試合の名を借りた殺し合い」

 サヴァリスは金を貸した際、無期限無利子ただし途中で条件の更新あり、という契約をした。
 無期限無利子はただの善意ですよ、だから試合とは全く関係がありません。でも、試合をしないなら期限付き法廷利子に条件変えちゃうかも。こんな悪徳条件を堂々と提示し、厄介なのはそれが法に則った手順を踏んだという点だった。
 とにかく、これでサヴァリスは好きなだけ強敵と戦えるようになったのだ。と言っても天剣は女王のためのものであり、おいそれと自由にはできない。だからこそ、両者の妥協点、月に一回で手を打たせる事に成功した。彼も確実に戦えると分かっていれば、そうがっつきはしない。むしろ準備期間として楽しんでいる風さえある。
 そんな絶好の玩具を手に入れたのだから、それを手放しそうになれば援護もするだろう。ちなみに、サヴァリスにとって噂の真偽など最初から興味の外だ。

「レイフォンの借金総額は、天剣の給料四十年分。どこをひっくり返してもそんなお金ないんだから、本人に返してもらうしかないんだけど……」
「そうすると、無利子とあらかじめ決められた相手は後回しになります」
「あの戦闘狂に玩具を与え続けることになるのね……。多少は援助できるから、それを使って何とかならない?」
「厳しいかと。条件の曖昧な所に優先して返却させないと、トラブルの元になりますし」
「ああもう、あのペースで戦ったら、必ずどっちか壊れるわよ! せっかく無駄に強くなったって言うのに」

 思い切り背もたれに倒れながら、半ば喚くように言う。
 一年と少し前までは天剣として平均の強さでしかなかった二人。それが天剣最強の足下に迫るまでの力をつけていく課程は、何かの冗談としか思えなかった。
 とにかく死にたくないレイフォンが必死に実力を上げていき、それに触発されたサヴァリスが同様に鍛錬をする。いざ戦えば両者とも半死半生になり、それで危機感を煽られたレイフォンは訓練の密度を上げ、同じくサヴァリスも強くなっていく。文字通り命を賭した試合、入院、訓練のサイクルは、武芸者の能力を急激に高めていた。
 両者とも、動機は違うが戦いたがりなので、グレンダンとしては有り難いのだが。だからと言ってやり過ぎて壊れてしまっては元も子もない。

「で、こいつは当然」
「はい。保護指導者に立候補していますけど……」
「死ねって言っときなさい。魂胆が見え透いてるのよ。第一、サヴァリスに任せたらまともに育つ者も育たなくなるわ。戦闘狂がもう一人増えましたなんて、冗談じゃないわよ」

 アルシェイラの視界にタイミング良く目に入ったのは、レイフォンの今後についての項目だった。あくまで今後についてであり、処分ではない。処分にすると犯罪者になってしまうから。
 彼のやったことは、一言で言えば馬鹿の暴走である。その一言で済む問題だし、アルシェイラはそう断じた。だが世間的な意見を予想すると、これは変わってくる。無知以前に年齢、つまり若すぎるのに負担が大きかったのが悪いとなるのだ。
 元の孤児院に戻すには、今回レイフォンがやらかしたという実績があるため却下された。デルクは教育能力低しと判断されたとも言える。
 それで、とりあえず事情を先に伝えた天剣授受者の中から立候補を求めたわけだが。

「でも、ルッケンスの方もかなり乗り気なんですが」
「はぁ? なんでよ。関係なくもないけど、積極的に関わりある話でもないでしょ」
「それが、どうもレイフォンと付き合いが出来てから随分落ち着きができたとかで。いい影響があるなら近くに置こうと思っている様子です」
「本気であほじゃない」

 言葉もない、思い切り態度に出して、机の上で足を組んだ。カナリスの非難の目が刺さるが、無視して続ける。

「落ち着いたのはがっつく必要がなくなったから。焦る必要がなくなったなら、そりゃ余裕も出来るでしょうに。中身は何も変わっちゃいない、ただのバトルマニアじゃない」
「それでも大人しくなったという点に嘘がないというのが、話をややこしくしていますね」

 天剣もその家人も、しかも武門の大家が賛成となると、適当な相手を見繕って押しつけるという訳にはいかない。そんな武門の面子を潰すような真似をすれば、新たな火種を作るだけだ。
 であれば、最低条件として天剣授受者。保護観察者のハードルが一気に上がってしまった。

