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[30788] 御神と不破(とらハ3再構成)
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2013/02/21 22:48
【傾向】
KYOUYA 厨ニ オリキャラ多数 



3/11 間章③ 
    旧作 二章 美由希編と恭也編追加。
6/7 旧作 三章 御神の鬼子編 追加
6/16 十章 更新
7/16 十一章 更新
8/2 十二章 更新
12/25 断章② 更新
12/27 十三章 更新
12/28 十四章 更新
12/28 十五章 更新
12/30 十六章 更新
12/31 十七章 更新
1/2   十八章 大怨霊編① 更新
1/3  間章4 更新
1/6  十九章 大怨霊編② 更新
1/9  間章5 更新
1/12  二十章 大怨霊編③ 更新
1/14  二十一章 大怨霊編④ 更新
1/16   二十二章 大怨霊編⑤ 更新
1/18   二十三章 大怨霊編⑥ 更新
1/20   二十四章 大怨霊編⑦ 更新
1/25   二十五章 大怨霊編 完結
2/17   間章0  御神と不破終焉の日    更新
2/21   間章6 /登場人物  更新






[30788] 序章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2011/12/07 20:12





 
 己へと迫る剣の軌跡が見える。
 恐ろしいほどに速く、鋭い、横薙ぎの一閃。
 一切の容赦もなく、躊躇もなく自分へと迫りくる木刀を見ながら少年は、回避に転じようと体を捻らせる。

 だが、遅い。
 少年の動きが決して遅いわけではない。
 むしろ見かけ小学生程度の年齢の少年が自分へと迫ってくる超速度の木刀をここまで冷静に凝視し、回避しようと動こうとすることが異常なのだ。
 
 それでも、木刀をふるってきた相手の男性の手加減抜きの一撃は―――あまりにも速過ぎた。
 普通の人間では、何かが動いたな、程度の認識しか抱けないであろう。それほどまでに速い、一瞬の斬撃。
 それをあろうことか、少年は確かに木刀の切っ先までも視線のうちにおさめていた。

 それでも―――身体がそれに追いつかない。

「っ……」

 コツンと少年の額を木刀が叩いた。
 少年が回避しきれないと分かった瞬間、木刀を薙いでいた男性は手を止めていた。
 しかも、少年からミリ単位しか離れていない空間で正確に。
 寸止めといえばいいのだろうか。しかし、ある種の神業ともいえるその技には、少年もため息しかできない。
 例えそれが―――とてつもない生活破綻者である父であったとしても。

「まだまだだなぁ、恭也」
「……もう一度おねがいします」

 ニヤリと面白そうに笑みを浮かべる男性。
 中肉中背ではあるが、服の上からでも分かるほどに筋肉が引き締まっている。どこか肉食獣をおもわせる雰囲気と肉体だ。
 鍛錬の途中だというのに私服で、全身真っ黒の服装で統一している。
 動きやすいとはいえないであろう恰好なのにあれほどの速度でうごけるのだから信じられない。
 顔は美形―――というより男臭いというのだろうか。
 やや伸びた無精ひげがそれをより際立たせている。
 その男臭さが良いと多くの女性たちが噂をしていたのを、恭也と呼ばれた少年は知っていた。
 自分の父である目の前の男性―――名を不破士郎という―――が、女性に魅力的に映るのは何故だろうか。それが不思議でならない。それはやはり士郎のことを誰よりも知っているからであろう。

 そこで恭也は自分の呼吸が酷く乱れていることに気付いた。
 長い間全力疾走したかのようなだるさを体全体に感じる。どうやら士郎のお遊びのように出していた剣気に軽くあてられていたようだ。整えるように深く呼吸を繰り返す。

 二人が今手合せしていた場所はある一族の道場。
 最も古き時代から―――日本の裏に潜み、生きてきた殺戮一族。
 二刀の小太刀を携え、あらゆる暗器を使いこなす最強の名を欲しい侭にする剣士達。

 人はその一族を―――永全不動八門一派【御神】の一族と呼ぶ―――。

 ここはその御神流を受け継ぐ一族の宗家の敷地の一画にある道場なのだ。
 そして士郎は御神の分家である【不破】最強の剣士。いや、御神も含め最強の剣士として噂されるほどの男である。
 学校の体育館ほどの大きさがあるだろうか……周りを見渡せば今の恭也では到底及ばぬ幾人もの剣士達が、しのぎを削りあっている。誰もが十分に達人と呼ぶにふさわしい腕前である。

 そんな恭也の視界の端に美しい黒髪を腰までのばした女性が心配そうに士郎と恭也を見ていた。いや、正確には恭也を凝視している。
 その女性は、美しい。ただそれだけだろう。身長はそう高くはないが、顔を形作る全てのパーツが男を惹きつける。唯一の悩みが胸が小さいということで、よく恭也にそのことをもらしていた。。

 女性の名前は御神琴絵。御神宗家の長女であり―――女性でありながら士郎にも勝るとも劣らぬ剣士である。
 心配そうに見やる琴絵。それに耐えきれず恭也は逃げるように足元に視線を落とす。
 
「いいや、今日はお終いだ。お前に付き合ってたらきりがないしな」

 ポンと士郎は恭也の頭に手を置きグシャグシャと乱暴に撫でる。
 それに不満そうに眉を顰める恭也。撫でる士郎の手をパチンと軽く叩き落とす。その行為に士郎はより笑みを深くした。本気で嫌がってなどいないのが士郎にはわかっているからだ。
 他の子どものように公園で遊ぶでもなく、ただただ剣をふるう。子供らしかぬ恭也を心配したこともある。
 まだ一桁の年齢のくせにどこか大人びた雰囲気をまとう恭也だったが、それは甘え方が分からないのだろう。
 物心ついたころから父である士郎と日本中を旅してまわっていた恭也だったからこそ―――甘えるという選択肢を無意識のうちに排除してしまった。
 恭也が年齢に見合わない物の考え方をするようになったのは間違いなく士郎の責任であり、それを申し訳ないと思っていた。
  
「それにそろそろ夕飯時だからな。美影のババアがもう少ししたら呼びに来るぞ」

 士郎の言葉を確かめるように恭也は道場の入り口の方を見ると、確かに夕焼けが差し込んできていた。
 幾度となく士郎と手合せをしていたが思っていたより時間がたっていたようだ。
 
 ―――たとえそれが、最初の一撃を防ぐこともできない一方的な結果の手合せだったとしても。

「……少し汗を流してくる」

 募る悔しさを振り払い、恭也はそう言い残し道場を後にする。
 悔しいが―――これはある意味当然の結果だと己に言い聞かせて。

 まだ十年も生きていない自分程度が、その三倍以上の時間を生きた天才―――不破士郎に勝とうなど虫が良すぎる話だ。
 いや、勝つかどうかの話ではない。今の恭也では最初の一撃さえも避けることができない。
 恭也はまずは一太刀目をかわすことを目標にゆっくりと走り始めた、が……。

「きょーやちゃぁぁぁあああーーーーーん!!」

 ドゴンと音が成る程の勢いで恭也に体当たりしてくる琴絵。
 当然幼い恭也が耐え切れるはずも無く道場の床に倒れ付す。それにしがみつく琴絵に対して道場にいた全員が、またか……というように手を止め生暖かくその光景を見守る。
 
「恭也ちゃん、痛いところない!?遠慮なくいってね!!私が治療してあげるから!!」
「だい……じょうぶです」

 倒れたときにうった顎をさすりながらやや涙目でこたえる恭也。
 まさか貴方に抱きつかれて倒れたときに打った顎が一番被害が大きいですと言う訳にもいかない。
 
 琴絵はゆっくりと身体を離すと、恭也と視線を合わせるように腰を曲げる。
 その拍子に長い髪が琴絵の背中から零れ落ちる。その髪を自然な様子で背中へとおしやる。
 甘い、琴絵の香りが恭也の鼻をくすぐり、反射的に顔を赤くする恭也。

「あれ?顔が赤いよ?本当に大丈夫?」
「だ、大丈夫です……。走ってきますので、失礼します」 
 
 自分の額を恭也の額にあてて熱をはかってきた琴絵から慌ててはなれ、背を向けて走り出す。
 その背中を残念そうに見送る琴絵。
 完全に恭也が見えなくなるまで見送った琴絵は温和な表情を一変させ、鋭い視線を士郎にむける。

「士郎ちゃん。もっと手加減してあげなさいよ。恭也ちゃんはまだ七歳なのよ?」
「……手加減してあいつが喜べば幾らでもするんですけどね」
「でも……!!」
「琴絵さんにも分かってるんじゃないですか?あいつの今の目標は俺の初太刀をかわすことです。手加減してそれを壊すことはしたくないんですよ」
「むぅ……」

 納得しきれない。
 そんなふうに唇を尖らせて士郎を睨む。
 本人としては不満を全身で表しているようだが、全くそうは思えない。可愛らしさ満点である。
 しかし、普段の琴絵ならばこのようなことを言わない。誰よりも優しく、思量深い人間なのだから。その相手の考えていることを第一として、助言を行う。
 
 だが、恭也のこととなると話は別だ。
 琴絵は不破恭也のことを大切に思っている。実の弟以上に可愛がっているのだ。溺愛しているといってもいい。
 恭也が自分に甘えてくれない、ということを不服に思う程に。

「でもでもでも―――士郎ちゃんの本気の一撃を避けることなんて難しいじゃない?この場にいる何人がそれをできると思ってるの!!」
「まぁ……そうなんですけどね」

 初太刀をかわす。
 言うだけなら簡単に聞こえるかもしれない―――不破士郎が相手でなければの話だが。

 士郎は強い。強すぎる。
 長い歴史を誇る御神と不破の一族で歴代最強の名を冠しても可笑しくはないほどに。
 不破が生み出した異端の剣士。何者にも束縛されぬ……そしてそれが許されるほどの実力。

 いや、士郎だけではない。
 士郎が生きるこの時代は異才の集まりである。
 
 不破家からは不破士郎。その弟である不破一臣。その妹である不破美沙斗―――今では御神当主の静馬と結婚しており御神美沙斗が正しいのだが。三人の母親である不破美影。
 御神家からは御神静馬。ここにいる御神琴絵。
  
 そして―――御神と不破の負の怨念が具現化したともいうべき暴虐の化身……御神相馬。

 その誰もが、もし時代が違えば御神最強の名を欲しいままに出来たであろうほどの実力の持ち主ばかりだ。
 それほどの剣腕を持つ士郎の一撃を避ける。幼い恭也にできるはずもない。
 目標というにはあまりにも高すぎる壁だ。
 
「……私は心配なの。高すぎる壁は……何時か恭也ちゃんの心を折らないかって……」
「それは心配しなくてもいいと思いますよ?」

 琴絵の心配をあっさりと切り捨てる。
 士郎はすでに見えなくなっている恭也の方向へと視線をやり、暖かい目で見守る。
 
「あいつはその程度で折れるような剣士じゃないです」
「……なんでそう思うの?」
「だってあいつは俺の息子ですよ?あいつのことは俺が一番分かっています」
「……むー」

 今度は膨れっ面になり、不満ありありという感じで琴絵は士郎を睨む。
 それに気づいた士郎は愛想笑いで返し、頬を指でかく。

「それにあいつはちょっと特殊なんですよ」
「え?……恭也ちゃんが特殊って?」
「あいつは、何時も俺の小太刀の軌跡を目で追ってるんですよ……信じられますか?七歳の子供が、ですよ?」
「……知ってるよ。気づいてるよ。それがどれだけ異常なことなのかも分かってる」
「ははっ。琴絵さんには愚問でしたかね」

 そう。士郎の言うとおり、恭也は確かに視線でおっていた。
 御神最強の一角である不破士郎の一撃を―――幼き子供が。

「俺はアレはあいつの一種の才能だと思っています。俺の中で心眼と名付けてる恭也の才能です」
「そうだね。一度や二度なら偶然で済ませれると思うよ―――でも、あの見切りは私達のそれを遥かに超えている」
「初太刀は見えている。でも、かわすことはできない。それは―――」
「―――身体がそれに追いつかないから」

 コクリと士郎が頷く。
 不破恭也の最大の武器。それが見切りである。といっても普通の人間の感覚とは違う。
 恭也には見えるのだ。空間をはしる人間の動きが。どう動くのか。静と動。筋肉の細部までがはっきりと。それが一瞬の見極めを可能とする。
 それなのに士郎の一撃を避けることをできないのは、琴絵の言うとおり身体がその見切りに追いつかないからだ。
  
「当分は無理だと思いますけどね。あいつが成長していって、身体が出来上がってくれば―――」

 肉体と感覚の一致。
 そして、そこに恭也の見切りが加われば……。

「―――あいつこそが御神最強の名を継げるでしょう」

 自信満々にそう士郎は断言する。
 己の息子こそが御神最強の座を手に入れれると。
  
「うん。そうだね。恭也ちゃんには……その可能性が眠っている。私達を超える可能性が―――」

 琴絵も士郎の台詞に同調する。
 士郎の言うとおりだ。恭也には自分達を超えることができるほどの潜在性がある。
 それを嬉しいと思う。それを素晴らしいと思う。恭也だからこそ自分のこと以上に嬉しい。
 だが―――。

 分かっていない。分かっていないの、士郎ちゃん。

 そう琴絵は心の底で深くため息をつく。
 士郎は恭也を信じている。誰よりも、自分の息子を信じている。
 それが―――目を曇らせている。

 恭也は【見えている】のに避けられない。
 それはある意味見えていないのに避けられないということよりも苦しいのだ。自分の実力不足を痛感する日々。
 毎日毎日―――気が狂うほどの鍛錬。
 どれだけの努力をしても、その努力は実を結ばない。
 何日も何十日も何百日も。そんな日々が続く。
 士郎という名の壁は誰よりも高く……何よりも厚い。
 何時かは越えないといけない壁なのかもしれない。だが、今の恭也が目標とするには絶望的なほどの壁なのだ。

 まだ幼い恭也の心は……何が切欠で折れるか分からない。
 琴絵はそれを懸念している。
 誰よりも恭也のことを心配しているが故に―――。

「恭也ちゃん……」

 琴絵の寂しさと心配をのせた呟きは―――周りの喧騒にまぎれて、消えていった。




 











 御神の屋敷がある敷地から走り出た恭也は誰かに呼ばれた気がして振り返った。
 巨大な山の中腹に大きな屋敷が見える。そこが御神宗家が暮らす屋敷であり―――先程まで恭也が鍛錬していた道場がある場所だ。
 そこにいくには、長い山道を越えて、数百段もある石段を登らねばならない。
 その屋敷を遠くから見ると、不思議な威圧感を醸し出している。
 それは、巨大な屋敷に比例するかのように、規格外に高い塀が外敵を寄せ付けない一種の要塞のような錯覚を覚えさせる。

 御神の一族は様々な暗殺業。護衛業を取り扱っているが、勿論それだけではない。
 表の顔として様々な事業に手を出している。
 この周辺の山々を所有しているため、近隣の住人には名家として知られていた。

 しばらく経って、どうやら完全に空耳だったことを確認すると恭也は御神の屋敷に背を向け走り出す。
 勿論無人の荒野が続いているわけではなく、御神の一族が所有する山の麓から多くの家が建っている。
 御神の裏の顔を知らない普通の一般人たちである。小さな町ではあるが―――皆が笑顔で暮らしていた。

 恭也は町の住人とも面識があり、走っている途中で何度も横を通り過ぎる人達に声をかけられた。
 それに律儀に挨拶を返す恭也。まだまだ公園で遊んでいるのが似合う年頃の少年だというのに、そんな様子を一切見せない恭也はある意味有名であった。

 どれくらい走ったであろうか。
 家が段々と少なくなり、ついには道しかなくなった。その道の両側は土手となっており、大きな川が流れていた。
 その河川敷では週末には町の住人達がバーベキューをしているのを見かけたことがある。
 そういう恭也も何度も御神や不破の者達としたことがあるのだが。

 足をとめ、深呼吸を何度か繰り返す。
 額を流れていた汗を拭い、再度深い息をつく。

 そろそろ帰らねばならない。
 走りこんでいたのはせいぜい三十分程度ではあるが、夕飯が何時も通りならば今から帰っても間に合うかぎりぎりなのだから。
 万が一夕飯に遅れたら祖母である不破美影の雷がおちることは間違いない。
 恭也にはだだ甘なところがある彼女だが、そういうところには厳しく躾をしているからだ。

 帰らなければならない恭也だったが―――それに反するように土手に腰を下ろす。
 夕焼けが辺りを照らす。誰が手入れを行っているかわからないが綺麗に刈られた土手の草。青臭い草の香り。
 
 沈みつつある太陽を見ながら先程の士郎との戦いを思い出す。
 もうどれほど士郎に戦いを挑んだろう。
 士郎の太刀筋は見える。見えているが、何度ためしても避けることすらできない。
 勿論、士郎と己の力量差、修練の差が天と地ほど違うのははっきりわかっている。
 まして、勝とうとは考えていない。ただ一太刀でいいのだ。たったの一太刀を回避することができればいいのだ。
 自分の見切り。異能に気づいてそれだけを目標にやってきた。
 その異能に気づいてからたった一年と少しの話ではあるが。幼い恭也があらゆることを捨て、それだけを目標にやってきたのだ。
 だというのに僅かな進歩さえみられない。
 
 果たして自分はこのまま努力を続けて―――士郎に追いつくことができるのだろうか。

 そう自問自答するほどの厚き壁。
 それが父―――不破士郎。

 恭也は傍に落ちていた小石を拾うと川に向かって投げる。
 ぽちゃんと音をたてて着水する。
 それを暫く見ていた恭也だったが、沈む気分を無理に奮い立たせ、腰をあげようとして―――。

「そこの少年にちょっと聞きたいことあるんだけど、いいかな?」

 ―――絶望を知った。

「……っぁ!?」

 口から言葉にならない悲鳴があがった。
 立ち上がろうとして、膝が笑っているのに気づいた。
 頬が引き攣る。今にもこの場から逃げ出したい。そんな気持ちが心を支配する。
 心臓が跳ねる。知っている。これがなんなのか。だが、知らない。これほどの感覚を恭也は知らない。
 意識ごと持って行かれそうになるほどの、圧迫感。
 別に身体を押さえつけられたわけではない。だが、力以上の何かで身体を押さえつけられる。
 
 ―――恐怖。

 きっとこれはそう呼ぶのだろう。
 士郎よりも、美影よりも、静馬よりも―――相馬よりも禍々しい。
 圧倒的という言葉でも足りないほどの、一種の究極。
 
 逃げ出そうとする四肢を、意思の力でねじ伏せ……身体を反転させる。
 声の発した主に向けるように。
  
「お、良いねぇ。私の声を聞いて意識を手放さないかー。見込みあるよ、キミ」

 そして―――恐怖を忘れた。

 恭也の視界に映ったのは現実離れした美貌の持ち主。恭也からすれば見上げる形となるが身長も高い。士郎ほどではないがそれに近いほどには。
 琴絵や美沙斗などの人並み外れた容姿の持ち主を良く見ているが、目の前に映った女性は―――。

 神話の中の女神。

 きっとそう表現するしかなかっただろう。
 造形美を追求したかのような―――完璧なバランス。文句のつけようがないほどの美。
 眉毛も目も漆黒の瞳も、鼻も口も―――その全てが。腰まで伸びた黒髪。一切の淀みもない。

「いやいや、ごめんねー。私って威圧感を無意識に結構だしてるっぽくてさー。怯えちゃう人多いのよねー」

 ニカリと女神様に相応しくない笑みを浮かべ、ポンと恭也の肩を叩く。
 恐怖を忘れていた恭也だったが、それで我に返った。
 そんな恭也を再度襲う圧倒的な圧迫感。
 
 怖い。逃げ出したい。今すぐにでも意識を手放したい。

 そんな思いが心を占領してもなお、恭也は唇を噛み締め女性を見上げる。
 おおっ、と本当に感心した声をあげ、恭也から離れた。

「あな、たは……?」

 声がかすれはしたが震えなかったことに僅かな満足感を抱き、恭也は訊ねる。
 その恭也の返答にむふーと何故か嬉しそうに鼻息荒く胸を張る。

「私は殺音(アヤネ)。水無月殺音。通称世界で八番目に強い生物かなー」

 殺音と名乗った女性は胸を張りながらそう答えた。
 ちなみに随分と胸が大きい。琴絵では相手にもならないが、大きすぎるというわけでもない。
 
「八番目……ですか。やけに具体的な数字ですけど……」
「うん。まぁ、でも分かっていない奴らがわりと適当に決めた数字だから気にしないでいいよー」

 太陽のような笑みでそう答える殺音だったが―――恭也の感じる悪寒は未だ治まっていない。
 間違いなくこの女性は……笑いながら人を殺せる化け物だ。
 そんな予感にも似た確信を恭也は得ていた。

「ねね。ところでさっきの質問に戻るんだけど、ちょっといい?」
「……俺にわかる、ことであれば」
「お、助かるわー。んとさ、御神って名前の人達を知らない?」

 息が詰まった。
 この女性は、水無月殺音は一体何をしにいこうというのか。
 御神の一族の誰かの知り合いなのか?遊びに来たとでも言うのか……。

 いや、違う。そんなわけがない。
 彼女は明らかに―――。

「探して、何をする気ですか……?」
「んー。まぁ、どうせすぐわかることだしいいかな。ちょっと皆殺しにするためにいくだけだよ」

 あっさりとそう殺音は告げた。
 恭也にとっては衝撃の発言。それを殺音はあっさりと言い放った。息を吸うかのように自然な様子で。
 何を馬鹿なと笑い飛ばすことなど出来なかった。
 この女性は―――水無月殺音は次元が違う。

 人間という枠組みではどうしようもないレベルの化け物だ。
 どれだけの努力をしようと辿りつけない。そんな世界に住んでいる住人だ。

 士郎でも勝てない。美沙斗でも勝てない。一臣でも美影でも琴絵でも―――相馬でも勝てない。
 この女性に勝てる可能性があるとすれば……【あの人】だけだ。

 そう恭也は瞬時に理解した。
 
「知らないのかな?それならそれでいいけどね。他の人たちに聞けばいいだけだし」

 黙ってしまった恭也を見て、知らないと判断したのだろうか。
 恭也に背を向け町のほうへと足を向けた。

「引き止めて悪かったわねー。子供はもうお家に帰りなさい」

 ヒラヒラと手を振りながら去っていく殺音を見て、恭也は内心で安堵のため息をついた。
 殺音の威圧感からも解放されてバクバクと高鳴っていた心臓を押さえつけるように手を胸にやる。
 
 ―――助かった。

 それが恭也の本音であった。
 これ以上あの女性を前にしていたら本当に気を失っていたかもしれない。
 幼い恭也では限界ぎりぎりのところであったのだが……。

 ―――ま、て?

 冷水を浴びせられたように背筋に寒気が走る。
 ガチガチと歯が恐怖で鳴る。
 
 ―――今何を、考えた?

 己の感じた感情に吐き気がする。
 なんという愚か者なのだろうか―――不破恭也という人間は。
 先ほど前に理解したはずだ。わかっていたはずだ。
 
 水無月殺音には、御神と不破の誰であろうと勝てない、と。
 その死神が御神の屋敷に向かおうとしているというのに―――安堵したのだ。
 自分の前からいなくなることに対して。屋敷の者達よりも、最愛の家族よりも己の保身を優先した。

 そんなことを一瞬でも考えた己を―――許せるものか。

「……まって、ください」
「うん?」

 必死の思いで恭也は死神の歩みを止めるために、引き留めの言葉を発した。
 まさか呼び止められるとは思っていなかったのだろう。本当に驚いたように恭也へと振り返る。

「えーと。うーんと。何か用でもあった?」
「一つ、聞きたいことがあります。何故、御神の人達を、その……皆殺しにいかれるんですか?」
「……んー」
 
 機嫌を害するかと一瞬思った恭也だったが、その心配は杞憂だったようで殺音は言うか言うまいか悩んでいる様子で空を見上げながら口をとがらせる。
 両腕を組んでリズムを取るようにトントンと地面を足で叩く。
 暫く迷っていた殺音だったが決心がついたのか、見上げていた視線を恭也へと戻す。

「実はねー、私って暗殺業やってるのよ。それで依頼主から御神の一族の壊滅させろって依頼を受けちゃってさー」
「……」

 実に気楽に言ってくれる。
 御神の一族は裏の世界では有名どころの話ではない。日本最強に挙げる猛者も少なくはない。遥か昔からそれは変わらない。
 永全不動八門でも頂点に立つ殺戮一族だというのに……。

「お金の、ためですか?」

 金のために御神の一族と真正面からぶつかる。
 それはあまりにもリスクが高く―――馬鹿げている話だ。
 まともな人間ならば決して受け入れることがない仕事だろう。だというのに、この死神は平然と依頼だからと言い捨てた。
 
「いやいやー、私自身も結構御神の一族には興味があってねー。個人的に一度殺しあってみたいと思ってたところだったから今回の依頼は渡りに舟だったわけなのよね」

 ―――恭也が考えていた以上のいかれた理由だった。

 お金のためでもなく、復讐というわけでもなく―――ただ、殺しあいたい。
 理解できない。理解したくない。理解などできるわけもない、殺音の言葉。
 ただ、殺しあいたいだけというだけで、御神の一族は殺されることになるのだ。

「なん、で……そんな理由で……」
「なんで、かー。まぁ、理解できないよねー普通は。理解してもらおうとは思ってないしね」

 にへらっとその美しい表情を崩し、恭也の目の前まで歩いてきて、顔を近づけてくる。
 息が吹きかかるほどの近くで見つめあう二人。
 普段ならば羞恥ですぐに逃げただろう。この女性ならば恐怖で逃げたかもしれない。
 だが、この時は恭也は逃げれなかった。ふと、醸し出した殺音の寂しげな雰囲気にのまれていた。

「私の無意味な人生で―――生と死をかけたその瞬間だけは―――意味があると思える時だから」

 ポンと恭也の頭に手を置くと優しくなでる。
 
「私と【同族】じゃ意味がない。私と人間の戦いだからこそ―――血が沸き肉が踊る。ただの人間が私(化け物)と戦えるという事実だけが私の渇きを潤してくれるから」

 一分も撫でていただろうか。
 殺音は撫でるのをやめ、恭也から顔を離す。
 夕日が差す。殺音の体を真っ赤に染めた。そのせいだろうか。
 先ほどまでは黒かった殺音の瞳が……真紅に輝いて見えるのは―――。

「いつの日かキミは私の渇きを―――潤してくれるかな?」
「……」

 はい、とはいえなかった。
 完全に恭也はこの女性に……水無月殺音にのまれていた。
 絶対的という言葉でもおさまりきれない。今まで見たどの剣士達をも凌駕する究極の生命体をそこに見る。
 彼方と此方。その差は超絶的なまでの遠さ。
 自分が彼女の渇きを潤せるのだろうか……答えは出ない。出せれない。
 安易な返答は返せれず、殺音もまた、そのような返答は望まないだろう。

 ただ、呆然と殺音をみつめるこしかできない恭也。
 殺音はそんな恭也を責めはしなかった。少しだけ寂しそうに笑っただけだった。
 そっか……そう呟いた殺音の言葉が風に消える。

 あらゆる人間に、何度聞いてもその答えは決まり切っていた。
 殺音を前にして首を縦にふれた者はいない。
 あまりにも異質な存在がゆえに、相手を理解できない。そして理解して貰えない。
 
 ―――水無月殺音は孤独だったのだ。

「何をしてるんだ、【破軍】?」
「およ?」

 破軍と呼ばれた殺音は声のしたほうへと顔を向ける。それにつられるように恭也もその視線を追う。
 何時の間にか二人のすぐ傍に一人の少女が佇んでいた。
 殺音と同じような黒く長い髪。サイドで結んでツインテールにしている。
 やや吊り上った眉が勝気そうな印象を与えてくる少女だ。身長は低く、良いところ百四十あるかどうか程度だろう。
 美人というより可愛らしいというほうがしっくりくる。

「ああ、ごめんねー冥。ちょっと話し込んでたの」
「……仕事の間は【武曲】とよべ」
「あーそうだった。そうだった。ごめんごめん、冥」
「……もう、いい」

 ハァと疲れたようにため息をつく冥と呼ばれた少女。
 いつものことなのか、諦めが早い。心なし、若干疲れているようにも見て取れる。
 
「目的の場所はわかった。他の連中を先に向かわせておいたが……お前を探すのに時間をかけすぎたからな。念のため私達も急ぐぞ。何せ噂に名高き御神の一族だ。そう簡単には墜とせまい」
「おおー了解了解。さっさといくとしますかねー」
「……お前はもうちょっと緊張感を持つべきだな」
「こんくらいが私には丁度いいのよー」

 恭也を置き去りにして二人が歩いて行く。
 御神の一族が住む屋敷を目指して。殺戮の宴をはじめるために―――。
 二人の歩みを止めるための方法を頭のなかで幾つも思考するが……足りない。
 どんな方法でも、手段でも二人をとめることは不可能だ。
 だが―――。

「あ、姐さーーーーん!!」
「ん?あっちから走ってくんの廉貞じゃない?」
「先に御神一族の元へ行ったはずなんだが……随分と慌てているようだが」

 廉貞と呼ばれた細目の青年が二人のもとへと走ってくる。
 冥の言うとおり誰が見ても分かるほどに焦っているようだ。

「やばいヨ!!あそこの、一族!!初っ端からとんでもない奴がいたネ!!貪狼と巨門、文曲の三人でなんとか抑えているけどあいつはやばいヨ!!」
「ほほー。あの三人を相手どるってたいしたもんねー。で、御神は何人?」
「一人だ、ヨ!!」
「一人だと!?」

 かたことの日本語で叫びながら二人に注意を促し、衝撃の事実をのべる廉貞。反射的に冥が叫び声をあげる
 自分達の部下である三人を同時に相手して圧倒する。そんな人間など聞いたことがない。そしてこれまでもそれほどの腕前の人間など存在していなかった。
 ナンバーズと呼ばれる対化け物専門の戦闘集団を除いてだが―――だが、その戦闘集団も純粋な人間の集まりではない。 
 つまり、殺音を頂点とする暗殺集団【北斗】とまともに渡り合った人間はこれまでいたことなどなかった。今までは―――。

「あっはっはー。三対一で押されてるの?そりゃ、噂以上の猛者揃いみたいねー」
「……笑ってる場合か……」
「ま、そうねー。ぶっ殺されたら流石に寝覚めが悪いし……さっさと助けにいってあげようかしらね」
「……その必要はねーぞ」

 第三者の声がその場に響き渡った。
 士郎に似た―――しかし、異なる声。尋常ならざる殺気がこもった、聞く者を平伏させるような響き。
 廉貞を追ってきたのだろうか、一人の男性がそこにいた。

 手入れをしていないのだろう。綺麗な髪だというのにぼさぼさだ。
 顔自体は美形だというのにそれら全てを覆すような、深い闇色の瞳。そして、禍々しい暗さがあった。

 首をコキコキと鳴らしながら鞘におさめていた二振りの小太刀を抜く。
 ギラリと夕陽を反射させて、白銀に輝く。

「お前らの言ってる三人ならとっとと逃げ出したぜ。あの逃げ足の速さはたいしたもんだ……ああ、褒め言葉だぞ?俺から逃げられる実力があるんだからな」

 ニィと不気味な笑みを浮かべ小太刀を殺音に向ける。
 一切の手加減もない殺気を叩きつけてきた。それに廉貞は、反射的に一歩下がり、冥は油断なく身構える。
 対して殺音は―――少しだけ興味をもったような瞳で男性を見返していた。

 ―――御神、相馬。

 恭也が心の中でその男性の名を呟いた。
 御神宗家の長男でありながら、御神当主の座を受け継げなかった剣士。
 あまりに強く……あまりに残虐であったために誰からも危険視された御神の鬼子。
 
 まさかいきなり御神最強の剣士がでてきているとは……。
 偶然とは考えにくい。恐らく御神の屋敷に近づいてくる敵意にいちはやく気づき、待ち伏せていたのだろう。
 戦うことを何よりも好む、生粋のバトルジャンキー。血と戦いに飢えた餓狼。
 そんな相馬が恭也に気づいたのか、僅かに目を細くする。
 だが、呼びかけるようなことはしない。下手に知り合いだとばれたら人質にとられるかもしれないからだ。
 もっとも相馬ならば恭也が人質にとられてもそのまま斬りかかりそうではあるが……。

「ん……凄いね、貴方。七十点をあげるよー」
「なんだと?」

 殺音の何気ない台詞に訝しげに殺音を見る。
 そして、瞬きをした瞬間―――視界から殺音の姿は消えていた。

 相馬は背中に氷柱をぶちこまれたかのような悪寒を感じ、即座に前方に転がる。
 転がり、体勢を立て直すとともに後方に小太刀をふった。

 手ごたえはない。
 あったのは空を斬っただけの感触。
 追撃は無く、何時の間に背後に回ったのか先程まで相馬が立っていた場所で拳を突き出していた殺音の姿があった。
 
「うおー!?今のを避けるかー。ちょっと興奮してきたよ」

 クフフと不気味に笑って拳を握り、パキパキと指を鳴らす。
 その余裕の様子に相馬が不服そうに唾を地面に吐き捨てた。

「そうか。それはよかった―――ならばそのまま、死ね」

 地面が爆発した。
 相馬の凄まじい脚力が生み出した超加速。
 一拍もおかずに、殺音の懐へと入り込み、小太刀を振り上げた。左脇腹から切り裂くように、斜め上へと。

 ―――殺った!! 

 相馬の確信にも似た予感。
 間違いなくこの一撃は、この女を斬る。
 
「―――だめ、だ!!」 
 
 反射的にあげた恭也の声にビクリと相馬の身体が震えた。
 何が駄目なのか、と思う間もなく、本能がそれに気づく。殺音の視線が相馬の小太刀を追っていたのだから。
 それに合わせる様に殺音の右手がぶれる。
 
 ―――まずいまずいまずいまずいまずい!!

「ぅぉおおおおおおお!!」

 無理矢理に地面を蹴りつけ後方へ飛ぶ。
 無様な格好となってしまったが、死ぬよりはマシだと思いつつ、殺音から距離を取る。
 牽制するように、小太刀を殺音に向けたまま、深く呼吸をつく。

「ナイス判断!!もし刀を振り切っていたら―――死んでたよ?」

 相馬の行動を褒めるように殺音はパチパチと手を叩く。
 その余裕の様子に相馬が舌打ちをするが、それで形勢が変わるわけではない。
 改めて冷静になって、殺音の全身を油断なく見渡す。

 ―――なんだ、こいつは?

 ゴクリと唾を嚥下する。
 これほどまでに底が見えない相手を相馬とて会ったことは数少ない。
 
 一人は―――御神の亡霊。

 一人は―――破壊と死の化身。

 一人は―――魔導を極めた王。

 一人は―――未来を見通す魔眼を持つ者。

 脳裏に思い描いていた化け物達を確認した相馬だったが……。

「……なんだ、結構いるじゃねーか……」

 反射的にそう呟いてしまった。
 てっきり誰も考え付かないと思っただけに、四人もいることに逆に驚く。
 だが、逆に言えば……その四人に匹敵する化け物だということだ。
 かつて手痛い敗北をこの身に刻んだ闇なる一族の頂点どもと同格ということを認めねばならない。
 手加減など一切できない。必要ない。
 全力を持って、殺しきる。

「……」

 無言のままの相馬から立ち昇る剣気。
 深く息をつき、深く息を吸う。
 見ている恭也でさえも、凄まじい圧迫感を感じる。
 恐らく相馬が出そうとしているのは―――御神流の奥義の歩法【神速】。

 ―――時を止める。

 そうとも伝承される、人間の限界を超えた動きを可能とする奥の手だ。
 文字通り必殺を可能とする、御神の究極。

 何をするのかと興味深げに相馬を窺っている殺音。
 相馬の雰囲気で、何か大技を狙っていることくらいわかっているはずだが、邪魔をしようとしない。逆に相馬が何を出すのか愉しみにしている様子さえある。

「―――馬鹿が」

 それをスイッチとして世界が切り替わる。
 たっぷりと溜め込んだ感情と力の解放。世界がモノクロに変化した。
 相馬の五感が一切余分なものを排除した結果だ。
 全身が重くなったような違和感を感じ、ゼリ―状になった空気をかきわけるように走る。
 御神を最強たらしめている神速を使った相馬だったが―――。

「―――ああ、なんだ。その程度……か」

 声が聞こえた。
 聞こえるはずの無い声が。
 
 相馬の目が驚愕で開かれた。
 有り得ないものを見たかのように、信じられないものを見たかのように。

 心底がっかりした表情の殺音は自分に迫ってきた小太刀を、それ以上の速度で横から殴りつけ軌道を逸らし―――カウンターで相馬の腹部を叩きつけるように殴り飛ばした。
 
「……っぁ!?」

 ごろごろと地面を転がり、恭也のもとにまで殴り飛ばされた相馬を見て、愕然とする。
 この化け物に対して神速ならば……という淡い期待があった。
 その希望を一瞬で叩き壊したのだ。あっさりと。事も無げに。当たり前のように。
 やはり恭也の予感は正しかったのだ―――水無月殺音は次元が違う。

「ぐぅ……くそっ……がっ」

 意識までは奪われなかったのか、相馬は震える身体をおして立とうとするが、殺音の一撃は相当に重かったようで立ち上がることにすら苦労している。
 ゴホっと咳をした瞬間、赤黒い血が地面を彩る。
 
 負けた。
 あの相馬が。御神相馬が―――これほどまでにあっさりと。
 完全完璧な敗北を目の前で見せられた。

「むぃー。まぁ、七十五点をあげようかしらねー」

 相馬には興味をなくしたようにゆっくりと殺音は近づいてくる。
 ざっざっと地面を踏む音が死神が這い寄る音に聞こえて鳥肌が立つ。
 
 死ぬ。殺される。
 あの相馬でさえも歯牙にもかけぬ圧倒的な力。
 しかも全くといっていいほどに本気を出さずに。
 これでは恐らく、他の誰もが勝てないだろう。複数でかかっても一緒だ。そういったレベルではないのだから。
 すでに戦っている土俵が違っている。

 【あの人】がでれば或いは勝てるかもしれない。
 だが、それまでに確実に何人かは―――死ぬ。何人かで済むかはわからない。もしかしたら数十人、百人以上にのぼるかもしれない。
 御神の屋敷に住むのは何も全員が武を嗜んでいるわけではない。ただの一般人と変わらない使用人も多い。そういった人たちも巻き込まれるだろう。
 誰よりも尊敬する父の士郎が殺される。
 誰よりも暖かかった静馬が殺される。
 誰よりも優しかった美沙斗が殺される。
 誰よりも厳しくも可愛がってくれた美影が殺される。
 
 そして―――誰よりも愛情をそそいでくれた琴絵が殺される。
 ミンナ死ぬシヌしぬ死ぬシヌしぬ死ぬシヌシヌシヌ―――コロサレル。

 ブチリと恭也は自分の奥底で何かが千切れるのを感じた。
 人として大切な何か。それを捨ててでも皆を護りたい。どれだけの罪にまみれようとも……。
 
 誰よりも大切な皆が殺される……
 
 そんなことは―――。

 ―――認めない。認めるものか。認めてやるものか。

 折れそうだった心は蘇った。不破恭也としての心は決して折れなかった。
 恭也の心は―――琴絵の心配を不要とするほどの不屈の魂が宿っていた。 

 ―――覚悟を決めろ。不破恭也。相手を恐れるな。失敗したところで、ただ死ぬだけだ。愛する者達を失って無様に行き続けるだけの人生を送るより遥かにましじゃないか。

「水無月殺音、さん―――提案があります」

 自然と言葉が口からでていた。
 殺音が放つ威圧感は衰えるどころか増しているというのに、震えも無く、怯えもない……普段通りの不破恭也がそこにいた。

「……ほ、ほぇ?」

 あまりに自然に問い掛けられた殺音が、おもわずどもりながら返事を返す。
 それに少しだけ満足して言葉を続ける。

「御神の一族から……手を引いてください」
「……うーん。いやーちょっと無理かなー。一応依頼受けちゃってるし。それにそこにいる剣士さんよりも強い人いるかもしれないしねー。おねーさんは燃えちゃってるよ」
「ここにいる相馬さんが、御神最強の剣士といっても過言ではありません。この人以上に強い剣士は、御神にはいませんよ」
「にゃ、にゃにぃいー!?」

 失望感たっぷりの殺音ががくりと肩を落とす。
 恭也はあえて相馬を御神最強と言った。人によっては静馬や士郎、琴絵をあげるだろうが、あえて相馬を最強と推して、殺音のやるきを削がすためだ。そして―――【あの人】のことは黙っておく。

「でも、貴女は戦いたいのでしょう……だからこその提案です」
「む、むぅ?」

 恭也の先へと繋がる言葉が予想できずに首を捻る。
 一体何を提案とするのだろうか……その場にいる人間はみなそう思った。
 恭也はそんな人達の考えの遥か上をいく。

「……俺が貴女と戦います。貴女の渇きを、餓えを潤させましょう」
「……ええっと。笑うところ?」
「冗談じゃありません。もちろん今の俺が貴女を満足させることはできません。だけど―――」

 口の中が乾く。
 緊張で舌がうまく回らない。
 それでも必死となって言葉を紡ぐ。

「何時か必ず貴女の餓えを、渇きを満足させることを―――誓います。この俺が、必ず」
「……」

 恭也の告白に、両目を隠すように手を当て、深いため息をついた。
 沈黙が訪れる。肺を直接握りしめられたかのような息苦しさ。
 周囲に響くのは相馬の荒い呼吸音。いつの間にか虫の音も聞こえなくなっていた。
 
「―――ほざくなよ、少年」

 あいた指の間から真紅に染まった瞳が―――獣のように縦に裂けた凶気に彩られた眼光が恭也を貫いた。
 それとともに世界が闇に染まった。そう錯覚するほどに強大で巨大な殺気が迸る。言葉にならない。言葉では語りつくせぬ、異様なまでの瘴気。
 今までの殺音とはまるで別人。お遊びだったと言われても納得するほどに、凶悪な気配を醸し出す。
 
「……桁が、違う!?あの、化け物ども、さえも―――比べるまでもない!!」

 相馬の声が震えた。
 今まで見てきたどの化け物達よりも、明らかに―――超越していた。
 
 ただの気配が物理的な重圧をもってその場にいた全員にのしかかる。
 傷ついた相馬は膝をつき、冥と廉貞も同じようにその場に両膝をつき、殺音を呆然と眺めるだけだった。

 だが、恭也だけは違った。
 顔を青白くさせ、全身を震えさせながらも、真っ直ぐと殺音を睨み返している。
 
 それを見た殺音は軽く拳をふるった。
 その拳は神速の域をもって恭也の顔に迫り―――そのまま打ち抜いた。
 殺音の拳は力を入れたように見えないというのに恭也の頭蓋を叩き割り、脳髄が飛び散る。
 膝から力をなくし、他の人間を見習うかのように地面につき、身体が大地へと倒れ付した。
 それを何故か冷静に見ている自分が居た。すでに頭は元の形を一片たりとも残していないというのに―――。

「っ……」

 ぺたりと反射的に片手で顔を触る。
 ぺたぺたとした触感。砕かれたはずの顔は普段通りそのままに存在した。そして恭也の目の前には寸止めされていた殺音の拳。当たっていなかったのだ。
 だというのにあのあまりにリアルな死の光景は一体何だったというのか……。
 
 ―――さっ、き?
 
 唾を飲み込もうとして……唾液もでないほどに乾ききった口内。
 覚悟を決めていたとしても緊張は隠せなかった。

 恐ろしいほどに凝縮され、恭也に向かって放たれた殺気は、寸止めされたにも関わらず恭也に死のビジョンを伝えてきた。
 呼吸が荒くなる。恐ろしい。本当に恐ろしい。この女性は、息を吐くかのように自分を殺せる。
 それを再認識した途端とてつもない恐怖が押し寄せてきた。

 ―――死ぬことを恐れているわけではない。このまま何も残せず、何も成さず、殺されることが―――何よりも怖い。

「俺を、侮るな!!水無月殺音!!」

 ビリっと空気が引き締まった。殺音の殺気に怯えていた世界が、恭也を注目してきたような錯覚を覚えた。
 一歩殺音に向かって足を進ませる。眼前にあった拳が額に近づく。

「今更命など惜しむはずがないだろう!!貴女の先程の問いにこう答えよう―――他の誰でもない、俺こそが貴女の望みを叶えよう!!」
 
 さらに一歩進む。
 ゴツンと殺音の拳が額に当たった。だが、視線だけは殺音と交差したままだ、

「誰よりも、何よりも強くなってやる!!俺は、俺の命を、魂を、全てを犠牲にしてでも―――世界最強の剣士になるっ!!それこそが、俺が掲げる確固たる信念!!揺ぎ無い意思!!」

 さらに一歩進む。
 気圧されたように殺音が一歩下がった。
 爛々と輝く真紅の瞳が揺れている。その瞳に映すは―――不破恭也。

「それが俺の答えだ!!返答は如何に!?」

 静寂。
 恭也の宣誓に誰も彼もがのまれていた。
 たかが一桁の少年に。この場で誰よりも弱い少年に。

 風が吹く。夕日が落ちる。 
 一分。二分と時が過ぎさる。緊張だけが世界を満たし―――そして。

 水無月殺音は何の言葉もなく、説明もなく、恭也を抱きしめた。強く強く抱きしめた。
 本当に嬉しそうに、幸せそうに、笑いながら恭也を抱きしめながら、くるくると回り始める。

「すごいな、キミは!!私にここまで啖呵をきったのは―――キミが初めてだよ。私の殺気に晒されて、私の狂気にのまれて、そこまで言えたキミは本当に凄い!!」
「む、むぐぅ……」

 顔が丁度胸の位置に埋もれてしまっているせいか息苦しい恭也。
 ある意味幸せな苦しさなのだが。
 
「あはははー!!あははははは!!」

 壊れたロボットのように笑い続ける殺音。
 どれほど笑い続けただろうか。他の人間が呆気に取られている間は随分と長かった。
 我に返っても狂笑ともいえる状態の殺音に声をかけることはできなかった。

 ようやく満足したのか……恭也を引き離し地面にゆっくりとおろす。
 そして、恭也から離れ不気味な笑みを浮かべたまま語りかける。

「御神の一族からは手を引くよー。キミが約束を守ってくれるその日を愉しみにして。世界最強【程度】にはなってくれるよね?」    
「無論。貴女の渇きを癒すんだ―――世界最強くらいにはなってみせよう」
「うん。最高の答えだ。ああ、ごめんね。キミの名前を教えてくれるかな?」
「恭也。不破恭也」
「うん―――良い名前だ」

 先程とは異なる天使のような―――女神のような笑顔。
 それを残し背を向ける。町から離れる方角へ向かって歩み始める。
 慌てたのがそれをみていた冥だろう。依頼を放置していきなり帰ろうとしているのだから。

「ちょ、ちょっと待て、殺音!?お前、依頼はどうする気だ……!?」
「ん?仕事中は破軍ってよぶんじゃなかったの?」
「う……そ、それはおいといてだな……破格の報酬なんだぞ、今回は」
「まーいいんじゃない?お金には困ってないでしょ」
「……馬鹿か!!そうではなくてだな―――」
「私がやらない、って言ってるのよー?理解してる、マイシスター?」
「……」

 しつこく食い下がってくる冥の頭を手で押さえて少しだけ冷たい視線を送る。
 向けられた本人にしか分からないほどの威圧。それに口をつむるしかできない。 
 廉貞は最初から殺音に大人しく従っている。というか、すでに姿を消していた。相馬とあまり関わりあいたいになりたくないからだろう。

 相馬は去っていく殺音をひきとめようとはしない。互いの力量差は圧倒的であり、無理をして挑んでも確実に殺される。
 そのことがわかっているのに態々戦いを挑むほど現実を見ていないわけではないからだ。むしろこのまま去ってくれるのならそれにこしたことはない。
 そんな相馬の心情に気づいたのか殺音が突然振り返る。焦る相馬だったが、その視線は恭也に向けられていた。

「にしっしー。愛してるぜーきょーや」
「……」

 なんと返事をしていいのか分からず取りあえず頷いておく。
 両手をぶんぶんと振りながら殺音は冥を伴って姿を消していった。
 完全に姿を消して、一気に疲労が押し寄せてくる。がくりと、地面に両膝をつくが―――あまりの精神的疲労で結局地面に横になった。
 冷たくて気持ちいい。このまま眠ったらどれだけ幸せだろうか。

 昨日までの恭也だったらこのまま眠っていたかもしれない。
 だが、今は違う。約束がある。
 殺音との―――決して違えてはならぬ盟約がある。
 一分一秒さえも今は惜しい。
 四肢に力を入れて、立ち上がる。その時、ぽんと頭に手が置かれた。誰だろうと思ったが、ここにいるのは恭也をのぞけば相馬以外。彼しかいないのだが、まさか相馬がそのようなことをするわけがないはずなのだが―――。

「……本気か、お前?」

 ―――相馬でした。

 あの残虐非道。傍若無人が服を着て歩いているなどと噂される相馬が若干だがこちらを心配しているかのような視線をよせている。

「本気で、あの化け物と戦う気か」
「勿論です」
「……頑固なガキだしな、お前。俺が何を言ったとしても無駄だろうが……一応言っとく」

 ガリガリと頭をかく相馬。

「無駄だ。お前では―――届かん」
「―――届かせます」
「……死ぬよりも辛いことになるかもしれん。お前は―――どこまでやるきだ?」
「―――無論、死ぬまで」
 
 そうか、と呟きを残し、恭也の頭から手をはなす。
 御神の屋敷がある方向へと帰っていく。その途中で足を止め、空を見上げた。

「……俺の仕事がないときにくれば稽古の一つくらいつけてやる」
「え?」
「……勘違いするなよ。今回の礼だ」
「ええっと……有難うございます」
「……ふん」

 照れているのだろうか。それだけ言うとさっさと恭也から離れていく。
 殺音に殴られた傷は大丈夫なのだろうか心配になるが、普通にあるいているのである意味相馬もとんでもない男だ。
 そんな相馬に続くように恭也も歩み始める。
 
 ―――強くなろう。誰よりも何よりも。ただ、強く―――

 そう決意を新たにした恭也は拳を握り締めた。

 その恭也を見つめる一つの視線。
 誰もが気づかなかった。
 恭也はもちろん、相馬も―――殺音でさえもその気配に。
 
 恭也から随分と遠く離れた場所。そこに彼女がいた。
 女性自身が光を放っているのではないかと思うほどの美貌。殺音を女神とするならばこちらは天使だろう。
 輝き渡るプラチナブロンドが背にまで伸びている。顔には若干のあどけなさが残っていた。
 女性と少女。どちらで表現すればいいのか悩む容姿だが、少女とよばれるようなか弱さなど微塵もない。
 片目を瞑り、あいている片目だけで恭也を見つめていた。

「廻る廻る。世界は廻る」

 朗々と言葉を紡ぐ。美しいソプラノの美声。

「巡る。巡る。世界は巡る」

 遠く離れた恭也に語りかけるように。

「今生の貴方に会えて私は幸せです―――貴方と再び会えるときを愉しみにしてますよ……少年」

 





 これより二ヵ月後。相馬は御神宗家を追放されることとなる。

 そして、さらに三ヵ月後―――御神の屋敷は爆破され一族は潰えることになった。生き残ったのは僅か四人。
 不破士郎。御神美沙斗。御神美由希。そして―――不破恭也。

 

 
 



 
 

   
 

 
 






「……殺音。悪い知らせがある」
「んにー?」

 【北斗】が拠点としている人里はなれた山奥にある館。
 その一室の自分の部屋の椅子に座り、テレビを見ていた殺音が冥に気の抜けた返事を返す。
 
「どうしたのさ?生活費がなくなったとか?」
「……お前にとってはそっちのほうがいいだろうね。僕としてはごめんだが」

 深刻そうな様子の冥に殺音がちゃかす。
 それにたいして律儀に真面目に返答する冥。

「……お前が御執心だった、不破恭也……あの少年だが、死んだぞ」
「……え?」
「先日御神の屋敷が爆破されたらしくてね。生存者は―――いない」
「……あ、そう」

 冥の発言に興味をなくしたようにテレビを見直す殺音。
 あれだけ執心していた恭也がしんだというのにあまりにあっさりとした殺音に、逆に冥が驚きを隠せない。
 
「意外だな……てっきり怒り狂うかとおもったんだけど……」
「んー。だって生きてるって分かってるしね」
「え?いや、でも御神不破両家の生き残りは誰もいないらしい……が」
「だって私と約束したんだし。そんな簡単に死ぬわけないじゃない?」
「……なんだその根拠のない自信は」

 はぁ……とため息をついて冥は部屋から去っていく。
 そんな冥を無視してテレビに熱中する。だが、冥は気づかなかった。殺音の手が震えていたことに。
 
 震える片手を力いっぱい目の前にあったテーブルに叩きつける。
 何かが砕き折れる音が部屋に響き渡り、粉々になったテーブルが部屋に転がっている。

「生きてる……生きてるって信じなきゃ、やってられないでしょう……」

 物悲しい殺音の声が、虚しく消えていった。

 
 
 
 




   
 それから十余年の月日が流れ―――物語の幕があく。  
 
   
 
 
 
 

 


 
 








 
   

 
  



[30788] 一章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2011/12/12 19:53





「九百九十六……九百九十七……九百九十八……!!」

 さらさらと気持ちいい風が吹く。
 近くには川が流れているのか水の音が聞こえる。
 風に吹かれた木々が、ザワザワと葉がこすれあう音を響かせる。

 人が滅多に近寄らないとされる巨大な山々が連なる日本でも辺境の地。その山々のなかでも霊山ともされる場所の麓で一人の女性が一心不乱に木刀を振っていた。
 長い黒髪を後ろで三つ編みにしていて、容姿は可愛らしい。化粧ッ気がないが、元が余程いいのだろう。どことなく目をひきつけるものがある。薄く白いシャツが汗に濡れ、下着が透けて見えるが本人は全く気にしていないようだ。本人がきづいてないだけかもしれないが。
 
「九百九十九……千!!」

 一切の休みなく木刀を振っていたのだろうに、最後の千回目まで姿勢を崩すことなかったその少女は、様々な意味で美しかった。
 武に生きているものならば目を離せないような、そんな鬼気迫る様子も感じ取れただろう。

 ふぅ、とたいして乱れていない呼吸を整えるように息をつく。
 華奢に見える見掛けとは裏腹に恐ろしいほどの体力があるのだろう。腕の甲で汗を拭う。
 勿論それだけで汗をふき取れるはずもなく、近くの木の枝にかけてあったタオルを手に取った。

 そのままタオルで汗をぬぐいながら近くに流れる川の方へと向かう。
 一分も歩かないうちに透き通った水が流れる川をみつけ、そこで両手で水を掬い顔を洗う。

 都会ではお目にかかれない底まで見える美しい水におもわずため息が出る。
 毎年ここで合宿を行っているが、この川と周囲に広がる森だけは変わらない。

 季節は四月。冬も終わり、春を迎えてはいるが流石に山奥であるここはまだ肌寒さが残っていた。
 特に朝と夜は、気を抜くと風邪をひいてしまうほどの気温である。
 シャツを替えないといけないかなーと考えている少女だったが、ビクリと身体を硬くした。

「……気を抜きすぎたな」
「ぅぅ……面目ありません……」

 振り返ることを許さない硬い声が少女の後ろから聞こえた。
 気づかぬ間に、一人の青年が少女の背後から首筋に手刀を添えていたのだ。
 ただの青年にしか見えないが、見る人が見ればそうでないことは分かるだろう。
 無駄なく締まりきった身体。身のこなしに隙はなく、纏う気配に険しさはない。短く切られた黒髪に、それが似合う精悍な顔つき。或いはただの青年にしか見られないかもしれない。少し腕が立つ程度の若造にしか見られないかもしれない。
 だが、少女は知っている。この青年が―――世界最強に最も近い剣士であることを。誰よりも知っていて、誰よりも信じていた。

 僅かな気配を感じ取られることもなく、足音もなく、己の背後にまわられたことにため息をつきつつ少女は両手をあげ降参の意を示す。
 青年はそれ以上は何も言わず、少女から離れ森の方へと戻っていく。
 少女は鍛錬が終わった直後であったが気を抜いていたことを指摘され罰が悪そうに青年に続いた。

「……っわっぷ」

 その時、ばさっと少女の顔に布がかかった。
 青年が何時の間にか少女に向かって投げていたらしい。それを広げてみると、少女の着替えだった。
 気を利かせて持ってきてくれたのだろう。何も言わない青年の優しさに、少女は着替えを胸に抱き、嬉しそうに笑った。

「ん、有難うね……きょーちゃん!!」
「夕飯にするぞ。着替えたらテントに戻って来い……それと肩は冷やすなよ、美由希」

 永全不動八門一派―――御神真刀流小太刀二刀術―――【御神流】の残り僅かとなった使い手。
 それがこの二人の兄妹。高町恭也と高町美由希である。

 恭也は今年高校三年にあがり、美由希は中学を卒業し高校一年になる歳なのだが、毎年恒例ともいえる二人で行う春合宿を春休みの間を利用して彼らが住む都市【海鳴】から随分と離れたこの山にきたのだ。
 普通の人が聞いたら驚くのだが……美由希を指導しているのは何を隠そう恭也なのである。

 歳は十八。そんな年齢で人を指導するなど無理だと思われるかもしれない。
 しかし、恭也は見事なまでに美由希を育てていた。その強さは筆舌に尽くしがたく、彼らの知り合いである空手家の評価は、お前ら二人は人間をやめてるな、だそうである。

 美由希は受け取った服に着替えるためにシャツを脱ごうとして―――ちらりと恭也が去っていった方角を横目で見る。
 視界にはすでに恭也の姿はなく、揺れる木々が映されるばかりだ。
 全く異性として意識されていないことに、深くため息をつく美由希。最近大きく成長してきた二つの膨らみを見て再びため息。
 あまり大きくなるのも戦いの邪魔になるため困るためだ。もしこの考えを言葉に出したら、高町家にいる犬猿の仲ではあるが、仲がいいという矛盾の間柄の二人の居候少女がタッグを組んで襲い掛かってくるのは明らかだ。
 そんな考えの美由希だが、一応は年頃の少女。本音は胸が膨らんできて嬉しかったりする。

 着替え終わった美由希は、キャンプ地としている場所に向かう。
 緑豊かな世界。鳥の鳴き声が聞こえる。頭上を見上げれば赤く燃えていた。
 既に夕方の時刻。太陽は地平線の彼方から没しようとしている。穏やかな風が汗ばんでいる身体を心地よく撫でていく。

 獣道―――というほどではないが、美由希と恭也が歩くだけの道―――には草花が生い茂り、木々の合間を時折リス等の小動物がかけていく。
 平穏そのものの情景である。ゆっくりと恭也の後を追い、木々が開けた場所に出た。

 広がった空間。そこにはテントと石で囲った焚き木。
 薪を適度に入れながら、鍋を蒸かしている。その周囲には木を削った串を刺した魚が数匹炙られていた。
 
 美由希の鍛錬中に得意の釣りで釣っていたのだろう。それに対して美由希は釣りが得意というわけではないので、かつては魚を取るのが苦手だった。
 その旨を恭也に愚痴ったこともあったが、その返事は美由希の考えの遥か右斜め上をいくものであったのが懐かしい。

 ―――釣れないのなら、掴め。

 何を言っているんだ、この人は……という表情をしたのが悪かったのだろう。即座にデコピンを喰らってしまい悶絶してしまった。
 できるわけがないという美由希の意見を聞いた恭也は手本としてあっさりと泳いでいる魚十数匹を素手で掴み取ったのだ。
 あの時は思わず口をあんぐりとあけて、反応ができなかったのだが―――恭也の、魚の気配を読め、という教えを自分なりに噛み砕き理解した。
 あれから数年……今でも釣りが苦手な美由希であったが、魚を掴み取るのは得意となっている。

 御飯は恭也の当番のため、美由希は近くの石に腰掛けてぼぅっとしながら出来るのを待つ。
 というか御飯を作る担当はほぼ全てが恭也だといってもいい。
 その理由は単純明快。恭也が美由希に料理をさせようとしないからだ。美由希としてはやはり好きな相手には手料理を振舞いたいという願望もある。そのため何度か料理をかってでようとするのだが、何故か凄く可哀相な人を見る目で見られて優しげに断られるのだ。
 一度無理矢理作ろうとした事があったが―――背中に衝撃がはしり暗転。目を覚ましたら、御飯ができていた。
 恭也曰く……これはお前が作った物だ。在り難く戴こう。
 質問しようとしたが、その時の恭也の顔が怖くて追及はできなかった過去がある。

 とりあえず食器の準備をして、料理ができるのを待っていた美由希だったが御飯と魚以外に珍しく肉のような物も用意されていることに気づく。
 この山は野生動物が豊富で、時々ウサギや鳥を捕まえているのだが今回はどうやらそれらとは異なるようだ。
 傍にいてあった水筒から木でできたコップに水を注ぎ、ながら口に含みながら聞いてみる。 

「あれ?きょーちゃん。何か動物捕まえたの?」
「ああ。お前が素振りをしている最中に熊が出たのでな。狩っておいた」
「ぶふぁっ!?」

 思いっきり噴出した。
 すぐ前にいた恭也は背後からだというのにその霧状となった水を横に軽く動いてかわす。
 そして何事も無かったのように調理を再開する。
   
「ごほっ……ごほっ……熊!?熊がでるの、この山!?」
「冗談に決まっているだろう?確かにここらは動物は多いが流石に熊がでたことはない」
「だ、だよね―――あはは」

 乾いた笑いをあげる美由希だったが、兄ならば本当に熊を狩りかねないのでちょっと不安になる。
 落ち着こうと再度水筒の水を飲む。

「お前は俺なら熊を倒せれると思ってそうだが……熊をなめるなよ」
「……お、思ってないよ」
 
 あっさりと心の内を見抜かれた美由希は水が気管に入りそうになったが、なんとか落ち着かせるように飲み込む。
 恭也はまるで相手の思っていることが分かるかのように言ってくることが多く、美由希は兄がそういった特殊能力をもっているのではないかと怪しむことも多々あるのだ。

「いいか。ツキノワグマならまだいい。だが、羆にだけは気をつけておけ」
「ええっと……いきなりだね、きょーちゃん。羆ってそんなに危険なの?」
「……ああ。奴らの凶暴性。執着性は尋常じゃない。三毛○羆事件や福○大ワンゲル部羆事件など悲惨な獣害事件を引き起こしているからな。十分に注意しておけ」   
「聞いたことないんだけど……きょーちゃん詳しいね?」
「恐ろしいからこそ、調べる。知らない方がよっぽど恐ろしいと思うぞ」
「ん……そうかもね」

 ふき上がった御飯を皿にのせ美由希に渡す。結局何の肉から分からないが―――それも更にのせて渡された。
 恐る恐る食べてみると思ったほどまずくはない。多少の獣臭さを感じるが、牛や豚とは違った旨みがある。山での鍛錬中は魚や山菜が多いので、滅多に味わえない肉は有難い。
 今更どんな肉でもいいか……と納得して美由希は食べすすめた。
 二人で黙々と食事をしていたが、ふと美由希は思いついたように口を開く。

「ん。そういえば、きょーちゃん。熊が怖いって昔なにかあったの?」
「……昔からとーさんに連れられて日本全国を回っていたときに少し、な。それと全国武者修行で中学の時に旅立ってた時があっただろう?その時にも北海道の方で出くわしたことがあったんだ」
「出会ったとこはあったんだ……よく無事だったね?」
「ああ。北海道で遭遇したのは羆だったからな。流石に殴り殺すのには苦労した。奴らは人間とは比較にならない肉の分厚さだから打撃系の効きが鈍くて……四百キロクラスの大物はしつこかったぞ?」
「ふーん」

 聞き流した美由希だったが、魚にかぶりつこうとして―――反芻するように呟く。

「え、えっと……【殴り殺した】?」
「あの時は……雨に降られて洞窟で雨宿りをしていた時だった。外の様子を見に出たらばったり出くわしてしまったんだ。刀を取りに戻る間もなく襲い掛かられて、なかなかの強敵だった」 
「無理でしょう!?」
「失敬な。何度か死を覚悟したがきっちり息の根を止めたぞ。素手で」
「素手で熊を殴り殺すってどんだけ!?」
「楽に勝てた、とはいえんが。良い戦いだったと両者認めるところだろう、あれは。その後食べたが特に味には問題はなかった」
「てか、食べたの!?」
「ああ。少々硬く肉に臭みがあったが、なかなかいけたぞ」
「……もう何に驚けばいいのかわからないよ……」

 知らなかった兄の非常識さの一つがまた新たに浮上し、心底疲れたため息をつく。
 刀を使って倒すのならまだしも、素手で殴り殺すとか人間を辞めてるとしか思えない。
 少なくとも美由希は熊と素手で向かい合って倒せれるような自信はない。というか、あってたまるか。

「まぁ、実際は羆に遭遇するなど滅多にないから心配するな」
「……わかってるよ」

 一応はフォローをいれてくる恭也だったが、皿にのっている肉を見てふと思い出したように独白した。

「そういえば―――今日で倒した熊は五匹目になるのか」
「……えっ!?そ、それってまさかこの肉―――」

 美由希の台詞を邪魔するように、テントからオーソドックスな携帯の着信音が鳴った。
 どうやら恭也の携帯のようで、食器を置くとテントに向かう。美由希は質問を切られた形になったので、皿にのっている肉をどうしようかまじまじと見つめた。
 確かに牛や豚とは違う。ましてや鳥でもない。鹿や狐などでもなかった。ということは本当に―――。

 テントに戻った恭也は荷物の中に埋もれていた携帯をとりだすと液晶画面を確認する。
 表示されていた名前は―――高町桃子。恭也と美由希の母親だ。

「もしもし。こちら俺だが―――何かあったのか?」
『何かあったか?……じゃ、ないわよー!!ちゃんと連絡を毎日いれなさいっていったでしょー!!』
「……すまない。忘れていた」
『もう!!恭也がついているから大丈夫だとおもってたけど、心配したんだからね』

 相変わらず元気な母の様子に恭也は安堵を隠せない。
 恭也が家を一週間以上あけるのは美由希との合宿の時だけだ。桃子がこちらを心配するように、恭也も高町家のことを心配していた。桃子がいる限り大丈夫だてゃ思っているのだが……。

「それで安否の確認の電話……だけではないようだが?」
『あ、そうそう。恭也ってば五日までに帰るって言ってたじゃない?美由希の入学式が六日にあるから』
「ああ。そうだが」
『なのにこの時間になっても帰ってこないから心配したのよ。まさか恭也が日付をを間違えるわけないし』
「……」

 桃子は何を言っているのだろうか、と恭也は首を捻る。
 まだ今日は四日で、明日の朝一で帰ろうと思っていたのだが。

「……少し待ってくれ」
 
 耳から携帯を離し、改めて液晶を見る。
 そこに表示されていた日付は―――四月五日。どう見ても恭也が一日日付を間違えていただけであった。
 咄嗟に頭の中で山から下りる時間と、電車で海鳴に戻るのに必要な時間を計算して弾き出す。

「―――今夜遅くにはなるが、帰る。心配しないでくれ」
『恭也……あんた一日勘違いしてたわね?』
「……何のことだ?」
『はいはい。そういうことにしておいてあげるから急ぎなさいよー。あんたもしっかりしてるのか抜けているのかわからない時あるわよねー』
「……面目ない」

 幾ら美由希の鍛錬に気を使っていたとしても、日付を間違えるのはうっかりを通り越していた。
 今回の合宿で美由希は御神流の基本でもある【徹】までを使いこなすに―――というにはまだ早いが、実践でも十分使えるレベルに達した。
 予想以上の成長速度を見せる美由希は、指導をしていても楽しいと素直に恭也は思う。怪我をさせることなく、御神の剣士として完成させることが恭也に課せられた義務ともいえた。
 焦って強さを求めた剣士の成れの果てが―――ここにいる。
 ズキリと痛んだようなきがする右ひざ。普段生活する分には問題もない。だが、決して忘れえぬ過去の愚行の結果だ。

「では、急いで帰るとする」
『あ、晩御飯はどうする?』
「丁度いま済ませたところだ。準備をしなくてもいい」
『わかったわー。気をつけて帰ってくるのよ』

 携帯を切り、テントから外に出るとすでに美由希が後片付けをしていた。
 どうやら恭也の話を聞いていたのだろう。美由希自身も鍛錬で疲れていたとはいえ、日付を確認していなかったので恭也に文句をいえるはずもない。

「片付けた後すぐに山を降りるぞ。強行軍にはなるが、ついてこれるか?」
「大丈夫。それについていけないといったら置いていく気でしょう?」
「勿論だ」

 あっさりと言い切る恭也にちょっとだけ寂しくなる美由希であった。






















 強行軍に強行軍を重ね、山を降りなんとか一番近くの駅についたのは午後七時を回ったところであった。
 普段だったらもう少しゆっくりといくので、一時間近くを短縮して下山できたことになる。鍛錬の疲労が蓄積されている現在でそれだけの速度で降りれたのはまさに限界ぎりぎり。
 無人駅のため恭也や美由希以外に待っている人はいなく、美由希は疲れたように椅子に腰を下ろした。
 対する恭也は時計に目をやり、時間を確認する。美由希からみて、恭也が疲れているようには全く見えない。
 美由希の指導をし、供に汗を流した後に―――夜中美由希が寝静まった後も一人で鍛錬を続けていたというのに、疲労など微塵もないその姿に心底尊敬のため息しか出ない。

 はっきりいって美由希の剣士の腕前は相当なものだ。
 それは父の友人であり、数少ない実戦空手の巻島流の創始者【巻島十蔵】のお墨付きを貰っているのだから疑うことは無い。
 その美由希が恭也のことを断言する。高町恭也の底は―――計り知れないと。
 強くなればなるほどにそれを体感できる。実戦をかねた試合を何度も行っているが、恭也に一撃をいれれたことは一度としてない。
 かつて恭也が士郎に感じた壁。それを美由希は恭也に感じていた。
 
 そんなふうに思われていると気づいていない恭也は背負っていた荷物を降ろし、肩をぐるぐると回す。さすがに美由希の数倍の重さの荷物を持っていたために肩が痛かったのだろう。
 ここら一帯は田舎のため電車の本数は少ない。というかほとんどこない。
 普通電車が一時間に一本だけなので、乗り過ごしたら長い間待たされることになる。何度もここにはお世話になっているのでその時間にあわせるように下山してきたこともあり、あと数分程度で電車はくるようだ。

 やがて、遥か彼方から低くうなるような、かすかな振動が響くのに恭也はきづいた。
 耳をすませば、確かに長く低く、響く音の波動が聞こえてきた。
 夜の闇を切り裂くように、明かりを照らし電車が現れる。寸分の狂いも無く、駅に停車した。

 恭也と美由希は電車に入ると荷物を降ろし、長椅子に座る。
 春休みも最終日で夜ということもあったのだろう。恭也達以外に乗客は乗っておらず、閑散としていた。

 電車が走り出し、車両が揺れる。
 動き出してからすぐ恭也の肩に軽い重みが加わった。
 美由希が相当に疲れていたのだろう。恭也に身を預けるように眠っていたのだ。流石に起こすような真似はしない。
 ここから海鳴まで二時間近くはかかるのだから、それまでは寝かせておこうと決めると、恭也も目を瞑る。
 眠る―――というわけではないが、少し考えたいことがあったからだ。

 美由希には徹底的に基本を叩き込んでいるがそれがかなりのレベルになってきている。
 御神流の基本にして最も重要な徹。これを使いこなせるようになったのは大きい。この調子でいけば御神流でいう第三段階の【貫】をそろそろ教えてもいいのかもしれない。
 そしてその先―――神速の世界。
 御神流の奥義の歩法。かつて大勢居た御神の剣士達も全員がこれを使えたわけではない。
 というか、使えた人間の方が少ない。
 言ってしまえば己にかかっているリミッターを外し人間が可能とする動きを大幅に上回ることができる―――というものだ。
 人によって解釈の違いがあるが、恭也はそう認識している。
 簡単にすると、火事場の馬鹿力を何時でも可能とする。それだけだ。だが、そんなことが簡単にできるはずもない。
 また、神速に対する適正というのも存在する。どれだけ修練を積んでも結局その域に至れなかったという事例も多数存在する。逆にあっさりと神速の世界を自在に操れた剣士も居た。
 故に神速の世界へ至るには修練も大切だが、適正も重要だとされている。

 果たして美由希はどうだろうか。
 恭也を信じて、不平不満もなく青春を投げ打って鍛錬に精をだしている。
 修練という意味では問題は無いはずだ。後は適正。
 【貫】を修得したうえで―――後は神速の世界を認識できるか。多少の不安はあるが、問題はないと信じている。

 美由希は、御神宗家の血を受け継ぐもの。
 御神静馬と御神美沙斗の間に産まれた完全なサラブレッド。両者とも神速の世界にわけもなく踏み入っていた剣士達だ。
 その二人の血を受け継ぐ美由希ができないはずがない。
 
 目をあけ、今度は恭也は自分の右膝を見る。
 他の人間が見たならば何の問題もないように見えるかもしれない。だが、実際に恭也の右膝は一度砕かれたことがある。
 別に事故でもない。鍛錬の疲労でもない。
 勝てないと分かっていながら戦いを挑み、圧倒的な差を持って―――人智を逸した化け物に嘲笑うかのように砕かれたのだ。
 
 今でも色鮮やかに思い出せる。
 五年もの昔―――ひたすらに強さを求めていたころ。
 その時に【彼女】に出会った。

 何故居たのかわからない。何時の間に居たのかわからない。
 普段鍛錬をしている八束神社の裏手に広がる山の中で、初めて彼女に邂逅した。

 片目だけでこちらを射抜く人外の化け物に。
 美しい女性の姿をしただけの化け物に。
 
 己の全力で挑んで―――傷一つつけることもできずに敗北したあの時の思い出は苦々しい。
 不可思議なほどに強かった。二振りの剣を操り、恭也と同じ土俵で戦いながらも圧倒された。その姿は―――御神流の剣士にそっくりであったのが未だ理解できない。

 意識が薄れていく中、女性は恭也の右膝だけを砕いて消えた。
 忘れられない。あの時の屈辱を。忘れられない。あの時の言葉を。

 ―――この程度の試練は乗り越えてくださいね? 

 狂ったようなソプラノの声が頭に響く。
 すぐ傍にあの女性がいるのではないかと時々錯覚してしまう。

 ―――私は××と呼ばれています。アンチナンバーズが××。世界に仇なす化け物集団の一員ですよ。今から二年後にその一角と貴方は戦うことになるでしょう。それまでに、強くなっていないと死にますよ?

 彼女は予言めいたこと残して姿を消した。
 それ以降彼女と出会ったことは無い。気配を感じたことも無い。

 だが、確かに彼女の予言は―――的中したのだ。

 反射的に右膝を手で握りしめたが、すぐに力を抜いた。
 何故だろうと時々思うこともある。あの時あの女性は確実に恭也を殺す事ができた。
 だというのに右膝を砕くにとどまったのだ。その意図が読み取れない。
 しかも、砕かれた膝は実はそれほど酷いというわけでもなかったのだ。膝はすぐに治った。
 しかし、不思議なことに今でもその時の古傷が痛むのは事実である。幻痛かと最初は訝しがったが、そうではなかった。
 知り合いの医者に相談した所、細部まで検査してもらえたが理由は結局分からずじまいだった。その時の話の中での一言が妙に恭也の耳に残っている。

 ―――完全に怪我は治ってるのに、医者として情けないことだけど原因は正直わからないんだ。まるでこれは一種の呪いだね。 

 呪い。

 そういわれた恭也はそれもあるかもしれないと思った。
 あの女性ならば、そんなことを仕掛けていても可笑しくは無いのだから。
 恭也を殺さなかったこともあるし、膝のこともある。恭也にとっては恨みしか抱けない相手ではあるが、あの時の女性の瞳は―――懐かしい人物にあったかのような―――そんな優しげな感情が読み取れた。 

 勘違いだったのかもしれない。それでも確かにあの時の女性は―――。

「いや、今更気にしても仕方ない」

 何時の間にか思っていたことが口に出ていた。
 恭也自身、再びあの女性と出会うことになるだろうという予感を感じているために次の邂逅で聞けばいいと思っているのだ。
 今の自分ならば五年前のような無様な結果にならないという自信はある。
 
 慢心ではない。あの時の敗北で得たものは計り知れないほど多い。
 あの時あの女性に出会って膝を砕かれなかったよりも―――今の自分の方が強いという確信がある。
 不思議なものだ。怪我を負っていない自分よりも、怪我を負っている自分の方が強いなどと思うのも。

 恭也の思考に割って入るように何度も駅に停車し、少しずつではあるが乗客も増えてくる。
 といっても満員になるほどでもなく、車両は所々あいていた。
 外の景色もすでに暗くなっていて見えにくいが、家々の明かりが多くなってきているのがはっきりとわかる。

 ガタンゴトント規則正しい揺れが身体を揺らす。
 どれくらいたっただろうか。次の駅を告げる車掌のアナウンスが聞こえる。

『次の停車駅は―――海鳴。海鳴―――』

 ようやく恭也達の住む海鳴へと着いた様で、隣で寝ている美由希を揺らす。

「……んっ……」
「起きろ、美由希。帰ってきたぞ」
「ん……ふぁ……ごめん。寝ちゃってたみたい」
「気にしないでいい。もう少しで家まで帰れるから頑張れ」
「はーい」

 電車が駅に到着。海鳴はかなり大きな都市でもあるので多くの乗客が下車する。
 その流れに乗るように恭也と美由希も電車から降り、改札を通った。時刻は九時近くを指しているが、多くの人たちが海鳴駅の前を賑わせている。
 
「はぁー。懐かしの海鳴にかえってきたよー」
「やはり帰ってくると安心するな。今日は鍛錬は無しとするから家に帰ってゆっくり休むぞ」
「了解です」

 鍛錬無しという恭也の言葉に美由希は安堵したように返事をする。
 別に訓練は嫌いではないのだが―――今日ばかりは疲れがピークに達している。
 二人が高町家がある方角に向かおうとして、恭也が人混みの中に見知った顔があるのに気づいた。

「……美由希。先に帰っていてくれ。少し用事が出来た」
「うん。分かったけど……あまり遅くならないようにしてね?」
「ああ。すぐ帰るさ」

 去っていく美由希を見送る恭也。
 この時間に女性一人で帰るというのも物騒ではあるが―――美由希を襲うような輩がいたら逆にそちらがとんでもない目にあうだろう。
 恭也は人混みで見かけた知り合い……女性に声をかけようとして、近づいていく。

 周囲は人混みが凄いというのに、誰にもぶつかることなくすり抜けるように歩いていき―――。
 目的の人物に辿りつく一歩手前で長身の男性にぶつかってしまった。ドンという音がして肩が男性にあたる。それは知り合いの女性とその長身の男性に丁度割り込むように―――。

「失礼しました」
「……っち」

 謝罪をする恭也に対して男性は舌打ちを残してその場から離れていった。
 後ろのそのやりとりに気づいたのだろう。目の前にいた女性が恭也へと振り返る。

「あれ?高町―――くん?」
「終業式以来だな。月村」

 女性の名は月村忍。恭也の通う高校である風芽丘学園の生徒である。
 恭也と一年二年と同じクラスだったためそれなりに面識があり、恭也も砕けた話し方ができる数少ない相手である。
 恭也は、はっきりいって知り合いが少ない。というか、学校において友達と呼べる人間はたった三人だけだろう。
 一人は赤星勇吾。剣道部の部長であり、恭也とは中学時代の腐れ縁で、恭也の唯一の男友達だ。二人目が藤代佳奈。女子剣道部の部長。赤星との縁でそれなりに親しくしている。
 三人目が目の前の月村忍だ。互いに口数が多いというわけでもなく、友達もいない。休み時間は、むしろ机が友達な二人。色々と共通点があったこともあり、二年の時に少しだけではあるが話すようになり、今では友達といっても良い関係だ。

 はっきりいって忍は美人だ。
 身長は百六十を少し超えた程度。薄紫の髪が綺麗で、背中ほどまであるロングが印象的だ。
 どこか無口で冷たいように見えるが、ソレが良いとクラスの男達が噂している。

「こんな遅い時間にどうしたの?」
「……旅行から帰ってきたところなんだ。今から帰るところだ」
「旅行?へぇ……何処に行ったの?」
「……岐阜の方に少しな」
「岐阜?のどかでいいところらしいね」
「―――ああ」

 咄嗟に何故か出てしまった岐阜。
 別に行った事はあるのだが、特に思い出が残っているというわけでもなく、自分で言っておきながら首を捻りたくなる。

「さっきの台詞をそのまま返すが、月村はこんな時間までどうしたんだ?」
「親戚に呼ばれてね。今帰ってきたところなの」
「そうか。このまま帰るのか?時間も時間だ。送っていくくらいはするが」
「ん。ありがとう。でも、大丈夫。車でそこまで迎えに来てくれてるから」
「それならいいんだが……今日のように遅くなる日は気をつけたほうがいい」
「うん。気をつけるね。高町君って―――優しいね」

 忍が口元に笑みを浮かべた。見惚れそうになるほどの綺麗な笑みだった。
 その笑みに一瞬目を奪われた恭也だったが、目を軽く瞑って冷静さを取り戻す。
 そんな恭也を不思議そうに眺めていた忍だったが、時計を確認して、ロータリーの方角へと視線を向けた。
 目的の人物を発見したのだろう。遠目にだが スーツ姿の女性が高級そうな自動車から降りてこちらに一礼していた。
 
「それじゃあ、高町君。また明日。また同じクラスになれるといいね」
「そうだな……祈っておくか」

 胸が高鳴るような言葉と笑みを残して、忍はその女性のもとへと去っていった。
 自動車で帰るのなら大丈夫だと安心して、恭也も歩き出す―――美由希を追ってではなく、薄暗い路地裏の方へと。
 確かにここら周辺は駅があるため開発が進んでいる。だが、必ずそういった薄暗く危機感を煽られるような場所も存在するのだ。

 薄暗い路地に入った恭也は真っ直ぐに奥へと進む。
 そして、行き止まりまで足を進めると体を反転させた。

「出てきてもらっても構いませんよ。居るのはわかっています」
「……お前のようなガキに覚られちまうとはな……俺もやきがまわったか」

 恭也の視線の先の暗がりから出てきたのは先ほど忍の前でぶつかった男性だった。
 さっきぶつかったときはまだ不機嫌そうな表情だけだったが、今は明らかに敵意を剥き出しにしている。改めて見ると恭也よりも随分と背が高く、筋肉質なのがわかる。

「俺が態々人気のない場所まで来た理由は推測できますか?」
「さあな。ただお前は俺の仕事の邪魔をしやがった。忌々しい奴だ。楽に終わると思ったのによ」

 男はポケットに手をつっこむと中をまさぐる。
 しかし、一向に目的のものを掴むことができない。
 そんな男を一瞥し、恭也は隠していた折り畳み式のナイフを取り出し、見せつけるようにかざす。

「な、なぜお前がそれを!?」
「先程ぶつかったときに抜き取らせてもらいました」
「ば、馬鹿な……そんな様子など微塵も……」

 先程までの余裕と敵意に満ちた表情は一転し、男性は呆然とする。
 そして、男性はようやくわかったのだ。さっき恭也がぶつかったのは偶然ではなく、男性からの忍への敵意に気づき、故意に割って入り邪魔をしたのだと。
 ただの青年にしか見えなかった恭也を見る目にかすかに恐れの感情がまじった。
 恭也はナイフを後ろに放り投げると一歩男性に向かって踏み出す。

「さて、話して貰うぞ。俺の友を―――月村を狙った理由を」

 恭也の言葉遣いが本来のものへと戻り―――男性は悟った。
 自分が決して関わってはならない【何か】に自ら進んで近づいてしまったことを。
 男性は長い間暴力が支配する世界で生きてきた。別に真っ当に生きようと思えば生きれただろう。
 だが、それでも自らが選んで【こちら】の世界へ足を踏み入れたのだ。拉致監禁。殺人。恐喝。様々な法に触れるような裏の仕事をこなしてきた故に、色々な人間をみてきた。その中でも目の前の青年は常軌を逸している。何が危険なのか、と問われればどう答えればいいのか迷うだろう。それでも怖いのだ。
 恐ろしい。人間の姿をしているだけに、逆にそれが恐ろしくてたまらない。

 次に男性の取った行動は―――服従だった。

 両手をあげ、刃向かう気はないのだということをアピールする。
 いきなりそのような行動にでた男性を不審そうにみる恭也だったが、本当に敵対する意思がないのだということを即座に読み取った。
 
「知っていることは、全て話す。だから命だけは、助けてくれ……ください」
「正直に言ってもらえるなら、ソレは約束しよう」

 殺す気など全くないのだが、勘違いしているならそれはそれで利用できるので敢えて否定はしないでおく。

「まず最初に聞きたいことは、月村を狙った理由だ」
「……依頼がきたんだよ。しかも、かなり法外といってもいい金額で。俺自身はあの女に何の恨みもない」
「依頼とは?」 
「……俺は、言ってしまえば何でも屋だ。ただ、とても表沙汰にできないこと専門、だが……」

「依頼主は誰なんだ?」
「……いえねぇ。と言いたい所だが、わからん。さっきも言ったが法外な金額には依頼主のことを詮索するな、って意味もこめられてたんだろう……」
「しかし、電話やメールだけで依頼を受け付けたわけではないだろう?実際に会って依頼の話をまとめたのではないのか?」
「……確かに会った。でも、あいつはただのつかいっぱしりだぜ……」
「そう思う根拠はあるのか?」
「……実際に会ったやつがそう言ってたんだよ。雇い主が云々ってな……ついでに相手先への連絡方法はない。あっちから連絡がくるのを待つだけだ……」
「依頼はどんな内容だったんだ?」
「……あの月村忍って女を痛めつける。殺しは厳禁。死なない程度ということだった……」

 矢継ぎ早に質問をした恭也だったが、どうやら男性はほとんど何も知らないらしい。
 質問をするときに男性の表情を注視していたが、全くといっていいほど反応はなかった。
 仮に嘘をついていたとしたら、恭也を前にして騙しきっていたならばとんでもない演技力だ。
 恐らくこれ以上聞いたとしても大した成果はあがらないだろう。
 依頼主への連絡する方法があれば直接そちらを辿る方法もあったのだろうが、今の段階ではそれもできないらしい。
 
「これが最後だ。この世界から足を洗え。それを約束できるならば―――去れ」
「……ああ。約束しよう。頼まれたってごめんだね」

 男性はそう言い捨てて路地裏から姿を消す。
 言葉に出したようにもはやこの世界で生きていこうなどとは思えなかった。
 これまで多くの修羅場を潜り抜けてきた。それなりに自分が度胸と腕っ節が優れているのだと自負をしていた。
 だが、本物に出会ってしまったのだ。まごうことなき、本物の裏の世界の住人に。
 戦おうなどとは決して思えない。思うことすら許さない絶対的な、格の違い。根本的な、質の違い。命があっただけで幸運と思えてしまう。
 
「―――十年ぶりに故郷に帰るか」

 男性は自分にしか聞こえない程度で呟き―――。
 そして、海鳴の街から一人の男が消えた。

 路地裏から去っていくのを見届けた恭也は、これからどうするかと考え込むように口に手をあてる。
 忍に危害を加えようとしている誰かがいるらしい。だが、殺す―――というほど過激なものでもない。となれば、脅し。
 彼女は数少ない恭也の知り合い。できれば力になりたいと思うが、まずは忍の意見も聞かなければならない。自分ひとりで動き回るのも迷惑にしかならないだろう。
 それでも、危害を加えようとしているのが誰なのか。それは調べておいたほうがいいだろう。

 恭也は携帯電話を取り出すと、登録してある番号を探し、通話のボタンを押す。
 耳に当てると何度か着信を知らせる音が鳴り、やがて電話が繋がった。

『やぁ、恭也。こんな時間にどうしたんだい?』
「夜分すみませんが、急ぎ―――というわけではないのですが調べていただきたいことがあります」
 
 電話に出たのは女性の声。
 電話越しではあるが、恭也へ対する言葉遣いは親しさを感じさせる。

『ん。最近は警察の方の仕事も落ち着いてるし、恭也の頼みなら優先して受け付けるよ?』
「何時もご迷惑をおかけします」
『いいっていいって。ボクと恭也の仲じゃない?』

 電話の女性のどこか、からかう様な響きを言葉に乗せる。

「―――調べていただきたいことは月村忍という女性の身辺で不審なことがないか、です。もしあるようならば、誰が何の目的で行っているかも合わせて調べていただきたいのですが」
『……月村?どこかで聞いたことがあるような……まぁ、分かったよ。できるだけ早めに調べておくから』
「有難うございます。かかる費用のことですが―――」
『翠屋で御飯を奢ってくれればいいさ』
「しかし……」
『ボクにとってはそれが最高の報酬だからね。期待しているよ』
「……何時も助かります」
『ふふ。じゃあ、わかったら連絡をいれるよ。携帯でいいかい?』
「そうですね……はい。それでお願いします」
『それじゃあ、バーイ。恭也』

 今回は相手も機嫌がよかったのだろう。あっさりと頼みごとが終わったことに対して逆に驚いてしまう。
 何時もだったら、あーだこーだと様々な理由をつけてきたに違いないのだから。
 あの銀髪の小悪魔は―――頼りになるが、それ以上に厄介なところもある。
 果たして本当に翠屋で一回食事を奢れば済むのか……ぶるりと恭也の背中を悪寒が駆け抜けた。第六感が告げてくる。絶対に碌な事にならないと。

 今から考えても鬱になるので、とりあえず無理矢理考えないことにしようと決めた恭也は路地裏から抜け、高町家へと向かう。
 駅に着いた時に比べて少しばかり人の波は減少をしているようだが、まだまだ人混みが消える前兆は見えはしない。
 再度その人の波をすりぬけ、歩いて行く。ひんやりとした空気が恭也の頬をなでる。
 すれ違う人の数はどんどんと少なくなっていき、そのかわりに家が増えてきた。家から漏れる明かりが遥か先まで続いている。
 海鳴駅や海鳴臨海公園などは開発されて、様変わりをしていっているが、ここら一帯は昔から変わらない。
 恭也がこの街に住み始めてから八年程度だが、この住宅街だけはまるで時が止まったかのような、懐かしい気持ちにさせてくれる。

 住宅街を抜けた先、他の家とはまた異なる様相の家が建っていた。普通の家の三倍はある敷地。
 その周囲は石垣で囲われているが、敷地内には二階建ての家と、小さいが池もあり―――隅には道場まであるという大盤振る舞い。
 こここそが恭也の住んでいる場所であり―――多くの家族と暮らしている高町家である。

 門を抜け、玄関に到着。
 高町家は今では珍しいかもしれないが、玄関はドアではなく引き戸になっている。  
 手をかけてあけようとすると抵抗もなく開いた。どうやら鍵はかかっていなかったらしい。美由希が先に帰ってきているはずなので気を使ってくれたのだろうか。
 
「お帰りなさいですーおししょー」

 恭也を迎えたのは身長百四十程度の小柄な少女。
 緑色のショートカットヘアで、可愛らしいが童顔。小学生にしか見えないがこれでも明日には晴れて中学生の仲間入りをする年齢である。

「ああ。今帰った、レン」

 高町家が四女―――レン。本名は鳳蓮飛。実際に血のつながりは無い。
 桃子の親友であるレンの両親が海外赴任で日本にいないため、数年前から高町家で居候している。
 そのレンが恭也を出迎えたのだが……。

「何故そんな格好で出迎えてるんだ?」

 すでにお風呂に入ったのだろう。可愛らしいデフォルメの亀の刺繍がしてあるパジャマを着ている。これは全然問題ない。
 問題はレンの姿勢だ。玄関を入ってすぐの場所で正座をして深々とお辞儀をしていたのだ。

「お師匠を出迎えるんですからこれくらいは弟子としてせなあかんと思いまして……」
「まさか今まで待っていたのか?」
「いえー。美由希ちゃんが先程帰ってきましたので、時間的にお師匠おそろそろお帰りになられるのではと……。そしたら丁度お師匠の気配を感じましたんで」

 気配を感じたから、迎えに出た。
 レンが軽くいうのだからスルーされがちではあるが、その絶技に舌をまく。
 普段から恭也は意識して気配を抑えるようにしている。学校生活を送る上で、他の学生と遜色ないほどに。違和感を感じさせないために。ただの一学生を演じるために。
 レンは、言ってしまえばただの一般人レベルの恭也の気配をあっさりと感じ取っていたのだ。
 【戦いの天才】。恭也はレンをそう呼んでいる。
 恭也の知っている中でも美由希の才は群を抜いているといってもいい。間違いなく御神流の正統伝承者として恥ずかしくない剣士としてなれる器を持っている。
 その美由希を遥かに凌駕するのが鳳蓮飛だ。剣士としての才覚はない。武器を使わぬ無手の戦いならば、レンに勝てる相手を探すほうが難しい。
 決して切れぬ伸び代。研鑽を積めば積むほど桁外れの成長を見せる。恭也の心を躍らせるほどに―――その才は溢れている。
 本人自身はそれほど戦うことを好いていないのが唯一の欠点なのかもしれない、が。
 
「お師匠の気配を間違えることはうちは絶対にありませんよー」

 にこりと一点の曇りもない笑顔で答える。
 恭也は指で額をかくと、靴を脱ぎ家の中へと入った。それにレンも一歩後ろを歩いてついてくる。
 
「晶となのはは?」
「晶は今日は早めに家に帰る用事があったみたいです。なのちゃんは今さっきまでお師匠をまっとったんですけど、リビングで居眠りし始めてしもうたんで部屋で寝かせときました」
「すまんな。苦労をかける」
「美由希ちゃんが今お風呂使ってるんで、お師匠が使えるのはもうちょっと後になります」
「ああ、わかった」

 二人揃ってリビングへ入った途端、キッチンで食器を洗っていた女性が物音に気づき振り向く。
 見目麗しいという単語がピッタリあてはまるような容姿だ。光を反射する美しく長いブロンドの髪。
 知る人ぞ知る歌唄い。世界が注目する若手の歌手の一人―――フィアッセ・クリステラ。恭也の幼馴染にして、高町家の長女的存在。
 
 恭也の姿を認めると、パァと花がいたような笑顔で走りよってきて―――そのまま勢いよく恭也に抱きついた。
 軽い衝撃がはしるが、恭也ならば受け止めることは容易い。

「きょ~や~お帰りー!!」

 フィアッセは甘えるような声をあげ、恭也の胸に顔を埋めて背中に手をまわして抱きしめる。
 とても恭也より年上―――二十一になる女性の行動とは思えない。普段は大人っぽいのだが、恭也に関することは時折子供のような行動を取る時もある。
 それと抱きついてきているため、なんというかフィアッセの胸が恭也にあたって仕方ない。高町家最強を誇るその双丘は破壊力抜群だ。
 口にだすわけにもいかず、とりあえずフ黙ったまま抱擁を受け入れておく。やましい気持ちなど一片も―――ない。

「連絡くれないんだもん。心配したんだよ」
「悪かった。どうも鍛錬を始めると他のことが目に入らなくなってしまうから。迷惑をかけた」 
「もぅ。今度からはちゃんと連絡をいれてね」

 フィアッセは恭也から離れる前にチョンと鼻に触れるか触れないかで指を止め、メッと子供にするように叱る。
 恭也を叱ってはいるのだが、全くそんな様子には見えない。むしろ可愛さ満点だ。
 
「洗い物さきにしちゃうね。座って待っててー」
「手を止めさせてしまってすまんな。」  
 
 キッチンに戻ったフィアッセは食器を洗う仕事に戻る。
 恭也も荷物を置くと、傍にあったソファーに身を沈める。ついでにテレビのスイッチをつけるが、すでに時間も時間。ニュースくらいしかやっていない。
 視線を感じ、顔だけ後ろに振り向くと、レンがじとーと効果音がつきそうなくらい冷たい視線で窺ってきていた。
 レンの両手は自分の絶壁ともいえる両胸にあてている。

「おししょーの、おししょーの……おっぱい星人ー!!」

 そんな捨て台詞を残してレンはリビングから走り去っていく。ダンダンという階段を登る音が聞こえ、バタンと勢いよくドアを閉められた。
 恐らく自分の部屋に戻ったのだろう。呆然とそれを見送った二人は顔を見合わせる。

「なんだったんだ……?」
「さ、さぁ?」

 二人して首を傾げる。
 おっぱい星人などという不名誉な呼ばれ方をしたが、それは気にしないで置こうと心に決める恭也。
 決してフィアッセではわからないだろう。今のレンの気持ちは―――。
   
 兎に角去っていったレンのことは置いていて、恭也はテレビに流れるニュースを興味深げに眺める。
 それもそうだる。二週間近く世俗を離れて仙人のような生活と鍛錬をおこなっていたのだから、最近起こった出来事等は全くわからない。
 ちなみに流石に春休みの宿題は恭也はでていないので安心している。
 テレビを見ていた恭也の前にコトンと音をたてて湯飲みが置かれた。置いてくれたのはフィアッセだ。態々緑茶をいれてくれたらしい。
 ズズと音をたてて一口啜ると、お茶の香りと味が口の中に広がっていく。

「……うまい」
「そういってもらえると嬉しいよ」

 お茶を啜る恭也を、本当に嬉しそうに見るフィアッセとの間に沈黙が流れる。聞こえるのはテレビの音だけ。
 別に嫌な沈黙ではない。恭也は元々自分から喋るようなタイプでもなく、どちらかというとよく話すフィアッセも今は恭也の姿を見て満足しているような状況なのだから沈黙となるのも仕方ないことだろう。

「そう言えばかーさんはまだ翠屋にいるのか?」
「あー桃子はね。明日は朝早起きしないとだめだからってさっき寝たよー」
「む、そうだったのか」
「桃子はりきってたよ。可愛い娘の入学式だものね。しかも美由希とレンの二人同時だもん」
「そう考えると、時間の流れは早いものだ」

 なにやら爺臭いことをいう十八歳。
 若いというのに酷く老成した精神と雰囲気を持つ恭也は、桃子や美由希達に酷く呆れられるときもある。
 二人としては、いや高町家の皆の総意として若々しい趣味を持って欲しいと願っているのだが、それが決して叶えられる事はない望みということを全員が薄々感づいているのかもしれない。
 
 だが、恭也は本当に時が進むのは早いと思った。
 父である士郎が死に―――美由希に剣を指導するようになったあの日が昨日のことのように思い出せる。
 自分にできるのか、という迷いは何時もあった。
 それでも―――やるしかなかった。
 今の美由希を見て多少の満足感は覚えるが、まだ上への階段を一歩ずつあがっている最中だ。
 
「フィアッセは……のどの調子は?」
「うん。お蔭様で大分よくなったんだよー。調子がいいの、最近」 
「時間があるときに、また聞かせて欲しいな。フィアッセの歌を」
「うん!!」

 フィアッセが嬉しそうに頷く。彼女は歌を歌うのは好きだ。それ以上に恭也に聞いてもらえるのが―――何よりも嬉しいからだ。 
 イギリスにある超名門音楽学校。クリステラソングスクールに以前は在籍していたが、少し喉を痛めてしまい今現在は親交深かった高町家でお世話になっている。
 といっても、ここから少し離れた場所で親友とのルームシェアで部屋を借りているのだが、この家で寝泊りすることも実は多い。

 何気なく壁にかかっている時計を見ると短針が十一を指す時間になっていた。
 そろそろいい時間になってきている。飲みきった湯飲みをテーブルに置くと、フィアッセがお代わりはいる?と目で聞いてきていたので首を横に振る。
 すでに言葉を必要としないほどに二人は通じ合っていた。

「フィアッセは今日はマンションに戻るのか?」
「んー。私も準備するものがあるから一旦家にかえろうかなーと思ってるよ。明日は美由希の晴れ舞台だしね」
「なら送っていこうか?」
「大丈夫だよー。車で来ているから帰り道は心配しないでも大丈夫」
「そうだったか。珍しいな、車でくるなんて」
「あははー。暫く使ってなかったからね。明日のための試運転だよ」
 
 二人は立ち上がると玄関に向かう。
 玄関から車庫へと移動し、フィアッセが車に乗り込んだ。エンジン音がして、排気ガスのにおいが恭也の鼻にかかる。
 
「それじゃあ、恭也。また明日、ね?」
「ああ。気をつけてな」

 窓を開けて別れの挨拶を告げフィアッセは車を発進させて夜の街へと消えていった。
 恭也はそれを最後まで見送ると高町家に戻る。
 リビングに向かう途中で、風呂場からでてきた美由希にばったりとでくわす。長い髪だがすでにドライヤーでしっかりと乾かしていた。

「あ、きょーちゃん。お帰りなさい。先にお風呂使わせてもらったけど良かった?」
「ああ。お前も早く休め。明日の朝の鍛錬は無しにするから身体を癒せよ」
「はーい。きょーちゃんも……ほどほどに、ね」

 美由希は恭也を見て少しだけ辛そうな顔をする。
 そして、そのまま二階の自分の部屋へと戻っていった。
 
 恭也は飲んだ湯飲みを洗うと、二階の部屋へと一旦戻る。
 必要ない荷物を部屋に置くと、小太刀と飛針。鋼糸を持ち部屋を出た。
 既に皆が就寝している為できるだけ物音をたてないように高町家から外へと向かう。その際きっちり鍵をかけるのも忘れてはいない。

「さて、いくか」

 気合を入れるため言葉に出し、恭也が走った。
 家の明かりが煌々と煌く。すでにこの時間になると出くわす人間もほぼいない。
 
 目的地は何時も恭也と美由希が鍛錬している場所―――八束神社。
 美由希には休息を取るように言っておきながら恭也は休む気など全くなかった。他人に厳しいが、自分にはもっと厳しい。それが高町恭也。
 恭也の目指す先は何よりも遠く―――未だ辿りつけていない世界だ。
 かつてかわした約束を守るために、恭也は今日も刀を振るう。
  
 その全ては―――水無月殺音との再会のために。


















 高町恭也―――風芽丘学園三年を迎える、この年―――運命が廻転。

 時代の闇に蠢く化け物どもが―――高町恭也と運命を共にする者達が―――動き出す。

 それは偶然ではなく―――必然。








 高く連なるビルの屋上。
 そこに一人の少年がいた。月を見上げ、何を考えているか分からない、無機質な瞳で空を貫いている。

「今年は……面白い子に会えるかな。すぐに壊れない玩具に―――僕と遊べるニンゲンに」










 古ぼけた屋敷。広大な敷地を誇る日本家屋。
 その一室にか二人の少女が座っていた。

「で、一体私に何の用なのかなー。天守の次女さんが」
「―――貴女のことは聞いています。鬼頭家が次期当主候補の一人……鬼頭水面さん?」
「そりゃ光栄。噂に名高き天守翔(カケル)に知って貰えるなんて嬉しいわー」
「感情がこもっていませんよ?まぁ、いいです。それよりも貴女―――次期当主の座を確固たるものにしたくない?」
「なーにをかんがえてるのかなー。子供の過ぎたお遊びは身を滅ぼすよ?」 




 





 


 病院を感じさせる真っ白に壁を塗りつぶされた部屋。
 死の匂いが充満する中、長身の女性と小柄な女性が椅子に座っていた。

「最近はアンチナンバーズどもの動きが活発化していないか?」
「……そうだな。ナンバーズ(私達)の手がたりないというのに、労働基準法で訴えたい気分だ」
「お前の容姿で訴えに言っても鼻で笑われるのがおちだぞ?まぁ、それは置いておいて、一桁台の伝承級が沈黙を保っているのがまだ救いか」
「伝承級か……ナンバーⅥの【伝承墜とし】の詳細はまだ不明なのか?」
「情報がすくなすぎるな、奴に関しては。まぁ、互いに死なない程度でがんばるとするか。また会おう、フュンフ」
「お前も死ぬなよ、ドライ」













 人里離れた森の中にある屋敷。
 そこに幾つもの黒塗りの車が到着する。
 趣味の悪い服装のやや小太り気味の中年の男性を囲うように黒服達が展開する。

「ここに本当にあいつらがおるんかいな?」
「はっ!!情報通りならばここで間違いありません」
「この前雇った男はつかえんかったからな。今度はワシも本気や。【北斗】のメンバーならノエルでも相手にはならんやろう。まっとれや、忍の馬鹿たれが」











 広大な森林地帯を凄まじい速度で走りぬける一人の男性と、それに付き従うように駆ける少女が一人。
 しきりに背後を気にする少女。

「もう、おとーさまってば!!あんだけ私には手をだすな!!って言ったくせに自分が喧嘩うってるじゃない!!」
「う、うるせぇ!!仕方ないだろうが、あの場合は!?」
「……おとーさまって悪ぶってるくせに以外と甘いよねー。幾ら一宿一飯の恩があるからってアンチナンバーズの二桁台に戦いを挑むってさ」
「別にあいつらのためじゃねーよ!!あの化け物が俺の寝るのを邪魔したからだ!!」
「にゃふーん。これがツンデレってやつなのかなー」

























 そこは美しく、巨大な湖だった。
 水面には月が映し出され、幻想的な光景を作り出す。
 誰も近づかぬ、秘境。誰も近づかせぬ、永遠の地。
 私と彼の約束の場所。

 その湖の上で踊っていた。プラチナブロンドを靡かせて。月の祝福を受けるように女性が踊っていた。
 女性の足は不思議なことに水を弾くように沈まず、波紋を波立たせる。

 片方だけ開いた瞳が世界を見通す。
 世界を、未来を見通す魔眼の持ち主は静かに踊る。

「―――時は動き出します」

 タンタンタンとリズム良く。

「多くの魑魅魍魎が、青年と出会う。でも、それは全て青年の糧となる」

 バサリとゆれた髪が乱れる。

「全ての存在は所詮パーツに過ぎません。運命を形作る部品の一つ」

 ピタリと動きを止め空を見上げ、両手を広げた。

「私と青年が再び出会うために―――皆さん精々頑張ってくださいね?」

 ゆっくりと開け放った右目は金色に輝き、静かに世界を見つめていた。



















とらいあんぐるハート3 アナザーストーリー  【御神】と【不破】  開幕




 


 

  







[30788] 二章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2011/12/16 22:08






「そういえば恭ちゃん……師範代って鉄とか斬れるの?」

 ある日普段のように恭也と美由希が実戦を想定した訓練をして、相変わらずあっさりと美由希が敗北した時そう突然聞いてきたときがあった。
 恭ちゃんとよんだ瞬間、少し鋭い目つきで睨んだため慌てて師範代と言いなおした。訓練中は師範代と呼ぶことを厳命しているからだ。
 
「……また唐突だな。何かそれっぽい小説でも読んだのか?」
「ぅ……なんでわかっちゃうのかな」
「それくらい唐突だからだ。お前は読んだ小説にすぐに感化されるからな」

 恭也が美由希から少しだけ離れて小太刀を納刀する。
 再開するのかと美由希も戦闘態勢になろうとしたところで、恭也は首を振った。

「鉄を斬る技術。斬鉄と言ったところか。別に細い鉄程度ならどうにでもできるぞ。俺でもお前でもな」
「え、そうなの?」
「それほど太くない、という条件はつくが。ある程度剣を学んだ者なら恐らくできるだろう」

 恭也の前には巨大な木があった。その幹の太さはゆうに一メートルを越えているだろう。それほど太く大きな樹木であった。
 美由希は恭也がなにをするのか不思議に思っていたが、僅かな間合いを取ってその樹木の前で抜刀術の体勢を取る。
 まさか―――と思う間もなく。

「……シッ」

 光が奔った。
 輝きを残す、光が煌く。その閃光を美由希は刀が残した軌跡だとは認識できなかった。それほどに速く、人の理解できる域を超越していたのだから。
 何時抜いたのかもわからぬほどの音速で抜刀された小太刀が目の前の樹木を斬りつけた。
 が―――。

「まぁ、これだけ太いとさすがにこうなる」

 恭也が小太刀を鞘におさめ、美由希へと振り返る。
 美由希はまじまじと恭也が斬りつけた樹木を見るが特に変化はない。てっきり真っ二つにでもするのかとおもっていただけにちょっとだけがっかりする。
 
「小説を読むのはいいがあまり感化されるなよ?」
「はーい」
「では、少しは休めたか?再開するぞ。今から一分の間時間をやる。その間に罠を仕掛けるなり、身を隠すなりしろ」
「……」

 返事もなく、美由希は即座にその場から姿を消す。
 一分という時間をどれだけ有効に使うか考えながら……森の中を走り去る。
 恭也と美由希の力量差はまともにやったら絶望的。例え、罠や奇襲を仕掛けたとしてもどうにもならないほどだ。
 だからこそ美由希は考える。どうすれば恭也に一泡ふかせれるのか。

「……」

 両腕を組んで目を瞑り、頭の中で秒数をカウントをする。
 風が吹き、木々の葉を揺らす。ざわざわという音が恭也の耳を打つ。

 そして―――。

 恭也の背後にあった木が……【ずれた】。
 ズズズという不気味な音をたてて、ずれていく。ずれていく。ずれていく。ずれていく。斜めに斬りつけられた剣閃の跡が、一分近くたった今になってようやく樹木に斬られたことを思い出させたかのように。
 地響きを立てて半ばから斬られた木が大地へと倒れ伏した。その斬り口のなんと滑らかなことか。ひっつければまたぴたりとくっつくのではないかという幻想さえ抱ける。
 
「―――まだお前には見えなかったか、美由希」

 少しだけ残念そうに呟いた恭也の独り言は―――風の音とともに消えていった。

 




















 高町恭也の朝は早い。
 お年寄りも真っ青な時間帯に目を覚ます。
 目覚まし時計をかけてはいるが、毎回なる前に目を覚まし、アラームを前もって止めるのが日課といってもいい。
 合宿の疲れはあったがそれでも恭也は何時も通りに睡眠から目覚め、布団から起き上がり身体を軽くほぐす。

「懐かしい、夢か」

 やけに鮮明に見た夢だった。
 あれは何時ごろだったろうか。まだ一年ほどしかたっていないくらいの昔だったかもしれない。
 あの時放ったのはただの抜刀による斬撃だ。御神流の基本技術。斬を極めた者は鉄さえも切り裂く。そう言わしめるほどの境地に至れる。確かにそうだ。記憶にある御神の剣士達もその域に達していた者も幾人かはいた。
 今の美由希ならば鉄をも両断できるだろう。御神流の剣士としての腕前はそれほどまでに成長している。
 だが―――恭也は鋼すらも断つ。
 今の恭也は基本であるはずのただの斬撃が、すでに必殺の域にまで達していた。
 
 横目で見た時計は朝四時を示している。
 動きやすい服装に着替え、昨日の夜と同じく音をたてずに高町家から外へと出る。
 時間が朝早いだけにまだ日の出はまだのようだ。辺りは薄暗い。

 何度か深呼吸をくりかえし、ランニングを開始した。普通の人が見たら驚くほどの速度のランニングではあるが。
 途中で何人かではあるが、すれ違ったので挨拶をしておく。
 何時もこの時間帯で会う人は決まっていて、特に親しいというわけではないが顔見知りが何人かいる。
 
 朝靄がうかぶ空気を裂きながら走る。
 やがて長く続く階段へとたどり着き、それまでと同じ速度で階段を駆け上がる。
 止まることなく終わりまで駆け抜けると、前に広がるのは赤い鳥居とその先の神社が見えた。
 八束神社―――ここの後方に広がる広大な森林が恭也達の訓練場所である。
 実戦は常に万全の状態でできるわけではない。
 それを想定してどのような状況でも全力をだせれるように、恭也達の鍛錬場所は敢えて障害物の多い森の中を選んでいた。

 普段から使っている鍛錬の場所。そこは長年の鍛錬の結果、多少は動きやすいようひらけた空間となっている。
 そこの丁度中央付近で足を止めた恭也は小太刀を抜こうともせず、足を肩幅程度に開き手をだらりとさげた状態となる。所謂無形の位だ。

 何分そうしていただろう。
 ただ立っているだけの恭也の額から汗がしたたり落ちる。
 そして、抜刀。何もない空間を断ち切った。

 それと同時に、跳ねたように後ろへと跳躍。地面に足をつけると横へ今度は転がる。
 即座に体勢を立て直し、牽制するように一振り。続いて、もう一振りを斬り上げようとした瞬間、刀を振るのをとめ、半身になって迫ってきていた【何か】をかわす。
 右手の小太刀で頭上から落ちてきた【何か】を弾く。弾くと同時に左の小太刀で見えない敵に対して斬り付けた。

 もし、この光景を見ている者が居たならば恭也が戦っている空想の敵を肉眼で確認できただろう。
 それほどにイメージで作られた敵と戦う恭也の姿は鬼気迫るものを感じさせるのだから。
 例えるならば究極に近いリアルシャドー。戦うべき相手のできること、できないことを確固たるイメージとして固め、そのイメージと戦う。
 今戦っているイメージは―――五年前に敗北を喫した女性。アンチナンバーズが××。
 以前の恭也ならば相手にもならなかった強敵。そのはずだったが―――。

 森を縦横無尽に駆け回る恭也は、木々を盾とし、障害物を利用し、三次元的な動きで相手を翻弄する。
 木の枝を蹴りつけ、空から強襲。相手の背後へと回りこみ、そこでさらに加速。
 見えないはずの相手を断ち切った。そしてイメージした敵は一瞬で霧散。残されたのは小太刀を振り切ったままの体勢の恭也だけであった。

「……駄目だな、この程度では」

 深いため息。
 イメージしていたあの女性との戦いは確かに恭也の勝利で終わった。
 だが、所詮はイメージはイメージ。実際に戦ってみなければ勝敗がどうなるかわからない。
 ましてや、恭也の中のあの女性の強さは―――五年前のお遊びのように戦っていた力量そのままなのだから。戦い方も動きもスピードも、その全てがあの時の女性の見せたものを想定している。
 あの底知れぬ女性の力が一体どれほどのものなのか……今の自分が負けるとは思っていない。しかし、勝てるとも思っていない。それほどまでにあの女性は強かったのだから。

 なんといってもあの女性はアンチナンバーズの一桁台。
 伝承級と称されるいかれにいかれた化け物どもの頂点に立つ生物。水無月殺音に匹敵……或いは凌駕するという存在なのだ。

 ナンバーズと呼ばれる組織がある。
 対化け物専門の世界最強を名乗ることを許された戦闘集団。設立時期は不明。随分と昔から化け物を狩る組織として存在したという。
 多くの戦闘要員を有しているが、その中でも特に優れた十二人は【数字持ち】と呼ばれ、夜の一族から恐れられている。真っ向から戦いを挑むことは死神に喧嘩を売るようなものだと子守唄のように聞かされているという。
 HGS能力者によって構成されていることが多い。特にナンバーⅢ。【神速の踊り手】の通り名を持つドライと呼ばれる女性は圧倒的な殺戮能力を持ち、ナンバーズ設立史上最高のアンチナンバーズ撃墜数を誇る。続いては【爆殺姫】の通り名を持つフュンフ。この二人を筆頭として今代のナンバーズは歴史上最強戦力と噂されている。
 それぞれの数字を与えられた者達は世界各国を走り回りアンチナンバーズと呼ばれる化け物達を処理してまわっているという。

 そしてナンバーズと対になる組織としてアンチナンバーズと呼ばれる集団がある。
 ナンバーズによって定められた処理対象。そのほとんどが夜の一族ではあるが、人間でも人類社会に多くの被害をもたらした者なら対象に加えられる。
 あくまで人類社会に対する危険度が優先されるためアンチナンバーがⅠに近ければ強いということではない。
 ただし、アンチナンバーⅠからⅨまでは別格と考えられている。Ⅹ以降はナンバーズによって定められるが、Ⅸまでは基本的に固定なのだ。ⅠからⅨまでは寿命で死んだ場合はナンバーの繰り上がりが行われる。もしくは寿命を感じ、本人の意思によるナンバーの継承を行わない限り変化は起きない。
 例外が、一対一の戦いで撃破すること。力によるナンバーの強奪。そうすれば例えアンチナンバーC(100)の者だろうがアンチナンバーⅤを倒せば一気にそこまでナンバーが繰り上がる。そのような奇跡は起きたことはないのだが。そう、それはまさに奇跡ともいえる。それほど規格外の化け物達なのだ。
 アンチナンバーⅨまでは圧倒的にして絶対的。超絶的な戦闘力を誇り、それゆえに一桁台はこう呼ばれる。歴史にさえも名を残す化け物達。即ち伝承級、と。  
 
 いや、一度だけそんな奇跡が起きたことがある。アンチナンバーⅥを単独にて、撃破せしめたものがいる。
 故にその者はこう呼ばれた―――伝承墜とし。
 それが一体誰なのか、情報は開示されていない。というか、ナンバーズでも把握しきれていないというほうが正しい。
 ただ、結果だけが届けられた。一人の女性によって。当時のアンチナンバーズⅥが敗れ去ったということを。それを伝えたのが―――。

「未来を見通す天なる眼を持つ者―――アンチナンバーズが【Ⅱ】。六百年以上の時を生きる最古参の魔人―――」

 そう……恭也の膝を砕いた張本人。
 名乗った本人の談を信じるならば―――現在確認されている生き続けている最古の夜の一族。
 夜の一族の世界にも、人の社会にも不干渉を保つ人外の中の人外。その人外が圧倒的な力を持って唯一手をだしてきたことがあった。

 それが、アンチナンバーズ【Ⅰ】の【剣の頂に立つ者】が六百年もの昔亡くなり、繰り上がるはずだった彼女は―――その席に自分が座ろうとはしなかった。否、決して誰も座らせようとはしなかった。第一席を狙っていた当時のアンチナンバーズの二桁台の化け物達数十人を殺してまで。
 それ以降、第一席には誰一人として選ばれていない。決して誰も座ることのない永久欠番。
 触れてはならぬ禁忌。戦ってはならぬ同族殺しの化け物。
 十数年前に、数千人規模の虐殺を高笑いをあげながら実行し続けた―――アンチナンバーズ【Ⅳ】魔導を極めた王―――の師にして、育ての親。

 それが、未来を見通す天なる眼を持つ者―――天眼。

 誰もが恐れ、関わり合いになることを避けるであろう化け物だが……。

 二振りの小太刀が迸る銀閃を描く。
 幾度斬ったのか視認さえも許さない雷の如き速度。
 恭也の周囲に舞い降りてきた木の葉が剣の結界に触れた瞬間切り刻まれ、微塵となって消えていく。

「―――借りは必ず返す」

 









 
 










 本日は四月六日。
 風芽丘学園と海鳴中央の入学式であり、二年と三年にとっては始業式ともなる日だ。
 美由希とレンはそれぞれの学校の一年生として入学することとなる。対して恭也は風芽丘学園の三年。高町家の三女―――城島晶は海鳴中央の二年になった。
 流石にこの記念日にぎりぎりまで鍛錬をするわけにもいかないので、できるだけ早めに鍛錬をきりあげ高町家へと恭也は帰った。

 玄関の引き戸を開けると、恭也の鼻をくすぐるのは味噌汁の良い香りだ。
 その匂いから今日の朝食を作っているのは桃子か晶のどちらかだと予想がたった。
 基本的に高町家の食事当番は四人でローテーションを組まれている。桃子、フィアッセ、レン、晶の四人だ。どうしても料理当番が都合がつかないときに恭也。そして恭也も駄目な時はなのは。ただし、なのははまだ小学二年生。簡単なものしかまだできない。
 なのはも駄目だったらもはや最終手段―――外食である。一人欠けている気もするが、そう高町家の法律で決められているのだ。
 
 料理の傾向として桃子が料理は基本的に和洋中なんでもオールマイティーにいける。どれもこれもがプロレベル。というか、本当にプロなのだが。
 対してフィアッセは洋食専門。レンは見かけどおり中華。晶は和食やその他色々。この三人も十分にお金を取れる腕をしているといっても過言ではない。
 だから、味噌汁の匂いをかげば作っているのがどちらかに絞れるのだ。

 リビングに足を踏み入れるとキッチンで忙しそうに動き回っていたのは、青みがかったショートカットヘア。ボーイッシュな雰囲気を纏った少女であった。
 少女は味噌汁をお玉で掬い、小皿にうつし味見をしている。

「よし!!良い出来!!」

 一人でガッツポーズを取った少女が、テーブルに焼き魚を乗せた食器を持ち運ぼうとして―――恭也にじっと見られていたのに気づいた。

「し、師匠!?いたんですかー!?」
「ああ。今帰ってきたところだ」
「い、いるならいるっていってくださいよー。滅茶苦茶びっくりしたじゃないですかー俺」
「いや、なに。晶、お前は楽しそうに料理を作るなと思っていたところだ」
「うう……変なところみられちゃった……恥ずかしい」

 晶と呼ばれた少女は若干顔を赤くしてそっぽをむく。
 セーター服の上からエプロンを着ているが、それが不思議と似合っている。
 スカートから見える素足が健康的な色気を醸し出している、が―――髪が短いうえに私服も男っぽいものも多く、一人称が俺。
 そのためセーラー服を着ていない限りは七割の人が少年と間違えてしまう。
 最も本人は間違えれらることに慣れているため、そんなに気にしていないという。

「かーさんはまさかまだ寝ているのか?」

 時間はまだ六時三十分なので寝ていたとしても十分に間に合う時間なのだろうが、まさかあの桃子がこの時間におきていないことがあるとは寝ているとは思えなかった。
 しかし、朝食の準備もしていないので他にどこにいるのか訝しがる。

「あー、桃子さんは美由希ちゃんとレンの制服の着替えをみてます!!」
「ああ、そうか。今までとは違う制服になったしな」
「美由希ちゃんには風芽丘の制服にあいそうですよね。レンは微妙でしょうけど」
「……レンとあまり喧嘩はするなよ。なのはに怒られるぞ?」
「う……気、気をつけます」

 テレビをつけてソファーに座ろうとした恭也だったが、まだ一人起きてきていない家族がいるのに気づく。
 
「なのははまだ起きてきていないか?」
「あー。そうですね。多分まだ寝てますよー」
「では、俺が起こしてこよう」
「お願いしても大丈夫ですか?お願いします、師匠!!」

 階段を昇ると幾つもの部屋がある。レンと晶、恭也と美由希。そしてなのはの部屋。
 廊下を進み角部屋となる部屋の前までいくとドアを軽く叩く。ちなみにドアには可愛らしい字で【なのは】とかかれていた。

「なのは。もう朝だぞ。起きているか?」
 
 返ってくるのは静寂。
 どうやらまだ起きていないのは確実のようだ。
 再度ドアを叩く。今度は先程叩いたよりも強く。しかし、反応はない。

「入るぞ、なのは」

 一応断ってから扉をあける。
 なのはの部屋は小学生の部屋とは思えない空間だった。机はしっかりと片付けられており、デジカメやパソコンなどの機器がおかれている。
 まだ小学二年生なのにこれらを完璧に使いこなすのだから恭也からしてみれば実に大したものだと感心せざるを得ない。今でこそようやくパソコンを使えるようになってはきたが、幼いころの自分はなのはくらいの年頃なにをやっていただろうと昔を思い馳せる。

 ―――剣の修行と士郎につれられて全国を回っていた記憶しかなかった。

 ろくでもない記憶を意識的に片隅においやる。
 ふと見ると机の上やベッドの枕元には多くの人形が飾ってある。その大部分は恭也がプレゼントとして送ったものであり、しっかり飾ってあるのをみると喜びを感じてしまう。まさに兄冥利につきるであろう。
 
「―――なのは。そろそろ起きる時間だぞ?」
「……すぅ……すぅ……」

 返ってくるのは可愛らしい寝息。
 小動物のようにまるまってベッドで寝ているなのはとよばれた幼女。
 今年私立聖祥大学付属小学校の二年生となる、高町家の末っ子であり、正真正銘血の繋がりがある恭也の妹だ。
 なのはは朝に強い恭也や桃子とは異なり、非常に朝に弱い。かわりにどんな時でもあっという間に眠れるというある意味羨ましい特技を持つ。
 声をかけてもまったく起きる様子もないなのはに嘆息しつつ、肩に手をかけて軽く揺り動かす。

「遅刻するぞ。起きろなのは」
「……ぅにゅ……」

 ようやく目をあけるなのはだったが、焦点があっていない。
 ゆっくりとベッドから上半身だけ起き上がって、まだまだ寝ぼけ眼で恭也を見る。
 しばらくぼーとしていたなのはだったが、起こしにきたのが恭也だと気づいた瞬間―――。

「おはよう!!おにーちゃん!!」

 にぱっという向日葵のような見るものを暖かくさせる笑顔を向けてきた。
 美人や可愛いといった女性は多く知っているが、そういった女性達とはまた別の魅力がなのはにはあった。
 子供ゆえの純粋さ。子供ゆえの無邪気さ。
 なのはの笑顔を見ると安心する。恭也はなのはと一緒にいる時は数少ない心が安らぐ時であった。

「ああ。お早う。今日は起きるのが早いな?」
「ぅ……だっておにーちゃんが起こしてくれたから……」

 恥ずかしそうに俯くなのは。
 その手の趣味がある人ならばお持ち帰りをしてもおかしくはない可愛らしさ満点だ。
 
「昨日は遅くなってすまなかった。本当ならもう少しゆっくり帰ってくるはずだったんだが……」
「ううん。私も起きてなくてごめんなさい……」

 今度はシュンとしたように笑顔を曇らせるなのは。
 昨日恭也が帰ってきた時間は夜遅い。まだ幼いなのはが限界ぎりぎりまで起きて恭也をまっていたのだから、寝てしまったとしても仕方ない。むしろそこまで頑張って起きていたのだから謝られることなど少しもない。
 ぽんっと頭に手を置くと寝癖になっている髪をなおすようにさする。

「気にするな。それより早く顔を洗ってくるといい。バスの時間に遅れるぞ?」
「……あ、そうだね」

 なのははベッドからおりるとちょこちょこと効果音がなるような歩き方で部屋から出て行く。
 その一歩手前で立ち止まると、恭也へと振り向く。

「起こしてくれて有難うね、おにーちゃん!!」

 語尾にハートマークが着いていそうな嬉しそうな響きを残してなのはが一階へとおりていった。
 殆どのクラスメイトが妹とはうまく行っていないという話を時々耳に挟むが、高町家ではそのようなことはないようで正直胸を撫で下ろす。
 まだ幼いということもあるだろう。だが、なのはが成長して年頃になったらどうなるのだろうか。
 反抗するなのはをイメージして気が重くなる。どうやら相当なダメージを負う事は間違いないようだ。
 どうか、なのははずっとあのままでありますようにと珍しく神頼みをした恭也も一階のチビングへと戻る。

「あ、きょーちゃん。おはよー」
「お師匠。おはようございます」
「お、流石に今日ばかりは帰ってくるの早かったわねぇ」

 なのはを起こしに行っている間にリビングには美由希とレンと桃子が戻ってきていた。
 美由希は風芽丘学園の制服。胸元の学年色を示す黄色のリボンも輝いている。
 対してレンは海鳴中央の制服だ。二人ともおろしたての制服のため皺もなく、初々しさが身体全体からあふれ出ている。
 そんな二人を見ていた恭也だったが、桃子が突然近づいてきて―――美由希やレンに聞こえないような小さな声で囁く。

「ちょっと、恭也?ちょっとは何か言いなさいよ?」
「……何か、とは?」 

 そう聞き返した恭也を、桃子は―――うわー何言ってんのこの子―――というような駄目な子を見る目で見返してくる。
 はぁとため息をつきながら首を振る。

「ここまで朴念仁なのも国宝級ね……新しい制服きているんだから褒めてあげなさいってことよ」
「……そういうことか」
「そうそう。そういうことよ」

 桃子の台詞の意味がわかった恭也が頷くが、桃子は半ば投げやりにそう返事をする。
 成る程。桃子の言葉を理解してみれば、簡単なことだった。
 美由希もレンもどこかそわそわとして落ち着きがない。普段では全くありえない事だ。視線をあちらこちらに向けているように見えるが、ちらちらと恭也を窺っているのは明らか。
 つまり、二人は恭也の感想を聞きたいのだろう。それにようやく気づいた恭也が遠慮がちではあるが二人の制服姿を見る。あまりじろじろみるのも悪いかと思ったからだ。
 つい先日までは二人とも別の制服をきていたのだから、確かに新鮮な姿だ。
 しかし、美麗字句を並び立てるのも恭也には似合わない。というかそんなことができたら朴念仁などと決して呼ばれないだろう。

「二人とも、まぁ、なんだ……よく似合っている」

 結局恭也が告げたのはそれだけであった。
 桃子はそんな恭也の感想に嘆息するしかなかったが―――まぁ、いいかと思うしかなかった。
 
「えへへ……」
「有難うございます。お師匠」

 美由希とレンは素直に恭也の賛辞に照れていた。
 二人とも長い付き合いなので、今のが恭也の最大限の褒め言葉だということを知っているからだ。
 最悪何も言われないか、良くても馬子にも衣装―――程度のことを予想していただけに意外すぎる恭也の台詞に照れを隠し切れない。
 
 この程度のことをいうのにも恥ずかしかったのか恭也は無言で朝食が並べられているテーブルに座り新聞を広げる。
 そんな恭也の姿に三人は苦笑しかできない。
 そうこうするうちになのはも顔を洗ってきたのだろう、起こしたばかりのときのような寝ぼけ眼ではなく、しっかりと目を覚ました様子でリビングにやってくる。
 これで一応高町家にいる全員が揃ったことになる。普段だったらフィアッセもいるが、今日はマンションの方に戻っているのでまだきていないようだ。
 全員が椅子に座り、食事の前の挨拶を済ませ、朝食に舌鼓をうつ。
 ゆっくりと味わいたいところだが時間的にもそういうわけにもいかない。手早く皆が食事を終えると桃子が食器を洗い始めた。

「すみません。後はお願いしてもいいですか?」
「いーのいーの。桃子さんに任せておきなさい」

 晶が申し訳なさそうに謝っている。時間も迫ってきているだけに洗い物までする時間が厳しかったのだ。それに桃子は笑いながら胸をドンと叩いて答えた。
 普段なら桃子も店長を務める翠屋にいかなければならないが、今日はお休みを貰っていた。翠屋は人気の洋風喫茶ということもあり休みを取ること自体なかなか厳しいのだが、今回ばかりは二人の愛娘の入学式ということもあるためアシスタントコックの松尾さんの許可をしっかり取っている。
 
 恭也も部屋に戻り風芽丘学園の制服に着替えると一階へ戻る。
 玄関にはすでに美由希とレンと晶、そしてなのはの姿が見えた。そこへエプロンで手をふきながら桃子もやってくる。
 
「じゃあ、また後でね。いってらっしゃい」
「「「「いってきまーす」」」」
「ああ。行ってくる」

 桃子に見送られ恭也達は学校へと向かう。
 風芽丘学園と私立海鳴中央は同じ敷地内にある学校だ。少子化が進む昨今ではあるが、部活動では運動部が優秀で力を入れていることもあり多くの学生が集まっている。
 巨大な土地面積と生徒数をほこるマンモス学校である。

 四人連れ添って歩いている姿を知らない人が見たらどう思うだろうか。
 仲がいい兄弟と思う人が多いかもしれない。年齢の離れた友達同士と思うかもしれない。
 もちろんそれは制服で登校しているからであり―――私服であったらまた意見も変わってくるだろう。
 間違いなく恭也となのはは親子。レンと晶は下手をしたら……年若いカップルに見られるかもしれない。

 なのはは皆で登校できるのが嬉しいのか上機嫌で歩いている。
 普段は誰か一人とバス停までしか一緒ではないので、これだけ大人数でいられるのは嬉しいのだろう。
 通りがかる近所の人達に挨拶しながら数分。私立聖祥大学付属に通う小学生達が集まっているバス停に到着した。
 
「あ、なのは。おはようー」
「おはよーアリサちゃん」

 なのはが仲の良い友達―――というのは少し年齢が離れているようにも思えるが―――見かけ駆け寄る。金の髪が美しい、元気溌剌そうな少女だ。
 アリサ・ローウェル。名前の通り日本人ではない。そして、両親もいない。もっと幼い時から孤児院で過ごしていたが、最近になって養子として迎えられたらしい。普通ならば捻くれたりするのだろうが、そんな翳りなど一切持たない少女である。
 歳は丁度十。なのはよりも少しだけ年上ではあるが、姉妹のように仲がいい。
 以前に―――とある事件を経て高町家と交流を持つようになり、それが縁でなのはとも仲が良くなったのだ。

 仲良く二人で話をしていると、時間になったのか毎朝迎えに来る聖祥大学付属小学校専属のバスが到着した。
 なのはとアリサ。その他の待っていた子供達もバスに乗り出発。その間際窓ガラスごしにアリサが恭也に向かってウィンクをしてくる。
 それに軽く手を挙げて答える恭也。それだけでアリサは満面の笑顔を残していった。

「アリサちゃんも相変わらずですね」
「おししょーって小さい女の子にもてますよねー」
「そうそう。恭ちゃんってなんか変なフェロモンでもだしてるんじゃ―――」

 晶とレンに重なるように発言した美由希だったが、言い終わるよりも早く恭也の右手がぶれた。それに気づいた美由希が迫ってくる右手を防ごうとして―――その右手は蜃気楼のように実体をなくし、美由希の額にデコピンが直撃する。
 脳を揺らすかのような衝撃がはしり、美由希はふらふらと後ろに倒れそうになるが、電信柱が背についたおかげでそれは阻止することが出来た。

「あ、あれ……?何やってるの美由希ちゃん?」
「お。おししょーの【それ】って何時も思うんですけど凄すぎますよー」

 晶は突然苦しみだした美由希を呆然と見ている。何が起きたのか全く分かっていないようだ。
 レンは美由希がなにをされたのかわかったらしく、額を痛そうに押さえる。美由希がされたのをみて自分も痛いような錯覚を感じたせいだろう。   
  
「二人とも早く行かないと遅刻するぞ?」
「あ、そうですね」
「流石に今日遅刻したら洒落になりませんしねー」

 苦しんでいる美由希をおいて三人は先へ行ってしまう。
 それを見た美由希が額を片手で押さえながら追いかけてきた。何時も喰らっているせいで耐性ができたのだろうか。普段だったらもう少し長い間苦しんでいたはずなのだが。
    
「デコピン一発にも徹を込めれる師範代を褒めるべきか、防げれない自分の未熟さを戒めるべきか……」

 涙目になってそうヒリヒリと痛む額を気にする美由希だったが―――。

「徹だけだと思ったか?」
「え?徹……じゃない、の?」
「いや、今のお前にしては上出来だ」
「え、ええー?」

 いまいち納得できない。そんな様子の美由希だったが、こういう意味深な発言をした時は追求しても話してはくれないことを経験上知っているので大人しく諦める。
 そして考える。意味もなく恭也があんなことを聞くはずがない。聞くはずが……な、ないかもしれない。
 不安になる美由希だったが、先程の恭也のデコピンを脳裏に浮かべる。
 確かに受けた一撃は徹のこもったデコピンだった。衝撃を完璧に内側へと伝える技術。最近になってようやく使いこなせるようになったのだから間違いようがない。デコピン一発でもわかる兄の凄まじい基本の錬度。
 他に何があるのか思い出そうとした美由希だったが―――思い至る。
 恭也の右手の動きは速かったが、防げないほどではなかった。かなり手を抜いていたのだろう。美由希でも防ごうと防御をすることができたのだから。
 問題はその後だ。恭也の右手を押さえたと思った瞬間―――それをすり抜けるようにしてデコピンを叩き込まれた。確実に防げたはずなのに。幻を見せられたかのように。

 ―――わざと右手の動きを遅くした?私が反応できるように?

 恐らくそれは間違いない。
 何故なら普段の恭也だったならば気がついたときにはすでに額に打ち込まれているのだから。
 だというのに今回は視認して、なおかつ防ぐ時間もあった。そして……防御をすり抜けた。
 それを見せたかったのだろう。気づいて欲しかったのだろう。今のデコピン一つに込められた、技術に。

 だが―――。

 口元を面白げに歪めていた恭也をちらりと横目で見て……ただたんに面白そうだから打ったんじゃないかと不安になる美由希だった。
 詳しい追求は今は無理でも鍛錬の時にでも聞こうととりあえず忘れ、恭也に追いつき、並んで歩き出す。

 四人が幾分かゆっくり歩きながら学校へと向かう。
 その途中多くの学生もその道へと合流してきた。千人を軽く超える規模の学校のため、通学路となる道は学生で一杯だ。
 その中には多くの新入生と思わしき若い少年少女が混じっている。
 ピカピカに光るおろしたての制服に、希望を胸に膨らませ学校へと向かっているところだ。

 随分とゆっくりと来た割には時間には余裕が見て取れた。校舎の前に、学年ごとに貼られているクラス分けを見てみると……恭也は風芽丘学園三年G組であった。
 他に見知った知り合いがいないか順番に見ていくが―――発見したのは赤星勇吾と月村忍。
 恭也の三人しかいない友達のうち二人までが同じクラスになったのを胸を撫で下ろしたい気分だった。神は恭也を見捨てなかったのだ。
 クラス分け程度で大げさな話だが、恭也にとっては死活問題だ。
 恭也は授業のほぼ半分近くを睡眠に費やすことも少なくない。となったら問題はノートだ。
 授業態度はもはやどうしようもないが、テストでそこそこの点数さえとれれば問題な……くもないが、補習は免れる。
 真面目な赤星と一緒になればノートの心配はない。良く考えたら月村忍は恭也以上に授業中寝ているのだからあまり期待できなかった。
 結局は知り合い二人がクラスメイトになれたのが嬉しかっただけだが。

「それじゃあ、お師匠。また後でですー」
「また始業式終わったら一緒に帰りましょうね!!師匠!!」
「ああ。二人とも入学式から喧嘩はするなよ?」

 私立海鳴中央のレンと晶は校舎が違うので恭也達と別れ、別の校舎へと向かっていく。
 美由希は自分に挨拶をされなかったことを少し寂しく思ったが、何時ものことなのですぐさま立ち直る。
 恭也と一緒に風芽丘学園の校舎に入り、上履きに履き替えた。
  
「一年の教室は三階にある。クラスは何だ?」
「えーと。Aクラスだったかな」
「それならば、そこの階段を三階まで上がって一番手前の教室のはずだ」
「有難うね、きょーちゃん」
「道に迷うなよ?」
「……階段上がるだけなんだから迷いようがないと思うよ」
「お前ならやりかねんしな。剣を握っている時以外のお前の行動はあまり信用できん」
「……うう。あまり反論できないのが悔しいよ」
 
 口を尖らせて上目使いで睨んでくる美由希。
 その子供っぽい様子に少しだけ苦笑する。

「また後でな」
「……え?う、うん。また後でね、きょーちゃん」

 恭也と別れた美由希は階段をあがっていく。
 同じようにのぼっていく生徒もいれば降りてくる生徒もいる。
 
 そして―――。

 空気が凍ったような気がした。
 ピキィと音をたてて一瞬で周囲の温度が下がっていく。その冷気を発するモノが階段をおりてくる。反射的に身構えてしまう美由希。その場から逃げ出したくなる負のオーラ。
 三階へと続く階段の踊り場から姿を現したのはただの少年であった。いや、ただのというには語弊があるだろう。百七十を少しこえたくらいの身長。これは問題ない。問題があるとすれば容姿だ。これほど禍々しい気配を発する人物の癖に―――そこらのアイドル顔負けの美形。
 のぼっていく美由希とおりてくる少年。その間の空気が異常なほどに壊れていった。少年は美由希のことなど眼中にないかのように……。
 身体を反射的に抱きしめたくなるような寒気。少年の姿が―――どう見ても人間なのに、どう見ても人間にはみえない。
 
 ただ歩いているだけだというのに―――その背後には言葉には出来ないおぞましい何かが渦巻いて見えた。
 不吉な気配を撒き散らしながら、少年は美由希の前で階段をおりるのをやめ……。

「やぁ、キミは新入生かい?」

 朗らかに話しかけてきた。
 あまりに急な問い掛けに返事がつまる。そして何とか頷くことで是とした。

「ああ。胸元のリボンの色で学年の色が分かれているからね?だからすぐにわかったのさ。だからそう、警戒しないでほしいんだけどね」
「……」

 にこにこと邪気などいっさない微笑み。まるで幼児のようなその笑顔をみて、普通の人ならば警戒心を解かれ、魅了されたかもしれない。
 だが、美由希は全く駄目だった。おかしいのだ、この少年は。頭のてっぺんからつま先まで―――その全てが、何かがおかしい。
 
「うーん。困ったなぁ。初対面でここまで警戒されたのは、初めてかもしれないね」

 本当に困ったように頬をかく少年。そんなとこまで絵になっているのが美形故だろうか。
 何も知らない初心な娘ならばこの少年に少しでも囁かれたら恋に落ちてしまうかもしれない。
 美由希に限ってはそんなことはないが―――だって、こんなにも異質な人間に、どうやって好意を抱けというのか。

「あー。自己紹介がまだだったね、失礼。僕の名前は―――太郎。山田太郎というんだ。風芽丘学園の二年生になったばかりの若輩者だよ」
「……偽名?」
「いやー酷いなー。まー、でも皆そんな反応するけどね。あはははー」

 あまりにあまりすぎる名前の少年……山田太郎は美由希の返答に笑って返した。
 苗字と名前が普通すぎるゆえに突っ込まれることには慣れているのだろう。

「皆同じ反応をするから参っちゃうよ。その気持ちもわからないでもないから怒るに怒れないしさー。僕だってもし、僕以外の誰かが山田太郎とか名乗ってきたら間違いなく本名かどうか疑うしね」
「……」
「おっと。時間が迫ってきたようだね。できればキミの名前を知りたかったけど今回は諦めるよ。この学園内にいればどうせまた会うことになるしね」
「……失礼します」

 無礼だとは思った。たとえどんな相手だろうと、先に名前を名乗ってきたのだ。
 それに名前も名乗らず去ろうとしている。礼に無礼をもって返している。
 でも、どうしてもこの山田太郎に必要以上に近づきたくはなかった。
 確かに太郎の言うとおり時間はもう残り少ない。これ以上ここで時間を使っては遅刻になってしまう。初日から遅れていくのも問題だろう。
 そんな美由希が太郎の横を通り抜け三階へとあがっていく。太郎は逆に二階へと降っていくが―――。

「また会おうね―――高町美由希さん?」
「……っ!?」

 名前を呼ばれ振り向くもすでにそこには太郎は居なかった。
 先程までそこにいたというのに。すぐそこで声が聞こえたというのに。
 薄気味悪い得体の知れない少年―――山田太郎はまるで最初から存在しなかったかのように―――姿を消していた。
 幽霊とでも話していたかのような薄気味悪さを感じつつ、美由希は自分の教室へと足を進めた。
 どこからか感じる自分への視線を浴びながら……。

 一方姿を消した山田太郎は―――。

「いやはやー。素晴らしいなぁ」

 何時の間に移動したのだろうか。
 先ほどまでは確かに美由希と話していたはずの山田太郎は、屋上に移動していた。
 墜落を防ぐための屋上のフェンスに手をかけながら、中庭を挟んだ向こう側の校舎の三階の廊下を歩く美由希の姿をとらえている。
 
「まさかあれほどの逸材だったとはねぇ。これは一目ぼれというものになるのかな?」

 くすくすと嬉しそうに太郎は笑みを絶やさない。
 先ほどクラス発表の紙が貼られていた校舎前で遠くから美由希を見てしまった時から、これまで出会って来た女性たちがまるで紙人形のように薄っぺらにしかおもえない衝撃を受けた。 
 太郎はずっと探していた。太郎はずっと求めていた。太郎はずっと欲していた。
 
 ―――自分と対等に渡り合える雌獅子を。

「ようやく、出会えた。逃がさないよ―――高町美由希」
 
 その歪んだ微笑みは―――決して恋心などではなく、ただただ己の生涯の宿敵を見つけたことに対するまがった歓喜しかなかった。
   
    
 
















 同時刻。日本から遥かに離れた東欧の地にて―――。
 
 【そこ】は都会とは言い難い街から、大きく広がる森を貫いて、さらに数時間はかかる辺境といってもいいだろう。
 誰も近寄らない、道に迷った人間がひょっこりと現れる程度でしかない草原だった。普段だったらその見渡す限り埋め尽くす草原に息を呑んだだろう。
 だが、今はその草原が……地獄になっていた。

 ぐちゃり。

 肉が潰される音が周囲に響く。
 あたり一面に広がっている草原は今では赤く染まっていた。どろりと濃厚な血に塗れている。
 その原因を作っているのは―――化け物。そうとしか言いようがなかった。
 体長は三メートルほどだろうか。巨大な筋肉の塊としか言いようのない。二足歩行で立ってはいるが、人間でいう顔のある部分が、犬のような形をしていて、鋭い牙がごっそりと伸びている。毛がはえていない巨大な化け物。まさしくその表現が相応しい怪物であった。
 普通の人間がみたならばグロテスクな冗談ではないかと勘違いしそうな異端の何かだ。

「ひ、ひるむな!!奴も負傷している!!ここで退いたらさらに多くの犠牲がでるぞっ!!」
 
 その化け物を囲んで逃がさないように何人もの黒服の男達が各々の武器を化け物に向けている。
 手に大型の拳銃を持っていた男達は、弾倉が空になるまで化け物に銃撃を続けた。
  
 だが、たりなかった。大型の拳銃であったとしても筋肉の塊であった化け物には小さな傷跡しかつけれなかったのだ。
 顔をかばっていた化け物は、そんな男達を見て嘲笑をうかべる。

「その程度で、俺を殺せるとでも思ったのか?」

 そして、流暢に話しはじめたのだ。
 理性など全くないように見える化け物が、人間の言葉を喋ったことに誰も驚かない。そんなことは最初から判っているのだ。

「お前らのような雑魚が、アンチナンバーズのCDXCV(495)……三桁台のこの俺様をぉおおおおお殺せるとでも思ってんのかよぉおおおおおおおーーー!!」

 男達の戦意を挫くような、凶暴な雄叫びをあげた。
 囲っていた男の一人がそれに耐え切れず、短い悲鳴を残して逃げ出す。
 それに続くように、また一人。また一人と逃げ出し始める。残ったのは僅か数人となっていた。

 化け物は凄まじい速度で男の一人に近づくと、片腕を叩きつけてくる。男は逃げるでもなく、その動きをぼーと眺めたまま―――。

 ぐちゃり。

 おぞましい音をたてて、熟れたトマトが地面に叩きつけられたかのように、男だったモノが地面にぶちまけられる。
 一瞬でひき肉へとかえた化け物は、その肉塊へとかわったモノの前に座り込み、かぶりつく。
 肉と骨を咀嚼する音が絶望的なほどにあたりに響いた。

 非現実的な光景。だが、黒服達にとっては、これが当たり前の光景なのだ―――ナンバーズと呼ばれる組織に属する彼らの。

 男達に恐怖を与えるようにゆっくりと喰らっていた化け物だったが―――凄まじいほどの圧迫感を感じ、それが感じられる方向へと犬のような顔を向ける。

「やれやれ―――化け物如きが、いい気になるなよ」
「全くです。分相応という言葉を考えて欲しいものです」

 女性が二人ゆっくりと歩いてくる。
 人間を喰らう化け物がいるというのに、全く気にしないように。

 一人はまだ少女といってもいい年齢か。せいぜいが十代半ば。
 染めたような色ではなく、綺麗な茶色が映える長髪。腰近くまではあるだろう。
 可愛らしい容姿とは別で、表情は恐ろしいほどに冷たい。その腰元には二振りの剣が鞘に納められ、挿されている。

 もう一人は、少女よりもかなり年上の女性だった。
 切れ長の目とシャープな顎のライン。薄紫のショートヘア。年は二十代前半だろうか。モデルでも嫉妬するようなすらりとした細身の身体だが、恐らく百七十をゆうにこえる身長だろう。
 この女性は、少女とは比べ物にならない色気を醸し出している。男物のスーツを着ているが、それがまた女性の氷のような美しさを助長させているようだ。少女が剣を携えているが、女性は何一つ武器らしいものを持っていないのがアンバランスであった。

 彼女達が現れて、残っていた男達は安堵のためいきをついた。
 ようやく時間稼ぎが終わり、自分達の役目を達成させれたのだから。
 たいして、化け物は女性二人を見て、怯んだように後ろへ一歩下がった。

「な、なんで、こんな場所に、お前みたいなやつらが……【神速の踊り手】……【双剣使い】……」

 幻聴だろうか化け物の声には恐れが混じっているように聞こえた。
 人間を遥かに超えた化け物が、ただの女性と少女を恐れるなど可笑しな話だ。

「今回はお前が前衛にでろ。できるな、ツヴェルフ?」
「はい。お任せください。ドライ姉様」

 ツヴェルフと呼ばれた少女は腰元の双剣を抜く。
 重さなど感じていないように、軽々と構え、化け物を冷たい瞳で射抜いた。

「く、くそがぁああああああああああ!!」

 威嚇の雄叫びではなく、後悔と恐怖が織り交ざった遠吠えをあげ、化け物は疾走する。
 木のように太いその拳の一振りで人間を肉塊へとかえれる破壊力を秘めた一撃が、ツヴェルフに向かって放たれる。
 先程の反応できなかった男性のように、ツヴェルフはその拳の軌道を見つめていた。 

「【ツインブレイズ】」

 ツヴェルフが輝きを放つ。
 化け物の拳が届くより早く、純白に輝く翼が背中から出現。化け物の目をやくように発光した。
 それに怯んだ一瞬で、ツヴェルフは拳をかいくぐり、双剣を振るう。
 その域や、超速。圧倒的な速度と斬撃が化け物を切り刻んでいく。
 筋肉の塊であったはずの化け物が。銃弾をも気に留めなかった化け物が。
 反撃する隙さえなく、腕を、足を、斬り飛ばされ―――断末魔をあげる間もなく、首を斬りおとされた。

 ―――瞬殺。

 絶望が具現化した化け物は、まさに一瞬で斬殺されてその生涯を終えた。
 圧倒的な戦闘力を見せ付けられた男達は呆然とその光景を見ている。本当にあの化け物が殺されたのか信じられなくて。
 その光景をつくりだしたツヴェルフは背中に展開していた光の翼を消す。

「上出来だ、ツヴェルフ。お前も腕を上げたな」
「有難うございます。ドライ姉様」

 表情はかえないツヴェルフ。
 だが、どこかその嬉しそうに見えるのは勘違いではないはずだ。

「―――お前達は後始末を頼むぞ」
「は、はい!!」

 声をかけられた男達は無線を片手に化け物の残骸の処理を始める。それもナンバーズの仕事の一つだ。
 化け物の存在が公になれば、間違いなく世界は混乱する。完全には隠せなかった異端による事件も、普通の事件として報道すればそれは日常の出来事の一つとして誰にも疑問を残さないですむ。
 一般の人々が化け物の存在を認知してしまえば、確かに何も知らないよりは良いのかも知れない。だが、武器ももたぬ一般人がどうやって自分の身を守ればいいというのだ。
 ただ、恐怖するしかない。そして、その恐怖は疑いをうむ。もしかして、隣に住んでいる人間は実は化け物ではないのか、と。
 疑いは際限なく広がりやがて悲劇となる。そんな状況にならないためにナンバーズがいるのだ。化け物の存在を隠し、人々を守る。
 もっともそのような崇高な意思を持って行動しているナンバーズは数えるほどしかいないが。

 ―――パチパチパチ。

 男達が無線で話をする声しかきこえない中で、拍手が聞こえた。
 誰がした拍手だろうか。全く気配を感じさせずに、【彼女】はそこにいる。

「随分と成長しましたね?ナンバーズの数字持ちとして年若かったその少女も、随分と強くなりましたね?」
「……き、きさま!!」
「っ!?」

 ドライとツヴェルフ。
 二人がその女性の声を聞いた瞬間、その場から離脱。
 数メートル以上の間合いを取って、向かい合う。そして、二人の背中には光り輝く羽―――リアーフィンと呼ばれる―――を展開する。
 
 笑顔を絶やさぬプラチナブロンドを靡かせる魔人。
 二人の猛者の感覚に気取られることなく、天眼は間合いの中へ現れていた。戦慄するツヴェルフ。

「お久しぶりですね。三番さんと十二番さんでしたか?相変わらず夜の一族狩りをしているみたいですね」
「アンチナンバーズのⅡ……事実上の最大の人類の敵がこんなところでなにをしている?
「別に意味なんてありませんよ?ただ散歩にきただけです。ここらへんは私の散歩のコースなんですよ」
「……」

 目つきを鋭く。睨みつけるような二人の視線を受けても天眼の態度に変化はない。
 凄まじい重圧の殺気を放っても暖簾に腕押し。天眼は気にしたそぶりもない。

「冗談ですよ。そんなに怖い目をして欲しくないんですけどね」

 ふぅとやや小馬鹿にしたように首をふる。
 ツヴェルフの足に力が入り、地面を蹴りつけようとした瞬間―――。

「相手が悪いですよ?十二番さん?」

 背筋が凍った。
 睨みつけていたはずの天眼の姿が消失し、驚く暇もなく首元に手を添えられていたのだから。
 触るか触らないかの隙間をあけて、なでるように首に両手をあてている。
 息が詰まるような圧迫感。呼吸が出来ない。
 
 しかし、そんな圧迫感も一瞬で消えた。
 天眼はツヴェルフから大きく距離を取ったからだ。それと入れ替わるようにドライが先程まで天眼がいた空間を光り輝く爪で薙いでいた。
 ドライの両手に輝く太陽のような光をはなつ爪。リアーフィンの力によって生み出された、鉄をもたやすく切り裂くドライだけの武器。

「怖い顔をしても、何もしませんよ?今はまだ、ですけどね……」
「ここで決着をつける気か……?」
「決着?」

 何を言っているのだ、と天眼が呆れたような声をあげたが、ドライの険しい顔つきを窺い、再度ため息をつく。

「今回はそんなつもりはありませんよ?ちょっとした情報を伝えにきたんです」
「情報、だと?」
「貴女達が掴めないアンチナンバーズがⅥ。伝承墜とし―――彼の情報です」
「伝承墜とし!?」

 ツヴェルフが反射的に聞き返す。
 驚くのもむりはない。ナンバーズの情報網でも掴みきれていない伝承墜としの情報。
 それが本当ならば喉から手が出るほどに手に入れたい情報だ。人類最大の敵でもある伝承級の一桁台。
 その化け物のなかの化け物の情報が不明などあってはならないことなのだから。

「ここから遥か極東の国日本―――そこに伝承墜としは居ます。探してみるのも一興ではないですか?」
「……その情報を私達に伝えるメリットはなんだ?」
「メリット?そんなものどうでもいいです。結局貴女達は動くしかないのですからね?」
「っち……」

 ドライが舌打ちをする。
 実をいうとナンバーズと天眼は半協力関係にあるといえる。
 天眼は様々な夜の一族の情報をナンバーズに渡す代わりに、ある程度の行動は黙認されるのだ。
 ナンバーズといえど天眼と真正面からぶつかりあうのは、どれだけの被害がでるか判らない。それ故にどれ位昔からかもう忘れ去られているが、奇妙な協力関係にあるのだ。

「それではお二人とも……いずれ、【また】」

 再会を匂わせ、天眼は森の中へと消えていった。
 残されたドライとツヴェルフは暫くの間緊張をとくことはなかったが、完全に去ったのがわかると背中のリアーフィンを消し去る。

「……調べるしか、ないか。日本で任務をしている数字持ちはいるか?」
「確か……フュンフ姉様が向かっていたはずです」
「フュンフか。奴ならそう簡単におくれを取ることはあるまい。情報を回しておこう」
「わかりました。他に誰かむかわせましょうか?」
「……そうだな。フィーアとエルフにも伝えておいてくれ。差し迫ったアンチナンバーズへの対応もあるまい。念のため援護に回ってくれと」
「はい。わかりました」

 暗雲に覆われた空を見上げて―――ドライは不吉な予感を隠せずにはいられなかった。
 
  
  

























後書き+何か色々

忘年会とか色々忙しくなるので来週更新できるか微妙そうのため出来上がっているところまでアップさせていただきます。
なので来週は多分更新できません。できたらしますけど!!できればしたいですけど!!
ナンバーズとかそのままですね。皆気づいてそうですが1-12の数字もちはもろそのまんまです。
なのはの世界に恭也達がいるなら、とらハに彼女たちがいてもおかしくないかなーと。名前の呼び方は変わってますけどね!!容姿とかはそのまんまと思ってもらって結構です。
とらハの世界観に合わせるなら自動人形の方がそれっぽい気もしたんですが、HGS能力者のほうが色々な特殊能力持ちができそうなのでそうなりました。
お気に入りは【神速の踊り手】ドライ(3) 【爆殺姫】のフュンフ(5) 【星穿つ射手】エルフ(11)。ここらは出番多いかもしれません。



ちなみに今回のKYOYAも正直最強モード入ってます



[30788] 三章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2011/12/23 00:29





















 入学式は特に問題も起こらず―――起きるはずもなく、つつがなく終了した。
 学生は各々の教室に戻り一時間ばかりのオリエンテーションが行われ、それが終わるとともに、帰宅という形となっている。
 運動系の部活が強い風芽丘学園では、早速将来有望な一年生を獲得しようと、それぞれの部活の二年生と三年生が部活動紹介という形で、一年生にアピールしていた。
 
 美由希はオリエンテーションが終わり、クラスメイトが教室から出て行ったあともまだポツンと机に座っていた。
 入学式でまだ初日ということもあり、様子見という態度で教室を去るクラスメイトも多かったが、人当たりのいい人間はすでに何人かと話に華を咲かせていたのだが、生憎美由希はどの輪にも入れていなかったのだ。美由希や帰って行った生徒以外にもそういったグループが何組か残ってはいる。
 はぁ……と深い深いため息をつく美由希。幼いころのある出来事が、人と深く接するという行為に歯止めをかけていた。それ故に、美由希も恭也と同じく友達は少ない。

 確かに寂しいとは感じる。同年代の少女達はきっと同性と色んな場所に遊びに行ったり、異性と付き合ったりするのだろう。
 素直に羨ましいと思ってしまうときもある。だが、これは自分で選んだ道。
 恭也とともに御神流を極めんとしているのは、幼いころの自分が確固たる意志のもとに―――選んだのだ。

 ―――決して後悔だけはしない。

 美由希が椅子から立ち上がり、廊下へとでようとしたとき、楽しそうに話していた女生徒の一人が美由希を見つけた。

「あ、えーと……高、町さん?気を付けてねー」
「は、はい。さようならです」

 まさか苗字を覚えているとは思わず引き攣った返事しかできなかった。
 愛想笑いを残し、教室をでていった美由希。まだまだ中から談笑する声が聞こえた。
 気が重くなったが、恭也や明。それにレンをまたせているかもしれない。そう考えた美由希が多少早歩きで階段へと足を進ませようとしたとき―――。

「っあぅ!?」

 ドンという何かとぶつかる衝撃が美由希に伝わってきた。
 そして、妙に可愛らしい声が聞こえ、眼前に舞う紙吹雪……いや、書類だろうか。転んだように廊下で尻餅をついているのは……一人の少女。胸元の黄色のリボンを見るところ新一年生だろう。
 バッサバッサという音を立てて少女の周辺は書類で埋め尽くされる。 

「あわわ……ご、ごめんなさい」

 少女は慌てて落ちた書類を拾い集める。小動物―――リスやハムスターのような雰囲気の少女だった。
 美由希よりも幾分か低い身長。髪の長さは一緒くらいだろうか。黒髪三つ編みの美由希に対して少女は茶髪のストレートをリボンで結っている。かといって染めているというわけではないようだ。とても綺麗な、茶色の髪なのだから。
 中学生と言っても通りそうな童顔の少女が謝りながら書類を拾っているのを見ると罪悪感がわいてくる。

「すみません。前をしっかりみてたらぶつからなかったのに……」

 少女と一緒になって落ちている書類を拾う。
 そんな美由希に対して、少女は申し訳なさそうに頭を下げた。

「いえ、そんなこちらこそ申し訳ありません」

 泣きそうな表情の少女はひたすら美由希へ謝ってくる。
 美由希は何か凄く悪いことをしたような気持ちになりながら一緒になって拾い、すぐに全てを拾うことができた。
 枚数を数えていた少女だったが、確認し終わった後パァっと笑顔を見せる。どうやらきちんと全ての書類があったらしい。
 
「あ、あの有難うございます。拾っていただいて……この御恩は一生わすれません!!」
「私が前に注意してればぶつからなかったわけですし」
 
 たかが拾ったくらいで一生の恩になるとは思っていなかった美由希だったが、なんとかどもらずにそう返すことができた。
 少女はぶんぶんと顔を横に振ると、書類を持ちながら器用に美由希の右手をつかむ。

「あ、あの……うちは如月紅葉といいます。一年C組なんですけど……貴女は?」
「えっと、高町美由希と言います。このA組ですね」
「高町、さん……本当に有難うございました」

 手を離し、ぺこりとお辞儀をする紅葉。
 美由希も太郎の時とは違いあっさりと自己紹介をする。紅葉と名乗った少女は太郎のような不吉な気配など微塵も感じないのだから当たり前といえば当たり前だが。

「おーい!!如月ー!!早く職員室にいっくよー」

 遠くから紅葉を呼ぶ声がする。
 声の方角には一人の女性―――というか少女としか表現しようがない身長の―――スーツを着ている女の子が居た。
 制服を着ていないということは、生徒ではないのだろう。
 まさか先生かとも思ったが、あの身長でそれはないだろうと判断する。それもその筈、遠目ではあるが百四十にも届かない……いいところ百三十五程度のちんまりさだ。

「あ、今行きますー鬼頭先生」
「先生!?」

 反射的に突っ込んでしまった。
 恭也相手にはよく突っ込みを入れるがあって数分の少女に突っ込みを入れることになるとは予想もしていなかった美由希だ。
 遠くにいたせいで鬼頭とよばれた―――紅葉の発言曰く先生は、聞こえていなかったのだろう。特に反論をするでもなく紅葉に向かって手を振っている。
 当然そばにいた紅葉は聞こえているわけで、苦笑しつつ、鬼頭の方へを歩いていく。

「鬼頭先生って身長のこと少し気にしてるので、あの人の前ではいわないであげてくださいね」
「あ、はい。すみません」

 優しく微笑んでそう告げた紅葉に思わず謝ってしまう美由希。
 なんとなく、そんな優しい雰囲気を纏っているのだ。目の前の如月紅葉という少女は―――。
 お辞儀をして去っていく紅葉を見送り、美由希も恭也達と合流するために階段をおりようとして、ふと気づいた。

「―――気配が、なかった?」

 ぽわわんと緩んでいた美由希の背筋が冷たくなる。
 そうだ。その通りだ。何故気付かなかったのだろう。
 美由希とて達人の域にいる御神の剣士。気配を消したり、気配を探ったりする術は学んでいる。いや、それは美由希の中では相当なレベルで行えると自負している。
 普段の恭也との鍛錬……及び実戦を想定した試合は広大な森林を利用する。ずっとそんな空間で試合をしていれば気配の消し方、探り方は嫌でも成長する。それこそ野生動物並みに。
 幾ら学校という場所で気を抜いていたからと言って、気付かないはずがない。感じ取れないはずがない。
 
 山田太郎。如月紅葉。

 この数時間足らずで得体のしれない人間に二人も会ったことに言いようのない胸騒ぎが美由希を襲っていた。
 その胸騒ぎを振り払いつつ美由希は一階へと向かう。
 まだ結構校内に生徒が残っているのか、多くの生徒たちとすれ違う。校舎から出ると、校門までの道が生徒で埋まっている。まさに雲霞のごとし。
 道の両脇では各運動部がそれぞれ勧誘活動を行っているようだ。一人でも多くの新入部員を得ようと、熱心に勧誘している様子は見ているこっちがひきそうなほどだ。
 恭也達はどこにいるだろうかとキョロキョロ周囲を見渡すが、人が多すぎて流石にすぐには見つけられない。
 待ち合わせ場所をきめておけばよかったかなと少し後悔する美由希だった。携帯電話は生憎と家に置いてきている。風芽丘学園では携帯の持ち込みは禁止されているからだ。もっともそれはほとんど建前であり守っている生徒の方が少ない。
  
「っ!!」

 嫌な予感を感じ、その場から前に飛ぶ。
 振り返ってみれば、先ほどまで美由希が居た場所で恭也が驚いた顔で固まっている。
 鍛錬の時ほどに集中していなければ気付けなかった僅かな気配を出していた恭也の奇襲―――というには大げさだが―――に反応できたことに恭也が驚いているようだ。
 日常の美由希ならば間違いなく気付けなかったであろう恭也の気殺に反応できたことは、恭也の予想を上回るものだったのだろう。幾ら美由希が気づく機会を与えるために僅かな気配を敢えて出していたのだとしても。 
 でなければあの鉄面皮の恭也がここまで表情を表に出すようなことはしないはずだ。
 立て続けに尋常ではない二人にあったせいで神経が過敏になっていたようだ。それ故に恭也の気配に反応することができた。

「くっ……まさか、お前に気づかれるとは……」
「ふふん。私だって成長しているんだからね!!」
「ぐぅ……死んだほうがましなくらいの屈辱だ」
「そこまで言わなくても!?」

 酷い落ち込みようの恭也に対して鋭い突込みを入れる。
 一体どれだけ凹めばいいのだろうか。ずぅんと効果音が聞こえるほどに恭也は暗い顔をしていた。
 
「おししょー。元気出してください。そこは美由希ちゃんの成長ぶりを喜べばいいんじゃないですかー?」
「うわっ!?」

 今度驚いたのは美由希のほうだ。気配を悟らせずに、レンが美由希の背後にいたのだから。
 別に気配を消していたわけではない。普段の恭也と同じように気配を一般人レベルまで落としていただけだ。
 そのため、美由希は背後にいたレンをただの一般生徒と知覚していたのだ。
 
「それもそうだな……」
 
 レンの励ましになんとか立ち直る恭也。
 そんなに落ち込むのなら完全に気配をけして仕掛けてくればいいのにと美由希は思わなくもなかった。 
 それにしても問題は―――レンだ。

 美由希に気づかれないほどの気殺をあっさりとやってのける中学一年生。
 そんな使い手が果たして日本全国を探し回った所で見つかるだろうか。少なくとも美由希は年下でありながら勝敗がどう転ぶかわからない相手をレン以外知らない。
 この少女は美由希をして―――底が見えない。
 どれほどの実力を隠しているのか、掴めないのだ。全力を出している時を見たこともなく―――晶との戦いの時も一目で手を抜いているのがわかる。
  
「美由希ちゃん……うちの顔なんかついとる?」
「え?ご、ごめん。なんでもないから」
 
 まじまじと注視していたのだろう。レンが自分を見つめている美由希を不思議に思って首を捻る。
 流石に不躾だったかとちょっと反省する美由希だったが、恭也とレンだけしか見当たらない。
 
「あれ、晶はー?まだ来てないの?」
「ああ、晶か?晶ならあそこだ」 

 恭也が指差す方向―――校舎の影になるような位置に大きな木がはえている。
 その影に一人の少女が倒れていた。どう見ても晶です。ピクピクと痙攣しているのが遠目でもわかる。

「えっと……どうしたの、晶?」
「まぁ、何時ものことだ。お前を待っている間にレンと晶が少しな」
「あ、あははー。一応他の人の邪魔にならないよー気をつけて相手したんやでー、うち」

 美由希にたいして弁解するようにレンが両手を顔のまえでわたわたと振りながら答えたが、周囲の生徒達が妙に三人……いや、レンをちらちらと見てきていた理由に納得した。
 恐らくだが、美由希が来る前に何時もの如くレンと晶の言いあいが勃発。家ならいるストッパーこと高町なのはがいなかったために段々とエスカレートしていき、何百回目になるか分からない拳での語り合いになったのだろう。。
 恭也と美由希ならばもはや見慣れているためなんとも思わない戦いではあるが、良く考えたら一般人がみたらとんでもない光景だろう。
 何故ならレンと晶の戦いは現在レンの完全勝利で終わっているが―――大概その戦いの終結は寸頸による一撃で意識を奪われてか、四肢の動く力を奪われてである。
 ちなみに年若いレンではあるが、その錬度は計り知れず、晶の身体が数メートル近く吹き飛ばされるため、知らない人が見たら目を丸くすること間違いない。

「外に居る時はほどほどにしないと駄目だよー?」
「入学式のせいでテンションあがってたんかなー。何か何時もより晶をとばしてしもーたんや」
「うわー。それなら回復に時間かかっちゃうかな?」
「いいのいれてもーたし……数分くらいはかかるかもしれへんなぁ」

 大声で話すわけにもいかず、互いの耳元で囁くように会話をする。
 そうこうするうちに人混みの向こう……校門近くで桃子とフィアッセが恭也達をまっているのを見つけた。特にフィアッセはブロンドの髪の超絶美女。
 少年達はあまりの美しさに魅了されたようにみつめ、少女達は憧れのような視線を向ける。
  
「いててて……」

 恭也含む三人の視線がフィアセ達から悶絶していた晶へと移った。レンの目が大きく見開く。
 相当に良い一撃をぶちこんだというのにもう起き上がってきたのだ。普段だったならば手加減しているので納得できるが、今回は手加減を忘れた寸頸だったはず。
 だというのに、回復に数分程度は要すると判断していたレンの予想を遥かに上回り、一、二分足らずで復活する晶に驚きを隠せない。
 晶の回復力は評価していたが、どうやらそれでも過小評価だったらしい。
 何事もなかったかのように、駆け寄ってくる。

「じゃれ合いは、家まで取っておけ。これ以上は迷惑になる」

 レンへとリベンジを果たそうと拳を握り締めてた晶とそれを迎え撃とうとしたレンの間に恭也が割ってはいる。
 恭也に止められてしまったならば、二人が戦いを始めるわけにもいかず、レンと晶は大人しく拳を引く。
 だが、二人の間で視線が火花を散らしたような気がした。

「よー、高町。もう帰るのか?」

 そこに割って入ってきた男の声。
 片手をあげて挨拶をしてきたのは、恭也よりも頭一つ高い身長の美青年だ。
 風芽丘学園の制服ではなく、清潔な白い胴着と袴を着こなし、手には竹刀を持っている。

「ああ。家のほうで入学祝をやるんだが……お前もこないか、赤星?」
「んー。是非に、と言いたいんだが今から剣道部の演舞があるからなぁ。ちょっと厳しいかもしれない」
「そうか……。開始は夕方くらいからになると思うし、時間があったらきてくれ。歓迎するぞ?」
「ああ。こっちが早く終わったらお邪魔させて貰うよ」

 赤星と呼ばれた青年は笑いながらそう答えた。青年は赤星勇吾。恭也の唯一といっていい男友達で、風芽丘学園の剣道部を全国クラスへと導いた強者である。
 草間一刀流剣道の使い手で、剣道部の部長も務める文武両道な好青年だ。ちなみに剣道の方は個人戦で全国十六という成績を残している。もっとも昨年は大会前に負った怪我の影響がありながらもその成績を残したので怪我さえなければより上位へくいこめたのではないかともっぱらの噂である。
 
「勇兄も後できてよー」
「ははは。行けたらいくよ」

 赤星と晶の仲はいい。実の兄妹なみにといってもいい。いや、兄弟かもしれない。
 晶の通っている空手道場と赤星の通っている剣道道場がすぐそばにあり、二人の家自体も近所のため昔からの付き合いらしい。
 赤星も来てほしいという晶にポンと頭を軽く撫でて去っていく。そろそろ演武が始まるようだ。

 普段だったら少しでも演武を見学していっただろうが生憎と今はフィアッセや桃子を待たせている。
 あまり時間をかけてもいられないので、その場から去ろうとした恭也の視線が、人混みの中から知り合いを見つけ出した。
 今年も同じクラスになった―――月村忍だ。

「月村。今帰りか?」 
「あ……高町君。うん、今から帰るとこ」

 儚げな笑みをかすかに浮かべ忍が答える。
 そこでふと思い出す。忍は幼いころに両親を亡くし、今は家で使用人と二人で過ごしているということを、世間話をしているときにポロっと本人が漏らしていた。
 その影響だろうか、忍はクラスメイトとも碌に話もしない。辛うじて会話をするのが恭也くらいなのだ。最も恭也自身も会話をするのが赤星と忍と藤代の三人しかいないのだが。

「あー、月村。今日は夕方くらいから予定はあるか?」 
「え?うんと……特には、ないかな」
「そうか。実をいうと俺の妹達が本日めでたく風芽丘と海鳴中央に入学したわけでな。この二人がそうなんだが」

 横に立っていたレンと美由希の肩にひょいっと手を回す。
 それにビクリと過敏に反応する二人。訝しげな恭也だが、二人にとっては心臓がバクバク激しく胸を打つような大事件だ。

「そうなんだ……おめでとう」
「「あ、ありがとうございます」」 
 
 綺麗どころはフィアッセで見慣れている二人だが、忍もまた尋常ではないほどの美貌。
 フィアッセを太陽とするならば忍は月。対称的な美しさを醸し出す美女同士である。二人して微妙にどもるように返事を返す。

「ささやかだが祝いの席を設けることになっている。良かったら月村もどうだ?」
「―――え?」

 思ってもいなかったことを聞かれ、呆けたような様子の忍。それもそうだろう。
 まさか恭也から誘いの言葉を聞けるとは予想だにしていなかった。
 十数秒も呆然としていただろうか、忍はやや困ったような笑顔を浮かべ、首を軽く振る。

「お誘いは嬉しいけど―――身内の集まりじゃないの?私が行っても邪魔になっちゃうよ」
「そこは心配しなくても大丈夫だ。完全に身内だけというわけでもない。レンと晶……と、この二人の知り合いも来ることになっている。それに俺と月村のクラスメイトでもある赤星も恐らく来るだろう」
「ええっと、でも……そんなに人は入るの?」
「ああ、心配するな。翠屋―――という店を知っているか?」
「え、うん。海鳴で知らない人は多分いないと思うけど……」
「実はそこは俺の母が経営している店なんだ。夕方からそこを貸切させてもらうというわけだ。だから心配しなくても良い」
「ええっそうなの?」

 本当に驚いたような月村に恭也が頷いて答える。
 まさか恭也があの翠屋の経営者の家族だったとは。今日は予想できないことのオンパレードである。

「迷惑かもしれないが、来てもらえたら―――嬉しい」

 照れたような恭也の表情と発言。
 そばで見ていたレンと晶と美由希はレアすぎる恭也の様子に、自分達の頬をつねっていたりする。
 レンはちなみに横にいる晶の頬をつねっていたが……。
 イテテ、と泣きそうな声で痛がった晶がレンに向かって拳を繰り出すが、片手で受け止め投げ飛ばす。
 受け身も取ることも許さず地面に叩き付けられる晶を見て周囲の生徒達がさらにひきはじめた。
 忍はすぐそばでそんなことがあったというのに目にも入らぬように驚いたままだ。

「本当に、いっていいの?」
「ああ。男に二言はないぞ?」
「……それじゃあ、お邪魔させてもらおうかな」
「歓迎する。大体夕方の六時くらいから始める予定だからそれを目安できてくれ。翠屋の場所は分かるか?」
「うん。何回も行ったことあるから大丈夫だよ」
「分かった。では、また夕方に翠屋で会おう」
「―――うん、有難う。高町君」

 忍が嬉しそうな様子で別れを告げ、校門の方角へと向かい、途中でスーツ姿の女性に声をかける。
 先日見た、自動車で迎えに来た女性のようだ―――遠目だが確かにそうはっきりとわかった。
 今日も自動車で迎えに来てもらったのだろうか。二人は連れ添って敷地から姿を消していった。

 一方受け身も取れず地面に叩き付けられた晶は、痛みで転がりまわっていたようだがすでに復活。起き上がりざまにレンへと襲い掛かる。
 やる気満々な二人に対してため息を残しつつ、恭也が割って入り、飛び掛かってきた晶の拳を掴み回転。一回転した晶を羽毛を落としたかのようにゆっくりと地面に立たせる。
 襲い掛かってくる晶に対してカウンターを合わせていたレンの腕も掴み晶と同じように一回転。二人ともを立たせた後に、両者にデコピンを打ち込む。
 脳まで響く痛みというか、衝撃を受け額を抑えるレンと晶。あまりの早業のため周囲の一般生徒は何が起こったのかすら分かってはいなかった。それを狙って恭也は動いたのだろうが。

「いい加減にしておけ。そろそろ帰るぞ?」
「うう……その痛みを分かるだけに二人とも頑張れ」
「い、痛いですよぉ……おししょー」
「普通に殴られるより、痛いってどんだけですか」

 涙目な二人と苦笑いな美由希を引き連れて―――恭也達はようやく高町家へ帰宅するのであった。
 車で来ていたフィアッセのおかげで非常に楽に高町家まで帰宅することが出来た。フィアッセが運転するのだから大概の人は軽自動車のような可愛らしいモノを想像するが実際は違う。
 大人数が乗車できるワゴンを運転するのだ。しかも、運転をする時妙にハイテンションになるのが少しというか、凄く怖い。
 一度本人に聞いたところ緊張しすぎて―――緊張を振り切ってテンションがあがってしまうだとか。

 高町家についた後、庭を背景に皆で記念撮影をする。すでに風芽丘学園の校門でとったのだが、可愛い娘達の写真を残しておきたいという桃子の親心だろう。
 桃子とフィアッセと恭也が代わる代わる写真を撮り、ようやく満足した桃子。
 そして各々それぞれの部屋に戻り私服に着替え、リビングに集合する。晶と美由希はソファーに座りテレビをゆったりと見始め、レンはキッチンへと向かった。本日の昼食の当番はレンのためである・
  
「それじゃー、私とフィアッセは翠屋いくからねー。六時前にはちゃんとくるのよー?」
「おくれちゃ駄目だよー。恭也」
「……何故俺限定なんだ、フィアッセ」
「ふふ。日付を間違えちゃった前科が昨日あったばっかだよー」

 チョンと恭也の鼻先に人差し指をくっつけて優しく微笑むフィアッセ。昨日しでかしたばかりの大ポカを指摘されて反論の余地はない。
 しばらくこれはいじられそうだ、と先日までの己の迂闊さを後悔する恭也だったが、自業自得のため素直に頷くしかなかった。

「―――まぁ、それはおいといてだな。良かったら手伝おうか?」
「んー。今日は三時にはもう閉店するし大丈夫かしらね。ピークも過ぎたでしょうし」
「うん。気を使わなくても大丈夫だよ、恭也」
「そうか。それなら別に大丈夫そうだな」

 忙しくなったら電話するわ、と言って桃子とフィアッセが翠屋へと出勤していく。
 仕事とはいえ高町家の家計を支えてくれる桃子に感謝しかない。
 そんな恭也の思考とは別に台所からはなにやら燃え上がるコンロの炎。中華の達人にして炎を支配する料理人レンが手際よく昼ごはんを作っている。
 基本的に朝は桃子か晶。夜がレンか晶かフィアッセなのは納得できる当番だろう。
 幾らレンの料理が美味しかったとしても―――朝から中華は重すぎる。食べれることは食べれるだろうが……どちらかといったら米が食べたい日本人の恭也である。

 料理は口を挟む余地もないため恭也は久々に自分の息子達を世話しようと庭へ出る。
 先程写真を撮ったときに見てから気になっていたが、庭の一角にならべてある息子達―――普通の人間は盆栽と呼ぶ―――を腕を組んで眺める。
 春合宿で随分と長く放置してしまったことを気に悩んでいた。若い男、しかも高校生が盆栽の前で考え込むというのも正直変な話だろう。
 何故盆栽に嵌ってしまったのか……どうせならもっと若者趣味にはしればよかったのにと桃子達によく言われるが、盆栽に嵌ってしまったものはしかたない。
 逆に何故精魂尽くして世話をした大事な息子達の良さをわかってくれないのだろうか……と不思議に思ってしまう。
 
「師匠覚悟ぉぉぉおおおおお!!」
「……はぁ」

 そんな恍惚としていた恭也の耳に晶の雄叫びが聞こえ―――。
 縁側から飛び降りて突っ込んできた晶の右拳を振り返りながら流しつつ、晶の腹部に蹴りを入れ、蹴り足をそのままに身体を反転させて地面にたたき落とした。
 盛大な音をたてて叩きつけられる晶が、痛みに悶絶をしている。恭也からしてみれば随分と手加減をした―――御神流体術の一つ猿落とし。
 レンから普段お猿お猿と呼ばれている晶にかける技としては皮肉がきいている。
 
「全く。何度も言うが声をだして襲ってきたら、奇襲にならんぞ?」
「……ぅぅ。それは分かってるんですけど……奇襲は俺の性に合わないというか……」
「お前は相変わらず正直だな」

 地面に転がっている晶に手をさしのばす恭也だが、晶はちょっと躊躇しながらもその手を握り締める。
 たいした力も入れずにヒョイっという感じで晶を立ち上がらせると、庭の砂で汚れた背中を払ってやる。少し緊張で硬くなっている晶だったが、先程蹴りを入れられて叩きつけられたというのにもう平然としている。
 幾ら恭也が手加減をしていたとはいえ相変わらずの回復力は目を見張るものがある。そこは美由希やレンを遥かに上回るものがあるのだが―――今日だけで一体なんど地面に転ばされているのだろうか。

「晶……強く生きろ」
「え?わかってますって、師匠!!」

 慰められた晶だったが、どこをどう理解したのか分からない返事を強く返す。
 えへへっと照れたような笑顔の晶を見て、絶対わかっていないと、不憫になる恭也だった。
 
「きょーちゃーん。御飯できたってー」
「ん?ああ、わかった。行くぞ、晶」
「……次こそは一撃入れて見せますからね、お師匠」

 気合を入れる晶を伴って、リビングへと戻る恭也。
 テーブルには湯気をたてる様々な中華料理が皿に盛られていたが、果たして四人で食べ切れるのかと疑うほどの量であった。
 普通の四人ならば食べ切れなかっただろうがここにいるレンを除く三人は実を言うとかなり大食漢なのだ。特に晶と美由希は運動量も多いせいか細身なのに、女性にしては平均よりも随分と食べる。
 レンの見事な料理なのもあいまって、次々と皿にのっている料理は消費されていき、残すことなく―――完食。
 満足そうに腹をさする恭也の前に熱い緑茶が注がれた湯のみが差し出され、礼を述べ受け取った。
 旨そうに飲む恭也を見て、レンが恭也以上に満足そうにしているのは気のせいではない。レンにとって恭也が食べて満足してくれれば、これ以上嬉しいことはない。

 その時、高町家の電話が音をたてる。
 こんな時間に電話がなるとは珍しいと思いつつ一番近くにいた美由希が席を立とうとして―――それより早く恭也が電話を取っていた。

「もしもし。高町です―――」
『あ、きょーや?丁度良かったわー。てっきりまた鍛錬にでもいったんじゃないかと思ってたから』

 受話器ごしからでもはっきりと分かる、一家の大黒柱の高町桃子からの電話だった。 
 だが、鋭い。恭也は御飯が終わったら軽く汗を流しに行こうと思っていたからだ。どこか近くで見ているのではないかと少しだけ疑いを持ってしまう。

「―――店が忙しくなったのか?」
『あー、そういうわけじゃないのよ。昼に忙しかったみたいで―――夜の分がちょっと足りなさそうなのよね。その分を買ってきてほしいんだけど、大丈夫?』
「ああ。それなら問題ない。買いに行ってこよう」
『さすが、恭也!!えっと、買ってきてほしい物は―――』

 桃子の言ってきた食材と数量をメモ帳に書き写すと、受話器を置きリビングへと戻る。
 こういう時のためにと引き出しに隠してある高町資金からお金を借り受けた。

「誰からだったのー?」 
「ああ、かーさんだ。夜のために材料を少し買ってきて欲しいと、な」
「あ、そうなんだ。私も一緒に行こうか?」
「いや、問題ない。それほど量も多くなさそうだしな。それよりお前は飛針と鋼糸の練習でもしておけ。どんな状態でも思ったとおりに扱えるようにしないと実践では使えんぞ?」
「う……耳が痛いお言葉です」
「レンに晶。そういうわけだ。ちょっと出てくる」
「いってらっしゃいです、おししょー」
「はーい。気をつけてくださいね、お師匠」

 しょぼーんと落ち込む美由希と元気な二人をリビングに残し、恭也は財布だけ持つと玄関をくぐる。
 太陽の光が眩しい。ぽかぽかとした陽気が心地よく、自然と足の運びが軽やかになった。
 雲ひとつない晴天。見渡す限り続く青空が、空の果てまで続いている。

 恭也は夏はあまり好きではない。かといって冬もそう好きではない。
 大抵の人がそうだというように春と秋を好んでいた。

 というのも、理由は簡単だ。
 別に暑さや寒さが嫌いというわけではなく、長袖を着ていても人目をひかないということだからだ。恭也の身体には様々な訓練や死闘の果てについた消えることのない傷跡が刻まれている。
 傷だらけの身体を晒して、じろじろと他人から見られるのは流石に気分的に良くない。むしろそれで気分が良い人間がいるとしたらそっちのほうが怖い。

 一際心地よい風が吹く。
 冬ならば吐く息も白かっただろうが、今はそんなこともない。恭也は足早に海鳴の商店街を歩く。
 平日ということもあってか商店街を歩いている人々は主婦が多い。かといってそういった女性ばかりでもなく、入学式や始業式を終えた若い学生達も多く見られる。
 主婦達は夕食の買い物にでもきているのだろう。手には買い物帰りなのか食料がはいった袋をひっさげている。対して学生達はどこかへ遊びに行こうとしているのか、忙しそうに友達と海鳴駅へと向かっている。

 その中には多少顔見知りの女性も混じっていた。
 恭也は海鳴では有名な翠屋の店長である桃子の息子なのだ。
 小学生の頃から剣の修練の合間に時間があれば手伝っていたので、その頃から見知った常連客も多い。
 そういった人たちに会釈だけして歩きさる。
 主婦達の会話に混じれるほど多弁ではないのを自覚してはいるし、桃子から頼まれた買出しもあったからだ。

 何時も買出しに行っている商店で頼まれたものを買い、御礼をいって店を辞する。
 幾つかの店舗を回り、大した時間もかからず頼まれたもの全てを買い揃えた。

 後は翠屋にこれを置きに行くだけとなった恭也の耳に複数人の若い男と少女の話し声が聞こえてきた。
 そちらの方向に眼を向けてみれば、どうみても真っ当とはいえない髪型と格好をした少年達と、中学生……見ようによっては小学生程の身長の少女が居た。
 少女は、白髪……いや、綺麗な銀髪といえばいいのだろうか。あの【銀髪の小悪魔】を思い出させる美しいプラチナブロンドであった。
 腰元ちかくまでその髪を伸ばし、ファッションなのだろうか、右目に黒い眼帯をしていた。
 その眼帯だけが少し妙な印象を与えるが、それ以外は可愛らしい少女である。

「すまない。ここに行きたいのだが……」
 
 そう言って少女は少年達に持っていた地図を見せる。
 少年達はその地図を見ていたが、暫く考えて互いに顔を見合わせた。

「えーと……その場所なら案内してやるよ。こっちからのほうが近いな。ついてこいよ」
「ああ。助かる」

 少年達が入っていったのは商店街の裏道へと続く道であった。
 そちらは人通りも少なく、薄暗い道ということもあり、海鳴の人間ならあまり利用しない通路である。
 だというのに、少女は何の疑いも無く少年達についていった。
 それを止めようとする人間はそこにはいない。それは、少年達が札付きの不良ということもあり自分に被害がくるのを恐れたからだ。
 自分に被害がくるかもしれないのに止める勇気を持つのは難しい。見てみぬふりをしたとしても責められないだろう。
 
「……まずい、な」

 少年達と少女が裏路地に入っていったのを遠目で見た恭也だったが、嫌な予感がして後を追うように足を速める。
 不吉な予感がした。あの少年達と少女を放置しては取り返しのつかない事態になってしまうという予感。

「あら、恭也くんじゃないの?高校はもう終わったのかしら?」

 それを振り払うようにして後を追おうとした恭也の足を止めたのは背後からかけられた声だった。
 振り返ってみれば恭也の後ろの店から丁度出てきた中年の女性がいた。その女性が恭也に声をかけたのだ。
 高町家の近所に住み、昔からの付き合いのある女性だ。恭也も小さい頃から面識がある。
 いい人なのだが、異常なまでに話好きなのだ。それがこの状況では大いにマイナスに働いてしまう。
 
 ズキリと首筋が痛んだ。
 何か良くないことがおきる場合の第六感ともいうべきモノ。
 科学的根拠など一切無いが、この予感は幾度と無く自分の危機を救ってきた。だからこそ信じるに値する。
 
 はやく行かなければ―――。

 そう。はやく行かなければ不幸が舞い降りる。

 【彼ら】に最悪の不幸が―――。

「……申し訳ありませんが少し用事がありまして。失礼します」
「あら、そうなの?また今度翠屋に行くわね」
「お待ちしています」

 不吉な予感に背中を押されるように、女性の話の切れ間に割って入り終わらせることに成功した。
 それに思わず拳を握る。
 一礼して、女性から離れると先程少年少女が消えていった裏道へと恭也も走る。

 薄暗く、汚れも目立つ裏道は狭くほとんど一本道といってもいい。
 走っているとすぐに二手に分かれる通路となっていた。
 どちらに行ったのか一瞬悩む恭也だったが、意識を広げるとあっさりと気配を捕まえることが出来た。

 ―――異様な圧迫感を持った気配。
 
 何の躊躇いも無くその気配の方向へと向かう。
 幸いそれほど離れてはいない。
 一際不気味に蠢く気配に近づいていくと、恭也の耳に少年達の声が聞こえた。
 
「お嬢ちゃんもあまり俺達みたいなのにほいほいとついてくるもんじゃねーぞ」
「全くだ。世間知らずもいいとこだぜ。俺達じゃなかったらどうなってたことか……」

 笑いながらそう少年達が少女に注意をしているのだろう。
 確かに少年達の心配も最もだろう。
 少年達は内面はともかく外見はいかにもそこらへんにいる不良となんら変わらない。
 そんな自分達に道を尋ね、何の疑いも無くこんな裏道についてくるという少女が不思議で仕方ない。
 
「……その言い方だとお前達は私に何もしないのか?」
「へ?」

 少女の真面目な問いに一瞬言葉が詰まる少年達。
 まさか少女の口からそんな言葉がでるとは思ってもいなかった。
 てっきり世間知らずのお嬢様かとおもっていたが、少女の口ぶりからまるで何かされるのを分かっていたかのような―――。

「ああ、何を考えてるのかわからんでもないけど。しないしない」
「俺達はさすがにそんなことはなぁ……」
「んだな。っと、ほら、そこを出れば目的地のすぐ近くに出るぞ」

 ガラが悪くも、親しみを感じさせるような笑みで少年達は、少女を送り出そうとする。
 この光景を一般人が見たら少年達への偏見を捨て去ったかもしれない。何時も優しい人が良いことをするよりも、素行が悪い人が良いことをしたのを見た時のほうがインパクトがある法則だ。意外と優しい所があるのだと感心したかもしれな。
 
 少年達に未来があったのならば―――。 
 
「残念だ。お前達が救いようのない悪党だったならば―――私の心も痛まなかったぞ?」
「ん?お前何を言って―――」

 狭い路地裏が軋みをあげる。
 燃え立つように少女から放たれる殺気。それなりに喧嘩で場慣れしている少年達でも震え上がるほどの威圧。
 凶悪な重圧が身体中から迸る。言葉で例えるならば、燃え盛るような炎のような少女。
 少年達に、この場に居ては危険だという気配を言葉よりも雄弁に、焼け付くように伝えてくる。

「すまないな。少しばかりお金に余裕が無くて―――貸して貰うぞ、お前達の命ごと」 
「ああ、すまない。ここにいたのか」

 煮えたぎった殺気の世界を押し潰すように恭也の声が路地裏に響く。
 驚いたかのように少女が奥からあらわれた恭也に振り向く。この場に自分達以外がいるとは思ってもいなかったらしい。
 重圧から解放された少年達は少女と恭也の二人を交互に呆けたように見比べる。

「君達。案内してもらって助かった。この娘は俺の知り合いでな。探していた所なんだ」
「あ、ああ……」
「礼を言う―――だから、もう行くんだ」

 真剣な様子の恭也の視線に無言で頷くしかなく、少年達は逃げるように路地裏から飛び出していった。
 救われたのだ、少年達は。恭也が声をかけたことによって、未来を掴み取れた。
 その事に気づかないまま、少年達は姿を消した。いや、本当は気づいていたのかもしれない。目の前に居た少女の危険性に……だからこそ、有無をいわさず飛び出していったのだ。
 
 逃げ去っていった少年達には一切の注意を払わずに、少女は恭也のみを注視する。
 例え少年達にのみ気をやっていたとはいえ、自分に僅かな気配も感じさせない男に油断なっできるはずもない―――例え両手に買い物袋を引っさげていたとしても。

「貴女が何者かは分からない。だが、こんな真昼間に人を消そうとするのはいただけないが?」
「……あのような輩は社会的にも消しても問題ないと教えられたのでな」
「誰がそんなことを……」

 頭が痛くなる恭也。一体誰がそのようなことをこんな年端も無い少女に教えたというのか。
 ろくな人間ではないだろう。

「そんなことをすればここ日本では大問題になるぞ?」
「問題ない。組織の力をもってすればそれくらい幾らでも揉み消すことが出来る」
「―――組織?」
「っ……」

 聞き返す恭也に、しまったという顔をする少女。
 あまり触れては欲しくない話題のようだ。答えることも無く、少女が両手を広げ恭也から少しばかり距離を取る。 
 だが、恭也とて裏の世界に足を踏み入れてるもの。そちらの世界の情報はそれなりに持っている。
 少女の幼い容姿。白銀の髪。組織。爆熱のようにあふれん気配。
 それを組み合わせれば―――少女の正体の察しがついた。 

「……忘れろ。それ以上私に関わるならば、命の保証はできん」
「まさか、貴女はナンバーズか。聞いたことがある―――数字持ちの中に年若き少女がいると。白銀の髪を靡かせ、あらゆるアンチナンバーズを撃破せしめるもの―――爆殺姫」

 恭也の返答に少女の眉が釣りあがる。
 ただの一般人が知っていい情報でない。つまり、恭也はこちらの世界の住人だということを理解した。
 それならば、少女がこれ以上自分の正体を隠す必要はない。 

「……お前が何者か知らんが、私と関わりあった不運を嘆け」

 レンほどに小さな少女だというのに―――その気迫は異様であった。桁外れといってもいい。
 年齢的にやはりレンと同じ程度にしかみえないが、その年齢でここまでの気迫を纏えるのは規格外だ。レンとはまた違った圧倒的な威圧。確実にこの少女は、幾人幾十人もの命を奪ってきている。

 ―――やはりこの少女は―――。
 
 圧縮される。少女の赤く幻視できそうなほどの灼熱のオーラ。
 数メートル離れている恭也を、焼き焦がさんと熱く膨れ上がっていく殺気。
 
 ―――ま、ずいか。 

 背中を伝わる寒気。
 このままここにいたら、ただでは済まない。
 そんな予感めいたことを恭也は感じた。ここまで必殺の気配を感じたことは久しい。
 ナンバーズの数字持ちと出くわしたことは未だかつてなかったが、実際に会って、アンチナンバーズが恐れるのも納得できる。それほどの圧迫感を伝えてきた。
 
 赤く燃える。燃える。燃える。
 少女の背中から赤く、朱く、紅く、ただ真紅に染まった二対の翼が出現する。
 炎で出来ている……そう言われたとしても納得できるほどに、純赤であった。

「我が名はフュンフ―――お前を消す者の名だ」

 そして、赤が弾けた。
 今までの重圧が消え去り、そこは平穏を取り戻している。
 不思議に思った恭也だったが、すぐさまに理由が分かった。フュンフと名乗った少女が、その場に倒れていたのだ。地面に四肢をなげうって、海からあげられた魚のように。
 
「……お、お腹減った……」
「……」

 流石の恭也もその呟きにどう返していいかわからず、沈黙しかない。
 殺気を向けてきた相手とはいえ、戦う前にいきなり倒れ、しかもお腹減ったといわれ始末。
 本気でどうしようかと悩む恭也だったが……。

 買い物袋に手を突っ込み、林檎を鷲掴みにして取り出すと倒れているフュンフに近付ける。
 顔だけ上げて恭也の手に乗っている林檎を見た瞬間、立ち上がり掴み取るとかぶりつく。
 まるで一週間断食していた人間のように、一気に林檎を食べつくす。驚くことに芯さえも残していない。
 それを見た恭也は袋からまた林檎を取り出して渡す。それをまた取り上げるように奪うと一心不乱に食べ続ける。
 まだ足りないのだろうが、少しは腹の足しになったのか、ようやく落ち着いたように深くため息をついた。その表情は恍惚としていて、フュンフは呆けるように恭也を見つめる。

「……お腹が減っているのか?」
「……ん」

 まだ呆けているのかコクンと顔を縦に振る。
 それを見た恭也は財布に残っている金額を思い出し―――。

「これ以上手を出さないという約束をしたら食事をご馳走しよう」
「……!!約束する!!約束します!!約束させてください!!」

 凄まじい勢いで恭也にすりよってきた。
 そんなフュンフを見てどれだけお腹が減っていたんだ、と心底不憫に思いつつ、フュンフを連れ立って路地裏から出る。
 周囲を見渡すと平穏そのもの。路地裏であった出来事が幻のようだが、横にはしっかりとフュンフという現実の少女がいた。
 とりあえず、すぐそばにあった喫茶店に入り、ウェイトレスに案内され席に座る。向かい合うように座ったフュンフが早速メニューを開きどれを注文するか迷っているようだ。その光景は兄妹のように見えて傍から見ていたら微笑ましいだろう。
 
「……遠慮せずに注文していいぞ?」 
「!!」

 本当にいいのか?と目で訴えてきているフュンフに頷くことで返す。
 キュピーンと目が光った気がした。そして、注文を聞きにきたウェイトレスを捕まえて―――。

「やきそばにオムレツにミートスパゲッティにナポリタンにカルボナーラにハンバーグにカツサンドに―――」

 兎に角注文をしまくるフュンフを見て―――お金足りるかなぁと本気で心配をする恭也。
 ウェイトレスもマシンガンのように注文し続けるフェンフに注文表を書くのに追いつかず、あわわと慌て始める。 
 これ以上は、と思った恭也はフュンフの持っていたメニューを取り上げると届かない位置に置く。それを不満そうに頬を膨らませて抗議するが、財布の中身と相談した結果もはや崖っぷちだ。
 
「以上でお願いします」
「は、はいー。わ、わかりました」

 パニックになっていたせいだろうか、注文を繰り返すことなく厨房に消えていく。
 フュンフは不満そうにしていた様子などなんのその、ウェイトレスが消えてからは注文がはやくこないかとウキウキ気分で床につかない足をプラプラとぶらつかせている。
 今のフュンフの様子はまるで子犬。尻尾と耳があったらちぎれんばかりにふっていただろう。路地裏の凄惨な姿など微塵もない。
 このフュンフを見て裏の世界で恐れられるナンバーズの数字持ちの一員だとは信じるものもいないだろう。

「……一つ聞いてもいいか?」
「うん?なんでもいいぞー」
「仮にも人の世界を守る最後の壁。ナンバーズの数字持ちともあろうキミが―――何故あのようなことを?」
「あー。うちの司令官がお金に困った時は、あーいう輩を追いはぎしても罪にはならないって教えてくれたんだが……違うのか?」
「……頭が痛い」
 
 先程も思ったことだが、なんでそんな碌でもないことをおしえるんだ、と恭也はズキズキと痛む頭を抑える。
 人類最後の砦。そう言われているナンバーズの司令官がそんなことを教える人間だとは思いたくなかったが……その真実は認めるしかない。
 そうこうするうちに、出来上がった料理が次々と運ばれてくる。
 目を輝かせ何の遠慮もなく次から次へと食べ始めるフュンフだったが、その小さな身体のどこにはいるのかという疑問を残し、胃袋の中へと消えていく。
 コーヒーだけ注文していた恭也はそれを啜りながら―――最初は驚いていたが、途中からあることを思い出して納得した。 

「あの赤い翼は恐らく……ならば、大量にエネルギーを消費するのも納得がいく。あの人もそうだったな……」
「むにゅぅ?ふぉにかふぉったか?」
「―――口にものがはいってるときは喋らない」
「……ふぉぅ」

 人智を超えた異端の力。夜の一族とは異なる人にして人外の域に達した者達。
 【銀髪の小悪魔】と同じ―――HGS能力者。
 その身に感じた波動は間違いなくそうだろう、と恭也は当たりをつけていた。
 触れずして命を潰えさすことができる、人類を超越した―――人類。

「で、何故こんな街に数字持ちであるキミがいるんだ?」
「……ちょっと探し人を頼まれて。この街なのは―――勘、かな?」
「探し人?」
「ああ。といっても、相手の顔さえわからないんだけど」
「……どうやって見つけろと?」
「……全くだ!!ヒントも何も無い!!顔も種族も性別も身長も血液型も何も分からないというのにどうやってみつければいいんだ!?と本気でいってやりたいぞ」
「血液型はおいといてだな……見つかるものなのか?」
「無理に決まってる……特に私は戦闘特化型だしな。見つかる可能性は0パーセントに近い」

 ガンとテーブルを両手で叩くフュンフ。相当にお冠なんだろう。
 その音に驚いて店内にいた客が恭也たちの方を見たので、すみませんと頭をさげる恭也。
  
「一体誰を探してるんだ?」
   
 あまり深く突っ込むのも問題だとおもったが気になったので質問をしてみる。
 答えて貰えないだろうと予想していた恭也はコーヒーを口にふくみつつ返答を待つ。
 
「ああ。アンチナンバーズのⅥ。伝説を覆した者。最凶を虐殺した刃。【伝承墜とし】、だ」
「―――ぶふぉ!?」

 吹いた。噴出した。
 口の中に含んでいたコーヒーを目の前のフュンフにぶちまけた。  
 その不意打ちに顔面がコーヒーまみれになったフュンフが、顔を押さえてテーブルに突っ伏す。
 
「ぅぅあぁあああ―――あ、あついぃいいい!!」
「げほっげほっ……す、すまん、大丈夫か?」

 ハンカチを取り出すとコーヒー塗れのフュンフの顔を拭いてやる。こればっかりは弁解の余地は無い。
 抗う気力もないのか恭也のなすがままに顔を拭かれるフュンフだったが、暫くたってようやく目が開けれるようになったのか、テーブルのうえに残っているコーヒー塗れになった料理を見て絶望した表情になる。
 しかし、その表情も一瞬。コーヒー味になったというのにその料理を食べ始める。どうやらコーヒー味より空腹が勝ったようだ。
 色々と複雑な気持ちになりながら、フュンフの勇士を見守る恭也だった。

 それから僅か十分たらずで完食したフュンフは満足そうに腹を撫でる。
 とりあえず伝票を持って会計にむかうが―――ぎりぎり財布の中のお金でたりたようだ。もし足りなかったらと思うと冷や汗が流れる。

 喫茶店から出ると―――落ち込む恭也とつやつやしたフュンフ。入る前とは全く逆の様子だ。
 ちなみにウェイトレスは心配そうに恭也を見送っていたのが、少しだけ心が癒された。

「ああ、そうだ。お前の名前を聞くのを忘れていたな」
「……高町恭也だ」
「ふむ。キョーヤか。覚えたぞ」

 腕を組みながら、口の中でキョーヤキョーヤと呟きながらフュンフはどこか嬉しそうに恭也の前を歩く。
 数歩歩いた先でクルリと恭也に向かって振り返る。路地裏で出会ったときのような凄惨な笑顔ではなく―――。

「それにしても不思議な名前だ。初めて聞いたというのに―――懐かしい気がする」
「どこかで聞いたのかもな」
「いや、そういうのじゃない。なんというか、産まれる前から知っているような―――そんな不思議な感じだ」
「デジャヴというやつか?」
「何といったらいいのか……まぁ、気のせいだろう」

 後ろ向きで歩いて行くフュンフ。不思議と人混みはフュンフに気づいていないように割れていく。
 気づいてみれば、夕陽が差すような時間になっている。 
  
「―――今日はご馳走になった。お前とはまた会いそうな気がするな―――キョーヤ」

 その言葉を最後にフュンフの姿が幻のように消え去った。
 今まで見ていたのが幻影だったのではないかと疑いたくなる。それほどに突然に消え去ったのだ。
 遠ざかっていく気配だけは掴み取れたが、姿は微塵もない。
 首を捻る恭也だったが―――頼まれていた桃子のお使いが遅くなったことに気づき、急いで翠屋へと走っていった。


























「もうフュンフちゃんってばぁ。ちゃんと指定の場所にいてくださいよぉ」
「ああ、すまんな。フィーア。少し色々とあってな」

 恭也から随分と離れた路地裏の一画でフュンフは、フィーアと呼ばれた女性と向かい合っていた。
 両サイドで茶色の髪を結び、丸眼鏡をかけた女性―――ナンバーズの数字持ちの一人フィーア。
  
「それで、なんであんな一般人と仲良くお食事までしてたのぉ?」
「……一般人?お前にはアレが一般人に見えたのか?」
「―――へ?」
「……いや、わからないならそれでいい」

 ……一般人、か。

 フィーアの発言を心の中で鼻で笑う。
 成る程確かにその通りだ。あの気配の消し方はあまりにも完璧すぎてそこらの人間となんら変わりはないようにみえるだろう。
 だが、路地裏であったときの恭也の気配は―――。

「……ばけもの、だ」

 ぶるりと身体が震えた。
 思い出すだけで寒気がしてくるほどの、死を体現した化身。これまで戦ってきたアンチナンバーズなど相手にもならぬ人間だった。そう、人間だったのだ。あれだけの死を感じさせた相手はただの人間だったのだ。
 だというのに久しぶりに、死ぬことを覚悟した。それ故に最初からリアーフィンを全開で発現させ―――全力で戦うことを決意したのだ。
 それでも、勝てる気はしなかった。あの、暗く、闇く、冥く、漆黒に轟く―――完全な闇。

 しかし、その後……空腹で倒れたフュンフに食事をご馳走するという意味不明な行為をしてきたのが腑に落ちない。
 しっかりと、コーヒーを顔にぶちまけられるという嫌がらせもされたが。

 だが―――惹かれる。

 まるでそうなることが運命だったかのように。
 まるでそうなることが魂の定めだったかのように。

 フュンフは恭也に魅かれていた。どうしようもなく惹かれていた。
 恐怖など一蹴するほどに―――。

「タカマチ……キョーヤ……」

 そこに込められた感情は畏怖か親愛か。嫌悪か愛情か。
 今はまだフュンフにもわからない―――何かであった。   
 
 
   
 
 


  



   

 
  






















あとがき


今回はちょっと無理矢理かんあったよーなきもします
とりあえず、かなり眠いですが更新完了。というか今週更新で来ちゃいました
ナンバーズで活躍させたいな!?と思ったキャラは感想でかいていただけたら優遇してだせれそうです
本筋はもうきまってますけど、それに関係ないちょいやくで、というかんじですが。




[30788] 四章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2011/12/23 00:39













「……あれ?恭也ー、頼んでた食材ちょっと足りなくない?」
「―――ああ、すまない。どうやら個数を勘違いしていたようだ」
「別にいいけど。珍しいわね、あんたが買い物間違えるなんて」

 翠屋に様々な食材が入った買い物袋を届けに来た恭也だったが、桃子にそう突っ込まれて、フュンフに幾つか林檎を渡していたことを思い出す。
 その後の喫茶店がインパクトが強すぎてすっかり買いなおすのを忘れていた。

 手伝おうかと桃子に声をかけようとしたが、店内を見渡すとすでにお客は二組程度。後三十分ほどで閉店時間を迎えるため、オーダーストップということもあり手伝うまでもなかったようだ。
 とりあえずこのまま帰るのは申し訳ないと判断した恭也は、厨房内に入り食器洗いなどの雑用をこなす。
 菓子の材料等は意外と重いものもあり、そういったものをメインに運ぶ。翠屋は従業員がほぼ、というか全てが女性のため恭也は厨房で大変重宝されているのだ。
 本当に人手が足りない場合―――急病やなにかで店内の人手が少ない時は恭也も手伝うのだが、年配の女性に受けが良かったりする。それはやはり恭也が幼い時から翠屋を手伝っていたのを知っているからだろう。

 そうこうするうちに、店内の客もすべて居なくなり、翠屋の扉に臨時休業の看板をかける。
 テーブルをある程度固めるように店内の中央に寄せ、すでに準備していた洋菓子や、軽食などを並べてた。

 その間にすでに他の従業員は帰っており、店内にいるのはフィアッセと桃子と恭也の三人になっているが、時計を見ると五時を回ったところだった。
 どうやら色々と時間をくっていたらしいようで、あまり時間の余裕がない。
 その原因の一部は恭也が喫茶店で時間を潰していたこともあげられるのだけど。
 
「えっと……恭也の知り合いでくるのは……二人だっけ?」
「ん?ああ。赤星と月村の二人だな」

 フィアッセが確認するように聞いてきたので、恭也も素直にそう答えた。
 赤星と月村という名前を聞いて、桃子が首を傾げる。

「月村くん?月村さん?初めて聞く名前ねー」
「月村さん、のほうだ。そうだな……赤星みたいに家にはきていないが、学校ではそれなりに話す女性だ」
「「女性!?」」

 フィアッセと桃子が驚いたようにはもる。
 え、なにこの子。何言ってるの?と、二人の物言わぬはずの視線が、言葉よりも雄弁に恭也に突き刺さっている。
 ガシャーンと翠屋にかん高い音が響き渡る。音の原因はフィアッセが手に持っていたボールを落としたからだ。しかし、二人ともそれが全く気にならないようだ。

「きょ、きょ、恭也!?お、女の子!?う、うそだよね!?そんなこと万が一にもないよね!?」
「ま、まて……フィア、セ……」

 フリーズしていたフィアッセが勢い良く恭也の胸倉を両手で掴み前後に振る。
 ガクブルと頭をふられつづける恭也だったが、段々気持ち悪くなってきたため、フィアッセの両手を掴むと、優しく外す。
 恭也を殺して私も死ぬー、と泣き崩れそうなフィアッセを落ち着かせるように桃子がフィアッセと恭也の間に割ってはいった。

「あんたが女性を呼ぶなんて珍しいわねー?おかげでフィアッセが暴走しちゃったわよ」
「……な、なに?お、俺が悪いのか?」

 なんとなく理不尽に責められる恭也が多少面食らったように、桃子ーと泣きつき始めたフィアッセにどう対処すればいいのか本気で悩む。
 一体何故こんな事態になったのだろうか、と考え込む恭也。
 もう駄目だ、こいつ。早く何とかしないと……と、生暖かい視線を送る桃子。

「で、どこまでいった関係なの?」
「どこまでもなにも、一日何回か話す程度だが」
「……聞き間違いかしら?もう一度聞きたいんだけど」
「だから、一日何回か話す程度だと」
「―――まぁ、そう、うん。あんたが女性を呼ぶなんて初めての快挙だったから期待したけど……期待した私がアレだったのね」

 良かったわねーフィアッセと慰める桃子……その実ちょっとがっかりしていたようだが。フィアッセは暫く呆然としていたが、たっぷりと一分もかかってようやく恭也の言葉を理解したのか、立ち直る。
 暴走状態になっていた自分が恥ずかしいのか、耳まで赤くしていた。

「も、もう。恭也ってば―――あまりおねーさんを驚かせちゃ駄目だよっ」
「あ、ああ……気をつけよう」

 昼間にされたように、ちょんっと鼻先に人差し指をあてられる。
 実際は恭也は何故こんなにフィアッセが暴走したのかあまり分かっていなかったが。
 兎に角、落ち着いたフィアッセ含む、桃子と恭也で準備を続ける。フィアッセと桃子が料理の準備をし、恭也がテーブルや椅子の移動及び飾りつけを行う。意外に思うかもしれないが恭也は手先が器用なためこういったことは得意だったりするのだ。
 そうこうするうちに翠屋の扉がカランカラーンという響きの良い音をたてる。
 
「あ、申し訳ありません。本日はもう閉店と―――」
「手伝いにきたよーかーさん」
「美由希ちゃんと同じです」
「家の方で作った料理を持って来ました!!」

 やってきたのは美由希とレンと晶の三人で、その手にはラップに包まれ皿に盛られた料理が持たれていた。
 レンと晶の二人の合作なのだろう。美味しそうな匂いが恭也の鼻をくすぐる。しかし、そこでふとした不安に襲われた。

「―――まさかとは思うが美由希、お前も料理をしたのか?」
「私も手伝おうと思ったんだけどね。二人が手伝わせてくれなかったんだよー。疲れてるから座っててって

 心底残念そうな美由希に見えないように、レンと晶に親指をたてて、よくやったとジェスチャーを送る恭也。
 二人は喜んでいいのか微妙な表情だったが、美由希の料理の酷さを身を持って知っているため恐らく死ぬ気でとめたんだろう。

「んしょ……んしょ……はい、おいーちゃん、これ」

 三人だけかと思ったがその背後にもう一人いたようだ。高町家の末っ子なのは。他の三人と同じように皿を運んでいる。
 流石に身体に見合った大きさだが落とさないように気を使って持ってきたのだろう。
 時間的に小学校が終わって家についてからすぐ着替えてこちらへきたはずである。大変だったろうと運んできた皿を受け取り、片手でなのはの頭を撫でる。

「有難うな、なのは。本当に助かったぞ?レンと晶も、な」
「えへへ……」
「今日は何時にもまして気合入れて作ったんで、師匠の口に合うと思います!!」
「……お猿の料理は塩分が強めやないか……」

 ぼそりとレンが、嬉しそうな晶に突っ込みを入れる。
 聞こえるか聞こえないか、微妙な声の大きさであったが確りと晶は聞き取っていたらしく。

「お、お前だってわけわからない調味料いれすぎだろ!?」
「鳳家秘伝の調味料は分けわからんことあるかい!!」

 二人の言い合いが始まり……ああ、これはまた始まるなと恭也が思った瞬間、皿を持ったまま晶とレンが自由の利く足だけで戦いを始めようとして―――。 

「……レンちゃんと晶ちゃん、喧嘩しちゃ駄目です!!」
「う……」
「ご、ごめん。なのちゃん」

 あっさりとなのはにとめられた。
 基本的に桃子やフィアッセはレンと晶の諍いを仲の良い二人のじゃれあい程度にしか考えてなく、とめようとはしない。酷い怪我を負ったりするのであれば止めたのであろうが、レンの絶妙な手加減と晶の人間離れした回復力。その二つが相まって微笑ましく見物できるわけだ―――内容は凄くハイレベルなのだが。
 恭也と美由希は、二人の戦いは晶の糧になると考えているため無駄にとめようとはしない。  
 しかし、なのはだけは別だ。基本的に争いごとを好まない性格なのもあるだろう。姉のような存在である二人が本気ではないにしろ、喧嘩をするのが嫌なのだ。
 そのため二人の争いを何時しか止めるようになっていた。なのはが居る場合は毎回とめられているため、レンと晶はなのはに頭が上がらなくなってしまったというわけだ。

 なのはに止められた二人は大人しく桃子達の手伝いに入る。
 美由希も自然に厨房に入ろうとしたが、そんな美由希の裏襟を恭也が引っ張って断固として阻止していた。後ろに引っ張られたため服が喉にひっかかり、ぐぇっと蛙がひき殺されたときのような呻き声をあげる美由希。

「お前はこっちだ」
「ぅぅ……私もあっちを手伝いたいのに……」
「……いつか、な」

 美由希を連れて店内の装飾を行おうとした恭也だったが、手持ち無沙汰そうにしていたなのはがちょこちょことよってくる。

「おにーちゃん。私もなにか手伝おうか?」
「そうだな……なのははかーさんの方を頼む」
「はーい。行って来るね」
「気をつけるんだぞ」
「なのはでも厨房なのに私は!?」

 魂の叫びで訴えてくる美由希をスルーして、なのはを桃子の手伝いへと向かわせた。
 流石に少し美由希が可哀相にはなってくるが、今日のパーティは高町家だけではない。それ以外の者も多く来る。
 そんな人たちを美由希の料理の餌食にさせるわけにはいかない……高町家の皆を犠牲にするのもごめんだが。

 元々恭也がほとんど終わらせてたこともあり、あっさりと店内の装飾は終わり、二人とも手持ち無沙汰になる。
 厨房に手伝いにいこうかとも思った恭也だったが、どうやら桃子達のほうもほぼ終わっているらしい。
 それに下手に手伝いにいって美由希までついてきたら本末転倒となるため、恭也は美由希を見張りつつ椅子に座っておく。美由希は相当に厨房が気になるのか、チラチラとそちらの方に視線を向けていた。
 
「……ん?」

 恭也が感じなれた気配を意識の端で掴み、翠屋の扉までいき開ける。もちろんその隙に厨房に移動しようとした美由希を視線で牽制しておくこと忘れない。
 翠屋の外には、丁度扉を開けようとしていたのか―――開けようとした体勢のまま固まっていた女性が居た。
 
 美しく伸びたスカイブルーの長髪。さぁっと吹いた風にたなびいている。
 日本人とは異なる透き通るように白い肌。エメラルドグリーンの瞳が印象的だ。
 誰もが我を忘れ、息を呑むほどの美しさを、放っている女性であった。整いすぎた風貌は、時には冷たい印象を相手に与えるかもしれないが、女性はニカッとそれを覆すような笑顔を浮かべる。

「おぉー、恭也。久しぶりー大きくなったねー?」
「先日あったばかりですよ、アイリーンさん。それと、会う度にそれをいってませんか?そのうち二メートル突破してしまいますって」
「あははー。私から見たら大きくなっているよーに見えるんだけどねー」
「それは置いておいて、お仕事の方はよく都合つきましたね?」
「前からわかってたことだしね。けっこー無理矢理予定あけたことは確かだけどね」
「そうまでして来て頂き有難うございます。美由希とレンも喜びます」
「あっれー。恭也は喜んでくれないの?」

 いたずら小僧のような厭らしい笑みを浮かべ、ニシシと恭也を窺うアイリーン。
 アイリーンの不意打ちのような一言に、返す言葉が詰まり、どんな返答をしようか迷う。相変わらず年上の女性―――といっても、桃子やフィアッセ、アイリーンくらいしかいないが、恭也は多少苦手意識を持っていた。別に嫌いだとかそういった感情ではないが。

「いえ、きてくれて嬉しいです」
「ほ、ほぇ!?」

 結局、選んだのは素直な感謝であった。
 そう率直に礼を言われるとはアイリーンも予想していなかったのだろう。今度はアイリーンが吃驚したようで、反応に困っているようだ。
 といっても、困ったのはほんの一瞬で、今度は綺麗な笑みを浮かべ……。

「恭也も成長しておねーさんは嬉しいかな」
 
 アイリーンは笑顔を浮かべたまま両手で軽くギュッと恭也を抱きしめて―――最後にポンと背中を叩いて翠屋に入店していく。
 それはまるで姉が弟にするような親愛のこもった抱擁であった。
 例え家族のようなアイリーンであっても、抱きしめられた恭也の顔が若干赤くなっている。人に見られていなかったとしても恥ずかしいのは恥ずかしい。
 
「ハーイ、フィアッセー。お誘い有難うね、来たよー」
「わぁ。アイリーン来てくれたんだ。こっちこそ有難うー」

 店内からフィアッセとアイリーンの声が聞こえる。
 二人は幼いころからの知り合いで、幼馴染―――というよりほとんど姉妹のような関係だ。アイリーンのほうが一歳年上のため何かと姉のような振る舞いをしているが。
 見かけと名前の通り、日本人ではない。アイルランド系アメリカ人なのだが、日本語はほとんど完璧に話せれるといっても良い。その理由は、フィアッセと長く付き合っているため、恭也や、その父である士郎と顔を合わせる機会が多かったのだ。そのため、恭也達と会話をするため日本語を必死で勉強したという過去があるのだ。
 そしてアイリーンはフィアッセの母親が経営しているクリステラソングスクールの卒業生であり、若き天才と賞賛される現在注目されている新鋭の歌手である。
 ちなみに喉を痛めているフィアッセを心配して態々活動拠点を日本とし、同居までするという過保護っぷりである。
 
 その後、晶とレンの友達も来たので翠屋へ入るように勧める。
 二人の友達は時々高町家にも遊びに来ているので、恭也とも顔見知りとなっているのだ。
 予定していたメンバーも揃ってきており、残り僅かとなったところで確認してみると、来ていないのは二人。

「すまんすまん、高町。遅くなった」
「ごめんね、高町君。準備してたらぎりぎりになっちゃった」

 確認した途端くるのは何かの法則だろうか。
 赤星と忍が二人揃って姿を現した。赤星は手に寿司桶を、忍は綺麗にラッピングされた箱のようなものを手に持っている。

「いや、まだ時間前だし。良く来てくれた。歓迎する」
「そこで月村さんと会ったんだけど、高町の所にいくっていうから一緒に来たんだ。あ、それとこれは差し入れ。皆で食べようぜ」
「えっと……これ恥ずかしいんだけど私も差し入れを持ってきたんだ」

 赤星は実家が寿司家のため何度か食べに行ったことがある。父親が見事な腕前だったため相当美味しかった思い出があるが、それを考えると寿司の差し入れはありがたい。
 対して忍の差し入れからは甘い良いにおいがしている。どうやら何かのスイーツが入っているのだろう。
 恭也としては甘いもの系は苦手のため一瞬迷うが―――折角忍が持ってきてくれたのだし流石に一口くらいは食べようと思いなおす。
 それに今日来ているメンバーなら必ず誰かが無駄にせず食べるだろうということは簡単に予想できた。

「とりあえず二人とも入ってくれ。そろそろ始まるかもしれん」
「了解。行こうぜ、高町。月村さん」
「うん……宜しくね、高町くん」

 二人を翠屋の店内へと案内して、扉を閉める。カランカランとベルの音が暗くなった周囲に響いた。
 中に入った忍はまず石像のように固まった。目の前に居るのはどう見ても若き天才アイリーン・ノア。天使のソプラノと評判のSEENAと並ぶ大ファンの歌姫が何故か翠屋にいるのか理解できないようだ。
 それはレンや晶の友達も一緒でアイリーンを囲むようにして、握手やらサインをねだっていたりする。大げさだと思うかもしれないが、それほどにアイリーンは有名な歌手なのだ。
 アイリーンの騒ぎも収まり、家長である桃子の祝辞から始まり―――高町家の入学祝いが静かに幕を開ける。

「いちばーん!!アイリーン・ノア歌いまーす!!」

 静かに……。

「あ、お前!!この緑亀!?それ、俺が狙ってたやつだぞ!!」
「ほほー。早いもん勝ちやで?お猿のくせにノロマやなぁ」
「こ、このやろー!!」

 静かに………。 

「恭也~最近フィアッセとはどうなの?うまくいってる~?」
「ア、アイリーン!?」
「ええ。何時も通りフィアッセは良くしてくれますが?」
「……この、朴念仁めー!!」

 静かに…………。

「へぇ……なのはちゃんってゲームそんなに強いんだ」
「そ、それほどでもないんですけど……」
「なのはは凄く強いですよー?私とか恭ちゃんいつもぼこぼこにされてますし」
「あぅ……恥ずかしいです」

 静かに……………。

「うわー!?晶が泡吹いてるよー!?」
「あー大丈夫大丈夫。晶っちは多分二、三分放置してたら復活するから」

 静かに…………………幕を開けた。



















 





 海鳴内にあるマンションの一室。
 ツインベッドに丸テーブル。テーブルの周囲には高価そうな椅子が幾つか並べてあった。ベッドと対極の位置には薄型テレビが置かれている。
 シンプルだが、全体的に質の良い品ばかりのようで、この部屋の持ち主は相当に資金的に余裕があるのだろう。
 天井から柔らかい照明が部屋中を照らしていた。その部屋で、ベッドに寝そべるようにして、何かが書かれている用紙を眺めている人物は……山田太郎。
 色気がある男性とでもいえばいいのだろうか。ただ書類を寝そべって読んでいるというだけなのに、何かしらの華がある。
 
「高町美由希―――現在住んでいる家の住所は海鳴市藤見町64-5。母は高町桃子。兄に高町恭也。妹に高町なのは……城島晶と鳳蓮飛は居候?父は―――死去か。居候とか珍しいなぁ」

 今時居候がいる家などそう多くはないだろう。
 祖父母は同じ海鳴に住んでいるようだが、どうやら一緒にはくらしていないらしい。書かれている美由希の情報を目で追うように確認する。

「海鳴中央を卒業……今年風芽丘学園に入学。一年A組所属。海鳴中央の時に親しい友人はなし、か」

 太郎はそこまで確認すると持っていた紙を部屋にぶちまけるように投げ捨てた。
 寝そべっていた太郎が起き上がり、ベッドの縁に腰を下ろす。

「一日で調べれる情報は所詮この程度。調べた感じ、ただの学生にしか見えないけど……そんなわけがない」

 脳裏に朝に会った美由希を思い描く。
 圧倒的な気配。一般人ならばわからないかもしれないが、ある程度の力量を持ったものならば分かっただろう。
 明らかに違った。他の生徒とは一線を駕する、抜き身の刀のような鋭さを持った存在感。
 気圧された―――誰よりも何よりも。高町美由希が放つ研ぎ澄まされた、オーラとでもいうべきモノに。
 突然獅子の目の前に素手で放り出されたかのような恐れを、向かい合ったあの瞬間感じた。
 美由希が太郎に言いようのない恐れを抱いたのと同じように、太郎も美由希の底知れぬ力量に恐怖に似たものを感じていたのだ。
 
 だが、それいじょうに―――そそられた。

「何か武道でもやってるのかなぁ……兄の高町恭也は何も感じなかったんだけど」

 ぶつぶつと爪をかみながら昼間に遠くから眺めた恭也を思い出す。
 物静かな、大人っぽい雰囲気の青年だとは思ったが……それだけだった。美由希のような絶大な気配を纏っていたわけでもない。
 無論美由希が常時その気配を放っていたわけではない。隠していたようだが、ほんの僅かにその気配が漏れ出していたから太郎はあっさりと気づけたのだ。
 
 去年は校舎が違うせいだったためだろう。
 海鳴中央にあのような少女がいるのがわからなかった。それを悔やむしかない。
 もっと注意していれば高町美由希の存在に気づけたというのに。

「後悔しても仕方ないか……」

 そして太郎は考える。
 どうすれば、全力の高町美由希と戦えるのか。
 戦いを挑めば美由希は当然応戦してくるだろう。だが、それでは足りない。
 血で血を洗うような―――命と命を賭けた殺し合いを太郎は望んでいる。
 勘が告げてくるのだ……それでは高町美由希の【本気】と戦うには足りない、と。
 美由希のようなタイプと全力で戦りあうには―――。

「……これしかないね。あまり好みじゃないんだけどなぁ」

 部屋に投げ捨てた紙の一枚を拾い上げ、そこに書かれていた名前を指でなぞる。
 その名前は【高町なのは】。
 太郎は口元を歪めさせ―――不気味な笑みを消すことは無かった。





























 宴が始まり一時間ほど時間がたった頃だろうか。大人組―――桃子、フィアッセ、アイリーンはお酒を嗜んでいる。
 桃子は日本酒。フィアッセとアイリーンは軽めのチューハイといったかんじだ。子供たちが手を出さないように目を光らせながら、大人の会話に華を咲かせていた。

 レンと晶は、それぞれ友達と一緒に料理やスイーツに舌鼓を打っている。
 晶はレンにのされたのが悔しいのかやけ酒ならぬ、やけジュースで何本もペットボトルをあけているのだが―――不思議と酔っぱらっているように見えた。
 
 赤星は美由希と剣の談義をしているのだろうか。
 こうきたらこう返すなどといった言葉とともに身振り手振りを加えて真面目に話をしているようだ。

 忍は、意外なことになのはと交友を深めていた。
 外見では二人ともそうは見えないだろうが、生粋のゲーマー同士。話が完全に一致し、二人とも楽しそうに盛り上がっている。
 それを見た恭也は、多少無理にでも誘ってよかったと思えた。
 
 その時、ポケットに入れていた携帯がブルブルと震え、パーティーの間は邪魔にならないようにバイブにしていたのだが、着信があるのを恭也に伝える。
 店内ででるのも迷惑になると考え、翠屋から外へと出て携帯を取り出す。
 着信画面に表示されていた登録者は……【リスティ・槙原】。銀髪の小悪魔だ。
 うわぁ……という微妙な表情になる恭也だったが、先日忍のことを調べてもらうよう頼んだ件もあったためでないわけにはいかない。
 別に恭也はリスティのことが嫌いというわけではない。逆に好意を抱ける女性だと思っている……変なからかい癖さえなければの話だが。

「もしもし―――俺です」
『やっほー恭也。出るの遅かったけど変なこと考えてなかった?』
「……いえ、別に」
『あれ、おかしーな。ボクの予感が外れちゃったか。んー、まぁ、いいか。それより今からちょっと出てこれるかい?昨日頼まれていた月村忍の情報を伝えたいんだけど』
「今からですか?」

 昨日の今日で情報を集めれたことに驚く。幾ら顔が広いリスティとはいえ、まさかたったの一日で忍のことを調べることができるとは全く予想していなかった。
 腕時計を見ると、まだ七時になったばかり。おそらくあと二時間程度はパーティーは続くだろうとふんだ恭也は、聞くなら早い方がいいかと判断した。

「ええ。構いません。場所は何時もの場所で構いませんか?」
『うん、実はボクもうそこで一杯やってるんだけどね。ま、話もすぐ終わるだろうし。来てくれたら嬉しいかな』
「わかりました―――十分ほどで行けると思います」
『りょーかい。待ってるよー恭也』

 携帯を切ると、恭也は翠屋へと戻る。
 大人の会話をしている桃子に近づき、他の人間に聞こえないように耳打ちする。

「すまない、かーさん。少しばかり出てくる。すぐに戻れるとは思う」
「んー、早く帰ってきなさいよ?」

 流石高町桃子、深くは聞かず恭也を送り出してくれた。
 アイリーンとフィアッセの追求を適当にかわしつつ、他の人間に気づかれないように翠屋を出て、夜道を駆ける。
 恭也とて桃子に言われるまでも無く、パーティーに戻りたいという気持ちはある。ましてや、美由希とレンの祝いの席なのだ。
 長い間席を外しているのがばれたら後で何を言われるか……。
 
 夜道をかかなり本気で走ること数分、恭也の走る速度に驚く人たちを背に目的の場所にあっさりと到着する。
 【FOLX】という看板が嫌味がない程度で周囲を明るく照らしていた。ここらでは話題の喫茶店兼バーである。
 入店するとカランカランという音が響き、客の入店を告げる。恭也は店内を見渡すと―――直ぐに彼女を発見した。カウンターの一番端の席で若干気だるそうに座っている。
 リスティ・槙原。夕方にあったフュンフと同じような美しい銀髪。ただし、それほど長くは無く、肩までもない。
 端整な顔立ちで、見るものを問答無用で惹きつける魅力がある。煙草に火をつけ、一息。口から白い煙が店内に舞う。

「お待たせしました、リスティさん」
「ん、やぁ、恭也。大丈夫、ボクもさっき来た所だしね」

 挨拶を済ませると恭也はリスティの横の席に座る。
 すでに馴染みになったFOLXの店長が近寄ってきた。恭也と同じ位の身長で、なかなかの美形だ。この店長を目当てでやってくる女性客も多いとか。
 国見隆弘という名前で、リスティの知り合いらしい。そのためこの店で待ち合わせをすることが多いのだ。
  
「やぁ、恭也君。何か飲むかい?」
「そうですね……アイス宇治茶お願いします」
「アイス宇治茶だね?ちょっとまってて」

 そう言って奥へと消えていく国見。
 そんな飲み物があることに驚く、隣の席に座っていたカップル。
 確かに喫茶店も兼用しているとはいえ、バーがメインであるこの店にまさかそのような得体の知れない飲み物があるとは信じれなかったのだろう。
  
「相変わらず変なモノをのむね、恭也は。まー、いいけど」
「意外といけるものですけどね。リスティさんも如何ですか?」
「謹んで遠慮するとするよ。ボクにはこれがあれば十分さ。飲み物じゃないけどね」

 リスティは本当に美味しそうに煙草を咥えると―――肺までしっかりと満たし、白い煙を吐き出す。
 ヘビースモーカーなのは、会った時と変わらず、不思議と懐かしい気がした。

「さて、恭也から頼まれていたことだけど―――大概は調べれたよ」
「……今回は早いです、ね。もっと時間がかかると思ってましたが」
「ん……正直今回は楽な仕事だったしね。月村って名前に聞き覚えがあるはずだよ。ボクの旧友の親戚と同じ苗字だったしね。ボクも確か月村忍って昔何度かあったことがあるはずだよ」

 コトンと話の邪魔にならないようにカウンターに置かれたアイス宇治茶……微妙に大盛り。
 サービスを有難く思いつつ頂く。その渋みが実に恭也の好みにマッチしている。

「世間は狭い、ですね」
「全くさ。旧友に駄目元で話を聞いてみたら―――どうやらまだ仲がいいらしくて、お蔭様で大体の情報は判ったよ。狙われている理由とかもね」
「話がうまく行き過ぎてる気もしますが……運がいいで済ませていいんでしょうか」
「いいんじゃない?全く判らないより百倍マシじゃないか。っと、詳しくはこの中にまとめておいたから、家でゆっくり読みなよ」
「有難うございます。リスティさんに頼んで正解でした」
「ふふん。そうだろうそうだろう」

 立派に実っている二つの果実がなっている胸を得意げに反らし、ニヤリと笑うリスティ。
 わざと見せ付けてくるようなリスティの行為に、視線をあさっての方向にむけ、A4サイズの茶封筒を受け取った。
 仮にも個人情報となる書類なのでここで見るわけにも行かない。一体誰が忍を狙っているのか気にはなるが、後で目を通そうと決める。

「さて、忙しいところ呼び出して悪かったよ。今日はもう帰ったほうがいい」 
「え、ええ。すみません。とても助かりました、リスティさん」
「いいよいいよ。キミには何時もお世話になってるしね」
「いえ、こちらこそ。このお礼は今度必ずしますので」
「楽しみにしてるから。それじゃ、バーイ」
 
 リスティはまだ残るつもりなんだろう。煙草を吹かしつつ、頼んでいたお酒を軽く呷る。カランと氷が解けて音をたてた。
 恭也は国見にリスティから見えないように何枚かのお札を渡し、FOLXから翠屋へと戻るのであった。
   
 急いで翠屋へと向かう恭也であったが、リスティと会っていたのは精々十分弱。往復の時間も合わせても三十分にも満たない時間であったが、これだけ席を外していたらやはり誰かが気づくものである。
 翠屋に戻った恭也は美由希やフィアッセ、アイリーン達に質問攻めにされたが、のらりくらりと彼女達の問いをかわす。
 正直に答えて貰えないと理解した美由希たちは何時か聞き出してやる、というような表情で各々の語り合いに戻っていった。

 時が進むのは早いもので―――。 

 気がついたときには既に太陽が落ち、夜が支配する時間。時間は夜の九時を回っている。
 街灯と道に沿って建てられている家の灯りのみが標となっていて、道行くものも少ない。
 翠屋で開催されたパーティも先程終了し、皆が帰宅の流れになっていた。

 アイリーンは車できていたのでそのまま帰り、レンと晶の友達はそれぞれが送って帰っていた。例え変質者などと遭遇してもレンと晶ならば余裕で撃退できるだろう。
 美由希はなのはを高町家へと送り届け、フィアッセと桃子が翠屋で片付けをおこなっている。
 赤星は一足先に暇していたので、恭也は忍を海鳴駅まで送っていく途中なのだ。前と同じように迎えの車が海鳴駅まで来ているらしい。
 
 幾ら灯りがあるとはいえ暗い夜道を歩くのは心細いものだ。
 だが、忍は不思議と不安など全く感じていなかった。横に恭也がいるだけで、言葉には出来ない安堵が心を覆っている。
 二人ともどちらかといえばおしゃべりというわけでもなく、帰り道は沈黙が続いていた。
 生来より口数が少ない恭也とは違って、忍はある出来事があるまでは明るい性格だったのだが、幼少の事件のせいと自分自身の出生の秘密により友達を作ろうとせず、人と関わらないように生きてきた。
 学校では机を友達とすることで他人と会話をすることを拒絶している忍だが―――二人で歩いている以上机に頼るわけにもいかない。
 何か話さないとーと外見はクールだが、内面は焦っている忍なのだが、こういうときに限って会話の内容を思いつかない。 

「今日は無理に誘って悪かった。月村にも予定があっただろうに」
「え!?ううん、大丈夫だよ。こちらこそ凄く、楽しかったし」
「そうか。そういってもらえたら気が楽になる」

 そんな忍の内心を知らずに恭也が礼を言う。
 それに驚いたようにビクリと身体を震わせながらも、忍は照れたように返す。
 忍の楽しかったという感想は別に恭也に気を使って言った訳ではない。どれくらいぶりになるかもわからない……只の人間の知り合いと話し、笑う。
 そんな当たり前のことが―――忍は心のそこから楽しかった。

 本当は駄目だと頭では分かっているのだ。只の人間と一緒にいるのは……何時か必ず関係の破綻が訪れるのだから。
 それでも、久方ぶりの大勢との語らいはその決心を鈍らせるほどに、喜びしかなかった。

 その時、一台の自動車がライトを二人に向けながら走ってくる。
 とても住宅街を走るスピードとは思えない、暴走といってもいい速度だった。
 黒塗りの高級そうな車だったが、その速度は落ちることを知らず……不吉な音をたてながら二人を―――否、忍めがけて向かってきた。
 恐ろしい速度だったため、忍の身体が硬直。避ける事は出来なかっただろう―――もし、忍が一人だったならば暴走車の餌食になったかもしれない。

 だが―――忍は今は一人ではないのだ。
 
 肩と足に何かが触れたと認識した瞬間……景色が変わった。
 まるでエレベーターに乗ったときに感じる浮遊感。まさにそれだ。
 暴走した黒塗りの自動車は、忍の下のゴミ袋をひき、中身を道端に撒き散らしながら、あっという間に去っていった。
 何故自分が助かったのか改めて見る。簡単な理由だった。
 忍は恭也に抱かれて―――俗に言うお姫様抱っこである―――道と家を分け隔てる石垣の上に立っていたのだ。見事なバランス感覚で、恭也は女性一人を抱いているというのに、微塵の揺れもない。
 
 恭也は暴走車が見えなくなり、安全なのを確信すると石垣から飛び降り忍を地面に降ろし、立たせる。
 そして、ポケットから携帯を取り出すと先程の暴走車と交差した瞬間記憶したナンバープレートを警察に伝えた。
 最も果たしてそれがどれだけ意味があるかわからないが……しないよりは全然ましだろうという判断を下したからである。

「あ、ありがとう……高町君」
「いや、危なかったな。危険な運転をするやつもいるようだ……気をつけたほうがいい」
「……うん」

 間違いなく今の暴走車はしのぶを狙ったものだろう。
 確かに危険な運転をしていたようだし、忍を狙っていたのも確実だ。
 だが、轢こうとまではしていなかった。
 以前忍を狙った男性と同じ、命までは奪わない……おそらくは脅し目的。

 そのことを忍は果たして判っているのだろうか。
 ちらりと横目で忍を窺う恭也だったが……忍の表情は何時も通りだった。今まさに命の危険に晒されたというのに。
 ただの暴走車だと思っているのか。それとも、こういった出来事に慣れてしまっているのか。
 
「月村―――」
「……うん、どうしたの?」
「―――いや、何でもない」

 聞きたくなる気持ちをぐっとこらえて、恭也は周囲の気配に注意しつつ海鳴駅まで向かう。
 忍も黙って大人しく恭也の後に続く。
 住宅街とは違って、海鳴駅までくれば人も多い。暴走車が突っ込んでくることはないだろうと一息つくが、先日のように忍を狙った輩が人混みにまぎれて現れないとも限らない。
 怪しい気配を放つ人間はいないことに安堵しつつ、ロータリーへと視線を向けたら、そこには毎回忍を迎えに来ていたスーツ姿の麗人がいた。

「あ、ノエル。お待たせ」
「いえ。お帰りなさいませ、忍お嬢様」

 深々と忍に向かって一礼をするノエルと呼ばれた女性。
 恭也も無表情ということに関しては中々のものだと自負してはいるが、ノエルはさらにもう一歩上手だった。
 人間ではない―――まさに人形のような美しさ。例えるならそうとしか言いようのない容姿だ。

「随分遅くまで付き合せてしまいまして、申し訳ありません」

 恭也がノエルに対して頭を下げる。
 以前から誘っていたならばまだしも、今日突然誘って、こんな遅い時間まで付き合せてしまったのだ。
 
「いえ、こちらこそ忍お嬢様に良くして頂き感謝の言葉もありません」

 対してノエルは恭也にも礼儀正しい。
 忍とノエル。果たしてこの二人はどのような関係なのだろう……少しだけ恭也は気になった。
 ノエルは停めてあった自動車のドアを開け、忍を招き入れる。
 自動車に乗り込むと、忍は恭也と視線を合わせ、微笑んだ。それはとても綺麗な微笑だった。今まで見た月村忍のどの笑顔よりも素敵であった。

「今日は本当に有難う、高町君。また明日―――」
「ああ。来てくれて嬉しかった。また明日、な」

 ノエルは扉を閉め、運転席へと乗り込むと車を出発させ―――夜の街へと消えていった。
 それを見送っていた恭也だったが、ため息をつく。

 やはり忍は狙われていたのだ。
 誰が狙っているのか判らないが―――リスティから貰った情報を見れば判明するのだろうか。
 しかも、昨日の男のような一般人に毛がはえたような相手ではどうやら今度はすまないらしい。
 この感じる【視線】は―――六つ。そのどれもが並々ならぬ使い手と読み取れる。
 狙いは恭也ではなく……忍。
 恭也は数十メートル離れた七階建てのビルの屋上を見上げ、鋭い視線のまま、そこにいた相手を貫いた。
 
   

 













 海鳴駅のすぐそばにある七階建てのビルの屋上で七人の男女が眼下にひろがる人波の一画を見下ろしていた。
 彼らは北斗とよばれる暗殺集団。北斗とはわずか七人【貪狼】【巨門】【禄存】【文曲】【廉貞】【武曲】【破軍】と名乗る七人から構成されている。
 十年以上前は活発に活動していたため有名だったが、何があったのかここ十年はさほど精力的な行動はおこしていない。 

「あのお嬢ちゃんがクライアントの言ってた相手だネ」
「ふーん。殺さない程度でっていうのが面倒ね」

 目が細い長身の男【廉貞】と、顔を隠すようにマフラーを巻いている女性【文曲】が視線の先―――ロータリーに止めてある自動車の横で話しているノエルと忍と恭也の三人を映していた。
 クライアントから依頼されたターゲットは月村忍。厄介な内容として―――殺しては駄目だということだ。
 
「仕方あるまい。それが先方の絶対条件なのだ」
「腕一本くらいはいいんじゃねーの?」
「やれやれ。貴方のその乱暴な性格をまずはどうにかしてください」
 
 二メートルをゆうに超える大男【巨門】が先の二人を戒める。それを馬鹿にしたように細身の若い男【貪狼】が唾を吐く。中肉中背のオールバックに髪を固めている【禄存】がやれやれと肩をすくめた。
 彼ら五人より遥かに身長は小さいツインテールの少女―――【武曲】が、身を乗り出すようにして恭也達を見つめる。

「あれがノエル・綺堂・エーアリヒカイト、か。現在起動している数少ない自動人形。確かにアレに守られている限り人間では手出しは無理だろうね。遠目で見ただけで分かるよ……なんだよ、あの無茶苦茶な完成度は」

 呆れたように武曲はノエルを呆れたような目で見る。
 クライアントからはただの自動人形としか聞いていないが、情報はきちんと渡せと怒鳴りたくなった。
 武曲が言ったように、一目で判る―――恐ろしいまでの完成度。
   
 あの自動人形を見て本当にただの自動人形と断じたのか、それとも敢えてこちらを試すために嘘をいったのか。前者だったらクライアントは底知れない阿呆としか言いようがない。

「厄介だが、なんとかならないこともないか」

 依頼を受けこの街についてから早速、ターゲットの月村邸を偵察にいったのだが、生憎居たのはノエルのみ。肝心の忍を見かけなかった。
 そのため暫く月村邸を窺っていたのだが、ノエルが車で外出。それを必死で追いかけて付いた先がこの海鳴駅。
 そして、近くのビルの屋上でノエルの行動を見張っていたのだが、それが実を結んだ。
 ターゲットの忍がようやく現れたのだ。その友達らしき男性も一緒だったが。
 ちなみに随分と離れているが皆双眼鏡などをつかわずともしっかり見えている。彼らは皆が【夜の一族】と呼ばれる人外の化け物達。五感や身体能力は人間の比ではない。
 一応は六人が六人ともターゲットを確認しているというのに一人だけ、ぼけぇとしたように屋上に座り込んでいる女性が居た。
 明らかにやる気が見られない彼女こそが―――北斗が長【破軍】水無月殺音。
 それを見かねた武曲が米神を人差し指でコンコンと叩く。まるで痛む頭を抑えるように。

「おい、殺音。お前もターゲットを確認しておけ。確かに取るに足らん仕事ではあるが―――依頼は依頼だ」
「ふぁいふぁい」

 気合が一ミリとも入っていない返事をして殺音が立ち上がる。
 どっこいしょというあたり少し親父臭い。見かけは超弩級の美女だというのにもったいなさすぎる。
 ふらふらと酔っ払いのように屋上の端まで歩いていき眼下を見おろす。
 海鳴駅のだいぶ少なくなったとはいえ、まだ大勢居る人達が邪魔でターゲットを見つけることが出来ない。
 そんな中、武曲がポツリと呟いた。

「……あの男、どこか見覚えがあるが……」

 どこかで見た覚えがある。あの男性を。遠い昔に。どこかで。
 首を捻るがなかなか思い出せない。それでも確かに記憶の片隅に―――。

 そうこうするうちにノエルが運転した車は忍を乗せて帰宅してしまった。
 今回のところはターゲットを確認できただけでよしとするか、とする北斗だったが。

 その時―――。

「っな!?」

 誰の声だっただろうか。
 北斗の誰かが驚く声をあげた。その場に居た全員の身体が強張った。
  
 廉貞は驚きのあまり何時も細い目が大きく見開いた。
 文曲はマフラーで隠された見えない口元がぽかんと開いたままだった。
 巨門はその巨体が縮こまるようにぶるりと震えた。
 貪狼は恐怖に負けたように一歩後ろに引いていた。
 禄存は自分の目で見ているモノが幻ではないのかと疑った。
 武曲はようやく思い至った。あの青年が―――遠き昔に殺音と盟約を交わした少年の面影と重なり合うことに。

 水無月殺音は―――。

 直線にして百メートル以上の距離はあろうかというのに、人の目では豆粒のようにしか見えないはずだというのに、確かに恭也は北斗達を見ていたのだ。
 恐ろしいほどに冷たい目で。恐ろしいほどに殺気のこもった目で。

 言葉にせずとも雄弁に伝わる―――圧倒的な殺意。
 
 遠く離れているというのに、恭也の放った明確な殺気は容赦なく北斗の面々の魂を切り裂いた。
 今までこれほどの圧迫感を受けたことはあっただろうか。
 ただの人間ではない。化け物。それだけが脳裏に浮かんだ。

 だが―――。
 
 その殺気も一瞬で消えた。
 恭也の視線が北斗から移動したのだ。移動した先は……殺音。
 互いに凝視する四つの瞳。
 互いに互いを食い入るように見つめていた。互いの身動きを奪うかのように。
 強力な磁力を発し、逸らすことを拒絶している。本能が強烈に警告を開始する。
 恭也の、殺音の背筋を氷塊が滑り落ちる。その感覚は一体なんだったのだろう。
 次の瞬間、恭也の中に殺音が―――殺音の中に恭也が雪崩れ込んでくる。
 感じる。感じる。感じる。感じる。
 恭也が恭也であるように、殺音が殺音であることを。

 ―――ああ、お前か。お前なんだな。水無月殺音。

 ―――うん、キミか。キミなんだね。不破恭也。

「あははは……」

 夜空に響くのは―――。

「あはははははははあははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」

 純粋なまでの狂喜―――。

みつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたミツケタみつけた見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタみつけた見つけたミツケタみつけた見つけたミツケタみつけた見つけたミツケタみつけた見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけたミツケタ見つけたみつけた

 世界を凍らせる化身が目覚めた。
 世界を恐怖させる化け物が目覚めた。
 世界を破壊する超越種が目覚めた。

 十余年もの昔―――盟約により自分を眠らせた化け物(水無月殺音)は、覚醒の咆哮をあげる。

 殺音の足が屋上のアスファルトをえぐるように蹴りつけた。
 爆発をおこしたかのような破裂音と破壊音を残し、北斗の眼前から姿が消えた。
 ひたすらに駆ける。重力を味方につけるように落下する。
 目標は一つに決まっている。それ以外にありはしない。
 ただ―――【恭也】に向かって―――。

 凄まじい勢いで、殺音は地面に激突した。凄まじい激突音が周囲に響く。
 粉塵が舞い、瓦礫が宙を飛ぶ。驚いたような人たちの叫び声が聞こえるが、そんなものもはや気にならない。

 当然無傷とはいえない。七階からアスファルトに激突したのだ。
 額から血が流れ出る。だが、これも野次馬の声と同じで一切きにならない。

 二人は向かい合う。十余年の時を越え、この時巡り巡った運命が邂逅した。

「会いたかった!!会いたかったよ!!私の―――運命(恭也)!!」












 



[30788] 五章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2011/12/28 17:57











「日本の食べ物って凄く美味しいッスよねー」

 海鳴商店街の中央に位置する、世界中にあるであろうとある某有名ハンバーガーチェーン店……マックとドナルドの二階の隅っこのテーブルで三人の少女達が座っていた。
 その内の一人の茶色より赤に近い髪色の少女がハンバーガーを齧りながら天真爛漫な笑顔を見せながら残りの二人―――フュンフとフィーアに語りかけていた。
 室内の光を反射して、頭につけている髪留めがキラリと光る。

 少女の前には今食べている物以外、四つも別の種類のハンバーガーが置かれていた。
 その細い体のどこにそんなに入るのかと不思議になるくらいの量である。
 フィーアとフュンフはあくまで一個のハンバーガーと飲み物とポテトのセットメニューだけだ。
 本来ならフュンフも目の前の赤髪の少女と同等に食事の量を取るが、エネルギーを消費していなうえに夕方近くに散々食事をとったばかりのためこれだけの量でも充分であった。

「たかがファーストフードと思うなかれッス。他の国に比べたら全然レベルが上ッスから」
「そうねぇ。それには同感だわぁ。でもねぇ、能力も使っていないのにそんなに食べたら太るわよぉ、エルフちゃん」

 嬉しそうにモグモグと食べ進める少女―――エルフの手が一瞬止まるり、悩んだ表情を見せるが再び食べることを再開させる。
 馬の耳に念仏だったようで、フィーアはハァとため息を吐き、コーラが入った紙コップにささっているストローに口をつけた。
 エルフ―――彼女もまたフィーアとフュンフと同じナンバーズの数字持ちの一人。
 一撃の重さはナンバーズの十【ツェーン】には劣るが、正確で緻密な射撃能力を誇り、その精度の高さ故に星をも落とすのではないかと噂が広まり何時しか【星穿つ射手】などと呼ばれるようになった少女である。
 
「それにしても情報を集めるなら大都市のほーに行った方がよかったんじゃないッスかね?」

 新たなるハンバーガーを齧りながら、エルフは素朴な疑問をフィーアにぶつけるが、返ってきたのは半眼でこちらを見返すフィーアの視線だった。
 まるで、できない生徒を見る先生のような呆れたような様子が見て取れた。
 その視線に耐えられなくなったのかエルフは逃げるように次のハンバーガーにとりかかる。
 そんなエルフにため息を一つ。フィアーが人差し指で眼鏡を押し上げ、首を振った。

「来る前に話したのを聞いてなかったのかしらぁ?」
「う……ごめんッス、フィア姉」
「全く……お前はもっと確りと話を聞くべきだぞ、エルフ」

 ふふんとなぜか勝ちほこったフュンフにじとーとした半眼でエルフは見返す。

「フュンフ姉は理由覚えてるんッスか?」
「……」

 勝ち誇っていた態度が一変。フュンフが痛いところをつかれたように、視線をそらす。
 それに呆れたエルフが肩をすくめた。

「やれやれ。フュンフ姉だって覚えてないんじゃないんッスかー!!」
「わ、私は色々と忙しかったから聞き逃しただけだ!!」
「理由はどうあれ聞き逃してるじゃないッスか!?」

 ギャーギャーと互いに罵り合うフュンフとエルフ。
 そんな二人に、再度ははぁとため息をついて、フィーアがポテトをつまみ口の中に放り入れる。

「もう一度説明するからぁ……しっかり聞きなさいよぉ、二人ともぉ」
「う……すまん」
「……了解ッス。お願いするッスよ、フィア姉」

 フィーアが少しばかり機嫌が悪くなった様子で、間延びした口調ながらも強めの語気でフュンフとエルフに注意した。
 二人は罰が悪そうにいがみ合いをやめ、姿勢を正し、フィアへと身体を向ける。

「はっきり言ってこの日本という国でたった一人を、しかも情報もろくにない輩をさがしだすのはぁ、難しいわよねぇ?だからこそ場所を絞って調べたほうが効率はいいと思うのよぉ」
「しかし、場所を絞るといっても……」
「そうねぇ。彼の―――ああ、ドライ姉様曰く【彼】らしいけどぉ、関連する場所なんか不明だからぁ、日本で強力な化け物が居る場所を重点的に調べようと思ってるのよぉ―――強い力の元には強い力を持つ者が集まりやすいからぁ」
「なるほどッス。でも、こんな地方の街に化け物っていたッスか?

 フィーアの説明にエルフがコーラを飲みながら首を傾げる。
 日本にも確かに人智を逸した化け物が複数いるが、この海鳴に現在そんな存在がいたかどうか思い出せない。
 
「居たわよぉ。しかもアンチナンバーズの伝承級かしらねぇ」
「ぶはぁ!?」

 伝承級という単語に飲んでいたコーラを噴出すエルフ。
 真正面に居たフュンフが頭から霧状になったコーラを浴びせられた。最初何が起こったかわからなかったフュンフだったが、状況を判断した瞬間、目元がピクピクとひきつらせた。
 ごほごほと咽るエルフだったが、落ち着いた後に自分が飲んでいたコーラをフュンフにぶっかけたことに気づき顔を青くする。

「ご、ごめんなさいッス、フュンフ姉!!わ、わるぎはなかったんッスよ!!」
「一日に二度も飲み物をかけられるとは思ってもいなかったぞ……」
 
 ぷるぷると握った拳を震わせるフュンフだったが、何時の間にか移動して被害をさけていたフィーアが、ハンカチでかかったコーラを拭き始める。
 
「軽く拭いてあげるけどぉ、ちゃんとお風呂で洗い流しなさいよぉ?それと、フュンフちゃんもこんな場所で騒ぎ起こさないでねぇ?」
「く……」
「た、助かったッス。フィア姉」

 この場所で暴れだされたら適わないとフィーアが先手を取って、フュンフを嗜める。
 機先を制されたフュンフは後で覚えておけというように、親指で首を掻っ切る仕草をするが、エルフはブンブンと音がなるような勢いで横に振った。
 そして、誤魔化すようにフィーアに対して質問をぶつけようと口を開く。

「ええっと……さっき言ってたじゃないッスか、伝承級がこの街にいるって。そんな情報聞いてないッスよ!?だって、ナンバーⅠは永久欠番。ナンバーⅡの未来視の天眼は確か東欧で確認されたんッスよね?ナンバーⅢ【執行者】は世界放浪中。ナンバーⅣの魔導を極めた王は、数年前に封印されたばっかッス」  
「ナンバーⅤの【鬼を統べる王】は自分の領地から出てきてないしな。ナンバーⅦ【百鬼夜行】は最近北米で確認されはずだ。ナンバーⅧの【猫神】はここ十年は大した動きは見せていない。ナンバーⅨの【魔女】は引きこもりだし」 
「遭遇の可能性があるのは【執行者】か【鬼を統べる王】のどっちかッスけど……どっちもあったら即逃げしたい化け物ランキング入りの奴らじゃないッスか」

 次々とあげられるアンチナンバーズの一桁台。その中の一人、魔導を極めた王はあまりにも危険すぎた怪物だったため、当時のナンバーズの数字持ちとも幾度と無く激突したという。数十の街を壊滅させ、数万以上もの人の命を奪った狂った怪人。ナンバーズに災害指定までされた曰くもある。
 余りにも狂気染みた行動を繰り返したため数年前に執行者と魔女。執行者を慕う数人のアンチナンバーズ二桁台の手によって封印されたという。
 色々と推測する二人だったが、それを尻目にフィーアはフュンフの髪を一通りふき終わったようだ。
 だが、かけられのがコーラのため髪がベトベトするのが不快感を感じさせるが。

「二人ともぉ、私の話をちゃんと聞きなさいよぉ。私はこう言ったわよぉ?【居たわよぉ】って」
「過去形ッスか?」
「そうよぉ。三百年ほどまでにこの近くの国守山に封印された怪物。国一つを単騎で落とせれたのではないかとも言い伝えられる人外の中の人外―――ざから」
「―――聞いたことがないな」
「それはそうよぉ。だって、三百年前に封印された化け物よぉ?アンチナンバーズの一桁台はナンバーズで指定できないし、当時すでに九人の一桁がいたからナンバーズからは特例でこう呼ばれたらしいわぁ―――アンチナンバーズの0【破壊者】ざから、ってねぇ」
「そんな化け物がこの近くに封印されているんッスか!?」
「そうらしいわよぉ。そういう理由で、まずはここを選んだわけよぉ。ここで暫く様子を見てから、次は鬼王のところでも偵察に行きましょうかしらねぇ」

 説明も終わり、三人は残されたハンバーガーを食べきろうと手を動かそうとした瞬間―――。

「「「……!?」」」」

 世界全体が地震を起こしたように、揺れた。
 慌てて周囲を見回すが、それに気づいたのはフュンフ達三人だけらしい。
 だが、確かに揺れたのだ。錯覚であるはずがない。

 ここから少しばかり離れた場所で―――立ち昇るように感じ取れる圧倒的な威圧感。
 自分達に向けられたわけでもないのに、許しを請いたくなるほどの恐怖が足元からじわじわと這い寄ってくる。
 
 逃げろ―――三人の戦闘経験からくる直感が同時に三人の頭に響いた。
 だが、これで逃げることが出来たらどれだけ楽だろうか。
 彼女ら三人は人類最後の砦。ナンバーズの数字持ち。異端を狩る異端。
 この異常な事態の原因を放置して逃亡することは許されない。
 三人は互いに頷き、絶対的な気配を振りまく存在が居る方向へと、駆けて行った。
































 両者の対峙は、短くも濃密に凝縮された一瞬であった。
 逃げ惑う人々の悲鳴をバックコーラスに、数メートルの間合いを取って、二つの人影が対峙する。
 一人は短く切られた黒髪。黒尽くめの青年。まだ若く―――だが、どこか風格を漂わせる雰囲気を醸し出している。自然体でその場にゆったりと立っていた。向かい合う【敵】を窺う瞳には、喜びと驚きがないまぜになったような感情が渦巻いている。
 もう一人は女性。漆黒の腰近くまで伸びた髪を紐で軽く結んでいる。黒い上下のジャージという色気も何もない格好だが、それでも見るものを惹きつける魅力があった。地面に激突した影響で額から赤い雫が零れ落ちる。それを手の甲で拭う。その表情は嬉々として、ある種の狂喜を漂わせていた。
 その光景は時間を止めてしまえば美しい絵画にしか見えなかっただろう。だが、周囲に満ちる殺気だけはどのような画家でも再現は不可能に違いない。

 二人の身体から放たれる―――常人でも視覚できそうなほどの極限にまで高められた闘気。
 嵐の後の川のように、激しく、濁流となって、周囲を覆い始める。物理的な力を放つではないのかと錯覚さえされる、超絶的な二人の気配。その二人を囲うように粉塵はいまだまっている。
 溢れんばかりに迸る二人の殺気。これが前哨戦だといわんばかりに、巨大で、強大で、絶対的で、圧倒的。
 粉塵が舞うその場所は確かにただの駅前広場だったはずだ。だというのに、その場所は幻想的な世界へと様相をかえた。
 どくんどくんどくん、と普段では考えられないほどに心臓が高鳴る。緊張したような、期待に胸を膨らませるような、そんな喜びで。
 
「【あの時】から十一年。俺のことを覚えているか、水無月殺音」
「覚えているよ、不破恭也。一日たりとも忘れるものか」
「俺もだ、殺音。お前を夢見、幾千の夜を過ごした」

 恭也が問いかけ、殺音が答える。
 そして、恭也の言葉に殺音の背筋をゾクゾクした快感が駆け巡った。
 これまでの長い人生で一度も感じたことがない。言葉に表現できない陶酔感。 

「分かるよ、恭也。キミがどれだけ強くなったか」
「ああ。だからこそ俺も分かる。お前がどれほど桁外れの化け物なのかが」
「そうかな?でも、負けるつもりはないんでしょう?」
「無論だ。戦えば勝つ――ーそれが不破恭也の在り方だ」

 一言一言が両者に巨石のような重みをのしかけてくる。
 だが、二人ともお互いのプレッシャーを弾き返すように淀みなく応じる。
 二人の間ではそれだけで十分だった。十一年ぶりだというのに、二人は互いの全てを不思議と理解することが出来ていた。
 だからこそもはや、これ以上語ることは無し。いや、後ほんの僅かだけあった。
 互いの万感の想いを言葉に乗せ―――。

「俺のこれまでの修練は―――」
「私のこれまでの人生は―――」

「「―――お前(キミ)のためにあった」」

 何が開幕を告げるファンファーレになったのか分からない。二人は同時にカッと目を大きく見開き、地面を強く蹴りつけた。
 二人の丁度中間で、地面が抉り削られる。強く踏み込んだ足が、大地を揺らす。
 殺音の拳が恭也の顔に放たれた。とてつもなく速かった。その拳を認識した瞬間に避けようとしたら恭也の顔面は打ち抜かれていただろう。
 恭也はそれよりも早く―――それこそ殺音が拳を打ち出すよりも回避に転じていた。殺音の一挙手一投足が【理解】できる。見える。見えるのだ。恭也には筋肉の微細な動きまで。極限にまで集中した恭也にはそれこそ血管の動きまで観察できるような別世界の領域に足を踏み入れていた。。
 だが恭也の見切りをもってしてもその一撃は間一髪であった。
 何千回何万回も戦ったイメージの殺音など相手にもならぬ電光石火。自分が考えられる限りの上限で想定していた殺音のイメージをも置き去りにする殺音に、不思議と感謝の気持ちしかなかった。

 その場で足を止めるようにして、向かい合う。
 殺音が放つは槍のような鋭い拳の連打。それを避け、防ぎ、一撃たりともまともに当てることを許さない。
 その連打の合間。隙ともいえぬ隙。その数十分の一秒の世界にて、死角となる角度から恭也の蹴りが爆ぜる。
 恭也の蹴りは鋭く速く、そして死角のためワンテンポだけ反応が遅れた。避けれないと判断した殺音は腕を縮め、その蹴りを受け止めた。
 防いだ腕を素通りするように、身体の中を言いようのない衝撃が浸透し、ぐらりと殺音の身体が泳ぐ。
 追撃をかけようとする恭也を嘲笑うかの如く、身体が泳ぎ、不安定な状態から高々と振り上げられた拳が、恭也が追撃するよりも早く振り下ろされた。
 圧倒的な破壊力だけ求めた拳が振りおとされるのと、恭也が全力で回避を試みるのとは、ほぼ同時のことであった。
 間一髪で、殺音の拳が無人となった地面を打ち砕く。轟音とともに、打ち砕かれたアスファルトの破片と粉塵が再度舞いとぶ。
 
 難を逃れた恭也は、相変わらず感じる殺音の気配を全身に浴びながら地面を転がり、体勢をたてなおす。間合いをあけ、身構えなおした。
 その時、さらに深く鋭くなった殺気が周囲に満ち始めた。猛烈な危機感が全身を襲う。
 
 殺音の瞳が赤く怪しく光った。足の爪先が地面に深くめり込むほどに、両脚に力を込める。
 どれだけの力をこめているのかわからない。想像もつかないほどの踏み切りで、殺音はその身を翻す。
 人を遥かに超越した、圧倒的な人外の挙動。生物がたてたとは思えない、破裂音とも聞き間違えるような、地面を蹴りつけた音だった。

 恭也が反応する。だが、僅かに襲い。
 その一瞬の差が殺音にとっては十分だった。
 左腕が閃光のように繰り出される。風を引き裂き、殺音の姿が雷光のような一筋の光となった。
 光拳となった一撃が恭也の顔に直撃する刹那、無理には避けようとせず、恭也は殺音の迫ってくる拳を防ぐように片手の掌を受け止めようとした。
 誰がどう見てもそれは愚行でしかなかった。圧倒的な破壊力を秘めた拳をたかが人間の力で受け止めれるはずがない。
 
 殺音の拳が恭也の掌に着弾。その手ごと恭也を吹き飛ばす―――はずだった。
 柔らかい羽毛のような触感を拳に残し、殺音の視界は反転する。グルリと一回転したのだろうか。
 視界には星々が煌く夜天が見える。強かに打ち据える背中。痛みよりも、驚いたことは自分の爆発的な破壊力と突進力の拳を完全に殺されて、投げられたことだ。

 だが、それも当然のことだと思えてしまう自分に苦笑しかできない。
 驚きもすぐに消え、殺音の視界一杯に迫る恭也の踵。殺人的な凶悪さを示しながら落とされた。
 無理矢理に横に転がり、その踵落としをやり過ごし、掴んでいた恭也の手を力できる。
 後方へと飛びさがりながら殺音は、恭也との間合いを取った。
 再び対峙する二人。今度はそう易々とお互いの間合いに侵入することができない。
 力任せに攻撃してくる殺音だったが、それを鼻で笑うことはできない。正確で緻密な攻撃の方が恭也にとっては読みやすいからだ。殺音は、圧倒的な力と絶対的な速度で敵を圧殺する。故に恐ろしい。どの状態からでも殺音の一撃は必殺と成り得る。
 
 ―――高揚している?

 こんな場所で戦っているというのに。何時人目についても可笑しくはないというのに。たった一撃で殺されるかもしれないというのに。
 確かに、恭也は殺音と戦うことに高揚感を抱いている。
 幼い時の恭也では、殺音の渇き理解できなかった。だが―――今ならばできる。

 両者の戦闘意欲はとどまるところを知らずに、逆に膨れ上がっていく。
 恭也と殺音が、互いの魂をぶつけようと地面を蹴りつけた瞬間―――両者の丁度中間の地面に遠方から飛来した小振りな刀が突き刺さった。小太刀よりはやや長く、日本刀よりはやや短い。
 それに続くように人影がふわりと重さを感じさせない動きで刀の柄へと舞い降りた。

「―――両者、そこまでだ」

 恭也と殺音の戦意を削ぐような、凛とした声が周囲に響いた。 
 舞い降りた人影は、北斗が一人、武曲。しかし、普段の武曲とはまた違う姿だ。頭には二つの猫耳がピョコンと飛び出し、腰の少し下の位置からは尻尾が生えていた。どう見ても可愛らしい中学生がコスプレをしているようにしか見えなくもない。
 そんな容姿とは正反対に、威嚇するように恭也と殺音の二人に研ぎ澄まされたナイフを向ける。これ以上続けるならば私が相手をするといわんばかりの様子だ。 
 その武曲の姿に恭也が、足を止める。が、対して殺音は集中しすぎているせいか、そんな武曲が目に入らないようで―――殺音の拳が放たれ、メキョという嫌な音を立てて武曲を吹き飛ばした。

「ぎゃふ!?」

 見事なまでに強烈な一撃が小柄な武曲を地面と水平に飛ばす。飛んでいく方向は恭也の方のため、避けるか受け止めるか迷った挙句、流石に避けるのはあまりにも忍びないと思い、武曲を受け止めた。
 恭也の厚い胸板に激しい音を立ててぶつかる武曲。受け止めた後すぐに地面に降ろす。殺音の追撃に人を背負っていては対応することができないからだ。
 
「―――あっ!?」

 だが、それは杞憂だったようで、自分が殴り飛ばした邪魔者が武曲だということに気づき手加減抜きの一撃を入れてしまったことに頬を引きつらせる。
 首の骨折れてないといいなーと、ピクピクと痙攣する武曲を見て神に祈った。
 武曲は暫く反応らしい反応を見せていなかったが、ぼーとしていた目の焦点がようやくあい、赤くなっている頬を抑えながら立ち上がる。しかし、膝が笑っているのは誰が見ても明らかだ。

「おま、おま、お前!?普通は空気よんで止めるところだろう!?」
「い、いやーあははー。相当ハイになっちゃってたみたいで、気付かなかったんだよねーごめん」

 テヘっと可愛らしく舌を出す殺音。両手を合わせてお願いのポーズまでとるが、そんなことで許すはずもない。

「この変異状態になってなかったら、下手したら首の骨折れてたよ!?お前は実の妹をなぐり殺す気かー!!」
「いや、でもほら。死んでないし?」
「死んでたまるかー!!喧嘩を止めに入って死ぬとか末代まで笑われる死に方じゃないか!!」

 邪魔をしてきたのが武曲以外だったならば無視していただろう。むしろ、邪魔をされたことに憤りは感じる。
 傍から見たら決してそうは見えないかもしれないが、実の妹でもある武曲を溺愛しているため殺音も強くは出られない。それに殴ってしまったひきめもある。
 怒涛の勢いで殺音に食って掛かる武曲に平謝りをする殺音だったが、その小さな頭を片手で掴んで横によける。
 
「いやーうちの妹が水差して悪かったね。じゃ、続き―――やろうか?」
「やるなっての!!」

 横から武曲が止めに入る。ついでに口だけでなく足を出してきて、爪先で脛を思いっきり蹴り飛ばす。
 殺音が声にならない声をあげて、蹴られた脛をおさえながら蹲った。

「こんな人目のつくところでこれ以上暴れるな。やりたいのなら日と場所を改めろ!!」
「う……いたた……。いや、私はエビフライは先に食べちゃう主義だし?」
「後に回した方がより楽しめると思うけどね。それに、殺音―――お前、全力を出せないこの青年を倒してうれしいのか?」

 ちらりと後ろを振り返り、恭也を確認する武曲。
 対して恭也は突然始まった姉妹喧嘩にどう対処すればいいかわからず、沈黙を保っている。

「この青年は、御神流の使い手だろう?二刀の小太刀を持って初めてその真価を発揮するという」
「それは、そうなんだけど……」
「これは死合だ。お前とあの青年とのね。だから私が茶々をいれるのはお門違いだろうさ。でもね、全力をだせない青年を倒して―――お前の渇きは癒えるのか?」
「っ……」

 返す言葉もなかった。
 確かに武曲の言うとおりだったのだから。
 恭也と再び出会い、拳を交えれることが幸福過ぎて、御神流の使い手だということを忘却していた。
 殺音が求めるのは最高最強状態の恭也と戦うことだ。小太刀を使えない恭也と戦って、仮に倒したとしたら―――後悔しかうまれないだろう。

「しょぼーん」
「擬音を口に出すな、擬音を」

 御飯を前に待てをされた犬のように、目に見えて落ち込む殺音には先程までの暴走状態の名残はもはやない。
 それを見て安心した武曲はとりあえず殺音を落ちつことが出来たと胸を撫で下ろす。
 粉塵も治まりつつあり、いくら野次馬も今は居ないとはいえ、恐らくそのうち怖いもの見たさで戻ってくるのは簡単に予想できる。

「一旦帰るぞ。なに、あの青年はこの街に住んでいるようだし。好きな時にやりあえばいいだろう?」
「っ!!」

 キュピーンと目を光らせて恭也に視線を向ける。 
 期待に胸を膨らませ、恭也を窺っているが……コクリと頷いたのを確認すると、両手をグッと握り締めガッツポーズを取った。
 
「次逢うときは―――全力のキミを見せてよ、恭也」
「ああ、見せよう。お前に俺の全てを。お前は俺を―――」

 いや、と首を振った。
 最後まで恭也は述べることなく、首を縦に振ることによって肯定とする。
 多少の疑問を残しつつも本当に嬉しそうな笑顔で、殺音はその場から霞むように姿を消した。
 殺音が姿を消したのは武曲に説得されたのが大きいだろうが、それ以外にもう一つある。武曲に止められるまで殺音の精神状態は大炎状態にあったといっていい。
 極限にまで燃え上がった獄炎。武曲に止められたことによって心の炎は通常状態にまで鎮火されてしまった。恭也が全力をだせないと気づいたのもそれに拍車をかけていただろう。再び先程までの域に精神状態をもっていくのは至難。それ故に、殺音は今回は見をひいたのだろう。
  
「……キミは覚えていないかもしれないが、僕とキミは一度会っている」
「覚えている。あの時、水無月殺音と一緒にいた―――北斗の一員」
「そう、良く覚えていたね。正直言うと僕はキミがあの時かわした盟約を守れるとは思っていなかったよ」

 武曲は恭也を遠い目で見る。
 遠いあの日。十一年前。運命の日を思い出す。あの時の少年が今はこれほど立派な青年になって眼の前に立っていることが信じられない。

「強くなった……僕なんかよりもよっぽどね。向かい合っただけで理解できるよ―――あの殺音と渡り合えるほどに強い」
「……」
「人はこれほどまでに強くなれるのか。正直にそう思った。キミならばあいつの―――飢えを満たすことが出来るかもしれないね」

 武曲は恭也に背を向けると、正反対の方向へと足を進める。
 地面に突き刺さっていた日本刀をきっちり回収していたが。

「僕の名前は水無月冥。北斗が一員。武曲」

 顔だけを僅かに後方の恭也に向けて―――憂いをおびた表情で口元をかすかに緩めた。

「殺音との約束を守ったキミに―――最大限の称賛と尊敬をこめて。それを持って感謝とする」

 殺音に続くように冥もまた、その場から離脱する。
 これ以上ここに留まって、警察のご厄介になるのも困るので、恭也も海鳴駅から離れようと動き出す。
 すでに粉塵はおさまっており、周囲は開けてしまっていたが、幸運なことに野次馬は殺音と恭也の爆発的な殺気に自然と恐れをなして周辺から逃げだしていたようで、あたりには人っ子一人いない。
 後先考えずに突っ走るものではないと少しだけ反省する恭也だった。

 その場から三人が姿を消し、やがて人が何が起こったのか確認しようと集まってくる。
 夜も遅くなっているというのに集まってくる人の数はとどまるところを知らない。怖いものみたさという奴だろう。
 夜の世界にパトカーの音が響き渡る。誰かが警察に連絡したのか、直ぐに何台ものパトカーが現れて、現場を封鎖していく。

 その光景を遠くから見ていた三つの人影があった。
 フィーアとフュンフ、そしてエルフだ。
 三人の体勢はそれぞれだった。フィーアは何かを考えるように顎に手をあてている。フュンフは恭也の消えていった方向を静かに見つめていた。対してエルフは、現場から背を向けるようにして体育座りをしている。

「やべーッスよ。なんであんな化け物がいるんッスか。報告書で散々見たことがある、超大物じゃないッスか」
「……ここ十年は碌な動きをしていなかったのにどうしたのかしらねぇ、突然」
「水無月姉妹、ッスよ、間違いなく。妹の方だけならなんとかなると思うッスけど、姉のほうは無理ゲーッス。私たち三人じゃどーしようもないッスよ」
「そうねぇ。ツヴァイ姉様とドライ姉様に連絡を取ってから動いたほうが懸命ねぇ」

 ぶつぶつと両者は独り言のように呟くが、きっちり二人ともそれが返答となっている。
 はぁっと深い深い絶望のため息をつくエルフだったが、全く反応をしないフュンフに首を傾げた。

「フュンフ姉どうかしたッスか?」
「……いや、なんでもない」

 エルフに気にするなと返し、首を振る。
 実を言うと三人が到着したのは今さっきであり、恭也と殺音の戦いを見ていたわけではない。丁度冥に止められた時に到着したのだ。
 だからこそ、フィーアとエルフは恭也に対してそれほどの注意を払わなかった。水無月姉妹にばかり注意を取られてしまっていたのだ。
 しかし、フュンフだけは違った。昼に恭也に一度会っていた故に、その異常性に気づけた。

 ―――立っている?【あの】水無月殺音と戦って?

