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[32070] 【習作】Memento mori - 或は死者の為のミサ(ガンダム種運命二次、シン視点で再構成)
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2013/09/17 21:46
俺にとって、戦争は遠い世界の物語だった。

 C.E.70 7月。東アジア共和国日本自治区に住んでいたシン達アスカ一家は、コーディネイター迫害から逃れるために、オーブに移住した。ナチュラル・コーディネイター平等を謳い、中立を宣言したオーブが、戦争に巻き込まれる筈がない。そう信じて――
そして、C.E.71 6月15日は訪れた。
 戦禍に家族は呑まれ、シンは唯一人生き残ってしまった。
 シンはオーブを離れ、宇宙に浮かぶプラントへと移住を決意する。
 プラントで束の間の平穏を得るも、戦争の終結がシンの心を揺さぶる。
 いつか得る大切なものを護る力を求めて、シンは新設されたザフトの士官学校の門をくぐるのだった。



*

 以前投稿していた所での連載が不可能になったので、こちらに移動させていただきました。
 機動戦士ガンダムSEED DESTINY の二次創作になります。
 より良い創作物にすべく、精進させていただこうと思います。読みにくい部分、誤字脱字や文章作法など、至らぬ点がございましたら厳しくご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いいたします。
 作中で精神疾患などの病を描写することもありますが、取り扱われている病の症状、描写は全て架空のものです。現実には存在しません。また、類似のものが実在したとしても、それに対する一切の他意はございません。
 なお、pixivの方でも同時掲載をしております。知人が書いた表紙を見たい方はそちらを探してみてください。

【更新履歴】
2012/3/15 移転
      Introitus - 入祭唱
      Kyrie - 救憐唱
      side.T 「 失楽園 」
2012/3/16 Graduale - 昇階唱 Ⅰ
2012/3/17 side.? 「 友情論 Ⅰ 」
      Graduale - 昇階唱 Ⅱ
      side.M 「 降誕祭 」
      Graduale - 昇階唱 Ⅲ
      Graduale - 昇階唱 Ⅳ(僅かですが新規の部分あり。以前指摘された部分に描写を増やしました)
2012/3/18 Graduale - 昇階唱 Ⅴ
      Graduale - 昇階唱 Ⅵ
      Graduale - 昇階唱 Ⅶ
      Graduale - 昇階唱 Ⅷ
      Graduale - 昇階唱 Ⅴ~Ⅶ 修正(主にシンのアルバイトに関する部分と学費、寮費に関する部分。 tamasaburo様、ご指摘ありがとうございました)
      Graduale - 昇階唱 Ⅸ
      Graduale - 昇階唱 Ⅹ
2012/3/19 side.Lu 「 箱庭の守護者は戦神の館に至らず 」
      side.Me 「 叡智の泉に至る道筋 」
2012/3/20 side.Vi 「 選定の乙女の翼は遠く 」
      side.Yo 「 光妖精の国は豊穣に満ちて 」
      side.Re 「 S: 未来視の女神 」
2012/3/21 Graduale - 昇階唱 ⅩⅠ
      移転完了。これより週末1話更新ペースになります。

2012/3/22 Graduale - 昇階唱 ⅩⅡ
2012/4/02 Graduale - 昇階唱 ⅩⅢ
2012/5/27 Graduale - 昇階唱 ⅩⅣ
2012/7/01 Graduale - 昇階唱 ⅩⅤ
2013/1/23 Graduale - 昇階唱 ⅩⅥ
2013/9/05 Graduale - 昇階唱 ⅩⅦ
      更新が不定期になります。申し訳ありません。
2013/9/05 Graduale - 昇階唱 ** - 29th Sept. C.E71 -




[32070] Introitus - 入祭唱
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/16 21:19
Introitus - 入祭唱

 俺にとって、戦争は遠い世界の物語だった。

 古くから遺伝性の病気に悩まされてきたアスカ家にとって、コーディネイト技術の確立はまさに福音だった。
 父さんの父親―― つまり、俺に取っては祖父にあたる人物は、死に物狂いでお金を工面し、己の子供にコーディネイトを施した。生まれてくる子供に自分と同じ苦しみを与えたくない。その一心で。そうして生まれたのが俺の父さんだった。
 時代が第一次コーディネイターブーム真っ只中のこともあって、遺伝性の病気をなくす為にコーディネイトする人々は多く、さして珍しい話ではなかった。
 コーディネイトを施してもなお、不安だった祖父は定期的に父さんを病院に通わせていたらしい。そこで出会ったのが母さんだった。母さんも父さんと同じように、遺伝性の病気の因子を排除するコーディネイトを受けていた。
 似た境遇にあった二人が惹かれあい、恋に落ちるまでそう時間はかからなかった。
 もちろん反対もあった。遺伝性の因子を排除するためにコーディネイトを受けた人間同士が結婚し子を成した場合、その子にどのような影響が及ぼされるか全く予想が出来なかった。どちらかの病気が発現するかもしれない。最悪、両方もあり得る。安全性、確実性が引き上げられたとはいえ、コーディネイト技術は未だ不安定な部分が多かった。
 似た問題を抱え、弄った遺伝子同士が結びつき、その結果生まれる子供にどのような影響が及ぼされるか。心配は当然の事だった。
 そんな周囲の反対を押し切り、父さんと母さんは結婚した。そうして生まれたのが俺―― シン・アスカだった。
 俺が生まれる数年前に、出生前の人間に対するコーディネイトは既に禁止されていたが、まだお金を大量に積めば出来なくもない時期だった。俺に遺伝性の病気が発現しないように父さんと母さんは祖父と同じように死に物狂いで働き、金策に走った。それでも、集められたのは健康面に関するコーディネイトを施せるギリギリの金額だった。父さんと母さん、そして当時はまだ生きていた祖父達の祈りと願いを一身に受け、俺はこの世に生を受けた。
 健康面へのコーディネイトは完璧に行われ、俺に遺伝性の病気の因子は見つからなかった。
 だが、コーディネイト技術の不安定さが俺の身体的特徴に現れた。容姿を調整する遺伝子を全く弄っていないにも関わらず、俺の瞳は赤、肌も白かった。
 生まれた時はアルビノ― メラニンの生合成に係わる遺伝情報の欠損により 先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患 が発現したのではないかと青褪めたらしいが、様々な検査の結果、俺はアルビノではなくどちらかというと白変種に近いという結果が出た。白変種にしては瞳が赤いのは気になるが、視力の低下や皮膚が赤くなる日焼けも見られないというのがその理由だった。
 勿論、この結論が出るまで病院通いからは免れられず、俺が生まれてから医者に大丈夫だと太鼓判を押されるまで、実に5年もの歳月を要した。
 俺の健康問題に一段落が着くと、父さんと母さんは俺に、一人っ子では寂しいだろうと口にするようになった。そして、俺が6歳の頃、妹のマユは生まれた。
 マユが生まれる頃にはもう、生まれてくる子供にコーディネイトを施す事は完全に不可能になっていた。その為、マユが病気を抱えて生まれてくるかもしれないと、俺も父さん達もとても心配した。
 けれど、その心配は杞憂に終わった。マユは無事に生まれてきた。しかも、俺の様な白変も見られず、父さんと母さんそれぞれに似た茶色の瞳と色のある肌にみんな安堵した。
 直射日光に晒されたら視力が落ちるかもしれない、紫外線に当たれば質の悪い日焼けをするかもしれない。診断結果がでるまでは、俺は他の子供の様に外で遊ぶ事もなければ、外出することも出来なかった。外出するのはせいぜい病院に行く時ぐらい。マユにそんな日々は送ってもらいたくなかった。
 マユが生まれ、家族が増え、幸福な日々が続いて行くはずだった。だけど、そんな日々も長くは続かなかった。
 俺が住んでいた東アジア共和国日本自治区は比較的コーディネイターに寛容な地域だった。だが、C.E.70年初めにおきたコペルニクスの悲劇から始まる一連の事件― 血のバレンタインに端を発するエイプリールフールクライシスなどをきっかけに、コーディネーターへの風あたりは徐々に強くなっていった。
 無理もないだろう。無差別に投下されたニュートロンジャマーは、地球に甚大な被害を齎した。
 日本も例外ではない。いくら日本自治区がコーディネイターに寛容な地域だったとはいえ、領土内にニュートロンジャマーを落とされたらたまったものではなかった。しかも、領土が狭いにも関わらず、本土に落ちたニュートロンジャマーは2基。その被害は大きかった。
 日増しにコーディネイターへの嫌悪は大きくなっていった。特に、俺の様に一目でコーディネイトされているとわかる容姿を持つ人間は外に出ればあからさまに白眼視された。
 "悪いのは宇宙にいるコーディネイターであって、地上にいるコーディネイターではない。彼等もまた、我々と同じように被害者なのである"
 そう何度も政府やマスコミが喧伝しても、コーディネイターに抱かれた悪印象は払拭されなかった。
 俺への迫害が顕著になるにつれ、父さん達はある決断をした。
 "オーブに行こう"、と。
「他国を侵略せず、他国の侵略を許さず、他国の争いに介入しない」という理念を掲げ、コーディネイターも受け入れると中立宣言を行ったオーブならば、俺達も安全に暮らせる。
 祖父が生きていれば反対されていただろうが、その祖父も数年前に亡くなっていた。
 生まれ故郷を離れるのに抵抗がなかった訳ではない。
 祖父が好きだった桜の花が見れなくなるのが嫌だった。
 今年は、エイプリルフールクライシスのせいで、毎年行っていたヨシノへの花見ができなかった。移住してしまえば、今度はフシミへ紅葉狩りにも出かけられなくなってしまう。それに、俺をコーディネイターと知ってもなお、親友だと言ってくれる幼馴染と離れるのも嫌だった。
 そして何よりも嫌だったのは、大好きだった祖父のお墓を置いて行かなければならないことだった。
 けれど、俺達が迷っている間にどんどんコーディネイターへの風当たりは強くなっていった。日本自治政府がコーディネイターに寛容でも、その上の東アジア共和国が反コーディネイターの色を強くしていたのだから仕方がなかったのかもしれない。
 情勢が落ち着くまでの一時的な移住。
 そう言って俺達はオーブに移住した。
 オーブでの日々は穏やかだった。学校に通い、クラスメイトと遊び、時にはマユと一緒に散歩したり。
 ゆっくりと日々が流れていく。
 その頃の俺にとって、戦争とは画面の向こうで起こるものであって身近なものではなかった。

 "オーブは中立だから"

 それが俺達家族の口癖だった。
 どこそこで戦闘があった。どこそこの国が内紛状態になった。
 全てが画面の向こうの出来事であり、中立であるオーブには関係ない。本気でそう思っていた。今思えば馬鹿な話だと思う。戦争は常に隣り合わせで、俺達がオーブに来るきっかけになったのも戦争だったというのに。

 そして、運命の日がやってくる。


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[32070] Kyrie - 救憐唱
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/19 21:29
*微グロ表現あり。注意してください。


Kyrie - 救憐唱

 C.E.71年6月15日
 いつものように起きて、父さん母さん、マユにおはようと挨拶をした。
 父さんは新聞を読みながら、母さんは朝ごはんを作りながら、マユは朝ごはんを食べながら返事を返してくれた。
 どうやら今日は俺が一番最後らしい。
 早く食べなさいと急かす母さんに生返事を返しながら、俺はジャムの瓶へ手を伸ばす。
 マーガリン、ブルーベリー、ストロベリー、マーマレード。
 ここはブルーベリー一択と手に取った。
「マユ、ごはんの時くらい、携帯はしまっとけよ」
「はーい」
 気のない返事を返しながら、マユは膝の上に置いていた携帯をテーブルの上に置いた。
 そして、しぶしぶと食パンを手に取り、ストロベリージャムの瓶に手を伸ばす。
「また生でパンを食べるかよ、マユ」
「いいでしょ。マユはこれがいいの。お兄ちゃんはパパと同じでしっかり焼いたのがいいんでしょ?」
 そう言ってマユは俺の方にトースターを押しやってくる。
 トースターにパンをセットすると、俺はマユのマグカップに牛乳を注いだ。
「ほら、牛乳。飲まないと身長伸びないぞ」
「マユはずっと小さなままでいいもん。お兄ちゃんの方こそ、ちっちゃな男の子なんてかっこ悪いから、お兄ちゃんがいっぱいのんだら?」
 マユの牛乳嫌いは筋金入りである。
 俺は溜め息一つ吐くと、席を立った。
「母さん、オーブン使っていい?」
 俺が何をしようとしているのか気づいて、母さんは笑った。
「ふふふ。爆発させないようにね」
「父さんの分も頼む」
 便乗してマグカップを差し出してきた父さんに、俺は苦笑した。
「僕はホットミルク係じゃ…」
「マユの牛乳にはハチミツいっぱいいれてね! お兄ちゃん!」
「ママの分もお願いね」
「父さんのは何もいれなくていいぞ」
 続けざまに発される注文に、俺は肩を落とす。
「「「ホットミルク係さんよろしく!!」」
「はいはい…」
 ほがらかな合唱を背に、俺は三人に背を向けた。

 三個のミルク入りマグカップをオーブンに突っ込み、適当な時間加熱すれば即席ホットミルクができる。
 あとはハチミツなりココアなり、好きにするのが俺の家の流儀だった。
 長すぎると爆発するが、短すぎてもぬるくなる。
 鍋にミルクを入れてetc.の過程の手間が面倒だった俺が思いついた方法だった。
 多少の思考錯誤はあれど、すぐに丁度いい時間を見つけて、俺は毎朝みんなにホットミルクを出していた。
 この日もいつもと同じように、俺はホットミルクの準備をしていた。

 ホットミルクが出来上がり、みんなで一息ついた頃だった。
 そろそろ出勤しなければと動きだした父さんを見て、俺も皿洗いをしようと立ち上がる。
「あら? いいのよ、シン。もう出ないと学校に遅刻しちゃうでしょ?」
「まだ大丈夫だよ。マユ、いい加減野菜食べちゃえよ。じゃないと、約束してた携帯ストラップ、買ってやらないぞ」
「うー…」
 唸るマユの頭を撫でると、流しへ持っていこうと更に手を伸ばす。

 その時だった。

 耳を貫く重低音。
 壁を越し、町中に響き渡る大音。
 それがサイレンであると気付いたのは数拍置いたあとだった。
 母さんは慌ててテレビのスイッチを入れ、父さんも玄関からリビングへと戻って来ていた。

『C.E.71年6月15日午前XX時XX分。オーブ連合首長国は大西洋連合より宣戦布告を受けました。
 同時に、大西洋連合はオノゴロ沖より領海及び領空を侵犯。モビルスーツの部隊が本土に近付いています。
 市街地が戦場になることが予想されます。
 国民の皆さんはすみやかにオーブ軍の指示に従い避難して下さい。
 繰り返します…』

 どのチャンネルでも同じことを言っていた。
 俺達はテレビを愕然として見た。
 オーブが戦争に巻き込まれるなんてあるわけがない。
 そう思っていたのに。
 テレビは各地区の避難経路を映し出している。
 どうやら俺達家族が住む場所は戦闘区域のド真ん中らしい。
「逃げるぞ…」
 父さんがポツリと言った。
「最低限の荷物を持て。とりあえず逃げるんだ!」
 そう言って父さんが家族を促した。
 茫然としていた俺達はそれを聞いて慌てて動き出す。
 俺がスニーカーを履き外に飛び出ると、道には車が溢れ、沢山の人々が我先にと非戦闘区域を目指していた。
 その鬼気迫る空気に思わず俺の体は立ち竦む。
 追って出てきた父さんが道路の状態を見て唸った。
「…… 裏手に回ろう。少し遠周りになるかもしれないが、裏側の道なら、車も少ない筈だ」
 俺の家の裏手の道路は道幅が狭く、普段からあまり車の通らない道だった。
 こんな状況ではどうなっているかわからないが、それでも見てみる価値はある。
 裏手を見てくると父さんは消え、母さんが簡単にまとめた荷物を俺に手渡した。
「マユ! 何してるの!? 急いで!!」
 いまだ家の中にいるマユに母さんが声をかける。
 お気に入りの茶色い鞄を肩にかけ、マユは不安そうに出てくる。
 その手にはしっかりと携帯電話が握られていた。
「マユ、携帯を持ってくのはいいけど、鞄の中にいれとけよ。落としちゃうかもしれないだろ」
 こんな時でも携帯電話を手放さないマユに、俺は溜め息をついた。
 神妙に頷き、マユが鞄に携帯電話を入れた所で裏手を見に行っていた父さんが戻って来た。
「裏側なら表より人も車も少ない。急ぎなさい」
 戻って来た父さんの言葉に俺達は頷き合い、走り出した。

 みんなで必死に走り、なんとか市街から脱出した。
 途中戦闘が始まったのか、背後から砲撃音や破壊音が聞こえる様になった。
 俺達の頭上をオーブのモビルスーツ部隊が通り過ぎ、軍用車が道を疾走する。
 戦車とも何度かすれ違った。
 市街を抜ける直前、振り返った俺が見たのは、攻撃を受けて火の手があがり、破壊される街の姿だった。

 その時はまだ、俺はこの最悪の光景を最も忘れないだろうと心から思っていた。

「この山を越えれば、避難船が出る港だ! みんな大丈夫か!?」
 父さんが声をかけてくる。
 俺にはそれに返事をする気力もなかった。
 ただ、走るのに必死だった。
 息は詰まり、何度も唾を飲んだ。
 心臓はばくばくとうるさく、胸が酷く痛んでいた。
 それはきっと、前を走る母さんやマユも同じだっただろう。
 いや、マユの方が辛かったと思う。
 幼いマユがあれだけの距離を走ったこと事体、俺にとっては驚きだったのだから。
 山を全速力で登り、下る。
 途中、岩に滑って転びそうになるも、なんとかこけずに走り続ける。
 ふいに、上を何かが滑空する音と共に、低い爆音が轟いた。
 思わずみんな立ち止り、不安げに周囲を見回す。
 もうすぐ港だというのに。
 心配になり、俺は父さんに話しかけた。
「父さん!」
「あなた…」
 不安そうに母さんも父さんを見上げている。
 マユはしっかりと母さんと手を繋ぎ、恐ろしげに周りを見ていた。
「大丈夫だ。目標は軍の施設だろう」
 そう言って父さんは明るく言って俺達を元気づけてくれた。
「急げ、シン」
 一番後ろを走っていた俺が心配なのだろう。
 異常はなかったとはいえ、幼い頃の病院通いや諸々の要因で外に出る事が少なかった俺は、あまり体力がある方だとは言えなかった。
 俺が頷くのを確認すると、みんな走り始める。
 港が近いのを横目で確認する。
 港では人型の機会が戦っているのが見てとれる。あれがきっと、モビルスーツというものなのだろう。
 つまり、ここも戦場なのだ。
 改めて実感する。
 眼前には避難船の停泊港が見える。
 もうすぐだ。
 もうすぐ港につく。
 安堵が胸に去来する。

 その時だった。

 モビルスーツが飛来し、頭上をかすめてゆく。
 みんなその場に蹲る。
 俺を庇うように、父さんの腕が俺を包む。
 なんとかやりすごし、顔を上げるも、すぐ近くにミサイルが落とされる。
 服飛ばされた木や土が宙を舞い、俺達は再びその場に蹲った。
 マユが細い悲鳴を上げる声が聞こえる。
 俺は、大丈夫だと言う言葉をかけることすらできず、父さんの胸に頭を寄せた。
 攻撃と攻撃の一瞬の空白。
 それを見計らって俺達は立ち上がり、駆け出す。
 少しだけでも早く、その場から逃げだす為に。
 俺の背後にビーム兵器の攻撃らしきものが落ち、辺りを橙色に染める。
 2体のモビルスーツが激しく戦っているのを後ろ目で見た。
 青い翼を持つモビルスーツがビームで攻撃し、それを緑のモビルスーツが避ける度に、辺りが橙色に染め上げられる。
「マユ! 頑張って!!」
 母さんがマユに声をかける。
 マユの限界が近い。
 一瞬、マユが足をよろめかせる。
 激しく揺さぶられたマユの鞄から、お気に入りのピンクの携帯電話が零れ落ちる。
 それに気づいたマユは振り返り、足を止めた。
「あ! マユのケータイ!」
 悲鳴のようにマユが叫ぶ。
 見やれば、マユの携帯電話はそのまま山の斜面に沿い、転がってゆく。
「そんなのいいからぁ!」
 母さんが叫ぶ。
「いやぁ!!」
 マユが泣き叫ぶ。
 止まっていしまったみんなの足。
 こんなことしてる場合じゃない。
 先を急がなければ。
 それでも足が止まってしまったのは、きっと、マユの心が限界を迎えていたからだろう。
 不安と、恐怖が、携帯電話という日常の象徴の様なものを落としたことで一気に溢れ出てしまったのかもしれない。
 そんなマユを、俺はなんとか元気づけたかった。
 疲れた足を叱咤し、一気に山の斜面を下る。
 途中、剥き出しになった土の斜面を滑り、携帯電話が引っ掛かった木の袂に止まる。

 俺はしゃがみこみ、携帯電話へと手を伸ばし、掴む。

 そして、運命の瞬間が訪れる。

 爆音。
 橙色に染まる世界。
 激しい爆風が吹き荒れ、世界が抉り取られる。
 その爆風に煽られ、体が宙を舞う。

 吹き飛ばされたのだと、気づいた時には既に、俺は地に伏していた。
 色々と打ちつけたのか、体の節々が痛む。
 悲鳴を上げる体を叱咤して、俺は身を起こす。
 頭を振り、埃を払う。
 なんとか立ち上がり、俺は振り返った。

 大地は抉り取られ、木々は薙ぎ倒されている。
 土埃が舞い、辺りが良く見えない。
 ふらふらと、俺は抉られた大地へと近づく。
 そこは先程まで俺が、家族がいた場所だった。

 風が吹く。
 砂埃が晴れてゆく。
 辺りの様子が露わになってゆく。

 ふらり、と一歩、俺は歩く。

 最近お腹が出てきたと気にしていた父さん。
 もう気にする必要はないだろう。
 そのお腹は岩に潰され、潰れている。

 ふらり、とまた一歩、俺は歩く。

 いつも身だしなみに気をつけていた母さん。
 今日は婦人会の集まりがあるのだと、おめかししていた。
 着ていた服は砕けた木や岩によってぼろぼろになっている。
 そして、爆風に飛ばされた木の一部がその胸を貫き、服を、大地を、赤く染めていた。

 ふらり、とまた一歩、俺は歩く。

 はじめて買ってもらった携帯電話を大切にしていたマユ。
 見当たらない。
 きっと直撃を受けたのだ。
 いつも携帯電話を持っていた腕だけが大地に転がっている。

 頭上をモビルスーツが掠めてゆく。
 突風が身を揺らす。

 ああ…
 俺は嘆息した。

 いっしょにいないと…
 そう考えて俺は動き始める。

 父さんを岩の下から引きずり出し、
 母さんを串刺した木を引き抜き、
 携帯電話を握りしめ、マユの腕を抱えて父さんと母さんの間に身を横たえる。

 仰向けになり空を見上げる。
 どこまでも蒼い空。
 澄み渡った空。
 その場所で、2体のモビルスーツが戦っている。
 青い翼を持つモビルスーツが、優雅に天で舞い、下界の人間など知らぬと言わんばかりに、ビーム攻撃を乱射する。
 緑のモビルスーツがそれを避ける。
 避けられたビームはどこにいくのだろうと思うと同時に、近くでまた爆音があがる。

 視界の端が橙色に染まる。

 ああ、死神だ…
 俺達は誤って、死神の通り道に踏み入ってしまったのだ。
 穢れない空を優雅に舞い、無慈悲に、平等に、死を振り撒く美しい死神の通り道に。

 あれは怖いものだと、頭では考えているのに。
 俺の心はかつてない程の幸福感に包まれていた。
 みんないっしょ。
 父さんも、母さんも、マユも。
 みんなと。
 いっしょに眠れる。
 なんて幸せな事だろう。
 きっとあの死神は俺の上にもあの祝福の光を与えてくれる。
 根拠のない自信と幸福感だけが、俺にはあった。

 父さんと母さんの腕を引き寄せ、マユの腕を抱きしめる。
 こんな幸福の中で時を止められる自分は、なんて幸せなのだろうか。
 今すぐにでも、時が止まってしまえば良いのに。

 遠くに砲撃音が聞こえる。
 まるで福音の様に。

 体を満たす幸福感に身を委ね、俺は目を閉じた。



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[32070] side.T 「 失楽園 」
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/15 23:04

*グロテスク表現あり。注意してください。


side.T 「 失楽園 」

 避難民を誘導しながら、トダカは空を見上げた。
 近くでは2体のモビルスーツ―フリーダムとカラミティが戦闘を行っている。オーブを守る為に戦うフリーダムに敬意を表す同時に、戦い続けるフリーダムの為にも自分の職務を全うしなければと心を引き締める。
 避難船に乗る人々も大分少なくなってきた。この様子ならば、もう間もなく乗り込みも終わり、出港できるだろう。そう思い、トダカは山側を見上げた。
 山は市街からの避難経路の一つだが、利用する者は少ない。一見すると最短ルートに見えるが、そこそこ標高があるため、山の外周部を大きく回り道した方が結局早く着くのだ。迂回ルートからの避難民の姿は見られない。この団体で最後だろう、そう思った瞬間だった。

 山の木々の間を移動する色。
 山道を走る人影。

 トダカは思わず目を見開いた。まさか、と驚愕が体を貫く。
 人影の頭上をカラミティが、フリーダムが、何度も掠め、その度に人影は立ち止る。
 前身の血の気が引き、喉がからからに乾いてゆくのが分かる。
 ビームが何度も応酬する。

 やめろ。

 カラミティがビームを放つ。

 やめろ。

 フリーダムが避ける。
 爆音。

 やめろ。

 お返しと言わんばかりにフリーダムがビームを打ち返す。

 やめろ。

 カラミティはフリーダムのビームを避ける。

 そこにはまだ、私達オーブ軍が守るべき国民が…!

 人影に落ちる光の暴力。
 吹き飛ばされ、抉られた大地。

 その場を目撃し、トダカの足は縫いつけられたかのように動くことができなかった。
 もうもうと土煙があがるも、すぐさま空中で戦うフリーダムとカラミティによって払われる。露わになった抉れた山肌に、ようやくトダカは声を出した。

「山側からの避難民を視認! 流れ弾が付近に落着! 救助に行くぞ! 急げ!!」

 他の避難民の誘導に動いていた数人の部下がトダカの号令で動き始める。救助に向かう人員を集めながら、トダカは空を見上げた。

 地上の惨劇を知らず、フリーダムとカラミティはまだ戦っていた。否、この惨劇を彼等が知るなど到底不可能な話だろう。それぞれが己の命を懸けて戦っているのだから。だが、このままでは現場に近づけないのも確かだった。
 唐突に、フリーダムの動きが変わった。港から離れ、なんとかカラミティを避難船のない港―― 海上へと移動しようとしている。どうやら、港に近づきすぎていたことに気づいたらしい。それがもう少し早ければ、とトダカは思わずにはいられなかった。

「フリーダムが与えてくれた時間を逃すな! 急げ!」

 近づくにつれ、辺りの惨状が露わになる。
 吹き飛ばされた木々。
 抉られた大地。
 向かうのは見た場所。
 どうか、誰か、生きていて欲しいと一身に願いながらトダカは走る。

「!?」

 トダカは息を呑んだ。
 酷く抉られた大地。
 薙ぎ倒された木々。
 フリーダムの砲撃が近かったのが災いしたのだろう。
 走って来た途中に見たどの落着場所よりも、人影がいた場所の状況は悪かった。
 だが、トダカが息を呑んだのはその場所の状況にではなかった。

 辺りに漂う肉の焦げた臭い。
 所々赤黒い土。
 大地をよくよく見れば、何か大きなものを引きずった血痕が土に残っている。
 大岩の下からは伸びるものは臓物をその軌跡に遺して。
 大量の血痕が付いた木のすぐ傍には、大きな血だまりから延びる軌跡があった。
 そして。その軌跡の先には――


 腹部が潰れ下半身のない男性。
 胸部に大穴があき、血に染まった女性。
 男性と女性は奇妙にひしゃげた腕をその間にいるに少年へと伸ばしていた。
 そう。
 幼い子供のものであろう小さな腕を抱え、眠る少年へ。


 異様な光景がそこにはあった。
 特に少年は、酷く安らかで、幸せそうな微笑を湛えて目を閉じている。
 肌の白さに死んでいるのかと思えたが、よくよく見れば少年は無傷だ。しかし、その手は真っ赤に染まっている。
 背後で絶句し、立ち竦む部下を尻目に、トダカは少年へと一歩を踏み出す。
 一歩。
 一歩。
 近づくにつれ、鮮明になる光景。
 少年の胸が小さく上下しているのがトダカには見えた。それは生存者がいた喜びと同時に、少年自身が、この異様な光景を作りだしたことをトダカに告げる。
 カチカチと、奥歯が鳴る。
 それを必死に抑える。
 しゃがみこみ、男性と女性の腕を払うと、トダカは少年の肩に手を置いた。

「おい、おい。大丈夫か?」

 肩を揺すると、少年は眉を顰め、ぎゅっと幼い子供の腕を抱きしめた。
 まるで目覚めを拒むかのように。
 トダカ自身、このまま少年を眠らせておいた方が良いのではないかという思いが胸を過ぎる。
 しかし、そうはいかない。
 この少年は生き残ったのだ。生き残ったのならば生きねばならない。どんなに辛くても。それが生き残った者の義務だ。

「起きなさい」

 何度か強く声をかけてようやく、少年はゆるゆると目を開いた。
 トダカと少年の目が合う。
 少年の目を覗き、トダカは戦慄した。

 そこには何もなかった。

 悲しみも。
 怒りも。
 絶望も。
 光すらも。

 虚ろな紅い瞳はガラス玉のようにトダカを映し、静かに瞬く。
 その幼い顔には一切の表情はない。
 先程まで、幸せそうな微笑を浮かべて眠っていた少年と同一人物とは到底思えない。

 呆気取られるトダカを気にすることなく、少年は言葉を紡いだ。


「ここがてんごく?」


 後に、トダカはこの時の事を何度も思い出し、自問自答することになる。
 生き残ったのならばどんなに辛くても生きねばならない。それが義務だ。そう考え、少年をこの世へと引き戻したことは果たして正しかったのか。
 異様な光景の中にあった少年はあの時、確かに、余人が及びもつかない楽園にいたのだ。そして自分はその楽園を壊した。誰に、少年に、了承も取ることなく。

 迫るモビルスーツ。
 艦に突き立てられる斬艦刀。
 自身の死の間際。
 沢山の大切な顔が通り過ぎた最期。
 トダカの脳裏に浮かんだのは、楽園を失った少年の虚ろな眼差しだった。


quid faciam? quo eam?
  一体私は何をしたらよいのか?一体私はどこへ行けばよいのか?




[32070] Graduale - 昇階唱 Ⅰ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/17 11:31
Graduale - 昇階唱 Ⅰ

 夢を見ていた。
 とても幸せな夢を。

 パチリ、と俺は目を開いた。
 まるで機械の電源が入ったかのような明瞭な目覚めだった。
 身を起こせば、簡素な部屋が目に入る。
 オーブで家族を失ってから半年。今、俺はプラント―― P.L.A.N.T.:Productive Location Ally on Nexus Technology にいる。
 日本に帰るという選択肢もあったけれど、それは選ばなかった。迫害を恐れて故国から逃げた挙句、幼馴染と交わした大切な約束を破ってしまったのだ。合わせる顔がなかった。だから、俺はプラントに来る事を選んだのだ。
 現在俺が住んでいる部屋は、オーブなどの地上からの移民に、プラントでの常識や法などを教えるディセンベル生活教練校に付属している寮の一室である。大抵は2~4人部屋らしいのだが、運よく一人部屋が余っていたらしく、諸々の事情を考慮され、俺は一人部屋で過ごす事になった。
 つらつらと、此処に来るまでの経緯やオーブで出会った人たちの事を思い返す。けれど、今は起床しなければならない。予定は山の様に詰まっているのだから。
 俺はベットから出て、キッチンのコーヒーメーカーに豆と水をセットし、スイッチを入れる。そのまま洗面所に赴き、洗顔、歯磨きを終えると、クローゼットから着換えを適当に引っ張り出す。服のボタンを留めながら、俺は今日行わなければならない事を思い返した。

 AM6:00 起床
 AM7:45 ディセンベル生活教練校 登校
 AM8:00 教練校のカフェにて朝食
 AM9:00 午前講義開始
 PM12:10 昼食
 PM13:00 午後講義開始
 PM16:10 講義終了 自由時間開始
 PM19:00 夕食
 PM21:00 消灯

 自由時間は図書館にて読書。

 今日のカリキュラムを反芻しながら、手早く支度を整える。鞄をテーブルの上に置くと、その傍に置いてある時計で時間を確認する。
 AM06:31――
 登校の時間までまだ時間がある。
 カーテンを開け、外の光を部屋の中に取り入れる。光、といっても人工の光である。明け方を示す光量が、俺の眼をさす。その眩さに一瞬目を細めると、窓から見える風景を眺めた。しかし、目を覚ましたばかりの町に人影は少なく、ジョギングに励む人の姿がちらほらと見える程度である。
 穏やかで、ありふれた光景だった。とても戦時中とは思えない長閑さである。
 眼下に広がるその光景を見ながら、俺は本棚から本を抜き出した。帯出期限が今日までの本である。出来れば読んでしまいたい。
 あと少しで読み終わるその本に挟んだ栞に手をやり、ページを開く。同時にコーヒーが出来たらしく、本を読みながらキッチンへと向かう。マグカップにコーヒーを入れるとそのまま持って、本を読みながら先程の窓際へと戻る。窓際に置いてある椅子に腰かけ、テーブルにマグカップを置く。
 テーブルの上に置いてある時計のタイマーを入れ、本に意識を集中させ始める。この量なら多分、家を出る前に読み切れるはずだ。俺は意識を本の中の世界に没頭させた。

 Pi Pi Pi Pi Pi ……

 聞こえてきたアラームの音に、俺は顔を上げた。本を閉じ、ほぅ、と大きく息を吐く。アラームをとめ、残り10ページを切った読みかけの本に栞を挟む。これなら休み時間に読み切れそうだ。
 立ち上がり、本棚に向かうと期限がまだの本を数冊抜き出す。そのままテーブルの前へと戻り、鞄に本を詰める。充電していた携帯電話もポケットにつっこむと、玄関へと向かう。
 しかし、靴を履く直前、俺は忘れ物をした事を思い出した。
 俺は必要性を全く感じていないが、呑む事を厳命されているのだからしかたない。キッチンへと引き返す。
 食器棚から、薬箱を出し、その中から3つのタブレットケースを掴む。からから振ってそれぞれに中身がある事を確認すると、俺は無造作に鞄の外ポケットへとつっこんだ。
 そして今度こそ、俺はディセンベル生活教練校へと向かった。


***


 朝食を摂り終え、講義のある部屋へと移動すると、静かに俺は最前列に座った。鞄から必要な教本を取り出しながら、ぼんやりとこの学校に通う事になった経緯を思いだす。

 プラントに移住の申請をしたからといって、すぐに受理される訳ではない。普通の国と同じく色々な検査があって初めて、入国及び滞在が許される。
 それに、移住の申請が受理されてもすぐに普通に生活を始められるかと言うとそうではないのだ。念入りに有害な細菌やウィルスを持ち込んでいないかなどを調べる検疫や、身体の状況は勿論、運動、知能、俺の場合は精神まで検診など、様々な工程をクリアし、ようやく移住の許可が出る。
 といっても、俺は既にオーブで済ませられるものは済ませており、プラント本国の検疫で1日を潰した後はあっさりとに入国する事ができた。
 その後すぐに、俺はプラントに住む為に必要な知識を得るべく、プラントでも初等教育全般を担うディセンベル市にあるディセンベル生活教練校に入校した。
 本来、ディセンベル生活教練校への入校は、移民に義務付けられるものではなく任意によるものだ。大抵の移民がプラントで生活するにあたって必要な知識などを1週間程度の講習で学んだ後、プラントの各市に散らばっていく。
 俺が入校したのは、保護者もおらず、コーディネイターとしても未成年という立場であったためだ。どうやらトダカさん達が俺が生きやすい様にと色々気をまわしてくれたらしい。最長である3ヵ月のコースを受講する事になっていた。
 入校してから早1ヵ月。ようやく寮での生活にも慣れた。
 俺は地上で勉強があまり好きではなかったが、プラントに来てからは自分でも信じられない位、勉強漬けの毎日を送りっている。それが全く苦ではないのだから不思議だ。
 それに、最近では面白い遊びも覚えた。
 ディセンベル生活教練校のカリキュラムは多岐に渡るが、その中には勿論、俺が地上で学習済みなものもある。
 歴史なんかがその最たる例だ。基本的にプラントの設立経緯などがメインなのだが…歴史書は複数読めなんて中学校の先生が言ってたけどその理由が何となくわかった。書き手の視点、見方の視点が変わればこんなにも同じ出来事でも違う様に見えるのだと思い知らされた。笑えるぐらいに食い違う。その差異を見つけるのが俺の遊びになっていた。
 あとは宇宙空間に居を構えるプラントならではなの、シェルターや酸素ボンベのある位置など防災に関する講義や、独自の生活様式、ルール、マナー、法律などを学ぶ為の講義など、学習事項は多岐に渡った。宇宙空間に放り出されてしまった時のための無重力空間訓練なんてのもあった。
 カリキュラムは詰められるだけ詰めておきたかったので、本来なら自由選択領域になる航空力学やらプログラミングなんてのもとっておいた。
 とりあえず、講義を受けている間は何も考えなくてすむ。早く講義が始まればいいと思いながら、俺は目を閉じた。


***


 集中していれば時間はあっという間に経つもので、気がつけば全ての講義が終わっていた。俺は帰り仕度をすると、図書館に向かうべく学校を後にした。

 紅葉する並木道。
 落ち葉を踏みしめる。

 マユは春より秋の方が好きだったなと思いだしてしまう。一足先に日本に帰ってじいちゃん達とフシミで紅葉狩りにいそしんでいることだろう。稲荷の近くに美味しいお茶屋さんがあったから、そこでお菓子でも食べてるはずだ。腕だけでも、ちゃんと帰ったのだからきっとそうだ。いいな、あそこのお茶美味しくて好きなのに。お菓子が来るまでの時間、拾った綺麗な紅葉を見せてくれて、特に綺麗なのを差し出し俺に言うのだ。
《マユのだけど、お兄ちゃんの目の色に似てるからあげる!》

 きっと、この紅葉がいけないのだ。完全に天候が管理できるはずなのに、なぜ、プラントは四季の再現などという無駄な努力をしているのだろう。ずっと過ごしやすい環境にしておけばいいじゃないか。

 収拾がつかなくなった思考を放棄すべく、俺は図書館のへの道を全速力で走り抜けた。


 図書館に着くと、俺は一息つき、扉を押して中に入った。閉館までまだ時間はあるものの、紙製の本は早く返してしまいたい。
 
 プラントでは紙製の書籍は珍しい。
 限られたスペースしかないプラントでは、紙製の本を置く為に割くスペースすら惜しいのだ。故に、電子書籍が全体の殆どを占め、ただでさえ貴重な紙製の書籍は、更に稀少となっている。そのため、図書館での貸し出しはかなり厳重で、期限までに必ず返さなければかなりの期間の貸出禁止の措置が取られる。度重なれば、図書館そのもの利用が禁止されてしまう。
 それだけは絶対に避けなけらばと、俺は返却手続きを急いだ。

 返却手続きをとりながら、俺は次に借りる本を考える。
 プラントの図書館は、遺伝子学やら工学やらの研究所やそれに関連する書籍が多い。俺がよく読む文学や哲学といった本は大抵電子書籍になっており、あっても極僅かである。
 電子書籍はデバイスまで貸してくれるのだが、壊してしまう可能性もあるので、紙の本を探してはそれを借りて読んでいる。
 返却手続きが終わるとすぐに、書籍検索端末に向かい、手当たりしだい紙製の本を検索する。目ぼしいものをいくつか見つけると、俺は書籍情報を印刷してカウンターへと向かった。

 図書館での時間はあっという間にすぎてしまう。気がつけば、そろそろ帰る時間になっていた。読んでいた電子書籍のデバイスをオフにすると、立ち上がり、俺は図書館を後にした。

 放課後や仕事帰りの時間帯。並木道にはそこそこの人影がある。そして聞こえてくる歌声。
 今日も歌っているのか、と俺は歌声が聞こえてくる方へと目をやる。
 長い黒髪を持った少女が、ギターを抱えて歌を歌っていた。
 ストリートミュージシャンだ。
 数日前から、この黒髪の少女はこの図書館がある並木道で歌を歌うようになっていた。少女の歌は、曲も詩も良いのに、誰一人足を止めて聞こうとはしない。
 ストリートミュージシャンってこんなものだったかな、と俺は不思議に思う。少なくとも、地上で見かけたストリートミュージシャンの周りには、もう少し人がいた気がした。
 見た人が良かったからなのだろうか。

 俺は時計を見る。
 17:23 p.m――
 よし、まだ時間はある。
 俺は少女の斜め前にあるベンチに向かうと、落ち葉を払い、そこに腰かける。
 鞄から本を取り出すと、少女の歌を聴きながら、文章の世界へと飛び込んだ。

 気がつけば、少女の歌は止まっていた。
 帰り仕度をしている。
 俺も本を閉じ、鞄に戻すと立ち上がり寮への道を急いだ。


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[32070] side.? 「友情論 Ⅰ」
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/17 01:45
side.? 「友情論 Ⅰ」


 俺には幼馴染がいる。
 家が隣同士で、親同士も仲の良い"オトナリサン"って奴だ。
 赤ん坊の頃からの知り合いで、同じベビーベットに寝転がされては、よくじゃれ合っていたらしい。主に、俺がちょっかいだして泣かせるという形でだが。
 竹馬の友の名前はシン・アスカ。俺の弟分である。生まれは俺の方が遅いんだけど。
 シンが俺の弟分だっていうのにはきちんとした理由がある。
 あいつは小さい頃は病弱で、家から一歩も外に出れない生活をしていた。なんでも、極力、太陽の光を浴びない生活をしなければならなかったらしい。そのせいか、あいつはいつも独りで家の中にいた。
 そんな状況を俺の親が放っておくはずもなく、俺とシンはいつも一緒に遊んでいた、…… らしい。
 今となっては、その頃はもう遠い昔の話になっている。
 俺が覚えている記憶の中のシンはもう、太陽の下で一緒に遊んでいた。
 今まで外で遊べなかったこともあってか、細くよわっちかったシンは、これまでの運動不足を取り返すかのように、毎日一緒に泥だらけになるまで俺と遊び回った。少し大きくなると体力をつけるべく、俺と一緒に剣道やら柔道やらの道場に通うようになっていた。
 それでもシンのよわっちさは相変わらずで、 稽古のない日には本を読んでいる姿を見かけた。

 更に暫くすると、シンの妹のマユちゃんも俺達の後ろについてくるようになった。
 マユちゃんはシンとは正反対の活発な子で、俺とシンはいつも彼女に振りまわされていた。
 家族ぐるみの付き合いもあって、俺達はよく一緒に旅行に出かけた。
 春にはヨシノで花見。
 夏には一緒に海水浴。
 秋にはフシミで紅葉狩り。
 冬にはナガノでスキー。
 色々な所へ行っていた。
 学校だって俺とシンはいつも同じクラスだった。
 俺とシンは時には競い、時には協力しながら、遊びに、悪戯に、勉強にと励んだ。
 これからも、ずっと、そんな日々が続くのだと、信じて疑わなかった。

 目まぐるしく世界は変わってゆく。
 俺達子供の預かり知らぬ所で。

 いつのことだっただろうか。
 宇宙にいるコーディネイターがニュートロンジャマ―をばら撒いた後だった気がする。
 テレビが見れなくなって、ゲームで独占できるようになったと喜んだのも束の間、学校でよくシンが嫌がらせを受けるようになった。
 いじめっ子達の言い分も訳が分からないもので、シンがコーディネイターだからだという。コーディネイターは悪い奴で、シンが空に上がって悪い奴になる前にやっつけるのだと、要領を得ない理由だった。
 どうやら親に訳が分からない事を吹き込まれたらしい。シンは俯いてしまい、何も言い返していなかった。だからかわりに、そいつらは俺がとっちめてやったが。

 日増しにシンへの嫌がらせはエスカレートしていく。昨日まで仲良くしていた友達がそれに加担していると気付いた時は愕然とした。なんでも、ニュートロンジャマー投下の影響で、父親が失業したらしい。
 そして嫌がらせの手がシンを庇い続ける俺の方へ伸び出した時、シンは言った。

「引っ越す事になったんだ」

 オーブに。
 俺はショックで思わず言ってしまった。
「俺がシンを守れなかったから引っ越すのか?」
 そうとしか考えられなかった。
 親同士の仲が良く、ずっと一緒に育ってきた俺は知っている。どうしてシンが、いや、シンの家族がコーディネイトを受けて生まれてきたのか。
 生きるためだ。
 何の枷もなく、他人から冷たい目で見られることなく、胸を張って、生きたいように生きるためだ。
 そう、俺に教えてくれたのは、シンのじいちゃん―― シンのとうちゃんのとうちゃんだった。
 シンのじいちゃんは、酒好きで、桜が好きで、俺達が住む日本自治区という場所が大好きで、いつもからからと豪快に笑って俺達に構ってくる面白いじいちゃんだった。
 俺はシンのじいちゃんが大好きだった。勿論、シンもだ。あいつは一番のおじいちゃんっ子だった。
 普段はとても明るい人だったからこそだろうか。記憶に焼きついて離れないのは、シンのじいちゃんが病気の定期検査のために病院へ向かうバスに乗る、その小さな後ろ姿だった。
 重い病気を抱えて生きてきたシンのじいちゃん。
 暑い夏のある日、縁側でスイカを食べる俺達の横で、こんなことを言っていた。
 "わしがこうして長生きできとるのは、科学と医療技術の進歩のおかげじゃ"
 "息子や嫁、孫達が忌まわしい病気から解放されたのも、科学の進歩の賜物じゃ"
 "今、世間は色々いっとるが、わしは息子を孫を、コーディネイトした事を恥じてはおらん。"
 シンのじいちゃんが死んだのが秋だから、その直前の夏だった気がする。
 "どうか、ずっと、シンの友達でいてやってくれよ"
 男と男の約束だ。
 シンのじいちゃんとは、他愛のない約束なら沢山交わしたけど、真剣な大人との、大人の約束ははじめてだった。
 だから守りたかった。
 約束も、親友も。
 いや、約束なんてなくったって俺はシンを守りたかった。
 ずっと一緒に育ってきた幼馴染、唯一無二の親友なのだから。
「俺がもっと強かったら…」
 その言葉に、シンは笑いながら首を横に振って否定した。
 充分だったと。
 何があっても傍にいてくれて、庇ってくれて嬉しかった、と。
 今度は自分が俺を守りたいから、オーブに行くのだ、と。
 そうシンは言った。
 そう笑ってシンは手を俺に差し出した。
 ありがとう――
 白くて細い手。
 長袖の下に、沢山の傷があることを俺は知っている。
 守りたかった。
 大切な幼馴染を。
 ずっとずっと。
 でも、その為の力は今の俺にはなく、俺はただ、シンの手を握り返すことしかできない。
 だから、俺は、俺ができることをする。
 日本からいなくなるシンの為にできること。
 それは――

「守ってるよ、ずっと、ずっと。お前の家を、アスカのじいちゃんの墓を。みんな守って、待っててやる。だから――」

 お前はお前の家族を守ることだけ考えとけよ。

 いってらっしゃい。
 絶対に帰って来いよ。
 俺はここで待ってるから。

 そう言って、俺はシンと繋いだ手を離した。



 amicus certus in re incerta cernitur.
    確かな友は,不確かな状況で見分けられる.
           キケロ 『友情論』 より
 



[32070] Graduale - 昇階唱 Ⅱ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/17 01:58

Graduale - 昇階唱 Ⅱ

 あのストリートミュージシャンの歌を聞いてから早1ヵ月。今日も俺は図書館帰りに歌を聴きながら読書をしていた。
 あれからほぼ毎日、ストリートミュージシャンの少女は、同じ時間同じ場所で歌っていた。その度になんとなく足を止めて読書をしていたら、そのまま俺の習慣になってしまったのだ。
 今日も少女は歌っている。
 ギターで奏でる旋律と共に紡がれる切ない歌声。降る雪の様に静かに、そっと心に寄り添う様かのように優しく。歌声は鎮魂歌を紡ぐ。
 時期が時期だからだろう。
 プラント政府が地球連合に停戦を申し込んでからもうすぐ3ヵ月が経つ。2月のコペルニクスの悲劇を皮切りに始まった今回の戦争は、9月末のヤキン・ドゥーエの戦いを経て終結した。
 停戦から早3ヵ月。そろそろ戦場となった場所付近での生存者捜索も打ち切られる時期だ。
 生きて帰ってこれた人、死んで帰って来た人、帰ることすらできずに鉄の棺桶の中で真空の宇宙を漂い続けることになった人。
 少女は歌う。
 傷ついた人の心に寄り添い、帰らぬ人の安寧を祈る歌を。年の変わり目は人々にある種の区切りを齎すだろう。

 3ヵ月――

 そう、もう3ヵ月も経つのだ。
 俺がプラントに来てから。
 正確には2ヵ月と少し。
 俺は停戦の少し後にプラントに渡たり、10月の中頃にディセンベル生活教練校に入校した。年が明ければ俺はディセンベル生活教練校を修了し、就職活動を開始しなければならない。
 一定の期間、ディセンベル生活教練校の寮に住まい、プラント政府からの生活保護を受ける事ができるものの、その間に生計を建てる為にプラントでの職を探さなければならない。
 それもまた当然のことなのだ。
 大人になるのだから。
 なぜならば、プラントの成人年齢は15歳。
 数え年で年齢を計算するプラントだと、俺ももうすぐ15歳になる。日本の成人は20歳だったのでいまいち実感がない。
 実感がないものの、現実は眼前にあり、逃れる事はできない。
 俺を庇護してくれる存在はもういない。
 就職活動、成人――
 まだまだ先だと思っていたことが一気に押し寄せてくる。
 去年の今頃なら、そんなこと、想像もしていなかっただろう。
 クリスマスだ!サンタさんが来る!とはしゃぐマユを宥めながら、俺自身もプレゼントに何を買ってもらうか悩んでいた様な気がする。幼馴染と結託して、互いに欲しいものを打合せ実質2本のゲームを手に入れる、という従来の方法が使えなくなったから、如何にマユを誘導するか色々考えていたはずだ。
 今思えば、とても幸せで贅沢な悩みだったのだと思う。
 思考を手元の本に戻した。
 《神は死んだ》
 本の中ではそんな言葉が躍っていた。
 神などとうの昔に死んでいる。
 思わずそう本に反論していた。
 はぁ、と溜め息を吐き、本を読み進める。
 持ち出せる紙製の本も大分少なくなり、兎に角ページ数と難しそうだという理由でこの本を借りたのだが、全く理解出来ない。それにも拘らず、不思議と読み進めてしまうのは何故だろうか。
 データが正しければ、この本は再構築戦争より更に前、少なくとも五百年以上前に書かれた本の筈だ。
 しかし、何故か目が離せない。どうして、この本の作者はこんな言葉を文字にして残す程の境地に至ったのだろうか。その背景は、理由は、一体何なのだろうか。読み進めればそれが分かるのだろうか。

 ページをめくる。


 ページをめくる。



 ページを――


 ?

 俺は歌が止まった事に気づいた。
 もうそんな時間か、と顔を上げる。

「!?」

 思わず目を瞠った。目の前には人の顔。硬直する俺を見て、その人物は小首を傾げ、俺から離れる。
「ねぇ、アナタ。いつも私の歌を聞いてくれてる人、ですよね?」
 かけられた言葉に俺は数回瞬くと、よくよく目の前にいる人物を観察した。
 そこにいたのはいつもこの場所で歌を歌っているストリートミュージシャンの少女だった。
「え? あ、うん」
 取り敢えず頷き、肯定しておく。俺の反応を見て、少女は嬉しそうに笑った。
「やっぱり! いつも私の歌を聞いてくれてありがとう! 私はミーア! ミーア・キャンベル! 歌手の卵よ! あなたは?」
 ずいっと再び顔を覗きこまれ、俺はしどろもどろに応える。
「シン…シン・アスカ。ディセンベル生活教練校の生徒だ」
 俺の言葉の何が琴線に触れたのかは分からないが、少女―ミーアは目を輝かせて捲し立ててきた。
「生活教練校ってことは、あなた、地上から来た人よね!? ねぇ、地上にはどんな歌があるの? どんな歌手がいて、何のジャンルの人気があるの? 何か歌を知っていたら教えてくれない? 私、もっといろんな歌を知って勉強したいの! あ! ところで、私の歌どうかな? 上手い? 下手? よく聞いていてくれてるから気になって――」
 矢継ぎ早に繰り出される質問の数々に、俺は硬直する。すると、俺の反応をどうとったのか、ミーアはすまなさそうに眉を下げた。
「ご、ごめんなさい。私、地上から来た人と話すの初めてで、つい……」
 そう肩を落とすミーアを安心させるように、俺は言った。
「気にしないで。ちょっと驚いただけだから。えーと…… うん。君の歌、だっけ?」
 俺はミーアが一番気にしているだろう質問を拾ってみる。
 どうやら当たったっていたらしく、ミーアはうんうんと頷いた。
 その素直で直情的な様子に俺は笑みを零す。
「いい歌だと思うよ。癒し、とはちょっと違うな…… そっと寄り添って傍にいてくれる感じがする。俺は好きだよ」
 ここ1ヵ月ミーアの歌を聴き続けた感想を述べる。
 きちんとレッスンを積み、更に努力しているのだろう。ミーアが歌う歌のジャンルは幅広く、そのどの歌も高い実力に裏打ちされたものだった。自作であろう曲もなかなか良く、聞いていて安らぐ曲や元気づけられるような曲が多かった。
「聴いていて、心が落ち着く」
 俺は素直に抱いた感想を言った。
 少なくとも、悪い感想ではないはずなのに、俺が言葉を重ねる度にミーアの表情が暗くなっていく。肩を落とし、ふてくされたようにミーアは言った。
「そんな顔で褒められたって嬉しくないわ」
 唇を尖らせ、ミーアは怒っているのか腕を組む。
「そんな顔?」
 ミーアの言葉に俺は首を傾げる。
 一応、俺は自分で言うのもなんだが、少し微笑みながら言ったつもりだった。小馬鹿にしたように見えたのだろうか?
「無表情よ。さっきから眉一つ動かさないし。淡々と褒められても嬉しくないわ」
「ああ……」
 そのことか、と得心した。プラントに来てから他人と深く関わる事が殆どなかったために、すっかり失念していた。
「俺、病気らしいんだ」
 ミーアが驚いた様に目を丸める。
 その思い描いた通りのリアクションに俺は苦笑した。
「心のなんだけどね」
 言葉と共に浮かべたつもりの微笑を、果たして俺の顔は形作っているだろうか。


***


 オーブ軍に保護された後、避難船に乗せられ、俺は戦場となったオノゴロ島を離れた。
 人でごった返す避難船の中を、俺はぼんやりと眺めていたような気がする。
 トダカさんに声をかけられ、こちら側に引き戻された後の事は、正直、よく覚えていない。ただ目の前の光景を瞳に映していただけのような気がする。
 誘導されるままに歩き、促されるままに乗船し、人波に乗せられ下船した。
 多分、トダカさんが気にかけてくれていなければ、俺はあのまま野垂れ死んでた気がする。
 戦闘が一段落した後、トダカさんに促され病院で診察を受け、色々な人に会った後に出された俺に対する結論はこうだった。
【諸々の身体機能に異常なし。ただし、精神的なショックのせいで表情を失っている】
 表情筋に異常がないにも関わらず、どうやら俺は、笑ったり怒ったりといった表情を顔が作る事ができていないらしい。
 家族を目の前で失った大きな感情の負荷を、心が処理しきれず、一定以上の感情を認識しない様にしている。しかも、認識のラインが著しく低い。枷がかけられた心の不安定さが、表情の欠落となって現れたのではないか。
 そんな見解を示された。
 特に感慨も抱かず、俺はその結果を受け入れた。
 そう診断されたからにはそうなのだろう。俺は普通に笑ったり怒ったりしているつもりなのだけど。
 そう言えば、余計に質が悪いと言われた。
 でも、心を病んだ人間は俺だけだったわけじゃない。あの戦闘に巻き込まれ、家族を、友人を、失った人は沢山いて、心を病んだ人はその数だけいた。
 病院にはそんな人がたくさん来ていた。
 俺よりも大人なのに子供の様になってしまっていた人。俺と同じように表情を失っていた子供。聞こえない筈の砲撃音に怯え、唐突にパニックを起こす人。
 俺なんて軽度な方だと思う。
 よくある戦争がもたらす悲劇の一つ。表情をなくした程度がなんだというのだろう。父さんや母さん、マユは命を亡くしている。

 《何も君だけが特別という訳ではない。よくある話しさ。》

 そう俺に向かって言ったのは誰だったか。
 避難施設の片隅。診察も終わり、日々をぼんやりとすごすだけだった俺に対し、その人は吐き捨てるように言った。
 《そこでそうしてるのも君の勝手だろうけど、せっかく拾った命なんだから少しは足掻いてみたらどうだい? 今の君も、吐き気がする位に鬱陶しいよ》
 果たしてその言葉は、俺に投げかけられた言葉だったのだろうか。今となっては、その真意を問う事は出来ない。
 ただ、ぼんやりとした日々の中、その言葉だけが異様な色彩を放って俺の中に刻み込まれている。
 よくある話し。
 そう。
 よくある話なのだ。
 何もかもが。


***


「地上で、家族が、ね……」
 一瞬の回想の後、そう言えばミーアは目に見えて慌てて、表情を暗くした。濁した言葉の意味がわかったのだろう。
 かける言葉を探すミーアを、宥める様に俺は言った。
「よくある話さ。俺自身、さして不便に感じてないし、気にしてない」
 だからミーアも気にしないで欲しい。そう言外に行ってみたものの、やっぱりミーアは気にしたらしい。
「ごめんなさい…その、つらいこと、思い出させちゃって…」
「いいよ。さっきも言ったけど、俺は気にしてないし。ところで、ミーアの歌だけど――」
 謝ってくるミーアの言葉を遮り、強引に俺は話を転換する。ここまですれば、きっと乗ってくれるはずだ。
「え…? ええ、そうね。感想、もう一度聞かせてくれない?」
 今度はミーアも気付いてくれたらしい。俺が話を変えたがっていることを。だから俺も会話を続ける。
「俺はミーアの歌が好きだよ。なんていうのかな… こう… 寄り添ってくれてる感じがする。心を癒すとかじゃなくて、ただ、傍にいてくれる感じ。…… 曖昧でごめん」
 随分と抽象的な感想になってしまった。でも、それがミーアの歌から感じた事だった。
 俺の感想に、ミーアは嬉しそうに笑った。
「本当!? 嬉しいわ! 私も人の心に寄り添いたいなって思いながら歌ってるの! きちんと伝わってるのね! 私の想い! ……私程度だと、ラクス様のような人の心を癒す歌なんて歌えないから、せめて寄り添いたいって思って…」
 最初は嬉しそうにしていたのに、最後は何故か沈んだ様に、ミーアは肩を落とした。その原因は恐らく、俺の知らない名前のせいだろう。
「ラクス様?」
 聞いた事のない名前だった。その人物は有名人なのだろうか?
「え!? 貴方、ラクス様を知らないの!?」
 ミーアの反応からして余程の有名人なのだろう。
 俺が頷くと、ミーアは少し思案気にしてから首を横に振った。
「そう…」
 ミーアは少し俯いた。
「?」
 俺は首を傾げた。どうかしたのだろうか。
「ミーア?」
 名前を呼んでみる。"ラクス様"を知らない事がそんなにショックだったのだろうか。
 ばっ、っとミーアは顔を上げる。
「!」
 俺が驚いているのを尻目に、ミーアは振り返り自分の荷物が置いてある所に駆け寄ると、鞄の中身を漁る。そして何かを取り出すと、走って俺の所に戻り、あるモノを俺に差し出した。
「はい! コレ、あげるわ!」
 差し出されたのは3枚のディスクだった。
 唐突な展開に固まる俺に、ミーアは晴れやかに笑った。
「私の歌が入ったディスク! 実用、保存用、布教用の3枚あげるから、しっかり宣伝してね!」
 そう言ったものの、なにか思う所があるのか、ミーアは不安げにしている。
 ふと、俺はある事を疑問に思い、ミーアに尋ねた。
「それを受け取ったら、ミーアはもうここでは歌わないのか?」
 それなら困る。ディスクでいつでもミーアの歌を聴けるようになるのもいいだろうけど、やっぱり直接聴いた方が良いに決まってる。
 そう言ったのが意外だったのか、ミーアは目を丸めた。
「直接、もっと聴きたいの? 私の歌」
 ディスクを受け取りながら、俺はミーアの言葉を肯定する。
「ああ」
 ミーアは嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。
「歌うわ。ここで… もとから、もう暫くいるつもりだったし」
 ふわりと下がった目尻。
 浮かんだ優しい笑顔が、昔に山で見た、霞草に似ていると思った。


 next




[32070] side.M 「 降誕祭 」
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/17 02:09
side.M 「 降誕祭 」


《風の囀り。
 緑の囁き。
 海の歌声。
 空が、大地が歌う賛歌。

 貴女に聞かせたかった。
 貴女と聞きたかった。

 残念ね。
 それももう無理みたい。
 ごめんなさいね…》


***


「はぁ…」
 大きく吐いてしまった溜め息に、私は慌てて周囲を見回した。
 図書館へと続く並木道は本来そこそこ人通りのある場所なはずなのに、今日は人通りが少ない。
「いても誰も私を気にしない、か…」
 思わず呟いてしまった言葉に、私は眉を顰めた。首を横に振り、暗い思考を追いやるとギターを構え直す。
 今度は明るめの元気がでる歌を歌おう。そう思って私はギターを爪弾いた。
 私がこうして道端で歌うようになってからもうすぐ一年と3ヵ月になる。けれど、道行く人々は誰も私の歌に足をとめない。私がここで歌っている事に気づかない。それでも誰かに私の歌を聴いて欲しくて、私は歌を紡ぐ。誰かの心に寄り添いたいと願いながら。

 私に《歌うこと》を教えてくれたのは"母さん"だった。"母さん"が良い声だと褒めてくれて、"母さん"が喜んでくれたから私は歌を歌っていた。
 レッスンに通い、歌の歌い方を学び、曲の作り方を学び、作詞の仕方を学び―― 歌に、音楽に関わる事はどんなことでも勉強した。
 けれど、どんな講師の先生よりも沢山のことを私の"母さん"は教えてくれた。

 あたたかく迎えてくれる家。
 優しく抱きしめてくれる腕。
 頭を撫でてくれる手。
 慈しみに声。

 誰かと食事をする喜び。
 誰かを想っての怒り。
 誰かの為に涙する哀しみ。
 誰かとおしゃべりする楽しさ。

 花の囁き。
 鳥の囀り。
 風の歌声。
 月の眼差し。

 地上への憧憬。
 輝く日々の幸福。
 終わりなき探究への恐れ。
 美しい世界への憂鬱。

 "母さん"は私に、"世界"の素晴らしさを教えてくれた。

 大好きな"母さん"を亡くし、私は、私が歌う意味を失った。
 私は歌を歌えなくなった。
 "母さん"も歌も一度になくし、失意と惰性の中で私は日々を生きていた。そんな私の耳に響いたのがラクス様の歌声だった。

 ラクス様――
 ラクス・クライン。
 プラント最高評議長の娘。
 プラント国民が慕う歌姫。
 私の尊敬する歌い手。

 奇しくも、ユ二ウスセブンが核攻撃された"血のバレンタイン"事件の直後、多くに人々が唐突な喪失の痛みと失意に呑みこまれていた時期だった。ラクス様の歌声はその多くの人々の心に響き、癒しを与えた。私の痛みと、彼等の痛みは違うけれど、確かに私はラクス様に救われた。
 多くの人々の心を癒し、平和を祈り続けるラクス様。
 歌で人を癒し、人を救うラクス様は、私の理想の歌手が具現化したような存在だった。

 私もラクス様の様になりたい。
 ラクス様の様に、歌で痛みに苦しむ人々を癒したい、救いたい。
 私の歌で……!!