「他には、カルヴァーンだったっけ?」
「はい。さらに、借金をある程度負担してもいいとも言っています。ただし、条件が一つ。天剣を一時返上して、十六歳になったら復帰するようにと」
「却下。これから英雄になりかねない奴から、どんな事情があろうと天剣を返上なんてさせられる訳がないでしょ。そうじゃなくても実力が飛び抜けてるんだから」

 椅子が倒れそうなほど体重を預ける。天剣返上させた時の民衆の反応を想像し、アルシェイラはげんなりした。
 今の王家の評価は、はっきり言ってすこぶる低い。当たり前の話だ。
 元々アルシェイラが政治嫌いで有名である。治政が上手くいっているとは言いがたく、そういった方向での加点がほぼないのだ。さらに食料プラントの故障はしかたがないとしても、その復興は遅々として進んでいない。統治者としての女王に対する不満は、爆発寸前で踏みとどまっている状態だった。
 ここで一つ、武芸者の鏡として、レイフォンを盛大に持ち上げて不満を散らしたい。なのに天剣の返上などさせたら、少なくとも武芸者には確実に逆効果である。

「あーっ、ティグ爺あたりが預かってくれればそれで全部解決なのにぃ! あそこの孫娘、名前なんていったっけ? あれがレイフォンにぞっこんなんでしょ? それでいいじゃない!」
「ぞっこんって……。それは、これを機に真面目に仕事をさせる気だから、助け船は出さない方針なのかと」
「やるわよ! やってるわよ! こんなに頑張ってるんだから、少しくらい助けてくれてもいいじゃない!」
「先ほど仕事放棄しようとしてらっしゃいましたけどね」
「何か言った?」
「いいえ、何も」

 眼光を鋭くして追求するが、それを軽くいなされる。
 ぬあー、と変な叫び声を上げて、椅子を倒れるほど傾ける。あまりに見苦しい姿にカナリスの冷たい視線が刺さるが、無視して続けた。子供じみた仕返しである。
 一番角が立たない方法を探し悶えていると、ドアがノックされた。思わず眉を潜めるアルシェイラ。
 重要な事を決めるから、しばらく誰も近づくなと命じていた筈である。それほど重要で緊急を要する話なのか、それとも官僚以外の誰かが訪ねて来たか。どちらにしても面倒だが、対応しないという訳にはいかない。大きなため息を一つ、そうしてしまえば諦めることはできる。

「どうぞ~」
「ちょっと陛下。せめてちゃんと座って下さい」
「いいじゃない。どうせそんな事気にするような奴は来ないわよ」

 苦言を手を振って退けながら、思い切り体を反って、つまり逆さ向きで迎える。
 反転した世界に映ったのは、鬱陶しい銀の長髪に胡散臭い作り笑顔。なるほど、天剣の中でもとりわけ遠慮のないこの男であれば、仕事中に乱入してくるくらいはするだろう。
 アルシェイラのただでさえ剣呑だった眉が、眉間に深く溝を刻んだ。しかしそんな様子を目の前の男、サヴァリスが気にするはずもなく、普段と全く変わりのない調子で話し出す。

「これは閣下。ご機嫌麗しく」
「ないわよ。だから早く用件を済ませて、とっとと出て行く」
「それは残念。なら用事は手早く終わらせましょう」

 出口を指さされたサヴァリスは苦笑し――それもポーズでしかないだろうが――何枚かの用紙を差し出した。
 怪訝に思いながらも、その紙を受け取って目を通すアルシェイラ。同時に目は見開かれ、さらに冷や汗が流れた。

「一枚目がレイフォンの天剣残留嘆願書。二枚目が保護指導者関連の書類。三枚目が、父を中心としたルッケンスの同意書になります。あとは閣下のサインさえ貰えれば、すぐにでも……」
「っらァァァァァ!」