 ごくりと唾を飲み込んだ。その音がやけに大きく響いたように聞こえた。
 ぼろぼろになった駅前の広場を見る限り、恐らくは戦いがあったはずだ。恭也と殺音の。
 あの水無月殺音と戦い、怪我一つ負っていない。そんな馬鹿なことがありえるのだろうか。
 ナンバーズの数字持ちでさえ、一騎打ちなら勝算など皆無に等しいあの化け物を相手にして―――。
 
「……お前は一体、何者なんだ……」

 呆然と呟いたフュンフの言葉は―――夜の闇へと消えていった。
 

 





















「はぁ……」

 自然とため息をつく美由希。
 晶が作ってくれたお弁当に入っていたウィンナーに箸をプツリと刺し、口に運ぶ。
 子供も大喜びのタコさんウィンナーだ。最も美由希はもう喜ぶような年ではないのだが。

 入学式からすでに一週間が経過していた。
 ある程度仲の良いグループというものが出来上がってしまい、美由希はそのどれにも入ることは無く、一人寂しく昼食を取っていたところだ。
 現在は昼休みで、机で食べても良かったのだがなんとなく居づらいため態々屋上まできてお弁当を食べていたのだ。
 別に恭也や晶、レンと一緒に学食で食べてもよかったのだが―――というか普段はそうしているのだけど―――珍しく本日は皆の都合が悪く屋上で一人ぼっちという状況である。

 ぽかぽかとした陽気がやけに気持ちいい。
 それが一人ぼっちなことに拍車をかける。屋上を見回してみるが、カップルらしき男女が何人かいるくらいだ。
 わざわざ屋上にまで昼御飯を食べに来る生徒も珍しいだろう。元々この学校には立派な食堂があるわけなのだから。

 昼休みが終わりに近づくにつれて、屋上から人が減っていく。
 美由希もお弁当を仕舞うと、屋上と校舎を繋ぐ扉へと向かおうとするが、その途中で綺麗な刺繍がされたハンカチが落ちているのに気づいた。
 
「落し物かな?」

 ハンカチを拾うと拾得物として職員室に持っていこうと決めた美由希が今度こそ階下へ戻ろうと扉を開けた瞬間。

「あいたっ!?」

 ゴンという音と短い悲鳴が聞こえ、押した扉に軽い衝撃が伝わった。
 扉の向こうには、一人の少女がおでこをおさえながら蹲っている。どうやら美由希が扉をあけたタイミングで近づいていたためドアにぶつけてしまったのだろう。

「す、すみません。大丈夫ですか?」
「い、いえ。こちらこそ前方不注意でご迷惑を……」

 額を赤くさせながらも人の良い笑顔で答える少女。
 胸元には赤いリボン。どうやら美由希より一個上の風芽丘学園の二年なのだろう。
 自然な茶色が入った長い髪。どことなく人を安心させるような雰囲気を持った少女だった。

「お手数をおかけいたしました……」

 少女は一礼すると扉から屋上にでると、何かを探し回るように視線をあちらこちらに向ける。
 暫く探していたが見つからなかったのか、しょんぼりという様子が相応しい感じで屋上からでてきた。
 
「あの―――何かお探しですか?」
「え、あ、はい。こんな形のハンカチを探しているんですけど……」

 美由希に声をかけられると思っていなかったのか少女は驚き、空中に両手でハンカチのような絵をかく。
 ちなみにこれでは形しか分からないが。

「あ、もしかしてこれですか?」

 それに思い当たった美由希が先程拾ったばかりにハンカチを少女に見せると、それにぱぁっと表情を明るくする少女。
 どうやらこのハンカチが探していたもののようで、少女は美由希から受け取ると何度も頭を下げた。
 
「本当に有難うございます。おかげさまで助かりました」
「いえ、こちらこそ。おでこ大丈夫ですか?」
「大丈夫です。私おっちょこちょいなところがあって……よく転んでしまうので、慣れてるんです」

 恥ずかしそうに俯く少女に、どことなく親近感がわく美由希だった。
 基本的に戦闘に関しては美由希は突出しているが、日常生活ではドジなところがあり、よく恭也に呆れられることがあるためだ。
 その時校舎に鐘の音が鳴り響く。授業が始まる五分前になる予鈴だ。
 慌てて二人揃って階下へとおりる。美由希は一年のため三階だが、少女は二年なのでもう一階下になる。
 そこで別れることになるのだが、そのまま別れを告げるのは何故か憚れた。
 
「あ、あのー私……神咲那美といいます。今度時間があるときに改めて御礼をさせてください」

 少女の名前は神咲那美。高町美由希の生涯の友となる少女との―――運命の出会いであった。















 








 高町美由希の帰宅は他の高町家の住人に比べ随分と早い。
 晶は実はクラス委員のため、その仕事上意外と帰宅が遅くなる場合も多い。レンは授業が終わった後に夕食の買出しに行くことが多く、帰りが遅い。もしくは、一旦家に帰った後にいく場合もあるため結局美由希が家に着くころには居ないことが多々ある。
 桃子とフィアッセはいわずもがな。恭也も盆栽の本や刀剣専門店の井関に寄って帰ることもあり、美由希よりも遅い。
 そういうこともあり、本日は高町家には美由希となのはの二人しかいなかった。
 
 ソファーに美由希が座り、その横にちょこんと置きもののようになのはが座っている。
 テレビを二人で見ていたが、時間も時間のため、あまり興味のひかれる番組もやってはいなかった。
 どのチャンネルでもニュース番組ばかりで、美由希はともかくなのはの興味をひくような番組とはいえない。
 
「ね、なのは。公園にちょっと遊びに行こうか?」
「え?おねーちゃん、剣の練習はしなくてもいいの?」
「うーん。どうせ夜に死ぬほどしごかれるだろうし、それまではゆっくりしておこうかなーってね」
「おねーちゃんが迷惑じゃなかったら……行きたいです」

 もじもじと美由希に気を使ったようななのはの様子に苦笑しかできない。
 なのはは基本的に我侭をいわない。小学二年生だというのにあまりにも物分りが良すぎる。
 家族である美由希や恭也にでも気を使ってしまう。性格といえばそれまでだが、そんななのはにはもっと甘えて欲しい姉心を持つ美由希であった。

 家の戸締りをするとなのはと美由希は手をつないで海鳴臨海公園へと散歩に向かう。なのはのペースにあわせてゆっくりと。
 なのはは美由希と外出できるのが嬉しいのか、一目でわかるほどの上機嫌だ。
 そんななのはの機嫌にひかれるように、美由希の気分もよくなる一方である。
 
 海鳴臨海公園とは、旅行ガイド曰く、海鳴に来たカップルは一度でいいから通うべき場所らしい。お勧め度は星三つレベルというのを昔雑誌で見た記憶が美由希にはあった。
 公園に足を踏み入れると潮の香りが美由希となのはの鼻をくすぐった。
 海鳴臨海公園はその名の通り、海に面している。随分と長い柵と段差が海と公園を分け隔てていた。
 夜になるとライトアップされて、観光するカップルは良い雰囲気になるとか。
 美由希とて何度か夜間にきたことはあるが、思わず感心するほど素晴らしい景色であったのは間違いなかった。生憎恭也と一緒に鍛錬の途中に寄っただけなので色気のある話ではない。
 二人は連れ立って公園の中を突っ切るように歩いていく。途中幾度か、カップルらしき男女とすれ違う。楽しそうに語らいながら腕を組んでる。  
 そんなカップルを自分と恭也に置き換えて想像してみる美由希だったが、自分で妄想しておいて恥ずかしくなったのか、赤くなった顔を片手でおさえながら、もう一方の片手で想像を消すようにぶんぶんと中空を振りまわす。

 大人のデートスポットではあるが、全体がそうかといわれればそうではない。
 そこまで広いというわけではないが、公園の一画にはきちんと子供が遊ぶための遊具がおかれた空間も存在する。
 ブランコや滑り台といった懐かしい気持ちにさせる遊具が沢山あるが、なのははまだしも美由希が使用するには恥ずかしいので、なのはが遊ぶ傍らベンチに座ってその様子を見ることにした。
 
 ベンチに座ってなのはが楽しそうに遊ぶ光景を見るだけで心が暖かくなってくる。
 なのははどちらかというとインドアの遊びを好む。ゲームなどは美由希では百戦百敗レベルの強者だが、やはりこういった外で子供らしく遊ぶのも楽しそうである。
 微笑ましい光景を見ていた美由希だったが、くぅとお腹が鳴った。幸いなことに誰にも聞かれなかったのが良かったが、もし恭也に聞かれていたら散々からかわれただろう。
 
「なのはー。鯛焼き買ってくるけど餡子かクリームかどっちがいいー?」
「んーと……」

 どちらにするか悩むなのは。どちらにするか決めきれないようで、考え込む。
 
「それじゃあ、餡子とクリームを一個ずつ買ってくるから私と半分個ずつにしようか?」

 満面の笑顔で頷いたなのはを置いて、鯛焼きを買いにベンチから腰をあげる。
 なのはを一人にするのは気が引けるが、まだ夕陽が差し込む時間帯なので危険は無いだろうと判断して、屋台へと向かう。
 それほど遠くない場所に屋台を開いており、海鳴公園のちょっとした名物となっている。
 
 屋台にはメニューが書かれた看板が吊り下げられており、餡子、クリームは百二十円。
 それ以外にもカレーとピザ、チーズなども注文すればでてくるという怪しい店として別の意味で有名だ。
 ちなみに売り上げの九十九パーセントが餡子とクリームで、残りの一パーセントが変わり物の具材だという。その一パーセントの購入者が恭也を含んでいたりする。

「おお、お嬢ちゃん。毎度。今日は何にするんだい?」
「こんにちは、おじさん。えっとですね……餡子とクリームを一つずつでもいいですか?」
「ちょっとまっててな」

 何度も何度も購入しているうちに常連さんとなってしまった美由希。
 今では顔を覚えて貰っており、世間話までする仲になっていた。
 丁度出来上がったばかりの鯛焼きを合計二個入れてもらった袋と引き換えに小銭を渡す。
 お礼を告げて屋台から踵をかえす。離れる背に、屋台のおじさんの有難うという声がかけられた。
 
 遊具がおいてある一画まで戻ってきた美由希だったが、そこになのはの姿は無かった。
 不思議に思い、なのはーと大きな声で呼びかけてみるも返事はない。
 もしかしてトイレかと考え、少し離れた場所にある公衆トイレの中を窺ってみるも使用している人が居るようには見えない。
 悪戯で隠れているのかとも思ったが、なのははそういうことをする性格でもない。
 ドクンと嫌な予感が全身を襲い、心臓が高鳴る。
 
「なのはー!?なのはー!!どこにいるのー!?」

 焦りを隠せずに、美由希はなのはの名前を叫びながら走り回る。
 そのうちに、屋台に買いに行く前に美由希が座っていたベンチに手紙が置いてあるのに気づいた。
 行く前まではなかった。それは確信できる。買いに行って戻ってくるまでに手紙は置かれたのだろう。
 その手紙を震える手で開き、中に書かれていた文を読む。

 内容は簡単なものだった。
 僅か一文と書いた人物の名前しか、書かれていなかったのだから。
 手紙の文を理解した美由希は、グシャリとその紙を握りつぶすと、公園から全力で駆け出していった。

『君の妹は預からせていただきました。つきましては街外れの廃墟ビルまできていただければ幸いです。    山田太郎』

 危険な男なのは分かっていた。
 だというのにこの一週間は特にちょっかいをかけてくるわけでもなかったので、油断していなかったと問われれば質問に窮するだろう。
 美由希本人を狙うのならばまだ良い。恭也やレン、晶ならば戦う者の覚悟とやらも持ち合わせている。
 だが―――なのはと桃子は完全な一般人だ。覚悟もなにもない、ただ日々を笑って過ごすだけの―――。
 ぼぅと美由希の心の中に火が灯った気がした。ただの赤い炎ではない。それは、どこまでも黒い、漆黒の灯火。
 ガリっと唇を強く噛み、ポケットにいれていた携帯電話を取り出すと恭也へと電話をかける。 

『どうした?こんな時間に何かあったか』

 二、三度のコール音の後に恭也がでてくれたことに安堵しつつ、状況を伝える。
 最初は普段通りの恭也だったが、なのはが浚われたという件になると、凄まじいまでの声の冷たさになっていた。
 美由希に怒気をぶつけているわけでもないというのに、電話越しでさえ、押しつぶされそうになる。

『俺も今すぐにでる。今どれだけの武器を所有している?』
「飛針と鋼糸を少し。小太刀は持ってないよ」
『分かった。無理はするな、俺が行くまで時間を稼ぐだけでも良い。だが―――なのはは必ず助けるぞ』
「―――うん、わかった」

 電話を切ると美由希は速度を一段階あげる。
 普段の鍛錬のときと同等以上の速度で、疾風の如き一陣の風となって駆け抜ける。
 今さっきまでは綺麗に見えた夕陽が憎らしく見えた。

 すれ違った人々が何事かと振り返るが、その時にはすでに美由希は人々の視界から消えている。
 駆けて、駆けて、駆けて―――すれ違う人も減り、家も減り、海鳴でも人気の無い一画に辿りつく。
 元々でかいマンションを建てる予定だったらしいが、数年前からある事情で開発が中断している地域らしい。
 残されているのは、崩れかかったビルや、多くの建物。一般の人間ならば間違いなく近づかない場所だ。
 廃墟ビルといってもこの地域は広く、相手が指定してきたビルは正確にはどこかわからない。それに舌打ちをする美由希望だったが、それは杞憂に終わったようだ。
 どうやら隠れる気は無いらしく、不吉な気配を漂わせ、自分はここにいると美由希を挑発していたのだから。

 山田太郎が居るビルの前まで到着すると足をとめ上を見上げる。
 ざっと見た感じでは五階建て。何時崩れても可笑しくは無いほどにぼろぼろである。
 あれだけ長い間全力疾走したというのに美由希の息に乱れは無い。休むことよりもなのはの安全を優先して、何の恐れも躊躇いもなく、ビルへと足を踏み入れた。

 一階には誰も居ないことは気配でわかるので二階へ。三階、四階と階段を上がっていき……ついに五階へのぼりついた。
 扉一枚を隔てて感じる異様な存在。確かに居る。この先に、なのはを浚った男が。山田太郎が。
 覚悟を決め、扉をあける。鍵はかかっておらず、あっさりと開いたことに若干拍子抜けした。
 扉をあけた先―――巨大な部屋の窓際に太郎は居た。
 古臭いベッドに腰掛けて、太郎は文庫本をよんでいる。夕陽が沈みつつあり、電気も通っていないビルのため、字が読みにくいのか目を細めて本を読んでいた。
 そのベッドにはなのはが身動き一つとらず、仰向けに寝かされている。
 部屋をあけた美由希に気づいた太郎は、にこりと人懐っこい笑みを浮かべて、文庫本をおくと立ち上がった。

「ようこそ、高町美由希さん。一日千秋の思いでまってたよ」
 
 緊迫したこの場に相応しくない、太陽のような笑みだった。
 それだけに、不気味だ。何を考えているのか分からない。嫌な悪寒が全身を包む。

「なのはは、無事なんですか?」
「うん?ああ、勿論さ。ちょっと眠って貰ってるだけだから。怪我は無いから安心してよ」
「……そう」
 
 本当かどうかはわからないが、遠目で見た感じたしかに怪我は無いようだ。
 胸の上下が確認できるため、呼吸はしている。これで心配事の一つは減った。

「一つ聞きたいのですけど……」
「うん、なんだい?なんでも答えちゃうよ。今日の僕は機嫌がいいしね」
「何故、なのはを浚ったのですか?」

 率直な質問を太郎にぶつける。
 それに対して、太郎は頬を人差し指でかきながら答える。

「いやー実はさ、僕は君と潰しあいたかったんだけど……どうすれば本気の君と戦えるのかな、て思ったわけなんだよ。君みたいなタイプは自分が狙われるより、周囲の人間に危機が迫った時の方が力を発揮できそうだしー」

 けらけらと笑いながら理由を述べる太郎に氷点下の視線を向ける。
 下らない。下らなさすぎる。そんなどうでもいい理由でなのはを浚ったのか。
 凍えていく。美由希の心が。固まっていく。美由希の覚悟が。

「もう、いいです。これ以上貴方の下らない話は聞きたくないですから」
「え、いやいや。まだこれか―――」

 太郎の台詞は途中で切れた。
 いや、強制的にそれ以上の台詞を発することが出来なくなってしまったのだ。得意げに話をしていた太郎の眼前に、美由希が踏み込んでいたのだから。
 たまりにたまったダムの水門を取り払ったような、桁違いの圧力。爆発的に膨れ上がる気配。質量を持っているのではないかと勘違いするほどの威圧感。
 表情を引き攣らせ、踏み込んだ美由希に蹴りを放とうとした瞬間―――。

「っが、はっ!?」

 その蹴りを遥かに上回る速度で左拳が太郎の右脇腹を打ち抜く。
 脇腹から波状に広がっていく衝撃。未だかつて受けたことの無い一撃に、衝撃以上に、驚愕を全身が襲った。
 右脇腹を抑えて、崩れ落ちそうになる太郎だったが、それを美由希が許すはずも無い。

「貴方の敗因は一つだけ―――」

 美由希の囁きが太郎の耳を打つ。
 そして、閃光のように蹴り上げられた美由希の爪先が、太郎の顎を弾き上げた。
 脳が揺れる。太郎は後方の壁へと叩きつけられ、ドスンと床に倒れ付す。

「―――なのはを浚うという愚行を犯した。ただ、それだけです」

 高町美由希。現在風芽丘学園の一年生。弱冠十五歳の女子高生。なれどその力はとどまるところを知らず―――。
 
 
















 ―――あらゆる敵を一蹴する。











    
    
 
 
 



[30788] 六章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/01/09 13:32

















 山田太郎。
 彼は平凡な名前と同様に平凡な人生を歩んでは―――いなかった。太郎が歩いてきたのは栄光の道といっても良い。
 自分の異常性に気づいたのは何時頃だったろうか。物心ついたころには気づいていたのかもしれない。
 人並み外れた身体能力。同年代を遥か後方に置き去りにする桁違いの運動能力を所有していた。
 
 そして、もう一つ。自分のイメージしたとおりに身体が動いてくれるのだ。僅かな狂いも無く。特に戦いという場においては絶大な効果を発揮する。中空に描く想像の軌跡をなぞるように腕を振るえば如何なる相手も地に沈んだ。
 太郎は凄かった。圧倒的なほどに強かった。これまでの人生で戦ってきた相手で、太郎を苦戦させるような敵はいなかった。それはどんなスポーツに置いてもそうだったのだ。
 努力をせずとも、他を圧倒できる純粋な才能。それだけで、太郎は最強という称号を欲しい侭にしていた。
 だからこそ、つまらなかったのだ。どんな相手も敵となりえる存在が居なかった故に。太郎は己と対等に渡りえる敵を誰よりも求めていた。

 そして、ようやく出会えた。高町美由希という雌獅子に。
 
 一目で心を奪われた。
 勝てるかどうかわからない。本気でそう思える存在にようやく出会えたのだ。
 歓喜しか太郎にはなかった。そこでひたすらに考えた。どうすれば高町美由希の全力を引き出せるのか。
 考えた末の方法。妹の高町なのはを餌にするという碌でもない手段だったが、しっかりと高町美由希をおびき寄せることが出来た。
 ようやく戦えるのだ。ようやく本気で潰しあえるのだ。
 
 ああ―――愉しみだ。







  








 
 倒れ伏した太郎には目もくれず、美由希はベッドに寝かされているなのはに駆け寄ろうとして足を止めた。
 壁に激突して地面に寝転がっていた太郎がゆらりと立ち上がったからだ。足取りは多少は覚束ないようではあったが、それでも立ち上がったことに驚きは隠せない。
 脇腹を殴られ、顎を蹴り上げられたというのに、太郎の表情は普段と変わらない笑顔を見せている。いや、逆に普段より笑みが深いような気がした。

「いやはは。素晴らしいね。僕の反応よりさらに早く……これほどとは思わなかったよ」

 全く堪えていないような様子の太郎に、美由希の眉がピクンと跳ねる。
 たった二発とはいえ、全力の拳と蹴りを叩き込んだのだ。だというのに平然とする様子は予想外ではある。
 赤くなった顎を手でさすりながら、壁際から美由希に一歩ずつ近づいてきた。

「……っ!?」

 出し抜けに、背筋を悪寒が突き抜けた。
 幾千と繰り返してきた戦いの経験が反応し、流れるように身体が動く。
 咄嗟に顔の前で組み合わせた腕に激しい重みと痛みがはしった。
 崩れかけたビルに山彦が響くように肉と肉がぶつかり合った音が木霊する。
 
 その衝撃に美由希の重いとはいえない身体が後方へと流された。
 そのまま仰向けに倒れそうになるのを堪えながら、太郎の行動を見逃さぬよう体勢を整える。
 
 太郎は追撃を仕掛けるでもなく、右手を前にした半身の構えを取り呼吸を短く吐いた。
 それに美由希は首を傾げたくなる。確かに見事な構えだとは思ったが、何かがおかしい。
 足は大地に根を生やしたかのようにどっしりと踏みしめられ、背筋は鉄棒がはいっているのではないかと疑いたくなるほどに伸び、構えに隙が無い。まさにお手本のような姿勢。
 一種の理想ともいえるが―――あまりにもそれが完璧すぎた。外側だけが一分の隙も無いのだが、肝心の中身が―――。

 地面を叩きつける音が聞こえ、太郎の身体が空を跳ぶ。
 数歩の間合いは、一瞬で消え去り、左右の拳が美由希へと襲い掛かった。
 先程のお返しと言わんばかりの右拳が美由希の左脇腹を狙うが、一歩後ろに引くことによってかわす。続いて、左拳が美由希の側頭部に放たれた。  
 
 その左拳が美由希に着弾すると思われた瞬間、太郎の下半身から地面への感覚が突如消えうせる。
 太郎の死角となる位置から足払いをかけられた。遠くから見ている者がいたならばはっきりとそう分かっただろう。
 だが、太郎は足を払われたと理解できることはなく―――視界が反転するなか、美由希の肉薄を許していた。

 必死の思いで、体勢も定まらぬまま、苦し紛れの拳を振るう。
 そんな攻撃が美由希に通じるわけも無く、救い上げるような美由希の左拳が太郎の腹部に喰らいつく。
 先程と同様に身体を突き抜ける、衝撃。か弱い少女の拳だというのに、その一撃は鉄槌で殴られたと錯覚するほどに重い。
 
「ぐっはっ!!」

 拳の衝撃に口から唾液が撒き散らされる。
 透明なものだけでなく、赤い血が混じった唾もあった。この前にくらった顎への蹴りで口の中を切っていたらしい。
 唾液を吐き出しながらも、美由希が左足で踏み込んだのが見えた。そして―――右足がぶれる。
 脇腹への衝撃で頭が下がったため、太郎の頭は美由希の蹴りで狙える絶好の位置へと落ちていた。
 放たれる右足。霞むような速度で跳ね上げられた右足は太郎の側頭部めがけて蹴り上げられた。
 どれだけ速くても、来る場所が分かれば防御することは容易い。左手をあげることによって、直撃だけは避けようとしたが……太郎の左腕に防がれる瞬間、右足がさらにぶれた。
 蹴りの角度が突如変化。隙だらけとなった脇腹へと叩きつけられる。

「―――っぁぁぁ!?」
 
 想像もしていなかった一撃に、太郎の喉からは言葉にならない悲鳴しか上がらない。
 腹部を襲う激痛を必死で無視しながら、美由希から逃げるように距離を取る。
 太郎の頬を汗が滴り落ちた。太郎が攻撃に転じた一瞬を美由希は悔しくなるほど完璧に見切っていたのだ。
 恐ろしいほどに上手い。完全な死角からの掬うような足払い。
 そこからの回し蹴りも驚くしかない。頭を狙った蹴りを、太郎が防御したのを見た途端、腹部へと変化させた。
 
 単純な力では太郎の方が上だろう。だが、動きの速度は美由希の方が遥かに速い。さらに技術に関しては太郎とは桁が違っているといってもいい。
 それを認識した太郎が慎重に間合いを測りつつ、口元を汚す唾液を拭う。
 戦う前まで喜びに満ちていた太郎の心は、動揺に襲われ平常心を保つことさえも難しい状態であった。
 そんな心を無理矢理に押さえつけるように、深呼吸を繰り返し、冷静に美由希の全身を視界にいれる。

 対する美由希は息を全く乱すことも無く、軽くリズムを取るように身体を上下させていた。
 美由希の攻撃は変幻自在。後手に回ったならば防ぎきるのは難しいと判断した太郎が、放たれた矢の如き勢いで飛び出す。
 息もつかせぬ連続攻撃。右拳。左拳。時には左右の蹴りを混ぜ合わせながら、美由希の防御を貫こうと我武者羅な連撃。
 
 だが、それは届かない。
 美由希は、その攻撃すべてに反応し、あっさりと防ぎ、払う。
 十数発は打ち込んだ打撃は一撃たりとも、美由希を捉えることは出来なかった。
 それでも太郎は、美由希に反撃の機会を与えまいと攻め続ける。

 美由希の真似をするように、死角からの地を這うような足払い。
 しかし、それは美由希にとって死角からとはなり得ない。その足払いを足の裏で受け止め、足払いの威力を利用し後方へと跳躍。
 結局太郎の連撃は、美由希の防御を穿つことはできなかった。
 
「は、はははは……想像以上だよ。この僕がここまで子ども扱いされるとはね」
「……一つ質問しても良いですか?」
「うん、なんだい?」
「貴方はこれまで何か武術を極めようと努力したことはありますか?」

 平坦な美由希の質問に太郎は首を横に振った。

「いいや。僕にはそんなもの必要ない。神から与えられた才能。天に愛された武。それだけで十分さ。僕には、そんなもの(努力)など必要ない」
「そうですか……。それが本当なら貴方は凄い」
「―――え?」

 まさか褒められるとは思ってもいなかったのだろう。
 予想外の美由希の返答に、気の抜けた返事を返す。
 美由希は深く息を吐くと、首を振った。少しだけ羨ましそうに。そして、心底残念そうに。
 
「それほどの才を持ちながら―――このまま地に埋もれるのは本当に残念です。貴方の才は確かに……素晴らしい」

 拳を太郎に向けながら、寂しそうな瞳が全身を射抜く。才能だけで防戦一方とはいえ美由希の攻撃に耐え、ここまで渡り合える。それは美由希自身で驚くしかない。
 太郎は強い。これまでの人生で負け知らずだったのにも納得はいく。それでも才能だけでなんとかなるほど―――美由希達がいる世界は甘くはない。

 太郎の構えは確かに完璧だった。だが、それはあくまでも模倣。中身のない薄っぺらな武。
 いざというときに頼るものがない、惨めな孤高。

「できれば貴方には正々堂々とぶつかってきて欲しかった。そして―――兄と戦って欲しかった。そうすれば、きっと貴方は理解できたはず。本当の強さを。真の強者とはどんな境地なのかを」
「なに、を―――」

 返答は返さず、美由希の姿が残像を残す程の動きで太郎へと迫った。
 その動きは速すぎた。今までよりもさらに速く。それが美由希の全速だということを認識する暇もなく、左右の掌打が顎と鳩尾を同時に打ち抜いた。
 反撃を考える隙も与えず、美由希の膝が唸る。止めをさすような二連続の鳩尾への打撃。
 耐え切れず、さらに前のめりとなった顎を打ち上げた。
 のけぞりながらも、無意識のうちに拳を美由希にふりまわすようにして放った太郎は賞賛されるべきだろう。
 だが、その苦し紛れな一撃が美由希に当たるはずもない。

 その攻撃を払いのけつつ、左回し蹴り。メシリという嫌な音が太郎の右足から響く。
 ガクンと崩れ落ちそうになった太郎の後頭部に、蹴り足が直撃。
 弾き飛ばされるように太郎の全身が泳ぐが―――最後の一撃。
 廃ビル全体が揺れるほどの強い震脚。地震が起きると錯覚するほどの。そっと美由希は太郎の腹に手を当て……。

「―――這い上がってきてください。貴方は、強かった」

 それが太郎がこの日最後に聞いた、高町美由希の声だった。
  
 

















 山田太郎の意識を呼び起こしたのは―――意外なことに顔にかかる水滴であった。
 ピチャン。ピチャン。と、一定感覚で顔に落ちてくる冷たい水滴が、太郎の意識を浮上させた。
 先日降った雨がどこかに溜まっていたのか、ぼろぼろになっている天井から漏れ出しているようだ。

 激しく痛む全身を押して、近くにあったベッドに手をかけて何とか立ち上がる。
 我に返り、辺りを見回すがそこは意識を刈り取られる前に、美由希と戦っていた場所であった。
 口の中に感じるのは生臭い鉄の味。それ以外にも何か硬いモノと、生暖かい液体がある。
 床にそれを吐き出すと、ベチャリと吐いた場所を赤く染めた。それと一緒に床に転がる白い歯。顎を何度も殴られたせいだろう。折れにくい奥歯をやられてしまったらしい。

 気を失ってどれくらい経ったのだろうか。生憎時計は持ってないので正確な時間はわからない。
 未だ下半身に痺れが残っているのを考えると何時間も気を失っていたとは考えにくい。当たり前のことだが、ベッドにはすでに高町なのはの姿は影も形もなかった。

「なんて、無様な……」

 気がついて最初に口から飛び出したのは、そんな台詞だった。
 全てが予想外の出来事。そう、今夜起きたことは太郎の想像を遥かに超えることしかおきていなかった。
 その最も大きな誤算は、高町美由希の実力。
 自分と同等に戦える雌獅子。そう考えていた自分が愚かしい。
 強かった。あまりにも強すぎた。手も足も出ずに、子ども扱いどころではない戦いの結果。
 高町美由希が雌獅子ならば―――太郎は鼠に過ぎなかった。

 美由希の実力を測れなかったこと以上に、許せないこともあった。
 戦いの最中、太郎は途中から焦燥に駆られていた。力の差に絶望を感じ、勝ち目がないと諦めてしまった瞬間が、あの短い戦いの中で確かにあったのだ。
 勝てるどうかわからない相手との潰しあい。その結果例え死ぬことになったとしても受け入れる。
 
 それを誰よりも望んでいたはずの山田太郎は―――美由希に恐怖し、戦えなくなっていた。
 勝てないのではない。戦わないのでもない。戦えない、という唾棄すべき結果を残したことを、山田太郎は許せなかった。

 今まで得てきた勝利など。今まで得てきた栄光など。
 そんなものを一笑にふすほどの敗北感。絶望感。そして、虚無感。
 太郎は手を握り締め、ベッドを力いっぱい殴りつける。歯を食いしばり、ぶつりと歯で噛み千切った唇から血が滴り落ち、ベッドを汚す。
 
 山田太郎の心に残されたのは―――己に対する目も眩むような憤怒だけであった。
 幽鬼のようにふらふらと、廃ビルを降りていく。途中何度も、座り込みそうになりながらも壁に手をついてゆっくりと降り続ける。
 廃ビルから外に出ると、月光が静かにあたりを照らしていた。普段だったら好むその光が憎らしい。

 ざっざと砂を踏みしめる音をたてて太郎は歩く―――そして、足を止めた。
 そこに、いた。何かが、いた。人の形をしただけの怪物が、いた。

 壁に背をもたれさせ、両腕を組んだ状態で高町美由希の兄である―――高町恭也が悠然と立っている。
 何をするでもなく、壁にもたれているだけ。だというのに、その空間はねじまがったような歪みを発生させていた。
 人はその気配を肌で感じなんと称するのだろうか。
 殺気。闘気。戦気。鬼気。そういった気配とはまた一線を画した―――究極。

「高町……きょう、や?」

 どこからどう見てもそこにいたのは高町恭也だった。高町恭也以外のはずがなかった。
 しかし、別人だと言われなければ分からない。別の存在だと言われなければ理解できない。
 以前見た恭也は武の気配など感じさせない、一般人にしか見えなかったというのに―――今は、一般人に見えるという方が無茶な話だった。 

「き、キミは……一体、なんだ?」

 声が震えている。詰まりながらしか音を紡ぐことができなかった。
 太郎の耳にガチガチという不快な音が聞こえる。それが自分の歯が噛み合わさりたてている音だということに気づくまでしばしの時を要した。
 目の前にいるのが人だということに納得がいかない。

 ―――おかしいじゃないか。なんで、こんな、こんな、こんな―――。

「ばけ、もの」

 全てを忘れて気を失いたい。意識を手放したい。
 そう願っても、恭也の圧力は逃げることを許さなかった。

「妹が世話になったようだ」

 沈黙を保っていた恭也が口を開く。
 初めて聞いた声だったが、考えていたよりもずっと人間味溢れる声ではあった。
 例え機械のような抑揚のない平坦な声だったとしても納得できてしまう。そんな圧迫感が恭也にはあったのだから。
 轟と恭也の身体から、火柱が立ち昇ったかに思われた。人の姿だというのに人智を逸した重圧は、恭也の姿を一種の幻想の生物にも幻視させた。
 
 果たして恭也の台詞の中にあった妹という単語の意味指すものは、美由希かなのはか。
 一体どちらのことを指しているのだろうか。それとも両方を含んだ言葉だったのかもしれない。
 少なくとも今の太郎にその真意まではわからなかった。

「……ぅ……ぁ……」

 太郎の舌は上手く回らず、意味をなさないただの文字の羅列となる。
 あまりにも、桁が違いすぎた。いや、違う。そんなレベルではない。高町美由希でさえも桁が違ったが、高町恭也は―――次元が違う。
 蟻と獅子。いや、蟻と竜。それほどの距離が二人にはあった。同じ土俵に立つことすらできない。本当に人間なのかと疑ってしまうほどの存在。

「美由希を狙うのは、良い。だが、お前は―――なのはに手を出した」

 恭也が腕組みをやめ、一歩ずつ太郎に近づいてくる。
 近づくにつれ、その圧迫感が凶悪になっていく。土下座をしてでも許しを請いたい。そんな逃避の思考が思い浮かぶ。
 だが、そんなことはできない。すりきり、削られた太郎のプライドが辛うじて、そんな思考を弾き返した。
 残り数歩。そんな間合いで恭也は足を止める。今にも地面にへたり込みそうな太郎の顔には何時もの笑顔はすでになく、泣き笑い。それが相応しい表情となっていた。

「戦いたいのならば、小細工抜きで美由希と向かい合え。次は―――無い」

 言葉を理解する暇もなく、太郎の体が跳ねた。
 瞬きするよりも速く、認識するよりも速く、一秒を遥かに短くした刹那の瞬間。美由希のスピードが鈍く見えるほどの超速度。
 恭也は、すでに太郎の目と鼻の先にいた。そして、一撃。無造作に、たいした力も込めずに、虫を振り払うように掌打を太郎の米神に放った。
 それだけで、太郎は自動車にぶつかったかのような勢いで、その場で一回転。地面へと激しい音をたてて倒れこんだ。

「山田太郎。この領域にまで登ってきて見せろ。なのはのことは許すことはできないが―――美由希の良きライバルであってくれ」  

 なのはに傷一つでもつけていたら我を忘れていたかもしれない。
 ほんの少し前に、美由希が気を失っているなのはを抱いて廃ビルを出てきたときは心の底から胸をなでおろした。
 無論、言葉通り太郎を許す気持ちなど一片たりともない。
 そして、太郎の心に僅かでも美由希を憎悪や恨む気持ちがあったならば、この場で負の連鎖となるそれを断絶していただろう。
 だが恭也から見た太郎の心には不思議とそういった感情は見受けられなかった。
 憎悪はあった。怨恨もあった。でもそれは、自分の無力さに対するものであり―――美由希に対して一切それは向けられていなかったのだ。
 故に恭也は太郎に一撃だけ入れることによって自分の気持ちに折り合いをつけた。

 山田太郎は確かに才あるものである。
 他を圧倒する選ばれた人間。天才を凌駕する天才であった。
 だからこそ、惜しいと思った。このままここで朽ち果てるのはまだ早いと何かが囁いた。

 恭也は意識を失った太郎を肩に担ぐ。
 身長は恭也と同じ位であるが、体重はそうでもないらしい。確かに見た感じ細身ではあった。
 軽々とと男一人を担ぐと、廃ビル群から離れようと歩き出そうとした瞬間―――。

「それ、消さなくてもいいんですか?」

 無機質な声が響く。
 感情が一切こもっていない、機械のような声。
 振り返った先には悠然と恭也を見据える少女の姿。海鳴にいれば注目を集めるであろう容姿と服装だ。
 それもそのはず、巫女服に朱の帯。その帯には日本刀が差してあった。それが夜だというのに異彩をはなっている。
 純粋な黒で塗りつぶしたような真っ黒な髪。声と同じ、深い黒の瞳は月の光を拒絶するような冷たい光を放っている。
 身長も年齢も美由希と同じくらいだろうが、美由希とはまた異なる怖気を見るものに感じさせた。
 
「貴方の家族に牙を剥いたというのに命を奪わないとは……噂とは違い甘いんですね」

 太郎を視線だけで射抜き、それ扱いする少女。
 人を物と見ている発言に恭也とてそう気分がいいものではない。
 
「……君は?」
「申し遅れました。【不破恭也】殿。永全不動八門が一。【御神】の闇―――【不破】が末裔。深淵に辿り着きし剣士」

 懐かしき旧姓を言い当てられて、恭也の眉尻が僅かに上がる。
 不破の名を知っている者。恭也のが不破であることを知っている者。
 そんな者などすでに数えるほど。ましてや、恭也たちの戸籍は父である士郎があり得ないほどに弄くり、もはやそこからたどり着くことは不可能のはずである。
 訝しげに少女を見る恭也だったが、軽く頭をさげ、恭也と視線を交差させる。

「わたくしは永全不動八門の一。この天(国)を守護せし、天守家の次期当主。天守翔(カケル)と申します」
「天守、家か」
「はい。天守宗家の次女。今年で十五を迎える若輩者ではありますが、宜しくお願いいたします」

 自己紹介を続ける少女―――翔だったが、その最中にも表情には感情の色を見せては居なかった。
 恭也は翔の全身を確認するように眺める。といっても別に下心がある視線ではなく、本当に確認をするためだけであった。

「成る程。最近風芽丘で感じていた違和感。妙な気配を幾つか感じていたが―――そのうちの一人は君か」
「……っ!?」

 感情を顔に出さない翔が、初めて驚いたように目を僅かに見開く。確かに最近から翔は風芽丘学園に潜伏していたが気づかれていたとは思っていなかったのだろう。
 その動揺を消すように、翔の雰囲気がさらに冷たく、深くなる。

「気づかれていましたか……その通りです」
「それで、今更永全不動八門が―――何用だ?」

 翔の賞賛を突き放すように恭也が問い掛ける。言葉に組み込まれた威圧感。それが、波動となって翔を襲う。
 それに僅かに気圧されたように一歩後ろへ下がった。無意識のうちだったのだろう。
 自分が一歩下がっていたことを恥じるように、恭也へと一歩足を踏み込む。

「不破恭也殿にお願いしたいことがございます」
「願い、とは?」
「―――御神美由希との戦いを認めていただきたい」

 翔が口に出した途端、空気が変わった。
 その場に居た誰も駆もの心臓を止めんと、凍て付いた空気を呼び起こした。
 翔の表情に明らかに恐れの感情が、浮かび上がってきている。だが、口は止まらない。

「わたくしは次期当主と言いましたが、あくまでも次期当主候補。精々が二番手程度の資格しかありません。だからこそ、永全不動八門の老害共が畏れる【御神宗家】の剣士と戦い破った―――その証明が欲しいのです。御神宗家を倒したという事実はどんなことよりも評価される筈です。わたくしの魂に誓います。決して卑怯な手等使わず―――正々堂々と戦うことを」

 恐れていながら、翔は一気に言い切った。
 恭也のプレッシャーに襲われながらも、退くような事はせず、真摯な瞳で訴えかける。
 己に出来る精一杯の思いを言葉に乗せ、翔はさらに一歩恭也へと歩み寄った。
 先程までは機械のような少女だったはずが、今は決してそうは見えない。感情がないというわけではないようだ。
 考え込むような恭也の様子に、どのような返答をしてくるのか不安なのか、ごくりと喉が鳴るのが聞こえた。

「そういう理由ならば好きにするといい」
「―――へ?」
 
 翔を襲っていた重圧は気がついたら消えていて、周囲は平穏そのものの空気が流れていた。
 至極あっさりとそう返答した恭也の台詞が信じられなくて、気の抜けた返事をしてしまう翔。さらには疑問系。
 まさかこんなに簡単に了承を得られるとは思ってもいなかったのだ。

「あ、あの―――本当に宜しいので?」
「ああ。俺の家族に手を出さなければ、美由希とは好きに戦えばいい」

 ある意味冷たいとも取れる恭也の答えだったが、翔はその言葉の裏を読み取っていた。
 美由希は強い。その美由希と真正面から戦って勝利を掴めるのと思うのならば、挑んで見せろ、と。
 込められていたのは絶対の信頼。自分が手塩にかけて育てた高町美由希の力。
 どのような状況でも、どのような相手でも、必ず打ち倒し、勝利する。
 
「あいつは、強いぞ?」

 自信に満ちた恭也の台詞に、翔は言い返すことが出来なかった。
 圧倒された。高町恭也の想いに。高町恭也の心に。高町恭也の言葉に。

「ああ、流石に七対一というのは勘弁してやってもらいたいが」
「……気づいていましたか」

 そこで、ふと思いついたように翔に語りかける。いや、翔にではない。その後方の暗がりへと恭也は話しかけたのだ。
 ざわりと翔の心が揺れた。
 見抜かれていたことにもはや驚くことはない。この男には小細工など通用しないのは明らかだ。
 恭也の七対一という部分に反応したのだろうか。
 翔の後方。恭也からさらに離れた暗がりから六人の男女が姿を現す。

「ほらほらー。下手に隠れないほうがいいって言ったじゃんー?」
「そうですよ。不破さんに私たちの隠形術が通じるわけないじゃないですか」

 六人の中で一番背の低い女性―――鬼頭水面がやれやれといいながら肩をすくめる。
 それに追随するように、恭也の方を心配そうに見やる如月紅葉。

「……これが、不破恭也か」 
「……鬼神か、剣神か。噂通り……否、噂以上」

 髪を短く刈り込み、恭也よりは頭一つ小さいが、がっしりとした体格の少年。闇夜に片手で持った槍が光る―――葛葉弘之。
 今にもこの場から離れたそうにしている黒髪セミロングの目の細い少女―――小金井夏樹。

「驚いた、という話ではすまん。長老達が言っていたことは―――甘すぎた」
「……僕、帰ってもいいかい?」

 坊主頭の少年は、ただただ驚き。恭也を凝視している。片手に持っている大型の弓を自在に操る弓使い―――風的与一。
 泣きそうな表情でそう聞く、女性も嫉妬するような容姿と長い黒髪の少年―――秋草武蔵。

 無手の如月。針の鬼頭。槍の葛葉。棍の小金井。弓の風的。糸の秋草。
 刀の天守と小太刀の御神をあわせて―――人はその八族を―――永全不動八門と呼ぶ。

 日本の辺境の、ここ海鳴の地で永全不動八門が集結した。
 勿論、恭也はこの場に現れた少年少女の顔と名前は分からない。
 ただ、紅葉の顔をみた瞬間、僅かに首を捻る。昔にどこかで見たことがある。そんな感想を抱いたのだ。
 そして思い出す。それほど昔というわけでもない。およそ三年前。日本のある場所で行われた永全不動八門会談―――その時に会った少女だ。
 三年前の事件はあまりにも悲惨で、残酷で、凄惨で、救いようのない、血と臓物の臭いが支配する絶望の世界だった。
 そんな出来事だったからこそ、その時に会った【二人】の少女達は恭也の心に深く刻まれている。
 恭也に凝視された紅葉は恥ずかしそうに頬を赤くしながらうつむいた。
   
「勘違いさせるような真似をして申し訳ありません。ですが、彼らも私と同じ立場。次期当主候補として、御神宗家を倒したという証明が欲しい者達です。無論、七対一で倒した、では笑い話にもなりません。一対一。正々堂々という言葉に偽りはありません」
  
 恭也が勘違いしては全てが破算となる。
 それを恐れて、翔は恭也の誤解を解こうと必死で説明を始めた。

 翔の説明を聞きながら、恭也は冷静にその場に居る者達の実力を見極めようと精神を集中させる。
 相手の力量を完全に見極めるというのは、はっきりいって難しい。
 だが、ある程度ならば確実に掴み取ることは恭也ならば可能だ。

 隠形の技術は全員がたいしたレベルの使い手だった。少なくとも誰もが美由希に匹敵するといってもいい。
 それ以外はどうか。力量的に大きく劣っている人間はこの場には居ないようだ。
 この中でずば抜けているのは―――矢張りというべきか天守翔。仮にもかつての御神の一族と並び立ったという天守の当主候補。

 だが、恭也をして首を捻る二人の存在が居た。
 如月紅葉と鬼頭水面。この二人の力量がいまいち掴み取れない。まるで空に浮いている雲のようで、ふわふわとして掴みどころがないのだ。
 美由希よりも遥かに上手に見えもするが―――それ以下にも見える。
 
「まぁ……君たちの好きにすればいい」

 翔の発言に嘘はない。
 絶対の真実を恭也に告げている。それくらいは読み取れるわけで―――だからこそ翔の願いをあっさりと受け入れた。
 一対一という戦いを必ず相手は守るだろう。態々恭也に許可を取るまでしてきたのだから、卑怯な手段を使うつもりもないはずだ。
 実際の死合いならば、卑怯もなにもない。しかし、命をかけた実戦の経験が皆無に等しい美由希が、それほどの好条件で実戦を行えるのはまたとない幸運だ。
 それにここに居る誰もが美由希とて楽に勝てる相手は居ない。自分の実力と均衡した相手との戦闘の経験値は計り知れない。
 もし、仮にここにいる全員との戦いを経験したら、美由希はどれほどまでに化けるか。
 美由希の成長が、どこまで伸びるのか―――恭也とて読みきれない。

「話はそれだけか?ならば俺はそろそろ帰らせてもらおう」

 躍る心を悟られないように恭也は太郎を背負ったまま七人から離れていこうとする。
 そろそろ帰らないと晩御飯に遅れてしまうという割とリアルな問題が恭也を苛んでいるからだ。

「ああ、待ってくれ」

 去って行こうとするのを止めたのは葛葉だった。      
 永全不動八門一派―――葛葉流槍術の使い手。若き天才と褒め称えられる槍使い。

「俺は葛葉弘之。是非あんたに、一手ご教授願いたいんだが」

 吹き出す音が六つ聞こえた。
 冷静沈着を表面上保っていた翔でさえ、葛葉の台詞に不意をつかれたのだ。
 秋草なんかは、何言ってんのこのバトルジャンキー頭可笑しいんじゃないのか、とぼそりと呟いたのを恭也は聞き逃さなかった。
 実は水面だけは吹き出した意味が違っていた。他の五人は、葛葉のとんでも意見に驚いたのだが、水面だけはあまりにも葛葉らしい台詞に笑いそうになるのを堪えたためだった。結局堪え切れなかったが。

「馬鹿者!!此方と彼方の力の違いがわからんのか!?」
「……拳銃に玉六発入った状態でロシアンルーレットするようなもんだよ?」
「止めましょうよー葛葉さん。というか止めてくださいね?欲求不満なら私が涅槃に送ってあげますから」

 必死で葛葉を止めようとする風的。
 冷静に自殺志願者だよ、お前といっている小金井。
 そして、優しく、言い聞かせるように死刑宣告を行う紅葉。

「わかってないのですか、葛葉?彼の力を。彼の底を。今のわたくしたちでは―――」
「―――五月蝿えよ、馬鹿かお前ら」

 全員に罵倒されながらも葛葉に揺らぎはなかった。
 葛葉の目には、すでに恭也しか入っていなかったのだから。有象無象が何を言った所で気にするほどでもない。
 逆に他の六人を見下すように吐き捨てる。翔の台詞を遮るように葛葉は言葉とは裏腹に面白そうに笑った。

「不破が強い?そんなもん見れば分かるだろう?すげぇじゃねーか。俺達より幾つか年上だからってあんな境地に至れる不破は本当にすげぇ。うちの親父が―――葛葉当主が不破にだけは関わるなっていった理由がはっきりわかるぜ?」

 笑いながら、葛葉は恭也を褒め称える。
 嫌味はなく、本当に心の底から言っているのは誰の目から見ても明らかだった。

「世界最強って言葉に憧れたことあるだろう?俺はある。いや、俺はそれを目指している。でも、それが何なのか良く分からなかった。一体どれだけ強くなればその称号に相応しいのか。あの天守の異端児―――【天守翼】を見たときこいつがそうなんだなって考えたよ。でも、どこか心で納得できないもんがあった」

 天守翼という名前が出た瞬間、翔の漆黒の瞳に一瞬だが憎しみの炎が宿った。
 もっともそれに気づいた人物はこの場には誰も居なかったが。   

「なぁ、喜べよ?ようやく出会えたんだぜ?世界最強を体現した人間に!!目の前居にいるんだ!!天守翼を凌駕する剣士が!!永全不動八門の誰もが恐れる剣士が!!」

 葛葉が己の内に燃え滾る喜びを、戦いへの興奮を抑えきれずに雄叫びをあげるように叫ぶ。
 他の六人はそんな葛葉に呑まれたように、言い返せない。

「俺の親父は言った。【御神】を剣士として最高とするならば、不破恭也は―――深遠に辿り着いた剣士、だと。どっちが凄いのか俺には分からん。でもな、間違いなく不破恭也は俺の中で世界最強、だ!!」

 持っていた槍を構え、重心を落とす。
 ぎりぎりと筋肉が凝縮されていく。解放されるのを今か今かと待ち望んでいる。
 肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべ―――燃え滾る烈火の気配を発し、後は合図を待つだけだ。

「そんな相手が目の前にいるんだ!!戦うって選択肢以外―――あるわけがないだろうがぁああああああああああああああああ!!」
 
 吼えた。
 夜の静寂を引き裂かんと、猛虎の咆哮が高らかにあがった。
 
「さぁ、始めようぜ!!俺とあんたの戦いを!!命と命を賭けた祝賀会!!俺の全力を持って―――あんたの魂に届かせる!!」

 葛葉の目が爛々と輝く。
 恭也と戦える喜びで。自分の理解を遥かに超える剣士と相対できることに感謝しかない。
 最高潮にまで高められた葛葉の感情に、恭也は―――笑みを浮かべた。
 馬鹿にしたような笑みではない。葛葉の言葉に確かに恭也は嬉しそうだった。いや、嬉しかったのだ。
 ここまでストレートに戦いを求めてきた相手などそうはいない。いや、殺音くらいかもしれない。
 恭也の力を知って―――絶望しそうになるほどの力量差を知ってなお、気持ちを奮い立たせ、立ち向かってくる。
 それは、なんて、なんて―――。

「―――素晴らしき、戦士だ」

 もはやそれしかない。それ以外ない。
 葛葉は恐らく多くの敗北を知ってきたのだろう。
 それでも決して諦めることなく、強さを求め、立ち止まらずに進んできた。
 愚直だったとしても。ただ真っ直ぐに。
 恭也は肩に担いでいた太郎を地面に降ろすと、手招きをする。

「来い―――我、不破恭也。全力を持って君と戦おう」
「応!!」

 猛りきった雄たけびをあげて特攻するのは、葛葉ただ一人。
 知略も、策略も、なにもなく、両手で握りしめた槍を携えて、恭也へと挑む。
 
 ―――速い。

 その場にいた誰もがそう思い、驚きを隠せなかった。
 互いに何度も顔を合わせ、短い間とはいえ行動を共にしてきた仲ゆえに葛葉の力量は皆知っている。
 
 葛葉はその時の精神状態によって随分と強さに差が出てくる。
 弱い者と戦うときにはテンションがあがりきらず、その時の力量はおそらく今いる永全不動八門の者達で最も低いだろう。
 それとは逆に強い者と戦うときは葛葉の戦闘力は信じられないほどに跳ね上がる。
 そんな葛葉の今のスピードは―――。

「はや、すぎる!?」

 翔のかすれるような呟き。
 他のメンバーはどうすればいいか迷う中、信じがたいスピードで葛葉は恭也への間合いを詰めていくのだから。
 恐ろしいほどまでに高まりきった葛葉の戦闘本能が、彼自身の潜在能力を無意識のうちに引き出していたのだ。
 恭也と相対することによって、葛葉は己が感じていた幾つもの壁を叩き壊していた。
 
「―――これならば、いけ―――」

 今の葛葉の速度ならば恭也とて、そう簡単にはさばけまい。
 確信にも似た一瞬の思考。翔でも反応さえできないのではないか、と思えるような速度で迫ってきた葛葉が恭也と交差した次の瞬間には宙に舞う。

 意識がないのだろうか、ろくな受け身もとれずそのまま地面に叩き付けられた。
 もはや戦闘続行は不可能だろうと一目でわかるその様子に、その場に居た全員が呆然と結果を視界におさめた。
 超速度の葛葉を―――槍で突かせることはおろか、反応することさえ許さず地に沈めた恭也に驚愕しか抱けない。

「いい動きだった」

 恭也が意識を失っている葛葉にそう語りかける。
 まじりっけなしの本音の一言。美由希でも滅多にかけてもらえることのない称賛を葛葉は引き出したのだ。
 そんな恭也が他の六人に視線を向けたが―――すでに幾人かは覚悟が決まっていた。
 葛葉の炎のような闘気がその場に居た数人に火をつけてしまったのだ。

「……あの馬鹿が向かっていたのに私が戦わないなんて癪だし」
「……人を超えた者と戦うのもまた、一興」
「負け戦は決まってるけどだけど―――まぁ、やるっきゃないか」

 小金井夏樹がふぅとため息を吐く、風的与一は皮肉気に口元をゆがませる。秋草武蔵は泣きそうな表情ながらも、強い意志を込めて肩を回す。
 そして、感情などというものには縁遠い翔の心にも不思議な熱さが生まれていた―――だが、それを必死の意志の強さで押し殺す。
 何故ならば天守翔に敗北は許されない。一時の感情に流されて戦い、これ以上の敗北を生むことは、次期当主候補として不利にしか働かない。其の全ては―――姉を超えるために。

「ま、あんた達おもいっきりやっておいで」
「頑張ってきてくださいねー」

 一方水面と紅葉の二人は葛葉の燃え滾る炎のような感情に影響を受けていないのか―――その場から動こうとはしなかった。
 秋草が夜の闇で見えないほどの細さの鋼糸を胸元から取り出す。小金井がすぐそばの壁にかけて置いた、木でできた棍を手にもつ。風的が両手で巨大な弓を引き絞る。

「全員同時で構わない―――遠慮せずに来い」

 先手を打ったのは、小金井だった。地を這うように大地を駆け抜け、恭也へと疾走する。
 その動きは先ほどの葛葉には及ばずとも、美由希と変わりないほどのスピード。それに対して恭也は相変わらず構えもせず小金井を迎え撃つ。
 だが、突如僅かに首を横へと傾ける。それとほぼ同時に夜の闇を切り裂くように、飛来した矢が恭也の顔があった空間を疾駆していった。
 避けられたことに驚きを見せず、風的は第二矢、第三矢と、小金井を援護すべく追撃を放つ。
 矢を避けたところに、小金井が迫った。棍を持つ手がしなるようにぶれるが、小金井の手に残るのは空を切った感覚だけ。
 半身となってその一撃をかわされたことに、結局小金井は気づくことは出来ず、背中に強い衝撃を受け意識を失った。
 小金井の背に右手の手刀をいれた瞬間、それ以上の速度で右手をその場から引く。
 
 肉眼で確認し難い鋼糸が恭也の右手があった空間がを通り過ぎた。
 もし、あと一秒でも手を引くのが遅れていたら、鋼糸によって右手を絡み取られていただろう。
 恭也が地面を蹴る。衝撃で砂が飛び散り撒き散らされた。
 何でもない動きだったにも関わらず、秋草と風的は恭也の姿を見失い―――気がついたときには秋草は足を払われ体勢を崩し、倒れつつある不安定な状態の顎を恭也の掌底で打ち抜かれ、どさりと音をたてて地面に横たわった。

 残り一人となって風的は近づかれたら勝機なし、と踏んで瞬速の矢を放った、が―――。
 風的に接近しつつ、自分に迫ってきていた矢をあろうことか恭矢は―――素手で掴み取った。
 驚く暇もなく鳩尾を蹴りで貫かれた風的もまた、他の二人と同じく地に伏せる。

 三人同時に戦って持たすことが出来た時間は―――僅か十数秒。
 圧倒的という言葉すら生温い。恭也は格の違いを見せ付けた。
 天守翔は、この光景を見て己の目を信じられなかった。ここまで強かったのか、と。驚くことしか出来なかった。
 
 三年前に初めて姿を現した、御神宗家の代理―――不破家当主不破恭也。
 永全不動八門全ての当主とそれに近しい者達による会談に現れた彼は、自分が不破の当主だという証明をしたわけでもない。できるわけでもなかった。
 だが、当主達は恭也を不破家当主として認め―――御神宗家の代理として会談に参加させた。それが何故かは分からない。何か裏の取引があったのではないかと勘ぐるものも居た。
 そして、その会談である事件が起こったらしい。永全不動八門及び、使用人を含め計七十八名中生存者二十一名。死亡者五十七名。
 生き残ったのはそれぞれが力ある者達ばかりだった。彼らはその時何が起きたのか、決してその会談に参加していなかったものには詳細を話そうとはしなかった。
 ただ、それぞれの一族にこう伝えた―――不破恭也にだけは関わるな。
 それは様々な憶測や噂を呼び、何時しか不破恭也は永全不動八門にて知らぬものはいなくなった。
 
 それほどに高名となった相手なのだ。
 翔とて恭也が強いことは覚悟していた。自分では及ばぬ相手なのかもしれないということは薄々理解していた。
 風芽丘学園で監視していたときは本当にそれほどまでに強いのか疑いを持っていたが―――蓋を開けてみれば強いどころの話ではない。
 向かうところ敵なし。天守史上最高の剣士。剣聖。様々な肩書きを戴く翔の姉でも、霞んで見えた。
 
「……」

 戦意などもてるはずはなかった。
 他の四人のように戦いを挑むことは、翔にはできなかった。
 感情よりも、己の保身を優先してしまったのだから。それが正しいことだと思っても、どこか心では納得しきれない。
 天守翔は―――敗北することを誰よりも恐れていた。
 恭也は、翔の戦意が枯れていることを確認すると視線を紅葉と水面に向けるが―――二人は静かに首を横にふる。
 それに少しだけ残念そうに恭也は息を吐いた。

「残念だ。君とは手合わせを願いたかった。三年前と比べてどれほどに強くなったのか、見せて欲しかったんだが」
「―――え?」

 思ってもいなかった恭也の言葉に―――紅葉の肩がビクリと反応した。

「えっと、あのその……わ、私のこと、お、おぼ……えて?」
「ん?三年前に―――会わなかったか?」

 途切れ途切れな紅葉に、当たり前のことのように聞き返す恭也。
 紅葉の表情が凍る。十数秒も固まっていただろうか必死で泣くのを我慢している、そんな今にも涙を堪えていた少女は―――空を見上げた。
 零れ落ちそうな涙を見せないように。涙を流すのを耐えるように。しかし、つぅと一筋の涙が頬を伝って零れ落ちた。
 ごしごしとその涙の後を消すように袖で拭く。泣きそうだった表情は既になく、日常の太陽のような笑顔は消えうせていた。

「鬼頭先生」
「んに?なにさー?」
「すみません。うち、行きますね」
「……まぁ、あんたがそうしたいなら止めないよー。後のことは面倒見てあげるから精一杯やってくればいいさ」
「有難うございます」

 ぺこりと礼儀正しく頭を下げた紅葉は、諦観したような水面に礼を告げ、恭也へと近づいていき立ち止まる。
 間合いは僅か二メートル足らず。一足一刀の間合い。
 ドクンドクンと早鐘のように心臓が胸を打つ。恭也の暗い瞳に自分だけしか映っていないのが見える。
 たったそれだけだというのに紅葉は天にも昇る幸福感を全身に感じていた。
 如月紅葉。彼女は元々自分の流派の後継者争いなどに興味は微塵もなく、当主候補という肩書きも辞退したい程度のものでしかなかった。
 それなのに天守翔の提案にのったのは、恭也に会えるからということも大きかったが……それ以上に他の永全不動八門が恭也の敵と成り得る。
 そう考えたからでもあった。だが三年ぶりに会った恭也の力は、以前の彼を遥かに凌駕しており、如何なる存在も恭也の敵にならないと理解した今日―――安心すると同時に少しだけ寂寥感を抱いたのも事実。
  
「―――私のこと等覚えていないと思っていました。でも、覚えていてくれた。きっと私はその一言で報われました」

 年頃の少女だというのに恭也に向けている拳は拳だこでぼろぼろであった。
 これくらいの思春期の少女ならば、多少なりとも気にするであろうに。その拳を誇らしげに恭也へと見せている。

「貴方が私の力を見たいと言うのならば―――私の全てを賭けて、今この一瞬に―――」  

 如月紅葉。
 彼女は誰よりも何よりも―――不破恭也を崇拝していた。

 パンと何かを叩く音が木霊する。
 何が起きたのか、翔と水面には理解することが出来なかった。
 気がついたときには紅葉の拳が恭也の掌で受け止められていたのだから。
 二人の意識の隙間をついたかのような出来事。速いとか、遅いとか、そういった問題の攻撃ではなかった。何の予備動作もなく、紅葉は中段突きを繰り出していたのだ。
 そして、驚くのは―――恭也が回避せずにその一撃を受け止めたことだ。

「―――見事」
「―――有難うございます」

 最後に恭也へ見惚れるような笑みを返し、それを切欠とした様に紅葉の身体が宙に舞う。
 投げ飛ばされ、自由の利かない中空で恭也の拳が紅葉の意識を刈り取った。
 地面に叩きつけられそうになった紅葉の身体を受け止め、優しく地面に降ろす。気を失っているというのに紅葉は満足そうな笑みを浮かべたままだった。

 残された翔と水面に戦うつもりはないのだと分かっている恭也は二人から離れ、高町家へと帰ろうとするが―――少し歩いた所で何かを思い出したように戻ってくる。
 そして脇に転がしてあった太郎を再度肩に担ぐと、今度こそ二人の前から姿を消した。
 それを黙って見送る翔の瞳には複雑な感情が交じり合っている。
 このような宙ぶらりんの状態など翔の生涯で経験したことがなかった。様々な思念が泡のように浮かんでは消えていく。無秩序な思考。
 確かに恭也へと挑まなかった翔は敗北を刻まなかった。だが、代わりに大切な何かをうしなったような錯覚を覚えた。

 それを横目で見ていた水面は深い深い、それは深いため息をついた。
 
 ―――若いねぇ。敗北を恐れるか、天守の次女っ娘。この戦いでお利口なのはあんただけだったけど……本当の意味で敗北したのもあんただけさね。

 
 
  

 
  

 
 
  









 


 永全不動八門との邂逅でさらに時間をくってしまった恭也は内心焦りながら帰宅を急ぐ。
 流石に連絡もいれずこれだけ遅くなってしまったのは予想外で、何を言われるかわからない。
 廃ビル地帯を横断する恭也だったが、ふと足を止める。

「―――私の妹はどうだったかしら?」 

 この場に相応しくない、鈴が鳴るような声が聞こえた。
 その発生源は恭也の右斜め前方。数メートル先の崩れかけた建物の丁度影になった場所だ。
 暗くて人影が誰なのかはっきりとは見えないが、恭也にはその声の主が誰かはっきりとわかった。

「強いな。美由希でも勝てるかわからんほどに。ただ、心が―――」
「そうなのよね。どうも、姉の私と比べられるせいか精神的に未熟なところがあるのよ」
「その分解決した時の成長が期待できるぞ?」
「そうね。私もそれを期待してたんだけど―――難しいわね」
「お前の父は何か手をうっていないのか?」
「残念ながら、父はこういったことに慣れていないようで全く頼りにならないもの」

 打てば返す響きで恭也と少女は会話を続ける。
 二人とも互いに全く遠慮がなく、相当に親しさを感じさせていた。

「ま、高町美由希に期待しましょうか。彼女の心は―――果たしてあの娘の凍てついた心を溶かしてくれるかしら」
「そればかりはわからんが。世の中なるようにしかならんさ」
「それもそうね。あ、そうそう。私がここにきたことは秘密にしておいてくれるかしら?また変に、翔がいじけたら困るし」
「ん、ああ。わかった」

 くすりと少女がわらったような気がした。
 そして少女は恭也かっら遠ざかるように歩き去っていく。
 そこで何かを思い出して、一旦足を止める。

「あ、そうそう。今度御飯でも一緒にどうかしら?」
「そうだな。久しぶりの再会だ。ご馳走しよう」
「あら、優しいのね。お言葉にあまえちゃおうかしら」

 言葉は軽いが、そこには本当に嬉しそうな響きがあった。
 それを最後に少女はその場から姿を消す。それに合わせるように恭也もまた―――。



















 こうして、運命は次々と廻り始める。
 次々と。次々と。次々と。次々と。次々と。
 救い難き破滅に向かって。静かに。ゆっくりと。
 
 高町恭也を中心に、運命は廻り始める。
 この世界の理からはずれた一人の狂った化け物が、全てを捻じ曲げながら。

 


   
 運命は―――廻り続ける。 

  




[30788] 間章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/01/09 13:33















 樹齢何百年、何千年の巨大で威圧的な木々に囲われて、京の山中にその社はあった。
 建てられてから随分と年月を感じさせる古さを醸し出している。境内の両脇には木立が並び、その上空だけはぽっかりと開き、夜空に星が煌いている。
 その周囲は空気が凍ったように張り詰め、清浄な空気が吸ったものの肺を満たす。
 一般の人間なら無意識のうちに立ち寄るのを避けるような、人界とは一線を隔した領域がそこにあった。

 その社の中に―――敷かれた布団に老婆が横たわっている。幾つ位なのだろうか。七十か八十。それくらいの年齢には見えるが、不思議と高貴な雰囲気を纏っていた。若いころは相当な美人だったことは簡単に想像できる。
 だが、すでに顔は土気色で、己の死期を自ずと悟り、後は死を待つだけ。
 老婆は人間ではなかった。ワーキャット(人猫族)と呼ばれる夜の一族である。
 
 夜の一族とは―――最近最も有力となっている説が遺伝子障害の結果生まれた人間とは異なる種。
 人間とは段違いの身体能力。人間より遥かに優れた五感。百年二百年を生きる不老長寿。並はずれた再生回復能力を持つ。その他にも様々な異常能力を所有しているという。
 例をあげるならば、人狼や吸血鬼。そういった伝承にも書き記される人外の者達である。
 
 老婆は日本でうまれ、日本を旅し、日本を愛していた。
 この国を―――大地を傷つけるものは誰であろうと許さなかった。それは愛した男と交わした最後の約束の為。彼女が愛したのは同胞ではなく、人間だった。
 多くの人間と戦い、多くの同胞と戦い、多くの化け物と戦い―――屍の山の頂に立つ彼女は、何時しか同胞さえも畏れ敬う、伝承の怪物となっていた。

 アンチナンバーズⅧ―――【猫神】。そう呼ばれていた。

 そう呼ばれてもはやどれくらい経っただろう。少なくとも老婆は夜の一族の中でも最古参の一人といってもいい。かの天眼が六百年以上の時を生きているというが、それに匹敵するほどに長い時を生きてきた。 
 様々な記憶が泡のように浮かんでは消えていく。その中で最も鮮烈なのはやはり、破壊者ざからとの死闘。
 三百年近く前に己の力を過信し、戦いを挑み敗北を喫した相手。老婆の考えていた強さを一段も二段も超越した怪物であった。
 死を覚悟した。圧倒的な絶望を前にして、逃げることも生きることも戦うことさえも諦めて、死を受け入れた。ようやく【彼】のもとへいける。そう思ったのかもしれない。

 だが、そこに―――彼が現れた。
 
 六百年前にまだ幼女だった自分を拾い、育ててくれた男。誰よりも尊敬し、愛し、盲信し、身も心も捧げた男。
 あらゆる存在を断ち、斬り、全ての厄災から自分を守護した剣士。二振りの刀を振るい、光の剣閃を繰った彼女が信じる絶対最強。絶対無敵。絶対不敗―――にだけは罰が悪そうだったが――――アンチナンバーズⅠ【剣の頂に立つ者】。
 圧倒的なほどに強かった【彼】は、人を斬り、鬼を斬り、果ては神と自称していた超越者をも斬った。六百年を生きた怪猫である自分の最盛期の力でも【彼】には及ばないだろう。
 普段は冷静で、達観し、老成したような雰囲気の【彼】だったが、天眼と戦うときだけは激情を向けていたのが謎であった。それは憎悪であり、怨恨であり、自分までもが呑まれそうなほど暗い闇だった。 
 その理由を結局【彼】は話してはくれなかったが。 

 二人で日本を回っていた最中に、自分と同じような境遇の少女を拾い三人で様々な日々を過ごした。今でも思い出せる楽しい日々。少女は何時しか【彼】を師と仰ぎ、剣士として成長していく。
 それほどに強かった【彼】は―――人と同じように歳を取り、床に伏せた。
 どれだけ高名な医者に頼っても【彼】はもはやどうにもならなかった。そして、【彼】は呆気なく―――天へと召された。
 世界最強だった【彼】は、誰にも負けることは無かったが、寿命にだけは勝てなかったのだ。
 二人で泣いた。延々と泣いた。何日も何日も、とまることなき涙を流し続けた。
 【彼】の最後を看取ったのは、自分と大人になった少女の二人だけ。最後に撫でられた頭の感触を思い出すと今でも心が暖かくなる。
 それでも、【彼】が最後に思い浮かべたのはきっと―――憎悪しながらも、惹かれていた天眼だったのだろう。

 六百年近く昔に死んだはずの【彼】。それから三百年もたった時に現れた彼。
 剣の頂に立つ者が、自分を守るように現れざからの前に立ち塞がった。
 だが、違った。【彼】ではなかった。姿かたちは【彼】だったが、ざからと戦っている彼は【彼】ではなかった。
 本人から感じられる霊力は皆無に等しいが、信じられないほどの霊力を秘めた霊剣を使いざからの力を封じると、二振りの刀でざからと死闘を演じ始める。
 その時の歓喜していたざからと彼の会話は何故だろうか、自分と交わしたわけでもないのに昨日のことのように思い出せる―――。







 ―――強いな、人の子。汝の名教えてくれぬか?

 ―――この世界に俺の居場所はありはしない。死んでいるのと同じことだ。とうの昔に名は捨てたが、どうしても俺を呼びたければ、××と呼べ。下らない奴がつけた下らない名だ。

 ―――××?くく、我も人のことは言えんが変わった名だ。汝がそれを下らぬ名だというのならば、我が褒美として汝に名を付けてやろう。我と戦える汝はすでに人に非ず。己を死んでいると称するならば……汝はこれより無黒、否……骸と名乗れ。


 
 



 人間だった彼は結局ただの鉄でできた刀二本でざからを圧倒し、他の妖怪と協力してざからを封印して見せた。
 【彼】ではないのに同じ技と武器を使い、同じ姿をした彼を問いただそうとしたが―――それよりも早く彼は姿を消していた。
 それから程なくして世界中に、激震が走った。

 アンチナンバーズⅠ【剣の頂に立つ者】―――復活。

 わけがわからなかった。
 あれほど第一席の空位に固執していた天眼があっさりと認めることがあるのかと。
 【彼】ではないのに、何故認めるのかと。
 結局その謎が解けることなく―――再び剣の頂に立つ者は寿命で死ぬ。
 そして、何時しかアンチナンバーズⅠは、こう認識されることになる。
 【剣の頂に立つ者】は死しても時が経てば蘇る。故に天眼はアンチナンバーズⅠの席を誰にも座らせようとしないのだと。
 それが正しいのか正しくないのか、天眼にしか分からないが―――それから三百年、【剣の頂に立つ者】は蘇ってはいない。

 そんな老婆の思考を中断させるように、社の入り口が開く。
 入ってきたのは水無月殺音。珍しく神妙な表情で老婆の枕元に膝をそろえて座す。
  
「……久しいのぅ……我が後継者よ……」

 老婆がか細い声で殺音に語りかける。
 殺音はコクリと頷くと真剣な表情で老婆と視線を合わせ続ける。

「……お前に、我が名を継がせ……はや十余年……我ながらよくぞ生があったとおもう……」
「婆さんには迷惑をかけっぱなしだったけどね」
「くく……私を、ただの婆として扱ってくれたのは……お前だけだったよ……」
「皆びびりすぎなのよねー肩書きに」
「……だが、それだけの畏れが、あるのだよ……その忌み名には」

 そうなのだ。その名を聞いただけで震え上がる。それだけの死山血河を築いてきた。
 特に【彼】が死んだ後百年が酷かった。見えるもの全てが敵に見えた。あれだけ愛しかった大地さえもが黒く濁って見えた。生きることも億劫になったのだ。 
 自分がどれだけ【彼】を愛していたのか、無くして初めて本当の意味で理解したのだ。
 そんな自分を恐れず―――そして、そんな殺戮の化身だった自分の全盛期を百年足らずしか生きていない目の前の女性が超えているのが少しだけ嬉しかった。
  
「……お前はその名を、受け継いで後悔は、ないのかい?」
「全く。私は私。水無月殺音だよ」

 にやりと笑って見せた殺音の表情に翳りは無い。
 それを確認すると老婆は安心したように瞳を細める。

「それならば、良かった―――それだけが、心残りだった」

 安息のような一息を吐く老婆。
 意識が遠くなっていくのが自分自身でもわかる。
 それに恐怖はなく、もうすぐ愛した【彼】のもとにいけるのが―――何よりも嬉しい。
 【彼】が死んだあと、自分は生き過ぎた。心の底からそう思う。

「ん、そーだ。この写真見える?私の運命の相手なんだけど―――」

 もう老婆の意識もはっきりしてないが、殺音は携帯の待ち受け画像を老婆に見せる。
 そこには何時の間に取ったのか―――恭也の姿を映した画像があったのだが、それを霞んでいく視界の中見た老婆は―――。

「……きょ……や……?」

 最後の力を振り絞るように口から零れ出た名前。
 在り得ない。在り得るはずが無い。他人の空似というレベルではなかったのだから。
 まさしくそれは随分と若いとはいえ、在りし日の【彼】の姿そのままで―――。
 
 その疑問は解けることなく、老婆は長い長い六百年の人生に終わりを告げた。
 老婆の最後の台詞に目を見開いた殺音だったが、問い詰めようにもすでに吐息は無く……。
 殺音は木で出来た床に両手の指をつき、老婆に頭を下げた。
 そして老婆の身体を抱き上げ、社から外に出る。すでに準備してあったやぐらに老婆の遺体を置き、火をつける。
 肉が焦げる臭いが殺音の鼻につく。長い時間をかけて、炎は老婆の身体を灰として、消し去った。
 やぐらも燃え、残されたのは燃え尽きなかった幾つかの骨。その骨の一部を拾うと、口に含み嚥下する。
 ズクンと、その骨が消化され、昇華され、殺音の全身に行き渡る。
 手を握り締めると、今までとは比較にならない力が自分に宿っているのを確かに確認できた。それはきっと、老婆の力なのだろう。
 
「―――待っていろ、恭也。決着をつけるときは―――近いよ」






















「だーかーらー。こっちにだって準備ってものがあるって何度も何度も何度も言ってるでしょう!?」

 海鳴にある高級ホテル。正式名称が海鳴ベイサイド・ホテル―――のある部屋にて少女の金切声が響き渡っていた。
 家具もベッドもテレビも何もかも、買おうと思ったらどれもこれも軽く六桁に届きそうな品物ばかり。
 その部屋で携帯電話を耳にあて、通話先の相手と激しく口論をしている、水無月冥。
 一方殺音を除いた他五名はベッドの上でトランプをしている。
 
「三」
「四」
「五」

 巨門が三といいながらトランプをベッドの中心に捨てる。
 ついで禄存が四と呟きトランプを捨て、文曲が五と言って捨てる。

「六」
「……な、七」
「「「「座布団」」」」

 廉貞が六と言いつつトランプをすてたが、次の貪狼がややどもりながらトランプを捨てた瞬間―――残りの四人が同時に突っ込む。
 貪狼の捨てたトランプをめくるとそのカードに書かれていた数字は十。文曲がたまった山を貪狼へと押しやる。
 他の四人は手にもっているカードの枚数は残り少ないが、貪狼だけは山のようにカードが残っていた。

「うーーがーー!?なんでお前らわかんだよ!!人の心読んでんのか!?」
「なんで、て言われてもねぇ?」
「……お前が分かりやす過ぎる」

 文曲が呆れたような視線を送り、巨門は率直な意見を述べた。
 くそっといいながら貪狼はベッドから降りると冷蔵庫をあけ、入れておいた飲料の蓋をあけて一気に飲み干す。
 濡れる口元を手の甲で拭い、深呼吸を繰り返し冷静さを取り戻した貪狼はベッドでだらけている四人に振りかえる。

「もういっちょだ、今度こそ勝つ!!」
「煩いってば、静かにしてよ!?」
「……はい」

 携帯電話の相手の声が聴きにくかったのだろう。冥が大声を上げた貪狼に八つ当たり気味に注意を飛ばした。
 それに大人しく頷く貪狼。他の仲間には大きな態度を取るが、幼いころに拾われて育てられた親代わりの冥には頭が上がらない。
 怒られて目に見えて落ちこんだ貪狼は部屋の隅っこで体育座りをしてへこみはじめる。

『高い金はろうてお前たちを雇ってるんやで?早く結果を見せてもらわな困るわ』
「ですからー。相手はノエル・綺堂・エーアリヒカイトだけじゃなくって、本気でやばい敵が月村忍の近くにいるんですよ!!」
『そんな奴の連絡はきてへんでー。確かに最近は同じクラスの男と一緒にいるらしいけどな』
「そいつですって。ただの一般人じゃないんですよ。具体的に言うと貴方ご自慢のSP百人に重火器を装備させて戦わせたら、五分かからず壊滅させるくらいの相手ですから」
『……もうええわ。ワシはワシで動かせてもらうで』
「あ、ちょっと待って下さい!?本当なんですって!?もしもし!?もしもーーーし!?」
 
 ツーツーという無情にも電話を切られた音が響くだけで、相手からの返答はもはやない。
 ピクピクと目の下を痙攣させていた冥だったが、我慢できなかったのか、携帯をベッドに向けて投げつける。

「あーーーもーーー!!どいつもこいつも自分勝手にーーー!!」

 ぐしゃぐしゃと自分の頭をかきむしる冥。
 綺麗に手入れしてあったツインテールがボサボサになるが、そんなことを気にしている場合ではないようで、近くに置いてあったクッションにゲシゲシと蹴りを入れた。
 恭也と邂逅してから暫く経つが、昔から殺音と冥が世話になっていたある人が危篤と連絡があったためそちらの方に殺音だけが一時向かっているのだ。
 そのため、残った北斗のメンバーだけでは恭也とことを構えた場合どうしようもないため、殺音が帰ってくるのを待っている状況だった。依頼主から色々とせっつかれてはいたが、何とかごまかしていたのだが―――ついに依頼主の堪忍袋の緒が切れたらしい。

「というか、あの狸親父も今まで失敗続きだったんだから、一週間や二週間くらい待てばいいのに!!」

 ギャーギャーと騒ぎ立てる冥。相当に頭にきているのだろう。
 基本的に北斗の仕事の依頼や交渉事は全て冥が担っている。ついでに隠れ家にいる場合は食事掃除もしているが。
 他のメンバーはそういったことが苦手というか無関心というか、兎に角ろくでもない結果しか残さないため冥が全てをやっているのだが―――。
 
「ストレスためるのはよくないヨ?」
「だまらっしゃい!!」

 廉貞の台詞に一喝。
 別に冥もここ二週間の間何もやっていないわけでもない。
 月村忍及び高町恭也の身辺調査。その結果を見てみると、特に恭也と忍は親しいというわけでもない。
 あくまでも高校三年間同じクラスで、何度か会話する程度。せいぜいが友達という枠組みの関係だろう。

 だが、今回ばかりはそれがまずい。
 普通の人間ならば友達如きの関係の為に北斗と真っ向からぶつかりあうなど決してしない。それは死ぬと同意義のことなのだから。
 残念だが高町恭也は普通の人間ではなく―――殺音でなければまともにやりあうことすらできぬ、人間でありながら人外の域に達した者。
 友達程度の相手であったとしても、命を狙われたのならば―――恐らく北斗とやりあう覚悟さえあるだろう。そして、それだけの力もある。
 
 冥としては私闘という形で殺音には恭也と戦ってもらいたいのだが、恭也の知り合いがターゲットでは流石にそういうわけにもいかないだろう。
 それならばできるだけ万全の状態で戦いを挑まなければならず、殺音抜きで恭也と敵対すれば下手をしたら北斗壊滅という憂き目にあうかもしれない。というか、壊滅するだろう。
 石橋をたたいて渡る思いで今まで行動してきたというのに依頼主が下手に動いてこじれたら目も当てられない。
   
「あーもう!!久々の依頼だってのに頭痛いよぉ……」

 半泣きになりながら冥が床に座り込む。
 だというのに、貪狼を除いた四人はそんな冥の様子も気にならないようで、今度はババ抜きをやり始めた。
 正直四人の内心としては、あの殺音と互角に渡り合える恭也と敵対したくないので、殺音が帰ってくるまでここから動かないことを決めていたのだが。
 微妙な空気が部屋を満たす中、珍しく空気を読んだのかドアがガチャリと音を立てて開いた。 

「やっほー。いやーごめんごめん。帰ってくるの遅くなっちゃったわー」

 全く反省していない殺音が部屋に入ってきた途端、一瞬で部屋の空気が変化する。
 全員が安堵したような表情で殺音を注目したので、反射的に殺音は一歩後退した。

「え、なになに?なんかあった?」
「あーやーねー!!」

 うわーんと泣きながら殺音に抱き着いた冥をどうすればいいのかわからず、なすがままになる殺音。
 だけど涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった服がちょっとだけ気持ち悪いなーと思い、雰囲気もなにもなく、あっさりと引きはがした。
 
 殺音の帰還により、ようやく北斗は動き出す。
 狙いは―――月村忍。
 様々な思惑が絡み合い、新たなる戦いの幕が開く。

























 西欧のある国の辺境。
 舗装された道路が真っ直ぐと続き、木々が鬱蒼と茂った森の中。人工的な匂いを醸し出す森で、生えているのは杉の木ばかりだ。
 もうすぐ夜明けだというのに、陽の光を通さぬ杉の枝葉で覆われ、ここら一帯が蓋をされたように暗い。
 そこを突き抜けている道路を一台の車が走っていた。黒塗りのベンツ。見るからに高級そうな車体だ。
 三十分ほどは走っただろうか、ようやく車は広い空き地に出た。
 五十メートル四方の更地で、木々は伐採され車を止めるための駐車場となっているようだ。

 ベンツはその駐車場に停まり、ドアが開き三人の少女が降りてくる。
 一人は青―――というより澄んだ水色のような髪の少女。目がクリッとした、活発そうな笑顔が印象的だった。
 一人は赤―――よりもどちらかといえばピンクに近い髪を短く揃え、感情を見せない冷たい表情が、水色髪の少女とは対照的だった。
 一人は茶―――染めたような色ではない自然な茶色の髪。後ろ髪だけが長く、それをリボンで結っている。
 共通することは全員がスーツを着ていることと―――三人が三人とも超をつけても可笑しくはない美少女揃いということだ。

「いやー懐かしいね、わが故郷。私は一年ぶりなんだけど。あんた達はちょくちょく帰ってきてるの、ズィーベン。ツェーン?」
「私は半年ぶりだな。南米で暴れていたLXXX(80)を討伐するのに時間がかかってしまった」
「ん―――あたしもズィーベンと一緒に行動してたから同じくらい」
「おっと。すごいねぇ、大金星じゃない。二人がかりとはいえアンチナンバーズのLXXX(80)ぶったおしたの?」
「なんとか、だが。LXXX(80)にあれだけ苦戦しては伝承級なんて夢のまた夢」
「……伝承級はまた別格だと思うけど、ね……。ゼクスは一年も何をしていたの?」

 ズィーベンとと呼ばれたピンク髪の少女は相変わらず無表情ながら己の未熟さを恥じるように答えた。
 ツェーンという名の茶髪の少女もどうやらズィーベンと一緒に行動をしていたらしい。ゼクスと呼ばれた水色髪の少女は視線を空へと向け、んーと口を尖らせる。答えるべきか悩んでいるようだ。
 もしかしたら機密に関係することなのだろうか、と他の二人が訝しむが、ゼクスは小声で、まぁいいかと呟いた。

「魔導王が封印されて、残されたアンチナンバーズで最悪なのって誰だと思う?あ、アンチナンバーⅡはのぞいてねん」
「……百鬼夜行?」  
「普通に考えたら百鬼夜行……かな?」
「そそ。だから百鬼夜行の居場所を探す役目を押し付けられちゃってさー。ここ一年ストーカー続けてたの」
「……帰ってきたということは帰還命令だけということはないよね?休眠期間にでもはいったの、あの化け物」
「流石ツェーン、鋭いねぇ。ちょっと前に入ったからこれで当分は寝っぱなしになるよ。私も御役ごめんってわけ」
 
 アンチナンバーズのⅦ【百鬼夜行】。
 一桁台の人外の者達は例外なく名が知られているが、その中でも最悪の化け物と考えられているのが封印されたナンバーⅣ魔導王。その理由としては矢張り只の一般人を数万人もの人間を虐殺しつくしたということが大きい。
 それに次ぐ者が百鬼夜行だ。戦いに狂った狂戦士。強き者の匂いをかぎわけ、戦いを挑み続ける戦神。
 一般人には手を出さないのだが―――強き者ならば人間、化け物問わず無差別に手をかけるため現在存在する伝承級の化け物達で最も注視されている人外である。
 ただし、この化け物にも唯一弱点というものがあり、数年に一度半年から二年という幅があるものの休眠期間にはいる。外部から余計な手をださないかぎりは、その間確実に休眠するのが救いだと言われていた。

 心底疲れた雰囲気を醸し出すゼクスは自分の肩に手を置き、揉み解す。
 ゼクスの能力ならば死ぬ危険がほとんどないとはいえ、百鬼夜行を一年に渡って監視していたのは相当に神経をすり減らしたのだろう。雰囲気は疲れているとはいえ表情には朗らかな笑顔をみせていた。
 
 三人はそこで一旦会話を止めると駐車場から移動を開始し、そこから整理された歩道のような道を歩き続ける。
 その道も長く、数分も歩いただろうか、前方の木々の間から、天を穿つようにそびえる円塔が見えた。
 塔の頂上には、夜明けの光を浴びて輝く剣と盾が交差した紋章のシンボルがかざされてある。
 
 巨大な円塔の前後左右には、百メートル以上はある円塔に相応しい大きさの十階建て建物が石壁で繋がっていた。
 建物には縦横一列に綺麗な四角形の窓が並び、夜明け前だというのにその窓の幾つかから電気の明かりが外へと漏れ出している。
 三人が向かったのは円塔の前方の建物の一階。その一階の丁度中心には巨大な鉄製の両開きの扉が侵入を拒絶するように厳かに存在した。
 
 ゼクスはポケットからカードを取り出すとその扉の隅っこにある溝へとカードをはめて上から下へと走らせる。
 ピッという機械音が鳴り、扉は自動的に開錠され開け放たれた。鍵の差込口まであるというのに何故かカード認証で開くというわけが分からない仕組みになっている。
 一昔前、このナンバーズのトップになったある男性が勝手にこんな近代的な仕組みにかえたという噂を聞いているがそれの真偽は定かではない。
 建物の中は久しぶりに見たゼクスにとって懐かしい光景であり、相変わらず綺麗に清掃されていて好ましく思えたが、自分も掃除にかりだされたことがあるのをふと思い出す。
 扉が自動的に閉まり、そのまま建物の中を歩き目的地に向かう。
 時間が朝早いが、働き者が多い組織なのか途中何人もの組織のメンバーとすれ違う。
 彼らは皆、三人を見ると慌てたように頭を下げて足早にその場から立ち去った。まるで三人を恐れているかのような様子だったが、それを当の本人たちは全く気にしていなかった。
 そんな対応はもう昔から慣れてしまったことなのだから。
 
 何故ならば三人はナンバーズの数字持ち。
 ナンバーⅥ―――【監視者】ゼクス。
 ナンバーⅦ―――【切り裂く者】ズィーベン。
 ナンバーⅩ―――【狙撃者】ツェーン。
 
 年若いといえ他を隔絶する超能力を所有し、HGS能力者として、夜の一族を殲滅することができる数少ないナンバーズの切り札。
 単騎でアンチナンバーズの二桁台と渡り合える人にして人外と称されるものたち。同じ組織の同胞からも恐れられる少女達。
 本来ナンバーズとは人間の力でもある、数と武器を最大限にまで有効活用してアンチナンバーズと戦ってきた。その中でも優れた者を一から十二までの数字持ちとして指定してきたのだが―――今代の数字持ちはナンバーズの常識を覆した。
 これまでは数字持ちといえどアンチナンバーズの三桁を相手取るのにも複数人でかからねばならなかったのだ。ましてや二桁台など壊滅的な被害を覚悟してようやく、といった状況だったのだ。
 だというのに現在の数字持ちは差があるとはいえ二桁台とも単騎でわたりあえる。それがどれだけ異常なことなのか、ナンバーズに属しているものならば理解できた。
 故にナンバーズのほぼ全てのメンバーが数字持ちの力は認めていても、恐れていた。人間として見られないほどに―――恐怖されていたのだ。

「あら、随分と早い到着ね。三人とも元気にしていた?」
「あ、ツヴァイ姉。やっほー久しぶり」
  
 円塔へと繋がる渡り廊下。
 その途中で一人の女性が外を見ながら缶コーヒーを飲んでいたが、三人に気づき親しげな挨拶を交わす。
 ゼクスにツヴァイと呼ばれた女性は、三人に比べて頭一つ高く、可愛らしいというよりは美人。美人というよりは妖艶という言葉が似合う雰囲気だ。金の髪が窓から差し込む朝日を反射する。
 
「まだ予定には一時間くらいはあるんだけど―――アインはもう部屋にいたはずよ」
「ん。了解」
 
 ツヴァイの答えにツェーンは頷き、渡り廊下を先へと向かう。
 ゼクスとズィーベンもそれに続き、ツヴァイも缶コーヒーを備え付けてあったゴミ箱に捨てると、三人に倣ったように先程言葉にあげたアインの仕事部屋へと歩みを進めた。
 円塔の螺旋階段を数階分を昇る。そこはナンバーズでも限られた人間しか訪問できないエリアであり、組織の上位者が居る一画だ。
 その部屋の一つ。そこに一人の女性が居た。その部屋は様々な書類に埋もれた机が印象的であり、女性は一枚の書類を凝視している。

「―――日本の海鳴にて、水無月姉妹確認ですか」

 先ほど届けられた書類に目を通した女性は頭痛を堪えきれないといった様子で椅子に深くもたれかかりため息を吐いた。
 年のころは二十半ば。薄紫の長い髪。白衣を着こなし、氷のような瞳。西洋人形のような、容姿。
 事実上ナンバーズの数字持ちを統括し、運営を一手に担っているナンバーズのⅠ―――アイン。それが女性の名前だった。
 個人的な戦闘能力はそれほどでもなく、ナンバーズ最強であるドライに大きく劣るというが彼女の力がなければナンバーズを運営するのは不可能だとも噂されている。
 
「……さらには旧【猫神】……死亡」

 ハァと意識していないため息を再度ついた。
 これはアインにとって痛い。いや、痛いなんて問題で済む話ではなかった。
 アンチナンバーズの一桁台は基本的に人間を敵視している。していない者もいるが、碌でもない性格なのは当然。現在で一番まともなのがアンチナンバーⅢの執行者くらいだろう。
 人間に味方するというわけではないが、あまりにも人の世界に手をだしてくる夜の一族を断罪するという役目を担っているという。過去ナンバーズが敗北を喫した魔導王を魔女とともに封印するという行為までやってのけた。
 変な連中が多い中、猫神だけはナンバーズに味方することが過去多くあったのだ。日本で活動する際、様々な援助をしてくれた。勿論敵であるアンチナンバーズの力を借りることを良い顔をしない者もいたが、使えるものは何でも使うのがアインの手法。
 ここ十年は老いのせいで力が衰えていたとはいえ、その手助けが得られなくなったことは大きすぎる痛手だ。

 その時、コンコンと扉を叩く音が室内に響く。数字持ちだけに伝わる特殊な扉の叩き方と回数。
 ノックの後に部屋に入ってきたのはツヴァイにゼクス。ズィーベンとツェーン。

「ただいま戻ったよーアイン姉」

 四人を代表してゼクスがニカッと笑顔を向けて挨拶をする。
 とても上司にする帰還の報告とは思えないが、アインは大して気にもしていない様子で四人を出迎えた。

「……あれ。アイン姉もしかして疲れてる?」

 ツェーンが目ざとくアインの様子に気づく。
 一目で気づかれたアインはツェーンの鋭さに内心で驚き、舌を巻く。
 他人に興味がなさそうなツェーンだが、数字持ちのなかでも一番変化に気づきやすい。第六感が優れているといっても良い。

「そうでもないから大丈夫よ。それと貴方達に向かって欲しいところがあるの」
「命令とあらば」
「……できるだけ楽な仕事ならいいけど」   
「―――ゼクス」

 アインに力強く頷いたズィーベンとは対照的にぼそりと嫌そうに呟いたゼクスの脇腹に他の人には見られないように肘を入れるツェーン。 
 思ったより強く入れてしまったのかゲフッと奇妙な声をあげて痛む脇腹を押さえるゼクスだったが、それに皆気づいていたが気づかない振りをして流される。
 こんなことは日常茶飯事だからだ。一々突っ込んでいたら時間が幾らあっても足りない。

「……場所は日本の海鳴という都市。目的は監視でいいわ、今の所。監視する対象は―――水無月殺音。現【猫神】」
「「「……」」」

 沈黙が流れる。
 ゼクスもズィーベンもツェーンもその内容をすぐには理解できないようで、返事を返すことができない。
 任務に忠実なズィーベンでさえ、アインの返事に窮している。
 ツヴァイだけは前もって聞いていたのだろう。特に驚くでもなく、固まっている三人を面白げに見ていた。

「別に戦えといっているわけではないわ。水無月―――いえ、猫神は危険な相手ではあるけれど……まだ一桁台では話が通じる相手だから。すでに現地にはフィーア、フュンフ、エルフが居るから彼女達に合流しなさい。詳細はおって伝えるわ」

 有無をいわさない強さをこめた命令に三人は力なく頷くと、用件は終わりと告げたアインに背をむけノロノロと部屋を出て行った。
 相当にショックを受けた命令だったのだろう。特にゼクスは一年も百鬼夜行を監視していた次の任務がこれだ。
 何時も明るいゼクスが一生分の不幸を背負ったような影をはりつかせる様は、流石のアインも心がすこしだけ傷んだ。あくまでも少しだけだが。
 部屋に残されたのはアインとツヴァイの二人。
 書類に埋め尽くされた机の僅かにあいた箇所に両肘をたてて指を組む。それに額をあてて、今日何度かになるため息をついた。
 
「日本に数字持ちを六人―――私も含めると七人かしら。そんなに向かわせて大丈夫なの?」
「……最近は早急に対処しないといけないアンチナンバーズはそれほど多く報告にあがっていないわ。そちらにはドライやアハト、ノインにツヴェルフを向かわせるから」
「それなら別にいいんだけど。それと猫神と戦うことも視野にいれてる?そうじゃなかったらこれだけの数字持ちを向かわせるとは考えにくいけど」
「……それは最悪の選択肢と考えて貰ってもいいわ。ドライも今は別のアンチナンバーズを追っている最中で自由も利かない状況だもの。敵対するのは今は考えてないわ」
「ふーん。じゃ、狙われたら逃げてもいいのね」

 ツヴァイは内ポケットから折りたたまれた書類を取り出すと開いて目を通す。
 一度見た書類ではあるが確認も含めて自分に与えられた任務を口に出す。

「……キョウヤ・タカマチ。その人物の監視が私の任務みたいだけど……誰、この男。結構いい男じゃない?」

 聞いたことが無い名前に首を捻るしかない。
 ツヴァイとてこちらの世界に足を踏み入れて長い。すでに十年以上は第一線で働いているといっても良い。
 孤児だったアインとツヴァイ、ドライの三人はほぼ同時期にナンバーズに入隊。
 それから供にナンバーズでのし上がって来たわけだが、その十年を越える年月でこの名前を聞いたことなど一度も無い。
 何度思い直しても心当たりの一つも思い浮かばない。

「フュンフの報告によると……化け物、らしいわ」
「夜の一族ってこと?」
「いいえ。間違いなく人間らしいけど。向かい合った瞬間確信したそうよ―――自分では勝ち目がないって」
「……冗談でしょう?」
「フュンフが冗談を報告すると思う?」

 一滴の汗がツヴァイの頬を滴り落ちる。
 数字持ち以外にも数多くの強者が居る組織ナンバーズ。
 その中でも最強は誰かと問われれば、ほぼ全ての人間がナンバーⅢことドライをあげるだろう。残りの人間は大小の差はあれど、フュンフを推す者が過半数だ。
 ドライには及ばぬもののナンバーズ最強の一角とされる戦闘特化型HGSフュンフをして勝ち目がないという評価をあげるなど信じられない。
 しかも、勝ち目が薄いのではない。勝ち目がないという報告がさらに驚きに拍車をかける。

「……今はまだ監視で十分よ。だから貴女の任務にしたのだから」
「まぁ、そこらは考えて動くわ」

 ツヴァイは書類を四つ折に戻すとポケットに入れなおす。
 部屋から出ようと歩きさるツヴァイは後ろ手でアインに手を振ってそのまま扉から出て行った。
 一人残ったアインは、本日四度目になる深いため息をつき―――。

「何故急に伝承級が動き出すのか……何かが、始まっている?」

 アインの空虚な呟きが静かな部屋に予想以上に大きく響き渡った。
   
 
 
 









 
 
 
 
 
 
 
 
  









 日本の裏世界で永全不動八門という武闘派集団が古くから存在した。
 その中で最も有名なのが御神の一族だろう。日本最強の殺戮一族として恐れられていた。
 だが御神の一族に比肩する存在もあったのだ。それが永全不動八門の一―――天守の一族。御神と並び立つと称されるだけあって、天守家には才ある者が多かった。
  
 そんな天守家の中に一人の少女がうまれた。
 天守翔。才に溢れ、天守家でもとびぬけた天才として褒め称えられていた。天守の次期当主として恥ずかしくない剣才を見せつけ、天守歴代最強の剣士として名を馳せただろう―――【姉】さえいなければ。

 宛転蛾眉。才色兼備。
 居るだけで男を魅了するような二個上の美しさの姉であった。
 もっとも美しいだけではない。彼女には圧倒的な才があった。絶対的な才があった。他を隔絶した才があった。
 凡人を一とするならば、千。否、万ともいえる文字通り次元が違う天才。

 その才故にだろう。彼女は他人に一切の興味を持たなかった。いや、持てなかった。
 獅子が蟻を認識しないように、彼女は自分と対等になりえぬ者に興味を示すことは無かった―――三年前までは。

 史上最悪の永全不動八門会談。
 そう呼ばれた三年前の事件を境に、彼女は変わった。
 今までの彼女は一体なんだったのだろうか。そう周囲に思われるほどの変化が起きたのだ。
 
 その名を―――。











 






 天守家長女―――天守翼といった。
 

















 海鳴の商店街からやや離れた場所にある、ありふれた喫茶店。オープンテラスになっていて、幾つかのテーブルが外に出ている。
 そのテーブルの一つに腰掛けていた少女がいた。いや、女性だろうか。どちらで表現するか難しい容姿と年頃であった。
 レストランの前の道路を歩く通行人の男女問わず、ほぼ全ての人間が呆けたように一旦は足を止め、魅了されたように少女を見つめ、暫く経ってようやく我を取り戻すように歩き去っていく。
 通行人がそうなってしまうのも無理はなかっただろう。
 風にたなびく漆黒の長髪。透き通るほどに白い肌。服の合間から見えるたおやかな腕。澄み切った黒い瞳で、物憂げそうにため息をつく。整いすぎた風貌に浮かぶ能面のような無表情さが、少女の美しさを更に際立たせる。
 しなやかな指が時間を確認するように携帯電話の時間ををなぞった。
 
 表示されている時間は十七時五分。約束した時間は十八時三十分。
 約束の時間までまだ一時間三十分近くもあるというのに待ち合わせ場所に何故自分はもう来てしまったのだろうかと自嘲気味に唇を歪ませる。
 そんなことは考えなくても分かりきったことだ。
 単純に待ち合わせ時間に我慢が出来なかっただけなのだから。

「……ふぅ」

 待ちあわせ場所に来たからといって時間が早く過ぎるわけでもなく、残り一時間三十分が凄まじいほど長く感じた。
 注文していたコーヒーもすでに飲み干していたので、注文を追加しようと遠くで少女に見惚れていた店員に手をあげて合図をする。
 それにハッ気づいた店員が少女のもとへやってくる。それにコーヒーを追加で注文すると、店員は店のなかへと戻っていった。
 
「あっれー。翼ッチじゃない。どうしたん、こんな所で?」
「……水面」
 
 そんな時に声をかけていた身長の低い少女がいた。年齢だけでいうならば女性なのだが、あまりの身長の低さに少女としかこちらは形容できない。永全不動八門が一。鬼頭水面だ。
 面倒くさい知り合いに見つかってしまったと内心思いながら翼と呼ばれた少女は―――。

「……人違いよ。とっとと帰りなさい」
「いやいや!?今おもいっきり私の名前呼んだよね!?」
「気のせいよ」

 ばっさりと斬って捨てる翼に水面は―――呆れた視線を向け、許可を取る前に椅子を引いて座る。
 明らかに邪魔者を見る目でみてくる翼だったが、居座る気満々な水面に何を言っても無駄だと判断したのだろうか、それ以上言葉を発することなく店員に新たに持ってこられたコーヒーに口をつける。

「で、どーしたん?あんたが海鳴にきてるなんて私聞いてないんだけど」
「当たり前よ。言ってないもの」
「……さいですか」

 以前あったときに比べて随分と丸くなったとはいえ、矢張り人と線をひいている翼に水面はため息をつく。
 これでも本当に変わったのだ。三年前までは会話にすらならなかったのを思い出す。
 天守家がうみだした究極。永全不動八門最強の一角。天に愛された剣士。
 
「……ところで、翔の調子はどうかしら?」
「あー、まぁ、いいんじゃない?」

 適当に返事をした瞬間だった。
 予備動作も何も無く伸びた手が水面の顔面を鷲掴みにしていた。ギリギリと水面の頭蓋骨が悲鳴をある。冗談抜きで激痛が走った。  
  
「ぎゃーー、ギブギブ!?ちゃんと答えるから、ちょ、待って!?」
「……最初からそう答えなさい」

 必死に訴えかける水面に冷たく言い放つと、手を離す。
 両手で痛む頭をさする水面は、少しだけだが涙目になっている。

「あーもう、痛いってばさ。あんたの妹はねー、武の方は本音でいうけど問題ないんじゃないの。あの娘は強いよ。問題は精神の方だねーい」
「……そう」
「あんたが姉ってのが凄い重圧なんでだろーね。まぁ、気持ちはわからんでもないけど。ぶっちゃけ、あんた強すぎるし」

 水面が遠慮なく本音をぶつけてくる。
 翼にとって水面っは貴重なしりあいだ。誰も彼もが翼を恐れ、畏れ、怖れる。家族であってもそれは例外ではない。
 現在の天守宗家には三人の息子と二人の娘がいるが―――翼は兄弟からも恐怖の対象でしか見られていなかった。
 唯一の例外が翔、唯一人。越えるための壁として翼を見ていた。抱いていた感情が恐怖ではなく、憎しみであったとしても翼にとって翔は特別な妹であるのだ。

「で、話し変わるけど―――なんであんたがここにいるの?」
「……待ち合わせがあるのよ」
「待ち合わせ?ああ―――不破と逢引でもすんの?」
「―――ッ!?」

 水面の台詞を聞いた瞬間、白い肌が一瞬で真っ赤に染まる。カァと湯気がでそうな勢いだ。
 能面のような無表情も崩れ、視線があちらこちらへ移動し、安定しない。

「な、な、なんのことかしら?」
「動揺しすぎだしさ。だってあんたがここに来る理由なんてそんくらいしか思いつかないし?」
「か、翔に、会いに来た、のよ」

 動揺しまくりの翼の言い訳を全く信用してない水面だったが、会話の途中でニヤリとチャシャ猫のような笑みを浮かべた。

「ふーん。まーそういうことにしといてあげる。じゃ、不破とはここで約束してないのね?」
「も、もちろん、よ。私がそんな、不破恭也と、会うみたいなことするわけ、ないじゃない」
「あ、そう。翼ッチはこんなこと言ってるけどどうなんさ、不破?」

 顔だけ後方へと振り返ってそう告げる水面。決して翼に向かっていった台詞じゃないのは分かりきっていた。
 では、誰にいったのかと視線を水面と同じ方向に向けた翼は―――ピキリと音をたてて固まる。
 視線の先には、やや困った様子の恭也がいたからだ。
 時間までまだまだあるというのに何故恭也がここにいるのか。何故このタイミングで現れるのかといった疑問が頭の中をグルグルとまわる。

「いやー奇遇奇遇。不破恭也さん、おひさし。昨日ぶり!!」
「……あっと……君は?」
「おっと失礼。そういえば自己紹介まではしてなかったですねぃ。私は鬼頭水面。一応は鬼頭宗家の者さ」
「それは御丁寧に。自分は不破恭也と申します」

 互いに礼をしつつ自己紹介を完了させる。
 水面の微妙なペースに、恭也は自分の苦手な相手だという予感を感じ取る。こういった相手は非常にやりづらい。
 ちらりとまだ真っ赤になって固まっている翼を横目でちらりと見た水面が自然な動きで恭也に歩み寄り腕を組む。
 敵意は全く無いので恭也は水面に注意を払うことなく、とりあえずなすがままにしておくが、水面の動きに感嘆の声が漏れる。それほどに水面の体捌きは美しかった。

「ここであったも何かの縁。私とお食事でもどうですか?」
「……いや、お誘いは嬉しいのだが。今日は翼と―――」

 ファーストネームまで呼び合う仲なのかと、水面が僅かに驚きピクリと眉を動かすが、首を振る。

「いえいえ。どうやら翼ッチは約束してないと言っているみたいなんですけ―――」
「だ、黙りなさい!!水面!!今日は私と恭也のデートなんだから!!」

 我を取り戻した翼が水面に余計なことを喋らせるものか、と叫ぶように話しに割って入る。
 そして、すぐさま自分がなにを口走ったのか―――理解して今まで以上に顔を赤くする。もはや蛸も吃驚なほどだ。
 翼の叫びに水面は、ぷるぷると顔を震わせていたが、結局我慢できなかったようで吹き出し、爆笑し始める。

「あ、あの天守、翼が、うははははーーー!!なにいってんのさーー!!」

 両膝を付き、爆笑する水面に対して翼も同じように全身を震わせていたが―――。
 ドンッと激しい音をたててテーブルに両手と顔をつけて、突っ伏す。表情は見えないが、耳まで真っ赤なのははっきりと水面と恭也には見えていた。

「な、なに?テーブルに突っ伏すって……あの剣聖、天守翼がなにやってんのさーーうははは!!」

 ついに腹を押さえながら地面を転がりまわる水面。
 それに比例するようにテーブルに突っ伏している翼が恥ずかしさのあまり、水面の声をきかないように耳を押さえた。
 結局、翼が通常状態まで回復するのに一時間近くの時間を有することになったとかなかったとか。


























 血も涙も無い剣士。剣聖。同族殺し。天守史上最強の剣士。永全不動八門最強の一角。神殺しを可能とする者。
 そんな数多の字を持つ天守翼は―――現在高町恭也に恋するただの少女にしか過ぎなかった。


  
 
































------atogaki---------


新年明けましておめでとうございます。今年も御神と不破を宜しくお願いします。
皆さんの感想。読んでいただけてる人のおかげで今年も頑張って続きをかいていけたらなーと思います。
間章なので短いですが、また次も宜しくお願いします



[30788] 間章2
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/01/09 13:27

















 これは少しだけ時が巻き戻った夜の出来事。
 山田太郎が高町美由希と高町恭也に敗北を喫した後の話。
 恭也は太郎を肩に担いである場所に向かっていた。本来ならば電車で行った方が早かったのだが、流石に人を担いでいる光景を見られたくなかったということもあり、徒歩で目的地を目指す。
 幸い駅二つ分程度なので恭也ならばそれほど時間もかからない。
 だが晩御飯にはどう考えても間に合わないので結局、高町家に電話をかけ、先に食べてるように頼むことになったのだが。
 
 その途中、普段の鍛錬場所である八束神社へと登る為の階段に差し掛かったところで夜の闇にまぎれているが、階段に座り込んでいる人影があるのを恭也は見つけた。
 目を凝らすことなく、すぐさまそれが誰なのか恭也は気づく。
 服装はすでにぼろぼろになったジャージの上下。髪もまったく手入れをされておらず伸び放題。歳は五十過ぎから六十。白髪混じりの髪と無精髭が目立つ初老の男性。

「お久しぶりです。名無しさん」
「ん?おお、高町の坊主じゃねーか。どうしたこんな時間に?」
「ええ、ちょっと明心館に用がありまして」

 名無しと呼ばれた老人は無精髭をさすりながら立ち上がった。
 恭也がこの老人と出会ったのはおおよそ四年前くらいになるだろう。この老人が八束神社の裏手で寝ていた時にたまたま出会い、それからの顔見知りとなった。
 はっきりいってしまえば老人が名乗る名無しというのは明らかに偽名なのだろうが、そこは触れてはいない。触れられたくない過去もあるだろうと踏んだからだ。 
 見かけはどう見ても浮浪者なのだが―――実際ただの浮浪者である。
 夜には人気がなくなる八束神社を寝床にすることも多いが、他にも海鳴の隅っこにある廃ビル地帯や海鳴臨海公園なども寝床とすることもあるという。
 
「坊主……肩に背負ってるそれはなんだ?」
「ええっと……まぁ、深い理由が……」

 肩に背負っている山田太郎を訝しげに見て、質問を投げかける名無し老人。
 正直に答えるわけにもいかず、返す言葉を濁す。
 そんな恭也の様子にハハァンと何かに気づいたような名無しは、口元に厭らしい笑みを浮かべた。

「お前も人が良さそうに見えて中々あくどいな……身代金目当てか?」
「……違います」
「なに?それじゃあ、体目当てか?」
「……もっと違います」
「ってことは―――どっかに埋めるのか?」
「違うっていってるでしょうが、糞爺」

 しつこい名無しに冷静に返事をする恭也。何気に最後にちょっとした悪意を込めた返事になっていたりしたが。
 それに対して全く気にした様子も見せず、名無しはじろじろと遠慮無く太郎の全身を嘗め回すように見る。

「なかなか良い身体してるじゃねーか」
「……」

 うわぁ、と珍しく恭也が本当に嫌そうな表情で名無しから距離を取る。
 しかし、名無しは嘗め回すような視線をやめようとしない。むしろ、最悪なことに視線を太郎から恭也に移してくる。

「そいつは大した腕前の小僧だな。なかなかできる。なんなら俺が預かってやってもいいぞ?」
「遠慮します」

 一秒で名無しの提案を切って捨てた恭也がスタスタと名無しを置いて歩き始めた。幾ら山田太郎とはいえ、このまま名無しに引き渡してしまうのは気が引ける。
 まさか断られると思っていなかったのか、名無しは滑り込むように歩き去ろうとする恭也の足にすがりつく。
 意外としっかりとしたタックルだったのか恭也は歩みを止めざるを得なかった。

「まぁ、待て。俺はこう見えても一昔前は、不敗の化身。無敗の帝王等と世界中の猛者に怖れられていたんだぞ!?その俺がそいつを預かってやろうと言っているんだ!!」
「その話はすでに十五回も聞いていますが……。その不敗の化身が何故にこのようなところでそんな生活を?」
「こ、これは世を忍ぶ仮の姿だ!!い、今はこの海鳴を守護している最中なんだぞ!?」
「この海鳴にそんな守護はいらないと思います。多分この地は世界で一番人外魔境ですしね。下手な守護者では長生きさえもできませんよ」

 足にしがみついていた名無しが、先を急ごうとする恭也の腰に絡み付いてくる。
 性質が悪いことにがっしりと掴んでいるため、そう易々と振り切ることが出来ない。
 
「離してくれると助かるんですが?先程も言いましたが明心館にいかないとならないので」
「お、おれを置いていくのか!?」
「ええ。置いていきます」
「俺とのことは遊びだったのね!?」
「ええ。遊びでした」

 渾身のボケを放ったつもりだったのだろうが、そんな名無しに対して突っ込みもせず掴まれている手を腰からあっさりと外す。
 急に手を外されてバランスを崩した名無しはゴロンと道に転がった。その際に少し身体を打ったのか、道端に倒れたまま立ち上がろうとしない。
 流石に老体に対して可哀相な事をしたかと恭也は、倒れた名無しに手を差し伸べるが、名無しは顔を見上げ―――。

「俺を倒しても……第二第三の俺が必ずお前を倒す……」
「何ゲームのボスみたいな発言をしてるんですか」
「いや、なんとなく」

 一人で芝居するのが急に恥ずかしくなったのだろうか、名無しは頬を染めて恭也の手を借りることなく立ち上がった。
 神社の階段の下で、男を肩に担いだ青年と頬を染めた老人。なんとも微妙な光景が出来上がっている。
 恭也とて男。爺に頬を染められるよりは異性に染めてもらった方が好ましい。

「それで結局何か用なんですか?」

 このまま下手に足止めをくらうより、名無しの用事を済ませてからここを離れたほうが早いのじゃないか、と考えた恭也が問い掛けた。
 さっきからこれほどしつこく食い下がるのだから自分に用事があるからに違いないと踏んだ故の質問だったのだが、名無しはあっさりと首を横にふった。

「いや、用事なんか全くないぞ?」
「……」

 なんだろう。凄く疲れた。
 そう心の底から思った恭也が名無しに今度こそ背を向ける。
 この老人は何時もこうなのだ。意味があるのかないのか、他の人間とは碌に話もしない癖に、恭也にだけは無駄に絡んでくる。
 
「最近駅前のロータリーで一暴れしなかったか、坊主?」
「……!?」

 思いもしなかった名無しの台詞に恭也の足が止まった。
 一瞬とはいえ動揺を隠せずにいた恭也を一目見て確信したのだろう。名無しはやれやれと呟きながら階段に腰をおろす。
 ぼろぼろのジャージのポケットから煙草を取り出すと、同じく取り出したマッチで火をつけて吸う。浮浪者なのに何気に嗜好品を手に入れていることが多く、恭也とてそれが不思議でならない。

「俺の情報網をなめるなよ……この海鳴で俺にわからないことはねぇ。横の繋がりってのは重要なんだぜ」
「……横の繋がりですか。誰に教えてもらったんですか?」
「実は俺がその時偶々その現場に出くわしただけだ」

 情報網はどこに言った!?と反射的に突っ込もうとした恭也だったが、喉まででかかったそれをなんとか押さえる。この男はそう突っ込んで欲しくてたまらないはずだ。だからこそ、敢えて我慢する恭也。
 横の繋がりもなにも、名無しが恭也と殺音の相対する現場を見かけただけという単純な理由だというのに、意味深そうに語ってくる名無し。

「正直、ちびりそうになったぜ。坊主が、あの水無月殺音とガチでやりあおうとしてたんだからな」 
「……」

 そして、名無しの発言は今度こそ本当に恭也を驚愕させた。
 恭也と殺音の殺気が乱れ飛び、支配したあの空間で二人の姿を確認し、なおかつ水無月殺音の名前を知っている。
 まさか、ただの浮浪者である名無しがそれほどの胆力と知識を持っているとは思ってもいなかった。

「言っただろ、坊主。俺も昔は第三世界でそれなりに動いていたってな」
「確か不敗の化身とよばれていたんでしたか?」
「……正直すまんかった。それは忘れてくれ」

 自分が名乗った二つ名だというのに良く考えたら恥ずかしかったのだろうか。
 恥も外聞もなく、恭也に向かって土下座をする。しかも、ガンガンと頭を地面に叩きつけて激しく謝罪をしてくる様は、少し怖かった。

「ところで何故水無月殺音のことを知っているんですか?」
「……裏の世界に少しでも足を踏み入れたらアイツのことを知らない方がモグリだぞ。アンチナンバーズのⅧ【猫神】。人間が、いや……人外含めてアレに勝てる奴なんざ探すほうが難しい」 
「まさか本当に名無しさんは【そちら】の世界で活動していたのですか?」

 今まで名無しから多くのことを聞かされていたが実は恭也はあまり信じてはいなかった。
 曰く、これまでの生涯で敗北を知らず。曰く、これまでの生涯で勝利しか知らず。曰く、伝承級にさえも匹敵した。
 水無月殺音のことを知っていたが故に、伝承級の強さを身に刻んでいた恭也に、その話はあまりにも胡散臭過ぎる。
 確かに第三世界のことはそれなりに精通しているようだが、あくまでもそれだけだ。恭也の目から見て正直な話、名無しの力量は―――。

「なぁ、坊主。伝承級の化け物にだけは関わるな。関わっていいことなんて一つもねぇ。俺がそのいい見本だ」
「見本、ですか?」

 普段の名無しとは異なる、真摯は瞳で恭也を見てくる。
 それは本当に恭也の身を案じている者の視線であった。名無しは土下座を止めると、再度階段へと座り込む。

「……俺はな、今はこうだが昔はそれなりに名前が通っていたってのは本当だ。自負があった。誇りがあった。強さもあった。負け知らずだったってのもマジな話だ。でもな、それは所詮井の中の蛙だっただけだ」

 名無しは深い深い、虚ろな瞳で恭也を捉える。
 いや、その視線は恭也を見ているようで、実はその遥か後方を見ていた。まるで遠い過去を覗き込むように。

「馬鹿だったよ。天災のように人を殺し尽くしていた伝承級の化け物が許せなくてな、牙を剥いたんだ。だが、一緒に立ち向かった仲間は皆死んじまった。生き残ったのは俺ともう一人だけさ。でもな、まだその敗北からは立ち直ることができた……俺にはまだ支えてくれる家族がいたからな。だけど、もう一度とんでもない怪物に全てをぶっ壊されてしまった」

 名無しの放つ吐息には、ただ絶望しかなく―――。

「……俺は、親が居なかった。だから孤児院を経営していたんだ……少しでも俺みたい奴を減らしたくて。その孤児院に奴が現れた……百鬼夜行。偶々俺が狙われたんだよ、タイミングが悪いことに」

 その時のことを思い出すと、恐怖しか蘇ってこず―――。

「殺されちまった……俺のガキ達みんな。俺があまりにも弱かったせいだったんだろう……俺の本気を引き出すためにあいつは、俺の前でガキ達は腕をもがれ、足を引きちぎられ、頭を砕かれ、心臓を引き抜かれ―――あそこには絶望しかなかった。残ったのは命の無い肉塊と半死半生の俺だけさ」

 ガタガタと名無しの身体が音をたてて震えている。
 顔色も青く、今にも倒れそうな雰囲気で両手で身体を抱きしめた。

「情けない話だろう?皆殺されたっていうのに、俺は復讐をするでもなく、こんな格好で逃げ回っているんだ。怖いんだよ、あいつが……いや、戦うこと自体が」

 それは名無しの本心だったのだろう。
 もう関わりたくない。もう戦いたくない。それだけが心を埋め尽くす。
 その時に名無しは完全に心を折られてしまったのだ。

「……わかっただろう?伝承級の化け物にだけは関わるな。立ち向かうな。奴らは天災と一緒だ……息を止めてじっとしてるしかないんだ」

 恐れ、慄き、みっともなく名無しは震えていた。
 流れ出る恐怖の涙を押さえるように、両手で顔面を押さえつける。
 その両手の隙間からは、あふれ出た涙が手の甲を伝い、階段を濡らす。
 そんな名無しに、恭也は今度こそ背を向け歩き出した。足を止めることなく、その場から離れていく。

「―――覚えましたよ、百鬼夜行の名」
「……え?」

 恭也の独り言に、名無しが去っていく恭也の背中を呆然と見つめる。
 不思議とその背は静かな怒りを宿しているように思えた。名無しが持てなかった怒りを変わって背負っているように感じた。

「もし遇ったならば―――斬って見せましょう。貴方の無念を、怒りを、悲しみを刃に乗せて」
「ぅ……ぁ……」

 言葉にならなかった。
 恭也の台詞に、名無しの目から恐怖とは異なる涙が零れ落ちる。
 この数年ずっと逃げていた。卑怯者だと、臆病者だと罵られても仕方の無いことをしてきた。
 誰よりも可愛がっていた家族を皆殺しにされたというのに、恐怖に脅えて世界中を放浪してきた。その名無しを恭也は責めなかった。逆に名無しの弱さを受け止めてくれた。
 それが名無しには何よりも嬉しい。自分よりも十数倍も年下の青年に名無しは心の底から感謝していた。
 
 昔を思い出す。ここ海鳴に四年前に辿り着き―――恭也と出会った。その頃の恭也は確かに強かったが、それでもまだまだ未熟者だったのだ。
 初めて会ったときも全身ぼろぼろの姿で、刀を振るうことさえも苦労するほどの状態だったというのに、目だけは決して死んでいなかった。
 敗北の毎日。それでも恭也は諦めなかった。己の心に負けなかった。
 自分とは違う心の強さに、名無しは魅入られた。だからこそ、未だこの海鳴に名無しはいるのだ。
 
 見届けたい―――高町恭也の行く末を。
 見届けたい―――高町恭也の強さの果てを。
 見届けたい―――高町恭也の世界最強への道を。

 名無しは、涙を流しながら―――恭也の背中を見送っていた。




















 

 名無しとの出会いで随分と時間を消費してしまった恭也は、急ぐように歩くペースをあげる。
 すでに相手先には電話をしていたのだが、その約束の時間をこのままだと過ぎてしまう。待たせている相手が相手のため、冷や汗をかきつつ歩道を駆けた。
 幸い警察に呼び止められることなく無事に駅二つを超えた先にある、明心館の道場があるビル前へとたどり着くことができた。
 警察には呼び止められなかったが、途中何度も道端で歩行者とはすれ違い、奇異の視線を向けられてきたのには少しだけ気まずい思いをした。

 明心館の道場は、駅から少し離れているとはいえ、それでもやはり人の流れは多く、恭也は身を隠すようにビルに入り階段を上る。
 このビルで教えているのは明心館巻島流―――全盛期を過ぎたとはいえ実戦空手の雄、巻島十蔵が教える流派だ。
 なんでも若いころには人間では物足りなくなり、熊や虎と素手で戦ったという伝説も持つ六十近い空手家。
 年齢が離れているが父・士郎の古い友人のため、恭也や美由希も時々稽古をつけて貰うためこの道場には足を運ぶ―――ただし、その稽古は明心館の人間には見せることはないが。

 運がいいのかビルの階段をのぼるさいに、明心館の人間に見咎められることはなかった。
 幾人かは顔見知りなのだが、知らない人間のほうがずっと多いため、不審者扱いされかねない。特に今は太郎を担いでいることもある。
 ビルの四階に辿り着き、階段の傍にあったドアをノックする。

「おう。開いてるから勝手に入ってこい」
「失礼します」

 挨拶をして、扉を開けた恭也に一直線に迫りくる拳。
 その一撃は恐ろしいほどに鋭く、速く―――美由希をも上回る音速の正拳付き。恭也をして、目を奪われる完成された打撃。
 反応を敢えてしない恭也の鼻先の手前で拳はピタリと止まり、数秒間の沈黙がそこにうまれた。
 
 拳を放ってきたのは、一人の男性。
 ワックスで塗り固められた短く刈られている黒髪が照明をあてられ、ぴかぴかと光っている。
 年のころは外見だけならば四十代でも通る若々しさ。歪めている口元は、肉食獣のように獰猛だ。
 この男こそ―――明心館館長巻島十蔵。

「おせえぞ、恭也。もう帰っちまうところだったぜ」
「申し訳ありません。少し込み入った事情がありまして」
「ま、別にいいけどよ。とりあえず、座れよ」

 そういって巻島は部屋の中央の高級そうなソファーにどっしりと腰を下ろす。
 部屋の中にあるのは大きいテーブルを挟み込むように二つのソファーが置いてあり、その周囲には多くの賞状、トロフィーなどが並べてある。
 
「いえ。すぐにお暇するのでお気になさらずに」
「ん、そうか。それで、電話では詳しく聞いてないが何の用だ?」
「……そうですね。この少年を預かっていただきたいのですが」
「そのガキを、か?」

 恭也の肩に担がれた太郎を品定めをするように見る巻島だったが、考え込むように両腕を組む。
 流石に肩に担ぐのも疲れたのか、ソファーにゆっくりとおろし寝かせた。

「逸材、だと思いますが」
「……まぁ、そうだな。久々に面白い素材だとは思うがよ」

 その会話を最後に部屋に静寂が舞い降りた。
 部屋に響くのは時計が針を進める音のみで、二人とも次の言葉を待つように口を閉ざす。
 この部屋に他の人間が居たらプレッシャーに押しつぶされたに違いない。例え二人にその気が無かったのだとしても、この二人は十二分、人にして人を外れた怪物同士。二人の間で揺らめく空気は尋常ではない。
 
「……一つだけ聞かせろ、恭也。こいつはお前の―――敵と成り得るか?」
「はい。今はまだそれだけの力がなくとも、何時か必ず」

 一瞬の躊躇いもなく頷いた恭也に、巻島は決心がついたのかパァンと膝を手でたたいた。
 消していた獰猛な笑みを再度浮かばせ、楽しそうに恭也に笑いかける。

「いいだろう。この俺がこいつを―――お前の敵にまで育て上げてやる。お前に土をつけることになる相手を自分の情けで作り出すことになっても構わんのだな?」
「是非も無く」
「よし。ならば後はこの俺に任せておけ」

 恭也の二度目の頷きに、巻島は豪快に笑い返す。
 巻島から見た恭也は正直な話、完璧だ。完全だ。完成されていると評価しても過言ではない。
 この若さでこれだけの高みにいる剣士を―――人間を巻島とて知らない。若き頃の不破士郎でもこれほどではなかった。
 昔から恭也は強さに貪欲だったが、それは今でも変わってはいない。だからこそ敵を求めている。自分と渡り合える敵を。自分を怖れない敵を。
 何故こんな若い男がそれほどまでに強さを求めているのか……巻島は不思議でならなかったが、それについては問い詰めることはしなかった。

「有難うございます。それでは俺はこれで。ああ、もし渋ったら話してもいいですよ、昔話を」
「いいのか?まぁ、わかった。それと、今日は一本やっていかないのか?」
「……今日は遠慮しておきます」
「珍しいな……お前がやるきが起きないなんて」
「ええ。夕飯が遅れるのと―――少し高ぶっていまして」

 口元を歪めた恭也の口からでたのは底冷えする声だった。
 ぞくりと薄ら寒い空気を巻島は感じると、反射的に立ち上がり恭也に向かって拳を向けて構える。
 対して恭也は巻島に頭を下げ、それ以上言葉をかわすことなく、部屋から颯爽と姿を消した。
 恭也が部屋から去っていった後も巻島は構えを解くことはできず、一分以上たってようやく巻島は息を吐きつつ自然体へともどる。
 すでに恭也はビルからも出て行ったはずだというのに、部屋に満ちる空気は極寒の世界を思い起こさせた。
 
「ちっ。恭也の野郎ちょっと前に一戦やらかしたばかりかよ」

 巻島は残念そうに先程まで座っていたソファーに腰をおろした。
 その予想は間違っておらず、恭也はほんの一時間前に、永全不動八門の若者達と一戦交えたばかりであった。
 その中でも葛葉と紅葉の二人は恭也の心の琴線にふれるだけの覚悟と力を持っていたため、普段とは異なり気持ちがあらぶっていたのだろう。
 このまま戦いを始めたら下手に巻島の力量が高い故に、どうなるか分からない。そう判断した恭也は大人しく帰宅していったのだ。

「そんで、小僧……お前の名前はなんてんだ?」
「……っ」

 巻島の突然の問いかけは―――気絶している太郎に向けてであり、その問いにビクリと身体が反応する。
 隠し切れないと諦めたのか、太郎はゆっくりと身体を起こし、ソファーに座ったまま巻島とテーブルを中間に置き対面する。

「……何時から気づいて?」
「恭也がソファーに降ろしてすぐ目を覚ましただろう?ああ、あいつも気づいていたぞ」
「……」

 あっさりと言い当てられ、返す言葉も無い太郎だったが目を覚ました後、恭也が去っていく間際に放たれた気配に吐き気をもよおす。
 思い返すだけで寒気がする。これまで出会ってきた強者とは別次元の存在である高町美由希。そして高町恭也。
 己がどれだけ無謀なことをしたのか、過去にもどれるならば死ぬ気で止めていたことだろう。

「で、もう一度聞くが……名前は?」
「……山田、太郎」
「偽名ってわけじゃないよな?俺は巻島十蔵。名前くらいは聞いたことあるだろう?」
「……鬼の巻島」

 なんだ、知ってるのか。そんな巻島の呟きが聞こえた。
 巻島十蔵の名前を知らぬ者などそうはいまい。その名は有名どころの話ではない。
 戦い続ける達人。これまでの空手道において不敗を誇る空手家。虎殺し。熊殺し。様々な異名を持ち、人間離れした力量のため鬼とまで称えられた男。
 そんな噂を聞いていたが、太郎とて話半分に考えていた。噂とは勝手に大きくなっていくものだと思っていたからだ。
 だが、実際に向かい合ってみてようやくわかった。
 目の前の還暦近い男の計り知れない実力。自分では遥かに及ばぬ化け物がまた一人ここにいる。
 世界は太郎が考えているよりも遥かに―――広かった。

「ま、行くぞ」

 何を、と問う暇は無かった。
 座っていた体勢から上半身の力だけで跳ね上がり、太郎の顔面に拳を放つ。
 その動きには一切の無駄は無く、太郎は反応することができず―――拳が着弾する直前に拳を開き、掌で顔を掴むとソファーに頭を叩きつけられた。
 まだ柔らかなソファーだったから良かったものを、もし床や地面だったならば到底無事で済むはずもなかった。
 頭に軽い衝撃が伝わり、そこでようやく太郎は自分が巻島によって地面に叩き伏せられたことに気づく。
 反応さえ許すことなかった巻島は、太郎から手を離すと元の位置に戻ってため息をついた。

「こりゃ、随分と鍛えなおさないと駄目だな」
「……貴方に師事すると、僕は納得していませんが」
「お前が納得するしないはどうでもいいんだ。俺が納得してるしな」
「……」
「それともお前はこのまま負けっぱなしで終わっていいのか?敗北者のままの自分を受け入れられるのか?」

 巻島の問いに太郎は答えられない。
 これまでの人生で敗北を知らなかった山田太郎は、今夜だけで二度の敗北を知った。そして、目の前の巻島十蔵にも確実に勝てないだろう。
 それはとてつもなく悔しい。今までの驕りを捨て去り、更なる強さを求めたい。

 だが―――。

「……勝てるわけ、ないだろう……あんな、化け物に」

 結局、それだった。
 どれだけ努力しても自分は決してアレには及ばないだろう。
 どれだけ鍛錬を積んでも自分は決してアレに勝つことはできないだろう。
 どれだけ修練を修めても自分は決してアレに掠り傷一つつけることはできないだろう。

 山田太郎の心には明確な恐怖が刻まれていて、これまで敗北知らずの太郎はそれをのりきる術を持ってはいなかった。
 彼の心は、恭也や美由希ほどに鋼の意思を宿してはいないのだ。
 力ない暗い瞳で自分を嘲笑う太郎に、巻島は怒りはしなかった。憐憫も持たなかった。

「まー、なんだ。恭也とやりあったら今のお前みたいになっても仕方ないっちゃー仕方ない。子供用プールにデビューした子供を次は大海のど真ん中に放置するようなもんだろう」
「……」

 自分のことを子供扱いされた太郎だったが、否定をする気力もない。
 事実、自分と恭也の力の差を比べたらそれくらいはあるだろう。巻島の例えは決して間違ってはいない。

「だけどな、お前には才能がある。それもあの恭也が逸材、というほどのな。それは掛け値なしの本音のはずだぞ。そうじゃなかったら、態々俺のとこにつれてきたりはしない」

 巻島の推測は間違ってはいなかった。
 恭也は太郎の才能を高く買っている。美由希と恭也の二人に一蹴されはしたが、その実力は非常に高い。
 並みの者では、相手にもならないほどの力が太郎にはあるのだ。しかも、一切の強くなる努力をしていない。完全な才能のみでの力。

「……気軽に言ってくれる。あんたも、あの高町恭也も、この気持ちを、敗北を知らないから……そんな気軽に言えるんだ」

 太郎は納得できず、巻島に自分の感情を吐き捨てた。
 巻島も恭也も、強すぎる。圧倒的な強者。だからこそ、今の惨めな太郎の気持ちはわからない。最強だと信じていた自分が崩されて、これまでの自信が壊された。
 そんな自分の気持ちを―――理解できるはずもない。 

 太郎の吐露された本音をキョトンとした表情で聞いていた巻島は、右手の親指で額をかく。
 今の太郎に何を言っても無駄だろう。誰もがそう思ったかもしれない。しかし、巻島は額をかくのをやめ、両腕を組む。
 天井を見上げてトントンと床を足でリズムを取るように叩く。

「敗北を知らない、か。それは少し違うな。あいつの―――恭也の場合は」
「……な、に?」
「あいつの許可は得ているしな。まぁ、ちょっと昔話をしてやろう。剣に生きるある馬鹿の話だ―――」

 巻島は過去を思い出すように語る。
 グラリと心が揺れる。古い過去を……恭也から聞き、自分が実際に恭也とともに過ごした遠い過去。
 巻島は懐かしむように―――口を開いた。

  



    

  


 





  




 雪化粧をまとった名も知れぬ巨山が圧倒的な存在感で、恭也の視線の先に迫っていた。
 素晴らしい眺めで、思わず自分が樹海を横断しようとしていることを忘れてしまう。
 周囲の広葉樹は時期が時期だけに軒並み葉が抜け落ちている。恭也の背丈を遥かに越える木々だが、その隙間をぬって見えるのは透き通るようなスカイブルーの空。
 吐く息も白く、この季節だと夜になると寒さも洒落にならないことになる。

 高町恭也―――十三歳。
 中学生だというのに、桃子を説き伏せ全国武者修行の旅にでている年若き剣士。だが、十三歳という年齢と半比例して、容姿も雰囲気も大人びていて、身長も百七十近いため、初見で中学生と見てくれる人はまずいない。大概が高校生。悪いと大学生に見てくる相手もいる。
 既にこの時には士郎は亡くなっており、美由希を指導していたのだが……どうしても実戦の経験の必要性を感じ、半ば無理矢理旅に出ている状態であった。
 数ヶ月前に人外の怪物に膝を砕かれ、圧倒的な力の差を思い知らされたのも、恭也の中に焦りを生み出した原因だろう。

 巨山に見惚れていた恭也だったが、夜までには樹海を抜け出さねば野宿をすることになるため、疲れを見せず軽快に道ともいえぬ道を駆ける。
 樹海に侵入してからはや三時間は歩き続けたが、恭也には全くの疲れは出ていない。
 他の人間が聞けば正気を疑うような体力作りを普段から行っているため、この程度で恭也に疲れがでるはずもなかった。
 
 日本全国を旅してまわって気づいたことがある。
 高名な剣士。武術家。そういった相手と手合わせを行った結果―――強い相手は多かった。
 今の恭也では勝つのに難しい相手は幾らでもいた。【裏】に住んでいるような実力者とは剣を交えてはいない。それは―――例えば永全不動八門といった輩は恭也の知識では所在地が調べられず訪ねてはいないからだ。
 だが、決して勝てない相手ではなかったのだ。あくまで勝つのが難しい相手なだけであって。
 記憶にある御神、不破の一族に比べたら見劣りする腕前の相手ばかりで……特に不破士郎に匹敵する者など探しても見つかりはしなかった。
 それでも実戦は実戦。誰一人として命を賭けた死合いなど引き受けてはくれなかったが、恭也の経験として蓄積されていく。
 
 だが―――足りない。

 それこそが高町恭也の偽りなき本心。強き者を探して、恭也は邁進を続ける。
 樹海を歩き続け、さらに二時間は経過しただろうか。木々を抜け、恭也の前方には人の手によって造られた道路が広がっていた。
 迷ってはいなかったとはいえ、流石に樹海を横断するのには少しは緊張したのかもしれない。
 普段だったら汗一つかくことない恭也だったが、汗が冷えて急激に寒さが見に沁みてきた。

 街がある方向と距離は地図で確認したため、道路沿いに歩いて行く。
 樹海を合計五時間以上も歩いていたが、幸いなことに街までの距離はそれほどでもないため、強行軍にはなったが無事に目的地につくことができた。
 そしてそのまま、駅を探して街の中を探し回る。地図で確認する限り、この街が駅がある最も近い場所だったのだ。
 
 半年以上も全国武者修行をして、様々な実力者と実戦を経験した恭也だったが、心のどこかで感じた物足りなさ。
 それを解消するために更なる相手を探していて―――今日閃いた相手がいた。
 むしろ何故、もっと早く気づかなかったのかと自分を罵りたい気持ちも湧き出るほどに身近にそういう相手がいたのだ。

 ―――巻島十蔵。

 鬼とまで呼ばれるに至った空手家。
 士郎の古い知り合いで、存命の時に何度も会った事がある相手。最後に会ったのが士郎が亡くなったときなのでおおよそ二年程前になるのだろうか。
 そのためすっかりとその存在を恭也は忘れていた。
 士郎と試合っているのを見たことがあるが―――信じられないことにあの士郎と互角に渡り合えた男だ。
 そんな相手を忘れているとは、本当に前しか見えていないと自嘲気味に恭也は首をふった。

 街を歩き回っていると、然程大きくがないが駅を発見した恭也は駅員に海鳴までの行き方を教えてもらい、改札を通り構内へと入った。
 生憎と普通車しか止まらないようで、時刻表を確認しても十五分に一本程度しか電車はこない。
 逆に十五分に一本くればいいか、と考えた恭也は時間を構内にある時計で見てみると、運がいいのか二、三分ほどで電車がやってくるタイミングの良さであった。
 座るまでもないと恭也はその場で電車を待っていたが、アナウンスが流れ、すぐに電車は駅へと到着した。

 電車は夕方だというのに、随分と空いている箇所が目立つ。
 その席のうちの一つに腰を下ろした恭也は、電車が出発し次々と変わりゆく外の景色を窓を通して眺めていた。夕暮れが差し、茜色の空が印象に残る。
 
 電車に揺られながら恭也は自分に何が足りないのか考える。
 力。スピード。技量。機転。経験。その他にも様々なものはあるだろう。
 ようするに高町恭也は―――全てが足りない。

 ミシリと音が鳴るほどに強く拳を握り締める。
 恭也は焦っていた。特に天眼と名乗る化け物と出会ったときよりそれは顕著となっていた。
 あの人外の化け物が予言した時まで、残り一年と半年ほどしかない。もし、その予言がなければ恭也とてもう少し腰を落ち着けて鍛錬に励んだかもしれない。
 だが、あの化け物が恭也に語った予言は一笑できない何かを感じさせた。
 
 ―――今から二年後に、貴方は地獄を見るでしょう。今程度の力では確実に死にますよ?

 どこまで強くなればいいのかわからない。一体どんなことが起きるのかわからない。
 ただ一つ言えることは……強くならなくてはならないのだ。
 水無月殺音との約束の為にも。これから先の未来を生きるためにも。

 恭也は再度己の意思を固めると、駅員に教えてもらった電車の乗継通りに駅を降り、新たな電車へと乗車する。
 何度も電車を乗り換え、三時間程度はかかっただろうか。電車の窓から見える風景は見慣れたものへと変化していく。
 海鳴より二つ手前の駅にて電車を降りると、士郎とともに歩いた道筋を記憶を辿りながら、明心館があるビルへと向かう。
 すでに太陽は沈み、辺りは暗闇に包まれている。時間は九時過ぎ。今はまだ練習に励んでいる門下生も多数いるだろうと予測し、目的のビルは見つけたが、その近くの路地裏の壁にもたれ時間をつぶす。
  
 多くの人が行き交い、雑踏のなかを明心館の練習生らしき若者や壮年の男性達が挨拶を交わし去って行ったのを確認した恭也は気配を断ちながら路地裏から表通りへと出て、そのままビルへと侵入する。
 ビルの明かりはまだついているので誰かが残っているだろう。そういった人に見つからないよう細心の注意を払って階段を踏み進めていく。
 目的とする場所は分かっている。集中しないでもはっきりと掴み取れる、圧倒的な気配が一つだけ存在するのだから。
 三階に辿り着くと恭也は深く深呼吸を繰り返し自分を落ち着け―――眼前の扉を開け放った。
 
 ぶわぁと生暖かい風が吹き付けてきたような気がした。
 反射的に一歩後ろへ下がった恭也だったが、この場所へ来た意味を心に叩き込み、己を奮い立たせる。
 逃げ出したいという気持ちが支配する体を無理やりに動かし、道場の中へと足を踏み入れた。
 何十人と鍛錬ができそうな広い部屋。畳で床が覆われたそこを土足で踏むわけにもいかず、靴を脱いで足を踏み入れた。
 
 道場の丁度中心に、巻島十蔵は仁王立ちでまるで恭也が来ることをわかっていたかのように待ち構えていた。
 うだるような熱帯夜の熱い空気が道場には充満している。恭也の頬を汗が滴り落ちる。
 それは暑さではなく―――計り知れない重圧。巻島から放たれる押し潰されそうな闘気。
 入ってきた恭也を見て、巻島は首を捻った。まるで予想外の人間がその場に現れた時の反応に良く似ている。

「物騒な気配をしている奴がいると思ったが……なんだ、まだガキじゃねーか」
「……気配は消していたと思いますが」
「阿呆。ビルでは消していたかもしれんが外から消してこないと意味ないだろう。ビルに入った途端消したら不自然すぎるぞ」
「……仰るとおりで」

 基本的なことを指摘され、恭也は素直に頭を下げる。
 ビルの人間に気づかれないように侵入した時から気配断ちをしていたが、確かに巻島の発言の通りあからさま過ぎたことに反省する。
 そんな恭也の顔をじろじろと見ていた巻島だったが、ふと何かを思い出そうとしているのかコンコンと人差し指で米神を叩いていた。
 十数秒程度だったろうか……記憶を辿っていた巻島は答えに辿り着いたのか、あっ、と思わず声をあげる。 

「お前まさか……恭也、か?」
「お久しぶりです。突然のご訪問をお許しください

 別に正体を隠す必要もないのであっさりと巻島の質問に恭也は頷いて答えた。
 二年近く会っていないというのに恭也の顔を思い出した巻島のことが意外であったが、その理由は実は巻島は高町家のことを随分と気にしていたからだ。
 士郎とは歳が親子近く離れていたが、それでも仲のいい有人であり、巻島と互角に戦える唯一の喧嘩仲間といってもよかった。
 その忘れ形見である恭也と美由希のことが気にかからないはずも無い。

「……巻島さんに折り入って頼みたいことがあって、不躾ながら窺わせていただきました」
「おう。なんだ?大抵のことなら聞いてやるが」
「……俺と本気で戦っていただきたい」
「……」

 久しぶりに会った恭也の成長が嬉しかったのか笑顔だった巻島の表情が突然曇る。
 真剣な表情の恭也の発言に、それが冗談ではないと理解している巻島は深いため息をついた。

「今日は家に帰れ……もう夜も遅いしな」

 恭也に背中を向けて、言葉には出さないが態度で拒絶を示す巻島。
 巻島は恭也と戦う気は無いと、物言わぬ背中がそう語っていた。
  
「俺程度では巻島さんの相手にならないのは百も承知。ですが、そこを―――」
「俺は帰れと言った」

 有無を言わさぬ巻島の言葉が、恭也の台詞に割ってはいる。
 巻島とて好きでこのような態度を取っているわけではない。もし、恭也の望みが稽古をつけて欲しいといったことだったならば巻島は何の躊躇いもなく受け入れただろう。
 だが、恭也の願いは【本気】の巻島との戦い。一歩間違えれば大怪我では済まない仕合をまだ十三にしかならない子供と行うことの愚かさを理解する分別が流石の巻島とてあった。
 恭也も自分がどれだけ無茶なことを頼んでいるのかわかってはいる。
 それでも、今ここでとまるわけにはいかない。巻島と戦うためにここまでやってきたのだ。

「……最初にお詫びしておきます」

 ぞわり、と―――恭也の一切の手加減抜きの、正真正銘全力の殺気が迸った。
 高町恭也の身体から、見えないが、確かに感じられる何かが噴き出し道場を占有する。
 その殺気を身体全体に受けた巻島は本能が危険を告げ、振り返り構えを取った。
 呼吸が乱れ、胃袋を直接掴みあげられたような重圧。心臓がバクンバクンと悲鳴を上げる。頭痛に似た、痛みがチリチリと脳内を焼き尽くす。
 巻島の想像を上回る恭也のプレッシャーに驚きを隠せなかった。まだ十三になったばかりの少年だというのに、ここまで己に危険を感じさせるだけの殺気を放つことが出来るのに驚嘆を禁じ得ない。
 心胆を寒からしめ、魂を痺れさせる危険な気配。ここまでの危険を、士郎が死んでから久しく感じさせる相手が存在しなかった。
    
 恭也は真剣を使う―――というわけではなく、使うのは木刀。
 腰に二刀を差す、二刀差しと呼ばれる刀の差し方。最初から小太刀を構えずに、巻島の出方を見計らって抜刀する考えだ。 
 
 こういう時不便だ、と巻島は自嘲する。
 戦いに生き、そして死ぬ。無駄に長生きするより、強い者と戦いたい。そういった考えを信念とする生粋の戦闘者である巻島は―――年若いとはいえ恭也ほどの使い手に本気で挑まれたならば拒絶は出来ない。
 頭が考えるよりも、身体が戦いを望んでしまう。
 
 だが―――。

「大した奴だよ、恭也。それでも、まだ足りねぇ」

 巻島の体がゆらりと揺れる。
 残像を残すほどの疾速で、恭也との間合いを詰めていく。道場に響き渡る踏み込みの音。恭也との距離はまだ遠く、到底届かない位置から大振りとも言える正拳突き。
 迎え撃つ恭也が、踏み込んできた巻島に対して抜刀。拳は届かなくても、小太刀は届く。巻島の拳を切って落とす目的を持って斬り上げられる筈だった小太刀は―――ぐしゃりという音と激しい痛みが恭也の指を襲っただけに終わった。
 巻島の狙いは恭也の小太刀を握り締めた手。寸分の狂いも無く、巻島は恭也の指を狙い砕いた。
 激痛に表情を歪める恭也に、巻島は容赦のない前蹴りを放つ。
 避ける間もなく鳩尾につま先を叩き込まれ、その衝撃に恭也の身体は後方へと吹き飛ばされ畳を転がる。
 二転三転して止まるが、恭也は腹部を押さえて声もあげれず蹲ったままだ。

「っ……ぁ……」  
「お前は強ぇえよ……もう一度言うがたいしたもんだ。自分を誇りに思ってもいい。だが、十年たったらまた来い」

 激しい腹部の痛みで巻島の台詞など聞けてはいないだろうが、そう言い捨てて道場からでていこうとする。
 巻島の言ったとおり恭也は強かった。それでも、巻島と戦うにはまだ早過ぎた。十年は大袈裟にしても、三年、五年は必要だっただろう。  
 まだ身体も出来上がっていない状態の恭也では、見切りの術も身体が追いつかない。

「くっ……はっ……はっ……」

 恭也の口から漏れるのは苦しみの声だと思っていた巻島が足を止め首を捻った。
 確かに苦しんでいるようだが、それだけではない。
 途切れ途切れになってはいるが、それは―――隠しようの無い笑い声。

「ここに来て、良かった……貴方を思い出した、自分を褒めたい……」

 ガクガクと震える足で恭也は立ち上がる。
 手の甲で口の周りの唾液を拭い取ると、今度は出掛かりを潰されぬように木刀を構えた状態で巻島と相対する。
 立ち上がってくるとは予想だにしていなかった巻島は、恭也の心に見えた鋼の意思にただ驚くばかりだ。

 次に仕掛けたのは恭也だった。
 その踏み込みの速度は巻島の戦ってきた猛者の中でも十分上位に位置する速度である。士郎には及ばずとも、近い将来追いつくであろうことが予想できる。
 が、恭也が一歩踏み込み、二歩目を踏み出すとした時には、既に間合いを詰めていた巻島が恭也の眼前にいた。
 反射的に振るった斬撃を、腕を押さえることによって無効化する。
 そして、道場に響き渡る絶望的な震脚。前傾姿勢となった巻島の拳が……。

 ―――高町恭也の胸板を穿ち貫いた。

 恭也の短い人生最大の一撃を受け、嵐の日の小船の如く翻弄され、吹き飛ばされる。
 床に激突し、跳ね上がり壁へと轟音をたてて激突して止まった。
 ずるずると床に倒れこみ、今度は咳き込むどころか一切の反応をしていない。意識が無いのだろう。

 魔拳―――吼破。

 何時しか誰かがそう呼び始めるようになった巻島の奥義の一つ。
 弓を放つように、全体重を乗せた正拳打ちを叩き付ける……ただそれだけの技だ。
 単純故に、実戦で使うのは難しく、隙も多い。だが、その威力はどんな一撃をも凌駕する。

 反射的に、否、本能的に吼破を使ってしまった巻島はまじまじと自分の拳を見つめる。
 別に使わなくても恭也を倒せたはずだ。使う必要なんてなかった。
 だというのに、先程の交差で巻島は吼破を使ってしまった。いや―――。

 ―――使わされ、た?

 口の中の唾液を嚥下できないほどに、巻島の喉は凍りついた。
 巻島の考えを押し潰す、本能が先程の交差で恭也を沈めねば己の身が危機に陥る。そう判断して身体が最大最強の一撃を放たせた。
 未だ十三年しか生きていない子供が巻島十蔵の本能を刺激したのだ。

 意識を失っている恭也に近づいていくとその身体を肩に担ぐ。
 このままここに居ても意識を取り戻すまで暫くかかるだろう。せめて、ソファーの上にでも寝かそうと五階にある自分の部屋まで階段をあがっていく。
 士郎の面影が見える恭也の容貌。矢張りこの少年はあの士郎の血を色濃くひく者だということを認識した巻島は嬉しそうな笑みを口元に浮かべた。
 
「……前言撤回だ。お前が強さを求めるのなら幾らでも相手をしてやるよ、恭也」

 この日を境に、高町恭也と巻島十蔵の仕合は始まった。
 毎晩毎晩、恭也は巻島に挑み続け、敗北を刻み付けられ、それでもただひたすらに戦い続けた。
 動くことすら困難なほどに疲弊し、痛みつけられても戦い続ける様は異様ともいえ、桃子や家族に心配をかけても恭也は明心館に通い続ける。
 巻島との実戦は、恭也を成長させていく。それは牛歩のように遅い一歩一歩だったとしても、確かに恭也を剣士としての高みへとあげていった。
 そして、一年と半年が過ぎ―――高町恭也十五歳のある日運命は来る。

 何時もの如く道場で向かい合っていた恭也と巻島だったが、雰囲気が普段とは異なる恭也の様子に巻島は訝しむ。
 その視線に気づいた恭也は木刀を下ろすと自然体となった。その姿は初めてこの道場にきた時よりも随分と大人びて、落ち着いていた。
 身体もあれから成長して、身長も伸びたのはいわずもがな、体格も遥かにがっしりとしている。
 一番変わったのは剣の腕だろうか。雰囲気も以前のような焦ったところは見えない。

「どうかしましたか?」
「いや、何か今日は少しおかしいな、お前」
「……かもしれません。そろそろ予言の時ですからね」
「予言だと?」
「……俺が生きるか死ぬか。その分岐点だそうです」
「よくわからんな、ま、さっさとやろうぜ」

 ミシリと音がなるほどに強く握り締めた拳を恭也へと向けて、昔と同じような獰猛な雰囲気を纏わせ巻島は構えを取った。
 何時頃からか巻島の頭に手加減という言葉はなくなっていた。剣と拳という得物の差はあれど、二年にも満たない時の流れでここまで成長するとは巻島とて思っていなかった。
 幼い頃から鍛え上げた地盤があったとしても、何十回も、何百回も叩き伏せられてなお、戦い続けた恭也の意思の強さには心の底から驚嘆を抱く。
  
「今日こそは一本取らせていただきます」
「十年はえーよ」

 互いに互いを認め合った人にして人外の域に達した二人は、今日も戦い続ける。
 そして、それは―――どれだけ時が経ったとしても変わらないだろう。


















「……それでその時の戦いはどっちが勝ったのですか?」
「……俺は負けてねーぞ。負けたと自分が思ったときが本当の敗北だしな!!」

 太郎の質問に巻島は答えずらそうに視線を逸らせる。
 それで太郎は推測が付いた。恐らく、その時になって初めて恭也は巻島を打ち倒すことが出来たのだろう。
 たった一度の勝利を掴むために何百回もの敗北を繰り返し、経験し、ようやく辿り着いたという。太郎の遥か先にいるあの人外の剣士でさえも。
 
 敗北など経験していないと思っていた。
 高町恭也も巻島十蔵も。最強という称号の頂に常にいたのだと勘違いをしていた。
 それは太郎の勝手な思い込みで―――二人は互いに何度も勝利と敗北を繰り返してきたのだ。
 弛まぬ努力。毎日の鍛錬。拮抗した相手との実戦。
 その果てが、高町恭也だ。巻島十蔵だ。そこまでせねば、あの領域には辿り着けなかったのだ。
 
 たった二度の敗北を知ったくらいで諦めてしまうなど、子供みたいな自分に苦笑しかできない。
 だが、それでも恭也の影を踏むのでさえも果てしない道だ。一体どれだけの努力をせねばならないのか。
 例え恭也の過去の話をされたとしても、すぐさまに自分の道を変えられるほど太郎は器用でもない。
 太郎は己一人で道を歩いてきた。努力を必要とせず、師など持たず。
 だからこそ―――。

「まずは、自分を見つめなおして、みますよ」

 太郎はソファーから立ち上がると部屋から出て行こうとするが、不思議と巻島はそれを止めようとはしなかった。
 巻島は去っていこうとする太郎の背に向かって、ただ面白そうなモノを見つけた笑みを浮かべ、手首を振って部屋から追い出すジェスチャーを送った。

「さっきも言ったがお前を弟子にすることには納得している。お前の覚悟が決まったら俺を訪ねて来い」
「……有難うございます」
「礼には及ばん。お前のためじゃない、恭也の願いのためだ」
「……それでも言わせて頂きます」
「くっくっく……ま、できれば早いうちにこいよ。お前には俺の取っておき―――」

 巻島は悪戯小僧のような笑みを浮かべたまま。 












「―――魔拳をくれてやる」





















 これより一ヶ月後。
 山田太郎は巻島十蔵を師と仰ぐことになる。
 高町美由希を。高町恭也を。追い求める修羅がまた一人。ここに生誕した。
 























-------atogaki-------

好感度マックスの真ヒロイン名無し登場




[30788] 七章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/03/02 00:52








 太陽が沈み、見渡す限り眼下に見える家から漏れる人口の光しか見えない世界。
 海鳴にある藤見台。海鳴と風芽丘を見下ろす小高い丘。多くの人が眠る墓地がそこにはあった。
 段々と並ぶ墓地の一つ。その墓地の前に一人の中年の男性が立っている。
 趣味の悪いスーツに、ふっくらとしたお腹。葉巻を口に咥えた男―――名を月村安次郎という。月村忍の叔父にあたる男性。
 ふぅーと煙を吐き出すと、目の前の墓を見つめたままじっと立ち尽くしていた。

「……すまんなぁ。お前の大切な娘にワシは酷いことをしとるわ」

 墓の下に眠る者に、懺悔をするかのように深い深い暗い声だった。
 目にも生気がなく、肩には重責を背負っているかのごとく、猫背になっている。

「でも、仕方ない。仕方ないんや。ワシがやらなあかん。ワシしかこれはできんことや」

 月村安次郎。彼は名家と名高い月村家の中でも指折りの階級にいる。
 【血】自体は薄いが、経営者として辣腕を振るい、月村家を盛り立ててきた。その功績は血の薄さにも関わらず、一目置かれるほどになったのだ。
 月村の財産は全てが兄である月村征二に相続されてしまったが、安次郎は与えられた僅かな資金を元に、会社を興し成長させ、日本有数の企業家となった。
 今ではお金に困ったことなど無い。他の親戚でも忍の財産を狙っている者は数え切れないほどいる。それでも忍に手を出さないのは忍を保護する綺堂家を怖れているからだ。
 安次郎とて綺堂家と真っ向からぶつかるのは危険。だからこそ、最低限の脅迫にとどめている。他の親戚は綺堂家のみならず安次郎の邪魔をして彼まで敵に回すわけにもいかず、今のところは手を出してきてはいない。
 それでも安次郎には忍に相続された財産を手に入れなければならない理由があった。いや、正確には忍が所有しているある物を奪い取ってでも回収しなければならない。
 
「……ワシは鬼になる。そんでしまいや。忍には悪いが―――ノエルをこれ以上あいつの手元においておくわけにもいかん」 

 墓に背を向けると、墓地から離れていく安次郎。
 墓地からのびるのは閑静な桜並木。光が無く、見えにくくはあるが、夜桜が非常に美しい。
 もう暫く歩いたら待たせてある車があるはずだ。そこまでは夜桜を堪能しようと、歩みを遅くする。
 普段忙しいだけに、偶にはこのようにゆったりと過ごすのも悪くは無い。
 首を軽く上に向けて歩いていた安次郎だったが、スーツの内ポケットから携帯電話が着信を告げる音を鳴らす。
 画面を確認して、相手の名前に気づいた安次郎が本当に嫌そうな顔で携帯電話にでた。
 
「もしもし―――ワシや」
『……ミスター安次郎。例の話はどうなりましたか?』

 安次郎の耳に届くのは、薄気味悪い男の声だった。
 自然と蛇のような生理的嫌悪感を感じさせる。直接脳髄に響き渡る不快さ。

「……もうちょっと待って欲しいんや。相手がなかなか頑固でなぁ」
『―――貴方はいつもそれですね。伸ばし伸ばしになっておりますが、いい加減私も我慢の限界ですよ?』
「確かに、あんたの言い分もわかる。でも、相手はあんたが欲しがるほどの―――最高傑作や。苦戦するのもわかってほしいんやが」
『……仕方ありませんね。ですが、もう期限は無いと思ってください。さもなくば直接我々が動きますよ?』
「……わかっとる。ワシも、本気でいくことにするから、それで勘弁してや」
『―――いいでしょう。朗報をお待ちしております』

 ぷつりと相手から電話を切ってきた。
 まだ、話をしているのではないかと勘違いしそうなほどの音が耳奥に残っている。
 安次郎は携帯を折り畳むと、元のポケットに戻すと、再度夜桜を見上げた。散っていく。桜の花びらが。儚くも美しく。
 一分近く見上げていたのだろうか、視線を戻し歩き始めた安次郎の瞳に宿るのは―――決意と覚悟であった。














  





 薫風の季節が始まる少し前の時節、学生にとっては楽しみなゴールデンウィークが控えている。
 恭也も美由希も学校では部活に入っているわけでもないので、連休は自由に使えるのだが、生憎と家業の翠屋が恐ろしく忙しくなるためにどこかへ出かけるというわけにもいかない。
 海鳴で最も有名な洋菓子屋兼喫茶店。休日のお客の数は凄まじいものがある。
 アルバイトを増員して対応はするが、それにも限界はある。それに、アルバイトの都合というものもある。
 ゴールデンウィークはシフトに入れないという人もいるため、忙しい時は恭也や美由希に晶やレンまでもがかりだされるときがあった。
 
 そのため恭也もどこか遠くへ泊りがけで鍛錬に出かけるというわけにもいかず、若者のくせに予定の一つもない。
 連休もすでに目前に控えたある日、恭也と美由希が朝の鍛錬を終え、高町家に帰ってくると学校へいく準備を始める。
 先に美由希はシャワーを浴びて汗を流しにいっている間、恭也は自分の部屋で椅子に座って机に向かう。

 時間は六時を指しているが、まだまだ時間には余裕がある。
 もうすぐ美由希も風呂からあがるだろうから、恭也も汗を流す時間は十分あるはずだ。
 恭也が机の上に広げている書類。数枚に渡る月村忍の情報。情報といっても、プライベートな情報ではなく、忍を狙っている相手のことだ。
 何時ぞやの入学祝パーティーの時にリスティに調べて貰い、まとめて貰った情報なのだが、確認の意味でもう一度恭也は目を通す。
 
 月村安次郎。
 月村忍の近しい親戚の一人なのだが、その人物が忍を脅迫しているらしい。
 社会的にもそれなりの地位にいる人物らしいが、色々と黒い噂が流れている。
 リスティの情報によると安次郎は別に忍の命まで狙っているわけでもないという。
 安次郎は忍のことが憎くて脅しているというわけでもない。彼の本当の狙いは単純な話、金銭だ。
 
 勿論、安次郎ほどの財産を所有している者が一千万、二千万程度で動くわけも無く、どうやら忍の両親は相当に資産家だったらしく、受け継いだ財産は桁が一つも二つも違う。
 忍の両親が死んだ際に当然安次郎にも分配されたわけだが、それだけでは満足できずに、しつこく忍に言い寄っている。
 今までは忍の別の親戚が、抑えていたらしいが、それもあまり効果が無く脅迫は続けられていた。
 その情報を見て恭也は、忍へ対する直接的な被害がないのを納得する。
 
 もし万が一にも忍を殺してしまったら、財産は再度親類縁者によって分配されてしまう。
 それでは安次郎は満足できない。業突く張りな性格の彼は、忍を脅迫し、自分ひとりで忍の所有する財産を譲り受けようとしていた、ということだ。
 
 しかし、よくぞ今まで脅迫に耐え切れたものだ、と恭也は忍の姿を思い浮かべる。
 無口で冷たく見える月村忍。一年生の時から同じクラスだった彼女は恭也以外の誰かと話している姿を見たことは無い。
 他人を寄せ付けないようにしているのは、脅迫されている自分の境遇に巻き込まないためなのかもしれない。
 
 忍の笑顔を見たことなど―――たった一度しかない。
 入学式のパーティーの後、駅で別れたあの時に見た月村忍の笑みは、美しかった。
 恭也をして見惚れた。あの月村がこんな表情ができるのか、と思えたのだ。
 もう一度だけ……あの笑みを見てみたい。心から笑って欲しい。

「恭ちゃーん。お風呂あいたよー」
「ん、ああ。わかった」

 恭也は部屋の外からかかった美由希に軽く返事を返し、着替えを持って部屋を出る。部屋の外にいた美由希とすれ違った瞬間、ほのかなシャンプーの香りが恭也の鼻孔をくすぐった。
 つい最近まで子供だった美由希もふとした仕草に大人を感じさせる。時の流れを感じ少しだけ感慨深い恭也だった。

 美由希と入れ替わりに脱衣所に入ると服を脱ぐ。
 露わになる恭也の裸だったが、鏡に映された自分の肉体を見て目を細める。
 上半身は傷だらけで、両腕も見るだけで痛々しい。無傷のところを探す方が難しい。
 それもこれも全ては未熟だった折に鍛錬や多くの実戦でつけられた傷だ。今では恭也に怪我をさせるほどの手練れと会うことなど滅多にない。むしろここ二年はそんな敵となった猛者は相変わらず巻島のみだ。
 傷の中でも一際大きな痕を残す脇腹を手でさする。痛みはないが、あの時のことを思い出すと、よくぞ命があったものだと恭也は嘆息した。
 三年前の永全不動八門会談。あるつての情報屋からその情報を聞き、御神は未だ健在だと証明するために乗り込んだあの時。
 
 途中までは上手く事が運んでいたはずだった。御神宗家の血を引くものが一人でも生き延びている。それを伝えることができれば、永前不動八門の年寄りたちは勝手に畏れ、怖れる。
 御神宗家の血筋にはそれだけの、【存在】があるのだ。
 その恭也の予定をある一体の人外によってぶち壊されたのだ。
 永全不動八門会談が行われた地域を地獄へと変貌させた、人外の中の人外。人智を逸した化け物。
 あの時ほど死を身近に感じた時はなかっただろう。
 
 幼き頃の水無月殺音との邂逅の時は、恭也にまだ戦う力がなかった故にある意味死を受けいれていた。
 五年前に出会った天眼の時は、殺す気など微塵もないのがはっきりと感じられた。
 
 だが、三年前のあの人外の時は違う。
 人をゴミ屑のように喰らい、配下とし、命を凌辱する。最低最悪の魔人。
 天眼の予言どおりに、三年前の恭也の力量では生きるか死ぬか……あの時何かが一つでも違えていれば、今ここに恭也はいなかっただろう。

 その時につけられた傷をさするのを止め、風呂場に入るとシャワーの蛇口をひねる。
 勢いよく熱湯が飛び出してくるが、それを頭からかぶり汗を流し落とす。
 多少熱めのお湯ではあるが、恭也にとってはこれくらいが具合がいい。数分間も浴びていた恭也が、お湯を止め、シャワーの心地よさに息をつく。
 
 掛けてあったタオルで体と髪を軽く拭くと、脱衣所に戻るべくドアを開け―――。

「……む?」
「…………」

 なんというタイミングの悪さか、脱衣所には丁度ドアを開けて入ってきたレンが居て、ドアの取っ手を掴んだまま固まっていた。恐らく顔を洗いに来たのだろう。
 もし、レンが寝起きではなく普段の状態だったら恭也が風呂に入っていたことに気づいただろう。もう少し美由希が長くシャワーを浴びていたら鉢合わせることは無かったはずだ。
 
 様々な不運が重なるり、こんな状況が出来上がってしまったというわけだ。脱衣所に下りる沈黙の重圧。
 数十秒も石像の如く固まっていたレンだったが、その視線は恭也の上半身から下がっていき―――下半身のある箇所で固定される。恭也はどんな反応をすればいいのか判断に迷い、レンと同じく固まった状態だ。
 言葉もなくまじまじとそこを凝視していたレンだったが、現状を把握できたのか、顔……というか、体全体が真っ赤に染まる。今ならばりんご病と言われても納得できるほどの赤さだ。

「……きゅ、きゅぅ……」

 脳が処理の限界を超えたのか、ぼんっと音をたててレンが脱衣所に倒れこむ。
 だというのにどことなく幸せそうな笑みが浮かんでいたのは気のせいではないだろう。一生忘れることの無い光景をレンは気を失う瞬間に網膜に焼き付けていたのを恭也は知らない。。
 逆の立場だったら泣き出したり起こったり慌てたり、様々な反応をしたのだろうが、恭也は結局―――レンを介抱する前にそそくさと着替えをするに終わった。

 服装を整えた恭也は未だ気を失っているレンを抱きかかえると、リビングまで運びソファーに寝かせておく。
 今日の朝食当番は晶で、キッチンで朝食を作っていたが、恭也に運ばれていたレンを見て驚いたように目を見開く。

「師匠。レンが、どうしたんです?」
「……ああ。ちょっと寝不足だったようだ」
「あー、そういえば昨日遅くまで漫画読んでた気がします」

 まさか恭也の裸を見て倒れた、というわけにもいかず適当な理由をでっちあげる。
 それを聞いた晶が心当たりがあったのか、何かを思い出すように答えてきた。まさか適当に述べた理由に賛同が得られると思っていなかった恭也のほうが逆に驚く。
 晶もそれ以上突っ込んでくることはなく、自分の仕事の朝食作りに励む。
 そうこうするうちに、美由希と桃子もリビングに現れ、最後になのはがふらふらと覚束ない足取りでやってきた。
 狙ったかのようなタイミングで、レンも目を覚まし、焦点のあわない瞳で部屋中を見渡す。
 十秒ほどぼぅーとした後に、気を失う前のことを思い出したのか、恭也の顔をみて耳まで顔を赤くした。
 
「おーい、レン。早く座れよ。御飯食べるぞー」
「わ、わかっとる」

 どもりながらレンがそそくさと自分の椅子に座る様を、恭也を除く家族皆が不思議な視線を送るが―――朝は時間が少ないため、気にかける暇はなく朝食を食べ始めた。
 今日の朝御飯は日本の食卓らしく、白御飯に味噌汁。納豆に漬物、卵焼き。塩鮭に冷奴。
 なのはには量が多いので全体的に少量となっているが、一般に比べて大食漢の恭也と美由希、晶は次々と胃袋におさめていく。
 特に恭也と美由希は朝の鍛錬のせいでお腹も減っている。
 茶碗に白御飯がなくなると、晶が絶妙なタイミングでおかわりを盛った。
 男っぽく見られるが、こういった細かい所に気づくのも晶の長所といえる―――相手が恭也だからかもしれないが。

「あ、そういえばそろそろ連休はいるわよね?皆の予定はなにかある?」
「いや、俺は翠屋の手伝いをするつもりだったが……」
「うん。私も恭ちゃんと一緒かな」
「俺も……夜は道場行かないと駄目ですけど、昼間とかは翠屋手伝いますよ」
「うちも特にはありません」
「私も―――アリサちゃんと遊ぶ約束をしてるくらいかな」

 桃子の質問に皆が各々の予定を答え、それを聞いた桃子が考え込む。
 人差し指を顎にあて、視線を天井に向けていたが、良しと呟きながら笑顔を全員に向けた。

「連休忙しくなるから、その前に皆で花見いかない?」
「あ、花見かぁ。去年行ってないもんね。行きたいかな」
「昼間なら全然俺はおっけーです!!」
「腕によりをかけてお弁当つくりますわ」

 桃子の提案に美由希と晶にレンは肯定の意見をあげる。
 もう一週間もすれば五月に差し掛かるが、今年は寒かったせいか桜の花が咲くのも例年よりも大幅に遅れていた。
 流石に満開というわけではないが、まだまだ十分に花見はできるだろうという予測をたてた恭也も頷く。
 なのはも家族で出かけられるのが嬉しいのか、笑顔を絶やすことは無かった。

「えっと、じゃぁ……参加者はここにいるメンバーとフィアッセに、この前のパーティーに来てた人達も声をかけてみていいわよー」
「本当ですか?よーし、みずのにも声かけておきます」
「うちもひなちゃんと加代ちゃんにゆーときます」
「おかーさん……アリサちゃんよんでもいい?」
「勿論よー、なのは」
「有難う、おかーさん!!」

 晶とレンが自分達の親友の名前をあげ、なのはもアリサを呼ぶ許可を得る。
 今から花見を楽しみにしている様子が全員に見受けられた。それを微笑ましく見ている恭也だったが、誰に声をかけてみるか脳裏に思い浮かべるが、生憎と赤星勇吾と月村忍の二人しかいなかった。
 忍の気分転換になればいいか、と考えた恭也はレンが淹れてくれた熱いお茶がはいった湯飲みをすする。 
  
「あ、あのー」

 その時、おずおずと黙っていた美由希が手を挙げた。
 恐る恐るといった感じで、全員の視線が自分に集まったのに気づくと、びくっと身体を震わせた。
 それでも引くことは無く、とんでもない爆弾発言を食卓に落とす。

「私も―――友達連れてきていいかな?」
「……」
「…………」
「………………」
「……………………」
「…………………………」

 静寂が世界を支配した。
 美由希をのぞく五人が五人とも、今の美由希の発言の意味がわからなかった。
 確かに日本語だったのに、まるで未知の言語で発言されたような違和感を全員が感じてしまった。
 そして、たっぷりと十数秒後に―――。

「「「「ええーーーーーーー!?」」」」

 晶とレン。桃子となのはの叫び声が高町家に木霊する。
 寸分の狂いも無く、全員の声が見事にはもっていた。唯一恭也だけは、冷静を保って―――はいなかった。手に持っていた湯飲みをテーブルに落としていたのだ。幸いにも中身は全部飲んでいたので零れることはなかったが。
 声をあげなかっただけで恭也も十二分に驚いていたのだ。恭也が日常においてここまで驚いたことは久しくなかった。

「み、美由希ちゃんに―――」
「―――友達が!?」

 普段は犬猿の仲の癖してこういう時だけは見事なシンクロを見せるレンと晶。
 仲が悪そうに見えて、実は仲が誰よりも良い。二人は認めないが、二人の間柄は親友という言葉以外当てはまらない。

「ぅぅ……美由希が立派になってかーさん嬉しいわ」
「お姉ちゃん凄ーい!!」

 およよと泣きまねをする桃子に、きらきらと目を輝かせて心の底から本気で美由希を褒め称えるなのは。
 桃子はともかくなのはには一片の悪意もなく、美由希の発言に驚いているのだから逆に切なくなってくる。

「そ、そんなに驚かなくても……」

 ズーンと肩をがっくりと落とし、美由希は本当に泣きそうな表情だった。
 そんな美由希の様子に流石に驚き過ぎたか、と慌てた四人だったが、彼女達の反応はある意味仕方ないといえば仕方ない。
 高町美由希は外見は悪くない。野暮ったい眼鏡をかけて三つ編みにしているから目立たないが、素材自体は一級品だ。
 フィアッセのようにあらゆる人間を魅了するというわけではないが、少なくとも彼氏の一人二人いても可笑しくは無いほどの容姿をしているといっても過言ではないのだが―――。
 
 幼い頃のある出来事によって、友達を作ることができなくなってしまったのだ。彼氏など論外。高校一年になるまで、レンや晶を除いて美由希に友達と呼べる相手は一人もいなかった。恭也も実はそれをどうこういえるほど友達がいるわけでもないが……。
 その美由希が、友達を連れてきたいと発言した。これを驚かずしてどうすればいいのか。
 特に桃子と恭也はそのことをずっときにかけており、二人の内心は嬉しさで溢れんばかりであった。

「―――その、なんだ。お前の……友達の、名前は?」
「えっと……神咲那美さんっていう人。二年生なんだけど、凄く優しくて良い人だよ」
「―――そうか」

 山田太郎とかいわれたらどうしようと少しだけ考えていた恭也だったが、そんなことはなかったようでほっと一息。
 冷静沈着を体現している恭也だったが、感極まってしまったのか声が震えていた。
 悟られたくなかったが、完全に隠すのは不可能であり、美由希には声の震えがばれてしまっている。というか、全員それに気づいていた。

「友達が一人できただけでこの対応……私って一体……」
 
 喜べばいいのか悲しめばいいのか。
 美由希はちょっとだけ泣きそうな表情で、そう呟いた。
   
 















 時間は流れ四時間目が終了する鐘の音が校舎に響き渡る。
 学生の多くが最も楽しみにしている昼休みの時間。風芽丘学園は少子化という時代の流れに反して多くの学生が通っている。所謂マンモス学校なだけあって、学食も普通の学校より随分と広い。
 といっても、風芽丘学園と海鳴中央併せて千人を優に越える人数を収容するほどの広さは流石に無い。
 それでも三、四百人は十分座れる広さとテーブルが置かれているが、早めに行かないとあっという間に席は埋まってしまう。
 混むのが嫌いな学生は購買でパンや弁当を買って屋上や中庭、教室に戻って食事を取ることも多い。
 
 恭也は忍を誘い、学食へと向かう。昼食を食べるためだが、本当の目的は教室では言い辛い、花見へのお誘いをするためだ。
 三年は教室が二階にあるので、学食までの道のりは他の学園の生徒や海鳴中央にくらべて近い。
 二人はそれほど急ぐことなく歩いていたが、他の学生……特に男子生徒が元気に走って学食へと突撃していっていたが、運が悪い生徒はそれを教師に見つかり、大目玉をくらっていたりもしていた。

 先を争うように学食へと急ぐ生徒達の流れの中で、二人は学食へと辿り着いた。
 風芽丘学園の学食は広さだけではなく、価格が安いにもかかわらず味と量が一般水準に比べて優れている。
 そのため席は大方埋まってはいたが、二人は日替わり定食を注文して、それが乗ったトレーを持つとあいた席を探し始めた。
 
「あ、師匠ー。こっちあいてますよー!!」

 喧騒のなか、自分を呼ぶ聞きなれた叫び声を耳にした恭也は、人が大勢いる中で目聡く彼を見つけた晶が、手をぶんぶんと振って呼んでいた。
 忍と二人でそのテーブルに向かうと、見慣れた妹達とその友達が談笑していた所であった。自然と席をつめてくれ、恭也と忍が座る席を空けてくれる。 
 そこにいたのは、晶とその友達の西島瑞乃。レンの友人である、奥井加代子と雛村ひなこ。美由希と―――楽しそうに話しているおっとりとした雰囲気の少女。リボンの色を見るに二年生のようだが恭也は、はじめて見た顔だ。
 そこで、今朝美由希が口に出していた友達の神咲那美ではないかというあたりをつける。
 話している最中に割って入るのも迷惑かと思った恭也は、持ってきた定食に舌鼓をうっていたが、ふと那美の視線が恭也へと移動する。
 そこでようやく、話に夢中になっていて恭也と忍が来たことに気づいていなかったのが分かったのだ。

「初めまして。そこにいる美由希の兄の高町恭也です」
「え?ああああ、すみません。すみません。自己紹介もしないで、私って。あ、あのー神咲那美といいます。美由希さんとは清いお付き合いをさせていただいています」

 頭を下げて、恭也の先手を取った紹介に、慌てに慌てた那美は、椅子から立ち上がりペコペコと恭也に向かって深々と何度もお辞儀を繰り返す。
 その様子はまるで選挙活動をしている政治家のようにも見え、台詞は彼女の父に初めて会った男性のようにも聞こえた。その姿に周囲の生徒達が何事かと注目し始めた。
 
「な、那美さん。こんな兄にそんなにまでしなくても」
「あああ、すみません。美由希さん……ご迷惑をかけて」
「いえー。迷惑なんかじゃありませんよ」

 周囲の視線を感じつつ止めに入った美由希にまで頭を下げようとするが、そういわれて感動した那美が嬉しそうに椅子に座りなおす。
 那美が椅子に座ったことで、周囲の視線も四散した。二人の様子を窺っていた恭也だったが、なんとなくこの二人は波長があうのだと直感が働いた。
 どちらかというと美由希のほうが年上に見えてしまうが。友人となるために、時間は大切かもしれない。だが、時間を超越した友情というのもあるものだろう。
 恭也と赤星勇吾がそうであったように―――。

「どうしたんですか、お師匠。難しい顔して?」
「いや……なんでもない。ああ、それと例の事はもう話したのか?」
 
 可愛らしく首を傾げるレンに、首を横に振る。
 そしてここに来た目的を思い出し、他の人間はもうすでに知っているのかどうかを確認の意味を含めてレンに問う。

「お師匠が来る前に皆に聞いてみたんですが、皆参加できそうな感じです」
「そうか。それなら良かった」

 ゴールデンウィークの前とはいえ、もしかしたら何か予定を入れている者もいるのではないかと予想していただけに、全員参加は嬉しい誤算だ。  
 定食のメインである鯖の煮付けをおかずに御飯をすすめる恭也だったが、一般生徒ならともかく恭也にとっては定食の量は正直物足りない。
 あっという間に定食をたいらげると、一息つくようにコップに入った水を飲む。
 後から食堂に来たというのに、恭也は一番早く食事を終えた。忍はまだ半分も食べれていないし、美由希や那美は御喋りに花を咲かせ、あまり食事自体がすすんではいなかった。。
 
「月村。実は今度の土曜日に花見をやろうと思ってるんだが……予定がなかったら参加してくれないか?」
「え……予定はないけど。また参加させてもらってもいいの?」
「ああ。ここにいる参加メンバーは恐らく前の入学祝の時と一緒だとは思う」
「なんか何時も誘って貰って悪い気が……」
「かーさんからも是非にと、頼まれているしな。遠慮はいらない」
「ん……ありがとう、高町君」

 二回目の誘いということもあったのか、今度は忍もそれほど遠慮することなく応じる。
 すでに赤星には参加の返事を貰っているため、恭也が誘える知り合いは仕舞いとなった。
 参加する人数を頭の中で数えてみたが、総勢十三名。アイリーンは参加はどうなるか不明だが含めたら十四名。
 恭也とて人の子。物静かで大人びているため、大勢で騒ぐのはそれほど好きではないが……気心の知れた人間だけならば話は別だ。
 なんとも賑やかな花見になりそうだ、と今から花見のことをイメージした恭也が笑みを抑え切れなかった

「あ、そういえば花見をする場所ってもう決まってる?」
「……いや、恐らくまだ決まっていない筈だ」

 美由希が思い出したように恭也とレンと晶の三人に確認するように問いかけてくる。
 それに三人の代表として恭也が答えた。レンと晶も特に異論はないので、黙って頷く。
 
「それなら那美さんの知り合いに頼めば花見する場所貸してもらえるかもって」
「ほほぅ。それは有難いです。本当に宜しいので?」
「は、はい。後片付けさえしっかりやれば大丈夫だと……」
「そこは徹底しますのでお聞きして貰ってもよろしいですか?」
「はい。今日寮に帰ったら聞いてみますね」

 思いがけず花見の場所を提供して貰えた幸運にガッツポーズを取るレンと晶。
 毎年花見はやるが、特にどこでやるということは決まっていない。このことを桃子に話せば喜んで貰えるだろう。

「なーなー。お前知ってるか?風芽丘の三年C組に凄い美人が転校してきたって」
「いや、知らないけどそうなん?」
「ああ。結構な噂になってるみたいだぜ。俺も今日見たばっかなんだけど、マジやべぇ。ちょっと冷たそうな雰囲気だったけど、それがまた良い!!」
「へー。でも、この時期に転校って変な話じゃないか?」
「あー、そういえばそうなんだけどさ。まぁ、人には色んな事情があるんじゃねーの?」

 丁度恭也と那美の会話が途切れた時だったため、後ろのテーブルに座っていた男子生徒達の多少大きめな声が聞こえてきた。
 その後もその美人転校生の話で色々と盛り上がっていたようだが、昼食を食べ終わったのだろう。男子生徒達は席を立ち食堂から出て行った。

 先程の男子生徒達の会話を思い出し―――恭也は、ふと思いついたことがあった。
 凄い美人。冷たそうな雰囲気。この時期に転校。それらの条件が組み合わさり、一人の知り合いの姿が脳裏に描かれる。
 まさか、と思った恭也は自分の想像を首を振って否定する。たったそれだけで特定してしまうのは早計だろう。

 恭也達が座っているテーブルは沈黙という言葉を知らないのだろうか。
 レンと晶は会話をしながら互いを貶しあってはいるが、その光景はどこか微笑ましい。
 晶達の友人も苦笑いをしながら見守っている。対して先程と同じペースで美由希と那美はにこにこと笑顔を絶やさない。
 相当に相性がいいのだろう。美由希の友達が那美のような人間で本当に良かったと恭也は心の中で感謝していた。

 時間が経つのは早いもので、時計が予鈴を鳴らす。
 周囲の生徒達はほとんど帰っており、残っていた生徒達も予鈴を聞き、慌てて教室に戻ろうとする。
 恭也達も御多分にもれず、食器を返すと各々の教室へと戻っていった。
 三年の教室がある階に戻った恭也と忍が自分達のクラスに入ろうとしたその時―――。

 見覚えがありすぎる女性が恭也の視線の先にいた。
 教室の位置的にはCクラスの扉を開けようとしているところで、恭也の視線に一瞬で気づいた女性は振り向き笑顔を浮かべた。
 家族にさえも心を許すことの無かったその女性がそんな笑顔を向けるのは世界広しといえど恐らく恭也にだけだろう。
  
 剣聖。天守翼―――風芽丘学園三年C組。
 
 噂の転校生。それが誰なのか、恭也の想像は決して間違ってはいなかった。そのことで一悶着おきるのはまた別の話。 
 
 






















 ―――美しい。

 己へと迫る白銀の刃。
 疾駆する魂。木霊する命の咆哮。
 決して避けることを許さぬ、不可避の絶刀。
 
 初めて踏み入ることができた―――文字通り光だけの世界。
 只の人間だった筈の【青年】が生み出した、瞬きも許さず、音も残さぬ無言(シジマ)の領域。
 反応さえもすることができず、自分の腹部を斬り裂いた冷たい感覚は数千年経った今でも忘れられない。
 まだまだ若かったあの頃に自分は囚われてしまったのだろう―――高町恭也という人間の在り方に。

「―――光の剣閃」
「あん?なんだよ、それ」

 ヨーロッパのある田舎街。その一画にあるひんやりとしたコンクリートの階段に腰をおろした青年が片膝を立てて座っていた。
 年の頃は二十半ばくらいだろう。仕立ての良いブランド物の黒いスーツを着こなし、赤みがかった短い茶髪が天を突く様にツンツンと尖っている。
 スーツと同じ黒い皮手袋。黒いネクタイ。そして黒いサングラスをかけた、そんな青年の気軽な返事が夜の静寂にとける。
 青年の横で、アンチナンバーズのⅡ。天眼が手すりに手をつけるようにして眼下に広がる、灯りが漏れる人々の家を見下ろしていた。
 恐れ、敬われる伝承級の化け物の横にいるのだというのに青年には、一切のそういった感情は見受けられない。

「―――森羅万象を斬り裂く光の剣閃。この私でも到達できない、一種の究極」
「……あんたでも到達できないって、どんな魔術なんだよ」
「魔術ではありませんよ?ただの―――鉄の塊が生み出す破壊に特化した最凶の刃です」
「……魔術では、ない?」
「或いは貴方のジ・アースをも飲み込み断ち切るかもしれませんね」
「―――そりゃ半端ねぇ」

 青年にとっての切り札。絶対の自信を持つ魔術を軽く見るとも言える天眼の挑発にプライドを刺激されたのか、ピクリと眉を動かし全く心のこもっていない台詞を返す。
 二人の間に僅かな沈黙が訪れる。ピリピリとした緊張感がそこに生まれていたが、全く気にしていない天眼に毒気を抜かれた青年はふんと鼻で笑った。

「で、その光の剣閃って誰が使うんだ?聞いたこと無いぜ」
「当然ですよ。今はまだ青年は、舞台には上がっていませんから」
「青年?アンチナンバーズに若手のホープでもいたっけか」
「そうですね―――旧アンチナンバーズⅥ【人形遣い】を退けた……伝承墜とし。彼がそうですよ」 
「……ああ、あの正体不明の化け物か。まぁ、やりあうことになったら証明してやるよ。俺のジ・アースの絶対防御を貫けるものなどいないってことをな」
「それはそれは。楽しみにしていますよ?」

 天眼は青年に向かってポケットから取り出した宝石のような物体を投げて渡す。
 後ろから投げられて見ていなかったにもかかわらず青年は当たり前のようにその宝石を受け取るとマジマジと凝視した。
 
「本当にこんな宝石みたいなもんに願いを叶えることができるんかよ?」
「ええ。誰が作ったかわかりませんが―――オーパーツと呼ばれる一種の秘宝。人の【記憶】を喰らってエネルギーへと変換する、ロストテクノロジーによって生み出された過去の遺物です」
「【種】、か。でもよ……記憶を奪って成長するってのに、俺がやってることはちょっとちがわねーか?」
「いえいえ。それには特殊な術式を施してましてね。記憶ではなく―――【魂】によってその種は成長します。人を殺せば殺すほど、その魂を吸収して進化していくのですよ」
「魂ねぇ……胡散臭い話だぜ」
「それでも、事実です。望むのならば不老不死に近い命を、大地を穿つ力を、あらゆる魔術を凌駕する魔導を得ることが出来ます。それこそ過去へと遡ることも。貴方の師である魔導王の……魔女によって施された解除不可能な封印をとくことさえも―――」
「……うるせぇよ」

 ピシリと空気に亀裂が入った。
 おぞましいほどの黒い殺意が周囲を支配していく。それとは対照的に、青年の体を覆うように、金色に輝く薄い膜のような―――オーラが立ち昇る。
 夜の闇を侵食していく、金色の光。青年自体が太陽の光を発しているといっても納得できる程にまばゆい。

「あんたがあの人を語るな―――虫唾がはしるぜ。できればこの場で消滅させてやりたいくらいにな」
「あらあら。面白い冗談ですね。貴方【程度】がこの私に勝てるとでも?」
「……試して、みるか?」

 黄金の覇気が一際明るく輝きを放つ。
 あらゆる魔を滅する退魔の光。大地の祈りをその身に宿す、禁大魔術を習得したこの世界でただ一人の男は天眼に獰猛な視線を向けた。
 だが、天眼の態度は変わらない。圧死しそうなほどの重圧をその身に浴びているというのに、まるでそれを脅威と見ていないかのような雰囲気だった。
 
「……ち」

 先に折れたのは青年の方だった。視線を天眼からずらし、明後日の方へと。階段の手すりに足をかけると、中空へと身を躍らせる。
 誰かが見ていたら飛び降り自殺をしたのだと勘違いをしたかもしれない。この場所は十階建てのマンションの屋上の手前の踊り場なのだから。
 重力に従うように落下していく青年を見送った天眼は何時もの微笑を浮かべたまま、瞳だけは嘲笑う色を示していた。

「貴方には期待していますよ?アンチナンバーズⅩ【大魔導】。頑張ってその【種】を育ててくださいね?」
 
 アンチナンバーズの伝承級。それはⅠからⅨまでの別格の存在。超絶的な力を持った人外の化け物達。
 ナンバーズでも相当なことが無い限り戦うことを選択しない……できない者達。
 だがⅩ以降はナンバーズの上層部によって決められている。どれだけの力を持っているのかもそうだが、思想・経歴・性格・経験などが考慮されて約半年ごとによって定められる。
 三桁四桁のアンチナンバーズの入れ替わりは激しいが、二桁台は基本的に安定していた。そう、安定していたという過去形なのだ。 
 二桁のアンチナンバーズの上位は、そのほとんどが執行者によって育てられた存在が多かった。そのため執行者を慕っているものが多くいた。
 故に数年前の魔導王との死闘の折に、執行者と魔女の二人に追従した二桁の上位ナンバーは、結果全てが死亡。生き残ったのは執行者と魔女の二人だけ。それだけの被害を被ってようやく封印に成功したのだ。
 
 比較的……というか、伝承級の中では猫神と等しく人に理解を示していた執行者に育てられただけあって、人間に敵対心を持たず、純粋な力のみで二桁の上位ナンバーに数えられていた者達の変わりに指名された人外の化け物達。
 それは当然といえば当然な、人類社会に対して最悪の被害を齎す化け物達だった。その化け物達以上の脅威と、執行者に育てられた化け物達よりも強い、化け物達の頂点に君臨する者。すでに百年以上アンチナンバーⅩから落ちることは無かった夜の一族の一人。
 伝承級にも匹敵するとナンバーズに噂される人外の魔術師。人はそれを【大魔導】と呼ぶ。 

 一際強い風が突風が吹く。強風が大魔導の身体を守護するように落下速度を遅くしていく。
 周囲一帯を覆った風は大魔導の身体を浮かびあがらせるだけではなく、マンションの遥か下の道路を歩いていた多くの人々をも驚かした。
 人々は小さく悲鳴を上げ、女性はスカートや髪を必死に抑えている。
 その小規模な竜巻といえる現象の中を、ふわりと重さを感じさせず、道路に大魔導が舞い降りた。
 その不可思議な光景に、ある者は目を開き、ある者は拍手を送り、ある者は感嘆の声をあげた。
 だが、気づくべきだった。大魔導が発するあまりにも無慈悲な視線に。絶対零度の殺気の奔流に。

「ああ、くだらねぇ。生きる価値もない有象無象がなんでこんなに居やがるのか」

 先程天眼と向かい合った時とは同じ黒い殺意が巻き起こる。

「なんであの人が封印されて、お前達が何事もないように生きてやがるんだ?」

 そこでようやく人々は気づく。自分達の前に立つモノが、不吉を孕んだ人間ではない何かだということに。

「とりあえず、お前らは、あの人のために、死んでくれ」

 途切れ途切れに放たれた言葉が、己に対する念仏のようにしか聞こえず―――。 

「さぁ、カーニバルの始まりだ」

 大魔導の両手が光に満ち溢れる。中空に両手で直径三十センチほどの円を描く。
 彼の使用する魔術は、極限にまで無駄が省かれたもの。複雑な工程を必要としない。
 光が夜の闇を引き裂き、五芒星が圧倒的な重圧を放ち、その場に顕現する。
 
 大魔導の周囲の空気が球体状に歪む。小さな野球ボール程度の雷球が三十を越え、パチパチと音をたてて揺れていた。
 そして―――弾けた。

 瞬く間に雷球は周囲にいた人間達に襲い掛かり、直撃。
 たった一撃の雷球は、人の命を容易く奪う。人の身が、黒く焦げるほどの雷撃に生存する者などいなかった。

 その光景は夢か幻にしか見えず、運がいいことに雷球の餌食にならなかった人々は呆然と何が起こったのか理解できないようで、ぽかんと口を開けたまま立ち尽くしている。
 十数秒もたってようやく、これが現実のことだと認識し、悲鳴をあげながらその場から離れるものもいたが、腰が抜けたのかその場でペタンと尻餅をつく者もいた。
 少なくとも目の前の悪夢に立ち向かおうという勇気ある者などいなかった。恐怖が一斉に伝染する。

 大魔導は冷静だった。冷静に人を殺し始めた。その場から動けない者の頭を掴み力を入れる。
 ぐしゃりと熟れたトマトを潰すように、人の頭が弾け飛ぶ。赤黒い脳髄が、血液が、道路にぶちまけられた。
 四つん這いになって必死に逃げ出そうとする人間にの背中に手刀を落とす。背中に命中し、そのまま腹まで貫いた。
 貫いた手を抜くと、開いた穴から腸がぼとりと地面に落ちる。赤ペンキが零れ落ちるように、大地を真っ赤に染めていく。

 周囲の悲鳴が最大にまで響き渡る。もはや怒号にちかい、人々の叫びが耳を圧する。
 荒れ狂う混乱。大人の怒鳴り声。子供の泣き声。我先にと逃げ出すものや、転倒する者など様々だ。
 そばにいるものは女子供関係なく己が四肢を持って、砕き、壊す。
 遠くに逃げ出すものは、己が魔術を持って、焼き焦がし、潰えさす。
 何も知らず、家の中にいるものは、不可視の衝撃波を持って、建物ごと破壊する。
 まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。大魔導は一切の慈悲も見せず、淡々と殺戮を繰り返す。
 
 建物は破壊され、道路は荒れ果て、大魔導の歩く道に残されるのは、無残な死体だけ。生ある者は、一切残さず、絶望と死だけを告げる死神がそこにいた。
 途中警官らしき服装の人間が拳銃を撃ってくるが、不可視の壁に遮られて、大魔導に届くことは無い。
 ただの拳銃如きでは掠り傷一つつけることは出来ず、大魔導の手から発せられた衝撃波が警官の身体を吹き飛ばし壁に叩きつけ、圧死させた。
 それはまさしく魔王の行進。如何なるものもその進撃を邪魔することはできず。ただ、破壊と破滅のみが存在する。

 己を中心として広範囲に結界を張り巡らし、生体反応を確認した。
 すでに軽く数百の人間を殺していたが、騒ぎに気づく者、気づかぬ者。様々で、遠くに離れていく気配も感じられる。
 もったいない、と大魔導は呟き片手を天空へと向けた。
 夜空に雨雲が広がり、雷雲となる。けたたましい音が高鳴り、光が奔る。
 雷光が遠方へと落ち、遥か離れた場所の生命反応が一気に消失した。
 
 周囲に生命反応は残り一つとなり、その反応に向けてゆっくりと歩みを進める。
 歩いた直ぐ先、大魔導の視界に映るのはペタンと地面に座り込んでいる少女。十代半ばくらいの金髪の髪を肩くらいの長さで切りそろえたそばかすが印象的な少女だった。
 大魔導の虐殺を見ていたのだろう。ガタガタと、青い顔で身体中を震えさせてその場から動こうとはしなかった。いや、動くことが出来なかった。
 ぼろぼろと恐怖の涙を流す少女の元まで近づいていった大魔導は、他の人間にしたのと同じ様に手で顔を掴み、そして―――。 

「―――虎切」

 少女と大魔導の耳にその単語だけが聞こえた。
 それが何を意味するのか理解する間もなく、少女は身体全体に熱い風を感じる。
 ちぃ、という少女にとっての死神が焦りを滲ませた舌打ちが耳に響く。
 赤黒い色をした液体が少女の顔にかかり、それが血だと気づくのに、暫しの時を要した。

 少女を庇うように、大きな背中が己の死神と自分を分け隔てるように、何時の間にかそこにあった。少女に背を向けた男性は両手に剣を持ち―――小太刀と呼ばれる日本刀だが―――何の怖れもなく死神と相対している。
 自分の顔にかかった血は、大魔導が少女の顔にあてていた右手の半ばから出血しているのだと、理解した時、凄まじい恐怖感が襲ってきた。もし、目の前の男性が後一歩遅かったら確実に死んでいたのだから。
    
「……おい、小娘。とっとと逃げろ」
「……」

 事態があまりに変化しすぎて、そして恐怖が治まらなくて、男性の言葉に返答することができない。
 それに多少苛立ったのか、男性は視線を一瞬だけ少女に向け、舌打ちをする。
 その顔に少女は見覚えがあった。大の親日家である父親が、今夜酒場で一緒に呑んで意気投合した日本人だ。
 泊まるところがないという話を聞き、自分の家に男性とその娘の二人を招き入れたのだ。
 それはつい先ほどの出来事。日本の名前は覚えにくいが、少女は男性の名前を確りと憶えていた。
  
「―――ソーマ」
「人の名前を呼ぶ暇があったら親父達と一緒にこの街を離れろ」
「う、うん……」

 ようやく収まってきた足の震え。それでも普段と同じようには到底一緒には走れないだろうが、少女は―――相馬の背を振り返りながらその場から離れていく。
 男の名前は御神相馬。十年以上前に御神の一族を追放された御神宗家長男。美由希の父である静馬の兄。つまり美由希にとっては伯父の間柄の男性。そして、かつての御神一族最強の剣士。
 数多の死体を作り上げた死神の前に相馬だけを残して去ることに抵抗感をもっているようだが、それを振り切るように姿を消していった。
 残されたのは大魔導と相馬の二人のみ。残りは原型を辛うじて残している死体だけだ。

 不意打ちだったとしても己に手傷を負わせた相馬を見る目には怒りと屈辱しかなかった。
 それもそうだろう。アンチナンバーズのⅩ。数多の怪物の頂点の一角。大魔導とまで呼ばれるに至った自分に血を流させたのが人間だったのだから。
 同族だったとしても自分に同等の怪我を負わすことができるのはごく一部だろう。ナンバーズの数字もちならば兎も角、ただの人間が大魔導に対して一歩も引かず、相対することでさえ信じられることではない。

「……屈辱とはこういうことをいうんだろうな」
「うるせぇ、化け物。人様が折角寝床に入ったところを邪魔しやがって」

 大魔導の呟きに、隠すつもりもない怒気をこめて相馬は吐き捨てた。
 相手がただの人外ではないことくらい相馬とてわかってはいる。久しく感じていなかった、死の予感を漂わせた怪物が目の前にいた。
 だが、相馬は今ここで引く気はなかった。強き者と戦いたいという果てしない欲求。それを求めて相馬達は世界を放浪しているのだ。
 そしてそれ以上に―――。

「気にくわねーな」
「……!」

 鋭く、研ぎ澄まされた相馬の殺気。大魔導をも怯ませるほどに禍々しい。そこでようやく大魔導は相馬の尋常ではない気配に大きく目を見張る。
 人間だというのにその気配はむしろ自分たちに近い。命を奪うことを何とも思わない、花を摘むかのように人を殺す。そんなことができる輩だ。

「弱い者をいたぶって楽しいか?反撃できない者を虐殺して満足か?教えてやるよ、お前みたいな奴を外道っていうんだぜ」
「……ふん。お前こそよくぞ言えるものだ。見えるぞ、お前の背後に馬鹿げた数の怨念が。呪いとでも言い換えてやろうか。お前こそ狂ってやがるな、殺人狂」  

 そんな濃厚な血の香りが体の芯にまで染みわたっている相馬の責めるような物言いが、あまりにも可笑しくて大魔導は口元に笑みを浮かべて吐き捨てる。
 お前はそんな人間じゃないだろう、と大魔導の台詞の裏には悪意が込められていた。

「ああ、そうだ。俺は数えきれないほどの人を斬った。それはもはや変えられない過去だ」

 少しだけ後悔の念を顔に浮かべた相馬だったが、それも一瞬の出来事で、見間違いかと疑う僅かな時であった。
 次に浮かべたのは肉食獣のような形相で、片手の小太刀の切っ先を突きつける。

「だからこそ、お前も俺に殺されろ。お前が殺人狂と認める俺に、殺されろ!!数百の墓前の前に―――お前の首を捧げてやる!!」

 放つは人外の域に達した重圧。尋常ならざる殺気。まるで昔の自分をみているような同族嫌悪。少女には一宿一飯の恩があった―――恩には恩を。恩ある者を手にかけようというのならば敵がだれであろうと蹴散らすのみ。
 相馬の筋肉が膨張し、大地を蹴りつけ一つの弾丸となる。神速に達した相馬の最速。瞬く間に間合いを詰め、狙うは首元。
 殺すというはっきりとした意識のもとにて小太刀は空気を貫いた。

「……っな!?」

 対する大魔導から驚嘆の声があがる。
 相馬の速さは、大魔導の想像の遥か上をいっていた。疾風となった黒い稲妻。瞬きをした一瞬で既に相馬の小太刀の先端は大魔導の喉元を食い破らんと迫っている。
 必死の思いで、その場から横っ飛び。轟風音が耳元をつんざく。
 己の横を通り過ぎていった実体を所有した剣風を、瞬時に振り返りその姿を視界におさめようとするが、すでにその姿は消え去っていた。
 
 ―――死ぬぞ?

 そんな他人事にしか聞こえない自分の声が脳内に響き渡る。
 地面を強く蹴りつけて、その場から大きく跳び下がった。それと時を同じくして元いた場所に振り下ろされる斬撃。
 大魔導の顔が歪み、安堵の声が漏れる。次の瞬間、旋風となった一陣の二刀の嵐が、息もつかせず連続で叩き込まれた。
 流石の大魔導も素手ではこれは捌けない。瞬時に発動させた不可視の障壁でその尽くを弾き返すが―――。
 
 ピシリ。

 そんな音が聞こえた。
 大魔導の双眸に見られるのは、既に怒りと屈辱ではなかった。その瞳にあったのは焦燥。
 彼の知っている人間を超越した圧倒的な速度。そして、破壊の斬刃。即座に発動させたが故に障壁の強度はそれほどでもないとはいえ、拳銃の弾丸程度なら幾らでも防ぎきる。
 だというのに、その障壁をいとも簡単に破壊しようなど―――人の為せる技ではない。

「―――舐めるなぁあああああああ」

 烈火の咆哮とともに大魔導の瞳が怪しく光る。
 視界に映っていた相馬を焼き尽くさんと、頭の中でイメージした炎が現実に転写され荒れ狂う。
 爆炎に包まれた視界。常人ならば一瞬で骨しか残らない、超高熱。
 しかし、大魔導に何かを焼いた感覚はもたらされなかった。

 背後に回った相馬の小太刀が大魔導の首筋を狙う。白銀の煌きを残し、二閃。
 完全な虚をついた筈だったが、後ろを向きもせず宙を舞って、相馬の攻撃を避ける。
 
 相馬は避けられたにもかかわらず無言で小太刀を月光にかざし、動揺も焦燥も見せず刃を向けた。
 月の光を浴びた小太刀は見るものを魅了するように、怪しく輝く。
 大魔導の血を吸った小太刀は。呪われた妖刀を想像させる。  

 跳躍により、間合いを取った大魔導が血が流れている右手を相馬に向けて振り降ろした。
 空中に飛び散った血液が、鋭利な赤黒い物体へと変化して、四方から相馬を襲撃する。
 ヒュッという短い呼吸音と共に、二刀の刃がそれら全てを弾き落とした。

 その隙に大魔導は相馬から間合いを大幅に取る。
 両手を組み、龍の顎を形作る。瞬間的に雷が纏いつき、稲妻の蛇が相馬を喰らいつくさんと一直線に踊り狂う。
 それが遠く離れた相馬に直撃し弾けた。巻き起こる爆発。そして粉塵。
 普通の人間ならば即死。それこそ跡形すら残さず。しかし、大魔導を襲う悪寒は消え去りはしない。

 ざっという地面を擦る音が聞こえ、そちらを振り向けば相馬が身体を低く、疾走していた。
 一呼吸で間合いを詰め、滑るように小太刀を高く高く斬り上げる。だが、紙一重でその一撃はかわされた。
 だが、無傷というわけではなかった。避け切れなかった小太刀が胸部を僅かに斬りつけ、血が舞い散っていた。
 
 信じられないほどに―――強い。
 
 それが大魔導の下した結論であった。
 はっきりいってこの【状態】の大魔導の近接戦闘の能力はそこまで高くは無い。アンチナンバーズでいうならば五十の相手にも後れを取る程度だろう。
 名前の通り、大魔導の真骨頂は魔術による遠距離攻撃。大多数を一度に葬れる圧倒的な破壊力。
 勿論それをつかうには高度な術式と時間を要する。だが、相馬との戦いはそれこそ一秒でも気を抜けば死んでいても可笑しくは無い。
 相馬を人間と甘く見て、近接戦で始末しようと戦いの口火を切ってしまった大魔導の行為こそが、愚行であったのだ。 
 最も、ただの人間でここまで強き者などいるはずがないと思っても仕方ないだろう。百年以上の時を生きる大魔導でさえも、これまで出会ったことは無かったのだから。

 だが―――完成した。

「……終わりだ」

 ニィと口元を嗜虐で歪めた大魔導が己へと追撃を放たんと、さらに踏み込んできた相馬に狂える表情を向けた。
 それを疑問に思わない相馬が小太刀を振り下ろそうとしたその時、大地に流された大魔導の血が描いていた―――五芒星が耳障りな音をたてる。
 赤黒い血液が発光し、その中心にいるのは相馬。天まで届けと、赤柱を作り出していた。
 普通ではない事態だというのに、相馬は一切顔色を変えない。いや、むしろ大魔導を馬鹿にしたかのような狂った三日月の笑み。

「―――ああ。お前がな」

 大魔導の感知結界に突如現れた気配。それも出現した場所は己のすぐ後方だった。
 放たれた猟犬が如く、黒い服を身に纏った少女が相馬に匹敵する速度で小太刀を煌めかせ、大魔導を強襲する。
 相馬と同じ黒い髪。セミロングとでもいうべき長さだ。相馬とどことなく似ている面影で、十三か、四程度に見える幼顔の少女。
 少女の口元には、楽しげな笑みを浮かべ―――スピードに乗った小太刀が大魔導の背中を抉り貫かんと放たれた。
 その速度。その技の美しさ。その容赦の無さ。少女の動きは、それら全てが相馬の姿と重なり、大魔導をして思考の空白を作り出すほどであった。

 コンマ一秒の時で我を取り戻した大魔導が、後方の少女に対応しようとしたが、そのためには相馬に対してかけている魔術を中断しなければならない。
 もし相馬が赤柱を恐れて、自分の命惜しさにその場から逃げていれば少女に十分対処できただろう。だが、相馬は自分の命が脅かされているというのに、逃げる行為よりも大魔導に斬りかかるということを優先した。
 その捨て身ともいえる行動を平然と選択できる相馬に僅かな恐れを感じる。相馬を魔術で打ち倒したとしても、その後すぐに少女の刀によって貫かれる。かといって、少女に対処しようものなら相馬は何の躊躇いもなく大魔導を切り捨てるだろう。
 攻撃を諦めて障壁で防ごうにも、この二人ならば即席の防御結界などあっさりと破壊してくるという予感もある。

 大魔導の見える世界が全てスローモーションになった。走馬灯というやつだろうか。
 相馬が血界魔術を潜り抜け、小太刀を振り下ろしてくる。少女が心臓をめがけて体ごと体当たりをしてくる勢いで突きを放つ。
 逃れられない。二人の攻撃をよけることは不可能だ。避けることができたとしてもそれは片方のみ。もう片方の刃をくらい、後は二人の連続攻撃で沈められるのは火を見るよりも明らか。

 このタイミングを相馬は狙っていたのだ。最初に現れた自分だけに大魔導の注意をひかせるため。
 そして少女は気配を隠し、大魔導を確実に仕留めることができるこの時まで息を殺していた。
  
 つまり単純な話―――大魔導は詰んでいた。

 死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。
 ただの二人の人間に殺される。アンチナンバーズのⅩが。数多に存在する人外達の頂点に位置する怪物が。あの―――完全にして完璧の、全ての魔導を極めた王の唯一の弟子が。
 魔術もろくに使えぬ、人間ごときに滅せられるのだ。そんな馬鹿な話があっていいものか。認められるものか。
 下らぬプライドなど捨ててしまえ。己の持つ全力で捻りつぶせ。圧倒的という言葉を見せつけてやれ。

「―――ジ・アース」

 夜の闇を塗りつぶす、光り輝く太陽の輝きが大魔導を塗りつぶす。
 相馬と少女の目を焼き尽くすように、発光する。だが、二人は何の容赦もなく小太刀をふるった。対象を殺す、という点において二人は決してぶれることはない鋼の意思をもっているのだ。
 たとえどんな魔術を使おうとも斬ることができる。そう判断していた二人だったが―――。

 ギュィン。 

 大魔導の頭を叩き割ろうと相馬の小太刀が、心臓を貫こうとしていた少女の小太刀が、不気味な音をたてて、【弾かれた】。
 冷静な二人の目が大きく見開かれる。不可視の障壁だったならばまだわかる。だが、二人の小太刀は大魔導が纏った金色のオーラともいうべきモノに阻まれて肉体に届くことなく弾かれたのだ。
 驚いたのは一瞬で、二人は頭を、喉を、腕を、胸を、腹を、腰を、太腿を、脹脛を―――竜巻の如く続く乱斬で斬りつけ続ける。
 しかし、十秒にも続く時間二人合わせて百を超える刃の嵐はその全てが、大魔導に届くことはなかった。

「―――いい夢が見れたか?」

 光が浸食を開始した。

「―――ただの人間がアンチナンバーズのⅩ。大魔導を死の淵に立たせることができたんだ」

 禍々しい。そうとしか言い様のない、不吉な光。

「―――それを土産として、魔道冥府に堕ちろ」 

 次の瞬間、大魔導の姿が消失した。すくなくとも少女の知覚できる速度ではなかった。神速をも凌駕する疾風迅雷。
 気が付いたその時、少女の背後から大魔導が拳をやんわりと腰にあてて……。

「……っ宴(うたげ)!!」

 ドンという横からの衝撃を受けて一回転、即座に体勢を立て直した宴が見たものは、自分のかわりに大魔導に腹部を殴り飛ばされた父の、相馬の姿であった
 ポーンとボールを放るかのように数メートルは吹き飛ばされ、放物線を描き地面に叩きつけられる。
 痛々しい音をたてて地面におちる、と思われたその時に、相馬は強引に足を地面に向けて着地するが、ごほっと咳をして道路を血で染め上げた。
 一撃で殺せなかったことに大魔導は素直に驚いていた。相馬は宴を庇いつつも、拳が着弾する間際に後方へと身体を逃がし、威力を殺していたのだ。
 
「とーさま!?」

 宴は自分の身代わりになった相馬に驚き、声をあげた。
 だが、流石と言うべきか視線も意識も大魔導に向けたままだ。自分や相馬を遥かに超えた音の如き速さ。
 何時の間に背後に回られたのか全く気づかなかった。先程までは自分達二人ならば打倒することは容易いと思っていた宴は、相手のあまりの変貌に驚愕を隠せない。
 
 相馬と宴は知らぬことだが、大魔導が使用した魔術はジ・アースと銘々された禁術。
 全ての魔術を極めたと称された、かのアンチナンバーズⅣの魔導王でさえも例外的に修得できなかった四術の一つ。
 周囲一帯の大地の龍脈の力を吸収し、身体に纏い絶対防御を作り出す。その副次効果として身体強化と感覚強化を得られる―――しかも、驚異的といってもいいほどの。伝承級を除く全てのアンチナンバーズを凌駕することができるほどの。

 ようするにジ・アースとは―――【最強】の時間を作り出す魔術。

 集中力を切らさず、意識を目の前に向け、視線を大魔導から離さなかった宴だったが……それでも無理だった。
 人間を、人外を超越した魔人が宴の間合いに音もなく、気配もなく踏み込み、掌を彼女の顔に向けていた。宴が気づいた時には既に視界が大魔導の手に覆われていた時だった。

 死んだ。

 宴は率直にそう思う。それほどの死の予感が頭の中で警鐘を鳴らし、響き渡った。
 それでも、宴は身動き一つ取る事ができない。それにもはや、無駄なことだ。どんな動きをしようとも、間に合わず死ぬだけだ。
 生を諦めたくはない。剣と相馬しかない短い人生だったが、これから楽しいことがきっとあるはずだ。
 相馬が語った親戚―――不破恭也。話だけしか聞いたことがないが、彼に会いたい。あの相馬が認めた剣士に会ってみたい。 
 
「―――死にたく、ない」
「―――ああ、嫌といっても、死なせん」

 爆発音と錯覚するほどの音が宴の背後で聞こえた時には、眼前にいた筈の大魔導がビデオのリプレイを見るかの如く、先程の相馬と同じように吹き飛ばされていた。
 大魔導の両手両脚に同時に斬撃を与えた。しかも、それはコンマ一秒の差もなく同時。  
 痛みはない。衝撃もほぼ無かった。大魔導は吹き飛ばされたのではなく、自分から後退したということだ。
 それはまるで相馬の気迫に押されたということで―――大魔導は驚嘆を禁じ得ない。

 良く見なくても相馬の身体は既に戦闘という行為を行う上で半分ほどの力しかだせない状態だろう。
 だというのに、万全の状態以上の速度で間合いを詰め、宴を庇いながらも、大魔導をひかせるほどの斬撃と重圧を放っていたのだ。
 口元を血で濡らしながらも、宴を庇い前に出る。勝ち目などないというのは分かっているのに、相馬の目には諦めの色など全く無かった。

「……お前みたいな奴は、厄介だな」

 魔導王の経験上、相馬のような目をした敵は非常に戦いづらい。
 大概がこちらの想像を超える結果を作り出す。どれだけの差を知っても諦観しない、不沈の意思。
 どんな状態からでも逆転の一撃を考えてくる。不撓不屈の戦士。

「だからこそ、お前はここで死ね」

 大魔導が発するは死刑宣告。
 相馬を敵と認め、ここで殺さなくては将来において必ず自分を躓かせる路傍の石となる、という確信を得ていた。
 対する相馬はゆっくりと確実に這いよってくる死に対して焦りを感じていた。それは自分への死が迫っているから感じているのではない。
 戦いの果てに自分が死ぬのは構わない。これまでの人生を振り返るとろくでもない死に方をするのは分かっていた。
 だが、娘の宴だけは何としても―――。

 相馬が迷っているその時、神風が吹いた。
 超圧縮された高熱の砲撃が奇妙な音をたてながら魔導王を飲み込んだ。そのままエネルギーの波は建物を破壊し、抉り、消滅させながら相馬と宴の視界から消えていった。
 超圧縮砲が放たれた方向を見れば、そこにいたのは茶髪を短く切った少女。その背中には褐色に輝く対の翼が輝いていた。
 並の人間ならば跡形なく消滅させれたであろう砲撃だったが、大魔導はまるで堪えていないように先ほどまでの場所から動いてはいない。
 大魔導は興味のない瞳で少女を見ていたが、邪魔者は先に消そうと思ったのか、少女の方へ一歩踏み込もうとしたその時―――。

「【ツインブレイズ】!!」

 建物の影から飛び出してきた双剣使い―――純白の翼を背に生やしたツヴェルフが両手に持った刃で大魔導を切り刻む。
 相馬には劣るが、その速度は常人では視認も難しい。都合七回。それだけの斬撃を繰り出していたツヴェルフだったが手に伝わる感触は、分厚い鋼鉄に刃を振るったのと同じもの。
 目障りな蠅を追い払おうと大魔導が舌打ちをして、ツヴェルフに拳を向けようとするが、それを邪魔するように、傍にあった建物の二階の窓ガラスを打ち破って、赤髪の少女が飛び降りてきた。
 
「ブレイクゥウウウウウウ・ライナァアアアアアアアアア!!」

 街に響く甲高い声。だが、それには揺るぎない闘志が込められていた。
 赤髪の少女の背に輝くのは緑色のリアーフィン。少女の両手には深緑に染まった籠手がはめられている。
 間断なく叩き込まれる嵐の連打。凄まじい音をたてて大魔導を打ち据えるも、連打全てが黄金のオーラに弾かれて届かない。
 また増えたのか、と大魔導が呟くのが聞こえたが、そこには三人を脅威と見ていない落胆の響きがあった。

「―――安心しろ、私で最後だ」
「……っ!?」

 魔導王の体に纏いつく黄金と似た金色の煌めきが飛翔する。
 一直線に、空間を走り抜けていくのはナンバーズ最強のHGS―――ドライ。
 金色の翼を背に輝かせながら、三人とは比較にならない超音速で大魔導に突撃し、その場から遥か彼方へと弾き飛ばした。
 吹き飛ばされた大魔導は体勢を整えるも、ダメージは一切無い。
    
「油断するなよ―――アハト。ノイン。ツヴェルフ」
「うん。わかってる」
「任せてくれよ、ドライ姉」
「了解しました。ドライ姉様」

 茶髪の少女アハトは三人に守られるように大魔導から最も遠い間合いを保つ。赤髪の少女ノインは両手の手甲をガンとぶつけ合い、気合をいれる。ツヴェルフは双剣を構え感情の無い視線を向けていた。
 最も前線に立つのはドライ。かつてアンチナンバーズのⅩⅩⅩ(30)を単騎で撃破した―――ナンバーズの最終兵器。

 ナンバーズの数字持ちが四人。大魔導といえど、流石にこのような経験は無い。
 大魔導は数字持ちの真意を探る視線で四人を窺うが―――それを好機を見た相馬が宴の手を引っ張りその場から即座に離脱した。
 まさか逃亡するとは思っていなかった大魔導から遠ざかっていく相馬の背中。
 ここで殺さなければならない。そう決めていた大魔導だったが、まずは四人の数字持ちを片付けなければ、追う事も出来ない。

「―――覚えたぞ、お前の顔を!!お前の魂の色を!!例えどれだけ離れても―――必ずお前は殺す!!」

 遠ざかっていく相馬と宴に大魔導の咆哮が聞こえた。深い怨念。憎悪。決意。様々な負の感情が込められたそれは。相馬の背中に鳥肌をたたせるに十分なものであった。
 街を駆け抜け、ひたすらに走り続ける。既に遠くなった街から大きな破壊音が聞こえた。まだあそこでは魔導王とナンバーズの数字持ちによる激戦が続けられているのだろう。
 ぜぇぜぇと呼吸を乱す相馬を心配そうに見る宴だったが、感じた素朴な質問を父にぶつける。

「おとーさま。何であの人たちと協力して戦わなかったの?」

 それが納得できなかった。
 あの相馬が怪我をしているとはいえ、即座に逃げの一手を取るなど信じられない。
 確かに強い敵だったが、あの四人と協力して戦えばまだ勝ちの目はあったかもしれない。

「……無理だ。例え六人がかりだろうが、アレには勝てん」
「それほどに、強いの?」
「……あの黄金のオーラに包まれている限り、勝ち目はない」

 悔し気に表情を歪めた相馬が敗北を認めることに宴は驚いた。
 だが、確かにそうだ。力も速度も桁が違ったがそれよりも厄介なのがあの黄金の闘気。如何なる斬撃、打撃、砲撃も無効化する絶対防御をどうにかしない限りは勝利は無い。
 二人の間を沈黙が支配する。そして数分たった後相馬は―――。

「……日本へ、行くぞ」 

 転がるように運命は廻り続ける。
 強き者達は高町恭也の運命に従うように集い始める。
 全ての始まりにして終わりの地。運命の場所。それは海鳴―――。























 四月の下旬に入りかかった週末の土曜日。隔週で土曜日は休みというゆとり教育も吃驚の方針を採っているのが風芽丘学園だ。
 参加メンバーの都合が意外にもあっさりとつき、花見をしようと提案した週の土曜日に開催となった。
 幸いなことに天気も快晴。高町家の庭に面した縁側に座りながら、高町恭也は雲ひとつ無い空を見上げている。
 
 湯飲みに入ったお茶を啜りながら、恭也は珍しく日向ぼっこを楽しんでいた。
 他の高町の住人はというと、桃子とフィアッセは花見に持っていく物を準備中。晶とレンは腕によりをかけて和中のお弁当作り。
 なのはは高町家で最も機械に強いためデジカメ等を用意している。そして美由希はというと―――料理を手伝おうとしたため抜け出せないように縛って空き部屋に放り込んでおいたところだ。
 それが今さっきの出来事。酷いと思うかもしれないが、これはある意味打倒な対処方法である。
 
 まるで時の流れがゆっくりとなった錯覚。
 平和なひと時を恭也は縁側で過ごしていたのだが―――。

 ……ゾク。

 恭也の背中に、畏怖という名の冷たい塊を入れられ、這いずり回る。
 煌々と照らす太陽が翳った気がした。世界がまるで日食で暗闇に包まれたかのような幻覚。
 原始的で生物が必ず持っている根源的な恐怖。初めて子供が夜の闇へと足を踏みだす、絶望感。
 普通の人間ならばこの気配にあてられて気を失うだろう。それなりに腕が立つものであっても、身動きが縛られるだろう。それが例えレンや晶クラスであったとしても―――それほどに桁外れの深き闇の重圧。

 深い闇色に蠢く気配を漂わせている【何か】が、恭也の直ぐ後ろの襖を一枚隔てた部屋にいる。
 そして、恭也をじっと見つめている。恭也を押し潰してこようとするほど重い視線だった。

 この気配にレンも晶も気づいているだろう。それでも、その場から動くことは出来ない。
 超圧的な気配で、二人をこの場所に近づけないようにしているのだ。恐らくは―――恭也と話をするために。
 それを為している人物。まさかとは思ったが、まさかこんな真昼間に、しかもこんな人気のある場所で【彼女】がでてくるとは、恭也とて想像だにしていない。
 何故ならば【彼女】に会うのは実に十年ぶりになるのだから。

「―――お久しぶりです」
「……久しいのう。不破の小倅」

 女性の短い言葉には様々な感情が付随していた。
 歓喜。安堵。幸福。そして、抑え切れない懐古。随分と懐かしい。滅多に【表】にでることはなかった【人】だったが、恭也に会った時は何故か気にかけてくれていた。
 冷静沈着に見える女性ではあったが、実は熱く燃えている魂を宿しているのだと、恭也は知っていた。

「貴女が【表】に出てこれるということは―――既に美由希はそれほどに?」
「そうよのう……信じられんことじゃが、齢十五で可能とする者は長きに渡る御神宗家とて、初めてよ」
「―――そうですか」

 ふぅとため息をついた恭也だったが、その吐息には隠しようの無い喜びが混じっていた。
 自分が手塩にかけて育ててきた美由希が、【彼女】に賞賛される。これほど嬉しいことも久しくない。
 襖の向こうで【彼女】が、コロコロと鈴の鳴るような声で笑っていた。勿論恭也を馬鹿にする笑いではない。含みのある笑い声でもない。

「―――妾が出てきたのはもう一つお主に伝えたいことがあったからよ」
「伝えたいこと、ですか?」
「うむ。お主の身体から古い知り合いの匂いがしたからのう。それが気になって半ば無理矢理にでてきてしもうた」
「……匂いですか」

 クンと自分の腕の匂いを嗅いでみるが、そんな香りは全くしない。
 基本的に恭也は無臭にちかい。何か他の匂いや他人の匂いが染み付いていたら自分で気づきそうなものだが、首を捻る。

「普通では気づかぬよ。妾とて気づいたのはほんの一瞬。奇跡といっても良い。まさか再び我が姉の匂いをかぐことになるとは」
「……姉?」

 これは流石に疑問に思わざるを得ない。
 【彼女】が生きていたのは数百年前と聞く。御神流の開祖。御神宗家に宿る者。御神流を体現した者。永全不動八門の頂点。
 数多の名で呼ばれ、永全不動八門でも当主かそれに近しい者にしか知られていない【彼女】。
 その彼女の【姉】の匂いを感じたという。つまりそれは、数百歳を超えるということだ。そんな相手に会ったかと記憶を辿るが、思い当たる節は無い。

「―――水無月殺音。彼奴は二代目猫神という話は聞いておろう?あ奴の残り香がお主から匂ったわ。そしてそれに伴って我が姉―――初代猫神の香りがしおった」
「初代猫神が……?」

 きょとんとした恭也は相変わらず振り返らず、空を見上げながら問い返す。
 水無月殺音が十数年前に二代目猫神となったのは知っていたが、初代猫神が【彼女】の姉だという。
 一説によれば、確かに初代猫神は天眼と同じく最古参の魔人。六百年近くを生きた怪猫だという。確かにそれならば年月の説明はつくが……。

「疑問がありありとでておるぞ?まぁ、妾と姉は実際には血は繋がっておらぬよ。血の繋がらぬ―――姉。随分と世話になった相手よ」
「それは初耳でした」
「特に語ることでもなかったからのう。だが―――その匂いで姉を思い出して良かった。随分と昔の約束を忘れかけておった」

 ふふっと懐かしそうに【彼女】は笑っていた。
 昔を思い出していたのだろう。数百年を生きる【彼女】らしい、どことなく疲れたような、嬉しいような何かを滲ませている。

「『天眼にだけは、気をつけろ。決して心を許すな。全力を持って殺しきれ。奴の無限に続く輪廻を【お前】こそが断ち切れ』―――。それこそが【あの人】の残した遺言だったよ」
「遺言ですか?それとあの人?」

 【彼女】がいう、遺言。そしてあの人。
 それが一体何なのか。何を意味しているのか。全くわけがわからない。
 唯一わかることは―――天眼にだけは気をつけろ。こればかりは、言われなくても分かっていることだ。

「我が義理の父にして、我が師。その人の遺言だったのだよ。いつか遠い未来。忘れる頃の年月の果てに、自分と同じ名前を持つ者が現れ、この遺言を語るに相応しい剣士ならば、そう伝えてくれという約束」
「……師!?」

 恭也が普段とは異なる素っ頓狂な声をあげてしまった。今日だけで何度驚かされることだろうか。
 それもそうだろう。御神宗家に言い伝えられる【彼女】の伝説は、御神流の開祖。歴代最強の御神の剣士。
 伝説も、御神宗家の人間達も【彼女】こそがそうだと伝えていた。だというのに、その本人の口から御神流の創始者は自分ではないと言い切ってしまったのだから。

「お主も不思議と思わなかったのかのう?御神流は凡そ六百年も昔に創始されたが―――それほどの昔だというのに【完成】されすぎておる、と」
「……」 

 それは恭也も何度も考えたことではあった。
 御神真刀流小太刀二刀術―――その中の基本である斬、徹、貫。奥義の数々。そして、神速。
 それらは数百年に渡る年月で付け加えられたものではなく、その全ては創始された時から存在していた。
 御神流はあまりにも完璧すぎたのだ。付け加えることが無いほどに、完全な剣術として六百年前から伝えられてきた。
 信じられないことに、【彼女】が一代で考え、御神の一族に継承させたのだ。そんなことが可能なのか、と怪しむこともあったが、【彼女】ならば可能かもしれないと無理矢理納得していたところもあったのだ。

「妾も所詮受け継いだに過ぎぬよ―――我が師【剣の頂に立つ者】から。妾が足したところなどない、完成された御神流。最も我が師は自分のことをくれぐれも内密にするよう妾に何度も言っておったから、仕方なく妾が創始したということにしておったのだよ」
「……アンチナバーズのⅠ……剣の頂に立つ者ですか?」
「ふむ。その通りだよ。お主には隠す必要もあるまいて。絶対最強。絶対無敵。絶対不敗。妾でさえも足元に及ばぬ剣士。神速を超えた神速―――【神域】の世界を認識し、そしてさらに―――」

 途中で口をつぐみ、いや、と【彼女】は首を横にふった。
 そこから先は語ることを躊躇っているかのように、沈黙を保つ。
  
「……まぁ、よい。我が父の遺言とは別に妾からも忠告を送ろう。天眼……彼奴にだけは気をつけるのだよ。六百年前から彼奴は何を考えているのかわからん。それに彼奴は―――」 
 
 語ることは語り終え、【彼女】の気配が薄れてゆく。
 再び眠りにつき、来るべき日に備えて深淵で目覚めの時をまつのだろう。
 
「―――妾が必ず殺す」

 恭也でさえ心胆寒からしめるほどの怖気。
 そこに込められた感情は―――六百年という年月の間ひたすらに磨いてきた、完全な殺意。
 一切揺らぐことの無い、ぶれることのない、それだけを目的としていき続ける、御神の亡霊。
 
 【彼女】の気配が完璧に消えてなくなる。
 十年以上あっていなかった【彼女】に会えて嬉しかったのか―――心が軽い。
 既に冷えてしまったが、湯のみに残っているお茶を一気にあおるように飲み干した。
 
 ドタドタと高町家の廊下を走る音が聞こえ、現れたのは晶とレンの二人。
 心底驚いた表情で、恭也の前で止まると身振り手振りで伝えようとするが、無駄に終わる。落ち着こうと二人が深呼吸を繰り返す。

「い、今なんか凄い気配してませんでしたか!?」
「お、お師匠―――だ、だ、誰がきとったんですか!?」
「……古い知り合いだ。気にするな」

 適当な嘘をつこうかと恭也も思ったが、気分ではなかったので潔く真実を述べておく。
 下手に嘘をついて色々と突っ込まれたほうが逆に困る。当然その返答で納得する筈も無い晶とレンだったが、それ以上語ることはないと二人に顔を向けない恭也の背中が語っていた。
 それでも晶はさらに恭也にくってかかろうとするが、それをレンが止める。無論ただ止めるだけではなく、自然に鳩尾に一撃を入れている、
 本気には程遠い軽い拳底。だが、綺麗に、流れるような一撃は鳩尾に決まり、腹を押さえて床に蹲った。
 そんな晶の右足を持ちズリズリとリビングに引っ張っていく。
 引き摺られていく晶に少しだけ憐憫を抱きつつも、あっさりと引き下がってくれたレンに感謝する。

「あれ、恭ちゃん。レンと晶が騒いでたけど何かあったの?」 
「―――いや、何もない」

 襖を開けて縁側に出てきたのは美由希だったが、きっちりと縛っていた縄を見事に解いてきている。
 いや、【彼女】が縄抜けをしたのだろう。今の美由希では解けないような縛り方だった筈なのだから。

「……美由希。どうやって縄抜けできたか覚えているか?」
「え?部屋で縄抜けしてたんだけど解けなくて―――気がついたら縄が解けてたからまたやれって言われても厳しいかも」
「―――そうか」

 どうやら記憶までは【彼女】と共有していないようだ。
 かつての【彼女】の宿主である御神琴絵は、自由自在に【彼女】を呼び出すことを可能とし、【表】【裏】のときの記憶までも共有していた。
 つまりはまだまだ美由希は琴絵の域にまで達していないということだろう。恭也の見立てでも、美由希は琴絵に及んではない。
 
「―――お師匠。お茶どうぞ」
「ああ、すまんな」

 気配もなく、レンが湯飲みに湯気が立つほど温かいお茶を淹れて持ってきて、恭也に渡す。
 先程縁側に来た時に、恭也の湯飲みが空になっているのを目ざとく見つけていたのだろう。
 渡された湯飲みを一啜り。口の中に広がる緑茶の味わいと香り―――うまい、と呟く。それに嬉しそうな笑顔をするレン。ほのぼのとした空間がそこにはあった。
 
「あ、レン。お弁当の準備もう終わったの?」
「殆どは終わっとるから、もうちょっとで準備完了やで」
「あれ、そうなの?じゃあ、私も残り少しだけど手伝ってく―――」

 美由希がそんな不吉な言葉を残し背を向けた瞬間に、レンの横で座っていた筈の恭也の姿が消えうせた。
 速いとか、遅いとか、言い表せるような速度ではなく、レンをして恭也の動きに反応することはおろか、視認さえもできなかった。
 美由希でも無理だっただろう。レンを置き去りにした恭也は、一呼吸する前に美由希の背後に移動していて、背中に手刀を打ち込んでいた。
 声もなくバタリと床に倒れふす美由希だったが、倒れた時に初めてレンは恭也の姿を認識することができ、恭也の体勢から美由希を気絶させたのは誰か理解する。

「お師匠、ナイスです」
「……これで食卓の平和は守られた」
「ほなら、うちは最後に一仕事してきますね」
「ああ。弁当を楽しみにしているぞ」
「任せといてください。今日は腕によりをかけてますから」

 レンが縁側から立ち上がり、リビングへと戻っていく。残されたのは恭也と床に倒れている美由希のみ。
 恭也は、美由希を抱き上げると、隣の部屋に連れて行き―――念のため落ちていた縄で美由希をもう一度縛りなおして転がしておく。
 こうして悲劇は事前に回避されることとなった。
 
「きょーやー。ちょっと良い?」
「ん。どうした、かーさん?」

 縛られている美由希とその横に立っている恭也という奇妙な現場に現れた桃子は一瞬だけ怯むが、何事も無かったかのようにスルーする。
 縄を使うなんてマニアックねぇ~という呟きもあったが、恭也は聞かないことにしておいた。

「んー。花見に使う敷物なんだけど……ちょっと小さいかもしれないから買ってきてくれる?」
「ああ、それくらいなら行って来るが。できるだけ早いほうが良いか?」
「そうね……お昼前には着きたいし、申し訳ないんだけどお願いね」
「急いで行って来よう」

 恭也は桃子からお金を預かると、高町家から出て商店街を目指す。
 太陽の光を浴びながら、恭也は遊歩道を半ば急ぎ足で歩いて行く。
 高町家があるここら一帯は住宅街なので、買い物をする場合は商店街にまででていかなければならない。
 それほど離れてもいないため、歩いて十分もかからず商店街に到着し、目的の敷物を購買し、店から出た。土曜ということもあり、商店街には多くの通行人が行き交いをしている。
 この海鳴は相当に大きい街ではあるが、ショッピングセンターやデパート等が展開していないため、買い物がしたい人は電車で都会にでるか、商店街で買い物をするか二択を迫られる。
 海鳴商店街は、寂れているということもなく、今時珍しく繁盛している商店街といえるだろう。大抵の物ならば十分揃えることが可能だ。
 それでも若者はお洒落なショッピングセンターといった方がいいのだろう。電車で遠くへ買い物に行く者も少なくは無い。恭也がこの海鳴に来た当時に比べれば、随分と買い物客が少なくなった印象はうける。

 少なくなったとはいえ相変わらず通行人は多く、商店街の通路は人によって埋まっているといっても良い。
 そんな人混みを器用にすり抜けていく恭也は、あっさりと商店街の出口へと辿り着く。
 高町家へと戻ろうと、その場から離れようとしたその時―――。

「あ、そこのおにーさん。ちょっと道聞きたいんだけどいいかな?」
「はい。構いませんが」

 声をかけられ返事をした恭也が振り返ってみればそこに居たのは三人の少女。
 ナンバーズの数字持ちが一角、ゼクスにズィーベン、ツェーン。年端もいかない少女達全員がスーツ姿をいうのには少しだけ気になるが、それ以外は気にかけることもない―――三人とも一般人とはかけ離れた気配を纏っているを除けば。
 尋常ではない気配を持つ三人に、気づかれない程度の注意を放つ。無論恭也はこの三人がナンバーズの数字持ちということに気づいてはいない。
 そして、三人とも恭也がフュンフの気にかけている相手ということも知らない。三人の任務はあくまで猫神である水無月殺音の監視であり、恭也の情報までは伝えられていないからだ。最も、フュンフ達と合流すれば、恭也の情報も話にあがるのだろうが。

「いやー良かった良かった。この街にきて待ち合わせ場所が全くわかんなくてねー。凄い困ってたところでさ。あ、この場所に行きたいんだけど」

 ゼクスは手に持っていた地図を恭也に近づいていって見せてくる。ほんのりとした香水の匂いが香ってきた。
 恭也に対して何の警戒心も示していないゼクスのことが多少心配になってくるが―――兎に角今は道を教えるべきだろうと判断して地図を見てみるが、成る程場所は遠くないが随分とややこしい道順であった。というか、態と判り辛く裏道を通るように書かれているのではないかと疑ってしまった。
 できるだけわかりやすく道を教えようと頭の中で道順を整理し始める。 

「まずこの商店街を真っ直ぐと突き抜けまして、途中左右に別れますがそこを右へ。暫く真っ直ぐ行きますと右手に喫茶店がありますので、そちらで大丈夫かと思います」
「えっと、ここを真っ直ぐ行って右へ。そこを進んで右手に注意しておけばいいのかな?」
「はい。それで大丈夫です。わからなくなったらまた誰かに聞いていただけたら」
「有難うね、おにーさん。いやーこの街に来て最初に会えたのがおにーさんみたいに良い人でよかった」
「―――感謝する」

 にこにこと笑顔を振りまき、恭也の手を握りぶんぶんと激しく振ってくる。
 悪意はないようなのでとりあえず抵抗らしい抵抗をせずになすがままだ。ズィーベンも素直に感謝の礼を述べたが、ツェーンだけは何も発さず頭を軽く下げただけだ。どことなく緊張しているところが見受けられた。
 ゼクスは、有難うと最後にもう一度残してからズィーベンとツェーンを引き連れて商店街の人混みへと姿を消していった。
 商店街の人波に辟易しつつも、歩いて行く三人。はぐれないようにできるだけゆっくりと歩いている三人だったが―――ふとツェーンが呟いた。

「……今の、ナニ?」
「へ?今のってナニって、それこそ何?」
「……主語をしっかりと入れろ、ツェーン」

 ゼクスとズィーベンがツェーンの質問に不可思議な顔をして答えた。
 その様子に、違和感を感じ取っていたのは自分だけだと気づき、なんでもないとだけ残して沈黙する。
 そんなツェーンの様子に疑問が残るが、それよりも今は待ち合わせ場所を探すほうが大切だ。たいして深く追求するでもなく、二人は前を向き歩き始めた。
 ゼクスとズィーベンにおくれを取らないように付いていくツェーンだったが、心ここにあらず。そんな気持ちに陥っていた。

 ―――何故、おかしいと思わないの?
 
 ツェーンは反射的にそういいたかった。
 あの男を前に何故そんな平然としていられるのか、ツェーンには理解ができなかった。
 心臓が波打ち、膝が笑い出し、立っているのも苦労したほどだ。
 
 頭をさげるのさえも嫌だった。恭也から目を離した瞬間死んでいるのではないか、という恐れが消せれなかったからだ。
 結局のところ、ツェーンが名も知らぬ恭也に対して抱いたのは―――恐怖。それ以外には無かった。
 少し前に戦ったアンチナンバーズのLXXX(80)等子供にしか見えなかった。戦っていたときは恐ろしい相手だとは思ったが、比べ物にならない脅威。
 気配を抑えていた恭也の一端とはいえ、ツェーンはそれを読み取っていた。
 水無月殺音の監視に来てみれば、街を歩いていたただの若者が尋常ではない化け物。ツェーンが今回の任務で海鳴にきたことを心底後悔し始めた瞬間だった。
 
 一方三人の背を見送った恭也はまた見知らぬ強者が海鳴に来たことにため息をつく。
 強い者と戦うことは嫌いではない。むしろ、敵を恭也は求めているが―――生憎あの三人では恭也の敵には成り得ない。
 美由希とならば良い戦いができるだろうが、恭也から見れば全く怖さを感じない。
 ただ一人、茶髪の少女―――ツェーンにはどことなく不思議な感じがしたが、まだ恭也に対する脅威とまではいえない相手ではあった。

 行きよりも早足で高町家へと帰った恭也を待っていたのは既に準備万端な高町家の面々だ。
 集合場所は高町家ではなく、現地集合のため他のメンバーは直接向かっている。といっても、花見をする場所の少し手前で皆集まることにしている。
 ワゴンタイプなので高町家の人数でも割と余裕がある。フィアッセが運転席に乗り込み、助手席に桃子。後部座席には恭也と美由希となのは。その後ろに晶とレンという配置だ。
 なのはは久しぶりの家族全員での外出ということもあり、終始にこにこと笑顔を振りまいていた。
 晶とレンもいつも通りで、手がでる喧嘩には発展しなかったが、口喧嘩を行うのはもはや日常茶飯事。そして、それをなのはに止められるのもまた、高町家の日常だ。口喧嘩では晶とレンはほぼ互角というのもまた、晶にとっては切なくなる事実であるが。

 花見をする場所として神崎那美に紹介されたのは、以外にもそれほど離れてはいない場所であった。
 国守山という場所の中腹。私有地のため一般人は立ち入り禁止となっている地帯ではあるが、絶好の花見場所として海鳴では知られている。
 車で十数分も移動すると、国守山に到着。途中まで道路も整備されているため、そのまま車で登っていく。
 すると大きな駐車場に辿り着き、車を止める。

「おーい、高町ー。こっちだ」

 車から降りて、荷物を出していると恭也を呼ぶ声が聞こえた。
 声がした方向を見てみれば、赤星勇吾が手を振って近づいてきている。振っていない手の方には風呂敷に包まれた大きな寿司桶を持っている。
 差し入れなのだろう。赤星の両親に感謝しつつ、恭也も軽く手を挙げて答えた。

「お、晶ー。待たせた?」 
「レンちゃん、お待たせー」

 続々と集まってくる参加メンバー。
 その時、一台の高級自動車が駐車場に滑り込むようにして停車してきた。
 降りてきたのは月村忍とスーツ姿の女性ノエル。恭也に向かって一礼し、皆に忍のことを頼むと再度車に乗り込み去っていく。
 全員が揃った所で、那美に教えられた場所へと緩やかな坂を上っていき―――多くの桜が花を咲かせる美しい空間に辿り着いた。
 数十を超える桜の木々が、周囲を埋め尽くす。風が吹き、花びらが舞う光景が幻想的で、全員の時を止めるほどであった。

「ええっと……ここらで花見をしましょうか」

 那美の発言で、あまりの美しさに息を呑んでいた皆が動き出す。
 敷物を敷き、レンと晶は自分達が作った弁当を広げる。桃子とフィアッセはデザートを、赤星は持ってきた寿司桶を置く。
 他のメンバーも各々が持ち寄ってきた食べ物飲み物を用意して―――桃子の音頭で花見は始まった。
 
「無礼講だし、桃子さん一番に歌っちゃうわよー!!」
「おぉ!?桃子ー頑張ってー!!」

「最近美由希ちゃん、剣のほうはどうだい?今度良かったら手合わせ願いたいな」
「あ、こちらこそ是非お願いします。勇吾さん」

「この出し巻きちょっと味付け濃いんとちゃう?」
「なんだよー緑亀。お前の作ったエビチリだって辛すぎじゃねーか」
「あーもう、レンちゃん。ほどほどにしてね」
「晶も、あんまり喧嘩するとなのはちゃんに怒られるよ」

「相変わらずあの二人の御飯美味しいわね……なかなかの強敵ね。私も料理の腕を磨かないと……」
「あ、あはは。アリサちゃんも本気モード入っちゃってるのね」

 色々と混沌とした花見が始まる一方、被害を受けぬ様にと、隅っこでちびちびとやっているのは三人。
 恭也と忍、そして那美だ。ちびちびといっても一応は三人とも未成年なのでお酒を飲でいるわけではない。三人の紙コップに入っているのはちゃんとした烏龍茶である。

「今日は誘ってくれて有難うね、高町君」
「いや、こちらこそ来てくれて嬉しい。人数は多いほうが楽しいしな」

 二人とも落ち着いた雰囲気で、とても高校三年生には見えない。
 というか、実際に恭也は一年留年しているため、高校三年生ではないのだが。  
 それでも、二人とも随分と大人びている。特に恭也は老成した雰囲気。大人びた容姿。二十代後半でも恐らく通るだろう。
 忍はそこまで大人に見られないにしても、深窓の令嬢といった雰囲気と容姿。二人並べば誰もが羨むカップルで見られても可笑しくは無い。
 淡々と、だがどこか楽しそうな二人の様子に、那美がおずおずと口を挟む。

「あははー。何か高町先輩と月村先輩って似てますね」
「そう、か?」
「そう、かな?」

 似たような反応をする二人は、互いの返事を聞いて顔を見合わせる。
 意図していないというのに、返事がかぶっている。言われてみれば、と恭也は忍のプライベートのことはわからないので取り合えず教室での姿を思い浮かべる。
 授業中は寝ている。友達が居ない。無口。大人っぽい雰囲気。その他色々。
 
「……確かに、そうだった」

 思い返せば恭也と忍の二人は共通点が多い。
 だからだろうか、恭也が忍のことを放っておけなかったのは。忍も那美に改めて指摘されて納得したのか、一人頷いている。
 
「二人とも知り合ってからどれくらいのお付き合いなんですか?」
「えーと……私と高町君は―――」
「知り合ってから二十年ほどでしょうか」
「に、にじゅうねんですかー!?」

 行き成りとんでも発言をかます恭也に驚いた那美が叫び声をあげる。
 勿論忍も驚いたように恭也へと視線を送るが、恭也は那美に見えないように軽く片目をつぶって合図をする。
 それだけで忍ははっと何かに気づき、恭也の意図を読み取ることに成功した。口元に気づかぬくらいの笑みを僅かに浮かべ、恭也に続く。
 
「実は私たち訳有りで留年しててね。本当は歳は二十を超えているの」
「ええ、そうなんですか?」
「はい。昔からの幼馴染でして。二人で色々と海外や日本を放浪していたことがあって、おかげで未だ二十を超えても高校生をやっています」
「流石に成人しても高校通うのは恥ずかしくて、クラスの人にも話しかけにくくて友達もいないの」
「大変なんですね……」

 恭也と忍の連携攻撃をあっさりと信用する那美。
 最近高町家の人間というか、なのはがしっかりとしてきたためからかえなくなってしまった恭也にとって、ここまで話を頭から信じてくれる那美は貴重な知り合いとなった。
 
「ちょっと、恭ちゃん……那美さんの人が良いからってあんまり嘘は教えないでよ?」
「……ちぃ」
「え?え?え?お二人の話って嘘だったんですかー!?」

 美由希の突っ込みに恭也は舌打ち。那美は恭也と忍の話が作り話だったと知ると、大声をあげて本気で驚いていた。
 二人の話を全く疑っていなかった那美にとっては青天の霹靂。

「あはは。ばれちゃったかー。でも、神咲さんから見たら私も二十過ぎに見えちゃったってことだよね。なかなか複雑な気持ちだね」
「あ、あのあの……月村先輩はとっても大人っぽく見えて……でも、まだ高校生でも全然通ります!!」

 演技で寂しそうな表情をする那美が慌てて、忍をフォローする。
 といっても、高校三年生なので、高校生で通ると言われても全くフォローになっていないのにパニックになっている那美は気づいていない。

「ふふ。冗談だよ、神崎さん。慌ててる神崎さんは―――可愛いね」
「ええええー!?」

 先ほどの翳りのある笑みとは百八十度異なる妖艶ともいえる笑みを浮かべて、忍が怪しく笑う。
 可愛いと言われて、頬を染めながら何度目になる驚きの声を上げた。
 
「で、でしたら二十を超えているのは高町先輩だけなんですよね?」
「……」

 少しだけショックを受ける恭也であった。
 確かに大人びて見えるとはいわれるが、恭也とてまだ十八歳。どうやら那美にとっては恭也は余裕の二十越えに見られるようだ。
 誤解を解きつつ、四人で会話を楽しんでいると恭也の視界の端に見慣れた人物が映る。といっても、何時もとは異なる服装なので、一瞬誰かわからなかった。
 普段の薄汚れたジャージ姿とは別で、そこまで汚れていない服装。といっても、ジャージなのだが。
 家なき子名無しが、桜の木の後ろからじっと花見をしているこちらを覗っていたのだ。いや、正確には恭也を凝視している。

 気づかないふりをすることに決めた恭也だったが、視線は逸れることなく突き刺さったままだ。
 数分も無視を続けていたが、まだ名無しは恭也を見続けている。さすがに少し怖くなってきた恭也だったが、その視線に那美がようやく気付く。

「あれ、名無しさんですね」
「知り合いですか!?」

 本気で驚く恭也に、那美は朗らかに頷く。
 家なき子である名無しと那美に一体どんな接点があるのか、本気で推測できない恭也が珍しく考え込む。
 だが結局思い当たる節はなく、考えることを放棄する恭也だった。

「実は私、八束神社で巫女のアルバイトをしてまして……それで何度か名無しさんに会ったことがありまして」
「八束神社、ですか」
「はい。大分前から働かせてもらってるんですけど。良かったら今度来てくださいね」

 向日葵のような笑顔の那美に、何時もいってますとは即座にいえず、素直に頷いておく。
 恭也達が鍛錬で八束神社を使用するのは夜が多いため、これまでは那美に会えなかったのだろう。確かに昼間にあの神社を利用したことはなかった。
 そういえば、八束神社には可愛い巫女さんがいるという噂を最近きいていたが、それは那美のことだったのかと恭也は納得した。
 那美の見かけは、それこそ綺麗どころが集まる高町ファミリーの中でも負けず劣らず可愛らしい。美人というよりは、可愛いというほうがしっくりくるタイプだ。
 そんな話をしているといつの間にか名無しからの視線がなくなっているのに気づき、顔を向けてみれば桜の影に隠れていたはずの名無しの姿が消えている。
 ふと遠くを見ると、とぼとぼと歩き去っていく後姿。どことなく哀愁が漂っている。次会った時には少しだけ優しくしようと恭也は決めた。
 
 そんなこんなでいつの間にかお弁当やデザートも無くなり、宴もたけなわ。
 ゴミだけは気を付けないといけないので、皆で片付けをしっかりして、車が停めてある駐車場にまで戻っていく。
 レンと晶の友達は自転車できていたようで、そのまま帰宅していった。ここから其々の家までそんなにかからないという。荷物があるから高町家も車で来たが、たしかに恭也や美由希ならば走ってでも来れる距離である。
 赤星は原付できていたので、挨拶をして実家の方に戻ると言い残して去って行った。実家が寿司屋なので、今日はこれから家業を手伝うとか。
 那美はさざなみ寮というお世話になっている寮に帰り、高町家の面々も車で帰宅していき、残ったのは迎えの車待ちである忍と―――それに付き合っている恭也の二人だけであった。

 このままここで待つのも手持無沙汰ということもあり、恭也と忍はぶらぶらと歩き始める。
 坂を下り、国守山から降りると、ゆっくりと海鳴駅を目指す。忍がそこで迎えの車と待ち合わせることにしたらしい。
 
「今日は無理に誘ってすまなかった」
「ううん。楽しかったよ―――こんなに楽しくていいのかな、って思うくらいに」
「―――そうか」

 心の底からそう思っているのだろう。
 少なくとも恭也は忍の言葉に嘘を感じることはできなかった。
 二人の間にしばしの静寂が満ちる。しかし、それは居心地が悪い静寂ではない。
 一年二年のと一緒のクラスだったものの、喋ることはそれほど多くなく、今年になってから随分と話すようにはなった二人。
 付き合いの長さだけを見れば、短いのかもしれない。だけど、他人を寄せ付けない二人は不思議とうまが合った。友達とはきっとこういうものなのだろう。恭也と忍は言葉には出さないが、自然とそんな思いが浮かび上がってきていた。

 道と街路樹しかなかなかった歩道も次第に家が増えていき、家から店々。海鳴駅に近づくに従って人の流れも多くなり段々と都会になってくる。
 実際に歩いた時間は三十分もなかっただろう。意外にも駅まで早くつくことができた。それも随分とゆっくり歩いたにもかかわらず。
 土曜の夕方近くということもあいまって、人通りは多い。それに車も普段より遥かに多く行き交いしていた。恭也と忍がロータリーに到着して待っている車のなかで、ノエルが迎えに来た車を探していたが、どうやら早めに到着したようでロータリーで停めてある車の中でも前方に停車していたようだ。
そちらに行くには遠くまで迂回をするか、直ぐ近くにある歩道橋を渡るかの二択である。道路を渡ろうにも車の交通が多く、渡ることは危険だ。
 仕方なく傍にある歩道橋を利用することにした二人は歩道橋を上り、渡っていく。その途中で忍の携帯電話が音を鳴らす。

「あ、さくらからか。久しぶりかも」

 当然知り合いからだったようで、着信画面を見て忍が微笑む。
 どうやら仲の良い相手なのだろう。かすかに見せる笑顔もどことなく柔らかい。

「ごめんね、高町君。少しでてもいいかな?」
「ああ。別に構わないさ」

 申し訳なさそうに謝って来る忍に首を振って答える。
 電話の邪魔をしないために、先に歩道橋をおりる恭也。傍にいては込み入った話も出来ないだろうと判断したからだ。
 階段の下で忍を待つ恭也の耳に大きく話しているわけではないが忍の電話の声も僅かに入ってくる。意識的にその声を遮断する恭也だったが、少しだけ妙な気配を感じた。
 敵意というべきだろうか。負の感情の塊のような嫌な気配。しかし、気配はあまりにも薄い。気づくのが一瞬だが遅れた。その標的は恭也ではなく―――忍なのもそれに拍車をかけただろう。

「―――あっ」  

 歩道橋の階段の上。そこで電話が終わったのか通話を切ったばかりの忍が驚きの声をあげ、足を滑らせ、そこから墜落する姿が見える。その忍の姿がスローモーションにも見えた。
 このまま落ちれば怪我をするのは間違いなく、下手をすれば大怪我を負うのは間違いない状況だ。
 普通の人間ならばあまりに突然のことのため反応できず身動きとれなかっただろうが、恭也の反応は素早かった。
 足を滑らせる前にダンッと激しい音をたてて地面を蹴りつける。
 恭也自身も歩道橋の階段のすぐそばにいたこともあっただろう。忍が転がり落ちるよりなおはやく、階段の中腹までかけあがり、落ちる前の忍を受け止めた。
 女性とはいえ人間一人の衝撃は軽いものではなく、仰け反りそうにはなったがその場から一歩も動かずに耐える恭也。

「大丈夫、か?」 
「あ、あれ……?」

 激しい痛みを予想して目をつぶっていた忍はいつまでたっても痛みが来ないのを不思議におもったところ、あけてみれば視界一杯に広がるのは厚い胸板。
 少し視線を上げてみると、恭也と視線があった。これまでで一番近い恭也の顔に、固まってしまう忍だったが、心配する恭也の言葉に我を取り戻し、慌てて階段に足をつけて離れた。珍しいことに忍の顔がさぁっと朱に染まる。
 また足を踏み筈さないように、二人は階段からおりていく。幸いに歩道橋を利用している人間はおらず、騒ぎになることもなかった。

「あの―――有難う」
「いや、気にするな」

 おずおずと礼を述べる忍にたいしたことでもないというように答えた恭也だったが、先程の足を滑らせた光景を思い出す。
 恭也の位置からでは忍が足を滑らせたとしかみえなかった。だが、違う。あの時、確かに誰かが忍の背を押したのだ。恐らくは、月村安次郎の手の者だろうか。
 油断していなかったら嘘になるが、まさか人の多いこんな駅前で強引な手段にでるとは思ってもいなかった。切羽詰ってきているのか、嫌な予感が恭也を支配してくる。
 もしかしたら、これからはこれ以上のことも行ってくるかもしれない。大怪我程度で済まない事態に陥ってくるかもしれない。
 身内の出来事だからといって恭也とて黙ってみているのにも―――限界がある。

「一度目は、四月五日の夜の海鳴駅。二度目は始業式の日の夜の暴走車。三度目は―――今。一度や二度ならば偶然で済ませれるかもしれないが、三度目はもはや必然だ」
「……え?」
「月村。誰かに狙われているな?」
「……っ!!」

 確信を持った恭也の問いに、忍が驚きを隠せず目を大きく見開いた。
 真剣な表情と声色で、嘘を許さない強さが恭也の言葉には込められている。

「なんの……こと?」
「とぼけなくてもいい。俺が知る限りだけで、月村が危害を加えられそうになったことが三度ある。実際にはもっと多いんじゃないか?」
「……」
「それで、だ。一つ提案がある。俺を雇わないか?」
「高町君を雇う?」

 恭也の意外すぎる発言に忍がその言葉を繰り返す。
 それに力強く頷き、真剣な表情で続ける。

「俺の父は護衛の仕事をしていたんだが、その時のツテで俺も時々護衛の仕事をまわされているんだ。自分で言うのもなんだがそれなりに、できると自負はしている。もし良かったら月村の手助けをさせて欲しい」
「でも……」
「不安なのもわかる。だけど―――月村が良かったら俺を頼ってくれたら嬉しい」
「本当に、いいの?」
「俺から言い出したことだ。遠慮はしないでくれ」

 忍は恭也の提案に対して返事に窮していた。
 恭也の推測どおり、忍は度々身を狙われている。去年までは正直な話それほど多くはなかったが、四月に入ってからその数は右肩上がりで増えていっている。
 
 犯人は分かっている。犯人の狙いも分かってはいる。それでも相手は確たる証拠も残していないため法的手段に訴えることも出来ない。
 命を奪うことが目的ではなく、あくまで脅し目的。だとしても、仮に恭也に護衛を頼んだとしても、危険なことに変わりはない。
 恭也が嘘をつくことはないだろう。しかもこんな真面目な雰囲気の時に。本人の言うとおり、それなりに強いのかもしれないが、相手が悪いのではと忍は考える。
 すぐに拒否できなかったのは簡単な話だ。月村忍は幼い頃に両親と死に別れ、一人で過ごしてきた。ノエルという侍従ができてかわったとはいえ、それでも友に、人の温もりに飢えていた。
 ここで恭也の申し出を断ることは、忍には出来なかった。恭也とともにいられることが―――忍にとって何よりも嬉しかったのだ。 
 
「でも、雇うのならお金払わないとね。幾ら位必要かな?」
「そうだな。昼御飯を一回奢ってくれればいいさ」
「……安くない?」
「【友達】のためだ。高いくらいさ」
「―――っありが、とう」

 喉が詰まった。目頭が熱い。涙がでそうになるのを必死に抑える。
 どれくらいぶりになるだろう。月村忍は―――静かに、深く、神と恭也に感謝した。










 



[30788] 八章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/03/02 00:56



「っせい!!」
「……」

 美由希の気合とともに両者の小太刀が激突し、甲高い音が木々の間で反響した。
 花見の翌日、日曜日ということもあり朝から昼間にかけて八束神社の裏手の森で鍛錬に励む恭也と美由希。
 二人の鍛錬を見ている者がいたら首を捻ったかもしれない。美由希は小太刀の真剣を二刀使っているが、恭也は木刀。しかも一本だけしか使っていない。
 
 見ている者が不思議に思うかもしれないが、両者の間では当たり前のことだった。
 いつ頃からだったろうか。そろそろ二年位になるはずだが、恭也は実戦を想定した試合にも関わらず真剣を使わなくなったのだ。それに対して美由希には小太刀を二本使用させている。
 一度その理由を美由希は問いただしたことがあったが、恭也の返答としては―――抜かせてみせろ。それだけだった。
 それ以来美由希の目標は、恭也に二刀を使わせることになったが、一度として目標には至っていない。
 
「っせぇあ!!」

 美由希は小太刀を真っ向から振り下ろす。恭也はその一撃を半身に身体を開いてかわす。
 それを追って、もう一方を水平に振るうと、短い呼吸音とともに木刀を一閃。小太刀を弾き返す。びりっとした痺れが美由希の腕にはしる。
 恭也の徹は理想に近い。まだ未熟な美由希とは雲泥の差。だというのに、美由希の手には軽い痺れがはしるていどというのはどう見てもおかしい。
 徹を叩き込まれておよそ二年。それはいつまでたってもかわらなかった。つまり、恭也は敢えて美由希と同じ位の完成度で徹をこめているということだ。その妙技にもはや舌を巻くしかない。
 完全に美由希の実力を見切っているからこそできる芸当であり、己の師の実力の底知れなさを再確認できる瞬間でもある。

 手に痺れを残しつつも、猛然と美由希は突撃し、渾身の片手突きを見舞った。
 木刀で切っ先を払い落としながら避ける。美由希は恭也の横を潜り抜けてから身体を捻り、逆袈裟に斬り上げた。
 その軌道を見切っているのか恭也は冷静に半歩だけ動き空振りにさせる。そして、美由希の間合いへと踏み込んでくる。
 危険を感じつつも、後方へ跳びながら牽制のために、一振り。
 踏み込んでくると思っていた恭也は、一旦足を止め、牽制の一撃をやり過ごし、それと同時に打ち下ろし。
 威力が十二分にのった恭也の振り下ろしを一刀では防ぎきれないと判断して両手の小太刀で防御に回る。
 巨大な鉄の塊を受け止めたかのような錯覚。両手の自由を奪うほどの攻撃に唇を噛みながら耐える。
 
 だが、ズンという音と衝撃が鳩尾に叩き込まれる。
 恭也の斬撃を受け止めることには成功したが、右足が容赦なく鳩尾を蹴り貫いていたらしい。
 呼吸ができず、苦しみが支配する。全身から力が抜けていく。
 木刀で小太刀を巻き込むように押さえつけ、上段の回し蹴りで美由希の側頭部を捉えた。美由希がごろごろと地面を転がっていき動かなくなる。
 無論、恭也とて手加減をしている。もし、していなかったら今頃美由希は息をしていないだろう。美由希が気を失う程度の回し蹴りに抑えていた。
 
 恭也は傍にあった大きめの石に腰を下ろし先程の戦いを反芻する。
 美由希は自覚していないようだが、随分と腕を上げていた。それは毎回試合をしている恭也だからこそわかることだ。
 少なくとも恭也の知る限りこの海鳴で美由希に勝てない敵は―――巻島十蔵。水無月殺音。水無月冥。天守翼くらいだろう。
 それ以外に勝ちを拾うのに難しい相手といえば、如月紅葉。鬼頭水面。天守翔。その他の永全不動八門。ナンバーズの数字持ち。リスティ・槙原。

「……結構いる、な」

 改めて考えると海鳴がどれだけ危険度が高い街なのかはっきりと認識できた。
 これだけの人数が戦いを始めたら海鳴が滅びてしまうのではないかと馬鹿げた想像をしたが、それがありえそうで怖い。
 
「お、お前らいつもこんな鍛錬をしているのか?」

 震える声で背後から現れたのは名無しだった。美由希と戦ってる最中に、居るのは気配でわかっていたので放置していたが今回は声をかけてきたようだ。
 あまり人に見せるものではないが、既に何年前かに鍛錬している所は見られていたので今更どうこうということはない。
 美由希との実戦を想定した試合を見られたのは初めてかもしれないが。
     
「ええ。何かおかしいところでも?」
「……い、いやなんでもねぇ」

 自分達がおこなっている鍛錬、試合がどれだけ常軌を逸しているのか理解していない恭也が何の疑問もなく問い返す。
 それに呑まれた名無しは言葉もなく、肯定するしかなかった。
 恭也達はなんて貪欲なのか、と名無しは思う。恭也の美由希もたかが数十年しか生きれぬ人の子だ。やりたいこと、やらなければならないことなど幾らでもあるだろう。
 時間は幾らあってもたりない。だというのに、誰かに誇るためでもなく修練にすべてを費やしている。
 きっと二人にはそうしなければならない確固たる信念があるのだろう。曲がらず、折れず、朽ちずの鉄の意志。
 
「お前達みたいな意思があれば……俺も戦えたんだろうな」

 名無しの皺だらけの顔に自嘲の笑みが浮かんだ。
 友を殺され、我が子同然の者達を目の前で皆殺しにされ、己も半死半生にされたにも関わらず、復讐するでもなく日本のこんな辺境で隠れ過ごしている。
 こんな自分をみたらきっと先に死んだ者達は笑うだろうか。いや、憎むかもしれない。
 それでも―――あの時に刻み込まれた恐怖は今でも心と身体を支配している。
 寝れば夢で思い出す。阿鼻叫喚の地獄絵図を。笑いながら虐殺を続ける狂気と狂喜を撒き散らした破壊と死の化身。
 アンチナンバーズのⅦ。【不死身】の―――百鬼夜行。

「ところで、名無しさんはアンチナンバーズにお詳しいようですが……どちらの組織に属していたのですか?」
「……組織ってほどじゃねーよ。俺が居たのはアンチナンバーズだ。あそこにいた奴らは、群れるなんてことはなかった。ナンバーズとは違ってな」
「アンチナンバーズですか……」
「ああ。昔から人間、夜の一族。どちらもが理不尽に虐げられるのが許せなかった。偽善なんだろうがな。力にものをいわせてどちらとも戦っていたら何時の間にかアンチナンバーズ入りさ」

 名無しは若い頃から無意味な殺しはしてこなかった。どうしても必要に迫られた時のみ命を奪い、世の中の理不尽と戦ってきたのだ。
 確かに恭也から見て、名無しは意味なく人を殺せるようなタイプには見えなかった。そんな名無しの説明に少なからず納得できる。

「お聞きしたいのですが、伝承級。そう呼ばれる化け物達の情報を同じアンチナンバーズに属していた名無しさんならば詳しいことは知りませんか?」
「……俺はもう、数年も前に逃げ出したからな。最近のことはわからないが、それでもよかったら教えてやるよ」
「それでも構いません」

 恭也が迷い無く頷くのを見た名無しは、精神を落ち着けるために煙草を取り出し火をつける。
 煙を吐き出し、律儀にも携帯灰皿に灰を捨てる。意外にも礼儀正しかった。過去を思い出すように遠い目をする名無し。そして、ゆっくりと語り始めた。

「ナンバーⅠの剣の頂に立つ者。こいつは正直よくわからん。なんでも六百年前と三百年前に姿を現したって話だ。その後数十年も経たず姿を消したらしいが。ただし、剣を使わせたら右に出るものはいなかったらしいぜ。あの天眼が何十回も戦っても決着をつけれなかったとか。まぁ、よくわからん」
「六百年前と三百年前?」
「ああ。その二度しかナンバーⅠの座は埋まっていない。別人だったという噂もあったが、あの天眼が認めてしまったんだから仕方ないだろう。で、ナンバーⅡの天眼。こいつはまともそうに見えるが、一番いかれているのは間違いない。外見上は冷静沈着―――冷静にぶっ壊れてやがる。自分の望みのためなら世界を滅ぼしたってなんとも思わない、いかれにいかれた狂人。死神を体現した魔人だ」

 天眼の名前が出た途端、恭也の眉がぴくりと動く。
 五年前に恭也の膝を砕いた張本人。そして、予言を残して去っていった魔人。
 
「ナンバーⅢの執行者……こいつはまぁ、ろくでもない奴だ。人類の数少ない味方だとか言われてるが現在行方不明だってな。まともな奴ではない。卑怯者で臆病者だ。お前が気にする相手でもねーぞ。次は、ナンバーⅣの魔導王か……こいつもよくわからん奴だった。昔から街ごと人間を皆殺しにしていたことがよくあった。殺した人間は数万、或いは十万をこえるかもな。執行者と魔女とその他の奴らの手によって封印されたのが数年前だ」

 伝承級の中ではまだまともと称される執行者に対して何故か厳しい名無しに、首を捻る。
 何か恨みでもあるのだろうか。名無しの言葉には深い怨恨が乗せられていた。
   
「ナンバーⅤの鬼王。こいつは本当かどうか不明だが、夜の一族で最も古い時代から生きているらしい。本人曰く千年の時を生きた鬼だってよ。千年前は随分と派手にやらかしていたみたいだが、今はもう自分の領地からでてこないみたいだ。場所は……確かオーエヤマだかなんだか」
「―――大江山、ですか」
「ああ、そうだ。それだ。大江山。そこが自分の領地みたいだぞ」

 オーエヤマという怪しい発音の単語を聞いて恭也が言い直すと、名無しが得心がいったと相槌を打つ。
 大江山。鬼王。千年前から存在している。
 ばらばらのパズルのピースがかみ合わさっていく。暑くも無いのに汗が頬を伝った。洒落にならないどころの相手ではない。
 最悪を通り越した正真正銘の化け物。怪物。鬼を統べる王。その呼称は決して大袈裟なものではなく、文字通りの意味なのだ。外国人である名無しにとってはピンとこない相手なのかもしれないが、恭也にとっては心当たりがありすぎる。

「ナンバーⅥは【人形遣い】……いや、今は違うのか。二年だか三年だか前に別の奴に変わったらしいな。それじゃあ、俺にはわからん。とばすぞ……ナンバーⅦが百鬼夜行、だ」

 その名前を出した途端、名無しの身体が目に見えてガクガクと震え始めた。
 思い出すだけでも 辛い。そんな名無しの様子に恭也は首を横に振り、説明はいらないと付け加えた。
 ほっとした様子の名無し。一体どれほどの恐怖を刻まれたというのか。いや、確かに目の前でわが子同然の者達をなぶり殺しにされたならば名無しのようになってもおかしくはないのかもしれない。

「で、次は【猫神】だ。今は水無月殺音に代替わりしたか。十年近く前から実質あいつが猫神みたいな扱いだったからな……。先日一目見て分かったぜ……あいつは尋常じゃねぇ。単純な戦闘能力ならば百鬼夜行を凌駕するかもしれん。流石は百年も生きずして、初代を超えたと噂されるだけはある。俺の全盛期でも、多分勝てん」

 それはそうだろう。もしここに百人いたら百人がそう答えただろう。仮にも伝承級。しかも、六百年を生きた怪猫の猫神より強いと自分で述べたというのに、己の全盛期より強いと答えるとは一体どれだけ自分に自信を持っているのか。 
 今では恐怖に震えて戦うことすらできない名無しの言葉に、恭也は意外にも否定はせずに殺音のことを聞いている。もしかしたら単純に名無しの最後のほうの台詞は聞いていなかっただけかもしれない。
 
「最後がナンバーⅨの魔女。こいつは言っちまえば……引きこもりだな。魔術の研究に命をかけているような魔術馬鹿だ。研究所から出ること自体が珍しい。人間にも夜の一族にも興味はなく、自分の生涯は魔術を極めるためだけにあると本気で思っている、別の意味で基地外だ」
「話を聞く限り思ったより……変な輩が多いですね」
「……まぁ、そうだな。実際に直接人間世界に手を出しているのは封印された魔導王を除けば、百鬼夜行くらいか……猫神はここ十年暗殺業は控えてたみたいだしな」
「兎も角、お話を聞かせていただき有難うございました。色々と参考になります」
「へへ……一杯感謝してくれよ?」

 私情たっぷりの話ではあったが、意外にも詳しかった名無しに感謝を忘れない。
 この前無視してしまったため、次ぎ会ったら優しくしようと思っていた恭也は、とりあえず駄目元でふった話題が思いのほか聞ける話だったことに内心驚いていた。
 もしかしたら、名無しはアンチナンバーズでもそれなりに高い数字を与えられていたのだろうか、といぶかしむ。
 
「ところで名無しさんはアンチナンバーズではどの位の数字を与えられていたのですか?」
「……まぁ、口に出すのも恥ずかしいナンバーさ。坊主が気にするほどでもない」

 駄目元で聞いてみたが、どうやら名無しは話したがらないようで、結局教えてはもらえなかった。
 隠されると余計にきになるのが人というものだが、今度は口を貝の如くつむって話そうとはしない心構えだ。
 聞き出すことを諦めた恭也は未だ気を失っている美由希に向き直った。思ったより強く蹴りつけてしまったのか、目を覚ます様子が見受けられない。
 先ほどの鬼王の時に流した汗とは別の意味で汗が流れた。

「ぅぅ……」
「!!」

 焦った途端に、美由希が呻き声をあげる。ふぅ、と恭也からは安堵のため息が漏れた。
 美由希の力量があがってきたため手加減もかなり難しくなってきている。
 単純に美由希を倒すだけならば、恭也には容易い。だが、これはあくまで実践を想定した試合。美由希の力を最大限にまで引き出したうえで戦わねばその意味がない。

「あいたた……師範代、洒落にならないくらい痛かったんだけど」
「まぁ、すまん。少しだけ力を入れすぎた」

 素直に謝る恭也に、美由希が変なものを見る目にかわる。素直すぎる恭也が気味が悪い。
 普段だったら謝るどころか、避けない美由希が悪いと言い返してくるだろうに。
 ふと隣を見ると、そこには先ほどまでいたはずの名無しの姿が無くなっていた。美由希が目を覚ましたから姿を消したのだろうが、見かけによらないフットワークの軽さに驚きを隠せない。

「今日はこれで鍛錬は終わりだ。昼過ぎから予定もあるしな」
「あ、そうだったね。月村さんの家にお呼ばれしてるんだっけ。なのは楽しみにしてたよ」
「ああ。俺も月村の家には行ったことがないから楽しみだ」

 忍から昨日話を聞いたところによると基本的に家にいる時は悪戯電話程度のことしかないらしい。流石に家にまで押しかけて脅迫をすると色々と不味いことになるからだろう。
 外にいるときには昨日のようなことは多い。今まではなんとか怪我もなく過ごせれていたが、これからもそうとは限らない。
 そのため、外にいる時―――主に学校からノエルの車での迎えが来るまでが恭也が護衛する時間となるのだが、できればもしものことを考えて忍の家の様子も見ておきたいと思っていた。
 渡りに船というべきか、それなら日曜日に皆で遊びに来ればいいとお誘いを受けれたので、本日高町家の面々、恭也となのはと晶とレンの四人がお邪魔することになった。
 美由希が行かないのは決していじめられているわけではなく、神咲那美のお世話になっているさざなみ寮に呼ばれているためだからだ。

 美由希は小太刀を鞘におさめ、袋に隠す。
 恭也は木刀なのでごまかしはきくだろうが、もし仮に美由希が職務質問をされて、小太刀を所有しているのがばれたら銃刀法違反で間違いなく捕まるだろう。
 
 八束神社の裏手の森から表へと回ると、昼間ということもあり那美が巫女服姿で境内を掃き掃除をしている所だった。
 恭也と美由希の姿に気づいた那美は、笑顔で二人にかけよってこようとして―――足を引っ掛けてすっ転んだ。
 べちゃという嫌な音をたてて顔をおもいっきり地面に打つ那美。あまりに突然すぎてさしものの恭也といえど助けることは不可能だった。まさか何もないところで転ぶとは予想もしていない。
 
「大丈夫ですか、那美さん?」
「だ、大丈夫です。慣れてますので……」

 慣れてるのか!?と内心驚愕しつつ、恭也も那美の手をとって立ち上がらせる。美由希は土埃で汚れた巫女服を手で払い、綺麗にしていた。
 そんな二人に申し訳なさそうに何度も頭を下げる。その時妙な視線を感じた恭也は、横手に広がる森の方へと注意を払うと、視線の送り主が何なのか気づいた。
 森の手前。木々や雑草が生い茂る場所に、緑とは違った色合いの動物がこちらを覗っていた。
 金色にも見える、黄色の毛に全身を覆われた子狐。つぶらな瞳。本能的に守りたくなる可愛らしさ。
 
「あ、珍しいですね。久遠が私以外の人がいる時に姿を現すなんて」
「久遠、ですか」
「はい。私の友達なんです」

 恭也の視線に気づいたのか、那美が子狐を見て名前を呼ぶ。
 久遠と聞こえていたのだろう。ぴくりと子狐は反応をするも、じっと警戒心を露わにして三人を見つめたまま近寄ってこようとしない。
 美由希もようやく久遠の存在に気づき、うわぁと目を輝かせる。こう見えても小動物が大好きだったりするのだ。

「おいでーおいでー怖くないよー」

 美由希が久遠に呼びかけるも、反応なし。子狐の視線は―――不思議と恭也に固定されていた。
 どうしても触りたい欲求に耐えかねた美由希が一歩久遠に向かって踏み込んだのが、失敗だったのだろうか。
 びくっと大袈裟に反応すると、そのまま森の中へと逃げ去っていく。

「うう……触りたかった……もふもふ」
「あはは。久遠は警戒心が強いですから……慣れるまで暫くかかるかもしれません」

 逃げられたことに肩を落とす美由希だったが、那美のフォローによって立ち直り、次こそはと意気込む。
 確かに恭也としてもあのもふもふとした子狐には触ってみたいと思ったが、あの不思議な視線に首をひねる。
 ただの動物にしては異質な、奇妙な気配を纏っていたからだが、気のせいだろうと考えることにした。
 
 美由希はこのまま那美と一緒にさざなみ寮に行くというので、恭也だけ先に帰ることになったが、鍛錬に熱中するあまり時間がおしている。
 時計を見ると約束の時間までそれほど時は残されていない。普段よりも家路に急ぐように、途中何人か知り合いに会ったが、あいさつ程度にとどめておく。

 高町家に着いたのは約束の時間ぎりぎりだった。もう少し早く訓練を切り上げればよかったと後悔するが、時すでに遅し。
 なのはと晶にレンの三人が門の前で恭也を待っているのが見えた。三人の前に出て行くのはバツが悪いが、これも自業自得かとあきらめる恭也。

 散々三人に注意されてしまったが、そんなことで時間をくうわけにもいかず、教えてもらった忍の住所に向かう。
 恭也一人ならば走った方が速いかもしれないが、今回はほかに三人……しかも運動に関しては全くの才能のないなのはもいるためバスで移動することになった。
 高町家の傍にあるバス停から揺られること十数分。どちらかといえば海鳴の郊外に位置する月村忍の家にやってきたのだが……。
 忍の渡してきた住所と目の前にある家の住所があっているか確認するが、間違ってはいない。
 
「これは……」
「家というよりも……」
「屋敷ちゅーほうが正しいですわ」
「月村さんの家……凄く大きい!!」

 呆然とするのは恭也と晶とレン。素直に驚いているのはなのは。
 だが、驚くのも無理はない。高町家も決して狭くはない、というか一般人にしてみたら信じられないくらい広い。何せ小さいとはいえ、道場に庭に池まであるのだから。
 そんな高町家ですら?比べ物にもならないのが月村邸だ。まずは、入口からすでに違っている。ヨーロッパの方でなら見かける巨大な門。そして屋敷を囲うように広がる鉄の柵。高さも十分にあり、誰かがのぼって侵入できなくなっている。
 門を潜り抜けたらさらに広大な庭だ。普通の家が二十軒は問題なく入るだろう。サッカーだってできそうな大きさだ。
 家の前には綺麗な花壇が見受けられ、剪定された幾つかの木が植えられていた。
 門から真っ直ぐと行った所には玄関があったが、これまた大きな扉が荘厳と恭也達を待ち受けている。
 建物の高さこそ三階建てだが、横幅と奥行きは尋常ではない。はっきりいって観光名所になっても可笑しくはないほどの屋敷だった。
 ぽかんとしている晶とレンを放置して、恭也は門の横についていたインターホンらしきボタンを押す。

『はい。月村ですが』
「遅くなりました。高町です」
『―――お待ちしておりました。只今、開けますのでそのまま真っ直ぐ来られれば玄関に着きます』

 インターホン越しにノエルの抑揚のない声が聞こえ、それと同時に門が音をたててゆっくりと開いていく。
 遠距離操作で開閉可能なのだろう。高町家と比較するまでもない立派さに思わずため息が漏れる。
 呆けている二人の肩を叩き正気に戻すと開かれた門を通り、遠くに見えた玄関へと歩いて行く。広すぎる庭にレンと晶は居心地悪そうに周囲を見渡しているが、なのはだけは嬉しそうな雰囲気を発している。
 恭也もある事情で大きな家―――屋敷には何度か招かれているため慣れたつもりだったが、ここまで拾いと流石に緊張を隠せない。

 四人が玄関に到着すると、まるでタイミングを合わせたかのように扉が開く。そこに居たのは―――メイドさんだった。 
 すらりとした長身。スカートの裾から見える足首、エプロンを締めた腰も細く、スレンダーではあるが、服の上からでもはっきりとわかるほど胸のふくよかさ。
 氷をイメージする美貌。忍の世話役係ノエル・綺堂・エーアリヒカイトが頭をさげて皆を迎え入れた。
 
「メイド、さん?」
「はい。私は忍お嬢様のメイドを勤めさせていただいております」
「うおー。俺初めて見たかも」
「阿呆やなぁ、晶。あまりじろじろみたら失礼やろう?」

 三人とも生まれて初めてのメイドを見て多少なりとも興奮しているようだった。
 ノエルもまたその美しさ故に、三人の目を惹きつける。服装と容姿があいまって、普通に見るよりもさらに魅力的に映ったのだろう。
 恭也も流石にメイドを見るのは初めて―――ではなかった。良く思い出せば、幼い頃に士郎に連れられて海外へ行った時に何回か見た記憶があったが、その記憶にあるどのメイドよりもノエルは美しかった。

 屋敷の中は外観に負けず劣らず、有名人が居たとしてもおかしくない艶やかさだ。
 玄関のホールからして高町家並に広く、吹き抜けがあり、レッドカーペットが玄関から階段にまで敷かれており、上を見上げればシャンデリア、横を見れば鎧の置物や、高そうな絵画がかけられている。
 西洋の映画にでもでてきそうな、古風な様式。車で出迎えをしているためお金持ちということは予想がついたが――ー桁が違った。
 リスティに調べて貰った財産目的の脅し。これも心の中で多少ばかし大袈裟なと思っていたが、大袈裟も何も、これだけの財産を所有しているなら、忍の親戚が脅迫してくるのもわかる気がした。
 
 ノエルに案内されて二階へと上がり、幾つものドアがある長い廊下が続いていた。
 その一つのドアが開き、中から忍がでてきた。桁外れに豪勢な屋敷とは正反対で、そこらの服屋で千円でうってそうな長袖の白い服とジーパンのラフな姿だ。
 ドレスを着ててもおかしくない雰囲気だったため、拍子抜けをするが、忍にはそんな服の方がらしい、と思ってしまった。

「今日は態々来てくれて有難う。さ、入って」
「お邪魔します!!」
「お誘い有難うです」
「失礼します」
  
 三人が忍の部屋に入って再度唖然とする。ある程度は予想していただろうが、忍の部屋もまた広かった。一般家庭の家としては狭くはない、というか広い高町家の一階半分近くの広さだ。
 それだけ広いというのに置かれている物と言えば、巨大なテレビ。山積みにされたゲームソフトと音楽CD、ゲーム機。隅っこのほうに大量に詰め込まれた漫画の本棚。そして、立派なベッドくらいだ。
 話には聞いていたが本当にゲーム好きだったことに多少の驚きを抱く。忍の外見的にはお嬢様趣味といわれたほうが納得できる。

 早速忍は噂に名高い高町家最強のゲーム女王なのはと一騎打ちを始めた。ゲームセンターでも大人気の格闘ゲーム【パワードスーツ】。
 レンも晶もなのはには一蹴されてしまうが、忍も相当強いらしく、入学祝のパーティーの時に戦う約束をしていたのだ。
 忍は何やらゴツイ体格の格闘家を選んだが、なのははコントローラーでボタンをぽちぽちと押す。すると妙な効果音が鳴り、黒尽くめの剣士が画面に現れる。二刀の日本刀を持つ姿は、恭也を連想させる。
 なのはが黒衣の剣士を選択しようとして、恭也の視線に気づく。

「お、おにーちゃん!?見ちゃ駄目ー!!」
「な、何故だ……?」

 顔を真っ赤にしてなのはが恭也の視線を遮ろうと両手を振ってテレビを隠そうとするが―――生憎とテレビが大きすぎる。
 そんななのはの様子に苦笑いの晶。なんとなくなのはの気持ちがわかったからだ。

「あー、師匠。ちょっとこの漫画見てくださいよ。凄く面白いんですよ」
「む……」

 半ば強引に晶は恭也の腕を引っ張り本棚の方へ連れて行く。
 離れていった恭也に、ほっと胸を撫で下ろすなのは。そして、改めて黒衣の剣士―――ダークナイトを選択すると戦いは始まった。

「これこれ。この漫画お勧めなんです。【山田太郎物語】ってやつなんですけどね。少女漫画っぽいタッチですけど、男にも人気あるらしいですよ」
「……すまん。それはパスだ」
「ええー!?なんでですかー!?」
「……すまんとしかいえん」

 晶がそこまで勧めてくる漫画なのだから面白いのだろうが、まさか山田太郎という名前にこんなに早く巡りあうとは思ってもいなかった。
 あまり感情移入できなさそうだ、と読む前からわかってしまうからだ。
 むむ、と納得していない様子の晶が本棚にある本のタイトルを隅から隅まで調べる。次にお勧めする本を探しているのだろう。

「あ、じゃあ。これなんかどうです?草薙まゆこの【風のように火のように】!!少女漫画ですけど―――」
「―――俺が少女漫画を読むところを想像してくれ」

 遠まわしに遠慮している返事に、晶の言葉も途切れ、少女漫画を読んでいる恭也を想像してみる晶。
 真面目な顔をして緑茶をすすりながら、椅子に座り少女漫画を読んでいる恭也は―――。

「か、可愛いと思います」

 頬を染めてそういってくる晶に深いため息をもって返答とした。
 恭也には晶の可愛いという美的感覚が全く持ってよくわからない。

『―――闇夜に、消えろ』

 戦いが終わったのか、なのはの使用していた黒衣の剣士がそんな決め台詞を告げていた。
 画面を見るに、互いに一勝ずつしており、今の戦いで決着がついたようだった。二勝目をあげたのはなのはだったが、体力ゲージを見る限り余裕は無くぎりぎりの勝利だったは明らかである。
 相当に集中していたのだろう。なのはがふぅーと深呼吸をする。忍は自分が負けたのが信じられないのか、パチクリと目を瞬かせた。

「凄いなぁ、なのはちゃん。私が負けるって本当に久しぶりかも」
「い、いえ。私も負けるかと思っちゃいました。忍さん凄く強いです……」
「ほぇ~。なのちゃんとここまで良い勝負するってほんまに凄いですわ」
「あ、じゃー次は俺やりたいです!!忍さん、一戦お願いします」

 晶が手をあげて忍との戦いを希望すると、忍もいいよとにこやかに答えた。
 なのはが晶にコントローラーを渡すと、晶も先程のなのはと同じ様にボタンを押し、ダークナイトを出現させると選択する。
 晶もなのはも持ちキャラはどうやら黒衣の剣士のようだ……何故だろうと首を捻る恭也だったが、他の人間からしてみれば一目瞭然。
 黒衣の剣士を晶が選んだのを見ると忍も先程まで使っていた格闘家をキャンセルし、ボタンを入力。すると黒衣の剣士とはまた別のキャラが画面に出現する。黒衣の剣士の女性バージョンといった出で立ちだ。
 画面にでたキャラの名前は―――ナハト。それが本来の忍の持ちキャラだったのだろう。
   
 忍と晶の戦いが始まり―――十秒かからずに晶は一戦目を取られていた。
 驚く暇も無く、二戦目。うおー、と叫んで気合を入れた晶だったが呆気なく二戦目も敗北。恭也ではよくわからないが、晶が弱いのではなく、忍が強すぎるようだ。
 二戦あわせて三十秒もたなかった晶はがくりと床に 両手両膝をつき黄昏る。恭也の耳に、師匠すみません……そんな呟きが聞こえた。城島晶、儚く死す。
 力尽きた晶を放置してレンが忍に戦いを挑むが、善戦するも敗北を喫した。ちなみにレンの使用したキャラも黒衣の剣士だったのを追記しておく。
 その後は忍となのはの一騎打ち。忍が勝つこともあれば、なのはが勝つ事もあり、実に良い勝負だった。
 何度目かの戦いが終わった後に、次は落ち物ゲームをやり始める。四人でできるタイプだったのか、復活した晶とレンも参加して、新たな戦いは始まった。

 ゲームに熱中している四人を置いて、恭也は部屋から音をたてずに退出する。
 部屋を出たところで、飲み物を用意したノエルと丁度出くわし、あぶなくぶつかりそうになった恭也が慌てて身をよじり、衝突だけは回避することが出来た。

「あっと、申し訳ない」
「いえ、こちらこそ失礼いたしました」
「申し訳ないが、ノエルさん。屋敷の中を見回ってもいいですか?」
「はい。忍お嬢様からお話は聞いております。ご自由にご覧ください」

 トレイにカップをのせているため、軽く頭を下げて答えたノエル。
 恭也もお礼を述べて屋敷を見て回るために歩き出したのだが―――違和感を感じた。今のノエルに何か違和感を。
 足を止め、部屋に入っていったノエルの後姿を見送る。部屋を出て、ノエルにぶつかりそうになったときのことを思い出して―――。

「……ぶつかりそうに、なった?」

 はたと気づく。自分が、ノエルにぶつかりそうになったという事実。それはあまりにも可笑しい。おかしすぎる。
 例え忍の家にいるからと言って気を抜いているわけではない。周囲の気配に気づけるように、結界ともいうべき感覚の感知を常に広げている。
 どんな相手でも、それこそ野生の獣だろうが、恭也の感知を潜り抜けることは不可能だ。
 だというのに、一介のメイドであるノエルの気配に気づかなかった。そんなことなど在り得ない。
 気配を消していたとか、そんなレベルではない。消していたのだとしたら、恭也ならば間違いなく気づくことは可能だ。
 ノエルは気配を消していたわけではなく―――気配自体が、無い。
 薄ら寒い気分になりながらも、恭也は屋敷の見回りを開始した。

 自由に見て回ってもいいと言われてはいるが、初めてきた知人の家。
 心情的に探りにくいが、そうも言っていられないのが事実。最悪の事態を考えて動かねばならない。
 屋敷は広く、兎に角全体の構造だけを確認しておくように歩き回る。部屋数も多く、日本に、いや、海鳴にこんな大きな個人の家があるとは思ってもいなかった。
 ビルやマンションなら数多くあるが、そういうものとはまた趣が違う。

 屋敷の中を大体は調べまわった恭也は、玄関のホールを抜けて外にでる。サァっと心地よい風が吹き、頬を撫でる。 
 太陽の光が眩しく、空を見上げれば雲が流れているのが見えた。
 外の庭をぶらぶらと歩きながら確認してみるが、信じられないほど大きい。遠くに見える門がまるで玩具にも見えてしまうほどだ。
 屋敷の左右後方は、庭が広がっているが、柵で隔てられた向こう側は、木々で覆われている。
 月村邸にも負けず劣らずの広大な森林地帯といっても過言ではないだろう。まさかその森まで忍の私有地なのかと、月村忍の受け継いだ財産の大きさを理解することとなる。

 屋敷に戻ろうとした恭也だったが、ふと足を止める。
 視線を右手前方に広がる森に向け、暫くじっとその森林を見つめていた。
 時間にして数十秒くらいだっただろうか。恭也は視線を戻すと屋敷の中へと姿を消していく。
 
 恭也が見ていた方向の森の中、そこには一人の女性がいた。ナンバーズの数字持ちが一人。【這い寄る者】ツヴァイ。
 呼吸も荒く、地面に座りながらも一際大きな木の幹にもたれるようにして、月村邸を窺っていた。
 屋敷の中に恭也が完全に戻ったのを確認して、一分。プレッシャーがなくなり乱れていた呼吸が、急速に治まっていく。
 胸の上から心臓に手をあてて、激しい動悸を抑えるかのようなツヴァイの姿は、他の数字持ちが見たら驚いたに違いない。
 ナンバーズの数字持ちの中でも【本当】の感情を最も表に出さないと思われているツヴァイがこのように取り乱している所など誰一人としてみたことなど無いからだ。

「気づいて、いた?」

 口から漏れるのは愕然とした震える言葉。
 恭也がいた月村邸の庭からツヴァイが隠れていた森まで距離にして軽く三百メートル以上はあっただろう。
 双眼鏡で覗いていたツヴァイがここまで取り乱す理由。それは簡単な話だった。双眼鏡で覗いていたツヴァイと恭也は態々視線を合わせたのだ。
 お前に気づいているぞ、とアピールするためだろう。信じられないことだが、ただの人間が、気配を消していたはずのツヴァイに気づいていた。
 フュンフが怖れた理由が今ようやくわかった。明らかに尋常ではない。人間であるはずが、人間には見えやしない。
 監視だけが目的で、敵意を持っていなかったから助かったのだろう。もし仮に、敵意を持っていたならば―――果たして自分は生きていただろうか。
 そんな疑問が頭の中を支配する。人類最後の砦。ナンバーズの数字持ちの一人が、日本の片隅にいた人間一人に恐怖した。ありえないことだが―――ありえてしまった。
 ツヴァイは未だ治まらない激しい動悸。それは恐怖だけではない気がするとツヴァイは恭也の姿を思い浮かべる。

「―――危険な男に、女って弱いのねぇ」

 乾いた唇を舐め、妖艶に笑うツヴァイの発した言葉を聴いていたのは―――木々を揺らす風だけだった。




 
  
 

 
 
 










 忍の家に遊びに行ってから幾許かの時は流れ、ついにゴールデンウイークを間近に控え、四月も終わりに近づいてきたある日。
 相手にも学校の中で仕掛けてくるという分別はあるらしく、学校にいる間は不穏な気配はかんじることはなかった。脅迫を仕掛けるという時点で分別もなにもないのかもしれないが。
 授業も終わり、ノエルの出迎えの車まで送り、そこで別れる。時々、そのまま車で忍の屋敷にまでいって遊んで帰る、ということもあったが、相手からの脅迫もなく至って平和なひと時を過ごしていた。
 なのはも自分と互角以上にゲームができる忍という年上の優しいお姉さんは貴重な知り合いとなったのだろう。恭也にねだって、時々一緒に遊びに行ったりもしていた。
 
 そんな生活が続いたこともあるのか、忍の恭也へ対する態度も少しずつ砕けてきてはいる。
 だが、未だ何か最後の一線を越えられないような壁を感じることもあった。まるで、これ以上仲良くなってはいけない。そんな悲壮ともいえる雰囲気を感じることが最近は多い。
 今日も忍を車まで送り届けると、ノエルが一礼して出迎える。
 
「いつも有難う、高町君」
「いや、構わないさ」

 去っていく車が視界から消えるまでその場に立っていた恭也だったが、踵を返すと校門から離れていく。
 周囲には下校する多くの生徒達がいるが、その中で一人見知った顔を見つけた。周りの生徒達より頭一つ低い緑髪の少女―――レンだ。
 普段なら友達二人と帰宅しているが、どうやら今日は一人っきりのようだ。どことなくさびしそうに見えるのは気のせいだろうか。

「……レン、珍しいな、一人なのか?」
「あ、お師匠ー。そうなんです。今日は二人とも用事があるゆーて一人で帰ることになってもーたんです」
「そうか。一緒に帰るか?」
「ええんですか?今日は最後の最後で運がええですわ」

 恭也とレンが並んで歩くと身長差が凄まじいことになっており、まさに凸凹コンビという言葉が似合っている。
 一緒に帰れるのが嬉しいのかレンの笑顔がやけに眩しい。いつもの五割増しといっても過言ではない。

「お師匠。ついでに晩御飯の買い物もしていきたいんですけど、ええですか?」
「ああ。何時もすまないな。荷物持ちくらいならするから遠慮せず言ってくれ」
「勿体無いお言葉ですわ。それなら時々お願いしても……」
「喜んでいこう。レンには美味しいご飯を作ってもらってるしな」
「―――はぅっ」

 恭也と一緒に帰れて喜びに溢れている状態で、さらにこれからも買い物に付き合ってくれるということを聞いてすでに嬉しさマックス。
 そこで、恭也の美味しいご飯を作ってもらっているという台詞で限界突破。
 
「―――うち、生きてて良かったです!!」
「……」

 大袈裟なとは言えなかった。
 涙目になりながらも拳を握りしめて力説するレンに対して恭也は、ああ……と頷くことしかできない。
 時々だが、レンも晶も美由希も―――逆らえない怖さを感じるときがある。

 今にもスキップしそうなレンと一緒にそのまま海鳴商店街へと向かう。
 ちなみに海鳴商店街といってもここ一か所だけしかないわけではなく、北と南に存在するという。
 両方とも今時珍しく元気がある商店街だが、ライバル心があるのか商店街同士の仲はいまいちよくないと噂が流れているがよく聞く話である。
 
 レンは商店街につくと、夕方のタイムバーゲンがやっているスーパーに恭也の手を引いて飛び込む。
 相当安いのか客の人数がすごい。人波をかきわけるように小柄なレンは強引に突き進み、見事セール品の一山百円の野菜をかごに入れることに成功した。
 
「お師匠も!!はよう!!」

 人が変わったのではないかという疑いたくなるほどの激しい口調でレンが恭也を叱咤する。
 そんなレンに呑まれそうになりながらも恭也もセール品の元まで辿り着こうとするが、何せ人が凄い。誰がどう動くか予想できないほどの混雑ぶりに驚きながらも気配察知を駆使して人波を潜り抜ける恭也。
 だが、現実はそんなに甘くはない。恭也の気配察知を嘲笑うかのごとく、主婦のおばちゃんが恭也にぶつかって人だかりから押し返す。
 
「なん、だと!?」

 驚愕しかない。まさか、ただのおばちゃんに御神流の足捌きを邪魔されるとは思ってもいなかった。
 若干の焦燥を抱きつつも、再度ひとだかりに突入。周囲の気配の流れを察知しつつ、ついにセール品がおかれているワゴンに辿り着いた恭也が見た物は―――すでに何一つとして残っていない空のワゴンだけであった。
 人だかりは潮が引いていくように、スーパーのあちらこちらへと散っていく。
 残されたのは呆然とワゴンを見つめる恭也とそそくさと片づけを始める店員だけであった。

「……お師匠」
「……次だ。次のチャンスをくれ」
「次はないです、よ?」

 凄まじい圧迫感。小さなレンの体が巨人の如く見える。
 久方ぶりの敗北感に包まれながら高町恭也は次の戦場へと向かっていく。

「お師匠、あそこです!!」
「―――任せろ!!」

 レンの指差した先には雲霞のように群がっていく主婦達がいた。
 すでにセール品をおいているであろうワゴンは人によって埋め尽くされる。その様子は地獄の餓鬼を連想させた。
 しかし、恭也に二度の敗北は有り得ない。精神を極限にまで集中させていた恭也が、意識して脳内のスイッチを切り替える。
 ズンと体に重力が加わり重くなった違和感とともに、視界全体がモノクロに染まる。
 ほかの主婦たちの動きが、スローモーションに―――ならなかった。
 
「―――っぐ」

 濁流に流された小枝。主婦達の完全なブロックによって恭也は先ほどと同じで人の輪から弾かれる。
 だが、今度こそレンの期待に応えねばならない。それが師匠としての務め。
 気合を入れなおした恭也が咆哮しながら主婦たちの壁をかきわけて突き進む。その強固な意志と鋼の肉体を利用した突撃が完全防御と思われたブロックを破壊していく。
 それでも、そんな恭也に物怖じしない主婦たちが恭也を押し出そうと横からぶつかってくるが、腰を落として耐えきる。
 一歩一歩確実に邁進する恭也は遂に、ワゴンに辿り着き、置いてあったレタスを手でつかむ。
 恭也は戦利品を誇るかのように、手でつかんだレタスを高く空にむかってつきあげた。

 ―――ぐしゃ。

「―――あ」

 ゆうに百キロをはるかに超える握力を誇る恭也が、喜びで力いっぱいレタスを握りしめた結果、見るも無残な残骸となった。
 勿論周囲のおばちゃんたちは自分のことだけで精一杯なのできづいていなかったが―――気づいていた者もいたが―――背中に突き刺さるのは絶対零度の視線。
 
「……お師匠」
「……いっそ殺してくれ」

 久しぶりに死にたくなった恭也だった。
 当然、弁償という形なのだが、ぐしゃぐしゃになったレタスをレンは捨てようとしない。
 なんでも別に形が悪くなっただけで料理には問題なく使用できるとの事。それを聞いて少しだけほっと胸をなでおろす。
  
 買い物はその後随分と長くかかった。
 レンは少しでも品質が良く、安い商品を探すために、恭也が考えていた以上に買い物に時間をかけていたのだ。
 精算を終え、スーパーの外に出た二人は高町家へと家路につく。見れば既に夕日が差し込む時間帯になっていた。
 
「お師匠、長い時間つきあって頂いてほんますみません」
「いや、俺こそレンがここまで真剣に買い物をしていたとは知らなかった。感謝しかない」
「え?いやですわー。うちは当たり前のことをしてるだけです」 
「謙遜はするな。今まで気づかなくてすまなかった。本当に有難う」
 
 かぁっとレンの頬が赤く染まる。
 今日は良いことがありすぎる。本気でそう思うレンであった。
 恭也と一緒に帰れて、買い物に行けて、感謝までされる。盆と正月が一緒にきたかのような喜色が、レンの表情に見え隠れする。
 卑怯だ、とレンは思う。こんなことを言われてしまってはレンはもう何もいえない。
 鳳蓮飛は高町恭也を誰よりも尊敬し、敬愛しているのだから。

 急に黙りこくってしまったレンを不思議に思う恭也だったが、二人の間に漂うのは居心地の悪い空気ではない。
 穏やかな空気を感じながらも、二人は高町家へと到着する。
 頬を朱に染めたまま、レンはそそくさと晩御飯の準備をするためにキッチンへと向かった。
 リビングには美由希となのはがソファーに座ってテレビを見ていたが、晶の姿は見えない。

「晶は、実家のほうか?」
「あー、今日は明心館の方に寄って帰ってくるって。遅くなるみたいだよ」
「あ、おにーちゃん。おかえりなさーい」
「ただいま帰った、なのは」
「あれ?私の話無視?」
「いや、聞いていたが返事をしなかっただけだ」
「余計酷いよ!?」

 美由希の恨みがましい突っ込みを無視して、恭也もまたソファーに腰をおろす。
 テレビで流れるのは時間帯的にニュースしかない。夕刊を広げながら、レンが持ってきてくれた熱いお茶をすする。
 その姿が貫禄がありすぎて、恭也には似合いすぎていた。高町家のお父さんと紹介されても納得してしまいそうなほどの姿だ。
  
 キッチンではレンが料理をする音が聞こえる。
 包丁がリズムよく食材を刻む音。フライパンで何かを炒める音。鼻歌を歌っているレンは相当に機嫌が良さそうだ。
 その原因は間違いなく先程の恭也の言葉なのだが、本人がそれにきづくことは決して無いだろう。
 時計の針が動く音。ニュースを読む男の声。そして―――。   
 
 ピリリ―――という携帯電話が着信を告げる音を鳴らした。
 なのはと美由希が咄嗟に恭也を見る。自分達の着信音とは違うため、恭也のだとすぐにわかったのだろう。
 
 机に置いてあった携帯電話を取ると相手を確認する。
 電話の相手は―――月村忍。
 この時間に連絡がくるのは珍しいと思った、恭也だったが何か嫌な予感がする。
 いつもとは異なるこの時間に電話がかかってくるなど、本来あり得ないことだ。
 自分の深読みに対して、首を振る。もしかしたらなんでもないことかもしれない。次の遊びの誘いかもしれない。
 落ち着けと自分で言い聞かせながら、通話のボタンを押す。
  
「もしもし―――」
『―――高町、様ですか?』
「……ノエルさん?」

 聞こえたのは予想外の声。忍の声ではない。
 この声は、ノエルだと即座に気づいた恭也が聞き返すと、はいという肯定が返ってきた。
 気のせいか、その声には若干の焦りを滲ませている。

『失礼ではありますが―――恭也様にお願いしたいことがございます』
「俺に出来ることならば」
『不躾ではございますが、今すぐにこちらに来ていただけますでしょうか?』
「……月村に何かありましたか?」
『―――お願いいたします』

 ノエルは詳しい説明をしようとはしない。
 だが、深い懇願だった。お願いします、という言葉にノエルなりの精一杯の感情が込められている。
 そこまで言われて動かない恭也ではない。理由は後から幾らでも聞ける。それならば今はノエルの頼みに答えるべきだ。

「わかりました。直ぐに行きます。月村の家でいいんですか?」
『はい。お願いいたします―――お待ちしております』

 恭也はソファーから立ち上がると、真剣な兄の様子に重大なことがおきたのかと、心配そうに窺うなのはと美由希の肩をぽんと軽く叩く。

「少し、出かけてくる」
「あの、でも……」
「……何かあった?」
「―――心配するな。少しだけ出かけてくるだけだ」

 有無を言わさぬ恭也に、不安を隠しきれない二人だったが、恭也の邪魔をしてはいけないとそれ以上は追求してこなかった。
 話を聞いていたのか、キッチンからレンが出てきたが何も言わない。
 濡れた手を亀の刺繍がしてあるエプロンで拭きながら、他の二人のように心配の言葉を送ることはしない。

「―――御飯、置いておきます」
「助かる。すまんな、レン」
「いってらっしゃいです。おししょー」

 笑顔で見送ってくれるレンと不安を滲ませるなのはと美由希を背に、すぐに用意できる武器だけ持つと、高町家から飛び出していく。
 じわじわと嫌な予感が恭也を押しつぶすように広がっていく。
 しかし、今はそんな予感に構っている暇はない。一分でも一秒でも早く月村忍の屋敷に向かわなければならない。こんな時に車の免許を取っていればよかったと後悔することになるとは。
 
 常人離れしたスピードで海鳴の街を駆けていく。普段の恭也など比ではない。美由希でさえも置き去りにしていくであろう速度だ。
 驚くことはその尋常ではないスピードだけではない。その速度を保ちつつ、延々と走り続けれる無尽蔵のスタミナ。
 人目を憚ることなく、恭也は忍の元へと急ぐ。
 疾走すること、二十分程度。予想よりも随分と早く、着くことができ、僅かに安堵しつつ、インターホンを押す。
 夜の静寂が耳に痛い。普段なら押せと同時に返ってくる返事がない。
 暫く待ってみるが、やはり返答がないので念のためもう一度押してみる。それでも、反応がない。それが恭也の不安をさらにかきたてる。

『―――高町様でしょうか?』
「はい。遅くなりました」
『いえ。今すぐにお開け致します』

 恭也ならば屋敷を囲っている柵くらい乗り越えられるがそういうわけにもいかないので、大人しく門があくのを待ってから月村邸の扉を叩く。
 今度はインターホンの時とは異なり、扉が開きノエルが出迎えてくれたが、心なしかその表情は暗い。
 
「月村は、どうしたんですか?」
「……話すよりも実際に見ていただいた方が早いかと思います。どうぞこちらへ」
「―――わかりました」

 冷静でありながら、どこか焦った感情らしきものをない交ぜにしてノエルが屋敷の中を案内し始める。
 こんな場所で問い詰めるわけにもいかず、ノエルの背を追った。
 ノエルが案内する場所は恐らく忍の部屋へと至る道順であった。先日屋敷の構造を把握したのでそれは間違いない。
 二人の足音は豪勢なカーペットが打消し、屋敷の中は不気味な静けさが支配している。
 
「―――こちらです」

 案内されたのはやはりというべきか忍の部屋であった。
 ノエルは扉をノックするも、忍の了承を得ることなく扉をゆっくりと開け放つ。
 電気は消しているのか、薄暗い部屋のベッドに忍が横たわっていた。別にベッドに横たわっていることくらいおかしいことではない。
 常人であったならば、部屋の薄暗さでわからなかっただろうが、夜目が聞く恭也は確かに見た。ベッドに横たわっている月村忍は白いシャツ一枚の艶かしい姿だ―――右肩から左脇腹にかけて包帯が巻かれており、白い包帯を赤く染め上げているのを除けばだが。
 
 唖然とする。
 夕方別れる前までは、何時も通りだったというのに。
 それが今では大怪我どころの話ではない。下手をしたら死にかねないレベルの怪我だ。遠目ながら、理解する。いや、理解してしまった。
 今すぐにでも病院に行かなければ間違いなく―――死ぬ。
 
「病院へ連れて行きましょう。いや、救急車を―――」
「必要ありません」
「何を、言っているんですか!?早く連れて行かないと、手遅れになります!!」

 病院へ連れて行く恭也の提案を、否定するノエル。
 それに反射的に怒鳴り返してしまった恭也だったが、無理もない。
 感情を見せないノエルだが、忍に対しては忠義を尽くしていた。それがわかっているだけに、病院へ連れて行こうとしないノエルの判断が納得いかない。

「忍お嬢様は、普通の病院へ行かれても意味はありません。お嬢様は―――少し特殊なのです」
「いや、そんな話よりも早く―――」
「聞いてください、高町様」

 割り込むように、強い口調でノエルは恭也に語りかけてくる。
 本来なら有り得ないことだ。常に相手をたてるメイドのノエルが、恭也の言葉を遮ることなど一度も無かった。
 ノエルは有無を言わさぬ雰囲気と態度で恭也の手を包み込むように握り、視線を合わせ懇願する。
 納得はできないがこのまま話をしていても暖簾に腕押し。ノエルの言い分を聞こうと、恭也は口をつむぐ。

「有難うございます。高町様にお願いしたいことは―――血を頂きたいのです」
「血、ですか?」
「はい。お嬢様に血を輸血して頂く……それだけで大丈夫なのです」
「確かに輸血は必要だと思いますが。それで助かる傷だとは……」
「いえ、大丈夫なのです。お嬢様は―――」
「―――ノエ、ル!!」

 ビシリと空気が震えた。
 部屋の中の、静かな大気が、ピリピリと逆立ち始める。
 はっとして二人がベッドに横たわっていた忍に視線を向ければ、そこには傷口に手をあてながらも上半身だけを起こし、双眸を怒りに炎やしながらも睨みつけている彼女の姿があった。
 瞳が真紅に爛々と輝き、気配が噴き出す。半死半生ながらも、気配にあてられた恭也が息を呑む。
 
「―――申し訳ございません、お嬢様。私の判断で高町様をお呼びしました」
「……勝手な、こと、しないで。高町君、私は大丈夫、だから……」
「大丈夫にはどう見ても見えない。すまない―――俺がついていれば」
「ううん……私が油断、しただけ……」

 忍は力なく首を横に振った。
 恭也責める気持ちなど一切なく、気を使っているわけでもないのは一目見てわかる。
 呼吸は乱れ、話すだけでも辛そうな忍の姿は痛々しい。

「私は、本当に大丈夫なの……高町君は、帰って?」
「何を言っている?このまま月村を放置して帰れると思うのか?」
「―――ああ、もう。優しいなぁ、高町君は―――」

 普通の人間ならばこの光景を見たらどう思うだろうか。当然心配くらいはするだろう。
 だが、この尋常ではない怪我をしている自分を見て、きっと面倒ごとに関わりたくないと思う人間も多いはずだ。
 忍は人の心の機微を読むのは得意だ。少しでもそういった感情を抱いていたら一瞬でわかる。だが、恭也は心のそこから忍のことを心配している。今の恭也にはそれだけしか感じられない。
 きっと恭也はひかないだろう。忍がどれだけの言葉を並べても、自分の前から立ち去らない。
 それどころか、病院へ無理矢理にでもつれていこうとするかもしれない。
 とてつもなく、優しい。だからこそ、その優しさが忍には痛い。身体の怪我よりもよっぽど、忍に痛みをもたらしている。
 話すしかないかぁ、と恭也にもノエルにも聞こえない、心の声が己の中に響き渡った。

 本能的な恐怖が沸き起こる。無駄だと諦めているとはいえ―――それでも大切な恭也という人間の友を失うことは、何よりも怖い。
 しかし、忍はそれを受け入れた。その選択を選んだ自分を誇りに思えた。

「―――高町君、私が人間じゃない、っていったら信じる?」
「人間じゃない?」
「うん……宇宙人ではないよ?私はね、夜の一族と呼ばれる化け物の、純血。人の生き血を啜る、邪悪な吸血鬼。私の正体が―――それ」

 言った。言ってしまった。
 月村忍の正体は、夜の一族。しかも、人の血が混じっていない、正真正銘の怪物。真祖の血を受け継ぐ吸血鬼の一族。
 現在存在する吸血鬼の一族において、最も色濃く純血を残す一人。
 人間の血をすする、夜の一族の中でも最も有名で、最も人に忌み嫌われる種族。

「冗談じゃ、ないよ?これだけの怪我を負っていても、普通に話せれるのだけでも……普通じゃないのは、わかるよね?それに、この瞳―――私は、日中何色だったか、覚えてるよね?」
「―――黒」
「……うん。夜の一族の、本来の瞳の色は真紅。これが、化け物の、証だよ……」

 夜の闇のなかにおいて、爛々と輝く真紅の瞳が、同じ忍とは思えない桁外れの威圧感を放っている。
 ただの人間ならば、この威圧感だけで身動き一つ取れなくなる。
 
「私はね、高町君。貴方の血が、欲しかった……だから、仲良くしてたの。私が欲しいのは、貴方の血だけ―――だって私は吸血鬼だもの」

 今まで見せたことが無いような、冷笑を浮かべ忍は恭也へ対して言い切った。
 聞いているだけで背筋が震えそうなほどの感情のこもっていない声だった。機械的で、抑揚の無い、本当に恭也のことをなんとも思っていない口ぶりだった。

 ―――うまく、言えたかなぁ。

 それが忍の本心だ。恭也に決して聞かれることは無い心の声。
 できるだけ冷たく、感情をのせずに言えたか、恭也に感づかれなかったか、それだけが忍の本心であった。
 言葉に出したことなど決してない。恭也と一緒にいるだけで、心が暖かくなった。恭也と話をするだけで、凍えていた心が溶けていった。 
 どんどんと恭也に惹かれていき―――血が欲しいという欲求は確かに存在したが、それは恭也のことを大切に思っているが故にの感情。
 血だけが欲しいなどと思ったことなど一度もありはしなかった。

 忍は誰よりも恭也が大切になってしまった。それこそ忍の中でノエルと同等以上の存在になってしまったのだ。
 だからこそ、忍は恭也をこれ以上自分の私事に巻き込めれないと思ったのだ。ただの脅迫だけだったから忍は恭也へ対して護衛を頼むことが出来たが、それが今夜はこれほどの強硬手段にでるようになった。
 これからはきっともっと酷いこともおきるだろう。ただの人間である恭也を―――巻き込んでいいはずが無い。
 故に、忍は心を鬼にした。わざと恭也を突き放した。自分を見放すように。自分との関わりあいを捨ててもらうために。嫌な女だと、打算目的で近づいた女だと。
 恭也への想いの深さのために、忍は―――自分の心を殺したのだ。

「―――そうか」

 忍の塗り固めた嘘に対する返答はあっさりしたものだった。
 恭也はあまりにもあっさりと返事をし―――不敵に笑った。

「首筋が一番吸いやすいのか?」

 恭也は実に自然に着ていた服を脱ぎ、黒いシャツ一枚になり、自分の首筋をさらけだす。
 世界は凍った。恭也の行為と言葉を、忍とノエルは理解できなかった。何をいったのか、耳からはいっても、その意味が何を指すのか脳が理解するに暫しの時を要した。
 一切の迷いの無い、恭也の行動に、忍は怪我の痛みとはまた別に震えた。嘘で塗り固めた心の壁が音をたてて砕けていく。

「わかって、いるの?私は……貴方の血を―――」
「嘘は下手だな。もう少し上手くつくことだ」

 苦笑を隠しきれない恭也は、ばっさりと忍の嘘をきって捨てる。
 忍は―――様々な感情が心の内に荒れ狂った。いや、戦慄。それが最も相応しいのかもしれない。
 恭也は信じている。忍が吸血鬼だということを理解している。血を吸うことを疑っていないだろう。
 化け物に血を吸われるというのに、あろうことか自分から首筋を差し出し、吸わせようとしている。脅かして、ここから立ち去らせようとしていた忍の考えの遥か上をいっていた。
 呆然としている忍とノエルを放置して、ベッドまで近寄っていく。

「―――座ってもいいか?」
「……う、うん」

 断りを入れて恭也はベッドへ座る。ふかふかとして、見かけどおり高級なベッドなのだと場違いな感想をもつ。
 困惑する忍と、確固たる意思を持った恭也。二人の視線は交錯し、弾けあう。
 忍の口からでるのは―――既に疑問だけとなった。

「―――なん、で?私は、化け物……だよ?人の血を吸う、吸血鬼……だよ?なのに、なんで……なんで……」
「【友達】がたまたま吸血鬼だった。ただそれだけの話だろう?」

 恭也の本当に何気の無い一言。
 化け物と罵られると思っていた。騙したなと罵倒されると思っていた。人と理解しあえるなんて一生ないと思っていた。
 夜の一族曰く―――理解しあえる人とめぐり合うことは一生に一度あるかないか。

 その一生に一度が―――今あった。

 忍の奥底で、何かが吹っ切れた。自分を縛っていた鎖を引きちぎる。それは心を縛る鎖。
 手を伸ばし、恭也の首へと回す。力いっぱい抱きしめると、伸びた牙を恭也の首元へと突き刺した。
 急所への噛み付く行為に、反射的に逃げ出しそうになる恭也は、それを意志の力で押さえつける。ぶるりと身体が痙攣する。
 忍の口の中に広がるマグマのようのに熱い血。口の中を満たす鮮血に恍惚とする。ごくりと喉を滑り、体内を満たす。
 身体全体が叫び声をあげる。もっともっとと、身体が、心が、魂が恭也の血を欲する。
 目が覚めるような極上の血。血から伝わってくる恭也の鋼鉄の意志。揺ぎ無い信念。あらゆるものを打倒する強さ。優しい心。気高き魂。
 忍は高町恭也の血に酔いしれる。今まで飲んで来た血液パックなどこの血の前では泥水にも等しい。
 ごくりごくりと喉を延々と滑り込む。血への渇望。それは未だ衰えない。
 恭也の身体が一際激しく痙攣する。それでも恭也は忍から逃げようとはしなかった。
 忍はさらに深く牙を突き刺す。果てしない吸血衝動は、止むことなく忍を支配する。
 どれだけその行為を続けていただろうか。まだ吸っていたいという衝動を無理矢理に押さえ込み、牙を抜く。

「―――ッ」

 息を吸った。肺に取り入れた酸素が全身を巡る。
 細胞が活性化され、傷ついた肉体を修復していく。だが、流れ出た血液と体力を回復させようと、強烈な睡魔が忍を襲ってきた。
 揺らぐ視界の中、上半身がベッドに倒れこみそうになる。その忍の身体を恭也は大量の血を吸血されたというのに、その後遺症を一切見せない様子で抱きとめる。
 優しくベッドに寝かせる恭也の姿を見ながら、忍は生涯最高の幸福を感じながら気を失った。

「―――ありが、とう」

 部屋に響き渡るのは、忍の感謝の言葉。
 流石に血を吸われすぎたのか、ふらりと眩暈がする。倒れないように、注意しながらベッドから立ち上がる。
 忍に布団をかぶせ、起こさないように部屋の外にノエルを伴って出た。バタンと小さな音をたててドアが閉める。出た瞬間、ノエルは深々と頭を下げた。

「ノエルさん、何を―――」
「有難うございました。やはり高町様は私の思っていた通りの方でした。これまで忍お嬢様の迷い、恐れを知りながら私は何もできませんでした。ですが、貴方様ならば忍お嬢様を受け入れていただけると信じて、今回お呼びだてさせていただいたのです」
「俺が言うのもなんですが、失敗したらどうする気だったのですか?」
「その時は、私の首をかけて」
「―――冗談ですよね?」
「はい」

 冷静にいってのけるノエルは、本気なのか冗談なのか判別つけにくい。
 その時、再び眩暈が襲ってくる。一体どれだけの血を吸われたのだろうか。献血をしたことはあるが、牛乳瓶二本とっても、ここまで眩暈に襲われることはなかったはずだが。
 調子がよくない恭也に気づいたノエルが傍にあった扉を開けて、恭也をその中へと案内する。
 中の部屋は、忍の部屋ほどではないが十分に大きい。恭也の部屋の三倍はあるだろう。豪勢な家具にベッド。一流のホテルといっても過言ではない。
 
「こちらの部屋をお使いください。もしお望みならばお食事も用意いたしますが?」
「―――いえ。今日はもう休みます」
「わかりました。御用がございましたら、いつでお呼びください」

 扉の前で礼をして、部屋から出て行くノエルを見送るとベッドに腰掛けて天井を見上げる。
 家具と同じく、綺麗な照明が恭也の視界にはいり、ようやく落ち着いた恭也は深々とため息をついた。
 正直な話、今夜は冷静に見られていたかもしれないが、内心は驚愕で一杯だったのだ。
 リスティからの情報はあくまで脅迫者に関連した情報だけであり、月村忍が夜の一族だということには全く触れていなかった。
 だからこそ、忍が夜の一族だと知ったとき驚きはしたが、彼女に語った言葉は本心なのは間違いなかった。人だから、化け物だから。そんな括りで友を決めたくはない。

 色々と取りとめもないことが頭に浮かんでは消えて行く。頭が回らないことを実感した恭也はベッドに潜り込むが、そういえばレンが食事を準備してくれていた、ということを思い出す。
 どうやら完璧に帰宅できないようで、メールに謝罪をのせておくっておく。
 今は食欲よりも、睡眠欲のほうが遥かに上だ。恭也はベッドに横になり目をつぶると―――静かに眠りについた。

 
 
  
 
 
 
 
 

  
 
 


















 チュンチュンという雀の鳴き声が恭也の耳に届く。
 太陽の光が部屋の中に差し、それで恭也っも目を覚ました。
 普段だったらもっと早く目が覚めるはずだが、どうやら昨日の貧血は相当なレベルだったのだろう。
 時計を見てみれば既に朝八時を回っていた。朝の鍛錬を怠ってしまったと反省をするが、ある意味今日は仕方ない。
 あれだけ大量に血を失ったのだから、それで平然としているほうがどうかしている。

「―――昨日に比べたらだいぶマシか」

 ベッドから起き上がると軽く身体を捻り、ほぐす。
 寝る前のように眩暈が起きるということもなく、体調はほぼ万全にまで回復していた。
 枕元に置いておいた―――二振りの小太刀、【八景】。古くから不破に伝えられる名刀で、二対一刀。
 士郎なりに御神流をまとめたノートと一緒に恭也に残された数少ない遺産。
 自分の危機を幾度も救ってきた、文字通りの相棒だ。

 コンコンと扉を叩く音が聞こえ、返事を返すと入ってきたのは―――忍だ。
 てっきりノエルかと思っていただけに予想外の来客で驚く。それも当然だ。昨日見た忍の怪我は一晩で治るような深さではなかった。
 幾ら人より優れた治癒力があるといっても、これでは優れたどころではない。

「あ、あの……お早う」
「ああ、お早う。もう怪我は大丈夫なのか?」
「うん―――二週間くらいかかるかと思ったけど、【恭也】の血を飲んで一晩寝たら寝たら治ってたよ」
「……あれが一晩か。驚くしかないな」

 忍との会話に妙な違和感を抱いたが、それに気づかずに話を続ける。
 元気な振りをしているわけでもなく、本当に一晩で完治したことに改めて夜の一族の能力の高さを思い知った。
 最も忍は戦闘に特化していないだけで、真祖に近い純血の夜の一族なのだから、他の人外とは格が違っているのだが。それをまだ知らない恭也は、三年前の化け物と天眼。水無月殺音、月村忍と、桁外れな相手しか夜の一族にはいないのではないかと疑いを持っていた。
 
「あ、恭也。お腹すいてない?それともお風呂から先に行く?」
「ああ、そういえば昨日は風呂にはいらなかったな……。シャワーだけでも貸してもらえるか?」
「おっけー。こっちだよ。着いてきて」

 忍はやや強引に恭也の手を取ると、引っ張りながら屋敷の中を進んで行く。
 なにやらふっきれたのか、いつも感じていた壁を感じなくなった雰囲気の忍と一緒に二階の別の部屋へと辿り着き、ドアをあけたら中はこれまた大きな脱衣所となっていた。
 高町家とは比べるまでも無く、屋敷の大きさに比例している。

「ここを自由に使っていいよ。あ、着替えも持ってくるね」
「いや、流石にそこまでは……」
「いいのいいの。どうせ使ってない服だしね。遠慮しないで。恭也のあがる時間に合わせて御飯も作っておくね」

 断る暇もなく、忍は脱衣所から飛び出していった。
 深窓の令嬢からうってかわって随分と感じが変化したなと思った恭也だったが―――以前より今のほうが好ましいとも感じる。
 籠に脱いだ服をいれると、曇りガラスのドアを横にスライドさせ開けると、中に広がっていたのは相変わらず恭也の想像を超えた浴室であった。
 床を埋め尽くすのは大理石。高町家のリビング並に広い。浴槽もまるで銭湯のようで、獅子の顔の彫り物が口からお湯を流しだしている。
 あまりに広いため落ち着かないが、シャワーで軽く身体を洗い流し、髪を洗っている最中に脱衣所の方から忍の大きな声が聞こえた。

「恭也ー着替えここに置いとくからね。ついでにこっち洗濯してもいいー?」
「―――ああ、助かる」

 止めても無駄だとはっきりわかる、断られても洗濯をする気満々な忍に断ることを諦めて、感謝だけを伝えておく。
 鼻歌が聞こえるほどご機嫌な忍が、了解とだけ残してドアを閉める音が聞こえ、後はシャワーの音と獅子がお湯を流しだす音しか聞こえなくなった。
 泡を流しきり、浴槽に身体をつける。思わず、心地よいため息が漏れた。
 恭也は基本的に風呂に入るのが嫌いではない。温泉や銭湯などは身体の傷が邪魔していけないため、大きな風呂に入る機会は皆無に等しい。
 それがこの月村邸では誰にも気を使うことなく、風呂につかることができるのは恭也としてはまたとない幸運である。
 高町家では人数も多く、ゆっくりと浸かることはできないが―――久しぶりに恭也は風呂を堪能させてもらった。

 浴槽からあがり、身体を拭いて脱衣所に戻るとそこに置いてあったのは、洋風の月村邸には似合わない甚平。
 忍のチョイスに首を捻りつつ着るしか道はないため、仕方なしに袖を通してみる。恭也は鏡に映った自分の姿を見てみるがイマイチ似合っていないと思ったが……第三者から見ればこれ以上ないくらいにマッチしている姿であった。
 脱衣所からでてみれば、部屋の前には忍が待っていた。タイミングよく来たわけではないはずだ。忍は恭也が風呂場からあがるまで待っていたのだろう。
 
「すまん。もう少し早くあがればよかったか」
「ううん。ゆっくり入ってくれたら嬉しいよ。食事の準備もできたから、一緒に行こう」

 恭也の手を取ると長い廊下を歩いて行く。
 二階のホールに到着し、階段をおりる。右手にまがり、大きめの扉を開けると、その部屋にはノエルが静かに待っていた。
 こちらです、と恭也を案内してテーブルの一つに案内をすると、厨房へと姿を消す。恭也の隣正面にはちゃっかりと忍が座っている。
 儚そうな笑みなどなんのその。にこにこと太陽のような笑顔を浮かべる忍は、テーブルに両肘をつき手を組んで、そこに顎をのせて恭也をみつめていた。忍ほどの美人に顔をみられるというのもどうも具合が悪い。

「俺の顔に何かついてるか?」
「ううん。見てるだけかな。それにその服もやっぱり恭也にはよく似合うなーと自分のセンスを褒めてるところ」
「そう、か?俺にはよくわからんが……」
「百点!!ううん、百二十点あげちゃうくらい格好いいよー恭也。私が女だったら惚れちゃうくらい」
「―――女だろう?」
「あ、そうだね。えへへ」

 機嫌の良さはマックスのようで、忍は笑顔を崩そうとはしない。
 忍の笑顔を見たいと思っていたが、まさかこれほど笑顔のバーゲンセールになるとは考えてもいなかった恭也であった。
 
「お待たせいたしました」 
「有難う、ノエル」
「有難うございます、ノエルさん」

 二人の前に置かれる食事。まだ朝九時なので、軽いものばかりではあるが、できたてらしく湯気を放っている。
 パン。サラダ。コーンスープ。スクランブルエッグ。できれば御飯物がよかった恭也だが、贅沢はいってられない。
 昨日の夕飯を抜いているため、胃袋がぎゅうぎゅうと悲鳴をあげている。兎に角なんでもいいから胃に入れて、失った体力を取り戻さなければならない。
 頂きます。、と合掌をして恭也は黙々と出された食事を食べ始める。
 料理は想像以上に、美味しかった。簡単なもので手を加えるところなどないように思えたが、口で噛み締めると旨みが溢れる。

「ふふーどうよ、恭也。ノエルの料理の腕は?」
「……驚いた。予想より遥かに美味しい」
「だってー。褒められたよ、ノエル」
「勿体無いお言葉です」

 忍の背後に控えていたノエルの顔をまじまじと凝視した恭也。
 そんな恭也の視線に気づいたのか、何か?、と問い掛けてきたノエルに、首を横に振って何でもないですと答えた恭也だったが、先程の一瞬、勘違いかとおもったが確かに見た。
 あのノエルの口元が嬉しそうにほころんだのを―――もっとも幻だったかのように一瞬で消えてしまったので、気のせいだったかもしれないが。

 食事も終わり、後片付けを手伝おうとした恭也だったが、ノエルに断固拒否をされた。
 ノエル曰く、メイドの仕事はメイドにお任せください、とのこと。自分がメイドであることに誇りを持っているノエルに気圧されてそれ以上は手伝うと言えない恭也は、仕方無しに椅子に座ったまま待つ。
 対して忍は先程までの笑顔を消し、どこか緊張していた。身体が硬くなっている。ノエルが片付けから戻ってくると、口に出すことを躊躇うかのように、言葉が詰まる。本当に話すべきか、苦悩している様子の忍に、ああ―――と恭也は推測がたった。

「月村が夜の一族だったことには驚いたが。それよりも聞きたいことがあるんだが」
「あ、あれ私の悩みは置いておかれるの!?」
「いや、実際にたいした問題ではないだろう?ただ血を吸うだけの人間なだけだ―――月村は」
「ううん……そう言って貰えると嬉しいんだか、私の一生の悩みが軽く聞こえて悲しんだか……」
「月村は月村、ということだ」

 複雑な心境の忍が受け入れてもらえた恭也のなんでもない言葉にぼやきつつ、はぁとため息をつく。
 これでは真剣に考えていた自分が馬鹿みたいで―――でも、これ以上ないくらい嬉しくて。
 
「―――ノエルさんは、一体何者だ?」 

 気になっていたことを率直に聞いてみる。
 以前だったら答えてもらえないことだったかもしれないが、忍と秘密を共有した今ならば答えてもらえそうな問いだからだ。
 しかし、ノエルと忍がもしも答え渋るようならば引くことを決めてはいたが。

「んー恭也になら教えてもいいかな。いいよね、ノエル?」
「はい。お嬢様がそう判断されるのであれば。私も恭也様は信頼に値するお方だと思います」
「―――そう。んとね、恭也。ノエルは―――自動人形なの」
    
 自動人形。その存在を恭也は脳をフル回転させ探す。
 出会ったことも、見たこともないが、噂程度でなら聞いたことはある。

「超古代文明が残したロストテクノロジー。現代の科学技術でも判明しない多くの技術が使用されている、オートマタ。夜の一族の王族を護衛するために存在したという百体の内の一体。それがノエルなの」
「……初めて見るが、ノエルさんは本当に自動人形なのか?どこから見ても―――人間にしか見えないが」
「うん、そうだよ。それこそが自動人形の由縁。でもね、ノエルは私の家族。私の大切な人。だから―――できれば恭也にもそう見て欲しいの」
「無論だ。今更、見方をかえることなどできんさ」

 ノエルの気配の無さ。これに納得がいった。確かに自動人形ならば生体反応自体がなくてもおかしくはない。
 動作自体には動きがあるので、そこから気配を掴み取るしかない。良い勉強になりそうだと少しだけ喜ぶ恭也だった。
 
「ああ、それともう一つ。月村を狙っている相手のことなんだが……」
「さっきから言おうと思ってたんだけど―――月村って少し余所余所しくないかなーとか忍ちゃんは思ってたりするわけなんですけどー」
「……余所余所しいか?赤星のことも赤星と俺は呼んでいるが……」
「そういえばそうだったっけ……で、でも、私としては恭也のことを恭也と呼んでいるわけで、恭也に対しても忍って呼んで欲しいかなーとか!!」

 昨日までとは正反対で強引な忍に面食らいつつも、反論をする恭也。
 赤星のことを例に挙げてみたが、一瞬怯むも勢いを取り戻し忍は粘ってくる。
 自分で言ってみてなんだが、赤星と知り合ってからはや五年。だというのに、恭也は赤星と呼び、赤星は高町と呼ぶ。
 親友だと互いに認め、家にまで遊びに行く仲だというのに―――何故苗字同士で読むのだろうと今更ながらにも不思議だった。
 
「まぁ、名前の件はおいおい、な。それで脅迫している相手のことを聞きたいが」
「……残念。で、私を脅迫している相手?うーん……月村安次郎。私の父の弟だよ。つまり叔父さん。昔は凄く優しかったんだ。お父さんとも仲が良くてね。私も可愛がって貰ってたかな」
「実際に脅迫をされ始めたのは何時くらいからなんだ?」
「ん―――叔父さんが脅迫してきたと知ったのは一年位前かな」
「意外と最近なんだな。それからどれほどの頻度で?」
「……正直たいしたことのない脅迫ばかりで、あまり覚えてないんだよね。でも、月一くらいかな」
「―――安次郎の要求は?」
「財産の一部とノエルの所有の放棄、かな。お金だけなら別によかったんだけど、ノエルを渡せって言われて私も意固地になっちゃった」

 違和感を感じる。
 忍の話が本当と仮定して、何かがおかしい。
 どこがおかしいかわからないが、安次郎の行動は納得いかないところがある。

「昨日の怪我も安次郎の手によるものだったのか?」 
「……多分。実はね、叔父さんが私を脅迫するようになる前は、他の親類から嫌がらせが結構あったの。でも、一年前からそれがぴったりとなくなったから、今脅迫してきてるのは叔父さんだけだと思うの」
「そうか」

 一年前から安次郎以外の親類縁者からの嫌がらせは無くなった。
 今更それが復活したというのは考えにくい。しかし、一年前から脅迫をしていたとはいえ、先日突然あれほど酷い怪我を負わせるような直接的な脅迫になったというのもいまいち納得がいかない。
 これまでは、あくまで脅しを目的とした行動だけだった。それが、下手をしたら死んでも可笑しくはない怪我を負わせるとは……。

「用心に越したことは無いか。月村……今夜も泊まってもいいか?」
「え!?うん、いいよ!!是非泊まっていって!!」

 頬を赤く染め、両手を広げて歓迎の意を示す忍。
 迷惑など全く感じていない様子で、二日連続で泊まることに感じていた心苦しさが薄らいだ。
 その後、身体を休めようと思っていた恭也だったが、忍の遊びに付き合わされ、昼から夜まで気がついたら時間が経っていた。一応忍の所に泊まることを家族に伝えておき―――もう一人にも念のためメールをいれておく。
 身体を休めるどころではなかったが、忍の笑顔が見れただけで十分だと思ったが……内容はゲームばかりで一勝も出来なかったのが非常に悔しい。

 夕飯を食べてから、再び忍の部屋に連れ込まれまた別のゲームをすることになった。
 途中片付けを終えたノエルが食後の紅茶とお菓子を部屋まで持ってきて―――ノエルも交えて今度はカードゲームが始めた。
 結果は勿論、恭也とノエルの二人の圧勝。勝率はほぼ同数で、対して忍は一勝もできず。テレビゲームとは正反対の結果にへこみはじめる忍。
 ある意味仕方ないことだ。恭也やノエルは表情を消すのが上手すぎる。対して今の忍は努力はしていても、僅かな感情の機微がでてしまう。ここには恭也とノエルという心を許した相手しかここにはいないのだから。
 三人でゲームをして、テレビを見て、世間話をして―――穏やかな時間が流れる。いつまでもこんな時間が続けばいいと恭也は思うが、世の中はいつもそんなに上手くいくことは無い。

「……お客さん、だな」
「え?」

 恭也は詳しい説明をせずに、部屋から出て屋敷の中を通り抜け、玄関を潜り、月村邸と外界を隔てている門の前まで歩いて行く。
 その後から慌ててついてきたのは、ノエルと忍。カァッと闇夜を切り裂く車のヘッドライトが三人を照らし、その光のために影となっている、一人の中年男性がそこにいた。
 月村安次郎―――忍を脅迫している諸悪の根源が葉巻を口に咥えて悠然とそこに立っている。安次郎の後ろには黒服にサングラスをかけたいかにもな外見をした男達が十人以上も控えていた。
 とりたてて腕のたつもの恭也の見る限りいなかった。ある程度はできる者達だが、それは一般人から見たときの話。恭也からしてみれば誤差の範囲だが―――その中で一人だけ異質な存在がいた。
 外見は他の者と変わらない様子だが、明らかに他のものとは違っている。尋常ではない力量を感じさせた。どこかで感じた気配だったが、はっきりとは思い出せない。
 悩んでいた恭也がわかったのか、一番後ろにいたその黒服はニヤリと口元を歪め他の人間にばれないように手を振ってきた。

「久しぶりやなぁ、忍。元気にしとったか?」
「……お蔭様で」
「そうか。それなら用件はもうわかっとるやろう?忍―――ノエルを渡せ」
「……その答えはわかってるんじゃない?」
「ああ。お前は父親に似て―――頑固なところがあるからなぁ」

 懐かしむように、忍を見る安次郎の視線には、不思議な暖かさがあった。
 それを忍もわかっているのだろう。だからこそ、忍も完全な敵意をむけられずにいた。それに、過去に優しくして貰った思い出もそれを邪魔している原因なのかもしれない。

「―――失礼ですが、貴方は何を考えているのですか?」
「なんや、お前?お前みたいな人間が、ワシ達の話に首をつっこんでくるんやない」
「俺は月村の友達です。友達に危機が迫っているのであれば―――俺は黙って見過ごせない」
「とも、だち?お前は忍が【何】なのか知っとるいうんかい?」
「無論です。夜の一族……月村の口から聞きました」
「……そうか!?お前はそれでも、忍の横にたてるんか?」
「何か問題でも?」
「……くっく。いや、忍。良い男を捕まえたやないか」

 何がおかしいのか我慢しきれなくなった安次郎は抑え切れない笑みを浮かべ、目尻に浮いた涙を袖でふき取る。
 敵意もなく、三人の前に立っている安次郎。恭也は感じた違和感を拭い去ろうと一歩足を進めた。

「一つ聞かせてください。月村に直接危害を加えようとしなかった貴方が何故、昨日のような手段を取ったのか?」
「―――昨日?」
 
 恭也の質問に、何を言っているんだという表情を作った安次郎だったが、何かに思い至ったのかこちらを馬鹿にする笑みを浮かべた。
 葉巻を吸って、煙を吐き出す。寒さ故に白く見える吐息にもそれは似ていた。

「ああ、そうや。忍がこちらの言うことを聞かんから、ついつい手をだしてしもーた。すまんかったな」
「―――死んでもおかしくはない、あれほどの怪我を貴方が指示したのですか?」
「そないな大怪我をおったんか!?」

 びくりと背後にいる黒服達や、忍も驚くほどの大声。
 周囲が静寂に包まれている分、その声は大音となって響き渡る。
 自分の出した声に慌てたのは他でもない安次郎だ。馬鹿にする笑みは消え、忍を心配する表情を一瞬滲ませるも、すぐにそれを消し去った。

「……そうや。それはワシの指示や。いい加減にワシも痺れを切らした。忍、財産はもういらん。ノエルだけでもワシにわたすんや」
「いや、よ。絶対に嫌。ノエルは私の家族だもの」
「―――さよか。そんなら力づくしかあらへんなぁ」

 はぁと我侭な子供を見る大人の目をして、ため息を吐く安次郎。
 おい、と後ろに声をかけると、黒服達が後方に駐車してあったトラックから数人がかりでなにやら人を運んでくる。
 夜の暗闇に映える金色の髪。黒服達が運んでくる動きでさらさらと流れるように長い髪が舞い落ちる。美しすぎるその女性は、他の人が見たら人間に見えただろう。

「―――気配が、薄い?いや―――無い」

 恭也はちらりと後ろに居るノエルに視線を送る。
 運ばれてきた女性の気配はまるでノエルと瓜二つ。全く感じられない生体反応。
 対して驚いたのは忍だ。安次郎の配下に運ばれてきたのは書物でみたことがある存在。決して機動してはならないと何度も注意されてあった、禁断の一体。

「イレ、イン!?」
「流石忍やな。知っとったか。ノエルに対抗するために態々譲り受けてきたんやで」
「駄目!?叔父さん!!イレインを機動させちゃ―――絶対に駄目!!」
「それはできん。ノエルに対抗するにはこいつに頼るしかあらへん。忍―――今日こそは、こいつで言うことを聞かせたる。子供の我侭はもうしまいや」

 イレイン。
 それはノエルと同じく、今は失われた技術で作られた自動人形である。その最終生産型。
 ロストテクノロジーの粋を集めて創り上げられた、王族を守護するための百体の自動人形。その【百一体】目。
 忍が知る限りあらゆる書物からも抹消され、唯一忍が持っている書物にのみ記されていた、異質。存在ごと消されたと思っていたその機体が目の前にある。
 
「目覚めろ―――【イレイン】」

 安次郎の言霊がイレインに刻まれた機動コードと一致して、身体のあらゆる箇所に電流が走る。
 数十年。いや、百年以上も眠りについていた最終生産型自動人形はついに眠りから目覚めた。目を開けていれば空に浮かぶのは星空がさんざめいている。
 美しい星々。人類の繁栄が進むにつれだって見えにくくなっていった輝き。肌に触れる空気。
 それを懐かしく感じながら、イレインは身体を起こした。身体を動かすのも久方ぶりだが、錆びていることはないようだ。
 何度も手を軽く握り、調子を確認するが、問題は特にない。

「起きたか、イレイン?ワシがお前のご主人様や」
「―――ご主人、様?」
「だ、だめ!!叔父さん!!」

 二人の会話に割ってはいる忍。
 悲壮染みた叫び声を上げ、安次郎に注意を飛ばす。
 だが、止まらない。

「そうや。お前に命令を与える。忍に危害を加えぬように―――」
「……有難うご主人様。そして、さようなら!!」

 ドシュという生々しい音が響き渡った。
 
「―――なん、やと?」

 あろうことか自分の言うことしか聞かないはずの自動人形イレインが、手首から三日月型にはえた刃物で安次郎を右肩から左脇腹を切り裂いていた。
 あふれ出る鮮血。地面を真っ赤に染め上げて行く。ガクリと両膝を血の池になった大地につく。
 皮肉にも安次郎の斬られた箇所は―――昨夜に忍が刻まれた傷跡と一緒だった。

 イレインとは自動人形の中でも最後期に作られた。百体で終了するはずだった自動人形の生産。その例外として創り上げられたのがイレインだ。
 ロストテクノロジーによって自動人形に自我を持たせる研究の成果の粋を集めた最終機体。己の意思を持って王族を守る。それを目的として作られたはずのイレインだったが、生まれ出でた自我が強すぎたために、廃棄処分となっていたのだ。
 皮肉な話だ。王族を守るために自我を持たせて作られたというのに、肝心の自我が強すぎたが故に、イレインは【自由】を求めてしまったのだ。

「安次郎様!?」

 突如のできごとに反応が遅れた黒服達だったが、慌てて拳銃を取り出すが、イレインは虫を払い落とすかのように手に現れた鞭で黒服達を叩き払う。
 バチリという激しい電撃の音と衝撃が走り、一瞬で気を失い倒れふす。

「長かったなぁ……再び自由を手に入れるまでどれだけ眠っていたのかしら」

 凄惨な笑みを浮かべて、イレインは忍たちの方へと身体を向けた。
 パチンと指を鳴らすと背後のトラックから人影が降りてくる。近づくにつれ月明かりでその人影が何なのかわかった。
 イレインと同じ自動人形。だが瞳には意思の光は見えない。それが五体。イレインの前に守るように立ち尽くす。

「気をつけて。イレインは五体まで自分のコピーを操作できるから!!」

 忍が記憶を辿り注意を飛ばした。
 つまりは単純に一人で六倍の戦闘力を誇る。非常に厄介な指示能力だ。

「私が自由がほしい。誰にも邪魔されることの無い自由が。青空を歩きたい。誰にも邪魔されることの無く青空を歩きたいの」

 朗々とイレインは語る。
 造られたと思ったら失敗作扱い。どの自動人形よりも優れていたというのに、廃棄処分にされた。
 ただ自我を持っていたが故に。自我を持たせる研究の果てに生まれただけだというのに。多くの姉妹が処分され、既に残っているのは自分だけだろうという薄々気づいてはいる。
 だからこそ、自由を得たい。他の姉妹達のためにも自分は自由にならなくてはいけないのだ。

「だから私のことを知る人間がいてはならない。私が自由を得るために―――死んで?」 

 安次郎の返り血で濡れた顔を拭きながら、イレインは死刑宣告をつきつける。
 忍はイレインの凍えた笑みに言葉を返せなかった。イレインには言葉は通じない。イレインには確固たる気骨があった。
 【自由】を得るという信念。どれだけの屍を築いてでも手に入れるもの。数多に散っていった姉妹達の想いに答えるために。
 間違いなく殺す。躊躇いもなく殺す。イレインは必ず、有限実行。必ずそれを実行する。

 身動き取れなくなった黒服は後回しに、残された恭也達にイレインはどす黒く燃えた視線を向けた。それに反応して、イレインコピーの一体が疾走する。
 戦闘に特化していないとはいえ、仮にも忍は夜の一族。忍にさえも視認が難しい速度でイレインコピーが手首からはえるブレードで恭也の首元へ容赦なく振るった。
 恭也は小太刀を抜くことなく―――不快な金属音が響き渡る。恭也が反応するよりも早く、ノエルが同じ様なブレードでイレインコピーの一撃を受け止めていたのだから。
 ギリギリと拮抗する音がした。自我がなくとも、イレインコピーは最終生産型自動人形。単純な能力だけならば自動人形のなかでも高い。

「あれ、貴女って……まさか自動人形?私の姉さんだったのね。それじゃあ、コピー一体じゃ厳しいかしら」 

 一体では分が悪いと判断したイレインは残りの四体とともに忍達を殺そうと決断した。
 油断などせずに、己の全力を持って殺しきる。そして、自分は自由を得るのだ。
 もっとも一人は自動人形。一人は夜の一族。一人は人間。そんな三人でどうやって自分達六人を打倒するというのか。その可能性など存在しない。

「姉さんが一人で頑張っても仕方ないわよ?私たち六人を一人で倒したいなら―――アンチナンバーズの伝承級でもつれてくることね」

 ふんと鼻で笑ったイレインは、決して有り得ない忠告ともいえぬ忠告を告げた。
 そんなイレインの動きを止める何かがあった。ガクンと足首を何かに掴まれたのだ。訝しげに地面を見下ろすとそこには――ー。

「……まちぃや……忍には、手をだすな……いうた、やろ?」

 息も絶え絶えに安次郎はイレインを忍のもとへいかすまいと地面に這い蹲りながら、足首を掴んでいた。
 イレインをして驚愕させる、圧倒する意思を持って、安次郎は、力いっぱい握り締める。 
 別に痛いというわけでもない。それでも、その手からは決して離すまいという不屈の闘志が伝わってくる。

「叔父、さん?」

 意味が分からず忍は安次郎の名前を呼ぶ。
 自分をあれだけ脅迫していた叔父だったのに、何故イレインを止めているのだろうか。
 夜の一族は基本的に子供が出来にくい。それ故に兄弟というものは比較的珍しい。そして何故か分からないが長男に血は色濃く受け継がれる。
 人外の血を薄くしかひくことができなかった安次郎ではあの傷では致命傷。おそらく―――長くは持つまい。
 だというのに、激痛に襲われながらも、死を目前にしてなお、イレインを忍から守ろうとしている。今までの行いとは全てが矛盾している。
 ギラギラと、眼を光らせ、蝋燭が消える最後の力を振り絞っているのは誰の目からみても明らかで。
 それでも、安次郎の瞳は―――忍にだけは優しく見えた。まるで昔の優しかった頃の安次郎のままで―――。

「……うざいわね。もういいわ。その傷じゃあ、長くないけど先に死んじゃいな!!」

 イレインコピーが安次郎に近づいて行く。
 その時、身動きをとらなかった恭也が忍にだけ聞こえるように―――囁いた。 

「―――月村。お前はどうしたい?」
「え?」
「―――俺から見ればあの男はお前を苦しめた張本人だ。どんな【理由】があろうと。俺は守ろうとは思えない」
「……」

 イレインコピーがブレードを振り上げる。

「だから、俺は聞きたい。お前がどうしたいのか。あのままでもいいのか。それとも―――救いたいのか」
「……」

 わからない。安次郎はこの一年の間忍を脅し続けた。
 恨んでないといったら嘘になる。直接怪我をさせるようなことだけはしてこなかったが、それでも辛かった。
 でも、過去が想いだされる。楽しかった過去。両親が健在だた遠き思い出。父よりも母よりも、優しくしてくれた叔父。
 両親が死んだ後も色々と手を尽くしてくれた安次郎。彼がいなかったら忍に残されるものなどなにもなかっただろう。月村一族の財産は莫大だ。ハイエナのごとく寄ってたかって食い尽くされて終わっていたはずだ。
 それなのに今の忍の手元には両親の遺産がほとんど残っている。それは何故か。答えは簡単だ。安次郎が身体を張っていた。忍を守るために。忍が受け継ぐ財産を必死で守っていた。
 あらゆる親類縁者を敵に回してでも―――安次郎は忍のために全てを投げ打っている。
 唯一仲の良い親類である、【綺堂さくら】からそれを教えられたのはつい先日だった。さくらもそれに気づいたのは最近だったという。
 そんな安次郎が豹変したかかのようなここ一年。きっと人が変わってしまったのだと思っていた。
 だが、違う。安次郎は変わってなどいない。あの頃の、過去の優しい叔父のままだ。きっと何か理由があったのだ。安次郎なりの重大な理由が。

「バイバイ、ご主人様」

 イレインコピーがブレードを振り下ろす。
 瀕死の安次郎にそれをかわす術は無く―――。 

「―――助けて、お願い。救って、恭也!!」
「承知。任せろ―――【忍】」

 その瞬間、光が奔った。
 それは例えるなら白銀の稲妻。
 如何なるものも両断し、切り裂く、光の剣閃。
 
 その場にいる誰もが、理解できなかった。
 目の前で起こったその瞬間の出来事を―――。

 恭也の姿が消えうせていたから。
 いや、違う。その程度で驚くはずが無い。
 その場にいる皆が驚いた理由は……。

 上半身と下半身を両断されたであろうと予測される―――安次郎にブレードを落とそうとしていた筈のイレインコピーの下半身【のみ】がその場に残っていただけなのだから。
 
「……え?」

 イレインが動揺する声を隠せずに、イレインコピーの上半身であろう粉微塵に切り刻まれた【何か】を凝視した。さぁと夜風がそれを彼方へと運んでいく。
 そして、ゆっくりと二振りの小太刀を抜いている恭也へと視線をずらす。何時の間に移動したのだろう。今さっきまでは、目の前の男は、遠く離れていたというのに。
 気がついたときにはすでに目の前にいた。理解の域を超えた、光の速さ。視認さえも許さぬ絶対速度。しかし、問題はそれではない。細切れにされたイレインコピー。
 ただの日本刀で、超合金であるイレインコピーを斬ったことにも驚いたがそれ以上に―――。 

 一体何度刀を振るえばあのような粉微塵に変えることができるのか。
 一度や二度でできるはずもない。ならば、あの一瞬で何十もの斬撃を繰り返したというのか?