 家のピアノを前に、私はひたすら弾き、歌った。
 久しく思いだせなかった、"母さん"の優しい微笑を傍に感じながら。

 アルバイトをしながらだけれど、レッスンに戻り、私は沢山のオーディションを受け始めた。
 時には、事務所にデモディスクを送ったりもした。いくつかの事務所で色よい返事を貰えたこともあった。けれど、私の容姿を見るなり眉を顰め、首を横に振った。
『どんなに歌声がよくとも、見栄えがしなければ歌手としてデビューするのは難しい』
 整ってもいなければ、醜くもない。私の平凡な容姿は、どこまで私の人生に影を落とすのだろう。この容姿のせいで何度も私は選ばれない。

 それでも私は諦めなかった。
 少しでも私の歌を聴いてもらいたくて、少しでも私の歌で誰かが癒されることを願って、私はギターを片手に町へ出た。

 そして気付いてしまった。
 気付かされてしまった。

 私の声はラクス様に似てる――

 はじめはもっと人通りが多い所で歌っていた。同じように歌手を目指し、道端で歌う人達と肩を並べ、張り合いながら。
 私の歌に足を止めてくれる人がいた時は本当に嬉しかった。はじめての私のお客さんの為に、私は心を込めて歌を歌った。
 歌いきった後、そのお客さんが私に近づいて来た時は本当にドキドキした。
 感想を言ってくれるのかな?それともスカウト?
 何もかもがスローに見えて、期待に胸を高鳴らせながら、私はお客さんが口を開くのを待った。

『もしかして、ラクス・クライン様ですか?』

 心が冷や水を浴びせられたかのように冷え切った。上手く笑えていたか自信はない。
 最初の頃はラクス様と同じだと言われて嬉しかった。けれど、何度も、何度も、何度も、同じ事を言われ、しまいには私の歌を遮り、わざわざ声をかけてくる人も出てきた。

『ラクス様の歌を歌ってくれませんか』、と。

 容姿は似ても似つかないけれど、声が似ているから聞いてみたい。本物には会えないから、せめて似ている人の歌を。そう願う人々の想いを私は無下にすることはできなかった。
 ラクス様の歌を何度も歌った。
 ラクス様の歌しか歌っていない日が何度も続く様になった。
 私の歌声で誰かが喜んでくれるならそれでいい。
 私の歌声を聞いてもらえるだけ幸せ。
 そう何度も自分に言い聞かせた。

 けれど、気づけば私はここにいた。この、人通りが多くもなければ少なくもない、図書館前の並木道に。
 ベンチに座り、私の歌を紡ぐ。
 誰かの癒しになれなくてもいい。誰かの救いになれなくてもいい。ただ、傷ついた人の心に寄り添いたい。寄り添わせて欲しい。
 私の歌を……!!
 そう願いながら歌を紡ぐ。

 ふと顔を動かせば、反対側のベンチの端で、男の子が本を読んでいた。近くには図書館があるのできっとその帰りなのだろう。
 珍しい紙媒体の本を手に持っている。
 読書の邪魔にならない様に、私は曲調を変える。
 男の子が心地良い時間を過ごせるようにと願いながら。


***


 あれから頻繁に男の子の姿を見るようになった。
 私が歌っている時間を見計らっているのかいないのか。男の子は毎日、同じ時間帯、同じ場所で本を読んでいた。
 もしかして私の歌を聴きにきてくれているのだろうか?そうだと嬉しい。けれど期待してはダメだ。そう自分に言い聞かせる。

 男の子はとても特徴的な容姿をしていた。
 私よりも深い黒の髪に、血の様に真っ赤な瞳、雪の様に白い肌、嫌みのない程度に整った容姿は恐らくコーディネイトを受けているのだろう。少し羨ましかった。
 けれど、男の子を―― 彼を深く印象付けるのは雰囲気だろう。容姿そのものは子供っぽさが残っているにも関わらず、纏う雰囲気や表情は大人びていた。
 どこか危うく、儚く見えるのに、確かな存在感。虚ろにも見える紅い瞳が、存在のアンバランスさに拍車をかけている。
 今日は白いニットの帽子を被っている。頭の上にのったぽんぽんがかわいらしくて、映像で見たウサギを彷彿させた。
 微笑ましくて思わず私は笑みを零す。
 彼のおかげで、私は随分と私の歌を取り戻せた気がする。鬱々としていた気分はこんなにも晴れやかで、心はとても凪いでいた。
 ラクス様が活躍されたヤキン・ドゥーエの戦いから3ヵ月が立とうとしている。
 あの戦いで大切な人を亡くし、かつての私のように失意の中で日々を過ごしている人たちもいるだろう。
 今日はそんな人たちのために鎮魂歌を歌おう。私の歌はラクス様の様に人を癒す事も救う事もできないけれど、痛みに寄り添うことはできるはず。
 いつも聞いてくれている彼に恥じないよう、祈りと願い、心を込めて。
 そして歌い終わったら今度こそ実行しよう。
 とっくに出会っている彼と私が、本当に出会うために話しかけるのだ。

「私の歌はどうでしたか」、って。


 そして、彼と私は出会う。
 少しの痛みと大きな風を伴って。

 それまでの私にとって、戦争は近いけれど遠い、別世界の物語だった。
 そう。
 貴方に、貴方達に出会うまでは。
 


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[32070] Graduale - 昇階唱 Ⅲ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/17 11:32
Graduale - 昇階唱 Ⅲ

 ミーアに話しかけられてから早3ヵ月。あれからミーアと俺は、頻繁に会話するようになっていた。
 会話の内容は基本的に歌の事。そして地上の事だった。生まれも育ちもプラントのコーディネイターには珍しいタイプである。その話しぶりから察するに、どうやらミーアは一度、実際に地上に降りてみたいらしい。
 更に珍しい。反コーディネイター組織であるブルーコスモスに襲撃されることを恐れて、大半のコーディネイターはプラントに上がっている。
 わざわざ危険地帯に行きたがるなんて相当変わり者だろう。そう思ったままに口にしたら、少しむくれながらも教えてくれた。
 亡くなった母親がナチュラルだったのだと。地上の話を聞いて育ち、一緒に行こうと約束していたらしい。もはや果たせぬ約束となってしまったが、母親が話していた地上のことを少しでも知りたくて、こうして地上から来た俺に色々と尋ねているのだという。
 だから地上―― 特に自然の有様なんかを知りたがっていたのかと納得した。俺が日本の四季について話すととても嬉しそうにしていた。
 それにミーアは俺が読んでいる本にも興味を持ったらしく、内容を聞いて来た。図書館にあった本を手当たり次第借りているので、正直、俺自身もあまり内容をよく理解できていないことの方が多い。
 けれど、そんな俺の説明もミーアは目を輝かせて聞いてくれた。自分とは違った価値観を持った人との会話は良い刺激になるらしい。
 アーティストってのはよくわからない。
 ディセンベル生活教練校を修了してからは、俺の求職活動についても度々話題に上がる様になった。

「そう…あの会社もだめだったの」
「ああ」

 俺の不採用の話を聞いて、ミーアは残念そうに肩を落とした。
「やっぱり、接客系は無理よ。シンが自覚なくても、他人から見れば無表情だもの。むしろ、私から言わせれば、どうして接客業の会社なんて受けたのか疑問よ」
「俺もそう思うよ…」
 改めて指摘されると落ち込んでしまう。あまり自覚がないとはいえ、こう何度も指摘されると嫌でも自覚を促される。
 接客業だけは絶対にやめておいた方がいいとミーアに言われ、ちょっと意地を張ってしまった自分が恨めしい。
「俺の成績を考えると、やっぱりプラントの外装修理かデブリ・ジャンク回収業辺りが妥当かな…… 一応工業用モビルスーツ運用資格も持ってるし」
 教練校で車の免許をとるついでに工業用モビルスーツ運用資格を取っていた事を思い起こす。
「工業用モビルスーツ運用資格って…… あの試験、難しいことで有名なのよ?」
「そうか? 結構、簡単だったんだけど…」
 特に実技は簡単すぎてがっかりした位だった。
 そう俺が言えば、ミーアは唇をすぼめて文句を言ってきた。
「簡単だったら、とっくの昔に私が資格取って働いてるわよ」
 外装修理の仕事は給料が良いんだから、とミーアはむくれている。その様を見ながら、俺はなんとなく、こういう時に笑えないのは不便だと思った。
 ふと、ミーアの髪に薄桃の何かがついている事に気づく。黒髪に薄桃はよく映える。どこか見覚えのある形に思わず手を伸ばした。
「シン?」
 ミーアが小首を傾げ、再び何が見えなくなる。
 耳の陰に隠れたのだろう。
 見えにくい。
 俺の手は耳を掠め、その後ろの髪束を少し払う。
 はらり――、とひとひら。
 薄桃の花弁がミーアの肩に落ちる。
 俺はそれをそっとつまむと掌にのせる。

「"さくら"だ…」

 胸がつまった。
 もうそんな時期なのだ。
 オーブには桜はなかった。
 だからみんなで約束していたのだ。
 戦争が終わって、情勢が落ち着いたらすぐに日本へ帰ろう。そして、またみんな、隣の家族たちとも一緒に桜を、ヨシノの桜を見に行こう。
 "約束"――

「ねぇ、シン…シンってば!」
 はっと我にかえる。
 横を見れば、ミーアが心配そうに俺を見ていた。
「大丈夫? 急に、いつも以上に目が虚ろになって無表情のまま固まってたけど…」

 数度目を瞬きさせると、俺は口を開いた。
「大丈夫。ちょっと、懐かしく思っただけだから…」
 まだ、あの"約束"を口に出して誰かに話す勇気はなかった。
 俺の様子に不承不承ながらも納得したのか、ミーアは視線を俺の掌に移動させた。
「あら? この花弁、"サクラ"よね? どこで見つけたの?」
「いや、さっき、ミーアの髪についてたから… 俺の方こそ、どこでこんなのくっつけてきたのか聞きたい」
 場所を聞いておかなければならない。当分、桜には近づきたくない。
「えーと… あ! 多分、あそこだと思うわ! ほら! ディセンベル第三バイパス横の大きな並木道!」
「ああ…」
 そこなら思い当たる。
 寮から足を延ばすには少々遠いが、行けない距離ではない。数度前を通り過ぎた事もあった気がするが、幸い記憶にない。
「それにしても、早咲きなんだな。プラントの桜は」
 日本の桜の開花時期は、だいたい3月中旬から下旬である。3月になったとはいえ、桜が咲くにはまだ早い。
「今年は開花時期を早めるってニュースで言ってたわ。だいたい1ヵ月位かしら? 咲き続けて茶色く枯れるの」
「1ヵ月?」
 聞き捨てならないセリフに、思わず俺は聞き返す。日本の桜は1週間足らずで散ってしまっていた。茶色く枯れると言う言葉も気にかかる。
 それに、開花時期を早めるとはどういうことだろう?
 押し黙った俺に、複雑な心境を察してくれたのだろう。ミーアは仕方なさそうに肩を竦めた。
「シン。ここはプラントよ。天候システムの操作で、花の開花時期や開花期間を操作するなんて簡単よ」
「そうなのか…」
 プラントという箱庭の世界で咲く桜はどうやら、地上―― 日本の桜とは違うらしい。
 それならミーアは、いや、プラントの人間は桜が風に散る様を、花吹雪を見た事がないということか。とても残念なことだと思った。

 一際強い風が吹く。
 
 掌にあった薄桃の花弁はふわりと舞い上がる。俺は花弁が天井の彼方に吸い込まれるのを静かに見送った。
 サクラはとてもコーディネイターに似ているのに。
 天井の蒼に呑み込まれた薄桃の花弁を想いながらそんな事を考えた。

「シン? シン? 物思いにふけるのもいいけど、電話、鳴ってるわよ?」

 ミーアの言葉に、俺はズボンのポケットに手を突っ込む。木製の液晶保護カバーを裏にやり、ディスプレイの表示を確認する。
 着信は―― メールだ。
「あら? それってもしかして、leafの新型携帯!? お願い! ちょっとだけ触らせて!!」
 横でミーアが何やら喚いている。そのあまりのハイテンションぶりに、俺はメールを確認もせずに携帯をミーアへ放り渡した。
 leafとは、プラントでも人気のパソコンメーカーだ。パソコンは勿論、携帯電話やタブレットPCなどなど色々と出している。一枚の葉っぱを、虫が丸く一齧りしたようなロゴはあまりにも有名だ、というのが、携帯を買ったお店の人の言である。
 俺自身は、直感的で簡単に操作できてパソコンにも繋げるという点を考慮し、タブレットPCと合わせて購入した。
 タブレットPCまで買ってしまったのは、そう、店員のノリに流されてしまったのだ。デスクトップがなければあまり意味がないのはわかってはいるものの、何故か買ってしまった。
 絶賛後悔中である。
 まぁ、インターネットに繋げて、PCメールもできる為、求職活動の役には立ってくれている。でも、やっぱりあの出費は痛かった…
「いいなぁ…やっぱり、leafから出てる商品って見た目も使いやすさもいいわよね」
 見た目――
 そう、見た目なのだ。
 一番気に入ったのは。
 地上で、オーブで見かけた携帯電話とは似ても似つかないleafの製品群。求職に必要不可欠とはいえ、携帯電話を持つには少々抵抗があった。だからこそ、見た目が俺にとっては携帯電話とは思えないようなものを選んだのだ。
「保護カバーは木製を選んでるのね。シリコンカバーもいいけけど、こんな木製のもいいかも。なんだか温かみがあるし。でも、ストラップは付けないの?」
 ミーアの問いに俺は首を横に振った。
 まだ、ストラップを買う勇気が俺にはない。
「ふーん… あ。じゃあ、せっかくだし、私のアドレス入れとくわね。そうすれば私の歌を直接メールに添付して送れるし」
「そうしてくれると嬉しいけど… 俺はディスクも欲しいな」
 やっぱりディスクがあった方がいい気がする。特に理由はないけど。
 そして、勿論、と付け加えておく。
「両方とも、ミーアが直接歌を聞かせてくれること前提で受け取るから」
 俺がそう言うと、ミーアは嬉しそうに俺の携帯に自身のアドレスを送り始めた。

「あら?」

 ちょうど互いのアドレスが交換し終わった頃。
 ミーアは声をあげた。

「3月10日。ユ二ウスセブンにて、停戦条約調印 決定」

 俺は目を見開いた。
「これって…」
 ミーアが心配そうにしながら、俺に携帯を渡した。
 俺はディスプレイを見る。
 初期設定から弄っていない、ニュースヘッドライン。
 流れていく文字。
 何度も同じ文字が繰り返される。

 
 3月10日。
 ユ二ウスセブンにて、停戦条約調印――


 戦争が、終わる――



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[32070] Graduale - 昇階唱 Ⅳ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/19 21:30
Graduale - 昇階唱 Ⅳ


 C.E.72 3月10日
 ユ二ウスセブン跡上空において、地球連合とプラント臨時評議会間において停戦条約が締結。

 C.E.71 2月5日に月面で起こった、地球側理事国の代表者と国連総長以下、国連首脳陣が死亡するという最悪のテロ――「コペルニクスの悲劇」に端を発するナチュラルとコーディネイターの戦争は、この日を以って一応の収束を見せたのだ。
 条約の中には、モビルスーツを筆頭とした軍事兵器へのニュートロンジャマー・キャンセラーの搭載禁止やミラージュコロイド技術の軍事利用禁止、MS保有数の制限などが盛り込まれ、そして――

 P.L.A.N.T.はProductive Location Ally on Nexus TechnologyからPeoples Liberation  Acting Nation of Technology へと改称。
 名実ともに独立国家となったのだ。

 戦争は終わった。
 終わったんだ。
 

 本当に――?


 暗い部屋の中、俺はベッドに腰掛けて思考する。

 悲願の独立を果たし、平和が訪れた。
 これから良くなる。
 何もかもが。

 そうプラントの人々は口にする。

 本当にこれからなにもかもが良くなるのだろうか。
 本当に平和になるのだろうか。
 本当に戦争は終わったのだろうか。

 終わったのならばなぜ――?

 俺は視線を床から、机の方へと移す。
 そこにはディスプレイを光らせる携帯電話とタブレットPC、そして影になって見えないが、ピンク色の携帯電話がある。
 同じ会社が作った携帯電話とタブレットPCには、どちらにも同じ画面が表示されているはずだ。
 ミーアと別れた後に確認した受信メール。
 その差出人は――

 Z.A.F.T:Zodiac Alliance of Freedom Treaty(自由条約黄道同盟)

 軍からの、勧誘――

 平和になったのだと、人は言う。

 平和とはなんだ?
 戦争とはなんだ?
 平和を尊びながら、なぜ人は争うのか。

 わからない。
 わからない。

 そもそも、平和とは作るものなのか?
 それとも、守るものなのか?
 わからない。

 プラントに来てから、逃げるように沢山の本を読んだ。
 今まで読んだ事もなかった哲学や心理学、果ては航空力学やプログラミングの本だって読んだ。
 どんな本を読んでも、俺の中に答えは生まれなかった。
 けれど、今、俺の中に生まれたモノがある。
 ユ二ウス条約締結―停戦を聞いて、このザフトからの入隊勧誘を見て、生まれた疑問。

 俺の望む世界とは何なのか――?

 俺が望む世界。
 俺自身が得たいと願う世界。
 それは一体、どんな姿をしているのか。

 俺が望む世界。
 父さんがいて、母さんがいて、マユがいて、じいちゃんがいて、隣の幼馴染がいて――
 日本での暮らし、オーブで僅かながらも過ごせていた平穏な日々そのもの。
 ナチュラルもコーディネイターも関係なく、みんなが笑っている世界。
 かつて僕がいた世界。

 そう。

 戦争がない世界――

 ユ二ウス条約の締結により、戦争は終わり、平和が生まれた。
 戦争が終わるとはすなわち、戦争がなくなるということなのだろうか。
 戦争がない状態を平和というのだろうか。

 ユ二ウス条約下の世界に戦争はない。
 ならば、戦争のない世界の為に俺は何が出来るだろうか。

 ベッドから立ち上がり、机へと近づく。
 タブレットPCへと手を伸ばし、ロックを解除する。
 表示される、メール画面。

 ザフトからの入隊勧誘メール。
 どうやら俺には、モビルスーツの運用に高い適正があるらしい。
 それをザフトで活かしてほしい。
 仰々しく飾られた文章の主旨はこんなところだろう。
 工業用モビルスーツの試験―― 特に実技、が異様に簡単だとは思っていたが、それは俺自身の高いモビルスーツ運用適正故のものらしい。

 ザフト―― 軍に、国に、必要とされる――

 じいちゃんが生きていたらなんと言っただろうか。
 国家に必要とされる――
 それだけで泣いて喜びそうな気がする。


***

 第三次世界大戦―― 再構築戦争。
 若者は次々に戦場へ送られて行った。
 しかし、重い遺伝性の病気を抱えたアスカの家の者―― じいちゃんが徴兵されることはなかった。
 同年代の友人達が次々に出征してゆく背を見送りながら、じいちゃんは何度も自分自身を呪ったという。
 共に戦場に赴き、国の為に戦いたい。
 けれど、我が身に流れる血が連綿と受け継ぐ忌まわしい病がそれを許さない。
 どんなに心が戦う力を欲しても、肉体がそれを許さない。自分自身ではどうにもならないからこそ悔しかった。
 遺伝性の病を抱えているのだからしかたない、と慰められる度に、何が分かると言い返しそうになる自分を必死に抑えていたという。
 兵士になり、国の為に戦うことが賛美されていた時代だった。
 それを成す事の出来ぬ我が身の不甲斐無さ嘆き、じいちゃんは愛する祖国の為に何かできないか必死に考えたらしい。
 兵士になれないのならば、せめて後方で役に立ちたいと決意し、じいちゃんは難関の大学へ進学する為に猛勉強した。
 そして見事、難関大学への進学を果たした。
 全てがこれからという時だった。
 それが訪れたのは。

 終戦――

 じいちゃんが愛した祖国はなくなった。

***


 ここはじいちゃんが、僕達が愛した"日本"という地ではない。
 むしろ、見ようによっては敵国なのかもしれない。
 僕達家族が、オーブに移住するきっかけとなったのは空の化け物―― プラントのコーディネイターによる、ニュートロンジャマー投下なのだから。
 そう言うと恐らく、プラントのコーディネイターはこう返すだろう。
 "血のバレンタインの報いだ"
 今回の停戦条約の締結地となったユ二ウスセブン。核攻撃を受け、壊滅したコロニー。
 その悲劇こそが、今回の一連の戦争の発端だと、プラントのコーディネイターは思っている。
 けれど、地上にいた僕に言わせてみれば、それは違うと言いたくなる。
 一連の戦争の発端は間違いなく"コペルニクスの悲劇"だろう。
 プラントとその理事国の間で持たれるはずだった国際連合主催の会議。月面にて行われるはずであったために、月面会議と呼ばれるその会議は双方話し合いのテーブルに着くことなく終わった。
 爆弾テロによる地球側理事国の代表者と国連総長以下、各国首脳陣の死亡という最悪の結果を残して。
 しかし、この最悪のテロには唯一の生存者がいた。
 シーゲル・クライン――
 プラント側の代表だ。彼は搭乗していたシャトルの故障により遅刻し、月面会議の参加者の中、唯一人この難を逃れている。
 不可解な生存。
 真実の奈辺がどこにあるにしろ、シーゲル・クライン議長のみ存命という動かしがたい事実は地上のナチュラル及び地上在住のコーディネイターに根強い不信感を齎した。
 そして、瓦解した国際連合は発展解消され、、誕生したのがO.M.N.I:Oppose Militancy & Neutralize Invasion―― 地球連合だ。
 なんのことはない、プラントはプラント自身の手で、自身の敵を作りだしたのだ。

 ナチュラルとコーディネイター。
 かつての歴史の教科書で習った、第一次世界大戦や第二次世界大戦での、宗主国と植民地の関係に似ている気がする。
 けれど、もしそうだとするならば、歴史は繰り返されているということになる。かつては民族というしきりで、現在はナチュラルとコーディネイターというしきりで。

 妬しいから、妬んで。
 疎ましいから、疎んで。
 憎らしいから、憎んで。
 傷つけられたから、傷つけて。
 撃たれたから、撃ち返して。
 人は何度も何度も、同じ事を繰り返している。

 プラントのコーディネイターは、自分たちこそが"進化した人類"―― "新人類"なのだという。
 人類が太古より連綿と繰り返して来た、血と涙に彩られた負の連鎖から抜け出す事の出来ていない"新人類"を、果たして"進化した人類"と称して良いものなのだろうか。同じ事を繰り返しているのならば結局、"人類"ナチュラルと"新人類"コーディネイターは生まれの多少の差異はあれど、何一つ変わらないという証左になるのではないだろうか。

 繰り返される悲劇。"新人類"ですら抜け出す事の出来ぬ業の連鎖。抗えぬ――

 今回の戦争の発端は間違いなく"コペルニクスの悲劇"だろう。だが、月面会議が開催されるに至った経緯も複雑だ。経緯を見れば、プラント側の言い分も理解できない訳ではないのだ。

 何が正しいのか。
 何が悪いのか。
 どんなに沢山の本を読んでもわからなかった。
 わからない。
 答えが出ない。

 俺はメール画面から視線を少しずらす。
 タブレットPCのディスプレイが放つ光を僅かにうけ、それは輪郭を暗闇に浮かべる。

 マユの携帯電話――

 視線をメールに戻す。

 ここはプラント。
 日本ではない。
 けれどプラントは、俺に力を与えようと言っている。俺達アスカの家の者がどんなに望んでも得られなかった力。
 戦う力を。
 けれどそれは――

 オレンジ色の閃光――
 青い翼のモビルスーツ――
 土煙が晴れた先の壊れたセカイ――

 あの光景が脳裡を過ぎる。

 あの青い翼のモビルスーツと同列になるということだ。
 無辜の民に死を振り撒く死神に。
 あんな奴と同列になってまで、"戦う力"は、求める価値のあるものなのか?

 俺は再びマユの携帯を見る。
 震える手を伸ばし、少し重い、小さな携帯電話を手に取る。折り畳み式のそれを、俺はあれから一度も開けていない。充電を怠らず、肌身離さず持ち歩いていても、どうしても開く事ができなかった。
 けれど今、俺は携帯電話を開こうとしている。開かなければならない。

 隙間に指を入れ、開く。


 真っ黒――


 携帯電話の小さな液晶は真っ暗だった。
 そういえば、充電はしていても電源を入れていなかったことを思い出す。
 大きく息を吐く。
 知らず知らずの内に息を詰めいていたらしい。
 馬鹿みたいだと自分を嗤いながら、俺は電源へと親指をやる。
 手が、指が、震える。
 ほんの数秒、押し続ければいいボタンを押さえ続けられない。
 携帯を持つ右手を左手で押さえつけ、親指に電源ボタンを押させ続ける。


 起動する携帯電話。
 立ち上がる画面。
 待ち受け画面の中で僕達が笑っていた。

 携帯電話を買ってもらったその日に、マユがカメラ機能で撮っていた1枚だった気がする。待受画面にしてたのか。
 俺はデータフォルダを開き、更にカメラのフォルダを開く。

 父さんが笑っている。
 母さんが笑っている。
 僕が笑っている。
 ああ、これは僕がマユの携帯を借りて撮った写真だ。
 こっちはマユの誕生日会の写真。
 オーブの家の周りの写真。
 これはオーブの海に行った時のだ。

 僕はボタンを押し、次々に写真を見て行く。

 もっと。
 もっと。
 もっと。
 写真が一番最初に見た物に戻る。
 そう、一番最後に撮られた写真に。
 それは僕がホットミルクを入れている姿だった。
 日付はあの日。
 71/06/15――
 どうやらマユは、僕の気が逸れている隙に携帯を弄っていたらしい。

 あ、と思いだし、僕はデータフォルダからメインメニューに戻り、あるモノを探す。
 携帯電話を買ったその日、既製のものが気に入らないと、マユが吹き替えていたモノ。

 設定――
 留守電機能――
 再生音声――
 ボリューム――

 最大にして、俺は確認のボタンを押す。

『マユでーす!マユはいま、でんわに出ることができません。ピッというはっしんおんのあとに、メッセージをいれてください!』

 耳に響く懐かしい声。
 舌っ足らずのやわらかい声。
 あの日のまま、時間を止めた妹。

 俺は目を見開き、携帯電話を凝視する。
 持つ手が震える。
 胸が詰まり、上手く息が出来ない。

 逆巻く。
 この胸の海が。
 あの日から止まっていた全てが。

 カチカチと奥歯が鳴り、震える手で携帯電話を握りしめる。

 ああ!!
 俺は何を迷っているというのだろう!
 力がなくては何も守れない!!
 力がなかったから、僕が守りたいと思ったもの全てがこの掌から零れ落ちて行った!!
 今の俺には何もない!!
 何もない!!
 守りたいものなど、何一つない!!

 俺はもう一度マユの声を聞こうと、携帯電話を操作しようとする。しかし、液晶の画面は省エネの為、真っ暗になっている。 
 そこに映り込むのは自分自身。

「力がなくちゃ、何も守れない――……」

 気付けば発していた言葉は、逆巻く俺の心情に反して、冷たく平坦だった。
 真っ黒な液晶には俺が映っている。虚ろな瞳のままの俺が。こんな時にすら、壊れた俺は涙一つ流せない。
 それが余計に僕の心を煽る。

 ずっと、このままでいるつもりなのか、と。
 感情は壊れ、表情を失くし、何一つ持たず、空虚なまま生きていくのか、と。

「力が欲しい――…」

 今の俺に、大切なものは何一つない。
 けれど、ずっとそのままでいていいはずがない。
 いつか俺も、大切なものを得るはずだ。

「戦う力が欲しい」

 大切なものを守る力を!
 今は何も持たなくても、いつか得る大切なものを守る為に!
 力を!
 戦う力を!!

 俺はマユの携帯を机の上に置くと、タブレットPCに指を滑らせる。
 そして、メール本文のURLに触れる。

 入隊志願書――
 必要事項を記入――

 キーボードを呼び出し、次々に記入してゆく。
 多くの必要事項を記入し、後は送信ボタンを押すのみとなった。
 迷いなく、俺はその送信ボタンに触れようとする。

 瞬間。
 脳裏に過ぎるあの光景。

 壊れたセカイ――

 今度は俺自身が、誰かのあの光景を作りだす事になるのかもしれない。

 一瞬の逡巡。


 それでも、それでも俺は、僕は――


 送信ボタンに触れる。


 それでも僕は力が欲しい。


next



[32070] Graduale - 昇階唱 Ⅴ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/18 15:42
Graduale - 昇階唱 Ⅴ


 決意の日から1週間。
 俺は今、アカデミー―― ザフトの士官学校の寮にいる。
 士官学校の寮は二人一部屋が基本らしく、ベットが二つ備え付けてある。簡易キッチンやシャワーもあり、基本的なルールを作れば二人の人間が余裕を持って暮らせるだけのスペースはあるだろう。
 同室の人間はまだ来ていない。
 まぁ、それも当然かもしれない。何せ、まだ入学式まで1週間以上もある。
 生活教練校の寮暮らしだった俺は、士官学校の寮の入寮可能日すぐに入寮したのだ。私物などほぼないに等しく、私服や下着全てが少し大きめの旅行鞄一つにまとまった。
 それらの整理も既に終わり、俺は一息ついて部屋を見回しながら、これまでの事を思い返した。

 入隊の為の試験や検査があると身構えていた俺の下に来た返信メールの内容は意外なものだった。
 それは士官学校への推薦状。
 ザフトは志願制の軍だと聞いていた。俺には工業用モビルスーツ運用資格取得の件もあるので、志願したら即入隊かと思っていたがどうやら事情が違うらしい。
 最初に来た勧誘メールと返信メールを見比べ、俺は自分自自身の早とちりに気づく。
 返信メールを読み、いろいろ調べてみると、どうやらユ二ウス条約締結によるプラント独立に伴い、ザフトの士官学校が新設されることに決定したようだ。
 以前までは、形式的には理事国の管理下ということもあり、ザフトはプラントの有様を憂う志願者が組織する民間の義勇軍という体裁をとってきた。しかし、一つの国としての独立を獲得した今、必要なのは本業を別に持つ志願兵ではなく、職業そのものが軍人である職業軍人である。国家として、国民の安全を保証し、独立性を維持するには職業軍人は必要不可欠だ。
 そこで決定したのが、職業軍人を作る為の士官学校の設立である。士官学校そのものはザフトの創建と共に設立されていたが、それはどちらかというと民間からの志願兵に一通りの軍事訓練を施し、少しでも早く戦場へ送り出す為の機関という、本来の意味での士官学校とは程遠い場所だったらしい。
 そういった事情もあって、これを機に、国防の為の専門的軍事教練を施された士官の育成を行う士官学校の新設が決定したようだ。
 俺にはそこで、専門的軍事教練を受けた上で、士官としてザフトで活躍してほしいのだという。
 ザフトはモビルスーツに乗って戦う"兵士"ではなく、ある程度の部隊指揮の能力を持った"士官"を必要としているらしい。
 教練期間は1年。この期間が長いのか短いのか、軍事に明るくない俺にはよくわからない。
 だが、ザフトに対する俺のもともとのイメージが、個々の能力に絶対的な自信を持ち、前線の兵士に幅広い判断を任せている、というものだっただけに、このメールの内容には驚いた。やはり、独立して一つの国として存在するようになると、国防に関する見解も変わってくるものなのだろうか。
 そんなことをつらつらと思いながら、俺は士官学校への進学手続きの書類を記入して送信した。
 そして返って来たのが筆記試験免除の知らせと寮の入寮手続きだった。
 筆記試験は、俺が持つ工業用モビルスーツ運用資格のおかげで大半が免除され、他にも教練校で手当たり次第とった資格が効力を発揮した。教練校での成績がそのまま持ち上げられる事になり、事実上、全筆記科目免除ということになったのだ。
 これには驚いた。教練校に入れるように手続きしてくれたオーブのトダカさんには本当に感謝の念が尽きない。
 そういえば、プラントに発つ俺を見送りに来てくれた時、トダカさんが言っていた。俺がプラントに渡れるように手助けしてくれた人が別にいる、と。いつか、その人にも直接お礼を言いたい。
 そう思いながら俺はLeafのタブレットPC― Le;Fletに送られてきたこれからのことを指示する書類に目を通した。
 次は入寮手続きだ。
 士官学校は全寮制なので、入学式までに入寮日を指定して入寮しなければならない。
 一番近い入寮日は来週の水曜日。その日を指定して、必要書類全てを送信する。
 送信完了を確認すると、すぐに俺は荷作りに取り掛かった。

 それから数日間を、荷作りや教練校の退寮手続きなどに費やしていると、水曜日はあっという間にやってきた。
 ザフトの士官学校があるのは奇しくも、近づかまいと誓ったディセンベル第三バイパス横の桜並木の先だった。
 絢爛豪華に咲く桜を視界に極力視界に入れない様に俯き、急ぎ足で桜並木を抜ける。
 門の横にある守衛室に顔を出し、警備員に入学生である事を伝え、教練校の寮でプリントアウトした書類を見せた。警備員は一瞬驚いたように書類と俺を見比べると、すぐに笑顔になって中に入れてくれた。
 俺は警備員からもらった地図を見ながら、書類を渡す為に管理棟を目指した。幸いな事に管理棟はすぐに見つかり、書類を係りの人に提出する。そのかわりに、士官学校の規則や寮での規則、訓練科目の概要などのデータが入ったディスクと寮のカードキーが俺に渡された。
 パソコンは学生一人にデスクトップが1台宛がわれるらしい。ありがたく思いながら、俺は寮への道を急いだ。

 そうして俺は寮の部屋にいる。今までの事を思い返しながら荷物の整理をしていたら、ずいぶんと時間が経ってしまった。
 時計を見ると、すでに13時を過ぎている。意外に長く作業をしていた事に驚きつつ、俺は昼食をどうすればいいのか考え始めた。
 部屋には共用の冷蔵庫が備え付けてあるが、当然中身はない。
 先程もらった地図を取り出し、食堂の場所を確認する。
 食堂は開いているのだろうか。
 寮への受け入れが始まっているのだから、食堂もきっと営業しているだろう。していますように。
 そう思いながら、俺はカードキーとタブレットケースを手に取った。


***


 校内の散策や、自主演習の為に業務用宇宙港に出入りする許可の申請など、諸々の手続きをしている内に、時間はどんどん過ぎて行った。
 気付けば、入学式まで丁度1週間を迎えていた。この頃になると、ちらほらと同期の姿が見え始め、士官学校内もにわかに活気づき始めていた。
 そして、ついにと言うべきか、ようやくと言うべきか。俺の同室者もやってきた。
 そいつの名前はレイ・ザ・バレル。
 レイ・ザ・バレルが部屋に入って来た時は、なんというか、そう、身に纏う空気に首を傾げた。
 何かが、違う。プラントはコーディネイターの国だ。だから、目の前にいるレイ・ザ・バレルもコーディネイターであるはずなのだが――
 既視感? 懐かしさ? 切なさ? 申し訳なさ?
 いろいろなものが綯い交ぜになった感覚が俺を襲った。
 それが一体何なのか。レイ・ザ・バレルとこの部屋でのルールを決める為に色々と話している内に気づいた。
 同じ感じがするのだ。地上にいるナチュラルの親友と。
 見た目は勿論、二言三言話しただけでもわかる性格も違うのに、何故か俺は親友とレイ・ザ・バレルの間に共通する何かを感じた。
 その正体はいったい何なのか、皆目見当もつかず、俺は一旦、その件に関しては思考を止めることを決定した。

「それでは、同室で過ごすにあたってのルールはだいたいこんなものでいいか?」
 レイ・ザ・バレルの言葉を、俺は肯定する。
「ああ」
 互いに簡単な自己紹介をした後すぐに行ったのが、この部屋でお互いが快適に過ごす為のルール作りだった。ルールといっても、「互いの私物は触らない」や「洗濯物の当番」なんかの必要最低限でありきたりなものばかりだ。
「だが、本当にいいのか?私の要望ばかり通してしまったが、先にこの部屋を使っていたのは君だろう」
 どうやら俺側からの要望が少ない事が気になるらしい。
 俺に言わせれば、レイ・ザ・バレル側からの要望だって多い訳じゃなかった。むしろ、俺とレイ・ザ・バレルの要望が殆ど合致した為、俺側からの要望が減ったというのが正しい。
「いいよ。お、僕が言おうとしてた事、だいたいバレルさんが言ってくれましたし」
「レイ、と呼び捨ててくれて構わないと先程から言っているだろう。私と君は同期だ。気負わなくてもいい」
 そう言われても、と俺は内心唸る。会って数分もしない人間を呼び捨てるなんて失礼な気がする。何より、レイ・ザ・バレルの纏う雰囲気が無駄に緊張感があるのでつい、口に吐く言葉が丁寧になってしまうのだ。
 ひとしきり考え、俺はレイ・ザ・バレルに提案してみた。
「ならこうしま― あー… こうきめよう。俺と、レイとの間では敬語もなし。フランクに。普通に話す。それでいいか?」
「ああ」
 俺からの提案に、レイは満足そうに頷いた。
 レイは一見、無表情に見えるが、実は感情豊かなのがこの短いやりとりでなんとなくわかった。俺みたいな無表情、というよりはただ単に仏頂面なだけなんだろう。
 話題も一段落着いた所で、俺はレイに提案してみた。
「レイは今日来たばかりだろ? 俺でよければ校内の施設を案内するけど必要か?」
 この士官学校はそこそこ広い。俺も慣れるまでに結構時間がかかった。
「ああ、頼む。俺もこの後に施設の確認をしようと思っていたんだ」
 口調は相変わらずだが、一人称が"私"から"俺"に変わっていた。
 なんだ、レイも緊張してたのか。
 なんだかほっとして和んだ。


***


「へぇ… レイはピアノが弾けるのか」
 校内を案内する道すがら、互いの当たり障りのない話しを交わす。
 ピアノが弾けると言う言葉に、俺はやっぱりと得心した。そんな顔をしてる。
「ああ。手慰め程度だがな。そういうシンは、何か楽器が弾けるのか?」
 レイの手慰めがどのぐらいなのか、今度聞いてみたいと思いながら、俺は質問に答える。
「俺はそういうのさっぱり」
 音楽の成績はいつも可もなく不可もなくのいたって普通のものだった。それでも、音楽を聞いたり歌ったりするのは好きだったが、楽器の演奏には興味が持てなかった。
 一度、ミーアにギターを借りて弾かせてもらったことがあったけどすぐに返した。
 右手と左手を別々に動かすのがかなり難しかった。慣れたら誰でもできると言っていたが、俺が慣れるには当分かかりそうだった。
 ミーアはアレを弾きながら歌うのだから本当に凄い。
 けど、俺のギター演奏を聴いて笑い転げていたのは絶対にゆるさない。いつか絶対に、楽器演奏でミーアを驚かせてみせる。
「あー、でも将棋や囲碁なら少しできる」
 流石に、あまりにも楽器が弾けなさすぎて笑われたことを話すのは恥ずかしかったので、かわりに俺が出来ることに話題をすり替える。
「ショーギ? イゴ?」
 物知りそうなレイの声音に少し不思議そうな気配が混ざる。
 プラントには囲碁や将棋がないのだろうか。
「どっちもじいちゃんから教わったんだ。将棋は、まぁ、チェスみたいなもん?」
 全然違う、というじいちゃんの怒鳴り声が聞こえた気がしたが、それ以外にわかりやすい喩えが思い浮かばなかった。
 ごめん、じいちゃん。
「チェスなら俺も少しできるな。良ければ教えてくれないか?」
 どうやらレイは将棋に興味を持ってくれたらしい。将棋も囲碁もチェスも相手がいなければ成り立たないゲームである。相手ができることは願ってもない事だ。
「いいよ。そのかわり、レイも俺にチェスを教えてくれよ。ついでにピアノも」
「? チェスは別に構わない。簡易チェスボード程度なら持ち込んでも良かったはずだからな。だが、なぜピアノも?」
 うっかり口に出してしまっていた蛇足に、レイが反応した。
 滑ってしまった自分の口を呪いながら、俺は答えた。
「その… 一度友達のギターを貸してもらって弾いたら爆笑されて… 何か楽器が弾けるようになって、絶対に驚かせたいんだ」
 結局言う事になってしまった俺の恥ずかしいエピソードに、レイは目をぱちくりさせた。
 そしてクスリと穏やかな笑みを零した。
「了解した。お前の名誉が回復できるように尽力しよう」
 ククッとお腹を抱えるレイの頭を、俺は思いっきりはたいてやった。


***


 俺が特に入り浸っている図書館とシミュレータールームも案内し終え、案内する場所は残り1ヶ所になった。
 あって当たり前だが、あまりお世話になりたくない、そんな場所だ。
「ほぅ… シンは工業用モビルスーツの運用資格を持っているのか」
 シミュレータールームを出た後はやはり、モビルスーツ関連の話しが話題の中心になる。
「うん。俺は入寮可能日からここにいるけど、今日までずっと図書館とシミュレータールームに入り浸ってた。やっぱ、工業用と軍事用だとシミュレーターも大分違うよな」
 工業用と比べると、軍事用のシミュレーターで出来る事は圧倒的に多い。色々と設定をいじりながら毎日入り浸っている。最近はOSを弄ることもしだしたのだが、備え付けのマニュアルを見ながらなのでなかなか上手くいかない。
「レイも航宙科だよな? 何か特別な勉強でもしてたのか?」
 確か自己紹介の時に、レイも航宙科だと言っていたはずだ。
 航宙科はモビルスーツパイロットを育成するコースだ。モビルスーツパイロットは花形であると同時に、入学の為の難度も高いらしい。俺の知識は教練校でのものが大半なので、出来れば色々と教えてもらいたい。
「…… きょう、だいがモビルスーツパイロットをしていてな。その人から色々と手解きをしてもらったんだ」
 歯切れの悪い言葉に俺は首を傾げた。
「レイには兄弟がいるのか?」
「ああ。兄、が、いた」
 過去形で語られるそれに、俺は目を細めた。
「あ。そろそろ着くぞ」
 強引に話題を変える。
 互いに触れてほしくない部分は沢山ある。ましてや、俺とレイはまだ初めて会ってから1日も経っていない。そんな人間が聞いていい事ではないだろう。
 レイの手を引き、少し歩調を速める。
「もうすぐ夕食だし、急ごう」

 目的地に着くと、俺はレイの手を離した。
「ここが医務室だ。お互い、あんまりお世話になりたくないよな」
 コーディネイターに病気は少ないとはいえ、訓練中に怪我などは付き物らしい。その治療の為の場所として、医務室はあるらしい。
 そして医務室には別の役目として――

「うおっ、危ないな。ん? シンじゃないか」
 俺達の目の前で扉が開き、中から人が現れる。
「こんにちは、リック先生。レイ、この人がこの医務室の主だ」
 既に何度か顔を合わせた事のあるリック先生をレイに紹介する。
 俺はこれから度々医務室に顔を覗かせる用事がある。リック先生とは、その旨を伝えに行った時に親しくなった。
「おお、君がシンの同室の子だね? 私はリック・マウアー。専門は―― 平たく言えばカウンセラーだよ」
 そう、ここの医務室はカウンセラーを常駐させているのだ。
 なんでも、訓練の最中に色々あるらしく精神的な治療を施す事案が偶にあるらしい。士官学校と言う特殊な学校であるが故に、らしい。
「ちょうど良かった。シン、今から君の所に行こうと思っていた所だったんだ」
 リック先生は手に持っている袋を俺に手渡してきた。
「新しい薬だ。今日届いてね。何かあったらすぐに来るんだよ。―― レイ君も」
 そう言って、先生は忙しいのか立ち去っていた。
 その背を見送りながら、レイは俺に尋ねてきた。
「シン、君は、やはり何か病にかかっているのか?」
 "やはり"、とつけて来る辺り、レイも薄々感づいているのだろう。
「気づいてるだろうけど… 俺の顔、表情ないだろ?」
 レイが頷く。ならば、隠していても仕方がない。
「病気なんだ。心のな。俺は普通に笑ったり怒ったりしてるつもりなんだけど、顔面の筋肉が何故か動いてくれないんだ。これは、まぁ、その病気の為の薬」
 俺は袋を示す。
「君は… 病であることを隠さないのか?」
 ミーアから聞いた事がある。コーディネイターの中には、病気にかかる事は不名誉であるという風潮があるのだと。
 病気にかからない様にコーディネイターの遺伝子は調整されている。にも関わらず病気になるなど、コーディネイトが失敗したとしか考えられない。
 ウイルス性だろうが心因性だろうがなんだろうが、白い目でみられるのだという。
「隠してどうなるっていうんだ? 俺の場合は顔っていう隠しようのない場所だ。仮面でもするなら話しは別だろうけど、なんかめんどくさいし。それよりは、最初から病気のこと伝えてた方が楽だろ?」
 そう、隠した所でいつかはバレる。その時に、何故黙っていたとか、色々と問い詰められるより、最初から公言していた方が楽だろう。
「病気も、俺自身― シン・アスカの一部って認識してもらってた方が、少なくとも俺はいい」
 そう言うと、レイは怪訝そうに尋ねて来る。
「何故そう思う?」
 なぜと聞かれても困る。
「なぜって…… 俺の家の家訓? じいちゃんからの受け売りなんだ。コーディネイト技術のおかげで解放されたけど、俺の家は遺伝性の病気を抱える血筋だったから」
 豪快に笑っていたじいちゃんの事を思い出す。
 いつも元気で、病気とは無縁そうに見えるじいちゃんの体には治しようのない病魔が巣食っていた。それすらも自分の一部と豪語出来るじいちゃんは本当に強い人だったのだと思う。
「…… そうか」
 レイも何か思う所があるのだろう。複雑そうな顔をしている。
「気になるか?」
「いや、気にしない。病気も含めて、お前自身なのだろう?」
 俺の問いに、レイは即答してくれた。
 まっすぐに俺を見て来る空色の瞳に、思わず俺は俯いた。
「…… ありがとう」
 俺が出会う人はどうして、こんなにも優しくて良い人ばかりなのだろうか。
 喜びで溺れそうだ。


***


 就寝時間――

 あの後、食堂で食事をとると、俺達は早々に部屋に戻った。交代でシャワーを浴び、早々に床に着く。
 隣のベットからレイの気配を感じる。
 誰かの傍で眠るのは久々だった。
 そのせいか、なかなか寝付けない。どうやら自分が思っている以上に、緊張も高揚もしているようだ。
 そういえば、と思いだす。
 ミーアにザフトの士官学校に入る事を伝えていなかった。
 あの日― ユ二ウス条約締結決定のニュースを一緒に見て以来、ミーアには会っていない。
 ベッドサイドテーブルに手を伸ばし、Leafの携帯を手に取る。

 "ザフトの士官学校に入った。休日には歌を聞きに行けそうだけど、それもまちまちになりそう"

 用件を入力し終え、俺はメールを送信しようとした。だが、何かが引っ掛かる。
 俺はもう一度文面に目を通す。
「……」
 目を瞬かせ、俺は文章を追加する。

 "     ごめん"

 今度こそ、送信ボタンを押す。次に会った時が怖い気がしたが、そこはスルーしておく。
 送信を確認した後、ベッドサイドテーブルの引き出しからイヤホンを取り出すと、Leafの携帯と繋ぐ。
 イヤホンを耳に装着し、音楽を再生する。

 流れて来る優しい調べ。
 ミーアの歌。

 俺は枕の下からマユの携帯を取り出すと、音を立てない様にして開く。
 待受画面では、相変わらず僕達が楽しそうに笑っている。

「父さん、母さん、マユ――」

 僕、頑張るから。
 絶対に、戦う力を手に入れて見せるから。
 だから見てて。

 心の中で呟く。

 "何を" と問う内なる声は聞こえないフリをした。


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[32070] Graduale - 昇階唱 Ⅵ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/18 15:46
Graduale - 昇階唱 Ⅵ

 レイとの出会いから数日間。
 俺達二人は図書館やモビルスーツシミュレーターに入り浸りながら時間を過ごした。
 レイは頭が良いらしく、俺だけでは全く捗っていなかった軍事関係で必要とされる知識を色々教えてもらった。
 けれど、黒衣の独立宣言全文、プラント独立大憲章、忠誠宣誓、プラントにおける軍事関連の法律、ユ二ウス条約や他、地球上における捕虜や宇宙船舶監査の際のなどの諸々の慣習や条約、取り決めをすべて頭に叩き込めと言われた時は目眩がした。
 俺には遺伝性の病気を克服する為に、体力などの身体能力を向上させるコーディネイトを施されているが、知的方面のコーディネイトは全く施されていない。知能に関する能力はナチュラルと変わらないのだ。
 そうレイに言うと、あいつは真顔でのたまった。
「大丈夫だ。お前になら出来そうな気がする」
 俺は見逃さなかった。レイの肩が少し震え、口角が僅かに上がったのを。
 おのれ…… こいつ、からかってるな。そんなに俺がモビルスーツシミュレーターでフルボッコにしたことを根に持ってるのか?根に持ってるんだろうな、こんちくしょう。涼しい顔して執念深い性根をお持ちなようで。
「わ、わかった。覚えてやろうじゃないか。その、いんでぃぺんでんす?マグま・カルらとか色々と」
「the Magna Carta of Independence だ」
 売り言葉に買い言葉とはまさにこれだろう。かくして、俺とレイの勉強漬けの日々が始まった。
 頭が沸騰しそうになるまで図書館に籠り、独立大憲章や忠誠宣誓は勿論、色んな条約の条文やら実例やらを丸暗記し、互いに間違っている所を指摘し合った。
 どちらが先に折れるか、意地の張り合いになっていたのだと思う。
 そうして図書館やモビルスーツシミュレーターにとぐだぐだしていたら、気づけば士官学校入学式の当日になっていた。


***


「なんかレイが来てから、時間が過ぎるのが早くなった気がする…… スイス連邦」
 入学式が行われる大講堂に向かう道すがら、俺とレイは他愛のない会話を交わす。
 その中に、覚えたばかりの事を織り交ぜる。今朝、Le;Fletのニュース配信アプリで見た記事の中にあった気になる単語の一つだ。すぐに色々調べて覚え込んだ。
「奇遇だな。俺もお前に出会ってから時間が流れるのが異様に早くなった気がしていたところだ。ヨーロッパの永世中立国。再構築戦争に参戦していない国の一つ」
俺の会話に返事しつつ、レイはさらりと返答して来る。
「ついでにP.L.A.N.T.に所属しない、プラント群"ヘルヴェティア"の理事国だよな」
「正式には、スイス連邦ヘルヴェティア州だ。
 多くの理事国が自国の建造したプラントとの溝を深め、対立する中、スイス連邦は地上の自国と全く変わらぬ法の運用をヘルヴェティアに行い、権利の保障や義務の負担を課した。
 その為、他プラントで起こった、プラント議会と理事国が主催するプラント運営議会との対立が起きず、黒衣の独立宣言にも賛同しなかった。むしろ、我々はスイス連邦国民である、という宣言を行い、先の大戦では地上のスイス連邦同様不参加、静観を貫いた。
 地上と宇宙という距離に隔てられながらも、確かな絆が結ばれた、ある意味、理想的なプラントと理事国の関係を築いているプラントの一つだな」
 間髪入れず、レイは俺の拙い知識を補足する。博学というか、本当にレイは色んな事を知っていると思う。
「でも、反面、あそこってすっごく物騒な所だよな?地上でも宇宙でも国民皆兵制で徴兵制があるんだろ?」
 調べた時、真っ先に出てきた項目を反芻する。
 国民皆兵制― つまり、あのプラントに住んでいる人間全てが兵士という事だ。読んだ記事には確か、買い物にも自動小銃を持って行くと書いてあって驚いた。
「ああ。それに目が行きがちだが、それ以上に脅威なのは金融関係だな。
 知っているか?ヘルヴェティア・ワンにはスイスでも著名な銀行の支店が複数あり、地上と変わらぬサービスを提供している。
 プラントの有力議員の中には、ヘルヴェティアに支店を出しているスイスの銀行で蓄財を行っているものも多くいるらしい」
 俺の付け焼刃な知識は見事に、レイに返り討ちされた。そう言えば、国民皆兵制の項目の近くに、それよりも大きく金融に関することが取り上げてあった気がする。
「知ってる。預金してるのが独裁者だろうと犯罪者だろうと、罪がきちんと立証されないと、情報を開示しないって奴だろ?」
 スイスの銀行は、その長い歴史も相俟って多大な信頼を世界中から得ている。
 特に有名なのはその商品の一つであるプライベートバンクだろう。
 スイスの厳格な銀行法に保証される高い守秘性と匿名性は余程の事がない限り預金者の個人情報を守る。たとえ、預金者が世間一般的には悪人に分類される人間であろうとも。
「ああ。加えて、スイス連邦同様、ヘルヴェティアそのものが高度な軍事力を持っているため、迂闊に手を出せば酷い事になる。
 それに、あそこには地上から派遣されてきた数多くの国際機関の支部も存在する。そんな所に手を出せば世界中から孤立する」
 地上でも多くの国際機関の本部やオフィスを抱えるスイスは、宇宙においても変わらない。多数の国際機関の宇宙支部を抱え、独自の存在感をプラントに示している。
「手を出せば火傷は酷く、武力で支配下に置いてもメリットはない。宇宙にあろうとも、スイス連邦はスイス連邦ってことか」
「ああ。…… ヘルヴェティア諸条約」
 俺が短く纏めると、レイが同意した。
 そのかわりに、今度は俺がレイに問題を出される。
「まだまだ知らない事が多いなぁ… かつて存在したジュネーヴ諸条約を宇宙圏でも適用するための条約群。締結はC.E.19年8月12日」
 ヘルヴェティアでは、宇宙に関する多くの条約が締結された場所でもある。その中でも、ヘルヴェティア諸条約はとても有名だ。
 ヘルヴェティア諸条約は、再構築戦争以前に存在したジュネーヴ諸条約と呼ばれるものを、戦後に生存圏を宇宙に広げた人類の為に改定したものだ。
 内容は一言で括れば戦争犠牲者と文民― 民間人の保護である。
 第一条約は傷病者保護条約。戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関するもの。
 第二条約は難船者保護条約。海上及び宇宙空間にある軍隊の傷者、病者及び難船者の状態の改善に関するもの。
 第三条約は捕虜条約。捕虜の待遇に関するもの。
 第四条約は文民条約。戦時における文民の保護に関するもの。
 以上のC.E.19年8月12日に結ばれた4つの条約をまとめて、ヘルヴェティア諸条約という。C.E.43年には追加議定書による発展・補完も行われている。
 地上では多くの国々が一応批准していたが、プラントはどうなのだろうか?
「ヘルヴェティア諸条約には、プラントも批准してたっけ?」
 俺の問いにレイは首を横に振った。
「いや、していない。だが、一個の独立国となった手前、批准しないのもどうかという意見も評議会の中にはあるらしい」
 その答えに俺は肩を落とした。
 でも、批准への意見があるということは少なくとも、話し合いはされているということだろう。
 俺の様な子供を俺自身が生み出す覚悟をしているとはいえ、やはり、俺のせいで傷つく人は少ない方が良い。民間人や捕虜への対応の方針は明確にしてもらいたい所だ。
「民間人保護や捕虜の扱いに関する条約もその中にあるし、批准してくれればいいんだけど…… あ」
 そうこうする間に、入学式の会場である大講堂についていた。
 受付には既に多くの人が並んでいる。
「やっぱ、レイと一緒にいると時間が早く過ぎるな」
 部屋から大講堂までそこそこの距離があるのにそれを全く感じなかった。
「そうだな。俺もここまで話していて時間を感じない相手は初めてだ。… 東アジア共和国」
 俺達は会話を続けながら、受付の列に並んだ。
 俺にとっても、一緒にいて時間を感じない、むしろ楽しいと思える同世代の友達は日本の幼馴染を除けばレイが初めてだ。
 レイもそう思ってくれているようで嬉しかった。
「あ。それなら自信を持って答えられる」
 だからこそ、レイに知ってもらいたい。俺が生まれた国の事を。
 そしてもっと色々教えてもらいたい。レイが育ったプラントのことを。


***


 士官学校の入学式は、地上の学校の入学式と殆ど変らなかった。
 ただ、俺達が一期生と言う事もあって、軍の偉い人達が沢山来ていることだけはなんとなく雰囲気でわかった。
 特に、現プラント評議会議長ギルバート・デュランダルって人の訓辞は印象に残っている。