 アルシェイラの強烈な裂帛。それが部屋を揺るがせるのより早く――そして二人の天剣授受者が構えるよりも速く、彼女の体ははじけ飛んだ。
 半分足の浮いた椅子の上では、鋭く重い動きは望めない。ならば、と選択したのが、後転をするように宙を回転する事だった。机の上を弾いたのは、乗せていた足。積み重なっていた多くの書類が崩れる犠牲を払いながら、代わりに望んだだけの加速を得ることに成功した。
 回転する体。地面と平行だった向きが、垂直に変わる。いつもと同じ地面の角度、ただし上下だけが入れ替わった姿勢。
 目を見開いたサヴァリスが、ガードのために腕を上げようとしていた。さすがに、無駄に死線を越えただけある超人的な反応速度と判断力。しかし女王に対しては、それすら遅かった。
 膨大な剄を纏った足の裏が、一直線に突き出される。それはサヴァリスが持ち上げた腕の上を通過して、正確に顔面にめり込み――瞬間、大爆音が空間を揺らした。剄の奔流は破壊力ではなく衝撃力として対象を吹き飛ばす。背後の壁を、その向こうの外壁をも崩壊させて押し出し、サヴァリスが地上七階の星みたく滑空した。
 相手が退場したのを確認しつつ、足を伸ばした姿勢のまま両手で着地。足を下ろしてやっと普通に立つ。大穴が開いた壁を背景にして清々しく笑うと、唖然としながら耳を塞いで体を竦ませるカナリスが。
 そのまましばらく呆気にとられていたカナリスだったが、すぐに正気を取り戻し、同時に絶叫した。

「閣下、何をやってるんです!?」
「これで少しだけど時間は稼げるわ」
「やるにしたってもうちょっと方法があるでしょう! あぁ……死んでませんよね?」
「天剣を殺すようなヘマしないわよ」

 あえて、方法の話を無視しながら答えるアルシェイラ。それを続行したまま、言葉を繋げる。

「けど、これで稼げる時間はたかが知れてるわ」
「そりゃまあ、蹴っ飛ばして追い返しただけですし……」

 意図的に三白眼を作ってじっとりと睨む。すっと視線を外したカナリスに、それでも視線をぶつけながら続ける。

「とにかく、すぐにでも保護指導者だけは決めなきゃ駄目よ。あれに任せるのは本気で最悪の事態だし」
「けど、本気でどうします? ティグリス様に頭を下げに行きますか?」
「受けてくれるなら悪くないけど、それで首を縦に振るほどティグ爺は甘くないわ。カルヴァーンは最悪の一歩手前。他の天剣授受者にするとしても、ルッケンスが本腰入れたなら半分が脱落するわね」
「しかし、他に手がありません」
「まだあるわ、最後の手段がね。と、その前に」

 アルシェイラは手に持った用紙にさっとペンを走らせると、それをカナリスの胸元に投げた。慌てて受け取った彼女は、丸まった用紙を広げて驚く。
 渡した書類は天剣残留嘆願書とルッケンス同意書に、女王の承認サインを書き込んだものである。保護指導者の承認書は当然ない。本人がいないのをいい事に、自分に都合がいい物だけを認めたのだ。

「またこのような詐欺まがいの事を……」
「いいのよ。わたしが認めればそれもまかり通るわ。それで、最悪にならない保護指導者なんだけど」

 と、アルシェイラは笑いながら、カナリスの肩をぽんと叩いた。女王でいる時はまず見せない、童女のような笑顔で。
 カナリスは意味が分からず言葉を待っているが、それでも返すのは笑顔だけ。
 ルッケンスの本格参戦により、大きな武門の後ろ盾がない天剣に保護者となる資格がなくなった。これは単純に、政治と武芸両面からの影響を考慮した結果である。天剣であれば武芸方面での影響力に問題はないのだが、政治に関心を持つ者は殆ど居ない。政治的な力は、グレンダンではあまり重きを見られないとは言え、無視できる要素でもない。
 さらに、不可と判断されたカルヴァーン。最初から非参加を表明しているティグリス。体力や年齢を考えれば、デルボネにも任せられない。消去法で残ったのはトロイアットと……カナリスだ。
 やっと気がついたのだろう、カナリスの顔が青ざめた。同時にアルシェイラの笑みが深くなる。逃げようとした彼女の肩に、指が食い込んだ。
 年齢が一番近く、有名武門リヴァネス出身。そして、リヴァネス出身というのは王家の亜流、もしくは予備という事でもある。付け加えれば、天剣でも珍しく政治に興味を持った存在、というか女王の仕事の殆どを代わりに請け負ってもいた。武門と政治、両方面にぬかりなく手を伸ばせる、実は天剣で一番多芸かつ万能の才能を持った人物。
 それは、レイフォンを預けるのに理想的だった。理想的すぎた。
 いくら逃げようと体を動かしても、女王の腕は揺るがない。もう片方の指につままれた紙は、保護指導者承認書。既に女王のサインはあり、あとはカナリスがサインをすれば正式なものとして機能する。
 逃げ道は、既にない。
 そして、最後の一押しに。アルシェイラは甘く囁いた。