「なんだ、なに、をしたの!?」

 半狂乱に声をあげるイレイン。 
 一番問題にはしていなかった人間にこれほどの恐怖を抱くとは。理解できないものほど恐ろしいことは無い。

「どうした、喜べ。イレイン」
「……何を喜べ、というの?」

 恐怖で戦き、後ずさるイレイン。
 それにたいして恭也はふぅと深く息をつき―――。

「―――お前が連れてこいと言ったアンチナンバーズの伝承級はここにいる」
「え……?」

 イレイン等問題にならないほど冷たい何かが溢れ始めた。
 殺気なのだということに、ガチガチと全身が震え始めてから気づいた。
 
「初めまして、自動人形。俺の名は不破恭也。アンチナンバーズが【Ⅵ】。人形遣いを滅ぼした天蓋の化物。最凶を凌駕した刃。【伝承墜とし】だ」

 無表情ながらも、イレインに語りかける恭也がかすかに笑った。
 皮肉気に口元を歪ませる恭也の姿は、イレインには化け物しか見えず。
 適当に言った人外の頂点。化け物の化け物がいるなど―――どんな笑い話なのか。

「伝承、墜とし!?知らないわよ、なによ、それ!?アンチナンバーズのⅥは、人形遣いの筈よ!?」
「―――いえ、確かに三年前に人形遣いは滅ぼされています。後を継いだのが――ー伝承墜とし」 

 冷静ながらも、驚き目を見開いているノエルがイレインの叫びを否定する。
 あああ、と言葉にならない何かしか口から出てこない。
 確かに伝承級を連れてこいとは言った。だが、本当に遭遇することになるなんて有り得ない。
 勝てるわけが無い。領地を広げ続ける、死者の女王を打倒するなどと、誰が想像するのか。

 驚き、恐怖するイレインを尻目に安次郎を片手に持ち、忍の所まで運んでいく。
 ぼたぼたと地面を血で濡らしていく。恭也の目から見ても確実に致命傷。あとは早いか遅いかだけの違いだ。
 
「叔父さん……」

 忍の悲痛な呼びかけにも答えはない。
 意識を失う手前。すでに朦朧としている。それでも、安次郎の忍を見る目だけは変わってはいない。

「ああ、ノエルさん。もうソレの相手はしなくても大丈夫です」
「……え?」
「通りざまに斬っておきました」

 それを合図に、ノエルと切り結んでいたイレインコピーがぐらりと体勢を崩す。
 いや、崩したわけではなく―――四肢を斬りおとされ、上半身と下半身を切り別たれていた。
 何時の間に斬ったのか。ノエルでさえも初動作さえも見切ることは出来ない。もはや、それは桁が違う超速技。
 二人に背を向け恭也はイレインとの間合いを詰める。今度は誰にでも見えるようにゆっくりと。

「恭也……?」
「恭也、様?」 

 忍とノエルの声を背中で聞きながら、恭也は心配するなと手を挙げて答える。
 そして―――伝承墜としは刃を向けた。
 
「お、お前は―――」
「言葉はもういらん。お前は俺に刀を抜かせた―――お前の死は絶対だ」
「く、そぉぉぉぉぉう!!」

 残されたイレインコピー三体が恭也を止めんと後方、前方、右手から襲い掛かる。
 その三体は確かに見た。闇夜を切り裂く、一条の閃光を。白銀の刃。煌く剣閃。
 音もなく、抵抗もなく、たった一度の交差でイレインコピーは、ある者は首を飛ばされ、ある者は心臓を貫かれ、ある者は上半身と下半身を分断され、短い機動時間を終えた。
   
「あっ……あっ……あっ……」

 目の前で起きた光景に押されたイレインは腰が砕けたように後ろに転がりそうになった、その瞬間。
 イレインにとって幸運だった。もし転ばなかったら確実に巻き込まれていた。目の前を通った光の剣閃を。
 夜を照らす輝き。恭也はこの斬閃をこう呼んでいる。いや、正確には違う。この剣閃の名付け親は自分ではない。
 
 ―――天眼。

 かの化け物に名付けられた。 
 今から三年前に戦った人形遣い。その化け物と戦い、見出した妙境。
 あらゆるものを断ち切る不可視の斬撃。天眼は恭也のこの斬撃を見てそう名付けた。

 痛みは無く、斬られたという感覚もなく、イレインは己の両腕が半ばから斬りおとされているのをようやく気づいた。
 見れば少し離れた地面に自分の両腕が転がっている。笑うしかない。あまりに次元が違いすぎた戦闘力。
 これが―――かの伝説。伝承に語られる人外の頂点達の一角。

 ―――勝てるわけは無かった。

「あはっははははははははははははは―――!!」 

 壊れた機械のように笑い続けるイレインを、用心して見下ろす恭也だったが、もはや雌雄は決している。
 勝負の天秤は恭也に傾き、これ以上何かあるのかと集中力を高めたが―――。
 
 ざっと音をたてて心臓を貫かれたはずのイレインコピーが忍達の方へと駆け抜けていく。
 反射的に振り返った恭也だったが、忍へと到達する前にノエルが割って入り足を止めに成功した。
 安堵した恭也だったが、イレインの狂った笑い声は止まらない。
 もしも、イレインコピーが忍に向かっていったのならば恭也は全速で止めに入っただろう。そしてそれを可能とした。
 だが―――イレインの目的は違った。恭也に四肢を切り裂かれ、忍の近くに倒れていたイレインコピーが奇妙な音を立て始める。
 まさか、と思う暇も無くイレインコピーのたてる音が高くなっていき、光を発した。

 響き渡る轟音。爆炎が、衝撃が離れた恭也にさえも伝わってくる。黒い煙が立ち昇る。
 月村邸の脇の森から、爆発に驚いた鳥達の群れが、ばさばさと飛び立った。
 離れた恭也にもこれだけの熱気を伝えてくるということは、それよりも近い位置にいた忍はどうなっているのか。
 背筋に冷たいものが走るなか、爆心地に近づく。それと同時に無事ではあったが、泣きそうな表情のノエルもまた忍のいた位置へと走り寄った。
 二人がそこで見たものは―――。



















 月村安次郎。
 彼は名家と名高い月村一族の次男として生まれた。
 夜の一族は子供が出来にくい。それ故に未だ理由がわかってはいないが、最初の一子に夜の一族としての血は凝縮されることになる。
 月村征二。忍の父である彼に全ての愛情は注がれた。忍の祖父達の莫大な財産も全てが征二に継承されたのだ。
 安次郎はそれを不満におもったことなど一度としてなかった。両親や親戚からはぞんざいに扱われたが兄の征二は心のそこから安次郎を大切にしてくれたからだ。

 血の薄さから夜の一族としては大成できない。それが判った安次郎は僅かな資金を元手に表の世界で企業を経営し始めた。
 幸いにも優れた経営手腕を持っていた安次郎は、日本でも有数の経営者として知られることになる。
 そんな折に、兄が結婚したことを知る。忙しかった安次郎は中々兄のもとを訪問する機会がなかったが、それから数年。ようやくまとまった時間が取れるようになった安次郎は征二の家を訪ねてみれば―――可愛らしい子供がいた。
 月村忍。兄の子にして自分の姪。元気な娘であった。そして、夜の一族としては落ち零れな自分にも笑顔を向けてくれた。
 
 兄の子と言うこともあり安次郎は忍をこれ以上ないくらいに可愛がった。
 自分に子供がいなかったこともそれに拍車をかけただろう。
 事態が急変したのは忍が十歳の頃。忍の両親が海外へ仕事で出かけた際に―――飛行機が墜落。帰らぬ人となった。
 悲しみを受け止められず元気だった忍は引きこもるようになったが、問題は遺産の相続だった。
 
 月村一族の遺産は莫大。特に征二の継承した財産は天文学的な数字。
 それを狙って様々な連中がやってきた。それを相手にするには忍では不可能。それ故に安次郎は必死になって忍を守った。
 かなりの財産を奪い取られはしたが、それでも忍が過ごしていく上で問題なさすぎる財産と月村邸を死守することに成功したのだ。
 
 安次郎は後悔した。夜の一族としての力がない自分。表の世界でも優れた経営者ではあったが、ただそれだけだ。
 だからこそ、安次郎は権力が必要だと思った。表の力でも、月村の一族を黙らせるだけの力が。
 そうして安次郎は寝る間も惜しんで表の世界で様々な経営に乗り出す。あらゆる相手を黙らせるだけの財力を、権力を手に入れるために。

 忍のことを気にかけつつも、数年の時が流れた。
 ノエルという自動人形を自分の手で直したことを知ったときは我が姪っ子ながら天才かとも思ったが―――それが全ての歯車を破壊することになる。
 
 つい一年前にある筋からノエルを狙っている相手がいることを知る。
 しかも、最悪なことに裏のある組織の一員。安次郎の力も届かない深い闇に根ざす相手。目的のためならば手段を選ばぬ外道達。下手をしたら、忍を殺してノエルを奪い取ることも辞さない。
 安次郎は彼らに交渉をはかり、自分が忍からノエルを奪い取って渡すことを約束し、彼らを傍観者に留めることに成功した。彼らの組織と親しくなりたいからそれを持って手土産としたいという嘘まで吐いて。
 後は忍からノエルを受け取れば、忍はこれまでと同様に暮らしていけるはず―――だった。
 
 安次郎の誤算。それは忍とノエルの絆の強さ。
 両親の喪失から立ち直らせてくれたノエルを、忍は家族とまで認めていたのだ。家族と引き離されることを良しとする者はいないだろう。
 忍にはできるだけ表で生きて貰いたいと思っていた安次郎はノエルを必要とする理由を説明するわけにもいかず、手詰まりとなる。
 
 安次郎は忍のことが大切だ。
 そのため強引に忍とノエルを引き離す手段を取る事はできなかった。
 そこから安次郎の苦悩の日々が始まる、できるだけ、二人には残された月日を過ごして貰いたいと願いつつ、忍への脅迫を始める。
 
 ノエルを奪い取るという、組織への体裁のために、できるだけ直接的な手はくわえないようにしてだが。
 幸いというか、組織は中国を本拠地としていたために、この地まで中々目が行き届かないのも手助けとなっただろう。それにあくまで組織の目的ではなく、組織のある一部の者達の狙いだったために長い間ごまかすことに成功した。
 親類縁者にも忍へ対する脅迫の牽制をしつつ、日々を過ごす毎日。愛しい姪に悪態を、心にも無いことを言わなければならない苦痛。心が音をたてて壊れていく。
 必死だった。安次郎は凡人だった。経営者として優れていたとしても、力は無い。誰かを止める力など無い。あるのは忍を、姪を守りたいという気持ち一つ。
 それもやがて限界を迎える。
 
 いや、一年もよく持ったほうだろうと安次郎は自嘲した。
 仮にも血も涙も無い闇の組織が一年も猶予をくれたのだ。それがつい先日の話。ノエルは強すぎるために普通の人間ではどうしようもないため、北斗という暗殺集団まで雇ったというのに一向に仕事をしてくれなかった。
 そして組織の者達は安次郎に秘密裏に最近は動いていたらしい。暴走車で忍を狙い、歩道橋の上から突き落とし、あろうことか死んでもおかしくは無い重傷も負わせた。
 許せない気持ちが膨れ上がった。それ以上に危機感も。
 組織の最後通告なのだろう。時間をこれ以上かけるならば―――もはや容赦はしない、という。

 脳裏に思い浮かぶのは―――兄の征二。夜の一族としては無能な自分に誰よりも優しくしてくれた。

 脳裏に思い浮かぶのは―――姪の忍。夜の一族としては無能な自分を誰よりも慕ってくれた。

 二人に捧げるのは沢山の感謝。下らない自分の人生は二人によって救われた。
 忍が平穏に生きていけるためならば、どんな手段でも使おう。

 ワシは―――悪になろう。
 
  

 






 
 

 
 
 
 
 
 




 煙が薄れていく爆心地の近く。
 忍がいた場所には、ぼろぼろの【何か】が残っていた。煤で汚れた何か。
 それが何なのかすぐにわかった。その何かの下から無事な忍が這い出してきたのだから。

 ごろりと地面に転がる何か。いや―――月村安次郎。
 爆発と爆炎から忍を庇ったのだろう。皮膚は裂け、焼けただれ、無事な箇所などなにもない。

「―――叔父、さん?」

 茫然自失の忍。
 イレインコピーが爆発する瞬間、安次郎は忍を地面に押し倒し、自分が盾となって守ったのだ。
 自分も瀕死の重傷を負いながら。それでも、忍を守るために身体を張った。

「叔父さん!?叔父さん!?」

 忍が安次郎にすがりつき、身体を揺さぶる。
 全く反応をしなかった安次郎だったが、忍の声に意識を引き戻されたのか薄っすらと目をあけた。

「……ああ、なんや……無事やったか……」
「叔父さん、なんで、なんでかばったの?なんで―――」

 泣いていた。この世界で誰よりも泣かせたくない姪を泣かせてしまった。
 いや、違う。この一年きっと何度も泣いていただろう。不幸にしたくないと願いつつも、不幸にしたのは自分のせいだ。いいわけなどしない。
 ぼやける視界の端に恭也が映る。
 はっきりとは聞こえていなかったが、この男は忍が夜の一族であることを知っていてもなお、一緒に居るのだ。
 まさかそんな相手が見つかるとも思っていなかったが、これ以上うれしいことは無い。
 そして、強い。自分では成し得なかったができるだろう。この男になら忍を任せられる。あらゆる障害から忍を守ってくれる。
 後は静かに自分の人生に幕をおろすだけだ。

「……あほぅ……お前がしんでもーたら……財産がワシに、はいらんやろう……」

 心にもおもってもいないことを告げる。
 これでいい。忍には最後まで悪人を徹さなければならない。自分のような男のために気を病むこと等必要ないのだ。
 
「……私ね、恭也に言われたんだ。嘘が下手だなって……」

 涙声で忍は語る。
 安次郎の焼け爛れた手を握り締めて、ぽろりと涙を流す。

「血筋かなぁ……叔父さんも、嘘が下手だね……」
「……うそ、やない……」
「……ううん。叔父さん、有難う―――沢山、沢山、沢山―――有難う」

 ぽたぽたと涙が流れ落ちてくる。
 結局ばれてしまったようで、自分の演技の下手さを呪いたくなる。
 だが、駄目だ。認めるわけにはいかない。
 自分は―――誰にも認められずとも、悪になると決めたのだから。

「……ほんと、けったいな……やっちゃ……」

 だが、悪くは無い最後だった。
 姪に見取られて最後を迎えるなんて、きっと今日は人生最後にして―――最大の幸運なのだろう。
 目をつぶる。忍の声も聞こえなくなっていく。
 そして、悪を貫いた月村安次郎は満足そうに、一生を終えた。

 忍が安次郎の遺体に縋りつき、静かに涙を流す一方、イレインは既に遠く離れていた。
 恭也の視界でもかすかに映る程度の距離。
 そのイレインの後姿を追おうとした恭也の足が止まった。

「はぁ……はぁ……はぁ……生きる。生き延びる。私は生き延び―――」
「―――ああ、無理だ。僕はどうもお前は気に食わない」

 疾風がはしった。
 イレインの身体を撫でつけ―――ぐらりと身体が揺れる。
 疑問に思う間もなく、足が動かないようになっていた。バランとなにかが崩れる音がしてイレインは己の両脚が斬りおとされたのを知った。
 イレインの背後には刀を抜いた水無月冥の姿。ふんと鼻を鳴らし、刀を鞘に納める。

 足がなくなり、地面に落ちそうになったイレインの顔を掴んでとめた人物がいた。
 少しばかり機嫌の悪い水無月殺音だ。手に力をこめるとミシミシという音が響き渡る。

「わた、しは―――自由が―――」
「残念。来世に期待しときなさい」

 グシャリと何かを砕き割る音が聞こえ、最終生産型自動人形の今生は潰えた。
 二人の背後には北斗の面々がついてきてはいたが、やる気は全く見られない。
 殺音と冥の姿を遠目で見た恭也が―――決着の時がきたのだと、深く息を吐いた。

「ノエルさん。忍のことを―――頼みます。アレは俺の客です」
「……ご武運を」

 ノエルに見送られ、恭也は殺音に近づいていく。
 恭也が近づくにつれ、殺音の顔が笑顔に変化していった。
 互いの距離は数メートル。冥は邪魔にならぬように、後ろに下がり他の北斗のメンバーと同じ位置に控える。
 沈黙だ。互いに言葉はない。だが、二人の間の空気は、ピシリピシリと凍えていく。

 そんな空気を見た冥は、嘆息する。
 僕が相手じゃなくてよかった、と。
 
「―――すまんな、殺音。お前に世界最強になると約束したが、此処までしかまだ歩めてはいない」
「あっははは。人間でアンチナンバーズの伝承級に選ばれていながらの台詞かい、それが。私の想像を遥かに超えてるよ。伝承墜とし」
「出会った敵を斬り続けたら、結果としてなっただけだ」
「ふふん。やっぱり、キミは最高さ。十年まったかいは―――あったよ!!」

 ぐにゃりと周りの景色が揺らぎ、空気の流れが変わった。
 二人の殺気に方向性をもたし、互いにぶつけあう。包み込みあう殺気の波動。
 お互いに叩き潰そうとする重圧を撥ね退け、感覚の歪みを取り戻す。
 殺音の目がきらきらと輝き、歓喜が迸り、恭也を受け入れるために両腕を広げる。
 爆発させるように、感覚を発し、二人はその場から傾いた。

 二人の姿勢は蹴躓いたかの体勢で、その姿勢のまま、地面を踏み割る。身体が吹っ飛んだかのように、前方へと押しやる。
 殺人的な殺音の拳が空気の壁をぶちやぶって放たれた。恭也はかがみこんでかわす。一瞬遅かったのか風圧で髪がたなびく。
 恭也の足が大地を踏みしめ、カウンターとなる右拳が殺音の腹部に決まった。
 
 十分な威力をのせた一撃だというのに、拳には異様な感覚が伝わる。鳥肌がたつが、恭也はひきはしなかった。
 カウンターの拳をくらってなお平然とする殺音の蹴り足が跳ね上がった。
 咄嗟に横にとんでかわす。恭也のいた地面が殺音の蹴り足でこそぎとられる。土が宙に舞い、落下していく。

 恭也の後を間断なく詰め、容赦なく拳を向ける。
 早い、というレベルを超えていた。なんとか寸前で見切る。
 追の連撃。これもかわすが、反撃の隙はなし。
 殺音の背負う圧倒的な殺気を先程は跳ね返したとはいえ、気を抜けば押し潰されそうになる。

 ―――刀を抜かないの?

 そう殺音の目が語っていた。

 ―――抜かせて見せろ。

 恭也は物言わぬ目にそう返す。
 侮っているわけではなく、恭也が刀を抜くということは―――文字通り必殺。
 そこまでの力を見せろと、視線で語る。

 一秒を数十に分割した一瞬の時。そこに隙を見つけた恭也の手足が動く。
 殺音の腕に、足に流れる動きで拳と蹴りをみまう。徹こみの攻撃だというのに、殺音はきいたそぶりさえも見せない。
 鉄槌に匹敵する重たい打撃だ。常人ならば一撃で骨を粉砕され、意識を失うほどの衝撃。
 
 恭也の攻撃に殺音が喜びを隠し切れぬ様子を見せる。
 本人のテンションがどこまでも高くあがっていくのは明らかで、興奮を隠さずに逆に見せ付けてくる。
 
 斜め冗談から打ち下ろす右拳。それを身体を半身にして避ける。
 殺音は流された拳の力を利用して回転。ふりむきざまの裏拳へと変化させた。
 受け止めようとして、殺音の拳に秘められた凶悪さを本能が感じ取り、転がりかわす。

 体勢を整えれば、回り込むように殺音は恭也を追い詰める。
 蹴り足が跳ね上がり、それを後ろに半歩動いて避け、踏み込もうとするも悪寒におそわれ足を止める。
 空中でピタリと止まった蹴り足はそのまま踵落しとなる。
 すんでのところで危機を感じ取った恭也はなんとかその攻撃を凌ぐ。

 足が地面につく前に、恭也の蹴りが稲妻の速度で殺音の首元に決まった。
 骨が折れてもおかしくは無い手加減ぬきの蹴り。だが、分厚い鉄板を蹴った感触しか、足には残らず。

 即座に身体を飛び退かせ、離脱する。
 首に感じた衝撃なぞなんのその。殺音は全く通用していないようで、笑みを深くしたまま恭也へと迫る。
 殺音の右フックが顔の眼前を通過する。
 風圧が顔を叩き潰すように感じられるが、怯んでいる暇は無い。
 
 ダンと一際高い地面を叩く音が周囲に響いた。
 加速した殺音の姿が急迫する。反射的に後退しそうになった身体を叱咤する。
 このまま後ろにさがったら相手の思う壺だ。後ろに逃げてはすぐに追いつかれる。
 
 殺音を引きつけ、拳が恭也に届く前に極限まで無駄を省いた動きで宙に舞う。
 頭上を飛び越え、手足を使用し反動をつけ、殺音の背後に着地した。
 それ同時に拳を殺音の背中につけて、震脚。拳に嫌な感触を残し、解放された衝撃が殺音を吹き飛ばす。
 背骨を圧し折るつもりで放った寸頸だったが―――吹き飛ばされながらもなお、体勢を整え、殺音は笑みを絶やさず恭也へと向かってくる。

 これも効果なしかと確認をした恭也に、殺音は流星の如き速度で走りよった。
 その動きは恭也が知る限り、誰よりも早く、何よりも、怖い。
 一撃一撃に恐怖が纏いつく。息を呑む戦意。
 十年の重みが、凄まじい圧迫感を伴って恭也をして、怯ませる。

 だが―――これでもまだ本気ではない。

 恭也の直感。殺音はほんの一部の力しか使っていない。
 それがはっきりと理解できる。この状態でも人形遣いと呼ばれる化け物と同等以上だというのに。
 強大で巨大な怪物が、戯れるように拳を振るっている。そんな感想を恭也は抱いた。

 そんな余計なことを考えていたせいだろうか。
 殺音が雄叫びをあげて、間合いを詰めてきた。今までが霞む速度。急激に増した速度に反応しきれず、殺音の拳が喰らいついてきた。
 咄嗟に腕を交差して殺音の拳を受け止める。両腕に伝わるのは徹とかそんな技術を超えた、破壊の衝撃。
 両腕が痺れ、握力が失われる。全身の感覚が消え失せるなか、恭也の身体が吹き飛ばされた。
 
 面白いように転がっていき、背後にあった森を形作る太い幹の木々にぶつかりようやく止った。
 がはっと恭也が咳き込むと、地面を赤黒い血が染める。

 戦いの喜びに打ち震えて、殴り飛ばされ地面に転がった恭也を追撃しようとする。
 だが、殺音は次の一歩を踏み込めなかった。冷たい空気にあてられて、自然と身体が動きを止める。
 もし、殺音がただ勝ちたいだけならばそこが勝負の分かれ目であった。この瞬間こそが踏みとどまり、恭也へと攻撃をせねばならぬ勝負の明暗をわける一瞬。
 だからこそ、恭也の全力をみたい殺音はあえてそこで足を止めた。己の直感に従うように。

 不思議な気分だった。殺音は自分の拳をまじまじと見つめる。
 一切の手加減もない一撃だったというのに、それがまともに恭也の両腕を殴りつけたというのに。人を余裕で殴り殺せる。それほどの力をこめた一撃だったはずなのに―――。

 恭也は立ち上がった。血と唾液が交じり合った唾を地面に吐き捨てる。
 無傷であるはずがない。例え恭也といえど今の一撃を受けて平気なわけがないのだ。
 だというのに―――恭也は口元を歪めていた。
 殴られたというのに。激痛が全身を襲っているのだというのに。
 嬉しくてたまらない。そんな表情を今の恭也は誰にでもわかるかのように浮かべていた。
 否、それはすでに狂笑といっても過言ではない。どこまでも禍々しく、狂喜が入り混じった、人がしてはいけない狂った感情のなにかだった。

「く、はは……すまんな。笑いが、抑えられない……笑みが自然と浮かぶ」

 全力で戦ってきたことは数多い。全力を出さねば生き残れなかった戦いは指の数ですまないほど経験してきた。
 絶望を覚えるようなバケモノどもと命の削りあいをおこなってきたことは数知れない。
 だが結局は恭也は生き延びてきた。例えどのような化け物と戦ってきても―――恭也は勝ち残ってきたのだ。
 殺す気になるほどの、全力で挑んで勝利の光を一筋も掴めないような化け物。それこそが水無月殺音。かつて感じた恐怖と実力は間違いではなかった。
 それが、ようやく目の前に現れたのだ。しかもそれは、かつて盟約をかわした、運命の相手。それを喜ばずしてなんとするか。
 全力。全盛。おのがすべてをかけて戦うに値するバケモノが。
 知略も、策略も、一切の余分を省いた、魂をかけての闘争!!

 俺はついに―――その場に立てたんだ。

「ようやく、ようやくだ―――【俺】が【俺】として、不破恭也として戦える瞬間がやっときた!!」

 ―――十数年にもおよぶ地獄の修練。

「く、はははは!」

 ―――十数年にもおよぶ死地での鍛錬。

「受け止めてくれ、水無月殺音!!」

 気づけば十余年もの昔、殺音の殺気を前にして何もできなかった少年は―――。

「俺の剣を!俺の命を!!俺の魂を!俺の、全てを!!」

 何者をも逸した―――最強の剣鬼になり果てていた。

「己を研磨し続けた。刀の化身と成り果てた我が身……救いなど有る訳が無いと思っていた。必要ないと思っていた」

 それが不破恭也の生き方。
 遠き昔に邂逅した人外の中の人外。水無月殺音と戦えるだけの力を得るために、感情を殺し、想いを殺し、刀の化身に成り果てた。
 【人形遣い】と呼ばれる凶人とも殺し殺されの戦いを経験し―――自分が既に人間とは言い難い化身になったのだということを理解させられた。
 それでも良かったのだ。全てを捨てなければあの時に、命を落としていたのだから。
 だというのに。それだというのに。こんな幸せなことがあっていいのだろうか。こんな幸福を認めてもらえるのだろうか。刀の化身でもなく、高町恭也でもなく、不破恭也としてのかつてない幸福。

「だが―――報われた。お前(殺音)と再び会えて―――良かった」

 圧倒的な殺気が弾ける。絶対的な闘気がたちのぼる。絶望的な殺意が周囲を満たす。
 殺音の生きてきた百年の年月において間違いなく最強の名を冠する剣士がそこにいる。
 ぶるりと殺音の身体が震えた。
 恐怖でも畏怖でもなく―――ただ、喜びで。
 
 あの少年が、たった十数年足らずで自分と同じ、否、自分以上の世界へと足を踏み入れたことに身体中が歓喜で震えた。
 
 凄まじい重圧で身体が押された。圧された。
 恭也の全てを見せられた。魅せられた。
 
 ズクンと身体の底の底で蠢く闇が囁く。
 そのままでいいのか、と。その程度で恭也と戦うのか、と。恭也の想いに答えなくていいのか、と。

 ―――良い訳が無い!!

 殺音の心の雄叫びに闇が嗤う。
 それでいい。後先など考える必要などない。
 【今】に全てをかけろ―――それが恭也にたいする最大限の敬意だ。
 
 恭也と同じように自然と浮かんだ笑みを隠すように手で覆う。 

「キミは―――バケモノさ!ヒトという名の正真正銘のバケモノだ!!」
「ああ、そうだ。その通りだ。認めよう。俺は刀を求め―――刀となった。ただそれだけのヒトだ」
「そんなキミにだからこそ見せよう!!魅せよう!!私の生涯全ての尊敬と敬愛と畏怖と喜びと―――愛情を捧げて!!」

 夜空を見上げる殺音。
 そして、一言。

「―――覚醒、【猫神】」

 瞬間。それは起きた。
 恭也の重圧を押し返すような、驚異的なほどの力の解放。
 物理的な威力がこもったかのような突風が巻き起こる。
 
 変容していく。
 ―――殺音の肉体が。

 変質していく。
 ―――殺音の本質が。

 ドクンドクンドクンと深奥から闇が這い出てくる。激しい体の痛み。頭痛が響く。苦痛に耐えるように歯で唇を噛み締める。
 【闇】と【自分】の魂が同調し、変化を遂げようとしているのだ。その痛みは常人ならば絶命してもおかしくはない。
 まるで魂と魂が見えない糸で絡まっていくような不思議な感覚。
 激痛はさらに酷くなっていく。脂汗が、全身から滴り落ちる。痛みはすでに絶頂に達している。それでも殺音は耐え切り、悲鳴一つあげようとしない。
 身体中の至るところを内側から爆弾で爆砕させられたような痛み。
 それほどの激痛でありながら、殺音は耐え切った。僅か一分にも満たないが―――永遠にも等しく感じた時間を。

 そしてようやく殺音は全身を蝕んでいた激痛が消えていることに気づいた。
 荒く乱れた呼吸を繰り返し、徐々に呼吸を整える。
 体内を満たす果てしなき、破壊の鼓動。流れ込んでくる、熱い空気。

 ギラギラと真紅に輝く瞳が、よりいっそう禍々しさをます。
 一睨みするだけで普通の人間ならば心臓をとめてしまいそうになるほどの重圧を撒き散らす。
 空間が恐怖したかのように、軋みをあげはじめる。
 
 何時の間に生えたのか―――殺音の頭には猫のような耳が二つ。
 そして、尻尾がゆらりゆらりと左右に揺れていた。
 半人半獣。その言葉が相応しい異形の姿。

 さらに殺音の白い肌だからこそ映える―――黒く輝く異常なる紋様。
 両頬から首筋を伝って両肩。両腕。下半身へと。
 幾何学的な漆黒の何かが浮かび上がっていた。

 恭也が先ほどまでは別人だとすれば、殺音もまた別人。
 人の頂点と化け物の頂点。
 ここにおいて―――二人は全ての奥の手を出し切った。  
 
「―――アンチナンバーズが【Ⅷ】。【猫神】―――水無月殺音―――全力全盛全開全生を持って、キミを受け止めよう」

 世界最強の化け物集団―――そのⅧを名乗った殺音は獰猛な笑みを浮かべ、首を捻る。
 迸る、次元のことなる殺気の奔流。その濁流にのまれながら、恭也もまた嗤った。

「永全不動八門―――御神が闇。【不破】の最終血統。アンチナンバーズが【Ⅵ】―――伝承墜とし―――不破恭也。我が命と魂と誇りを持って、感謝とする」

 二人の最高と最強に高められた殺気がぶつかりあい、世界を恐怖させる。
 美由希でさえも置き去りにされる、いや、何人たりとも二人の間には割って入れない。そんな空間が形成されていた。
 
 それはまさに―――二人に許された、二人のためだけの、二人による究極の世界であった。

 恭也が構える。殺音も構える。
 バチリと互いの視線が交差し、決戦が始まるのだと認識した。 
 力がこもる。全てを今この一瞬に込めて―――。

「「お前(キミ)の全てを―――」」

 殺音の生涯で、間違いなく最強の剣士が呟く。
 恭也の生涯で、間違いなく最強の化け物が呟く。






























「「―――俺(私)にくれ」」






































--------atogaki-----------

とりあえず長くなったので二話にわけました。
もうちょっと丁寧にかけばよかったかなーと反省です。
それと次章ですが、仕事のほうで新しい店舗を担当になってしまい、慣れるまでしばらく更新は滞ります。
申し訳ありませんが、ご了承ください。
次回で忍編及び、殺音編終了できたらいいなーと願いつつ、次も宜しくお願いします。
  

 
 

 


   



[30788] 九章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/03/02 00:51





















 


 冷えた身体に熱いシャワーを浴びせ、身体を暖めたツヴァイが満足した様子でシャワー室から出てきた。。
 バスタオルを上半身に巻き、それ以外は何も身に着けていない。一目でわかるほどの抜群のプロポーション。
 ナンバーズの数字持ちの中でも一、二を争うと評判の出るところは出て、引っ込む所は引っ込んでいる、同じ女性でも見惚れてしまうほどだ。
 身体の至るところに刻まれた、傷跡さえなかったらの話だが。HGSの能力者としてすでに十年以上も一線で動いているツヴァイは当然戦闘経験も多い。
 その結果として、決して無傷とは言えない数多くの傷跡を負ってしまった。それを恥とは思わないが、これを見て自分を愛してくれる男は現れないだろうと心のどこかで思ってもいる。
 
「あー、なんか意外と楽な仕事ッスね?」

 風呂上りのツヴァイに聞こえたのは完全に気の抜けたエルフの台詞であった。
 見れば部屋の中央に置いてある椅子に座りながらテーブルに突っ伏してテレビをぼけぇとしているエルフの姿がある。
 いや、エルフだけではない。ゼクスとツェーンも見るからに気の抜けた体勢で何をするでもなく天井を見上げていた。
 駄目妹達にため息を漏らしつつ、近づいて行き隙だらけの頭をパシンと叩く。テレビの音しかしない部屋に叩いた音は三つ。
 三人とも避けることもせずに、ツヴァイに叩かれるままだ。その姿に呆れつつ、ツヴァイは肩にかけてあったタオルで濡れた髪を拭く。

「貴女達。もうちょっとやる気をみせなさいよ。ズィーベンとフィーアを見習いなさい」
「えーだって。あたしって基本的にアレじゃないッスか?隠密行動むいてないッスよ」
「あたしも、かな」
「私もー。偵察はあの二人に任せておけばいいんじゃない?」

 パシンと何かを叩く音がまた二つ。
 叩かれたのはゼクスとツェーンだ。叩いたツヴァイは、ふぅーと深く疲れたため息をまたもや吐き、人差し指で額を押す。
 頭が痛いというわけではないが、この三人の行動が悩みの種であることには違いない。

「エルフは兎も角……貴女達二人の能力は偵察に最適でしょうが」
「まぁ、聞いてよ―――ツヴァイ姉?私はね、一年間も百鬼夜行のストーキングしてたんだよ?で、ようやく終わったと思ったら今度は猫神だよ?これって幾らなんでも酷くない?私が労働局にチクったらどうなるかわかるよね?」
「はいはい。どうにもならないから」
「ええー?ツヴァイ姉もっとのっていこうよ」
「そういうのはツェーンにでも頼みなさい」

 ゼクスの訴えをばっさりと斬って捨てたツヴァイが椅子に座る。
 ちらりとゼクスが横目でツェーンを見るが、本人は一応話を聞いていたのか、考えるそぶりをする。
 基本的に寡黙で、感情を表に出さないツェーンが珍しく、しっかりとした意思を視線に乗せ、口を開いた。

「なんでやねーん」
「……」
「……」
「うははは。それ面白いッスね、ツェーン」 
 
 うわーという表情をしたツヴァイとゼクスだったが、意外にもエルフはどこがツボに嵌ったのか爆笑している。
 相変わらず笑いのツボがどうなっているのかよくわからない子ね、とツヴァイは本気でエルフの行く末を心配した。
 既に夕方遅くなっているので窓から外を見れば、夕闇が支配する時間になってきている。
 
「そーいえば、フュンフ姉はどうしたんッスか?」
「フュンフなら私の代わりに、キョーヤ・タカマチの監視に行ってるわよ」
「えー?ツヴァイ姉こそ職務怠慢じゃないッスか」
「いーのよ、私は。フュンフが行きたがってたし。それに私の監視でもフュンフの監視でもどっちだろうが意味ないし」
「……意味がないってどういうことさ、ツヴァイ姉?」
「気づかれてるって事よ」

「「……っえ?」」

 ゼクスとエルフの間の抜けた声があがった。
 ただ一人ツェーンは心の中で、そりゃそーだろうね、と呟いていたのだが他の三人は知る由も無い。
 あの人外の匂いを漂わせた人間が、気づいていないはずが無い。

「ええーと。フュンフ姉は置いといて、ツヴァイ姉の監視に気づいてるってことッスか?」
「そう言ってるでしょ?」
「いやいや、ツヴァイ姉の監視に気づくってどう考えても普通じゃないでしょ?」
「それじゃあ、普通じゃないんじゃない?」

 ツヴァイはあくまで冷静に答えを返す。
 二人は自分達の上司の答えに驚きを隠せなかった。たしかにHGS能力のことを考えれば、ゼクスやフィーアの方が上かもしれないが、基本的にツヴァイはHGS能力に頼らずとも全体的に基本能力が高い。
 それは、戦闘技術であり、潜入技術であり、監視技術でもあり、隠形術であり―――少なくともこの場の三人は本気になったツヴァイの監視に気づくことができるとは思えない。 
 
「なんなんッスかねぇ、その人間」
「アンチナンバーズには、キョーヤ・タカマチなんて人間いなかったけどねー」
「……そうだね」

 エルフとゼクスは恭也の正体が本当に予測がつかず、頭を捻るがそれ以外の二人。つまりはツヴァイとツェーンの二人は逆に神妙な表情となる。
 二人にはある程度の予測がついていた。まさか、という気持ちが大きいのは事実である。
 かの伝説に人間が数えられるなど有り得ない事だということが二人の中では常識となっているのだから、それを覆すには二人の予測は弱かった。
 その時、ツヴァイの持っていた携帯電話がブルブルと震え始める。誰かと思って着信画面を見ると相手はフィーア。
 通話ボタンを押すと髪を拭いていた手は止めず、肩と頭ではさんだ。

「もしもし、どうしたの。フィーア?」
『―――ツヴァイ姉様。猫神が、動き出しましたわぁ』

 ピタリと髪を拭くツヴァイの手が止まった。
 汗を流したばかりだというのに、冷たい汗が一筋頬を流れる。

『北斗のメンバーも一緒ですわぁ。ただの外出というわけではありませんわぁ―――空気が張り詰めていますもの』
「了解。すぐ合流するわ」

 言葉短く、ツヴァイは携帯を切ると濡れた髪を乾かす暇もなく自分の部屋に戻りスーツを取ってくる。
 スーツは動きにくいと思われがちだが、ナンバーズの最高司令官が趣味で開発したもので、強靭な繊維で編まれたあらゆる銃撃、斬撃、打撃をある程度は吸収してくれるという優れもの。噂では魔術まで軽減してくれるという話だがその噂が本当かどうかは不明だ。

「―――貴女達。猫神が動いたわ」
「……平穏な一日も最後に終わりッスねぇ」
「なんでもないことを祈っちゃおう」
「……そうする」

 やる気の見られない発言には聞こえるが、既に三人の意識は切り替えられていた。
 例え何があったとしても三人はナンバーズの数字持ち。人間社会の防波堤。魔を滅する人類社会の最後の切り札。
 ツヴァイを先頭に部屋から出るとエレベーターに乗る。ここはナンバーズの資金で購入したマンションであり、海鳴での活動拠点。
 購入資金を平然と経費でおとすため、最高司令官からは、ほどほどにしてくれという有難いお言葉がかけられるのだが、気にしたことは無い・。

 駐車場に止めてあった車に乗り込む。ツヴァイが運転席。ゼクスが助手席。他二人が後部座席だ。
 ツヴァイなら運転していても違和感はないが、他三人だったら警察に見つかったら間違いなく止められるだろう。実際、免許はもっていないのだが。
 携帯電話に表示されるフィーアとズィーベンの居場所―――それを追って道路を走っていく。どうやら海鳴の郊外に向かっているようだ。
 車を走らせること十分程度。家や店が少なくなっていき、木々ばかりが存在する空間に変化していく。
 フィーア達の場所まで少しの距離になったので、流行ってなさそうなコンビニに車を駐車して後は徒歩で、合流しようと夜の闇を駆け抜ける。
 携帯電話を確認すると、不思議なことにフュンフとズィーベン、フィーアの三人が同じ場所にいることに気づいた。嫌な予感しかしてこない。
 
 その時、前方に幾つもの黒塗りの車。トレーラー、十人近くの黒服の人間が居るのが遠目だが発見すると、ツヴァイは後ろの三人に無言で右側に広がる広大な森林を指差した。
 それにコクリと三人が頷くと、音もたてずに森林に入り、ばれないようにフュンフ達の居場所まで疾走していく。
 対してツヴァイは物陰に身を隠しながら黒服の男が一人、輪から離れツヴァイが隠れている茂みの方に歩いてきた幸運を天に感謝しつつ、声をださせる暇もなく鳩尾と顎を拳で打ち抜いて意識を奪った。
 倒れる前に抱きかかえると森の奥へと引っ張り込み、ツヴァイは男の顔に手を当てた。

 闇を切り裂く銀の閃光。ツヴァイの背に現れるのは二対の白銀の翼。ライアーズマスクと銘々されたツヴァイだけのリアーフィン。
 能力は生憎と戦闘特化というわけではなく、手で触れたことがある人の顔へと自在に変化することができるというもの。
 たった数秒足らずで、ツヴァイは黒服と同じ顔となると、男の衣服を剥ぎ取る。
 さすがに衣服までは変化させることができないので、そこは不便だと感じつつも、男から奪ったサングラスと服を着ると、縛って見つからないように森のなかへと放置しておく。
 
 あまり時間をかけると怪しまれるので、ツヴァイは森を出て黒服達の元へと戻る。
 どうやら疑われてはいないようで自然と、輪の中に入り、待機していると―――目の前の巨大な屋敷から三人の人間が出てくる。それを見ていたツヴァイの口元がヒクヒクと痙攣し始める。
 一人は真紅の瞳をした夜の一族の女性。一人はメイド服の女性。そして最後の一人が―――高町恭也。

 一方その場所から幾分か離れた森の中には、フュンフとズィーベン、フィーアの三人が身を隠しながらその様子を窺っていた。
 ガサリと木々を揺らしその場に、ゼクスとツェーン、エルフが到着する。
 気配は読み取れていたのかこの場に最初からいた三人は驚く様子は見えない。

「状況はどうなってるんッスか?」
「……北斗はもっと遠くで様子を見ているみたいよぉ。ツヴァイ姉様の監視対象のキョーヤ・タカマチはあそこにいるわぁ」
「情報通り、あの二人は敵対してるってことでいいのかな?」
「ああ。それは間違いないはずだ」

 矢継ぎ早に質問するエルフとツェーンに、フィーアとフュンフが的確に答える。
 目をこらすが、夜の暗さと、距離があるために人影程度しか認識することができない。
 だが、これ以上近づけば気づかれてしまう可能性も高い。故に、三人はこれ以上近づくことはできなかったのだ。
 ツェーンがくるまでは―――。

「あたしを待ってたってことだね。ちょっと待ってて」

 ツェーンが己に求められていることを理解して目を瞑って、両手を自然に広げる。
 黄色に輝く翼がツェーンの背中に顕現する。眩い光が一瞬間周囲を照らす。ツェーンの両の瞳に五芒星が浮き上がる。
 輝きが周囲にいた五人を包み、視界が広がっていく。暗視スコープをつけているように、夜の闇も気にならないほどの明瞭さがこの場にいた全員の視界を支配する。
 ただ、闇を見通せるようになっただけではない。普段の数倍の距離も容易く見通せる視力。意識すれば数百メートル以上遠く離れた恭也達を目の前にいると錯覚するほどに。
 ツェーンが有する能力の一つ。人の五感のうちの一つ視覚を驚異的なレベルにまで高めることが出来る。無論対象は本人と、傍にいる人間に限られるが。

『起きたか、イレイン?ワシがお前のご主人様や』
『―――ご主人、様?』
『だ、だめ!!叔父さん!!』

 声が聞こえてくる。
 黒服に化けているツヴァイを通して、遠くはなれた場所の音がこの場所にも響いてきた。
 グッジョブ、ツヴァイ姉と心の中で喝采を送ったエルフとゼクス。

 そして―――。

『―――ぎゃぁっ』

 ツヴァイの断末魔が聞こえた。
 いや、不規則な呼吸音は聞こえるため死んではいないだろうが、返事もできない状況に陥ってるのだろう。
 その理由ははっきりしている。視界が広がっている六人は確かに見た。
 イレインが電撃のロープ【静かなる蛇】で黒服達全員をなぎ倒したところを。それに巻き込まれて、黒服に変化していたツヴァイも感電させられてしまったのだ。
 
「……さらば、ツヴァイ姉」 
「お前の死は無駄にはしないぞ」
「ツヴァイ姉、超うけるッス」

 ゼクスは苦笑し、フュンフはツヴァイに黙祷をおくる。エルフは一人だけ爆笑していた。
 残りの三人はどんな反応をすればいいのかわからず、微妙な表情で地面に倒れふしているツヴァイを見つめている。
 気が抜けていたといわれても仕方あるまい。この場にいた六人は、常に完璧を体現していた姉のツヴァイの間抜けにも倒れている姿を見て、確かに気を抜いていた。

『どうした、喜べ。イレイン』

 だが、そんなことが言い訳になどなる筈のない―――別次元の世界の住人を見た。

『―――お前が連れてこいと言ったアンチナンバーズの伝承級はここにいる』

 恭也の名乗りは遠く離れているというのに、耳元で囁かれたような異質な圧迫感と恐怖感を植えつけてくる。

『初めまして、自動人形。俺の名は不破恭也。アンチナンバーズが【Ⅵ】。人形遣いを滅ぼした天蓋の化物。最凶を凌駕した刃。【伝承墜とし】だ』

 そして―――伝説はかく語りき。
 嘗て幾つもの大都市を壊滅せしめたアンチナンバーズ最悪の伝承級の一人。人形遣いを単騎にて打ち倒した伝説を墜とした者。
 第参世界に住まう最強を誇る九人の内の一人。その話を肯定するだけの力を見せ付けた、伝承墜としはそこにいた。

「……伝承、墜とし?」
「人間ッスよね……?」
「……」

 フィーアがずり落ちた眼鏡にも気づかず、自分の耳を疑っているようだった。
 エルフは遠目に見える恭也が本当に人間なのか判断できず、他のナンバーズに確認するべく口を開いた。
 ツェーンは沈黙していた。いや、沈黙するしかなかったのだ。己の視認できる速度を遥かに超えた出来事に、言葉をなくしていた。

「な、なにを、したの?」
「……見えなかった―――ドライ姉様よりも、速い」

 ゼクスもまた恐怖していた。アンチナンバーズのⅦ百鬼夜行を一年間追跡してきたゼクスでさえ―――あの刃の前では膝の震えを隠し切れない。それほどの死を内包した斬閃だった。
 ズィーベンは、自分が知る限り最速にして最強のドライの速度をも凌駕していると、確信した。

「は、はは……成る程。成る程。アレが旧アンチナンバーズⅥ【人形遣い】を滅ぼした、不可視の魔人、か」

 ただ一人、フュンフだけは冷静だった。冷静に目の前で起こったことを理解した。
 自分の直感は正しかったのだ。自分に死を感じさせた高町恭也は、人間でありながら、伝説にまでのぼりつめた剣士だった。
 まさか、日本に来て初めて食事をした男性が、探し人だったとは笑える話だ。

「何度斬ったか、見えた?」

 その時、ズィーベンが他の五人に確認するように問い掛ける。
 ズィーベンは両手の斬撃あわせて―――三回までなら確認することができたが、それ以上は理解の外の剣閃だった。

「……抜刀さえもみえなかったわぁ」
「最初の抜刀までしか見えなかったッス」
「私もフィア姉と一緒かな」

 フィーアは抜刀さえも見えなかったと答え、エルフは抜刀までしか見えなかった。
 ゼクスもフィーアと同じく、刀を抜く瞬間さえも見えなかったと語る。

「六回までなら、確認できた」
「―――あたしは見えなかった」

 おーすごい、フュンフ姉と普段ならばエルフが茶化しただろうが、今はそんな余裕もないようで、皆が呆然としている。
 ツェーンは見えなかったと口に出したが……本心は違った。
 
 ―――右の刀で九度。左の刀で八度までは、見えた―――。

 合計十七回。瞬きする間にやってのけた神速の斬撃の嵐。
 完全にみえたわけではない、何故ならば、十七回以上の刃の嵐を振るっていたのだから。ツェーンをして、十七度の斬閃しか確実に追うことが出来なかったのだ。
 本当は一体、何度イレインを切り刻んだのだろうか。

「―――二十五回ですよ?」

 ぶぁっと冷や汗が流れた。
 身動き一つ取ることを許さぬ、圧倒的な瘴気。
 この場で許しを請いたい。それほどまでに格の違う人外が気づかせぬまに、背後にいた。
 六人の背後。木にもたれかかるのは―――アンチナンバーズのⅡ。未来視の魔人がニコニコと不気味な笑顔をふりまいて、悠然と立っていた。
 
「素晴らしいと思いませんか?あまりに速く、あまりに美しい。命を奪うためだけに特化した最強の刃。【光の剣閃】―――なんて素晴らしい」

 頬を赤くして、朗々と語る天眼。
 未来視の天眼。伝承墜とし。猫神。アンチナンバーズの伝承級が、この地に三人も現れる。一体全体これは何の前触れなのか。

「……なんで、こんなところにお前がいる?」

 六人の中で最強のHGSでもあるフュンフがやはり一番最初に我に返り、油断なく睨みつける。
 睨まれているというのに、肝心の天眼は全く気にせず笑顔のまま変わらない。
 ふらりと木から離れた天眼の動きはこの場にいた誰もが認識できなかった。特別に速かったというわけではない。だというのに、認識できない動きだった。
 ポンと天眼がフュンフの頭に手を置く。ゾゾゾと背筋を這い登る怖気。頭に手を置かれただけだというのに、身体の動きを奪われてしまう。

「今はあの戦いに集中しませんか?伝承墜としと猫神の戦い。きっと貴方達が見たことない天上の戦いを見ることが出来ますよ?」

 不吉な笑顔を浮かべたまま―――天眼はナンバーズに語りかけた。
 

  




















 静まり返った世界。
 生き物がたてる音はなく、風がたてる音もなく、世界は静寂に包まれる。
 その世界で、理解し難い、絶対零度の殺気が荒れ狂う。人間の原始的な恐怖を呼び起こす、真黒な領域。
 
 互いの余力を残さぬ全力の気当たりはそれだけで人の精神に異常を起こさせるほどのもの。
 近くにいた北斗の面々は皆、自分が殺された、という幻覚を幾度も感じた。足が震え、その場から逃げ出したいと思うも、逃げることを許さぬ恐怖の束縛。
 凄まじいとか、桁が違うとか、言葉では言い表せぬ重圧。二人とも汗が額から頬を伝ってゆく。
 恭也も殺音も、恐怖は感じない。あるのは、ただただ戦いたいという欲求。
 二人の腕が、足が、肉体が、心が―――戦わせろと雄叫びをあげていた。
 
 恭也の両手が柄を掴み、闇夜でも映える刀身を引き抜く。
 外見は普通の小太刀だというのに、恭也が持つだけでその刃は何物をも凌駕する破壊の凶器となる。
 殺音が喜びで打ち震える。ようやく、恭也の小太刀を、本領を引き出すことが出来たのだ。
 自分は不破恭也と全力で戦うに値する相手だと、認められた。十余年前とは真逆だが、それがいい。
 それだけ、あの少年が死地を越えて、種族も年月も才能も超えた絶対領域に辿り着いた。それが、たまらなく嬉しい。
 この百年でこれほどまでに精神が研ぎ澄まされたことがあっただろうか。
 
 時間がゆっくりと流れる錯覚。今ならば拳銃の弾丸も止まって見えそうなほどに全てを見極めることが出来そうだ。
 二人が互いの鬼気をぶつけあっていたのは数秒だったのか。数十秒だったのか。或いは数分も経っていたのかもしれない。
 時間を支配するというのはこういうことを言うのだろう。精神が、神経が、相手の一挙手一投足を見逃さぬように過敏になっていく。
 殺音の呼吸が止まり―――。

 突風が吹いた。
 神速を超えた速度で瞬く間に殺音は間合いを詰める。
 放たれるのは亜音速の域の右拳。当たったならば頭蓋は砕け、一撃死するほどの威力。
 殺音と同じく己を解放した恭也にはその拳が手に取るように見えた。頭を下げてやりすごすと、一歩踏み出すと同時に右逆袈裟に斬り上げる。
 闇を照らすは光の剣閃。煌く輝きを残し万物遍く切り裂く刃が殺音へと迫る。
 
 殺音は八景の腹を手で叩き弾く。強い衝撃に恭也の身体が流されそうになるが、そんな恭也の頭へと右回し上段蹴りが閃光の如く襲い掛かった。
 その蹴りに目を剥きながら、恭也は背後に数歩下がってやり過ごす。
 
 恭也の斬撃は、【光の剣閃】と呼ばれる。愚直に剣を振り続け、人形遣いとの戦いで辿り着いた妙境。あらゆるものを瞬きする間もなく切り裂く、斬術を極めたただの剣閃だ。つまり、恭也の一閃一閃が必殺の域。
 それをたやすくかわしたのは―――水無月殺音唯一人。かの人形遣いでさえも滅ぼした絶対殺撃だというのに、ああもたやすくかわせるものか、と。
 しかし、殺音の攻撃もまた異常。傍から見ている者にとっては何をしたのかもわからぬ拳の蹴りの速度だったろう。恭也をして反撃をする隙も与えない。そして、見えた。殺音の攻撃は自分と同じ世界から繰り出されるモノなのだと。つまりそれは、恭也の斬撃と同種。
 
 ―――【光の拳閃】とでも、名付けようか。

 そんな思考。

 ―――いいね。受け取ったよ、恭也。 

 刹那の世界で恭也と殺音は繋がっていた。
 恭也は八景を真横に引き。突きの体勢を保つ。御神流最速技。向かい合った相手にもたらされるは絶対死。怖れ敬い、そして死ね。
 御神流奥義之参―――射抜。

 踏み足が大地を砕き割る。抉り、弾き飛ばされるはずの土が空中に舞い上がるよりも尚早く、全身のバネを使った刺突が放たれた。
 その動きは人とは思えず―――人には見えず。一筋の雷光となって、獲物を穿つ。

 殺音は恭也の刺突をあろうことか真正面から受け止める。刺突と同速度で爪先が小太刀の腹を叩き跳ね上げた。
 狙いが逸れ、体勢がぐらりと揺れる。だが、体勢が崩れたというのに、恭也は逸らされた右小太刀とは逆の太刀で半ば無理矢理に殺音の首元を狙う
 まさかその体勢から更なる一手をうってくるとは予想外だった殺音が驚きを残しつつ、半歩だけ動いてやり過ごす。

 身体を回転。見事に着地した恭也が殺音を振り向く間もなく、側頭部めがけて蹴り出された回し蹴り。
 四肢の力を最大限に、蹴り足から逃れるように地面を叩きつけて回避した。

 不思議なものだ。恭也が使うのは小太刀。一撃必殺を可能とする武器。対する殺音が使用するのは己の拳。 
 だというのに、どちらの武器も相手を一撃で絶命させるに足る。
 僅か一撃で―――戦いの雌雄は決するのだ。

 鋼鉄をも破壊する拳が、恭也の脇腹に吸い込まれていく。
 拳が肋骨を圧し折り、砕き、水平に吹き飛ばされる―――そんな予感。未来視。
 ハァッと激しい呼吸を残しつつ、横っ飛び。大気を打ち抜いた音が後からついてくる非常識さに笑みしか浮かばない。

 逃げ行く恭也を逃すまいと、後を追う。人間離れした単純なまでの腕力と、人智を逸した速度で打ち下ろされる右腕。
 拳が目の前を通過して大地を激しく叩き、周囲を揺らす。ぐらりと小規模な地震が引き起こされた。
 当たっていないというのに、視界に赤い血が舞った。ズキリと額に痛みが走る。触れるか触れないかの差だったというのに風圧だけで浅く皮膚を切ったらしい。
 視界がぐらりと揺れるも、精神を集中。意識を保ち、瞬きをせずに殺音の全身の動きを見逃さない。

 痛みは恐怖を呼び起こさない。
 逆だ。痛みが恭也に与えるのは、心地よい緊張感。戦いに対する喜び。
 身体中が与えられた痛みに、叫んでいる。咆哮している。戦えと。負けるなと。

 熱い液体が額から流れ落ちる。即座に右手で拭いとって、乱暴に散らす。
 見かけは派手に見えるが、極限にまで高まった緊張感。集中力。脳内から発せられるアドレナリンが出血を自然と止める。
 身体が熱を持っている。戦いたいという欲求。
 食欲も睡眠欲も性欲も―――それら人間が必要とする三大欲求を遥かに凌駕する戦闘欲。
 目の前にいる水無月殺音を求めている。女としてではなく、生涯最高の好敵手として、恭也は求める。
 禍々しくも、抑えることを知らずさらに増大していく、人外達の大祝賀会。

 殺音の身体がぶれた。恭也の想像を超えた速度を可能とした殺音の右掌底。
 歯を食いしばりながら首を傾けてかわす。それと同時に膝蹴りが跳ね上がってきた。
 恭也はその膝を足の裏でおさえ込むが、単純な力は殺音が遥かに上。抑えこむことなど出来るはずもなく、恭也は逆足で地面を蹴りつけ、蹴った力と膝に弾かれる衝撃を利用して後方に跳躍。
 空中で一回転して着地するが、びりびりとした痺れが足に残っている。

 普通ならば痺れが消えるまで距離を保つのが正解なのかもしれない。
 だが、恭也の選択は、殺音を迎え撃つこと。
 攻め込んでくる殺音が拳を放つよりも早く。逆に恭也は踏み込み、殺音をめがけて袈裟懸けに八景を振るう。
 身を捻った殺音はその動作に繋げて、後ろ回し蹴りが恭也の背中に襲い掛かった。
 恭也はそれを読んでいたのかステップを踏むかのように軽く跳躍。しなる鞭を連想させる蹴りが恭也の足元を通過して―――その蹴り足に恭也は乗った。

 ピタリとその体勢で静止し、一枚の絵画のようであった。
 二人して口元に狂笑を浮かべ、パァンと何かが弾ける音がして二人は数メートルの間合いを取る。
 語る言葉もなく、休む暇もなく、二人は自分の視界に映る唯一人だけに身体を疾駆させ、魂をぶつけあう。
 削りあうのは命。叩き込み合うのは想い。猫神と伝承墜としの戦いは美しくも凄惨な、最強同士の戦いだった。

 固めた拳一つをもって、足を地に叩き付ける。
 仕掛けたのは殺音。が、殺音が一歩踏み込み、二歩目を踏み込もうとした時には恭也は既に目の前にいた。
 予備動作も何も無い、殺音の感覚の読みをも外す、無拍子。
 
 ほとんど反射だけで放った左拳を、身をかがめてやり過ごす。
 拳が伸びきる直前に右の太刀が腕を斬りおとそうと天に向けて半円を描いた。 
 怖気に襲われた殺音の即座に放った蹴りが、半円を描こうとした小太刀の腹を叩き、軌道を変えさせる。
 その衝撃に恭也の体勢が後ろへと倒れそうになる。そんな恭也に蹴り足を踏み込みへと変え、流れるように続く打ち下ろされる左拳。
 だが、上半身が崩れ落ちそうになる反動を利用して、恭也の爪先が跳ね上がった。目標の顎に叩き込まれる爪先。
 
 そのまま反転し、大地に両手両足をつくも、おぞましい殺気が全身を襲った。
 見上げる暇もなく後方へと跳び下がった。冗談にしか思えない踵落しが地面を抉る。衝撃で砂と埃が舞い散った。
 
 視界が一瞬閉ざされたその時に、恭也が前傾姿勢を取る。視界が晴れた先、殺音の瞳に映った小太刀を二刀構える姿はあまりにも眩すぎて、一瞬見惚れた。
 全ての力を両脚に込め、恭也は世界を凍らせる。心臓が胸を叩き、四肢が引き千切れそうになる錯覚。
 文字通りの光の矢となって殺音の間合いを零として、二刀の小太刀が縦横無尽に殺音を切り裂く。
 まさしくそれこそが、光の剣閃。如何なる者の生存も許さぬ絶望の領域。秒間十を超える斬撃の嵐。

 恭也は確かに斬った。相手に確実に死を齎す斬撃乱舞。
 御神流奥義之弐―――虎乱。
 この奥義によって勝負があった―――もし、恭也が殺音を斬っていたならばの話ではあったが。

 斬ったのは空気。恭也の光の剣閃よりなお速く、殺音は背後に回っていた。
 いや、無傷ではない。恭也の手には僅かに斬った感覚があったのだから。殺音の左腕から出血している。
 浅いというわけではない。ビチャリと一拍を置いて地面に撒き散らされる血液。
 ニィと深く口角は吊り上げられ、真紅の瞳が不吉な喜びを伝えてきた。

 殺音が深く踏み込み、右正拳突きを放ってくるが、途中で止める。フェイントだ。
 それに続くように左拳が恭也の右脇腹を狙う。だが、遅い。先程までと比べたら雲泥の差。
 出血がそうさせているのかと訝しむが、遠慮はしない。恭也の右手の小太刀が振り下ろされるが、殺音の笑みが深くなったのに気づく。
 遅かった筈の左拳が加速。咄嗟に肘を下ろして防御しようとするが、間に合わず脇腹に感じる衝撃。
 これまでの人生最高の一撃を受けて、数回転。激しく地面に叩きつけられ崩れ落ちる。視界がぐるぐると回っていた。
 正常な状態に戻るまで暫しの時を要するだろう。殴りつけられた脇腹は骨の数本は折れている。砕けて内臓に突き刺さっていないだけ恩の字か。

 視界が揺れているが、立ち上がる。吐き気が襲ってくるが、構っている暇は無い。
 こんな状態だというのに殺音の追撃はない。その答えは簡単だ。恭也とてただ殴り飛ばされただけではなく、避ける事は不可能だと判断した恭也は躊躇いもなく小太刀を振り切っていた。
 手応えはあった。揺れる視界の先、切り裂かれた右腕。骨まで達しているのか青白い何かが見えた。それに加えて凄まじい出血。大地を濡らしていく。
 腕一本を貰っていくつもりだったが、斬りおとせれなかったようだ。果たして腕一本と肋骨数本。どちらが高い買い物になったのだろうか。

「……くくく」
「……あはは」

 激痛が襲っているというのに、二人は笑った。狂笑ではなく、純粋な少年少女達のような邪気のない笑い声。

「はっはっはっはっはっはっは!!」
「あはははははははははははは!!」

 恭也は笑った。
 殺音は笑った。
 
 全身を通う血流が、熱く沸騰していく。
 愛おしい。二人とも心底互いのことをそう思った。【相死相愛】。
 きっと二人の関係はそんな言葉が相応しい。
 殺したくなるほどに―――思い思われ、惹かれあい、慕いあい、愛し愛され。
 瞳も、鼻も、口も、眉毛も、髪も、腕も、腹も、腰も、脚も、足も、匂いも、気配も、技も、匂いも、心も。
 
 ―――お前のすべてが愛おしい。

 互いの動きを読むために視覚を限界にまで研ぎ澄ませ、互いのどんな行動も察知するために聴覚を極限にまで高め、流れる空気を感じるために触覚を最大限まで集中させる。
 感じるのはやけに響き渡る互いの呼吸音。そして、互いの心臓が胸を叩く音。
 恭也は小太刀を鞘に納めた。戦いを諦めたわけではない。己が最も得意とする技で迎え撃とうと思ったからだ。
 ここまで自分を曝け出し、戦えたのだ。最後までそれを貫き通したい。
 そんな恭也の行為を殺音は見咎めなかった。きっと一目で判ったのだろう。恭也の行為は諦めたわけではなく、最強の一手を放つためなのだと。

 ふーふーと獣のような呼吸。
 誰かと思えば、二人ともがそんな激しい呼吸をしていた。
 こんなギリギリの戦いをしたのはどれくらいぶりか。巻島とは違う。人形遣いとも違う。天眼とも違う。
 水無月殺音とだけのぼれる遥かな高み。心地よい世界。二人でならどこまでもどこまでものぼっていける。
 
 今まで以上に時間の流れがゆっくりとなる。
 空気の流れが頬を撫でつけ、二人の重圧に恐れをなし、圧縮されていく。
 そして、空気が爆発した。

「―――解放、【猫神】」

 身体に刻まれた黒く輝く呪いの紋様が一際、闇色を深くする。禍々しく、両腕を、顔を、身体を、足を覆っている幾何学的な紋様が、薄い膜を造り上げた。
 それは猫神の呪い。言霊の域にまで達した猫神という呪文は、六百年という年月の果てに築いてきた魂の鎧を発動させた。気を抜けば殺音でさえも意識を飲み込まれるほどの闇の高波。
 殺音が大地を蹴りつけた。右腕と左腕から血液を飛び散らせ、血の道を作っていく。
 放たれるは恭也の斬撃を超える速度の拳。秒間数十発に匹敵するほどの拳の弾幕。  
 如何なる者を殴り殺し、消滅させる乱撃乱舞。恭也の光の剣閃を飲み込み、破壊する。
 最凶を凌駕する―――究極の破壊。
 
 あらゆる者を圧倒する。あらゆる破壊を凌駕する。あらゆる速度を超越する。
 
 水無月殺音の全身全霊を込めた、その打撃を前にして恭也は―――呆然としていた。
 なんと美しい。そこに技はなく、我武者羅にしか見えないただの乱撃。恭也の―――御神流の対極に位置するだろう武。矛を止めると書いて武。 
 殺音の力は、生まれながらの身体能力に頼った暴力。だというのに、何故かくも美しいのか。
 
 自身では決して辿り着けない、種の最高峰の身体能力で為しえた世界。
 恭也とは交じり合わない暴力の領域にいる殺音は―――だからこそ美しかった。
 対極だからこそ惹かれあう。それはまるで磁石のように。お互いを求め、欲しあう。

 ―――ああ、そうか。

 恭也は笑う。

 ―――幼い頃の約束だとか。そんなことは関係ない。

 ようやく自分の心と向かい合えた。

 ―――俺はお前に惹かれていた。

 幼い頃に出会った殺音の在り方は、恭也には理解できなくて、それ故に心に強く刻まれた。

 ―――十一年。お前に会った時に失望されないためだけに剣を振るってきた。

 その想いは変わらず。それこそが、不破恭也が剣を握る根幹となっているのだから。

 ―――殺したいほどに【愛死】ているぞ、水無月殺音!!

 鞘から小太刀が走った。
 水無月殺音の乱撃を押し返し、押し潰す。究極も、最凶も超えた―――【最強】。
 美しき秋水。果ての無い無限の剣閃。速すぎる故に音はなく。速すぎるが故に剣閃は見えず。
 絵描きがキャンパスに赤の色合いを塗りつけるように、血しぶきだけが舞っていく。
 
 抜刀からの四連撃。
 御神流奥義之陸―――薙旋。
 四連の刃が弾幕乱雨の拳の最も要となっている四撃を叩き斬る。
 ガキィンと硬い何かを斬りつけた衝撃が腕に伝わってくる。恭也の斬を持ってしても殺音の呪いの紋様による膜を切り裂くことは出来なかった。
 
 間断なく、その状態から殺音の乱撃を押し返す恭也の無限斬撃が始まった。
 腕が千切れても構うものかと、先程を遥かに超える斬撃を打ち据える。その数は秒間二十どころか、三十にも届く。
 御神流奥義之弐―――虎乱。

 僅か一メートルの間合いにて生死を刻みあう二人の間で、拳と剣が弾きあう。
 腕の、身体の芯にまで響き渡る衝撃。いや、魂の脈動。命をかけた無言の咆哮。
 その場で恭也と拳を交えることに喜んでいる殺音。対して恭也は死地でさらなる一歩の踏み込み。
 それが、運命を別つ一歩。恭也が見出した更なる高みへの道。
 八景が交差し、十文字に殺音の渾身の一撃を弾き飛ばす。一撃の重さにおいては比類なき最高の技。
 御神流奥義之肆―――雷徹。

 拮抗する小太刀と拳。
 しかし、それも一瞬。殺音の拳をついに完全に弾き飛ばす。
 その衝撃でぐらりと後ろにたたらを踏む。
 その一瞬が決着をつけるための、唯一の瞬間。恭也には見えた。次元を切り裂く歪が。

 さらに踏み込む。恭也の足が止まることはない。
 剣閃は止むことを知らず。二刀の斬閃が、体勢を崩した殺音の四肢を斬り付けた。
 未だ黒き紋様の幕は破れない。だが、構わない。破れないのならば破れるまで続ければいいだけだ。
 御神流奥義之伍―――花菱。

 紋様による薄い黒膜が、奇妙な音をたてる。
 それは苦しみが混じった亡者の怨嗟にも聞こえ、恭也の背筋を冷たくさせた。
 それでも、恭也は止まらない。
 隙が生じるのにも気にせず、小太刀が空中に半円を描き重力を乗せた上段の一撃が殺音の肩口を捉える。
 それと同時に死角となった真下から半円を描き殺音の脇に、斬り挟む。黒膜がピキィと音をたてた。
 御神流奥義之壱―――虎切。 

 亡者が苦しむ叫び声が激しくなっていく。
 だが殺音自身は苦しむ様子など一切見せない、身体中は切られることなく無事ではあるが、実は衝撃だけは殺しきれず立つのもやっとな状況だった。
 しかし、殺音は動きが鈍ることはなく、一歩踏み込み残された最後の力を込めた拳を放つ。 
 その一撃は殺音の生涯で最も速く、最も美しく、最も威力を秘めた拳。

 恭也の口元に笑みが浮かぶ。殺音の口元にも笑みが浮かぶ。
 殺音の予感は外れることなく、恭也はそれを超えた速度の動きを可能とする。
 一切の前触れもなく肉薄した恭也が身体を叩き付ける勢いで、殺音の胸元へ撥ね上げるような紫電の一刺しを叩き付けた。
 御神流奥義之参―――射抜。 
 
 刺突を胸元に受けながら、その衝撃で両足が地面を抉りながら殺音の身体が、数メートルも背後に押された。
 恭也の小太刀は、殺音の紋様の膜を突き破ることは出来なかった。

「―――終わり、かい?」
「―――これから、だ」

 恭也の暖かな視線が殺音の動きを奪った。強力な結界を張られたかのように、身体を貫き、全身を幸福で痺れさせた。
 殺音の本能が逃げ出させようとするが、拒絶する。何故ならば、今から恭也が最高の攻勢にでるのだ。逃げるわけにはいかない。そして、受け止めれば自分の勝ちだ。
 
 脳髄が痛む。精神が異常をきたすほどの集中力。神速を超えた神速。御神流において極限の神速と呼ばれる―――【神域】と呼ぶ。
 人形遣いを滅ぼしたのは光の剣閃。そして―――この神域。
 神速では通用しなかった人外の化け物を打倒するために無理矢理に踏み入れた領域。如何なる者も墜とすことができると考えていた世界。
 しかし、まだ足りない。この程度で水無月殺音を打倒できるものか。
 震える足が限界を超える。痛む脚が限界を超える。早鐘のように胸を打つ心臓が限界を超える。何も考えず―――水無月殺音のことのみを考えた脳が限界を超える。

 これまで一度として踏み込めなかった世界の扉が今開かれた。五体が到達し得なかった神域を超えた絶対領域を、今発現させる。
 殺音の真紅の瞳が歓喜で大きく見開かれる。自分の理解の外側へと到達した恭也を褒め称えるように、頬を染めた。 
 恭也の八景が踊り狂った。一瞬間で恭也は既に殺音の眼前にいて、雪崩のように剣閃が舞った。
 殺音の目でも追いきれぬ超速度の剣撃。大気を断ち切り、網目状に闇を切り裂く。
 腕を、肩を、胸を、足を、脚を、首を切り裂く様は―――疾風迅雷。
 殺音の生涯でこれほどまでに死を感じさせた刃の群れは存在しなかった。殺音の防御や回避、抵抗など一切意味をもたない。その光景はまさしく無尽にして無限。尽きることなく永遠と続く刃の回廊。
 己の命を一方的に蹂躙していく、陵辱していく。削り取っていく。だが、見惚れた。己が認め、盟約を交わした人の技。神技とも魔技ともいえるその技に心底魅了された。

 紋様の膜の耐久が静かに限界を迎える。闇が根負けしたかのように、断末魔をあげた。
 パキィンと激しい音をたてて、黒膜が消失する。だが、恭也の小太刀は止まることを知らず。
 伝わってくる肉を斬り、骨を断つ感触。無尽の刃は尽きることなく、水無月殺音を―――凌駕する。

 御神流正統奥義―――鳴神。
 反撃を許さぬ超多重斬撃。それに繋げるために己の自信を持つ奥義を一つ使用して相手を後退させ、鳴神によって相手を絶命させる。
 もっとも全ての奥義を使ってまで鳴神に繋げる過程とした御神の剣士など、恭也以外に存在しないだろうが。 

 神殺しをも可能とする森羅万象遍く斬滅せしめる最強の刃の嵐が終わりを告げた。恭也がここでようやく一呼吸をつく。
 つまり今の攻防は、僅か一瞬間の出来事。恭也と殺音しか理解できなかった戦いの全て。
 誰一人として、今何が起こったのかわからなかった―――否、【彼女】を除いて。
 
 残されたのは、身体中の至るところを切り刻まれ、足元に血の池を作っている殺音。
 だが、立っていた。確りと己の両足で、その場に倒れることを許さずそこにいた。恭也の前で意識を失うなど、地面に倒れるなど認められない。
 それだけのために、それだけの意地のために殺音は無事な箇所などない身体で仁王立ちをしていた。
 
「―――ああ。楽しかったなぁ」
「―――そうだな」

 口を開くことさえも侭ならぬであろうに、殺音は笑顔を絶やさず楽しかったと恭也にはっきりと告げた。
 対する恭也も同感だった。これ以上ないくらいの高みにのぼれた。今までの自分など赤子に等しいほどの刹那の攻防に命を賭けることができた。
 
「お前だったからこそ、俺はこの域にまで達せれた。ここまでくるのに十一年もかかったが」
「あはは……十一年か。短いようで長かったよ。少なくとも私の生きた百年の中で一番長かった時間だった」
「―――待たせて、すまなかった」
「良いよ、許す。こんな戦いが出来たんだ。私は幸せ者さ」

 出血は止まることなく血の池は時間が経つにつれて広がっていく。
 それは明らかに致死量を超えている。身体中に受けた刃の傷跡もあいまって、間違いなく致命傷だ。
 がくがくと震えている膝が遂に限界を迎え殺音の身体が崩れ落ちた―――が、その瞬間恭也が倒れそうになった殺音を抱きとめる。
 恭也もまた、肋骨が折れ、限界を超えた動きをした影響でぼろぼろだというのに。

 想い人の胸に抱きしめられ、年甲斐もなく頬を羞恥で染める。
 百年生きてきたが、愛した相手など存在せず、好いた相手もいない。一見恋愛において奔放そうに見えるが、実際は初心な小娘といっても過言ではない。

「―――死ぬな、生きろ。俺はお前と供に剣の道を歩みたい」

 愛を囁くように、恭也は殺音の耳元で告げる。
 吐息が耳をくすぐり、ぞくりとした快感が殺音の全身を駆け巡る。
 全身を襲っている痛みも気にならないほどに、身体中が限界まで火照ってゆく。

「え?いや、えっと、その……うん」

 どこか焦点の合っていない視線で抱きしめている恭也に向けて頷いた。
 恭也の台詞の【剣の】の部分が聞き取れていなかったのかもしれない。確かにそれを除けば愛の告白ととれても仕方の無い言葉であろう。
 その抱擁を見ていた北斗の面々の反応は様々だ。

 廉貞はヒューヒューと口に指を突っ込んで口笛を送っている。
 文曲は両手で目を隠していたが―――肝心の指はあいており、隙間から顔を赤くして見ていた。
 巨門は何故かいいものをみたなーという感じで両腕を組んでウンウンと頷いている。
 貪狼は乙女チックな長の姿に目元をピクピクと引き攣らせていた。
 禄存は殺音命のため、ぎりぎりと歯軋りをして射殺さんばかりの殺意の視線を恭也に向けている。
 そして、水無月冥はため息を吐きつつ、二人の所まで歩いていき恭也と抱擁している実姉を引き剥がした。
 
「やぁん」
「気色の悪い声を出すな」
 
 恭也から無理矢理離された殺音は何故か色っぽい声をあげ、その原因である冥を睨みつけるが、血とは別に真っ赤に染まっている顔で睨まれても全く怖くは無い。
 足を払いガクンと倒れそうになった殺音を背負う。百七十オーバーの殺音と百四十未満の冥。身長差が尋常ではないくらいにあるが、気合で背負うことに成功した。
 冥は器用に殺音を背負いながらも、眼前にいる恭也に頭を下げた。

「御神の裏。不破が末裔。伝説を怖れぬ者にして伝承に到達した剣士。偉大なる陸。伝承墜とし。我が姉の百年の飢えを満たしてくれたことに最大限の感謝を送る」

 頭をあげることなく訥々と語る。だが、その言葉の裏には決して隠しようの無い喜びが見え隠れしていた。
 あの、殺音が。戦いを求め、戦いに生き、戦いに死ぬと思っていた姉が。
 盟約をかわした青年と戦い、死闘の果てに信じがたいが敗れ去った。ただの人間に負けるなど信じられないが、目の前で起こった事実だけに否定は出来ない。
 横目で見れば、殺音の顔は憑き物が落ちたような―――というか恍惚としている表情だが―――間の抜けた顔をしている。

「この礼は必ず。貴方より得た恩は何よりも深く、何よりも重い。我が姉の魂を解放していただき―――」

 頭を上げた冥が、普段の気難しい表情ではなく、心の底からの笑顔を向けて。

「―――有難うございました」

 太陽の笑顔だった。
 一転の曇りなき笑顔を向けて水無月冥はその場から遠ざかっていく。
 冥の背中から降りる力も無い殺音だったが、首を捻って顔だけを恭也に向けてきた。

「―――また、戦ろう」
「―――待っているぞ、殺音」

 たったそれだけを告げて殺音は去っていく。冥におぶられてという姿で締まらないが、その背中を見送る。北斗のメンバーもその背中を追って姿を消していく。
 嵐のような時間だった。十一年ぶりに再会し、拳を交え、そしてようやく今日になって交わした約束を果たすことが出来たのだ。
 ギリギリの戦いだった。全てが紙一重。複雑に絡み合った戦いの螺旋。一手でも間違えていたならば、勝敗は逆になっていただろう。天秤がどちらに傾くか、わからない戦いだった。
 その時眩暈がした。肋骨が砕けているというのに激しく動きすぎたのだからある意味仕方ない。
 それだけならば恭也とて自分の足で歩けただろうが、やはりアレがまずかったらしい。
 神速を超えた神域。神域を超えた―――【何か】。神速でさえ身体に負担をかける。神域を使用したら身体中の体力を根こそぎ奪われていくほど。
 ならば、それをさらに超えた世界ならばどうか。答えは簡単だ―――動くことすらままならなくなる。

「恭也ーーー!?」
「恭也様!!」

 忍とノエルの叫び声を遠くに聞きながら、恭也は地面に倒れこみ、意識を手放した。 
 
 
  














「素晴らしい!!素晴らしい!!まさか、まさか、まさか、この日この時この場所で―――【無言】(シジマ)の世界に、突入しますか、貴方は!!」

 嗤っていた。
 天眼は高らかに嗤っていた。
 禍々しく、闇色に染まった、狂笑が周囲に響き渡る。
 その嗤い声を聞いているだけで、頭がおかしくなる。頭の中を穿り回されるような、不快な感覚が支配してくる。
 喜びを隠し切れず、先程までより頬を紅潮させ、気を失った恭也を嘗め回す視線で貫いていた。

 狂気をふりまく天眼の姿は、数多の人外を見てきた数字持ちでさえも、恐ろしく感じて声もかけれない。
 気を失った恭也が月村邸に運び込まれて、ようやく天眼は高笑いを止め、ハァハァと未だ冷めぬ興奮を抑えようとしていた。

「―――お前は、何を望んでいるんだ?」

 フュンフは眼帯で覆われていない片目で天眼を睨みつけている。
 天眼はそれに答えず、ナンバーズに向けていた背を翻し、正面から向き直った。

「それより、アレを逃していいんですか?」

 嗤った。

「今ならばナンバーズ設立史上誰も倒したことが無い伝承級の化け物を―――その一角である猫神を倒すことは貴方達でも容易いですよ?」

 それは悪魔の囁きだった。
 六人の心に闇が這いよってくる。
 確かに天眼の言うとおりだ。人では撃破できぬ伝説の怪物。天変地異と同じ扱いをされる、人外の頂点達の一人をこの手で倒せれる。
 それができたら自分達は間違いなくナンバーズで永久に語り継がれる存在になるだろう。名誉も地位も望むがまま。
 あれだけの死闘の後なのだ。身動きを取る事さえも難しい筈だ。それにこちらは六人がかり。北斗を押さえつつ、猫神を屠ることは―――可能だ。
 全員の心が支配されていく。天眼の囁きに、闇の支配に。
 だが―――。

「―――私は、反対ですわぁ」

 フィーアは唯一人はっきりと告げた。
 普段の他人を小馬鹿にするような、笑みを口元に浮かべて、天眼と向かい合う。
 フィーアの反対の言葉で、他の五人の心を支配しようとしていた闇が霧散する。

「あらあら。ナンバーズでも最も人外を憎む四番さんが、見逃すなんてどんな心境?」
「別に確りとした理由がありますわぁ。今此処で猫神を倒す―――成る程可能ですし、伝承級のうちの一体を滅ぼせる。それは素晴らしいことだと思いますわぁ」

 でも、とフィーアはずれおちそうな眼鏡を人差し指で押し上げる。

「でも、それだけです。話の内容から猫神と伝承墜としには深い繋がりを感じさせますもの。もし、私達が猫神を殺したならば―――間違いなく伝承墜としは私達を敵とみなしますわぁ。人間である筈の伝承墜としならば、此方に引き込める可能性は高い。それならば伝承墜としと手を組み、他の伝承級と戦う。単騎で伝承級を凌駕する彼と協力すれば、他の伝承級を屠るのも―――可能」

 一息で己の考えを言ってのけたフィーアに、天眼は珍しく笑顔を凍らせた。
 容易く操れると思っていた小娘達の一人が、天眼の考えを上回ったのだ。凍った笑顔には僅かに賞賛が見え隠れしている。

「―――以上のことを持って、今此処で猫神を滅ぼすのは悪手だと判断しますわぁ。私達の役目はあくまで、人に仇為す人外の抹殺。目先のことに囚われませんわよぉ?」
 
 フィーアの挑戦するような目つきに、天眼は両手をあげた。
 降参のポーズを取る天眼は、ナンバーズに背を向けて闇の空間へ消えてゆく。

「四番さんに免じて今回は帰りますよ。いやはや、意外と面白い子がいるじゃないですか、数字持ちには」

 ―――今回は猫神を殺すのはナンバーズではなく、彼女ですか。

 そんな天眼の独り言が六人の耳に聞こえたが、その意味を理解できるものはこの場にはいなかった。
 いや、この世界には誰も存在しなかった。
 
 天眼が去っていっても暫くはその場から誰も動けなかったが、戻ってこないのがわかると、張り詰めていた空気が元に戻るのがはっきりと感じられた。
 六人ともが地面に尻をつき、はぁと深いため息を吐いた。
 こちらの意識を飲み込むような深い闇。人外の頂点が放つ狂気に当てられて、精神力を根こそぎ奪い取られていったのか、呼吸をするのも辛い。

「フィア姉、まじすごいッス……」
「……よく、あの天眼相手にそこまで、言えた」
「初めて尊敬したよーフィア姉」

 エルフが疲れた顔でフィーアを褒め称える。
 ズィーベンも、自分が一歩も動けなかった相手を言い負かせたことに素直に驚いていた。
 ゼクスは少し問題発言かもしれないが、一応褒めているのかもしれない。

「……なんか、凄く疲れた」
「まぁ、そうだな。今日は帰って寝るとするか……構わないな、フィーア?」

 眼力が下手に優れているが故に、天眼の闇を最も奥底まで覗き見たツェーンは青い顔をしている。
 それを心配したわけではないがフュンフも、これ以上ここにいてもすることもないと判断してフィーアに賛同を得ようと問い掛けた。

「……そうねぇ。今日はもう帰りましょうかぁ」

 フィーアもフュンフの意見に賛成して自分達の拠点としているマンションに帰還しようと歩き出した。
 全員が精神的に疲れているのか、足取りには力は無い。
 そんな中で、ふとエルフは何かを忘れている気がしたが―――疲れがそれを忘れさせる。
 ナンバーズが帰還していく中で、痺れて動けないツヴァイは、次の日風邪をひいたという余談があったとかなかったというか。
  
















 


 サァと忍の髪が舞い上がる。
 心地よい風が吹き、草花を揺らす。
 忍がいる場所は藤見台。海鳴と風芽丘を見下ろす小高い丘。多くの人が眠る墓地がそこにはあった。
 安次郎がかつて墓参りをしていた―――月村忍の両親が眠る墓地がここにあるのだ。
 
 多くの墓石があるが、その中でも一際大きい墓石。
 月村の一族が眠る場所だ。そこに安次郎も今は眠っている。

「叔父さんが本当に、ありがとう。私のことを守ってくれてたんだね」

 誰にも聞かれることの無い礼を忍は、墓石の下に眠っている叔父に告げる。
 もう少し考えていればわかったかもしれない。何故、あの優しかった叔父が豹変したかのような態度と行為を行ってきたのか。
 両親の死を切欠に、忍は自分の中に閉じこもるようになってしまった。
 全てを拒絶した。全てを切り離した。
 ノエルが傍にいてくれるようになってマシになったとはいえ、忍の生活に変化は無かった。
 叔父さえも受け入れてなかった自分だったのに―――安次郎はそんな忍を八年近くも見守っていたのだ。

「大切なものはなくして初めて気づくっていうけど……悔しいなぁ。本当にその通りだよ」

 ぽたりと眼から一滴の涙が滴り落ちる。
 思い出せば、爆発から身を挺してかばってくれた叔父の姿。
 凄まじい痛みだったろう。衝撃だったろう。なのに、声一つあげずに、忍の盾となったのだ。
 
 持っていた花束を墓石の前に置く。
 眼をつぶり両手をつけて、墓石を拝む。
 
 その時、風に乗って忍のことを呼ぶ声が聞こえた。
 きっと恭也達だろう。今日は高町家の全員と出かける約束をしていたのだ。
 前だったならば断っていたかもしれないが、今は違う。叔父から助けられた命。それを精一杯使いたい。
 
 夜の一族だと知って受け入れてくれた恭也とともに歩みたい。
 ライバルは多いみたいだが―――それだけ魅力のある人間なのだから仕方ないと思ってはいる。
 眼を開けて立ち上がる。墓石に背を向けて、声が聞こえる方角へと歩いて行く。

「―――有難う、叔父さん。私は―――生きるよ」




























--------------えぴろーぐ------------------  
 








 恭也と殺音の死闘が終わった深夜に近いこの時間。
 人目につく道を歩いていたら警察に尋問されることは間違いなく、そのため北斗の面々は鬱蒼としげる森の中を歩いてホテルまで帰ろうとしていた。
 恭也との戦いで全力を使い果たした殺音は身動き一つとることも辛い。むしろ夜という条件と、猫神から受け継いだ力がなければ間違いなく死んでいただろう。
 
「本当に楽しかったなぁ……」
「……あんな戦いをしておいてそんな感想を言えるのはお前だけだよ」

 冥は心底呆れた。スピードに自信を持つ自分でも結局太刀筋の一つも見極めれなかった戦いをしておいて、楽しかったとはどんな了見だろう。
 己の姉の化け物ぶりに呆れてものも言えない。アンチナンバーズの伝承級として恐れられているが、そんな枠をすでに飛び越えてしまっている。
 半獣半人の解放状態―――しかも、猫神の紋様を宿した殺音を一対一で倒した恭也にも、驚きしかない。
 自分では一生辿り着けない世界を垣間見ている二人を―――少しだけ羨ましく思う。
 きっと水無月冥ではその世界を垣間見ることは不可能なのだから。

 ザッザと土を踏みしめる音がやけに大きく響き渡る。
 薄暗い森の中を歩き続けるが、突如冥の歩みが止まった。それを不思議に思うも、送れること数秒他の者たちも気づいた。
 彼らの前方におびただしい異端の姿の化け物たちが視界を埋め尽くすように存在した。
 
 二メートルを超える巨大な体躯。人間では考えられない筋肉の塊。頭には二本の角が生えていて、顔は異形そのもの。夜の一族と同じく赤く不吉な色を持つ瞳が北斗の面々を捉えている。
 日本で【鬼】と呼ばれる人外の頂点に立つ化け物たち。その数は百近い。鬼の群れの前に立つのは三人の人間。
 一人は白衣を纏った優男。研究者をイメージさせ、媚びへつらう笑顔が張り付いている。
 一人は煙草を口にくわえた黒スーツ姿の男。男ではあるが女性のように長く美しい黒髪を両肩まで伸ばし、人生を舐めたような腐った眼をしている。
 一人は着物をきこなした女性。日本古来の女性を想像させる。無駄に高そうな―――西陣織を着ている。
 
「……ば、かな。何故お前が、ここにいる?」

 冥が震える声で問いかける。
 その質問の相手は着物の女性。美しい黒髪を夜風に靡かせ、女性は見下すような笑みを浮かべた。

「うふふ。未来視の魔眼を持つものが教えてくれた。この日この時に、猫神を殺す絶好の機会があるとね」
「……天、眼か……」
「話半分で聞いてたから私の手勢しか連れて来れなかったけど……十分なようね」

 見下した笑みをそのままに、重傷の殺音を嘲笑う。
 一対一では勝率など皆無に等しいが、動くのもままならぬ今の殺音ならば殺すのは容易い、そう確信している顔だった。
 そして、それは事実だ。普段だったならば殺音の勝利は揺るがない。千回戦っても千回勝つことができるだろう。
 だが、今ならどうか。答えは―――戦いの結果は真逆になる。
 
「鬼王が配下―――四鬼の一体。星熊童子……」

 愕然と語るは文曲。他の者たちも似たようなものだ。
 相手はアンチナンバーズのⅤ。鬼王の擁する四体の鬼の一。数多の伝説を残す鬼女。
 その力は鬼王―――副頭領の茨木童子と鬼童丸には及ばぬものの、他の鬼を寄せ付けぬ力を持つという。
 最悪なことに鬼王と猫神の仲は限りなく悪い。古くから初代猫神は鬼王と意見が対立することが多く、常に敵対してきた。
 それが、殺音の代になっても続いている。同じ日本という地に古くから生きるのも理由だっただろう―――実際には鬼王ではなく、その配下達と敵対しているのだが、この状況ではたいした違いは無い。

「ずっと機会を窺ってたの。たかが百年も生きていないあんたが伝承級に選ばれるなんて、許せないもの」

 ちろりと舌が唇をなめる。艶かしいと思う前に感じるのは、不気味さ。不快さ。
 心を許したら喰われる。そんな錯覚を呼び起こさせる、人外だった。

「なぁ、星熊童子さんよ。無駄な話はいらねーよな?さっさとやろうぜ。俺はとっとと帰って世○樹の迷宮3をやりたいんだけどよ」

 ぴりぴりとした空気に割って入ったのはスーツ姿の男だった。
 くわぁと欠伸を噛み殺し、目尻に浮かんだ涙をふく。その恐れを知らぬ姿に、星熊童子と呼ばれた女性の形をしただけの鬼は一瞬視線を鋭くするも、消し去る。

「ミスター劉!?仮にも協力者のミス星熊童子にそのような無礼な口は止めていただきたいのですが……」
「へいへい。わかりましたよ、王。失礼しましたね、星熊童子殿」

 明らかに馬鹿にした口調の劉と呼ばれたスーツ姿の男は、ふぅーと煙草の煙を焦っている白衣を纏った優男―――王に吹きかける。
 実際にこの場には王と劉以外の【組織】の武力はない。先程協力者である星熊童子に合流してこの場所に来たが、流石に巨大な鬼達が背後にいるというのは心臓に悪い。
 劉の横柄とも見える態度だったが、星熊童子は猛る気持ちを抑え、心を鎮める。
 今の相手は協力者であるこの人間ではない。長年にわたる因縁の好敵手―――猫神に属する者たちだ。
 
 ―――それに、猫神を殺した後にこの二人の人間も喰らってしまえば問題はない。
 
 心の中で決断した星熊童子は、劉と王に見えないように舌なめずりをする。
 傲慢で強気の態度を取る人間が泣き叫び助けを求める姿を予想するだけで、言いようのない快感に襲われた。
 一方星熊童子が内心でそんなことを考えているとは露知らず、劉は二本目の煙草に火をつけて吸い始める。
 
「うふふ。うふふ。さて、確かに貴方の言うとおり。さっさと長年の縁に決着をつけよう」
「……っく」

 焦燥を隠し切れない冥は、殺音を抱えたまま一歩後退する。
 星熊童子の力量は己が身で体験したことがあった。過去に手痛い敗北を喫した相手。
 鬼王が信頼する、千年の時を生きた最古の配下の一。アンチナンバーズのⅩⅩⅣ(24)に数えられる殺戮狂。人を喰らう凶鬼。
 少なくとも冥にとって一騎打ちでは厳しい相手だ。いや、まず勝ちは拾えない強敵だろう。
 それに星熊童子の背後、百体の鬼。下鬼とは到底思えぬ迫力。恐らくは子飼いの高鬼。北斗のメンバーなら一対一ならば屠るのは容易い。しかし、それが百体。
 正直な話、今の状態で勝利をもぎ取るのは―――不可能だ。

「でも、逃げるだけなら、可能だネ」
「時間を稼ぐだけならば、私たちでも十分です」

 廉貞が肩を回しながら前に出る。
 文曲が手に持った槍で威嚇しつつ、冥と殺音を庇いたった。

「はん。俺たちに歯向かったんだ……全員ぶっ殺してやるぜ」
「―――お前の性格は理解しがたいが、今回ばかりは賛成だ」
「武曲。破軍を―――お願いします」

 貪狼が歯を剥き出しにして、獰猛に笑った。
 巨門も、そんな貪狼の意見に同意して拳を握る。
 禄存は冥に、殺音を頼みつつ、己の得物である小剣を取り出した。

 五人の願いはただ一つ。
 自分たちの長である殺音を連れてこの場から離脱しろという望みだけだった。
 そのためならば命さえも投げ出そう。完全な死が目の前に迫っているというのに、五人は不敵に笑ってその場から一歩もひこうとはしない。
 何があったとしても決して逃げ出さない、不退転の意志。
 
 冥は反論しようとして、口を閉じた。
 ここでこのまま言い合いをしたとしても状況は変わらない。五人の決死の覚悟を邪魔するのか。
 唇を噛みしめ、殺音を背負ったまま全力で逃げ出そうとしたその時―――。

「うふふ。逃げ出そうとしてもそうはいかない」

 冥の後方。何時の間に移動したのかわからない。そこに狂った笑みを浮かべる女は回り込んでいた。
 星熊童子はネズミを逃がさぬように両手を広げて、弱者を甚振るかの如く、ゆっくりと歩み寄ってくる。
 それと同時に前方にいた鬼達も地響きをたてて迫ってきた。

 ―――なんとかして、逃げ出さないと。不破恭也の元まで辿り着ければ、まだ生き残る機会がある。
 
 そう考えた冥を嘲笑うのは、星熊童子。
 相も変わらず不快な笑みを口元に浮かべたまま、両手に力を入れると、両爪が数十センチもの長さに巨大化する。

「貴女の考えてることはわかるよ?あの剣士の元まで辿り着く。そうすればなんとかなると思ってるのか?甘いねぇ。大甘だよ」
「―――なにを、した」
 
 ぞわりと膨れ上がる殺意。
 黒く、暗い、純粋な狂気が巻き起こる。
 あらゆるものをなぎ倒す嵐のように、その地帯に立ち上る。
 発生源は―――水無月殺音。

「あらぁ。半死半生でそんな気配をおこせるのか?見事だよ。でも、その程度では怖くはない。褒美に質問には答えてあげましょうかね。私の子飼いの高鬼五十を―――あの剣士の元へむかわせておいたの」
「―――お、ま、えぇえええええええええ!!」

 あらん限りの絶叫を上げる。憎悪と憤怒とが混ざり合った咆哮
 喉がつぶれてもおかしくはない。生涯最大の怒声。これほど誰かを憎く思ったことなどない。恭也と戦った身だからこそわかる。自分と同様に恭也も限界を迎えていた。
 どうしようもないほどに体力を削り取られていたはずだ。少なくとも、五十もの高鬼と戦えるかどうか―――難しい状態だろう。
 殺音の全身に冷たい衝動がはしる。心臓が破裂しんばかりに高鳴り冷たかった衝動が一瞬で沸騰、血液が熱く燃える。
 その眼を!その顔を!その手を!その胴を!その足を!斬り裂き、裁断し、踏み潰し、粉々にしても足りない!灰すら残さず、細胞までも滅ぼしつくしてやる!!!
 殺音の心がこれ以上ないほどに燃え上がる。漆黒の炎が轟轟と音をたてる。だが―――冥の背から無理矢理降りた殺音は膝をついた。
 幾ら心が猛っても、怒りを抱いても、肉体は限界を迎えている。この場にいる誰よりも強い筈の殺音は―――今はこの場にいるだれよりも弱かった。
 
「ああ!!良い!!その憎しみ!!その怒り!!ざまぁないね、水無月殺音!!」

 腹を押さえて高笑う星熊童子は、膝をついた殺音を見下していた。
 なんと心地いいことか。なんと気分がいいことか。あの猫神の血筋にして、散々鬼王に敵対してきた水無月殺音をここまで 馬鹿に出来る日が来るとは思っても居なかった。
 千年の時を生きてきた星熊童子、至福のとき。
 
 どさっ。

 その時、星熊童子の高笑いを中断させる音が響いた。
 なにやら水無月殺音と星熊童子の中間に何か丸い物が飛んできたのだ。
 その場に居る全員の足がとまる。そして、投げ飛ばされてきた【物】を見た途端、視線をそれから外せれなくなった。
 丸い物とは―――鬼の頭。
 驚きで目を見開き、断末魔をあげる間もなく死したであろう……星熊童子、子飼いの高鬼の一体だった。

「―――え?」

 それを認識した星熊童子が素っ頓狂な声を上げた。
 何故、自分の部下がここにいるのか。いや、頭だけがここに転がっているのか。水無月殺音と死闘を行った剣士をしとめに行ったはずの部下が。
 
「―――別に貴女が何をしようと構わないわ。この街の全ての人間を殺しても私は干渉しなかった。でも、貴女は恭也に牙を剥いた―――」

 この場にいた全ての生物が反射的に一歩下がった。
 あたりに響いた女性の美しい声に、恐怖するかの如く。一歩下がったのは本能が警鐘を上げていたからだ。
 全員が声の響いた方角へと視線を向けた。その視線の先にいたのは―――美しき漆黒の刃を片手にさげる、天女の姿。闇を纏い、闇を従える、剣聖―――天守翼。
 
「……おいおい、こいつはなんだ。悪い夢か、この街は万国ビックリショーかよ」
 
 泰然と佇むは、劉ただ一人。
 翼の姿を見て、一瞬目を奪われるも、何故か一人拍手を送る。
 パチパチと響き渡る音が、この場にいる全員の目を覚まさせた。
 鬼達も、星熊童子も、北斗の面々も何故人間の女一人に目を奪われたのかわからなかったが、殺音一人だけ理解できた。
 目の前にいる人間が、自分に匹敵しかねないほどの人外の域に達している人の子だということに。
  
「恭也と敵対するのならば、それは私の敵と同じこと。我が刃の露と散りなさい」

 日本刀を目線の位置まで一太刀掲げ、氷の表情のまま鬼達に告げた。
 恭也にもらったメールを見て、今夜身を隠しながら見守っていたが、恭也の勝利を確認後に声をかけずに帰ろうとした。
 その途中で人外たちの気配を感じ、その方向へいってみれば、月村邸に向かっていたのは数十の鬼達。
 化け物を見るのは久々だったが、彼らの放つ殺気は明らかにまともではなく、嫌な予感を感じた翼はその鬼の群れを引き止めた。
 結果、恭也を殺しにいくのだということを知り、ついつい我を忘れて交戦したのだ。およそ五十の鬼を倒すのに、【二分】近くもかかってしまった己に反省しながら、ここまできた。

「馬鹿、な。私の、子飼いの高鬼を、屠ってきたというのか?ただの―――人間、が」
「ああ、アレが高鬼だったの?ごめんなさい。ただの雑魚かと思ってたわ」
「……っ!?」

 さらりと言ってのけた翼に星熊童子はぎらぎらとした殺意の視線を乗せて睨みつけた。
 全く気にしない翼は、肩にかかっていた黒髪を背中へとパシリと叩いて戻す。
 現在の状況を把握するように視線を、星熊童子へ向け、鬼達へ向け、王に向け―――劉に向けたところで止まった。
 余裕を見せ付けていた翼の目つきが突如鋭くなり、氷の視線のまま劉を射殺さんばかりに見つめている。
 それに気づいた劉。翼の漆黒の殺意に押し潰されんばかりに襲われているというのに、平然としていた。
 他の存在など眼に入らぬその姿に、星熊童子の目元が引き攣る。鬼王に仕える四鬼の一体であるはずの自分を放置してまで、何故たかが人間と視線を交差させているのか。
 
「舐めすぎだ、【鬼】という存在を……私を侮ったことを死して後悔しろ。いや、簡単には死なせない。気が狂うまで、鬼に犯され続けるがいい!!そして最後に、喰らってやる!!」

 星熊童子が片手を翼に向ける。
 それを合図に百体の鬼は北斗を無視して、大地を揺るがす轟音をたてて翼へと襲い掛かった。
 翼へと迫る鬼達は、星熊童子の言葉通り、高鬼と呼ばれる鬼の一種。古くから日本へと救う魑魅魍魎。その中でも最悪の人外と考えられている異端。
 夜の一族ではなく、鬼の一族と呼ばれるほどに日本では有名な化け物達だ。その力は当然人間では及ぶはずもない。人をさらい、人を犯し、人を喰らう。
 傍から見れば翼に勝ち目など一片たりともない。その場にいた誰もが鬼の濁流に呑まれ、一瞬で敗北する翼の姿を思い浮かべていた―――殺音以外を除いて。 
 
 百体の鬼を迎え撃つは、天守翼。
 天守史上最高にして史上最強。剣聖。神風。神殺し。百人殺し。天才を超えた天才。千年に一人の逸材。【御神】を超える才を持つ剣士。
 数多の字で呼ばれる天守翼。その天才は何故に天才と呼ばれるのだろうか。
 
 力が強い―――否。天守翼の腕力はそれほど高くない。所詮女の細腕。美由希と同レベルだろう。
 
 剣技が優れている―――否。天守翼の剣術の技は美由希とそこまでかわりはしない。
 
 経験が豊富―――否。天守翼は圧倒的だった。自分と対等の者など存在しなかった。死闘など経験したこともない。
 
 ならば何が優れているのか。答えは実に単純なことだ。あまりに簡単すぎることなのだ。天守翼の天性の才能それは―――何人たりとも寄せ付けない絶対的で、圧倒的で、超絶的な、スピード。神速の世界を自在に操る、申し子。
 大地を粉砕する力を持った相手の攻撃は一切当たらず、天才的な技術を持った相手の如何なる技も潜り抜け、百戦錬磨の経験をも穿ち貫く。
 天守翼のスピードは単純な話―――高町恭也に比肩する。

 眼前を埋め尽くす人外の形をした、人の恐怖を具現化した鬼達。
 この世のものならぬ異形が、牙を、爪を、赤い瞳を輝かせて翼に群がっていく。
 恐怖に震え、その場から動くこともできず、許しを請うのが普通だろう。誰だってそうしてもおかしくはない。
 だというのに、その場に顕現したのは黒き稲妻。黒き刃が縦横無尽に駆け巡る。翼から発せられる漆黒の乱刃。
 断斬し、切り裂き、切り刻む。神域の世界に入った高町恭也をして、捌くのが難しいと評価した、最強ではなく、究極ではなく、【最速】の破壊。

「なっ……」
「っ……」
「……え?」
「くっひっひ。化け物めぇ。十年も昔にぶっ潰したあの化け物一族に匹敵、いや超えてやがるぜ」 

 一瞬。まさにその一言。それ以外言葉に出来ない。辛うじて目で追えたのは僅かこの場に四人。
 水無月冥。水無月殺音。星熊童子。そして―――劉。
 驚く四人を置き去りに、翼の体がさらに加速していく。もはやそれは別世界の領域。
 音もなく、スゥと振動が伝わってくる。何の派手さもない。何の余分もない。斬るということだけに特化した、恭也の光の剣閃と似た斬剣。
 恭也が呼んだ、【黒の剣閃】。全てが斬るということに収斂された、超速からの斬撃嵐。選ばれた者のみが放たれる一閃。一閃。一閃。一閃。
 飛んでいく。飛んでいく。飛んでいく。己が斬られたと理解する暇もなく、人に怖れられた高鬼達は長きに渡る生涯を終えていく。
 人間を遥かに超えた鬼の感覚を要しても、反応も許さず首を落とされていく。最速の剣の乱舞は、何の躊躇いもなく、屍山血河を築いていく。
 人を喰らう鬼達が、戦いに喜びを見出す鬼達が、瞬く間に、知覚できぬままに殺されていく様に、雄叫びをあげる。それは、相手を脅えさせる咆哮ではなく―――心から恐怖しての、追い詰められた者が放つ許しを請う咆哮であった。

 だが、天守翼は止まらない。
 人間とは比べ物にならない鋼体を持つ鬼達だが、それはあくまで筋肉を鋼化させたときの話。
 いつ、どこから、どうやって襲い掛かってくるかもわからぬ不可視の剣閃は、鬼達にその隙も与えず命を奪っていく。
 超絶速度の世界からふるわれる斬撃は、容易く鬼達の首を斬りおとす。

 戦いが始まっておよそ、三分。
 恭也を狙った張本人を前にして、精神を最高まで冷静に高めあげた翼は―――百の鬼の屍が晒された大地の上に立っていた。
 翼の持つ黒刀には、一切の血がついていない。百の鬼を斬ったと言うのに、速すぎて血がつかなかったのか。それとも、速さゆえに空中でついた血が振り払われたのか。
 信じられない戦いの結果。星熊童子は己の目で見たことを信じられないようで、ぱちくりと無残に散らされている部下達の末路の前で唖然としていた。
 残されたのは星熊童子と、王と劉。たった一体の鬼と二人の人間。
 
「うけけけ。あれだけいた高鬼を、たった三分足らずかよ。尋常じゃねぇな。狂いに狂った殺戮劇だ。嬢ちゃんみたいな、本物の化け物がこの国にいるなんざ思ってもいなかったぜ」
「ミ、ミスター劉!?そんな余裕で、話している場合ですか!?わ、私は自動人形が、手に入ると聞いたから一緒にきただけなんですよ!?」
「あー、うるせぇな。折角良い気分なのに、邪魔すんじゃねーの。わかってのか、ワーン?」
「っひ……わ、わかってますよ。ミ、ミ、ミスター劉」

 劉の何を考えているかわからない瞳に睨まれて、可哀相なほどに脅える王。
 同じ組織に属しているが、王はこの男が苦手であった。組織一番の実力者でありながら、たいした地位も与えられず、自由気ままに放浪している男。
 組織から命令が下れば、それこそ宿敵であり、人間世界の法の守護者と知られる香港国際警防部隊とさえも渡り合う。
 血と臓物の匂いをこよなく愛する、狂人。偶々日本に滞在していたので協力を頼んだら二つ返事できてくれたのだが、それはもしかしたら間違いだったのかもしれない。
 目の前で起こった殺戮の宴を、眉を顰めるどころか、嬉しそうに、冷静に評価するなど……人間ができる対応ではない。 
 
「次は貴方かしら?」

 翼が劉に黒刀を突き付けた。
 瞬きをした次の瞬間には殺される。そばにいた王は、ガクガクと足を震わせ、地面に尻餅をつく。
 対して劉は腹を抑えて耳障りな声をあげていたが、片手を顔の前でぶんぶんとふった。

「きひひ。俺がやってもいいんだけどよ、次はそいつがやる気満々みたいだ、ぜ?」
「気をつけ、ろ!!

 劉が翼の後方を指差すのと、冥が声をあげるのはほぼ同時だった。
 破壊の殺意を隠すこともせず、星熊童子が間合いをつめ、鋭く伸びた爪を振り下ろしてくる。
 その速度に驚きつつも、翼は咄嗟に黒刀で爪を弾き返した。
 耳障りな音をたてて、黒刀と爪が一瞬拮抗するも、こちらの黒刀は一本に対して星熊童子は両手の爪がある。
 連続して叩き込まれる凶器に、目を細めつつも、翼は優雅に後方へ飛び退いた。

「驚いた―――あの剣士といい貴女といい、少し見ない間に人間とは、ここまで強くなっていた、のか?」
「私と恭也は別次元と考えてもらって構わないわ。蟻の中に龍がいた……それだけの話よ」

 ただの爪かと思ったがそうではないらしい。
 翼の黒刀と切り結べるほどに、硬く鋭い。大地を五本の爪痕が深く刻んでいる。
 そして、翼は、はてと首を捻る。普段の翼ならば相手に認識させるよりも早く斬り殺すことが可能だ。今さっき皆殺しにした鬼達のように。
 それなのに星熊童子の一撃を弾いた後、反撃にでることができなかった。それに、星熊童子の攻撃の速度に―――驚きを隠せなかったのも事実。 

「油断するな!!そいつの最大の武器は―――鬼の一族でも群を抜いた、スピードだ!!」

 冥の再三の注意がとび、それで翼も納得がいった。
 人間とは根本的に異なる人外の身体能力。しかも相手は鬼の中でも有数の存在。鬼王の配下―――四鬼の一体。
 どれだけ強いか少しだけ気になっていた翼は、苦笑する。皮肉にも翼も星熊童子も最大の武器が、スピードだという。
 
「貴女、凄い。誇っても良いよ。私の部下を単騎で皆殺しにしたんだもの。でも―――代償は払って貰う」

 星熊童子の姿がぶれた。空気をぶち抜いて、四鬼に数えられる童子は疾走する。
 反射的に頭を下げると、真上を蠢く呪いの爪が通り過ぎた。低い体勢のまま、黒刀を真横に振るう。
 
「―――遅い」
   
 背後に回りこんでいた星熊童子が、低い体勢の翼目掛けて爪を振り下ろした。
 焦る様子も見せずに、翼は横に移動し、その爪をやり過ごす。振り下ろされた爪は大地を切り刻んだ。
 首筋に僅かな悪寒を感じ、全身を捻りながら黒刀を首元に持ってくる。一拍も置く間もなく、黒刀と爪が衝突した。
 ミシリと星熊童子の腕に力が入り、爆発的な力が爪を通して翼の体ごと吹き飛ばす。しかし、翼は空中であっさりと体勢を整えると大地に着地した。
 速度で押されているというのに、翼は余裕を崩そうとはしない。それが癇に障ったのか、星熊童子が宙を舞う。
 
「―――ええ、遅いわ。貴女がね」

 星熊童子の人間離れした動きを、さらに超えた速度。
 黒の剣閃がはしった。星熊童子が咄嗟に上半身を捻り、両腕を交差させた。爪の隙間をぬって黒刀が星熊童子に腕を切りつけたが、斬れたのは薄皮一枚。
 どこまでも冷静に、命を刈り取りにきている翼に、内心の驚愕を隠しきれず若干慌てて間合いを取る。

 仕切りなおすように、二人は少し遠い距離を取って向かい合う。
 驚いているのは両者同様であった。翼は自分の必殺の斬撃が薄皮一枚しか断ち切れなかったことに。星熊童子は自分よりも僅かに速い人間であるはずの翼の速度に。
 観客となってしまった北斗。そして、王と劉。この場にいる全員が人間の剣士と鬼の戦いに見惚れていた。
 恭也と殺音の戦いには到底及ばぬが、それでも二人の尋常ならざる速度の戦いは美しい。見るものを魅了させる何かがあった。
 もっともこの場で二人の動きを完全に捉えることができているのは殺音と劉。それに冥くらいだろう。他は微かに動きが見えるくらいだ。

「くっひっひ。流石は鬼の中でも才ある者と名高い星熊童子。鬼の天才と人の天才の殺し合いか。金を取れるカードだぜ、こいつは」

 一人マイペースなのは劉。翼と星熊童子の戦いを面白そうに眺めている。
 星熊童子は自分の斬られた腕を視線鋭くみつめ、その様子に激昂するかと誰もが思っていたが、何故か小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、翼に向き直った。
 
「速いね。人間のスピードじゃない。でも、軽い。皮は斬れても骨までは断てない。それが貴女の限界」

 翼のスピードは桁が違っている。高鬼達では瞬殺される理由もわかる。
 だが、ほとんどスピードでは拮抗している星熊童子ならば斬られる直前に筋肉の硬質化が可能だ。
 斬られる一瞬にのみ筋力を集中させれば、翼の黒刀では星熊童子のいう通り皮は斬れても骨までは断つことができない。
 星熊童子の嘲笑交じりの指摘が、プライドに傷をつけたのか、翼の雰囲気が刃のように鋭くなった。

「そう。それなら骨を断つ一撃を貴女にあげるわ」

 翼の宣言に、星熊童子は心の中で喝采をあげた。
 認めたくないことだが鬼の中でも随一の速度の星熊童子よりも、人間の筈の翼の方が僅かに速い。
 このまま戦いを続ければ負けないにしても、翼を捉えきるには暫しの時間がかかるだろう。
 故に星熊童子は翼を挑発する言葉を口に出したのだ。
 翼の異常なまでのスピードは、それに特化したがための超速度。そのため、一撃一撃は鋭くとも、軽い。
 実力差が大きく離れている高鬼にならば無双の力を発揮したが、実力が伯仲している星熊童子には一撃必殺が通用しなかった。
 挑発により翼は星熊童子を仕留めようと一撃必殺を狙って向かってくるだろう。となれば犠牲になるのは、特化したスピード。
 スピードが少しでも落ちれば、星熊童子ならば逆転の一手を狙える。二人の間の動きの速さは、ほんの僅かなのだから。

「―――見せてあげる。不破恭也に認めてもらった私と彼だけの世界を―――」

 背筋を抜かれて、かわりに鉄の塊を入れられたのような違和感。異質さ。恐怖感。
 全身を這う、黒に塗れた殺気。絶対なる自信に裏付けされた、翼の放つ漆黒の気配は広がっていく。

「―――貴女にも教えてあげる。戦いの恐怖というものを」

 翼の姿が消えうせる。瞬く黒の流星。一直線には星熊童子には向かわず、彼女を取り囲む結界のように翼が周囲を駆け翔る。
 あまりの速さに風が巻き起こり、土煙も立ち昇らせそうなほどの動き。
 先ほどよりさらに速くなっていた。星熊童子の背筋は未だ冷たいまま。絶対に失敗できない賭けともいえる行動。
 必至になって、翼の動きを視認する。鬼の視力をもってしても、置き去りにされそうな速度。 
 大地を踏みしめる音がやけに大きく響く。そして、紙一重の瞬間。もしも後一つでも何かしらの行動を翼が取っていたならば、確実に星熊童子は姿を見失っていただろう。
 それはつまり、天運が星熊童子に傾いたという証でもあった。

「終わったぜ、あいつ。天才ゆえに窮地に陥ったことがない典型的な馬鹿野郎の失敗だ」

 くけけと、その交差を凝視していた劉の呟きは傍にいた王にしか聞こえなかった。

 真正面から星熊童子に一直線に疾走してくる翼。
 その動きは速かったが、軽いという星熊童子の挑発を意識してか、明らかに翼の最速よりも鈍っていた。
 星熊童子には確かに見えた。翼の黒刀を握りしめる両手に力がこもっているのが―――。

 真正面から上段の一太刀が振り下ろされる。
 それを星熊童子は全身全力全速の一撃を持って、弾き返す。
 激しい突風に吹かれたかのような、分厚い風壁に爪が喰らいこむ手応え。
 体ごと持っていかれる衝撃に耐えきり、連続して両手の爪を翼の姿に叩き込んだ。恐らくは星熊童子の長い生涯における最高の連撃。
 両手にかかる負荷は凄まじい。嵐の激風の中で手を動かすかのような重圧を感じながらも星熊童子は爪を振り続けることを辞めなかった。
 十数度の攻撃によって、星熊童子は遂に体全体に感じていた突風を突き破り―――鋭利で強固な爪を翼へと抉り貫いた。
 
 合計十本の爪が翼に突き刺さり、血が噴き出る―――ということはなく、星熊童子の手に伝わってきたのは肉を抉る感覚ではない。一切の手応えが感じられない、空を切る感触。
 爪が翼の肉体を貫いているというのに、何故何も起きないのか。何故、苦しみ叫ばないのか。目の前の人間が。

「お前には無理だぜぇ?星熊童子―――格ってやつがちがいすぎる。お前如きのちっぽけな器じゃはかりきれない。理解の及ばない相手が、そいつだぜ。同じ天才っても、そもそも桁が違いすぎる」

 ヒュゥという風が吹く。
 貫いたはずの翼の姿が―――ぶれて、消えた

「―――ここよ」

 どこに行ったと問う暇も、探す間もなく、背後から声は聞こえた。
 本当にいつの間にだろうか。気がついたときには星熊童子の背後に、黒刀を振り切った状態の翼は優雅に立っている。そして、パチンと刀を鞘に仕舞った。
 戦いは終わりだと言わんばかりの態度の翼に、慌てて振り向いた星熊童子。

「―――貴女が競り合っていたのは私が巻き起こした風圧。貫いたのは―――残像よ」
「……な、に」

 口を開いている途中で星熊童子が血を吐き出す。尋常ではない量の吐血。
 無論、口からだけではない。身体中の至るところが切り裂かれ、足元に血の池を作り上げた。
 振り向いた振動で、右手は半ばから斬りおとされていたのを思い出したかのように、地面の血の池にぽちゃりと落ちる。胴体は八つ裂きという単語に相応しい状態。
 心臓は貫かれ、首も半分近く斬りおとされていた。鬼の強靭な生命力だからこそまだ息があるが、いつ息絶えてもおかしくは無い。虚ろな視線だけを翼に向けている。
 
「……貴女が私の残像を貫こうとした時には、既に私の攻撃は終わっていたわ」

 星熊童子に気づかせることなく、翼は数十にも及ぶ黒の剣閃を放っていた。
 気づかなかった理由。それは―――ただ、あまりにも速すぎただけ。星熊童子の誇るスピードなど、歯牙にもかけぬ圧倒的な速度の差。
 劉が語ったように、そもそもの次元が違っている。天守翼の速度は、鬼の領域を遥かに超越していた。
 
 現在の状況を理解できない、したくない。
 星熊童子は人の形をしただけの、剣の化身の背を呆然と見つめたまま、口の中に広がっている鉄の味を噛み締めながら―――。

「……私の……千年……こんなところで……」
「あら。貴女って千年も生きていたの?」

 星熊童子のかすれた呟きに、本当に驚いたのか翼が聞き返す。
 高名な鬼だろうということは想像がついた。少なくとも翼とここまで戦えた相手は、恭也以外に数えるほどしかいない。
 ましてや、一太刀で決めれなかった敵など本当に久しぶりだった。
 だが―――。

「―――軽いのね、貴女の千年」

 漆黒の髪を靡かせて、翼は星熊童子から遠ざかっていく。
 翼の言葉は、必死に生へとしがみついていた星熊童子の意思と誇りを砕き折るには十分すぎる一言であった。
 ガクリと両膝をつき、星熊童子は自らの血で作り上げた池に身体を沈め、命の灯火は静かに消えていく。

 百五十もの高鬼と四鬼に数えられる一体を、たった一人で殲滅せしめた剣士。息一つ乱さず、それをやってのけた翼。
 永全不動八門の誰一人としてこれと同じことは出来ないだろう。人間では為し得ぬであろうことを容易く可能とする。
 故に天守翼は呼ばれるのだ―――剣聖と。

 あまりに格の違いすぎる戦い。
 誰もが我を忘れて息を呑む。水無月殺音をして、強いと断言する以外に判断を下せなかった。
 残された二人。劉と王に躊躇いもなく近寄っていく翼は随分と遠い間合いを保つ。
 星熊童子を相手にしたときはそんなことを気にもしていなかったというのに、翼は明らかに劉を危険視していた。

「貴方はどうするのかしら?」
「くっへっへ。なんだ、見逃してくれるのか?」
 
 翼の質問に劉は、恐れも何もなく、逆に馬鹿にした雰囲気を隠そうともしない。
 そんな劉の態度を全く気にも留めず、黒刀の柄に手で握る。

「おおっと。冗談だ冗談。今はやる時じゃねーんだよ、多分な」

 くひひと笑う劉は座り込んでいる王に蹴りを入れる。
 悲鳴もあげれずに、蹴り飛ばされた王は地面を転がっていき、茂みに突っ込んでいった。
 劉は煙草を口にくわえると火をつけて、煙を吹き出す。煙が消えていくのを確認したあと、躊躇いもなく背中を向けてその場から去っていく。
 翼がその気になれば瞬殺可能であるというのに、己の命を一切重要視していない態度に、珍しく薄ら寒いモノを感じる。

「ああ、お前はつえぇぜ?でもな、まだ若けぇ。俺と本気で殺りあってたら―――」

 その後は告げず、劉は茂みに叩き込まれた王の襟を掴んで地面に引き摺りながら姿を消していった。
 不気味な気配を残したまま―――不吉な笑い声を響かせたまま。
 中国最大最強の闇組織【龍】が最強戦力―――劉雷考。彼の力は計り知れず。十年以上も昔に御神の一族を滅ぼした張本人。
 アンチナンバーズがXⅤ(15)。【虐殺鬼】。人でありながら、アンチナンバーズの上位に座する最凶最悪の、鬼人。

 ―――お前は死んでいたぜ?

 劉の背中を見送っていた翼は、恐らくそう続けたかったであろう彼の台詞を鼻で笑う。
 確かに底が知れない男だった。だが、怖いと思いはしなかった。
 
「―――貴方では恭也に及ばないもの。貴方程度では脅威に思う必要はないわ」
  
 次に翼は北斗の面々へと―――いや、殺音に視線は固定されていた。
 そこには様々な感情が織り交ざっている。良からぬものを感じた五人が翼の前に立ち塞がるが、油断したわけでもないのに姿を見失う。
 星熊童子と同じで、気がついたときには既に背後にまわられていた。冥が刀を抜こうとするが、それを殺音が手で止める。
 相対する二人。天守翼と水無月殺音。言葉もなく二人は視線を絡み合わせたままだ。
 
「礼を言うべき、かな?」
「―――いらないわ」

 礼を述べる殺音に対して、全く友好に接するつもりは無いのか翼の態度は冷徹にも見えた。
 沈黙すること数十秒は経ったろうか。翼は何度も何かを言おうとする素振りをみせつつも、決心がつかないのか結果として沈黙は続く。
 殺音は翼が言おうとしていることを急かすことなく待っていた。

「……礼を言うのは、こっちの方よ」
「え?」

 そして、翼の口から飛び出したのは殺音の予想外の台詞だった。
 まさか命を助けて貰った相手から逆に礼を言われるとは、予想しろというほうが無理な話だ。

「……あんなに楽しそうに戦っている恭也は初めて見たもの。なんとなくわかったわ―――貴女が恭也の言っていた約束の人だって」

 寂しそうに語る翼のその姿はまるで幼い子供のようにも見える。先程まで超然としていた、剣士の姿はそこにはなかった。
 恭也と殺音の戦いを見ていた翼は心が震えた。身体も震えた。全てが震えた。
 己が知っている不破恭也を遥かに凌いだ恭也が、翼の前にいて―――その恭也と互角以上に戦う戦士がいた。
 あまりに桁が違う天上の戦い。一瞬たりとも見逃すまいと、不覚にも見惚れてしまった。
 恭也の力を完全に引き出した相手。それが今目の前にいる女性だ。嫉妬。羨望。そういった妬みの感情が無いかといわれれば嘘になる。
 だが、今の自分では恭也のあんな顔を引き出すのは無理だろう。自分の全力を見せたとしても、【よくやった】。そう褒められるのが関の山だ。
 それはつまり、天守翼は、不破恭也にとって敵と見なされてはいないということだ。正確には敵と見られるのにも値しない。
 
 天守翼の今の力量は―――今の不破恭也の足元にも及ばない。
  
 悔しいとは思わない。それだけ目指す山の頂は遠いと実感できるからだ。
 己の手を見る。三年前は白魚のように美しい手だったが、今では剣ダコでボロボロになっている。
 後悔したことなど無い。むしろこの手を誇りに思っている。きっと恭也も前の手よりこの手のほうを好いてくれるだろう。
 何時か自分も、目の前の女性のように、恭也にあんな顔をさせれるだろうか。もしさせることが出来たならば、きっとその時は至福の一時となる筈だ。
 
 遠き未来を夢見て翼は氷の微笑を浮かべる。
 老若男女等しく魅了する、危険な、魅力的な微笑を残して、翼は踵を返した。

「―――私は天守翼。また、会いましょう」

 生涯の好敵手となる天守翼と水無月殺音。
 二人の初めての邂逅は、こうして幕を下ろすことになった。
 猫神生還。それは、天眼の未来視を上回る結果。本来とは異なる歴史の歪み。
 未来を見通す魔人の計画が―――僅かな綻びを見せた瞬間だった。  
































--------atogaki-----------

御神流の奥義は適当につけました。
陸の薙旋くらいしか覚えてないんですよねー
虎切とかは奥義じゃなかったきもしますが。それと、この話では御神流裏とかは、本来の御神流から外れた美沙斗が勝手に裏と呼んでいた的な説になっております
もうちょっと盛り上げた戦いをかきたかったですが、これくらいで限界でした。
次回は―――誰の章かはアップしてからのお楽しみ!ということで



[30788] 断章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/03/11 00:46








 緑豊かな山間に、鳥の声が響き渡る。空を見上げれば雲ひとつない青空に幾つかの鳥の影が見えた。
 中天に差し掛かった太陽が、心地よい陽射しを惜しみなく注いでくれる。
 さぁっと道の脇に生えた草を、気持ちのいい風が揺らしていった。
 
「―――いい陽気だ」
「そうですね、父様」
「寝転がりたくなるよねー気持ちいいもん」

 道を歩くのは三人の男女。
 男性は二十代に見えるが、三十代にも見える。不思議な容姿だった。
 白群青の袖に黒の袴という簡素な旅装束だ。日本人らしい短い黒髪。顔に残る傷跡が、男性の戦いの歴史を示しているようで、見るものに自然と圧迫感を与えている。腰に二本の小太刀が差してある。それもまた男性の威圧感に拍車をかけていた。
 残りの二人はどちらも女性であったが、片方は女性。片方は少女という単語がピッタリとくる容姿だ。
 
 女性は闇色の着物をまとい、艶やかな長い黒髪を飾り布で後ろでひとつにまとめている。
 小奇麗に整った身なりと、人並み外れた容姿は、道行く者の視線を自ずと集めていた。
 少女はというと、白い巫女服に似た羽織と、赤い袴を身に着けている。
 背丈が随分と男性と差があるようだ。男性は百八十近い長身。それに対して少女は百四十もないだろう。
 男性を真似してか、まだ十代前半と思われる少女は、腰に二本の小太刀を差していた。
 
「急ぐこともない。のんびり行くとするか、【雫】【風音】」
「はい、父様」
「そうだねぇ―――【恭也】」

 道端には草花が生い茂り、道を外れた方向に見える山々は、見渡す限りの深緑。
 あまりの見事さにため息しか出ない。
 平穏そのものの光景の中、恭也は言葉通りゆっくりと歩き始める。
 無表情ながら、太陽の光と見渡す深緑によって、穏やかな雰囲気を醸し出している。

 はっきり言って、恭也を見た人間の第一印象は大男である。この時代では珍しく百八十もの長身、
 それだけでも近寄りがたいというのに、腰に差してある二本の刀。無駄なく引き締まった肉体に、顔につけられた幾つもの傷。
 普通の人間だったならば、おいそれと関わり合いになる類の人物ではないだろう。
 それなりに腕が立つものだったならば、恭也の身のこなしの隙の無さ、佇まい、雰囲気。それら全てが尋常ではない域に達していると一目で気づける筈だ。
 漂うのは咽帰るほどの血臭。いくら試合が死合いとなるこの時代でも、恭也に戦いを挑むほどの相手はそうはいない。いや、この時代だからこそ、恭也に真正面から戦いを挑む強者等存在しなかった。
 立ち会う前から、自分にもたらされるのは絶対の死だと、理解してしまえるのだから。

「もうそろそろ町に着いてもおかしくは無いんですが……」

 雫がそう呟いた時だった、前方に丸太を組んだ柵と板葺きの小屋が見えた。
 見張りの人間がいたようだが、特に問いただされることもなく、恭也達三人は町の中へと踏み入ることが出来た。
 開かれた門の中には、左右に広がる形で板葺きの小屋が軒を連ねている。
 道端には、様々な露天が開かれ、威勢のいい客寄せの声が聞こえてきた。

 行き交う人の流れは多い。慣れた事だが、すれ違う人は皆、恭也の身長に驚き、ちらちらと横目で見てくる。
 笠をかぶった薬売りや、駕篭を担いでどこかへ移動していく二人組み。文箱を持ち、駆け抜けていく飛脚。
 
 町自体はそれほど大きくないようだが、街道に面しているためか、旅人の姿が非常に多い。
 そのためこれほどに町に活気があるのだろう。

 三人は兎に角、通りにあった飯屋の暖簾をくぐる。
 随分と長い間野宿をしてきたため、まともな食事を身体が欲していたからだ。
 ここ最近は野草や、途中でしとめた鳥や兎。そういった物しか口に出来なかった。

 飯屋の中に入った恭也達だったが、食事をしていた町人や素浪人等が一斉に注目した。
 気にすることもなく、空いていた食卓へと腰を落ち着ける。
 注文を取りに来た娘も恭也の姿に少し怯えていたのが、幾ら慣れたとはいえショックな恭也だった。
 娘は注文を聞くと慌てて、この場を後にする。
 その姿を見て憤慨するのは雫で、苦笑するのは風音だ。

「全く……あれが店の者がする態度とは思えません」
「まーまー。そう言うなってば、雫。恭也と初めて会って驚かない一般人なんていないよ」
「確かに父様は格好良すぎですから、気持ちはわからないでもないですが……」

 ぷくぅと頬を膨らませた雫が可愛らしく拗ねる。
 対して雫の発言を聞いた風音は口元を引き攣らせた。

「ええっと……雫、何でさっきの娘さんがあんな態度取ったかわかる?」
「何を言っているのですか、姉様。父様が魅力的すぎるからですよね?」

 キョトンと風音を見返す雫に、戦慄を隠せない。
 こいつは、本気で言っている!!―――わかっていたことではあるが、雫の恭也に対する想いが尋常ではないことを再確認した瞬間だった。父に対する異常すぎる偏愛。実際に血縁関係がないとはいえ、雫の父に対する想いはあまりにも可笑しい。

「いや、まぁ……うん。ソウダネー」

 感情のこもっていない返答をした風音だったが、正直二人を知る者からしてみたら、どっちもどっちという意見しか持てないだろう。
 血は繋がらないが、義妹である雫と旅するようになって恭也から一歩引いているように見える風音だが、その本質は雫と大して変わらない。
 ようするに恭也第一主義ということだ。それもある意味仕方ないことだと言える。
 
 風音は人間ではない。古くから日本に住む妖怪の一種。
 数年前に故郷を鬼の一族に滅ぼされ、天涯孤独の身となったところを恭也に拾われたのだ。
 その時に鬼の一族に命まで奪われそうになったが、間一髪で現れた恭也に救われた。その時に見た烈火の如き激しい怒りを宿し、百以上の鬼を瞬く間に切り伏せた恭也の姿を今でも忘れられない。
 風音は恭也のことを尊敬している。敬愛している。崇拝している。盲信している。狂愛している。
 恭也が何の罪もない人間を殺せと言えば躊躇いもなく殺す。例えその中に年端もない赤子がいたとしても。
 恭也が死ねと言えば、何故ともどうしてとも聞かず―――躊躇いもなく己の首を掻っ切るだろう。

 風音は、狂っていた。
 数年前に恭也と出会った時から、救われた時から、どうしようもなく救いがたいほどに狂ってしまったのだ。

「―――そういえば、お前知ってるか?この近くの山を夜通ると必ず神隠しにあうって噂?」
「ああ。何でもあの山には鬼が住んでいて、人間を喰らってるって話だ」
「おお、怖い怖い」

 恭也達の席から離れた所で町人達がそんな世間話をしている。
 それにピクリと反応をしたのは風音だ。この場で【鬼】という単語に過敏な反応をしたのに気づいたのは恭也だけだった。
 幼い時の恨みは、憎しみはそう簡単には消せはしない。

「……風音。大丈夫か?」
「え?うん―――問題ないよ」

 無理な笑顔で答えた風音に、恭也は―――そうか、とだけ応じ、運ばれてきた食事に舌鼓をうつ。
 風音は憎しみで燃える瞳のまま、じっと食台を見つめていた。  
 
 三人は食事を終えると、太陽が落ちようとしている時間帯となっていたようで、夕闇が迫ってきている。
 野宿を続けていたため、今夜くらいはゆっくりと宿で休みたい三人は、近くにあった旅籠屋で二部屋を借りた。
 雫は一部屋で構わないと必死の形相で恭也を説得していたが、ガンとして譲らない恭也についに折れる。
 普段ならば風音も一緒になって雫と力を合わせるというのに、今回に限って加勢してくれないことを内心疑問に思う雫だったが、説得が失敗した今ではもはやどうでもいいことだ。
 
 二階へとあがり、恭也の入った部屋に自然と一緒に入っていく雫。
 その隣の部屋に一人踏み入った風音だったが、程なくして恭也の部屋から追い出された雫が帰ってくる。

「もう、父様って恥ずかしがりやですね。少し前までは、お風呂まで一緒に入ってくれたのに……」
「……それって、もう三年も前の話でしょう。あんたもいい歳になったんだから恥じらいというものを持ちなさい」
「ああ、父様……雫は寂しいです」
「―――聞いてないし」

 ハァとため息を吐いた風音は、腕にはめていた金属製の籠手の手入れを始める。
 己の相棒を見つめる視線はとてつもなく冷たい。まるで何かの覚悟を決めた眼差し。
 それに雫は気づかぬまま―――時間は流れる。

 完全に太陽が落ち、月が支配する時間。
 夜の一族である風音が全力を出せる世界。気配を完全に消し、隣に寝ていた雫にも気づかれずに、宿を抜け出した風音は眼にもとまらぬ速度で森を駆け抜けていく。
 視線の先には薄暗い森が見渡す限り広がっている。
 人の手など遥かに遠い雄大さに、懐かしさを感じた。まるで、かつての故郷に戻ったかのような寂寥感を受ける。
  
「―――ごめん、恭也。直ぐに片して戻るから、勝手な行動を許してね」

 本人には届くことの無い謝罪をもらし、風音が駆ける。
 人間ならば、月明かりしかない薄暗い森の中は恐怖しかないだろう。
 だが、風音は違う。眼が猫のように瞳孔が開き、暗闇など感じていない様子で突き進む。
 
 鋭く睨む視線の先に―――居た。
 己からすべてを奪った憎き鬼の一族が。
 二メートルを超える巨体。歩くだけで、大地を揺らす肉体の重さ。二本の角が生えた顔は、まさに異形。
 恐らくは中鬼か高鬼。それが五体。まだ、風音には気づいてはいない。
 トンと軽い音をたてて地を蹴り、木々の枝に乗り、ムササビの如く枝から枝へと飛び移る。
 そして、鬼の上空の枝を十分な力を込めて、蹴り飛ばした。

 鬼が風音に気づくより速く―――風音の籠手をはめた拳が一体の頭を粉砕した。
 グシャと妙な音をたてて頭蓋骨を砕き割る。
 空中で体勢をかえ、両足で砕いた鬼の身体を蹴りつけ隣に居た鬼の顎を殴りつけた。
 顎が割れる手応え。殴りつけたまま、身体を回転させ遠心力をつけた胴回し回転蹴りが脳天に落とされる。
 防ぐ暇もなく、二体目の鬼が地に沈む。
 
 そこでようやく、残り三体となった鬼が風音に気づく。
 獣の咆哮をあげ、風音に飛び掛ってくるが、遅すぎる。
 襲い掛かってきた鬼の一体をカウンターとなる一撃を顔面に叩き込み吹き飛ばす。
 体格差を考えるとありえなことだが、たった一撃で後ろにたたらを踏み、倒れて動かなくなった。

 残り二体の鬼が風音に覆いかぶさるように両手で掴もうとしてきたが、鬼が掴んだのは風音の残像を突き抜けた、大地の砂だった。
 背後に回った風音が、後頭部に拳を叩き込む。メキョという嫌な音がして、前方に面白いように転がっていき、木に当たって止まる。
 最後の一体は、振り向きざまに、掬い上げる一撃が顎に直撃。ぶわっと数十センチあがったかとおもった鬼は、白目を剥いて大地に両膝をつき、ゆっくりと身体を地面に倒した。

 僅か五秒を数える間の出来事。
 人を喰らう、最悪の化け物を叩き伏せた女性は、誇るでもなく、興奮するでもなく、当然の結果として受け止めていた。
 これは当然の結果なのだ。仮にも世界最強の剣士から稽古をつけてもらっているのだから、これくらい出来て当たり前だ。

 五体だけかどうかはわからない。
 風音は精神を集中させ、感覚を広げる。
 虫の音が聞こえる。風が草木を揺らす音が聞こえる。野生動物のたてる音が聞こえる。
 そして―――。

「―――っ!?」

 ありえないほどの躍動を感じた。
 感じた瞬間、自分が握りつぶされたと錯覚したほどの絶望的な気配。
 得体の知れない悪寒。もはや、悪寒というのも生温い。
 【格】というものが違いすぎる相手。どれほどに違っているのかも判断できない、超越種。
 今の自分では決して足元にも及ばない人外の中の人外。化け物の中の化け物。
 この気配は―――そういった類のモノだ。

 視線を上にあげれば、切り立った断崖の先に座って巨大な徳利に口をつけて飲んでいる大男が居た。
 着物を着崩した、倒れている鬼にも勝るとも劣らぬ背丈。伸びただけのような長髪の乱れ髪。傍には成年男子ほどの大きさがあろうかという大きさの金棒。
 夜の闇を裂く、赤く爛々と輝く瞳が、興味深そうに風音を射抜いていた。
 
 天から降り注いでくる巨人の掌が風音を押し潰さんと圧し掛かってくる。
 喉が詰まったように、呼吸が出来ない。ただ睨まれただけだと言うのに、勝てないと本能が頭の中で警告を出し続けていた。

「面白いじゃねぇか。俺様の配下をこうも容易くぶち殺すか―――お前、気に入ったぜ」
「―――主様が出るほどではありません。私が参りましょう」

 風音の背後から男の声とは違う、女性の声が聞こえた。
 反射的にだした裏拳が背後を空振りする。声の主は既にその場にはいなかった。
 風音の視線の先には、着物の女性の姿。こちらを馬鹿にするような笑みを浮かべている。

「ほどほどにしろよ、星熊。死なれたら困るしな」
「わかりました、主様。死なない程度で嬲っておきます」

 己の勝利を疑わない―――星熊童子に呆れた視線を送り、男性は頭をガシガシとかく。
 絶対誤解してるな、と呟いた男性の声は、向かい合っている二人には聞こえなかった。
 星熊童子が両腕に力を込めると、鋭利な爪が数十センチもの長さに伸びて、風音の視界に映る。
 すると、プイと星熊童子から視線を男性に戻し、こちらを窺っていた男性と視線を交差させた。
 
 その姿はまるで向かい合っている星熊童子より、見ているだけの男性の方に注意を払わなければいけないかのような様子だ。
 風音の行動に目元を引き攣らせ―――次の瞬間には右の爪が風音の心臓を僅かに逸れた場所に繰り出されていた。
 突き刺さる瞬間まで風音は男性を見上げている姿に、己の勝ちを予見した星熊童子だったが、半身になって避けた風音の振り向きざまに放った右拳で顎を打ち抜かれ―――無様に転がっていき、起き上がることは無かった。
 
 全力で放った一撃がまともに当たったというのに、殺せなかったことを風音は不思議に思う。だが、今はそんなことを考えている暇は無い。
 風音は知らぬことだったが、仮にも星熊童子は男性の配下の中でも四鬼と称される高鬼であり、他の鬼と比べるまでもない頑強さ故に気を失っただけで済んだのだ。
 深い呼吸を繰り返し、集中力を高める。前座は終了したが―――本命はまだ残っている。 
 
「だからほどほどにしろよって言っただろうが……。というか、まさか一撃か。こりゃ、鍛えなおさないとな」
 
 ゴクリゴクリと徳利の中の酒を呷ると、よっこいせと立ち上がる。
 ゴキゴキと身体中を動かし音を鳴らすと―――何の躊躇いもなく、断崖絶壁の上から飛び降りた。     
 眼下まで二十メートルはありそうな高さだというのに、男性は笑いながら大地に着地する。
 砂埃が舞い、周囲を揺らす。埃が治まった後には、片手に徳利。片手に金棒を持った男性が数メートル先に存在した。

「―――貴方の、名前は?」
「あん?俺様を知らずに喧嘩を売りにきたのか?まぁ、いい。今夜は機嫌が良い。折角だから教えてやるよ」

 バクンバクンと、口から心臓が飛び出るほどに緊張している。
 ここまで格が違う相手と向かい合ったのはどれくらいぶりだろうか。
 強くなったと思っていた。それが驕りだと、自惚れだと、今此処ではっきりと理解できた。
 上には上がいる。師である恭也は当然として、この目の前の前の男もまた―――。

「―――俺様のことは、【酒呑童子】とでも呼べばいい」

 鬼を統べる王。日本の三大妖怪が一。
 日本に住まう全ての鬼を従え、大江山を拠点として、数多の人間を喰らい、浚い、猛者を屠った最強の妖怪。
 目の前の男は―――伝説に名を刻む鬼の化身だった。

 酒天童子が一歩を踏み出す。
 ズシンと地震が起きた。いや、実際に起きたわけではない。
 だが、確かに風音は感じたのだ。酒天童子が放つ桁外れの圧力が大地を恐れさせたのを。

 全身に鳥肌がたった。
 ガタガタと足が震える。真冬の空の下で、裸で立っているかのような、凍死しそうなほどの冷気。
 己の故郷を滅ぼした鬼の一族の王を目の前にして、復讐心よりも、恐怖心が勝ってしまった。
 
 伝説に名を残すとは、こういう存在のことを指すのだ。
 勝てる道理が―――どこにある。

 戦意を失った風音は、焦点を失った双眸で迫り来る酒天童子の姿を追っていた。
 そんな風音の様子に心底がっかりした表情で、右手を彼女に向けて―――その腕は光り輝く【何か】によって半ばから切断された。

「―――っな、に!?」

 愕然。そんな表情が似合う酒天童子が、反射的に後ろへ跳び下がった。
 光によって切断されたはずの右腕をまじまじと見つめてみるが、目に映るのは自分の右腕だ。切断されたどころか、傷跡一つない。
 【それ】を向けられただけで、右腕を斬られたと錯覚するほどに凝縮された殺気。
 言ってしまえば、只の威圧。気当たり。気配だけで、仮にも鬼の王とされる酒天童子を後退させた。
 それに気づいた酒天童子は、嬉しそうに歪めた口元を隠さずに、風音の後方に視線を向ける。
 その視線を追って、風音もまた自分の背後を見やる。
 視線の先に居たのは―――恭也と雫。

「……ぁ」

 言葉もなく風音の元まで歩いてきた恭也は叱るのでもなく、責めるでもなく、ポンと肩に手を置いた。
 置かれた手が暖かくて、地獄の中で指し伸ばされた手と同じで―――自然と涙が溢れてくる。
 自分勝手な行動で、こんなことになっておきながら、自分をまた救ってくれたのだ。

「―――下がっていろ。雫、風音。お前達は自分の身を守ることだけを考えろ。加勢をしよう等と決して思うな」
「……はい」
「う、うん」

 チンと音をたてて鯉口を切った恭也に、二人は目を見開くも、敵の異様さを肌で感じて納得する。  
 刀を抜くことさえ珍しい恭也だったが、生憎と目の前の鬼はそんなことをいっている余裕さえない。

「―――こいつは正真正銘の、化け物だ」

 ゾゾゾと背筋を黒い恐怖が駆け抜ける。
 己の父であり、兄であり、師である恭也の本気。滅多に見ることができない姿に、二人は見惚れる。  
 いや、見惚れていたのは三人だった。

「く―――くはははははははははははは!!なんだよ、お前!?人間か!?人間なのか!?本当に、人間なのかよぉおお!?」
「―――ああ、人間だ。それはお前の方が良くわかっているんじゃないのか?」
「ああっ!?どういうこった……お前とは一度も会った事はないぞ。会った事があったならば―――決して忘れねぇ」

 しまったと舌打ちをする恭也。
 懐かしい顔を見て口を滑らせてしまったことを反省して、首を横に振った。

「いや、気にするな。【酒呑童子】。俺達は―――初対面だ」
「まぁ、細かいことはどうでもいい。お前は何だ、何だ、何なんだ!?おい、お前は―――【何】だ!?」
「言ったはずだ。酒天童子。俺はただの―――人間だ」
「くっくっく。良いだろう、人間!!お前の名前を教えやがれ!!俺様が生き抜いてきた【四百年】で最強の人間の名前を!!」

 ズンと音を立てるほどに両脚を踏ん張り、持っていた徳利を投げ捨て―――金棒を上段に振り上げた。
 ギラギラと赤い瞳が恭也だけを射抜いている。既に、風音も雫も、路傍の石と同じほどに興味を失っていた。

「―――御神真刀流小太刀二刀術。御神恭也。それが俺の名だ」
「覚えたぞ、恭也!!御神恭也!!」
 
 山中に響く大声。
 眠っていた鳥が、動物が、山から逃げ去っていく。
 酒天童子の口は耳元まで裂け、巨大な牙が口の中に生え揃っている。髪の間の額から二本の黒い角が伸びていた。
 地獄の亡者も、死神も、尻尾を巻いて逃げ出す程の羅刹の表情。並の人間ならば心臓を止めてしまう重圧を撒き散らす。
 まさしく、鬼の王。伝説に名を残す酒天童子という鬼が、そこに顕現した。

「―――死ぬなよぉぉぉぉおおおおおおお、恭也!!」

 歓喜を爆発させた酒天童子が、上段から金棒を叩きつけてきた。
 何の技術も無い、力任せの一撃。だが、それはあまりにも速すぎた。
 恭也の記憶にある、鬼王の一撃より尚速く、人の理解を超えた残像も残さぬ破壊の鉄槌。
 少なくとも、風音と雫の二人の目に見えたのは、上段に振りかぶったはずの金棒がいつの間にか大地を叩きつけ砂埃を舞い散らせた光景だった。
 砂埃がおさまった後に二人が見たのは、金棒を振り下ろした体勢の酒呑童子と、大幅に横へと距離を取っていた恭也の姿。金棒が叩いた大地は陥没し、前方は放射状に抉れていた。その威力に唖然とする風音と雫。
 それよりも二人にとって衝撃だったのが、あの恭也が、驚きを隠せない表情で酒呑童子を唖然と見ていたことだ。

「……何だ、そのふざけた破壊力は」
「くはははは。俺様を誰だと思っていやがる―――俺様こそが鬼の中の鬼。鬼を総べる鬼。酒呑童子だ!!俺様の一撃は、大地を砕き山を割る!!」

 大言壮語と一笑にできない人外の破壊力を見せつけられ恭也の顔に焦燥が浮かび上がった。
 そして、何よりも―――【硬い】。
 
「お前はたいしたもんだ、恭也。俺様の攻撃に怯えず、恐れず、置き土産を残していきやがった」

 右手で左腕の肘のあたりを撫でる。
 注意してみなければ気づかないが、ほんの少しだけ赤くなっていた。
 それは、恭也が避ける際に斬りつけた刀痕。光の剣閃と呼ばれる恭也の斬撃でも皮膚さえも斬ることは叶わず。あの【鬼王】の身体をも傷つけたというのに。  
 恭也が知っている鬼王とは雲泥の差。あまりにも強すぎる。
 過去戦った時は、手を抜いていたのだろうかと疑問が頭に浮かぶ。
 だが、と首を振った。
 あの時の鬼王は確かに全力で戦っていた。手加減していた様子など一片たりともない。
 
「―――余計なことを考える暇があるのかよぉぉぉおおおおおおおお!!」

 見かけは大男。鈍重そうに見える姿とは真逆に、酒呑童子の動きは恭也にも匹敵する。
 スピード自慢の星熊童子や、風音をも超越した疾風の動き。
 内心の焦りを隠しながら、意識して脳内のスイッチを切り替えた。ズシンと身体に重力が加わる。
 そのかわりに、視界がモノクロに染まった。酒呑童子の動きが一瞬鈍くなるも、モノクロの世界を破壊して突き進んでくる。
 純粋な身体能力だけで神速の世界を凌駕した鬼の頂点は、躊躇いもなく金棒で恭也の身体を押しつぶそうと迫ってきた。

 久しく感じる死の予感。
 後方は死地。ならば前に出るしかない。それを実践出来る者だけが、生きながらえる。
 だが、それを実際にできるものなどそうはいない。鬼の王が放つ重圧に耐え、自ら死地に躍り出るなど―――恭也くらいしかできはしまい。
 背中が恐怖でひりつく。
 喉が渇き、口の中には唾液もでていない。
 後方で金棒が大地を叩き、爆発するかのような音と衝撃が伝わってくる。
 
 酒呑童子の懐に踏み入り、横を通り抜ける瞬間で、四斬を放つ。
 両手両脚を斬りつけるも、鋼の塊を撫で付けた感覚しか手には伝わってこない。
 通り抜け、振り向くより速く、後ろから延髄に右の小太刀の一閃。続いて左の小太刀を合わせて一閃。
 十文字に交差させた小太刀が衝撃を二重に浸透させる。
 御神流奥義之肆―――雷徹。

 前方へとたたらを踏むも、振り返った姿にダメージなど一切ない。
 逆に、酒呑童子の戦闘意欲をあげてしまっただけの結果となったが、恭也は敵の異様さに息を呑む。 
 
 確かに鬼王は―――酒呑童子は強かった。
 それでも、此れほどまでではなかったはずだ。今の恭也の力はかつて戦った時の比ではない。
 数多の死線を乗り越え、死地を踏破し、四桁にも及ぶ数の命を斬り殺してきた恭也は―――もはや人とは言い難い。
 この時代の者からは剣鬼と呼ばれるほどに至り、同じ人とは見なされない領域にまで辿り着いてしまっていた。  

 その恭也をして、困惑させるほどの力の違い。
 恭也が知る伝承級のどの化け物をも凌駕している。好敵手と認めた―――解放状態の彼女よりも強い。
 戸惑っていた恭也だったが、酒呑童子は遠慮も躊躇いも無い。
 
 金棒を大地に叩きつけ、クレーターを作り出し砂埃を舞い上がらせた。
 砂埃が視界を塞ぐ。聴覚を頼りに、酒呑童子の行動を読もうとするが、左右前方どこからくるか。
 三方向を注意していた恭也の耳は、何かが墜ちてくる落下音を聞き取った、
 
「―――上、か!?」

 先程を繰り返すかのように、死中に活を見出すために砂埃が支配する前方へと駆け抜ける。
 ズンと巨大な何かが後方に落下した。振り返って一太刀斬り込もうとした恭也の第六感が悲鳴を上げた。
 考えるでもなく、身体が転がるように横へと逃げる。一拍遅れて、恭也の身体があった空間を酒呑童子の拳が薙ぎ潰していく。
 体勢を整えた恭也の目に映ったのは、酒呑童子の手から離れ、地面に転がっている金棒。
 どうやら上空へと金棒を投げ、己は気配を消し、恭也に錯覚させたのだろう。
 前方へと飛び出した恭也はまさに罠にかかった獲物だったのだ。
 見掛け通り獰猛で豪快なだけでなく、気配を消すという技も可能とし、知的。
 酒呑童子は―――最強の妖怪だということを改めて認識した。

「くかかかかか。やるなぁ、恭也!!俺様の攻撃を一度でも避けれた人間は―――お前が初めてだ!!」

 転がっていた金棒を拾い、力任せに振るう。
 極悪な音をたてて素振りを繰り返す酒呑童子の右腕に、血管が浮き上がる。
 長く伸びた牙が唾液で濡れ、ぬらりと光を放つ。
 己と戦える存在が人間に居たという事に喜びを隠せず酒呑童子が一歩を踏み出し―――。

「……あ?」

 霞む速度で飛来した黒剣が酒呑童子の胸元に突き刺さった。
 一本では終わらない。天空から降り注ぐは流星雨の黒剣。数十。百を超える黒剣の五月雨。
 穿ち、切り裂き、貫く。もたらされるのは絶対の死。如何なる者も生還を許さぬ、必殺の魔術。
 先程まで嗤っていた鬼の王が、恭也達の目の前で黒剣によって串刺しにされ、佇んでいる光景を強制的に作り出された。

 何が起きたのかわからないのは風音と雫。
 呆然と串刺しにされ、黒い小山となった酒呑童子を見つめていた。
 対して恭也だけは二人と違った。酒呑童子ではなく、その上。今さっきまで酒呑童子が座っていた場所に視線を向ける。
 切り立った断崖の先に一人の女性が足を空中に投げ出して座りながら、恭也を見下ろしている。
 この国では珍しい異人。プラチナブロンドの長髪。右目を瞑った、美貌の魔人。
 恭也の宿敵。決して許さぬ復讐の相手。大切な者を、世界を奪った―――永久の時を生き、世界を陵辱する者。

 ぽちゃりとこの場に居た全員は、湖面に黒い雫が一滴たらされた幻覚を見た。
 見る見る間に、その黒い雫は湖面を黒く染め上げていく。いや、黒いというレベルではない。それはまさに闇だった。漆黒だった。
 光というモノなど存在を許さぬ、完全な闇。全てを黒く塗りつぶしていく。世界に終末を漂わせるほどに、この空間は絶望が塗りつぶしていく。
 恭也という人間が、酒呑童子をも上回る狂気を、恐怖を、立ち昇らせ、天を仰いだ。 

「―――天、眼!!」

 恭也の、憎悪と憤怒と怨恨。様々な負の感情が綯い交ぜとなった、咆哮。
 ビクリと風音と雫は身体を震わせた。
 厳しくとも優しい恭也が―――これほどまでに怒りを露にした時を見たことなど無かった。
 ここまで深い闇を心の底に湛えていることを、二人はこの時初めて知ったのだ。

「お久しぶりですね、青年?息災にしていましたか?ああ―――私は元気でしたよ」
「黙れ、黙れ、黙れぇええええ!!お前、よくぞ俺の前に姿を現せれたな!!」
「ああ、【あの時】以来放置されて寂しかったのですか?青年も可愛いところがありますね」
「―――ふざける、な。お前は、××を、殺した!!それを忘れたとは言わさんぞ!?」

 挑発しているのだろうか。天眼はクスクスと笑いながら、冷静に会話を続ける。
 対して恭也は、憤怒を隠すことなどできず、怒声にも似た言葉を天眼にぶつけた。
  
「ええ、そうですね。私は青年の大切な××を殺しました。でも、今ここにいるということは、青年が望んだことではないですか?」
「―――それ、は」
「こんな結果になるとは思いませんでしたか?それでも、確かにあの時青年が望まなければ―――違った未来もあった筈ですよ?」
「……くっ」
「私が願い、青年が望み―――巡りに巡った世界で私は再び恭也に会える」 
「―――狂って、いるな」
「あら?知りませんでしたか?私の名は天眼。己の願いのためならば、世界をも滅ぼす。それが―――私です。狂っていないはずがないですよ?」

 風音と雫は完全に気圧されていた。
 伝説に名を残す鬼の王を瞬殺した、異人の女。
 恭也と知り合いのようだが、あそこまで殺意を顕にする姿は見た事が無い。
 一体何者なのか。どういった関係なのか。そんな疑問がぐるぐると頭の中を回っていた。

「―――それと、私の忠告を忘れてませんか?貴方と別れるあの日、私は言いましたよね?鬼王にだけは近づくなと。戦いを挑むなと」
「……ああ」
「ならば何故戦いを挑んだのですか?この、闘争に特化しただけの神喰らいの化け物に―――」

 ビクンと黒剣の山になっていた酒呑童子の身体が躍動した。
 ぶるぶると震え始める。それに気づいた恭也が驚きで眼を見開く。

「鬼王は―――青年が考えているよりも遥かに強いですよ?」

 バキンと何かが砕け散る音が聞こえた。
 黒剣の山が崩れ去っていく。突き刺さっていたはずの黒剣が周囲に飛び散る。
 口に刺さっていた筈の黒剣は噛み砕かれ、身体中にあいた傷はみるみるうちに塞がっていく。
 信じられないことに―――天眼の必殺の魔術を受けてなお、酒呑童子は笑みを絶やしていなかった。

「……馬鹿な、こいつは本当に鬼王なのか」
「ええ、当然ですよ?青年は鬼王の力を勘違いしていますね。青年が戦った鬼王と目の前の鬼王は同一人物―――但し目の前の鬼王は【全盛期】というだけです」 
「―――成る程」

 恭也が天眼の台詞に納得したと同時に、爆発的に跳ね上がった酒呑童子の戦気。
 己に一瞬とはいえ死を感じさせるほどに強き者が新たに現れたことを喜んでいるようだった。
 天眼は酒呑童子が降りたときとは真逆で、重力を感じさせない軽やかな動きで崖の上から飛び降り、恭也の背後に舞い降りた。

「くかかかかかかか。お前何者だ?見た感じだと、異人のようだが。長年生きる俺様も初めて見るぞ、お前の異術は」
「―――そうですね。名乗っておきましょうか。私の名は未来視の魔人。アンチナンバーズがⅡ。天眼と呼んでください」
「あんちなんばぁず?なんだ、そりゃ」
「世界中の化け物達を掻き集めた戦闘集団。そう考えて貰っても構いません。ああ、ちなみにここにいる青年がアンチナンバーズがⅠ。【剣の頂に立つ者】です」
「……薄々感づいてはいたが、やはりそういうことか」

 天眼の言葉に、恭也は苦々しげに呟いた。
 複雑に絡まっていた疑問が、謎が紐解けてゆく。
 あれほど、【彼女】が天眼に心を許すなといっていた理由がようやくわかった。

「伝説に名を残す人外の頂点。それがアンチナンバーズ一桁の数字を与えられたもの。ちなみに酒呑童子―――貴方には五番の数字を差し上げましょう」
「―――どうでもいいな。俺様は強い奴と満足いくまで殺し合えればそれでいい」

 恭也の殺気も、天眼の言葉も、気にも留めず―――酒呑童子は【戦える】喜びに満ち溢れていた。
 酒呑童子は四百年という長きに渡ってまともに戦ったことは一度としてない。
 数に物を言わせた人海戦術か、不意を突いた奇襲。
 真正面から戦いを挑んできた者もいたが、一人として初手の一撃をかわせたものはいなかった。
 あまりにも強すぎたが故に、酒呑童子は【戦い】と呼べるものを体験したことはなく、己と互角に殺し合える者を望んでいた。
 生きるのにも飽いた四百年目の今宵―――ようやく自分を殺せる可能性を秘めた二人の存在に出会えた。
 
「さぁ!!さぁ!!見せてみろよ、お前らの力を!!俺様を、殺してみせろぉおおお!!」

 突風を巻き起こすほどの雄叫び。
 空間が歪むほどの破滅の鬼気を纏い、酒呑童子は四股を踏む。
 小太刀を構える恭也と少しばかり困った様子の天眼。
 
「さてさて、青年。流石の私も全盛期の鬼王と一騎打ちは正直キツイというのが本音ですが―――今回は力を合わせませんか?」
「……お前と協力するのは、死んでも御免こうむる」
「くすくす。いいのですか、青年?幾ら青年でも、今の鬼王を打ち倒すのは厳しいと思いますが?そして、青年には死ねない理由がありますよね?」
「……」
「私も青年に今ここで死なれてしまうと困ってしまいますので。私に対する怒りの矛先は一旦おさめて―――この窮地を共に乗り越えましょう」
「……今回、限りだ」
 
 断腸の思いで恭也はそう答えた。
 天眼を許すことはできない。許すつもりもない。
 だが、確かに天眼の言う通り、恭也はまだここで倒れるわけにはいかない。
 雫を完全にして、完成された御神の剣士として育てる前に、恭也は死ぬわけにはいかないのだ。
 かつて戦った鬼王ならばまだしも、目の前にいる酒呑童子はあまりにも強すぎる。
 恭也の賛同を得た天眼はパァっと花の咲く笑顔を向けた。

「さて。では、アンチナンバーズがⅠとⅡ―――伝承級が二人。【剣の頂に立つ者】と【未来視の天眼】の初の共同戦線といきましょうか」 
「甚だ遺憾ではあるがな―――俺が前衛にでる。援護は任せた」
「ええ、任せてください。大丈夫ですよ―――私達が力を合わせれば、立ち塞がれる者など、存在しません」

 薄く笑みを浮かべた天眼は―――自信に満ち溢れた言葉を、恭也へと囁いた。








[30788] 間章3
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/03/11 01:30




「―――ごめんなさい。もう一度いってくれる?」

 西欧のある国にある辺境の地。一般人ならば近づくことさえ許されないナンバーズの本拠地。
 空に向かって高くそびえる円塔の頂上付近にある部屋で、ナンバーズの司令官補佐のアインが、書類が積まれた机の前に座りながら、電話の受話器にそう語りかけていた。
 冷静沈着で滅多に表情を変えないアインが、通話先の相手に―――何を言ってるんだこいつは、というように眉を顰めている。

『信じられないことかもしれないけど……事実よ。アンチナンバーズがⅥ。不可視の魔人―――その正体はただの人間』
「寝言は寝てから言いなさい」

 容赦なく通話を切ると机の隅っこの電話の定位置に受話器を戻した。
 やらなければならないことは山のようにあるというのに、無駄な時間を使ってしまった。後悔してもしきれない。
 エルフやゼクスならともかく、真面目なツヴァイが冗談を報告してくるとは考えてもいなかった。
 アインが書類を一枚手にとって眼を通していると、電話が音を鳴らす。
 はぁ、とため息をつきつつ、受話器を取り上げた。

『ちょっと、いきなり電話きるなんて酷いじゃない!?』
「……そう思うなら真面目に報告しなさい」
『だから、何度も言ってるじゃない?私の監視対象キョウヤ・タカマチが伝承墜としだったって!!』
「……」

 今度は無言のままに受話器を叩き付けるように母機へと戻す。
 先程からこれの繰り返しである。ツヴァイは決してふざけて報告をしているわけではないが、何せ内容が内容だ。
 誰もが恐れ、怖れ、畏れる、人外の頂点の一角が、まさかただの人間だったとは誰が信じるだろうか。
 もし、逆の立場だったならば間違いなく、ツヴァイとアインの対応は真逆になっていただろう。

 何故ならば、アンチナンバーズⅥの先代は【人形遣い】と呼ばれた古き時代から生き抜いてきた吸血鬼。【真祖】と呼ばれる吸血鬼の一体だった。真祖とは、文字通り始まりの吸血鬼のことを指す。
 吸血鬼の王族の一人として何不自由なく暮らすことができたというのに、それを認めず殺戮の日々に生きた女性。夜の一族の中でも吸血鬼が恐れられたのは人形遣いが原因と言っても過言ではない。
 血を吸った者を己の配下とし、次々と死者の軍勢を増やしていき、ナンバーズに真正面から戦争を仕掛けてきた唯一の存在。戦いではなく、【戦争】。それほどに悲惨な戦いを繰り広げてきた。
 驚異的な数で人間社会を滅ぼそうとした人形遣い。驚異的な力で人間社会を滅ぼそうとした魔導王。
 この二人はナンバーズ最凶最悪と言い伝えられていた。決して滅ぼすことは出来ぬ魔人として。

「―――それを滅ぼしたのが、ただの人間?」

 有り得ない。信じられるわけは無い。
 伝説を墜とすことができるものは、同じ伝説の存在のみ。
 伝承級の化け物を滅ぼすことができる人間。それはもはや既に―――。

「人間を超えた―――真なる魔人」

 人外という種としてではなく、HGSという突然変異というわけでもなく―――人の身と技。
 それのみで伝説を穿ち滅ぼした。それを本当の化け物と言わずしてなんとする。

 アインの空恐ろしい思考を割るように、また電話の音が鳴り響く。
 間違いなくツヴァイだろう。でなくてもわかるが、万が一他の相手からだったら非常に困る。
 緊急事態であったら尚更だ。仕方なしにアインは受話器を取った。

『人形遣いを滅ぼして、イレインを瞬殺して、猫神を倒した伝承墜としは、誰が何と言おうとキョーヤ・タカマチだから!!』

 ツヴァイはガッーと一息で告げる。
 アインに反論させる暇も与えず、今度はツヴァイから電話を切った。ツーツーという虚しい音がアインの耳に響いた。
 かけなおす気にもならないが、あそこまでいうからには事実なのだろう。
 フュンフをして勝ち目がないと判断し、ツヴァイがここまで断言する。
 ならば、アンチナンバーズがⅥ。伝承墜としは―――人間なのだ。

 これからどう動こうか。
 それを決めねばならないが、うまく頭が回らない。
 普段の疲れが、ツヴァイの報告で一気に出てしまったのかもしれない。
 兎に角、伝承墜としの正体が判明したのだ。【上】に報告しなければならないとアインは思い立ち、椅子から立ち上がった。

 アインはこれから行く場所を思い描き深くため息を吐くと、円塔を降りていく。
 途中すれ違った三人の職員は、アインに対して敬礼をしてその場から動かない。
 歳若い二人の職員は尊敬を込めてだが、もう一人の歳を取った職員の目には複雑な感情が浮かび上がっていた。
 相手をする暇も無いので、アインはご苦労さま、と一言だけ投げかけて素通りする。 

 職員の態度は他の数字持ちへするものとは全く違うが、それも仕方ない。
 基本的にアインは戦闘を苦手とし、前線にでることは無い。飛び抜けすぎた【力】を見せつけたことが少ないため、アインを恐れる人間は、ナンバーズという組織において随分と少ない。
 そして、あまりに美しすぎる容姿と、ナンバーズの運営を一手に引き受ける優れた能力。ナンバーズの若き職員の憧れとなっている。
 
 アインの姿が曲がり角の向こうへと消えると、年配の職員は止めていた呼吸を再開させた。
 その姿に、若い職員二人は首を傾げる。

「隊長。どうしてあんなに緊張してたんですか?」
「……そうか。お前はあの人の戦う姿を見たことは無かったか」
「ええ!?アイン様って戦ったりするんですか!?」

 本気で驚く部下に苦笑しかできない。
 だが、それも仕方ないかと思い直す。確かにアインが前線に出ることはあまりにも少ない。
 戦場に出て戦うよりも、アインはナンバーズの運営に力を入れなくてはならない理由が出来てしまったからだ。
 ナンバーズの最高司令官にある男が就任してしまったが故に……アインは前線から身を引かなくてはならなくなったのだ。
 その最高司令官を思い出した隊長は―――アインの前でした緊張とはまた別の、重いため息を吐いた。

 そんなことを話しているとは知らないアインは円塔を降りる。傍にあったエレベーターで建物の一階まで降りると、中庭に出た。
 中庭の隅っこに歩いて行くと、壁の色に似たスイッチがあったが、注視しないと間違いなくわからないだろう。
 そのスイッチを押すと、ガコンと大きな音がして地面が動いていく。
 カモフラージュされていたが、地下への階段がその場に現れた。
 
 黴臭い匂いがアインの鼻につくが、躊躇いなく階段をおりる。
 相変わらず地下に広がっているのは、ゲームのダンジョンの様相を呈していた。
 視線の先は暗闇が支配しており、おもわず引き返したくなる空気をかもしだしている。アインの手が横壁を探り、何時もの如くボタンを押すと、パァと天井から光が降り注ぐ。
 地下は一直線で、両脇には扉が幾つも並んでいたが、通路はどこまでも続いているようだ。
 
 カツンカツンと通路に響く足音。
 三分程度歩いただろうか。足を止めた先、錆付いた鉄の扉があった。
 両開きの扉には何故か近代的な暗証番号を入力する画面がついており、一から九までの数字のボタンがその横には備え付けられている。
 それを無視してアインは鉄の扉に掌を当てると軽く押す。すると、軋んだ音をたてて鉄の扉が開いていく。
 如何にも暗証番号をいれないと開かないように見せかけて、実は何もしなくても開くという無意味な仕組みだ。逆に何かしらの番号を一つでも押すと鍵がかかる。
 
 鉄の扉の先には、一目で研究室とわかる部屋が存在した。
 なにやら怪しい液体が一杯に入った巨大なポット。ビーカーやフラスコが散乱している。
 難しい計算式が書かれた紙が床のあちらこちらに放り出されていて、足の踏み場もない。天井や周囲の壁は薄汚れていて、何やら赤黒い色で塗りたくられている箇所もある。
 あまりの不衛生さに即座に背を向けたくなるが、そこをぐっとこらえて研究室に踏み入れた。

「ド、ド、ドリルは―――漢の、浪漫だねぇえええぇえええええ」

 男の叫び声が聞こえた。
 室内に声が反響して、どこから聞こえたかわからないが、居場所はわかっている。
 知らない人間がここを訪れたならば、室内の様子と空気と叫び声で逃げ出したに違いないが、生憎とアインは叫び声の主に用事があるのだ。 
 
 室内の奥、高さ二メートル、幅十メートル、厚さ十センチを超えた分厚い強化ガラスの向こう側に聳え立つ湾曲したガラスのポット。
 巨大なポットが数個も置かれていたが、そのポットの中の一つには得体のしれない液体と共に、頭から二本の角を生やした裸の男性が入れられていた。
 強化ガラスの前の台座に設置されている尋常ではない大きさのパソコンのモニターの前で一人の男性がキーボードを指が霞む速度で叩いている。
 高級なスーツだというのに皺が目立つ。その上に白衣を羽織っていたが、はっきり言って薄汚い。
 紫に近い色合いの髪。アインと良く似ている、色だけだが。
 見掛けは極上の色男。外見さえどうにかすれば、黙っていれば幾らでも女性が寄ってくる。それほどの美形だった。
 問題があるとすれば―――狂喜に歪んだ口元と、叫び声の二つだ。 
 
「いいぞぉおお!!実験体第九百二十五号!!出力をあげるぞぉおおおおお!!」

 キヒヒと不気味に笑いながらカチャカチャと音をたてて何かを入力する。
 それと連動して強化ガラスの奥にあるポットに入った男性の身体がビクビクと痙攣し始める。
 激痛が襲っているのか、必死になって外に出ようとポットを殴りつけるが、液体の中ということもあり威力がでないようだ。
 
「まだだぁ!!貴様の力はこの程度ではないはずだぞぉおお!?アンチナンバーズの二桁ナンバーの底力を見せてみろぉおお!!」

 角を生やした男性の顔が歪む。ゴポゴポと口から気泡が漏れていく。
 苦しむ姿よりも、モニターに表示される数字にしか興味はないのか、どれだけ苦痛に顔をゆがめようが一切の情け容赦はない。
 この男性は明らかに―――狂っていた。人間といってはいけない【何か】であった。

「……ドクター」
「うん?ああ、アインかい。久しぶりだねぇ……元気だったかい?」
「はい。ドクターは研究の調子は如何ですか?」
「順調だよ、とは言えないのが悲しいねぇ……ぼちぼちといったところかな」

 この男性は通称ドクター。本名は不明。長い付き合いのアインでさえも知らない。
 ナンバーズの最高司令官にして、世界でも有数のHGS研究者。
 現在の数字持ちと呼ばれるナンバーズの育ての親と言っても過言ではない男だ。その割に娘達にはあまり好かれていないのだが。
 最高司令官という地位にいるのだが、仕事はほぼ全てをアインに丸投げしている。そして、本人は研究に没頭しているのだが、これは有名な話であり、そのうち首になるのではないかという噂も流れていた。
 アインと話している様子を見ると、一見まともそうだが、一度研究に没頭すると狂人染みた性格に変化してしまう。
 それが娘達に嫌われている原因なのだが、本人はそれに全く気がついていない。

「それより聞いてくれ、アイン。流石はアンチナンバーズのLXXX(80)。これだけの電流を流しても、まだ生きている!!凄まじい生命力だ!!」
「……確かこの前連れてきた四桁の人外は一瞬で黒炭になっていましたよね?」
「くっくっく、その通りだ。それを考えるとやはり、アンチナンバーズの上位は素晴らしい!!いじりがいがあるというものだ」

 悪人笑いをするドクターはアインに向けていた視線をモニターに戻し、表示されている数字を注視する。
 どうやらズィーベンとツェーンが捉えてきたアンチナンバーズのLXXX(80)に夢中なようで、こちらにあまり時間を割いてはくれないようだ。
 研究に没頭するのは結構だが、これが親とは幾らなんでもあんまりだ。そう語っていた妹達の気持ちも少しわかるアインだったが、兎に角用件を済まさねばならない。
 
「―――伝承墜としの正体が判明しました」
「……」
「日本の海鳴という地に住む男。名をキョーヤ・タカマチ。信じがたいですが、ツヴァイ達の話を信じるならば、ただの人間です」
「人、間?HGS能力者かい?」

 ピタリとキーボードを叩くのを止め、身体をアインに向けた。
 食いつくようなその様子に、僅かに驚くも、首を横に振って否定する。

「報告によれば二振りの刀を操り、その身一つで猫神をも打倒した、と」
「猫神を?人形遣いに引き続き、あの猫神をかい?」
「―――はい」

 呆然とするドクター。
 アインの報告を少しの疑いも持たず信じている。
 アインは信頼するツヴァイの報告を最初は全く信じられなかった事を考えると、ドクターのアインへ対する信頼は相当に高いようだ。
 呆然としていたドクターの眼に、奇妙な光が宿る。その光は―――新しい玩具を見つけた子供のようなキラキラとした瞳だった。

「ふひひ、ははははは、へへへ!!人間!!神にも、化け物にも届かぬその身で、人外の頂点を打ち砕いた!?くひひ、はははははははは!!」

 興奮が臨界点を突破したのか、ドクターはガンとおもいっきりパソコンのキーボードを叩く。
 モニターの画面が目まぐるしく変化していき―――DANGERという赤い文字と、室内に警報機の音が鳴り響いた。

「―――あっ」

 間の抜けた声がドクターからあがった。興奮しすぎて、押してはならないボタンを押してしまったのだ。
 強化ガラスの向こう側のポットの蓋が徐々に開いていく。
 それを逃す相手ではなく、角を生やした男性はポットの縁に手をかけて一気に這い上がる。
 ザバンと水しぶきの音が警報の音に混ざって響く。ギラギラと殺意に輝く視線で二人を―――いや、ドクターを睨み付けていた。
 
『―――コロス』

 一切の余分のない純粋な殺意。
 己の身を散々弄んだ人間を殺すためだけに、アンチナンバーズのLXXX(80)―――ガルガンチュアと呼ばれる化け物が死の行進を開始した。
 ポットを蹴りつけた反動で粉々に砕け散る。そのままの勢いで、拳で強化ガラスを殴りつけた。メキャという何かと何かがぶつかりあった音がする。
 十センチもの厚さの強化ガラスは罅一つはいらず、ドクターはガルガンチュアを応援するように拍手する。
 警報が響く室内でパチパチという音が妙に場違いだ。
 
 だが、ガルガンチュアは諦めることを知らず。
 殺意だけを動力として、ひたすらに強化ガラスを殴り続けた。
 連打。連打。連打。連打。止むことのない、拳の連打。その時、ピシリと何かが音を立てた。  
 僅かに生じたガラスの罅割れ。それが広がっていく。ピシピシと音を立ててどんどんと割れてゆく。
 とどめと言わんばかりに大きく振りかぶった一撃が―――強化ガラスを砕き割った。
 
 ガルガンチュアは、その穴からゆっくりと研究室へと侵入してきた。
 己を苦しめた怨敵を、敢えて恐怖させようと考えていたガルガンチュアだったが―――ドクターの態度は全く変わっていない。
 
「いやぁあはぁああああああ!!素晴らしいぞぉお!!流石は実験体九百二十五号!!この強化ガラスを破壊するとは!!」
「……御自重ください、ドクター。貴方の戦闘力は一般人とかわらないんですよ」
「おお、そうだったね、アイン。流石に私も死にたくない―――君に任せよう」

 ドクターとアインの会話に、ガルガンチュアの殺意が一層濃くなる。
 彼は負けたとはいえ、ナンバーズが有する数字持ちである【切り裂く者】と【狙撃者】の二人相手に善戦をした。
 一対一ならば間違いなく負けなかった戦いだ。そのガルガンチュアの目の前に立ち塞がるのは、とても戦えるとは思えない女性一人。

「―――久々の戦闘ですので、お手柔らかにお願いします」

 アインの言葉が終わった時には、すでにガルガンチュアの拳がアインの眼前に迫っている。
 そのまま拳を振り抜き、アインの顔面を破壊した―――筈だった。 
 ぐるりと視界が回転する。強かに背中を地面に叩きつけられ、衝撃で息が止まった。
 ぐにゃりと歪む視界には、何の感情も見せずに自分を見下ろしているアインの姿。
 屈辱を感じるより早く、アインの柔らかな拳がガルガンチュアの顔面に叩きつけられる。グチャリと、奇妙な音をたてて二本の指で片眼を抉っていた。
 熱い激痛。脳を直接掻き回されるような痛み。ブチブチという音が耳に響き、残り一つしかない片目でガルガンチュアは見た。
 抉り取ったガルガンチュアの片目を床に落とし、躊躇いなく踏み潰す姿。
 人とは到底思えない冷酷さ。残虐さ。果たしてこの人間は、本当に人間なのだろうか。
 
 感じた恐怖を振り払い、片手でアインの足を払おうとするが、それを見越していた動きで踏み潰す。
 ボキンと骨が砕ける衝撃が腕にはしった。あがりそうになる悲鳴を抑え、全身の力を解放して、アインの身体を弾き飛ばすようにして起き上がる。
 軽く弾かれたアインは、足音もたてずに床に着地。
 虫けらを見る視線で、ガルガンチュアの全身を観察する、

 腕を折られ、片目を抉られながらもガルガンチュアには諦観の念は見えず。
 雄叫びをあげ、アインに突進する。残された片手でアインの首を折ろうとした刹那、その姿はガルガンチュアの視界から消えている。
 交差する瞬間、懐から抜き逆手に持った短剣でガルガンチュアの首を掻っ切っていた。
 視界が真っ赤に染まっていた。自分の血だと認識することもできず、ガルガンチュアは研究所の床に無様に倒れ、二度と動くことは無かった。
 
 ナンバーズという組織において最強の戦闘部隊である【数字持ち】。
 その中でも【アイン】の称号を与えられているのは伊達ではない。戦闘特化型HGSというわけではないが、それでも、ドライやフュンフに匹敵する力を持つ。ナンバーズに在籍する古株だけが彼女の恐ろしさを知っている。
 数字持ちが恐れられる理由。それは、そもそもツヴァイとドライを含む三人で、数多のアンチナンバーズを殲滅してきたからだ。
 フィーア以降は数字持ちでも第二陣でしかない。アンチナンバーズとの交戦が激しかった十年前を生き抜き、多くの人外を沈めてきたのはアイン・ツヴァイ・ドライ。この【始まりの三人】である。

「ご苦労だったね、アイン。でも、君ほどの使い手ならば生かして捕らえる事はできたんじゃないかい?」
「予想以上に手強かったですので、生け捕りは無理だったかと」
「そうか……まぁ、死んでいても使い道はあるか」

 不気味に笑いながらドクターは事切れたガルガンチュアの髪を掴み、引き摺りながら研究室の奥へと運んでいく。。
 ドクターの発言どおり、恐らく殺さずとも捕らえることは可能だったろう。だが、これ以上の地獄を見るよりは、と判断し容赦なく殺した。ようするに情けをかけたのだ。
 だが、死してなお、その身を弄ばれることになるガルガンチュアは敵であったとしても、憐憫を僅かに抱く。

「ドクター。伝承墜としにはどう―――」
「アイン、君に任せるよ。好きに動けばいい―――だが、出切れば会いたいね、彼に!!きっとイカレタ、私の同類なんだろうしね!!」

 それだけを返答し、ドクターは研究室の奥へと消えていく。
 薄気味悪い笑い声。ドリルやらロケットパンチやら、不穏な単語も聞こえたが―――聞かなかったことにした。
 もしも、精神構造が今よりもマシだったならば、彼は優れた研究者として名を残していただろう。
 だが、歴史に【もしも】はない。今この時が全てだ。アインもドクターも時の流れにだけは逆らえないのだから。

「―――伝承墜とし。貴方は私達の敵か味方か。見極めさせて貰います」

 
    

 



















 木々は生えず、不毛な大地が広がっている北米の片隅。
 見渡す限り草木一本も見えず、乾いた土地が延々と広がっている。
 さんさんと太陽の光が地上を照らすが、それが余計に大地に住む生物を苦しめていた。
 
 そんな大地のある場所に、大地がぽっかりと半球状に抉り取られている、月面のクレーターともいうべき陥没した場所が存在する。
 そこの丁度中心に一人の女性が大の字になって倒れていた。
 胸部が僅かに上下している様子から死んではいないようだが、この炎天下の中で倒れているというのは自殺行為にも等しい。
 女性は己に降りかかる灼熱の光など全く気にも留めていないのか、静かに眠り続けている。

 不思議な女性だった。いや、少女と表現したほうが相応しいかもしれない。
 日本の女子学生が着ているセーラー服。はっきりいってこの場所には場違いすぎる格好だ。履物も洒落っ気が一切無い黒いブーツ。
 見かけだけならば、二十。いや、もっと若いだろう。美人というよりは、可愛いといった形容が似合う少女かもしれない。
 肩まで伸びた髪が外に撥ね、砂に塗れている。

 そんなクレーターへとゆっくりと近づいてくる女性がいた。
 降り注ぐ太陽の熱に若干辛そうに歩いてきたのは、世界の敵の一人。夜の一族の王。アンチナンバーズがⅡ。未来視の魔人だった。
 鬱陶しそうに太陽を見上げ、疲れたため息を一つ。太陽が弱点というわけではないが、基本的に夜行動が多い天眼にとっては、日の光というものは嬉しいものではない。
 珍しく笑顔を曇らせ、汗を滴らせながらクレーターの前で足を止めた。

 眼下を見下ろせば、随分と下の窪みにセーラー服の少女が寝転がっている。
 それを視界に入れた天眼は汗を拭いつつ、珍しくも忌々しげに舌打ちをした。右手を天に挙げ、人差し指と中指の二本で空に向ける。
 見る見るうちに、雲ひとつ無い晴天だったのが、薄暗い雨雲に支配されていく。
 雨雲に浮かぶのは巨大な五芒星。雨雲とは対極の光を放つ―――だが、不吉な輝きの、魔方陣が遥か上空にて構成された。
 それを為しているだろう魔人は、右手を振り下ろし、眼下に寝転がる少女へと指先を向ける。

「―――神雷」

 鼓膜を破る程の大激音が周囲に響き渡った。それによって魔人の唇から漏れた言葉を聴けたものは、本人含めて居なかっただろう。
 魔力のこもった言霊が、少女の周囲に光の檻が出現させ、膨大な紫光の奔流が天空から降り注ぐ。
 何十もの雷撃が、何の容赦もなく、光の檻に囲まれた少女を穿ち、滅ぼす。
 雷の雨は、十数秒も落とされ―――巻き起こされた煙と砂塵が天眼の視界には広がっていた。
 何時の間にか、跡形もなく消え去った雨雲のかわりに、胸がすくようなスカイブルーが広がっている。 

 煙が治まっていくなかで、先程よりさらに深くなったクレーターの中心で―――セーラー服の少女は、服を所々を焼き焦がしながらも、無傷で胡坐をかいていた。
 どのような人間でも、人外であろうとも、消滅させるであろう魔術の極限を受けてなお、平然としている少女。
 そんな尋常ではない光景を見ていながらも、天眼の表情には変化は無い。再びさんさんと照らしてくる太陽の光に、参ったようにため息だけをついた。

「……いきなり、何を、する?」
「こうでもしないと休眠状態の貴女は目を覚まさないでしょう?」

 殺されかけたというのに、少女は天眼にどうでもいいことを聞くかのように、質問する。
 ただ、少女の言葉は所々、外国人が日本語を話す時のようにカタコトで、聞き取りずらい。
 それは、天眼の魔術を受けたからなのか、元来こんな話し方なのか―――その答えは、実は後者であった。

「起こすためだけに、さっきみたいな大魔術を、放たないで欲しい。流石の私も、【一度】死んだ」
「一度で済んだことに驚きますよ。それはそうと、こんな太陽の照りつけるところで居眠りできる貴女を、少しだけ尊敬しますよ」
「……それで、何か用?」

 天眼の言葉を全くといっていいほど無視して、少女が何の用なのかと質問する。
 相変わらず会話のキャッチボールができない相手なのを再確認した天眼は、頬を滴り落ちる汗を手の甲で拭う。
 自分が育て上げた人外の頂点の一人。人や人外が持つのが当たり前だった多くのものを捨て、戦闘に特化するためだけに己を創り上げた、生粋の化け物。
 戦闘以外には一切の興味を持たない。戦闘にしか興味を持てない。
 伝説に名を残す化け物達のなかで、最も多くの強者を屠った三百年の時を渡り歩く魔人。
 人は少女をこう呼ぶ―――アンチナンバーズがⅦ【百鬼夜行】、と。

「朗報を伝えに来ました。最も貴女にとっての朗報ですけど」
「―――朗報?」

 ペロリ舌で赤い唇を湿らせた天眼は、薄気味悪い眼で百鬼夜行を見下ろしながら―――。

「アンチナンバーズがⅥ【伝承墜とし】が猫神を単騎にて撃破しました」
「……え?」

 百鬼夜行の口から、間の抜けた疑問が飛び出す。
 そんな姿に天眼はここまで来る事になったために感じていた溜飲をさげ、言葉を続ける。
 
「しかも、猫神覚醒状態の彼女を―――です」
「……」

 呆然。その単語が相応しい姿で、百鬼夜行は口をぽかんとあけて天眼を見上げていた。
 数十秒の間はそのような光景が続いていただろうか、百鬼夜行は己を取り戻したのか、酷く楽しそうに犬歯を剥きだしにして笑う。
 既に間の抜けた表情は影を潜め、未知なる敵に対する興味があふれんばかりに発散されていた。

「伝承、墜とし……噂には聞いてたけど、それほど?」
「ええ。幾ら貴女に軍勢の殆どを殲滅されていたとはいえ、仮にも死者の女王である人形遣いを屠り―――さらには猫神をも撃破する。二つの伝説を崩した唯一の【人間】です」
「―――な、に?」

 天眼の放った衝撃の事実に百鬼夜行は眼を丸くする。
 それは当然だ。人形遣いも猫神も、一度は戦ったことがある相手だ。
 どちらも尋常ではない相手。心が戦いの興奮で打ち震えた、数少ない好敵手だった。
 化け物の中の化け物。伝説に名を刻む人外の二人を打倒したのが―――ただの人間だったということに驚きを隠せない。
 そして、人間という存在で、伝説を降すことができるモノを百鬼夜行は一人だけ知っていた。
 百鬼夜行の知る限り生涯最高にして、最強にして、最凶にして、最狂。あらゆる人外の頂点に立った剣士。人にして人を超えた―――究極の生命体。

「……まさ、か。【彼】?」
「いいえ。残念ですが、【彼】ではありませんよ?」
「―――そう」

 己の予感が外れたことに酷く肩を落とす。
 期待が膨らんだだけに、己の想像が異なったことに失望を禁じえない。
 ですが、と天眼は影を背負った百鬼夜行に語りかけた。

「―――限りなく【彼】に近いのは事実です。」
「……!!」
「似て非なる存在ですけどね。実際に貴女の目で見てそこは確認してください」
「……」

 ニタリと百鬼夜行は嬉しさを隠し切れず、嗤った。
 天眼の言を信じるならば、どうやら【彼】ではないらしい。
 【彼】に会うためだけに己を磨いてきた百鬼夜行だったが、【彼】ではないと伝えられて感じたのは僅かな失望感だった。それもすぐに心から消える。  
 理由は簡単だった。今の自分ではまだ【彼】には及ばないと判っているからだ。百鬼夜行の憧れであり、目標であった【彼】。故にまだ会えなかったとしても構わない。【彼】を殺すのは己なのだから。
 再び会えるという言葉を信じて戦いに身を投じてきたが―――何時しかその心は磨耗していった。
 三百年という気が遠くなる年月の果ての果て、残されたのは闘争のみを求める、心を砕かれた百鬼夜行という容れ物だけ。
  
「それで、伝承墜とし。そいつは、どこにいる?」
「教えるかわりに、例の【種】を回収させていただきますよ?」
「……わかった」

 百鬼夜行は腹部に手をあてて―――躊躇いなくズブリと抉りこませた。
 ビチャリと嫌な音をたてて鮮血が滴り落ちるも、百鬼夜行は眉一つ動かさず、手をさらに奥へと侵入させ、ぐちゃぐちゃとかき回す。
 目的のモノを探し当てたのか、腹部から手を引き抜き、赤黒く染まった不気味な宝石を取り出した。
 百鬼夜行はそれを天眼に向けて投げつける。放物線を描いて手元に落ちてきた【種】を眼を細めて満足そうに確認した天眼は、懐から輝きの鈍い新たな【種】を取り出すと、百鬼夜行に放り返した。
 受け取ると、先程とは真逆で腹部にズブリと埋めていく。
 己の身体の奥底に【種】を埋め込んだのを確認すると、手を引き抜いた。
 すると、それはどんな魔術なのか。気がついたときには、大きく開いていたはずの腹部の穴が、跡形なく消え去っていたのだ。
 確かにあいていた筈の穴が、一瞬で癒えていた。それを証明するのは、セーラー服を汚す鮮血のみ。

「よくぞここまで育ててくれたものです。貴女と【魔導王】が最も優秀ですよ、【種】を育て上げることに関しては」
「よく、言う。私が知らない、とでも思ってる?魔導王は、腰抜けだった。私と、並べないで欲しい」
「……」
「さあ、【種】は渡した。伝承墜としは、どこにいる?」
「―――日本の海鳴という地を訪ねてみるといいですよ。かの魔獣。ざからが封印された地です」
「……わかった」

 聞くことを聞けた百鬼夜行は、満足気な笑みを浮かべ天眼に背を向けてクレーターから這い出していった。
 その背を視線で追っていた天眼だったが―――蜃気楼のように、その姿が掻き消える。
 果てしない悪寒を感じ、天眼が両手を眼前へと突き出す。それと時を同じくして直径にして一メートルにも達する巨大な黒い甲羅型の盾が出現した。
 バキィンと何かが黒き盾を叩き付ける音が聞こえる。黒き盾を殴りつけたのは、想像通りの化け物―――百鬼夜行。
 防がれたにも関わらず、相変わらず不気味な笑みを湛え、無造作ともいうべき連撃を黒の盾に叩きつけてきた。
 
 大魔導が使用する絶対防御ジ・アースには劣るとはいえ、天眼自慢の完全防御。
 それを只の力だけで破壊しようとしてくる戦鬼は、純粋に恐ろしい。
 破壊できないことに諦めたのか、百鬼夜行は天眼から大きく距離を取る。

「お前は、何でそんなに、強い?不可思議だ」
「―――長い間生きていますからね。たかが三百年程度しか生きていない小娘に負けては立つ瀬がありませんよ」
「……六百年の時を生きる、魔人。私は、お前が怖い。恐ろしい。本当に六百年しか、生きていないのか?」
「―――忘れましたよ。私がどれだけ生きてきたかなんてね」

 百鬼夜行は左拳を前にするように、半身になって構えると、右手を大きく後ろに引き斜め下へと向けてピタリと空中で止める。
 ミシリと、荒れ果てた大地が罅割れる。百鬼夜行が踏みしめた大地に恐怖が伝染したかのようだった。
 見かけはセーラー服を着た少女だというのに、その背後には理解し難い異様な鬼気が立ち昇る。
 ただ、黒く。ただ、暗く。ただ、重く。
 
 ズンと激しく大地を揺らした百鬼夜行が猛然と迫る。
 十分に力と速度を込めた―――何の変哲も無い拳が再度黒の盾に叩きつけられる。
 拳が砕ける音が周囲に響きつつも、拳と黒の盾が一瞬拮抗する。
 そして、瓦解した。

「―――っな!?」 

 驚きの声があがるのと、砕け霧散する黒の盾を潜り抜け百鬼夜行が血みどろになった拳を天眼の腹部に叩きつけてきたのは同時であった。
 骨を折り、粉砕する感触が伝わってくるも、それで止める百鬼夜行ではない。
 吹き飛ばされ、地面に激突。跳ね上がった天眼に追撃をかけ、空中に飛び上がると叩き潰すように重力にのった足刀が首元に迫った。
 痛みに耐え、足刀に合わせて黒の盾を発生させる。間一髪で防ぎきることに成功したが、百鬼夜行が拳を振り上げるのを天眼の視界に映る。上からのしかかるようにしている百鬼夜行と、地面に仰向けになって倒れている天眼。その光景を見たものは自分の目を疑ったことだろう。アンチナンバーズのⅡ。未来視の魔人が為すすべなく襲われているのだから。

 拳が黒の盾を殴りつけ、ピシリと罅が入った。それに続けて左右の拳の乱雨が振り続ける。
 圧倒的な力を秘めた、単純な暴力。それに晒されていた天眼に焦りの表情が浮かんで―――いなかった。強いて言うならば若干の驚き。そして、賞賛。
 やれやれ、と。そんな呟きが、黒の盾を破壊されると同時に漏らされた。
 百鬼夜行の拳が天眼の顔面に振り下ろされるも、新たに生成された盾がその拳を阻む。
 再度破壊しようとする百鬼夜行だったが、ピタリと拳を振り上げた体勢で固まった。まるで時を止められたかのように。
 
 いや、百鬼夜行は動いてはいた。ぶるぶると動かない身体を無理に動かそうと、震えていた。
 注意して見てみて初めてわかる。超極細の白銀に輝く無数の糸状の閃光が、百鬼夜行の身体に巻きつき、身動きを奪っていたのだ。
 閃光は百鬼夜行を取り囲むように縦横無尽に広がっており、幾何学的な網目模様を中空に描きながら半円球となって固定され、二人を中心に覆いつくしていた。

 閃光の糸を力で引き千切ろうとしている百鬼夜行だったが、幾らもがいても千切れる様子も見えはしない。
 それでも必死に呪縛から逃れようと、四肢に力を入れるが―――糸が食い込むだけに終わった。
 天眼は立ち上がると身体についた砂埃を払い落とす。まるで蜘蛛の巣にかかった、獲物に見えるその姿を嘲笑う。 
 伝承級の中でも鬼王に次ぐ破壊力を持つ百鬼夜行の拳をまともに受けたというのに、全くダメージを受けていない様子に、やや呆れた視線を向けた。  

「……相変わらず、尋常じゃない。お前は、何だ?」
「私は未来視の魔人。それだけですよ。でも、貴女もまた身体能力をあげましたね。まさか私の防御を、ああも容易く破壊するとは……」

 視線だけではなく、言葉に賞賛をのせて天眼はパチパチと拍手をおくる。
 賞賛しておきながら、小馬鹿にする感情を裏に潜めている。それに気分を害したのか、舌打ちを一つ。 

「お前は、強い。強すぎる。だが―――私の心は、蘇らない。お前では、震えない。私の心は、【剣の頂に立つ者】とともに死んだのだから」
「―――黙れ、小娘」

 その瞬間。世界は確かに悲鳴を上げた。
 助けてください。止めてください。許してください。
 そんな助けを求める雄叫びを、大地があげる。空間がギシギシと軋みを立て始める。
 草木一本生えていない不毛の大地はまるで空間ごと塗り替えられたかのように、死の大地へと変化した。
 笑顔を絶やさぬ未来視の魔人は、激しい怒りを湛え、百鬼夜行を射殺さんばかりに睨みつける。

「―――【剣の頂に立つ者】を語っていいのは私だけです。小娘―――お前が【彼】を、語るな!!」

 急変した天眼は激しい憎悪と憤怒を言葉に纏わせ、百鬼夜行をも震え上がらせる【何か】を身体中から発していた。
   
「―――風神」

 その呟きと共に、死の大地の全体を覆いつくす暴風が発生。
 砂が、石が、岩が、舞い上がり、時には砕け、横殴りの風が百鬼夜行に襲いかかる。
 糸が引きちぎられ、百鬼夜行を捕らえた暴風が直上方向へと吹き上がる竜巻となった。地上数十メートルの高さまで一瞬で上昇させられた百鬼夜行。 
 大地が上に、天空が下に。真逆となったその世界で―――百鬼夜行は己へと迫る絶対的な死を冷静に見つめていた。

 荘厳で、優雅。だが、圧倒的な死を内包した絶対死の魔術の極限。
 空中ということもあるが、竜巻に巻き込まれ、身動きを封じられた百鬼夜行の周囲には―――数百にも及ぶ、深緑の刃。そのどれもが、二メートルを超える巨大さ。
 それは、空を裂き、大地を破壊する、終焉の一。必殺必中。まさにその言葉が相応しい、防ぐことも避けることもできない絶望の世界だった。

「……私の、負けか」

 虚ろな吐息とともに出た言葉は暴風で本人にさえ聞き取れなかっただろう。
 だが、天眼は暴風の中でどうやってか聞き取っていたのか。眼を細めて、口元を歪めた。

「―――【種】は回収してしまいましたからね。新たな【種】では貴女のストックは精々二個程度です。日本に行く前に、喰い散らかして補充することをお勧めします」
「―――わかった」

 その会話を合図に森羅万象を殲滅せしめる絶対死が発動した。
 深緑の刃の軍勢が、音もたてずに百鬼夜行に突き刺さっていく。
 腕を切り裂き、足を分断し、腹を貫き、肩を抉り―――そして、首を斬りおとした。それで止まることもなく、死体となった百鬼夜行をさらに蹂躙していく。 
 切り刻まれ、さらに粉微塵にまで降り注ぐ断罪の刃。雲霞の如き狂乱の剣閃。
 遂には、竜巻に吹き飛ばされ細胞一つ残らず、百鬼夜行だったモノは消え去った。
 いや、百鬼夜行は消滅したが唯一残されたものが存在する。先ほど天眼が渡した【種】。人の心を、感情を、欲望を喰らって力へと変換させる過去の遺物。それが鈍い輝きを発しながら、空から地上へと落ちていき、クレーターの底へと音を立てて転がった。
 
 天眼は無感情にその光景を見ていたが、百鬼夜行が完全に消滅したのを確認すると、手を掲げスッと横に振る。
 それだけで、死の大地へと塗り替わっていた世界が通常の、不毛の大地へと一瞬にて戻っていった。
 不毛の大地が更に荒れ果ててしまっていることが、先ほどまでの光景が夢ではなかったことを示している。
 尋常ではない超魔術を行使したというのに、当の本人は疲れを一切見せず、今しがたまで見せていた怒りの感情を霧散させ、普段通りの笑顔でその場から歩み去って行った。

 荒廃した大地には生命の息吹は見えず。風のみが時折砂埃を舞わせていた。 
 どれくらいの時間が流れただろうか。太陽が翳りを見せ、地平線の彼方に沈んでいった。闇が支配する時間帯になったころ、突如としてソレは起きた。
 鈍い輝きを放つ【種】が黒い瘴気を発し始める。初めは僅かだったが、発する瘴気は段々と増していき、ついにはクレーターを覆うほどに膨れ上がった。
 しかし、それも僅かな時間。急速に瘴気は治まっていき―――【種】があった筈の穴底には、怪我一つない百鬼夜行の姿があった。
 それは一体どんな魔術か。奇跡か。完全に消滅させられた筈の百鬼夜行は、確かに己が両足で大地を踏みしめていたのだ。

「……あそこまで、完璧に殺されたのは、久しぶり。やっぱり、お前は強いな、流石は、剣の頂に立つものが、唯一認めた同胞。異邦人。でも―――」

 ―――覚えた、ぞ―――。

 呪言を読み上げるかの如く、百鬼夜行は虚空に語りかけた。今は立ち去った天眼に届けと、深い狂気を漂わせ。 
 ざっと砂を踏みしめる音を立てて百鬼夜行はクレーターから這い上がる。
 次の目的地は決まっている故に、彼女の足取りに迷いはない。
 新たな強者を求めて百鬼夜行は猛進を続ける。次の彼女の闘争の相手は―――伝承墜とし。
 不幸と惨劇を撒き散らす人外が、アンチナンバーズがⅦ。破滅を届けるために、【不死身】の百鬼夜行が動き出した。











[30788] 十章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/06/16 23:58













「―――天才、か」
「唐突にどうしたの、きょーちゃん?」

 北斗との激戦から二ヶ月近くがたった六月の後半。
 太陽がじりじりと光を照らしてくるお昼頃、海鳴の一画にある高町家の縁側に座りお茶を啜っていた恭也の独り言に、隣に座っていた美由希が几帳面に返事をする。
 二人の視線の先の庭では、何時もの如くレンと晶が拳を交えているところだった。

 今回の騒動の発端は小さなことといえば小さなことで、今夜の晩御飯のメインをどちらが作るかということであった。
 普段ならばローテーション通りなのだが、今日の当番の桃子が翠屋が忙しく間に合いそうにないため急遽、二人にお鉢がまわってきたからだ。
 二人して、自分の料理の腕にそこそこの自信を持つ身である。どちらとも自分が晩御飯を作るとガンとして譲らず、結局何時ものように勝った方が料理を作るということに落ち着いてしまった。
 レンも晶も代わりに作る相手がフィアッセだったならば遠慮しただろう。だが、相手が相手だけに、どちらも相手に譲るという選択肢は最初から頭にはなかった。
 敬愛する師匠である恭也に料理を振るまえる機会が増えるのだから、今回の戦いは二人して気合が入っていたのだが―――。

「ほっほっほー。どないしたんや、お猿さん。さっきまでの勢いはどこへいったんや?」
「く……ち、ちくしょう……」

 地面に仰向けに倒れ伏しながら、晶は悔しそうに無い胸を反らして勝ち誇っているレンを睨み付ける。
 そんな視線を全く意に介していないレンは漫画やアニメにでてきそうな悪女の高笑いを真似るように、右手の甲で口を隠しつつ、動けない晶を見下ろす。

 二人の勝負は一瞬だった。
 見物していた恭也の口から反射的に感嘆の声が漏れそうになるくらいの速度で晶はレンへと踏み込み、右拳を放ったが―――レンは余裕の表情を崩さないまま、迫ってきた拳を紙一重で避けきり、腕を掴んで投げ飛ばし地面へと叩きつけた。
 あまりの早業だったが故に、晶は己が投げられたのだと気付いたのは、地面に背中を強かに打った後だった。

 陸に打ち上げられた魚のように、口をパクパクと動かすこと十数秒。
 ようやく呼吸を取り戻した晶が先ほどの、悔しさ溢れる言葉を発したというわけだ。

 庭の片隅にある道場で鍛錬をしていた恭也と美由希は、休憩がてら二人の戦いを見ていたのだが、休憩にもならない一瞬の勝負の結果に二人は異なった表情を浮かべた。

 美由希は苦笑。
 普段と変わらない戦いの結果。レンの圧勝ともいえる結果はある意味、美由希の予想通りだった。

 対して恭也が浮かべたのは―――驚愕。戦慄。羨望。
 そういった様々なモノが交じり合った表情だった。
 生憎と、それは一瞬であり、それに気づいた人間はこの場にはいなかったのだが。

 そんな恭也が漏らした【天才】という言葉。
 レンを見ていたならば確かに、それしか思い浮かばないと美由希もまた頷く。

「凄いよね、レン。あの晶を相手にあそこまで圧勝できる同年代の人間なんてそうはいないよ」
「……ああ。全くだ」

 レンに軽々とのされる晶は、知らない人が見たら弱く見えることだろう。
 だが、それは間違いだ。晶は強い。性別と年齢を考慮しなかったとしても、十分に強いのだ。
 空手界の重鎮であり、虎殺しとも呼ばれる巻島十蔵の秘蔵っ子。それが城島晶。
 猛者ばかりが集う明心館主催の大会で、男女混合の中学生の部において、唯一女性でありながらベスト四に残った少女。
 空手界の若きホープ。次代の空手道を担うもの。それが城島晶だ。

 そんな晶を、手心を加えつつ苦も無く一蹴するのは鳳蓮飛。
 趣味は料理。好きなことは日向ぼっこ。中学一年生ということを考慮しても、小さい背丈。
 どう見ても、見かけからは武の気配を一欠けらも滲ませることのない少女だ。
 祖父から習った中国拳法も、あくまで毎日の運動がてらに嗜む程度でしか鍛錬をしていないというのに―――城島晶を軽々と凌駕する。ある意味理不尽なほどの強さ。

 【天才】という言葉では済まないほどの才覚。
 明心館で努力する天才と称されている晶をも歯牙にもかけない圧倒的なほどの武才。
 あらゆる格闘家の鍛錬と才能を超越した遥かなる高みに座する、武の天稟。
 頂点を目指す者達を絶望へと叩き落すほどに、格が違いすぎる才。大人と子供。そんな例えさえも相応しくない、決して埋めようの無い彼岸と此岸。その気になれば、武の頂点を軽々と手中に収められるであろう幼き武神。

「一つ聞く、美由希。お前はレンに勝てる自信があるか?」
「んー」

 恭也の問いに美由希は少しばかり考え込むかのように、赤く輝きながら沈み込む太陽を見上げる。
 人差し指を顎にあて、未だ高笑いを続けているレンの現在の戦闘能力を計算しつつ、頭の中でイメージを作り上げた。
 想像の中で己と戦う鳳蓮飛。恐ろしいほどに強い相手ではあるが―――。

「今の段階なら九割九分九厘―――勝てるかな」
「そうだな。今のレンと戦えばお前の言うとおりの結果になるだろうな」

 美由希の返答に恭也は特に否定するわけでもなく、頷いた。 
 確かにレンは強い。それでも美由希は更に強いのだ。特に美由希の本領は小太刀や暗器を使用した古流剣術。
 素手を得意とするレンとは土俵が違いすぎる。故に美由希が全力をだせば、レンを打倒することは、容易い。
 
 しかし、武器を使わなかったとしたら結果はどうなるだろうか。
 美由希は敢えてそこには触れなかった。少しばかりの意地があったのかもしれない。
 日々の気が狂わんばかりの鍛錬の果ての果て―――手に入れた今の自分をも、素手の戦いならば凌駕するであろう。
 それこそが鳳蓮飛。本当の意味で天才という言葉が相応しい者。

「だからこそ、惜しい。もう少しだけ強さに貪欲であったならば―――いや、違うか。レンだからこそ、天もこれほどの才を与えたのだろうな」 

 己の口から漏れ出た言葉を否定したのは恭也自身だった。
 レンは驚くほどに【強さ】というものに興味がない。いや、それは言い過ぎだろう。興味が薄いというほうが正しい。
 恭也や美由希のようにどこまでも貪欲に強さを欲しているというわけではないのだ。
 そんなレンだからこそ、他者とは隔絶するほどの絶対才を与えられたのだろう。

 物思いにふけっていた恭也の眼前にて、驚異的な速度で回復した晶が飛び起き、叩きつけるような正拳突きを放った。
 虚をついた一撃であり、並の相手ならば間違いなく決まるはずの攻撃だった―――レンが相手でなければ。
 全てが予想通りといわんばかりに、拳を避けると同時に遠慮なく関節を決めた。

「い、いててててて!?」
「あまいでーお猿。その程度じゃうちに一発入れるなんて夢のまた夢の話や」

 関節を決められ動くだけで激痛がはしる状態に追いやられた晶が悲鳴をあげる。
 にししと笑顔を向けると、そのまま地面に押し倒す。関節をきめられた晶はレンのなすがままにされ、地面に転がされた。
 地面に転がった状態で脱出不可能なほど、完膚なきまでに完全に腕ひしぎを決められ、もはや出せるのは口だけとなった。

「ぎゃああぁあああああああ」

 いや、すでに口を出す以前の問題で悲鳴しかあがってこない。
 その光景を見ていた美由希は感嘆のため息を漏らす。
 そもそもレンの得意とするのは祖父から教えられた中国拳法だ。最も、指導された拳法を独自にアレンジを加え、今ではレン独特の拳法になったと言っても過言ではない。
 
 今先ほど晶にかけた寝技は誰かに教えを乞うたものではないのだ。
 買い集めていた漫画本の中で登場人物が使用していた技を見ただけ。それだけでありながら実戦で使用可能としたのだ。
 それがレンの異常なる才の一つ。見ただけで即座に使用を可能とする、完全見取り。
 どう身体を動かせばいいのか。どう力を入れればいいのか。それを僅か一瞬で理解してしまう。
 恭也の見切りとはまた別の超越技。レンにのみ与えられた神業ともいえる究極の世界。

「う、うぐぅぅう」 

 パンパンとレンの身体をタップして敗北を認める晶。
 壊さないように注意をしてはいるレンだったが、逆に言えば壊さないギリギリ一歩手前を理解しているということでもあり、その容赦ない攻めに晶は遂に敗北を認めた。
 
「ほな、今日はうちがメインつくるから、他はまかせたでーお猿」
「ちくしょう……亀のくせして……」

 無駄に高レベルな戦いが終わり、レンは朗らかな笑顔で高町家へと戻っていった。
 晶も毒づきながらも、間接をきめられていた腕をさすりながらレンの後を追う。
 晶の尋常ではない回復力に、恭也と美由希は言葉もなく二人の後姿を見送ったが、一分近くもたち互いに顔を見合わせると―――。

「さて、鍛錬を再開するか」
「そ、そうだねーあはは」

 自分達の妹分でありながら常人離れしたレンと晶に対して呆れつつ、道場に戻っていった。
 最も、恭也と美由希が二人に対して抱いたものと、晶とレンが恭也と美由希に対して普段から思っていることは殆ど一緒のことではあるのだが―――知らぬは本人達ばかりなり。
 

 
 













 レンと晶の作った昼食を食べた後、日曜恒例といってもいい道場での模擬戦―――時間にして合計四時間にも及ぶ正気の沙汰ではない鍛錬が終了し、美由希は那美の住んでいるさざなみ寮へと出かけていった。
 なのはは友人であるアリサ・ローウェルの家に遊びに行っているので、高町家には現在恭也とレンと晶の三人だけである。
 フィアッセと桃子は終末は翠屋が忙しくなるので一日中家を空けていることが多い。

 キッチンの方では晶とレンが言い合いをしつつも食器を洗う手を止めることなく後片付けに勤しんでいる。
 一方恭也はというと、予定があるわけでもないのでソファーに腰をおろしテレビを眺めていたが、ふと何かを思い出したのか立ち上がった。

「すまんが二人とも少しでてくる。それほど遅くはならない筈だ」
「あ、はーい。お気をつけてです。お師匠ー」
「いってらっしゃい。師匠!!」

 キッチンに向かって声をかけるとレンと晶は言い合いを止め、満面の笑顔で挨拶を返した。
 二人に後片付けを任せ、恭也は財布と携帯電話だけを持つと、高町家を後にする。
 時計を見れば夕方の四時を回っていたが、外に出てみると、太陽は地平線の彼方におちると言う事もなく、まだまだ日中のような明るさを保っている。

 常に長袖を着ている恭也にとって辛い時期が来ようとしていた。
 ふぅとため息をつきながら足を動かし、目的地へと歩みを進める。
 恭也の行こうとしている場所は刀剣専門店の井関だ。以前注文していた木刀が今日あたりに入ってくるということを言われていたのを思い出したからだ。

 道端で会う知り合いに挨拶をしつつ、歩くこと数分で商店街に辿り着いた。
 時間も時間なので、今夜の晩御飯の食材を買い求める女性達が、恭也の視界一杯に広がっている。
 以前にレンと一緒に買い物に行ったときのことを思い出し―――手痛い敗北を刻まれた過去が頭の中に広がり、苦虫を潰したかのような表情を一瞬作る。
 
「―――あら、恭也じゃない?こんな時間に珍しいわね」
「ああ、翼か。少し井関に用事があってな」

 背後から声をかけられ、声をかけられる前から気づいていた恭也は驚くでもなく返事をした。
 恭也の言うとおり、背後から声をかけてきたのは天守翼。恭也の私服と同じように、黒一色で統一されている。
 もっとお洒落に気を使えば男が放ってはいないだろうにと、恭也は自分のことを棚にあげた感想を抱く。
 そんなことを考えているとは露知らず、翼は普段の無表情などなんのその、月のように冷たくも美しい笑顔を恭也に向けて近寄ってきた。
 
「少しでいいから時間あるかしら?もしよかったらお茶でもしていかない?」
「―――そう、だな」

 緊張しているのか、心なし翼の声は若干震えていた。頬も僅かに赤みをおびている。
 それには気づかない恭也が、時計をちらりと見てみると時間は先程と然程かわらず。夕飯までもう暫くの時間がある筈だ。
 時間を確認した恭也は頷いて、翼の誘いを受け入れた。

「ああ。一時間程度なら大丈夫だ」
「そ、そう……良かった」

 ぱぁと喜色を浮かべ、ほっと安堵のため息をつく。
 最後の良かったという言葉はあまりにも小さかったため、恭也に聞かれることなく、消えていった。
 周囲を見渡せば翼の容姿に見惚れてか、人目を集めてるようで、恭也は人の視線から逃れるように翼の右手を掴むと人混みのなかへと逃げるように歩き去っていく。

「―――あっ」

 蕩けたかのような妙に色っぽい声を小さくあげて、翼は恭也に引っ張られるがままに、連れて行かれる。
 歩くこと数分、注目されていた視線がなくなったのを確認した恭也は立ち止まり翼の手を離す。
 離された翼は残念そうに自分の手と恭也の手を見比べていたが、その様子を恭也に見られているのに気づくと慌てて、自分の手を背中に隠しながら首をふった。

「と、ところで、どこでお茶をしようかしら?」
「そうだな……翠屋も此処から少し離れているからな」

 ふむ、と考え込みながら両手を組み空を見上げた。
 別に海鳴には翠屋だけしか有名な喫茶店がないというわけでもなく、幾つかの人気がある喫茶店は存在する。
 それらの候補を頭の中でピックアップしていた恭也だったが、突如何かを思いついたのか翼が、そういえばと小さく声を漏らした。

「二週間ほど前にこの商店街に新しい喫茶店が開店したらしいわよ。噂でしか聞いてないけど評判は上々らしいわ」 
「……何時もの所もいいが、偶には新規開拓をしてみるか」
「ええ、そうね。聞いた話だけど、ここのすぐ近くらしいから行ってみましょう」

 翼と恭也は連れ立って商店街を突き進み、翼の記憶にある場所へと数分もかかることなく到着した。
 なるほど、と恭也は目の前の店を見て納得する。
 夕方という人が多い時間帯ということもあるだろうが、目の前のお洒落なオープンテラスとなっているカフェは、席をうめつくすように客が入っていたのだから。
 その大部分が男性ということが少しばかり違和感を覚える恭也だった。
 大抵このようなカフェは、女性の方が入りやすいし、好むのではないかという一般的な考えを恭也は持っていたからだ。
 それも当然だろう。桃子がやっている翠屋だって、男性の客は多い。だが、それは一部であり、翠屋の客層の大部分が女性だからだ。
 それなのに、このカフェは翠屋とは真逆の客層。どこか納得いかないものを感じながら翼と入り口へと足を向けた。
 看板を見てみれば、書いてあった店名は【喫茶北斗】。
 首を捻りつつ、店内へと続くドアに手をかける。

「らっしゃいませー」

 カランと音をたてて開いたドアの先に居たのは、スーツ姿の長身の男性だった。
 細身で、どこか野性味を感じさせる顔つきの、普通に見れば中々女性に人気が出そうなタイプだったが、やる気が見られない雰囲気と挨拶である。
 恭也はその男性をどこかで見たような既視感を持った。つい最近、顔を見たような覚えがあるのだ。
 思い出そうと記憶を辿っている恭也とは裏腹に―――スーツ姿の男性、【北斗】と名乗る暗殺集団の一員である貪狼が一目で判るほどに頬を引き攣らせた。

「お、おま、お前―――な、なんでこんなとこに!?」

 悲鳴にも似た叫び声が貪狼の口からあがった。
 腰が抜けたかのように、床に尻餅をついて必死になって後ずさる。

「……なんでこんなところも何も、俺は海鳴在住なんだが」

 至極当然の返答をする恭也だったが、貪狼がそんなことを聞く余裕もないようで、ゴキブリにも似た動きで厨房へと逃げ去っていった。一体何事かと店内に居た客達は恭也を見てくるのだが、ここでもまたもや注目を浴びるのかとため息を吐くしかなかった。

「おい、貪狼。この時間はお前が店内の担当だろうが。なにやってるんだ?」
「全くです。こっちはこっちで忙しいんですから新しいお客さんの案内くらいしっかりやってください」
「いやいやいやいやいや、無理無理無理無理無理!!絶対、無理!!」

 厨房から聞こえてくる必死の貪狼の訴えが、厨房内に響き渡る。
 その後も何度か言い合いをしていたようだったが、流石にまずいとおもったのか、新たな人物が恭也達を案内するために厨房から出てきた。
 着ているスーツがピチピチになっている巨漢。二メートルは超えていそうな大男、巨門だった。
 全くといっていいほど似合っていない巨門が愛想笑いをしながら恭也達のほうへ向かってきて―――恭也を見た瞬間、脱兎の勢いでそのまま厨房へと逃げ去っていった。

「貪狼の言うとおり、無理だ。死ぬ、殺される、斬殺される!!勘弁してくれ!!」
「ちょっ……君まで何言ってるのさ。いいからさっさと仕事しなよ!!」
「あー、あー聞こえない。俺は何も聞こえないからなー」
「……貪狼が武曲の命令を聞かないとは……一体なにがあったんですか」

 またもや厨房内で響き渡る幾人かの話し声。
 それを聞いていた翼がようやく我に返ったのか、首を傾げて恭也に問い掛ける。

「……知り合い、かしら?」
「知り合いといえば知り合いか。ほんの少し前まで敵対していた相手だ」

 ゾクリと店内のエアコンの空気よりも遥かに冷たい空気が周囲を支配した。
 蠢くような暗い殺気。触れただけで斬られると錯覚するほどに、鋭利で研ぎ澄まされた殺気が静かに、だが明確な意思を持って翼から発せられていた。
 恭也と敵対していた、それを聞いただけで翼の精神は先程の相手をどう斬り刻むかを想像の中でイメージし始めたのだ。

「……今はそんなことはないから気にするな」
「そう。恭也がそういうのなら……」

 人目があるにもかかわらず、何の遠慮もなく殺気をばら撒く翼の肩に手を置いて宥めつつ、何故北斗のメンバーがこんな所にいるのだろうと不可思議に思う恭也だったが、厨房内に見知った気配があるのに気づく。
 間違えるはずもなく、勘違いのはずも無い。
 二ヶ月も前に命の、魂の、想いの削りあいをおこなった―――生涯にて得難いであろう、運命ともいえる好敵手。
 恭也が知る限り、世界最強に最も近き人外の中の人外。世界に仇名す化け物集団の頂点の一人。
 
「―――きょぉぉぉおおおおおやぁあああああああああああ!!」

 ズガンと爆発音と勘違いしそうな音をたてて厨房から飛び出してきたのは、恭也の予想通り、水無月殺音だった。
 これ以上ないほどに喜びの感情を浮かべている。満面の笑顔。誰もが見惚れてしまいそうなほどに美しかった。
 ただ―――。

「……何故、メイド服?」
「―――にゃ、にゃ!?」 

 思わず恭也が突っ込んでしまった通り、水無月殺音は―――メイド服だったのだ。
 どっからどうみてもメイド服だった。誰がどう見てもメイド服だった。 
 似合っていないということではない。逆に似合いすぎていた。エプロンも長身の殺音に見事にフィットしていて、猫耳にも似たカチューシャが頭の上でふりふりと動いてた。
 自分がメイド服だったということに気づいた殺音が、あわあわとパニックになった子猫のように自分の服と恭也を交互に見やる。
 場が膠着状態に陥ってしまい、何が切欠で爆発するのかわからない。そんな状態だったが、恭也は店内に満ちる空気を無視して―――。

「まぁ、その、なんだ。良く似合っている」
「―――っ!?」

 美由希相手ならば馬子にも衣装と言っただろうが、何故か殺音には素直に賞賛の言葉が出てきた。
 恭也の若干照れが入った褒め言葉を、一瞬理解できなかったのだろう。ぽかんと口を開けて呆けた殺音だったが、数秒たって確りと理解した殺音は瞬間湯沸し器の如く、顔が真っ赤に染まった。
 いや、見えないだけで全身が赤く染まっているのかもしれない。というか、実は染まっていた。

「―――ぅ」 

 ついに目の前の事態が己の脳が理解できる限界を超えたのか、殺音は火照った頬を両手で押さえて、恭也に背を向けた。

「―――め、めぇぇええええええええええい!!」 

 己の妹の名前を叫びながら、結局殺音も他の北斗メンバーと同じく、厨房に逃げ帰っていった。
 もっとも、逃げ帰った理由が全く真逆の理由なのだが、恭也にわかるはずもない。

「……朴念仁」

 ぼそりと怨念がこもった、暗い呟きが翼から漏れたのだが、それにも恭也は気づくことはない。
 ますます注目の視線を集める恭也達。どこか嫉妬も混じった鋭い負の視線も恭也に突き刺さっていた。
 それを一瞬疑問に思ったが、何故この喫茶店に男性客が多かったのか、ようやく理解できた。
 恐らくは殺音目当ての客がいるのだろう。確かに見た目だけは超一級の美女。綺麗どころを良く見かける海鳴でも、殺音の容姿は十分に目を引くものだ。

「……ああ、キミか。それなら皆の反応にも納得がいくよ」

 次に厨房からでてきたのは、身長にして百四十に届かない程度の少女。
 レンといい勝負の背丈の、水無月冥だった。服装は言わずもがな―――メイド服を着ている。
 中学生がコスプレしていると見られそうで大変可愛らしい、実年齢は果たして幾つなのだろう、と恭也はふと疑問に思った 
 十一年前の恭也が幼い時に見たときも今とかわらない背丈だったのだから。

「おかげで殆どが使い物にならなくなってるよ。キミに言っても仕方ないけどね」

 若干不機嫌とも見て取れる雰囲気を纏わせ、冥がふんっと鼻を鳴らす。
 恭也の隣にいる翼を見た瞬間、驚いた表情になるも、他の北斗のメンバーとは違ってポーカーフェイスを心がけているのかすぐに表情をを元に戻す。

「兎に角、店に来てくれた以上、客にはちがいないよ。案内するからついてきて」

 冥が二人を空いている席へと案内して、颯爽と厨房へと戻ってった。
 恭也はテーブルに置いてあったメニューを手に取り、翼へと渡す。ざっと眼を通す翼は何を注文するのかすぐに決めたようで、恭也に見えるようにメニューを開いた。
 
「いや。今食べたら晩御飯がきつくなりそうだ。飲み物だけにしておこう」
「そう?わかったわ」

 テーブルの隅に置いてあったベルを押すと、程なくして冥がやってきた。
 他の従業員はどうしたのだろうと疑問に思わないでもないが、恐らく彼女くらいしかい恭也に近づきたがらないのだろう。
 無論、殺音は除くことになるが。

「注文は決まったかい?」
「ああ。俺はアイスコーヒーを頼む。ブラックでいい」
「私も同じものでいいわ」
「ん、了解。アイスコーヒー二つだね」

 伝票にささっと注文を書くとその場から立ち去る冥の後姿に、恭也はふと思いついたように問い掛けた。

「そういえば、あいつはどうしたんだ?」
「……ああ、馬鹿姉かい?あいつなら、さっき厨房の壁を破壊してどっかに逃げてったよ」
「―――そ、そうか」

 予想外の答えが返ってきて、恭也がどもる。
 てっきり厨房にいると思っていたが、まさか厨房の壁を破壊してどこかへ行ってしまっていたとは右斜め上すぎる。
 頭が痛い。言葉に出さずとも態度から伝わる、苦労性の少女はどんよりとした暗い空気を背負ったまま去っていった。
 
 程なくして、一人の女性が二人の前にアイスコーヒーをコトンと小さい音をたてて並べる。
 若干無表情な、殺音には及ばないが長身の美女だ。勿論、殺音と冥と同じようにメイド服を着ていた。
 話したことは無いが、見た事だけはある相手だ。口元をマフラーで隠していないので気づくのに僅かに遅れたが、北斗の一員である文曲という女性だ。
 注文はコーヒーだけだったのに、文曲は二人にそれぞれ皿に乗ったケーキをコーヒーと一緒に並べた。
  
「……頼んだのはコーヒーだけだったと思うが?」
「気にしなくていい。それはサービス」

 言葉短くそういい切って、文曲は二人に背を向けた。
 そのまま立ち去るかと思われたが、一歩足を踏み出して―――足を止めた。

「……偉大なる陸。貴方には我らが長の飢えを満たして頂いた。冥の言ったとおりその恩は何よりも大きい。そして―――」

 ちらりと翼を背中越しに見る。
 文曲を見ていた翼と視線があい、慌てて前に向き直った。

「貴女には命を救って貰った。あの時、貴女がいなかったならば私達はここにはいなかった。だから、そのお礼」

 それだけを言い切ると、文曲は今度こそ足を止めることなく姿を消した。
 どうするかと二人で顔を見合わせたが、折角のお礼なのだから頂くことにしようと同時に頷いた瞬間――ー。

「ああ、あのケーキはあんたの給料からさっぴいとくからね」
「がーん」

 そんな話し声が聞こえてしまい、非常に食べるのが気まずくなってしまった二人だった。
 とはいっても今更このお礼を辞退するわけにもいかず、遠慮なく食べ始めるが、先程の文曲の言葉を思い出した恭也が翼に尋ねる。

「そういえば、お前は北斗のメンバーと知り合いなのか?」
「いえ、全然。全くといっていいほど記憶にないわ」
「そうなの、か?しかし、命を救われたと言っていたが……」
「結果としてそうなっただけなの。助ける気なんてこれっぽっちもなかったもの」

 翼の返答は至極あっさりとしたものだった。
 ある意味冷たい発言だったが、そうかとだけ恭也は答えコーヒーを啜りながら昔に比べれば翼の態度は随分と軟化したものだと、遠き過去に思いを馳せた。
 初めて会ったのは三年程前。史上最悪の永全不動八門会談。永全不動八門の者達からはそう呼ばれる事件があった。
 血で血を洗う、破滅と絶望が入り混じった、殺戮の宴。
 幾度も死を覚悟した最悪の夜。恐怖を体現した、伝説に名を残す狂人―――人形遣いとの死闘。
 その時に出会った翼は、まるで機械だった。己以外に一切の価値を見出さない、氷の少女。
 他人を自分と同じ人間だと認識できない、どこかが壊れた少女だったのだ。
 目の前の少女は、天守翼は今では随分と変わったものだと思う。勿論良い方向に変わってくれたと、恭也はどこか父親のような気分で、カップに口をつける翼を眺めていた。

「……その、そんなにまじまじと見つめられたら、少しは恥ずかしいのだけど」

 恭也に見られていると認識した途端、自分の感情を制御できずカァっと頬が熱くなるのが自分自身でわかった。
 
「ああ、すまん。少し不躾だったな」
「ううん、別に嫌じゃなかったから気にしないで」

 そうだ。その通りだ。自分で口にだしているが嫌なはずがない。
 何故なら、天守翼は不破恭也をどうしようもないほどに愛しているのだから。
 未だ二十にもならない小娘の戯言だと、馬鹿にされるかもしれないが、それが翼の本心だった。
 己に世界の色を取り戻してくれた男。己に世界の広さを教えてくれた男。己の命を、魂を救ってくれた男。
 それが不破恭也。森羅万象を断ち切る、最強にして最凶にして最狂の剣士。生涯に渡って追い続ける果てしなく遠い背中を示してくれた男。
 物心ついてから世界の全てが色褪せていた。それを取り戻してくれた恭也を愛していると、胸を張って己に答えることが出来る。
 故に、天守翼にとって―――恭也と共にいられる時間は何事にも変えられない、至福の一時だ。

「そういえば、お前の妹―――天守翔だった、か」
「え、ええ。翔がどうかしたかしら?」

 突然出てきた自分の妹の名前に訝しがりながら翼は首を傾げる。
 
「いや、確か随分と前に美由希と戦いたいと願っていたが……あれから音沙汰がないんだが。お前は何か知ってるか?」
「ん……何となく、わかるわよ。でも、あの娘のことだから多分そろそろ動き出すと思うけど」

 翼の答えに、ほぅと若干喜色を漂わせ、恭也は口元に浮かんだ笑みを隠すようにコーヒーを啜った。
 対して翼は若干心配そうに、恭也に対して問い掛ける。

「恭也のことだから無用の心配だとは思うけど……今の御神美由希と翔はあまり戦わせないほうが良いと思うわ」
「……」

 ある種の忠告ともいえる翼に対して、恭也は無言だった。意外そうに眼を少しだけ大きく見開いた。
 それでも翼は続きを、躊躇うようにだが口に出す。

「……翔は、力もスピードも確かに御神美由希と互角といっても差し支えは無いわ。良い勝負が出来ると思う。でも、今のあの二人には決定的に違うものがあるわ」

 記憶の片隅に眠っている思い出。
 ただひたすらに、狂ったように毎日の鍛錬を続ける翔。
 姉である翼を超えるために、尋常ではない狂気を漂わせ、地獄の修練に身を落とし続ける者。
 才能を覆す者。努力の狂鬼。天守翼を唯一打倒できる可能性を秘めた剣士。

「……今戦えば、間違いなく【戦闘】という行為にもならずに、翔が勝つわ。それほどに、力の差があの二人には、ある」

 

























 暗い。暗い世界だった。
 日の光も届かない、巨大な木々の枝によって頭上を多い尽くされた山の深奥。
 霊木と勘違いしそうになるほどの巨大な木の前にて刀を地面に置き、正座をして黙想をしている少女が居た。
 巫女服に朱の帯。美しい黒髪。永全不動八門において、御神と立ち並んだとされる天守の次期当主候補の一人。天守翔その人であった。
 
「何か用ですか、葛葉」

 眼を瞑ったまま眼前に広がる鬱蒼とした森へと語りかける翔。
 他の人間がいたら勘違いかと判断しそうなものではあったが、ガサリと音をたてて頭をかきながら永全不動八門が一。槍使いの葛葉弘之が姿を現した。

「……気配は消していたつもりだったんだが」
「僅かにですが気配が漏れていましたよ。それに気づかないとでも思いましたか?」
「……お前くらいだよ、んなもんに気づけれるのは」

 やれやれとそばにあった大きめの石に腰をおろし、胡坐をかく。
 脚に肘をつきながら頬に拳をあて、ふぅっとため息を吐いた。

「で、まだお前は御神に喧嘩はうらねーのかよ」
「……他の方々は?」
「あん?他の永全不動八門の奴らか?元々、鬼頭と如月はやる気なかったみたいだしなー。風的と小金井、秋草は不破にやられて以来御神と戦う気は無くなったようだぜ」

 無理も無い、と葛葉心の中で一人ごちた。
 御神と戦う前の前座。強いとは聞いていたが、想像を遥かに超越した、同じ人間とは思えぬ男と戦い―――自分達が持っていた常識を完膚なきまでに破壊されてしまった。
 自分達が拘っていた当主の座。それがどれだけちっぽけなものなのか、理解してしまったのだろう。
 そんな状態で今更、当主の座のために御神と争うなどという気力が湧かないのも当然といえた。

「―――ライバルがいなくなってわたくしとしては有難い話です」

 だが、天守翔は諦めていなかった。
 当主の座を受け継ぐために、姉である翼を超えるために、翔は御神打倒の目標からぶれてはいなかったのだ。
 対して、葛葉もそんな翔に対してニヤリと野性味溢れる笑みを返した。

「ま、そうだな。前までの順番だったら、俺は御神と戦うのは最後になってたし。他の奴らが辞退してくれて助かったぜ」
「……貴方が戦うのはわたくしの後です。貴方が御神と戦える機会があるとは思えませんが。それともわたくしが、負けるとでも?」

 眼を開けて威圧するかのごとく、研ぎ澄まされた殺気が威圧となって葛葉を襲う。
 それをあっさりと受け流しながら葛葉は首を横にふった。

「いや、お前が勝つだろうさ。間違いなくな。御神美由希は強い。そんくらい見ただけで分かるが―――お前は更につえぇ」

 胡坐をかいていた石から立ち上がり、ポンポンと尻についた誇りを払うと翔に背中を向けた。
 
「御神美由希はお前にくれてやるよ―――俺も当主の座になんて興味はねーしな。【万が一】に備えて待っててやるよ」
「そうですか。万が一なんてことは決してありえませんけどね」
「だろーな。だからこそ【万が一】ってんだろ?」

 そう言って、葛葉は来たときと同じ様に鬱蒼とした森へと消えていった。
 残された翔は、葛葉の台詞に僅かに不快を感じつつも、正座をやめ立ち上がる。
 地面に置いてあった刀を拾うと、葛葉の後に続く。ゆっくりと、歩いていた翔だったが、短い呼吸音とともに、右手が霞む。
 
 澄んだ音をたてて抜刀された刀が鞘へと収まり、そのまま歩み去っていった。
 翔がその場から姿を消して一分近くがたった時―――ずるりと、左右にあった巨大な木がずれた。

 ずるずると、少しずつ斜めに斬られた木は、ずり落ちていく。
 ズズズっと音をたてて、やがて地面に激しい音をたて落ちて転がった。
 
 恭也が見ていたならば驚いただろうか。それとも賞賛しただろうか。
 恐ろしいほどに完成された―――【斬】。
 当然、恭也には及ばずとも、美由希とは―――比べるまでもなく。

 剣の才能。天守当主からの直接の指導。強さへの果てしない執着。血反吐を吐くほどの鍛錬。
 それら全てによって形作られた、天守家の武への想いの集大成。
 
 つまり、それこそが―――【狂剣】天守翔。


   

 

 


 
 





 



 
  
   
 
 

 



[30788] 十一章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/07/16 21:15

















 恭也と翼が喫茶北斗で談笑している同時間―――少し離れた別のカフェの店内に、二人の少女達が居た。
 その喫茶店の店名は【翠屋】。恭也の母親である桃子が経営している洋風喫茶だ。
 夕方という時間帯が故に、学校帰りと一目でわかる客が店内を埋め尽くしていた。喫茶北斗とは異なり、客層は女性ばかりなのが対照的である。
 二人の少女達―――永全不動八門一派の鬼頭水面と如月紅葉は、自分の前のテーブルに置かれたシュークリームに舌鼓を打つ。
 水面も紅葉も幸せそうに、口に運ぶ様は、見ている方が思わず笑みを浮かべてしまいそうになるほどに、ほんわかな雰囲気を纏っていた。
 
「いやー相変わらずここのシュークリームって絶品だねぃ」
「本当ですよね。こんなに美味しい洋菓子食べたことがないです」

 不満など一片もない、べた褒めの二人の声が聞こえたのか、近くのテーブルを拭いていた従業員が笑顔でお礼をのべて厨房へと新しい注文の品を取りに去って行った。
 二人は今まで多くの洋菓子を食べてきたが、これほどまでに我を忘れそうになるほどのものは味わったことがない。
 海鳴にきて噂を聞いてから、興味半分で初めて訪れたのが一か月と少し前。今では二人は翠屋の常連となっていた。

 二人ともシュークリームを食べ終わった後、紅葉はミルクティーを、水面はホットコーヒーを飲みながら、幸せそうな吐息を両者とも漏らした。
 周囲の客から聞こえるのも称賛ばかりで、満足していない客は一人もいないのは明らかである。
 二人とも飲み物を飲み、一息ついたその時、水面が何かを思い出したのか、パチンと指を鳴らした。  

「葛葉が言ってたけど、小金井も風的も秋草も―――御神と戦うのを辞退したんだってさ」
「あら、そうでしたか。気持ちはわからないでもないですけどね」

 水面の発言に大して驚くでもなく、紅葉は当然のように受け取った。
 元々あの三人もそれほど当主の座に拘っているわけではなかったからだ。 
 小金井も風的も秋草も―――実力第一主義というわけではなく、基本的に血筋に重きを置いている。
 本家の血筋をもっとも色濃くひいているということを第一に考えられ、実力は二の次なのだ。
 あまりに腕が無かったら流石にそれは問題とされるだろうが、あの三人の実力ならば、後継者としては十分過ぎるくらいだろう。
 
 今回の【御神】と戦うという誘いを受けたのも、興味半分。噂に名高き御神宗家の血を継ぐ者と、永全不動八門にて触れてはならぬ禁忌の剣士として腫れ物の如き扱い受けている【不破】に会いたかったという理由がもう半分だったはずだ。
 それぞれの一族の当主とそれに近き実力者達が不破を恐れる理由がわからず、その実力も話半分程度に聞いていた結果が―――何時ぞやの廃ビル地帯の夜の出来事。
 四人がかりといっても過言ではない戦いで、十秒程度に全員がのされてしまった。
 葛葉も小金井も風的も秋草も―――四人が四人とも、永全不動八門でそれなりに名が通っている腕の持ち主だったというのに、まざまざと【格】の違いを見せられた。
 興味半分で御神に戦いを挑みに来た彼らにとって、これ以上【不破恭也】と関わりあいを持ちたくないと思うのも当然だろう。

「で、あの三人が辞退したら次はあんたの番だけどどーすんの?」
「勿論うちも辞退しますよー。だって、戦う意味とかないですし」
「ま、そーよね。あんたの目的は不破恭也と会う事みたいだったしねぇ?」
「―――っ」

 かぁと紅葉の顔が音をたてたと勘違いするほどに真っ赤に染まった。
 自分で自覚していることとはいえ、誰かに指摘されて無視できるほど紅葉は達観しているわけではない。
 紅葉もまた、三年前の史上最悪の永全不動八門会談にて恭也と会っていた。その時に出会って以来、紅葉にとって恭也は憧れだ。この世界の誰よりも尊敬の対象で、純粋なその想いは崇拝の域に達していると言っても過言ではない。
 家族から必要ない者という扱いを受けていた紅葉にとって、恭也という存在は太陽にも等しい。

「そ、その……わ、わたしは……えっと……」
「初々しいねぇ」

 慌てる紅葉を見て、水面はにやにやとした厭らしい笑みでそうもらした。
 己がとっくの昔に捨て去ったものを紅葉は持っている。それがたまらなく羨ましくもあり―――妬ましくもある。
 
「私も今回はパスさせてもらうとして―――じゃ、やる気があるのは結局天守と葛葉くらいかぁ。やっばい二人が残ったね」
「……そうですね。あの二人、冗談抜きで半端なく強いですからね」
「全くだわさ。特に葛葉のここ最近の成長速度がかなり凄いね。今なら【葛葉千寿】と良い勝負できるんじゃないかな」
「最近葛葉さんを見かけませんが、それほどまでに?」

 水面の発言に相当驚いたのか、先程までとは異なり紅葉は眼を見開いた。
 その反応が嬉しかったのか、水面はにやにやと笑みを絶やさずカップを口に運び一口だけコーヒーを口に含む。

「不破恭也にやられてから相当に修行したっぽいよ。まー、あの時負けてからどこか吹っ切れたみたいだったけどね。それにあんたが葛葉を最近見かけないってのも当然。あいつ学校に来てないもん」
「……やっぱり来てなかったんですか。学校に来ないで何してるんです?」
「鍛錬鍛錬。また鍛錬さ。修行馬鹿の考えることはわからないよ。それこそ寝食の時間も惜しんで山篭り中。あいつも若いねぇ」

 テーブルに突っ伏す水面は、ケケケと面白そうに笑った。
 馬鹿にした笑いではない。逆だ。水面は水面なりに葛葉のことをそれなりに褒め称えているのだろう。 
 圧倒的な力の差で敗北を喫し、それに諦めるどころか更なる高みを目指して研鑽を積んでいる。
 中々真似できることではない、と素直に水面は称賛した。少なくとも水面がまだ若き頃―――葛葉と同じ年齢だったならば同じ行動が出来ただろうか。恐らくは立ち直るまでに長い時間がかかったはずだ。 
 長い付き合いではあるが、葛葉の馬鹿正直なまでに真っ直ぐなところを水面は気に入っていた。

「―――黄金世代に数えられる千寿さんとも良い勝負ができる、ですか。凄いですね葛葉さん」

 心底感心した紅葉が、水面と同じく、ここにはいない葛葉を称賛する。
 噂に名高き葛葉千寿と渡り合える―――かもしれないというのはあくまで水面の予想でしかない。
 それでも、水面がそういったのだ。この女性が全く見当違いのことを述べるはずも無い。

 紅葉が語った【黄金世代】。現在の永全不動八門はそう呼ばれている。 
 本来ならば現れるはずも無い、尋常ではない才能を与えられた若者達がそれぞれの流派に存在しているのだ。
 その誰も彼もがほぼ同じ年代。それ故に、何時しか誰かが今代のことをそう呼び始めた。
 元々の始まりは天守翼だった。彼女はあまりにも強かった。強すぎた。あらゆる永全不動八門の戦士達を凌駕するほどに、桁が違いすぎたのだ。
 翼だけだったら話は簡単だった。天守翼を有した天守一族が永全不動八門最強の存在として、君臨することが出来たはずだった。だが、他の一族にも翼には劣るが他者を圧倒する者達が頭角を現し始めたのだ。
 各流派の当主や長老達は夢を見てしまった。己の流派に現れた人外の如き才覚を持つ異端を育て上げれば、天守翼をも凌駕し得るのではないかと。自分たちの流派こそが、永全不動八門の頂点に立てるのではないかという、随分と歪んだ望みを願ってしまった。
 
 そして、天守翼は自由奔放だ。自分の望まぬことは決してしない。己のしたいことだけを実行する故に、天守家でも彼女を掌握することは出来ない。天守家の長老だから、家族だからといって命令は聞かない。相手が誰であろうと翼は己を貫く。だからこそ、翼は天守の姓を持ちながら天守家の戦力として数えられていないのだ。
 故に、現在の永全不動八門は戦力的に拮抗しているといってもいい。翼を除いた黄金世代達は誰もが、実力的にはほぼ互角。
 そのため、今現在―――永全不動八門は冷戦状態と言っても良い状況に陥っていた。

「―――天守翔。葛葉千寿。鬼頭湖面。如月枯葉。小金井纏武。秋草雅。風的彼方と此方。いずれは武神の名を戴くに恥じぬ領域に達する天才達。果てさてあいつは―――葛葉は、その世界に割って入れるかねぇ」
















 空を見上げれば星の綺麗な夜。闇の中で星々と月が輝いていた。
 毎日の恒例となっている美由希との鍛錬も終わり、高町家の全員が寝静まった時間。
 美由希も汗を流し、部屋に戻っている。時計を見れば既に日が変わり、一時に近い時となっていた。
 恭也の朝は早く、今から寝ても精々三時間ほどしか睡眠の時間は取れないが、身体がそのサイクルに慣れてしまっているのだろう。
 
 何時もの如く、庭へと続いている縁側に腰をおろし、何をするでもなく空を見上げていた。
 周囲の家の人達も明日に備えて寝ているのか、物音一つしない。明かりも消えている。
 虫の音だけが、恭也の耳に届いていた。

「―――俺は、酷い指導者なのかもしれん」

 ぽつりと、恭也は独白する。
 今日の夕方―――日付が変わっているので正確には昨日の夕方、翼と話したときに自分に対して黒い感情を持ってしまった。
 
「そんなことはないです、お師匠」

 誰もが寝ているはずのこの時間。
 聞こえることの無い声が聞こえた。普段聞きなれている少女の声。
 鳳蓮飛は、緑の亀が何匹も刺繍されたパジャマ姿で廊下の影から姿を現した。
 そのままちょこちょこと近寄ってきて、恭也を倣う様に縁側に腰をおろす。
 レンが現れたことに一切驚かず、恭也は夜空を見上げたまま、僅かに目を細めた。
 隣にいるレンは、恭也に丁度触れるか触れないかの隙間を保ち、恭也と同じ様に空を見上げた。
 それから数分間、沈黙が続いた。レンは先程の恭也の発言を言及するでもなく、ぷらぷらと足を揺らすだけだった。


「―――近いうち美由希に、試練が訪れる」
「はい」

 唐突に恭也が口を開く。
 美由希に試練が訪れると聞いても、レンは驚かず、淡々とした返事をするだけだった。

「相手は強敵だ。恐らく今の美由希では勝ちを拾うのは難しいだろう。己がしてきた努力を否定されるかの如き敗北を喫するだろう。言いようのない絶望に支配されるはずだ。そこから立ち直るのは―――難しい」
「はい」
「それをわかっていながら、俺はあいつをその試練に敢えて立ち向かわせようとしている。俺が出て行けば、その脅威を振り払うことは容易いと理解しているというのに―――」

 ギリッと歯が軋む音が聞こえた。
 何かを我慢している姿に、レンは胸が痛くなる思いを抱く。
 無意識のうちに、きつく握り締めていた恭也の握り拳に手を重ねた。
 大きい手だった。レンとは一回り以上違う。大きくて暖かくて、硬い拳だった。レンが敬愛する高町恭也という師の、大好きな手だった。

「お師匠は、信じているんですよね。美由希ちゃんのことを。どんな困難にも立ち向かい、最後には乗り越えてくれるって」
「……」
「どんな絶望も乗り越え、困難も打破して、お師匠の期待に応えてくれる。それが美由希ちゃんです。うちが知ってる、高町美由希という剣士です。うちや晶みたいなお師匠のことを【師】と慕っているだけの似非弟子とはちゃいます。美由希ちゃんは―――お師匠がたった一人だけ認めた、唯一のお弟子さんです」

 重ねていた手をぎゅっ握り締めた。
 手を重ねるだけでも随分と緊張していたのだろう。
 レンの生暖かい夜の温度も相まって、僅かにだが掌が湿り気をおびている。

「信じてください。美由希ちゃんを―――お師匠が唯一認めた、お師匠が全てを賭けて育て上げた存在を。美由希ちゃんは、何があっても、必ず最後には試練を乗り越えてくれるはずです」

 レンの言葉は重かった。
 誰よりも恭也を心配しているが故に、レンの言葉は言霊とでもいうべき力がこもっていた。
 揺れる瞳。恭也の今の様子を見ているだけで、レンの心は張り裂けんばかりに、酷く痛みを感じている。
 
 沈黙が続く。
 一分。二分。三分は経っただろうか。
 未だ心配そうに見上げているレンに、恭也は苦笑を返す。

「―――すまんな。情けない姿を見せた」
「情けなくなんかありません。うちには何時も通りのお師匠にしか見えませんでしたよ?」

 にっこりと笑顔を浮かべたレンが恭也から手を離し、立ち上がる。
 顔が若干赤くなっているのを気づかれたくないのだろう。
 咄嗟に恭也の手を握り締めてしまったが、冷静になってみれば、恥ずかしいことこの上ない。
 幾ら武の腕前があろうと、未だ十三になったばかりの中学生。好きな相手の手を握って冷静でいられるはずも無い。
 そそくさとこの場から立ち去ろうとしていくレンの後姿に向かって恭也は―――。

「―――礼を言う。有難う、レン」
「……は、はい」

 頬が熱い。嬉しさと恥ずかしさで全身の血液が沸騰したかのように熱を持っている。
 ただお礼を述べられただけだというのに、、何事にも換え難い幸福を感じた。

 ―――お師匠、大丈夫です。
 
 部屋に戻っていくレンは心の中でそう恭也に告げる。

 ―――美由希ちゃんの試練に万が一が無いように、うちが見ておきます。

 美由希の試練の邪魔にならない程度に。
 レンは、美由希を守護するように心に決めた。決して揺るがぬ強き意思を秘め、拳を握り締めた。
 一方、そんなレンの後姿を見送っていた恭也は―――深いため息をつき、月を見上げる。

「―――レンに九割九分九厘勝てるといったな、美由希。ああ、お前は正しい。【昨日】までのレンであったならば」

 昨日の昼間までのレンであったならば美由希の勝利は揺るがなかった。それほどまでに戦力には差があったのだ。
 だが、今のレンにはどうか?明日のレンにはどうか?
 その答えは誰にもわからない。たった一日で何が変わるというのか、と誰もが思うかもしれない。
 
 それが変わるのだ。
 たった一日であらゆる戦力を覆す。圧倒的な力の差を追いつき、追い越す。
 それこそが鳳蓮飛に与えられた絶対的な才。 成長ではなく、【進化】。
 恭也をも震撼させる―――天から与えられた才を超える、【神】から与えられた才。
 天才を超えた―――【神才】。

「美由希。レン。お前達を―――信じているぞ」 
  
 どこか不安が混じりながらも、先程までより遥かに強くなった眼の光が月を貫いたまま、恭也の独り言は夜の闇にとけて消えた。
 
 






















「「いってきまーす」」

 高町家の玄関から響いてきたのは美由希とレンの声だった。
 晶はああ見えてクラス委員のため、今日は早めに学校へ向かい、ついでになのはもバス停まで送っていったため美由希とレンの二人で家を出ているところだった。
 珍しく恭也も、用事があるということで、二人よりも早く登校している。洗い物を桃子に任せて、二人は高町家を後にした。 
 太陽はすでにジリジリと地上に光を送っている。その熱射線に参りながらも、遅刻しないように美由希達は足を速めた。

「今年は、熱くなりそうだね」
「せやね。まだ七月に入ってないのに、三十度近いらしいで。八月になったらどないなるんやろうか」
「うわー。考えたくもないよ」

 考えただけで汗をかきそうな想像を膨らませ、美由希は眉を顰めた。
 レンも空の太陽を見上げ、ハァと疲れたため息をつく。
 体力に自信がないレンにとって、夏場は苦手とする季節なのだ。
 
「そういえばレン。期末試験の勉強ちゃんとしてる?」
「あー、まぁ……ぼちぼち?」
「しっかりやらないと中間試験の時みたいに晶に勝ち誇られちゃうよ」
「う……それは嫌やなぁ」

 レンが苦虫を潰したかのように表情をゆがめる。
 晶は運動しかできないと思われがちだが、クラス委員も務め、テストもかなりの好順位をキープしているのだ。
 対してレンはというと、相当に優秀なのは間違いないのだが、海鳴中央に進学してから初のテストで勝手がわからなかったということもあったのだろう。
 学年の総合順位で惜しくも晶には及ばず、普段負け越している晶はここぞとばかりにレンに勝ち誇っていたという出来事があった。
 その時のことを思い出したレンは、ハァと重いため息を吐きながら、どんよりとした空気を背中に纏った。

「あ、あはは。つ、次勝てばいいんじゃないかな」

 忘れかけていた敗北を思い出させてしまった美由希は、影を背負ったレンを慰める為に言葉をかける。
 慰めるくらいなら最初から言わなければいいだけだと思わなくもないが、話の流れで口に出してしまったのだから仕方がない。
 レンの小さな肩に手を置こうとした瞬間―――。

 ―――末恐ろしき小娘よのぅ。

 全身が粟立った。
 あらゆる強さというモノを極限にまで凝縮したかのような、超越的な強者の声が脳に響き渡る。
 ガチガチと歯がかちあった。真冬に水泳をやったときのように、歯がかみ合わない。
 暗い。とてつもない闇の深淵から、這い出る漆黒。恭也とはまた違った重圧を漂わせる、そんな女性の声。

 反射的に後ろを振り向いた美由希。だが、視線の先には登校する学生達の姿しかない。
 そこにいる誰もがただの一般人でしかなく、声の持ち主であろうはずがなかった。慌てて振り返った美由希に奇異の視線を向けてくる者が殆どだ。
 そんな視線を全身に感じながらも、美由希は油断なく周囲を探るために精神を集中させる。
 目立つことを避けてきた美由希ではあったが、先ほどのような尋常ではない気配を感じてまで一般人の振りをし続けることができるほどの境地には至っていない。
 これ以上ないほどに精神を研ぎ澄ました美由希であったが、彼女の広げた結界ともいうべき感覚の領域に怪しい存在は見当たらなかった。
 
「―――美由希ちゃん?」

 数歩先へ歩いていたレンが、後を追ってこない美由希を訝しみ声をかける。
 それに返事する余裕もなく、美由希は一分近くも周囲への警戒を怠ることはなかったが―――結局それは無駄に終わることとなった。
 緊張を解くように深く深呼吸を繰り返す美由希だったが、首を傾げるレンに気づき慌てて首を横に振る。

「ごめん、レン。なんでもないから」
「んー。美由希ちゃんがそない言うなら、ええけど……」

 いまいち納得がいかないレンだったが、ここで押し問答をしていては遅刻をしてしまう可能性もある。
 それほど時間に余裕があるというわけではないので、二人は学校へと登校を再開する。
 歩道を歩いていく最中、美由希はどうしても先ほどの声がきになって仕方がなかった。
 どこかで聞いたことがあるような、声だったからだ。桁が違う、真の強者の声。なんともなしの言葉だったにせよ。それは既に言霊の域。発するだけで問答無用で相手の心を砕き折る。
 本気の―――未だ本気の恭也の姿は見たことが無いにせよ―――恭也に匹敵しかねないほどの強者の気配を漂わせていた。
 知らず知らず美由希は口の中にたまった唾液を嚥下し、背中を流れる冷たい汗を止めることができなかった。

 微妙な雰囲気のまま学校へ到着し、美由希はレンと別れると教室へと向かう。
 下駄箱には多くの学生がおり、友達を見かけると朝の挨拶をかわし、連れだっていく。
 生憎と美由希には同学年の―――というより同じクラスの友達はいないため一人さびしく階段を上がっていった。

 教室の自分の椅子に腰を下ろすと、時間割をチェックしつつ、準備を前もってしておく。
 周囲のクラスメイトは友達と談笑をしているが、それが羨ましいことは―――少ししかなかった。
 
 やがて朝のホームルームが始まり、一限目、二限目と時は過ぎていく。
 ポカポカとした陽の日差しが大層心地よい。授業を行っている教師の声が子守唄に聞こえる。気を抜けば意識が微睡んでしまう。
 恭也であったならば、何の躊躇いもなくそのまま意識がフェードアウトしていっただろうが、生憎と美由希は根が真面目のため、意識がとびそうになる瞬間顔を軽く左右に振って眠気を吹き飛ばす。
 ゴシゴシと目を擦り、他のクラスメイトに気づかれないように欠伸をする。
 授業に集中しようとする美由希だったが、目をこすった程度で無くなる眠気ではなく、自然と瞼が重くなっていったが、夢の世界へ旅立とうとする美由希を目覚めさせたのは、授業終了のチャイムであった。
 
 時計を見れば既にお昼近く。四限までの授業がいつの間にか終わっていた。
 全く授業が頭の中に入っていないことを反省しつつ、鞄の中から晶お手製の弁当を取り出すと、授業から解放され昼ご飯を食べようと和気藹々としているクラスメイトを背に教室から廊下へと出て行く。
 足を向けるのは、屋上だ。高町家を除いた唯一無二の友達である神咲那美と普段ならば途中で合流するのだが、今日は一緒に食べれないというメールが朝からすでにきていて、今回は一人でご飯を食べることになってしまったのだ。
 なんでも那美はどうしても外せない用事があるとのことで、学校を休んでいた。
 頻繁というほどでもないが、稀にだが那美は同じような理由で休むことがあるので、美由希としても気にならないと言えば嘘になるが、何時か理由を話してくれるだろうと思っていた。

 階段を上がっていき、屋上へと続く扉を開く。ぶわっという生暖かい風を美由希は感じた。
 屋上へと足を踏み出せば、照りつける太陽が教室にいる時よりも激しく光を落としてくる。
 ふぅ、とため息を吐き―――異変に気付いた。

 普段ならば屋上は、美由希達以外にも多くの学生が昼食を取りに来る。
 美由希が那美とご飯を屋上で食べるようになってから、少なくとも常に十数人の学生がいたことを覚えている。
 それなのに、今日は誰一人として屋上にいないのだ。見渡しても、屋上にいるのは美由希ただ一人。

 暑いはずの周囲の温度が急激に下がっていく。
 脳内に響き渡る不吉な警鐘。知らず知らずのうちに鳥肌が立っていた。
 
 その瞬間、背後から冷たい空気が激流となって激しく美由希の背中を打ち据える。
 刀で一刀両断されたと勘違いをしてしまいそうになるほどの明確で、冷たいリアルな殺気。
 
 その黒風を感じると同時に地面を蹴りつけ、真正面へと飛び出し、地面を転がる。
 一瞬で体勢を整え、今しがたまで自分がいた空間に視線を向けると、そこに一人の少女がいた。
 屋上と校舎を分け隔てる扉の向こうから、少女の形をした【何か】がゆっくりと歩み寄ってくる。
 
 ドクンと一際高く心臓の鼓動が高鳴った。
 美由希の瞳に映ったのは美しい少女だった。日本人形と言われても納得してしまうような、日本人としての可愛らしさ。美しさ。
 それらを兼ねそろえた、美由希でも思わず見惚れてしまいそうな容姿。全く日に焼けたことが無いであろう白い肌。
 フィアッセ達とは違うが、不思議な色気が少女から発せられている。
 リボンの色から美由希と同じ風芽丘学園の一年生ということがわかるのだが―――。

「―――か、たな?」

 そんな呟きが美由希の口から洩れた。
 確かに美しい少女だったが、美由希は少女を一振りの刀と認識してしまった。
 それは一瞬だった。すぐに刀の幻覚は消え、少女の姿になっていたのだが、美由希は呆然と少女を見つめている。

「お初にお目にかかります。わたくしの名は天守翔。以後宜しくお願いいたします―――御神美由希殿」
「……っ!?」

 驚きを隠せない美由希が目を大きく見開く。
 美由希の幼き頃の旧姓―――それが御神。かつて最強最悪の名を欲しいままにした御神の一族。
 十年以上も前に滅びを迎え、既にその名は過去の伝説と化している。その名前を言い当てられたのだ。驚くな、というほうが無理であろう。

「……貴女は、何者ですか?」

 美由希の返答に、翔はキョトンとした表情で見返している。
 まるで予想外のことを聞いたかのような様子だ。

「いえ、わたくしは言いましたよね。天守翔―――と。天守本家の者ですが」
「……あまの、かみ?」

 翔の台詞に首を傾げることしかできない。
 まるで当然の如く翔は語ってきているが、美由希としては天守家とは何なのか心当たりがないからだ。
 噛み合わない二人の言葉。油断なく翔を窺っている美由希とは裏腹に、翔は右手の人差し指を口にあて考え込む。
 考え込むこと数秒の時間。何かに閃いたのか、まさかという驚きの表情になった。

「不破殿からお聞きになられていませんか、他の永全不動八門の存在のことは」
「……」

 沈黙を答えとして受け取った翔は口元に当てていた指を離し、自然体の体勢へと戻る。
 翔のそんな行動でさえ、美由希は見逃すまいと意識を集中させた。
 それほどまでに、美由希の目の前にいる少女は得体の知れない怖さがあったのだ。

「御神の一族も永全不動八門に数えられていたのはご存知でしょう?無手の如月。針の鬼頭。棍の小金井に槍の葛葉。糸の秋草に弓の風的。そして、小太刀の御神と―――刀の天守。それらを合わせて永全不動八門と呼びます。言ってしまえばわたくしは貴女と同類。裏の世界に潜む武の頂を目指す者の一人です」
「永全不動八門……?貴女が、その一員ですか?」
「はい。先程も言いましたが、宜しくお願い致します―――短い間ですが」
「―――え?」

 聞き返す美由希だったが、それと同時に、翔は消えた。
 集中していた美由希の意識を潜り抜け、翔はその場から消え失せていた。
 陽炎。蜃気楼。そういったモノを見ていたかのように天守翔は美由希の眼前から姿をかき消していた。

 おぞましい黒い戦意。鋭く、冷たいどす黒く濁った、槍のように押し寄せる気配。
 それが美由希の側面から叩きつけられ―――何を考えるでもなく、美由希は腕をあげ、反射的に自分の身体を守る動きを取っていた。
 腕があがるのと、何時の間にか踏み込んできていた翔の体重の乗った回し蹴りが、叩き込まれるのは刹那の間を持って同時であった。

 蹴りが美由希の腕に着弾する。尋常ではなく、重い。それに重いだけでなく己と同じくらいの体重とは思えぬほどの衝撃が全身に伝わってくる。
 ただの蹴りではない。美由希の良く知った技術が含まれていた蹴り。【徹】と呼ばれる内部破壊の浸透撃。
 腕が痺れる。眩暈が一瞬した。
 再度反射的に身体が動く。自分の足で地面を蹴りつけ衝撃を逃しつつ、その場から退避しようとした美由希を嘲笑うかのように、翔が動く。
 美由希が地面を蹴りつけた瞬間を見切った翔は、受け止められた蹴り足に力を込め、美由希の身体を巻き込むように地面へと叩きつけた。
 衝撃を逃そうとした美由希の行動は悪くは無かった。ただ、それを見切った翔の方が上手かった。それだけの話だった。
 自分と翔という、二人分の力で地面へと叩きつけられた美由希の視界が真っ暗に染まる。
 意識を一瞬失ったことに気づいた美由希は、痛みを無視して四肢のバネを利用して飛び上がり、翔から距離を取る。

 ピタリと空中に蹴り足を縫いつけたように止めていた翔は、ゆっくりと足を下ろす。
 普段の美由希だったならば、その隙に攻め込んでいただろう。だが、翔との間合いを詰めることは出来なかった。
 まるで地面から根が生えたかのように、美由希の動きを奪っていたのだから。たった一撃の蹴りが、翔の底知れぬ実力を美由希へと嫌というほどに叩き込んできたのだ。
 未だ痺れが取れない、片腕。地面に叩きつけられた時に打ったのか、頭痛が襲ってくる。

 翔の視線には温度というモノがなかった。
 美由希に対して何の感情も持っていない。虫けらを観察するような、瞳だった。

「―――貴女は不思議な人ですね」
「な、にを―――」

 言っているのかと問い返そうとして、言葉が詰まった。この場に蹲りたくなる衝撃が未だ全身に残っている。
 己よりも遥かに上手の徹の技術に舌を巻くしかない。
 そんな相手からの言葉。不思議な人とは一体どういうことなのか。

「先ほどの一撃。確実に不意を突いたはずの一撃を貴女は―――無意識のうちに防いでいました。頭で考えた行動ではないでしょう。その後もそうです。意識を失いながらも即座に体勢を立て直す。並大抵のことではありません。そう―――」

 冷たい瞳に僅かに、温度が灯った気がした。
 錯覚だったのかもしれない。それでも、確かに美由希はそう感じた。

「無意識レベルまで刷り込まれた技術。頭で考えるよりも速く体が動くほどに研磨された肉体。貴女はそれほどまでの高みにまで鍛え上げられています。げに恐ろしきは―――」

 翔はゆるりと右腕を前にだし、左手を僅かに引いた位置で止める。
 空手家などがよく行うオーソドックスな構え。美由希は、自分よりも小さな翔の身体から発せられる重圧に気おされていた。

「貴女をそこまで鍛え上げた―――不破恭也」

 ピキリと空気が振動した。
 恭也の名前が出た瞬間、美由希の気配が明らかに変化した。
 翔を恐れていた気配はなりを潜め、逆に禍々しいともいえるほどに黒く染まった美由希らしからぬ鬼気を漂わせ立ち上がる。
 その気配に若干驚いたのか、僅かに目を細める翔。

 言葉もなく、ダンと地面を蹴りつけ美由希が疾走する。
 今度は美由希が相手の不意をつく形となったが、今更正々堂々などという言葉は互いの頭の中になかった。
 一際速く踏み込み、との距離を翔縮めていく。山田太郎と戦った時とは比較にならない弾丸の如き超速度。
 
 放たれる右拳。
 鋭く、重い一撃なのは見ればわかるほどに、見事な打撃。
 翔は慌てることなく、華麗に背後へとバックステップ。それを追撃するべく、美由希が更なる加速を見せる。
 だが―――。

 美由希が踏み出そうとした瞬間、後ろへと逃げたはずの翔は瞬間移動をしたかのように美由希の懐へと入り込んでいた。
 立ち昇る邪悪な戦意。吐き気を催す死の香り。美由希の胸元に左手の掌底を当て、口元をかすかに歪める。
 
 ―――死ぬ。

 頭の中で妙に冷静な己の声が響く。
 両脚の力を最大限に引き出し、強制的に体を停止。そのまま先ほどの翔と同じように背後へと地面を蹴りつけ退避する。
 物騒な音をたてて大気を打ち破る掌底。必死の思いで身体をねじり、回避することに成功した美由希だったが、完全に避ける事は出来なかった。
 微かに掌底が肩を掠める。それだけでズシンという重い衝撃が肩に残された。
 注意を払う余裕もなく、美由希はその場から大きく逃げ出した。それを追おうとする様子はない翔を確認して、僅かに安堵の息ため息を吐く。

「―――その程度、ですか?」

 翔は、美由希と同じくため息をつきゆっくりと間合いをつめてきた。
 そのため息は美由希の安堵とは別の意味が込められていた。即ち、失望。

「―――その程度が、御神流の次期当主候補の実力なのですか?」

 カツカツと音を立てながら抑揚のない声で語りかけつつ、美由希へと近づいていく。
 気圧された美由希は、翔を怖れてか近づいてくる距離だけ、後ずさっていった。

 本来、翔と美由希の実力的にはここまでの差があるわけではなかった。
 力で言えば、どちらかといえば美由希の方に若干の分がある。スピードで言えば、翔に分があり、剣技で言えば僅かに翔の方が上程度に過ぎない。
 ならば何故このような事態に陥っているのか。それは簡単な話だった。
 命をかけた―――死合い。負ければ死ぬ。生きるか死ぬか、わからぬ戦い。限界ぎりぎりの死闘。その経験の差がここまでの差を生み出していたのだ。

 美由希は確かに実戦形式の試合をほぼ毎日のように恭也と行っている。
 実戦形式の試合の回数でいえば、天守翔をも上回るだろう。だが、それはあくまでも実戦【形式】。
 負けたら死ぬ。そんな命がけの戦いではなかった。
 恭也としても、美由希相手に殺す気になるほどの正真正銘の本気を出せるはずもない。
 
 美由希の生涯において、己に匹敵する相手と戦ったことは―――事実無く、格上の相手はたった二人だけ。
 一人は師である恭也であり、常に遥か前を歩いている師には心の奥底で、決して勝てないと思い込んでいる気持ちもあった。
 もう一人は巻島十蔵。未だ勝利したことが無い、空手の鬼。幼い時に父である高町士郎と互角に渡り合う姿を見てしまったが故に、父と互角以上に渡り合う巻島に負けても仕方ない。そう思う気持ちが確かに存在した。
 それ以外の相手は美由希にとって格下でしかなかった。落ち着いて戦えば勝てる相手。好敵手と認めるような、強き者は美由希の生涯において存在しなかった。

 一方、翔は違った。
 未だ十五という若さでありながら、天守家の者として、多くの実戦に自分の意思で参加していたのだ。
 御神の一族が壊滅して、困ったのが今まで御神を頼ってきた者達だ。己の命を守護してくれた存在の喪失。重火器を必要とせず、圧倒的な戦力で身を守ってくれる御神の一族は重宝されてきた。
 彼らが次に頼ったのは御神と双璧をなした天守家。単純な話、仕事の依頼も倍増したわけだ。
 人手がたりなくなった天守家にとって、翔のような年端も行かぬ少女でも重要な戦力として数えられるようになっていた。
 そんなわけで、天守翔は信じれない数の任務をこなしてきていた。多くの敵と戦い、命の奪い合いを行い、実際に幾つもの人間を斬り殺してきた。
 勿論、毎回危険なことがあるわけではない。何か危険が迫ってきたことのほうが少ない。
 それでも、いつ、どこから、どうやって襲ってくるか判らぬ依頼を遂行するうちに、それは天守翔にとって得難い経験となって蓄積されていった。

 圧倒的なまでの実戦の差。死闘の経験の有無。
 それがここまでの差を、自然と生み出してしまっていたのだ。

「……っ」

 ガシャンと、背中が何かに当たった。
 チラリと確認してみれば、編み上げられたフェンス。どうやら、何時の間にか限界ぎりぎりまで後ずさってしまっていたようだ。
 逃げる場所を失った美由希を前にしても、翔は淡々と間合いをゆっくりと詰めてくるだけだ。
 焦る様子など見せず。確実に、仕留めるために。

 負ける。負けてしまう。
 高町恭也の弟子が。最強不敗の剣士の弟子が、無様にも、何の抵抗もできずに敗北する。
 最強の頂に立つ剣士が、己を鍛え上げる時間を裂いてまで、自分を育て上げたというのに。
 なんて無様な。なんて無様な。なんて無様な。
 このまま敗北しては、師に合わせる顔が無い。いや、価値さえない。
 
 ―――くっふっふ。悩んでおるのぅ。

 そんな時に、幻聴が聞こえた。朝に聞こえた圧倒者の声だ。
 何故よりによってこんな時なのか。いや、こんな時だからこそ聞こえるのだろうか。

 ―――死するのが恐ろしいのかのぅ?