「我々は血のヴァレンタインの悲劇を忘れてはならない。しかし、それと同時に、我々が報復として行ったニュートロンジャマー散布が如何なる悲劇を地上に齎したかも思い起こして欲しい。
 我々コーディネイターは優れた知恵と身体能力を与えられ世に生み出された。その叡智は他者を傷つけるものではなく、ナチュラルと手を取り合い、人類全体を新たなる時代へと導く為にこそ使われるべきだ。
 今、プラントは新たなる歴史を刻み始めた。
 ザフトもまた、変わらなければならない。
 このディセンベル士官学校は、プラントという国家の為の、軍事のスペシャリストを育成する事を目的とした学校だ。
 その目的を達成する為に、多くの方々の協力を得て最高の環境を用意した自負している。
 諸君、心して聞いて欲しい。
 何故、この学校が工業用プラントであるアーモリーのいずれかの中に作られなかったのか。
 見たまえ、この学校の周囲を。人々が行き交い、笑顔を交わし、穏やかな日々を営む姿を。
 これが諸君が守るべきものだ。
 この穏やかな日々を守る為に我々も諸君も存在する。
 自らの守るべき者を常にその眼に入れ、その胸に高潔なる志の焔を灯し、諸君等には勉学に励んで欲しい。

 プラントのために」

 ふわふわとした長い黒髪に琥珀色の瞳をした年若い男だった。
 時々、周囲にいるザフト軍人達が驚いたような雰囲気をしていた時があったから、きっと、訓辞の中には今までのザフトの中にはない新しい考えもあったのかもしれない。
 けれども、俺にとってデュランダル議長の訓辞の内容は共感できるものだった。
 穏やかで戦争のない日々の為に学ぶ。いつかできる大切なものとの日々を守る力を得る。
 デュランダル議長の訓辞を聞いて、俺はその決意を新たにした。

 新入生代表の挨拶はレイがしていた。
 名前が呼ばれた時は驚いたけど、レイなら代表になってもおかしくないと思った。
 壇上に立つレイの姿は堂々として落ち着いていた。
 あそこにいるのが俺の同室で、友達なのだと思うとなんだか嬉しかった。


***


 入学式が終わると、それぞれの専攻に分かれてガイダンスを受けた。
 俺とレイは勿論航宙科―― モビルスーツパイロットを養成する科のガイダンスを受ける。
 勉強の内容や今後暫くの日程などを説明された。
 明日は一日かけて身体検査をするようだ。明後日は身体能力検査をするらしい。
 午後からは第三講堂で教科書の受け渡しが行われるという連絡を最後に、航宙科のガイダンスは終わった。
 俺は隣にいるレイに話しかける。
「昼食食べに行かないか?」
「ああ」

 食堂に向かう道中、食事ということもあって、会話の内容は食生活に関する事だった。
 俺はディセンベル生活教練校に通っていた頃は食堂が無料ということもあり、節約の為に利用していた。
 しかし、味の方はお世辞にも美味しいと言える物ではなかった。士官学校の食堂も同様である。
 教練校の食堂は無料だったが、士官学校の食堂は無料ではない。
 俺の舌の為にも、節約の為にも、できることならば自炊したい。
 その話をした後、なかなかきっかけが掴めず、尋ねられなかったことをレイにきいてみることにした。 プラントにずっといるレイならば、安く生鮮食品を売っている店を知っているのではないか、と。
 すると、レイは複雑そうに眉を寄せた。
「言いにくい事なのだが……」
 レイによると、プラントは食料の大半を地上からの輸入に頼っているという性質上、食品類の物価は総じて高いのだという。その上、数も限られているので、生鮮食品を含めた食料品は基本的に配給制になっているらしい。
 個人運営のレストランなど存在せず、外食産業はプラント政府の直営になっているらしい。
 安価な生鮮食品を販売している店もあるにはあるが、売っているのは基本的に配給にもレストランにも回せない粗悪品ばかり。
「それに、ここの食堂の料理のレベルは、プラントの未来を担う士官学生の為の学校というのもあって、味も良く、美味しいと俺は思うが……」
 あの、煮込みすぎてべちゃべちゃになった葉野菜や、揚げ際を見誤った脂っこい揚げ物や、硬すぎるパンが美味しい?
 本気で言っているのかと、唖然として俺はレイを見る。
 しかし、その顔は至って普通で、レイが俺をからかっている訳ではない事をまざまざと突き付ける。
 思い返してみれば、この1週間一緒に食事をとった時、レイと食堂の食事の味に関する会話はしていなかった。俺自身が目の前にある食事を押し込む事で精一杯だったこともあるだろう。それにしても、ない。あまりにもひどい。
 驚きのあまりに立ち止まってしまった俺を置いて、レイはすたすたと食堂の発券機の前に並ぶ。
「シン?」
 着いて来ない俺に気づいたのか、不思議そうにレイが振り返る。
 俺は慌ててレイの傍に行き、昼食の券を購入する。
 この数週間全品食べ比べて、味がマシだったメニューの一つ。
 ビーフシチューセットだ。
「よくそれを食べているが飽きないのか?」
 この所、俺はシチュー、ビーフシチュー、オートミールをローテーションで食べている。
 飽きていないはずがない。
 でも、食べるなら少しでも美味しいほうがいい。
「好きなんだよ。これが」
 そう言って、俺はレイの手の中にある半券を見た。
 フィッシュ&チップスセット。
 うん。
 粗悪品でも食べられないわけではない。だから店頭に並ぶのだろう。
 レイに生鮮食品を売っているお店を教えてもらおう。
 そして、レイに俺の料理を食べてもらうんだ。
 うなれ。俺の家事スキル。
 プラントの事を知りたいと思ったけど、こんなことは知りたくなかった。


***


「プラントの生鮮食品、なんとかならないのかなぁ……」
 ビーフシチューセットを完食し、俺はポツリと呟いた。
 レイは優雅に食事を進めている。しかし、食べているのはフィッシュ&チップス。脂っこくないのだろうか。
「輸入に頼っている食品が自国で賄えるだけ生産できるようになれば話は別だろうが…… 当面は無理だろうな」
 レイの言葉に俺は思い出した。
 血のバレンタイン――
 標的になったユニウス・セブンは農業用プラントだった。
「先々代と先代の議長―― シーゲル・クライン議長とパトリック・ザラ議長は、農業用プラントの再建よりも、兵力に増強に力を入れていた。それがデュランダル議長が仰っていた工業用プラント郡"アーモリー(Armory)"だ」
 プラントのような大規模な建造物は一朝一夕でできるものではない。長期に渡る計画が必要だ。
 けれど、確か、今朝見たニュースでは――
「でもアーモリーはトゥエンティまで作る計画を変更して、イレブンからを大規模な農業用プラントに転用するんだろ?」
 部屋を出る直前、Le;Fletで読んでいた記事にはそう書いてあった。
「ああ。工業用とはいえ、目的は殆ど軍事用だ。ユニウス条約との兼ね合いもある。10基目まではもはや変更が効かない程に工程が進んでいたからな」
「11基目、12基目が外枠状態までだったからこそできる方向転換だっけ?」
 プラントの現状を考えると、農業用プラントの増設は急務であり、利に適っている。しかし、外枠状態だったとはいえ、当初の目的とは正反対への方向転換にかかる経費は相当なものなのではないだろうか。かなりの反対もあったはずだ。
 俺はそれを率直に言うと、レイは頷いた。
「デュランダル議長だからこそ出来る方向転換だ」
 誇らしげに言うレイに、俺は先程の議長の姿と訓辞の内容を思い出す。
 柔和で優しそうな人だった。
 レイのどこか嬉しそうな顔に、デュランダル議長は支持される良い政治家なのかな、とぼんやり思った。


***


 食事を終えると俺達は教科書の引渡し場所へ向かった。
 航宙科は確か、第三講堂だったはずだ。
 混雑する前に受け取りたいと、俺達は道を急いだ。

 案の定、第三講堂に続く道は混雑していた。ざわつく人々は一応、列の体を成している。
 俺は最後尾の場所取りをレイに任せると、どのくらい待つことになりそうか前の様子を見に行った。
 一番前の様子は思っていたほど騒がしくなかった。とても静かなもので粛々と第三講堂へと入っていく。俺はこっそり第三講堂の中を覗き込んだ。
「?」
 首を傾げる。
 みんな、教官らしき人物から小さな電子記憶媒体とそれを再生するLe;Fletのような電子デバイスを受け取っているだけなのだ。
 俺が知る教科書―― 紙媒体のものもあるにはあるのだが、その数は明らかに少ない。
 そして、せっかくある紙媒体の教科書を選ぶ人も、俺が見た限りはいなかった。

「レイ、レイ」
 俺はレイに確保してもらった場所に戻り、先程見た事を報告する。
 俺の報告に、レイの方が不思議そうな顔をした。
 プラントでは紙製の本が貴重なのは知っていたが、どうやら紙そのものが貴重品らしい。
 俺が見た小型電子記憶媒体の教科書は無料で配布のもので、傍にあった紙製の教科書にも同様の内容が書かれているが、有料でそこそこ高値のもののようだ。
「プラントの教育は基本的に、電子デバイスの教科書を用いている。教練校では――……」
 レイが押し黙った。何か思い出したらしい。
「あそこは基本的に、地上から来た人間しか入校できない。
 プラントに不慣れなコーディネイターの為の措置がいくつか採られていたはずだ。紙と電子、授業によって違ってはいなかったか?」
 レイの言葉に俺は教練校での授業を思い返す。
「そういえば、紙の教科書と電子教科書を使った授業が半々だった様な……」
 むしろ、俺にとっては普通である紙の教科書を使った授業の方が多かった気がする。だからこそ、違和感なく教練校の授業に馴染めたのだ。
 電子教科書での授業は物珍しさも相俟ってとても興味深く受けていたはずだ。
「どうする? シン」
 はっ、と我に返る。気がつけば俺達の番が来ていたらしい。
 紙製の教科書の方を見る。そこそこの値段。小型電子記憶媒体が無料なのを考えると、割高だ。
 しかし――
 俺はポケットからカードを取り出す。
「両方ください」
 お金もかかる上に大荷物にもなるが、不慣れなものを使うよりはいいだろう。併用するのも悪くないはずだ。
 俺に付き合ってくれたのか、レイも紙製と電子、両方を受け取っていた。
 ついでに販売していた紙製のノートも大量購入しておいた。
 プラスチックの頑丈そうな袋に入れられた教科書とノートはかなりの重量だった。
 物珍しげに俺達を見る教官や同期の視線に顔を見合わせる。互いに苦笑すると、俺達は一路、部屋へと戻った。


***


「なぁ、レイはこの後何かあるのか?」
 部屋に戻り、教科書を整理し終えると俺はレイに尋ねた。この後は自由時間だ。
「ああ。俺は――…… 家族とすごす為に合流することになっている」
 その言葉に俺はほっと胸を撫で下ろした。
「俺も業務用宇宙港で顔合わせがあるんだ」
「顔合わせ?」
 いぶかしむレイに俺は頷いた。
「ああ。ガイダンスで夏からモビルスーツで自主演習したりするって言ってただろ? 俺はもう、工業用モビルスーツの運用資格を持ってるから、前倒しでやらせてもらえることになったんだ。 ほら、デブリ回収や外壁修理のやつ。そこに行って来る」
「なるほど。羨ましい話だな。俺達モビルスーツパイロットを目指す航宙科の人間の、モビルスーツの搭乗時間は多くて困ることはない」
「だろ?」
 納得した面持ちのレイに俺は頼んだ。
「この後すぐに出ないと間に合わないんだ。だから、俺のアドレスにメールしておいてくれないか? ほら。昼食前に言ってた生鮮食品を売ってる店」
 俺は携帯を取り出し、レイに見せる。
「わかった。車での移動時間もある。その時に送る」
「さんきゅ! レイ」
 これでまずいメシから解放される。思い余って、俺はレイに抱きつく。
 すぐに離れると、俺は入り口へと駆ける。
 ボタンを押し、扉をスライドさせると俺はレイに声をかける。
「それじゃあな、レイ。家族と良い時間を」
 その言葉が言い終わるのと同時に扉は閉まった。
 上機嫌で俺は業務用宇宙港へと向かった。



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[32070] Graduale - 昇階唱 Ⅶ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/18 15:48
Graduale - 昇階唱 Ⅶ


 入学式翌日。
 少し早めに起きて、俺は冷蔵庫を覗き込む。
 昨日まではバランス栄養食品だとかミネラルウォーターしか入っていなかったそこには、たくさんの野菜と少しの肉や魚が収まっていた。
 込み上げた何かに、俺は息を詰め、静かに吐き出しす。
 使う物をいくつか取り出し、まな板に載せる。
 料理のレパートリーはそんなにないが、基本だけは叩きこまれている。材料の関係で、流石に日本風の朝食は無理だろうけど、パンをメインにした朝食ならできるはず。
 うし、と一息気合を入れて、俺は食材に手をつけた。

 初めて一人で作った朝食の内容は、パンとオニオンスープ、焼いたベーコンと、ニンジンやブロッコリーの温野菜という簡素なものだった。量は勿論多めである。
 丁度できた辺りでレイも起きてきたので、ついでに一緒に食事をとった。表情は相変わらずだったけど、食事をする手が食堂の時よりも早かったのを俺は見逃さなかった。
 レシピはインターネットにある。もっとレパートリーを増やそうと俺は決意を新たにした。


***


 朝食の最後にコーヒーを飲んで一息入れた後、俺達は身体検査に向かった。
 今日は一日かけて身体検査が行われる。
 午前中は身長や体重、座高や視力、聴力や血圧などの検査が、午後からはCTスキャンや胸部X線検査、血液検査やナノマシン薬物検査などが行われる予定だ。
 日本で言う人間ドックみたいなものなのだろう。
 そういえば父さんがバリウムを飲むのが辛いって言ってたっけ。バリウムってなんだろう?

 制服で身体検査を受けるわけにもいかないので、更衣室で運動着に着替える。
 ちらりと着替えるレイの体を見れば、しっかりとした体格が目に入る。
「前から思ってたけど、レイって何か体を鍛えてたりするのか?良い筋肉だよな」
 同室ということもあって、レイの体を見る機会は何度かあった。
 着痩せするタイプらしく、服の下には均整のとれたいい体が存在していた。顔がキレイなタイプだった為に、はじめて見た時はかなり意外に思った。
「ああ。幼い頃は体があまり丈夫ではなくてな。ある程度の運動はしていた」
 ある程度、か…… けれど、あの筋肉の付き具合からして、随分鍛えている事が伺える。
「あ。それ、俺も同じ。俺もちっちゃい頃は体が丈夫でなくてさ」
 レイも俺と同じような理由で体を鍛えていた事になんだか親近感を覚えた。まぁ、俺の場合は厳密に言うと違うのだが。
「鍛えているのか? それにしては――」
 レイの視線が上下し、俺の体を見る。
「見るな。言うな。俺、なんか筋肉付きにくい体質みたいなんだ……」
 自分の体の貧相さは自覚している。肌の白さも相俟ってか、細い体が余計に細く見えるのだ。それに、最近戻っては来ているものの、体重も以前よりは大分落ちている。諸々の要因があるとはいえ、俺の体格が貧相である事実は少しも変わらない。
 しげしげと、俺と自分の体を見比べるレイの腹に軽くパンチを入れる。
「もう着替えただろ。さっさといくぞ」

 士官学生全体が動いているということもあって、どの検査もかなり込んでいた。
 身長の測定に続く長蛇の列を見た時は、これで本当に検査が1日で終わるのかと思ったが、なんとか午前中の工程は終わった。
 中庭でレイと一緒に昼食をとる。
 作ったのはホットドッグとサンドイッチ、ついでによく磨いたリンゴ(皮有り)も持ってきた。俺達は育ち盛りなので、とりあえず量と栄養が欲しかった。
 ホットドッグとサンドイッチには結構な量の野菜を入れ、量と栄養バランスをとる。
 肉が欲しい所だが、生肉や肉類の加工食品は全体的に高いのだ。昨日の俺の手持ちでは、薄切りベーコンを買うので精一杯だった。
 それにしても、上手くやりくりしないと給料日前に食費だけで生活費が底を尽きそうである。
 俺の家のメインバンク―― 葦原銀行の預金に手をつけなければならない日が来るかもしれない。
 いや、あの預金は使わない。銀行の預金は一気に増えたが、あそこのお金は何があっても使わない。絶対にだ。
 幸いな事に、官学校はプラントの国防を担うザフトという軍の下部組織にあたる。そのため、学費も寮費も、未来の国防担う若者の育成の為の諸経費になる為、士官学生は支払わなくてよいのである。プラント政府が支払ってくれるのだ。しかもお給料まで貰える。
 俺は今、国の援助で勉強して、お給料まで貰っている。その分、しっかりと成果を残さなければならない。
 昨日始まったばかりの外装修理やデブリ回収の自主演習もその勉強の一環である。ガイダンスによると、通常の士官学生は夏までに工業用モビルスーツの運用資格を取得し、夏から自主演習とされるプラントの外装修理やデブリ回収の任に着く。
 でも、俺は既に工業用モビルスーツの運用資格を持っている。他の士官学生より早く、この自主演習に取り組む事を許可されたのだ。
 レイも、工業用モビルスーツの運用資格は持っていない。このアドバンテージは決して手放さない。誰にも、追いつかせない。実技は絶対に。
 ふと、昨日の大失敗を思い出して肩を落とす。張り切り過ぎ、踏み込み過ぎて機体が4回転半。すっごく怒られた。道のりは遠い。
 そんな事を考えながら例の如く、レイと互いに問題を出し合いながら昼食を食べた。
 俺がぼんやりしてる時に、レイが俺のサンドイッチを1つ誘拐していった。
 ツナ味……
 気に入ったのなら、欲しいって言ってくれればいいのに。
 やるかやらないかは別だけどな。


***


「はぁ…… 慣れないなぁ……」
 そう言いながら、俺は注射された左腕をさすった。
 体中がざわざわして何処か落ち着かない。
 それも当然だろう。今、俺の中には沢山のナノマシンが入って、体内の検査をしているのだ。
「こればかりは慣れろとしか言えないな」
 レイには既に経験があるのだろう。涼しい顔をしている。
 なんでこんな検査をしているのか不思議に思っていると、レイが教えてくれた。
 このナノマシンによる体内検査は、連合からのスパイ対策に行われているらしい。
 連合の薬物に関する技術はプラントの先を行っている。その技術を用いて、特殊な薬物でナチュラルの身体能力を強化しているのは有名な話しだ。
 士官学校開設を聞き付け、コーディネイターに偽装し、身体検査当日に薬物反応が出ない様に調整された強化人間がスパイとして紛れ込んでいる可能性もある。
 しかし、強化人間は長期間特殊な薬物を摂取しないと、身体機能や精神に異常を来してしまうらしい。身体検査が終了するとすぐに、薬物を摂取しなければ異常が表面化し、スパイとしての任務が果たせなくなるのだ。
 その為、体内の成分の動向を調べるナノマシンがある程度の期間、人体に注入されるのだ。
 その間ナノマシンは体内の成分情報を収集する。ナノマシン回収後の分析で、特殊な薬物が体内にあったという記録が出てきた場合は拘束となる訳だ。
「回収は12日だ。その時に特殊な機械を肌に当て、ナノマシンを一カ所に集め、献血の要領で回収する」
「ふーん…」
 めんどくさいし、気持ち悪い。このざわざわした感じが一週間以上も続くかと思うとげんなりした。
 俺は肩を落とした。
「身体検査、これで全部終わりだよな?」
「ああ。夕食を作るにはいい時間だ」
 レイ肯定の言葉に安堵の息を零す。
 一日中他人に体を色々されて本当に疲れた。
 さりげなくされた夕食の催促に、冷蔵庫の中身を反芻する。
 今日はバイトもないし、少し豪華なものを作ろうかな。レシピを調べてみよう。ああ、でも、節約……
 そうつらつら考えながら俺達は寮に向かう。道中、俺が思っていた以上に体は疲れていたのか、何度か人にぶつかってしまった。
 なんか、ふんだりけったりだ。料理を作って、気を紛らわせよう。


***


 身体検査、その翌日の身体能力検査から数日経った。
 最近、俺の周りで妙な事が起きるようになっていた。
 よく人とぶつかるのだ。なぜか。
 最初は俺の不注意かと思ったが、よくよくぶつかった人の顔を見れば、何度か同じ人物とぶつかっている。この広い学校の中で同じ人物と何度も鉢合わせるなんてことは、現実にあり得るのだろうか。あまり高い確率で起きる事とは思えない。
 それに、ナノマシンのざわざわした感じは何日経っても慣れない。
 あと2日の我慢だと自分に言い聞かせてはいるものの、この自己暗示もそろそろ限界だ。早く今日が終わって明日になって、明日が終わって明後日になれば良い。
 けれど、いくら俺がナノマシンのせいで憂鬱になっていても、本格的に始まった講義は受けなければならない。
 次のプログラミングの講義で今日のカリキュラムは終わる。
 その後は、自主演習に行く時間になるまでレイとシミュレーターで対戦する予定だ。
 この後の楽しい事に無理矢理想いを馳せながら、俺はレイと一緒にパソコンのあるC301教室へと向かった。

 C301教室に着くと、授業があるということもあって、既にそこそこ人が来ている。
 大きな机に4台づつ設置されたデスクトップパソコンが5列、整然と並ぶ様はなかなか見応えがあった。
「この授業、座席指定だっけ?」
 人で埋まり始めた教室に、俺はレイに尋ねた。
「いや、この授業は自由だったはずだ」
 その言葉を聞いて、俺は教官の講義が聞きやすそうな席はどの辺りなのか教室を見渡した。
「えーと…」
 しかし、なかなか良さそうな位置が見つからない。
「急がないと人が増えるぞ」
 はっと気付けば、人がだいぶ増えている。
 俺はレイの手を引いて、慌てて適当に選んだ席に座った。
「あ」
 席に着いたあと、俺は気付いた。
 しくじった。隣が女の子だ。
 しかも、この紅い特徴的な髪には見覚えがある。
 廊下でぶつかったことがある子の一人だ。この子とは確か、二度程ぶつかったていたはずだ。
 一度目は一昨日、廊下を歩いていると何故かぶつかった。二度目は昨日、廊下の角で鉢合わせて危うくお互い転ぶ所だった。
 本人は覚えていないだろうが、俺は気まずい。
 廊下側のレイに席を変わってもらおうかと思ったが、既に講義は始まっている。交代は不可能だ。
 しかたないと俺は諦め、講義の内容に没頭した。

 今日はプログラミング授業1時目ということもあり、もっとも基本的なプログラム"Hello world."を作る事になった。
 プログラミングは教練校にいた時の授業やモビルスーツシュミレーターのOSを自分用に改造したりする際に勉強している。きちんと講義を受けていれば、少なくともおいて行かれることはないだろう。
 "Hello world."を手早く完成させると、ちらりとレイの方を見た。
 あ、こいつ、課題終わらせてシュミレーターのOS弄ってる。
 涼しい顔をして堂々と行われているサボりに、俺は軽く敬意を抱く。次の休み時間は、モビルスーツシュミレーターで一戦交える事になっている。レイに勝ち越しているのもあって、負けたくはなかった。
 俺もレイに習って、OSを弄ろう。
 こっそり鞄から大容量の小型メモリーを取り出し、パソコンに接続する。
 俺のOSの目下の目的は、射撃性能と回避性能のアップ。スパゲッティみたいになってるOSを一旦紐解き、整理していく作業はなかなか楽しい。

「おねぇちゃん、そこ違うよ」
「えぇ!?」

 隣から小声の会話が聞こえてきた。
 どうやら隣の子とその隣は姉妹らしい。
 隣の子は慌ただしく電子教科書とディスプレイを並べ、見比べている。
 だが、間に合うだろうか。
 そろそろ――

「そろそろ作ったものを提出してもらうぞ」

 やっぱり。
 教官からの指示が全体に告げられる。
 俺は改造したOSを保存すると、サボりの証拠を隠滅し、作ったプログラムを送信する。
 これで俺は大丈夫だ。

「ああ、もう!なんでエラーになるのよ!!」
「おねぇちゃん、落ち着いて!!」

 隣の子はまだ間違いを見つけられていないらしい。
 困り果てた妹らしき少女の声に、俺は隣のディスプレイを覗き込む。
「こことここ、スペルミス。あと、この辺り、構文そのものがまちがってる」
 思わずディスプレイを指差し、口に出してしまう。
 隣の子は驚いた色をそのアメジストの様に濃い紫色をした瞳にのせて俺を見て来る。
 時間は残り少ない。
「貸して」
 キーボードを引っ張り、素早く間違いを修正する。
「これで大丈夫だ。送信はできるだろ?」
「え? あ、うん」
 頷くのを見て、俺はキーボードを返した。
「あ、ありがとう」
「…… どういたしまして」
 キーボードに手を置き、パソコンに向き合ったのを見届けると、俺も机に向き直り、自分の教科書をまとめて鞄の中に入れる。
「シン。送信が終わった者から帰って良いそうだ」
 そう言ったレイも既に教科書をまとめて、帰る準備を終えていた。
「わかった」
 俺の言葉にレイが頷き、立ち上がる。
 シュミレータールームへ向かうレイの後に続こうと俺も立ち上がった。
「あ!」
 横から聞こえてきた声に、俺は隣を見る。
 どうやら無事に送信を終えたらしい。しかし、隣の子は何故か俺の方を向いている。
 どうしたのだろうか、と俺は首を傾げる。
 隣の子は何か言いたげにしているが、なかなか切り出してこない。
 このままではレイに置いて行かれる。困った俺は、とりあえず思った事を告げてレイの後を追うことにした。
「あんまり妹を困らせるなよ」
「え?」
 俺は鞄を持ち上げ、その場を後にした。


***


 先に行っていたレイになんとか追い付き、俺は安堵の息を零した。
「遅かったな、シン。どうかしたのか?」
 少し遅れた俺を気にして、レイが声をかけてくる。
「いや、うん…… なんか最近、よく人とぶつかったりしてさ……」
 首を横に振り、俺は最近起こる現象をレイに報告する。
「人も多いし、ぶつかったりすること自体はおかしくないんだろうけど、頻度がおかしいんだ。ここ一週間の内、同じ人とぶつかったり、角で鉢合わせたりすることが何度もあったんだ。しまいには、まっすぐの見通しのいい廊下でもぶつかったりするし…… なんなんだよ、もう」
 最後の方は愚痴になってしまった。
 心底、鬱陶しかったのだ。
 俺の方からぶつかったようなものなのに、何故か相手に平謝りされた揚句、俺が声をかける前に脱兎の如く逃げられる。中には悲鳴を上げて俺から逃げてく奴もいた。
 一体何なんだ。
「お前と言う人間は、その…… 奇運な人間だな」
 その言葉に、俺はレイの方を見る。まるで珍獣を見る様な、興味深そうな目でレイは俺を見ていた。
「それは恐らく、"ナノマシン共鳴現象"だ」
「"ナノマシン共鳴現象"?」
 レイが頷く。
「中枢ナノマシン同士の間で極稀に起こる現象だ。ナノマシンは独自の周波数でネットワークを形成し、各個の情報を全体共有している。その中心になるのが中枢ナノマシンだ。中枢ナノマシンは常に他ナノマシンとリンクし、これを監視、制御している。その際には特殊な周波数の電波が用いられる」
 ナノマシンに関しては、一応教練校でも話しは聞いたが、あくまでプラントでの一般常識程度だ。医療用ナノマシンの詳細なんて俺が知るはずもないし、それがどのようなシステムで動いているかもさっぱりだ。
 でも、今、俺の中には得体のしれない電波を発するナノマシンが数え切れないほど入っている。
 そう思うと鳥肌が立った。
「その電波って、人体に無害なのか?」
 思わず、レイの話しの腰を折ってしまう。
「有害ならば、今、俺達の体の中に入れられていない」
 レイは気にせず俺の懸念をあっさりと否定した。
「お前の身に起こっているのは、この中枢ナノマシンが発する特殊な電波が、極稀に近くの中枢ナノマシンと共鳴して起こる"ナノマシン共鳴現象"だ。」
 聞きなれない言葉に、俺は首を傾げる。
 だが、聞きなれない現象が俺の身の中では起こっているのだ。理由は何だろう?
「原因は?」
「はっきりしたことはわかっていないが、自身が統率するナノマシンに近しい周波数を持つ中枢ナノマシンとデータを共有しようとして起こる現象らしい。
 顕著な症状としては、今のお前の様に、よく人にぶつかったりするようになる。正確には、お前の中にある中枢ナノマシンに近い周波数に近い中枢ナノマシンを持った人間にな。
 この現象は同会社同工場同日同時同生産ラインで製造された中枢ナノマシン間で起こりやすいというがはっきりしていない。
 それに、ナノマシンが発する電波は人間の行動に影響を与える程強力ではなく、本当に微細なものだ。」
 レイからの返答を簡略にすると恐らく、原因不明だろう。
 俺にもわかりやすく、かなり噛み砕いて教えてくれているのだろうが、やっぱりよくわからない。
 けれど、ナノマシンが人の行動に影響を与えるものではないのはわかった。
 ならばなぜ。
「ならなんで俺はあんなに人にぶつかってるんだよ」
 思わず口に出してしまった言葉を、レイは正確に汲み上げる。
「はっきりとわかっていないと言っているだろう。一説には、ナノマシンと相性の良い人間に起こるのではと言われているが、その相性が良い人間の特徴―― 発現した人間に見られる共通した遺伝子配列や体質などが見出されず、全く分かっていない。
 …… あまり気にするな。もうじきナノマシンも回収される。そうすれば"ナノマシン共鳴現象"はなくなるはずだ」
 俺がかなり憂鬱になっていることを察してくれたのだろう。レイはそう言って、俺の目の前に小型メモリーを見せつける。
「今日は負けん。とことん付き合ってもらうぞ」
 はっと気付けば、俺達は既にモビルスーツシミュレータールームまで来ていた。
 呆ける俺を見て、レイは何故か肩を竦めた。
「それとも、部屋に戻って休むか? その場合は、お前の不戦敗になるぞ」
 レイに挑発に、俺の気力が戻ってくる。
「誰が休むって言ったんだ? 今日もこてんぱんにしてやるよ」
 そう言った俺を見て、レイは満足そうに頷いた。
「ああ。今度こそ負けない」
 お互いに睨みあいながら、俺達はシミュレータールームの扉をくぐった。

 後日、ナノマシンが回収されると、俺が頻繁に人にぶつかることもなくなった。やっぱりアレはナノマシンのせいだったらしい。
 その事をレイに報告すると、安心した様に笑って、よかったな、と言ってくれた。
 振り返れば、体に悪影響もないし、気にしすぎなだけだったのに、俺の愚痴を聞いてくれたレイには感謝の念は絶えない。俺には本当にもったいない友達だ。
 お礼に俺も、シュミレーターの対戦ではレイの隙を尽く突いてこてんぱんにさせてもらった。きっとレイなら、その次の時にはもっと凄くなって挑んでくるんだろうな。
 絶対に負けたくない。
 ツナ味の恨み思い知れ。
 それにしても、ナノマシン共鳴現象とか、なんでレイはあんなこと知ってたんだろ?



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[32070] Graduale - 昇階唱 Ⅷ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/18 08:11
Graduale - 昇階唱 Ⅷ


 人類の戦争は、常に技術の発展と共にあった。
 その最大の功罪は遠距離武器の発明と発展だろう。

 暗闇の中、俺はそんな事を考える。
 両手で持ったモノは重く、見えていなくても鮮明に、脳裏にその姿を思い浮かべることが出来る。
 ゆっくりと息を吐き、静かに目を開ける。
 透明なバイザーに視界は覆われ、約30m先には丸い小さな的、そしていくつかの器具。
 鼓膜の保護も兼ねたヘッドホンから、教官の指示が飛ぶ。その指示に従い、俺は両腕を持ち上げた。
 視界に入る、黒光るそれは簡単に命を奪うことのできる武器。
 ズシリと重いそれの安全装置を外し、合図を待つ。
 思考が冷えていく。
 俺の世界から音がなくなる。

 遠くで、開始を告げる合図を聞いた気がした。

*

 ヘッドホンとバイザーを外し、俺は一息ついた。持っていたモノを台に置き、視線を先程撃ち抜いていたモノ達にやる。
 人型の的――
 俺の記憶が正しければ、現れた的―― 人型は20体。その内、2つ狙いを外したはずだ。
 俺が狙ったのは2カ所。頭部と、左胸部― 即ち、心臓である。
 ひい、ふう…… ああ、やっぱり。
 一つ目が左鎖骨、二つ目が左肩を撃ち抜いている。
 レイは全弾あの2カ所を撃ち抜いていた。
 もっと練習しなければ、と俺は溜め息を吐いた。
 ブースから出ると、教官が俺の背を叩く。
 的にあてるのも困難な者が多い中、的に全弾命中させた者はとても褒められていた。俺もその例に漏れず、よくやったと褒められる。
 振り返れば、頭部や胸部を撃ち抜かれた人型の的。
 狙いを外し、鎖骨や肩を撃ち抜かれた人型の的。
 嬉しくはなかった。
 足りない。
 全然足りない。


***


 身を締めるノーマルスーツ。
 目を閉じ、暗闇に身を置く。
 メインカメラの映像を映す大きなメインモニター。
 それに重なる様に敵機の捕捉や装備兵器の状態を投影する透明なディスプレイ。
 水平儀、速度計、昇降計、高度計を表示するサブモニター。
 エンジン回転数や燃料流量、電気・油圧・燃料の各系統及び機体内気圧に異常がないかを監視し状態を表示するモニター。
 緊急時に機体のOSに手を加える為のキーボード。
 挙げればきりがない各計器の位置や役割を脳裏に描く。
 脳内にもコックピットを作りだし終えると、ゆっくりと目を開け、現実と脳内の光景を合わせる。ピタリ、と寸部違わず重なり合う。
 それを確認すると、右手、左手、両手に操縦桿の感触がある事を確かめる。
 フットペダルを軽く踏み、その反発に息を吐く。湿った空気が唇に返ってくる。
 喉元に、耳に感じる異物感にはようやく慣れた。小さな器具で無線でのやり取りが出来ると言うのだから凄い。
 教官の声がイヤホン― 通信機を通じて聞こえて来る。
 メインモニターは静かにメインカメラが見る光景を映す。
 漆黒の闇。
 点在する小惑星群。
 巨大な砂時計の壁面。
 通信機から伝わってくる声は、カウントダウンを始める。

 《5》

 《4》

 《3》

 《2》

 《1》

 《演習開始》

 フットペダルを一気に踏み込む。反作用が生み出す負荷が体に圧し掛る。
 俺は、開始位置である小惑星の陰から一気に躍り出た。
 スラスターの出力が最大にまで上がったのが視界の端で確認できる。
 宇宙空間には上も下もない。
 左斜め45度。バー二アを吹かし一気に方向転換。
 案の定、どう動いたらいいのかわからない敵機が複数捕捉できる。
 ロックオン。
 敢えて俺が姿を晒したことにより、一気に視線が集まる。
 戸惑いが過分に混じる敵意。
 ロックオンされる前に討ち取る。
 ライフルの引き金を引く。
 放つ弾は4発。
 3機のコクピットが赤に塗れる。
 1機避けられた。俺は思わず舌打ちする。
 直後。
 警告音が鳴り、こちらがロックオンされていることが分かる。
 瞬時にバー二アを最大出力までふかし、体にかかる負荷さえも無視して方向転換を図る。
 天地が入れ換わる。
 そしてそのまま、逆探知を行ったシステムが示す敵機の場所に向かってスラスターを最大出力にして迫った。

「"う、うわああぁぁ!! くるなっ! くるなっ!"」

 通信機越しに聞こえてくる声。
 狙いが定まらず、ばら撒かれる弾。
 バー二アで方向を微調整しながら全て避ける。
 一部避け切れないものは、行動不能にならない位置に被弾させる。
 更にフットペダルを踏み込み、スラスター、バー二ア共に最大出力にして一気に距離を詰める。
 接近。
 左腕を突きだし、敵機の胸倉辺りに打ち込む。そのままの勢いで小惑星に押さえ付けると同時に、ライフルの銃口をコックピットに当てる。
 コクピットは赤に塗れた。

 演習終了を告げる教官の声が通信機越しに聞こえる。
 ペイント弾を用いた実戦形式の演習。5機でのバトルロイヤル。
 実機のモビルスーツに乗り初めて1週間ない士官学生に出される、無茶振りとしか言えない内容である。
 それでも中には、その演習をこなしてしまう者もいるのだ。幸いにも、俺もそのこなしてしまう者の一人になれたようだ。
 勿論、レイもその一人だ。レイは既にこの演習を終えている。
 俺にはレイのように、小惑星を利用した同士討ちの誘発なんてことはできない。攻め込んで、自分自身の手で終わらせる。ただそれだけだ。

 教官の帰投命令に従い、俺達は士官学生専用のドックに向かう。その途中、俺の乗るジンのメインカメラの端に赤が映る。
 思わず目を見開き凝視する。
 それは流れ弾が当たり、ペンキに塗れた小惑星だった。
 今回の演習に利用されたのは害のないペイント弾である。
 これがもし実弾だったら。
 小惑星が民間人の乗った船だったら。
 そう思うとぞっとした。

 ビーム兵器は―― 遠距離兵器は嫌いだ。

 機械の補助があっても、当たるかどうかは力量次第。
 当たったことがはっきりと確認できる時と出来ない時がある。そのくせ、目標を外し、流れた先で甚大な被害を出す。 兵器としては、これ以上効率の良いモノもないだろう。人類の戦争の歴史を振り返れば、遠距離兵器が主兵装になるのも頷ける。
 ましてや、フェイズシフト装甲の存在により、実体兵器がほぼ意味を成さなくなった昨今、遠距離ビーム兵器が重宝されるのも仕方がないのかもしれない。
 モビルスーツ乗りになる以上、遠距離ビーム兵器は避けて通れない。

 だからこそ、俺は必中を誓う。
 そして確実に仕留める。
 悪足掻きなんてさせない。放たれた攻撃の先に、誰もいないなんて保証はないのだ。
 コクピットを必ず狙い、撃ち抜く。

 一発も誤射がないように。
 一発の流れ弾も出さないように。

 必中必殺――

 でも――


***


 ドックに戻り、俺は機体を所定の位置に戻す。
 機体の異常をチェックした後、ヘルメットを脱ぐ。
 少し息苦しい。
 ハッチを開けると、新鮮な空気が流れ込んでくる。
 大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。
 首を詰めるスーツの器具を外してゆるめると、ようやく人心地ついた気分になる。
「お疲れ様――」
 小さく、俺を乗せてくれたジンにお礼を言う。
 暫く目を閉じて深呼吸を繰り返し、俺はハンガーへと降りることにした。
 アンカーに足をかけ作動させれば、ゆっくりと視界が下がって行く。
 少し目線を降ろせば、一塊りに待機する航宙科の同期達の姿が見える。その中から何故か、レイが静かに歩み寄って来ていた。
 けれど、俺の脳裏を占めるのは、先程見た、赤に塗れた小惑星だった。
 瞬間。オーブで見たあの光景が重なる。
 焦燥が、どうしようもない渇きが、俺を襲う。
「シン」
 レイが短く、俺の名前を呼ぶ。
 返事をしなければと、俺は言葉を紡ぐ。
「レイ」
 短く呼んだ名前。
 焦燥は、渇きはやまない。
 足りない。
 何もかもが、全然足りない。
「付き合ってくれ」
 からからに乾いた俺の口は、上手く言葉を紡げているだろうか。
「ああ、足りないんだろう?」
 どうやらレイは、俺の言いたい事を正確に察してくれたらしい。
「もっと射撃の精度を上げたいんだ。どうすればいいと思う?」
「そうだな、射撃の訓練やシミュレーターは基本として…… 動体視力を鍛えてみてはどうだ? 訓練法があったはずだ」
 レイと出会ってまだ1ヵ月程度しか経っていない。それにも関わらず、何故かレイは俺を分かってくれる。それが嬉しくて堪らない。
「帰ったら教えてくれ。それにしても、機体のロックオンの精度が甘かった気がするんだけど、レイはどうしてるんだ?」
「OSを多少弄ったが… 詳しい事は理工科の人間に聞いた方がいいだろう。そもそも、士官学生に割り当てられている機体は退役した旧式ばかりだ。最新の機体に比べると機能的には劣る。ロックオンの精度が甘いのも致し方ない」
 ふむ、と俺は考え込む。
「俺達、理工科に知り合いいないからなぁ。うーん… なら、今の機体で照準が合わせられるようになれば、最新の機体での照準合わせが楽になるのか……?」
「は?」
 馬鹿な事を言うな、とレイに小突かれる。
「そろそろ列に加わらないと、教官に起こられるぞ」
 そう言って、レイは教官達がいる方を示す。
 ごほん、と一つ。教官が咳払いをした。
 演習は俺がいる組で最後のはずだ。俺が、急いで戻らないとみんなが帰れない。今更ながら、俺はそれを思い出した。
 俺達は慌てて、列に加わる為に走り出す。

 走りながら、ぼんやりと俺は思う。

 近接武器が欲しい。
 刀でも剣でも良い。相手に確実に当たったと分かる武器が。

 手元に戻ってくる武器が欲しい。
 どんな形のものでもいい。狙いを外しても、周囲に被害を出さない武器が。

 無理な夢想だ、と俺は自嘲する。
 それでも。誰かのあの光景を俺自身が作りだす覚悟をしていても、それでもなお、俺は願ってしまう。

 俺が殺すのは、軍人だけでいい。



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[32070] Graduale - 昇階唱 Ⅸ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/18 20:45
Graduale - 昇階唱 Ⅸ

 つい、と画面に指を滑らせる。同時にページが送られ、文章の続きが現れる。
 最初の頃は違和感のあった動作も、随分慣れたものだ。表示された文を読みながら、ふと、そう思った。
 顔をあげて時計を見る。まだまだ時間はある。
 俺は再び、手の中の電子書籍へと視線を落とした。

 今日は、俺達士官学生にとってとても重要な日だ。
 これから約1年を通して苦楽を共にする実習班のメンバーが発表される。
 しかも、予めメンバーの名前が通達される訳ではない。各個のパソコンに集合場所が送られ、そこで初めてメンバーを知るという形式だ。
 先週の実戦形式の演習はその班を決める為のテストでもあった、らしい。教官が演習の後に言っていた。
 集合時間は一律午前11時。
 今日一日は班の相互理解を促進する為に講義はなしとなっている。相互理解が深まれば、連携も取りやすくなるだろうと教官はぼやいていた。
 その言葉を耳にして、ふと、俺が最初にザフトという軍に抱いた印象を思い出す。
 個々の能力に絶対的な自信を持ち、前線の兵士に幅広い判断を任せている。悪く言えば、個人プレーや独断専行を容認しているとも言えるだろう。他の兵士との連携などあまり重視されていないのかもしれない。もしや、自軍の戦艦との連携も視野に入れていないのだろうか。それは流石にないだろう。うん。
 今回の班分けは科を跨いで編成される。
 一つ目は勿論、モビルスーツパイロットを育成する航宙科である。人数は3人。
 three-man cellという奴だ。作戦行動中の役割分担や死角のカヴァーは勿論、それ以前の状況分析や作戦立案の際にも3人目の存在は重要だ。2人ならば偏りが出てしまうかもしれないが、3人目がいれば異なった視点での分析も生まれて来る。
 だからこそ、three-man cellなのだろう。
 2つ目はモビルスーツの整備を行う理工科だ。
 今回の班分け以降、太っ腹にも士官学校では、一人に一機、演習用のモビルスーツを分配するらしい。
 その整備を担うのが、理工科の2人だ。
 主に機体や兵装などのハードウェア、OSなどのシステム周りのソフトウェアを整備する者がそれぞれ1人づつ着く。ソフトウェア担当はともかく、ハードウェア担当は一人でこなすには流石に無理があるので、整備担当に混じっての実習になるらしい。
 3つ目は戦況や情報の伝達を行う情報科。
 モビルスーツの発着や、戦況や命令の伝達、パイロット側からはわかりにくい、戦場全体の俯瞰などを教えてくれる重要なポジションだ。これが1人。
 以上の一班6人の編成でこの1年を過ごすことになる。

 俺は電子書籍のページを送る。
 今読んでいる本はいわゆるコミュニケーションのハウツー本である。
 先日のナノマシン共鳴現象事件の時といい、俺はどうもレイ以外の他の同期からは何故か距離を置かれているらしいことに気づいた。
 同年代は何故か俺に近づいてこない。思い返せば、レイ以外とまともに会話した記憶がない。教官と自主演習先の人達は別だけど。
 やはり、この無表情がダメなのだろうかと悩んでいた時に、目に入ったのがCB出版から出ている『擬似人格のすすめ』という本だ。
 電子書籍ストアの新着に並んでいたこの本の紹介に仏頂面・無愛想・不器用の三重苦なあなたにおススメ!と書かれていたので、ついつい目を惹かれて購入してしまった。
 ついでなのでレイにも薦めておいた。不器用はともかく、お互いに無愛想なのは自覚している。
 だからこそ、俺は少し準備もしたのだ。
 ちらり、とレイを見る。
 レイも俺と同じように電子書籍を読んでいた。
 そのまま視線を移動させて時計を見る。もうそろそろ移動した方がいいだろう。
 そう思って、俺は現在のページにしおりをはさみ、電子書籍の電源を落とした。
 荷物を持ち、何も言わずに立ち上がる。
 立ち上がった俺を見て、レイも電子書籍の電源を落として立ち上がった。
「行くのか?」
「ああ」
 その言葉を肯定して、俺はレイと共に部屋を出た。



 同じように角を曲がり、同じ道を歩く。
「ついてくるなよ」
「そちらこそ」
 そんな軽口を交わしながらもきっと、お互いに同じ事を願っているんだろう。
 最後の角を曲がる。この先には小教室がいくつか並んでいる。
 集合場所は、その中でも真ん中から少し過ぎた所にある小教室だ。
 俺は足を止める。
 レイの足も―― 止まった。
「なぁ、レイ。そろそろお互いの集合場所言おうぜ」
 努めて平坦に、弾む心を宥めて、レイに話しかける。
「ああ」
 レイも俺を見て、俺達は同時に口を開く。

「「D207小教室」」

 俺達は互いの腕を交差させ、ぶつけあった。
「やったな!」
「ああ!」
 いくつかの班に分けると聞いた時からずっと、レイと同じ班になれればいいと思っていた。それではこれまでと何も変わらないじゃないかと思う反面、気の置けない友達と一緒に切磋琢磨したいという想いの方も強かった。
 だから嬉しい。レイと一緒の班になれて。
 D207小教室の扉をレイと共に見る。この中には、俺達の班のメンバーがいる。
「えーっと… 第一印象が大事なんだよな。ここは明るく、こんにちはーって言いながら飛び込んだ方が良いのかな?」
 さっきまで読んでいた本の内容を思い出しながら提案してみる。
「いや、ここは主導権を握る為にも、インパクトを重視した方が良いだろう。あの本ではたしか… "チョリース☆"だったか?」
 『擬似人格のすすめ』にインパクト特大☆と書かれていたアレか…
 薦めた時は微妙な顔をしていたけど、なんだかんだでレイも読んでくれてたのか。
「満面の笑顔で言うんだよな… レイ、俺、笑ってるか?」
 俺は笑顔を作って、レイに見せてみる。
「…… 大丈夫だ。重要なのは仲良くなりたいと言う心だと書かれていた」
 間と返答が気になる所だが、大丈夫なのだろう、…… たぶん。大丈夫だと信じたい。
「扉が開くと同時に飛び込むぞ」
 レイが扉のスイッチに手をかける。
 俺は静かに頷く。
 扉が―― 開いた。

「「チョリース☆」」
「レイ・ザ・バレルでーす☆」
「シン・アスカでーす☆」
「「よろしくおねがいしまーす☆」」

 互いに精一杯テンションを上げて入室する。
 正直恥ずかしい。でも、今後の円滑なコミュニケーションの為に、と自分自身を誤魔化す。
 しかし、俺達の精一杯に返答はなかった。
 小教室の中には誰もいなかった。俺達が一番乗りだったのだ。
「「……」」
 気まずい。かなり気まずい。
 嫌な沈黙が俺とレイの間に訪れる。
 やってしまった。やらかしてしまった。
 抑えていた羞恥心が数倍になって体中を駆け巡る。
 身悶えしそうになっている俺を置いて、静かにレイは教室の電気のスイッチを入れた。
 そしてそのまま、無言で手近な椅子に座る。
 流石はレイ。俺もそれにならって、レイの横に腰を下ろす。
「あの、さ… レイ…」
 俺は持ってきた荷物の中身がレイにも見える様に、机の上に置いた。
「パーティー用のクラッカー… 買って来てたんだけど…」
 インパクト狙いならこれだけでもよかったんじゃないかなぁ…、小さく呟いた。
 途端、レイに思いっきり肩を掴まれて凄まれる。
「貴様… 何故、それを早く言わない…?」
 レイの耳、真っ赤だよ。相当恥ずかしかったんだろうな。
 それにしても顔が近い。美人が怒ると怖いなー…
 俺もしてたんだし、お互い様なはずなんだけど…
 シュン、と扉が開く音が聞こえて来る。

「「失礼しまーす!」」
「理工科のヴィーノ・デュプレでーす!」
「同じく理工科のヨウラン・ケントでーす!」
「「よろしくお願いしまーす!!」」

 理工科の二人はどうやら、俺達と思考回路が似ていたらしい。
 聞き覚えのあるフレーズに、理工科の二人とは仲良く出来そうだ。
 視線を扉― 理工科の二人がいる方に向ける。
 前髪が特徴的な男と色黒の男の二人組だった。共通しているのは、二人とも何故か笑顔で固まっていることだろうか。

「「失礼しましたー!」」

 つつつーっと二人はそのままバックで教室から出て行く。
「へ? え、ちょっと! ここ、D207小教室だから! あってますよ! たぶん!!」
 慌てて俺は立ち上がり、二人を呼び止める。やっぱり、仏頂面と無表情の組み合わせは他人を引かせてしまうのだろうか。
 なんとか二人を連れ戻し、レイと二人で盛大に自爆した事を話す。なかなか信じてもらえず、"チョリース☆"をレイと二人でしたら信じてやると言われた。
 その後の出来事は俺達4人だけの秘密だ。
 ヴィーノ曰く、怖い。ヨウラン曰く、視覚の暴力。だったらしい。
 やっぱり無表情だったのか、俺…
 そんな経緯もあってか、俺達4人はすぐに仲良くなれた。
 そして今、俺達4人は教室の入り口の両脇に分かれて待機している。
 もうすぐ集合時間の11時になる。残るメンバーは2人。流石に遅刻はないだろう。
 俺達各々の手の中にはクラッカー。糸を持ち、今か今かと待ちわびる。
 そして、扉が―― 開く。


「「「「ようこそ! D207小教室へ!!」」」」


 軽快な破裂音。クラッカーの音が、色彩鮮やかな糸飾りと一緒に舞い踊る。
 きっと驚いているだろう。
 そう思って俺は―― むんず、と腕を掴まれる。
「え?」
 いきなりの展開に俺は対応できず、そのまま引き寄せられ、胸倉を掴まれ―― 投げ飛ばされる。
「お、お姉ちゃん!?」
 その声をBGMに、咄嗟に受け身を取るものの、投げ飛ばされた方向が悪かった。教卓に思いっきり背中を打ちつける。痛みが全身に広がる。
「あーら? ごめんなさーい?」
 聞こえてきたのは、軽やかなソプラノの声。
「私ったらつい… でも、当然よね?」
 全く悪いと思っていないのが言葉の端々からそれが伝わってくる。
 当然ってなんだ?投げ飛ばされることが?
 クラッカーで驚かした事がそんなに気に障ったのだろうか?しかも、投げ飛ばされたのは俺だけ。なんて理不尽なんだ。
 痛みを抑えて見上げる。

 鮮烈な紅髪。
 菫色の瞳。

「軍人を目指す人間にあんなことするんだもの。いい度胸してんじゃない」

 どこか見覚えのある少女が、似た色彩の少女を背に、俺を見下ろしていた。


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[32070] Graduale - 昇階唱 Ⅹ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/18 21:28
Graduale - 昇階唱 Ⅹ


「大丈夫か? シン」
 茫然とする俺と、憤慨する少女の間に入り、レイが俺に手を差し伸べる。
「あ、ああ」
 その手を取って立ち上がる。
 気の強そうな少女の瞳が俺を射抜く。
「随分な歓迎じゃない。流石は"紅眼の悪魔"さんって所かしら? で? 私の力量は、貴方のお眼鏡に叶いまして?」
 なんだろう。悪意しか見えない。
 それに、何か聞き捨てならないフレーズがあったような…
「"紅眼の悪魔"?」
 思わず聞き返してしまう。
「え!? 知らないの!?」
 疑問符の付いた俺の言葉に反応したのは、少女の後ろにいる髪を二つに結わえた少女だった。
 俺が投げ飛ばされた時の反応からして恐らく、目の前にいる少女の妹だろう。
 視線を妹の方に移せば、何故か小さな悲鳴をあげられて姉の背後に逃げられる。知らない人を前にしたマユもあんな感じだったっけ。
「君は?」
 自然と声が優しくなる。
「め、メイリン・ホークだけど…」
「メイリン」
 何度か繰り返し、名前と顔を一致させる。
「俺はシン。シン・アスカ。よろしくな、メイリンさん」
 笑顔を浮かべる。浮かべたつもりだったんだけど…… あ。隠れられた。どうやらまた失敗したらしい。
「ちょっと、私を無視しないでくれる?」
 声をかけられ、我に返る。すっかり忘れていた。
「え? あ、ああ… ごめん。クラッカーが気に障ったのなら謝る。えっと…」
 メイリンの名前からして、俺を投げ飛ばした少女の姓はホークだろう。
「ルナマリアよ。ルナマリア・ホーク。見ての通り、後ろのメイリンとは姉妹よ。ルナでいいわ。メイリンも、メイリンでいいわよね?」
「え? あ、うん」
 メイリンがメイリンで、ルナマリアが、ルナか。俺はその言葉に甘えることにした。
「その、ごめん。メイリン、ルナ。驚かせて」
 悪乗りが過ぎた、と素直に謝る。
 俺を睨んでいたルナマリアが、肩の力を抜き、溜め息をついた。
「はぁ… こっちも悪かったわ。いきなり投げ飛ばして。それにしても、なんだか拍子抜けね」
 ルナマリアの後ろから、メイリンも出て来る。
「おかしいなぁ… 聞いてた話しと全然違う」
 メイリンはしきりに首を傾げながら俺を見ている。
「話って―― あ。"紅眼の悪魔"か。えーと、何か知ってるか?ヴィーノ、ヨウラン」
 俺は後ろにいる二人に話しかける。
 いきなりの展開に呆気取られていたらしい。俺の声で我に返った。
 ヴィーノは勢いよく首を横に振った。
「いや、全然!!俺達理工科だから、航宙科の噂なんて余程の奴でない限り流れて来ないし!」
「そうか? 俺は、航宙科に見た目も実力も恐ろしい奴がいるとは聞いたことがあるけど」
 特徴までは流れて来ていない、そう言って、ヨウランは眉を寄せている。
 俺はレイを見る。
「俺が他者の下らない噂話に耳を傾けるとでも?」
 うん。期待する方が間違ってた。
「知らぬは本人ばかり、ってことかしら?
 "紅眼の悪魔"って呼ばれる理由に、本当に心当たりがないの?」
 俺は頷く。
 ルナマリアは深く溜め息を吐いて言った。
「なんて言えばいいのかしら…」
「私が説明しようか?」
 言いあぐねていたルナマリアに助け船を出したのはメイリンだった。
「えーっとね…」

 メイリンの説明は簡潔でわかりやすかった。
 どうやら、俺はかなり特異な目で見られていたらしい。
 普段から無表情で近づき難いのに、いつもレイと難しい会話ばかりしている。
 重い紙製の教科書を持ち歩き、いつも読んでいる。
 シミュレーターや射撃場、図書館に入り浸り、遅くまで訓練している。
 頻繁に外出許可を貰ってはどこかに行っている。
 モビルスーツの扱いに熟練しており、その戦い方には情けも容赦もない。
 戦災によるオーブからの移民である。
 これらに尾鰭がつくとどうなるか。
 "レイはシン・アスカという悪魔に取りつかれた悲劇の美少年である"
 "重い紙製の教科書を持ち歩くのは、いつでもその本で他者を攻撃する為である"
 "訓練に勤しむのは、少しでも早く強大な力を手に入れる為である"
 "頻繁に外出するのは、外でイロイロと遊んでいるからである"
 "情け容赦ない戦い方は、自分の力を試しているからである"
 結論。

 "シン・アスカは、力に飢える血も涙もない悪魔である"

 だから、人とぶつかった時に悲鳴をあげられて逃げられたのか。一部否定できない部分もあるが、それでも飛躍しすぎている。遠くを眺めながらそんなことを思う。
 ふと横を見れば、レイがお腹を抱えて爆笑している。声も出さずに… これはツボに嵌まっているな。
 腹が立ったので、思いっきりその足を踏んでおいた。
「全部嘘だから」
 俺は誤解を解くべく、説明を始めた。
 無表情なのは病気で、レイとの難しい会話は単なる意地の張り合い。
 教科書は地上育ちだから慣れている紙の方も買っただけだし、訓練しているのは士官学生としての義務。
 外出は正式に許可を得た自主演習の為だし、モビルスーツの扱いが上手いのは工業用モビルスーツの運用資格を既に取得しているから。
 全て誤解なのである。
 だから頼むから、"紅眼の悪魔"なんて色々痛くて恥ずかしい呼び名はやめて欲しい。
 一息に説明する。思わぬ風評を少しでも早く打ち消したかった。
 息を荒げる俺の肩に、ぽんと手が添えられる。
 ヨウランが生ぬるい目で俺を見ていた。
「お前、色々苦労してんだな…」
 その後ろでは、ヴィーノがレイに続いて爆笑2号になっていた。
 くすくす聞こえてきた笑い声に正面を見れば、ホーク姉妹もおかしそうに笑っていた。
 コミュニケーションには成功した様だけど、なんだか色々と失った気がしてならない。
 俺は深く溜め息を吐いた。

***

 わやわやと色々話している内に、気づけば昼食の時間になっていた。
 真っ先に空腹を訴えたのはレイだった。
 俺にとっては意外でもなんでもなかったが、ルナマリア達― 特にメイリンはとても驚いていた。
「そういえば、レイさ… レイ達はいつも中庭でお昼たべてるよね?」
 メイリン… また、レイを"レイ様"って言いかけたな。
 メイリン曰く、レイが持つ気品やら容姿やらは、なんだか"様"をつけなければいけない気がするらしい。しかも、"レイ様"呼びはメイリンだけではなく、一部の女子に既に広まっているらしい。
 初めて聞いた時は随分笑わせてもらった。確かに、レイの容姿は王子様っぽい。背景に薔薇が描かれても俺は驚かない。
 どうやらメイリンは、レイの"様"はつけなくていい、むしろつけて欲しくないという発言を受けて改めようとしているらしい。
 メイリンの問いにレイは頷く。
「"オベントー"というものだ。全てシンが作っている」
「え!? マジ!?」
 ヴィーノ… 何故、そこで驚く。そんなに俺が料理するのは意外なのか?
「寮に向かってるってことは、シンが料理をふるまってくれるってことかしら?」
「大したものは出せないけどな…」
 冷蔵庫の中身を思い起こす。買い足しはしたばかりだ。6人がジュースのおつまみのかわりに飲み食いする程度ならば、多分大丈夫だろう。
 ルナマリアの言葉を、俺は一応肯定する。
「でも、よく食材が手に入るな」
 個人で食材を買うのは大変だろうに、とヨウランが感心した様に言った。
「そこはまぁ、定期的に外出を許可されてる人間の特権と言うか… 業務用宇宙港の帰りに、レイに教えてもらった店で買い物して帰るんだ」
 選び方や調理方法はネットで調べている。
 お店のおやっさんも親切で、色々教えてくれる。
「それじゃ、お手並み拝見させていただきましょうか? シン?」
 ルナマリアが猫の様に目を細めて笑った。
 気付けば、寮の自室前。
 恨むぞ、レイ…