「お願いね」



□□□■■■□□□■■■



 訳が分からない。やたら綺麗な部屋で椅子に座ったレイフォンの、紛れもない本音だった。
 そもそも彼の日常とは、そうバラエティに富んでいる訳ではない。ここ一年あまりは、完全にパターン化していた。
 バイトがある時は、そちらに行く。随分煙たがられているが、それくらいで実入りのいい仕事をやめる訳にはいかない。効率よく働きつつ、同時に剄の鍛錬もできるようにする。
 天剣としての予定が入っていれば、王宮へ。と言っても、こちらは待機、訓練、老性体との戦闘しかなく、特筆する事はない。
 特殊な例として月に一度、サヴァリスとの試合もとい殺し合い、その後入院がある。だが、これを予定と言うに憚られるし、レイフォンもそう呼びたくなかった。
 とにかく、その異常を抜いてしまえば、あとは家に帰るだけ。未だ十二歳の子供、孤児院が懐かしくはあったものの、出てきた以上は泣き言は吐けない。玄関を開ければ、大抵はリーリンが作ったか持ってきてくれた料理が並んでいる。彼女の負担が小さくない事は分かっていたが、レイフォンにも余裕はなく、ずるずると甘えていた。文句一つ漏らさず支えてくれる彼女には頭が上がらない。
 食事を手早く済ませたら、あとは寝るだけだ。趣味などなく、遊ぶ余裕もない彼に、無駄な体力を使うという発想はない。なるべく多く体を休めて、翌日に備えるのだ。
 これがおおよそ、レイフォンの毎日である。
 だから、たとえば家に帰ると家具一切がなくなっていたとか、部屋の中心に置き手紙が一枚だけとか、それが他の天剣からの呼び出しだとか。そういうものは、日常には含まれていないのだ。
 いかにも金を持っていそうな、大きな家の一室。そこでなぜか、レイフォンは学校の生徒みたく座っている。であれば、当然教師のように立つ者も。
 カナリス・エアリフォス・リヴィン。同じく天剣授受者であり、仲は良くも悪くもない。と言うか話したことが殆どない。険悪なものまで関係者に含めるのであれば、カナリスは最も関わりが薄い者の一人だと言える。少なくともレイフォンは、話しかけられるまで声も口調も思い出すことができなかった。
 そんな相手から私物を人質に呼びつけられる理由など、思い浮かぶ訳がない。

「あなたには、今日からここで生活してもらいます」
「すみません意味が分かりません」

 ストレートすぎる返答に、カナリスの眉尻が跳ね上がった。まるでレイフォンが悪いと言わんばかりの対応に、内心だけでうめいた。

(どうしろって言うんだよ……)

 カナリスは睨んで牽制を続けながら、先を紡ぐ。

「これは女王の決定であり、拒否権はありません」

 つまり、今更あがいても無駄だという事だ。レイフォンもカナリスも。諦めたように机に肘をつけば、精神的な疲れがどっと溢れてくる。

「生活はこちらで見ますから、アルバイトをする必要はありません」
(まあ、それは楽になっていいかな)

 冷たい視線を無視して働いていたが、だからと言って全く気にしないほど図太い神経はしていない。むしろ精神的な疲労は確実に蓄積していた。必要だから堪えていたものの、そうでないならその方が有り難い。
 多少体から力を抜いて、楽な姿勢を取った。これからが本題だとは気づかずに。

「あとは、こちらで必要な教育も受けてもらいます。内容は一般初等教育の……」
「ちょ、ちょっと待って! 女王は天剣は力さえあればいいって!」
「その」

 慌てて絶叫するレイフォン。勉強を強制されるなど、冗談ではなかった。頭を使うのは、レイフォンが最も苦手な事なのだ。そんな事をするのであれば、今までのままの方が遙かにましだった。
 しかし、カナリスはあくまで冷静に言葉を中断させる。

「女王の決定です。もう一度言いますが、拒否権はありません。黙って従いなさい」

 断固とした口調。レイフォンは浮かせかけた腰を椅子に落として、そのまま机に突っ伏した。これからの生活が(頭脳的な意味で)遙かにつらい物になるのを確信して。
 これが。
 後の世に、歴代中最も仁徳の高い天剣と言われ、同時に三十余年かけて金を返済した借金王とも語り継がれた男。レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフの。ほんの始まりの話だった。


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