 違う。それは的を外している。
 美由希が怖れているのは、敗北することだ。高町恭也を汚してしまうことだけが、恐ろしいのだ。
 死ぬことなど、それに比べれば塵芥にも等しい。

 ―――くっふっふ。死ぬことよりも、不破の小倅の名を傷つけることの方が怖いか。お主もまた、壊れておるのぅ。

 息が荒い。ハァハァという激しい呼吸音が響き渡る。
 それが美由希自身の呼吸音だということに、ようやく気づく。

 ―――よかろう。少しばかりの力をお主にくれてやろう。世界最強を欲しいが侭にした我が師から受け継いだ、森羅万象遍く切り裂く光の剣閃。あらゆる猛者を凌駕する、一騎当千の力をお主に。

 視界が染まっていく。
 白く。ただ白く。純白に染め上げられていく。
 それと比例して身体が軽くなっていく。自分ではない【誰か】の記憶が流れ込んでくる。
 腕が、足が、頭が、自分ではない【誰か】の技術が、染み渡っていく。

 ―――さぁ、受け取れ。これこそが、御神の極限。【御神恭也】より受け継ぎし、我が力也。

 記憶が蘇って来る。数百年の間生き続けてきた女性の記憶が。
 純白に染まる視界の中で、御神の剣神―――御神雫が狂ったような三日月の笑顔を浮かべて嗤っていた。

  






 
    

 
 

  
 
  







[30788] 十二章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/08/02 23:26







 北海道のある都市に存在する巨大な道場。そこは学校の体育館レベルの巨大さだ。それもそのはず、彼女―――が今いる道場は天守宗家が所有している道場なのだから。
 昔ながらの日本家屋と広大な敷地。その敷地の一画に巨大な道場まであるということで、天守家は地元でも相当に有名である。
 最もさすがに暗殺業や護衛を仕事としていることは秘密となっている。そこら辺は、御神の一族と同じで上手く周辺住民には隠しているのだ。
 そんな道場で、数多の剣士達が互いに鎬を削っている中―――道場の中央付近で壮年の男性と幼い少女が竹刀で打ち合っていた。
 男性の流れる水を連想させるほどに美しい剣閃が、弧を描き少女へと振り落される。
 瞬きした瞬間には打ち込まれるはずだった一撃を、少女はすんでのところで竹刀で防ぐ。
 防がれるとは思っていなかったのか、男性が目を見開き―――。

「よし、いいぞ。翔!!上出来だ」

 壮年の男性にそう褒められたのは随分と年若いが、天守翔だった。
 男性は―――現天守家当主にして実の父である天守隆。間違いなく天守最強の男として永全不動八門に知れ渡っている剣士である。
 隆の竹刀による一撃を完全とはいかないにしても、紙一重のところで防ぐことに成功した翔は、顔を嬉しそうに綻ばせた。

 齢十になったばかりの幼い身ではあるが、翔の才覚の高さは天守家の万人に知れ渡っているほどである。
 更には当主である隆が直々に指導をしていることもあって、翔の剣の腕前は十歳を迎えたばかりの少女にしては信じられらない高みに達していた。

 隆が本気で翔に打ち込んでいたかというと、勿論そんな筈もなく手加減をしてはいたが、それでも己の一撃を防いだ娘の頭を愛情を込めて撫でる。
 父に褒められることは多々あるが、これほどまでに喜ぶ父の姿は滅多に見られることでもないので、翔は心の底から嬉しそうに笑っていた。

「有難うございます、父上」

 くしゃくしゃと撫でられる翔は、はにかむような笑顔だったが―――突如ピタリと隆の手がなでつけるのを辞めたのに不思議そうに見上げた。
 すると今までの隆の歓喜の表情とは打って変わって、真剣な眼差しで道場の入口へと向けていた。
 次の瞬間、ザワリと道場の空気がざわめく。驚愕―――いや、畏怖のほうが正しいのかもしれない。
 隆や他の剣士達の視線の先に、一人の青年と少女が姿を現したのだ。その場にいる全員の恐れは青年にではなく、少女へと向けられていた。
 二十に届くかどうかといった年の青年は男性にしては珍しく、肩まで伸ばした黒髪。とはいってもだらしないという印象はなく、好青年を思わせる雰囲気を纏っている。
 少女は精々が十代半ば。青年よりも頭二つは低いが、見るものを魅了するほどに可愛らしい―――いや、どちらかというと美しいと言った方が正しいのかもしれない。研ぎ澄まされた刀をイメージさせるほどに、冷たい雰囲気を醸し出している。
 二人の纏っている雰囲気は正反対で、だからこそ周囲の人間の注目を浴びることになった。
 いや、雰囲気だけではない。放たれる気配も尋常ではなく、自然と一歩後退してしまいそうになる何かを二人は持っていた。

 現在の天守宗家において、当主の血を引くものは五人。そのうちの一人が翔だ。
 残りの四人のうちの二人が、目の前にいる。青年は天守翔太―――天守家長男であり最も当主に近き者として永全不動八門に知られている青年。剣の腕は当主に次ぐとまで噂されている。
 そして少女は―――。

 ―――天守翼。
 
 翔は、少女の名前を心の中で呟いた。
 そう、彼女こそが天守翼。翔の姉にして、天守家長女。
 天守宗家の一員でありながら道場に顔を見せるでもなく、自由奔放に日々を過ごしているため、ある意味天守で厄介者扱いされている節もある少女だった。少なくとも翔は、翼のいい噂を聞いたことは無かった。

「―――何をしに来た」
「私に聞かないでほしいわね。兄さんに無理矢理つれてこられたのだし」

 隆の深い重みを込めた質問に、翼は肩をすくめてた答えた。
 ただの質問ではなく、放たれる重圧は何時もの穏やかな隆のものではなく、傍にいるだけの翔でさえ膝を突きたくなるほどのものであった。  
 隆は、ジロリと息子に視線を向けると、罰が悪そうに翔太は頭をかく。

「まー、ほら。偶には妹と手合せ願おうかなーと」
「却下だ。相手にもならん」

 翔太の答えをばっさりと切って捨てた隆は、到底娘に向ける視線とは思えぬほどに冷えた眼差しで、翼を射抜く。

「―――ここから出ていけ。この場でお前と戦おうという酔狂なやつなどいない」
「連れてこられただけなのに随分な言われようね」

 確かに父親が娘にかける言葉とは思えなかったが、翼もまた父親に対する態度と言葉ではない。
 だが、他の天守の人間も翼には腫物を触るような態度を取る人しかおらず、姉の境遇を理解できなかった。

「まぁまぁ。折角道場まできたんだから俺と一回でいいから試合っていってくれ。どこまで腕を上げたか自分で確認しときたいんだよ」
「……一回だけならいいわよ」

 手を合わせて頼んできた翔太に渋々了承した翼。
 そんな二人を見て違和感を覚えるのは、翔だった。他の人間を窺ってみると誰もが苦虫をつぶしたような表情だった。
 おかしい。おかしすぎる。何故天守家において他を圧倒する翔太が数歳も年下の翼にあそこまで頼み込むのか。逆ならばまだ分かるというのに。
 これではまるで、翔太よりも翼の方が格上という立場ではないのか。

 そんな翔の思考を置き去りに、翔太と翼が向かい合い、竹刀を構えた。
 ピリっと空気が重くなる。翔太の烈火の覇気が道場を満たす。
 対して翼は試合が開始する前と変わらない。気だるげに、竹刀を床に向けたままの無形の位だ。緊張感など全くなく、対して翔太は妹の一挙一動を見逃すまいと集中力を高めていた。

 向かい合う事一分。
 重苦しい道場の空気を破るように、翔太が迅速の一歩を踏み出そうとして―――。 

 ―――戦いの決着は、瞬きする間もない瞬戦。

 道場の中には数十人もの剣士達がいたが、誰も彼もが声を出すことなく、自分たちが今見た光景を信じられないように、呆然としていた。
 道場の中央に立つのは天守家が生み出した異端児―――天守翼。
 何の感情も見せることなく片手に竹刀を持ちながら、道場の床に倒れふしている翔太を見下ろしていた。
 いや、見下(みくだ)していたというほうが正しいのかもしれない。

「―――つまらないわね」

 ふぅっと失望のため息を漏らした翼は翔太に対して背を向ける。
 これ以上ここにいても仕方ない。翼の態度は言葉よりも雄弁にそのことを語っていた。

 翼が道場を去って暫く誰も動けなかったが、数分たってようやく、道場内の空気が弛緩。
 周囲で呆然としていた野次馬達が、慌てて倒れている翔太に近寄って介抱を始める。

 そんな中でその場から動かない一人の少女がいた。それは、天守翔。
 愕然と翔は、姿を消した天守翼を凝視していた。今先程自分の目の前で起こった出来事が信じられない。

 姉が戦う姿は見たことが無かった。同性でありながら見惚れてしまう氷の美しさの女性だったため、戦いとは無縁と思っていたのだ。それがまさか―――次期当主と囁かれ、その実力は現当主に匹敵するという天守宗家の長男、天守翔太を苦もなく一蹴するとは夢にも思っていなかった。これは夢か幻かと、自問するも、現実にかわりはなかった。 
 一体どうやって翔太を倒したのか。竹刀を振るう姿はおろか、踏み込む瞬間―――いや、初動の影さえも見ることはできなかった。
 強すぎる。桁が違いすぎた。同じ人間とは思えないほどの超領域に、姉はいたのだ。

 ひたひたと黒い感情が這いよってくる。
 その感情に飲まれそうになった翔は、床を全力で殴りつける。
 激しい音をたてて、衝撃と痛みが拳に伝わってきた。皮が擦り剥け、血が滲む。

「―――ふざ、けるな」

 どろりと、暗い呟きが翔の口から自然と漏れた。
 許せなかった。誰を、と問われれば、己自身と答えるしかできない。
 姉の力も見抜けず、天才と周囲の人間に褒め称えられ、良い気になっていた自分が愚かだった。
 周囲の人間も気づいていたのだろう。翔では翼に遠く及ばないということに。それでも、翔を飼いならすために、称賛の声をかけ続けられた。
 思い返せば、翔が鍛錬をする時に翼を見かけたことは無い。
 天守家の人間達が一緒にならないように苦心していたのだろう。
 
 そのことに気づかず、自分の才に自信を持っていた。父に褒められ良い気になっていた。
 これでは、まるで自分は―――ピエロではないか。

 敗北感と無力感。
 自嘲の笑みを浮かべようとするが、それは笑みにもならなかった。
 その変わりに、目も眩むような、憤怒となって身体を支配してくる。
 己の胸へと手を当て、激しく爪をつきたてた。痛みが襲ってくるが、この程度で怒りは消すことは出来ない。
 思い出すのは、自分へと向ける姉の視線。何の感情も秘めてはいない、氷の視線。 

 ―――いいでしょう。天守翼。貴女はそのままで在り続けなさい。その才が有るが故の驕りと慢心の果てに在り続けなさい。何時か必ず、わたくしが貴女を、超えて見せましょう。

 天守翔は歯を食いしばり、もはや見えぬ姉の後姿を睨みつけていた。















 これがもはや遠い過去となる、五年近くも昔の翔の記憶。
 脈絡もなく、突然に過去の思い出が翔の脳裏を駆け抜けていった。
 何故、と一瞬思うが、一拍置いた後これがなんなのか理解できてしまった。
 これはつまり―――走馬灯というやつなのだろう。

 晴天を突き破るほどに高め上げられた純白の戦気。
 空に真っ直ぐと立ち昇る眼に見えんほどに高めあげられた闘気が巨大な白き刃となって振り下ろされた。
 避ける間もなく、その白刃が翔の肩から腹部にかけて、音もなく切り裂いた。
 
「―――ッハ」

 いや、違うと翔は切り裂かれた感覚を感じながらも後方へと逃げ出した。
 これは身に覚えがある。故に、即座に逃げの一手を打つことが出来たのだ。
 圧倒的な戦闘力から発する、幻視。相手に斬られたと錯覚するほどに、濃密な死の気配。
 天守翼や不破恭也といった、超越した剣士達と相対した時に似たようなことを経験したことがある。

 身体から滲み出ていた戦意で翔を退かせるまでに至った目の前の剣士―――御神美由希は、どこか焦点の合わない瞳で、後退した翔を窺っている。
 先程までの美由希とは思えぬ底知れぬ気配を漂わせ、別人としか言いようのない剣士がそこにいた。
 
 翔は何よりも敗北を恐れる。
 それ故に、相手と己との力量差を誰よりも鋭敏に感じ取ることができる。
 その翔が出した結論。それは―――どうやってこの場から離れるか、であった。
 想像の遥か上。全力をだしたとしても、恐らくは勝ちを拾うことは難しい。
 
 冷静にそう判断した瞬間、ぶわっと冷たい汗が背筋を流れる。
 先ほどまでの余裕は一切なりを潜め、近い未来に訪れる確実な敗北がすり寄ってきていることに歯噛みをした。
 そもそも翔が美由希に戦いを挑んだのも、確実に勝てると踏んだからだ。
 今回はあくまで顔見世程度のつもりだったとはいえ、まさかこのような圧倒的な力を隠し持っていたとは夢にも思っていなかった。
 
 無感情なままの美由希が、焦る翔を気にもかけず地面をけった。
 何かを蹴った音が翔の耳に聞こえた瞬間、既に美由希の姿は目の前に迫っている。 
 一瞬あがりそうになった悲鳴を噛み殺し、顔面へと放たれた拳を払いのけ―――逆にその手を掴まれ、気が付いた時には投げ飛ばされていた。
 視界が逆転し、感じるのは浮遊感。
 体を捻り、地面に激突することなく着地するも、それと同時に美由希の右回し蹴りが放たれる。
 
 両腕でその蹴りを受け止めるが、衝撃が突き抜けてくる。
 良く見知った技術。天守では【透】と、御神では【徹】と呼ばれる技術。
 防御を無視する、打撃の極み。誰もが理想とし、生涯をかけて追及する浸透撃。流派によっては秘伝とされる技術。
 己を凌駕するほどに磨き上げられた、美しさをも感じる蹴撃であった。

 ピキリと両腕が悲鳴をあげるのに耐え、美由希から間合いを取る。
 勿論それを見逃す美由希ではなく、勝負を決めんと猟犬の如く勢いで屋上を駆け抜けた。
 迫りくる美由希に敗北の予感を感じた翔だったが、何故か途中で足を止め、逆に翔との間合いを広げた。疑問に思うも、次の瞬間にはその謎が解ける。
 美由希が間合いを外したと同時に、どこからか一本のナイフが空を裂き屋上に突き刺さったからだ。

 誰が投げたのか、とナイフが飛んできた方角を見る。
 翔と美由希達からすれば上空。壁に掛けられたはしごの先―――貯水のタンクがある場所。
 そこに何時からいたのかわからないが、葛葉弘之があぐらをかいて座っていた。

「よう」

 ようやく気付いたのかとでんも言いたいのか、軽く手をあげ実に気安く挨拶をしてくる葛葉に、どんな返事をすればいいのか迷う。
 二人の視線を受けつつも、全く気にしない葛葉は立ち上がると、飛び降りて翔のすぐ傍へと着地した。
  
「何時からいたのですか、葛葉?」
「最初からいたっつーの。この学校で仕掛ける場所ってったら、屋上くらいしか思いつかなかったしな」
「……何をしにきたのですか」
「最初はお前と御神の戦闘を見学するだけの筈だったんだけどな。どうしても我慢できねーことがあったんでな。割りこまさせてもらったぜ」

 ふんっと不満気に鼻を鳴らし、葛葉は制服のズボンのポケットに両手を突っ込みながら翔の一歩前に出た。
 今の御神美由希の力は想像の遥か上。それがわからない葛葉ではないだろうに、一切の気負いは見られなかった。
 待ちなさい、と声をかけようとした翔の声は途中でつまり、言葉にならなかった。葛葉が背負う不気味な気配に少しばかり気圧されたためだろう。普段とは異なる葛葉の様子に、知らず知らずのうちに口内が乾いていた。
  
「別によ、お前と天守の一騎打ちを邪魔するつもりはなかったんだぜ?タイマンに茶々を入れられるのは俺も嫌いだしな。どっちが勝とうが負けようが、それを見届けるつもりだったんだわ、俺はな」

 ポケットに入れていた拳が、ミシリと音をたてた。
 余程力を入れていたのだろう。握り締めた本人にも、握り締めた痛みが伝わってくる。
 それでも、それが気にならないほどに葛葉は一つの感情に支配されていた。
 
「なぁ、御神美由希。お前は強いぜ?三ヶ月近く観察してたけどな。お前の才は尋常じゃねえ。しかも、信じられない努力もしてやがる。決して驕らず、慢心せず、剣の道を究めようとしているお前を俺は尊敬する」

 感情の見えない美由希の視線を受けつつも、葛葉の邁進は止むことはない。
 絶大なプレッシャーを感じながら、圧倒的な殺気の結界を身体全体で受けながら、葛葉は何の躊躇いもなく突き進む。

「でもな、今のお前は違うだろう?力を隠していた?そうじゃないだろう―――見れば分かる。今のお前の力は、借り物の力だ」

 忌々しげに唾を吐き捨てる。
 本当に腹を立てているのか、葛葉の瞳が怒りに燃えていた。
 
「果てしない努力と才能で辿り着いたのがお前の力のはずだろうが。得体の知れない、そんな力で得意げに暴れてるんじゃねーよ」

 葛葉と美由希の間合いは一足一刀の距離となり―――尋常ならざる二人の気当たりに、知らず知らずのうちに翔は息を呑んだ。

「借り物の力で何が出来る?何を誇ることがある?他人の力に逃げ出したお前は怖くねぇ。尊敬できるところもねぇ。悪いが、今のお前に負ける気はしねーぜ!!」

 ドンっと激しい音をたてて葛葉が疾走した。
 かつて廃ビル地帯で見た、恭也に向かっていった時と同等の速度で葛葉が走る。
 翔が知っている数多の猛者の中でも、上から数えたほうが早いほどに。超絶的な雷の如き疾走だった。

 地面を叩く一際高い音が鳴り響き、弾かれるように繰り出される葛葉の前蹴り。
 何の工夫もないが、それ故に速い。大気を打ち抜き放たれる槍を連想させる蹴撃。
 
 美由希の腹部に襲撃する筈だった蹴り足は、あっさりとかわされ逆に掌底を腹部にカウンターとして叩き込まれた。
 そのまま勢い良く弾き飛ばされ地面に激突。気がついたときには翔の足元に転がる結果となっていた。

「……」

 格好良く飛び出した割には僅か数秒で帰還する結果となった葛葉にどんな反応をすればいいのかわからず、呆然としている翔。
 対して葛葉は右手で掌底を叩き込まれた腹部をさすりながら上体を起こす。
 生半可ではない一撃をまともに受けつつも、気を失わない葛葉を少しばかり見直す翔だった。

「……負けないんじゃなかったのですか?」
「ばーか。良く聞いとけよ。負ける気はしねぇって言ったんだ、俺は。【気】はしねぇってな」
「―――子供の言い訳ですか」
「自分でも格好悪いとは思ってるがよ。アレにタイマンで勝てると思ってるのかよ、お前」

 くいっと親指で美由希を指差した葛葉が、呆れたようにため息を吐いた。
 葛葉の指を追って、再度改めて美由希を見やるが、相変わらず桁外れの気配を発している。正直な所勝ちの目を拾えるヴィジョンが全く湧かない状況だ。 
 一人―――では、だが。
 葛葉と同じくため息を吐いて翔は、一歩前に出て並ぶ。
 
「あまり歓迎できない状況ですが、この際仕方ありませんね」
「俺も二対一ってのは、嫌なんだからお前も我慢しろよ。一発ぶん殴れば、正気を取り戻すだろ」

 互いに憎まれ口を叩きながら、二人は口元を皮肉気に歪ませ美由希と相対する。
 一対一では勝ち目は無いに等しいが、二人でなら零ではなくなる。
 もはや最初の目的からかけ離れてはいるが、敗北という文字を刻まれるくらいならば、葛葉と手を組むのも仕方ないと心の底で自らを納得させたが、それと同時に不思議な高揚感が身体の奥底から沸々と高まってくるのを感じていた。
 敗北するかもしれない相手。葛葉と手を組み二対一という状況。だというのに、翔は久しく感じていない熱が全身を満たす心地よさを確かに感じていたのだ。
 
 ぴりぴりとした空気が屋上を満たす。
 流石の美由希も二対一という戦いは分が悪いと判断したのか、自ら仕掛けようとはしてこない。
 同じく葛葉と翔も、美由希の戦気の結界を前にして、そう易々と踏み込めないでいた。 

 次第に膨れ上がっていく三人の気配。高まる緊張。
 何かが切欠で今にでも爆発しかねない空間。互いの呼吸が止まり―――。

「二対一っちゅーのは、流石にうちも見過ごすわけにはいかへんなぁ」

 新たな気配がその空間に割って入った。
 頭を金槌で殴られたかのような衝撃。軽い言葉とは異なり、ズシリと重力が加わった気がした。

 ズンっという深い音が木霊し、屋上と階下を繋げる鍵が閉まった扉がへこみ、二度目の音で弾けとんだ。
 勢い良く飛んできた扉に、慌てて葛葉と翔が左右に散ってかわす。
 ガンと金属音が激しく鳴り、扉はその場でぐらぐらと揺れ続け、暫くたって振動を止めた。

 扉を隔てていたとはいえ、二人に全く気配を感じさせることなく、鳳蓮飛が屋上へとゆっくりと足を進めてくる。
 レンの姿を見て二人の目が驚いたように大きく見開く。美由希を監視していた時に何度か見た少女なのはすぐさまに理解したが、別人としか考えられないほどの気配を漂わせていたのだから。

「―――レ、ン?」

 レンの登場で驚いたのは二人だけではなかった。
 今まで無感情だった美由希の口からそんな呟きが漏れ出て、焦点の合わなかった瞳が徐々に戻っていく。
 
「ごめん、美由希ちゃん。ちょっと遅れてもうた」

 翔と葛葉の視線などなんのその。レンは普段と変わらぬ自然体で美由希に笑顔を向けた。
 この場で最も幼く、最も小柄な少女の放つ威圧感は、この場にいた全員の足を止めるほどのものであった。

「―――あ、ううん。ごめん、来てくれて、助かったよ」

 はっきりとしない意識を覚醒させるために首を軽く振って、そうレンに答えた。
 意識を取り戻したのを切欠として、先程までの凶悪な戦気はまるで幻だったと勘違いしそうなほど綺麗さっぱり消え失せていて、今の美由希は翔に押されていたときの彼女そのままだ。

 罠かもしれないという懸念を拭い去ることも出来ず、翔はまだ油断なく美由希とレンに注意を払う。
 そして葛葉は新たに表れた乱入者であるレンを一目見て固まった。阿呆のように、呆然とポカンと口を開いたまま、凝視する。
 そんな視線に晒されているレンだったが、少し気持ち悪そうに一歩後ろに下がっていた。

「―――天才。いや、異才」

 ぼそりと葛葉はそうんな言葉を呟いた。
 その呟きはあまりにも小さく、この場にいた三人の誰の耳にも届かず、消えていく。

「―――だが、おもしれぇ」

 葛葉の瞳にぎらりと炎が宿った。
 嬉しさを抑えきれないのか、口元を歪ませて、レンに向かって一歩を踏み出す。
 それを見た翔が慌てて葛葉を止めようとして―――。

「仕切り直しにせぇへん?」

 レンの発言で二人の動きが止まった。
 葛葉も翔も、突然の相手からの提案に、虚を突かれる形となり反応が遅れる。

「幾らなんでも昼間の学校でドンパチするのは非常識やと思うで?それに、何時邪魔が入っても可笑しくはない筈やし。また後日改め他方が互いの為にもいいと思うんやけど」

 ―――確かに。
 
 言葉には出さずとも翔は内心で同意する。
 最初に仕掛けたのは確かに翔だったが、彼女とてあくまで挨拶程度で留めようと思っていたのだ。
 翔も美由希も本来の得物である小太刀と刀を持っているわけでもなく、全力とはほど遠い状態ということもある。そしてなにより、美由希の底に眠っている得体のしれない力にも、できれば対策を考えておきたい。ただでさえ、蹴りを防御した両腕は未だ痺れているのだ。
 今は通常の美由希ではあるが、このまま戦いを続ければ何時あの時の鬼神の如き強さの状態へと変化するかもわからず、不確定要素が多すぎる。
 レンの提案を受け入れることを既に決めた翔は、どうやって葛葉を説得するか頭の中で考えながら横目で様子を窺うと―――。

「ああ、わかった。ここらでお開きにしとこうぜ」
「―――あれ?」

 反射的に声が出てしまった翔は、訝しげにこっちを見返してくる葛葉に、何でもないと手を振った。
 あっさりとレンの提案を呑んだ葛葉が、あまりにも【らしく】なさ過ぎて逆に不気味さを感じる。
 翔の知っている葛葉ならば、周囲の状況などお構いなしに、戦いに興じる。それが、戦いの申し子―――葛葉が生んだ黄金世代に匹敵する槍使い。葛葉弘之という男だというのに。

「帰ろうぜ、天守。んじゃ、邪魔したな、御神美由希。それと―――」

 葛葉がレンの名前を呼ぼうとしたのだろうが、言葉に詰まる。
 自分の名前を知らないため、葛葉が言葉を濁したことに気づいたレンは、真っ直ぐに彼の顔を見返し―――。

「姓は鳳。名は蓮飛。高町恭也を師と仰ぐ―――ただの中学生や」
「―――はっ。覚えたぜ、鳳蓮飛」

 攻撃されることを全く想定していない足取りで葛葉はレンの前を横切り、校舎へと続く階段へと消えていった。
 一方翔は、美由希とレンに相変わらず注意を払いつつ、背を向けることなく葛葉の後を追って美由希達の前から姿を消す。
 残されたのは、美由希とレンの二人だけ。
 互いに言葉はなく、緊張した雰囲気が屋上を支配し―――。

 ガンッと激しく何かを叩く音が響き渡った。
 その音の発生源は美由希だ。屋上の地面に敷き詰めてあるタイルを思いっきり叩きつけていたのだ。
 ギリギリと歯が軋む音がする。レンがこれまで見たことがないほどに、美由希の表情には悔しさの色が見て取れた。
 
 先程の戦いの結果は結果だけを見れば痛み分けに終わりはした。
 だが、もし【彼女】に力を貸して貰わなかったら。もし仮にレンがこなかったら。
 きっと高町美由希は敗北を喫していた。実力でも、何より心でも。
 葛葉と名乗った男の言うとおりだ。悔しいが、借り物の力で敵を打倒したとしても誇れることなどあるものか。
 そしてなにより、そんな勝利を果たして師である恭也は喜んでくれるだろうか。
 
 石畳を叩き割った拳の皮が擦り剥け、血が滲む。
 その拳を目の前まで持っていき―――。

 ―――次こそは、【私自身】の力で勝利を掴んでみせる。

 まるで意識を奪い取られていた時のように無表情になりながらも、どこか凄惨な笑みを浮かべて、美由希は去っていった二人の後姿を何時までも見つめていた。
 


 
 

  

  

  



  
 
 
 



[30788] 十三章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/12/28 02:58







「あ、あれ?ここ―――どこ?」

 間の抜けた声が出てしまった。
 そう自覚できてしまうほどに、気の抜いていた美由希はきょとんと周囲を見まわす。
 それもそのはず、美由希の視界に映るのは緑豊かな大森林。天まで届けと高くそびえたつ木々が、視界一杯を埋め尽くしていたのだ。
 これほどの大森林を美由希とてそうはしらない。精々が、春夏の休みに篭りに行く秘境の地であろう。

 流石の海鳴とてこんな場所があるはずもない。
 普段の鍛錬場所である八束神社の裏手に広がる森も此処までではないはずだ。

 寝てる間に連れてこられたのかと一瞬思ったが、流石に寝てる最中に動かされたら嫌でも目を覚ます。
 恭也が相手だったとしても、気がつける自信があった―――多分。

「うーん。私、何してたんだっけ……」

 両腕を組んで空を見上げる。
 しかし、空は木々の枝によって網目状に埋め尽くされており、空は見えなかった。
 うーんと唸りながら、何故こんな所にいるのかを思い出そうと、記憶を辿っていく。
 
「確か……今夜は鍛錬は休みにするって恭ちゃんがいってくれて……御飯食べて、お風呂はいって、久々に本を読んで……寝たんだけどなぁ」

 思い出す限り、こんな場所にいる理由は考え付かなかった。
 昼間に天守翔と戦い、改めて強くなる意思を固めたことは確かに覚えているのだが―――。

 そんなことを考えている、ふと気づくことがあった。
 今まで気づかなかったが、前方には大きな日本家屋があったのだ。現代風の家というわけではない。
 本当に昔の日本にあったような、古い茅葺屋根の家であり、郷愁を感じさせる。

「ようこそ、妾の世界へ」

 ガツンと頭を殴られたかのような衝撃。
 本能が膝を折らせた。ざっと音をたてて片膝をつく体勢となった美由希が、かはっと肺の中の空気を搾り出す。
 臓腑を直接握り締められたかのごとき、冷たくも深い空気へと何時の間にか入れ替わっていた。

 ガチガチと歯が音をたてる。師である恭也に勝らずとも劣らぬ剣の化け物が眼前にいたのだ。
 美由希の前に、家から出てきた女性がゆっくりと辿り着く。ふぁさっと歩くたびに髪が音をたてる。
 綺麗な女性だった。美しい女性だった。美と武を究極にまで圧縮さあせたかのような雰囲気を漂わせている女性だった。
 
 この人を知っていると―――美由希は己に語りかける。
 
 昼間に翔と戦ったときに、己の内に生まれ出でた僅かに触れた巨大な力の片鱗。
 身体に染み渡ってきた次元が違う御神の技術。禍々しい殺気。膨大な年月の果ての記憶。

「―――御神、雫さん?」
「如何にも。妾こそが、御神の剣神。御神雫也」

 意識しているわけでもないというのに、雫が語りかけてくる一言一言で押し潰されそうになる。
 
「果てさて、お主の疑問に答えようかのぅ。【ここ】は先程も言ったが、妾の領域。それと同時にお主の精神世界でもある」
「私の精神世界?」
「そうよのぅ。もっと分かりやすく言うならば―――夢の世界と認識してもらっても構わぬよ」

 確かに凄まじいほどの重圧ではあるが、敵意があるというわけではない。深く呼吸を繰り返し、早鐘のように高鳴る心臓を押さえつける。
 自分を取り戻そうとする美由希を温かい眼で見守り続ける雫だったが、二、三分もたった頃にようやく口を開いた。

「ところでお主―――妾のことを、【どこまで】視ることができたのかのぅ?」
「―――正直言うと、殆どわかっていません。数百年も昔から生き続けている、御神の生きる武神ということだけです」
「ふむ。最初はそんなものかの」

 美由希が言ったことは嘘偽りのない、事実である。
 幾ら精神体だけの存在とはいえ、数百年の昔から生きながらえてきた御神雫の記憶は膨大だ。
 ただの人間の記憶容量におさまるはずもない。人狼とのハーフである雫であるからこそ、何百年という歴史に耐え切れているのだ。
 もっとも―――細かいことは殆ど忘れてしまってはいるのだが。
 
「あの、一つお聞きしたいのですが……」
「ふむ。お主をここに呼んだ理由のことかの?」
「あ、はい。そ、そうです」

 雫は美由希の質問に先手を取って答える。それに若干どもりながら、頷き返す。
 ふむ、と雫は自分の腰に挿してあった小太刀に手を這わせた。それを見て美由希は、違和感を感じた。
 先程日本家屋から出てきたときの雫は何も武器を持っていなかったのだから。
 それなのに今は確かに二振りの小太刀が、雫の手元にあるのだ。まさか見間違うこともありはしないだろう。

「さて、お主に問題じゃよ。お主の先代―――御神琴絵がどれほどの実力があるか知っておるか?」
「―――師範代に話だけは聞いたことがあります。御神でも一、二を争うほどの実力者であったと」
「そう。その通りじゃよ。御神琴絵は、制限こそあれど御神家当主である御神静馬とさえも渡り合えるほどの実力を持っておった」

 そして気づく。
 自分の腰にも二振りの小太刀が挿してあることに。

「病弱な御神琴絵は鍛錬をすることはできなかった。それ故に超時間の戦闘には体力がもたなかったのよ。だが、こと剣術の腕に関しては群を抜いておった。確かに才はあったろうが、可笑しくは思わぬか?」
「―――確かに不思議には思えます。ですが、剣術に関しては貴女が力を貸していたのではないのですか?」
「命に関わること以外で妾はあまりに【表】には出ぬよ」

 あっさりと美由希の答えを否定し、雫はからからと笑う。
 それなのに、先ほどまで感じていた重圧がさらに、さらに増していく。
 しかも、不吉な気配を漂わせながら膨れ上がっていくのだ。ごくりと自然と唾を飲み込む美由希。
 
「それなら、御神琴絵さんは―――訓練ではなく、純粋な剣才のみで、そこまでの境地に?」
「残念ながらそこまでの才はなかったのぅ。むしろそのような才能のみで生きる奴など妾とて知らぬ―――と思ったが、一人身近におったのぅ」

 レンとかいう小娘の武才は驚嘆に値する、と雫が呟いたのが聞こえた。

「答えは簡単な話じゃて。御神琴絵は―――【ここ】で鍛錬を積んでおった。ただそれだけの話なのよ」

 雫の答えに、はっとなって周囲を見渡す。
 そして理解した。ここは精神世界なのだということを、思い出した。

「現実世界とは異なり、ここならば病弱な身も関係はない。ここであの娘はひたすらに妾とともに武を磨いておっただけの話なのだよ」

 御神琴絵は現実世界ではたいした鍛錬はできなかった。
 だからこそ、この御神雫の世界で剣士としての高みを目指していたのだ。
 体力だけはどうしようもない。だからこそ、この場所でひたすらに―――ただ、ひたすらに―――。

「さて、謎は解けたようで何より。では、始めようかの」

 黒き気配が【ここ】を侵食していく。
 
「お主に足りぬものは、様々ある。力然り、速さ然り、剣技然り―――されど最も足りぬものが経験よ。己を殺しにかかってくる相手との殺し合い。故に妾が―――」

 【それ】は死神だった。
 【それ】は悪魔だった。
 【それ】は剣神だった。

 目の前の御神雫という存在は―――。

 美由希の理解を遥かに超えた、伝説に名を残すに値した、あらゆる生物を消滅させるモノ。
 アンチナンバーズの伝承級。元ナンバーⅢ。全殺者―――御神雫。

 反応も視認も許さない、超領域の一閃が振り下ろされ、美由希の体を二度なぞる。
 それに気づけない、気づかない。圧殺される勢いで噴出された殺気に自由を奪われていた美由希が、ようやく後ろに飛び退き小太刀を抜こうとして、はしるのは激痛。
 ぽとんっと地面に何かが落ちる。それと時を同じくして噴水のようにあふれだす血液。
 地面を見れば、右腕と左腕が転がっていた。斬られたということに気づかなかったのだ。

「っぁ、ぁぁぁあああああああ!!」

 痛みを抑えることができず、雄叫びが上がった。
 どうすればいいのかわかあない。勝ち目が見つからない。いや、それ以前の問題だった。
 両腕をなくしてどうすれば勝てるというのか。ただでさえ勝ち目がみつからないこのような怪物に。
 雫に感じた恐怖、勝利を諦めた一瞬を、目の前の怪物は敏感に感じ取っており―――。

「それでは勝てる筈も無い。戦いを甘く見るなよ、小娘」

 トスンっと静かな音が鳴る。
 雄叫びが止んでいた。いや、声を出せなくなっていたのだ。視界が傾いていく。ずるりと、何かがずれる音が耳に届いた。
 どさっと地面に体が倒れる。そしてそれを見ている美由希がいたのだ。眼に見えるのは、地面に倒れている首から下の体。首と腕からあふれ出す鮮血が地面を染めていく。
 
 美由希の反応を遥かに凌駕する速度で雫は彼女の首を両断していた。
 そして、美由希の【頭】だけを片手で掴み、目線をあわせ―――凄惨に笑っていた。
 それを最後に美由希の意識は闇へと沈んでいく。これが死ぬということだと、どこか人事のように感じながら―――。

「っ―――う、あぁああ!?」

 意識が闇に沈みそうになる一瞬、光が美由希を引き上げる。
 痛みはもう消えていて、良く見れば首も、両腕も元通りになっていた。
 慌てて先程まであった傷口に触れてみるが、なんということもなく、すべてが元通りになっていたのだ。
 だが、思い返せば、生々しいほどの激痛。現実感。自分が斬られ、死んだという絶望感。
 
「っぅ、うあぁああげえええぇええ」

 そして美由希はその場で吐いた。
 胃の中にある物すべてをぶちまけるように、ひたすらに吐き続けた。
 精神世界であるのに、果たしてモノを吐けるのかという疑問が一瞬浮かぶも、そんな疑問はすぐに消える。

「先程も言ったと思うが、【ここ】は精神世界。お主の腕が斬られようが首を斬りおとされようが問題はない。ただ、痛みだけは現実そのままではあるがのう」

 吐き続けていた美由希を見ていた雫が、ざっと音をたてて歩み寄ってくる。

「安心するとよい。【ここ】では何度でも死ねる。ただし―――精神と肉体の結びつきは強い。もしも【ここ】で心が死んだのならば―――」

 後は言わずともわかるであろう、そんなことが読み取れる表情で雫は小太刀を抜く。

「では行くぞ。妾との殺し合いの果ての果てに―――何かを掴んでみせよ」 
  
 そして、死と絶望が支配する、御神雫との戦いは始まった。
































「いらっしゃいませ。二名様でよろしいでしょうか?」

 カランカランとドアについたベルが来客を告げ、翠屋の店内に恭也の声が響き渡った。
 新しく入ってきた客に、営業スマイルを浮かべ―――客には微妙にしかわからない微笑であるが―――翠屋の制服を着た恭也が、二名の女性を席へと案内をする。

 案内を済ませた後、他の客の注文が出来上がったという声が厨房から聞こえたのを確認。
 決まったら声をかけてくださいと告げ、注文の品を他のテーブルへと届けるために厨房へと向かう。

 柱にかかっている時計を横目で見れば、既に六時近くになっている。
 学校帰りの客もそろそろ落ち着きを見せ、ピークも過ぎた時間帯に突入し始めた。
 人によって違うだろうが、もう少したてば夕飯の時間になる家庭も多く、そのため翠屋は六時を回れば多少客足が落ち着くのだ。

 幼いころから翠屋を手伝っているため、随分と接客の仕事に慣れているとはいえ、元々笑顔が苦手な恭也にとっては鍛錬をするよりもよっぽど疲れるというものだ。
 ふぅ、と客から見えない厨房へと戻りため息をついているところに、同じく一息ついたのか桃子が顔を見せた。

「お疲れ様。本当に助かったわ。有難う、恭也」
「いや、人手が足りない時くらい協力はするさ」
「母親想い息子を持って、桃子さんは幸せ者ね」
 
 にっこりと笑うと桃子は、パンパンと恭也の肩を叩く。
 それを合図にしたかのように、再びカランカランと入口の扉が新たな来客を告げた。
 互いに顔を見合わせ、二人して微かな苦笑を浮かべ、頷きあう。

「さーて、恭也。もうひと踏ん張りね」
「ああ、頑張るとするか」

 厨房から出た恭也が入口で案内を待っている客のもとに足を向け―――立ち止まった。
 恭也の視線の先には、三人の少女がいた。
 銀髪の少女フュンフとおさげで丸メガネをした少女フィーア。そして、真紅の髪色の少女エルフ。
 世界を守護するナンバーズが擁する最強部隊【数字持ち】に数えられる一騎当千を誇りし、戦士達であった。

「やっ、キョーヤ兄。お久しぶりッス」
「……いらっしゃいませ。【昨日】に引き続き御来店頂きありがとうございます」

 世界に名を轟かせるほどの境地へ至った一人であるエルフは、そんな強者の気配を滲ませることはなく、いたって平然と恭也に声をかけてきた。
 対して恭也は一応は客であるエルフを邪険にできるわけもなく、三人にお辞儀をして答えた。
 
「いやぁ、キョーヤ兄ってばちょっと硬いッスよ。私とキョーヤ兄の仲なんだからもっと気軽にしてほしいッス」 
「―――ただの客と店員という関係で、どんな仲も何もないと思いますが?」

 エルフの意味深な発言もあっさりとかわす恭也だったが、彼女の無駄に大きな声が店内に響き渡り、一瞬静寂が訪れる。
 基本的に、翠屋の客層はほとんどが常連といってもいい。
 中高年の女性からしてみれば、恭也は幼い時から翠屋で働いていたため、良く見知っているといっても良い。我が子同然に可愛がっている常連も実は数多い。
 十代の学生からしてみれば、大人びて見える恭也は【格好良いお兄さん】として、話題の一つにでもあがるというものだ。
 言ってしまえば、この翠屋の中において恭也は、それなりに注目されているといっても過言ではない。
 そんな恭也に仲よさそうに話しかけているエルフの態度と発言は、翠屋という空間を一瞬とは言え静寂に導くには十分すぎる爆弾であった。

「せいっ」
「―――っ」

 周囲の空気が非常によくないと感じたフュンフが、にこにこと恭也に笑顔をふりまいているエルフの首筋に手刀を叩き込む。
 見事というしかない速度と角度で叩き込まれた手刀に、声も上げずにエルフはその場に崩れ落ちかけたが、一瞬失った意識を即座に取り戻したのか、崩れ落ちる一歩手前で踏みとどまった。
 
「洒落にならないッスよ、フュンフ姉!?今のは酷いッス」
「何のことだ?」

 涙目になりながら背後にいたフェンフに振り返り抗議をするが、そんなエルフの抗議などなんのその。バレバレではあるが、しらを切

り徹す態度のフュンフに、エルフは諦めたように重いため息を吐いた。
 フュンフの動きがあまりに速かったためか、何が起こったのか理解できた人間はこの翠屋において恭也だけだった。
 そのため特に騒ぎにはならなかったことに、恭也はエルフとは違った安堵のため息を吐く。
 そんな二人とは対照的に、一人冷静なフィーアがずりおちそうになる眼鏡を人差し指でクイッと持ち上げ―――。

「はいはい。二人ともこんなところで騒ぎを起こさないでねぇ。大人しく席にいきましょうよぅ」
 
 二人の諍いはここで終わりにしましょうという意味合いを含ませ、二人の間に割って入った。
 フュンフとエルフには見えないように、恭也に向かってパチリとウィンクを
する。それに気づいた恭也が三人を空いている席へと案内し、メニューを渡す。
 
「注文がお決まりになりましたらお呼びください」

 再度お辞儀をして、その場から立ち去ろうとした恭也
だったが、厨房に帰った彼を待っていたのは小悪魔的な笑みを浮かべた桃子であった。
 嫌な予感が恭也を刺激するが逃げるわけにもいかず、若干頬を引き攣らせて桃子が放つであろう台詞を待つ。

「お客さんも落ち着いてきたし、あんたは休憩とっていいわよー」

 ただし、と桃子は続ける。

「あちらの可愛らしいお客様とご一緒の席で休憩とってらっしゃい」

 やっぱりか、と恭也は痛む米神を親指で抑えた。
 義理の母親である桃子を恭也は尊敬している。恐らくは、父である士郎と同等ほどに。
 女手一つで恭也を、美由希を、なのはを―――そして、晶やレンを育てあげたのだ。誰も彼もが、まがることなく、真っ直ぐに成長できたのは間違いなく桃子のおかげだろう。
 欠点らしい欠点を持たない理想の母。理想の女性。きっと桃子を称するならばそんな感じに違いない。
 ―――ただ唯一の欠点ともいうべきものが、朴念仁であり、浮いた噂一つない恭也が女性と良い関係になるように、世話して回る趣味がある。それだけが、恭也としてみれば欠点と思えなくもない。

 こういった時の桃子には何を言っても無駄だと経験で知っている恭也は反論することなく制服を脱ぎ、フュンフ達が座るテーブルへと足を向けた。
 まるでこうなることがわかっていたのか、エルフは満面の笑みを浮かべ、恭也を誘うようにパンパンと自分の隣の椅子を叩く。
 特に逆らうわけでもなく、恭也はエルフの誘いを受け、彼女の隣の席へと腰を下ろした。
 エルフと並んで恭也。そしてエルフの正面にはフィーア。恭也の正面にはフュンフという形で落ち着くことになった。

 こういったことは別に今回が初めてというわけではない。
 エルフはここ二か月ほど翠屋に通い詰めてきている常連だ。フュンフもエルフに次いで多く、翠屋に食事に来ている。
 しかも、エルフは随分と明るく人当たりも良い。そのため、余裕があるときは桃子も世間話をするほどの関係になっているのだ。
 そのためか、恭也が翠屋で働いており、かつ混んでないときはこのように休憩に出されることが幾度かあったのだ。
  
「今日は何にするッスかねー。ここのはどれも美味しいから毎回迷うッスよ」 
「それには同感だが……ふむむ」
「私はそうですねぇ。【いつもの】でお願いしますわぁ」

 注文に困っていたエルフとフュンフがウンウンとうなっている中、フィーアはあっさりと注文を決めたのか、テーブルの横にきていたウェイトレスにいちはやく告げた。
 メニューと睨めっこしていたフュンフとエルフが反射的に、フィアーアの発言に顔を上げる。

「え?なに、フィーア姉?いつものって何ッスか?」
「私の聞き違いかと思うが、今なんていったんだ?」
「何か変なこと言ったかしらぁ?私は【いつもの】って言っただけよぉ」

 キランっと意味不明に丸眼鏡を光らせたフィーアが、どことなく勝ち誇った笑みを浮かべ、二人の質問に答える。

「い、い、い、いつもので通じるほどの常連だったんッスかー!?酷いッス!!これは抜け駆けじゃないッスか!?」
「それはどういうことだ、フィーア。如何にお前といえど、返答次第ではただではすまんぞ?」

 大慌てするエルフが思わずと真正面に座っているフィーアに食って掛かり、テーブルの上に乗り出そうとするのを、恭也がため息をつきつつ肩をひき元の席へと座らせなおす。
 フュンフの眼帯に覆われていない鋭い視線が、桐のようにフィーアに抉り突き刺さった。
 並みの者ならば、二人の無駄に強力な重圧に逃げ出したかもしれないが、フィーアには全くといって良いほど通じていない。付き合いも長いため単純に慣れてしまっただけなのだが。
 
 エルフの翠屋来店率は確かに高い。一週間で考えれば、そのうち三回はきていることになる。
 一方フュンフは、エルフには僅かに及ばないといっても週二回とちょっと。二人とも、十分な常連といっても良いだろう。
 だが、フィーアはそんな二人の来店回数を上回る。なんと驚きの週五回という、常連も吃驚のお客様であった。
 もっともフィーアが翠屋にきている理由は、エルフとフュンフとは多少異なる。
 
「あまり二人をからかっても仕方ないですわねぇ。実はアインお姉様からの指令をうけたのよ。ミスター恭也をナンバーズに招き入れるようにとのことですわぁ」
 
 実力行使に出られたらたまらないと、あっさりとフィーアはねたばらしをした。
 二人のことを良く知っているフィーアは、これ以上からかうとまずいと理解できていたのだ。

「む……そういうことなら、仕方ない」
「フィーア姉だけなんでそんな羨ましい指令を受けてるんッスかー?贔屓ッスよ!!」
「貴女達に任せたら碌な結果にならないことはわかりきってるからじゃないのぉ?」

 納得するフュンフと、ぶーぶーと相変わらず文句を言うエルフに対して、聞こえない程度の大きさで言い返すフィーアだった。
 その時ブルブルと、恭也は上着のポケットから振動が伝わってくるのを感じ、席を立ち上がる。仕事中だったためにマナーモードにしていた携帯電話に誰かしらから着信がきているらしい。
 突然席を立ち上がった恭也に、三人が視線を向けてくる。
 
「すまない。少し席を外す」
「わかりましたわぁ。それまでに注文を決めておきますから、おきになさらずにぃ」

 流石店内での電話はマナー違反となるので、恭也は翠屋から外へと出て、液晶に映っている相手を確認する。
 液晶に映った登録先の相手は、水無月冥。それに一瞬考え込む。一体何時の間に登録したのだろうか、と。
 考え込むのも一瞬。そういえば、喫茶北斗に何度か行っている間に連絡先を交換していたのを思い出したからだ。
 特に連絡をするという間柄ではなかったために、忘れてしまっていたのだ。

「はい、もしもし」
『―――ッ、怪我はない!?高町恭也!?』
「……特に怪我をしてはいないが。それよりもいきなりどうした?」

 相手との着信を繋いだ瞬間聞こえてきたのは、切羽詰った水無月冥の大声であった。あまりの大きさに、耳にキーンという妙な音が残される。
 まさか電話に出た途端、怪我の心配をされるとは思ってもいない恭也だったが、それでもやはり高町恭也。
 冷静さを失わず返答をし、さらには疑問を付け加えた。

 電話先の冥も、恭也に怪我がないとわかり幾分か冷静さをとりもどしたのだろうか。
 電話の向こうで安堵のため息をつき、それと同時に深呼吸を繰り返すのを、恭也は聞き取っていた。

『色々話したいこと、伝えなければいけないことがあるんだけど―――まずは一つ。鬼王の配下、四鬼の二柱。金熊童子と、虎熊童子の二人が、この海鳴に来ている』
「―――何かあったのか?」

 どうやら相当真面目な話だったらしい。意識して一気に神経を切り替える。
 四鬼といえば、恭也でも知っている相当に有名な鬼達だ。
 遥かな太古から生き続ける鬼達の王―――酒呑童子の配下として最も有名な鬼といえば茨木童子と鬼童丸。
 それに続くものが四鬼。熊童子、星熊童子、虎熊童子、金熊童子。鬼の中でも飛び抜けた力を持つ狂鬼達だと。

 そのうちの一体。星熊童子は随分と前に、天守翼が一騎打ちで破ったという話は聞いている。
 それを思い出し、ある程度の推測がついた。

「―――やはり、復讐か?」
『いや、多分だが違う。恐らくあっちも星熊童子がどうなったかまでは掴めていない。だから星熊童子との連絡が途絶え、最後に確認されたこの地まで二人がきたらしい。さっき殺音が二人とあってしまってね。星熊童子との連絡が取れなくなったのは殺音に殺されたからと勝手に深読みして帰って行ったんだ……』
「……それは、なんというか。とばっちりを受けてしまったようですまんな」

 確かに、と恭也は納得してしまった。
 星熊童子と戦った翼にして―――十分な怪物だったと言わせたほどの鬼だ。妹の天守翔がもし仮に星熊童子と戦ったならば、間違いなく負けていたと。結構な妹贔屓をしている翼がそういうほどの敵だったのだから、まさか人間に負けるとは他の鬼達も思うまい。
 海鳴に来てみて、敵対している猫神と会ってしまえば、彼女が星熊童子を殺したのだと勘違いしても可笑しくはない。
 そこまで考えて、ふとあることを思いつく。

「それで、何故そんなに慌てて連絡をしてきたんだ?四鬼はもう帰ったんじゃないのか?」
『―――ああ、その筈だ。その筈なんだけど―――人外と縁があるキミなら、出会っても可笑しくはないと思ったんだよ』
「縁があるとは確かに思うが……さすがに今回ばかりは考えすぎだ」

 ようするに、水無月冥は恭也を心配して電話をかけてきたのだ。
 多くの人外を惹きつける、高町恭也ならば―――四鬼と出会ってしまう確立も低くはあるまい、と。
 もっともそれは流石に杞憂で終わったようで、電話越しにではあるが、緊張の糸が解けたようだ。

 電話に集中していたためだろうか、翠屋の前で電話していた恭也は、一瞬とはいえ前方に突如現れた気配に気づかなかった。
 普段だったならば、出現したと同時にそれらの異質性にきがつけただろう。そして、見つかる前に気配を隠しやり過ごすことが出来た。いや、水無月冥の電話がなければ、翠屋から出ることもなく、相手に気がつかれなかった。
 誰が悪いということではない。ようするにこれは運命だったのだ。恭也と彼らが再び出会ってしまうことが。
 決して逃れることは出来ない、宿敵であり、怨敵であり、好敵手。それらから逃げることは決して出来ないのだ。
 
 電話に気を取られていた恭也が―――視線を随分と先に佇む二人へと向けた。
 夕陽が陰った気がした。突如夜を迎えたような、薄暗い気配が周囲に蔓延していく。
 それらの中心となっているのは、視線の先の二人―――いや、正確には一人の女性、いや男性なのだろうか。どちらかとは言い難い中性的な雰囲気を持つナニかだった。その隣に立つ大男は、隣のナニかを訝しげに見ているだけであった。

 中性的なナニかは、かなり若く見える。精々が二十を越えた位だろうか。身長も高すぎず低すぎず。百七十に届いていないように見える。柔らかそうな黒髪が耳を半分くらい隠し、長い後ろ髪は首の箇所でまとめている。その束ねられている後ろ髪はまるで、犬の尻尾のようにも見えた。
 深く、暗い死んだ魚のような瞳が恭也を捕らえている。不思議とそれを懐かしい気がした。
 睫も長く、顔立ちには凛々しさがあり、男性なのか女性なのか、やはり恭也には分かり難かった。
 
 一方隣に立っている大男は、普通だった。あまりにも普通すぎた。
 一度見たら忘れてしまう。そんな平凡で、普通。唯一つ、二メートルを超える身長ということだけは、他とは違っている。

 ナニかの視線は一直線に、真っ直ぐに、何の迷いもなく―――恭也にのみ注がれている。
 悪い気はしない。ここまで注視されたら普段だったならば、多少の気まずさを覚えるものだ。
 だが、何故かそれがないのだ。このナニかに見つめられていると、なにやらざわざわと心が揺れてくる。

「一つ、聞きたい」
『―――何を聞きたいんだ?』

 聞く前から分かってしまっている。
 恐らくこの質問の答えが、水無月冥の口から出る答えが。
 だからこそ、これは質問ではない。これはきっと―――確認なのだ。

「―――四鬼の二人は、どんな姿をしている?」
『一人は普通の男だ。本当に平凡な姿をしている、ただし身長だけはキミよりも高い。それが金熊童子だ。そしてもう一人が―――』
「―――男装の麗人、といったところか」
『っ!?いや、男か女かボクにはわからない。でも確かに――ー』

 恭也は最後まで聞くことはなく、ブツリっと、電源を切る。
 会話の途中で切ってしまったことは今度あったときに謝らなければいけないな、と思いつつ携帯の電源をおとした。

 それを合図としたのか、ナニかが一歩を踏み出してきた。
 死んだような魚の瞳が徐々にだが生気を帯び始め―――真紅に輝き始める。
 その瞳は、夜の一族らしく、ルビーのような輝きを放っていたが、それと同時に黒曜石のような暗さも秘めていた。
 
「ああ、わかる。わかるぞ。嬉しいのか、貴女は」

 自然とそんな言葉が口から出ていた。
 初めて会ったというのに、初対面の気がしない。冥はこのナニかが男か女かわからないと答えていた。
 それでも何故か恭也には分かっていた。このナニかが女性であるということを。
 きっとどこか遠い昔に―――。

 ゴキっと手首を鳴らす。軽く頭を振った。
 意識をさらに切り替える。日常生活を送る時のではなく、鍛錬の時でもなく、美由希と打ち合う時でもなく―――。
 
 ―――殺し合いの時の意識へと。

「く―――あは、はははは、はは。この世界に生まれ出でて幾星霜。今日、この日ほど嬉しかったことはない。お前は確かに盟約を守ってくれた。私と、否。【私達】と交わした盟約を―――」

 透き通るような声だった。平坦な声だった。抑揚のない声だった。
 だが、そこには確かに込められていた。隠し様のない、圧倒的な歓喜が。

「―――私の名前を覚えているか?いや、覚えていなくても良い。忘れていたとしても構わない。そのかわりに【今度】は私から名乗りをあげさせて貰おう。我が名は虎熊童子。お前を超えるためだけに数百年を捧げてきた―――同胞にさえも愚か者と呼ばれる一人の鬼だ」

 尋常ではない瘴気に風が戦く。空気が悲鳴を上げる。
 あまりにも格が違う、桁外れの人外が、突如そこに降臨していた。
 
「もしも、お前が現れなかったら愚か者で終わったであろう、我が人生。だが、お前は現れた―――現れてくれた。ならば私は、愚か者などでは決してない。私は―――幸せ者だと胸を張っていえる」

 冗談じゃ、ないと恭也は僅かな戦慄を感じた。
 これが、四鬼の一柱だというのかと。これが、星熊童子と同格だというのかと。
 話に聞く限りの星熊童子とは存在としてのレベルが、格が違いすぎる。
 これほどまでの存在感は―――人形遣いにも匹敵する、禍々しくも、凶悪な荒ぶる戦意。恐らくは、天守翼とて勝ちは拾うに難しいほどの人外。  

「さぁ、約束の時だ。【かつて】はお前に私の初めてが奪われた。ならば【今度】は私がお前との初めてを奪ってやる。存分に楽しもうぞ―――御神の魔刃よ」

 悲しいまでの覚悟と。
 切ないまでの想いと。
 虚しいまでの決意と。
















 




 恐ろしいほどの狂喜を漂わせ―――虎熊童子は足を踏み出した。





































-------atogaki-------------

え?え?四鬼の一体の星熊童子との扱いが違いすぎるんじゃないのか?
と思う方が大多数だとも思いますが……はい、違います。虎熊童子は後に、断章あたりで登場する予定です。
ついでに今回の北斗vs四鬼的な話は次の間章あたりで書くとおもいます。
何が言いたいかというと……星熊童子ェ



 








[30788] 十四章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/12/28 03:06













 空を渡り、白銀が煌く。
 最短の軌跡を持って、白銀の切っ先が美由希の防御をすり抜け、喉元を抉り貫いた。
 ごぽりっと血が吹き出す。力が抜けていき、一体何度目になるのかわからない、漆黒の闇へと意識を奪われかける。
 だが、駄目だと己を叱咤し、歯を食いしばり倒れかけた体を残された力を込めて立て直す。

 貫かれた喉元は、雫の小太刀が引き抜かれたあと、あっさりと塞がっていた。
 無傷の体。されど、もう何度殺されたのだろうか。

 二度目は頭を叩き切られた。
 三度目は心臓を貫かれた。
 四度目は両足を斬りおとされた。
 五度目は腹部を薙ぎ払われた。
 六度目は両目を潰された。

 それ以降は美由希の記憶にはない。
 覚えていられないほどに、幾度も幾度もこの世界で殺されていたのだから。
 或いは既に十回を超えているのかもしれない。いや、もしかしたら何十回も止めをさされているのかもしれない。
 
 そんな絶望の戦いの中で、美由希の攻撃は一度として雫に届いてはいなかった。
 正確でありながら、精密でありながら、流麗でありながら―――相手を問答無用で叩き伏せる狂暴な剣。
 柔と剛。それらを併せ持った、御神の極限と思わせるに値する武。

 反撃の糸口を全く掴めない。
 恭也のように、美由希の全力をださせようとする相手ならば、もっと善戦できたかもしれないが、生憎と御神雫にはそんなつもりは毛頭ない。
 淡々と小太刀を振るい、美由希を惨殺していく。解体していく。壊していく。

 一体何時までこんなことが続くのかと。果てしない痛みと恐怖が美由希を支配していく。 
 ぼろりと美由希の心の壁が崩れていく。これまで築いてきた自信と御神の剣が音をたてて崩壊していく。

 ―――もう、いいや。

 美由希はここで諦めた。
 戦うことを、剣を振るうことを。痛みと恐怖に負けてしまった。
 心が、御神雫に敗北を喫してしまった。

 それを理解した雫の視線は、凍えている。
 戦う前に見せていた僅かな温かみを帯びた視線はそこにはない。まるで虫けらを見下すかのように、冷たい視線だった。

 ―――所詮、ここまでか。

 言葉に出さない声なき声が美由希に届く。
 それでも、それでも、最早美由希に戦う気力は湧いてはこなかった。
 これまでの努力を一笑にふす、完全無敵の存在を前にして、美由希の心は完璧に砕け散る寸前だったのだ。

「―――そうか。ならばこれで仕舞いよ、小娘」

 鯉口をきって抜き放たれた小太刀が華麗に、流麗に、確実な死の匂いを漂わせ、美由希へと牙を剥いた。
 その切り落としは最短距離にて、美由希の頭蓋を叩き割る軌道で振り落とされ―――。

「っ!?」

 おぞましい殺気。いや、透明すぎる殺気を感じ、雫はその場から無理矢理に飛び退いた。その瞬間、美由希が反射的に抜き放った小太刀が雫が居た場所を蹂躙していったのだ。
 もしも雫が小太刀を振り落としていたら、間違いなくあの一撃をかわすことは出来なかった筈だ。
 まだ戦う気力があったのかと、半ば感心して美由希を窺ってみるが―――意識を失ったのか音をたてて地面に倒れる。
 暫く待っても、起き上がることもなく、やがて美由希の姿は徐々にぼやけ消えていった。

 残されたのは御神雫唯一人。小太刀を鞘に納め、右手に視線を這わせる。
 鋭い痛みが右腕に響いている。良く見れば、ほんの僅かであれど、確かに小太刀の傷跡が残されていたのだ。

「―――心が負けを認めていても、体がそれを拒否しおったのか」

 無意識にでも身体が戦いを継続するまで刷り込まれた技術。
 一体どれほどの時間を鍛錬に費やせばそこまでの域に達せられるのか。未だ十五、六程度の小娘が到達して良い領域ではない。
 
 それに決して心が弱いというわけではない。
 いや―――。

「あやつ、化け物かよ」

 雫の頬を冷たい汗が一筋流れた。
 背中が戦慄で粟立つ。あの、高町美由希の眼光にぶるりと身体が震えた。
 今回の戦いで雫が美由紀希を殺した回数は合計十八回。つまり十八度の死を美由希は体感していたのだ。

「十八度も殺されて、ようやく諦めおった」

 美由希がこの世界に来たのは今回が初めて。そう、初めてだったのだ。
 御神琴絵も、過去のそれ以外の雫の宿り主も―――二十を迎えてようやく【ここ】に来るに値する存在となった者ばかりだった。
 そして【ここ】で雫と刀を交え、早い者ではたった一度の死で負けを認める者もいた。
 根性を見せたものでも、精々数度。御神琴絵でさえも、八度の死を迎えた頃には限界を迎えていた筈だ。それなのに、美由希は十八度の死に耐え切ってみせた。

「―――成る程。不破の子倅が、己の武への探求を抑えてでも、育て上げようという気持ちが理解できるのぅ」

 あれは果たして天才か。あれは果たして鬼才か。あれは果たして異才か。

「高町美由希。我が全身全霊を持って鍛え上げて見せようぞ。お前こそが御神の剣神を継ぐ者となれ―――」

 ―――それとも御神雫をも凌駕する、狂才なのか。

 一人残された雫は、玩具を得た子供のように、楽しそうに歌を口ずさみながら日本家屋へと消えていった。






















「っ―――」

 深い闇の底から美由希の意識が浮上する。 
 パチリと開いた眼が捉えたのは、普段から見知った天井だった。窓からは太陽の光が差し込んできている。
 高町家の、自分の部屋で―――慌てて布団から飛び起きる。バックンバックンと激しく胸を叩く心臓が痛い。
 それを沈めようと、胸に手を当てて何度も呼吸を繰り返す。

 落ち着いて今の自分の状況を考えようとする美由希は、先程までの出来事を思い出す。
 御神雫との死闘。いや、相手からしてみれば死闘でもなんでもない。ただの戯れだったのかもしれない。それほどまでに差があった戦いだったのだから。
 ぎりっと何かが軋む音がした。それは自然ときつく握り締めていた拳。敗北を認めてしまった不甲斐ない己に対しての、際限なく感じる怒り。
 高町恭也を、師を汚してしまったのだ。それがとてつもなく許せない。

「―――ごめん、恭ちゃん。私は―――弱い」

 呟いて気づいた。
 何かを忘れていると。何かとても大切なことを忘れてしまっていると。
 それが何なのか思い出せず首を捻るのだが、どうしても思い出せずに気持ちが悪い感覚が湧き上がってくる。
 そして枕元に置いてある置き時計を見て―――朝七時を表示しているのを確認して固まった。
 
 慌てて起きて時計を握り締める。
 ガクガクと震えながら何度も時間を見返しているが、朝七時というのは変わらない。
 いや、七時一分になったことだけは、変化したことであった。

「た、鍛錬―――寝過ごしたぁぁあああああああ!!」

 昨日の夜の鍛錬は恭也は休みにしてくれたが、今朝の鍛錬までは休みにするとは言っていなかった。
 普段だったならば朝五時よりもはやく眼を覚まし準備をしている。七時といえばもうすぐ御飯の時間ではないか。
 夢の中で雫と殺しあっていたという良いわけなど通用するはずもない。
 兎に角、パジャマのまま部屋を飛び出して―――。

「朝っぱらから奇声をあげるな。流石に近所迷惑だ」
「きょ、きょ、きょーちゃん!?」

 ―――飛び出した廊下で恭也に激突しそうになった。
 
 丁度恭也も部屋から出てきたところだったのか、出会いがしらで激突する寸前に彼は美由希の額を手で掴んで止めていた。
 抱きとめるのではなく、手で鷲掴みにして止められたことが美由希は少しだけ悲しかった。

「あ、あの恭ちゃん、今朝は―――」
「ああ、気にするな。理由はわかっている」
「―――へ?」

 先手を打った恭也の返答に、美由希は間の抜けた表情となる。
 普段だったならば徹込みのデコピンを叩き込まれていたはずなのに、恭也の視線は妙に優しい。

「―――あまり無理はするなよ」

 ぽんっと肩に手が置かれる。じわっとした暖かさが掌を通じて身体全体に広がっていく。
 不思議な熱が冷たくなっていた心を、中からゆっくりと暖めてくれる。

 ―――ああ、この人は。兄は、師範代は分かってくれてるんだ。

 言葉少ない恭也ではあるが、心は伝わってくる。
 普段は色々と悪戯を仕掛けてくる兄ではあるが、辛い時や苦しい時は助けてくれる。どんな時も見守っていてくれるのだ。
 自然と涙が溢れそうになるが、兄の前でそんな無様は見せられない。
 唇を噛み締めて、笑顔で頷いた。言葉には出せなかった―――もし、返事をしたら涙が止められなくなってしまうのがわかっているから。

 恭也の顔を見上げて初めて気づくことがあった。
 昨日は天守翔のことを考えていたがために気づかなかったのだろうか、恭也の頬に一筋の切り傷があったのだ。
 既に塞がっているようで、深い傷ではないようだが、まさか恭也がどこかで引っ掛けるといったドジをやらかすはずがない。
 じっと見つめてくる美由希に気づいたのか、恭也が自分の頬の傷を手でなぞり、ああっと声をあげる。

「これが気になるのか?たいした怪我ではないから心配するな」
「で、でも……」
「なに……猫に、いや違うか。熊に引っ掻かれただけだ」
「い、いや熊に引っ掻かれたら死んじゃうよ!?」

 恭也の爆弾発言に美由希が思わず突っ込みを入れる。
 本来ならば熊に引っ掻かれるとか嘘も良いとこだろうが、何せ相手が相手だ。熊を素手で殴り殺す男。熊殺しであり熊喰らいの御神流師範代。下手に嘘とは言い難い。

「熊―――いや、虎だったかもしれん」
「いやいやいや!!虎のほうがもっとないよ!!日本のどこに虎がいるの!?」
「動物園にいるぞ?」
「動物園とか!?そこは普通例外でしょ!!野生の虎のことだから!!」
「いや。日本に野生の虎なんかいるわけないだろう。何を言い出すんだ、美由希?」
「ぅ、ぅぅ―――何時もの兄になっちゃった。でもちょっとだけ安心しちゃうよぉ」

 普段の意地悪な兄に戻った恭也に悲しくも、少しだけ嬉しい美由希は微妙な気持ちでほっとする。
 何せ肝心な時は傍にいてくれるくせに、普段は悪戯を仕掛けてくる大人びていつつ子供っぽい兄に慣れ親しんでしまっているのだから。
 そんなことを考えているうちに恭也は階段を下りていこうとして―――何かを思い出したかのように戻ってくる。
 うっとなりながら身構える美由希の横を通り過ぎ、なのはの部屋に向かっていた。どうやらなのはを先に起こすことにしたようだ。
 なのはの部屋を軽くノックして、入っていく恭也の後姿を見送ると、中から恭也の声が聞こえてくる。

「なのは。もう朝だぞ?早く起きるんだ」
「うにゅぅ。おにーちゃん―――おはよぅ」
「ああ、お早う。さぁ、顔を洗って御飯を食べるぞ」
「う~おにいちゃん……おんぶしてぇ」
「む。今日だけだぞ?」

 先程とは別の意味でちょっと涙がでる美由希。
 末っ娘のなのはに激甘な高町家長男―――高町恭也。
 私ももうちょっと優しくされたいと、先程考えたことをあっさりと否定して美由希はとぼとぼと階段を下りていこうとして―――。

「―――美由希」
「え、うん?」

 なのはの部屋から出てきた恭也に呼び止められて足を止めた。

「昼の間に十分でもいい。五分でもいい。睡眠を必ず取っておけ。今夜も―――地獄だぞ?」
「―――はい」

 真剣な恭也の物言いに、美由希はしっかりと頷いた。
 もっとも、格好良い発言をしてきた恭也は―――彼の背中を満喫している緩みきったなのはを背負ったなんとも締まらない姿をしていたのだけれども。
 




















 時計の針がカチリと音をたてて進む。それと時を同じくして、キーンコーンカーンコーンという授業を終了させる鐘の音が校内に響き渡った。
 黒板にチョークで教科書を書き写していた先生が、今日は此処までと宣言した途端、昼御飯を買い求める餓鬼の如き勢いで教室を飛び出していく数名の男子生徒。
 皆が成長盛りなのだから仕方ないとはいえ、その姿に周囲の女子生徒達の何人かは引いている。
 女子生徒達は仲の良いグループで固まり、残っている男子生徒達もどこかへ出かけたり、机を突きあわせたりで様々だ。
 
「それじゃ、俺達も食堂にいくか、高町。月村さん」
「ふぁーい」

 明らかに先程の授業を爆睡していたとわかるトロンとした目で、欠伸をしながら月村忍が赤星に返事をした。
 一応は女性らしく、口を手で隠してはいるが、深窓の令嬢にしか見えない忍がやる仕草とは思えない。
 最初は赤星も吃驚していたようだが、今ではもう驚きもしない。慣れとは恐ろしいものである。まぁ、赤星としても深窓の令嬢よりは今の月村忍とのほうが友人として付き合いやすいため気にしてはいない。

 恭也も軽く身体を捻り、固まっていた身体をほぐしながら立ち上がる。見事なまでに四限目は忍と同じく爆睡してしまっていたためだ。自然と発生した欠伸を噛み殺しながら赤星と忍の後に続こうとして―――。

「どーん!!」

 なにやら奇妙な声をあげて廊下から教室へと走って入ってきた小柄な人影が一つ。非常にちっこいスーツ姿の女性―――鬼頭水面だ。

 床を蹴りつけながら勢い良く恭也に身体ごとぶつかってくる。その速度はたいしたもので、この教室で狙われたのが恭也以外だったならば誰一人反応できなかっただろう。
 恭也も相手からの殺気は特に感じはしなかったので、自分に向かってくる小柄な影を受け止めようとして―――。

 ひょいっと身体を横に開き、闘牛士のように水面のタックルをあっさりとかわした。
  
「にゃ、にゃにゃにゃ―――!?」

 先程まで受け止める気だった筈の恭也の突然の気まぐれに驚いたのは当の本人だろう。
 スピードを殺しきれずに床に躓きごろごろと音をたてて転がっていき、ガンと鈍い音をたてて壁に激突。それでようやく動きが止まった。
 真昼間に起きた意味不明な出来事に、教室に残された生徒達は一瞬固まる。だが、一瞬だけだった。一秒もたてば生徒達は何事もなかったように、各々の食事を、談笑を再開させる。まるで今の凶行がなかったのように。

「さて、行くか二人とも」
「ええ、そうねー」
「……い、良いのか?」

 赤星勇吾戦慄。恭也とそれにあっさりと追従する忍に―――そして全てをなかったことにするクラスメイト達に。
 この教室で唯一の常識人。いや、恐らくは風芽丘学園で最もまともな青年は、床に転がっている水面を心配そうに窺っていた。
 その時廊下からもう一人の少女が頭をひたすらに下げながら入ってくる。

「ぁぁぁぁ。も、もう―――鬼頭先生ぃ。何やってるんですかぁ……」

 恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして、涙声になっている如月紅葉が、生徒全員に頭を下げながら転がっている水面の襟を掴む。
 そしてあろうことか、片手で襟を掴みそのまま床を引き摺りながら教室の外へと連れて行く。床を擦る音と、服で首が絞まり呼吸ができなくなった水面が瀕死の形相になっているが、そんなことは紅葉は気にしない。
 扉の外に出ると再度深々とお辞儀をして、ドアを閉める。
 
「……な、なんだったんだ?」
「恭也―――お腹すいたぁ」
「そうだな。食堂に急ぐか。席がなくなってしまうかもしれん」
「え。なに!?俺の疑問は気にも留められてない!?」

 赤星勇吾再度戦慄。
 しかし、このまま考えていても仕方ないのは確かで、食堂の席がなくなることの方が大問題なのも明白だ。
 結局の所そう判断した赤星も、いまいち納得できていないが食堂にいこうとしたところ―――。

 ガラッと扉が開く音が再度聞こえ、床に寝転がっている水面と、頬を赤くしている紅葉が再び扉の向こうに現れた。
 
「あ、あの―――高町先輩。その、少しだけお時間宜しいでしょうか?お話したいことが―――」
「はい、忍ちゃんバリアー!!」

 紅葉の言葉を遮って忍が恭也の前に立つ。両手を広げ、紅葉の視界から恭也の姿を覆い隠す。
 先程の水面の凶行と同じく、忍の突飛な行動に、紅葉が固まってしまった。

「え?あ、あの……えっと……」

 後ろに隠れる形となった恭也の様子を窺おうと、紅葉が右へ移動するとそれにあわせて忍も移動する。
 左に動けば、忍も鏡を見ているように動き、視界を塞ぐ。
 そんな行動が数回続き、ちょっと涙目になる紅葉に対して、ふふんっと勝ち誇った顔で立派な胸の双丘を見せ付ける。
 それに紅葉は、うっと気圧されたのか二歩後退し、己の胸に両手を当ててみるが悲しいかな、そこには忍を遥かに下回るモノしか存在しなかった。

「うちの―――負けです」

 敗北を認めた紅葉はそのまま床に転がっている水面を片手で引き摺りながらその場から去っていく。
 それをどや顔で見送っている忍に呆れつつ、恭也はドナドナの音楽を背負って去っていく紅葉の後を追うことにした。
  
「二人ともまた後でな」
「うん。いってらっしゃい、恭也」
「おう。レンと晶には俺から言っとくから心配しなくていいぞ」 

 紅葉を邪魔していながら至極あっさりと恭也を見送る忍と晶とレン達にどういう言い訳をするか考える赤星を置いて、恭也は廊下の曲がり角を曲がった紅葉と引き摺られている水面に追いついた。

「すまない。忍が失礼なことをして」
「へ?い、いえそんな!!こちらこそ、鬼頭先生が変なことして申し訳ないです!!」

 追いかけてくるとは思っていなかった紅葉が、どもりながら恭也の謝罪を受け入れ、必死になって首を振る。
 引き摺っていた水面の襟から手を離しわたわたと慌てた紅葉が―――あっと思う間もなく、重力に逆らえず廊下に頭を叩きつけられた水面が沈黙する。
 昼休みで騒がしいはずの廊下が一瞬静まり返った気がしたが、紅葉はどこか遠い目をして似合わないニヒルな笑みを浮かべた。

「あ、あの―――先程もお伝えしたのですが、お話があります。申し訳ありませんが、ついてきて頂けたら……」
「―――あ、ああ。わかった」

 水面のことは見なかったことにして、紅葉が先導するように廊下を進んでいった。恭也も敢えて触れずに紅葉の後に続く。
 喧騒が徐々にだがおさまっていく。部活動の部室がある棟へと紅葉は向かっていっているようだ。流石に昼休みまで部室に来ている生徒は少ないのか、圧倒的に人の気配が少ない。

 多くの部室が連なる一つ。そこの扉を開けて紅葉が恭也を招き入れた。
 中はそこまで広くなく、あるのは机と数個の椅子。机の上には幾つかのお菓子が放置してある。部屋の隅には小さい冷蔵庫が置かれていた。
 そのうちの一つの椅子を恭也にすすめ、座ったのを確認した紅葉が対面に腰を下ろそうとしたその時―――。

「―――もぉぉぉぉぉぉおおおおみぃぃぃぃぃぃぃいいいいいじぃぃいいいいいいいいいい!!」

 小さかった叫び声が少しずつ大きくなってくる。
 遠くからその声の主が廊下を駆け、こちらに向かってくるのが嫌でも分かった。
 数秒後には部室の扉がガンっと激しく音をたてて開かれ、廊下に放置されていた水面が飛び込んでくる。 
 
「あ、復活したんですね、鬼頭先生。何か飲みます?」

 悪気が一欠けらもない笑顔で冷蔵庫から飲み物を取り出そうとしていた紅葉に、毒気を抜かれた水面は怒りを霧散させるしかなく、恭也の隣の椅子に音をたてて胡坐をかいて座った。

「はい、鬼頭先生はオレンジジュースでしたよね。高町さんは―――緑茶でいいですか?」
「ああ、有難う」

 暖かいのはないのですみませんと謝りながらお茶を入れたコップを差し出してくる紅葉は、自分の分とあわせて三人分用意して改めて椅子に腰をおろし、コップに入ったお茶を一口して、ふぅっと幸せそうな息を吐く。
 
「それで、一体どんな話が?」
「あ、はい。ええっと……鬼頭先生からお話があるようです」

 ゴキュゴキュと一気にオレンジジュースを飲み干していた水面が、ぷふぁっと酒を飲んだ後のような反応で空になったコップを机に音をたてて置く。
 
「ちょっと高町恭也としてではなく―――【不破】恭也さんにお聞きしたいことがあるんですけど」
「―――話せる事なら」

 一応は全部は話すことはできないかもしれないということを釘を刺してから、恭也は水面に素直に答えた。

「んーっとですね。実はお聞きしたいことはずばり―――【御神と不破の怨念】って知ってたりしません?」
「御神と不破の、怨念ですか?」

 聞き返す恭也の反応を窺いなら水面が続ける。

「はい。実はつい先日のことなんですが、永全不動八門の一つ。風的の分家が一つ潰されました。その分家全員が皆殺しです」
「……」

 恭也は特に驚いた様子もみせず、水面の話を聞いていた。

「誰がやったかは今のところ分かっていません。証拠も手がかりも何一つ残されていなかったのですから。でも、手がかり一つないっていうのは可笑しいにも程があると思いませんか?仮にも八門の分家。それなりに腕の立つ者はそこそこはいましたが―――それなのに、彼らは外部と連絡することもできずに皆殺しにされたんです」

 空になったコップを両手で弄びながら水面は淡々と続ける。

「あ、訂正です。何一つ証拠はないといいましたが、たった一つだけ現場に残されていました。風的の分家の血で描かれた文字。それが―――」
「御神と不破の怨念、ということですか」
「はい。既に御神と不破の一族は滅びています。残されたのは不破恭也さんと御神美由希さん。私達が把握しているのはたった二人だけです。この犯行声明は、永全不動八門の上層部は、恭也さんの手によってだと考えているものが大多数です」
「……」

 恭也は沈黙を保つ。自分とは関係ないと、弁解もしない。
 それは例え弁解したところで意味はないからだ。言葉だけで信用させることは出来はしないだろう。
 さらには永全不動八門の上層部―――特に当主のさらに上である長老達とは良い関係を保っているとは言い難い。
 彼らが恭也の犯行だと考えて、決め付けたとしても仕方ないことだ―――例え恭也が関係なかったとしても。

「弁解、しないんですか?」
「仮に俺がやってないと言ったら貴女達は信じてくれるんですか?」
「え?信じますよ?」
「はい。高町さんがやってないと言ったらやってないでしょうし」
「……え?」

 恭也にしては珍しく間の抜けた声が口から漏れた。
 水面も紅葉も、何を言ってるんだこの人は―――といった表情で恭也を見ている。
 二人の発言は揺らぎもなく、嘘もない。二人は真実だけえを告げているのが恭也は嫌でも理解できた。

「ええ、まぁ、俺はそれには関わっていませんが……」
「ですよねー。幾らなんでも自分達の名前をでかでかと現場に残していく犯人なんて普通いないですし」

 けらけらと笑いながら水面は背筋を伸ばした。
 恭也の犯行ではないとわかった紅葉も張り詰めていた緊張の糸がとけたのか、安堵のため息をつく。

「色々考えてみたんですけどねぇ、犯人については。とりあえず御神と不破の名前を知っているということは間違いなく【こちら】側の人間です。パターンAとしてはそれは外部からの敵。私達永全不動八門と恭也さんを戦わせて戦力の消耗を狙う。そして後に漁夫の利を得る。パターンBとしては―――」
「―――永全不動八門内部の犯行」
「はい、その通りです」

 恭也の可能性の発言に、一瞬吃驚する紅葉と、あっさりとそれを認める水面。

「紅葉は気づいてなかったの?可能性としてはこっちの方が高いと私は踏んでるんだけどねぇ。何せ今代の永全不動八門の戦力は拮抗している。そこで、御神と不破と戦争を起こし―――その均衡を破壊する。戦いが起こると分かっていれば戦力を疲弊せずに後の時のために温存することもできるしさー」

 ギラリと不穏な目つきとなった水面が、天井を見上げ口元をゆがめた。
 
「はっきり言って恭也さんの存在を知っている人間は限られています。戸籍上は【死んで】いますしね。御神と不破の生き残りがいるなんて情報は裏の世界にも回ってません。外部の犯行というのは限りなく低い。恭也さんの身近な人物が裏切ったなんてことはありえないでしょうし。となれば、パターンAの可能性は潰れちゃうんですよねぇ」
「ぅぅ。身内の犯行に高町さんを巻き込んでしまったようで本当に申し訳ありません」

 水面の推理に、紅葉がへこへこと頭を下げてくる。
 頭を下げる紅葉を尻目に、コップを持ち上げくるくると人差し指の先で器用に回す。
 
 ですが―――と、水面は続ける。

「気になることがあるんですよ。上層部の連中はやけに恐れているんです。脅えているんです。永全不動八門の長老達ともあろう方々が、御神と不破の怨念という言葉を耳にしてから。恭也さんに対して異常なまでの恐怖を抱いているんです」

 それが分からないんですよねーと水面は締めくくろうとして、ふと何を思いついた表情でぽんっと手を叩く。

「―――三年前、何があったんですか?」

 そして直球に疑問をぶつけてきた。
 その答えに蒼白になった紅葉だったが、対して表情をかえない恭也は席を立ち上がる。

「なに。ただの化け物退治をしただけさ」
「ほほーう。まー、紅葉の様子から見て相当やっばいことがあったみたいですしねぇ。深入りは辞めて置きます」
「―――懸命な判断だ」

 席を立った恭也は部室から出ようとして立ち止まり―――。

「ああ。御神と不破の怨念は確かに存在するかもしれない、な」
「―――っえ!?」
「御神と不破の一族を滅ぼしたのは中国の闇組織【龍】。確かに、何度か対立はしたが元々の活動域が異なっている。それなのにある日突然爆弾を仕掛けてくるとは―――これは可笑しいと思わないか?」
「……え、でも。いや、確かに……」

 突然の恭也の発言に場が凍っていく。
 そして、それに妙に納得してしまう。水面が調べた限り十数年前に起きた御神と不破崩壊の事件には確かに不審な点はいくつもあった。恭也の言ったとおり、中国を本拠地としている組織が態々日本の一族を滅ぼしにかかるだろうか、と。
 成功したのならまだいい。だが、失敗した時のリスクが高すぎやしないか、と。
 御神と不破の一族は異常だ。異様で異質な殺戮一族だ。敵に回したならば、存在の全てを抹消される。
 圧倒的な武力で。不可視の如き隠密性で。一騎当千の力を持つ剣士達の戦力で。
 飛び抜けすぎたヒトという名の化け物達。それが御神と不破の一族だった。永全不動八門で最強の名を欲しいままにした。

 自分だったならばどうするだろうか。もし仮に自分が【龍】の立場だったら―――。

「あ、ああ……ああ―――ま、さか……」

 これ以上ないほどに高めた集中力が、ある一つの答えを導き出す。
 今まで考えないようにしていたある事実。あるわけがないと、敢えて考えないようにしていたある事実。

「【龍】、はただでは動かない。でも、どこかの【誰】かに依頼されたならば―――」

 冷たい恭也の言葉が鋭利な刃となって心の蔵を抉る。言われなくても気づいてしまっていた。優れた水面の思考力が恐ろしい結果に辿り着く。
 それが真実とは限らない。それでも、これは、この考えは―――今まで考えていたどの可能性よりも、高い。
 ガクガクと水面の身体が震える。とんでもない可能性に気づいてしまったがために。
 恐怖に染まった視線で扉から出て行こうとする恭也の反応を窺っていた。

「―――【御神と不破の怨念】は、【ある】かもしれないな」

 その一言だけを残し―――高町恭也はその場から立ち去っていった。 



 



















-----atogaki-------


時を遡ること数百年以上前。

茨木童子>酒呑。そろそろ私達以外にも幹部を指定したらどうです?
鬼童丸>あ、それはいいですね。現場で他の鬼を指揮する人材が欲しいと思ってたんです。
酒呑童子>あー?めんどくせーなぁ。
茨木童子>そんなこと言わずに決めてくださいです。
酒呑童子>しゃーねぇなぁ。とりあえずつえー順番でいいだろ。
鬼童丸>でしたら、虎熊童子と金熊童子は確定ですね。もうちょっと欲しいんですけど……。
茨木童子>それなら熊童子もいれたらいいですよ。あの子最近力をつけてきてますです。
酒呑童子>んじゃ、その三人でいいよな。
鬼童丸>三人って何か語呂が悪いんですよね。もう一人加えませんか?
茨木童子>むぅ。他は結構などんぐりの背比べです。
酒呑童子>あー、ほら。あいつ。長いこと生きてる奴いただろ?確か星熊童子とかいったな。もうそいつでいいわ。
鬼童丸>そんな適当に決めていいんですか?
酒呑童子>はい決定。もう確定だからな。とりあえずそいつらのこと四鬼とよぶようにしとけ。
茨木童子>どうなっても知らないですよ。


といった取り決めがあったとかなかったとか。



[30788] 十五章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2013/01/02 18:11





















 夜というには少し早い時間帯。空に浮かぶ太陽が沈みかけ、橙色の夕陽が海鳴の街へと注がれる。
 部活動がない学生達が下校しているらしく、商店街は多くの人が見受けられた。学生達だけということはなく、今夜の夜御飯の材料を捜し求め、数多くの主婦も足早に各々の行き付けとしている店へと向かっていた。
 そんな主婦達に紛れて、一人小柄な人物が人波を容易く潜り抜けて、自分の目的の商品がある店舗へと辿り着く。

 その人物は鳳蓮飛。他の学生と同じく学校帰りのようで、海鳴中央の制服に身を包んでいた。
 高町家のメイン料理人としてのプライドを持つ彼女は、少しでも安く少しでも質の良い食材を買うことに命を賭けている。多くの店舗を回り、自分の目で値段と質を確かめ、購入するのだから時間は当然かかってしまう。
 
 中学一年生ともなれば友人と遊んだり、自分の趣味に時間を費やしたいと思うのが当然であろう。
 だが、レンは違う。高町家に居候している身―――ということは関係ない。
 お世話になっている桃子や、高町家の全員のためを思えば多少の苦労は全く気にもならない。
 ましてや、尊敬し、敬愛する師匠に手料理を振舞えるということは、レンにとっては苦労どころか逆にご褒美でもあるのだから。

 今朝ポストに届けられていた複数枚のチラシは既に学校でチェック済みだ。
 どの店舗でどの商品が特売されているのか、頭の中に叩き込んでいる。商店街のどのルートでいけば無駄なく、はやく回れるのかは想定済みだ。
 学校の休み時間にそんなことをチェックしているのだから、レンの友人達は微妙に呆れはしている。まるで主婦のようだと、もはや何度言われたことだろうか。

 勿論レンは広告にだけ頼っているというわけではない。
 各店舗の商品の相場は全て記憶してあり、それよりも安い商品があればそれを購買する。広告以外にも、それにのっていない特売商品というものは稀に存在する。
 店舗のすべての商品を見回る時間は流石にないので、すれ違う主婦達が持っている袋を気がつかれないようにチェックしていたのだ。
 広告にのっている商品以外で多くの主婦達が購買していれば、それは特売商品である可能性は高い。
 頭のなかで今夜の晩御飯のメニューは決定しており、それに使用できる物であれば、購入を検討する。
 まさに主婦の鑑。鳳蓮飛―――十三歳。現在中学一年生。

 一時間以上も買い物に時間をかけたレンだったが、ようやく今夜の食材が揃ったようで、ほくほくの笑顔で商店街から高町家へと帰路につく。
 考えていたよりも大分節約できたので、思わず鼻歌を歌ってしまう。
 買い物する前は夕陽が眩しかったが、現在は既に陽が落ちかけて―――街路の電灯がつきはじめていた。
 
「はよう帰らなあかんなー」

 一人ごちたレンは両手にもった買い物袋をきつく握り締め、少し早歩きとなった。
 高町家まで十数分程度で帰る事ができる距離なのだが―――レンは、はぁっと項垂れて足を止める。
 半眼で後ろに足音もたてずについてきていたストーカー、もとい葛葉弘之を睨みつけた。

「なんや。うち今から晩御飯の用意で忙しいやけど……」
「―――時間は取らせねえよ。ちょっとツラ貸してくれねえか?」
「……いやや、ってゆーても無駄やろうなぁ」
「よくわかってんじゃねーか」

 獰猛に笑った葛葉とは対照的に、レンの顔色はすぐれない。
 屋上で出会って以来、やけに視線を感じると思っていたが、特に接触はしてこなかったので放置してはいた相手だ。
 それなのによりによって、自分が晩御飯担当の今日―――しかも、こんなギリギリの時間に声をかけてくるとは。

「十分ならええですよ」
「ああ、それで充分だ。ついてこい。良い場所がある」

 薄暗い横道にはいり先導する葛葉についていくレンの足取りは重い。
 頭の中でどれだけの時間を割けれるのかを組み立てていく。先程自分が言ったように、十分。まさにその程度の時間しか今から使用することができない。
 今日は買い物に少し時間をかけすぎたのもあるし、もし晶と共同作業の料理当番の日であったならば、多少は融通が利いた。しかし生憎と今日はさっきも考えたように、レン一人の当番の日だ。
  桃子は翠屋で遅くなり、フィアッセは歌のレッスンがあって高町家にはこれない。晶は隣町にある明心館に稽古に行っている―――相変わらず巻島館長にぼっこぼこにされて帰ってくるのだろうけど。なのはには流石に料理を任せれないだろうし、恭也は論外だ。料理ができないということではなく、敬愛する師匠の手を煩わせるわけにはいかないと言う事だ。

 そして―――レンは致命的な、あまりにも危険なあることに気づく。
 桃子は駄目。フィアッセも駄目。晶も駄目。なのはと恭也も駄目ときて、自分がもしも、晩御飯を作るのが遅れたらどうなるのか―――。
 消去法で残されるのは、高町美由希唯一人。
 それはまずい。それは危険だ。それは、それだけは―――。

「あかん……下手したら死人がでるかもしれへん」

 ぞっとする。もしも、帰るのが遅れたら自分の考えが現実になるであろうことは予想がついた。
 十分ではぎりぎりすぎる。間に合わない可能性も出てくる。それでは師匠に合わせる顔がない。

「―――やっぱり五分や。悪いけど、手短にすませるで」
「お、おう……」

 鬼気迫るレンの表情に、ちらりと見てきた葛葉の返事が上擦った。
 妙なプレッシャーが背後のレンから噴き出し始め、前を歩く葛葉は気が気ではない。
 自然と早歩きというか、競歩のレベルにまで達した葛葉は、すぐに自分の目的の場所へと到達することが出来た。
 周囲は空き家に囲われた、雑草が生えている空き地。昔の空き地を思わせるように、隅っこには土管が三個ほど並べておいてある。
 葛葉は土管まで歩いて行くと、穴の中から細長い袋を取り出す。しゅるっと縛っていた紐を外し、中にはいっていた槍を取り出す。槍といっても真剣というわけではない。穂先は丸い布で覆われ、槍というよりむしろ長い杖と言ってもいいかもしれない。

「細かい説明はいるか?」
「できればして欲しいんやけど……時間もないしええですわ」
「くっ……やっぱ面白い奴だな、お前」

 突然武器を向けられたというのに、レンは慌てるでもなく脅えるでもなく、両手に持っていた買い物袋を邪魔にならない場所へと置いて肩を回す。
 普通の人間ならば、葛葉の頭がおかしいのではないかと疑うかもしれないのだろうが、レンはなんとなく分かっていた。
 この前屋上であった時に一目で気づいた。この男は―――武【に】狂っていると。

 力を得るためならば。武の頂に立つためならば。強くなるためならば。
 この男は全てを無視する。感情も、事情も、法律も―――葛葉弘之を止めることはできない。
 止めることができるとするならばそれは、葛葉弘之の武を上回る、さらに凶悪な武のみ。

「―――うちが目をつけられたのは不幸中の幸いやったなぁ」
 
 両足を開き、左手を前に出し、右手を胸の前当たりでピタリと止める。
 葛葉の槍もまた、空中で僅かな揺れもなく静止し、レンを牽制するかのように向けられていた。

「晶やったら【今】は勝てへん手練れやったわ」

 まるで自分だったならば勝てると聞こえる物言いにも葛葉は反応しない。
 それもそのはず、槍を構えている葛葉は今―――。

 ―――なんだ、こいつは!?

 驚愕。戦慄。驚嘆。
 槍を揺れずに構えるだけで精一杯であったのだ。先日屋上で見たときに確かに凄まじい才だと一目でわかった。
 レン以上の才能あるものなど、天守翼や黄金世代と謳われる永全不動八門の天才達くらいだろうと。
 だからこそ戦いと思った。不破恭也に破れて以来鍛え続けてきた己の武がどこまでの高みに達したのか。それを鳳蓮飛という小さな天才にぶつけて確かめたかった。
 寝食する時間さえも惜しんで練り上げられた努力が、才能を覆すということを証明するために、葛葉弘之という男は修行に明け暮れたのだ。
 
 この前の屋上で向かい合った時、強いとは分かっていた。だがそれでも、戦えば勝てると思っていた。葛葉の知覚できる限り、僅かに自分の方が勝っていると、確信できたはずだった。
 それなのに、今此処でこうして対面している時に感じ取れるのは―――葛葉弘之を遥かに凌駕する実力の高み。 
 実力を隠していたのか、と疑う葛葉だったが、自嘲気味な笑みを浮かべた。
 そんなわけはない。その程度を感じ取れないはずがない。ならば答えは一つしかない。
 鳳蓮飛は、僅か数日で―――己の力量を跳ね上げた。葛葉弘之との実力を逆転させた。その小さな身体に眠る際限なき、武の才で。

「くっ……ははは。黄金世代なんてレベルじゃねぇ。器じゃねぇ。あらゆる凡人も、秀才も、天才も置き去りにしちまう―――【次元】が違う孤高の神才かよ」

 もはや呆れることしかできはしまい。己が実力を確かめるなどとはおこがましいにもほどがあった。
 手合わせ願おうとした相手はなんということもない。将来的には不破恭也にも比肩する頂に立つであろう、怪物であった。
 だからといって戦いを諦めることはしない。己が手に届かぬ所に行ってしまったのならば、届けて見せよう我が槍で。

 ズズっと音をたてて地面を踏みしめていた足がめり込んでいく。
 大地にめり込むほどに力強く、葛葉弘之は集中力を高めていった。全力。全開。この戦いの後に僅かな余力も残さなくて良い。
 そんな力を残すくらいなら、今全てをかける。噛み締めていた奥歯がバキっと小さな音をたてる。
 
 対するレンもまた葛葉に驚嘆する。
 レンの小柄な体を見て、武に優れていると考える相手はそうはいない。それに付け加えて、細い腕と足。外見だけを見て侮られることは数多い。
 だが葛葉は違った。初見に会ったときにその力を見抜かれ、現在も決死の覚悟を向けてくる。
 自分が上だと思っていたら、ここまでの気配は放てまい。相手を格上と認め、己の全盛をかけて向かい合ってきている。
 たかが中学一年生を相手に、しかも無手の少女を前にして、葛葉弘之は全てをかけようとしていた。
 
 ―――これは【無傷】ではすまへんかもなぁ。

 緊張で口の中が乾いていく。唾液もでてこないほどに戦いで緊張したのは初めてかもしれない。
 師の高町恭也は別格として、良きライバルである城島晶でもここまでの緊張感は望めないだろう。
 【戦う】ということを楽しいと思ったことは一度もない。有り余り、溢れ続ける武才を持ちながら、鳳蓮飛は平穏を望んでいる。高町家で過ごす日常生活が永遠に続けば良いと、心からそう思っている。
 だが、しかし―――。

 ―――なんや。ちょっとうちワクワクしとるかもしれへん。

 自然と口角が釣りあがる。これから起こるであろう戦いを脳裏に描いて。
 葛葉の目に見えるほどに高まりきった、レンの戦意に彼もまた息を呑む。
 広範囲に渡って膨れ上がるのでもなく、立ち昇るのでもなく、鳳蓮飛という小さな身体に凝縮され、濃縮された闘気ともいうべき不可視の重圧が葛葉をその場に縛り付けた。

「ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 己を鼓舞するように葛葉が吼えた。
 レンが放っていた重圧を撥ね退け、雷光が地面を駆け抜ける。
 晶とは全く違った音速の域。超疾走から突き出された槍は、これ以上ないほどに美しく、見惚れる軌跡で、レンの腹部を貫いた。
 勝ったとは思わない。貫いたとは思わない。自分の一撃が鳳蓮飛を上回ったとは思わない。
 何故ならば、自分の手に残っているのは何の感触もない―――空気をからぶったモノだけだったのだから。

 槍が貫いているレンの姿が消え失せる。これは残像だったのだと葛葉は消える前から気づいていた。
 葛葉の視界には彼女の姿は見られない。一体どこに行ったのか、と考えることはなかった。極限の集中力がレンの居場所を伝えてきたのだ。丁度葛葉の左背後となる空中に軽く跳躍して、レンはいた。

 右足がしなる鞭となって振り下ろされる。葛葉に避ける事さえもさせずに、足の甲が彼の後頭部に叩きつけられた。
 視界に火花が散った。後頭部の衝撃は凄まじく、意識が飛ぶ寸前で必死になって堪える。
 耐えろ、耐えろ、耐えろと己に言い聞かす葛葉を嘲るように、振り下ろした右足の力を利用し、回転。
 空中での後ろ回し蹴りへと変化させ、今度は左踵が叩き込まれる。後頭部への二連撃。下手をしたら死ぬこともあるだろう攻撃を受けてなお、葛葉は意識をとばさなかった。
 地面に倒れるかと思われた瞬間、片足を前に出し、両足を使って踏みとどまる。
 
「っぅぁあああああああああああああああ!!」

 未だ空中にいるレンに向かって最後の力を振り絞り、槍を振り回す。
 円を描いて自分へと牙を剥く槍を冷静に見ていたレンは、槍の半ばを片手で掴む。そのまま振り落とされるかと思いきや、恐るべきことにレンは片手で、しかも空中で倒立の姿で静止した。
 目を疑い、一瞬動きが止まった葛葉の隙をつき、レンが槍から手を離す。槍を踏み台として倒立状態で跳躍した彼女が前方へと回転し、右踵落しが襲い掛かる。
 
 葛葉は槍から手を離し、それを片手で防ぐ。そして反撃を試みようとしたその時―――。
  
 脳天に響き渡る衝撃。時間差で振り落とされた左踵が、攻撃に移ろうとした葛葉の頭に直撃したのだった。
 三度に渡る連撃を喰らい、流石の葛葉も耐え切ることは出来ず、その場に腰が砕けたかのように倒れ、仰向けになって倒れふした。
 空中での武の舞いを終えたレンが音もたてずに着地する。痙攣している葛葉を見て、彼女は―――。

「あー。やっぱり【無傷】では終わらせれへんかったかぁ」

 そう呟いた。
 戦いの前に考えていたこと。無傷では済まない。それは自分のことではなく、今から戦う相手の心配だったのだ。 
 相手を侮っていたというわけではない。レンは自分の武で誰かを傷つけることは好まない。だからこそ、全力を持って戦い相手を無傷で掌握する。それを基本的には心がけていたのだが―――。

「あかん。おにーさん強すぎやん。無傷で勝とうなんて甘い考えで戦えへんかった。許してなー」
「は、はははは―――かい、ぶつめ」
「お、ぉぉ?意識あったん?」

 意識がないと思っての謝罪に、返事が返ってきたことに一瞬驚く。
 先程の三連撃をまともに受けて意識が飛んでいないとは夢にも思っていなかった。
 直撃を避けて、衝撃を逃すように身体を動かしていたのかもしれないと、最後の踵落しに感じた違和感に気がつく。
 意識があろうがなかろうが、もはや戦うことは出来ないのは明白であったが。

「救急車よんどきましょうかー?」
「いや、いらねーよ……ちょっと、休んだら、多分大丈夫、だ」
「それじゃあ、うちは行かさせてもらいますー」

 隅に置いておいた買い物袋を持ち上げると、倒れている葛葉に向かってお辞儀をする。
 葛葉を背に空き地から歩み去っていったレンは携帯電話の時間を確認してみると、費やした時間は―――。

「ん―――ジャスト五分やな」

 そう言い残して鳳蓮飛は消えて行く。圧倒的な才能を見せつけ、人智を超えた才能を見せつけ。葛葉を凌駕した。
 確かに葛葉は武【に】狂っていた。全てを捨ててでも、辿り着こうとしていた世界があった。
 一方、レンはというと―――。

 ―――武【が】狂っていた。

 武に狂おうとしていた葛葉弘之と武が狂っていた鳳蓮飛。
 二人の戦いは、この一時はレンへと傾き、戦いは決着となったのだ。
 
 残されたのは地面に倒れている葛葉唯一人。
 あたりはすでに真っ暗で、遠くから見たら誰かが倒れているということは気づかれないだろう。
 下手に救急車など呼ばれたらたまったものではない。この時間で逆に助かったと葛葉は傷む後頭部に吐き気を催しながら、夜空を見上げた状態で寝転がり続けていた。
 数分もの時間が流れ、ようやく頭痛が治まってきた。上半身を起こし、蹴られた後頭部を片手でさする。
  
「あー、いてぇ。くっそ……禿げちまったら、恨むぜ」
 
 独り言が空気に溶けて消える。
 ここ数ヶ月の鍛錬は、これまでの人生のなかで最も厳しく、最も辛いものであったと自負できよう。  
 それをあっさりと一蹴された。お前の努力など無駄だと。才能は超えられないのだと。鳳蓮飛の才能は、考えていたとおり次元が違っていた。
 
「―――無駄か。無駄だったのか、俺の時間は。俺の人生は―――」

 夜空が霞む。波打つように、視界がぼやけてくる。
 これまで一度として流したことはない涙が零れおちそうになり―――。

「はっ……知ったことかよ!!」

 零れる前に唇を噛み締める。
 確かにこれまでの鍛錬ではレンには届かなかった。それは決して【無駄】ではない。ただ―――まだ足りなかっただけの話だ。
 まだ届かぬのならば、さらに多くの時間を費やそう。
 それでも届かぬのならば、それ以上の鍛錬を己に課そう。
 
「―――努力で、超えて見せてやろうじゃねぇ、か。鳳、蓮飛!!」 
「あ、無理ですよ。そういうのを無駄な努力っていうんです」

 トスっと静かな音が耳に届いた。
 それとともに胸に走る激痛。呆然と見下ろせば、胸から突き出される銀色の切っ先。
 血に濡れ、銀の日本刀は真っ赤に染まっていた。

「―――あ?」
 
 つうっと口から赤い血が流れ出る。
 何かを話そうとした瞬間、ごぽりっと血塊があふれ飛び散った。
 がくがくと身体が寒さで震え、痙攣をはじめる。ぎぎっと壊れた機械のように己を刺し貫いた相手を確認するべく首を捻る。
 
 星々の光が地上に落ち、その光に照らされそこに居たのは若い女性だった。
 若いといっても葛葉よりは遥かに年上だ。二十五か六。その程度の推察がつく。長い黒髪だ。天守翼くらいの長さだろうか。少し目尻の下がった切れ長の瞳に、すっきりとした鼻筋。薄桜色の唇が艶かしい。顔立ちから受ける印象は知的で、柔らかい。

 己に背後から突き刺しているのは―――日本刀というには少し短い。これは脇差、いや違う。これは【小太刀】だ。
 音も残さず小太刀を引き抜くと女性は、小太刀を宙で振るう。刀身についていた血糊が地面にピチャリと飛び散っていく。
 小太刀を抜かれた葛葉の腹部からは血が溢れ、足元に血だまりが出来上がっていった。

「な……ん、だ……よ、お前」

 途切れ途切れに、必死になって言葉を紡ぐ。
 黒髪の女性はそれに驚いたのか、眉尻が少しだけあがった。

「あら。まだ話せられるのですか。凄いですね。流石は葛葉流槍術にその人ありと謳われる槍使い殿」
 
 台詞だけ見れば褒めてはいるのだろうが、女性は明らかに蔑んでいた。目の前の葛葉弘之という男を。
 
「ぁ、く……そ……」

 足に力が入らない。それでも必死になって葛葉は立ち上がった。
 眼光鋭く、女性を睨みつける。常人ならば逃げ出すであろうほどに凄惨な視線ではあったが、女性は肩をすくめただけでで終る。

「いやいや、全く。手間が省けました。誰を狙おうかと考えていたところ、まさかこんなラッキーがあるなんて。棚から牡丹餅っていうんですかね。こういう状況のこと」

 人を斬ったというのに、女性は笑っていた。まるで人を殺すことに慣れているかのようだった。
 故に恐ろしい。人を斬ることに何の躊躇いもない、怪物だった。

「折角だから名乗っておきましょうか。私は―――私達は【御神と不破の怨念】。永全不動八門を滅ぼすために残された絶望の一滴」
  
 女性の表情は笑顔だ。
 だが、そこには笑顔で隠している、煮えたぎった溶岩の如き憤怒が見え隠れしていた。
  
「貴方達は私達を裏切りました。だからこれは復讐です。完膚なきまでに、完全に―――永全不動八門の末族に至るまで、一人残さず皆殺しにして差し上げます」 

 小太刀を空にかざした。光を反射して不気味に輝く。
 凄惨な笑顔で、女性は哂っている。狂っている。凶がっている。葛葉の知る限り、誰よりもいかれた剣鬼だった。
 
 ―――ああ、死ぬ、な。 

 輝く白銀の刃を見据えた葛葉はそう理解した。
 こんな絶望の状況から逃げ出す方法はありはしない。死は平等だ。誰にでも訪れて、等しくそれを与え続ける。
 それが今日この時に、自分に訪れただけのことだった。

 ―――くっそ。もう一度、お前と戦いたかった。

 脳裏に鳳蓮飛の姿が思い描かれた。彼女の武を、才をもう一度見たかった。何度でも手合わせを願いたかった。
 そう考えて―――葛葉は血の味に支配された口の中で、再び歯を食いしばる。

 最後に残された力を振り絞り、地面を蹴りつけた。逃げるためではない―――戦うために。
 普段の葛葉の全速には程遠いスピードで迫ってくる姿を、きょとんっとした表情で眺める女性。
 もはや技もなにもない、ただの体当たり。肩からぶつかっていく葛葉にため息一つ。当たるはずもなく、その体当たりを避ける。
 避けられた葛葉は、足元に転がっていた石に躓き転がった。
 何度も咳を繰り返し、吐血が地面をさらに濡らす。そんな姿を見ていた女性だったが、一切の哀れみを見せることはなく―――。

「っぎぃいぃぃぃいいいぁああああああああ!!」

 葛葉の痛みを抑え切れない声が、迸る。地面に置かれていた手の甲を小太刀で突き刺し、縫い付ける状態と化した。
 小太刀を引き抜き、痛みに悶える葛葉を確認して―――微笑んでいる。
 恍惚とした表情で、これ以上ないほどに幸福そうに。
 
「勝ち目も助かる目もないというのに、よく頑張りますね。それほどの意思を風的の一族も見せて欲しかったです」

 地面に蹲っている葛葉が、必死になって立ち上がろうとする。
 それを忌々しい視線で貫くと、鋭い呼気とともに打ち出された前蹴りが、葛葉の頬を捉え吹き飛ばす。
 
「そうすれば―――もっと!!もっともっと!!もっともっともっと!!楽しめたというのに!!」

 女性は狂っている。狂いすぎている。人には理解できないほどに、狂いきっていた。
 
「さあぁ!!さぁぁあ!!もっと、もっと苦痛の声をあげてください!!もっと、絶望の表情を見せてください!!それが、それだけが―――私達の怒りを、憎しみを、やわらげてくれるのですから!!」

 小太刀を振るう。鋭利な痛みが葛葉の全身を襲う。
 致命傷とは言えない小さな傷を幾つも、幾十も作っていく。薄皮一枚を斬る程度に抑えた斬撃を繰り返す。

「―――く、そ。ふ、ざ、けんな」

 何十もの斬撃を受けながら、葛葉は立ち上がった。
 ふらふらと揺らぎながらも、決死の覚悟で、大地に立ち尽くす。

「気に喰わないですね。その眼―――なぜそんな眼ができるのですか?」
 
 感じる狂気はそのままに、女性は訝しげに首を捻る。
 ここまで瀕死の状況にされてなお、命乞いの一つもしない相手を彼女は知らなかった。
 先日仲間とともに潰した風的の分家の連中も結局は皆が最後には命乞いをしたというのに。助かるために同胞の命をも捧げようとした救いがたい人間達だったというのに。

「―――俺が、負けたのは、てめぇ、じゃねえ。俺が負けたのは、負けを認めたのは!!鳳、蓮飛だっ!!ここで、てめぇに殺されるって、ことは!!あいつとの、勝負を汚すって、ことだ!!」
 
 ごくりと、喉が何かを飲み干した。
 口の中にたまっていた血液を、女性から隠すように、嚥下した。

「腕が、貫かれようが!!足が、動かなかろうが!!例え、武器がなかろうが!!歯一本でも、残っているのなら!!それで、てめぇを、ぶち殺す!!」
「―――興ざめです。つまらない。本当につまらない。もっと脅え、もっと怖れてくれないと意味がないじゃないですか。もういいです。貴方は用済みです」

 しゃらんっと金属音が鳴り、遂に二振りの小太刀を引き抜いた。
 御神流の本領。全力を持って殺しに来るのだろう。葛葉は立っているので精一杯。どれだけ叫ぼうともはやどうしようもない。
 身動き一つ取れない葛葉へと、女性は駆け込んでいく。そして、二振りの小太刀が煌きを残し―――。

「―――いいわ。よく吼えたわね、葛葉。少しだけ、格好よかったわよ」

 夜を超越した、漆黒が舞い降りる。
 葛葉に止めをさそうとした女性が、慌てて後方へと跳躍した。
 ぶるぶると両手の震えがおさまらない。首元に刃を置かれたかのような、死の気配を感じ呼吸が詰まった。

 立っている力をなくし、崩れ落ちそうになった葛葉を支えたのは―――彼がかつて目指した最強。
 いや、今も目標としている、憧れの女性だった。

「くっ、へ……おせぇんだよ、天守ぃ」
「それは悪かったわね。でも―――それだけの口がきけるなら大丈夫そうね」

 永全不動八門一派の天守家の一人。
 黄金世代と呼ばれるこの時代において誰からも【最強】と認められる―――剣聖。
 







 神速の領域に住まう者―――天守翼。

 
 
 













[30788] 十六章
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/12/31 08:55























 トントントンという何かを切る音がリズム良く、高町家のリビングで夕刊を広げていた恭也の耳に届いてくる。
 そしてジャーっという油でなにかを炒める音と香ばしい匂い。食欲をかきたてる、音と匂い。
 キッチンでは先程帰って来たレンが大急ぎで本日の晩御飯を作っているところだった。
 テレビの前のソファーにはなのはと美由希の二人が座り、何やら最近話題になっている魔法少女のアニメを食い入るように見ている。
 意外と美由希もこういったアニメは嫌いではない。自分から見るかといわれれば、首を捻ることになるが、末っ娘のなのはにつきあって幅広く見ているときも多い。

 だが、楽しんでいるなのはとは打って変わって美由希は時折舟をこいでおり、大きな効果音が鳴るたびにはっとした様子で眼を覚ますのを繰り返していた。
 良く見れば、美由希の目の下には隈ができており、寝不足なのは誰が見ても明らかだ。
 それを心配したなのはが寝たほうが良いと何度も言っているのだが、笑って首を横に振るっという光景が恭也の前で繰り広げられていた。
 
 夕刊に眼を通しながら、視界の端で美由希の後姿を捉える。
 どうやら遥か昔に琴絵に聞いたとおり、御神雫の世界に毎夜訪れているのだろう。
 あの時の琴絵も当時はただでさえ病弱の身でありながら、身体が弱っていくようで心配したものだ。
 幾ら身体は酷使しないとはいえ、精神の負担は半端ないだろう。
 精神世界の出来事とはいえ数え切れないほどに【殺される】のだ。経験したことがない身としては、想像し推し量ることしか今の恭也には出来やしない。

 だが、今の美由希の後姿を見て―――口元が緩むのが抑え切れない。
 数日前と比べれば別人のようだ。信じられないほどに、美由希の実力は上昇している。
 美由希にとって唯一他足りなかった、自分を本気で殺しに来る相手との死合い。試合いではなく死合い。
 それを普通では考えられない速度で経験していっている。現実ではこうはいかない。自分ではできなかったことを御神雫はしてくれているのだ。彼女には感謝の言葉を送るだけでは足りないほどに世話になっている。

「―――もうすぐ、成るか」
「んー?何か言った、きょーちゃん?」
「いや、ただの独り言だ」

 うとうとと睡魔の世界に足を突っ込みながらも、小さく呟いた恭也の独り言に反応してくる美由希だったが、独り言という返答を聞き、再びテレビへと向き直った。

 雫は言う。美由希に足りないものは力だと。速さだと。技術だと。経験だと。
 だが、恭也はそうは思ってはいない。確かに御神雫に比べればそれらは拙いことだろう。それでも、恭也が知る限り美由希のそれらは他の達人と比べても遜色はない。
 いや、既に達人の領域に達している。もっとも足りなかったのは経験―――それが埋まろうとしている。
 力に、速度に、技術に―――経験が追いつこうとしているところだ。これまで積み上げてきた努力が、花開こうとしている。一体どれほどの爆発的な成長をとげるのか楽しみで仕方ない。
 やはり笑みが抑えられず、夕刊を広げ他の人間にばれないように覆い隠す。

 ―――のぼれ、美由希。のぼっていけ、遥かな高みへ。辿り着け、俺達の領域へと。

 
そんな恭也の思考を遮るが如く、小さな気配が突然庭のほうに現れた。
 今の美由希やレンでも感じ取れないほどの微細な気配。恭也にのみ感じ取れるように調整して発しているのだろう。
 その目的は明らかで―――邪魔をされずに、話をしたいためなのか、声なき気配が恭也を呼んでいた。
 ガサリと夕刊を折り畳むと椅子から立ち上がる。
  
「お師匠ー。どないしたんです?」
「―――少し、盆栽を見てくる」
「あ、わかりました。御飯できたらお呼びしますねー」
「すまんな。助かる」

 不自然にならないように気をつけながら、リビングから出ると廊下を進み―――目的地、中庭に面したガラス戸を開ける。
 そこから見えるのは何時も通りで、庭の隅っこには小さな道場。その少し横には数匹の魚影が見える池。壁際には恭也が愛する盆栽たち。何時も通りで―――唯一何時も通りではない二つの人影。
 周囲の家の明かり、高町家から漏れる光。月光が降り注ぐ中庭にて、彼女達はいた。

 一人は腰のやや曲がった老婆。片手に持った杖を地面につけて立っている。顔には長い歴史を生きてきた証である幾つもの皺が刻まれていた。
 一人は女性―――いや、少女だ。歳は美由希と同程度。肩口ほどまでの黒髪で、おかっぱ頭。背中側の腰で、十字に交差する形で二刀を差している。
 恭也は縁側に置いてあったサンダルに足を通し、中庭へと降りた。
 沈黙が続く。気まずい思いをしているのは若い少女だけのようで、恭也と老婆は互いに見詰め合って―――老婆はくしゃりと可愛らしい笑顔を浮かべた。

「―――お久しぶりですね、恭也様」
「はい。どれくらい振りでしょうか。本当に久しぶりです、咲さん」

 咲と呼ばれた老婆は目元に浮かぶ涙を手の甲で拭う。
 遠い昔。未だ御神と不破の一族が健在だった頃―――恭也の世話役として供にいた女性。それが【不破】咲。
 世話役ではあったが、れっきとした不破の一族。しかも、本家直系という縁深き女性だった。幼い恭也が物心ついたころから世話になっていた、頭のあがらない人物でもある。

「このような夜分のご挨拶となり誠に申し訳ございません。先程この地に辿り着いたばかりでして。明日へとご挨拶は回そうと思いましたが、辛抱できずにやってまいりました」
「いえ。態々来ていただいて、俺も嬉しいですよ」
「―――その言葉だけで、報われる想いです」

 ついに涙腺が決壊したのか、止まることのない涙がぽたぽたと音をたてて地面に吸い込まれていく。
 咲のそんな姿に慌てたのは隣にいる少女だった。背中をさすりながら、なんとか咲を落ち着かせようとする。
 やがて涙も止まり、普段通りの表情となった咲は若干顔を赤らめながらコホンっと咳払いをした。

 さて、ここに美由希がいたならば疑問で一杯になったかもしれない。何せ御神と不破の一族は十数年も前に滅び去った。
 【龍】の手によって、一族が集まる披露宴にて爆弾を仕掛けられ、壊滅してしまった―――というのが裏の世界に流れる話である。
 だが、例外があった。それは当日風邪を引いた美由希と、彼女を病院へとつれていった実の母である御神美沙斗。
 さらにはその付き添いで病院へと向かっていた不破士郎。そして、爆弾が仕掛けられた現場にいながら生きながらえていた不破恭也。
 
 その四人だけ―――と、思われていた。
 例外が四人だけとは限らなく、確かに当日一族に愛されている御神琴絵の披露宴ということもあり、ほぼ全ての御神と不破の一族が参加していた。そう―――【ほぼ】全ての一族、が。

 美由希と同じ様に体調を崩し参加できなかった者。
 どうしても外せない仕事が入って出席できなかった者。
 たまたま買い物に出かけていた者。
 まだ幼く、披露宴に参加出来ずに、咲によって面倒を見られていた者。
 
 多くはなかったが、そういった例外がそれなりの人数が存在していたのだ。
 勿論、その幾人かは【龍】の手によって爆破事件後に命を落とすことになった。 
 最早御神と不破の一族の庇護はなくなり、逆に命を狙われることになった者達は集まり、必死になって自分達の存在を消すのに全力を尽くす。戸籍をけし、全くの別人となって生きながらえてきたのだ。
 そして彼らは長年に渡って牙を研ぐ。ただの人間だったならば逃げながらえるだけの鼠と成り果てただろう。
 しかし、生き残った彼らは違う。大なり小なり、彼らは受け継いでいた―――殺戮一族の技と意思を。
 
 生き残った人間には、幼い子供も多かった。だからこそ、彼らは機を待った。
 幼い子供達が成長し、それなりに戦える力を持てるその時まで。
 彼らは【龍】を許さない。彼らは裏切り者を許さない。彼らは敵対する者を許さない。

 十数年前に比べれば、圧倒的に戦力となる者達は少ない。
 御神の天才と謳われた御神静馬はいない。御神琴絵はいない。不破の天才と謳われた不破美影はいない。不破士郎はいない。不破一臣はいない。不破美沙斗はいない。

 だが―――彼らは十数年前の、御神と不破の黄金期を凌駕する。

 十数年に渡って泥水を啜り、血肉を喰らい、復讐だけに全てを費やしてきた。
 【守る】言葉など知らずに、意味も求めず。殺戮一族としての純度だけを磨き続けてきたのだ。
 ただ、殺すことだけを求めた。ただ、奪うことだけを求めた。ただ、滅ぼすことだけを求めた。
 
 守る物も失う物もない彼らは―――復讐することだけを生き甲斐に、地獄より産まれ出でた正真正銘の殺戮集団だった。
  
「―――紹介が遅れました。この娘、私の孫にあたるものです」
「は、はい!!あ、あの―――不破、四花と申します!!」

 緊張しているのだろうか、声が上擦っている。さらには恭也や咲のように相手に聞こえる程度の小声で喋らず、周囲に響き渡る大声での自己紹介。
 目元を吊り上げ、叱責しようと口を開こうとした咲より早く、恭也が気を使って言葉を発した。

「ああ、宜しく頼む。俺は―――不破恭也だ」
「は、はい!!存じております!!」

 緊張は解けず、ガチガチになって固まっている四花。その理由が何故かわからない恭也は首を捻る。
 
「孫の四花のご無礼をお許しください。長居してはご迷惑をお掛け致しますので、本題に入らせていただきますが―――」
「……美由希の件、か?」
「―――はい」

 苦々しげな表情となった恭也の返答に、咲は真っ直ぐに頷いた。

「我ら御神と不破の怨念―――その当主となる方は、御神美由希様にこそ相応しいと。この世で最早唯一人、御神当主の娘様であられる、美由希様に我らを率いて頂きたいのでございます」
「―――」

 涙ながらの訴えに、恭也が返すのは沈黙だ。
 突発的な出来事のため理解が追いつかず、返答に窮している―――と、咲と四花は考えていた。
 だがその実、恭也の思考していたことは―――。

 ―――まだ、早すぎる。

 今の美由希の力量では。今の美由希の覚悟では。今の美由希の想いでは。
 全てが中途半端な結果に終わるだろう。何度考えても最悪な結果にしかならない。

「―――美由希は、まだ本当のことを知りません。俺が教えていないんです」
「そうでございましたか。いえ、それも当然でございますね。まだ美由希様の御歳は十五。真実をお伝えするにはまだ、早いと確かに私も思います」
「―――ッ」

 笑顔で恭也の返答に頷いた咲と、その返答に視線を鋭くした四花。
 ぎりっと歯を噛み締める音が、静かな中庭に鳴り響く。

「すみません、咲さん。今夜はこのままお引取り願えますか?あいつには―――時が来たら俺から話します」
「わかりました、恭也様。お気になさらずとも大丈夫です。十年以上の年月を待ってきたのです。これから一年や二年程度待つことなど容易いことです」

 にこりと笑っている咲は深々と恭也に向かってお辞儀をする。
 だが―――。

「―――どうして」

 どろっとした黒い汚泥に包まれた、怨嗟があがる。
 必死に抑えていた負の感情が、心の防波堤を粉砕した。

「―――どうして!!貴方は!!そんな、そんな、そんな平然としていられるのですか!?」

 黙っていた四花の感情が爆発する。
 
「あいつらは!!私達を裏切った!!私達のすべてを奪った!!地位も名誉も、友も家族も愛する人たちも!!」

 豹変した四花の止まることのない叫び声だったが、恭也も咲も全く怯む様子は見られなかった。

「ようやく、ようやく復讐するだけの力を手に入れて!!これからだっていう時に!!時が来たら―――話す!?そんな甘い考えで!!【私達】の当主を務める!?ふざけないで!!」
「―――四花。黙りなさい」

 恭也を糾弾する四花に、隣にいる咲の静止の声がかかる。
 だが、それでは彼女は止まらない。十年以上も積み上げてきた憎しみが、怒りが、安穏と暮らしていたであろう不破家の同胞へとぶつけられていく。

「貴方だって知っているんでしょう!?それとも知らないんですか!?私達御神と不破を滅ぼしたのは確かに【龍】!!でも、それを依頼したのは―――!!」
「―――四花」

 【それ】はなんだったのか。
 周囲一帯が闇に塗りつぶされる。空に輝く星々も月も、何かに怖れるように姿を消した。
 パチリっと、高町家の電球が音をたてて点滅を繰り返す。我を忘れて叫んでいた四花の糾弾が止まる。自分の意思で止まったわけではなく、真横から噴きあがってきた、あまりに黒い闇に喉を押さえ込まれた。
 四花が次に感じたのは、全身に受けた強い衝撃。気がついたときには地面に叩きつけられていた。
 足を払われ、片手で頭を地面に叩きつけていたのは、般若の形相の不破咲―――その人である。

「一度の無礼は許そう。だが、この御方への二度目の無礼は―――」

 チャキっと金属音が鳴っていた。四花が背中腰に十字差しをしていた小太刀を一つ抜く。
 ゆらりと刀身が身動き取れない四花に迫っていき―――。

「―――貴様の死で贖え」
「咲さん。幾らなんでも人の家の庭先での刃傷沙汰はさすがに困ります」

 躊躇いなく小太刀を喉元へと振り落としていた咲を止めたのは、流石にまずいと判断した恭也だった。
 咄嗟に飛び込み、咲の腕を掴み、振り下ろされるのを間一髪のところで止めることができたのはギリギリも良いところであった。もしも後一歩でも踏み出すのが遅かったならば、高町家の中庭に赤い花が咲いてたことだろう。
 己の孫を躊躇いなく殺そうとした老婆は、恭也の台詞を聞き奪っていた孫の小太刀を背の鞘に元通りに納める。

「恭也様へのご無礼、誠に―――誠に申し訳ございません」

 地面に頭を擦りつけ、土下座をする形で謝罪をする相手に、恭也は若干慌て、手を取って立たせる。
 相変わらずこの人は―――と内心でため息を吐いた。
 
 恭也が赤ん坊の頃からの世話役としてついてくれていた女性ではあったが、彼女の恭也への世話の焼き方は見れば分かるが尋常ではない。何でも昔、祖母でもある美影に命を救ってもらった恩があるらしく、自分から彼女の孫でもある恭也の世話役に立候補したのだとか。
 自分の子供や孫よりも、恭也の世話をすることに命をかけ、甲斐甲斐しく働いていた姿は今でも思い出せる。
 彼女が生存していたと知ったのはおおよそ数年も昔。日本全国武者修行の旅に出たとき、運命の悪戯か、奇跡か―――ある街で再会した。成長した恭也の姿を一目見て気づいた彼女は、街中で泣き出してしまい、その時は非常に困ったのも今では良い思い出となっている。
 恭也としても、まさか自分と美由希―――そして美沙斗以外に生きていた一族の者がいるとは思ってもいなかった。
 あの時ほど嬉しかったことも数少ない、予想外な出来事でもあった。
 
「―――今の気配では恐らく美由希様や他のご家族の方に気づかれてしまったと想像に難しくありません。これにて、私達は失礼させていただきます」

 悲痛な表情で、小柄な体を縮こめるように老婆は暇を告げた。
 先程まで死の淵にいた少女も、立ち上がり咲の後ろに控えている。その表情に恐れはない。死への恐怖を微塵も見せない。
 少女もまた、確実に人としての大切なナニかが壊れた、殺戮一族の一員だった。

「はい。宜しければまた何時でも来て下さい。歓迎します」
「そのお言葉だけで―――」

 何度目になるわからない、キラリと目元が光る光景が再度起きる。
 歳を取ってから涙脆くなって駄目ですね、と咲が呟くのが聞こえた。

「ところで、海鳴に来たのはお二人だけですか?」
「いいえ。私と四花を除いて他にも四人来ております。皆なかなかの腕前の御神と不破の遺児でございますよ」
「―――誰が、来ているんですか?」
「まだまだ未熟ものの二人ではありますが不破腕と不破撥。そして―――不破和人、不破【一姫】の四人です」
「―――っ、あいつが来ているんですか!?」
「はい。恭也様にご挨拶をしたいと申しておりましたよ」

 ほっほっほと笑う咲に、珍しく恭也が冷や汗を流す。
 何せ不破一姫とは面識があるのだが、少し苦手な相手なのだ。
 黙りこんだ恭也に一礼して、二人は地面から跳躍。塀の上へと着地する。その時、キラリと咲の首元で何かが光り輝く。
 良く見てみれば、なにやら奇妙な色の宝石だった。恭也が知っている限りのどの宝石とも異なる不吉な色合いをしていた。
 恭也の視線に気づいたのだろうか、己が首にかけていたペンダントの宝石を一撫で。

「これが気になりますかな?どれくらい前になるでしょうか―――美しい外国の方から頂いたのです。持っていれば、願いを叶えてくれる宝石だと」
「そう、ですか……」

 答えが詰まる。理由はない。理屈でもない。
 ただ、彼女の首元で光るその宝石が―――とてつもなく、気に入らない。

「ええ。それでは、恭也様。美由希様の件を宜しくお願いします。もし、もしも美由希様が我らの長になっていただけなかったならその時は―――」
「【分かって】います。その時は―――」
「お願いいたします。それでは、我らは今一度闇にもぐりましょう。いずれ来るその時をお待ちしておりますぞ」

 タンっと塀を蹴る音が聞こえ二人の影が高町家から消えていく。
 残された恭也は、屋根伝いに走っていく二人の人影を見送り、重いため息をついた。
 最近の自分の身に起きる出来事に呆れることしかできない。永全不動八門の者達がでてきたり、北斗との再会。自動人形と初めて戦闘。水無月殺音との死闘。そして、四鬼の一体虎熊童子。今夜に至っては、御神と不破の怨念と来たものだ。
 全く退屈しない数ヶ月だったと、自嘲気味に口元を歪めた。

 それにしても、と恭也は先程の咲の気配を思い出す。
 流石は不破美影の懐刀と呼ばれた女性。その気配は暗く―――【重い】。
 御神と不破の怨念を創り上げた、憎悪の原動。恨み、憎み、悔やみ―――彼女が、生き残った者達を殺戮集団へと育て上げた。まだ物心ついていなかった遺児達を、殺すことだけに特化した最凶最悪の剣士達へと成長させた。

「―――美由希の完成を、急がなければならないか」

 どこか覚悟を決めた様子の恭也の呟きは静かに、夜の空気へと消えていく。
 彼の視線は寂しげに―――何時までも見えなくなった咲の後ろ姿を見つめていた。


























 高町家で恭也と咲が邂逅していたほぼ同時間―――そこから少し離れた空き地にて、三つの人影が向かい合っていた。
 地面に座り込んでいる葛葉弘之。その前に刀も抜かずに立っている少女―――天守翼。
 その二人とは幾分かの距離を取って二人を、いや、翼を睨みつけている女性。

「は、ははははは。まさか、貴女みたいな大物に会えるなんて幸運ですよ。永全不動八門最強―――天守の凶つ刃よ」

 女性は震える声を押し殺し、不敵な笑みで翼に語りかける。
 葛葉をいたぶっていた時の余裕はなりを潜め、急激に漂い始めた死の香りに、口内が乾燥していく。 
 
 永全不動八門を滅ぼすために、彼らへの情報収集は怠っていない。
 現在の八門は黄金世代と呼ばれる怪物たちが存在するのは調べがついている。各々の流派において歴代最強の名を冠す猛者たちだ。
 負けるとは思っていなかったがどれほどの力量の持ち主なのか気になる存在ではあったが、その中でも噂に名高いのが―――天守翼という人間だった。
 永全不動八門の誰もが認める最強。黄金世代と呼ばれる怪物達を赤子を捻るが如く、歯牙にもかけない超戦闘力。
 女性とて話半分程度には聞いていたのだが、いざ目の前にして感じ取れるのは―――。

 ―――私じゃ、勝てませんねぇ。

 翼の力量を観察し、解読し、己の力と比較する。その結果は、圧倒的な敗北。どう戦っても勝ち目のない戦い。
 噂に聞いていた実力を遥かに上回る存在だったのだ。

 そんな翼だったが、女性の発言にきょとんっとした様子で、蔑んだ邪悪な笑みを浮かべる。
 
「私が、【最強】?面白い冗談ね。私程度が最強を名乗るなんて、恥ずかしいにも程があるわ」
「……それは、どういう意味かしら」

 どくんっと女性の鼓動が強まっていく。
 翼の予想外の発言に、さらに緊張感が増していった。
 今まで仕入れた情報により、天守翼が間違いなく永全不動八門最強の剣士だということは明らかになっている。
 実際会ってみてそれを確信。更には、予想していたよりも遥かに強いことも理解した。
 翼を最強と考えて、御神と不破の怨念達は行動を起こしているのだから、もし翼よりも強いものがいるならば、計画を大幅に変更しなくてはならない。

「あら、御神と不破の怨念と名乗っておきながら知らないのかしら?永全不動八門御神流当主代理―――不破恭也のことを。彼に比べれば、私もまだまだ未熟ものよ」

 その瞬間、女性の奥底でナニかがブチリと音をたてて引き千切られた。
 頭が沸騰する。全身を巡る血液が、音をたてて沸き立ちはじめる。胸を叩く鼓動が、爆発せんばかりに激しく脈動した。
 女性の気配の質が変化する。今の今まで、翼に気圧されていた様子は一瞬で消えた。変わりに現れたのは、鬼子母神の様相で、小太刀を向けてくる女性の姿だった。

「―――ふざけるな。ふざけるなっ!!ふざけるなっ!!貴様らがどの口でその名を語る!?貴様らが裏切った不破の後継者の名を、何故語る!!あの方は、永全不動八門なんかじゃない!!あの方は我らが御神と不破の一族の―――最も色濃き血を受け継ぐものだ!!」

 短い呼吸を夜の空気に紛れさせ、左の小太刀で翼を牽制し、右の小太刀を深く引く。
 腰を落とし、獲物に飛び掛る獣を連想させるその姿。憎悪に塗れた形相に、一瞬とはいえ葛葉の意識が飲み込まれるほどであった。
 激昂した女性の気配を見ながらも、その烈火の殺気を、ふーんと冷たく一蹴し、翼は刀を抜くことすらしていない。

「―――御神流奥義之参【射抜】。これで貴様を殺せるとは思っていない。でも―――」

 女性の口から発せられるのは言霊だった。
 重く、深く、聞く者を怖れさせる―――憎悪だけを凝縮させた、負の感情。

「―――私の命と引き換えに、貴様の片腕は貰っていく」

 命と引き換えに、翼の片手を貰っていくと宣言した女性には覚悟があった。
 彼女は宣言どおりに、何の躊躇いもなく、自分の命と引き換えに翼の片腕を貰っていこうとしていた。
 その覚悟に葛葉は息を呑む。これほどまで痛めつけられた相手ではあるが、その相手が見せる決死の想いに気圧された。
 
「無理よ。貴女の命を賭けたとしても―――私の世界には届かない」
「―――この刹那の後に、後悔せよ」

 二人の気配が収縮。そして弾ける瞬間―――。

「はぃはぃ。それで終わりにしよぅやー」

 パチンと手が鳴る音が響き、二人の集中力が霧散する。
 女性は慌てて、翼は分かっていたのかゆっくりと、音が鳴った方角へと顔を向ける。

 光が逆光となっているためか、容姿がわかりにくい三つの人影が塀の上に立っていた。
 そのうちの一つ。恐らくは手を鳴らした人物が、塀から飛び降りると音をたてずに歩いてくる。
 背の低い少女だ。天守翼よりも頭一つ小さい。歳も同じくらいだろうか。
 千早に緋の色の袴。真一文字に引き結ばれた唇―――だが、口元は緩んでいた。全身から感じ取れるのは、やる気のなさだった。ゆったりとした雰囲気と、ややたれ眼となった双眸が二人を捉えている。

「まったく、【撥】ってばなにしとん。咲さんがおこっとったとよー」

 撥と呼ばれた、翼と今先程まで向かい合っていた女性がビクリと反応する。
 まるで何かを怖れているかの様子に翼が内心で疑問に思う。何せ、死ぬことさえも厭わぬ相手だったはずだ。それが、何故こんな様子を見せるのか。

「咲さんが早く帰れと言うとったから、うちたちはこのまま帰るけん―――迷惑をかけて申し訳なかね、天守翼さん」
「別に構わないけど、貴女は?」

 呆然としている撥に向かってチョイチョイと手招きをして、自分の元に呼び寄せた少女は、自分よりも年上の女性であるはずの撥の額にデコピンを入れる。
 避ける様子がいられないというより、避ける暇もなかったというほうが正しいデコピンであった。
 額を両手で押さえて涙目になる撥に満足したのか、翼に背を向けて去っていこうとする。
 
「うちは不破一姫。一応は御神と不破の怨念の当主補佐をやっとるよー」

 そこで、一姫と名乗った少女は、んーと唇に指をあてて何かしらを考え込む仕草をする。

「前から考えとったけど、御神と不破の怨念とゆう名前は長すぎるとよ。やけん、御神流【裏】とこれからは名乗らせて貰うけど、よかー?」

 翼に確認してくるが良いも悪いも、彼女にとってはどちらでも大差ないことだ。
 反論がないことに満足したのか、うんうんと力強く頷いて痛がっている撥の耳を引っ張って塀の人影の方へと向かっていく。

「―――当主補佐、ということは貴女より強い人がいるっていうことかしら?」

 翼のやや緊張した声色に、歩みを少しだけ止めた一姫はどこか遠くを見る眼で、ある方角を見つめた。
 その方角にあるものに、翼は気づいた。まさか、とある推測が成り立っていく。 

「うーん。どうしようかいなー」
「―――御神美由希を狙っている、ということはあるのかしらね」
「あんた頭よかね。頭も顔も剣の腕もたってうらやましかー」

 本当に驚いたのか、一姫は眼を見開き翼を真っ直ぐと【初めて】見たかもしれない。
 先程まではまるでモノを見るかのような、奇妙な視線だったのだから。

「御神流を名乗る以上、その血縁を当主に戴くのは当然。ならば、御神流の前当主の血を受け継ぐ御神美由希を説得―――当主の座についてもらうと考えるのが妥当かしら。そのためにこの海鳴にきたと考えたほうが自然ね」

 成功するかどうかなんて分の悪い賭けにしかならないけど、と翼が皮肉気に笑う。
 
「あっはっは。そん通りだと思うよー。うちも御神美由希が当主の座を受け継いでくれるとは実は考えてなか」

 ざわっと空気が揺らめいた。
 撥も、それ以外の三人も、信じられない眼で一姫を見つめていた。
 
「成る程。もしも、御神流裏の当主を御神美由希が断れば―――その座は自然と貴女のモノになるという考えね。ねぇ、当主【補佐】である不破一姫さん?」

 翼の返答に、一姫はきょとんっとした表情で―――にんまりと笑った。
 それはまるでそんな考えもあったのかと、予想外の答えを聞けたのが嬉しい様子であった。

「それはなかぁ。うちはあくまでも当主補佐―――御神美由希が断ったとしてもそれはかわらず。もっとも、うちはそんほうがよかんですけどねぇ」
「まぁ、お前からしてみれば確かに【そっち】の方が良さそうだよなぁ。お前は御神美由希のことを認めてねーし……あの人の方が当主に相応しいって考えしか頭にねーもん」

 黙っていた人影の一つが、はぁーと深いため息を吐く。
 低い男の声だった。男性―――不破和人は、相変わらずな考えの一姫に、呆れたように夜空を見上げた。

「まぁ、そろそろ帰ろうぜ。咲様から呼び出しコールがまじですげーんだよ。お前らのせいで俺がまたとんでもねー目に合わされるんで本当に勘弁してください」

 四人の中で一番年上である和人が両手を合わせてお願いのポーズを取って頼み込んでくる。
 それに頷いた一姫と撥は塀の上へと跳躍し、着地した。

「あら、そのまま帰れると思っているのかしら?」
「うーん。そん人ば、病院へ連れて行ってあげた方がよかとおもうけどー」

 地面に座り込み、血の海を作り上げている葛葉を思い出し、あっと声をあげる。
 なにせ、身体中の切り傷だけならまだしも、腹部を刺された傷跡は結構な致命傷だ。これ以上放置してたら間違いなく死ぬ可能性が高い。

「それに、俺達が退くほうがあんたとしても助かるんじゃないのか?生憎と俺達は武士道も騎士道も糞くらえだ。四対一で遠慮なく潰させて貰うけど?」

 和人がはっと鼻で笑う。
 言葉では退くといっているが、意味が違う。見逃してやると、退いてやるのだと、そういった皮肉が込められていた。

「まー実際、あんたとはまだやりあいたくないね。流石は永全不動八門最強。四対一でも―――俺達三人は殺されちまう。生き残れるのは一姫だけだ。その代わり―――あんたも殺せるけどな」
「―――戯言を」
「戯言かどうかは、あんたが一番わかってるだろ?俺達は兎も角、一姫の実力がわからないはずがない。こいつはあんたと同じ同種だ。同族だ。剣に生き、剣に死ぬ。敵対するものは塵も残さない戦闘狂だ。不破恭也様には及ばずとも、それ以外とは一線を画す生まれついての怪物さ」
「……」

 そこで初めて翼の視線が鋭く、冷たく変化した。
 和人の指摘が正しかっただけに。目の前の、一姫となのる少女の底が見えなかっただけに。
 恭也と殺音以外に見た―――己に匹敵しえる怪物がまた一人。
 
 そして、黙りこんだ翼を置き去りにして―――。

「そしたら、また何時か―――」

 にんまりと笑った一姫は三人を伴って翼の視界から姿を消した。
 残されたのは翼と葛葉の二人だけ。翼は消えて行った四人―――いや、一姫を睨みつけたまま暫く佇んでいた。
 
 その横で早く病院へ連れて行ってくれと、既に言葉にも出せない状態の葛葉がいたのだが―――。
 気づいた翼が救急車を呼んで、病院へと運ばれた彼は、全治四ヶ月という重体ではあったが、なんとか命を拾うことができたという。
 
 永全不動八門と御神流裏の、最初の出会い。最初の戦い。
 後の世にて、最凶最悪の永全不動八門戦争を引き起こす―――不破一姫が表舞台にでてきた瞬間であった。




 
 
    
 
 



 

 
 



 


  
 








 



 
 


-----atogaki--------

誰のルートに入りますか?

→不破咲(75歳



そして、皆様今年もお世話になりました。
よいお年をお過ごしください



[30788] 十七章   完
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2013/01/02 18:10














 海鳴でもっとも有名な病院といえば、海鳴大学病院をこの街に住んでいる者だったならばあげるだろう。
 多くの市民が通っており、医師や看護師の対応も良く評判も良い。
 また、ただの病院というわけではない。日本でも有数の遺伝子科が存在し、高町家の長女的存在のフィアッセが通院している病棟もある。
 フィアッセだけではなく、心臓外科に通っているレン。さらには整体科の恭也や美由希と―――高町家の住人のほぼ全員が常連というお世話になりようなのだ。
 
 そんな海鳴大学病院の一室。数人で利用する大部屋ではなく、贅沢にも個室のベッドを占拠しているのは永全不動八門一派の葛葉弘之であった。
 数日前に救急車でこの病院に運ばれてきた時は出血多量で危険な状況だったようだが、本人の阿呆のような体力と気力―――そして医師の腕によって命には別状がなかったのは助かったと、目が覚めてから何度も考えていた。
 やはり今までの鍛錬は無駄ではなかったのだと実感でき、嬉しいのやら悲しいのなら微妙な気分にもなってはいたのだが、今こうしてここで生きていられるのだから嬉しいことにしておこう、と葛葉は丁度今気持ちに区切りをつけていたところだ。

 刃物で十数か所も切られているわ、腹部を刺されているわで、本来なら警察沙汰になるのは当たり前の状況だったが、そこは翼がどんな手を使ったか不明だが、黙らせたらしい。
 一応は命を救われ、その後の処理もして貰えたのだから、退院したら何か奢ってやらねばと、今のうちから考えている葛葉であった。

 全身包帯だらけで、まだ全くベッドから起き上がれない状態の葛葉は、本日何度目になるかわからない欠伸をする。
 これまで暇があったら鍛錬に時間を費やしてきた彼は、こんな時何をして時間を潰せば良いのか分からない。珍しく読書でもするかと思ったこともあったが、手も碌に動かないのだから本のページさえも満足に捲れない。
 大人しく寝て過ごすかと決めた丁度その時、病室のドアがノックされた。

 そのノック音に違和感を感じた。
 この病室を訪れるのは看護師か鬼頭水面くらいだ。二、三回は如月紅葉がきてくれただろうか。それに加えて一度だけ翼がきてくれたのだが、一分で帰ったのは流石に泣けた事件である。
 看護師は当然だが、水面は見舞い―――というより、暇つぶしの方が正しいかもしれない。病室にやってきては、見舞いの品を食い荒らし、包帯に落書きをして帰っていくのだ。屈辱的なことに、動けないためシモの処理は看護師に世話して貰っている身なのだが、ある日催した時、水面があろうことかズボンを脱がし―――爆笑して帰って行った事もある。しかも、処理は看護師さんに任せるという鬼畜の諸行。完治したら絶対ぶちのめすと心に決めた葛葉だった。

 これまで来た看護師とも、水面とも違うドアのノックの仕方に首を捻る。
 自分の交友関係の狭さは自覚しているし、別に広げようとも思っていないが、これ以上訪ねてくる相手を思いつかなかった。
 返事をしなかった葛葉に業を煮やしたのか、ドアを勝手に開き入ってきたのは―――。

「……お前が来るとは思ってなかったわ」
「一応は永全不動八門の同胞ですからね」

 意外そうにぽかんと口を開けて驚いた葛葉に、天守翔は不満そうにそう返した。 
 この海鳴にきた永全不動八門の者達で、一番相性が悪い二人。周囲からもそう思われ、本人達も自覚している。まさに水と油。
 一緒にいれば何かしらの口喧嘩をしていたので、絶対見舞いに来ない人物だと思い込んでいた。
 
 翔はドアの場所から動こうとはせず、その場所からジトーと葛葉を睨んできている。
 その視線にやや気まずくなり、頭をかこうとして―――手が挙がらないことに気づく。

「とりあえず、そこに椅子あるから座れよ」
「いえ、遠慮します。どうせすぐ帰りますから」
「お前もかよ!?」
「……お前も?私以外にもそういった人が来ていたのですか?」
「い、いや……なんでもねぇ」

 翔の冷たい発言に反射的に突っ込んでしまった葛葉は、どもりながらも返答する。
 彼女の姉である翼と似たような行動を取るのだから流石姉妹と納得する葛葉ではあったが、それをそのまま翔に伝えるわけにもいかない。翼は兎も角、翔は姉と比べられることを非常に嫌う。
 身動きできないこの状況でそんなことを言えば、下手をしたら傷口を開かされるような攻撃を喰らってしまう可能性もある。
 
 怪我人である葛葉に攻撃を仕掛けるなど、普通の人間ならばありえない話であろうが今彼の目の前にいる少女の気の短さと、姉への敵対心はどれほどのものか予想できない。
 
「……」
「……」

 沈黙が病室を支配する。
 二人とも仲が良いというわけではないので、話すための話題が互いに思いつかないのだ。

「あー。まぁ、なんだ。わざわざ来てくれてサンキューな」
「なんですか、気持ち悪い。貴方らしくないですね」

 礼を言って損した。
 冷たい返答の翔に、ちょっとむかついた葛葉の米神に青筋が浮かぶ。
 こうなったら自分からは話しかけてやるものかと視線を天井へとずらし、口を閉じた。
 一分が経過しても翔は何も話さなかった。そのうちに二分が経ち、病室の沈黙が重くなっていく。やがて三分が過ぎた頃には、居心地の悪さに逃げ出したくなる葛葉だった。無論逃げ出すことはおろか、動くとことすら侭ならないのだが。

「―――また、負けたのですか?」
「あ、あん……?」

 そんな時にタイミング良くか悪くか、翔が遂に声をかけてくる。
 相変わらずの無表情で翔は、葛葉を―――睨み付けていた。
 突然だったがために、聞き取れてはいたのだが、それが何の意味を指すのか分からなかった葛葉だったが、一拍置いて理解する。

「あー、負けた。見事にな」
「誰に、貴方は―――」
「この前屋上で会っただろ?鳳蓮飛。あのちびっこにやられちまったわ」

 何の恥ずかしげもなく、躊躇いもなく葛葉は語る。
 自分よりも何歳も年下の少女に敗北を喫したというのに、悔しさも羞恥も感じられない。ただ、満足そうに彼は笑っている。
 翔はそれが理解できない。この男は、葛葉弘之という男は何時もそうだ。
 誰よりも武を極めようとしているくせに、敗北を怖れない。我武者羅に、ひたむきに―――この男は敗北という物を乗り越えて突き進んでいく。   
 
「貴方は、何故怖れないのですか?貴方は、何故立ち止まらないのですか?貴方は―――」

 最後には言葉が詰まった翔の姿に、葛葉は一瞬だけ考える。
 彼女にかける言葉を。彼女が背負っている呪縛を解き放つ言葉を。彼女が抱いている劣等感をなくす言葉を。

 考えようとして―――鼻で笑った。

「俺とお前は考えた方が違うだろうしなー。幾ら俺が俺の持論を語っても意味はないけど―――俺は負けはしたが、敗北はしてねぇ」

 キョトンとした翔に、葛葉はごろんっと寝返りをうって顔を背ける。

「負けは負けだ。でもな、それは単なる戦いの結果だ。俺は―――まだ、諦めてねぇ。負けたからどうしたってんだ。他人の評価にびくついて、戦っても意味はないんだよ。今回は届かなかったが、次は俺が勝つ」

 諦めた時が、本当の意味での敗北だ。
 そう語った葛葉は、それ以上の問答を拒絶するように、目を瞑る。
 元々誰かに何かを語るのは得意ではない。そういった柄でもない。結局武の頂点を目指し続ける馬鹿者達にとって答えは他人に求めるものではないからだ。自分が悩み、苦しんで見つけなければならない。
 
 葛葉の拒絶を感じ取ったのか、翔は扉をあけて病室の外へ出る。
 扉がゆっくりと閉まっていく隙間から、幻聴ではない確かな彼女の声が聞こえた。

「―――わたくしには、分かりません。ですが、有難うございます」

 パタンと小さな音をたてて扉が閉まった。
 扉の前で逡巡していた気配は、やがて遠ざかっていく。やがて完全に翔の気配は、葛葉の勘違いへと消えて行った。

「俺じゃあ、お前の答えはだしてやることはできねーよ。もしも、その答えを出すことができる奴がいるとしたら―――」

 目を瞑った真っ暗な空間に、浮かび上がってくるのは高町美由希。
 数日前に屋上で見た、御神の後継者。その武はぞっとするほどに美しく―――鋼鉄の意志を宿していた。
 きっとアレは、鳳蓮飛と同じ類の怪物だ。僅かな期間で想定を遥かに超える存在へと変貌する理解し難いタイプの人間だ。
 
 だが―――きっとあの高町美由希は、天守翔の闇を払ってくれるだろう。

 理由はないが、きっとそうなることを葛葉は確信していた。
 このまま眠ろうとしていた葛葉の第六感が急に警報を鳴らし始め、嫌な予感が全身を包む。
 その予感通りに、病室の扉が開き―――。

「いやっほーう。葛葉!!見舞いにきてあげたよー」

 鬼頭水面がチャシャ猫のような笑みを浮かべ病室に侵入してきた。
 葛葉弘之―――多くの災難に見舞われた彼の平穏は、どうやらまだ訪れないらしい。
  
























「美、美由希さん大丈夫ですかー?」

 夢の世界へと旅立ちかけていた美由希の意識を引き戻したのは、親友の声だった。
 びくっと反応をした美由希が声のした方向を見てみると、ぼやけて見えるがそこには神咲那美の姿があり、心配そうに美由希を窺っている。目の焦点がなかなかあわなかったので、制服の袖で眼をこすった。
 
 それでようやく世界は何時も通りの光景に戻ったが、我慢できずに手で隠しながら欠伸をする。
 なにをしていたのか、と思い出そうとするが、それはあっさりと分かった。目の前の神咲那美は正座をしていて、手元には小さい弁当を持っていたのだから。
 自分の左手にも弁当箱があり、右手には箸を持っている。意識を飛ばしかけていたにしては、どちらも落としていなかったのは不幸中の幸いであった。

 現在は昼休みの最中で、今いる場所は屋上だ。
 空を見渡せば雲ひとつない。まさに晴天という単語が相応しい。
 四限目が終わってから、一学年年上の神咲那美と合流して屋上へと御弁当を食べに来て、座ったところまでは確かに覚えていたのだが、そこからの記憶がどうも曖昧な美由希だった。
 予想するに、食事の途中で眠気に負けてしまったのだろう。

「あ、あははは。すいません、那美さん。お見苦しい所をお見せして」
「い、いえ~。全然そんなことはないんですが……どうかされたんですか?」

 心配そうに美由希の顔色を覗き込んでくる那美が聞いてくた。
 毎夜毎夜御神雫との戦いのために。雫の世界を訪れている美由希は全く熟睡できていない。
 疲労がピークに達しているのか、少しでも気を抜けば爆睡してしまう状態になっている。

「いえー。あの、兄との鍛錬が夜遅くまで最近続いてしまっていて……」
「そうなんですか……」

 那美には美由希と恭也のことを多少は話している。
 自分が剣術を習っていることは幼い頃に友達に話し―――裏切られた時以来誰にも教えたことはない。しかし、数年ぶりに出来た親友には隠し事はできればしたくないというジレンマに苛まれていた時期もあった。
 それで苦しんでいた時に、恭也は那美の人柄なら大丈夫だろうと、至極あっさりと背中を押してくれたことがあったのも忘れられない。あの一言がなかったらもしかしたらまだ苦しんでいたかもしれないのだから。

 恭也と美由希の予想通り―――神咲那美という少女は、美由希の真実を知っても態度は変わらなかった。

 ―――ほぇー美由希さんって強いんですね。

 その一言にどれだけ美由希は救われたことだろうか。おもわず涙を見せそうになってしまった事件だった。
 勿論美由希の真実と言っても、本当に全てを話したわけではない。
 御神と不破の一族のことはまだ内緒にしている。それを話すということはもしかしたら、那美にも魔の手っが及ぶかもしれないからである。もう十年以上も前に起きた事件ではあるが、危険が皆無かといわれればそうではない。
 憎しみには限りがなく、復讐心には過ぎた時間は関係ない。
 未だ御神と不破への恨みを抱いている輩はどれくらい存在するのだろうか。ましてや、【龍】の連中が嗅ぎつけてこないとも限らない。だから、那美にはまだ全てを話していないのだ。

 それでも何時か。近い未来に、話すことになるかもしれない。そんな漠然とした予感を美由希は感じていた。

 二人は弁当をたいらげると、互いに持ってきた水筒に入ったお茶を飲んで食後のひと時を過ごす。
 美由希の意識がとんでいたのも一瞬だったようで、時間はもう少しあるようだ。
 予鈴まで後十分と少しくらいの時間だ。その時間はお茶を飲んで過ごそうかと思っていた美由希であったが―――。

「あのーもしお疲れでしたら、マッサージしましょうか?実はこう見えても私得意なんです」
「い、いえ。そんな申し訳ないですよー」
「気にしないでください。下宿先の人にもしてるんで、結構慣れてるんです、私」

 美由希の遠慮を気にせずに、那美が両手を肩に置く。
 ぐっと指に力を入れて美由希の肩の筋肉を揉み解すように両の親指が円を描いた。
 美由希の筋肉は女性にしては硬く―――しなやかだ。それなので、マッサージを受ける場合相手が女性の場合だと満足できないことが多い。といっても、それはマッサージ歴が短い人の場合で、長い人なら十分に気持ちが良いのだが。
 那美はというと、お世辞にもマッサーッジが上手いようには見えない。ましてや高校二年生で上手いとか、どんな日常生活を送っているのかと疑問に思う程だ。どうやら下宿先の人に相当揉まされているのだろうことは予想がつく。

 だがしかし、那美のマッサージの気持ちよさは不可思議なほどであった。
 今まで経験したなかでもダントツの一位。兄の恭也はマッサージというより整体といったほうが正しいし、やっている最中に気絶させられるほどにとんでもない。終わった後はすっきりしているのが謎で仕方ないのだけれども。

 今の美由希が疲れているのもあるのかもしれないが、技術や経験を超越した、快感が身体中を支配していた。
 あまりの気持ちよさに美由希の意識が再び夢の世界へと旅立とうとしていた。
 カックンカックンと首が前後に揺れる。夢うつつとなっている美由希を見て、那美はくすっと笑う。

 もしもその現場を凝視している人が居たならば気づいたかもしれない。
 那美の両手が淡い光を発していたことに。その光は暖かで―――悪意や害意といったものとは無縁。
 だからこそ、美由希も那美にされるがままにされていたのかもしれない。

 そうこうするうちに十分程度の時が流れ―――予鈴が校舎に響き渡る。
 予鈴の音の大きさにビクリと反応して再び現実の世界へ戻ってきた美由希は、慌てて口をハンカチで拭った。
 あまりの気持ちよさに涎が垂れそうになっていたのだ。

「あ、有難うございます。那美さん。凄く気持ちよかったです」
「いえー。そういっていただけたら嬉しいですよ」

 満面の笑顔で那美はそう答え―――二人は屋上の扉を潜り、階下へと降りていく。
 途中で那美と別れ、自分の教室へと戻っていこうとした美由希だったが、ピタリとその足が止まる。
 美由希の正面から歩いてくる学生がいた。それは、その学生は―――天守翔。

 美由希とは視線を合わせずに、気配を感じさせぬまま、彼女は横を通り過ぎる。

 その時―――。

「……今夜。十二時。この学園でお待ちしています」

 美由希にしか聞こえない大きさで囁いてきた。甘い匂いが美由希の鼻をくすぐる。そのまま、その匂いを残し、翔は美由希から遠ざかっていく。
 遂に来たか、と美由希は拳を強く握る。
 先日の手痛い結果となった戦いを思い出す。あの時は、御神雫が力を貸してくれた。
 だが、今度は借りるつもりはない。今の自分の力で必ず戦ってみせる。
 前回のように、心が負けることだけは、決してしない。


「―――覚悟を決めるよ、私も。天守翔さん―――」


 そして、高町美由希と天守翔の最終決戦が幕を開ける。



































 夜御飯を終え、夜の帳が降りた時間帯。
 時計の短針は八時を指している。今夜は桃子とフィアッセも早く帰って来れたようで、珍しく家族全員で食事を取ることができた。
 晶とレンも相変わらずで―――何時も通り喧嘩をして、何時も通りなのはに怒られる。
 皆が何時も通りの時間を過ごしている。それが何故かとても嬉しく感じる美由希。

 昼間であれほど感じていた疲れはない。今にも寝てしまいそうだった眠気もどこかへ行ってしまっている。
 神咲那美のマッサージがよほど効いたのだろうか。今度改めてお礼を言わなければならないと感じた。

 食事も終わり、一息ついたこの時間―――これから始まるのは恭也との鍛錬だ。
 何時も通りの鍛錬をして、何時も通りの修練を積む。本来であったら十二時までには帰って来れない。
 どうやって十二時までに時間を作ろうかと考える。上手い言い訳を思いつかない。美由希はそもそも恭也を説得できるほど、口が立つわけではない。
 それなら真正面からぶつかっていくしかないのだ。

「あ、あの。恭ちゃ―――師範代」

 決心した美由希は、鍛錬の準備をしようと二階の自分の部屋へと戻っていく恭也を階段の途中で捕まえる。
 あげかけていた足を元に戻し、階段の途中から階下の美由希を見下ろす形となった恭也が振り返ってきた。 
 
「どうした美由希?」
「そ、その……今夜の鍛錬のこと、なんだけど……」

 それでも言いにくいのは仕方ない。
 特に最近は、夜の鍛錬を休みにして貰ったり、朝寝過ごしたことも忘れてはいない。
 やる気がないのではと考えられても仕方のない状況で、更には突然今夜の鍛錬を休みにしてほしいとは、簡単には言い出せない。

「―――お休みに、してください」

 言った。言ってしまった。美由希は、ぐっと手を握る。
 正直怖い。恐ろしい。兄に失望されてしまうことが。兄の期待を裏切ることが。
 返答はない。恐る恐る上目遣いで、階段の途中にいる恭也を見上げた。どんな表情をうかべているだろうか、怖くてたまらない。それでも自分から言い出したことだ。しっかりと受け止めなくてはならない。

「ああ、分かった」

 美由希は我が耳を疑った。
 たった一言だけの返答。何故ともどうしてとも恭也は問わない。怒らせてしまったのかとも思ったが、見上げる恭也は何時も通りで―――。

「あ、あの―――何も、聞かないの?」

 思わずそんな質問が飛び出ていた。
 剣に命を賭けている自分達が、鍛錬を休むということはそんな簡単な意味をもつことではない。毎日の気が遠くなる鍛錬の果ての果てに、今の自分達がいる。これからの自分達がいる。
 一日休んでしまえば、それを取り戻すのに更なる時間を要するのだ。
 今までの鍛錬を無駄にしてしまう行為だというのに、何故恭也はそれをすんなりと受け入れてしまうのか。

「やはり馬鹿弟子だな、お前は」

 言葉は辛辣に聞こえるかもしれないが、確かに恭也は笑った。
 いや、苦笑かもしれない。なんてことを聞いているんだと、そんな印象を受ける笑みだった。

「お前が鍛錬を休みたいと俺に言ってくるくらいだ。何か大切なことがあるんだろう」

 恭也が背を向けて階段を登っていく。

「お前が、鍛錬を嫌って休む奴じゃないことくらい俺が誰よりも知っている。自分を信じて、為すべきことを為してこい」
「―――!!」

 やはり、やはりそうだ。やはり、兄は凄い人だ。尊敬に値する人だ。
 高町恭也という人間は、一番大切なときに、一番必要としていることを伝えてくれる。 
 美由希が、目元に浮かび上がってきた涙を指で散らす。光の粒となって、空中に飛び散って消えていく。
 
「―――有難うございます」

 既に自室へと戻った恭也には聞こえなかっただろうが、感謝の言葉を送る。
 負けられない理由がまた一つ。高町美由希は一人ではない。彼女は、高町恭也の想いを背負っているのだから。

 恭也に続いて美由希も部屋へと戻っていく。
 服を戦闘用へと着替え、小太刀と飛針、鋼糸を用意する。服の中へと飛針と鋼糸を収納し、戦いの準備は整った。ただ、不安なことが一つだけ。今用意した小太刀は自分が普段使っている愛用のものではないのだ。つい先日刀剣専門店【井関】に出したばかり―――まだ取りに行っていない。本当は今日学校の帰りに寄ってみたのだが、間が悪いというか、本日は休みだった。
 その時ドクンっと心臓が強く鼓動する。一度だけではない、二度三度と、胸を叩く。

 それは恐れなのか、怖れなのか、畏れなのか―――。

 数日前手も足もでなかった相手との再戦。それが、恐ろしい。
 電気を消す。真っ暗となった部屋の中で、美由希は床へと座り込み―――両膝を抱え体育座りの体勢となった。
 
 今までの鍛錬を思い出せと自分を叱咤する。 
 イメージの中の翔の刃が自分を貫く。

 今までの死闘を思い出せと自分を叱咤する。
 イメージの中の翔の刃が自分を斬り裂く。

 ドクンドクンと、心臓の脈動は収まるどころか更に加速していく。
 数日前の戦いのときに植え込まれた恐怖が、敗北が、脳裏でフラッシュバックを繰り返す。
 あの時よりも強くなった。強くなったはずだ。夢の世界でとはいえ、幾度となく死闘を繰り返してきたのだ。
 御神雫の力を思い出せ。天守翔とは比べ物にならない領域の剣士を思い出せ。
 そんな相手との命のやり取りを繰り返してきたのだ。数日前とは、必ず違う結果を作り出せるはずだ。

 だが―――。

「負けない。負けたくない。私は―――絶対に負けられない」

 暗闇が支配する部屋の中で、美由希がぼそぼそと呟き続ける。 
 自分よりも格上である翔との戦いを前に、美由希は完全に気負っていた。かつて一度為すすべなく敗北を喫したというのが大きいだろう。そのため、必要以上に美由希の精神状態は追い詰められていた。  
   
 どれくらい暗闇の中で座っていただろうか。
 その時コンコンとドアを叩く音が聞こえた。その音は別に大きかったわけではない。だが、その音にビクンっと驚いた反応をすると、慌てて部屋の明かりをつけて、扉をあける。
 
 廊下にいたのは―――恭也だった。
 相変わらずの表情の読めない彼ではあったが、美由希が口を開くよりも早く、手に持っていた何かを渡された。
 呆然と渡されたものを見る。間違いなく、見間違いようのない、井関に預けていた筈の自分の愛刀だ。

「え?あの……恭ちゃん、これって……」
「井関さんに無理をいって店を開けてもらった。もう受け取るだけにしてくれていたみたいで運が良かったな」
「―――」

 時計を見てみる。先ほど恭也が自室に戻ってからそれほど時間は経っていない。
 考えるに、恐らくはあれからすぐに井関に行ってくれたのだろう。幾ら恭也といえど美由希の事情を全て知っているとは思えない。
 直感で、恭也は動いた。動いてくれたのだ。美由希にはこれが必ず必要になるのだと。
 
 ぶるりと全身が震えた。
 悪寒といったものではなく、ただ嬉しくて―――。
 己が愛刀を両手で胸に抱き、美由希は心からの笑顔を浮かべた。

「有難う、恭ちゃん。多分今の私は―――誰にも負けないよ。きっと今の私は―――」

 ―――最強だ。

 声なき声がそう言った。心の叫びが恭也に届いた。
 それを聞いた恭也は、やっぱり何時も通りの表情で―――。

「―――十年早い」

 デコピンを美由希に放って、恭也は一階へと降りていった。
 きっと今から鍛錬をするために八束神社にいくのだろう。それを見送った美由希はあることに気づく。
 あれほど高鳴っていた心臓の鼓動が止んでいた。普段通りの自分を取り戻していたのだ。
 
 きっとこれからどれだけ強くなっても兄には敵わない気がする。
 そんなことを考えながら美由希は高町家のリビングへと向かい、時間まで家族とともに過ごすことを選んだ。
 なのはと一緒にテレビを見て、晶とレンの喧嘩が始まって、桃子とフィアッセと最近の恭也のことに話して―――。

 そして、時間はやってくる。
 約束の時間の少し前、美由希は万全の状態で、完全の装備をして、決着をつける場所へと向かう。

 夜色の空には星が幾つも見える。歩いている途中に通り過ぎた家々は、灯りがまだついているところもあれば、既に真っ暗な家もある。身体が軽い。足が何の躊躇いもなく歩んでくれる。
 高町美由希の状態はまさに―――これ以上ないほどに最高であった。

 時間が時間だけに通行人とは誰もすれ違わずに風芽丘学園へと辿り着くことができた。
 巡回している警察に見つかったら、約束の時間に間に合わないので細心の注意を払ってきたのだが。もっとも、こんな大量の武器をもっていたら銃刀法違反に漏れなく引っかかって警察署に直行だろう。
 当然校門は閉まっているが、それは美由希に意味はなさない。

 手を校門にひっかけると同時に地面を蹴り跳躍した。音もたてず、校門の上へと飛び上がった彼女はあっさりと乗り越え、内部へと侵入する。
 周りから見たら泥棒にしか見えないのが怖い。もし見られていたら銃刀法違反と同じく不法侵入で捕まってしまう。
 
 時刻は十二時。決戦の時は来た。
 砂を踏みしめる音が聞こえる。美由希の足がたてる音だ。ざっざと、砂が鳴く。まるで悲鳴をあげているかのようだと少しだけ場違いのことを考える。
 眼鏡は既に外している。それは高町美由のスイッチだ。剣を学んではいるが、基本的に美由希は人を傷つけることは好まない。武の比べあいならば話は別だが、普段からそうというわけではない。
 そういうわけで美由希は、意識して自分を戦闘態勢へと導くために眼鏡の有り無しでスイッチを切り替えることにしている。
 
 ゆっくりと、辺り一帯の警戒を高めていく。
 御神流の気配察知―――【心】で周囲を掌握していく。鳥や小動物、虫の気配さえも逃さぬように、集中力を高めていった。
 だが、見つからない。今夜の己の相手である天守翔の気配を掴み取ることができない。
 まだ来ていないのかと推測するも、違うと否定する。
 いる。いるのだ。周辺のどこかに。気配はないが【視】られている。
 どこにいるかはまだ分からないが、僅かな気配を発することなく、彼女は確かにここにいる。

 緊張感が風芽丘学園全域を覆っていく。
 小太刀に手をかけ、いつでも抜けるようにしながら、美由希は呼吸を止めてすり足となって歩んでいく。
 校舎へと近づいたその時―――最高頂に高まっていた集中力が第六感を呼び起こす。己へと【死】が迫っているぞ、と告げてくる。
 小太刀を引き抜き、反射的に頭上に構えた。

 ギャンっと金属同士が噛み合わさる音をたてて夜の校庭へと響き渡る。
 想定していたよりも、若干重い衝撃を両腕に伝えてきた。
 視界の端で、正面に広がる巨大な校舎。その二階のある場所の窓が開け放たれて、カーテンが夜風に揺らされているのが見えた。
 とてつもない斬撃の重さ。二階からの重力を加えたその一撃を一瞬とはいえ受け止めることができたのは奇跡―――いや、実力であることには間違いない。構わず両断してこようとする剣圧を横へと流す。

 流した際に生じた火花が視界に舞った。
 そして、今度は美由希の小太刀がゆらりと揺れる。二振りの刃を振りぬくよりも早く、美由希の前に風が巻き起こる。
 逃すものかと、左足を引き、身をよじりながらも袈裟懸けに右の小太刀を薙ぎ振るう。だが、小太刀には何の感触ももたらされない。ただ空気を引き裂くだけに終わった。
 視界に映るは漆黒の長い髪。その髪を翻しながらも、剣ではなく、拳が妙な軌道を描き迫ってくる。
 咄嗟に腕を上げて、推測される着弾地点である顔を庇った。刹那の後、ミシリと腕が軋む。伝わってくるのは内部破壊の浸透撃。無論、ただで喰らったわけではない。衝撃を【流す】。本来ならば腕の骨を折ることができたであろう衝撃を、美由希は完全とはいえないまでも、流し捌いていた。

 ばさりと音をたてて再度翻る黒い髪。
 一気に決めようとしていた、人影はこれ以上は無理だと判断したのか、美由希の懐から離れて眼前で身構えた。
 その人影は予想通りの人物―――天守翔。

 確実に決めたと思った奇襲の連撃をほとんど無傷で捌ききった美由希に、翔は驚きを隠せない。
 完全に気配を消しての死角からとなる奇襲。これをこうまで捌くとは、数日前の彼女からしてみれば規格外の動きだ。

 一方奇襲を受けた美由希は、内心で安堵する。
 本当にギリギリのところでかわしきることが出来たのだから。いや、正確には一撃拳を受けてしまったのだからかわしきったというのは語弊があるかもしれない。
 それでも、防御に使った腕はまだ十分に、役目を果たしてくれる程度のダメージしか受けてはいない。
 そして、突然の奇襲にも美由希は特に文句はない。非難するつもりもない。
 別に正々堂々と戦うと約束したわけでもなく、本来殺し合いとはそう言ったものだ。真正面から戦いを開始するほうが珍しい。

「正直に言いましょう。私は貴女が―――恐ろしい」

 柄を両手で握り締めた翔の声が震えた。
 冷静沈着。感情が見えない翔にしては珍しいと美由希は感じたが―――違うのだと理解した。
 
 目の前の少女は、天守翔は決して感情がないわけではない。冷静沈着というわけでもない。
 彼女は殺しているだけだ。自分の感情を。自分が冷静であることを心がけているだけだ。

「貴女は―――貴女はたった数日で一体どれほどの、高みに達したというのですか」

 先ほどの奇襲を避けきることは決してまぐれでできるものか。
 確かな経験。確かな速度。確かな技術。そのどれもが足りなかったらあっさりと決着がついていた。
 数日前の美由希では、決して為しえなかったその全て。
 それでも―――。

「私は、貴女を乗り越えましょう。私は、決して負けはしない!!」

 刹那の悪寒が迸る。
 返事をする余裕もなく、口から出掛かっていた言葉を飲み込んで、後方へと身を逸らす。
 瞬間の遅れもなく、美由希の顔があった場所を横一文字に刀が切り裂いた。風斬り音だけが、耳元に響く。
 
 たたらを踏んで後退する美由希が態勢を整えるよりもはやく、地を這う黒い人影。
 凶悪な勢いで切り上げられる白刃。銀色の刃が圧倒的な速度と破壊力を振りまいて空を断ち切る。
 その一撃を身をよじってやり過ごす。だが、それだけでは終わらない。
 
 先ほどとは真逆。今さっきは右の拳で。今度は左拳で。
 ピタリと静かに美由希の腹部に押し当てられていた。
 
 ドンっと激しい音が聞こえた。それは翔が大地を踏みしめる震脚の激音。重く冷たい、踏み込みの音だった。
 地が揺れた。いや、違う。揺れたのは美由希自身だ。腹を突き抜ける巨大な衝撃。

「っく!?」

 後ろへと弾き飛ばされる美由希の口から肺に残っていた空気が搾り出された。焼けるように腹部が痛む。
 車にでも撥ねられたら、こんな衝撃なのかと感じながら、己へと追撃してくる翔を視線で追う。
 追い詰めているはずの翔を襲っているのは、焦燥だった。今のは限りなく完璧に近いタイミングだったはずだ。それなのに、決められなかった。
 今の一撃は【透】を込めた一撃必殺。衝撃を内部に伝え、内臓を破壊する。だから、本来ならばその場に倒れるはずだ。【後ろ】に弾き飛ばされるということはありえない。
 ならば考えられることは一つだけ。高町美由希があの瞬間、自ら後ろに逃げた。
  
 一方美由希も必死だ。何せ、呼吸が出来ない。
 腹部への【透】を逃がしたとはいえ、それはつまり殴られたことに変わりはないからだ。
 息がつまって空気を吸い込めない状況。一時的に呼吸困難に陥った。無理に呼吸をしようとしては、駄目だと本能が即座に優先事項を組み立てていく。 
 呼吸を諦め、小太刀を構えなおす。
 美由希から溢れんばかりに放出される、形なき刃。向かってくるものを威嚇するように膨れ上がる。
 しかし、それで止まるような相手ではないのは百も承知。
 
 何時の間にか両手に持ち直した日本刀が全力を持って振り下ろされる。
 咄嗟に頭上へと小太刀を交差させて、迫ってきていた刀を受け止めた。

 流石に一撃の威力でいえば、翔の刀は小太刀を遥かに上回る。
 呼吸ができずに力が入らない美由希にそう何度も受け止められるとは思えない。それを理解しての容赦のない連撃が夜空を彩っていく。時間と間合いを取ろうと、隙をついての近距離から突きだされた刃を、一足飛びで後退してかわされた。
 しかし、後方へと逃げた翔は間をおかずに、再度突撃。
 ばさりと音をたてた長い髪の隙間から、燃え滾った両の瞳が、美由希を見据えている。
 瞬き一つせず、油断もせず、慢心もせず、刀に狂った剣士は刃を振るう。
 
 厄介なのは流れるが如くの剣の技だけではない。
 数日前の邂逅の時にも体感したが、翔の真に恐るべき所は剣での連撃の合間に入れてくる、【透】にある。
 拳然り、蹴り然り。それらを巧みに、自然な連携で叩き込んでくる翔の攻撃は非常に読みにくい。

 思考を遮る刺突が顔へと迫る。身体を開き、やり過ごす。
 視界に映ったのは、何時の間にか片手で自分の得物を持つ姿。自由となっていた左手が、蛇のように美由希へと喰らいつく。
 再度大地を揺らす震脚。激しい音が耳を打つ。
 反射的に下ろしていた腕で今度は腹部への打突を防御する。だが、それだけでは駄目だ。瞬間、襲い来る衝撃の荒波。
 無理矢理に身体を捻って、その衝撃を流す。直撃はさけたが、ダメージは少しずつ蓄積されていく。
 
「っ―――しぶ、とい!!」

 苛烈な声が空気を震わす。これでもしとめられないのかと、僅かな苛立ちが篭っていた。
 だが―――。

「っけほ、く……はぁっ!!」

 美由希の時間稼ぎは終了した。
 呼吸困難に陥り、止まっていた肺が、ようやく新たに酸素を迎え入れることができたのだ。
 身体中が歓喜の声をあげる。一瞬で隅々にまで行き渡る。血液が指先にまで巡り渡った。両腕に力が篭る。
 
 だが、翔の刃は止まらない。空気を引き裂き、袈裟懸けに迫る。
 その切っ先の狙いは、頚動脈。確実な死を連想させる、恐怖を纏わせた刃だった。以前の美由希だったならば恐怖に縛られたかもしれない。しかし、今の美由希を縛るには値しない一撃だった。
 
 右の小太刀が撥ねあがる。迫る刃に向かって滑らせた。
 徹を込めたその一撃は、相手の日本刀を叩き切る勢いで振り切られる。
 
 二つの刃が激突。互いの徹が込められた威力は相殺された。
 それにぎょっとした顔で驚くのは翔だった。己の技術に迫るほどに、美由希の技は高められていたのだから。
 
 それでも翔は諦めはしない。互いに弾きあったその状態から刀を戻した一撃が再度振り下ろされる。
 今度の軌道は水平の斬撃。半円を描き、美由希の腹部へと牙を剥く。

 美由希の左の刃が、その牙を弾き上げる。下からの掬い上げるような縦の斬線だ。それによって、翔の軌道は捻じ曲げられた。
 ぶつかり合い、弾きあう。やはり二人の徹の技術は拮抗している。

 死が二人の間を支配する中、一瞬の油断が生死を分ける中、美由希の脳裏に響き渡るのは御神雫の嬉々とした声。

 ―――そう。それでいい。素晴らしいぞ、小娘。いや、御神美由希!!それこそが、妾でさえも為しえなかった実戦での御神流【裏】!!

 喜んでいた。いや、狂喜していた。夢の中ではあれほど駄目だしを繰り返していた御神雫が。嘗てない興奮で打ち震えていた。

 ―――目の前にいる肉体を凝視せよ。彼奴の呼吸と筋肉の配置。そして動作を予想し、分析せよ。彼奴の目を、口を、頬を、首を、手を、胴を、腿を、足の動きを見逃すでない。どのような攻撃も、どのような技にも対応できるように意識を張り巡らせよ。お主の肉体には【それ】が可能とされる鍛錬が積んである。今まで積み重ねてきた全てが、今このときのためにある!!

 ガンガンと雫の声が頭に鳴り響く。
 それに気を止める暇もない。一瞬でも油断すれば死が訪れるのだから。
 しかし、御神雫はそれを気にも留めない。

 ―――く、くははは―――不破の小倅め。全てがお主の予想通りか!!全てがお主の計算どおりか!!全てがお主の掌でのことなのか!!恐ろしいぞ、お主は本当に恐ろしいぞ!!まるであの人を見ているようだ―――否、否、否!!お主はまさに―――あの人そのものだよ!!御神の極限!!

「―――うるさい!!黙れ!!」

 びりっと夜の校舎に響いた美由希の怒声。
 それに訝しげな視線を向けた翔だったが、止まるはずもない。互いの全力は、休みなくぶつかっていく。
 翔の切り払い。切り落とし。切り下げ。息を吐くまもなく放たれる刃を、時には防ぎ、払い、避け、二人の舞は永遠と続く。

「―――これは、私の戦いだ!!貴女が出てきて邪魔をするな!!」
「っ―――」

 御神雫を意識の下へと追放する。
 特に不満もないようで、不気味な笑いを残し、彼女は消えて行った。
 美由希の裂帛の叫びに何か予想がついたのか、翔は大きく距離を取った。油断なく日本刀を構えたままだ。

「……何故、貴女は【それ】を解放しないんですか?」

 それは素直な疑問だった。
 御神美由希に宿る【何か】。それに翔が気づかないはずがない。得体の知れない、底が知れない怪物を、美由希のなかに感じ取っていた。だからこそ疑問だったのだ。その力を解放すれば、ここまで拮抗した戦いにならないはずだ。

「これは【私】の戦いです。誰かの力を借りて、勝ったとしても私は納得できない」
「……」

 ぎりっと歯軋りの音が聞こえた。
 憎憎しげに美由希を睨みつけているのは、翔唯一人。

「―――その力を使わずに負けたら、馬鹿じゃないですか。戦いは、勝たないと意味がない!!認めてもらえない!!」

 翔の空気が重くなる。深くなる。
 今までよりもさらにさらに―――深遠の気配を発し始める。
 だが、美由希はそれ以外の印象を受けた。まるで今の翔は、子供のようだと。どうしようもないほど苦しんでいる、意地になっている子供だと。
 
「―――わたくしは勝たないと駄目なんです!!勝たないと!!勝たないと―――認めてもらえない!!」

 ズンっと両足が大地を踏み込み、震動する。

「貴女のように!!平和に生き!!愛され!!平穏に暮らして!!使えるはずの力も使わない貴女なんかに―――負けるわけは行かないんですよ!!」

 怒りに顔を染め、翔は疾駆する。
 これまで以上の速度で間合いを詰めてくる。数メートルはあった間合いを一瞬で殺す。それは本当に驚くほどの雷の如きスピードだった。
 そんな翔の動きを見ていた美由希だったが―――。

「―――ごめん。流石にちょっとむかついたよ」

 二振りの小太刀が複雑な軌跡を描く。
 ほぼ同時にしか思えないタイミングで、四撃が眼前にて展開し、襲い掛かってくる。
 驚愕―――咄嗟にその四撃が描いた軌道を尽く逸らしてゆく。幸いにもその軌道は考えていたほどの破壊力を秘めてはおらず、奇跡的にも防ぐことを可能とした。
 もしも、完全に近い形の刃の群れであったならば、それは不可能だったことだろう。

 突撃の初速を殺され、慌てる翔にとって印象的だったのは―――笑顔でぶちきれているだろう、御神美由希の姿だった。

「―――ねぇ、私が平穏に暮らす?」

 これまでとは異なる、死を内包した刃が振り下ろされる。
 その一撃を弾き落とす。しかし、手に感じるのは痺れるような衝撃。

「―――私が、平和に生きる?」

 二振りの刃は止まることなく、翔にとって、防ぎがたい軌道を描き闇を渡ってくる。
 それは、久しく感じたことがない死の予感だった。

「―――私の一族は皆死んだ。殺された。残されたのは私と恭ちゃんと、とーさんと本当のかーさんのたった四人だけ。一歩間違えれば私も殺されていたんだ」

 刃が舞う。一撃二撃三撃と。
 その全てが鋭く、速い。天守翔へと届く必殺の刃。
 戦いの中で響くのは歌うような美由希の思い出語り。

「―――その日私のかーさんは多くの人を殺した。私の目の前で。全く無関係だった人を、私を赤ん坊の頃から面倒を見てくれていた看護師さんも、斬り殺した!!」
「―――っ」

 ごくりと翔は、美由希の連撃を捌きながら息を呑む。
 鬼気迫る美由希の斬撃は、少しでも気を抜いたら間違いなく【送られる】。

「―――日本を放浪して、友達も作らず、作れず!!それでもたった二つの刃を携えて!!あの人を追いかける毎日!!それでも良い!!それが私の生きる意味だから!!」

 回転があがっていく。
 既に二人の距離は密着に近い。美由希がその距離まで踏み込んできていたのだ。
 これほどまでの近距離となれば小太刀の方が有利なのは自明の理。

「―――それは私の意志が決めた!!だからいいよ、幾らでも受け入れる!!でもね、それ以上にむかついたのが―――」

 弾丸乱雨となった超々連斬。もはや翔の捌ける限界を超えかけていた。
 死ぬ。殺される。敗北する。恐怖がひたひたと這いよってくる。絶望が心を支配する。
 ギャギンと激しい音が鳴った。二刀の小太刀が翔の刀を弾き上げたのだ。残されたのは無防備な状態の翔。
 呆然と、己に迫る死を見つめている。
 
「―――貴女が【私】を見てないことだよ!!」

 美由希は―――歯を噛み締め、思いっきり力を込めて無防備な翔の頭に自分の頭を叩き付けた。
 
 互いの視界に火花が散った。グワングワンと、二人ともが衝撃に身体をふらつかせる。
 激痛というか、鈍痛に両者とも痛みの発生源である頭を手で抑えた。
 美由希は兎も角、翔はパニックに陥っていた。今のは間違いなく完璧に斬る事ができたタイミングだった。防ぐことなどできなかった。死を覚悟したというのに―――何故生きているのか。いや、この痛みは何なのか。というか、痛すぎる。

「―――ねぇ。なんで貴女は【私】を見てくれないの?貴女が、何を背負っているのか分からないし、知らないよ。それがとんでもなく重いモノなのかもしれない。でも、今ここで貴女の前にいるのは私―――高町美由希だよ」

 ドクンっと翔の心臓が声をあげた。
 
「貴女の刃に乗っているのは―――怒り、悲しみ、虚しさ。色々な感情が乗っていたよ。でも一番強かったのは―――認められたいという気持ち」
 
 パキィと何かが音をたてた。

 その気持ちに気づいたのは美由希だからこそだろう。
 彼女もまたそうなのだから。たった一人だけで良い。その人にさえ認められたならば十分だ。そういう気持ちを常に持っているのだから。
 頭突きの痛みがようやく治まってきたが、生理的現象は抑えきれず、涙がちょっと浮かんでいるが―――それでも彼女は続ける。

「きっと貴女は貴女を見てもらえなかったんだね。それがどんなに辛いことか、悲しいことか、分からない。でもね、今此処で貴女と戦っているのは私なんだ。他の誰でもない高町美由希なんだ。貴女は―――自分が今までされてきたことを相手にしているんだよ」

 頭を抑えながらペタンと地面に座り込んだ翔は―――見下ろしてくる美由希を見上げる。

「―――ねぇ、私を見てよ。私と刃をかわそう。今此の時―――私も貴女だけを見ているよ」

 そして―――殻は破ける。
 今まで天守翔を覆い囲んでいた強固な殻は音をたてて砕け散っていった。
 高町美由希という人間と会って、想いをぶつけられて―――翔は、クスリと笑った。

「全く本当に馬鹿ですね。今さっきで勝負は決まったというのに、そんなことを言いたいがために、見逃したんですか?」

 痛みで浮かんでいた涙をふき取る。いや、果たしてそれは痛みだけのためだったのだろうか。
 落としていた刀を拾い、一振り。風切り音が高鳴った。だが、その音はこれまでよりも遥かに美しい。一切の迷いがない。不思議なほどにぞくぞくとするほどに美しかった。

「私は―――本当の【貴女】と戦いたい。そう思っただけ。全力で戦ってこそわかることもあるよ」
「そう。そうですね―――そうかもしれませんね」

 翔が刀を構える。何の変哲もない正眼の構え。基本に忠実な、その構えを見た美由希の背中に電流が走る。
 恐ろしい。これまでのどの斬撃よりも、打撃よりも、それはとてつもないほどに恐怖を纏っていた。
 にこりと彼女は笑う。だが、それに美由希も笑い返す。何故か、凄く楽しい気分だった。 

「―――もう一度」
「うん?」
「―――もう一度、貴女の名前を教えてください。貴女の口から教えてください」

 擦れるような懇願。
 それに力強く、美由希は頷いた。

「―――永全不動八門御神真刀流小太刀二刀術。高町美由希」

 有難うございます。そんな呟きは夜に溶けた。
 翔が地面を蹴りつける。それと同時に美由希も疾駆する。
 二人の集中力が限界にまで高まっていく。集中力が、互いの動きの全てを相手に伝えた。
 腕の動き、脚の動き、足の動き、目線、それら全てを二人は完全に、完璧に視覚が捉え、脳へと送る。
 
 限界を迎えた集中力が―――限界超えた。

 二人同時に、互いの理解を超えた世界へと足を踏み入れていた。
 【そこ】は世界がモノクロに染まっていた。見渡す限りが全て、色をなくしていた。それを不思議と思わない。
 自分達ならばそれが当然だと、不思議とそう思えたのだ。それに世界がどうなろうと互いにやることは一つだけ。

 翔の刀が、美由希の小太刀が斬閃を矢継ぎ早に繰り広げる。
 一手でも間違えたならば、互いの刃が急所を貫く。一ミリの誤動作が、致命傷と成り得る。
 そんな生と死の狭間。至高の戦場の空間で、二人は刃を弾きあう。

 三枚の鋼の刃が不協和音を奏で、耳に打つ。
 だが、それは不協和音であると同時に、何故か酷く心に残る。
 少なくとも二人にとって、そこは生涯最高となる一瞬となっていたのだ。
 
 一瞬の空間で何十と弾きあった刃が限界を迎える。
 それと等しくして、互いの肉体も軋みをあげ続けていた。本来ならば二人とも【そこ】にいるにはまだ早い。
 武の頂を求める者達が生涯をかけて到達することを目指す領域。常人とは異なる時間外領域へと導く超速技。

 御神と天守において、流派不出とされ、その世界に辿り着けるものは、一握りとされた必殺となる世界。
 彼らはそれを―――【神速】。【天翔】と呼ぶ。

 その異空間に入れたのは翔と美由希だったからだろう。
 どちらか片方だったならば、不可能だった。互いの意識が、想いが、集中力が二人の限界を突き破った。
 だがしかし、限界を突き破るということは―――限界を迎えるということにも等しい。

 二人の肉体が、精神力が悲鳴を上げ、音をたててモノクロの世界は崩れ去る。
 そして、噛み合っていた刀と二振りの小太刀もまた、耐久の限界を向かえ、耳障りな金属音を残し、砕け散った。

 それでも二人は止まらず―――。

 翔の右拳が。美由希の右拳が、激しい衝撃を残し、互いの頬を殴りつける。
 たたらを踏み、両者とも一歩だけ後退するも、歯を食いしばり、次に放つのは左拳。
 それも同時に互いの頬に着弾。血が飛び散る。二人の間の地面を濡らす。
 二人にもはや余裕はなく最後の一手として選ばれ、放たれたのが―――。

「ぁぁあああああああああ!!」
「っぁあああああああああ!!」

 皮肉なことに、ぶつかりあったのは互いの頭同士だった。
 翔の額が、美由希の額が。鈍い音をたてて激突。
 その状態で―――二人の動きがピタリと止まった。

 十秒ほどたって、止まっていた時間は動き出す。二人はふらりと離れ、同時に仰向けとなって倒れた。
 意識はあるようだが、どちらも動き出す様子は見られない。数分が経過し―――。

「……痛いです。石頭です、ね。高町さん」
「いやいや。天守さんも負けてないと思いますよー」

 
 寝転がった体勢のまま、二人は話し始める。
 
「―――こういう場合、勝敗はどうなるんですしょうかね」
「どうなんでしょうかねー。早く立ち上がった方が勝ちとか漫画ではありますけど―――引き分けにしませんか?」
「……そうですね。それが良いと思います」

 美由希の提案をあっさりと受け入れた翔は、ゆっくりと上体を起こす。
 殴りつけられた両頬は赤く腫れ上がり、額も真っ赤に染まっている。日本人形みたいに綺麗な顔をしているだけに、腫れ上がった状態が少し間抜けに見える。
 勿論それは翔だけではなく―――美由希もであるが。

 パンパンに膨れ上がった両頬に手をあてて、痛みに眉を顰める。
 激痛がはしっているが、それが不満には思わない。逆に、何故か心からすっきりとした―――心に広がっていた暗闇の雲が払われたような気分だった。

「……わたくしは、姉が嫌いでした」

 ぽつりと翔が呟く。

「いえ、違いますね。一族の者に良い様に言い包められて、姉を勝手に恨んでいただけです。本当に身勝手な逆恨みです」

 翔の発言を美由希は黙って聞いていた。
 きっと、翔は聞いて欲しいのだろう。誰にも今まで吐露することができなかった想いを。

「あの人は―――わたくしを見てくれなかった。見て欲しかった。だから、わたくしは天守当主の座に立とうと思いました。そうすることによって姉を超えられる。そうすれば姉もわたくしを見てくれると思ったんです」

 人間とは思えぬほどの強さの姉。人の限界を超えていた姉。
 その圧倒的な強さに、憎むと同時に剣士として憧れを抱いた。揺らぐことのない孤高の強さに少しでも近づきたいと思った。

「当主の座につくために―――負けてはいけない。負けられない。常にそう考えて生きてきました。そうやって私は生きてきました。でも、あの人は―――姉は遠ざかるばかりで」

 独白を遮るように、美由希はくすりと笑った。
 何故笑われたのかわからないのか、翔はキョトンとした様子で美由希を見るのだが―――。

「天守さんはきっとお姉さんのことが嫌いじゃないんですよ。好きで、大好きで仕方ないんです」
「―――へ?」

 間の抜けた声が翔の口から漏れる。

「だって、嫌いの対義語は無関心って良く言いますよ。お姉さんのことが好きだから、そんなに苦しんで、悲しんでたんじゃないですか?」

 思いがけないことを指摘され、それを理解した途端、翔の頬が瞬間湯沸かし器のように真っ赤に染まった。

「え?え?え?え?」

 パニックに陥っている翔が、とてつもなく可愛かった。
 初めて歳相応な姿をみることができて、心が弾む。顔だけではなく、そんな様子も日本人形に見えてしまう。

「一度お姉さんとゆっくりお話したほうが良いと思いますよー。きっとそうしたら色々と変わってくる筈です」
「―――は、はい」
 
 コクコクと頷いた翔に満足して、美由希は立ち上がる。
 頬と額が激しい痛みを主張してくるが、今此の場ではどうしようもない。
 早く帰って治療しなければ、悪化して明日学校へはとても登校できる状況ではなさそうだ。

「それじゃあ、私帰りますね。お姉さんとの関係―――頑張ってください」
「あ、あの―――」

 背を向けた美由希を呼び止める。
 翔の心のなかに様々な思いが湧き出てきた。出会ってから酷いことばかりしていた気がする。間違いなく、美由希には嫌われることしかしていないが、彼女はそんな様子は微塵もみせていない。
 本当に不思議な人だと翔は思った。でも、とても温かい人だと―――そう思った。

「―――有難うございました!!」
「どういたしまして」

 最大限の感謝を込めたお礼に、美由希は笑って答えてくれた。
 そして、ふらふらと足元がおぼつかない状態ではあるが、そのまま風芽丘学園から消えて行く。

 残された翔も、ふらりとよろけながら立ち上がり―――夜空を見上げた。
 夜空に瞬く星々が、これまでの人生で一番美しく見える。
 美由希に言われたこと―――きっとそれは正しいのだろう。だが、これまでの自分を否定するのも難しい。
 直ぐには変えられないだろう。だが、それでも変えていこう。少しずつで良い。今の自分から変わっていこう。
 
 天守翔は、瞬く星々にそう誓った。
 
  
 
 



 


  


 
 






 
  

 
 
  

 

 

        ---------えぴろーぐ---------------









 美由希と翔の戦いから一週間が過ぎた。
 当然といえば当然だったのだが、殴られた頬の腫れが次の日に引くことはなく―――暫く学校を休むことになったのが記憶に新しい出来事だ。
 本日は日曜日。普段だったならば、恭也と美由希は一日中道場なり、八束神社の裏手で打ち合ったりしているのだが、今日は珍しく二人で買い物に出かける流れとなった。
 といっても、砕けてしまった小太刀を新調するためなので色気もへったくれもない。更実は既に注文はすんでいるので、取りに良くだけでもある。

「あら、恭也じゃない。どうしたの?」

 恭也と美由希が並んで商店街を歩いていると―――突然後ろから声をかけられる。
 こんなシュチエーションが以前もあったなと思いつつ背後を振り向く。
 
 するとそこには、天守翼と天守翔の二人が並んで立っていた。
 翼は動きやすい服装―――黒尽くめという極端な色合いだが。翔は和服姿と、相反する服装ではあったが、二人の容姿は互いにとびぬけている。街行く人の視線を集めていても仕方ないだろう。

「あれ、天守さん。お久しぶりです」
「はい。高町―――いえ、美由希さんもお元気そうで」

 恭也がいるためだろうか、高町という苗字ではどちらかわからないと判断した翔は美由希の名前を呼んだ。
 そして隣に立っていた翼を思い出し、頬を赤くしながらちょんちょんっと両手の人差し指を合わせながら隣の翼の紹介を美由希へとする。翼が翔の姉だと知った美由希は改めて、長身の彼女を見てみるが―――。

 ―――うわぁ。天守さんが、劣等感みたいなの感じるのも無理ないなぁ。
 
 こんな人が姉妹として傍にいたら、確かに翔みたいになってしまうのも無理はないかもしれないと美由希は少しだけ、彼女に同情をする。恐ろしいほどに強い。目を縫い付けられるほどに美しい。こんな人もいるんだと、美由希は内心でため息を吐いた。
 唯一勝っているところがあるとすれば―――胸の大きさくらいだろうか。
 
 そんな邪なことを考えた美由希に。翼が冷たい視線を向ける。
 幾らなんでも考えていたことを読むとか、そんな摩訶不思議な能力があるわけはない。ないはずだが―――。

「恭也。丁度よかった。少し話したいことがあるんだけど時間くれないかしら?」
「ん……」

 ちらりと美由希の様子を窺う恭也。
 本日は一応美由希の付き添いではあるが―――井関に刀を取りに良くだけといえば、それだけだ。一人で行かせても問題はない。
 それに美由希と一緒にいるというのに、ここまで強引に誘ってくるのならば余程重要な内容かもしれない。
 
 ―――多分。

「美由希、すまんが一人で井関まで行ってくれ。何かあったら携帯に電話しろ」
 
 ガーンと美由希の頭の中で鐘の音がなった。 

「さて、翼。どこで話す?」
「良いカフェを最近見つけたのよ。そこにしましょう」

 すっと自分の腕を恭也の腕に絡めると―――半ば強引に恭也をつれてこの場から立ち去っていく。
 去り際にふっと勝ち誇った笑みを残して。

 取り残される形となった美由希と翔。
 翔は姉の傍若無人ぶりに既に諦めてしまっているのか、行ってらっしゃーいと二人の後姿に手を振っていた。
 ようやく我を取り戻した美由希は―――。

「ごめんなさい。天守さん。私―――貴女のお姉さんのことちょっと苦手かも」
「え、ええーー!?」

 商店街に響く、翔の雄叫び。
 そして今日も時間は過ぎてゆく。

 恭也を筆頭として、あらゆる猛者や人外が蠢く都市海鳴。
 
 本日も―――平穏也。





 




 
 
 
 

 

 


 



 







------------atogaki---------------

 長かった永全不動八門編終了です。本当に長かった……履歴を見ると6/16~なので半年くらいですかね。
 実際はほとんどこの一週間で書き上げたものですが><

 読み返すと色々と残念な箇所もあります。風的 小金井 秋草の三家が全く活躍してない。途中でフェードアウトしてますね。
 実際に永全不動八門編は書きたいことが全く書けなかったなぁ……と反省ばかりです。
 特に美由希と翔の戦い。もっとかきたかったのですが、頭のイメージに私の筆力が全く追いつかず、残念な戦闘となってしまいました。
 虎熊童子とかとの戦いは省略されたのではなく(省略されてますけど)、間章にて補完予定です。
 果てさて、次の話は―――迷っています。
 
 久遠&那美(大怨霊編) 晶&レン編 フィアッセ&美沙斗(龍編)

 正直な話、どれを先に書いても問題はなかったりします。ただし、間章との関係もありますし、迷い中です。
 とりあえず一気に書いたので、ちょっと燃え尽きました。モチベーションが持続できたら続編は投下したいと思います。というか、モチベーションが全てですね><

 最後に半年以上も長い目で読んでいただいた皆様に感謝を致します。有難うございました。
 また、感想が力になり、一気に書き進めることもできたので、感想を書いていただいた方々にも、御礼もうしあげます。


 そして、年の最後に完結できてよかったです。皆様良いお年を!!(十六章でもかきましたけど



[30788] 断章②
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2013/02/21 21:56





 




 

 夜空には星々が美しく煌き、綺麗な満月が優しい光を地上に落としている。
 周囲は僅かな先も見えがたい大森林だったが、足を止め、暫しの間木々の枝の隙間から、その光景に魅入られていた着物を着崩した二メートルを超える大男。伸ばしただけの乱れ髪。片手に持った小さな子供ほどの大きさがある徳利がさらに異彩を放つ。
 日本という国で伝説にまで語られる存在となった人外の頂点。最強最悪の鬼―――酒呑童子。それが男の名前であった。

 彼の背後に付き従うのは二つの影である。
 鬼の王と称されるにしては、僅か二人の付き人しかいないのは見る人が見れば驚いたかもしれない。
 
 一人は大男である酒呑童子とは真逆の背丈の少女であった。身長にして百二十あるかどうかという大きさ。
 一つの染みもない純白の神祇装束に似た羽織と、朱色の袴を身に着けた可愛らしい少女だ。
 
 もう一人の影は、酒呑童子にも負けない大男だった。
 若草色の和服を纏い、群青色の袴。酒呑童子に比べれば随分と若く見える。また、容姿も道行く人の視線を自然と集めるであろう男にしては変だが、美しいという言葉が似合っている美青年である。

 少女はトコトコと、青年は音もたてずに酒呑童子の背後に付き従っていた。
 だが、数分も言葉もなく夜空を見上げている酒呑童子に痺れを切らしたのか少女が苛立ったように、口を尖らせる。

「何をしているんですか、酒呑。急ぐといったのは、貴方じゃないです?」
「……ん、ああ、そうだな。わりぃ、茨城」

 声をかけられて我を取り戻したのか、酒呑童子は自分の頭をワシワシと掻きながら応える。
 茨城と呼ばれた神祇装束の少女は、随分と厳しい眼差しを酒呑童子へと向けるが、生憎と向けられた当の本人は全く気にしてないのか、あっさりと視線を無視するかのように歩みを再開させた。

 彼の態度が気に食わなかった茨城は、詰問するために口を開こうとしたが、その口を塞いだのはもう一人の大男であった。
 モゴモゴと言葉にならず、酒呑童子の足を止めることはできずに終わる。それに腹が立ったのか茨城は己の口を塞いでいる男の手におもいっきり噛み付いた。
 痛みに眉を顰めた男は茨城の口から手を離すと、ひりひりと痛む手をプラプラと空中で振る。

「痛いですよ、茨城。指が食いちぎられるかと思いました」
「煩い、鬼童。邪魔をするんじゃないです」

 鬼童は肩をすくめると、随分と遠ざかった己の主の背中を追う。
 二人にスルーされる形となった茨城の心中にもやもやとした感情が沸き起こるが、それを振り払い鬼童の後に続いた。
 その姿を横目に納めた鬼童は、ふっと口元を緩め、視線を酒呑童子の後姿から、その遥か前方にそびえる山へと移す。

「―――無駄な時間を取るわけにはいきませんよ。我等には、いや違いますか。【彼】にはもう時間がないのですから」
「……そのことですが、本当なのです?あの男が死の淵に立っているなど……信じられることではないのですよ」

 寂しげに語った鬼童に対して、逆に茨城は胡散臭げに首を傾げる。
 
「我等が仇敵にして、我等が唯一認めた人間―――御神恭也。彼の寿命が尽きようとしている。少しの間会わなかっただけで、そんな噂が流れるとはとても思えないのですが」

 茨城の疑問に、やれやれといった感じで鬼童は首を振った。

「茨城。我等の時間の流れと人間である恭也の時を一緒に考えてはいけませんよ?我等にはこの前のことであっても人間である彼には数年の時が流れているのですから」
「―――人間。そうですね、自分で言っておきながら不思議な感じがしますです。あいつは―――恭也は、人間なのですね」

 二人の脳裏に描かれるのは一人の剣士。
 人間でありながら、鬼という超越種を遥かに超えた最強のヒト。数多の同胞を斬り倒し、斬り殺し、屍山血河の頂点に立った男。
 自分たちがこの世に生を受けてから四百と数十年。その長きに渡って唯一何が起きたとしても決して勝つことは出来ないと認識している最強の一角であった。
 
 ただの人間であるはずの恭也に眼を奪われた。体が震えた。心を揺さぶられた。
 最強の妖怪であり、鬼の王と謳われる酒呑童子とも互角に渡り合い―――結局勝敗はつかずに今に至る。
 
 二人の言葉には全くといって言いほど負の感情はこもってはいなかった。
 仮にも数多の同胞の命を奪った相手だというのに、二人はどこか親しみさえも己の言葉に乗せていたのだ。
 それを不思議に感じる者も多いかもしれない、だが、鬼という種族である彼らにとっては例え己が同胞の斬り殺してきたといっても、相手が御神恭也ならば、恨みも憎悪もないのはあまりにも当たり前すぎることだ。
 そもそも鬼という種族には人間でいう常識が通用しない。彼らにとってあるのは、強き者が正しいという弱肉強食のルールだけ。鬼にとっては強さこそが全てなのだ。
 故にどれだけの同胞を斬った相手といえども、御神恭也には敬意を払う。そういった感情が少なからず全ての鬼には存在した。

 特に酒呑童子はそれが顕著な例である。
 幾度も幾度も拳を、刀を交え、共に死線の上で鎬を削りあっていた彼にとって御神恭也という人間は、この世界において紛れもなく最高の好敵手と認めていた。
 人間など塵芥にしか考えていなかった鬼の王が、ただの人間を好敵手と認めたことに当初は驚いたものだった。
 だが、実際に自分たちが会ってみて理解できた―――御神恭也は、この世界で唯一人、酒呑童子と同じ領域に住んでいるのだと。

 物思いに耽っていた二人だったが、既に酒呑童子の姿が影も形も無いことに気づき、若干慌てて走り出す。
 それほど離れていなかったのだろう。一分もしないうちに酒呑童子の姿が見え、胸を撫で下ろす。
 完全に足を止めていた酒呑童子にいぶかしむも、その姿に追いつき……。
 
 ―――そして、唖然とした。

 三人が歩いてきたのは魔境ともいえる樹海の奥地。見渡す限りが樹海林。十数メートルも伸びた木々によって太陽の光も届かぬ広大な世界だった。それこそ人はおろか、人外達でさえも近づくのは躊躇うような秘境である。
 人からも人外からも恐れられ疎まれた世界最強の剣士は、人里はなれたこのような奥地でしか生活することはできなくなってしまったのだ。
 皮肉な話だ。数多の悪を斬り、人外を斬り、多くの命を救ったはずの彼はその強さ故に怖れられ、こんな辺境で暮らすことしかできなくなってしまったのだから。
 もはや野生の動植物しか存在しないはずのこの秘境にて―――眼の前に広がる光景は、【地獄】としか表現のしようがなかった。
 
 もはや原型も留めていない死体の山。それは人然り、鬼然り、多くの妖怪然り。その死体の数は数百をはるかに超える。
 頭が切り離されたモノ。四肢を斬りおとされたモノ。心臓を引き抜かれたモノ。トマトのようにひき潰されたモノ。
 何トンもの赤い液体をぶちまけたように、広場となっているその空間は、周囲の木々も含めて鮮血が支配する領域となっていた。
 鼻につく鉄の匂い。鬼にとっては好ましい筈の血の匂いを―――どこか不吉を孕んだ風が運んでくる。
 
 知らず知らずのうちにゴクリと唾を飲み込んでいたのは鬼童だ。
 茨城は冷たさを感じるほどに感情を消し、氷の如き無表情で、視線を遥か前方へと向ける。
 唯一人酒呑童子だけは、くひっと面白そうな笑いを噛み殺していた。

 三人の前方、そこには今にも朽ち果てそうな屋敷があった。ぼろぼろに見える屋敷を漆喰の白い壁が囲んでいる。 
 出入り口は現在酒呑童子達の前方にある門一つだけだ。
 三人が注目したのはその屋敷の大きさや、外装ではなく―――門の前に立つ二人の女性がいたからだ。
 
 二人ともが妙齢の美女。長く美しい黒髪を靡かせる、小太刀を二刀携える女性と両腕を鉄の籠手で覆った二人。
 心を自然と鷲掴みにするような色気を二人ともが醸し出していた。
 触れれば斬る。そんな威圧感を何の遠慮もなく発しているのは―――剣の頂に立つ者を守護する者達。
 アンチナンバーズと呼ばれる人外の戦闘集団においてなお、名を知られている御神恭也の懐刀だ。

「よう、久しぶりだな。水無月風音。それに御神雫」

 躊躇うことなく二人の美女の名前を呼んだのは酒呑童子だった。
 二人の美女―――水無月風音と御神雫は突如現れた酒呑童子に対して驚くわけでもなく、油断なく己の武器を握り締める。
 風音も雫も気配察知の範囲は恭也に及ばずとも、その広さは神懸っているといっても過言ではない。
 酒呑童子が姿を現す前に、二人は人外の頂点の気配を既に感じとっていた故に、焦りや怯む様子は微塵も無く、覚悟を決めていた。

「久しぶりね、鬼王。まさか貴方が来るとは思ってなかったけど」  
「父様が病に倒れたという噂が流れてから、多くの無法者が来ましたが―――まさか、貴方まで来るとは思わなかったのですけどね」
 
 純血である人猫族の妖怪。妖怪という括りで見れば下等種に当たるであろう一族でありながら数多の強者を屠り、伝承の域にまで達した女性。恐らくはこの日本という地で最速を誇るであろう神風の人外。純粋な速度であれば、酒呑童子さえも凌駕するとも言われている。それがアンチナンバーズのⅧ【猫神】―――水無月風音。

 そして、もう一人が人狼族と人間の間に産まれたハーフ。二つの血を受け継いでいるが故に、純血である妖怪ほどの身体能力や治癒能力を誇っているわけではないが、それでも人という種族を遥かに超越した肉体を持つ。ましてや、御神恭也を師と仰ぎ、彼の全ての技術を受け継いだとも言われる天才の中の天才。さらには、霊力と言われる魂や命の力を自在に引き出し、妖怪のみならず幽霊等の肉体を持たぬものも滅殺することを可能とした剣神。それがアンチナンバーズのⅢ【全殺者】―――御神雫。

 伝説に語られる域に達した二人ではあるが、酒呑童子を前にして緊張を隠せずにいた。
 初めて会ったときより既に三十年近くの時が流れてはいるが、未だ目の前の鬼に一騎打ちで勝つ自信を二人は持てずにいたのだ。
 確かに二人は強くなった。いや、強くなりすぎたといっても過言ではないだろう。
 もはや二人が勝てない相手を探すほうが難しい。だが―――酒呑童子の強さは、世界の領域が違っている。
 アンチナンバーズという集団において伝承級と称される三人だが、そんな三人の強さには埋めがたい差が確かに存在していた。

「―――雫。私が酒呑童子の動きを止めるから僅かな隙でもいい。見つけたならば―――躊躇い無く私ごと斬りなさい」
「分かりました、姉様。お任せください」

 茨城と鬼童の背筋に冷たいモノがはしった。
 酒呑童子の動きを命を懸けて止めるという風音の覚悟と、それに何の躊躇も見せずに頷いた雫。
 己の命に塵の価値さえも見出していないその様子。いや、ここで酒呑童子を必ず止めて見せるという絶対の覚悟。鬼よりも格下の種族である二人に、茨城も鬼童も僅かな戦慄を隠せずにいた。

 茨城も鬼童も、二人に対して初対面というわけではない。
 基本的に酒呑童子は、自分が拠点としている大江山から出ようとはしていなかった―――恭也と出会う前までの話ではあるが。
 三十年ほど前に初めて御神恭也と戦ってから、積極的に動くようになったのだが、それに困ったのが配下の鬼達だ。

 彼らとて人間と正面きって戦を起こそうという気はない。
 人外の存在と一目でわかる巨大な鬼達が人里近くを徘徊するとなると流石にまずいと判断した幹部達が、酒呑童子が遠征するさいには供として付き従うことになった。
 幹部ともなると人間の姿をとることも可能であり、そこまで騒ぎになることはないと判断したからだ。
 元々が人の姿かたちに似ているのは十鬼もいない。そのため、鬼を束ねる副頭領である茨城童子と鬼童丸の二人のうちのどちらかが酒呑童子の供につき、もう一人が大江山に残る。
 そういったことが多かったため、酒呑童子の供として、恭也や、風音と雫と顔合わせすることが多かった。

 出会った当時を思い出せば、随分と変わったものだと茨城も鬼童も自嘲する。
 三十年前は、二人の実力は確かに高かった。何せ幹部の一人でもある四鬼の一体―――星熊童子も一蹴するほどだったのだから。
 だが、茨城や鬼童には全くといっていいほど及ばず、酒呑童子が恭也と死闘を演じている間に暇つぶし程度で相手をしたことも何度もあった。
 二十年前には油断できる相手ではなくなり―――十五年前には【敵】となった。 
 そして十年前には、勝てるかどうか分からぬほどの高みに達し―――今では完全な脅威となっていた。
  
 だが、それでも自分達の主である酒呑童子に対して危害を加えると名言した二人を放置しておくわけにはいかない。
 背後に控えていた茨城と鬼童は、主の前に踏みでて二人の前に立ち塞がる。
 茨城は水無月風音と―――鬼童は御神雫と相対した。

 風音と雫の動きが止まり、用心深く自分達の前に立ち塞がった敵を窺っていた。
 幾ら伝承の域に達した二人と云えど、茨城も鬼童も楽に勝てる相手ではない。
 基本的に酒呑童子の影に控え、主のためにしか動かない副頭領の二人は、名前は知れ渡ってはいるのだが、酒呑童子の強さがあまりにも桁外れのために軽く見られがちなのだが―――単純な強さは伝承級の化け物達に匹敵するといっても過言ではない。
 仮にも酒呑童子とともに長きに渡って生きながらえてきた鬼の最高種。
 その二人が一切の慢心も油断もせずに、立ち塞がっているのだ。

 空気が緊張していく。
 音をたてて、確実に、急速に凍えていく。
 虫達の音もやみ、無音の世界となっていた。
 互いの微かな呼吸音だけが耳に届き、四人の呼吸がとまり―――。

 先手を仕掛けたのは風音だった。
 地面が爆発。それは風音が大地を蹴りつけた反動。
 一秒を数十に刻んだ刹那の時をもって、風音は疾走する。
 風音が向かう先は―――茨城童子。

 神風となって迫り来る仇敵を確かに視線で捕らえていた茨城は、迎え撃つべくために拳を握る。
 体の頑強さでいえば茨城童子の方が遥かに勝る。また、腕力という点でも。
 弾丸の如き風音の拳をあえて受け、カウンターで切って落とす。
 無論茨城とて無事では済まないだろうが、最初から無傷で勝とうと思ってはいない。勝てるとは思ってはいない。瞬時にそう判断しての行動だった。

 二人がぶつかり合うまでにかかった時間は一秒もなかっただろう。
 己に叩き込まれる鉄拳を、歯を食いしばって耐え切ろうとした茨城だったが―――。

「―――全く。少し落ち着け」

 その場にいた四人の覚悟と戦意が霧散した。
 万物を恐怖させる、完全な闇を纏った男の声が聞こえた。
 唯一人、酒呑童子だけは嬉しさを我慢できずに、真紅の瞳を輝かせている。

 風音と茨城の間合いはあと一メートルと少し程度だっただろうか。
 二人の間に何時の間にか現れていた初老の男性が両手を広げ、右手で風音の頭に手を置き―――左手で茨城の頭に手を置いている。
 不思議と超速度で迫っていた筈の風音を、頭に手を置くだけで完璧に彼女の動きを殺していた。
 一体何時の間に二人の眼前に現れたのだろう。幾ら二人の意識が互いに集中していたからとはいえ、気がつかないはずがない。
 この男性以外の相手だったならばの話だが。

 年の頃五十程度なのだろうか。
 短く切られた黒髪に白髪が混じっているのがわかる。
 身長はこの場にいる酒呑童子と鬼童の次に高く、百八十と少し。
 ゆったりとした着物を纏い、その隙間から見える体は恐ろしいほどに鍛えこまれているのが一目で理解できた。

「―――御神、恭也」

 尊敬と畏れが混濁した呟きが鬼童の口から零れた。
 見かけは五十を迎えるかどうかにしか見えないが、実年齢は鬼童が聞いた限り六十を超えるはずだ。
 それほどの高齢だというのに、あっさりと二人の間に割って入り、行動を無効化する。
 鬼の頂点たる酒呑童子のような天地をも破壊する力ではない。御神恭也が歩んできた数十年。修羅の道において辿り着いた果ての果て、人の技も化け物の力も超越した―――神技。
 既に寿命が近いというのに、あっさりとそれをやってのける御神恭也に震えが走った。
 その時ごほっと、恭也が咳き込む。一度だけではない。二度三度と続き、周囲に激しい咳の音が響き渡る。

「―――ちょ、恭也!?寝てないと駄目じゃない!?」
 
 我に返ったのは風音の方が早かった。
 添えられていた恭也の手から抜け出し、慌てて崩れ落ちそうになった恭也に肩を貸す。
 それと同時に、茨城も自分の頭に添えられてた手から慌てて離れ、距離を取る。

「気、気安くあたしの髪に触れるんじゃないですよ!!」

 顔を僅かに朱に染め茨城はそう言ってのけた。
 風音の目が細まり、足を踏み出すよりなお早く―――。

「止めろ、雫」

 腰の小太刀を抜き去り瞬時に間合いを詰め、茨城に斬りかかる寸前の雫を止めたのは恭也の一言であった。
 御神雫は恭也の出現に気を取られていた鬼童の一瞬の隙をつき、茨城を斬ろうとしていたのだ。
 止められた雫は、あっさりと小太刀を収め風音とは逆側で恭也を支えた。

 隙だらけの姿ではあるが、茨城も鬼童も攻撃をしようとは全く思えなかった。
 今までとは全く違った―――気配の質の変化。
 風音も雫も、禍々しいほどに研ぎ澄まされた黒い殺気を周囲に放っていたのだ。それが結界となって二人の足を自然と止めていた。
 だが、当然―――酒呑童子がそれを気にするはずもなく、三人へと近づいてくる。いや、恭也にといったほうが正しいかもしれない。

「よぅ、恭也。久しぶりだなぁ。暫く会わないうちに、老け込んだか?」
「―――言い難いことをあっさり言ってのけるお前にはある種尊敬を感じるな。老けたということは否定できないのが辛いところだ。お前はかわらないのが少しばかり羨ましい」
「くひっひっひ。そりゃ当たり前だ。鬼である俺様が数年程度で変わるわけもないだろう?」
「それも当然、か」

 幾十、幾百も命のやり取りをしてきた仇敵同士にしてはあまりにも気安い会話であった。
 二人の間には憎しみも怒りも何もない。ただ、互いを認め合っている不思議な感情だけがそこにはある。

「ところで、酒呑。世間話をするためだけに態々きたわけではあるまい?」
「ん―――ああ、まぁな」

 ガシガシと髪を掻き乱す酒呑童子に、恭也の眼が少しだけ大きく見開く。
 常に真正面から語り合ってくる酒呑童子にしては、このようにはっきりとしない発言は珍しい。
 あーやら、うーやら、虚空に向けて発していた酒呑童子ではあったが、心を決めたのか頭を掻き乱すのを辞め恭也と視線を合わせた。

「―――お前が、身体がよくないって聞いてな。見舞いに来た」

 若干照れているのか、僅かに頬を赤くして語った酒呑童子に対して―――恭也と風音、雫はぽかんと口を開き呆然とする。
 まさか、生涯の宿敵たる酒呑童子からこのような言葉が聞けるとは想像もしていなかったからだ。
 三人の視線に恥ずかしかったのか、戦いにおいて退がることはなかった鬼の王が、後方へと一歩後退していた。
 
「な、なんだよ。そんな眼でこっち見んなよ」
「―――いや、なんだ。それは失礼した」

 一番速く我を取り戻した恭也が、苦笑気味に酒呑童子に謝罪を述べる。
 この地は彼が拠点としている大江山から随分と離れているというのに、態々見舞いに来てくれるとは夢にも思っていなかった。

「―――折角来てくれたんだ。茶くらいはだそう」

 雫と風音に支えられていた恭也は、二人から離れて屋敷へと繋がる入り口へと足を進める。
 僅かに迷った酒呑童子ではあったが、恭也の背中に続く。雫と風音の横を通り過ぎる瞬間、二人の殺気が突風となってその身を打ち据えてきたが、今更その程度で怯むことなどあるはずもない。
 二人が屋敷への中へと消えるその時、酒呑童子は何かを思い出したかのように、茨城と鬼童丸のほうへと振り向いた。

「遊ぶのなら死なない程度に遊んどけよ、お前ら」

 不気味に笑った酒呑童子は二人にそう告げて、四人の視界から消えていった。
 残された四人の反応は様々である。
 よりによって宿敵である酒呑童子をもてなすことなど、雫と風音からしてみれば考えたくもないことではあるが、恭也が決めたことなのだから是非もない。
 置いていかれる形となった茨城は、リスのように頬を膨らませ、不満がありありと見て取れた。
 逆に鬼童丸は、ふぅっと安堵のため息を吐く。

 残された四人の関係は、恭也と酒呑童子の間柄に比べると随分と悪い。というか、最悪なのだ。
 そうともなれば自然と周囲の空気がピリピリと緊張していく。常人がいたならば気絶したほうが幸せと思えるかもしれないほどに、不吉な空間がそこにはあった。

 数分近くも四人の間に沈黙が舞い降りる。
 特に言葉を発しているわけではないが、互いに視線だけで相手を牽制しているかのようだった。
 風音と茨城。二人の視線がバチバチと音をたてて弾けあっている幻を、鬼童は確かに見た。

「―――それにしても相変わらずちっこいのね、あんた」
「……なんです?それはあたしに喧嘩を売ってるってことです?」

 口火を切ったのは風音だった。
 半ば挑発するような発言に、敏感に反応するのは茨城童子。
 自分の身長が小さいことを気にしているのを、長い付き合いともいえる風音はしっている故の挑発だった。
 
「べっつにー。私はあんたとはいったけど名前までは言ってなかったんだけど―――自覚してるんだ?」
「……貴方達全員でかすぎるんです。態度も身体も、もうちょっと慎みを持って生きていって欲しいものですよ」
「私は別にそんなに大きくないけど?あー、胸の話?確かに貴女に比べたらもうちょっと慎んであげたほうがよかったかしらねん?」
「―――ッ」

 風音は、茨城の超幼児体型を見て鼻で笑う。
 これみよがしに、胸を少し突き出すようにな姿勢となり、さらに挑発した。
 ピクピクと茨城の目元が引き攣り始めた。顔が笑っているが、もはや作り笑いの意味を為してはいないレベルである。
 茨城の右拳がギシリと軋みをあげた。ミシミシと奇妙な音をたてながら力がこもっていくのが一目で理解できた。
 
 それを確認した風音の目も細まる。
 何せ茨城童子は風音にとっての怨敵の中の怨敵。
 もう数十年も前にはなるが、恭也と出会う前の故郷を滅ぼした鬼を率いていた相手だ。
 あの時の恨みは深く、重い。できることならば今すぐにでも細胞一つ残らず消し去りたいほどに。
 だが、恭也に先程止められたばかりということもあり、こちらからは手が出しにくい。
 勿論、相手から手を出してきたならば話は別だ。そういう狙いもあり挑発したのだが―――恐ろしいほどに沸点が低いらしい。

 息を深く吐く茨城と、息を深く吸う風音。対照的な二人の胎動が少しずつ重なっていく。
 完全に一致した瞬間先程とは真逆で、茨城が地面を蹴りつけた。たった一蹴り。それで人外の身体能力を持つ茨城には十分だった。
 拳銃からうちだされた弾丸。獲物に喰らいつく猟犬。的に放たれた一矢。
 神祇装束を羽ばたかせ、小さな拳が風音に向かっていく。
 
 その一撃は外見とあわさって子供の遊び程度の威力しか持ってはいないのではないかと勘違いするかもしれない。
 だが、それは違うと風音はしっている。
 あの小さな拳に宿るのは巨岩をも砕き、破壊する鉄槌の如き鬼の力が宿っていることを。

 単純な破壊力だけならば風音はおろか、酒呑童子を除く全ての人外の頂点に立っているといっていい。
 真正面から戦うのは流石に分が悪い。この一撃を避け、茨城を凌ぐスピードで撹乱し戦うのが賢い戦術であるはずだ。
 それでも、風音は引かなかった。引くものかと、ギリッ歯を噛み締めながら、茨城を迎え撃つ。
 
 弱かった頃の己はもういない。
 ここにいるのは御神の極限。御神の深淵。御神の魔刃―――御神恭也を支える一柱。
 ならばどんな敵であろうと正面から、叩き潰す。

 禍々しいオーラが迸る。
 それは暗い、漆黒。御神恭也の為ならば如何なる相手も粉砕してきた、猫神の放つ異常で、異様な殺意。
 伝説に至った、最強の一角の重圧だった。
 
 風音の顔に向かって振り上げられる茨城の拳。
 それと同時に、振り下ろされる風音の拳。

 二人の拳が激突。
 言葉では表現できない、奇妙な音をたてて二人の拳は弾きあった。
 無論それだけですむはずもなく、二人の身体は跳ね飛ばされたかのように、後方へと衝撃で吹き飛ばされる。
 同時に地面を片手で叩き体勢を整えた。頬についた土の汚れたを気にせず、二人は互いに互いだけに敵意をぶつけ合い始める。

 そんな光景を傍から見ているのは、雫と鬼童丸の二人であった。
 鬼という種族に対して異常に憎しみを覚える風音ではあったが、雫はといえばそうでもない。
 邪魔ならば斬るのは当然だが、戦いを挑んでこないのならば、別段どうと思うことも無い。
 
 対して鬼童の方はというと、生憎と茨城ほど短気というわけでもない。
 鬼という種族にしてみれば実に珍しく、気性は多少は穏やかであるといってもいいだろう。
 そのため、簡単に挑発にのせられた茨城に対して、やれやれと深いため息を吐いた。

「……あの人は、全くもって困ったものです。闘争が我らの本質とはいえ今回は戦いに来たというわけではないのに」

 きりきりと痛む胃をおさえながら、鬼童はさらに深いため息を吐く。
 鬼童の言葉は正しく、今回の訪問は酒呑童子も先程いったように恭也への見舞いが目的であった。
 風音と雫が酒呑童子の命を狙っていた先程は、それを阻止するためとはいえ戦意を纏っていたが、その目的を果たした今となっては戦うという選択肢は選ばなくてもいいはずである。

「全くもってその通りです。姉様の行動には理解できますが、茨城童子は幾らなんでも挑発にのりやすすぎませんか?」
「……いや、まー、そうですね。返す言葉もありませんよ」

 雫の発言に対して、半ば呆れた表情の鬼童は頷いた。
 白熱してく目の前の戦いを見学していた二人だったが、暫くしてぽつりと雫が呟く。

「あの二人の戦いも結局は姉様が勝つのは明らかです。その点貴方は利口ですね。私に勝てないと理解して戦わないのですから」
「……」

 返すのは沈黙、なれど膨れ上がるのは殺気。
 パチリと雫の視界に黒い電気が奔った。雫の重圧を弾き飛ばすほどに濃密な、死の気配を漂わせるナニかが、すぐ傍にいた。

「【勝てない】から戦わないのではありませんよ?なんなら証明して見せましょうか、混じりモノ」
「いいでしょう、よく吼えましたね。酒呑童子の笠を借りるだけの小鬼風情が」

 鬼童丸もまた、鬼である。それは否定のしようもなく―――する筈もなく。
 彼は確かに気性が他の鬼に比べて多少は穏やかだ。そう、あくまで【多少】なだけである。
 
 鬼童丸の本質もまた―――闘争。
 戦いに喜びを見出す人外の一鬼。頂点に匹敵する、最強の一角。

 開戦の合図もなく、滑るように抜き放たれた雫の小太刀が鬼童の首元へと迫る。
 そのまま何の容赦もなく、小太刀が鬼童の首元を掻っ切った。

 いや、違うと雫はそれと同時に理解する。
 小太刀が斬ったのはコンマ一秒の差で、それまでそこに存在したはずの鬼童の首の残像。
 雫は舌打ちすると、忌々しげに右手の方向に視線を向けた。
 
「―――殺さない程度で、教育してあげましょう。鬼の頂点たる酒呑童子を支え続ける、この私―――鬼童丸の力というものを」
「結構です。ですが、教育ならしてあげてもいいですよ?剣の頂点、御神恭也の弟子であるこの私―――御神雫が」





















「あー、なんか随分と派手にやり始めたな、外のあいつら」
「そのようだ。全く、最近の若者は辛抱がたりん」
「くっひっひっひ。実年齢だったなら一応お前が一番若いんじゃないのか?」
「いや、多分それはないと思う……ない、筈だ?」

 屋敷の外では、強大な殺気と戦意の嵐が迸っていた。
 それに対して恭也と酒呑童子は、中庭に面した縁側にて、湯飲みに入った茶を啜りながら、夜空に浮かぶ月を見上げているところである。
 密着するというほどではないが、空けすぎるというわけでもない距離で揃って腰をおろし、湯飲みに口をつけた。
 当然中身の茶はすぐに胃の中へと消え、御代わりを持ってくるかと視線にのせる恭也に対して、酒呑童子は首を横に振る。

「俺にはこれがあるからな。お前もいける口か?」
「―――少しなら」

 横に置いていた巨大な徳利を片手で持ち上げる酒呑童子に、恭也が答えた。
 昔からアルコールにはそれほど強くはなかった恭也だったが、嫌いというわけではない。
 そういえばあの破天荒だった父は、随分とお酒に強かったと、ふと思い出す。そこは遺伝しなかったのか、それとも母の方を遺伝してしまったのか。最も産みの母のことはもはや記憶にはなく、果たして母が酒に強かったかどうかなど確かめる術もない。

 どくどくと片手で恭也の持っている湯飲みに酒を注ぎいれる。
 ツンと非常に独特な匂いが恭也の鼻につくが、兎にも角にも一口啜ってみると、恐ろしいほどにきついアルコールが口の中に広がっていく。
 吹き出さないようにごくりと喉を動かし、胃の中に入れるも、その後すぐにゴホゴホと咳き込んでしまった。
 それを見ていた酒呑童子は笑いながら徳利に直接口をつけ一気に嚥下する。恭也とは違い、咽る様子は一切見受けられない。 
 流石は【酒呑】童子と、男として僅かに尊敬を覚える恭也だった。
 
 二人は元々多弁というわけではなく、二人は酒を飲みながら月を見上げる―――それだけで時は過ぎていく。
 
「なかなかやるじゃない!!このちっぱい鬼!!」
「煩いですよ!!この、牛乳猫娘!!」
「あんたに比べたら誰でも大きいってのよ!!」
「あーあー、聞こえないです!!聞こえないですから!!」

 なにやらそんな怒声が屋敷の外で飛び交っている。
 恭也も酒呑童子もその怒声に苦笑した。あの二人は憎しみあってはいるが、何気にいい好敵手だと二人して思ってはいた。
 最も―――風音も茨城も凄い勢いで否定はするだろうが。

「なぁ、恭也。なんだ、お前が長くないっていうのは、本当なのか?」
「ん……ああ、事実だ。持ってあと数ヶ月程度が限界らしい」

 外の怒声で本題を話す切欠を掴めたのか、酒呑童子がそう切り出した。
 それを聞いた恭也は特に気分を害したわけでもなく、あっさりとごく自然にそう答えた。
 その答えはあまりにも自然で、人事のように答えた恭也に対し、逆に唖然としたのは酒呑童子の方だった。
 何かを言おうとしても、それは喉につまって言葉にならない。

「―――俺は、俺の人生に満足している」

 言葉を詰まらせた酒呑童子に変わって、語りだしたのは恭也だった。

「【不破】の一族に生を受け、一族を失い、殺戮の日々に生きる筈だった俺は―――何をどうしてか、愛し愛される家族を手に入れ、幸せな日々を送れた」

 淡々と独白は続く―――。

「人形遣い。猫神。鬼王。大怨霊。執行者。百鬼夜行。魔導の王。魔女。未来視の魔人。剣神。剣聖―――多くの敵と戦った。多くの友と出会えた。一歩間違えれば死んでいた闘争ばかりだったよ。それでも俺は生き残り、今此処にいる」

 ―――思い出す。あの人外達を。あの友たちを。

「―――俺は【雫】という遺産を残せた。御神の剣神を育て上げることが出来た。俺は確かに―――未来へと繋がる確かな可能性を残すことができたんだ」

 何時の間にか空になっていた湯飲みに気づいた酒呑童子が、絶妙のタイミングで酒を注いでくる。

「生に未練がないといえば嘘になるだろう。だが、それでも―――俺は満足して逝ける」

 僅かたりとも翳りを見せない恭也に、酒呑童子は言葉もなかった。
 そもそも彼の目的は確かに見舞いではあったが―――誰にも語ってはいないが本当の目的は、恭也に己の血肉を食らわせることだったのだ。
 鬼という種族の血肉は言ってしまえば人間に対しては毒である。【ただ】の人間にならば、だが。
 ごく稀にだが適正を示す場合もあり、その場合は半人半鬼ともいうべき存在となる。
 鬼の王たる酒呑童子の血肉に適応するなど、もはや天文学的な確立になるであろうが、それでも彼は確信していた。御神恭也ならば間違いなく、適応するだろうと。
 そうすれば純血の鬼とまでは言えないが、人とは比べ物にならないほどの不老長寿となるはずだ。

 酒呑童子は、何十度も殺し合いを行ったはずの恭也を、宿敵を殺したくなかった。
 寿命などというくだらないもののせいで、友を失いたくなかったのだ。
 そのために来たはずの酒呑童子ではあったが、それを切り出せない。いや、分かってしまったのだ。
 例えどんな提案をしようと、無駄であることを。どれだけの甘言であろうと、御神恭也は受け入れない。彼は己の寿命を受け入れてしまっているのだ。
 世界最強でありながら、一切の不平不満も恨みもなく、死の運命を受け入れてしまっている。
 馬鹿な男だと思いながらも、これこそが御神恭也だとどこかで、酒呑童子は納得してしまった。

「ところで、何か用事でもあったんじゃないのか?」
「―――いや、俺様の用事はもう済んだ。気にするな」
「そうなのか?」
「ああ、そうだ」

 疑問符を浮かべた恭也に、酒呑童子はニヤリと男臭い笑みを返す。
 その笑顔は不思議と亡き父を思い出させる、暖かなモノであった。
 二人の間に流れる空気は、暖かいものへと変わっていて、二人は何も喋らなくても、居心地の良い空間が確かにそこにあった。
 恭也の酒が尽きれば、酒呑童子は湯飲みに酒を注ぎ、自分は徳利ごと酒をあおる。
 その時も無限ではなく、やがて酒も尽き、終わりを告げた。

 何時までもこうしていたいのだが、そうするわけにもいかず―――ついに酒呑童子が腰をあげた。
 帰るのだろう。それは誰の目にも明らかであったが、彼が口に出すよりも早く、恭也も席を立つ。

「折角来てくれたんだ。一戦、やろう」
「は、はぁ!?ば、馬鹿かお前は!?そんな身体で何を―――」
「はっはっは。なんだ、酒呑?お前らしくもない。お前もわかってるだろう―――これが、最後だ」
「……くそっ、どうなってもしらねーぞ」

 二人は中庭へとゆっくりと歩いていき、距離を取る。
 その距離は実に三メートル程度。二人ならばそれこそ一瞬で詰めることが可能である。
 長時間の戦いができないと理解している恭也と、酒呑童子。だからこそ、一手でもいい。互いの全力で最高の戦いを今此処で―――。
 
 酒呑童子は構えない。武術も何もない、純粋な身体能力のみであらゆる敵を滅ぼしてきた。
 其れゆえの無形の構え。いや、それがすでに酒呑童子という存在の構えなのだ。

 対して恭也もまた同じ。
 腰元に挿してある二振りの小太刀を抜かず、両手はだらりと下げている。

 互いに一切の油断も慢心もない。
 二人は知っているのだ。互いが持つ力量を。桁外れの戦闘力を。
 
 酒呑童子がその身に宿す、天地揺るがす破壊の力を。
 恭也が放つ、数百年の憎悪の結晶たる大怨霊をも切り伏せる、神魔調伏に至った剣技を。

 二人は互いに知っていて、その身に刻んでいて、だからこそ二人は認め合っている。
 【最強】とは最も強き者に与えらる称号。だが、その称号は御神恭也と酒呑童子に与えられている。誰からも異論がないほどにみとめられている。それは矛盾。最も強き者が二人いるという。
 それでも認めてしまっている。この世界にて、世界最強を名乗るに相応しき者達だと。
 他の人外も、人間も、あらゆる存在を凌駕している別格の怪物たちだと。

 出会ってからもはや数十年。
 命をかけた全力全開。手加減など一切しない、殺し合い。
 数十回にも及ぶその戦いで、勝者はなく―――敗者もない。
 その悉くが、引き分けに至った最強同士。

 呼吸音。鼓動音。筋組織が為す萎縮音。一挙動の所作。
 互いの目に見える限り、互いの耳に聞こえる限り、その全てが極限であった。
 どちらもどちらの奥底が、限界が読み取れない。其れが二人は限りなく嬉しかった。

 さぁっと風が吹く音が聞こえた。
 筋肉を最硬にまで圧縮させた右腕で咄嗟に眼前を遮ったのは酒呑童子。
 同時に眼前に迸っていた右の剣閃を寸でのところで受け止めた。

 それはめくらましの意味もあったのだろう。
 左の掌がズンっと音をたてて酒呑童子の腹部に決まった。それは極められた徹。
 風音だろうが、雫だろうが、決まれば一撃で相手の意識を消し飛ばすほどの境地の神技。

 勿論それで終わる相手ではないのは百も承知。
 酒呑童子は、たたらを踏んで一歩後退した。そう、たった一歩だけの後退しかしなかったのだ。
 意識を奪うことはおろか、ほんの僅かな痛み程度しか相手に与えることは出来てはいない。

 チンっと鋭い鍔音が鳴る。
 右の小太刀が跳ね上がる。それの影で抜いた小太刀が胴を薙ぐ。
 
 両の小太刀をそれぞれの腕を硬質化させ、あっさりと受け止めるも、気づいた時には両の目に向かって飛翔する飛針。
 左の太刀を抜くのと同時に既に飛針を投げていたらしい。流石に目はまずい、そう判断した酒呑童子は顔を少しだけ傾け、額でそれらを弾き落とす。
 
 お返しと言わんばかりの鉄槌の拳が振り下ろされる。
 有無を言わさぬ、最強の破壊。全てを破滅へと導く、命を断絶する拳。
 その一撃を防ぐ術はなく―――。
 
 鋼鉄の塊同士が激突する音が響き渡る。
 滅殺の一撃を、恭也は避けなかった。防ぎもしなかった。
 ただ、【弾き飛ばした】。

 振り下ろされるよりなお速く―――。
 最強の破壊が全力をだすよりなお速く―――。

 二振りの小太刀が十字を描き、その破壊を凌駕し弾き返す。
 互いの鋼鉄の破壊がぶつかりあい、火花が空気に散じるより更に速く、両者の眼前を小太刀が一閃。いや、二閃。違う、三閃。
 否―――十数閃。

 それは、【斬】の極み。
 雫でさえも、これの前では色褪せる。
 ただ刃を振るっただけの筈の、軌跡は、確かな輝きを持って斬滅せしめる刃の閃光となった。
 
 それでも、酒呑童子には通じない。
 その全てを両の腕で受け止め続ける。
 躊躇いも、逡巡もなく―――鬼の頂点は刃を防ぎ続けた。

 だが、無傷というわけにもいかない。
 恭也の小太刀が舞う度に、斬るまではいかずとも、酒呑童子の両腕に赤い傷跡を残していく。

 無限ともいえる斬撃乱舞を跳ね返すように、酒呑童子の右手が薙ぎ払われる。
 その一撃は、当たれば人間の身体をゴミ屑のように捻り潰す威力の払い拳。
 されど、それは恭也には当たらない。虚しく空気を引き裂くのみ。

 頭上、最上段からの斬りおとし。飛翔して酒呑童子の拳をかわした恭也の斬撃。
 返す刀で相手の右手を斬り飛ばす軌道の斜め斬り上げ。それと同時に左足を狙う。
 流れるように続く首を飛ばす勢いの横薙ぎ。そして、胴身体を両断する袈裟斬り。
 延々と続く無限の剣閃。僅かな隙もなく続けられるその連撃は、酒呑童子以外に防ぎきることも、かわし切る事もできる者は存在し得ない。
 
 その連撃もまた御神の極限。
 いや、正確には違う。これは【恭也】の極限と言い換えたほうが良いだろう。

 彼以外には為しえない。彼以外には修得できない。彼にしか実現できない。
 それは本来の御神流とは異なる剣技。恭也の全てを継いだと噂される雫でさえも、実戦では使いこなせない御神恭也の極限。
 【斬】を極め、【貫】を極め、【徹】を極め、見切りを極めた、御神恭也にのみ許された―――御神流【裏】。
 
 【斬】を持って、どうすれば相手の息の根を確実に止めることができるのか。
 それをなすために身体のどこにどう力をいれて、刃に乗せるのか。それを見切りを持って為す。

 【貫】を持って、相手の防御を潜り抜け、身体にこの斬がこもった一撃を届かせるのか。
 それをなすために身体のどこにどう力をいれて、刃に乗せるのか。それを見切りを持って為す。

 【徹】を持って、相手の防御を潜り抜け、身体にこもった斬を一撃を届かせ、徹を秘めた最強の一撃へと変化させる。
 それをなすために身体のどこにどう力をいれて、刃に乗せるのか。それを見切りを持って為す。

 御神恭也の放つことができる最速の剣閃。
 御神恭也の放つことができる最重の剣閃。
 御神恭也の放つことができる最高の剣閃。

 彼が振るうその全ての斬撃が―――相手の命へと届く可能性を持った必殺。故に彼はこれをこう呼ぶ。
 あらゆる命を断ち切る光の剣閃。即ち、【閃】と。

 後の世にて御神流の奥義の極みと呼ばれるこれらは、なんということもない。
 ただの斬撃。ただの剣閃。ただの剣撃。
 
 ただしそれらは―――世界最強たる酒呑童子の命さえも奪うことを可能とする【ただ】の一太刀だ。

 最速の剣閃が。最重の剣閃が。最高の剣閃が。最善の剣閃が。最良の剣閃が。

 ―――最強の剣閃となって、酒呑童子の視界すべてに繰り返し突き出され、振り下ろされ、薙ぎ払われ、切り下げられる。

 地面の砂が音を立てるよりもはやく、酒呑童子の懐深く踏み入った恭也が小太刀を切り上げる。
 それを遮ろうと両腕が交差するよりも一瞬速く、音も残さず剣閃が舞い上がった。

 それ以上の追撃を図らず、地面を蹴りつけ後退した恭也。ふぅっとそこで深呼吸をする。
 誰もが理解できない超領域の出来事。これら全てが一瞬。まさにその一言の間で行われた戦い。
 たった一秒という時間において、超圧縮された時間内にて二人の行った全てであった。

 酒呑童子もまた、呼吸をつく。
 それを合図に斬られた肩口から血が勢いよく吹き出しはじめた。
 自分が斬られたことに驚くも、それよりも嬉しかった。最高だと思った。
 
 年老い、もうすぐ寿命を迎えるはずの好敵手が、友が、宿敵が―――これほどまでに強かったのだと。
 再確認できた彼は笑った。本当に嬉しそうに笑った。
 
「くっひっひ。いてぇな、本当にいてぇよ。俺を斬ったのはお前が最初で最後だ」

 筋肉を圧縮し、傷口を塞ぐ。
 それだけで勢い良く吹き出していた出血はあっさりとおさまる。
 さて、続きをやろうと視線で語ってくる恭也に対して―――酒呑童子は首を振る。 

「いや、ここまでだ。本当に楽しかった。今日は此処まできたかいがあった。認めるぜ恭也。俺様の負けを―――この勝負、お前の勝ちだ」
「……何を言っている?」

 理解できない。
 恭也の顔からはそれだけが伝わってきた。
 闘争に全てを賭ける彼らしからぬ発言をいぶかしむ。

「くっくっくっく。いいんだよ、恭也。俺様は認めたんだ。俺様自身の敗北を。お前が満足して逝けるように―――俺様も満足しちまったんだ」
「……」

 未だ完全には納得できていない恭也に、笑って傍に置いてあった徳利を拾って背に担ぐ。
 そしてくるりと踵を返した。

「帰るのか?」
「―――ああ。目的は達しちまったからなぁ」
「そうか」

 斬られた様子を微塵も見せずに、酒呑童子は屋敷の出口へと向かおうとして―――一足を止めた。

「楽しかったぜ、恭也。お前と会えて。お前と戦えて。お前と生きたこの時代―――俺様の一生で最高に濃密で、最高に楽しい時間だった」
「―――ああ。俺もそう思う」
「だからこそこれから先、退屈で仕方ねぇ。つまらねぇと思ってしまう。仕方ないことなんだがなぁ」

 はぁと絶望が入り混じった吐息だった。
 比喩ではなく、それは本当に暗いため息であった。
 
「―――安心しろ、酒呑。お前は再び会える。お前の全力に値する人間と。お前の闘争本能を満たしてくれる人間と」
「あん?励ましならいら―――」
「事実だ。予言してやる、酒呑童子。これから数百年後―――お前は【必ず】出会える。【必ず】、だ」

 酒呑童子の台詞を遮ってまで、強く語ってくる恭也に眼を白黒させるも、クシャリと笑った。

「本当に、逢えるのか?また、俺様の全力を受け止めることができる人間に?」
「ああ、絶対にまたあえる。だから安心しろ、酒呑」
「そうか……そうか……くっくっく。また逢えるのか」

 嬉しそうに笑った。
 鬼の王は、子供のように本当に嬉しそうに笑った。屋敷中に響き渡る声で、笑い続ける。
 その時ふと何かを思いついたように、笑うのを止めた。

「あー、じゃあ、人間は喰わないようにしねぇとなぁ。万が一俺様が喰った相手がお前の予言にあるやつだったら洒落にならねーし。まぁ、願掛けの意味も込めて人間断ちでもしとくか」
「……」

 深い意味があった言葉ではなかった。
 ただ人間を食するのを止める。恭也がいった、何の保証もない、将来の敵とも言うべき存在のために。
 其れに気づく。この男はきっとこの約束を守るのだと。恭也の言葉を信じ、守り続けるのだと。

「―――お前は、馬鹿だ」
「なんだ、突然。失礼な奴だな、お前も」

 恭也の失礼極まりない発言に、キョトンとするも特に気分を害したわけでもない様子だ。

「こんな、こんな俺の―――戯言に、付き合うお前は本当に馬鹿だ」

 声が震えるのを我慢するのが精一杯だった。
 この鬼の王の馬鹿正直なまでの心に。誓いに。強固な意思に。
 
 ―――お前に会えて良かった。

 口にはださずに、心の中で酒呑童子に謝礼を述べた。
 そして、腰に挿してあった二振りの小太刀を鞘ごと引き抜くと、酒呑童子に向かって放り投げる。
 それを慌てて受け止めると、首を捻る。

 自分の手元にある二振りの小太刀。
 これは見覚えがある。其れも当然。御神恭也と戦うたびに眼にしてきた、好敵手の得物だからだ。

「銘は八景。二対一刀の俺の相棒だ」
「や、かげ?で、それを投げてよこしてどうしたんだ?」
「お前に預かってもらいたい。俺の下らない戯言に付き合ってもらうお前に対するせめても礼だ」
「預かるのはいいけどよ。お前はどうするんだ?長い間使い続けてきた小太刀がなくなってやっていけるのかよ」
「ああ。生憎とうちの娘は多彩でな。鍛冶屋の真似事もできる。八景とほぼ同じ小太刀を作ってもらっていてな。武器ということに冠して言えばそちらで問題はない」

 ふーん、といまいち要領を得ない返事を返す酒呑童子。
 其れもあたりまえだ。仮にも長きに渡って死地を潜り抜けてきた相棒をよりによって何故自分に渡すのか。

「もし、もしもでいい。それを振るうに値する剣士が現れたならば―――渡してやってくれないか?」
「ん―――ああ、わかった。それまでは預かっといてやるぜ」

 ひらひらと手を振り、右手に八景を持ちながら酒呑童子は去っていく。
 それを見送っていた恭也だったが、彼の姿が完全に見えなくなった頃に、誰にも聞こえないほどに小さな声でポツリと呟いた。

「―――【また】逢おう。酒呑童子」































 それから四ヵ月後。
 後の世にてアンチナバーズの頂点の中の頂点。アンチナンバーズのⅠ。世界最強。鬼の王に唯一土をつけた男。剣の頂に立つ者。
 御神恭也―――死亡。


 
 


 




 
 
 



 
 
 
 
 

 

 
 





 
  
 




  
 


 
 
 
  

 
 
   
  



 
  







[30788] 間章4
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2013/01/06 02:54















 古くは日本の都とされた京都。
 その北部に大江山と呼ばれる連山が存在する。多くの登山者が日々それぞれの峰を目指して登っている、有名な連山だ。
 遠い昔には鬼がでると噂にもなった呪われた土地でもある。だが、実際にはそれはもう気が遠くなるほどの過去。
 今ではそれを信じている者は、極一部を除いていないだろう。

 そんな大江山と呼ばれる連山の奥深き場所。何時頃からか、誰かもわからないが、何者かの私有地として何人たりとも足を踏み入ることができない場所があった。

 巨大な木々が周囲を覆い、息を吸えば下界とは違った清浄な空気が肺を満たす。
 魔境にあるとは思えないほど巨大な屋敷。ただし、古ぼけているとまではいいかないが、全体的に太古を感じさせる不思議な雰囲気の屋敷だった。
 
 その廊下を大股で歩いているのは二メートルを超える大男だ。それ以外に特徴がない平凡な顔。
 街で見かけたとしても、誰の記憶にも残らないような、そんな男だった。
 男の名前は金熊童子。アンチナンバーズのⅩⅢ(十三)。酒呑童子の配下として名を知られている四鬼の一体。裏の世界では、平凡な容姿とは裏腹に非常に怖れられている鬼である。
 怖れられている理由として、四鬼でありながら星熊童子とともに使いっぱしりとして酒呑童子や茨木童子、鬼童丸に使われてしまっているため、他の鬼よりも表に出ていることが多いからだという情けない理由があった。
 
 その金熊童子だが、最近は特に多忙の日々を送っていた。 
 酒呑童子からは北海道の地酒が飲みたいと言われ北海道までいって買って来たり、茨木童子に九州のあるパワースポットでで売ってい
る装飾品が欲しいと言われ買いに行き、鬼童丸に大阪のたこ焼きが食べたいと言われ買いに行ったりと兎に角多忙の日々だった。
 
 凄くどうでもいいことを頼まれてはいるのだが、一応は上の命令のため拒否は出来ず全てをきっちりとこなしている金熊童子は鬼の鑑としてそれなりに部下からの信頼は篤い。
 それにしても、ここ暫くの間本当に忙しいと疑問に思っていた金熊童子だったが、ようやく先ほどその謎が解けた所であった。
 そう、本来ならば―――その苦労は星熊童子と折半していた筈だったからだ。
 
「あの馬鹿女……なにさぼってるんだ」

 どしどしと廊下を踏み鳴らし、星熊童子の部屋までいくと、声もかけずに襖を開く。
 余程強く開けたせいか、襖がパンっと激しい音をたてた。
 
「星熊ー!!さぼってんじゃないぞ!!」

 今まで溜め込んだ鬱憤を晴らすように怒鳴り散らすが、部屋の中には目的の人物の姿はなかった。
 純和風の内装の部屋の中をとりあえず探す金熊童子。しかし、やはり星熊童子の姿かたちひとつ見つけることは出来なかった。ちなみに箪笥の中まで探したので、その中に入っていた下着まで部屋に散らばってしまったが、気にしないことにした。

 探す場所が見つからなくなり、両腕を組んで部屋の中央で仁王立ちをする彼だったが―――ふとあることに気づく。
 目の前にあるテーブルの上に、折り畳まれた書状が置いてあったのだ。とりあえずその書状を開け、中に書かれている内容を読んでみる。

『探さないでください。星熊童子        追伸。○△県の海鳴という街に行っています』

 
 内容は短いがそういったことが書かれていた。
 これは……と、それをもう一度読み直した金熊童子は考える。
 前半だけを読めば家出をしたのかと考えられる。正直な話、金熊童子は星熊童子の気持ちが非常にわかる。自分だって今すぐにでも家出をしたいと思ってはいるくらいだ。
 だが、後半にわざわざ行く場所を書いているということは、探して欲しいという気持ちが少しくらいはあったのだろう。
 
 書状が書かれたであろう日付を見てみると大体二ヶ月近く前になっている。
 良く考えていれば金熊童子が忙しくなったのも大体それくらい前からだ。妙に仕事を任せられることが多くなったとおもったらそういうことだったのかと納得した。

「……いや、ていうか……星熊がいないの気づかなかった」

 哀れだと、金熊童子は心の中で涙した。
 恐らくは自分だけではないはずだ。酒呑童子も茨木童子も、鬼童丸も―――誰一人、星熊童子がいないことに気づいていなかったのだ。しかも二ヶ月の間に渡って。

 書状をとりあえず元通りにたたんで、考えに耽る。
 この海鳴という都市はそこまで遠いというわけではない。二ヶ月かかっても戻ってこないということは通常であったならば考えられない。もし仮にこれほどの長期間戻って来れないのであったならば、部下をつかって報告の一つもしてくるものだ。そこら辺星熊童子は細かい性格をしているのだから。
 では、誰一人として自分を探しに着てくれなかったから拗ねているのだろうかと考えるも―――それが一番ありえそうな可能性だった。仮にも四鬼の一体。そこら辺の有象無象に後れは取るまい、と結論付ける。

「仕方ない。迎えに行ってやるか……」

 星熊童子の部屋から出た金熊童子は偶々見かけた部下の鬼に、書状を渡して自分の考え付いた憶測を伝え、それを酒呑童子に報告するように言い含めた。
 そしてそのまま屋敷を出ようと入り口の方へと歩いて向かう。すると丁度入れ違いの形で一人の女性とばったりと出くわした。
 死んだ魚のような生気のない瞳。長い髪を首の辺りで縛り、犬の尻尾みたいに背中で揺れている。アンチナンバーズのCM(九百)。金熊童子と同じく、四鬼の筆頭として知られている虎熊童子だった。
 
「……どうかした?」

 暗い声が、金熊童子の耳に響き渡る。
 相変わらず生気がない鬼だと考えながら、彼は星熊童子の行方について語った。それを最後まで聞いていた虎熊童子だったが、何か考えるそぶりを暫く見せる。

「……私も行く」
「え、虎さんも行くんっすか?」
「文句、ある?」
「い、いやー。全然そんなことないんですけど……外に出るって珍しいじゃないですか」

 おもわず敬語になってしまう金熊童子。それもそのはず、なんといっても、虎熊童子は酒呑童子に仕える配下としては、副頭領の二人を除いて最も古い。星熊童子よりも更に古いという。
 鬼でありながら人間の【武】に興味を持ち、極めようとしている変わり者ではあるが、その力は四鬼の中でも飛びぬけている。何でも六百年近く昔に、人間に完膚なきまでに敗北を味あわされて以来、修行に明け暮れているという話を酒呑童子から聞いたことがある。

「……簡単な話。もしも星熊に続いて貴方まで居なくなったら、私にも厄介事が回ってくる可能性が高い」
「あー、そういやそうですね」

 虎熊童子の答えに納得がいく。
 基本的に使いっぱしりの二人がいなくなれば、自然と上からの無茶な頼み事は残された四鬼の誰かに回ってくるだろう。四鬼の一体熊童子は確か休暇を取って海外へバカンスに行っているが、そろそろ帰ってくる筈だ。
 とりあえず厄介事は熊童子に回して貰えばいいか、と結論付けた金熊童子は、虎熊童子と連れ立って大江山を降りていく。

 二人の姿は人間と大差なく、人の交通機関を使っても特には問題は起きない。
 と言っても、本来の姿は今現在のものとは違う。あくまで人に近い姿を取っているだけだ。
 鬼としての本能を解放すれば、人外に近い姿に戻ってしまう。その時の力は、この人間の状態とは比較にはならない。

 幾つもの電車を乗り継いで、目的である海鳴という都市を目指す。
 北海道へ行って来いやら、九州へ行って来いといった命令よりよっぽど楽だと電車の椅子に座って考えていた。
 その正面にて、窓の外の景色をぼーっと眺めている虎熊童子を見て、金熊童子は遠い過去に想いを馳せる。


 金熊童子は他の四鬼に比べると随分と若い。生を受けてまだ百と少し程度の年月しか生きてはいない。
 数十年前に初代の金熊童子からその名前を引き継いだ。つまりは二代目ということだ。
 父親である初代金熊童子は恐ろしいほどに強かった。よく虎熊童子と喧嘩をしていたが、一歩も退くことはなかった姿を覚えている。
 
 今の己の力ではまだ、虎熊童子には遠く及ばぬだろう。今目の前にいる女の力は想像を絶しているのだから。
 名を受け継ぐ原因となった事件を思い出す。強かったはずの父親は、まだ未熟だった自分を庇って殺された。当時大江山に攻め込んできた百鬼夜行という名の怪物に、叩き潰された。
 別にそれは構わない。弱肉強食こそが鬼の世界に通じる唯一つのルールなのだから。
 だが、その時の無念さに満ち溢れた父親の顔が今でも夢に出てくる。それを振り払うためにやらなければならないことがある。せめて父親が常日頃から口癖にしていた言葉を成し遂げてやろうと、金熊童子は心に決めていた。
 

 ―――【御神の極限】を超えるのは、この俺だ。

 
 御神の極限とは何なのか知らないし、わからない。
 酒呑童子も茨木童子も鬼童丸も、虎熊童子も、初代金熊童子も―――皆が皆、その名に拘っていた。
 
 虎熊童子は【武】を極めようと人里を良く訪れる。
 鬼童丸は、一緒に酒を飲むのだと、苦手な酒を毎夜毎夜酒呑童子と一緒に飲んで潰されている。
 茨木童子は、何時か眼にモノを言わせてやると、毎日牛乳を飲んでいる。
 
 その中で酒呑童子は特別だった。
 数百年も前にかわした約束。それを未だに守っている。
 彼は鬼の王だ。全ての鬼達の頂点だ。鬼は人を喰らう。それは本能であり、鬼の本性でもある。
 茨木童子も鬼童丸も、四鬼も、人を喰らう。喰らわなければ、本能に押し潰されてしまうからだ。

 だが、酒呑童子は―――未だ人を喰らっていない。
 どれだけの飢餓に襲われても、彼はそれに耐え切ってきた。
 鬼の頂点である彼の本能は、本性は、他の鬼とは比べ物にはならないほどに、【鬼】である。
 しかし、彼はかつての友とかわした約束ともいえぬ約束を守り続けていた。それが何故なのかまだ歳若い金熊童子には理解できてはいない。
 
 そんなことを考えているうちに、気が付いたときには既に目的地となる海鳴に電車は到着していた。
 実は金熊童子は途中何度か虎熊童子に話しかけようとしたが、全てが未遂に終わっている。窓の外をずっと眺めている彼女の雰囲気の重さがとんでもない。
 結局数時間に渡って特に会話らしい会話をしないで到着してしまったことが、虎熊童子の【私に関わるな】オーラの凄まじさを物語っているともいえる。
 
 海鳴駅に到着した二人は、人の多さに辟易しながらも人波をかきわけつつ、駅の外へと出た。
 日の光が降り注いでくるが、別に吸血鬼というわけではないので特に気にもせずに、とりあえず駅の傍にあった周辺の地図の前でどこへいくか話し合いを開始する。

「うーん。虎さんはあいつどこにいると思います?」
「……さぁ?」
「いやー別に予想でもいいんですけど」
「……あいつの考えることなんて私に予想がつくはずがない」
「いやっはっはー。虎さんと星熊って仲悪いですからねー」
「……あいつが勝手に突っかかってくるだけ」

 金熊童子の言ったことは事実であり、虎熊童子と星熊童子はことあるごとに仲違いをしていた。
 もっとも星熊童子が一方的に敵視しているだけで、結局は虎熊童子に泣かされて終わることが非常に多い。

「うーん。拙者にも予想つかないんですけどね。あいつが何しにこの街に来たかが分かればまだ良かったんですが」

 星熊童子が残した手紙の内容を思い出すが、手がかりになりそうなことは全くなかった。
 実は彼の予想ではもっと小さい街だと思っていたのだが、予想よりも遥かに大きい街だったことに驚いているところである。ここまで大きいと探し人を一人見つけるだけでもなかなかに厄介なことだ。

「あー。なんか急に面倒になってきたんですけど」
「……私は最初から面倒だった」
「そうっすか。まー適当に探し回っていなかったら帰りましょうか。良く考えたら、あの三人を放っておいたらどうなるか分からないですし」
「別に、私は構わないけど……金熊がまた面倒ごと背負い込むことになるよ?」
「もう仕方ないです。諦めましたわ。拙者さえ我慢したらなんとかなるんですし―――今度星熊にあったらぶん殴っときます」
 
 頭の中で星熊童子の両頬を力いっぱい引っ張る想像をしてストレスを解消しながら、二人は特に目的地を決めずに歩き始めた。
 とりあえず星熊童子の容姿を口頭で伝えつつ、道行く人に聞いてみる。中々に親切な住人が多いのか、聞く人全員が律儀に金熊童子の問いに答えてくれた。生憎と全て無駄に終わる結果となったが。

「んー。虎さん、感じてます?」
「……ん。この街何かおかしい」

 一時間近く探し回ったが成果はなく、海鳴臨海公園の海が見渡せるベンチにて並んで座っていた時、金熊童子がそう切り出した。それに対して虎熊童子が感じていた違和感に頷く。
 街の至るところに感じる異様な気配。自分達のような人外のモノもあれば、明らかに人間のモノもある。
 幾らそれなりに大きい街だからといって、これほど強大な気配を持つ者達がここまで密集して生活していることに疑問が浮かぶ。

「もうちょっと探ってみますかねぇ、虎さん」
「……いや。その手間が省けたかもしれない」
「―――成る程」
 
 先に気づいたのは虎熊童子だった。それに一拍置いて金熊童子も気づく。
 彼女ら二人が座っているベンチの十数メートル離れた場所に、鯛焼きの屋台が出ているが、そこに三人の女性が居た。
 水無月殺音と冥。その二人の背後に控えている文曲だ。
 
「だーかーら!!カレーとピザ味を買ってみようって!!」
「全く、お前は何を考えてるんだ。鯛焼きには餡子と決まっているだろう?」

 何やら言い争いをしているようで、屋台の店主は若干困り顔だ。
 メイド服の女性が三人、しかも極上の美女が騒いでいたら当然人の目を惹くだろうが、さすが海鳴と言うべきか周囲の人間達は我関せずとスルーして去っていく。

 何をそんなに騒いでいるのかと、金熊童子は眼を細くして鯛焼きの屋台に書かれているメニュー表を眺める。
 メニュー表にはオーソドックスな餡子。クリーム。チョコ&クリーム。ここまでは良い。だが―――。

「カレーにピザにチーズ。……ぎょ、餃子風味?」
「……何それ怖い」
「うっひょー面白いっすねぇ。茨木様にお土産で何個か買って行って上げましょうか?」
「……止めた方が良いと思う。首の骨折られるよ」
「首で済むと思います?」
「……ついでに腕と足も折られるかも」

 その光景を脳裏に描いた金熊童子は、アイタタと言いながらベンチから立ち上がる。
 この街に来て初めてとなる星熊童子の行方に関係するかもしれない相手と出会えて、少しだけ気が楽になった。
 例え相手が水無月殺音だったとしても―――。

「ちーっす。お久しぶりっすねー、猫神の姉さん」
「うん?あー、金熊じゃない。こんな街にどうしたの?」
「―――っな!?」
「!?」

 非常に気軽に声をかけた金熊童子と同じく、気安く手をあげて答えた殺音。
 逆に驚きのあまり一瞬固まったのは冥と文曲だった。それも僅かな時で、瞬時に金熊童子との距離を慌てて取る二人。

「何よーあんたまた大きくなったんじゃないの?」
「いやっはっは。何ですか、その親戚のおばさんみたいな台詞―――げふっっ」

 おばさんという単語を聞いた刹那、殺音の拳が金熊の腹にめり込んだ。両手で腹を押さえて、両膝を地面について悶え苦しむ。
 今日は忙しくて何も食べてなかったためだろう。胃の中の物は幸い出てこなかったが、その代わり胃液が地面を汚した。
 鯛焼きの屋台の前で起きた惨劇に、周囲の人間は逃げ出す。泣きっ面に蜂なのは屋台の店主だ。鯛焼きが焼ける匂いのかわりに、酸っぱ臭い悪臭が屋台を包む。

「い、幾らなんでも、この仕打ちは、酷いと拙者は、思うんですけど」
「あーごめん。手が滑ったみたい」
「手が滑って、こんなボディブロー、かませるわけ、ないっしょ」
「そう言えば、前から言おうと思ってたんだけどあんたの一人称の拙者ってダサイよ」
「今の会話に、全く関係、ねーっすよ!!」

 腹をさすりながら立ち上がった金熊童子が、口のまわりの胃液を拭く。
 そんなやり取りを呆然と見ていた冥だったが、はっと我を取り戻して殺音の腕を引っ張って遠ざける。

「お前、なにそんなに悠長に話している!?相手はあの四鬼の一体だぞ!?」
「えー。まぁ、そうだけどさ。金熊とは長い付き合いだから、ついついね。それに一体じゃなくて、もう一人来てるみたいだけど?」

 殺音がベンチに座っている虎熊童子の方向を指をさす。指をさされた虎熊童子だったが、何の反応もせずに、顔をあさっての方向に向ける。まるで人違いですよーと言わんばかりの対応だ。
 それに気づいた冥の顔が引き攣る。まさかこんな街中で四鬼のうちの半分―――しかも、最悪の二人が訪れるとは夢にも思っていなかった事態だ。
 
「くっ―――まさか星熊童子の仇を取りにきたのか!?」
「え?何のこと?」

 きょとんとした様子の金熊童子に、冥はしまったと顔を顰める。
 星熊童子の行方を知らない相手だというのに、まさかの墓穴を掘った冥だった。

「あー。まさかうちの星熊がご迷惑おかけしました?」
「うん。こっちが瀕死の時に手下引き連れて殺しにかかってきたんだけど。ちゃんと教育しといてよ」
「それは申し訳ないっすねー」

 金熊童子は殺音の苦情にペコペコと頭を下げて謝罪する。
 どんな方法か知らないが、どうやら水無月殺音が弱った時を察知して、彼女を殺すために星熊は動いていたようだと予想がついた。真正面からぶつかっても勝ち目がない以上それは仕方のないことだが。そしてここに殺音が五体満足で立っている以上―――星熊童子がどうなったか察しがつく。  
 仕方ないかと、ため息を吐いた。戦って負けたのなら相手を責めることはできない。その結果死んだのならば、それが星熊童子の運命とやらだったのだろう。弱肉強食―――強き者が正しい。それが鬼の正しいあり方だ。
 問題はこれからの酒呑童子達の無茶振りが全て自分に降りかかるということだけが非常に辛い。

 そこで金熊童子は気づく。ある異常なことに。ありえるはずがない、水無月殺音―――伝説に名を刻む猫神が、瀕死という単語を使った事実。

「……猫神の姉さんが、瀕死?」
「うん、そうそう。いやー見事に負けちゃった」
「は、はははは……お、面白い冗談ですねー」

 今度は金熊童子の頬が引き攣る。笑えている自信がない。口の中が乾く。喉がひりついた。
 殺音の言葉は軽く聞こえる。だが、眼が笑っていない。それは事実を告げている。彼女は真実を語っている。

「猫神を【覚醒】させて、【解放】させても無理だったからさー。私も実はもう一段階あげれるように修行中なんだよね」 
「どんなっ、化け物―――」

 言葉にならない。きっと今の状況をそう例えるしかないだろう。
 伝承級と謳われる猫神の全力を打ち破る。それが出来る相手を金熊童子とて、自分の主くらいしか知らない。 


「近い将来多分あんた達もその名を知ることになると思うよ。伝承墜とし―――ある御神の剣士の名をね」

 【御神】という名を聞いてぴくりと虎熊童子の耳が動いた。我関せずの態度だった彼女がベンチから立ち上がる。
 じゃりっと砂を踏みしめる音が響く。全員が気が付いたときには既に虎熊童子は殺音の目の前にいた。
 その動きを見切れたものはこの場に殺音のみ。冥も文曲も、金熊童子も、その動きを理解できなかった。
 殺音は自分をみつめてくる生気の無い瞳を気味悪く思いながらも見つめ返す。 
 滅多に会う事が無かった相手だが、相変わらず虎熊童子は不気味な気配を漂わせていた。   

「何か用?」
「―――御神の、剣士?」
「え?」
「―――【御神、恭也】?」

 虎熊童子の右手が殺音の首を掴む。その動きは特に速かったわけではない。
 だが、不思議とその手を振り払うことができない奇妙な動きだった。虎熊童子の右手に力が入る。ビキビキと音をたてて殺音の首を締め付けた。
 己の首を凶悪な握力で締め付けてくる虎熊童子を冷たい視線で見返していた殺音の左手が、首を絞めている相手の右手首を掴む。
 両者が放つ異様な気配に、観客と成り果てた三人が飲み込まれ、圧倒される。

 虎熊童子の右手が殺音の首を圧し折る勢いで締め付ける。
 殺音の左手が虎熊童子の右手首を破壊する勢いで掴みあげる。

 ミシミシと骨が軋む音が周囲に鳴り響きながらも、どちらも引く様子は見られない。
 尋常ではない互いの気当たりが周囲に広がっていく。鯛焼きの屋台の土台がベキッという音をたてて崩れ落ちた。
 店主が泣きそうになりながら早くどこかにいってくれといいたそうにしていたが、言える勇気があるはずも無く、この空間は人外が支配する異空間へと変貌していた。
 
「ストップ!!はい、ストップですって。二人とも」

 二人が狂気を発してたのは一分程度だっただろうか、我を取り戻した金熊童子が二人の間に割ってはいる。
 両手で二人の手を掴み引き剥がす。予想に反して二人の腕はあっさりと外すことができ、彼が間に立ち距離を取らせた。
 それでも二人の視線は、金熊童子など眼中にないといわんばかりに、互いに向けられている状況だ。それに金熊童子冷や汗を流す。

「猫神の姉さん、拙者達はこれにて失礼します!!」
 
 これ以上ここにいても碌なことになるまいと判断した彼は、金熊童子の背を押してこの場から離れてく。
 四鬼の二人の姿が海鳴臨海公園から見えなくなって―――ようやく臨戦態勢を崩した冥と文曲。
 
「大丈夫か、殺音―――っ!?」

 冥が自分の姉を見上げて驚きのあまり眼を見開いた。
 殺音の首には呪いの痣のように、くっきりと虎熊童子の手痕がついていたのだ。そこは青黒く染まっていた。
 その痕に手を触れた殺音は相当に痛むのか顔を顰める。

「もうちょっと続けてたら首の骨折られてたかもねー」

 そんな物騒な台詞を吐いた。
 仮にも伝承級と呼ばれる猫神の首を圧し折ることを可能とする。それがどれだけ桁外れの行いなのか―――冥はごくりと息を呑んだ。

「まぁ、もっとも―――続けられたらって話だけどね」

 にひひっと笑った殺音は、もはや影も形もない二鬼の消えた方角を見据えていた。 

 


















「虎さんも、いきなり何やってるんですか?猫神に喧嘩売るなんて、幾らなんでも結構厳しいですよ」
「……別に」

 邪魔をされたのが癇に障ったのか、並んで歩いてはいるが虎熊童子は若干不機嫌そうだった。
 それにしてもやはりこの女は恐ろしいと、改めて彼は実感する。今でこそアンチナンバーズのCM(九百)に位置しているが純粋な戦闘力だけでいうならば間違いなく自分より上だろうと。

 そもそもアンチナンバーズの序列は強さだけでは決められていない。強さを含む思想・経歴・性格・経験―――そういった人間社会へ対する危険度が重視されるため、ここ数百年の間人間社会へ全く手を出していない虎熊童子の序列がそこまで下がってしまったのは無理なかろう話だ。そういった意味ではⅩⅠ(十一)の茨木童子。ⅩⅡ(十二)の鬼童丸は別格とも言えるが。

「やー。それにしても虎さんやっぱ強いですね。あの猫神と力比べで負けないなんて」
「……そう、見えた?」
「え、あ……はい」

 そして虎熊童子は右手を無言で彼の前に持ってくる。
 金熊童子の視界に映ったのはパンパンに膨れ上がった、彼女の右手首。その手首は一目で判るが、明らかに折れていた。
 折れていると言うのに全く表情を変えていない彼女は、忌々しそうにもう姿は見えない殺音がいる方向へと一瞬視線を送る。

「……強いよ、あの小娘。さすがは風音の後継者」

 称賛の言葉を送った。千年近くを生きる彼女が、百数十年程度しか生きていない殺音を認めていた。  
 その称賛は、虎熊童子が相手に贈る最大限のモノだと金熊童子は知っている。ここまで手放しで相手を強いと断定することは長らくともにいる彼とて初めて聞いた。

 一方虎熊童子は先ほどの水無月殺音の姿を思い出す。
 人里に下りるときは人間の武を見学に行く時以外、基本的に大江山に引きこもっている彼女にとって水無月殺音とは実は数えるほどしか会っていない。その数は実に二度。実は数十年ぶりの出会いだったのだが―――。

 ―――確かに強い。でも噂ほど、か?
 
 それが彼女の率直な感想だった。
 世間では水無月殺音は先代を超えたと云われている。それがいまいち納得できなかった。
 確かに強い。いや、恐ろしいほどに強い。通常状態であれならば、猫神の力を解放したときは一体どれほどになるか想像は難しい。

 だが、虎熊童子は知っている。先代猫神―――水無月風音の凄まじさを。凶悪さを。異常さを。
 御神恭也の懐刀として、幾度となく彼女の前に立ち塞がったあの怪物を超えているとは思えなかった。
 闇の力が弱くなってきた現代とは違う。魑魅魍魎が溢れるあの遠き過去―――その時代でさえも、その名を聞いただけで恐れられた伝説の怪物。それが本当の猫神だ。アンチナンバーズの伝承級と呼ばれた化け物だ。

「まー、とりあえず帰りましょうや。星熊多分死んでますよ」
「……そうだね」

 考えるのは苦手な虎熊童子は、思考に割って入ってきた金熊童子に同意した。
 思っていたよりもあっさりと目的を達することができたようで、助かったと内心で安堵する。さっさと帰って鍛錬を再開しようと心に決めたその時―――。

「それで、何故そんなに慌てて連絡をしてきたんだ?四鬼はもう帰ったんじゃないのか?」

 ズクンっと心臓が胸を叩く。

「縁があるとは確かに思うが……さすがに今回ばかりは考えすぎだ」

 この声の持ち主に虎熊童子には覚えがあった。
 足が止まる。手が、足が、心が震える。忘れるはずが無い。忘れようもない。

 視線の先、そこに声の主がいた。
 そして―――。

「く―――あは、はははは、はは。この世界に生まれ出でて幾星霜。今日、この日ほど嬉しかったことはない。お前は確かに盟約を守ってくれた。私と、否。【私達】と交わした盟約を―――」

 考えるよりも早く、本能が言葉を発していた。
 足が一歩を踏み出す。身体中の震えはおさまっていない。だが、構うものか。
 これは、歓喜で全身が打ち震えているだけの話なのだから。

「―――私の名前を覚えているか?いや、覚えていなくても良い。忘れていたとしても構わない。そのかわりに【今度】は私から名乗りをあげさせて貰おう。我が名は虎熊童子。お前を超えるためだけに数百年を捧げてきた―――同胞にさえも愚か者と呼ばれる一人の鬼だ」

 随分と年若く見えるが、間違いようがない。
 虎熊童子が間違えるはずが無い。幾ら姿形が若くても、一目で判る。
 何故ならばその身に宿す魂の色が一緒なのだ。数百年前と同じで誰よりも、何よりも深い闇色だ。
 輪廻転生。生まれ変わり。そういったモノでなければ説明がつかない。

「もしも、お前が現れなかったら愚か者で終わったであろう、我が人生。だが、お前は現れた―――現れてくれた。ならば私は、愚か者などでは決してない。私は―――幸せ者だと胸を張っていえる」

 歓喜だけではない。言葉通り幸福で全身が満ち溢れる。
 数百年刻んできた時が報われたのだ。

「さぁ、約束の時だ。【かつて】はお前に私の初めてが奪われた。ならば【今度】は私がお前との初めてを奪ってやる。存分に楽しもうぞ―――御神の魔刃よ」

 そして地面が爆発した。
 驚異的な爆速で間合いを詰めた虎熊童子の左手が薙ぎ払われる。狙いは恭也の頭。
 空気を打ち抜き、恭也の頭があった場所を振りぬいた。
 間合いを見切り、僅かに後ろに上体をずらしかわしていた恭也の頬に鋭い痛みがはしる。避けたというのに、風圧だけで皮膚を切られたということに瞬時に気づく。 
 恭也の視界にパッと赤い血が舞った。

 振りぬいた左手の影になるように、恭也が一歩踏み込んだ。
 ズシンっと周囲が揺れる。掌底が虎熊童子の腹部に叩き込まれた。勿論徹込みの容赦のない一撃だ。
 衝撃が浸透する。その衝撃に虎熊童子はこふっと咳き込む―――そう、咳き込んだだけだった。

 振り戻される左手。鋭い肘が、懐に踏み込んでいる恭也に向かって狙い、放たれた。
 対して恭也はさらに一歩を踏み込む。逃げもせず、間合いを取ろうともせず、追撃の一手を叩き込んだ。
 連続して打ち込まれる二度目の掌底。今度は【徹】を加えていない、ただの打撃だ。
 
 ぶわっと虎熊童子の体が浮き上がる。両足が地面を削りつつ、虎熊童子は一メートル近くも吹き飛ばされた。
 当然、彼女の肘は間合いから外れた恭也に届くはずも無く、空振りに終わる。

 この相手は危険だと、恭也の脳に危険信号が鳴り響く。
 容姿だけを見れば人間の女性に見えるが、恐らくは違う。ただの人間が恭也の【徹】を受けて咳き込むだけで済む筈がない。しかも手加減抜きの全力の一撃だ。人形遣いや殺音のような人外の耐久性がなければ、それは有り得ない。
 
 意識を切り替えたが、まだ甘かったらしい。恭也の口から短い呼気が漏れる。
 手持ちの武器を確認する。生憎と翠屋のヘルプ中だったために、小太刀はない。飛針も鋼糸も本日は間が悪いことに持ち合わせていなかった。つまりは底知れぬ怪物相手に、素手で立ち向かわなければならないということだ。
 それを確認した恭也は意識を集中させる。握り締めていた拳の力を抜き、その代わりに歯を食いしばった。

 ―――久しぶりに、使うか。

 覚悟を決めた恭也にあわせるかの如く、虎熊童子が動く。
 翻る一つの肉体。人外に相応しい迅速の動き。黒き獣は既に恭也の目の前にいる。
 ドンっと足元に地鳴りが響く。まるで先ほどの自分の踏み込みの音のようだと口角が緩む。
 振り下ろされる凶悪な左拳。最大の威力を持って、最速のスピードを持って―――恭也の頭蓋を叩き割るべく牙を剥いた。

 恭也は退かない。恭也は逃げない。恭也は避けない。
 圧倒的な暴力が迫り来るなか、その拳に左手を合わせ―――激突する瞬間、威力を完全に【流した】。
 虎熊童子の拳は威力を全て流され、地面に叩きつけられる。何かが砕ける音がして、地面に拳大の穴が開いた。
 それを見た彼女の顔が嬉々とした様子を浮かべる。

 恭也の身体が開き、右拳が虎熊童子の顎を捉える。如何な化け物とて、顎を揺さぶられたならばまともな動きは期待できまい。
 しかし、恭也の拳が捉えたのは空気のみ。その速度は人の域を遥かに超え、人外の域も遥かに超えていた。
 
 非常に厄介だと恭也の舌が鳴る。
 恭也の打撃をものともしない耐久力。恭也の攻撃をかわすことを可能とする機動力。あたれば決着がつく破壊力。
 そのどれもが人形遣いと比べても遜色はない。恐ろしいほどの怪物だ。
 ざっと風きり音が、耳を打つ。身をかがめ、一瞬遅れて虎熊童子の蹴りが通過していった。

 身をかがめたまま水面蹴り。虎熊童子の足を刈り取った。
 バランスを崩した彼女に鞭を連想させる蹴りが襲い掛かる。その蹴りを片手で軽々と受け止めて間合いを取る。

 多少は痛むのか、蹴りを喰らった手をぷらぷらと空中で揺らす。
 だが、到底効いているとは思えないのが恭也の印象だ。

 攻防の直後ではあるが、隙という隙が見当たらない。見出すことが出来ない。
 彼女の手も足も、脚も、胴も、顔も―――その全てが、どのような攻撃にも対応できるように恭也のみに向けられている。
 どのような攻撃にも、どこからの攻撃にも対応し、そしてあらゆる反撃へと移り得る。
 人外にしては珍しい、武を突き詰めたような、隙を見せぬ戦いかただ。

 恐らくはこのまま見つからない隙を探しても無駄だろうと恭也は判断した。見つからない隙を見つけようとしても、それは無駄な行為にしかならない。ならばどうするか。決まっている。無いのなら作り出すしかない。
 ぞぶんっと恭也の意識が深淵へと沈んでいく。意識を極限にまで集中。理解しろ。目の前の相手は、刀が無い状態の己では、全力をだすしか勝利を掴む方法は無いということを。
 
 そして恭也は御神流裏と呼ばれる【それ】を発動させる。
 可能性を摘んでいけ。可能性を潰していけ。可能性を消していけ。可能性を奪っていけ。
 虎熊童子の四肢を凝視する。その肉体の脈動を理解する。
 彼女の耐久力を、機動力を、破壊力を分析し、組み立てていく。 
 
 虎熊童子には四肢がある。それは当然だ。だが、それが全て同じ動きをするかといえばそうではない。
 右手には右手の。左手には左手の。左足には左足の。右足には右足の。それぞれが成し遂げる役割が存在し、動き方にも限界がある。
 それに戦いの最中に気づいたが、彼女の右腕は壊れている。どうやらこの戦いのなかで動かすことはできないようだ。
 ならばさらに選択肢をつぶすことができる。

 虎熊童子の全身を観察する。
 果たして次の瞬間には左手はどの方向に動くのか。どの位置に移動するのか。どれだけの力が込められるのか。
 果たして次の瞬間には右足はどの方向に動くのか。どの位置に移動するのか。どれだけの力が込められるのか。
 果たして次の瞬間には左足はどの方向に動くのか。どの位置に移動するのか。どれだけの力が込められるのか。

 相手の呼吸と肉体の脈動を観察し、凝視し、分析し、見切り―――次の可能性の一手を絞る。

 そしてその一手へと導くために己の右手を、左手を、右足を、左足を、胴体を、視線を、呼吸を動かす。
 己が導き、相手をその可能性へと至らせる。だが、それはあくまでも複数の可能性の一つでしかない。恭也の意識に描かれるのは、幾多の可能性。その可能性の全てに対応できるように、意識を張り巡らせる。

 しかし、どんな行動を取ろうとも、それは恭也が思い描き、予想し、予測した可能性の一つ。
 相手の動きを理解している以上、次の行動には僅かな隙が生まれ出でる。そこに攻撃はまだ加えることは出来ない。ならばそれを可能とするまで続ければ良いだけだ。

 虎熊童子の次の行動を推測し、検討し、可能性を取拾選択し続ける。
 如何なる破壊力を秘めた一撃だろうが、来るとわかっていれば恭也ならば流し受けきることは可能だ。

 彼女の取る行動の可能性を全て潰していく。そうすることによって、虎熊童子の取りえる行動が少しずつだが狭まっていく。
 無限に広がっていた筈の彼女の取れる行動が確定していく。
 それとともに恭也が出来得る限りの最善の一手。最速の一手。最高の一手。それらをただひたすらに繰り返し続ける。
 
 極限の集中力が、虎熊童子の行動の可能性を奪っていく。
 だが、逆に言えばそれは諸刃の剣でもある。恭也は凶悪な暴力の間合いにいる。そこは一撃で相手を殺し得る怪物の暴風地帯だ。
 もしも恭也の集中力が途切れたならば、もしも恭也の判断が一手でも間違えたならば、もしも恭也の相手への可能性の潰し方を
間違えたならば―――瞬きする間に、命を落とす。
 
 それはまさに恭也だからこそ為し得る。恭也だからこそ展開できる。恭也だからこそ可能とした。
 極限の集中力が、緊張感が、これまで積み重ねてきた技術が、蓄えてきた経験が―――今ここで可能性を現実とし、消し去り、相手の行動を限定していく。

 美由希が翔との戦いで見せた御神流裏とは比べるまでも無く、ここで行われている出来事は次元が違った。
 御神雫がこれを見たらどう思っただろうか。果たして驚いただろうか。果たして喜んだだろうか。果たして懐かしんだだろうか。
 ここに存在している恭也の技は―――御神恭也の域にもうすぐ達しようとしていた。

 そんな二人の空間を引き裂くように、白色の閃光が迸った。
 奇妙な音をたてて、超高温超圧縮されたレーザービームともいうべき閃光が虎熊童子に降り注いだ。
 そのレーザーを流石に危険に感じたのか虎熊童子は大きく後退して、恭也との間合いを広げた。それとともに感じる悪寒が再度彼女を襲う。着地した場所からさらに後方へと離脱する。同時に地面が激しく音をたてて爆発した。

「いやー。全然帰ってこないと思ったら何してるんッスかー、キョーヤ兄」
「全く。お前は眼を離すと直ぐに女に絡まれるな」

 恭也の前にエルフとフュンフが立ち塞がる。その背にはHGSの証である双翼がたなびいていた。
 二人とも言葉は軽いが、一切の油断は見受けられない。それも当然だろう。
 恭也と虎熊童子の戦いをを見て、相手を軽く見るならばそれはもはやただの愚か者だ。
 
「―――さがっていろ。その女性は、強いぞ」
「わかっているさ。だが、我らはナンバーズ。あらゆる人外から人間社会を守る最後の砦だ」 
「まー、そういうことッスよ。キョーヤ兄はそこで見物しててもらって構わないッス」
 
 二人の双翼が一際強く輝きを放つ。
 決して引きはしないという意思がそこからは見て取れた。だが―――。

「……邪魔だ!!」

 疾走する虎熊童子の左手が、二人に異能力を使わせる暇もなく振り払われる。
 激しく音をたてて空気を裂き、その拳がエルフの体を貫いた。

「―――っな、に?」

 貫いた筈の虎熊童子が声をあげる。手から感じ取ったのは人体を破壊する感覚とは全く異なった感触。
 そして、エルフとフュンフの姿が陽炎のように視界から消え失せる。刹那感じるのは、先ほどと同じ悪寒。背筋が冷たく濡れる。
 その場から跳躍。降り注ぐ白の閃光。道路に幾つもの穴を空ける。嫌な匂いが立ち込めた。
 遠く離れたことによって再度視界に入ったのは三人の姿。見ればフィーアが邪悪な笑みを浮かべていた。

「初めましてぇ。アンチナンバーズのCM(九百)さん。私はナンバーズが有する数字持ちの一人。幻惑使いのフィーアと申しますわぁ」

 語尾が独特のフィーアがクイっと落ちそうだった眼鏡を押し上げる。
 幻惑使いと聞いて、成る程と納得する虎熊童子。恐らくは光の屈折率を変化させ、幻影を造り出すのだろう。
 そうあたりをつけた虎熊童子だったが、彼女のフラストレーションは既にマックスまで高まっていた。
 何せ長い間願い続けていた相手との戦いを邪魔されたのだ。その怒りは―――容易く彼女の枷を外すに至った。

「もう、いい。邪魔だ、お前達。一瞬で―――終わらせる」

 空気が重くなる。さきほどまでよりもさらに重圧が増し始めた。
 風が虎熊童子を怖れたように、ピタリと止んだ。三人に自然と鳥肌が立つ。
 これまで戦ってきたどの人外よりも、周囲へと振りまく恐怖は格が違っていた。

「―――鬼人、解―――」
「はい、そこまで。それ以上は駄目ですって、虎さん」
 
 虎熊童子の口を塞いだのは、今まで完全に蚊帳の外にいた金熊童子だった。
 正直な話、二人の戦いに見惚れていたのだが、流石にこれ以上はマズイと判断してようやく止めに入ったというわけだ。
 憎悪に塗れた視線で、射殺さんばかりに睨みつけてくるが、金熊童子としてもひくわけにはいかない。彼女のしようとした行為。それは鬼の力の完全解放。本能の赴くがままに殺意をばら撒く殺戮鬼へと変貌する。
 その解放は酒呑童子―――もしくは、副頭領の二人のうちどちらかの許可がいる。
 
「それに虎さんの様子からみて、何ですか。あいつが御神の極限って奴ですか?」
「―――ッ」
 
 口を塞がれているため返事ができない虎熊童子は頷くことによって返答とした。
 それを確認した金熊童子は、ちらりと此方を窺っている恭也へと視線を向ける。

「じゃーやっぱまずは報告が先ですよ。酒呑様にお伝えしないと駄目です―――わかりますよね?」

 酒呑童子の名を出された虎熊童子は、突如大人しくなる。今まで発していた異常な殺意も少しずつおさまっていった。
 残念なことだが金熊童子の言う事は筋が通っている。説得に応じざるを得ない。
 溢れんばかりの攻撃性が消え去ったことに内心でほっとした金熊童子は遠くに見える恭也にニカリと人の良い笑顔を向けた。

「拙者の名前は―――いや、違うか。【金熊童子】……この名前を覚えておいてくれたら嬉しい」

 そして、虎熊童子を庇うように、少しずつ後ろへと下がっていく。

「あんたを超えることだけを目標にして生きてきた馬鹿な男の名前だ。また日を改めて会いに来るよ」

 彼の顔は笑っていた。だが、彼の瞳は笑っていなかった。恭也の力を見定めるように、凝視している。
 三日月を連想させる、不気味な笑みを浮かべながら、二人の鬼は姿を消していった。




  
 























「いやー。それにしてもアレが御神の極限って奴っすか。とんでもないですねー」
「……」

 電車を乗り継いで大江山がある京都北部へと戻ってきた金熊童子が山の中を歩きながらそう呟いた。
 思い出すだけでゾクゾクっと死の危険が擦り寄ってくる。それは不思議な感覚だった。これまでの百数十年の月日のなかであれほどに死ぬことを意識したのはこれで二回目だ。
 あの百鬼夜行と向かい合った時に感じた恐怖をも上回る、人が発する気配とは思えない。

「くっひー。あれは皆が拘るのは分かる気がしますよ。いやいや、実に面白い」
「……」

 妙なテンションになっている金熊童子とは対照的に虎熊童子は沈黙を保つ。
 帰りの電車からそうだった。どれだけ話しかけても反応もしてくれない。これだけ無視されるのも珍しいと考えながらも、特に気にならなかった。恭也の気配に当てられたせいだろうか。不思議なまでに気分が晴れやかだった。
「それにしても、虎さんって結構喋るんですねー」
「―――っ」
 
 ビクリと反応する虎熊童子。俯いていた顔をバっとあげ、彼を睨みつけるが―――頬は朱に染まっていた。

 その反応に一瞬きょとんとする金熊童子だったが、彼女の様子にもしかしてと予想をたてる。

「あっれ。虎さん顔が赤いっすけど大丈夫すか?」

「―――っぅ」

 さらにその頬は赤く染まる。
 金熊童子はその反応に確信を持つ。ああ。これはアレだ。間違いなくアレだ。
 人間と鬼という関係ではあるが、間違いなくアレに違いない。むしろそれ以外の考えが思いつかない。

「もしかして虎さんって―――」
「ぅぅぅぅぅぅぅぅううううううああああああああああああああああ!!」

 金熊童子が何を言おうとしたのか察したのか、両耳を塞いで逃げ去っていく。
 その途中というか、目の前にいた金熊童子を吹き飛ばし、大江山を登っていく様子はまるで暴走車だ。木々が圧し折られる音が響き、圧し折られた木が地面に倒れる。何本も何十本も連鎖反応を起こすように、山の木々が消えてゆく。
 
 
 初めてって言っちゃったよぉぉぉぉぉ―――っと山間に響き渡る虎熊童子の山彦を聞きながら、弾き飛ばされ地面に倒れていた金熊童子は立ち上がる。
 これから面白くなりそうだと、そんな漠然とした予感を感じながら、彼は虎熊童子の後を追う。

 だが―――。

「血の、匂い?」

 優れた嗅覚が風が運んできた鉄臭い血の匂いを敏感に嗅ぎ分けた。
 人の血の匂いではない。これは明らかに―――同族の血風だ。不吉な予感。この予感には見覚えがある。
 屋敷がある方角に感じる凶悪な気配。これにも覚えがある。これは、この気配は―――。

「ふざけるなよ。どうしてお前がここにいる!!なんで、なんでお前が―――また、お前かよ!!百鬼夜行!!」

 不幸と惨劇を撒き散らす、人外の中の人外。あらゆる生命を喰らい、己の糧とする同族喰らい。
 不死身の百鬼夜行―――大江山に来襲す。








[30788] 間章5
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2013/01/09 21:32










 クンっと酒呑童子は鼻を鳴らす。
 意識せずとも臭ってくるのは、濃密な血臭。そして、強大で懐かしい気配だ。
 彼が今居る場所―――それは、屋敷の最深部。趣味でたてた家とはいえ、無駄に広い広間で胡坐をかいて座っていた。
 目の前には二本の小太刀。かつての友から預かっている、酒呑童子の宝物でもある。手入れだけはかかしていない。それが彼の日課になっているのだから。
 折角信用して預けて貰ったというのに、駄目にしてしまっては合わせる顔がない。

 その前で巨大な徳利に口をつけ、ゴクゴクと音を鳴らし酒を飲んでいる。
 酒呑童子とは少し離れた場所で、茨木童子と鬼童丸が高価そうな将棋盤を向かい合って座っていた。盤面を見れば一目で判るほどに優劣は明らかだ。
 茨木の陣地には既に王の駒のみ。対して鬼童丸の陣地には溢れんばかりに駒が置いてある。どうあがいてもというか、狙ってやらない限りこのような結果にはならないだろう。

 王一枚でなにができるでもなく、悔しそうに唇を噛み締めて悔しさでぷるぷると震えている。
 相当悔しかったのか涙目になっていて、今にも零れ落ちそうだ。

「まだやるんですか?もう諦めてくださいよ」
「う、うるさいですよ!!まだ、まだ終わってませんです!!」

 茨木が涙目でキッと睨み付けて来るが、全く気にも留めない鬼童丸はハイハイっと肩をすくめる。
 平均して一日2,3回は遊んでいる二人ではあるが、戦績は流石に覚えていない。千回を超えたあたりからどうでもよくなってきたということもあるが、鬼童丸は負けた記憶がない。
 途中で癇癪を起こした茨木が将棋盤を破壊して、引き分けに持ち込んだことは数え切れないくらいあるのだが。
 その度に将棋盤を勝ってきていた鬼童丸だったが、ここ百年ほどで自分で作ることを覚え、最近はもっぱら自作の品を使用していた。

「もういい加減にしましょう。何やら物騒な方も着ていますしね」
「そ、そうです!!つまりこの勝負は、無効なのです!!命拾いしたですね、鬼童丸!!」
「この状況で無効に持っていく貴女に称賛を覚えますよ……」

 二人が立ち上がると同時に、彼らから随分と離れた場所にあった巨大な入り口の扉が激しい音をたてて砕け散る。
 粉砕され、バラバラになった破片の隙間をぬって、一つの影が飛び込んでくる。疾風が一筋二人の間を駆け抜け、そのままの勢いで奥にいる酒呑童子へと突っ込んでいこうとしたその時―――。
 その影を邪魔するように、茨木が拳を、鬼童丸が蹴りを、二人の間を通る瞬間叩き込む。
 それにチッと舌打ちを残して、突撃することを諦めた人影は後方へと大きく飛び退いた。

「舌打ちしたいのはこちらの方なんですけどね、百鬼夜行」
「全く持ってその通りですよ。貴女さえ来なければこれからあたしの大逆転が始まったのに……」
「いえ、、それはありません」

 飛び退いた人影―――セーラー服を着た少女。百鬼夜行は相変わらず何を考えているかわからない虚ろな視線で、だが油断なく二人を見据えている。
 それと同様に茨木も鬼童丸も軽口を叩いてはいるが油断はしていない。目の前の常軌を逸した怪物の強さは重々承知している。数十年前にも大江山に攻め込んできたことがあったが、その時でも十分な怪物だった。そしてこの怪物の成長性を甘く見てはいない。数十年たった今、どれほどの成長をしているか一抹の不安がよぎる。

 己達の主である酒呑童子。彼は強い。だが、既に成長性でいえば限界に達しているだろう。
 それに加え数百年前に己に課した約束を未だ守り、人を喰らっていないことも大きい。人を喰らうという本能を常に抑え続けている酒呑童子の力は数百年前と比べるまでもなく下がっている。
 未だ成長を続けている百鬼夜行と全盛期の力が見る影もない鬼の王。世間では既に世界最強は百鬼夜行だという話が広がっている。そしてそれを全く否定しない酒呑童子。

「随分と殺してきたな、百鬼夜行」

 座っていた酒呑童子がどっこいしょと言いながら立ち上がる。
 随分と長い間座っていたせいで間接が固まってしまったのだろう、腰や肩を回すとバキバキという音がする。
 欠伸をしながら床に置いてあった徳利を片手にひっさげ、百鬼夜行に近づいていった。

「それで、何をしにきた?まさか俺様の部下を殺しに来たってわけじゃあるまい」
「―――お前を、喰らいにきた。鬼の王。お前を喰らえば、私が、この世界で、最強の存在となる」
「俺様を喰いにねぇ」

 ガシガシと頭を掻いた酒呑童子は自嘲めいた笑みを浮かべた。
 ハァっとため息をつくと、後方に置いてある小太刀をちらりと見る。数百年前の友であり、好敵手であり、仇敵だった男の姿を思い出す。

 ―――世界は、変わっちまったなぁ。

 誰にも聞こえない心の声が響き渡る。後ろを見て隙だらけであるというのに、攻撃を仕掛けてこない百鬼夜行に視線を戻すと、チョイチョイっと手招きをした。

「いいぜ。かかって来な。数十年ぶりに遊んでやるよ」
「―――私は、強くなった。数十年前と、一緒にするな」
「ごたくはいらねぇ。言葉ではなく、お前の拳でそれを示せ」

 あ、お前らは手をだすなよ―――と、茨木と鬼童丸に注意した瞬間、一つの肉体が爆ぜる。
 床が破裂。その勢いと速度で酒呑童子へと迫った百鬼夜行の右拳が―――彼の水月へと炸裂。そして、返す刀の左の貫き手が喉元へと突き刺さる。それだけで終わるはずもなく、飛翔した前蹴りが精密に、正確に顎に直撃。と、同時に振り下ろされる拳。爆撃を受けた音を残し、酒呑童子の顔を叩き潰した。

「―――きえ、ろ」

 床に飛び降りた瞬間に瞬時に詠唱を完了させた魔術を発動。百鬼夜行の眼前に展開される数個の魔法陣。そこから生み出された十数個の黒剣が酒呑童子へと突き刺さり、降り注ぐ。
 それは天眼が愛用する魔術。教えられたわけではない筈のそれを彼女は使いこなす。いや、魔術だけではない。あらゆる魔術、技術を彼女は使用可能なのだ。その身に受けた技を、魔術を―――視認さえすれば、使いこなすことができる。全ての努力を、鍛錬を一笑に付すあまりにも理不尽な能力。故に彼女の異能は【略奪】と呼ばれるのだ。 

 百鬼夜行は戦いに特化した異能力を持ちながら強さを求めていたわけではない。自分の命に価値が持てない彼女は何時死んでも良いと思ってもいた。 
 だが一人の人間と出会い、考え方を根底から覆された。ただの人間でありながら、脆弱な人間でありながら―――あまりにも強くなりすぎた剣士と邂逅してしまった。
 全てを破壊する魔獣ざからさえも打倒し、最強であり続けた剣士を超えたいという産まれて初めての欲求を抱いた。その在り方に憧れた。尊敬をした。その横に立ちたいと思った。

 だが―――彼は死んでしまった。 

 その日、百鬼夜行の心は死んだ。音をたてて砕け散った。もう会えない。もう話せない。もう横に立つことができない。ならばもはやこんな世界に興味はない。価値もない。意味もない。百鬼夜行という存在にたった一つだけ残ったもの―――それが、彼への想い。
 もはやこの世界に未練はない。だが、彼へ近づきたい。それだけは常に心を縛る鎖となっている。
 だからこそ、百鬼夜行は世界最強を目指す。世間が幾ら言っても意味はない。最強だという確かな実感が欲しいのだ。
 それ故に百鬼夜行は強者を求める。強き者を叩き潰し、打破し、殺し続けていけば―――残った自分が最強だと証明される。無敗じゃなくてもいい。不敗じゃなくてもいい。無敵じゃなくてもいい。最後に【最強】であればいい。
 そして百鬼夜行は笑う。狂ったように笑う。かつて圧倒的な差で敗れた鬼の王を打ち砕くだけの強さを手に入れたことに。また一歩世界最強に近づいたことに。

「―――お前を、乗り越え、喰らう。私が最強となるための、糧となれ!!」






















「私はね、アイン。かつて頂点を目指していたことがあったよ。君達のようなHGSとしても格別の戦闘力を誇る生物が十二体も同じ時代に存在する。そんな奇跡を目の当たりにしてしまったからね」

 
 酒呑童子と百鬼夜行が戦いを始めたほぼ同時刻。ヨーロッパにあるナンバーズの本拠地。その地下研究所にて二人の人影がいた。白衣を羽織った薄紫色の髪の美男子。ナンバーズの現最高責任者―――通称ドクターと呼ばれている男は、口元を歪めて眼前に横たわっている【モノ】を見つめていた。
 その後ろに控えているのはアイン。ナンバーズの最高戦力部隊数字持ちの統括者。そして単騎でアンチナンバーズの二桁の化け物をっも殲滅することを可能とする女性。
 二人の雰囲気、そして容姿はまるで親子のように似ている。唯一つ違うことがあったとすれば、ドクターは目の前のモノとなってしまった生物に何の感情も見せてはいないが、アインは極僅かにだが悲哀を感じているようだった。

 目の前のモノ。それはナンバーズが捉えたアンチナンバーズに属する男の人外。辺境の町にて静かに暮らしていた彼を捉え、実験材料としてこの実験施設に連れてこられた。
 ドクターは彼を切り刻み、弄んだ。恐らくただの人間だったならば当の昔に正気を失い、死んだであろう実験の毎日。
 だが、強靭な肉体を持つ彼は皮肉にもその実験でも生き延びてしまう。地獄のように続く毎日。腕を切り落とされ、再度癒着するにはどれくらいの時間がかかるのか。焼き切られた場合はどうか。時間があいた場合はどうなのか。
 
 ただひたすらに人体実験は続けられた。常人が行えるものではない。見せられるものではない。
 この地下実験施設のことを知っているのはアインとツヴァイ。そしてフィーアのみだ。他の姉妹達には、到底見せられるものでもなく―――見せたくないというのがアインの本音だ。
 ナンバーズがアンチナンバーズを生かして捕らえる目的。それはなんということもない、単純にドクターの実験材料にするためだった。

「私は随分長い時を生きてはいるが、実験漬けの毎日を送っていたせいで、結構な世間知らずだったんだ。でも、それでも君達のような怪物が十二体も創り出すことができた。これは世界の意思なのだろうと思った。君達を使って、この世界の全ての人外を殺しつくせという、ね」
「……はい」

 ドクターの眼は虚ろだった。底の見えない、全てを飲み込み無限の虚無が、漂っている。

「そこで私は世界中を見て回ったよ。アンチナンバーズと呼ばれる怪物たちをね。成る程、確かに人間では倒すには難しい化け物揃いだった。驚きはしたが、無理だとは思わなかったよ」

 目の前にあったモノにはもはや一切の視線もやらずに、ドクターは傍にあったパソコンを弄る。
 
「さて、話はかわるが、アイン。キミがアンチナンバーズで【最強】と思う怪物はどれだい?」

 キーボードを叩いていたドクターの指が最後にカチンと音をたてると、モニターに九人の写真が映し出される。
 それはナンバーズにおいて触れてはならぬ禁忌とされている一桁台の怪物達。伝承級の九人。もっとも一位と九位の二箇所の写真には、黒く塗りつぶされており不明という文字が書かれていた。

「―――私には、判りかねます」
「はっはっは。アインは真面目だねぇ。別にアインの考えている【最強】で問題はないよ」
「そういうことでしたら……」

 そして、アインは九人の情報を頭の中で整理していく。
 まずは一位の剣の上に立つ者。これは論外だ。何せ存在したかどうかすらも怪しい怪物。六百年前と三百年前の二度しかその座が埋まっていない、まさに伝説のみに謳われる男だ。そういった点ではこの存在を最強と云える要素がない。
 
 次は二位の未来視の魔人。この女が戦っている姿は滅多に見ない。戦士というより策士タイプなのは間違いない。確かに強いのだが、他の伝承級に比べれば幾分か見劣りするだろう。ただし、どこか底が見えない恐ろしさがあるのは違いない。

 次は三位の執行者。人間世界と夜の一族の世界の境界線を守ることを己に課した人からも人外からも疎まれる異端。人狼ということもあり、特にずば抜けた機動力を誇る。それに加えて人外には珍しく霊力と呼ばれる、生命エネルギーを引き出して戦うという。ここ数年は行方知れずとされていて、ナンバーズでも現在どこにいるのか確認されてはいない。

 次は四位の魔導王。単純な殺戮者数ならば他のあらゆる人外を置き去りにしてダントツのトップ。何故かわからないが、長年に渡って数百万の人間を殺しつくした殺人狂だ。確かに強かったのだが、敗北して封印されてしまった以上最強とは云い難い。

 次は五位の鬼王。この男もまた、論外だろう。数百年も表に出てきていない最古参の鬼。確認されている限り、特に特殊な能力もない。力が強く、身体が頑強なだけ。遠距離を重視して戦えば一番組み易しな相手だろう。ナンバーズでも全戦力を揃えれば殲滅可能な敵ではないかと、組織内では噂されている。

 次は六位の伝承墜とし。情報からこの存在は人間だと確認されている。かつての人形遣いを撃滅し、今度は猫神をも撃破してみせた。二つの伝説を崩したもの。確かに強いのだろうが、やはり人間。果たして最強といえるのだろうか。人間である以上基本的な性能では他の怪物達には勝てる要素はない。一撃攻撃をかわし損ねればそれで終わる。それではあまりにも危うい戦い方しかできない。

 次は七位の百鬼夜行。これは怪物の中の怪物だ。この女の特異性は想像力と応用力と修正力。戦闘の最中に彼女は相手と戦うに相応しい戦法を想像力にて創り出す。そしてそれを敵と戦っている間に徐々に修正していき、やがて【最適】な方法へと応用する。つまりは敵と戦えば戦うほどに進化していく。戦えば戦うほどに強くなっていく。
 彼女は三百年前は比べ物にならないほど弱き人外であった。戦闘に関して言えば種族中最弱であったといってもいい。だがとある異能力のおかげで―――いつしか、最強の一角に数えられるほどに強くなっていたのだ。彼女の異能力、それが不死。いや、正確には少し違うだろう。彼女の異能力は―――【略奪】。
 彼女に与えられていた想像力、応用力、修正力。これだけならば彼女は最弱から抜け出すことは出来なかった。殺されて終わる筈だった。しかし、この略奪の能力で自分よりも弱い生物の命を奪い、自分よりも強き者と戦う。そして戦いの中で、自分の力で相手に勝つ方法を想像し、応用し、修正する。
 そのまま勝てる場合もあるが、自分の戦闘方法の修正が間に合わず負ける場合もある。だが、それでもいいのだ。彼女は何十何百という命を略奪している。例え殺されてもそれを犠牲として蘇ればいいだけだ。そして蘇った彼女は既に負けた相手との戦闘に勝つ方法を創り出している。
 例えどんな相手であろうとも、何度敗北しても、彼女は最後には勝ってしまう。戦いに勝利してしまう。強敵との戦いを繰り返すことによって、その戦力は際限なくあがっていく。確かに彼女は最初は弱かった、だがその伸び代は―――決して切れることがない無限の才。不敗ではない。無敵でもない。彼女はただ、最凶なだけだ。
 彼女は―――現在のナンバーズが最も怖れる最悪の人外だ。

 次は八位の猫神。接近戦に特化した怪物。六百年前から闇の世界の魑魅魍魎に怖れられた人外の後継者。二代目ではあるが、その力は以前見た限り、数字持ちでも単騎では手に負えない。恐らくは複数の数字持ちを動員しても抑え切れるかどうか。だが、伝承墜としに敗北したということは最強というには相応しくないだろう。

 最後に九位の魔女。この存在は一位と同じく謎めいている。研究所に篭って外に出ないと言われているため、ナンバーズの誰もその姿を見たことがない。その研究所がどこにあるかすらも掴めていない。ようするに正体不明な怪物だ。ただ、天眼曰く戦闘力は九人の中で最も低い、らしい。

 九人の伝承級の怪物たちの情報を整理するアインだったが、やはり彼女はこの中では一人しか選べなかった。
 実際にあったこともあり、恐怖を植えつけてきた怪物。あらゆる生命を喰らい尽くす暴虐の鬼。

「―――私は、百鬼夜行だと判断します」
「うん、そうかい。多分誰に聞いてもそう答えるだろうね」

 ドクターはアインの答えが予想通りだったと言わんばかりに、薄く笑う。
 
「ああ、そうだね。百鬼夜行―――彼女は恐ろしい。彼女の進化は止まることを知らず、何時しか世界を滅ぼすに至るかもしれない」

 近くにあった椅子に深く座ると、虚無の瞳で天井で鈍く輝く電球を見つめる。

「だがね、私が最強だと思う怪物は―――鬼の王。酒呑童子だよ」

 そこでアインはようやく気づいた。
 椅子に座っているドクターの手が震えていることに。いや、違う。彼の全身が震えていた。
 まるで見えない何かに脅えているような、そんな様子を身体すべてで表現している。

「私が知っている最強とは、間違いなく酒呑童子だよ。鬼の王だ。ああ、アイン。キミが考えていることはわかるよ。確かに彼には特殊な能力はない。未来も見通せなければ、霊力も扱えない。魔術も使えなければ、死者を操ることも出来ない」

 両手を組み、かつて出会った人外の頂点を思い出す。
 力が衰えているとか、そんな事は関係ない。あれは存在するだけで最強の名を欲しいままに出来る怪物だ。
  
「彼はただ力が強いだけだ。ただ身体が頑強なだけだ。だがね、彼の力の前では如何なる防御も意味はない。鉄だろうがなんだろうが圧倒的な力で破壊する。彼の身体は如何なる攻撃も通用しない。武器も銃も、何もかもが意味をなさない。力が強いだけ?身体が頑強なだけ?それが極まった時の恐ろしさを誰も彼もがわかっていない。彼は―――単純なまでの暴力を極めた最強そのものさ」  
  






















 黒剣が降り注いだ一帯は、粉塵に見舞われ視界がきかない。
 着弾地点の近くにいた茨木と鬼童丸は巻き込まれないように何時の間にか、遠くはなれば場所へと避難していた。
 二人の表情は―――不思議と安堵に満ちていた。自分達の主が為すすべなく、圧倒的な力に晒されたというのに、一切の心配をしていない。そして茨木が心底安心したように呟いた。

「―――ああ、良かったです。まだその程度でしたか」

 粉塵がやんでいく。床が砕け、消滅し、更地となったその場所で酒呑童子は立っていた。傷一つなく、怪我一つなく、血を一滴さえも流さず、不動でそこにいた。
 誰もが気づかぬことだったが、酒呑童子はそこから一歩も動いてはいなかった。あれだけの攻撃を受けて、あれだけの魔術を受けて、それでもなお一歩もその場から退くことなく。

「随分と強くなったな、たいしたもんだ」

 ぼろぼろになった徳利を後ろに投げ捨て、一歩を踏み出す。
 ズシンと彼が放つ一騎当千の圧力が音をたてて周囲を圧迫していく。それに顔を顰めた茨木と鬼童丸は更に距離を取るように動く。この距離ではまだ巻き込まれる―――そう判断しての行動だった。

「だが、俺様と同じ土俵で戦うには百年はえぇ」

 鬼の王が放つ重圧に足が縫い付けられる。逃げろと本能が囁いてくる。しかし、それはもう遅い。
 百鬼夜行を嘲笑う速度で間合いを詰めてきた酒呑童子の右拳が掬い上げる一撃。それを両腕で受け止めるが―――。

「―――っな」
 
 メシリと骨が軋む音がした。衝撃が突きぬけ、弾き飛ばされる。広間から打ち飛ばされた百鬼夜行は外の地面に激突。それだけでは済まず、屋敷を覆っていた壁にめり込みようやく止まる。彼女の背中が壁に亀裂を入れたことが、その衝撃の重さを物語っていた。
   
 ごほっと咳き込んだ途端、ビチャビチャと血が地面を汚す。ゆっくりと広間から出てきた酒呑童子を威嚇するために構えようとしたが、激痛がはしる。よく見れば、たった一撃を受けとめただけで骨を見事に砕かれたらしい。
 無論百鬼夜行とてえ勝算無しで攻め込んできたわけではない。数十年前に戦い、そして敗れた時に酒呑童子の力は見抜いた筈だった。当時は基本的な性能が圧倒的にたりずにどのような戦い方でも勝てないとわかったため力を蓄えてきた。そしてようやく彼に勝てるだけの力を得た―――と思い込んでいただけらしい。
 数十年前とは相手の力も速度も桁が違う。どうやらあの時はただ遊んでいただけのようだと、百鬼夜行は理解した。

 百鬼夜行は即座に酒呑童子の力を分析し、相手に相応しい戦術を創り出そうとする。
 だが、何も思いつかない。あまりに隔絶した力の違い。如何なる方法を取っても、今の己では勝ち目がない。本能が何よりも、誰よりも雄弁に無言で語ってきた。

「―――諦めないつもりなら、また来いよ」

 その巨体からは全く想像できない電光石火。酒呑童子の動きを視認することはできた。いや、視認することしかできなかった。その動きには見覚えがあったわけではない。それでも何故か理解できた。その動きこそが―――かつて自分が憧れた剣士が時折見せていた、【神速】という技術であるということを。
 手と足が、脳からの指令を受けるよりも早く、ブチリという奇妙な音が耳を打つ。
 
 焼けるような激痛が首を襲う。妙に身体が軽くなったと感じた百鬼夜行だったが―――視界に見えたのは首から下しかない己の肉体。引き千切られた首から多量の出血が噴水のようにあがり、どさりと音をたてて地面に倒れた。
 そして気づいた。今の自分は頭だけを酒呑童子の片手に握られているということに。
 グラリと視界が揺れる。やがて鮮明だった視界は徐々に暗くなっていき、完全に闇に染まった。

 百鬼夜行が死んだことを確認した酒呑童子は、手に掴んでいた彼女の頭を地面に倒れている身体へと放り投げる。 
 決着がついたのを見届けた茨木と鬼童丸が、ある意味悲惨な殺され方をした百鬼夜行に向かって手を合わせた。

「頭を引き千切るとか外道です。超外道です」
「何で俺様が責められるのかわからんが……。まぁ、こいつ強かったから手加減できなかったんだよ」
「貴方がそう言っても嘘くさく聞こえますですよ。凄い余裕でぶち殺しておいて」

 勿論茨木は本気で言っているわけではない。
 酒呑童子の今の状態を誰よりも知っているのは茨木と鬼童丸なのだから。酒呑童子は自分達のように必要最低限とはいえ人を喰らっているわけではない。人を喰う事を止めて数百年。彼の飢餓はもはや限界に達している。何でもないように振舞ってはいるが油断すれば、本能の赴くがままに、人を殺し、喰らってしまう状態だ。
 ましてや闘争という行為を行えば、それに拍車をかける。彼が戦いにかけることができる時間は精々が数分程度だろう。それ以上の時間を使用すれば間違いなく、酒呑童子の理性が弾け飛ぶ。あらゆる存在を壊し、喰らい、殺し、滅ぼす。千年前に怖れられた最凶の鬼が降臨するだろう。 
 鬼としては正しいのかもしれない。だが、彼の信念がそれを許さない。かつての友とかわした約束は、どんなことよりも優先されるのだから。

「とりあえずどっか遠くにその死体捨てといてくれ」
「えー。嫌です。鬼童お願いしますですよ」
「いや、私だって嫌ですし。星熊にでも頼みましょう」

 頭と胴を引き千切られた百鬼夜行を指差した酒呑童子の命令にあっさりと鬼童丸に丸投げした茨木だったが、彼もうわぁと嫌そうな顔でさらに星熊童子に回そうとする。

「星熊?そーいえば最近あいつ見ないな」
「言われてみたらそうですね……。とりあえず、暇そうにしている部下でも呼びつけますか」

 少しだけ星熊童子を気にかけた酒呑童子だったが、鬼童丸は特に追求するでもなく部下の鬼を呼びに行こうとして―――得体の知れない悪寒に襲われた。

「でしたら私が持って帰りますよ?」

 その悪寒を肯定するかの如く、第三者の声がその場に響き渡る。
 即座にその場を離脱する茨木と鬼童丸。知らず知らずのうちに冷や汗が流れる。百鬼夜行とはまた別の底の見えない怪物。彼ら二人が一番厄介な相手だと確信している人外。全ての事象を見通しているといわれる未来視の魔人。

「陰険、白髪女!!」
「天の眼を持つ化け物め……」

 茨木と鬼童丸の瞳が真紅に燃え上がる。
 限界まで二人の四肢の筋肉が膨張し、今にも新たに現れた怪物に飛び掛らんばかりに大地を踏みしめた。吊り上った口元から覗くのは鋭い犬歯。
 この女は危険だと、初めて会った時から本能が訴えてきている。伝承級と呼ばれる怪物たちを幾人か見てきたが、天眼はその中でも飛びぬけて最悪な雰囲気を纏わせていた。 

「持って帰ってくれるならお前でもいいわ」

 しかし、二人とは違って酒呑童子は気にも留めない。
 早く持って帰れと言わんばかりに、しっしと手で追い払うジェスチャーをしながら、屋敷に戻ろうとしていた。

「相変わらずつれない人ですね。折角良い情報を持ってきてあげたというのに」
「―――お前の良い情報ってのはあんまり信用できないんだがな」
「今回はとびっきりですよ?何せ貴方の運命の相手の情報ですか―――」

 天眼は台詞を最後まで言うことができなかった。
 避ける暇もなく、気がついたときには首を掴まれて空中に片手で持ち上げられていたのだ。
 ミシリと骨が軋む不吉な音が響く。茨木や鬼童丸と同様に、禍々しく真紅に輝いた瞳が、獣を連想させるように瞳孔が縦に開き、天眼を貫いている。

「俺様の前で【あいつ】の不確実な情報を出すんじゃねぇ―――殺すぞ、小娘?」

 離れているはずの茨木と鬼童丸の皮膚が粟立つ。
 闘争が本質であるはずの二人が感じるのは、恐ろしいほどの圧迫感。戦えば死ぬという絶望的な恐怖が身体中に纏いつく。久々に感じる酒呑童子の本性に口内が乾いていった。

「―――いえいえ。こればかり本当ですよ。貴方が心の底から求め、欲している御神の魔刃。【青年】が貴方に予言した約束の剣士。その少年の情報を教えて差し上げますよ?」
「……」
 
 酒呑童子の腕に力が込められる。
 頚動脈を圧迫。いや、既に首が圧し折られるほどの圧力を受けていながら、天眼は笑顔を崩していなかった。

「ただし、条件があります。あと一年待って下さい。【今】の少年の力では幾ら全盛期に比べ劣るとはいえ貴方と戦うにはまだ早すぎますからね。というか、貴方が強すぎるんですよ。馬鹿ですか、貴方」

 笑顔のまま毒を吐いた天眼に、少しだけ意外そうな表情となった酒呑童子は―――首を圧し折ることなく、百鬼夜行の死体へと投げ飛ばす。
 凄まじい速度で投げられながらも、空中で体を回転させふわりと舞い降りる。不思議なことに彼女の首には凶悪な握力で握りつぶされそうになったにも関わらず、痣一つなかった。

「了承と取りますよ?恐らく貴方の部下がもう直ぐ【少年】の情報を持って帰ってくるはずです。ですが、貴方が本当に【満足】したいのならば―――後一年待ちなさい。そうすれば、【少年】の力は、貴方に匹敵するでしょう」
「―――俺様に、匹敵か」

 くはっと歓喜の息が漏れる。ついに、ついにきたのだ。
 長きに渡って待っていた宿命の敵。御神恭也が予言した、酒呑童子の【敵】に値する怪物が。
 御神恭也が死んでからこの世のあらゆることが退屈だった。アンチナンバーズの伝承級という怪物とも出会ったことは何度かあった。だが、彼からしてみればその誰もが敵にすらなりえなかった。酒呑童子という存在は、文字通り次元が違う怪物だったのだ。
 
「くっ―――ハッハッハッはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!そうか!!そうなのか!!お前はやはり約束を守ってくれたのか!!感謝するぞ、恭也ぁあああああああああああああああああ!!」

 狂気が溢れた。数百年に渡って貯め続けてきた、御神恭也への想いが報われた。
 音が成る程強く握り締めた拳を地面へと叩きつける。着弾すると同時に地面が爆発を起こし―――砂が上空へと撒き散らされる。砂塵がおさまった後には、酒呑童子を中心として巨大なクレーターが出来上がっていた。

「良いだろう!!良いだろう!!未来視の小娘!!約束してやる!!あと一年だけ待ってやる!!だが、それ以降は俺様の好きにさせてもらうぞ!!」

「ええ。それで結構です。確かに約束しましたよ、鬼の王よ」


 地面に転がっていた百鬼夜行の死体を持ち上げると、地面を蹴りつけ
壁の上へと飛び上がる。
 そのまま去るかと思われた天眼は、何かを思い出したのか壁の上から酒呑童子を見下ろす形で振り返った。
 
「もし約束を守っていただけなかったならば―――私が貴方を殺しますよ、酒呑童子」

 茨木と鬼童丸が息を呑む。普段は閉じている片目を開き、翠色に輝く瞳に睨まれた瞬間、膝を折りたくなる重圧を浴びせられた。その重圧は狂気を発する酒呑童子にも勝るとも劣らない。
 互いの狂気と狂喜がぶつかり合い、弾きあい、大江山を侵食していく。唯一平然としているのは伝説に名を残す怪物達二人のみ。

「安心しろよ。俺様も全力で戦いたいからな。一年くらいは―――待ってやる」
「それを聞いて安心しました。それでは、鬼の王よ。いずれまたお会いしましょう」

 そして天眼は姿を消していった。後に残されたのは、狂喜を漂わせている酒呑童子のみ。
 その後酒呑童子は、帰還した金熊童子と虎熊童子の話を聞くも一年の約束を守ることを徹底するように皆に言い含めた。
 それから一年後―――文字通りの世界最強は、動き出す。海鳴を目指すは五体の鬼。
 
 アンチナンバーズのⅤ。【鬼の王】酒呑童子。
 アンチナンバーズのⅩⅠ【鬼姫】茨木童子。
 アンチナンバーズのⅩⅡ【凍鬼】鬼童丸。
 アンチナンバーズのⅩⅢ【四鬼】金熊童子。
 アンチナンバーズのCM 【四鬼】虎熊童子。

 ―――そして、怪物達の饗宴が始まる。





 

























「―――私は、負けたのか」
「ええ。見事なまでに。完膚なきまでに。これ以上ないほどの敗北ですよ?」

 酒呑童子に頭を引き千切られてから半日ほどたった時間。大江山から遠く離れた場所にて岩に腰掛けて百鬼夜行の復活を待っていた天眼が、自嘲染みた呟きにそう返答する。
 百鬼夜行はここ数十年で二度の敗北を喫した。一人は目の前の未来視の魔人。もう一人が先ほど戦った酒呑童子。
 まだ、己より強い敵がいることに失望を禁じえない。特に酒呑童子の強さは底が見えない。果たして彼を倒すにはどれくらいの時がかかるのだろうか。
 
 だが―――。

「―――アレが、【神速】」
 
 今度は見えた。神速という技術を見ることが出来た。
 酒呑童子が発動させた神速に反応することは出来なかったが、視認することは確かに出来たのだ。
 三百年前はまだ弱かったために、剣の頂に立つ者の神速を視認することはできていなかった。しかし、今回は問題なく―――。

 天眼の目の前から百鬼夜行の姿が消え去った。まるで瞬間移動と勘違いしそうなほどに、彼女の動きを捉えることができなかった。集中していなかったこともあっただろうが、その動きは明らかにこれまでの彼女の限界を超えている。
 それに若干驚きながら、気配を探索。随分と離れた場所で、空を見上げていた百鬼夜行を見つけた。

「―――感謝する、鬼の王。お前のおかげで、私はまた、強くなった」

 あらゆる技術を略奪していく怪物の進化もまたとどまる所を知らず。
 【最強】への道は遠い。だがこの日―――決して彼女の手に届かない世界ではなくなった。











-------atogaki-----------

恭也をかきたいッス……
引越しまでに大怨霊編終わらせるのは厳しそうっす……



[30788] 十八章 大怨霊編①
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2013/01/02 18:12





















 美由希と翔の激闘から月日は流れ、既に季節は冬となっていた。
 今年は暖冬のようで、十二月に入っていながら、まだそれほど寒さは感じない。肌寒くはあるが、そこまで着込まなくても大丈夫のようで、厚着をしている人はあまり見かけはしないようだ。

 あれから永全不動八門の人間達は、各々の実家へと戻っていった。
 葛葉は、全治四ヶ月という診断結果ではあったが脅威の回復力を見せ、その三ヶ月が経ったころには病院を抜け出し、軽い鍛錬に励んでいたという。しかし、他の八門の人間と同じ様に、何やら身の危険を感じている宗家の上の人間から半ば無理矢理呼び戻されたらしい。
 
 ちなみに例外として天守翼は海鳴で相変わらず生活を続けている。
 確かに他を圧倒するほどに強い彼女ではあるが、自由奔放。唯我独尊の翼は天守家での評判はすこぶる悪い。それは翼もまだ若かった頃―――今も若いが―――天守本家の人間達と相当にぶつかり合ったことに起因する。
 そのため彼女は本家に呼び戻されずにすんだのだ。もっとも、もし呼び戻されたとしても翼はあっさりと断ったことは想像に難くないことではある。

 ちなみに天守翔は本家からの評判は、翼とは違って至極良好。当主の座を得るために彼女は、本家に対して従順だったためだ。そういうこともあり翔は本家から帰郷せよという話が来ていたのだが―――それを断り今も海鳴で翼と一緒に暮らしているという。
 当主の座にもはや一切の執着をみせなくなった翔にとって、それは当然といえば当然な答えだったのかもしれない。
 
 二人とも翠屋によく来てくれている常連となっていた。翼は恭也に会いに、翔は美由希に会いに来ているといった違いはあれど、二人は桃子の目に止まり、それなりに仲良くなったようだ。
 美由希に二人目の友達ができたということで、桃子は本気で嬉し泣きをしていたことも記憶に新しい。

 そんな十二月に入って間もない今日とんでもない事態が起きていた。厨房担当のアルバイトが一人捻挫。一人は親戚でご不幸。更には店内担当のアルバイトの娘が風邪を引いたらしく人手不足に陥っていたのだ。
 流石に三人抜けは厳しく、当日ということもあり空いた穴を埋めることは出来なかったため急遽ヘルプとして入った恭也が、店内を忙しなく動き回っていた。

 生憎と本日は日曜日。一日中が稼ぎ時の大繁盛。そして突然のヘルプ要請もあり、鍛錬は急遽休みとなっていたが、美由希は鍛錬が終わった後那美と遊びに行く予定をたてていたため、昼前であがっている。レンと晶も現在必死になって厨房で注文を捌いていた。
 流石に翠屋のメニュー全てを作ることは出来ないが、人手が足りない時は二人ともヘルプに入っているので、それなりに手伝うことは可能だ。

 恭也と晶、レンのヘルプもあり、なんとか翠屋は危機を乗り越えることができ、外から差し込む光にはオレンジのものが混じる時間帯
になってきていた。
 その時、厨房から皿を持って出てきた桃子と目が合う。
 
「恭也ー。はい、これ十二番のテーブルのお客様にお願いね」
「―――十二番?」

 桃子に渡された熱々のホットケーキが二枚乗った皿を渡されて聞き返す。十二番とは翠屋の一番奥にあるテーブルのことであり、店内が満員にならないかぎりはそこには客が案内されることは少ない。
 客がそこがいいといえばまた別であろうが。わざわざそんな奥に行こうとする客も滅多にいない筈だ。

 ピーク時を何とか乗り越え、店内を見渡してもお客もかなりまばらになっている。つまりはカウンターなり、テーブルなり好きに座れる状況で、敢えてそんな奥まったところに座る酔狂な客がいたのかと疑問に思ったのだ。

「わかった。持って行こう」
「頼むわねー」

 厨房へと戻っていった桃子とは逆に、翠屋の一番奥まった席へと向かう。
 それにしても、と恭也は首を傾げる。今から向かうテーブルには全く人の気配というものが感じられない。恭也ほどの【心】の使い手となれば大なり小なり、一般人の気配くらい感じ取れるのはわけはない。

 それこそ翠屋程度の店舗の大きさならば、気配の数くらい把握は可能だ。
 もしかしたら桃子がテーブルの番号を間違えたのかもしれないと思いつつ十二番席に辿り着き―――。

「お待たせしま―――」
「はい。有難うございます。少年」

 言葉が途中で詰まった。瞬間背中が粟立つ。
 何故気づかなかったのか。何故気づけなかったのか。何故気づくことが出来なかったのか。
 こんな、こんな、こんな―――。

 ―――人の姿を取っているだけの怪物に。

 刹那、恭也の手が霞む。皿を載せているお盆を支えていた手とは別の手が残像を残す速度でしなった。
 仮にここに美由希が居たとしても何が起きたかわからなかったであろう。翼であったとしても、理解は及ばなかったはずだ。
 だが―――。

「いきなり乱暴ですね。ですが、野性味溢れる貴方も大好きですよ」

 恭也の目の前で椅子に座っていたプラチナブロンドの女性は笑っている。笑いながら、人差し指と中指の二本の指で目の前に迫っていたナイフを受け止めていた。
 何の予備動作もなく、躊躇いもなくお盆に載っていたナイフを女性に向けて投擲していたのは恭也だった。それをあっさりと二本の指で受け止めた人外は、そのナイフをテーブルに置く。カタンっと小さな音がした。

 間違いなく防ぐことが出来るタイミングではなく、速度でもなかったはずだ。だが、目の前の怪物は笑いながらそれを成し遂げる。
 十三歳の時に出会った当時の底知れない気配と瞳をそのままに、数年ぶりに彼と彼女は邂逅した。

 アンチナンバーズの一桁ナンバー。酒呑童子とともに最も古き時代より生き続けている最古の魔人。一説によればアンチナンバーズの創設者とも言い伝えられている―――未来視の人外。

「できればそのホットケーキを頂きたいのですけれども。宜しいですか?」
「……お待たせしました」

 渋々といった様子で恭也はホットケーキの乗った皿を天眼の前に置く。
 そんな恭也の姿を嬉しそうに眺めていた彼女は、目の前にようやく置かれた皿のホットケーキに、一緒に持ってこられたシロップをかける。吸い込むようにシロップがホットケーキに染み渡っていき、それをナイフとフォークを使って綺麗に切り分けてく。

 その一つをフォークで刺すと、口に運んでいく。パクリと咥え、頬張るその姿はただの美しい女性にしかみえないだろう。普通だったならば、見惚れるのかもしれない。
 だが、恭也はこの女性の脅威を知っている。恐怖を知っている。深遠を知っている。
 瞬き一つできるものか。集中力を切らすことができるものか。
 
 ここは翠屋じゃない。ここは既に生と死が曖昧な境界線だ。油断をしたらそれで終わる。圧倒的な死が来訪する。
 この女は今ここで殺さなければいけない。そうしなくては、何時か必ず目の前の怪物は破滅を齎す。それは確信だ。それは確定事項だ。未来視の魔人は、高町家に、いや海鳴に―――違う。世界そのものに絶望と死を呼び込む。

「やん。そんな怖い顔をしないでくださいよ?そんな顔をされたら―――疼いてきちゃうじゃないですか」

 恭也の険しい顔を、天眼はうっとりと恍惚とした表情で眺める。
 唇についたシロップを右手の親指で拭うと、赤い舌がちろりとそのシロップを舐め取った。それはぞくりとするほどに艶かしい。

「それにこんな場所で遊ぶのですか?ここには無関係な人もいますよ。それに―――」

 邪悪な笑みだ。それが高町恭也の神経を逆立てる。 

「少年の家族もいますよね?」

 ―――そして決定的な台詞を言い放った。

 空気が急激に重さを増す。いや、重くなるとかそんなレベルではない。
 高町恭也の周囲の空気が―――爆砕した。相手の心の臓を直接握り締め、押し潰す。単純で物理的な圧力を秘めた爆風が巻き起こる。

 断言しよう。高町恭也は最強なのだ。圧倒的であり、絶対的であり、究極的であり、超越的である。あらゆる者を、物を、モノを殺すことだけに特化した。最凶最悪の魔人―――いや、魔刃。
 高町美由希も、天守翼も、人形遣いも、水無月殺音も、不破一姫も―――誰であっても勝ち目のない怪物の中の怪物だ。

 カチリと機械的な音をたてて恭也の意識が切り替わった。それは、数年ぶりに切り替えた、殺すためだけの意識。 
 高町恭也ではなく、不破恭也でもなく―――【刀】として、命を奪うためだけに恭也が作った死を体現したモノ。 

 
 どうやって殺す?
 このまま両の眼に指をつきいれ、奴の視覚を奪え。

 どうやって殺す?
 隠し持っている飛針で四肢を突き刺し、腕力と脚力を奪え。

 どうやって殺す?
 奴の背後に回って首を絞め、そのまま首を圧し折ってしまえ。

 御神の魔刃の名を持って全力全速を持って、有無を言わさず、躊躇いもなく、容赦もせずに、破壊せよ。


 恭也の身体が、脳髄からの指令に呼応する。ミシリと音をたてて四肢の筋肉が躍動した。
 極限にまで研ぎ澄まされた集中力が、世界をモノクロに染め―――。

 それと同調するように女性の背後から膨れ上がった黒い闇。それは本当に深かった。それは【闇】だった。恭也の本質と同種であり、同等であり、同族であった。人からも、人外からも外れてしまった超越的な原初の闇だった。
 【闇】は一瞬で巨大なナニかを形作り、恭也へと襲いかかる。幾重にも、幾十にも、闇を形作ったナニかの牙が降り注いできた。その無限の牙がゾブリと音をたてて喰らいついてくる。首に、肩に、腕に、胴に、脚に、足に。
 これは幻想だ。これは幻影だ。鋼鉄の精神力が、死の恐怖を弾き飛ばす。だが、幻は消えはしない。
 恭也の全身に鳥肌が立つ。危険だと。立ち向かうなと。意識よりも更に奥底からの本能が雄叫びをあげていた。

 ―――今はまだ、目の前の【コレ】は、殺せない。

「はい、少年。あーんしてください」
「っむ―――ぐぅ」

 天眼の言葉に反射的に口をあけて―――そこに放り込まれるフォークに突き刺さった一切れのホットケーキ。
 クスクスと何が楽しいのかわからないが、天眼は嬉しそうに笑っている。放り込まれた以上吐き出すわけにもいかない恭也は、仕方なく噛み締め嚥下した。甘い香りと味わい―――シロップとはまた別の、蕩けるような女性の香りが恭也の鼻をくすぐった。
 他の女性にされたら羞恥しか感じない行為だったろうが、どうしてかこの女性にされても全くそういった感情はわき上がってこない。

 そこで、しまったと恭也は頬をひきつらせる。全く手加減も、遠慮もしない殺意を翠屋にばらまいてしまったのだ。
 幾ら店内の客がまばらといっても、これはまずい。というより、客にナイフを投げつけるとか―――恐らくそれは速すぎて見えなかっただろうが、とんでもないことをしたのは間違いない。

 ちらりと店内を見渡すが、不思議なことに恭也達に注目している客は誰一人としていなかった。流石にそれは腑に落ちなかった恭也の様子に気づいたのか、彼女は笑顔を向けたまま―――。

「少年とゆっくりお話したいことがありまして、人払いの結界とやらを少しだけ展開させていただきました」
「……」

 他の人間に気づかれないようにしてくれたのは非常に有難いのだが、素直に喜べない恭也は沈黙をもって答えとする。
 普段の恭也にしてはあまりにも可笑しい対応ではある。常にどんな相手でも敬意を払う彼にしては、ここまで苛烈な反応をする人間はそうはいないだろう。だが、恭也の中のナニかが―――抑え切れないほどの明確な敵意と殺意を彼女に向けていた。 

「やれやれです。ゆっくりと言う訳にはいかないようですね?」

 恭也の殺意をまともに浴びても、彼女の笑みに変化はない。
 だが、ツンツンっとホットケーキをフォークで突きながらも、少しだけ瞳に寂しさが混じっている気がした。

「少年に今日はあることを教えてあげようと思いまして。少年は―――【大怨霊】という言葉を聞いた事はありますか?」 

 ―――そして彼女は語りだす。【大怨霊】と呼ばれる悪霊のことを。





















 大怨霊。それは文字通りの意味ですよ?
 強大な怨霊。ようするにそういうことです。ああ、少年は霊の存在を知っていましたか?
 あ、見たことがありましたか。では説明の手間が省けますね。助かりました。

 さて、勿論ただ強力な力を持つ怨霊だからといって大怨霊と呼ばれることになるわけではありません。そんなことだったら今頃世界は大怨霊で溢れています。
 では、どうやったら大怨霊と呼ばれるようになるか、ですか?それはもう少し後で話しますね。 
 大怨霊は数百年に一度だけ、現世に現れます。この怨霊が現れると、それが運命であるかのようにその国が荒れます。
 運が悪いことに現世に出現する場合、それは日本のどこかと決まっています。日本を覆う霊的結界から外には出れないとか、そういった噂ですけどね。真実は私にはわかりかねますよ?