*

 プラントはパンが主食なので、パンの種類は色々ある。
 時間もそんなにないし、人数も多いので定番のサンドイッチを作る事にした。
 レイに具になる野菜やハムを切るのは任せて、俺はサラダやスープに取り掛かる。
 スープはコンソメにスライスした玉ねぎと小さく切ったベーコンを入れたものでいいだろう。
 冷凍のタラを昨日買ったので、簡単なムニエルにする。
 冷蔵庫から作りためておいたタルタルソースを取り出す。
 しまった。皿が人数分ない。
「ごめん、みんな。皿がないからフライパンで出すけどいいか?」
 そう声をかければ了承の声が返ってくる。
 小さく切り分けた後、タルタルソースをタラのムニエルにかける。
「レイ、食パンを皿替わりにするからいくつか切らないで」
「わかった」
 フォークは確か、使い捨ての奴があったはず。
 俺がごそごそ探している間に、レイはどんどんサンドイッチを生産していく。ツナの数が多いのはご愛敬だろう。
「シン、スペースが足りない。運んでおくぞ」
「頼む。ついでにムニエルも運んでおいて」
 大きめのお盆にサランラップを敷き、即席の皿代わりにする。フライパンにはトングを添えておく。
 レイが持って行った先から歓声が聞こえて来る。
 よくよく考えれば、スープ皿もない。
「プラスチックのコップでいいか」
 俺は呟いて使い捨てのコップを取り出す。綺麗に洗って乾かせば、きっとあと何度か使えるだろう。
 あと、飲み物は水かオレンジジュースでいいだろう。
 冷蔵庫の中身はみるみる空になっていく。次に買いたいもののリストを作らないと、と考えながら、俺は作業に没頭した。

「なにこれ詐欺よ」
 ムニエルを口にしたルナマリアが発した第一声だった。その隣ではメイリンが美味しいと顔を綻ばせている。良かった…
 レイは黙々とサンドイッチを食べている。ヴィーノとヨウランも同様である。
「勉強も出来て、実技もできて、料理もできるって、どういう頭の中身してんのよ!」
 どういうと問われても困る。
「まぁ、いいじゃん。おかげで美味しい昼食が食べられてるんだし」
 そう言って、ヴィーノは朗らかに笑った。
 口の端にはタルタルソースがついている。
「あ! そうそう! さっきの自己紹介は結構おざなりだったし、改めて、自己紹介しようぜ。食べながら」
 ヴィーノの提案にヨウランが頷く。
「それもそうだな。じゃあ、ヴィーノから」
「え!? こういう時はヨウランからだろ!?」
 そういう言葉の後には、俺から言おうってフレーズが付き物じゃないか!そんなヴィーノの主張を、ヨウランはあっさり退ける。
「言いだした奴からするのは当然だ。ほら、やったやった」
「へーい」
 渋々とヴィーノは頷いた。少し考えると、ヴィーノは口を開いた。
「んじゃ、改めまして。俺はヴィーノ・デュプレ。理工科で主に機体整備をしてる。機体のハード的なことで聞きたいことがあれば何でも聞いてくれよ!」
「たとえば?」
 からかう様にヨウランが言った。
「んー… ほら、どんな動きができるかとか。関節がどこまで動けるか、とか。装備の事も俺担当だな。ほら、ヨウラン。バトンタッチ」
 簡単に説明すると、ヴィーノはヨウランに話し手を譲った。
「ヨウラン・ケントだ。ヴィーノと同じく理工科で、主に機体をハードにした場合のソフトウェア― OS周辺を担当している。趣味はプログラミングだな」
「あ! 俺の趣味言い忘れた!」
 趣味を言ったヨウランに、ヴィーノが声を上げた。
「はいはい。次は――」
 ヨウランはヴィーノを軽く流し、視線をメイリンに向けた。
 きょとりとメイリンが首を傾げ、目を見開く。
「え!? もしかして、、私!? えーと…」
 話を急に振られて、メイリンは軽く慌てたみたいだった。
「メイリン・ホークです。情報科所属で、この班の中ではオペレーターの役割になります。趣味は―― おしゃべりやパソコンかな? お姉ちゃんにパス!」
 さっと自己紹介してメイリンはルナマリアに譲った。
 それにしても、女の子はおしゃべりがすきな生き物なのだろうか。マユもおしゃべり好きだった。
「ルナマリア・ホークよ。見ての通り、隣のメイリンとは姉妹よ。私が姉。
 モビルスーツパイロット志望だから航宙科所属してるわ。なんどか顔を合わせたことがある人もいるんじゃないかしら?」
 ルナマリアは俺の方を見てくる。
 はて?顔を合わせた事があっただろうか…?
「趣味は裁縫よ。ほら、次」
 見かけによらないルナマリアの趣味に少し驚いた。裁縫よりも、武術とかスポーツとか、体を動かすのが好きそうに見えたのに。
 ルナマリアは自己紹介を隣にいるレイに譲った。レイの次が俺の番だ。何を言うか考えておかないと…
「レイ・ザ・バレルだ。同じく航宙科所属。趣味は―― 強いて言うなら、ピアノとチェスだ」
 簡潔すぎるレイの自己紹介はあっという間に終わった。
 みんなが最後の俺を見る。
「最後は俺だな。シン・アスカ。レイとルナと同じ航宙科所属だ。趣味は読書。面白い本があったら教えてくれ」
 一気に言い終えると、ゆっくりと深呼吸をする。
 見回せば、不思議な沈黙。どうしたのだろうか。
 首を傾げながらも、俺は言ってみた。
「乾杯でもしようか?今更だけど」
「お! 賛成!」
 ヴィーノは嬉しそうにコップにジュースを注いでいく。
 俺はレイを見た。
「挨拶はしないからな」
 口を開く前に、俺が言いたい事を察してレイが先手を打つ。
 ルナマリアやメイリンを見ても、首を振って拒否された。
 やはり、俺がするのだろうか。
 ヴィーノとヨウランを見れば、清々しい笑顔を浮かべてサムズアップしている。
 溜め息をつき、俺はコップを掲げた。
「上手く言えないけど… 今日初めて顔を合わせて、あっという間に仲良くなれて、正直、俺も驚いてる。
 これから1年、この班で色々な演習に挑むことになると思う。
 けど、みんなと一緒に協力すれば乗り越えられると俺は確信してる。
 今日の出会いに感謝を。
 俺達のこれからが良いものをであることを願って――

 乾杯!」

「「「「「「乾杯!!」」」」」」

 互いにコップをぶつけ合う。
 プラスチックのコップで雰囲気はないけれど、俺の心には確かに触れ合う硝子の音が響いていた。


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[32070] side.Lu 「 箱庭の守護者は戦神の館に至らず 」
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/19 21:22

side.Lu 「 箱庭の守護者は戦神の館に至らず 」


 武骨な枝に芽吹く若葉。僅かに残る茶色が混じった桃色の花弁。サクラの花――
 ルナマリアは回想する。
 父さんは、この花が好き"だった"。

*

 プラントの天候管理技士をしていた父さんはいつも、プラントの天気は俺が決めると言って豪快に笑っていた。曲がったことが大嫌いで、情に厚い、正義感の強い人だと、周囲の人からは言われていた。
 ちょっと鬱陶しいなと思いながらも、私はそんな父さんが大好きだった。

 そんな人だったからこその、自然な流れだったのかもしれない。
 プラントの独立をかけた戦争――
 父さんはザフトに志願し、そして――

 帰って来なかった。

 あの日も、まるで散歩に出かける様な気軽さで、父さんはうちを出た。ヤキン・ドゥーエ周辺宙域で行われる事になるであろう、大きな決戦に参加をする為に。
 母さんと私とメイリンは玄関で父さんを見送った。
 開け放たれた扉から、目映い光が差し込む。
 母さんに私達を任せ、私達の頭を強く撫で、抱きしめた後、父さんは笑って言った。
 "なぁに、ちょっとプラントを守ってくるだけさ"
 "いってきます"
 そして振り返らず、立ち止まらず、眩しい朝の光の中に飛び込んで行った。
 その時見た、父さんの大きな背中は今でもはっきりと覚えている。

 竹を割った様な性格で、潔い人だった。
 潔すぎる位、潔い人だった。
 だからこそ、父さんはあんな結末を選んだのだと思う。
 携行していた拳銃による自決。

 それが父さんの死因だった。

 メインカメラを破壊され、武器も撃ち抜かれ、衝撃で通信機器は送信機能を失い、救命信号を発することすらできなくなっていた。宇宙空間に逃げようにも、外に出ればビームが激しく行き交う戦場。
 皮肉にも受信機能のみ生きていた通信機器は、同様の状況に置かれ、助けを求め、半狂乱に陥り正気を失ってゆく同僚達の声を父さんに聞かせ続けた。
 そして父さんは選んだ。
 自己すらも認識できぬ狂気の生よりも、狂乱の果ての獣の死よりも、誇り高き理性ある死を。
 事実、父さんが乗った機体が回収されたのは、ヤキン・ドゥーエでの戦闘が終わって、実に3ヵ月も経ってからだった。
 父さんが機体に持ち込んだ写真の裏には、私達家族へのメッセージが綴られていた。

 先に死んでしまうことへの詫び。
 それでも、プラントの為の戦いへ身を投じたことは悔いていないという誇り。

 私へ。
 自分に良い意味でも悪い意味でも似ているので、嫁の貰い手、婿を選ぶ時は慎重にするように。ルナマリアがどんな道を選ぼうとも、父さんはそれを祝福して見守る。

 メイリンへ。
 自分に似てパソコンなどの情報機器の扱いに秀で、好んでくれているので嬉しい。
 自分と同じようにプラントの天候管理技士になりたいと言ってくれた時は本当に嬉しかった。優しいメイリンならきっとできる。
 ルナマリアと母さんとずっと仲良くな。

 母さんへ。
 愛してる。ルナマリアとメイリンを頼む。またみんなで、サクラの花を見よう。

 それを読んだ時、母さんは父さんらしいと泣きながら笑った。私達も泣きながら笑った。

 父さんの亡骸は、父さんの希望もあって火葬された。
 その遺灰は父さんが好きだったディセンベル植物園のサクラの群生地帯に許可を得て撒かれた。

*

 葉桜を見上げながらルナマリアは思う。
 そこで終われば良かった。そこで何事もなければ良かった、と。

*

 私達が父さんのいない生活にようやく慣れだした頃。前触れもなくそれは訪れた。

 それは、ザフトからの公共メール。戦死者遺族に支払われる弔慰金に関する手続きの最終確認だった。
 様々な項目をチェックしながら、私達はある一点で首を傾げた。

 ヨハネス・ホーク
 死亡状況:搭乗モビルスーツの動力炉に流れ弾が被弾。それに伴い発生した爆発により死亡。

 死亡状況が当初聞いていたモノと異なっている。
 私達は当然、訂正を申し出た。恐らく、他人のものとデータを取り間違えたのだろうと。
 ヤキン・ドゥーエで亡くなった人は多い。データが混線するのも仕方ないだろうと。
 すぐに訂正される。私達はそう気楽に構えていた。
 けれど、現実はどこまでもおかしかった。
 ザフトから返って来たのは、訂正個所はない、というものだった。
 何度も、何度も、申し入れてもザフトの返答は変わらなかった。

 父さんを燃やした施設に連絡を取った。
 そんな記録はないと言われた。
 父さんの遺灰を撒いたディセンベル植物園に連絡をとった。
 同じく、そんな記録はないと言われた。
 メイリンが、父さんの遺灰を撒いたサクラの根元に設置した墓碑銘を刻んだプレートを確認しに行った。
 プレートは僅かな釘痕を残して跡形もなくなくなっていた。
 父さんの写真を届けてくれた軍人さんに会いに行った。
 はじめましてと言われた。
 弔慰金が振り込まれた。
 どうみてもその金額は、たかが一兵卒の遺族に支払われるものではなかった。

 おかしい。
 何もかもがおかしい。
 私達は父さんのメッセージが書かれた写真を受け取った。
 私達はきちんと父さんの遺体に対面した。
 私達はきちんと父さんが灰になり、プラントへ、桜の根元へと還るのを見届けた。

 けれど、ザフトが、プラントが、全てが。
 父さんの決断を否定する。
 流れ弾に当たって死んだのだと、その死を歪め、穢す。
 
 何故?
 どうして?

 家に泥棒が入った。
 父さんの写真とメッセージがなくなっていた。

*

 メイリンが情報関連に強くて良かった。
 心から思う。
 プレートがなくなっていたと気付いた時点で、メイリンは何か、大きな権力の働きを感じたらしい。
 だから万が一の為に、父さんの写真とメッセージを、パソコンをオフラインにして取り込み、印刷して偽物を準備していたらしい。その咄嗟の機転が功を奏し、父さんの写真とメッセージは守られた。
 けれど、私達家族が受けた衝撃は大きかった。

 父さんの死からはじまった一連の奇妙な出来事。
 何故、父さんの死は歪められ、穢されなければならなかったのか。

 その理由を知る為に、私は今日、ザフトの士官学校の門をくぐる。
 風に揺れる葉っぱだけのサクラ。今、この風を吹かせているのは誰なのだろうか。
 隣を見れば、メイリンもサクラを見上げていた。
 メイリンもまた、天候管理技士になるという夢を捨て、私と共に士官学校に入るのだ。
 自分の行動に巻き込んだ様で申し訳なく思うも、とてもありがたかった。
 情報機器の扱いに難がある私に対し、メイリンはその方面にはとても優れた才能を発揮した。
 父さんの死の不可解な改変の真相を得るにはきっと、メイリンの協力が必要不可欠だろう。

「待ってて、父さん。父さんの死を必ず在るべき形に戻すから…」

 小さく呟く。
 どうやらメイリンにも聞こえていたらしい。
 決意を秘めた目で見返してくる。
 私はそれに応える様に頷くと、共に歩き始める。



 Petite et accipietis;
  quaerite, et invenietis;
   pulsate, et aperietur vobis.
 Omnis enim qui petit, accipit:
  et qui quaerit, invenit:
   et pulsanti aperietur.

 求めよ、さらば与えられん、
  尋ねよ、さらば見出さん、
   叩けよ、さらば開かれん。
 すべて求むるものは得、
  たずねぬる者は見出し、
   たたく者は開かるるなり。

 新約聖書『マタイによる福音書7章』より


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[32070] side.Me 「 叡智の泉に至る道筋 」
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/19 21:28
side.Me 「 叡智の泉に至る道筋 」

 私の家の近くには植物園がある。近くと言っても、歩いて15分位の所だ。そこそこ遠い。
 それでも小さい頃から、私にとってその植物園は特別な場所だった。

 コーディネイトを受けた者同士は次世代を残しにくいというコーディネイターの性質上、プラントでは子供を持つ家庭はとても優遇される。ましてや、二人以上ともなると、その支援内容は他の一般家庭とは一線を画す。
 一番分かりやすい支援が、食糧配給の優遇だろう。子供がいる家庭には優先的に質の良い食料が配給される。また、住居もプラントの中でも一等地とまではいかないものの、良い場所が斡旋される。加えて、出産祝い金、養育支援金など、プラント政府から月々そこそこの補助金も支給されるのだ。
 この至れり尽くせりの制度が数多く設けられているが、利用できる者は少ない。子供が一人産まれても、次がなかなかできないからだ。
 そういった意味では、私の家はその稀有な制度利用者側になるだろう。
 年の近い姉妹――
 同じクラスの誰もが、姉がいる私を羨んだ。
 けれど、私は内心複雑だった。
 姉がいて良いことなんてちっともない。お菓子をとられたり、たった1年生まれたのが早いというだけで、色々目敏く言ってきたり。社交的な姉はご近所の人にも大人気で、内向的で人見知りの激しい私はいつも比べられていた。
 今思えば、随分小さな事を気にしていたと思う。けれど、小さな世界に生きていた子供の私にとって、それはとても辛い事だった。
 だからいつも、耐えられなくなると私は植物園に逃げ込んだ。
 その植物園は、いつでも、誰でも入れる様に解放されていた。それなのに人が多いわけではなく、いつも独特の静寂を湛えて存在していた。
 私はその静寂が好きだった。
 風が吹き、葉がさやさやと囁く。
 木の袂に座り込み、いつも私はそのおしゃべりに耳を傾けていた。そうしていれば、ささくれ立った心が凪ぎ、落ち着く事が出来た。
 優しい風が頬を撫でてくれるようで、強い風がまるで私を慰めてくれるようで。
 不思議と元気が出た。
 そして何より――

 "またここにいたのか、メイリン"

 夕日を背に、私に手を差し伸べて来る大きな影。
 植物園に逃げ込んだ私を迎えに来てくれるのは、いつもパパだった。
 大きな手、大きな背中。
 ゆっくりと動く視界の中、いつもパパは色んなお話をしてくれた。

 この植物園は、特別な植物園なのだという。
 沢山の種類の樹木や花々。花の咲かない、緑色の草に至るまで。
 意味がないモノはないのだという。
 その一つ一つが墓標。
 注意して見てごらん。きっと見つかるはずだから。
 そこに眠り、メイリンの傍で慰めてくれる人達が。

 その言葉に従って、私はその人達を探した。

 いつも遊んでいる花畑。遊んでいると不思議と元気が貰える不思議な場所。
 そこには、私と同じ年くらいで亡くなった男の子の墓碑銘プレートがあった。
 なんとなく、一人になりたい時に行っていた原っぱ。寝転がっていると心が穏やかになる不思議な場所。
 そこには、パパと同じ年くらいで亡くなった女の人の墓碑銘プレートがあった。
 辛い時、悲しい時、いつも行っていた大きな樹の根元。耳を幹にあて、目を閉じていると、不思議と落ち着けた不思議な場所。
 そこにはいくつもの墓碑銘プレートがあった。
 真新しいモノには、【フレッド・キャンベル】と刻まれていた。信じられない事に、ナチュラルで70歳と言う高齢で亡くなっていた。

 それをパパに報告すると、パパは穏やかに笑って教えてくれた。
 プラントで生き、亡くなった人が最期に来る場所。その一つがこの植物園であると。
 その身を灰にし、最期はこの植物園で生きる樹木や花々の糧となり、やがてはプラントの空気になるのだと。
 そうしてパパが見上げたのは一本の木。
 春になると、家族みんなで見に来る木。
 私がいつも辛い時に行く大きな木。
 大きな枝を力強く伸ばし、その枝一つ一つに薄桃の雲がかかっていた。
 いや、雲ではない。それは小さな花だった。小さな薄桃の花が集まり、絢爛に咲く様はとても美しかった。

 "サクラと言うんだ。パパもいつか、この木の下で眠るときが来る"

 ママやお姉ちゃんには内緒だよ、とパパは笑った。

 いつか、このサクラの樹の下で、穏やかに眠りたい。

 それがパパの定めた終着点。
 それがパパの願った眠り。

 それがパパの――

*

 メイリンは静かに地面を見下ろす。

 きっと、普通の人なら気付かないだろう。僅かな変化。
 けれどメイリンにはわかった。メイリンは何年も何年も、この場所に通い、見続けていた。

 【フレッド・キャンベル】さんの横に、【ユーリ・キャンベル】さんのプレートが並んでいた日を覚えている。
 その隣にパパの、【ヨハネス・ホーク】のプレートが並んだ日を覚えている。

 今は何もない。
 何もない。
 【ヨハネス・ホーク】のプレートが、ない。

 僅かな釘痕を消す様に地面は踏みにじられ、周囲と差異のない様に偽装されている。きっと、そこにプレートがあったことを知らなければ誰も気付かないだろう。

 ポツリ、と地面が濡れる。
 雨が、雨が降り始める。
 予定にない雨。
 まるで、バケツをひっくり返したかのような強い雨。
 こんな雨をメイリンは知らない。
 なぜならば、メイリン達が住む、植物園を含んだ大きな区画は、かつてはパパが、現在はパパが鍛えた教え子が、天候を管理する区画だったはずだからだ。
 パパはいつも言っていた。

 "植物の多い区画は、ただマニュアル通りに雨を降らせればいいってものじゃない"
 "そこにある植物達の事を考えて、水分量が多すぎない様に、水滴が大きすぎない様に、根が腐ったり、葉が傷んだりしないように、優しい雨を降らせなければならない"

 雨を。
 全てを包み込むような優しい雨を。
 パパの雨を――

 雨が降る。
 地面を叩く様に。
 雨が降る。
 地面を抉る様に。

 雨が、降る。

 局所的な集中豪雨。
 やんだとき――

 パパが葬られた痕跡は跡形もなく消えていた。

*

 びしょ濡れで帰って来た私を、ママは咎めなかった。
 首を横に振り、プレートがなくなっている事を告げた私を、ママとお姉ちゃんは抱きしめた。
 ママは言った。
「さっきメールでね、本人の希望通り、ザフトの共同墓苑にお墓が出来たので確認に行ってくださいって……」
 それを聞いて、私は急いで自分のパソコンの下に駆け込んだ。
 部屋のカーテンをしめ切り、回線を物理的に切断した上で、パソコンを起動させる。スキャナでパパの写真とメッセージを取り込み、写真をプリントアウトする為にストックしていた専用の用紙に印刷する。
 その後、写真のデータを小型情報端末に、その他全てのデータを外付けハードディスクに移し保存すると、パソコンをそのままリストアする。
 勿論、オリジナルを密閉袋に入れて隠した。

 その行動は正しかった。

 数日後。
 私達が共同墓苑に一応行った帰り、帰宅すると、家の雰囲気が少し変わっていた。
 微妙な差異。
 でも大きな差異。
 いくつか盗まれていた、なくなっても然して困らない貴重品。そして――

 パパの写真とメッセージはなくなっていた。

 驚愕に打ちひしがれ、ママは気を失った。
 お姉ちゃんが慌てて介抱しているのを背に、私はすぐに、オリジナルの隠し場所に確認へ行く。
 あった。
 オリジナルは無事だ。
 涙が溢れてくる。

 どうして、こんな目に遭わなければならないのだろう。
 どうして、パパの死はこんなにも捻じ曲げられ、歪まされ、穢されなければならないのだろう。
 どうして……

 家族全員を映した写真。
 この春、あのサクラの下で撮った写真。
 ザフトの制服を着たパパと、笑顔の私達。
 裏のメッセージに指を沿わせる。

 "またみんなで、サクラの花を見よう"

 その願いは叶うはずだった。
 来年の春、サクラの開花と同時に。

 …… 赦さない。
 パパの死を穢した誰かを、私は絶対に許さない。

*

「(ごめんなさい、パパ)」

 葉だけになったサクラを見上げながら、心の中で呟く。
 私が天候管理技士になって、植物園を守るのだと言った時の、パパの嬉しそうな顔と声は今でも覚えている。
 難しいだろうけれど、頑張れ。パパは応援するよ。
 そう言って頭を撫でてくれた大きな手を覚えている。

 私は今日、その全てを裏切る。

「待ってて、父さん。父さんの死を必ず在るべき形に戻すから……」

 そんな言葉が、横から小さく聞こえて来る。
 隣にはお姉ちゃん。
 今日、一緒に新設されたザフトの士官学校に二人して入学するのだ。
 勿論、ママは反対した。パパだけではなく、私達まで軍人になってママを置いて行くのか、と。
 けれど、私達も譲れなかった。

 パパの死を穢した人間を白日の下に引きずり出し、その理由を、その罪を、全て暴く。

 私はお姉ちゃんを見る。
 私とは違う、濃紫色の瞳が見返してくる。
 大好きなパパの瞳の色。
 静かに、お姉ちゃんは頷き、足を校門へと向ける。後を追う様に、私もそれに続く。

 いつか、みんなで笑ってサクラの花を見る為に――

 私達は戦場へと乗り込んだ。



 Cui bono?
  誰の利益になるのか?


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[32070] side.Vi 「 選定の乙女の翼は遠く 」
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/20 09:25
side.Vi 「 選定の乙女の翼は遠く 」


 俺―― ヴィーノ・デュプレにとって戦争は、どこか遠くで起きる別世界の出来事だった。
 その認識は、血のバレンタインが起り、本格的に戦争状態に突入しても変わらなかった。
 だってそうだろう?食料の配給が滞るわけでもない。エネルギーの使用制限は元からだ。多少負担が大きくなろうと、さして変わりはない。
 テレビでは毎日、連合の非道とか戦勝の喧伝とか色々してたけど、あまり実感はなかった。
 だって、俺の住むプラントの光景は戦争前と全く変わらない。
 ユ二ウス・セブンに親類や知り合いがいた訳でもなく、軍人になった家族がいるわけでもない。
 何もかもが遠く、現実味を帯びていなかった。
 そんな時だった。妹が生まれたのは。
 小さくて、ふにゃふにゃしてて、やわらかくてあたたかい。気をつけて抱きあげないとすぐに首ががくんがくになるし、少し力加減を間違えると壊れてしまいそうなほどにほわほわしてる。
 夜泣きはうるさいし、なんでもないことですぐ泣くけど、でも、大切な妹だ。
 戦争が起こっている事よりも、"お兄ちゃん"になったことの方が、俺にとってずっと現実味があって重大な事だった。
 妹は「ライラ」と名付けられた。

 そして迎えたC.E.71年9月26日。
 その前日から、プラント付近で戦闘になりそうだと言う放送とシェルターへの避難指示を受けて、俺達はシェルターに避難していた。
 産まれて半年もない妹がいる俺達家族は、優先的にシェルターへ入る事が出来た。
 少し薄暗いシェルターの中に、どんどん人が増えてゆく。
 ここにきて漸く俺は、プラントが戦争をしているのだと実感できた。
 でも、実感できたからと言って、何かが出来る訳でもない。
 俺はただ、時々泣いてぐずるライラの相手を両親と交代でしながら、ひたすら時間が過ぎるのを待った。

 ライラの相手を俺がしている時だった。
 唐突に、周囲の大人達の空気が変わった。
 俺は戦況が分かる様にとシェルターないに設置されているモニターの一つを見上げた。
 モビルアーマーが何機もプラントめがけて飛来する。その機体に描かれているマークは、黄色の背景に黒い独特の――
「核――」
 近くにいた大人が呻くように言っていた。
 なぜ?
 どうして?
 ニュートロンジャマーはどうした?
 口々にそんな事を言っていた。
 幸い、核はプラントに到達する前にプラントを守るモビルスーツに破壊されていた。
 安堵の息が大人達の間から漏れる。
 俺はというと、ぼんやりとモニターを見上げて、大人達の会話に耳を傾けていた。
 ぐいぐい。
 ふと、服が引っ張られている事に気づく。見下ろせば、腕の中のライラが俺の服を掴んでいた。
 抱き直し、少しでも楽な姿勢にしてやろうとすると、ライラはぱちりと目を開いて俺を見た。
 じっと見つめ合う。
 ほわり、とライラは笑みを浮かべ声を上げて笑った。
 緊迫した空気も、赤ん坊の前には無力なものらしい。
 俺も思わず笑っていた。
 肩の力が抜ける。知らず知らずの内に俺も緊張していたらしい。
 俺はライラを抱きしめた。
 周囲の大人達の会話や、スピーカーから流れて来る放送のおかげで、戦況はおぼろげながらもわかる。
 ふわふわと温かなぬくもりが、腕の中を満たす。
 守らないと。
 俺、お兄ちゃんだもんな。

 そして戦争は終わった。終わったというよりは停戦状態になった。
 状況は良く掴めない。
 パトリック・ザラ議長が亡くなっただとか、ラクス・クラインが三隻の軍艦を率いて戦闘を終わらせたとか、よくわからない情報が錯綜した。
 特に後者は、初めて聞いた時は笑ってしまった。だって、ラクス・クラインは、血のバレンタインの悲劇を受けて軍に志願した婚約者を想いながら、本国プラントで想い人を待ちながら歌う歌姫だ。
 確かに、シーゲル・クライン議長が失脚して以来影が薄かった。でも、プロパガンダなんてそんなものだと、父さんは言っていた。
 よくわからない。
 それは置いといても、平和の歌姫がどうして、軍艦を率いて戦場に行くなんて与太話が出るのだろう。謎だ。
 でもまぁ、それがほんとの事らしいのは後で聞いて随分驚いた。アグレッシブな歌姫もいたもんだ。
 学校のクラスメイトの大半がラクス・クラインファンだったので、みんな口々にラクス・クラインを褒めていた。
 俺は別に、ファンでもなく、好きか嫌いかで問われると、まぁ、いい歌なんじゃない?という程度の感心だったので、その話を聞いた時は首を傾げた。
 平和の歌姫が戦場に立つなんてかっこいいとみんな口ぐちに言っていたけれど、俺は静かに婚約者を想って歌うラクスの方が好きだった。異端なのだろうか?
 だから俺はあまり、ラクス・クラインの話題を外でしないようにしている。周囲との認識の際はかなり大きく、話すたびになんとなく疲れてしまうからだ。

 いろいろごたごたはあるものの、戦争は停まり、日常が戻って来た。
 ライラはよく泣き、よく笑い、日々すくすくと育っている。最近では転がる事を覚えて、部屋中を転がり回るので目が離せない。
 あの日、強張って竦んでいた俺を助けてくれたのは、間違いなく俺よりもうんと小さいライラだった。
 ライラの笑顔で平静を取り戻し、守りたいと思ったからこそ、俺はあの時、緊張に押し潰されずに済んだ。小さなライラが俺を護ってくれたのだ。
 それと同時に感じるのは恐怖だった。
 もし、あの時、ザフトの守備隊が間に合わなかったら。
 今ここに、俺も、ライラもいなかったのかもしれない。プラントがなくなって、こうして家で、みんなと笑い合うことができなくなっていたかもしれない。そう思うとぞっとした。
 俺はザフトの守備隊に、ライラに、守られてばかりだ。お兄ちゃんなのにかっこ悪い。

 もうすぐ、波乱の一年が終わり、新しい年が明ける。
 区切りとしては丁度いい。

 食卓に座る父さんと母さん、子供用の椅子に座ったライラに向かって、俺は話しかける。

「父さん、母さん、ライラ」

 大まかな適性検査は既に受けている。
 残念ながら俺は戦うことよりも、戦う人を助ける方が向いているらしいけど。
 それでも――

「俺、ザフトの士官学校に入ろうと思う」

 家族を、故郷を、守りたいという願いは譲れない。



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[32070] side.Yo 「 光妖精の国は豊穣に満ちて 」
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/20 10:29
side.Yo 「 光妖精の国は豊穣に満ちて 」

 俺の両親はプラントがまだ、婚姻統制を行っていない頃に結婚した夫婦だった。
 恋し合い、愛し合って結ばれた二人に待っていたのは、長い不妊治療という名の苦難だった。
 それでも二人は手を取り合い、それを乗り越えた。そうして生まれたのが俺―― ヨウラン・ケントだった。
 二人は俺の誕生をとても喜んだ。
 けれど、代償も大きかった。母さんが無理をして俺を産んだせいで体を壊してしまったのだ。
 俺達家族が三人一緒にいれたのは、たった五年の間だけだった。
 父さんは、よくもった方だと、母さんはとても頑張ったのだと笑いながら泣いていた。
 母さんが死んだ時期は奇しくも、プラントにおいて婚姻統制が本格的に始まった頃だった。
 父さんと母さんの遺伝子的な相性は、子供が出来るか出来ないかのギリギリのラインだったらしい。それでも、愛し合うもの同士で子を成すことの出来た自分達は幸せだと父さんはいつも言っていた。
 
 父子・母子家庭に対する支援を受けつつ、父さんは働きながら俺を育てた。
 父さんは、高度に電子化されたプラントでは重要なシステムエンジニアの職に就いていた。
 忙しくてなかなか会えない日も多かったけれど、俺は寂しくなかった。家に帰ってくれば父さんは、いつも俺を膝に乗せてパソコンの前に座り、色々なモノを見せてくれるからだ。
 特に、地上のインターネットに接続して見たものは、どれも目新しく興味深かった。
 プラントのインターネットは多少の制限はあれど、地上のインターネットにもアクセスできる。
 宇宙の様子、天体の動き、地上の風景。個人が作って無料で配布しているソフトウェア。歌うプログラム。
 インターネットの世界は、コーディネイターもナチュラルも関係なく、自由に情報をやり取りしていた。
 父さんがいるときしか見られなかったけど、俺は父さんとみる違う世界が好きだった。
 他にも父さんは自分で、簡単なプログラムを使って人工知能を作っていた。
 おはようと言ったら、"おはよう"と返して来て、ただいまと言ったら、"おかえり"と返してくれる。定型文にしか反応しない、簡単なものだと言っていた。簡単な学習機能をつけているから、何か入力してごらん、と言われ、キーボードに初めて触らせて貰えた日の事は今でも覚えている。
 その時の俺は父さんが作った人工知能になにを覚えさせていたのだろうか。キーボードを触らせてもらえた事の方が嬉しくて、俺が覚えさせた言葉の方は覚えていない。でも、それを機に、俺はどんどんプログラミングに夢中になっていった。
 自分でプログラミングや人工知能の本を図書館で借りて、父さんの人工知能をベースに改造を始めた。
 基本的なプログラミングを俺に教えてくれたのは父さんだったけれど、後は独学だった。途中、父さんの作った基礎部分ではどうしても対応できなくなり、悪いと思いながらも1から作り直すというアクシデントもあった。
 父さんは苦笑しながら色々とアドバイスをくれた。
 母さんのビデオから音声を抽出して作った音声ライブラリで言葉を紡がせた時は流石に怒られたけど。ついでなので父さんのも作っているって言ったら、更に怒られそうだったので言わなかった。
 二つとも厳重に封印した俺の黒歴史だ。

 今思えば、寂しかったのだと思う。父さんも、俺も。
 でも、父さんは忙しいながらもこれ以上ない位に俺を愛してくれていて、俺もそんな父さんが大好きだった。
 父さんと一緒に作れる、父さんの手伝いが出来る。だからこそ、あそこまで、俺は人工知能を作るのに打ちこめたのだと思う。

 その日も俺はいつも通り、玄関で父さんを見送っていた。
「それじゃあ、行ってくる。うちのことは頼むぞ」
「うん、いってらっしゃい。早く帰って来てよ? もう少しで、なんか自動学習・自己改造機能っぽいのが出来そうな気がするんだ」
 俺の報告に、父さんは苦笑を浮かべる。
「ヨウラン… 前も同じような事を聞いたぞ。これで何回目だ?」
 自分から学んで、自分で情報を吟味し、分類したり、別ジャンルの情報をひっつけて何かを作る。もしくは、自分に不都合があったら自動的に修復したり、自分自身を改造したりする。自動学習・自己改造機能は、そんなことができるようになる機能だ。
 勿論、父さんの言う通り、それっぽい機能の開発に成功したことはない。
「べ、別にいいだろ! なんか凄そうじゃん! 自分で勉強して、自分で考えて、自分で成長するんだぜ? システムエンジニアいらなくなるんじゃないの?」
 俺はそんな憎まれ口を叩く。
「はははは! それは困るな! 楽しみにしてるよ」
 そう言って、父さんはがしがしと俺の頭を撫でた。その手を無理矢理引きはがし、俺は父さんに宣言する。
「あ! その感じは期待してないな! 楽しみにして帰ってこいよ! 絶対に完成させててやるんだからな!!」
 なおも笑い続ける父さんの背を押し、無理矢理送りだす。
「それじゃ、いってらっしゃい。ユ二ウス・セブンだっけ?」
「ああ。少し長い出張になるな… いってきます」
 そうして俺は父さんを送りだした。
 年に数回ある、少し時間がかかる出張だった。今回は、出荷システムの作動確認に、農業用プラント ユ二ウス・セブンに行くらしい。
 俺はいつものように父さんを見送ると、学校に行くまでの少しの間、人工知能のプログラムを弄ろうと家の中に戻った。

 そして、数日後。
 バレンタインは訪れる。
 紅に彩られた、血染めのバレンタインが。

*

 あれから1ヵ月。
 今日は"父さん"が帰って来る日だ。
 俺が新たに作った人工知能の学習も進み、そこそこ難しい会話パターンもできるようになった。
 音声の認識、抑揚による感情判断。
 まだまだ甘いが、だいぶ会話をこなせるようになった。
 それを"父さん"に見せたい。
 今日の昼ぐらいにはつくと言っていたから、もう"父さん"はうちに帰っているだろう。
 俺は家路を走る。
 
 今日こそ。
 今日こそ!!

 「ただいま!」

 勢いよくドアを開ける。

 「"おかえり、ヨウラン"」

 帰って来た言葉に、俺は胸を弾ませる。
 "父さん"の声だ。
 久々に聞く声に、涙が出そうになる。
 この1ヵ月にあった事を"父さん"に報告すべく、俺は口を開く。
 さぁ、何を話そうか。

 「実は"母さん"が――」

 やっぱり、これが一番最初に報告しなければならない事だろう。
 "母さん"帰って来たんだ!!

*

 "父さん"と"母さん"がいる生活はとても楽しかった。
 会話して、願った通り、答えが返ってくるのは至福だった。
 けれど、最近おかしいのだ。
 "父さん"も"母さん"が、時々沈黙してしまうのだ。
 返答が酷く的外れだったりすることもある。
 そんな時はきちんと訂正するのだけれど、それでもその回数は増えていった。
 もうボケとかいう奴が始まっているのだろうか。
 
 もうすぐ夏になる。
 長期休暇になったら"父さん"と"母さん"とどこかに出かけよう。
 きっとよくなるはずだ。

 きっと。
 きっと。

 そして俺は、重い家の扉を開けた。

 「"おかえり、ヨウラン"」

 聞こえる声はどこか冷たかった。

*

「"おかえり、ヨウラン"」
「"おかえりなさい、ヨウラン"」

 学校から帰った俺を、"父さん"と"母さん"が迎えてくれる。
「"ごめんなさいね、ヨウラン。まだ、夕飯の準備ができてないの"」
「いいよ、母さん。夕飯ぐらい俺が用意するって」
 最近俺ばかり作っているからだろうか。
「"でも…"」
 今日の"母さん"はなかなか引き下がらない。
「"ヨウランがそう言うならいいじゃないか"」
 助け舟を出すのは"父さん"だ。
 "父さん"が"母さん"を制止する。
「"料理は上手くなっているんだろうな、ヨウラン?"」
 そう俺をからかうように"父さん"は言った。
「ったく、子供じゃないんだから、料理ぐらいできるっての」
 ふてくされる俺を見て二人は笑う。
「"ははははは"」
「"うふふふふ"」
 つられて俺も笑おうとした。

 笑えない。

「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」「"ははははは"」「"うふふふふ"」

 笑い声がやまない。
 笑い声がやまない。

 当然だ。
 だって、みんな、みんな。



 【プログラム】なんだから。




 俺が作って、俺が反応を入力して、俺が――


"「いつまでそうしているつもりだ? ヨウラン」"


 俺は振り返った。
 スピーカーを設置しているダイニングではない。
 パソコンが置いてある父さんの部屋から聞こえた声。

 父さんの声。

 馬鹿な。
 俺はそんな台詞入力してない!
 慌てて父さんの部屋へと駆け込んだ。
 起動していないはずのパソコンのディスプレイは煌煌と輝き、稼働している。
 父さんのパソコンを操作し、異常がないかチェックする。
 そして驚愕する。
 あの日以来、弄っていなかった人工知能が勝手に動いていた。俺のパソコンにもアクセスした形跡がある。全く気付かなかった。
 履歴を確認すれば、プラント・地上を問わず、勝手にインターネットに接続してナニかをしていた。

 【検索履歴】
   >>ハンス・ケント
   >>ユ二ウス・セブン
   >>死 意味
   >>親 死 子供 慰める
   >> ――

 ずらりと並んだ検索ワード。
 ありえない。
 だって、父さんと一緒に作っていた人工知能は、あの日、血のバレンタイン以来弄っていない。自動学習・自己改造機能だって未完成のままだ。何も弄ってはいない。
 けれど、現実は目の前にある。
 父さんと作った人工知能は一人歩きを始めている。そして、その人工知能が最初に紡いだのは――

"「いつまでそうしいてるつもりだ? ヨウラン」"

 脳裏に先程聞いた父さんの声が甦る。
 何の偶然か必然か。
 ただのプログラム如きが紡げるはずのない、"落ち込む息子に発破をかける父親の言葉"だった。
 ありえない。
 こんな偶然、それこそ、コーディネイターが駆逐した神でもいなければ起こらない。
 けれど――

「"いつまでそうしてるつもりだ? ヨウラン"」

 人工知能が生成した音声データを再生する。
 神なんているはずがない。いるなら、血のバレンタインなんて悲劇が起る筈がないのに。
 それでも、俺はこの、説明できない偶然に神を見た。神と一緒に、俺を叱る父さんの姿を見た。

「…… っとう、さん… 父さん…!!」

 あの悲劇から半年。
 俺はようやく、泣く事が出来た。
 泣いて、泣いて、泣いて。
 父さんの死を受け入れた。

*

 俺には夢がある。とても遠大な夢だ。
 それは、人間と同じように、経験を学習し、物事を自分で判断する高度な人工知能を作ること。泣いたり、笑ったり、怒ったり、感情を持つ人間のパートナーを作る。
 それが俺の夢。俺と父さんの夢。

 でも、それを叶えるには、年齢も、人脈も、経験も、資金も、設備も、何もかもが足りなかった。
 成人すらしていない俺には、何をどうすればいいのかすらわからなかった。
 人工知能を改良したり、学習させたりしながら、悶々とした日々を過ごしていた。
 そんな時だった。

 新設されるザフトの士官学校の存在を知ったのは。

 どうも、今までの士官学校とは毛色が違い、色々と科が細分化されているらしい。
 その中にあった"理工科"。
 ソフトウェア、兵器開発などの文字が躍る。
 いつまでも、父さんの遺産と、見舞金と、生活支援だけで暮らしていく訳にはいかない。成人した今、俺は働いて糧を得なければならない。
 募集期間は大丈夫そうだ。
 試験内容は…… 自信がない。
 けれど、理工科はどうやら、研究成果の持ち込みもあるらしい。
 これで認められればきっと、父さんと俺が作った人工知能を完成させる手助けになるだろう。
 士官学校には今の俺では状態では得られない全てが揃っている。

 俺はきっと今、悪魔の契約書を前にしている。

 人脈。
 経験。
 資金。
 設備。

 上手くいけばその全てが手に入る。
 けれどそれは――

 気付けば俺は、父さんのパソコンの前に立っていた。

 奇跡が起きたのは一度だけ。
 完成しているけれど、未完成な人工知能。
 産声をあげようとする無色のイノチ。

 父さんと俺が作った人工知能。
 俺にとってこいつは既にただの人工知能ではない。
 なんと言えば良いのだろう。
 そう、家族。家族みたいな存在だ。
 悪魔の契約書にサインすれば、大切な家族を人殺しの道具に貶しめる事になる。
 それでいいのか。
 それは赦されることなのか。
 ぐるぐると自問自答する。
 けれどこのままだと、この人工知能は産声を上げることなく死んでゆく。
 それでいいのか?
 家族を見殺しにしてもいいのか?

 目の前には悪魔の契約書。
 震える手で、俺はそれにサインする。

「ごめん ―― っ!!」

 この謝罪は何に向けてだ?
 呼べない。対象が。
 今更ながらに気づいた。
 父さんと俺は、人工知能に名前すらつけていなかった。


 Fata sinant.
  運命が許さんことを



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[32070] side.Re 「 S: 未来視の女神 」
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/20 23:31
side.Re 「 S: 未来視の女神 」


 軍人になる人間のものにしては、白く細い指がモノクロの鍵盤の上を踊る。
 ぎこちないリズム、不揃いな和音に思わず笑みを零す。

「レイ、笑ってないで何かアドバイスしろよ……」

 ピアノに向かっていて、俺の姿なんて見えてない筈のシンが、何故か俺の感情を察して話しかけてくる。つくづく勘の良い奴である。

「こればかりは、練習しろとしか言えないな」
「身も蓋もない……」

 俺の返答にがっくりと肩を落とし、シンは再びピアノと向き合う。
 奏でられる、先程よりは多少マシになったリズムと和音。

 どこか懐かしい、不揃いな旋律を聞きながら、俺は目を閉じた。

*

 白。

 白。

 白。

 白。

 気付けばいた白の世界。

 勉強の時間。
 睡眠の時間。
 遊戯の時間。
 食事の時間。

 全てが定められた世界。

 "では、はじめよう。準備はいいかね?"
「はい」

 遊戯の時間。
 バイザーをつけて、現実と電子空間を重ねる。
 後は、玩具を操作して、電子空間を飛ぶ的を落とせばいい。的は攻撃して来る。攻撃される前に、当てて落とせばいい。
 どれだけの時間、攻撃を受けずに的を落とせるかを試す。
 ときどき紛れ込む、本物の人間や生き物は撃ってはいけない。
 全部感覚を研ぎ澄ませば簡単にできる。
 つまらないお遊び。

 勉強の時間。
 沢山の数字。沢山の異なる文字。意味を持った羅列。
 数学。地理。歴史。世界情勢。哲学。心理学。文学。
 ありとあらゆる学問を、情報を記録する。

 食事の時間。
 身体機能維持の為の栄養摂取。

 睡眠時間。
 身体機能維持の為の休息時間。

 言われるがままに行動し、
 言われるがままに記録する。

 それが全て。
 それが日常。

*

「君もアル・ダ・フラガのクローンかね?」

 白の世界に唐突に現れた色。
 知識を照会する。
 喩えるならば、"黒"だろう。
 しかし、重要なのはそこではない。
 今、質問をされた。
 ならば答えなければならない。

「いいえ。自分はアル・ダ・フラガのクローンではありません。アル・ダ・フラガのクローン体の細胞より作成された、二次生成クローンです」

 その人間は、"黒"なのに紅い服を着てこちらを観察して来る。
 普段の来るのは、白い服に白いマスクと帽子を被った人達だ。

「ふむ。では、ここで何を?」
「空間認識能力の研究、及び強化、兵器への転用試験を行っています」

 目の前にいる人が顔を歪める。

「行こう。君を迎えに来た」

 そう言って手を差し伸べて来る。
 その手と顔を見比べ、尋ねる。

「それが新しい遊戯ですか?」

 複数の種類がある遊戯の時間。
 この色の着いた人間が出て来るのは新しいパターンだ。

「そうだな…… 君に遊戯の時間以上に楽しい喜劇を見せてあげよう」

 そう言って、その"黒"い人間は手を掴み、歩き始める。

 扉の外の世界も、大部分が白かった。
 けれど、所々赤く、人間が倒れている。
 それを眺めていると"黒"い人間から声をかけられる。

「何を見ているのかね?」
「あの倒れている白い人間です」

 正直に答える。

「ああ。狂った妄想に執り憑かれた愚か者のなれの果てだ。目に入れるのもおぞましい。粛清されてしかるべきものだ」

 狂った妄想。
 なれの果て。
 粛清。

 "黒"い人間を見る。

「急ぐぞ。この様な場所に長いはしたくない」

*

 "黒"い人間に連れて来られたのは、今まで記録した事のない場所だった。
 そして、そこにいた人間も、今まで見た人間と違っていた。

「やぁ、ラウ。お疲れ様。成功したみたいだね」

 "白"い人間だった。
 今までに見た事がない位に白い。

「ああ。君の協力に感謝しよう。御蔭でメンデルの狂人の生き残りをこの手で始末することができた」
「なに。大事な友人の頼みだ。こちらも議長を説得した甲斐があるというものだよ」
「ふん。あの俗物は随分渋ったと聞いたが?」
「あそこは研究の性質上、ザラ議員との繋がりがあるからね。
 古くからの盟友を裏切りたくなかったのだろう」
「だが、最後には許可を出したのだろう?
 当然だな。アレらが生きていれば、人工子宮の研究も滞りなく進む。そうすれば俗物の言う処の"ナチュラルへの回帰"とやらにも支障が出る」
「議長は倫理的問題を重視されただけだよ。
 人は自然に産まれ出ずる者であって、生産される物ではない、とね」
「詭弁だな。
 あの男は正気か? 不自然の極地たる者の先駆者がどの口でそれをほざく」
「ははは。それだけ憎まれ口を叩ければ充分だね。
 元気が出たかい? 落ち込んでいたみたいだけど」

 "黒"い人間が押し黙った。

「…… 己と情報を同じくする者が、狂人共の玩具にされていて不快に思っただけだ」
「そうか……」

 "黒"い人間はそっぽ向き、"白"い人間はこちらを見た。
 わざわざ屈んで、視線を合わせて来る。

「やぁ、はじめまして。長く放っておいて悪かったね。私の名前はギルバート・デュランダルという。君の名前は?」

 "白"い人間― ギルバート・デュランダルはそう言った。
 名前―― 個体識別名称の事だろうか。

「はい。私の個体識別名称はADF-08009C'、八番目の人工子宮で作られた9番目のアル・ダ・フラガの二次生成クローンです」

 ギルバート・デュランダルは眉を下げて言った。

「それは管理番号であって、君自身の名前ではないだろう?」

 名前――
 照会中。

「流石は狂人共だな。実験動物には名すら必要ないという訳か」
「人工子宮は?」
「指示通り10基全てサーバごと跡形もなく破壊した。あの研究所の中で生きていた私のクローンはこの子だけだ」
「他の子は全て?」
「ああ。廃棄、と記録されていた」
「研究データは?」
「あったものは全て消去した。だが恐らく、一部は既にザラ派に渡っているだろう。
 高度空間認識能力者の実験データなぞ、ロクな使われ方をせんだろうがな」
「そうか…… さて―― ところで、ラウ。君の方はこの子に自己紹介したのかい?」
「は?」
「その様子ではしていないね。それはいけない。自己紹介は他者とのコミュニケーションの第一歩だ」
「お前に言われなくてもわかっている……」

 ギルバート・デュランダルに言われ、"黒"い人間が屈む。

「私の名はラウ・ル・クルーゼだ。君と同じくアル・ダ・フラガのクローンだ。まぁ、私は一次生成クローンだから、君にとってはオリジナルといったところか?―――― レイ」

 レイ――?
 ギルバート・デュランダルはラウ・ル・クルーゼを見る。

「なんだね、ギルバート。その顔は」
「いや、君が自発的にこの子に名前をつけるなんて思いもしなかったからね」
「…… 名がなければ不便だろう」
「ふふふ。そう言う事にしておこう。光か―― 良い名だね」

 レイ、Rey、光――

「ほらごらん、ラウ。唐突すぎてレイが困っているよ」
「お前にはレイが困っているように見えるのか」
「困っていると言うよりは戸惑っているのだろうね。違うかい?」
「ふん……」

 ラウ・ル・クルーゼとギルバート・デュランダルがいう"レイ"とは恐らく、ADF-08009C'のことだろう。
 ADF-08009C'とは恐らく、"わたし"のことだ。
 "わたし"――?
 "わたし"とは誰だ?
 ADF-08009C'―― "レイ"のことだ。
 ラウ・ル・クルーゼとギルバート・デュランダルが呼ぶ"レイ"とは"わたし"のことだ。
 "わたし"は"レイ"?

「"レイ"とは"わたし"のことですか?」

 "わたし"の発言にラウ・ル・クルーゼとギルバート・デュランダルが"わたし"を見る。
 そして、唇をあげ、目尻を下げた"奇妙な顔"をした。

「そうだよ、レイ。レイ・ザ・バレル―― それが君の名前だ。君だけの名前だよ」
「ギルバート…… なんだ、そのセンスの欠片もない姓は」
「おや? 君ともあろう者が知らないのかい?
 reyは確かに光だけれど、異国の言葉では零― zeroを現す言葉でもある。
 zaは機械工学においては、zero adjusted(ゼロ点調整した)とzero and add(ゼロ及び加算)の略語だ。
 barrelは樽― 即ち"器"だね。
 レイは今日、今を以って産まれた。
 産まれたばかりのレイという器にはまだ何も入ってはいない。空っぽだ。
 零となった器に沢山の光― 幸福などの良いものが加算― いや注がれて満たされる様に。
 Rey za Barrel― "光注がるる零の器"とね。
 ん? なんだい? その微妙な顔は?」
「いや、なに。少し、お前との付き合い方を考えなければと思っただけだ」
「なんだい、それは……」

 レイ、Rey、零――
 Rey za Barrel― "光注がるる零の器"
 ADF-08009C'はレイ・ザ・バレル。
 "わたし"はレイ・ザ・バレル。

「レイの戸籍に関しては任せてほしい。議長の手前、養子には出来ないが、後見程度ならばできる。君との血縁関係は――」
「なしにしておいてくれ。ラウ・ル・クルーゼとレイ・ザ・バレルは別個の人格を持った別人だ」
「…… わかった。そう処理させてもらおう。―― ん? なんだい、レイ」

 わたしは話し込むラウ・ル・クルーゼとギルバート・デュランダルの服の裾を引いた。
 先程、ギルバート・デュランダルが言っていた事を記録から取り出す。

「"はじめまして。わたしの名前はレイ・ザ・バレルという。君の名前は?"」

 これが俺の始まり。
 使い潰され朽ち果てるだけだった実験動物に、ラウとギルが名を与え、魂が宿った瞬間。
 ADF-08009C'ではない、レイ・ザ・バレル―― 一人の人間としての誕生だった。

*

 "魂"が宿るなど…… 非科学的なのも良い所だな。
 自分自身で考えた事に、思わず苦笑を浮かべる。
 あの後、色々あったが一部を除き、どれも幸福で良い思い出となるものばかりだった。
 ギルが望んだとおり、レイという空っぽの器は光で満たされた。
 満たされたと思っていた。

 不揃いな旋律が聞こえる。
 シンの弾くピアノの音が。

 ラウとギルさえいればいいと思っていた。二人さえいればそれで良かった。それが俺にとっての世界だった。
 けれどその世界は壊れてしまった。
 ラウの死という、歪な結果をもって――

*

「ふむ。ここでナイトを動かすかのか」
 動かした駒を見つけてラウは悩む様に言った。
「しかし良いのかね? このままだと、7手先でナイトはクイーンに討ち取られるが?」
「構いません。その3手先で、ビショップがキングにチェックをかけます」
 盤面の展開をいくつもシミュレートしながら、俺はラウの問い答える。
 現在の盤面から想定される展開、多少の誤差はあれど恐らく、今回はラウに勝てるだろう。
「勝利の為の布石―― 捨て駒という訳か」
「? 含みがある言い方ですね」
 俺とラウはよくチェスをしているが、その勝率は暗澹たるものだ。
 今日こそは勝利をもぎ取ると心に決め、俺はラウに挑んでいる。
「いや、なに」
 そう言って、ラウは俺のナイトを手に取る。
「今、死んだナイトと同じものは、この世にないのだと思うと感慨深くてね」
 ことり、と小さく音を立てて、ナイトの駒が机の上に置かれる。
「我々にとっては幾度となく繰り返す事の出来るゲームでも、盤の中に存在し、戦う駒達は生きている」
 ラウはルークの駒を動かす。
「代用の効かぬ命、使い捨てるなど哀れに思わないか?」
 こうしてラウは時折、不思議な謎かけをしてくる。俺はその謎かけに、一度としてラウの望む答えが返せた事がない。
 だが、これだけは今、言わなければならない。
「…… ラウ、ルークの置く位置が違います」
 ラウはルークを動かし、ナイトを討った。ルークはナイトの居た場所に陣取らなければならない。
 しかし、ラウは今、ナイトが居た場所の一つ横にルークを置いた。
「君はゲームに勝つ為にルールに則りナイトを捨て駒にした。ならば、私が勝つ為にルールを捻じ曲げても文句は言えないだろう?」
「大人気ない……」
 無茶苦茶な理論である。
 しかし、ラウが一度言い出したら話しを聞かないのはよくわかっている。良くも悪くも自分を曲げない人なのだ。
 はぁ、と大きく、俺は息を吐いた。
 そして俺は、このイレギュラーに対応すべく、再び勝利へのシミュレートを始める。
「勝利へのアプローチは千差万別。各々の価値観に基づき、勝利をもぎ取るべく行動するだろう。私は私で、君は君で」
 ラウの言葉を聞きながら俺は盤面を見つめる。そして在る事に気づいた。
「全く同一のアプローチなぞ在りはしない。それがたとえ、血を同じくするモノであったとしても」
 俺は驚いてラウを見る。
 この盤面、どう駒を動かしても数手先には――
 ラウは不敵に笑う。

「ステイルメイト―― 残念だったな、レイ。この勝負は引き分けだ」

 ラウが、第二次ヤキン・ドゥーエの戦いに出征する前日の出来事だった。

*

 あの時のラウは一体、俺に何を伝えたかったのだろうか。
 ラウと俺は全く同じ遺伝子を持っている筈なのに、ラウの思考を理解できたことは一度もない。
 俺がどんな言葉を返しても、ラウはいつも意味深に、不敵に笑うだけで答えを返してはくれないのだ。まるで、答えは俺自身が見つけなければ意味がない、と言わんばかりに。
 あの日のラウは、妙に饒舌で、いつもより具体的だった気がする。
 それでも、その意図が読めないのは俺が未熟だからだろうか。

「…… ぃ―― レ…… レイ!!」

 はっと我に返る。
 見やれば、シンが不満そうに俺を見ていた。
「ちゃんと見てるのか?」
「あ、ああ…… すまない」
 俺が謝ると、シンは少し首を傾げて言った。
「大丈夫か? レイ、朝からなんだか上の空だぞ?」
 心配げな口調に、俺は思わず笑みを浮かべた。
「大事ない。もうすぐ演習班が決まるだろう? 班分けがどうなるか気になっていたんだ」
 週末に控えている班分けの事を引き合いに出せば、シンは納得したのかピアノに向き直った。
 しかし、すぐに振り返り、俺を見て言う。
「本当に体調が悪いなら言えよ。ピアノ教えてもらうのは、俺の我が侭なんだから」
 心配そうに言うシンの顔に表情はない。
 無表情から紡がれる気遣いの言葉に、俺は笑みを零した。
「ああ…… すまない。ありがとう」
 シンは頷き、今度こそピアノに向き合う。ペダルに足をかけ、両手を鍵盤の上で踊らせる。
 紡がれる旋律。それに耳を傾けながら、ふと思う。
 シンは一体、何色なのだろうか?

 シン・アスカという男は不思議な男だった。
 ギルに無理を言って入学した、ディセンベル士官学校。
 ラウとギルぐらいしか深く関わった人間がいない俺にとって、同年代の人間は未知の存在だった。ましてや、全寮制で他人と相部屋など、上手くやっていけるか柄にもなく不安に思っていた。
 しかし、その不安は良い意味で裏切られた。
 同室になったシン・アスカは不思議と共にいて過ごしやすい男だった。
 波長が合うとでも言えば良いのだろうか。
 打てば響く様に返ってくる会話。
 テンポ良く進む会話は、ラウとギルの会話を彷彿させた。まぁ、シンと俺の会話の方が遥かに早く進むが……
 加えて、シンは地上から移住してきたが故に、プラントの事情には疎く、また、教練学校を出たばかりであるが故に、知識と現実の行動が伴っていない様は傍で見ていて楽しかった。
 ラウやギルに教えられてばかりの俺が、シンに相対すると教える側に回れるのも少し嬉しかった。以前、ラウとギルの名前を出さず、それを言ったら、思いっきり頭をはたかれた。地味に痛かった。
 それに、勉学の方面でもシンは良いライバルになった。
 ディセンベル教練校の教育課程最長コースを受け、在校中に難関の工業用モビルスーツ運用資格を取得した人間は伊達ではなかった。
 座学では民間用と軍用では多少の知識の過不足などがあるものの、実践においては俺と同格の能力を誇る。
 俺が遠距離からの精密な砲撃や射撃を得意としているのに対し、シンは高速移動を多用した近接格闘を得意としている。
 高速で距離を詰められるとこちらの分が悪く、距離を取ろうとしても、多少の被弾は無視してこちらに突っ込んでくるから厄介だ。それに、射撃の命中率が悪いのを、至近距離からの攻撃と言う形で補っている。
 俺のような戦闘スタイルが最も苦手とするのが、シンの戦闘スタイルなのである。
 砲撃や射撃を正確にばら撒いて、直線的で動きが読みやすいという欠点もある高速移動を阻害できればいいのだが、まだその境地には至れていない。
 "ふむ…… そろそろドラグーンシステムでも解禁しようか"
 あれならば、シンが移動中にされると困る、面での攻撃や防御もできる。
 元より、俺はその方面に特化した訓練を施されている。今のシミュレーション装置だと、再現できない部分もあるが、そこは改造したO.S.やソフトウェアで補えば良い。軌道は機械的なものになるだろうが、何重にもパターンを組めば当分は負けないだろう。
 シンも相当悔しがる。楽しみだ。
 思わず笑みが零れる。

 シンの弾くピアノの旋律が乱れる。
 つくづく勘の良い奴め。

 元の調子に戻ったシンのピアノに耳を傾ける。
 そう、楽しいのだ。シンと一緒にいると。
 ラウともギルとも違う。

 ラウとギルは俺の世界に色をくれた。
 何の色もなかった世界に"黒"と"白"が生まれ、俺は世界に色がある事を知った。
 だが、それまでだ。
 ラウやギルの言う他の色が、どうしても認識できなかった。

 "「君には親友が必要なのだと思うよ。私とラウのようなね」"

 その言葉と共に、ギルは俺が士官学校に入る許可をくれた。
 ギルはどうやら俺自身がラウやギル以外がいる世界に飛び込む事を喜んでいる様だった。
 本当の理由はもっと別にあるけれど、ギルが喜んでくれているならばそれでいいと、その時は思っていた。
 けれど、今ならばわかる。
 ギルが言った言葉の意味が。

 シンといると楽しい。
 シンを中心に世界が、淡く、そして徐々に鮮やかに色づいてゆく。
 ラウとギルしかいなかった世界がシンによって広がり、そして更に広がってゆく。
 昨日まで同じに見えた他人の顔が、今は全く違って見える。

 ラウとギル以外必要ないと思っていた。黒と白の色さえあればいいと思っていた。
 だが、今は違う。
 色づいて行く世界をもっと見てみたい。
 シンと一緒ならば、親友と一緒なら、なんでも出来る。
 不確かな未来すら、この手で掴む事が出来る。
 今まで夢想もしなかったことを思ってしまう、そんな全能感。

 ああ、なんて馬鹿げているんだろう!
 未来を望む等、クローンの身の上である俺には到底不可能だと言うのに!