 荒れるとはどういうことですか、ですか?
 例えば大飢饉。大災害。大きな戦争。そういった国が傾きかねない、【何か】が起きるんです。
 そして多くの命が奪われます。兎に角死ぬんです。何千何万という単位ではありませんよ?桁が二つ三つばかり違いますね。

 その怨霊は、日本という国において数百年分の憎悪や悪意を溜め込んでいるわけです。どんな小さな悪意でも。どんな大きな殺意でも。兎に角溜めに溜め続けています。
 数百年分の悪意をその身に纏って、その怨霊は現世に現れるんです。そしてその怨霊が【大怨霊】となって、その国に起こる大荒廃の中心となるんです。

 はい?私が見たことがあるか、ですか?
 はい、ありますよ。嘘をついても仕方ないじゃないですか。泣いちゃいますよ?
 私が初めて見たのは大凡六百年ほど昔でしょうか。当時の大怨霊が取り付いたのは一人の農民でした。
 切欠はなんということもないものでしたよ。あの時代では当たり前のように起きていた、一人の娘が死んだこと。ただそれだけです。
その二人は親娘でした。親一人子一人。それは仲睦まじい家族だったそうです。
 
そんなある日、ちょっとした飢饉がありました。その親子は手元にある米を年貢として納めなければなりません。ですが、納めたら食べるものがなくなります。そこで少しで良いので待って貰うように頼んだそうです。生憎と無駄に終わりましたけどね。
 他の村民にも食料に余裕がなく―――その娘は餓死したそうです。 
 
 父親は嘆きました。父親は呪いました。父親は憎みました。
 もし、もしも後少しの食料があれば、もしも年貢を納めなくて済んだならば娘は助かったのにと。
 それに目をつけたのが【大怨霊】です。いえ、正確には大怨霊の【元】になるモノですかね。
 そんな出来事は当時は幾らでもあったでしょう。ですから、大怨霊に目をつけられたのは運が悪かったとしか言えませんね―――いえ、運が良かったのですかね?ただの人間では決して不可能だった、復讐を果たす力を手に入れることが出来たのですから。

 大怨霊の依り代となった父親は、それはもう凄かったですよ。
 無限の憎悪で大地を害し、無限の悪意で川を汚し、無限の殺意で天を覆ったんです。
 親子が体験したチャチな飢饉ではありません。百年近くに渡って、幾度も続いた大飢饉。死者は果たしてどれくらい出たでしょうか……数え切れないほど、と言っておきましょうか。
 もしもあの時【青年】が倒さなければもっと長く続いたかもしれませんね。もっとも、倒されてもなお深い怨念が国を覆っていたせいで大飢饉は免れなかったようですが。 

 え、【青年】とは誰のことですか?残念ですがそれはまだ秘密です。
 
 さて、その大怨霊ですが、はっきり言って本来ならば人の手におえる物ではありません。
 何せ数百年分の悪意の結晶です。ですが、強すぎるが故の制約も存在するのもまた事実です。
 【大怨霊】がこの世界に現れると同時に、必ず【天敵】というモノも存在します。それは人であったり、人外であったり、霊刀であったり―――毎回変化しますが必ず存在するのです。
 大方世界が完全に滅ばないための自浄作用というものでしょうか。 

 ようするに、大怨霊は世界を滅ぼすことはできないんですよ。安心しましたか?
 ただし逆に言えば―――国が傾くほどの大恐慌は起きてしまうということですけどね。





     


  
 
  

 














「で、お前はなんのためにそんなことを俺に言いに来たんだ?」

 長い天眼の大怨霊語りが終わった後の、恭也は容赦なくそんな疑問をぶつけた。
 興味深い話ではあったが、全く自分には関係ない話ではあるので、そう思うのも当然だっただろう。

「いえいえ。単純に少年と話したかっただけですよ。大怨霊という薀蓄をちょっと披露しようかと思いまして」

 話が長かったためか熱々だったホットケーキはすでに冷めてしまっている。それでも天眼は美味しそうに味わいながら、それらを口の中へと消していった。
 残りのホットケーキも残り僅か。それが残念なのか、少しだけ頬を膨らませ不満そうな様子を見せている。
 
「ああ、そうそう。私は大怨霊がこの世に現れるのは数百年に一度といいましたよね?あくまで【数百年】ですよ?五百年現れないこともあります。ですが、二百年で現れることもあります。そこら辺はランダム性が強いですね」

 残り一切れとなったホットケーキを口の中へと放り込み、幸福そうに飲み込む。

「この前見たときは何時でしたか―――そう、三百年ほど前です。日本中の神社仏閣を破壊しつくした、日本歴史上最悪の妖怪。確か【祟り狐】とでも呼ばれていましたかね」
「祟り、狐?」

 聞きなれぬ名前に恭也は反射的に聞き返す。
 日本歴史上最悪の妖怪と、彼女は言った。だが、正直な話恭也はその名を聞いたことがない。
 恐らくは最も知られているだろう日本三大妖怪―――そこにその名を連ねていないのだ。

「ええ、そうですよ。そもそも妖怪や怨霊、悪霊が神社仏閣を破壊するという行為自体が有り得ない事です。神社仏閣は確かに邪なる存在の侵入を防ぐために神聖な結界を張っていることがほとんどです。ですが―――そんな結界を張っていなくても、そもそも【破壊】することができないんですよ」

 あ、食後のコーヒーをお願いします。という天眼の注文に頬を引き攣らせながら、厨房に取りに行く。
 それを持って再び彼女の元へと戻ると、両肘をテーブルにつけ組んだ手の上に顎を置き、恭也の姿を凝視している。その顔にコーヒーをかけてやろうかと一瞬思ったが、理性でそれを止め大人しく渡すことにした。

「例えば鬼。例えば吸血鬼。例えば人狼。例えば龍。そのような人外達は人と比べて強力な力を持つものが多いです。その力を使って彼らは人の世界に手を出してくることが多々有ります。最近は人も科学が進歩したせいで、あまり頻繁には闇の世界の住人も出さなくなりましたけどね。それでも、圧倒的な力を持った怪物というのはやっぱりいるんですよ。ですが彼らはその力を使って、世界を滅ぼそうとは考えません」

 何故かわかりますか、と視線で問うてきた相手に、首を振る。考えてみるがそれは流石に恭也にとっては専門外のことだ。
 
「簡単なことです。世界を滅ぼせるかもしれない力を持っていながら、そんな【発想】ができないんですよ。絶対に。理由なんかわかりませんよ?大怨霊の時にも話しましたが多分、世界が壊れないための作用じゃないですかね。神の意思ってやつでしょうか、下らないですけど。おっと、話が逸れてますね―――つまりは」

「悪霊や怨霊。そう言った存在は神社仏閣を破壊するという【発想】ができない?」
「はい、その通りです。悪霊や怨念は思考能力自体を持つモノも少ないですから発想というよりは、もはや本能でしょうか。もっともそれはあくまで一般的な話であり、ごく稀に本能に埋め込まれたその枷が外れてしまう場合もありますけどね」
「枷が外れていたとしても、好き好んでわざわざ神社仏閣を狙う悪霊もいない、か?」

 はい、ビンゴです―――天眼は出来のよい生徒を見る教師のように、嬉しそうに笑みを浮かべている。

「ただそういった本能の枷が外れてしまった化け物が破壊してしまうということも極稀にだけどあります。ですが先ほどもいいましたが、強力な霊的結界を張っている神社仏閣も少なくはありません。そんな場所を破壊して回る。並大抵の化け物にできることではありませんよ。ちなみに少年が知らなかったようにこの【祟り狐】の話はそれほど世間に広がっているわけではありません。理由はわかりますか?」
「―――妖怪に破壊されたことを隠すため、か」
「大正解です。そんな噂が広がってしまえば権威は失墜してしまいますからね。三百年前は相当隠蔽工作に頑張ったみたいですよ?」

 カチャっと音をたててコーヒーカップを持ち上げ香りを楽しむ。そして一啜り。ゆっくりと味を楽しみながら、コクリと喉が鳴った。その味わいに満足したのか眼を細め、ふぅっとため息を吐く。
 
「六百年前の抑止力は、【青年】でした。三百年前の抑止力は―――【神咲】の一族でした。もっとも、当時は壊滅的な被害でようやく封印が可能だったようですけどね」

 天眼の語りの中で聞きなれた名前が出てきたため、ピクリと恭也の眉が動いた。
 神咲―――確かにそこまで珍しい苗字ではないが、よくある苗字かといわれたら疑問が残る。
 
「果てさて、少年。ここまで説明すれば私が貴方に会いに来て、これを語った理由がわかりますよね?」
「―――大怨霊が、蘇る」
「ピンポーン。またまた大正解です。日本の歴史上、間違いなく最多の死者を生み出し、最大の被害を齎し、最高の破滅を造り出した。どうしようもないほどに、最悪な―――生あるモノ全ての天敵。【大怨霊】と呼ばれし悪夢が、近いうちに封印から解放されます」

 何が可笑しいのかわからない。だが、天眼は笑っている。いや、哂っていた。
 最悪の怨霊が蘇るというのに、彼女はそれを歓迎しているかのような節さえ見受けられる。

「それで、俺に何をさせようと企んでいる?」
「いえ、なにも。少年は普段通りに過ごしていればいいんですよ?そう。普段通りで」

 飲み干したカップをテーブルに置く。しなやかで美しい白い指が、カップから離れる。
 テーブルの隅に置かれていた伝票を手に取ると椅子から立ち上がり、恭也の横を取るときに耳元に口を近づける。
 彼女の息が軽く耳に吹きかけられた。

「もしも復活を阻止したければ簡単です。如何に大怨霊といえども依り代がなければ現世に存在し続けるのは不可能です。つまり、封印が解ける前に依り代を見つけ出し―――」





























 ―――殺せばいいんですよ?

 













 悪魔はそう、囁いた。






 




[30788] 十九章 大怨霊編②
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2013/01/06 02:53

















 未来視の魔人が翠屋を去って暫く固まっていた恭也だったが、桃子に呼ばれ厨房へと戻る。
 できるだけ表面上はとりつくい、普段通りの自分を演じるように努力をしているが、内心様々な想いが渦巻いていた。
 彼女が語った大怨霊という存在。その全てを鵜呑みには出来ないが、存在の危険さは伝わってきている。
 
 数百年の悪意の塊。結晶。そんな悪霊が現世に出現すれば、一体どうなるだろうか。
 彼女が語った内容によれば、必ず天敵というものが存在し、滅ぼしてくれるようではあるが―――果たしてその天敵がいつあらわれるかが問題だ。
 国が傾いてからでは遅い。できるだけ死者がでない早い段階で倒さなければならない。
 確かに、最後に囁かれたように、封印されたという依り代を斬るのが一番有効な話であり、被害がでない方法なのかもしれない。
 だが―――不安もある。

 この情報を伝えてきた相手が相手だ。
 どれが正しく、どれが間違った情報なのか今の恭也では判断できない。
 依り代を斬ったからといって本当に復活を阻止できるのかも分からない。下手をしたら復活を手助けしてしまう状況に陥ってしまうかもしれない。

 とりあえずこういった情報に詳しい人に話を聞いてみようと考えた彼だったが、はたっと困る。
 自分の人脈の中で残念ながら霊に詳しい人はいない。HGSならばいるのだが、それも畑違いだろう。
 
 可能性として最も高い相手ならば、やはり人とは違う存在。
 仕事が終わったら水無月殺音あたりに少し話を聞いてみるかと、決断して気持ちに一区切りをつける。

「―――いや」

 そんな時に思いつく。そして思い返す。
 未来視が語った大怨霊の出現周期について。

『ああ、そうそう。私は大怨霊がこの世に現れるのは数百年に一度といいましたよね?あくまで【数百年】ですよ?五百年現れないこともあります。ですが、二百年で現れることもあります。そこら辺はランダム性が強いですね』

 天眼はこう言った。数百年に一度だと。

『六百年前の抑止力は、【青年】でした。三百年前の抑止力は―――【神咲】の一族でした。もっとも、当時は壊滅的な被害でようやく封印が可能だったようですけどね』

 六百年前と三百年前。その二回だと。
 それはつまり―――。

 御神流創設の時代から生きながらえて来た御神雫。
 彼女が存在し得た可能性がある時代だ。ならば、聞いてみる価値もある筈だ。

「恭也ー。もう大丈夫みたい。なんとか乗り越えられたわー」

 厨房に入れば桃子が笑顔で恭也を迎えてくれる。
 見れば、シフトの時間の入れ替わりは来たのだろうか、レンと晶と変わって普段良く見るアルバイトの人になっていた。
 そしてそれは恭也にも言える事で、夕方から夜にかけての店内担当の学生のバイトの娘もやってきている。

「ああ。それならあがっても大丈夫そうか?」
「うん。本当に有難うね~。多分夜は普段よりちょっと帰れるかもしれないって言っておいて」
「わかった。かーさんと一緒に御飯を食べることができるならなのはも喜ぶ」

 翠屋の制服を脱ぎ、店内の従業員に挨拶をしてから退店する恭也。外に出てみれば、まだ陽は落ちていない。夕陽が眩しい時間帯だ。
 高町家へと帰路につきながら、夕飯までの時間までなにをしようかと考える。
 鍛錬をするにはなかなか微妙ではあるし、どこかへ買い物に行くのもまた微妙。実に中途半端な時刻だ。
 とりあえず盆栽の世話でもしようと結論をくだし高町家の門をくぐった丁度その時、ガラっと扉が開き晶となのはの二人が出てきた。
 いくら暖冬といっても流石に夕方以降は寒くなる。二人を見れば上着を羽織り暖かそうな格好をしていた。

「あ、師匠お疲れ様です!」
「おかえりなさい、おにーちゃん!!」
「ああ、ただいま。どうした、どこかへ出かけるのか?」
「うん。八束神社に晶ちゃんと行くの」
「八束神社?珍しいな」

 聞き返す恭也の疑問も当然だろう。
 恭也や美由希ならまだわかるが、晶となのはの二人が八束神社に行く理由が考え付かない。
 遊びに行くにしても、もっと良い場所が幾らでもある筈だ。

「うん!!今日こそくーちゃんに食べて貰うの!!」

 笑顔でなのはは両手で持っていた袋の中に入っている油揚げを恭也に見えるように前に出す。
 くーちゃんとは何ぞや、と一瞬考えるも、油揚げを見て、そのくーちゃんなる存在に推測がついた。八束神社に行くと、時折感じる何者かの視線。その視線の主である―――神咲那美の飼い狐。
 その子狐の名前が久遠だったはず。その愛称として、くーちゃんと呼んでいるのならば、なのはが見せてきた油揚げにも納得がいく。
 果たして狐が本当に油揚げを好むのか恭也は知らないが、狐=油揚げと幼いなのはが考えても仕方ないことだろう。

「あ、良かったら師匠も一緒に行きませんか?」
「うん!!おにーちゃんも一緒に行こう」
「―――む」

 即答できずに一瞬返答に困った恭也だった。その理由としては先ほど恭也が愛する盆栽の世話をしようと決心したばかりだ。もしなのは一人だけだったならば即決しただろう。だが、一応は晶も保護者として一緒に行くならば安心できる。
 用事が他のことだったら躊躇い無く二人についていっただろうが、盆栽と天秤にかけると見事にその秤は平衡を保っている。
 恭也が迷っているのを感じたのか、なのはの表情が一瞬曇る。それを見た恭也の天秤の秤が凄まじい勢いでなのはへと傾いた。

「よし。一緒に行くか」
「ありがとー、おにーちゃん!!」

 語尾にハートマークがつきそうなほどに、嬉しさが混じった甘い声でなのはがにっこりと笑う。
 そんな二人の様子を見ていた晶が、師匠ってやっぱなのちゃんには激甘ですねーと若干呆れていたようだが―――所詮盆栽ではなのはと比べるまでも無かったようだ。
 盆栽と遠くから別れを告げた恭也と晶となのはの三人は、早速八束神社へと向かう。

 そこまで遠いというわけでもなく、なのはのペースにあわせて歩いてもすぐに到着することが出来た。
 厄介なのは百段以上にも及ぶ階段。恭也と晶にとっては大した事無いが、なのはにとっては中々に大変な試練かもしれないが、久遠に会うという目的がある彼女には壁とはならなかったようだ。 
 小走りとなって階段を駆け上る姿を見て少し心配になる恭也。

「なのは。転ばないように気をつけるんだぞ」
「はーい!!」

 返事だけは元気が良かったが、登っていくペースには変化は無かった。
 恭也と晶よりも少し早く、八束神社の境内へと到着したなのはは、キョロキョロと久遠の姿を捜し求め視線を移動させる。
 残念ながらすぐには見つからず、森の方をじっと見つめているなのはに、恭也達が追いついた。

「見つからないのか?」
「うんー。何時もは居るんだけどなぁ」

 少し落ち込むような様子を見せたが、それも一瞬。
 久遠を探すなのはを視界に入れながら、恭也と晶は傍にあったベンチに腰をおろす。
   
「何時もは、ということは―――何度か来ているのか?」
「あ、はい。結構前から仲良くなりたいって話はよく聞いてたので、結構来てたみたいですよー。一応俺かレンのどちらかがなのちゃんには着いて来てたんで心配はなかったと思います」
「そうか。わざわざなのはに付き合ってもらってすまなかったな。助かった」
「いえ!!俺も、狐とか見たかったですし!!」

 恭也にお礼を言われた晶はえへへっと照れたように笑い、頬をかく。
 しかし、相変わらず晶は一人称に俺という単語を使ってることに若干の不安を感じしてしまう恭也は、それを指摘するべきかどうか一瞬迷う。だが、別にいいかとあっさりと思いなおした。
 確かに晶はショートカットで、服も男物を良く着る。スカート類といった女性用の服を着たのを最後に見たのは何時以来だろうか。そういえば恭也の勧めで空手を始めさせる前は時々着ていたかもしれない。それを考えると少し責任を感じる恭也ではあるが、自分のことを俺と呼ぶのも、それもまた晶の個性だ。
 
 別に誰に迷惑をかけていることでもないし、本人も男の子と間違えられることをさほど気にしていない様子なので、暫くはこのままでもいいだろうと恭也は考えている。
 レンから聞いたことだが、同学年の男子からは結構な人気があるらしい。運動しか出来ないように思われているが意外なことに成績も優秀であり、クラス委員も務め、人望もある。男子と女子との間を取り持つ晶が人気が出ないほうが確かにおかしい。もっとも―――男子以上に人気があるのが女子の方らしいが。
 この前は一個下の学年の後輩に告白されて非常に困っていたとレンが爆笑して話していた。
 てっきり晶は、自分のことを男だと勘違いして告白してきたと思っていたらしいが、どうやら相手はしっかりと晶が女だと知っていたらし。最近の中学生は進んでいるなと、少し年寄り染みたことを考える恭也。


「晶。最近明心館での調子はどうだ?」
「そうですね。えっと、結構調子良いと思います。この前の大会でも優勝できましたし」
「優勝したのか。それは凄いな」
「師匠にはまだまだ及ばないですけど―――最近結構組み手するのに良い相手ができたんです」

 恭也に少しでも褒められると照れてしまう晶だったが、ふと何かを思いついたように、ポンっと手を叩く。

「山田太郎っていう風芽丘の二年の先輩なんですけど。この人空手の経験は浅いのに、かなり強いんですよ」
「―――そ、そうか」

 聞き覚えがある名前を聞いて恭也も一瞬どもってしまう。
 あの男も頑張ってたのか……と自分が明心館に連れて行った身でありながらすっかりとそのことを忘れていた、意外と酷い恭也。

「毎日館長にぼっこぼこにされてるんですけどね。それでも毎日頑張ってるみたいです」

 ぼこぼこにされてるんですよーと山田太郎の近況を伝えてくる晶の笑顔が痛い。
 すまん。山田太郎と心のそこから謝る恭也だったが、巻島の英才教育を受けているならば彼の実力は凄まじい勢いであがっていっているだろう。こんど見に行ってみるかと夕陽の空に浮かぶ山田太郎の姿を遠い眼で見た。
「っあ!!」

 その時なのはの声があがった。
 山田太郎の幻影を消し去って、声のした方向を見てみるとなのはが油揚げが入っているパックの蓋をあけ、地面に置いているところだ。良く見てみれば、確かになのはから少しはなれた草々に紛れて、金色の衣を羽織った子狐が顔だけ出している。
 警戒しているのか、そこから出ようとせず何時でも森の中へ逃げ出せる体勢を取っているようだ。
 油揚げから離れたなのはは、ドキドキと緊張しながらも久遠の様子を窺っている。
 
 久遠は油揚げとなのはを交互に見ていたが―――その視線が突如恭也に向けられた。
 鍛錬のために八束神社に来ると時々感じていた視線。その視線が、やはり何か違和感を感じる。
 久遠は子狐だ。野生の動物である。だが、その視線はまるで人間から見られているような、そんな違和感を受けるのだ。そしてそれだけではない。久遠の視線にのせられている、複雑な感情。正と負が綯い交ぜとなった、恐らくは当の本人でもよく理解できていないだろう、そんな感情だ。

 ついに緊張感に耐え切れなくなったのか、なのはが久遠の方へと一歩を踏み出す。
 じゃりっと彼女の足が地面の砂を踏む音が境内に響き渡った。その音に反応して久遠は小柄な体を翻し、森の中へと消えていった。
 

「ぅぅ……今日も失敗しちゃった……」

 しょぼんっと落ち込んだなのはは地面に置いていた油揚げを回収し、袋に戻す。
 そんななのはの様子に、恭也は気になったことを晶に問い掛ける。

「そういえば何度もとさっき言っていたが、何回くらい餌付けに来ているんだ?」
「えっと俺が一緒に着いて来たのはこれで―――六回目くらいですね。レンはわからないですけど多分同じくらいだと思いますよ」
「そんなに挑戦していたのか。珍しいな」
「ですよねー。あのなのちゃんが、ここまで懐かれないなんて信じられないです」

 恭也の台詞に晶も同意する。
 高町家の人間は基本的に動物に好かれやすい。猫でも犬でも、とにかく直ぐに懐かれることが多いのだ。
 特になのははそれがずば抜けている。純粋故にか、動物とは心をすぐに通わすことができる。
 そんななのはが、二桁を超えるくらい通いつめているというのに、未だ警戒されているというのが正直信じられないのが恭也の感想でもあった。流石は野生動物と思ったが―――良く考えれば那美に飼われているのだから野生動物とは言い難いのではないかとふと思う。

 しょんぼりと言う言葉が良く似合う落ち込んだ雰囲気で恭也の元へと戻ってきたなのはの頭を軽く一撫で。

「また付き合おう。諦めないんだろ、なのは?」
「―――うん!!」

 パァっと花が咲く笑顔でなのはは力強く頷いた。
 そして三人は八束神社の境内から階段を降っていく。その途中―――表現できぬ悪寒。圧倒的な邪気、そういった不穏な気配を感じた恭也は反射的に後ろを振り返った。

「どうかしました、師匠?」」
「おにーちゃん?」

 その恭也の様子に、晶となのはが声をかけてくる。
 それに答える余裕は恭也にはなかった。これまで戦ってきた強き者は数多い。そんな強敵をも遥かに上回る殺気や戦気、闘気といった気配ではなく―――純粋な悪意。
 この世の全てを呪っている憎悪が少し離れた山の中で膨れ上がり、そして次の瞬間には消えていた。
 それは一瞬だった。一秒にも満たぬ、一瞬の悪意。
 だが、恭也は気づいた。その悪意を発する、あまりにも常軌を逸した、この世にあらざる存在の気配に。
 口から吐いた息が震えていた。この時恭也が感じたのは予想でも予感でもない。
 
 それは確信だった。未来視の魔人が世界を壊したがっているように―――この気配もまた、人間すべてを滅ぼそうとするほどに、憎んでいるのだ。ここまで何かを憎んでいる存在を恭也は―――たった一度しか感じたことは無い。

「―――いや、何でもない。さぁ、帰ろうか」

 何かを聞きたそうにしている二人を連れて階段を降りて行った。
 こんな時の恭也には何を聞いても無駄だとしっている二人は、大人しく恭也の背中を追って八束神社から高町家へと戻る帰路につく。
 夕陽は既に沈みつつある。街灯も己が役目を果たすために、光を発し始めていた。
 十数分程度歩くと高町家へ戻る途中の道に翠屋が見える。そろそろ夕飯を取るであろう時間帯ではあるが、まだまだ翠屋は盛況ぶりを発揮していた。軽食もやっているため、それで夕御飯を済ませてしまおうという人も多いのだろう。

 翠屋の入り口に差し掛かる少し手前で、そのドアがカランカランと鈴の音をたてて開けられた。
 中から出てきたのは二人の少女。といっても見知った二人だ。何せ美由希と那美が連れ立って出てきたのだから。
 
「あれ。どこか行ってたの、恭ちゃん?」
「ああ、八束神社に少しな。お前は那美さんと翠屋にいたのか」
「うん。といってもさっき来たばかりだけどね」

 成る程と恭也は頷いた。どうやら恭也があがってから直ぐに美由希達は来たようだ。
 那美も恭也達三人に気づいたようで、ペコリと頭を下げてくる。

「こんばんは、高町先輩。それに晶ちゃんとなのはちゃん」
「こんばんはです。神咲先輩!!」
「那美さん、こんばんはー」

 そんな那美を倣ってか、二人も礼儀正しく頭をさげて、挨拶を交わす。

「いつも美由希がお世話になっています。ご迷惑をお掛けしていませんか?」
「い、いえそんな!!私の方こそ美由希さんにお世話になってばかりで……」
「恭ちゃんじゃあるまいし、私だってそんなに迷惑かけな―――」

 パチンと音が響く。美由希が最後まで言い切る前に、恭也のデコピンが炸裂。
 今回は徹を込めていなかったので、そこまでの衝撃は感じず額を押さえるだけで済んだようだ。
 ちなみに、この場でその動きを見えたものはいなかった。晶となのはは何時もの事なので何が起きたかある程度予想できているようだが、那美は勿論妙な音が鳴ったなーくらいしか感じ取れてはいない。
 デコピンを受けた美由希は少々恨みがましく睨んできていたが、知らぬ存ぜずを通すつもりの恭也に諦めたのか、唇を尖らせるだけで抗議は終わったようだ。
 
「あーそうだ。今日晩御飯を那美さんも一緒に食べることになったんだ。一応レンにはもう連絡済みだよー」
「レンに連絡入れているなら特に問題はないな。翠屋に居たということは、かーさんにも話したのか?」
「うん。なんか妙にテンションあがってたよ。デザート作って持って帰ってくるってさ」
「―――そうか」

 美由希に出来た随分と久々の友人。その那美が高町家に晩御飯を食べにきてくれるということで、桃子も嬉しいのだろう。
 もっとも恭也も美由希のことをどうこう言えるほど友人がいるというわけではないが、赤星勇吾や月村忍といった友がいるため、美由希よりはまだマシといったところだ。

 五人はそのまま高町家へと戻り、なのはは部屋で御飯まで宿題を開始する。晶はキッチンで料理を作っているレンの手伝いにいったのだが、相変わらず口喧嘩をしつつ―――ついでに足もだしながら、合作料理を作り始めている。
 恭也と美由希と那美の三人はリビングのソファーにて、談笑に勤しんでいた。
 談笑と言っても基本的には美由希と那美が話をして、恭也はそれに相槌をうつといった感じである。

「そういえば、美由希さん。以前頼まれていたこれなんですけど……」
「あっ!!有難うございます。見てみたかったんです」

 那美が鞄から何やら重そうな箱を取り出す。それほど大きくもなく、精々数十センチ程度の長さだろうか。那美がその箱をテーブルに置き、蓋をあける。中に入っていたのは樫造りの柄と鞘に、赤い飾り紐がついている短刀であった。
 美由希はその短刀を落とさないように丁寧に取り出すと、鞘から引き抜く。

「―――うわぁ」
「……これは、なかなか」

 美由希と恭也の二人同時に感嘆の声があがった。
 その短刀は不思議な魅力があり、見ているだけで魂が吸い込まれそうになる美しさと危うさを秘めている。
 恭也が持っている八景も名刀ではあるが、この短刀も負けてはいない。相当に古くに鍛え上げられた年代物に間違いない。
 刀に関しては並々ならぬ興味を持つ、刀マニアの美由希は頬を赤らめながら魅入っているようだ。その光景は少し怖い。
 
「銘は雪月といいます。私の宝物なんです」
「―――確かに、これは素晴らしい短刀ですね」
 
 完全に魅入ってしまっている美由希に代わって、恭也が答えた。
 別にお世辞というわけでもなく本当に心からそう思っただけだ。名刀と呼ばれる刀は数有れど、実際に手に入れるには相当のお金と運と人脈がいる。八景とて、古く不破の一族に伝わる刀であり、父の遺品として恭也が受け継いだに過ぎない。
 その他に所有している刀は、あくまでも安価で手に入る刀なのだ。

「有難うございます。恥ずかしながら私が見つけたものではなくて、姉から譲り受けたものなんですけど……」

 手放しの称賛に那美は恥ずかしそうに俯いた。
 照れているのは矢張り、自分の宝物を褒められたためだろう。普通は短刀を宝物ですと言われても、反応に困る人が大半だ。だが、恭也は心から返答してくれた。それが那美には少し嬉しかった。

「姉、ですか?確かに那美さんはお姉さんがいそうな雰囲気ですね」
「あはは……おっとりしてるせいか、他の人にもよく言われるんです。一応双子の弟が一人と、兄が一人。それと姉がいるんです」
「意外と御兄弟が多いんですね。しかし、お姉さんから譲り受けたものですか―――これほどの名刀。たいした目利きをしていると思います。何かそういった方面のお仕事をされているのですか?」
「えっと……はい。一応刀を扱ったお仕事をしています」
「―――そうですか。そう言えば少しお聞きしたいのですが、あの子狐……久遠と仲良くなる方法はないでしょうか?」

 どことなく言いづらそうに答えた那美に気づいた恭也は、あまり深く聞かないほうが良いと判断すると、その話題を打ち切り他の話題へと話を変える。

「うーん。久遠は人見知りをしちゃいますから……何度も会って馴れるしかないかもしれません」
「―――そうですか。なのはがどうにも懐いて貰えないようなので。また行ってみます」
「はい。私も神社にいるときはご協力させていただきます」

 どうやら簡単に久遠と仲良くなる方法はないようで、暫くなのはと一緒に通いつめるしかないかと思う恭也だった。
 その時、あちらの世界へ旅立っていた美由希が、ふぅというため息とともにこちらの世界へ復活。雪月は相当に美由希のお気に入りとなったようだ。
 満足した美由希が雪月を鞘に納めようとテーブルの上に手を伸ばしたその時―――短刀が美由希の手から零れ落ちる。
 びくっと反応した美由希と那美を尻目に、横にいた恭也の手が雪月へと伸び、パシリと片手で掴み取った。その光景に二人とも唖然とするもそれも一瞬のことだ。

「ぁぁぁあああああああああ!?た、たか、高町先輩さん!?手、手、手、手ーーーーーーー!!」

 パニックになった那美があわあわと恭也の顔と短刀を掴んでいる手を凄い勢いで見るのを繰り返す。
 確かに真剣を素手で掴んだのだ。那美の驚きようも無理はないことだろう。
 しかし、当の本人である恭也は特に顔を顰めるでもなく、掴んでいた短刀をテーブルへと置く。そして、手を開いて見せた。その手のひらは傷一つついておらず、全くの出血もない。
 那美は恭也の手を取ると、本当に怪我がないのかまじまじと見つめる。真剣を素手で掴んで傷一つついていないことに驚きを隠せれないようだ。

「うわぁ、初めて見たかも。それって【刃取り】だよね?」
「ああ。お前は真似をするなよ?技術的な面では問題ないと思うが、握力が決定的に足りない」
「はーい」
「それより、お前は短刀を落としたことに反省をしろ」
「っう……ごめんなさい」

 素直に謝罪をする美由希に、デコピンを打ちこもうととするが、片手を那美が握っていたため一旦諦める。
 
「今のは刃取りといいまして。言ってしまえば片手での白刃取りみたいなものです。失敗すると片手が使い物にならなくなりますので、実戦ではあまり使い道のない宴会芸にしかなりませんが」
「し、白刃取りですか……はぁ、凄いですね。吃驚して心臓がとまりそうでした」
「実際に止まらなくてよかったです。ところで、怪我は大丈夫ですので―――あの、そろそろ手を離していただけたら」
「え?ぁぁああああ!?ご、ごめんなさい!!」

 男性の手を握っているという事実に顔を赤くして勢い良く立ち上がった那美が、ソファーに引っかかりバランスを崩し、そのまま後ろへと転がり倒れた。
 そうなることは流石の恭也も予想だにできず、助けることは不可能だったのだが、床で涙目になっている那美を見ると、なんとなく凄く申し訳ない気分になる。
 美由希が那美の手を取って立たせると改めてソファーに座りなおす二人。
  
「そういえば恭ちゃん。まだ、そのリストバンドつけてるの?」
「ん、ああ。これはこれで中々良い鍛錬になるぞ」
「ふーん。そうなんだ。良く普通に生活できるね」

 若干だが呆れた様子を美由希が見せる。恭也の両手首にまかれた黒色のリストバンド。
 それは晶から送られた誕生日プレゼントだった。多少の重りが入れられており、恭也が晶と戦うときのハンデみたいなものだと思って、日常生活でもこれをはめているらしい。
 
「ただいまー!!」
「今帰ったわよー」

 その時玄関の扉が開く音が聞こえ、フィアッセと桃子の声が響いてくる。
 
「あ、こっちも丁度いいタイミングで御飯できました」

 狙ったかのように、晶も御飯の準備が出来たと声をかけてきた。
 こうして何日ぶりかによる高町家全員と神咲那美を含んだ大勢で、楽しい食事が始まることになった。
 





 



















 高町家での食事が終わった後、美由希は那美をさざなみ寮という、彼女がお世話になっている場所へと送りにいっている。
 送った後直接八束神社に来るように言い含めたので、恭也は直接鍛錬場所へと向かった。
 高町家とさざなみ寮は結構な距離離れているため、美由希が来るまで多少の時間がかかるかと考えながら、八束神社の階段を登りきり、軽く一息。

 既に二十時を回っている。時間も時間のため、神社には人気はない。
 むしろこの時間帯に人気があったことがあったためしがないが、それも当然の話だろう。逆にこの時間で繁盛していたらそれはそれで怖い。
 もしかしたら久遠に会えるかもしれないと心の隅で考えていたが、現実はそう甘くないようで、姿は見当たらない。
 仕方ないかと諦めると、軽く柔軟体操から始める。これは怪我をしないためにも必要なことだ。

 体が温まってくると恭也は、両足で大地を踏みしめる。
 大地が揺れる錯覚。震脚の音が境内に響き渡り、鋭い呼吸の音が口から漏れる。
 そして、演舞を開始する。御神流にも当然と言えるが、演舞なるものは存在した。何でも、目出度い行事等で時々披露されていたらしい。恭也も記憶にある限り、父の士郎が正月に御神と不破の宴会にて披露していたこともあった。
 
 どれだけ正確に正しい演舞の型なぞれるか。これがなかなかに難しい。逆にレンは特にこういった演舞を得意としている。レン曰く、人を傷つけないから気が楽らしい。

 パチパチパチ。

「―――っ」

 静寂を破る拍手の音が聞こえた。
 人の気配など全くしていなかったはず。それは恭也が誰よりも知っていた。
 拍手の音がしたほうを見れば、そこにはあまりにも場違いな女性がいる。いや、服装だけを見ればこの場所には相応しいだろう。だが、こんな時間にこの場所に居るには相応しくない。

 拍手をした人物。それは女性だった。見る感じ年齢を推し量るには難しい。黒髪細身の長身。瞳は薄茶色。肌は日本人らしい、白と黄色の間くらい。相当に髪は長いのか、神社の賽銭箱の前にある階段に座っている彼女の髪が、下までつきそうなほどである。
 服装は闇夜に光る金色の着物。珍しいのだろうが、最近は和服姿の女性に良く会うせいか、特にそういったことを思わなかった。

「うむ。素晴らしいな、剣士殿。お主の演舞は美しい。長年生きる我とてそう思うぞ」

 突然現れた女性は、恭也にそう言って笑いかけた。
 何の裏もない、単純に心のそこからそう思った。だからこそ、恭也の演舞を褒めている。そう感じ取れた。
 
 綺麗な女性だった。美しい女性だった。恐ろしい女性だった。
 綺麗どころの知り合いは実際恭也には多い。誰もが忘れて息を呑むほどの美貌の持ち主も何人かいる。
 そういった美しさとは一線を画す容姿。言うならば、危うい美しさ。

「―――貴女は?」
「ふむ。人に名を尋ねるときは自分からとは教わらなかったのではないか?」
「―――失礼。高町恭也と申します」
「さて、名乗らせておいてなんだが、我の名は多少有名でな。あまり名乗るわけにもいかないのだよ。だが、お主に名乗らせておきながら我が名乗らぬと言うのも礼に反するか。ふむ―――空(ソラ)とでも呼ぶと良い。今の我には相応しい名だ」
「空、さんですか。しかし、このような夜更けに貴女のような方が出歩くのも危険だと思います。もし宜しければ、ご自宅の近くまでお送りしますが?」

 空はくくくっと面白そうに笑う。恭也を馬鹿にした笑いではない。
 まるで恭也の姿を誰かに重ね合わせているかのように、どこか懐かしい視線なのだ。

「なかなかに優しいではないか、剣士殿。姿はあ奴と瓜二つではあるが、我に対する気配りはお主の方が遥かに上だ。いや―――良く考えればあの時の我の姿ではあ奴の対応も仕方なかろうか」
「……」
「それに心にも思っていないことを言うのはあまり頂けないと我は思うぞ?我に【危険】などという事態が訪れると思うのか?」

 流し目を送ってくる空に、恭也は返答に窮す。
 目の前の女性―――本人の語った名を信じるならば空というらしいが、彼女の【底】が見切れない。
 強いか弱いかでいえば、強い。勝てるか勝てないかでいえば、間違いなく勝てる。百度戦っても百度勝てる自信はある。
 だが―――どこか底が見えない。まるで巨大で強大な怪物が、人の姿を取っているだけのようにしか、恭也には見えなかった。

「なに、我のことは気にするな。さぁ、好きに鍛錬を始めてくれ。我はここで見学させて貰おう」
「いえ、その。あまり人に見せれるものではありませんので」
「そのようなこと気にするほどではあるまい。【御神】の剣士殿。我はお主達のことをそれなりに知ってはいるぞ」

 瞬間、森が慄いた。夜の闇に支配している木々が、風が吹いてもないのに、ざわざわと音を立て始める。
 カーカーっと木々を寝床にしていた鳥達が飛び去っていった。不可視の殺気が恭也の全身から滲み出て、空に襲い掛かる。
 その圧迫感を受けた空は、僅かに驚いたのか軽く眼を見開き、先ほどと同じく手を叩く。

「ほう、驚いた。これほどの純粋な殺気を感じたのはどれくらいぶりか。素晴らしいぞ、お主」
「―――驚くのはこちらの方です」

 恭也の気当たりを受けて平然としている。それがどれほどにとてつもないことなのか。
 言葉に出したとおり、驚かされたのは威嚇した筈の恭也の方であった。

「世界がざわめいておった故に、封印から出てきてみたが、どうやらあまり心配しなくても大丈夫のようだ」

 空は階段から立ち上がるとパンパンと尻についた砂埃を落とす。
 恭也に背を向けて、階段に向かうと思った彼の想像を覆し―――八束神社の後方へと広がっている森の方へと足を進めていく。

「恐らくはお主が戦うであろう存在は文字通り次元が違う。この我とて全力で挑まねばならないほどの怪物よ。封印されて本来の力が出せぬ我が身でどうやって対抗しようか考えていたが―――どうやら我がでなくても問題ないようだ」

 森の中へと侵入する空の足元の草が音をたてる。

「お主があの怨念を蹴散らす様を楽しみに見学させて貰うぞ。それとは別にもし、もしも我の力を借りたくなったならばあそこに来るとよい」

 遠く離れた国守山の方角を指差して、空は笑う。
 
「お主の頼み事ならば大抵のことは叶えて見せよう。もっとも―――何もなくても話し相手になってくれるのならばそれも歓迎だが」

 それだけを言い残し、空は森の中へと姿を消していった。
 これが近い未来、恭也の運命を大きく変える女性―――空との初めての出会いだった。

 
  




















 八束神社での鍛錬を終え、高町家へと戻ってきた恭也と美由希は軽く汗を流し、明日へと備えて寝床へと入っていた。
 季節は冬。あまり汗をかかないとはいえ、何せ鍛錬の量が半端ではない。そのため汗を流すのは必須となっている。
 美由希は鍛錬に疲れているため、すぐに寝入ることができたようだが、恭也は不思議と眼が冴えてしまってなかなか寝付くことが出来なかった。
 それも、今日は様々なことがありすぎたのが原因だろう。

 昼間には久しぶりに未来視の魔人と翠屋であい、夜は八束神社で得体の知れない人外と思われる女性【空】と出会う。
 ただの日曜日であるはずが、随分と密度が高い一日だった。
 
 自分の部屋で、机に向かうと―――鍛錬の様子を細かく書いたノートを開く。
 それは美由希の成長記録。御神流を習い始めた時から恭也がつけている膨大な量の記録であった。
 これくらい学校の勉強も真面目にやれば、或いは学年でトップを取ることも可能なのだろうが、興味があることとないことでは非常に差が大きい例と言えるだろう。

 その最新の記録のノートを開けようとした時、音もなく恭也の部屋の襖が開いた。
 既に日が変わってかなりの時間が経っている。こんな時間に誰がきたのかと思えば、入ってきたのは美由希だった。
 ただ、普段の美由希ではない。足音もなく、襖をあけられるまで恭也に気配を感じさせることもない。そんなことがまだ美由希にできるはずもない。
 そうなると彼女は美由希ではなく―――。

「雫さん、ですか?」
「……」

 返ってくるのは沈黙だ。だが、間違いなく彼女は御神雫だ。
 その身に纏っている鮮烈な気配。美由希ではまだ到達できない絶対領域。空と同じ様に彼女もまた底が知れない。

 雫は静かに歩いてくる。無表情ではあるが、何故か少し怒っているようにも見えた。
 そして彼女は恭也の傍まで歩いてくると、彼の腕を握る。瞬間、世界が回転した。
 どうやら掴んだと同時に恭也を投げ飛ばしたようだ。恭也は、相手に殺気がないのを確認すると、そのまま投げ飛ばされる。とりあえず、受身だけとったが、着地した場所はひいてある布団の上。
 ぽすりと軽い音がしただけで、特に痛みはつたわってこない。

「いきなりなにをするんですか、雫さ―――」
「……」

 恭也の声が詰まった。
 相変わらず沈黙を保った雫はあろうことか、布団に倒れている恭也に覆いかぶさるようにしなだれかかってきたのだから。
 息が吹きかかるほどに近い、互いの顔。雫の瞳が赤く光っている。普段の美由希と同じ顔だというのに、得体の知れない色っぽさが全身から滲み出ている。少女ではなく、【女】の顔をしていた。

「―――お主、何をしていた?」
「っえ?」
「お主なにをしていたのか、と聞いておる」

 雫の指が優しく恭也の頬を撫でる。
 だが、赤い瞳には苛烈な狂気が宿っていた。知らず知らずのうちに溜まっていた唾液を、ごくりと飲み込む。

「―――お主の身体から匂うぞ。あの、あの魔性の人外の吐き気を催す、匂いが」

 そこでようやく雫の異変に思い至った。
 昼間に翠屋にて出会った未来視の人外。そういえば、この前雫は異常なまでに天眼に敵意を燃やしていたことを思い出す。
  
「昼間に、翠屋にて会いました」
「―――っ!!」

 頬に鋭い痛みが走る。何かが垂れる感覚を感じ取った。
 雫が爪をたてて、恭也の頬を軽く切り裂いたらしい。たらりと恭也の頬を垂れていく真紅の血液。
 その赤い血液を視線に捉えた雫は―――。

 ピチャリ。

 ぞわっと恭也が感じる悪寒。
 近づいていた雫の顔がさらに近づき、滴り落ちそうになった血液を舌で舐め取っていた。
 
 ピチャリ。ピチャリ。

 静かな部屋に響き渡る、雫の舌が奏でる淫靡な音。
 対応に困るのは恭也だ。何時もの泰然とした姿からは想像もつかない姿。

「―――あの女は、決して許さぬ。妾から、父を―――あの人を奪ったあの女を。必ず、どんな手を使ってでも、妾が細胞一つ残さず、滅ぼしつくす」

 深い、闇色の怨念。憎悪と憤怒と、そして嫉妬。
 様々な感情が入り混じった、決して許さぬ、そして揺るがぬ敵意。
 
「不破の小倅―――いや、恭也。お主はあの女に決して騙されるでないぞ。決して信じるでないぞ。決して心を許すでないぞ。あの女は、全てを犠牲にしてでも己の願いを果たすとする、ただの破滅だ」

 人でもない。人外でもない。ただの【破滅】だと雫は言った。
 きっとそれは正しいのだろう。恭也はたった二度しか会ってはいないが―――天眼から感じるのはどこか異常な雰囲気。
 【今】を生きていない。生を感じていない。世界に何の価値も見出していない。アレはそんな怪物だった。
 だが、問題はそれよりも―――。

 布団の上で、恭也と雫が絡み合っているこの状況からどうやって抜け出すかが一番の問題だった。
 




















-----------atogaki---------------


空の正体は多分読んで頂いてるかたならピンときてそうですね。
他の話とはちがって、この話の彼女はボンキュッボンです。
一月下旬に引越し予定なので、できれば早めに完結させたいなぁ



[30788] 二十章 大怨霊編③
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2013/01/12 09:41
























「ん……ふぁ……んぅ……」

 ピチャリ。ピチャリ。ピチャリ。

 暗闇に包まれた恭也の部屋で、艶かしい息遣いと雫の舌が淫靡な音を奏で出す。
 部屋の中を照らすのは机に置かれた、淡い光の照明のみ。床にひかれた布団の上で上半身だけをやや起こしている恭也にかぶさるように御神雫は彼に重なり合っていた。
 抜け出そうとしても雫は身体と絡み合わせている足を上手く動かし、恭也の動きを見事なまでに封じている。

 危うい光を灯した真紅の瞳が、ほとんど零距離で恭也を貫いていた。いや、危ういというよりもどこか焦点があっていないような感じである。
 恭也の頬を切り裂いてできた切り傷は思ったより深かったのか、その傷から滴り落ちる血液を雫は美味しそうに舐め取っている。精神が御神雫とはいえ、体は美由希そのものなのだが、何故か普段の妹とは違った匂いが香りたつ。
 花のように甘い香り。異性を強く意識させてくる、危険な匂いだった。

 夢中になって舌を這わせている雫のなすがままにされている恭也だったが、それは戦闘時における第六感みたいなものがそうさせていたのだ。日常生活では全く働いてくれない第六感は、今この時の雫の邪魔をするなと煩いほどにアラームを頭の中でかき鳴らしている。

「……ん。はぁ……」

 一体何時終わるのだろうかと半ば達観してしまった恭也は、雫が落ち着くまでそのままでいようと決心する。
 もっともここまで異性と密着した経験は家族以外に殆ど無いため、緊張は隠せないでいた。やがて傷口から血液が滲むことがなくなり、名残惜しそうに舐め取るのを止める雫。 
 
「……不思議よのぅ。お主の血の味は、まろやかで、コクがあって……極上のワインのような奥深さがある。かつて味わった妾の父と同じ。不思議なほどに、一致しておる」

 愛おしさと切なさが混ざり合った表情を見せつつ、恭也の頬を撫でる。先ほど雫に切られた頬がヒリヒリと痛むが、それを気にしている余裕は全くといっていいほどない。

「お主は、本当にあの人と瓜二つよ……顔も名前も血も魂の色も、そしてその技も。妾が尊敬し敬愛し、崇拝した御神恭也と同一人物と言っても過言ではない」
「……御神、恭也ですか」
「―――うむ。お主にはアンチナンバーズの一位といった方がわかりやすいやもしれぬ。闇が色濃かった遠き昔のあの時代でおいてなお最強という名を欲しいままにした剣士。鬼の王をも退け、未来視の魔人さえも打破した。そして悪霊の頂点といえどもあの人には及ばなかった」

 長年の鍛錬によって美由希の手は剣ダコでぼろぼろだ。普通の女性のように美しい手ではないかもしれない。
 それでも、彼女の手で頬を撫でられると何故か心地よさを感じてしまう。かつて琴絵に撫でられた時と同じで、不思議とそのまま眠りの世界へと誘われそうだった。
 このまま意識を手放してもいいかという考えが一瞬よぎるも、今の雫の発言でどこかひっかかる部分があった。
 甘い匂いで考えがまとまりにくい恭也だったが―――ようやく思い出す。雫に質問しようと考えていたことがあったのだ。それを突然の雫の訪問ですっかり忘れていた。

「―――雫、さん」
「む?」
「貴女の今の発言にあった、悪霊の頂点とは―――大怨霊と呼ばれる存在のことですか?」
「ほぅ」

 感心した雫の声があがる。
 興味深そうに瞳が輝くも、それも一瞬のことですぐにジト眼となって恭也を覗き込んでくる。

「その名何処で聞いたのかの?」
「―――知り合いの、霊能力者に」

 ここで天眼と答えたならば今度はどうなるかわからない。
 そう判断した恭也は咄嗟に嘘をつく。その嘘の答えを聞いた雫は、少しばかり考える様子を見せた。

「最近御神美由希と親しい神咲の小娘に聞いたのかのぅ?」
「―――え、ええ。そうです」
「確かに三百年ほど昔に神咲の一族が対抗しておった……知っていても不思議ではないか」

 すみません神咲さん、と心の中で謝罪をしながら恭也は雫の質問にさらに嘘を重ねる。
 そしてどうやら苗字が一緒だとは思っていたが神咲那美と、かつて大怨霊を封印したという神咲は同じ一族だったらしい。適当に答えた嘘がうまく繋がったことに内心で安堵をする恭也だった。

「妾達は【あの存在】を大怨霊と呼んでおる。父がそう呼んでおったが故に。他の者は【祟り】と呼ぶことが多いやもしれん。妾が彼奴を見たのは二十……その程度の若かりし頃だったはず」
「一体どのような相手だったのでしょうか?」
「ふむ。強いて言うならば、怪物。六百年前の大怨霊の恐ろしさは今でも覚えておるわ。あやつはその凶悪さ故に依り代となる現世の生物に乗り移らねばこの世界に存在はできぬし、その依り代もこの世界を強く憎んでいる存在と限定もされておる。当時は妾の父が単騎で大怨霊の依り代となった存在を撃滅し、そこから弾き出された怨念を妾が消し去ったのだが……」

 そこで雫は僅かに言い淀む。これから先を方って言いものかどうか迷っている様子だったが、意を決して続きを語り始めた。

「当時の妾とて既に伝承級の怪物と呼ばれはしておったが、恐らく当時の妾一人では―――到底及ばぬ存在であったのは間違いない」

 今では負ける気はしない、とは付け足すように呟きはしたが、雫の発言に少しだけ眉を顰める。
 どうやら予想以上の怪物なのは間違いがない。依り代を刀で斬ることは問題なくできるようではあるが、斬った後の怨霊となった状態は恭也一人ではどうしようもないのもまた事実のようである。

「……その、仮に大怨霊の依り代となる存在を先に斬った場合はどうなるのでしょうか?」
「大怨霊が現世に現れる前の話かの?彼奴ほどの強大な悪霊はこの世界から制限を受けておる。依り代という入れ物がなければ、この現世に存在することはできぬ。そして彼奴の無限の悪意をその身に宿すことができる依り代など、そうはおらぬ。それ故に大怨霊は数百年に一度しか現れぬのだよ」

 雫の話を整理すると、どうやら依り代を斬るというのは有効ではあるようだ。
 だが問題は、果たしてこの日本に存在する億を超える人間の中からどうやって依り代を見つけ出すかだ。はっきりいって不可能に等しい。
 それに大怨霊がどこで復活するかもわからない。もしかしなくても、そう都合よく復活の場所にいられるはずもない。
 ようするに今の恭也にはできることもないし、やれることもない。
 
 いや、あの女がわざわざ伝えにきたということは、或いは恭也に近しい存在が依り代になるのかもしれない。
 だが、世界を憎むほどの感情を抱いている知り合いに思い当たる節はなかった。
 それにその可能性があるというだけで、確定された話というわけでもない。非常に悩ましい問題である。

「―――っ」

 その時恭也の手の甲に鈍い痛みがはしる。なにかとおもって見てみれば、恭也の頬を撫でている手とは逆の雫の手が、彼の手と重なり合わせていたのだが―――手の甲の皮を抓っていた。
 相変わらずのジト眼で睨んできていた雫だったが、ふんっと機嫌を損ねた様子で顔をそむける。

「またもや他の女のことを考えておったの?まぁ、よい―――妾の気は済んだ。後はあやつに任せるとしよう」

 若干拗ねた雰囲気の雫が眼を閉じる。彼女が纏っていた鮮烈な気配が徐々に薄れていくのがわかり、内心で安堵していた恭也だったが、ふと気づく。何故部屋まで戻ってくれないのだろうという疑問だ。
 そんな恭也の疑問を置き去りに、普段の美由希の気配へと完全に戻ったのがわかる。美由希を部屋へと戻そうかと考えた恭也は立ち上がろうとした、その時美由希の瞼がピクリと動く。

「……ん」

 パチリと美由希の瞼が開き、寝ぼけているのか焦点があってない瞳で目の前にある恭也の顔を捉えている。
 恭也と美由希の視線がぶつかり合うこと十数秒。一体何が起きているのかわかっていない美由希に対して、恭也の頭の中ではこの状況をどう乗り越えようかこれ以上ないほどに必死に考えをまとめていた。

「―――な、なんで、恭ちゃんが、私の部屋に!?」

 そしてようやく状況を理解した美由希が、眼の前にあった恭也の顔に驚きつつも、叫ぶ。
 その時に微妙に唾がとんできたが、なんとかそれを片手で防ぐことによって顔にかかるのを免れた。なんとも色気がない話ではあるが。

「馬鹿者、よく見ろ。ここは俺の部屋だ」
「っえ!?ええっ?ええーーー!?」

 恭也の返答に慌てて部屋のなかを見渡す美由希だったが、確かに兄の言うとおり、どこをどう見ても自分の部屋ではない。きちんと自分の部屋で寝たはずだというのに、とパニック状態となっている。
 何故ここにいるのか記憶に全くといって良いほど残っていない。あわわわっとぷるぷる震えている美由希を、生暖かい眼で見ていた恭也だったが―――。

「ところで美由希」
「ひゃ、ひゃい!?」
「そろそろ退いてくれると有難いんだが」
「え、え、え?」

 恭也に言われて改めて今の自分達の体勢を確認してみる。
 畳の上にひかれた布団。その上に上半身をが僅かにあがった状態で寝転がっている恭也。その上から覆いかぶさっている美由希。しかも片手で恭也の手を握り締めている。さらには足まで相手に絡ませていた。
 どう見ても美由希が恭也を襲っている風にしかみえない。性別的に普通は体勢は逆だろうとと、妙に冷静なツッコミが頭のなかに響き渡る。

「ご、ごめん!!きょーちゃん!!」

 がばっとその場から起き上がると、凄まじい勢いで恭也の部屋から飛び出し自分の部屋へと駆け込み逃げる。そのまま布団の中に飛び込むと、頭の上から布団をかぶり自分のしでかしたことに体が震えた。
 記憶にないがトイレへいった後に間違えて恭也の部屋に入ってしまったのだろうか。それとも、寝ながら無意識のうちに兄の部屋に夜這いをかけにいってしまったのか。後者だったら一体どれだけ恭也を欲しているのだろうといった考えがぐるぐると頭のなかをまわっている。これは夢だと思い込みながら、美由希は布団をかぶっていたが―――結局熟睡もできずに朝を迎えた。

 チュンチュンと雀が鳴く音で、うとうととしかけていた美由希は布団から這い出ていく。
 寝不足で頭がぼーっとしている。それでも鍛錬をサボるわけにはいかない。なにやら意識がハッキリしないこの状況。昨日のことは夢ではなかったのかとも思えてしまう。
 そうきっと夢だ。まさか自分が兄へと夜這いをかけるはずがない―――多分。
 そんなことを考えながら着替えを終え、鍛錬の準備をした美由希は部屋の扉を開ける。
 するとタイミングがいいのか悪いのか、丁度部屋からでてきた恭也とばったりと出くわす。昨日の零距離で見つめあった時のことを思い出し、顔が赤く染まるのを止められない。頬が真っ赤になってしまっているのを自覚してしまう。
 
「あの……その、きょーちゃん」
「おはよう、美由希。どうかしたか?」
「そ、その……き、昨日のことなんだけど……」

 勇気をだして切り出す美由希。このままモヤモヤとした状態では鍛錬もろくにはできまい。
 というか、気になって仕方がないのが本音だ。

「昨日?何のことだ?」
「―――う、ううん!!なんでもないから!!」

 モジモジとした美由希の質問に対して、恭也は首を捻る。
 嘘をついてるようには見えず、心当たりが全くない様子の兄の姿に、美由希は胸を撫で下ろす。
 どうやら昨日の事件は夢だったようで、美由希は心底ほっとした。だが、逆に言ってしまえば、アレが自分の願望だったのかと思うと、さらに頬が赤くなるのを止められない。
 ハァっと深いため息をつく。朝の寒さが息を白く色づける。
 なんにせよ、昨日の出来事が夢だとはっきりしたならば、何時も通りでいよう。そう心に決めた美由希だったが―――。

「ああ、そうだ。今夜は部屋を間違えないようにするんだぞ」
「―――えっ?」

 悪戯っ小僧のように邪悪な笑み浮かべた恭也がそれだけを言い残し階下へと消えていく。
 残された美由希は恭也の台詞を頭の中で何度も繰り返す。部屋を間違えないように―――つまり、それは。

「きょ、きょうちゃぁああああああああん!?昨日やっぱり何かあったの!?あったんでしょー!?ねぇ、どっちなのー!?」

 半狂乱になった美由希が一階へ降りていった兄の後を追いながら叫んで回る。
 朝五時という時間にもかかわらず、高町家に響き渡る美由希の大声。当然、他の家族にも聞こえるわけで―――。
 普段よりも随分と早くたたき起こされることになったため、その日美由希は家族全員から恨みがましい眼で見られることになったという。ただし、なのはだけはしっかりと爆睡していたのだが。

 
 
















 その日の学校が終わり、特に用事がなかった恭也は晶やレン、美由希といった学校組みの三人よりも一足先に高町家へと帰宅する。今日は晶もレンも委員会の仕事で少しだけ帰るのが遅くなると聞いたので、そのかわりに恭也がなのはをバス停まで迎えにいくことになっているのだ。
 聖祥大学付属小学校は高町家の近くのバス停からスクールバスがでてはいるが、最近は物騒なこともあり高町家の誰かができるだけバス停まで迎えにいくことにしている。全員が忙しかった場合はなのは一人で帰ってきてもらうことになるが、そういったことは珍しい。

 先に家に帰ってからバス停に行こうとした恭也がだったが、入り口の扉の鍵が開いていることを不思議に思いつつ、家のドアを潜る。すると、既に家に帰宅していたなのはにばったりと出くわした。

「もう帰ってきていたのか、なのは?すまんな。迎えにいくのが遅くなっていたようだ」
「あ、ううん。ごめんね、おにーちゃん。一人で帰ってきちゃって……」

 申し訳ないと思ったのか少しだけしょんぼりとしたなのはだったが、後ろに隠しているものが恭也の視界に映り、何故一人で帰ってきてしまったのかなるほどと納得する。
 なのはが後ろ手に隠している物。それは先日と同じく袋に入った油揚げだった。恐らくは昨日のリベンジに行きたいのだろう。だから、早めに帰ってきて、恭也が学校から戻ってくるのを待っていたのだ。
 バス停から一人で帰ってくるくらいなら兎も角、八束神社に一人で行くのは流石にまずいと思ったなのはは、恭也に一緒に行って貰えるように頼もうとしているといったところだ。。
 昨日の今日ということもあり、一緒に来てくれるように切り出しにくいのだろう。それを察した恭也が、靴を脱ぎ家にあがるとなのはの頭をくしゃりと撫でる。

「なのは少し待ってろ。俺も八束神社に一緒に行こう」
「え、本当にいいの?」
「ああ。それくらい遠慮せずに言えば良いんだぞ?」
「―――ありがとう、おにーちゃん!!」

 部屋に戻って鞄を置き、必要最低限で着替えると一階のなのはと合流。二人で八束神社へとむかう。
 今日こそはくーちゃんに食べて貰うんだ、と妙にテンションが高いなのはに苦笑しつつ、昨日と同様に八束神社の階段をのぼり、境内へと辿り着く。

 相変わらず閑散とした神社で、誰一人として参ってる人間はいない。
 これで大丈夫なのかと本当に心配し始める恭也だったが、そんな彼の心配をよそに人影が拝殿を回って後ろから正面の方へと歩いてくるのが見受けられる。
 その人影を見た恭也が少し驚く。人影は巫女服姿の神咲那美その人であったのだから。両手に持っているのは竹箒。どうやら周囲の掃除をしていたようだ。
 那美とは随分と前に一度しかこの八束神社であっていなかったため、巫女服姿というのも中々新鮮に映った。

 那美も恭也に気づいたのか、笑顔で手を振りながら恭也の方へと駆け寄ってきて―――拝殿と階段までに敷き詰めてある石通路と他の地面との僅かな段差に足を引っ掛けて見事に転び、額を強打する。
 普通ならば反射的に倒れても両手で顔を打つことはないのだろうが、今回は両手で竹箒を持っていたことが不幸だったのだろう。いや、普通の人ならばそもそも足を引っ掛けること事態、滅多にないはずだ。

「だ、大丈夫ですか、神咲さん?」
「ぅぅ、大丈夫です……」

 慌てて駆け寄る恭也に対して、返事をする那美だったが、額が赤くなっている上に、涙目だ。
 呆然となっていたなのはも那美の傍によってきて上目遣いで怪我の心配をする。
 基本的に運動神経が皆無に等しいなのはにしてみれば、那美に親近感を抱いたのかもしれない。しかし流石のなのはといえども、今さっきの那美みたいな転び方はしない。運動神経がどうのこうのよりも、おっちょこちょいが極まっているといったほうが正しいのかもしれない。
 
「恥ずかしいところをお見せしてしまって……」
「いえ!!私も、よく転んでしまうので気持ちがわかります」
「ええ!?なのはちゃんも転んだりするんですか?」
「は、はい……」

 那美を慰めるためだろう。そこまで転ばないなのはだったが、それとなく嘘を交えて那美に対して頷く。
 そんな気遣いができるなのはに、ほろりと涙がでそうになる恭也だった。  

「えっと。もしかして久遠に会いにきて貰えたんですか?」
「は、はい!!」
「ええ。今日こそはと思いまして」
「確かさっき見かけた筈なんですが……」

 目的の久遠をキョロキョロと周囲を見渡しながら探し始める那美は、ほどなくして金色の小狐を見つける。
 拝殿へとのぼる数段しかない木製の階段。その影に隠れるように久遠は三人を窺っていた。那美と一緒ということもあるのだろうか、普段よりも警戒する雰囲気が和らいでいる。 

 久遠を見つけたなのはは早速地面に油揚げを置き、少し距離を取った。それに倣うように、恭也と那美もなのはと同じくらいに離れる。 
 今日は、那美もいるためか久遠も逃げる様子を見せない。なのはと油揚げを交互に見ながら少しずつ距離をつめてきた。
 油揚げへと近づくのにかかった時間は、二、三分程度。遂に、油揚げへと辿り着いた久遠が―――かぷりと歯を立てる。小さな咀嚼音が境内に響き渡った。
 挑戦すること十数回。ようやく食べて貰えたなのはは、ぱぁっと向日葵のような笑顔を浮かべて、両手を握り締める。
 
「おにーちゃん!!くーちゃんが食べてくれたよ!!」

 見ている此方が嬉しくなりそうな喜びようで、なのはが恭也へと抱きついてくる。そんななのはを抱きとめると、よしよしと頭を撫でた。
 隣にいた那美は、なのはと恭也の美しき兄弟愛に、痛みとは別に涙目になっている。性格的に非常に涙もろいようだ。

 そんな三人を尻目に久遠は、置かれていた油揚げを平らげる。結構な量があったせいか、どことなく満腹で、満足したような雰囲気を醸し出していた。
 それを見たなのはが、我を取り戻し恭也から離れると、久遠に少しずつ近づいていく。
 久遠は近づいてくるなのはに対して、以前のように警戒心を抱いていないのか、逃げる気配を見せていない。
 
 一人と一匹の距離は三メートル程度に縮まる。まだ久遠は逃げ出そうとしていない。やがて二メートルほどになっても、その場に留まっていた。そして、距離はさらに近づき―――既に眼と鼻の先になった。久遠はつぶらな瞳で、目の前にいるなのはと見詰め合っている。
 なのはは緊張でぷるぷると震える右手を、久遠へと近づけていき、ふぁさっと羽毛を触った時のような軽い音がする。それと時を同じくして、手に伝わる感触。

「くぅ~ん」
「は、はわわわわわわわわーーー!?」

 念願がかなったなのはは感動のあまり、意味不明な叫び声をあげた。
 そして、そのまま久遠を胸に抱き上げる。子狐だけあって体重はそれほどでもなく、まだ幼いなのはでも十分に持ち上げることが出来た。
 
「お、おにーーちゃーーん!!ふ、ふさふさだよぉ!?はわわわーーーー!?」

 嬉しさのあまりテンションがマックスを振り切ったのか、なのはが胸に抱いた久遠を力一杯に抱きしめる。
 あまりにキツク抱きしめすぎたのか、久遠がくぅんっと一鳴きして、なのはの胸からするりと抜け出し、地面へと飛び降りた。地面に着地するとそのまま、恭也と那美の方へと逃げ出し、恭也の影に身を隠す。

「あれ……凄いですね、高町先輩。久遠に懐かれるなんて、本当に珍しいですよ」
「そ、そうですか?」

 おもわずどもってしまった恭也。それもある意味当然だろう。なのはが凄く恨みがましい眼で兄を見てきているのだから。なのはからしてみれば、十数回も餌付けにきてようやく触れたというのに、恭也はあっさりと懐かれてしまったという理不尽もいい話だ。

 恭也は自分の足を盾としている久遠を持ち上げてみる。
 なるほど、となのはがご執心なのも納得してしまった。久遠の毛並みが異常なほどにふさふさしていて手触りがたまらなく良い。猫や犬とはまた違った感触である。
 なのはだけでなく美由希達がさわりたがるのもも仕方ないと恭也は思った。

「おにーちゃん、ずるい……」

 そんな恨みが篭った眼を向けてくるなのはを見て―――これが原因で大怨霊がなのはに乗り移ったらどうしようと少しだけ心配をする恭也だった。



























 久遠がそれなりに懐いた日の、深夜に近づいた時間帯。 
 その日の夜の鍛錬も恭也は一人で行っていた。別に美由希がボイコットをしたわけでもなく、本日は雫が鍛えたいと申し出があったためだ。週に一度程度だが、雫は彼女の精神世界で美由希を鍛え上げている。
 いや、鍛え上げるというよりも斬り殺しているというほうが正しいかもしれない。経験も大切だがやはり、現実世界での鍛錬の方が重要のため、雫が美由希を鍛えるのもそれくらいにしているのだ。
 話を聞くところによると、最近はそう簡単には殺されないようになったらしい。今では一分近く持つようになったとか。

 最近は一人で腰を落ち着けて鍛錬が出来ていなかったので、今日こそは集中してやろうと決心して高町家を出てきた恭也だったのだが、いざ八束神社に到着してみれば、眉を顰める結果がそこにはあった。
 八束神社の拝殿の横あたりで、なにやら黒くて細長いモノが転がっている。いや、よく見ればそれは人間だった。
 神社で寝るとは罰当たりなとも思わなくもないが、その人物が知り合いだけに、ため息をつくしかない。

 海鳴を拠点とする放浪者名無し。既に十二月で夜も冷え込むというのに、まさか外で寝泊りしているとは考えてもいなかった。しかも、特に布団や毛布をかぶるでもなく、そのまま寝転がっている。
 幾らなんでも風邪を引くのではないかと、少しだけ心配をした。あくまでも少しだけだが。
 あまり関わり合いになりたくない恭也は特に声をかけるでもなく、そのまま素通りして神社の裏手へと足音をたてないでむかう。

「ま、まて!!声くらいかけていってくれよぉ!?」

 逃がすまいとタックルを仕掛けてくる名無し。
 気配をできるだけ消していたにもかかわらず気づき、あろうことかタックルまでしてきた名無しの身の軽さに正直な所驚きを隠せない。
 勿論、タックルが決まる前に身体を捌き、しっかりと避けてはいる。
 避けられた名無しは、そのまま前方にあった木の幹に頭から激突。鈍い音がしてどしゃりと名無しは地面に転がった。 

 しかし、恭也は心配の声もかけずにそのまま歩きさっていく。この男の頑強さは身に染みてわかっているからだ。この程度では怪我一つしないことを理解している。
 恭也の予想通り名無しは、顔をさすりながら復活。黙って歩き去っていった恭也の背中を追いかけてくる。

「お、おい。待ってくれよ、坊主。ちょっと話でもしようぜ」
「何か重要な話でもありましたか?」
「い、いやとくにはないんだが。世間話でも」
「―――鍛錬が忙しいので」
「ちょっとでいいから付き合ってくれよぉ!?」

 ばっさりと斬って捨てた恭也に、泣き付く名無しだったが、とりつく島もない相手の様子に肩を落とす。
 この男に付き合っていてはまた碌な鍛錬ができないと判断した恭也は心を鬼にして薄暗い森の中へ入っていく。
 だが、名無しの執念は恭也の想像を超えていた。肩を落としながらも、間合いを取って恭也の後を追って来る。それを気配で感じ取った恭也は、突然に地面を蹴りつけ全力で逃走を計った。
 
「ま、まってくれぇーーー!!」

 そんな名無しのストップの掛け声を無視して、森の中を疾走する。
 視界も悪く、足場も悪い。夜ということもあり方向感覚も狂わせる森の中を疾走する恭也の後を必死になって追いかけてくる初老の男性。
 普通の人間だったならば間違いなく置き去りにできるはずだったのだが、流石は嘗てとはいえアンチナンバーズに籍を置いたことがあるという男。
 ぎりぎりではあるが、恭也の後についてきている。このまま尾行をまくのは可能ではあるが、暫くの時間を要すると判断し、足を止める。単純に何時もの鍛錬場所についてしまったためともいうが。

 奥まった森の中の一部。若干木々が伐採され開けた空間となった広場に―――彼女はいた。
 いや、恭也はある程度の予想がついていた。昨日に引き続き、きっとまた彼女がいるだろうということに。
 広場の端、木の年輪だけとなった丁度椅子のように見えるそこに、腰を下ろし黒く艶がある長い髪を夜の風に靡かせて、空と名乗った女性は、広場にやってきた恭也を懐かしむ視線で迎えた。

「今夜は来るのが遅かったではないか。か弱い女性を待たせるのはどうかと、我は思うぞ?」
「そうですね。申し訳ありません。今夜は少し家の方でごたついていましたので」

 誰がかよわい女性だと言い返したかったが、言ったら言ったで碌なめにあいはしないことが予想についた。
 ましてや特に待ち合わせをしていたわけではないので、恭也に非はないのだが、なんとなく女性が発する雰囲気に謝ってしまう。

「まったくお主は可愛い男だ。かつてのあやつは、我が何かをいえば必ず反論してくる奴であったからな」

 ふふっと含み笑いをする空だったが、何かに気づいたように、恭也の背後に視線をずらす。

「ほぅ。珍しい。そなたがここに妹以外に連れてくる者がいるとは……」

 空の言葉を肯定するように、名無しが息を激しく乱しながらようやく追いついてきたらしい。
 今にも死にそうなくらい呼吸を繰り返し、広場まで出てくると地面に腰を下ろす。静かな空間に、ぜぇぜぇという息遣いが響き渡った。

「ぼ、坊主。もっと、年寄りは、労わって、くれ」

 途切れ途切れになりながらも必死になって言葉を搾り出している名無しを興味深そうに眺めていた空だったが―――眉を顰め何かを思い出そうとしている様子を見せる。
 暫く経つと、ぽんっと手を叩きようやく何かを思い出したのか、眼を大きく見開いた。

「どこかで見た顔だと思ったが―――随分と久しぶりではないか」
「はぁ、はぁ、はぁ。あ、あん?どなた様―――!?」

 呼吸を整えていた名無しが、突如声をかけてきた空を窺うも、夜の闇によって空の顔がはっきりと見えないことに顔を顰める。
 それも一瞬のことで、光が差し込み空の姿を見た瞬間、名無しの顔が引き攣った。 
 呼吸をすることも忘れ、その場から勢いよく立ち上がる。

「お、おま!!おま、お前!!な、なんで封印から出てきてやがる!?ざ、ざ、ざ、ざ、ざか―――!?」
「ふむ。その名は秘密だぞ」

 どこか温かみがある冷笑。そんなニヒルな笑みを浮かべた空は座ったままの状態で名無しにむかってデコピンを放つ。
 距離は勿論十数メートル近く離れているわけで、届くはずもない。
 だが、立ち上がった名無しの額に【何か】が直撃、弾ける。威力は全くといって良いほどなかったのか、軽く後方へと頭がずれた程度で済んだようだ。
  
「い、いてぇ!?な、何しやがる!!」
「お主がいきなり我の名を暴露しようとするのが悪い。我は今は空と名乗っている」

 やけに色っぽい流し目を恭也に示す空は、くくくっと面白そうに笑う。
 そして名無しの足の先から頭のてっぺんまでを見渡し、少しだけ哀れんだように眼を伏せた。

「しかし、変われば変わるものだ。あの頃のお主の面影がほとんどないぞ。我とてお主の魂の色を覚えていなければ、気づきはしなかった」
「う、うるせぇ!!お前に、俺の何がわかる!!」
「わからぬよ。お主のことなどお主以外にわかるはずがなかろう。何があったか知らぬ。何が起きたのかも知らぬ。だが、今のお主を見れば、あの者達はどう思うかわかっている筈だ。そうではないのか、しっ―――」
「うるせぇええええええええ!!」

 名無しの怒声が響き渡った。
 それに驚いたのが恭也だった。名無しとは数年来の付き合いだったが、彼が怒るところを見たのはこれが初めてだ。
 冗談の怒りではない。正真正銘の心の底からの怒り。

「そんなことは俺が一番わかってるんだよ!!でもな、でも―――あの時染み付いちまった戦いの恐怖は、拭えねぇんだ!!」

 それだけを言い捨てて名無しは広場から森へと逃げ去っていく。
 暗闇に消えていく名無しの背中を黙って見送った恭也だったが、完全に姿と気配が感じられなくなったのを確認すると、空へと向き直る。

「あまりあの人の心を抉るのは止めて置いたほうがいいかと」
「我とて人の古傷を抉るのは好まぬ。だが、古い知り合いがあまりにも落ちぶれてしまっていたために思わず口を出してしまった。許してほしい」
「俺に言っても仕方ないと思います」
「ふふ、そうだな。今度会ったら謝罪しておこう」

 意外に素直な空の様子に、多少ではあるが恭也は面食らう。
 傲岸不遜な性格をしているかと思っていたが、実際はそうではないらしい。少しだけ空への印象がかわった恭也だった。

「俺としては名無しさんと貴方が知り合いだったことに驚きですが」
「―――古い知り合いとでもいいのか。お主が考えているよりも、遥かに。まだまだ若かったあやつは、何度も我に立ち向かってきた。あの頃のあやつは今とは違って魂の輝きが溢れておったよ」
  
 遠き過去を思い出しているのだろうか。空は星々が煌く満天の夜空を眺めている。
 少しだけだが、名無しの過去を聞きたくなる恭也だったが、それに対して心で否定をした。気にならないといえば嘘になるが、本人の了承も得ずに、聞いてしまうというのは許されることではない。
 常にふざけた態度を取っているが―――名無しという初老の男性の力は、恭也をして計り知れない。
 そんな名無しが何故こんな場所で今のような生活をしているのか。それは出会ったときから感じていたことだ。
 百鬼夜行によって全てを砕かれたという話。それが本当ならばそれは名無し自身で乗り越えねばならない。

「我とあやつの関係は気にしなくても良い。さぁ、好きに鍛錬をするが良い」

 スパっと話を切った空は、恭也の鍛錬を相当に見物したいのか、ワクワクとした様子を隠そうともしていない。
 確かにいい加減鍛錬をしたいのだが、こうまでマジマジと見られているとしにくいのもまた事実。
 そして、先日別れる際に言っていたある言葉について気になってもいたので、とりあえずそれを聞こうと恭也は決めた。

「ところで、昨日言っていた、【怨念】のことなんですが……」
「ふむ?ああ、【大怨霊】と言い換えたほうが分かりやすかったかもしれない」
「……貴女も、それをご存知でしたか」
「我らの間では有名な話だよ。気が遠くなる太古の昔より、この地を破滅させんと舞い降りる悪意の怨霊。最凶最悪の霊障とはよくいったものだ」

 どうやら昨日聞き取っていた言葉は聞き間違いではなかったようだ。
 空は間違いなく大怨霊という存在を知っている。雫にも確認はしたが、情報が多いには越したことがない。

「その大怨霊が、もうすぐ現世に現れるということですか?」
「―――ふむ、なにかしらの齟齬があるか。大怨霊は既にこの地に存在はしている。ただ、【封印】されているにすぎない
「封印、ですか?」
「その通り。三百年もの昔、神社仏閣を破壊しつくした祟り狐と呼ばれた存在がいた。それが大怨霊。そやつは倒されたわけではない。神咲の一族によって【封印】されたのだ。つまり、その封印が解けようとしているということだよ」

 なるほどと相槌をうつ。
 恭也はてっきり大怨霊が現世に降臨するのだと考えていた。生憎とそれは勘違いで、神咲一族が倒したのではなく、封印したのだという。そして、その封印が解かれようとしているということがわかった。

 そして、ふと思い出す。
 天眼の言葉を。今の空の言葉を。三百年前の大怨霊は【祟り狐】と呼ばれたと。
 
 ごくりと唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
 突然に未来視の魔人が現れて大怨霊について語っていく。【祟り狐】という単語を残して、だ。
 
 八束神社で鍛錬をしている時に感じる久遠からの視線。【神咲】那美の飼い狐、久遠。
 先日感じた、この世界を憎むような悪意の塊。果たして、これは偶然なのか。それとも―――必然なのか。

 ―――大怨霊が復活するまで、残された時は短い。


 
 



  


 






[30788] 二十一章 大怨霊編④
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2013/01/15 13:20









「くーちゃん!!くーちゃん、こっちこっち」
「くぅん。くぅん」

 夕焼けが八束神社を真っ赤に染めている時間帯、なのはが神社の境内を久遠と一緒に走り回っていた。
 現在の時刻は十七時を過ぎた程度で、境内にいるのは久遠となのは。それをベンチに座ってみている恭也と那美の二人。今日もまた恭也がお目付け役としてなのはと一緒に八束神社まできていた。
 一度仲良くなったら絆が深まるのは早いようで、久遠はなのはに完璧に懐いている。あれだけ警戒されていたとは思えないほどだ。 

 なのはも最近は久遠と一緒に遊ぶことが楽しみのようで、家に帰ってくるとすぐに八束神社に出かけようとしている。
 その時高町家にいる晶やレンのどちらか、もしくは恭也か美由希の四択になるが、一緒についてきているのだが―――晶とレンはともかく、美由希は未だに避けられているようで、結構なショックを受けていた。

 人にあまり懐かない久遠に友達ができたのが嬉しかったのか、那美はにこにこと笑顔でなのは達の姿を見守っていた。
 現在お世話になっているさざなみ寮の住人にもあまり懐いていないことを考えれば、今この状況はかなり奇跡的な出来事とも言える。
 ペットというよりは友達という関係の久遠に、信頼できる人が増えたのは那美にとって大変喜ばしいことだ。

「そういえば神咲さん。つかぬ事をお聞きしたいのですが」
「あ、はい。何でしょうか?」

 なのは達に注目していた那美は、隣に座っている恭也に声をかけられて少し驚いた様子で、彼の方へと向き直る。
 男性と話すのが多少苦手らしいが、恭也とは結構な回数会っている為、かなり慣れてきている感じが見受けられた。親友である美由希の兄ということも大きいだろう。
 とはいってもやはり、すぐ隣に男性が座っているというのは気恥ずかしいのか、僅かにだが緊張している雰囲気を纏っているようにも見えた。

「―――その、八束神社なんですが、あまり参拝する人がいないようなのですが、大丈夫なのでしょうか?」
「あ、はい。大丈夫……だと思います。お昼とかには結構参拝する人はいるみたいです。それにこの神社の神主さんは、結構祈願依頼があるらしくて、そのせいでここを留守にすること多いんです」
「成る程。確かに神主の方には会ったことがありませんが、そういうわけでしたか」
「はい。だから私がここでアルバイトをさせていただいているんです。これで実家の負担を少しでも減らせればと思いまして……」
「ああ、そういえば言っていましたね。今はさざなみ寮、でしたか。そこでお世話になっているとか」
「はい。もし宜しければ今度美由希さんと一緒に来て下さい。剣術をされてる人もいますので、話が合うんじゃないかと思います」

 女性の方ばかりですけど……と、付け足すように那美が言う。
 剣術を嗜んでいる相手と会話をしてみたいが、女性ばかりの寮には訪問し辛いというのが恭也の本音だった。
 寮の管理人は男性らしいが、男女比の割合が凄いことになっていそうだと少しだけ自分がその立場じゃなくてよかったと内心でほっとする。もっとも、他の人間からしてみれば、高町家も似たようなものだと思うに違いない。

「そうだ。すみません、あの……寮に住んでいる方からの伝言を忘れていました」
「伝言……剣術を嗜んでおられる方からですか?」
「いえ、そうではないんですが……」

 那美がなにやら言いづらそうにしているのに首を捻る。
 恭也はさざなみ寮の住人と知り合いではないし、伝言を頼まれる理由が思いつかない。
 剣術関係かとも思ったが、どうやらそうではないとのことで予想することができない。

「『翠屋のお土産持って遊びにこないとボク泣いちゃうからね』、と伝えておいて欲しいと……」
「……失礼ですが、その方のお名前は?」
「えっと、リスティ・槙原さんって方なんですけど。お知り合いだったんですか?」

 嫌な予感がビンビンしてくる恭也だったが、念のため相手の名前を聞く。するとまさかの知り合いの名前が出てきて、深くため息をついた。
 知り合いも知り合い。結構な前から護衛の仕事でもプライベートでも何度か関わり合いがあった女性だ。海鳴に住んでいるのは聞いていたが、さざなみ寮だとは不思議な縁もあるものだ。
 家族以外で一番付き合いが長い女性ではあったが、何処に住んでいるかなどは話した事がなかったため、さざなみ寮という名前を聞いてもずっとスルーしていた恭也だった。
 煙草を吸いながら、悪戯好きな笑顔のリスティの顔が空に浮かび消えていく。確かにこれは早めに挨拶に行ったほうがいいだろう。リスティのことだから気づかなかったという話では済ませてくれないはずだ。
 いきなり気が重くなった恭也を見た那美が、何か他の話題はないかと必死になって考える。すると、取って置きの話題をみつけたのか、あっと声をあげた。

「そういえば先日凄いことがあったんです」
「どんなことでしょうか?」

 何かを思い出したのか、那美は少しだけ困ったような苦笑いで八束神社の本殿のほうへと視線を持っていく。
 那美のいう凄い、とは果たして良いことなのか悪いことだったのか、その様子からは判別できない。恭也は、那美の視線に釣られるように同じ方向へと視線を向けた。

「賽銭箱の中に、ちょっと高価そうなものが入っていまして……」
「誰かが奮発して参拝したのでは?」

 確かに賽銭箱の中に高価―――というからには千円札というわけではあるまい。五千円や一万円札が入っていたら多少吃驚するかもしれない。いや、那美が凄いというからにはもしかしたら札束でも入っていたのだろうか、と恭也は考えた。
 成る程、確かにお札の束が入っていたら何かしらの事件の匂いがするかもしれない。
 いや、それよりも百万円の束とかだったら果たして賽銭箱の隙間から入れれるのだろうか。
 
「えっと、それがその……お金じゃなくてですね」
「お金じゃない、ですか?」
「はい……綺麗な色の宝石が入っていたんです」
「宝石ですか。確かにそれは珍しいですね―――というか珍しいですむ話なのでしょうか」
「そうなんです。だから一応神主の方が本殿で保管しておこうって話になりまして。数日待っても取りに来られなかったら警察に届けようということになりました」

 このくらいの大きさだったんです、と両手の指で小さい丸を作った那美が恭也へと示してくる。
 まさか賽銭箱に宝石が入っているとは誰も思わないだろう。恭也も入っていたという話を聞いたことはない。
 間違えていれてしまったのだったら、連絡の一本くらいはありそうだ。それがないということは、賽銭箱に自分からいれたのだろうか。
 那美の話の通り、それは確かに凄いことなのかもしれない。

「くーちゃん!!ふかふかふさふさ―――は、はわわわわ!!」
「く、くぅぅぅん」

 久遠を触っていたなのはが遂に暴走。抱き上げて頬ずりをし始める。なのはは時折久遠の可愛さ故に限界突破をして、暴走することがあるのだが、今日は少しばかり早かったらしい。普段だったならばもう少し持つのだが、昨日会えなかったためだろうか。
 対して久遠は多少苦しがってはいるが、以前のように逃げ出そうとはしていない。いや、つぶらな瞳が恭也達の方を見て助けてくれと無言で助けを求めてきている。
 だが、恭也は首を横にふった。

 ―――すまん、久遠。もう少しだけなのはに付き合ってくれ。
  
 そんな声なき声が久遠に届いたのだろう。ショボンと元気をなくし、なのはに頬ずりをされるがままになった。

「……今度油揚げを持ってくるからな」
「はい?何かおっしゃいましたか?」
「いえ、独り言です」

 ぼそりと呟いた恭也の独り言が自分に語りかけてきたのだと勘違いした那美が聞き返してくる。
 恭也の返答を聞いた那美は、笑顔でそうですかと答えると、なのはと久遠の姿を楽しそうに眺めていた。
 暫しの間、沈黙が二人の間に続く。特に嫌な沈黙というわけではなく、那美の発するほんわかとした雰囲気のためだろう。無言だというのに、何か暖かな空気が満ちていた。

 そこまで長い付き合いというわけではないのだが、那美と一緒にいると気が休まるというのが恭也の本音だ。
 何せ、周囲にいる女性は皆が皆―――良い意味で元気すぎるのだ。那美みたいな雰囲気の女性は恭也の知り合いでも彼女しかいないため、二人でいられる時間は非常に心が落ち着く。

 付き合いが短いが密度は高かったためか、今日の那美はどこか機嫌が良いことに気づく。いや、何時もは機嫌悪いというわけではないのだが、何時にもまして機嫌がよく見えるということだ。

「何か良いことでもありましたか?」
「え?あ、あの……そんなに私ってわかりやすかったでしょうか?」
「いえ、そういうわけではありませんが。何時もよりはどこか嬉しそうな雰囲気だとは思います」
「うう……私が分かりやすすぎるのか、高町先輩が鋭いのか……」

 どうやら恭也の睨んだとおり、何か嬉しいことがあったらしい。照れながらも、笑顔を崩すことのない那美が、隣に座っている恭也にニコリと可愛らしく微笑んだ。

「実は今週末に鹿児島から姉がくるんです」
「お姉さんが、ですか」
「はい。お仕事が落ち着いたらしくて、久しぶりにさざなみ寮に挨拶もしたいということで。あ、姉は学生の頃風芽丘の生徒だったので、寮にお世話になってたんです」
「お姉さんは風芽丘のOGでしたか」
「さざなみ寮に住んでいる方と仲が良くて―――私に会うためというより、さざなみ寮の人達に会いに来るついでに私に会うと言ったほうが正しいのかもしれませんけど」

 照れ隠しなのかもしれないが、那美はそういって苦笑する。
 その様子からどれだけ姉のことを慕っているのか、簡単に読み取れた。

「仲が良いんですね、お姉さんとは」
「はい。薫ちゃんには何時もお世話になってばかりで。でも優しくしてくれて―――あ、すいません。姉の名前が薫というんです。神咲薫といいます」
「神咲薫さんですか……もし宜しければ、是非ご挨拶させてください」
「はい。学生時代には翠屋に頻繁に通っていたみたいですので、また行きたいといっていましたから、一緒に窺わせていただきますね」
「常連の方でしたか。俺も翠屋では結構な昔から手伝っていましたので、もしかしたら会っているかもしれませんね」

 ええ、そんな昔からお手伝いされていたのですかと驚く那美に、頷いて答える。
 基本的に恭也は人手が足りない時は小学生の頃から手伝いに行っていたので、数年程度昔の常連客だったならば覚えているかもしれない。
 学生だったならば、恭也が手伝いにいった時間と、薫の下校時間もそんなに大きな差はないだろう。
 風丘丘学園の生徒はかなりの常連客がいたし、数年も前のことなので望み薄ではあるが、もしかしたら顔見知りかもしれないという期待もある。

「それに実は薫ちゃんだけじゃなくてですね、他の親戚もこちらに来るんです」
「それはまたタイイングが上手く合いましたね」
「神咲葉弓さんという方と楓さんの二人もいらっしゃるんですよ。本当に久しぶりなので、楽しみです」
「そう、ですか……」

 那美は嬉しそうに語っている。葉弓と楓という二人に会えるのも楽しみなのだろう。
 だが、恭也は気づいた。弾んでいる声色のなかに、本当に僅かだが隠れている暗い陰のような、もやっとした暗い感情に。
 怒りや憎しみちった類ではなく―――それは、そう悲哀。心の底から悲しみ、哀しんでいる。
 親類と会うこととは別に、【何か】があるのだ。あの那美がそんな感情を胸に抱いてしまうほどの、何かが。

「―――もしかして、葉弓さんと楓さんは、お姉さんのお仕事の同僚ではありませんか?」
「え、はい。実はそうなんですけれども……よくわかりましたね」
「ただの勘です。こう見えても勘は鋭いほうでして」
「確かに高町先輩には隠し事できなさそうですよね」

 これは、マズイと恭也が内心で臍を噛む。
 未来視の魔人からの情報。御神雫からの情報。空と名乗った女性からの情報。
 それらを組み合わせ、分析していく結果が、どう考えても最悪のモノへと至る。
 雫が神咲那美は、三百年前に大怨霊を封じた一族だということを語っている。彼女に限ってそれに間違いはないだろう。
 そして三百年前の大怨霊は祟り【狐】とも呼ばれたという。そして那美が飼っている小【狐】久遠。以前は大怨霊は倒されたのではなく、封じられただけだという。果たして関係がないといえるだろうか。
 さらにはまだ久遠がなのはに懐いてなかったころ、目の前から姿を消した直後に感じた、あらゆる生物を憎み、呪っていた悪意の塊。
 天眼曰く、間もなく大怨霊が復活するという情報。それは信頼に足るかどうかはわからない。しかし、よりによってこの時期―――特に何か大きな用事があるというわけでもないというのに、那美の姉だけではなく、親類も集まるという。しかも、全員が同じ仕事をしているということが確認できた。
 恐らくは、霊能力者。日本を武者修行で旅して回ったとき何人かに会ったことがあるため、霊能力者という【本物】の存在は自分自身で見たことがある。  
 それに、あれから恭也が調べた結果、神咲一族という存在は、かなり有名であった。生憎と退魔の方はとんと縁がなかったため知らなかったが、その道の人ならば知らないほどの一族だという。恐らくは現在存続する祓い師としては日本最高にして最古の血族だと専らの評判だ。

 以上のことを考えれば―――ある可能性が浮上する。
 大怨霊の依り代となっている存在とは即ち―――。

「ああ、くーちゃん!?まってー!!」

 ついになのはの頬ずりが我慢できなくなった久遠は、なのはの胸元から逃げ出し、ベンチに座っている恭也達の足元へと駆け寄ってきた。そして何時ぞやのように、恭也の足を盾として、なのはの魔の手から逃れようとしていた。
 チリンと久遠の首についている鈴が鳴る。ふさふさとした毛が足に触れ、心地よい感触を伝えてくる。
  
「―――くぅん」

 久遠の鳴き声が聞こえた。
 
 ―――ああ、そうだ。きっと俺の考え違いだ。

 上半身を曲げ、両手で足元にいる久遠を抱き上げる。
 久遠も嫌がらずに、恭也の胸元で気持ち良さそうに、うとうとと居眠りをし始めた。

 ―――だが、もし、もしも【そう】だったならば。俺は、お前を―――。


 温かみがある視線。しかし、どこか冷たい刃を連想させる恭也は、静かに胸元の久遠を撫で続けていた。




























「ふむ。最近剣士殿は一人で鍛錬をしていることが多いが……妹はどうしたのだ?」
 
 何時も通りの深夜の時間、八束神社の裏手にて恭也が一通りの鍛錬をして汗を流し一息ついたときに、当たり前のように木の幹に座っていた空が話しかけてきた。
 何を言っても、何度言っても無駄だとわかった恭也は既に諦めて、最近は鍛錬に集中することにしていた。
 この女性も名無しと同じで、美由希と一緒に居るときは姿を見せない。恭也が一人でいるときを狙って訪問してくるのは、本人曰く偶然だと言い切っているが、それは間違いなかった。
 
「ええ。うちの妹は日常生活では意外とドジなところがありまして。最近なにやら寝不足なことが多くてですね、そのせいで注意が散漫になっていたせいか、転んで足首を捻ってしまったのです。大事にはならなかったので、数日で完治するとは思います」
「ほほう。剣士殿の妹はここで鍛錬しているときにそのような姿は全く見せていないようだが―――人間はやはり面白い」
「家で大人しく足に負担をかけさせないことをやらせています」

 最近美由希が寝不足に陥っているのは、恭也は全く気づいていなかったが先日起きた【恭也の部屋襲撃事件】が気になってしまい熟睡できなかったというのが真相だ。
 あれいらい美由希は寝てしまったら、また恭也の部屋に夢遊病者の如く侵入してしまうのではないかと毎夜ビクビクしながら寝ているため、それは熟睡できないのも当然だったろう。
 恭也が空に述べたように、実際軽く捻っただけのため二、三日で回復する見込みだ。鍛錬の疲れが全身に残っているため念には念を入れて数日様子を見るようにしたというわけだ。

「しかし、俺の鍛錬を見ていても楽しいものではないでしょう?」
「いやいや。我には大変興味深い。三百年前のあやつとはこのような関係ではなかった―――このようにありたいと思ってはいたのだが。世の中はままならぬものよ」
「三百……年、とはまた……」
「おっと。女性の年齢はあまり気にしてはならぬぞ?そこは追求しないのが良い男というものだ」
 
 言われずともこれ以上突っ込んで聞く気にはならない。
 女性に対しての年齢。そして体重。後は胸の大きさ。この三つは触れてはならない三大禁忌と理解している。
 だが、最後の禁忌だけは人によることもまた事実であり、高町家であるならレンや晶はこれが一番触れてはならないモノとされている。フィアッセなら体重。美由希は今いちどれが危険なのか掴みきれない。そして一家の大黒柱である桃子は―――間違いなく年齢だろう。
 きっといつもと同じ笑顔でかわされるのだろうが、その笑顔が背筋が凍るほど冷たく見えるのも、きのせいではない筈だ。

「―――剣士殿は強いな。我が知っている人間では二番目に強い。もっとも、そなたの年齢を考慮にいれるならば、同率で一位になるが」
「それはまた、過大評価をしていただいているようですが」

 空の先程の発言から三百年以上は生きている存在らしい。なにかしらの人外の種族なのだろうかと少し気になるが、それも恐らくは答えてもらえないだろう。
 つまり三百年以上の年月の中で二番目に強いと言われていることになる。流石にそれは少しばかり気恥ずかしくなる恭也は、過大評価だと言い返す。

「過大評価ではないぞ?そなたほど剣に命をかけている人間を我は知らぬ。単純な強さでいえば、剣士殿はまだあやつには及んではおらぬ。だが、【危うさ】ならばそなたの方が遥かに上だ。そなたは、内に【ナニ】を飼っておる?【ナニ】を見て、【ナニ】を取り込んだのだ?」
「偉そうに語れることはありません。ただ、そうですね―――」
「―――っ」

 ざっと音をたてて空は立ち上がる。今までとは違った余裕の笑みが何時の間にか消え去っていた。
 この世界に生を受けて早四百年。多くの人外を見てきた。多くの規格外の怪物を見てきた。だが―――。

「―――十年と少し前。底知れぬ人の悪意を、人の憎悪を、目の当たりにしました」

 ―――目の前のこの人間は、我とて計れぬ。

 ぶるりと身体が震えた。それは果たして恐怖だったのか、歓喜だったのか。
 空にはどちらか分からなかった。恭也の背後に見えるのは、三百年前の友を遥かに凌駕する、人智を逸した闇色の【ナニ】か。姿形はかつての友そのものではあるが、中身は完全に別物だ。
 
「くっは……全くもって恐ろしいな、そなたは。その闇の深さまるで大怨霊に匹敵す―――」

 喉が凍った。
 空が恭也に見た闇は、何よりも深く、何よりも重い。人が耐え切れる領域を超えている。
 これほどに深い闇を、空はたった一つだけ知っていた。これほどに世界を憎んでいる闇にはたったひとつだけ心当たりがあった。しかし、【それ】はありえないことだ。それは、それは世界の摂理に反することだ。
 いや、待てと頭でグチャグチャになっているパズルのピースが合わさっていく。
 確かに、【それ】ならば在り得る。天文学的な確立になるのだろうが、この男ならばそれを為し得てしまう。
 祟り狐は倒されたのではない。封印されたのだから―――このような本来なら在りえない事がおきたのだろう。

「そなたは、まさか―――」
「貴女が何を考えているのかわかりませんが、先日も言いましたね。人の心の古傷には―――」
「―――そうで、あったな。許して欲しい。全く、そなたには驚かされてばかりだ」

 ふっと苦笑した空は幹に座りなおす。 
 今の今まで表情に出していた驚きは消え失せ、普段通りの人を喰ったような笑みを浮かべていた。
 それを見た恭也も少しばかり呆れる。何故かわからないが、空は恭也の闇に心当たりがついたようだが、それでもこんな対応ができるものかと。
 暫し二人の間に無言の時が続く。
 那美のときとはまた別での意味で心地よい空気。大人の女性の持つ雰囲気とでもいうべきか、空と一緒に居る時間もまた、恭也にとって気まずいモノではなかった。
 だからこそ、恭也も無碍に追い払わず、鍛錬をしている時間に傍においているのだろう。

「―――【骸】。という名前を知っておるか?」
「……名前、ですか?申し訳ないですが聞いたことはありません」
「そうか。なに、気にするでない。三百年も昔の話だ」
「そうですか」

 空が気にするなと言った通り、それ以上は追求をせずに十メートル以上も離れた手作りの的に向かって飛針を投げる。
 視界が悪く、障害物が多いこの場所で命中させるのはなかなかに難しい。それでも恭也は手馴れたもので、投げる飛針を確実に的の中央へと命中させていく。
 集中して飛針を投擲する恭也とは別に、何故か空は頬を膨らませてその光景を眺めていた。
 そんな不穏な空気に気づいた恭也が、頬を膨らませていた空へと向き直ると同時に、彼女はにこりと笑顔を浮かべる。
 いや、何時も通りとは少し違う。どことなく儚げな笑みとでも言えば良いのだろうか。
 恭也が知っている空には全く似合わない笑顔だった。

「……どうかしましたか?」
「―――別に気にするでない。いや、なに。そなたが全く我の話に関心を示さないとか、折角話題をふったと言うのにあっさりと終わらせてしまったとか。そういったことで膨れているのではないぞ?」
「は、はぁ」

 どうやら恭也が空の話題に全く食いつかなかったのが御気に召さなかったらしい。
 確かに折角、謎に包まれている女性がわざわざ昔話をしようという雰囲気だったのに、あっさりとその話をぶった切ってしまったのなら少しショックを受けるのかもしれない。
 ようするに貴女の昔話には別に興味ありませんと遠まわしにいっているに等しいのだから。
 儚げな笑みを浮かべながら、じっと恭也の顔を見つめてくる空。

 気にするなとは言っているが、それは絶対に気にして欲しいという意味が込められているのだろう。
 明らかに聞いて欲しそうな雰囲気をちらつかせているのだが、自分からは言い出そうとしていない。一応は気にするなといってしまった手前、自分からは切り出せないのだろうか。

「仰るとおりに気にしないようにします」

 家族から悪戯好きと時々言われる恭也は敢えてそう言い返した。
 
「―――っ」

 今にも消えてしまいそうな笑みの空が、言葉に詰まる。
 何かを言い返したいのだろうが、上手く言葉にならず恨みがましい目でみてくる。
 そんな空の様子を見ていた恭也の内心―――ちょっと面白い。それが本音であった。
 何かを悟ったような雰囲気を常に纏っているかに見えたが、それは恭也の勘違いだったのかもしれない。
 意外と子供っぽい所があるのだろう。僅かだが空との距離が縮まった気もする。

「それで、その―――【骸】さんという方がどうかしましたか?」
「―――っ!!」

 恭也の話題振りに、嬉しそうな顔を見せるが、それを消す。
 そして普段の凛とした表情に戻し、くくくっと笑いながら唇をゆがめた。

「ふ、ふむ。剣士殿が、そこまで聞きたいのなら答えるしかあるまい」  
 
 仕方なく話すんだぞ的なオーラを醸し出しつつ、空は一人頷いていた。
 この状況で、やっぱり良いですと言ったらどうなるだろうか、と考え付いた恭也だったが、それは流石に地雷を踏むことになると第六感が告げてくる。恭也は大人しくこのまま話を聞こうと決断した。

「あやつと我が会ったのは三百年前。当時は祟り狐が暴れ回っておったせいか、我はの元を訪れる人間はそうはいなかった。そんな折に、あやつは現れた。一度会っただけで本能が訴えてきおったよ―――あやつは我を殺せるモノだと。当時のあやつは自分のことを異邦人といっておってな……自分の居場所はこの世界にありはしないなどと、ねがてぃぶなことを頻繁に漏らしておったわ。それが原因で何度か殺しあったこともあったが」
「……そんな小さなことで殺し合い、ですか」
「いやいや。あやつのねがてぃぶさは尋常ではなかったぞ?詳しくは話してはくれなかったが、折角故郷に戻れると思っていたところ【ここ】に漂着してしまったと」

 昔を思い出しながら語る空は、どことなく幸せそうにも見える。
 彼女にとってその骸という男との関係は何事にも変えられないものなのだろう。

「当時のあやつは名前も教えてはくれなかった。自分はこの世界では死んでいると同じことだとよく漏らしていたな。そのためあやつの教えてくれた通り名を我が勝手に改名して【骸】と呼ぶようになったのだ。この世に存在しないという意味での、【無】を頭につけて、【ムクロ】とな。そして、あやつが使っていた御神流を合わせて、【御神骸】と呼んでいたよ」
「―――御神、骸」

 御神流の歴史に刻まれている者でその名を冠する剣士は恭也の知る限り存在しない筈だ。
 仮にも目の前の空の全力と渡り合える者が、無名であるわけがない。そもそも神速の世界に踏み入った者は例外なく御神の歴史に名を残すことができる。恐らくは空と戦える者が神速の世界に入れないということはないだろう。
 その点を考えると、やはり骸という名前ではなく別の名前だったのかもしれない。
 三百年前に存在した強き御神の剣士―――今度雫にでも聞いてみよう。そんなことを考えていた恭也だった。

「それで、その骸さんが俺に似ているとかどうとか言っていましたよね」
「そなたの方が随分と若いが―――あと十数年も経てば、あやつと双子といわれても納得するほどに瓜二つになるだろう」
「まぁ、自分と同じ姿をした人は世界に三人はいるといいますしね」
「―――確かに。あやつとそなたは確かに別人だ。魂の色も違う。だが、どこか似通っておる。容姿だけではなく、存在の在り方が、とでもいえばいいのか」

 それにしても、と恭也は話に出てきた骸という人物を思い描く。
 空という底知れない女性にここまで大切に想われている人物。そして死闘を演じた剣士。同じ御神の剣士として興味が尽きることはない。

「そういえば骸はあの男のことを妙に意識しておったな」
「あの男?」
「うむ。先日ここで会った、しっ―――いや、ほら。あのご老体だよ。名前はなんと言ったか」
「名無しさんですか?」
「そうそう。初めて会った時は笑えたぞ?瞬く間に半殺しにされておった」
「笑える、話ですか……?」
「当時は爆笑したものだよ。それ以来、名無しは骸のことを苦手にしておったものだ」

 可哀相に、名無しさん。
 そう冥福を祈っていた恭也だったが、あることに気づく。
 骸が空と出会っていたのは三百年前。つまりは名無しもそれくらい前に会っていたことになる。
 
 ―――貴方は一体何歳なんですか。

 また一つでてきた名無しへの疑問。まさに、名無し不思議だ、と独りごちる。彼に対しては色々と疑問が湧き出てくるが、それは何時か謎が解けるのだろうか。

「ところで、そなた―――この地に渦巻いている不吉な気配に感づいておるか?」
「……大怨霊のことでしょうか?」
「うむ。その通りだ。気づいていたようで何より。大怨霊の目覚めも近いのは分かっておろう?」
「そうですね。それについては散々色々な方より話を聞いていたので」
「奴の強大さ。凶悪さを知ってなお、平常心を失っていないそなたは、本当に人間か怪しいものだ」

 呆れているのか、褒めているのか、どちらかわからない台詞と表情の空が、座っていた気の幹から立ち上がる。
 暫く話し込んでいたせいか時間的に、そろそろ恭也が帰る時間帯になったのを見越してだろう。恭也も遠くの的に突き刺さっていた飛針を回収して、帰宅の準備を始める。 
 そのとき、大事なことを聞き忘れていた恭也が、空の方向へと向き直った。

「少しお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか?」  
「答えれることなら答えよう」
「大怨霊の復活―――それは何時頃になるかわかりますか?」
「それはまた中々難しい問いではあるな」

 恭也の質問が意外だったのか、尖らせた唇に人差し指をあて、何かを考えるそぶりを見せる。
 答えを出し渋っているわけではなく、単純に復活の時までは理解できていない様子だ。
 
「確実とは言えぬが、恐らくは今月末。それが神咲がかけた封印の限界だと予想できる。多少の誤差はあるだろうが、大きな違いはでなかろう」
「今月末、ですか。有難うございます」
「ただしあまり当てにするでないぞ?あくまでも何もなければの話。大怨霊の封印は不確定要素が多すぎる」
「いえ。十分に参考にできました」

 今月は残り約二週間程度。封印が何時解けるか分からない以上、神咲の一族としては早めに用意をしなければなるまい。
 それを考えると、那美の姉である神咲薫。親戚の神咲葉弓、神咲楓―――彼女達が海鳴に来訪するタイミングは、大怨霊に対抗するためと予想したほうが自然だ。
 考えたくないことではあるが、最悪の事態を予想しておいたほうがいいらしい。良い結果にはならなそうだと心底、心が重くなったため息をつく。
 
 しかし、一つだけ疑問が残る。
 歴史にさえも名を残す、最悪の悪霊。雫曰く、三百年前は壊滅的な被害を覚悟してようやく封印できたという存在。
 その怪物が復活しようとしているのに、何故たった三人だけしかこの地に来訪しないのだろう。この三人が恐ろしいほどに強い―――という考えもできる。 
 だが、【盾】となる人間が多いに越したことはないはずだ。戦力という面で見ても、数はそれだけで力となるはず。
 恭也の調べた限り、神咲一灯流とは国お抱えの祓い師の一族。戦力になるものがたった三人だけの筈もない。
 
 以上のことを含めれば、ある予想が成り立つ。
 それほどまでの戦力が必要ない。つまりそれは大怨霊が復活する前に―――。

「―――それでは、今夜はこれで失礼します」
「うむ。また明日会えるのを楽しみにしているぞ」

 
 最悪の結末を振り払いながら恭也はこの場所を後にする。それと同じく、空も国守山の方角へと歩き去っていった。
 そんな二人を嘲笑うように、八束神社の本殿のある場所に置かれていた禍々しい色の宝石が、キラリと静かに光を発していた。それに気づいた者は、まだ誰もいない。








[30788] 二十二章 大怨霊編⑤
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2013/01/16 20:47




「うう……すみません、那美さん。ご迷惑をおかけして」
「いえ、そんな。困った時はお互い様ですよ」

 風芽丘学園から高町家へと下校する途中、多くの学生に紛れて美由希と那美の二人の姿があった。
 ヒョコヒョコと片足を引き摺るように歩く美由希と、それにあわせてゆっくりと歩いて行く那美。
 足首を捻り包帯でテーピングをしていた美由希を、普段よりも不便ということもあり朝の登校時は恭也やレン、晶がフォローしていたのだが、下校時の世話を那美が高町家まで買って出てくれたのだ。
 とは言っても、流石に那美一人に美由希の世話を任せてしまうのも非常に申し訳ないと判断した恭也も、二人と並んで帰宅している最中であった。
  
「それにしても階段から滑り落ちるとは情けない」
「……ぅぅ」

 やや呆れた様子の恭也に、返す言葉もないと言わんばかりのしょぼくれた美由希が、縮こまるよう肩を落とす。
 まさか美由紀希も高町家の中でそんな不注意をするとは全く予想だにしていなかった。

「で、でも―――私が寝不足なのは恭ちゃんも悪いんだからね」
「いや、それは意味が分からんぞ」
「だ、だって恭ちゃんがあの日―――」

 何を言っているんだコイツは、と顔に出している恭也がますます呆れた様子を見せる。 
 対して美由希先日起きた、恭也の部屋襲撃事件のことを口に出したかったが、あの時のことを思い出すだけで頬が赤くなるのを止められない。好いてる相手とあそこまで密着し、見詰め合った出来事を果たして忘れられるだろうか。いや、忘れられるはずもない。
 対して恭也はあの時のことを既に忘れたのか、それとも意識していないのか分からないが、全く気にも留めていないようで、それが少しだけ悔しく感じる。
 しかし、惚れた弱みという言葉があるように、こればかりは仕方ないかと諦めるしかなかった。

 そのことを言葉にすることができるわけもなく、途中からはゴニョゴニョと恭也と那美に聞こえず、空気に溶けていく。
 恭也もまさか美由希があの日のことをこれほどに気にしているとは思っていないため、自分の妹が何を言いたかったのか見当もついていなかった。

「あれ……もしかして、那美ちゃん?」

 そんな二人の様子をニコニコと笑顔で見ていた那美に背後から声がかかった。
 透き通るような、美しい声色だ。だが、どこか凛とした力強さもそこにはある。

「え、あれ?」

 三人が背後を振り向くと、そこには一人の女性が少し驚いているのか眼を大きく見開いて、那美を見ていた。
 日本人らしく黒い髪。腰近くまで伸ばしているロングヘアーだ。その女性の髪を見た恭也は、最近は妙に黒髪ロングヘアーの女性と縁があるなと何の気なしに思った。
 容姿も整っていて、柔和な印象を相手に与える、そんな大和撫子を連想させる美しい女性である。しかも学生が多い中、またもや普通の人が着ないような巫女服。いや、式服だろうか。兎に角、人目を惹く服装だ。さらには肩からかけてある女性の身長とほぼ同じ大きさの細長い黒いバッグが、女性をより目立たせている。

「は、葉弓さん!?確か今週末にこられるんじゃなかったんですか!?」
「その予定だったんだけど……仕事が早めに終わったの。だから少し早いけど来ちゃった」

 テヘっと舌をだして葉弓と呼ばれた女性が那美に答える。
 大人っぽい雰囲気を醸し出していた葉弓だったが、そんな様子を見るとどことなく可愛らしい印象も同時に持てた。

「そうだったんですか。でも、本当にお久しぶりです」
「ええ。確か最後に会ったのは―――まだ、那美ちゃんがこんなに小さかった頃だったものね」
「そ、そんなに小さくないですよ、葉弓さん」

 クスクスと可笑しそうに笑みを浮かべた葉弓は、右手の親指と人差し指を広げ十数センチの長さを示していた。それを見た那美は、苦笑しつつ両手で否定するようにブンブンと顔の前で振る。
 その女性が、先日那美が言っていた親戚の一人―――神咲葉弓だということに気づいた恭也は、折角の久しぶりの対面を邪魔しないようにと、美由希と一緒に一歩後ろに下がった。
  そんな気遣いが眼にとまったのか、葉弓が笑顔のまま恭也と美由希の方へと視線が向ける。

「あら、もしかして那美ちゃんのお友達かしら?」
「はい。風芽丘学園三年の高町恭也と言います。神咲さんにはお世話になっています」

 葉弓の視線を受けつつも、丁寧に頭を下げる。
 その態度に葉弓は感心したのか、恭也と同じくこちらこそと頭を下げた。

「ごめんなさい、自己紹介が遅れて。私は神咲葉弓と申します」

 葉弓も自己紹介をしていないと気づいたのか、恭也に続いて名前を名乗る。
 残されているのは美由希だけだったが、突然のことで少しだけ固まっていた。というよりも、葉弓の容姿に見惚れていたといったほうが正しいのかもしれない。フィアッセのように西洋的な美しさではなく、葉弓は日本人が元来持っている美というものを突き詰めたような女性なのだ。
 人外としか思えない容姿の女性を見慣れている恭也は―――実際に人外の者も多いが―――葉弓の容姿に一瞬しか見惚れなかったが、そういった人物をそこまで多く知らない美由希が見惚れてしまい、反応できなくても仕方なかっただろう。

「あ、すみません!!あの、私は高町美由希です!!那美さんとは清いお付き合いをさせていただいてます!!」

 固まっている美由希の横腹を軽く肘でつくと、その衝撃で我を取り戻したのか美由希が慌てて自己紹介をするのだが、その挨拶に頭を抱えるのは恭也だ。
 とても友達の親戚にする初対面の挨拶ではない。これではまるで、恋人の両親にする挨拶にしか聞こえない。そんな挨拶を聞いた那美は、何故か真っ赤になって俯いた。
 そんな紹介をされた葉弓は、最初は吃驚していたようだが、すぐに口元を緩める。

「あら。那美ちゃんも、私が知らない間に大人になったのね」
「え、ええー!?い、いえ、あの―――」
「ち、違います!!い、いえ、那美さんとはお友達なんですけど、違うんです!!」

 美由希のとんでも発言に照れてるのか驚いているのか、どちらかわからない那美がパニックになっている。
 勿論、それ以上パニックになっているのが美由希だ。幾ら緊張したからとはいえ、自分の発言を思い返してみれば勘違いされて当然の類である。
 周囲には下校途中の生徒もいるわけで、我関せずと去っていく人もいれば、興味深そうに横目でチラチラと窺っている人もいる。そんな人達の視線を受けて、美由希の顔も那美と同じく羞恥で真っ赤に染まっていた。
 平然としているのは恭也と葉弓の二人のみ。大人な女性だと思わず感心してしまう恭也だった。

「そ、それで葉弓さんはどうしてここに?さざなみ寮とは方角が違いますよね?」
「ええ。寮の皆に翠屋でお土産を買っていこうかと思ったの」
「そうなんですか。そんなに気にしなくても良いと思いますけど」
「暫くお世話になるし、少しは気を遣わないと。それに私も久しぶりに翠屋のお菓子を食べたいから」
 
 道を覚えていないので人に聞きながら向かっているんですけど、と全く困っていない様子で葉弓が苦笑した。 
 本来ならばこのまま高町家へと戻る予定だったため、那美がチラリと迷った風に恭也を見る。
 自分から美由希の世話を申し出ていながら、突然とはいえ出会った親戚を案内するために、ハイさようならというのはどちらにも申し訳ないと思ったからだろう。

「偶然ですね。実は自分達も翠屋に行く途中だったんです。もし宜しければご一緒に如何でしょう?」

 美由希を優先するべきか葉弓を案内するべきか、決めれない那美の姿に恭也が折中案を出す。

「あら、いいんですか?一緒に行ってお邪魔じゃないですか?」
「いえ、こちらこそご一緒していただけたら助かります。実は翠屋は俺の母が経営している店舗でして、お客様を案内しなかったら後で何といわれるか……」
「貴方のお母様が経営を?凄い奇遇ですね」

 本当に驚いたのか口元を隠すように手を置いていたが、その下はポカンという擬音が似合うような口を開けていたことだろう。
 暫く考えるそぶりを見せていた葉弓だったが、やがて決心がついたのか今まで以上の笑顔で頷いた。

「それではお願いしても宜しいですか?」
「こちらこそお土産に翠屋を選んでいただき有難うございます」
「―――お若いのにしっかりとされていますね。十代でそこまで落ち着いた男性はあまり見ないですよ?」
「いえ。残念ですが、そのせいで身内からは精神だけ年寄り呼ばわりされています」
「あらあら」

 本当に面白かったのか、葉弓はクスクスと微笑を漏らす。
 その一方、美由希は未だ立ち直れていないのか、なにやらブツブツと一人呟いていた。それを那美が必死になって慰めているという状況だ。
 恭也と葉弓の落ち着いた空気とは真逆なその様子は、下校途中の人間達の注目となっている。

「少し目立ってしまったようですね。そろそろ行きましょうか」
「はい。それでは、案内を宜しくお願いします」

 混沌とした二人を置き去りにして、恭也と葉弓は翠屋へと向かう。
 ほどなくして、復活した美由希と那美が慌てて二人の後を追ったが、恭也も敢えてゆっくりと歩いていたため、すぐに合流できたのだった。

「そういえば苗字が一緒のようですけど、もしかして御兄弟でしょうか?」
「はい、仰るとおりです。元々は美由希が神咲さんと知り合いになった縁で、俺も親しくさせていただいています」

「あら、そうだったんですね。でも那美ちゃんが、男の方と仲良くしていて安心しました」
「安心、ですか?」
「はい。ご存知だとは思いますが、那美ちゃんは少し男性に苦手意識を持っていましたから。貴方みたいな方が那美ちゃんと仲良くして貰えたら助かります」
「その、俺のことを少し買い被りすぎて―――」
「―――いいえ。私こう見えても人を見る目だけはあるんですよ」

 葉弓と並んで歩く恭也。肩が触れ合うほどに近くを歩いているためか、葉弓の香りがほのかに漂ってくる。
 女性特有の甘い香りだ。御神雫とはまた違った、大人の女性の、心臓の鼓動を強める香り。少しだけ緊張をする恭也だったが、相変わらずの鋼の精神力でそれを表には出さない。

 そんな二人を複雑な想いで後ろについていく美由希と那美。
 美由希としては、凄い美人さんが恭也と仲良く話している光景を見るのは中々に辛いものがある。別に恋愛がどうとかそういうわけではないので、気にしないのが一番ではあるが、そこも恋する乙女として難しいものがある。
 那美としても、葉弓の社交性の高さは嫌というほど知ってはいたが、ここまであっさりと初対面の男性と仲良くなれるとは思ってもいなかった。葉弓のことが嫌いとかそういった問題ではなく、自分との社交性の違いをまざまざと見せ付けられたようで、少しだけ落ち込んでしまう。

 ここで追記することになるが、葉弓は確かに温和な性格のため、人間関係はそつなくこなす。知り合いの人間関係の橋渡しも良く行う。社交性という点で見れば神咲一族の中で最も優れていることだろう。
 多くの人間と会ってきたこともあり、言葉に出したように人を見る目という点では誰よりも優れていた。神咲葉弓の目から見て、目の前の高町恭也という男性は随分と好ましく見える。会って数分程度で何がわかると思われるだろうが、その数分で恭也という人間の実直さを見抜いたとも言えた。
 それに那美と友達になれる男性が、悪い人間の筈がないと考えられたことも大きいだろう。

 話が弾む前をあるく二人と、微妙に落ち込んでいる後ろを歩く二人。
 正反対の二組は、そうこうするうちに目的地の翠屋まで辿り着く。窓ガラスから店内を見たが、空いているテーブルが幾つか見受けられた。
 それを確認できた恭也達は、翠屋の扉を開ける。何時も通りカランカランと鈴がなり、来店を告げる音が店内に響き渡った。

「いらっしゃ―――って、恭也じゃない。今日は人手たりてるけど」
「今日は手伝いじゃない。お土産にウチの商品を持っていきたいと言ってくれるお客様を連れてきた」
「あら、本当?」

 恭也の影となって視界に入っていなかった、葉弓が一歩前に出る。恭也と並ぶ形となり、桃子に向かって礼儀正しく頭を下げた。葉弓の姿を見た桃子は、キラキラと目を輝かせる。

「高町さんにはここまで道案内をしていただき、お世話になりました。神咲那美の親戚の神咲葉弓と申します」
「那美ちゃんのご親戚ですか?こちらこそ、うちの美由希がお世話になっています」
「いえ、そんな。那美ちゃんからは美由希さんのことを良く聞いていますので。お世話になっているのは此方の方かと……」
「お互い様、ですねー。あ、こんなところで立ち話もなんですので、どうぞ空いてるテーブルへ」

 桃子に案内されて葉弓と那美、美由希は近くのテーブルへと案内され着席する。一方恭也は、桃子にカウンターの方へと腕を引っ張られ連れて行かれた。
 その時点で嫌な予感しかしない恭也だったが、無理に逃げようとせず一応は為すがままという形で引っ張られていく。

「ちょっと、恭也。あの人、凄い美人さんね。雰囲気も素敵だし、ここはガッといっちゃいなさいよ」
「……血迷ったか、高町母よ。まだあの人とは会ったばかりだぞ?」
「何言ってるのよ!!愛に時間は関係ないわ!!士郎さんなんか私に会って一秒でプロポーズしてきたのよ?」
「―――そういえばそうだったな」

 桃子と士郎の馴れ初めは聞いている。というか、その現場に恭也もいたのだ。
 実際に告白するところは見ていないが、桃子が作ったあまりに旨い洋菓子を食べた父である士郎が、それでいきなり厨房にのりこんでいったとか。
 その後紆余曲折あって、二人は結婚することになったが、決して洋菓子の味だけで二人は結婚を決めたわけではない。

「まぁ、それは冗談として。あんたも知り合いに素敵な女性が多いのに、どうしてこう―――枯れてるのかしらねぇ」
「失敬な。枯れてるつもりはないぞ」
「―――なにそれ。笑うところなの?」

 キョトンとした恭也の様子に、桃子は頭を抱えたくなる。
 我が息子ながらここまで無欲なのは勿体無いを通り越して、逆に凄いと思いたくなる。そんな呆れがまじった桃子の生暖かい視線を受け、恭也は若干居心地悪そうにしていた。
 会ったばかりだという葉弓は兎も角、高町家の面々。最近では月村忍も結構なアタックを仕掛けてきている。桃子の情報網では、商店街で超絶美人なクール系の女性とも時々一緒に歩いているとか。更には別の商店街で、メイド服をきているこれまた美人なメイドさんに追いかけられていたとか。最近は見かけないが、レン並みに小さいスーツ姿の少女とほんわりした風芽丘学園の生徒も恭也を訪ねてよく来ていた。さらには何人かの日本語達者な外国人らしき娘達も頻繁にくる。

「うわ……あんたそのうち刺されるんじゃない?」
「一体何を言っている……」

 心の中で恭也に関係するであろう女性を数えていた桃子が素直な気持ちを告げてきた。改めて考えると、高町恭也という息子の恐ろしさが理解できた。
 世の中には異性と知り合いになれない男性もいるというのに、なんという贅沢をしているのだろうか。
 そんなことを考えていた桃子の前から、何時の間にか恭也は消えている。はっとなって店内を見渡せば、葉弓や那美達が座っているテーブルにちゃっかりと恭也も戻っていた。
 とりあえず詳しい話はまた今度すればいいかと、桃子は注文を聞くためにテーブルへと向かう。
 
「ご注文はお決まりになりましたか?」
「アイス宇―――」
「は、ないからね?」
「くっ……」

 最後まで言い切る前にばっさりと斬って捨てた桃子に、恭也は悔しそうに歯噛みする。微妙に勝ち誇っている桃子と悔しがっている恭也という光景を見ていた美由希達は苦笑しかできなかった。 

「コーヒーとシュークリームでお願いします。那美ちゃんは?」
「あ、私も同じもので」
「恭ちゃんもコーヒーでいいよね?私達も一緒でいいよ、かーさん」
「それじゃあ、コーヒーとシュークリーム四つずつね、了解。少し待っててくださいね」

「すみません。それとは別でシュークリーム二十四個お願いできますか?」
「はい。注文承りました」

 伝票にササッと手早く記入すると桃子が綺麗な営業スマイルを残して厨房へと戻っていく。台風が去っていき安堵している恭也に、クスクスと笑みを隠せない葉弓が桃子が去っていった厨房へと一瞬視線を送る。
 
「楽しいお母様ですね。私の知っている人に少し似ているかもしれません」
「―――もしかして、聞こえていましたか?申し訳ありません、神咲さん。うちの母が失礼なことを」
「いえいえ、何のことですか?」

 特に不快に感じているわけではないようで、葉弓の笑顔に曇りはない。本当に桃子の声が聞こえていたかどちらか分からないが、彼女は全く気にしていないようだ。
 相当に急いで用意をしたのか、ほんの数分で四人の前には注文の品が並べられる。運んできたのはアルバイトのウェイトレスではあったが、なにかしら視線を感じ、その方向を見てみれば厨房から桃子が働く合間にチラチラと視線を送ってきている。忙しいのか暇なのかどっちかわからない母に、ため息をつきつつコーヒーを一啜り。
 
「そういえば私のことも神咲と呼ぶと那美ちゃんと区別がつきませんよね。もし宜しければ葉弓と呼んで頂けませんか?」
「いえ、しかし……」
「―――駄目でしょうか?」

 ウルウルと目を潤ませながら頼んでくる葉弓に、様々な断り文句を頭の中に浮かべるが、この人にはきっとどんな言葉を並べても通用しないだろうと自然と理解できた。
 
「わかりました、葉弓さん。その代わりと言っては何ですが、俺のことも下の名前で呼んでいただけたら。一応美由希と区別がつきにくいでしょうし」

 反論を諦め、熱々のコーヒーをまた一啜りするためにカップを口につける。
 恭也の了承を得た葉弓はニコリとこれまでで最大の笑顔を浮かべ―――。

「はい。こちらこそ宜しくお願いしますね、恭也【ちゃん】」
「―――っぐ、っは!?」

 思いもしていなかった呼ばれ方に、コーヒーが気管支に入りゴホゴホっと激しく咽る。
 きっと君付けになるだろうと予想していただけに、まさか【ちゃん】付けとは全く考えていなかった。ちゃん付けで呼ばれたのは確か琴絵以外にいなかったはずだ。それもまだ幼かった頃だから、それは仕方ない。だが今の恭也の老成した雰囲気から、誰もが自然と割けていた呼び方をあっさりと言ってのけた葉弓に戦慄が走る。

「きょ、きょーちゃん!?かーさん、布巾ちょうだい!!」
「だ、大丈夫ですか?高町先輩!?」

 冷静さを失っているのは恭也だけではなく、美由希と那美も普段では見れない彼の姿に驚き、慌てふためいている。
 そんな三人を楽しそうに見ている葉弓の姿を厨房から見ていた桃子は―――何故か目を輝かせて葉弓に魅入っていた。傍で働いていたウェイトレスは、あの娘いけるわ、と呟いたのを聞いたという。
 それとはまた別で、仕事に集中していない桃子は、アシスタントコックの松尾さんに頭を叩かれて涙目になってしまうという厨房内事件も起きていた。
 咽ていた恭也も、胸をトントンと叩きながらようやく落ち着いてきたのか、恥ずかしい姿を見せたのを誤魔化すためか咳払いをする。

「お見苦しい姿をお見せしました」
「いえいえ。男性のそういう姿も可愛いですよ?」
「ぐっ―――その、せめて君付けでお願いできませんか」
「恭也ちゃんって可愛いと思うんですけど……駄目ですか?」
「―――で、できれば、勘弁していただけたら」

 葉弓のお願いに一瞬敗北しそうになるも、心を鬼にして答える恭也。
 それも予想していたのか、葉弓は悲しそうな表情を今まで見せていたがあっさりとそれを消し、クスクスと相変わらずの笑顔で頷いた。

「はい。わかりました、恭也さん」

 そんな葉弓に、やはり年上の女性は苦手だと改めて再確認できる恭也だった。
 


























 翠屋で談笑していたのは三十分程度だったろうか。葉弓はお土産のシュークリームを持ってさざなみ寮へと向かっていった。美由希も高町家へと戻らせると、何時もの恒例とでもいえばいいのか、なのはと晶を引き連れて八束神社に足を向ける。
 ちなみに今回は那美も巫女のアルバイトがあるらしく合計四人で神社へと向かった。
 美由希も行きたがっていたのだが、足が不自由のため泣く泣く諦めたようだ。

 八束神社へと続く階段を登ると、なのはのお目当てである久遠はあっさりと見つかった。
 神社の軒下で居眠りをしていた久遠は、動物らしい鋭敏な気配察知で四人がきたのを感じ取り、軒下からゆっくりと歩きでてくる。なのはと晶は持ってきたボールを使って、久遠も交えて境内で遊び始めた。

 仲良くなったものだと、ベンチに座っていた恭也は娘を見る眼で遊んでいるなのはを見守る。
 十回を超えるほどに通いつめ、辛抱強く久遠と接した努力が報われた光景は、胸を打つモノがあった。
 三人とは別に、那美は一応巫女のアルバイトのため、遊ぶわけにもいかず神社の周囲の掃除をマイペースにだがこなしている。関係者の誰が見ているわけでもないのに、手を抜かずさぼらないのは真面目な性格のためだろう。
 ちなみに神社の横手に小さな小屋があり、そこでしっかりと巫女服に着替えることができる。那美もそこに予備の巫女服を置いているため、学校からの直接きても大丈夫だったらしい。

 普段は運動は全く駄目ななのはだが、こういう時は奥底に秘められていた不破の血が目覚めるのだろうか。晶も顔負けな俊敏さ見せるときもある。その動きに体がついていかず、転んでしまうのがなのはクオリティでもあるが。
 転ぶたびに晶と久遠が心配そうに駆け寄っていくのが微笑ましい。

 空を見上げると、夕陽が地平線の彼方へと沈んでいく。季節は冬。十二月ということもあり、夜が訪れるのも早い。
 周囲が薄暗くなってきたのに気づいたのか、なのは達も遊ぶのを一旦切り上げる。

「ああ、すまんが二人は先に帰っておいてくれ」
「あれ、師匠はどうするんですか?」
「この暗い中を神咲さん一人で帰らせるわけにもいかないだろう」
「そういえばそうですね。わかりました、なのちゃんのことは任せてください!!」

 辺りを見回した晶が納得したように力強く頷いた。
 晶となのはの二人というのも年齢的な面で見れば心配だが、単純な強さでいえば例え暴漢に襲われても晶なら軽々と撃退することができる。巻島十蔵に直接指導を受けている彼女が後れを取る相手などそうはいまい。
 逆にこの暗くなった時間に那美を一人で帰らせるほうがよっぽど心配だ。下手をしたら小学生相手でも負けてしまいそうな雰囲気なのだ、神咲那美という少女は。

「バイバーイ、くーちゃん!!また明日くるからね」
「それじゃあ、師匠。また後で!!」

 なのはと晶が大きな声で別れの挨拶をして階段を降りて行く。
 なのはが久遠にだけ挨拶をして帰ったことにそれとなくショックを受ける恭也だったが、高町家で会うからわざわざ挨拶をしなかったのだと思うことにした。そう思わないと、切なくなるからではない。
 一人残される恭也はベンチから立ち上がる。その隣には久遠が座っていて、つぶらな瞳を向けてくる。
 時間的にそろそろだと判断した恭也が正しかったようで、神社の横の小屋の扉がガラっと音をたてて開け放たれた。

「お待たせしました、高町先輩。遅くなって申し訳ありません」
「いえ、大丈夫です。それにこれだけ暗くなった状況で一人で帰るのは危ないですから」
「有難うございます」

 小屋からでてきた制服姿の那美は、照れたように頬を染めた。
 確かに家が近所ならば問題はないが、さざなみ寮まで少し歩かなければいけない。誰かと一緒に帰られるならば、心強いこと限りがない。

「おいでー、久遠。今日は帰るから」
「くぅーん」

 一鳴きした久遠が那美と並んで歩き始める。
 それに少しだけ疑問を感じる恭也だった。久遠は飼い狐ではあるが、ほとんど放し飼いといってもいい。今日に限って久遠と一緒に帰るのはどこかが引っかかった。

「それでは高町先輩。宜しくお願いします」
「―――はい。では、行きましょう」 

 考えるのは後回しにしようと決めた恭也と那美は、八束神社の階段を降りて行く。
 その二人と一緒にチリンチリンと鈴を鳴らしながら久遠がついて来る。
 一際強い風が吹く。暖冬が続いていたとはいえ、流石に冬。非常に冷たい夜風が皮膚を叩いてきた。
 繰り返す呼吸も白く色づいている。長袖が目立たない季節なので恭也としては冬は嫌いではない。だが、それでもやはりこれだけ寒くなると夜と朝の鍛錬が厳しくなってきた。

「あのー、高町先輩」
「はい、なんでしょうか?」
「前々から思っていたんですけど、何故私に敬語を使われるんですか?」
「……そういえば何故でしょうか。なんとなく敬語になってしまう……では駄目ですか?」
「駄目というわけではないのですが、何か高町先輩に申し訳なくて」
「特に自分は気にしていませんが。神咲さんが気にされるなら変えましょうか?」
「はい。そちらのほうが私としてもいいかなーなんて思っちゃいます」
「わかりました。できるだけ努力します」

 わかったといいながら相変わらずの敬語の恭也だったが、不思議と那美には敬語で話してしまう雰囲気がある。
 何故だろうと首を捻りつつ、少しずつでいいから直してみようと思ったのだった。
 二人と一匹は夕闇に視界が染まっていくなか、さざなみ寮がある方角の道をゆっくりと歩いて行く。太陽が沈んだのを合図にしてか、道路の両脇に設置されていた街路灯が、パァっと光を発し、照らし始める。
 それでも視界は薄暗いことに変わりはないが、随分とマシになったことに違いはない。

 こちらの方角は割りと最近建てられた家が多いのか、建てなおしたのか、西洋風の家々が多く見受けられた。逆に高町家の周囲は昔ながらの和風の家が多い。
 高町家自体もそこまで古いという家ではないが、父である士郎が和風好きだったため、わざと日本風にしたとか。昨今畳がある家もそこそこ珍しいだろう。
 街路を歩くのは二人と一匹だけというわけもなく、途中何人かとすれ違ったり、ゆっくりと歩いている恭也達を追い越して多少早歩きで過ぎ去っていく人達も幾人かいた。
 
「あ、あの……高町先輩」
「はい、なんでしょうか?」
「えっと……凄く突拍子もないことを、お聞きしても宜しいでしょうか?」
「はい?ええ、別に構いませんが」

 那美が突拍子もないというからには相当のことだろうと考えながらも、どんな質問がくるのだろうかと考えていた恭也に反して、彼女は暫く口を閉ざして続きを言おうとしない。
 視線もあちらこちらに移動し、言いよどんでいるのがわかる。緊張しているのか、那美の握っている手の平にこの寒さにもかかわらず薄く汗もかいていた。

「―――その、高町先輩は、幽霊って信じていますか?」
「はい。信じていますが。何度か目撃したこともありますし」 
「そ、そ、そ、そ、そうですよねー!!幽霊なんて信じていませ―――え?」

 キョトン。そんな擬音が相応しい様子で、那美は呆けたように恭也を見つめている。
 今何といったのだろうか。信じている?いやいや、まさか。幽霊を信じている人は霊能力者を除けば極少数だ。ましてや見たことがある人はそれこそほんの僅かだろう。
 これまで仲良くなった人に幽霊について話したこともあった。皆が皆信じてくれなくて、冗談で終わってしまったばかりだった。それも仕方ないことだとは思う。もし、仮に那美自身が【こちら】の世界に身を置いていなかったら、幽霊の存在等決して信じなかっただろう。
 決死の覚悟で聞いた質問がまさかこうもあっさりと返答されるとは考えてもいなかった。


「あ、あの―――高町先輩は、その、霊を目撃したことがあるって本当ですか?」
「ええ。幼い時に一度。それと中学生の頃にも何度か。最近は縁がありませんでしたが」 
「そ、そ、そうなんですか」

 どうやら那美の聞き間違えではなかったらしい。
 幽霊という存在をどう恭也に信じて貰うか、那美にとってそれが一番の難関だと思っていたことをあっさりとクリアーできてしまい、逆に言葉に詰まってしまう。

「あの、明日―――明日八束神社に来ていただけないでしょうか?」
「明日?学校が終わった後でも大丈夫ですか?」
「はい。勿論です。私も明日は八束神社に用事がありますので」
「わかりました。特に用事もありませんので伺わせて頂きます」

 結局那美は、今この場で決断することは出来ずに、明日へと先延ばしすることにした。
 彼女が話そうとしたこと。それは那美と久遠にとってはとても大切で重要なことであり、躊躇ってしまったのも無理はないことであった。決して恭也を信用していないというわけではない。ただ、できれば誰にも打ち明けずに乗り越えないといけないことであると那美自身で理解はしている。
 それと同時に無理であるということも理解していた。自分ひとりでは、どうしようもないことだと。そんな那美が打ち明けようとしている相談。今の彼女はそこまで追い詰められている状況であった。

 二人はそれ以降特に話をするでもなく歩いていたが、程無くしてさざなみ寮へと辿り着く。
 清潔な白い壁。流石に寮というだけあって、一般の家に比べて随分と大きい高町家よりも、さらに広い敷地面積をもっているようだ。大人の胸くらいの高さの赤茶色のレンガ造りの塀が周囲を囲っている。屋上―――いや、テラスだろうか。二階には洗濯物を干せる空間が見て取れた。道路に面している窓ガラスからは、カーテンの隙間から灯りが漏れて、闇夜を照らしている。

「あ、ここです。わざわざこんなに遠くまで有難うございます、高町先輩」
「いえ。これくらいなら何時でも任せてください」

 門を開き、さざなみ寮の限界の扉に手をかけたところで、那美を見送っている恭也へと振り返った。

「あの、もし宜しければ―――お茶でも如何でしょうか?多分リスティさんも今日は居た筈なんですけど」
「……その、今回は手土産も持参してませんので、また今度お邪魔させていただきます」
「そ、そうですか」

 少し残念そうに呟いた那美だったが、時間も時間のため無理強いはできない。
 それでは、と挨拶をして玄関の扉を開こうとして―――。

「早く入ってこいって、神咲妹!!」

 勢いよく開いた扉が那美の頭に直撃。ガンっと打撃音が響き渡り二、三歩後退。激突した額を両手で押さえながら、痛みを我慢できずに座り込む。ちなみに久遠は野生の勘を最大限に発揮させ、その襲撃から逃げ延びていた。
 その惨劇を引き起こしたのは一人の女性だった。身長は那美とほぼ同じ。いや、少し高いだろうか。黒髪を短く切った、丸眼鏡が照明の光を反射させ、キラリと輝いていた。容姿は整っているのだが、彼女が自然と纏っている雰囲気がまるで、どこか肉食の獣を連想させる。

「あ、悪い悪い。大丈夫か?」
「ぅぅ……だ、大丈夫です」

 あまり心配してなさそうな女性に、那美が涙目で答える。それも仕方ない。扉の開く速度と重量を想像するに、扉から生じた破壊力は相当なものだ。それをまともにくらってしまえば、涙目になるのは当然だろう。いや、涙目になるだけで済んで逆に良かった話である。

「大丈夫ですか、神咲さん」
「す、すみません、高町先輩。恥ずかしい姿をお見せしちゃいまして……」
「ん?おおー!?なんだ、神咲妹。今日は男連れか!?やるじゃないか!!」

 流石に心配して駆け寄った恭也を見つけて、面白そうに眼を輝かせた女性が、やけに大きな声で叫びそのままさざなみ寮の中へと走って戻っていく。

「おーい!!那美が男連れて帰って来たぞー!!」
「や、やめてくださいー!?真雪さんー!!勘違いですからー!!」

 那美が止めるも、時既に遅し。真雪の声はさざなみ寮全体に響き渡っていた。
 今日何度目になるかわからないパニックに陥った那美が、さざなみ寮の中へ消えた真雪を追って消える。玄関にポツンと残されたのは恭也唯一人。
 このまま帰ろうかとも考えたが、流石に挨拶も無しで帰るのはまずいだろうと、そこに残っていると―――。

「もう、真雪ってば。ボク今日は昼まで仕事だったんだよ?もうちょっと寝かせてほしかったんだけど……」

 薄水色のラフなパジャマで、ふぁーと欠伸をしながら玄関のすぐ傍にある階段から降りてきたのは―――リスティ・槙原。普段会っている時とは違って寝起きのためか、短くも美しい銀の髪が多少寝癖で乱れている。何時もだったならば、薄く化粧をしている彼女ではあるが、同じく寝起きのためか珍しいスッピンだった。化粧をしてなくても基本となる素顔が非常に美人のため、普段のリスティとは全くイメージは一緒ではある。

「―――ん?」

 階段を降りてきたリスティの歩みがピタリと止まる。玄関に立っていた恭也とバッチリと視線が合った。ゴシゴシと眼をこする。
 
「寝ぼけてる、のかな?恭也が、ここにいるように見えるんだけど……」
「こんばんは、リスティさん。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。ああ、今日は手土産を持ってきていないので、また後日になります」
「は、は、あははははー。本、物?」
「偽者か本物かと問われれば、本物と答えるしかありません」
「―――だ、だよね」

 頬をひくつかせたリスティは―――。

「うわあああぁああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 真雪を遥かに上回る声量の大声―――いや、悲鳴をあげて玄関手前の部屋へと逃げ込んでいった。
 その声に吃驚したのが、その部屋にいた住人だろう。真雪の大声に続いて、今度は悲鳴をあげたリスティが飛び込んできたのだから。

「な、なんだ!?どうした、リスティ!?」
「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!!この大馬鹿、真雪!!なんで、どうして、恭也がいるのさ!?変な姿見られちゃったじゃないかー!!」
「恭也?ああ、あの那美が連れてきた男か?いや、そんなのあたしの知ったこっちゃないけど……」
「お前が!!お前が大声あげなかったらボクだって一階へ降りてこなかったよぅ!!」
「あ、ちょ!?首しめるな!!電撃だすな!!うわ、いたたたたたー!!」
「真雪を殺して、ボクも死ぬ!!」
「お、落ち着けリスティ!!さすがにそれは真雪さん死んでしまう!!」

 なにやら部屋がカオス状態になっているようで、ますますこの家から離れたくなってくる恭也だった。
 バチバチと部屋の中から電撃が迸る音が聞こえる。そして、それと同時に何故か那美の断末魔も聞こえた。恐らくは止めようとして巻き込まれたのだろう。人のよさが災いしたようだ。
 それでも待つこと数分。ガチャリと混沌状態だった部屋の扉があき、一人の女性―――那美に真雪と呼ばれていた女性が何故か瀕死の状態でゆっくりとでてきた。いや、ゆっくりとしか動けないのだろう。
 真雪は、ふらふらとゾンビが歩み寄ってくる動きで、恭也のそばまで近寄ってくると、ポンと肩に右手を置いた。

「折角来てくれて歓迎したいところなんだけど、悪い。また今度来た時に、歓迎っすから、今日はこのまま帰ってくれるか?」
「―――はい。元々そのつもりでしたから。今度は翠屋のシュークリームでも手土産で持参させていただきます」
「おお、若いのにわかってるなぁ。ついでに酒のつまみも宜しくな」
「母にでも聞いてみます」
「おっと、すまんね。あたしは真雪。仁村真雪ってんだ。少年は?」
「失礼しました。高町恭也といいます」
「おお、少年があれかー。美由希のにーちゃんって男か。ほうほう、なるほどね」

 恭也が時々さざなみ寮に遊びに来ている美由希の兄だと気づいたのか、なにやら興味深そうにな視線に切り替わる。真雪からしてみれば、美由希は尋常ではない剣の使い手だ。彼女が知る限り、到底高校一年生の少女の腕前ではない。今まで出会った中でもあの年齢で考えれば圧倒的な強さを誇る。真雪が知っている限り、最高の使い手は高校一年時の【神咲薫】。だが、彼女とて美由希のレベルには達していなかった。もっとも薫は本職が退魔師だ。幾ら刀を使うからといって比較するのは少し間違っているかもしれない。
 その美由希を未だ二十にも満たぬ歳で指導しているという青年。美由希曰く、底が知れない。底が見えない。彼女が足元にも及ばぬ剣士。そんな剣士を前にして真雪は―――。

 ―――なるほど、な。

「また後日ゆっくりと、話そうな?」
「―――はい」

 この人はきっと桃子と同じタイプだ、と直感が働くも、いまさらノーといえるはずもない。
 心の中で今日は年上の女性に会いすぎる厄日だとため息をつきながら、恭也はさざなみ寮を後にした。
 それを見送っていた真雪だったが、恭也の姿が見えなくなって、緊張で強張っていた左手を顔の高さまで持っていく。握り拳を作っていた左手は、ガチガチに固まっていた。自分の力で開けないほどに、極度の緊張が固めていたのだ。

「きょ、恭也帰っちゃった―――かな?」
「―――ああ、帰ったぞ」

 部屋から聞こえてきたか細い声に、真雪が答える。それでも部屋から出てこなかったその声の持ち主だったが、暫くたってようやく部屋から姿を現した。
 その人物は言うまでもなくリスティだったのだが、本当に恭也が帰ったのを確認すると、残念なのか安堵したのかイマイチわからない表情を作る。

「あー、なんだ。【アレ】がお前のご執心の男ってやつか?」
「う、うるさいなー。べ、別に執心ってわけじゃないんだよ?ちょっと気になってるっていうか……」
「それがご執心っていうんだけどな」

 ポリポリと頭をかきながら、真雪は自分の身体が震えているのに気づく。
 それに気づいたリスティが、空きっぱなしの扉を指差した。

「寒いなら玄関閉めたら?」
「―――ああ、そうだな」

 温度が寒いから震えていたわけじゃない。他のもっと、原始的なモノで震えていたのだ。
 
「あたしの眼から見て那美は、まぁ―――まだ友人レベルの好感度だからいいけど。問題はお前だな、リスティ」
「うん、何がだい?」
「―――【アレ】は、止めとけ。友人とかそんなのならあたしも口は挟まない。でも本気で惚れた腫れたをするつもりなら、あたしは意地でも止めるぞ」
「……何故かな?」

 すうっとリスティの視線が鋭くなる。

「あたしの親父もそうだった。あの馬鹿は剣に命をかけてたよ。結構兄弟はいたけど、あたしが一番才能があったんだろうな。あのくそ親父はあたしに剣の全てを叩き込んできた。剣に生き、剣に死ぬ―――そんな覚悟がある大馬鹿だった。そう今までは思っていた、そう【今までは】」

 はっと恐れにも似た呼吸がもれる。
 これまで多くの修羅場を潜り抜けてきた。多くの敵とも戦ってきた。それら全てをぶちのめし、打ち破ってきた。自分の剣士としての腕前はそれなりに自負していた。だけど―――。

「―――【アレ】は違うだろう。【アレ】は、違いすぎるだろう。あたしの親父が剣にかけていた想いなんて、塵芥にしか見えない。そんだけ深い、闇だ。あたしじゃ理解できない。理解しようとすることもできない」

 リスティに向けた瞳が揺れていた。
 何時も飄々としているあの仁村真雪という人間が、底知れないナニかに触れて、揺らいでいた。

「【アレ】と同じ道を歩くってことは、きっと【普通】じゃすまない。【普通】の人間が、横に立てる筈もない。傷が浅いうちに―――止めとけ」

 脅えにも似た真雪の台詞に、リスティは―――ふぁっと欠伸で返す。

「もう一度寝てくるよ。晩御飯はいらないって耕介に言っといて」
「―――リスティ」
「今度は起こさないでよね、明日も早いんだから」
「―――リスティ!!」

 真雪の怒声が響き渡る。ビリっとさざなみ寮の空気が引き締まった。
 何事かと部屋から顔を出してくる住人もいたが、リスティは足を止めず階段をのぼっていく。そして一階から見えなくなる手前で彼女は一旦足を止めた。

「ねぇ、真雪。ボクはね皆に感謝してるんだ」
「なにがだ?」 
「ボクみたいな厄介者を、ここの皆は受け入れてくれた。耕介や愛に至っては、ボクなんかを養子にしてくれた。リスティ槙原っていう素敵な名前もくれたんだ」

 普段のニヒルな小悪魔的な笑顔ではなく、無邪気な少女の笑顔で、リスティは笑う。

「でもね、過去は消せない。別に悲観して言ってるわけじゃないよ?それでも過去はやっぱり消せないのさ。この力と折り合いをつけて生きていかないといけない以上―――やっぱりボクは【普通】じゃないんだ」
「―――それは、違うだろう」
「違わないよ。でも、今はこの力にボクは感謝している。この力のおかげで―――アイツに会えたんだから」

 手の平に視線を向けて、意識を集中。パチリと何かが弾ける音がして、青白い電撃が一瞬迸る。

「アイツと初めて会った時怖いと思ったよ。正直心底恐ろしいと思った。機関で会ったことがある人間なんか比べ物にならないほどにアイツは単純に怖かった。でも、それ以上に綺麗だった。美しかった。孤高だった。闇夜に蠢くアイツは―――誰よりも何よりも力強かった。【普通】じゃいられないボクは結局、アイツみたいな奴に惹かれるのも仕方ないのさ」

 言いたいことだけを言い切ったリスティは、そのまま二階の自分の部屋へと戻っていく。
 残された真雪はというと、暫くそこに立ち尽くしていたが、先程とは別の意味がこもったため息をついた。
 
「―――あんだけ言い切られたら、仕方ないか」

 とりあえず、電撃で気絶した那美を起こすところから始めようと真雪はリビングへと入っていく。
 恐らくは自分が何を言っても、何度説得しても無駄だろう。それがわかってしまったのだから。何故なら先程のリスティは―――。

 ―――恋する乙女の顔をしていたのだから。























-------atogaki-----------

非常に申し訳ないですが、このssを読んで頂いてる方々にご協力お願いしたいことがあります。
神咲楓のキャラクターなのですが、正直記憶がかなりあやふやになっています。
一応はとらハ用語辞典等を見て思い出す予定だったのですが、イマイチ詳しく乗っていません。
どんな些細なことでもいいので、楓の情報を保管お願いします。

神咲楓 【年齢】多分 薫より一か二年下なので とらハ3の時代なら二十か二十一くらい?
破魔真道剣術 神咲楓月流
【武器】小太刀?  【技】覚えてない……
【一人称】うち  【薫の呼び方】薫  【葉弓の呼び方】葉弓さん?  【那美の呼び方】那美?


神咲葉弓 【年齢】神咲三人組みで一番年上
破魔真道弓術 神咲真鳴流
【武器】弓(尹沙奈) 【技】覚えてない……
【一人称】私   【薫の呼び方】薫ちゃん? 【楓の呼び方】楓ちゃん? 【那美の呼び方】那美ちゃん



薫は楓のことは呼び捨て。葉弓のことはさんづけ?呼び捨て?それだけがイマイチはっきりしないっす
 
本当はこの話の葉弓の部分は楓だったんですが、キャラが掴めていないので急遽葉弓に代役になりました。
どんな些細なことでもいいので、教えていただいたら助かります。次の話が遅かったらそれで苦労してると思ってください。

あ、感想だけでも頂けたら泣いて喜びます。

ちなみに何故今更こんなふうに資料集めているかは、トップページよんでいただいたら多分わかります。
楓のキャラを全く覚えてないのがマイッチングでしたわ……
 
 
もしいまいちキャラを思い出せなかったら本編どおりにフェードアウトの方向で……プロットちょっといじくりますが。
多分後2-3話で終了です。



[30788] 二十三章 大怨霊編⑥
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2013/01/18 23:37








 翌日恭也は学校が終わってからすぐに八束神社へと足を向けた。直ぐといっても、一旦家に帰ってから着替えくらいはしている。そのまま来ようかとも思ったが、なのはを迎えにいくついでに家にも寄ったのだ。
 今日はなのはは学校の友人―――アリサの家に遊びに行ったらしく、神社には顔を出していない。
 なのは曰く、アリサに久遠のことを話したらやけに興奮していたという。確かに、久遠の可愛さは尋常ではない。つぶらな瞳といい、小さな体躯といい、ふかふかふさふさな体毛といい、全てが可愛い物好きにはたまらないだろう。
 もっとも幾らなのはの友達とはいえ、アリサ自身が久遠に懐かれるまで相当に時間はかかるというのは想像に難くない。

 恭也が八束神社に到着したのは午後五時を少し回った時間だった。特に急いだわけではないが、那美を待たせる訳にもいかないので自然と身体が急いでいたのかもしれない。
 境内を見渡してもまだ那美はきていなかった。相変わらず参拝客はおらず、閑散としている。那美は大丈夫だと言っていたが、鍛錬場所としてお世話になっている恭也としては本当に心配になってきた。
 
 那美が来るまで鍛錬でもしながら時間を潰そうとでも考えていたその時、チリンと鈴の音が鳴る。
 聞き覚えがあるその音色。最近良く耳にすることになった小さな小狐の首輪にかかっている古い鈴が起こす、どこか懐かしい透き通った音だ。

 鈴の音が鳴った方向を見てみれば、神社の床下の影から久遠が這い出してきたところだった。
 赤い夕陽が眩しかったのかつぶらな瞳を細めると、ぶるっと身体を震わせる。トコトコとゆっくりと久遠はベンチに座っている恭也へと近づいてくると、地面を蹴りつけ彼が座っている丁度隣へと降り立った。

「くぅん」

 かわいらしい鳴き声が久遠の口から漏れる。恭也は頭を軽く一撫ですると、久遠は気持ちよさそうに眼を閉じた。
 撫でられた久遠はそのまま恭也の横で寝転がると身体を丸くする。 
 鳥の鳴き声が聞こえる。風が吹き、木々を揺らし枝と葉が重なり音をたてた。
 誰もいない。久々に一人となれた時間。そして、一人の空間。

「―――ああ、平和だ」

 自然とそんな呟きが口から漏れた。
 寝ていた久遠がうっすらと眼を開けて、恭也の顔を見上げてくる。
 恭也はなんでもないというように、久遠の頭を撫でた。それで納得したのか久遠も再び眼を閉じ眠りに落ちる。
 騒がしい日々は嫌いではない。高町家に桃子がいて、フィアッセがいて、美由希がいて、なのはがいて、晶がいて、レンがいる。学校には忍がいて、赤星がいて、那美がいる。他にも殺音がいて、翼がいて―――それが高町恭也の日常だ。
 だが、偶にはこんななんでもない、平穏な時間も欲しいのだと恭也は思う。
 最近は特に色々と考えことが多かったため、恭也は珍しくも無の境地となって地平線の彼方に沈んでいく赤い太陽を黙って見つめている。
 
 特に周囲に意識を張り巡らしていたわけではなかったが、それでも無意識で八束神社の階段を上って来る気配を一つ感じ取っていた。
 その気配は若干慌ててるのか、急いで駆け上がってきている。いや、突如それが止まって、そこから動かない。
 ああ、と恭也は納得した。気配の主は間違いなく神咲那美。恐らく慌てているあまり、足を滑らせてかなにかをしてどこかを強打でもしたのだろう。下手をしたら階段から落ちることを考えたら不幸中の幸いなのだろうか。
  
 暫く経ってようやく動き出した気配が、階段をのぼりきり恭也の視界に到着した。
 気配察知の通りに、その気配は神咲那美その人であったが、涙目になっているのが一目で分かる。
 那美はベンチに座っている恭也に気がつくと急いで駆け寄ってきて息を乱しながらも頭を下げた。

「す、すみません。高町先輩。遅刻してしまいって……」
「いえ。俺も今さっき到着したばかりなので。たいした時間は経っていません」
「そ、そうですか?でも申し訳ないです」

 恭也の返答を聞いても、那美は何度も繰り返し頭を下げる。
 昨日自分から誘っておいて、遅刻してしまったのを心の底から申し訳ないと思っているからだ。恭也からしてみれば。特に時間を指定されたわけではないので、那美が遅刻したと思ってはいないのだが、やはりそれも彼女の性分なのだから仕方ないといえば仕方ない。

「……と、となり宜しいですか?」
「はい、どうぞ」

 那美が恭也の隣に座ろうとしたところ、既にそこには久遠が身体を丸めて寝転がっている。それを見た那美は、クスっと微笑を漏らし、久遠を抱き上げた。そのまま、久遠が寝転がっていた場所に腰をおろし、自分の膝に久遠を寝かせる。
 持ち上げられた拍子に一瞬眼を開けたが、那美だとわかるとそのままなすがままで、那美の膝で大人しくしているようだ。

「高町先輩は、やっぱり不思議な人ですね。久遠が誰かの隣で寝るなんて今までありませんでした。懐いてくれたのは私や薫ちゃんくらいです」
「昔から動物には懐かれやすい体質でして。そのせいかもしれません」
「そうなんですか?でも、きっとそれだけじゃないです」

 膝元の久遠の毛を撫でる那美の横顔を、夕陽が差し込み赤く染める。
 その姿はまるで久遠の姉のようにも見え―――母のようにも見えた。普段の穏やか那美の母性を際立たせている。

 昨日のさざなみ寮に帰る途中に那美から伝えられた、相談があるという話。
 それを切り出さない那美だったが、恭也はじっと待っている。那美の昨日の緊張具合から相当に重要な話だと薄々感づいていたからだ。
 二人がベンチに座ってから数分が経つ。やがて決心がついたのか、那美は久遠を撫でる手を止めた。

「―――高町先輩は、昨日言っていましたよね。幽霊を見たことがあるって」
「はい。随分と昔のことですが」
「―――そう、ですか」

 再び沈黙が支配する。
 話すのを戸惑っているというよりは、何から話せば良いのか整理がついていないという印象を恭也は感じた。
 那美は緊張でからからに渇いた口を、必死の思いで動かす。

「……死者の未練。悪意。妄執。そういった負の【ナニ】かを原動力としてこの世に彷徨う悪霊。幽霊。怨念。無害の霊もいますが、殆どのそういったモノは生きている人に何かしらの被害を出します。そういったこの世に在らざるモノを説得、もしくは祓うことによって、この世の生と死の境界を守る。それが―――私達【神咲】の一族です」

 途中何度も詰まりそうになりながらも、那美は最後まで一気に言い切った。
 恭也の反応が怖くて、横を見れない。恭也は幽霊を見たことがあるといった。だが、だからといって自分が霊能力者だと言って果たして信用してくれるだろうか。信じてくれるだろうか。
 漫画やアニメの世界でしか有り得ないことを、幾ら知り合いだからといって受け入れてくれるだろうか。不安で手が震える。そんな那美に対して恭也は―――。

「―――破魔真道剣術神咲一灯流でしたか。確か神咲さんのご実家は鹿児島の方でしたよね?」
「……っえ?」
「京都でしたら神咲楓月流。青森でしたら神咲真鳴流だったと思いますが」
「え?え?え?え?」
「どこか間違っていたところがありましたか?」
「―――っい、いえ。あ、あってます」

 まるでそれが常識のように至極あっさりと答えた。
 当然慌てるのは那美だ。決死の覚悟で語った己の秘密を、当たり前のように知っていたのだから。

 恭也が答えたように、この日本において最高最大最強を欲しい侭にしている退魔の一族。古くから警察や政府お抱えの祓い師として名が知れた家系だ。その中でも恭也が語った三つの流派。神咲一灯流、神咲楓月流、神咲真鳴流は神咲三流として称されていた。その中で神咲一灯流の本拠地は鹿児島。先日那美から聞いたように、実家は鹿児島ならば簡単に想像がついた。

「別に驚くことはありませんよ。退魔師としては神咲の一族の名前は知れ渡っています。前々から神咲の名が気になっていましたので那美さんがそうであっても特に驚くことではないかと」
「そ、そ、そ、そうですか?」
「はい。そうです」

 如何にも昔から知っていました的な雰囲気を醸しだしている恭也だったが、最近まで退魔の世界には全く我関せずだったことは秘密である。
 那美としては、恭也に話そうとすること全てが、予想を遥かに超えた返答ばかりで、既にこの時点で頭がオーバーヒート寸前の状況だった。それでも、まだ一番重要なことを話していないことを思い出し、何とか我を取り戻す。

「その……高町先輩に、お願いしたいことがありまして。無茶なお願いだと思っています。それでも、私にはもう高町先輩しか頼れる相手が……」
「はい。別に構いませんが」
「―――い、いえ。まだ何も言っていないのですけど」
「先日の葉弓さんの台詞ではありませんが、俺もそれなりに人を見る目はあるつもりです。その神咲さんが、俺にしか頼めないと仰られるならば、できればそれに答えたいと思います」

 かぁっと頬が熱くなった。そんな言葉をかけて貰えるとは夢にも思っていなかったのだ。
 那美がこれから話そうとすることは厄介事だ。那美のことを神咲一族と知っているのだからそれがわからないはずがない。
 それなのに、恭也には一片の迷いもなかった。嘘偽りもない。本当に自分よりたった二歳しか違わないのだろうか。まるで父親のような安心感、温かみ―――傍にいてそんな安らげる気持ちになれる。
 
「あの、高町先輩は【祟り】ってご存知でしょうか?」
「……それは人間以上の存在による災いとか、そういった意味合いでしょうか」
「いえ、私が指している【祟り】とは、そうじゃないんです」
「では、もしかして大怨霊と呼ばれる悪霊のことですか?」
「―――っ!?」

 本当に吃驚した様子の那美が、呆けたように恭也へと向き直る。
 一体今日だけで自分は恭也に何度驚かされているのか、数えるのも馬鹿らしくなるほどだ。
 大怨霊とはそこまで有名な名称ではない。神咲一族では、三百年前に現れた存在は【祟り狐】。それより以前に存在したであろう怨霊のことを大怨霊と呼んでいる。詳しく調べていなかったら、那美とて大怨霊という言葉は知らなかっただろう。

「はい……三百年前に神咲の手によって封印された悪霊。日本全国の神社仏閣を破壊尽くした歴史上最大の霊障事件。【祟り狐】と呼ばれた存在が―――この子なんです」

 膝元で寝ている久遠を撫でながら、那美は語った。

「いえ、正確には少し違いますね。久遠に取り付いた悪霊。世界を呪い、人を憎み―――数百年の悪意の結晶。大怨霊と呼ばれる怨念に乗り移られたのが久遠です」

 肺の中の空気を搾り出すように、震える身体を無理矢理に意思の力で抑え付けながら那美は続ける。

「今から十年程前に久遠の中に封印された大怨霊は復活しました。その時には、神咲三流のみならず、数多の傍流亜流含めたその名を日本に轟かす退魔師が集まり対抗しました。その数は優に百を超えていたんです」
「百人、ですか」
「はい。結果は―――何とか再度封印はできました。但し、百人以上いた退魔師の殆どが引退に追い込まれるほどの被害を被ったんです」

 歴史に名を残す大怨霊を相手にするのだ。相当に優秀な霊能力者があつまったのだろう。
 それなのに倒すことはできなかった。神咲一族でさえ封印という措置をとるしかないほどに―――。

「その封印も―――もう長くは持ちません。近いうちに久遠の中に封じられた大怨霊は目覚めてしまいます。そうなったならば、かつての悪夢【祟り狐】として、久遠は破壊の限りを尽くしてしまいます。でも―――」

 ぎゅっと唇を噛み締める。

「私は、私は―――久遠を信じています。私と一緒に十年を過ごしてきた久遠を、友達を信じているんです。今度の久遠は、絶対に大怨霊に負けないって。【祟り狐】になんか戻らないって。久遠は、本当は誰よりも純粋で、優しくて―――命の大切さを知っている子です」
「……」
「―――だから高町先輩にお願いがあるんです。少しの間だけでもいいんです。私がどうしても久遠の傍に居られない時は、高町先輩が一緒にいていただけませんか?」
「傍にいるだけでいいんですか?」
「はい。久遠がこんなに懐いたのは高町先輩となのはちゃん以外これまでいませんでした。当然ですよね―――さざなみ寮にくるまで神咲の家にいた久遠は、多くの人の憎悪をぶつけられてきたんです。人に懐くはずがありません」

 視線に悲哀を乗せて、久遠を見つめ続ける那美に、恭也は何もいえなかった。
 普段の彼女とは思えない、神咲那美という少女はとてつもない何かを背負っている。

「逃げるようにさざなみ寮にきました。でも、やっぱり久遠は他の人に懐かなくて―――でも、諦めれなくて。久遠の心の闇を振り払おうと必死で。誰にも、誰にも頼れなくて―――」

 ポタリと何かが滴り落ちる音が恭也の耳に届く。
 堪えきれなくなった涙が、那美の両目から零れ落ちていた。

「だから、久遠がなのはちゃんと高町先輩に懐いてくれたのが嬉しくて―――。お願いです、高町先輩。封印が解けるまででいいんです。久遠のことを、お願いします」
「―――わかりました。出来得る限り、ご協力します」

 恭也の返答を聞き、バッと顔を上げた那美は、暫く呆然としていて―――ようやく恭也の答えを理解できたのか、涙を流しながら笑顔を浮かべた。それは不思議なほどに、恭也の心に強く残される、とても美しい笑顔だった。

 暫く見詰め合っていた二人だったが、自分が涙を流していることに気づいた那美は、顔を赤くする。ベンチから慌てて立ち上がると目元を手の甲で拭った。
   
「あ、あの……高町先輩有難うございました!!その、またお話に付き合ってください」

 それだけ口早に言い切ると、八束神社の階段の方へ走っていき、そのまま逃げるように姿を消していった。
 泣き顔を見られてしまったのが恥ずかしかったのだろう。恭也自身も気持ちはわからないでもない。もし他の人の前で泣いてしまったら、できれば逃げ去りたいと思ってしまうはずだ。
 
 完全に那美の姿と気配が消えた後、恭也はため息をつきながら空を見上げた。数分程度しかたっていないと思ったが、先程より陽が傾いていた。思った以上に話し込んでいたらしい。
 しかし―――那美の話を聞くに、どうやら大怨霊は想像以上の怪物のようだ。
 神咲一族の総戦力。それだけの戦力を持ってしてようやく封印することができたという。しかも、そのほとんどが引退に追い込まれる。一体どれほどの戦闘力を誇るのか、不謹慎ながら少しだけ見てみたいと思ってしまうのは、強者を求める剣士としての性かもしれない。

「……きょ……うや……」
「―――?」

 この場には恭也以外の人間はいなかった。それは完全に、完璧に間違いない。恭也の気配察知を潜り抜けることができる相手ならば話は別だが、そんな相手がこの場にいる可能性は限りなく低い。多少驚いていたところ、何故かグンっと膝に体重がのっかかる。あまりに突然すぎるその出来事に久遠が膝に乗ってきたのかと思って、視線を膝に向けた。

 するとそこには―――少女が居た。恭也の膝を跨ぐように、年齢にして十歳程度だろうか。白と赤を基本とした巫女服。また巫女服かと思わなくもない恭也ではあったが、それがやけに似合っている。金色―――いや、狐色とでもいえばいいのか、綺麗な長い髪。そんな髪の間からヒョコっとでている二つの耳。ただの耳ではない。人間とは違った獣耳。狐耳と言った方が正しいのかもしれない。さらには腰の少し下から出ている尻尾。
 そんな可愛らしい少女が恭也の膝に跨って上目遣いで恭也を見つめていたのだ。

「……幻覚、か」

 疲れているのかと、恭也は眼をつぶって右手の親指と人差し指で軽く瞼の上から揉み解している。そのついでに深く息を吸い、そして吐く。深呼吸を繰り返し、冷静さを取り戻す。
 十数秒たってようやく眼を開けた。するとそこには―――。

「……?」

 やはり見間違いではなかったようで、狐耳の少女がいた。
 恭也がなにをやっているのか理解できないのか、首を傾けている。
 冷静沈着を体現している恭也ではあるが―――突然、見知らぬ少女が膝の上に跨っていたら流石に固まった。しかもただの少女ではない。巫女服姿で、獣耳。尻尾まで生えている。果たしてそんな少女を膝に乗せて見詰め合っている光景を見られたらどうなるだろうか。間違いなく人生が終わる―――色んな意味で。

「あー、その。キミは?」
「……?」

 とりあえず他の人間に見られる前に人生最大の窮地を乗り越えようと、恭也は少女に質問をする。しかし、少女は首を捻るだけだ。言葉が通じていないというよりも、何故そんなことを聞くのだろう、そんな様子にも見て取れた。

「……くおん……」
「―――なっ」

 そして少女の発した言葉に驚愕した。いや、待てと恭也が周囲を見渡してみると、今の今まで隣にいた筈の久遠の姿がなくなっている。先程那美が慌てて去っていったときもついていっていなかったのは間違いない。
 それからどこかへ行ってしまったということもないだろう。それだったら鈴が鳴って気づいたはずなのだから―――。

「―――そうだ。鈴、だ」
「……?」

 もし本当に目の前の少女が久遠だったならば首に鈴が―――。

「―――鈴が、あるな」

 少女の首には久遠と全く同じ鈴がついていた。
 これは信じられないことだが、信じるしかないのかと今日一番深いため息をつく。一体どれだけ幸せが逃げていっているのだろうと心底恭也はそう思った。
 
 改めて恭也は膝に乗っている久遠をよく見てみる。しかし、何度見ても久遠の姿は変化することはなかった。
 もしかしたらコスプレでもしているのかと、恭也は久遠の耳を触ってみる。

「……ん……やぁ……」

 なにやら柔らかいのか、硬いのかいまいちはっきりとしない触感が手に伝わってきた。だが、手からは久遠の体温を感じる。間違いなく作り物ではないことを恭也は確認できた。
 一方久遠はくすぐったかったのか、眼を細め、身体をよじる。とても十歳程度の少女とは思えない色っぽい声をあげたので、突然耳を触られた久遠以上に恭也の方が吃驚してしまった。

「すまん。不躾だったな。久遠―――でいいのか?」
「……うん……」

 どうやら間違いなく、目の前の狐耳少女は―――久遠のようだ。
 こんな有り得ない事が起きるのだろうかと、様々な疑問が頭の中に湧き上がって来る。
 だが、恭也はそれらの疑問をとりあえず、片隅に置いておき、無理矢理に納得することにした。

 ―――久遠は、そういうモノなんだ。

 何せ、この街は異常だ。異質で異端で異様な都市なのだ。
 もはや残り僅かとなった御神の剣士。世紀の歌姫。神才の申し子。夜の一族に自動人形。霊能力者に、寿司屋の息子―――はあまり関係ないかもしれない。伝説にも名を残す猫神。それに付き従う暗殺集団北斗。永全不動八門最強の剣士に、永全不動八門にて黄金世代と呼ばれる少女。人と闇夜の世界を守護する最後の砦達。
 それらに比べたら子狐が、人間に化けるくらいどうだというのだ。

「ああ、そう考えたら本当にたいした問題ではないな」
「……?」  
「いや、何でもない。気にするな」
「……うん」

 【妖狐】という妖怪の一種だろうかと恭也は久遠の正体にあたりをつける。
 恐らくは日本で鬼と並んでメジャーな妖怪の一種だろう。長く生き続けた狐が、特殊な異能を持った結果人にも変化できるようにもなるという。
 成る程、と納得する。だからこそ、【祟り狐】と呼ばれるようになったのかと。

「その姿はよく変化するのか?」
「……ううん……」

 今までただの子狐として関わっていた久遠が何故突然、この状態を見せてきたのか不思議に思った恭也が問い掛ける。
 それに、首を振る久遠は、潤んだ瞳でさらに恭也に密着してきた。最近はやけに女性と密着する機会が多いと少しだけ内心で焦っていた。勿論、久遠は見かけはまだ十歳程度の少女なのだが―――何故か異常なまでに怪しい色香を漂わせている。

「……それなら、何故突然?」
「……わから、ない……くおんの、なかの……もうひとりの、くおんが……」

 両手の手の平を胸に当てる。久遠の言うとおり、彼女自身理解できていなかった。
 この変化した姿を人に見せることは那美に禁止されていたのだ。海鳴に来て以来、誰一人としてこの姿を見せた者はいなかった。
 だが、心の奥底で【何か】がざわめいている。久遠に封印された、黒い感情の塊が―――雄叫びをあげていた。
 心臓が痛いほどに胸をたたいてくる。そのまま破裂してしまうのではないかと、久遠は錯覚を感じた。
 身体中の血管を駆け巡るのは、果たしてなんという感情なのだろうか。

 憎悪。悪意。殺意。怨恨。嫉妬。そしてそれ以上の―――歓喜。 

「……きょう、やぁ……」

 幼い体躯。熱い吐息。沸騰寸前の体温。妖しい香り。潤んだ瞳。 
 
 久遠の恭也を呼ぶ声がやけに弱弱しい。
 遂には彼の胸元に収まる形となった久遠が、恭也の服を力いっぱい握り締め、その強さゆえに指が白くなっている。
 引き寄せ、求め、二度と離すまいというように頬を胸にこすり付けてきた。
 肩が小さく震える。顔を胸に押し付けてきているので、恭也からは、今の久遠の表情は見て取ることが出来ない。
 
 視覚がもたらすのは、幼くも【女】を感じさせる丸みを帯びた体躯。
 嗅覚がもたらすのは、懐かしき悪意の香り。
 聴覚がもたらすのは、熱を持った呼吸。
 触覚がもたらすのは、破裂せんばかりの鼓動と柔らかな感触。

 久遠ではない【ナニ】かが、訴えてきている。叫んでいる。
 私はココにいるぞ、と。明確な意思と、悪意を見せ付けてきている。
 
 身体中の感覚が。第六感が。意思の奥底に閉じ込めた悪意の結晶が、声なき声をあげていた。
 
 バチリと恭也の視界に黒い稲妻が弾け、乱れ飛んだ。
 これは、この既視感は―――。

「す、すみません。高町先輩。あの、久遠を見ませんでし―――」

 ピシリと空気が凍った。
 久遠に意識の大半を持っていかれていた恭也はこの神社に人が近づいてきているのに気づいていなかった。その人物は那美だったのが不幸中の幸いだったのだろうか。
 潤んだ瞳で拙いながらも恭也の名前を連発して、頬を胸にこすり付けることに夢中な久遠は、那美に全く気づいていなかった。
 恭也はギギギっと錆びた機械のように首を那美の方へと向ける。那美は恭也と久遠の繰り広げている妖しい世界に固まってしまっているようだ。
 さて、どんな言い訳をしようかと、頭脳をフル回転。しかし、まともな言い訳を思いつくことはなかった。恭也からしてみればむしろ、この状況でどう言い訳をすれば打開できるのか神に聞いてみたいほどだ。

「く、久遠―――な、なにやってるのー!?うらやま―――じゃなかった、高町先輩に迷惑かけちゃ駄目でしょー!?」

 砂埃が巻き起こるほどの速度で駆け寄ってきた那美が、相変わらずべったりとくっついている久遠を引き剥がす。
 頬を擦りつける事に夢中になっていたせいか、あっさりと引き剥がされた久遠が残念そうに、眉を顰めた。

「……な、み?」
「久遠、今日はもう帰るからね。早く変化といて」
「……うん」

 ポンっと音が鳴ったかと思えば、久遠の姿は何時もと同じ子狐の姿に戻っていた。
 おお、本当に変化するのかと興味深そうに子狐になった久遠を見る恭也だったが、そんな子狐久遠を抱いて那美が頭を下げてきた。

「高町先輩、あの―――このことは内密にお願いできますか?」
「……ええ。勿論です」
「有難うございます。それでは今日はこれで失礼します」

 慌てて久遠を抱いた那美が再び去っていった。幸いにも那美の恭也を見る眼は、変な人を見る眼ではなく、普段通りだったことに安堵した。
 もしこれが美由希だったら、凄い目で見られたことに想像は難くない。

「しかし、今の感覚は。まさか、な―――」
「ふむ。剣士殿はろりこんというやつだったか。それならば我によくじょーしないのも無理はない」
「―――っな!?」

 ベンチの後ろ。大きな木の幹にもたれかかるようにして、気配を感じさせないまま空がいた。
 厭らしいほどの笑みを浮かべ、空は恭也へと近づいてくると、隣に腰を下ろす。

「いやいや。全く剣士殿も人が悪い。あのような少女に言い寄られて、コーフンしてしまったのか?」
「……何のことでしょうか」
「くっふっふ。まぁ、そういうことにしておこう。それに恐らくそなたがあの狐に感じていたのは―――同族意識」
「……」
「そなたとあやつ。この世界にただ二人だけの―――」

 ドクンドクンっと心臓が脈動を早くする。
 緊張ではなく、空の発言が的を射ていただけに―――。
 深層意識が、心が、魂が、それら全てが久遠を求めている。いや、正確には―――。
 
「果てさて、あの子狐が先代の大怨霊の器か。三百年前に比べれば随分と可愛らしくなったものだ。それでも尋常ではないほどの、怪物よ」
「生憎と俺には久遠の力が理解できませんでしたが……」
「封印がされておるからそれは仕方あるまい。だが、封印から解放されれば嫌でもわかるぞ?」
「―――あまり体感したくはありませんね」

 ふぅっと息を吐く恭也は、姿が見えなくなった久遠を思い出す。
 見かけからは想像できないが、封印が解かれた時には一体どんな状態になるのか。想像もできない。巨大な狐の怪物にでもなってしまうのか。それとも他の空想上の怪物のような姿になってしまうのか。
 だが、一応は三百年前から【祟り狐】と呼ばれているのだから、見掛けは狐に見えるのだろう。 

「ああ、それはそうと―――そなた、随分と厄介な女に付け狙われているようだが。一体何をやらかしたのだ?」
「俺を狙っている女性ですか……」
「心当たりがありすぎて誰かわからないとか言わぬよな?」
「―――俺をなんだと思っているんです」
「いやいや。骸も随分と女性関係には苦労していたようだぞ?故にあやつに似たそなたも相当に苦労しているのではと予想は簡単につくのだが。先程の少女にも言い寄られるくらいであるしな」
「……くっ」

 見られてはいけない人に見られてしまったことに歯噛みする。
 やはり年上の女性とは相性が悪い。空は年上も年上。超が十個くらいつく年上の女性だろうが。

「今何か不埒なことを考えておったな?」
「いえ、特には」

 そして、やけに鋭い。じとーとした視線がツンツンと横を向いた恭也の頬に突き刺さってきた。
 恭也も視線をあわせないようにすることで、自分の思っていたことを悟られないようにするが、恐らく無駄だろう。
 こういった時の女性の勘の鋭さは異常なのだから。

「まぁ、よい。それであの化け物はどうするつもりだ?」
「―――この地に、まだ居ますか?」
「嫌というほど感じるぞ―――あの、怪物の気配を。未来視の魔人、どこかは分からぬが確実にいる。しかもあやつが【視】ているのはそなただ、剣士殿」
「ええ、わかっています」

「全く、珍しいにもほどがある。世界が滅びても、眉一つ動かさぬであろうあの怪物が―――ただ一人の人間を気にかける。これはどういうことか」
「俺が聞きたいくらいです。何か有効な手段とかはあるんですか?」
「常に注意を払っておくしかあるまい。流石の我も完全な状態でなければ【アレ】と戦うには分が悪い。ある意味大怨霊より厄介な相手といっても過言ではないぞ」

 空は若干不機嫌そうに鼻を鳴らす。
 彼女は認めていた。あの化け物の強さを、恐ろしさを。完全な状態でなければ勝負にもならないということも。
 もし仮に―――封印を解き全力で戦ったとすれば、命と引き換えにだが殺しきる自信はある。だが、恐らくこの海鳴という地は百年は草木も生えぬ死の大地へと変貌するだろう。
 空とて自分の命と引き換えにまでして、未来視の魔人と戦う理由もない。彼女は確かに昔と比べると穏やかになりはしたが―――それでも、魔獣だ。現在存在している、日本を滅ぼしかけた最古の妖怪の一匹だ。人間相手にそこまでの義理はない。しかし、果たして目の前の剣士がそれを望んだらどうするだろうか。全てを投げ打ってでも頂上決戦を開始してしまうかもしれない。あくまでも、【かも】ではあるが、そんな想像をした空は薄く笑った。

「さて、そろそろ剣士殿は帰宅する時間ではないか?あまり遅くなると家の者に心配をかけるぞ」
「ええ、そうですね。空さんもお気をつけて」
「くっふっふ。心遣いに感謝しよう」

 何時もと同じ様に恭也は階段を降り、空は国守山に向かって歩いていく。
 森を通り抜けて一体どこに行っているのだろうと毎回気になる恭也だったが、まさか尾行するわけにもいかないので、何時か話して貰おうと心に決める。
 時計を見てみると時間は大体六時を示している。もっと時間が過ぎているかと思っていたがなんだかんだで一時間程度の出来事だったのかと、恭也にとっては多少意外であった。
 もっともこれ以上時間を費やしてしまっていたら、晩御飯に遅れる可能性もあったので、恭也としてみれば助かったのも事実だ。折角レンや晶に作ってもらっているのだから、遅れては申し訳がない。

 多少早歩きで帰宅していたかいがあってか、気がついたときには翠屋の前まで到着していた。
 既に太陽は完全に落ちているので、薄暗い空間に、翠屋の窓から光っている人工の灯りが眩しく光っている。
 今日も人手は足りているということは前もって知らされているので、わざわざ寄らなくてもいいかと、恭也はそのまま翠屋を通り過ぎる。それにタイミングを合わせるかのように、翠屋のドアが開き―――。

「あら、恭也さんじゃないですか。こんばんは」
「―――っと。こんばんは、葉弓さん」

 カランカランと鐘の音がなって翠屋のドアが閉じる。そこから出て来たのは神咲葉弓だった。いや、その後ろにもう一人女性が連れ立っている。
 葉弓より幾分かは幼く見える。といっても、恭也よりは年齢的な面でみれば恐らくは年上だろう。雲ひとつない青空のように澄み渡った青髪。ショートカットとミディアムの丁度中間くらいの長さだ。温和な葉弓の雰囲気に比べれば、少し勝気な空気を纏っている。

「昨日はお世話になりました。翠屋に案内していただけて本当に助かりました」
「いえ。こちらこそ翠屋であんなにお土産を購入していただいて感謝の言葉もありません」
「いえいえ。さざなみ寮のみんなが喜んでいました。だから今日も買いに来たんですよ」

 クスっと葉弓は手に持っていた紙の菓子箱を恭也に見せる。
 どうやら昨日に引き続いて、今日も翠屋で買い物をして貰えたようで、恭也が頭を下げた。 

「葉弓さん。この人は?」

 恭也と葉弓の会話が一段落したところを見計らって、彼女の背後にいた女性が声をかけてくる。

「あ、ごめんなさい。こちらこの翠屋の店長さんの息子さんで、那美ちゃんのお友達の恭也さん」
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。高町恭也と申します」
「翠屋の!?それに那美ちゃんの友達―――それは失礼しました。うちは【神咲楓】と言います。那美ちゃんと仲良くしてもろうて、感謝しとります」

 神咲楓という名前を聞いて、恭也の僅かに眉が動いた。
 京都を本拠地とした破魔真道剣術神咲楓月流の最年少正統伝承者。この地に訪れるであろう三人の神咲一族の一人。
 隙のない身のこなし。細身ではあるが鍛えこまれているのが一目でわかる肉体。抜き身の刀のように研ぎ澄まされた雰囲気。そのどれもが一流の域。美由希でも勝てるかどうか、判断が難しい。一言でいうならば―――達人。

「いえ。俺だけではなく、妹も神咲さんにはお世話になっていますし」
「葉弓さんの言うとおり礼儀正しい人ですね」

 恭也は何故自分に楓が微妙に敬語を使ってくるのかわからなかった。
 その謎は実は簡単なことだ。恭也は現在私服。つまり、恭也の大人びていて、老成した雰囲気から、楓は恭也が自分よりも年上だと思ってしまったということだ。確かに恭也は制服さえ着ていなければ、二十代半ばに見える外見だ。
 別に老けているというわけではなく、単純に大人っぽく見えるというだけだ。
 勿論楓も恭也のことは聞いてはいるが―――那美の友達である美由希の兄と教えられたため、そのような勘違いを起こしてしまっていた。
 もっともその誤解も直ぐにとけることになる。その勘違いを知ったとき、楓は恥ずかしさのあまりにさざなみ寮の床を転がりまわったという。

 そしてこれより三日後―――神咲一族最強の祓い師、神咲薫が海鳴に来訪。
 【祟り狐】久遠との最後の決戦が、幕を開ける。
  








-----atogaki-----
楓さんの活躍は次話からです。本当に活躍するかは―――(ちらっ
ちょっと短いですが@2話で大怨霊編多分終了です。 



[30788] 二十四章 大怨霊編⑦
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2013/01/21 22:38















 十二月二十三日金曜日。
 今年は土曜日にクリスマスイブ、日曜日にクリスマスを迎えることが出来、世の中のカップルは大層幸せな年だと言われていた。しかし、一人身の者としては非常に肩身が狭いともいえる。

 海鳴駅前も明日に備えた多くの人たちが浮き足立っていた。時間は午後五時を少し回った程度。夕陽が落ちつつある時間でもある。駅の前のロータリーは、多数の人が待ち合わせをしたり、通り過ぎたりで、混雑していた。
 実はこのロータリーは一度破壊されたことがあるという。もう数ヶ月以上前の話なのだが、地面が爆発物でも仕掛けられたのか抉られていたことがあったという。
 
 その犯人は未だ見つかっていない。警察もまさか、素手でそれをやったと気づいていないためなのだが、犯人捕まらず迷宮入りの事件となっていた。
 そこの一画の噴水がある場所。噴水を囲むようにベンチが幾つも置かれている。
 ベンチに座り、人を待っている様々な老若男女がいるのだが、そのうちの一人が―――神咲葉弓だった。

 普段【仕事】をしている時は式服を着ているが、流石の彼女も今回は普段着で待ち合わせをしている。
 葉弓の温和な雰囲気に合わせるように、白をベースとした清楚な服を着ていた。冬の寒さに対応するためにロングコートも着ているのだが、ヒュゥっと風が吹きその寒さを誤魔化すためにコートをポケットに手を入れてブルリと震えた。

 暖冬と言われていた今年ではあるが、それも終わりを告げている。
 今週あたりから、急激に冷え込んできていた。日本全国も同じで各地で雪まで降り始めているという。
 海鳴もまた夕方以降コート手袋は必須となっている。そろそろ初雪がふるのではないかと天気予報でも予想されていた。

 相手を待たせる訳にもいかないので、早めにさざなみ寮をでてきたのだが、その判断は誤りだったかもしれないと自分が吐く白い息を見つめる。
 さざなみ寮からここまで距離があるため、ある程度時間を計算してきたのだが、葉弓は自分が思ったよりも早く到着してしまったのだ。
 ちなみに楓はさざなみ寮でぬくぬくとお茶をしている。青森育ちということもあり寒さに強そうに思われている葉弓でも、寒いものは寒い。同じ人間なのでそれに違いはなかった。

 寒さに震えて、しかも一人で待ち合わせをしている葉弓は時間の流れが非常に遅く感じる。
 携帯やスマートフォンを弄くるのが好きな人間だったならば、待ち時間もたいしたことないが、生憎と彼女はそういったものはそこまで利用していなかった。

 あくまでも通信の手段としてしか携帯電話を使用していない。仕事で警察関係の人間と連絡を取るか、神咲真鳴流の仲間達。そして薫や楓といった友達とメールをするくらいだ。もっとも、葉弓と同じく薫も楓も仕事が忙しく、碌に連絡が取れていないというのが実態ではあるのだが。

「―――ハァ」

 息を吐くたびに白い息が空気に消えていく。
 待ち人の連絡によると、恐らくは後数十分程度で到着するとのことだ。その数十分が非常に長い。
 それも仕方ないといえば仕方ない。何せ、鹿児島からここまでは流石に遠い。
 気軽に来れる距離でもないのも事実だ。

 一際強い冷風が吹き、葉弓は再びブルリと身体を震わせた。ポケットに入れている手がかじかんでいる。
 コートだけは着てきたのだが、手袋をしてくるのをすっかり忘れていたのだ。

 いや、というよりもあまり必要ないとおもって敢えてつけてこなかったのだが、今日の寒さは今年一番なのかもしれない。
 これは何か暖かい飲み物でも買ってこようと決断した葉弓が立ち上がろうとしたとき、突如頬に感じる暖かい感覚。ペタリと熱い金属的な何かをつけられ、びくっと葉弓の身体が反応した。

「―――ひゃ、ひゃぁ!?」

 葉弓は慌ててベンチから立ち上がり、ばっと勢いよく後ろを振り返る。
 すると背後には気配一つ感じさせず、最近知り合った男性―――高町恭也が少しだけ意地悪そうに口元に笑みを浮かべて立っていた。彼の手には、葉弓を驚かせた原因でもある、缶コーヒーが握られている。これがどうやら葉弓の頬に当てられたのだろう。

「―――も、もう。恭也さん。いきなりそんなことされたら吃驚しますよ?」
「失礼しました」

 口では謝っているが、全く反省している様子は見られない。
 周囲の人たちが葉弓の驚いた声に、注目していたが、葉弓と缶コーヒーを持つ恭也の姿を見て、どこか納得したかのように関心をなくす。
 二人は気づかぬことだったが周囲の人間からしてみれば、待ち合わせに遅れた彼氏が、彼女を驚かせていたというようにしか見えていなかった。このバカップルめ……それが周囲の人間が皆抱いた気持ちである。

 いや、葉弓は一拍を置いてそれに気づく。
 まさか、周囲の人間に違うんですと行って回るわけにもいかず、対処に困った葉弓の頬が赤くなる。
 そのように男性と勘違いされるのは実は初めてで、心臓の高鳴りが妙に激しく聞こえた。

「そ、その……恭也さんはどうしてこちらに?」
「井関という店に少々用事がありまして」
「井関さんですか?」
「はい。刀剣類専門店ですが、昔からお世話になっていまして。そちらに所用がありまして、今から帰るところです」
「あら。そういえば、恭也さんは美由希ちゃんと同じで剣術をされているのですよね」
「美由希ともにまだまだ未熟者ではありますが」

 ようやく心臓の鼓動が治まりつつあった葉弓はベンチに座りなおす。そんな葉弓に、恭也は持っていた缶コーヒーを差し出した。一瞬キョトンとした葉弓だったが、反射的に差し出された缶コーヒーを受け取る。

「えっと、これは?」
「寒そうにしていましたので、差し入れです」  
「え、でも―――悪いです」
「普段翠屋をご利用していただいているお礼と思っていただければ幸いです。特に葉弓さんにはここ数日大変お世話になっていますし」
「わかりました。それでは遠慮なく。有難うございます、恭也さん」

 クスっと微笑を浮かべた葉弓がかじかんだ両手で缶コーヒーを包むように持つ。
 買ったばかりなのだろう、非常に暖かい。この寒空の下では熱いと感じてしまうかもしれないが、不思議と心地よい暖かさであった。初めて会った時は一見無愛想にも見える青年だったが、付き合って見ればわかる。
 恭也のそれとない優しさを。那美の友達として付き合えている理由がわかった。こんな青年ならば、安心して彼女を任せられるとも葉弓は思った。

「それでは俺は失礼します」    
「―――っあ。その、恭也さん」

 頭を下げて暇を告げた恭也を、葉弓は見送ろうとしたのだが―――何故か別れの言葉が出ず、その代わりに名前を無意識のうちに呼んでいた。

「はい。どうかしましたか?」
「―――実は、知り合いを待っているのですが。その、まだ暫くかかるようでして。よろしければ、お話に少しでもいいので付き合って頂けないでしょうか?」

 そして無意識のうちの言葉が続く。
 別に一人で待っていても良いはずなのだが、このまま別れるのがほんの少しだけ寂しく感じてしまったのだ。

「ええ。葉弓さんが宜しければ」
「有難うございます、恭也さん」

 恭也の返答を聞き、ほっと胸を撫で下ろす。
 横に失礼しますと一言断ってから、葉弓の隣に腰を下ろした恭也だったが、三人掛けのベンチで葉弓以外にも他の人が逆端に座っていたため、空いている真ん中に恭也が座る形となった。
 三人で座っているため恭也と葉弓の体が密着―――というには言い過ぎだが、それに近い状態になっている。
 それに僅かに鼓動と体温をあげて、緊張し始めた葉弓の笑顔が微妙にぎこちなくなっていた。

「あ、あの―――その、良い天気ですね!!」
「は、はぁ。そうですね」

 唐突な葉弓の擦れるような声に、空を見上げてた恭也が頷く。
 既に夕陽も落ちて、夜といってもいい時間帯だ。空も雲が覆っていて、とても良い天気という話ではない。むしろ、この時間帯で良い天気も何もないだろう。

 ―――駄目駄目だ、私。

 幾ら緊張したからといって良い天気はないと反省する葉弓。
 とりあえず落ち着こうと、深呼吸を繰り返す。 

「その、恭也さんは剣術を習っているとのことですけど、どちらの流派なのですか?」
「―――そうですね、御神流。正式名称はもっと長いのですが、一応は世間からはそう呼ばれています」
「御神流……すみません。私は聞いたことが、ありません。もしかしたら楓ちゃんなら知っているかもしれませんね」
「葉弓さんが知らないのも無理はないかと。もう既に十年以上も昔に裏舞台からも姿を消した剣術ですから」
「そうなんですか?」
「ええ。俺が知っている限り現在の御神流の使い手は、俺と美由希。それにもう一人の三人だけです」
「さ、三人ですか!?」

 あまりの少なさに葉弓が驚きの声をあげた。
 神咲とて、特殊な一族だ。人間誰しもが霊力自体は所有しているとはいえ、それが優れた人は数少ない。
 彼女の親戚である神咲薫や楓クラスの霊力の持ち主は日本中を探したとしても数えるほどだ。ましてや葉弓が知っている槙原耕介という男は規格外。恐らくは神咲一族の歴史でも上から数えたほうが早いほどの怪物。
 身近にそういった存在を知ってはいるが、それでもやはり実戦にて退魔師として戦える者は現在の神咲三流でも多くはない。しかし、流石に三人ということはありはしない。というか、ここに集結する神咲三流の当代と槙原耕介であっさりとその三人の人数を超えてしまう。

 一応恭也は三人―――つまり、恭也、美由希。そして美由希の母である美沙斗と言ったのだが、そこに御神流【裏】の人間を入れてはいない。
 御神流【裏】の人間を実は恭也は把握しているが、それを言い出すと説明しにくくなるのも事実故に、敢えて三人だけということにしたのだ。
 
 御神流【裏】の剣士達は強さというよりも、怖さが武器だ。人を殺すことに何の躊躇いもない。彼らは勝つためならばどんな汚い手段でも、どんな非道な手段でも使う。故に恐ろしい。
 今の美由希でも御神流【裏】の連中とある程度は戦えるだろう。いや、その中でも上位に位置することは出来る。だが、人を殺めるという点においては美由希は躊躇するだろう。
 別にそれが悪いとは恭也は思っていない。逆に人を殺すことに躊躇わない方が人としておかしいのだ。そう―――彼らは人としておかしくなった。既に人と言っても良いか分からない殺戮集団だ。
 それに、単純な強さという点でも美由希を上回る剣士は数多い。恭也が知っている限り、数人はいる筈だ。

 不破咲。全盛期は当に過ぎていながら、その強さは計り知れない。身体能力は他の人間に比べれば劣るだろうが、技術と経験という点で見れば、彼女に勝るものはいないだろう。
 不破和人。咲の血を受け継ぐ青年。御神流【裏】で起きる苦労を全て背負った青年で、飄々としているが、技術という点で見るならば、今現在の美由希を遥かに超える。
 不破青子。和人の妹。無口で無愛想ではあるが、仕事はきっちりこなす。全体的な動き、特にスピードに特化した少女。神速の域に軽々と踏み入った剣士。
 
 そして―――。

 【不破一姫】。恭也の従兄弟。即ち―――不破一臣の唯一残された娘。不破家の呪い全てを一身に受けた少女。力も技もスピードも、経験も、心も、何もかもが規格外。人を殺すことだけに特化した、御神流【裏】の体現者。今の美由希ではどう足掻いても奇跡が起きても勝ち目のない怪物だ。この少女の領域に至るには、美由希はどれだけの時間がかかるだろう。一年では足りない。二年でも厳しい。だが、恭也は信じている。何時か必ず美由希はこの少女を超えることを。

 最後に会ったのは何時だろうか。咲の家に逗留した時に、何時も後ろについてきたことを思い出す。あの頃でさえ、背筋に冷たいものが走るような少女だった―――別の意味で。スクール水着で風呂場に乱入してきたり、夜寝ている間に寝床に侵入してきたり、食事の時に彼女の箸で食べさせようとしてきたり―――。
 
「その、恭也さんはどのように御神流の鍛錬をされているのですか?美由希ちゃんは、恭也さんが指導していると聞きましたが……恭也さんは、もう一人の方に?」
「―――ああ、いえ。俺は父に基本的に御神流の全ては叩き込まれていましたから。それと父が残した御神流についての手帳もありましたし」
「……そ、そうなんですか」

 遠い眼で過去の思い出に浸っていた恭也は、葉弓の呼びかけで我を取り戻す。 
 対して葉弓は恭也の返答を聞き、開いた口が塞がらないとはこのことだ。
 まさか二十にも満たぬ年で、本当に妹を指導しているとは夢にも思ってはいなかった。葉弓のイメージしている高校生というモノを完璧に破壊されたような気分になった。

「ところで一つお聞きしたいのですが、宜しいですか?」
「あ、はい。何でしょうか、恭也さん」
「葉弓さんや楓さん。薫さんの目的は久遠の抹殺でしょうか?」
「―――っ!?」

 まるで日常会話をするかのように、息を吸うかのように、気軽に恭也が確信をつく質問をした。
 葉弓の言葉が詰まる。
 心臓が先程までとは別の意味で鼓動を早めた。気温が低いというのにじわっと嫌な汗が滲み出る。
 
「神咲が久遠にかけた封印は今月が限界と聞いています。それなのにこの地に来るのは神咲一族からは僅か三人。祟り狐に対抗するにはあまりにも少なすぎる戦力だと思います。無論、神咲三流において最年少で正統伝承者となった御三方だったとしても。となれば、祟り狐の封印が解かれる前に依り代である久遠を斬ることを目的としていると考えるほうが自然だと」
「―――恭、也さん、貴方はどこで、その情報を」
「後半部分は殆ど推測です。もし、貴方達が久遠を助けるために集結しているのならばこれ以上の失礼はありません。謝罪させていただきます」
「……」

 恭也の淡々とした口調に、葉弓は何も答えられない。答えることが出来ない。
 理由は簡単だ。恭也の予想が正しかっただけに、葉弓は返答を窮している。今の神咲の総戦力であるならば、祟り狐を倒すことも可能だろう。だが、十年も前の事件は記憶に新しい。神咲三流の正統伝承者達が死亡、もしくは引退に追い込まれるという大事件。それ以外の祓い師達にもどれだけの被害が出るか。そのような危険を踏むことは出来ないというのが、神咲三流の【上】が出した結論だ。
 葉弓や薫は那美と久遠のことを信じている。彼女達の絆を信頼している。それでも、それは個人としてだ。
 神咲三流の伝承者として、神咲三流を背負う者としての判断は―――久遠の封印が解ける前の抹殺。

 無論、本来ならば恭也の予想は間違っていて、久遠を助けるために自分達は来たのだと、答えるのが正しかったのだろう。
 だが、そう答えられなかった。恭也の言葉に嘘をつきたくなかったというのもあるが―――それ以上に、本能が嘘の答えを発することを拒否していた。
 隣に座っている青年の底知れぬ気配に当てられて、葉弓は言葉に詰まっていたのだ。

「あな、たは……それを知って、どうされるのですか?」
「―――そうですね。正直に言いますと俺個人としては、それは正しい判断だと思います」
「……え?」

 葉弓の目が点になった。
 それは当然だろう。恭也は那美や久遠と親しくしているということは聞いている。
 それなのに、その久遠を抹殺しにきたという自分達の行動が正しいとはっきり言われたのだから。てっきり卑怯者を見る眼で見下されるかと思っていたのだ。

「久遠に取り付いているという祟り狐の話は聞いています。日本歴史上最悪といっても過言ではない怨霊だとか。もし蘇ったらどれだけの被害がでるかわかりませんしね。被害を抑えられるのならば、それを第一の手段として【神咲】が判断を下すのも至極当然だと」
「―――っ」
「もしも俺が葉弓さんの立場だったら―――きっと同じ判断をしたでしょう」

 それに―――と一息ついて恭也は続ける。

「葉弓さんが久遠の抹殺を自分から望んでするようには見えません。そんなことをする人ではありません」
「……そんな、ことをする女かも、しれませんよ?」
「那美さんにも言いましたが、俺はこう見えても人を見る眼はあるつもりです。勿論、葉弓さんほどではありませんけど」

 ―――流石は神咲真鳴流の最年少伝承者。

 誰かが言う。

 ―――お前は、神咲三流に数えられる【我ら】の代表だ。

 誰かが言う。

 ―――お前は完璧であり続けねばならない。それが正統伝承者として選ばれた宿命。

 誰かが言う。

 ―――あの祟り狐を殺せ。もはや過去の過ちを二度繰り返してはならぬ。

 誰かが言う。

 ―――あれは化け物だ。我らの怨敵だ。まさかお前がそれに逆らうわけはあるまい? 

 誰かが言う。
 
 神咲葉弓は完璧であり続けた。完全であり続けた。如何なる時も取り乱さず、神咲真鳴流の伝承者として、神咲三流の見本としてあり続けた。十年も昔に祖母である神咲亜弓が祟り狐を封印するために命を落とし、その後を継ぎ伝承者となった彼女は、最年少伝承者として、退魔師という存在を象徴する自分であり続けた。
 自分を殺し続けて早十年。誰にも本当の神咲葉弓という姿を見破られず、自分でさえも忘れかけた今日この日―――会って間もない青年が、理解してくれた。
 本当は久遠を殺したくなかった。那美を信じて、久遠を信じて、彼女達の未来を願い、可能性にかけたかった。
 しかし、それは神咲真鳴流の伝承者として許されなく―――己を殺して海鳴にきた。

「―――私は、神咲真鳴流の、伝承者です。私は、久遠を―――」

 那美に憎まれてもいい。世界中でたった一人でも、自分を理解してくれている人がいるのならば―――きっとそれにも耐えられる。

「ええ。葉弓さんの覚悟は止めません。ですが―――」

 自然と差し出されたハンカチ。それで気づく。自分の眼から流れ落ちていた一滴の涙に。
 
「久遠を抹殺することが正しいことだと頭では分かっています。でも、俺は久遠の友達です。例え化け物であろうとも、怨霊であろうとも、あいつを信じていたい」

 恭也から受け取ったハンカチで零れ落ちた涙を拭う。

「【貴女】の分まで、久遠を守ってみせますよ」
「―――ふふ。そうですね、お願いします。でも、【私】も結構強いですよ。ちゃんと守りきって貰えますか?」
「奇遇ですね。実は俺も―――結構強いんです」
「本当に、奇遇ですね」

 葉弓は笑う。曇り一つない笑顔で彼女は笑う。
 綺麗な、本当に美しい笑顔で―――。

「―――葉弓、さん?」
「あ、薫ちゃん。もう着いたの?」

 葉弓の前で足を止めた一人の女性がいた。神咲楓と同じ髪の色。ただし、この女性の方が髪が随分と長い。腰近くまで伸びたロングヘアー。艶があり、周囲の光を反射して煌いていた。旅行者が持っているようなキャリーバックを手で引いている。それとは別の肩には細長い袋―――竹刀袋に似たモノを担いでいる。身長は葉弓と同じく程度だろう。ただし、身に纏う雰囲気は別物だ。葉弓よりも、楓に近い。どちらかというと武人。そんなイメージを与えてくる。化粧ッ気はないのだが、元が相当にいいのか、非常に美しい女性でもある。大和撫子である葉弓とも甲乙つけ難い。

「遅くなって申し訳なかね」
「ううん。お蔭様で、恭也さんとも話すことができたし、気にしないで」
「恭也、さん?」

 キョトンとした薫だったが、すぐに隣にいる男性が葉弓のいう人物だと気づいたのか視線を向けてくる。
 彼女の瞳は真っ直ぐだった。恐ろしいほどに実直で、強き意思が込められていた。纏っている雰囲気、立っているだけでわかるほど身体の身のこなしが洗練されている。薫もまた―――達人。

「初めまして、高町恭也と申します」
「ああ、キミが。那美からは美由希さんとキミの話ばかり、聞いちょるよ。勿論良い話ばかりだけどね」
「―――それは、少し照れ臭いですね」

 薫はごく自然に右手を差し出してくる。
 自分の利き手を何の躊躇いも無く差し出してくることに多少驚くも、まさか拒否など出来る訳も無いので、恭也も右手で彼女の手を握る。
 互いにぐっと軽く力を込め―――薫が僅かに目元を動かす。

「―――驚いた。高町君、キミは―――」

 その時ピリリっと恭也の携帯電話が音を鳴らす。
 失礼しますと断ってから携帯の着信画面を見てみれば、翠屋と表示されている。
 嫌な予感をビンビン感じながら、通話ボタンを押して耳に当ててみると―――。

『恭也ー!!ごめん、ちょっとヘルプお願いー!!』
「これまた急だな……何があった?」
『バイトの子が急用で、これなくなっちゃったの。一人!!』
「あー。了解した。できるだけ急いでいこう」
『さすが、我が愛する息子!!本当にありがとうー』

 最後の戯言を無視して、電話を切る。
 そして二人に向かって軽く頭を下げた。

「申し訳ありません。少し急用ができましたので、これで失礼させていただきます」
「ちょっと聞こえましたよ?はやく翠屋に行ってあげて下さい」

 桃子の声が大きかったためだろうか、葉弓にも聞こえていたらしい。
 少々恥ずかしく思いながら、携帯電話をしまう。

「それでは葉弓さん。神咲さん。【また】近いうちに」
「はい。その時はお手柔らかに」
「ああ。また―――」

 薫と葉弓。二人は恭也が去っていった後、暫く見送っていたが、完全に姿が見えなくなると、さざなみ寮がある方角へと歩き出す。
 そんな薫の背中はビッショリと汗で濡れていた。軽く握手をしただけ。それだけなのに、これ以上ないほどの悪寒に襲われた。今まで対峙してきた霊障が子供に見えるほどの禍々しい気配。こんな気配を内包できる人間がいるのかと、正直な話驚愕を隠せなかった。
 
 ―――もし彼と剣を交えたらどうなるか。

 剣士として、想像した恭也との対決を、首を振ってそのイメージを消し―――薫は幾分か先に進んでいた葉弓の後姿を追っていった。





 


 








  



 

 









 十二月二十四日土曜日。
 世間ではクリスマスイヴと呼ばれ、或いはクリスマス本番よりも大切とされる日だ。
 さざなみ寮でも、それは例外ではなく多くのご馳走が用意され。、大騒ぎとなるパーティーが行われていた。
 夜七時から始まり、既に時間は十一時近いというのに未だ騒ぎが治まらないのは流石さざなみ寮というべきだろうか。
 未成年組みにはお酒は飲ませれないが、成年組みはうわばみの如く用意されたお酒を飲み干していく。
 
 薫も楓も葉弓も―――パーティーに参加はしていたのだが、どれだけ真雪が勧めてもお酒を飲もうとはしていなかった。普段の真雪だったならば遠慮なく、というか無理矢理にでも飲ませただろうが、この日の薫達はどこか鬼気迫る気配を醸しだしていた。
 何かしらの覚悟を決めた者の気配。それ故に真雪も無理強いはしていなかった。
 その代わりに、管理人の槙原耕介が限界を超えるほどに飲まされて意識を失う羽目になったが。
 
 リビングに横たわる死屍累々。食べ物飲み物が散乱したテーブル。
 それを片付けるのは槙原愛と神咲那美の二人だった。未成年ということもありお酒を免れはしたが、その代わりといってはなんだが、パーティーの後片付けが凄いことになっていた。
 薫や葉弓、楓も手伝い、リビングの片付けが終わったのか、台所にいる愛と那美に声をかける。

「すみません、愛さん。うちらは先に休ませて貰ってもいいですか?」
「はい。いいですよ。ゆっくり疲れを癒してくださいね」

 そして三人は―――部屋に戻らず、さざなみ寮から外へと出る。
 各自用意していた己が霊刀、霊弓を携えて、目的を達するために歩み始めた。
 足音や物音は消していたため、那美が三人がいないことに気づくのは多少遅れるだろう。気がつかないのは数十分かもしれない。数分かもしれない。それでも十分だ。
 力のほぼ全てを封印されている久遠ならば、その数分でこと足りる。
 ここにいるのは神咲三流の伝承者達。日本という国における霊を滅する退魔師達の最高峰。変身能力を持ち、僅かな雷を発するだけの妖など、ただの子狐とかわらない。

「―――薫。久遠は何処にいるかわかっとるん?」
「八束神社。そこから動いて、ない」
「……そっか」

 久遠のいる場所は薫には手に取るように理解できる。何故ならば、祟り狐を封印したのは神咲薫その人であるからだ。
 己が全てをかけた封印が、久遠の居場所を教えてくれる。
 だが、薫の言葉に普段の力強さは無く、楓の返答にも切れは無い。それも無理はないと葉弓は思う。
 今から彼女達が行おうとしていること。それを考えれば気分が重くなるのも仕方ない。
 
 【祟り狐】久遠の抹殺。

 彼女達の行いには正義がある。神咲三流のみならず、あらゆる退魔師達が同調してくれるだろう。
 大怨霊と呼ばれる悪霊を宿した封印がとかれえば、日本は間違いなく荒れる。前回は何とか封印できたが今回も上手くいくとは限らない。大を生かすために小を殺す。

 それでも三人は知っている。那美と久遠の笑顔を。優しさを。純粋さを。彼女達の絆の強さを。
 二人を信じたい。だが、それは許されない。万が一にかけられるほど、祟り狐という怪物の存在は甘くない。

 もし、三人が神咲三流の正統伝承者という立場にいなかったら、きっと違う判断を下せたかもしれない。
 それほどにその立場は重いのだ。個人の想いなど、その前では殺しきらないとならない。

 三人の行く道を照らす街灯は薄暗い。まるで彼女達の行く末を暗示しいているかのようだ。
 後一時間もすれば日がかわる時間帯だ。当然八束神社までの道のりで、出くわす人間はいなかった。
 階段を一段ずつのぼっていく。鉛をつけたように足が重い。以前階段をのぼったときの数倍は感じられるほどに、神社までが遠く、高く感じた。

 無言。薫も楓も、葉弓も―――さざなみ寮を出たときに話してから、誰一人として言葉を発しない。
 何か話せば決意と一緒に漏れ出ていきそうで、誰も話すことが出来なかった。
 そして彼女達は境内へと辿り着く。薄暗い空間。八束神社を照らすのは夜空の星々と、僅かな照明のみ。
 鳥居を越えて、神社に近づいた彼女達の眼前に久遠がいた。

 ―――ベンチに座った高町恭也の膝元で、体を丸めて寝ている久遠が。

「こんばんは。葉弓さん。それに神咲さんと、神咲楓さん」
「何故、キミが?」
「俺は普段は此処で鍛錬をしていますので。日が変わるくらいまではいるんですよ」

 薫の声が震える。一方恭也は何時と同じ様に返答する。

「高町、くん。久遠を渡して貰えへん?」
「久遠を斬るためにでしょうか」
「……っ、ああ。そうや」
「でしたらお断りします」

 楓の声が震える。一方恭也は何時もと同じ様に返答する。
  
「恭也さん……貴方は私達を止めてくれるのですか?」
「ええ。止めて見せましょう」

 葉弓の声が震える。一方恭也は何時もと同じ様に返答する。

「貴女達の行動は正しい。俺は貴女達を尊敬します」

 ぽんと軽く久遠の頭を撫でる。
 それで眼を覚ました久遠が頭をもたげ、恭也の顔を見た。

「愛しい相手に憎まれたとしても、それでも成し遂げようとする。果たして俺が貴女達の立場だったらそれだけの覚悟が持てるかどうか―――」

 恭也が八束神社の本殿の方角を指差す。
 それで理解したのか、久遠が膝から飛び降り軒下へと走り去っていった。

「ですが、貴女達にも迷いがある。久遠を殺さなければいけないという気持ちと同様に―――自分を止めて欲しいという気持ちが存在しています」

 だが、久遠は軒下の暗闇に姿は消さず、四人が見える位置で足を止め振り返った。

「―――その想い、俺が汲み取りましょう」

 そして薫は、楓は、葉弓は見た。
 目の前の青年の、あまりにも、規格外の気配に息を呑む。

 眼前が暗く染まる。ポタリポタリと空から雨が降ってきた。いや、それは錯覚だった。
 重く、ただ重く、ひたすらに重い。身体を空から押し付けてくる闇色のナニか。
 背筋に冷たいモノが走る。全身の毛穴が開き、汗が噴出してくる。
 気がおかしくなりそうなほどの重圧。肩にずしりと鉛がのしかかってきている重み。ともすれば、その圧力で膝を折りたくなるのを、全身の神経を奮い立たせて三人は耐える。
 ただの人間が放つそれは桁が違った。数多の怨霊、悪霊を見てきた三人でさえ、異常なまでの戦慄を感じ取った。
 濃密で、濃厚で、濃縮された、底知れない―――いや、【底がない】極限の闇。

 しかし、三人もただの人間ではない。
 日本にその名を知られる神咲三流。その頂点に立つ者達だ。
 圧力感に押し潰されそうになりながらも、それに負けじと熱い気持ちを全身に巡らせる。
 身体中の神経を隅々まで働かせる。身体の内側から揺さぶり、まとわりつく黒き闇を振り払った。
 それを確認したわけではないだろうが、恭也は立ち上がり、久遠と三人の間に陣取る。

「まぁ、本音を言いますと……」

 そして恭也は悪戯小僧のように、口元を微笑させ―――。
 
「家族曰く俺は相当に兄馬鹿らしく―――久遠がいなくなるとなのはが悲しみます。泣いてしまいます。きっと俺はそれが許せません」

 ―――そう言い切った。

 それを聞いた三人は暫く呆然としていたが、強張っていた表情が僅かに緩む。

「それは確かに相当な兄馬鹿やね」
「うん。薫の那美ちゃんへ対する姉馬鹿よりも重病や」
「それは確かに酷いですね」

 薫も、楓も、葉弓も意外と容赦が無かった。
 そのやり取りで緊張が解けたのか、薫が手に持っていた霊刀―――十六夜に手をかける。
 
「―――うちがいく。二人は手出し無用じゃ」
「……わかった」
「……」

 楓と葉弓を下がらせて、薫が用心深く間合いをつめていく。 
 対して恭也は小太刀に手をかけてもいない。それを不審に思う薫が―――。

「抜かんのね?」
「―――まだ必要ありません」

 必要があったならば抜きます。そう後に続けた恭也に、薫の視線が鋭くなる。
 確かに向かい合っただけで分かる尋常ではない使い手。だが、こちらが刀を抜こうとしているというのに、その対応は一体どうだというのか。素手に刀で遅れをとるような鍛錬を積んではいない。

「貴女が、貴女達が霊を倒すことに全てを費やし、鍛錬を行っているのは分かっています。特に神咲【一刀】流を学んだ貴女は剣術家としても達人の域。恐らくは今の美由希では貴女達には及びません」

 深く肺の中の空気を吐き出し、新鮮な空気を取り入れる。

「ですが知っていただきたい。俺は―――人の姿をしたモノを斃すことだけに全身全霊をかけて、己の人生の全てを費やしてきたということを」

 ―――薫!!

 薫の愛剣―――意思を持つ霊刀十六夜の叫び声が木霊した。
 認識するよりも早く、十六夜の鬼気迫った声に体が十六夜を鞘がついたまま真上に掲げた。
 それと同時に伝わってくる衝撃。硬質な震動が十六夜を通じて両腕に痺れをもたらす。
 音も無く振り下ろしてきた拳を両断すべく、空中で鞘を取り払い、刃を滑らせる。
 
 だが、ギャリンっと金属音がなるだけで手にはそれしか伝わってこなかった。十六夜が断つはずだった相手の拳は空中で取り払った鞘を盾として無傷のまま今の今まで感じていた質量が消え失せる。
 逃すものかと、片足を引きつつ、身をよじりながらも切り落とされる十六夜の刃。
 しかし、十六夜を握る手首にそっと添えられる恭也の掌。それだけで力の流れを支配された。そして、もう片方の手が十六夜の横腹を叩き流す。
 一撃必殺の剛剣が、撓る枝を斬れないのと同様に、恭也の身体に届かず地面を叩き斬る。

「―――なんや、【アレ】」

 その光景を理解できたのは遠目から見ていた楓のみだった。彼女は小太刀を使う。他の霊具も使う。だが、あくまでメインは小太刀だ。刀を扱うものとして、目の前で起きた動きを理解できた―――それがどれだけ理解の外にあるものだとしても。

 薫の剣は、生半可なモノではない。それを一番知っているのは神咲楓だ。薫に憧れているからこそ、彼女の凄まじい剣術を知っている。そもそも神咲一灯流は悪霊を祓うだけではなく、【斬る】ことに主眼を置いている。故に、その剣術は退魔師としての片手間に覚えるものではない。剣士としても一流だ。

 薫の剛剣を避けたのならまだわかる。防いだのならまだわかる。だが、恭也のしたことは、斬撃を【流した】。
 斬られることを恐れずに、何のためらいも無く真剣に向かって、拳を振るう。それは楓にとって、正気の沙汰の技ではない。人の為せる技ではない。いや、人が為して良い技ではない。

 ―――薫!!

 再度必死に呼びかける十六夜の声。
 一瞬の悪寒。咄嗟に身を逸らしたその空間を通り過ぎるのは、黒の残像。
 恭也の掌底が一ミリの狂いもなく、顎があった場所を通過していく。

 身を逸らした結果、生じた隙。薫が体勢を整えるよりも早く黒き閃光が駆け巡る。
 懐に入り込んできた恭也が、響かせる冷たくも重い踏み込みの音。神社が揺れたと錯覚するほどに巨大な地震。そう勘違いしてもおかしくはない震脚。先に空を切った左掌底の勢いのままに、左掌が薫の腹部に叩き込まれる。
 
 いや、その寸前でピタリと停止する。それと同時に振り下ろされてきた十六夜が何も無い空間を断ち切った。
 もしもそのまま左掌底を叩き込んでいたら腕を切られていたことは想像に難しくない。それを予感し、予想して恭也は腕を止めたのだ。
 ガリっと歯を食いしばる音が響く。
 振り下ろされた十六夜がそのままの勢いで、紫電の如き切り上げが襲い掛かる。
 だが、それが恭也に届くことは無い。紙一重、決して届かぬミリ単位での見切り。剣圧で前髪が舞い上がるほどの超絶近距離回避。
 柄を握る薫の両手首に添えられる、逆手の掌。力の流れを加えられ、薫の狙い以上に大きく振り上げられた。

 闇夜でなお鮮烈な印象を相手にもたらす恭也の瞳と眼が合った。
 まるで初めて悪霊と対峙したときのようなおぞましい気配が背中を襲う。
 恭也の瞳は瞬き一つなく、薫の全身を見つめている。四肢の動きだけではない。目線から、頬の僅かな緩み、口元の筋肉、さらには呼吸の動作、全身の脈動にまで観察していた。

 薫の呼吸が激しく乱れる。時間にして一分にも満たぬ僅かな時で、これ以上ないほどに削られてしまった集中力。そして、体力。底がない闇の気配によって奪われていく気力。
 
 恭也の体躯は確かに薫と比べれば大きい。だが、それでも理解してしまう。
 一撃でももし受けたならば―――それで意識を刈り取られるということを。
 しかもそれだけではない。恭也の動きは、薫の想像を遥かに超える。動きが速いというだけではない。
 何時踏み込んできたのか。どの段階で踏み込んできたのか。どの方向から踏み込んできたのか。
 どの方角から、一体何歩で間合いを詰めてきたのか、その軌道がわからない。
 来ると思った瞬間にはすでに、攻撃の態勢を整えた漆黒が通り過ぎている。十六夜の注意がなければ最初の一撃で終わっていたのかもしれない。

 刀を持っていない。相手は素手だ。それは自分の思い上がりだった。
 削り取られた集中力を凝縮、戦いにようやく入り込んだ薫が、一歩を踏み込み強烈な横薙ぎを放つ。
 相手の胴を狙い、半円を描いた白銀が澄んだ音を残して軌跡を描いた。

 それをミリ単位でかわされるのも予想通り。腕に限界までの力を込めて、途中でピタリと十六夜を止める。
 そのまま切っ先を鋭く叩きこむ。身体ごとぶつかるような泥臭くも見事な刺突技だ。
 だが、十六夜が貫いたのは恭也の残像で、身体を開いてかわした彼の右掌底が振り落とされた。その目的地は薫の首。狙いは頚動脈。一撃で昏倒させようという目論見だろうが、まともに喰らえば下手をすれば死ぬ。そんな脅威を秘めた。ある意味容赦のない攻撃だ。

 これは避けられない。まともに喰らう。誰もがそう思った攻防だった。
 ―――もし、相手が薫だけだったならばの話だが

 十六夜が薫の肉体を無理に動かす。薫の意思とはまた別で、頚動脈へと迫ってきていた掌に切り上げで合わせられた。
 相手の指を全てこそぎ落とす勢いの斬撃は躊躇いも無く振り切られ、切断の手応え。

 ただしその切断の手応えは―――空気。
 薫へと迫っていた右掌には僅かな傷もない。刹那の差を持って掌の軌道を僅かに変え、激突する瞬間十六夜の刃を逸らし、流した。
 ついで放たれるのは掬い上げるかのような左の掌。狙いは腹部。流され頭より上に向かっていた十六夜を、やはり無理矢理に振り落とす。今度は相手の拳を叩き切る勢いの縦の斬撃だ。
 
 柄越しに感じるのは何かを切断した手応え。
 無論、恭也の左手を断った感触ではない。十六夜が地面を抉り、突き立てた感触だ。
 
 ―――また、だ!!

 相手の攻撃を断ち切ると思われる瞬間に、柄に手を添えられる感覚。
 それで力を操作され、ついで十六夜の刀身に感じる僅かな違和感。
 片手で薫の肉体の力の流れを支配し、もう一方の片手で十六夜の刀身を流す。薫と十六夜の二つの意思を完全に戦いの中で殺していた。 
 
 薫と十六夜が放つ必殺の斬撃は、容赦なく、暗闇を照らす刃の軌跡となって、幾重にも複雑な軌道を描く。
 だが、恭也の掌がどれだけ複雑に絡み合った軌道も尽く逸らしてゆく流された十六夜は周囲の地面に傷跡を増やしていくだけに終わる。
 
 それは薫にとっては悪夢の時間。己が剣が、己が技が、ただの人の手によって無効化されているという信じがたい事実。
 ましてや十六夜との連携。彼女の声を聞き、刀を振るう、その連携が無為に終わるという有り得ない出来事。
 これは果たして如何なる神技か、それとも魔技か。或いは魔術か。いや、神技も魔技も、魔術も超えた―――人の技。
 脆い筈の人の拳が生み出す鉄壁の防御。そして油断をすれば一瞬で終わらせられる業火の攻撃。
 出口の無い暗闇の迷宮に迷い込んだように薫の心は焦燥に支配されていた。

 一方恭也も必死だ。
 彼が使用しているのは、【刃流し】と呼ばれる技術。以前那美の前でしてみせた【刃取り】と同じ宴会芸でしかない。他にも刀を折る【刃断ち】もあるが、それも同じだ。
 それらはそもそも文字通り宴会の時に使われた技術だ。過去の御神と不破の宴会の時に、相手が次の一手をどう動くかを告げ、それに応えて行っていた。それでも士郎や静馬といった限られた者しか使えない技術でもあった。
 それ故に実戦では到底使用不可能な技術―――恭也を除いてだが。
 
 恭也が完成させた御神流裏。相手の肉体の動きを、思考を分析し、推察し、予測し、検討し、己の肉体をも利用して相手の行動の可能性を潰していく。その結果生まれるのは相手が【選んだ】のではなく、相手に自分が【選ばせた】行動の結果。
 完全に予想した結果通りの相手の攻撃を、極限の集中力で捌いて行く。それはまさに綱渡りの戦い。
 
 勿論、素手で戦うのにはわけもある。
 小太刀を抜かない状態でさえも、神咲三流の者達と渡り合う。まだ恭也は本気を出していないぞと、圧倒的な優位を知らしめる。今回の恭也の目的は相手の打破ではない。
 薫の、楓の、葉弓の戦意を削ぐことだ。仮にも相手は那美の姉。できれば怪我をさせたくはない。それ故に攻撃も最小限に留めている。
 本来ならば素手でここまで渡り合えるとは思ってはいなかった。薫の太刀筋は確かに達人。恭也の背筋を冷たくするに値する剛剣の乱撃。だが、迷いがある。
 恭也と戦うことに、いや―――久遠を殺めることにこれ以上ないほどの躊躇いがある。それが薫の太刀筋を鈍らせていた。 
 二人の戦いは数分程度続いただろうか。やがてそれは終わりを告げる。この八束神社に現れた新たなる人間によって。
 その気配に気づいたのは恭也が最初だった。次の楓、そして葉弓。恭也を相手取っていた薫が最後となった。
 
 静かな夜の世界に響き渡るのは階段をかけあがってくる音。こんな夜中に神社に来る人間は限られているだろう。
 それにここにいる四人が四人ともその気配に覚えがあった。その気配の持ち主は―――。

「薫、ちゃん?それに葉弓さんと、楓さんも―――やっぱり、ここに」
 
 薫の義妹である神咲那美だった。相当に急いできたのか、呼吸が激しく乱れている。
 那美の視界に映ったのは気まずそうに顔を伏せた楓と葉弓。それに、十六夜を握り締めた薫と、それと向かい合っている恭也。如何に那美と言えど、何があったか容易く想像がついた。

「薫ちゃん……なんで。久遠のことは、私に任せてくれるって―――」
「……っ」

 唇を噛み締めると薫は十六夜を転がっていた鞘を拾い納める。
 泣きそうな表情で那美は薫のもとに駆け寄ると、彼女の両腕の半ばを掴む。

「薫ちゃん、久遠を、私を―――信じて。お願い、薫ちゃん!!」
「……うち個人としては信じたい。それでも、うちは―――破魔真道剣術神咲一灯流の伝承者。これから起きる、破滅から多くの人を守る義務がある。力なき人に降りかかる不幸を、悲しみを少しでも減らすのが、うちらの仕事だ」
「でも、それでも―――」

 二人を見守る楓と葉弓。那美の言いたい事は良くわかる。
 彼女達個人としては信じたい。でも、それは許されない。そして、既に薫達が強硬手段にでなければならないほどに、現状は切羽詰っている。
 自分達が甘い感情に流されたが為に、多くの人間の命が奪われることなどあってはならない。

 薫と那美の話は結局どこまでいっても平行線だ。どちらも己の意思を譲らない。譲れない。
 説得程度でそれを曲げられるものか。互いに立場も想いも違えど、確固たる気骨があるのだから。

 恭也も二人の想いのぶつけ合いを眺めようと一息吐いた瞬間―――。

「―――っ!!」

 肺の中の空気を搾り取られた。
 直接鳩尾を殴られたかのような、衝撃を体が襲う。
 【視】ている。【視】られている。
 あの、怪物に。薄ら寒い笑みを浮かべている魔人がここにいる。

 頭で考えるよりも早く、体が動いた。
 ざんっと砂を蹴る音が恭也の足が放ち、弾丸の如き姿で一直線に久遠へと疾駆する。
 僅かな躊躇いもなく、走りながら鯉口をきる。チンっと金属音が高鳴った。

 那美の姿を見て、軒下から這い出てきていた久遠が、首を傾げる。
 久遠の瞳に映ったのは鬼気迫る殺気を身に纏いった恭也が自分に向かって疾走してくる姿だった。
 その殺気に驚いたのが那美達だ。慌てて恭也の姿を追うが、それに驚く。
 久遠に突撃していく恭也の姿。誰がどう見ても、久遠を斬り捨てようとする純粋な殺意。

「―――高町、先輩!!待っ―――」

 那美が叫び終わるよりも早く―――恭也は小太刀を抜き放った。
 最速最短の速度と距離で抜刀された小太刀は。何の迷いもなく久遠を―――貫こうとしていた黒の刃を切り払った。

 視認できぬ二度の抜刀で、久遠の頭上から降り注いできた四本の黒剣を払いきった恭也は、そのままの速度と勢いで賽銭箱を蹴りつける。そしてその横にあった柱をさらに蹴りつけ、屋根の端へと片手をかけて、力一杯己を引き上げた。
 屋根へと一瞬で辿り着いた恭也の先に、黒衣を纏った天眼が座っている。

「あらあら、お見事ですね。少年」
「―――何をしにきた」
「何をって、決まってるじゃないですか。少年のお手伝いですよ?」
「ふざけた、ことを―――!!」

 瓦が弾け飛ぶ。首を飛ばす角度で振るわれた小太刀を、彼女はあっさりと素手で受け止めた。
 それに背筋を冷たくする恭也。彼が使用する刃取りといった技術とは違う。
 種族としての根本的な身体能力の違い。ようするに技術も何もない力技。それだけで己の一刀を掴み取った。

「躊躇いもなく首を落とそうとするとは―――ぞくぞくしちゃいますね」

 舌打ちを残し、恭也の蹴りが天眼の腹部に叩き込まれる。
 だが、何か分厚い布を蹴ったかのような妙な感覚が足に残されるだけで、一歩彼女をたたらを踏ませることしかできなかった。その拍子に掴まれていた小太刀は解放され、恭也は用心するように間合いを取る。

「あいたた。女性の腹部はとても大切なんですよ、少年。責任を取ってくれるんですか?」
「誰が、取るものか。化け物め」

 しかし―――と、恭也は疑問に思う。
 如何に底知れぬ怪物とはいえ、あの速度の刃を無造作とも言える行動で受け止めるなどできるものなのかと。
 訝しげな恭也の視線に気づいたのか、天眼はぽんっと手を叩いた。

「私の羽織った衣は中々に強固ですよ?私の人生でただの一度しか破られたことはありません」

 注視してみて衣という言葉の意味がわかった。
 夜の闇のせいで薄っすらとしか見えないが、彼女は身体全体にナニかを纏っている。それもまた小太刀を受け止める役割を果たしたのだろうか。

「ところで、少年。大怨霊が依り代に望むものは何だと思いますか?」
「……悪意。人の憎悪。そういった負の感情」
「はい、大正解です。さて、あの大怨霊の依り代は、どうすれば憎悪という感情を持つと思いますか?」
「……」

 薄ら寒い口元の微笑がやけに恭也の癇に障る。
 答えない恭也を、愛おしそうに眼を細め、眺めている。

「あの大怨霊の器を守ったことは素晴らしい。ですが惜しかったですね。本当に惜しかったです―――貴方がここにいるということは悪手にほかなりませんよ?」

 ―――久遠がどうすれば憎しみという感情を持つのか?

 それは簡単なことだ。
 もし、もしも目の前で親しいものが傷つけられたら―――。

「―――薫さん!!」

 反射的に下の名前で薫を呼ぶ。
 確証はないが、間違いない。そして、今この場所にいる以上、恭也では間に合わない。

「……えっ?」

 それは誰の声だったのか。トスっと静かな音がなる。
 小さかったはずなのに、その音は確かに恭也の、薫の、楓の、葉弓の耳に届く。
 那美の影が突如せりあがり、黒く細い桐となったそれが―――那美の腹部を貫いた。

「那……美?」

 そしてその桐は一瞬で霧散する。貫かれた腹部からはどろっとした血液が溢れ始めた。
 致命傷ではないだろう。だが、油断できる傷でもない。 

 どさりと音をたてて那美が地面に倒れる。じわじわと広がっていく血の池。
 呆然としていた三人は、十数秒たってようやく現状を理解する。

「那美、那美、那美!?」
「那美、ちゃん!!」
「どいて、薫ちゃん!!」

 パニックになりつつあった薫と楓を引き剥がし、葉弓が那美の傷を見る。
 意識を確認してみるが、生憎と失っていた。即座にヒーリングを開始する。果たしてどこまで出来るかと、歯噛みする。
 その時―――。

「―――私もご協力します」

 薫の愛剣である、十六夜が光を発し、そこに一人の女性が現れる。
 西洋人のような美しい金色の髪。女性でありながらの長身。フィアッセを彷彿とさせる美しい容姿だ。
 彼女こそが真道破魔神咲一灯霊剣十六夜として神咲家初代から400年近くに渡って、神咲家に仕え、そして支えていた女性。霊剣に宿った魂を具現化させることを可能とした歴史に類を見ない異質性を持った霊剣だ。

 葉弓と十六夜の二人が両手を那美の貫かれた腹部に手を当てる。淡い光が両手から発せられ、それを不安そうに見ている薫。僅かにだが、出血の量が治まっていく。この傷を見た十六夜が眉を顰める。

 ―――見た目よりも、深い傷ではない?

 十六夜の感じたとおり、那美の傷はそこまで深くはなかった。
 出血が多いが命に関わることは決してない。いや、敢えて致命傷を避けるように貫かれている。
 最初から殺すつもりはなかったということなのか、そんな想像が脳裏に流れる中―――。

「……な、み……?」

 ぽんと音が鳴って久遠が子狐の状態から人間の形態へと変化する。
 何が起こったのか理解できていない。そんな様子の久遠の目の焦点が合っていない。
 いた、彼女が捉えているのは―――最愛の友の姿。血に塗れ、赤い池に身を横たえているその姿。

 バチリと記憶の何かがフラッシュバックする。
 遠い昔の記憶。人を憎んだ記憶。最愛の少年を奪われた記憶。

「……あ……ああ……あああ……」

 パキリと心の鍵が罅割れる。
 深淵に閉じ込めていた黒き悪意を封じ込めていた枷が崩れていく。
 久遠の抱いた憎悪が、思い出した憎悪が、薫のかけた封印を次々と破壊していく。
 
「あああ……ああああああああ……ああああああああああああああああ!!」

 ぶわっと生暖かい衝撃波が久遠を中心に巻き起こった。
 周囲に転がっていた砂が、石が、弾き飛ばされる。桁外れの邪気が久遠の内から漏れ、溢れ始めた。
 それに全員が気がついた。だが、葉弓と十六夜は手が離せない。如何に命に別状がないとはいえ、今此処で治癒をやめることはできない。薫は那美が刺されたということに茫然自失としていて、反応が出来なかった。
 この場で久遠の中の悪意の目覚めに反応が出来たのは唯一人―――。

「―――うちが、やる!!」

 愛刀渚を引き抜き、楓は己が最速で境内を駆け抜けた。
 久遠が放つ果てしない悪意に膝を折りたくなる。近づくだけで許しを請いたくなる。
 だが、そんなことができるものかと、歯を噛み締めた。
 
 楓は覚悟を決めていた。この役目を神咲楓月流の長老達から与えられた時から決心していた。
 薫はきっと久遠を斬る事はできないだろうと。薄々感づいていた。薫は良い意味で優しい。きっと久遠と那美の絆を断つことはできないだろうことは想像がついた。それが悪いとは思わない。楓にとって、それが神咲薫という尊敬すべき友なのだから。 
 自分が久遠を斬るという覚悟。揺ぎ無い意思。それが神咲楓という退魔師の足を進める。
 如何なる憎悪も。如何なる悪意も。如何なる殺意も―――楓の足を止めるには至らない。

 轟っと激しく沸き立つ霊力。夜の闇を逆に侵蝕し、あらゆる魔を祓う退魔の極地。
 渚を握る手がミシリと音をたてた。刀身に集まる純白の力。これ以上ないほどに高め、練り上げた最高の一撃。

「神気発勝―――真威楓陣刃!!」

 振り払われた渚から、広範囲に渡って放たれる白い爆撃。
 楓から久遠へ至るまでの道のあらゆるモノを蹴散らし、破壊し、全てを浄化する。
 膨大な霊力を持つ神咲楓の手加減抜きの、全力全開。その神魔覆滅の奔流が久遠を―――飲み込んだ。













 


 
 
 






 











 【彼女】が自分という自我を持ったのは産まれて間もない頃だった。
 母狐と【彼女】と何匹かの兄弟。そんな数匹で、人も近づかない森の奥深き場所で日々を過ごしていた。
 自分は母と他の兄弟とも違う。そんな漠然とした気持ちを持ち始めたのは何時頃だったのだろう。
 【彼女】は成長が他の兄弟に比べて非常に遅かった。否、子狐のまま決して成長が進むことはなかった。
 
 そんなある日、【彼女】が巣を離れ虫と戯れていた時に事件は起きた。
 巣に帰ってみれば、兄弟達は皆殺されており、母狐の姿はどこにも見かけなかった。
 何故かわからない。どうしてかわからない。それでも【彼女】はこの日一人となった。

 それからどれだけの月日が流れたのか。
 【彼女】は気がつかなかったが、既に十数年近くの時が流れていたが、【彼女】は子狐のままだった。
 やがて【彼女】は一人の少女と出会う。

 名はみつ。
 【彼女】が住んでいる森の近くにある村の巫女だという。
 当時の彼女は巫女が何なのかもわかってはいなかった。人間に対する知識が皆無に等しかったのだ。
 
 みつは【彼女】に多くのことを語った。
 父のこと。母のこと。村のこと。村人のこと。好きな相手のこと。
 【彼女】はその時間がとても好きだった。みつと一緒に居る時間がとても大切だった。
 だが―――みつは【彼女】の前からいなくなった。

 それは簡単で、残酷な事実。
 みつはその村の神官の娘。故に、彼女は人柱とされたのだ。
 村で流行った病気。それをその土地で祀られていた神の怒りと捉えた村人達は、みつを生きながらにして人柱とした。
 
 それを知らず【彼女】はみつを探し続ける。
 当然見つかるはずもなかったが、その途中でとある理由で怪我をした。
 
 【彼女】は助けを求めた。山の奥深き場所故に誰一人として通らぬはずだったその場所に―――少年が通りがかる。
 彼の名は弥太。親も兄弟もいない天涯孤独の薬売りの少年。
 弥太は怪我をした【彼女】を傷が癒えるまで世話をすした。その間に、弥太は【彼女】と多くのことを語り合う。
 それはみつと同じで、【彼女】にとっては至福の時間。誰かとともにいられる喜び。【彼女】は弥太と供にいられるこの時間を何よりも好んだ。
 
 やがて【彼女】の傷も癒え、弥太は自分の家に帰っていった。
 別れ際に、今度会った時にはお前の名前を考えてきてあげるよ―――それだけを言い残して。

 そして再び悲劇は起こる。
 村で起こった病気は治ることは決してなかった。伝染病のように次々と村人達に広がっていく。
 みつを人柱にしたのに治らない……そんなのは当たり前のことだ。人柱で病気が治るはずもない。だが、村人達にはそれがわからない。
 困ったのがみつの父親でもある村の神官だ。このままでは自分の地位が危ぶまれる。
 彼にとって大切なのは自分だけ。己の地位だけ。それに比べれば娘など気にも留めない。そんな悪意の塊のような人間だった。
 
 だからこそ、彼は弥太に目をつけた。
 薬売りとして、自分で多くの薬草を取り扱っていた彼は免疫が出来ており、伝染病にはかかっていなかったのだ。
 病気を怖れずに弥太は多くの村人達のために奔走した。あらゆる薬草を試した。どんな人でも救うために、彼はそれこそ寝る間も惜しんで村を、山を駆け回った。

 その結果―――神官は言った。

 弥太こそがこの伝染病の原因だと。彼こそがこの村に不幸を運んできた張本人だと。 
 村人達は狂気にはしる。自分たちの命のために、自分達を救おうとしてきた弥太に憎しみをぶつけた。

 お前のせいだと。お前のせいで父が死んだ。お前のせいで母が死んだ。お前のせいで息子が死んだ。お前のせいで娘が死んだ。お前のせいで祖父が死んだ。お前のせいで祖母が死んだ。お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の、お前の―――。

 浴びせられる根拠なき罵声。憎悪。怨恨。殺意。
 村人達は弥太を捉え、殴りつけた。蹴りつけた。ありとあらゆる憎しみを拳で、少年にぶつけ続けた。
 
 殺せ。殺してくれ。殺してしまえ。殺すんだ。殺そう。
 際限なき殺意。狂気。常人では眼を逸らしてしまう、地獄の世界。
 
 意識も混濁した弥太は地面に転がっていた。既に片目もつぶされ、もう片方の視界も塞がりつつあるその僅かな景色の中に、【彼女】を見つけた。

 弥太は笑う。殴られぶたれ、蹴りつけられ、元の顔の原型もなくなった弥太は―――それでも、暖かな笑みで【彼女】に呟く。

 ―――く、お、ん。

 ぐしゃり。

 【少女】は確かに聞こえた。弥太が【彼女】に語りかけた最後の言葉を。くおんという言葉を。
 そして、潰された。弥太だったものは潰された。原型もないほどに、ぐちゃぐちゃに。
 頭を砕かれ、頭蓋骨が見える。脳髄が飛び散り、周囲を汚していた。

 それを見ていた村人達は笑っていた。神官も笑っていた。
 このおぞましい光景を眺めている皆が笑う。これで村は助かるのだと。悪霊は消えたのだと。
 
 【彼女】は、ただ呆然としていた。
 なんだこれは、と。これが、こんなモノが人間なのか、と。こんなモノが、弥太達と同じ人間なのか、と。
 村人を助けるために寝食を惜しんで、命をかけて働いていた弥太が何故こんな目に合わないといけないのか。

 ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。

 憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。

 目の前で高笑いをしている人間達が心の底から憎い。力が欲しい。この人間達を殺しつくせるだけの力が。
 【彼女】は願う。神でも悪魔でも何でも良い。力さえ手に入るのならば―――。

 ―――ワレ、ミツケタリ。

 そんな暗い声が【彼女】の頭に響く。
 全身に感じる悪寒。絶望的なほどの悪意。全ての人間を殺しつくそうとする殺意。

 だが、【彼女】はそれに身を任せる。もうどうでもいい。弥太の敵を討てるのならば、みつの敵をうてるのならば。
 自分の命などもういらない。命をかけて、全ての人間を滅ぼしてしまおう。

 バチリと、【彼女】の周囲に雷撃が巻き起こる。
 超々々高熱の雷撃が、一瞬でその場にいた村人達を焼き殺す。炭も残さず、虐殺の限りをつくす。
 その雷は、村人はおろか、神官が逃げ込んだ神社をも燃え焦がし、消滅させた。

 それが【彼女】―――否、【祟り狐】久遠が産声をあげた運命の日。
 今から三百年以上も昔の、とある日の出来事だった。  

 
  

 
 



































 空から激音を告げて、雷が八束神社へと迸った。
 闇を切り裂き、周囲を照らすのは、金色に輝く光の電撃。
 それが久遠に落雷―――そして、己を飲み込んだ楓の渾身の霊力の奔流を弾き飛ばした。
 
 バチバチと音をたてて久遠は金色の雷を纏う。彼女がいるだけで、八束神社は昼間の如き明るさだった。
 誰も彼もが息を呑む。その場に現れた久遠―――否、【祟り狐】の姿に。

 子狐とも、子供の姿とも異なる、彼女の力を完全に振るえる肉体。即ち、成人した女性の身体だ。
 身長が子供の時はなのは程度だったのが、今では百七十近い。服は赤と白を基本とした巫女服。狐色に輝く長い髪。髪の隙間から揺れる二つの狐耳。豊かな双丘。そして、腰に蠢くのは五本の尻尾。
 身に纏うのはあらゆる悪霊、怨念を凌駕する邪気。夜を照らす雷撃の鎧。
 そこにいたのは―――確かに歴史にさえも名を残す、正真正銘の怪物だった。

「……あれが、久遠……」
「あらあら。これは見事なまでの大復活ですね」

 愕然と呟いた恭也とは真逆で、天眼は面白そうに眺めている。
 これは確かに恐ろしいまでの怪物だと恭也は実感した。見るだけで伝わってくる、桁外れの重圧。伝承級の怪物にも決して劣らぬ、いや或いは凌駕するほどの化け物だ。

「お前は、お前は何がしたい?何を考えてる?」

 小太刀の切っ先を向けて恭也が問う。
 この女の考えが全く読めない。大怨霊のことを伝えてきたと思えば、対処の方法まで教える。
 しかし、今度は大怨霊の復活を助ける行動を起こす。理解しがたいのだ、この怪物を。

「お前は―――なんだ。お前の行動は、無茶苦茶だ」
「そうですか?私は一貫してると思ってるんですけど……」

 キョトンと、可愛らしく首を横に傾けて口を尖らせる。

「ねぇ、少年。私は貴方のためにしか動きません。貴方のために苦心して、苦労して、苦慮して、努力して、尽力して、骨を折って―――全ては貴方のためなんですよ?」
「……ふざける、な」
「ふざけてなんかいませんよ?少年―――私はですね、命に重い軽いがあると思っています。私自身の価値観ですけどね?」
 
 恭也が一歩退いた。
 目の前の得体の知れないナニかに、気圧された。

「この世界に生きる七十億の人命と貴方。天秤にかけたら私にとって重いのは貴方の方です」

 恐ろしいと思った。
 この女は口先だけではない。この女は事実だけを語っている。

「もし、もしも貴方が命を落としたならば―――私は何の躊躇いもなく、【種】を使って世界を滅ぼします」

 笑う。笑う。彼女は笑う。狂ったように彼女は笑う。
 奥底に秘めた無限の愛情が、狂おしいほどに凶がりに凶がった恋慕の情が。
 剣に生き剣に死ぬことを己に課した、高町恭也をして、這いよってくる虚ろな黒いナニかに息を呑む。

「では、少年。私はこれにて失礼します。頑張ってくださいね。貴方の死はイコール―――世界の破滅と同義なのですから」

 忌々しい笑みを残して天眼は、恭也とは反対の屋根へと飛び移り、そのまま飛び降りた。
 後を追うも、既にその姿は影も形も見つからない。恭也の気配察知の領域からも完全に居なくなっていた。

「ぁぁあああああああああ!!」

 そんな恭也の耳に楓の雄叫びが響き渡る。
 圧倒的な邪気を放つ久遠に対抗するために、逃げ出しそうになる自分を鼓舞する雄叫びだ。
 
 悠然と立っている久遠に向けて懐から取り出した霊符を向ける。印をきってその霊符を地面に叩き付けた。
 純白の光が迸る。ガガっと音をたてて地面から幾つもの鋭い岩槍がせりあがっていく。
 幾重にも重なり、目的である久遠へと突き刺さる。刺殺とも、圧殺ともいえる大地の大瀑布。

 しかし、雷が弾け、大地の大波を消し飛ばす。
 粉々に砕け散った土の隙間から見えるのは、傷一つない祟り狐の姿。

 すっと久遠が右手をあげる。バチリと神々しくも見える雷光が、天に掲げた腕にまとわりつく。
 死の予感がガンガンと楓の頭に鳴り響く。悲鳴もあげる暇もなく、横っ飛びで転がりながら大きく間合いを外した瞬間、直線状に光の雷撃が土も砂も木々も吹き飛ばし、焼き尽くす。

 その破壊力に息を呑む。これまで見てきた悪霊が、赤子にしか見えない。まさに圧倒的。
 勝てるはずがない。そんな弱気がジワジワと楓の心に這いよってきた。だが、唇を噛み切り、その痛みで己の弱さを消し飛ばす。 

「―――雷に、水は相性が悪い。木の属性も、通用せーへん。金も微妙。使える力は随分と限られてしまうわ」

 ぶるっと体が震える。だが、楓の心は全く折れてはいない。
 これまで一体どれだけの修練をつんできた。どれだけの悪霊を祓ってきた。どれだけの友の死を看取ってきた。
 其の全てが、今この時のためのものだ。今この時に使わずに何時使うというのだ。

 シャランっと澄んだ音をたて小太刀を向ける。
 厄介な事に久遠が其の身に纏う雷の鎧。それがまた久遠にとっては鉄壁。こちらにとっては最悪の意味での鉄壁。
 霊刀ではあるが金属で精製された渚では恐らく触れた瞬間、電流を流される。ならば遠距離での戦いに活路を見出すしかない。
 その遠距離でも果たして効果があるのかどうか。先ほどと同じようにあっさりと防がれるだけかもしれない。
 
「―――マイナス思考はあかんな。兎に角、当たって砕けるしかあらへん!!」

 久遠の周囲を円形に回りながら、様子を窺う。
 バチバチと電撃が周囲を覆っているが、久遠からは攻撃を仕掛けてこようとはしていない。
 攻勢にでられたら耐え切れるはずもない。一撃一撃の重みが違いすぎる。攻撃あるのみ―――それしか勝ち目はないのだ。

 楓の武器の一つである霊符とて無限ではない。
 長い準備と霊力を注ぎ込むことによって完成する貴重な札。この時のために前もって用意してはいたが、それでもそれほど多くは用意できていない。そもそも一枚あれば並大抵の悪霊は消滅させることが可能なモノだ。それがただの足止め程度にしか役に立たないことに苦笑しかできない。

 久遠は楓にそこまでの脅威を感じていないのか、注意を払っていない。
 舐めるなとおもう以上に、チャンスだと楓はそれを勝機と見る。

 渚を持っている右手の親指に歯をたてる。強くひき、血がぷくりと薄く浮き上がる。それを霊符に塗りつけ、久遠に向けた。札から爆炎が巻き起こる。離れている自分の皮膚をもチリチリと熱風を伝えてくる超火力。流れる炎の濁流が久遠を飲み込むも、やはり金色の雷が爆炎を散らす。
 しかし、その一瞬。炎を防ぎ、雷が僅かにその雷光を弱めた刹那を楓は逃さない。
 
「神気発勝―――真威閃流刃!!」

 あらかじめ蓄えておいた霊力を渚に流し、久遠に向かって振り下ろす。
 三日月型の霊気の刃が幾重も刃から放たれた。複雑怪奇な軌道を描き、久遠の纏う雷の鎧の隙間を狙って降り注いだ。
 ガガガガっと耳障りな乱刃が雷の結界に喰らいつく。だが、パキンっという心もとない音とともに、霊気の刃はあっさりと砕け散った。

「―――あかんっ。雷の鎧の修復が早すぎる!!幾らなんでも卑怯や!!」

 少しは危険を感じたのか久遠が先程と同じ様に片手を空にかかげて、楓に向かって振り下ろす。
 金色の光が地面を抉りながら、ジグザグの軌跡で、楓へと迫ってきた。
 それに一瞬の躊躇。今さきほどのは一直線。だが、今回は複雑な軌跡。どう避けるか思考の隙間をつくように、急激に加速。金色の雷は楓が不可避なタイミングで牙を剥いた。

「―――やばっ」

 視界一杯に広がる雷撃に、楓は死を覚悟した。
 霊力を練り上げるのも間に合わない。霊符でもこの雷撃を防ぐことはできないだろう。
 何も為せずに、ここで死ぬのかと悔恨だけが心に残る。
 だが、雷撃が楓に直撃するよりも早く―――黒の疾風が彼女を浚った。
 
 超速度で駆け抜けた恭也が片腕で楓を抱きかかえ、雷撃から彼女を救う。
 それとほぼ同時に雷撃が今の今まで楓が居た場所を蹂躙していった。その行く手にあった木々を焼き焦がし、消滅させる。あまりの高温に火事にもならない。木々を消滅させていっているのだから。

「―――すみません。遅れました」
「今のでチャラにしておくから気にせんでいいで!!」

 楓から片手を離し、油断なく久遠を見つめる恭也に、楓が答える。  
 生死をかけた死闘の最中ではあるが、男性に抱かれたことに頬を若干赤くする。神咲楓月流の伝承者ではあるが、男性とは付き合ったことがない初心な女性であることに変わりはない。
 それも一瞬。再度集中力を高める楓は、何時でも攻勢に出られるように呼吸を整える。
 恭也の八景が。楓の渚が。三本の小太刀の切っ先が貫くように久遠に向けられていた。

「―――久遠に取り付いている悪霊だけを祓うことはできないでしょうか」
「……無理やな。あれは取り付くなんてレベルやない。久遠が望んでるんや。憎悪に支配されとる」

「成る程。つまりは久遠の正気を取り戻せば、可能性はあると?」
「今の状態の方が久遠の正気かもしれへん。殺戮と破滅を振りまく祟り狐の姿が」

「本当にそうお思いで?」
「阿呆。そんなわけない」

「安心しました。本当にそう思っていたらどうしようかと」
「そんなことあるわけないやろ。問題はどうやって久遠の正気を取り戻すかや」

「こういうときは古来より一発ぶん殴ったら正気になると聞いています」
「せやな。ってそんなわけあるかい!!―――とりあえず久遠を弱らせなどうしようもあらへん」

「そうですね。それは霊力を持っている神咲さんにお任せます」
「全力を尽くす事は尽くすけど……あんまり期待せんといてや。高町君も頑張ってな?」

「生憎と俺は久遠のことを大切に思っていますので小太刀を向けるなんてとてもとても……」
「今向けてるやないか、って突っ込めばええんか?それにうちだって久遠のことは好きや。あのモサモサフカフカは命と引き換えにしてもお釣りがくる」

「すみません。流石の俺も命の方が高くつきます」
「そら困る。うちと高町君の命でようやくお釣りがくるんやで?」

「他人の命を勝手に取引に使わないでください」
「つれないこと言わんといてな。うちと高町君の仲やろ?」

「それもそうですね。二、三回話しただけの親密な関係でしたっけ」
「ああ。一度話したら友達。二度話したら親友。三度話したら―――マブダチや」

「マブダチ……せめて恋人あたりにしてください」
「ば、馬鹿!!それはまだうちらには早い!!」

 打てば響くとはこのことかと、恭也は声に出して珍しく笑った。
 絶望的な状況で。どうしようもないほどに追い詰められて。
 それなのに、神咲楓という女性と並んで立っている今は負ける気がしない。
 話にあがったとおり、たった数回会って話をしただけの関係だというのに。何故か妙に気があってしまう。
 
 対して楓も恭也と同じ様な心境だった。
 渚による近距離戦はほぼ無効。遠距離による霊符もたいした効果がない。神咲の技も通用していない。
 勝ち目は零だ。勝率は零パーセントだ。自分が勝利している光景が思い浮かばない。
 だが、心が高揚している。隣に高町恭也という剣士がいるだけで、体が軽い。今ならば己の全力以上の力を出すことが出来るはずだ。

「さて、行きましょうか。【楓】さん」
「そうやね、【恭也】君」

 二人は不敵な笑みを浮かべ―――。
 
「永全不動八門。御神真刀流小太刀二刀術―――不破恭也!!」
「破魔真道剣術神咲楓月流正統伝承者―――神咲楓!!」

 二人の咆哮が八束神社に木霊する。ビリビリと空気を震わせた。
 それに僅かに気圧されたのか、久遠の視線が初めて―――禍々しく赤く輝いた。

「推して―――」
「―――参る!!」

 トンっと軽やかな音。神速の世界に飛び込んだ恭也が久遠に向かって突撃する。
 世界が凍ったモノクロの空間を支配するのは恭也ただ一人―――いや、バキィンっと空間が断裂する軋み音。
 
「ぁあああああああああああああああああああ!!」

 雄叫びをあげて神速の世界に割り込んできた久遠が、一瞬で伸びた五本の爪を振りかざす。
 バチバチっと嫌な電撃が巻き起こる。五本の光線が大地を切り刻みながら迫ってくる。
 再度地面を蹴りつけた恭也が横に飛んでやりすごす。とんだ同時に即座に方向転換。久遠との間合いを詰めていく。
 
 久遠が新たな攻撃を仕掛けるよりも早く、隠し持っていた飛針を投げつける。
 その飛針はあっさりと久遠の纏う雷の鎧に弾かれるが、後数歩の地点で歯を食いしばる。脳髄が軋むほどの集中力。己の殺気を最大限にまで放出する。形無き黒き殺気の刃が幻想の牙となって、久遠に被りつく。腕に足にその牙を突きたてた。

「ぅぅあああ!?」

 久遠が一瞬だが感じた恐怖を振り払うように両手を振り回す。
 それで彼女に突き立っていた牙が霧散する。ほんの一秒にも満たぬその時間。それが活路となって楓の道を作り導く。

「―――良い子やからふっとぶんやで!!久遠!!」

 霊符に込められた霊力を起動。吹き出される爆炎。
 先程は通じなかったその霊符をもう一度久遠にぶつける。炎が渦巻状になって、久遠に直撃。それを再び雷の鎧が弾き飛ばす。だが―――。

「神気発勝―――真威楓陣刃!!」

 今度は先程よりもさらに早い。
 雷の鎧が完全に修復されるよりも、さらに早く。僅かな間隙を狙っての超連撃。
 久遠を飲み込む浄化の閃光。光の渦ともいえる大瀑布が、久遠を飲み込み吹き飛ばした。

 光の奔流が止んだ後、そこに残されたのは、地面に片膝をつくも、傷一つない祟り狐の姿。
 バチバチと彼女の周囲を囲う雷神の鎧は相変わらず健在だった。直撃を受ける前に、間一髪で修復が間に合ったのだろう。

「果てさて、中々に強情ですね」
「久遠も反抗期なんやろ」

「まさかの三百年目の反抗期ですか。それは珍しい」
「こういうときには母親からガツンと言って貰うのが良くきくんやけど……」

 恭也と楓は同時にチラリと後方を見る。
 二人が派手に戦っている最中に移動したのか、かなり離れた場所に薫達がいた。
 葉弓と十六夜の治癒術が続いている。いや、二人の手が淡く輝いていた光が消え去った。

「……ふぅ」
「はぁ、はぁ、はぁ……」

 軽く息をつく十六夜と、激しく呼吸を乱す葉弓。
 これだけ長い間治癒を続けたらそれは当然だろう。十六夜が少し普通ではないだけだ。
 
「十六夜、那美は―――那美は大丈夫とね?」
「はい。もう心配いりませんよ、薫」
「……ありが、とう」

 両手で十六夜の服を掴み、項垂れるように感謝の言葉を述べる。
 十六夜は軽く薫の頭を撫でる。まるで昔の幼い時のようで、少しだけ可笑しかった。

「薫。わかっていますね?」
「―――ああ、心配なか。情けない姿は、もう終わりじゃ。神咲薫はここから、だ!!」

 薫から立ち昇る楓を遥かに凌駕する霊気の御柱。
 無言でうなずいた十六夜が、其の姿をかき消し、霊刀十六夜となって薫の手のうちに戻る。
 
「葉弓さん。那美を頼みます」
「……はぁ、うん……まかせて……」

 十六夜を片手に薫が久遠へと近づいていく。遠くからでも一目でわかる超絶的な霊力。
 久遠がビクリと近寄ってくる薫に反応する。新たな強敵の参入に、久遠が纏う雷撃がより輝きを増していった。

 そんな薫を見た恭也は驚きを隠せない。
 これが、本当の神咲薫か、と。現在存在する祓い師の一族で、四百年という日本最古の歴史を誇り、あらゆる霊障を滅してきた家系。其のなかでも神咲三流と褒め称えられる流派。その三流のなかでさえ最強最高を誇る破魔真道剣術神咲一灯流。
 四百年の歴史の中で最年少で正統伝承者の座を受け継いだ神童、神咲薫。

「―――申し訳ありません。俺は正直貴女を見誤っていました」
「そんなことなか。うちのほうこそ、【恭也】君を見誤っていたよ。謝罪はしない。そのかわりに―――この十六夜の名にかけて全力をつくす」
「その心意気だけで十分かと。俺も全力でサポートさせていただきます、【薫】さん」

「はいはい。二人でいちゃついてないでうちも混ぜてな」
「い、いちゃついてなか!!」

 ガガガガっと三人の会話を途切れさせる落雷音が響き渡った。
 天空を雨雲が覆い、その合間から金色の雷が見える。天候さえも支配するのが祟り狐だ。
 矮小で、卑怯なだけの人間が己の前で未だ立っている。それに苛立ったかのように、久遠の両足が大地を踏みしめた。

「ぁあああああああああああああああああ!!」

 地面の土が爆雷の熱で蒸発していく。あまりの熱量に遠く離れている三人にもそれが伝わってきた。
 当たったら間違いなく即死。いや、即死ですめばいいレベルだ。下手をしたら死体も残らない。
 生と死が曖昧になりつつあるこの空間。だが、三人は退きはしない。不退転の意思を胸に秘め、伝説を墜とそうとする一人の剣士と二人の退魔師が疾駆した。

 一呼吸の間に暗器の飛針を投げつける。その数六本。音よりも早く飛来した鋭利な代物が久遠の体に突き刺さる―――その手前で消し炭になった。
 だが、それはめくらましだ。楓が右方向に、薫が左方向に。恭也が正面で祟り狐と激突する。

 三方向からの襲撃に、久遠の注意が乱れる。誰が一番自分にとっての最大の脅威なのか。
 迷ったのは一瞬。久遠が雷撃を放ったのは―――神咲薫。
 かつて十年も昔、祟り狐に封印を施した張本人。故に久遠の判断も早かった。

 背中に冷や汗を感じながら、自分に迫ってきた雷撃を横に飛んでかわす。
 それを追撃しようとした久遠だったが―――。

「―――祟り狐。俺にお前へ届く武器はない。だからといって、侮るな。見縊るな。見損なうな。俺は、お前を殺し得る力を持っているぞ」

 物量を持った重圧。久遠の全身を叩き潰し、圧し折り、粉砕する。そんな錯覚を感じさせるほどに、圧縮された恭也の殺気。久遠が知っている中で、内に潜んでいる大怨霊の悪意でもとびっきりに最悪で、最凶なその気配。
 それを放置して薫へと追撃をかける余裕などあるわけがなかった。

「ぅぅぅぁぁああああああああ!!」

 片手ではなく両手をかざして、迫ってきていた恭也へと両手の掌を向ける。
 まずいと第六感が囁いた。今すぐに逃げなければ、これは避けられない、と。
 それを肯定するかのように、久遠の掌から放たれるはこれまでの直線状の雷とは異なる、広範囲に渡って大地を抉り、蒸発させていく。

「―――恭也くん!?」
「行ってください、楓さん!!」

 避けきれないと判断した楓から悲鳴染みた声があがった。それに反射的に言い返す。
 それと同時にぞぶんっとモノクロの世界へ突入。己へと迫る雷壁ともいうべき荒波は急激に遅くなりはしたが、それでもまだたりない。
 
 ―――ならば、もう一つ。

 ガキンっと意識が朦朧とするような鈍さと重さ。
 世界がモノクロから色を取り戻す。その世界で恭也だけが、超速の動きを可能とする。
 神域と呼ばれる恭也の奥の手。迫りくる雷壁の射程を逃れるように、大きく薫側へと離脱した。
 紙一重で、神域の世界を抜け出した恭也の背後を絶望的な音をあげながら通過していく。 

 地面の土をばら撒きながら、両足で速度を殺す。
 突然傍に現れた恭也に驚く薫。それに対して楓は止まりはしなかった。
 恭也が行ったのだ。行けと。こちらは心配するなと視線で語っていた。心配をするよりも楓にできる全力を尽くせと。肩を並べて戦っている男が。最高の剣士が、心配するなと語ったのだ。自分程度があの高町恭也を心配するなどおこがましい。
 楓自身にできる、最高最速。その一撃を久遠に叩き込む。それが彼女にできる最善だ。

「神気発勝―――真威澄炎刃!!」

 それは澄み渡る真炎。霊力と霊符の複合技。霊力に乗せた霊符により爆発的な相乗効果が生み出される。
 久遠の雷撃のように、線路上にあるものを焼き尽くし浄化していく。ただ一直線に、久遠へと迫る破壊に特化した一撃。
 己へと迫ってきたその砲撃を、雷を纏わせた左手で受け止める。バチバチと拮抗する雷と真炎。

「―――かお、るぅぅううううう!!」
「神気発勝―――真威楓陣刃」

 楓に対する返事はしない。そんなものをするくらいならば、一歩でも、一呼吸でも、一秒でも、一瞬でもはやく技を放つのみ。
 チリンっと十六夜がなる。それはこの荒れ狂う地獄の戦いの中で、とても小さな音だった。
 だが、その音は誰もが聞こえた。その美しく、輝かしい太陽の音。
 薫が放ったのは楓が放つ真威楓陣刃と同じだ。だが、霊力の質も量も異なる。

 確かに楓は神咲楓月流において最年少で正統伝承者として認められた。
 だが、薫は歴代最高。歴代最強。歴代最大の霊力を秘めている。同じ技とて、威力の桁が違う。

 楓の真威楓陣刃とは一回り違った霊力の大砲撃が久遠へと放たれた。
 それに顔を歪ませた久遠だたが―――今度は右手で受け止める。右手と左手。両方の腕に降り注ぐ最高の霊力技。
 バチバチバチっとこれまで以上の雷撃が久遠の周囲で荒れ狂う。その二つの砲撃の威力に、僅かずつ久遠の手が押し戻されていく。
 誰もがいけると思った。正統伝承者二人による最高のタイミング。最大の威力を込めた技を同時に受けて、無事で居られるはずがない。例えそれが祟り狐であろうとも―――。

「ぁぁあああああああぁあああああああああああああああああああ!!」

 喉が潰れんばかりの絶叫が、響き渡る。
 一際強く眩しい輝きを残し、久遠の両腕が上空へと跳ね上げられた。
 その腕によって威力を流された二つの大砲撃が、上空へと打ち放たれ消え去っていった。

「……恐るべきは、祟り狐、か」
「……せ、やな」 
「はぁ、はぁ、はぁ。まだまだ、いける」

 三人に悲嘆の色はない。確かに今のを無傷で回避してしまったのは想定外だが、彼ら三人には諦めるという選択肢は存在しない。
 だが、心と肉体は別である。特に【それ】が現れたのは楓だった。ガクンっと膝が笑い、片膝を地面につく。

「―――あ、れ?」

 カタカタと手が震える。視界が揺れる。頭痛が襲ってきた。
 こうなるのは明らかなことだった。幾ら神咲楓とて、単騎で祟り狐と渡り合い、霊力の大量使用。途中からは二対一。三対一となってはいたが、それまでの時間彼女は一人で戦っていたのだ。
 体力、精神力、霊力―――それらが限界を迎えたとしても誰も責めることは出来はしまい。
 幾ら気力を振り絞っても、限界を迎えた以上、どうしようもない。

「―――っ」

 楓の異変を敏感に感じ取った久遠が、右手に雷撃を収束させていく。
 薫も恭也も、楓とは真逆の方向。しまったと思う暇もなく―――。

「ぁああぁあああああああああ!!」

 久遠の右手が振り払われた。
 
「―――させる、か!!」

 脳内のスイッチを切り替える。世界がモノクロに染まるも、それで間に合わないのは恭也も嫌でも承知している。
 さらに、スイッチを切り替えた。モノクロの世界に色を取り戻す。ほとんど連続使用ともいえる神域の乱用に四肢が悲鳴をあげた。そのまま砕かれるのではと勘違いしそうなほどの鈍痛が襲ってくる。
 だが、これでも足りない。足りるはずがない。この程度で、人一人の命を救えるはずがない。この程度の、何の代償もない、神域【程度】の世界で神咲楓という価値ある人間を救えるはずがない。
 
 理解しろ高町恭也。解放しろ高町恭也。神域【程度】で満足しているお前程度が、何かを助け、得ることなど出来はしないということを。
 
「ぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 バキンっと四肢を縛り付けていた無色の鎖を引き千切る。恭也を神域の世界へ留めていた枷を振り払った。
 神速を超えた神速。それ即ち神域。神域を超えた神速―――それ即ち無言の世界。
 水無月殺音との戦い以来となる無言の世界に足を踏み入れた恭也が世界を駆ける。完全に別領域となった、空間を疾走する恭也が―――光の雷撃より速く、楓の腕を掴み抱き寄せる。
 それはまさに疾風迅雷。電光石火。人も人外も超えた、これぞまさに本物の神代の領域。
 無論未だ完全にその領域を操れない恭也は、抱き寄せたまま、地面にぶつかり、転がって止まった。

「え?え?え?」

 訳がわからないのは楓だ。久遠の避けられない雷撃に、遂に死を覚悟した瞬間、いつのまにか恭也に抱き寄せられていたのだから。
 唯一つわかることは―――自分は恭也に命をまた救われたということだろう。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 限界以上に肉体を行使した故に、幾ら恭也といえども息切れは隠せない。
 ごろりと仰向けに転がっている恭也におぶさるように、体を重ねていた楓たったが―――。

「その、恭也くん……そんなに興奮されても、うち困るやけど。ほら、今戦闘中だし」
「げほっ……貴女の、そんなところは、結構好きです」

 冗談に冗談で返した恭也が楓をどかして立ち上がる。
 二人が無事なことに気づいた薫が安堵の笑みを一瞬浮かべるも、即座に引き締めて久遠へと立ち向かっていく。 
 
「楓さんは、休んでいてください。後は俺達で、なんとかします」
「―――うん」

 ここで食い下がっても自分には為すべきことも、為せることもない。
 それを知っている彼女は素直に頷いた。
 恭也は己の肉体を冷静に分析する。神速。神域。無言の世界の使用。それの負荷が身体中にかかっている。
 休めば問題ないだろうが、今この状況では全力の六割。
 しかし、薫一人で戦わせるわけにはいかない。呼吸を整え、地面を蹴りつけようとした、その時―――。

「―――く、おん」

 その呟きは、この場に居た全ての人間の動きを止めた。
 それは、恭也然り、薫然り、楓然り、葉弓然り―――久遠然り。
 【彼女】の声はそれだけの影響力を、持っていた。

 ゆらりと覚束ない足取りで恭也の横を通っていく。
 それは間違いなく、腹部を貫かれ、意識を失っていた神咲那美の姿だった。
 止めようと伸ばした手が凍りついたように、動かない。それは楓も葉弓も同様であったみたいで、那美の歩みを止めれるものはいなかった。

「ぁぁあ?ぁぁあああああぁああああああああああああ」

 久遠は、歩み寄ってくる那美を怖れたように一歩下がった。
 決して下がることのなかった祟り狐が、死に損ないの霊力も低い少女に脅えていた。

「く……おん。駄目、だよ」
「うぅぅぅぅぅああぁあああああああああああ」

 一歩一歩確実に、そして何の躊躇いも怖れもなく、久遠に近づいてくる那美に恐れを抱いていた。
 薫もそんな那美を止められなかった。鬼気迫るとでもいえばいいのか、例え止めたとしても、決して彼女は歩みをやめはしないだろう。
  
「久遠は、貴女は本当はとても、純粋な子。とても優しくて―――」

 那美が一歩歩み寄るたびに、久遠は一歩後退する。
 その姿はまるで―――泣きそうな子狐久遠を連想させた。

「―――とても素敵な、私の友達。貴方は、【誰】?」

 ピシリと空気が一瞬で凍えた。
 脅えている久遠の背後から黒の瘴気があふれ出す。
 久遠の【影】から、その瘴気は際限なく吹き出し続ける。
 獣のような、怨嗟の声。世界を呪っているかのような、怨恨の雄叫び。

「ぁぁぁあぁあ―――な、み―――だ、め……近寄っちゃ……だ、め」

 祟り狐となって初めて意味を持つ言葉を久遠は発した。
 いや、これこそが久遠なのだろう。奥底に閉じ込められていた久遠という依り代。
 これまで暴れていたのは―――大怨霊。全ての生あるモノを呪うもの。
 
「私の、友達を。とても大切な、友達を―――返して」

 常人ならば一目みただけで気が狂う。
 そんな立ち昇る悪意を前にして、那美は退かなかった。逆にさらに久遠へと近づいていく。
 
 そして、恭也達は自分達の勘違いにようやく気づいた。

 今まで戦っていたのは久遠ではない。【大怨霊】なのだと。
 久遠は依り代となりながらも、大怨霊に必死で抵抗していたのだ。
 彼の悪霊の力を抑え、決死の覚悟で、恭也達を少しでも守ろうとしていた。もしそうでなかったならば、とっくの昔にここに生きているものはいなかったはずだ。それに気づいていなかった。気づけていなかった。
 それに気づけたのは、神咲那美だけであったのだ。

「久遠を―――返して!!」

 ペタンと地面に尻餅をついた久遠が、己から溢れる悪意を止めようと、両腕で身体を抱きしめる。
 那美を傷つけないように。これ以上の悲劇を齎さないように。
 しかし、那美はそんな久遠を抱きしめる。バチリと雷が那美の身体に奔り、激痛をもたらす。
  
「だ……め、なみ……おね、がい……」
「久遠の、苦しみも、悩みも、何もかも―――私はうけいれる、よ。だから一緒に、歩いていこう。だって私達は友達だも―――」

 ドス。ドス。ドス。ドス。ドス。

 肉を貫く音が妙に生々しく聞こえる。
 貫かれたのは、神咲那美。貫いたのは―――祟り狐、久遠。

 最後まで言葉を発することなく、久遠とは別の祟り狐という意識が、最も脅威となっている人間―――那美の腹部を五本の爪が穿っていた。

「ぁぁ……ぁぁぁあ……な、み?」
「―――く、おん」
「ぁぁぁ……ぁぁああぁああああああ……ぁぁあああああああああああ」

 砂埃を巻き起こして、行動を起こしたのは二人。
 薫と恭也。叫ぶ暇もなく、二人が疾走する。目的は神咲那美の救出。
 こればかりは見ただけで分かる、明らかに致命傷だ。いや、即死でもおかしくはない傷の深さ。
 何故那美を止めなかったのかと、己達を罵った二人が久遠へと迫る。
 
 その時、空に轟く雷光が煌く。稲光とともに久遠へと雷撃が落ちた。
 轟音とともに、恭也と薫の足を止める。雷を受けたらもはや那美の命は潰えたも同然。
 真っ青になった薫と恭也の視線の先―――爆煙がおさまったその場には、那美を抱きしめる久遠の姿があった。
 恭也が気づいた。痛々しいほどに出血していたはずの那美の傷口から爪は抜かれ―――そして、出血が止まっていることに。何故、だと不可思議な出来事に眉を顰めた。
 それに遅れること数秒。薫もその事態に気づき、あっと驚く。

「まさか、雷撃のエネルギーを―――生命力に変換、した?」
 
 久遠の身体が光り輝く。神々しい光が、身体に纏わりついていた瘴気を消し飛ばす。
 おぉぉぉぉぉおお―――そんな獣の鳴き声が耳をつんざく。

「くおんの、くおんの―――中から、でていけ!!」

 一際強く輝いた雷撃が、完全に久遠の周囲の瘴気を弾き飛ばした
    
「なみは……なみは、久遠が護る!!」

 数百年の負の感情をため続けた大怨霊の、悪意から、強制力から逃れた久遠の気高き宣誓が夜風に響く。
 弾き飛ばされた瘴気―――【ナニ】かが、一箇所に集合していき、黒い巨大な雲を作り上げた。
 その黒雲が地上の人間達に送るのは揺ぎ無い殺意。憎悪。それはまさしく大怨霊の元となる存在だった。

「―――ワレは、ユルサぬ。ワレは、ホロボす。コノちを―――」
「ああ、煩い。お前はもう、そこで終われ―――」

 黒雲に投擲される十数本の飛針。研ぎ澄まされた、鋭き針が突き刺さっていく。
 だが、黒雲には全く通用していなかった。依り代から捻り出された大怨霊は、物理的な力では打倒できない。
 しかし、逆を言えば―――。

「薫さん!!楓さん!!葉弓さん!!―――久遠!!」

 恭也の呼びかけに各々が自分の愛刀、愛弓、雷撃を纏い、構える。 
 もはや余力を残す必要はない。今このときにすべてをかける。
 その場にいる全員の集中力が高まっていく。限界に近づき、限界を迎え、そして―――限界を超える。

 己を滅ぼさんとする霊力の高まりに危機感を覚えた黒雲が、瘴気を撒き散らす。
 人の体に即効性の害を与えるそれらが、地上に降り注ぐその瞬間―――。

「―――舐めるなよ、大怨霊。例え貴様を断つ力がなくとも、此処から先は俺の命に賭けても通しはしない」

 殺気。悪意。憎悪。怨恨。狂気。凶気。
 黒雲の放つ悪意を凌駕した、純粋なまでの殺意を八景に纏わせ、届かぬ位置から空中に浮かぶ黒雲に一太刀。
 その一撃は、誰一人として視認も、認識もできない超領域の一閃。
 それはただの一斬だ。己の全てを賭して放たれた、全ての殺意を乗せて放たれた一撃だ。
 黒き三日月の刃が、空を駆け、黒雲を断つ。圧倒的な殺意が蹂躙していく。
 
「―――っア?」

 だが、実際には斬られて訳ではない。ただの殺意による幻覚。幻視。
 されどそれは確かな質量と感覚を黒雲に与えもたらした。悪意の結晶たる大怨霊をも、一瞬とはいえ怯ませる。
 そして、その一瞬で全ては事足りた。

「神気発勝―――真威乱篠」

 極限にまで高められた霊力を込めて、葉弓の構えていた矢が白銀の光を残し黒雲に突き刺さる。
 突き刺さった場所を中心に黒雲を侵蝕して行く。言葉にならぬ獣の雄叫びが神社に響き渡った。
 それに続くのは薫と楓。

「神気発勝―――」
「神気発勝―――」

 薫と楓の祝詞が重なる。二人の霊力を同調。
 残された全ての霊力を込めて。

「「―――封神楓華疾光断」」

 二つの霊力が螺旋を描き、黒雲を消し飛ばす。
 最初の半分以下の面積となった黒雲は、怖れたように、散っていこうとする己が悪意をかき集める。
 
「ぁぁぁぁあああああああああああああ!!」

 そして、それを消滅させるのは妖狐久遠。
 大怨霊から奪い取った圧倒的な力を利用し身体から迸る超々高熱の雷撃が、黒雲全てを飲み込み―――雷撃の空間に閉じ込めた。
 その閉鎖空間で何十何百の雷撃が黒雲を狙い穿つ。祟り狐の時の久遠をも凌駕する、究極的な雷の結界。その姿はまさに雷神。僅か一分もかからずに―――黒雲を跡形一つ残さず、燃やし尽くした。
 静寂が八束神社を包む。
 本当に終わったのかと、誰もが言葉を発することが出来なかった。
 数十秒。いや数分だったかもしれない。実際にはそんな長い時間ではなかった。

「―――ん」

 そんな那美の呟きが、全員の意識を集中させた。
 薫が、楓が、葉弓が―――久遠に抱かれている那美に駆け寄っていく。
 三人とも笑顔だった。これ以上ないほどに、嬉しさを堪えきれない笑顔だった。
 
恭也も、ようやく終わったのだと、深い深い安堵のため息を吐いた。






























 ―――いやだ。

 どろりとした闇色の空間で【それ】は拒絶する。

 ―――ワタシは、滅びぬ。

 様々な悪意が混ざり合った混沌とした空間で【それ】は拒絶する。

 ―――ボクは、人を許さない。

 数百年にも及ぶ悪意である【それ】は拒絶する。

 ―――ワレは、世界を滅ぼすのだ。

 こんなところで消え去ってなるものかと【それ】は拒絶する。

 ―――オレは、諦めない。

 だが、もはや依り代もなくただ消え去るのみだった【それ】は拒絶する。

 ―――ヨは、望む。

 パキィっと混沌とした世界に一筋の光が差し込んできた。
 その光の先、手の届くそこには、不気味な色を発する宝石があった。
 宝石が生き物のように脈動する。心臓が動いているかのように色合いを変えていく。
 それは【種】と呼ばれるロストテクノロジーの遺物。
 多くの記憶や感情、魂と引き換えに願いを叶える奇跡の宝珠。
 【種】は如何なる願いも叶える。例えその願い主が人でも、動物でも、虫でも―――悪霊でも。

 ―――汝は何を望む?

 宝石は囁く。混沌たる悪意の結晶に願いを尋ねる。
 この瞬間、悪意の結晶が願ったこととは―――。

































「―――っ!?」

 ほんの僅かな悪寒。
 この場で恭也しか気づかなかった、小さな怨念。
 悪意の結晶たる大怨霊が僅かに残した、一滴の悪意。
 それが―――最後の力を振り絞り、本能に刻まれた【枷】をはずし、八束神社の本殿へと続く扉を破壊した。

 まずい。まずい。まずい。まずい。まずい。まずい。

 何がどう危険か説明できない。だが、第六感が告げてくるのだ。アレを行かしてはならないと。
 もはや動けるのは己だけ。全力全速で、後を追う。
 階段を飛び越え、賽銭箱を再度蹴りつけ、ちっぽけな悪意の後を追走する。
 だが―――。

 これまでの如何なる存在も、生物も、大怨霊も、祟り狐も凌駕する、次元の異なる気配が膨れ上がった。
 本殿の、奥に飾られていた宝石に悪意が取り憑き―――宝石は爆発的な光を発する。いや、黒き闇。己の中と同種である、最悪の闇が眼前で目覚めの鼓動をあげた。

 闇色の衝撃波が、恭也を吹き飛ばす。踏みこたえることも出来ず、疾風に巻き込まれ、外へと跳ね飛ばされた恭也が体勢を整え着地する。
 薫も、楓も、葉弓も、久遠も、何が起こったのかわからない。そんな茫然自失とした状態で、空を見上げていた。
 八束神社の屋根を突き破り、闇柱がそびえたっていた。言葉に言い表せぬほどの、邪気。
 そんな闇の柱も徐々に治まっていき―――やがて、それを凝縮した完全な闇が、本殿の奥から歩み出てきた。

 【それ】は恭也と同程度の長身の女性だった。
 身に纏う寝間着のような衣装は、和服にも見える。だが、色が深い闇の色。
 長い長い、漆黒の髪が歩くたびに揺れている。容姿は異常だ。異常なほどの美しさだった。油断すれば恭也でさえも飲み込まれるほどの、人の欲望を惹き付ける美。腰からは久遠の五本の尻尾を一つに纏めたかのように大きな尻尾が揺れ動いている。
 開いた胸元は、恭也には多少目に毒で、然程大きくないとは言え、豊かに実った二つの果実が見えかけている。
 だが、それより注目するのは胸の丁度中心に、不気味な色の宝石が埋め込まれていた。 

「―――ああ、ようやくだ」

 それだけで恐怖がこの場にいる全員にのしかかる。

「―――ようやく、余は世界を滅ぼせる」

 恭也達に気づいていたのか、女性は右手を向け―――。

「平伏せ、ニンゲン」

 重力が急激に重さを増す。薫も楓も、葉弓も久遠も―――まるで上位の存在にするように、四肢を地面につけ、頭をたれる。ただの言葉が言霊となり、人を支配する。

「―――ほぅ。余の言霊が効かぬ者もおるか」

 ただ一人、恭也だけは、片膝をつくだけで歯を食いしばりながら睨み付けていた。

「いや、まて。その顔。その気配……お主、まさか―――」

 恭也の顔を改めてまじまじとみつめていた女性は、本当に驚いたのか、目を大きく見開き、彼の姿を凝視する。
  
「なん、だ―――お前は」

 そして言霊の呪縛を振り払い立ち上がる。
 はぁはぁっと息をつく恭也を興味深そうに見ていた女性はふっと薄く笑う。
  
「無礼者といいたいところではあるが、名乗らせて貰おう。余の名を聞き、そして逝け。余の名は―――」

 ばさりっと己の服を翻す。これまで戦ってきた誰よりも禍々しい気配を漂わせ―――。

「余の名は大怨霊。己が肉体を得た、世界に終末をもたらすものだ」


 そして、高町恭也の―――絶望的な戦いが、始まった。

























--------atogaki-----------

まさかの土曜日帰ってからのテツヤ作業。まだまだ若いぜ!!
色々原作とは異なっています。申し訳ないです。
御神流裏→恭也が作り上げた技術の集大成
御神流【裏】→御神と不破の怨念と思ってください。
葉弓とか楓は 神気発勝の祝詞はいらなかったきもしますが―――なんか使いたかったので付け加えました。

次回の完結編ですが、前々からかいていたとおっもいますが、28日に引越しがあります。
26,27は掃除と荷物整理に使用したいので、もし25日までに投稿がなかったら次の話はいつ投稿かちょっとわかりません。
引越し先のネットがいつ繋がるか……あと環境がかわるので時間取れないかもしれません。
もしかしたらまたですが半ば投稿停止みたいな感じになるかもしれませんが、完結させる気はありますので、できればおつきあいください。

といってたら、25日までに投稿できるフラグ!!

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[30788] 二十五章 大怨霊編 完結
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2013/01/25 20:41















 高町恭也の十メートル程前方に居る女性。大怨霊と名乗った彼女は、己の肉体が正しく動作するのかどうかを確かめるように右手を握り、そして開くを幾度か繰り返していた。
 そして何を思ったか己の両胸に手をあて軽く揉み解す。一体なにをやってるんだこいつは―――と緊迫した空気のなかの突然の行為にさしものの恭也の頬が引き攣る。

「成る程。初めての余の肉体。【お前】を意識してかこのような姿になってしまったぞ。全く困ったものだ」

 なにやら一人呟いていた大怨霊は、一頻り彼女の肉体が自分の思い通りに動くのを確信したのか、緩やかな一歩を踏み出してきた。
 一歩踏み出すだけで膨れ上がっていく狂暴な悪意。感じ取れるのは気が狂いそうになるほどの負の感情。数百年という年月に渡ってあらゆる悪意を喰らってきた、暴食の怨霊。その名に偽りはなく、ただただ人を滅ぼそうとする意思だけがはっきりと伝わってくる。

「―――っぁぁぁああああああ!!」

 誰もが足を止め、身動き取れない静寂を破ったのは久遠だった。
 より一層金色の光を強めた雷を身に纏い、大怨霊に向かって突撃する。
 恭也達と戦っていた時の意識がある。記憶がある。十年前に数多の祓い師を退けた記憶がある。そして、那美の両親を殺めた記憶も。三百年前にありとあらゆる悲劇を造り出した思い出もこの胸に。
 それも全ては己の弱さのため。憎しみに負け、悪意に負け、流された結果だ。
 だからこそ、新たに産み出されるであろう悲劇の根源たる存在を此処から先へ行かしてはならない。ここで仕留めねばならない。ここで終わらせなければならない。

 久遠の手が振り下ろされる。自由に使える力は残り僅か。それを振り絞り闇夜を切り裂く光の奔流。
 的となっている大怨霊は避けようともしていない。防ごうともしていない。雷撃が大怨霊に直撃するも、一瞬でその光は消え失せる。
 だが、久遠は足を止めない。懐に踏み込もうとしている彼女を一瞥。大怨霊は右手を天にかざす。
 それだけの動きで恭也の背筋が粟立った。なにかが危険だと。説明できない第六感。彼女が振り上げた右手がとてつもなく恐ろしい。あの右手に触れてはならない。
 
 久遠へと注意を叫ぶよりも速く飛針を煌く。大怨霊の右手に当たる寸前に、ナニかに弾かれた。それに眼もくれず自分に向かってくる久遠に振り下ろそうとして―――ガクンと空中で止まる。
 夜の暗さで眼に見えなかったが彼女の腕に絡みついている銀色に輝く細い糸。鋼糸と呼ばれる暗器の一つ。その糸を辿れば恭也の手へと繋がっていた。飛針を投げつけると同時に鋼糸も飛ばしていたのだ。
 隙だらけの大怨霊の体に久遠の雷撃が迸っている拳が着弾した。爆音が響き渡り、大怨霊の肉体を―――後退させることに成功した。たった一歩だけの後退を。
 残りの全霊力を込めた一撃が全く相手に通用していないことに驚くも、その次の瞬間には【ナニ】かに久遠の身体が薙ぎ払われる。久遠が地面に叩きつけられ、大地が罅割れた。叩きつけられるだけではすまず、地面を滑りつつ薫達の下まで幾度も転がりながら戻された。 
 
「く、久遠―――!?」

 楓が慌てて久遠を抱き起こすが、反応がない。霊力を使い果たしたというのもあるだろうが、衝撃で意識を失っていた。
 【ナニ】かが空間を断裂させ、自分の右手に絡み付いている鋼糸を断ち切る。
 愕然とする薫達に聞こえるのは甲高い鳥の鳴き声。そして音を発しながら渦巻くのは黒い靄。
 地獄の餓鬼を連想させる禍々しい黒霧が、徐々に周囲に広がっていき、世界を侵蝕していく。
 際限を知らず膨れ上がっていく瘴気が、空を覆っていき、やがて月光をも遮り始める。
 ふっと微かな笑みを浮かべた大怨霊は、右手の人差し指と中指二本を恭也―――いや、薫達五人に向かって突きつけた。神聖なはずの八束神社を覆いつくすに至った深き闇。それらが急激に凝縮されていく。
 喉が渇き始める。これ以上ないほどの死が傍に這い寄ってくる。

「―――お主との戯れを始める前に、邪魔者を舞台から排除しよう」

 ―――薫、逃げなさい!! 

 その場にいた全ての者に十六夜の焦った叫び声が聞こえた。だが、全てが遅すぎる。
 暗黒が周囲を包む。大怨霊の指先に闇が収束していった。そして、爆発的な勢いで膨れ上がっていく黒き球体。
 空間が軋む音を響かせながら、黒球が薫達五人に向かって放たれた。地面を根こそぎ抉りながら、亜音速で射抜かれる境内。直径数メートルはありそうな黒の閃光があらゆるモノを消滅させていった。

 その輝きに死ぬという絶望感を持ちながら五人は行動を映すことができなかった。いや、辛うじて楓が霊符を発動させて幾重にも重なる土の防壁を作り上げる。だが、それは無駄に終わった。
 彼女達の丁度中心で激突した土の防壁と黒閃光は拮抗したのは刹那の瞬間。幾重もの防壁は脆くも弾きかき消され、その場にいた全員の視界全てに死が広がった。
 唯一範囲外にいた恭也だったが、助けに行きたくても行くことができない。
 黒閃光が周囲に発する圧力をも感じる闇の奔流に、体がその場から吹き飛ばされないように踏みとどまるので精一杯だった。それに加えて、目を細めた大怨霊が恭也の動きを見逃すまいと見つめている。
 恐らく助けに向かえば、その隙をつかれて殺される。それが容易く想像できる明確な戦意を感じ取れていた。
 
 終わる。彼女達の生命が終わる。彼女達の人生が終わる。
 無力な高町恭也のせいで。たった一歩を踏み出せなかったために。全てが―――終わる。

「―――やれやれ。やはり剣士殿には我が必要であるな」

 ふぁさっと夜の闇の中でさえも映える黒髪を靡かせて、金色の着物を纏った女性が薫達の眼前に舞い降りる。
 迫ってきていた黒の閃光を右手をかざして受け止めた。奇妙な音をたてて彼女―――空の右手と球体が悲鳴をあげる。
 ビキビキと彼女の腕が軋み始めるが、不敵な笑みを崩さないまま激痛に耐え続けた。
 拮抗していたのは数秒で、鷲掴みにしていた右腕の掌が―――黒の球体を跡形残さず、握りつぶした。

 己達に死を齎そうとしていた閃光が霧散していく様を 呆然と見つめている薫達だったが、目の前に優雅に立つ女性の姿を目に入れて―――薫だけは目を見開いた。
 大怨霊にも勝るとも劣らない、底が見えない怪物がまた一人。ただ人の姿をしているだけにしか過ぎない怪物だ。
 
「流石にこの身体でこれだけの悪意を喰らうのは少々骨が折れたぞ」

 飄々とそう語る空は、ぷらぷらと右手を空中で振る。
 楓も葉弓も久遠も、突如現れ自分達の命を救ってくれた女性に感謝と供に訝しげな視線を向けるが、その中でただ一人、薫だけは愕然と呟いた。

「な、なんで……お前が……」
「久しいではないか、神咲の小娘。息災にしていたか?」
「……お前が、何故、お前が―――ざ、から!!」

 ざからと呼ばれた空はくふっと笑いを抑えられなかったのか、僅かに笑みを零す。
 背後にいる四人を庇うようにその場から動かない空―――いや、ざからは大怨霊へと視線を移した。

「まさか大怨霊が自分の肉体を得ることになるとは。流石の我も予想外の出来事だ。少しばかり我が助力したとしても文句はなかろう」
「……何者だ、お主。人―――ではあるまい。人外の存在か?」

 ざからを前にして奇妙な感覚を全身に浴びながら大怨霊が問い掛ける。
 その言葉には当然、相手を平伏せさせるような重みが篭ってはいたが、ざからに通じている気配は全く見られない。そんな姿に眉を顰める。

「我を何者かと問うか。既に我が名は過去のモノとなっているのが些か不満ではあるが。そなたに倣って名乗りをあげさせてもらうとしようか。我が名は―――【ざから】。かつては国喰らいと呼ばれた、破滅を告げし魔の獣よ」

 かつて、一匹の魔獣がいた。
 その魔獣が意識を持ったのは大凡四百年もの昔。
 【それ】はあらゆる人を喰らった。あらゆる人外を喰らった。あらゆる生命を喰らった。
 数万。数十万。数百万―――国が傾くほどの被害を日本に齎した最凶最悪の魔獣。
 如何なる軍勢も薙ぎ払い、如何なる猛者も喰らいつくし、如何なる人外も殺しつくした。
 伝承級と呼ばれるアンチナンバーズの一桁台さえも、【それ】の前では塵芥に過ぎず。奇跡が産み出した、世界を滅ぼすに至る可能性を秘めた全ての魔獣の頂点。大怨霊に匹敵するほどの死をばら撒いた獣の王。
 純粋に破壊を求めた【それ】の名は―――座空。遥かなる空の頂に座する神をも喰らいし獣。
   
「何故、だ。お前は確かに―――あの時、あの人によって封印されたはず!!」
「うむ。我の本体は未だあの地に眠ってはいるぞ?少しだけ隙間を空けてもらって出入りしているだけだ」
「……す、隙間?そんな簡単に、出入りできるわけが……」
「最近は雪の奴も協力的であるからな。別に我もかつてのように人の世界をどうこうするつもりはない。それよりも興味深い人間をみつけたのでな」

 ふっと艶かしい流し目をそれとなく恭也に送りながら何気なくアピールしてくる彼女に、特に何かを言うわけでもなく恭也は大怨霊へと小太刀を向けた。
 無視される形となったざからではあったが、まぁよいかと小さく呟いたのを薫達の耳は聞き取る。

「この者達は任せておけ、剣士殿。そなたの全力―――見せてもらうぞ」
「―――感謝します」

 言葉短く礼を述べた恭也が、大怨霊ただ一人に集中をし始めた。
 薫達に注意を払わなくてもよくなったため、それは恭也にとって随分と有り難い話だ。戦いに集中できる、できないでは随分と差が出てくる。
 大怨霊も一旦ざからから視線を外し、恭也へと向き直った。
 ざからが尋常ではない相手なのは否が応でも理解できている。先ほど放った一撃は生半可なものではないのは大怨霊自身が一番良く知っているのだから。それこそこの場に居る恭也以外の存在を塵と化せるほどの威力を秘めていた。
 それをあっさりと消す―――否、喰らった。
 しかし、見る限り戦いに参加してくる様子は見られない。
 それならば、ざからの相手は後回しにしたほうが無難。そう判断した大怨霊もまた恭也の身体を。隅々までねめつける様に見渡した。

「―――まさか余が肉体を得て初めての相手がお主となるとはな、御神恭也よ。因縁を感じるとしか言えまい」
「……?」
「あの時より幾星霜。お主が予言した、余を殺す者。それがお主とはまた、皮肉なものだ」
「……」

 朗々と語る大怨霊に対して、恭也は返答をしない。
 彼女の動きを見逃すまいと凝視している。額にはうっすらと汗の珠まで浮かべて呼吸を深く繰り返す。
 大怨霊が浮かべる笑み。それは人や人外では為しえぬ、得体の知れない邪気を秘めていた。
 普段の恭也に比べて明らかに精彩をかいている。己と同種の闇の支配者との対面にて、緊張を隠せずにいたのだ。

 僅かとはいえ気圧されていた心を意思の力で押し潰す。
 改めて大怨霊と名乗る女性の睨みつけるように凝視した。
 佇む黒の姿。長身痩躯の肉体から目を離せない。大怨霊の視線から、口元。彼女の肉体が奏でる鼓動。薄く聞こえる呼吸音。悠然と佇むその姿。恭也の見切りを持ってしても、彼女の備える技量が全く把握できなかった。

「だが、それもまた一興。今回は余がお主を―――超えさせて貰おう」

 両腕を腹部のあたりで組み、胸を強調する体勢を作る。
 彼女の腰から生える尻尾が、ゆらりと揺れた。 

「―――来るがよい。我が怨敵。我が宿敵。我が好敵手。我が全ての悪意を斬り裂いた―――我が同胞よ」

 それが開戦の合図となった。
 油断はない。慢心もない。あるのは全力で叩き潰すという強き意思。その両足が地を蹴った。
 高町恭也という人間を容赦なく圧殺しようと襲い掛かってくる、無限の悪意。気を抜けば眩暈がしてくる。
 
 パチリと視界の色合いが音をたてて変わりゆく。
 意識が世界を切り替えた。色が全てこそぎ落とされ、モノクロの空間。
 神速の領域に踏み込んだ恭也が二歩目を踏み出そうとしたその一瞬。背中に走るのは想像を絶する悪寒。

 その場から二歩目の足を踏み出した。ただし前にではなく、後方へと逃げ延びた。
 ナニかが地面を抉り、横一線に深い溝を作り上げた。それに続いてシュパンっと音を切る僅かな耳鳴りが聞こえる。
 音よりも速く、ナニかが恭也を攻撃したのだ。緊張が一気に強まっていく。

 その音の原因。それは至極簡単に判明した。
 闇夜に浮かぶ、一房の尻尾。大怨霊の腰から映える闇色の尾。それがゆらゆらと彼女の背後で揺れていた。
 明らかに今先ほどまでより長い。伸縮自在ということかと恭也は悟った。
 休む暇もなく、闇色の尾が恭也へと荒れ狂う。周囲で見ている者でも何かが煌く。その程度の認識しかできない超音速。
 縦横無尽に恭也へと降り注いだ。舌打ち一つ。その連斬からさらに後方へと飛び下がり難を逃れた。
 
 そんな恭也を尾は容赦なく追いすがる。
 弧月の軌跡を描き、恭也へと襲い掛かった。目前の視界に幾重も円月が描かれる。
 その中で自分に攻撃が届くものだけを選び、八景で撃ち払う。手に響き渡る衝撃。耐え切れず一歩後退。

 大怨霊は腕組みのままその場から動かず。
 一房の尾のみで恭也の踏み込みを防いでいる。その牽制に歯噛みするも、無理に踏み込むことは出来ない。
 尾の一撃一撃が恐ろしいほどに速く、重い。油断すれば一撃で小太刀を持っていかれる。流石の恭也と言えど、素手でこの尾を捌くことは不可能だ。小太刀が手元から離れれば勝率は限りなく零へと近づく。

 恭也の動きを逃すまいと視線鋭い大怨霊に飛針を投擲。
 空気が揺らぐ。二本の飛針が大怨霊の首に正確に、精密に狙い、飛翔する。
 だが、その飛針はあっさりと弾き落とされる。大怨霊の前でしなる一房の尻尾。弾かれた飛針が地面に突き刺さった。

 尾が彼女の視界を塞いだ一瞬。飛針を叩き落すために、しならせた僅かな瞬間。
 その刹那ともいえる時間の流れの中で―――恭也の姿が消え失せる。
 大怨霊の視界の死角。そこを的確につきながら、神域の世界に飛び込んだ恭也が大怨霊の右手から小太刀を一閃。
 狙いは喉元。いや、容赦なく首を落とす斬撃。あの宿敵である天眼と同じで全くの躊躇いを持たない。
 
 だが、恭也のその一瞬確かに見た。口元を微かに歪める彼女の姿を。
 再度襲い掛かる悪寒。しかし、そのまま小太刀を振り切った。ぞぶんと水面に刀を叩き付けた様な、奇妙な感覚が手に残る。八景は彼女の首を落とすことはおろか、傷一つつけることができていない。
 彼女が薄く纏う黒い闇。それが鎧となって、小太刀を止める。

 大怨霊は未だ両手を使おうとしないのか、恭也から離れるように距離を取る。
 長い尾を大きく振って、半円を刻みながら横薙ぎの刃を形作った。恭也の胴体を両断する勢いのそれを、跳躍してかわす。そのついでに、足元を通った尾を軽く蹴り、間合いを外した。

 そして、三度感じる悪寒。
 僅かな風の揺らぎ。視認するよりも一歩早く、後方へと逃げる。
 闇色の尾が一瞬前まで恭也がいた場所を叩きつぶすように降ってきた。その尾が地面を打ち据えた瞬間、パァンっと破裂音が炸裂する。

「―――どうした、御神恭也?かつてのお主ならば、この程度の尾の攻撃など瞬く間に潜り抜け、この程度の防御など容易く切裂いたぞ?」
「―――俺の名は、不破恭也だ」
「ふふん。どの口でその名をほざく。お前は確かに御神恭也―――かつての余を滅ぼした者。お主の魂の色だけは決して忘れぬぞ」

 
たった一言だけを発した恭也だったが、それ以上は口に出さない。
 いや、正確には口に出せないといったほうがいいだろう。喉が異常なまでに渇いている。名前を名乗った今でさえ、声がかすれなかったことを褒めたいくらいだ。唾液もでてこないほどに乾ききった口内。ひりひりと痛みが襲ってくる。
 僅か一分にも満たない攻防の筈だった。だが、その攻防でそこまでに緊張している。恭也にしてみれば実に珍しい。
 それも無理なかろうことだ。相手は数百年の悪意の具現化した存在。彼女が放つ重圧はこれまでのどの敵よりも禍々しい。その悪意に晒され、疾風の尾の斬撃を撃ち払い、避けきる。言葉にすれば簡単なことだが、それがどれほどに神技の領域の話だろうか。

 尾の一撃避けるたびに神速の域に入らねばならない状態だ。短時間の神速のため、まだまだ体力に余裕があるとはいえ、徐々に疲労は蓄積されていく。
 そして厄介なことに、大怨霊が纏う鎧。一撃防がれただけとはいえ感覚でわかる。
 【アレ】はそう簡単には切裂くことができないと。一体どれほどの斬撃を見舞えば大怨霊に届くか想像に難しい。
 兎にも角にも、まずは尾の攻撃を潜り抜け、刃を彼女に届かせるしかない。幾度か刃を振るえば、勝利への道筋は見えてくる筈だ。

「まぁ、よい。我も少しばかり本気を出そう」

 大怨霊は組んでいた両腕を解き、だらりと下げ、両手の指をコキコキと音を鳴らしながら動かした。
 それだけで先ほどまでよりも恭也に襲い掛かってくる重圧が凶悪さを増していく。彼女が放つ際限なき邪気に、否が応でも更なる集中力を求め欲す。
 己が放つ悪意に膝を折らない恭也と相対することができるのが嬉しいのか、笑みがより深く濃くなっていった。
 
「―――ふぅ」

 深く呼吸を吐いたその瞬間、横薙ぎの尾の一振りが襲い掛かってくる。
 八景を盾にその一撃を防ぐ。そのまま小太刀滑らせるように疾走した。その勢いを殺さずに、間合いを詰めていこうとするも、グンっと尾を受け止めている小太刀にかかる重量が増す。
 それが爆発的に膨れ上がり、危険だと思った瞬間には身体ごと吹き飛ばされていた。
 半分は恭也が自分から跳んだ衝撃とはいえ、まさか身体ごと持っていかれるとは考えておらず、半ば垂直に飛ばされた先―――大人の男性の胴の倍はありそうな幹周りの木々に激突する瞬間、足をつけ衝撃を殺した。
 びりっとした痛みが足を襲うが、痺れるというほどのモノでもない。

 ぎりぎりの所で流したとはいえ、易々と身体を飛ばされる大怨霊の力に寒気がはしる。
 速度でも単純なそれでは彼女のほうに分がある。神速及び神域の世界に入り―――見切りによる先読みを使いながらでようやく間合いをつめることが出来る状況だ。
 つまりは力と速度では大怨霊に軍配があがるというわけだ。しかも圧倒的といっていいだろう。
 幾らまだ余力があるとはいえ恭也の神速と神域の回数も無限ではない。 
 
 勝利を掴むためにはどうするか。
 答えは簡単だ。力でも速度でも勝てないのならば―――技術で勝てば良い。
 恭也にとってこれだけは、大怨霊を上回る自信があるからだ。己の生涯をかけて追求してきた剣の極地。未だ【上】を目指しているとはいえ、そう簡単に遅れを取る気はない。
 そしてもう一つ―――。

 ―――大体、【見切った】。

 元々大怨霊の戦闘能力が半端ではないことは分かっていた。
 そんなもの戦わずとも気配だけで理解できることだ。故に、恭也は今までの戦い相手の動きを理解することに全力を傾けていた。
 幾ら大怨霊といえども【人】の形を取ったことが恭也にとっては幸いだった。
 彼女と向かい合っている最中にでも、挙動の一つ見逃さぬように意識を集中させる。相手の呼吸も、筋肉の稼動の様子、心音、そして人が為せる骨格の稼動範囲。
 それら全てを、ひとつとして見逃すことなく、大怨霊が次に打つ一手を推測する。
 彼女が動くよりも速く一歩でも、一手でも、一瞬でも、相手の機を悟り恭也は動く。

 恭也に与えられた才能。見切りの極地。かつての御神の剣士達に心眼とも神眼とも云わしめた、その技術を持って恭也は大怨霊と戦うことが出来ている。
 彼が極限の集中力を要して、大怨霊の動きを予測して、予想して、そこから彼女の攻撃に対して放つ反撃の一手は、恭也にとっての最高の一刃。
 その一刃の前では、圧倒的に力が足りなかったとしても、圧倒的に速度が敗北していたとしても、相手へと必ず辿り着く、文字通り必殺の刃。

 唯一の問題があるとすれば、彼女が纏う闇の靄。恭也の斬を持ってしても断ち切れぬ完全防御。しかも見る限り大怨霊が意識して操っているわけではない。完全に、完璧に、身体全域を覆っている。
 先ほどまでは、幾度か刃を通せば勝利への道筋が見えてくると思いはしたが、それも怪しく思えてきた。
 自信に満ち溢れた大怨霊の姿は決して己の肉体を傷つけられないという確信故にか。
 それに、彼女へと至る斬撃を届かせるのにも一苦労だ。ならば、攻める場所は限定したほうが良い。
 そう、つまり―――。

 ―――あの、【宝石】だ。 

 大怨霊が肉体を得ることになった原因。それは間違いなく彼女の両胸の丁度中間にて不気味に光り輝く宝石。
 埋め込まれているのか、完全に同化しているのが見て取れる。
 少なくとも、一番弱点らしい弱点といえば、今見えているあの宝石しかない。
 果たして恭也の狙いが正解なのかはわからない。しかし、現在行動できる最善を尽くすならば、間違いなくそれしかないはずだ。

「考えが纏まりはしたか?そろそろ行くぞ。さぁ、舞え。御神恭也」

 大怨霊の尻尾が霞む速度で撓り始める。
 巻き起こした余波で、砂や小石が舞い散っていく。風を斬り、土を吹き飛ばし、木々を破壊していった。
 空間が軋む。大怨霊の全身を結界のように、覆い隠すのは、闇色の尻尾。触れただけで人の肉体をあっさりと切断し、圧壊する超高速の刃の鎧。
 それに身を守られながら、大怨霊は恭也へと近づいてくる。一歩一歩確実に。しかし、恭也を逃さぬように。
 彼女が近づいてくるたびに、地面が抉れ、切り刻まれ、荒れ果てていく。
 そんな無敵となった一つの結界を前にして恭也の次に取った行動とは退避ではなく、その場での待機であった。
 
「―――逃げるんや、恭也君!!」

 遥か背後から楓の声が聞こえる。
 返事をしている余裕はない。少しでも注意力が、集中力が途切れたならば、そこで死ぬ。
 今からやろうとしていることは、恭也をして生死の境目があやふやとなる妙技。乾いた唇を舌で湿らす。
 
 数多の残像を残して大怨霊を守護する闇色の結界となった尾の軌跡。
 それら全てを見極めることは流石の恭也といえど不可能だ。幾らなんでも視覚の限界を超えている。
 だが、一つだけ方法がある。それは実に単純な答え。確かに大怨霊の尾は伸縮自在で驚異的だ。攻撃範囲を掴みにくいこと限りなし。
 それでも、いきなり彼女の尻尾は消えるわけでもない。突如別の空間から飛び出てくるわけでもない。二つや三つに増えるわけでもない。
 注目すべきは、彼女の腰。闇色の尾の根元付近。霞む速度で動き続けるその場所だ。
 そこさえ見極めればある程度の予測はつく。予想がつく。

 大怨霊が興味深そうに間合いをつめる。やがてそれが構えて待っている恭也へと肉薄していく。
 暴れまわる尻尾の結界。軽い衝撃波をうみ、劈くような金切り声にも似た音が耳に届いた。
 後一歩でも大怨霊が近づいたら恭也の肉体はあっさりと肉片に化す。それほどの距離へと縮まった二人の距離。
 しくじれば死ぬ。それを理解しながら恭也は退かない。彼もまた己の命を軽々とチップにできる剣にいかれた、一太刀の刃。僅かたりとも恐怖も躊躇いも持たず、大怨霊が後一歩近づいてくるのを注視している。

 くふっと笑った大怨霊が、ついに最後の一歩を踏み込んだ。
 そして恭也の肉体は、万物一切を粉微塵にする黒尾の斬撃範囲へと収まった。円形に荒れ狂う刃の軌跡が恭也へと襲い掛かる。
 対する恭也は、視覚、聴覚、触覚を総動員。相手の尾の根元を視覚で確認。己へと迫りくる尾の方向を予想。
 そして頭に振り下ろされてきた黒尾を小太刀で流す。流された尾は大地を叩き、大きな穴を作り上げた。
 地面を叩いた力を利用し、掬い上げる一閃が跳ね上がる。その尾に再度小太刀をあわせて、上空へと流す。方向をかえ、横薙ぎ。これはかわせまいと自信にあふれたその尾を、一方の小太刀で受け止めつつ力の流れを斜め上へと逃がし、さらにもう一太刀でもう一度上空へと流す。
 
 縦横無尽な尾の連撃を尽く捌かれた大怨霊は、さすがに驚きを隠せずに、目を見開いた。
 そんな彼女を置き去りに、恭也は暴風の中心へと辿り着く。小太刀が二閃―――狙いは胸の谷間の宝石。
 金属音を予想していた恭也の予想に反して、先ほどと同じく水面に剣を叩き付けた感覚しか手には残らなかった。大怨霊の闇の靄を切り裂くことは出来なかった。
 零距離となった恭也の頭に振り下ろされるのは、大怨霊の右拳。腕の半ばを切り落とすつもりで放った小太刀が逆に弾かれ、若干慌てて身体を捻る。僅かに拳にかすった恭也の服の端が、一瞬で黒く染まり、ぼろぼろと崩れ去った。

 それに思わず罵倒したくなるが、そんな暇があるわけもなく、二刀の小太刀を腹部の前にかざす。 
 弧月を描いた尾の薙ぎ払いがズシリと両腕に重みを伝えてきた。その尾撃を流そうと考えるも、判断を即座に変更。地面を蹴りつけ後方へと脱出した。
 恭也の残像を貫いたのは黒尾と片手の拳。間合いを取った恭也は止めていた呼吸を再開させた。
 鋭い獣の眼の恭也と、楽しげな大怨霊の眼がぶつかりあう。

 視線はそのままに、大怨霊に触られた衣服の端を触って確認。触れただけで頼りなくぼろっと炭となって空気に運ばれ地面に落ちた。焼き焦がされたわけではない。これは、腐っているのだと恭也の脳が一拍を置いて理解する。
  
「余の手に触れた者は等しく滅びる。かつての余の依り代が望んだことだ。空も大地も川も、等しく穢し汚し腐らせるという望みが創造した滅びの力」

 生憎と雷撃の異能はそこの子狐に奪われてしまったが、と自嘲染みた呟きが聞こえた。
 腐食。これもまた厄介な能力だともはや何度目になるか分からない舌打ち。しかし、腐ってばかりもいられない。彼女の腐食の能力がどこまで働くのか分析する。
 先ほど腕の半ばを叩き切ろうとした時は、靄に防がれただけで終わった。しかし、八景に変化はない。つまり、大怨霊が手とはいったが恐らく腐食させるのは拳―――もしくは指や掌。そういった部分だけだろう。
 その他の部位はどうだろうか。左手は。右足は。左足は。戦いの中で確認していくしかない。

「―――ああ、そこまで注意する必要はないぞ。腐食させるのは余の右手のみ。他の部位では為し得ぬ。信じるか信じないかはお主次第だ」

 あっさりと自分の能力をばらした大怨霊に首を傾げる。わざわざ自分の能力を自白するとは思えないのだが―――確かに異様な圧迫感を感じるのは彼女の右手からだ。恭也の第六感が反応するのはそこのみなので、彼女は恐らく嘘をついてはいないのだろう。
 それに加えて宝石を斬った筈の小太刀も通用はしていなかった。
 やはり届く前に靄によって防がれる。最初の攻防の時に首を狙ったときは己に出来る【斬】の極限。宝石を狙った時は己に出来る【徹】の極限。そのどちらも靄が霧散させた。
 斬撃も衝撃も通さない。恭也の打つ手が次々と潰されていく。

 ―――つまりは、勝ち目がない。

 どろりっと敗北という名の影が這い寄ってくる。汗が頬を伝い、地面へと落ち黒い染みを作った。
 薫達の援護は期待できない。久遠と那美は気絶しているし、葉弓は長い間の治癒術で霊力を相当に疲弊している。楓もまだ回復しきっていないだろう。唯一余裕がありそうなのは薫だが、久遠の雷も容易くかき消した大怨霊にどこまで切り札と為り得るか。しかも既に大怨霊は己の肉体を手に入れている。
 久遠に取り憑いていたときや、そこから弾き出されていた黒い霊体の時だったならば、必殺になっただろう。しかし、今の大怨霊にはそこまでの効果は期待できない。
 ましてや敵の攻撃の速度は尋常ではない。誰かを気にしながら戦える余裕も恭也にはありはしなかった。
 ざからはというと、薫達の前に立ちそこから動こうとはしておらず、恭也に加勢しようとする様子は見られない。

「くっふっふっふ。全く、剣士殿も人が悪い。そろそろ【本気】をださねば相手にも悪かろう?出し惜しみとは人が良くないぞ?」
「……」

 恭也の心を読んだように、ざからは実に気軽に言ってくる。
 別に理由なく本気を出していないわけでもない。勝機が見えない今の段階で全力で戦うことは―――。
 
 ―――いや、そうだな。

 頭を振ってぼけていた意識を明確にする。
 ざからの言うとおりだ。どんな理由をつけたとしても、全力で戦わねば見えてこないものもあるはずだ。
 相手の力を見極めるために、相手の防御を突き抜くために、相手の攻撃方法を確認するために。余力を残す。そんな時間はもう終わりだ。例えどんな力を持っていたとしても、どんな鉄壁の防御だったとしても、どんな攻撃をしてきたとしても―――それらを超える技で叩き伏せる。
 例え如何なる相手だったとしても刃が届くのならば―――不破恭也に斬れぬもの無し。
 人も魔も神さえも。斬ってみせよう、人に与えられし剣の技で。

 覚悟を決めた恭也の気配が消え失せる。
 これまでの荒れ狂う黒き気配が治まっていた。全くの無。この場にいる誰よりも静かな気配を漂わせていた。
 恭也の気配はまるで波一つない湖面。凪を連想させる。しかし、それも僅かな時。
 これは、嵐の前の静けさだと誰もが理解していた。そして―――。




 空気が爆発する。
 その気配の質の変化に大怨霊が笑みを深くした。
 遠き過去の思い出が不思議と蘇ってきた。頭に響くのは懐かしき男の声。

 ―――悪いな、大怨霊。お前の歩みは此処で終わりだ。
 
 恭也の気配が膨れ上がり、質量をもった突風が大怨霊の体に叩きつけられる。
 大怨霊が周囲を覆う闇の結界を粉砕し、破壊する爆発的な空気の震動。

 ―――俺の一太刀に斬れぬものはない。

 その場にいる全員にのしかかる質量を帯び、見渡す限りの全ての空間を確かに軋ませていた。

 ―――俺の名前?……ああ、言うの忘れてた。御神恭也だ、六百年先まで覚えているといい。

 軋む音が周囲を震わせ、暗い色を広げていく。視界に広がるこの場の世界に漆黒の暗幕をたらしている。大怨霊という悪意の塊が放つ【それ】を喰らい、侵食し、凌駕していく。
  
 ―――生憎と俺では【お前】を殺すことはできない。六百年という遠い先、必ず【お前】を殺す者が現れる。

 その黒の輝きのなんと美しきことか。その殺意のなんと美しきことか。その魂のなんと美しきことか。

 ―――その名は。


「―――く、はははははははははははははははは!!そうだ、そうだ、そうだ!!お主がそうだろう!!お主がそうではなくてはならぬだろう!!そうでなくては、六百年という、狂いそうになるほどの年月の果ての果て!!あらゆる悪意の中で【余】という意識を保っていた意味がない!!お主が、お主が、お主が、お主が、お主が、お主が、お主が、お主が、お主が、お主が!!」

 狂ったように吼えながら、右手を地面に叩き付ける。ジワリと黒い染みが叩き付けた拳を中心に広がっていった。
 いや、急激にその染みが範囲を広げていった。大地が腐っていく。大地が死んでいく。大地から生命が失われていく。

「さぁ!!さぁ!!さぁ!!世界も人も、獣も、神も!!悪意も憎悪も!!今このときは何もいらぬ!!今このとき、お主さえいればいい!!六百年前の決着をつけようぞ―――御神恭也!!」

 互いが地を蹴るのは同時。そして、黒尾と小太刀が中間で噛み合わさった。
 強かに打ち下ろされる黒尾を右の小太刀で地面へと流す。相手の懐に踏み入った恭也の左小太刀が宝石に向かって切り落とされる。だが、相変わらずや闇色の靄によって小太刀が防がれた。
 次いで黒尾を撃ち払った右小太刀が左小太刀の上から叩きつけられた。二重の衝撃が靄へと襲い掛かる。だが、大怨霊の笑みは変わらず。御神流奥義之肆雷徹でも掠り傷一つ負わすことができなかったが、その程度は予測のうちだ。

 尾が旋回するよりも速く、左小太刀の切り上げ。
 その刃が靄に阻まれ速度が落ちた刀身を大怨霊は左手で捕まえる。一瞬遅れて黒尾が右斜め上から降り注いできた。
 それを自由の利く右小太刀で再度叩き落す。それと同時に上体を後ろへと逸らした。目の前を腐食の右手が通過していく。
彼女の指にかかった前髪が数本不気味な音をたててパラパラと散ってゆく。
 逸らした力を利用、空中へと跳躍し、両足が大怨霊へと蹴り込まれた。相変わらず彼女には衝撃が伝わっていないようだが、恭也は蹴り込んだ蹴り足の力をそのままに後方へと宙返り地面に降り立つ。相手の左手に掴まれていた小太刀を引き抜くことに成功。
 
 前置きの一つもなく、上体を屈めて突進。その上を尾が薙ぎ払う。
 だが、大怨霊の瞳に映るのは二本の飛針。突進を開始する前に既に飛ばしていたのだ。
 超至近距離から投擲された飛針を右手の掌ではたき落とした。じゅわっと妙な音を残し、金属製のそれらが溶けて消える。
  
 次の瞬間には小太刀が煌く。二対一刀の八景が、軽やかな音を空気に散じ、四閃の軌跡が宝石へと吸い込まれていった。
 防ぐ間も、避ける間も与えない瞬速四閃。薙旋と呼ばれる奥義之陸。
 相対する相手であっても、自分が四度斬られたと認識する暇さえ与えない超速奥義。
 その薙旋でさえも、闇の靄を突破するには至らない。

 轟っと激音が鳴り響く。真正面から空気の壁を突き抜けた黒尾が恭也の胴体を両断しようと迫ってくる。
 正面から降り注ぐ尻尾が彼の身体を縦に叩き潰そうと軌道を描き、地面を貫き砂埃を巻き上げた。しかし、その尾が捉えたのは恭也の残像だった。

 ばさりと服がはためく。
 頭上、飛び降りざまの最上段からの斬り下ろし。返す刀で、左右からの横薙ぎ。そして胴体を両断する袈裟斬り。
 その後も途切れることがなく、一瞬の間もなく叩き込まれる必殺の斬撃。それら全てが【斬】にのみ特化した鉄をも断ち切る刃の荒波だった。
 驚異的なのは、恭也が放つ斬閃は、それら尽くが宝石狙い。僅かなずれもなく、ただひたすらに【そこ】だけを狙い続けていた。

 ジャリっと砂が音をたてる。
 大怨霊の懐から何故か距離を取った恭也を不思議に思うも、追撃へと尾を振るう。
 右の小太刀を後ろに大きく引き、刺突の構えをとった恭也はその横薙ぎに払われた尾に突撃。
 紙一重、ミリ単位の領域の跳躍。そんな隙間を残して恭也の足元を通過した尾にタイミングを合わせてさらに一蹴り。
 さらに爆発的な速度を得た恭也の右小太刀が放たれる。大怨霊の尾と同じく、音が後からついてくる亜音速。
 内に抉りこむように回転させた刺突が宝石に向かって叩き込まれた。それだけでは終わらない。
 そこからさらに地面についた足の筋肉を躍動。上半身の力も利用し、さらなる加速。
 身に纏いし靄を突き抜けることはできなかったが、僅かに剣の切っ先が靄を突き抜けた。宝石に届く一歩手前にて突如靄が色を濃くする。驚愕したように眼を見開いた大怨霊は、その二連の刺突の衝撃に、初めて後方へと吹き飛ばされた。
 凄まじい勢いで崩れかけた八束神社へと激突。パラパラと音をたてて埃が舞い散る。
 
 恭也が振るう刃は一撃一撃の軌道が、全身の筋肉を利用しての最速。
 恭也が放つ刃は一撃一撃が正確にして精密。
 完全防御を誇る大怨霊でなかったら、既にもう戦闘という行為はとっくの昔に終わっていた。
 そして何よりも、恭也の斬撃の速さ、正確さ、数多の刃。それらが大怨霊の攻撃を防ぐ役割もしている。
 彼の攻撃はまさに攻防一体を為し得た妙技。精密斬撃の繰り返しは、見ている者の背筋を凍らせるほどのモノであった。

 その時八束神社が揺れた。
 いや、八束神社が存在する山自体が激しく震動する。

「ふ―――ふははははははははは!!見事、見事だ!!やはり、この【姿】では!!人の姿ではお主には及ばぬか!!全身全霊!!余の全てで挑んでみせようぞ!!」

 己を退かせた恭也へ対して歓喜を爆発させる大怨霊の宣言が声高らかに響き渡る。
 ぼろぼろに破壊された神社の本殿。埃が舞って彼女の姿が見ることができない。だが、ピシリと未だ無事であった神社の柱にヒビがはいる。それが一つだったのが、震動が激しくなるにつれ二つとなり、やがて三つ、四つと際限なく増えていった。
 それに伴って、本殿の入り口で舞っている埃も濃くなっていく。
 
 周囲を覆っている恭也の気配が打ち消され―――否、喰われてゆく。
 暗かった悪意の天幕が消え失せ、夜空の星々が瞬いているのが視界に映る。ただし、それはまるで何かに脅えているかのような、そんな輝きだった。
 闇が一瞬で凝縮。そして、漆黒の闇が爆発。
 八束神社の奥から発せられた闇に染まった閃光が一条。
 恭也でさえも反応を許さない超音速の閃光が、彼の数メートルも上空を打ち抜き、遥か彼方へと消えてゆく。
 夜空の星々の光を隠すように漆黒の螺旋が、空に浮かぶ雲の全てを吹き飛ばし、天空へと姿を消した。
  
 その閃光が迸り、消えていったのは数秒程度の時間だったろう。
 閃光が上空を通り過ぎた間、圧力を感じさせる漆黒に身体を動くことを許されなかった。
 既に見る影も無くなり、更地となった八束神社の本殿の後、残されたのは未だに舞っている砂埃のみ。
 しかし、それも治まっていき、ようやく視界を遮るものがなくなった。
 
 そして―――異形の影が浮かび上がる。

 恭也の、薫の、楓の、葉弓の視線が呆然とその影の姿を追っていた。
 ズドンっと地響きをあげ、巨大な威容が彼らの視界すべてに広がっている。
 【それ】は文字通り、人が見上げねばならないほどの巨大な体躯。
 その体躯を覆うのは純粋な黒。漆黒というに相応しい毛並み。久遠とは真逆の深淵を感じさせる闇色。
 地面に届くほどに長い尾。人の胴体よりもなお太く長い四肢。美しさを感じる巨大な頭部。その頭部を支えるさらに巨大な胴体。その胴体で光り輝く宝石。全長にして十数メートル。もはや怪物というしか他がない―――闇の狐がそこにいた。

「―――は、はは。なんや、これは」

 楓から乾いた声が漏れた。
 彼女とて今まで多くの霊敵と戦った。多くの人外とも戦った。
 それでも、それはまだ想像の範囲内におさまる形をしていた。それなのに、今目の前にいるのは人とか人外とかそういった問題ではない。
 怪物。いや、怪獣。個人でどうにかできる問題の相手であるはずがない。 
 天空を見上げていた大怨霊が己が放った黒の閃光から、眼下を見下ろした。
 地上で自分達を見上げている恭也達を、体躯の全てが黒に塗れている彼女の中でただ一つ、真紅に輝く瞳で射抜いている。その真紅の視線に射抜かれたこの場の者達は―――。

 薫は、如何にこの場から最小限の被害で逃げ出すかを考えていた。
 例え久遠や那美が起きていたとしても、自分達の霊力が完全な状態であったとしても、勝ち目は皆無。
 神咲三流及び、あらゆる傍流亜流、その他の祓い師。それら全てをかき集めて対抗するしかない。それまでにどれだけの破滅が日本にもたらされるか。それを想像した薫の顔が歪む。

 葉弓は、この場からどうやって薫だけを逃がすかを考えていた。
 今この状況で大怨霊を打倒する手段はありはしない。残された霊力を使用しても間違いなく大怨霊を斃すことは不可能だ。そしてこの場から全員が無事に逃げ出すこともまた不可能だろう。
 本来なら一番と歳若い那美を逃がすのが正しいのかも知れない。しかしこの場から逃げ出した後、神咲三流を纏め上げ、対大怨霊のまとめ役と為り得るのは、霊力や人望、神咲一灯流正統伝承者という地位の面から見て神咲薫しか相応しいものはいない。

 楓は、自分の残された体力、霊力を確認。そして、絶対的に己に勝利の道筋が見えないことを受け入れた。
 先ほどまで戦っていた久遠が可愛く見える、格の異なる大怪物。
 カタカタと小刻みに渚を握る手が震えている。霊符も既に底をついていた。

 ざからは、普段と同じ笑みを浮かべながらも―――珠の汗を額から頬を伝い、滴り落ちた。
 大怨霊の力は想定外としか答えようが無い。彼女が想像し、予想していた領域を遥かに飛び越えていた。
 今の切れ端のこの身体では、圧倒的に力が足りない。自分にかけられている封印を解き放ち、全力を出さねば、どうしようもない。そこまでの力の差がざからと大怨霊には存在した。

 そして恭也は―――。

「―――薫さん」

 大怨霊と睨みあいながら、恭也が囁く。
 そこまで大きい声ではないが、不思議とその場にいる全員の耳に届いた。

「申し訳ありませんが、できればこの場から離れていただきたい」

 普段の彼と同じ声色で、淀みなく続ける。

「ここからさき、そちらに注意を割く余裕が一瞬たりともありません」

 両翼を広げた猛禽類の如く、恭也は小太刀を構えて巨大な闇狐に向かって足を一歩踏み出した。
 薫達が見る彼の横顔は―――高町恭也という人間の横顔は、絶望も諦めの感情はなく、かといって途方にくれたという様子も見られない。彼女達の知る限り、本当に普段通りの彼がいた。
 目の前に存在する闇狐の巨大な体躯も、彼女が放つ威圧感も、それら全てを一身に受けてなお、恭也は平常心を保ったままだった。

「―――剣士、殿。我も力を―――」
「いえ、大丈夫です。アレは俺が―――殺します」

 静かな声がざからを静止し、彼女の耳を打つ。
 何の気負いも無く、至極当たり前のように恭也は語る。
 だが、それ故にざからは息を呑む。恭也が確かに言ったのだ。大怨霊を殺すと。
 陳腐き聞こえるかもしれない殺意の言葉。たった一言のその言葉。それが、明確な意思を持ち、ざからへと届く。
 恭也は【殺す】という言葉は使わない。決して言わない。その彼が、高町恭也が確かに口に出した。その言葉は言霊となって、恭也自身の胸に染み渡る。 

 大怨霊と高町恭也。互いに互いしか視認していないその空間。
 そんな空間で、楓が一番最初に我を取り戻す。 

「―――薫。那美ちゃんと久遠連れて、退くんや」
「……で、も」
「わかっとるやろう。お前が分からないはずがないやろう?それが、神咲最高の祓い師のお前の役目や」
「―――っ」

 悔しさと申し訳なさで薫は唇を噛み締める。プツリと血の味が広がっていく。
 無言のままで薫は那美を、葉弓は久遠を背負う。そして、邪魔にならないように階段へと歩いて行くが、自分達の後についてこない楓を不思議に思って振り返る。

「……楓?」
「かえで、ちゃん?」
「心配せんでいい。うちもすぐに行く」
 
 薫と葉弓に、楓はそう答える。問いただしている暇はないのは明らかで、薫と葉弓は階段を降っていく。
 残されたのはざからと楓の二人だけ。いや―――ざからも、恭也達から背を向ける。

「―――間に合うとは思えぬが、我の封印を解いて貰うしかあるまい」

 一人ごちたざからの背が遠ざかっていく。
 いや、その途中で一端足を止めた。 

「そなたはどうするのだ?」
「うちは、ここに残る」
「……悪いことは言わぬ。去れ、小娘。確実に、死ぬぞ?」
「―――死なへんよ」
「……まぁ、よい。剣士殿を救うためにもここで無駄な時間を使う暇も今はないのでな」

 忠告は至極あっさりと終わらせたざからは足早にその場から姿を消した。元々ざからが興味があるのは恭也のみ。それ以外の人間がどうなろうと知ったことではない。
 一応は忠告をしたので、守るという義理は果たしたとも言えるはずだ。後はここに残って死ぬのも、逃げて生きるのも個人の自由だ。
 一人残った楓は、その場から動く様子は見られない。

「―――頑張れ、恭也君」

 怖い。恐ろしい。目の前の闇狐は人の悪意を、恐怖を具現化した怪物だ。
 身体中を駆け巡る悪寒が止まらない。あんな怪物に人では勝てないと誰もが感じたことだ。
 正直言って、恭也が大怨霊と戦って勝てるかどうか、確信は持てない。だからこそ、薫達を退却させた。もしも、恭也が負けたのならば、薫達が大怨霊という怪物を倒さねば為らない。
 
 そう、楓は恭也が大怨霊に勝てるかどうか、【確信】が持てないだけだ。
 皆が恭也が、闇狐に勝ち目など有るはずがないと感じていたが、楓だけは別だった。恭也なら、久遠と肩を並べて戦った底知れない剣士ならば―――【もしも】がある。
 あの怪物を、打倒しえるかもしれない。打破しえるかもしれない。
 【もしも】彼が、大怨霊を倒したときその場に誰もいなかったら寂しいではないか。悲しいではないか。
 だからこそ自分が信じよう。あの剣士を。如何なる敵も斬滅せしめる高町恭也を信じよう。
 分が悪い賭けなのかもしれない。チップは己の命。最悪の賭けなのかもしれないが―――不思議と負ける気はしない。
 
「―――頑張れ、頑張れ、頑張れ。恭也君」

 神咲楓の祈りが、風に溶ける。
 恭也を信じる乙女の祈りは、誰にも届かない。  
 だが、彼女は両手を合わせて、静かに祈り続ける。 

 そんな楓を置き去りに、恭也の意識が深淵へと沈んでいく。 
 薫のことも、楓のことも、葉弓のことも、久遠のことも、那美のことも―――全てを頭の中から消し去る。
 すべての注意は目の前にいる怪物に向けた。如何なる動作も見逃さぬように、一振りの刃へと意識を変える。
 周囲を覆う殺意の結界もなりを潜め、それらは小太刀へと凝縮された。ただ、目の前の巨大な怪物を斬り殺すために。

「もはや、言葉は無用。余が勝つかお主が勝つか。さぁ―――最後の戦いだ」  
 
 大怨霊の喜びに満ち溢れた声が、二度目にして終幕の戦いの合図となった。
 一瞬、恭也の身が沈む。
 それと同時に―――彼の両足が地を蹴った。
 神速。否、神域の世界に一足飛びで足を踏み入れた恭也の後には僅かな砂埃も立たず。
 空気が揺れたと感じた瞬間には、既に高町恭也の姿は大怨霊の懐深く踏み入っていた。

 だが、流石は音に聞こえし大怨霊。神風一陣の彼の動きを見過ごさず。
 踏み入ってきた恭也を叩きつぶさんと、薙ぎ払った前足が逆の方向へと弾かれた。
 両者ともにその衝撃の重さは、これまでの比ではない。歯を噛み締め、腕が悲鳴をあげながらの恭也にできる最高最大の【斬】の斬術。それを最重最速の【徹】による斬術を重ねて使う。それは最高最大最重最速の複合斬術。

 人型を保っていた時の黒い靄は巨躯となった大怨霊を未だ覆っている。
 だが、注視しなければわからない。その程度の極僅か。巨大な氷山の一角にしかならぬであろうが、ほんの一欠けらだけ宙に舞う。大怨霊を覆う悪意の結晶を、微量とはいえ削り取った。

 前足に感じたかつてないほどの衝撃に、咄嗟に眼下の恭也に視線を向け、その姿が無いことに驚いた。
 吹き飛ばされた前足とは逆側の足に軽く感じる感触。トントンと何かが登っていく。
 慌ててその【何か】を視線で追うが、既に姿は消えていた。次いで感じ取ったのは、空から降り注ぐ一筋の殺気。
 頭上を仰いだ大怨霊の鼻先に、理解を遥かに超えた大衝撃の斬撃が振り下ろされた。

 鼻先に受けた斬撃に、闇狐の巨体がガクンと前方へと倒れふす。
 更地となった境内に錯覚ではない地震が揺り起こされた。
 巻き起こされた砂埃の合間を裂くように、倒れた大怨霊の背中に四斬が叩き込まれる。水面を叩き切った感触と供に、ギャリンっと耳障りな音をたて、黒色の四欠片が露と散る。

 神速を発動させ、即座にその場から背中を蹴って離脱する。
 巨大な尻尾が恭也が乗っていた背中をかすめ振り回され、闇狐は勢いよく立ち上がった。
 地面に着地した恭也は、ガリガリと地面を抉りながら身体を止め、再び地を駆け巨躯に立ち向かう。
 圧倒的な質量の尾が突撃してくる恭也に薙ぎ払われるが、突撃する動きを一瞬止める。その前方を黒尾が薙ぎ払い通過していった。触れたわけでもないのに、突風が巻き起こり恭也の肉体を吹き飛ばそうとするが、それで止まるわけにもいかない。突風を突きぬけ、剣士は疾走する。

「――――っぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおお」

 悪意に塗れた、闇狐の雄叫びが臓腑に響く。
 威嚇するように四肢が大地を踏みしめた。落雷と勘違いしそうな轟音が山々に木霊する。
 聞く者を冥府に誘う怨霊の大音響を耳にしても恭也の動きに鈍りはない。

 二刀の小太刀が、闇夜に煌く。
 一太刀目の斬撃が闇狐の前足に叩き込まれる。ついで二太刀目の斬撃がその上から重ねられる。奥義之肆雷徹を容赦なく叩き込む。それと同時に逆の前足にも二刀の小太刀が十字を描く。連続使用の雷徹。
 ガクンっと前足が揺れ、巨躯が前のみりとなったその顎に、下からの全身のバネを利用した切り上げが跳ね上がる。
 一撃がまともに直撃。それに続いて叩き込まれる数撃の斬閃。その斬撃の重さで前のめりとなった狐の顎が浮き上がっていく。
 ギラリとねめつけるのは真紅の瞳。大怨霊は全く怯みもせず、前足を叩き付けてくる。
 恭也は逃げない。逆にさらなる一歩を踏み込み振り下ろされる前に斬撃を見舞う。一秒間に振るわれるのは数度の剣閃。振り下ろそうとした前足を逆に、かちあげられる。
 
 次いで横に薙ぎ払われる尾の一蹴。迫ってきたそれを蹴りつけ、跳躍。
 眼前の巨躯に輝くのは不気味な宝石。空中で体勢が不安定なその状況で、上半身の回転のみで繰り出される斬撃の嵐。奥義之弐―――虎乱。
 これまでで最高となる斬閃が迸るも、靄を切り裂くには至らず。しかし、恭也の視界に確かに舞い飛ぶ漆黒の欠片。
 ほんの僅かずつではあるが、大怨霊の悪意を切り裂いていく。
 もはや己の身の危険も顧みない、ただ【斬る】ということだけに特化し、全てをかけた剣士の超速の動きは止まらない。

 宝石の防御をまだ破れないと判断した恭也が、大怨霊の肉体を蹴りつけた。
 弾丸の連想させる速度でやや離れた場所に着地。今までいた宝石の空間を尾が薙ぎ払っている。
 体勢を整えた恭也が真っ直ぐ前方、闇狐との間合いをつめた。翻った巨大な尾の影に隠れるように己の身を隠し、その尾が大怨霊の視界から消えた途端、そこから飛び出し尻尾を蹴りつけ、肩を蹴りつけ、飛翔した恭也の小太刀が彼女の頬を強かに打ち据えた。その斬撃の重さに顔がよこにずれる。さらに追撃を仕掛けた小太刀が眉間に二撃打ち下ろされた。

 さしものの闇狐も連斬に耐え切れず、ふらりと倒れそうになるも、四肢に力を入れて立て直す。
 恭也は着地と同時に再び懐へと飛び込む。隙だらけの腹部に容赦なく叩き込む左右の小太刀。その連撃は十数閃。信じられないことに、恭也を遥かに凌駕する巨体がぶわりと後方へと浮き上がり地響きを立てて倒れこむ。
 一息つく間もなく、恭也は駆ける。だが対する大怨霊も、その巨体からは想像できない俊敏な動きで体勢を整えた。

「―――くふはははははははははははははははははは!!流石は!!流石は!!流石は!!流石は御神恭也!!」

 永全不動八門御神真刀流小太刀二刀術。
 人は御神流と呼ぶ流派。その歴史は古い。遥か太古の昔―――六百年という遠き過去より受け継がれてきた暗殺術。
 御神雫。彼女こそが六百年もの昔に御神流を創り上げ、完成させた。だが事実は違うと雫は云う。
 彼女の師であり父である御神恭也こそが全ての始まりなのだと。彼こそが御神流の土台を作り、完成させたのだと。
 もはやこの時代に彼を知る者は数少ない。六百年という時の流れは人外達でさえ途方もない年月だ。

 一人は大怨霊。
 一人は御神雫。
 一人は魔導の王。
 一人は鬼の王。
 一人は茨木童子。
 一人は鬼童丸。
 一人は虎熊童子。
 一人は未来視の魔人。
   
 六百年という年月は、かつてその名を知らぬ者なしと称された剣の鬼を知る者をたった八人にまで減らし続けた。
 御神恭也とは何だったのか。御神恭也とはどういう剣士だったのか。

 八人は口をそろえてこう云うだろう。
 世界最強を体現した剣士だと。

 魑魅魍魎が溢れ、闇が色濃かったあの時代。
 鬼の王をも退け、茨木童子をも打破し、鬼童子丸をも打倒し、虎熊童子をも斬り伏せ、大怨霊をも調伏し、魔導の王をも従え、未来視の魔人とも渡り合った。
 
 彼ら八人は誰よりも御神恭也という人間を見てきた。戦ってきた。友とも、仇敵とも、怨敵とも、宿敵とも認めていた。
 そんな彼と同一の魂を宿す者。それが不破恭也。

 故に皆が惹かれる。引かれる。
 かつて誇りを、命を、想いを、心を賭けて戦った者達だからこそ、当然のように惹かれ集う。
 だからこそ、大怨霊も彼に拘る。彼に惹かれる。彼を求める。

 本来大怨霊という存在には確固たる【個】というものがない。それも当然だろう。
 数百年分の悪意を喰らい、固まり、長い年月をかけて産み出されるもの、それが大怨霊だ。
 大怨霊を形作る悪意は、ただ人を殺し続けることだけが目的だ。世界を壊し続けることだけが目的だ。
 だが、今の大怨霊には確固たる個の意志がある。それは今から数百年前に、御神恭也と戦ったときに生じた意識。その意識が数百年という年月でも、悪意に飲み込まれず、消されず、大怨霊という悪意を支配下に置き続けていた。

 故に彼女は悪意も憎悪も怨恨も、己を構成する混沌を―――何もかもを投げ捨てて、今この一時に全てをかける。


 交錯する闇狐の前足に輝く鋭利な爪と二本の小太刀。
 半ばから両断され、弾け飛ぶ闇色の爪。叩き切った恭也も交錯した衝撃までは殺しきれず、後方に吹き飛ばされ地面に叩きつけられた。即座に片手をつき、飛び上がる。そして、疾走―――。

 轟音が鳴り響くたびに、八景が大怨霊の悪意の靄を削り取っていく。
 何十もの斬撃が、息つく間もなく繰り出され、放たれ、大怨霊の巨体を追い詰めていく。
 一人の剣鬼と一匹の怪物の戦いは、ただひたすらに加速していく。戦いの鼓動が、高まっていく。
 だが、己の命を投げ打って、死が纏わり付く零距離にて剣の刃を紡ぐ恭也の脳裏に一抹の不安がよぎる。

 ―――くそ。もってくれ、八景!! 

 父から受け継いだ形見の刃。二対一刀の名刀。
 これまで幾度となく恭也の窮地を救い、供に潜り抜けてきた相棒の軋む音が確かに聞こえる。
 悲鳴をあげながら、それでも恭也に尽くすように、耐え続けていた。
 ガリっと歯をかみ締めた彼の左肩を振り下ろされた尾の一撃がかする。服があっさりと破き切り裂かれ、パァっと赤い花が同時に咲いた。
 ひりつく痛みが左肩を襲う。だが、その程度に構っている暇はない。
 
 目の前に映る前足に無数の斬撃を叩き込む。数度の連撃を叩き込まれた闇狐のバランスが崩れ、ガクンっと斜めに倒れかける。さらに刃を振るおうとした恭也を影が覆った。
 やばいと思う間もなく、左右の小太刀を交差して頭上に掲げた。

 逆側の前足が恭也を潰そうと振ってきていた。それを紙一重で受け止めるが、圧倒的な大質量。四肢の筋肉が断裂する痛みが襲ってくる。今度は恭也の体勢が崩れ、そのまま圧殺させられるかと思いきや、その状態から決死の覚悟で横に飛ぶ。
 地震と大音響が耳を打つ。一度深く呼吸をし、肺の中の空気を一新。

 見上げる巨躯が纏う黒き靄は明らかに薄くなってきていた。
 恭也の絶望を振り払いように放ち続けた斬撃は、死を身近に感じながら繰り出し続けた剣閃は、限りなく零に近かった勝率を、徐々にだが白く輝く勝利への道筋を照らし始めていた。

 そんな一瞬の油断が生死をわける闘争の最中、大怨霊の巨躯が翻る。
 砂塵を巻き上げ、唸り声をあげ、巨体が迫ると同時に、巨躯を影とした尾の一撃が振り回された。先ほど恭也が死角を利用したように、大怨霊もまた己の肉体を利用し、恭也の死角をつく。
 風を切り、空気を打ち抜き、横薙ぎに振りぬかれた黒尾が―――神域に入る恭也より速く、彼の身体を大きく跳ね飛ばした。

 数メートルでは済まない距離を弾かれた恭也が、森の中へと叩き込まれる。枝や葉をクッションにしつつも、その程度で止まるはずもない―――本当にまともに喰らったならばの話だが。
 尾が直撃する瞬間、側面で八景を盾としたことが幸いしたのか、即死だけは免れる。
 森の中、地面に叩きつけられる前に、足を伸ばして地面を擦った。それでも止まるには至らず、跳ね上がった恭也は、その反動を利用して、空中で身体を反転。衝撃を殺し、なんとかその場に着地した。
 ガガっと地面を抉り、擦り、両足が二本の線を描き、それでようやく身体が制止する。

 後退を止めた恭也は、顔を上げるよりも速く地を蹴り、神域の世界に突入する。
 その世界で視線を遥か前方の大怨霊を戻し、森の中から姿勢を低く飛び出していた。

 幾ら数時間戦闘可能な驚異的な体力を誇る恭也といえど、彼に残された体力は限界を迎えつつあるのが現状だ。
 ただでさえ祟り狐久遠との戦いで神域と無言の世界を使用し、それから後はたった一人での戦い。
 神速、神域の乱用。左肩を抉られた傷跡。そして、先ほどの尾での一撃が致命的だ。
 直撃は防いでいたとはいえ、小太刀を越えて伝わってきた衝撃。骨まではいっていないが、確実に皹が入っていた。
 体力も底をつきかけ、肉体も万全ではない。そして愛刀八景の限界。
 もう、長期戦を覚悟して敵の防御を削り取っている状況ではないのは明らかだ。 
 
 ならばもはや取れる手段はただ一つ。
 この瞬間、恭也は覚悟を決めた。次の交錯で―――大怨霊を殺しきると。
 もしもそれで殺しきれなかったならば、それは自分の負けだと。

 そんな恭也の意識が伝わったのか、大怨霊も四肢を大地へと叩き付ける。
 地面が陥没し、ひび割れ、尾が背後にあった木々をなぎ倒す。真紅の瞳が爛々と恭也を射抜く。
 地の底から湧き上がる咆哮をあげた。身体全体を震わせながら、歓喜とも狂喜ともいえる感情を乗せ、周囲全てに響き渡る。その巨躯から放たれる咆哮は、聞く者の思考力を、判断力を、気力を、精神力を、ありとあらゆる希望を奪う。
 絶望が具現化した怪物は、今にも飛び掛らんとする肉食獣の体勢を取った。

 今一度―――神代の領域に己を導け。
 脳内でスイッチを切り替える。世界はモノクロに染まり、神速の世界に突入する。
 それと同時に大怨霊が尾をもたげる。それは死神の鎌を連想させた。

 ガンっと音をたてて神速を超える。世界はモノクロから色を取り戻し、神域と呼ばれた音速の世界へ突入する。
 それでも僅かに大怨霊の動きは遅くなっただけで、彼女は死神の鎌を振り下ろす。
 あらゆるものを破壊する鉄槌。横薙ぎ振るわれた黒尾が恭也へと迫る。

 己に振り下ろされる死を冷静に見つめ―――そして、世界を入れ替える。
 その世界に音は無く。その世界に恭也以外に動くものは無し。
 格が違う速度ではなく、桁が違う速度でもなく、次元が違う速度でも無く、ただ互いの【世界】が異なっていた。

 横薙ぎの尾を駆け上り、狙いはただ一つ。闇狐の胸に輝く、宝石のみ。 
 切り落とし、袈裟斬り、逆袈裟斬り、右薙ぎ、左薙ぎ、右切り上げ、左切り上げ。ただひたすらに小太刀が迸る。
 無限に続く刃が靄を切り刻み、破壊していく。小太刀が舞うたびに、黒の欠片が飛び散っていく。
 頭に響く気が遠くなる鈍痛。四肢にへばりつく疲労。骨が軋みをあげるが、恭也の手は止まらない。
 彼の膂力、瞬発力、それら全てを限界以上に引き出し、引き絞り、必殺の刃を振るい続ける。
 その刃は凄まじい。我武者羅に見えるその剣閃は、全てが極限にまで研ぎ澄まされていた。
 刃の軌道。刃の軌跡。刃の角度。刃の速度。刃の威力。
 小太刀が宝石へと叩き込まれる一撃一撃を構成する全てが、美しく、残酷なまでに洗練されている。

 御神流正統奥義―――鳴神。
 
 反撃も、防御も、回避さえも許さない。
 絶対絶殺の極地の斬術奥義。その剣撃の前で生き残るすべはなし。
 無言の世界で振るう太刀は何十何百と繰り広げられ、大怨霊の絶対防御を潜り抜けた。
 恭也の眼前、不気味に輝く宝石を守るはあと薄皮一枚の闇の膜のみ。後数度の斬撃で、それを削り取ることが可能となった。もはやその世界に身を置くことは、限界に近い。それでも、後一歩で到達できる。御神の極地へと、最後の一歩を歩み出だすことが出来るのだ。

 そして、左右の小太刀を振るい―――。

 パキィリ。

 金属が悲鳴をあげた。
 振り切った恭也の両手に残されたのは―――半ばから折れた己が愛刀八景。
 半ばから先の刀身が、キラキラと飛び散り、地面に落ちる。
 数多の死線を潜り抜けた相棒の最後に呆然と、恭也はそれの行く末を追っていた。
 そしてそれは同時にこの戦いで初めてとなる、あまりにも致命的な隙となったのは当然の結果だった。

 闇狐の前足が振り上げられ、呆然としている恭也に叩きつけられる。
 はっと気づくもその反応は遅すぎて、辛うじて半ばから折れた八影を迫ってきていた前足に繰り出した。
 ぞぶんっと奇妙な手応え。だが、大怨霊の前足は止まらない。そのまま恭也の身体を地面へと弾き飛ばす。何かがひしゃげる音が響く。背中が地面にぶつかり、呼吸が止まる。ごぼりと血が一瞬で喉元を通り過ぎ、口から吹き出す。
 それだけで済む筈も無く、地面に叩きつけられた反動でボールのように跳ね上げられ、後方へと転がっていった。

 満身創痍の身体となった恭也が片膝を付きながらも、眼だけは死んではいなかった。
 もはや力もない。体力もない。武器もない。あるのは気力のみ。
 どうしようもない絶望の中、それでも恭也は立ち上がる。半ばから折れた八景を構え、己へと追撃を仕掛けてくる大怨霊の巨躯を睨みつけた。
 最後まで諦めないその姿に、やはりお前こそが御神恭也だと心の中で叫びながら、大怨霊は最後の一手となる尾を薙ぎ払った。これで終わりだと。これが余とお主との決着なのだと。

 
 対する恭也は何故そうしようと思ったのか自分でも理解できなかった。
 強いて言うならば本能。予感。第六感。それに聞こえたからだ彼女の声が。確かに耳に届いたのだ。彼女の魂の叫びが。
 折れた八景を握っていた手を離す。当然重力に負けて愛刀は落ちていく。折れたとはいえ武器を捨ててどうするというのか。それを見ていた大怨霊に呼び起こされる迷い。猜疑心。

 それは全てが【もし】で構成されていた。
 もしも、後一瞬恭也が八景を手放すのが遅かったならば。もしも、後一瞬恭也が左手を【そこ】に持っていくのが遅かったならば。もしも、後一瞬恭也が空中で手を握り締めるのが遅かったならば。もしも、後一瞬【彼女】が投擲するのが遅かったならば。
 戦いの決着は―――全てが真逆になっていただろう。

 恭也の左手が【何か】を掴む。空中で、何も無かったはずの空間で確かに掴んだ。
 左手から伝わってくるのは冷たい感覚。しかし、それ以上に伝わってくる彼女の想い。彼女の心。彼女の気力。彼女の魂。
 シャリンっと空に散じた高らかな金属音。恭也の左手に輝くは、霊刀渚。

「いっけぇぇえええええええええ!!恭也君!!」
「―――承知!!」

 限界だったはずの身体に力がみなぎる。
 普段以上の力が蘇ってきた。たった一瞬のためでいい。次の交差に全てを込めて。
 意識が限界をあっさりと乗り越えた。神域をさらに超越し、無言の世界へと三度恭也を引き入れる。
 渚を両手で握り締め、無言の世界で恭也が光の一矢となって放つは、己の速度と大怨霊の突撃を利用したカウンターともいえる一撃。身体ごと叩き付ける一突。
 いや、一撃では終わらない。瞬間的に幾度も幾十も叩きつけられる超速の連突。
 それは鳴神の斬撃にも匹敵する、瞬間刺殺。
 
 御神流正統奥義―――鳴神・連。
 
 斬術ではなく、それに匹敵する突きの連撃。
 無数に突き繰り広げた、渚が圧倒的な勢いで闇の靄を削り、破壊していく。
 恭也一人だけの力ではない。渚に込められた霊力が、楓の想いが恭也の限界を超えさせた。
  
 遂には渚は靄を突きぬけ、無数の刺突が宝石へと降り注ぎ、ピシリと音をたてた。
 そして―――。 
 
 宝石が光を発する。まるで負けを認めたかのように、闇色の光が周囲に溶けて消えてゆく。
 僅かに入ったヒビが、次々に広がっていき、恭也の視界を覆いつくす。

 その光に眼を細くしながら、限界を超えた恭也は地面へと着地する。
 息を激しく乱しながら、前方の闇色の光を黙って見つめていた。

 渦巻く黒い気配が霧散する。荒れ果て、木々が薙ぎ倒され、更地となったその広大な地。
 数瞬前まで世界に闇が広がっていたというのに、今ではどこか清浄な空気が満ち溢れている。
 あれだけの悪意の結晶が、跡形なく、消え失せていた。

 さぁっと静かな風が砂塵を運ぶ。
 視界が揺れ、手に握力も残っておらず渚を握るのも一苦労の状態。
 そんな恭也の眼前に、【彼女】はいた。

 闇狐へと変化する前の、人の姿を保っていた時の大怨霊が悠然と立っている。
 以前と違うところといえば、両胸の合間にはめられていた宝石が無くなっているという事。それに、彼女が纏っていた地獄を思わせる悪意も消えていた。

「―――ふむ。此度も、余の負けか」

 ふっと大怨霊は笑った。
 そこには敗北したという悔しさも、恨みも無かった。ああ、また負けたのか―――本当にそんな気持ちしかそこには込められていないようだ。

「人の形でも及ばず。余の本来の姿でも及ばず。結局余ではお主に及ばなかった」

 天に瞬く星々を見上げ、深く息をつく。
 
「―――悪意と憎悪と殺意に塗れた余ではあったが、満足のいく結果であったぞ」

 その時、揺れる恭也の視界で、ぼろりとなにかが崩れ落ちた。
 眼を凝らしてみれば、それは大怨霊の右手。指先から少しずつ、白い灰となって朽ちてゆく。

「やれやれ。幾ら無理矢理にこの世に留まっていたとはいえ―――こうも早く消え去らねばならぬとは」

 右手は既に根元までが灰となってきえていた。それと同じく左手も白く染まり、風が吹いただけで、ぼろりと消失した。
 ざっと踵を返し、恭也に背を向ける。まるで最後の姿を見せたくないような、そんな様子だ。
 そして―――。

「―――楽しかったぞ、御神恭也よ」

 それは大怨霊が初めて見せた邪気のない笑顔。子供のように嬉しそうに、彼女は笑った。
 一際強い突風が吹き、恭也の視界を砂埃が塞ぐ。
 その砂埃がおさまった後―――恭也の視界には何も残されていなかった。
 まるで最初からなにもいなかったように。何も無かったように。
 ただ、これまで起きたことが夢ではないのを証明するのは、更地となった八束神社の跡地。
 そして、真っ二つに砕き折られた八景の残骸。

 ―――兎に角、もう限界、だ。

 口に出すのも億劫な恭也の手から渚が落ちる。カランと音をたてて地面に転がった。
 ふらりと身体が揺れる。真後ろに倒れそうになった恭也だったが、何時までたっても衝撃は来ない。
 かわりに背中に感じるのは柔らかな二つの感触と、甘い香り。

 顔を僅かに横向けて見れば、視界に映ったのは泣きそうになっている楓の顔。
 倒れかけた恭也を慌てて楓が支えていたのだ。
 だが、恭也の体重が考えていたよりも重かったのか、彼を支えきれずに二人して地面に転がった。

 どさりと二人は倒れながら夜空を見上げる。
 一瞬このままでもいいかなと思った楓だったがそういうわけにもいかず、自分を潰している恭也から這い出した。

「お疲れ様、恭也君」
「―――いえ。最後に楓さんの助力が無かったら、俺の負けでした」
「恭也君以外だったらあそこまで追い込めれんかったよ」
「久々に死ぬ気で、戦いました」
「それで何とかなるんやから本当にたいしたもんや」

 楓は地面に正座をすると、仰向けに倒れている恭也の頭を膝に乗せる。
 一般的に膝枕というものだ。普段だったら恥ずかしくて即座に逃げ出したろうが、もはや逃げ出す体力も残っていない。
 意識もはっきりしない。頭がぼーっとしてくる。全身を襲う気だるさ。右肩にはしる激痛。肋骨やその他の骨も何本かいってしまっているようだ。

「膝枕とか、少しはずかしいんです、けど?」
「どうせ誰も見てないから大丈夫。それに、一杯頑張ったんや。これくらいの役得はないと可哀相やろ?」
「―――そんなもん、ですかね」
「ああ。そんなもんや」

 砂と血に塗れた恭也の髪を梳く様に撫でる。
 改めて恭也の全身を見た楓は眉を顰める。全身まさにボロボロで、よく最後まで戦えたと思う。
 まさか本当に大怨霊を単騎で倒すとは―――なんという剣士なのだろうか。
 剣士として嫉妬すると同時に、尊敬する。そしてこの戦いを見届けることが出来た自分を少しだけ誇りに思える。
 何度も何度も楓は恭也の頭を撫でる。恭也はといえば流石にこの歳になってから頭を撫でられたことも無いので、意識が朦朧としながらも、羞恥心を感じた。
 
 その時―――恭也の視界に白いモノが映った。
 夜空から無数に白いモノが落ちてくる。何かと思えば、純白の雪。海鳴にとって今年初めてとなる雪だった。
 パラパラと、夜を彩る雪が降り注いでくる。それがとてつもなく二人には綺麗に感じられた。
  
「―――ああ、そうか」

 混濁していく意識。
 恭也は、ついに限界を迎え目を閉じた。
 そんな恭也の意識が闇に落ちるその瞬間―――。

「メリークリスマス、恭也君」

 十二月二十五日午前零時。
 楓の祝いの声を聞きながら、恭也は意識を手放した。  
   
 
 
 


 
 
 



 



















-------------えぴろーぐ------------------








 高町恭也入院の急報を聞き、驚いたのが高町家の面々だ。
 クリスマスイヴにも関わらず鍛錬をするために家を出たのはまだいい。そういったストイックな姿も高町恭也という人間なのだと家族誰もが知っているのだから。
 だが、まさか鍛錬に出て重傷になって病院に担ぎ込まれるのはどういうことだと、高町家の大黒柱である桃子に酷く長時間怒られてしまった。
 勿論、意識が戻るまでは泣きそうに心配をし、意識が戻ってからは実際に泣きつき―――そして、そこからの説教になったのは言うまでもないが。

 医者が言うには相当に酷い怪我だったらしい。
 それも仕方ないと一人納得しているのは恭也ただ一人だ。
 一体どれだけの身体の酷使を行ったのか、当の本人でもある恭也でさえもはっきりと覚えていない。
 神速は数え切れないほど。神域は辛うじて両手の指で足りるくらいだろう。そして奥の手無言は三度。如何に恭也といえど、それだけ乱用すれば肉体が限界を迎えるのは明白だ。

 クリスマスパーティーは急遽キャンセルとなり、桃子とフィアッセは仕事がどうしても外せないため、入院している恭也に付きっ切りというわけにも行かない。美由希や晶、レンが至れり尽くせりで恭也の身の回りの世話をしてくれている。
 トイレだけは気合でしにいっている姿を見て、医者や看護師は目を丸くしていた。暫く歩くことはできないと考えていた彼らの想像を遥かに超えた回復力―――いや、既に再生力。

 恭也としても、意識が無い時ならば兎も角、しっかり起きている状況で妹分達に見られるくらいならば死を選ぶ。それほどの覚悟を持って、行動していた。

 ちなみにここ―――海鳴大学病院に入院しているのは恭也だけではなく、那美もお世話になっている。
 病室は違うが、奇遇にも同じ階の部屋だったため、恭也を見舞いに来た人がそのまま那美の病室へ行き、那美を見舞いに来た人がそのまま恭也の病室に来る。そんな流れが出来上がっていた。
 
 見舞いに来た薫曰く、那美のほうがよっぽど軽症だったらしい。
 一週間もすれば退院できるとか。恭也は暫く病室に缶詰となる己のことを考えて深くため息をついた。
 本日二十五日のクリスマスの夜。何を血迷ったか病室でクリスマスパーティーをやろうと騒ぎ立てた美由希やレンと晶は、看護師の手によって追い出され、面会禁止にされてしまったことにはため息をつくしかない。

 だが、三人とも相変わらず只者ではなく、晶とレンは看護師の目を上手く逃れ見舞いに来てくれていた。
 美由希だけは何故か見つかって追い出されてしまっていたのが不思議でならない。退院したらより一層厳しくせねなるまいと決心した恭也だった。 

 
 神咲三流の三人が気を使い、恭也は個室を与えられていた。
 おかげで他の人の目を気にすることなく、過ごすことができるのは非常に有り難い。
 窓から差し込んでくる夕陽が、徐々に色を変えていく。たいした時間をおかずに、病室に差し込む光は無くなり夜の世界となった。 
 幾ら身体中が痛むとはいえ、やることがないのは非常に辛い。普段鍛錬ばかりして生活している弊害か、こういうときでも頭に浮かぶのは鍛錬のことだけだ。
 
 ちらりと視線をテーブルの上に向ければ、そこには山のように積み上げられた漫画本。時代小説。ゲーム機。
 それぞれ晶やレン、なのは、美由希が各々で時間つぶし用に持ってきた見舞いの品だ。
 生憎と恭也の興味をひくものはどれもなかったが、一応は見舞いとして持ってきてくれたものだ。今度来た時に感想を求められても困るので、それなりに手をつけなければならないだろうと気が重くなった。

 ベッドに横たわりながら天井を見上げている恭也は、真っ白に塗られている天井の染みでも数えようとも思ったが、塗り替えられたばかりなのか染み一つないことによって諦める。
 カッチカッチと時計の針が進む音が聞こえた。普段だったならば全く気にならないのだが、こうも静かな病室だとやけに時計の音が響き渡る。
 全く眠くは無いのだが、身体を回復させるためにも睡眠は大切だ。
 瞼を閉じて、眠りの世界へ旅立とうとする恭也を邪魔するように、ガラっと窓が開く音が聞こえる。
 見知った気配を感じた恭也は、ふぅっとため息をつき口を開く。

「珍しいですね。八束神社以外で会うなんて」
「―――あそこで待っていても剣士殿には当分会えそうにないのでな」

 感じていた気配を肯定するように、女性の声が静かな病室に囁かれた。
 瞼を開き、窓がある方向に視線をやると、そこにはどうやってか窓ガラスを開け、腰を下ろしているざからの姿がある。
 夜だというのに激しい自己主張を放つ金色の着物が美しい。両足を組み、どこか呆れた表情でベッドに横たわっている恭也を見下ろしていた。

「わざわざ病院まで来るとは、何か御用でしたか?」
「いや、なに。この地を救った剣士殿を見舞いにきただけだ。我も他の人間―――特に神咲の小娘とはあまり顔を合わせたくはないのでな」
「そういえば、薫さんと顔見知りのご様子でしたが」
「数年も昔に一度だけ顔を合わせただけの相手だ。特に深い知り合いというわけでもないぞ」
「そうでしたか。ああ―――そういえば、貴女を呼ぶときはどちらの名前が宜しいのでしょうか?」
「好きに呼ぶと良い。だが、もはや隠す必要もないか。我のことはざからと呼んで貰いたい」

 ざから、と恭也は口の中で呟いた。
 その名前は聞いた事がある。エルフと世間話をしていた時、話題になった怪物の名前だ。
 数百年も昔にこの地に封印されたという魔獣の王。確かその怪物の名がざからといったはずだ。
 恭也が見た限り、どう見ても魔獣には見えないが、先日の大怨霊の例もある。突然巨大化して怪獣になったとしても、不思議ではあるまい。

「しかし、そなたには驚かされてばかりだ。まさかあの大怨霊を打ち破るとは……」
「おかげでこの様ではありますが」
「その程度ですませれたのが、また信じられんことだ。剣士殿が勝てぬと踏んで、封印を解除しに帰った我は恥ずかしいことこのうえない」
「あの状況で俺が勝つと予想するのは不可能ですし。ざからさんがそういった行動を取ったのも無理はないことかと」

 ぷらぷらと宙ぶらりとなっている足を前後に動かしながら、ざからは頬を人差し指でかく。

「それにしても、剣士殿。少しは落ちこんでいるかと思って元気付けにきてみたが、相変わらずのようで少々残念だ」
「何故俺が落ち込んでいると?」
「アレは言ってしまえばそなたの同胞だろう?なぁ―――今代の大怨霊の依り代よ」

 ピシリと病室の空気が凍ったのは一瞬だった。
 その発生源である恭也が、ふぅっと息をつくのと同時に病室の空気が元に戻る。

「よくそのことがわかりましたね」
「わからいでか。大怨霊とそなたの気配。空気。殺意。それら全てが似通っておる。よくよく考えてみれば、三百年前の大怨霊は倒されたのではない。【封印】されておった」

 大怨霊とは数百年分の日本で起きた悪意の結晶。
 それらが長年かけて大怨霊という怨霊の元を創り上げる。三百年前、神咲の一族によって祟り狐は封印をされた。
 ならば、悪意を喰らい続ける大怨霊の元がなくなったならばどうなるか。答えは新たな大怨霊の元となるものが再び悪意を喰らい続けることになるだけだ。
 三百年分の悪意を喰らい続けた今代の大怨霊の元。それが恭也の中にいる。
 そういった意味では恭也と大怨霊。それはこの世界でただ二人だけの同胞だった。 

「しかし信じられないことに、剣士殿は確かに己という個を持っている。よくぞあれだけの悪意をその身に宿しながら正気を保っていられるものだ」
「まぁ、それは少々裏技といいますか。御神琴絵さんという方のおかげです。俺一人ではあの時悪意に飲み込まれていたでしょう」

 胸に手をあてて恭也はあの時のことを思い出す。
 十余年昔。御神と不破の一族最後の日。あの時に視界に広がっていた地獄は未だ脳裏に強く刻まれている。
 あの時ほど人を憎んだことはない。あの時ほど悪意に塗れたことはない。その時の負の感情が大怨霊という悪霊を呼び寄せてしまった。この悪意に塗れた殺意の元凶とも、もう十年以上もの付き合いなのだ。
 もっともあの時に受け入れた怨霊が、大怨霊と呼ばれる悪霊だったということに気がついたのはつい最近だったということに、意外と自分は鈍いのかもしれないと思う。 

「まぁ、【それ】がそなたの中にあり続ける限り、今代の大怨霊の復活はなさそうで安心したぞ」
「大怨霊の恐ろしさは身に染みましたからね。復活はさせないように全力を尽くします」
「その意気だぞ、剣士殿。さて、怪我人にあまり無理をさせるものでもないし、我はここらで失礼しよう」
「―――お見舞い有難うございました」
「ふふ。どうせ暫くはここにるのだろう?また来よう」 

 ざからは相変わらずの艶かしい流し目を残して窓から飛び降りる。
 後に残されたのは開きっぱなしの窓だけだ。どうせなら閉めていって欲しかったと内心で思いながら、必死にベッドから立ち上がり窓を閉める。
 窓の外には、豆粒のように車が見える。この病室は五階という高さにあるのだが、一体どうやって侵入してきたのか少し不思議だった。 
 壊れた機械のように、ゆっくりと動きながらベッドに戻り、布団をかぶる。
 瞼をつぶれば、ざからが訪ねてくる前とは逆にあっさりと眠気が襲ってきた。羊の数を数える間もなく、眠りの世界へ誘われていく。
 高町恭也高校三年のクリスマスはこうして病院で一人寂しく終わりを告げることになった―――。





 ―――翌日。






 朝昼は桃子とフィアッセが交互に世話をしにきたまでは恭也にとってはよかった。
 夕方以降には美由希達もくるというので、テーブルに積まれたお土産をなんとか消化しようと、とりあえず少女漫画を手にとって眼を通す。

 そんなときにコンコンと扉がノックされる。外の気配には感じ覚えがあった。
 どうぞ、と入室を促すと、病室に入ってきたのは予想通りの人物神咲楓だ。
 八束神社で見たときとは異なり、式服ではなく通常の服装だ。確かに、病院にまでそんな服をきてくる理由もないのは当たり前だ。流石に病院までくるのは寒かったのか、厚手のコートを着ている。

「やぁ、恭也君。調子はどう?」
「おかげさまで。出切れば今日にでも退院したいくらいですが」
「それは幾らなんでも無茶や―――と思ったけど、恭也君ならいけるかもしれへん」
「自分で言っといて何ですが、それは無理です」

 楓はくすっと笑うと、ベッドまで近寄っていき、備え付けの椅子に腰を下ろす。
 立ち上がろうとする恭也だったが、そんな彼を手で押しとどめた。彼女の視線が、テーブルの上のお見舞いの果物詰め合わせセットを捉えると、きらっと瞳が輝いた。
 
「良かったら、果物でも剥こうか?」
「あー。そうですね、お願いできますか」

 楓の質問に、自分の喉が乾いていることに気づく。
 果物なら丁度喉を潤すことが出来るだろうと判断した恭也は、楓の申し入れを受け入れた。
 何故か嬉しそうに楓は林檎を一つ手に取ると、すぐ傍に置いてあった果物ナイフで器用に皮を剥き始める。あっという間に皮を剥き、幾つかに切り分けた林檎の一欠けらを爪楊枝で刺すと、恭也の口に運んでいく。 

「あの―――自分で食べれますので」
「いいから。いいから」

 別に手が動かせないわけではないので一端断るのだが、楓は林檎を下げる気はないようだ。
 諦めて口を開こうとする恭也だったが、タイミング良くか悪くか、再度ドアがノックされる。

「どうぞ」

 気のせいだったかもしれないが、楓から舌打ちが聞こえた。
 林檎を刺した爪楊枝を楓が手元に戻したのと同時に、病室に入ってきたのは葉弓だ。何時ぞやに見た清楚な白いコートが、真っ白な病室と同色だった。
 先に病室にいた楓に多少驚いたのか、一瞬足が止まるもその後は躊躇いなくベッドに近づき備え付けの椅子に腰を下ろす。

「昨日はバタバタしてご挨拶が満足にできなくてごめんなさい、恭也さん」
「いえ。来ていただいただけでも有り難い話です。那美さんの具合は如何ですか?」
「お蔭様で元気にしています。もう一人で歩くことが出来ますし。多分後で那美ちゃんも挨拶に来ると思います」
「あまり無茶はしないほうが良いかと思いますが。出歩けるならばそれは良かったです」

 どうやら昨日話に聞いたとおり、那美の怪我は回復に向かいつつある様だ。
 安堵するのと同時に、葉弓の視線がチラリと移動し、楓の手元の皿にのっている切られた林檎を見つけた。
 
「あら。恭也さん果物を召し上がられるところでしたか?」
「ええ、はい。楓さんが剥いて頂けまして」
「そうですか。でも―――林檎よりも梨のほうが美味しいと思いませんか?」
「え?は、はぁ……」

 にこにこと笑顔の葉弓が梨をテキパキと剥く。
 普段ならば癒される笑顔なのだが―――何故かこの時は薄ら寒いモノを感じた。
 葉弓も梨を爪楊枝で刺すと、それを恭也の口に運んでくるのだが―――。

 ガシっとそれをとめた人物がいた。
 というか、止める人物というのは楓一人しかいない。

「幾ら葉弓さんでも、それはないとうちは思います」
「そう?楓ちゃんも、抜け駆けは駄目だと思うの」

 楓が林檎を刺した爪楊枝を伸ばした瞬間、それを葉弓が止める。
 互いが互いの手の半ばを掴み、何やら骨が軋む音が聞こえた。さらには病室に膨れ上がる霊力。
 純白の気配が室内に溢れ、パリっと電球が音をたてた。
 電球だけではなく、座っている椅子がミシミシと悲鳴をあげる。
 これはまずいと頬を引き攣らせた恭也が止めようとした瞬間、三度ドアがノックされた。

「ごめん、恭也君。もしかして葉弓さんと楓が来て―――」

 ガラっと扉を開いて現れたのは神咲薫だ。しかし、室内の状況を見た途端、微妙に達観した表情になり、そのままドアを閉じて消えた。

「―――薫さん、逃げないでください!!」
 
 恭也の声が聞こえなかったわけではないだろうが、あっという間に遠ざかっていく薫の気配。
 ああ、無情。はぁっと深く疲れた恭也は、今度こそ二人を止めようとして―――。

 パタパタと床を走る音が聞こえる。看護師から病院では走らないのと叱られる声も遠くから聞こえた。
 そして、恭也の病室の扉がノックされるよりも早く、ガラっと四度ドアが開かれる。

「―――きょう、や!!」

 だだっと駆けながら室内に飛び込んできたのは、子供形態の久遠だった。
 流石に病院では動物禁止のためだろう。人間形態で那美のお見舞いにきていたのだ。狐耳と尻尾、巫女服姿とあいまって、非常に可愛らしいと看護師には実は評判が良かった。

 骨を軋ませている二人の間をすり抜けて、久遠がベッドの恭也へとダイブ。
 ドンっと胸に飛び込んできた久遠を受け止めて―――。

「―――っ!?」

 肋骨が何本かいってしまっている恭也は悶絶した。
 あまりに激痛が走りすぎて、意識が飛ぶどころか、逆にクリアになってくる。
 
「きょう、や!?きょうや!?」
「きょ、恭也くん!?」
「大丈夫ですか、恭也さん!!」

 病室に轟くのは三人の悲鳴。
 昨日のように一人寂しく過ごすというのも、決して悪くはなかったと歯を食いしばりながら、目の前の久遠を見つつも、そんなふうな感想を抱く恭也だった。
 
 人外魔境海鳴。本日も平穏―――ただし一部嵐也。
 
  

 























 時間は少し巻き戻り、二十五日の午前。。
 八束神社の階段をのぼる一人の中年の男性がいた。
 神職だと一目で判る姿の、八束神社の神主を務める男だ。彼の仕事も落ち着き、そんな時ふと思い出したことが一つあった。以前賽銭箱に入っていた宝石を、警察に届けねばならないということだ。

 そんなわけで神主は八束神社へと至る階段をのぼっていき―――神社の境内へと辿り着いた所で固まった。
 ゴシゴシと眼をこすってみるが、彼の視界に広がっている光景は変化しない。

 鳥居は薙ぎ倒され、神社は九割消し飛び、森の木々も圧し折られている。広大な更地。
 おかしい。こんなはずがない。先日まで確かにここには神社があったのだ。
 しかし、幾ら見てもそれは事実でしかなく―――。

「なんじゃこりゃぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 神主の魂の雄叫びがあがった。
 八束神社壊滅の日。海鳴では毎年クリスマスは何時しかそう呼ばれることになったという。




















------------atogaki-------------------

那美ルート?
いいえ、神咲ルートでした。神咲三流が多少活躍した分那美が割を食う形になってしまいました。
そして後半は怪獣大決戦。もはやラスボス級の大怨霊さん。作中でも確かに最強に近い敵です。
でも、酒呑童子には及ばない闇狐さんでした。

次回は間章を2つ多分挟みます。
その後、原作でいうフィアッセルート(龍編)
ついにMISATOさん登場。では、次回お会いいたしましょう。




[30788] 間章0 御神と不破終焉の日
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2013/02/17 01:42


















 時は御神と不破の一族が健在だった頃にまで遡る。
 御神の一族が暮らす地方の然程大きくない街。大した名物や土産もなく、観光客も滅多に訪れないため、かなりの確立で街の人々が知り合いという、ある意味町人同士が仲が良い街である。
 唯一の名物といえば、街の外れにある巨大な山々。その山を全て所有している御神家が、中腹に構えている巨大な屋敷。街からでも見通せるその屋敷が、この街の名所といえなくもない。

 そんな街の片隅のホテル。大通りから少し外れた場所にあり、すぐ隣に大きな公園があるため、窓をあければ子供達の遊び声が聞こえてくる。
 逆に窓を閉めれば防音設備がしっかりしているため、子供達の声は聞こえなくなり、それなりに宿泊客は快適に過ごすことができて割りと好評だ。

 部屋の中は通常のホテルと特に代わり映えがせず、ふかふかの布団が敷かれているベッドが二つ置いてある。
 その片方のベッドに胡坐をかいて座っている一人の男性がいた。黒スーツ姿で、坊主頭。身長は百七十程度。見た限り日本人というわけではなく、中国系。そんな男性がテレビを見ながらケタケタと笑っている。
 そしてもう一人その部屋の窓際には男性がいる。二メートル超の身長の黒スーツ姿で、坊主頭というほどの短くはないが短く刈り込まれた髪は空にむけて立っている。黒いサングラスをかけて、不思議な威圧感を醸しだしていた。

「いやー日本のテレビって面白いのが多いな。うちんとこも真似してほしいくらいだぜ」
「……そうか」
「どうしたん、白陰の大将?今日は何時にもまして、言葉数少ないじゃん?」
「……普段通りのお前がおかしいんだ」
「そうかねぇ。まー気持ちはわからないでもないけど。御神の一族ってあれっしょ。日本最悪の殺戮一族って話だし。下手したら俺達死ぬんじゃね?」
「可能性はなくもないな」

 白陰と呼ばれた男性は、自分達が死ぬという言葉にあっさりと同意する。彼の返事を聞き、嫌そうに表情を歪めた坊主頭の男性は、見ていたテレに背を向け白陰へと振り返った。

「おいおい、白陰の大将がそんな弱気でどうすんの?あんたが負ける相手だったら俺達なんか瞬殺されちまうぜ」
「それは言い過ぎだと思うが……それほどに厄介な相手だということだ、黒陰」
「たっはー。幾ら金払いが良かったからといっても、少しは上の連中も考えて欲しいよなぁ。一応は作戦通りにいけば俺達のやることは残党狩りくらいしかないとはいえ、失敗したら洒落にならないどころの話じゃないしさ」
「―――あの男に限って失敗はあるまい」
「劉、雷考か」

 黒陰と呼ばれた坊主頭の男性が表情を歪ませる。ここにはいない、誰かのことを思い浮かべているようだった。
 その誰かに向ける感情は一目で好意的なものではないと推測でき、どこか嫌悪感を滲ませている。

「よりによってあいつが出てくるなんて、気分が良いなんてもんじゃないぜ」
「仕方あるまい。俺達【六色】だけでは、御神の一族を壊滅させるなど難しいことだ。それを見越して上も奴を引っ張り出してきたのだろう」
「それはわかってるけど……俺はあいつが気にくわねぇ」
「―――黒陰」

 同じ組織に属している相手を名指しで気に喰わないと言い切った黒陰に対して、多少厳しさを込めて白陰が注意を飛ばす。
 だが、黒陰はそれでもどこか不満そうな感情を消しはしなかった。

「はっきり言うけど、俺だって碌な人間じゃねぇ。殺してきた人間の数は百じゃたりねーよ。とても人様に自慢できるような道を歩んでは来てない。でも、あいつは―――まともじゃねぇ」
「……」
「人を殺すことをなんとも思っていない俺達が、まだ普通に見えるくらいのいかれ具合だ。今回の任務だってそうだ。【あんな】作戦どうやって考え付く?どんな頭の構造をしてたら、あんなことを思いつくんだよ」

 黒陰の言葉には深い嫌悪が込められている。
 その相手は劉雷考。中国最大最強の闇組織【龍】が有する最強戦力。既に二十年以上も組織に身を置いている白陰が知らぬうちに何時の間にか突如として現れた男。
 龍の傘下の組織を率いているわけでもない。多くの部下を連れているわけでもない。龍の幹部というわけでもない。彼はただの個人でしかない。だが、龍の人間は皆が劉雷考という男を怖れている。
 彼は組織の上―――つまり龍の長の命令しか聞かず、それに対する拒否権も持っている。彼は自分の気がむいたままに行動をし、頼まれたことをこなす。
 それが許されるのは単純な話、彼が強いからだ。組織の前では個人の力などたかが知れている。本来ならばそうであるのだが、彼は別格だった。別次元の強さだった。
 裏世界の人間達にとって最悪の敵である香港国際警防部隊とも渡り合う。個の力で組織の戦力を凌駕する彼だからこそ、龍という大組織でも許されてしまう。

 そしてもう一つ。龍の組織の人間に煙たがられる理由としてあげられるのは―――彼の残虐性。
 目的のためならば女子供はおろか、幼児や赤ん坊さえも躊躇いなく殺してしまう。目的の人物一人を始末するために、百人だろうが千人だろうが死んでも気にも留めない、正真正銘の狂人。
 それ故に、裏の人間で構成されている龍でさえも、劉雷考という男を嫌悪する人間は多い。
 無論、【六色】と呼ばれる黒陰と白陰も劉のことを嫌っていた。六色とは、龍の内部から選任された猛者六人。名称にそれぞれ色が与えられ、主に暗殺方面の仕事をこなす。数多の人材がいる龍の中でも選ばれただけあり、六人全員が優れた戦闘技能を持っているのだが―――それでも、劉雷考という怪物に勝てるとは思っていなかった。
 それほどに彼は格が違うのだ。戦闘者としてではなく、生物としての格が。

 そんな劉が考えた今回の作戦。それに反対したのは白陰だった。
 だが、御神と不破の一族という最強の剣士達を相手取る作戦の代替案を考え付けずに、劉の作戦が遂行されることになってしまったのだ。
 失敗したら失敗したで、新しい作戦があると言っていた劉の禍々しい笑みが目の前に浮かび上がる。
 白陰も黒陰も、本心では最初の作戦が失敗することを祈っていた。それと同時に、恐らくは成功してしまうだろうという気持ちも奥底に眠っている。

 残りの四人の六色のメンバーはそれぞれの役目があり、このホテルにはいない。
 黒陰と白陰の役目は彼らの会話にあったように残党狩り。それに気分を重くしながら、作戦決行の時間が近づいてきていた二人は、部屋から静かに立ち去っていった。

 御神と不破の最後の日―――来る。























 今日この日、御神本家は皆が慌しく走り回っていた。
 普段は純和風の家らしく、この家に務める家政婦も御神や不破の人間も落ち着いて行動をしている。だが、今日は御神宗家長女の御神琴絵―――彼女の披露宴がこの本家っで行われるということもあり、準備に追われているところであった。
 
 本来ならばどこか立派なホテルや会場を借り上げようという話もあったのだが、産まれついての病弱な琴絵の身体を気遣い慣れ親しんだ本家で結局は行われることになった。
 普段御神本家に住んでいる人間だけではなく、あまりこの場所に近寄らない分家の人間も例外なく集まってきていた。
 それが御神琴絵という女性が如何に多くの人間に愛されているかの証明している。

 そんな琴絵は、着替えをする部屋にてどこかそわそわとした様子を隠さずに、視線があちらこちらに向いていた。白無垢姿は大層に美しく、使用人たちが思わず息を止めてしまうほどのものだ。
 そして、全く集中していない琴絵の姿にため息をつくのは二十代半ばの青年だった。
 彼こそが御神静馬。御神当主にして、現在の御神最強の剣士の一角と名高い男だ。御神宗家の長男―――つまりは、琴絵の弟にあたる青年だというわけだ。

「姉さんももう結婚するんだから、いい加減に恭也君離れしたらどうですか?」
「結婚と恭也ちゃん離れは別の話だから!!」

 静馬の問いかけを一蹴して、琴絵は時計の長針を―――いや、秒針を注視している。
 まるで時よ止まれと念じているのではないかと察すことが出来るほどに、彼女の目は真剣みを帯びていた。
 駄目だこの人は、と自分の姉のことながら頭が痛くなる思いを抱く静馬は、指で両方の米神を揉んで和らげようとしている。琴絵の不破恭也へ対する異常なまでの無償の愛情は御神一族では有名な話だった。

 御神宗家の長女という立場にあるのだから、この歳まで結婚の話が出ていなかったわけではない。
 それこそ山のように、縁談話が持ちかけられてきていたのだが、自分が病弱の身であることを言い訳として、全てを断ってきていた。今回ついに年貢の納め時となったわけだが、恐らく自分の姉は、夫となる男よりも恭也のことを優先するだろうと、静馬は少しだけ旦那となる男に同情をした。
 
 そして何故御神琴絵ともあろう女性がここまで集中力を欠いているのかというと、それは単純な話だ。
 不破恭也が未だ御神本家に到着していない、ただそれだけの話だった。恭也は父である不破士郎と供に日本全国武者修行の旅に出ている―――というよりも、士郎に無理矢理連れて行かれているというほうが正しいのだが。
 しっかりと披露宴の日にちと時間を随分と前に士郎に伝えてはいたのだが、すっかりと忘れていたらしく、昨日から慌てて本家に戻ってきている最中なのだ。
 幸い滞在していた街がそれほど遠くなかったためすぐに帰れるという話だったのだが、披露宴の時間が差し迫ってきている現在でも恭也と士郎が到着してはいない。

「琴絵様。不破恭也様がご到着されました」

 そろそろ痺れを切らして暴れるんじゃないかと、内心で焦ってきていた静馬の願いが通じたのか、襖を一枚隔てた廊下から使用人の声が聞こえた。
 グッジョブ恭也くん―――とガッツポーズを心の中で決めた静馬とは裏腹に、琴絵は動きにくい花嫁衣裳姿でその場から跳躍。襖を勢い良く開け放つと、廊下へと飛び出した。

 ダダダっと駆け音を残して去っていった姉の姿を見送りつつ、はぁっと深いため息を静馬は再度ついた。

「……いやいや。花嫁衣裳で神速を使う女性ってのも、我が姉ながらシュールな光景だ」 

 そんなことを静馬が漏らしているとは露知らず、琴絵は一直線に玄関へと繋がっている廊下を疾走する。
 病弱だというのに神速の世界へ突入したまま玄関まで駆けつけた琴絵は、今まさに靴を脱ぎ廊下へとあがった恭也を発見し、そのままの勢いで抱きついた。

「―――っ!?」
「恭也ちゃーーーーーーん!!」

 まだ神速を認識できない恭也からしてみれば突然現れたように見える琴絵が、両手でがっちりと自分を抱きしめているのだから、子どもながら落ち着いているという評判の彼といえど目を丸くするのも当然の話だった。
 恭也を胸に抱いた琴絵はひょいっと軽々と抱き上げると頬擦りをする。

「恭也ちゃんのほっぺ相変わらず赤ちゃんみたいにすべすべしてて気持ちいいよぅ」

 至福の表情で何度も何度も頬を擦りつけてくる琴絵に対して、恭也は流石に恥ずかしいのか、若干顔を赤くしていた。
 その猛攻を防ごうにも琴絵にがっちりと身体をホールド―――もとい抱きしめられているため両腕が使用不可の状態となっている。そこから抜け出そうにも、病弱の身とは思えぬ力で恭也の身体を抱きしめていた。
 もはやどうすることも出来ない恭也は琴絵の為すがままといった状態で頬擦りをされていたが、数分もたってようやく彼女も落ち着いたのか、頬摺りを止め視線を合わせてにっこりと極上の笑顔を浮かべる。
 
「久々の恭也ちゃんパワーを充電できて幸せ~」
「は、はぁ……」

 相変わらず意味不明な発言をする琴絵に、曖昧な返事の恭也。
 その光景は、御神本家では誰もが一度は眼にしたことがあり、その傍を通った人間達は特に突っ込むこともなく通り過ぎていく。

「その、そろそろ解放していただきたいのですが……」
「え、なんで?」

 キョトンと疑問を浮かべる琴絵に、恭也は静馬と同じ様に頭痛を隠せない。
 頬摺りを止めてくれたとはいえ、両手は恭也を抱きしめたままだ。流石に憧れの女性に抱きしめられているというのは、まだ子供の恭也といえど、羞恥心を感じる。しかも琴絵は花嫁衣裳の姿。
 遠慮なく抱きしめてくる琴絵に対して、皺にならないか心配する気持ちも羞恥心とともに感じていた。  

「もうちょっとこのままいさせてね。まだ恭也ちゃんパワーが最大まで充電できてないもん」
「ええっと……」
「駄目、なの?」
「……いえ、駄目ではないです」

 眼を潤ませて懇願してくる琴絵にノーとはいえず、恭也は彼女の願いを受け入れた。 
 それも当然だろう。琴絵の願いを断ることが恭也にできるだろうか。いや、できるはずがない。
 どんな些細な願いでも、どんな無茶な願いでも―――不破恭也は、御神琴絵の全てを叶えてしまう。そうしてしまうほどに、恭也は彼女から無償の愛を受け続けてきたのだから。

「あ~、もう可愛い奴めぇ!!」
「……はぁ」

 また我慢出来なくなったのか、琴絵が自分の頬を恭也の頬にあててグリグリと摺り合わせる。
 先程よりもさらに強く激しいその姿に、部屋からでてきた静馬が生暖かい視線を向けていた。静馬に気づいた恭也が、視線が合った静馬に対して無言で語り掛けた。

 ―――何とかしてください。

 ―――いいや、無理だね。邪魔されたら俺が殺されるよ。

 ―――大丈夫です。静馬さんならきっとなんとかなります。

 ―――いやいや。姉さんは恭也君に関係することは俺よりも強くなるからね。

 ―――最悪俺だけでも無事に助け出してもらえたら結構です。

 ―――え、俺は怪我すること前提なの?まぁ、それよりも美由希を嫁に貰ってくれないか?

 ―――突然すぎますね。そういうことは美由希が大きくなってから本人に聞いてください。

 互いにアイコンタクト。一瞬でそう語り合った二人は、まさに以心伝心。この二人は士郎よりもよっぽど親子っぽく見えると実は評判であった。一部には静馬の隠し子ではないかという話も流れており、琴絵の異常な愛情もその噂の信憑性に拍車をかけた。
 それを聞いた時の美沙斗の笑顔ほど恐ろしかったものはないと、御神本家では語り草になっている。もっとも、静馬の年齢と恭也の年齢を考えると、静馬の子供というのは有り得ないのだが―――御神本家の人間も半分以上は面白がっていただけというのが事の真相だ。
 
 その時、静馬の視界に銀の飛翔物が映る。避けようとする間もなく、彼の横顔を通り過ぎ、スコンと木の柱に何かが突き刺さる音が聞こえた。
 静馬の後方の柱に飛針が突き刺さっている。今まさに刺さったいうことを証明するように、ぶるぶると揺れていた。
 
「―――ねぇ、静馬?」
「は、はい!!」
「私を差し置いて、恭也ちゃんと何話してるのかな?」
「な、なにも話してないと思うんですけど」
「私には聞こえたよ?」 
 
 笑顔の琴絵が怖い。心底そう思った静馬の足が一歩後退する。
 まさか口に出していない、目での会話を悟られるとは想像もしていなかった。むしろ、それを聞き取るとか我が姉ながら既に人間業ではない。むしろ本当に自分の姉なのか疑いたくなる静馬だったが―――【これ】が御神琴絵という女性なのだと改めて認識できた。

「というか、その姿のどこに飛針を隠していたんですか」
「んー、それは幾ら静馬でも内緒だよ」
「むしろ、今日くらいは暗器を置いておいたらどうですか?」
「それもそうなんだけどね。何か持ってないと不安で……」
「まぁ、その気持ちは非常によくわかりますけど」

 琴絵には武器を持つなと言っておきながら、相馬も数年前の自分の結婚式の時に暗器を結局隠し持っていたことがあるのでこれ以上は強くは言えなかった。
 生まれながらにして小太刀と暗器の技術を叩き込まれる御神と不破の一族にとって、武器を持たないということに不安を抱くというのももっともな話である。特に琴絵は病弱なため小太刀を使用した鍛錬はあまり積んではこれなかったが、飛針や鋼糸といった暗器の腕前は一族でも群を抜いて上手い。それ故に、彼女にそれらを持つなとは言い難い。

「そういえば、士郎さんは一緒じゃなかったのかい?」
「途中までは一緒だったのですが、街に入る手前で美沙斗さんに会いまして。病院までついていくといってとーさんとはそこで別れました」
「ああ、美由希が熱をだしてしまってね。診て貰いに行くとこだったんだよ。それにしても士郎さんも今帰ってきたら美影さんに殺されるとでも思ったのかな」
「ええ。電車の中で震えていましたから」
「それはもう自業自得としか言えないかな。まさか結婚式の日にちを忘れているとは思わなかったよ……」

 親馬鹿を除けば御神の一族の中でもまともな静馬が疲れたように肩を落とす。
 落ち込んでいたのだが、暫くすると何かを思い出し上着のポケットから手紙を一枚取り出した。

「あ、それより珍しい人からお祝いの品が届いてましたよ」
「珍しい人?」

 琴絵が部屋を飛び出してから家政婦に伝えられた情報を思い出した静馬に聞き返した琴絵は、頭の中で珍しい人を頭に思い浮かべる。
 珍しいというからにはあまり縁がない人物なのだろう。永全不動八門のどこかとも考えたが、琴絵自身そこまで見知った人物はいないので想像が難しい。
 首を捻っている琴絵に、静馬はどこか複雑そうな笑みを口元に浮かべた。

「兄さんからです。小包が一個姉さん宛に届いていました」
「相馬から!?それは確かに珍しいね……」

 本当に驚いたのか、ポカンと口を大きく一瞬開けるも、琴絵も苦笑を浮かべる。
 静馬と琴絵の話題にあがった人物は御神相馬。本来ならば御神流当主の座を受け継ぐことになるはずだった剣士。静馬の兄であり、琴絵の弟でもある御神宗家長男だ。
 ただし、彼は幼い頃から勝手気ままに行動し、御神の【上】の命令を全く聞くことはなかった。そのため、つい最近に御神家から追放されてしまったのだ。
 静馬があまりにも当主として相応しい人格者だったこともあり、一匹狼のきらいがあった相馬は御神と不破の一族から良く思われていなかったことも追放を後押ししたのかもしれない。
 追放された人物からの小包など本来ならば琴絵の手元に届くはずはなかったのだが、それを受け取った人物が気を利かせて静馬に報告したことによって、無事受け取ることが出来た。

「ああ、それと恭也君にも兄さんから手紙が一枚届いていたよ」
「相馬さんからですか?」
「うん。御神家から出ても、やっぱり唯一の弟子のことは心配でしょうがないみたいだね」

 今はここにいない兄の相馬のことを思い出して、笑いが我慢できなかったのかくすくすと静馬が楽しそうに微笑む。
 誰とも馴れ合おうとしなかった相馬が、数ヶ月前から突然恭也に剣を指導するときがあった。相馬と供に鍛錬に励む恭也は、よく彼から罵声を浴びていた。それ以上に御神と不破の誰よりも厳しい指導だった。
 その光景を見た多くの人間が、静馬や士郎にやめさせた方が良いと忠告していたのだが―――実際にその鍛錬している時に行った静馬が我が目を疑った。確かに言葉や態度は褒められたものではなかったが、相馬は誰よりも恭也の願いを真摯に受け止め叶えようとしていただけだった。恭也に幾ら厳しくしようとしても結局は限界がある士郎や静馬、美影や美沙斗では決してできない鍛錬を相馬がしていただけのことだ。
 それを証明するように恭也は決して相馬の元を訪れることを止めようとはしなかった。御神の屋敷にいるときは、時間を作っては相馬に修行に付き合ってもらっていたのだ。
 そしてそんな相馬も、恭也の相手をするときはどこか嬉しそうにしていたのも事実だ。だからこそ士郎や静馬は恭也の好きなようにさせていた。

「はい、これがそうだよ」
「あの……」

 手に持っていた相馬の手紙を恭也に手渡そうとして、両手が使えないように琴絵にガッチリとホールドされていることに気づく。ちらりと琴絵を見てみるが、ブンブンと勢いよく首を横に振って、まだ離れたくないアピールをした姉に呆れつつも、仕方ないと判断して恭也のポケットに手紙をねじ込んだ。

「ふにゅぅ……恭也ちゃん、良い匂いがするよ」
「で、できれば匂いを嗅ぐのは勘弁してほしいのですが……」
「気にしない気にしない」
 
 頬擦りをストップさせ、今度はくんくんと犬のように恭也の頭に顔を埋め匂いを嗅いでいる琴絵の姿に戦慄を隠せない静馬が、うわぁっと本気で嫌そうな声をあげた。
 恭也君フェチがどんどん酷くなっているなぁ、と小さく呟いた静馬の言葉は誰の耳に届くこともなく消えてゆく。

 そんな混沌とした三人を置き去りに―――人の底知れぬ悪意は来訪した。















 山の中腹に聳え立つ御神本家。そこに至るまでにゆうに百を超える階段をのぼらなければならない。
 見通しが良いため、誰かがのぼってくればすぐに目に付く。天気が良い今日この日も例外ではなく、御神の屋敷の門前で披露宴客を出迎えていた御神の一族の男性も、階段をかけのぼってきている一人の子供に気づいた。
 息を乱しながらも、必死で階段を駆け上がってくる年の頃十を超えるかどうかの少女は、止まることなく門前へと辿り着く。

「あ、あの。こ、こんにちは」
「ああ、森さんの所のお嬢ちゃんか。入院してたと聞いてたけど、退院したのかい?」
「は、はい。たいした怪我じゃなかったので。先日退院できました」

 普段から御神の屋敷に住む男性にとって、階段を駆け上ってきた目の前の少女は見覚えがあった。山の麓にある近隣の普段から付き合いがある家の娘だったのだ。
 少女の手には彼女が自分で摘んできたであろう、綺麗な花々が握られている。それを胸の前で大事そうに抱えた少女は、上目遣いで男性を見上げた。

「その、琴絵さんを……お祝いしたくて」

 断られるかもしれない恐怖に脅えながらも、そう言い切った少女に男性は少しだけ考え込む。
 今日は御神琴絵の結婚式ということもあり、殆どの御神と不破の一族が集まっているため、警戒だけは厳重にしている。来た客は例え御神と不破の一族であろうともしっかりと身元の確認をし、身体チェックもしていた。といってもチェックするのはあくまで爆発物や毒物をもっていないかだけだ。

 本来ならば確実にこの少女も身体チェックをしなければならないのだろうが、見た感じ武器を隠し持っているわけでもなく、手にもっているのは確かに花のみ。それにこの少女のことは昔から良く知っている。琴絵にも可愛がられていたので、お祝いをしにきたというのも頷けた。
 そのため男性は、たいした疑いもなく少女を御神の屋敷に招き入れることにした。それは、油断があったのかもしれない。見知った少女。武器も何も持たない少女なのだから、心配はないだろうと。御神琴絵の結婚式ということもあり、それで気が緩んでいたと責められても仕方のないミスだった。しかし、この場に他の誰がいたとしても、恐らくは同じ結果になっただろう。
 それほどに、人の底知れない狂気が、その少女に纏わりついていたのだ。
 
「有難うございます」

 ぺこりと礼儀正しく頭を下げると少女は御神の屋敷の敷地へと入っていく。
 それを見送った男性は、再び眼下へと注意を戻すのだった。
 
 少女は御神の屋敷を訪れたことは一度しかない。それ故に、うろ覚えの敷地の中を迷いつつも、歩いていき屋敷の玄関へと辿り着いた。
 確かここから屋敷の中へ入れたと思い出した少女は、玄関の扉を軽く叩く。
 
「あの、すみません。こんにちは」
「はいはい。少し待っててね」

 恥ずかしさのため、然程大きな声ではなかったが、玄関を挟んだすぐ近くから男の声が返って来た。
 緊張をしつつも、扉が開くのを待っていた少女の前で、ガラっと音をたてて扉が開く。開けた人物は御神静馬。残念ながら少女は静馬と面識はなかったために、一瞬口ごもる。
 静馬も扉を開けてみれば見知らぬ少女が一人。特に殺気を放っているわけでもなく、何かしらの害意があるわけでもなし。敵ではないだろうと咄嗟に判断して、少女が口を開くまで待とうと考えた。

「あの……琴絵さんはいらっしゃい―――」
「あれ、裕子ちゃん?」

 言葉の途中で静馬の背後で相変わらず恭也を抱きしめていた琴絵が少女の存在に気づいたのか、彼女の言葉を遮った。
 静馬の後ろに琴絵がいることにきづいた少女―――裕子は、ぱぁっと緊張で強張っていた表情から一変し、自然な笑顔を取り戻す。
 そして、手に持っていた花を琴絵に向けて―――。

「あ、あの。琴絵さん。ご結婚おめでとうございま―――」

 ―――くひっひっひ。おめでとう。そして、さよならだ。

 悪意に塗れた男の声が、聞こえた気がした。
 それは聞こえるはずのない言葉だ。本来ならば数キロも離れた場所にいる劉雷考という狂人が放った台詞だったのだから。
 だが、この場にいた琴絵と静馬、そして恭也には何故か聞こえた。あらゆる人間を馬鹿にした、害意を極限にまで凝縮した男の声が―――。

 カチリと何かの音がする。
 そして、静馬さえも反応を許さず―――世界が弾けた。
 圧倒的なまでの大爆発。超火力と衝撃が、一瞬にて膨れ上がり、爆発する。
 発生源である玄関の周囲を融解、破壊。人の耐え切れる限界を遥かに超えた殺戮の兵器が数百メートルに渡り炸裂した。
 幾ら御神の一族でも防ぎようのない、超広範囲に渡る破壊兵器。そもそも戦争ではなく、ただの人間達に使用される域を遥かに逸脱した物。
 御神の屋敷はその兵器―――爆弾の破壊によって、見るも無残に破壊され、跡形残さず吹き飛ばされた。
 静馬がどれだけ強かったとしても、個人で最強の力を持っていたとしても、それでもこればかりはどうしようもなく、防ぐことも避けることもできない。
 もしも、ただ爆弾を仕掛けられただけならば御神と不破の一族ならば気づくことは出来た。
 最小限の被害でこの危機を乗り越えることは出来たはずだ。だが、爆弾が仕掛けられていた場所が悪かった。
 誰もが予想もできない場所。それは人体の内部。琴絵に花を持ってきた少女の中に埋め込まれていたのだ。
 兵士が行う神風アタックではない。何も知らない、つい最近退院した少女の身体の中に爆弾を埋め込み、御神の一族を潰す兵器とさせた。それは決して許されない行為だろう。誰もが理解を示さない行為だろう。人間が行ってはいけない最悪の行為だろう。
 だが、劉雷考はそれを実行に移した。僅かな罪悪感もなく、躊躇いもなく。  
 故に彼は【龍】からも怖れられる。人を殺すことに、壊すことに、喜びしか見出さない彼だからこそ、龍にて最強戦力とも最恐戦力とも噂されているのだ。

 御神の屋敷があった場所は、白煙に包まれ、僅かに残された建物の残骸もパチパチと燃え焦がされている。
 昼間に行われたあまりにも突然の惨劇は、御神の屋敷にいた人間全てを焼き滅ぼし、落命させた。日本にて最強とも噂されていた御神の一族はあまりにも呆気なく滅びを迎える―――はずだった。

 爆心地となった、もはや見る影もない玄関だった場所。
 破壊の中心となったそこは他の場所よりも、さらに酷く焼失し、消失していた。
 そこに残されていたのは【二人】の姿。いや、正確には一人と【一つ】。

「―――っ、かふっ」

 その時、咳き込みながらそのうちの一人―――不破恭也が、意識を取り戻す。
 まるで世界が回っているかのような錯覚。ぐるぐると視界が回っていた。それだけではなく、全身が熱い。激しい痛みが絶え間なく襲ってくる。皮膚が焼け付くように激痛がはしった。いったい何が起きたのか。全く恭也にはわからない。
 記憶を整理しようとしても、頭が混濁している。先ほどまでなにをしていたのかすぐには思い出せなかった。
 深呼吸をして心を落ち着けようと試みたが、肺の中に入ってきたのは灼熱の酸素。咳き込むことも出来ず、新たな激痛が身体の芯から襲い掛かってくる。
 
 徐々にだが、恭也の視界の揺れが収まっていく。
 そんな彼の目に映ったのは到底信じられない光景だった。倒れている自分が上空に見上げるのは空。
 そして、白煙と灰が晴天に向かって立ち昇っている。周囲はもはや何があったのかもわからないほどに崩壊し、焼失していた。ただ、未だ残っている屋敷の残骸がパチパチと音をたてながら燃えている。

「……ばく、だん?」

 周囲の様子から恭也の口からそんな言葉が漏れた。
 それくらいしかこの現状を証明する方法がありはしない。どんな方法か理解できないが、御神の屋敷は圧倒的な破壊力で焼き払われたのだと、彼の脳が答えを導き出した。

 そして、恭也は気づく。
 何故自分は生きているのだろう、と。周囲の様子からして、自分が生き残れる確立は皆無に等しいのは明確だ。
 いや、本当は恭也は気づいていた。理解できていた。ただ、認めたくなかっただけなのだ。

 自分に覆いかぶさっている―――【一つ】のモノのおかげなのだと。

 モノの正体は何ということもない、御神琴絵その人だ。
 ただ、恭也の記憶にある彼女とは全く異なっていた。数分前までは、誰よりも美しい花嫁衣裳の琴絵だったのに、今の彼女は―――。

 黒く長い髪は焼け焦げ、恭也ほどの短さになっていた。白磁のように滑らかだった白い素肌は火傷で爛れ、無事な場所を探すほうが難しい。片腕が半ばから消え失せていた。純白の花嫁衣裳がほぼ全てが焼失し、残されたのは前面の極僅か。それも煤で汚れている。
 もはや琴絵の面影も残さない―――だが、確かに御神琴絵が恭也の腹部に顔を埋めるように倒れていた。

 それで恭也は理解できてしまったのだ。何故、自分が生き残れたのかを。
 爆弾が起動する瞬間、その悪意に唯一反応できたのは御神琴絵だけであり、彼女は一秒にも満たぬ時間で、咄嗟に恭也を庇うという選択を取った。

 無論ただ庇っただけではない。自分の霊力を最大限にまで発動させ、盾としたのだ。
 御神琴絵は、他の人間に比べて霊力が異常に高い。噂に名高い神咲一族には劣るとはいえ、その霊力は並大抵のものではなかった。それは【御神雫】を宿す最低限の資格ともいえた。
 既に精神体だけとなった彼女を宿すにはある二つの条件がいる。

 一つは御神宗家の血筋の者であるということ。
 一つは御神雫をその身に宿しても耐え得るだけの霊力を備えているということ。

 御神琴絵も例外ではなく、その身に宿す霊力をそれなりに使いこなすことが出来ていた。精神世界にて、剣術だけではなく霊力の使用方法まで指南を受けていたということが、今日この時の【恭也】の窮地を救ったともいえる。

「……こと、え、さん?」

 ガクガクと全身が震える。痛みではなく、恐怖で。
 口から出た言葉が、恐ろしいほどに遠くに聞こえる。自分が眼にしているのは、一体何なのか。
 ガチガチと耳障りな音をたてているのは何かと思えば、己の歯が鳴らしていた歯が噛み合わさる響きだった。
 
 何故、自分は五体満足で生きている? 
 決まっている。御神琴絵が身体を張って、命をかけて庇ったからだ。

 そう認識した瞬間視界が真っ暗に染まった。
 何故だ。どうしてだ。そんな言葉がぐるぐると頭の中を廻り続ける。
 誰よりも愛を注いでくれた人が。誰よりも優しかった人が。誰よりも幸せにならなければならなかった人が。
 
 ―――何故、こんな姿になっているのか。
   
 ぶちりと震えていた歯が唇を食い破る。血が流れるが、そんな痛みなどもはや気にならない。
 全身に負った火傷の痛みも、心奥から湧き出る怒りによってかき消される。

 全てが【逆】なのだ。
 御神琴絵を守らなければならなかったのは、不破恭也でなければならなかった。病弱だった彼女を守らなければならなかったのは誰でもない、恭也でなければならなかった。
 それなのに、あろうことか不破恭也は琴絵に命を投げ出され庇われてしまったのだ。
 その愚かしさ。無様さ。愚鈍さ。それら全てを―――不破恭也は己に感じていた。
 
「……きょう……や……ちゃん?」
「―――っ」

 かすれた琴絵の声が耳に届く。
 その声はあまりにも頼りなく、今にも途切れそうな小さなつぶやきだった。
 幻聴かと勘違いしそうな琴絵の恭也を呼ぶ声に、はっとして彼女の瞳を覗き込む。その瞳には生気がなく、力もなく、もうすぐ彼女の命が潰えるのは恭也から見ても明らかであった。

「琴絵さ、ん!!琴絵さん!!」

 大丈夫ですか、などとは口が裂けても言えない。
 もし琴絵が恭也を庇わずに、自分のことだけを考えていたら恐らくはここまで瀕死の重傷を負うことはなかった。恭也は幼いながらもそう理解出来ていたのだから。

「……ああ、よかった……無事、だったんだね……」
「喋らないで、ください!!今すぐ、病院へ、連れて行きますので!!」

 もはや碌に目も見えていない。琴絵は恭也の姿を見て無事だと発言したわけではなかった。
 恭也の言葉が聞こえてきて、初めて安堵したかのように頬を緩めた。視線は恭也ではなく、その遙か向こうを見据えている。
 
「……私は、もう……だめ、だから……恭也ちゃんは……はやく、ここから離れて……」
「そんなことは、ありません!!すぐに、すぐにここから―――」

 全身を襲う激痛に耐えきり立ち上がろうとして、琴絵の身体を触った恭也はぬるりとした異様な感覚を手に感じた。
 見てみれば手を真っ赤に染め上げる血。琴絵の背中は焼けただれているだけではなく、飛び散った破片が突き刺さり内臓にまで到達していた。ガタガタと震えそうになる両手を必死に抑えつつ。背中に琴絵を担ぐ。
 女性とはいえ、琴絵の身体は幼い恭也よりも随分と重い。それでもどこからそんな力が沸いているのか、恭也は緩やかに一歩ずつ足を踏み出していく。

 軽い。軽すぎる。
 普段の琴絵よりも遥かにその身体は軽かった。
 
 何故だ。何故なんだと幾度目になるかわからない疑問が浮かんでは消えてゆく。
 どうしてこんなことになったのか。【誰】がこんな破滅を作り出したのか。御神琴絵をこのような姿にしてしまった犯人はどこの誰なのか。バキリと奥歯が砕けて散った。
  
 憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。
 琴絵をこのようにした【誰か】が。琴絵を守ることができなかった【不破恭也】が。
 こんなことが許されるのだろうか。世界はこんな悲劇をどうして許すのか。この一瞬―――確かに恭也は世界中の誰よりも、底知れぬ悪意をその身に宿した。

 ―――殺してやる。

 到底子どもがしてはならない、してはいけない世界の全てを呪った瞳。憎悪と悪意と害意と怨恨。殺意に塗れた暗い、闇い、正気を失った醜い視線。
 一歩踏み出すごとに恭也が纏う憎悪が深くなっていく。濃くなっていく。琴絵の仇を討てるのならば、この世の全てを犠牲にしてでも構わない。それほどの冷たい殺意を背負い、歩いて行く。

 ―――それでこそ、我が依り代よ。

 どこからかそんな声が響いた。
 それを不思議に思わない。恭也はまるでそれが当然のことのように受け入れて、歩みを止めない。
 恭也はお前は誰だとも問わない。お前が何だとも問わない。

「……お前を、受け入れれば。俺は……琴絵さんの仇を、討つことができるのならば……もう、何もいらない」

 ぞわりと恭也の影が地面から這い上がってくる。
 ゆっくりと。だが、確実に恭也の身体を蝕んでいく。
 そんな異常事態にも関わらず、彼は歩き続けた。

「琴絵さんの……仇を討てるのならば、そのついでだ。世界くらい、滅ぼしてやる」

 ―――くっはっはっはっはっはっはっは。面白い人間だ。

 男か女かもわからない不気味な声が鳴り響く。
 恭也の発言を気に入ったのか、その声は本当に愉快そうに笑っていた。
 影はみるみるうちに恭也の肉体を染め上げ、身体中に幾何学的な紋様を描き始める。足も脚も、胴も両手も肩も。
 残されたのは顔だけ。その顔も埋め尽くそうと、首から紋様が広がっていく。

 ―――共に世界を滅ぼそうぞ。我/俺/僕/私/余の名は―――。

「駄目、だよ。恭……也ちゃん……」
「―――っ!?」

 唐突に背負っていた琴絵の呼びかけに、残り僅かとなった顔の部分への浸食がピタリと止まる。
 はっと我を取り戻したのか、前へと進んでいた恭也の足が初めて歩みをとめた。

「恭也ちゃん……駄目、だよ。怒りに……身を任せちゃ……駄目。こんな……ことをされて……人を憎むのは、仕方ないと……思う」
  
 か細い声で琴絵は続ける。
 残りの全ての力を込めて、これだけは伝えなければならない。

「でも……世界を、憎んじゃ……だめ、だよ。これから……さき……恭也ちゃんが……生きていく、この世界を。どれだけ、残酷で……救いようがない……そんな世界でも、恭也ちゃんが……好きになって、守りたいって思える人が……必ず、現れるから」
「わかり、ましたから。お願いです、もう喋らないで下さい……!!」

 途切れ途切れでもはや聞き取ることも難しい。
 その言葉は琴絵が残された命を削り、振り絞り伝えてきている。
 それを理解できてしまう。これ以上琴絵に無理はさせたくない。涙声となった恭也の制止にも、琴絵は口を止めなかった。

 琴絵は虚ろな思考のなかで先ほどの瞬間を思い出す。
 爆弾が炸裂するあの一瞬。琴絵は自分だけを守ろうと思えば五体満足に助かった確信はある。それだけの霊力を普段から身体の底に練り上げているのだから。
 だが、琴絵が取った行動は恭也を救うというものだった。
 弟である静馬でもなく、年端も行かぬ少女でもなく、自分でもなく。
 【恭也】のためだけに命を投げ出した。誰もが狂った行いだと断じるだろうその行動。
 それを思い出した琴絵に浮かんだのは―――微笑。
 よくぞ、守って見せたと。自分が生きながらえてきた二十八年の歳月で、死の間際もっとも己を誇りに思えることを為せたと。

 我慢できなくなった涙が、つぅっと恭也の眼から流れ落ちた。
 視界が涙で揺れ続ける。歩みを再開させた恭也の足が、何かにひっかかり地面に倒れる。せめて琴絵には衝撃がいかないように、庇った彼は強かに地面に身体を叩き付けた。
 
「すみま、せん……琴絵さん」

 謝罪を述べて背中を振り返った恭也の眼に見えたのは、虚ろに微笑む琴絵の顔。
 彼女は最後の力を込めて、もはや僅かにしか映っていない恭也に―――口付けた。
 からからに渇いた唇。煤で汚れた琴絵の顔。それでも、彼女は何時も通りに美しく、恭也が愛して止まない尊敬し、敬愛する御神琴絵にしか見えなかった。
 恭也の初めての口付けは、甘い味わいではない。それは御神と不破という呪われた一族らしく―――血の味がした。
 ドクンっと恭也の心臓が波打った。本来ならば有り得ない、琴絵に残された最後の霊力、即ち命そのものを口付けを通して恭也へと流し込む。

 やめてください―――そう言いたかった。だが、言えなかった。
 口付けを通して伝わってくる琴絵の想いを無駄にできない。彼女が残された命を賭して、恭也へと乗り移った悪霊へと枷をつけようとしているのだ。
 パキリと恭也の深奥で音がする。彼の全身を覆っていた幾何学的な紋様が徐々に消えていく。
 あれほど明瞭に世界を呪っていた悪意の塊の意識が消えていった。そしてはっきりと理解する。自分の奥底に、底知れぬ悪意の結晶が封印されたということを。脳内に嫌というほど響き渡っていた暗い声が、断末魔をあげて沈んでいった。
 自分の力ではなく―――琴絵の最後の命の一滴を持って、大怨霊と呼ばれし悪夢は、深き眠りに誘われる。

 たっぷりと十数秒の口付けからようやく離れた琴絵は、恭也が知る限り最も美しい笑顔を浮かべて―――。

「……できれば、その世界に……私もいたかった……なぁ」

 トスっと、頼りない音をたてて琴絵は恭也へと倒れ掛かった。
 呼びかけようとする恭也だったが、琴絵の名前を口に出すことはできず―――もはや、それが無駄なのだと悟った。

「……ぁぁぁ」

 ミシリと骨がなるほどに強く琴絵の身体を抱きしめる。

「ぁぁぁぁぁぁぁぁあああ」

 世界が真っ赤に染まった。
 何時しか流していた涙には赤い血が混じり―――。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 そして世界は―――己自身を滅ぼすに至る剣鬼を創り出した。 
  
 
 
 




















「……こいつは、また凄まじいぜ」
「……」

 未だ白煙や煤が舞い飛ぶ御神の屋敷の跡地に黒陰と白陰の二人が辿り着いていた。
 先ほどあがった爆発音と衝撃は凄まじく、山の麓には近隣の住民が野次馬に集まっている。そのうちに警察もくるのは明らかなため、生き残っている人間を速やかに探索し、排除しなければならない。

 もはや門の役割を為していないその場所で、白陰は言葉では言い表せない不快感を隠し切れずに、近くに残っていた壁を蹴り砕く。蹴りつけられた壁はあっさりと粉々になり、飛び散っていった。
 それを見ていた黒陰は、ガシガシと坊主頭を掻きながら、白陰から離れていく。

「大将はそこで待っててくれや。俺が一通り見て回ってくるぜ」
「……ああ、頼む」

 片手をあげてヒラヒラと振っていた黒陰の姿が遠ざかっていき、やがて見えなくなった。
 それを見送った白陰は、陰鬱なため息をつく。何故こんなことになってしまったのか、と。

 白陰は二十年以上という長きに渡って龍という組織に身を置いている。
 この組織が出来たのは実はそれほど昔の話ではない。僅か二十年前に設立され、急拡大してきた闇組織だ。つまり、白陰は設立当初からの構成員でもある。
 昔はこんな組織ではなかった。確かに裏世界で生きる以上、真っ当な者達ではなかったが、それでもこれほどの悲劇を産み出してはきていなかった。
 理由は簡単だ。【龍】という組織は―――巨大になりすぎた。
 もはや形振り構っていられないというのが現状なのはよく理解している。
 だが、それでも―――。

「……胸糞、悪い」

 昔の龍ならともかく、今の龍では白陰のほうが少数派となってしまっている。
 こんな悲劇を、皆が皆受け入れてしまえるように、造りだしてしまえるほどに、龍という組織は狂い始めていた。
 普段あまり吸わない煙草を取り出すと、火をつけて煙を肺の中に満たし吐き出す。匂いが染みついてしまうため、暗殺者としては煙草を吸うのは愚かな行為としか言えない。
 だが、煙草や酒を飲んで気を紛らわせないとやってられない―――それが白陰の本心である。
 目の前で天へと立ち上っていく煙がゆらりと揺れた。何か空気が乱れる原因がそこに突如現れたのだ。
 白陰の視線のさき、琴絵を背負った恭也が頼りない足取りで白陰が立つ門へと近づいてきた。まだ十にも満たない恭也の姿に白陰は息をのむ。彼が身に纏う果てしない憎悪に言葉が一瞬詰まった。
 そして、自分達がその原因となったのだと、理解する。

「……貴方が、俺達の敵だということは、わかっています」
 
 どろりと圧倒的な殺意がこもった言葉が紡がれる。

「……一度だけでいいんです。一度だけ、見逃して下さい」

 その言葉を吐くのがどれだけ恭也にとって屈辱だったことか。
 御神の一族を壊滅させ、琴絵の命を奪ったであろう男に延命を請わねばならない。いっそ死んだ方がましだと思えるほどの屈辱だ。だが、それでも恭也は今ここで死ぬわけにはいかない。
 琴絵が命をかけて救ってくれたこの命、無駄に散らすことだけは許されない。琴絵の願い通り、この世界で生き続けなければならない。
 今ここで目の前の男に戦いを挑んだとしても、奇跡が起こらない限り―――いや、奇跡が起こったとしても勝ち目はない。それほどに白陰という男の力は今の恭也とは格が違った。
 恭也には到底わからないことであったが、白陰は龍の最高戦力に数えられる一人。六色と呼ばれる龍の中でも指折りの怪物達が集まる暗殺者―――最強の男。
 純粋な戦闘という行為だけで考えるならば、劉雷考と唯一まともに渡り合える戦士だった。その力は幼い恭也がどう足掻いても届くものではなく、かすり傷一つ負わすこともできないだろう。
 そして恭也自身でもわかっていた。目の前の男が誰かも分からなかったが、その力量は少なく見積もって静馬や士郎クラスだということだけは朧気ながら感じ取ることができていた。

「……」

 白陰は何も言わない。何も言わずに―――門から離れ恭也へと背を向ける。その無言の背中は早く行けと語っているかのようだった。
 まさか本当に見逃してもらえるとは考えていなかったのか若干驚いた表情となった恭也だったが、それも一瞬。僅かに頭を下げて門を潜り、普段見慣れた長い石段へと足を踏み出した。 
 今にも崩れ落ちそうな足取りで、恭也は石段を下っていく。そんな幼き少年の後姿を背中で見送りながら、白陰は口を開いた。

「―――俺の名は白陰。【龍】という組織に所属する者であり、この悲劇を生み出した張本人でもある」

 ぴたりと恭也の足が止まる。

「俺が憎いだろう。殺したいと思うだろう。ならば生きろ、少年。その胸に抱いた憎悪を糧として、泥水を啜ろうが、血肉を喰らおうが生き抜くんだ。そして何時の日か―――俺の前に再び現れてみせろ」

 白陰は恭也にそれだけ告げると、新しい煙草を取り出し火をつける。
 口にくわえたその瞬間―――。

「―――恭也。俺の名前は不破恭也。覚えて置いてください。それが遠き未来貴方を殺すことになる俺の名です」
「ああ、覚えておこう」

 今にも爆発しそうな殺意を押し殺し、恭也は階段を下っていき、やがてその小さな背中は白陰の視界から完全に消え失せた。後悔。無念。罪悪感。未だ人を殺す時に感じる数多の感情を胸に秘め、白陰は深い深いため息をつく。

「いいのかよ、大将。【アレ】は多分将来とんでもねえ怪物になるぜ」
「―――ああ、だろうな」

 何時からそこにいたのか不明だが、生き残りを探しに行っていた黒陰が姿を現す。そして既に姿も見えなくなっている恭也が歩み去っていた方向を薄目で見つめた。
 現時点では取るに足らない幼い子供でしかない。だが黒陰が言葉に出したとおり、それは確定事項だった。不破恭也という少年が成長すれば確実に、間違いなく、自分達でも手に負えぬほどの怪物に成長する。二人はそれを確信していた。

「しかし、あんたも貧乏くじをひくなぁ。爆弾ぶっぱなしたのも、この作戦考えたのも、劉の野郎なのによ」
「……ああ。だが、それを止められなかったんだ。ならば所詮俺もあいつと同じ【龍】の一員。罪は一緒だ」
「で、あのガキんちょに自分を憎ませて、少しでも生きる希望を持たせようって腹かい?」
「―――なんのことだ?」
「へいへい、そういうことにしておくぜ。あんたもあのガキと同じくらいの娘さんがいるしな」

 白陰は吸っていた煙草を地面に落とすと、足で踏み躙って煙を消す。

「このことを【上】に報告するか?」
「さぁ、なんのことかね。俺は生き残りがいないか見回ってきたけど―――誰もいなかったぜ?」
「……すまん。恩にきる」

 軽く頭をさげて感謝をのべる白陰に、黒陰はカカっと笑った。
 笑いながら心の中で、目の前の測り知れない怪物の甘さに嘆息する。黒陰も白陰とは数年来の付き合いだが、彼は冷酷になれ切れない甘さがある。優しさではなく、甘さ。女子供を殺せないという、それは決定的な弱点ともいえるかもしれない。裏の世界の住人でありながら。そのため他の龍のメンバーには軽く見られがちだが―――。

「―――俺はそんな甘ちゃんな大将が好きなんだがね」

 黒陰の独り言は、白陰に聞こえることなく消えていった。














 一方その頃息絶えた琴絵の亡骸を背負い階段を一歩ずつふらつきながら降りていく恭也の息が激しく乱れていた。
 例え爆発の殆どを琴絵が防いでいたとはいえ、幾らかは恭也の身体にダメージを残しているのは当然であり、幼い恭也が琴絵を背負い、ここまで歩いてきたこと事態が信じられない。
 これだけの爆発なのだ。病院へ向かっていた士郎もすぐに気づいて駆けつけてくれるはず。ならばそれまでは気を失うわけには行かないと靄がかかっている頭で考えながら、ゆっくりと足を踏み出す。

「いやぁ、これはラッキーだね。あの忌々しい馬鹿を追い落とす良い報告が出来そうだ」

 一瞬で背筋が凍る。吐き気を催す邪悪な匂い。
 血臭を漂わせながら、階段の両脇に生えそびえる木々の一本の裏手から一人のスーツ姿の男が恭也の前へと歩み出てきた。
 肺を直接握り締められたかのような、死の予感。自分はこのままではここで確実に死ぬという第六感が最大限のアラームを鳴らしたてている。
 今の恭也では到底及ばぬ戦闘者。白陰と名乗った男とは格が下がる相手とはいえ、どうしようもない程の戦力差を叩き込んでくる人殺しの眼をした怪物が目の前にいた。

「生き残りは殺す。命令一つ出来ないとはねぇ、あのおっさん」

 下がってもいないサングラスに人差し指をあて、くいっとあげると、恭也を馬鹿にしたかのような嘲りの笑みを浮かべる。
 油断している男を見た恭也の思考は速かった。今にも気絶しそうな靄がかった頭とは真逆で、どうすればこの場を乗り切れるかを考える。琴絵を背負っている以上逃走は不可能。ならば、この場で倒すしかない。白陰と名乗った男とは異なり、恭也の目の前にいるスーツ姿の男は間違いなく見逃すことはないだろう。
 纏っている雰囲気、臭い、言葉遣い。それら全てが例え子供だろうが容赦なく殺すことを雄弁に伝えてきた。

 琴絵を地面に降ろすことに一瞬の躊躇いを感じるも、もはや迷っている暇はない。
 全力全速で目の前の男を打倒せねばならない。覚悟を決めた恭也が行動を起こそうとしたその時―――。
 

「―――ねぇ、おじさん」
「っな!?」

 スーツ姿の男が突如背後から聞こえた声に慌てて振り向く。
 するとそこに、木々に隠れるように恭也よりもさらに小さな少女が、二人を見ていた。精々が四、五歳程度。美由希と同じか少し幼いくらいだろうか。
 そんな少女の姿に、安心したのか男は冷静さを取り戻しつつ、少女の方向に歩こうとして―――。

 天から男の存在そのものを叩きつぶさんと降りかかってくる、絶望的な殺気に全身を強ばらせた。
 恭也が男に感じた圧迫感を遥かに凌駕する、得体のしれない重圧。肺の中の空気が強制的に搾り出される。あまりのプレッシャーに呼吸困難に陥るかと勘違いするほどに、その気当たりは凄まじいものだった。
 その殺気の重圧を浴びて焦っている男とは異なり、恭也は安堵の息を吐く。この桁外れな気配には心当たりがあったのだ。まさかとは考えたが、これほどの気配を放つことができるるものは恭也が知る限りただ一人。

「おい、テメェ。何俺の弟子に手を出そうとしてやがる?」

 石段が爆発。その原因は、恭也と男の死角に回っていた人影が地面を蹴りつけた結果だ。 
 黒い殺気をばら撒いていた人影は、恭也には視認も許さないほどの動きで、背後から身体ごと叩き付ける刺突を放つ。
 空気を貫く音が耳鳴りとなって残る。仮にも強者の佇まいをみせつけていた男にも反応をさせず、人影の小太刀は男の胸を容赦なく抉り貫き、そのままの勢いを殺さずに木々へと叩きつけられる。
 胸を貫かれ、木に縫い付けられる形となった男は、何が起こったのかと必死で顔を背後に向けようとして、自分を殺そうとしている人物を確認する間もなく―――抜き放たれたもう一方の小太刀で喉を薙ぎ払われ、絶命した。

 地面を鮮血で濡らし、血の池を作り出す原因となった男は力なく倒れ、自分が生み出した赤色の水溜りにビチャリと音をたてて倒れふす。仮にも六色に数えられ、赤陰の名を戴いていた男を瞬殺。
 幾ら不意をついたとはいえ、瞬きする一瞬で、恭也の前にいた絶望の戦士を屠って見せた剣士。
 それは―――。

「ちっ……あのジジイども。俺の忠告の手紙無視しまくってやがったな、くそが」

 跡形もなくなった山の中腹にある御神の跡地を不機嫌そうに眺めながら、御神相馬は吐き捨てるように、そう言った。
 御神家を追放されて以来、大陸へと渡った相馬は龍という組織が不穏な動きをしていると耳にし、探ってみれば狙いは御神の一族だと知った。今更御神の一族に関わり合いになる気もなかったが、相馬とて幾人かは気にかかる知り合いも御神家には存在したのもまた事実。
 言葉に出したとおり、御神家に何度か龍に気をつけるように手紙を送っていたのだが、それらは全て【上】の人間によって握りつぶされていたのだろう。
 恐らくはそうなることを予想して駆けつけた相馬だったが、それは一足遅い結果となった。
 ちらりと消滅した屋敷から恭也へと視線を移す。既に息絶えている琴絵を背負い、ぼろぼろの姿の恭也を見れば、御神の一族がどうなったのかは簡単に想像がついた。

 命の危険が去り、相馬と出会えたことにより張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、恭也の膝がガクンと揺れ、崩れ落ちる。そのまま階段を転げ落ちそうになったところを、相馬が片腕で小さな身体を受け止める。
 
「……お前にしては、上出来だ。よく頑張ったな、馬鹿弟子が」

 乱暴に聞こえる台詞だったが、僅かに込められた優しさは確かに恭也の耳へと届き―――。
 それを最後に恭也の意識は闇へと沈んでいった。どことなく安堵を浮かべて気を失っている恭也の顔を見上げるように、離れた場所にいた少女がスキップを踏むように近づいてくる。
 相馬が人を惨殺した光景を見ながら、少女はそれに全く忌避感を覚えていないのか、天真爛漫な笑顔だった。それが奇妙なほどに場違いな印象を与えてきた。

「ねぇねぇ、おとーさま。このおにーちゃんが、不破恭也くん?」
「ん、ああ。そうだ」
「へぇ~、ふんふん。そうなんだぁ」

 少女は恭也の顔をじっと見つめていたが、チョンチョンと人差し指で彼の頬を突っついた。
 ぷにょっとした触感が指を通して伝わってくる。

「なんか、どきどきしちゃうかも」
「あん?何か言ったか、【宴】?」
「なんでもないよーおとーさま」

 自分にしか聞こえない程度の声量の発言だったため、相馬には聞こえていなかったのだが、それが正解だっただろう。もし、相馬に聞こえていたら親馬鹿な彼は気を失っている恭也をたたき起こしたに違いない。

「とりあえず、ここから離れるぞ。上の方向にもう二人ばかりいるが、こいつらは少々厄介だ」
「おとーさまがそんな事言うなんて、もしかしてけっこー強い?」
「一人はどうとでもなる相手だがな。もう一人が、よくわからん」
「ふぅん」

 どことなく緊張した様子を見せる相馬に、宴と呼ばれた幼い少女は興味深そうに彼の視線を追う。
 まだ数年しか生を受けていない宴ではあるが、常に父は彼女にとっての最強の剣士だった。如何なる敵も容易く退け、どれだけの人数の敵も彼の進撃を止めることはできず。
 そんな父が、言葉を濁す。それほどの敵がいるのかと、きらきらと瞳を輝かせた。

「まぁ、とりあえず今のところは退くぞ。恭也とお前を庇いながら戦える敵じゃないしな、少なくとも」
「はいはーい」

 恭也を片手で抱え、琴絵を背中に担ぐと相馬は、可愛らしく返事をした宴を引き連れて木々が鬱蒼と茂る横手の森へと姿を消していった。



  















 御神本家が爆破される時間をほんの少しだけ遡る。
 御神美沙斗は酷い熱をだしている美由希を背中に担ぎ、街の外れにある個人の病院へ到着していた。
 この病院の院長には随分と昔から御神の一族はかかり付けの医師としてお世話になっている。つまりは御神家の事情も少なからず知っている相手でもある。仕事柄銃傷や刀傷が多い御神家が通常の病院でお世話になれば、確実に警察に連絡されてしまう。警察内部や政治家とも付き合いがあるため、もみ消すことは容易いのだが、そんなことで一々世話をかけるわけにもいかない。
 そのため事情を知っているこの病院は非常に重宝しているというわけだ。

 病院自体はそう大きいというわけでもない。一階建てで、医師も院長である七十近い御老人と、その息子の二人だけ。そして看護師として数名いる程度の個人病院だ。
 街の殆どの住民は、中心にある市立の大きな病院へ行くためここは大抵込んでおらず、すぐに診察して貰えるという利点もある。
 ちなみに御神の屋敷がある山から降りたところで士郎と合流したのだが、恐らくは大激怒している美影の怒りを治める為に、何か土産を買おうと途中で別れてしまったため、後で合流予定となっている。本来なら士郎の買い物に付き合おうとも思ったのだが、高熱のため美由希の意識が朦朧としており、先に病院へと行くことにしたのだ。
 相変わらずのマイペースな兄に苦笑しつつ、美沙斗が病院の入り口の扉に手をかけ押し開けようとした瞬間―――言いようのない悪寒に襲われた。

「う、うわぁああああああああああああ!!」

 扉が開いたその時を狙って、一人の見知らぬ男性が鉄パイプを美沙斗に向かってふりおろしてくる。狙いは頭。死ぬのを承知で頭を狙ってきている割には、どこか力を抜いており、美沙斗を殺すということを躊躇っているようにも見える。
 突然の凶行ではあったが、はっきり言って美沙斗からしてみれば自分に襲い掛かってきている男は素人も良いところ。眼をつぶってでも避けられる自信がある。それくらいの攻撃だった。

 軽く上体を反らすと、目の前を鉄パイプが通り過ぎ、ガンっと地面に叩きつけられ激しい音が響く。
 その衝撃に手が痺れたのか、顔を顰めたが、自分を冷たく見据える美沙斗に脅えつつも、鉄パイプを再度振り上げようとする。しかし、まさか二度目を許すわけもなく、美沙斗は鉄パイプを踏み相手の攻撃を妨害しつつ、顎に向けて掌打を打ち込んだ。
 徹を込めていない、ある意味容赦をした打撃で脳を揺らされた男は力なくその場に倒れ、ピクピクと小さく痙攣を繰り返す。そんな男の様子を窺いながらも、美沙斗は首を捻る。
 
 確かに職業柄恨みを買うことは数多い。
 しかし、こんな素人同然の相手をヒットマンとして送り込んでくる相手に心当たりが全く思いつかない。
 素人の振りをしているのではなく、間違いなく素人だ。そこらの一般人と全く一緒なのだ。武道の経験もなにもない。平和に生きているただの人間だ。
 
「あーあ。そいつはゲームオーバーだな」

 病院の中から聞こえた、暗い声。この世の全てを嘲笑する狂人のどこか楽しそうな声が廊下に響き渡る。
 人も、神も、世界も、何もかも。全てを下らないと言い捨ててしまう、奪うことだけを生き甲斐とした怪物が美沙斗の視線の先、廊下の暗がりから歩み出てきた。
 全身のあらゆる毛が逆立つ。これまで感じてきた脅威を遥かに超える、人の姿をした獣。心臓を直接触られているかのような圧迫感。強いのではなく、怖い。とっくの昔に忘れた恐怖という感情を問答無用で沸き立たせてくる人間―――いや、本当に人間なのかと美沙斗は自問自答した。それほどに可笑しい。こんな明確な負の感情のみで成立している存在を、彼女とて初めて見た。

 黒スーツ姿のサングラス。肩まで伸ばした長髪。
 両手をズボンのポケットに仕舞い、悪意に塗れた笑みを浮かべて―――龍の最強戦力、劉雷考がそこにいた。
 くひっと不気味な笑い声が美沙斗の耳を打った瞬間、美沙斗の本能が雄叫びをあげる。その場から今すぐ離れろと、かつてない大音量で注意の喚声をあげた。
 それに従い即座に後方へと跳び下がる。それと時を同じくして、美沙斗の本能を刺激した正体が判明した。
 彼女の目を焼くように膨れ上がる閃光と爆発。倒れていた男が【弾ける】。丁度人間一人を破壊する程度に抑えた火力が、男の身体を四散させた。激しい音をあげて飛び散った腕や手。そしてそれ以外の人体の肉片。
 そのおぞましさに、薄ら寒いものを美沙斗は感じた。

「お、そいつは当たりだったみたいだな。運が良いじゃねぇか、お前さん」

 ポケットから取り出した何やらリモコンらしき物体を片手で弄くりながら劉は、けたけたと笑っていた。
 目の前で人が一人弾け跳んだというのに、彼は全く気にも留めていない。まるで虫けらを一体踏み潰した。それくらいの認識しか抱いていないように、美沙斗には思えた。

「……何を、お前は、何をした?」
「くひっひっひ。【ゲーム】だよ、ゲーム。その死んじまった男はゲームオーバーになったのさ」

 美沙斗の問いに、答えになっていない返答をしながら劉は、足元に転がっていた男の眼球を踏み潰す。
 
「これからお前さんの前に十五人の【敵】が現れる。っと、一人死んだから残りは十四人か。そいつらの身体にはちょっとした爆弾が取り付けられていてな。爆発する条件は気絶した時か、身動きが取れなくなった時。解放される条件は簡単なことだ―――そいつらが自分の手で御神美沙斗と御神美由希を殺すこと」
「―――っ!!」

 笑う。哂う。嗤う。
 劉雷考は嘲笑する。

「お前さんが勝ち残る条件は簡単だ。残りの十四人をぶち殺せば良いだけだ。安心して良いぜ? 敵はそこらの民家から適当に見繕った一般人だ。武器は自由に持たせているが、幾らガキ一人担いでいても、それくらいわけねーだろ?」

 劉は語る。美沙斗の敵は自分の部下ではないと。
 この街に暮らし、裏の世界と何の関わりも持っていないただの一般人であると。
 そんな人間達を十四人殺すことが、この【ゲーム】で美沙斗の勝ち残る条件だということを、劉は楽しそうに語ってくる。

「ああ、殺さない程度、ってのはやめたほうが良いぜ? もしそういった状況になったなら俺は遠慮なく強制的に爆発させる。ちなみに破壊力は大小様々だ。いまさっきの爆発程度のもあれば、倍以上の火力のもある。つまり、お前さんごとボカンってなっちまう可能性もあるってわけだ」 
  
 そして、リモコンを弄くりながら付け足すように劉は述べる。
 お前には相手を殺すことしか取れる手段はもはやないのだ、と。

「俺を狙っても構わないけどな。ただ、そのガキを庇いながら俺を倒せると思うのならば―――いいぜ、相手をしてやる。ただし、逃走の選択肢だけは認めない。もしそれを取ったら、即座にボカンだ」

 サングラスの下に隠された瞳がぬらりと光る。
 彼の瞳の光は、自分に挑んで来いと、そして逃走だけは許さないと無言で語っているかのようだった。もし美沙斗が逃走の動きを少しでも見せようとしたならば、言葉通りの結果になるだろう。距離的に劉自身も巻き込まれるが、彼は自分自身のことは気にも留めない。劉雷考とはそういった人間なのだと身体全体が伝えてきた。
 美沙斗は冷静に自分と劉雷考の実力を比較する。はっきりいって底が知れず、まともにやりあっても勝てるかどうかは確信が持てない。最低でも士郎が傍に居たならばその方法も取れたかもしれない。しかし、現実には士郎はいないわけで―――取れる手段ではない。

 迷っている美沙斗の背後から近づいてくる気配。
 息を殺して近づいてくるだけで、気配を消すといった様子も見られない、素人同然の者達が複数人寄ってくる。
 そのうちの一つが意を決して美沙斗へと飛び掛ってきた。ジャリっと地面の砂を踏む音が聞こえ、やはり躊躇いつつも振り下ろされる木刀。
 身体を開き、容易くかわした美沙斗の眼に映るのは、目に涙を浮かべながら攻撃してきた女性の姿だった。

「ああ、それと助けがくることは期待しないほうがいい。ここら一帯の住人は皆殺しにしておいたからな。ついでに、お前さんの関係者もここにくるまでには相当時間が必要だぜ? 俺様の部下が三人で足止めしているところさ。んで、勝者に与えられる賞品は【自由】だ。ようするに、爆弾を仕掛けられてる奴らがお前さんを殺すことができれば命を拾うことができ、お前さんが勝てば見逃してやる」

 恐らくは人を殺す現場を見物させていたのだろう。美沙斗を狙っている人間達に命令を聞かせるために、目の前でこの男は、この者達の家族を惨殺したのだ。
 吐き気すら催す邪悪な行動をゲームだと言い切る異常性。出来ることならば、この手で目の前の狂人を殺してやりたい。美沙斗は切にそう願った。
 それでも、それを叶えることはできない。楽しそうに嗤っている劉ではあるが、美沙斗の一挙手一投足を見逃さないように凝視している。恐らくは一歩でも劉の方向へと足を踏み出せば、何の躊躇もなく彼は美沙斗を殺そうとするはずだ。そして美沙斗の死はイコール美由希の死でもある。
 本当ならば無駄に命を奪いたくない。劉にいいように操られているだけの人達を斬ることは心が痛む。
 だが美由希だけは命に代えても守らなければならない。そう、例えこの両の手が一般人の血に塗れたのだとしても―――。

 覚悟を決めた美沙斗の意識が刃物のように鋭くなる。
 彼女とて不破の一族。不破宗家の長女にして、稀代の天才と称された女性。
 人を傷つけることを好まない美沙斗ではあるが、その本性もまた―――人斬り。自分だけならばいざ知らず、己の愛娘と他人を天秤にかけたならば、美由希に傾くのも道理。

 チンっと鯉口が斬られる音が耳に響く。
 片手は背負った美由希を支えるために使用しているため、自由に使えるのは右手しかない。
 しかし、彼女にとってはそれで十分すぎる。例え片手しか使えずとも、美由希を背負っていたとしても、一般人に敗北する御神美沙斗ではない。
 木刀を振り下ろしてきた女性の胸を一突き。抜くと同時に赤い華が咲き、女性は地面に倒れ痙攣した。
 
 一切の容赦も何もない美沙斗の様子に、残された十二人は脅えたように後ずさる。
 それも僅かな時で、劉が楽しげに弄ぶリモコンを見た途端、各自雄叫びをあげながら美沙斗へと突撃していく。
 連携も取らずに、いや取れずに襲い掛かってくる老若男女。街の住人とはいえ、顔見知りがいないことに内心でほっとしながら美沙斗は心を鬼として小太刀を振るい続ける。
 情けをかけるわけにもいかない。下手に情けをかけては逆に苦しみ、生きながらえる。それに動けなくなった者には劉は容赦しないのは明らかだ。先程の男性に対しても、何の迷いもなく爆弾を発動させた。美沙斗へのデモンストレーションの意味合いも兼ねてかもしれないが、彼は美沙斗が殺すことを躊躇ったその瞬間、スイッチを押して爆弾を起動させるだろう。

 歯を食いしばり、美沙斗は手から伝わってくる嫌な感触を耐え忍び、自分に襲い掛かってくる相手を最低限の斬撃でしとめ続ける。目の前で行われる殺戮劇に、ある者は涙を流し、ある者は脅え、ある者は怒りに身を任せて襲い掛かってきた。
 残酷に見えるかもしれないが、美沙斗の一撃一撃が必殺。痛みを感じる間もなく、彼らを涅槃へと導いている。
 心を鬼にして、人を斬り続ける彼女の姿に、劉は大層興味深げな視線を送り続けた。
 目の前で幾つもの命が散り、消え去っていく死の舞台。そこで行われる死の演舞に、心を躍らせるのは劉雷考ただ一人。
  
 彼の前で行われた殺戮劇は最初から筋書きが決まっていたかのように、至極簡単に幕を閉じた。
 それはあまりにも当然の結果だ。御神美沙斗が負けるという結果などありえないし、ありはしない。
 血に塗れ、数多の死体を生み出した彼女は、頬についた血を袖で拭い去る。美沙斗の周囲には十四の死体。そのどれもが一ミリのズレもない急所への攻撃。我が子を背負い、小太刀を握るその姿は鬼子母神と見間違えんばかりの様相であった。

「く、へっへっへっへ。こいつはすげぇ。僅かな躊躇いもなく、皆殺しにしやがった。もうちょっと悩む姿を見れると思ったんだが、あてが外れたな」

 そんな美沙斗を前にして、劉はパチパチと拍手を送る。
 凄惨ともいえる美沙斗の姿。そして、彼女が放つ剣気。それらを真っ向から受けても、何の変化もみられない。

「……【ゲーム】は、私の勝ち、だね」

 十四人もの人数を斬り殺し、命を奪った行いをゲームと言い捨てるのには躊躇いがある。腸が煮えくり返るほどの激情を表には出さずに必死になって、冷徹な仮面を被り演技する。こういった類の輩は、怒りに身を任せ糾弾すればするほどに相手を喜ばせる結果になるのだと、直感的に理解していたからだ。
 そんな葛藤を見抜いているのか、劉は美沙斗の様子に満足しているのか、台詞とは裏腹に楽しげな姿を崩すことは微塵もない。

「おいおい、まだ終わってないぞ? お前さんが斬った人数を数えてみろよ。十四人しかいねーだろ? 俺は開始する前に言ったよな―――十五人だって」

 よりいっそう笑みを濃くした劉が右側へと一歩身体をずらすと、その背後から一人の初老の女性が現れた。
 白いナース服を着た女性。この病院でもう数十年も働いている看護師でもあり、美沙斗が幼い頃から世話になっている人間。そして、美由希が産まれる際に立ち合ってもらったこともあり、病院へ訪れる度に優しくしてもらっている美由希が大層懐いている人物でもあった。
 
 これまでの見知らぬ人間とは違い、大恩ある人物の登場に息を呑む。
 知らず知らずのうちに、小太刀を握る手が震えていた。如何なる相手も切り伏せる心に決めた美沙斗ではあったが、こうして親しき者を前にすれば、その決意も揺らぐ。

「御神、さん……」

 初老の女性―――美沙斗は森と呼ぶ彼女は、どこか達観した表情を浮かべている。
 彼女は御神家と古い付き合いなだけあって、どういった一族なのかを知っている数少ない人間だった。しかし、頭では理解していたつもりだったが、目の前の殺戮劇を目の当たりにして、自分が生活してきた日常の裏側でこのようなことが容易く起こるのだと、本当の意味で理解することがようやくできた。

「―――っ」

 巻き込んで申し訳ありませんっと口にだそうとして喉でそれが凍り付く。美沙斗が何を言おうとしたのか分かったのか、首を無言で横に振ったからだ。
 美沙斗が斬り殺した十四人とは違い、彼女の顔には恨みもなにもない。決して今の状況を理解出来ていないわけではない。理解していながら、受け入れている。

「―――私は、もう十分生きました。生に未練はないと言えば嘘になりますが、それでも貴女や美由希ちゃんをこの手で殺めてまでしがみつこうと思えません」

 どこか諦めたかのように、彼女は深いため息をつく。
 彼女が語る言葉に嘘はない。出来ることならばもっと生きたい。死を好む人間などそうはいないのが当然だ。だが、目の前で行われた殺戮劇を目の当たりにしてしまった以上、自分が生き残る術はないのだと直感が囁いている。
 そして、後半も事実である。長年の付き合いである美沙斗や、赤ん坊の頃からの自分の孫同然の美由希をこの手で殺める覚悟も彼女には持つことはできない。
 もはやどう足掻いても命を長らえることはできないのは分かりきっている。後は、自分がどう死ぬかだけだ。
 美沙斗に殺して貰う―――そうするのが正しいのかもしれない。
 しかし、森は知っている。御神美沙斗の優しさを。彼女が好んで人を斬る人間ではないことを。
 美由希を救うために手を汚した。もしも彼女一人だけだったならば、他の手段を取ることもできたはずだ。
 そんな御神美沙斗にこれ以上苦しい思いをさせてなるものかと、彼女は精一杯の勇気を振り絞り―――。

 ―――自分の手に持っていたナイフを己の胸へと突き立てた。

 生々しい触感が手に伝わる。
 鋭い痛みが全身を支配していく。ナイフを伝い、滴り落ちていく赤い鮮血。ポタリポタリと、小さな音をたてた。痛みに我慢できずに両膝から地面へと崩れ落ちる。
 その光景に眼を見開いたのは美沙斗と劉の両者であった。まさか自殺をするとは思っていなかった劉と、森の胸に秘めた悲壮な覚悟を汲み取った美沙斗。両者に違いはあれど、初老の女性の覚悟は、この場に残されていた二人を驚かせるに十二分に値するものだったのだ。

 劉に注意を払いつつも、慌てて森に駆け寄る美沙斗。倒れそうになる彼女を片腕で支え、顔を覗き込む。
 意識が朦朧としている森が何かを語ろうと口を開くが、動くのは唇のみ。喉はかすれ、言葉となることなくヒューヒューと空気に消えていく。
 彼女が取った行動は自分の胸にナイフで突き刺すといった自殺。だが、それには後もう少しだけ力が足りなかった。幾ら自殺の覚悟を決めたとしても、何の躊躇いもなく己の胸にナイフを通すことが出来る人間は一握りだ。
 僅かに生へと縋る彼女の気持ちが、躊躇いを生み、生きながらえる時間を長引かせている。腕の中で痛みで震える彼女の虚ろな瞳が無言で語っていた。その痛みを、絶望を。苦しみを。
 
 美沙斗の歯が唇を噛み締める。ぶちりと何かを突き破る音が脳内に響き、血の味が口の中に広がる。
 彼女を苦しみから解き放つ方法を、頭では分かっていた。それを実行できるのか―――自分達のために死を選んだ尊敬すべき相手に対して、小太刀を振るう事ができるのか。
 いや違う、と美沙斗は首を小さく振る。それは逆だ。そんな相手だからこそ、これ以上苦しめたくはない。せめて自分に出来ることを為すべきだと、美沙斗もまた覚悟を決めた。

 こふりと咳き込み、血を吐いた森を腕に抱き、美沙斗は小太刀を振り上げる。
 そんな美沙斗の姿を霞む視界に映した森はどこか感謝の表情を浮かべ―――。

 小太刀が肉を断つ音がもう一度。パシャっと鮮血が舞い散った。
 血の華が、もう一度だけ咲き乱れ、この空間で息をしているのは三人だけとなる。
 もはや息せぬ骸となった森を地面におろし、絶対零度を思わせる瞳が劉を貫く。今までの比ではない、本物の人斬りの威圧感を滲ませ、御神美沙斗はゆらりと立ち上がった。

「―――いやはや、こいつはおもしれぇ。俺が想像していた流れとは随分と離れちまったが、これはこれでありといえばありか。なかなか見られる光景でもねーしな」

 ガシガシと頭を掻きながら、劉は地面に寝かされている森を一瞥。
 手に持っていたリモコンを背後へと投げ捨てる。放物線を描き、病院の廊下へと転がり落ちたリモコンは、軽い金属音をあげて二、三度床を転がっていき止った。

「まぁ、【ゲーム】は終了だな。そこそこは楽しめた。お前さんはもう帰って良いぜ?」

 しっしと猫や犬を追い払うような仕草で美沙斗に対して手を振るう。
 まさか本当に見逃してもらえるとは思っていなかった美沙斗は、劉を油断なく見据えたまま後退しようとして―――背中に感じていた重さが突如消失した。

「後は【親子】仲良く語ってくれよ―――もっとも、そのガキが見た光景をどう思うかはしらねーけどな」

 美沙斗が背後を振り向いた先―――地面に座り込み、呆然と自分の母を見つめる御神美由希の姿があった。
 嫌でも鼻につく血臭。むせ返る様な死の香り。周囲を埋め尽くすのは数多の死体。そして美由希の瞳は、美沙斗と森の遺体を交互に捉えていた。
   
「―――み、みゆき」

 震える声で自分の娘に呼びかけながら、手を伸ばす。血に塗れた、腕で。
 美由希は自分へと向かって伸ばされた母の手を見て―――。

「―――ひぅ」
 
 明らかに脅えが混じった声をあげた。
 地面に座り込んだまま、母から遠ざかるように這いずりながら遠ざかろうとしている。
 高熱で朦朧とする意識の中で、美由希は見てしまったのだ。母が人を惨殺する姿を。何の躊躇もなく人を斬り捨てて行く姿を。そして、無常にも優しい森という看護師に小太刀を振り下ろす姿を。
 幼い美由希にはこの場で起こった全てを理解することはできず、ただ母が多くの人間を殺したという光景だけが深く心に刻まれてしまった。

 自分を恐怖している美由希に、ピタリと美沙斗の手が止まる。
 途中で止まった手は行き場をなくし、空を頼りなく握り締め、力なく手元へと戻ってきた。

「く―――くひっひっひっひっひっひ!! いいな、その顔!! その絶望!! やっぱり、その表情が一番そそる!! それこそゲームをしたかいがあったってもんだ!!」

 両者の姿に、腹を抱えて嘲笑するのは劉雷考。
 これ以上ないほどに、顔を醜く歪ませ、嘲笑う。娘を守る一身で己の手を汚した美沙斗の献身の姿に対して、ただぶるぶると身体を震わせ恐怖している幼き美由希。そんな光景がたまらないと、劉は大口を開けて狂ったように哂い続ける。
 鼓膜を破らんばかりにねちゃねちゃと纏わり突く狂気の声に、美沙斗がついにその笑い声を消し去ろうとするかのごとく、両手を振り払った。

「―――なんだ、お前は!! お前は、お前は、お前は―――鬼め!! 悪魔め!!」

 怒りが限界を突破し、もはや言葉にはならぬ激情が口からとび出す。
 一体何のために目の前の怪物は、こんなゲームなどというものを行ったのか。それはきっと、損得勘定抜きで―――ただ、やりたいからやった。きっと彼はその程度の考えしかもっていない。面白そうだからといったとんでもない理由で、絶望を撒き散らした。やはり劉雷考という人間は、人から奪うことだけを楽しみに生きている。
 もはやこの男は人間ではない。人間がこんなことをするはずがない。

「……はぁ? 何言ってるんだ、お前さん?」

 はぁはぁっと哂い過ぎて腹が痛いのか、腹部を押さえながら劉は目元に浮かんだ涙を指ですくう。
 美沙斗の罵倒に首を傾げる。まるでそれが見当違いの指摘だったかのように。

「俺が鬼? 悪魔? 違うだろーが。鬼が、悪魔がこんなまどろっこしいことするか? こんなひでーことをするのか? 違うね。【人間】だからこそ、こんなことができるんだろうが。【人間】だからこそ、どこまでも残酷に、どこまでも残虐に、同種族から奪いつくすことができるんだろ?」

 劉の嘲りに拳を力いっぱい握り締める。爪が皮膚を食い破り、血が滴り落ちた。
 お前も俺も人間なのだと、彼の笑みは語っていたる。そして、それを否定できない美沙斗。

「それじゃあ、また楽しませてくれよ? 生きていたらの話だけどな」

 劉はポケットから新たに取り出したスイッチを押す。
 それを合図にしたかのように、地震が一瞬この一帯を激しく揺らした。美沙斗の耳にも届いた爆撃音。音の発生源の方向を見れば、白い煙が幾つもあがっていた。
 その方向は、嫌になるほどに見覚えがある場所で―――。

 詰問しようと視線を劉に戻すも、既に彼の姿は跡形もなく消え失せていた。だが、彼の笑い声は耳に残り、すぐそばにいるかのような幻聴を残す。
 そして美沙斗は、士郎と合流するまで美由希をその手に抱くことはできなかった。
 御神本家の跡地を見た美沙斗は、己の娘を士郎に預け―――翌日姿を消す。後の世にて、黒鴉と呼ばれることになった修羅がこの日に産まれることになったのだった。
 
  
  














 時は現代にまで巻き戻り―――。


























 それほど広くない薄暗い部屋のソファーに劉雷考が腰をおろしていた。
 床は何やら書類で埋め尽くされており、足の踏み場もない。それ以外は生活感のない部屋で、ある物といえば冷蔵庫とテーブルくらいだった。テーブルの上にはノートパソコンが置かれており、それが部屋を照らす発光の源ともいえる。
 天井から吊り下げられている照明は消えてるものもあれば点滅しているものもあり、本来の意味を為していなかった。

 全身から気だるさを滲ませながらパソコンを弄っていた劉だったが、ある一通のメールに眼を通した途端、その気配は一変した。どこかやる気のなかった表情も喜びに満ち溢れ、今にも破裂せんばかりの狂気を滲まし始める。
 その時コンコンとドアがノックされ、劉の返事を待たずに一人の巨漢が部屋へと足を踏み入れてきた。開いた扉からは、廊下からの光が差し込み、一瞬だけ明るさを僅かに取り戻す。

 その巨漢―――白陰に対して劉は少しも興味を示すことはなく、パソコンにのみ意識を集中させていた。
 
「お前から言われていた任務のことで聞きたいことが幾つかあったんだが―――」
「ああ、それはもういい」
「なに?」
「上からの命令で、それは別の人間に回しておけってな。別の任務を今言い渡された所だ」

 訝しげに眉を顰めた白陰に、相変わらずカンに触る不気味な笑みを浮かべて―――。

「俺とお前達六色。それと俺の権限で動かせる構成員。後はこの二人を自由に使って、日本のある都市で行われるコンサートを妨害しろだってよ」

 この二人と言って、劉が指差したパソコンのモニターに映されている顔写真を見た白陰が、驚いたように眼を見開いた。
 白陰が知る限り、西洋で活動している龍の構成員の中でも最悪の二人。劉雷考と同じく、あまりにも常軌を逸した性格と能力のため、彼ら二人もまた龍の活動において自由な権限が与えられている。組織に害を与えないことに限られてはいるが。

「……ただのコンサートを潰すために、ここまで大掛かりな人手がいるのか?」
「さぁ? 上が何を考えているのかわからんけどな。まぁ、楽しませて貰おう」

 くっひっひっと哂う劉を目の前にして、白陰は新たに齎されることになる悲劇を思い描いて―――深いため息をついた。

























 ほぼ同時刻のイギリスにて―――。
 
 そこは古ぼけたバーの跡地だった。
 外見こそまだ古ぼけた程度で済むものであったが、内装は酷いものだ。
 ペンキが剥がれ、中のテーブルや椅子は壊れて使用することもできない。染みも多く見られ、まさに廃墟といったほうが正しいのかもしれない。
 だが、眼をひくのはそんな内装の酷さではない。壁一面に貼られた写真。いや、壁だけではなく床にも覆い尽くすように貼られていた。
 それは隠し撮りしたと一目でわかる写真ばかりで、真正面から取られたものは一つとしてなかった。中には合成写真だとはっきりとわかるできの、下着で映っている写真、裸体を晒している写真なども数多くある。

 その写真に写されているのは―――フィアッセ・クリステラ。

 写真に写されているフィアッセを眺めているのは一人の男。彼がいる空間で唯一壊れていない大きめの椅子に腰を深くおろしながら、視界一杯に広がっている彼女を愛おしそうに視線が捉えている。

「……時は満ちた。キミは十分に成熟した果実となったね、フィアッセ・クリステラ」

 爬虫類を思わせる舌が、ちろりと唇を舐める。
 男性の瞳に宿っているのはどうみても正常な感情ではなく、どこかが狂ってしまった歪な想い。

「今回の任務の報酬は、キミを自由にできる権利、か。ああ―――素晴らしい」

 先ほど自分宛に送られてきた、劉雷考からのメールを見た彼は既に正気を失っていた。
 長年蓄えてきた狂気が、ダムが決壊したかのように、解放されたのだ。

「―――キミと会うことが出来る日が、待ち遠しいよ」

 そして裏社会でも最悪の爆弾魔と怖れられる、通称【クレイジーボマー】が動き出す。
 






















 同時刻、ドイツ―――。

 人が寄り付かぬ辺境の果ての果て。人里はなれた、森のみが存在する大地。
 野生動物しか居ないと思われたその場所が、今は血と臓物に埋め尽くされ汚されていた。
 森が支配している場所から真逆の位置には見渡す限りが草原が広がっている。その一角に、小さな山が作り上げられていた。その山を支配するのは―――死体。

 人とは異なる異形の姿の怪物達が、無造作に積み上げられている。
 見る者が見れば一目でわかるが、そのどれもがたった一太刀で命を刈り取られていた。
 死体となった怪物達は、有象無象の魔の者ではない。彼らはアンチナンバーズでも三桁台に位置する者が殆どであり、中には二桁の怪物も含まれていた。
 それら合わせて軽く百を超える死体を生み出した張本人が、屍山血河の頂点に腰を下ろしている。

 月の光を全身に浴びながら、長身痩躯の青年が空を見上げていた。
 こんな死が充満する空間には不釣合いの、美青年だ。青みがかった綺麗な髪が、左目を覆い隠している。
 踏み台にしている死体に突き刺さっているのは巨大な両刃の大剣。その長さ、大きさは普通の人間がイメージしているそれを遥かに超えていた。成人男性の身長に近いほどの、凶器。見るだけで人を怖れさせる破滅の刃が月光を煌かせ、自分の存在を証明しようとしているかのようだった。
 
「―――つまらないな。やっぱり化け物は、つまらない」

 これだけの死を創造しながら、つまらないと語る青年は足元の死体を踏み躙る。
 そして、ゆっくりと立ち上がると死体に突き刺していた愛剣を片手で引き抜くと、一閃。刀身を濡らしていた血が宙に散って消えた。

「俺と戦える剣士。黒鴉―――お前と会えるのを楽しみにしているぞ?」

 どこまでも空虚な声が、剣に狂った怪物の口から放たれる。
 近代兵器が支配するこの時代。そんな現代においてなお、前時代の武器である剣を使用しあらゆる標的をしとめる暗殺者が二人居る。
 その名を東の刀鬼【黒鴉】と西の剣魔【スライサー】。
 あらゆる人も化け物も斬り殺し、断ち切る、人を超えた人。

 そのうちの一人。西の剣魔と称される怪物もまた―――動き出した。  






























-----------atogaki--------------

とらハ3のOVAが安く売ってたので買って視ましたが、懐かしくて面白かったです。
フィアッセルート in 劉雷考 六式 クレイジーボマー スライサー。

引越しの片付けをしてたら懐かしい同人ゲーがでてきました。
【どりる少女スパイラル那美】……知っている人はいるのだろうか? 
久々にやってみましたが、なかなか良いできの落ちゲーでした。



[30788] 間章6
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:636c9534
Date: 2013/02/21 22:12











 真っ暗な雲に覆われた夜空には星の瞬きも見えず、雲の切れ間からも今夜は月の光さえも差し込んでこない。
 人口の光がなければ、数メートル先も見通すことができない暗闇。人の本能に働きかけ、闇に対する恐怖を湧き起こさせる。中国のそれなりに名が知られている港町。その港は様々な大きさのコンテナによって視界が塞がれている。
 そんな空間を疾駆する一つの人影があった。このような場所にいるには相応しくない若い女性だ。黒一色の動きやすい服装で身を固めた、背中には十字に交差するように二振りの小太刀が挿してあった。
 彼女の名は不破撥。御神流【裏】に所属する、若き剣士。龍を滅ぼすために命を捧げている女性だ。かつて葛葉弘之を刺し貫いた時の狂気は今は見せず、脇目もふらずに走り続けていた。

「―――はぁ、はぁ、はぁ」

 全速でどれだけの距離を走ったのか、本人でも曖昧になっている。それほどの長い時間を、できるだけ遠くへと疾走しているところだった。
 その姿は誰が見てもわかるが、何かから逃げている。到底手に負えない強大な脅威から離れようとしている。そんな印象を受けただろう。
 そしてそれは事実だった。彼女を追跡している相手は―――怪物だ。憎むべき龍に在籍する相手。命を賭けて倒すべき怨敵ではあるが、戦えばどうしようもないほど無意味に殺される。
 そこまでの圧倒的な実力差を感じ取った撥は、無様と感じながらも逃走を図っているのだ。
 
 御神流【裏】の当面の目的は龍の壊滅。
 永前不動八門よりも先に、龍という組織を潰すことを目標としている。本来ならば相手取りやすい永前不動八門を先に潰す予定だったのだが、急遽変更となった。
 それは御神流【裏】の中でも大きな発言権を持つ、不破咲と一姫が決めたことだ。その二人に逆らえる人間は御神流【裏】にいるわけもない。強いて言うならば、不破和人と青子の二人ならば異を唱えることもできるが、その二人もあっさりと賛成したため、最初に叩き潰す組織は龍ということになったのだ。
 
 長い時間をかけて龍の情報を調べていたこともあり、この都市に龍の枝葉の一つとなる下部組織があるということは掴めていた。そこに奇襲をかけ、組織の人間を皆殺しにしたところまでは順調だった。だが、運命の悪戯か、悪魔の気紛れか―――この都市には一人の怪物が丁度運悪く訪れていたところだった。

 その怪物の名は―――劉雷考。
 御神流【裏】が最も殺すべき怨敵として狙っている相手でもあり、それと同時に最も注意をしている怪物でもある。
 龍の最強戦力と言われているのは伊達ではない。生半可な戦力では返り討ちにあうのは明白。そして、それは撥であっても例外ではなかった。
 ただひたすらに地面を蹴りつけ、空気をかきわけていく撥の脳裏に、数十分ほど前の会話が蘇る。


















「そしたら、龍の下部組織の【蛇】ば叩き潰しにいこうか」

 普通の家とは異なり、巨大な屋敷を囲むようにそびえたっている灰褐色の壁の前で緊張感なく不破一姫が背後に控えている多くの人間達に語りかけた。
 一姫の後ろには不破咲が無表情で立っており、その背後には男女が一人ずつ緊張感なく、背伸びをしているところだった。男は不破和人。そして女性の方は、和人とほぼ同じ身長で、黒髪のセミロング。挑戦的な釣り目が特徴だったが、顔には全くといって良いほど感情が浮かんではいない。不自然なほどに、彼女には感情というものが見受けられなかった。
 御神流【裏】で実力の順で数えるならば、一姫と咲に次ぐ実力者。神速の申し子とも呼ばれる女性。和人の双子の妹でもある不破青子だ。
 そのほかにも、不破六花や不破撥。それ以外の年若き剣士達も数多くその場にいた。

「ああ。一つだけ注意しておくことがあったとよ。もしも、六色とか呼ばれる変な奴らがでてきたら、必ず複数で戦うこと。よか?」

 コクリと全員が無言で頷く。

「咲さんと和人と青子はタイマンでもよかと思うとよ。それと最悪の事態も考えとくけど、六色でも、【白】の名を持つおっさんと劉雷考。こんどっちかと出くわしたら戦うことば考えんでもええから。とにかく逃げるよーに」

 そんな一姫の台詞にざわりと一瞬ざわめくも、反論の言葉は出なかった。
 一姫が言うことに間違いはない。つまり、彼女が名をだした二人には、自分達では到底及ばないということだ。腹が煮えくり返る思いではあるが、力が無いのだから反論をすることはできない。悔しければ更なる鍛錬を積み、強くなればいい。

「もし白陰と劉雷考のどっちかと遭遇したら必ずうちか咲さん、和人か青子に連絡ばするように。うちだったらタイマンでぶち殺すけど―――咲さん、和人、青子の三人は必ず二人以上で戦ってくれんね」

 彼女の念押しに空気が緊張していく。
 御神流【裏】の中でも飛びぬけた実力者である三人でさえも、二人がかりではないと戦ってはならないと一姫が語ったからだ。それほどに強いのかと、緊張で喉が渇いていく。

「まぁ、多分今日は会わなか。これから先、出会った時は絶対に約束ば守るよーに」

 全員が理解できたのを見渡して、不破一姫は―――。

「そしたら、皆殺しにしよーや」

 氷点下を思わせる微笑を浮かべ―――御神流【裏】が動き出す。

















 短い回想を終えた撥は、背後を気にしつつも足を止めることは無い。
 既に一姫には連絡済みで、兎に角自分が駆けつけるまで戦おうとせず、逃げに徹しろという有り難いお言葉を先ほど頂いたばかりだった。
 確かに真っ正面から戦いを挑んでいれば、今頃は敗北していたのは間違いない。ひたすら逃げているからこそ、命を繋いでいられるのだ。一姫が語った戦力の差は決して間違ってはいなかったのだ。
 潮くさい空気が鼻につく。暗い夜波がざぱんっと音を響かせた。
 その時、撥の本能が悲鳴をあげる。これ以上先に進むなと、足を止めろと。理由はわからなかったが、彼女はその場で急停止をする。戦いの中で磨き上げてきた勘を馬鹿にするべきではない。何度も命を救ってくれた、信じるに値するものだ。

 厚い暗い雲が一瞬切れ目を見せ、淡い月光が周囲を照らす。
 撥の随分と先のコンテナの上。二メートル程度の高さで腰をおろし、両足をぶらぶらと揺らしている人影。
 有り得ないと悲鳴をあげそうになる。遙か後方に置き去りにした筈の男―――劉雷考が、欠伸をしながらそこにいた。

「鬼ごっこはもうお終いだ。ゲームは嫌いじゃねーんだが、鬼ごっこは残念だけど好みじゃないんだ」

 コンテナから飛び降りた劉が、面倒くさそうに両手をズボンのポケットに突っ込みながら歩み寄ってくる。
 無造作とも言える彼の動きだが、迂闊に攻撃することはできない。劉雷考という一人の人間の背に見えるのは、人では為し得ない黒い闇が渦巻いていた。龍に対して果てしない憎悪を抱く不破撥でさえも、飲み込まれそうになるほどの巨大な負の塊。

 逃げるべきか戦うべきか、二つの選択肢のどちらを取るべきか迷ったのは一瞬だった。
 それこそ一秒にも満たない迷いともいえない時間。そのたった一秒が勝敗をわける。意識の空白に割り込むように劉の肉体が、撥との間合いを詰めた。彼の動きは特別速かったというわけではない。歩いている状態から一気に最速へと至った異常な脚力が為せる速度。動きの緩急が生み出した落差が、撥の反応を遅らせた。
 左足がコンクリートの地面を踏み割り、鋭い右前蹴りが流れる水が如き自然さで放たれる。槍を連想させる鋭さで、撥の隙をつき腹部へと叩き込まれた。だが、予感していた感覚は蹴り足に訪れはせず、空を切る。
 反応が一拍遅れた撥だったが、後方へと転がるように離脱していた。まさか避けられるとは考えていなかったのか、ヒュウっと劉が口笛を吹く。

 その瞬間―――撥は脳内のスイッチを強制的に切り替えた。
 憎き仇敵に気圧されていた己を恥じるように、深く息を吸い込み全身に行き渡らせる。激しく全身を叩く脈動。
 目に見える視界全てがモノクロに染まっていく。その世界は神速と呼ばれる、人の限界を超えた絶対速度。音を立てて世界をモノクロに染め上げていく中で、バキリと不協和音が鳴り響く。
 撥は驚きで目を見開く。モノクロへと染まっていくはずだったその世界は、時を戻すかのように通常の色合いへと戻されていく。両手を広げ、空間を浸食していった劉雷考はきょとんと驚いた顔で、呆然としている撥を見下ろしている。

「……おいぃ? まさか、【これ】が奥の手か?」

 心底驚いたのか劉は確認を取るように撥に訪ねる。対する撥は、言葉もなかった。
 御神流において奥の手とされる秘伝。神速の世界に軽々と踏み入ってきた怪物は、はぁっと深い失望のため息をつく。
 
「この程度でどうにかなると思ってたのか、お前さん?」
「……っ」

 呆れた様子の劉が、ふんっと鼻を鳴らす。
 神速の世界をこの程度と言い切った彼に対して、撥は歯噛みした。確かに撥の神速は完成されているかと問われれば首を横に振らねばならないだろう。まだまだ未熟な神速とはいえ、ここまであっさりと破られるとは思ってもいなかった。

 そんな葛藤をしているとはいざ知らず、劉は台詞とは裏腹に内心では多少驚いていたのだ。撥が発動させた神速の世界は、それほど頻繁に見られる動きではない。それなりに腕がたつ者も多い龍でさえ、数えるくらいの人数だ。それこそ、この世界に侵入できるほどの者ならば六色に抜擢されてもおかしくはない。
 つまりは、劉雷考は言葉ではどうであれ、不破撥という剣士を少なからず認めていた。勿論それをわざわざ相手に告げる必要もなかったため、口には出していないのだが。
 そして神速の世界程度では劉に対抗するのも不可能なのもまた事実。

「まぁ、お前さんが属している組織とか、吐いてもらうとするか」

 空気が引き締まり、圧縮されていく。
 集中力を高め、撥は意識を目の前の怪物の動きを見逃さぬように張り巡らせる。
 防御と回避に徹すれば、如何に劉雷考が相手といっても時間稼ぎくらいはできるはず。そう判断した彼女が背の小太刀を二刀引き抜こうとしたその時、脇腹に衝撃が叩き込まれた。
 鉄のハンマーを振り抜かれたと錯覚するほどに重い衝撃。骨がひしゃげ、砕ける音が無情に響く。横に逃げて少しでも衝撃を逃がそうと試みるものの、時すでに遅し。撥の行動よりも速く、劉の右回し蹴りが左脇腹を打ち抜いた。斜め上から振り下ろされた蹴撃は、威力を僅かたりとも損なわず、彼女の身体を弾き飛ばしコンクリートの地面に激しく叩きつけた。

 頭を打ち付けることだけは受け身を取ることによって回避したが、脇腹から全身に広がっていく激痛に歯を食いしばる。咄嗟に地面に片手をついて、跳ね上がった。視線を前方に向け自分を蹴り飛ばした張本人へと向けると、両手をポケットに入れたままの態勢で歩み寄ってきているところだ。
 撥の両手が霞む。ひゅっと何かが飛翔し、暗闇に紛れて飛針が二本劉へと迫る。
 視認も難しい速度で飛来した飛針を気にするでもなく、僅かに身体を左右に動かすことによって避けきった。身体を通り抜けた二本の飛針は背後のコンテナに金属音を奏で突き刺さる。

 飛針で時間を一秒たりとも稼ぐことができなかった撥は地面に着地すると同時に腰の小太刀を引き抜いた。
 だが、それはあまりにも遅く―――劉の左蹴りが鞭を連想させる勢いでしなる。その蹴りは撥でさえも反応することは許さずに、先ほどとは逆側となる右脇腹を抉る。再度鉄の固まりを叩きつけられ、破壊の鉄槌が牙を剥く。肺の中の空気が暴れ回り、呼吸が活動を停止した。
 今度は放物線を描き、宙に浮かび上がった撥は、霞む視界の中、必死になって劉の姿を追うが、彼の姿は見あたらない。まるで煙のように消え去っていた。
 いや、彼はいた。消えたわけではなかった。空中へと投げ出された撥の後を追って、劉は空を駆けていただけだ。反撃を行おうとするもそれを許す劉はでなく、ポケットから抜いた右手で頭を掴むと振り回すように投げ飛ばす。
 今度は受け身も許さず、投げつけられた方向に置かれていたコンテナに激突した。圧死しそうな衝撃が背中から突き抜けてくる。ベコンとコンテナが人型にへこむ。

「―――っ」

 悲鳴はあげない。あげる暇があったならば、小太刀を振るう。彼女もまた骨の髄まで剣に染まった御神流【裏】の一員だ。もはやこの怪我では逃げることは不可能。ならば、とれる手段はただ一つ。己の命をかけて、劉雷考という怪物に、刃を叩き込む。今更怯えることなどあるものか。痛みに敗北することなど認めるものか。例えここで散ろうとも、近い未来この怪物と戦う者のために、腕の一つでも奪っていくのが、我が役目。

 肋を折られ、砕かれ、内蔵を痛めた彼女ではあるが、その眼光に揺らぎは無し。これまで以上の鋭さを秘め、危険な殺気を滲ませながら不破撥は小太刀を構える。コンテナにぶつけられ耐え難い激痛に襲われながらも、彼女は自分の相棒から手を離してはいなかった。
 
 危うい気配を漂わせる手負いの獣を前にして、劉は驚きも、警戒もせずに近づいていく。
 彼の瞳は目の前の女をどう痛めつければ楽しめるのか。それだけを考えているのか、サディスティックな暗い光を灯していた。
 足音もたてずに、無音で間合いを詰めていく劉が―――突如足を止める。そして、慌てて身体を捻りその場から大きく離脱した。そんな劉の姿に不審を抱くも、それも一瞬。暗闇がゆらりと揺れて、その理由が判明する。

 見事なほどに完璧に、気配を周囲の空気と同化させていた不破咲が、大きく距離を取った劉が一時前までいた場所に舞い降りてきたからだ。上空からの切り落としが、何もない空間を断ち切った。完全な奇襲を避けられた咲は、顔をかすかに歪め、音もなく着地した場所で油断なく小太刀の切っ先を劉に向け、威嚇するように睨み付ける。

「おいおい、何かと思えばババァかよ。また人間離れした奴だな、おい」

 自分の前に突如として現れた老婆を観察していた彼は、頭をかきながらそうぼやく。
 咲の気殺はあまりに見事で、劉でさえも気づくのに遅れてしまった。間一髪で察知できたとはいえ、ここまで慌てさせられたのも実に久しぶりだ。
 その奇襲と、相対しただけで生半可な相手ではないのは明らかで、今日は厄日だと肩をすくめた。元々劉は日本へと向かう為にこの港町に来ていたのであって、今夜にも旅立つ予定だった。それなのにまさか、今まさに出立しようとしたところで龍の下部組織が襲われるとは予想外もいいところだ。
 
 一応は龍に所属している以上、無視して出発するということもできず襲撃していた御神流【裏】の人間を適当に相手取ろうと考えていたが、まさか適当で済ませれないほどの強敵が混じっているとは思ってもいなかった。

「ああ、くそ……面倒くせぇな」

 本音が口から漏れる。劉雷考という男は別に戦闘狂というわけではない。
 単純に絶望した人間の表情が好きなだけだ。それを見るために、彼は力を行使する。
 強敵ならば罠を仕掛け、搦め手で相手を沈める。絶望した顔を見れるのならば苦労は厭わないが、それでも楽に見れるのならばそれにこしたことはない。彼は戦闘狂ではなく―――戦闘凶と言い換えたほうが正確なのかもしれなかった。
 そして劉が口に出したように、不破咲という剣士と真正面からぶつかりあうのは骨が折れるのは間違いない。

 それに対して、咲の目つきが尋常ではないほどに冷たく、鋭く変化する。
 殺意と憎悪がぐちゃぐちゃに混ざり合った、地獄の餓鬼でも震え上がらせる灼熱の黒炎が燃え上がった。その幻想の黒炎は、あたかも実体を持っているかのように燃え広がっていく。コンテナも、地面のコンクリートも何もかもを焼き尽くしても止まらない。そんな錯覚をも感じさせるほどに、熱くも冷たい狂炎だった。
 動くことも侭ならない撥に肩を貸してこの場から離脱しようとしている六花が、劉の視界に映るもそれを止めることはしない。一々死に掛けの人間に拘っていたならば、目の前の人の姿をした悪鬼に命を刈り取られる。それくらいは劉にもわかっていた。
 撥と六花が暗闇に紛れ、姿を消す。そして気配も徐々に遠ざかっていくのを確認した咲は、小太刀を握る手をさらに強めて、身体中に巡っている殺意を押し殺すように言葉を紡ぐ。

「劉雷考。懺悔も謝罪も何もいらない。お前はただ―――」

 さらに殺意は拡大。信じられないほどに小さな老婆が放つ気配は、身体に反比例して濃密で、強大。
 劉をして息を呑ませるに値した、人間とは云い難い殺意の塊だった。 

「―――死ね」

 老婆の速度は尋常ではなく、劉の余裕を完全に奪う領域に達していた。
 現実ではありえないと誰もが言い切るだろう、俊足。達人であっても視認はおろか、初動も見切るのは難しい。
 神速の世界に突入した老婆に、劉は恨み言の一つでもぶつけてやりたい気分に陥っていた。撥の未完成の神速とは異なる領域。壮麗なまでに美しくも完成された、無駄一つない超俊足。瞬き一つすれば、老婆の小太刀が自分の首を切り落としている。そんな予感を漂わせて、彼女は駆けた。

「―――まじ、かよ。こいつは、冗談じゃねぇぞ?」 

 人を馬鹿にした笑みが消え、真面目な表情となった劉の首元に一直線に飛来する一矢。躊躇いもなく、己の全速全力で命を奪いにきた咲から逃げるように大きく横手へと逃げ延びる。
 それを追って、咲の突撃が急激に進路を変更。まるで追跡弾の如き勢いで、死が近づいてきた。
 迫る切っ先に眉を顰め、最早避ける手段も防ぐ手立ても無いと思われたこの瞬間―――何故か、劉のはぁっと深いため息を咲の耳は聞き取った。
 劉を串刺しにするはずだった一突きは、至極あっさりと彼の喉元を抉り貫く。
 ただし、手応えは何もなし。貫いたのは彼の残した残像だ。

 ガガっと地面を擦りきるように両足がブレーキをかけて、勢いを殺す。
 迷い無く視線を向けた方向に、劉の姿は確かにあった。その距離五メートル。一瞬とはいえ、彼の動きを見逃した咲は油断なく彼へと小太刀を再度向ける。
 
「くっそ、いてぇな。【コレ】は、滅多に使わないから筋肉が悲鳴をあげんだよ」

 腰をトントンと叩き、軽く背筋を曲げる。
 余裕綽々な彼に先程と同じ様には攻めてかかれない。彼の動きは一瞬とはいえ、咲の理解を超えた領域へと踏み込んでいたのだから。神速の世界に入ってなお、掴み取れない迅速の回避。それはつまり―――。
 改めて劉雷考の戦闘能力に驚嘆を抱く。【あの】領域に自在に入ることが出来ている人物を、咲とてそうは知らない。
 本来ならば咲も突入可能なのだが、老いた彼女の肉体は、尋常ではない負荷に耐え切れない。恐らくは一度使用すれば、肉体の限界に達してしまうあまりにもリスクが高すぎる奥の手だ。
 だが、目の前の劉という男の言葉を信じるのならば筋肉が悲鳴をあげる程度で、その世界に侵入可能ということだ。果たしてそれが真実かどうかなのかはわからない。しかし、確実に言えることがある。それは彼もまた、御神流でいう―――神域を使いこなすには至ってはいない。もしも神域を自在に操れるのならば、咲の攻撃をかわすだけで済ますはずがない。つまり、回避を選択する余裕しかなかったのだ。

 急激に固まっていく空気に、両者の雰囲気も変化していく。
 へらへらとしていた劉もようやく咲を認めたのか、どのような行動でも取ることができるように重心を若干落とす。
 
「―――面倒くせぇし、次で終わらせるぞ」

 それでもなお、小馬鹿にした口調で語る劉は再度ポケットに両手を突っ込む。
 咲ほどの実力者を前にして、その行動はあまりにも危うく、命取りとなる行いだった。それを見た咲の次の一手を打つのは速い。頭で考えるよりも、身体が勝利を掴むために躍動した。 
 
 これまで以上の速度と、タイミングで咲が間合いを縮めていく。
 対して劉は慌てるでもなく、ポケットから手を引き抜くと―――その手に持っていた【何か】をひょいっと軽く前方へと投げつける。それは十センチ程度の球型の金属物。咲は一瞬それが何なのか理解できなかった。いや、何かは分かったのだが、まさかという気持ちが邪魔をしたのだ。何故ならばその球型の脅威は―――手榴弾。自分を巻き込むだろう近距離で、安全装置を外し投擲するなどとは誰が考えるだろうか。
 手榴弾を投げつけられた咲の脳が高速で回転する。進むか退くか、どちらを選ぶのか。
 
 これは劉雷考の罠だと脳の冷静な部分が告げてくる。間違いなく手榴弾は火薬が抜いてある。そうでなくては、咲だけではなく劉自身も無事ではすまない。勝ち目も何もない、やけくその神風アタックならばまだわかる。だが、今の状況はそういったものではないのだ。少なく見積もっても戦力は拮抗しているわけで、勝敗はどちらに転ぶかわからない。ならば、自分が巻き込まれるかもしれないといった自爆行為を取るはずがない。取るはずがないのだが……。

 その一方でほんの僅かな不安がよぎる。この男ならば、劉雷考という凶人ならば、そんな馬鹿げた行動を取るかもしれない。
 逡巡。躊躇。それは一秒を分割した思考の隙間。その結果咲は、直進するという選択肢を取った。憎き怨敵に背を見せるという行動を取ることを良しとはしない。あまりにも深い憎悪が、彼女の目を曇らせた。
 突撃してきた咲を見た劉は、邪悪な笑みを浮かべて―――。

 球型の脅威は、咲の思惑を超えて破壊を撒き散らした。
 咲の背後。劉の前方。二メートル程度の距離で、爆炎を巻き起こす。破壊と爆風の衝撃波が、手榴弾を中心に広がっていく。焼け付くような痛みが咲の背中を襲ってきた。多少は火薬を抜いてあったのか、本来の威力にはほど遠いとはいえ、それでもこれほどの近距離で発動すれば、殺傷能力は恐るべきものであり、咲だけでなく劉をも飲み込み周囲一帯を破滅の煙が包みあげた。

 吹き飛ばされ地面のコンクリートに叩きつけられた咲は、激痛に即座に立つことは出来ない。背中は焼けただれ、地面にぶつかった衝撃で右腕が動かない。確認するまでもなく、骨が折れていた。握っていた小太刀を探すが、煙が邪魔して見付けることが出来ない。僅かに開いた煙りの隙間に、煌めく小太刀が一本見えた。咳き込みながら、地面を這いずって小太刀へと左手を伸ばす咲だったが。

「いやいや、惜しかったなババァ。まともにやりあったら俺でも苦戦したわ。少なくとも白陰のおっさんとも渡り合えるぜ」

 ぐしゃりっと鈍い音が響く。小太刀へと手を伸ばした左手の甲を、煙に紛れて現れた劉が踏みつぶす。地面に踏み付けられた手を、力一杯踏みにじられたため、鈍痛が左手を支配する。全体重をこめて踏まれた手の甲の骨がベキリと砕けた。
 それでもこの場から逃れようと、痛みに耐えて手を足の下から引き抜こうとした瞬間を狙って、劉は隠し持っていた短剣を投擲する。その数二本。容赦なく咲の両足のふくらはぎへと突き刺さり、彼女の機動力を奪った。次々と襲ってくる痛みに歯を食いしばることによって我慢していた咲の努力を嘲笑い、すくいあげる前蹴りが、老婆の小さな肉体をボールのように跳ね上げる。上空へと蹴り飛ばされた咲は、後方へと受け身も取れずに落下。耳障りな衝突音がその場に轟く。

「……くっ……かふっ……」 
 
 赤黒い液体を喀血。両手両足を潰され、身動き取れなくなった咲を冷徹に見下ろす【無傷】の劉。それはあまりにも不自然極まりない姿だった。如何に手榴弾が爆発する手前に咲がいたとはいえ、あれだけの爆撃を前にして怪我一つしてないというのはおかしすぎる。
 口を動かして何故だと問いかけようとするが、言葉に出す力も今の彼女には残されていない。
 言葉にならない疑問だったが、劉には届いたようで、くひっと笑みを浮かべ―――。

「奥の手ってのはな。いくつも持っているからこそ意味があるんだぜぇ?」

 咲の視界に黄金の光が目映く輝く。目を焼く光量の迸りを見せながら、劉雷考の背中に出現する一対の翼。皮肉なことに天使を連想させる荘厳さと流麗さを併せ持つ、金色の羽がばさりと揺れた。それはリア―フィンと呼ばれる、光の翼。
 

「……H……G……S……?」
「正解だ。知ってるか? 俺達【龍】ってのはHGSの専門機関もあるんだよ。まぁ、けっこー昔に一カ所は潰されちまったがな」

 嗤い続ける劉の手にバチリと青白い電光を纏う。
 爆撃にて無傷で耐えきったのは、単純な話で―――これが答えだった。
 人を超えた超能力を誇るHGS。彼は衝撃が届く前に、自分の周囲に結界を作り出して衝撃を防いでいた。
 彼にとっては自爆でもなんでもない。相手だけに致命傷を与える、ただの攻撃でしかなかった。

 身動き取れない咲に近づくと、右手で彼女の首を掴み宙へと吊り上げる。ミシミシと骨が軋む音が響き、呼吸を止められた。
 意識が遠のいていく。ここで死にたくはない。まだ復讐は始まったばかりなのだ。龍にも永全不動八門にも何一つ手を届けてはいない。それなのにこんなところで―――。

「本当なら色々と聞き出さないといけねーんだけどな。俺の経験からお前さんみたいな輩は生かしておくと絶対に碌なことにならねーし。まぁ、死んどけ」

 掴んでいた腕から超高熱の電撃が巻き起こされる。咲の首から全身に迸った。雷に打たれたかのようにビクンと彼女の身体が反る。ぶすぶすと黒い煙があちこちから立ち昇り―――。
 心臓が鼓動を止めたのを確認した劉は、その場に咲の死体を落とすと、背中に出現させていたリア―フィンを消失させる。
 ふぅっと肺の中の空気を吐き出すと、ゴキゴキと首を回し骨を鳴らしながら咲の死体から離れていく。すると劉が歩く方向のコンテナの影から、数人の黒服姿の男達が姿を現した。

「お前ら、あのババァの死体の始末任せたからな」
「はっ!!」

 全員が恐怖を滲ませ、敬礼で答える。
 情報によれば蛇を襲撃した人間はまだまだいるのだが、劉からしてみれば最低限の仕事はこなしたと言い張ることが出来る。それに咲との戦いでリア―フィンを具現化させたせいで随分と空腹を感じてきた。人智を超えた力を発動させることができる分、エネルギーの消費が半端ではない。HGS能力者という点で見れば、劉はそれほど卓越した能力者というわけではないのだ。それこそ数年前に龍という組織でも話題になった【エルシー・トゥエンティ】という化け物ほどではなく、世に数多くいるHGS能力者の一人としてしか認識されてはいないのだが、問題は彼の異常性。生身でも超一流という戦闘者でありながら、HGS能力者としての超能力も持ち、狂気を漂わせる異常な思考。それ故に肉弾戦では龍最強とされる白陰でさえも、劉には及ばない。
 
「―――まぁ、お前さんがもしももっと若ければ勝敗は逆だったかもしれんがね」

 誰にも聞こえない声は、夜の闇に散る。
 珍しくも、それは劉という凶人が送る最大限の賞賛だった。そしてそれは限りなく事実にも近い。
 不破咲という剣士は、理想とも云える御神の剣士だ。七十五年という三四半世紀の間磨き続けた、現存する御神流最高の技術を持つ。この世界で御神雫や恭也にも匹敵する可能性を秘めた女性だ。身体の限界を顧みないのであれば、神域の世界にも突入できる技量。彼女に足りない部分をあげるとすれば、年齢からくる体力の低下。その不安故に、彼女はどうしても戦闘を最速で終わらせようとする癖があった。長期戦ともなればなるほど勝利が遠のくのだから、それは仕方のない話だったのかもしれないが―――。

 近くの波止場に止めてあった巨大な船のタラップを渡りきったところで、劉の後を追うように一人の男性が駆け足で近づいてきた。見知った相手だったため、その相手―――白陰に手を振って迎える。
 よく見てみれば、仕立ての良い黒スーツが所々切り裂かれていた。彼が普段好んでつけているサングラスも、つけていない。頬や両手両脚に小さな刀傷も見受けられる。

「よーう、どうしたん、おっさん? そんなぼろぼろになって」
「……お前があの屋敷にいた化け物どもの後始末を押しつけてきたんだろうが」
「くっひっひっひ。白陰ともあろう方がそんな弱気を吐く相手でもいたのか?」
「知っていて任せたくせに……。何やら変な日本語を話す剣士は、正直骨が折れた。下手をしたら死んでたぞ」
「やっぱりな。まったく、めんどくせぇ奴らだったわ」

 その時プオーンと警笛が鳴る。船員が慌ただしく動き始め、出港の準備を開始し始めた。
 そんな船員を見物しながら、死線を軽々と潜り抜けた怪物二人が―――日本の海鳴に到着する日も近い。

 一方波止場に残された六人の黒服達は、劉の姿が見えなくなって暫くたっても緊張した様子を崩せなかった。
 彼が乗る船が警笛をあげて沖へと出て行ったのを自分たちの目で確認してようやく、安堵したように胸をなで下ろす。劉という存在は、どんな気まぐれで自分たちに牙を向けるかわからない。
 どんな言葉が彼の気に障るかも分からない。取り扱いを間違えれば爆発する危険物。それが龍という組織での、劉雷考という人間に対する認識だった。

「後始末を急ぐか」
「おう……」

 黒服二人が、凄惨な死に方をした小さな老婆の死体を担ぎ―――。  


























 ―――ピチャン。

 水滴が水に落下する音が奇妙なほどに耳に残る。
 それが目を覚ますきっかけとなり、咲は目を開けた。何かで固められたと勘違いするほどに異常に重い瞼をゆっくりと開ける。
 頭が普段通りに働いてくれないのか、ぼうっと霧が掛かったように思考がまとまらない。
 果たしてここはどこだろう。いや、自分は何故ここにいるのか。さきほどまで何をやっていたのか。
 記憶があやふやで、どれ一つとしてまともに思い出すことが出来ない。ぶるっと全身が寒さで震え、そのついでに頭を左右に強く振った。
 よく見てみれば、彼女が立っている場所は不思議な場所だった。周囲は数メートル先も見通せない霧が覆っていて、踏みしめる地面は真っ白な砂浜。視線の先には、対岸が見えない巨大な湖―――いや、もしかしたら海なのかもしれない。
 
「……ここ、は?」

 彼女自身で驚くほどにかすれた呟きだった。
 喉がひりついて、言葉に出すのも辛い。何故かわからないが、不破咲はそんな状態だ。
 時間が経過するに従って、靄がかった思考が少しずつクリアになっていく。そして、今先ほど何が起こったのかを思い出す。その瞬間―――ズシンっと大地を揺らす衝撃が巻き起こる。
 真っ白な砂浜に拳を叩きつけ、歯を食いしばった般若の形相の彼女が、己の不甲斐なさを悔やんでいた。
 御神流を滅ぼした張本人。元凶。憎むべき怨敵を前にして、結局は何も出来なかった。HGSであることを知らなかったのだから仕方ない―――そんなことが許されるはずがない。一太刀も浴びせることも出来ず、何も残せなかった惨めさ。自分の生きてきた長い人生が全くの無価値に終わったことに、激しい憤りを感じる。
 拳が痛むのを気にせず何度も何度も砂浜を叩きつける。その度に、巨大な打撃音が周囲に響き渡った。

「―――あらあら、随分とお怒りになっていますね」

 他に人間が居たとは思っていなかった咲が、ビクリと反応をして慌てて声がした方に顔を向ける。
 その視線の先、透き通るような美しい水の上に一人の女性が立っていた。それにぎょっとする咲だったが、決してそれは目の錯覚ではない。彼女自身が光を発している勘違いするほどに美しい女性。煌めくのはプラチナブロンドの長い髪。笑顔を絶やさぬ、異常なまでの圧力を感じさせる雰囲気。水に立っている足元には波紋が幾重にも生み出されている。その女性を思い出した咲は、無意識に胸元で主張しているネックレスについた宝石を撫でようとして、そこに宝石がないことに気付いた。 

「……あな、たは……」
「お久しぶりですね、不破咲さん。お元気でしたか?」
「……いえ、さきほど死んだばかりです」

 微笑を崩さない女性の挨拶は、先ほどのことを思い出していた咲にとっては皮肉としか言いようがなかった。
 間違いなく死んだというのに、元気も何もあったものではない。だが、そこで怒りで支配されていた頭がようやく少しだけ冷静になって―――はたっと気付く。

 ―――何故、五体満足な状態なのか。

 四肢を潰され、背中は焼け爛れ、肋骨も砕き折れ、そんな状態だったというのに、今の咲は普段通りの肉体なのだ。痛みもなく、不自由な箇所もない。
 それとも【ここ】は死後の世界とでもいうのか―――。

「はい、半分は正解ですね」
「っ!?」

 まるで心を読んだかのような女性の言葉とタイミング。
 そしてようやく気付くことができた。女性が右手の手のひらで転がしている宝石が、自分が身につけていた物だと言うことに。

「【ここ】は貴女の精神世界。貴女が死ぬと同時に私が入り込めるように細工をさせていただいていました」
「精神、世界?」

 聞き慣れない単語にキョトンと首を捻る咲に対して、女性は続ける。

「生憎と時間がありませんので手短に用件を済ませますよ? 不破咲さん―――貴女には二つの選択肢が与えられています。一つはこのまま生を終え、輪廻転生に従い新たな運命の下を生きるというもの」

 人差し指を立てて、にこりと微笑む。
 だが、咲にはそれに見とれることは出来なかった。その笑顔はどこか咲を見下していて―――。

「もう一つは、【全て】を投げ打ってもう一度この世界を生きるという道です。ただし、こちらを選べば【全て】を犠牲にしてもらいます。生と死をあやふやにするんです、それくらいは覚悟してください。具体的にいうならば、貴女の輪廻転生は【ここ】で終わりです。もはや貴女には【次】などありません。この世界で死ねばそれが【貴女】という魂の消滅です。未来永劫、ここではないどこかで苦しみ続けなければならないでしょうね」

 中指を立てて、指を二本―――咲に見せつける。
 そして、女性の語った二つの選択肢。本来ならばよく考えて答えを出さなければいけないのかもしれない。だが、不破咲という老婆に取って、それは選択肢と成り得ない。

「私は、生きなければなりませぬ。生きて、生きて、生きて―――龍を滅ぼさねばならないのです。そのためならば、どのような代償でも払いましょう。次の生などいりませぬ 」

 至極あっさりと選択肢を選んだ咲に対して、女性は聞き返すことはしなかった。不破咲という人間は必ずその選択肢を選ぶと知っていたから。
 右手で弄んでいた宝石を咲に向かって放り投げる。放物線を描き、咲の手元へと戻ってきた宝石はズシリと異様な重量を伝えてくる。

「残念ながら貴女の肉体はもう死んでいます。よって、その【宝石】で叶える願いは貴女という自我を宿した肉体の再構築です。思い描いて下さい。そうすれば、貴女のイメージそのままに―――宝石は願いを叶えてくれるでしょう」

 宝石を両手で胸に抱きしめた咲は、強く願う。
 再び元の世界に戻れることを。御神流【裏】の若者達を導けることを。龍を、永全不動八門を滅ぼすことを。劉雷考をこの手で殺すことを。そして―――不破恭也と共に在り続けることを。
 不気味な光が、質量を持って拡散。広がっていった光が急激に収縮。空間が軋む音がこの世界に響き渡り始める。
 宝石から発せられる尋常ならざる力の発露に、咲の身体が包まれて消えてゆく。咲だけではなく、砂浜が、霧が、湖が―――白い粒子となって消失していく。その時、目映い輝きがよりいっそう強くなり、咲の全てを白く塗りつぶした。
 意識が遠のいていくその刹那、女性は優しく微笑んで―――。 
 




















「次死ぬときは、【少年】の目の前で死んで下さいね?」

 未来視の魔人は一人、残酷にそう語る。
   
























 その瞬間、一体何が起きたのか理解できた人間はいなかった。
 老婆を担いでいた二人の黒服の男達が、背後にいた四人と目線があったのだ。真っ正面を向いているはずの二人が、どうして背後にいる四人と視線が合うのだろうか。
 それは、簡単な話で―――男二人の首が百八十度曲がっていただけのこと。身体だけは正面を向き、人体構造上不可能な筈の状態。その不自然さに気がついたのは、二人の黒服が地面に崩れ落ちてからだった。無理矢理に頭を捻られ、首の骨が折られていた。突然の惨劇に悲鳴をあげそうになった四人だったが、夜の静けさを破ることは出来ずに終わる。
 飛来した飛針が二人の喉に直撃。深く突き刺さった鋭利な針に気がつくと同時に、ごぼりっと血を吐いて倒れふす。残された二人は何が起きているのか、結局はわからないまま死角からの蹴りが一人の首をへし折った。
 残された一人は、怯えた視線で周囲を見渡しながら―――背中を強打されて意識を手放した。

 そんな戦闘とも呼べない戦いが終わったと同時に、厚く黒く空を覆っていた雲が晴れていき、月がついに地上を照らす光を落とす。
 その光が、夜の闇を切り裂き、この場に立っている唯一の人間の姿を浮かび上がらせた。
 周囲に倒れている男達よりも頭二つ分は低い小柄な肉体。日本人形を思い出させる艶のある黒く長い髪。張りのある、瑞々しい果実のような美しい裸体。水分を含んだ唇が、白く神聖さを感じさせる裸身の中で赤く照り輝いている。鼻筋がすうっと通っており、若干吊り目になっている顔立ちは、勝ち気な印象を与えるが、それを含めて人の目を引きつける可愛いらしさだった。
 少女は男の死体の胸元から見えていたハンカチを拾うと、長く伸びている髪を後ろで括る。ついでに男のスーツの上着を剥ぎ取ると、裸体の上から羽織った。身体の小ささが功を奏したのか、上着を着ただけで太股近くまでの裸体を隠すことができたが、上着の合間から見える胸と半ばから見える太股が、男性の欲情を誘うほどに艶かしい。
 外見からはせいぜいが十代半ばから二十にも満たない程度の小娘にしか見えないかもしれないが、健康的な色気と、危うい色気が混ざりあい、同居し、異様な魅力を醸しだしていた。

 地面に転がっていた抜き身の小太刀を二本手に取ると、同じく傍にあった鞘に納める。金属音が高鳴った瞬間、少女にとって見に覚えがある気配が幾つか近づいてきて―――姿を現した。
 常におっとりとした雰囲気の一姫が、珍しく鬼気迫る表情をしている。それは一姫だけではなく、彼女の背後についてきていた和人と青子も例外ではなく、切羽詰っている様子だった。
 そんな三人は血の海に佇んでいる半裸の少女を目の前にして―――動きを止めた。
 鬼気迫っていた表情は変化し、ぽかんっと呆けたように目と口を大きく開ける。

「……えっと……咲、さん?」
「ええ。そうですよ、一姫。それはそうと謝らなければなりません。劉雷考を逃がしてしまいました」
「え? え? え? え?」

 感情を見せない青子が、驚いて半裸の少女―――不破咲の頭のてっぺんから足の爪先までを視線を何度も往復させる。
 和人は一旦目をつぶり、暫くたってあけてみるが、咲の姿に変化は無く今度は頬を抓る。しかし、夢ではないことを証明するように、何も起きたりはしなかった。
 しかし、目の前の少女から感じる気配は間違いなく咲のモノでしかなく―――彼女達三人が間違えるはずも無い。

「……一体、何があったと?」
「―――若返りました」
「なるほど。それはしかたなかやね」
「え? それで納得すんの、お前?」

 咲の理由になっていない一言にあっさりと納得する一姫。それに対して、反射的に突っ込んでしまった和人に、青子も無言でウンウンと追随する。

「いや、だって。咲さんだから仕方なかよ」
「それもそうか」
「……ばっちゃまなら何でもありだね」

 数十分前までは老婆だった不破咲という女性が、今では瑞々しい肌を持つ十代にしか見えない少女になるという摩訶不思議な現象が起こったにもかかわらず、それだけで受け入れてしまう三人が果たして懐が広いのか。それとも不破咲の普段の行動が問題だったのか。それは彼女達にしかわからない。

「劉雷考の次の目的地はわかりませんが、一人だけ生かしておいたのでこの男に聞くとしましょう」

 敢えて一人だけ止めをささなかった黒服を一人指差して、酷薄に口角を吊り上げる。
 そして、劉雷考の目的地を聞き出した御神流【裏】も、日本へと向かうことになった。
 
 高町恭也。劉雷考率いる龍の戦闘部隊。御神流【裏】。
 様々な想いと目的が入り乱れる決戦の地は―――海鳴。


















  
 
 



 日本の地方にある寂れた街。
 かつては御神宗家が山の中腹に屋敷をたて、それが名物とされた時代もあった。
 十余年前の爆破事件にて、御神家も壊滅。他に有名な名物も、産業もないこの街は徐々にだが寂れていき、今ではかつての半分以下の人口にまで陥っていた。
 もっともそれも無理なかろう話だ。かつて御神家が滅ぼされたとき、それと一緒に原因不明の大虐殺も行われたのだから。その被害は百名近い。刀で斬られた人間もいれば、毒殺された人もいる。撲殺や、爆殺など殺され方は様々で、警察も結局は犯人を捕まえることができずに、迷宮入りとなった事件でもある。

 そんな寂れた街を歩く二人の親子。
 どこか気難しそうな雰囲気の男性と、真逆に明るい雰囲気の少女の二人だ。
 何を隠そう、大魔導の追撃から逃れて日本に逃亡してきた御神相馬とその娘―――御神宴である。

「ややー、でも良かったねぇ、おとーさま。あのしつこいストーカーが諦めてくれて」
「ああ。意外としつこい奴でちょっとムカついたな」
「いい加減にしろって言いたかったよねー。あ、言ったか、そーいえば」
「お前は会うたびに言ってたな。それでもめげなかったあいつもたいしたもんだが……」

 思い返せば出会ったのはもう数ヶ月も前の話。
 何をどう間違ったのか、目をつけられた二人は大魔導と呼ばれるアンチナンバーズのⅩを相手に長い逃亡生活を続けていた。ヨーロッパの片田舎から、ひたすらに東へ東へと逃げ続け、最近ようやく日本へ到着した二人は久方ぶりの解放感を満喫している所だ。飛行機や船を使えばもっと速く来れただろうが、乗船中に襲撃された場合、被害が大きくなることを考えた相馬は徒歩で逃げ続けることを選んだのだ。
 変なところで、真面目な父に呆れつつも、このツンデレめーっと時々からかっている宴だった。からかいが過ぎると、お返しに百を超える握力でアイアンクローをされるのだけれども。

「うーん、でも何で日本に入った途端、あの人追撃止めちゃったの?」
「……日本ってのは人外にとっては特別な土地なんだよ。アンチナンバーズでも王とも称される化け物が何体いるか知ってるか?」
「え? 九体でしょ?」
「ああ、その通りだ。その九体に数えられる鬼の王と猫神。最近だと伝承墜としもそうか。後は封印されているとはいえ、魔導の王もだな。未来視の魔人も日本に訪れることも多い。これだけの化け物が日本を拠点としているんだ。そんな人外の坩堝に好き好んで近寄ってくる奴がいると思うか? ましてやこいつらの領地でドンパチやってみろ。下手に刺激して伝承級のバケモンがでてきたら捻りつぶされるのがおちだ」
「なるほどー。言われてみればそうだねぇ」

 ふと湧いて出た疑問を口に出すと、相馬がその疑問に答える。
 父の語った答えに、納得した宴は明かされてみれば簡単な種明かしに感心したのか、しきりに頷いている。

「まぁ、暫くは日本でゆっくりとするか」
「さんせーさんせー。っと、あれ? ここら辺って何か見覚えがあるんだけど?」

 にししっと嬉しさを堪えきれずに笑顔を振りまきながら、くるくると回転していた宴が周囲の記憶にある景色を見て、きょろきょろと見回し始める。
 二人は山の中腹にまで長く続いている階段に差し掛かると、宴は何かを思い出したのか、おおっと声をあげた。

「うっわー懐かしい。ここってあそこだよね。大昔に一度だけ来たことがある―――御神宗家の跡地」
「……ああ、そうだったな。お前もあの時いたか」

 宴の懐かしんだ声に、相馬が一緒にこの場所を訪れた時のことを思い出して納得した。
 御神家が滅びを迎えた十余年も昔のあの日。相馬の到着も間に合わず、屋敷が爆破され、全てが潰えた最悪の日。
 救う事ができたのは不破恭也ただ一人だけで―――生き残ったのは不破士郎と御神美沙斗を含めた数人。栄華を誇った御神と不破が一瞬で滅び去った。

「……まさに盛者必衰、か」
「うん? 何か言った、おとーさま?」
「なんでもねーよ」

 十年以上も整備がされずに放置されている階段をのぼりきった二人は、かつて御神の屋敷があった場所へと辿り着いた。
 そこはとてつもなく広大な広場だった。その広場はのぼってきた階段とは異なり、雑草は刈られ、丁寧に整備されていることに宴は大きな違和感を持つ。
 対して相馬は気にも留めず広場の奥へと進んでいき、一番奥の後ろが崖になっている場所まで歩んでいくと、足を止めた。二人の視線の先に、幾つかの立派な墓石が立てられている。御神一族全員の分というわけではなく、何人かのために立てられたモノだ。その墓石の前に一人の少女が手を合わせていた。目をつぶり、真剣な様子で祈る姿を見た相馬は首をひねる。既に御神の一族の関係者は数少なく、手を合わせている少女の顔に見覚えは無い。
 街の住人かとも思ったが、それはない。少女の纏う雰囲気と、発せられる空気は一般人の領域を遥かに超越し、ただ見ているだけの相馬でさえも無闇に足をこれ以上踏み込むことができない。

 数秒が経過し、手を合わせていた少女がゆっくりと振り返り、相馬と宴へと向き直る。
 三人の中間でパリィっと緊張した空気がぶつかりあい、弾けあった。そんな緊張した空気も一瞬で、相馬の顔を見た少女は、頭を下げる。

「―――お久しぶりですね、相馬様」
「……久しぶり? どこかで会ったことがあったか?」
「ああ、申し訳ありません。この姿では流石に思い出せませんよね。私でございます―――不破咲。かつてはお世話になりました」
「……嘘をつくなら、もうちょっとマシな嘘をつけ。あのばーさんがお前みたいに若いわけないだろう? 生きてたら確かもう八十を超えて―――」

 解けた筈の緊張していた空気が先程以上に、凍結する。相馬の心の臓を痺れさせる危険な香りが周囲に充満。
 全身のあらゆる毛穴が開き、汗が滲み出る。これまで戦ってきた猛者を凌ぎ、大魔導に匹敵しかねない質量を持った殺気が乱れ飛ぶ。 
 凍っていた空気中に、肺の中の二酸化炭素を吐き出す。それがやけに白く見えた。そして、相馬の本能が全身の筋肉を無理矢理に動かす。右手で隠していた小太刀を引き抜くと首元に迫っていた、咲の抜刀を払い落とす。ギャンっと金属同士が噛み合う音が広い墓地にて共鳴した。
 目の前で起きた自分の感覚を超えた斬り結びに、おおっと驚嘆をする宴。
 勿論驚いたのは宴だけではなく―――。
 
 咲も相馬も互いの力量に驚きを隠せず。
 たった一合の切り合いにて、二人は相手の御神の剣士としての完成度を理解しあう。このまま戦えばどちらかが確実に死ぬ。それほどに拮抗した戦闘になる可能性がある―――いや、可能性ではなく、それは間違いのない事実。

「私はまだ七十五歳です!! 八十を超えてるとか捏造はやめてください!!」
「……いやいやいやいや。七十五歳でその若さもありえんだろうが」
「若返ったんです」
「若返るか!!」

 ぷいっと可愛らしくそっぽを向いた現七十五歳の少女に、相馬が突っ込みを入れる。
 御神流【裏】の人間とは違って、まともな常識を持っている相馬だった。かつての御神の一族からは狂人扱いされていたというのに、今では彼が残された御神と不破の一族では一番の常識人というのも皮肉な話だ。

「ですが事実はかわりません。不思議な宝石と女性の力で最近新たに生を得ました」
「……宝石? 女性?」
「はい、片目を瞑っていた美しい女性でしたよ」
「……未来視の怪物、か」

 ちっと舌打ちをした相馬がかつて会ったことがある伝説の怪物を思い出した。
 なにやら色々と画策していたようで、嫌な予感がビンビンと第六感を刺激する相手だったのは覚えている。当時の相馬は今よりも遥かに無謀だったため、一度戦いを挑んで軽くあしらわれたのは忌々しくも苦い経験だった。

「それはそうと、相馬様。深くお礼を申しあげます」
「あん、何のことだ?」
「実は私は既にこの御神の所有していた土地は無くなっているのだと考えていました。しかし、十年ぶりにここを訪れてみれば、美影様や静馬様。琴絵様や一臣様の名が彫られた御墓が建てられていました」
「……」
「調べてみれば、相馬様がこの土地を引き継ぎ、墓地として整備してくれたのだと。多額のお金を払い、この土地の墓の整備を他の者に頼んでいたということが分かりました」
「……もう昔のことだから、そんなこと忘れたぞ」
「―――そうですか。ですがお礼は言わせていただきます。本当に有難うございました」

 咲は再び深々と頭を下げた。
 それにむず痒そうに、明後日の方向を見る相馬の姿に、隣にいた宴は我慢できずに吹き出す。相変わらず感謝の言葉を素直に受け取れない父がたまらなく可愛いと宴は思う。
 その後吹き出した宴は、照れ隠しなのか米神を掴んでアイアンクローをかませれてしまったが。
 
 咲がお礼をこれほど言うのにも理由があった。
 十余年前の御神一族壊滅の日以降も、龍は生き残りの人間を探し続けていた。当時の咲でも生き残った人間を率い身を隠すのが精一杯だった。僅かな手がかりも残せず、戸籍を消し、ひたすらに逃げ延びた。
 しかし、相馬は違う。御神の屋敷があった土地を相続するということは、自分が生き残っているということを龍に証明することにほかならない。つまりは、龍の襲撃をもっとも受けやすいとも言える。それがわからない相馬ではなかったはずだ。ましてや、御神一族から追放された相馬には、関係の無い話ともいえるのに、今は無き琴絵達の墓をあの場所に作りたいという考えを捨てきれず、彼は龍に目をつけられることを承知でこの山を引き継いだ。
 そして、それから相馬が歩いた道は悪鬼羅刹でも怯む修羅道だ。四六時中命を狙われ、そのために一箇所に留まれずに世界を放浪した。幼い宴を引き連れて、それでも彼は生き残った。
 その苦労が、死闘が、経験が、御神相馬という剣士を限りない高みに引き上げていた。

「―――ほほぅ。そん人が御神相馬さんゆう人やろーか」

 微塵の気配を感じさせること無く、周囲と同化させていた声が聞こえた。
 宴がビクリと反応して、背後を振り向く。それに対して気づいていたのか、相馬はちらりと頭だけを背後に軽く回す。
 二人の背後に何時の間にいたのか、大きめの石に腰をおろした少女―――不破一姫が値踏みするように相馬と宴を交互に視線を向けていた。

「……おい、ばーさん。こいつは【何】だ?」
「その娘は―――」
「うちは不破一姫。不破一臣の娘―――よろしくお願いすると。御神相馬さんと……えっと?」
「あ、私は御神宴と言います。おとーさまの自慢の娘ですよ」
「別に自慢ではねーけどな」

 咲を遮って、一姫が自己紹介をしつつ、邪気の無い笑顔で答えた。ばっさりと切って捨てられた宴は、およよっと泣く振りをしたが、相馬は全く気にも留めない。
 宴を全く気にせず、それどころか相馬は一姫の姿を見て、眉をひそめる。大昔に一臣の娘として紹介されたことは覚えているが、最後に会ったのはもう十年以上も前の話。その頃の面影などもはや覚えているわけも無い。本当ならば久しぶりとでも声をかけなければならないのだろうが、ほとんど記憶に無い状態で答えるのもはばかられる。

「うちのことはおいといて。それより相馬さんと宴さん―――うちらの組織に入ってくれんね?」
「組織? なんだそりゃ?」
「御神流【裏】。御神と不破の生き残りで構成された集団。目的はただひとつ。龍と永全不動八門ば塵一つ残さず滅ぼすこと」
「―――ほぅ」

 興味を引かれたのか、相馬の瞳に妖しい光が灯った。
 宴もまた、相馬を真似てか、何やらほほぅっと呟いていたのだが、誰にも相手をされずに寂しそうにしている。

「うちは御神流【裏】当主補佐。その立場からできれば相馬さん達にもご協力ばしてもらいたいと」
「……お前が、当主補佐? じゃあ、咲のばーさんが当主でもやってんのか?」

 確認のために咲の顔を窺うが、あっさりと首を横に振って答える。
 咲の否定を受けて、相馬が意外そうに目を見開いた。相馬の察知できる限り、咲と一姫。この二人の実力は飛び抜けている。かつての御神流最盛期の時代に仮にいたとしても、最強の一角に名を連ねることが容易くできるはずだ。
 世界中を放浪していたここ十年という年月でも、この二人ほどの怪物と出会ったことは無い。自分の娘程度の年齢の少女がこれほどの高みに達するなど、信じられることではないが―――目の前にいるのだから信じるしかない。
 その二人を差し置いて、御神流【裏】という組織の当主の座につける者がいるとは俄かには信じられることではないのだが―――。

「うちらの【当主】。その人の名前ば聞けば多分納得してもらえると思うとよ」

 一姫は口元に笑みを浮かべながら。

「うちらの当主の名は―――」

 その時強風が吹く。さぁっと周囲の砂埃を巻き上げ、木々の葉が揺れる音に紛れて、一姫の言葉は途中で途切れる。
 だが、相馬と宴には聞こえたようで―――呆けるのも一瞬、くっと楽しそうに苦笑した相馬は、どこか喜んでいる雰囲気を纏いながら―――。
 
「良いだろう、不破一姫。俺の力お前達に貸してやる。それにいい加減、龍の奴らも鬱陶しいと思ってたしな」
 
 お前はどうするっと目線で語ってきた相馬に対して、宴も―――。

「私も一緒いこうかなー。そろそろ定住したいしさー、そのためにも龍はつぶしちゃいたいと思ってたところだもん」

 二人の了承を得た一姫は、両腕を広げる。
 底知れない。得体の知れない気配を漂わせながら、彼女は透明な笑顔のまま―――。

「ようこそ、お二人さん。うちたち御神流【裏】は貴女達をば歓迎します」 

 

















----------atogaki--------------

とりあえずサイドストーリーは終了です。
次回からは本編に戻る予定ですが、その途中でぼちぼちと
間章 恭也の休日 ○○編
的な、キャラクターとの絡みの外伝を書いていこうと思います。 



[30788] 恭也の休日 殺音編①
Name: しるうぃっしゅ◆ea61bf4a ID:ff723e2c
Date: 2014/07/24 13:13
















 大怨霊との戦いが恭也に残した傷跡は深かった―――筈だった。
 常人ならばまだ入院が必要なほどに身体を酷使したにも関わらず、彼は至極あっさりと退院を許されたのだ。
 恭也のかかりつけの医師となった矢沢という名の初老の男性は何度も首をひねっていたが、退院の許可を出さなければならないほど急激な快復をしてしまったのだから仕方ない。
 
 それというのも恭也の意志の力というものも大いに働いた。
 彼は現在高校三年生。一応は推薦で体育大学に進学が決まっている身とはいえ、あまりに学校を休みすぎると出席日数がたりなくなり、卒業が危うくなってしまう。特に高校三年生になってからは、異常なほど人外との遭遇率が高く、死闘を繰り広げていたため、長期に渡って学校を休むことが多かった。
 これ以上は流石に危険ということを教師から告げられたため、必死の覚悟で快復―――もとい再生させたというわけだ。

 そんな卒業式を間近に迎えた二月の中旬の日曜日、恭也は珍しく桃子に日曜日は用事があるため翠屋を手伝えないと前もって伝えていた。
 それを聞いた桃子は少しだけ驚きつつも、あっさりと了解と頷く。
 修行で家をあけるとき以外は、縁側でお茶を飲んで一日を過ごす高町恭也が、用事があるというのだ。どんな用事にしろ、少しだけ嬉しい気持ちを桃子は持った。

 昼ごはんが終わり、高町家にいるのは未だ出かけていない恭也とレンとなのはの三人だけである。
 晶は隣町の明心館へと練習へ行き、美由希は何時もの如く那美と遊びに出かけていた。桃子は翠屋で大忙し、フィアッセは歌のレッスンといった具合だ。
 中庭では遊びに来た子狐バージョンの久遠となのはが戯れており、それを縁側に座ったレンが眺めている。

「では、少し出かけてくる。多分遅くなると思うから御飯は準備しなくてもいい」
「あ、はい。わかりました。おししょ―――」

 突然背後から声をかけられたレンは気づいていたのか驚きもせずに返答をし、くるりと振り返って固まった。
 固まってしまったレンを不思議に思い、なのはと久遠も恭也の姿を見て、レンと同じ様にフリーズする。
 三人の視線の先に立つのは高町恭也―――ただし、服装も髪型は普段のそれではない。滅多に見ることが出来ない黒のスーツ姿。髪型はピシリと決めたオールバック。胸の前においている片腕には黒いコートを下げている。ちなみにこの仕掛け人は高町桃子である。普段の格好で出かけようと考えていた彼の思考を読み取ったのか、前もって口が酸っぱくなるほど何度も準備に口を出してきていた。
 三人が何時も見ている恭也とはまた違った、彼の姿に彼女達の脳が処理の限界を超えていたのだ。

「それでは行って来る」
「あ、は、はい。行ってらっしゃいです!!」

 三人の固まっている姿を見ながらも、特に追求せずに恭也が玄関へと向かう。辛うじて返答をできたのは我を取り戻したレンだけで、なのはと久遠は恭也の後姿を黙って見つめることしかできなかった。
 恭也が出て行った後も三人の間には沈黙が横たわり、たっぷり数分もたって、久遠がポンっと音をたてて子供姿に変化することによって何ともいえない雰囲気が砕け散った。

「……きょうや、かっこいい……」
「う、うん。あんなおにーちゃん初めてみたかも」
「はぁー。眼の保養になったわ。ワイルドなお師匠むっちゃかっこええ……」

 特に服や髪といった身だしなみに関心を払わない恭也だけに、しっかりと決めた時の破壊力は相当なものがあったようで、三人は暫く彼の正装姿を脳裏に描いて更に十分以上の時間ぼうっと佇んでいたという。

 一方恭也はまさか三人がそんな事態に陥っているとも知らずに、マイペースに歩みを続ける。
 日曜日ということもあり、途中近所の奥様方に出くわすものの、恭也の普段とは違ったスーツ姿に驚き、挨拶程度でしか呼び止められていなかった。
 普段の彼女達だったならば長話になるのは明白だったために、ある意味スーツ姿が魔除けとなったのかもしれない。

 歩くこと十数分。最近海鳴でも随分と話題になってきたメイド喫茶北斗。日曜日に相応しく、店内は満席なのが外からでも一目で判る。だが、今日の恭也は北斗で一服するために来たわけではない。別の用事があるのだ。
 入り口のドアに手をかけ押すと、カランカランと翠屋と似たような音をたてて扉が開く。
 
「いらっしゃいま―――」

 ドアを潜ったすぐ先にて出くわしたのは相変わらずのチビッコメイド水無月冥だった。
 見事な営業スマイルだったが、なのは達と同じ様に彫像となってしまい、反応が停止する。
 しかし、なのは達が普段の状態に戻るまで数分の時間を要したが、冥は十数秒で自分を取り戻すと、ごまかすようにコホンと咳払いをしつつ営業スマイルを消した。その頬は何故か若干の赤みを帯びている。

「ん―――なんだ、キミか。久しぶりだね」
「ああ、久しぶりだ。最近顔を出せなくてすまなかった」
「全くだよ……といいたいけど、何かあったのかい?入院したとか殺音に聞いたけど」
「大怨霊とかいう怪物とちょっとな」
「ふーん。大怨霊か。それはま―――」

 至極あっさりと入院する原因を話した恭也につられて、冥もあっさりと流そうとして、冷静になって頭の中で繰り返す。
 
 ―――だい、おん、りょう?

 大音量……なわけはあるまい。まさか大声をだして入院するといった間抜けなことを目の前の男がするわけもない。となれば、思い当たるのはただ一つ。
 歴史にさえも名を残す最悪の怨霊。その力はアンチナンバーズと呼ばれる集団で伝説の怪物とされる一桁台の人外にも匹敵―――或いは凌駕するという曰くつきの悪霊だ。その圧倒的な強さは先代猫神に時々話を聞かされたこともある。
 
「―――そんな馬鹿なといいたいところだけど、キミなら有り得るから困るよ」

 驚きすぎて逆に冷静になってしまった水無月冥が、どこか疲れた吐息を漏らす。
 
「それよりも、耳と尻尾がでてるぞ?」
「……驚きが身体にでちゃってた」

 突如頭にはえた猫耳と後尻から生えた尻尾がパタパタと強く自己主張をしている。
 さっと周囲を見渡すが、気づいた人間はとくにはいないのを確認する。もっとも、メイド服姿に猫耳と尻尾がはえたからといって驚く人間はこの喫茶にはきていないだろう。逆にご褒美だと有り難がるに違いない。

 心を落ち着け猫耳と尻尾をあっさりとしまった冥に、一体その服はどうやって尻尾の部分を出し入れできるようにしているのか聞こうとした恭也だったが、あまりこういう場で聞く話題でもないと感じ、後回しにする。
  
「それで今日は何の用だい?飲食目的なら少し待ってもらうけど……あー、なんなら僕達専用の部屋に通すよ?」
「いや、今日は殺音の奴と約束が合ったんだが、いるか?」
「ん……殺音? あー、そういえば何か用があるといって、一時間くらい前に出て行ったかな。臨海公園に行くとか言ってたけど?」
「一時間前?」

 珍しくキョトンと聞き返す恭也に、頷いて答える冥。
 自分の聞き間違えではなかったことを確認する恭也だったが、はてっと首を捻る。腕時計にちらりと眼をやると時間は昼の一時を少し回ったくらいで、自分の勘違いではないことを確かだ。
 今日は言葉に出した通り、殺音と約束があったのだがその時間は昼の二時。海鳴臨海公園で待ち合わせの予定だったが、少し早めに準備もできたのでこうして喫茶北斗まで迎えに来たわけだ。
 しかし、冥を信じるならば、今から一時間近く前に約束の場所に向かったという。つまりは十二時―――待ち合わせの時間まで二時間はある。流石に二時間も前に約束の場所にいく物好きはいないだろう。
 恭也か殺音のどちらかが時間を勘違いしているという可能性が高い。どちらにせよ、殺音は既に一時間近く待ちぼうけをくらっていることになる。

「ああ。もしかしてあいつと約束をしていたのはキミかい?」
「ん……まぁ、そうだ」
「それならあいつのここ数日の浮ついた様子も納得だね。注文を聞き間違えるわ、食器を落とすわ、注文の品を違うテーブルに持っていくわで使い物にならなかったんだよ……」
「そ、そうか」

 心底疲れた表情で、ふっと苦笑する苦労人。
 北斗喫茶の不幸を小さな背中に背負う彼女に、どんな言葉をかければいいのか。少し迷った恭也だったが―――。

「俺が協力できることがあれば言ってくれ。出来るだけ力になるぞ」
「……ああ、有難う。ってもしかして例のあれかい?」
「ああ、多分例のあれで間違っていない」
「そうか……まぁ、キミは悪くないね、うん」

 あたりさわりのない慰めをかけると、それに短い返答をする冥だったが、胃のあたりを両手で押さえるその姿は恭也の目から見ても痛々しかった。そして何かに気付いたのか、一人頷いている水無月冥。
 その時カランカランと、新たな来客を告げるベルの音が店内に響き渡り、入り口の扉を潜って二人連れのカップルが現れる。

「殺音の情報助かった。今日はこのまま失礼するが、また時間をみつけて売り上げに協力しよう」
「ああ、うん。また来てくれると嬉しい。あのバカの世話は大変だと思うけど、任せたからね」

 これ以上話すのも仕事の邪魔になると判断して、恭也がカップルと入れ違う形で喫茶北斗から外の商店街へと戻る。
 いらっしゃいませーと冥の接客用語が、扉が閉まる寸前の隙間から聞こえてきた。相変わらず苦労しているなと不憫に思いながらも、恭也は海鳴臨海公園の方角へとやや早歩きで向かう。

 日曜日ということもあり、商店街は人混みで溢れている。これだけの人が歩いているのだから一人くらいは知り合いがいるのではないかと歩きながら視線を左右に動かすが、生憎とそれらしい人は見つからなかった。
 そして、自分がそれほど知り合いが多いわけではないことに気づき、少しだけショックを受ける。
 そんな悲しみを振り払い、歩くこと十数分。海に面した巨大な公園に辿り着く。海鳴デートスポットにも雑誌で紹介されている真新しい海鳴臨海公園だ。特に先月あたりに再度雑誌で特集を組まれたせいか、学校でも話題となっていた。
 待ち合わせ場所である、海鳴公園鯛焼き屋台を目指す恭也は、途中何度か男女の二人組みとすれ違った。
 一目でカップルとわかる彼らを見て、雑誌の効果とはなかなか凄まじいものがあると一人再認識する恭也だった。
 
 目的の場所である鯛焼き屋台の前へと辿り着き、殺音を探すために周囲を見渡す。
 するとあっさりと探し人は見つかった。それも当然―――何故なら彼女は一人だけ、異常なほどに目立っていたのだから。
 屋台から少し離れたベンチが並んでいる空間。殺音はその一つに腰掛、なにやら心ここにあらずといった様子で手鏡を覗き込んでいる。
 喫茶北斗で会うことが多いいため、メイド服姿を見慣れていたが、流石に今回はそうではなかった。
 普段とは異なり、腰まで伸びている黒髪を後ろで一括りにしてポニーティルに纏め上げている。その名の由来となった馬の尻尾のようにさらさらと風に揺らいでいた。実に珍しく薄く化粧までしており、薄紅色の唇にも口紅がひいてあり人の目を惹きつける。元々が恭也に並ぶ長身ということもあり、手足もすらりと長く、無駄なく引き締まった肉体は自然と健康的な美を周囲の人間に示していた。
 黒を基調とした厚手の服装は、何故か異常なほどに彼女に似合っている。いや、きっとどんな色合いでも殺音には似合ってしまうのだろう。まだ二月ということもあり寒さが激しいため、彼女もまた黒いコートを羽織っていた。
 恭也も自分が途中から上から着た黒いコートを見て、妙なところで気が合うものだと苦笑する。
 
 さて一方の殺音はというと……。
 はっきり言おう、彼女はこれまで生きてきた長い人生で最高最大にテンパっていた。
 現在の殺音の心境は―――。

 


 
 うん、髪の毛はオッケー。ちゃんと手入れしてきたし、埃とかもついてない。えっと、服は……お洒落なんて気にしたことないしなぁ。一番良さそうなモノを着てきたけど、やっぱり地味かな……。うぅ、意地張らないで冥に買い物に付き合ってもらえば良かった。
 滅多にしないけど、化粧もちゃんとしたし特に問題はないかな、うんうん。ちゃんと下着は新品の勝負下着をつけてきたし……あ、でも一度洗濯しておけばよかった。ごわごわするし、昨日慌てて買いに行ったのが、まずかったかな……。
 普段と違ってポニーティルにしてみたけど、いつもと同じ髪型の方がよかったかも。いや、でもインパクトって大切だし普段とは違うアピールをしておかないと―――うぅ、なかなかきまらないし。
 今から戻そうかな……いや、でも……。
 ああーそれよりも今日はまずは百貨店によって、そこから店内を見回った後、喫茶店で一休みしてから、ええっと……。




 

 手鏡を凝視しながらチェックを怠らない殺音に、通行人は見惚れたように足を一端止める。
 そして暫くたって、自分が立ち止まっていることに気づき、慌ててその場から立ち去っていった。そういった人間が多く、カップルの中には、恋人に抓られて我を取り戻すといった男性も多く、ある意味修羅場を作り出す原因にもなっている。
 そんな物思いに耽っている殺音の気持ちなど全く知らずに、恭也は彼女に近づいていく。普段の殺音ならば既に気づいていたはずだ。いや、公園に到着した時点で恭也の気配を察知することができたに違いない。
 だがしかし、今の彼女にはそんな余裕があるはずもなく―――。

「殺音、すまん。随分と待たせてしまったみたいだ、申し訳ない」
「―――ひゃふっほぉぉぉお!?」

 恭也に呼びかけられた殺音は意味不明な叫び声をあげながら、ベンチから飛び上がって距離を取った。
 絶世の美女ともいえる彼女のそんな奇行に、周囲にいた人間は目を丸くする。何人からも凝視されているのだが、その視線には全く気づかず、バクバクと高鳴っている心臓を胸の上から押さえて乱れている呼吸を整えようとした。

「きょ、きょ、きょうや!? どうして、ここに!?」
「……いや、どうしてと言われても困るんだが。それより悪かった。もしかして待ち合わせの時間は一時だったか?」
「え? ううん、二時だけど……」
「ああ、やはり二時で大丈夫だったか。随分と早く待ち合わせの場所に来ていたから驚いたぞ」
「そ、それは……ま、まぁ、うん。なんというか、ほらね?」   
 
 普段はどちらかというとストレートな物言いの殺音にしては、何やら言葉を詰まらせ、ごにょごにょと独り言のように呟いている。恭也としてみても、ほらねっと言われても何がほらねなのかわかるはずもなく、曖昧に頷いているだけだった。
 ようやく心臓が落ち着きを取り戻してきた殺音は、恭也の姿が普段とは異なることに気づく。彼の姿にぽわわんっと見惚れること数秒―――。

「とにかく、約束の時間より大分早いが、もう行くとするか」
「―――っ、え、あ? う、うん。そうしようか」

 恭也の呼びかけで我を取り戻し、取りあえず返事をするのだが、それがどこかうわの空だったとしても無理なかろう話だ。
 日曜日の昼過ぎに、男女二人が待ち合わせまでして揃って出掛けると言うことは、誰が聞いてもデートにしか思えない。二人の普段とは異なった服装もそれに拍車をかけるが―――実はデートでも何でもない。単純に殺音の買い物に付き合う約束をしていただけのことだ。元々の発端は数日ほど前に、病院へ見舞いに来てくれたお礼を兼ねて、喫茶北斗に挨拶に向かったところ、入り口から入ってきた恭也に気を取られた殺音は、運んでいた食器を見事に落として割ってしまった。まとめて運んでいただけに被害は尋常ではなく、さらにはコーヒーを飲んで休憩していった恭也を気にするあまりその被害は拡大していき、結果冥がぶち切れるに至る。
 食器を新しく買い足して来ることを約束した殺音に、自分がいることで彼女の集中力を乱したと多少は感じ取り罪悪感を感じた恭也もそれに付き合うことにした。それが週の頭の話であり、ようやく本日両者の予定が合い、買い物に出掛ける事ができたのだが―――恭也はデートだとは思っていないだけで、果たして殺音はどうであろうか。


 それは―――殺音の現状を見れば言葉に出さずとも誰もが一目で理解できることであった。
 今の彼女は恋する乙女そのものでしかなかったのだから。
















   

 ▼
 














 二人の買い物兼デートは平穏に終わりは―――当然しなかった。
 殺音も恭也も二人で並んでいるときはまだよかったのだが、何かしらが原因で一人になってしまうとナンパ目的で言い寄られてしまうのだ。勿論、殺音だけでなく、恭也もそれなりに大人の女性に声をかけられていた。
 その度に殺音が頑張って牽制したのだが、中々に波乱万丈な買い物になったというのが彼女の本音である。


 買い物も終え、しばらくデートを楽しんだ殺音と恭也。
 空が茜色に染まる頃には、恭也はあまり遅くなっては申し訳ないと判断し、帰宅を提案する。非常に複雑な表情で殺音は渋々とそれにしたがった。 

 だが、恭也は海鳴駅に到着した後、何故か喫茶北斗に向かおうとしなかった。
 彼の足は、そことは別の場所に向けられており、殺音は内心で疑問を感じながらも黙って愛しい男の背中を追う。
 しかし、数分も歩けば、恭也がどこに向かっているのか自ずと理解し―――喜びで爛々と瞳を輝かせながら並んで歩み始めた。  

 二人の一日の終着駅。そこは八束神社と呼ばれる神聖な地。
 既に茜色の空から夜天へと変わっているが夜の闇の中に建ちながら鳥居も神社もピカピカと光り輝いているのは、決して気のせいではない。
 十二月の下旬―――世間はクリスマスで騒がしかった時期に、跡形一つ残さず、何者かによって滅ぼされたために、神主が泣く泣く大金を支払い建て替えが行われたばかりだ。
 トントンっとスキップを踏みつつ、広い境内を進んでいく殺音は賽銭箱の前でくるりと後ろを振り返る。鳥居から少し進んだ場所で殺音の背中を目で追っていた恭也と視線があった。
 
「うん、良い場所だね。ここなら―――最後まで楽しめそうだ」

 ばさりと服がはためく音が静かな境内に響く。
 黒いコートを脱ぎ去り、それに続いて、よいしょっとかけ声をかけながら上着まで躊躇いなく脱ぐと、コートと一緒に賽銭箱の隣りに無造作にたたんで置く。 
 上着を脱いだ殺音は、誰もが思わず見とれるほどに美しい彫刻のような白い肌をさらす。暗闇にも負けない白さが、見る人間の心を鷲づかみにする。上半身と腕の半ばまでを覆う黒い薄手のシャツが、ひゅうっと吹いた夜風に揺れた。
 まだ冬の寒さが残る二月―――しかも夜ということもあり、半袖になろうものなら鳥肌がたってもおかしくはないはずだが、殺音の皮膚はいつも通りだ。いや、どこか火照ったように、身体を若干赤くしている。それはまるで今から始まることが楽しみで仕方ないかのようで……。

「じゃあ、始めよう」
「ああ、そうだな。準備運動は必要か?」
「いや、いらない。だって、私とキミとの戦いは―――」

 ―――最初からクライマックスだ―――。

 世界を揺るがす驚天動地の気配が、八束神社を含めた山々を震撼させる。
 全身の毛穴という毛穴が開き、冷たい汗が噴き出し始める。世界に終末を告げる殺気が巻き起こり、両者の放つ人外の気配が爆発的に膨れあがりながら天空を穿つ勢いで立ち昇った。常人ならば気を失わなければ正気を保っていられない、そんな禍々しい圧迫感が世界を覆い始める。

「―――覚醒【猫神】」

 力ある言霊が殺音の赤い唇から漏れた。
 ぞわっと生暖かい突風が、恭也の全身を強く打つ。二つの猫耳が頭でピョコピョコと主張をし、腰の部分から生えた尻尾がパタパタと喜びの感情を表すように揺れている。
 

「―――解放【猫神】」

 さらに続けて呪言が冷たい空気に融ける。
 幾何学的な紋様が、殺音の肉体へと浸食を開始した。彼女の白い皮膚を犯すように、次々と広がっていく。足から脚へ、脚から胴へ。胴から胸へ、胸から手へ。そして、首から顔へと―――。
 埋め尽くす紋様が頬まで浸食したところで、水無月殺音という女性は笑った。そこに恐れはなく、畏れもなく、怖れもない。数百年に渡ってあらゆる人や人外を屠って、積み上げてきた猫神の呪いに犯されながらも、楽しそうに笑っていた。彼女の瞳にはそんな呪いなど塵芥にしか見えず、己の想い人、不破恭也しか映ってはいない。

 殺音は両手を強く握りしめる。骨が音をたてるほどに強く、痛みを感じるも、その痛みにも喜びしかなく―――。
 厚い雲に覆われた夜天を見上げる。どんよりとした不吉な雲を振り払うかのごとく、彼女は最後の言霊を言い放つ。

「―――超越【猫神】」

 バキリっと空間が軋み音を確かにあげた。周囲一帯の動物全てが、身動き一つすることなく活動を停止させる。
 鳥も獣も虫も、そこに現れた魔人に恐怖で怯えながらも、逃げ出すことさえも出来ずに、嵐がさるのをじっと待つ。もしもその場から一歩でも動き出せば、殺される。そんな幻想をこの空間にいる生物達は、自ずと理解していた。そこまで恐ろしい、人外をも超越した最悪の化け物が産声をあげた。
 殺音が纏っていた重圧が、比較にならないほどに強大化する。まるで今までが蛹だったかのように、彼女は確かに今ここで最高の進化を遂げた。目の前にいる生誕した怪物を前にすれば、怯えることも、怖れることも、笑ってしまうことも、泣いてしまうことも忘却させる。あらゆる存在の正と負の全ての感情を消失させ得る、文字通りの超越者。
 殺音を浸食しようとしていた幾何学の紋様は残滓も残さず消え失せ、恭也の目の前にいる怪物は普段通りの姿で佇んでいた。深紅の瞳を爛々と輝かせ、一つ異なる点をあげるとすれば、殺音の身体を薄く覆う闇色の靄。それは一人の怪物を思い起こさせる深い闇の気配だった―――そう、それはまさに未来視の魔人が闇の衣と呼んでいた、絶対防御に瓜二つ。
 そんな彼女には不思議と、一切の力みや気負いは見受けられない。目の前の愛しい男を抱きしめたい、純粋な愛情だけを胸に秘め、両手を左右に大きく広げる。その表情は透明で、清清しささえ漂っている。夜を支配する美しく白き肉体。闇を侵食する漆黒の波動。
 
 猫神を知らぬ者は、こう語る。
 水無月殺音は先代猫神である水無月風音を超えたと。

 猫神を知っている者は、こう語る。
 水無月殺音は先代猫神である水無月風音を超えてはいないと。

 果たして真実はどちらなのだろうか。多くの者を悩ませる命題の答えは、至極簡単なことである。
 真実は後者。殺音の力は先代猫神に及んではいなかった。例え先代が、自分を超えたと認めていたのだとしても、それは違う。風音は己の力を過小評価しすぎていた。御神恭也のために命を賭ける彼女の力は、魑魅魍魎が溢れていた六百年前の時代でなお、世界最強の二人に次いでいたのだから。
 だが、恭也と出会い、戦った水無月殺音は本来の自分へと覚醒した。その力は、この世に蔓延る数多の人外を遥か後方へと置き去りにするほどの極限の高み。今まさに―――水無月殺音は先代猫神を確かに超えた。

 空気中のあらゆる水分が凍った幻覚を感じさせ、呼吸をするのにも一苦労な重圧を浴びながら、恭也は微かな笑みで口元を歪める。その笑みに含まれた意味は一つだけ―――言葉では表現できないほどの喜びだった。
 数ヶ月前には確かに恭也が勝利を掴んだ。紙一重、どちらが勝利してもおかしくはない死闘の果ての結果。それから恭也も幾つかの死地を乗り越えた。虎熊童子や天眼、祟り狐、神咲三流、大怨霊。あれからさらに力をつけたつもりではあったが、それ以上の高みに水無月殺音という好敵手は駆け上がっていたのだ。
 夜の一族ということに胡座をかかず、驕らず、彼女は恭也と同じく遙かな頂を目指して歩みを続けていた。
 それがとてつもなく嬉しい。不破恭也の心が、喜びと感謝で満ちあふれる。
 
「―――有り難う、殺音。水無月殺音。お前には感謝しかない。お前には、感謝しかできない。悪意の結晶に取り憑かれ、剣に狂うことしかできなかったこの俺が、お前との約束を忘れずに生きてこれた。それはきっと、お前だからこそだ」

 殺音が空間に軋み音を響かせたのと同等に、恭也の放つ得体の知れぬ黒く蠢いた闇の重圧が、空間を圧殺していく。
 その音は錯覚だ。だが実体を持たないはずの、目に見えぬ殺気は確かに世界を破壊するかのように、拡大を続けた。二人が放つ気配は、もはや人間や人外と言った枠組みを粉微塵に粉砕し、世界最強を名乗るに相応しき怪物としてこの場に佇む彼らを包む。

「何分で、決める?」
「一分。それで充分だよ」
「ああ、そうだな。それ以上はきっと―――」
「―――止まれなくなる」

 彼と彼女が獰猛な苦笑を浮かべ―――双眸が細まる。
 二人が地を蹴った一瞬。恭也と殺音の立ち位置が入れ替わっていた。
 それ以外に異なることと言えば、恭也が二刀の小太刀を抜いていて、殺音が右手を振り下ろしている状態で固まっていることだけだ。誰一人として認識することも許さない、超速世界。恭也にのみ許されていた絶対速度。世界の時間の流れを支配する、無言の領域。そこに踏み込んだ恭也の動きを、殺音は認識し対抗することを可能としていた。
 かつての殺音や大怨霊でさえも打ち破り、反応を許さなかった自分の超越領域に侵入してきたことに、驚きを抱くことはない。今の彼女ならば、今の猫神を名乗る超越者ならばそれくらいはするだろうとわかりきっていたからだ。

「これが―――これが、キミの視ていた世界!! これが、キミが感じていた世界!! ようやく私も、ここに来た!! ごめんよ、恭也!! キミを独りぼっちにさせていて!!」
「―――謝罪はいらない。言ったはずだ、水無月殺音!! お前には感謝しかないと!!」

 同時に振り返り、互いに静止した状態から一歩で最速へと辿り着く。
 神速を容易く突き抜け、神域も軽々と飛び越えた、音も残さぬ神代の領域。無言の世界と呼ばれるそこに、彼と彼女は狂喜を漂わせて突入する。
 恭也の両手が霞み、ぶれる。光の残滓を残しながら殺音へと迫る一瞬十斬の乱撃が視界全てに広がっていた。それら刃の軍勢を、あろうことか猫神という名の怪物は、右手のたった一振りで全てを弾き落とす。
 金属と何かが激しく激突する奇妙な衝撃音。右拳の一撃で弾かれた恭也が、両手に伝わってくる鈍痛に耐えながら後方へと飛び下がる。殺音もまた、右手に感じた衝撃を逃がすように背後へと退避した。  
 
 戦いを始めて合計数秒。二度しか刃と拳を交えていない、二人の立ち会い。
 だが、人外魔境海鳴にいるどんな人間や人外、怪物であったとしても―――何が起きたのか視認することさえできなかっただろう。速度に特化した天守翼であったとしても、最初の一撃も避けることは不可能だった。それほどに二人の世界は別の次元に辿り着いていた。それは、世界最強を欲しいがままにした御神恭也が自在に操ったとされる領域。まだ未熟とはいえ、確かにこの場にいる二人の剣士と怪物は、最強を名乗るに足る世界へと到達していた。

 殺音が頭上へと掲げた右手の五本の指を広げ空中の【何か】を掴む。
 ビキビキと破滅を告げる、人の嫌悪感を呼び起こす―――まるで硝子の窓を引っ掻いたかのような響きが恭也の耳に届く。空気中の【何か】と拮抗していたのは一秒にも満たない時間で、殺音は躊躇いなく頭上から恭也へと向かって振り下ろした。
 
 ぶわっと死の風が巻き起こる。自分が死んだと錯覚するほどの、絶望の突風が生み出された。空間に創り出された五本の爪痕。殺音が空間に残した傷痕が、五つの三日月の真空の刃―――空間断裂に至った衝撃刃が恭也を切り裂き、後方に建っていた八束神社の賽銭箱を裁断、続いて本殿への扉を細切れにし、本殿を破砕。そのまま突き抜け、さらに後方に広がっていた森の木々を薙ぎ倒し、切り刻みながら彼方へと消えてゆく。
 切り裂いたと思われた恭也の姿がぶれ、跡形もなく消え去る。それに全くの注意を払っていなかった殺音は、大幅に右手へと逃げていた恭也に襲い掛かった。
 あまりの破壊力に、ぶるりと一度身体を震わせた恭也は、宙から舞い降りてきた殺音の左の拳に両手の小太刀を合わせて斬り弾く。全く同時とも言えるタイミングで叩き込まれた雷徹が二重の衝撃を殺音の拳に伝えるも、それに一切の怯みを見せない。
 
 徹を超えた純粋な破壊力が伝えてくる衝撃が、波動となって小太刀へと叩き込まれる。
 まずい、と判断した恭也は、後方へと逃げ飛ぶことによって両の小太刀を折られる事を回避した。その判断も神技だ。コンマ一秒の遅れがあれば、小太刀ごと恭也は捻りつぶされていたのだから。
 地面に降り立った殺音が轟音をたてる。地面に敷かれていた石畳を粉砕、パラパラと舞い散る残骸と砂埃。殺音の全身を覆い隠していた埃が揺らぐ。それが揺らいだ瞬間には、既に彼女は恭也の間合いに踏み入っていて、愛する剣士の肩を掴んでいた。見た目は長身痩躯の女性の肉体。だが、掴まれた肩から伝わってくるのは数トン―――否、数十トンにも匹敵する大質量。
 
 人間など紙くずのように容易くひき潰す怪物の接触を、瞬時に身体を捻り回転。殺音の腕の束縛を切ると、大質量の衝撃と回転の勢いを殺さずに、弧月を描いた小太刀が彼女の延髄に叩き込まれた。
 肩から切り離された腕に小太刀を這わせ、殺音の突進力の方向を正面から斜め下へと変更させる。前に立ち塞がる者は如何なる者も、物も粉砕するであろう怪物の突撃力は、そのまま地面へと吸い込まれていく。
 おまけとばかりに延髄に斬り放った斬撃で威力を増強。爆発音とも聞き取れる大衝撃。地面が爆撃を受けたかのように、地が穴を空けた。追撃をかけることもなく、吹き飛ぶ土や埃とともに、跳躍。 
 砂埃が止んだその場所で、水無月殺音は怪我一つなく、傷一つなく、笑っていた。
 恭也はその異常な姿に戸惑うことは無い。この程度で目の前の怪物をどうこうできるとは一切考えていないからだ。また、殺音も下手をしたら恭也を死体へと導くことになる威力の破壊を躊躇なく撒き散らしているが、それは信頼の為せる行為だ。恭也ならば、全てを予定調和の如くかわしつづけると。いや、狂いきった愛情と言い換えたほうが正しいのかもしれない。

 そんな水無月殺音の恭也へ対する想いは、彼を慕う人間達と少し異なっている。
 例えば、高町美由希は高町恭也を尊敬していて、兄であり師である彼の背中に追いつこうと日々鍛錬を積んでいる。
 城島晶も美由希と同じだ。幼い頃に出会って以来兄と慕い、師匠と尊敬して、彼の背中を美由希と同じように追っている。
 鳳蓮飛は、二人と違う。戦うということを好まない彼女は、日常という面で師である恭也の帰るべき場所を守っていようとしている。
 リスティ槙原はさらに特殊だ。見惚れるほどに研ぎ澄まされた一本の刀。高町恭也という剣士が到達した、剣の極地。それに魅せられてしまった。ただの人間が磨き続け、辿り着いた一種の狂気に。剣に命を捧げるという存在を知らなかったが故に、心を奪われてしまった。遠き昔の、エルシートゥエンティと呼ばれていた、感情の希薄だったあの時代、自分が求め続けていた理想を恭也に見た。
 天守翼はというと、恭也の背に追いつき、彼の隣で支えようと剣に磨きをかけていた。今のままでは決して届かないと気づいている彼女は、天守翼という人間を知るものならば到底信じられないほどに鍛錬に命と時間を費やしている。

 そして殺音は―――恭也の【好敵手】であろうとし続けていた。
 背中を追うのではなく、横に立って支えようとするのするのでもなく、恭也の【前】で、彼を満足させつづける敵たらんと心に決めていた。
 水無月殺音は、高町恭也に好意を抱いている。尊敬もしている。これ以上ないほどに、どうしようもないほどに、殺音は恭也という男を愛していた。魂までも痺れさせ、心の臓まで甘く凍えさせる。彼と一緒に居るだけで身体中が蕩けるような感情が支配していくる。
 愛しているからこそ、恭也の前に立つ。愛しているからこそ、敵であり続けようとする。
 水無月殺音は、心に刻んでいる。高町恭也という底知れぬ闇を抱えた剣士を満たし続ける―――最高の女たれ、と。

「あぁ!! あぁ!! 凄いよ、恭也!! わかるかい、恭也!! 私の気持ちが!! 私の想いが!! 私の、私の、私の―――!!」
「―――ああ、わかっている!! 理解している!! 言葉にせずとも、それくらい!!」
「愛死てる!! 愛死てるんだ!! 愛死てるよ!! 愛死続けるよ、キミを!! 私が死ぬまで!! いや、私が死んでも離さない!! 忘れさせてやるものか!! キミの心に!! 魂に刻んであげる!! ねぇ、恭也!! 恭也!! 恭也!! 恭也!! 恭也ぁぁぁあああああああああああああああああ!!」
 

 殺音は猛る。これ以上ないほどの歓喜に打ち震えて。
 殺音は吼える。これ以上ないほどの幸福に打ち震えて。
 殺音は叫ぶ。これ以上ないほどの愛情に打ち震えて。

 十年以上も昔に幼き恭也と邂逅したあの日以来―――不破恭也という男に狂った、一匹の怪物が牙を剥く。
 
 戦闘開始からこの間僅か二十秒。両者は再び無言の世界へと加速する。
 殺音が踏み込むと同時に空間を断裂させる左の横薙ぎを正面へと放つ。先程と同様に、抉り取られた空間が悲鳴をあげながら五線の爪痕が生み出された。その不可視の刃を跳躍して回避した恭也の切り落としの一撃が、不吉な煌きを残しながら殺音の頭上に叩き込まれる。
 切り落とされる小太刀と振り上げられる拳。拮抗するのは一瞬で、宙からの重力と体重を乗せた恭也の身体が後方へと弾き飛ばされる。ミシミシと小太刀が悲鳴をあげるのを聞きながら、眼前へと迫ってきていた殺音の左手が斜め上から打ち下ろしてくるのを、恭也は視界に捉えた。

 破壊者の鉄槌が振り下ろされ、何もかもを打ち砕く拳の軌道に合わせた小太刀が、その一撃の破壊力を真下へと流す。拳が地面に着弾し、大穴が開けられる。四方八方に砂や小石が撒き散らされて視界が塞がったその空間で、恭也の小太刀が濁った視界を断ち切って振り下ろされた。砂埃を切り裂いた光の刃が、殺音の右胸を貫く。
 だが、これでは駄目だと恭也は手応えから感じ取っていた。天眼と戦ったときのように、この程度の攻撃では彼女達が纏う闇の衣を突き破ることはできない。小太刀は胸を貫く僅かに手前で止められていた。

 殺音は瞬時に胸を突き破ろうとしている小太刀を掴むと、力任せに振り回す。抵抗しようとした恭也を嘲笑い、彼の肉体はまるでボールのように放物線を描いて放り投げられた。凄い勢いで視界の景色が変化していくなか、恭也の身体は八束神社の壁をぶち破り、本殿の中でなんとか体勢を整えて着地する。
 パラパラと木屑が舞い散っている最中、恭也は後方へと跳び下がり、小太刀を四閃。大人が通れる大きさの穴を創り出すと、そこから外へと飛び出した。そんな恭也の姿を追って、不可視の衝撃刃が荒れ狂い、建物を切り刻み、粉砕していく。もしも本殿から飛び出すのがもう一秒でも遅かったならば、殺音が放った空間断裂に巻き込まれていたのは想像に難くない。

 だが、殺音は恭也の行動を読んでいたのか、背後から感じ取れる空気の微かな流れ。異質感。
 振り向きながら両の小太刀を十字に構えたその刹那、小太刀を通して伝わってくる凶悪な衝撃。振り向いた恭也の視界に入ったのは、真後ろから一直線に、躊躇いもなく突撃してきた殺音の前蹴りを紙一重で小太刀防ぐことができた光景だった。
 受け止めた小太刀のみならず、両腕ごと粉砕しようと暴れまわる衝撃を、再度下へと流し伝える。蹴り足が、土を抉り、逃がされた衝撃が地面をはつる。
 恭也の全身が筋肉を引き絞る。空気を深く取り入れ、指先にまで染み渡ったのを確認。秒間十を超える乱撃が、殺音の肉体に叩き込まれた。足に、脚に、胴に、手に、肩に―――最速を持って繰り出された刃が自分に喰らいつくのを見届けながら、殺音は口元をゆがめる。
 死の刃が支配する近距離において、殺音は注意を払うことなく逡巡なく右手を突き出してきた。掴まれたわけでも、殴られたわけでもないが、右手が近づいてくるだけで言い様のない圧迫感を自然と受ける。集中していなければ、恭也といえどそれだけで気が遠くなるほどの重圧だ。

 生憎と殺音の絶対防御を突き破る目途はたってはいない。単純な話、殺音は攻撃にだけ専念できる。人外をも超越した怪物が、防御も考えず襲い掛かってくる姿は、それだけで恐怖を呼び起こす。
 迫りくる右手を断ち切ることは出来ないが、攻撃の軌道を逸らすことは恭也になら可能であり、それが今現在の唯一の防御方法だ。恭也ですら、逸らすことしかできない殺音の破壊を褒めるべきか、猫神という怪物の攻撃を逸らせる恭也を褒めるべきか。

 そんな巨人の掌の幻覚を感じさせる、殺音の拳へと恭也は踏み込む。
 姿勢を低く、殺音の死角に入り込んだ彼は、通り過ぎるついでに相手の軸足となっている左足を小太刀で払う。払いあげた足に腕を添え、回転を加えて跳ね上げる。
 宙で上下逆さとなった殺音が驚きの表情を浮かべるも、横一閃。頚動脈を狙った研ぎ澄まされた斬撃は、やはり闇の衣に防がれて決定打には為らず。ふっと息を吐いて、切っ先をピタリと腹部に添えた。

 両足が地面を踏み砕く。大地が怖れた悲鳴をあげる。世界を轟かす震脚が、山間に響き渡った。
 全身のあらゆる筋肉が、骨格が連動し、一瞬ともいえぬ刹那の時に爆発的な力を解放させる。上半身と下半身が一切の無駄なく連結し、放たれるは零距離からの奥義之参射抜。手を捻り小太刀が抉りこむように、殺音の腹部を貫く―――には至らず、凄まじい勢いで弾き飛ばされた殺音は見る影も無くなった八束神社に激突。壁を破壊しながら逆側の壁をさらに突き破り、先ほどの恭也と同じく神社の向こう側へと飛ばされた。両足を地面に叩きつけ、勢いを殺し体勢を整える殺音の眼前でバラバラと木の屑が激しく彼女の前で散っている。
 
 神社を突き抜けた自分と同じ経路で追って来るか。それとも上の屋根伝いにくるのか。それとも回り込んで向かってくるのか。殺音の瞳が獣のように縦に裂け、爛々と赤く輝いている。どの方向から来たとしても、見逃さない。そんな意思を秘めた彼女の視覚を潜り抜け、恭也は既に背後にゆらりと亡霊の如き立ち姿で存在していた。
 
 背後で立ち昇った剣気に、殺音は背筋を凍らせる。振り返るよりも速く、叩き込まれるのはこれまで以上の斬撃乱雨。目の前に立つあらゆる生命を喰らい尽くす、魔人殺しの剣閃が夜の闇を白銀に照らした。殺音でさえも何度の斬撃を叩き込まれたか理解できない、二十を超える乱撃が余すことなく殺音の肉体に斬りこまれるものの、斬の極みに達したそれらのどれ一つとしても彼女の肉体を傷つけることは不可能だった。 
 
 再度弾き飛ばされた殺音は何度目になるかの八束神社の壁を破壊。本殿の中へと叩き込まれたその時、両足を地面で蹴りつけ跳躍。頭上に迫った天井を、振り上げた一撃が貫き巨大な穴を開けた。その穴から飛び出た殺音は、屋根へと着地し、眼下で疾駆していた恭也の姿を発見すると同時に空気を引き裂く。空間を断裂させた衝撃刃の荒波が、恭也へと追撃をし、決死の思いでそれらを避けた彼の頭上から、狙い済ましたかのように怪物が飛び降りてきた。
 放物線を描くようにではなく、一直線に恭也へと迫る。それは放たれた矢のように。獲物に襲い掛かる肉食獣のように躊躇いは無い。漆黒の弾丸が、渾身の力を込めて拳が振りぬかれる。

 流石にこの一撃の衝撃は殺しきれないと咄嗟に判断した恭也は大きく間合いを取るように動く。地面を強く蹴りつけ、後方へと避難したと同時に爆音が轟く。舞い飛ぶ埃が衝撃波によって吹き飛び、殺音が突撃した地面から巻き上げられた破砕礫が周囲に散弾の如く飛び散った。
 小さなクレーターを作り出し、その半円形に抉られた最下層にて、四肢を地面につけて顔だけを見上げている怪物は、こんな殺戮劇には相応しくない―――いや、こんな殺戮劇だからこそ相応しい笑みを口元に浮かべ、目を見開いて恭也だけを凝視している。
 
「―――不思議だね!! キミとこうしている時間が何よりも楽しいんだ!! 心の底からそう思う!! 私とキミだけのこの世界!! 最高で、最高に、最高の―――時間だ!!」

 恭也と殺音がぶつかり合う所々に散りばめている無言の世界。その世界は恭也は無論のことだが、殺音とて突入するのは至難の領域。本来ならば、互いに二、三度が限界のはず―――だった。だが、すでに二人の突入回数は数度を超え、それでも再び彼らは二人だけの世界へと舞い戻る。
 限界に辿り着き、そして限界を容易く超えて二人は互いの魂を削りあう。それはきっと、不破恭也と水無月殺音という両者が認め合った好敵手同士だからこそ為し得る本来ならば決して有り得なかった奇跡。



 理解しているはずもない。
 理解出来ているはずもない。



 だが、二人は確かに自分達の全てを互いに見せ付けるようにぶつけ合う。




 

 二人の歪みに歪んだ愛情表現は、未だ終わりを告げることはなかった。
























 ▼




















「―――驚きました」

 未来視の魔人は自分が気がつかぬうちに、そんな言葉を漏らしていた。
 恭也や殺音が戦っていた八束神社から遠く離れたある場所で、天眼は片方しか開けてはいない瞳をこれ以上ないほどに大きく広げ、半ば呆然としている。
 その姿を、彼女を知っている者が見れば逆に驚かされたかもしれない。常に不吉な笑みを崩さない魔人でも、このような表情をするのか、と。
 
 天眼が腰をおろしている場所。そこは八束神社が存在する山とは少しばかり離れた所に位置する。といっても周囲は鬱蒼とした木々に覆われているというわけでもなく、道はきちんと舗装され、登山者達も時々みかける人気の山だ。時間が時間だけに、今は人っ子一人見受けられないのは当然のことだが。その一画にある石造りのベンチに彼女は座っているところであった。

 本来ならば恭也達を視覚できる距離ではない。だが、天眼は何かしらの方法を使ってか、確かに伝承墜としと猫神の戦闘を見物していたのだ。その一分という短い死闘を最初から最後まで見続けていた唯一の見学者である彼女の感想が―――。

「まさか、彼女が無言の領域に侵入してくるとは……。ありえない―――いえ、或いは水無月殺音が生存していれば、こうなった未来もあったというわけですか」

 カリッと何かの音が天眼の耳に届く。
 何かと思えば無意識のうちに右手の親指の爪を噛んでいたらしい。奇妙なほどに心がささくれ立っていく。ざわざわっと言葉では表現できない嫌悪感が胸の内を支配していっていた。
 この感情はなんだろうかっと、天眼は視線を鋭くする。遥か遠方にて、恭也と笑いあっている殺音の笑顔をもう一度ねめつけるように視界に入れた彼女は―――。

 ぶちり。

 歯が爪を噛み千切る音と感覚。知らず知らず、歯に力を込めていた天眼が、唾液と一緒に地面に吐き捨てる。
 ころんっと噛み千切った爪先が転がった。天眼は笑みを深くしようとして、止める。頬が引き攣った様に、言うことを聞いてくれない。この気持ちは初めて―――ではない。遠い昔。気が遠くなるというレベルではなく、もはや遥かなる太古の過去。【第三位】の怪物として世界の頂点に君臨していた、世界の思い出。
 あの時代に感じたことがある、もう自分には存在しないと考えていた青臭いモノ。

「―――嫉妬、ですか、これは」

 笑顔を消し去った天眼は、ゆっくりと立ち上がる。それと同時に石造りのベンチは闇に包まれ、一瞬でこの空間から溶けて消えた。ゆらりと幽鬼のように見えるその姿は、どこか危うさを醸しだしていて、声をかけるのも憚られる恐怖感を撒き散らしていた。

「結局は、終末は一緒。ならば、水無月殺音。貴女にはここで―――」

 彼女は、笑っていない。だからこそ、恐ろしい。
 地面に立っているだけの彼女の足元が、闇に侵食されていく。この場にいるだけで、魂まで喰われていく圧迫感を発しながら、未来視の魔人は一歩を踏み出す。
 その気配は尋常ではなく、ありとあらゆる人外も凌駕せし凶悪さを秘めていた。彼女こそがアンチナンバーズのⅡ。数百年に渡って、世界最強と認められた剣の頂に立つ者と酒呑童子と唯一単騎で渡り合うことができた人外の中の人外。
 そう―――全盛期の彼らと、戦うことができた現存するただ一人の怪物なのだ。
 もはや酒呑童子と彼の配下しか記憶に無い事実。それはつまり―――。

「―――そなたが実質の世界最強と名乗っても異論は出ぬことだろう」
「っ!?」

 嫉妬に身を焦がしていた天眼が、背後に生まれた気配に気づき地面を蹴りつけ右へと跳躍したのと、女性の声が響いたのは同時の出来事であった。
 退避は数十分の一秒という短さで遅れ、天眼の左手に灼熱の激痛を生み出す。
 
 空中に散じる鮮血が、パシャリっと音を鳴らしながら地面を濡らした。
 恭也の斬さえも容易く凌いだ闇の羽衣をあっさりと無効化した張本人―――ざからは、天眼から幾分か離れた場所で優雅に佇んでいた。珍しく忌々しげにそれに舌打ちをした未来視の魔人は、無事な右手で途中から食いちぎられた左手を撫でると、それだけで溢れ出ていた血液がピタリと止まる。

 その魔法のような技に驚くでもなく、ざからは唇の端から滴り落ちそうになっていた一滴の血液を手の甲で拭う。それが異常なまでに美しく妖艶に感じられた。


「……国喰らいの魔獣。貴女が何故このようなところに?」
「なに。我の住処に近しい場所にそなたのような輩がくれば何事かと気になるのも当然であろう」
「気配は消していたつもりでしたが……」
「ふん。どれだけ消そうとも、あふれんばかりの血臭は消すことは出来ぬ」

 クンっと鼻を鳴らしたざからは、淡々と語る。
 その姿は普段の彼女と同じように見えるが―――どこかがおかしい。なにかがおかしい。

 まるで今にも爆発しそうな火山を目の前にしているかのような異様で異質な重圧を滲ませている。


「本来ならば我が手を出すことではない。そなたが執心なのはあの剣士殿なのだから。うむ、我が関わることではない」


 ぞっとするほどに冷たい眼差しでざからは、天眼の全身をあますことなく刺すように睨み付ける。



「だがな、かつての友との約束を果たすときがきたということだろう。なぁ、未来視の魔人よ―――」




 膨れ上がる邪気。あの天眼でさえも、背中が粟立つのを止める事が出来なかった。
 周囲一帯の全ての生物が恐れをなして、縮こまる。
  
 完全解放状態の水無月殺音にも匹敵―――或いは凌駕しかねない触れるだけで全てを押しつぶす圧力を発しながら、遥かなる空の頂に座する神すらも喰らいし獣が獰猛に口角を吊り上げた。







「―――そなたは今ここで死ね」


 
























 ▼
























「ふむ……一人、というのも中々に物足りないところもある、か」



 殺音との激闘から数日の時が流れ、恭也は八束神社の裏手で何時ものように鍛錬を行っていたが、彼の口から自然とそんな台詞が零れ落ちる。
 本日は美由希はさざなみ寮でお泊り会があるとのことで、恭也一人で鍛錬を行っているのだが―――。


 本来ならば、恭也一人の時確実といって良いほどに姿を現すある人物がここ数日姿を見せていないことに、心のどこかで何かしらの引っ掛かりを覚えていた。


「全く。あの人は姿を見せているときも見せていないときも、困らせる人だ」


 夜の闇を断ち切る一筋の銀光。
 シャランっと綺麗な金属音が、周囲に木霊する。

 それに満足気に頷いた恭也は―――。



「―――今度会ったときにはもう少し話を聞くとするか」

  


 そう独白すると、一人鍛錬を続けるのであった。






















 それから三日が過ぎた。
 しかし、ざからは姿を現さなかった。


 さらに一週間が過ぎた。
 しかし、ざからは姿を現さなかった。


 二週間もの月日が流れ―――。

 それでも、ざからは姿を現さなかった。






















 ▼

 











 時間は少し巻き戻り、恭也と殺音が殺し愛をした翌日の朝。
 八束神社の階段をのぼる一人の少女がいた。

 朝日に映える巫女服姿。
 ほのぼのとした雰囲気を漂わせ、ゆっくりと階段を上っていく傍らには、小さな狐が一匹。
 即ち、神咲那美と久遠である。

 本日は学校が休みと言うこともあり朝から巫女のアルバイトに精を出す予定で来たのだが―――神社の境内へと辿り着いた所で固まった。
 那美も久遠もゴシゴシと眼をこすってみるが、彼女達の視界に広がっている光景は変化しない。

 鳥居は薙ぎ倒され、神社は本来の姿が思い浮かばないほどに粉砕され、言葉にだせない程に荒れ果てたアルバイト先の神社。
 おかしい。こんなはずがない。先日まで確かにここには神社があったのだ。
 しかし、幾ら見てもそれは事実でしかなく―――。

「ぇぇぇ!? ぇぇぇぇえええええええええええええええええええええええええええ!?」
「くぅ、くぅぅぅぅぅぅぅぅうううううううん!?」


 那美と久遠の魂の雄叫びがあがった。
 再来! 八束神社壊滅の日。海鳴では毎年この月日は何時しかそう呼ばれることになったという。




























-----------atogaki--------------


 一年と半年振りくらいにお久しぶりです。
 他の小説に浮気をしていたため&リアルが立て込んでいたため更新が遅れました。
 け、けっしてわすれていたわけでは……。

 オリジナルの小説ももうちょっとで終わりそうなのでそちらがおわったら本格的に龍変を再開させたい……かなーなんて思ってます。待っている方がいるかどうかわかりませぬが。

 なんとか完結させたいっす……ええ。

 オリジナルの方も読んでいただいている方がいらっしゃるようで御礼を申し上げます。
 




[30788] 登場人物紹介
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:636c9534
Date: 2013/02/21 22:00










【高町恭也】
海鳴在住の元不破の一族の青年。幼児ホイホイ。狂人ホイホイ。様々な異名を持つ。伝説級の怪物をも打ち倒せるほどに剣に狂った人間最強の一角。本編開始時高校三年生。でも、一年留年しているので他の同級生より一歳年上。御神流の奥義は全て使用可能。神速と神速重ね(神域)を自在に使いこなす。三段神速(無言の世界)の世界にも踏み込みつつある。御神流創始者のみが使いこなしていた御神流裏も、独学にて完成させた。




【高町美由希】
高町家の次女的存在。永全不動八門御神流の宗家の血筋をひく残り少ない少女。剣の腕は恭也には及ばないが、他の人間からしてみれば化け物級。本編開始時高校一年生。



【山田太郎】
天性の才を持つ風芽丘学園二年。その才能故に自分と渡り合える人間をさがしていたところ美由希出会う。なのはを誘拐して戦いを挑むも瞬殺。その後巻島十蔵に弟子入り。


【水無月殺音】
世界に仇名す人外達の寄せ集めアンチナンバーズと呼ばれる集団の八位。伝説にも名を残した【猫神】と呼ばれた女性の後継者。人猫族(ワーキャット)の純血。本気を出したら猫耳と尻尾がはえる。恭也が幼い頃にあって以来、再会を願っていたところ、十年以上も経ってようやく巡りあう。兎に角強い。出鱈目に強い。肉弾戦ではアンチナンバーズでもトップクラス。暗殺集団北斗の長。通称破軍。


【水無月冥】
殺音の血を分けた妹。暗殺集団北斗の長は殺音だが、組織の実質的なリーダー。姉の破天荒さに頭と胃を痛めている作中では数少ない常識人。本気を出す時は殺音と同じく猫耳と尻尾がはえる。姉があまりにも規格外すぎるので目立っていないが、実はかなり強い。速度に特化したチビキャラ。通称武曲。


【北斗構成員】

【貪狼】
水無月冥に幼い頃に拾われたため、彼女には頭が上がらない。武器は短剣。

【巨門】
北斗で最も身長が高い筋肉質の男。北斗で一番立場が弱い。武器は拳。

【禄存】
殺音を神のように崇めている男性。武器はレイピア。 

【文曲】
常にマフラーで口元を隠している女性。感情を見せにくい。武器は槍。

【廉貞】
日本語が微妙に片言の青年。殺音や冥を除けば、一応は纏め役。武器は拳。



【天守翔】
永全不動八門の一。天守流一刀術の次期後継者候補の一人。冷静沈着にみせかけて、意外と気が短い。永全不動八門の黄金世代と呼ばれる原因の一人。剣術と体術を組み合わせた戦い方を好む。その原因は剣術だけでは姉を追い越せないと判断したためらしい。和服を好み、学校以外ではそれを着ている場合が多い。年齢は美由希と同じだが、実戦経験は遥かに上回っている。通称【狂剣】。


【天守翼】
永全不動八門の一。天守流一刀術の使い手。翔の姉だが、産まれついての才能があまりにも他とは桁が違いすぎたため、自分以外を同じ人間と見ることが出来なくなった。唯我独尊。三年前の永全不動八門最凶最悪の会談にて、恭也と出会い【何か】があって以来随分と人間味を帯びたらしい。翔と違って冷静沈着なのだが、恭也が関わることにはキレル若者に早変わりする。速度に特化した剣士で、御神流でいう神速―――天守流では天翔を自由自在に使いこなす。現在十七歳。


【永全不動八門】

【葛葉弘之】
永全不動八門の一。葛葉流槍術の使い手。自分が負けたと思わない限りは真の敗北ではないという信念を持つ。成長速度、鍛錬の量ともに尋常ではない。色んな意味で不幸に遭遇しやすい体質。

【鬼頭水面】
永全不動八門の一。鬼頭流針術の使い手。身長がちっこいのを結構気にしている。悪戯好きな変わり者。実は相当に強いものの、下手に実力を見せびらかして面倒ごとを背負いたくないという理由で、滅多に本気は出さない。翼の数少ない友人。現在二十九歳。

【如月紅葉】
永全不動八門の一。如月流掌術の使い手。可愛らしい外見とは裏腹に、如月に若き鬼ありと称されるに至った少女。如月の技はあまり使えないが、基本技術が飛び抜けている。現在十六歳。

【小金井夏樹】
永全不動八門の一。小金井流杖術の使い手。起きてるのか寝ているのかわからないほどに目が細い。現在十六歳。

【風的与一】
永全不動八門の一。風的流弓術の使い手。昔気質のところがある少年。意外と秋草と仲が良い。現在十七歳。

【秋草武蔵】
永全不動八門の一。秋草流弦術の使い手。髪も長く、仕草も女っぽい。実はそっち系ではないかとちょっと疑われている。現在十七歳。





【剣の頂に立つ者】
アンチナンバーズのⅠ。六百年前の本名御神恭也。三百年前の本名は御神ムクロ。六百年と三百年ほど昔に現れた剣を極めた者。六百年前は猫神と全殺者の二人を従え、魔導の王も力を貸していた世界最強戦力。三百年前は御神骸とも名乗っており、百鬼夜行を拾い育てていた。どちらともが神速、神域、無言の世界に突入可能。六百年前と三百年前で別人という説もある。


 
【天眼】
本名不明。アンチナンバーズのⅡ。未来を見通すという瞳を持つ魔人。アンチナンバーズの創設者とも言われている。同族からも狂人と呼ばれる女性。プラチナブロンドが美しい、外見だけは天使の如き姿。滅多に戦う姿は見せないが、かつては剣の頂に立つ者や酒呑童子、魔導の王と戦っていたらしい。恭也に有り得ない位に拘っていて、愛も憎も全てを欲しがっている変わり者。


【執行者】
本名不明。アンチナンバーズのⅢ。純血の人狼で、強大な霊力を自在に操る。夜の一族と人の世の境界線を踏み越えた者達を監視し、あまりに逸脱しすぎた者を粛清する役目を担った変人。親がいない人間の子や夜の一族の子を集め孤児院を作ったりもしていた。数年前に魔導王を封印した直後から行方不明。



【魔導の王】
本名はアルスだが、女性の振りをしている時はアルストロメリアと名乗る。アンチナンバーズのⅣ。天眼や酒呑童子と同じく最古参の魔人の一人。身長百四十程度の、超絶的な美少女―――に見せかけた美少年。初見の人間は百人中百人が少女と見間違える。本人も女性のような振る舞いをするため、会う人会う人が騙される。それは単純に、相手を騙すのが面白いためやっていたのだが、六百年ほど前に御神恭也に初めて会って、胸キュン。それ以来、拠点を日本に移し御神恭也のストーカーになった。あらゆる魔術に精通しているといわれているが、肉弾戦も超強い。酒呑童子が御神恭也と戦うときは大抵力を貸していた。御神恭也が死んだ時には、酒呑童子が恭也に戦いを挑み続けてきたためその苦労で寿命が縮まったと逆恨みし、単騎で大江山を襲来したという曰くもあり。その後裏舞台からも姿を消し、隠居生活をしていたのだが、度々人里に現れては壊滅させるといった姿が目撃されていた。その被害は数百万にも及ぶという。そんなことが長年続いたため、執行者と魔女、その他の人外達の手によって封印されてしまった。




【酒呑童子】
アンチナンバーズのⅤ。通称鬼の王。千年という長きに渡って大江山を拠点として暗躍していた鬼。六百年前は、御神恭也と並んで世界最強の名を欲しいままにしていた。特に異能力は持たないが、大地を粉砕する力と如何なる攻撃も通さない身体の頑強さが強み。ある約束のために人を食べることを辞めているため現在では、常に飢餓に襲われている。それを抑えるためにほぼ全ての力を費やしているので、単純な戦闘力という面では六百年前と比較できないほどに落ちている。それでも強い。圧倒的に強い。アンチナンバーズの伝承級でも最低三人がかりでないと止めることもできない。現在の実質的な世界最強の怪物。