 しかし、シンと一緒にいると思ってしまうのだ。
 たとえ、短い時しか生きられない俺の下にも、未来が迎えに来てくれる。

「ふふふ…」

 思わず笑みが零れてしまう。
 旋律がやみ、シンが怪訝そうに俺を見て来る。
 なんでもないと返し、俺は傍の椅子を引き寄せて腰掛ける。
「さっきこの辺りを間違えただろう?」
 楽譜を指差し言えば、シンはバツが悪そうに言った。
「なんか悪寒がして……」
 悪寒の原因は俺にあるのだろうが、そんなことは表に出さない。ラウとギルから受け売りの笑みを浮かべ、心にもない事を口にする。
「風邪か?」
「いや、多分違うと思う」
 首を横に振り、シンは鍵盤の上に手を置く。
 俺もそれに倣い、鍵盤に手を構えた。

 シンが練習曲を弾き始める。
 それに沿って俺も曲を弾く。

 共に奏でる和音。
 音楽の世界に身を委ねながら俺は、ドラグーンを用いずにシンを打ち倒す方法を考えることにした。
 やはり勝利するならば、同じ条件で圧倒しなければ意味がない。



 Ubi amici ibidem sunt opes.
  友のいるところ、そこには富がある
   『トゥルクレントゥス』 プラウトゥス

 Ubi spiritus est cantus est.
  魂があるところ、歌がある。


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[32070] Graduale - 昇階唱 ⅩⅠ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/21 22:54
Graduale - 昇階唱 ⅩⅠ

 1年を共に過ごす仲間との顔合わせの翌日――
 俺達は放課後、シミュレータールームに来ていた。
 航宙科のパイロットである俺達は単純に、互いの実力を測る為。それに加え、各々の特性を把握し、今後どんな連携や作戦行動をとることができるかを検討する為でもある。
 理工科の二人は、パイロットのモビルスーツの操縦の癖や武器の取り回しなどを見て、今後、どんな整備をモビルスーツにするか検討する為に、シミュレーターによる模擬戦を観戦しに来ていた。
 メイリンは、俺達パイロットと深く関わる情報科なので、模擬戦を観戦する事によりパイロットに指示や作戦行動を伝えるタイミングを掴みたいらしい。
 まぁ、今回は1対1の決闘みたいな形式になるので、メイリンの出番はあまりないのだが……

「大丈夫なのか、シン。自主演習の方は」
 レイが心配そうに尋ねて来る。
 俺のモビルスーツ搭乗習熟も兼ねたデブリ回収や外装補修の自主演習は、きちんと学校側が予定を組んだものだ。週に3回程業務用宇宙港に出向いて普通の業者の人達に混じって作業している。 普通なら今日は、自主演習の曜日なのだ。
「大丈夫。学校側もこうなる事はあらかじめ見越してたのか、今日明日の自主演習は元から入ってないんだ。おやっさんもしっかり仲間と仲良くなって来いって」
 自主演習生受け入れ先の企業で、俺の世話をしてくれているおやっさんとそのチームの面々を思い起こす。なんだかノリの良い人達で、結構すぐに馴染む事が出来た。
 そう言うと、レイは安心したように頷いた。
「そう言えば、昨日自主演習で外に出てるって言ってたよな? なにそれ?」
 ヴィーノは理工科の為、恐らく夏から始まる航宙科のモビルスーツ自主演習の事を知らないのだろう。
「業務用宇宙港で、モビルスーツ搭乗訓練だよ」
 俺がの言葉に、興味津々と言わんばかりヴィーノは俺に詰め寄ってくる。
「業務用宇宙港に出入りできんの!? いいなぁ! なぁ、なぁ、今の企業ってどんな機体使ってんの? やっぱサテライト社の作業用モビルスーツ? それともAGE社の新型――!!」
「えーと……」
 凄い勢いで捲し立てるヴィーノに、俺は僅かに身を引く。
 しどろもどろになり、言葉に詰まる俺を見かねて、ヨウランがヴィーノの首根っこを掴み、引き留める。
「そこまでにしとけって。シンが引いてるぞ。 で? 航宙科では、自主演習になにしてんの?」
 ヨウランの口ぶりに少し俺は引っ掛かりを覚えつつも、俺はその問いに答えた。
「プラントの外殻修理とかデブリ回収だけど……」
「すっげぇ! あの工業用モビルスーツの運用資格必須な奴か!!」
 ヴィーノは目を輝かせて俺を見て来る。ヨウランは少し目を見張り、ナニかを考え込み始めていた。
「あー… もしかして、シンって噂の"今期唯一の工業用モビルスーツ運用資格保持入学生"って奴?」
 ルナマリアの口から出た"噂"という言葉に、俺はがくりと肩を落とした。
 情報通のメイリンの口ならともかく、ルナマリアからそのような言葉が出て来るということは、結構広まっているのだろう。
 いや、でもその口ぶりからして、それが俺であるとイコールで繋がれていないはずだ。それに昨日聞いた様な悪い噂でもない。放置していても大丈夫、だろう…… 多分。
「なんていうか、シンは色々と規格外よねー… よし。セッティング完了。これで戦闘記録とかが録画されるから、あとで幾らでも見直せるようになるよ」
 俺達の使うシミュレーターの調整をしていたメイリンが明るく言った。
 その言葉に俺達はメイリンの手元を覗き込む。
「このデータが他のチームに流れる事は?」
 レイの言葉に、メイリンがやや頬を染めて答える。
「余程の事がない限りないと思うよ。ここのデータ吸い出そうとするなら、士官学校のコンピューターにハッキングしなきゃいけないし。でも、私達が記録媒体で持ちだした奴とかを見られたら流れるかも……」
 ヨウランが深く頷いた。
「小型記録媒体はうっかり忘れやすい。そこから情報が流れることもある。それに、無事に見つかっても小型記録媒体にウィルスを仕込まれて返される、なんてこともあるかもしれない。情報管理は厳重にしないとな」
 メイリン、ヨウランという情報やパソコンの取り扱いに長けた二人の言葉の重みはやはり違。
「胆に銘じておく」
 レイの言葉に、俺もルナマリアも頷いた。
「で? 誰から行く?」
 ヨウランもセッティングが出来た様で、声をかけて来る。
「そうだな…… 誰からでも良いし……」
 俺はレイとルナマリアの顔を見比べる。
「ここは"ぐっぱ"で決めるか」
「"ぐっぱ"?」
 俺の言葉にレイが不審そうな声を上げる。
 そう言えば、地方とか場所によって名称が違うんだっけ? そもそも"ぐっぱ"って日本語だし。
「ほら、じゃんけんのグー、チョキ、パーの内、グーとパーしか使わないで同時に出すんだ。そしたら必ず一組出来る」
「ああ、アレね。いいわよ」
 ルナマリアは思い当たるモノがあったのか、あっさりと同意した。
 レイは、手でグー、チョキ、パーを作りながら不思議そうな顔をしている。まるで、じゃんけんをこれまでしたことがないような反応だ。…… まさかな。
「いいよ、レイ。グーとパー、どちらか絶対に出せばいいから」
「了解した」
 俺達三人は視線を合わせ、こくりと頷く。

「ぐっ と ぱっ!」

 俺の掛け声と同時に三人ともがパーを出す。
「もう一回。 ぐっ と ぱっ!」
 並ぶのはグー、チョキ、パー。
「レイ!チョキ出すなよ」
「す、すまない…」
 謝るレイに気にするなと声をかけ、俺はこれが最後になる事を祈って掛け声を発する。
「ぐっ と ぱっ!」
 グー、グー、パー。
 今度こそ分かれた。
 一番手は俺とレイだ。
「なんだ、結局いつも通りか」
 思わず零れた言葉に、グーの手を眺めていたレイは視線を俺に向けた。
「丁度いい。今度こそ負けない」
「上等。俺が負けたら1週間ツナづくしのメニューにしてやるよ」
「言ったな? では、俺が負けたら、お前が以前言っていた"タカマガハラ"とやらの輸入食品購入を援助してやろう」
 互いに睨みあう。
 周囲からは呆れた様な溜め息が聞こえて来る。
 俺とレイは会話を交わすことなく、シミュレーターに入った。

*

 結果だけを言えば、俺とレイの対戦は俺の勝利に終わった。結構、いや、かなりヤバかったけど。
 その後はレイとルナマリアが対戦して、レイが勝利していた。なんというかあっという間だった。
 最後が俺とルナマリア。
 ヤバかった……ぶっちゃけ、レイよりヤバかった……
 中々勝負がつかなかった揚句に、エネルギーはギリギリまで削られた。
 どうしてああなったんだ?
 そういえば妙に、ルナマリアのカウンターが決まっていたような……
 あー… なんか見えてきた気がする。俺の欠点が。レイが相手ばかりだったから気付かなかったけど。

 シミュレータールームで討論する訳にもいかず、俺達は相談場所を寮に移すことにした。
 それは構わないんだけど、なんで俺とレイの部屋なんだろう?ルナマリアもメイリンと同室だって聞いたけど……
 いや、でも、女子の部屋に入る訳にもいかないか。仕方ない。

*

「んじゃまー、今日の反省会はじめっぞー」
 そう言って、ヴィーノは先程の3人の戦闘記録をパソコンで再生させはじめる。
「とりあえず、一通り見てから話しあうか」
 6人で一つの画面を覗き込む。
「うーん…… やっぱりレイは遠距離射撃・砲撃型よね」
 ルナマリアの言葉にレイが頷く。
「ああ。だから、高速移動の近接格闘型のシンとの対戦戦績は無残だ」
「懐に入られたら終わりだしな…… でも、レイの精密射撃って早々避けられるものなのか?」
 ヴィーノは俺に撃破されるレイを見ながら呟く。
「無理だろ。見ろよ、ルナマリアを」
 ヨウランは別ウィンドウで再生しているレイとルナマリアの対戦を示した。
 そこには、遠距離からの射撃で、見事爆散するルナマリアの姿があった。
 思わずシンが呟く
「それは単に、ルナマリアが遅いだけなんじゃ― いだっ!」
「あーら? シンくん? 正確に力量を比べる為に、機体設定は武器以外全部同じにしたのは忘れていらっしゃるのかしらー?」
 ぎりぎりと、ルナマリアは俺の足を踏みつける。
「イタイデス。ルナマリアサン。アシヲフマナイデクダサイ。クダケマス。ゴメンナサイ」
 片言で俺が謝ると、足は解放された。痛い…

「でも、なんでレイはデブリや小惑星を狙撃してるの?」
 俺とレイの対戦を見ていたメイリンが呟いた。
 その疑問にレイは答える。
「シンの高速移動を妨害する為だ。今回はフェイズシフト装甲も適用していないため、拳程度の石でも高速移動中の機体にはダメージになる。大きめのデブリは回避もしくは破壊しなければならない。これらの行動には減速が必須だ。その隙に狙撃する」
 戦闘後の機体データを確認した時、装甲への蓄積ダメージが多かったのはその為か。それに、妙に今日はよく当たりそうになるな、とは思っていたけど。
「それで、今日は狙いがやたら良かったのか」
 俺がそう言うと、レイが眉を寄せて呟いた。
「だが、何故避ける…」
 心底忌々しげに呟かれた言葉に、俺は少し悩んで返した。
「うーん? 勘?」
 あ。レイががっくりと肩を落としてる。
「でも、よく見ると、最後辺りにシンは減速すらしなくなってるよな? これって結構きつくないか?」
 じっと画面を凝視していたヴィーノが俺に聞いて来た。
「確かに体にかかる負担は大きいかもしれないけど、それほどでもないな」
 そう返すと、ヴィーノはふるふると震え、そして――
「それほどでないわけあるかー!!!」
 勢いよく立ちあがった。
「ヴィーノ!?」
 いきなりの行動にヨウランが声を上げる。しかし、それに構わず、ヴィーノは俺に詰め寄ってくる。
「お前かっ! お前かっ! 演習用プロトジン No.9に乗ってたのはぁぁぁ!!!」
 演習用プロトジン No.9――
 確かに、俺が乗ってた機体だけど…
「ちょ、どうしたのよ、ヴィーノ!」
 ルナマリアもヴィーノを制止する。
「こんな…! こんな無茶な動きばっかしてたら、お前の体は大丈夫でも機体の方は大丈夫じゃないんだぞ!! お前の乗ったジンが、一体どれだけ破損個所抱えてたか教えてやろうかぁぁぁぁ!!!!」
 血を吐く様な叫びを上げて、ヴィーノが俺に飛びかかる。
 頭をがっしりとロックされる。俺はヴィーノに向かって言った。
「落ち着け! ヴィーノ!!」
「落ち着けるかっ! あの、あの機体の整備担当は俺が入ったグループだったんだぞ!! 俺達があの後どんなに苦労してあのジンを整備したかっ! スクラップ一歩手前だったんだぞ!? 徹夜だ、こらぁっ!」
 そんな事になってたのか……
 そうか、自分の全力と、機体の全力は別なのか。
 それにしても苦しい。
「す、すみません! ごめんなさい! 今後は機体の性能も考えて動きます! すみません!!」
 謝れども、ヴィーノの手が緩む事はない。
 助けを求めようとレイ達の方を見ると――

「ルナマリアも近接格闘型のようだが……」
「あんまり動かないけど、咄嗟の反応が良いから、よくシンにカウンターを当ててる」
「高速で突っ込んでくるシンを避けるでもなく、弾切れになった機銃を投げつけるなどなかなかできない」
 レイとヨウランのそんな会話が聞こえて来る。
 俺はスルーですか。酷い。
 うっ、ヴィーノ…… そろそろ首が絞まる。
「うーん… よくわかんないけど、もしかしてお姉ちゃんならシンに勝てたんじゃない? レイより長く戦闘してるし」
「多分。見ろよ、シン側の戦闘記録。エネルギーが真っ赤だ」
「高速移動は消費エネルギーが多い。短期で決着を着けなければエネルギー切れで的だ」
「それに被弾率もレイよりお姉ちゃんの時がの方が高いよ」
「だがこれは…」
 俺はなんとかヴィーノのヘッドロックを振り切り、レイの背に縋る。鬱陶しそうにレイが腕で俺を払ってくるも、それを避けてディスプレイを覗き込む。
 案の定、俺とルナマリアの対戦が映されていた。
「いてて… ルナの射撃、レイと違って狙ってるというより、なんだろう? 不思議な射撃だから予測がつけにくいんだよ…」
 そう。ルナマリアの射撃は機体を狙っている感じがするのに、弾は全く別方向に行くのだ。ロックオンを振り切り、避けたと思ったら被弾、ということがよくあった。
 あれはいったい何なのだろう。
「悪かったわね……! 狙いから外しまくりの誤射ばっかりで!」
「ぐはっ!」
 脇腹に感じる鈍痛。
 ひょい、とレイは避け、そのまま俺はルナマリアに殴り飛ばされた。
 理不尽だ。

*

「まとめるとこんな感じかな?」
 暫く討論した後、時間も点呼間近になったので、メイリンが色々まとめてくれた。
 俺達はメモを覗き込む。

 シン
・高速移動を多用した近接格闘戦が得意
・重斬刀などの大型武器の取り回しにも秀でる
・射撃の命中率も高く、遠・中・近、どの距離にも対応できる

・エネルギー消費の激しい高速移動を多用する為、継戦能力に疑問あり
・高速移動の為、動きが直線的になりがちで読まれやすい。
・待ちのカウンターに弱い。
・機体の性能如何によっては、高速移動時の負荷により、機体が空中分解する可能性あり

 レイ
・スナイパーライフルなどの遠距離兵器を用いた精密な遠距離射撃・砲撃が得意
・戦場の地形などを把握した上での戦闘も可能

・懐に入り込まれると弱い
・近接戦闘に難あり

 ルナ
・近接戦闘でも、相手の動きを見たカウンターが得意
・咄嗟の判断力に優れる

・決定打に欠く
・射撃の命中率に大きな難あり

「うわぁ… 俺、課題ばっかだなぁ…」
 見事な三竦みになっている。
 俺はレイに強く、ルナマリアに弱い。ルナマリアはレイに弱く、俺に強い。
 欠点を補える関係ではあるが、俺のせいで継戦能力に難がある。
 それに自分が戦っている姿を客観的に見て気付いた。今の俺の戦闘スタイルでは恐らく、連携には向かない。
 1対1だからあまり目立たないが、チームを組んで動き出した時にどこか噛み合わない部分が出て来る。戦場では命取りだ。
「連携プランをしっかり練った方がいいだろうな……」
 レイの言葉に俺は深く頷いた。
「俺の機体の整備プランとか1から見直すように提案してみる。癪だけど、シンやレイの場合、技量に機体がついていってない面もあると思うんだよ」
 ヴィーノは悔しそうに言った。
「私は射撃ね。シン、レイ、付き合ってもらうわよ」
 ルナマリアの言葉に、俺達は当然頷く。
「私、チーム戦のデータをありったけ集めてみる。あと…… そうだね。宇宙戦ばかりじゃなくて、地上戦プランも組んだ方が良いかも。最近、議長が地上のPKO活動への助力を検討してるって噂があるし」
 メイリンの言葉に俺は目を丸めた。
 PKO― Peace Keeping Operation― 平和維持活動だ。
 地上は宇宙と違って重力がある。それに、天候などの不確定要素も多い。シミュレートしておいて損はないだろう。
「――――……」
 俺達はヨウランは見た。
 ヨウランは先程から黙り込み、何かを思い悩んでいる。
 そして、ちょっと戻ってくると言って、部屋を出て行った。
 俺達はその背を見送り、無言で待つのも何なので反省に戻る。
 画面はやっぱり、俺対ルナマリアの戦闘動画だ。
「エネルギーがレッドゾーンにぶっこまれた後、シンが珍しく誤射してんな…」
 決着直前の場面を見てヴィーノは言った。
 俺がルナマリアのすぐ傍にある、小惑星を撃っている場面だ。小惑星は派手に爆散している。
「それは誤射じゃない。狙ってやったんだ」
 憮然と俺は補足する。
「エネルギーがヤバいって気付いて、取り敢えず早く決着つけたくてさ。レイがやってたみたいに目眩まししたんだ」
 機械といえど、中身は人間。
 至近距離で爆発が起これば反射的に動きが止まる。
「レイじゃそうもいかないけど、ルナは遅いからな。結構有効かなって。後は重斬刀でこうコックピットを――」
 殺気。今度は避ける。
「避けないで大人しく殴られなさい!!」
 悪いと思いながらも、レイを盾にする。
「がっ」
 俺が背に張り付いていたせいでレイが避け損ねた。あれは痛い。
「はなせっ、シン!」
 巻き添えをくらったレイが暴れ始めるが、俺はその背にしがみつく。
「いっやっだっ! 俺がルナに殴られるだろっ!!」
「ならば、真実とは言え、逆鱗に触れる様な事を言うなっ!」
「言わなきゃ改善してもらえないじゃんかっ!!」
 だんっ! と、床を踏みならす音が響く。
 思わず動きを止めて発生源を見れば、般若の形相をしたルナマリアがいた。
「二人ともそこに直りなさぁぁぁいっ!!!」
 どーん落とされる雷に、俺は思わず耳を塞いだ。
 それが悪かった。
 レイが素早く逃げ、視界の端でメイリンとヴィーノが呆れ顔で笑っている。
 押し倒される。ヤバい。マウントを取られた。
「ふふふふふ…… 覚悟なさぁい?」
 そう言って、ルナマリアは制服のポケットに手を突っ込んだ。
「あの…… ルナマリアさん……? その手のモノは……?」
「これ? 女の子の身だしなみよ」
 その手の中にあるのはリップ。
 嬉々としてルナマリアはカバーを外す。
「購買で買ったのは良いんだけど、間違って色付き買っちゃってねー」
 い、色付き…?
「私、色付きは使わないタイプだから使い道に困って困って」
「だ、誰かにあげたらよろしいのでは?」
 それを何故、俺に近づけるんですか、ルナマリアさん。
「はぁーい、シンちゃーん。"おけしょう"しましょうねー」
 だ、誰か、助け――

「ごめん、みんな! 手間取った!!」

 ヨウランが部屋に駆け込んで来る。
 助かった!
 ルナマリアの気が逸れた隙に、ポジションを入れ替える。
 驚きのあまり、ルナマリアは目を見開いて固まっている。アメジストの瞳が近い。
 手に握ったままのリップを取り上げ、そのままルナマリアのおでこに、ささやかな仕返しも兼ねてでこピンをお見舞いする。
 そして素早く立ち上がり、俺は急いでヨウランに駆け寄り抱き付いた。
「救世主!!」
「は?」
 訳が分からず戸惑うヨウランに、みんなの苦笑い。
 ヨウラン、ありがとう。本当に助かった。


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[32070] Graduale - 昇階唱 ⅩⅡ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/03/26 21:44
Graduale - 昇階唱 ⅩⅡ

 ヨウランが持ってきたのは、1台のノートパソコンだった。そのノートパソコンはメイリン曰く、見た目に反してハイスペックなものらしい。
 ヨウランは素早くパソコンを起動させ、何故か話しかける。
「カメラで顔面の認識が出来るか? 記憶しろよ。こいつらが、これから1年、俺達のチームメイトになる奴らだ」
 パソコンに向かって何を言ってるんだ? ヨウラン。
 みんなも訝しげにしている。
 すると、ディスプレイに文字が表示された。
 "こんにちは、はじめまして。わたしはハンス・ケント氏とヨウラン・ケント氏によって作られた人工知能です"
 俺達は驚いてヨウランを見た。
「理工科は、研究成果の持ち込みをして、認められれば入学できるんだ。俺の研究対象は見ての通り、人工知能。最終目標は、経験を自動で学習し、物事を自分で判断する高度な人工知能。人と変わらない、喜怒哀楽を持ったパートナーを作る事だ」
 そう言ってヨウランはノートパソコンを撫でた。大切そうに見つめる瞳に嘘はない。
「こいつも、チームに入れて欲しい。どんな経験であれ、人間と過ごす事はこいつの為になるんだ」
 ヨウランの思いもよらない提案に、俺は沈黙する。どう反応すればいいかわからなかったからだ。
 それは他のみんなも同じだったらしい。じっと、ノートパソコンとそのディスプレイを見ている。
「あー… ヨウラン、お前ってやっぱり"ラボ持ち"なのか?」
 ヴィーノはどこか複雑そうに言った。
 "ラボ持ち"? 研究所?
「"ラボ持ち"って…… 理工科の特殊技術生?」
 噂好きのメイリンの行動範囲は、理工科にも及んでいるらしい。俺やルナが首を傾げているのに対し、メイリンは驚いたようにヨウランを見ている。
 俺は”特殊技術生”という単語に、なんとなく俺と同じ雰囲気を感じ取っていた。確か俺は、航宙科特殊技能生だったはず。もしかしてヨウランは、理工科における俺のような立場なのだろうか。
「"ラボ持ち"っていうのは、理工科でも特殊な―― 設計と言うか、開発と言うか…… まぁ、そっち方面の中でも更に優秀な奴らの事だよ。士官学校に入る前から、自分自身が研究しているモノを持ち込んで、それが将来的に有用と判断されたならば、試験やなんやかんやが免除された上で、それぞれ個別の研究室が与えられるんだ。だから"ラボ(研究室)持ち"。ヨウラン、ちょくちょく部屋にいなくて、それでも咎められてなかったから、もしかして、とは思ったけど」
 ぼんやりしていた俺のイメージを、ヴィーノの説明が裏付ける。
 なるほど。理工科の"ラボ持ち"は恐らく、航宙科の"自主演習"にあたるのだ。だからさっき、ヨウランは俺に、"航宙科では"と尋ねたのだろう。
 ヴィーノの説明にレイが頷く。
「つまり、若く未完成な技術の囲い込みだな。研究成果の持ち込みが理想的だが、論文や技術開発の提案書などでも評価されれば入学が許可されたはずだ。だが、それは――」
言いよどみ、一度レイは言葉を切る。僅かな逡巡の後、レイはまっすぐ真剣な目でヨウランを見た。
「わかっているのか、ヨウラン。ここで開発すると言う事は、そこにいる人工知能は――」
「わかってるさ。でも、俺にはもうこいつしかいないんだ。唯一の家族だった父さんは血のバレンタインで死んだ。父さんと俺が作ったこいつを完成させるには、ここしかないんだ」
 先程レイが言った事が正しいのならば、この士官学校で開発を続けると言う事は将来的に、軍用兵器に転用される可能性があると言う事だ。
 レイは恐らく、その事を懸念しているのだろう。
 自分が生み出した者が他者を傷つけるかもしれない兵器に転用され、思い悩むことはないのか、と。
 ヨウランも覚悟しているのだろう。レイの問いに間髪置かずに答えた。
 
 完成させるにはここしかない――

 ヨウランの気持ちが、俺には理解できる気がした。
 きっとも俺も、父さんや母さん、マユと一緒に作っていたモノが遺されていたら、死に物狂いで完成させようとしただろう。縋れるモノがあるだけ、ヨウランが羨ましく見えた。だからこそ、協力してやりたいという想いも俺の中に生まれる。果たせなかった約束の代わりに、ヨウランの人工知能が完成すれば、俺も―― 俺も?
 俺は少し目を伏せ、視線を人工知能がいるパソコンを見た。
 俺は今、何を考えた?
 首を横に振り、俺は目の前のやり取りに意識を戻す。
 何やら今度は、メイリンがヨウランと話し込んでいた。

「具体的には何が出来るの?」
 情報科でオペレーターを目指していることだけあって、メイリンは情報関連には強い。情報処理能力もさることながら、パソコンなどの様々な機器の扱いにも秀でている。情報関係の専門的なことは、メイリンに任せておいた方がいいだろう。
「なんでも。モビルスーツに接続すれば、各データを自動で記録して解析してくれる。パターン化や数値化は得意分野だ。ある程度のデータが溜まれば、独自の改善案の提案もしてくれるようになる」
 なったらいいなぁ、とヨウランは遠い目をした。
 つまりそんなことはできないのだろう。画面を見れば、ヨウランの呟きを聞いたのか、"大丈夫?"と表示されている。
 うん。よくわからないけど、何か凄いモノが目の前にあることだけはわかった。
「ハッキングとかの対策は?」
「得意分野。電子情報戦は真っ先にシステムエンジニアの父さんが教え込んだから。おかげで俺の家のパソコンの中身は綺麗なもんだぜ」
 メイリンとヨウランがいくつかの質問を交わす。
 専門外の俺達は、聞くことしかできない。
 そして色々な話をして、メイリンが出した結論がこうだった。
「すっごい良い話だと思う」
 人工知能の分身の様な端末をモビルスーツに差すだけで事足りる上、齎されるのはなかなか手に入らないモビルスーツ内部で処理されている数値だ。
 勿論学校側の許可がいるが、"ラボ持ち"のヨウランの存在により比較的簡単に許可が下りる事が予想されるらしい。
「それに、ヨウランの人工知能が成長すればそう簡単には作れない、高度に再現された自分自身とのシミュレーション対戦も可能になると思うよ」
 メイリンはそう言って締めくくった。

 自分自身との対戦――

 それはとてつもなく魅力的だった。
 自分自身の弱点の分析が、戦闘の最中にできるのは凄い事だと思う。断る理由の方がない。
「俺はその子をチームに入れて構わないと思う。モビルスーツってことは、俺の自主演習に連れて行ってもいいのかな?」
 ヨウランに賛意を示し、ノートパソコンを見る。
 ディスプレイには"ありがとうございます"という文字が浮かんでいる。それが微笑ましくて、思わずキーボードに"こちらこそよろしく"と打ち込む。
「その子?連れて…? あ、ああ。むしろ、こっちから頼みたい位だ。この人工知能を持って行って、色々見せてやって欲しい」
 その言葉に俺は頷いた。
 しかし何故か、ヨウランは首を傾げていた。どうかしたのだろうか。
「このチーム、かなり優秀な奴が固まってるみたいだからさ。研究に協力してもらいたくて」
 俺の了承を受け取ると、ヨウランはそう言って他の皆を見る。
 確かに、このチームは偏りがある。
 入学時首席のレイに、航宙科の特殊技能生の俺、理工科の"ラボ持ち"のヨウラン。メイリンは情報処理が凄いし、ルナマリアの徒手戦闘は恐らく俺の上を行く気がする。ヴィーノにしても、正規の整備班の徹夜の作業に付き合う許可が出たということは、メカニックとしての技能は高いのだろう。
 こうして振り返ると、偏って良いメンバーではない気がする。何か意図でもあるのだろうか?
 俺がぐるぐる考えている間に、次々と会話が流れてゆく。
「あたしも別にいいわよ。その人工知能って、射撃の補助とかもしてくれるようになるのかしら?」
「当然」
「のったわ」
 ルナマリア…… そんなに自分の射撃に自信がないのか……
「うーん…… 俺もいいぜ。畑違いだけど、"ラボ持ち"の研究に関われるのは楽しそうだし。他の奴ら、なんかぴりぴりしてて怖いんだよなぁ」
 それがなかったから、ヨウランが"ラボ持ち"かどうか判断しかねてたんだ。そうヴィーノは付け加えた。どうやら他の"ラボ持ち"はもっとぴりぴりしているらしい。
 俺、メイリン、ルナマリア、ヴィーノが了承した。
 後は――
 視線がレイに集中する。
 ふと見やれば、パソコンの画面の中には"……"の記号が浮かんでいた。
 なんだこれ? もしかして、この子は不安なのだろうか?
 俺がレイの方を見ると、レイもパソコンの画面を凝視していた。
「ヨウラン」
 レイがヨウランに声をかける。
「この人工知能は、音声認識は搭載されているのか?」
 唐突な問いに、ヨウランが目を白黒させながら答える。
「ああ。カメラやマイクからもデータを収集してるから、沢山話しかけてくれるありがたい。情緒面での経験が見込まれるから…… まぁ、後は設定してないけど、文章の読み上げ機能もあるから、ある程度の音声会話もできると思う」
 そういえば、戻って来たばかりのヨウランがこの子に話しかけていたことを思い出す。こっちの言葉が理解できるなら、音にして話すこともできるはずなのだ。どうしてヨウランは喋らせないのだろ?
「ならば問題ない。会話はコミュニケーションの第一歩だ」
 これは恐らく了承だろう。まったく、レイは素直じゃない。
 まぁいいか、と俺はパソコンの前にしゃがみこみ、内臓のカメラを見つめる。
「それじゃあ、早速。はじめまして。俺の名前はシン、シン・アスカ。君の名前は?」
 なるべく笑顔を意識して語りかける。
 画面には"こちらこそはじめまして。わたしはハンス・ケント氏とヨウラン・ケント氏によって作られた人工知能です。これから1年よろしくお願いいたします"と表示される。
 俺は首を傾げた。
「ヨウラン。この子に名前ないのか?」
 先程と同じような自己紹介に俺は何の気なしに尋ねた。
「あ、…… うん。名前つける前に、父さんが死んだから……」
 重い沈黙が落ちる。

「ならば与えればいい」

 意外にも、口を開いたのはレイだった。
「ヨウラン。お前はその人工知能が"人に成る"事を望んでいるのだろう。ならば名がなければ―― 名がなければ、宿るものも宿らない」
 そう言って、レイはキーボードを撫でた。
 その表情は相変わらずの仏頂面だけど、どこか複雑そうだった。
 俺は驚いてレイを見ていた。
 宿るもの―― もしかして"魂"の事を言っているのだろうか? 地上育ちの俺が言うならいざ知らず、プラント育ちのレイからそんな言葉が出るとは思わなかった。
「じゃあ、今、つければいいじゃない」
 重くなった雰囲気を掃う様に、ルナマリアが明るく言った。
「そうそう! 人工知能なんて言葉が会話に出てたら、他のチームに妙な勘ぐりをさせちゃうよ!」
 人工知能の存在による、電子情報のアドバンテージは活かさないと! と、メイリンも主張する。
 確かに、寮の部屋などのプライベートな空間ならまだしも、廊下や食堂での会話は、些細なもの聞き拾われ、思わぬ情報となって他チームの利になる可能性がある。
 "人工知能"なんて単語が出て来る会話をうっかり聞かれでもしたら、どう利用されるかわからない。
 察しの良い人間なら、その単語だけで理工科の"ラボ持ち"、その中でも人工知能を研究している人間―― ヨウランを探し当てそうだ。
 ヨウランは困った様に眉を寄せ、首を横に振った。
「俺じゃつけられない……」
 その口ぶりから恐らく、ヨウランも名前をつけようとしたことがあったのだろう。
 父親との合作。遺作。思い入れが強すぎて逆に名付けられない。
「なら、みんなで考えればいいじゃん。その人工知能もある意味、チームメイト? みたいなもんなんだし。名前をみんなで考えるのって楽しいぜ。俺の妹がそうだった」
 そう言ってヴィーノはヨウランに提案した。
 なるほど。みんなで。そてはそれで良さそうな気がする。俺やマユの名付けのときも、みんなで白熱したってじいちゃんも言ってたし。
 ヨウランを見れば何かを考え込んでいる。
 ディスプレイを見れば、画面には"……"と出ている。どう文字に表現すればいいのかわからないのだろう。
 俺がこの子の立場ならどう思うだろう? 不安? 期待?
 "大丈夫だよ"と打ち伝える。
 ヨウランは意を決したかのように、強い瞳で俺達を見つめてきた。

「頼む。父さんと俺の人工知能に名前を――……  」

 その言葉にみんなが頷く。
 俺も頷いていたのだが、小さく聞こえてきた言葉に首を傾げていた。

 今日はもう消灯時間も近いという事で、名付けは明日することになった。
 内容が内容なので、ヨウランのラボに行って話し合うことにした。確かに、研究室というくらいなのだから、セキュリティは万全だろう。今後も話し合いの場所はヨウランのラボになるかもしれない。
 ヴィーノも含め、俺達はヨウランのラボの場所を知らないので、集合時間と場所を確認して今日は解散になった。

 みんなを見送ると、俺は大きく息を吐いた。
 レイと二人になった寮の部屋は、先程までの騒がしさが嘘のの様に静かになっている。
 いつも通りの部屋に戻っただけなはずなのに、異様に寂しく思えたのは何故だろうか。

「なぁ、レイ。聞こえてたか?」

 俺は、ヨウランが了承の言葉を口にした後、小さく続けられた言葉を聞いてしまった。すぐ傍にいた人間くらいしか聞き取れない程度の声の大きさだったけど。

「"繋ぎとめてくれ"ってどういうことなんだろうな」

 俺はヨウランのすぐ傍にいたからこそ聞こえた呟き。
 レイも俺と殆ど変わらない距離にいたから聞こえてたはずだ。

「さぁな」

 そっけなく言われた言葉に、俺は目を伏せた。

 繋ぎとめて欲しい―― 一体何を?

「あれはあれで危ういということだろう。―― お前のようにな」
「はぁ?」

 訳のわからないレイの言葉に思わず声を上げてしまう。
 理由を問い詰めようと振り返れば、レイは既にキッチンへ向かっている。
「何をしている」
 変な格好で固まってしまう俺を見て、レイは思いっきり眉を顰めた。

「夜食を作るぞ」

 がっくりと肩から力が抜ける。
 ああ、そういえば、夕食食べ損ねたんだっけ。


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[32070] Graduale - 昇階唱 ⅩⅢ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/04/02 02:07
Graduale - 昇階唱 ⅩⅢ

 次の日の放課後。
 俺達はヨウランにラボへ案内してもらった。
 何も持って行かないのも何だと思ったので、プラスチックのコップとジュースを持参する。だが、俺はヨウランの研究室に入った瞬間、それを後悔した。

 立ち並ぶ沢山の機械の箱。
 その一つ一つが恐らく量子コンピューターというものだろう。
 それにしてもこの数―― ひい、ふう、みい…… やめた。多すぎる。

 圧巻だった。
 ヨウランのラボはそこそこの広さがあったが、その大半は量子コンピューターとそのサーバ、関連機器で占められていた。床はコードだらけだ。持ってきたジュースを零したら大惨事だろう。
 コードを踏まない様に、ジュースが入った袋を落とさない様に、慎重に歩きながら、申し訳程度に設置されている休息スペースに辿り着く。
 コップにジュースを注ぎ配り終えると、俺は周囲を見渡す。
 広い。士官学校の学生に一人に与えられるような広さではない気がする。
「すっごいな、コレ。全部あの人工知能の本体?」
 ヨウランが目をきらきらしながら周囲を見渡している。畑違いとはいえ理工科の人間として興味があるのだろう。
「ああ。と、言っても今は未使用領域の方が多いけどな。元は家庭用のパソコンで作ってたものだし」
 これから、俺達と接して色々な経験を積むにつれて、使用領域が増えていくらしい。
 目を閉じれば、暗闇の中に機器の低い稼働音が響いている。そうか、あの子はここで思考しているのか。
「とりあえず、それぞれ人工知能の名前を考えて来たと思うから言ってみようぜ」
 そう言ってヴィーノはポケットからメモ帳を取り出した。
 どれだけ考えてきたんだろう。俺は全く思いつかなかった。
「そもそも、男なのか女なのか、性別がわからないと名前も決めようがないじゃない」
 ルナマリアの意見に、あっ、とみんなが気づく。そういえば聞いてなかった。
 ヨウラン自然と視線が集まる。
 激しく首を横に振り、ヨウランは性別も決まっていない事を肯定した。
 隣のレイが軽く溜め息をついた。
「まずはそこからだな」
 俺はテーブルの上に置いてあるノートパソコンを引き寄せて尋ねてみた。
「男の子と女の子、どっちがいい?」
 まずは本人の意思確認からだろう。
 ディスプレイには"……"しか表示されない。悩んでいるのだろうか。ん?
 "人工知能には本来性別はありません。設定は皆さまにお任せします"
 おお、凄い。
「本当にいいのか?」
 "はい"
 その返答をみんなに伝えるべく、俺は顔をあげた。
「本人は性別どっちでもいいって、さ?」
 俺は首を傾げた。
 レイ以外のみんなが微妙そうな顔で俺を見ている。
「そうか」
 そう言うと、レイは考え込んだ。
「はいはーい! 私は女の子がいいと思いまーす!」
 真っ先に気を取り直して意見を主張したのはメイリンだった。
「だって、その人工知能が女の子になれば、私とお姉ちゃんと人工知能で女の子が3人になって、男と数が釣り合うもの」
 この班は6人中、俺、レイ、ヨウラン、ヴィーノの4人が男だ。女が二人だけだと肩身が狭い、のか? それにしては、言動が一番元気でマイペースなのはルナマリアやメイリンだと思うんだけど。それに一人増えた所で男女比は4:3。釣り合ってるのか? これは。
「いやいや、男だろ! こう、SF的な電子の世界に住む存在って大抵――…… あれ? 女だっけ? ああ、もう! 俺、男の名前しか考えてないし、男がいい!」
「何それ? 自分が考えた名前ムダにしたくないだけじゃない。私も女の子がいいわ。持ち歩くことになるならなおさら」
 ヴィーノの主張はばっさりとルナマリアに切って捨てられる。ご愁傷様。でも、俺もその意見は微妙だと思う。
 それにしても、"電子の世界に住む存在"、か…… 俺達がいた日本にそんなのがいた気がする。でも、あれは人工知能じゃなくてソフトウェアだ。"電子の歌姫"、"歌うプログラム"―― よく音楽のランキングとかでも見かけたけど、たしかあれも女の子だったはず。特徴的な見た目をしてたからよく覚えてる。俺にとって"電子の世界に住む存在"は"電子の歌姫"であり"彼女"―― つまり、女の子だ。
「俺も女の子かなぁ……」
「シン!?」
 裏切る気か、と悲鳴の様な声をヴィーノが上げる。
「いや、だって、"電子の歌姫"だし」
「わけわかんねぇよ!」
 裏切るとかそういう問題ではない。ただ単に、俺のイメージの問題だ。"パソコンの向こう側に住む存在"と言われれば、真っ先に日本で見た"彼女"が浮かぶ為、女の子の方が違和感はない。
 一人納得して頷く俺の横で、レイもまた頷いていた。
「女性でも問題ないのではないだろう。昔から大がかりな機器類は女性に喩えられる事が多い」
「それは、船や戦艦の話だろ! こっちは人工知能! パソコン! この人工知能が女の子になったら、俺らが女の子を連れ歩く事になるんだぞ!?」
 レイのどこかずれた返答に、ヴィーノが切実そうに反論する。孤立無縁な事に気づいたのだろう。
「それがどうかしたのか?」
 心底不思議でならないといった感じのレイの返答に、ヴィーノはがっくりと机に突っ伏した。確かに、俺もヴィーノがどうしてそこまでこだわるのかよくわからない。
「別にいいじゃん。妹が出来たとでも思えば」
 そんなヴィーノを冷ややかに見ながら、メイリンが言った。
 それに対し、その言葉に俺は内心眉を顰めた。
 心が、凍りつく。
 妹は、ダメだ。絶対に。
 あの人工知能に女の性別が割り振られようと、妹の立ち位置が割り振られることはない。
 目を伏せる。
「いもうと」
 ヨウランが小さく呟く様に反応した。
「そっか。妹か。うん。妹なら…… 俺の妹はライラだけだし…… うーん」
 うんうん唸るヴィーノの言葉の中に、聞いた事のない名前が混じった。その前に会った単語から、"ライラ"という女の子が、ヴィーノの妹だと言う事が分かる。
「ヨウランは妹がいるのか?」
「うん。去年産まれたばかりでさ。かわいいんだ」
 思わず尋ねてしまった俺に、ヨウランはにへらと笑いながら答えてくれた。
 それが微笑ましくて羨ましくて。
「いいよな、妹。俺にもいるんだ」
 ついつい口が滑ってしまう。
 いるよ。いたよ。俺にも妹が。
 日本でよくあった他愛のないやり取りを思い出す。昔の俺も、今のヨウラン見たいに笑っていただろうか。
「だろ!?」
 ヨウランはがばりと顔を上げる。
 その輝く顔が眩しくて、俺は少し水を差す事にした。
「でも、気をつけろよ。小さい頃はかわいいんだ。小さい頃は。でも、大きくなったら――……」
 茶化す様に、明るく、脅かす様に。
 そんな感じに、俺は言葉を紡げているだろうか。
「お、大きくなったら……?」
「"ママー、おにいちゃん、おべんきょうせずにご本よんでるよー"」
「いやぁぁ!! うちの子そんなのにならないから!! うちの子天使だから!!」
 悲鳴を上げて、再び突っ伏したヴィーノを見て、俺は内心ざまぁみろと呟く。これぐらいなら許されるだろう。小さい子供とは須らく、天使であり悪魔なのだ。
 俺とヴィーノのやりとりをにやにやしながら見ていたルナマリアは、隣にいる"妹"に問いかけた。
「メイリン・ホークさん。"妹"としての言葉をどうぞ」
「こんな気持ち悪いお兄ちゃんいらない」
 メイリンがヴィーノを見る目は、まるでゴミを見る様なものだった。なんだか収拾がつかなくなっている。

「んー…… じゃあ、この人工知能は女の子でいいな?」
 俺達の会話を見守っていたヨウランが、これまでの流れを纏める。
「ヨウランはそれでいいの?」
 そう言えば、ルナマリアはあんまり意見を言っていなかったな。どちらでも良かったのだろうか。
「ああ。俺だとそれすら決められないからな。それに、まぁ、何度か父さんや母さんと話した事もあったし。家族が増えるなら、"次は女の子が良い"って」
 ヨウランも女の子でいいらしい。
 家族が増えるなら、か。ありふれた会話に見えるが、コーディネイターが子供を成し難い人間である事を考えれば、その重みが違ってくる。子供は望んで得られるものではないのは地上でも同じなのだが、プラントでは輪にかけて難しい。
 もしかしたらプラントの子供の出来ない家庭の人達にとって、研究とか仕事とかが子供の代わりになっているのかもしれない。
 保障されない次世代という名の未来の存在。その不安を掃う為に、不安そのものを原動力に、仕事に打ち込み、短期間で成果を出すのだ。
 全て俺の憶測でしかないが、なんとなくあたらずしも遠からずな気がする。
 不安、成果――
 昨日のヴィーノの言葉を思い出す。
 ならば、目の前にいるこの子も、ヨウランの不安から早められた時間が生み出したものなのだろうか。
 暗くなった思考を振り払い、俺は話しかける。
「じゃあ、君は女の子だ。大丈夫かな?」
 "わかりました"
 "彼女"の了承に、俺はほっと胸を撫で下ろす。
「ようやく本題に入れるな」
 どこか疲れた様なレイの声に、俺は苦笑した。
 本当だ、ようやく本題に入れる。


*


 エルザ、エレノア、カミーユ。
 ティファ、マリオン、エレイン。
 マチルダ、カノン、サキ。

 沢山の名前候補がLe;fletに列挙され、流れていく。
「うーん…… どれもピンと来ないよなぁ……」
 ヴィーノの呟きに俺も同意した。
 取り敢えず女の子の名前を列挙してみようということになり、それぞれが思い浮かべる名前を手当たり次第に入れたのが悪かった。名前が氾濫しすぎて、逆に決めにくくなっている。
 こめかみを押さえ、レイが呻くように言った。
「だいたいの方向性を決めよう…… 名前から受ける印象を定めると絞りやすい」
 レイの手元にある小型端末を見れば、「子供の名付け方EX」という電子書籍の一部が表示されていた。
 その言葉に、俺はふむ、と考え込んだ。どうしよう。漠然としすぎていて言葉にならない。
「俺は――…… 特に要望はないな」
 名前をつけようと言いだしたのは俺だけど、何故か名前が思いつかなかった。無責任なのはわかっているけれど、どうしても思いつかないのだ。
 こんな子になって欲しいとか、どんな在り方をして欲しいとか。"名は体を成す"というように、名前がどんなに重要なのはわかっている。わかっているけれどやはり、違和感を感じてしまう。
 彼女は、ヨウランとそのお父さんが作った"家族"だ。大切なヨウランの家族の名付けに、部外者の俺が関わっていいのだろうか。そんな躊躇。
 肝心の彼女はというと、性別が決まった後は、再びディスプレイに"……"を表示させて黙り込んでいる。
「私も同じく」
 そう言えば、ルナマリアもあまり話し合いに参加していなかった事を思い出す。振り返って見れば、ルナマリア自身が候補にあげた名前は俺と同じくらいの5つ以下だった。何か思う所でもあるのだろうか。
「私はかわいいのがいいな」
「え? かっこいいのだろ?」
 逆に率先して意見を言っているのはメイリンとヴィーノだろう。沢山名前の候補を出してくれるので、あーでもない、こーでもないと言い合える。
 でも、候補が出過ぎて今の状態を招いてしまったとも言える。
 レイはというと、言い出したのが俺にも関わらず、まとめ役をしてくれている。名前候補もいくか出していたが、メイリン達の候補に紛れてどれがそうだったかわからなくなってしまっている。結構可愛い名前だった気がする。

「俺から要望を出してもいいか?」

 名前の方向性で事態が再び膠着しようとしていた時だった。
 これまで俺達の会話を見守っていたヨウランが、静かに口を開いた。
 思わず俺達は口を閉じ、ヨウランを見る。
 彼女の家族であるヨウランの要望だ。聞き逃す訳にはいかない。

「神秘的なのがいい。こう…… 神様みたいな」

 ヨウランが口にしたのは意外な要望だった。
 地上育ちの俺が言いだすのならばいざ知らず、生まれも育ちもプラントのはずのヨウランの口から、どうして"神様"という、コーディネイターとは対極の位置に存在する非科学的な存在の口にするのだろうか。
「神様みたいなものってことは、地上の神話から名前を取るってことか?」
「ああ。ちょっと、思う所があって」
 俺の問いに、ヨウランは曖昧に笑って答えた。多分、あまり言いたくないことなんだろう。
「ならば決まりだな。彼女を作ったヨウランが言うのだ。名前は地上の神話―― 女神の名からとる」
 ヨウランの要望を聞いたレイが名前の方針を告げる。
 彼女は"彼女"になったので、女の神様から名前をとることになるのは自然な流れだろう。
 けれど、問題もある。
「でも、地上の神話なんて私達よく知らないわよ?」
 そうなのだ。
 ディセンベルの図書館に通っていた時の事を思い出す。
 有名な文学や哲学の本は辛うじて紙の本であったものの、神話や民話、伝説といった類の本は全て電子書籍になっていた。帯出記録を見ても、頻繁に借りられた形跡はなかった。俺が借りる前の帯出日で新しかったのは、たしか、旧約と新約の聖書が1年以上前に借りられてた事だったような気がする。
「そうか? ザフトでもよく使ってる気がするけどなぁ」
 ヴィーノの言葉に思わず頷く。
 グングニール、ジェネシス辺りが有名だろう。全部ザフトの兵器の名前ばかりだけれど。でもまぁ、地球連合所属の兵器には負けるか。
 ザフトは結構独自の名称を自軍の兵器につけるけど、連合は各国のお国柄を反映してか神話や伝説から兵器の名称をとっている所が多い。
「神話と言えば、定番はギリシャやローマだな。ケルト神話や北欧神話も比較的有名だ。日本神話もあるが――……」
 レイもプラント育ちらしいのに神話に詳しいらしい。神話と問われてそれだけ出てくれば充分だろう。それだけ知っているのがあれば、きっと一つはヨウランが気に入る女神様の名前があるはずだ。
 ただ――
「日本神話からとるのは絶対にやめてくれ。無駄に長くなるから」

 嘘だ。そんなの建前だ。
 自分の言った事に自嘲する。
 天照大御神のアマテラス、木花咲耶姫のサクヤ、相応しい名前はいくらでもある。
 けれど、兵器に神の名を与えるのはオーブ軍の特徴だ。
 "日本が再構築戦争に巻き込まれるやいなや、早々に国を捨て余所様の土地に居座り国を立てた不義の輩"
 "国を捨てたにも関わらず、未練がましく文字や神話を利用し、さも自らが正統という顔をする盗人共"
 じいちゃんは、そうオーブの事を評していた。
 あの頃の僕はその意味がよくわかっていなかった。
 再構築戦争の唯中に生まれ育った世代が共有する価値観の一つなのだ、と父さんは言っていた。今はそんなこと誰も思っていないし、国としてつき会うことはできないけれど、みんなオーブと仲良くしたいと思ってる。そう言う父さんをじいちゃんは唾を飛ばして怒り、父さんは明後日の方向を見ながら聞き流していた。それを母さんは微笑ましげに笑い、僕と幼馴染はそんな二人のやり取りに首を傾げていた。
 何があっても、オーブだけは絶対に頼るな。あいつ等は自分達の為ならば簡単に他人を裏切る。
 何度も何度も、じいちゃんはそう言っていた。
 あれほど忠告してくれていたにも関わらず、僕達はそれを守らなかった。
 だから――

「―― ン。 ――シン」

 名前を呼ばれて、俺は我に返る。
 いけない。すっかり別の事を考えていた。
 見れば、みんなが怪訝そうな顔をしている。
 何せ俺が急に黙り込んでしまったのだ。気にもなるだろう。取り繕う様に俺は首を横に振り、なんでもない、と応える。
「神話の女神様から名前をとるんだろ? 心当たりはみんなあるのか?」
 俺がそう尋ねると、ルナマリアは首を横に振った。
「地上の神話? の事は私達プラント育ちにはよくわからないわ」
「だな。いい感じの教えてくれないか?」
 予想通りの返答に、俺は以前、日本やディセンベルの図書館などで読んだ神話の本の内容を思い出す。
「ローマ神話だと、ユノ、ミネルバ、ディアナ、ケレス辺りが有名かな?」
 思い出そうとすると、逆に思い出しにくい。数が多すぎるのもダメなのは学習しているので、とりあえず有名処を言ってみる。
「そういえば、レイもなんか詳しそうだよな。なんか知ってる?」
 先程、さらりといろいろな地域の神話を口にしていた。もしかしたらレイもいくつか知っているかもしれない。
 話を振ると、ふむ、とレイも少し眉を寄せて考え込む。
「ルナ、ユースティティア、パルカ――…… きりがないぞ」
 つらつらと出てきた女神の名前に、やっぱりレイは博識だなと感心する。
 プラントの人間は地上の事なんてどうでもいいと思ってそうだ、という考えは地上育ちのコーディネイターである俺の偏見でしかないのだと、改めて気づかされる。ミーアも、レイも、沢山地上の事を知っている。二人が特別なだけかもしれないけど、プラントに地上の事を気にかけて知ろうとしてくれている人がいるという事そのものが嬉しい。
 上機嫌で俺は、違う神話の女神の名前を口にする。
「ギリシャ神話は――…… あー…… ヘラ、アテナ、アフロディーテ……」
「アルテミス、デメテル、ヘスティア……」
 ギリシャ神話は、神話というよりも、星座にまつわる話として小学校の頃に読んだ。でも、やっぱり、いざ女神の名前だけを思い出そうとすると難しい。
 レイもこの感じだと、結構有名ではない女神様の名前を知っていそうだ。
「どっちもピンと来るものがないな」
「何かが違うのよね」
 ヴィーノとルナマリアが首を傾げる。二人とも、自分の中にある違和感を表現しかねているようだ。
「次はケルト神話―― は、俺はあんまりよく知らないんだよな。クー・フーリンとかならゲームで知ってるんだけど男だし…… 誰か知ってるか? レイ」
 ゲームの中と攻略本で読んだ、クー・フーリンのエピソードは凄くかっこいいと思った覚えがある。
 約束を力に変えて戦う英雄。眠りの呪いにかかった国の人々を背に庇い、女王が率いる敵国の軍隊を相手に一人戦い続けた。誓った約束全てを策略により破らされ、力を失った所で自分自身が愛用した武器で殺された。それでも倒れて死ぬ事をよしとせず、柱に自分自身を括りつけて戦い続け、地に倒れることはなかったという。
 本当にかっこいい。
 それに彼の武器である魔槍ゲイボルグは足で投げる投槍であり、絶対に対象に当たったという。見習いたいものだ。
 そんなことを思い出しながら隣のレイを見る。
「少し。エポナ、スカアハ、モリガン、メイヴ…… ダメだ。女神だとこれ以上は知らん」
 やっぱりレイもあまり良く知らないようだ。
 メイヴは確か女神でなくて女王だった気が。クー・フーリンが戦ったのもこの女王の国だった。
 うん。ちょっと嫌だな…… ケルト神話から彼女の名前をとるのは。
「なんかかわいくない……」
 メイリンの発言に俺は頷く。
 ヨウランも微妙そうな顔をしてるし、ケルト神話からとるのはなしだ。
 レイはみんなの反応を見て、小さく溜め息を吐いている。
「不評のようだな。次は…… 北欧神話か。代表的な女神は、フリッグ、フレイヤ、イドゥン、シフ」
 つらつらとレイが女神の名前をあげてゆく。北欧神話は俺も結構知っている。負けじと俺はレイに続いた。
「シギュン、ラーン、ヘル、ノルン、スカジ、ナンナ」
「ん?」
 俺が女神の名前を言っている時、ヨウランが声をあげた。
「どうした? ヨウラン」
 ヴィーノの問いに、ヨウランは神妙に答える。
「今、なんか、ピンときた」
 真剣な顔をするヨウランに、ルナマリアが尋ねる。
「えーと、どっちに?」
「シン」
 きっぱりと言い切られ、みんなの視線が俺に向く。
 取り敢えず、さっき言っていた女神様の名前をもう一度言ってみることにする。
「シギュン、ラーン、ヘル、ノルン、――」
「それだ!」
 ヨウランが声を上げる。
「え? どれ?」
 ちょっとびっくりしながら尋ねると、ヨウランは言った。

「"ノルン"」

 見れば、先程までディスプレイに"……"を表示させているだけだった彼女が、その白い画面に文字を浮かばせている。
 "ノルン"――
 まるで、確かめるかのように。
「かわいい名前よね。ねぇ、どんな女神様なの?」
 確かに、"ノルン"は可愛らしい名前に入るだろう。けれど、担う役割はかなり重要だったはずだ。
「えーと…… 女神というか、沢山いる運命を決める女神様達の総称だった気が……」
 そう。神々すらも逆らえない運命を編むのが"ノルン"達の役目。
「運命の女神!? なんかかっこいいな!」
 ヴィーノが目をか輝かせる。
「複数存在する同一の役割を担った女神達の総称、か―― ふさわしいのではないか」
「そう言われて見ればそうなのかな? 運命とかそういうのはよくわからないけど、要は沢山ある人の生の情報を総括する存在なんでしょ? ぴったりじゃない」
 レイもルナマリアも異論はないようだ。
 俺達はヨウランを見る。
「ヨウラン」
 なんだかんだで、ヨウラン自身が彼女の名前を決めたな。
 そんな事を考えながら、俺はヨウランに声をかける。
「呼んでやれよ、名前。お前の大切な家族なんだろ?」
 俺は彼女のいるノートパソコンのディスプレイをヨウランに向ける。
 直前に見た画面には、やっぱり"……"しかなかった。
 じっと、ヨウランと彼女は向き合う。
 どのくらい待っただろうか。
 意を決したように、ヨウランは彼女を見た。

「……―― ノルン」

 かすれた声で、ヨウランは彼女の名を紡ぐ。
 そっと、邪魔にならない程度に、俺はディスプレイを盗み見る。

 "……"

 沈黙を現す記号。
 しばしそれが現れた後、すっと消え、新たな文字が現れる。

 "はい"

 それは、見間違えようのない返事だった。
 彼女は応えた。
 ヨウランの呼びかけに。
 驚いたように、ヨウランは目を見開く。

「ノルン」

 そして、再び彼女の名前を紡ぐ。

 "はい"

 彼女もまた、文字の点滅を以って返事を返す。

「ノルン」

 どこか泣きそうな声で、ヨウランは彼女の名を紡いだ。
 苦しそうに、悲しそうに、ヨウランは呼びかける。

 "はい、私は"ここ"にいますよ――…… 「ヨウラン"」

 俺も、ヨウランも、見守っていたみんなも、息を呑んだ。
 彼女は音にして呼んだのだ。
 ヨウランの名前を。
 声を出す事が出来る事は知っていた。でも、そんな設定はされていないはずである。ヨウランもそんなこと一言も言っていなかった。
 ならば可能性は唯一つ。
 彼女が、自発的に、自分の設定を変更したのだ。
 自分自身で声を探し、自分自身で選び、自分自身の声を定めて、そして、ヨウランの名を呼んだのだ。
 ヨウランはとうとうくしゃりと顔を歪めて、ノートパソコンに突っ伏した。

「ノルン、ノルン、ノルン、ノルン――…… とうさん」

 嗚咽交じりに、ヨウランは彼女の名を呼ぶ。
 そして、最後に発された言葉は、彼女を共に作った父親だった。

「"いいえ、私はノルンです。 ヨウラン"」

 彼女が紡ぐ言葉は平坦なはずなのに、どこか優しい。ヨウランの名前を呼ぶ時は特に、それを感じる。
 ヨウランも顔をあげ、ぐしゃぐしゃな顔で彼女を見た。

「わかってるよ、ノルン」

 浮かべられた笑顔はきっと、心からのモノだろう。
 そんな表情が浮かべられる事が、俺にはとても眩しく映る。

「はじめまして、ノルン。俺はヨウラン・ケント。君を作った駆け出しの技術者だ」
「"ええ。はじめまして、私はノルン。ハンス・ケント氏とヨウラン・ケント氏によって作られた人工知能です"」

 そんな会話を二人は交わす。

 今まさに、彼女―― ノルンは生まれたのだろう。

 二人を見ながらそんな事を考える。
 何かを生み出すという事はこんなにも時間がかかるものなのか。
 性別を名前を決めるだけでこれなのだから、ゼロから"ノルン"を産み出したヨウランとそのお父さんは本当に凄いと思う。
 二人の成果が成る瞬間に携われる事を嬉しく思う反面、責任も重く感じる。

 名前のなかった人工知能――

 今まさに"彼女"は生まれた。
 人工知能の女の子として。
 ただの人工知能としてならば既に生まれていたけれど、そこに在るだけのならば、"ノルン"でなくても良かったはずだ。
 けれど、ヨウランとそのお父さんが作り、俺達が性別と名前を考え、ヨウランが"ノルン"と決めた人工知能は今、ここにいる"ノルン"だけなのだ。
 そこに在っただけの存在に名を、魂を。
 ならば、その誕生は祝福されなくては。