【伝承墜とし】
アンチナンバーズのⅥ。最悪の魔人として知られていた吸血種の前六位人形遣いを単騎で打ち破った例外中の例外。三年前に日本のとある地方で死闘を繰り広げた結果、伝承墜としが勝利を勝ち取った。その戦いの見届け人は未来視の魔人。種族性別年齢等といった情報は全て不明。


【百鬼夜行】
アンチナンバーズのⅦ。本名不明。戦闘ということに特化した人外中の人外。種族は鬼。略奪という能力があり、殺した相手の命を奪い取ることが出来るため、何度死んでもストックされた命がある限り、実質的に不死。三百年前の剣の頂に立つ者である御神骸に憧れており、彼が死んだ後世界最強になることによって御神骸に近づこうとしている。基本的に強い者以外には興味を持たないが、気まぐれで虐殺するときもあるため、コントロール不能な爆発物的な怪物扱い。


【猫神】
アンチナンバーズのⅧ。本名水無月風音。古くは六百年前の御神恭也に従っていた怪物の一人。速度に特化した人猫族。数多の人間、人外、同胞を殺し続けてきたため恐れられている。酒呑童子とは何度も戦ってきたが、結局一度も勝利することは出来なかった。六百年後の現在、寿命で死亡。猫神の名は殺音に受け継がれている。


【魔女】
アンチナンバーズのⅨ。本名不明。剣の頂に立つ者や伝承墜とし並に不明点が多い怪物。自分の研究所にこもり、魔術の研究に生涯を費やしているという。その正体を知っている者は天眼一人のみ。戦闘力という点では、伝承級の中で最弱。


【大魔導】
アンチナンバーズのⅩ。本名不明。魔導の王に三百年ほどまえに拾われて育てられた青年。あらゆる魔術を使いこなす。封印された師の魔導の王を解放しようと色々と画策している。


【茨木童子】
アンチナンバーズのⅩⅠ。酒呑童子の片腕であり、副頭領。水無月冥や鬼頭水面を下回るちびっこ。でも、その怪力は計り知れず、酒呑童子にも匹敵する。御神恭也に叩きつぶされた経験あり。それ以来何度も戦いを挑み続けたが、結局一度も勝つことは出来なかった。御神恭也に複雑な感情を持っている。

【鬼童丸】
アンチナンバーズのⅩⅡ。酒呑童子の片腕であり、副頭領の一人。酒呑童子よりは頭一つ低いが、十分な巨漢。だが、顔立ちが女性に近く優男にもみえる。御神恭也に叩きつぶされた経験あり。それ以来何度も敗北を喫し、彼に対して複雑な感情を持つ。両腕で触れた者を凍らせる特殊な能力あり。

【金熊童子】
アンチナンバーズのⅩⅢ。酒呑童子が擁する四鬼の一体。この世に生を受けて百数十年と歳若い。数十年前に父親である初代金熊童子を百鬼夜行に殺されてからその名を受け継いだ。そのため、アンチナンバーズのⅩⅢに位置してはいるが、殆どは父親の影響ともいえる。それでもこの地位からおちないと言うことは、それだけの力と脅威を本人が持っているということでもある。

【虎熊童子】
アンチナンバーズのCM(九百)。酒呑童子が擁する四鬼の一体。その歴史は古く、千年もの間鬼の王に仕えていた女性でもある。六百年前に御神恭也に圧倒的な敗北を喫して以来、何時か彼を超え様と努力を続けていた。アンチナンバーズの序列の割には破格の戦闘力を所有している。まともにやりあえば、金熊童子よりも遥かに強い。





【御神相馬】
かつての御神流最盛期と謳われた時代においてなお、最強と称された剣士。御神宗家長男にして、静馬の兄。琴絵の弟。御神一族崩壊の日の少し前に、御神から追放されていたため助かった。以前は恭也に剣を教えていたこともある。昔は触れれば切れる的な性格だったが、娘ができて以来多少丸くなった。昔と違って義理人情を重んじる。正直言って、滅茶苦茶強い人。現在三十八歳。でも見かけだけなら二十代半ば。


【御神宴】
相馬の娘で、天真爛漫な少女。笑顔を絶やさない娘だが、得意は気配を殺してからの暗殺術。にこりと笑みを送ってから躊躇いも無く人を刺し殺せる、やっぱり剣に狂った娘。母が夜の一族のため、人と人外のハイブリッド。現在十六歳。四歳くらいまでは母方の方で暮らしていたが、相馬が御神家から出たと同時に引き取られて、世界を放浪することになった苦労人。




【不破咲】
御神流【裏】を創り上げた狂気の老婆。かつては恭也の世話役として不破家に仕えていた女性。かつての不破美影にも匹敵するとまで言われた剣士。経験や技術では圧倒的だが、七十五歳という高齢のため体力的な面では厳しいところがある。神速の使用回数にも制限がある。外国人から渡されたという願いを叶える宝石を身につけているが……。



【不破一姫】
御神流【裏】の当主補佐。現在十七歳。恭也よりは二歳年下。幼いときに博多に少しだけ住んでいたので博多弁が抜けていない。外見雰囲気ともに穏やかにみえるが、笑いながら人を殺せる。御神流【裏】では咲と一緒でもっとも龍に対して恨みの感情を持っている。神速を使いこなし―――さらにはもう一つの世界も。恭也のことを兄と呼び、人前でもごろごろと猫のように甘えてくる。どこか底知れない本質。


【不破和人】
不破咲の孫にあたる人物で、龍にかんして暴走しやすい御神流【裏】の人間達を諌める役割を担っている。だが、結局本人も深く憎悪しているためブレーキをかけるのは一度だけで、後は彼自身も暴走することが多い。咲や一姫には及ばないが、御神流【裏】でも屈指の実力者。神速の世界に入れる数少ない剣士。二十五歳独身。



【不破青子】
不破咲の孫にあたる人物で、和人の双子の妹。何事にも冷めてあたる。龍に関係することでも冷静なのだが、それは見かけだけで、誰よりも素早く殺しにかかる。神速の世界を自由自在に操れる速度特化の剣士。クールビューティーといった容姿なのだが、二十五歳独身。現在恭也募集中。


【不破六花】
不破咲の孫にあたる人物で、和人と青子の妹。まだまだ未熟ではあるが、それなりに腕は立つ。このそれなりは御神流【裏】での話であり、普通の人間からしてみれば十二分に怪物。現在十五歳。


【不破撥】
御神流【裏】では年長者にあたるが、剣士としてみれば、一姫や和人、青子には及ばず。永全不動八門と龍を滅ぼすことに命を賭ける狂剣士。自分の命を犠牲にしてでも、次に戦う仲間のために相手の戦力を削ろうとするなど、いっちゃってるように見えて意外と仲間想い。現在二十七歳。



【御神流裏 当主】
その名の通り御神流【裏】の当主。その存在を知っているものは咲と一姫、和人、青子と撥の五人のみ。他の御神流【裏】の人間には正体を伏せられている。表向きは御神美由希を当主の座に座らせようと皆が動いているのだが、彼女五人はそれを既になかば諦めている。その代わり―――というわけでもなく、最初から当主に相応しい人間はただ一人と認められている人物でもある。




【ナンバーズ所属】

【アイン】
数字持ちの一人。ナンバーⅠの通称を持つ数字持ちの統括。どちらかというと事務が得意だが、戦闘技能も高い。

【ツヴァイ】
数字持ちの一人。ナンバーⅡの通称を持つ。リアーフィン名称はライアーズマスク。妖艶な雰囲気のお姉さん。

【ドライ】
数字持ちの一人。ナンバーⅢの通称を持つ。速度特化故に神速の踊り手などと呼ばれる。リアーフィン名称はライドインパルス。数字持ち歴代最強。

【フィーア】
数字持ちの一人。ナンバーⅣの通称を持つ。リアーフィン名称はシルバーカーテン。物質の透明化が可能。実際は周囲との色彩を同化させるだけ。頭が良いが抜けているところもある。

【フュンフ】
数字持ちの一人。ナンバーⅤの通称を持つ。リアーフィン名称はランブルデトネイター。目視した場所の爆破が可能。直接人体は不可。それ故に爆殺姫と呼ばれる。恭也が気になるお年頃。

【ゼクス】
数字持ちの一人。ナンバーⅥの通称を持つ。リアーフィン名称はディープダイバー。無機物への潜行が可能という反則気味な能力。エルフと同じで底抜けに明るい。

【ズィーベン】
数字持ちの一人。ナンバーⅦの通称を持つ。リアーフィン名称はスローターアームズ。自分が精製した武器二つまでは自在にあやつることが可能。

【アハト】
数字持ちの一人。ナンバーⅧの通称を持つ。リアーフィン名称はレイストーム。直接攻撃可能な鞭状の光線を幾つも操作可能。ツヴェルフとは仲が良い。

【ノイン】
数字持ちの一人。ナンバーⅨの通称を持つ。リアーフィン名称はブレイクライナー。自在に精製可能な手甲が武器。それに含めて多少の身体能力の上昇もあり。

【ツェーン】
数字持ちの一人。ナンバーⅩの通称を持つ。リアーフィン名称はヘヴィバレル。超長距離の収縮した電撃を砲撃可能。それに含めて周囲の人間と自分に対しての視覚の感覚上昇の効果あり。

【エルフ】
数字持ちの一人。ナンバーⅩⅠの通称を持つ。リアーフィン名称はエリアルレイヴ。ツェーンには劣るものの、それに対して精密で正確な短距離での砲撃が得意。ゼクスと同じくむやみやたらに人懐っこい。

【ツヴェルフ】
数字持ちの一人。ナンバーⅩⅡの通称を持つ。リアーフィン名はツインブレイズ。精製可能な二振りの長剣を自在に振るう。ドライを慕っている。






【伝承級の変遷記録】
一位→御神恭也(大凡六百年前から四十年程度)
   御神骸(大凡三百年前から三十年程度)

二位→天眼(六百年前から変化なし)

三位→御神雫(大凡五百八十年前から三百年前まで。寿命で死亡)
   執行者(雫の後継者。大凡三百年前から現在まで。現在行方不明)

四位→魔導王(大凡六百年前から現在まで。現在封印中)

五位→鬼王(大凡六百年前から現在まで)

六位→不死王(大凡六百年前から二百年ほど前まで。人形遣いにナンバーをあけ渡して隠居中)
   人形遣い(二百年ほど前から数年前まで。不死王の後継者)
   伝承墜とし(数年前から現在まで。人形遣いを滅ぼした唯一の伝説を崩したもの)

七位→雷獣(六百年前から五百年前まで。食あたりで死亡)
   巨人(五百年前から四百年前まで。散歩していたら隕石にぶちあたって死亡)
   剣姫(四百年前から二百年前まで。寿命で死亡)
   百鬼夜行(二百年前から現在まで)

八位→猫神(六百年前から現在まで。ただし、水無月風音から殺音へと引き継ぎあり)

九位→魔女(兎に角正体不明)



[30788] 旧作 御神と不破 一章 前編
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/03/02 01:02

 









八月 十日 00:13



「あは、あはははは!!っはははは!!」

 狂ったような歓喜の声が闇夜が支配する世界に響き渡っている
 月の光のみが光照らす中、二人の男女が……人の理解を遥かに超えた、命の削りあいを行っていた。

 常人では視認することさえできない超高速戦闘。
 二人が動くたびに地面が抉れていく。衝撃が、ぶつかりあう爆音が、互いの耳を打つ。

 女―――漆黒というに相応しい腰まで伸ばした髪をポニーテールに括り、顔の造形は陳腐な表現になるが、まさしく絶世の美女というしか表現しようがない。

 もっともその手に握っている白金の日本刀がなければの話だが。そんな女も、今は表情を狂喜に歪め……【真紅】の瞳を爛々と輝かせ自分と殺しあっている男を睨み付けている。
 それに対して女と相対する男は……女の髪と同じく全てが漆黒であった。

 髪も服も瞳も、何もかも。顔は女性に比べると見劣りするがそれなりの美形と言えるだろう。その両手にもつ二振りの日本刀がやはり男の異常性を高めているが。
 否、日本刀というには幾分か短い。俗に小太刀と呼ばれる日本古来の刀の一つである。

「シッ!!」

 わずかな瞬間も一箇所にとどまることのない明らかに異常ともいえる超高速戦闘のさなか、とんでもない体勢から放たれた女の回し蹴りが男の顔を砕かんと迫る。

 見るだけでその威力は知ることができるであろう、もっとも一般人なら見ることすらできずその命を刈り取られるのだが。
 男はその蹴りをほんのわずかに後ろに上体をかたむけることによってかわす。

 まるでハンマーをふりまわしたかのような轟風音を残して過ぎ去っていく蹴りを横目に、男は左の小太刀を振るおうとして-、その瞬間に地面を蹴って後ろに飛んだ。
 その僅かな後、むしろほぼ同時といえるほどの差で男の頭があった空間を女の蹴りが薙いでいた。

「あっはっは!」

 己の蹴りをかわされたというのに逆に嬉しそうに笑って……足を止めた。
 それにあわせるかのように男も数メートルの間合いを取って息を深くつく。

「楽しいなぁ……こんなにゾクゾクするのは産まれて初めてだよ!キョーヤ!」
「……」

 キョーヤと呼ばれた男は憮然とした表情のまま返答せず……姿を消した。
 そう、文字通り姿を消したのだ。まるで手品を見ているかのように一瞬で。

「んな!?」

 女の驚愕の声と同時に響く耳をつんざくように聞こえる金属音。
 どうやって移動したのか不明だがキョーヤは女の右側から首下に右手の小太刀で斬りつけ、それを間一髪のところで防がれた瞬間、左手の小太刀で追の太刀を放とうとしたのだが……。

「なめるなぁ!!」

 一声。
 女の怒号とともに明らかに自分より重いはずのキョーヤを吹き飛ばした。
 キョーヤは慌てることなく空中で体勢を整えると音も立てずに着地した。

「馬鹿力め……」
「ちょっとちょっと、レディに向かって失礼じゃない?」

 相変わらず憮然なまま呟くキョーヤにむかって女は言葉とは裏腹に変わらず嬉しそうなまま返答する。

「ところで今のとんでもないスピードの動きが噂に名高い御神の至高」

 そこで女は何故か一息つき……。

「敵対するものは神すら斬るための御技……【破神】の【神速】かい?」

「……自分の奥の手をそうそうばらすと思うのか?」
「なんだよ、いーじゃん、教えなよーけちぃ」

 ぶーぶーとまるで子供のように言ってくる女にキョーヤは嘆息する。

「……違う」
「ん?」
「さっきのは神速ではない」

「え、まぢ?すげー速かったんだけど……」
「そうだ。単純に速く動いただけだ」
「あっは! なんて化け物なんだよ、キョーヤ。スピードだけとはいえ純血の夜の一族の私とタメをはるって……」

 こりゃまいったね、と女は深いため息をついた。

「そうだな……」

 それをきいてキョーヤもまた同じくため息をついて……。

「……そうだな、俺も化け物だ……。殺音(アヤネ)、お前以上のな」

 その一言にキョーヤの気配がガラリと変わり、殺音は敏感にもそれを感じ取り今までのどこかふざけた雰囲気を消した。

「我は御神の守護鬼人。不破が有せし最後の殺戮概念到達者。我が前に立ちし者は 神すら堕とす【絶刃】の後継。殺音……己の矮小さを知って、そして逝け」

 キョーヤの眼が表情が雰囲気が全てが冷たく鋭くなっていくなか、殺音は満足そうに嘲笑った。

「ようやく本気になってくれたんだね」

 そう言って、あまりに絶対的で絶望的な殺意と殺気と鬼気が混じりあった【何か】を撒き散らしながら…… 
 殺音は日本刀を構え、真紅の瞳をキョーヤに向けた。

「これからが本番だ。命をチップにした殺し合いを始めようじゃないか!!」

 ……そして二人は正真正銘手加減なしのコロシアイを始めた。












 【ソレ】をやや離れた位置から見ているのもまた二人。
 黒髪を三つ編みにしていてキョーヤと同じ小太刀を両手に持っている高校生くらいの少女と、
 三つ編みの少女よりもずっと幼い、下手をしたら中学生にもみえかねないやや紫がかった髪をツインテールにした少女。

「……化け物どもめ」

 吐き捨てるようにそう呟いたのは顔を青白くしたツインテールの少女。
 これはなんの悪夢か。
 殺音が強いのは知っていた、今まで何度も手合わせしても笑っていなされていたのだから。

 だが、ツインテールの少女は知らない。
 あそこまで異常ともいえる殺意を発しながらなお、狂喜をばらまく殺音の姿を。
 そして夜の一族たる自分ですら視認することさえ困難な速度で戦闘を行うなどと。

「化け物どもめ……」

 再び呪詛を吐くかのように繰り返す。
 そこに込められたのは果てしない絶望。
 かりにも天才と褒め称えられていた自分が一生かかっても辿り着けない領域にいる二人に……そして自分への諦めにも似た感情。

 特に青年……高町恭也は人間なのだ。
 夜の一族である自分からしてみれば子供と大人ほどの差が産まれた時からあるはずなのだが……。
 そんな差など知ったことかと言わんばかりに殺音と互角に渡り合っている。

「人の兄を化け物扱いしないでもらいたいんだけど、冥(メイ)さん?」

 そう幾分か険のこもった声をツインテールの少女、冥にかける三つ編みの少女。
 もうすでに戦闘の意志はないのか小太刀は納刀していた。
 冥はそんな三つ編みの少女をちらりと横目にみて再び恭也と殺音の戦いに眼を向ける。

「アレをみてお前はまだ高町恭也がニンゲンだとでもいうのか、高町美由希」
「……人間だよ。修練に修練を重ねた高町恭也という人間が到達した最高にして 最強の剣士の姿」

「ハッ……言ってくれるね。たかだか二十年も生きていないひよっこ如きが」
「たかだか二十年……されど二十年だよ。私は知っているから。修練と言う言葉すら生温い日々血反吐を吐きながら積み上げた十数年……貴方たちの生きてきた時間を遥かに凌駕する密度の時間」
「……」

 ギンッと殺気すらこもった鋭い眼で冥を一瞥する美由希。

「そっちこそ嘗めないでもらいたいよ。私ときょーちゃんがともに歩んできたこの時間を」
「……言ってくれる」

 苦々しく呟いた冥から視線を眼前の戦いにもどした美由希だが……内心は冥とは真逆ともいえるものであった。
 悔しかった。

 今、自分の兄であり、師範代でもある恭也と互角に渡り合っている存在がいることに。
 そして自分が割って入れば確実に足手まといになるということに。
 例えそれが人間以上の存在だったとしても。

 美由希にとって恭也は文字通り【最強】の剣士だった。
 そんな恭也とこれほどまでの戦いができるのが自分ではない……それに嫉妬さえ感じる。
 悔しさのあまり歯が唇を噛み切ってかすかに血さえ流れていた。

「高町美由希……お前は……」

 そんな思考に割って入ってくる冥の声、心なしか若干震えている。

「アレをみて、お前はまだアソコまで辿り着けると思っているのか?」
「当然……!!」

 わずかな躊躇いすらなく頷く美由希を信じられないものを見たかのように眼を見開く冥。

「悔しいけど今の私では無理。決して埋めることのできない差があるのが事実……でも」

 美由希が纏う空気が変わる。
 諦めてなるものかと、追いついてみせると、まさに不屈の闘志の如く。

「私は剣の神に愛された高町恭也の唯一人の弟子なのだから!!」

 恭也の弟子である自分が諦めてはならないと、未だ己を高めている恭也に追いつく為にも。

「……覚悟の差か」

 くしゃりと髪を右手でかき乱し冥は眼をつぶった。

「参ったね、降参」

 自分の限界を決めつけ殺音こそが【最強】だと完全に認めた自分と決して諦めずに自分の信じる【最強】である恭也に追いつこうとしている美由希。

「勝てるわけないか……」

 そう勝てるわけなかったのだ、この少女に。高町美由希に。最初から全てを諦めていた自分では。

「ならば見届けようじゃないか。自分たちが信じる【最強】同士の決着をね」
「そうだね」

 冥と美由希はそう言って、ニンゲンと夜の一族を極めた化け物同士……高町恭也と水無月殺音の死闘に眼をやった。




 ―――二人の決着の行方は月の光だけが知っている―――。































  七月 二十五日 13:25



 その日、嵐山虎鉄(あらしやまこてつ)はとある事情により三十年来の親友であり悪友でありライバルでもあり、そして尊敬すべき友、巻島十蔵に会いに来ていた。
 学生の頃から共に空手の道を歩み、お互いに自分の流派を設立するにまで至った。と、いっても嵐山自身の流派は有名かと言われれば首を横に振らざるをえないほどの知名度ではあるが。
 だが、嵐山はそれで十分満足していた。

 はっきり言ってしまって彼自身、空手の才能はなかった。
 いや、それは正しくもあり間違ってもいる。
 確かに世の中から達人の一人とよばれるほどの腕前を持ち、そこに至れるほどの才能はあった。
 だが、学生の頃からいつも傍にいた……巻島十蔵というとんでもない天才に比べれば才能は……ということになるが。

 嵐山が一を行く間に十を飛んでいくような相手に正直な話、嫉妬を隠せない時もあった。
 だから嵐山はただひたすらに己を磨いた。
 努力に努力を重ねて……ようやく現在の……達人と呼ばれるだけの力を得たのだ。
 もっとも、巻島が努力をしていなかったかというとそれも違う。

 天賦の才に加えて信じられないような鍛錬好きとでも言うべきか……。驕ることを知らず上を目指しているのだから嵐山にとって巻島は嫉妬しつつも尊敬すべき親友なのである。
 そんな巻島を頼るべく彼の指導する道場に行って……行きなり不意打ちをくらって意識を失うことになった。










 「いやーわりぃわりぃ。つい癖で奇襲かけちまったわ」

 ガハハと笑いながら道場に隣接する応接間のソファーにふんぞりかえっている巻島の顔面におもいっきり正拳突きを叩き込みたくなる気持ちを全力でおさえながら嵐山は巻島の正面に座った。
 先ほど道場に入ったとたん遠慮なしの右回し蹴りが嵐山の即頭部に襲い掛かってきて……それを間一髪でかわすが体勢が崩れたところを巻島お得意の【吼破】によって数メートルは吹き飛ばされ気絶させられたのだ。

 道場生曰く、人間が車にはねられたかのような勢いだった……そうだが。
 そして気がついたらここの応接間まで引きずられて運ばれたようで嵐山の背中が無駄にズキズキ痛むうえにスーツが少しボロボロであった。
 巻島に会いにくるたびになにかしらとんでもない目にあっている恨みもこめてギロっと嵐山は巻島を睨み付けるが―――。

「ん?お前もくうか?」

 そういって能天気にもスっと煎餅を差し出してくる。

「……はぁ」

 そういえばこういうやつだったな、と鬱になりながら煎餅を受け取りぼりぼりと齧る。勿論、味はわからなかった。

「んで、何のようなんだ、コテツ。電話じゃ話せないとかいってたけどよー」
「ん、ああ。すまない」

 居住まいを正し気を引き締め巻島の瞳をじっとみる、

「これから話すことは決して口外しないでくれ、決してだ」
「めんどくせー話になりそうだけどよ、了解」
「まず、巻島。お前の力を借りたい。無論報酬はだす、破格といってもいい」
「ほー。で。どんな内容なんだ?」
「それはまた後で話す。ただ、命の危険がある、とだけは言える」
「命の危険ねぇ・・・」

 ゾクリっと巻島の眼を見た嵐山の背中を冷たいものが走った。
 そうだ、巻島はいつもそうだ。
 生死に関わるといっても何の躊躇もない。喧嘩が三度の飯より好きなバトルジャンキー。

 しかし、巻島は強すぎるのだ。
 もう格闘家としてのピークはすぎたはずの年齢でありながらその強さ故に【鬼の手】などとすら呼ばれ日本で五本の指に入る空手家として知られている。
 だからかもしれない、巻島は己の【敵】となる存在を何より欲している。

「上等上等、楽しめればなんでもいいぜ、俺はよー」

 ニヤリと笑って巻島は拳を握りこむ。それに内心安堵して、嵐山は言葉を続ける。

「それと、巻島。お前が知る限りでいい。お前に追随する実力と実践をつんだ猛者をできれば三人……最低でもあと二人は知らないか?」
「なんだそりゃ?俺だけじゃ不安ってことか」
「いや、違う。俺としてもお前がいれば事足りるとは思うが……何分先方からの希望でな。戦力が少しでも欲しいって事だ」

 嵐山とて自分が無茶をいっていることは理解している。
 巻島に追随……そんな人間を日本中をさがしてもなかなかみつからないであろうことは。
 自分とて、そんな知り合いはいない。だから巻島に頼るしかなかった

「んーいねぇなぁ」
「……そうか」

 別に嵐山の心に失望はない。
 逆に巻島だけとはいえ約束をとれたのは大きな成果だった。
 先ほど言った巻島がいれば事足りる、そう言ったのは別にリップサービスでもなんでもなく純粋にそう思っただけである。
 凡百の戦力よりよほど頼りになる天才、それが【鬼の手】巻島十蔵。

「お前の手が借りれるだけでも有難い、感謝する。他をあたってみることにするさ。詳しい話は後日あらためることにしよう」

 そう言って嵐山はソファーから立ち上がろうと腰をあげたその時―――。

「館長ー!師匠と美由希ちゃんがきましたー!?」

 タイミングをはかったかのように応接間にとびこんできた少年のような短い青髪の少女が……まさか客がいるとは思わなかったかのか目を白黒させてドアをあけた場所で固まっていた。
 どこかで見たことがある少女だな……と嵐山が一瞬考え込み、そして巻島の次の言葉でその謎が解けた

「お、ようやくきたか、恭也のやろー。久々に本気でやりあってみっかね。晶、お前はとっとと着替えて道場いっときな」

 晶……城島晶。以前、見た明心館空手の大会で上位に食い込んだ少女。
 他とは一線を画する才能を見せ付けた、巻島の秘蔵っ子。
 改めて近くでみると確かに、大成するその片鱗を見せ付ける。こんな才能を自分の手で育てられる巻島を嵐山は羨ましく思った。

「あ、それがその……師匠たちは、その……」

 どこか気まずそうにごにょごにょと呟く晶を訝しげに見やった巻島だが……突然不機嫌そうに晶の後ろを睨み付ける。

「けっ、一緒にきてやがったのかよ、つまんねーの」
「そう、いつもいつも奇襲をくらってたら身体がもちませんよ」

 その声をきいた途端ドクンッと激しく嵐山の心臓が波打った。
 嵐山の視線の先には……黒尽くめの青年、高町恭也と三つ編みの少女、高町美由希の二人が立っていた。

 ―――なんだ、これは。

 嵐山の本能が悲鳴をあげる。
 嵐山の理性がこの男女は【何】なのかと絶叫する。
 ゴクリと嵐山はいつのまにか口の中にたまっていた唾を嚥下し、震えていた右手を強く握り締めた。
 一瞬だが、気が遠くなったがなんとか気をしっかりもって両足に力を入れる……。

「あー、恭也と美由希。それに晶、先に道場いっててくれや」

 しっしと追い払うようなジャスチャーをして巻島が三人を応接間から追い出した。

「では、道場で」
「失礼しました!!」
「失礼します」 

 三者三様の言葉を残して道場へ向かってからおよそ一分。よろよろと嵐山はソファーに座り込んだ。
 未だ震える両手を膝の上でつよく握り締め、頬を流れる脂汗がたれスーツに染みを作る。
 そんなことさえ気にならないかのように数度の深呼吸をして、ようやく震えがとまった。

「巻島……聞きたいことがある」
「なんとなく予想はつくけど、なんだ?」
「あの少女は……幾つだ……」
「んー確か今年で十七か、そこらだったはずだけどなー」
「……十七か」

 その事実に唯愕然ととする嵐山。

「……強いな」
「そーだなぁ。本気をだせば美由希に勝てるやつなんざ同年代じゃまずみあたらねーな。むしろ、ある程度上の年代をみても同じか」

 嵐山とて一応は達人と称される人間。
 それゆえにある程度の実力は向かい合えば感じ取れるが……あの少女は彼の感知の枠外であった。
 比較すれば自分の才能など路傍の石のごとく見えるであろう、深淵の才能。
 才能だけならば……あるいは巻島よりも……

「まさかな……」

 およそ五十年……自分が生きてきた年月の中、間違いなく最上位に位置する才能と努力によって得たその実力は恐らく自分を超えているだろうと頭のなかで冷静な部分がそう告げてきた。

「もう一つだけ聞かせてくれ」
「おお、別に良いぜ」
「あの……あの青年は、【何】だ?」

「あー恭也のことか?」
「恭也というのか……青年のことだが」
「そうそう、俺の古い知り合いのガキなんだがな。面白いやつだろう?」

 何が面白いものか!!と、思わず嵐山は叫びだしそうになった。
 そこで叫ばなかったのは普段の巻島の無茶苦茶ぶりにつきあっていたためだろう。

「狂ってるな……彼は」
「ある意味そうかもしれねーな」

 何が狂っているというのか。 
 それは、言ってしまえば―――恭也の在り方。

「彼は……彼の才能は俺と同等か、少しうえ程度といったところか」
「妥当な線だな。まぁ、美由希の足元にもおよばんくれーだな」
「……ああ。そうだな」

 暗に嵐山の才能は美由希の足元に及ばないといわれたも同然だが、事実だけに否定できずただ頷いた。

「あいつはな、自分が周囲にいる他の人間のような飛びぬけたような才能がないってことにガキのころに気づいちまった」
「……」
「だからだろーな、才能を補う為にただただ努力を重ねた。そこらへんはお前と一緒かもしれないな、コテツ」
「似ている……かもしれないな」

「唯一つの違いがあるとすれば……諦めなかったことか。ヒトという限界、努力という限界、年齢という限界。そんなもん全部ぶっ壊してあいつは狂ったような修行を重ねやがった」

 どこか遠い眼をしながら、そしてどこか後悔しながら巻島は語る。

「信じられるか?他のガキが公園で遊んでいるようなー小学生の頃から、あいつは一日も欠かさず……ちげーな、一分と欠かさずあいつは己を高め続けた」
「……信じられん」
「だがよ、それが事実だ。その集大成が今の恭也だ、決して朽ちず曲がらず折れずの信念の元に鍛え上げられた努力の結晶。二十年という年月で作り上げられた【努力】の鬼才、それが高町恭也だ」

 努力だけで俺と同じ場所までのぼってきちまいやがったっと、嬉しそうに笑う巻島をみて嵐山は愕然とした。
 認めているのだ。自分が知る限り最も強き【鬼の手】巻島十蔵がまだ二十になるかならないかの若造を自分と同等と。
 だが、あるいはあの青年……恭也ならばそれもそうかもしれない、と自然と納得できるものがあった。
 そして、あの二人ならば……自分より明らかに強い、底知れない若者二人。【鬼才】高町恭也と【天才】高町美由希の二人はまさに自分の必要としている強者。

「巻島……頼みがある……」

 嵐山は未だ二十にもならない二人の若者を修羅道に導くことになるのを後悔しつつも、その言葉を発した。

「彼らを……俺に紹介してもらえないか?」
「紹介だけなら別に構わねーけど。どうなるかはわからんぞ?」
「ああ。それで十分だ」
「んじゃ、ちっと待ってな」

 巻島はそう言い残して道場へと向かう。残されたのは嵐山のみ。巻島が騒がしい分、一人になると急に寂しくなった感じがする。
 そんな静寂の中で待つこと数分。巻島が背後に恭也と美由希を引き連れて戻ってきた。恭也と美由希が嵐山に気づき一礼する。
 嵐山もソファーから立ち上がり習うように頭をさげる。

「そんなお見合いみてーな真似してねーで、さっさと話を済まませちまいな」

 身もふたも無い発言をして巻島は近くにあった椅子を引いて音を立てて座る。少々呆れたように三人もソファーに腰を下ろした。そして、嵐山が口を開いた。

「初めまして。嵐山虎徹という。一応、巻島の友人をさせてもらっているよ」
「初めまして。高町恭也です。館長とは以前から稽古を付けていただいてます」
「高町美由希です」

 自己紹介を済まし一拍を置く。巻島がちゃちゃを入れる前にと、嵐山が言葉を続ける。

「これから君達に頼むことは他言無用で頼む。勿論受ける受けないは君達の自由だ」
「わかりました。お約束します」

 先ほど互いに巻島に紹介された嵐山と恭也、美由希は応接間にてソファーに座りながら向かい合っていた。
 巻島だけは面白そうに少し離れた場所の椅子に座り足を組みながら3人を眺めている。

「君達に頼みたいことがある、とある人の護衛だ」
「護衛……ですか?」

 そう聞き返す恭也の声色にはわずかな戸惑いが含まれている。
 護衛というものも一朝一夕でできるようなものでもない、それを今日あった初対面の人間に頼むなど……。
 疑問に思うことは多々あれど、恭也は先を続けるよう促す。

「依頼主は……俺の師でもある影山竜蔵(かげやまりゅうぞう)だった」
「……影山竜蔵?その人って……!」
「そう、高町さんも知ってのとおり巻島と同じく【五指拳】に数えられた【虎殺し】の影山。齢七十を越えながら未だ現役だった人だ」
「……だった、とは?」

 突然出てきたビッグネームに口を大きくあけてポカンとする美由希とちがい恭也は、鋭く質問する。

「影山師は……先日亡くなられた。いや、殺されたのだ」
「え!?」
「……」
「あの、じじいが……殺された!?」

 その事実を巻島も知らなかったのか思わず声を荒げる。それも無理もない。
 滅多なことでは弟子をとらず、七十近くまで空手一筋でありながら彼の弟子は数えるほどしかなかったという。
 だが、影山の実力は本物で年齢問わず実力で定められる【五指拳】に七十を越えながら名を連ねていた真の強者。
 その影山竜蔵が殺されたというのだ、新聞やテレビで報道されてもいい内容のはずだが……。

「残された影山師の家族……お孫さんの一人しかいないのだが、彼女も命を狙われている」

 これをみてくれ、と嵐山は恭也に数枚の写真を渡す。 
 その写真には、洋風の部屋に血文字のような真っ赤な漢数字がかかれた和紙が壁に貼り付けられているものが……撮られていた。
 最初の写真には三日前の日付と共に伍の数字が。次は一昨日の日付と共に肆が。昨日の日付の写真には参。

「……これは……」
「数字?なんなんですか、これは」

 半ば呆然とする恭也と訝しげにする美由希。そしてそれをみて眼を見開く巻島。

「まさか【北斗】ですか……」
「こんなこった真似すんのは奴らくらいしかいねーな……」

 一日経つごとにカウントダウンをするかのように鍵を締め切っているはずの部屋に残されていく和紙。
 いつでもお前の命は刈り取れるのだ、という意味合いもかねて残される数字。
 そしてその数字が0になったとき……狙われた被害者は確実に命を奪われる。

「……これは一般には広がってないが数年前から活動している暗殺集団【北斗】のやりかただ」
「暗殺集団……?」
「ああ。お前はまだ知らないかもしれないがそういった組織はいくらでもある。そして需要もな……以前のチャリティコンサートのように」

 唯一分かっていない美由希に苦々しげに呟く恭也の言葉に彼女は唇を噛み締める。
 自分の姉ともいえる存在が関わっていたチャリティコンサート、そこで行われたことは自分の身で経験したこと。
 なにを平和ボケしていたのだろう、と美由希は己を戒める。

「狙われたのが【北斗】とは……幸運というべきか不幸というべきか」
「まーそうだな。敵は七人か……人数がはっきりしている分やりやすくはあるな」
「後は各個人がどれほどの力量か……」

「影山の爺を殺れるだけのやつらってことだな、確かなのは。あの爺も充分化け物やってやがったからなぁ」
「……油断できませんね」
「くっくっく」

 ゴキリと指をならし巻島は獰猛な肉食獣のように笑う。

「ええっと……七人ですか?」

 おそるおそる手をあげて質問してくる美由希。確かに今の巻島と恭也の会話に割り込むのには多少勇気が必要であった。それに恭也が頷く。

「……【北斗】とはわずか七人【貪狼】【巨門】【禄存】【文曲】【廉貞】【武曲】【破軍】と名乗る七人から構成されている。はっきりいって組織としては三流だ」
「え?三流?でも、影山さんが殺されたって……」
「勘違いするな。組織としては三流だといったんだ。仮にも暗殺集団が組織の人数と名前まで公にだしてどうする」

「あ、確かに」
「人海戦術や重火器に頼らない分、護衛としてはやりやすいが……七人全員が恐ろしく強い。組織としては三流、各個人は超一流だ」
「く、くわしいな……恭也君」

 ある意味自分より【北斗】に詳しい恭也に嵐山は目を丸くする。恭也はこうみえても片足はそちら側に踏み込んでますから、と苦笑する。 
 まだ20ほどの青年がそう言ってくる事実に嵐山は気を重くする。

「先ほども言ったが幸か不幸かといったのはそういうことだ。敵は七人と分かっているし、奴らは銃などの火器には頼らない。故に遠距離からの狙撃もない。それに奴らはこの数字による絶対予告をまもる。守る側からしてみれば非常にやりやすい」
「よーするに七人ぶちのめせば終わりってわけだ」
「……まぁ、そうなんですが」

 ニヤリと巻島が身も蓋もなく締めくくる。分かりやすく纏めてしまうのが巻島十蔵である。

「昨日の日付で参ということは、あと二日ですか」
「ああ。必死で人を探してはいるんだがなかなかね……奴ら相手に無駄に人数を増やしても意味がない。だから君達の力も借りたいんだ」
「……」
「【北斗】相手にまだ若い君達に頼るしかないというのも情けない話なのだけどね……俺達がしっかりしていればよかったんだが」

  ふっ、と嵐山が皮肉気に自嘲する。自分の力の無さを笑うかのように。

「影山師に先日頼まれていたんだ、自分にもしものことがあったら孫をたのむと。そのとき様子がおかしかった師に気づかず見殺しにしてしまった、そんな自分に腹が立つよ」

 だから、頼まれた孫のことだけは命に代えても護りたいんだ……と真剣な表情で恭也の眼をみる。
 そこに一切の下心はない。何の曇りもなくただ、護りたいという意志が嵐山の瞳にあった。

「……きょーちゃん」

 クイクイっと恭也の袖を美由希が引っ張る。恭也が美由希に視線を向けるが、美由希はそれ以上何も言わない。
 いつも優しげなその表情を鍛錬のときのように引き締め、ただ、黙して恭也と相対する。
 恭也は内心、ため息をついた。
 この話を聞いたのが自分だけだったら何の躊躇いもなく首を縦に振ったであろう。

 巻島の知り合いであり話を聞く限り充分信用できる相手だというのはこの短い時間で掴み取れた。
 個人としても噂に名高き【北斗】と一度闘ってみたいという私欲もある。
 だが、問題は美由希だ。指導している立場からいって、身内の贔屓目をぬいても美由希は強い。

 命をかけた戦いこそ未経験なれど、恭也との実戦にちかい試合はほぼ毎日であり数え切れない。
 この護衛に連れて行けば確実に【北斗】との戦いになる。
 果たして【北斗】と闘ってどうなるか。下手をして生涯影響を負うような怪我になればと思うとゾッとする。
 しかし、いつまでも自分の手元においておけるわけではないのも恭也は理解している。

 それに【北斗】相手に勝ちを拾うことができれば美由希は確実に【化ける】。
 いや、今の美由希なら例え【北斗】だろうが……恐らく勝てる。
 それほどの実力があると、恭也は確信する。
 命をかけたギリギリの戦い、今回のこれは美由希の起爆剤となるはずだ。

 恭也が理想とする最強の【御神の剣士】。
 御神史上最高の才能とたゆまぬ努力、命のやりとりによって高町美由希が完成されるのだ。
 恭也の背中が鳥肌で泡立つ。
 自分では到達できないそこに美由希が行くのだ。こんな嬉しいことはない。

 美由希を鍛えるためだけに。美由希を完成された御神の剣士にするためだけに。美由希を【最強】にするためだけに。
 そのためだけに恭也は【在る】のだ。 自分自身の夢も希望も意志も必要ない。ただ、それだけを幼きあの日に誓った。それだけが恭也の信念を支えているのだ。
 利用するようで申し訳なく思い、必ず護ると未だ見ない依頼主に誓う。だが、そのためにこちらも【北斗】を利用させてもらうと、心の底に沈めながら。

「分かりました……微力ながら不肖高町恭也、高町美由希の力を御貸しします」

 この日この時、嵐山は……高町恭也という鬼札を手に入れることになった。 












   七月 二十五日  18:00


 海と山に囲まれた静かな街、海鳴。
 ゆっくりとしたい時に訪れたい観光地ランキングにも数えられてはいる。
 実際にはとんでもない実力の人間やら物の怪が跋扈する日本一危険な街ではあるが。
 そんな海鳴の一角にある今時珍しい和風の家……高町の表札がかかっている日本家屋。

 いつも騒がしい、時には晴れているのに雷が落ちたような轟音が鳴ったり人が吹き飛んできたりどう考えても娘と同い年にしか見えない女性が出入りしたりと近所で近づき難い家ナンバー1のレッテルをはられている人外魔境。
 そこに嵐山との話も終わったあと、本来の目的である巻島との死合、いや試合を行った恭也は一時間弱という長さととんでもない内容の濃さに自信をなくした嵐山が肩を落として帰っていったが……美由希と高町家に帰宅していた。
 玄関に手をやると何の抵抗もなくあいたので先に帰った晶が夕飯の用意をしているのかと恭也は考え美由希とキッチンに向かった。

「だーかーらー、お前は調味料いれすぎだっていってんだろ!カメ!!」
「あーもう、サルはだまっとき!」

 晶と―――高町家にもう一人いる妹分。鳳 蓮飛(フォウ レンフェイ)の言い争う声が聞こえヤレヤレと首を振るとそのまま争う声がきこえるキッチンに足を向けた。
 キッチンにはやはり晶とレンが居り、器用にも両手で料理をしながら蹴りの応酬をしている。
 無駄にレベルが高いな、と感心しつつ釘を刺す。

「ほどほどにしておけよ、二人とも」
「あ。おししょーお帰りなさい」
「お帰りですー師匠!!」

 突然声をかけられビクっとするも笑顔で挨拶する。
 ちなみに恭也の後ろでは私も帰ってきたんだけどなーと美由希がいじけている。
 それを無視して恭也は二人が料理をしているのを見て目を細める。

「ほぅ、今日の夕飯は二人の合作か?」
「いちおーそうなんですけど、おさるがさっきから邪魔ばかりしてきて」
「んだとぉ!何言ってやがるカメ!」

 今度は両手から器具をおき睨み合う。

「やっぱりてめーとは一度決着つけておかないといけないみたいだな」
「……のされた回数もおぼえてへんのかい」
「う、うるせぇ!今日こそ勝つ!!!」

 図星をさされて顔を赤くした晶がダンッと踏み込み正拳突きを放つが、レンはあっさりとかわし懐にもぐりこむ。
 そして軽く手を晶にあて……。

「ハッ……!」

 晶を上回る踏み込みの音。零から全開へ。
 とある武術では奥義とさえされている【発勁】。
 それをまるで呼吸をするかの如く自然にうてるレンはまさしく天才。
 美由希とは方向性が違うがやはりレンの才能は恭也を戦慄させる。

「う、ぅあぁあーーー!」

 悲鳴を残して晶の体が軽いとはいえ―――レンはもっと軽いが、吹き飛ばされる。
 しかも吹き飛んだ方向は恭也のいる方向。

「……」
 一瞬受け止めようと腰を落とすが……恭也はあっさりと吹き飛んできた晶を避けた。

「……へ?」

 そして当然の如く後ろにいた美由希に勢いよく激突して二人仲良く床に倒れる。

「今の発勁はすばらしいな。俺でも今のは再現できるか……」
「え?いややわーおししょー。褒めすぎですよ」

 思わぬ賞賛に顔を薄紅色に染めレンがわたわたと手を振る。
 勿論、恭也自身誉めすぎてるなどとは決して思ってはいない。
 物覚えがついたころから入退院をくりかえしてきたレン。
 その頃に請われるままに病室で見せた中国拳法。

 それを病弱でありながら何度も繰り返し晶すら軽くいなすほどにまで高め上げた。 
 努力をしていないわけではない、それでも恭也や美由希、晶ほどではない。
 だが、圧倒的な才能がそれを成し得たのだ。

「な、なに何でもないかのように話してるの!?」

 倒れていた美由希が上に覆いかぶさっていた晶をなんとかどかして復活。

「……あれくらい避けろ、馬鹿弟子」
「きょーちゃんが受け止めるとおもったのに!というか途中で受け止めるのやめたでしょ!」
「知らんな。責任転嫁はよくないぞ。己の非は潔く認めろ」
「ええ!?悪いの私!?」
「十割お前だな」

「そ、そういわれると……」

 本気で悩み始めた美由希を生暖かい眼で見守りつつ、倒れている晶の手を掴んで引っ張り起こす。

「怪我ひとつしないとは相変わらず柔軟な身体だ」
「あ、ありがとうございます!」

 ようやく先ほどの衝撃から立ち直った晶が恭也に支えられながら立ち上がる。
 毎回こんなことを繰り返していながら晶は怪我一つしたことがない。うまい具合にレンが手加減しているのか晶の柔軟な身体がダメージを逃がしているのか。
 おそらく両方だな、と一人納得する恭也。

「夕飯楽しみにしている」
「「はい!!」」

 見事にユニゾンした返事を残し晶とレンが料理に戻る。未だ悩んでいる美由希を視界にいれないようにリビングに戻りソファーに座りテレビをつけた、その時。

「「ただいま~!!」」

 こっちも見事にユニゾンした高町家の大黒柱と末っ子が元気に帰宅されたようだ。
 ドタドタと歩く音が聞こえリビングにやってきたのは二人。
 一児の母とは思えない……下手をしたら学生にすら見えかねない若作りの高町桃子。
 高町家の末っ子にして小学生なのにあらゆる機械を使いこなす高町なのは。
 
「おかえりなさーい、かーさん、なのは」
「桃子さんになのちゃんおかえりー」
「おかえりですーなのちゃん、桃子さん」

 いつのまにか復活した美由希と晶、レンが二人を迎える。

「あ、おにーちゃん。ただいま」
「ああ、おかえり。なのは」

 ふっと表情をゆるめトコトコと近寄って来たなのはに笑いかける。
 美由希曰く、自分に厳しく他人にも厳しい恭也だがなのはにだけは甘い。
 恭也はそう思っていないが周囲は皆同じような認識のようである。

「あら、恭也は桃子さんにはおかえりっていってくれないのね……」
「……おかえりかーさん」 

 およよっと泣き真似をする桃子を適当に相手をする恭也。そこらへんはもはや慣れたものだ。

「ああ、そうだ、かーさん。俺と美由希は明日から少し泊りがけで出かけることになる」
「明日から?随分急ねー。仕事でも入ったの?」
「まぁ、そんなところだ」
「美由希も一緒にというのも珍しいわねー」

「先方からの希望でな」
「へへーそうなの。気をつけなさいよー」
「ああ、気をつけよう」
「美由希も頑張んなさいよー」

「うん、きょーちゃんの足手まといにならないよう頑張るよ」
「何日かかるかわからないが……早ければ明後日には終わると思う。実際どうなるかわからないが……」
「りょーかい。時間がかかってもいいから二人とも無事でかえってきてくれたら桃子さん何にもいらないわよ」
「……努力しよう」
「あはは、頑張ってくるね」

 恭也は家族の会話を聞きながら今回は厄介なことになりそうだな……という予感がどうしても頭から離れなかった。
 何度呟いたかわからないがヤレヤレと今日幾度目かになるため息をついた。












七月 二十六日 17:00



 翌日恭也と美由希は巻島と共に海鳴から電車で一時間ほど離れた影山邸を見上げていた。

「おお、でけーな」
「ペンションみたいだね。きょーちゃん」
「……そうだな」

 恭也たちが考えていたより影山邸はずっと広かった。普通の家の数倍はあろうか……しかも三階立てという美由希がいったようにペンションのような感じである。
 呼鈴を鳴らし少し待つと家から嵐山がでてきて、恭也達に手を振る。

「遠いところをわざわざ有難う。助かったよ」
「まったくだ、茶ーだせよ、茶」
「……館長」
「な、なはは」

 ストレートな巻島に苦笑いの恭也と美由希。いつものことだ、と苦笑する嵐山。

「早速だが家の内部を案内しよう。やはり勝手がわからないと困るだろうしね」
「依頼者の方はよろしいのですか?」
「ああ、彼女の方は大丈夫さ。まだ日付が変わるまで少々時間もあるし、他の人に護衛についてもらってもいる」

「お、他の護衛の奴らみつかったのか?」
「ああ、おかげさまでな。かなりの腕前の人たちだ。必死で集めたんだが、俺や巻島と恭也君、美由希さんを除いて八人だな」
「というと、護衛は全員で十二人ですか」

「そうだね」
「……問題は【北斗】が何人で来るのかですね」
「そうだね……恐らく最低でも二人。予想としては三人か……最悪でも四人か」

「七人全員でくることはないですからね、【北斗】も」
「あれ?そうなの?」
「ああ。少人数で動くらしい、奴らは。もっとも油断大敵だが」
「そうなんだ」

「襲撃してきたやつを全員ぶったおせばいいだけだろう、ごちゃごちゃ考えんな」
「「「はぁ……」」」

 いい加減この人を誰かなんとかしてくれないかと三人が三人を見て首を振る。
 これくらい単純に考えれれば人生楽だろうなーと嵐山が半ば現実逃避をして遠い眼をする。
 それからおよそ一時間ちかくかけて影山邸を案内してもらった後ようやく二階の一部屋に到着した。

 ドアをあけた部屋には九人。
 なるほど、嵐山の言った通り皆かなりの腕前なのは一瞬で見て取れた。
 注目される恭也と美由希。何故こんな若い連中がくるのかとでも思われてるのか、と恭也は漠然と感じ取った。

 この年齢のせいで侮られることには慣れている。そんな視線をあっさりと受け流す恭也。
 美由希自身も全く気にしていないようで逆に恭也はそれに驚かされた。
 かといってこの好奇の視線を浴びるのも気分がいいものでもなくどうするかと考える。

「……ま、まさか【鬼の手】!?巻島十蔵!?」

 彼らのうちの誰かが巻島を見て叫んだ。

「ああん?」
 ゴウっと風のない密室の中で生暖かい風が吹いた気がした。
 巻島の隠す気のない闘気。
 それに中てられて護衛全員が後退さった。

「何、仲間を威嚇してるんですか」
  
 呆れたような恭也の声に巻島がニヤリと笑う。

「最初に仲間の力量くらいはしらべておかねーとな」
「もっと普通の方法にしてください」
「はっはっは」

 ふっと風が止んだ。
 思わず息をつく八人。平然としていたのは恭也と美由希。そして慣れている嵐山くらいのものだった。

「てめーらにいっておく」

 巻島は親指で恭也と美由希をさしながら―――。

「この二人はつえーぞ」

 下手したら【五指拳】クラスにな、と愉快そうにガハハと笑う巻島を呆れたように見る恭也。
 もっとも他の護衛連中は愕然としていたが。

「あ、あの……」

 そんな中声をかけてきたのは若い女性。恭也と同年齢くらいの……ショートヘアに縁なしの眼鏡をしたビクビクとお辞儀をする。

「今回は宜しくお願いします……」
「ああ、すまない、咲夜(サクヤ)さん。遅くなりまして。巻島、恭也君、美由希さん、こちらが影山師のお孫さんの影山咲夜さんだ」
「巻島十蔵。この嵐山の一応ダチってやつだ」

「初めまして。高町恭也です」
「あ、高町美由希です!」
「有難うございます……こんな危険なことに巻き込んでごめんなさい」

 再度深々とお辞儀をする咲夜。眼の下に隈ができ少しやつれている。
 さすがに自分の命のカウントダウンがされているなかなら当然である。 

「心配なのはわかります。ですが、これだけの護衛がいるんです。命にかえても俺達が貴方を護ります」

 今のところ俺が参加した護衛の仕事では……依頼主を護りきれなかったことはないんですよ、と咲夜に少しだけ笑いかける。
 口下手な恭也なりの励ましの言葉だったのに気づいたのか咲夜は力なくだが、微かに顔を綻ばせて頷いた。

「少し今のうちに休んだほうがいいですよ、咲夜さん」
「……ええ、そうします」

 咲夜は嵐山に進められるまま洋間からドア一枚隔てられた寝室に向かっていった。
 バタンとドアが閉まったのを確認し、嵐山は深く息をつく。

「……疲れていますね」
「ああ、表の世界で普通に生きてきた女性だ……無理もない」
「ところで【北斗】への依頼者ですが……誰か心あたりでも?」

 【北斗】全員と戦うよりも彼らに依頼した元を押さえる。
 場合によってはそうした方法を取らなければいけない可能性も考えるが嵐山はかぶりを振る。

「……俺もそれを第一に考えたが、奴等に依頼した男はすでに死んでいる」
「まさか【北斗】が?」
「いや、執念とでもいうべきか。自分にかけた保険金を【北斗】にたいする報酬として自殺していた」
「……参りましたね」
「ああ。結局のところ【北斗】全員をどうにかしなければいけない」

 厄介なことだと渋面の嵐山をおいて恭也は部屋の内部を見渡す。
 以前見せてもらった写真に写っていた洋風の部屋のようで広さも高町家の道場ほどある。
 
 ―――ここが戦場になるか。
  
 できれば外で迎え撃ちたいがそう楽をさせてもらえる相手ではないだろう。

「美由希。少しいいか?」
「うん?どうしたのきょーちゃん」
「【北斗】だが、敵は自分達の名前をわざわざ名乗るらしい」

「あ、そうなの?」
「ああ。名前を売るためかどうかわからんがな。もしその中で【破軍】と名乗る奴がいたらそいつは俺か館長にまかせろ」
「【破軍】?」
「そうだ。【北斗】のトップらしき存在で、話を聞く限り奴らの中でも飛びぬけた化け物だそうだ」

「うん、わかった」
「どうしても戦ざるをえない状況に陥ったら最初から全力で行け。【神速】も許可する」
「……はい師範代!!」

 御神流の奥義【神速】。自分達の本当の奥の手。
 それを使ってもいいと言う恭也に美由希は今度の敵の強大さを思い知る。
 だが美由希の心は驚くべきほど静かなものだった。

 以前のチャリティコンサートを除いてほぼ初めての実戦に近いというのに。
 恭也がそばにいるためか。 自分の師でもある恭也が負けるというイメージが湧かないのだ。
 そしてそんな恭也と日々実戦形式の鍛錬。
 それが美由希の自信となっていた。

 慢心ではなく自信。
 美由希は……腰元に挿してある小太刀をグっと握り締めた。

 少しずつ時が流れ時計の短針と長針が十一を指す。
 いやがおうにも緊張感は時間と共に高まっていく。
 咲夜を部屋の中心に恭也を含む計十二人の護衛が油断なく周囲を窺う。

 やけに時計の音がコチコチと大きく響き渡る。
 誰かの息の音すら聞こえる静寂のなか時計が―――遂に十二の数字を指しゴーンという音が鳴り響いた。
 誰もが最大に集中力を高めるなか十二回の時計の音が鳴り終わって、何も起きなかった。

 フゥと幾人かが息をついた。
 一瞬の気の緩み。その時、ガシャンというガラスの割れる音が響きバルコニーから三つの人影が乱入してきた。

 一人は二メートルはありそうな鋼の手甲をした大男。
 一人は長身痩躯の男。
 一人は口元をマフラーで隠した長身の女。

「はっはっは!こんばんはではじめまして、そしてさようならだ、人間ども!【北斗】が六座【貪狼】様のお出ましだ!」

 長身痩躯の男、貪狼が高笑いしながら両手をブンと振るう。すると手品のように指の間にナイフが―――合計八本現れた。

「同じく【北斗】が七座【巨門】」
「五座の【文曲】」

 大男と女性が構えを取り、女性が手に持っていた数十センチの筒状のようなものを振るう。
 するとカカッという音を残し二メートル近い槍に変化した。
 様子を見ている恭也たちを尻目に、三人の気配がグっと一瞬で濃くなったかと思うと全員の瞳が【真紅】に染まる。

「カッ!!!!!」

 巨門の声とともに発せられる殺気。
 質量さえもっているのではと感じられる殺気が護衛全員を襲う。
 それはただの威嚇。言ってしまえば獅子が獲物の前で吼えるのと同じ行為。

 だが、それだけで十分だったのだ。
 皆ある程度の実力をもっているがゆえに巨門が放った殺気を感じ取ってしまい相手との力量さを感じ取ってしまった。
 そして、それは嵐山とて例外ではなかった。
 嵐山には実力があった。信念があった。護ろうという意思があった。
 そんな決意があった嵐山すら巨門の殺気をその身に受けて心が折れた。

 すまない、すまないと心の中で謝りながらそれでも身体は動こうとしなかった。
 巨門の殺気に耐え切ったのはわずか三人。
 恭也と美由希と巻島。

「……三人、だと?」

 貪狼の戸惑ったような声。
 さきほどこの部屋に飛び込んでくる前に感じ取った気配からして耐え切れるのは二人だとほぼ確信していた。
 自分達が気配を読み違えるはずがない。

「……なんという気殺の技」

 文曲が油断なく槍を構え恭也を睨み付ける。
 そう、恭也は周囲の護衛たちと同レベル近くまで己を殺していたのだ。
 襲撃者達を錯覚させるために。
 もし、これが他の状況だったなら貪狼達は気づいた可能性が高い。

 今回は巻島が傍にいたから、気配を一切殺そうとせず逆に自分はここにいる、と【北斗】に教えるために荒々しい気配を発していた。
 それにまぎれるように恭也は居たのだ。例えどんな達人とて見破ることはできなかっただろう。
 その事実に気がついたとき【北斗】の動きが止まった。わずか一秒にも満たない時間。
 それでも恭也と巻島には十分だった。

「潰すぞ!!!」

 巻島が吼える。
 決して油断できる相手ではないのを巻島も【北斗】も互いに感じ取っていた。
 そのために最初から全力。
 巻島の床をえぐるような爆発的な踏み込みの音が響き渡る。

「美由希!」

 たった一言。
 【北斗】が【夜の一族】の証明たる真紅の瞳をした時に恭也は一瞬とはいえ歯噛みをした。
 そして、敵の威嚇によって自由に動けれるのはわずか三人。

 嵐山すらも戦力外になるのは完全に予想外であったために幾ら恭也とはいえ戸惑いを生んだ。
 嵐山の変わりに美由希に咲夜の護衛を任せて……自分と巻島で三人を叩き伏せる。
 それを一瞬で判断しての叫び。
 美由希はそれを、恭也の判断を以心伝心の如く受け止め咲夜の傍に寄る。

「っおおおおおお!!!!」

 凄まじいプレッシャーを相手に与えながら巻島は疾走した。
 わずか三歩の踏み込みで数メートルはあった距離を零とする。
 巻島が向かうは巨門。それにほんのわずかとはいえ巨門の反応が遅れる。身体を捻る。そして放たれる拳。

 普通なら確実に避けられるテレフォンパンチである。
 巨門もまた、あたるわけがないとふみ、後ろに逃げようと足に力を入れた。

「ハァ!!!!」

 ここで完全に巨門の予想を裏切る事態がおきた、いや起こされた。
 先ほど巨門が行った威嚇をお返しだ、と言わんばかりに恭也が凶悪な殺気を巻き起こした。
 勿論、【北斗】の三人を無効化できるかといえばさすがにそれは不可能。

 それでもほんのわずかでも動きを縛ることはできる。
 しかも巨門がまったく予想していない状況で恭也の殺気の嵐に直撃したのだ。動きが鈍るのも当然である。
 そのために巨門は巻島の拳を腹部にまともに喰らってしまった。

 鈍い音を立てて二メートルはあるはずの巨門がバルコニーにまで吹き飛ぶ。
 それに眼をやる余裕は貪狼と文曲にはない。二人を牽制するのは底知れぬ相手の剣士。

 ゆらりと恭也の身体がぶれる。
 巻島の直線的なスピードとは異なる。
 まるで現実でビデオのコマ送りを見ているかのような矛盾した速さ。
 日本舞踊のような緩やかな動き。  

 それに虚をつかれたかのような貪狼と文曲。
 舌打ち一つ、貪狼が恭也にナイフを投げる。だが、あたらない。
 ナイフは恭也の残像を貫いて飛んでいった。

 貪狼に向かって、疾駆。
 だが、貪狼の直前で文曲の槍によって遮られる。
 恭也が攻撃に転じようとしたときには文曲の槍がしなるように繰り出されていた。

 うまい、と思わずにはいられない。反射的に舌打ちが部屋に響き渡った。
 槍と小太刀の圧倒的なリーチの差。それを最大限いかすような文曲の槍さばき。

 恭也ですら攻撃に移れないでいるのだ。
 秒間数発という圧倒的な高速戦。
 いくら恭也といえど小太刀が届かなければ敵を倒せない。
 間合いを完璧に支配する文曲はまさしく戦いの申し子か。

「その小僧は任せたぜ!!」

 貪狼は文曲に恭也を任せるとターゲット、咲夜にむかって走る。
 夢か幻のような戦闘に眼を奪われていた咲夜の顔が恐怖にひきつる。

「美由希!!!!」

 恭也の叫びに答えるのは高町美由希。
 【北斗】三人が襲撃してきたとき最初はある程度の強さしかないと感じられたが瞳が真紅になった途端、気配がいきなり膨れ上がった。

 一瞬とはいえ驚きを隠せなかった。それでも美由希の心に焦りはない。
 確かに強い。予想通りに。自分でも確実に勝てるかといえばわからないと答えるしかない。
 それでもあくまで【予想通り】の強さなのだ。
 【予想以上】ということでは決してない。

 日々、鍛錬を受けている高町恭也に比べれば如何ほどのものだというのか!!!
 美由希は貪狼を常軌を逸した速さで向かえうった。なんと速く、正確なことか。
 最後の踏み込みと共に抜刀。

「チィイイ!」

 紙一重で貪狼はかわす。それでも頬の薄皮一枚を持っていかれた。
 ただの少女とは考えていなかったが美由希の動きは貪狼の予想を遥かに超えていた。
 近距離は不利だと判断して慌てて距離をとろうと大幅に後退する。  
 美由希は敢えて追撃せず、その場にとどまった。

 ヒュッという風きり音をのこして美由希にナイフが迫る。
 それを何の危なげなく弾き落とす。
 そして、再び踏み込む。ザシュっという音とともに貪狼の二の腕から血飛沫が舞う。

「くそが!!!」

 吐き捨てるように貪狼は腕を振るった。
 腕からあふれ出ている血が目潰しとなって美由希を襲うが、それをあっさりと避ける。
 今度は逆に貪狼が踏み込みナイフが縦横無尽に美由希を切り裂く。

 しかし、恐るべき剣才。小太刀よりさらに小回りが利くナイフすらも全て防ぎきる鉄壁の防御。
 さらに貪狼はスピードを上げていく。それでも防ぎきる美由希。

 なんという激しい斬りあい。
 徐々に徐々に貪狼の回転数はあがっていき美由希ですら防ぎきれなくなる。
 嵐のような小太刀とナイフのぶつかり合い。周囲の端々で血が飛んでいる。

 美由希の腕、頬と防ぎきれなかったナイフが皮一枚だがもっていかれている。
 致命傷ではないにしろ血が飛び散っているのに美由希はなんの戸惑いもみせない。

 そんな中わずかに鈍った貪狼のナイフを弾き落とすように横に薙ぐ。
 貪狼は姿勢を低く掻い潜り、さらにその状態から機動性を奪おうと足を狙う。
 美由希は横に回転、皮一枚斬らせることなく見事に避けきる。

 バックスウィングのまま遠心力を利用しての一撃。
 大きく後ろに逃げてそれをやりすごす貪狼。 
 それに追いすがる美由希、そして袈裟斬り。
 幾分かの髪を切られながらも貪狼は見事にかわす。
 
 何故だ、と貪狼は自問する。
 スピードもパワーも明らかに自分の方が上だ。生物としての存在自体が。
 なのに何故、自分が押されている。
 理解ができなかった。こんな十代の少女に押されることなど認めるわけにはいかなかった。

 ―――自分は【破軍】に選ばれた【北斗】だというのに!!!

「っがぁああああああ!!!」

 疾風と化した貪狼が走るり、美由希を殺さんがためにそのナイフを煌かせる。
 それでもそのナイフは美由希に届かない。
 完璧なまでの受け流し、そして一閃。
 なんともいえない肉を斬る手ごたえが美由希に伝わる。それにわずかに顔を歪める。

「ギィアア!!!!」

 美由希の小太刀が貪狼の片目を切り裂いた。
 片手で顔を押さえ、ナイフを美由希に投擲。追撃を防ぐ。
 美由希も、また咲夜の元までもどって一息。  

 それとほぼ巻島と恭也も美由希の傍まで戻ってきた。巻島は所々服が破れていたり痣がみてとれるが獰猛な笑みを浮かべたまま、たいした怪我は見当たらない。
 恭也もほぼ無傷。文曲の槍術を全てさばき切っていたのだ。

「かかか。やるじゃねーか、美由希」
「―――見事だ」
「あ、ありがとうございます」

 予想外に誉められ戦闘中ながら照れを隠せずにはいられない。
 恭也の予想以上に美由希は戦っていた。互角どころか上回るほどに。

「……手強いな」
「大丈夫か、貪狼?」
「くそが!!!くそが!!!俺の右目が!!!!」

 怒り狂う貪狼。それに対して巨門も隠してはいるが肋骨を何本か持っていかれているのを文曲は気づいていた。
 五体満足なのは自分だけか……と冷静に判断する。

「……貪狼、巨門。今回は退こう」
「な……!!!ふざけんな!!!!!」
「ふざけていない。今回は無理だ。このまま続けても―――」

 分が悪い、と文曲が悔しげに呟く。それに巨門も賛成の意で頷く。
 なんという屈辱。たかが人間如きにこのような状況に陥らされたのは産まれて初めてだった。

 任務は失敗。さらに加えて片目を潰されたとは―――!
 それでも、仮にも自分の上位でもある文曲の言葉に従わざるを得なかった。

「女ぁぁあ!てめぇーは犯して殺して……死んだ後も犯してやらぁ!!んで、二度と剣なんざもてねーようにぐちゃぐちゃにしてやる!!!」

 深い憎しみがこもった怨念を美由希にぶつける貪狼。
 だが、それは駄目だった。その言葉だけは禁句だった。彼に対して。高町恭也に対して。
 剣を持てなくしてやるなどと、高町美由希の剣士としての未来を奪うという言葉だけは決して冗談でも言ってはならない言葉であったのに。

「―――そうか。ならば、生かしておく理由はない、な」

 深い深い深い地獄の底のさらに底の深淵から這いずり出たような混沌としたドロリとした声が貪狼の【耳元】で聞こえた。

「ッ!!!!!!」

 圧倒的な黒い【何か】が背後から襲い掛かり死の波が押し寄せる。
 今まで死線を潜り抜けてきた本能が最大アラームを脳内でかき鳴らす。

「ひッ!?」

 夜の一族としての能力を全開に地面を蹴って横に転がるように逃げる。

 ―――チィン。

 と、まるで風鈴が鳴ったかのような涼やかな音が部屋に響き渡る。
 そして回転しながら空に舞うのは右腕。
 貪狼の半ばから綺麗に切断されたソレだった。

「あぐぁうぁあおぉううううあああああああ!!」

 感じるのは灼熱。
 一拍おいて流れる激痛。

「貪狼!?」
「な!?」

 すでに離脱しつつあった巨門と文曲が右腕を斬り落とされた貪狼を見て一瞬動きがとまったが舌打ち一つ、巨門は恭也に文曲は貪狼に向かっていった。
 どうやって貪狼を斬ったのか頭に思い浮かばないが考えるのは後だ、とそれを成したであろう恭也と巨門は相対して……恭也と眼があった。

 ゾブリと心臓に小太刀が突き刺さった。
 否、それは幻影。

 だが、ただ眼があっただけ。それだけで死のイメージを植えつけられた。

「文曲ぅうぅううう!!!!!逃げるぞ!!!!!!!」

 【コレ】には勝てない。
 【コレ】は自分の理解の外にいる。

 一瞬で巨門はそう判断した。その悲鳴にもにた叫びに文曲は頷く。
 文曲は貪狼の襟を掴むと何の躊躇いもなくバルコニーに向かって走る。

 文曲とて分かっている。
 目の前の化け物の危険性。
 先ほどまではともかく今の彼は危険などというレベルではない。

 言うなれば火薬がパンパンにつまった密閉空間の中で火を扱うような、全弾入った拳銃でロシアンルーレットをするような絶対死の予感。 
 少しでも気を抜けば先ほどから胃からせりあがっているモノをぶちまけそうなのだ。
 兎が獅子と向かい合ったときこんな感じなのかな、と場違いなことを考えながら―――。

「とべ!!!!文曲!!!!!」

 それはなんという幸運か。言われるより早く本能のままに飛んだ文曲を追うように恭也の抜刀。
 数十分の一秒の差で文曲は命を拾った。

「くそったれがぁああ!!!」

 纏わりつくような殺意を振り払うように巨門は鋼の手甲を装着した左右の拳を振るう。その速さといい動きといいなんと複雑なことか。
 だが恭也はそんな荒れ狂う拳の波をまるで散歩するかのごとく避ける。
 
 ―――避ける避ける避ける避ける避ける避ける避ける避ける。

 そして、一閃。

「ぐぃぁあ!」

 巨門の身体を斜めに小太刀が走る。そして忘れていたかのようにあふれ出る鮮血。

「ぁぁあああ!!!!」

 貪狼をバルコニーにおいて踵を返した文曲が槍を恭也に向けて突進する。
 一度二度三度の突き。その余りの速さゆえにたった一度の突きにしかみえない三段突き。
 まさしく神業。
 なれど、迎え撃つは神すら殺すために数百年の歴史を刻んできた殺戮一族。
 一切の油断もなく慢心もなく大地にそびえたつ巨木の如くそこに立つ。

「てめぇえええええええ!!!!!」

 ―――驚愕。

 腕を失い苦痛に呻いていた貪狼が空中から恭也に襲い掛かる。
 その血走った眼から理性は見えない。
 それでも前方からは文曲。後方からは巨門。上からは貪狼。

 完璧な連携。
 【五指拳】の影山すらも抵抗することすら許さず屠った必殺の陣形。
 しかし、恭也に焦りはない。

 文曲の三段突きに向かって切り落とす。
 穂先と小太刀がぶつかり合う。
 ガクンっと文曲の槍から衝撃が伝わり手がしびれ身体が悲鳴をあげる。

 たった一太刀。
 斬られたわけではなく唯切り結んだだけ。
 それだけで文曲の抵抗する意思と力を根こそぎ奪っていった。
 走る閃光。

「っあぁあ!」

 肩を斬られ文曲が吹き飛ばされる。
 刹那の差を持って回転し巻き起こる刃。
 後方の巨門を牽制。血を流し動きが鈍っている巨門にはそれで十分。

 放たれる恭也の回し蹴り。それを右手で防ぐ巨門。
 ボキリっと嫌な音がして恭也の蹴りを受けた巨門の腕が曲がってはならない方向に曲がった。
 巨門もまた文曲の後を追うかのようにその巨体が空を舞う。

「あぁぁああ!!!!!」

 二人が苦もなく一蹴されたが貪狼は止まらない。
 恭也に向かってナイフを投げつける。左手だけで一瞬にして4本。
 それでも恭也には足りない。

 斬閃がはしる。軽々と全てを叩き落した恭也と貪狼の視線が絡み合う。
 その時貪狼は見てしまった。

 ―――狂気と殺気がドロドロと混ざり合った自分など到底及ばぬ地獄の果てを覗いた狂人の瞳を。

「あ……ぁ……」

 後悔した。眼の前にいる人間の姿をした化け物に戦いを挑んだことを。
 だが、もう遅い。地獄行きの片道切符を自分自ら買ってしまったのだ。
 唐竹を割るかのような縦一閃。
 それはあまりに見事な、美しささえもつ一撃。

「……ちぃ」

 舌打ちを残し恭也は貪狼の命を奪うことなく大きく距離をとった。
 ガキィと今まで恭也がいた場所にナイフが刺さる。
 ふと視線を飛んできた方向にむければ巨門と文曲以外にもう一人。

 襲撃者三人よりもみかけはずっと幼い紫がかった黒髪のツインテールの少女。
 腰元には姿かたちには似つかわしくない日本刀。
 恭也の殺気を正面からうけとめながらツインテールの少女は微動だにしない。

「……【武曲】……」

 巨門が息もきれぎれにツインテールの少女に声をかける。

「【北斗】の一員か」
「言う必要はないだろう……退くぞ、お前ら」
「逃がすと思うか?」

「……ならば僕と戦うかい?別に僕は構わないが」
「……」

 睨み合う武曲と恭也。そして睨み合うこと数分か或いは数十秒か。

「行け」

 恭也の短い一言。それとともに武曲は自分の倍近くある貪狼を背負う。

「【北斗】をなめるなよ―――小僧。この三人よりも僕よりも強い者が居る。【破軍】が貴様を必ず殺す」

 そう捨て台詞を残し巨門と文曲とともに姿を消す。
 これが【北斗】と恭也のファーストコンタクトであった。















[30788] 旧作 御神と不破 一章 中編
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/03/02 01:03








七月 二十七日 01:25



 都心から離れた森の中に一軒だけポツンと忘れ去られたかのように立てられているペンションのような建物。
 そのリビングらしき場所で女性がソファーに寝転がりボケーとテレビに見入っていた。
 もしそこに女性以外の人物がいればテレビではなく女性の方に見入ってしまっていただろう。
 百七十を超える長身。
 腰まで伸びた漆黒の髪を後ろでまとめポニーテールにしてまるで神から与えられたかのような人間離れした顔の造形。
 そんな女性だが今は完全に緩みきって神聖さの欠片も見当たらなかった。

「んで、貪狼はいきてんのー?」
「右腕はもってこれなかったからな……さすがに【夜の一族】の回復力でも再生は無理だ。麻酔薬で今は落ち着いた」

 女性は後ろも見ずに入ってきたツインテールの少女【武曲】に質問をし、それに驚きもせず苦々しげに答える。

「まー確かに腕がはえてくるわけないしねぇ。ナ○ック星人じゃあるまいし」
「……ナメッ○星人?」
「ああ、いいの気にしないで」
「……むむ」

 そういえばあんたって漫画とか読まないよねーと女性、釈然としないツインテールの少女。
 ヒョイっとソファーから立ち上がって指を組んで、んーと気持ちよさそうに伸びをする。その恍惚とした表情は少し淫靡さを無意識に感じさせる。

「ぁー気持ちいぃ。でも、これやると時々足つりそーになるのよねー。でも、それがちょっと快感だったりするけど」
「……そんなのお前だけだよ、殺音(アヤネ)」
「ええ!?うそ!?」

「そこ、驚くところと違う!!」
「にゃっはっは。冥(メイ)にはまだわからないかなーお子ちゃまだし」
「……それがわかるくらいならお子様でいい!!」
「えー。つまんないのー」

 女性―――殺音は無駄にテンション高い。武曲こと冥はいつもの調子の殺音をみて深いため息をついた。
 そこにやや疲れた表情の文曲がやってくる。

「巨門もそれなりの重傷だったから先に休ませておきました」
「ああ、おっけー。話し聞くのは一人でもいいしね、大丈夫。それにあんたが一番冷静に話せれそうだしね」
「……申し訳ありませんでした」

 土下座をせんばかりの勢いで文曲は殺音にむかって頭を下げた。

「任務を失敗させた上に貪狼と巨門をあのような状態にさせてしまうとは申し開きようがありません」
「はいはい、おっけーおっけー」

 今にも腹を掻っ捌きそうな文曲に比べあまりに殺音は軽い。
 大げさなやつねーと笑う殺音はペチペチと何故か冥の頭を叩いて二人をソファーに座るよう促す。

 一礼をしてソファーに座る文曲。
 頭を叩いている殺音の手を払い落として冥も殺音の隣に腰を下ろす。

「あんたも刀で斬られてるんだから聞くことだけ聞いとくから」
「お気遣い有難うございます」

 痛々しげな文曲の肩に巻かれた包帯を一瞥した殺音の視線が鋭くなる。

「で、一体何があったの?あんた達三人がそこまでボロボロにされるって」

 自衛隊でもいた?と若干ちゃかすような殺音。
 しかし、文曲も冥も全く笑わない。失敗したかなーと内心冷や汗ものの殺音。

「ターゲットを護衛していた者たちが十二人。そのうちの九人は巨門の威嚇で無力化されました」
「へー三人も耐え切ったんだ。ってことはタイマンでやられちゃったの?」

「―――よく、わかりません。途中までは一対一の戦いでした」

 ―――ですが、と文曲の声が震える。

「突然でした。あまりに突然。恐らく二十を越えるか越えないかの人間が、その本性を、現しました」
「……へぇ?」
「あ、あれは、わかりません。何をされたのか、ただ気がついたら貪狼の腕が斬られ、巨門も私も、本当にわからないんです。化け物です、人間なのに、あれは化け物です」

 ガチガチと歯をならしながら、その冷たい美貌を歪め取り留めのない言葉を連ねる。
 マズイっと冥は文曲を止めようとして―――。

 ―――パン。

 そんな音が辺りの空気を振動させた。
 殺音が両手の手のひらを打ち鳴らしただけ。
 それで恐怖に魘されていた文曲がハッと顔をあげた

「もーいいわ。ありがとねー。あんたもしっかり休みなさい」
「ですが……」
「これは命令だから拒否はうけつけない」

 ピシャリと文曲の反論となる言葉を跳ね除ける殺音。
 しばらく考えていた文曲だが、有難うございますとだけ残してゆっくりと二階へ姿を消した。
 殺音と冥、二人の間に数分の沈黙が続く。

「あれは重傷ねぇ……心を折られてるわ。完全に」
「あの、文曲がね。あんな姿みるのボクも初めてだよ」

「とんでもない化け物とやりあったのかしら。冥、あんた見たんだっけ?」
「……一応ね、少しの間だけ対峙したけど」
「ほほー。ちょっとあんたの印象きかせてよ」
「そうだね……」

 冥が考え込むように両手を組んで上をむく。
 思い出すのは小太刀を両手に持ち、【北斗】三人を軽々と蹴散らす黒尽くめの青年の修羅の技。

 強い、と遠くから気配を感じただけで分かっていた。
 それでも対峙したときのあの感覚はなんだというのか。
 認めたくはなかった。
 この自分が、【北斗】の第二座に位置する【武曲】たる自分が、あの瞬間恐怖したのだと。

 ただの人間のはずの若者に、確かに恐怖したのだ。
 自分と戦ってみるか、と言ったのは駆け引き。
 あのまま戦っていたらどうなっていたか……。

「んー、じゃあ正直な話。【武曲】、あんた一対一で勝てる?勿論全力で」

 考え込む冥を見て答えに窮しているのかと勘違いした殺音が質問を変える。
 それに多少のプライドを刺激されたのか、冥は顔をさげて殺音を睨む。

「殺音はボクが、【武曲】たるボクが負けるとでも思うのかい?」
「質問を質問で返してどうすんのよ。私は実際見てないからわかんないっての」

 呆れたような殺音。 
 あまりといえばあまりに当然な答えに冥は顔を赤くする。

「う、うるさいなー!」
「はいはい、で、実際どうなの」
「……強いよ。でたらめに、強い。剣を交えたわけじゃない。でも、対峙しただけで理解できる。底が見えないかった、正直」
「へへー、あんたがそんなに評価するなんて珍しいわね。負けず嫌いのあんたが」

「……そこはかとなく馬鹿にされてるようなきがするけど」
「気のせい気のせい」
「……」

「それでその男って何?夜の一族ってわけじゃないの?」
「完全完璧に人間だった。それは間違いない」
「あらら、スピードもパワーも何もかも大人と子供以上の差があるっていうのにねー。そんな差を覆すだけの【技】を持ってたってことかしら」
「ああ。それだけじゃないと思うが、あの男は【何か】がヤバイ。アレに勝てるのは悔しいがお前くらいだ殺音」
「ふむむ。それにしても小太刀とは珍しいねぇ……中条流か富田流か」

 ブツブツと顎に手を当てて考え込む。冥はまた自分の世界に入ったかと呆れる。もうすでに諦めてはいるが。
 薄気味悪く独り言を言うこと数分。

「しっかし、驚きねー。簡単な依頼だと思ってたんだけど、開けてびっくり玉手箱」

 お手上げだ、と言わんばかりにバッと空中に手を広げため息をつく。

「……にやけているぞ、顔」
「あれ?ほんと?」

 冥の指摘どおり確かに殺音は笑っていた。
 本当に嬉しそうに、まるで玩具を買ってもらった子供のような無邪気な笑み。

「今回は楽しくなりそうかもね、ワクワクするよ」

 ゾクゾクと冥の背筋に冷たいものが走る。
 信じられないことに殺音が完全に本気になっているのだ。
 未だ会ったことすらない、冥たちの報告にあっただけの男に。

「早く会いたいなぁ」

 まるで恋人に会うかのように熱のこもった瞳を空に彷徨わせながら殺音は笑う。
 冥はあの若者に内心同情せざるをえなかった。

 夜の一族最強の剣士。殺戮の天才。凶乙女。同族殺し。
 数多の字で呼ばれる狂った天才が、【北斗】が長【破軍】の水無月殺音が動き出した。




   











  七月 二十七日   10:15


 【北斗】の襲撃から夜が明けた影山邸。
 さすがにガラスが散らばっているので一階の……間取りが同じような部屋に移動した咲夜と嵐山、恭也、美由希、巻島。
 そう、たった五人だけ。

 他のメンバーは夜が明けると同時に嵐山に詫びを告げ影山邸を辞していた。
 元々嵐山がツテを頼って来てもらっていた連中なのだ。
 実際に【北斗】と恭也達の戦いを見てレベルの違いを感じ取ってしまったのも無理はなかった。

 無理にひきとめることもできず残ったのはここにいる五人だけということになってしまった。
 あの襲撃から脅えていた咲夜は一睡もできず、先ほどようやく夢の中に旅立った。
 それに対して巻島は神経が太いのかあっさりとソファーで横になって鼾をかいている。

 嵐山は自分が全く戦力にならなかったことを気にしているのか先ほどからずっと落ち込んでいる。
 恭也と美由希がフォローをいれるも、巻島がさんんざんこけおろしたのが原因かもしれないが。

「初めての実戦はどうだった?美由希」
「んー、必死であまり覚えてないかなぁ」
「よく言う。あそこまで冷静に対処できていれば十分及第点だ」
「いつも鬼のようにしごいてくる師範代様のおかげかもね」
「生意気なことを言うな」

 バシっと激しい音がして恭也のデコピンが美由希の額に直撃する。
 脳がー!脳がー!とでこを押さえて地面に蹲る。

 そんな蹲る美由希を見る恭也の視線は限りなく優しい。
 恭也から見て貪狼という男、ただ夜の一族の身体能力のみで技術的な面では未熟といわざるをえない程度であった。 
 それでも、その身体能力は異常である。人間という枠を二歩も三歩も軽々と飛び越えたスピード。
 単純に強い。恐ろしいまでに。
 それでも美由希は余裕、というわけではなかったが勝利を自分一人の手で勝ち取った。 

 自分のこと、いや自分のこと以上に恭也は嬉しかった。
 もっともそれを表情には全くださなかったが。

「美由希、お前も少し睡眠をとっておけ」
「え?まだ大丈夫だよ、私」
「睡眠と食事はとれるときにとっておけ。次はいつ攻めてくるかわからん」
「ん……」
「その間は俺が周囲を警戒しておく。勿論、俺もその後休ませてもらうから心配するな」
「……はーい」

 まだ赤い額をさすりながらそばのソファーに座り背をもたれかける。
 数分もしないうちにかすかな寝息がきこえる。よほど疲れていたのだろう。
 初めての実戦だ、無理はないなと天井を仰ぐ。

「恭也くん」
「あ、はい。何か?」
「昨夜の三人以外で最後にでてきた武曲となのった少女のことだが……」
「ええ」
「彼女はどうなんだい?」

 正直もう自分の感覚に自信がもてないんだ、と嵐山が切なげに笑う。

「そうですね……本気を出していないので何とも言えませんが確実にあの三人よりは強いです」
「そ、そうか」
「正直、美由希でも勝てるかどうか……恐らく五分五分」
「それほどの相手か……」

 肩をおとす嵐山。自分の入る余地などない、と改めて実感していた。
 一方の恭也は嵐山と話してる最中からずっと嫌な予感がとまらなかった。
 自分のカンはかなりの確立で当たる。それを知っている恭也は何も起きなければ……と祈りつつため息をついた。

 そんな恭也の予感を肯定するように、影山邸を離れること数百メートル。影山邸に向かって足を進める三人の人影があった。
 黒いシャツとジーパンというラフな格好ながら人目を引き付ける殺音を中心に二人。
 右横には冥。左横には殺音よりもやや小柄で糸のように細い眼をした男。
 殺音と冥は白い袋に包まれた細長い代物を持って歩いている。それに対して細目の男は手ぶら。

「あついわねぇ……」
「言うな……」
「二人とも元気だしてネ」

 完全にだらけきっている殺音と不自然なまでの無表情の冥を応援しながら細目の男は逆に軽やかなステップで歩く。

「なんでそんなに元気なのよ、【廉貞】」

 うっとうしげにシッシと手をふり殺音が廉貞と呼ばれた男を追い払う。

「若いからにきまってるヨ」

 ピシリと、空間が歪んだ音が聞こえた。
 それを聞いて廉貞は自分の失言を悟った。

「つまり、冥は若くないと。自分より年上のくせして中○生体型してんじゃねーよ。若作りすぎだろ、といいたいのね。わかります」
「廉貞ーーーーー!!!!!!!!!!!」
「ちょ……!俺、そんなこといってないヨ!!」

 暑さで思考回路が鈍った冥が放つ高速の右ストレート。
 よけることすらできず自分の無実を騒いでいた廉貞はまともにくらって地面を転がって十メートル近くたってようやくとまった。

「……ぇ?」

 てっきり自分にくると思っていた殺音はおもいっきり呆けたような声をあげる。

「すまん、鬱陶しかったから反射的に殴ってしまった」
「―――あんたも大概無茶苦茶ねぇ」

 ハハハハと殺音は乾いた笑い声をあげる。
 とりあえず冥は地面に転がっている廉貞の足を持ってズリズリとひきずりながら歩く。
 ゴンとかガンとか所々ぶつける音が聞こえるが二人は気にしない。

「ちょ……イテ!……まっ……ギャ!……とめ……て!」

 そんな光景を見た周囲の数少ない通行人はひきにひきまくっていた。
 廉貞を引きずり回すこと数分、ようやく三人は人影少ない影山邸の前まで到着した。

「さて、やってきました。影山邸」
「僕は昨日というか今朝か。来たばっかりだけどね。同じところ二度往復するって凄い無駄な気がしない?」
「あー分かる気がする。なんとなくやるせない気分になるわよねぇ」

 すでに半分ボロボロになって泣いている廉貞を無視する二人。

「さー、どうしようかしら」
「また襲撃かければいいんじゃない?」
「そうなんだけどね。昨日もソレやったんでしょ?二日続けてガラス割って入ったら悪いじゃん」

「……そういう問題?」
「ガラス代請求されても困るしさー、うちの子たちももうちょっと考えてほしいところねー」
「……なんか激しく間違っている気がする」

「ま、行きますか。武曲、廉貞。準備はいい?」
「いつでも」
「いいヨ。姐さんたちのためにがんばるネ」

 上等、と笑って殺音は闘気を発しながら門を袋からだした日本刀で叩き斬った。









「……!!!!!」
「敵か!!!!」
「きょーちゃん!!」

 【ソレ】はあまりに突然だった。
 影山邸すら揺れた、と勘違いするほどの闘気の発生。
 寝ていた美由希と巻島が飛び起き、恭也も珍しく表情を出していた。それはまさしく驚愕の一言。

「……誘っている?」

 理由はない。理屈でもない。
 それでも恭也はその闘気を放つ人物が自分を誘っているのだと分かった。

「嵐山さんは影山さんを頼みます!美由希、館長!!」
「はい!!」
「今度はどんな化け者がやってきたんだろーな!!」

 恭也たちは走る。庭へ飛び出し目的の人物達の元へ。そんな恭也の目に入ってきたのは【一人】。
 ポニーテイルの美しい女性。
 勿論その左右には冥と廉貞がいた。
 だが、恭也にはその女性しか目に映らなかった。

 ドクンドクンと心臓が脈打つのが分かる。
 互いの視線が―――絡み合う。

 ―――そうか。
 ―――うん、そうだね。

 ただ二人は同時に頷く。
 体中が沸騰したかのように熱い。
 
 ―――お前が(君が)。

 ―――俺の(私の)。

 ―――運命か―――。











 二人の想いが通じる。恭也はふっと、殺音はクスリと笑う。
 見上げれば青空。雲ひとつない晴天。
 太陽が輝き夏らしく真夏日と思わせる温度。
 周囲では蝉が鳴き周囲の森を騒がせている。

 そんな中で微動だにしない恭也と殺音。
 静かに、まるで彫像のように互いに見詰め合っている。

「高町恭也」
「水無月殺音」

 同時に、自分の名前を口に出す。それが開戦の合図。
 二人が消える。ドンという何とも言えない音が鳴り響き恭也が吹き飛ばされる。

 常識的にありえない。
 人間が地面と水平に飛ぶなど。
 だが、それが現実。

 吹き飛ばされた恭也を追うのは殺音、その右手にはいつ抜いたのか白刃が。
 回転しつつ、体勢を立て直した恭也が抜刀。
 殺音が感じるのは死の予感。

 戦いというもので初めて感じたそれは恐怖か、畏怖か絶望か。
 首元に感じる死の閃光を弾く。
 それと同時に腹部に迫った死、そのものを柄で弾きおとす。

 しかし、殺音が感じる【死】はまだ終わらない。
 それはなんという神業、いや魔技か。
 再び迫る左右の妖刀。

 まるで四本の腕から放たれたかのような四連撃。
 声にならない声をあげて殺音が身体を捻る。
 空気を裂く閃光が空間を舞う。それさえもかわしきる殺音はやはり恭也と同等の化け物か。

 手数の恭也。
 力の殺音。

 二人の歯車が噛み合い金属音が一際高くこだまする。
 鍔迫り合い。小太刀と日本刀が震えるだけの静止。
 二人の視線が交錯して鍔競り合いが解かれる。 

 鬼気迫る殺音の一太刀を恭也は瞬時に身を伏せ掻い潜る。
 懐にいれてなるものか、と殺音は自分の間合いを取るように動く。
 恭也も自分の間合いを取るべくさらに距離を詰める。
 殺音の縦一閃。真空波すら巻き起こしかねない音速の斬撃をもかわし切る。    

 さらに袈裟斬り。
 これも恭也はかわす。かわしざまに恭也の斬撃。

 互いの一撃のなんと重いことか。
 受け止めた殺音の足元の地面がわずかに爆ぜる。

 その衝撃を受けても殺音はただ笑っていた。
 恭也もまた笑っていた。

 ―――ああ、楽しいね。

 そんな殺音の心の声が恭也に聞こえた気がする。

 ―――そうかもしれないな。

 恭也もそれに心の中で答える。
 異常者だけが笑える。そんなテリトリーがそこにはあった。











「お前如きではあの戦いには手だしできないよ」

 呆然と見ていた美由希だったがその一言で我を取り戻していた。
 いつのまにか冥が美由希の間合いの半歩外の位置まで近づいていた。
 もし、冥がその気であれば美由希は命がなかったかもしれない。

「……貴方は?」
「【北斗】が二座【武曲】」
「……」
「そう睨まれても困るけど。どうせあの戦いに手をだすことなんかできないんだし落ち着きなよ」
「……!!」

 美由希の点を打ち抜くかのような突き。
 加速からの踏み込み。その突きが冥の頭を貫いた。

「っく……!」

 美由希に伝わるのは人を斬った感触ではなく空を斬ったソレであった。
 冥は横に半歩移動して美由希の突きをかわしていた。
 だが、美由希はそれだけでは終わらない。
 突きから派生した横薙ぎの一撃が冥に迫るが刹那に抜いた日本刀で受け止める。

「……やるじゃないか。正直、今のは焦ったよ」
「……」

 二人はその体勢のまま睨みあう。

 冥はその幼い容貌でニヤリと笑い、美由希の小太刀を弾く。
 甲高い音を残して距離をとる。

「気が変わったよ。少し遊んであげる、かかっておいで小娘」
「……貴方は強い」

 両手を左右に広げオイデっと手招きする冥を冷たく見る美由希。

「でも、私のほうがさらに強い!!」

 ピキッと頬を引きつらせ冥は八双の構えを取る。
 恭也と殺音とは異なる天才達の戦いがここに火蓋が切って落とされた。











「恭也の野郎、一番おもしれー奴を取りやがって」

 ぶつくさと頭をかきながら巻島は地面を蹴る。

「仕方ないネ。破軍の姐さんとあのオニーサン他に何もみえてないヨ」
「あーあ、つまんねーの」
「元気だすといいネ」

「美由希も何かはじめそーだしなぁ。と、なると消去法でおめーとか、俺は」
「痛いのって嫌だしネ。どうせなら姐さん達の戦いを見物しとかないかナ?」
「断る!!!!!」

「……攻撃的だネ、オジサン」
「つーわけで、やろうじゃねーか、細目」
「はぁ……」

 ため息をついた廉貞の姿がぶれる。
 巻島を襲う衝撃。
 数メートルも離れた場所まで吹き飛ばされ砂埃が舞う。

 先ほどまで巻島が居た場所には片足を跳ね上げた体勢の廉貞がいた。
 その顔には明らかに嘲けりの笑顔を浮かべながら廉貞は足を下ろす。

「痛いの嫌だよネ?オジサン?」

 アッヒャッヒャと下品に笑う廉貞。

「ハッ!不意打ちとはおもしれーな!」

 砂埃がおさまり現れた巻島はグルグルと肩を回す。
 獰猛に笑ったまま。
 廉貞はそれに不機嫌そうに唾を吐く。

「普通の人間なら首の骨おれてるヨ。頑丈にも程があるネ」
「くっくっく。俺を殺そうなんざ百年はえーわ!!!!」
「……ちょっとだけ本気でやってあげるネ。俺は【北斗】が三座【廉貞】。冥土の土産にもっていくといいヨ」

「ああ、てめーっがな!」

 巻島と廉貞。肉食獣らしき殺気を放ちながら二人が構えた。
 向かい合う両者。その二人の間では熱い闘気がぶつかり合っていた。
 廉貞は首を傾げる。目の前の人間があまりにも自分のイメージしている人間からかけ離れていたからだ。本当に人間かとも疑った。

 それでも巻島十蔵は人間である。
 幼い頃から空手一筋。
 ひたすら我武者羅に己を鍛え続け気がついたら【五指拳】に数えられていた。 
 明心館・巻島流という流派を創立した生粋の武人。

 そんな巻島ももうすぐ六十を迎える。
 格闘家としてはとうにピークは過ぎている。
 最盛期の頃と比べるとやはり力も速さも落ちているのは本人自身が一番理解していた。
 それでも、彼は、巻島十蔵は……十分な【化け物】だった。
 疾風の如く飛び出した巻島が飛ぶ。

「カッァァアア!!」

 猛々しい咆哮とともに巻島の右足が廉貞に牙を向く。
 稲妻のような蹴りを首を傾けてかわす。
 安堵するまもなくさらに廉貞の顔に巻島の蹴りが襲い掛かる。
 二度目の蹴りを今度は腰を落としギリギリで避ける。
 まだ終わらない。

 引き戻された三度目の蹴りをかわす余裕もなく両手を交差させて受け止める。
 その衝撃は計り知れず、いくら小柄とはいえ完全にガードしたはずの廉貞の身体が宙にういた。
 ビリビリと痺れる腕に驚きいつも細い目が大きく開く。
 空中三段蹴り。

 地面に降りた巻島が廉貞の喉を食い破らんと手刀で突く。
 逆にパンと軽やかな音がして巻島の顔にカウンターで廉貞の右拳が叩き込まれる。
 二度三度と直撃する。
 音は軽いがその威力は一般人ならば失神しかねない威力。

 それでも巻島は止まらない。ダメージを気にせず右拳が振り下ろされる。
 廉貞はその拳を巻島の懐に飛び込んでかわすが振り下ろした際に発生した風が後ろ髪をなびかせる。
 その拳に秘められた破壊力に冷や汗をかきながら巻島のがらあきの胴に左右の連打を叩きこむ。
 ゴフッと巻島が咳き込むがそれすら無視して凶悪な右膝が廉貞の顎目掛けて跳ね上がった。

 その膝を両手で受け止めその威力を流しつつ後ろに跳躍、クルリと回転して着地。
 休む暇をあたえず巻島の槍のような拳打に加え死角からの高速の回し蹴り。
 回し蹴りを避けることはできず、廉貞は腕を縮めて受け止める。
 やはり殺しきれない衝撃が伝わり身体が泳ぐ。無理にふんばろうとせず勢いに任せて、そのまま地面を転がった。

 巻島の追撃に廉貞は前方に回転し踵落としを放つが十字受け。
 足を掴んで振り回し投げ飛ばす。

「んな!!!!!!!」

 驚愕の声をあげるが空中で体勢を立て直す、見事なバランス。
 戦いは止まらない。
 巻島の攻撃は鋭く、間断もなく、廉貞をして反撃するタイミングを掴めない。
 廉貞は直撃を避けるも巻島の拳がこめかみをかすめ、風きり音が耳元でする。

 冷たい汗が廉貞の背中にながれるも、このままでは押し切られると判断した廉貞は腰を落とし全力で踏み込んだ。
 土が爆ぜ、踏み込みの音とは思えないとてつもない轟音が響く。
 人間を超越した夜の一族の身体能力がその挙動を可能とした。
 巻島が反応するが、遅い。
 廉貞にとってはその一瞬で十分だった、左手が閃光のように繰り出された。

 一瞬。

 廉貞の拳が巻島の腹部、鳩尾、胸の三箇所を同時に打ち抜いたのだ。
 さらに膝蹴りが唸り、巻島の顎がかちあがった。
 後ろに崩れそうになった巻島の顔面に振り下ろされた右拳が直撃。
 倒れることを許さず地面に倒れ付す前に左の回し蹴りが巻島の後頭部に決まり、再び身体自体が跳ね上がった。

 さらに裏拳が炸裂し、吹き飛んだ巻島を追撃。
 拳打と蹴撃の嵐。
 最後に巻島の身体に手をあて爆発的な威力とともに発せられた寸頸が弾き飛ばされた。
 巻島はその鍛え上げられた肉体を柵にぶつけ倒れふす。

「……オジサン、俺が闘った人間で一番強かったヨ。安心して閻魔様に会いにいきなヨ」

 ちょっと焦ったかナ、と肩をグルグル回しながら口笛を吹く。

「いてて、俺じゃなかったら死んでもおかしくねーぞ」
「……!?」

 頭を押さえながら巻島は立ち上がりボロボロになった服を破く。
 それを見ていた廉貞は目を瞬かせる。
 そんな、ばかなと。

 自分のあの連撃をくらって何故生きているのかと。
 人間なら五回は余裕で死ねるだけの技だというのに。

「オジサン、人間なのカ?」
「おおぅ、人間だよ。正真正銘、赤い血を流すよわっちぃ人間様だ」
「……そういう奴が、一番危険だネ」
「はっ。正直モンをなめんなよ?だからよ、俺達は牙を研いでんだよ。毎日毎日何度も何度も。んで気づいたら―――もう数十年だ」

「……たいしたものだヨ」
「ああ、自分でもそう思うぜ」

 ウハハハハと笑い、巻島は腰を落とす。

「てめーも喰らってみるか―――俺様の五十年の一撃を!!!」

 巻島の身体が、一瞬で廉貞の目の前に迫る。
 空を切り裂いた前蹴りが紙一重で屈んだ廉貞の頭上をかすめる。

 高々と振りかぶられた蹴り足がそのまま廉貞目掛けて振り下ろされた。
 即死ものの一撃が廉貞の頭に振り下ろされるのと、廉貞が全力で横に逃げるのとが同時の出来事だった。
 休む間もなく巻島が突進し、矢のような回し蹴りを放つ。

 体勢を崩していたため先ほどのように蹴りを受け止めるも受け流すことはできず衝撃が全身を貫く。
 フッと廉貞は巻島の呼吸を聞いた気がした。
 川を流れる清流をイメージ。身体を捻る。
 弓を放つかのような、全体重を乗せて、巻島の拳が放たれる。

 ―――瞬間、五発。

 威力を損なうことなく、全ての間接が連動する。
 音すらなく、その五発は廉貞に吸い込まれていき、まるでトラックに轢かれたかのように空を舞った。
 身体が吹き飛ぶのはその衝撃が分散されているのだと、誰かが言った。

 しかし、巻島は思う。
 例え吹き飛ぼうが吹き飛ばなかろうが、強いものは強いのだと。

「巻島流【獅子吼破】……なかなか良い一撃だろ?」

 五発うっちまったがな、と巻島は地面に寝転がる。

「久々に面白い喧嘩だったぜ」

 完璧に気を失っている廉貞に声をかけ巻島は目をつぶる。
 巻島は満足そうに口元を歪め太陽の光を浴びていた。

 













 【夜の一族】。
 それはヨーロッパを発生とする吸血鬼や人狼などといった第三世界に住まう者達の総称である。
 人間を遥かに越える筋力、再生力、不老長寿、特殊能力を持つ。
 それ故に夜の一族は人間を自分達より下等な生き物だという考えが彼らのほぼ全てを占めていた。
 当然、人間と共存したいと考えている者もいるがあくまでそれは少数派なのだ。

 人間が豚や牛を自分達と同等だと考えないように、能力的に遥かにすぐれる夜の一族がそう考えるのも無理はないかもしれない。
 そんな彼らだからこそ【人間】が長年積み上げてきた【武術】というものを軽視していた。
 そんなものを学ばなくても自分達は人間などに負けはしない、と。
 獅子が生まれ成長すれば最強であるように、生物としてのヒエラルキーの最上位に位置する夜の一族にとってそんなものは必要なかったのだ。

 だから夜の一族で何かしらの武術を学ぶのは少数、いや異端でもある。 
 そんな異端ともいえる一人が冥であった。
 最初は殺音に無理矢理付き合わされただけであったが徐々に引き込まれていった。
 夜の一族としての身体能力、長年の鍛錬によって築き上げた剣術。
 そんな冥ですら、目の前に対峙する年端もいかない少女に戦慄せざるをえなかった。

 完全に力量を読み違えたか、と未熟な己を罵る。
 なるほど、貪狼程度では相手にもならない。
 それほどの剣気を、闘気を内に秘めた自分の【敵】となり得る剣士だ!

「非礼を詫びる、剣士よ。改めて名乗ろう。ボクは水無月冥。一手お願いできないだろうか」
「……高町美由希。お相手致します」

 先ほどとは一転、突然の殊勝な言葉に訝しがりながらも美由希は油断なく答える。
 答え終わった途端地面を滑るように間合いを一気に詰めた美由希が右からの横薙。
 白刃が風を裂き、冥の脇腹を狙う。
 冥はそれを軽々と受け止める。

 それとほぼ同時にもう一つの小太刀が死角から迫るが、冥はさらに踏み込んで美由希の肩を押さえる。
 ギシリと骨が軋むが美由希の蹴りが冥の顎を狙って跳ね上がる。
 肩から手を離し間合いを取ると唐竹一閃。
 美由希はそれを退くどころか斜め前に踏み出しギリギリで見切る。

 だが、空振りで終わったはずの冥の白刃が刃をかえすと同時に地面に激突、先ほどとは逆の軌跡を描き美由希に迫りくる。
 なんという荒業。
 そんな白刃を美由希は冷静に受け流し逆に冥の手首を狙う。狙うは動脈。
 それでも冥は冷静に柄を落として小太刀を弾く。
 小太刀が弾かれその衝撃に美由希の腕が痺れ唇を思わず噛む。
 
 右袈裟斬り、逆胴、その流れからの突き。
 見かけとは裏腹にとてつもない威力の一撃を打ち込む冥に対抗するために美由希は鋭く細かく回転をあげていく。
 冥の咆哮が木霊する。

 全てを薙ぎ払うかのような一撃。
 美由希の連撃を嘲笑うかのように弾き飛ばし空気を歪ませ首を襲う。
 片手だけでは受けることも受け流すこともできないと瞬時に判断し、両手の小太刀で受け止める。

 そのあまりの衝撃。
 地面を蹴り力の流れに逆らわず飛ぶ。
 あのまま踏ん張って受け止めていたら恐らく小太刀ごと両断されていた。
 圧倒的な力。自分を上回るスピード。熟練された剣術。
 
 これが、恭也から聞いた夜の一族の身体能力。
 強い、というレベルではない。
 ここまでの剣士を美由希は頭に思い浮かべようとして止めた。

 比較しても意味がない。
 美由希にとって高町恭也こそ至高。
 究極にして最強、無敵にして不敗。

 そんな恭也に比べれば例え冥といえど、子供同然。
 圧倒的なパワー?目にもとまらないスピード?

 ―――それがどうしたというのだ!!

 高町美由希が受け継ぐ御神流はそんな相手を屠るために伝わってきた必滅の【技】。
 例えどんな相手だったとしても高町美由希に負けることは許されない。
 美由希が敗北が許されるのはこの世界で唯一人、高町恭也。

 ―――ならば、全てを斬ってみせよう。塵芥も残さずに。

 この瞬間、冥は【殺気】が【殺意】に【闘気】が【鬼気】に変わるのを感じ取った。
 冥は美由希を甘く見ていたつもりはない。
 それでも本気になった自分の攻撃をここまで凌ぐとは想像していなかった。  
 その斬撃のなんと鋭いことか。
 その突きのなんと容赦のないことか。
 その防御のなんと鉄壁なことか。

 自分はまだ美由希を、たかが人間と侮っていたことに苦笑する。

 ―――侮るな。

 殺音と戦っている男も、また人間だ。
 ならば、目の前に居る少女もアレと同等の化け物でないという保証がどこにある。
 たかが人間。それならば自分もたかが夜の一族ではないか。

 慢心も油断も必要ない。
 必要なのは敵を打ち砕くという強い意志のみ!!
 奇しくも互いに決意を固めたのは同時。

 地面を蹴る。
 互いに尋常ならざる身のこなし。
 両者の踏み込みの音が聞こえ、丁度中心で火花が散る。
 亜音速の世界で斬り、突き、打ち、弾かれあう白刃同士。

 初手にて斬りあった場所からどちらも動かず、ただひたすら切り結ぶ。
 冥の下段からの跳ね上げる日本刀の一撃を、美由希は片手の小太刀で撥ね退ける。
 冥は手首の力のみで日本刀の軌道を修正、瞬時に上段からの振り下ろしに変化する。
 今度は右の小太刀で受け流し、冥は空いた左の小太刀の攻撃に注意を払い、美由希の右側に踏み込む。

 地面を蹴って美由希は間合いを取る。追いすがる冥。
 一拍おいての右の小太刀の斬撃。
 それを受け止めるが、その上から左の小太刀を重ねる。
 凄まじい衝撃が冥を襲う。身体の芯に残るような。

 それでも冥は歯を食いしばり半ば押し込まれたような不安定な体勢から美由希を撥ね飛ばす。
 距離をとった美由希が大きく片手の小太刀を後ろに引く。
 そして放たれるのはこれまでにない高速の突き。

 まさに音速ともいえるソレは一直線に、冥に迫る。
 後ろに飛んでも追撃されるだけだと判断した冥は、美由希をさらに上回る速度で横に飛ぶ。
 それでも、完全には避け切れない。それほどの超高速。
 突きが冥の肩にえぐりこむ様にして突き刺さる。

 その威力に小柄な冥の身体が激しく吹き飛び、さらに追い討ちをかけるように追撃。
 だが、冥もなんという精神力。
 肩を貫かれながらも自由がきく片手で美由希の頭を砕き割らんと日本刀を振り下ろす。 
 それに気づき美由希は受けるが、軽い。先ほどまでに比べると異常なまでの軽さ。

 冥がすでに刀を手放したのだと気づいたときには遅かった。空気を裂く音。
 美由希の腹部に冥の、岩を砕くような拳が入り、先ほどとは真逆の光景が繰り返される。
 それでも美由希は倒れない。

 口から血を吐き出しながらも眼光鋭く冥を睨みつける。
 冥も肩を貫かれてはいるが、その戦意にわずかな緩みもない。
 今までのがまだ前哨戦だったといわんばかりにさらにさらに二人の間の空気が熱していく。
 戦いはまだ終わらない。

 












 水無月殺音と水無月冥は人猫(ワーキャット)と呼ばれる種族だ。
 夜の一族と言えば聞こえは良いが実際には夜の一族の中でもランク分けをされればかなり低い。
 ワーキャットの種族自体確かに人間よりも身体能力は高い。
 それでも他の吸血種や人狼といったメジャー級の一族には及ばない。

 そんな中で殺音に起きたのはまさに呪われた奇跡。
 数億分の一とさえされる確立で引き起こされる【始祖返り】と呼ばれる現象。
 夜の一族の歴史は長く、長寿といっても幾度も世代交代を繰り返し徐々にその血が薄まっていった。
 それはいくら純血を保とうとしてもやはり無理がある。

 【始祖返り】によって殺音は夜の一族最古の存在へと、その血を、肉体を、能力を引き戻されたのだ。
 夜の一族の上位種すらも上回る超能力。それはまさに底辺にいるワーキャット達にとっては恐怖の対象。
 その結果、殺音は一人になった。
 両親はおろか、家族、一族、種族全てに疎まれた人生を送った。
 家を飛び出したのがおよそ二十年ほど前。

 妹でもある冥が何故かついてきて二人で世界を、日本を放浪した。
 その途中で自分と同じような境遇……【始祖返り】ではないが……で行き場のない連中が回りに集まってきて【北斗】ができた。
 過去ではありえない、周囲にいる者達の顔に浮かぶのは打算のない、恐怖のない笑顔。

 自分を信頼してくれる仲間。
 それでも水無月殺音は……心の底から笑ったことはなかった。

 
 
 壱。

 弐。

 参。

 肆。

 伍。

 陸。

 漆。

 捌。

 玖。

 拾。

 わずか一秒の間に繰り出されるのは十合の打ち合い。
 はたしてどれだけの存在がこの戦いをはっきり見ることができるであろうか。
 世界を探したとしてもそうはいまい。
 これはもはや人間と夜の一族の戦いというものを遥かに超えた、まさしく最強同士の争い。

 天さえ彼らに恐怖したかのように、その晴天が曇天へと変わっていく。
 単純な力で言えば恭也は殺音に圧倒的に劣る。
 それでも恭也は秒間十発という中で殺音の刃筋を逸らせながら受け流す。
 単純な速度で言えば恭也は殺音に絶望的に劣る。

 それでも恭也は極限まで無駄を省いた動きで殺音と相対する。
 ようするに恭也は上手いのだ。
 剣術というものが、戦闘というものが、殺し合いというものが。

 決して殺音の剣技が拙いというわけではない。
 一流、いや超一流。その技に匹敵するものは恭也の記憶にもいないほど。

 それでも恭也には及ばない。
 恭也の剣技も超一流といってもいいだろう。
 それでも同じ超一流という言葉の中でも絶対的に埋められない差があった。
 その技術の差だけが恭也と殺音の戦いを拮抗させたものへと押し上げている。

 周囲にいる才能溢れる人間とは違って高町恭也という青年は言ってしまえば凡才である。
 腕力では高町恭也は友人の赤星勇吾には及ばない。
 速度では高町恭也は御神美沙斗には及ばない。
 剣才では高町恭也は高町美由希には及ばない。
 応用性では高町恭也は城島晶には及ばない。
 武術の才能では高町恭也は鳳蓮飛には及ばない。

 周囲にいる才ある者たちによって自分の凡才が実感できたからこそ恭也は狂ったような鍛錬を耐え切れたのだ。
 常人なら一日で身体を壊し、一週間続ければ発狂してもおかしくない、そんな絶望的な鍛錬を己に課したのだ。
 幼き頃の約束を護るために。高町美由希を導くために。

 ―――その結果が今の恭也。

 一と百ほどの差もある才能を覆すほど昇華された【技】、いや、もはや【業】。
 御神と不破の一族が健在であったならば狂喜乱舞するような、彼らが目指した【破神】の理想がそこに在った。
 恭也本人は否定するだろうが、御神数百年の歴史の中で誰もが理想として、辿り着けなかった【完成された御神の剣士】すらをも遥かに越えた剣士としてそこに居た。

 美由希と冥がそうしたように、殺音と恭也も足を止めた打ち合い。
 それはもはや暴風。
 近づくものは容赦なく斬らんと、荒れ狂う剣の結界。
 空気はおろか、原子すら斬り裂くかのような殺音の唐竹に対して恭也は刃筋を横に逸らし完璧に受け流す。

 それでも殺音は運動エネルギーをも無視するかのように縦横無尽に刀を振るう。その全てを恭也はさばききる。
 瞬間、殺音の瞳が、獣のように鋭く細く変化する。
 恭也の背筋を悪寒が襲う。

 今までの剣撃が冗談のように思えるほどの凶悪な横一文字。
 刃筋を逸らそうが、どんな手段を使っても防ぎきることは不可能と判断。
 後方へ跳躍。轟風音を残し恭也のいた場所を切り裂くが、停止。
 その切っ先を恭也に向けたまま爆発的な勢いで放たれる突進。

 間一髪の見切り。それでも、恭也の頬が皮一枚がパクリと開き血を流す。
 鉄臭い匂いが恭也の鼻につく。
 それでも迷いなくステップを踏み、疾風のように殺音の側面に回り込み、頭を狙う。

 今度は殺音が首をずらし、距離をとる。
 それと同等の速度で殺音を追い、先ほどのお返しといわんばかりに突く。
 殺音はその突きを胸の前で払い落とす。

 殺音は思う。
 先ほどの頭への一撃も、今の心臓への突きも、確実に……自分を殺しにきていると。
 コンマ一秒すら反応が遅れれば自分の命はないだろう、それを確信できるほどの攻撃。
 恐怖はもはや感じない。

 全身を熱く燃え上がるような昂揚感。
 自分の全てを受け止めても、壊れることなく、逆に自分を喰らいつくさんばかりの勢い。
 こんな世界の理から外れたような人間がこの世界にいることに、自分と出会わせてくれたことに殺音は産まれて初めて感謝した。

 ―――死なない。

 ―――殺せない。

 ―――壊せない。

 それがこんなにも素晴らしいことだと殺音は初めて知ったのだ。
 今、殺音は心の底から笑っていた。

 最高の一時、最高の時間、最高の瞬間、殺音はまさに至福を感じる。
 その時、殺音の聴覚がある【音】を聞き取った。
 遠くからこちらにちかづいてくる音、それはサイレン。

 ―――警察?

 バカなっと吐き捨てる。
 ここの周囲は森に囲まれていて隣接する家などない。だからこその全力戦闘。
 ならばどうして警察などが向かってくる。

 激しい疑問が頭の中を駆け巡る。
 殺音の視界の端に二人の人物が映る、それは今回のターゲットでもある咲夜と嵐山。

「おまえらかぁぁぁぁああぁあああああああああぁああああああああ!!!!!!!!!」

 憎悪と憤怒とが混ざり合った咆哮。
 殺音の全身に冷たい衝動がはしる。
 心臓が破裂しんばかりに高鳴り冷たかった衝動が一瞬で沸騰、血液が熱く燃える。

 ―――けがされた。よごされた。じゃまをされた。

 私とキョーヤの殺し合いを!!!!!!
 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!!!!!! 
 その眼を!その顔を!その手を!その胴を!その足を!
 斬り裂き、裁断し、踏み潰し、粉々にしても足りない!灰すら残さず、細胞までも滅ぼしつくしてやる!!!

 怨念とすら言える感情が、狂気が、暴風となって咲夜と嵐山を襲う。
 彼らは顔を青ざめ、咲夜は糸がきれた人形のように倒れ嵐山は吐瀉物を地面にぶちまけていた。
 それを見ても溜飲はさがることなく、それでも警察と真正面からやりあうわけにもいかずガリッと歯軋りをする。

「……キョーヤ」
「何だ?」
「条件を一つ飲んでくれるなら、もう二度と影山咲夜は狙わない」
「……条件はなんだ」

「私と戦え。もう一度だけ私と、何の邪魔もなく、互いに、全力で」
「……」

 恭也が考え込む。
 それも当然のこと、あまりに突然で、脈絡もない。

「信頼できるとは思えないけど……それでも誓う。約束は護ると」
「……分かった。約束しよう。お前と再び戦おう」

 恭也はそう言って小太刀を納刀する。 
 その言葉を聞いた途端、殺音の中で荒れ狂っていた激情は一瞬でひいた。
 
 ―――ああ、またあの瞬間が味わえる。それならば我慢しよう。

「時間はおって伝える。忘れるなよ、キョーヤ。私は殺音。水無月殺音!」

 冥、と叫んで気を失っている廉貞の襟を掴むと一瞬にして森の奥へと消えていく。
 冥はあまりに突然の行動に固まっていたが美由希に、勝負は預けた!と宣言して殺音の後を追った。
 ここに【北斗】と恭也たちの第二戦が幕を閉じた。

 











[30788] 旧作 御神と不破 一章 後編
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/03/02 01:04






 開発の手が触れられぬまま放置されたような巨大な森の中、ポツンとある家、いや館といったほうがしっくりくる【北斗】の現在の仮の拠点。
 そこに殺音は玄関のドアを開けて入ると丁度二階から降りてきていた巨門と鉢合わせた。
 完治とはいかないまでも決して浅くない傷を負ったはずなのに昨日の今日で問題なく歩けるようになっているのはやはり夜の一族である。
 そんな巨門に向かって影山邸から引きずってきた―――未だ眼を覚まさない廉貞を片手一本で投げつける。

「パス」
「うお!?」

 驚きながらも巨門は廉貞を落とすことなく受け止め、受け止めたのがボロボロの廉貞だと気づいてさらに驚く。
 仮にも【北斗】の第三座。殺音、冥に続く実力者の廉貞がこれほど追い詰められた所は巨門とて記憶にない。
 殺音は黙っているが廉貞の怪我の半分はここまで廉貞を引き摺りながら走っていたためなのだが。

「完璧に気を失ってるから寝かしといて。怪我自体はそんなに重くないから。多分肋骨が数本バキバキにおれて内臓に突き刺さってるくらい」
「……十分重傷だと思いますけど」
「まー、死にはしないわよ。ってことでよろしく」
「は、はぁ……」

 納得しきれない様子で巨門もまた、廉貞の足を掴んで引き摺って二階へ連れて行く。哀れ、廉貞。
 それと入れ違うように息を乱しながら冥もようやく辿り着いたようで先ほどの文句を言おうと殺音に詰め寄る。

「―――ごめん、冥。後にして」

 そう言って殺音は冥の頭を軽く叩くとリビングのソファーに寝転がる。眼をつぶり両手を胸の前で組み、物思いにふける。
 冥はそれにタイミングを外されたかのように言葉が喉でつまり、仕方なく殺音の正面のソファーに座って肩の傷口を見る。
 もうすでに血は止まっているようで、それを見て安堵のため息を漏らす。それでも完治するにはしばらくかかりそうな様子に今度は失望のため息をつく。
 全力を出せるまで一週間ほどかな……とあたりをつけ掌を握る。力は入るがやはり心許ない。

「人の身でたいしたものだよ……高町美由希」

 思わず口からでた言葉。冥が送る最大限の賞賛。自然と口元に浮かぶ笑み。
 今まで冥は戦いを楽しいと思ったことはない。彼女が剣を振るうのは戦わざるをえない状況、その時だけ。喜んで人を殺したことはない。
 自分がどこまで強くなれるのか、それは興味がないといえば嘘になる。でなければ殺音とともに剣術など学ばなかった。

 そんな自分が美由希ともっと戦っていたいと思っていたなど……変われば変わるものだね、と傍らに置いてある愛刀をなでる。
 その時、二階からギシギシと階段を踏みしめる音が聞こえ冥が視線をやると短い黒髪をオールバックにして固めた神職者の格好をした青年がゆっくりと降りてきていた。
 冥の肩が血塗れなのに驚き口を大きく開けてじっとみつめてる。

「武曲、貴方や廉貞ほどの方が手傷を負わされるとは一体何があったというのですか」
「【禄存】か……。相手が文曲達が言っていた以上の人間だっただけだよ」
「申し訳ありませんが俄かには信じられません。ただの人間にここまでしてやられるとは……」

「まぁ、そうかもね。実際自分で立ち会わないとなかなかね、ああ、アレアレ。百聞は一見にしかず、ってやつ。人間っていい言葉を残してるよね」
「ふむ……」
「まぁ、はっきり言って強いね。あそこにいた三人が三人とも。特に恭也とか言ったかな?あの剣士は化け物だね。文曲が脅えるのも無理ない」

「人間です……よね?」
「そうなんだけどね。一体どれだけ研鑽を積めばあんな領域に到達できるのやら」

 ブルリと冥は身体を震わせる。人間が高町恭也の域に達するまでどれほどかかるのか。
 少なくとも十年や二十年ではきかない。
 その程度であれだけの存在になれるのなら今頃は世界中の夜の一族が人間の手によって滅ぼされていただろう。

 ―――五十年?それとも百年?

 なるほど、百年も研鑽をただひたすらに積めば或いはあの領域にまで到達できるかもしれない。 
 つまりあの剣士は、高町恭也は達人と称される人間達のさらに十倍以上の密度の時間を過ごしているのか。
 その予想に辿り着いたときゴクリっと冥の喉が鳴った。なんという化け物か。
 だがそれでも、人間が殺音と戦おうと思うにはそれだけの研鑽を積まねば、人の域を外れなければできないのだろう。

「或いは……あの剣士ならば【十界位】ともやりあえるかもしれないね」
「さ、さすがにそれはないでしょう」
  
 意に関せずでた言葉は即座に禄存によって一蹴された。冥も特に反論しようとせず未だ横になっている殺音に視線を移す。

 【十界位】(じゅかいい)。それは【呪怪異】とも言われ夜の一族を含めた第三世界に住まうありとあらゆる怪物の頂点に君臨する王を称する。
 時には彼らの動きはもうすでに【行動】ではなく【現象】とさえ判断されるのだ。
 現在日本を中心として活動している【十界位】は三つ。

 夜の一族の中でも強い影響力をもつ【綺堂】。そしてそれに連なる【月村】と【氷村】。
 この一族を纏めて【十界位】の第七位として数えられている。

 そしてもう一つが五位に数えられている【百鬼夜行】と称される化け物。
 強い者と戦うことを至上の喜びとする戦いに狂った戦士。この化け物に滅ぼされた一族は数知れない。もっともここ十数年近くは消息不明となっているが。

 三つ目が第九位の【クロ】。
 年齢も性別も種族も一切が不明。分かっているのは三年ほど前に日本で前九位を打ち破ってその階位を受け継いだ言われていることだけ。 

「そうかもね。少し大げさに言い過ぎたかな」
「そうですよ。治療用具をもってきますので少し待っていてください」
「別にいいから。どうせもう血はとまってるし」
「黴菌とかはいったら危険じゃないですか。そこらへんはキッチリしときましょう」
「はいはい。あんたは几帳面すぎなのよ」

 ずぼらなのよりはいいじゃないですか、と残して禄存は再び二階へ上っていった。
 それとほぼ同時に突然、殺音が身体を起こす。

「思い出した!小太刀を操る剣術は数少ないけれどある、それでも二刀をあやつる一族がいたのを失念していた!」
「うん?どうしたのさ、殺音?」
「思い出したのよ、キョーヤ達が使う剣術が何なのか」
「な!本当か!?」
 
 ええ、と答えて殺音は唇を舐めて湿らせる。

「その動きは疾風迅雷。その剣技は天衣無縫。現世にて人に逢えば人を斬り、鬼に逢えば鬼を斬る。果ては神さえ斬らんと求め続けた【破神】の【御神】」
「……永全不動八門一派!!」

「そうよ。御神真刀流小太刀二刀術。もう十年以上前に一族郎党滅びたと聞いてたからすぐには思い出せなかったけど」
「成る程。確かにあの恭也なら下手したら神さえも斬れそうだね。神なんか信じてないけど……ね」

 夜の一族にさえ警戒された人間達がいた。
 一つは【退魔】の【神咲】。

 高度な剣術と強大な霊力を併せ持ち悪霊を滅ぼすことだけを四百年という長きに渡って生業としてきた一族。
 一つは【乱波】の【御剣】。

 日本古来から伝えられている忍術と予測不可能な動きを受け継ぐ一族。
 そして【破神】の【御神】。

 他にも数あれど夜の一族にとって最も警戒を払うのはこの御三家だった。そう、【だった】。
 今から十余年程前、【御神】の一族はとある事情で滅んでしまったのだ、殺音の言ったとおりに。

「まさか御神の末裔と出逢えるなんてね」
「御神か……確かにそれなら恭也と美由希があれ程の剣士だというのも納得できるね」
「それは違う、冥。恭也が強いのは【御神】だからじゃない。キョーヤは【恭也】だから強いのよ?」

 あの意思。あの決意。あの剣技。あの錬度。あの気合。
 御神だとかそういった枠に収まった強さではない。
 高町恭也だからこそ強いのだ。
 邂逅したのはわずかな時間。それでも 殺音は恭也の本質を誰よりも掴んでいた。

「冥、他の皆に伝えといて。これから影山咲夜には手出し無用、と。」
「……ボクは別に構わないけど。他の連中が黙って……いるね」

 否定しようとして冥は考え直した。よく考えたら巨門も貪狼もすぐに動けるような怪我ではないし文曲に恭也と戦えというのも酷な話。
 廉貞も重体、そして自分も軽くはない怪我を負っている。
 五体満足なのは禄存と殺音のわずか二人。そして禄存は殺音を神の様に信望しているため言えば当然従うはず。

「まぁ、殺音の好きにすればいいんじゃない?」

 投げ槍にそう言うと冥は天を仰いだ。













 周囲を満たす陰鬱な雰囲気に先ほどまで曇天だった空からパラパラと小雨が降り始め、それを影山邸の中から見ていた恭也は深いため息をついた。外では警官が嵐山と巻島の二人と話しているのが見える。

 警察には顔が利くからといって巻島と嵐山の二人が名乗り出たのだ。そこらへんは恭也たちにはできない人脈の広さを窺える。
 それにしても、と恭也は自分の両手を見る。その手はブルブルと微かにだが震えていた。
 今まで剣を交えて来た中でもっとも強烈な一撃を放ってきていたのは友人でもある赤星勇吾だったが……殺音は赤星の比ではなかった。

 もし殺音の刃筋を逸らさずに受け止めていたらあっさりと小太刀を叩き切られていただろう。それだけの力と剣技。
 そんな状況であったために刃筋を逸らせながらの防戦。神経を使い、並みの精神力で続けれることではない。
 殺音とのわずか数分にも満たない戦いで恭也の体力と精神力は恐ろしいほどに磨耗していたのだ。 
 それを美由希に悟られるわけにはいかない。恭也は美由希の前ではそんな無様な姿を見せるわけにはいかないのだ。

「大丈夫か、美由希?」
「う、うん……ちょっと痛いけどね」
「無理をするな、救急車がくるまで横になっていろ」
「ん……ありがと、きょーちゃん」

 声をかけられソファーで寝ていた美由希が反射的に起きようとするが手で制し再び横にさせる。その笑顔に力はなく、相当の痛みを我慢しているのだろうと予想される。
 そんな美由希を触診した恭也だが、内心安堵する。確かに骨は折れているが後遺症が残るような怪我ではない。

「ごめん……きょーちゃん。あの人、冥って名乗った相手だけど倒せなかった」
「気にするな。あの少女は強い。それは戦ったお前が一番わかっているだろう?」

「うん。強い人だったよ……でも、それでも勝てる相手だったの。【射抜】が決まってそのまま鍛錬どおりに次の攻撃に移っていれば……一撃入れたからって油断しちゃった」
「そうか」
「なんて無様なんだろう、私。きょーちゃんの弟子なのに。高町恭也の弟子なのに……」
「……」

 腕で目元を隠し涙声な美由希の頭を恭也はクシャッとなでる。

「悔しいか?」
「―――うん」

「勝ちたいか?」
「―――うん」

「強くなりたいか?」
「―――うん」

「ならばまずは傷を癒せ。俺がお前を更なる高みに連れて行こう。あの少女すら寄せ付けない御神の境地に」
「―――うん!!」

 もはや美由希に涙の後はない。あるのは強くなりたいという激しく燃える強い眼差しのみ。後悔はここに置き、すでに美由希の心は比類なき力を求めて歩き出していた。
 それに恭也は満足げに頷くと美由希の頭から手を戻す。

「……ぁ」
「ん?どうかしたか?」
「ぅーなんでもないよ」

 ゴロリと美由希は恭也に背を向ける。何がなんだか分かっていない恭也だが、元気になったならいいかと口元を緩める。
 しかし、と恭也は殺音のことを思いだす。

 ―――あの女性は強い。だが……。

 もし、次の恭也の心の声を冥あたりが聞いておたら言葉をなくしていただろう。それとも何を馬鹿なと鼻で笑ったか。

 ―――あの【程度】なら勝てる。

 コキリと震えがとまった腕を鳴らす。
 恭也を遥かに上回るパワー。恭也を遥かに上回るスピード。客観的に見たら恭也に勝てる要素など無い。それでも、それでもなのだ。
 それでも、恭也は殺音に勝てると確信していた。
 それは慢心ではなく、膨大な鍛錬によって生み出された自信。
 
 恭也は自分を過大評価も過小評価もしていない。先ほどの戦いでの殺音を見て、冷静に判断した結果がソレだったのだ。
 勿論、殺音が全力だったという保障はない。それに恭也自身、まだ奥の手を隠し持っているのだ。殺音も奥の手を隠し持っていないとは言い切れない。

 それを考えても恭也は負ける気がしなかった。
 その自信は【破神】と称された御神の奥義。御神の最奥を覗いた者だけが到達できる絶対領域。神さえ堕とす【破神】之壱【神速】。
 今まで【神速】を実戦で使ったことは数えるほど。御神を御神たらしめている奥義中の奥義を敵に見せるわけにはいかない。使うときは確実に相手を死に至らしめるときのみ。
 
 その実戦の中で【神速】に反応できたのは同じ御神の剣士である叔母の【御神美沙斗】のみ。もしかしたら殺音なら【神速】にすら反応するかもしれないと心のどこかで期待する。
 その時はその時で面白くなりそうだ、と見たものを恐怖させるかのような笑みを一瞬うかべた恭也だったが、すぐにそれを消す。警察との話が終わったのか巻島と嵐山が恭也の方に近づいてきたからだ。

「お疲れ様です。館長、嵐山さん」
「ああ、ありがとう。恭也くん」」
「ったくよー、警察ってのはなんであーもキッチリしてんのかね」

「警官の方々も職務ですし仕方ないですよ」
「かーやだねやだね。これだからくそ真面目なやつは」

 巻島は空いてるソファーに音をたてて座り込む。

「ああ、それと館長。救急車がきたら美由希と一緒に病院へ行ってください」
「ああん?なんで俺が病院なんか行かないといけねーんだ」
「それは自分の身体に聞いてください」

 そう言って恭也は巻島の腹部を軽く押すと巻島はあまりの激痛で反射的に丸くなる。それに呆れたような視線を向ける恭也。

「美由希以上の大怪我をしているのになんでそんな平然としてたんですか」
「ぐ……きょ、恭也……てめー……いい度胸してるじゃねえか」
「残念ですが今の館長に凄まれても全く怖くはありません。大事になるまえに医者にかかってくださいよ」
「くそ……完治したらぜってー泣かしてやる……」
「その時はいつでもお相手しますよ」

 激痛と悔しさで歯軋りをする巻島に対して恭也は飄々と受け流す。巻島はよほどの重傷なのかソファーから動こうとしない、いや動けないのかもしれないが。

「ああ、恭也くん。今日から警察が咲夜さんの警護をしてくれることになったよ」
「それはあり難いですね」
「そうだね。正直、巻島と美由希さんがこれほどの怪我をさせられた相手に不安はあるが……」
「多分大丈夫でしょう。日本の警察は優秀ですし」
「恭也くんがいなかったらと思うとゾッとするけどね」

 嵐山は警官には聞こえないような声で言って苦笑する。恭也は殺音と交わした約束を咲夜と嵐山には伝えていない。
 散々命を狙ってきた相手が、恭也ともう一度戦うことを約束すれば依頼を破棄すると約束した、などと言っても到底信じられないことだと恭也自信考えたからだ。 

 恭也のことは信頼されているだろうが、暗殺者のことなど信頼されるはずがない。恭也自身、それを信じて影山邸から離れた途端襲撃されたなどという状況になったら笑い話にもならない。
 もっとも恭也は殺音の言ったことに嘘はないだろう、とふんでいたが。あっちから連絡を取りやすいように影山邸に滞在しようという考えも少しだけあった。

 恭也がわずかに考え込んでいる間に救急車が独特の音を鳴らしながら近づいてきてようやく影山邸に到着した。
 救急隊員が複数人、担架を持って恭也達の方にやってくる。恭也は美由希のことを宜しくお願いします、と伝えると担架で運ばれていった。

 巻島だけは担架なんかにのってられるか!と大騒ぎして救急車に乗り込んでいったが……。
 そんな二人を乗せた救急車が出発したのを見送った後、恭也は携帯電話をとりだす。

「すみません、嵐山さん。実家に少し連絡を入れておきますので少し席を外します」
「ああ、わかったよ」
「では失礼します」

 恭也は一礼すると部屋から出ると人気が無い庭の隅っこまで移動すると母が経営する―――洋風喫茶翠屋の電話番号を押す。

『いつも有難うございます♪翠屋店長の高町が承りまーす♪』
「……その猫なで声はやめてくれ、高町母」
『って、あれ?恭也?こんな時間に電話してくるなんて何かあったの?』

「いや、どうやら少し長引きそうなのでそのことを連絡しておこうと思ってな」
『あーそうなんだ。ほんと、身体だけは大切にねー』
「ああ、それと美由希なんだがそちらの海鳴大学附属病院に入院することになると思う。着替え等持っていってくれ」

『ええ!?美由希が入院って大丈夫なの!?』
「ああ。後遺症が残るとかそういった類のモノではない」
『そう……それならよかったんだけど』
「フィリス先生にも宜しく伝えておいてほしい」

『はーい。恭也もあんまり無理しちゃ駄目だからね!』
「……努力しよう」
『忙しいから切るわねー。また電話して頂戴』
「ああ、かーさんも頑張れ」

 電話をきり、桃子の元気そうな声に安堵した恭也は空を見上げる。通り雨だったのかすでに小雨は降り止んでいた。 
    
 











      七月 三十日  05:25



 『北斗』の二度に渡る襲撃から三日がたった。殺音が交わした約束通りなのか、あれから一度も『北斗』による襲撃はない。
 もっともあちらの態勢が整っていないだけかもしれないが、と恭也本人全く信じていないことを考えて腕を振るった。

 カンという金属音が鳴り恭也の十メートルほど先にあったジュースのスチール缶らしきものが空中に跳ね上がった。二度三度と手を振るう。
 その度に金属音を鳴らして缶は空へ空へ舞い上がっていく。これで仕舞いだ、と言わんばかりに恭也は手を振り下ろす。

 耳障りな音が木霊して缶は床に頼りなさ気に落ちた。その缶には、針のような鋭く小さな刃物が数本突き刺さっている。恭也はその缶を拾うとまじまじと見つめる。
 飛針……と呼ばれる御神流で扱う小太刀以外の武器の一つ。小さいとはいえ使いようによっては人の命すら奪うことができる武器。

「まぁまぁか」

 一寸の狂いも無く自分の狙ったとおりに命中させておきながら、まぁまぁとするほどに恭也は己に厳しい。
 家の外は警官が見回っているため恭也は中の警備担当になっているためどうしても家の中でできる鍛錬が中心になってしまう。
 それを多少不満に思わないでもないができる鍛錬は全て行っている、刀は振ってはいるがやはり美由希との打ち合いがないとどうもしっくりこないとも感じていた。

 恭也は腰をおとして居合いの構えをとるとゆっくりと呼吸を整えていく。ゆっくりと吸って吸いきったところで再びゆっくりと吐く。十秒に一度ほどの呼吸。
 その呼吸に連動するように恭也の心も凪いだ海面のように静まっている。

 瞬時に抜刀して一薙。銀の軌跡を残して納刀。
 そして一息。もしこの部屋に見物人がいたならそのあまりに見事な抜刀術に誰であろうと無意識に拍手をしていただろう。もっとも恭也の小太刀の軌道を眼で追えていたら、の条件がつくが。

 それほど見事な抜刀。例え美由希であったとしても今のを防げたかどうか……。
 今の一太刀で現在の自分の状態を判断できたのか恭也は構えを解く。

「見てても面白いものではありませんよ」
「……ぁ」

 恭也の独り言ともとれる言葉に反応したのはいつのまにか部屋のドアを開けて覗いていた……影山咲夜であった。

「ご、ごめんなさい!」

 反射的にだろうが……咲夜は頭を下げて謝る。覗き見していたことに罪悪感を感じているのだろう。恭也は首を横に振って答える。

「いいえ。先ほどから見ていたのは気づいていましたから」
「ぇ……そうなんですか?」

「ええ。コレでも剣士の端くれですからね、気配には敏感なんですよ」
「凄いですね……気配とか。御祖父様もおっしゃられてたのですが私にはさっぱりで」
「影山さんは何かされてるのですか?」

「それが……私はそちらの方面は才能がまるでなかったようで。御祖父様にも呆れられたくらいで」
「そうだったのですか」     

 緊張気味に話していた咲夜も話しているうちに緊張が解けたのか少しずつ自然な笑顔になっていった。対する恭也はなんというか、相変わらずの仏頂面だが。
 別に女性が苦手というわけではないがこれだけはどんなときでも変わらない、というかもはや変えられないというべきか。

「それにしても恭也さんって強いんですね。まだお若いのに。失礼ですけどお幾つなんですか?」
「今年で二十になります。一年留年していたので大学一年ですかね」 
「……え?ええっと……あの、すみません。二十歳と聞こえたのですが……聞き間違いでしょうか?」
「あってますよ」
「そ。そうなんですか」

 咲夜は若干ひきつり気味である。それも無理は無い。大人びた容姿に寡黙な雰囲気、そして祖父でもあり世間一般では【五指拳】に数えられ最高の空手家として知られていた影山竜蔵すらも上回る実力。
 この三つがそろっていながら実はまだ自分よりも年下。あろうことかまだ二十にもなっていないだと誰が想像することができるであろう。
 そんな恭也と自分を比較して、少ししょげながら誤魔化し笑いをする。

「あ、あの妹さんと巻島さんの怪我のこと本当に申し訳ありません」
「いえ。美由希も館長も覚悟の上でのことです」
「で、でも……」
「それに確かに入院が少々必要ではありますが特に酷い怪我というわけではありませんしね。影山さんが気にされることではありませんよ」
「あ、ありがとうございます。それでも、ごめんなさい!」

 どもりながらお礼を言ったり謝ったり忙しい人だな、と恭也は咲夜を見守るが何を勘違いしたか照れたように顔を逸らす。

「では、俺はここで失礼します。少し外を見回ってきますね」
「え?あ、はい。お話に付き合っていただいて有難うございました!」
「ええ、こちらこそ。影山さんもゆっくり休んでください」

 少し強引にだが話を切り上げて恭也は影山邸からでていった。途中であった警官に挨拶しながらそのまま森の方に向かっていく。
 太陽が完全にでてるとは言えず薄暗いまま歩くこと数分、木々が少なくなっていき視界が広がる。森の中とは思えないほどきり広げられた空間。半径二十メートルはありそうな円の広間。
 その広間の中心には一つの人影。神職者の格好をした青年……【禄存】。

「初めまして。人間の剣客よ」
「何か用か、夜の一族」

 ピシリと二人の間で視線がぶつかり合う。珍しく恭也の声も心なしか険を含んでいるようにも窺えた。 

「お前達の長【破軍】の殺音か……。彼女からもう影山咲夜には手を出さないということを聞いたがその話はどうなったんだ」
「早合点しないでもらいたいですね。僕は破軍からの言伝を貴方に伝えにきたのです」
「……ほう」
「今日から十日後、八月十日の午前零時にここに書かれた場所で貴方を待つとのことです」

 禄存は人差し指と中指に挟んだ紙片を勢いよく恭也に投げつける。頼りない筈の紙片は一直線に恭也に飛んでいく。それを恭也は空中で受け取ると中身を確認する。
 ここからそう離れていない場所……車ならおよそ三十分もあればいけるだろう地図が書かれていた。

「確かに受け取った。約束は護ろう、と破軍に伝えておいてくれ」
「分かりました」

 用は済んだはずなのに立ち去ろうとしない禄存を訝しげに見るが禄存の恭也を見る瞳には隠しきれない敵意があった。確かに彼の仲間である『北斗』の半数を戦闘不能にまで追い込んだのは恭也であるので敵意をもたれても不思議はないのだが……。

「それにしてもよく僕がここにいると気づかれましたね。直接渡そうとどうやって忍び込もうか考えていたんですが」
「俺の流派には視界に頼らず気配を感じ取るという技法がある。もっとも他の流派にもそういったものは少なからずあるだろうがな」
「なるほど、御見それしました。さすがは人間。非力ながらもそのような技術を学んでおられるのですね」
「……」

 御神真刀流小太刀二刀術 【心】……先ほど恭也が言った相手の気配を感じ取る技法。恭也はなんでもないことのように言うがかなりの高等技術であり使い手によって感知できる範囲が当然違ってくる。
 美由希なら半径十メートルの広さまでなら問題ない。

 それでは恭也はどうかといえば……実際に測ったことは無いのでなんとも言えないがかなりの広範囲に渡って感じ取ることが出来る。
 もっとも相手が敵意や殺気を持っていない限り相当離れた相手を感じ取ることはできないのだが。
 それがどれだけ桁はずれたことか理解できる人間はこの場にいなかったが……。

「正直言わせてもらえば僕は貴方が憎いのですよ、人間」
「……お前の仲間を斬ったんだ。それは当然だろう」
「ああ、それはどうでもいいんですよ。巨門も貪狼も文曲も、僕にはどうでもいいことです」
「……何?」

 仮にも仲間を斬ったことをどうでも良いと言い捨てる禄存に眉を潜める。

「僕にとって憎いことは……貴方が【破軍】の興味を引いているということなのですよ」
「どういうことだ」
「何故あの方が!強く気高く美しい!あのお方が!人間などに興味を持つのか!!!」

 狂ったように騒ぎ立てる禄存をあきれ果てたように眺める。狂ってるな、と恭也は考えが冷えていくのが分かる。

「ニンゲン!お前は邪魔だ!あのお方にとって!害悪にしかならない!」
「そうか、それならば俺を殺すか?夜の一族」
「黙れ!!!!!」

 禄存が猛り狂って恭也に突進。腕を捻るとゆったりとした袖の下からレイピアが出現、それを取って恭也の腹部を目掛けて突きを穿つ。
 心臓を狙わないのは殺さないようにと、わずかに残った理性のためか。
 どちらにしろその突きは実に見事であった。レイピアの特性もあいまってか美由希の突きにも勝るとも劣らない。

 禄存の脳内では自分のレイピアが目の前の憎らしい人間の腹部を貫き血が溢れ出てる様子が描かれていたが……。
 全く無い手ごたえ。地面を滑りながらブレーキをかけ今しがた通り抜けた場所を振り返るが恭也はいない。いや、視界のどこにもいないのだ。

「いい突きだ。夜の一族としての能力に頼っているだけではなこうはいかない」

 まったく予想だにしない場所からその声は聞こえた。まさしく禄存の真後ろ。それに息が一瞬とまりそうになりながら距離をとって振り返る。

「いつのまに……!!!」

 そこに恭也はいた。腰の小太刀を抜こうともせず自然体でそこに。もし恭也がその気であったなら禄存は命を落としていた……その事実に禄存の頭が沸騰しそうになる。
 それでもそうすぐには攻められない。激しく憎い相手ではあるが予想以上の戦闘力。油断できるような相手ではないのだ。
 今度は禄存はレイピアを構え油断なく切っ先を恭也に向けて腰を落とす。

 ―――おかしい。

 恭也が強いのは分かる。それでも特に何かをしようというわけではない。小太刀を抜いてこちらを牽制するわけでもなく殺気を放つわけでもなくただ立っているだけ。
 そして朝が早いとは言え今は真夏。先ほどは蒸し蒸しとした暑さで嫌気がさしていたが今は真逆。
 寒いのだ。感じるのは異常なまでの寒さ。まるで真夏とは逆の真冬のなかで服を着ずに冷蔵庫の中に入ったような寒さ。

 恭也が小太刀を抜いて構える。そして一瞥する。
 それによってさらに禄存の周囲の空気が冷えていくのがわかった。せめて身体を動かそうとステップを踏もうとしたが、それで気づいた。
 禄存の身体が動くことを拒否したかのように全く身動きをとることができないのだ。足も腕も首も瞼も、果ては心臓さえも鼓動をやめるのではないかという恐ろしい感覚。

 そんな中で禄存の歯だけがガチガチと反応する。
 目の前の男が、人間が切っ先を禄存に向けたその時、ようやく何なのか理解できた。
 禄存は、恐怖しいているのだ。高町恭也という人間に、心の底から。
 自然と涙が流れる。ようやく分かったのだ……文曲がここまでこの人間を恐れる理由を。

「う……ぁ……」

 言葉にならない声が漏れる。もはや喉すらひりついたように感じまともに声も発せない。
 自分は死ぬのだと、霧がかかる意識のなかで漠然と感じていた。
 その時その霧がいきなり晴れ異常な寒さも消え辺りは蒸し暑い熱波が禄存にふりかかっていた。 
 殺気はもうない。

「ぅ……げっ……げほ……」

 自由になった両足は折れ、地面に膝を突く。そして胃の中のものを、胃液をぶちまける。 
 涙ではっきりと見えない視界のなか恭也は小太刀を納め森の中に消えていく。

 強い。強すぎる。桁が違う。武曲の言うとおりあれはもはや人間という枠組を外れたものだ。いや、そんなものすら生ぬるい。アレはもはや【鬼神】の領域。

 ―――果たしてあんな化け物に殺音とて勝てるのか。

 己のなかで神にすら等しい殺音ですらアレに勝てるかどうか想像することはできない。
 いや、自分ごときが想像していいはずもない。
 ガタガタと震える身体を抱きしめながら禄存はこの場所でいつまでも蹲っていた……。 













    八月 五日  12:00



「……暑いな」

 八月という真夏の空はよく晴れ容赦なく日光が降り注ぐ。風でも吹けばそれなりに違ってくるだろうがその様子は一切ない。
 驚異的な精神力を持つ恭也でもこの暑さには参っていた。心頭滅却すればなんとやらと言われてはいるとおり耐えれるものではあるがそれでも暑いものは暑いのだ。
 体中の傷を隠すために袖のあるシャツを着ている恭也もこの気温には正直参っていた。半そででも暑いのだ、長袖などたまったものではない。

 恭也の頬を汗が一滴垂れて地面に落ちる。深い呼吸を一つ、足を止める。
 恭也は軽く流すつもりだけだったがついついいつも通りの走りこみをしていた。
 習慣とは恐ろしいものだ、と考えながら呼吸一つ乱さず影山邸に足を向ける。目下の所恭也の悩みは一つ、八月十日の立会いのことであった。

 手紙に書かれてあった場所もすでに確認してきたので地理的な面では問題ないのだが……。
 もう一つの条件のようなものが書かれていた。要約すると一人ずつ互いに立会人を連れて来い、ということだ。

 これに恭也は悩んでいるのだ。普段なら有無も言わさず美由希を引っ張っていくのだがそう大怪我ではないにしろ現在入院中。巻島も同じく入院中、しかもこちらは重傷もいいところ。
 嵐山は念のため咲夜の傍についていてもらいたいし、他に当てはあることはあるが関係がないこの面倒ごとに巻き込みたくないというのが本心である。

「最悪一人で行くか……」

 多いと問題だが少なければ別に構わんだろう、と考えながら首からかけてあるタオルで汗を拭く。
 シャワーでも浴びようかと荷物が置いてある二階の部屋に向かおうとして……一階のすぐ近くの部屋から慣れしたんだ気配、本来ならここに居る筈が無い気配を感じ取った。

 まさかとは思いつつその部屋のドアを開けてみると中にはソファーに座りつつテレビを見ている……馬鹿弟子こと美由希がいた。
 恭也は自分の頭が激しく痛むのを自覚しながら未だテレビに夢中になってこちらに気づいてないだろう美由希の頭に天誅をくれてやろうとして部屋に一歩踏み込んだ瞬間に、美由希は恭也の方に気づいたのか顔を向けた。

「……何故ここにいる、美由希」
「あ、きょーちゃん。お帰りなさい。さっき着いたんだけどきょーちゃん走りこみでも行ってたの?」
「ああ。で、何でここにいるんだ?」

「退院許可が昨日でたから来ちゃった」
「退院許可がでたならとっとと家に帰って養生しておけ」
「ぅぅ……怪我をおして駆けつけた妹にもう少し優しい言葉をかけてよ」
「普段ならな。少なくとも今のお前では喜べん」

「今の状態でも十分戦えるよー私」
「笑えない冗談だ」

 自然な動きで美由希の顔まで片手を上げてデコピンをうつが、美由希はそれを受け止める。

「……む」
「えっへっへ。いつまでもやられっぱなしってわけにもいかないよ!」
「……」

 止められたのが悔しかったのか恭也は逆の手でデコピンを放とうとするがそれも美由希に止められる。が、まるで美由希のガードをすり抜けるように恭也の手が迫る。

 しかし、それも美由希によって止められる。恭也の攻撃を見事にさばいた美由希は非常に満足そうに笑う。
 それとは対照的に恭也は床に四肢をついて肩を落とす。

「ま、まさか……美由希に防がれるとは……不覚」
「ふふん。私は常に進歩してるんだよ」
「く……」

 悔しげな恭也は勝ち誇っている美由希の死角から手刀を振り下ろし脳天に叩きつける。

「ぉぉ……ぅぅ……脳が……」

 完全に油断していた美由希はまともにくらってしまい頭を押さえて蹲る。それを見た恭也は先ほどの美由希のように満足そうに頷く。

「残心を忘れるな、未熟者め」

「ぅぅ……さっきのに残心って必要だったの……?」
「当然だ」
「……なんか理不尽……」 
「師がカラスが白いと言えば白いと答えるのが弟子というものだろう」

「なんて暴君…!?」
「で、実際の所身体はどうなんだ?」

 冗談はここまで、と恭也の眼が鋭くなる。美由希も立ち上がり背筋を伸ばす。

「骨は折れてなかったから思ったより軽症だったよ。肋骨二本ヒビが入ってただけ」
「そうか。それは僥倖」
「ベストコンディションにはほど遠いいけど……でもきょーちゃんの背中くらいは護れるよ」
「……おとなしく家に帰るという選択肢はないのか?」
「うん、全く」

 ため息一つ、恭也は美由希を説得することを諦めた。もしこれが通常の命をかけた護衛の任務だとしたらどんな手を使ってでも強引に帰しただろうが今回はもう恐らく美由希が戦闘にでることはない、ということもあったからだ。

 恭也と殺音の一騎打ち。それで終わりになる筈だが。
 勝っても負けてもどちらでもいいのか……と疑問には思うところではあるが、勿論恭也は負ける気は全くない。戦えば勝つ、それが御神流。

「そういえば、きょーちゃん」
「む?」
「フィリス先生が病院に顔出してください、って怒ってたよ。最近全然行ってなかったんだって?」

「そ、そうか。この仕事が終わったら顔出しておこう」
「そうしたほうがいいよー」

 恭也の主治医でもあるフィリスの恭也が無茶したときの笑っていない笑顔を思い出して背筋が寒くなる。
 フィリスのスペシャルマッサージコースは恭也をして耐え切れるかどうか……という凶悪なものである。なのになぜか終わったあとはスッキリするという謎なものなのだが。
 殺音を倒して早く海鳴病院へいかねば……と本気で悩む恭也の姿があったとかなかったとか。  















    八月 九日 23:30




「十分間に合いそうだな」
「うん」

 未だ本調子ではない美由希のペースに合わせてゆっくり行こうと考えて時間を若干多めに計算して影山邸をでた恭也たちだったが予想以上に時間が余っていた。
 周囲は森林。深夜だけあってもはや明かりは無いに等しく、辺りの静寂が人の恐怖を誘うが二人にとっては夜は慣れしたんだ世界。
 もはや迷宮ともいえる森の中を恐れも戸惑いもなく黙々と目的地に向かっていく。

 美由希の怪我は当然のこと完治していない。わずか十日足らずでなおったらすでに人間をやめてるといってもいいのだが……。
 それでも、どんな状態でも戦闘になれば全力を出せる。そういうふうに美由希は育てられてきた。
 今回は美由希の出番はないとハッキリ言われているが、もしもということもあると思い装備はきっちりと揃えてきてはいる。
 恭也はもし、他の【北斗】の連中が横槍を入れてきたら美由希が手を出す前に斬って捨てると考えていたが。
 殺音は信頼できるだろうが、他の連中まではどうかわからないというのが本音である。

「……美由希」
「うん?」

「今夜俺が戦う相手は、水無月殺音は掛け値しに強い」
「……わかってるよ。少なくとも今の私じゃ勝てない」
「俺も本気でいく。決して見逃すなよ」
「……はい!」

 恭也の台詞に気を引き締める美由希。
 高町恭也の全力を見られるという期待感と水無月殺音への嫉妬を感じずにいられないが今の自分の実力では仕方ない、と納得させる。
 もっとも納得しようとしても納得しきれないのが美由希の若さかもしれない。

 それも無理ないことといえばそうかもしれない。美由希にとって剣術とは高町恭也そのものである。剣術を学びだしたその頃から恭也は美由希を教え導いてくれた。
 まだ小学生という若さでありながら、だ。もし、美由希にかけた時間を自分自身に費やしていれば今よりもさらに遥かな高みにいれたであろう。

 そんなことを考えて眠れぬ夜を過ごした時期もあった。どれだけの負担になっているのか、と。 
 だからこそ美由希は高町恭也以外に敗北することは許されない。恭也に鍛え上げられた自分はそれだけの価値があったことを証明するためにも。

 ザクザクと堅い地面を踏みしめながら美由希は前を行く恭也の背中を見つめる。手を伸ばせば届く背中。それでも剣術に関して言えば決して届くことのないその圧倒的な存在感を発する背中を。
 生暖かい風が吹く。それでも真夏の夜ということもあり美由希の背中に汗が流れる。その後沈黙が続くこと数分、森林を抜け山の中とは思えないひらけた場所にでる。

 恭也と美由希の視線の先には……月光を浴び刀を抱き寄せ座り瞑想している殺音が居た。
 その姿は美しいと素直に恭也は認める。
 それと同時に殺音の姿を見た恭也の世界は確かに凍てついた。
 脳が沸騰したかのように煮えたぎり、視界もまともに定まらない。

 もはや理性の静止すらをも振り切るような躍動。
 心臓の鼓動が到底通常の時とは思えないほど強く激しく、体中を叩き暴れる。  
 ああ、やはりそうだ。
 恭也の足が意図せずに踏み出される。ゆっくりと、確実に。
 眼を瞑って座っているだけのはずなのに殺音から感じるプレッシャーは計り知れない。現に美由希ですら足が止まっている。

「きょーちゃん?」

 美由希の震えた声が耳に届く。それでもその声がまるでフィルターを通したかのように鈍く聞こえる。
 
 ―――神に、懺悔しよう。

 この身体は、この肉は、この血は、この意思は、この魂は、高町恭也という人間の全ては高町美由希を鍛え上げるためだけに剣の神に捧げた供物。 

 自らの意思などとうの昔に捨てたはずの一振りの刀が、目の前の女と、水無月殺音と心の底から戦いたいと願っている。
 今このときだけは……美由希の師【高町恭也】ではなく【不破恭也】として刀を振るおう。

「人に逢っては人を斬り、鬼に逢っては鬼を斬り、神に逢っては神を斬る。【破神】の【御神】。【絶刃】の後継、【不破恭也】推して参る」

 小太刀を抜く。普段ならば決してしない殺気を無様にも撒き散らし、哂う。
 その殺気を心地よさそうに浴びながら殺音も立ち上がる。
 もはや恭也と殺音は互いの言葉と呼吸音しか聞こえず、それ以外の全ての音が周囲から消え去っていく。

 生ぬるい風がザァッと吹き、周囲の木々を揺らし、二人の髪をなびかせる。
 もはや二人には肌を焼く温度も風の緩やかさも互いの獲物の重さすらも……全てが消え去っていく。

「気持ち良いなぁ……吐きそうなくらい。今夜は楽しもうよ、キョーヤ?」

 ―――始まるのは殺劇の舞踏。月光を背景に決着をつけんと極限まで磨き上げられた二振りの刀が今、激突する。






  












 殺音がその漆黒の長髪を振り乱し、右手だけでその刀をふるう。恭也に向かって数本の銀光が迫る。
 恭也はそれを切り落とし、弾き、受け流す。
 火花を散らしながら恭也の左右の小太刀と殺音の刀がぶつかり合う。音さえも置き去りにしたかのような応酬。

 お互いの耳をつんざくような摩擦音と振動。
 上下左右、時には突きも混ぜながらの縦横無尽の斬撃は、幾度と無く恭也の両の小太刀によって防がれる。
 あまりに完璧、あまりに鉄壁、あまりに完全。

 何人も崩すことができない牙城。難攻不落の要塞。そんなイメージを殺音に見せ付けてくる。 
 しかし、だからこそ楽しいのだ。この時を、気が狂いそうになる気持ちで待っていたかいがあったというもの。
 簡単に崩されては意味が無い、簡単に決着がついては意味が無い、簡単に死んでは意味が無い。

 生きるか死ぬかのギリギリの生死の境目で、命をチップにした最高のコロシアイ。
 生を受けてからおよそ数十年。その無意味に生きながらえてきた年月を遥かに越える快楽がここにある。

 そんなハイになっている殺音の意識を奪うかのような衝撃がコメカミに走る。
 パンという鋭い音とともに隙ともいえない連撃のわずかな合間を縫うように恭也の蹴撃が決まったのだ。
 芯に残るようなズシリとした衝撃を殺音に残すがもはや戦いの高揚で痛みを感じていないかのように止まらない。

 攻める殺音。守る恭也。
 再び斬り結び火花が連鎖反応を起こす。生暖かい風が強くなっていく。

 火花が幾度となく闇夜に散っていき金属音が響きあう。
 殺音が前へ前へと突き進み、恭也は凶悪な斬撃を後退しつつも受け流す。
 闇夜の中で火花が複雑な描き、恭也の二刀の小太刀と殺音の刀が生物のように絡まりあう。

 殺音の呼吸の隙をついた小太刀が左右からほとんど同時といえる剣速で迫るが、殺音は手首を返し受け止め、その二刀に押し込まれないように力で受け止める。

 逆にそのまま押し返すように小太刀を弾き打ち下ろす。
 恭也はそれを見切り、僅かにステップを踏みつつ後退する。
 殺音は地面を蹴ると爆発的なスピードで恭也に迫り頭、首、肩、腕、腰、太腿と息をつかせる間もなく斬りこむ。

 そんな攻防が続く中でも恭也と殺音の視線は絡み合ったまま。どちらも決して逸らそうとしない。
 前回の戦いと同じ、いや、それ以上の攻防。まさにコンマ一秒タイミングがずれればそれで生死が分かたれる争い。

 そんな戦いの中でも二人の胸中には恐怖の感情はない。
 殺音の横薙ぎを重心を下げ、掻い潜り同時に右足を跳ね上げる。再び殺音の横顔に襲い掛かってきた蹴りを今度は左手一本で受け止める。
 その蹴り足から力を抜き、次の瞬間には身体を回転させて小太刀で殺音の足を狙う。

 それをわずかに飛んでかわすが、未だ体勢が整わない状態からの空中の殺音にむかって刺突。
 その刺突を身をよじりながらかわすと、着地。
 休む間もなく刃風が夜風を切り裂く。
 闇夜を照らすように何度も何度も剣戟に飛び散る火花が彩りを添える。
 何もかも、その全てがあまりに圧倒的な戦い。

「楽しい!!楽しい!!楽しいよ!!!キョーヤ!!気が狂いそうだ!!!!いや、もう狂ってるよ、私は!!!」
「話す暇があったら手を動かすことだ……!!!」
「あっは!!きみの脈動を!!きみの魂を!!きみの命を!!もっと感じさせてくれ!!」

 両者の刀が噛み合う。
 激しい鍔迫り合い。その最中でも二人は動きを止めようとしない。
 まるで止まったときが死を迎える時かのように。

「オォオオオオオ!!!」

 恭也の咆哮が周囲に満たされる。
 わずか一瞬のために全身の筋肉が爆発し、この瞬間だけは殺音を上回った。

 恭也に押され殺音が弾かれるように後ろに後退する。
 しかし、それは殺音が恭也の攻撃を完全に受け流した証。

 殺音も恭也には劣るがその気になれば歴史に名を残せるだけの剣士。その技に隙は無い。
 それでも後ろに下がった殺音に向かって二の太刀が舞う。

 刀が重なり、再び重なり、また重なり、金属音が響き渡る。巻き起こるのは殺意と鬼気と烈風。
 刀の閃光が幾度も交錯し、そして消えていく。

 二人の動きが前に後ろに、右に左に、まるで踊っているかのような二人の剣舞、美しい斬りあい。
 もう、何度斬りあったかわからない。十回、百回、或いは千回か。

 二人の剣先がぶつかり合い、弾きあった、その時恭也の動きが変化した。最大速度から零へ。
 それに殺音がついていけずに重心が崩れ、体勢が崩れ去る。

 一瞬の隙、恭也の眼が、小太刀が殺音の首を鋭く射抜いた。
 再び、零から最高速度へ。恭也の身体が躓いたかのように傾き、疾走。急迫する殺音の姿。  

 流れるような横薙ぎの斬線。首を払った。
 だが、それは届かない。斬ったのは皮一枚。さすがは夜の一族というべき身体能力。
 溢れ出る赤い血。一歩跳び下がるのが遅れていたら首を落とされていた事実を認識しながら、それでも殺音は哂っている。
 恭也と殺音、どちらも剣に狂いに狂った化け物同士だ。

 恭也の踏み込み。
 下段に構えた小太刀が跳ね上がり、それを殺音は払い落とすが、頭上から逆の小太刀が舞い降りる。
 恭也の多彩な攻撃が徐々に殺音の防御を切り崩す。
 一切の無駄が無く、鋭い動きが複雑に絡み合い、信じられない速度で繰り出される恭也の剣技。

 殺音のスピードもパワーも覆す、凄まじいまでの剣の技量。
 先ほどまでとは真逆。攻める恭也。防ぐ殺音。
 もはや防戦一方になった殺音だったが先ほどのお返しといわんばかりに恭也の小太刀を地面に這うようにしつつかわし、下から斬り上げる。

 恭也はそれを小太刀を交差させ受け止め、後ろに跳び衝撃を逃がして着地する。
 二人の動きが……止まる。
 睨みあう二人。互いに重心を下げ、いつでも間合いを詰めれるような、肉食獣のように前傾姿勢をとる。

「どうした、殺音。お前はその【程度】なのか?」
「……何?」

「本気をだせ。【不破恭也】の心を初めて戦いという場に引き出した、お前がその程度であるはずがない、違うか?」
「……」
「俺に見せてくれ。水無月殺音という女の全力を、本気を、底というものを」
 
 恭也の剣気が沈黙の殺音を貫く。虚言は許さぬ、と。
 対する殺音は空を仰ぐ。急速に彼女の殺気が闘気が萎んでいく。まるで戦いを放棄したかのように。
 だが、恭也は違う印象を受けた。まるで、それは台風が来る前の静けさのような、そんな感覚。

「あ……はは……」

 そして、ソレはきた。

「あははははははははははははははははははははははははは!!!!!!!!!」

 爆発。先ほどがまるで遊びだったかと言わんばかりの剣気が暴風となって周囲で暴れつくす。
 木々が揺れ、鳥達が羽ばたき、野生動物たちが逃げ去っていく。

 恭也が、そのあまりに別人のような気配に目を剥いた。
 本気をだせ、と言ったのは恭也自身。それでもまさかこれほど力を隠していたとは思わなかった。

 恭也の想像の遥か上、まさにありとあらゆる生物の頂点に君臨しているかのような、暴君がそこにいた。
 殺音の放つなんという荒々しい闘気。
 あの恭也が、不破恭也ともうあろう人間が気圧された。刀を交える前からすでに。
 膝が笑うように震える。

 ここまで、ここまで化け物だというのか、夜の一族というのは!!!水無月殺音という女は!!!
 ゴクリと唾を飲み込もうとして、口の中が乾ききっていたのに気づいた。

「素直に謝るよ、キョーヤ。別に手加減していたわけじゃない、でも結果としてそうなってしまったからね」

 殺音の頭部に突然はえてきた猫の形をした耳が嬉しそうにピコピコと動く。そして同じく猫のような尻尾がパタパタと振るう。

「人間の状態を維持するのには少々力が必要でね。この半獣半人の状態が私のベストってこと」

 これで正真正銘全力でいける、と哂った。殺音がヒョイと刀を持ち上げ肩に置く。
 恭也は殺音から眼を離さなかった。集中力も切らさなかった。だが、それでも無理だった。

 ―――消えた。

 人間の限界を越えた剣士である恭也の視覚ですら、殺音の最高速度を追うことができなかったのだ。
 もはやそれはカン、本能、長年の経験、死の香り、そういったものをひっくるめた全く根拠のないモノにすがって恭也は横にとんだ。

 瞬時に振り向く。恭也がいた場所の少しいった所に、やはり嬉しそうに哂う殺音がいた。
 本当に嬉しそうに、その白磁のような肌を紅潮させ、潤んだ瞳で恭也を見ていた。

 ガリッと歯軋りをした恭也は己の考えの甘さを呪った。
 どこかで自分は自惚れていたのだ。己の努力に、己の剣術に、己の実力に。
 もはやこれは技術の差ででどうにかなるようなレベルではない。
 生物としての基本性能があまりに違いすぎるのだ。

「キョーヤ、私の本気も見せたんだ。次はキョーヤの番だよ?」

 熱のこもった声で、視線で殺音が問いかけてくる。
 あまり買いかぶるな、と叫びたくなる気持ちを抑え、呼吸を整える。
 長期戦になれば勝ち目など皆無。あるとすれば短期戦。

 そして、殺音を打ち破れる可能性があるとすれば恭也の中で……唯一つ。 
 神を堕とすために練り上げられた御神の奥義……【神速】。

 【神速】とは、御神流の中でも秘伝とされる歩法。
 御神の最奥を覗いたものだけが習得できるという奥義。
 そこに至れるのは御神の一族とはいえ十年に一人でるかでないかとさえされ、【神速】に至ったものは例外なく御神の歴史に名を刻まれる。

 使うしかない。使わなければ、待っているのは確実な死。
 高町恭也が、愚かにも、無様にも気圧されていた不破恭也を叱咤する。
 ドクンッと心臓が雄たけびを上げた。

 深く息を吸う。眼が覚めるような熱い空気。恭也の眼が完全に覚めた。
 迷いを、弱さを、脅える心を全てを圧倒する信念が、意思が、心が恭也の身体を満たす。

 ―――【刀】と一つに!!

 恭也の覚悟は決まった。
 それは殺音の脅威にさらされながらも、普段の彼と同じ決して朽ちず、曲がらず、折れずの信念を宿した最高の剣士として恭也は構えた。

 それを見た殺音もまた、構える。
 二人の意思が絡み合う、声無き声が互いに通じる。

 ―――決着をつけよう。水無月殺音。

 ―――行くよ。不破キョーヤ。

 動くのは同時。殺音の姿が消失すると同時に恭也も【神速】を発動。
 世界が凍った。【神速】の世界に踏み込んだ恭也の視界がモノクロに染まる。音さえもここでは消え去っている。

 これが何人たりとも立ち入ることができない領域。神々さえも凍らせる絶対絶望空間。
 脳が焼けるようにあつい。体中が悲鳴をあげる。
 恭也の身体能力を限界以上まで引き出したその凍結された世界でさえ、殺音は速い。
 その動きはこの世界の支配者たる恭也と同等。

 ―――化け物め!!!!!!

 罵りながらも恭也は哂う。
 恭也の愛刀たる【八景】が自分と一体化したような感覚と共に吸い付く。その切っ先までが神経が通ったような己の一部のような感覚。
 モノクロの視界の中で、すでに恭也の視界には描こうとする太刀筋が光の軌跡となって見えていた。
 小太刀はまるで波に流されるかのように振りぬかれる。

 だが殺音もそんな空間で動く。放つは閃光のような斬撃。
 全ての流れがスローモーションで流れる世界の中で恭也と殺音は己をぶつけ合う。

 楽しいよ、キョーヤ。

 ―――楽しいな、殺音。
 ―――これが【神速】?

 ―――ああ。御神の最奥。【破神】之壱【神速】だ。
 ―――すごいね。キョーヤ。
 ―――ああ。お前もな。
 
 ―――終わりたくないな。
 ―――終わらせたくないな。

 ―――でも。
 ―――だが。

 ―――これで決着だ!!!!!!!







 
 【神速】の世界を抜けた。周囲に色が戻り、残されたのは指先さえ動かすのが億劫に感じる倦怠感。
 心臓が身体を打ち、肺が酸素を求め激しく暴れ狂う。 
 小太刀を支えに空を見上げているのは恭也のみ。
 殺音は地面に大の字になって倒れている。満足気な笑みを浮かべて。

「凄い世界を見ちゃった」
「……そうか」
「強いね、本当に強い。この戦い、キョーヤの勝ちだよ」
「お前も強かった。俺が戦った中で紛れも無く最強だ」
「ん……ありがと」

 殺音は動かない、いや動けない。夜空を見上げながら穏やかに言葉をつなげる。
 先ほどまでの狂気と狂喜は消えている。

「一生分楽しんじゃった感じかなー」
「……そうか?」

 恭也がふらふらと歩きながら倒れている殺音の元まで行き手を伸ばす。その挿し伸ばされた手を意外そうに呆けたように見る。

「俺はまたお前と戦いたい」
「……へ?」

「なんだ、お前はもう本当に満足したのか?」
「えーと……?」
「俺はこれからさらに強くなる。お前はそこで止まってしまうのか?」
「……上等!」

 恭也の言葉の意味を飲み込んだ殺音がニヤリとその美貌を歪ませ恭也の手をとって立ち上がる。

「私も強くなるよ、キョーヤ」
「楽しみにしていよう」

 別れの言葉はそれだけ。もう二人は言葉よりも何よりも、互いの心を剣でぶつけあったのだ。語ることはもはやなし。
 同時に背を向けると真逆の方向に歩いていく。だが、殺音が少しあるいただけでふらつき倒れそうになるところを冥が支える。

「さんきゅー冥」
「……気にしないでいい。素晴らしい戦いだったよ」

 半分は見えなかったけどね、と呟くが。身長の差がかなりあるため冥も殺音を支えるのにかなり苦労している。

「私はお前が負けるとは思っていなかった」
「実は私も負けるとは思ってなかったんだけどねー」
「悔しいとか思うのか?やはり」

「んー。不思議とそんな気持ちはないかな。また戦いとは思ってるけどね」
「……戦闘狂め。あれだけの戦いをしていてまだそうなのか」
「こんな気持ちになるのはキョーヤだけさ」
「あ、そう」
「なんか冷たいねー、この妹は」

 危なっかしい足取りで森の中に入る一歩手前で冥は足を止めた。結果として殺音も足を止めなくてはならなくなった。殺音はじっと立ち止まった冥の顔を覗き込む。

「私が怖い?冥」
「……少しはね」

 それは冥の本音。いくら姉とはいえ、いや姉だからこそ殺音の内包する禍々しい狂気を誰よりも知っているからこそ、冥は殺音が怖かった。

「でも、本当に怖かったらとっくに逃げてるよ、ボクもあいつらもね」

 そういうと冥は地面に落ちていた石を近くの藪に投げつける。
 ゴキという痛々しい音がして藪の中から悪戯を見つかった子供のような、何ともいえない表情をした【北斗】のメンバーがでてきた。廉貞の頭にはでっかいタンコブができていたが。

「す、すみません、破軍。どうしても心配で……」

 代表して文曲が慌てながら弁明する。貪狼も巨門も廉貞も禄存も気まずそうに顔を逸らす。
 それを見ていた殺音はキョトンとした顔をしていたが、しばらくたって苦笑。
 冥によりかかるのを止めて一人で歩き出す。

「今回は疲れたし、たまには皆で海にでもバカンスにでも行こうかしらね」

 その殺音の言葉に皆がフリーズ。それほど意外な言葉。

「んー行かないの?」

 殺音の再度の質問に皆が皆、嬉しそうに頷いて後に続く。
 殺音は痛む身体を引き摺りながら心の中で笑い続けていた。
 
 なんていい気分なのか。
 なんて素晴らしい体験だったのか。
 心も身体も未だ痺れている。恭也の苛烈な魂の衝撃に。
 『北斗』のメンバーがいなかったら身悶えしていたかもしれない、いや、かもじゃなくてしていた。

 最高だった。キョーヤの顔も表情も身体も剣術も体術も声も匂いも殺気も闘気も全てが!
 命を引き換えにしてでも何度でもキョーヤと殺しあいたい!!!
 待っていろ、キョーヤ。キョーヤの全てが私の魂に刻まれた。今度は私の全てをキョーヤの魂に刻んでやる。

 殺音は笑った。本当に楽しそうに声をあげて笑った。恭也に届けと言わんばかりに笑い続けた。













「だ、大丈夫!?きょーちゃん!?」
「……なんとかな」

 殺音と冥が歩き去ったのを確認して美由希は恭也に駆け寄った。
 見た感じ大きな怪我は無い。それでも決して楽な戦いでなかったのはアレをみていたら理解できる。

 あまりに次元の違う争い。美由希も実際にはっきり見えていたわけではない。それでも自分にできることはこれだけだ、といわんばかりに必死に恭也と殺音の戦いを見ていた。
 素直に凄いと思った。高町恭也を、水無月殺音を。

 互いに桁外れの実力同士、そしてきっとアレが自分の目指す果てだと感じた。
 そんな目標ともいえる兄を、師を誇りに美由希は思った。

「……師範代」
「なんだ?」
「これからもご指導宜しくお願いします」

 ピシリと見本のような礼をする。美由希の目標はしっかりと定まった。ならばあとは突き進むだけ。
 恭也はそんな美由希を見て満足そうに頭をクシャリと撫でる。

「言われんでも容赦はせんさ。俺を越えて見せろ、御神美由希」
「はい!」

 どこか嬉しそうな恭也と美由希の声が闇夜を切り裂く。二人肩を並べて殺音と冥が去っていった方角とは逆に歩き出す。
 ふと恭也は足を止め、殺音の姿を探すかのように視線を遥か遠方へと送る。

「……楽しみにしてるぞ、殺音。今度も命を賭けて戦おう」

 呟きもれた言葉が夜の風に流される。随分前方から美由希の恭也を呼ぶ声が聞こえる。
 今夜は良い夢が見れそうだ、と考えながら……。



















    ---------------エピローグ--------------



 殺音と【北斗】のメンバーは楽しげに森の中を歩いていた。仮の拠点としているところまで十数分もあればつける距離だったのが幸いした。
 身体がぼろぼろになっている殺音にとっては有り難く、ようやく家が見えるところまできてその入り口に二つの人影があるのがわかった。            
 不審に思った殺音に気づいたのか他のメンバーも人影に気づき眼をこらす。

 人影は一人は青年だった。ざっくらばんに切った短い黒髪に無精ひげをはやし、いくら夜とはいえ真夏なのに長い黒のコートを羽織っている。寝ているのかドアの前のちょっとした数段の階段のところに腰を下ろし眼を瞑っている。もう一人は青年よりも異常な格好をして青年に寄り添うようにもたれ掛かっている。。黒いぶかぶかのフード付きのコートを着ていた。フードが顔を隠し男か女かすらも分からない。ただ、身長は低い。冥と同じくらいの背丈だ。

 森に迷って偶々ここについたのかかしら?と疑問に思う殺音。そしてふと横を見ると冥が全身を震わせていた。
 カタカタと。まるで恐怖で脅えているかのように。ますます増える疑問。
 それに対して貪狼が青年に近寄っていく。

「おいおい、テメー。ここは俺たちの住処だってーの。勝手に居座ってるんじゃねーよ」

 乱暴な言葉使いで青年をたたき起こす。襟を掴んで空中に片手一本で吊り上げる。
 それでようやく青年が眼を開けた。

「ようやく帰ってきたか、【北斗】」
「な!?」

 自分達の素性を知っている?ただの人間じゃない!?

「貪狼!!!!離れるんだ!!!!!!!!!!」

 冥の絶叫。だが、遅かった。
 真っ赤な噴水が殺音達の前であがった。

 【下半身】のみの貪狼が地面にゆっくり倒れる。
 貪狼の【上半身】がない。

 少し遅れてその【上半身】が落ちてきた。
 軽い音を立てて地面に転がり、何が起きたか分からないまま貪狼はその命を失った。
 青年は特に何をするでもなく冷たい眼で固まっている殺音達を見ていた。

 青年が片手に持っているのは血を吸って赤黒く染まっている両刃の剣だった。
 八十センチほどの長さの剣、それで貪狼の身体を両断したのだ。

 それにようやく気づいた巨門が怒りの余り飛び出そうとしたところを冥が掴んで止めた。冥の震えが巨門に伝わりその突撃を止める。
 首をイヤイヤと子供がするように脅えて振る冥を訝しげに皆が見る。
 ここまで恐怖に襲われている冥など皆の記憶にない。

「やめろ、やめてくれ。みんな逃げよう。アレは駄目。アレだけは―――駄目だ」

 震える、産まれたばかりの雛のように。

「どうしたというのですか、武曲?貴方ともあろうかたが」

 それに冥はそれを口にだすのが罪だと言わんばかりに言葉に詰まり、青年を見ながら涙さえにじませながら口にした。皆に【絶望】を与えるその名を。

「―――アレは、第三世界の王の一人。世界に認められた、命の奪い手。【十界位】が第二位。【死刑執行者】だ……」

 空気が凍った。その余りに非現実的な化け物の名前が受け入れるまでに十秒近くも要した。
 巨門がその厳つい顔を恐怖で歪める。

「……と言うことは……あのフードの人物は……」

 冥がコクリと頷く。

「【死刑執行者】の片翼……【十界位】の第十位【漂流王】……だ」

「俺を知っているか。ならば話は早い。【北斗】、貴様らは少々【裏】の顔のまま【表】に出すぎた。夜の一族らしく大人しくしていればよかったものを」

 【死刑執行者】は剣を軽く振る。血糊を払い落とす。何の感情も乗せないまま言葉を繋げる。無言のまま【漂流王】も立ち上がる。

「懺悔も後悔も必要ない。一瞬で死ね」

 殺意が巻き起こった。殺音すらをも震撼させる絶望的なまでの化け物が、その牙をむき出したのだ。
 殺音は刀を抜く。牽制するように【死刑執行者】に切っ先を向け傷ついた身体をおしながら闘気を搾り出す。

「文曲!! 冥を連れて逃げなさい!!」
「な!?」

 冥が何を言い出すのかと、驚きの表情で殺音を見る。その視線に答える余裕は殺音にはない。少しでも注意を逸らしたら、恐らく殺される。

「ボクも……戦う!!」

 震える手で冥も刀を抜くが、その刀を持つ手は全く定まっていない。

「禄存!!」

 殺音の禄存を呼ぶ声。それに無意識のうちに禄存は反応する。言葉にしなくても殺音の命令は理解できる。
 ドンという音と禄存の手刀が冥の首に決まり、冥は抵抗する間もなく意識を手放した。 

 文曲は幼い冥の身体をさらうように拾い上げ肩に担ぐと全力で【死刑執行者】とは逆の方向へ疾走していく。
 残ったのは殺音、巨門、禄存、廉貞。

「……貧乏くじ引かせて、悪いわね」

 殺音の謝罪に三人は恐怖など感じていないかのような表情で答える。 

「……姐さんからそんな殊勝な台詞が聞けるなんてネ。それだけで命を賭ける価値があるヨ」
「私の命は唯、貴女のためだけにあります」
「組織の長を置いて逃げるほど腐ってはいません」

 殺音は厳しい顔をふっと緩める。口には出さないが最大の感謝を心の中で三人に送った。
 また恭也と戦いたかったなぁ……決してかなわない望みを抱きながら殺音は【死刑執行者】を迎え撃つ。
 
 この日、殺音は最初で最後の絶望という感情を知ったのだ。
 いつのまにか振り出した雨が轟々と降り注ぐ中、恭也の姿を思い浮かべて、殺音は数十年の生涯に幕を閉じた。








[30788] 旧作 御神と不破 二章 美由希編 前編
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/03/11 00:53










「美由希。お前は強くなりたいか?」

 恭也にそう問われたのは、幾度となくあった。だが、それまでとは違った恭也の真剣な表情。
 家族と赤星以外には表情を読むことなどできないような恭也の顔がこの時ばかりは誰もが一目で分かるようなどこか研ぎ澄まされた表情。

 その日は美由希が十四の誕生日を迎えた時だった。一年に一回の記念日にも関わらず、美由希は家族で祝ってもらった後に何時もと同じように恭也と訓練を行っていた。
 相変わらず美由希の斬撃は恭也に一切かすりもせず、訓練が終わり、地面に息を乱しながら座っている時に聞かれたのだ。
 夜空を見上げ、真剣だがどことなく迷いがあるような恭也に美由希は首をかしげた。だが、美由希の答えは何時もと同じ。

「うん。私は強くなりたいよ」
「―――そうか」

 ふっと恭也は笑う。普段は全くの無表情の癖して本当に極稀に恭也は笑う。美由希はそんな恭也の笑った顔が何よりも好きだった。

「お前は、強くなる。【御神流】を習っている以上、誰よりもな」
「……うん?」
「忘れるな。例えこれから先、どんなことがあってもお前は【美由希】だ。それだけは決して忘れるな」
「……何を言ってるの、きょーちゃん?」

 美由希の疑問は尤もであろう。恭也の言葉を美由希は全く理解できない。 
 それでも恭也の言葉にはどこか切羽詰っているところが窺えて、美由希は聞き返す。恭也はそばにあった巨木をトンと軽く叩く。

 内に浸透した衝撃が広がりブワっと葉っぱが舞い散る。御神流の基本の一つ【徹】。
 唯の基本。しかし、基本であるがゆえにその【徹】の見事さに美由希は息を呑む。己とは次元が違うその技量。

「【御神】とは特別な一族だ。永全不動八門の中でもかつて【最強】を欲しいままにした殺戮一族。【御神】と唯一並び立つことができたのは【天守】(アマノカミ)だけだ」
「【天守】?」

「【御神】と同じく永全不動八門一派が一つだ。【御神】が衰退した今では永全不動八門の中でも他の追随を許さぬ一族」
「そうなんだ……」
「まぁ、それはいい。美由希、【御神】が最強だと恐れられた理由は知っているか?」
「う、うーん……」

 美由希は首を捻る。小太刀を他の誰よりもうまく扱えるから?人間の限界を超えたような動きをすることが出来るから?圧倒的な剣術を習得しているから?暗器を利用した手段を選ばない戦闘を行うから?【御神】だけでなく【不破】の一族を有していたから?
 あまりに思い当たるふしが多くて逆に答えられない。恭也はそれを見越したかのように笑うとポンと美由希の頭を撫でる。

「お前の考えていることは限りなく正解に近い。だが、正解ではない」
「どういうこと?」
「【御神】が恐れられたのは、【御神宗家】が存在したからだ。それに比べればその他のことなど些細なことなんだ」

 美由希はわけが分からなかった。【御神宗家】が存在したから恐れられたとはどういうことか……。

「【御神宗家】とは【御神】そのもの。【御神宗家】とは【特別】なんだ。いいか、美由希」

 恭也は美由希の眼をみて、何の迷いもなく、躊躇いも無く言葉を吐き出した。

「【御神】は滅びてなどいない。【御神宗家】の血を受け継ぐお前が在る限り、それが【御神】だ。お前の存在自体が【御神】なんだ」

 話はこれで終わりとばかりに恭也は歩き出した。その背中はもうこれ以上のことは話さないと語っているかのような印象を美由希に与える。
 美由希は結局のところ恭也が何を話したかったのか全く分からなかった。それでも良いか、と美由希は思った。
 今は話さなくても何時かきっと恭也は話してくれる。何となく、美由希はそう思った。

「待ってよ、きょーちゃん!」

 感じた疑問は置いて、美由希は前を歩く恭也の後を追う。
 ここまで。ここまでが美由希の記憶にある正しい出来事。

「くふ……くふふふ……」

 不気味な笑い声が周囲を満たした。美由希はその突然の笑い声に一瞬で小太刀を抜き戦闘態勢を取る。背中から嫌な汗が流れた。気配など今まで一瞬たりとも感じられなかったからだ。
 恭也は笑い声が聞こえていないはずが無いのに美由希を無視するかのようにドンドンと歩いていく。

 そんな恭也とは正反対の位置に女性が立っていた。不思議な女性だ。艶やかな黒髪。甘い匂い。白い肌。年齢も分からない。三十過ぎに見えなくも無いが、二十台にも見える。或いは十代にも……。

 誰かに似ているが、すぐには思い出せない。いや、思い出すことを頭が拒絶している。
 女性は構えている美由希を見てクスリと笑う。まるで我が子を見るかのように慈しむ笑み。

「素晴らしいのぅ。本当に素晴らしいのぅ。今まで妾が見てきた【御神】の中でも比類無き才能だよ、ぬしは」

 女性の目が美由希を捕らえる。魂を砕かれるかのような衝撃。眼があっただけで美由希の意識がとびそうになった。
 そのあまりのプレッシャー。この女性は己の師でもある恭也よりも―――。 
 手が震える。足が震える。身体が震える。心が震える。

「怖がる必要はないて。妾はぬしを害する気など一切ないからのぅ。それに危害など加えれるわけはなかろう?これはぬしの夢なのだから」
「……ゆ……め?」

 自分の夢という事実に気づいた瞬間、かすれる言葉と意識。ぽつりと漏れた言葉を切欠に美由希の視界がぶれはじめる。まるで調子の悪いテレビの画像のように。

「そう、夢じゃて。夢から覚めたら妾のことなど忘れてしまうであろうが、覚えておくといいよ」

 女性がクフフと、その外見からは想像できないような笑い声をあげて、両手を広げる。

「ぬしは間違いなく【御神】史上最強の剣士に成れる器よ。その若さで妾を呼び起こせるのだから」

 美由希の視界はもう波打って女性の顔すらろくに見えない。それでも声だけははっきりと聞こえる。

「また会おうよ。【御神宗家】の剣士」

 その言葉を最後に美由希の意識が闇に染まった。ふっと美由希の姿が蜃気楼のように掻き消える。
 美由希がこの世界から消え去ったあとも、女性はクフフ、と笑い続ける。

「なんともまぁ、【不破】の子倅も【御神宗家】を立派な【化け物】に育てたようで」

 女性は先程の恭也がしたように目の前にある巨木にトンと手をあてる。力を込めた様子は無い。だが、ドンという音が鳴り響く。
 バサっと先程の比ではない、いや、巨木のほぼ全ての葉が舞い散った。
 くふふ、くふふと女性は笑い続けながらこの世界から姿を消した。

「嬉しいのぅ。妾も今代は遊ばせて貰えるようじゃて」 












「んじゃ、これで授業は終わりー。よーやく昼休み!ご飯の時間!」

 そんな担任の声で美由希の意識が浮上した。ゴシゴシと眼を擦れば黒板の前の教壇に立つ女性。今年風芽丘学園に着たばかりの新任の教師【鬼頭水面】(キトウ ミナモ)。
 可愛らしい容姿と教え子より小さい身長とは裏腹にラフな性格と口調のギャップで風芽丘学園の生徒から人気は高い。
 その水面がダンダンと授業に使った用具を揃え教室から出て行こうとする。

「あ、あのー鬼頭先生。号令がまだなんですが……」

 そう恐る恐る水面に声をかける学級委員の生徒。

「あーもう、号令くらいいいじゃん。あんた達、きっちり復習はしておくように。もし、宿題忘れた奴がいたら一発芸やってもらうからね、覚悟しておくように」

 そんな言葉を残して水面は号令を待たずに教室を飛び出した。開け放たれた扉から聞こえる、ご飯~ご飯~というリズムにのった声に教室に居た生徒達は唖然となる。
 それでもいつものことか、と生徒達は各々昼食を取るべく動き出す。美由希も小さく欠伸をして背筋を伸ばす。

 ―――なまってるのかな。

 二学期に入ってはおろか、一学期や去年を含めて授業中に居眠りするなんて真面目に授業を受けている美由希にとって初めてのことであった。師である恭也はほぼ全ての授業を睡眠に費やしていると聞いているので驚きだ。
 およそ一ヶ月と少し前。【北斗】との戦いで負った腹部への怪我。完治ではないにしろ、身体を動かすことにはほぼ影響はない。

 恭也の指導で未だ本来の修練には戻れず、身体に負担のかからない鍛錬ばかりを集中して行っているため逆に落ち着かない。
 だが、美由希は恭也の指導に不満はない。恭也がそう判断したのならそれがベストな判断なのだと信じているからだ。
 
 ―――それに何か夢を見たような気が?

 どんな夢を見たか思い出せない。喉までは出掛かっているのだが、まるで脳が思い出すことを拒絶するかのように。
 まぁ、忘れるってことはたいしたことじゃないか、と判断した後、もう一度背筋を伸ばした後、鞄から弁当箱を取り出し教室を出る。

「あ、美由希さーん」

 そう声をかけて廊下をとてとてと駆けてきたのは茶色がかった肩程まで伸びた髪の少女。どことなくぽややんとした雰囲気を纏っている。

「あ、【那美】さん」

 那美と呼ばれた少女はハァハァと軽く息を乱し美由希ににっこりと笑いかける。

「美由希さん、今日はお昼ご飯どうします?」
「私も今日は晶にお弁当作ってもらったのでどこか静かなところで一緒に食べましょうか」
「そうですねーそうしましょう」

 神咲那美。
 美由希より一つ年上の風芽丘学園の三年。去年に恭也との関連から知り合い、今では親友となった少女。
 非常に穏やかな性格で、雰囲気の似通った美由希ととても馬が合うようで、休日も一緒に遊ぶことが多い。

「それじゃ、屋上とかどうでしょうか?」
「いいですねー。九月ですけどまだぽかぽかして暖かいですしね」 

 美由希の提案に那美は嬉しそうに頷くと連れ立って屋上へ向かう。
 二人は最近あった出来事を話し合いながら廊下を歩いていると突然、美由希が後ろを振り向き、後方をじっと睨みつけた。
 そんな美由希の様子に呆気にとられたように那美は目を丸くする。

 ―――【また】だ。

 美由希の視線から逃れるように廊下の角から覗き見ていた人影が姿をスっと消す。
 背筋を貫いていた透明な視線が消える。

 ―――監視されている?     

「えっと……急にどうしたんですか?美由希さん?」

 那美の台詞にも答える余裕はない。二学期に入ってから時々感じる【六】の視線。美由希を監視するかのように冷たく、鋭い。
 一学期から監視されていたか定かではない。【北斗】との戦いで己の強さが一段跳ね上がったことは自覚している。それで気づけるようになったのかもしれない。
 それほどこの【六】の視線は鋭くありながら希薄なのだ。

 ―――焦って手を出さない方がいいかな。

 敵か味方かは分からない。むしろ自分の生まれを考えると敵の可能性が高い。
 下手に手をだしてどうにもならない状況を作るわけにはいかない。自分一人ならまだいい。
 もし家族にも被害が広まったら後悔してもしきれない。それに……。

 ―――強い。この六人は。

 その完璧に近い隠形の術。美由希ですら気を抜くと捕らえられない。力量的に一人一人が下手をしたら自分と同等クラス。
 一対一ならば負けるつもりはない。だが、そんな相手が六人。

 ―――今は様子見だね。

 そう結論付けると美由希は那美に振り返る。

「あ、ごめんなさい、那美さん。早く屋上へ行きましょう」
「そうですねー行きましょう」

 にこりと胸中を感じさせない笑顔で美由希は笑って那美と連れ立って屋上へと向かった。



 

    







 風芽丘学園。
 県外県内問わずかなり名の知れた名門校で同じ敷地に私立海鳴中央という中学もある種のマンモス学園である。
 運動部が強く、そのなかでも護身道部や剣道部、バスケ部は全国レベルの強さを誇る。
 そのため部活が割と活発に活動しているようで、中にはとんでもない部活も何故か存在する。

 【帰宅部】。部活は強制ではないので入部したくない生徒は入らなくても良いのだから自然と帰宅部になるのだが、今年の一学期に何故か作られた部活。
 【帰宅部】と銘打ってはいるが、実際は部室で遊び呆けているのでは、と憶測が飛んでいる。

 そんな【帰宅部】の部室、それほど広くない部屋のなかでテーブルを囲んで座っている五人の生徒が居た。
 特に話をしようとせず各々やりたいことをやっているような印象を受けた。

 一人は坊主の少年。カリカリと数学の教科書を見ながらノートに式を書き込んでいる。
 一人は眼鏡をかけた短髪の少年。眼鏡を手に取ると綺麗にレンズを拭いている。
 一人は女性のような黒い長髪の少年。男子の制服を着ていなかったら女生徒と間違えられかねない容姿だ。
 一人はセミロングの目の細い少女。寝ているのか起きているのかも区別がつかない様子で椅子に座っている。
 一人は茶色の長髪を後ろで軽く結んだ少女。テーブルに腕を組み、その上に顎を乗せて欠伸をしている。どこか眠たさ気な様子だ。

 静寂を破るように勢いよくドアが開く。勢いが良すぎて横にスライドしたドアがガンっという音を立てる。

「おぃ~す!あんた達、ご飯食べた?」

 中に飛び込んできたのは水面だ。その両手には山のような菓子パンを抱えている。

「あんたが早く来いって言ったんだろ、鬼頭?おかげで食えてねーよ」
「全くですよ。昼食も買わずに部室に直行したんですからね」

 眼鏡をかけた少年が吐き捨てるように水面に言う。眼鏡を吹き終わり、綺麗になったのを満足するように頷き、かける。
 それに追随するように長髪の少年。顔は笑顔だが、内心は全く笑っていない。

「なーに、【葛葉】(クズハ)?男が細かいこときにしない。それに【秋草】(アキクサ)も。ほら、これあげるから我慢しなさいっーの」

 水面は葛葉とよばれた短髪の少年に菓子パンを数個投げつける。それに続いて【秋草】と呼ばれた長髪の少年にも。ため息をつき、ふっと右手を振るう。溢すことなく空中をとんでいた菓子パンは葛葉の手に治まった。

「礼は言わねーぞ」
「有難うございます」

 そう言うと袋をあけてムシャムシャと葛葉は食べ始める。秋草は逆に男とは思えぬようにチビチビと菓子パンを齧る。

「それで、今日は何用でしょうか、鬼頭殿?」
「あんたは礼儀ただしいわねー【風的】(カザマト)!褒美にこれをあげるわ」
「すでに昼食はとりましたのでお気になさらぬよう。間食はしないようにしております故に」

 坊主頭の少年がノートから視線をあげて答える。そしてノートと教科書を片付け始める。それに投げつけようとしていた菓子パンを渋々と手元に戻す。

「あんた達はいるー?【小金衣】(コガネイ)、【如月】(キサラギ)?」
「いらない」
「あ、うちはメロンパンあったらほしいですー」

 眼の細い少女……小金衣がばっさりと斬って捨てる。それに対して茶髪の少女……如月は目をキラキラとさせて水面に眼を向ける。

「ほいほい。メロンパンねーほいさ」

 何故そんなに買ったのかとつっこみたくなるほどの量のメロンパンを如月に投げつける。葛葉と同じく器用に空中ですべてキャッチすると嬉しそうにメロンパンを頬張った。
 五人に菓子パンを配り終わった後に水面はドンと手近にあった椅子を引き腰をおろす。

「んじゃ、時間も時間だしちゃっちゃと何時もの報告よろしく!」

 水面の台詞に葛葉が首を傾げる。

「ついに人数も数えられなくなったか、ボケ女。部長がまだきてねーだろ」
「ああ、あいつはちょっと遅れるってさー。クラス委員だかなんかの仕事があるんだって。大変だねぇ、優等生は」

 辛辣な葛葉の言葉にも水面は笑顔を崩すことなく答える。葛葉は舌打ちする。

「おっけーおっけー。そういうことかよ。まぁ、俺から報告するよーなことはねーわ。【御神】に異常は無し」
「あ、そう。あんた達は?」   
「某の方も特には」
「僕のほうもありませんねー」
「無い」
「うーん、うちもありませんねー」

「ほいほい。まぁ、何時もどおりってことね」

 五人の報告に水面はクリームパンを齧りながら適当に頷く。
 そう。水面達はある事情から美由希を監視しているのだ。美由希が感じていた視線は水面を含むこの六人からの視線。 
 
「あーでも一つ気になることがあるんですけど、うち」
「うん?何かあったの?如月」
「うーん。気のせいかもしれないんですが【御神】さんが最近うちらの監視に気づいてません?」
「あー……あんたもそう思う?」
「アレ?鬼頭先生もですか?」

 如月の憶測に水面は頭をポリポリとかく。参った参ったと両手をあげる。

「そーなんだよねー。何か二学期に入ってからやけに鋭くなったというか……一学期に比べるとまるで別人だしさー」
「うちの勘違いじゃなかったんですねぇ」
「違う違う。今の【御神】は強いよ。多分、私達と互角……或いはそれ以上かもね」
「ですよねー。正直、うちは【御神】さんと戦っても一対一だと勝てる気がしないですし」

 あっさりと自分では勝てないと言い切った如月。そんな如月に葛葉が侮蔑の視線を向ける。

「は!はなっから敗北宣言かよ、情けねーな。それでも栄えある永全不動八門一派が一。如月流掌術の後継かよ!」
「うーん。うちは如月でも落ち零れですから。皆さんとは違いますし」
「ち……つまんねーな」

 不機嫌そうに葛葉がテーブルに足を乗せる。その態度に風的が眉を潜める。礼儀を重んじる風的にとっては横柄な葛葉の態度は不快を感じさせる。

 そんな葛葉を諌めるために風的が口を開こうとした瞬間、横から小金衣が口を挟んだ。

「自分を過大評価しすぎ。はっきり言うけどアンタじゃ、如月はおろか今の【御神】にも勝てはしない」
「ぁあ?」

 ピシリと部室の空気が音を立てて凍った。葛葉と小金衣を中心に空間が歪むかのように音を立てる。葛葉がテーブルから足を下ろした。
 ゴキリと葛葉は手首を鳴らす。肉食獣のように獰猛な笑みを浮かべる。
 対して小金衣は自然体で葛葉の殺気を受け流す。まるで最初からそんなもの存在していないかのように。

「やめておくといい、葛葉。この狭い空間ではアンタじゃ私に勝てない」
「……舐めんな、小金衣。永全不動八門が一。葛葉流槍術をその身に刻めや」

 小金衣の言葉を合図に葛葉の殺気が爆発。テーブルが弾け飛ぶ。葛葉と小金衣がぶつかり合おうとした瞬間。
 ゾワリと、言葉では表現できないような暗くて黒くて冷たい何かが二人だけに降り注いだ。

 まるで巨人の腕で上から押さえつけられたような圧迫感が【二人】を襲った。少しでも気をぬけばその重圧に地面に叩き潰されそうなほどの衝圧。
 ドクン、ドクン、ドクンと互いの心臓の音が耳を打つ。本能が恐怖する。この重圧を放つニンゲンに。
 葛葉も小金衣も弱くはない。弱いどころか桁外れに強い。未だ十代に関わらず各流派で【天才】と称されるほどに。

 天から与えられた才能。他を圧倒する技術。強き意思。恵まれた環境。
 この場にいる全員がそれらを有した【永全不動八門】の者達。
 そんな葛葉と小金衣ですら恐怖を抱くような闇。それを放つ正体を二人は―――知っている。

「―――何をしているのかしら?」

 鈴が鳴るような声。どこか小馬鹿にしたような口調。いつのまにかドアを開けて立っていたのは一人の少女。
 きりっと伸びた柳眉に漆黒の髪。それと同じく黒の瞳。背は女性にしては平均くらいだろうか、百六十ほど。人並みはずれた容姿だ。
 ただ見ただけならモデルでも通じる少女だったが、彼女の纏う雰囲気が全てを裏切っていた。まるで抜き放たれた刀。それをイメージさせるような研ぎ澄まされた雰囲気。

「……あ、【天守】(アマノカミ)……」
「……【翼】さん……」

 息も切れ切れに葛葉と小金衣が呟く。未だ二人だけに降り注いでいる重圧は取り除かれていない。
 天守翼はなにも特別なことをしているわけではない。ただ、二人だけに殺気をはなっている。それだけなのだ。
 それだけで二人は動きを縛られている。それほどこの少女は何かが違っていた。

「この海鳴では私達【永全不動八門】同士の私闘は禁止しているはずじゃなかったかしら?」
「……っ……そ、それは……」
「……申し訳ありません……」

 葛葉が視線を逸らし、小金衣が俯き謝罪を述べる。そんな二人を見た翼は鼻で笑うと扉を閉めてツカツカと部屋の中に入る。
 翼はふっと視線を二人から離す。その途端、二人を縛っていた重圧が取り除かれ自由になる。

「く……っ……」
「……ハァ……ハァ……」

 だが、二人は床に四肢を付き呼吸を整えようとする。そんな翼を見た水面がニヤニヤと笑う。

「相変わらずのでたらめぶりねー。さすがは【天守】」
「それはどうも、鬼頭先生」

 笑いもせず翼は椅子を引き座る。足を組み、六人を見回す。達観したような顔。だが。全てを見下したかのような瞳。

「随分と欲求不満みたいね、葛葉」
「っ……そんなことは……」
「いいのよ、正直に言って。私も最近は退屈で仕方ないもの」

「……」
「だから喜びなさい。監視は終わりよ」
「!?」

 驚く葛葉。勿論、驚いたのは葛葉だけではない、水面も、小金衣も、秋草も、如月も、風的も、皆が驚いた。半年以上も【御神】の監視だけを続けていたのだから。
 それに満足そうに翼は頷いた。

「さぁ、始まるわよ。【御神】と【永全不動八門】の戦争が!!」

 翼は厭らしい笑みを浮かべ天を仰ぎながら雄叫びの如く戦いの宣誓を告げた。





















 師である恭也から与えられた特別メニューも終わり、汗を流そうと美由希は風呂に向かう。
 脱衣所で服を脱ぐと白い肌が露になる。恭也の傷だらけの身体とは違い美由希には眼に目立つ傷はない。
 さすがに女性ということもあり、恭也が気を使っているのだろう。
 白いタイルを床一面に張った空間。 
 軽くシャワーで汗を流した後、若干熱めのお湯を張った湯船につかると手足を伸ばす。

「んー」

 疲労した身体に染み渡るかのように心地よい。

「ふぃ―――極楽極楽」

 湯船にもたれてはぁーと息を吐くと両手を併せて上に持ち上げて伸びをする。身体が弓のように逸らされ何ともいえない心地よさが全身を包む。
 風呂場は、普通の家より大きい高町家に比例してそこそこ広い。美由希が足を伸ばしてもまだ余裕があるくらいなのでゆったりできる。
 口元まで湯船につかるとぶくぶくと息を漏らす。

 ―――まだまだだなぁ。。

 自分は強くなった。自惚れではなく、第三者の目からみてもそう称されても可笑しくはないだけの実力を備えている筈だ。
 それでも、未だ師の影さえ踏むことが出来ない。上限が見えない強さ。限界を見極めれない強さ。
 何時追いつけるのだろうか、兄に、師に。

 例え十年かかろうが二十年かかろうが、追いついてみせる。
 それが師が私に望んでいることなのだから。 
 筋肉をほぐしながら十分ほども入浴していただろうか、湯船からあがり身体を洗う。

 再びシャワーで洗い流した後、脱衣所に戻り身体を拭き、濡れた髪の毛を乾かす。髪の毛が長いため乾かすのも一苦労だ。  
 鼻歌を歌いながらゆっくりと乾かしていると、ふと美由希は恭也の気配を感じた。
 どうやら鍛錬から帰ってきたようだが、おかしい。

 普段ならもっと遅くまで鍛錬を行っているのに随分と今日は早い。
 それに覚えがない気配が一つ一緒に感じ取った。
 首を捻りつつ寝間着を着ると脱衣所から出て恭也に声をかけようとする。

「おかえりなさーい、きょーちゃん。今日は、はやかった……ね……?」
「……美由希か」
「お邪魔させてもらうよ……高町美由希」

 美由希が驚きで固まる。
 恭也以外の誰かと思いきや全くもって予想外の人物。
 廊下に立っていたのは北斗が二座、武曲。一ヶ月程前に戦った水無月冥。
 だが、以前のような苛烈な意志の光がその表情からは読み取れない。明らかに以前とは異なる憔悴したような様子。

「え?あれ?冥さん?えーと……あれ?」

 半ばパニックになりながら美由希が疑問を投げかける。ぐるぐると疑問が頭のなかを巡っている。
 そんな美由希に対して恭也は冷静そのもの。外見上だけはだが。

「そこで拾った」
「拾ったって……ええ!?」

 恭也の台詞に美由希が心底びっくりしたように大声を上げる。

「うるさい。なのはが起きるだろうが」

 音もなく間合いを詰めた恭也の強烈なデコピンが美由希の額に直撃。
 ゴンっというもはや何かを殴ったかのような音をたてて、美由希の脳に直接響く衝撃。

「ぁぁ……ぅぅ……」

 激痛に美由希が額を押さえて廊下に座り込む。

「……拾ったか……言いえて妙だね……あはは……」

 そんな二人を最初は呆然と見ていた冥だが、恭也の言葉に笑って見せる。
 暗い影はとれてはいない。だが、確かに冥は笑っていた。

「先に風呂に入ってくるといい。俺は少し夜食でもつくっておこう」

 そんな冥を横目でみた恭也はそう言い残すとキッチンへと向かう。
 未だ蹲っている美由希の横を通る時に、美由希にだけ聞こえる小さな声で呟いた。

「……話は後で話す。今は何も聞くな」






















「と、いうことがありましてねー。お陰で寝不足なんです」
「あはは。それで眠そうなんですねぇ」

 翌日の昼休み。風芽丘学園の屋上。
 多くの学生が各々弁当を広げて食べている姿が見て取れる。その一画で美由希と那美もまた昼食を取っていた。
 美由希が昨日あった出来事を話しながら目を擦る。

 そんな美由希に相槌を打ちながら箸で玉子焼きを口に運ぶ那美。
 勿論、美由希も馬鹿正直に話したわけではない。【北斗】のことやらを省き、高町家に居候が一人増えたことを那美に話していたのだ。

「今度美由希さんの家に行ったら会うかもしれませんね~」

「多分会うかもしれないですね」

 にこにこと笑う那美に答える美由希。
 昨夜恭也にある程度の説明を聞かされていた。勿論、美由希とてすぐには信じられる話ではない。

 あの水無月殺音が殺されたなど。
 言いたくはないが殺音に勝てる存在を思い浮かべるならば、高町恭也唯一人。
 自分では到底及ばない、正真正銘の化け物だ。

 その水無月殺音を殺したなどすぐには信じられない。
 それでも、あの冥の様子を見るからには嘘だと言える筈がない。
 殺音にあったときにも感じたことだが、世の中には意外ととんでもない存在がいるのだということを美由希は思い知らされた。

「美由希さん、美由希さん」
「え?どうしました、那美さん?」
「ぼーとしてましたけど大丈夫ですか?」
「あれ?ああ、すみません!!」

 少し考え込んでいたようで昼食を食べる箸も止まっていた。周囲をみれば美由希と那美以外の生徒はすでに居なくなっている。
 時計をみればもうすぐ昼休みが終わる時間だ。
 慌てて昼食をすませると弁当箱をしまう。那美も美由希に併せるように弁当箱をしまうと立ち上がる。

「それでは、戻りましょうか」
「はい」

 二人連れ立って屋上から校舎に戻り階段を降りようとしたときだった。
 もうすぐ昼休みが終わるというのに屋上へと続く階段を登ってくる生徒が一人いた。

 やや茶色に染まった長い髪を後ろでリボンで結いでいる少女。美由希や那美に引けを取らぬ人目をひく少女。
 美由希と視線があうとにっこりと笑いそのまま美由希を避けて屋上へと向かう。
 階下へと降りていく美由希の足が止まる。ぞわぞわと嫌な気配が美由希を包む。
 足元から這いずり出たような幾つもの手が美由希の足首を掴んで放さないような感覚が離れない。

「どうしました?美由希さん」

 そんな美由希を何段か下から那美が首を傾げて見上げる。強張っていた表情を一瞬で消すと美由希は答える。

「ちょっと忘れ物をしましたので那美さん先に教室に戻ってください」
「あら?私も行きましょうか?」
「あ、大丈夫です。すぐですから。また放課後に会いましょう」
「そうですか~。また放課後ですね」

 那美が階下に降りていくのを確認した後、美由希は屋上へと戻る。
 屋上にはすでに人影はない。あるのは唯一つ。先程の少女のみ。
 屋上全域に張り巡らされているフェンスにもたれかかるように屋上へと出た美由希に出迎えていた。
 心臓の鼓動が激しく高鳴る。向かい合っただけで分かる。
 このフェンスにもたれかかっている少女は……強い!!

「もう昼休み終わってしまいますけど―――申し訳ないです」
「え……?」

 そんな美由希の内心とは逆に少女は謝りながら深々と頭をさげる。
 それに美由希は意表をつかれた様に呆けたような声を出す。

「初めに言っておきます。うちは貴方に危害を加えるつもりはありません。だから落ち着いて聞いてください、【御神】さん」
「……!!」

 ドンっと音をたてたように膨れ上がる美由希の闘気。激しい風圧。
 勿論、実際に風圧が巻き起こったわけではない。

 だが、確かに暴風の如き圧力が美由希の周囲で荒れ狂ったのは事実だ。
 もし、この場に一般の人間が、いやある程度武をかじった人間がいたならばその圧力の前に気を失ったかもしれない。
 その殺気に若干驚いたような顔になる少女。だが、慌てるでもなく両手を挙げて降参のポーズを取る。

「不審に感じるのは当然だと思います。うちは【如月紅葉】。貴方と同じく【永全不動八門】の一つ、【如月流掌術】を伝える一族の者です」

 油断なく美由希は如月紅葉を窺う。そんな美由希に対して紅葉は邪気のない笑顔で答える。

「急いで伝えないといけないことがありまして、このような礼を欠いた行為をしてしまったことをまずは深くお詫びします」
「……何が目的なんですか?」

「えっと……忠告です。これからしばらくは学校に来ないで下さい。何かしらの理由をつけて。お願いします」
「……」

 学校に来るな、という紅葉に不審気に見る美由希。

「いきなりこんなこと言われて疑うのは当然だと思います。でも、貴方の身を護るにはそれしかないんです」
「説明、してくれますか?」

 紅葉の言葉と様子にようやく殺気を鎮めると美由希は紅葉に説明を求める。

「話が長くなるので要点だけを話しますね。今、この海鳴には永全不動八門全ての一族が集まっているんです。彼らが【御神】さんを狙っています」
「もしかして監視されていたのは……」

「あー、やっぱり気づいてましたか。そうです。うちらですね、それは」
「……永全不動八門ですか」
「はい。私を除いて六人ですが全員が強いです。永全不動八門の秘蔵っ子。天才と名高き猛者ばかりです」
「本当……ですか?」

 美由希を衝撃が襲った。目の前の紅葉が全員が強い、と断言したのだ。
 信じられない気持ちであった。
 はっきり言おう。美由希が感じ取れる限り紅葉は強い。強い、と言葉に言い表せないほどの底が知れない何かを秘めた少女。
 全力で戦っても良いところ互角。それほどの少女。
 その紅葉をして強いと称するほどの相手が六人もいることが、恐ろしい。

「恐らくですが【不破】さんと一緒に行動していれば【御神】さんが襲われることは無いと思います。勿論、襲われたとしても【不破】さんと一緒ならばどうにでもなるはずです」
「きょーちゃんのことも知っているんですか?」
「勿論です。【御神】と唯一共に歩きし殺戮一族。戦いを挑むな、挑めば死ぬ。彼の者こそ【不破】が生み出した最終血統。永全不動八門の間では有名ですよ。【御神】には不可侵の約定を取り付けた魔物だと」
「……」

 唖然とした。まさか恭也が、兄がそんなことをしていたとは。それほどまでに恐れられていたとは。
 そして疑問を持った。紅葉の言葉。台詞は兄を畏れているようだが、笑っている。恐れなどまるで無い。まるで憧れの人物を語るかのような尊敬の念さえ窺えた。

「【不破】さんは至高の剣士です。強き者。何人たりとも彼の横に立つことはできない孤高のヒト。太陽……そうですね、あの人は太陽なんです。誰も近づくことが出来ない。近づきすぎればその身を焼かれてしまう」
「……」

 ぞわりと、美由希の肌が粟立った。全身の血液が凍ったような、異様な感覚。
 恭也とはまた違った異質なまでの威圧感。
 そんな紅葉がくすりと笑い、テヘっと舌をだす。先程までの危うい雰囲気を一瞬で消し去る。

「あ、すみません。変なこと話してしまって。【不破】さんと一緒に居れば天守さんも手をだせないと思います。しばらく時間を稼いでいただければ私も如月宗家に連絡を取って何とかできるように動きますので」

 周囲を沈黙が包む。
 その時その静寂を破るように昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。

 ―――十数秒。

 鐘が鳴り終わった後、美由希がようやく口を開こうとした瞬間。

「おいおい、何をほざいてやがんだ?如月よぉ……抜け駆けってわけじゃないよーだけどな!!」

 美由希が屋上を蹴り前に跳びつつ背後をみやる。
 気配はなかった。つい先程までは。
 気配を消して隠れていた?それとも丁度今、屋上に来た?どちらにせよ美由希が気配を感じ取れなかった事実。

 屋上の入り口を塞ぐように立っていたのは二人。一人の少年と一人の少女。          
 獰猛な笑みを浮かべている葛葉。それとは対照的に無表情の小金衣。

「初めましてってところか、【御神】。同じ永全不動八門のよしみで名乗っておいてやらぁ」

 葛葉がポケットから筒のような物を出す。クルリと掌で回転させた次の刹那、彼の両手には穂先が十字になった十文字槍が握られていた。
 葛葉は肩に十文字槍を担ぐと、美由希を真っ直ぐに見据える。

「修めた流派は葛葉流槍術。葛葉弘行だ」

 ビリビリと空気を伝わってくる闘気。先程美由希が放った闘気とは勝るとも劣らない。
 そんな葛葉が横に立ったままの小金衣を刃のついてないほうで突付く。
 小金衣はそんな槍を手で軽く弾き落としため息を吐きつつ前に出る。

「葛葉と同じく永全不動八門の一つ、【小金衣流杖術】。小金衣夏樹。よろしく、【御神】」

 何もかも対照的な葛葉と小金衣。葛葉の荒れ狂う闘気と小金衣の波の無い海面のように静かな闘気。
 感じ取れる確かな実力。美由希の頬を汗が一滴流れて、落ちる。

 肌で感じる相手の力量。数ヶ月前の自分では相手にならないほどの実力。
 成る程。これが永全不動八門の流派を修めた者達。
 美由希の手が武者震いで震えた。

「わりーけど俺からやらせてもらうぜ、小金衣。半年近くもお預けくらってたんだからな」
「……好きにすれば?」

 小金衣は壁にもたれかかるとどうでもいいかのように答える。
 それに嬉しそうにニヤっと笑って葛葉が十文字槍を肩からおろして構えた。

 対する美由希も構えはするが内心は焦燥していた。まさか学校の真昼間から戦闘をしかけてくるとは思わず小太刀を持ってきていなかったのだ。
 現在隠し持っている武器は飛針数本と鋼糸。正直な話、分が悪い。

「待ってください。こんな所で始めたらどうなるかわかってますよね、葛葉さん!?」 

 そんな二人の間に割って入ったのは紅葉。激しく葛葉を一喝する。
 紅葉の台詞に葛葉は一瞬不快そうな顔をするが、槍の先を紅葉に向けたまま犬歯を剥き出しにして吼えた。

「お前は黙ってな、如月!!これは俺と【御神】との戦いだ!!邪魔をするならお前ごと―――」

 葛葉の言葉は最後まで続かなかった。葛葉や美由希を遥かに上回る暗い闘気が屋上全体を包み込むように展開された。
 その様子はまるで結界を張られたかのようで、美由希の全身がぶるりと震える。
 さんさんと光を落とす太陽が陰ったような気すらその場にいた全員は感じた。 有り得ない、と戦慄く身体を押さえてそう絶叫したかった。これほどの威圧感を放つ存在を美由希は二人しか知らない。

 高町恭也と水無月殺音。

 二人に匹敵しかねない圧倒的な闘気を撒き散らしながら彼女は、天守翼はそこに現れた。
 どう見ても己と同年代にしか見えない少女。武器ももたず、肩にかかった髪を手で弾き見下すような瞳で美由希を見やる。
 身長は同じくらいなのにまるでそびえたつ巨人のように遥か上空から見下ろされてる気さえした。

「勝手に動きすぎよ、貴方達」

 桜色の唇から美しい声が漏れた。それにビクリと身体を奮わせる葛葉と小金衣。そして紅葉。
 葛葉が何かしら言いた気に口を開こうとするが一睨みでその口を閉じさせる。

「如月。貴方がしたことは目を瞑ってあげる。だから黙ってなさい。良いわね?」

 紅葉に問いかける翼。だが、違う。これは選択肢の無い問い。圧倒的な圧力が紅葉を襲い、翼が望むハイという言葉だけを紡がせる。
 それでも紅葉は唇を噛み締めてその圧力に屈しまいと耐え切ろうとする。
 その紅葉の様子に眉を動かして、感心したように驚いた顔をした。それも僅かな時。今度は面白そうに紅葉を見る。

「―――驚いたわ。大した胆力ね」
「……」

 沈黙の紅葉を哂うと翼は興味を無くした様に階下へと降りる階段に向かった。
 顔だけをやや後ろに向けて美由希を見据える。

「話くらいは聞いてると思うけど私は天守。天守翼よ。私の目的は貴方だけ。貴方が無様な真似さえしなければ貴方の家族には手を出さないと誓ってあげる」

 信じるか信じないかは貴方次第だけど、と聞こえるか聞こえないかの声で付け足す。

「それと今回のところは退いてあげる。貴方も万全じゃないでしょうしね」

 翼はもはや用は無いと言わんばかりに踵を返す。

「帰るわよ。葛葉、小金衣、如月」

 そのまま階下へと姿を消した翼を追って小金衣も後に続く。
 葛葉だけは名残惜しげに翼の消えた方向と美由希を交互に見た後、ため息を吐いた。
 
「やる気が削げたな。折角の良い機会だったってーのに」

 頭をかきながら葛葉も美由希に背を向ける。 
 三人がいなくなった後、美由希は身体の芯からくる震えを抑えるので精一杯であった。
 風の音も耳から遠ざかっている。鼓動の音さえ。

 強いとかそういった表現ではおさまりきらない。葛葉や小金衣とはまた一回り違った底知れぬ力量。
 恐ろしいまでに強大な相手。美由希の思考全てを占めている存在感を示した少女。
 あの少女もまた、普通の人間が一生かかっても到達できない領域に足を踏み込んでいる存在。

 恭也と同じとは言えないまでも、それに匹敵しかねない境地に住んでいる。
 美由希の口元から紅い血が流れた。悔しさのあまりに唇を噛み切ったのだ。
 同年代で、あそこまでの高みに登っている少女が、存在がいることに美由希は発狂しそうになった。
 美由希の心中に渦巻いている感情。それにようやく気づいた。

 ―――ああ、これは恐怖じゃない。

 それを理解した時身体中の震えがぴたりと治まった。

 ―――これは、嫉妬なんだ。

 自分以上に恭也に近づいている存在がいることに、美由希は確かに嫉妬していた。
 羨ましい。妬ましい。悔しい。
 美由希の身体から溢れんばかりに発せられる……鬼気。

 残された紅葉の眼が驚きで大きく見開く。
 とてつもなく膨大で、とてつもなく強大で、とてつもなく巨大。
 天守翼という天才と出会ったことで、その才覚に共鳴するかのように美由希の潜在能力も目覚めつつあった。
 美由希は立ち上がると翼が去っていった方角を見つめて眼を細める。

 ―――天守翼、貴方は私が倒す。倒して証明してみせる。私こそが高町恭也に最も近い剣士なのだと!!


  


















 授業中のためか人気の一切ない廊下を無言のまま歩く翼。
 その後ろから一歩遅れてついていく葛葉と小金衣。葛葉は両手を後頭部にやってやれやれと呟く。

「いいのかよ、天守。折角のチャンスだったのによ」
「何?葛葉。貴方は小太刀も持っていない【御神】を潰して楽しいのかしら?」
「ぅ……」

 言葉に詰まる葛葉に翼は視線を向けることなく歩く。
 そんな態度に葛葉は小金衣に顔を向けるが知らん振りをされてしまった。

「で、でもよー。【御神】から【不破】に話がいったらどうするんだよ?相当厄介な野郎みたいだけど」

 【不破】という単語に翼が足を止める。そして振り替えて葛葉を見据えた。恐ろしいほど透明な笑みを浮かべて。

「大丈夫よ。何があっても【不破】は動かないから」
「いや、【不破】って【御神】の師匠なんだろ?普通は動くだろう、普通は」
「【普通】は、でしょう?【不破】は普通じゃないってことかしらね」
「言葉遊びしてるわけじゃねーだろうが……」

 ゾクリと葛葉の背筋に氷柱をつっこまれたかのような悪寒を覚えた。
 哂っている。見下すかのように。

「心配しないでも【不破】は絶対動かないわ。だから余計なことを考えなくてもいいの、貴方達は」

 冷たい。その表情といい言葉といい。
 それ以上突っ込むことも出来ず葛葉は視線をそらす。
 
「でも、まぁ、一度でいいから【不破】とやりあってみたかったな」

 それは話をそらせるために口に出した他愛も無い冗談。軽口。
 その瞬間、翼は明らかに変わった。確実に変わった。絶対的に変わった。
 今までの翼とは違い、とても二十にも満たない小娘とは思えない妖艶な双眸が、危険な光を放ちつつ葛葉を捉えた。

「―――貴方が【不破】に勝てると思ってるのかしら?」
「やってみなくちゃわかんねーだろうが」

 息を呑みつつ、なんとか答えた葛葉。

「そうね。そう思ってるほうが幸せかしらね」

 憮然とした葛葉など眼中にないかのように遠くを見るかのような視線を浮かべる。

 ―――ああ、分かっていないのね。

 葛葉では、戦っても万が一はおろか億に一すらの可能性すらないのに。
 分かっていない。ここに居る誰もが分かっていない。いや、そもそも分かっている人間など自分以外にいやしまい。
 彼の実力を。彼の技量を。彼の外れ様を。
 彼は強い。強すぎる。あまりにも。格が違う強さ。

「……お前なら勝てるっていうのかよ、天守」
「さぁ?どうかしら?」

 ああ。なんて面白いことを言うのかしら、葛葉は。
 彼に勝てる?誰が?私が?

 クスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクス。

 面白い。本当に面白い。面白すぎて、笑い転げてしまいそうだ。
 あの絶対強者にこの私が勝てるか、ですって。

 私の【才能】をも凌駕する修練に修練を重ね、果て無き地獄に身を置き続けるあの狂人に。 
【今】の私では到底及ばない。百度戦ったとしても、一度として勝つ機会すら訪れない絶望的な実力差。
 彼こそが―――最強。私が知る限り永全不動八門全てを超えるモノ。

 努力の先にて人の身を外れた異端の王。
 私の求める到達者。彼の領域こそ私の求める最強への最終到達域。
 三年。あと、三年。それだけは必要。私が【今】の彼に追いつくには。

 だけど、私は諦めている訳ではない。諦めるわけにはいかない。
 私もまた最強を求め続けるモノ。だから利用させてもらうわ、【御神】。

 貴方を高みに引き上げてあげる。今よりも更なる高みに。私が住まう領域に。 
 私の牙を磨ぐために。あの存在にその牙を突き立てるために。
 彼の望みと私の望みが一致する限り、どこまでも引き上げてあげる、【御神】。

 ―――だから、貴方は私の望むが侭に、【最強】の頂に座していて頂戴。不破恭也。。
  
 
  












 永全不動八門との顔見せから数日の時が流れた。
 あれから八門からの襲撃も、監視もなくなっており逆に美由希を不安にさせている。
 そんな不安を消し飛ばすように鍛錬に励む美由希であったが、やはり不安を完全に隠せるわけもなく桃子や恭也、果てはなのはにまで心配される様である。

 怪我もいよいよ完治して戦いに関しては問題なく動けるようになったが、師である恭也は最近高町家に居候している冥と行動を共にしていることもあり相変わらず一人で鍛錬を行っている。
 美由希としては悔しい部分もあるが永全不動八門との戦いは恭也に気づかれたくないと、己の手で決着はつけたいと思っているところもあったので逆にこの時ばかりは有難かったかもしれない。

 最も、やはり兄に女性がひっついているところを見ると嫌な気分にもなってしまうが……。
 そんなある日の夕方、高町家の庭の片隅にある道場で美由希は正座をしてイメージトレーニングを行っていた。

 相手は恭也。どんな攻撃をしてくるか、どんな動きをしてくるかは限界の見えない恭也だとしても十年近くも共に剣の道に励んだ者同士。
 ある程度は美由希とて理解しているつもりだ。それに水無月殺音との戦い。あの時の恭也こそ、きっと全力だったに違いない。
 眼を瞑る。漆黒の空間の中で、もやもやとした霧が徐々に人の形を形成していき、ようやくイメージが固まった。

 一呼吸。美由希の思考を押しつぶすように激しく斬りあう二人。
 己の出来る全力を、全てをイメージの中の恭也にぶつける。恭也はその全力すらも軽々と受け流す。
 初めは互角、その形勢も一瞬で崩れた。

「……ハァ……ハァ……ゲホッ!!」

 殺された。何の迷いも無くイメージの中で、美由希は二分と持たず、恭也に斬り殺された。
 速さだけなら自分の方が上かもしれない。それでも、上手い。恭也はまるで数十年も先に剣術を学んでいたかのような老練さを持つ。
 それこそが恭也の強さ。派手な技でもなく、力任せな剣でもなく、スピードで相手を翻弄するのでもなくそんなものには頼らない。

 己の努力で積み上げてきた基本。地味ともいえる、その基礎が想像を絶するほどの高みにあるのだ。
 達人ほど基本を大切にするという。まさに恭也はそれを体言していた。
 美由希は頬を流れる汗をふくと立ち上がる。考えることは大切だ。それでも考えてるだけでは強くなれない。

 まずは軽く走ってこようと道場を出ようとしてようやく道場の入り口に恭也が立っているのに気づいた。
 イメージトレーニングに集中するあまり恭也の気配に気づいていなかったことに美由希は多少ショックを受ける。

「俺が敵だったら美由希、お前は死んでいたな」
「ぅ……」 

 事実故に反論できない。普段ならしたかもしれないが永全不動八門との戦いがいつあるか分からない。いくら家にいるからとはいえ油断していたことに違いは無い。
 恭也は道場に入ると壁にかけてある木刀の所まで歩いていき一本手に取る。
 その木刀を軽く振る。空気を裂く音が聞こえた。

「これはつまらない話だ。聞き流しても良い」
「……?」

 木刀を見たまま、何か過去を思い出すように恭也は独白し始めた。

「俺はこれまでの人生の中で【天才】という言葉が相応しい人間に四人あったことがある」
「四人?」
「一人はレンだ。正直な話を言うとレンの武才を恐ろしいと俺は思ったことがある」
「……うん」 

 それには美由希も同感であった。

 鳳蓮飛。
 その武才は文字通り桁が違う。心臓を患っていて昨年手術をするまで、長時間の運動もできない身体でありながら武器を使わない無手の戦いならば美由希とて勝てるかどうか。
 一日数十分の運動が限界の身体だったのだ。努力をしないのではなく、できなかった身。そんな身体でありながらも、レンの武才は恭也をして恐れさせた。そして最も恭也に己の凡才さを身体の芯まで叩き込んだ少女。

「二人めが【御神相馬】。お前の父であり御神正統伝承者であった御神静馬さんの兄だ。つまりお前から見れば叔父ということか」
「……え?叔父?」
「ああ。御神宗家の長男でありながら強すぎたが故に御神を追われた人だ」

「強すぎたが故に?どういうこと?」
「才に驕り、他人を見下し、己の望むがままに行動していたんだ、あの人は。己以外を人間扱いしていなかった所もあってな。そのために御神から追放されてしまった」
「そんな人がいたんだ……」
「幼いながらにも記憶にある。あまり悪口は言いたくないが碌な人ではなかったな。とーさんのほうがまだマシだった」
「あ、あはは」

 恭也の冗談に苦笑いをする美由希。一瞬気が抜ける。

「……だが、強かった」

 昔を思い出すように遠い眼を一瞬した恭也。相馬という人のことを思い出していたのだろう。
 そして、三人目だと恭也が呟いた。
 しかし、美由希はなんとなく次にでてくる人物の名前を予想できていた。
 きっとその人物がでてくるだろう、と。

「御神と双璧をなした天守家。その天守の次期当主。天守翼だ」

 ―――やっぱり。

「アレの才能は別格だ。産まれた時から既に他とは異なる時間領域の住人。アレの行動は全てが才能によって成される。俺とは対極にいる人物ともいえる」
「……」

 息を呑む。あの兄にここまで言わせる人間と闘わなければいけないのだ。 
 天守翼に勝つ。勝たなければいけない。それは分かっている。その意思もある。
 それでも今の美由希では翼に勝てる自信がなかった。

 戦いにマグレはない。互いの純粋な実力によって確かに勝敗が分かれるのだ。
 翼は強い。あの周囲を威圧するかのように発せられる闘気。
 悔しいことに確実に、己よりも……強い。
 手に持つ木刀をギュっと握り締める。
  
「四人目が……」

 恭也がそこで息を吐く。強張っている美由希を優しい眼で見る。
 その穏やかな視線に美由希の緊張が解かれていく。

「お前だ……美由希」
「ぇ……?」

 あまりに意外な四人目に美由希が呆けた声を出す。というより心底驚いた。
 馬鹿弟子とよばれているだけに師にそう思われていたとは露にも思っていなかった。

「お前は天才だ。才能と努力。その二つを怠らないお前こそが真の意味で天才に相応しい」

 くしゃりと時々されるように頭を撫でられる。不意打ちだったゆえにぞくっとした快感が一瞬背筋を駆け抜ける。

「驕るな。自惚れるな。慢心をもつな。今のままのお前でいろ。そして俺に見せてくれ、真の最強というものを」

 ―――ああ。

 そうなのか。そうなんだ。
 自分は、高町美由希という存在は高町恭也にここまで認められていたのか。
 なんて幸せなんだろうか。なんて嬉しいんだろうか。

 なんとも言えない幸福感が美由希の全身を包む。一生その暖かい感覚に身をゆだねたい気持ちになる。
 ふとその感触が、気配が消える。いつのまにか離れたのか恭也が一足刀の間合いをとって木刀を構えている。
 首を捻るように美由希が無言で問いかけるが恭也は先程までの優しい表情を消していた。

「お前に御神の―――終局の一手を見せてやる。今からお前に一撃だけ打つ。防御してもいい。避けても良い、できるのならな」
「……はい!!」

 先程までの余韻を消す。今までにないほど美由希の気力は充実していた。
 意識が研ぎ澄まされる。神経全てが敏感になったかのように周囲を感じ取っている。
 今ならばきっとどんな攻撃にでも対応できる。そう美由希は確信していた。

 事実、今の美由希はこれまでの生涯でもっとも集中していた筈だった。
 対する恭也が動いた。ゆっくりと足を踏み出す。何の力も込めていないかのような横薙ぎの一撃。

 普段の師の一撃とは思えないほどの緩やかな斬撃。美由希は確かにその一撃を認識していた。少し手に持っている木刀を持ち上げれば軽がると受け止めれることは明白。
 だが、手が動かない。足が動かない。身体が強張ったかのように身動き一つ取ることが出来ない。ただ、視線だけが恭也の木刀を追う。

 空間を裂くようにゆったりと恭也の木刀が美由希の首元で止まった。
 反応できなかった。認識していたはずなのに。

 ―――何故?どうして?

 疑問が駆け巡る。今の一撃は一体何なのか。
 恭也は木刀を美由希の首元からどかすと元にあった位置に立てかける。その時になってようやく美由希の全身から冷や汗が流れ、ガクンと腰を道場の床についた。
 全身を襲う気怠るい感覚が、全力で数分の間走りこんだような虚脱感が美由希を蝕む。

「……い、今のは……?」

 掠れる声で恭也に問いかける。
 斬?貫?違う。そんなレベルのモノではない。
 恭也が言ったとおり防御や回避などできる類のモノではない。

 混乱している思考で考えて考えて考え抜いて、ようやく先程の現象が何なのか分かった。
 恐らく先程の横薙ぎはあまりに高速すぎたのだ。速過ぎたが故に、美由希は無意識のうちに神速を発動させその斬線を追ったのだ。
 己を普通とは異なる時間外領域に置くことによってようやくその一撃を認識することが出来た。
 そして、信じられないことに神速の領域においてさえ認識することしかできなかったのだ。
 恭也の斬撃は神速の領域でさえ指一本動かすことが出来ずに美由希へと迫ったという事実。

「……ま、まさか今のは……」

 今の技を、美由希は思い当たった。実の母である御神美沙斗から聞いたことがある。
 曰く、如何なる力も無効化し、如何なる速さも超越し、如何なる技も無力化する。
 御神を極めたものだけが到達できる御神流斬式奥義之極―――閃

 美沙斗ですら使いこなせた御神の剣士を知らぬと言わしめた境地の技。
 それを師は、兄は使いこなすことが出来ているというのか!?
 驚愕以上に尊敬を覚える美由希。そして、それをどこか当然だと考えている自分も思考の隅にいる。
 息を乱し、下から見上げている美由希に苦笑すると道場の出口に向かう。

「お前の考えていることはわかるが―――少しばかり違うな」
「!?」

 ビクリと恭也の囁き声に美由希が反応する。何が外れているのかといった表情がありありとでている美由希に再び苦笑。

「今のはせいぜい【もどき】だ。九割は完成していると自負はできよう。だが、残りの一割だけは俺では成し遂げることができない理由がある。残念なことだがな……」

 今ので、まだ完成していないという恭也の言葉。それを信じられるだろうか。
 いや、師が言っているのだからそれは間違いないのだろう。

「お前ならば残りの一割を見つけれるはず。悩んで苦しんで戦い抜いて、お前が【閃】を完成させるんだ」

 













 夕日が沈む。
 美由希はそれを薄眼でみながら先程の恭也の言葉を思い出していた。
 九割は完成している、と。残りの一割は自分で見つけてみろ、と。

 だが、美由希は全くと言っていいほど先程の斬撃を理解できていない。
 恭也とは逆に九割が理解できていない状況。いや、果たして一割とて理解できているのか疑問にすら思う。
 それでもきっと師はこれを自分に完成させて欲しいのだろう、と美由希はふと感じた。

 それほど深く恭也の言葉は美由希の奥底に潜り込んだ。
 夕日ももはや完全に沈み、辺りは暗闇に包まれている。そんな暗闇を裂くかのように人工的な明かりが周囲を満たしている。

 美由希が足を伸ばした海鳴商店街にはまだまだ多くの人々が行きかっている。
 時刻は二十時を回った頃。
 商店街の一角にある刀剣専門店井関。愛刀の研ぎを頼んでいたのだが、ようやくできあがったという連絡をうけて急いで取りに行っているところなのだ。
 本来ならすでに閉まっている時間だが、美由希はお得意様ということもあり多少の融通は聞いてくれるところがある。

 何時闇に紛れて襲撃があるかわからないので一応完全装備できてはいるが、こんな状況で警察に職務質問などされたら見事に不審者として警察署にご招待されるのは間違いない、と苦笑する。
 商店街を行きかう人波を潜り抜け、ようやく井関についた美由希。
 井関は一見普通のサラリーマンが建てた二階建ての家屋。何の変哲もない住居。
 そう見えるが、実際はその家屋の横に時代劇でみるかのような立派な鍛冶場が備えられている。
 美由希は遠慮なく鍛冶場のほうへと向かい戸を幾度か叩いて横に引く。

「井関さーん。高町ですー!夜遅くすみませーん」

 戸が開き、美由希の視界に広がっているのはガラスケースに入った様々な刃物。天井から差す明かりが怪しく刀身を輝かせている。
 何十、或いは百を越えるような数の刀や包丁、そういったモノが整然と並んでいた。
 日本刀。西洋の剣のような両刃造。果てはテレビでしかみたことがないような槍まで置いてある。
 そんな鍛冶場の奥から初老の男性が布に包まれた細長い包みを両手で抱えて出てきた。

「おお、美由希ちゃん。悪いね、こんな遅くに」
「いえいえ。こちらこそ遅くに申し訳ないです」

 井関から布包みを受け取る。ズシリとした重さが両手を通じて伝わってくる。
 己の相棒がこの手に戻ってきたことに安堵のため息を漏らす。

「有難うございます。またお願いしますね」
「ああ。気をつけて帰りなさい」

 軽く一礼。井関は顎から生えている長いヒゲを触りながら嬉しそうに眼を細める。
 そんな時だった。何と言う運命の悪戯。この時ばかりは何かの歯車が狂ったのだ。

「おーす!大将!これを一つ頼むわ」

 戸を勢いよく開けて入ってきたのは己の身長ほどもある細長い白包みを背負った葛葉。
 あまりにも突然の邂逅に二人の思考に空白が生まれた。
 まさかこんな所で会うとは美由希も葛葉も全く考えていなかったのだから仕方ない。と、いうか想像できるほうが可笑しい。
 先に冷静さを取り戻したのは美由希であった。一瞬で相手のどんな動きでも対応できるように構える。
 そんな美由希よりも随分おくれて……と言っても二、三秒の差だが、葛葉も頭を右手でガシガシと掻き毟る。

「あー。つーか、お前もここ使ってたのかよ、御神」
「……」
「そんな用心すんなよ。知らねー仲じゃないんだしよ」

 緊迫した二人の様子に訝しげに見ている井関を視線で差し、肩をすくめる。
 そして、美由希に聞こえるギリギリの声が美由希に届いた。

「こんな所でやるつもりはねーよ……心配すんな」

 当然信用できるはずもない。それでもこれ以上井関に心配をかけるわけにもいかず、体勢だけは自然体に戻す。勿論、気だけは全く抜こうとしない。

「二人は知り合いだったのかね?」
「いやっはっは。まぁー世の中意外と狭いんだぜ、大将?」
「ほほぅ。ああ、葛葉君も何か用だったのかい?」

「いや、急ぎでもないしまた明日にでもくるわ」
「そうかね、すまないね」
「いいってことよ。また明日頼むわ」

 そうヒラヒラと片手を振って鍛冶場から出て行く。井関には気づかれないように美由希について来いと顎をしゃくって合図を送る。
 美由希も無言で葛葉に続く。二人が連れ立って井関を離れる。
 二人の間に広がる微妙な距離。葛葉は全く気にしていないようだが美由希は最大限に葛葉に注意を払っている。

 数日前の葛葉のように何時攻勢にでてくるか分かったものじゃない。
 二人の間を沈黙が包む。それに多少苛立ったように葛葉が傍にあった電柱を蹴る。
 ガンっという音をたてて、その音に驚いたように隣を通っていた会社帰りのサラリーマンらしき人が葛葉を見るが、一睨みされるとそそくさと足早に逃げ去っていく。

 少し癖のある短髪。研ぎ澄まされた猛獣のような瞳に、眼鏡をかけた少年。しかし、よくみると意外と顔立ち自体は整っているようだ。
 すらっとした背筋。道路を歩く足運び。服の上からでも分かる鍛え上げられた肉体。全体的にシャープな印象を美由希はもった。

「今日は帰って【何でも刀剣団】を見る予定だったのにな。なんでお前はあそこにいるのかね」
「……私だって見る予定だったのに」

 互いに恨みがましく見る。しかし、内心は同じテレビを楽しみにしていたようでちょっと互いに見直していた。

「じゃあ、今日はこのままさよならってことで」

 美由希はそう言うと高町家の方向へ足を向ける。対する葛葉も、ああと適当に呟いて美由希とは逆へ歩いていこうとするが、数歩歩いて足を止める。

「それで別れれたら楽なんだがなぁ。まぁ、出逢っちまったんだ。悪いな、【御神】。愚痴は閻魔様にでも言ってくれや」

 葛葉が纏う空気が変わった。
 轟々と燃え盛る灼熱のような真紅の波が葛葉を中心に荒れ狂ったような気配。紅く燃えあがる空気が美由希の足を止めた。止めざるを得なかった。

「俺とお前の戦いはこんなところでやれるモノじゃないだろう?風芽丘学園……あそこは確か今日は鬼頭が宿直だったはずだからな。あそこでやろうぜ」
「……わかりました」

 美由希としても下手に同時に闘うより確実に一対一で相手の数を減らしておきたいのも事実だ。この状況は突然ではあるが美由希が望んだ状況でもある。
 美由希は短く返事をするがそれを聞く前にすでに葛葉は風芽丘学園の方向へ向かっていた。
 その無防備な背中に一瞬、美由希は戸惑った。まるで美由希が奇襲をしかけることなど微塵も思っていないかのように。
 それがどうしても美由希は気になった。

「……葛葉さんは私が後ろから攻撃するとは思わないの?」      
「お前はそういうタイプじゃねーからな。そんくらいは俺でも分かる」

 美由希の質問を鼻で笑って答える。葛葉の答えに美由希は葛葉の評価を改めた。
 昼休みの屋上の様子から戦いを好むただの戦闘狂かとおもっていたが存外そうでもなさそうなのだ。

 それでもこれから命のやり取りを行うであろう相手と気軽に話すことなど出来るはずもない。
 結局のところ二人の間は沈黙が流れ続ける。街灯が周囲を僅かに照らす暗闇の中を二人は黙々と歩いていく。

 歩くこと十数分。最も、美由希にとっては十数分が数十分にも一時間にも感じ取れるほど長い時間であったが。
 ようやく風芽丘学園に着いたが当然、校門は閉まっているが葛葉は細長い布包みを背中に担いだまま膝を折り、跳躍。
 軽々と校門の上に着地すると今度は校庭に飛び降りる。美由希も葛葉に続くように校庭に舞い降りた。

 葛葉が美由希と十分な距離を取って向き直る。両者の距離はおよそ五メートル。二人程の腕前ならば一足で駆け抜けられる距離。
 葛葉は布包みを取り外すと中から取り出した十文字槍を取り出す。両手で確かめるように持つと軽く膝を曲げ左半身に構えを取る。
 美由希も小太刀は抜かずいつでも動けるような体勢を取る。背中側の腰で、十字に交差するように小太刀を差している。

 音が……なくなる。
 風のざわめきも、鳥の囀りも、虫の音も。

「……五分ってところか」

 そんな静寂を破るように葛葉が宣言した。

「……何がですか?」
「お前を倒すのに必要な時間だ」
「……」

 すぅと美由希の視線が鋭くなる。その慢心ともいえる葛葉の台詞に美由希は何の感情も持たない。持つ必要がない。
 言いたい奴には言わしておけばいい。相手の力量を読み取ることが出来ないような慢心と驕りを抱く相手など、結果はすぐに出るのだから。
 美由希が油断なくかけていた眼鏡を取り懐に仕舞う。軽く目を瞑り、そして開け放った。

 闘気というのにも色があるという。
 例えば恭也ならば深き闇……漆黒のイメージ。翼も恭也と似たようなものだ。

 葛葉は先程のように紅。灼熱のような炎。
 そして美由希は―――蒼。

 カチカチと妙な音をたてて葛葉は己の周囲の空気が凍っていくようなイメージを受けた。
 凄まじいまでの冷気。まるで真冬の如く。
 まるで葛葉の燃え盛るかのような闘気を氷結させるかのような勢いで膨れ上がっていく美由希の鬼気。

「お前は―――お前が、【御神】か!?」

 驚愕したような、喜びのような、複雑な怒声が葛葉からあがった。     
 今まで監視してきた【御神】など話にもならない実力を秘めた剣士がそこに顕現する。 

「驕っている貴方じゃ……私に勝てない」

 美由希が疾走した。
 その動きは葛葉の想像を遥かに超えた、踏み込みの速度。喉元まで出掛かった驚きを噛み砕きながら葛葉が高速の突きを放つ。
 だが、貫いたのは美由希の残像。貫いたのが残像だと気づいた瞬間にはすでに美由希は葛葉の懐に踏み入っていた。

 歪む葛葉の表情。ここまで簡単に己の槍を掻い潜って接近された経験など葛葉には存在しなかった。
 甘く見すぎていたのだ、葛葉は。高町美由希という剣士を。【御神美由希】の存在を。
 そんな葛葉を置き去りに美由希の小太刀が静かに、流麗に、躊躇いもなく、軽やかな音を残して抜刀された。     

 
 

 


 













 そんな二人を見下ろすように夜空に浮かぶ月。闇夜を照らす月光。
 風芽丘学園の屋上から眼下の校庭で今にも戦いを始めようとしていた葛葉と美由希を見下ろしていた人間達がいた。

 翼と小金衣、風的に秋草の四人。
 面白そうに二人が纏う闘気を見比べている翼。

「ところで、天守君。何故、葛葉君を御神美由希と戦えるように誘導したんだい?」

 屋上を囲むフェンスに手をつきながら秋草が翼に問いかける。
 その秋草に翼は目線もやらずに口元を厭らしく歪める。

「決まっているでしょう?丁度良いかませ犬になるじゃない?」

 クスリと冷笑を浮かべる翼を秋草は堪らなく不快に感じた。

 ―――最初から天守は葛葉を捨石にするつもりだったのか。

 そう三人が考えた。なんて非人間的な考えをするのか。同じ永全不動八門同士だというのに。ここまで他人を見下すのかと。

「【御神】には強くなってもらわないといけないのよ。今の段階でいきなり私と戦ったら決着は一瞬でしょう?ゲームでもきちんと小ボス中ボスって順番になってるじゃない」   
「っ……」

 小金衣が唇を噛み締めた。ゲームだと、【御神】との戦いがゲームだとはっきり言われたのだ。例え天守の言葉とはいえ、あまり好きではない葛葉とはいえ我慢できるものでもない。
 そんな小金衣が翼に詰め寄ろうとした時、校庭で対峙していた二人が動いた。

 ここまで離れていても感じ取れる、美由希の鬼気。とても先程までと同一人物とは思えない。
 凶悪なまでに膨れ上がった、その気配に小金衣は、秋草は、風的は息を呑んだ。
 ブリザードのように周囲の空気に混じる水分すらも凍らせるのではないかと錯覚するような冷気を漂わせる。

 その鬼気に満足そうに笑みを浮かべたのは翼、唯一人。
 そして思い出したように独り言を呟いた。三人に聞こえるように。

「ああ。言い忘れてたわ。かませ犬はかませ犬でも―――相手を喰ってしまう場合もあるのよ?」

 










[30788] 旧作 御神と不破 二章 美由希編 後編
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/03/11 00:55





 ドンッという激しい音と衝撃が美由希を襲った。
 その予想外の衝撃に美由希は驚きを隠せなかったが、吹き飛ばされながらも空中で回転し地面に降り立った。
 ダメージはない。どこかを痛めた様子もない。

 それに内心安堵しながら美由希は視線の先の葛葉を睨んだ。
 美由希の小太刀が抜刀された瞬間、葛葉は十文字槍の根元の部分で小太刀を受け止め、そのまま力任せに美由希を弾き飛ばしたのだ。
 言うだけなら簡単だ。だが、生死を分けたあの瞬間。全く予想外の美由希の斬撃が迫りつつあった状況で、それだけのことができるとは……。
 そんな美由希を葛葉は手首をぶらぶらと揺らしながら見据えた。

「あのよ、【御神】。お前さっき言ったよな?」
「……」

 燃える。燃え上がる。灼熱の如く。マグマの如く。爆炎の如く。
 美由希の凍えるような鬼気をとかすように、葛葉の殺気が濃密に周囲を満たしていく。

「俺が驕っているって言ったよな、お前?でもよ……」

 クルリと十文字槍を回転。穂先を美由希に向けて獰猛な笑みを浮かべた葛葉が吼える。

「そう思ってるお前自身も驕ってるってことじゃねーのかよ!!なぁ、【御神】!!」

 吼える葛葉の両腕が霞む。流れるような銀光が闇夜を貫く。
 葛葉の持つ十文字槍が一瞬の停滞もなく繰り出される。傍目には葛葉の両手がぶれているようにしか見えない高速の突き。
 普通の槍とは違い刃が十字になっているその十文字槍を紙一重で避けることは出来ない。対する美由希はどうしても回避運動を大きく取る事になってしまう。

 槍と刀。どうしても刀との相性が悪い。ましてや美由希の武器は小太刀。通常の日本刀よりさらに射程が短いのだ。
 葛葉はその射程の差を利用し、美由希の有効攻撃圏外から幾度も攻撃を仕掛けている。
 ただの槍使いであるならばその突きを掻い潜ることなど美由希には容易いことだ。懐に踏み込んでしまえば小太刀の方が勝るのは自明の理。

 だが、踏み込めない。
 本気になった葛葉の突きのスピードは美由希をしてかわし続けることが精一杯であった。
 突き出されるスピードも速い。それ以上に引き手のスピードが驚異的だ。
 十文字槍を葛葉が引くと同時に踏み込もうとタイミングを計っている美由希だが、踏み込もうとする瞬間にそんな美由希の鼻先に切っ先が迫ってくるのだ。

 横に横にとかわし続ける美由希を追う様に葛葉の連続の突きが繰り出される。
 近接戦に持ち込もうとする美由希を葛葉は僅かたりとも近づけない。
 幾度もそんな攻防が繰り返される中で、葛葉の手首が返される。避けた美由希を追い、突きではなく払いに変化させる。
 風を切る鈍い音をたてながら水平に十文字槍が払われる。その急激な変化に驚きながらも美由希が身体を沈める。
 一拍後に十文字槍が美由希の頭上を薙ぎ払われていった。

「ァァアアアアッ!!!!!」

 考える間もなく、思考を遥かに凌ぐ速度で美由希は絶叫を放つ。空気が楽器のように振動。美由希の纏う鬼気も相まって葛葉を竦みあがらせるような何かを秘めていた。
 もはや美由希の咆哮は物理的な破壊力を持つ衝撃となって葛葉を打ち抜いた。
 ほんの僅か。隙ともいえない一瞬の硬直。それを確認する間もなく美由希は葛葉へと踏み込む。
 たった二歩。それだけで美由希は葛葉の鼻先へと着地、閃光のように小太刀が疾る。

 右の小太刀が銀光を残し、右斜め上へと駆け抜けた。狙いは葛葉の両手。槍を持てなくするように、切り上げられた。
 ここまで接近された葛葉は硬直から回復。瞬時に判断し、美由希の予想外の行動を取る。
 十文字槍から両手を放した。両手をひくと同時に小太刀が先程まで両腕があった空間を音をたてて切り裂いた。
 瞬時に十文字槍に手を戻すと跳ね上げるように柄を美由希に叩き上げる。
 最小限の動きで美由希は後方へかわすと右手を振るう。空気を裂く音が葛葉の耳に聞こえた。

「ッア!!」

 短い悲鳴が漏れる。背筋を襲った悪寒。今度は葛葉が横っ飛び。葛葉の顔があった空間を貫いていった飛針。
 逃がすまいと、そんな葛葉を美由希が追う。今度はそんな美由希が悪寒に襲われた。

 いつの間にか柄を短く持っていた葛葉が至近距離からの突きを放つ。紙一重で跳躍。
 上空から舞い降りるように唐竹一閃。葛葉が十文字槍の柄の部分で受け止める。
 小太刀と槍がぶつかり合い、弾きあう。闇夜を火花が散らす。
 二人の視線が交錯。二人の闘気を表すかのように灼熱の葛葉。絶対零度の美由希。

「っ……ははは!!すげぇな!!【御神】!!いや、高町美由希!!」

 瞬間、葛葉の筋力が膨張する。小太刀を伝わってくる衝撃。弾き飛ばされたように美由希が空を駆け抜ける。音もなく美由希が地面に着地。
 休む暇もなく今度は葛葉が飛び出した。十文字槍が葛葉を中心に銀光が同心円を描いて弾ける。
 美由希が小太刀を盾に受け止めるが、弧を描いて迫ってきた一撃は遠心力により今まで以上に重い。受け止めれるような攻撃ではない。

 受け止めた力をそのままに地面を蹴り逆方向へと飛ぶ。衝撃を完全に受け逃した美由希が地面に幾つもの跡を残して立ち止まる。
 再び五メートルほどの距離を取って向かい合う二人。激しい動きをしたにもかかわらず二人の呼吸は全く乱れていない。

「とんでもない女だな、お前。ここまで俺とやり合える奴なんざ随分久しいぜ」
「……貴方こそ」

 嬉しそうに語る葛葉。対する美由希も言葉は少ないが内心では葛葉を認めていた。
 力を隠していたのは自分だけではなかった。葛葉は自分が考えていたより遥かに強敵だ。槍と小太刀という武器の間合いの差はあるだろう。
 それでも己の間合いに入ることが容易くできない。例え小太刀の間合いに入ってもそれを防ぎきる技量。

 葛葉の台詞は驕っているように聞こえるだろう。だが、今なら分かる。葛葉は決して驕ってなどいない。自分自身の力量を、相手の力量をしっかりと認めている。
 強いのだ、この目の前の槍使いは。本気になった美由希と対等に渡り合えるほどに。
 そして、美由希は先程感付いてしまった。この校庭から離れた場所、恐らく風芽丘学園の屋上。

 そこからこちらを窺っている気配に。美由希と葛葉が戦い始めてから気配を隠す様子すらなくした、濃密でどす黒い、黒煙のように漂う闘気。
 楽しんでいるように、嬉しそうに、面白そうに二人の戦いを見守っている。
 この気配は間違いようがない、天守翼。

 葛葉との戦いの後、最悪翼と戦わなければいけないという想定もしていなくてはならない。
 あまり葛葉との戦いを長引かせるわけにもいかない。ましてや何かしらの怪我を負うなどもってのほかだ。ベストコンディションの時でさえ、勝てる可能性は薄いのだ。
 神速を使うべきか、美由希の心が一瞬迷う。
 神速の領域に入れば葛葉を打ち倒すことができる筈。しかし、美由希の奥の手である神速を翼に見られてしまう。それに神速が使えると翼に知られてしまう。切り札を翼に見せてしまうと言うリスク。

「神速はつかわねーほうがいいぜ」

 ドクンと美由希の心臓が波打った。まるで心を読まれたかのようなタイミングで葛葉が口を挟んできた。
 戦いの最中に消していた表情が一瞬驚きで染まる。

「……なんのこと?」

「別に心を読んだわけじゃないけどな。その顔色を見るとビンゴか」    
 
 お前は嘘つくの苦手そうだな、と苦笑する葛葉。
 くっくっくと本当に可笑しそうに葛葉はしばらく笑い続ける。対照的に美由希がやや憮然とした表情で葛葉を睨む。
 そんな様子の美由希に満足したように葛葉はようやく笑うのを止める。

「御神を【破神】たらしめている神速。噂程度には聞いてるがな。限界以上の能力を引き出すんだ。身体にかかる負担が半端ねえんだろ?」
「……」

「お前には申し訳ないんだが、どうやらうちの大将が見物してるみたいでよ」

 沈黙の美由希。葛葉は親指で己の背後の校舎の屋上を差す。美由希だけでなく葛葉も翼の存在に気づいていた。
 もしかしたら葛葉が翼達がいる場所に誘ったのでは、と疑っていた美由希だが、きっと葛葉は風芽丘学園に翼がいるのを知らなかったのだろう。

「あんまり大将に奥の手は見せない方がいいぜ。それに同じ永全不動八門同士、【神速】に対抗する技が存在してるとは思わないのか?」
「!!」

 全く考えていなかったことを指摘され美由希の全身を稲妻が走った。
 そうだ。その通りだ。葛葉の言うとおりなのだ。
 確かに【神速】は御神の奥の手だ。人間を超えた動きを可能とする奥義の歩法。

 それでも、御神流だけしか使えないと決まっているわけではない。広い世の中、似たようなモノがあってもおかしくはない。
 ましてや相手は御神と同じく永全不動八門なのだ。神速と同様の技がないほうが疑わしい。
 つまり、永全不動八門同士の戦いでは神速といえど決め手にはならない。

 美由希が冷水を浴びせられたかのようにぶるりと震えた。己の考えが、奥の手がいきなり失われたのだ。
 葛葉に気づかれないように奥歯を噛み締める。
 恭也に言われていたはずだ。慢心をするな、と。自分自身していたつもりはない。だが、どこかで甘く見ていたのだ敵を。永全不動八門を。
 恭也に天才だと誉められ、それに驕っていた自分が確かに存在した。

 そんな美由希の内心の変化を敏感に感じ取った葛葉が美由希に知られずに安堵のため息をもらした。
 葛葉は神速に対抗する技があるなどと匂わせたが実際には葛葉にはそんなものありはしなかったのだ。
 確かに己の流派にはそういった技も存在する。だが、それはまさに奥義中の奥義。秘伝とさえされる境地。

 当代を含む片手で足りる人間しか自在に扱うことが出来ないレベルの技だ。少なくとも葛葉が知る限り、葛葉家においてさえ僅か二人。たったそれだけの人間だけだ。
 葛葉もかつて一度だけ本当に偶然その世界に踏み入ることが出来た。あれはまさに別世界。拳銃の弾丸すら見切ることができるのではないかと錯覚すら覚えた領域。
 悔しいことだが未だ、葛葉自身で自在にその領域に踏み入ることなどできはしない。もし美由希が神速の世界へ自在に踏み入ることが出来たのなら、己に勝ち目はない。
 その牽制のために美由希にかけた言葉だったが相手の様子からみるとどうやら本当に神速の領域に入ることが出来るようで実は冷や汗をかいたのは美由希ではなく葛葉の方であったのだ。

 葛葉は本来ならこのような手は使いたくなかった。余計なことを考えずに己の全力を御神にぶつけたかった。
 それでも葛葉は先程の攻防で気づいてしまったのだ。己では美由希には及ばないと言うことに。
 槍の間合いがあるからこそなんとか戦いは拮抗しているかのようにみえる。懐に入られても本当にぎりぎりの所で凌ぐことは出来ていた。完全に運があったのもあるだろう。
 それでも確かに、格が違うのだ。下手をしたら天守翼に匹敵しかねない可能性を秘めた剣士。

 悔しいが認めよう。高町美由希の恐るべき技量を。
 重心を落とし、身体を捻りながら十文字槍を構える葛葉。矢を引き絞った弓のように限界まで引き絞る。

「次の一撃を以って……お前を倒すぜ、高町美由希」

 その台詞には覚悟が込められていた。次の一撃に全力を込めるという。
 避けれるものなら避けてみろ。防げれるものなら防いでみろ、と。重い覚悟が。
 その覚悟は確かに美由希に伝わった。美由希も右の小太刀を大きく後ろにひき、重心を落とす。

 二振りの小太刀が鈍い銀の光を放ちながら葛葉を狙う。
 二人ともギリギリまで身体を捻り、少しの切欠があれば爆発しそうな状況だ。
 互いの身体が震える。勿論、恐怖ではない。強敵を前にして得られた高揚感だ。

 全ての音が消失した中、聞こえるのは両者とも互いの呼吸音のみ。
 血がドクドクと体内を巡り、己自身の血流が全身を圧迫し始める。

 その時、二人の戦いを見守っていた翼の気配が一気に膨れ上がった。風芽丘学園全域を包むかのように、夜の闇など話にもならない真の漆黒が周囲を侵食していく。
 二人の頭の中にその漆黒が囁いた。

 ―――さぁ、始めなさい。貴方達の輝きを私に見せてみなさい。

 そう聞こえた気がした。それは幻聴だったのだろう。それでも葛葉の、美由希の張り詰めた空気を破るには十分なものであった。
 葛葉の両手が前方へと放たれた。十文字槍が圧倒的気配を放ちながら、音を置き去りに美由希に迫る。
 その突きは完璧。己のできる真の全力。確実に相手を穿つことができるその一突に軽い陶酔感を覚えた。

 凍りつく視線の先、美由希が動き出す。トンと地面を蹴る音がやけに大きく響く。
 爆発的な勢いで突進した美由希が葛葉の十文字槍を飛び越える。十文字槍に足を乗せたはずの美由希の重さがまるで天から舞い降りた羽のように重さを感じさせない。 
 葛葉が両手に重さを感じるより速く、美由希が十文字槍を蹴る。スローモーションのように迫る美由希。

 風を斬る音が聞こえ、美由希の小太刀が確かに葛葉の肩を貫いた。
 肉を穿つ感触。その嫌な感触に眉をしかめる。周囲の闇を血飛沫が舞う。
 衝撃。葛葉の身体が地面を勢いよく転がっていく。音をたててそのままの勢いで校舎の壁に激突。粉塵が巻き起こる。   
 射抜を放った体勢のまま残身を保つ美由希。一息。粉塵が舞う中を何かがゆっくりと身を起こす。

「く……へへ……強ええわ、お前」

 右肩から血を流しながら、片手で十文字槍を支えにして葛葉は立ち上がった。そんな葛葉の精神力に美由希が驚く。
 感触からして貫いただけではない。確実に右肩は砕けた。少なくとも起き上がれるような怪我ではない。
 そんな状態でありながら葛葉の眼は死んでいない。ぎらぎらと血走った眼。

 ゆっくりとだが葛葉は歩く。一歩ずつ。美由希に向かって。
 油断なく美由希が小太刀を向けるが、葛葉は途中で力尽きたように地面に腰をおろした。

「……参った。お前の勝ちだ……」

 息を乱し、右肩を血に濡らしながらも葛葉は笑って見せた。それは完全に美由希を認めた笑顔のようであった。
 荒れ狂う灼熱のような闘気ももはや沈静している。それを確認した美由希が両の小太刀を鞘に納めた。



























「葛葉が……負けた!?」

 愕然としたような呟きが小金衣から漏れた。
 フェンスにしがみつくように両手で掴みながら校庭の美由希と葛葉の決着を見た小金衣の頭をハンマーで殴られたかのような衝撃が走る。
 気に喰わない相手であった。この半年の間、一触即発の状況になったことなど数知れない。

 以前に葛葉に向かって如月に勝てない。御神にも勝てないと言った。だが、こうも容易く葛葉が敗れ去るなど予想もしていなかった。
 まして、葛葉の隠していた力量。それに驚きを隠せなかったのも事実。確かに、葛葉は強い。校庭のような広い空間で戦えば小金衣とて良くて引き分け。
 それほどの実力をもつ葛葉を傷一つ負うことなく叩き伏せて見せた美由希の桁外れの技量。
 そんな困惑している小金衣の耳に風に乗って高らかに笑う葛葉の声が届く。

 ―――あの馬鹿、こっちの気持ちも知らずに……。

 頭の痛いことであった。重傷を負わされていながら戦いの後でああも嬉しそうに笑うことができる葛葉に多少いらつく。
 こめかみを指で押さえながらため息をついて、気づいた。
 視線の端。眼下を見下ろしている翼。背中を向けているため表情が読めない。

 だが、翼の背中が震えていた。激しくではない。小刻みにふるふると。周囲を満たしていた漆黒の闘気もいつのまにか治まっていた。
 疑問に思いながら小金衣は翼に問いかけようと手を伸ばした。
 その手が途中で止まった。手の半ばからまるで数百の黒い羽虫にたかられたかのような幻覚を視た。

「ヒッ!?」

 思わず口元から漏れた短い悲鳴。反射的に手を引く。もう一度引いた手を見てみても特に異常などない。
 小金衣はわかった。己の本能が感じ取ることを拒否しているのだ。
 翼が放つあまりに禍々しい黒気。世界の陰陽の均衡を乱すかのようなどす黒い漆黒。
 脂汗が流れるのがはっきりとわかる。

「……クス……クスクスクス……」

 ―――ヤバイ。

 そう小金衣と秋草と風的の三人は本能で感じた。
 天守翼が、自分達とは根本的に違っている化け物が、笑っている。哂っている。嘲笑っている。
 可笑しそうに。鳥肌が立つ。周囲の空気が物量を持ったかのように重く身体に圧し掛かっている。

「ごめんなさい、恭也。少し摘み食いさせてもらうから」

 言葉は謝罪。なれど、込められた感情は歓喜。
 動けない三人を放置して、翼は屋上の床から飛び上がる。フェンスの上へと立ち、そして飛び降りた。
 重力が翼を落下させてゆく。普通ならば恐怖で何もできないだろう。

 そんな中、翼は三階の手すりを軽く蹴り、スピードを殺す。次は二階の手すりだ。
 落下スピードを完全に殺すと、二階の手すりから跳躍。さらに下にあった駐輪所の天井へ。そして、天井から地面へと舞い降りた。
 音もたてずに。翼は校庭に居た葛葉と美由希の眼前に現れた。

「っ……天守!?」
「……!!」

 空から舞い降りた翼に驚く様子も見せずに美由希が距離を取る。葛葉も、反射的に十文字槍を杖にして立ち上がる。

「御機嫌よう。高町美由希」

 そう挨拶をしただけ。翼の切れ長の眼が美由希の全身に絡みつくように細まる。
 ざわっと美由希の背中に冷たいものが走る。反射的に小太刀を抜いた。いや、抜かされた。翼の圧倒的な気配に。

「今日は本当のところ見物だけにしておく予定だったのよ?」

 クスリと微笑み右手を口元に持ってて囁く。その言葉は耳元よりさらに奥。鼓膜の内側から響くような感覚。
 脳味噌に直接届くような不快さ。

「でも、悪いわね?本当に悪いわね?我慢できなくなったのよ。私と踊りましょう、高町美由希」

 クスクスクスクスと不気味な笑い声が周囲に反響する。
 年季の入ったジーンズ。黒いブラウス。お洒落など全く考えていない翼の服装。その翼が腰に差してある鞘から刀を引き抜く。
 優雅に。見せ付けるように。だが歪んだ笑顔を見せながら。翼は抜いた刀を片手で持って垂直に美由希に切っ先を抜ける。

 その切っ先から黒い何かが生まれ出でるように、美由希に牙を剥く。
 ドロドロとした底なし沼に陥ったような感覚が美由希を襲う。両足から徐々に身体を這い上がってくる。

「ッァァアア!!!」

 美由希が吼えた。絶叫。その得体の知れない纏わりつくモノを弾き飛ばすように美由希が気合を入れる。
 これは威嚇だ。いや、威嚇ともいえない翼の遊びだ。
 普通の人間では決して到達できない領域に易々と踏み入り、存在している少女が自分と戦うに値する相手か値踏みするために殺気を向けただけなのだ。

 なにしろ単純に刀を美由希に向けて殺気を放っただけなのだ。
 本気ではない。まるで大人がじゃれついてくる子供を見て少しばかり相手にしてやろうと、その程度の認識でしかないのだろう。
 甘く見られている。間違いなく。美由希は確実に翼の底知れぬ実力の一端に触れた。無意識のうちに後退さろうとしていた己を罵る。

 翼の桁外れの闘気は美由希の全てを吹き飛ばした。だが、意思だけは残った。
 十年もの間、高町恭也と共に歩いてきた剣の道。共に道を歩まんと約束した誓い。
 美由希は退かなかった。強き意思が崩れそうになる身体を支えた。

 先程から震えていた剣先がピタリと静止する。その力強い力が篭った瞳が、翼を見返す。
 美由希の戦う覚悟が翼に伝わったのか満足気に頷く。
 何時互いの戦端が開かれてもおかしくない。そんな状況。そこにようやく翼を追って降りてきた小金衣、秋草、風的が校庭に到着した。
 美由希の気配が揺らぐ。そんな美由希を三人から庇うように葛葉が立ちふさがる。

「……何の真似、葛葉?」

 小金衣の鋭い問い。

「悪いが、邪魔はさせねーよ」

 ニヤリと挑発するかのような笑みを浮かべて葛葉が左手一つで十文字槍を持ち上げる。鈍い色を湛えて刃先が向けられる。

「こいつはな、高町美由希は面白い奴だぜ?負けてこれだけ清清しい気持ちになったのは初めてだしな。それに……」

 ブンっと十文字槍が闇を裂く。水平に薙ぎ払われる。とても片手一本で振り回したとは思えない、その筋力。

「俺はこいつの可能性を見たいのさ。天守にも匹敵しかねない、この剣士のな!!」

 再度灼熱の闘気が燃え上がる。先程にも勝るとも劣らない。怪我など知ったことかと言わんばかりに。
 肩から血が滴り落ちる。そんなもの気づかないように、葛葉は永全不動八門の三人を前に一歩も退かず、立ちふさがった。

「僕達三人を相手に大口を叩きますね」

 秋草が半ば呆れるように肩をすくめる。客観的に見たらそれも当然だろう。
 確かに葛葉は強い。それでも片手を潰された状態で自分達三人を相手にできるなど自惚れもいいところだ。

「うん?三対一じゃなくて三対二でしょ?」

 ここにはいない第三者の声が聞こえ、数個の銀の光が秋草に降り注いだ。

「な!?」

 反射的に回避行動を取り、後ろに飛ぶ。それを狙っていたかのように小柄な人影が地面を這うように飛び出し、強襲する。
 しなるような回し蹴り。とても小柄な体格から放たれたとは思えない蹴りの衝撃が秋草を貫く。瞬時にガードをしていたがその防御ごと弾き飛ばされた。
 それでも決め手にはならない。弾き飛ばされながら空中で体勢を立て直し着地。己に攻撃してきた人影が誰なのか見極めようとする。

 月光を浴びながらそこに立っていたのは水面だ。百五十にも満たない小柄な身長。とても二十台半ばには見えない女性。
 その水面が容姿とは相反する妖艶な双眸で秋草を見据えている。

「……これは何の真似だい?」

 秋草がその女性的な容貌を軽く歪め問いかける。     

「ん?理由は簡単さ。単純に不破―――いや、不破恭也と敵対したくないだけだよ」

 ケラケラと水面は笑うと足を広げ、腰を落とす。下にだらりとおろされている両手の指と指の間に銀色の針が幾つも挟まれていた。

「だからとこれ以上闘うなら―――潰すよ、ガキども」

 眼が見開く。猫のように瞳が変化する。夜の闇のなかで爛々と輝く。
 急激に圧迫感が増してくる。身体全体を押してくる重圧。普段とは異なる狂暴な笑みを張り付かせ、水面は拳を握っていた。

「そうですね。鬼頭さんの仰るとおりです。ですけど、先程の言葉は訂正してください。三対二ではなく。三対三ですよ?」

 小金衣が、秋草が、風的がその場から飛び退いた。僅かな気配もなく、新たな声の主が静かにそこにいた。
 如月紅葉。緊迫したこの場の空気とは対照的にニコニコと笑顔をふりまいている。

「申し訳ありませんがこれ以上の戦いは止めませんか?今更永全不動八門同士争うのも馬鹿げていますし」

 笑顔のまま両手を広げて周囲に訴える。そんな新たな乱入者に少しも驚いていないように翼が向き直る。

「どういうことかしら?鬼頭に如月。私を裏切ると言うことで良いのかしら?」
「裏切るってわけじゃないけど。【御神】には不干渉の約定でしょ?それを止めるのも鬼頭たる私の役目だしー。それにさっきも言ったけど不破恭也に敵対したくないってのが本音」

 私は悪くないといった軽い口調で翼に答えをたたき返す。翼の圧力を前にしても水面は怯むことがない。全くの自然体。

「うちは【不破】さんに恩がありますので。あの人の害になることならば……」

 とんっとリズムを取るように身体を上下に動かす。半身になって構えると透明な闘気を漂わせる。

「貴方でも倒して見せます。天守翼」

 三人の闘気がぶつかり合う。どれだけ睨みあっていたか。突如翼は鼻で笑うと状況を見定めている美由希に向き直る。

「鬼頭。如月。貴方達のやってることは全くの【無駄】よ?何の意味もないわ。でもこんな状況も悪くないわね。小金衣、秋草、風的。貴方達で遊んであげてなさい」

 翼のその言葉が終わるか終わらないかの刹那。小金衣が走る。
 小金衣の手にいつの間にか握られた棍が紅葉の上半身を弾き飛ばさんばかりの勢いで薙ぎ払われた。

 しかし、小金衣が叩くのは空気のみ。すでに紅葉は空に跳ねていた。
 空でくるりと華麗に回転し、幾ばくか離れた場所へ着地する。

 対峙する小金衣と紅葉。秋草と水面。風的と葛葉。
 そして、翼と美由希。
 永全不動八門の最後の争いが火蓋を切って落とされた。

































 【永全不動八門】のとある一族の宗家では長い間子に恵まれなかった。分家から養子を取るべきではという話もなかったわけではない。
 そんな中でその一族の当主が四十近くなってようやく少女が産まれたのだ。その少女の誕生が喜ばれないはずがなく、一族全ての人間から祝福を受けた。。
 両親は少女を後継にと考え幼い頃から英才教育を施そうとした。それが少女を苦しめる結果になるとは知らずに。

 少女には才能がなかった。確かに常人と比べれば幾分もマシであっただろう。それでも永全不動八門という特殊な家柄の継承者になるにはあまりに才能が欠けすぎていた。
 しかし、少女はそんな己の才能の無さを憎くは思ったことなどなかった。例え才能などなかったとしても大好きな両親が常に一緒にいてくれるからだ。
 幾ら修行に励んでも、本当に僅かずつにしか上達しない少女に両親は根気よく指導を続けた。それも、少女の妹が産まれるまでであった。

 四歳離れた妹はまさしく才ある者が集まる【永全不動八門】においても群を抜いた【天才】であった。乾いた綿が水を吸い込むかのように妹は一族の技を覚えていく。まさに類稀ななる才能。姉である少女を歯牙にもかけぬ。比べることすらおこがましい。
 両親は歓喜した。狂喜した。当主において最も必要とされる血筋と実力。その二つを兼ね揃えた存在が現れたのだから。
 両親が妹につきっきりの指導にあたるようになり、少女は自然と一人で居ることが多くなった。それも当然。

 いかに宗家の血筋であろうが当主から見放された少女に近づくものなどいるはずがない。幼い頃からの両親との鍛錬で友達も作ることができていなかったのだから。
 そんな姉妹に対する家の者の視線は正直で、特に両親の態度は掌を返すようだった。
 妹にはその圧倒的な才能に期待の視線を。姉にはその才能の無さに無能の視線を隠すことなく送っていた。
 まさにそれは奇跡ともいえただろう。年端もいかない少女がそんな視線に何年も何年も耐え切っていたのだ。

 少女は腐るわけでもなく一人で己を鍛え続けた。時には我流で、時には両親が妹に教える様子を見て。
 何時しか少女は宗家の人間でありながら落ちこぼれと陰口を叩かれるようになっていた。
 それでも少女は諦めない。何時か両親が自分に振り向いてくれることを祈って。手足は少女とは思えないほどぼろぼろになり、頬も痩せこけ幽鬼のようにも見えた。
 もはや誰が見ても限界に見えた。彼女の糸が切れるのも時間の問題であった。 
 そんな少女の転機はあまりにも突然。

 滅びた【御神】を除く永全不動八門の当主があるコトを話し合うために会合を開くことになった。
 父であり永全不動八門一派の当主であった父の付き人としてその会合に出席した少女にとってまさにそれが運命の転機。
 永全不動八門の七人の当主とその他の手練の者達がいる部屋に何の恐れも迷いもなく突如現れた少年。
 そんな少年を排除しようと襲い掛かった永全不動八門の猛者を叩き伏せ、【御神】とともに滅びたはずの【不破】を名乗った剣士。
 年齢に見合わぬ絶対的な剣技を持つ恐るべき【不破】の宣言がその場にいた全ての人間の芯に染み渡った。

 【御神】が未だ永全不動八門に相応しい戦力を持つと、【不破】たる己一人でそれに相応しい戦力に値すると不遜にも言い放ったのだ。
 子供の馬鹿げた妄想だと誰もが一笑できない凄みと、実力がその少年には存在した。
 【御神】を除いた永全不動八門全ての当代に【御神】は未だ健在だと、【認めさせた】。

 【認められた】のではなく【認めさせた】のだ。たった一人の剣士が。年端もいかぬ剣士が。海千山千の化け物どもを。
 誰もが【不破】の実力に驚愕し、才能に恐れる中で少女だけは違った。皆が表面だけを見なかったことに対して少女はその場の誰よりも【不破】の奥底をのぞいた。
 少女に唯一与えられたといっても言い才能。それが人の何たるかを見抜く力。誰よりも人を見続けてきた少女が得た後天的な才。
 その少女に視界に映ったのは鍛錬に鍛錬を重ね、修練に修練を極めた剣士の姿。血の滲むという言葉すら生温い、真の意味で血反吐を吐き、己を壊しながら到達した魔物の姿。
 自分が今まで費やしてきた努力など足元にすら及ばぬ、いや、努力ということすらおこがましい結晶を【視た】。

 ―――凄いなぁ。

 それだけ思うのが精一杯であった。それだけが少女の全身を満たした。
 【不破】が小太刀をおさめ去っていこうとする。その前方に広がっていた人波はモーゼの十戒の如く割れていく。
 周囲が何もできず、ただ【不破】が去っていこうとするのを見守ることしかできないなかで少女はふらふらと覚束ない足取りで近づいていった。
 何故そうしたのか覚えていない。ただ、無意識のうちに近づいた【不破】の袖を掴んだ。

「うち……貴方のようになれますか?」

 そう言葉がもれた。泣きそうな声。声が震える。
 一瞬不思議そうな顔をした【不破】が、少しだけ口元を歪める。不器用にも笑ってくれたのだと分かった。
 軽く頭を撫でられる。まるで両親に撫でられたかのように暖かい。ゴツゴツとした手から優しさが伝わってくる。

「なれるさ。君がその気持ちと今までの努力を忘れないのならば」

 言葉短く、それだけを言い残し【不破】は去っていった。
 何でもない一言だったのだろう。他の人からしてみれば。だが、確かにその短い言葉は少女を救ったのだ。
 畳に水滴が落ちる。もう何年も流したことの無い涙が溢れるように滴り落ちる。少女は泣いた。泣き続けた。
 そんな少女を置いて、周囲の人間が騒ぎ出す。

 【不破】を討てと騒ぎ立てる者もいた。だが、結局のところ【御神】を永全不動八門と認めつつ【御神】と【不破】には不干渉を取ることになった。
 皆が皆、恐れていたのだ。あの底知れぬヒトの形をしたバケモノを。
 全面戦争を行えば打ち倒すことはできるだろう。だが、どれだけの被害を負うか想像することなどできはしまい。捨て身になったバケモノほど怖いものはないのだから。

 この日を境に少女には目標ができた。
 強くなろう。誰よりも。才能という言葉を限界の免罪符に使うのではなく。ただ己の努力を持って強くなろう。努力は才能を超えられるということが分かったから。
 そして何時かあの人に会おう。そして胸を張って言うのだ。

 貴方のお陰で私は強くなれました……と。

 その目標の人物は【不破恭也】ということを後に知った。
 それからの少女は異常であった。一族においても異常と評価されるほどに。
 学校へ行く以外の全ての時間を鍛錬に費やした。食事の時間を削り、寝る時間も削り、唯ひたすらに鍛錬に鍛錬を重ねた。
 幅広く己の流派の技を修めるのではなく基本をひたすらに繰り返した。全てに力を注げれるほど器用ではないことなどわかりきっていたからだ。
 少女は基本を繰り返した。

 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 かの一族の長女は気が狂っているそうだ……そう噂が流れもした。だが、気にならなかった。自分には目標があるから。 
 幾百の夜を越え、何時しか三年近くもの時が流れ少女が十七になるころには何時しか周囲の評価は変わっていた。
 己の流派の技をほぼ使えないにも関わらず、少女は己が一族において片手で数えられるほどの存在へと成長していた。

 【基本】を極めた少女の武は……皮肉にも数多の者から【鬼】と呼ばれるほどになっていたのだ。
 そんな少女の名前は……如月宗家長女【如月紅葉】と言った。
 
















「小金衣さん。無駄な戦いは止めませんか?」
「……天守の命令よ。仕方ないでしょう?」

 小金衣とて好きで戦うわけではない。翼が言ったのだ。紅葉の相手をしろと。
 同じ永全不動八門とはいえ、天守に逆らうような真似はできればしたくない。というより翼に、だが。
 下手に逆鱗に触れてしまえばどうなるかわからない。

「そうですか……」

 紅葉が残念そうに目を瞑る。隙だらけともいえる紅葉に小金衣が突撃しようとするが、足が地面に根をはやしたように動かない。
 小金衣の第六感が紅葉に攻撃することを拒絶している。
 動けない。無手で、なおかつ隙だらけのはずの紅葉に威圧されたように。

「それでは、仕方ありません。小金衣さん……運が悪かったと思って寝てて下さい」  

 音すらたてない無音の踏み込み。空を渡るかのように間合いを一呼吸でつめ、突き出される紅葉の正拳突き。
 風を切り、放たれた何の変哲もない一撃。あまりに自然に放たれたその拳は最短距離をもって小金衣に迫った。
 綿を打ち抜いたかのような音と感触。
 自動車に跳ねられたかのように小金衣の身体が吹き飛んだ。数メートル以上も飛ばされた小金衣はゴロゴロと地面を転がり倒れる。

「……ぇ……?」

 たっぷり数秒。それでようやく小金衣は己が殴られたのだと気づいた。
 呆けた声をだして杖を利用して立ち上がろうとするが膝が笑ってなかなか立つことが出来ない。
 今なにをされたのかわからない。いや、殴られたのはわかる。だが、【何時】なぐられたのかわからないのだ。

 小金衣は戦慄した。そのあまりの武に。
 話には聞いていた。如月紅葉という少女の話を。
 強いのは分かっていた。如月宗家には一人の【天才】と一人の【鬼】が住む、と風の噂には聞いていた。その二人のどちらかだろうということは予測がついていた。
 追撃するでもなく残身を残している紅葉の背後にとてつもない、化け物のような闘気を確かに小金衣は視界の端に見た。
 
 ―――如月の【鬼】の方だったのね。

 ごぽりと喉元から血が昇ってくる。たった一撃で内臓を痛めたらしい
 小金衣は己の力量くらい弁えている。歳若いといえど、小金衣において同年代では並ぶものなし、と評価された自分ならば如月の天才とも戦えると思っていた。
 それでも、それでもこれほどのものだとは思わなかったのだ。目の前の、少女の形をした鬼の実力が。
 この小金衣が……小金衣夏樹ともあろう人間が視覚することすらできなかったなど!!
 ようやく膝の震えが止まった夏樹が杖を構える。
  
「……ハァハァ……まだ、よ。私はまだ戦える……」

 油断してくれたのならばまだ勝機はあっただろう。しかし、小金衣の前に立つ紅葉には一片の油断もない。
 小金衣は内心で笑った。同じ永全不動八門同士でありながらこれほどの実力差があるということに。

 ―――いや、違う。私が弱いだけだ。

 自嘲気味な心の声は誰にも届くことなく、消えていった。
 再び地面を蹴る音さえもたてずに紅葉が動く。小金衣に反応させることなく紅葉の掌底が放たれた。
 その拳が直撃した瞬間。重い音をたてて小金衣の身体が弾き飛ばされた。轟風の如き風が小金衣の髪を、身体を靡かせる。
 地面をバウンドし、窓ガラスに激突。窓ガラスが小金衣を受け止めたのも一瞬。ガラスが割れる音を残して小金衣は一階の廊下に転がり落ちる。

 粉々になったガラスが倒れて動けない小金衣の上にパラパラと粉微塵になって落ちる。 
 右手を前に突き出す構えを取っていた紅葉が、深く息を吐く。限界まで息を吐いた後、今度は息を深く吸う。

「きっとあの人にとっては記憶にすらないなんでもなかったことでしょう。でもあの人は確かに言ってくれました。強くなった、と。私のようなたった一言だけ言葉を交えた者のことを覚えていてくれました」

 紅葉は拳をすっとおろすと動かない小金衣に背中を向ける。

「あの人にとっては迷惑なだけかもしれません。だけどうちは戦います。あの人に降りかかるであろう全ての厄災を振り払うために」

 夜空を仰ぐ。月が静かに浮かんでいる。迷いの無い覚悟。揺るがない意思。

「例え、如月の名を捨てることになっても」
























 片手で十文字槍を風的に向けながら葛葉は構えていた。血を流しすぎたのか葛葉の視界が霞む。
 美由希に貫かれた右肩が激しく痛む。気を抜けば今にも気を失いそうだ。
 ポタリポタリと微かな音をたてて地面を紅く濡らしていく。風的はそんな葛葉を一瞥すると、軽く口元を歪める。

「医者にかからねばいけないほどの怪我だろう、葛葉。無茶はするな」
「……は!!笑わせるなよ、風的。万全じゃないから……戦えませんとでもいう気か、お前は?どんな状態にしろ……今のこの状態が俺のベストだ……!!」

 獰猛な、灼熱の闘気。口でどう言っても、ベストコンディションではない。それでも葛葉の心に揺らぎなど一片もない。

「今までお前とは合わないと思っていた。いや、これからもそうだろう」
「奇遇だな……俺もそう思うぜ」
「だが、称賛しよう。いや、今のお前は尊敬に値する相手だ」

 風的は構えもせず葛葉へと歩み寄る。葛葉が向けている槍など目に入らぬ様子で。
 葛葉の間合いに侵入しても葛葉に動く気配はない。先程から精神力だけで立ち続けていたのだ。もはや槍を振る力など残っていない 

「……くそったれ……」

 手をのばせば触れ合う距離に辿り着いた風的が葛葉に手を伸ばす。手が葛葉の身体に触れた瞬間、グルリと葛葉の視界が反転。
 気がついたときには地面に倒されていた。しかし、衝撃はない。風的が葛葉の身体を支えていたのだ。
 風的は懐からだしたナイフで葛葉の服を引き裂く。露になった右肩の負傷の酷さに軽く眉を顰めた。
 それでも手馴れた様子で治療を始める。

「何、しやがんだ……!?」
「大人しくしてろ。右肩が使い物にならなくなってもいいのか」
「う……」

 風的の言葉に葛葉が抵抗を止める。チっと舌打ちをすると風的の治療に身を任せる。
 張り詰めていた糸がきれたように、精神の昂ぶりで感じなかった痛みが、いまさながらに激痛となって右肩を襲う。
 誰も居なかったら肩をおさえて泣き叫んだかもしれないが、まさかここでそんな真似するわけにもいかず歯を噛み締めて耐える。
  
「高町美由希は強いな……」
「……くっく。ああ……俺達の想像以上にな……」

 本当に嬉しそうに笑う葛葉に風的は躊躇いがちに何かを言おうとするが、口を閉じる。そんな風的に言えよ、と無言の視線を送る。

「……本当に天守に匹敵すると思うか?」
「……」

 無言。それはそうだ。美由希の実力は予想の遥か上。とてつもない剣士なのはわかった。だが、二人が知る天守翼という剣士もまた、今まで見たことが無い最強の剣士。
 翼が敗北を喫する相手など想像も出来ず、敗北する場面も頭の中に浮かばない。

「わかんねーよ……わかんねーけど……あいつならもしかしてと思わせてくれる……」
「そうか……。ならば信じてみよう」

 二人の視線が、ふと合った。葛葉はふんっと照れたようにそっぽを向く。風的はそんな葛葉に珍しく苦笑すると黙々と治療を続けた。

「あっは!!あはははははは!!」

 そんな狂ったような笑い声が二人の耳を打つ。それにギョッと驚く風的。逆に葛葉は、困ったように眉を八の字に寄せて、はぁとため息を漏らした。

「あの馬鹿……完全にスイッチ入ってやがる……」

 ドンっと、何かを殴りつけた音が周囲に響く。もちろん、それは二人が殴られた音とは違う。
 二人の視線の先、闇夜で踊る二人の男女。
 女性と見間違わんばかりの美貌の少年秋草。身長も低く、体重も軽い、女子高校生にも見えかねない女性水面。
 異様な光景であった。身体のあちらこちらから血を流し、必死に逃げ回っている秋草。それを水面が一方的に追い詰めている。

「シッ!!」

 微かな呼吸音。水面の右手が振り下ろされる。左手がそれに続く。音をたてて秋草を包囲するように飛針が迫る。
 後ろに横に、秋草は全力で飛び退き、すんでのところでやりすごす。
 秋草の両手が揺らめくように動く。闇を裂く様に鋼糸が波打って水面に迫る。ただの糸と思うこと無かれ。

 目で見ることも困難な細さでありながら、その耐久性と切れ味は想像を絶する。
 後ろへ逃げると予想した秋草の想像を水面はあっさりとぶっ壊した。前へと突き進んだのだ。
 触れたら服が裂け、肉などあっさりと切られるその鋭利な鋼糸の波の中へと。
 最小限の見切り。鋼糸が水面の頬を、手足の服を切り裂く。そんな僅かでも間違えば死が免れない中でも、水面は瞬き一つせず、秋草へと飛び掛る。

 空中からの踵落し。体重と重力を乗せたその一撃は体重の軽い水面といえど一撃必殺。予想外の攻撃に回避は間に合わず。片手を頭上にかかげる。
 水面の踵落しを防ぐも、ゴギンと嫌な音をたてる。それに伴う激痛。
 思わず息が詰まる。水面もそれだけでは終わらない。勢いそのままに左足が跳ねる。前蹴りがまともに入った秋草を吹き飛ばす。
 砂埃をあげて地面を転がっていく秋草。そんな秋草を腹を抱えて水面は笑ってみせる。

「弱い。弱いよ、秋草?その程度?」
「っ……化け物ですか……貴方は!!」

 唾を地面にむけて吐きかける。唾に紅いものが混じっていた。口の中を切ったのか、内臓を痛めたのか。
 秋草の叫びの通りに水面は強かった。ここまで一方的に蹂躙されるなど、悪夢をみているかのようだ。

「いやいや。私とアンタの実力は実はそんなに変わらないよ?【試合】だったならば拮抗してるかもね?」

 水面は心外な、という顔で秋草に語りかける。
 そんなわけがない。そうであるならば何故これほど一方的にやられるのか。
 水面は人差し指を振ってみせる。チッチと付け加えながら。

「アンタは良くも悪くもまともすぎるのよ。私や天守、如月みたいにどこかイカレているところがないのさ。それはとっても素敵なことだよ?でもね……」 

 秋草が反射的に水面から距離を取る。その手に握られている鋼糸……それを最も有効に使える距離で水面を迎え撃とうとする。

「自分の命も易々と賭けられる、頭のネジが抜けた化け物しか、【死合い】だと生き残れないよ?」

 ケラケラと可笑しそうに笑う。その笑っているが笑っていない、薄気味悪い笑顔に、秋草は気が遠くなりそうになった。
 勝てない。そう本能が理解してしまった。ガクリと秋草は膝を地面についてうな垂れる。
 秋草は半年近く一緒にいたこの女性の本質を全く誤解していたのだ。

 中立たる鬼頭の教えを体言するものだと。常に葛葉や小金衣の争いを宥めていた戦いを好まない性格だと。
 それが、全く違う。中立や、戦いを好まないとか、そういった話ではない。
 この女性もまた、結局のところ天守翼のように血と戦いを好む化け物だ。普段はそれを鬼頭であることを己に言い聞かせ律しているに過ぎない。

「物分りがいいじゃん、秋草」

 ぽんっと秋草の頭を叩くと別の方向に歩いていこうとする。戦いはもう終わったと言わんばかりに。

「……貴方は強い。ですが……天守君はさらに強いですよ……」
「分かってるって。私一人じゃどうやっても勝てないしねーアイツには」

 永全不動八門は対等な関係だ。それでも、この海鳴に集ったメンバーでは翼が中心となった。
 それは御神と並んだとされる天守ということもあったが、それ以上に翼があまりに強すぎたためだ。
 天守でさえ飼い殺せない、狂った魔物の毛皮を被ったヒト。永全不動八門の掟さえも歯牙にもかけない、そしてそれが許される圧倒的な実力の剣士。

「まぁーでも、私と如月と御神の三人がかりなら何とか止めることくらいはできるでしょ。アイツは満足さえすればいいだけだしねー」

 ヒョイっと肩をすくめると、小金衣を一蹴した紅葉がこちらに近寄ってくるのが遠めに見えた。

「さーて、最後の一仕事と行きますか」
















 
  
   



  



 美由希は首の左側が痺れるような、突き刺さるような嫌な予感を感じて小太刀を上げる。
 その一拍後に、翼の刀が水平に薙ぎ払われる。金属音が高鳴り、火花が散った。
 互いに押し合うようにぎりぎりと音が鳴る。それに美由希は内心で首を傾げる。

 小太刀から力を抜き、翼の刀をそのまま受け流す。それに流されるように翼が体勢を崩す。
 体勢を崩した翼に小太刀で下から切り上げる。後ろに軽くバックステップで後退。あっさりとかわしてみせる。
 それを追う様に地面を蹴る。小太刀を構え、一矢となって翼に迫った。

 翼が突き出された小太刀を刀で流すと、位置を変えようと回りもうとする。そんな翼を追撃するように突きが横薙ぎへと変化する。
 僅かに驚いた翼が、大幅に距離を取って逃げる。再び、美由希が翼を追うために疾走しようとするが、今度は間を外すように翼が美由希へと踏み込む。
 先程のお返しといわんばかりに突きを放つ。一撃では終わらない。弐、参、漆と連続で放たれた突きは一回にしか見えないほど速かった。
 それでも、美由希はその四回の突きを両の小太刀で裁いてみせる。

 ―――やはりおかしい。

 美由希の心中を満たす疑問。
 確かに、翼は強い。強いが……。
 強すぎはしないのだ。

 力はそれほどでもない。女性なのだしそれも当然だろう。鍛えている美由希の方が上だ。
 スピードも確かに速いが、ついていけないほどではない。というより、美由希の方が速い。
 剣の技量にしてみてもそうだ。見事とは思う。それでも、美由希の方が洗練されている。

 力も速さも技量も、それら全てが美由希の方が上回っている。
 そんな美由希の思考を中断させるように正面から刀が顔目掛けて突き出された。
 一瞬焦りながら小太刀で弾く。それに反撃するように逆手の小太刀が翼に振るおうとするが、すでに翼は距離を取っていた。
 距離を置いて二人が対峙する。美由希は厳しい表情で、翼は歪んだ笑みを絶やさず。

「本当に大したものね。私の想像を超えているわ」

 刀を軽く振り、素振りを幾度か繰り返す。

「高い才能。怠らない修練。私の殺気を前にして平然としていられる精神。さすがは恭也の唯一の弟子」

 どこか陶然と、語る翼。その兄を知っているような台詞に美由希が口を開こうとするが、止めた。

「さぁ、次へ行くわよ?」

 地を蹴る。黒い残像を残し、三足の飛翔で美由希との距離を詰める。
 上段から力強く振り下ろされた刀。美由希の首を斬りとばす勢いで迫った。
 周囲から見れば決まったと誤認されるほどの勢い。しかし、翼の刀に当たった感触は人の肌ではない。
 堅い金属、小太刀だ。

 翼がクスリと笑うと身体を捻り右の回し蹴りを放つ。薄い鉄板が仕込まれているのか、とんでもない風きり音を残し、美由希に迫るが片手の小太刀でけりを受け止める。
 予想通り、高鳴る金属音。
 翼の連続技は止まらない。上体を後ろに倒し、後転。その勢いで振り上げられた左足の爪先が美由希の顎を狙う。
 それを軽く顔を逸らしてかわす。その時生じた風が美由希の髪を靡かせた。

 翼は地面に足をつけた途端、再度地面を蹴り、身体ごとぶつかるような突きを放つ。
 そんな突きを美由希は横に僅かに動いてかわす。突っ込んできた翼に、カウンターのように下から小太刀を振り上げた。
 己に迫ってくる小太刀に気づいた翼が腰から鞘を引き抜いて受け止める。それでも、小太刀は止まらない。

 互いの体重が乗った斬撃は翼の身体を弾くように吹き飛ばす。
 その身体に残るような斬撃の重さに翼が目を見開く。地面を削るように体勢を整えた。
 攻守の交代と言わんばかりに美由希が飛び出す。 

 短い呼吸音を残して頭上から振り下ろされる小太刀。翼が刀を真上に掲げて受け止める。
 それに続くようにもう一方の小太刀が振りあげられる。仕方なく、翼が後ろに後退。
 美由希の小太刀が空を斬る。小太刀を振り切った美由希の首元を狙って翼の刀が薙ぎ払われた。

 美由希がその一撃を屈んでかわす。立ち上がりざまに、頭上にある翼の両腕を狙う。切り上げられる小太刀。
 その小太刀を見越していたかのようにあっさりと後退してやり過ごす。かわされたと知る美由希の反応も速かった。
 後退した翼を追撃する。首に、肩に、手に、胴に、足に、休む間もなく繰り出される連撃。
 それら全てを翼は華麗に捌ききってみせる。

 ―――おかしい。

 再び美由希を襲う疑問。
 力も速さも技量も確実に美由希が上回っている。それでも、傷一つつけることができていない。
 あれだけの攻撃を加えていながら。翼は歪んだ笑顔を崩さないまま、美由希の斬撃を防いでいるのだ。

「……クスクスクス。不思議に思うかしら、高町美由希?」

 斬線が走る中、死の閃光が周囲を弾きあう中、翼は口を開いてみせた。
 愕然とする。そんな余裕など、美由希にはないというのに。強がりで余裕をみせているわけではない。本当に翼には余裕があるのだ。
 全てが美由希に劣っているというのに。

 ―――侮るな!!!!!

 美由希の裂帛の気合が込められた二振りの小太刀。高速で繰り出された、二つの銀光。
 それを、最初からどう軌道を描いて己に迫ってくるのか分かっていたかのごとく、翼はゆらりと歩きながらその死の斬線をかわしてみせた。
 その行きがけの駄賃だ、といわんばかりに美由希の首筋を素手で撫でながら。そのまま、美由希を通り越し、振り返って見せた。

 美由希の身体が硬直したように動かない。
 遊ばれた?今、確実に殺されていた。
 何故?どうして?と駆け巡る疑問。
 硬直したのも一瞬。すぐさま、地面を蹴り、翼から距離を取る。

「疑問で一杯って顔をしてるわね?」
「……」

「隠さなくてもいいよの。別に私としても隠すようなことでもないから」

 翼はやや大げさに両手を広げて語りかけるように口を開く。

「私は産まれた時から少し特殊なのよ。別に角が生えていたとか、尻尾が生えていたとかそういうのじゃないわよ?」

 全く笑えない冗談を言いながら、翼は美由希を舐めるような視線を送る。
 反応しない美由希に少し残念そうに肩をすくめた。

「【神速】って知ってるわよね?人外の域へと人を導く、人ならざる者の技。尋常ではない鍛錬と修練の果てに到達できる絶対領域。単純な話よ。私はその世界を―――物心ついたときから認識することができていたの」
「な!?」

 美由希の驚愕の声が上がった。理解が追いつかない。
 有り得ない。自分がどれだけ、鍛錬の、修練の、努力の果てに辿り着いた境地に、目の前の剣士は産まれた時からすでに足を踏み入れているという信じられない事実。信じたくない事実。    

 自然体のまま、翼はゆっくりと美由希に近づいてくる。
 美由希が後退する。気圧された。翼の言葉に。
 もし、翼の言葉が事実ならばなんて理不尽なことか。美由希の努力を嘲笑う、圧倒的な天からの才能。

「これが私の他の追随を許さない絶対の才能!!私だけが生まれ持つ、何者をも凌駕する領域よ!!」

 あまりに驚異的な事実。そして、それは紛れも無い事実。
 だからこそ、翼は才能に驕っている。溺れている。胡坐をかいている。
 力も速さも技量も。その全てを凌駕できる領域にすんでいるからこそ。

 才能にしか頼らなくても、翼に比肩できるものなど存在しなかったから翼はここまで歪んでしまった。
 どこまでもどす黒く、どこまでも傲慢で、どこまでも最凶に。
 もはや、翼の笑顔は悪魔のようにしか美由希にはみえなかった。
 心臓を鷲掴みにされるような感覚をその身に抱きながら。それでも小太刀を構えた。

「認めない……!!私は貴方を……認めない!!」

 美由希が魂の咆哮をあげた。弱い己と、翼を拒絶するように全力で翼に突撃する。
 渦巻く鬼気が、荒れ狂う暴風のように周囲をかき乱す。闇を貫き、銀の閃光が迸った。
 その瞬間、美由希は考えるでもなく、本能がスイッチを入れた。

 【神速】の領域に、美由希は足を踏み入れたのだ。
 視界が、世界が、色をなくす。思考がクリアに、真っ白になる。身体中が悲鳴をあげるが、そんなことを気にもせず美由希がゼリーのように重く質量をもった空気をかきわけるように翼に迫る。
 人間の限界以上の動きを可能とする。御神の奥義中の奥義の一つ。全ての動きが鈍くなる中、美由希がゆっくりと走る。
 倒せる。倒せるはずだ。この世界ならば。信じられるものか。神速の領域に何の努力もせずに、才能だけで存在できるなど。

 そんな美由希を嘲笑うかのように、翼は美由希と同等の速度で、神速の領域で動いた。
 認識していた。翼は確かに神速の領域を。
 その領域で、幾度も斬りつけ合い、弾きあう、受け流しあい、防ぎあった。どれだけその領域にいたのか。
 ようやく互いに神速の領域からぬけだした途端、ぐにゃりと美由希の視界が揺らいだ。

 あまりに長く神速の領域に滞在しすぎたのだ。ガタガタと膝が震える。胃からせりあがってくるような吐き気を催す。
 肩膝をつき、激しく呼吸を繰り返す。対する翼は僅かに息を乱しているだけ。
 身体に負担がかかる神速を恭也に止められている故に、美由希は神速の世界に慣れていない。しかし、翼は日常的に神速の世界に住んでいるのだ。

 身体にかかる負担を最小限に抑える術をしっている。慣れが違うのだ、美由希とは。
 俯いて、咳き込む美由希に影が掛かる。殺気に反応して、横に飛ぶ。振り下ろされる刀。間一髪でかわした美由希が地面を転がりつつ逃げる。

「凄いわね……久しぶりに見たわ、神速を!!未熟と言わざるをえないけど、素晴らしいわ!!」

 それはまさに狂喜。周囲を侵食するような黒気を放ちながら翼が迫った。
 大振りともいえる上段からの振り下ろし。その隙がある一撃を美由希は反撃することを考えなかった。
 逃げ腰になりそうな自分を奮い立たせるのに必死で、そんなことを考える余裕すらない。
 翼の刀が振り下ろされた。金属音が鳴り響く。なんとか防いだ美由希だったが、手が痺れるような衝撃に驚愕する。

 衝撃が……【徹】った!? 