 音を立てない様にコップにジュースを注ぎ、レイやヴィーノ、ルナマリアやメイリンに目配せする。
 たどたどしく会話を交わしているヨウラン達を一瞬見やり、再び視線を戻す。
 そっと静かに、俺はコップを掲げた。
 他の4人も後に続く。
 きっと、みんな思っている事は同じだろう。

 "生まれ出でた魂に祝福あれ"
 "彼等の歩む道先に幸いあれ"



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[32070] Graduale - 昇階唱 ⅩⅣ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/07/01 21:16
Graduale - 昇階唱 ⅩⅣ


 本日の天候予定に曰く、午後よりディセンベル 降水区画A地区は1時間の雨。傘の持参を忘れないようにしましょう。

「だから、手ぶらで出ようと思う」
「"シン、合理的ではありません。天候予定に従い、傘を持ち歩く事を提案します"」

 即座に返された言葉は、あまりにも予想通りのもので俺はノルンの小型端末を爪弾く。抗議の声を上げるノルンをポケットにつっこみ、俺は振り返る。
「それじゃ、レイ。ちょっと出かけて来る」
 そう声をかけると、奥で10時のおやつとコーヒーを楽しんでいたレイが出て来る。
「ああ、わかっている。だが、ノルンの言うとおりだぞ。計画降水とはいえ、雨に打たれれば体を冷やし、風邪を引く」
「大丈夫だよ。プラントの弱雨に1時間打たれた所で風邪なんかひかないさ」
 人工の箱庭であるプラントでは、天候も計画的に定められ運用されている。
 今日の降雨目的は空気の清浄化だ。プラント内は常に空気を循環させているとはいえ、空気中の埃などはフィルターで浄化するにも限度がある。そこで、定期的に雨を降らせて、水滴に埃などを付着させ回収、浄化しているのだ。と、いっても、頻繁に降らせすぎると今度は雨水が溜まって腐ることもある。なので、同じプラントの中でもいくつかの降水区画に仕切って、順番に雨を降らせている。
 ただ、植物園などの植物が沢山ある区域は例外で、その辺りは特別降水区域となってそこそこの頻度で雨が降っているらしい。この場合の目的は、空気の清浄化ではなく、植物への水分補給なので、そんなに激しい雨は降らさない様にしているようだ。
 この雨の正式名称は"生活環境維持の為の計画的な浄水散布"。流石に情緒がないため、便宜的に"雨"と称されている。
「たまには、雨にうたれるのも風情があっていいだろ?」
 そう俺が言うと、レイは凄く微妙そうな顔を浮かべて言った。
「地上育ちの思考回路は理解出来ん…… 雨の中にはある程度薬品が入れられている。人体に害がない程度とはいえ、雨にうたれたいのならば、帰ってすぐにシャワーを浴びる事を進める」
 プラント育ちのレイから見ると、俺の行動はとても不思議なものだろう。許容してしまうあたり、レイもたいがい俺に毒されている。
 しかし、地上でも雨が降るのをわかりきっているのに傘を持たずに出かけるのは、降る前に雨が降っても問題ない場所に着きそうな人か余程のもの好き、事情がある人ぐらいだ。多分その事はレイもわかっているだろうから、訂正の必要もないだろう。
「"レイ、傘を持って出かけるだけで、シンが帰宅後の工程がなくなります"」
「"加えて、健康管理の側面から見ても、雨にうたれることは推奨されません"」
 レイと俺、それぞれヨウランから預かっている端末から、ノルンの主張が聞こえて来る。
「合理的でなくとも本人がそれでいいなら放っておけ。疲れるだけだ」
 そうレイはノルンに語りかけている。レイ側のノルンは「そのようなものなのですか…」と返答し、レイも「そんなものだ」と同意してる。
 俺側のノルンは未だ抗議の声を上げているので、俺はポケットから端末を取り出し、宙に放り投げキャッチした。
 カメラ機能をONにし、レンズをレイに向ける。
「それじゃ、行ってくる」
「ああ、気をつけて行ってこい」
 ぐるりとノルンに周囲を見せる様に振り向き、俺は部屋を後にした。

*

 校門前の桜並木を全力で駆け抜け、早々に大通りに出る。
 向かうのは、業務用宇宙港に向かう途中にある公園だ。
 その道すがら、写真をとるフリをしながらノルンに周囲の景色を見せて歩く。
「どうだ? はじめて見る外の世界は」
 俺の予想が正しければ、ノルンがこうして普通に外へ出歩くのは初めての筈だ。天井はこれから雨が降るとは思えない位に快晴を映し出している。
「"街がありますね"」
 案の定な返答に、がくりと肩を落とす。でも、仕方がないのかもしれない。昨日の今日なのだから。
 ノルンと名前が決定した後、ヨウランはラボにあるノルン本体と繋がる小型端末を俺達に渡してくれた。色々なことを見聞きさせて欲しいとのことだ。
 人間にしてもそうだが、経験程得難いものはない。沢山の物事を見て、知って、そして、感じられるようになればいい。
 だから俺はノルンを外に連れて行く。軍とは関係ない、普通の人達の営みを目にする事もまた、大切な事だと俺は思うからだ。
 頻繁に外に出られる俺にしかできないことだろう。
「"シン。この経路だとディセンベル第3公園に到達することが予測されます。本日は天候に雨が組み込まれている為、第3公園での催事はありません。何の目的があって公園に行かれるのですか?"」
 そういえばヨウランが、現在地を把握する為にプラントの測位システムと同期させていると言ってたっけ。それにしてもこの質問。どう答えたらいいだろうか。
「うーん…… 目的と言うかなんと言うか…… 友達と会う約束をしてるんだ」
「"ご友人と会う事と傘を持ってこなかった事と何か関連があるのですか?"」
 なかなか鋭い。
 どう説明すればいいのか分からず、俺はノルンに言った。

「聞いてればわかるよ」

*

 4月も終わり、新緑の時期になったこともあり、公園はやわらかな緑に包まれていた。
 そんな周囲を見回しながら、俺はいつものベンチに急ぐ。
 ギターの音と共に、柔らかな歌声が聞こえて来る。春の訪れを、新緑を愛で、新たなはじまりと出会いに心浮き立たせる。そんな内容の詩だった。
 歌い手はベンチに腰掛け、歌を紡いでいる。長い黒髪が新緑の中で一層に映えていた。
 思わず端末に手を伸ばし、動画を撮っているふりをしてノルンに見せる。

「遅いわよ、シン」

 俺が来た事に気づいたのだろう。そう言って、ミーアは歌うのをやめた。不機嫌そうに眉を寄せ、立ちっぱなしの俺を見上げて来る。
「もうすぐ雨が降るって言うのに……」
 そう言ってミーアはギターをしまう。
「ごめん。いろいろ見ながら来たからさ」
 俺はミーアの隣に腰掛けた。
「この1年を一緒に過ごす班が決まってさ。チームメイトと話し込んでたせいで、夜更かしして寝坊したんだ」
 本当はノルンにいろいろ見せていた為に遅れたのだが、流石にそのことは言えない。彼女の存在は軍事機密にあたる。ノルンと繋がっている小型端末は人目に触れても良い様に形状こそLeafの携帯電話に似ているが、その中身は全く別物だ。
 士官学校以外の世界も見せる許可は既にヨウランから得ている。ミーアと直接話させる事は出来ないけれど、会話を聞かせる位ならできる。
「ふーん。それで? 前に話してくれてた"レイ"っていう同室の事は一緒になれたの? 随分仲良くなってたみたいだし」
「ああ……」
 俺は話しても差し障りのない、士官学校での出来事をミーアに話始めた。

*

 ミーアは、俺が士官学校に入る事そのものについては何も言わなかった。
 彼女が怒ったのは、俺があの条約締結のニュースを見てからレイと同室になるまでの間―― つまり、2週間以上連絡を絶っていた事に対してだった。
 俺とミーアはこの、図書館に繋がる並木道がある公園で頻繁に会っていた。一応メールアドレスなどの交換もしていたが、その頃は俺も教練校に通っていたので、まだ時間に余裕があった。なので、特に約束や連絡する事もなく会って話していたのだが、俺が求職活動を始めるとそうもいかなくなった。
 俺達は時間の調整をして会う様にした。それでも週に2回程会っていたので結構な頻度だったと思う。会って、他愛のない話をして、それで終わり。メールで事足りるくらいくだらないものが大半だった。
 ミーアは俺にとって、プラントに来てから初めてできた友達だった。友達が出来た喜びも相俟って、会う連絡でもないメールも頻繁にやりとりしていた。
 だからこそ尚更、いきなり音信不通になった俺の事をミーアは心配したのだろう。
 そんな状況で俺から来たメールの内容が「士官学校に入った」「ごめん」なら、いくら親しい仲でも怒るだろう。
 士官学校に入ってから久々に会ったミーアはとても不機嫌そうにしていた。
 平謝りする俺に向かってミーアはある約束を結ばせた。
 一つ、いきなり連絡を絶ったりしない。一つ、月に一度は会って世間話をしたい。
 ミーアは地上や士官学校での出来事など、自分が知らない世界のことをもっと色々と知りたいみたいだった。
 結局、以前と変わらない関係が俺とミーアの間には結ばれることになった。

*

「そうか。また、オーディション落ちたのか」
「うん…… もう。自信なくなっちゃいそう」
 がっくりと肩を落とすミーアにつられて、俺も深く息を吐く。
 ミーアは歌手を目指して日々レッスンにバイトにと励んでいる事は知っている。
 自分で作った曲を送って聞いてもらった時の反応は良いらしいが、実際会った時に残念がられるそうだ。
 曰く、容姿に華がない。
 俺自身はカスミソウの様に控えめで可憐だと思ってるし、なんだか化粧映えしそうだとも思っている。
 化粧をした母さんは、母さんであって母さんでなかった。それぐらいの変わり様だった。ミーアは顔のラインとか、体のラインは綺麗なんだから、瞳を二重にしたり、化粧でそばかすを隠したりすればずいぶん違うと思う。母さんがそうだったから間違いない。父さんはそれで騙されたんだと笑ってたし。
 でも以前、そのことをミーアに告げたら力いっぱい殴られた。デリカシーがないとか、そんな目で見るなとか、訳が分からない。本当のことを言っただけなのに。
 そう返すとミーアは、瞳を吊り上げながら教えてくれた。
 "化粧をしたら?" は、ナチュラル・コーディネイターを問わず、全ての女性にとって侮辱にも等しい言葉らしい。一つ学んだ。気をつけさせていただきます。
 それ加えて、プラントでは別の意味もあるようだ。なんでも、コーディネイターの容姿が美しいのは当たり前。化粧は自分の容姿に自信がない人間がすること。スキンケア? やナチュラルメイク? 程度ならいざ知らず、一重まぶたを二重にしたり、マスカラ? だとかでまつ毛をのばしたりするのは品がない、らしい。生憎と、女性ならではの専門用語のオンパレードで半分も俺には理解出来なかった。
 でも、このことだけは胸に刻みつけた。女性の化粧やファッションについて絶対に意見してはいけない。少なくとも、求められない限りは。
 寒くもないのに悪寒が走る。あの時のミーアの笑顔は怖かった……

「シン?」

 遠くに飛ばしていた意識を傍に戻す。ミーアを見ながら首を横に振った。
 数か月前とは逆だ。あの頃は、就職活動が上手くいかない俺をミーアが励ましてくれていた。だから今度は俺の番だ。
「それでも、歌い続けるんだろ? ミーアは」
 ミーアの歌への想いは、地上への想いと共に沢山聞いた。きっとミーアは、立ち止まる事はあっても、諦める事はないはずだ。そう思わせるだけの想いが、ミーアの歌には込められている。
 俺がそう言うと、ミーアは驚いたように目を丸め、嬉しそうに微笑んだ。
「当然よ! 歌は私の命。私という存在に課せられた運命だもの!!」
 晴れやかなその表情に、俺も目を細める。どんなことにもへこたれないしなやかな強さは、ミーアの美点だと思う。
「よし! なんだかやる気が出てきた!! そう言えば、シンの方はどうなの? 前に言ってた"レイ"って子以外とは仲良くなれたの?」
 レイのことは、前にミーアに会った時に話していた。同室になった自慢の友達でライバル、と紹介した。
「当然。つい最近、1年間を一緒に行動する班が決まったんだ。チームメイトのみんな、面白い奴らばかりでさ」
 ヨウラン、ヴィーノ、メイリン、ルナマリア。まずは誰の事から話そうか、と思い悩む。
 守秘義務。何を話して、何を閉ざすか。吟味しながら、俺は口を開いた。
 やはり、まず一番に言わなければならないのはこれだろう。

「レイと同じ班になれたんだ」

 気の置けない友達と一緒の班になれた喜びこそ、第一に報告すべきだろう。


*


「それで明日、みんなでレイが教えてくれた生鮮食料品店に行くことになったんだ」
 当たり障りのない範囲でみんなの事を話したあと、俺は明日の予定を思い起こした。
 ノルンの名前が決まった後、俺達は暫く他愛のない話を交わしていた。
 発端は、ヴィーノが、俺とレイが模擬戦の時に賭けを思い出した事だった。
 俺が勝ったら、レイがタカマガハラから輸入された食品の購入を援助するという他愛のない賭け。
 タカマガハラは東アジア共和国日本自治区が誇る、宇宙空間での食糧生産に特化したプラント郡のことだ。あそこでは野菜などの農産物は勿論、鳥や牛などの牧畜、果てはサンマやマグロといった海産物まで生産されている。宇宙には国家としてのプラントは勿論、地上の各国が所有するプラントが存在しているが、恐らくタカマガハラで生産された食料品を輸入していないところはないだろう。"宇宙の食料庫"は伊達ではないのだ。
「生鮮食料品店かぁ…… 一人になった頃は、配給日前に食材使い切って、良く行ってたけ」
 勿論、今はそんなことないのよ。そう、ミーアは付け加えた。
 教練校も士官学校も食堂があった。そのために俺は、プラントの一般家庭の生活に触れることなく現在に至っている。ヨウランやヴィーノ、メイリンやルナマリア達が当たり前のように交わす会話の端々に存在する"よくわからない部分"は、それに起因するのだろう。少し気になる。
「なぁ、配給ってどんな感じなんだ?」
 どこそこの会社が担当している配給品は美味しいとか、家族が増えて配給品の質が変わっただとか、なんとなく分かる部分もあるのだが、やはりよくわからない。プラントの食品は配給で全家庭にいきわたらせているみたいだけれど、いったいどんなシステムで行われているのだろう。そういえば、食堂ではパンやじゃがいもをよく見かけた。主食なのだろうか。
「どんなって聞かれても…… うーん…… 比べようがないわよ。ここの生活しかしらないもの」
 聞き方が悪かったようだ。ミーアは配給品の味や質の事を尋ねられたと思ったらしい。
 確かにそれは、プラントで生まれ育ったミーアが比較できるようなことではないのかもしれない。日本、オーブ、プラントと渡り歩いている俺の方こそが特異なのだ。
「えーと、食材の質とかそういうのじゃなくて、こう…… 主食とか……」
 とりあえず、プラントの主食について尋ねてみることにした。
 食堂のメニューを思い返すと、パンやジャガイモ、フレークが目に付いた。やはりその辺りが主食なのだろうか。
「しゅしょく?」
 しかし、ミーアは首を傾げ、不思議そうにする。どうも"主食"の意味がよくわかっていないらしい。
 "主食"という概念そのものがないような感じの反応をされたため、言葉に詰まった俺はやけくそになって聞いた。
「ほら、お米とか、パンとかじゃがいもとか…… あー、もう。普段どんな感じの料理作って食べてるんだ?」
 俺は料理に関して専門的な事まで知っているわけではない。
 公用語としての英語を幼い頃から叩き込まれ使っているが、母国語はなんだかんだで日本語だ。日本語の"主食"にあたる言葉が咄嗟に思い浮かばなかったための苦肉の策だった。
「お肉やお魚を中心に焼いたり煮たり…… あ、野菜もしっかりとってるわよ。シンが言ってるパンとかジャガイモも 食べてはいるけどメインって訳じゃないわね。お肉やお魚、野菜だけだと足りないから添えてる感じかしら」
 俺の苦肉の策は功を奏して、なんとか言いたいことが伝わったようだった。
 どうやらプラントには、日本で言う主食はないらしい。日本のおかずに当たる肉や魚がメインで、パンなどはつけあわせのようだ。言葉って難しい。

「お米はあんまり買わないけど、私はサラダにするのが好きよ」
「サラ……ッ」

 ミーアの不意打ちに思わず絶句する。
 お米をサラダにする?あのお茶碗に盛られた白いごはんがサラダになるなんて想像もつかない。
 それにサラダということはきっと、そのごはんも冷めてるはずだ。冷たいごはんをサラダにするなんて……
 冷めたご飯に、ドレッシングをかける所まで想像して、俺はそれ以上の思考を放棄した。
 プラントは恐ろしい所だ……

 驚愕のあまりに、俺は思わず天井を仰ぐ。
 先程とは違い、いつもは青空と少しの雲を映す天井が今は暗い雲を映し出している。よくよく見れば、照明も一段暗くなっていた。
「雨…… 降るのか?」
 地上で見た雨前の空模様と似ている気がして、思わず声に出してしまう。
 隣のミーアも空を見上げた。
「あら? そろそろ雨の時間ね」
 あっけらかんとしたミーアの言葉に違和感を感じ、俺は周囲を見回した。
 どうやら、あの天井模様が雨の合図らしい。人工降雨とは聞いていたが、ここまでするのかと思うものの、あの雨の前特有のしめった感じや風を感じない。
 違和感の理由はこれか、と一人納得しつつ、俺は再び空を見上げた。灰色の雲がもやもやと広がっている。
「この雲の映像だと、雨が降り始めるまであと10分ってところかしら」
 そう言うと、ミーアは鞄から折りたたみ傘を取り出そうとした。それをぼんやりと眺めながら、ふと、俺は思いつく。
「あのさ、ミーア」
 俺が座るベンチから丁度、この公園の為に設けられた休憩所が見えていた。少し、ミーアに俺の気紛れに付き合って もらおう。

「雨宿り、していかないか」


*


 休憩所の屋根を叩く小さな水音。
 かすかに香る土の匂い。

 雨が降る。

 少し鼻につくのは、恐らくこの人工降水に含まれている薬品の匂いだろう。
 目を閉じ、耳を雨音に傾ける。

 思い出すのは、父さんと山に登った時のことだった。
 あれは今より少し後の季節だったような気がする。

 急に変わった天気。むせ返る様な土の香り。休憩所での雨宿り。雨音は激しく、雷まで鳴って、そして――

「もうっ! 信じられない!」

 ミーアの言葉に、俺は目を開いた。
「雨が降るのはわかっているのに、傘を持ってこないだなんて!」
「そういう気分だったんだよ」
 ぷりぷりと怒るミーアに、俺はそう返した。
 理解できない、と、憮然とした表情をするミーアを放って、俺は再び目を閉じる。

 雨音が聞こえる。地上の雨と同じようで違う雨音が。

 プラントの雨に遭遇するのは、実はこれが初めてではない。教練校時代にも何度か雨が降る日があった。
 ただ残念な事に、その時間帯は大抵校内で講義を受けていた為、プラントの雨を直接目にしたのは今回が初めてだ。
 計画降水なんて銘打っているけれど、初めにこの方法での浄化を思いついた人はきっと、プラントに雨を再現しようとしたのだろう。
「なんで自然を再現しようとしたんだろう……」
 ぽつりと零れた言葉は静かに俺の中に漣を起こした。
 紅葉。桜。雨。プラントには沢山の人の手で造られた自然が溢れている。
 何から何まで人の手で造られたプラント。一体どういう意図があって、ここの人は季節の、天候の再現をしているのだろうか。
 わざわざ天井に巨大なモニターを敷き詰め、"空"を造り、太陽を映し、天候を、移り変わる季節を再現して。ずっと過ごしやすい環境に設定し続ければ、手間もかからず楽だろうに。
「だって、緑がないとさびしいじゃない」
 俺が呟いた言葉を拾い上げ、ミーアが言い切る。
 目を開けて、俺は周囲を見回した。
 確かに緑の木々がなければ、プラントの景観は味気ないものになるだろう。でも、街路樹などの植物はともかく、この空気清浄化のための雨や空気循環の為の風を、自然と呼んでいいものなのだろうか。
 目に映る事象はよく似ていても、何かが、そう、何かが違う。

「そうか…… "音"が少ないのか」

 雨の音は聞こえても、雨粒が葉を、屋根を打つ音は聞こえても、風の音が聞こえない。
 カエルの鳴き声、遠雷。思い返せば地上は、沢山の"音"で溢れていた。
 遠くに聞こえる車のエンジン音。水たまりをはねる音。地上にもプラントにもあるけれど、何かが違う。
「"音"が少ない? どういうこと?」
 "音"―― 音楽、歌に関する事なので、ミーアが目を輝かせて尋ねて来る。
「上手く言えないけど、地上の雨にはもっと色々な"音"があるんだよ。風の吹く音、カエルの鳴き声、遠雷。パッと思いつくのでこれくらいかな……」
 まぁ、聞こえない時もあるんだけど。そう付け加えると、ミーアは眉を寄せた。
「"カエル"って、なに?」
「え?」
 まさかの問いに、思わず呆然としてしまう。
 だが、反面やはりとも思ってしまった。
 よくよく考えれば、ミーアがカエルを知らない可能性も予想できたのだ。
 プラントは地上と違って、宇宙にある閉鎖された空間だ。いくらコーディネイターが病気にかかりにくいとはいえ、突然変異した新しい病気が誕生したらその限りではないだろう。質の悪い伝染病が蔓延した時、プラントには逃げ場がない。だからこそ、常日頃の検疫や空気循環、洗浄に気を使っているのだろう。
 虫や動物が病気の媒介することは有名な話だ。制御する事の出来ない虫や動物を生活空間に放つのは、あまりにもリスクが高すぎる。
 そういえば、町中ではペットロボショップは見かけても、ペットショップは見かけなかった。もしかしてプラントは、一般家庭が動物を飼うことを規制しているのだろうか。
「本とかで見た事ないか? 緑色で、目が大きくて、きょろきょろしてて、ケロケロ鳴くやつ」
「わかんないわよ」
 憮然と言うミーアに、俺はどう説明しようかと考えを巡らせる。
「ほら、あれだよ…… "カエルのうた"。童謡なんだけど、聞いた事ないか?」
「ない!」
 うっかり出してしまった"歌"のタイトルに、しまったと俺は後悔した。見やれば、案の定、ミーアの瞳はキラキラと輝いている。
「ねぇ、どんな歌なの!? 聞かせて!!」
 やってしまった……
 これまで、どんな歌でもいいから地上の歌を歌って欲しいと頼まれることもあったが、俺は頑なにそれを拒んで来た。拒んだからこそ、せめて旋律だけでもとギターを弾かされたのだ。結果は初めて弾くギターということもあって、大惨事になったが…
 しかし俺は今回、自分から曲名を出してしまった。この流れだと逃げられない。
 本当に頭を抱えてうなだれる俺に、ミーアは早く早くと急かしてくる。
 もうどうにでもなれ、と俺は口を開いた。

*

 雨音やまぬ公園に、俺の歌声が静かに広がる。
 軽快で楽しげな歌だから、俺もそのつもりで歌っている筈なのに、耳に入るのは平坦で面白味もない声だ。普段全く意識していないけれど、こんな所で病気の片鱗を見つけてしまうとは……とても他人に聞かせられるような歌声ではない。
 ましてや、ミーアはプロを目指す歌手の卵だ。耳は肥えているだろう。
 穴があったら入りたい。恥ずかしくて消えてしまいそうだ。
 そう思いつつ、俺はひたすら口を動かす。
 三度同じように歌を繰り返した時だった。同じフレーズを繰り返されていることに気づいたミーアが、俺に歌声を合わせてきた。何の変哲もない"カエルのうた"なのに、ミーアが歌うとどこかやわらかく聞こえる。
 ミーアが一度歌い終え、もう一度歌い始めるのを聞き届けると、俺はわざと1小節分置いて輪唱を開始する。少し驚いたようにミーアの歌声が揺れるも、すぐに持ち直して歌い続ける。
 俺の脳裏には、かつて地上で聞いたあのなんとも言えない鳴き声の大合唱がよぎる。
 ああ、なつかしいな。
 そんなことを思いながら、俺は歌い続けた。

*

「もう、いいか……?」
「とっても楽しかったわ!!」

 満足そうに笑うミーアを見て、俺は乾いた笑い声めいたものをもらす。
 何度も輪唱を繰り返した後、ミーアはようやく満足してくれた。
 よかった…… 俺はなんだかとっても疲れたよ……
「でも不思議ね。生き物の鳴き声から歌が生まれるなんて……」
 そう言うと、ミーアは腕を組んで考え込む。
「ねぇ、シン。地上にはそんなに"音"があるの?」
 その問いに、俺はミーアを見る。
 どこか、遠くを見る様に眉を寄せ、ミーアは考え込んでいた。
 俺に投げかけられた問い。でも、それは本当に俺だけに向けられた問いなのだろうか。
「母さんが言ってたわ。空が、大地が歌う歌を、私と聞きたかったって」
 空が、大地が歌う歌――
 目を閉じ、地上にいた頃に見聞きした風景を思い起こす。
 "音"、"歌"。
 溢れていたのかもしれない。
 人が作る音。自然が奏でる音。
 それら全てが混在し、歌っている様に聞こえる事もあれば、雑音の様に聞こえる事もある。
 音の氾濫――
 でも、何故、ミーアのお母さんは、ミーアにそんなことを言ったのだろうか。 
 ふと、ミーアの歌を思い出す。
 傷ついた人に寄り添うような優しい歌。耳に心地よく、胸に染み渡るような歌。
 こうしてミーアのお母さんの言葉の真意を考えながら思い返すと、ミーアの歌の中に、ほんの僅かにだが感じる小さな違和感に気づく。
 本当に小さな齟齬。その原因。”空が、大地が歌う歌”。唐突に、俺は気づいた。ああ、だから。

「だから、ミーアのお母さんは、ミーアと一緒に地上に行きたいって言ったのか」

 風、水、光。
 それらをモチーフにした、ミーアが好んで使う言い回し。傷ついた心に寄り添うように、やさしくに歌われているのに、どこかうつろで、何かが足りない。
 それはきっと、ミーアが本物の自然に触れたことがないからだ。
「え? なに? 急にどうしたの??」
 戸惑うミーアを宥める様に俺は言った。
「ミーアはいつか、地上に降りるつもりなんだよな?」
「え、ええ」
 俺は頷き、言葉を続ける。
「俺が直接案内したいけど、軍人になるからそれもむずかしそうだから、さ」
 言葉を切る。どう言えば、ミーアに俺の言いたいことが伝わるだろうか。

 幼馴染の家族と行った花見。
 宴席のざわめきと鶯の鳴き声。舞い散る桃色の花弁。
 あの春の日の喧騒を覚えている。

 家族全員でのキャンプ。
 木々のざわめき、虫の鳴き声。見上げた夜空。
 あの夏の夜の静けさを覚えている。

 栗拾い。
 紅葉は鮮やか、揺らめく黄金。流れ行く紅葉模様の錦。
 あの秋の川のせせらぎを覚えている。

 雪遊び。
 雪合戦、そり、スキー、雪だるま、かまくら。しんしんと降る雪。
 踏みしめた雪の音の儚さを覚えている。

 "音"と共に思い出される大切な記憶。家族との思い出。

 ああ、僕の世界はあんなにも。
 "音"で溢れていたのか。
 痛みと喪失感が胸を刺す。

 俺にはもう聞こえない愛しい"音"達。
 どうすればミーアに、僕が聞いた音を伝えられるだろうか。いや、俺にはきっと、その1%も伝えられないだろう。

「大地に身を任せて、目を閉じて、心を開いて、耳を澄ませてみるといい。きっとミーアのお母さんが言う、"空と大地が歌う歌"―― 星の歌声が聞こえるはずだから」

 だからこそ、俺も、ミーアのお母さんも、ミーアに聞いてほしいと願うのだろう。
 あの丸い大地の中で謳われる歌を。美しい音も、醜い音も、何もかもが互いに重なり合い奏でる壮大な讃歌を。
「今はわからなくてもいい。地上に降りたときに試してほしい」
 とても曖昧で、白か黒、はっきりしたがるプラントの人達には意味がよくわからないかもしれない。けれど、ミーアなら、地上から来た人の薫陶を受けたミーアならきっと、ナニか感じてくれるはずだ。
 だって本物を知らなくてもあんなにも、ミーアの歌は風を、光を、水を、心を謳っているのだから。
 なんとか、俺の言いたかった事は伝わったらしい。ミーアは神妙な顔をして頷いてくれた。
「わかったわ。それにしても不思議ね。母さんも…… シンも。地上の人はみんなそうなのかしら?」
 心底不思議そうに言うミーアに、俺は首を横に振った。
「いや。地上の人間でも、感性豊かな人、感受性が強い人ぐらいだと思う」
 残念ながら俺はそこまで繊細じゃない。ずぶとくなければきっと、オーブでもらった善意を貰えるだけ貰って、何も返さずにプラントに渡る事なんてできないだろう。
 一瞬よぎった人のよさそうなトダカさんの顔を払う様に、俺は目を閉じた。
 瞼の裏に広がる暗闇。耳を澄ませば、雨音が響く。地上の雨と違い、どこか規則正しく聞こえる音。まるで、楽器が楽譜通り正確に音を奏でているかの様に。
「ふしぎ…… こうして注意して耳を傾けてみると確かに歌ってるみたい。いつもはそんなこと、全然思わないのに」
 そんな呟きが聞こえて来る。小さく傘の先でリズムをとりはじめ、口ずさむように旋律が途切れ途切れに聞こえてくる。それはやがて雨宿りと待ち人を想う歌になった。
 優しい歌が雨音ともに広がってゆく。
 その歌声に、俺は耳を傾けた。優しい歌声だけれど、やはりどこか物足りない。気づいてしまえば、どうしてもそこが気になってしまう。
 だからこそ俺は想いを馳せる。地上に降りたミーアは、本物の自然に触れて何を感じるだろうか。何を想うのだろうか。出来ることならば、ミーアが地上に降りて初めて紡いだ歌を聞くのが俺であればいい。
 そんなことを想いながら、俺とミーアの時間は、ただ静かに過ぎていった。

*

 雨もやみ、ちょうど時間が時間だったこともあり、俺とミーアはそれぞれの帰路に着いた。
 ミーアは先程作った曲を書き起こすのだと息巻き、急ぎ足で帰っていく。その背を見送りながら、俺はポケットに収まっているノルンに話しかける。
「で? どうだった?」
「"どう、とは?"」
 ノルンにはずっと、俺とミーアの会話を聞かせていた。
 初めて接したであろう外の世界。ノルンは一体何を感じたのだろうか。
「なんでもいいからさ。見たり聞いたりして考えたこと教えてくれよ」
 俺がそう言うと、暫く考え込むような沈黙の後にノルンは言った。

「"やはり、雨が予定されているにも関わらず、傘を持たずに外出したのはおかしな行為なのだと……"」

 その発言に思わず吹き出しそうになる。
 ノルンは俺の気まぐれをずっと気にかけていたのか。
 その後もノルンは、プラントの街中で見かけたお店の情報や街路樹の種類などを列挙していった。お菓子屋の情報もあったので、おすすめの品を尋ねてみると、どうやらスコーンが美味しいらしい。紅茶と合わせて、帰り道に買って帰ろう。
「"以上になります。そしてあとは……"」
 一通り俺に伝え終えた後、ノルンは言い淀むかのように言葉を切る。
 俺にはなんとなく、ノルンがその後に続けようとしていることが分かった。
「ミーアに会ったのはどうだった?」
 ミーアはノルンが初めて接した、軍関係者ではない一般人だ。
 守るべき対象。ノルンはミーアと接して何を想ったのだろうか。
「"……"」
 沈黙。
 思い悩んでいるのだろう。俺はひたすら、ノルンの返答を待った。
「"解析できませんでした……"」
 暫しの思考の末に発されたノルンの言葉は、俺の耳にはどこか戸惑っているかのように聞こえた。
 俺は静かにノルンの言葉に耳を傾ける。
「"先程、シンとミーア様が行われていたのが、""歌う"という行為であることは検索できました。また、お二方が輪唱された歌が、"カエルのうた"という曲名の歌だというのも、すぐに判明しました。しかし、その後ミーア様が歌っていた2曲目は、私がアクセスを許可されているどのデータベースにも該当がありませんでした"」
 ん? と、俺は首を傾げた。
 てっきり、ノルンはミーアの身体的特徴だとか、声の帯域だとか、そういう方面からの考えを報告するのではないかと思っていた。しかし、俺の予想を裏切り、ノルンは俺とミーアの行動―― 特にミーアの"歌う"という行動を気にかけている。
「"ミーア様が歌っていた歌はいかなるデータベースにも登録されていませんでした。あの歌はいったい、どこのデータベースに登録された歌なのですか?"」
 ヨウランはとれるだけの許可を得て、ノルンに様々なデータベースのアクセス権を与えている。その中には恐らく、楽曲などを取り扱うデータベースも存在したのだろう。少なくとも、プラントで作られた歌は全て登録されていそうだ。
 その中に存在しない歌。
 それはノルンにとって、自分の知識の中にない不可思議な存在であり、補完の対象となった。そういうことなのだろう。
 さて、どう答えれば、ノルンに色々と考えさせる事が出来るだろうか。
「どこにも登録されていないよ。あの歌は今日、ついさっき、ミーアが自分で作った歌なんだから」
 いい言葉が見つからず、俺はありのままにノルンに事実を伝える事にした。
「"作る? "作曲"ですか? 意味は分かりますが、なぜ、あのような歌が創作されたのか理解できません"」
「雨音を聞いたからじゃないかな」
 特に何も考えずに答えれば、ノルンが少しむっとしたように言った。
「"録音した雨音の拍子や本日の降水アルゴリズムを解析しても、先程ミーア様が歌われていたようなリズム、単語は発見されませんでした"」
 やはり、ノルンの中では様々な解析が行われていたらしい。
「"一体、ミーア様はどこからあの歌を探してきたのでしょうか?"」
 どこかしみじみと、心底不思議に思っているかのように聞こえる声。
「そうだな……」
 ノルンが持った疑問に、俺はなんて返せばいいのだろうか。
「きっと、もっとノルンが人間のことを知って、仲良くなって、成長していけば、自分の歌を歌えるようになるんじゃないかな」
 ヨウランが言っていた事を思い出す。
 ある程度のデータが溜まれば、モビルスーツの独自改善案を提案できるようになる――
 今は出来ないけれど――
 そんな事が最終的にできるようになるのがノルンだ。きっと歌ぐらいすぐに歌える様になるだろう。
「"私の歌?"」
 きょとんとした幼い少女の顔が見えた気がした。
 それが微笑ましくて、俺はノルンのいる端末を取り出し、彼女の<目>であるカメラレンズを自分に向ける。
「そう。さっきのはミーアの歌。ミーアだけにしか紡げない、歌えない歌だ」
 俺は静かにノルンへ語りかける。

 ミーアの歌を別の誰かが歌っても、それは誰かの歌であって、ミーアの歌ではない。
 一卵性の双子が見た目はよく似ていても、歩む人生はそれぞれだけのもの。
 全く同じものなんて存在しない。全ての生命―― 存在はたった一つしか存在しない尊いもの。
 代替なんてない大切な"いのち"。俺も、ミーアも、ノルンも。

「だからノルンも、ノルンにしか歌えない歌が歌えるようになるといいな」

 最後にそう締めくくる。
 言葉というものは難しい。俺なりにわかりやすく言ったつもりでも、本当に俺が思ったように伝わっているかはわからない。けれど、言葉にしなくては伝わらない。しかし、どんなに言葉に尽くしても伝えきれない。
 ましてやノルンは"生まれた"ばかり。これからどんどん、色々なことを知っていかなければいけない。
 それはきっと、"僕"でなくなった"俺"も同じなのだろう。俺もノルンも、まだまだ勉強しなければならないことがたくさんある。

「"つまり、どういうことなのですか?"」

 手の中にある小さな端末。
 雨上がりの空気は清澄で、明かりは穏やかに降り注ぐ。
 俺を見る<目>は無機質な集まりでしかないはずなのに、困惑の光がきらりと輝いている気がする。
 途方にくれたように聞こえるその言葉に、俺は精一杯の笑顔を浮かべて返せているだろうか。

「ノルンはこれからも、俺の合理的でない行動に付き合わされるってこと」

 "はぁ……" と聞こえた声は、呆れなのか困惑なのか。
 きっと、ノルンに溜め息をつかせたのは俺が初めてだろう。
 そう思うとおかしくて、俺は端末を宙に放り投げて受けとめた。



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[32070] Graduale - 昇階唱 ⅩⅤ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2012/07/01 23:02
Graduale - 昇階唱 ⅩⅤ



「こ、これは……!」

 手の中にあるずしりとした重さに、思わず俺は感嘆の言葉をこぼした。

 丁寧にラッピングされたトレーの中におわすは、俺が焦がれてやまない牛肉様。いつも買ってるような安物とは比べ物にならない位、適度な厚みと大きさを持った肉の塊。
 ラベルにはしっかりとタカマガハラ産と印字され、ラップにはデフォルメされた白い犬のシールがはられている。どこかとぼけた表情をした愛嬌のあるその犬の名はアマ公。タカマガハラにある日本の企業ミズホのマスコットキャラクターだ。
 かつていた日本自治区では見慣れたもの。見慣れすぎて意識すらしなくなっていた。だからこそなのだろう。こうしてプラントに来てそのとぼけた姿を見ると、どうしようもない想いが胸に湧き上がる。
 その想いを振り払う様に、俺は深く、深く息を吐いた。
「どうしたんだ、シン」
 ひょっこりと、ヴィーノが後ろから俺の手元を覗く。恐らく、パックを持ったまま固まって少しも動かない俺を不審に思ったのだろう。
「うわっ! たっけぇ!」
 客があまり多くない店内に素っ頓狂にあがるその声はしっかりと響いた。僅かながらも周囲にいる人々が何事かと俺達の方を見てくる。
 慌てて俺はヴィーノと一緒に頭を下げた。
 俺達は今、プラント政府の認可を得た私営の生鮮食料品店に来ている。
「うわ、ナニコレ。いつもうちで選んでるお肉の倍以上じゃない」
 いつの間にか傍に来ていたルナマリアも、俺が持つ牛肉のパックを見てそう言った。
 確かに、今俺が手に持つ牛肉は高い。普段の俺なら絶対に買わない。そんな値段だ。
「やっぱそうだよなぁ……」
 ルナマリアの言葉にヴィーノが同意し頷いている。
 二人に挟まれた俺はというと、なんとも言えない気持ちになり、パックをそっと棚に戻した。
「あれ? いいのか、シン」
 不思議そうなヴィーノの言葉に、俺は頷いた。
「せっかくだし、みんなと楽しめるものを買おうと思ってさ」
 そう言って俺が手を伸ばしたのは、同じタカマガハラ産でも先程持っていたものよりも安価で量がある方の牛肉パックだ。ぽいぽいといくつか籠に入れる。
「それにしても沢山あるわね…… えーと…… ミソ? ナットー? ショーユ?」
「そういえば、最近は色々な国のプラント産の食べ物見る様になったよなぁ」
 興味深げにルナマリアが籠を覗き込んでいる。その横でヴィーノがデュランダル議長様様と頷いている。
「ヴィーノも自炊してるのか?」
 口ぶりからして、頻繁に生鮮食品店に出入りしている感じがする。どうなのだろうか。
「いんや。 母さんからのメールの中にさ、配給カタログの中に並ぶ食品の産地がユ二ウス市以外が多くなっていいのやら悪いのやらって感じのがあってさ」
 やっぱ、国産がいいし、とヴィーノは肩を竦めた。
 その気持ちは確かに俺も良く分かる。
 今はプラントに住んでいるけれど、やっぱり俺にとって生まれ育った場所は日本で、時たまどうしようもなく恋しくなるのだ。
 食事に関しては特に。特に。
 プラントとタカマガハラの関係が良好になってくれて本当によかったと思う。数は少ないけれどこうして、時々日本の食品が店に並ぶようになってくれたのは嬉しい。
「ねぇ、シン。このカツオブシって何? どんな料理に使うの?」
 籠の中身を見聞していたルナマリアが、鰹節片手に尋ねて来る。
「ルナって料理するのか?」
 俺の素朴な疑問は、足を思いっきり踏みつけられることにより黙殺された。


*

 宇宙空間に在るプラントでは、大地の産物であるものの、ありとあらゆるものの入手が困難だ。
 いや、水や空気はともかく、穀類を筆頭とした農産物は生産しようと思えば生産できる。なにせ、「プラントで作れないものはない」らしいのだから。
 しかし、現在国家として独立しているプラント群は主に、大西洋連邦所属国が出資して作ったプラントだ。このプラント群は近年に至るまで穀類の生産を禁じられ、食料品―― 特に穀類の入手を地上からの輸入で100%賄っていた歴史的背景を持つ。
 進化した人類といえども、飢えには耐えられない。いつの時代でも兵糧攻めは有効なのだ。この食料品の生産禁止に対する不満が、現在のプラント独立への原動力となっていったは確かだろう。
 C.E.69年。時のプラント最高評議会議長シーゲル・クラインは、ユ二ウス市のプラント四基を食料生産用に改装した。その内の一基、ユ二ウスセブンは、翌年の血のバレンタインの悲劇の舞台となる。
 C.E.72年現在、正常に稼働しているプラントの食料生産用コロニーはユ二ウスエイトからテンまでの三基。その三基だけでは、とうていプラントの全人口を賄えるだけの生産量は望めない。
 元より、国家プラントを形成するプラントは、食料生産用に作られたプラントではない。
 大西洋連邦が主になり作らせたプラントは、宇宙空間での工業製品の研究・生産及びエネルギー生産に特化したプラントだった。備え付けられた設備や機能もその方面に特化している。それを無理に食料生産用に改装して使っているのだから、その生産能力はお世辞にも高いとは言えない。
 加えて、宇宙空間に在るプラントは、大西洋連邦が出資して作ったプラント―― 国家プラントだけではない。他の国々が出資し作ったプラントも存在し、当然その中には、食料生産に特化したプラントも存在する。
 その代表例がタカマガハラ―― 東アジア共和国日本自治区が単独で出資し、建設した食料生産に特化した多目的コロニー群だ。
 再構築戦争末期―― 中華、ユーラシアからの侵攻に応じる形で参戦し、これらの軍を大陸側に押し返した日本は双方に対し優位な立場で終戦を迎えた。
 国境の再構築の波に呑まれ、東アジア共和国の一部として括らることにこそなったが、終戦時に優位な立場に立っていたおかげで、ほぼ独立国と変わらない高度な自治権と、中華、ユーラシア双方に対し、膨大な金額になる賠償金の請求権を得た。この様な形で自治権を得た国は僅かながらも存在している。
 大西洋連邦に所属するイギリス高度自治特区が良い例だろう。かの特区もまた、自身のプラントを所有している。"アルビオン"と称されるそのプラントは、大西洋連邦所属国のプラントでありながら、国家プラントに所属しない特殊な立場にあるプラントだ。
 まぁ、昔からあの国は"栄誉ある孤立"を選ぶ傾向にある国だから、当然と言えば当然の帰結なのかもしれない。むしろ、大西洋連邦所属に合意したことの方が驚きだと、地上の学校の先生は言っていた。
 イギリス特区もたしか、侵攻してきた国から多額の賠償金を得ていたはずだ。どのくらいの金額かは聞き及んでいないが、日本自治区が受け取ることになる賠償金よりも更に上だったとは習っている。
 まぁ、それでも日本自治区が得ることになった賠償金は、向こう1世紀経っても払い切れる様な金額ではないものだったらしい。
 日本自治区はその請求権の放棄と引き換えに、本国中華に独自のコロニーを作ることを承認させた。一部支払われていたものに対しては、後々コロニーで生産される事になるであろう食料品を優先的に輸出することで折り合いをつけみたいだ。
 それだけ、日本自治区にとって宇宙に食料生産の場を得る事は重要だった。
 ただでさえ国土が狭いのに、その国土の約70%は険しい山岳地帯。更に、約67%は森林である。大規模な農業活動ができず、その食料自給率は戦前から危ういモノであった。しかし、国土はそう簡単に増やす事は出来ない。
 宇宙空間という新天地に希望を見出し、日本は食料生産に特化したコロニーを得た。
 プラントではなくコロニーと称されるのは、その形状が旧式のボトルを横倒しにしたような形をしているからだろう。
 農産は勿論、水産、畜産、その他農業に関する研究など、目的別に様々な環境を再現した小さなコロニー群と全ての中心となる都市型コロニー。さながらそれは、小さな魚の群れを連れて星の海を悠々と泳ぐクジラのように地球からは見える。
 そしてタカマガハラは10年の歳月をかけて、"宇宙の食料庫"に昇りつめた。
 生産量、種類、品質、どれをとっても、タカマガハラを上回る食料生産プラントはないだろう。タカマガハラで生産された食料品は、地上の日本自治区、中華は勿論、他国のプラントにも輸出されている。勿論、タカマガハラも他プラントから輸入しているものは数多くもある。
 このプラント間で行われる貿易に参加できなかったのが、現在の国家プラントにあたるプラント群だ。
 タカマガハラで生産された食料品の本格的な輸出開始はC.E.53年。その頃にはザフトの前身にあたる黄道同盟は設立され、活動を行っていた。
 理事国側の意向を受け、タカマガハラを含めた食料生産コロニーを所有する国々は大西洋連邦所有のプラントに対する食料品の輸出を自粛・制限した。理事国側から要請があれば行われる程度。裏でこっそり取引していても微々たるもの。
 一種の経済制裁が、国家プラントに対し、暗黙の内に執り行われていた。
 当然、技術交流などもっての他。国家プラントの食料生産技術は、他プラントでの技術革新などに取り残される形で放置され、現在に至っていた。
 その状況を打破しようとしているのが、現プラント最高評議会議長ギルバート・デュランダルだ。
 国家プラントが承認されると同時に選任されたデュランダル議長は、まず宇宙空間に浮かぶ他プラント群に対し友好を呼び掛けた。
 二の足を踏むプラントが多くあった中、一番最初に名乗りを上げたのが意外な事に、イギリス特区のプラント"アルビオン"だった。このアルビオンと友好関係にあったタカマガハラがその後に続き、現在、プラントとの間で輸出入、技術交流の為の調整が重ねられているらしい。
 そう言えば、農業用―― 食料生産用に転用されることになった建設途中のプラントも、食料生産技術先進コロニーであるタカマガハラの意見を取り入れる為に作業が一時中断しているとかなんとか。
 そんなニュースを最近見かけた気がする。

*


「シン」

 名前を呼ばれて振り返れば、そこにはレイがいた。
 が、手の中に在るものを認識して思わず固まる。
「これらも買って良いだろうか……?」
 どこか探る様に見て来る瞳には見覚えがあった。
 マユが母さんにおねだりする時の目だ。

 ねるねるハイパー 暴君ハバネロ~激辛からの挑戦状リターン~ じゃがポテトetc...

 見覚えのあるお菓子がレイの手の中には収まっている。

「え、えーと……」
「うわぁ! なんだそれ!?」

 返答に窮する俺を放って、ヴィーノがレイに駆け寄る。
「どれもこれも見た事無いやつばっかだ!! なぁ、これどこにあったんだ?」
「あちらだ」
 思わずルナマリアと一緒にレイが指差した方を見てしまう。
 そこには、"ジャパニーズスナックフェア"という文字が電子広告の上で躍っていた。
 前々からこっそり思っていたけど、サンドイッチのツナ強奪事件といい、レイの味覚は意外に子供っぽい。見た目が良くて雰囲気も大人びているから、時折見せる子供っぽい部分がよけいに幼く見える気がする。
 でも、とレイと一緒に日本のお菓子を手にとってはしゃいでいるヴィーノを見る。同じ行動をしている筈なのに、ヴィーノからはあまり違和感を感じない。
 なんだか世の理不尽を垣間見た気分だ。
「どうしたんだ?」
 動かない俺とルナマリアを不審に思ったのか、ヨウランが声をかけてきた。その手に持つ籠の中には、いくつかの食材と栄養補給用のゼリーが入っている。
 思わず俺がそれらを凝視していると、ヨウランは苦笑した。
「ラボの冷蔵庫が空になっててさ」
 あそこには簡単なキッチンも備え付けられてるんだ。そう笑って、ヨウランは近くに置いてあったインスタントコーヒーの瓶を手に取って籠に入れている。
「それで、あいつら何してんの?」
 ヨウランもまた、俺とルナマリアが先程まで見ていた方に視線を向けた。そこには、真剣にお菓子を選んでいるレイとヴィーノの姿がある。
「ジャパニーズスナック…… 増えたよなぁ、最近。ああいうの」
 どこか複雑そうに、ヨウランは言った。
「他の国のプラントと交流する様になったとはいえ、やっぱり複雑よね。"アルビオン"と"タカマガハラ"だったかしら。去年の今頃なら考えられない光景だわ」
 ヨウランとルナマリアの会話を、俺は黙って聞いた。
 二人の複雑な気持ちを、俺はよく理解出来ない。
 少し目を伏せて手元を見れば、籠の中に入った、懐かし日本の食料品が目に入る。
 今まで出来なかった事が出来るようになって、他の世界とも言うべき他国所属のプラントと交流ができるようになったことは良い事なんだろう。
 単純に俺はそう思っていたけれど、二人の顔を見ているとそんなに簡単なことではないのだと突き付けられるような気がする。何がどう簡単でなくて複雑なのか、理解する事はおろか、感じることすら俺にはできない。
 小さく息を吐き、努めて明るく、俺は言った。
「そう言えば、メイリンはどうしたんだ?」
 先程からメイリンの姿が見えない事が気にかかっていた。
 店内に入って暫くはみんなで回っていたのだが、少しするとめいめい気になる所へ散っていった。
 俺は生鮮食品をメインに見ていたけど、その途中、それぞれ気になる所で足を止めているみんなの姿を見た。
 レイは店内全体を見て来る、と言っていた言葉通り、店内のあちこちで見かけた。ヨウランと飲み物のスペースへ行くと言っていたし、ヴィーノはお菓子コーナーに突撃していた。ルナマリアは俺と一緒に生鮮食品を見て回っていた。
 確かメイリンは、ヨウランと一緒に飲み物を見て来ると言っていたはずだ。
「あぁ、メイリンなら暫く一緒にいたけど、すぐに"飽きた"とか言って、ほら、来る時に見ただろ? 近くのカフェで席とって待ってるって」
「あー…… あの子、料理あんまり得意じゃないしね」
 ヨウランの言葉にルナマリアが納得した様に頷き、お菓子なら得意なんだけど、と付け加える。
 この生鮮食料品店に来る途中に見かけた喫茶店の事を思い出す。
 少し離れた所にあるそのカフェは、ノルンの情報によるとアルビオン式アフタヌーンティーフェアなるものをやっているらしい。メイリンがしきりに行きたがっていたので、買い物を済ませた後に行こうと約束してはいたが……
 まぁ、見かけた時点でお客さんも多かったし、席を待つ時間を考えればメイリンの行動も合理的なのだろう。
「で? どうする? あいつらそろそろ止めないと、全種類買い占めそうな勢いだぜ」
 指差された方を見れば、せっせとお菓子で籠を溢れ返させているレイとヴィーノの姿があった。
 レイの思わぬ姿に戦慄する俺とヨウランの横で、ルナマリアが深々と溜め息をついた。そして眉を寄せ、きりりと顔を上げると二人に向かって声をかける。

「こらー! お菓子は3こまでよー!!」

 思わず噴き出してしまった俺とヨウランは何も悪くない。


*


 生鮮食料品店での事の顛末が語られると、メイリンは思いっきり眉を顰めた。
「なんか子供っぽい……」
 ぽつりと呟き、残念そうにレイとヴィーノを見て溜め息を吐いている。
 俺はうんうんと頷きたかったが、隣にいるレイが"子供っぽい"という言葉に地味にショックを受けていたので控えておいた。
 他人の事は言えない。俺だって郷愁に駆られて、ねるねるハイパーメロン味をこっそりレイ達の籠に紛れ込ませたのだから。買い物の会計が、賭けの関係でレイ持ちだったからこそできたことである。
「それにしても、6人分の席なんてよくとれたな」
 そう言って俺は周囲を見る。
 テーブル3つを合わせた俺達の席は、丁度店の奥まった位置にあたる。そこそこ人がいるカフェであるにも関わらず、店員以外が訪れる事は少ないだろう。
「ここなら、ノルンも会話させて大丈夫そうだな」
 俺は連れて来ていたノルンの端末をテーブルの上に出す。
 ずっとせまいポケットに入れっぱなしでごめんな、と謝ってその画面を撫でる。ディスプレイがちかちかと明滅し、"シンは変わり者です……"という返答が、普段よりもボリュームを落とした声で返される。
「なんて言うか…… シンを見てると、世界って色々あるんだな、って思うわ、俺」
 ヴィーノの言葉に、ヨウランが同意するかのように頷いている。
「昔、"SELENEの帰還"の記事をネットで読んだ事があるんだ。よく分からない内容だったから、半信半疑で嘘だと思ってたけど…… シンを見てると本当の事なんだろうなって思う」
 SELENE――
 そう言われてもパッと思い当たるものがない。でも、聞き覚えはある。なんだったけ?
「"SELENEの帰還"って?」
 ルナマリアも知らないようで、ヨウランに尋ねている。
「月への商業宇宙旅行が認可された頃に起こった出来事だ」
 でも、答えたのはヨウランではなくレイだった。
「東アジア共和国日本自治区の宇宙開発機関と民間企業が合同で企画した、再構築戦争前に月に廃棄された人工衛星の残骸を回収しに行くというよくわからないツアーだ」
 相変わらずレイの説明は端的でわかりやすい。おかげで、SELENEが何を指しているか思い出すことができた。
 "かぐや"のことだ。
 たしか、当時の国営放送局の依頼で、ハイビジョンカメラを搭載した月探査機で、正式名称がSELENE、愛称が"かぐや"。"かぐや"の印象の方が強かったから、SELENEと言われても、すぐには思い浮かばなかった。
 俺が一人で納得している横で、どこか呆れと困惑が混じった声をあげた。
「わざわざ月にゴミを回収しに行くの? 当時の宇宙旅行ってかなりの金額だったんでしょ? それなのにゴミ回収?」
「ボランティアか何かか?」
 ヴィーノもメイリンと同じ見解らしい。
 ゴミ回収とはなんだ。ゴミ回収とは。
 俺は憮然と答えた。
「かぐや姫を迎えに行っただけだ。それに、かぐやだけじゃない。ひてんだって連れて帰ったんだ」
 かぐやより先に月へ帰った工学実験衛星MUSES―― 愛称ひてん。ひてんは飛天のことであり、空に住み、舞いが得意な天女のことだ。
 商業宇宙旅行が認可された時、まっさきに日本で企画されたのが月に帰った衛星達を連れて帰ることだった。
 その代表格と言えるのが、"ひてん"と"かぐや"だ。彼女達は無事に地上へ帰り、今も日本自治区の宇宙開発機関の施設にいる。
「カグヤヒメ? ヒテン?」
 ヴィーノはよくわからないらしく、俺の言った言葉を拾って問いかけて来る。よくわからないのは他のみんなも同様で、5人の視線が俺に注がれている。
「えーと……」
 流石に返答に窮し、俺は言葉を探す。
 とりあえず、かぐやとひてんの愛称の由来になった民話のことから、みんなに話す事にした。

*

 ひてんの由来となった、飛天の意味と、かぐやの由来となったかぐや姫の物語について一通り説明し終えると、俺は一息吐いた。
 見回せば案の定、みんな微妙な顔をしている。
「うーん。MUSESとSELENEの愛称が、民話にちなんだものなのはわかったけど……」
 ルナマリアなんかは、眉を顰め、しきりに首を傾げている。
 納得できないのだろう。よくわからないと顔に書いてある。
「愛称は愛称だろ? 物語の登場人物が実在してるわけでもないのに、なんでそこまでこだわるんだ?」
 ヴィーノも不思議そうな顔をしている。
 どう言えば伝わるだろうか。
「んー…… 少なくとも、日本に住む人達にとって、月って特別な場所なんだ。その月に纏わる民話の中で、一番有名なのがかぐや姫で、月を探査する人工衛星なら、やっぱり"かぐや"だろう、って当時の人達は思ったんじゃないかな。ひてんにしてもそう。空を舞う衛星なら、空を舞う天女って」
 一種の連想ゲームだ。舞う様な軌道を取るから、月を調べるから。一番多くの人に知られ、愛され親しまれる名前。それが、ひてんやかぐやだったのだろう。
「あと、廃棄って言葉も少し嫌だな。確かに、廃棄なのは事実なんだろうけど、そんな言葉で表したら寂しいだろ」
 それに加えて、気になる点も訂正しておく。廃棄されたのは事実だけれど、そう言ってしまうとあまりにも情緒がなく味気ない。
 彼女達衛星は、その命が終わる間際まで、貴重なデータを送り続け、そのデータが巡り巡って現在の宇宙開発の礎となっているのだ。それは尊ぶべきことであり、感謝しなければいけないことだ。
「飛天―― 天女は人の手で羽衣を返される事で天に帰り、かぐや姫は、人の手で育てられて、月に帰っていく。ひてんもかぐやもそれは同じで、人の手で育てられて、人の為に一生懸命頑張って、最期は人の手で月面へ―― いや、月に帰って行ったんだ。地上にいる親しい人を置き去りにして。月に自由に行ける様になったんだから迎えに行きたいって思うのは、自然な流れだと思うけど」
 多少解釈に無茶があるのは承知で俺は言った。
 人類の為にがんばってくれた彼女達を、もう一度故郷に戻してあげたいと思うのは当然のことだ。
 だってそうだろう?帰ることすらできず、流れ星になった探査機や、人知れず燃え尽きた衛星は数え切れない程ある。
 それは、人の心を満足させるだけの行為なのかもしれないけど、それでもそうせずにはいられないのだ。そういうものなのだと思う。
「どこらへんが自然なのかさっぱり。私にはゴミ回収にしか見えないわ」
 俺の苦しい説明も、メイリンにばっさり切り捨てられる。
 上手く伝わらないのはやはり、俺の言葉が拙いからだろうか。ミーアならこの辺りで理解を―― そうか。ミーアは地上から来たナチュラルに育てられていたのだ。プラントの普通の人とは少し感性が違うのかもしれない。
「同じ機械としてどうなの?ノルン」
 ルナマリアが黙って聞いていたノルンに話しかける。
 ノルンは少しの間、思考するかのように画面をちかちかと光らせる。
「"……私にもさっぱり"」
 なんとも言えない返答に俺はがっくりと肩を落とした。
「ただ単に、俺達はひてんとかぐやを故郷に帰らせてあげたかったんだよ」
 そう俺が言おうと、ノルンはどこか慌てた様にいつもより早い口調で喋った。
「"そこまで必要とされるとは…… しかし、本来の与えられた役目も果たさず陳列されるのは、役目を持つ同じ機械として―― 該当言語検索中」
 おお。ノルンが自分の思考に合う言葉を探している。これは珍しい。なんだろう? 役目をもつ機械として―― なんだろう?
 わくわくしながら俺はノルンを見つめる。

「"検索結果―― "不本意"?"」

 思わず机に伏した俺は悪くない。
 不本意か…… そうか、不本意なのか。
 いや、確かに実験や探査の為に作られた機械が、役目を果たしたから休んでいいよと言われて、休みたがるものなのだろうか。最期までお役目全うします、とでも言うのかもしれない。
 確か、役目を十分に果たして、地球の大気圏で燃え尽きた探査機や衛星があったはずだ。有名なのだと、小惑星探査機のはやぶさと地球観測衛星のだいち、だったけ?
「"あくまで、私がそのような立場になったらの仮定です。実際にひてんやかぐやがどう思っているのか、誰にもわかりません。彼女達は私のような人工知能を持っていないので、論ずること自体が不毛です"」
 フォローになっているのかなっていないのか。いや、でもきっと、ノルンなりに気を使ってくれているのだ。多分。
「とりあえず、ありがとう…… ノルン」
 俺はノルンの液晶をぐりぐりと撫でた。少し力を強めにしているのはちょっとした意趣返し。
 "過負荷は本体の寿命を縮めます"という抗議の言葉が返ってきて、思わず笑った。
「よくわかんねー……」
「えぇー……」
 俺は身を起こし、ヴィーノを見る。そこには心底よくわからないといった感じで首を傾げるヴィーノの姿があった。その隣のメイリンも、あきれたように言った。
「だって、機械は機械じゃない。寂しいとか悲しいとか、感じるわけないのに故郷に帰らせてあげたいとかわけわかんない」
 ぐさりと言葉の刃が突き刺さる。
 恐らく、それがプラントでの一般的な見解なのだろう。でも何も、ノルンの前でそんなことを言わなくてもいいじゃないか、メイリン。
「これがまだノルンみたいな人工知能なら、分からないでもないけど……」
 そう言って、ルナマリアはノルンを見た。
 確かに、言葉を交わすことが出来れば想い入れも、物言わぬ機械に対するものよりも強くなるだろう。
「そこにあると思えばあるんだよ。無機物にだって魂や心が」
 そう。存在すると思えば、存在すると信じることが出来れば、存在するのだ。魂も。心も。それに人間とか動物とか機械とか、関係ないのだと俺は思う。
 そう言うと、今まで黙って聞いていたレイがふむと頷いた。
「受け入れがたいが…… まぁ、感じ入るモノはあるな」
「え!? 俺は全然!」
 信じられないといった感じで、ヴィーノがレイを見る。
 レイの方はいたってまじめに、俺の言葉に同意してくれた。出会ったばかりの頃のレイなら、同意してくれなかった気がする。
 そう思えばレイはレイで、大概俺に毒されている。差し詰め、俺に毒され組2号だろうか。1号は勿論ミーアだ。
「"ヨウラン。同室になる人間は思考が似たものになる傾向があるのですか?"」
「いや…… そんなことはないはずだぞ」
 俺がレイの同意に感動している横で、ヨウランとノルンがそんな会話を交わす。
 それがおかしくて、俺は笑った―― ちゃんと笑えているかどうかは別だけど。

*

「ってゆーか、シン。あんたそんな大昔のこと良く知ってるわね」
 そんな今更な事をルナマリアが尋ねてきた。
 確かに、ひてんもかぐやが活躍した時代は、再構築戦争前よりもずっと前―― 大昔の話だ。
「日本自治区のテレビ番組で、ひてんやかぐやは勿論、"タカマガハラ"建設秘話とか最近のだと火星の近くにある深宇宙探査用小型コロニーの"宙ノ鳥島(そらのとりしま)"とかの特番がよくあったし。それに、小さい頃はプラネタリウムとかにもよく行ってたから、そこで上映されているのを見たんだ」
 そう。幼い頃の俺にとって、夜空こそが"空"だった。
 星の海に浮かぶ星座を見つけるのが得意で、星座盤も見ずに星座を見つけられるようになって久しい。
 それに、まだマユが生まれていなかった頃、俺に出来た唯一の遠出がプラネタリウムに行ったことだった。もう十年近く前の話なのに、あの時、父さんと母さんと見上げた映写機が作り出す夜空は、今でも鮮明に覚えている。
 その情景を思い出し、俺は視線を宙に彷徨わせる。
「"タカマガハラ"―― 日本…… 地上の人間って、みんなシンみたいなのかな?」
「シンのような者ばかりならば、戦争は起きていないだろう」
 レイとヴィーノによる会話が耳に入ってくる。
 俺が口を挟もうとした瞬間――

「お待たせしました。ご注文の品です」

 頼んでいたものがやってきて、その話題そのものが流された。
 残念だと思った反面、少しほっとした。

*

 次々に、テーブルには注文した品が並んでゆく。
 メイリンとルナマリアの所はなかなか凄い。なんだかよくわからない食器置き? のようなものまで来ている。
 俺とヨウラン、ヴィーノは呆然と整えられてゆく二人のアルビオン式アフタヌーンティーの様子を見守った。レイはさして気にする事なく、自分の注文を待っている。恐らく慣れているのだろう。そんな感じがする。
 二人のアルビオン式アフタヌーンティーの形が整え終えられる頃に、俺の注文も来た。ワッフルである。
 食べようとフォークとナイフに手を伸ばした時、俺はある事に気づいて戦慄した。
 俺は今回が、プラントでの初外食になるということを。
 昨年からプラントにはいるが、今日来た様なオシャレな感じのカフェに入ったのは初めてである。プラントもどこぞの国と同じで、お茶菓子にだけは定評がある。いや、あって欲しい。そう願いながら、俺はワッフルを切って、フォークで口に運んだ。

 あ。よかった……
 ふつうに美味しい……

 心の中で盛大に安堵の息を吐きながら、俺はみんなの会話に耳を傾けた。

「で? どう? メイリン。念願のアルビオン式アフタヌーンティーは」
「うーん…… 確かに美味しいんだけど、よくよく考えれば比較対象がないのよね。だから、これが本当のアルビオン式アフタヌーンティーかもわからないって、今気づいた……」

 俺の正面で、メイリンとルナマリアがそんな会話を交わしていた。
 なるほどと思い、俺は思わず口を挟んだ。
「確かに、文化って生まれた所以外の所に行くと、微妙に形が変わるもんな」
 俺の言葉に、興味が惹かれたのか、ルナマリアが俺の方を見て来る。
「そういうものなの?」
「ああ。食べ物の場合だと、やっぱりその土地の人が好きな傾向の味に変わったりするらしい」
 まぁ、それも行き過ぎると"魔改造"と呼ばれる代物に変貌する。どこの国にも一つや二つはある、他国の美味しいモノ自国風アレンジのことである。
「へぇ……」
 そう言って、ルナマリアは自分の紅茶を一口含む。好む類の味わいだったらしく、ふんわりとルナマリアは笑った。
 なんとなく、先程の生鮮食料品店でルナマリアと交わした会話を思い起こす。
 しきりに食材の事を聞いて来ていたし、恐らく、ルナマリアが料理好きなのだろう。俺のレパートリーもそう多くはないけれど、今度、いくつかのレシピを紹介してみるのもいいかもしれない。
 そう思いながら、俺は目線を少しルナマリアから逸らした。
 メイリンが、じっと俺の手元のワッフルを見ている。
「ねぇ、シン、そのワッフルにかかってるのってなに?」
「ん? タカマガハラ産の蓮華の蜂蜜。美味しいよ」
 俺の言葉に、メイリンが今度来る時は頼んでみようかな、と言った。
 それを聞いて、ふと、マユにしてやったように、ワッフルを少し切り分けてわげようかと一瞬思った。だが、俺はすぐさまそれはダメだろうと打ち消した。
 マユは妹だけれど、メイリンは女の子だ。色々と憚りがある。
「へぇ…… そういえば、宇宙で養蜂をやってるのはタカマガハラだけだって聞いたな」
 ちょっとわけてくれ、とヴィーノがレイの横から顔を出す。
 ワッフルを一口サイズに切って皿を差し出すと、ひょいとヴィーノは自分のフォークでそれを口に運んだ。
「んー…… 甘い。けど、なんかまろやか?舌触りが良い??」
 香りもなかなか、とヴィーノは再び俺の皿にフォークを伸ばした。ぺしりと、レイにその手がはたかれると、肩を竦めて自分の皿にフォークを戻した。
「なぁ、やっぱり、プラントで虫とか飼うのはいけないことなのか?」
 せっかくなので、以前から疑問に思っていた事を尋ねてみる事にした。
 ペットロボショップは見かけても、ペットショップは見かけない理由。それはやはり、人の制御が利かない昆虫や動物を飼うことがプラントでは難しいからなのだろうか。
「ああ。虫とか小動物とかは、病原菌を仲介したりする可能性があるから、余程のことがない限り、プラントには持ち込ませないんだ」
 ワッフルのお礼代わりのつもりなのか、ヴィーノが俺の疑問に答える。そしてそれを補足するように、ヨウランが付け加えた。
「最新鋭とはいえ、まだまだ未発達な部分が多いからな。確か、どこかのコロニーがバイオハザードを起こして全滅したとかの話もあるし」
 バイオハザードで全滅――
 確か、教練校で受けた近代史か何かの授業で聞いた気がする。遺伝子とか、コーディネイトの最先端を走っていたけれど、ほんの些細なきっかけで起こったバイオハザードで放棄せざる得なくなったとか……
 確か、"メンデル"だっけ。
 あれ以来、色々と検疫が厳しくなったらしい。
「タカマガハラの人達も、よく養蜂なんて宇宙でする気になったよな。感心するぜ。…… まぁ、あそこは元からぶっ飛んだ逸話が多いけど」
 "SELENEの帰還"しかり、養蜂しかり、挙句の果てには"実験プラントを観光資源化"するし、とそこまで言ってヨウランはコーヒーを口に吹くんだ。
 ヨウランの言う"実験プラントを観光資源化"とは恐らく、一つの小型のコロニーを地上の海の再現の為に使った"宙之海"のことだろう。海産物の養殖の為に作られたらしいが、一部はリゾートとして解放されていると聞いている。
 どれもこれも、別段特異な事と思えないのは、やはり俺が地上育ちだからだろうか。
 そういえば、旅行の話とか観光の話とか、あまり聞いた事がない。
 いや、地上の俺からすれば一つの市を移動するだけで宇宙旅行だ。でも、プラントの人から見るとどうなんだろう。旅行にはならない気がする。
 宇宙で観光――
 うーん…… 地上から宇宙へは観光になるだろう。だから勿論、プラントから地上へも充分に旅行になるはずだ。ああ、でも、コーディネイターにとって地上は安全じゃない。なら、プラントの人達は観光でどこかに旅行に出かけたりする事はないのだろうか。
 謎だ。
 ぐるぐると考えてしまい、いっその事を尋ねようかと俺は口を開こうとした。
 だがそれよりも先に、ルナマリアが複雑そうな言葉を漏らした。
「でも、なんていうか、最近は他の国に所属してるプラントの状況もわかるようになって複雑というかなんというか……」
 はぁ、と重い溜め息と共に呟かれる言葉に乗る色は覚えのある色だ。生鮮食料品店で見た複雑な色。
「情報が一般に沢山出回るようになったけど、沢山ありすぎて逆に困惑するというか…… 取捨選択が大変」
 プラントが一つの国として認められたが故の変化。
 これまで封鎖されてきた情報が民間にも降りて来るようになり、町は交流を持つ様になった他国所属のプラントの情報で彩られている。
 生鮮食料品店やこのカフェのフェアはその一例にすぎない。
 国として独立しているとはいえ、同じ宇宙に居を構える同胞であることには変わりないのだ。きっと、地上にいるコーディネイターよりも親しみは感じやすいだろう。
 しかしそれ以上に感じてしまうものもあるようだ。
「このプラント以上にいい場所はないと思っていたのが、意外にそうではなかったり――…… 認めたくはないけどさ」
 ルナマリアの言葉に真っ先に同意したのはヴィーノだった。
「ユーラシア連邦所属のドイツのプラント"プロイセン"だって、実はエネルギー技術が凄いとか……」
「それを言うなら、同じユーラシア連邦所属でも、フランスのプラント"ガリア"はタカマガハラに次いで農業が凄いらしいし」
「アルビオンは目だってなにかがあるわけじゃないけど、なんだかんだで自給自足は成立させてるし」
「タカマガハラに至っては、別の意味で論外だ。食糧生産に特化しているだけあって、生産される農作物や酪農製品は総じて質が高い。魚などの養殖関連も、俺達のプラントで養殖している魚以外に、マグロなどの回遊魚の生産に成功している。あまつ、保養施設も兼ねた高度環境再現コロニー"宙之海"では、サンゴ礁の養殖・産卵・繁殖まで成功し、他コロニーに対し観光資源になっていると聞く。俺達のプラントが、僅かな種類しか魚を養殖出来ていないにも関わらず、だ」
 ヨウラン、メイリン、ヴィーノ、レイが口々に他国所属のプラントの特徴をあげる。
 情報が入ってくるが故にしたくなる自国のプラントと他国のプラントの比較。
 そうして知るのはきっと、それまでの自分の見識の狭さだろう。
 世界は広く、大きい。どうしようもないくらいに。何が一番とか、どこが一番いいとか、どうでもよくなる。
 日本、オーブ、プラント。
 地上と宇宙。
 それが、それぞれを渡り歩いた俺が感じたことだ。
 新しい地で触れる、新しい文化、習慣。
 みんなも今、俺がそれらに初めて接した時に感じた驚きに近い事を感じているのだろうか。
「そういうの見てると、私達のプラントでの食糧生産って、まだまだ始まったばかりなんだな、って思うわ」
 ルナマリアはそう言って紅茶を口に含む。
 微笑みはない。どこか、苦さを感じている表情だ。
「近所のおじさん達が言ってたっけ。今じゃ考えられないけど、タカマガハラの野菜なんて安物の代名詞だったらしいぜ。水栽培式野菜工場産の野菜とか、って笑ってたらしい。でも、いつの間にか土で野菜を生産するようになって、気づけば抜かれてたとか」
「つくづく、プラントが経済制裁を受けていた20年間って重いんだなって思うわ」
 ヴィーノはくるくるとフォークを回しながらぼやき、メイリンはカツンと音を立てて茶菓子を切り分ける。
「空白の20年、か。あのおかげで、プラントの食糧生産技術は他プラントより大きく遅れをとったのだろうな」
「父さん生きてたら喜んで長期研修に出てただろうなぁ…… 出荷管理システムからして大きく異なるから勉強になるって」
 レイは重々しく口を開き、ヨウランは遠い目をしながらナプキンで手を拭いた。
「国として認められて嬉しいけど、こう…… 他のプラントの話に接してるとへこむこともあるよなぁ」

 沈黙――

 ヴィーノの言葉は果たして、ヴィーノだけが抱える思いなのだろうか。
 俺は何も言うことができず、口を閉ざす。
 視線をルナマリアの後ろ―― ガラス越しに見える大通りに向ける。
 翻る広とりどりの旗、電子広告。休日を楽しむ人々の笑顔が見える。

 プラントへの経済制裁は、タカマガハラ産の食料輸出開始よりも早く始まっている。
 俺たちが生まれる前から続いていた経済制裁は、今年のユニウス条約締結と共に解除され、触れることの難しかった情報に手が届くようになった。
 みんな―― プラントに住む誰もが不安なのだろう。
 ナチュラルとコーディネイターは不仲であり、ナチュラルはコーディネイターを世界から排除しようとしている。
 人心の統一を兼ねて取り上げられた過激なブルーコスモスの主張ばかり見てきたプラントの人たちにとって、地上と宇宙、ナチュラルとコーディネイター、互いに折り合いをつけながら上手く回っている他国プラントの様子は将に、晴天の霹靂とも言うべき代物なのかもしれない。

 そう考えてしまうと、同じ光景でも感じるものが変わってくる。
 行き交う人々の浮き足立った気配。
 それはどこか、空虚で空回りしている様にも見えてくる。

 浮ついた心。
 揺らぐアイデンティティ。
 覚えのある空気。

 それはまるであたかも、嵐の前の静けさのように。
 人の心が壊れていく予兆にも見えた。
 コーディネイターも人であることには変わらない。
 今こそきっとプラントには、絶対の精神的支柱が必要なのだろう。
 神を殺し、宗教を否定した人々が縋る心の支えは一体、どんな姿をしているのだろうか。

 そうして少し視線をずらせば、考え込むヨウランやメイリン、ルナマリアの姿が視界を掠める。
 再び視線を戻せば、今度は窓ガラスにうっすらと映る俺の無表情が見えた。
 自覚がない無表情だけれど、今はそれに感謝したい。表情があれば俺はきっと、凄い冷めた目でみんなを見ているのだろう。
 地上で生まれ育った俺は、どう足掻いてもプラントで生まれ育ったみんなの複雑な心を完全に理解することはできない。それは仕方のないことだけれど、寂しさと、せいぜい思い悩めばいいという嘲笑めいた昏い想いが鎌首をもたげる。
 だってそうだろう。
 俺がプラントに来る原因は連合のオーブ侵攻だけれど、僕達がオーブに行く遠因になったのは、プラントによって引き起こされたエイプリルフール・クライシスだ。
 それまで信じていた世界が壊れる瞬間を知っている。
 多少生まれは違えど、人であることは変わりないと、信じていた人達が実はそうではなかったのだ突きつけられた瞬間を覚えている。
 日常は壊れ、常識は反転し、周囲から悪意を向けられる恐怖を知っている。
 それの恐怖はどんなに言葉に尽くしても、きっとプラントのコーディネイターには理解してもらえないだろう。俺が今のプラントのコーディネイターの苦悩を理解できないように、プラントのコーディネイターは僕達地上のコーディネイターの苦悩を理解できないのだ。
 幼馴染がいてくれてよかったと思う。アイツがいてくれたおかげで、少なくとも僕は、ナチュラルを憎まなくてすんだのだから。

 重苦しい沈黙もあって、俺もまた鬱々と考えてしまう。
 レイたちみんなは友達なのに、プラントのコーディネイターと一括りにまとめてしまう自分がどうしようもなく嫌になった。俺だって今や、プラントのコーディネイターの一人だというのに。

「そうね…… でも、へこまされたまま黙ってるなんて私は嫌よ。受けた屈辱は倍にして返してやるわ!」

 溌剌とした声が耳に入る。
 ルナマリアだ。
 その明るい雰囲気に、俺の暗い淀んだ思考が正常に引き戻される。それは他のみんなも同じだったらしい。
「いやいや、軍人が倍返ししたらだめだろ」
 ヴィーノはすぐに笑って、ルナマリアの発言にちゃちゃを入れる。
「確かにへこむけど、俺の場合はどうやったら追い越せるか考えるかな。モビルスーツ関連とか、コンピューターなんかの演算機関連の技術はうちが上だし」
「当然、遺伝子関連の技術もな」
 ヨウランとレイも重い空気を払拭するかのように、明るい話題を提供する。
「デュランダル議長が遺伝子関連の学者だったんだったんだよな。何か考えてるのかな」
 俺がポツリと呟けば、レイが大きく頷いた。
「ああ。遺伝子関連の技術は昨今、コーディネイト技術ばかりに目を向けられがちだが、病原菌などの遺伝子の解析により、特効薬を作る技術も勿論存在する」
「あ。見た、そのニュース。それ専用の研究コロニーを作るか作らないか、議会に議題が上ってるって」
 最近見たばかりのニュースの中でも印象に残っていたから覚えている。
 つまり、"メンデル"の再建をしようとしているわけだ。
 そう何も、コーディネイトだけが遺伝子を用いた技術ではない。病気の解析、特効薬の開発もまたその本分なのだ。
 むしろ、僕達アスカの家にとっては、そちらの方が馴染みが深い。
 遺伝性の病気を患ってきたアスカの家の人間の寿命は常に、科学技術の発展と共に伸びてきたのだ。そして、コーディネイト技術の確立により、その苦難に終止符は打たれた。
 悪いところばかりに目が行きがちだが、コーディネイト技術は遺伝性の病気に苦しむ人々に、確かな福音をもたらしたのだ。
「ないものねだりはいくらでもできる。今、もてる技術を利用し、どれだけ差をつけることができるかが問題ってことね」
 メイリンが頷き、他に何かあるかな、と考え始める。
「あー…… でも、コロニーなんて一朝一夕で出来るものでもないしなぁ……」
 ヴィーノが肩を落とす。
 けれど、俺は今朝読んだニュースを思い出す。
「その為に、アーモリーのイレブンからのコロニー建設が止まってるんじゃないのか?」
 食糧生産用に転用が決まり、工事が止まっているアーモリーのイレブンからトゥエルブのプラント郡。
 本来、プラントは10基で一市だからきっと、農業生産を主とする市が新設されることになるのだろう。その中の1基に、植物の品種改良や病気の遺伝子解析を研究するプラントがあってもおかしくはないだろう。
「そうかもしれんな。もとよりあそこのプラント郡は工業用に建設される予定だったプラントだ。勝手が分からぬ農業用に転換するよりも、よく知った研究用に転換する方が有意義なのかもしれんな」
 レイも同意してくれた。
 明るい展望の数々に、先程までの鬱々とした空気が一気に和やかになる。
 そんな中、ルナマリアが軽く溜息を吐いた。
「なんていうか、あんまり華やかでない会話ばかりしてるわよね…… 私達……」
「軍人らしいといえば、軍人らしいけど」
 俺がルナマリアの呟きにそう返せば、メイリンがだんっと机を叩く。
「いや! ファッションとか、アクセサリーとか、もっと色々な会話がしたい!!」
「ルナならともかく、俺達にそんなこと求められても……」
 なぁ、と同意を求めて、俺はレイやヨウラン、ヴィーノを見る。
 三人はうんうんと頷いている。それを見て、メイリンはがっくりと肩を落とした。
「だってこんな会話、入学式から暫くしてのレイやシンみたいで……」
「あー…… あれは確かに……」
 ヨウランが遠い目をして、あれは近寄り難かったと呟く。
「お前達の周りだ、空気が違ったからなぁ……」
 ヴィーノの言葉に、メイリンとルナマリアが頷いている。

「え? 俺達、そんなに目立ってたのか?」

 そう言うと、3人には溜息を吐かれた。
 俺とレイは顔を見合わせて、首を傾げるのだった。

*

 夕暮れ時。
 カフェですっかり話し込んでしまった俺たちは、帰り道を急いでいた。
 先行くメイリンとルナマリアは、楽しそうに何か会話を交わしている。
「おい、そんなに買って大丈夫なのか?」
 俺とレイが両の手に持つ袋を見て、ヴィーノが尋ねてくる。
「ああ。俺もレイも結構食べるし、これぐらいだと1週間足りるか足りないかぐらいだな。それに今回は――」
 それに大丈夫と返し、俺は傍にいるレイとヨウランとヴィーノにだけ聞こえるように声量を落として話しかける。
「この後、俺の部屋でご飯食べないか?」
 その意味を察して、ヨウランがにやりと笑う。
「どうせなら、広い部屋でやろうぜ。俺のラボとか」
 研究協力の為といえば、俺たちもヨウランのラボで寝泊りしてもいいらしい。頻繁には使えない手段だけど、と言われるも、堂々と部屋を空ける許可があるのはありがたい。
「せっかくだから、明日の講義に支障が出ない程度にお酒でも呑まないか?」
 ヴィーノの提案に、俺達三人は当然といった具合に頷く。
 レイの顔には多少の戸惑いはあるものの、やはり酒盛りには心惹かれるらしい。こっそりと、レイが自分のノルンに話しかける。
「ノルン。学校の近くで酒類を売ってるところは?」
 恐らく、学校に一旦帰ってからお酒は買出しに行くのだろう。今買うより、その方が無難だから当然だ。
「"あるにはありますが……"」
 ノルンが何故か言葉を濁す。
 俺は首を傾げてノルンの名前を呼んだ。
 三人が三人とも、視線をレイのノルンに向けていたのが仇になったらしい。
 余所見のせいで、俺は誰かにぶつかってしまった。
「すみま――…… あ。」
 顔を正面に戻せば、そこには腕を組んで仁王立ちしたルナマリアの姿があった。
「る、ルナマリア…… さん……?」
 ルナマリアの表情は明らかな怒りを表している。その後ろでメイリンが、やれやれといった具合に肩を竦めて首を振っている。
「ちょっと! どうして私達だけ仲間はずれなのよ!」
「いや、だって……」
 俺の部屋にしろ、ヨウランのラボにしろ、男の部屋であることに変わりはない。そのことをルナマリアはわかっているのだろうか。
「い・い・か・ら! 参加させなさい!!」
「「「了解っ!!」」」
 思わず三人揃って姿勢を正す。
 それに溜飲を下ろしたのだろう。
「ノルン!!」
 ルナマリアがノルンの名を呼んだ。
「"は、はい!!"」
 ぴしゃりと名前を呼ばれ、ノルンもまたどこか緊張したような返事を返す。
「お酒を売ってるところの位置情報!」
「"わかりました!!"」
 なぜだろう。
 俺には同い年くらいの女の子が敬礼する姿が見えた。



 そしてその夜――



 ヨウランの研究室はカオスな状況に変貌していた。
 缶ビール1本でオチたヴィーノ。
 ノルンとひたすらかみ合わない会話を交わすヨウラン。
 メイリンはひたすら無言でお酒の缶や瓶を空け続け、横にいるルナマリアもどこかぼんやりとして、頭をうつらうつらさせている。
 レイに至っては、壁に向かって説教しはじめる始末。しかも相手は俺。

 コレはいち早く意識を飛ばした方が勝ちだろうと、俺は度数の高い酒を一気に煽った。
 くらりと感じる酩酊感。体が熱くなり、思考がふわふわし始める。

 そしてブラックアウト――

 後は野となれ山となれ。



 翌日。
 ノルンが起床を告げるアラームを鳴らしているのをどこか遠くで聞いた気がした。
 布団も持ち込んでいないから寒いと思ったが、存外に暖かい。誰かが布でも引っ張り出してかけてくれたのだろうか。
 うっすらと目を開くと、布団の色であろう鮮やかな色合いが目に入る。どこか見覚えがあるなと思いながら、俺は腕の中の布団を抱きしめた。

「っ!」

 星が目の前に飛び散る。
 痛い。
 何が起こったのかと目を開ければ、傍には瞳をつり上げたルナマリアが座っていた。
 酔いが残っているのか、頬が赤く瞳は潤んでいる。
「るな……?」
 寝ぼけた頭で名前を呼ぼうとしたのが気に入らなかったのか、ルナマリアは近くにあった缶を手当たりしだい拾って投げつけてくる。
 何か言っているようだが、置きぬけのとぼけた頭なせいか上手く認識できない。
 俺も酔いが残っているのか、頭がずきずき痛む。それも相俟って、遠慮なくぼこぼこ投げつけられる缶が地味に頭に響く。
 ぼんやりした思考の中、昔、癇癪を起こしたマユがこんな感じだったことを思い出す。
 思わず俺は体を起こして、なだめるようにルナマリアの頭を撫でた。
 余計に酷くなった。
 その騒ぎに他のみんなも目を醒ます。
 メイリンがルナマリアをなだめ、俺達男性陣は一様に首を傾げる。
 何かあったのだろうか。

 結局、その日一日中、ルナマリアの機嫌は悪かった。

 そういえば、俺が見た布団はなんだったのだろうか。
 ヨウランは布団なんてなかったって言ってたし。
 俺はあの時見た布団を思い起こす。

 目に入った色彩――
 鮮やかで温かみのある赤――

 一体、なんだったのだろうか。



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[32070] Graduale - 昇階唱 ⅩⅥ
Name: 雪風◆2f6521ea ID:28d84097
Date: 2013/01/23 22:05
Graduale - 昇階唱 ⅩⅥ

 5月の定期考査を一週間後に控えた月曜日。
 俺は沢山の参考書と端末を抱え、ヨウランのラボに向かった。
 勿論、試験勉強をするためだ。

 勉学を勤めとする学生は往々にして試験―― テストから逃れられないもので、それはこのザフトのディセンベル士官学校も例外ではない。定期的にテスト週間が設けられ試験が行われている。
 その中でも特に、俺達航宙科にとって、この5月と10月、そして1月に行われる試験は"進級テスト"と呼ばれ特別な意味を持っている。

 ユニウス条約締結と同時に、プラント政府は義勇軍であったZ.A.F.T.(Zodiac Alliance of Freedom Treaty:自由条約黄道同盟)を正式にプラントを守る国軍とした。それに伴い、これまで個人の裁量に寄る所が多かった軍組織の指揮系統を明確にするために、軍人の専業化と共に、階級の導入を決定した。
 と、言っても地上にある階級をそのまま導入するわけではない。慢性的な人手不足に悩まされているザフトが、地上で行われている階級制度をそのまま導入しようものなら、人数が足りず、すぐさま機能不全に陥ってしまう。
 《ザフト独自の階級を作る》
 そう謳って評議会はザフトに提案した。
 当然、ザフトから猛烈な反発があったようだ。しかし、パトリック・ザラによるクライン派軍人の粛清、ユニウス戦役後に起こったザラ派軍人の排斥などにより、上位の軍人の多数が失われていた。
 それによりザフトは、軍内の思想を統一する者がおらず、一丸となって反発することができなかった。
 その結果、プラント評議会の提案を受け入れ、いくつかの譲歩案提示しながらザフトは暫定的にだが階級を導入することになった。
 譲歩案の中でも目立つのが、階級名の不採用と赤服の存続だろう。
 階級名の不採用は偏に、議会側からザフトへの気遣いとも言える。
 階級導入直後は様々な軋轢が生じることが予測された。故に、その軋轢を少しでも軽減しようと、階級名は導入せず、肩書きは以前と変わらず配属された兵科、職種及びその戦術単位の責任者名、管理職名で呼ばれることになった。
 何が異なり、何で判断するかというと、やはり制服である。
 以前は、国防委員会に属する武官を紫服、隊長ないし艦長級を白服、副官級を黒服、士官学校卒業成績上位者を赤服、それ以外を緑服と大雑把に分けていた。
 これを下に、プラント議会はザフトに新たな階級を振り分けた。
 基本的に、地上の将官にあたる階級は紫服、佐官にあたる階級は白服、尉官でも大尉にあたる階級は黒服、中尉・少尉・下士官・兵にあたる階級は緑服とした。
 各階級の違いは、襟や袖に付けられた徽章で見分けられるようになっている。
 特に特徴的なのが、ローラシア級ガルバーニやナスカ級ヴェサリウスといった宇宙艦艇、ピートリー級ピートリーやレセップス級レセップスといった陸上戦艦、ボズゴロフ級クストーなどの水上艦艇の艦長を努める佐官達だろう。
 彼等は、各々が預かる艦の紋章を帽子に掲げている。
 この帽子の白服につけられる副官も同様の帽子を被る。彼等は"帽子組"と呼ばれ、一種の羨望を集める立場にある。
 さて。階級を定める際に大きな問題となったのが、ザフトの象徴とも言うべきレッド―― 赤服の扱いである。この赤服は、以前ならば士官学校の卒業時成績上位10名に与えられたエリートの証である。
 尉官は須らく黒にすべし、という議会と、赤はザフトの精強さの象徴であり、廃止など言語道断、というザフト側の意見が対立。双方共に譲らず、議会は紛糾するかに見えたが、最終的に議会側が譲歩。
 大尉にあたる階級のみを黒服とし、中尉以下にあたる階級を緑服。ザフトの象徴とも言うべき赤服は、国防委員会直属の特務隊FAITH(Fast Acting Integrate Tactical Headquarters:戦術統合即応本部)の制服とする。これに加えて、新体制下で新設する士官学校航宙科の成績上位者10名にのみ、赤服の着用を一年間許可。FAITHのみ左襟元に徽章をつけることにより、両者の差別化を図る。
 こういった譲歩点をなんとか見つけ、双方が受諾。
 ザフトに階級が導入されることになった。
 勿論その後に行われた、階級の振り分け会議が大荒れに荒れたのは言うまでもない。

 ユニウス条約の締結、軍内の綱紀粛正、諸々の負の役割を全て引き受け、アイリーン・カナーバ議長率いる臨時評議会は総辞職し、そのバトンを現在のプラント最高評議会議長ギルバート・デュランダルに渡した。

 そう。来週から行われる定期考査で、暫定的に士官学校からの赤服が決定されるのだ。
 その成績発表に伴い、航宙科の総合成績上位10名は現在の緑の制服から赤の制服に衣替えすることになる。
 緑から赤へ。
 それゆえの"進級テスト"なのである。

 絶対にテストに出るであろう部分を思い返しながら、俺はゆっくりと息を吐いた。
 持った参考書が重い。だが、それ以上に重いのは士官学校を包む空気だろう。
 進級テスト――
 地上にいた俺にとって、赤服の価値は今一よく分からない。
 赤服でも、配属されれば緑服と待遇は変わらないし、学校の成績を勤め先で誇るというのも正直どうかと思う。真に誇るべきはFAITHの赤のみであり、士官学校の赤はおまけにすぎない。
 なんて言ったらきっと怒られるんだろうなぁ。
 内心苦笑しながら、俺はヨウランのラボへの道中を急いだ。

 所属する科は違えども、共通する科目は多くある。自然と、みんなで一緒に勉強しようという話になっていった。
 ラボで勉強するのは主に、知識などを見る筆記や記述が主のペーパーテストがある科目だ。
 実技の方は、科によって内容が異なるので別々にすることになっている。
 俺が所属する航宙科の実技は当然、モビルスーツの操縦である。
 歩行や移動などの基本的な動作から、個人の戦闘能力、チーム戦での連携や戦闘能力を見るらしい。後は、基本的な体力テスト、ナイフなどを用いた近接格闘術、射撃などがある。
 これらに関しては、レイやルナマリアと一緒にやっている。
 全員の都合が合う日は、シミュレーターでノルンに対戦相手を用意してもらい、チーム戦の訓練を行うことにした。それ以外は、端末片手に筆記科目の参考書やらノート、問題集をラボに持ち込んで勉強している。
 今日は確か、理工科に実技演習が入っている日なので、ヨウランとヴィーノは来れないと言っていた。
 ラボにいるであろうレイ、メイリン、ルナマリアの3人の得意科目を思い浮かべながら、俺は何を聞こうかと思案した。
 俺は航宙科特殊技能生―― 工業用モビルスーツ運用資格保持者ということもあって、モビルスーツの基本的な運用に関しては問題ない。
 自主演習で出入りしている企業の人達にも操縦に関してはお墨付きをもらった。でも、まだまだ俺の操縦には繊細さが足りないらしい。
 おんぼろで型落ちしたスクラップ間際のモビルスーツに、最新型のモビルスーツと同じくらいの作業量をこなさせてこそ一人前なのだという。
 色々と不具合の多い機体の癖を瞬時に掴み、如何に負担をかけず、効率よく作業をするか。熟練のモビルスーツ乗りはすぐにそういうことが分かるらしいが、俺はその点がまだまだ甘いらしい。
 機体を状態把握が甘く、無茶をさせてしまうことが多々あった。その結果、総合して"繊細さに欠く"という評価を頂いている。
 まぁ、思いっきりの良さと、大胆で奇抜な操縦は、戦闘用のモビルスーツ乗りには必要そうだからいいんじゃないのか、という言葉も貰っているが……
 慰めになっていない気がする。くやしい。いつか、あの主任の鼻をあかしてみたいものだ。
 その自主演習も、進級テスト1週間前ということもあり、休みになっている。
 シミュレーターよりも実機を動かしたほうが遥かに勉強になると思うけれど、自主演習にかまけて筆記が疎かにするのもよくないだろう、と自分を納得させた。
 そう、おれにとって大問題なのは筆記だ。
 俺の士官学校入学は、手当たり次第に受けた訓練校の講義の中に試験科目が入っていたのと、工業用モビルスーツ運用資格保持という、技能面での評価が高かったために叶ったものだ。筆記が主になっている科目は正直、自信がない。
 自信がない科目、確認が必要な科目などを脳裏に思い浮かべる。
 よし。今日はレイに国際法関連を、メイリンには、情報の取り扱いについて聞こう。
 ルナマリアは俺と同じで実技寄りの成績みたいだから、シミュレーターで訓練できる時間がないか聞いてみよう。俺はルナマリアのような戦闘スタイルの相手が苦手だからいい訓練になるだろう。

 つらつらとそんなことを考えながら歩いていると、いつの間にかヨウランのラボの前に到着していた。
 扉の前に立ち、開閉スイッチを押す。
 軽い音を立てて開いた扉をくぐり、俺はラボの中に入った。


*


「あれ? 今日はまだメイリンだけなのか?」

 シンプルな造りになっているラボは、少し見渡せば誰がいるのかわかる。
 俺達がいつも勉強しているテーブルには、メイリンの姿しかなかった。
 端末に向かって問題集を解いていたメイリンは、俺の声に顔を上げた。
「あ、シン。おかえり。二人ともさっきまではいたんだよ」
 メイリンによると、レイとルナマリアは冷蔵庫に飲み物がない事に気づき、購買に向かったらしい。二人とすれ違わなかったところを見ると、タイミングが悪いというかなんと言うか…… それにしてもなんで二人で行ったのだろうか?買出しならば一人で十分だろうに。
 その話を聞きながら、俺は椅子に腰掛ける。
 鞄から端末を取り出し、情報関連の問題集のアプリケーションを呼び出す。
 問題は基本的に一問一答の選択式、もしくは文章の穴埋めや、答えの単語を入力する形式が多い。記述の問題もいくつかあるが、小論文などの長い文章での回答を要求するものは別の試験時間枠が設けられている。
 幸いなことに、そういった試験は全て試験3日目と最終日にまとめられている。
 そのため今の俺は、ひたすら基本から応用などの様々な知識を増やすことに重点を置いている。
 わからない問題は持ってきた参考書を開いて調べ、納得いかないものはメイリンに聞いて詳しい話を聞く。
 メイリンはメイリンで俺に、航宙科の中でも自由選択領域にあたる科目"地上用兵学"について尋ねてきた。
 士官学校での必須となっている用兵学は主に、ザフトがまとめた"黄道用兵学"という宇宙での戦闘を主軸としたものになっている。
 "新しく出来た""今までにない""新世代の"用兵学、らしい。
 これに対し、"地上用兵学"の授業は、ザフトの士官学校の授業の中でも特殊だった。
 講義内容の説明文は、地上の用兵学を学ぶ、という短いものだけで、俺も最初は首を傾げた。
 でも、宇宙での用兵と地上での用兵、両方を知りたいと思ったこともあって、俺はこの講義を受講することにした。
 実際に受けてみると、なかなかに濃い講義だった。
 毎回地上から講師を招き戦術や戦略の講義を受け、その感想とレポートなどの課題を提出する。結構学校側が力を入れている凄い授業ではないかと思うのだが、受講者数は多くない。もったいない話だ。
 でもそれも仕方ないのかもしれない。
 地上の用兵学とはすなわち、ナチュラルが作った用兵学だ。ナチュラルを快く思っていないプラントのコーディネイターの人には、少々受講しがたい科目なのかもしれない。
 講師がナチュラルと知って、"ナチュラルから教わることなどない!" なんて言って、初日に出て行った学生が何人もいた。
 その結果残ったのが、俺と、レイと、他数人。なんと十人にも満たない。
 俺としては、地上と宇宙が比較できて面白いと思うんだけど。

「そういえば、ヨウランとヴィーノは理工科の実習だっけ?」
 俺達はある程度、互いの予定を確認し合い把握している。
 確か、ヨウランとヴィーノは、それぞれ行く場所は違えども理工科の演習だったはずだ。
「うん。ヴィーノは終わったら来るって。ヨウランはその後、ラボ持ちだけの研究発表会みたいなものの打ち合わせがあるから、今日は来ないみたい」
「発表会って…… ヨウランは確か、通常の定期考査も受けるんだよな?」
 ヴィーノはともかく、ヨウランの研究発表会は初耳だった。でも、普通に定期考査の試験勉強もしていたということは、特に何かの科目を免除されるわけでもないようだ。
「そうそう。気の毒よねー」
 くるくると、タッチペンを回しながらメイリンは言った。
 全然気の毒だと思ってないことがありありと伝わってくる。むしろ、面白がってるみたいだ。
「うわぁ……」
 発表の為の資料だとか、プレゼンの内容だとか、絶対に試験勉強の片手間に出来るものではない。俺なら絶対にできない。
 絶句している俺を見て、メイリンはさらに笑みを深めた。
「そういうシンも何かあるんじゃない? 航宙科の特殊技能生さん?」
 チシャ猫みたいだ、となんとなく思った。
 問いの返答に詰まる。
 今日、科が同じであるレイとルナマリアと別にヨウランのラボに向かうことになった理由が実はそれである。
「教官に、実技で1位とれって言われた……」
 教官に呼び止められたからだ。
 遠回しにだが、航宙科総合順位10位以内―― 赤服になるように言われた。実技に関しては1位になるように、と。まぁ、そうでもなければ示しがつかないというのもあるだろう。
「がんばってねー。 うんうん。ヒラっていいわー。気が楽」
 ひらひらとメイリンが手を振る。
 がっくりと机に伏す俺を見て、メイリンは再びけらけらと笑った。

*

 集中が途切れてしまった俺は、気分転換をすることにした。
 体を起こして大きく伸びをすると、席を立ち、机から離れて軽く数度スクワットをする。
 メイリンはというと、俺をからかうのに気が済んだのか、自分の勉強に戻っている。
 20回程度繰り返し気が晴れると、俺は首や肩を回してほぐした。
 ぐるりと回った視界の端には、必ずノルンの本体である大きな量子コンピューターが目に入る。
 静かに稼動しているように見えるが、ヨウランによると、その中では凄い速度で色々なことが処理されているらしい。
 このままだとノルンの成長速度にコンピューターの方が追いつかなくなるかもしれない、と苦笑交じりに、それでもどこか嬉しそうに、ヨウランが話していた。あれはいつ、このラボに来たときの話だっただろうか。
 家族の成長を喜ぶ笑顔だったことだけは鮮明に覚えている。父さんも母さんもじいちゃんも、みんなあんな風に俺やマユを見ていた。脳裏に浮かんだ笑顔を振り払う。
 そうして目に入った先には、ヨウランの作業用の机があった。
 複数のディスプレイとキーボードが置かれ、普段はそれでノルンの解析や状態チェックなどをしているのだと言っていた。
 いつもは綺麗に整頓されているその場所が今日は珍しく散らかっていた。出る時に余裕がなかったのだろうか。
 この場所を提供してくれているお礼も兼ねて少し整頓しておこうと、俺はその場所に近づいた。
 広がっていたのは、いくつかの書類と参考書だった。少ない筆記用具はひとまとめにし、参考書と書類を分けておく。参考書は平積みより、立てかけておいた方が良いだろうか。
 そう思い、参考書を持ち上げた時だった。

 ひらり、と1枚。

 小さな紙が床に滑り落ちた。
 いけないと思い、俺は紙を拾おうとして床に手を伸ばし―― 硬直した。

 椅子に座った金髪の女性が、生まれてそう経ってなさそうな赤ん坊を抱いている。
 そして寄り添うように椅子の後ろに立つヨウランに似た男性は、女性の肩に手を置いて笑っていた。
 二人とも幸せそうに、腕の中の赤ん坊を見つめている。

 家族写真――

 幼い子供を抱えて、幸せそうに写真に映る家族の姿がそこにはあった。
 写真に写った男性は、ヨウランにとてもよく似ていた。いや、恐らく、ヨウランがこの男性―― 父親に似たのだろう。目元や口元、全体から受ける印象がヨウランと同じだった。
 ただ、瞳の色は椅子に座る女性―― 母親から継いだのか、黒に近い褐色の瞳は、ヨウランと同じく落ち着いた光を宿している。
 微笑む二人の顔に既視感を覚え、思考を巡らすとすぐに思い当たった。
 二人の微笑は、ヨウランがノルンに向けた微笑とよく似ているのだ。
 やはり親子なのだなと思う反面、俺の心には罪悪感が立ち込めた。
 母親は早くに亡くなり、父親もヨウランの口ぶりからして既に亡くなっているのは察することが出来る。だからこそ、父親の形見でもある"人工知能"を完成させようとヨウランはこの士官学校の門を叩いたのだ。
 ヨウランの父親が亡くなった原因を俺は知らない。不用意に触れていい話題ではなく、俺も俺の家族について尋ねられると、おそらく言葉を濁すだろう。
 人には一つや二つ、他人には踏み込んでもらいたくない領域があるのだ。
 今回の写真は、間違いなく踏み込んではならない領域の一端だろう。

 俺は写真を参考書に挟み直し、元あった場所に戻す。
 書類などを手早くまとめ整頓した後、全てを見なかったことにする。
 静かに机に戻ると、俺は試験勉強を再開した。

*

「レイもルナも遅いなぁ……」
 ポツリと俺は言葉を零した。
 レイもルナマリアが出たと思われる時間から、随分と時間が経過している。そろそろ戻ってきてもいいはずだ。
「レイはともかく、シンがお姉ちゃんに用があるなんて珍しいわね」
 それは恐らく、俺とルナマリアがこの自主勉強の時間は、主に教わる側に回るからこそ出た言葉なのだろう。
 メイリンは自身の勉強の手を止め、俺を見た。
「ああ。シミュレーター訓練の時間をあわそうと思ってさ」
 時期が時期なだけに、シミュレーターの予約が凄いことになっている。
 いくつかのコマ数分をなんとか確保できたので、その日時をレイやルナマリアに確認してもらいたいのだ。以前確認したときは大丈夫だったので、最終確認という奴だ。
 俺がそう言うと、納得したようにメイリンが頷いた。が、ふと疑問に思ったのか尋ねてきた。
「先週もお姉ちゃんとシミュレーターに入ってたよね?」
「? ああ」
 メイリンの唐突な問いに、俺は首をかしげながらも頷いた。

「シンは、"訓練相手募集掲示板"を利用してないの?」

 "訓練相手募集掲示板"――
 聞き覚えのない言葉だが、それがどのような役割を担っているのかだいたい名前から察することが出来る。
「知らないけど…… なんか、便利そう?」
 俺の言葉にメイリンは頷き、学校から配布された電子端末を俺に見せる。
「ほら、みんなに配布されてる端末のメインページの端、"交流掲示板"ってのがあるでしょ?」
 確かに、メインページの一番端には"交流掲示板"というアイコンがあった。
 気づいてはいたが、特に調べたり、書き込みたいようなこともなかったので、今まで放置していたのだ。
「その掲示板の中のスレッドの一つが、この"訓練相手募集掲示板"よ」
 そう言って見せてもらった画面には、シミュレーターでの搭乗訓練の対戦相手を求める書き込みが沢山並んでいた。
 メイリン曰く、名前は実名、IDは学生番号になっているため、なりすましや虚偽も少ないようだ。これはなかなかいい。
「うわ、もっと早くに気づいておけば良かった……」
 レイやルナマリアを相手に訓練することに不満はない。不満はないが、やはり色々な人と対戦しなければ自分の得手不得手は見えてこない。
「レイやお姉ちゃんとばかり訓練してるから、まさかとは思ったけど……」
 呆れと驚きが混じった言葉が俺の胸に突き刺さる。
 がくりと、俺は机に突っ伏した。それでも俺は、件の交流掲示板を自分の端末を取り出す。
「まぁ、仕方ないんじゃない? 地上から来て、こういう端末の扱いも慣れてないんでしょ?」
 メイリンのそんな言葉が頭上を横切ってゆく。
 確かに慣れてはいない。地上では14歳なんてまだ子供で、携帯電話を持たせてはもらっていたけど、ここまで高度なものではなかった。
 でも、慣れてないからこそ、色々と試して調べるべきだったのだ。それを怠ったせいで、俺は色々な人と対戦する機会を逃してしまったのだから。教訓にしよう。
 ざっと掲示板に目を通す。
「テンプレートに沿って書き込むか、書き込んでいる人にメールすればいいのか」
 自身の名前、対戦条件、日時など必要事項を埋めて書き込めば、掲示板に表示されるようになっているみたいだった。
「そうよ。あ、でも、わかってると思うけど、自分のメインメールアドレスを掲示板に載せる人なんていないわよ」
 初歩的な個人情報の管理を忠告される。
 俺は体を起こすと、憮然として答えた。
「それぐらい俺でも知ってる」
「どうかしら」
 また、あのチシャ猫のような悪戯っぽい笑みを浮かべてメイリンが笑う。まったく、メイリンは俺をなんだと思っているんだろうか。
 さて、でも、どうしようか。今、俺が使っているアドレスは、leafの携帯電話のメールアドレスと、士官学校に入った際に学校側から配布されたメールアドレスの2種。前者はミーアやレイ、ヨウラン、ヴィーノ、メイリン、ルナマリアといった親しい人にのみ教えて使っている。後者はもっぱら、事務手続きやらレポート提出、主に学校に関わるものにしか使っていない。
 この掲示板は学校に関わることなので、配布されたメールアドレスを使おうかと思った。だが、書き込みを見たところ、どうやら学校から配布されたメールアドレスを連絡用に使っている人はいないようだ。
 そのことをメイリンに報告すると、少し悩んだ後に答えてくれた。
「そういうことならやっぱり、サブアカウントを増やした方がいいわ。なんなら、"ノルンを通して"サブアカウント取ったらどう?」
「ノルンを?」
 思わぬ名前の登場に、俺は目を丸める。
「そうよ。こういう不特定多数の人の目に触れる場所にメールアドレスを晒す以上、送られてくるメールが必ずしも目的に叶うものばかりとは限らないわ。悪用される可能性も考慮しておかないと。ノルンを通してアカウントを作っておけば、シン以外がそのアドレスを使用した時に感知することもできるわ。それに、スパムメールとか、ウィルスが入ったメールとか、自動で処理してくれるし結構便利よ」
 そう言って、メイリンはノルンを指差した。
「そんなことできるのか?」
 俺はノルンの専用端末を取り出し、話しかけた。
「"…… できます、が……"」
 ノルンの返答の歯切れが悪かった。何か考えているのだろうか。
「? どうしたんだ?」
「"いえ、なんでもありません。チームのセキュリティの為にも、一度私を介在させたほうが良いと思われます"」
 その言葉にメイリンも頷き、俺もそうかもしれないと思案する。
「それじゃ、ノルン。新規アカウントの作成を頼む」
「"アカウント作成後、掲示板へすぐに書き込みますか?"」
「いや、今はいい。そのかわり、俺の5月末から6月にかけての予定を呼び出してくれ」
「"わかりました"」
 打てば響くようにノルンから返答が帰ってくる。先程の歯切れの悪さは一体なんだったのだろうか。
 内心で首を傾げつつ、俺は視線をノルンからメイリンに移した。
「いいこと教えてくれてありがとう、メイリン」
 俺がそう礼を言うと、メイリンも目を閉じ、深く頷いた。
「当然よ、チームメイトなんだもの」
 目を開け、浮かべられた笑顔をは、チシャ猫のように謎めいたものではなく、素直に喜んでいる笑顔だった。

「それにしても――……」

 しかし、メイリンが笑みを浮かべていたのも束の間、すぐに困ったように眉を寄せた。そしてまじまじと、俺の顔を見つめてくる。
「噂ってやっぱり当てにならないわ。私ももっと頑張らなきゃ。」
 深い溜息と共にメイリンは複雑そうに言った。
 "うわさ"という単語がすぐには思い当たらず、俺も暫し考え込んだ。
「噂って―― あぁ。アレか。"紅眼の悪魔"」
 思い当たったのは顔合わせのあの日、メイリン達から聞いた俺に関する噂話だった。
 士官学校内でまことしやかに囁かれる、俺に関する黒い噂。
 復讐鬼――
 あれを初めて聞いた時は、内心では苦笑したものだ。僕が一番許せないのは、オーブでも連合でもない。僕自身だ。
「そう、それよ! 初めてその噂を聞いた時は思わず引いちゃったもの!」
 内容が内容なだけに、メイリンも言いあぐねていたのだろう。俺から出した"紅眼の悪魔"という単語に激しく反応した。
 それにしても、引いたって…… そこまではっきりと明言されると、いくら俺でも少し落ち込んでしまう。まぁ確かに、俺も初めて"紅眼の悪魔"の噂を聞いた時はあまりの内容に引いてしまったものだ。
「なんであんな噂が流れたんだろうな。俺、そんなに特別なことしてたかな」
 工業用モビルスーツ運用資格を持っているとはいえ、俺は他のプラント出身の士官学生と違って足りない部分が沢山ある。座学の知識然り、体力然り。
 それを埋めようと必死になって訓練に喰らいついていっただけに過ぎない。何も特別なことはしていないし、士官学生の本分を全うしていただけだ。
 それはおかしいことだったのだろうか。
「うーん…… やっぱりアレじゃない? シンに関しては、情報が少なすぎたのよ」
「情報が少ない?」
 メイリンは頷く。
「そう。似たような復讐鬼的な噂を持つ人が何人かいたけど、その人達に関しては血のバレンタインで~ とか、ユ二ウス戦役で~ とか、比較的分かりやすい背景がすぐにわかったから、大きな尾鰭がつく前に噂が終息しちゃったのよね。反対にシンは、地上から来た教練校上がりって事以外には情報が全然ないし」
 なるほど。俺に関する情報の少なさが、逆に噂を聞いた人達の想像を煽ることになり、結果、"紅眼の悪魔"の噂が出来上がった訳か。
「でも、そんなに色々知りたいなら、俺に直接聞きに来ればいいのに」
 俺がそう言うと、メイリンはあからさまに、深く、深く溜息をついた。
「シン…… 入学当初の自分達の言動を振り返って言ってる?」
 入学当初の言動……
 そう言われて、俺は1ヶ月前の事を思い起こす。
 授業受けて、訓練して、ご飯食べて、訓練して――…… うん。普通だ。
 俺が納得しながらそう言うと、メイリンは何故かがっくりとうな垂れた。
「それ、頭に全部"レイと"って言葉がつくでしょ?」
「? そうだけど―― でも、誰かと一緒に行動するなんて、そんなに珍しいのか? 同室なんだし普通だろ」
 とうとうメイリンが机に突っ伏してしまう。そしてそのまま、ゆるゆると首を横に振った。
「それもそうなんだけど…… ああ、もうっ!」
 がばりと身を起こし、メイリンはびしりと俺を指差す。
「シン・アスカとレイ・ザ・バレルの両名に、食堂で食事を摂る事を義務付けます!!」
「はあぁ?」
 いきなりの命令に、俺は目を瞬かせる。
 意味が分からない。しかも、何故かこの場にいないレイまで巻き込まれている。
「いい!? 食堂は一番の情報収集・交換の場なの!」
 そしてメイリンは、俺が異論を挟む隙も与えず、一気に捲くし立て始めた。
「何気ない会話、食事内容、その他いっぱい! それら全てが情報になるの! 偶然、シンとレイの隣に座った学生が、貴方達のすっとぼけた会話を聞いて、噂と違って怖くない人なのかも? とか、思ったりしてくれるわけ! そう言うのが積み重なって、悪い噂が払拭されたり、逆にいい話が広まっていくの!」
「で、でも、食堂は食事が……」
 食堂利用の有効性は十分に理解できたが、あそこの食事はけして美味しいとは言い難い。厳しい訓練の傍ら、食事くらい美味しいものを食べないと体が持たない。
 最近ではノルンが、栄養価計算をしたり、レシピをインターネットから探してきてくれて紹介してくれるのだ。その好意も無駄にしたくない。
 俺がそう反論すると、メイリンは両手で両耳をふさぎ激しく首を横に振った。
「あー! あー! あー! 何も聞こえないー! そんなのシンのお弁当持ち込めばいいでしょ!? 持込禁止してるわけじゃないし! 重要なのは、シンとレイがどんな形であれ、他の沢山の生徒の目に触れ、耳に触れ、接することなの! 私やヨウラン達は科が違うから一緒に食べれない事が多いけど、お姉ちゃんとは一緒だから、明日からはお姉ちゃんとレイと一緒に、食堂で食事を取る事!! はい! 決定!」
「いや、あの……」
 どうやらメイリンは、この件に関しては譲るつもりは全く無いらしい。ついにルナマリアまで巻き込まれてしまった。
「このまま悪い噂が蔓延り続けてると、掲示板利用しても、みんな怖がって申し込んでくれないわよ!? それが嫌なら、明日から食堂で食事!! いい!?」
「りょ、了解しました!!」
 荒ぶるツインテールに押されるままに、俺はメイリンに敬礼を返し、食堂での食事の件を了承した。
 そんな俺の返答に満足したのか、メイリンは先ほどまでの勢いを収め、優雅に微笑んだ。
「まぁ、実際、こうでもしないと、シンの悪い印象ってなくならないわ。傍目から見たらシンは、ずいぶん話しかけにくい存在だもの」
 微笑んだと思ったら、メイリンはすぐに表情を憂鬱に曇らせ、小さく溜息をつく。
 なんだか、今日はメイリンを困らせてばかりのような気がする。
「そうなのか?」
 それでも問い返してしまうのはやはり気になるからだろう。
 話しかけにくいとはどういう意味だろうか。少なくともレイは普通に話しかけてきていた。
 俺の認識の方が間違っていたのだろうか。
「話しかけ辛いというより、不気味で怖い存在って感じかしら。こうして普通に接してると、そんなこと全然感じないけど」
 メイリンの返答は、俺が思いも寄らないものだった。
「俺が不気味で怖い?」
 怖いはきっと無表情に由来するからだろうけど、なんで不気味になるんだ?
 思ったままに口にすると、メイリンも言葉を捜しているのかうーんと唸り始めた。
「不気味―― と、いうよりは、なんていうか、その…… うーん。理解できなくて底知れない感じ? だって、他の人達と全然違うんだもん」
「全然違う?」
 メイリンは頷く。
「眼よ。眼」
 そして、ぐっとメイリンが俺の眼を覗き込んでくる。
 視線が逸らせない。
「他の人達はこう、眼が分かりやすくギラギラしてたもの。無表情の人だっていたわ。でも、眼だけは爛々と燃えてたもの。憎しみとか怒りとか憤りとかそういうので」
 そう言うメイリンの瞳の中。
 ルナマリアとはまた違う、濃い青紫の中に何かが見えたのは気のせいだろうか。
 揺らめく、淀んだ――
「でも、シンにはそれがない」
 するりと絡め取られた視線は解放される。
 メイリンはテーブルの上に肘をつき、組んだ手で口元を隠す。
「血みたいに鮮やかに紅くて人目を惹くのに、いざ瞳を見ると本当に何もないんだもの。怒りとか、憎しみとかは勿論、喜怒哀楽の全部が」
 表情もないし。
 メイリンは静かに言った。
 冷ややかではない。ただ、静かに事実を述べているだけなのだろう。
 チシャ猫の様な笑みはとうになく、口元が隠されているため、瞳からしかメイリンの表情は読み取れない。しかし残念なことに、俺は瞳だけで心情を読み取れるほど対人経験が豊富ではない。メイリンが考えていることなんて、さっぱり読み取れなかった。
「レイだってそんなに表情に出るタイプじゃないだろ」
 苦し紛れに俺が言った事を聞いて、メイリンは組んだ手を解き、片腕で頬杖をつく。そして、苦笑とも嘲笑ともとれる笑みを浮かべた。
「本当にそう思ってるの? レイはああ見えて結構子供っぽい所があるから、目を見れば快不快ぐらいすぐにわかるわよ」
 メイリンはじっ、と俺を見つめてくる。まるで何かに絡みつかれたかのように、俺は視線はおろか指先一つ動かすことが出来ずに硬直する。
 濃い青紫の瞳は酷く冷ややかで、いつもメイリンが纏う年相応のかわいらしい雰囲気はない。適温に保たれているラボの温度が一気に下がったかのような錯覚を覚える。
「こうして喋ってても、シンって全然見えないんだもの」
 妖しい光を揺らめかせ、凍てついた瞳はただ、どろりとした何かで俺を縛り付ける。
 動けなかった。
 ただ、ただ、俺は動けなかった。
 こくり、と自分が唾を呑んだ音が、いやに耳に響く。
 そんな俺の異変を察してか、メイリンはふわり、と見知ったチシャ猫の様な笑みを浮かべた。
 つい、と視線が俺からはずされ、やれやれと言わんばかりにメイリンは肩を竦める。
「何もない癖に、あの苛烈極まりないモビルスーツ操縦でしょ? 不気味というか、怖いというか、情報科泣かせというか……」
 チームのセキュリティを預かる身としては、ありがたいんだけど。そう、メイリンは茶化して笑う。
 声音も雰囲気も普段のものに戻り、俺の体に体温が戻ってくる。どっ、と体の力が抜け、大きく息を吐く。
 なんだったんだ? 今のは。
「でも、それならどうして、悪い噂ばっかりだった俺に、普通に接してくれたんだ?」
 なんとか声を絞り出し、話を続ける。
 硬直した頭がまともな思考などできるわけがなく、口について出たのは、以前から疑問に思って聞けていなかったことだった。
「それは――……」
 先ほどまでの不思議な気迫はどこに行ったのか。途端にメイリンは目を泳がせ、言葉を濁した。
 俺は訝しげに首を傾げて先を促す。すると、メイリンは肩を竦めて苦笑いを浮かべた。
「あのクラッカー乱舞、開幕投げ飛ばされを見てるとねぇ……」
 クラッカー乱舞…… 開幕投げ飛ばされ……?
 一瞬、何を言われたのかよく分からなかった。が、すぐに俺はそれらがナニを指しているのか理解した。
「あー……」
 何を言ったらいいのか言葉に出来ず、同意ともなんとも取れる音が俺の口から零れた。
 そうだ、そうだった。
 班の顔合わせの時にそんなことがあった。
 随分前のことのように思えるが、まだ1ヶ月も経っていない。
「お姉ちゃんやヨウラン達と話してるの見て、意外に普通なのかも、って思ったのよ」
 あの時、メイリンは一歩引いた所で適度に口を挟みつつ、俺達のドタバタ劇を見ていたような気がする。
「それは、その…… ルナのおかげ…… なのか?」
 あれがあったお陰で、俺の中からは初対面の気恥ずかしさやら何やらが全て吹っ飛んでいた気がする。もしかして同じように、二人の中から"紅い悪魔の噂"でついていた俺の悪いイメージが、一緒に投げ飛ばされたのかもしれない。
 そう考えると、今のチーム内のいい雰囲気は、みんなルナマリアのお陰なのだろうか。
「今度、スイーツでも奢ったら?」
 くすくす笑って、メイリンが俺を茶化す。
 ルナマリアにお礼、か……
 多分、この場合はした方がいいのだろう。

「あー、もう! つっかれたー!」

 扉が開く音と共に、そんな声が飛び込んでくる。
 返事をしようとした俺の口は、音を発することなく閉じた。
 つかつかと近づいてきたルナマリアが、どっさりと机の上に荷物を置いた。
「おかえり、お姉ちゃん」
 そう言ってメイリンがルナマリアを向かえた。
 余程重かったのだろう。ルナマリアは両手を閉じたり開いたりしている。
 その横にレイも立ち、持っていた袋を机の上に置いた。レイもルナマリア同様、しきりに手を握ったり開いたりしている。
「ああ、レイ、おかえり」
 ごくろうさま、と続けると、レイは静かに頷いた。
 それを見届けて、俺は視線を、二人が持ち帰った袋にやる。
「なんだこれ?」
 二人が買ってきた量は、どう見ても"ちょっと"した量を超えていた。普通のジュースはともかく、栄養バランス食品のブロックやゼリーがたくさん買い込まれている。
 俺がレイに尋ねると、レイは眉を顰めた。
「それが――」
 言い淀んで、レイは隣のルナマリアを見る。
 ルナマリアは俺とメイリンの前にジュースを置きながら言った。
「喉が渇いたから飲み物ないかなーって冷蔵庫開けたら何もないのよ、な・に・も!」
 なるほど。ルナマリアの剣幕に押されて、レイが荷物持ちとして連行されたのか。
 さもありなんと納得し、俺はヨウランについて考えることにした。
 ふむ、とルナマリアの言葉を反芻する。
 冷蔵庫が空だった――
 確かにそれはおかしいかもしれない。
 ヨウランは最近、研究発表の為にラボでレポート纏めていたはずだ。机の上は散らかってたし、ここで作業しているのは確かだ。ほぼ篭り切りだと聞いているから、冷蔵庫には何かあって然るべきだろう。もしかして食べつくしたのだろうか。
「レポートに掛かりきりになるのも理解できるが、やはり何か食べなければ頭も回らないからな」
 レイの話を聞きながら、俺は傍の袋の中身を見る。
 ブロックやら栄養ゼリーなどの定番のものから、なんだか不思議な見た目をしたものまで色々合った。
 その中の一つを手に取り、袋から取り出す。
 白い飴の様なお菓子が入った袋だった。"ブドウ糖"と袋には印刷されている。
 心惹かれて封を開けると、俺は一欠けら口に含んだ。
 口の中に広がる、飴とは違う甘さ。後に尾を引かず、さらりとしている。俺が好きなタイプの甘さだった。
 がじがじと奥歯で欠片を噛み潰すと、もう一欠けら口に含んだ。
「シンが食べてどうするのよ」
 ルナマリアがブドウ糖の袋を俺の手の中から浚う。その隣を見れば、呆れた様な視線を向けてくるレイがいた。
 俺は、ははっと声を漏らして肩を竦めて見せた。
「私にもちょーだい」
「ちょっと、メイリン!」
 メイリンが身を乗り出して、ルナマリアの手の中にある袋からブドウ糖を一欠けら摘む。
「んー!! いい甘さ!! 勉強中の糖分って何でこんなにおいしいのかな?」
「もう! ヨウランの分がなくなっちゃうでしょ!?」
 言い合いを始めたメイリンとルナマリアの様子を見て、俺とレイは顔を見合わせる。
 どちらともなく頷くと、まだ中身のある袋を掴み、冷蔵庫のある給湯室へと向かった。


*


 ふぅ、と一息吐き、俺は袋の中身に手をかける。インスタントコーヒーは確か、一番右の開き戸の中だったはず。
 レイと俺の二人で手早くと飲み物や食料を戸棚や冷蔵庫に入れてゆく。BGMはメイリンとルナマリアの喧騒だ。
「どうだ? 試験勉強の方は?」
 レイが話しかけてくる。やはり話題は、一週間後に控えた試験とその勉強の事だった。
「んー…… まぁまぁかな。やっぱり筆記は辛い」
 ディセンベル生活教練校は、"生活"と冠されるだけあって、プラントで生活する為の勉強が主だ。
 特に、俺にとってプラントの初等教育にあたる範囲の勉強は大変だった。
 地上で同年代が勉強する事と比べると、その内容はとても高度なものだったからだ。それをなんとか頭に叩き込みながら、俺は工業用モビルスーツなどの他の授業を受講していた。あの頃の俺は本当によく頑張ったと思う。
「そうか…… わからない所があれば聞いてくれ」
「いいのか? レイの方だって、試験勉強大変だろ?」
 みんなで教えあって勉強してはいるが、やはり物事には限度というものがある。あまり頼りにしすぎると、レイの勉強を邪魔してしまうことになりかねない。それだけは避けたい。
 そもそも、俺の現状はある種、自業自得ともいえる。教練校での成績が良かったと言われてはいるが、士官学校に入る為にきちんと勉強してきた人たちと比べると不足は多い。
 しかも、工業用モビルスーツなどの各種資格が取れる授業はともかく、その他の宇宙論やら天体物理学やらの授業は、今思い返せばあくまで教養の範囲内を出ない講義内容だった。
 それに初等教育の科目を並行して受講していたのも相俟って、定着せずに取りこぼしてしまった知識も多い。
 筆記試験免除で士官学校に入学したのはいいが、そのツケが現れたと考えてもいいだろう。
 今はレイのお陰でなんとか座学に着いていけているが、いつまでも甘えるわけにはいかない。ここで俺自身が頑張らなければ、この先プラントで軍人をやっていくなんて到底不可能だ。
「お互い様だ。お前に教えることで、俺も十分に勉強させてもらっている。気にするな」
 俺の心中を知ってか知らずか、レイは事も無げにそう言った。
 互いに作業の手は止めない。ああ、でも、当たり前のように返された言葉が俺にはとても嬉しかった。

 整理も一段落つき、レイと俺はコーヒーを淹れる事にした。
 俺はラボに置かせてもらっているそれぞれのマグカップを取り出し、お盆の上に載せる。ついでに買ってきてもらったばかりのお菓子をいくつか出して、同じくお盆の上へ載せておく。
 その間にレイはフィルターや豆を取り出すと、人数分をサイフォンにセットした。
 あとはコーヒーが出来るのをひたすらに待つだけ。
 暫くすれば、とぽとぽとコーヒーが落ち始める。静かな水音と共に、ふわりとコーヒーの香りが給湯室を満たす。
心を落ち着かせる良い香りだった。
 そういえば、とレイは俺に尋ねてきた。
「テーブルの上にノルンがいたが、何か尋ねて調べてもらっていたのか?」
 思わず、いつもノルンがいる胸のポケットを見下ろす。
 同時にメイリンとルナマリアの口論行き交うテーブルの上に置いてきた儘である事にも気づいた。後で謝っておかなければ。
 そんな事を考えながら、俺はレイの問いに答える。
「いや、メイリンに訓練相手募集掲示板の使い方を聞いてさ、ノルンを通してサブアドレスを作ってもらったんだ」
 5月は流石に、試験勉強と試験で忙しい。
 ただ、試験結果発表日の午後から5月の終わりまでは休みになる。発表日が金曜日で、土日祝日がその後に続くため、ちょっとした連休のようになっている。これを利用して帰省する学生もいるようだが、俺は居残り組みだ。この休みを有効活用しない手はないだろう。
「"ノルンを通して"? メイリンがそう言っていたのか?」
 レイが視線をサイフォンから俺に移し尋ねてくる。
 何かおかしいところでもあったのだろうか。
「ああ。 レイも訓練相手募集掲示板を利用してるのか?」
 内心、首を傾げながらも、俺はレイの問いを肯定する。
「いや、お前さえ相手をしてくれれば良いと思っていたが―――― そうだな。"ノルンを通して"、サブアドレスを取得し、利用するのも悪くないかもな」
 何やら少し思い悩んだ後、レイは自分のノルンの端末を取り出してアブアドレスを取得するように指示する。
 その様子に、俺はレイが訓練相手募集掲示板を利用していなかった事に気づいた。
「レイは訓練相手募集掲示板利用してなかったのか?」
 地上育ちでこの手のシステム関連に疎い俺とは違って、レイはプラント育ちだ。利用していてもおかしくないはずなのだが……
「色々と面倒だったからな。今は控えていたんだ」
 さらりと言い放たれた言葉に、俺は更に首を傾げた。
 シミュレーター訓練になるとはいえ、色々な人と訓練を行うのはとても重要な事だ。
 同じ人とばかりしていると、戦い方がワンパターンになったり、相手の癖に慣れすぎたあまりに自分の弱点が見えなくなったりする事もある。
 俺とルナマリアの対戦結果が良い例だろう。俺の戦い方と相性の良いレイとばかり対戦し、勝ちを重ねた結果、ルナマリアという全く異なる戦い方をする相手に後れを取り苦戦を強いられた。
 あれ以降、ルナマリアとよくシミュレーター訓練をするようになった。そのおかげで、だんだんとルナマリアのような待ってカウンターを行う戦闘スタイルに対する対策は出来つつあるが、それでもまだ足りない。
 俺が作ったのは、あくまでの"ルナマリアの"戦闘スタイルに対する対策だ。カテゴリ的には同様の戦闘スタイルでも、人によって差異は必ずある。それに対応するためにも、俺はもっと色々な人と対戦して視野を広げなければならない。
 それはきっと、レイも分かっている筈だ。にも関わらず、"面倒だ"とはどういうことなのだろうか。

「あ。ごめんなさい。二人に整理任せちゃって」

 俺が問いかける前に、メイリンによって会話が断ち切られる。どうやら、向こう側も一段落着いたらしい。
 タイミングを逃してしまった問いは宙を彷徨い、俺は口を噤んで立ち尽くす。
 レイはレイで、じっとメイリンを見ているようだった。
「手が止まってたようだけど、二人して何を話してたの?」
 妙な雰囲気の俺達に、メイリンが不思議そうに問いかけてくる。
「えぇっと…… ほら、さっき、俺がメイリンに訓練相手募集掲示板の事を聞いて、サブアカウント作っただろ?」
 しどろもどろになりながら、俺はメイリンの問いに答える。
 先程の会話を思い出してくれたのか、メイリンも先を促すように頷く。それに安堵して、俺は言葉を続けた。
「レイも掲示板利用してなかったみたいなんだ。俺と同じようにサブアドレス作って、利用するってさ」
「レイも? ―― "ノルンを通して"?」
 何が琴線に触れたのか、メイリンはじっとレイを見つめ返す。視線だけで、真偽を問いかけているみたいだった。
「ああ」
 レイは肯定すると、サイフォンに向き直り、コーヒーをマグカップに淹れ始める。どうやらこれ以上の会話を続ける気がないようだった。
「ふーん……」
 メイリンもメイリンで、それは同じだったらしい。
 興味深げにレイの背を見ている。
 微妙になってしまった空気に、俺はどうする事もできずに視線を彷徨わせた。
 水音がいやに響く。
 レイはマグカップの乗ったお盆を持ち上げると、静かに給湯室を出ていった。メイリンも一瞬目を眇めると、無言でレイの背に続く。
 俺は慌てて二人の背を追った。


*


「あら? 三人とも遅かったじゃない」
 給湯室から出てきた俺達に気づき、ルナマリアが端末から顔を上げる。その口には飴がくわえられていた。
 俺はレイとメイリンの間に流れる妙な空気から少しでも早く遠ざかりたくて、二人の背を追い越すと、ルナマリアの隣に腰掛けた。
 机に突っ伏し、大きく息を吐く。
「どうしたの? シン」
 いきなり机に伏した俺を心配して、ルナマリアが声をかけてくる。
 そのいつもと変わらない調子に、俺はどこか安堵を覚えた。
 なんというか、あの二人、なんか変だ。特にメイリンには、言い様のない何かを感じた。
 そこではたと気づく。
 メイリンと二人きりで話すのは今回が初めてだった、と。
 いつもはルナマリアの闊達さと明るさに目が行きがちだが、よくよく思い返せば、いつもメイリンは俺達がバカやっているのを、一歩引いた所から見ていたような気がする。
 観察―― ? しているのだろうか。俺達を。情報科だからだろうか?いや、何か違う気がする。
 答えが一向に見えず、俺は唸る。
「どうした、シン」
 俺は顔を上げる。
 何食わぬ顔でレイが俺の隣に立ち、コーヒーの入ったマグカップを配る。
「今回のお菓子はチョコレートね」
 その隣では、メイリンが棚から取り出したお菓子を配っている。
 先程の言い様のない空気は跡形もなく消え去り、いつもどおりの二人がそこにはいた。
「大丈夫? 顔色あんまり良くないわよ。さっき食べてたブドウ糖、食べる?」
 そう言って、ルナマリアはブドウ糖の袋を差し出してくる。
 先程、メイリンとルナマリアが言い合っていたせいでしまう事ができなかったものだ。
 だが何故か、今はその気遣いが心に染みる。
"今度、スイーツでも奢ったら?"
 脳裏にメイリンと交わした会話が過ぎる。
 確かに、ルナマリアのお陰で、今の和やかなチームの雰囲気があるのかもしれない。ならばやはり、お礼はしなければならない。

「なぁ、ルナ。今度一緒に出かけないか?」

 甘いものでも食べに、とまで続けて、俺は周囲の異様な雰囲気に気づいた。
 何故か、再び空気が凍りついている。
 ルナマリアを見ると、驚いたような顔をして、口をはくはくと開閉させている。
 その耳は何故か赤い。
 何かおかしなことを言っただろうか、と俺は首を傾げた。
「!!」
 鳩尾に一発。
 どすり、と入り、俺は言葉もなく悶絶する。
 ルナマリアが何か言っている様だが、痛みに悶える俺には聞こえない。
 なんだか似たような事が前にもあったような気がする。
 何か気に障るような事でも言っただろうかと思いながら、俺はお腹を抱えて蹲った。


 後日、この話は俺とルナマリアの間で、試験がきちんと終わってから日程を調整しよう、という形でケリがついた。
 ぶっきらぼうに、誘ってくれたありがとう、と言って自室に帰るルナマリアの背を見送りながらはたと気づく。
 自主演習やミーアとの約束の兼ね合いもあるから、ルナマリアへのお礼は来月末になるだろうな。
 スケジュール管理には気をつけよう。



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[32070] Graduale - 昇階唱 ⅩⅦ
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2013/09/05 22:32
Graduale - 昇階唱 ⅩⅦ

 ディセンベル士官学校 本棟前広場――
 多くの学生が、落ち着きのない喧騒を作り出す中、俺は静かに、眼前にあるモノを見上げていた。

 ザフト―― モビルスーツ試作第1号機

 歴史上、初めてロールアウトしたモビルスーツが、今、俺の目の前にある。
 数日前、この機体はここ、ディセンベル士官学校に持ち込まれた。展示場所は、士官学校の玄関ともいうべき本棟。そのすぐ前にあるこの広場だった。
 これから約一月の間、モビルスーツ試作第1号機"ザフト"は、ここに展示され続ける事になっている。
 Z.A.F.T.の名を冠する"ザフト"は、全てのジン系列のモビルスーツの親とも言うべき存在だ。この"ザフト"から、YMF-01Bプロトジンが開発され、そして今もなお、ジンの名を持つモビルスーツは増え続けている。
 開発されてからまだ10年も経っていないのに、目の前にある"ザフト"は、年月を重ねた骨董品のような品格と風格を漂わせ、威風堂々と佇んでいる。その様は、将に圧巻の一言に尽きる。
 それにしても何故、外部に向けた催しもないこの時期に、このような展示が為されているのか。
 脳裏にそんな疑問が浮かぶが、すぐに今日が何の日であるかを思い返し、俺は疑問を打ち捨てた。
 恐らく、この時期だからなのだろう。

 今日、前期中間考査―― 進級テストの結果が発表される――

 ディセンベル士官学校の在校人数はあまり多くない。と、思う。
 航宙科150名、理工科100名、情報科に至ってはなんと50名しかいない。これにザフトが行う一般公募の2000名を合わせた数が、来年の新兵の人数になるらしい。
 公表されている現在のザフトの総数は30万人。ユニウス戦役前はこれよりも多かったらしいが、終戦後に退役し、普通の人に戻った人が数多くいたようだ。
 プラントの総人口が約5千万人である事を考えると、ザフトは総人口に対し6%を占めているという事になる。この数字が多いのか少ないのか、俺にはよくわからない。ただ、けして多いとは言えない数なのは確かだろう。
 数では劣る点を、技術力で埋める。その象徴とも言うべき存在がモビルスーツであり、航宙科の上位十名のみが"赤"を纏う事を許される理由でもある。
 ディセンベル士官学校の士官学生は、ユニウス戦役後に構築された新体制の目玉ともいうべき制度の一部であり、一般公募2000名とは、一線を画す優秀さを求められている。そう、先生達は言っていた。
 その表れなのだろうか。航宙科は150名のうち、上位50名がその成績結果を名前と共に掲示されることになっている。
 そこで俺は、十位以内に入らなければならない。入って、赤服にならなければならない。それが特殊技能生である俺に課せられた義務。
 やるべきこと、できることは全てやり尽くした。恐らく、十位以内には入るだろう。確信もある。だが、なぜだろう?なぜか、心は晴れない。

 "ザフト"を見上げる。
 遥か天井<ソラ>の向こう。本来いるべき宇宙<ソラ>を見据えているのだろうか。
 暗い闇の向こうで、沈黙するモノアイは何も語らない。


「シン」


 は、と我に返り、俺は視線を声の主に向ける。
「ここにいたのか」
「レイ」
 そこには、少し緊張した面持ちのレイがいた。
 肩を並べて、隣り合う。
「試験結果の発表って、10時… だったよな?」
「ああ、本棟の掲示板に表示される」
「今、何時だっけ?」
「9時50分。間もなくだ」
 他愛のない会話を交わす。 こうして、レイと話していると実感してしまう。結構、俺も緊張しているみたいだ。

 ふ、と会話が途切れる。

 俺たちは揃って、"ザフト"を見上げた。
 相変わらずどこを見ているのかわからない。

 沈黙が落ちる。



「ラウ、は――……」



 ザフトを見つめながら、レイはぽつりと言った。
「兄は、ずっと、首席だったそうだ」
 その言葉に、俺は視線を、レイの横顔に移した。
 俺の視線を感じてか、レイもゆっくりと、視線を動かす。蒼い空色の視線が、ひたと俺に注がれる。
 逸らす事は許されない。
 俺も、じっとレイの瞳を見つめる。

「俺も、そうでありたいと願っている」

 風が、吹きぬける。

 静かな宣戦布告。
 俺はどんな言葉を、レイに返せばいいのだろう。

「ああ、俺も――」

 承認の言葉。
 ただ、受けて立つ、と。
 そう言えばいいのに。
 俺の口は勝手に言葉を紡ぐ。

「首席以外に、興味はない」

 結局の所、朝から続く俺の違和感は、そういう事なのだろう。
 だって分からないじゃないか。
 俺は、いつかできる大切なモノを守る事の出来る力を求めてザフトに入った。
 なのに、きちんと俺は力を得る事が出来ているのか。全然分からない。俺自身、何かが変わった様には全く思えていないのだ。
 ディセンベル士官学校 航宙科 総合成績 首席――
 一種の目安だ。
 俺が、きちんと強くなっているという目に見える証拠。

 互いに、静かに睨み合う。

 視線は逸らさない。
 逸らしたら負けだ。



 と、高らかにチャイムが響き渡った。



 俺達二人は同時に本棟の方を見る。
 10時―― 発表の時間だ。
 俺は視線をレイに戻す。レイも同じように、視線を元に戻していた。
「行こう、時間だ」
 一緒に、という言葉は不要だろう。どうせ行く場所は同じなんだ。
 俺の言葉に、レイは何故か苦笑を浮かべた。
「ああ、行こうか」
 肩を並べて歩き出す。
 きっと、俺とレイの心に渦巻く思いは一つだけだろう。


 隣にいるコイツにだけは、絶対に負けたくない――


*


 本棟のエントランスはもう、試験結果の発表を見る人でごった返していた。これでは、掲示板を見に行くだけで一苦労だろう。
「人が多いな……」
 俺が小さくそう言うと、レイも頷く。
「やはり、端末で確認した方が良かっただろうか」
 今回の試験結果は当然、士官学校のホームページからも確認できる。端末から確認する人も多いだろうから、直接エントランスへ確認に行けばいい。
 そう、メイリンが進めてくれたから来てはみたが、予想以上に人が多い。
 少しはけるのを待つか、と俺達は入り口付近で足を止めた。

「あ、おい……」

 誰かのそんな声が漏れ聞こえた気がした。
 ざわりと場の空気が変わり、視線が一斉に俺たちの方へ集まる。
 沢山の目が俺達を見ていた。隣からレイの溜息が聞こえてくる。
 一歩。
 レイは足を踏み出す。
 ざっ、と人垣が割れ、成績が掲示されている場所までの道が出来る。
 すごい、映画みたいだ。ぼんやりとそんな事を思いながら、レイの背を見送る。
 と、レイは振り返り、不思議そうに俺を見た。
「行かないのか?」
 投げかけられた言葉を理解するのに数秒かかる。
 え? もしかして、この凄まじい衆人監視の道を行こう、と?
 なんの冗談かと思った。
 俺がゆるゆると首を横に振ると、レイは怪訝そうに首を傾げた。
 一向に歩を進める気配は見受けられない。周囲の視線が痛い。肩を落すと、俺は腹をくくって、人垣の道を歩き始めた。
 びしびしと視線が背に腹にといたる所に刺さる。
「どうしたんだ? 一体……?」
「いや……」
 こいつ、心臓に毛でも生えてるのではなかろうか?
 言葉を濁して返答しつつ、視線からの逃避がてらにそんな事を思った。
 俺がレイと並び歩き出すと、ざわざわとした空気すら消え、痛いくらいの静寂と視線が注がれる。ほんの僅かな距離のはずなのに、やけに時間を感じた。
 苦行のような数十秒の先――
 俺達は足を止めた。
 目前には3つの大きな電子掲示板が並んでいる。
 航宙科、理工科、情報科、それぞれの科の成績上位者の名がずらりと表示されていた。
 大きく息を吐き、俺は航宙科の掲示板をゆっくりと見上げた。

 第1回 定期考査 航宙科 総合成績

 1,レイ・ザ・バレル
 2,シン・アスカ
 3,クリストファー・ロビンソン
 4,コンラート・バルヒェット
 5,アルフレッド・ブラウン

 あ、と息を呑んだ。
 世界から音が遠のいて、ただ、ただ、2段目にある自分の名前を見る。
 総合成績第2位――
 さっきあんな宣言をしたにも関わらずこの様とは…… 少し、いや、かなり恥ずかしい。なんとか教官に言われた総合成績10位以内の条件はクリアしているから良しとすべきだろう。
 そう自分に言い聞かせて納得させる。
「実技―ー」
 横からそんな声が聞こえてきた。
「首席を逃したか」
 こっそりと横目でレイを伺い見れば、小さな溜息と共にそんな言葉が紡がれていた。
 独り言なのだろう。レイの視線は掲示板から外れていない。俺は視線を掲示板に戻す。
 航宙科の成績を表示する電子掲示板の画面が切り替わっていた。先ほど見たのは総合成績による順位だったが、どうやら実技と筆記も別枠で発表されるみたいだった。


 第1回 定期考査 航宙科 実技成績
 1,シン・アスカ
 2,レイ・ザ・バレル
 3,マクシミリアン・フォンテーヌ
 4,アラム・クルシンスキー
 5,コンラート・バルヒェット

 第1回 定期考査 航宙科 筆記成績
 1,レイ・ザ・バレル
 2,ベアトリス・オーストレーム
 3,エンツォ・バルトロメイ
 4,シン・アスカ
 5,クリストファー・ロビンソン


 な、なんと言えばいいのか……
 やはり、当初の懸念どおり、筆記の不振が実技の足を引っ張たようだ。その為に総合成績でレイの後塵に拝する結果になった。なんて―――― 気休めだ。
「やはりお前の実技の成績は凄まじいな」
 悔しそうにレイが俺に話しかけてくる。
「でも、総合だとレイに負けてる」
 実技の順位は確かに勝った。筆記だって、勉強の成果か4位という傍から見れば高い結果を出した。
けれど、何故だろう。足りない。
 不安、なんだ。俺は本当に"力"を得ることが出来ているのだろうか。
「座学が出来たところで、実技がきちんとできていないと意味がない」
 実技が出来なければ意味がない――
 それはきっと、間違いではない。間違いではないけれど、それでも、俺の中にある形容しがたい感情は拭えない。
 勝ち負け云々というよりも、俺自身の問題なのだろう。だから、ぜんぶ、ぜんぶ呑み込む。
「今回の総合の首席は譲る。次は負けない」
 俺はレイの前に拳を突き出した。きょとり、とレイは目を白黒させ、俺の意図を理解すると嬉しそうに笑った。
「こちらこそ、次こそは実技の首席を貰い受ける」
こつり、と拳と拳がぶつかり合う。
不適に笑ってみせるレイに、俺も不適に返す。
「言ってろ。筆記なんてすぐに追いついてみせる」
「ならば俺は更に引き離すだけだ」
 俺はレイの蒼い瞳をじっと見る。
 不思議と、悔しさはない。むしろ清清しいくらいだ。
 俺はレイから視線をはずし、腕を下ろす。そして、もう一度掲示板を見上げた。
 実技1位、筆記4位、総合2位――
 結果は動かしようがないし、相変わらず胸のもやもやもある。
 けれど、レイとのやり取りを経て、なんだかなんとかなるような、そんな前向きな気分に俺はなっていた。
 掲示板を見上げながら、ほぅ、と小さく息を吐く。
 余裕が戻ってくる。
 そうなると、周囲の様子が途端に気になり始めた。ひそひそと交わされる話し声。突き刺さる視線。あまり一番前を占拠するのも良くないだろう。
 俺は同じように掲示板を見上げていたレイに声をかける。
「なぁ、レイ。そろそろ寮に戻らないか? レイは、午前中には出る予定なんだろ?」
「ん? ああ、そうだな。それに、そろそろ届いているはずだ」
 レイの言葉に俺は首を傾げる。何が届いているのだろうか?
 俺の疑問を察してくれたのだろう。
 レイは、寮に戻れば分かる、と言った。
 俺達二人は再び人の生垣を通り、寮へと急いだ。

*

「レイが言ってた"届いてる"って、これのことだったんだな」
 そう言って俺は箱を開け、中身を取り出した。肩を両手で持ち、視線まで持ち上げる。
 少し大きめの士官学生服―― その色は赤い。
 航宙科の成績上位者10名に与えられる赤服である。色味が正式なザフトレッドの軍服よりも薄いのは、"まだまだひよっこの士官学生"だかららしい。
 これを渡してくれた守衛さんがそう言っていた。
「ああ。成績発表と同時に該当者への赤服受け渡しが解禁になる。俺のように連休を利用して家に帰る学生への配慮だろうな」
 結果発表がテスト最終日の1週間後なのは、この赤服を準備するための期間らしい。
 確かに、筆記試験は電子機器を用いたペーパーレス試験だった。論述はともかく、選択肢やなんやらの正解不正解は、機械を通せばすぐにわかるのだから。
 レイの話を聞きながら、俺は赤服を眺める。
 いつかできる大切なモノを守るための力を得る――
 それが俺がザフトに、士官学校に入った理由だ。この赤服は確かに俺が力を手にしつつある証でもあるのだ。
 そう考えると感慨も深い。
 10人――
 150の中のたった10。
 誰もが努力し、全力で今回の試験に挑んだ。
 その150人の多くを蹴落とし、俺は、この赤服を得た。
 総合成績第2位――
 手に入れた結果は少々不本意だが、地上上がりのコーディネイターにしては良く頑張った方だろう。
 それは素直に自分を褒めていい。

 だが、慢心をするな。

 耳に心地良い言葉の羅列の傍にこそ、落とし穴はある。
 この地位は、不動のモノではない。
 次の次―― 10月の定期考査の結果如何によっては、剥奪される可能性のある砂上の楼閣。

 慢心するな。
 自惚れるな。
 気を引き締めろ。
 自覚しろ。
 俺はまだ、スタートラインにすら立っていない。
 何一つ守れていない。
 守りたいと思う大切なモノすら見つけていない。
 今は、万全の状態でスタートラインに立つ準備をしているに過ぎない。

 そう自分に言い聞かせて、俺は目線まで上げていた赤服を下ろした。
 は、と詰まった吐息が耳に届く。
 どうやら、無意識の内に息を詰めていたらしい。

「着替えないのか?」

 そう言われて振り返れば、既に赤服を着たレイがいた。
 きっちりと赤服を着こなしたレイの姿はとても様になっている。色が著しく変わったにも関わらず、全く違和感がない。むしろ、最初からこうあるべきだったのだ、とすら思える。赤を纏う事が当然なのだ、と。
 そんな雰囲気をレイは纏っていた。
 思わず凝視してしまうと、レイが怪訝そうに俺を見てくる。その視線に促され、俺も着替え始める。
 もとより、インナーに変わりはない。緑の制服を脱ぎ捨て、赤を纏う。真新しい制服特有の堅さに、一頻り腕や首を動かす。一応、襟元を詰めていたが、やはり首周りが煩わしい。色が赤になっただけで、デザインや構造その物は変わらないのだ。いつもどおり、ホックをはずしてボタンを一つはずす。ぐるり、と首を回すと、ほっ、と俺は一息ついた。
 着替えただけなのに、何故かとても緊張していたようだ。緊張が解けると同時に、周りを見る余裕も戻ってくる。
 レイはレイで、一時帰宅の準備を整え一息ついていた。
「コーヒー、淹れようか?」
 10時のおやつには遅い時間だけれど、昼食を食べるにはまだ早い。
 レイの昼食は恐らく機内食になるだろうが、それまでの繋ぎとしては悪くないだろう。
 俺の言葉に、レイは少し考え込むと頷いてくれた。
「ああ、頼む。飲んだら出る」
「了解。机を頼む」
 部屋に備え付けてある勉強用の机は移動する事ができる。それを大いに利用して、俺達は食卓代わりにしてるのだ。
「ああ」
 レイの了承の言葉を受け取ると、俺はキッチンへと向かった。

*

「"ルナマリア様からのメールです。
 [試験結果だけど、私は実技9位、筆記17位、総合14位。メイリンは筆記11位、実技9位、総合13位よ。私もメイリンも、あとちょっと頑張れば赤服だったのに!! 次の進級テストの時には赤服を十分狙える圏内だし頑張ろうと思ってるんだけど、メイリンは凄くへこんでる。
 次の進級テストは絶対に赤服になってやるんだから!!
 会って色々報告したかったけど、お母さんと最初の連休は帰るって約束してるの。シンやレイの成績の報告を楽しみにしてるわ。あんた達の事だから赤服は確実でしょうね。
 返信を楽しみにして待ってるわ]
 5月26日 午前10時05分の受信です。"]

「"ヴィーノ様からのメールです。
[やったぜ!俺もヨウランもなんとか総合15位圏内!
 俺は発表後すぐに学校でないとシャトルの時間に間に合わないから、予定通りメールで報告。ヨウランはこの後からが本番で、ラボ持ちはアプリリウス市のホールで研究報告会があるとかで急いでるみたいだ。だからまとめて報告!
 また、休み明けにな!!]
 5月26日 午前10時13分の受信です。

みなさん、当初の予定通りに行動されていますね。"」

 テーブルの上にノルン達も招き、俺達は一緒におやつを食べていた。レイと俺はコーヒーとクッキー、ノルン達はおやつという名の充電だが。
 そのついでに、ノルンにはルナマリアとヨウランから届いたメールを読み上げてもらっていた。読み上げられたメールの内容に、俺は持っていたマグカップを机に置く。
 成績の方はみんないい方なんだろう。よくわからないけど。だからか、あまり気にならない。
 気になるのは、出発していく4人の慌しさだろう。
 予め聞いていたとはいえ、考えていた以上に忙しそうだ。
 テスト明けの連休は長いようで短い。帰省を予定する学生は多いらしいが、大半は学校に残るらしい。
 特に、他の市から進学している学生はシャトルに乗って移動する必要が出てくる。
 ディセンベルから遠い市だと、移動に何日かかかってしまう。その往復時間と滞在時間を考えると、帰省を選ばずに学校で過ごす判断をする生徒が多数を占めるようだ。お陰で俺も訓練相手には事欠かないわけだが。
 俺達の班の場合は、ルナマリア達とヴィーノ、レイが帰省組だ。
 ルナマリア達二人はオクトーベルから士官学校のあるディセンベルに進学している。オクトーベルとディセンベルは遠くはないが近くにもないという微妙な距離にある市だ。移動は早いに越した事はない、とはルナマリアの言である。
 もっと酷いのはヴィーノだ。あいつはシャトル片道1日組のマイウスから来ている。
 ヨウランの向かうアプリリウスもディセンベルからは離れているが、ヴィーノ程ではない。
 そこまで考えを巡らせると、ん? と俺は首を傾げた。
「レイも、アプリリウスに行くんじゃなかったのか?」
 レイの予定を思い起こしながら問いかける。このコーヒーを飲んだら出ると言っていたが、少々まったりしすぎではないだろうか。
「ああ。だが、俺はヨウランと違って急ぎの用事もないしな。ヨウランが乗るシャトルの、次のシャトルに乗る予定だ」
 それに、とレイは続ける。
「あまり早く帰りすぎても、あの人を困らせるだけだからな」
 なるほど。当然といえば当然だが、レイの大切な人も働いているのだろう。あまり早く帰りすぎては、迷惑になる可能性があるのか。
 レイは、きちんとその辺りも計算して帰省計画を立てているのだろう。
 俺の考えを裏付けるように、レイの口元にはうっすらと笑みが刻まれている。
 羨ましい―― 脳裏を過ぎった思いを振り払う。
「それもそうだな。 ―― それにしても、やっぱりプラントの市と市の間の移動はシャトルなんだな」
 ちょっと隣の市に行くだけで宇宙旅行か、ふわりとそんな事を思う。
 地上育ちの俺から見るととんでもない事なのに、プラント育ちのみんなからはどうも、地球で言うところの飛行機―― というよりは、新幹線や電車に乗るような気軽さが感じられる。
 流石はプラント。宇宙空間にあるだけあって移動のスケールが違う。
 俺の言葉にレイは驚いたように目を見開き、すぐにくくっと笑いを零した。
「お前から見ると、帰省の度に宇宙旅行をしてるように見えるのだろうな」
「む」
 内心を見透かされ、俺は思わず口を噤む。自分が考えてたことながら、他人の口から聞くと妙に子供っぽく聞こえる。
「なんでわかるんだよ……」
 ふてくされた俺の言葉に、今度こそレイは声を出して笑った。
「"目は口ほどにものを言う"とは、お前の国の言葉だろうに」
 なおも笑うレイに、俺の胸になんともいえない想いが込み上げてくる。
 釈然としない、いや――
 俺はこっそりとレイの目を見る。
 そして、ぼそり、と一言。
「今日のレイは随分と浮かれてるな」
 メイリンは言っていた。レイは子供っぽい、と。
 妙に饒舌なのも、笑みの大盤振る舞いも、恐らく大切な人に会えるのが嬉しいからだ。しかも、赤服という吉報も携えての帰省だ。良い報告が出来るから余計に心も弾んでいるのだろう。
 そういう状態を、人は"浮かれている"というのだ。
 案の定、俺の言葉にレイは固まった。
 一拍―― の硬直後に、レイは誤魔化すようにマグカップを口元へ運ぶ。ぐいっと残りを飲み干すと、椅子から立ち上がった。
 本人努めて平静に振舞おうとしているのだろうが、椅子が普段立てない音を立てている時点で内心の動揺は見て取れる。
「そろそろ出る」
 そう言ってレイは、充電中のノルンの端末を手に取る。その隣で休んでいる俺のノルンに、こっそりと話しかける
「よく見とけよ、ノルン。あれが人間が得意な"話題をそらす"ってヤツ―― いて」
 こつり、と立ったレイが俺の頭を小突く。
 痛くはないない。だが、あえて小突かれた所を押さえてレイを見上げる。
「ノルンに妙な事を教えるな」
「はーい……」
 気のない俺の返事に、仕方ないな、といった感じの笑みをレイは浮かべる。一つ、息を吐くとレイは言った。
「そろそろ出る」
「ああ」
 繰り返された言葉を、今度は茶化さずに受け取る。
 見送るために俺は立ち上がった。
「荷物、それだけか?」
 レイの傍らに置いてあるキャリーケースを示して確認する。小さいキャリーケースは小回りが利く反面、相応にしか荷物が入らない。あんな小さいので1週間もつのだろうか。
「滞在期間は僅かだからな。それだけで十分だ」
「ああ、そっか。家にあるのか」
 レイの手荷物が少ない事に納得する。
 確かにそうだ。家には持ってきてない服があるのだろうから、必要最低限の荷物でいいのだ。
 会話が一端途切れる。
 俺は足を止め、レイはそのまま先へ進む。
 自動の扉が開く。
「いってらっしゃい、レイ。気をつけて行ってこいよ」
 そう俺が声をかけると、レイは立ち止まり振り返った。その顔は何故か、少し驚いた様な表情をしていた。
「どうした? レイ」
 そんなレイの様子を不思議に思い、俺は声をかける。
 いや、とレイは首を横に振り、何かを懐かしむ様な、そんな笑みを浮かべて言った。
「いってらっしゃい、か―― こう、改めて面と向かって言われると面映いものがあるな」
「――――   」

 え――?
 いって らっしゃい――――?
 言った? 俺が? 今??

「俺はいつも、兄に言う側だった」

 レイの、声が 遠のく。
 色が 反転する。

「―― そうなのか。レイのお兄さんは忙しい人だったのか?」
「ああ。俺は見送ってばかりだった。だから、こう見送ってもらえると嬉しいものがあるな」


 おかえり

 ただいま

 いってきます

 いってらっしゃい


「では、今度こそ出る。その―― いってきます」
「―― ああ。気をつけて、な」

 扉が閉まる。
 足音が遠のく。

 ぐらり、と―― 視界が大きく傾ぐ。
 世界が、歪む。

 耳鳴り やまず。
 どくどくと 五月蝿く。

 いつからだ。
 いつから俺は――

「―― !!」

 視界にノイズがかかって、揺れて、足が――


 モノクロ。
 明滅。


 扉を開けて

 誰も

 ヒトリ



 ちかちかと 息が――――


 なんて、この身は―――― キモチワルイ



*



 水の音が聞こえる――

 気づけば俺は、トイレの中で倒れこんでいた。
 口の中に残る独特の酸味に、自分が嘔吐したのだということに気づく。
 いつから、僕は、"アノ言葉達"を言える様になっていたのだろう――?
 気づいてしまった。気づきたくなかった。
 もう、言う事などない、と―― 思っていたのに。

 視界は相変わらずモノクロ。
 投げ出された腕が、服が、目に――




 顔 顔 写真

 静謐

 棺

 白

 花の香り




 噎せ返る様な花の――――



*


 C.E.70年 4月1日。
 プラントのシーゲル・クライン議長は、オペレーション・ウロボロスを発動した。
 対戦国中立国を問わず、無差別に、地上へニュートロンジャマーを大量に投下するという作戦である。
 ニュートロンジャマーは、核ミサイルによる攻撃に大きな被害を受けたザフトが実践投入した兵器だ。
 物質の最小単位とも言える原子核を構成する要素の一つである中性子は、核分裂反応を行っている時のみ自由に動く。これを逆手に取った兵器がニュートロンジャマーである。詳しい原理は知らないが、ニュートロンジャマーは、この自由な中性子の運動を阻害する事により、核分裂反応そのものを抑制するらしい。
 "核"と呼ばれるエネルギーは、大半がこの核分裂反応を利用して得られる。それを封ずるというのだから、ニュートロンジャマーがいかにとんでもない兵器かよくわかる。

 核エネルギーが利用されている場面は、現在のような世界情勢だと、核ミサイルに代表される核兵器や、原子力潜水艦の動力となる核エンジンなどに目が行きがちだ。だが、それらよりももっと重要な役目は発電―― 原子力発電、民間に対する電力エネルギーの供給である。
 軍事利用も、民間利用も、関係なく、ニュートロンジャマーは核分裂反応を抑制した。その結果、地上は空前絶後のエネルギー不足に陥り、国を問わず、多数の餓死者、凍死者を出す事となる。直接的、間接的な被害を含めるとその数、地球の総人口の1割近く―― 10億に近い人々が亡くなり、今もなお、増え続けている。

 加えて、ニュートロンジャマーは、広範囲に渡って電波障害を起こすという副作用も持っていた。

 原子力発電の停止と電波障害――
 地上は未曾有の大混乱の中に叩き落された。

 電波障害の対象となったのは主に、マイクロ波と呼ばれるもので、その中でも特に、IEEE分類におけるXバンドからVバンド―― 8GHzから75GHzの帯域だ。
 この帯域を利用していたのは主に、軍事通信・気象衛星・地球観測衛星をはじめとする現代生活を送る上では、縁の下の力持ちとも言うべき存在ばかりだった。
 あの時の地上の混乱は、今でもよく覚えている。無線や携帯電話など、民間にも利用されていたマイクロ波帯域がなんとか電波障害からは免れていた事は唯一の幸いだろう。

 ニュートロンジャマーの存在は、軍事に限っただけでも、核分裂反応抑制による核兵器の使用不可及び、電波障害による精密誘導兵器の使用不可などの多くの影響を及ぼした。
 特に、長距離の軍事通信が妨げられ続ける影響は大きい。高度な情報のやり取りは、近代の戦争において根幹を成す要素の一つである。その為、戦場の時間は、既に過去のものとなりかけていた有視界接近戦闘にまで巻き戻される事となった。
 この、"科学技術が発展した世界における、有視界接近戦闘を主とした戦争"に、逸早く対応したのがプラント―― ザフトだった。
 当然といえば当然だ。ニュートロンジャマーは彼等が開発したものであり、その効果も副作用も全て把握していたのだろう。
 そしてソレは戦場という表舞台に立った。

 モビルスーツ――
 その大本の起源を辿ると、最初のコーディネイター ジョージ・グレンが活躍した時代にまで遡る。
 彼は木星探査船ツォルコフスキーを設計する際に、様々な革新的な装備も同時に開発した。その中の一つに、ある特別な宇宙服が含まれていた。その宇宙服こそが、外骨格補助動力装備である。この外骨格補助動力装備こそが、今日のモビルスーツの起源にあたると言われている。
 ただし、その時点ではまだモビルスーツではなく、パワードスーツと呼ばれていたらしい。兵器ではなく、あくまで、宇宙空間で人間が円滑に様々な作業を行う事ができるよう、補助する機械としての側面の方が強かったようだ。
 現在運用されているの機動兵器モビルスーツの直接の起源となっているのは、C.E.65年にイタリア系コーディネイター ジャン・カルロ・マニアーニがロールアウトさせた試作第1号「ザフト」で、このザフトを実用機として発展させたものが「YMF-01B プロトジン」である。このプロトジンから、ザフトが広く運用しているジンシリーズが生まれていく事になる。

 モビルスーツはザフト創建当時から運用され、L5宙域の全コロニーをプラント理事国から奪取する際に、その有効性を世界に見せ付けた。そして、ニュートロンジャマーの開発・運用により、その有用性は決定的なものとなった。


*


 モノクロの世界。
 アカを見つめながら、ふわり、と、思う。

 果たして、等価であったのだろうか――?

 "血のバレンタイン"とニュートロンジャマー投下。

 ユニウス7で失われた24万人の命は、地上に住む10億人の命によって贖われた。
 因果応報と嘯くにはあまりにも重い。
 命に数など関係ないと思いながらも、それでも俺は考えてしまう。
 ニュートロンジャマーの無差別投下は本当に必要であったのか。24万という命に対し、10億という命は、本当に釣り合っていたのか。理不尽だと感じてしまうのは、僕が地上生まれで地上育ちのコーディネイターだからだろうか。

 目を閉じる。
 暗闇が心地良い。
 耳鳴りはやまず、ただ、自分に言い聞かせる。

 答えは出ない。
 出しては―― いけない。

 目を開く。
 視界に移る、ザフトのアカ――


 赤<アカ>

 紅<アカ>

 血<アカ>


 世界が
 この身が

 父さん――
 母さん――
 マユ――

 ああ――――

 6月が、やってくる――――――



next



[32070] Graduale - 昇階唱 ** - 29th Sept. C.E71 -
Name: 雪風◆c1140015 ID:28d84097
Date: 2013/09/17 21:43
Graduale - 昇階唱 ** - 29th Sept. C.E71 - 投

※骨などのグロテスクな表現あり。ご注意を。



―――― 28th Sept. C.E71



 がちゃり―― と、瓦礫を踏みしめた音が聞こえた。

 視線を落せば、周囲には見慣れた花壇の残骸がいくつも転がっていた。ゆっくりと、視線を上げる。
 "あの日"と変わらず、家<ウチ>はそこにあった。多少、瓦礫や土を被っているが、損傷はない。
 なんだ。あのまま家<ウチ>に居続けていればよかったんじゃないか。そんな事をぼんやりと考える。

「それでは、アスカくん。明日の昼には迎えに来るが――」

 隣にいるトダカさんが、どこか複雑そうに言葉を切った。
 トダカさんは、何かと俺を気にかけてくれるオーブの軍人だ。
 僕は言いよどむトダカさんを見上げる。
「本当に良いのかい?」
 どこか苦しげなその様子に、はて? と、僕は内心首を傾げた。
 問いの意味が分からない。良いも何も、家<ウチ>に帰るだけじゃないか。
 こくりと僕が頷けば、そうか―― と、くしゃりと顔を歪め、トダカさんは去っていた。
 その車を見送ると、僕は玄関に向かった。

 返してもらった鍵を使って、ドアを開ける。
 何の問題もなく鍵は開き、僕は家の中へ入った。
「―――― 」
 何かを言おうとして、言葉が出ない。
 気にせず、奥へと踏み込む。
 埃っぽい。それに変な匂いもする。
 でも、当然なんだろう。この家には3ヶ月近く、人は訪れていないのだから。
 窓を開けて回りながら、家の様子に変わりがないか確認する。幸い荒らされた形跡はなかった。
 次に、片づけをする。
 生ゴミは早々にまとめて外に出しておいた方がいいだろう。本、雑誌、新聞はまとめて資源ごみに。
服も捨てるように頼もう。食器やインテリアもいい。
 送る荷物は少ないに越した事はない。父さんや母さんの貴金属や貴重品、マユのアクセサリーぐらいで十分だ。送ってもらうものだけ、テーブルに置いて――
 ああ、あと掃除機もかけないと。お風呂場も洗わないといけないし。
 そこまで考えて、僕は肩を落とした。果たして、一日程度でこれだけの事ができるのだろうか。
 首を振って僕は沸き起こった疑念を振り払う。
 できるのだろうか、ではない。やらなければならないのだ。
 決意も新たに、僕は洗濯から手をつけることにした。

 洗濯、片付け、整理、掃除機、拭き掃除、洗濯物たたみ。

 集中していれば、時間もあっという間に過ぎていく。全てが終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
 時計を見やれば、随分と遅い時間になってしまっている。
 夕食は―― 食べる気がしないからいい。
 シャワーは浴びておいた方がいいだろう。埃を随分と被ってしまったから。

 シャワーを浴びた後、テレビも何もする気がおきなくて、僕はそのままリビングのソファに横になった。


***


Three month before.
―――― 18th Jun. C.E71



 白い、白い場所。

 ひとつ
 ふたつ
 みっつ―― と、

 棺が並ぶ。
 大きな棺二つと小さな棺。
 トダカさんが、遠慮がちに僕の背を押す。
 一歩―― 踏み出し、大きな棺に近づく。

 小窓から見える顔―― 父さん、母さん。

 思い起こされる、あの砂埃の中の光景。
 こんなに綺麗な顔をしていただろうか。
 二人とも、眠っているみたいだった。
 そっと―― 触れる。
 冷たい。
 もう、起きないのだ。二人は。
 棺と共に納められた花が、窓から覗いている。沢山の綺麗な花が棺を満たしているのだろう。噎せ返るような甘い香りがする。
 けれどその中に、僅かに混じる油のような匂い。きっと、燃え易い様にしてあるのだろう。
 何せ、後が詰まっている。一体今日は何人の人が、この施設で燃やされるのだろうか。
 そんな事を思いながら、僕は一番小さな棺へと近づく。
 マユも、父さんと母さんと同じように眠っているのだろうか。
 小窓を覗き込む。
「―― ?」
 棺には1枚、マユの写真が収められているだけだった。首を傾げる僕に、トダカさんは言った。
「その、ないものには、どうすることも――」
 その言葉に納得する。
 マユは腕しか残らなかったんだった。死化粧を施そうにも、土台がなければどうにもならない。ここには、マユの腕しかない。
 ふと、思い起こし、ズボンのポケットを探る。取り出したのはピンクの携帯電話。
 マユのだ。崖下に取りに行って、僕はマユに携帯電話を返せていない。
 棺の写真と、携帯電話を見比べる。
 なんとなく―― 入れる気がしなくて再びポケットに戻す。
 棺から離れる。
 最後にゆっくりと、三つの棺を見渡して、僕はトダカさんの傍に戻った。
「もういいのかね?」
 その問い掛けに僕は頷く。
 そうか、と言った後、トダカさんは施設の人に声をかけた。

 そうして僕は、三つの棺を見送った。

*

 燃え終わるまでの間は、待合室で待つ事になっていた。
 トダカさんは、他にしなければいけない手続きがあるらしく、僕に先に行くように言った。それを了承すると、僕は一人で待合室に向かった。
 待合室には、既に先客がいた。この男の人も誰かが燃え終わるのを待っているのだろうか。
 椅子に腰掛ける。

 沈黙――

 重苦しいだけの空気が、二人きりの待合室を満たしていた。
「君は―― 君は、誰を待っているんだい?」
 沈黙を破って、男の人が話しかけてきた。どこか硬い、人の良さそうな笑みを浮かべている。
「父さんと母さんと妹」
 僕がそう答えると、そうか と、男の人は遠い目をした。
「俺は同僚を待っているんだ」
 苦笑と共に紡がれた言葉をきっかけに、男の人は話し始めた。
「一緒に大西洋連邦から脱出してきたんだ。アイツ、天涯孤独の身でさ。一番仲の良かった俺が送ってるんだ」
 ひっどい有様でさ、焼くしかなかったんだ、と自嘲するように男の人は笑みを深めた。
「俺たちコーディネイターには、地上での安息の地なんてないのかもしれないな」
 早々に、俺たちに対する暴行事件もあったみたいだ と、男の人は語る。
 この人もコーディネイターだったのか。茶髪に茶色の瞳。見た目が普通だったから気づかなかった。
「オーブ国民はいい。連邦の奴等はナチュラルには寛容だ。―― 俺達移民のコーディネイターはお先真っ暗だけどな」
 子供相手に何言ってるんだか、と言う言葉が男の人の口から零れる。
 僕はというと、どこか他人事の様に男の人の話を聞いていた。なんと言葉を返せば良いの分からないし、そもそもこの人も、俺の返答なんて望んでいないだろう。
 ぼんやりとそんな事を考えていると、いつの間にか男の人が僕を見ていた。
「君は、これからどうするつもりだ?」
 急な問いに返せないでいると、男の人はやはり勝手に続けた。
「地上にはもういられない…… 俺はプラントに行くつもりだ。幸い、セイラン家がコーディネイターの帰国やプラント行きを支援してるみたいだしな」
 そう言うと、男の人は立ち上がった。
「そろそろアイツが出てくる時間だ。悪いな、坊主。訳の分からない話に付き合わせて。おかげで気が楽になった」
 ありがとう――
 そう言って、男の人は去っていった。一体なんだったんだだろう。
 男の人と入れ替わるように、トダカさんが戻ってくる。
 話しているのが見えていたらしく、知り合いかと尋ねられた。違う、と否定すれば、怪訝そうにしながらもトダカさんはそれ以上聞いてはこなかった。
「その、本当に、するのか?」
 妙に歯切れの悪いトダカさんの言葉に、俺は首を傾げた。
「アスカの家には、もう僕しかいないんです。僕以外に、誰がするって言うんですか?」
 そう応えると、トダカさんは凄く苦しそうな顔をして目を閉じた。
「わかった―― もう暫くかかる。一緒に待とう」
 そう言ってトダカさんは俺の隣に腰を下ろした。

 それから他愛のない話をした。
 さっきいた男の人との会話を話すと、トダカさんは渋い顔をして肯定した。
 セイラン家が支援してくれてる――
 俺は天井を、その向こうの宙<そら>を見上げた。
 コーディネイターが安全に暮らせる場所。
 目を閉じ、静かに息を吐く。

 もう会話はなかった。

*

 からん、と――

 乾いた音がする。
 こうして、骨を壺に納めるのはいつ振りだろうか。

 からん、と――

 じいちゃんが死んだ時は、もっと沢山の人がいた。
 たしか、二人一組で骨を箸で運んだ気がする。
 けど、今は独りだ。
 仕方がない。
 ここは日本とは遠い異国の地なのだから。

 からん、と――

 一息つく。
 父さんはお腹から下を岩に潰されていたから、その辺りから下の骨はあまり多くない。それに、小さく砕けている。
 腰の大きな骨はその傾向が顕著だった。岩に完全に潰されていたのだろう。比較的、楽に骨壷に納める事が出来た。
 でも流石に、頭蓋骨は子供の力ではどうにもならなくて、トダカさんに手伝ってもらった。
 それにしても不思議だ。じいちゃんの時は、頭蓋骨なんてなかったような気がするんだけど。

 からん、と――

 次は、母さん。
 母さんは胸を木に貫かれていた。図鑑で見た"モズの早贄"みやいに。
 母さんは父さんと違って全部残ってるかと思ったけど、やっぱり骨はあんまりなかった。大きい頭蓋骨や腰の骨らしきものが見当たらない。
 少し手を止めると、トダカさんが教えてくれた。
 骨が残るように気をつけているけれど、その人の体の調子や火の加減によっては骨があまり残らない事があるらしい。長い病気の投薬治療のせいで、骨が脆くなっていた人なんかがその傾向が強いらしい。

 そして――

 最後の台を見下ろす。
 気をつけて、小さな、小さな骨の欠片を持ち上げる。

 眼前。
 箸の先には、白い、僕の手で握り込んでしまえるほど小さくなった、マユの、骨。

 小さな子供の骨なんかは殆ど残らないらしい。
 マユは腕しか残っていなかったから、焼いた後に残る骨の数なんて高が知れていた。
 慎重に、慎重に壺へと運ぶ。

 からん、と――

 乾いた音が響いた――

*

「灰は、海に…… だったね」

 全てが終わり――
 施設に背を向けて帰る僕に、トダカさんは確認するように話しかけてきた。
 足を止め、トダカさんを見上げる。複雑そうな、顔をしていた。
 その向こうに見える空は、どこまでも蒼い。
 父さん達の骨壷は、このまま日本へ送られる。オーブよりも、懐かしい日本へ帰ったほうがいいだろうから。
 そして、灰は海に。
「はい。波に、乗って、日本に帰ってくれればいい、と――」
 僕達の故郷は日本なのだから。
 そう言うと、ますますトダカさんは苦しそうな顔をした。
「君も、日本へ帰るのかい?」
「いえ――――」
 問われた言葉を否定し、俺は施設―― 火葬場を振り返る。
 また、一筋。
 煙が空へと昇る。

 あの空の向こう――
 楽園は、あるのだろうか――――?


***



―――― 29th Sept. C.E71



 ぱちり、と――
 目が覚める。
 ソファで寝たせいで、少し体が痛む。唸りながら時計を見やれば、朝ごはんの時間はとっくに過ぎていた。
 慌てて起き上がり、くらくらする頭で考える。
 母さんはどうしたんだろう?リビングで寝てたら、絶対に雷が落ちて叩き起こされるはずなのに。
 それにおかしい。明かりがついてない。
 スイッチの所へ言って、明かりをつける。
 そして、僕は首を傾げた。
 父さんも母さんもいない。
 いつもなら母さんはキッチンにいるし、父さんはソファで新聞を読んでいるはずだ。まだ寝ているのだろうか。
 二人を探して、寝室を覗く。
 いない。
 二人ともどこへ行ったのだろう?
 浴室、トイレ、客間。
 1階にはいないみたいだった。
 何か用事があって、二人とも出てしまったのだろうか。それにしても、書置き一つないのはおかしい。
 はっ、と気づき、時計を見る。
 マユを起こさないと、学校に間に合わない。今は、父さんと母さんはおいといて、マユを起こさないと……!!
 慌てて階段を駆け上がる。
 マユの部屋の扉は堅く閉ざされている。中が静かな所を考えると、まだマユは起きていないらしい。
 はぁ、と僕は大きく息を吐き、扉を叩こうとした。
「―――― ?」
 手が震えている。なぜ? と、疑問が脳裏を過ぎるも、追求している時間がない事をすぐに思い起こす。
 仕方がない、とドアノブに手をかければ、これもまた何故か異様に重い。
 静かな家。
 震える手。
 重いドアノブ。
 何時にない様子に、苛立ちが募る。
 その苛立ちに任せて、僕はドアを開けた。
「マユ、朝だ―――― っ!!」

 マユが、いた。
 あの日と変わらない姿で。
 椅子に座り、嬉しそうに机に頬杖を付いている。
 眺めているのは、壁に立てかけたコルクボードだ。
 ボードにとめられたいくつもの携帯ストラップは、マユの宝物なのだ。

 "あ! お兄ちゃん!!"

 僕に気づいたマユが、嬉しそうに駆け寄ってくる。

 "約束、忘れないでね!!"

 キラキラとした瞳で見上げてくるマユに、僕は呆然とした。
 そうだ。もうすぐマユの誕生日だから、ストラップを買ってあげる約束をしてたんだ。
 にこり、とマユは笑って僕の横をすり抜けていく。

「マユ―― っ!!」

 僕は慌ててその後を追った。
 転がり落ちそうになる勢いで階段を下りる。勢いを殺しきれず、階段すぐの壁に手をつくことになったが構わない。
 僕はマユが下りたであろうリビングへと向かう。
 息切れするはずのない距離のはずなのに、自分の呼吸が五月蝿い。
 リビングの真ん中に立ち、ぐるり、と僕は周囲を見回した。


 誰も、いない――――


 僕以外の、人の気配が――――


「―――― っ!!」


 大きく息を呑む。
 そうだ、そうだった。
 だって、だって、いるはずがない。

 空っぽのキッチン。
 貴重品置き場と化した食卓。
 綺麗なだけのリビング。


「あ――……」


 ああ

 ああ


 僕は、

 俺は、

 もう、きっと――


 ただいま も
 おかえり も
 いってきます も
 いってらっしゃい も


 言う事は、ないのだろう。


 誰も、いない。

 誰も

 誰も

 もう、いない。

 声をかけてくれる人も。
 声をかけたい人も。

 いない

 いない

 ヒトリ――――



 ―――― かたん



 ナニカの倒れる音がして、俺は思わず振り返った。
 インテリアの小物を飾っているチェストの方からだった。
 不審に思って近づく。
 掃除の時に動かしたのが悪かっただろうか。倒れていたのはじいちゃんのタブレットケースだった。
 じいちゃんのタブレットケースコレクションは多い。だから、じいちゃんが特に気に入っていた三つだけを持ってきたのだ。
 木製で、手の込んだ細工が施されたタブレットケースが、折り重なるように倒れている。元から飾るようなものではないし、無理に立てていたのが悪かったのだろう。

 じっ、と、三つのタブレットケースを見つめる。

 俺に処方された薬は2種類――

 この家から、何かを持ち出すつもりはなかったけれど――

 おもむろに手を伸ばし、俺は三つのタブレットケースを手に取る。
 握り締め、ぎゅっと目を閉じる。
 じいちゃんの口癖が脳裏を過ぎる。
 "洒落っ気を忘れるな"
 "心まで病人になるな"

 大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。

 目を開け、鞄を持って、そのまま玄関へ向かう。

 歩く。
 歩く。
 歩く。

 ここにはもう、誰もいない。
 ドアノブに手をかけ、ゆっくりと開ける。
 朝日が目を刺し、立ち竦む。
 声をかけてくれる人は、いない。
 かける声も、ない。
 振り返らない。
 俺は一歩を踏み出す。



 行こう。
 宙<ソラ>の楽園・プラントへ



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