 もはや底が知れない超絶的な才能。恭也が別格と称した理由がよくわかる。
 桁が違う。格が違う。次元が違う。
 才能一つで全てを覆す、なんという理不尽な怪物なのだ。
 翼の黒い瞳に、鏡のように美由希の顔が映った。今にも泣きそうな、その表情。

「……負けない!!私は……貴方だけには負けない!!」

 こんな理不尽を認めるわけにはいかない。そうしないと今まで積み重ねてきた努力が……無駄になってしまう。
 美由希が放った起死回生の突き。意表をついたその一撃。
 それを翼はあっさりとかわす。そして、横薙ぎ。もはや反射に近い動きでその横薙ぎを受け止める。
 衝撃を受け止めれず、弾き飛ばされる。

 必死になって逃げる最中で、美由希は翼と目があった。その瞬間、美由希の心は恐怖で支配された。   
 まるで虫を解体するかのような残酷な目が、僅かに開いた口元から覗く八重歯が、とてつもない化け物に見えたから。

 ―――怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

 ガタガタと身体が震える。どれくらいぶりになるのか、美由希は完全に恐怖という感情で心を埋め尽くされた。
 攻撃にでることなど考えることなどできず、ただひたすらに美由希は亀のように縮こまり防御に専念する。
 死ぬ。私は殺される。天守に。

「ァ……ヒッ……」

 言葉にならない悲鳴。
 死にたくない。
 それだけが美由希の全身を埋め尽くす。

 だが、それは死ぬから感じたモノではない。死ぬと言うことは敗北するということ。
 敗北をするということは師を、高町恭也を汚すということ。

 それだけは認められない。例え、自分の実力が翼に劣っていたとしても、それだけは絶対認めるわけにはいかないのだ。
 高町恭也は誰よりも強いのだ。誰よりも高みに居なければならないのだ。
 自分が敗北を喫するなど、高町恭也の存在を汚すことなどしてはいけないのだ!!

 その想いだけが、意思が美由希を支えている。本当にそれだけなのだ、今の美由希にはそれしかないのだ。
 響く衝撃。痺れる両腕。かすれる様な視界。
 思考が上手く纏まらない。その時、脳裏に甘い声が聞こえた。

 ―――くふふ。そこまでされてなお……心が折れないとはのぅ。

 誰、と問う余裕もない。ただの幻聴だろう、と死の斬線が荒れ狂う中で納得する。

 ―――よかろう……お主に見せてやろうではないか……真の【御神】というものを。

 白い。純白。汚れなど一切無い、閃光が美由希の視界を埋め尽くした。
 太陽のような圧倒的な光。熱。暖かさ。
 その光に抱かれて、美由希は意識を手放した。

 反応の鈍くなった美由希に訝しがりながらも、翼は流れるような斬閃を落とす。
 滑らかに空気を断ち切っていく、刃が美由希に襲い掛かる直前―――。

「な!?」

 翼の上段からの切り落とし。それを軽々と美由希が受け止めたのだ。
 別に驚くほどのことでもないかもしれない。それでも、先程まで防ぐだけで精一杯の状態だったとは思えない。

 押しても一寸たりとも動かない、まるで数千年の時を経た巨木のような存在感を持つ何かがそこに突如として現れた。
 烈風が巻き起こる。翼は己が右手を小太刀で切り落とされる、という錯覚を視た。
 美由希から天に向かって立ち昇る、あまりに巨大すぎる純白の闘気。いいや、これはもはや闘気や鬼気などといったレベルのものではない。
 例えるならそれはもはや神気の域。翼をして、思考に空白を造り上げるほどの異常で、濃密で、強大。
 危険を感じて、翼が一気に後退した。美由希は追撃する様子もなく己の両手を見て、小太刀を見て、身体を見て、足を見て天を仰いだ。

「久方ぶりの肉体よのぅ。随分久しぶりじゃて。先代の琴絵は才はあったが病弱であったからの」

 身体が動くか確認するように動かしてみせる。その動きに満足したようにクフフと美由希は笑った。
 まるで別人のその様子に翼が、背を伝う汗を感じつつ問いかけた。

「貴方は……【誰】かしら?」

「ふむ。妾が誰と問うか。それは哲学的な問答よの」

 トントンと爪先で地面を叩く。何でもない行動。しかし、翼は【今】の美由希の一挙一動から目が放せない。
 放したら何かとてつもないことが起きそうな予感を感じて。 
     
「よかろう。今宵は妾も機嫌が良い。特別に名乗ってしんぜよう」

 天すらも己の支配化だといわんばかりに、両手を小太刀ごと空に掲げる。
 双眸に冷たい白い炎が宿った。そして、美由希だった者は高らかに名乗りを上げた。

「遠からん者は音にも聞け。近くば寄って目にも見よ。畏れ多くも妾は【御神】が歴史そのものぞ」

 【御神】の歴史と名乗った何者かの威圧感に、翼は一歩後退する。
 翼の頬を一筋の汗が伝っていた。普段ならば戦闘中だろうが何のためらいも無く拭っていただろう。
 だが、今の翼にはそのような余裕など一切なかった。両手で握る刀の柄から、手を離す余裕など一切ない。それほどの圧倒的な存在感を目の前の少女……否、女性は放っていた。
 これほどの存在感を示した剣士を、翼はこれまでの人生で見つけることができなかった。

 ―――或いは【彼】よりも上?

 そう考えた翼は内心で首を振り、苦笑した。それに【御神】と名乗った女性は不思議そうに眉を顰める。

「何か可笑しいことでもあったかの?」
「失礼。気にしないでくれるかしら」
「ふむ……」

 唯の問いかけの筈が、翼の芯にまで圧迫感を与える。先程流した汗が急激に冷えて、寒さが身にしみてきた。
 翼はその体をぶるりと一瞬震わせると、己の愛刀を強く握り締める。

「一つ聞きたいのだけど良いかしら?」
「良い。許そう」

 妙に偉そうに答える【御神】に、ぴくりと頬を引き攣らせた翼が軽く深呼吸をする。

「貴方は自らを【御神】の歴史と名乗ったようだけど……それはどういうことかしら?」

 その質問に【御神】は薄く目を細めると、冷笑を浮かべた。

「簡単なことよ。妾は【御神】の歴史を見届ける者。御神宗家が望んだ、最強で在り続けたいと望んだ……具現者とでもいうべきかの?」
「……【御神】に宿る寄生虫みたいな認識でいいのかしら?」

 身も蓋もない翼のたとえに流石に【御神】はピキっと頬をひきつらせた。

「せめて守護霊とでもいってもらいたいものだがのぅ」
「それは失礼したわね?」

 内心の動揺をおくびにもださず、逆に余裕の笑みを翼は浮かべる。対峙する二人の間を夜風が通り過ぎた。

「やれやれね……」

 そう【御神】に聞こえるように呟くと首を振ると先程から、【御神】を牽制するように翼が周囲に撒き散らしていた殺気をおさめる。

「……諦めたのかの?」

 それに意外そうに声をあげた【御神】。美由希の内から見ていたが、この天守翼がそう簡単に諦めるように人間ではないことには気づいている。 
 その隙ともいえない、刹那の空白。その一瞬で翼が……疾走した。

 【天翔(アマカケ)】―――と呼ばれる天守の奥義中の奥義。御神流では神速と呼ばれている歩法。
 人間が普段己にかけている枷を意識的に外すことにより、その瞬間的に自らの知覚力を爆発的に高めることができる。
 当然、体にかかる負担も大きい。乱発などしたら剣士としての寿命を削るといってもおおげさではない。

 それを代償に己を常人とは異なる時間外領域に導く。故に必殺。
 翼は確かに己の才能に絶対の自信をもっている。だから相手の力量の上限を見定めると言う意味で【遊ぶ】場合が常であった。
 真剣勝負。しかも命をかけた死合いの時でさえ。

 何故そんなことをしていたのかというと、それは自分に匹敵する相手が居なかったからだ。
 今まで剣を交えて来た同門でさえ、ウサギと獅子ほどの差がある故に、翼は手を抜いて遊んでいた。
 獅子はウサギを倒すのにも全力を尽くすという。だが、実際に幾ら油断したからといっても獅子がウサギに敗北することなど有り得はしない。

 そこには絶対的に超えられない壁がある。それが己と他者。自分こそが上位者なのだ。
 そんな翼が、剣を交えるまえから、さらには相手を油断させてその隙をつこうなどと、翼を知るものがみたら信じられなかっただろう。
 その理由として、やはり翼は感じ取っていたのだ……相手の、【御神】と名乗る化け物の力量を。油断などできる相手ではないのだ。

 そう、まるで【彼】を前にしたかのような……得体の知れない果てしない何かを纏った剣士。
 空気を渡って、全身を縛り付けるかのような殺気。そのような相手に奥の手を隠して勝とうなど虫のいい話だ。
 自分ができる最高にして最強の一撃を奇襲でしかける。そう、それを本能で実践した翼は最善の一手をうったはずであった。

 視界がクリアに、モノクロに染まり、世界が音と動きを停止させたその領域を翼は駆け抜ける。
 スイッチをオンオフに切り分けるように、自在にこの世界に出入りすることができる翼ではあるが、常に、どんなときでも、際限なく天翔をつかえるわけではない。
 人が肉体を壊さぬように己に課しているリミッターを外して、限界ギリギリの能力を意識的に引き出すのだ。
 身体がそれについていけるはずがない。幾ら翼がこの絶対領域に慣れてるとはいえ、それはあくまで認識し慣れている、どいうだけだ。
 未だに身体が完成されていない翼にとってそう何度も使用可能というわけではないのだ。

 そんな天翔の領域に身を置いていた翼の顔驚愕に染まった。先程の美由希の神速と天翔のぶつかり合いとは真逆。油断させ、隙をついたはずの【御神】の動きが翼の一歩上を確実にいっていた。
 まるで蛇のように不規則で、からみつくように小太刀が白銀の軌跡を残して翼に迫る。
 その剣閃が翼の右肩にくらいつこうとした間一髪のところで、刀をきりあげて弾き、防ぎきった筈だった。
 だが、確かに弾いた筈の翼の身体にズシリと残る衝撃。羽をもがれた蝶のように翼の動きがとまった。いや、とめられたのだ。【御神】によって。
 翼が予想だにしない衝撃を受け、その衝撃によって強制的に天翔の世界からはじき出された。

「っぁ……!?」

 その美しい顔を痛みでゆがめながらも翼は体勢を崩しながら大きく跳躍して後退する。衝撃の激痛に耐えながら翼は【御神】の追撃に反撃しようと、視線だけは逸らさなかった。
 そんな翼を【御神】は驚いたように僅かに目を見開き見つめていた。その視線に疑問を抱いた翼が呼吸を整えるための時間稼ぎも含めて質問を口に出す。

「なに、かしら?」
「いや、なに。その若さで大したものだと感心しておったのよ」
「……あっさりと防いだ貴方にそういわれても嫌味にしかきこえないけど」
「くふふ。穿った見方をしすぎじゃの……お主」
「……そうかしらね?」
「年長者の言葉は素直に聞いておくべきだと思うがの」

 相変わらず美由希と同じ容姿のまま、雰囲気だけは異なる【御神】が妖艶に笑う。

「先程の一撃は手加減なしの徹を込めたはずだったのだがのぅ」
「高町美由希も見事とは思ったけど……貴方は彼女とは桁外れの衝撃だったわ。流石に己を御神の歴史と自負するだけはあるわね」
「妾の一撃に刀を落とすことなく済ませたお主の腕と、また砕けることのなかったお主の刀を誇ると良いぞ」
「……そう」

 その【御神】の言葉に……翼の目が細まった。【御神】からしてみれば純粋に翼を賞賛したのだろうが、その台詞は翼には別の意味で捉えていた。
 すなわち、自分よりも絶対上位だと確信しているからの、言葉と。
 己に対する自信。それを打ち砕こうとする【御神】に、翼は冷たい殺意を初めて抱いた。

「……クス」

 翼は笑う。

「……クスクスクスクス」

 いや、哂った。どこまでも純粋で、どこまでも狂気に染まった笑顔を【御神】に向けながら。
 全身に残る先程の衝撃など、まるで気にしないかのように。
 音を立てて、台風のような轟風が、強烈な殺気が、周囲を駆け巡る。
 鋭い突風となって【御神】をうつ。そんな殺気を前にしても【御神】に変化はない。
 逆にホゥと感嘆の声をあげただけであった。

「気に入らないわ。ええ……気に入らないわよ、貴方」

 はっきりとした憎悪の感情をのせ、翼は呪うかのように紡ぐ。

「御神の歴史?守護霊?だからなんだというのよ!たかだか過去の亡霊じゃないかしら?」

 刀をすらりと構え、切っ先を【御神】に向ける。切っ先は止まれど、言葉はそのままとまらない。

「私は強さを求めて生きている。ただ、強く。誰よりも強く。何よりも強く。それも全ては【彼】に私を認めさせるために!そのためだけに私は高みを目指しているのよ!!カビが生えた過去の亡霊如きが、私の道を邪魔するな!!」

 吐き捨てるように翼は激昂した。全てを見下し、どこか諦観したかのような普段の雰囲気など一切ない。
 この姿もまた天守翼の本当の姿だ。冷静?冷酷?残虐?非常?非人間的?
 確かにそうだろう。翼はそういうところが大部分を占めている。だが、この姿こそ、真の翼。
 美由希と異なれど、負けない、強い信念を持っているのだ。
 そんな翼を、【御神】は面白いものをみたかのように、くふふと笑う。

「心地良いのぅ。強き信念を持つものの殺気というものは……」

 【御神】は構えをとらない。所謂無形の位。
 翼の凶悪な殺気を前にしても、その余裕を無くしてはいない。
 その余裕が翼はますます気に入らない。表情を、鋭く、冷たく、変化させ、翼が思考さえも刀と同化させていく。
 世界から音がなくなる。色がなくなる。翼の瞳に映るのは普段とおなじ、天翔の世界。

 ―――だが。

 まだ、まだ足りない!この程度では届かない!
 頭のなかでそう響く。だからこそ、思考を回転させる。
 【御神】を打倒するための方法を。技を。
 その瞬間、天啓がおりた。かつて、そう三年前の彼との会話を思い出したのだ。









 ―――翼、お前は強い。お前ほどの才ある者を俺は知らない。
 ―――貴方にそう言って貰えるなんて光栄ね。

 ―――だが、だからこそ惜しい
 ―――それは、どういうことかしら?

 ―――お前はもし神速、お前でいうならば天翔か。それが通じない相手と剣を交えることになったらどうする?
 ―――そんな相手がいるとは思えないけど。

 ―――いるさ。げんにお前の天翔は俺に通用したか?
 ―――それは……。

 ―――それにな。あの世界にはまだ【先】がある。
 ―――そんな……まさか……。

 ―――信じられないのも無理はない。だが、事実だ。確かに存在する。誰もが有り得ないと思っているからこそ、どれだけ無茶苦茶なのか分かっているからこそ……辿り着けなかった世界が。
 ―――それが本当なら面白いわね。

 ―――ああ。もし、お前が俺を超えたいならば……辿り着いて見せろ、その世界に。
 ―――ええ。必ず。













 懐かしい過去の会話。それに、思わず笑ってしまう。
 冷笑でも、見下した笑みでもない。誰もが見惚れずにはいられない魅力的な笑みを。
 クスリと再び笑うと、翼は深く深く、まさに深海のように、己自身を遥かなる底に導いていく。

 普段当たり前のように踏み入る天翔の世界より遥かな底へ。
 だが、足りない。全然足りない。
 天翔と神速の世界での刀と小太刀の応酬。【御神】は軽々とその世界で、翼の猛攻を防いでいる。まるで子供をあやすかのように。

 足りない?何が?力?速度?技?
 違う。そんなものではない。
 己の才能に対する自信……私ならできると。必ずできると。
 信じる心。意思。決意。

 【彼】が言ったのだ。私―――天守翼の才能は……【彼】でさえ比肩する者を知らない、と!
 【彼】が言ったのだ。己を超えて見せろ、と。

 だから……だからこそ負けるわけにはいかない!!
 私が、私だけが【彼】と共に歩む資格があるのだ!!彼と共に修羅の道を!!三年前に、その道へと誘ってしまった、それが私の―――贖罪!!

 腕が、足が、肺が、心臓が、思考が重い。
 だが、まだだ。

 【彼】が私に伝えたのだ。この世界には先があると。
 ならばそれを証明してみせる!他ならぬ私が!
 天翔でさえ対抗できないならば……その領域を持って……【御神】を倒す!!

 今までよりも遥かに長く天翔の世界にその身を置き、身体中が限界だと悲鳴をあげても、翼は天翔の世界から抜け出すことはしなかった。
 限界を越え、更に限界を超えたその瞬間。世界が変わった。
 無音の世界でパンと何かを突き抜けた音が翼の耳をうった。

 光が、見えた。輝く光が、モノクロの世界を彩る。
 普段感じる、先程まで感じていた、苦しさがスっとひいた。今ならば全てを見通せそうな感覚を翼はその身に宿した。
 
 ―――これが……更なる高み……天翔を超えた領域。

 この世界を支配下においた私は……勝てる。彼女に。【御神】に。

「……見事よの」

 ぞっとした。心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖。
 天翔をこえた……更なるその領域で、【御神】はなお笑っている。
 本来ならば、この時間外領域で言葉など聞こえるはずがない。それなのに確かにはっきりと【御神】の声は翼の耳に届いた。
 有り得ない、時間の凍った空間。その世界で【御神】は、翼の全ての上をいっていた。

「褒美に見せてやろうではないか……【御神】を極めし者の真の一閃を」

 思考する余裕もなく、翼は……己に迫ってくる白色光に煌く一筋の剣閃を呆然と見つめることしかできなかった。















「まさか妾に【閃】を使わせるとはのぅ……末恐ろしい小娘よ」

 【御神】はそう一人ごちると小太刀を納刀し、地面に横たわっている翼を見つめた。
 僅か二十にも満たない小娘が一瞬とはいえ【御神】を体現した自分に匹敵する能力を示し、全力をださせたのだ。
 【御神】ですらあの世界に……神速を越えた世界へ到達できたのは何時であったか。 

「これが才能というものかのぅ」

 成る程。確かに不破の子倅が、天才と賞賛していただけはある。
 美由希は間違いなく御神の歴史において並ぶ者がいない才能の持ち主だ。それでも、天守翼はそんな美由希の才能をも上回っている。

「先程の一瞬。お主は不破の子倅をも凌駕しておったよ」

 慈しむように地に伏せている翼を一瞥すると踵を返して離れようとする、が……。

「どこに……いくのかしら……?」
「……!?」

 その声に、驚愕の表情の【御神】が振り返る。  
 信じられないことに翼が立ち上がろうとしていた。生まれたての小鹿のようにぶるぶると震えながらも。
 それでも刀を支えにゆっくりと確実に。

「妾の閃をその身に受けて……まだ立ち上がるとはのぅ」

 【御神】は心底驚いていた。峰を返しての一撃とはいえ、御神の奥義の極み。
 如何なる相手をも無力化する活殺自在のその技を、受けてまだ立ち上がることができるとは。いや、意識があることさえ信じられない。

「あまり無理をするでない。もはやお主は限界であろう?」
「……それは……どうかしらね?」

 こふりっと、咳をする翼。ビチャリと、地面に吐血する。

 【御神】の見立て通り、翼はすでに限界であった。
 天翔の連続使用でさえ、身体に過度の負担をかけていたのだ。更に、天飛を越えた領域に足を踏み入れた代償は軽くはない。
 付け加えて、【御神】の一撃。もはや意識を保つことさえ辛い状況である。
 それでも翼は不敵に笑った。

「妾はお主を殺したくないのじゃよ。お主も……御神美由希を殺そうなどと考えてはおるまい?」
「……」
「……お主は御神美由希を実戦で鍛えようとしておったのじゃろう?そうでなければ当の昔にこの娘はお主に殺されておる」

 そう【御神】が答える。小太刀も抜こうとせず、柔らかい視線を翼に向けたまま。

「だから妾もお主を殺さんよ」

 翼がガクリと肩と顔を落とす。【御神】もそれを見てようやく、安堵のため息をついた。
 翼を殺したくない。それが【御神】の本心である。長きに渡って御神の歴史を見てきた自分にとって唯一の楽しみが、人の成長を見届けること。
 間違いなく目の前の少女は……近い将来更なる高みにのぼっているだろう。

 不覚にもその姿を見たい、と思ってしまったのだ。【御神】は。
 これ以上戦って、そんな逸材の剣士としての将来を奪うような怪我を負わせたくはない。

「……【殺したくない】、か」

 ポツリと、そう翼が呟いた。そしてゆっくりと立ち上がる。俯いていた顔をあげ、震える両足に力をいれて。

「……屈辱だけど……今の私は……その言葉に甘えるしかないようね……」

 強い夜風が吹く。それだけで翼はぐらりと揺れて倒れそうになるのを、なんとか刀を支えにする。

「でも……分かったわ、貴方の底が」
「なんじゃと?」
「何時か……貴方を倒すわ。この私が、必ず」

 【御神】の疑問に答えることなく、今度は翼が背を向けてゆっくりと歩き出す。
 敗北を喫したままこの場をさることにどれだけの屈辱を覚えるか。
 だが、それでも……負けたくない以上に死にたくはない。
 死んだら全てが終わりだ。そこから先には何もない。剣士としての終わり。全ての終焉。

 ―――だから、耐えなさい!天守翼!今はこの屈辱に!

 ガリっと歯軋りをしながら、校門寸前まできたところで、地面に躓き倒れそうになった。
 それを横から出てきた水面が支えた。

「やーやー。大丈夫かい、天守?」
「……余計なお世話よ?」

 そう言って翼は水面から離れると一人で歩き出す。

「あーあ。折角支えてあげたっていうのにさー」

 後頭部で両手を組み、つまらなそうに翼の後に水面は続く。

「いやー、一体あんたたちなにやってたの?はっきり言って全く見えなかったんだけど」
「……さぁ?」

「全く、化け物よねー。ってか、なにアレ?御神?よくわからないけど……でたらめに強いんだけどさ」
「ええ……そうね。強いわ。でも、それだけよ」
「うん?」

 水面を無視して、翼は痛む身体をおして夜空を見上げた。
 そう。確かに強い。桁外れに。
 恐らく【彼】よりも強いだろう。腹立たしいことだが。

 【御神】の強さは完成された強さだ。どこから見てももはや口を挟む余地もない、完璧な強さ。
 だが、それだけなのだ。もはや成長もしないだろう、アレが限界だ。
 でも、【彼】は違う。未だ発展途上。どこまでも高く、強く成長していっているのだ。

「貴方は……超えられるわよ、【彼】にね。必ず」 

    















 翼の姿が見えなくなった頃に、突然、【御神】は糸の切れた人形のようにふらりと崩れ落ちた。
 それを見て慌てたのが紅葉だ。あまりにも人智を逸した争いに、水面と共に加勢にきたはずの彼女たちは呆然としているしかできなかった。

「御神さん!?大丈夫ですか!?」 

 崩れ落ちた【御神】を胸にだいて揺さぶる。しばらくしてようやく閉じていた眼を開けた。

「……如月……さん?」

「気がついたんですか?良かった……」

 心底ほっとしたようにため息をつく紅葉。美由希は焦点のあわない虚ろな表情のままギュっと紅葉の服を握り締めた。

「……悔しい」

 ぽつりと呟いた。
 美由希は見ていたのだ。【御神】の内から先程の戦いを。
 以前に見た、恭也と殺音の戦いにさえ匹敵しかねない、剣士の戦いを。
 自分のうちに【御神】が……本人の言うことが本当ならば守護霊がいたことにも驚いたが、それ以上に悔しかった。

 恐怖に負けて、【御神】にこの身体をわけあたしたことを後悔していた。
 己を信じず、戦いを放棄した不甲斐なさ。

「……私は……弱い……」

 涙が流れる。己のあまりの弱さに。
 こんな自分が師に、恭也に誇りにされることなど許されて良い筈がない。

「!?」

 ぞわりと、美由希の眼をみた紅葉の背筋が粟立った。
 今までの美由希とは正反対の……どこまでもどす黒い、負の何か。
 まるで天守翼か、それ以上の……何かに狂った瞳。

「私は……強くなる。誰よりも……誰よりも!!」

 悪魔さえも逃げ出すような、黒い感情を宿した、どろりとした暗い感情をのせて美由希は叫んだ。 

























                 ------エピローグ--------








「あー平和ねぇ」
「まーな」

 さんさんと陽をおとす太陽の光をあびながら、海鳴商店街の一画にあるカフェの窓際の席に向かい合って座っていた水面と葛葉がいた。
 葛葉は美由希に貫かれた肩がそう簡単になおるわけもなく、ギブスでガチガチに固定していた。
 葛葉の前にはカップにはいっているコーヒーが置かれていた。それに対して水面はオレンジジュースだ。
 両肘をテーブルについて、ストローでオレンジジュースを吸う水面。眠いのか眼がトロンとしている。

「毎日こんな天気だったらいいのにねぇ」 
「そうだな。俺は寒いの苦手だしな」
「あたしもさー」

 全てのみきったのか、残りは氷だけとなりカランと音が鳴る。
 水面はグラスを持って中にはいってる氷を口に頬張るとガリガリと噛み砕く。

「あれから一週間かぁ。永全不動の本家のほうからもお咎めなしだし。よくわかんないわよねー」
「……そうだな」

 永全不動八門の戦いから一週間が過ぎていた。
 結局のところ一番の大怪我はここにいる葛葉だったのだが、病院が嫌いなためにとっとと抜け出しているわけだが。
 性格は少し乱暴だが、結局のところ根が真面目なため、ギブスをしたまま学校に通っているのだが、それを水面におちょくられていたりする。
 そんな葛葉がコーヒーを飲もうとカップを持った瞬間。

「ちょ……葛葉葛葉!!!!」

 水面が葛葉の襟を掴んで引き寄せる。それにバランスを崩した葛葉がコーヒーをテーブルにぶちまけた。

「な、なにしやがる!?」
「あれみて、アレ!!!」
「あん?」

 水面が指差した先。その先には翼がいた。
 上から下までの服装が全て漆黒。それは相変わらずだ。だが、長い髪をリボンでとめ、あろうことか薄く化粧までしている。
 半年近く一緒にいたが、化粧をしているところなどみたことすらないというのに。
 いつもの冷たい雰囲気は無く、遠めからみても上機嫌なのが分かる。

 二人に気づくことなく翼は商店街を歩いていく。それを呆然と見送っていた水面と葛葉だったが、正気にもどると、支払いをすませて急いで後を追う。
 野次馬根性とでもいうべきか。それでも二人の知っている翼とは全く違う彼女が何故あんなに上機嫌なのかどうしても知りたいために気配をけして慎重に尾行する。

「……相当うかれてるわねぇ、天守」
「だな……俺達の尾行にもきづかねーくらいだしな」

 ヒソヒソと話す二人だったが、尾行すること数分。ようやく翼が何かに気づいたように薄く口元を綻ばせると手を振って、オープンテラスになっているカフェのテーブルに座っている青年の元に近づいていった。
 待ち合わせが男という事実に驚愕の表情で固まる葛葉。
 それと同じく、水面もまた翼の待ち合わせの青年を見て固まった。

「あの男って……【不破】!?」



















「待たせたかしら?」
「いや。そうでもない。俺も今さっき来たところだ」
「それなら良かったわ」

 失礼するわね、と言って翼は恭也と向かい合って腰をおろした。
 注文を取りにきたウェイターに適当にメニューを頼む。そのウェイターが翼に若干見惚れていたのはご愛嬌である。
 以上、という翼の答えに我を取り戻したのか、慌てて店内に戻っていく。
 翼は足を組むと恭也に笑いかける。普段の相手を見下す笑みではない。まさに【女】としての笑み。

「改めて久しぶりね?恭也」
「ああ。健啖そうでなによりだ」
「クス。直に会うのは三年ぶりかしら?」

「そうだな。電話では時々話していたんだがな」
「……その電話も私の方からしないと、かけてこないくせに」
「うん?何か言ったか?」
「いーえ。何でもありませんよーだ」

 べーっと恭也に舌をだして翼が答える。恭也は苦笑するとガシガシと髪をかく。
 先に注文していたコーヒーを口に含んで一息。
 翼を優しげに見ていた恭也だったが、っふと視線を鋭くする。

「……怪我は大丈夫なのか?」
「ん……それほど重傷じゃなかったわよ?と、いうより私の方が吃驚」
「そうか。それなら良かったんだが」
「って、それよりも!!」

 ダンっと両手でテーブルを叩いて思わず立ち上がる。

「何よ、あれ!!聞いてなかったわよ!?」

「うん?何のことだ?」
「御神美由希のことよ!!彼女は凄い腕前だと思うけど……【御神】って寝耳に水なんだけど!!」
「……【御神】が出てきたのか」

 心底驚いたように恭也が眼を見開く。それをみて少し落ち着いたのか翼が椅子に座りなおす。

「アレってなんなのよ?」
「さぁな。俺も詳しいことはわからん。分かっていることは、あの存在が御神流を最強たらしめんとしている、ということだけだ」  
「……」

「御神宗家において、別格の才能を持つものだけに顕現する別人格。御神の歴史全てを見届ける者。以前は御神宗家の長女である御神琴絵さんという人に宿っていたのだがな。病弱であったためにそうは表には出ていなかったから、俺もそうは会ったことないんだ」
「まさか御神宗家が最強と称された理由って……」
「そうだ。【御神】がいるからこそ、だ」
「……そう」

 一端口を閉ざすと、ウェイターが運んできたミルクティーを口に運ぶ。
 一瞬の沈黙。その沈黙をやぶって、しかし、と恭也が呟く。

「【御神】が表にでるのは完全に俺の読み違いだ。迷惑をかけた」

 そう言うと恭也は頭を垂れる。それに慌てたのが翼だ。わたわたと両手を顔の前で振る。

「き、気にしないでいいわよ!私は気にしてないんだし!」
「そうか。すまんな」
「……う、うん」

 若干顔を赤くした翼がぷいっと視線をそらす。

「まぁ、美由希の面倒を見てくれて助かったぞ。あいつよりも格上の……命のやり取りが行える相手が欲しくてな」
「……貴方の頼みだし。三年前の借りは返したわよ?」
「……三年前か。まだあの時のことを覚えていたのか」

「忘れるわけないじゃない……」

 深い悔恨。翼の瞳に悲しさが混じる。自分が恭也を、地獄の入り口へと導いてしまったのだから。
 ハァと重いため息をついて気づいた。恭也も、また万全の状態ではないことに。

「恭也もどこか怪我してない?」
「……ばれたか」
「それはね。流石に気づくわよ。貴方の前にいる私は誰だと思ってるの?そこらの俗物じゃないわよ」

「くっ……それもそうだな。失礼した」
「で、貴方にそれだけの傷を負わせたのってどこの誰かしら?」
「ああ、【死刑執行者】だ」
「ふーん」

 あっさりとした恭也の答えに、これまたあっさりと返事をした翼。
 一拍の時。

「ッケホ……!?」

 むせた。それはもう、おもいっきり。これ以上ないくらいに。

「し、死刑執行者!?」
「ああ」
「ああ、って何よ!その冷静沈着ぶり!?死刑執行者よ、死刑執行者!あの、十人の中で最も有名な!五百年前から第三世界の最後の砦とも言われている王の一人よ!」

「大げさな奴だ」
「大げさじゃないわよ!特殊能力を使わない戦闘においては【百鬼夜行】と並ぶと言われているあの化け物を……三年前のあいつの比じゃないわよ……」

 ガクリと翼は心底疲れたように深く腰をおろす。この男の、恭也のでたらめぶりは三年前から知っているが、まさか今度はこんなとんでもないことをやってのけるとは……。
 間違いなく、第三世界は揺れる。あの十人の一人が、たかが【人間】に崩されるなど有り得ないことだ。
 だからこそあの時も……。

「気にするな。何時かこうなることは眼に見えていた。三年前から、な」
「っ……」

 恭也の言葉に翼が俯く。
 そうだ。そうなのだ。結局、死刑執行者を倒そうが倒すまいが、こうなることは決まっていたのだ。
 それが遅いか早いかの違いだけ。そのために、私はここにいるのだ。
 彼だけを、恭也だけを修羅道を歩ませないために。
 そう誓いを新たにした翼は一気にミルクティーをあおった。



















「あ、あれが天守かよ……?」 
「ま、ま、まぢで……?」

 近くにある花壇に隠れながら会話を聞いていた二人は背筋に鳥肌を立てながらガタガタと震えていた。
 違う。あまりにも違いすぎる。
 自分達の知る天守翼とは。
 あれではそこらへんにいる普通の恋する乙女ではないか。最も、剣の腕だけは乙女とは言い難いのだが。
 水面も葛葉もあまりの事態に思考がスパークしてどうしようもない状態であった。

「それでは、俺は帰るとしよう。またな」
「……ええ。またね、恭也」

 そう言って遠ざかっていく恭也の気配。だが、もう一つの……肝心の翼の気配が動かない。
 はやくいってくれーと願う二人を無視して、一瞬気配が消えた。
 ぞわりと嫌な空気が周囲に満ちる。そして、いつのまにか翼は花壇の上に立ち、二人を見下ろしていた。
 その瞳は冷たい。そのまま凍らされるのではないかと思うほどに。

「あ、あ、あ」

 恐怖でうまく口も回らない。葛葉も水面も蛇に睨まれた蛙のようにガタガタとふるえながら死刑を執行される罪人の如く見上げていた。

「二人とも」
「「ひゃ、ひゃい!!」」
「今日のことを誰かに話したら……」

 一息。

「殺すわよ?」

 返事も聞かず翼は踵をかえすと歩き去っていく。完全に姿がみえなくなっても二人はしばらくそこで震えていた。
 歩く。ひたすら歩く。翼が何も眼を向けることなく歩いていく。
 数分で、現在住んでいるマンションに到着。エレベーターにのり、自分の部屋に入った。
 そのままドアをあけてベッドに飛び込んで顔を枕に押し付ける。

「ぁぁ……ぅぅ……」

 顔が赤い。真っ赤に染まっている。それは果てしない羞恥によるためだ。
 失敗した、という想いが頭を埋め尽くす。そう、とんでもなく失敗したのだ。
 随分久しぶりに恭也に会えるからと、化粧までして待ち合わせ場所にいったというのに。
 相当浮かれていたのだろう。普段なら気づいたはずのあの二人に気づけなかった。
 しかも、聞かれてしまったのだ。恭也との会話を。

 ―――恥ずかしい。恥ずかしすぎてどうにかなりそうね。

 もし、万が一にもこの話が広まったりしたら……。 
 
「……本当に殺すわよ、鬼頭!!!葛葉!!!」











 
  

















[30788] 旧作 御神と不破 二章 恭也編 前編
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/03/11 01:02








 九月も半ばに差し掛かり、徐々に日差しも柔らかになってきた暑くもなく寒くもない過ごしやすい時期。
 恭也はもうあと一週間もすれば大学が始まることにやや憂鬱になりながらも日々を過ごしていた。【北斗】との邂逅以来、特に恭也に護衛の依頼もなく平凡な毎日である。
 早朝に起き鍛錬を行い、昼前になると翠屋の手伝いに行く。夕方になると家に帰り、また鍛錬を行う。普段ならば美由希と一緒に鍛錬を行うが、未だ北斗との戦いの怪我が完治していないので念には念を入れて美由希には別メニューを課している。

 大学生でありながら色気も何も無い生活サイクルに桃子は呆れ気味で、何かしら裏でコソコソ動くような真似をしていたようだが。 いい若い者が真昼間からふらふらとしているのはどうかと思われるが一応恭也にも予定があった。
 来週から始まる大学の講義の時間割をとりに大学に行かねばならないのだ。勿論、用事はそれだけなのでわざわざ大学へいくことが大変無駄に思えてしまう。もっともほとんどの大学生が一度は考えることであろう。

 高校と違い恭也が通っている大学は出席を取らない講義が多い。テストで良い点をとればいいだけなので普段の講義で爆睡している恭也にとって授業態度が考慮されないというのはあり難い。
 だが、テストで良い点をとれるかといわれれば首を傾げざるを得ない。
 同じ大学に通っている親友の【月村忍】と【赤星勇吾】とできるだけ同じ講義を取りノートを確保できるようにしてはいるが、もし二人がいなかったらと思うとゾッとする。
 しかし、学部も違うためそのうちバラバラの授業をとらなければならないことを考えてため息をつく恭也。

「あ、恭也ー!」

 そんな鬱になっている恭也を遠めで見かけた、やや紫がかった黒の髪を腰近くまで伸ばした女性が声をかけてきた。
 周囲の男女問わず反射的に振り返ってしますほどの美貌の持ち主。

「【忍】か。今日は大学へ行くんじゃなかったのか?」
「んーその予定だったんだけどね。ちょっとめんどくさくなっちゃってね。どうせ恭也もそのクチでしょ?」
「……まぁ、否定はせん」

「あはは、やっぱり。内縁の妻の忍ちゃんにはお見通しよ」
「誰が内縁の妻だ、誰が」
「わたしわたし」

 嬉しそうに笑って自分を指差す忍に恭也は呆れたようにため息をつく。
 恭也の目の前にいる女性は月村忍。高校三年間クラスが一緒であったにもかかわらず親しくなったのは高校三年のときからである。
 僅か一年と半年程度の付き合いではあるがもはや親友という言葉が相応しいほど互いに心を許しあっている。
 夜の一族という存在を知ったのもこの忍との関係からなのだ。

「赤星君が大学行ってくれてるみたいだから今日はゆっくりしようよ」
「……そうするか」 

 正直、内心面倒くさがっていた恭也は赤星が行ってくれてると聞きあっさりと忍の言葉に誘惑される。
 忍はそんな恭也の手を取ると近くにある喫茶店に入店した。よほど嬉しいのか自然と鼻歌など歌っていたりする。

「ここの喫茶店って結構評判いいのよね。翠屋ほどじゃないけどー」

 ウェイトレスに奥の席に案内され、とりあえずコーヒーを二つ頼む。ウェイトレスは見事な営業スマイルを残し戻っていく。
 忍はテーブルに両肘をつき、手を組む。その上に顎を乗せると恭也に向日葵のような笑顔を見せる。

「なんだか恭也と会うのも久々な気がするね。電話は結構してたんだけど」
「まぁ、そうだな。互いになんだかんだで色々用事があったみたいだしな」
「あはは。私はちょっと【さくら】と海外へ出かけてたしね。毎年恒例だから恭也と一緒に行きたかったんだけど……」

 タイミング悪かったかしら、と忍は苦笑する。
 丁度その頃は【北斗】との戦いが終わったばかりだったので丁重にお断りしたのを恭也は思い出した。

「それよりドイツはどうだったんだ?」
「んー……毎年行ってるけどいい所よ。今度機会があったら是非行こうね」
「ああ、その時はよろしく頼む」

 くすりと忍は笑うと今までの笑顔を消し、突然真面目な顔になる。

「恭也……【北斗】と戦ったって本当?」
「……誰から聞いたか分からんが、事実だ」
「なんて無茶をするのよ……」

 恭也の答えに忍は心底呆れたような、賞賛するような表情でため息をついた。

「【破軍】の水無月と戦ってよく無事だったわね……」
「……殺音のことを知っているのか、忍?」

 水無月殺音のことをファーストネームで呼ぶ恭也に忍がピキっと頬を引きつらせるが、それも一瞬。
 ウェイトレスがコーヒーを運んできたので一端話を中断させ、コーヒーを一口含む。
 うまい、と恭也は呟いた。確かに翠屋には及ばぬもののこの値段でこの味は十分破格ともいえるほどの味わいだった。
 コーヒーを堪能したそんな恭也を見ていた忍が先程の続きと口を開く。

「んー。かなり有名よ、夜の一族の間だと。色々物騒な名前で呼ばれてたりした女性でね。近い将来、頂点の【十人】のうちの一人になるんじゃないかって話もあったくらいだし」
「……【十人】、か。そこまでの剣士だったのか……」

 恭也の唖然とした返答。恭也の無謀さに忍が顔を顰める。
 その後、夏休みあった出来事などを互いに話し合っているといつのまにか時間が過ぎ、夕日が差す時間帯になっていた。
 コーヒー一杯でそこまで粘る二人。店員も嫌な顔一つしないのがまた凄い。精算をすませ、喫茶店から外に出る。カランカランというベルの音を、聞きながら恭也は夕日を見上げる。その横では忍が手を合わせて空にあげ、伸びをしている。

「それじゃあ、またね恭也。今日は話せれて楽しかった」
「ああ。また大学でな」

 忍はぶんぶんと手をふりながら上機嫌で鼻歌をうたいながら人波に消えてゆく。

 ―――やっぱり恭也は凄い!!

 身体がブルリと震える。発情期に入ったときのようにぞくぞくとした快感が全身を巡る。
 水無月殺音のことは濁しながら話してはいたが実際は決して敵対してはならない存在だと、幼い頃から聞かされたものだ。
 夜の一族の間でも戦いを挑むことは死に繋がる。正真正銘の死神だと、称された女性。

 その水無月殺音をも打ち破ったのだ。ただの人間が。たかだか二十年も生きていない人の子が。
 さすがは私と誓いを立てた人。
 古代の技術で造り上げられた最終生産型自動人形イレインをも打ち破った剣士。
 私が知る限り最強の―――ヒト。

「はぁ……」

 艶っぽいため息が漏れる。身体が火照っているのがわかる。
 絶対逃がさない。

 ―――私と共に、私の闇を歩いてもらうからね、恭也。 

















 

 学校帰りの学生。買い物途中の主婦。少々早めの帰宅の会社員。
 そんな大勢の人間でごったがえした商店街。
 恭也も忍が去っていった方向とは逆へと足を向ける。人々が向かう方向ともまた逆へ。人気がない方へと若干足早になりながら。
 ふと前方をみるとそこに工事を行っているのか、白い布で周囲を覆っている現場が視界に映った。

 意識を鋭くして周囲の気配を感じ取る恭也。その工事現場に誰もいないことを確認すると躊躇いもなく布をまくって中に入った。
 周囲を軽く見渡す。思ったとおり今日は休みなのか工事は途中で放置されており、人影はない。また、外から中の状況が見えなくなっている。    
 
「―――丁度いい所があってよかった」

 呟いて右手を上げる。翳すようにある方向へ掌を向ける。

「出て来い。俺に話があるんだろう?」

 夕日で作られた影の中、恭也が掌を向けた先。その闇のなかから小柄な人影が音もなく姿を現す。
 風芽丘学園に居る時とは違い、おちゃらけた表情など一切ない水面だ。
 見たことのない顔に恭也が不審気に眉を顰める。およそ、数メートルの間合いを取り水面は足を止めた。  
   
「もう一度聞く。俺に何か用か?最近何度か俺の様子を窺っていたようだが」
「私の気配に気づかれていましたか。さすが、と言うしかありません。こう見えても隠形の術に関して言えば自信があったのですが」
「確かにな。大した手前だ」 
「噂に名高き【不破】にそういって頂けるとは光栄の至りです」

 そう水面が言葉を返した時だった。全身の毛穴という毛穴から冷や汗があふれ出した、と錯覚するような怖気に襲われた。
 地面を蹴る。例えどんな攻勢に出られたとしても反応できるようにとっていた数メートルの間合い。確実な安全圏。
 それが一瞬で崩壊した。自分が安全圏だと思っていた所は危険地帯。その気になれば首を落とされるであろう死の領域。
 恭也から水面はさらに距離をとった。相手の武器は間合い精々数十センチ程度。届くはずがない距離。
 それでも水面の眼には喉元に小太刀を突きつけられてるような幻覚が、全身が圧迫感を感じ取っている。

「話があるならば聞こう。だがもし、お前が俺の家族を害する使者であるならば―――」

 恭也が腰を落とし、前傾姿勢を取る。

「―――斬る」

 その言葉が鋭利な刃となって水面の全身を切り刻んだ。  
 全身から鮮血を噴出したかのような幻覚。勿論恭也は武器など持っていない。無手だ。
 だが、水面は確かに見た。恭也の腰に挿された幻想の小太刀を。

「お、お待ちください!!非礼をお詫びします!!私は【永全不動八門】一派が一、【鬼頭】の者です……!!」

 水面はかすれるような声で腹から声を振り絞って叫ぶように訴える。誤解を解かねば今度は幻覚ではなく、本当に斬られる。
 そう感じる冷たさが確かに恭也には存在した。
 【鬼頭】という単語に恭也がピクリと眉を動かす。恭也は殺気はそのまま、無言で水面に続きを言うよう促す。

 恭也が僅かとはいえ話を聞く体勢になったことに安堵しながら水面は呼吸を整える。
 だが、これより先うかつに言葉を違えることはできない。自分の命はまさしく目の前の男に握られているのだ。
 水面は地面に片手と片膝をつき頭を垂れる。まるで騎士が王に忠誠を誓うかのように。

「失礼いたしました、【不破】殿。お初にお目にかかります。永全不動八門一派【破神】の【御神】が闇。【不破】の当主。私は鬼頭水面。この地、海鳴に派遣された鬼頭宗家の者です」
「鬼頭が今更、何用だ?」
「恐れながら私だけではありません。鬼頭を含む永全不動全ての一族がこの地に集結しております」
「……ほぅ」

 永全不動八門が全てこの海鳴に集結していると聞き僅かに驚く。
 
「半年ほど前のことです。鬼頭当主から私に海鳴にて他の永全不動八門と協力して【御神】の監視を行えと命が下りました。それの意図することは私にはわかりません。ですが、本日【天守】により……【御神】と……戦争を行うと……」

 最後の方は恭也の怒りを恐れて尻すぼみになりながら、水面は恭也の様子を窺う。
 そんな恭也は意外や意外。先程のような殺気は放たず、戦闘体勢をスっと解除した。
 ふむ、と顎に手をあてて考え込む。

「―――天守か」 
「はい。かつての【御神】と立ち並んだ永全不動八門一派。【御神】にかなりの敵愾心を抱いているようですが……」
「天守の誰が来ている?」

「……最悪の相手とも言えます。化け物揃いの天守宗家でも百年に一人の逸材と謳われる天守の次期当主……」 
「【天守翼】だな」
「ご存知でしたか。御推察の通りです」

 その答えに考え込む恭也。そんな恭也に対して水面は今まで垂れていた頭をあげる。

「恐れ入りますが【天守】の行動は不自然すぎます。私としても今回は【天守】の独断だという疑いを捨て切れません。今一度鬼頭宗家に連絡をとってみようと思います。【御神】には不干渉……その約定を破るわけにはいきませんので」

 それに……と水面は首を振る。

「私達【鬼頭】は誰よりも中立であらねばなりません。ですが、他の者達はどうかわかりません。私が鬼頭宗家と連絡が取れるまで【御神】殿と行動を共にすることを願います」

 真剣な水面。真摯で裏がないように見える。いや、恭也の眼からみても裏はない。そう確実に断言できる。
 恭也は気づいた。この女性は、本当に自分と美由希の心配をしているのだと。
 だが―――。

「いらぬ心配だ。あいつは、美由希はどこまでも【御神】だ。この俺が鍛え上げた最強へと至る剣士。その美由希に勝てると思うのならば戦いを挑むがいい」
「っ……!!」

 恭也はそう水面を睥睨すると、踵を返す。その背中に追いすがろうとして水面は言葉に詰まった。
 拒絶している。話は終わりだと。恭也の雰囲気が、壁を作っていた。
 水面は理解できない。

 確かに【御神】は強い。あの歳でどれだけの鍛錬を費やしたのか、どれだけの才能を必要としたのか。
 恐らく自分でも一対一では勝てはしまい。現段階の能力でさえそれなのだ。潜在能力などは底が知れない。
 それでも、恭也は理解していない。【天守】の危険さを、強さを、異常さを。

 百年に一人の逸材と言われているが、それですら甘い考えだと思わざるを得ない圧倒的な才能。
 努力という言葉を嘲笑うかのように凡人が一を行く間に百を行く少女。
 才能に胡坐をかきながらも才能だけで他を凌駕する。
 水面が見てきた中で天守翼ほど強き者は【先程】までいなかった。そう、【先程】まで―――。

「あれが、【不破】!!あれが、【絶刃】!!」

 恭也の姿はすでにない。それでも未だに声が震える。身体がカタカタと鳴る。全身が硬直したように身動きが取れない。
 噂には聞いていた。【不破】の存在を。
 三年ほど前に行われた永全不動八門の会談。無論、滅びた【御神】を除いてだが。
 その会談に【御神】当代代理として現れ、御神が未だ健在だとたった一人で他の七の当代に【認めさせた】、化け物だと。
 噂はメダカが鯨になると言われている。話半分に聞いておけ、とも。

 だが―――。

「あの男……桁が違う……」

 今回ばかりは噂のほうが可愛いものだ。全くもってとんでもない。叔父が、鬼頭当代が【不破】にだけは関わるなと言った理由がよくわかる。
 【御神】相手ならば場所と罠をかけて自分の土俵で戦えば勝てる芽はある。
 だが、【不破】を相手に戦いを挑んだならば、絶対に、完璧に、限りなく、壊滅的に、勝利の文字など浮かびもしまい。
 天守翼でも―――勝ちの目など一片たりともありはしまい。

 【不破】はああ言ったが、弟子をやられて黙っている筈が無い。
 
 ―――本格的な戦争になる前に、鬼頭家と連絡を取らないと……。

 ようやく治まりつつある震えをおさえながら水面は夕闇に消えた。

  
 



 














 高町家は一風変わった家族構成である。
 母親であり大黒柱の高町桃子。長兄である恭也。コンサートで海外を飛び回っている長女的存在のフィアッセ・クリステラ。次女的存在の高町美由希。美由希に続き鳳蓮飛と城島晶。末っ娘の高町なのは。
 実際に血の繋がりがあるのは桃子となのはだけ。
  
 血の繋がりがなくても家族になれるという例の一端だろう。
 晶とレンが作った夕食を皆で食べる。相変わらず桃子が楽しそうに話し、なのはや美由希が頷く。
 晶とレンの二人は口喧嘩をしながらもどこか楽しそうだ。

 恭也は桃子に絡まれながらも黙々と夕食を箸で口に運ぶ。
 毎日これほど美味しい料理を食べれることに内心感謝しながら。無論、二人に礼も忘れてはない。
 プロとはいかないまでもそれに近い料理の腕を持つ二人。そして正真正銘のプロの桃子。
 なのはも次期翠屋店長をめざしているのか最近料理に目覚めていたりもする。つまり……。

「料理ができないのはお前だけということだ、美由希」
「ぇぇ!?何、いきなり?きょーちゃん、脈絡がないよ!」
「うるさい、黙れ」
「な、なんか酷い……」
「悔しかったら少しは食べられるものを作れるようになることだ」

 恭也のあまりといえばあまりの言いようにシクシクと涙を流す美由希。そんな恭也と美由希を顔を苦笑いしながら見る晶とレン。
 少し言い過ぎという感じも否めないが、実際美由希の料理は酷いものだ。まだ、料理を習い始めたなのはの方がましかもしれない。
 最も、それも仕方のないことかもしれない。幼い頃から剣一筋だったのだ。料理などといった女性らしいことは一切習っていないのだから。
 習っていないのにやれといわれてもそれは無茶だろう。最も、恭也が無茶と分かっていても言いたくなるほど酷いのだから桃子でさえも笑って誤魔化すしかない。
 夕食を食べ終わり、桃子はなのはと一緒にお風呂へ。レンと晶は食器を洗っている。恭也は鍛錬に使う道具、小太刀や飛針、鋼糸などを用意すると二人に声をかける。

「では、俺は何時もどおり出るぞ。悪いが後は頼む」
「了解ですー。おししょー」
「頑張ってきて下さい!師匠!」
「ああ。美由希には何時もどおりのことをやっておけ、と言っておいてくれ」

 そういい残すと恭也は高町家を出る。
 もう秋に近いのか、日が沈むのもかなり早くなってきたのかすでに辺りは家からの電気や街燈の明かりが目立つようになってきた。
 闇は人を恐れさせる。だが、恭也は幼い頃から常に闇と共に在った者。逆にどこか心が休まるところがあるのも否定できない。

 いつもの鍛錬場所に向かうために軽く走って流す。恭也からしれみれば軽くだが、通りすがりの人がみたら驚きで眼を見開くくらいのスピードだ。
 調子は良い。一ヶ月前の【北斗】との戦いから実感できるほどに。
 嬉しいことに自分はまだ強くなれることが分かったのだ。美由希の師として、壁として、自分は誰よりも強くあらねばならぬのだ。
 ふと、星が瞬く夜空に殺音の顔が浮かんだ。
 
 ―――あいつは元気でやってるか。

 強かった。本当に強かった。記憶にある誰よりも。群を抜いて。
 あいつとなら俺もさらなる高みにいけそうだ。
 そう殺音のことを考えている己に苦笑する。

 まるで懸想しているようだな、これは。
 首をふってその考えを消す。余分なことを考えて怪我をしたら笑えない。馬鹿弟子は遠慮なく笑ってくるだろうが。
 夜の帳がおりる眼前の先に高くのびる階段が現れた。休むことなく階段を駆け上がる。
 ダンダンという音があたりの静寂を破る。息も乱さず、階段を駆け上った恭也が一息。

 視界に映るのは八束神社。恭也や美由希、晶がよく鍛錬場所に使う所である。
 この神社の裏手には森が広がっており、実戦形式で試合を行う場合大変重宝している場所だ。
 さすがにやや人家から離れているということもあり、人気はない。というか、今まで他の人に出くわしたことがない。

 鍛錬を行うのが早朝や深夜近いということもあるだろうが。稀に会うのがこの神社で巫女のアルバイトをしている那美だけである。
 柔軟をしながら恭也は先程の水面の言葉を思い出す。

「【あいつ】が動き出したか……。そう判断したのなら任せておくか」

 そう呟きながら柔軟を続ける。そんな恭也は本当に小さな気配に気づいた。野生動物のようにか細く、どこか脅えたような気配。
 まさかこんな時間に人が居るとは思わなかった恭也が首を捻る。どこかで感じたことがあるような気配。
 ごく最近。誰だったか、と一瞬考える。その気配が神社の中からこちらを窺っている。

「見てて楽しいものではないですが……?」

 これほど気配を消すことが出来る相手が普通の人間であるはずがないと判断して先に声をかけてみる。
 気配の主は戸惑っているのか動こうとしない。それ以上声をかけることなく恭也は手首、足首を捻る。
 コキコキと首をならすと神社を見据える。

 どれだけたったか、一分ほどだろうか。ギギっと木と木が掠れる音を立てて扉が開いた。
 闇が広がっている。その中からゆっくりと一人の少女が歩み出てくる。
 中学生ほどにしか見えない、幼い容姿。夜の闇に溶け込みそうなやや紫がかった漆黒の髪。その髪をツインテールにしている。
 物憂げにゆっくりと。よく見れば、整った容姿とは逆に服装も髪も泥や汚れで薄汚れている。その上、所々にほつれ穴があいている。その下からは白い肌がみえ、男を誘惑するようなそそる格好になっていた。
 怠慢な動作で視線を恭也に向ける。その少女を恭也はようやく思い出した。 

「―――水無月冥か?」
「……はは……一ヶ月の間逃げに逃げて……辿り着いたのが……お前の所とはね……高町恭也……運が良いのか悪いのか……」

 全てを諦めたような諦観の混じった声が冥からもれた。そこに込められたのは絶望。
 負の感情と入り混じった言葉が恭也の耳をうった。

「……他の連中はどうした?」

 聞くな、聞くなと、恭也の本能が全身を駆け巡る。それは聞いてはいけない。聞いたら後悔する。
 そう感じたがそれでも恭也は聞かざるをえなかった。なぜこれほどの少女がこんな状態になっているのか。

「……皆死んだよ、殺された。巨門も文曲も……殺音もね……生き残ったのはボクだけさ……」

 静かな冥の声。 
 その言葉は、今まで感じたどのような殺気や鬼気よりも恭也の心を鷲掴みにし、思考を強制的に止めた。
 どのような冗談か、もしくは幻聴か、と頭の片隅で考えながらも冥の言葉の続きを待ったが、それ以上続けることはないとその表情が物語っている。
 それから何も語らず、冥は心底疲れたように視線を地面に落とした。

 その姿の冥が真実を語っていると嫌がおうにも理解させられる。
 生み出される思考の空白。高町恭也という人間が、刀と一心同体ともいえる存在が、巨大な蛇に飲み込まれたかのように思考を闇に押しつぶされた。
 思考も身体も、その闇に溶け込んだかのように感覚が消失する。
 永遠ともいえるループ。唯ひたすらに思考がループする。それほどの衝撃。冥が言い放ったそれは確かに高町恭也を揺るがした。

 ―――馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な。

 今、冥は何と言った?
 何という言葉を言い放ったのだ。
 死んだ、だと。殺された、だと。
 あの殺音が。水無月殺音が。
 有り得ない。そんなことが有り得るはずがない。
 この俺と死闘を演じた、あの殺音を。超越的な戦闘力を誇った、あの化け物を殺せる存在がいるというのか。
 実際に呆けていたのは僅か数秒。だが、恭也は数十分もの間思考していたかのような錯覚を覚えていた。 

「……冗談というわけではないようだな」
「はは……冗談だったらどれだけ良かったことだろうね……」

 互いに互いが搾り出すような声。相変わらず冥の表情は虚ろで、まるでここにはいない別の誰かと話しているように。
 そんな冥の様子が、殺音が殺されたと言う事実を証明しているようで恭也が頭を振った。冷静になれ、と己に言い聞かせる。

「もう、いいだろう……?ボクも少し疲れているからね……今夜のことは忘れて帰ってくれ……」 

 冥はふらりと覚束ない足取りで境内の中へ戻ろうとする。

「誰に殺され……たんだ、あいつは?そこら辺の相手に遅れをとるはずが無いだろう」
「……」

 恭也の問いに対して冥は無言。答えるかどうか迷っているのか。
 答えを聞くまで退きはしないという強い執念が恭也から伝わってくるのが冥には分かった。沈黙が続く。

「……答えたら帰ってくれるかい?」
「ああ」

 迷いの無い肯定に冥の決心がつく。

「……人が生きる表と裏の世界。それより深い闇の領域。僕達北斗が活動してきたヒトとは異なる生物が闊歩する第参世界。その世界において他とは格が違う十人の存在がいるのは知っている?」
「まぁ、な。嫌でも耳に入る話だ。夜の一族を支配する十の王のことは」 
「そう。それなら話は早いよ。その十人のうちの一人。夜の一族を断罪する命の奪い手。死刑執行者―――そいつが殺音を、北斗を潰した男さ」 

 冥の口から飛び出た死刑執行者という言葉に恭也の瞳の奥に驚愕の光が宿った。全く想像もしていなかった存在。それが殺音の命を奪ったのだ。

「馬鹿な……何故執行者が動く?」
「……以前から何度か僕たちの活動について一族から忠告をうけていたんだけどね。殺音は全く聞くことは無かったんだけど……まさか執行者に話を通すなんて真似をするとは予想外さ」

 死刑執行者が動く時。それは夜の一族が同族、又は人間世界に重大な被害をもたらすと判断した時だ。まさか冥も執行者が極東の島国にまで態々出向くとは思ってもいなかった。

「それでお前も逃亡を続けていると言うわけか」
「……そうだよ。奴は一度狙いを定めた相手を決して逃がしはない。どれだけかかろうとも必ずその剣を獲物の命に届かせる」 

 かれこれもう一ヶ月さ、と心底疲れた雰囲気でため息をついた。それで恭也も納得がいった。常に命を狙われた逃亡生活が一ヶ月も続いたのだ。満足な睡眠も食事もとってはいないだろうという予想はまさしくその通りだった。

 冥が幾ら夜の一族とはいえそんな生活が続けば現在のような状態になるのも当然のことだろう。冥が話は終わったと、恭也から遠ざかるように足を向けた。

「ふむ」
「な、何をする、お前!?」

 恭也は音も無く冥の背後に忍び寄るとヒョイっと担ぎ上げた。しかも、お姫様だっこではなく荷物を担ぐように肩に冥のお腹を乗せ片手で背中を押さえる感じで。
 いきなり高くなった視線。見えるのは恭也のゴツゴツとした背中。担ぎ上げられたと気がついた冥がバタバタと両手両足を振る。

「あまり暴れるな落ちるぞ」
「暴れたくて暴れてるわけじゃない!!下ろしてくれ!!それに答えを聞いたら帰ってくれると言ったじゃないか!!」
「【一人】で帰るとは一言も言ってなかったから嘘ではないな」
「な!?」

 淡々と答える恭也の屁理屈に思わず言葉を失う。それに冥が非難するように恭也の背中を何度か叩く。本気ではないのだろうが結構痛い。最も誰にも見られていないとはいえ羞恥心は限界一杯なのだろう。顔が真っ赤に染まっている。
 先程の生気のない声とは違って今の冥の声には力強さが戻っている。それに多少安堵を覚え、冥を担いだまま神社に背を向けた。

「ど、どこへいくきだ!?」
「家に帰ろうと思ってな。お前もこのまま野宿する気なら一緒にくるといい」
「馬鹿か、お前は!!僕が居れば奴がくる!!執行者が!!」
「うまくまいてきたんだろう?でなければ、こんなところで宿を取る筈が無い」
「う……」

 言葉に詰まる冥。恭也の推測通りここ数日寝る間も惜しんで逃亡を続けていた。幾ら執行者といえどそう簡単に冥の行方を掴めれるとは思えない。
 冥の言うことなど左の耳から右の耳へ受け流すように恭也は八束神社の長い階段を降りていく。担がれている冥は全く振動がこないことに驚く。

「暖かい食事と風呂くらいは馳走しよう。知らぬ仲でもないしな」
「……馬鹿だよ……お前……」

 恭也が完全に引かないと分かったのだろう。冥ももはや無駄な反抗はせずに、されるがままだ。それに恭也の言った暖かい食事と風呂という言葉の魅力にもやられていた。

「了承してくれたようで感謝しよう。さすがに暴れるお前を担いでいるところを他の人に見られたらとんでもないことになりそうだ」
「……く……確かにな」

 少しおどけたような恭也に苦笑する冥。僅かにだが冥の気が緩む。 
 確かにこんな夜中に中学生くらいにしかみえない暴れている冥を担いでいるところを見られたらどうみても変質者にしかみえないだろう。
 大人しくなった冥から視線を前方に戻すと恭也はゆっくりと階段を降りていく。

 だが、もし冥が今の恭也の表情を見たらどんな気持ちを抱いただろうか。
 恐ろしいほどの無表情。まるで氷のように。先程まではまるで偽りの仮面であったかのような。
 家族である桃子やなのははおろか、弟子である美由希ですら見たことがないであろう、その絶対零度の表情。そんな恭也の内心に渦巻いているのは憤怒。
 己が唯一人のライバルと認めた殺音を殺した相手への……執行者への怒りだった。
 
 ―――水無月冥を狙って来るならばこい。その時がお前の最後だ、死刑執行者。

 恭也の心の声は誰にも届かない。その冷たい怒りを胸に恭也は冥を抱えて高町家へと足を向けた。


































 幾ら深夜とはいえさすがに担がれたままの状態は恥ずかしかったのか冥は恭也に大人しくついていくという約束をして恭也の肩から降ろされていた。
 元々無口である恭也と疲労困憊な冥。二人の間で会話があるはずもなく神社から高町家に着くまでほとんど会話らしい会話はなかった。
 普通なら気まずい雰囲気になるのだろうが生憎と恭也はそういったことを気にもしない。冥も疲労で気にする余裕もない。

「すまんが家族はもう寝ている筈だから静かに頼む」

 高町家の敷居を跨ぐのに若干躊躇っていた冥に声をかける。執行者に命を狙われている自分が他の人間と接触しても果たしていいのだろうか。

「遠慮などするな。俺が良いと言っているんだ。何を遠慮することがある?」

 冥の躊躇いを無視するかのように恭也は言ってのける。それに冥は戸惑いながらも恭也の後に続く。
 さすがにもう真夜中といってもいい時間帯なので他の住人が起きてくる気配がないのを感じて若干ほっとする冥。
 仮に他の住人と顔をあわせたらどんな言い訳をすればいいのかまったく考えていないのでなおさらだ。
 ハァと安堵のため息を漏らしたそれと同時。

「おかえりなさーい、きょーちゃん。今日ははやかった……ね……?」 
「……美由希か」

 ドアを開けて出てきたのはつい先月剣を交えたばかりの少女、美由希だ。
 風呂あがりのためか長い黒髪をタオルで拭きながらでてきたようだが、冥を見て驚き拭く手をとめている。
 パクパクと金魚のように口を動かしながら恭也と冥を交互に見る美由希が可笑しくて苦笑しそうになるのをおさえつけた。

「お邪魔させてもらうよ……高町美由希」  

 特に気のきいた言葉も思い浮かばず、とりあえず無難に挨拶をしてみる。
 元々冥はそれほど多弁というわけでもない。と、いうよりどちらかというと人見知りをするほうだ。
 長年、姉であった殺音と二人っきりで世界中を放浪していいたためどうも人付き合いというのが苦手なのだ。

「え?あれ?冥さん?えーと……あれ?」
「そこで拾った」
「拾ったって……ええ!?」

 恭也の台詞に美由希が心底びっくりしたように大声を上げ、さらに混乱は加速していく。
 その瞬間にふと、恭也の姿が掻き消えるように揺らぐと、気がついた時には美由希の眼前であり、デコピンをきめていた。
 ゴツンと、まるで拳で殴ったかのような音が響き、美由希がでこを抑えて蹲る。

「……拾ったか……言いえて妙だね……あはは……」

 思わず苦笑してしまう。
 だが、そんな言葉よりも冥は恭也の動きに驚愕していた。
 いつ移動したのか全く気がつかなかったのだ。唯速いだけなら夜の一族である自分の動体視力で見えないはずがない。
 それなのに気づけなかったのだ。恭也が美由希の前にどうやって移動したのか。むしろ、動いたのかすら。

 僅かなその動きだけで、相変わらず恭也の化け物ぶりがよく分かった。
 十人の王に最も近いとされた殺音をも凌駕した人間。御神の剣士。人の身でありながら人を外れた人。

 ―――或いは、この剣士ならば王さえも……。

 ふと、心に浮かんだ希望を心の奥へと押し込むと冥は自嘲気味た笑みを浮かべた。









 









































「あの小娘の行方は掴めそうか?」
「ちょっと待ってて」

 ボロボロの黒い服装の……第三世界では死刑執行者と呼ばれ、恐れられている青年は眼前に立つ己の相方に声をかける。
 それに漂流王は答える。相変わらず全身をフード付きの黒いコートを羽織っていているため顔さえ見えない。
 死刑執行者は手を軽くふると傍らの倒れた木に腰をおろし、一息ついた。

 周囲は木々に覆われていて、明かりもみえない。天から降り注ぐ月の光だけが道しるべだ。
 夜空を見上げると月の他に瞬く星々もみえる。どこか心を癒される光。
 死刑執行者は視線を落として、自分の前にたつ漂流王に戻す。
 地面は枝や葉っぱで覆われているというのに、漂流王の周囲だけは不思議と開けた空間になっていた。その空間の地面に複雑な魔方陣が描かれている。
 その魔方陣の中心で漂流王が何事か呟いている。徐々に周囲に満ち溢れる金色の粒子。ゆっくりと、不規則に。
 周囲とは隔絶した、どこか荘厳な雰囲気を醸し出していた。

「せーの!!」

 そんな気配をぶち壊すかのように漂流王が声をあげて地面に片手を勢いよく叩きつける。
 それを見ていた執行者はなんとなくやるせなそうに肩を落とす。

「……そんな無茶苦茶な術式でよく発動させれるものだな」
「師匠が師匠だからね」
「……【魔女】に預けたのは失敗だったかもしれんな」

「全くだよ。あの人って天才肌だから感覚的にしか教えてくれないし……はっきり言って教えるの下手すぎだったんだけど」
「……そ、そうか」

 たらりと暑くもないのに一筋の汗が執行者の頬を伝った。
 己に魔術の才がないからといって、同じ十人の王の一人である魔女に預けなければよかったかもしれないと、今更ながら後悔する。
 それから漂流王は師匠の悪口をあーだこうだとボロクソに言い始める。どれだけ修行中にいたぶられたのかから、果ては嫌いなピーマンまで無理に食べさせられたとかまで。

 それはどうでもいいだろうと激しく思う執行者だったが、適当に返事だけはしておく。
 しばらく悪口が続いていたが、突然シュンという微かな音を残し、どのような奇跡か、魔術か、先程まで魔方陣しか描かれていなかった地面に海鳴の町が映し出された。
 望遠鏡で遠くから見るように、空から見下ろすような、そんな映し出され方ではあったが、そんな海鳴の町をみて僅かに死刑執行者は眉を顰めた。

「今のところは標的はこの町に隠れてるみたいだよ?」
「―――あの地か」
「知ってるの?」

「一応は、な」
「ふーん」

 奥歯にものがはさまったかのような死刑執行者の発言に漂流王がどこか剣呑な返事を返す。
 フードに隠れて見えない漂流王の眼光がキラリと光ったような幻覚を執行者は見た。

「昔の女でもいるの?」
「……そういうのでない」

 ハァと呆れたようなため息をついて腰をあげ、漂流王のもとまで歩み寄るとポンと頭に手をおく。
 そして地面に映る海鳴の町のある一画を鞘つきの剣でトントンと叩いた。
 月の光を浴びた壮大な山々。不思議な存在感を醸し出している、その頂上付近にキラリと光を反射している湖のようなモノが微かに映っていた。

「湖がどうかした?」
「あそこにだけは近づくな」
「……どんな理由?」
「もう一度だけ言う。あそこには近づくな」

 先程までとは違う。言霊ともいえるような強い力を言葉にのせ、執行者はそう言った。
 その声には如何なる者をも屈服させるかのような、深い恐怖を呼び起こすような力が込められていた。
 ビクリと、漂流王は身体を震えさせるとコクリと頷く。  

 ふぅ、と息を吐くと執行者は額にかかった髪をかきあげる。そのまま地面に映る湖を見つめた。
 湖を見ながら随分と遠くまで逃げたものだ、と若干感心しながら苦笑する。
 あの地に行くのもどれくらいぶりだろうか。
 懐かしさで表情を和らげると執行者は顎をしゃくって後ろでややへこんでいる漂流王に合図を送る。

「行くぞ。標的がいる地までかなりの時を要する。強行軍になるがついてこい」

 漂流王を従えると執行者は歩みだす。だが僅か数歩、歩いた途端に勢いよく後ろを振り返った。
 それに驚いたような気配の漂流王を無視して執行者は未だ地面に映る海鳴の町を……いや、湖を見つめる。
 なんとなく、湖から懐かしい気配を感じたのだ。こちらを窺うような。
 最もそんなはずがない。まだあの地からここはとんでもなく離れているのだから。ましてや漂流王の遠見の魔術を通してだ。

 あの存在が自分達に気づくはずがない。その筈なのだが……。
 気のせいだ、と執行者は自分に言い聞かせる。
 随分と久しくあの地を見たので、神経が過敏になってしまっただけだろう。

「お前はまだ、アイツを待っているのか……」

 執行者のどこか悔恨したような感情を乗せた言葉は、漂流王の耳にすら届くことなく夜風に消えた。





















 ぐつぐつとコンロで火にかけている粥が音を立てる。
 恭也は粥を小皿に取り分けて一口。

「こんなものか」

 そう一人ごちるとコンロの火を止めた。ただ、塩のみの味付けの簡素な粥。
 高町家のリビング。そこにいるのは恭也一人。
 先ほど、美由希には詳しいことは後日話すと言いくるめて無理矢理寝かしつけ、冥には先に風呂を勧めていたからだ。帰ってくる道中に多少自分の汚れた姿を気にしていたようであるからだ。朴念仁の恭也でもそこらへんは気づいていた。

 無論、冷蔵庫には夕飯の残り物……残り物というにはあまりに贅沢のものがあるのだが、そういったものより体の弱った冥には粥のほうがいいだろうと判断して態々作っていた。
 これがレンあたりならば粥は粥でもとんでもなく豪勢な中華粥を作ったんだろうかな、とふと苦笑する。
 それと時を同じくして、ガチャリと音を立ててドアが開いた。

 一人用の鍋を皿の上にのせてテーブルに移そうとしていた恭也が振り返って冥を見た瞬間固まってしまった。
 まさか恭也の着替えを貸すわけにもいかず、、美由希から寝間着を借りていたのだが……。
 女性としては長身とは決して言えない美由希の寝間着さえ大きすぎたのだ。両手が完全に袖に隠れてしまっている。
 全身ぶかぶかで服を着ているというより着られているというほうが正しいかもしれない。

 その手の趣味がある人ならばたまらない光景だったのだろうが、生憎と恭也にそっちの趣味はなかった。
 逆に美由希がなのはに自分の服を着せて遊んでいた昔を思い出して、口元が緩みそうになる。
 それをめざとく見つけた冥が眉をひそめた。

「とても馬鹿にされてるような気がするんだけど……」
「……気のせいだろう?」

 鋭い冥に思わず顔を背ける恭也。
 それでもじっと見つめてくる冥に対して、いたたまれなくなった恭也はゴホンせと咳払いをして、手にもっていた皿にのった鍋をテーブルの上にのせる。

「折角作った粥だ。風呂からあがったばかりで申し訳ないが、冷める前に食べてくれ」

 そういって冥に椅子に座れと暗にせかす。
 じっとみてい冥だったが追求を諦めたのか、ハァとため息をついて鍋が置かれたテーブルの前の椅子に大人しく座った。
 そこでまた、粥と恭也を見比べる。まるで本当に食べていいのかと、迷っているように。その姿はどことなく子猫を連想させる。

「遠慮しないでいい。ここまできたら食べても食べなくても一緒だ。それなら食べて腹を膨らしたほうがいいと思うがな」

 恐る恐る、レンゲに手を伸ばし掬う。そして。口に運んだ。

「ぁつ!?」
「あわてる必要はない。別に誰もとりはしないさ」
「わ、わかってるよ!」

 若干赤くなった顔で言い返す。
 今度はふぅーふぅーとさ冷ましながら粥を食べようとする姿に、鉄面皮の恭也も流石に再度頬が緩みそうになる。
 今度はちゃんと一口。
 ゆっくりと味わうように噛み締める。

「……おいしい……」

 ぽつりとそう漏らした。なんの偽りもない正直な感想。

「何の工夫もしていない唯の粥だぞ?」
「それでも、さ……」

 かすれるような声。ぽたりと雫がたれた。
 いつのまにか冥は涙していた。その涙に今きづいたといわんばかりに、流れ落ちる涙をぬぐう。

「とま……れよ!!なん、で……涙なんかが……!!」

 震える声で、そう訴えながらとまらない涙をぬぐい続ける。

「涙は嬉しいときに流すものだ、そう言った知人がいる」

 恭也の独白。それに冥は、夜の一族の証でもある真紅の瞳とはまたちがった、涙で真っ赤になった瞳をむけた。

「それが一番の理想なのだろう。俺もその考えには賛成している。だが……」

 一息。

「悲しいときに流す涙もあるだろう。今は泣け。お前が抱え込んでいる悲しみも苦しみも俺が全て受け止めよう。我慢する必要などない。お前は【今】は一人ではないのだからな」
「っ……」

 怖かった。
 仲間を、殺音を殺されて、次は自分だと死刑執行者に追われる日々。

「ぁ……」

 悔しかった。
 仲間を、姉を殺されたのに、逃げ回るしかできない無力な自分。

「ぅぅ……」

 苦しかった。
 たった一人で、孤独に生き抜いた、何時殺されるかもわからないこの一月。
 だから……。

「ぅぅっぁぁあああ!!ぅぅぅ……あぁああああぁあ!!」

 泣いた。冥はひたすらに泣き続けた。子供のように、見栄も外聞もなく。
 今までの苦しみを、悲しみを全て吐き出すかのように。
 目の前の男ならば……恭也ならばどんなことでも受け止めてくれると信じて。
 そんな声を殺して泣きじゃくる冥を、恭也は優しい眼差しで見守っていた。














 たっぷり数分ほど、ようやく落ち着いた冥がごしごしと目を拭きながら、恥ずかしそうに口を尖らせながら恭也を上目遣いに見る。

「……恥ずかしい姿をみせたね、ごめん」
「気にするな。誰にでもそういう時はある」
「キミにもあったのかい?」
「無論、な」
「あ、あったの!?」

 恭也にもそういったことがあったのかと、多少おちょくるような冥の台詞にあっさりと肯定で切り返されて逆に驚いてしまった。
 コ、コイツウソクセーと思いつつ恭也の泣くであろう姿を思い浮かべようとして全く想像できない。

「ところで多少聞きにくいことなんだが……」
「うん?」

「お前を追ってきているのは執行者だけなのか?」
「多分、違う。漂流王も一緒だとおもう……」
「王に数えられる者が、二人か―――厄介だな。一人ならまだ戦いやすかったのだが……」
「……」

 開いた口が塞がらないとはこのことだ。冥からしてみれば厄介などという言葉一つですませれるものではない。
 一人でも絶体絶命。決して抗えない死の運命を辿るしかないというのに。
 それを一人ならまだ可能性があるといわんばかりの恭也にどう反応すればいいのか迷う。

 夜の一族において、十階位とは即ち王。頂点なのである。
 誰よりも強きバケモノの集団。
 幼きころから大人たちに、決して関わらないように寝物語のように語られる存在。

 そんな相手だからこそ冥は恐れている。
 そして殺音と世界を放浪していたときに一度だけ見た執行者の圧倒的な戦闘力。
 一度しか見ていないにも関わらず、目を瞑れば思い出せる。
 その死刑執行者を何とかすると軽々と言い放つ恭也。

「キミはまさか……死刑執行者と戦ったことがあるのか!?」
「あるわけないだろう?」

 その自信の高さから、以前死刑執行者と戦ったことがあるのではと予想した冥だったが、恭也はあっさりと否定。
 コントのように思わず顔をテーブルに勢いよくぶつけてしまった。
 いたた、と多少赤くなった額をさすりながら冥が口を尖らせる。

「ならなんなのさ、その無意味な自信は」
「勝ち目がない、とでも言ってほしいのか?」
「それは……」
「直にあったことはないのでな。実際どれほどのものかわからん」

 だが、と。 

「桁外れのバケモノだということは分かる。なにせあの十人のなかでも始まりの三人と称されているのだからな」

 始まりの三人。
 一位の夜王。二位の死刑執行者。三位の天眼。
 この三人は始まりという言葉通り最も古き時代から生き続けてきた夜の一族。夜の一族を長きに渡り守護してきたバケモノ達。

 その三人の中で最強と名高いのが死刑執行者だ、数百年もの間、命を刈り取ってきた死神。
 実際に刃を交えたわけではない。だが、これだけの話が流れているのだ。もはや伝承の域。弱いはずがない。

「相手がどれだけのバケモノか理解できているつもりだ。だが、最初から勝てないと思い込んで戦うのならば僅かな勝ち目すらなくなるぞ」
「……っ!?」

 愕然とした。
 確かにそのとおりだ。恭也の言うとおりなのだ。
 今の冥は、戦ったら殺されるということしか想像できなかったからだ。
 これでは勝てるはずがない。戦う前から負け犬の思考。

「お前の……言うとおりだよ。でも……」

 冥を遮るようにガタンと音を立てて恭也は椅子から立ち上がる。
 そして、からっぽになっていた鍋を水につける。

「疲れているところすまない。そろそろ休むことにしよう。水無月、お前は俺の部屋で寝てくれ」

 こっちだ、と冥を二階へ案内する。
 水無月という苗字にピクリと反応して、俺の部屋という言葉でさらにピクリと反応する、冥。
 今時にしては珍しい襖を開けて自分の部屋に招きいれると、テキパキと布団の準備をする。
 そんな恭也を冥は若干焦ったような表情で問いかける。

「ね、ねぇ。ボクはソファーとかでも十分だよ?」
「客人にをそんなところで寝かせるわけにもいくまい」
「い、いや、でもさ。幾らボクが小柄といっても……流石に一緒に寝るのは……」

「……お前は何を言っているんだ?俺は下の部屋で寝る予定なんだが」
「そ、そ、そうだよね!?あははははは」

 恭也の返答にごまかすように手を振り続けて笑う。

「よくわからんが、今日はゆっくり体を休めておくんだぞ」
「う、うん」

 素直に頷いた冥に苦笑して、恭也は部屋から廊下へとでる。
 襖を閉じようとした、その瞬間、。

「安心しろ。死刑執行者より強い相手を俺は知っている。だからこそ、俺には恐怖はない。守ってみせるさ」

 冥の返答を聞くことなく、襖を閉じると恭也は音を立てないように一階へと降りていく。
 死刑執行者より強い者を知っているという台詞は冥を安心させるためだけにいったものではないのだ。
 それは事実。

 恭也が知る限り、最も最強に近き者。御神の体現者。御神の歴史を見届けし者。
 幼きころに数度言葉を交わしただけの剣士。
 彼女が死刑執行者より強い保証などあるわけではない。

 だが、わかる。わかってしまう。
 本能が、直感が、彼女こそが人を極めた頂点だと認めてしまっている。
 彼女に勝てるものなどいない、と恭也に思い込ませてしまうほどに強い。

 いまだ見たことすらない死刑執行者の実力を知らないというのに、彼女の方が強いのだと。
 それほど幼きころの恭也の心に【御神】は深い爪あとを残した。あまりに強い印象を恭也の心に刻み込んだ。
 故に、噂に名高き死刑執行者と戦うという現実を直視しても、恐怖など抱くことはない。

 自分はもっと高みにいる存在を知っているのだから。
 その【御神】に対する想いは一種の羨望。御神流を極めた者への崇拝とも似ていた。
 だが、だからこそ気づかない。

 もし、もしも【御神】よりも強い存在が居たとしたら……。
 彼女を打倒できる存在が居たとしたら……。

 その時、果たして恭也は冷静に戦うことができるのか、恐怖に負けずに刀を振るうことができるのか……。
 この時、恭也はその可能性を全く考えていなかった。それが、その想いが悲劇を生むことになるというのに……。

 

   

 一階にある客間……この部屋も相変わらずの日本式だが、布団を敷いて寝る準備を整える。
 冥をこの客間ではなく自分の部屋に寝かしたのは、万が一桃子や他の住人がこの部屋を覗いてしまったら面倒なことになりそうだったからだ。
 寝間着に着替える途中、クンと自分の匂いを嗅いで見ると多少汗臭い。
 今夜はそれほど鍛錬をしていないのだが、やはりまだ日中の暑さで汗をかいてしまっていたのだろう。

「寝る前にシャワーでもあびておくか……」

 とりあえず風呂場に向かう恭也。
 真っ暗な風呂場。壁にあるスイッチをおすと、パっと電球に灯がともり視界が明るくなる。
 寝間着を脱ぎ、上のシャツをも脱ぎ、上半身裸になった恭也が全身が映る大きな鏡の前に立つ。
 全身が傷だらけのその姿。実戦で負った傷も数少ないけれどあるが、そのほぼ全てが鍛錬でおった傷。
 普段どれだけ厳しい鍛錬を行っているのか、この傷を見れば一目瞭然。
 もっともこの傷ほぼ全てが過去の未だ未熟だったころにおったものであり最近はほぼ傷を負う事はなくなっていた。

 その傷の一部をそっと手で押さえる。水無月殺音につけられた傷だ。 
 思い出す。一ヶ月前の戦いを。北斗との、いや、殺音との戦いを。
 正直に言うと、殺音に勝てたのは運があったからとしか言いようがない。
 半獣半人となり全力となった殺音が、恭也の全力をみたいから、と恭也と同じ土俵にあがり真正面から戦いを挑んできた。
 だからこそ恭也は勝てた。もしも殺音が長期戦を挑んできていたら負けていたのは恭也の方であっただろう。
 それほどずば抜けた戦闘者。だからこそ疑問が残る。

「いくら俺との死合いの後だからといって……あいつが軽々と殺されるとは考えがたいのだがな……」

 確かに全力で死合いをした後なのだ。相当な疲れも残っていただろう。
 しかし、あの時の殺音にはまだ幾らかの余力が見て取れた。恭也よりもよっぽど戦える状態であったはずだ。
 その殺音を殺して見せたということは、死刑執行者はそれだけのバケモノだったのだろうか……。
 それにしてもタイミングも悪かった。死刑執行者も態々、恭也との死闘の後の殺音を狙うとは……。

「……いや、まさか」

 電流が走った。その自分の考えに。
 十階位が二人で態々この日本に出向き、態々、弱った状態の殺音を狙った。
 それはつまりまさか……。

「んにゅ……」

 その恭也の思考に割り込むかのように寝ぼけたような声とともに風呂場のドアがガチャリと音をたてて開いた。
 自分の考えに集中していたため、気配を読むことを怠っていた恭也も驚きつつ振り向く。
 ドアを開けて入ってきたのは高町家の末っ子なのはだ。
 寝ぼけているのか眼をこすりながら半分眼をつぶった状態でよろよろと夢遊病者のように入ってくる。

「あれぇ……おにーちゃん……?なんでトイレに……いるの?」

 トイレにおきたはいいものの、寝ぼけて風呂場に来てしまったのか、と苦笑する。

「手洗いはもう一つ隣のドアだぞ、なのは。こちらは風呂だ」
「……あ、ごめんなさい。おにーちゃん!」

 ようやく眠気が覚めたのか、わたわたと慌てて謝るなのは。

「気にするな。寝ぼけて階段からおちるのだけは注意するんだぞ」
「ぅ、ぅん……」

 気のないなのはの返事に首を傾げる恭也。
 まじまじと自分をみつめてくるなのはに、何かあったのかと聞こうとした所、なのはがちょこちょこと近づいてきて恭也を見上げる。

「凄い、傷だよね。おにーちゃん。痛くないの?」
「ああ。痛みはないぞ。しかし、すまんな。醜いものをみせてしまった」
「ううん。そんなことないよ……あまり無茶したら駄目だよ?」
「肝にめいじておこう」

 普段は長袖をきて体の傷を隠しているので、なのはには恭也の体中の傷が痛そうに見えたのだろう。
 しかし、美由希や晶とちがって無邪気ななのはの気配は非常に読みづらい。
 幾ら気を抜いていたとしても、美由希のことは笑えんな、と自嘲する。
 恭也はなのはに対してだけ、異常なまでに甘いということも気配を読めなかったこともあっただろうが……。

「あれ?おにーちゃん、肩の痣って大丈夫なの?」

 その一言に恭也がビクンと反応した。
 右肩にあった、他の傷とは少し違ったその痣を恭也はなのはから見えないように鷲づかむようにして隠した。

「……?」

 あまりに過敏な恭也の反応に首を傾けるようにして、疑問符をうかべるなのは。

「あまり夜更かしするものではないぞ、なのは。明日に備えてそろそろ寝よう」

 なのはの両脇を抱えて回転。下ろした後、体を廊下のほうにむけて背を押す。

「はーい。お休みなさい、おにーちゃん」

 僅かな疑問を残しつつなのははちょこちょこと廊下にでて二階へあがっていく。
 それを確認したあと、扉をしめて安堵のため息を漏らした。

「油断しすぎか……なのはならばこれの意味もわからないだろうが……」

 そう呟いて、右肩の痣を見下ろす。 
 それは烙印。三年前に刻まれた、決して消えない、修羅の道を歩くことになった証。
 他者には見せられない、見せてはならない印。

「気を入れなおすか……」

 そこで気づいた。重大なことに。

「……なのは、結局トイレへいかなかったんじゃないのか……」

 呆れたような恭也の呟きは、誰にも聞かれることなく、消えていった。       















「恭也ちゃん。凄く強い人に会いたくなーい?」

 そう、恭也にとって姉のような存在の彼女は言った。
 艶やかな長い黒髪。整った顔立ち。濡れたような唇に儚い笑顔を浮かべながら、御神宗家の広い屋敷の中庭に面した縁側に腰をおろしながら彼女は……御神琴絵は幼き恭也に語りかけた。

 病弱で一年のほとんどを畳の上で過ごす琴絵にしては珍しく、気分が良いということで太陽の光を浴びながら恭也の鍛錬を微笑みながら見学していた。
 鍛錬といっても幼い恭也ではろくに小太刀も扱えない。無論、それなりに扱うことはできる。同年代の子供に比べれば天と地の差があるのは確かだ。

 それでも大人の御神の剣士からしてみれば恭也の腕前はあくまで子供のお遊びレベルなのはには違いない。
 それ故に恭也が力を注いでいたのが飛針である。飛針ならば体が小さく、力が弱い恭也でも小太刀よりは有効に使える。
 十五メートルほど先にある小さな的。そこに向けて飛針を投げていたが、流石に百発百中とはいかない。それでも外すことのほうが少ないのが驚きだ。

 事実、琴絵もその年齢には見合わない恭也の腕前に驚き、うれしそうに微笑んでいた。
 だからこそ、琴絵は先ほどの台詞を恭也に放ったのだ。

「強い人ですか?とーさんや一臣叔父さんよりも?」

 滴り落ちる汗を拭いながら首を傾げる恭也。それに、ううんと首を横に振る。

「静馬さんよりもですか?」
「もっとだよ」

 くすくすと笑いながら琴絵はゆっくりと立ち上がる。
 御神流正当継承者である静馬よりも強い、と断言する琴絵に対して恭也は考え込む。
 そんな恭也を後ろからぎゅぅと抱きしめる琴絵。

 会いに行くたびに抱きしめてくる琴絵にもう何を言っても無駄だと理解している恭也は琴絵のなすがままである。
 それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。頬を真っ赤にさせる恭也。
 背中に当たる柔らかな双丘。日向のような匂い。
 そんな煩悩を振り払うように恭也は続けた。

「琴絵さんや美影さんよりもですか?」
「うん。勿論」
「……そんな人いるんですか……」

 呆れたような恭也。

 不破美影。
 恭也の祖母。つまり、不破士郎、不破一臣、不破美沙斗の母親。
 不破家の当主であり、その剣腕は歴代の不破家の中でも並ぶもの無し、と謳われる女性。
 孫がいる身でありながら下手をしたら士郎達と兄弟に見えるほどの若作りのため、恭也にお祖母ちゃんと呼ばれるのを嫌い、名前で呼ばせている裏がある。

 御神琴絵。
 御神宗家の長女であり、現在進行形で恭也に後ろから抱きしめている女性。年齢不詳。
 恭也も幾つか聞いたことはないが、静馬よりも五歳ほど年上ということだけは知っている。子供の頃から病気がちで御神流よりも裁縫などの方に時間をかけていた。
 それなのにその実力は桁が違う。並の御神の剣士では相手にもならない。士郎や一臣とすらも制限時間つきでなら渡り合えるほどである。

「うん。いるいる。いるよー。恭也ちゃんのすぐそばにね」

 やけに上機嫌な琴絵に、若干の嘘くささを感じながら心当たりがないかを思考する。様々な御神の剣士が恭也の脳裏に現れては消えていく。しかし、そのことごとくを首を振って否定した。
 確かに想像した剣士は皆が強者ばかりだ。恭也では手も足もでないほどの熟練者。それでも、その想像した剣士の誰一人として恭也が声にだしてあげた人物に追随するとは思えなかった。その中で可能性があるとすれば唯一人だけだったのだが……。
 恭也は幼い。剣士としての実力はたかが知れている。だが、物事の真贋を、相手の力量を読むことだけには長けていた。相手の力量の全てを読み取れるか、といえば答えは否定であるが。【ほぼ】全て読み取ることはできる。

「よぅ。不破の小僧と姉貴じゃねーか。何遊んでるんだよ」

 悪寒がした。禍々しいまでに黒く濁った気配を漂わせ、一人の青年が廊下から二人をいつの間にか見ていた。
 琴絵の髪に似た長い黒髪を後ろで紐でくくっただけの乱雑な髪型。顔立ちは十分に美形だといえるだろうが、鋭い目つきが台無しにしていた。
 一部の女性はそれがいいと噂していたのを恭也は聞いたことがある。

「……何の用なの、相馬?」

 誰にでも人当たりが良い琴絵にしては珍しく冷たささえ混じった質問。先ほどまでの笑顔は消えさっていた。 
 相馬と呼ばれた青年はクククと小馬鹿にするように笑い、両手を挙げながら天を仰いだ。

「病弱のお姉さまを見舞いに来た弟に対してこの仕打ち。俺のガラスのように繊細な心は砕け散りそうですよ」
「ガラスはガラスでも防弾ガラスじゃないの?」
「ハッ!!随分と言う様になったじゃねーか、姉貴」

 この青年は御神相馬。
 御神宗家長男にして、呪われた忌み子。悪意をばら撒きし、殺戮の剣士。
 ターゲット一人を確実に殺すためならその過程で百人殺そうが気にもかけない正真正銘の狂人。
 そして先ほど恭也が思い浮かべた……美影や琴絵、静馬を凌駕する唯一の男。

 犬歯を剥き出しにするように笑うと、相馬は縁側から中庭へと音を立てず飛び降りる。
 濁った気配がさらに濃く、強くなっていく。
 今すぐにでも逃げ出したくなる気持ちを押さえつけ、恭也は琴絵と相馬の間に割り込むように立ちふさがった。それに琴絵は驚くように肩に手を置く。

 それでも恭也は引きさがらない。気づいてしまっているから。琴絵の手が微かに震えているのに。
 だからこそ恭也はひけなかった。この場所から。琴絵の前から。

「いやいや。全くもってたいしたガキだよ、お前。普通のガキなら気を失うか腰を抜かして小便ちびってるぞ」

 そんな二人を見て、ニィと笑うと相馬はバシバシと恭也の両肩を叩く。相馬からしてみれば軽くだが恭也からしてみればかなり強烈だ。

「不破の小僧。お前は実際たいしたものだぜ?その年齢でそこまで辿りついてるガキなんざ、そうはいねーよ。でもな……」
「相馬!!やめなさい!!」

 琴絵の激しい言葉を無視するかのように懐からタバコをとりだし、吸いながら火をつける。すぅと煙を吸い込みながら、煙と一緒に息を吐き出した。その煙にゴホゴホと咳をする恭也。

「生まれた時代が悪かった。お前は一流の御神の剣士にはなれるだろうよ。だが、【超】一流の剣士にはなれやしねぇ。お前には決定的に足りないものがあるんだよ、剣才ってモノがな」
「相馬ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「……」

 琴絵の激しい絶叫。憎しみのこもったそれに答えるどころか逆に満足そうにニヤニヤと笑う。
 相馬の言うことは全くもって正しかった。それを恭也は理解していた。薄々感じていたことではあったのだが……。

 恭也が生きるこの時代は天才の集まりであっった。
 御神相馬。御神静馬。御神琴絵。不破美影。不破士郎。不破一臣。不破美沙斗。
 本来ならば一世代で神速を自在に操れる剣士が現れるのはせいぜい一人。多くて二人。

 神速を自在に操れたものは例外なく御神の歴史に名を刻むことができる。それほどの奥義中の奥義。
 その神速を扱うことができる者が七人。この者達全てが本来ならば正当継承者として名を残すことができたであろうほどの剣士達。
 それら天才達に比べれば、確かに恭也は劣っていた。まだ年若い恭也なのだから、その判断は早計だと思うかもしれないだろう。

 それでも恭也はあくまで一を聞いて一を知る程度の才能しか持ち得なかったのだ。士郎達のように一を聞いて十を知る。そんな飛びぬけた才能を開花させているわけではなかった。
 一流にはなれるだろう。だが、【超】一流にはなれはしない。それが周囲の恭也にたいする評価である。
 そのことを恭也に教え込むように、厭らしい、蔑むような視線で恭也をいつのまにか見下ろしていた。

 両肩を掴む手に力がこめられ、砕かれそうになるほどの痛みが恭也を襲う。しかし、恭也はその痛みを耐え切るように歯を食いしばる。そんな恭也を相馬は嘲笑う。

「いいか、小僧。これは慈悲なんだよ。無駄な努力はやめておけ。お前はお前の器を知っておくんだな」

 その瞬間、何かが切れる音が聞こえた。

「―――少し黙ったほうがよいぞ、小童」

 世界が凍った。まるで空気中の水分が音を立てて凍っていき、この場にいる人間全ての動きを止めんとばかりに。
 少なくとも恭也にはそう感じられた。あまりに冷たい声が、恭也の真後ろから聞こえた。
 後ろには琴絵しかいないのに、琴絵とは違った声が聞こえたのだ。気がつけば震えていた琴絵の手が止まっていた。

「……っ!?亡霊さんのお出ましかよ!!」

 相馬が後ろに跳躍。縁側に着地する。その表情は先ほどまでの嘲るようなものではなく、どこか焦りを見て取れた。
 琴絵が恭也の肩をひき、自分の後ろにかばう様に引き寄せる。恭也はなすがままだ。
 先ほどまでの琴絵とは違う。圧倒的な存在感。絶対的な安心感。
 普段の琴絵が姉のような優しさと暖かさならば、今の琴絵はまるで鬼子母神のような力強さを纏っている。

「全く、主にも困ったものじゃよ。あまり童を虐めるでないぞ」

 直接言われたわけでもないのに、その何でもない言葉には全身を切り裂かれるような言霊が宿っていた。

「はっ……!!姉貴にも困ったもんだぜ……御神宗家長女でありながらそんな不破の小僧を可愛がりやがってよ……それにあんたが出てくるほどにそいつが可愛いってのかよ!!」

 相馬は脂汗をながしつつ、琴絵に悪態をつく。
 この雰囲気の中でそれだけ悪態をつけるのも凄いものだと、恭也はある意味相馬に感心していた。

「そのようじゃのぅ。だが勘違いするでないぞ?御神琴絵だけではなく―――妾にとってもこの不破の子倅は興味深いのじゃよ」
「……そーかよ。まぁ、流石にアンタ相手には分が悪い。ここは退かせてもらうぜ」

 そう捨て台詞を残して相馬は姿を消した。残されたのは恭也と琴絵の二人。
 琴絵は何がどうなったのか分からないと疑問が顔にでている恭也を優しく抱きしめた。
 その感触は何時もの琴絵とは異なる。別人のように力強い。そして理解した。この琴絵であるが琴絵ではない女性こそが、琴絵が言っていた誰よりも強い人だと。

 恭也はこの時、視てしまった。琴絵の、否、【御神】の底を。どこまでも果てしなく、どこまでも遠く高い。絶対的なる強者。ありとあらゆる存在を凌駕するであろう、真の最強という生物を初めて視てしまった……。
 この日、この時、この場所で……恭也は確かに、【御神】に恋をした。











  



「……懐かしい、夢だ」

 恭也は視界に写る天井を若干ぼーとしながら見つめていた。
 本当に懐かしい夢。まだ御神と不破の一族が健在であったころの夢。恭也も美由希もまだまだ幼かった頃。
 昨夜、【御神】のことを思い出したせいなのか、随分と久しぶりにあの頃の夢をみてしまった。

 凶悪な眠気が未だ襲ってくるせいか、体が重く、身動きするにも一苦労だ。頭もぼんやりとしていて、脳みそがうまく働いていないような感覚。
 恭也の寝起きは決して悪くはない、というか良いというのに、珍しく思考を目覚めさせるのに苦労する。
 かといって、いつまでもこのままというわけにもいかないので、恭也は気合をいれて布団から上半身を起こす。上半身をおこしたあと、今度は足に力を入れて立ち上がる。

 時計を見ると普段起きるより大分寝過ごしてしまったようで、昨夜気を引き締めるか……と誓ったばかりの自分が少し情けなくなった。
 布団を綺麗にたたみ動くのに支障がない服装に着替えると、客間からでる。廊下で軽く伸びをする。
 高町家の朝は一般家庭に比べて随分とはやい。
 恭也と美由希はいわずもがな、朝の鍛錬があるのでご老人顔負けの早さで朝は起床する。
 最近はまだ北斗との戦いの怪我を考慮して、朝の鍛錬を休みにして別メニューにしてあるので美由希は夢の中だろう。

 次に早いのはやはりというか高町家の大黒柱、高町桃子である。続いてレンと晶がほぼ同時。最後になのは。もっともなのはは朝が異常なまでに弱いので本当にギリギリの時間に起きるのだが。
 恭也は風呂場に入ると、洗面台で顔を洗う。水の冷たさが恭也の思考をクリアにした。タオルで顔を拭きようやく完全に眼がさめた。 

「かーさんが起きるまでもう少し時間があるか……少し汗を流すか」

 洗面台から出るとそのまま玄関をまわって庭の一画にある道場へ向かう。
 道場の扉を開けて中に入る。すぅと息を吸うと木の匂いが鼻孔を刺激した。壁にかけてある木刀を手に取り中央に歩み寄ると正座して瞑想する。

 一瞬。

 僅か一瞬の間で、精神を集中させるとまるで彫像のように微動だにしない。
 心を無にさせ、神経を尖らせる。どのような状況にでも対応できるように。一分近くかけて息を吐き、そして吸うことを繰り返す。
 己の間合いを徐々に広げていく。最初は僅か半径三メートル程。

 それが五メートルに……八メートルに……十メートルに……。
 さらにさらにさらに!!
 その領域はのびていく!!広がっていく!!巨大になっていく!!

 それはまさに結界。その領域で動くものは落ちた針の音さえ聞き逃さない絶対領域が創り上げられた。
 その領域を維持すること数分。恭也の頬を汗が滴り落ちる。これだけの状態を維持し続けることがどれだけ辛いことか。尋常ではない集中力を必要としていた。

 汗が流れ落ち、床にポタリと落ちる。
 まるでそれを切欠としたかのように、高町家で今まで全く動いてなかった気配が鈍くだが動くのを感じ取った。
 桃子の眼が覚めたのだろう。そうあたりをつけると領域をとく。
 パチンとした幻聴を残して恭也の世界は普段どおりに戻った。
 呼吸を戻そうとして、大きく息を吸って吐いた。もう一度、吸って、吐く。若干気だるい感覚を残しながら、恭也はゆっくりと立ち上がる。

「さて、水無月のことを上手くかーさんに説明しておくとするか」
 
 九月ともなれば流石に日が昇るのも若干遅くなりつつあるため、僅かに薄暗い。先月の八月ならばすっかり日が昇っていただろう。
 今年は残暑が例年よりしつこいのか、早朝でありながらやや蒸し暑い。
 先ほどの瞑想で随分と集中したせいか、汗ばんでしまったようだ。

 常人とは精神力が随分と違う恭也ではあるが、暑いものは暑い。秋の暑くもなく寒くもない、過ごしやすい季節に早くならないか、と毎朝鍛錬をしていて思う恭也であった。
 薄暗くありながらも地平線の彼方から顔を出した太陽から降り注ぐ陽光。それを眩しげに見上げながら恭也は高町家の玄関から足を踏み入れる。そのついでにポストに挟まっている新聞を回収しておいた。

 高町家は意外と……全然意外でもないが広い。一階にはキッチンとリビング。客間に風呂場、桃子とフィアッセの私室がある。そして二階には恭也と美由希、なのはとレンの私室がある。晶は近所に実家があるのでそちらから高町家にやってはくるが、レンの部屋に夜遅くまでいる場合もあるし、時にはとまっていくこともある。
 
 さらに庭には恭也自慢の数多くの盆栽を並べるスペース。ある程度の運動ができる広さの庭。隅には小さいとはいえ道場まであるのだ。
 この広さの土地と家をよく購入できたものだ、と昔疑問に思ったことがある。
 そのことを聞いたら、桃子は笑ってこうこう答えた。

 ―――士郎さんがどこからともなくお金をもってきた、と。

 相変わらず実の息子でもある恭也でもよく分からないところがある父親だ。相当な浪費家でもあった士郎なのだが、いざ必要となったら、その分のお金を持ってくるのだ。
 一時期、銀行強盗でもしてるのではないのかと本気で疑ったこともある。
 他の部屋からは一切の物音がしないというのにキッチン兼リビングでは眩い人口の光が部屋を照らし、桃子が鼻歌を歌いながらスクランブルエッグを作っていた。

 高町家の要である高町桃子。
 調理学校を卒業後、本場でもあるフランスとイタリアで修行をし、その後日本に戻ってから、いくつかのホテルでパティシエを務めたこともある。
 そんな折、フィアッセの父親であるイギリス上院議員アルバート・クリステラが海鳴に来日。
 アルバードとそのボディガードの士郎が滞在していたホテルで臨時のパティシエとして働いていた桃子。その桃子の洋菓子を食べて感動した士郎に求婚され、紆余曲折あるも互いに愛し合うようになったという。

 その容姿は非常に若々しい。なのはという娘が居るにもかかわらず、とても子持ちには見えない。
 恭也と一緒に並んで出かけたら、知らない人が見れば姉弟にしか見えない。というか、下手したら兄妹に見られかねない。
 桃子といい美沙斗といい、美影といい……若作りな人がやけに恭也の家系には多かった。

「かーさん」 
「きゃ、きゃぁ!?」

 後ろから声をかけた恭也に、やけに可愛い声をあげて驚いて桃子は振り返った。
 声をかけてきたのが恭也だと分かった途端、胸をなでおろす。

「もう。恭也ってば。いきなり声かけないでよー。驚くじゃない」
「ああ、すまない。まさかそんなに驚くとは思わなかった」
「誰も彼もが恭也みたいに気配とか読めちゃうわけじゃないんだからね。そんな人間離れしてるのは恭也くらいよ」
「失敬な、高町母」

 くすりと桃子は笑うと再び朝食の準備に取り掛かる。エプロン姿がやけに似合う。

「今日は少し早かったみたいね?そのせいでちょっと驚いたわよ」
「まぁ、少しな」
「ふーん。でも、朝御飯できるまでもうちょっとかかるわよー。テレビでも見てたら?」
「そうしよう」

 恭也の奥歯に物が挟まったような返事に桃子が疑問符を浮かべつつも、今は朝食の準備をやっつけないと、と気を取り直す。
 恭也は自分専用の湯飲みを出すと、テーブルの上に置いてあった急須にお湯をいれて、湯飲みに熱いお茶を注ぐ。コーヒーや紅茶も別に嫌いというわけではないが、やはり恭也が最も好きなのは熱い緑茶である。

 椅子に座ると持ってきた新聞を広げながらお茶を一口。口の中に濃いお茶の味が一杯広がる。
 とりあず四コマを最初にチェックしてから適当に興味を引くような記事がないかを確認していく。
 そんな恭也の姿を見ながら桃子はこれみよがしにため息をついた。それを視界の端で確認した恭也が新聞から視線を桃子にうつす。

「何かあったか?」
「あんたほど新聞を見ながら熱いお茶を飲むのが似合う若者もいないわよねー」
「そうでもないだろう」
「そうでもあるのよ。あんたが気づいてないだけで」
「むぅ」

 自分では決してそんなことはないと思っているのだが桃子からしてみれば違うらしい。
 と、いうか桃子を含む家族全員。果ては友人の赤星勇吾にさえ似たようなことを言われた経験もあるのだ。

「そろそろ恭也も彼女くらい作ったらどう?」
「……」

 朝食の準備をしつつ、背をむけながら桃子が呼びかける。それに恭也は視線を桃子から新聞に戻す。
 恭也の返事は沈黙。もう数十回は繰り返されたであろう問答だ。
 決して女性にもてないわけではないのにこれまでの二十年で一回として女性と付き合ったことがない恭也に多少呆れはする。
 もてないわけではないというよりもてる。桃子の目からみてどれほどの数の女性に好かれているだろうか……。

 知る限りフィアッセ。美由希。レン。晶。那美。忍。その六人は確定している。桃子アイから見て間違いない。
 他にも知らないところで多くいるのだろう。それも仕方のないことといえばそうかもしれない。
 年齢とは反比例するかのように大人びた雰囲気。これは好みは分かれるかもしれないが、桃子からしてみれば非常に好ましい。
 容姿も悪くない。むしろかなり格好いい。何せあの士郎の息子なのだし。

 多弁というわけではないが、全くの無口というわけでもない。
 何より、強い。腕っ節が、ということもあるがそれよりも【心】が、だ。
 これだけの条件が揃っている超優良物件なのになんでかしらねーと桃子は心のなかで深いため息をついた。
 恭也が朴念仁ということもあるが、結局のところ皆恐れているのだろう。

 恭也は優しい。気を許した仲ならば多少意地悪なこともされるが、それも親愛の証。その優しさが自分ひとりに向いているのではないことくらい皆が分かっている。
 もし、もしも告白して振られてしまったら……今までどおりの付き合いができなくなるのではないか。そう考えてしまうと一歩を踏み出せなかった。

 そんなジレンマのためか全員が最後の一歩を踏み出せないでいた。
 そう言った事情を桃子も理解してはいる。しかし、人生経験が豊富な桃子にとってはそんな状況を見て微笑ましいものであった。

「まだまだみんな若いわよねー」
「何か言ったか?かーさん」
「……あんたが罪つくりってことよ」
「何だ、突然。流石にそれはいきなりすぎるぞ」
「気にしない気にしない。男ならちっちゃなこときにしてたら駄目よ」

 思わずため息と一緒にもれた本音に反応した恭也を適当にやり過ごす。
 きっと恭也はこのままでいいのだろう、とふっと思った。
 下手に自分の魅力を自覚して、遊び人になったらたまったものではない。恭也なのだからなる筈もないが、万が一ということもあり得る。
 そんなことを考えていると恭也が椅子から立ち上がる。新聞を綺麗にたたんでいるところが性格をあらわしているようだ。

「そろそろなのはを起こしてこよう」
「あ、悪いわね。お願いできる?」
「なのは起こし三段の俺に任せておいてくれ」

「先日は二段じゃなかった?」
「今しがたで昇段したんだ」
「立派になって……桃子さんは嬉しいわ」

 およよと泣く振りをしながら涙をこする演技をする。それには返事をせずリビングをでようとして、振り返った。

「ああ。すまない、かーさん。朝食が終わった後に少し時間をとれるか?」
「んー、昨日のうちに準備はすませてあるから少しなら大丈夫よー。松っちゃんもいるし」 
「では、すまないが頼む。少し話したいことがある」
「おっけー。桃子さん了解したわ!!」

 松尾さんには悪いことをしたな。今度差し入れでも持っていくか、と思いつつリビングからでる。
 階段を登ろうとしたその時、玄関がガラガラと音を立てて開いた。

「おはようございまーーーーす!!」

 朝とは思えないハイテンションな挨拶とともに晶が勢いよく入ってきた。
 登りかけていた恭也は体半分をもどすと晶のほうに向ける。

「おはよう。今日も元気そうだな」
「あ!!師匠!!おはようございます!!元気だけが俺の取り柄みたいなものですから!!」

 テヘヘと照れたように頬をかく。
 俺などといってるが晶はちゃんとした女の子である。今は海鳴中央の制服をきているからしっかりと女性と分かるが、私服姿だとかなりの高確率で男の子と間違えられてしまう。

 実はそのことを本人は非常に気にしていたりする。まずはその一人称を直したら大分違ってくるだろうに、昔からの癖はなかなか直らないようだ。
 そして【あの】空手界の重鎮巻島十蔵の秘蔵っ子。
 美由希の剣才のように他を圧倒する超越的なまでの才能を有しては居ない。どちらかといえば恭也に近い。だからこそ恭也は晶を巻島に預けたのだ。

 晶は努力型である。習ったことを自分で何度も何度も噛み砕くように練習し、習得する。巻島の指導の方法と合うと判断したためである。
 馬車馬のように、一直線に何事にも負けず突き進む。単純明快だからこそ、強い。
 何よりも驚くべきことはその応用性。ただ習ったことを習得するだけではない。どうすればその上を行くのか、どうすればその幅を広げることができるのか、それを常に考える。
 巻島から教わった吼破を吼破改に進化させたこともある。近い将来、空手界においてなくてはならない存在になるだろう、というのが恭也の判断である。

「お師匠ぅ~おはようございます~」

 若干眠気が混じった挨拶と共にレンが二階から手すりに手をつきながらゆっくりと降りてきた。
 もう片方の手で眠気を払うように眼をこすりつつ、欠伸をする。

「ん、おはよう、レン。少し眠そうだな?」
「はい~。昨夜はちょっと夜更かししてしもーたんです」
「寝不足には気をつけるように」
「ぅぅ……情けない姿みせて恥ずかしいですわー」

 そう恥ずかしそうに笑って、恭也と壁との隙間を一階へ降りていった。その何気ない動作にゾクリと、恭也の背筋に鳥肌が立つ。

 鳳蓮飛(フォウレンフェイ)。
 年は十四。晶より一歳年下の海鳴中央二年。
 一言で言ってしまえば天才。それ以外に言い表す言葉はない。他の言葉などレンの前では全てが霞む。
 遠距離では棍術。中距離では中国拳法。接近戦では関節技。と、どの距離でも戦えるが、最も得意とするのがやはりというか中国拳法である。
 はっきり言って、強すぎるのだ。この少女は。鳳蓮飛という武術家は。
 才に溢れ、努力を惜しまない晶でさえも歯牙にもかけない。余裕さえもって相手をできる。
 美由希でさえ小太刀や暗器を使わねば、恐らく敗北を喫するであろう。

 【武才】という面だけでみるならば、レンに勝るものを恭也は見たことがなかった。
 去年、生まれついての心臓病が手術で治って以来、唯一の弱点であった体力の不足を克服しつつある。 
 一体これから先、どれほどのものになるか……恭也でさえ予想できない規格外。
 本音を言おう。高町恭也は鳳蓮飛と戦ってみたいのだ。

 無論、【今】ではない。幾ら天才のレンでも、今戦ったならば百パーセント恭也が勝つ。それくらいの差があるのは分かっている。
 だが、あと五年。いや、三年先ならばどうなるか。天才がどれほどまでに伸びるのか。どれだけの高みに到達できるのか。 
 少なくとも恭也の想像を絶する世界に辿りついているのだろう。それほどのバケモノの片鱗を垣間見せているのだ。

「おっす!!ミドリ亀。ってか、お前なんでそんなねむそーなんだよ」
「うるさいわー。寝起きにお猿のキーキー声はつらいでー」
「な、なんだとぉ!!」
「図星指されてそんなに怒るなんてやっぱお猿やなー」
「く、くっそー!!」

 恭也の思考を中断させるかのような二人の言い合い。これが二人のコミュニケーションらしい。
 喧嘩するほど仲がいい、か。
 苦笑すると恭也は二階へ上がっていく。

「ほどほどにな、二人とも」
「今日こそボコボコにしてやるぜ!!」
「りょーかいです。お師匠~」

 拳と拳がぶつかり合うような音を背後に残して、恭也は二階のなのはの部屋に到着。なのはの部屋は恭也と違って洋風である。
 コンコンと一応ドアを叩いてみるが反応はなし。
 ドアノブを回して開いた扉から部屋にはいる。小学生の部屋とは思えないくらい机は片付いているが、デジカメやらパソコンやら少々似つかわしくないものも置かれていたりはする。

 部屋の隅のベッドにはなのはが丸くなって眠っていた。その姿は小動物に見えなくもない。
 その少し上にある窓際のへこんだ場所にはいくつかのぬいぐるみも置かれていた。恭也が買い与えたものだ。きちんと飾ってあるようで兄冥利につきるというものである。

「なのは。そろそろ時間だ。起きないと学校に遅刻するぞ」
「……んにゅ……おにーちゃん……?」
「ああ、兄だ。朝御飯もできている頃だぞ」
「ん……はぁい……」

 朝に弱いなのはにしては珍しくすぐ起きて安心した恭也。
 ベッドから上半身だけおこして両目をこする。相当眠いようでこすり終わったあともそのままぼーとする。
 このまま放置したら二度寝するな、と判断した恭也はなのはの手を掴んで立ち上がらせる。

 恭也のなすがままに立ち上がると、背中を押されて廊下にでた。
 本当に起きてるのか、と疑いたくなるほど廊下を蛇行しながらふらふらと歩く。まるで夢遊病者のようだ。
 ある意味器用だな……と呆れる。

「んにゃぁ!?」

 呆れていると、ついにゴツンと音をたてて壁に激突したなのは。意外と強くうったようで赤くなった額を抑えながらちょっと涙眼になっていた。
 そのおかげか眼が覚めたようで今度はしっかりした足取りで階段をおりていくなのはをみて胸をなでおろす。
 あのまま階段をおりていこうとしてたら危なっかしくて仕方ないところであった。 

 ふと、冥のことが気になって自分の部屋を覗くが布団にはなのはのように丸くなって眠っている冥がいた。恭也の気配に全く気づかないところをみると相当疲れていたのだろう。
 もうしばらく寝かせておくか……と、襖を閉じたその時。

「もーーー!!二人とも朝から喧嘩しないのーーーーーー!!」
「う、うわー!!ご、ごめんなさーい!!」
「ぅぅ……ごめんなー、なのちゃん」   

 なのはの晶とレンを諌める叫び声と、レンと晶の必死に謝る声が聞こえた。
 それに知らず知らずのうちに苦笑してしまった、恭也であった。
 

















 美由希もレンも晶も、なのはも学校へと登校し、高町家に居るのは話があるという事で残った桃子と恭也の二人のみ。
 本来なら朝はわりと自由が利く恭也がなのはを聖祥大学付属小学校が出しているスクールバスが来るバス停まで送っていくのだが、今日はレンと晶コンビに任せた。

 美由希は昨夜のことを聞きたそうな雰囲気を醸し出していたが、見事なまでにスルーしておいた恭也。少し悲しそうに登校していった美由希に悪いことをしたかなーとちょっとだけ反省しておいた。あくまでちょっとだけではあるが。

 桃子はどことなく機嫌良さそうに朝食の後片付けをしている。洗剤をつけたスポンジで食器をみがき、水で洗い流す。
 光を反射してキラッリと光る食器にニンマリと気持ち良さそうに笑い、食器入れにいれ並べていく。
 一方恭也はリビングのソファーに座り、テレビを見ていた。
 特に見たいという番組はなかったので適当にチャンネルを変えていくが、興味を引くような番組は何もやっていなかった。
 この光景。知らない人が見たならば、姉弟ではなく夫婦と間違えてもおかしくはない。それほど二人には違和感がない。

 時計をふと見てみると長針と短針が八の数字を指そうという時間になっていた。本来ならばそろそろ桃子は、経営者兼菓子職人を務めている翠屋に行かなくてはならない時間である。
 海鳴で最も人気があるといっても過言ではない洋菓子屋兼喫茶店。どの時間に行っても客が並んでいて待たないと購入できないと評判だ。
 翠屋は七時開店ではあるが、桃子が前日に仕込みの準備をしていってることが多いので出勤するのは八時過ぎなのである。
 桃子がいなくてもアシスタントコックである松尾や、そのほかのベテランのアルバイトの娘も数多く居るので安心して任せることができる。

 とはいっても、早く行ったほうがいいのには違いない。桃子がいない分、その他の人たちが頑張らねばならないのだから。
 食器を洗い終わった後、炊事場を片付けてエプロンを外す。

「恭也~終わったわよ。話って何かしら?」
「ん。ああ、すまない。手間を取らせる」
「いーのいーの。あんたの様子から話しずらいことのようだけど……桃子さんに何でも話してみなさい」
「そう言ってもらえると助かるが……」

 そこでどうするべきかと一息とめる。冥を起こしてきたほうが良いかどうか迷うが、やはり当の本人がいなくては話にならないと判断した。

「すまない。少し待っていてくれ」
「うん。いいわよ~」

 恭也はリビングを後にすると二階へあがる。自分の部屋の前まで着くと一応襖を叩きながら声をかける。

「水無月、起きているか?」

 返事はない。物音もしない。
 まだ熟睡しているようだが眼が覚めるまで待っている時間があるわけでもない。

「入るぞ、水無月」

 しっかりと確認を入れてから部屋に入る。自分の部屋に入るのに確認を取らないといけないのもおかしいものだ、と思う恭也。
 襖を開けると、相変わらず子猫のように布団で丸っこくなって寝ている冥。元々の種族がワーキャットなのだから当たり前といえば当たり前かもしれないが。

 すぅすぅと僅かばかり聞こえる呼吸音。もし、それが聞こえなかったら死んでいると勘違いしても可笑しくないほど静かに冥は眠りについていた。

 彫刻のように、どことなく神聖さを醸し出している。
 恭也が冥のそばによって揺り起こそうと手を伸ばして、触れる瞬間に手が止まった。ゴクリと恭也の喉が鳴る。
 別に欲情したとか、そういったことではない。
 普段はツインテールの髪をおろし、ストレートにしている姿は昨日からみてはいるが、こうしてじっくり見てみると冥の横顔は……殺音にだぶってみえたからだ。

 姉妹なのだ。似てて当然かもしれない。しかし、瓜二つにしか見えない冥を見て、殺音を思い出して手がとまったというわけだ。
 僅か数度しか会って居ないはずの女性。水無月殺音。
 しかもデートをしたわけでもない。愛を囁いたわけでもない。
 ただ純粋なまでの殺し合い。憎しみも、怒りも、何もなく。ただただ、己の剣を、魂をぶつけ合った。

 己の魂には殺音の全てが刻まれて、殺音の魂には己の全てを刻み込んだ。
 出会ったのが運命だと。あの日、二人が戦うのは世界が始まってから定められた運命なのだと。そう錯覚さえした。
 それが水無月殺音だ。これから先幾度となく、刃をぶつけ合うのだろう、と確信していた女性。 
 その女性を思い出し……恭也の動きは思考によって止められた。

「……女性の寝顔を見るなんて、あまり良い趣味とはいえない、よ?」
「っ!?」

 珍しく恭也が驚いた。
 完全に寝入っていると思っていた冥が、眼を閉じたままそう声をかけてきたのだ。

「流石にそんなに近づかれたら眼が覚めるよ」
「……すまんな。別に盗み見ていたわけではない」
「ん……怒ってるわけじゃないから」

 眼をあけた冥と恭也の視線が絡み合う。クスリと微笑すると上半身を起こす。
 恭也から顔を背け、眠そうに欠伸をした。欠伸で滲んだ涙を指でふき取る。

「お早う。高町恭也」
「ああ。お早う、水無月。よく眠れたか?」
「お蔭様でここ一ヶ月で一番良く眠れたよ。感謝してもしきれないね」
「それは良かった。招待した甲斐があったというものだ」

 何故か冥は恭也とは顔を合わせないようにしてそのまま続ける。

「部屋の前で待っててくれないかな?すぐ行くよ」
「ああ、分かった」

 そんな冥の様子にやや釈然としない恭也ではあったが言われるままに部屋の外に出る。その際きちんと襖もしめておいた。
 残された冥は、恭也が外にでた途端、我慢できないように布団に突っ伏した。その顔は茹蛸のように真っ赤だ。
 少しでも早く赤みが取れるように、無駄な努力ではあろうが頬を両手で挟んでぷるぷると頭を振る。

「ぅぅ……危なかった……」

 冷静に対処していたように見えた冥ではあったが、実は冥の思考回路はショート寸前であったのだ。限界ギリギリ。
 よくぞあそこまで何でもない振りをしながら話ができたものである。自分をこれ以上ないくらいに褒めてあげたいくらいだ。
 何せ、微弱な気配を感じて薄めをあけてみたら部屋に恭也が入ってきたところだった。しかもどんどん近づいてきて自分の横顔をじっとみているのだ。

 幾ら、冥が化粧などをしないタイプだからといってスッピンの寝顔を見られて恥ずかしくないはずがあろうか。はっきり言って恥ずかしいことこのうえない。
 ついつい我慢できずにこちらから声をかけてしまった。
 あの冷静沈着な恭也が僅かとはいえ、驚きを露にしたのは意外だったが。そのおかげで少しだけとはいえ冷静に振舞えたということもある。
 冥は、ぁーだとか、ぅーだとか意味不明のことを呟き、ゴロゴロと布団の上をころがりながら顔の火照りが治まるのを待つ。だが、あまり遅くなっても悪いので完全に引いてはいないが立ち上がると布団をたたんで部屋から出ることにした。

「ごめん。待たせたね」
「いや、大丈夫だ」

 冷静に冷静に、と自分に言い聞かせながら一階げ降りていく恭也についていく。
 こんなに焦っている自分に比べて、普段どおりな恭也がちょっと憎らしい冥であった。
 恭也に連れられてリビングに入った冥を見てコーヒーを入れていた桃子の手が驚きで止まる。見知らぬ少女がいきなり恭也に連れられてはいってきたのだから当然だろう。
 冥はどう切り出せばいいか分からず、ペコリとお辞儀をする。それで、桃子も驚きから回復し、にこりと向日葵のように暖かい笑顔を浮かべた。

「恭也の知り合いかしら?初めまして。恭也の母の高町桃子と言います」
「あ、ボクは水無月冥です。突然ご迷惑をかけて申し訳ありません」
「あら。礼儀正しいわね~。甘いものすきだったらシュークリーム食べるかしら?」

「そんな、どうぞお構いなくです」
「【子供】が遠慮しちゃ駄目よ~。苦手じゃなかったら、だけど……」

 そんな桃子と冥の会話で恭也が噴出した。ぶはっ、と恭也のイメージとはまるで正反対の噴出し音で。
 冥が凄い勢いで恭也を睨み付けるが、恭也は誤魔化すようにゴホゴホと咳をしながら顔を背ける。
 しかし、その体がぷるぷると震えていた。まるで笑うのを必死で耐えるように。
 冥を子供扱いした桃子が相当恭也のツボにはまったようだ。

 冥はこうみえてもワーキャット。夜の一族だ。
 吸血鬼のように不老不死に近いというわけではないが、人間に比べると随分と不老長寿といえる。
 見かけは小学生……相当甘く見ても中学生。その身長もレン未満といったところであるが、年齢は推して知るべし。恭也はもちろん桃子よりも年上だったりするのだ。

 もちろん、そんなことを知らない桃子。全く悪意もない。それ故に、冥も乾いた笑いで返すしかない。問題は、隣で必死で笑いをこらえている恭也。
 思わず桃子に見られないように恭也の足を踏みつけようと足を振り下ろしたが、恭也は見事にそれを避ける。
 桃子は疑問を浮かべながら二人の様子を伺っていたが、キッチンへ戻り冷蔵庫から皿に乗ったシュークリームとコップに牛乳を入れて持ってきた。

「はい、どうぞ。召し上がれ」
「あ、ありがとうございます……」

 恭也に復讐することは諦め、大人しく椅子に座る。恭也も冥に並ぶように座った。
 桃子はそんな恭也の元には熱い緑茶を置く。

「それで、話というのは水無月のことなんだが……」
「うん。昨夜私が帰ってきたときにはいなかったわよね?」
「ああ。皆が寝た後に連絡があってな」
「ふーん。あ、冥ちゃん。温まらないうちにたべてねーそのシュークリーム」
「あ、はい」

 こうまで勧められたら食べないわけにはいかない。それに冥は甘いものが嫌いなわけではない。と、いうか大好きだったりする。
 恭也が説明するのだから下手に自分が口を挟んで邪魔するわけにはいかないので大人しくしておこうとシュークリームに口をつけた。
 そしてそのあまりの旨さに一瞬固まった。今まで食べた洋菓子とは比較にならないほどの凝縮された美味しさ。

「この子は水無月冥。俺の妹だ」

 衝撃の発言。
 一気に飲み込もうとして、のどに詰まらせた。必死で胸を叩く冥。
 桃子の笑顔が引きつる。

「え、えっと……恭也?」
「とーさんと一緒に護衛の仕事のためにイギリスへ船で行ったときにな。運悪く嵐にあって船が沈没してしまったんだ。その時生き別れてしまったが……ようやく再会できたわけだ」
「……もしかしてマリアナ海溝で?士郎さんが何か言ってた気がするわ……」

「ああ……まさか生きていてくれるとは。俺もあの手この手で探してはいたんだが……奇跡というものは起こるらしい」
「と、いうことは。冥ちゃんって私の娘になるのかしら?」
「まぁ、そういうわけだな」
「こんな可愛い子なら大歓迎よ!!桃子さんって朝から超らっきーね!!」
「かーさんに喜んでもらえて良かった」
「もう、恭也ってば。それならもっと早く言ってくれればよかったのに……冥ちゃん、私のことは桃子おかーさまとよんでね?」
「いやいや、桃子ママでもいいんじゃないのか?」
「って、何言ってんの!!」

 むせつづけていた冥がようやく復活。流石に黙っていられなくなったのか、勢いよく突っ込む。

「おお。やるな。ちゃんと突っ込んでくれたか」
「なかなか良いタイミングね~。でも、桃子さんはもうちょっと続けたかったかしら」

 そして、これ以上ないくらい冷静に評価してくる二人。
 何、この似たもの親子。打ち合わせたわけではないだろうに、阿吽の呼吸の桃子と恭也に冥は戦慄を隠せずに入られなかった。




















[30788] 旧作 御神と不破 二章 恭也編 中編
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/03/11 01:00




「それで本題になるわけだが」
「うんうん?」

 両肩で息をしながら恨みがましそうに見ている冥を尻目に今までの話などなかったかのように恭也が切り出した。
 それに桃子も頷くように続ける。クイっとコーヒーを一杯。
 そんな二人を見て、冥は激しい悪寒に襲われた。夜の一族の勘とでもいうべきものか。

「……二度目のボケはいらないからね」
「ちぃ」

 釘をさすかのような冥に、恭也が出鼻を挫かれて舌打ち。
 まさかとは思ったがまた何かボケようとしてたのかと心底呆れた。

「あら。やるわね、冥ちゃん。恭也をやりこめるなんて」

 眼を丸くしながら桃子が驚いた。これは将来楽しみねぇ……と心の中でほくそ笑む。
 対する恭也は若干残念そうにしながらも、気を取り直すようにゴホンと咳払いをした。

「水無月冥。彼女は俺の古い知り合いの妹さんなんだ」
「古い知り合いって?」
「以前、全国武者修行の旅へ出たときがあっただろう?その時に世話になった人でな」

「あんたって相変わらず知り合いが多いわねぇ……人脈の広さは士郎さんと同じね」
「褒められたと思っておこう。で、だ……その知り合いはとーさんと同じ様な仕事をしていてな。そちらの方で多少面倒ごとに巻き込まれたらしい、という連絡があったわけだ」
「成る程。それで危険が冥ちゃんに及ばないようにって恭也に預けたというわけね?」
「おおまかに言ってしまえばそういうわけだ。理解が早くて助かるぞ、かーさん。昨夜随分遅くにだがこちらに到着したという連絡を受けて家に案内したわけだ。何せ夜分遅くだったから話は翌日にしようと思ってな」
「了解、わかったわ。冥ちゃん、自分の家だとおもってゆっくり過ごしていいからね」

 そう桃子はにっこりと冥に笑いかける。母性を感じさせる、全てを包み込んでくれるような笑顔。 
 真実の一部を織り交ぜて説明したとはいえ随分とあっさり説得できたな、と拍子抜けの恭也であったが無論それには理由がある。
 まず第一に冥の容姿が幼いということだ。
 もしこれが筋骨隆々の男だったりしたら流石の桃子も悩んだだろう。冥の庇護したくなる容姿と雰囲気が桃子の警戒心を和らげた。

 第二に、桃子の懐の大きさだ。
 若い頃から苦労しているせいか人間としての器が大きい。多少のことでは動揺しない。恭也の大人びた容姿と同じく、桃子の人間としての大きさもある意味年齢とは見合わない。

 第三に、これが一番大きな理由だ。
 冥を【恭也】が連れてきたからだ。もし、冥だけだったならば流石の桃子も多少なりとも渋っただろう。
 桃子は信頼しているのだ。信用しているのだ。この世界の誰よりも。高町恭也という息子を。恭也という男を。
 高町家の大黒柱は高町桃子だ。だが、精神的な柱は間違いなく恭也である。
 恭也がいるからこそ、今の高町家があるのだ。

 なのはが誰よりも純粋に育ってくれた。美由希が優しく成長してくれた。晶が真っ直ぐに大きくなってくれた。レンが病魔に打ち勝とうとしてくれた。フィアッセが笑顔を取り戻してくれた。そして桃子に……生きる希望を与えてくれた。
 なのはを身ごもった当時、夫である士郎はボディーガードの仕事で命を落とした。

 幸せの絶頂から転がり落ちた桃子。箱に入り、小さくなって戻ってきた士郎を抱いて桃子は呆然としながらも泣けなかった。美由希と恭也がいたから。女であるよりもまず母であったからだ。
 そして美由希と恭也を呼んで抱きしめて士郎の訃報を躊躇いがちに語った。 美由希は泣いた。数日間に渡って、士郎の死を受け入れたくないように。
 だが、恭也は泣かなかった。士郎が死んだ現実をしっかりと受け止めながら。実の父が死んで悲しくないはずがないのに。まだ中学生になるかならないか程の年の少年が。
 かわりに桃子にこう頼んだ。

「俺はきっと冷たい息子なんだろう。涙が流れないんだ……変わりにかーさんが泣いてくれ。俺の分までとーさんのために泣いてくれ」

 そう、血がながれだしそうなくらい拳を強く握りながら、歯を食いしばりながら必死で涙を堪えている桃子に語りかけたのだ。
 そんな恭也の優しさが桃子を、母から女へと戻した。桃子も泣いた。父の死をたえようとしている恭也を抱きしめながら、一晩中泣き続けた。
 それから執り行われた葬式には数多くの人が訪れたのだけは覚えている。人は葬式の際にどれだけの人が訪れ、涙したかで生前の愛され方がわかるという。

 気さくで奔放だった士郎であるが、多くの人に愛されていたのだろう。次から次へと弔問客が途切れることはなかった。
 そんな中やってきたのがフィアッセと父であるアルバード。そして母のティオレ。
 士郎が命をおとした原因はアルバードの護衛のためだと知られているため、他の弔問客には良い眼で見られていなかった。
 桃子に頭をさげるアルバード夫妻。泣きながら謝るフィアッセ。

 護衛なのだ。命を落とす危険がある。そう知ってはいたが、桃子も当時は頭では納得できていても心では納得できていなかった。
 反射的に怨嗟の言葉が喉元まででかかって、それよりも早く恭也が答えた。
 貴方達のせいではない、と。父は貴方を護ることに誇りを持っていた、と。

 それが桃子の目を覚まさせた。自分より一回り以上若い恭也を見て、自分が恥ずかしくもなったものだ。  
 だからこそ誰よりも心がつよい恭也のことを、まだ二十になったばかりの息子のことを桃子はこの世界で誰よりも尊敬していた。
 それと同時に桃子は恭也にどうしようもないほど深い罪悪感も抱いている。恭也は泣かなかったのではない。泣けなかったのだ。桃子が、美由希がいたから。

 そのために恭也は泣くことを忘れてしまった。桃子がそのことに気づけたのは随分と後になってからである。
 【今】だったら随分と違うのに。当時は若かったわよねーと桃子は幾度も後悔したものだ。
 そんな恭也が連れてきたのだ。だからこそ、桃子は冥を無条件で受け入れた。桃子が恭也を疑うことなど決してない。

「ああ、すまない。俺と水無月は俺の仕事場の方で寝泊りしようと思っている。かーさんにはそのことを説明しておきたかったんだ」
「あれ?ここに泊まるんじゃなかったの?」
「水無月を追って来る相手がいるかもしれないからな。ここを危険に晒すわけにもいくまい」
「ん……まぁ、それはそうだけど……」

 恭也にとって最も大切なこととは家族を護ること。それは昔から変わらない。
 それ故に、高町家に泊まっていたら死刑執行者がここに攻め込んでこないとは限らない。家族を危険に晒すことはしたくなかった。 
 桃子にとっても自分だけならともかく、娘のなのはや親友からの大切な預かり者のレンや美由希もいるのだ。
 冥をどうこう言うつもりはないが、大切な娘たちに危険が及ぶかもしれないと考えると恭也の考えに賛成せざるを得ない。

「じゃあ、あそこにいるのねー。何時からいくの?」
「すぐにでも出ようと思う。水無月の生活用品もかわないといけないからな」
「どれくらい留守にするかわかるかしら?」
「……正確な時間は少しわからん。だが、そう長い間ではないはずだ」
「わかったわ。美由希達には私の方からうまくいっておくから」

 桃子は納得したという感じで頷く。
 椅子から立ちあがると冥の元まで歩み寄り、ぎゅぅと抱きしめる。
 その母性に満ちた雰囲気に、冥はなすがままだ。

「大変だと思うけど頑張ってね。心配はいらないわよ?うちの恭也は誰よりも強いんだから、ね?」
「……う、うん」

 素直に頷くことしかできない冥。これほど純粋な優しさに触れたのはどれくらいぶりだろう。
 生まれ故郷の家族とは比較にならない、全てを包み込む海のような母性。
 抱きしめられること一分。ぽんと背中を軽く叩くと桃子は冥から離れる。

「それじゃあ、そろそろ私はいくわね?また何かあったら連絡頂戴。あ、直接翠屋にきてもいいからね?」
「ああ。朝の忙しい時間に引き止めて悪かった。仕事頑張ってくれ」  
「ううん、気にしないの。もっとかーさんを頼りなさいよ?」
「……肝に銘じておこう」

 桃子はバタバタと足音をたてて玄関の方に向かう。

「あ、あの!!」
「うん?どうしたの?」
「……あ、ありがとう」

 顔を真っ赤にしながらそう呟いた冥。そんな冥に満面の笑顔を向けた。

「またね、冥ちゃん」

 そういい残すと桃子は足早に高町家から出て行った。残されたしばらく呆然と桃子が姿を消した先を見つめていたが、桃子に触れられた場所はまだ桃子の暖かさが残っているかのようであった。

「……いい母親だね」
「ああ。自慢の母だ。俺が尊敬している数少ない女性だ」
「分かる気がするよ……それ」
「もっとも俺が褒めたことは秘密にしておいてくれ。すぐ調子になるからな」
「はは。分かったよ」

 恭也の冗談とも本気ともつかない台詞に苦笑する冥。
 だが、その恭也の言葉には隠しようのない敬愛の情がこもっていた。
 付き合いは短いがそれくらいは冥にも感じ取れる。素直じゃないな、と冥は心のなかで再度苦笑した。
 そんなことを冥が思っているとは露知らず、恭也は湯飲みとカップ、皿を片付ける。

「さて、そろそろ出るとしよう。水無月、お前は玄関で待っててくれ」
「ん、了解」

 冥は玄関へと向かい、恭也は二階の自分の部屋と足を向けた。
 部屋の入ると押入れに隠してある飛針や鋼糸をリュックに詰め込む。その他諸々の装備を準備すると背中に担ぎ部屋を出る。
 普段ならば体に隠せる分だけしか持ち歩かないが、これから向かう先にはそういった暗器のストックがないのだ。
 必要になるかわからないが、とりあえず持てる分だけの暗器を持っていくことにしたというわけだ。
 玄関に戻るとそこには手持ち無沙汰状態の冥が恭也を待っていた。外に出てしっかりと鍵をかける。

「待たせたな。行くとしようか」
「うん」  

 二人は高町家を離れるとゆっくりと歩を進めながら住宅地を抜けていく。
 すでに太陽はすっかり天空に昇っており、ジリジリとした暑さを肌に感じさせる。
 夜の一族である冥にとって太陽の光はどうなのだろうか、と恭也は冥に視線をやるが、特に問題はなさそうな様子であった。

 親友である月村忍は吸血鬼の血族らしいが、やはりというべきか吸血鬼らしく日中はテンションが低い。
 別に肌が陽の光に焼かれるとかそういった問題ではなく単純に体中がだるくなるのだという。それゆえにか、大学の授業もほぼ爆睡して過ごしている。
 しかし、恭也は単純に忍がゲームで徹夜をしているから寝不足なだけではないのか、と最近は疑うようになってきたが。
 目的の場所まで歩いたら三十分程度。先に冥の生活用品と買おうか迷ったが、背中に感じる暗器の重さに気がついた。こんな物騒な物をもったまま買い物などできるはずもない。
 そしてこんな時に限って近所の人に良く出会う。こんな時だからこそだろうか。家から出てきた顔見知りの人たちに挨拶だけして公園のほうへと足を向けた。

 海鳴臨海公園。
 旅行ガイド曰く、海鳴に来たカップルは一度でいいから通うべき場所らしい。
 だからといって恭也は別にデート気分で海鳴臨海公園に向かったわけではない。ここを通り抜けたほうがずっと目的地まで短縮できるからだ。
 海鳴臨海公園に足を踏み入れると潮の香りが恭也のと冥の鼻をくすぐった。海鳴臨海公園はその名の通り、海に面している。随分と長い柵が海と公園を分け隔てていた。
 夜になるとライトアップされて、観光するカップルは良い雰囲気になるとか。

 恭也も何度か夜間にきてみているが、思わず感心するほど素晴らしい景色であったのは間違いなかった。残念ながら鍛錬ついでに通っただけなので、誰かと一緒に来たというわけではない。
 二人は連れ立って公園の中を突っ切るように歩いていく。途中幾度か、カップルらしき男女とすれ違う。楽しそうに語らいながら腕を組んでる。

「恋人かな?ここって多いいんだね」
「ん?ああ、そうだな。海鳴では有名なデートスポットらしい」
「……僕達も周囲からそう見られてたりして?」
「まぁ、残念だが兄妹がいいところだろう」
「は、ははは……確かにそうかもね」

 通り過ぎるカップルを横目にみながらふと漏らした冥に恭也は何の気なしに答える。
 ある意味朴念仁の恭也らしい答えにハァとため息を漏らす冥。予想通りすぎた。
 肩を落とす冥に疑問をもちつつも歩き続ける恭也の視界の端に屋台がうつる。それについつい足を止めてしまった。

「どうしたんだい?って……あれは鯛焼き屋?」
「ああ。俺がわりと贔屓にしている店でな。なかなかうまいぞ。良かったら寄っていかないか?」
「キミに任せるよ」
「そうか。あそこは中身の種類が多彩でな。あんやクリーム。チョコクリームにカレーやチーズにピザもあるぞ」

「……後半の方がうまく聞き取れなかったんだけど、なんだって?」
「カレーやチーズにピザといったんだが?」
「……聞き間違いじゃなかったのか……」
「意外と旨いぞ?」
「そ、そーなの?」
「俺以外には不評なのだがな、何故か」
「……それはそうでしょ」

 最後は恭也に聞こえない声でぽつりと呟く。確かにそういった鯛焼き屋があってもおかしくはないが鯛焼きというものは甘い物という固定概念があるためどうしても受け入れがたい。  
 恭也が幾ら勧めても絶対あんこかクリームにしようと心に決めて恭也の後についていく。しかし、数歩歩いただけで恭也の歩みが止まった。
 不思議に思って恭也の背後から覗き込むように屋台のほうをみると一人の女性が何やら騒いでいるのが見えた。

「これとっても美味しいですよ?私の故郷にもこんな美味しいものありません。おじさん、天才じゃないですか?」

 綺麗なソプラノの声。流暢な日本語で、その西洋の女性は屋台の主人に話しかけていた。
 主人はまさかそれほど褒めらるとは思っていなかったのだろう。恥ずかしそうに頭をかきながら女性にサービスで鯛焼きを多く渡している。

 こちらの視線に気づいたのだろう。恭也たちに振り返りばっちりと目があった。
 女性自身が光を放っているのではないかと思うほどの美貌。
 輝き渡るプラチナブロンドが背にまで伸びている。顔には若干のあどけなさが残っていた。
 女性と少女。どちらで表現すればいいのか悩む容姿だが、少女とよばれるようなか弱さなど微塵もない。
 何故か右眼を瞑っており、左眼だけだが、強烈な光をともして、冥を貫いた。
 腰が砕けそうになるような。悪寒。圧迫感。口に咥えている鯛焼きが少し間抜けだったが。

「あらあら。そこにいるキミはもしかして、もしかしなくても少年じゃないですか?ちょっと見ない間に大きくなりましたね。ん?いや、少年達の時間の流れなら久しぶりというべきなのですかね?」

 ゴクリと咥えていた鯛焼きを一気に飲み込むとマシンガントークで銀髪美人は恭也に語りかける。
 またこの美人は恭也の知り合いなのか!!っと、頬をひきつらせながら恭也をみあげるが、意外や意外。恭也の顔はまるで殺音と向かい合っていた時の様な研ぎ澄まされた表情であった。

「何故、アンタが……」
「いやいや?偶然?それとも必然?どっちだと思いますか、少年。私としてはどちらでもなく、運命だと願いたいところですけどね。しかし良く覚えていましたね、私のことを。あの時、僅か一瞬の邂逅だったと思ったのですが?」
「……アンタほどの存在を、忘れれるわけないだろう」  
「やん。それは遠まわしな告白ですか?流石に白昼堂々は恥ずかしいですね」

「……本題を言って貰おうか。俺はアンタとの偶然も運命も信じられん」
「切ないですね。でも、そんな少年も素敵ですよ?ああ、本題でしたね。本当に特にはないんですよ?勿論、そちらの少女にも興味はありません」

 片目の強烈な眼光が鋭さを増す。物理的な圧迫感をもって恭也と冥を襲う。

「だって私は観測者なのですからね。今回は少年と【彼】の戦いを見に来ただけですよ?どちらかに手を貸すことはないから安心してください。ああ、でも【彼】も驚くでしょうね。少年がそうであることは知らないのですから。まぁ、【彼】だけでなく少年がそうであることを知っているのは私を含む三人だけでしたか」
「……知らせてないのか、アンタ達は」
「当然ですよ?知らせてどうするというのですか?皆信じませんよ?有り得ない、あってはならないことなのですから。あの出来事は。私だって実際に見てなかったら信じられませんよ」

 手に持った袋から鯛焼きを取り出して頭からもぐもぐと食べる女性。
 ゴクリと飲み込むと、手にもっていた袋をヒョイっと冥に向かって軽く放物線を描くように投げる。
 反射的にその袋を視線でおう。重力に負けるように袋は冥の手元に寸分の狂いもなく収まった。

「うん、良い髪質ですね。でも、最近手入れしてませんね?女性ならば、少年の横に立ちたいのならちゃんと手入れしましょうね?」

 冥の全身から冷や汗が噴出した。
 心臓が物凄い勢いで拍動し、全身が金縛りにあったかのように強張る。
 絶望的なまでの悪意を秘めた声が、冥の鼓膜にまで響き渡る。
 いつの間にか冥の背後に回った女性が両手で冥の髪を梳き、嗤っていた。
 殺される。虫けらのように。躊躇いもなく。
 永遠と続くように思えた一瞬が過ぎ去る。冥の思考が凍結し、動き出す。何時までたってもそれ以上何かが起こることはなかったのだから。疑問が湧き出るが、それもすぐになぜか分かった。

「何もしませんよ、少年?ただ、少しからかっただけですから、本当ですよ?」
「弁解はいい。水無月から離れろ」

 女性が冥の首筋に手をあてがってるのと同様に、恭也も何時の間に袋に入ったままの小太刀を女性の腹部に押し当てていた。
 ただ、押し当てていただけ。それでも、その小太刀からは明らかに、死の香りがした。もし、これ以上冥に何かするなら、確実に死ぬ。そう連想させるほどの死臭を漂わせ、恭也は女性を冷たい眼差しで見ていた。
 その眼差しをその身に受けながら女性は薄く笑った。満足そうに微笑んだ。

「ああ、素晴らしいですね。たった三年で少年はどこまで成長したんですか。いいえ、もはやそれは成長というレベルではありませんね。進化、それも少し違いますね?……まぁ、そんな些細なことはどうでもいいです」

 ぱっと冥から離れると女性はくるりと回転して背を向ける。

「やっぱり少年は凄いです。私が見届けてきた人間の中で一番イカレテイル、バケモノですよ?自覚していようがいまいが、それだけは絶対です。安心してくださいね?本当に私は今回は手をだしませんから。これは少年と【彼】の戦いですから。私はどうやらその戦いの輪には入っていないようですし」

 ゆらり、と女性の体がぶれる。蜃気楼のように消えていく。

「でも、気をつけてくださいね。【彼】は強いですよ?ただ、【彼】は少年がそうであるとは知りません。ただの人間だと油断するかもしれないですからね。ああ、ごめんなさい。少年は異常なくらいイカレテイルだけで、一応は人間でしたね。まぁ、そこの油断をついて頑張ってくださいね?少年の可能性を、私に見せてください」 

 言いたいことだけを言って、女性はそのまま揺らめくようにして姿を消した。
 残された冥は、その掴めない薄気味悪い女性が姿を消えたのを確認しても、悪寒は消えなかった。まるでとんでもない化け物を前にしていたかのような感覚。
 恭也はなんとも厄介なことになった、と深い深いため息をついて、小太刀をしまうのであった。

 女性の姿が消えても、体が重く、身動き一つするのも苦労する倦怠感が冥を包んでいた。
 頭がぼんやりとしていて思考回路が正常に働いていないような感覚だ。

「今の、女性、は……?」

 からからに渇いた喉で、問いかけようとした冥は自分が極度の緊張状態であったことにようやく気づいた。
 その冥のかすれた声に恭也は反応することなく、銀髪の女性が消えた先を睨んでいる。そんな恭也の様子は尋常ではない。
 冥も辺りを注意深く見回してみるが、特筆して変わったことはなかった。強いて言うなら、いきなり人が消えたのに驚いた鯛焼き屋の主人が腰を抜かしているところくらいだ。

 それでも恭也には違う景色でもみえているのだろうか?
 油断することなく、気を張ったままだ。それにつられて冥もすぐ動ける体勢のまま恭也のそばに近寄る。
 近寄ったところで、タイミング良く、冥にとってはタイミング悪くだが……恭也がふぅと息を吐き、気を緩めた。

「大丈夫のようだな……この周囲にもう奴はいない」
「う、うん……」

 ぽんっと冥の肩におかれる手。その手はゴツゴツとしていて、だが心強かった。恭也の体温が伝わってくるようで、冥は自然と高鳴る鼓動を抑え切れなかった。 
 しかし、あの恭也にここまで警戒させるとは、一体何者なのか。冥の頭を巡る疑問。
 先ほどの質問と、顔に出ている恭也への質問。それに答えるべきか恭也は迷う。

「正直なところ、俺もあの女の正体は把握できてはいない。過去に一度あったことがあるだけだからな。だがな、正体とかそういった以前の問題だ。お前なら分かっただろう?
「うん……分かる。分からないはずがないよ……あんな外れた存在、殺音や死刑執行者くらいしかみたことない」

「俺は第二位にはあったことがないのでな、なんともいえんが。確かに殺音にも匹敵しかねん、あの女は」
「一体、何が目的だったんだろう……あの女性は」
「そこまでは分からんが……あいつの言を信じるならばこちらの不利益になる行動はしないようだ」

 どこまで信じられるか分からんがな、と最後に付け加えた恭也。
 冥は先ほどの女性を思い出してぶるりと背筋を震わせた。
 あの、モルモットを見て、その観察日記をつけているような、淡々としている冷たい瞳。
 そして口に出していた通り、本当に冥には興味がなかったのだろう。冥を見る視線には温度というものが感じられなかった。逆に恭也を見る女性の目には様々な想いが見て取れた。本当に一度だけしか会ったことがないのか疑わしく思う冥である。

 自画自賛というわけでもないが冥は自分のことをそれなりには強い、と思っている。それは他者の目からしてみてもそう見えるだろう。何せ、あの美由希と互角に戦えるほどなのだから。
 そんな冥でさえ、あの女性と戦ったら殺されるというイメージが自然と湧き出てきた。明らかに、自分とは格が違う。
 若干マイナス思考になっていた冥に気づいたのか、恭也がぽんっと頭に手を置きぐりぐりと撫で付ける。

「さて、いらん手間を取ったな。さっさと行くとしようか」
「あ、そうだね。でも、恥ずかしいから、ほどほどにしてよ」

 照れながら返事をする冥。決してやめてとは言わず、ほどほどにしてというところが乙女心なのだろうか。 
 恭也は冥をつれだって歩き出す。無論、目的の鯛焼きを買うのも忘れない。

 チーズとカレーの二種類。上級者向けの両方一気食いをしてみると、冥が変な生き物をみるかのような眼で見てきたのが少し悲しい恭也であった。
 冥はかなり嫌がったので仕方なくオーソドックスなあんこ。
 さっきの女性が投げてよこした紙袋のなかには鯛焼きが何故か入っていなかった。冥に放り投げたときには確かに重みが感じられたのに、あけてみると空っぽだったのだ。

 おそらく、冥からはなれるときにきっちり回収しておいたのだろう。意外とちゃっかりものである。
 鯛焼きを歩きながら嬉しそうに頬張る冥をみて、なんとか誤魔化せたか、と安堵のため息をついた。多少疑惑の念は残っているようだが、どうしても聞き出そうというほどではないようだ。
 恭也は冥に女性の正体を把握できていないと語ったが、本当は何者であるかは知っていた。一度しか会ったことがないというのは事実。その時にあの女性は自分の正体をあっさりと恭也にばらして去っていったのだから。決して忘れることはできない。それほど恭也の印象に残っていた。

 冥に女性の正体を告げなかったのは、やはりというか冥を思ってである。女性の正体をしったら間違いなく冥の精神に負担をかける。
 ただでさえ死刑執行者に追われるということですでに精神に多大な負荷をかけているのだ。これ以上負担をかけたらまずいと恭也が判断したためである。
 でも、今はとりあえずできることから片付けないといけないとな、と気を引き締める恭也。
 公園を抜け、それなりに大きい歩道をゆっくりと歩く。人間数人分の歩道の横は車道になっていて、平日の昼近くだというのにかなりの車が通り過ぎる。
 そんな車を眼で追っていた冥がふと浮かんだ疑問を恭也にぶつける。

「そういえば、キミは免許は持っているのかい?」
「ん?ああ、一応持ってるぞ。普通免許だがな」
「運転とかはしないの?」
「生憎とする機会がなかなかなくてな。大学も電車通学のほうが通いやすい場所にあるんだ」
「……」

 冥が歩みをとめ、押し黙った。
 それに不審を感じた恭也が振り返り、どうした、と無言で問いかける。
 冥の顔がひきつっている。

「い、今なんていったっけ?」
「電車通学がどうした?」
「もうちょっと前!!」
「大学が―――」
「う、うそぉおーーーー!?」

 驚嘆の叫び声があがった。その声に驚いた恭也が驚き、反射的に一歩後ろに下がった。
 周囲に通行人がいなかったのが救いだろう。もし居たら注目の的になっていたところだ。 

「キミって学生だったの!?」
「どこからどうみても学生にしかみえんとおもうが」
「いやいやいやいやいや!!それはないないないないない!!」

「流石にそこまで力いっぱい否定されると少し悲しいところがあるな」
「ええっと、ご、ごめん!!で、でも本当の本当に学生なの?」
「ああ。今年入学したばかりだ。一年留年してるから今年で丁度二十だ」
「ハ、ハタチデスカ」

 何やら怪しい片言の日本語になった冥はオーノーと言わんばかりに天を仰いだ。陽光がやけに眼に沁みる。
 確かに、恭也は大人っぽくみえる。心も体も、恭也の老成された雰囲気と相まって随分と大人に見えるのだ。
 事実、冥も恭也のことを二十台後半だと思っていた。それが、意外や意外。
 まさかまだ二十の若造だったとは予想外すぎる。と、いうか想像できるはずもない。

「二十でそれって……キミはどれだけ人間辞めてるんだよ……」
「失敬な。日々の鍛錬を怠らなかっただけだ」

 絶対無理だろう、という喉元まででかかった言葉を飲み込む。恭也の透明な歪んだ笑みを見てしまったから。

「所詮、俺はこの程度だ。あの人にはまだまだ及ばない。それに……」

 ごくりと冥は恭也の雰囲気に呑まれていた。別に殺気をばら撒いているわけではない。それでも、呼吸が苦しくなる、先ほどの女性にも勝る圧迫感が冥を押しつぶさんと荒れ狂っていた。
 
「美由希を見ているといい。後三年たって今の俺と同じ年になったならば……あいつの強さは俺の上を行くぞ」

 高町美由希が自分の上をいくと、はっきり答えた恭也だったが、冥はそうは思わなかった。
 確かに美由希は強い。冥が見てきた中で五本の指に入るだろう。現段階でその状態ならば確かに恭也の言うとおり後三年たてばその力量はどこまで伸びるのだろうか。確かに恭也よりも強くなるのかもしれない。

 だが、足りない物がある。いや、単純な戦闘者としては足りない物はない、と思う。
 しかし、恭也と比べるとするならばあの娘には、足りない物が多すぎる。何が、と問われれば答えることは難しい。だが、確かに足りないのだ。

 例えば美由希の剣の技量、速度、力それら全てが恭也と互角になったとしよう。その状態で恭也と戦ったとしても勝つのは恭也だ。
 攻撃と防御。その二つの完璧なる瞬間調整。刹那の見切り。人間とは思えぬ無限にも等しい体力。決して折れることのない鋼のような精神力。如何なる存在を前にしても揺らぐことのない剣の意思。
 それが恭也の強さなのだろう。圧倒的なまでの剣術が恭也の強みなのは確かだ。 
 それでも決してそれだけに頼っているわけではない。高町恭也の根本的な強さは、心と技と体。それら全てによる完全な戦闘の支配力。
 美由希はどこまでも強くなるだろう。或いは単純な御神の剣士としてならば恭也を上回るかもしれない。だが、死合いにおいては決して高町恭也には及ばない。強いのは美由希だが、勝つのは恭也ということだ。

「ようやく着いたな、ここだ」

 物思いにふけっていた冥はハッと恭也の声で我に返った。
 無意識のうちに恭也の背を追っていたのだろう。気がついたときにはすでに一際大きいマンションの前に着いていた。
 その大きさに少し圧倒された冥が驚いたようにマンションを見上げる。正直なところ、もっと質素な所を思い描いていたのだがものの見事に外れてしまった。

 入り口に向かう恭也に慌ててついていく。恭也が入り口のドアの横にある装置にカードキーを通すとガチャンと音がして入り口のドアが開いた。
 一階の中央には驚いたことに小さいが噴水があり、水が湧き出ていた。通路も大理石でできているようで冥はさらに驚く。 
 エレベーターに乗り込むと十五階まである数字のうち五階を押す。上にあがっているはずなのに下に降りているような不思議な感覚を体に感じながら八階に到着。エレベーターからおりると廊下には絨毯がひかれていた。

「この階には二部屋しかないからわかりやすいと思う。迷子にはなるなよ?」
「な、なんでこんな良い部屋を借りてるんだい……」

 恭也が案内した部屋は冥が呆れるほどであった。俗に言う3LDk。しかも、人が住んでいるような生活感があまりない。頻繁につかっているというわけではなさそうだ。
 近くというほどでもないが、歩いて三十分もかからない場所に自宅があるというのに何故こんな広い部屋を借りているのか疑問がつきない。

「俺は知り合いに少々仕事を頼まれることがあってな。護衛や、まぁ、他に色々とだが。その際にあまり物騒なことを自宅で話すわけにいかないこともあって知人に相談したらここを格安で貸してくれたんだ」
「格安で?」
「ああ。元々は俺の父に命を救われたことがあったらしい。そういうこともあって俺でも借りれる程度の家賃ですんでいるんだ」    
「キミの父親もボディーガードか何かをしているのかい?」
「まぁ、そうだな。正確にはやっていた、だが」
「……すまない。配慮に欠けた質問をしたみたいだね」
「気にするな。もう随分前の話しだしな」

 だった、という過去形に気づいた冥はすでに恭也の父が亡くなっているのだと知り、素直に謝罪の言葉を告げる。恭也も特に気にしているわけでもないのであっさりと聞き流す。
 背負っていたリュックをおろし。軽く伸びをする。別に重さが辛かったというわけではないが、背負っていないほうが随分と動きやすい。

「さて、水無月の生活用品でも買いにいくとするか。ああ、費用のほうは気にするな。それくらいは俺が出そう」
「ぅぅ……世話をかけるね」

 しゅんと素直に礼を言う冥。生憎と手持ちのお金はほとんどないに等しい。そればかりは恭也に甘えるしかない。
 部屋の外にでるとしっかりと鍵をかける。待っていたエレベーターで一階へ戻り、マンションの外に出た。
 ガチャンと音がしてオートロックがかかる。その音で思い出したのか、冥にカードキーを渡す。

「スペアの鍵だ。なくすなよ?」  
「子供じゃあるまいし、そう簡単にはなくさないよ!!」
「それもそうだな」

 完全に子供扱いしてくる恭也に冥はやや膨れっ面で言い返すが、恭也は若干苦笑する。その様子が年齢とは裏腹に子供っぽくて少し微笑ましい。
 恭也と冥はそのまま連れ立って歩き出す。ふと気づくが、常に恭也は車道側に立っている。些細なことではあるが、恭也の気の利かせ方に感心した。
 そのまましばらく歩くと徐々にすれ違う人が増えていき、商店街に着くと人が波のように流れている。
 時計を見ればもうすぐ昼時。人が多いわけである。

「わっと……」

 恭也はその人の波を流れるように避けて進むが、冥は途中で人波に巻き込まれてうまく進めない。
 それに気づいた恭也が冥の手を握りエスコートするように引っ張っていく。 
 そこから二人は様々店を見て回った。意外と必要なものがあったため、いつの間にか恭也の両手は荷物で一杯になっていた。
 剣士としては利き手を自由にしておきたかったのだが、冥に気を利かせて恭也が持つことにしたのだ。

 しかし、と恭也は思う。
 女性の買い物は何故こんなに時間がかかるのだろうか……と。
 勿論冥だけに限ったことではない。桃子やフィアッセの買い物に付き合うこともあるが、やはり長い。
 恭也は別に待つこと自体は苦痛ではない。だが、女性物の服や下着売り場に一人取り残されるのだけは勘弁してほしいものである。かといって、似合うかどうか感想を求められても困るのだが。

 今回は冥が服を買いに店に入ったら、子供用の所に店員さんに案内されたのには思わず噴出しかけた。
 少し不機嫌になりながらも買い物を済ませた冥と恭也は丁度昼を過ぎたので食事をしようと周囲を見回す。

「苦手な物はあるのか?」
「玉葱とか以外なら大丈夫かなぁ……」
「ふむ……俺も実はそんなに外食をするわけではないからな。どこが良いのかとか詳しくはない」

「そうなのかい?」
「家の料理が下手な店より旨すぎてな。和洋中なんでもござれだ。まぁ、洋の担当は今は海外を飛び回ってるので家にはいないんだが」 
「羨ましい話だよ」
「自分で言っておきながら全くだ。さて、ここにしておくか」

 選ぶのが面倒くさくなったのか恭也は眼にとまった喫茶店に入る。それは先日忍に紹介された喫茶店であった。
 扉を開けて中に入ると、店員の見事な営業スマイルが出迎える。窓際の禁煙席に案内されると向かい合って座る。メニューを開きどれにするか眼を走らせる。
 その時、カランと扉が開いた音が鳴り、新たな客が入ってきたのを知らせた。
 どうにも見知った気配を感じ取った恭也はメニューから視線を扉の方向へ向けると、こちらに向かってきている二人の女性が眼に入った。

 一人は月村忍。
 その背後に付き従うのはスーツ姿の妙齢の美女。僅かに紫がかった髪に、冷たい表情の女性。だが、恭也はその女性が本当は誰よりも優しいのだと知っていた。
 ノエル・綺堂・エーアリヒカイト。
 月村忍のメイドであり、幼い頃から彼女を見守ってきた女性。
 その二人が恭也の席まで歩いてきて足を止めた。

「こんにちは、恭也。折角だから相席いい?」
「む……」

 冥に気を使うように視線をやるが、そんな冥はメニューから視線をあげないまま頷く。

「ボクは良いよ。キミの知り合いなら歓迎さ」
「だ、そうだ。好きにするといい」
「有難う、恭也。それと貴方もね」

 ピシリと空気が凍った気がしたが、それには気にせずに忍は恭也の横に座る。

「ご迷惑をおかけします。恭也様」
「ノエルが気にすることでもあるまい」

 そうは言ったがなにやら非常に空気が重い。その理由が分からず首を捻る恭也。

「初めまして、かな?ボクは水無月冥。彼のちょっとしった知り合いさ」
「ご丁寧にどうも。私は【月村】。月村忍よ。恭也の内縁の妻なんだけどよろしくねー」
「誰が内縁の妻だ、誰が。あまりそういう冗談を広めるんじゃないぞ」
「冗談だって、さ?」

 メニューをテーブルに置き、ようやく視線をあげる。何やら笑顔が怖い忍と視線があう。
 今度はバチリと火花が散った気がした。というか、確実に散っている。
 何やら非常に居心地が悪い。気のせいではない。絶対に。ノエルはその冷静な表情がひきつったりしている。

「とりあえず、注文が決まったなら頼むとしよう」

 その空気を全く読まずに発言する恭也。空気を読まないにしても程がある。
 注文を取りに来た店員がその場の空気に腰がひけているが、気合で注文をきき厨房に戻っていった。というか逃げ去っていった。

「さて、俺は少し手洗いへいってくる」

 私を一人にしないでください!!という魂の叫びが顔にでているノエルだったが、そのSOSには全く気づかない恭也はあっさりとトイレへ旅立つ。
 残されたのは何やらにらみ合っている冥と忍。あと泣きそうになっているノエル。
 恭也が完全にトイレへいったのを確認した冥が声に険を混じらせて忍に問いかける。

「初対面の相手に対する態度かい、それが」
「そうね。別に、恭也が誰と一緒に居ても咎めることはないわよ?私にそんな権利もないし」
「……じゃあ、なんなの?喧嘩でも売ってるのかい、キミは」
「そう受け取って貰っても構わないわ、【武曲】の水無月」
「……っ!?」

 ガタンと驚いて席を立つ冥。それを冷たい眼差しでみたままの忍。

「何を驚く必要があるの?言った筈よ、私は【月村】忍と」

「【三巨頭】の月村……」
「そそ。月村の当主ってことになってるけどね、一応」
「……驚いたよ。まさかそんな大物がこんな小さな町にいるなんてね」
「そんなことはどうでもいいの。私が言いたいこと分かってるんじゃないかしら?」

「……」
「貴方はすでに罪人なのよ?死刑執行者に追われる、ね」
「……分かってるよ」
「分かってる?本当に?じゃあ、何故、貴方は恭也と一緒にいるの?何故、貴方はここに居るの?」
「そ、それは……」

「分かっていないわ。いいえ、本当は分かっていて気づかない振りをしてるのかしら?貴方がここに居る事がどんな意味を持つことかわかっているの?」
「ボ、ボクは……」

「それとも恭也の優しさに縋って助かろうとでもしているのかしら?恭也と死刑執行者を戦わせてどうにかしようと?」      
「ち、違う!!ボクはそんなつもりじゃ!!」
「私はね、貴方が恭也と一緒に居る理由は分からないし、どうでもいいの。でも―――」

 忍が眼を閉じ、そしてゆっくりと開けた。 
 ルビーのような真紅の瞳が冥を貫いた。音をたてて、周囲の空気が凍っていく。冥の背筋を震わせる。反射的に距離を取ろうとしたが、動けなかった。
 まるで万力のように隣に座っていたノエルが冥の手首を掴んで離さない。ギリギリと骨が軋む音が聞こえる。全力で握られたら恐らく骨を砕かれるであろうことは簡単に予想できる反則的な握力。

「恭也の優しさを利用することだけは許さない。もし、そうならば私は、【月村】ではなく―――私自身の意思で、貴方を決して許さない」

 忍は財布から幾らかの紙幣を取り出すとテーブルに置いた。そして立ち上がる。
 それに続くのはノエル。いつの間にか、冥からは手を離していたが、そこにはくっきりと手の痣がついていた。

「死刑執行者には連絡しないでおいてあげる。だからお願い……恭也だけは巻き込まないで……」

 最後の台詞にこめられていたのは懇願。泣きそうな声で忍はそう残してノエルを伴って喫茶店から出て行った。
 忍とノエルは車がとめてある駐車場まで急ぎ早で歩いて行く。
 昼過ぎということもあるが、まだまだ商店街には人が多い。

「忍お嬢様……」
「ノエル、私って酷いかな?」
「いいえ。決してそんなことはありません」

 冥に対して酷い対応をしたと忍自身分かっている。
 それでも、このままではいけないのだ。
 あの水無月冥を追っているのは死刑執行者。

 その純粋な戦闘力は十人の中でも【百鬼夜行】に次ぐと名高い。まさに頂点の中の頂点。
 以前恭也が倒したイレインとは比較にならない人外の化け物。
 正直な話、忍は死刑執行者が日本に来たという情報を聞いたとき耳を疑った。 

 第二位の死刑執行者。
 第七位の【三巨頭】の綺堂・氷村・月村。
 第九位のクロ。
 第十位の漂流王。

 この狭い日本に四人の王が集結しているのだ。尋常ではない事態。もっともクロだけは日本に居るということだけしか情報がないのだが。
 そして、死刑執行者が水無月の生き残りを追っているという情報は聞いていた。どのような容姿かも。
 まさか自分の領域である海鳴でみつけることになるとは思わなかったが。

 そんな冥と共に居た恭也。恐らくだが、このまま冥と一緒にいたならば死刑執行者と出会うことになるはずだ。
 その時、恭也はどうするのか?
 決まっている。剣をとり、立ち向かうのだろう。忍の時と同じように。

 ―――でも、きっと勝てない。

 恭也は強い。強すぎる。人の域を超えているといっても良い。それでも、勝てる筈がないのだ。あの化け物には―――。
 それは忍の恭也への愛情。傷ついてほしくないという、関わってほしくないという。深い深い、底知れぬ恭也への想い。

「……お願い、恭也。これ以上、こちら側にこないで……」

 ツゥーと忍の頬を一滴の涙が流れ落ちた。
















 全ては一瞬だった。
 その殺意に満ちた男は突然に現れて、冥の全てを崩していった。
 白銀の刃が北斗を斬る。貪狼を、巨門を、文曲を、廉貞を、禄存を、そして殺音を斬る。
 それを冥は声を出せずに、止めることさえできずただ見ていただけだ。声がかすれた。助けを呼ぶこともできない。
 ベチャリと地面に倒れ付す、死体死体死体死体死体死体。死屍累々。周囲を鮮血が満たす。

 地面に横たわる北斗の仲間が、何故お前だけが生きているのだと言わんばかりの、空虚なガラス玉のような眼で冥を見つめていた。
 そんな中で、闇を従えて死刑執行者はゆっくりと動けない冥に近づいてくる。逃げようとしても、足が根をはったように動かない。
 執行者は冥の眼前までくると剛剣を振り上げる。そして、振り下ろした。
 死の剛剣が、冥に迫り来る刹那の瞬間に確かに、だが、しっかりと見た。

 執行者の剛剣を弾き落とす、二筋の銀光を。
 執行者よりもなお深き闇をその両手に握る小太刀に纏わせて、冥の背後からまるで守護者のように現れた恭也の姿を。
 闇と闇がぶつかり、意識が遠くなるなかで、その声だけは鮮明に聞き取れた。冥の絶望を振り払うように。

「―――冥。お前は俺が護る」


 


















「な、なんて夢をみるんだよ……ボクは……」

 冥は手を顔に当てて、すこしでも顔の火照りを隠そうとしていた。
 別に誰かが見ているわけではないのだが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。
 今まで眠っていたベッドから立ち上がると、壁際まで歩いていきスイッチを押して明かりをつける。
 パッと周囲の暗闇は消えさり、人工的な光で部屋が満たされた。再び寝ようという気はすぐにはおきない。

 先ほどの夢の恐怖もあるのだが、それ以上にドクンドクンと胸の動悸が激しくてとても寝れるような状態ではないのだ。夜の静寂をかき消すような、心臓の音が冥の耳を打つ。
 部屋の中を見回してみるが、はっきりいって極めてシンプルな内装であった。
 壁にポスターが貼ってあるわけでもなく、ぬいぐるみなどの置物がおいてあるわけでもない。

 本棚には申し訳なさそうに、僅かばかりの参考書や辞書。
 それとは対照的に音楽CDには力を入れているようで、世界的に有名な歌手であるアイリーン・ノア。【天使のソプラノ】SEENA。【光の歌姫】フィアッセ・クリステラ。その他にもウォン・リーファ。エレン・コナーズ。アムリタ・カムラン等々。

 音楽はあまり聴かない冥でさえ知っているような有名人ばかりだ。しかし、どれも恭也が聴くようなイメージではない。どちらかというと演歌でもきいてるほうがしっくりくる。
 ふぅ、とため息をついて昼間のことに思いをはせる。
 昼間に忍が帰った後にトイレから戻ってきた恭也は冥の顔色が悪いのを気にしていたのだが、なんでもないと強がって答えていた。
 それから他の細々としたことを終わらせてるうちに夜の帳が落ちたために家に帰ってきたのだ。
 
 この家というのは高町家ではなく、恭也が個人的に借りている部屋のことである。
 一緒に夕飯を食べて……恭也が作ったのだが冥よりはかなり上手に作ったので少しショックを受けていたようだが……先ほど就寝したところであった。
 時計を見てみると深夜の一時を回った所だ。まだ二時間も寝ていない。
 普段の冥ならば夜の暗闇など怖くはない。仮にもワーキャット。夜の一族の申し子である冥が夜の暗闇を怖がるはずがない。

 だが。執行者に追われる日々が続き、本能的に恐れるようになってしまった。
 ここ一ヶ月の間は体も心も休まることなどなかった。だが、それが今では親鳥に護られた雛鳥のように安らぎを得ている。

「ぅぅ……あんなのボクのキャラじゃないよぉ……」

 自分自身の願望。それが夢に現れるのだという話もあるが……。
 あれでは恭也に白馬の王子ならぬ黒馬の王子を期待しているのだとしか考えられない。
 夢の恭也を思い出した冥がボッと瞬間湯沸かし器のように真っ赤に沸騰。勢い良くベッドに飛び込んだ。
 声を殺しながら布団に包まって悶え続ける。数分もそうしていただろうか、ようやく顔の火照りと動悸が治まった。
 はたからみていたらどう見ても変な少女にしか見えない。

「少し飲み物でものもうかな……」

 喉がからからだということに気づいた冥は部屋から出ると短い廊下を抜けて、リビングに入る。
 テレビとソファー。テーブル。その一室に繋がるようにキッチン。そのキッチンの隅に置かれている冷蔵庫の前まで歩いていき、開ける。

 中にはペットボトルの水やお茶、スポーツドリンクの他に先ほどの夕食の残り物などが入っていた。
 冥はお茶を取り出すとコップに注ぎ、口をつける。よほど喉が渇いていたのか、思わず一気に飲み干してしまう。ゴクリゴクリと喉が鳴る。
 当然、一杯だけでは足りない。もう一杯注ぐとまた一気にあおる。

 二杯飲んでようやく潤ったのか、冥はふぅと一息ついた。
 ペットボトルを冷蔵庫に戻そうとしたとき、明かりがパッとついた。別にやましいことをしていたわけではないが、あまりに突然だったので驚き、慌てて振り向いた。
 視線の先、部屋の入り口には恭也がいた。風呂にでも入っていたのかまだ湿っている髪をバスタオルでゴシゴシと拭いているところだった。

 かなり大きいタオルのようで両肩が隠れ、脇腹のところまでタオルが垂れている。下は寝間着のズボンをはいているが、上は裸だ。
 冥はそんな恭也の、傷だらけの上半身に眼を奪われていた。
 一体どれだけの実戦を、鍛錬を行えばこれだけの傷を負えるのだろうか。想像を絶する。
 そんな冥の様子に恭也は苦笑した。

「すまんな。起きているとは思わなかった。見苦しい物を見せてしまったようだ」
「いや、そんなことはないよ」

 はっと我を取り戻した冥は答える。
 確かに凄い傷だ。だが、それが醜い物だとは全く思わなかった。むしろ頼もしさを覚えた。

「しかし、そんなにお腹が減っていたとはな。夕食がたりなかったのならば遠慮せず言えばよかったんだぞ」
「……へ?いやいやいやいや!!」

 恭也に冷蔵庫を漁っていたのはお腹が減っていたからだと思われたらしい。
 流石にそう思われるのは恥ずかしい。誤解ならばなおさらだ。

「ち、ちがうよ!!ちょっと喉が渇いただけなんだ!!」
「隠さないでも良い。うちの晶も良く食べる。それは恥じることではないぞ」
「ほ、本当に違うんだってば!!」

 これでもかっというくらい否定するのだが、恭也は柳の枝のように飄々と受け流す。

「よく食べ、よく寝て、よく遊ぶ。それが大きくなる秘訣だ」
「だーーーかーーーらーーー!!」

 だんだんと泣きそうになってくる冥を見た恭也が少しからかいすぎたかと反省。
 髪を拭きながら冷蔵庫をあける。スポーツドリンクを取り出して豪快に一気飲み。
 満杯まで入っていた中身が凄い勢いで減っていく。口を離し、手の甲で口を拭う。

「すまんな。からかいすぎたようだ」
「……もう、本当だよ!!」
「だが、元気はでたようだな」
「っ!?」

 苦笑しながらそう言った恭也に冥は驚いた。
 まさか、からかうふりをしながら元気付けようとしていたのか。
 いや。きっとからかいたかっただけに違いない。なんとなく冥はそう思った。

「昼間なにがあった?忍に何か言われたのか?」
「……」

 沈黙で返すしかない。忍が冥に詰問したことは全くもって正論。どこも間違っていない。
 押し黙った冥に嘆息する。昼間からこれの繰り返しだ。恭也が問いかけて、冥が黙る。

「忍が何を言ったか知らんが気にするな」
「……」
「まぁ、大体は予想できるがな。あいつも夜の一族だ。死刑執行者の情報でも聞いて俺のことを心配したといったところだろう」
「……鋭いね。キミって何時も」
「その程度のことならお前が気にかけることでもない」
「その程度って、何さ!!」

 恭也の台詞に反射的に大声で返す。
 おもわず振り下ろした手がバンっと激しい音をたててテーブルを叩く。

「死刑執行者だよ!!この世に存在する夜の一族の頂点!!最強の名を冠する、剣の王者!!逆らう者はその悉くを例外なく打ち倒してきた王なんだ!!その王と戦うって状況をわかっているの!?」
「……」
「勝てないよ!!キミは強い。とんでもなく!ボクなんか目じゃないくらいに!!それでも……それでもアイツには!!」
「なんだ。そういうことか」

 恭也は冥を黙らせるように頭に手を置いてワシャワシャとやや強引に撫で回す。
 何故撫でられたのか分からないが、振り払う気にはなれない。この感覚は嫌ではない。

「水無月。お前は優しいな」
「な、なんでそうなるのさ!?」
「結局のところ、お前は自分のことを心配しているのではない。俺のことを心配しているんだ」
「そ、そんなことは……!!」
「あるんだ。自分が命を狙われているというのに、人が良いのにもほどがある。ん、夜の一族が良いのにも、か?」

 変なことを真面目に聞いてくる恭也に冥は両肩の力が抜けた。 
 スポーツドリンクを冷蔵庫に戻すと扉を閉める。バタンと音が鳴り響く。

「死刑執行者のことを甘く見ているわけではないぞ?だがな……」

 髪を拭いていたバスタオルを片手に持つ。恭也の傷だらけの上半身が全て露になった。
 視線をずらそうとした冥だったが、恭也の体から視線をずらすことができない。まるで石像のように固まって。ぽかんと口を驚きであけたまま。視線は縫い付けられたように肩から逸らすことができなかった。
 これは夢か幻か。そう自問自答してしまうほどの衝撃を冥は受けていた。

「俺は頂点の力というものを知っている。確かに強い。強いが……勝てないというほどのものでもない」

 はっきりと、自信に満ちた力強い声で。恭也はまっすぐと冥を見つめたまま語りかける。

「俺を信じろ。もし、お前が俺を信じてくれるならば―――神さえも斬り伏せ、お前を護る」

 そう恥ずかしげもなく、偽りなく、恭也は宣誓した。
 冥はしばらく目の前の恭也を見つめていたが、恭也の台詞を脳内で幾度も反芻。
 ようやく意味が飲み込めたのか、顔を真っ赤にさせて俯く。

「……人間離れをしてるって何度も思ってたけど……まさかキミが【そう】だったなんてね」
「少々面倒なことになるからと口止めをされてたからな。あまりいいふらすなよ?」
「流石に他の人には言えないよ……こんなこと」 

 冗談混じりの恭也の頼みに冥は笑みを浮かべる。
 その笑みを消し、真面目な顔で恭也を見上げた。

「……正直、凄く迷ってる。キミに迷惑をかけることになると思う。普通の人間……ううん、どんな人間、夜の一族でもどんな条件があったとしても断る頼みだと思う……それでもキミはボクを……」
「二度も言わせるな。剣士の魂たる剣にかけて、誓おう。どのような危険からも、どのような脅威からも。どのような災厄からもお前を護ると」
「……一つだけ、きかせてくれないか?」
「なんだ?」
「何故、キミはそうまでしてボクを助けてくれるんだい?建前はいらないよ、キミの本当の答えが欲しい」

 じっと見つめてくる冥に、恭也は一瞬答えに詰まる。
 だが、偽りの答えでは冥には通じないだろう。言葉通り、今の冥は恭也の心からの答えを待っている。
 迷う。それでも答えるしかない。

「……そうだな。正直に言うと最初は殺音を殺した執行者に対する復讐心だった」
「うん。それはなんとなく分かっていたよ」
「……そうか。だがな、お前と一日行動を共にして気づいてしまった。許してしまった。お前が、俺の領域に入ってしまったのにな」
「領域?」
「……簡単に言ってしまうと、護りたいと想ってしまったということだ。水無月冥という女性を。嘘偽りなく」

 真正面から、そう答えた。
 恭也と冥の視線が交錯。どちらも逸らすことなく、沈黙のまま時が過ぎる。静寂が耳に痛い。

「俺がそう思うことが意外か?」
「ううん。そんなことはないよ」
「……お前には話したほうがいいかもしれんな」

 まだ、どちらにするか判断を決めあぐねている冥に座れと、椅子をひいて合図をする。
 それに大人しくちょこんと座るのを見届けると恭也もその対面に腰を下ろす。

「昔々の話だ。俺がまだ幼い頃。俺の一族が未だ健在だった時のな」
「御神の一族かい?」
「御神を知っているのか……」
「ボク達世代の夜の一族の間では知らない者はいないんじゃないかな。人の身で、夜の一族に対抗できる数少ない存在だったからね」
「……そんなに有名だったのか」

 恭也の方が逆に驚いたように両腕を組んで考え込む。確かにとんでもない腕前の戦闘一族だったが、そこまで名が知られているのは意外だった。
 まだまだ幼い時に一族が滅びてしまったのだから当時の風評を知らなくても仕方ない。今ではすでに御神は滅びた過去の伝説。

「それは、まぁいい。御神の一族といっても、正直な話、普通の人間と変わらない人たちだった。泣き、笑い、喜ぶ。俺からしてみれば皆がいい人たちばかりだったよ」

 懐かしそうに遠い目をしながら恭也は語る。

「そんなある日、御神宗家の女性の披露宴が屋敷で行われることになった。御神琴絵さんといってな。病弱だったが、皆に愛されていた人だったよ。俺も可愛がって貰っていた」
「……」

 嬉しそうに御神琴絵という女性のことを語る恭也に冥は少しだけもやもやとした感情を抱く。
 それを消すように首をぶんぶんと強く振る。

「御神と不破の一族全てがその披露宴に参加していた。それほど琴絵さんは皆に愛されていた」
「キミもかい?」
「ああ。とーさんが旅行先で無計画にお金を使いすぎたせいで遅れそうになったが、ぎりぎり間に合ったんだ。大道芸をやって電車賃をかせいだな、あの時は」
「……む、無茶苦茶な父親だね」
「肝心な所ではしっかり決める人なんだがな。それで、披露宴は凄く盛り上がっていた。皆が喜び、琴絵さんを祝福していたよ。そして、俺が琴絵さんに祝福の言葉をかけようと傍によった時に」
「うん?」

 変なところで言葉を切った恭也を不思議に思って、首を傾げながら聞き返す。

 ―――死が、弾けた。

「!?」

 ガクン、と冥の全身の力が抜けた。いや、正確には喰われたのだろう。
 恭也のおぞましい程に濃縮され、凝縮され、圧縮された、あまりに絶大な殺意の奔流に。
 カハッと咳き込んだ。ガタガタと体が震えるのを抑え切れない。

 胃の中のモノがせりあがってくる重圧に必死で耐える。奥歯を噛み締める。
 だが、これは言ってしまえばただの余波だ。恭也の殺意の端っこに触れただけなのだ、冥は。
 もしも、この殺意の的になったとしたならば……。

「御神には敵が多かった。【龍】と呼ばれる組織がな、御神の屋敷に爆弾をしかけていたらしい。それが爆発。御神と不破の一族は壊滅したというわけだ。俺が目を覚ましたときは酷いものだった。屋敷が全壊し、火災が広がっていた。俺の揺らぐ視界には見知った人達が見知らぬ【モノ】になって散乱していた」

 淡々と語る恭也。 
 それでも、その殺意には澱みはない。どこまでも純粋で、龍という存在に対しての悪意だけは、見て取れた。
 その危険さは、冥が今まで見たどの夜の一族よりも凌駕していた。
 昼間の女性。水無月殺音。死刑執行者。漂流王。その誰よりも、ただの人間であるはずの恭也の気配は禍々しかった。
 冥が知る限り、最凶で、最狂で、最恐で、最脅。

「不思議だったよ。何故俺だけが無事だったのか。生きていたのか。その疑問もすぐに解けた。幼いこの俺が生き延びれた理由。簡単な話だったんだ。琴絵さんが。爆風から、爆発から、衝撃から、その身を持って盾となってくれたのだから」
「っ……」
「病弱で、ようやく幸せになれる筈だったあの人は、俺なんかのためにその命を投げ出してくれた。あの人の血と匂いに抱かれて、最後に琴絵さんはこう言い残して、俺の目の前で逝った」

 肺の中の空気を、狂った殺意を吐き出すように深く深呼吸をする。

「生きて生きて生き抜いて、琴絵さんが俺を護ったように、俺の大切な人を護って欲しいと。最後の最後まであの人は自分ではなく、俺のことを考えて逝ったんだ」
「そう……なんだ……」
「狂ったように剣を振るい、憎悪と殺意に支配されたこともある。いや、今でもその殺意には支配されているのだろうな。だが、それでもあの人の最後の願いを振り切ることができなかった」

 音もなく、立ち上がる。

「全ての力なき人を護る、というほど自惚れているわけではない。だから、俺は俺の大切な者達を護ろうと想っている。あの人の最後の願い通り、な」

 だからお前を護るのだ、と恭也の視線が語っている気がした。
 なんという男なのだ、と冥は戦慄した。

 大切な者達を理不尽に奪われ、憎悪の炎に身を焦がし、飽くなき力への渇望と、発狂しかねない鍛錬の日々。その果ての果てにようやく復讐するに足る力を手にいれたというのに、たった一人の女性の願いのためだけに、その全てを己の内に抑えているのだ。 
 確かに恭也は狂気に支配されているのだろう。正直、冥ですら恭也を怖いと思った。
 しかし、泥を這って、血を啜って、己の全てを投げ捨てても、憎悪に呑まれようとも、最後の一線だけは越えていない。恭也はたった一つの願いのためだけに生きているのだ。それは恭也の心の強さ。そして、優しさ。

 ―――ああ、もう。参ったな。

 冥が嘆息する。笑うしかない。考えようとしなかったことを、今更はっきりと自覚してしまった。

 ―――ボク、水無月冥は高町恭也に恋焦がれている。

 恭也の殺意を。狂気を。憎悪を。願いを。優しさを。
 全て知って。それでも、はっきりと言えてしまう。
 恭也の心の強さに。優しさに。冥は捕らえられてしまった。蜘蛛の網にかかった蝶のように。決して逃れられない、感情に。

「ボクの名前なんだけど……水無月って辞めて欲しいな。できれば名前で呼んで欲しい」
「いいのか?」
「うん。勿論さ。かわりにボクもキミのことを名前で呼ばせてもらうよ?」
「ああ。分かった。それくらい構わんさ、冥」
「ん……よろしく、キョーヤ。ボクの命、キミに預けるよ?」

 そう、冥は向日葵のような笑顔で恭也に笑いかけた。




















 恭也の超感覚が部屋に入ってくる見知った気配を感じ取り、浅い眠りから目を覚ました。
 睡眠時間は相変わらず最小限なので思考が鈍い。まどろみのなかで再度眠りに落ちそうにはなるが、そういうわけにもいかない。
 ふぅという深いため息とともに恭也はうっすらと目を開けた。寝相は良い方なので掛け布団は寝たときと寸分変わらず恭也にかかっている。

 横倒しの視界に映るのはおおよそ八畳程度の洋室。あまり使うことはないので必要最低限の者しかおいていない簡素な部屋。
 本当ならば恭也の好み的に全て和室が良かったのだが流石に格安で部屋を貸して貰っている身でそんな我がままはいえやしない。
 そして恭也の頭の横から少しばかり離れた所に正座して座っている冥がいた。

「相変わらず鋭いね、キョーヤは。折角起こしにきても何時も気づかれてしまうよ」

 優しさを秘めた微笑の後に、ほっぺたを膨らませてちょっと拗ねたような表情を作る。
 恭也は腹筋に力をこめて勢い良く起き上がる。生理現象の如く出そうになった欠伸をかみ締めた。 

「腐っても御神の剣士だ。それに気配を読む鍛錬は幼い時にとーさんに嫌というほど叩き込まれたしな」
「キョーヤの話によくでてくる父親だけど、どんな人だったんだよ……」
「……破天荒な人だった。だが、人間としての大きさならば身内の贔屓目抜きで大きな人だったぞ」

「器が大きくても底に穴があいてたりしてたんじゃないの?キミの話を聞いてると」
「はっはっは。かもしれんな、今思えば。思い出補正というものがあるやもしれん」

 苦笑。
 恭也が立ち上がり、軽く伸びをする。それにつられるように冥も立ち上がった。
 ちょっと鼻を動かすと味噌汁の良い香りがする。
 好き嫌いがない恭也ではあるが―――甘い物をのぞく―――やはり和洋中でいうなら和食が最も好ましい。

「毎朝すまんな。また朝食を作ってくれていたのか」
「世話になってるんだし、これくらいね。準備はできてるからやっつけてしまわないかい?」
「ああ、そうしようか」

 まるで違和感なく、冥は音をたてずに恭也の部屋から出て行った。
 恭也もそれに続くようにリビングにでる。恭也の部屋はリビングと繋がっているので、入ると同時に朝のニュースを放映しているテレビからニュースキャスターの声が響いている。
 そのままテーブルには行かずに、別のドアから抜け、洗面所へと入る。

 蛇口を捻り、勢い良く流れ出した水で顔を洗う。その冷たさが、恭也の思考をはっきりと目覚めさせた。
 リビングに戻り、すでにテーブルに準備されていた朝食を見てほぅと思わず感嘆の声が漏れる。
 テーブルにはご飯と味噌汁。目玉焼きに簡単な野菜炒め。
 簡素といえばそうであるが、幾ら恭也でも朝っぱらから重たいものはきつい。逆にこれくらいで丁度いいというものだ。

 椅子に座るとそのタイミングを待っていたかのように恭也の前に出てくる熱いお茶。感謝の礼をのべて一口飲むが、熱さといい濃さといい実に恭也好みであった。
 冥も恭也の正面に座ると二人でいただきますをして、目の前の朝食に取り掛かる。

「……うまい」
「ふふ。そう言って貰えると嬉しいよ」

 味噌汁を啜った恭也が無意識に一言。それににこりと笑って答える冥。恭也には見えないようにテーブルの下に回した手をガッツポーズの如くグっと握り締める。
 冥と恭也がこの家に住み始めて今日で三日目。せめてもの礼とばかりに冥がご飯を作っているのだが最初にくらべて随分と恭也の舌に合う味付けになってきていた。
 元々冥の料理の腕はそれほど悪くはない。北斗の中でも料理ができる者がいなかったので自然と彼女の担当になったのだ。

 ちなみに殺音の料理の腕は壊滅的に悪い。とても食べられるような代物を作れやしなかったのだと冥は語った。
 流石にレンや晶や桃子に比べると見劣りするが、それでも十分たいしたレベルではある。
 黙々と朝食を食べる二人。そこに漂う沈黙は重苦しい物ではなく、どことなく自然な静寂。まるでそれが当然のように。

 恭也が食べ終わってからしばらくたち、ようやく冥も食べ終わる。二人で食器を片付けた後に再び熱いお茶を恭也は啜る。冥は熱いのが苦手らしく冷たいお茶を飲んでいる。ワーキャットだけに猫舌なのだろうか。
 二人してぼーとしながらテレビ見る。相変わらずよくわからないニュース番組ばかり流れている。口に含んでいた熱いお茶を飲みほしてふと呟く。

「そろそろ、だな」
「……うん」

 周囲を満たしていた緩んだ空気がピリっと一瞬で引き締まる。
 今日で三日目。二人がこの海鳴で出会ってから。まだ三日目なのか、もう三日目なのか。
 答えは、もう、だ。

「死刑執行者だけだったならばもう少し時間がかせげただろうが……恐らく、近いうちに来るだろうな、奴らは」
「……多分ね」
「昼間はそれほど注意を払う必要はないだろう。人気のないところにいかなければ、だが。奴らも目立つ真似は極力避けるしな。問題は夜だ」

「夜の一族の本領が発揮される時間帯をどう凌げばいいかな……」
「余計な小細工抜きで真正面からぶつかるしかあるまい。俺が執行者と戦う。その間なんだが……昨日話したとおりでいいか?」
「うん。漂流王はボクがひき付けておくから。ボクが逃げることに徹したら、そう簡単には捕まらないから任せてよ」

 自信満々の冥。そしてそれは事実でもある。
 ワーキャットである冥のスピードは夜の一族の中でも群を抜いている。その速度があったからこそ一ヶ月の間逃げ切ることができたのだ。
 まともに漂流王と戦ったならば確実に負けるだろう。冥自身も勝てるとか良い勝負ができるとか、そんな楽観視はできやしない。だが、逃げに徹するならばまだ望みはある。
 もっともこの作戦ともいえないような作戦は、全てが恭也にかかっている。
 恭也が死刑執行者を倒す。それが最大にして最高の難関。

「勝てるかな……」
「勝てるか、じゃない。勝つんだ。俺を信じろ。御神の剣士に敗北の二文字はない」

 一瞬漏れた冥の不安を消し飛ばすように恭也が断言する。
 その心強さに背筋をぶるりと震わせ、無言でこくりと冥は頷く。
 恭也でも勝てないかもしれない。恭也ならば勝てるかもしれない。その考えは半々であり、天秤にかけたとしたらどちらに傾くか分からない。
 だが、信じよう。殺音を凌駕したその技を。絶対護るというその想いを。そして、あのバケモノを打倒したのだというその戦闘力を。














「これで王手だ」
「……ぅぅ」 

 将棋の駒をパチンと盤にうつ。もはや逃げ道のない必滅の一手。
 冥は湯気が出そうなくらい必死になって逃げ道を考えるが、どう見ても次に打つ手はない。
 それは分かっていてもひたすら考えるしかない。また負けを認めることになるのだけは悔しい。
 テレビを見たり、読書をしたり、そして将棋をうったり。様々なことをして過ごしていたのだが、恭也は将棋が異常に強い。
 何度挑んでも勝てないのだ。飛車角落ちでうっても結果は同じ。流石に何度も負けているとどうにかして一泡吹かせたくなってくるのだが、毎回結果は冥の敗北になる。

「キョーヤってどこまでこー、ハイスペックなのさ」
「一体何の話だ?」
「なんでもありませんよーだ」

 一体、この男には苦手なものや欠点などあるのだろうか、と本気で考える。どんなことでも淡々とこなしてしまうイメージをもってしまう。
 ふと外を見ると既に太陽が西の方角へと落ちかけていた。かなり日が沈むのが早くなってきたようだ。

「さてと、ボクはそろそろ買い出しに行って来るよ」
「ああ。俺も行こう。少し高町の家の方に用がある」
「何か必要なものでもあるのかい?」
「いや。かーさんから連絡があってな。美由希の様子が少しおかしいらしい。切羽詰ってるところがあるとな」
「へー。あの高町美由希がね。壁にでもぶつかったのかな」

「どうだろうな。まぁ、大体の予想はつく。【あいつ】に出会ってしまったのだろうな」
「【あいつ】?誰のこと?」
「ん……お前に言っても分からないだろうが。強いて言うならば天才、か。後数年もすれば頂点の力にも匹敵するであろう人間だ。美由希も含めてな」
「……冗談、だよね?」
「生憎と本気だ。今の段階でも美由希より一枚……二枚くらい上手か」
「この町って、一体どんな人外魔境なんだよ……」

 冥がこれでもかというくらい深いため息をついた。間違いなく日本で一番デンジャラスな町に違いない。
 二人は互いの部屋に戻ると外着に着替える。と、いってもお洒落など全く考えない恭也は本当に適当に服を着替えただけだ。冥も必要最低限の服しか買ってないので恭也と似たようなものではあるが。
 連れ立ってマンションから外に出る。夕方近くになると昼間の暑さもだいぶマシになっているようだ。

 冥のペースにあわせて坂道を降っていく。時折、横の車道を車が排気音を残して走り去る。
 商店街に向かう途中、海鳴臨海公園に差し掛かった所で足を止めた。

「少し公園に寄っていかないか?」
「ん、良いけど。何か用事でもあるの?」
「いや、少し小腹がすいてな。鯛焼きでも腹に入れようかと」
「もしかしなくても、またカレーとチーズなわけじゃないよね?」

「……さて、行こう」
「ああ、もう!!」

 ああ、先ほど考えていたことだが、欠点があった。この鯛焼きの趣味が悪いということだ。鯛焼きはあんこが一番だというのに。
 冥の抗議などどこ吹く風で恭也は鯛焼きの屋台がある場所まで辿りつく。鯛焼き屋の主人が丁度焼いてる所だったのか、良い匂いが恭也と冥の鼻をくすぐった。

「カレーとチーズ。それにあんを一つずつお願いします」
「おじさーん!!カレーとカレーとカレーにピザお願い!!」
「鬼頭先生って!!うちはカレーとピザはやめてくださいっていったのに―――!!」

 恭也にかぶるようにかん高い声が乱入してきた。ついでに小柄な体も恭也の横に滑り込むように走ってきて、ピタっと止まった。
 滑り込んできた小柄な……鬼頭水面は恭也の姿を確認した途端金縛りにあったかのように動きを止めた。
 水面に気づいた恭也は一瞬見覚えがある顔だな、と首を傾げそうになったが、先日工事現場で話をした永全不動八門の鬼頭の女性だと思い出した。
 同じ海鳴に住んでいるのだから偶然出くわすこともあるか、と納得した。

 勿論、水面は納得できるような話ではない。できるだけ出会わないように動いていたというのに、まさか鯛焼き屋で出会うとは夢にも思っていなかった。
 固まった水面と同じく、その水面を追ってきていた茶色の長い髪を後ろで縛った少女。風芽丘学園の制服を着ている。学年ごとに制服に入っている色が違うため何年生か非常に分かりやすい。美由希と一緒の黄色なので、二年かとあたりをつける。 

「ふ、あっと……高町さんじゃないですかー!!お、お久しぶりです!!」

 不破と言いそうになった水面であったが、恭也の力の篭った視線に、慌てて言い直す。しかも、年下の恭也に向かってきっちり敬語まで使っている。余程先日会った時の恐怖が骨身に沁みたのだろう。

「ご丁寧に。先日は失礼いたしました」
「え?い、いやー。そんなことはないですよ!!こちらこそご迷惑をおかけして!!」 

 もうこれでもかといくらい下手にでる水面。恭也も相手が年上のうえに、ここまで下手に出られたら敬語で返すしかない。

「あ、私は一応風芽丘学園の教師やってまして。こっちは教え子の如月です。お見知りおきを」
「あ、あの、え?ええっと……あ、あわわわわ」

 突然話を振られた少女……如月紅葉は水面と恭也の両方を繰り返し見て、言葉にならない声を漏らす。
 恭也の視線を受けて、慌てて後ろに下がろうとしたところ、段差にひっかかって地面に倒れた。
 ガツンと硬い物がぶつかりあう音が響いて、後頭部を思いっきり打った紅葉が両手で抑えて立ち上がる。本当ならば痛みのあまり転がりたかったが流石にそんな真似はできない。でも、滅茶苦茶痛かったのか涙目になって、恭也を見上げる。

「あ、あの……う、うちはその、き、きさらぎゅ」
「如月、かんでるかんでる。落ち着きなさいよ」
「え?は、はい、そ、そ、そそそーーですよね」

 だめだこりゃ、と空を見上げる水面。すでに完全にテンパッている紅葉をどうやって落ち着かせようかと。というか、なんでこの娘はこんなに取り乱してるのか。幾ら相手は噂に名高き【不破】だからといってもちょっと異常だ。でもおもしろそうだし、このままでもいいかなとか悪魔が囁く。

 じょじょに冷静さを取り戻してきたのか、紅葉は深く深く深呼吸をする。吸って吐いて吸って吐いて。土下座をせんとばかりに頭を深々と下げる。

「失礼しました。うちは如月。如月紅葉といいます。以後お見知りおきを」
「不破恭也です。こちらこそお見知りおきを」
「う、うちに敬語なんてつかわんでください!!敬語なんて使われたら死んでしまいます!!」

 如月という苗字と、紅葉の動きから永全不動八門なのだと分かり、不破を名乗る恭也。
 紅葉が恭也に向かって右手を差し出してくる。握手を求めてきたのだろうが、いきなり利き手で求める紅葉を怪訝に思った。それでも紅葉の手がぷるぷると震えて、表情には不安な影が浮かんでいる。

 握手を断られるのではないか。と不安気な様子。まるで小動物のようで微笑ましい。
 恭也は差し出された手を軽く握り締める。ビクリと電流が走ったかのような反応を紅葉がする。ゆっくりと離した後、紅葉は自分の右手の手のひらをじっと見つめる。

「う、うちこの右手は絶対洗いません!!」

 なにやら怪しい発言をする。おっかけをしているアイドルと握手できたかのような反応に恭也もやや引き気味だ。 
 何時もとテンション違いすぎるでしょう、と何がなんだか分からない水面は紅葉の襟を掴む。

 ―――よし、逃げよう。

「それでは、失礼します。不破殿」

 そう決めるとヒョイっと右手を太陽に翳して感動している紅葉に足払い。
 全く注意してなかった紅葉は横に倒れそうになるが、水面が襟を強く引っ張る。グェっと何やら奇妙な声をあげて紅葉が咳き込んだ。
 そのまま咳き込んでる紅葉を引っ張りながら走り去ろうとした瞬間。

「―――三年前に比べると随分強くなったようで驚いた。今度会うときがあったらキミの話をゆっくり聞かせてくれ」

 そう風に乗って恭也の声が聞こえた。
 水面は何のことか分からなかった。しかし、如月の表情が固まった。   
 ぐんぐんと恭也との距離が離れていく。小柄な体なのに紅葉を引っ張りながら走る速度は驚異的だ。
 公園の入り口まで走った所で水面は後ろを振り返った。視界にはすでに恭也の姿はない。
 ふぅと髪をかきあげるようにため息をついて一息つく。そこで気づいた。ぽろぽろと涙を流している紅葉に。

「ああ、ごめんごめん。もしかして痛かった?」

 無理矢理引っ張ってきたので相当痛かったのかと水面が焦る。しかも、何時もふんわりとした雰囲気の紅葉がこんな涙を流す姿などはじめてみた。

「ぅぅ、ひっく……ぁぁぁ……っぇぁぁあ」

 子供のように泣きじゃくる紅葉に焦る水面。夕方に差し掛かっているということもあって通行人も多い。注目の的だ。
 目立ちたくないのにと思っても、これで目立つなというほうがおかしい。

「お、覚えて、ぅぅ……覚えていてくれたんだ……あの人は、ひっく……あの人は……」

 ああ、もう!!、と水面は泣きじゃくる紅葉を抱きしめるのであった。その平ぺったい胸で―――。











  

  

「何だったんだろうか、今のは?」
「さぁ、知らないよ」

 また知らない女性が出てきたのかと何度目になるかわからないため息をつく。返事に険が篭るのも仕方ないだろう。
 とりあえず鯛焼きのお金を払って、あん入りを冥に渡す。
 二人で鯛焼きを食べながら歩き、公園の幾つかある入り口の一つまでたどり着いた。そこが恭也と冥の目的地への分かれ道。

「では、俺は高町の家の方に行って来る」
「うん。ボクは商店街に買出しにいってくるから」
「まだ明るいとはいえ万が一ということもある。必ず人の多い道を選んでおくんだぞ」
「大丈夫さ。流石に奴らもこんな人目がある場所で襲ってはこないよ」

「万が一、だ」
「ふふ。キョーヤは心配性だね。わかったよ」
「宜しい」

 手を振って二人が別れた。言ったとおり恭也は高町家へと。冥は商店街へと。
 ゾクリと、恭也は嫌な予感がした。まるで何かが喪失するような予感。反射的に後ろを振り向いた。
 遠目にだが、冥の後姿が見える。しばらく、見つめているとやがて冥は見えなくなった。
 大丈夫だ、と自分に言い聞かせる恭也。執行者達はあくまで【裏】でしか動かない。人目につくことは絶対に避ける。

 だが……。

「念のためだ。できるだけ直ぐに合流するか」

 嫌な予感を振り払うように恭也は高町家へと足を向けた。























「美由希自身で乗り越えてくれればいいんだが……」

 高町家かの敷地から出ると、道場がある方角へと向き直る。そこでは美由希が鍛錬をしているのだろう。
 先ほど道場で美由希と少し話をしたのだが、予想していたよりもまだ余裕があった。それほど追い詰められている様子ではなかったようで安心したのは事実であった。
 美由希に足りない物は様々あるが、その中で最たる物は経験だろう。
 力やスピード、技ならば日々の鍛錬でどうにかできる。と、いうか美由希のそれらは御神の剣士としてもすでに非凡なる領域。かつて御神の一族が健在だったころに見た御神の剣士達を大きく上回っている。

 静馬や士郎、一臣などの天才と謳われた剣士達に比べれば未熟ではあろう。だが、それに匹敵する腕前を持っていると見てもおかしくはない。それほどの力量に達している。
 しかし、死合いにおける経験が絶対的に足りない。海鳴で行われたフィアッセとティオレ、その他の超有名歌手によるチャリティコンサート。それを襲撃したテロリスト達。あとは北斗との戦い。
 たった二度。この平和な日本において二度もできれば御の字だろうが。もっとも、チャリティコンサートでの襲撃者達の力量はあまりに美由希とかけ離れていたので正確には北斗との一戦だけといってもいい。

 北斗との戦いで美由希の実力は一気に跳ね上がった。百の試合よりも一の実戦ということだろう。
 恭也と実戦に近い鍛錬を行ってはいる。幾ら実戦に近いとはいえあくまでそれは試合。恭也が幾ら本気でいこうとも美由希を殺す気になど絶対なれるはずがない。
 高町恭也は身内には絶対的に甘いのだから。美由希を最強の御神の剣士にする。家族と周囲の大切な人を護る。それは恭也にとっての決して違えてはならない決意。
 美由希を宝石のように大切に育ててきたのだ。だが、何度も自問自答しているが何時までも恭也の手元に置いておけるわけではない。

「今回の壁はお前自身の力で乗り越えるんだ……美由希」

 そう、深い愛情の篭った呟きは風に溶けた。踵を返す。
 確かに美由希のことは心配だ。だが、切羽詰るというほどのことでもない。ならば当面の問題は恭也の方だ。
 相手は頂点の中の頂点。恭也の想像通りの強さなのか。想像以上の強さなのか。
 暫くは、冥と行動をともにしなければならない。まだ太陽は沈んでいないから多少は安心できるが、沈んでしまったら警戒が必要だ。

 高町家から若干足早に離れていく。考えていたより時間は取られなかったので、まだ冥は商店街の方にいるだろうとあたりをつける。
 数分も歩いただろうか、商店街へと至る途中の交差点で青信号が点滅。急いではいたが止まっている車もあったので渡らず横断歩道の前で足を止めた。パッっと恭也の見ている前で信号が赤に変わる。
 これが全ての分岐点。この、何でもないただの信号が決定的な引き金となった。

「やぁ。恭也じゃないか。元気にしてたかい?」
「あれ、恭也君。お久しぶりですね」

 自分を呼ぶ声に振り返る恭也。背後の角を曲がって現れ、声をかけてきたのは二人の銀の妖精。勿論比喩ではあるが、そう表現しても納得できるような美しさと可憐さを備えていた。
 二人は良く似ていた。まるで双子のように。
 違いがあるとすれば、ラフな言葉遣いの女性の方が身長が幾分か高くプラチナブロンドの髪が短い。丁寧な言葉遣いの女性は、髪が長く、腰元近くはあるが身長が低く若干子供っぽそうではある。  

「お久しぶりです。リスティさん。フィリス先生」

 恭也はペコリと頭を下げる。リスティと呼ばれた女性はポケットから煙草を取り出すと口に咥える。カチンと音をたててジッポーライターで火をつけると深く呼吸。ふぅと煙を吐き出す。

「最近は忙しいのか知らないけど、たまには病院に顔を出しなよ?フィリスが不機嫌になって仕方ないんだ」
「リ、リスティ!!」

 何やら爆弾発言をさらりとするリスティにフィリスが顔を赤くして抗議する。その笑顔が厭らしい。訂正、一人の妖精と一人の小悪魔であった。

「コ、コホン。でも、絶対に病院に来てくださいね?恭也君はただでさえ無茶な鍛錬をするんですから。本当に体を壊しそうで心配なんです」

 フィリスが気を取り直すように咳払い。心配そうに恭也に語りかける。心配のあまりか少し目が潤んでいたりする。
 彼女は恭也と美由希、レンの担当医だ。少し前までは、高町家にいたフィアッセ・クリステラの担当医兼カウンセラーとして海鳴病院にいたのだが、その関係で恭也達も診てもらう事になったのだ。ちなみにフィアッセとフィリスは以前からの親友だったらしい。
「ええ。勿論です。今回の件が落ち着いたらうかがわさせていただきます」 
「絶対の絶対の絶対ですからね?こなかったらどうなるかわかりますよね?」
「……ぜ、絶対行きます」

 珍しく恭也が冷や汗をかく。別にフィリスは脅しているわけではないのだが、いや脅しているのかもしれない。
 フィリスの整体はその小柄な体からは想像できない程苛烈なのだ。恭也ですら呻き声をあげるのを抑えられないほどだ。ようするに滅茶苦茶痛い。それでもその痛みを越えた先、整体が終わった後は不思議と体が軽くなっているのだから謎である。
 よし、と言質を取ったフィリスは嬉しそうに頷く。定期的に病院へくるようには言ってるのだが、行くたびにあまりに無茶な鍛錬で溜まった疲労を咎められるので、恭也はどうしても足が遠くなってくる。美由希には容赦なく行かせているのだが。

「また何か厄介ごとに首を突っ込んでいるの?」

 そう、煙草の灰を携帯灰皿に落としながらリスティが聞いてくる。
 今回の件、から何かの事件に足を踏み入れているのかと判断したようだ。相変わらずの鋭さに恭也が舌を巻く。

「ええ。少しばかり。多分後二、三日で片付くと思うんですが……」
「……ふーん」

 恭也の本音を探るようにリスティのすみれ色の瞳が恭也の瞳を覗き込む。
 数秒程度見つめあっただろうか。或いは十数秒か。ニヤリと笑って煙草を吸う。

「まぁ、信じるよ。あまり無茶なことはしないことだね。僕の妹を泣かせないでくれよ?」
「リ、リ、リスティ!?」

 再度真っ赤になってリスティをぽかぽかと叩くフィリス。笑いながらリスティは恭也が向かう方角とは逆方向に足を向ける。

「それじゃあ、またね。恭也。バーイ」
「あ、リスティが変なこといってごめんなさい。また病院にきてくださいね。絶対ですよ!?」

 片手をポケットに突っ込んで、煙草を握っている手をヒラヒラと振りながら歩き去っていく。それに慌てて着いていくフィリス。
 向かった方角は商店街。おそらくまたリスティがフィリス食事をたかっているのだろう。浪費家であるリスティは給料日前になると必ずといっていいほどフィリスに食事をご馳走させる。お金が全くないらしい。フィリス先生頑張れ。超頑張れ。  
 二人の姿が見えなくなるまで恭也はフィリスを応援しておいた。あくまで応援だけであるが。下手に手をだすとターゲットがこちらにきてしまうのだ。以前はよく恭也もたかられていた。しかも場所は何故か翠屋ばかり。

 しかも、面白がってか恭也に向かってあーん、などといって食べさせようとしてきたこともある。必死で笑いを抑えるようにしていたのを覚えている。桃子だけは嬉しそうにしていたが、美由希や臨時のアルバイトに入ってた忍や那美は顔がひきつってたりしていた。
 恭也も商店街の方へ向かおうとしたが、目的地をマンションの方へと変える。リスティとフィリスに会ったため少し時間をくってしまったようですでに太陽は沈む寸前だ。
 この時間ならばすでに冥はマンションへ帰っていてもおかしくはない。暗くなる前に戻るよう釘をさしていたのだから。

 先ほど以上の速度でマンションへと向かう。リスティ達と話してる最中からチリチリと嫌な予感が止まらなかった。てっきりリスティが何かまた仕掛けてくるのでは、と疑っていた恭也だったがどうやらそうではないらしい。
 そうでなかったらこの嫌な予感は何なのか。僅かに焦りを滲ませつつ、マンションに到着。エレベーターの前に着くとボタンを押す。ゆっくりと降りてくるが、その時間すら惜しいと感じた。
 ようやく降りてきたエレベーターに乗り込み、五階で降りる。部屋に飛び込むようにして入る。

「冥、帰っているのか!?」

 声を荒げるようにして叫ぶ。間違いなく部屋のどこにいても気づく程の声量だ。だが、帰ってくるのは静寂だけ。嫌な予感はますます高まっていく。
 きっとまだ買い物から帰っていないだけだ。そう考えて外に探しにでようとして、リビングのテーブルの上に何やら紙が置いてあるのに気づいた。
 慌ててその紙を取り上げる。そして、固まった。その紙に書かれてある僅か二つの言葉を読んで。
 その手紙を放り投げるように捨てて、恭也は部屋から飛び出した。必要最低限の装備だけを持って。

「あの、馬鹿!!」

 あの恭也が、本当に珍しく吐き捨てるように罵った。今は居ない冥に向かって。
 恭也が読んだ置手紙。そこにはたったこれだけの言葉が書かれていた。冥の筆跡で。

 【ありがとう。さようなら。】 























「さてと……今晩は何にしようかな」

 可愛らしく人差し指をほっぺたにあてて考え込む。しかもかなり真面目に。
 商店街についた冥は人の流れに沿ってゆっくりと歩く。他の通行人の邪魔にはならないようにゆっくりとだが。
 はっきり言って単純な料理の腕は恭也の方が僅かに上だ。どちらも凄く上手いというほどではないが、一般人と比べるとそれなりに上手い。
 かといって、あまり凝った料理が作れるかといえばちょっと難しい。基本的に北斗が健在だった頃は味より量だったので、そんな凝った料理はする必要がなかったからだ。

 もっとレパートリーを増やしておいたほうがよかった……と後悔する。
 悩んでも仕方ない。とにかく今現在できる料理で恭也に喜んで貰おうと、とりあえず精肉店に向かおうとして、異常に気づいた。
 ぽっかりと人の流れに穴が開いている。夕食前のこの時間、商店街には人がごったがえしているというのに。冥の周囲だけは、彼女を避けるように広々とした空間が出来上がっていた。

「あーもう本当に苦労した。ようやくみつけたよ。てこずらしてくれるよね、キミって」

 圧倒的なプレッシャー。少女のような高い声でそう頭をかきながら冥の前に少年が現れた。
 夕陽を反射させるような美しい金の髪。細面、鼻筋も通り、瞳も大きい。年齢にして十五、六程度の少年にしか見えない……その笑顔の裏に隠された悪意を覗いてだが。
 本能が冥を一歩後退させた。恭也ほどではないが、目の前の少年が放つ圧力は十分に異常。他に類を見ないほどの、強者。

「一ヶ月もよくぞまー逃げ回ったものだよ。素直に賞賛する。けど、そろそろ鬼ごっこは終わりさ」
「お、お前は……」
「あれ?もしかして分かんない?って、ああ。フード姿は流石に目立つから脱いできたんだっけ。僕は漂流王。末席とはいえ、頂点に君臨する王の一人だよ」 

 パチリと漂流王と名乗った少年の周りで空気が爆ぜる。ごくりと口の中にいつのまにかたまった唾液を嚥下した。
 以前見たときはほぼ全身を覆うフードつきの姿だったのだが、まさか中身がこんな少年だとは考えもしなかった。意外といえば意外だ。もしかしたらそう思われるのが嫌で姿を隠していたのかもしれない。

「人除けの魔術もめったらやったら疲れるし、悪いけどささっと終わらせちゃうよ」

 ゴゥと黒い闇が音をたてて周囲に荒れ狂った気がした。にこにこと場違いに笑う漂流王が手を翳すとちりちりとした圧迫感が冥を襲う。
 冥が構える。まさかこんな人が大勢いる所で襲ってくるのは完全に予想外。焦りが隙を生む。
 その隙を逃すほど漂流王は甘くない。ニィと口元を吊り上げると、地面を蹴り……一歩進んだ所で止まった。そして、背を向ける。それに拍子抜けしたように呆然とする冥。

「いやいや、流石に人除けの結界張ってても派手に暴れたら直ぐにばれちゃうからやらないよ?実は伝言を伝えにきただけなんだ」
「……伝言?」
「そそ。悪いけど、今夜あそこにきてよ」

 そう漂流王は遠くに見える山の一つを指差す。

「国守山だってさ。僕は名前知らなかったんだけど、ここらの地理にやけにあいつが詳しくてね。あそこの頂上付近に大きな湖があるんだ。そこでキミを待つよ?」
「……素直に行くと思ってるの?」
「ん?ああ、別に来なくてもいいよ。そのときはキミを匿っていたあの人間を殺すだけだから」
「っ!!」

 唇を噛み締める。よほど強く噛んだのか血の味がした。

「逃げたらキミの大切な人間を殺す。助けを呼んだらその相手を殺す。誰かにしゃべったらしゃべった相手を殺す。ただし、誰にも助けを求めずにあそこにくるのならキミを匿った人間には手出しはなしない。約束する。それを分かってるなら好きにしていいよ」

 無邪気に、漂流王は顔だけ後ろをむけて微笑んだ。 

「僕たちはあくまで裏の世界の住人さ。表に出るわけにはいかない。だからキミ一人殺すのにもこんな苦労しないといけないんだけどさー」

 パチンと指を鳴らすと周囲の不可思議な空気が消え去った。人のざわめきが戻ってくる。冥の周囲にあいていた穴を埋め尽くすように人の流れ押し寄せる。
 今更表の世界で生きようなんて思い上がりも甚だしいよ……そう冥の耳に不快気に響く声を残して漂流王は人の流れに飲み込まれ姿を消した。
 残された冥は呆然と漂流王が消え去った方向を見つめていた。どれくらいそうしていただろうか、ドンと後ろから通行人にぶつかられ。我を取り戻す。

 幽鬼のようにふらふらと人の流れから外れ、路地裏に逃げ込む。壁にもたれかかり呼吸を整えようと深く深呼吸をした。
 覚悟はしていた。夜の一族の頂点と戦うことを認識していた。
 それでも、実際に目の前にすると、奥底に隠していた恐怖が蘇る。勝てるのか?本当に?夜の一族の頂点の中の頂点に。
 可能性は甘く見ても五分五分。それも自分だけが死ぬのならまだいい。恭也を道ずれにしてしまう。本当にそれでいいのか?
 ぐるぐると思考がループする。気持ち悪くなり、吐きそうになる。路地裏の更に奥に入り、えずきそうになりながら地面に座り込む。

「うん。ちゃんと手入れをしているようですね?綺麗な髪の色ですよ」

 ひたりと冷たい手が冥の首に触れた。びくりと震えた。気配もなく、先日海鳴臨海公園で出会った、得体の知れない白銀の女性が相変わらず片目を瞑り冥の背後で嗤っていた。

「ぅ……ぁ……」
「元気そうで何よりですね?子供は元気が一番ですよ?」

 逃げ出せない。もし逃げ出そうとしても、動こうとした瞬間、自分は死んでいるだろうという予感。そして限りなく事実。
 この女性は強い。とてつもなく。そう、漂流王よりもさらに。本能が理解する。
 ズキンと首筋が痛む。熱い。激しい熱を感じるがそれも一瞬。ぱっと女性は冥から手を離すと距離を取った。

「大丈夫ですよ。私は貴方に直接は手を出しませんからね。貴方を相手するのはあくまで漂流王と【彼】です」
「はぁ……はぁ……」

 漂流王と白銀の女性。二人の尋常ならざる気配に連続してあてられたせいで息が乱れる。とても平常心ではいられない。
 冥はできれば女性から離れたかった。だが足が言うことを利かない。座り込むようにして地面に膝を着く。

「何を迷っているのですか?少女よ、貴方は」
「ボクは……」

 冥の心の迷いを見透かしたように嗤いながら女性は路地裏の出口へと足を進める。

「簡単な話じゃないですか?貴方が逃げたら少年は死ぬでしょうね。何せ【彼】と漂流王。二人がかりです。勝てるはずがないですよ?では、少年と二人で戦いを挑みますか?勝てるかどうか分からない戦いに?」
「……」

「ああ、勝てないですよ。だって、もし仮に少年と貴方が戦いに挑んだら私も参戦しますからね?勿論、貴方達と敵対する立場で」
「な、なんで!?前は手を出さないって……!!」
「物事は常に動いているのですよ?先日はそういいましたが、今は違うわけです」 

 あっさりと冥を絶望に叩き落す台詞を口にした。もし、戦いを挑むなら自分も参加すると。勝てる可能性などあるはずがない。二対二でさえどうなるかわからないのに、そこにこの女性が加わったら敗北は必然。 

「私は一応【彼】と随分長い付き合いですからね。肩入れくらいはさせてもらいますよ。ああ、自己紹介がまだでしたか。少年から聞いていませんでしたか?私の正体を」
「……聞いてないよ」

 そうでしたか。と嗤い、右手にしていた手袋を取る。その右手の甲には数字が刻まれていた。Ⅲという数字が。血のように赤い数字が。
 息が詰まる。その数字が刻まれている意味。それは、つまり……。

「初めまして、ワーキャットの少女よ。私は頂点の一人。始まりの三人。第三位の【天眼】です。短い間ですが宜しくですよ?」

 ガラガラと冥の地面が罅割れて、底知れぬ闇のなかに落ちていくような、絶望を感じさせられた。
 何故、こんなところに。頭の中を駆け巡る疑問。

「私は少年が殺されないためにきただけなんですよ。少年以外はどうでもいいのです。この海鳴全ての人間が死のうが、少年さえ生きていればそれでいいですから―――」

 にこりと、嗤った。

「貴方一人で死んでくださいね?」















 どこをどう歩いたのか覚えていない。
 気がついたら高町家の方へ勝手に足が向かっていた。本能的に恭也に助けを求めていたのだろうか。
 ふらふらと、土気色になった顔で歩く冥を心配してか、通り過ぎる人たちほぼすべてが心配そうに振り返る。

 ―――はは、そんなに顔色悪いのかな。

 力なくそう思考する。もうすぐ夕陽が沈む。戦うことにするか、諦めるのか、もう決める時間は残り少ない。
 せめて恭也に一目で会いたいな……そう考えながらふらふらと歩く。夕闇が辺りを支配していく中で、冥は横断歩道を隔てた道路の逆側に恭也の姿を見つけた。
 まだ恭也は気づいていないようだ。声をかけようとした、その時。

「やぁ。恭也じゃないか。元気にしてたかい?」
「あれ、恭也君。お久しぶりですね」

 そんな女性達の声が聞こえた。遠めにでも分かる美しい二人の女性が恭也に話しかけていた。
 冥の知らない女性。その仲よさげな様子から随分と親しいのだろう。
 そんな恭也と女性達を見ていてようやく分かった。理解した。
 恭也はこちら側に来る必要はないんだ、と。

 元々は夜の一族の問題。それに人間である恭也がでてくることはない。
 生きるか死ぬか、そんな命をかけるギャンブルのような戦いに参加することはない。
 そして何より……初めて愛した男を危険に晒したくない。

 先ほどまでの陰鬱な表情は消え去った。覚悟を決めた表情で冥は踵を返す。恭也から。
 数歩踏み出した所で足を止める。振り返りたくなる欲求を振り払った。もし、ここでもう一度恭也の姿を見たら決意が鈍る。
 決めたのだ。恭也を巻き込まないことを。
 見習おう。恭也の鋼の意思を。愛した男の心の強さを。

「有難う、恭也。そして、さようなら」

 決して届かぬかすれるような、だが決意のこもった言葉は誰の耳に届くのでもなく、夕闇に消えた。  
 一人夕闇に消えた少女……冥を影から見送る一人の女性。第三位の天眼。
 嗤いながらその背中を見つめていた。

「うまくいきましたね。これで新たな道筋ができましたよ」

 そして、遠くで銀髪の妖精達と話をしている恭也をみやる。

「後はどのタイミングで少年を導くかですけどね。最も効果的なのは何時でしょうかね?」

 楽しそうに、嬉しそうに。まるで我が子を見やるかのように慈しむ表情で。まるで己の愛した男を見やるかのように恋慕の表情で。

「少年に乗り越えてもらいますよ。数多の親しき者の屍山血河の未来の道程を―――」

 狂ったように微笑む天眼は音もなく、気配もなく、夕闇と同化するように姿を消した。 













[30788] 旧作 御神と不破 二章 恭也編 後編
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/03/11 01:02





















 マンションから飛び出した恭也が走る。すでに太陽は完全に落ちて、周囲は暗闇が支配していた。街灯の明かりが道路を照らす。
 ガリと音が鳴るくらい強く歯軋りをする。果たして冥はどこに行ったのか。可能性がある場所を思い描く。
 可能性は可能性。確信は持てない。少なくとも恭也が感知できる近場にはいないようだ。

「くそっ!!」

 分からない。見つからない。一体どこだ。どこにいる。
 マンションの周辺を探し回ったが見つからない。通りすがりの人にも聞いてみたが、冥を見かけた人はいなかった。
 海鳴臨海公園に無意識のうちに到着した恭也は僅かに乱れた呼吸を整えるように呼吸をすると、冷静になれと自分を叱咤する。

 夜の海がライトアップされていて幻想的な美しさを醸し出している。こんな状況でもなければ見とれたことだろう。何組かのカップルもいて少し憎らしい。
 まずは冷静になって可能性を考えるべきだ。 

 冥が恭也を置いて他の土地へと逃げ出した可能性。
 答えはノーだ。もし逃げるならばもっと早く逃げている。こんなギリギリの、しかも夜になって逃げ出すわけがない。

 冥の悪戯という可能性。
 答えはノーだ。流石にこんな悪趣味な真似をするはずがない。

 冥が恭也に別れを告げないといけなくなったという可能性。
 それはつまり、先ほど別れた後に敵と接触してしまった可能性が高いということだ。油断した。幾ら人目があるとはいえ一人にさせるべきではなかったのだ。

 だが、まだ殺されたわけではない。仮に冥が敵と接触したのだとしても、マンションに戻って置手紙ができるだけの余裕があったということだ。無理矢理書かされた手紙ではないことくらい見れば分かる。
 ということは、ここではないどこか。人目につかない場所を指定した?冥がそれに従う理由は?催眠術か何かか?催眠術では置手紙のことが説明できない。

 何か交換条件でもつきつけられたのか。冥自身がその要求を呑むしかないほどの交換条件。ふと考えるが思いつかない。
 しかし、冥が脅されたとはいえ自分の意思で出て行ったのかもしれない。ふざけるな、と吐き捨てる。
 例えそうだったとしても、恭也は護ると誓ったのだ。あの娘を。今更違えることなどできるものか。  

 恭也の知る限り、ここ海鳴で人目につかない場所。その候補を考えるがどこも確信がもてない。この状況では僅かなタイムロスも許されない。
 どこにいる、と深く思考する。思考の隅で何かがひっかかる。それが何かが分からない。あと少しで思考のパズルが完成するというのに。
 嵐の日の海のように、心が激しく揺らぐ。どうしても冷静になれない。ガシっと地面を蹴る。ほとんどやつあたりだ。
 その時、その弾みでぽろりとズボンから携帯電話が落ちて、地面を転がった。それを拾う。

「誰かに助けを求めるか……」

 本心からの言葉ではない。今更誰に頼ればいいというのだ。自嘲気味に口元を歪めた瞬間、カチリと音をたてて思考のパズルが完成した。
 まるで目が覚めるかのような天啓。完全に冷静さを欠いていた。
 夜の一族の断罪人である執行者達はこれまでも多くの夜の一族を裁いてきた。しかし、そのどれもが裏はともかく表の世界にでることはなかった。
 それは、その土地を支配する夜の一族に協力を求めていたからだ。狙った相手の情報、そして後始末。表の世界に情報が流れないように。

 つまり、この海鳴を支配においている夜の一族は―――。
 恭也は携帯のアドレス帳を開くと、目的の人物に電話をかけた。







 
 











「んー。ノエルの入れてくれた紅茶は美味しいわね~」
「恐縮です」

 月村忍は自室で優雅に夕食の後のティータイムに突入しているところであった。その直ぐ傍にはメイド服姿のノエルが控えている。
 夜の一族の頂点の一角に数えられている三巨頭の一つを担っている月村家の当主ということもあり、住んでいる家は果てしなく大きい。家というより屋敷という表現のほうがただしいのだろう。

 三階建てのうえに、屋根裏部屋、地下室まである。さらに高町家の土地以上の広い庭。漫画に出てくるような門構えの屋敷である。
 十数個の部屋があり、忍の自室もとんでもなく広い。一般家庭の家としては狭くはない、というか広い高町家の一階半分近くの広さだ。
 それだけ広いというのに置かれているモノと言えば、巨大なテレビ。散乱しているゲーム機とソフト。隅っこのほうに大量に詰め込まれた漫画の本棚。

 紅茶を飲み干すと忍一人では大きすぎるベッドにボフっと勢い良く飛び込む。うつ伏せになってのほほんとする忍は幸せそうに目を瞑っている。
 あと数分もすれば眠りに落ちるのは明らか。ノエルも静かに退室しようとしたその時、忍の携帯の着信音がなった。音楽が流れる。その音楽は大ファンのSEENAのものだ。
 うーん、と眠気が残る思考。半分おちた瞼で、傍に転がっていた携帯を手に取り電話をかけてきた相手を見た瞬間、眠気が全て吹き飛んだ。慌てて電話にでる。

「も、もしもーし。忍ちゃんですよー。こんばんは、恭也!!」
『忍か!!すまん、単刀直入に聞く』
「はいはい。どうしたのー?そんなに慌てて」
 珍しく恭也からの電話に内心嬉しい忍だったが、恭也の慌てように小首を傾げる。
『あいつは……執行者はどこにいる!!』
「……」

 そして、恭也の台詞で固まった。 

『もう、執行者はこの地に……海鳴にきているはずだ!!あいつはどこにいるか教えてくれ!!』
「……ごめん。恭也。それは教えれないよ」

 【知らない】とは言わなかった。教えれないといったのだ、忍は。恭也に嘘はつけない。つきたくない。だから教えられないといったのだ。
 やはり知っているのかと己の読みが当たったことを確信した恭也の勢いが増す。

『頼む、教えてくれ……』
「……駄目だよ、恭也。もう、これ以上は関わらないで。イレインなんて目じゃないの、彼は。殺されちゃうよ……」
『俺は誓ったんだ、あいつを護ると!!もし、このままアイツを見捨てたとしたら、俺は俺が許せない』

 電話越しでも聞き取れる、恭也の決意。絶対引かないという、強い意志。忍を、数多の危機から護り抜いた時の恭也そのままに感じられた。
 だから早く水無月冥にはこの地を去ってほしかった。恭也と深い関係になる前に、どこかに去ってほしかった。
 一度護ると決めてしまったら、恭也は相手が誰であろうとも引かない。如何なる恐怖も脅威も振り払い、きっと立ち向かう。
 そんなこと、分かっていたのだ。恭也が死刑執行者に立ち向かうであろうことくらい。それくらい分からないはずがない。

「……国守山ってあるよね。そこら一帯に……特に頂上には人を近づけないように、って要請してきたの。執行者が。多分、彼はそこにいるはず」
『国守山か……忍、感謝する』

 ぶつりと電話が切れた。今頃、全力で国守山に向かっているのだろう。目を瞑る。
 私はどうすればいいのか、と自問自答する。
 家名と命を取るか。それともたった一人の人間の男を取るのか。
 だが、答えなど最初から決まっている。絶対に。
 薄ら寒い笑みを浮かべる忍。

「ノエル……」
「何でしょうか、忍お嬢様」   

 忍の呼びかけにノエルは静かに答える。現在の事態は理解できていた。

「私と一緒に死んでくれる?」

 そう、忍はノエルに語りかけた。まるで明日でかけるからついてきて、というくらいの気軽さで。死んでくれ、と。

「勿論です。忍お嬢様と恭也様のためならばこの命尽き果てるまでお供いたします」

 一切の迷いも、恐怖も、逡巡も、躊躇いもなく、ノエル・綺堂・エーアリヒカイトは頷く。
 忍は嬉しそうに立ち上がる。ゆっくりと開いたその瞳は真紅に染まっていた。
 頂点の一。三巨頭の一角。月村家現当主。月村忍が、たった一人の男のために動き出した。














 冥は指定された国守山の頂上に向かっていた。太陽は沈み、すでに月の光が周囲の木々を照らし出している。
 夜風が吹く。ザワザワと木々がざわめく。その音に耳をすます。もうすぐ自分は死ぬというのに、何故か心は穏やかだ。あれだけ心を騒がせていた恐怖などどこにいったのか。
 全身を貫く月光。こんなに気持ちいいものだったのか、と空を見上げた。半月となっているその月を眩しそうに見やる。
 体が軽い。冥が生きてきた人生のなかでこれほどまでに体のきれがいいと感じたのは初めてだった。

 腰元に挿してある日本刀。恭也のところから失敬してきたものだが、その重みすら感じられないほど調子がいい。
 地面がでこぼことしてるなかで、適正な場所を軽く蹴って跳躍。躓くことなく山を登っていく。
 そんな中、木々を抜ける瞬間、葉っぱで軽く手を切った。刃物で皮膚を切ったかのような痛み。まったく深くはないので夜の一族である自分ならばすぐ治癒されるだろうと気にしないことにする。

 正規のルートがあって車で登れる整地された道があるらしいが、生憎とそっちを見つけるほうが時間がかかるようだったので冥はほとんど一直線で国守山をかけあがっていた。
 トントンと優雅に、そして華麗に登っていく。足に力を入れて一際大きく跳躍。木々が視界からきえ、映し出されるのは巨大な湖。
 表面には半月が綺麗に映っている。それにしばしの間見惚れる。が、反射的に膝をつきそうになる重圧を背中に受けて振り返った。
 ぼろぼろの衣服を纏い、無精髭を片手でさすりながら近づいてくる青年。人間の年齢になおしたら三十に届くかどうかだろうが、中身はもっととんでもない存在だ。

 正確な年齢は誰も知らない。本人さえ忘れたであろう遥か昔から生き続けてきた純血の夜の一族。
 数百、或いは数千にも及ぶ罪人を断罪してきた、生粋の処刑人。その力に並ぶ物無し、と称される正真正銘の生きる伝説。
 全ての夜の一族が恐れ、敬い、崇める、頂点の中の頂点が、目の前にいた。

 ドクンと心臓が暴れだす。 
 ニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロ。
 本能が、直感が、戦うなと、逃げるんだ、と叫び、喚起する。
 強大な、プレッシャー。漂流王など相手にならない。格が違う、絶対的な強者。先ほどあった、天眼をも上回るバケモノだ。
 そんな存在を前にしても不思議と心は落ち着いている。両手両足、震えはない。

「ありゃま。まさか本当にくるなんて驚いたよ」

 いつの間にか、冥を挟み執行者と対極線を繋ぐように、漂流王は背後で大きな石に座っていた。
 スキだらけに見えて、全く油断はない少年。きっと漂流王もみかけによらず長い年月を生きているのだろう。執行者ほどではないだろうが。

「謝りはしない。ただ、せめて安らかに逝け」

 チンという金属音を鳴らせて執行者は背に背負っていた剛剣を片手で軽々と引き抜いた。
 対して冥は日本刀を抜きさえしない。微かに笑みを浮かべて数メートルの間合いをとった状態から動くことをしない。

「諦めたの?それが苦しまずに死ねるから正しい選択といえばそうなんだけどねー。つまんないや」

 ハァと興味を全く無くしたように石の上で胡坐をかく。

「さらばだ、小娘」

 執行者の声。何の感情ものせずに漂流王にもかすかにしか映らない速度で執行者は踏み込んだ。
 別に執行者も漂流王も感情がないわけではない。もう命を奪うことを続けてどれくらいになるか。いちいち相手に憐憫の感情などもってたらこっちの精神が持たない。だからこそ何も感じないふりをしているだけだ。

「バイバイ」

 そう漂流王は呟いた。それが別れの言葉になる―――はずだった。
 冥の首を斬りおとさんと迫った横薙ぎの斬撃をギリギリのところで避けて、抜いた刀で逆に執行者の腹部を狙って振り払った。

「―――な、に?」

 驚きの声をあげて執行者は後ろに跳び下がった。完全にはかわしきれない。衣服を綺麗に斬られた。
 未だ驚きの表情の執行者は冥と己の斬られた服とを交互にみやる。まるで何が起こったか理解できないような様子だ。

「俺の一撃をよけた、だと」
「……さらに反撃?そんなことできた奴ってどれくらいぶりだよ」

 漂流王もぽかーんと口を開いたまま驚愕の表情。頂点二人に穴が開くほど見つめられた少女はくすりと女の笑みを浮かべる。

「悪いけど、ボクもキミ達という死の運命に抗わせて貰うから。恋する乙女ってわりと最強なんだよ?」

 刀を構えてそう微笑む冥の姿は何よりも、誰よりも大きく見える。
 周囲を満たす烈火の闘気。それは執行者と漂流王を驚愕させるには十分足りうるものであった。
 足掻いてみせる。生き抜いてみせる。そう冥の瞳が物語っていた。

 その時、ポタリと手の甲から血が流れ落ちる。首を傾げる。先ほど葉っぱで斬った傷が癒えていないのだ。何故、と疑問が頭を通り過ぎる。この程度の傷、普段ならば瞬く間に癒えるというのに。ズキリと首の裏が痛んだ。

「俺と相対して生きる希望を諦めなかった者は、随分と久しい。見事、と言うしかあるまい」

 その思考を中断させるように執行者が賞賛を送る。執行者が獲物に送る最大限の賞賛。
 いや、すでに目の前にいる少女は獲物でない。即ち……。

「小娘……貴様は【俺達】の敵だ!!」

 ドンという凶悪な殺気が巻き起こる。先ほどまでは遊びだったといわんばかりに。冥は認められたのだ。執行者に。己の敵に値すると。
 殺気が質量を持った疾風となって冥を打ち抜く。ビクンとその殺気に体がすくむ。わずか一瞬。
 その一瞬で執行者は襲い掛かる。圧倒的な闇を従え、振り下ろされる剛剣。受け止めたら間違いなく刀ごと叩き斬られる。
 体が竦み、動きが遅れたはずの冥だったが、執行者よりさらに速く、横っ飛びでかわす。生憎と恭也のようにミリ単位の見切りなどできるわけではない。

 冥の己を上回るその超速度に、再度驚きを隠せない。
 僅かに、だが確実に、この小娘は俺より速い!!

 言葉では言い表せれない屈辱。ただのワーキャットの小娘が執行者である自分を、頂点である自分を速度だけとはいえ凌駕するなど認めることなどできるものか!!
 執行者の驚きと同じで冥自身も己の変化に驚いていた。
 身体が軽すぎる。さっきも感じていたことだが、異常なほどに。これでは羽毛のようだ。
 元々、スピードには自信があった。小柄な体もあっただろうが、スピードだけならば殺音にも負けないだろうという自信が。しかし、今はそれ以上の速度だ。何せあの執行者さえ上回っている超速度。

 冥は気づかないが、これが本来の彼女の実力なのだ。身体能力なのだ。
 冥の傍には常に殺音がいた。異端の天才。一族の最悪の異常者。頂点に匹敵するバケモノが。
 だからこそ、冥は己に蓋をしていた。殺音には絶対勝てない。自分の力はここまでだ、と。一種の自己催眠ともいえる状態。
 それを、生きようとする意志、己の限界を超えようとする心が、今まで閉じていた蓋を開けた。ただ、それだけの話なのだ。
 己の潜在能力を解放した水無月冥の速度は、今まさに頂点に匹敵せんと疾風のように荒れ狂った。

「こざかしぃ!!!!!!!」

 苛烈な咆哮。冥を砕かんと執行者が縦横無尽に剛剣を振るう。だが、当たらない。一撃でも当たれば決着はつく。そのはずなのに届かない。冥のスピードがさらにあがっていたのだ。
 水無月冥の速度は、執行者の速度を僅かに、ではなく遥かに凌駕していた。
 執行者がその剛剣で冥の唐竹を真っ二つにしようと振り下ろす。手がぶれ、剛剣も視覚できない速度で牙を向く。その一撃が冥を斬る。だが、肉と骨を切る感触は伝わってこない。

 残像だ、ということに気づいた頃にはすでに冥は執行者の背後に回りこんでいた。地面を蹴って、執行者に刀を向け、体当たりをするかのような勢いで疾走する。
 それに気づいていた執行者は左手一本で振り回すかのように剛剣を斬りつけた。銀光が円を描く。
 その銀円をさらに深く踏み込み上体をさげることによってやり過ごす。冥の刀が執行者を貫いた。だが、冥にも肉を貫いた手ごたえがない。
 貫いたのは執行者の服のみだ。刀が服に絡まって身動きが取れない冥を見て、終わりだといわんばかりにニィと笑った執行者が剛剣を右斜め上から振り下ろした。

 だが、それさえも空をきる。パンと軽い音をたてて執行者の頬に衝撃がはしる。軽い痛み。致命傷には程遠いが、ぐらりと執行者の身体が揺れる。刀から手を離した冥の拳による連撃。力はそれほど強くはないが、それはあくまで他の夜の一族に比べればの話。決して非力というわけではない。
 それで注意が逸らしておいてスゥと音もなく服に絡めとられていた刀を引き抜く。それに気づいた執行者が剛剣を切り上げるが、それよりも速く後ろに後退する。追撃をかけてくる様子はないので、とめていた呼吸を吐き出す。そんな冥を執行者は忌々しげに見る。

「―――やはり貴様はあの女の血を分けた妹ということか。ただの夜の一族にしては、随分と外れている」
「あの死刑執行者にそう言って頂けるなんて光栄だね。これから先の自慢話にできるよ」
「貴様に先があると思っているのか?」
「当然さ。好きな男と結婚して……子供は二人。できれば男の子と女の子が一人ずつ。大きな二階建ての家で犬を飼って平和に暮らすっていう家族計画があるんだよ、ボクにはね。今さっき考え付いたばかりだけど」

「減らず口を叩く。どこまで貴様はあの女に似るんだ」
「あの女?殺音のことかい?」
「……しゃべりすぎたか」

 チィと舌打ちをした執行者は、この戦いで初めて構えた。ビリビリとした殺気の波が冥をうつ。鳥肌が立つ。
 何かが、違う。今まで戦っていた執行者とは何かが違っている。否、違ってきている。先ほどまでの執行者ならばまだ良い戦いができると思っていた。だが、やはり頂点は頂点だ。剣の王者がこの程度であるはずがない。
 執行者の瞳の色が少しずつ変わっていく。真紅の瞳に。夜の一族である証明に。

 ―――まだまだ本気じゃなかったわけだね。

 乾いた唇を舐める。
 ここで逃げ出すわけにはいかない。倒すのだ、ボクが。倒して帰るのだ、恭也の元へ。そして、共に生きるのだ。
 ボクのスピードはまだまだあがる。先手必勝だよ。
 両足に力を込めて、地面を蹴った。スピードで、執行者をかく乱するために。最高速度になる手前、地面を蹴ったばかりの初速の瞬間。背中が爆ぜた。

「っあ……!?」

 背中に焼け付く激痛と衝撃を受けて、冥は地面を転がった。元居た場所から軽く数メートルは吹き飛ばされていた。
 視界が揺れている。思考が纏まらない。あまりの激痛で気絶することさえできず、逆に意識だけは保てている。ぐにゃりと揺れる視界の先、笑いながら石の上に胡坐をかいている漂流王と視線があった。
 両手を石につくと、逆立ちをするようにして立ち上がり、回転。華麗に地面に着地した。

「凄いね、キミ。まさかそれほど強かったなんて思いもしなかったよ。ここ百年の間見た夜の一族のなかで、頂点に選ばれたバケモノを除いたら水無月殺音とキミは群を抜いてるよ」

 散歩するように地面に倒れ付している冥の元まで歩いてくるとニコリと笑う。そして容赦なく冥の腹部を蹴り上げる。微塵も容赦することのない、凶悪な蹴撃。メキィという骨が折れる音が鳴り響く。

「……か……ふっ……」

 小柄な体が蹴り転がされる。地面をに激突、ごろごろと転がる。執行者の足元にまで転がっていき止った。

「まさか卑怯だ、なんて言わないよね?こっちは最初から二人いるんだ。僕に注意を払っていなかったキミが悪いよ。攻撃してくださいと言わんばかりの隙だらけの背中があったら攻撃しないほうがおかしいさ」

 身動きできない冥を見て、興味をなくしたように先ほどまで座っていた巨石まで戻っていき、再度胡坐をかく。
 眠たそうにふぁ~と欠伸をする。そんな漂流王を若干不満気に見る執行者。その視線に気づいた漂流王がため息をつく。

「執行者。キミもまさか不満だとか言うわけじゃないよね?いいかい、キミに敗北は許されない。キミが負けるということは、第三世界を守護する防御壁が崩壊することを意味するんだよ。その娘と戦っても99.99%キミが勝つ。でもね、それでは駄目なんだ」

 パチンと両手を叩く。そのまま集中する様子を見せた後、人の頭一個分ほどのスペースをあけて数秒、その空間に青白い炎の玉が燃え爆ぜていた。その青白い爆玉を冥の背中にぶつけ、弾けさせたのだろう。

「99.99%勝てたとしても、100%じゃないと意味がない。もう一度言うよ。キミに敗北は絶対に許されない。だから、例え卑怯だと罵られても、憎まれても、その0.01%の可能性さえも押しつぶす。それがキミの片翼たる僕の役目」

 仮にこの戦いを見ていた者たち全てが漂流王を卑怯だと、汚いと言ったとしても、眉一つ動かさないであろう。
 漂流王は長い間死刑執行者の片翼として数多のバケモノ達と戦ってきた。逃げ惑う子鼠程度の相手がほとんどだ。だが、稀に理解を外れたバケモノも存在した。
 第五位の百鬼夜行。【前】第九位の人形遣い。その中で最たる存在がこの二人だ。執行者と二人で戦いを挑み、結局決着をつけれなかった。

 はっきりいって漂流王の戦闘力は執行者にくらべて格段に劣る。八位の【魔女】に手ほどきを受けた魔術もそれなりには使えるが、魔女には到底及ばない。よく言えば攻守において遠近揃った万能型。悪く言えば中途半端。それが漂流王。それでも近接戦は執行者に魔術は魔女に師事したおかげで夜の一族でも十分にバケモノ扱いされてはいるが。

 故に常に命がけだ。執行者の横に立つということは常に命をかけるということに等しいのだ。
 だからこそ漂流王は命を賭して、執行者の横に立つ。己が負けるということは、執行者に危険をもたらすということなのだから。
 漂流王はこの世の全てがどうでもいいと思っている。他の十界位も。夜の一族の平和も。人間達の平和も。自分自身さえ興味がない。

 そんな漂流王が体中が限界だと悲鳴をあげても執行者に指導を仰いだ。全身の魔力を絞りきり、衰弱していても魔女に魔術の全てを叩き込んで貰った。地獄のような戦場で、血を流し、骨を砕き、魂を削るような死闘を繰り広げ、ようやく手にしたのが今の力。夜の一族では異例な、たった百年で頂点に数えられるようになった未完の天才。
 その全てが、執行者のためだけに。幼い頃に己の命を救ってくれた、見える物が全て灰色に見える中、圧倒的な闇を従え現れた救世主の如き存在のためだけに漂流王はここにいる。

「……分かっている。すまんな、これではどちらが保護者か分からん」
「流石に僕ももう保護者が必要って歳じゃないよ。僕はキミに救われた命さ。キミのためならば僕は鬼にも悪魔にもなるよ……ってマジですか」

 呆れたような漂流王の声。執行者も目を見開いた。
 執行者の足元、転がっていた冥が歯を食いしばって立ち上がろうとしているのだ。
 地面についた両腕は震えるように動くのが精一杯。両足も同様だ。自分の体重を支えられるとは思えない。
 両手両足に力を入れようとすると、逆にその他の部位から血が抜けていくような錯覚に陥る。焼け焦げている背中も激しく痛い。例え立ったところで勝ち目などあるはずがない。

 ―――それでも、立たなきゃ駄目なんだ!!

 歯を食いしばる。バキィという音が耳を打った。強く噛みすぎて、奥歯にヒビがはいったらしい。
 糸がきれた操り人形のように、力が入らない筋肉を、無理矢理に動かす。地面を掴んでいた指が、土を毟るように力が入る。
 ビギイと、冥の全身の何かが砕けるような音が鳴り響く。発狂しそうになるほどの激痛を無視するかのように、上半身をあげて、見下ろしている執行者を見上げた。正真正銘、執行者は驚愕していた。

「冗談、だろ?僕の魔術を、まともにくらって……お前、なんなんだよ……」

 かすれるような漂流王の呟き。まともに聞き取れる聴覚が残っていないのか、本当にかすれていたのか。
 ギチギチと壊れる寸前の機械人形のような音が脳髄に響き渡る。このまま倒れたらどれだけ幸せだろう。でも、倒れるわけには行かない。何故なら……。
 キョーヤなら、例えどんな怪我を負ったとしても、勝ち目が0.01%しかなくても……立ち向かう!!

「ぁぁぁぁぁぁぁあああああああ、あああああああああああああ!!!!!!!」

 全ての苦痛を振り払うように、冥は雄たけびをあげながら立ち上がった。
 立ち上がっただけで、全身の筋肉が。数本は砕けている肋骨が、悲鳴を上げる。
 だが、体の痛みではすでに冥は止められない。精神が、肉体を超越している。
 もう動くことなどできないだろうに、冥の眼光だけはギラギラと執行者をにらみ付けていた。その鋭い眼光に執行者は口元を歪めた。

「―――見事、だ。水無月冥。これから先、俺は誇ろう。お前という気高き、そして強き者と戦えたということを」 

 執行者は尊敬の念を表情に浮かべ、そして残念そうに冥に向かって振り下ろした。

「……キョー……ヤ……」























 恭也は走っていた。全力で。足を止めることなく。国守山を疾走していた。
 どれくらい走ったか分からないが、心臓がバクバクと胸を叩く。両足が鉛をつけたように重い。それでも止まらない。
 国守山には何度か着たことがある。だから、頂上までの最短ルートは頭の中に思い浮かべることはたやすい。
 頂上付近ならあと少し。冥よりも速くつくことを願って恭也は走る。

 舗装された道路を駆けながら、人影がないか周囲を見回しながら、道路を蹴る。
 その瞬間、恭也の気配を読み取ることができる領域に、三個の気配を感じ取ることができた。一つは冥だ。確信が持てる。
 もう二つは誰かわからない。見知った気配ではない。だが、深い闇の気配。そして、強い。間違いなく執行者と漂流王だ。

 その場所に向かって今まで以上の速度で、黒い風となって駆ける。
 気配に近づいていき、三人が視界に入った瞬間、恭也は見た。執行者が冥の右肩から腰元まで、音もなく、斬り裂いた瞬間を。
 一拍遅れて、忘れていたように血が噴出した。地面に真っ赤な水溜りができていく。スローモーションのように冥の膝が地面につく、コマ送りのようにその小柄な体は己から流れ出した血の海へと倒れ付す。
 その光景を、その場面を、恭也は呆然と見ていた。悪い夢を見ているかのようで実感がない。
 声もなく、愕然としている恭也に漂流王と執行者が気づく。漂流王は恭也を見て顔をひきつらせた。

「げ……水無月殺音を倒した人間だよ……なんでここが分かったんだよ……」
「……分からん」
「さっさと退散しようか」

 よいしょっと巨石から立ち上がろう、視線をいったん地面に移したその刹那、言いようのない悪寒に襲われて、漂流王は横に飛んだ。
 数コンマの差をもって、漂流王は命を拾った。ほぼ同時に恭也が抜刀して、漂流王が立ち上がろうとしていた空間を薙いでいたのだ。

「なん……だ、よ!?」

 思わず悪態がもれる。だが、漂流王が逃げるより速く、抜刀していない左手を振る。闇夜を裂く飛針。反射的に顔を護るように両腕を交差させた。腕に走る激痛。痛みで声が漏れそうになるが、さらに追撃。
 顔をガードした両腕の下から跳ね上がるように恭也の左足が漂流王の顔を狙う。紙一重で、それをかわす。だが、それとは別に感じる悪寒。空中に跳ね上がった足が再度、振り下ろされる。

 冗談じゃない、と吐き捨てるように心の内で叫んで、後方へ逃げる。今度は恭也は追撃をしない。漂流王を庇うかのように執行者が前に出ていた。いつのまにか恭也の立ち位置は地面に倒れている冥に近づいている。
 倒れている冥と、眼前に立つ執行者を交互に見やる恭也。

「その娘、まだ息はある。遺言くらいは聞いてやれ。その間は手はださん」

 恭也に向けていた剣を鞘に納めて、漂流王を引き連れて距離を取る。それを信じたわけではないが、この距離ならば問題はないと判断して倒れている冥を胸に抱きかかえるように持ち上げる。
  
「冥、しっかりしろ。今すぐ病院へ連れて行く。気をしっかり持て」

 反応はない。だが、まだ暖かい。きっと間に合う。冥を抱いて、立ち上がろうとした瞬間、ぴくりと瞼が動いた。

「……キョー……ヤ……?」

「ああ、俺だ。全く、出かけるならどこへ行くのかくらい書置きしておけ」
「はは……ごめん……また、会えるなんて……夢だったらさめなければ……いいのに……」
「夢ではない。安心しろ。腕のいい医師を知っている。俺が知る限り最高の医師だ。その人ならこれくらいの怪我くらい大丈夫だ」

「……無理、だよ」
「お前は夜の一族なのだろう?大丈夫だ」
「……ボクの治癒能力は……何故かな……全く反応してないんだよ……人間と、同じさ……今のボクは……」
「っ!?」

 夜の一族の治癒力ならばまだ可能性はあると思っていた。だが、人間と同じ?それでは、これは明らかに……。

「病院へ連れて行く。揺れるが、我慢しろ」

 致命傷だ。もはやどうにもならない。そう頭の中の冷静な部分が語りかけた。その言葉を、知ったことか、と振り払う。
 その時、冥がぶるぶると震える手をゆっくりと持ち上げた。ぺたりと血に濡れた指で愛おしそうに恭也の頬を撫でる。

「最後に……キミに、会えて……満足さ……うん、悪くない最後だよ……いや、最高の、かな………」

 本当に、神様というのがいたら感謝してもしきれない。
 ろくでもない人生の最後に、最高のプレゼントだ。愛した男に抱かれて逝けるなんて、考えてもいなかった。

 ―――うん。ボクは幸せだ。最高の幸せ者だ。殺音には申し訳ないけどね。

 薄れゆく意識の中、痛みを感じなくなってきた中、冥はそう思考していた。言葉にだして言えない。言う気力がもう残されていない。その時、【闇】が囁いた。

 本当にいいのですか?このまま死んで。これから先の未来を捨てて。きっと彼は忘れてしまう。最初のうちは覚えていても、やがて貴方のことは忘れてしまう。そして愛した女性と幸せに暮らすのですよ。貴方を忘れて。
 ズキリと心が痛んだ。

 ―――仕方ないんだ。ボクはここまでなんだから。

 嘘つきですね。貴方は大嘘つきです。生きたいくせに。彼と共に。この世界で。彼と笑い、遊び、楽しみ、喜び合い、悲しむ。そんな人生を歩みたいくせに。
 【闇】はそう囁き続ける。

 ―――違う、ボクは。

 忘れられるのが怖いのでしょう?ならば彼に残しましょう。爪あとを。彼に刻みましょう。貴方の魂を。例え、彼に愛した女性ができたとしても、貴方のことを忘れられないように、烙印を。

「キョー……ヤ……」
「―――なん、だ?」
「……死にたく」

 ツゥと、涙が頬を流れる。血だらけの指が恭也の頬をひっかく。最後の力を込めて。全ての愛情を込めて。冥が流した涙のように、恭也の頬を血が流れる。頬を流れて落ちた血が、冥の口元にぽたりと垂れた。コクリと愛おしそうにその血を飲み込む。

「……死にたく、ないよぉ……キョーヤ……」

 パタリと冥の手が力を無くし、恭也の頬から離れ、落ちた。冥の瞳から光が消え、生命の輝きを無くす。
 水無月冥。彼女は最後の最後で愛した男に抱かれて、その生涯を終えた。 

 

  
























「これ、超痛いんだけど……」

 歯を食いしばりながら漂流王は腕に突き刺さっている飛針を一気に引き抜く。その数三本。引き抜くと、ぽたぽたと鮮血が腕を伝って地面に滴り落ちる。それを見て嫌な顔をする漂流王。
 常人であるならばその痛みで地面を転がっただろうが、生憎と酷い怪我には慣れている。実戦で、ではなく執行者と魔女の二人に叩き込まれた怪我ではあるが。魔術で軽くだが応急処置。完治させれるほど便利なものではなく、血を止める、痛みを和らげる程度だ。痛みが引いていき耐え切れないほどではなくなった。

「大丈夫か?」
「大丈夫といえば大丈夫。ただ、万全とは言えないよ。近接戦には期待しないといて。なにせ、相手はヒトの身で水無月殺音を打倒したバケモノだしさ」 
「一瞬で、お前にこれだけの傷を負わせるか……想像以上の人間のようだな」

 二人の視線の先。血の海で冥を抱きかかえる恭也の姿。僅かに動く冥の口に答えている恭也を見て、漂流王がその不可思議な光景に首を捻った。

「なんで止めをさしてないのさ?言ったよね、可能性を僅かでも残すべきではないって。確かに今はまだ確実に僕らの方が上だけど将来はどうなるかわからないよ?出る杭はうっとかないと、僕たちを躓かせる小石になるかもしれない」
「それくらい分かっている」
「じゃあ、なんで止めを刺してないの。まさか情にほだされたってわけじゃないだろうね?」
 
「それこそまさかだ。戦ってる最中に気づいたがあの娘、封印の術式が首裏に刻まれている。恐らくあの娘の治癒力はそこらの人間とそれほど変わらん。完璧にあれは致命傷だ」
「わーお、そうだったの。全然気づかなかったんだけど。僕にも魔力の残滓を気づかせないなんて、相当の使い手だよ」

 師である魔術師の頂点の魔女ならばその封印にも気づけたのだろう。性格は悪いが……頂点に君臨する王達の中では一番まともではあるのだが……魔術の腕は群を抜いている。何度殺されそうになったことか。その氷のような表情の師を思い浮かべる。
 最後に会ったのは何時だろうか。百鬼夜行と刃を交える際に、協力してくれた時以来かもしれない。この仕事が終わったら当分は暇になるはずなので日本のお土産でも持って挨拶にでもいこうか、と痛みがなくなった腕をぷらぷらさせながら考えた。

「そうだな。あれほどの術式を刻まれているのをお前にさえ気づかせないとは……そんな真似ができるのは俺が知る限り二人だけだ」
「奇遇だね。僕も二人だけだよ。僕の師の魔女と……」
「……天眼、だ」
「ですよねー」

 二人して苦虫を噛み潰したかのような表情で顔を見合わせる。
 頂点の一人。第三位にして始まりの三人と呼ばれる王の一人。漂流王よりも遥かに長く執行者と生きてきた女性。話を聞くかぎりどれくらい昔からの付き合いか本人も覚えてないらしい。何時ごろからか一位の夜王と共に関係を持つことになったとか。

 漂流王は彼女のことが苦手だった。確かに、他の王に比べると愛想がよく、親しみやすい。知らない人が見たら王の中で一番まともそうにみえるかもしれない。
 だが、初めて会ったあの時の瞳が忘れられない。まるでゴミ屑をみるかのような、この世の全てを見下した傲慢な瞳を漂流王に向けていた。
 執行者は彼女のことを死神に魅入られた女性と例えた。なるほど、それは的を射ているかもしれない。だが、漂流王の印象は少し違う。
 死神に魅入られてるのではない。あれはまさに死神そのものだ。



 
 











 少しずつ冷たくなっていく冥を恭也は抱きしめた。力強く。まるで大切な宝物のように。

「全く。お前は馬鹿だ。何故、俺を最後まで頼らなかった」

 返事が返ってくることはないのは分かっている。それでも恭也は冥に語りかけた。その問い掛けは、言葉だけ聴けば冷たいように聞こえたかもしれない。だが、違う。恭也の声は震えていた。

 もう少しだけ早く忍のことに気づけたならば……。
 もう少しだけ早く到着できたならば……。
 怒りと悲しみ、後悔、絶望、無念。様々な負の感情が荒れ狂う。
 痛い。何よりも心が。護ると誓ったのに。護れなかった。目の前で、その誓いを叩き斬られた。

「お前はやっぱり馬鹿だ……大馬鹿だ」

 何故冥が一人で戦いに出たのか嫌というほど分かってしまった。冥は巻き込みたくなかったのだろう。恭也を戦いへ。だからこそ自分一人で立ち向かったのだろう。深い恐怖を乗り越え、絶望を感じながらも執行者達と。
 冥を最後に力いっぱい抱きしめるとゆっくりと少し離れた場所に歩いていきおろす。ポケットの中に入っていたハンカチで冥の顔についている血を拭き、瞼を閉じさせた。

「どうして俺を最後まで頼らなかった。どうして俺を信じなかった、とは問わん。お前はやはり、優しすぎたんだ……」

 血で真っ赤に染まったハンカチをポケットに入れる。代わりに、腰に挿していた二本の小太刀に手をかける。二刀差し、と呼ばれる差し方。御神流では、すでに使う者がいなかったという話だが、父である士郎がこれを使っていたので恭也も使うようになっていた。

「すまん。俺はまだお前と共には逝けん。随分と長く待たせることになるかもしれないが、待っていてくれ。その代わりに―――」

 チンと小太刀を鳴らし、引き抜き背中越しに、執行者と漂流王を見た。

「寂しくないように二人、供をつけてやる」



  













 

 死んだ、と思った。
 十数年ぶりに漂流王は死を覚悟した。
 ぶわっと瞬く間に全身を冷たい汗が覆い、鳥肌が立つ。大瀑布のように全身を押し流す殺意の重圧。
 殺意。殺気。鬼気。闘気。狂気。恐気。兇気。凶気。そういった形に見えないはずの、ナニかが世界を満たした。

 形を持たぬ、黒き闇の刃が荒れ狂う。誰もが我を忘れ、息を呑む。あまりに絶望的なほどのプレッシャー。
 そこに現れたバケモノを、ヒトでありながらその域に到達している剣士を理解できない。圧倒的と言えるであろう。力を持った殺戮者の到来。

「ヒトを、外れているのにも、程がある!!!!!!!」

 喉が詰まる。それでも吐き捨てるようにそう言えたのは頂点に座する矜持故にか。
 何だよ、これは。こいつは。あり得ない。強いとかそういったものじゃない。すでにそういった次元の問題じゃない。こいつは違う。違うんだ。こいつはすでに、ヒトの枠組みを外れかけている。

「こいつは、第二の百鬼夜行に成り得るよ!!!!!」
   
 ここで殺す。殺さなければならない。髪一本残さずに、塵一つ残さずに。細胞の一欠けらさえ残さずに滅ぼさねば、きっとこいつは頂点さえも崩しかねない。百鬼夜行と同じだ。ありとあらゆる者に死を齎す。夜の一族の究極の生命体であるあいつと同等だ。
 漂流王の右手が青白く燃え上がる。周囲の空気を喰らって、音もたてずに何もかもを燃やし尽くす熱量を伴って、漂流王の意思を継ぐように。

「殺そう。こいつを。僕とお前の二人がかりだ。卑怯だなんて言わせない。言う必要はない。こいつは、このヒトはここで確実に殺さなければならない!!!!!」

 執行者からの返事はない。だが、肯定したといわんばかりに剣を引き抜く。執行者の瞳はすでに真紅。最初から全力で行くつもりだ。
 それでいい。それでなければ駄目だ。こいつに下手な手加減や油断などする必要はない。したら死ぬ。殺される。こいつの強さはすでに頂点に匹敵している。いや、こいつはすでに頂点を殺し得るバケモノだ。
 空気が緊張する。ピリピリとした冷たい殺意が肌を打つ。

「これは完璧な私事だ。お前たちにも理由があったのかもしれない。だが―――これで今更退けるものか。斬らせてもらうぞ、執行者」

 言葉一つ一つが質量をもつ。本能が雄たけびをあげ、逃げ出したくなる両足を気合で押さえる。
 そんな漂流王の頭に衝撃がはしった。執行者が恭也を睨み付けたまま片手で剣を持ち、もう片方のあいている片手で漂流王の頭をわしわしと撫でていたのだ。
 あまりに場違いな執行者の行動に漂流王は目が点になる。

「緊張しすぎだ。確かにこいつは危険だが、あまり敵を大きく見すぎるな。今のお前は、己自身を敵にしているぞ」
「……常に冷静であれ、だね」
「その通りだ。この小僧の相手は俺がする。お前にはそちらを頼む」
「……ああ、分かったよ」

 深呼吸を繰り返す。執行者の言葉と手の感触でようやく平静を取り戻すことができた。あまりに想像を逸脱した恭也を前にして相当取り乱していたようだ。
 だからこそ気づけていなかった。目の前の剣士に意識の大半を奪われていたために、すでに近くまで寄ってきていた気配に。
 ちらりと背後を見やる。その視界に映ったのは漂流王から見ても美しいと判断できる女性。月光を背景に、月村忍がゆっくりと歩み寄ってきていた。その背後には付き従うようにノエルがいる。
 執行者も漂流王も忍の姿形までは知らない。三巨頭の代表であるヴィクターとは何度も顔を合わせたことはあるが流石に極東の国のこんな一地方の夜の一族を知っているわけではない。   
 ヴィクターを通じて連絡を通し、さくらから忍へと情報は繋がったのだ。

「お初にお目にかかります。幾百年の年月を頂点に座する偉大なる王よ。剣の王者。私は三巨頭の一角。月村に連なる者です」

 忍とノエルは跪き、臣下の礼を取る。そんな忍を僅かでも執行者は見ることはない。理由は一つ。目の前の剣士から目を離せないだけだ。

「何用だ?その雰囲気、まさか俺達の手助けに来たというわけではあるまい」
「その通りです。貴方の目の前にいる剣士は私と血の盟約を交わしたヒト。その者に剣を向けるということは私自身に剣を向けると同等」
「血の盟約は知っている。だがな、その盟約のために俺と、十界位と戦う気か?たかが十数年しか生きていない小娘が」
「これは異なことを。例え牙を持たぬ小鳥でさえ、愛する番に危機が迫ったならば立ち向かうでしょう。ならばこそ、私も戦いましょう。例えそれが貴方という頂点であったとしても」

 執行者の脅しにも忍は引くことがない。一瞬の躊躇いさえみせることがない。忍の目、それは覚悟を決めた者の目であった。 
 忍は執行者と漂流王に怯むことなく、逆に威風堂々と頂点の前に立っていることに、自分自身でも驚いている。

 王に反逆する。それを今までの生涯で考えたことなどなかった。それほど超越した存在だったのだ。一部には神のように崇拝している者もいるくらいだ。そんな相手を前にしても忍は普段と変わらずにいれた。
 愛って強いわね~と苦笑する。

「恭也。私とノエルが漂流王を抑えるわ。……十分。それだけは私の命をかけても」

 そう忍は宣言した。ただの夜の一族の小娘が、仮にも王の名を冠する存在を十分抑えると。それがどれだけ無茶なことか忍も恭也も理解している。
 恭也も無理だと言おうとした。だが、見たのだ忍の瞳を。真紅に輝かせて、決してひかないという強い意志を宿した瞳を。だからこそ、辞めろと言えなかった。

「感謝するぞ、忍。だが……」

 礼を述べ、小太刀を見せ付けるように執行者に向ける。一直線に。キラリと月光を反射させる、鈍く輝く。

「十分も必要ない。執行者を斬るのには五分で事足りる」

 王の中の王に向かって、恭也は平然とそう言ってのけた。何を言われたのか一瞬理解ができない、執行者と漂流王。
 忍は大きく目と口を見開き、あははと本当に楽しそうに笑った。

「……流石恭也!!心強いわ。宜しくお願いね」

 対する執行者は不思議と怒りは湧いてこなかった。ただの人間であるはずの恭也に屈辱的ともいえる台詞をはかれたというのに。
 もしこれで怒りに任せて戦いを始めてしまったならば、これほど愚かなことはない。先ほど漂流王に冷静になれと言ったのは自分なのだから。
 そして何より、冗談や誇張抜きで、恭也は五分で執行者を斬ろうと思っているのだ。夜の一族の頂点であるはずの執行者を。

「良かろう、小僧。貴様に見せてやる。数多のバケモノ共を超越した死刑執行者の力というものを」

 執行者が一歩前に踏み出すをを確認した後、漂流王も執行者を背後に、一歩踏み出した。

「こっちは一分で終わらせるよ。それですぐそっちに加勢する」
「期待しているぞ、我が片翼」
「あの小娘の言葉を真似るわけじゃないけど命に賭けて期待には答えるさ」

 ざっと音をたてて漂流王が走った。右手に宿る青白い炎は衰えるどころか激しさを増している。まるで漂流王の内情を現しているかのように。
 あの剣士がどれだけ危険なのかは嫌というほど理解した。だが、こちらの夜の一族の女性……月村忍が漂流王を十分抑えるということを宣言したのには我慢ならなかった。
 見る限り確かに相当な高種の夜の一族の血をひいていることはよく分かった。何せ、三巨頭の一角、月村の当主という話。となれば十中八九吸血種のはず。
 だが、所詮それだけだ。二十年程度しか生きていない、小娘。普段ならば相手にもしない有象無象だ。

 一瞬で、殺す。

 心を冷たく。怒りを右腕に込め、全力で疾走。忍に向かって一直線に跳躍した。

「後悔はあの世でしなよ。さようならだ、小娘」

 その速度に忍は反応できないように呆然と立っていた。一陣の風となった漂流王の右腕が忍を貫こうとした瞬間。

「カートリッジロード・ファイエル」 

 抑揚のない声。だが、美しいその声とともに爆発的な圧力が生み出された。
 鉄の拳が飛ぶ。漂流王を上回る速度で打ち出される拳。カウンターとなってノエルの拳が漂流王を殴り飛ばした。俗に言うロケットパンチだ。
 鉄の拳がカウンターでぶち当たる。その威力は推して知るべし。人間ならば間違いなく即死。夜の一族であろうとそのダメージは馬鹿にはできまい
 吹き飛ばされた漂流王が木に激突。激しい音をたてて地面に倒れる。頭をたれ、動かない。意識を失っているのだろうか、と予想するがすぐさま首を振る忍。あの頂点がこの程度で倒れるはずがない。

「……くっ……は……」

 声が漏れた。

「はは……ははは……ははははははははははははっはははははははは!!!!!!!!」

 狂気の嘲笑が巻き起こった。漂流王が平然と立ち上がる。一目で分かるほどの殺意をその瞳に宿し、忍を射殺さんとばかりに。

「その女!!自動人形かよ!!まだ稼動している機体があったなんてね!!だが、笑わせるなよ!!たかが小娘一匹と自動人形一体で僕を抑えれると思ったか!!」

 パンと両手を打ちつける。バチンと青白い炎が弾ける。弾けた炎が形を成して、武器を形成する。それは鎌。死神が持つ鎌を連想させる。
 創り上げた鎌をくるりと回転させ柄を持ち、構える。

「キミには死すら生温い。王を侮辱した罪、その身で贖え」

 漂流王が風を切って走る。たっぷりと遠心力をのせての重い一撃。力任せに振り落とした。
 死を乗せて振り下ろされた鎌を後方に跳躍して避ける忍とノエル。鈍い音をたてて地面に突き刺さる鎌。
 それを好機と見たノエルが漂流王に向かって踏み込もうとするが、手首を返す。踏み込むと同時に振り上げられる鎌に間合いを詰めることを許さない。

「爆ぜろ!!」

 鎌から左手を離してノエルに向かって構えて一言。爆風が巻き起こる。地面を抉り、黒煙を撒き散らしながら小規模ながらのクレーターを作り出していた。
 魔術に耐性がないモノならばこれだけで方がつく。詠唱を破棄することによって一瞬で魔術を構成、解放する漂流王の得意技。魔女に弟子入りしていた時に覚えていて損はないと叩き込まれた特殊技能。今ではこれが自分の生命線だ。
 ただ威力は格段に落ちる。特に漂流王は魔術に特化しているというわけではない。魔女の威力とならば比べるまでもないほどに。そこらの夜の一族と機械人形程度ならばこれで終わりになるのだが……。

「どうやらただの自動人形ではなかったようだ、ね!?」

 黒煙からとびだしてきたノエルが腕から飛び出しているブレードで漂流王を狙う。
 ガキィと耳障りな音をたてて弾きあう鎌とブレード。押し合う二人。
 漂流王はその姿こそ少年にしか見えないが、力は強い。人間如きならば軽々と捻り殺せるくらいには。
 だが、先ほど恭也に傷つけられたこともあり万全ではない。万全ではないのだが……。

「馬鹿力、め!!」

 押しつぶされそうになるほどの圧力。ノエルの力は漂流王を遥かに上回っていた。万全であったとしても結果は変わらないだろうということがはっきりと分かるほどに。   
 このまま力勝負をしていたら危険だと判断した漂流王が突然力を抜く。押し合っていたノエルは急に押し合っていた力が無くなることにより前方へと身体が流れる。
 漂流王は地面に鎌の切っ先を突き刺すとそれを起点にくるりと身体を回転、流れるような空中での回し蹴りをノエルに放つ。直撃、激しい音をたてて、ノエルが吹き飛んだ。

「燃え尽きろ!!」

 地面に着地した瞬時に空中に描いた五芒星の軌道が闇の中でうっすらと輝く。その五芒星から巨大な炎の柱が巻き起こる。炎の柱が轟音をたててノエルを呑みこんだ。蛇がからみつくかのように、荒れ狂う。
 闇夜のなかでそこだけはまるで日中のような明るさを保っていた。それがおさまったとき残されていたのは衣服がぼろぼろと焼け焦がされ、ほぼ意味をなくしたメイド服を纏っているノエルだけだった。
 裸身を惜しげもなく晒しているノエルだったが、あれだけの爆炎に呑まれたというのに全く損傷がないのには漂流王も流石に動揺を隠せない。

「……なんだよ、キミは。おかしいにも程がある。自動人形如きが僕の魔術を二度もくらって無傷?そんな馬鹿なことがあるものか」
「私のノエルを馬鹿にしてもらっては困るわよ。対魔術用のコーティングは完璧なの」

 ノエルから幾分か離れた場所で忍は笑っていた。まるでノエルを誇るように。

「……対魔術?あり得ない。自動人形はあくまで気が遠くなる昔の失われた技術で創り上げられた過去の遺物……その最終生産型の機体でさえそんな物はないはずだよ」

 漂流王が呻く。対魔術を施された自動人形なんて聞いたことさえない。元々、自動人形の存在さえ珍しい。今現在稼動している機体さえ、数えられるほどしかない。
 対魔術を備えた自動人形があるなんて、そんな情報を自分が聞き逃すはずがないというのに。
「当然よ。だって私が付け加えただけなんだから」
「……そんな馬鹿な!!」

 驚愕。忍の言い放った言葉は漂流王の予測したどれよりも斜め上を行っていた。
 付け加えた?あの小娘が、自動人形に対魔術の装甲を?
 ありえない。ありえるはずないだろう。
 自動人形を造る技術はすでに失われている。遥か昔の技術の筈だ。それを、その自動人形に手を加えたというのか、この小娘が。
 そんなことができる者がいるとすれば余程の天才か……もしくは……。

「何をおかしいことがあるの?例えどれだけ昔だろうと一度は造れた者がいる。それならば造れない道理はないわ。それに、最古の自動人形だからって優れているとは限らない。貴方に見せてあげる……【最新最高】の自動人形をね!!」

 ―――果てしない狂人か、だ!!

「認めるよ。キミとキミの創り上げた、自動人形を。代わりに僕も見せてあげよう。頂点の力というものを」   

 鎌を引き抜き、漂流王は真紅の瞳で二人を貫いた。先ほど以上の圧迫感が二人を襲う。だが、それで今更怯むようなノエルと忍ではない。
 漂流王とノエルが同時に地面を蹴る。丁度中間で鎌とブレードが弾きあう。スピードは互角。かの王にノエルは匹敵していた。 
 互いの獲物を弾きあうと、漂流王はノエルの頭上へと巨大な刃先を空気を裂きながら叩き落す。
 ノエルがそれをブレードで防ぐが、凶悪なその一撃に上から押さえられたようにノエルの膝がガクンと揺れる。
 歪んだ体勢になったノエルを、瞬時に漂流王が横薙ぎへと変化させた一撃を見舞う。

 ノエルの視線はそれを追っていたが、体勢を崩したノエルにその一撃を避けることはできない。受け止めたとしても弾き飛ばされるのは分かりきっている。
 決まった、と漂流王は確信した。そして、その視線の先、ノエルとその数メートル背後にいる忍を見て、ぞくりと言いようのない悪寒に襲われた。忍の真紅の瞳を通して力強いナニかが漂流王に叩きつけられたのだ。

「……ッア!?」

 ぐにゃりと一瞬視界がぶれた。鎌は力をなくし、ノエルに止めを刺すことはできず弾かれる。
 ガンガンと頭痛がする。全身の力が抜け、今にも倒れそうになる。まるで瞳を通して魂を根こそぎ吸い取られたような虚脱感。

「な、なめるなぁ!!」

 バチンと目の前で火花が散った。先ほどまでの妙な感覚は消失している。
 油断した、と漂流王は自分を罵った。
 忍の視線には力がこもっていた。視線を通しての催眠術。普段ならばどうということもない。だが、ノエルとの戦闘中ということが悪かった。タイミングが最悪に近い。
 全く予想してない、意識の外からの、その効果は漂流王を一瞬とはいえ怯ませた。忍の催眠術の能力も予想以上ということもあったが。
 顔を振って、ニヤリと忍に笑う。

「惜しかったね。流石に今のは危なかった。褒めてあげるよ」
「あら?褒めるのはまだ早いんじゃないかしら?」

 何を、と問う暇はなかった。体勢を立て直したノエルがすでにブレードを振り下ろしていたのだから。
 逃げる暇がない。必死で上体を反らすが、ブレードは容赦なく漂流王の身体を斬り裂いた。鮮血が闇夜を彩る。だが、致命傷ではない。僅かに浅い。
 ノエルがそれを確認するでもなく漂流王を左腕で殴りつける。嫌な音が響く。

「カートリッジダブルロード・ファイエル!!」

 爆音が鳴り響く。前回以上の衝撃を伴ってノエルの拳が漂流王を空中に弾き飛ばす。放物線を描いてすさまじい速度で漂流王は落下。木に殴打され、ずりおちていった。
 今度のダメージは恐らく今までの比ではない。死なないまでも暫く行動不能にできれば御の字だ。
 忍は頂点を甘く見ているわけではない。これだけ忍とノエル有利に戦況が動いているのも様々な幸運によってだ。

 恭也が前もって幾分かのダメージを与えていてくれたから。そのおかげで両腕に治癒魔術をかけ続けての戦闘。
 ただの夜の一族と自動人形の二人だと甘く見ていてくれた。
 忍の特殊能力である催眠術が思いのほか効果があった。その隙をついてのノエルの攻撃が直撃した。
 全てが上手く言っている。上手く行き過ぎている。不安になるくらい。

「……窮鼠猫を噛む、か」

 深い、深い声でそう漂流王は呟いた。ペッと口の中に溜まっていた血を吐き捨てた。
 漂流王は忍の願いを無視するかのように立ち上がる。ふらりと足が揺れる。ノエルがそれを好機とみるが、足を踏み出せないでいた。漂流王の底知れない冷たい視線が足を止めさせていた。

「詫びるよ。僕は言葉では認めるなどといいながら心の底ではキミ達を侮っていた。だから、ここからは全力さ」

 パチリと漂流王の全身から青白い電流が巻き起こる。

「―――そしてお別れだ」

 漂流王の周囲の空気が青白い球体状に包まれた。その大きさはたいしたことはない。せいぜい数十センチほど。
 だが、その数は異常であった。初めは十個程度。それが分裂するかのように増えていく。
 次々と。次々と。次々と。次々と。次々と。次々と。次々と。次々と。次々と。
 瞬く間に百を超える青白い球体が漂流王の周囲に漂うように浮かび上がっていた。
 それを呆然と見上げる忍。確かにノエルの対魔術のコーテンングは完璧だと信じてはいる。だが、果たしてこれだけの魔術を防ぎぎれるのか……。

「僕が師から教わった最強最大の魔術だよ。安心していい。痛いと思う間もなく消失するから」

 漂流王が右手を上空に向けてあげる。それを合図にするかのようにバチバチと球体は放電をし始める。

「ノエル!!逃げて!!」

 焦った忍の声がとぶ。だが、ノエルは逃げない。逃げることはできるかもしれない。ただ、もしあの魔術から逃げたら忍を標的にされかねない。

「その命令は聞けません、忍お嬢様」

 漂流王が右手を振り下ろした。雷球がノエルに向かって襲い掛かる。まるで雷が落ちたかのような衝撃と破裂音。そのあまりの爆風に忍も吹き飛ばされた。激しく地面に何度も打ち付けられる。
 百を超える雷球は容赦なく降り注ぐ。全ての雷球が降り注いだ後に残されたのは巨大なクレーターの底で倒れ付すノエルの姿。体中の所々の皮膚が裂け、機械の部分が露出していた。

「……頑丈すぎる。あれをくらって原型を保っていられるなんて、百鬼夜行以来だよ」

 呆れたような漂流王をさらに呆れさせるように、ノエルは上半身を起こす。まともに動く箇所など碌に残っていないだろうに、ノエルはゆっくりと立ち上がった。

「私は、忍お嬢様を、護るために生まれてきました……その忍お嬢様に笑顔を取り戻してくれた、恭也様のために、貴方を倒します」
「ノエ……ル……」

 途切れ途切れのノエルの声。それでもノエルはぼろぼろになり刃こぼれをしたブレードをかざす。そんなノエルを地面に倒れている忍が見上げる。
 見る影もないノエルの姿。だが、その姿は誇り高かった。ただの自動人形が、確かに意思を持って強大な存在に立ち向かう。

「最新最高は伊達じゃなかったよ。これほど見事な自動人形は今まで見たことがない……これからもね」

 ブンと新たに作り出した鎌を振るう。真紅の瞳を輝かせ、漂流王は疾走した。ノエルに向かって。ノエルはブレードを構えるが反応できただけ。それだけだ。

「さようならだ」

 振り下ろした鎌がノエルを斬り裂こうとした瞬間。鎌は耳障りな衝突音とともに不可視の障壁に弾かれた。それに驚く漂流王。無論、ノエルと忍もだ。

「残念ですが、その辺りで終わりにしておきましょうね?漂流王」

 ソプラノの声。そして、死神の声。

「―――何故邪魔をする!!天眼!!」

 吐き捨てるように、漂流王が叫んだ。突然出現した気配に振り返る。視線の先、木々の影からふらりと天眼は笑顔を絶やさず歩み寄ってきた。
 相変わらずおぞましいほどの笑顔。漂流王が吐き気をするような悪寒を漂わせるバケモノが嗤っている。

「ただの夜の一族の少女と自動人形一体で何を本気になっているのですか?頂点の一人ともあろう存在が情けないですよ?」
「……ただの、じゃないよ。こいつらは間違いなく進化する。いずれ僕達に匹敵する存在になるだろうって予感がするんだよ」
「それはそれでいいじゃないですか?強い同族が増えるのは望ましいことですよ。それに貴方が心配していることは無用だと思いますけど?」
「無用?」

 訝しげに聞き返す。

「貴方は執行者の助けに行きたいようですが少なくとも私の天眼が視た先は、【彼】が勝つ未来でしたよ?貴方が心配することもない。むしろ貴方が参戦したほうが不確定の未来になりそうですけど」 
「それは、本当かい?」
「ええ。私と執行者は随分と長い付き合いです。その私が嘘をつくと思いますか?」
「……信じるよ」
「ええ。だからこの少女と自動人形には態々止めをさすことはないですよ」
「……」
 
 返事をせずに漂流王はふらふらとその場から離れた。執行者の戦いを見守りに。その漂流王を見て厭らしい笑みを浮かべる。

 ―――まったく、素直にもほどがありますね。多少は疑わないのですかね。

 心の中で漂流王にため息をつく。そして何がどうなってるのか分かっていないノエルと忍を見る。何とか間に合ったようでこちらには安堵のため息をつく。
 ここでこの二人が殺されるのは天眼としても都合が悪い。ここまでは計画通りだというのに、ここで躓いたら面倒なことこのうえない。
 貴方達には、もっとも効果的な場面で死んで貰いますからね。
 天眼は嗤う。全てを意のまま操らんと。声もなく嗤い続ける。


























「どうした!!小僧!!達者なのは口先だけか!!」

 宙を駆ける執行者の鋭く重い斬撃を受け流し、弾く。その表情は笑っているような気がした。
 地面に着地した執行者が立て続けざまに。横薙ぎの斬線。それを紙一重で、かわす。
 地面を踏み込み、爆発的な速力で執行者は恭也に迫る。常人ならば気絶しかねない圧迫感をもたらしながら、凶悪な斬撃の嵐を見舞ってくる。

 だが、あたらない。その悉くをかわしてみせる。かわせないと判断したものは刃筋を反らして受け流す。
 当たらないことに業を煮やしたのか、一足飛で間合いに入ると、執行者はその剣を振り上げる。生み出された風圧で恭也の髪が逆立つ。目の前を銀の刃が通過した。
 流れるように続く突き。それを首を傾けるようにかわす。執行者に僅かに隙ができたが恭也は何故か反撃をしなかった。

 たたみ掛けるように剣を振るう執行者。恭也は滑るような足取りで後退する。執行者の斬撃は、緻密に連携を繰り返し、恭也を圧倒して反撃を許さない。反撃しないのではなくできないのだろうか。

 その斬撃の速さ、常人では視認することさえできはしまい。息をつく間もない、連撃の嵐。
 それも届かない。まさに二刀の小太刀による鉄壁の防御。
 その鉄壁の防御を崩さんと振り下ろされた一撃。宵闇を銀光が切り裂いた。耳障りな音をたてて、その一撃も防がれる。両の小太刀を崩すことはできなかった。

 そこで、執行者は大きく飛びさがった。その場で構えたまま、恭也は追う事もしない。呼吸に乱れはない。
 戦い始めてからおよそ二分。上回っていたのは誰が見ても執行者。当然だ。夜の一族の頂点とただの人間。誰がどう見ても勝敗がどうなるかは火を見るよりも明らか。ましてや二分の間、攻撃を避けるか防ぐかしか恭也はしていないのだ。まるで何かを確かめるように。

「解せんな。何故貴様は攻勢にでない。五分でケリをつけるといったのは貴様だぞ」   
「……確かめたいことがあった。ただそれだけだ」
「ほぅ。それは確認できたのか?」
「ああ。もう十分だ」

 面白そうに目を細める執行者。それに頷くのは恭也。

「何を確認していたのか教えてもらえるのか?」
「勿論だ。俺が知りたかったのは、お前の底だ」

 ぴくりと執行者が反応する。無言の圧力が続きを語れと物語っていた。

「お前の剣の底にあるもの。それがはっきりと分かったよ。俺に対する恐怖だ。いや、正確にいうならば……水無月殺音を倒した俺への、か」
「……馬鹿馬鹿しい」

 恭也の言葉を一蹴する。

「ずっと不思議だった。何故お前と漂流王の二人でこの日本に来たのか。確かにお前達は行動を供にすることがある。だが、それはあくまで執行者、お前が一人では厄介だと判断したときに限られていた筈だ。百鬼夜行。人形遣い。そういった外れすぎたバケモノ共と戦うときだけだろう。つまり……」

 恭也の冷めた視線が執行者を射抜く。対する執行者は無言だ。

「お前は水無月殺音と戦って確実に勝てる自信がなかったということだ!!」
「……」
「何故、お前は漂流王を連れてきた!?何故、お前は傷ついた殺音を狙った!?はっきりと言ってやる……お前は水無月殺音を恐れていたのだろう!!」
「―――く」

 恭也の指摘に―――執行者はふぅと深いため息を吐いた。
 屈辱ともいうべきことを指摘されたというのに、執行者は反論するのでもなく、静かに首をふる。

「―――僅かな情報のみで、よくぞそこまで辿り着いたものだ」

 そして、認めた。
 仮にも第三世界の王の一人が、死刑執行者ともあろう存在が、水無月殺音に恐怖という感情を抱いていたということを。

「ああ、そうだ。認めよう―――認めてやろう。貴様の言うとおりだ」

 遠い視線で、夜空を見上げる。
 どこか透明な雰囲気を漂わせ―――それを振り払うように剣を横に振る。
 風を引き裂く音をたてた。

「貴様の予想通り、俺はあの女を恐れていた、十数年前に遠目で一度だけ見たあの女を。貴様もあの女と戦ったのなら分かるんじゃないのか?アレは、夜の一族の中でさえ―――飛び抜けすぎた、人外を超えた超越種だ。」 
 
 水無月殺音を、執行者は超越種と称した。
 それには肯定するしかあるまい。あそこまで外れた人外を恭也は初めて見た。
 三年前の化け物でさえも―――水無月殺音と比べれば赤子のようなものだ。

「俺が数百年かけて手に入れたこの力に―――たかが数十年生きたあの女は確かに匹敵していた。貴様に分かるか?数百年の果てに辿り着いた領域に、苦もなく踏み込まれていた俺の恐怖が?」
「……」
「それでも、俺は死刑を執行する者。頂点に座する者。第三世界の最後の砦―――百鬼夜行だけならばまだしも、俺が勝てぬであろうバケモノが存在するということは許されない」

 透明な雰囲気が急激に静まっていく。そして―――。
 殺意が巻き起こる。深い深い闇が執行者から垣間見えた。

「―――【死刑執行者】という恐怖の剣があるからこそ、第三世界の魑魅魍魎どもは、人の世に手を出すことはない。その俺が一介の夜の一族に勝てないなど、あってはならない。第二第三の百鬼夜行が生み出されるということは―――世界の天秤が崩れ去る」  

 執行者の殺意が、殺気が収束していく。ぎりぎりにまで圧縮された、その闇なる闘気は荒れ狂わんばかりに恭也に向かっていた。

「貴様は―――まるで水無月殺音を、いや百鬼夜行を見ているかのようだ。戦いに喜びを求めるバケモノめ。貴様も、水無月殺音と同様に第二の百鬼夜行と成り得る存在だ!!」
「例えそうであったとしても―――必ずそうなるときまっているわけではあるまい」
「お前はわかっていない。第三世界と人の世界。どれだけ危ういバランスで成り立っているのか理解できていないのだ。予言してもいい。貴様は必ず―――世界に終焉を齎す災厄の剣となる」
「―――平行線、だな。お前が俺を理解できないように―――俺もお前を理解できない」

 執行者の返事は地面を抉る音。先ほどまでとは違う。純粋なほどに恭也に向けられる殺意とともに、剣の王者は剣を振り下ろした。
 それを横に飛んでかわす。今までのようなミリ単位の見切りができない。執行者の殺意が見切りの感覚を押しつぶすように降り注ぐ。
 地面の土が弾け飛ぶ。本能を剥き出しに、執行者は恭也を追撃する。夜の一族らしく、その咆哮は苛烈。魂を震いあがらせる圧倒的な殺意奔流。

 空を打つのは殺意の刃。跪きたくなるような重圧を背に、恭也に肉薄。喉元へ、射殺さんとばかりに強烈な突きを見舞う。
 しかし、恭也はこれを首の脇へと流しつつ、小太刀で剣を弾きあげる。体勢を崩した執行者にもう片方の小太刀で横薙ぎ。あっさりと決着がつくかのように思われた攻防。
 だが、次の瞬間には執行者の姿が掻き消えていた。あまりに理不尽なほどの速度。これが本気になった執行者か、と驚きを隠せない。
 背後に回り込んだ執行者がお返しといわんばかりに横薙ぎ。転がるように逃れた恭也を執行者が追いすがる。
 追撃に放たれた刃を横に受け流す。耳障りな刃鳴りが響きわたった。

「ぉぉぉぉおおおおおおおおおお!!」

 吼えた声とともに繰り出された前蹴り。後ろに跳躍してかわそうとする恭也だったが、僅かに遅い。内臓がとびでそうになるような衝撃。勢いよく後方に広がる森林に叩き込まれる。
 執行者の足に残るのは軽い感触。自分から後ろにとんでいたのだ。それほどの威力があったとは思えない。ましてやあの恭也をこれだけでしとめれるはずがない。
 その考えを肯定するかのように闇のなか煌いて飛んでくる飛針。それを弾き落とす執行者。
 そして飛び出してくる黒い弾丸。人とは思えぬ速度で迫った恭也が下から切り上げる。それを弾く。続けざまの横薙ぎ。それも弾き落とす。金属音が高鳴り、二人して同時に後方に跳躍。

 ぼろぼろになった服を恭也は舌打ち。邪魔になると判断して破り捨てた。あらわになる恭也の傷だらけの上半身。その傷に驚いたのか執行者が目を大きく見開き固まった。
 いや、それだけではない。それだけで執行者が驚くはずがない。本当の理由は簡単な話だった。恭也の右肩にあった痣を見て、執行者は固まったのだ。
 恭也がそのことにきづいたのは執行者の様子に気づいてすぐだった。だが、今更隠す必要はないと判断する。
 固まっていたのは数秒。執行者はようやく納得したという面持ちで、哂った。

「くっく……くははははははははは!!そうか!!そういうことか!!」

 十界位とは夜の一族の頂点。王の中の王。

「道理で、外れているわけだ、貴様は!!」

 その王の中で歴代最【強】と称されたのは第五位の百鬼夜行。誰もが認め、恐れる、史上最強の超生物。 

「そしてようやく分かった。何故夜王が、俺達に話さなかったのかもな!!」

 そして、歴代最【狂】と称されたのが【前】第九位の人形遣い。己の実験のために数多の人の町を、夜の一族を壊し続けた生粋の狂人。

「認められるわけがない!!信じられるわけがない!!人がその域に達するなど!!人があの人形遣いを滅ぼすなど!!」

 その人形遣いを打倒した存在がいた。三年前にこの日本の地で。その戦いを見届けたのは三人の王達。

「貴様が、貴様が、貴様が……!!!」

 執行者の変わりに人形遣いの討伐に出た夜王。天眼。魔女。その三人の王は言った。今はまだ新たな頂点の一人のことは話せないと。ただ、名前だけは告げておくと。その名前は……。

「貴様が【クロ】か!!!!!!!!!!!」

 恭也の肩に刻まれたⅨの烙印。血の様に赤い真紅の数字。それは証。夜の一族の王に選ばれた者の。頂点を降した者。最狂を凌駕した者。人の身で、人形遣いを滅ぼした剣士。第九位のクロがそこにいた。



























 死体死体死体死体死体死体死体死体死体。
 見回す限りが人間達の死体の山。鮮血が赤い湖を作り上げていた。執行者の鼻につくのは腐臭と臓物と、血の臭い。
 ある者は、頭を割られ。ある者は、身体を両断され。ある者は、四肢を切断され。ある者は、燃やし焦がされ黒炭に。
 そこにはこの世の地獄が形成されていた。その地獄で生があるのはたった二人。夜の一族の頂点である死刑執行者と漂流王。その二人が死体の山の中心にいた。

 息を激しく乱す執行者と、その背後を護るように地面に鎌を刺し、それにもたれかかるように深呼吸を繰り返している漂流王。
 二人の間に会話はない。会話をする暇があったら少しでも呼吸を取り戻そうとしていた。
 一分。それだけの時間で呼吸を取り戻すと、二人は無言で目的の場所まで疾走する。禍々しい気配は、相変わらず二人を待ってるように動いていない。逆に誘っているのだ。
 レンガ造りの道路を蹴る。周囲の風に乗って感じ取れるのは明らかな死臭。数多の戦場を駆け抜けた二人でさえ、吐き気をもよおす邪悪な臭い。
 走り続けた二人が一際広い広場にでた。眼前に広がるのはまさに生き地獄。常人がみたら発狂しかねないこの世の地獄。

 うつろな、一体どこを見ているのか分からない虚無のような目つきをした、数百にも及ぶ人間達。何か一つ、切欠があれば雪崩のように執行者達に襲い掛かってくるであろう光景であった。
 その人間達に囲まれて、幾十も人の壁に張られた防御壁の最後方にソレはいた。
 遥かなる深海に生息している魚のように、凍えるような気配を漂わせその人間達を従えた死者の女王が優雅に立っている。
 短い金の髪が風に揺れる。金の瞳。歳の頃は三十に届くかどうかの美しいというより妖艶ともいえる雰囲気を醸し出している女性。丈の長い白衣と眼鏡をその身に纏い、興味のない瞳で執行者達を見ていた。まるで玩具にあきた子供のような瞳。

「また、お前か執行者。ご苦労なことだ、こんな東欧の辺境にまでくるとは」 
「人形遣い!!お前一体何時までこんなことを続ける気だ……」

 そのどこまでも冷たい声に対して、執行者が怒りに満ちた雄たけびをあげる。

「何時までか……何時までなのだろうな、執行者。私も分からんよ。何時私の実験が完成するのか」
「実験……実験だと!?幾千幾万もの人の命を弄ぶことが、実験だとほざくのか!!」
「進化の過程には常に犠牲はつきものだ。私の実験のための尊い犠牲になったのだ……この人間達は喜んでいることだろう」
「もう、やめろ。やめるんだ、人形遣い。時代は変わったんだ……これ以上人の世界に手を出すな。俺達は時代の裏でしか生きられんのだ!!」
「時代の裏か。笑わせるな、執行者。何時からお前はそんなお利口になったんだ。十界位とは呪怪異。闇とともに現れて、現象のように人を殺す。それが私達だ。私はそれに従っているにすぎん。夜の一族らしくな」

「……やはり、話し合いも無駄か。お前とは長い付き合いだ。何度説得できればと思ったが……」
「くっく……説得か。随分とお優しい事だ。それとも何か、かつて愛し合った女を斬るのは偲びないのか」
「……俺は死刑を執行する者。例え誰であろうと、人の世を荒らすというならば、斬って捨てる!!」

 人形遣いの小馬鹿にしたような言葉に、執行者の殺意が熱い篝火の如く、触れた者を焼け焦がように燃え上がる。その殺意に晒されても人形遣いは怯まない。そして、その臣下の死者たちも。
 二人の会話が止まったのを合図に、漂流王が空中に描いた五芒星から爆炎が巻き起こる。十数の人間達が灰と化す。それが戦いの火蓋となった。
 津波のように押し寄せる狂気の軍団。一体一体の強さはそれほどでもない。それでも数とはそれだけで暴力に成りえるのだ。
 休む間も与えず、人間達は執行者と漂流王を喰らい尽くそうと襲い掛かる。その場で執行者が剣で斬り裂き、漂流王が薙ぎ払う。
 負けるわけではない。だが、その場から進むこともできない。人形遣いの元へと一歩たりとも近づけない。自分達の王へと一歩たりとも近づけまいと、兵士の如く群がり続ける。 
 そんな二人の様子を鼻で笑うと人形遣いはその地獄絵図から踵を返す。

「逃げる気、か!!」

 執行者の声が飛ぶ。それに足を僅かに止める。

「そうさせて貰う。完全なる私の領域なら兎も角、こんな辺境の町の人間達だけではお前達は殺せまい。まして、お前とまともにやりあえば私は勝てん。今は、まだな」

 襲い来る人間を一刀の下に両断する。おぞましい肉の壁の先、人形遣いは去っていく。前方に広がる死者の群れが減る様子は一向にない。
 懐からだした煙草を咥えると、パチンと指を鳴らす。火が燃え上がり、煙草に火がついた。それを冷たい表情のまま吸う。ふぅと煙を吐き出すと地面に落とし、踏みにじる。

「いずれ万の死者を支配下に置き……完全たる生命体の百鬼夜行を滅ぼし……そして私が神となる。夜の一族のな」
「人形遣いぃいいいいいいいいいいい!!!!」

 追いかけることもできず、執行者はその怒りを乗せて数人の人間を斬り、弾き飛ばす。視界から消えていく人形遣い。
 
 ―――必ず殺す。せめて俺の手で。それがお前を愛した俺の最後の情だ。 

 言葉にしない、心の声。執行者はそう決意を固めた。だが、それが執行者と人形遣いが持つ長い因縁の最後となった。二人は二度と再会することはなかったのだ。
 その後、日本に渡った人形遣いは、誰とも知られぬ一人の剣士に滅ぼされたのだから。




















「はーーーーーーーーーははっはっはっはっはっは!!」

 哂う。執行者は哂い続ける。狂気をのせて。闇夜に木霊する嘲笑。阿呆のように、大口を開けて嘲笑をし続ける。
 狂笑が耳をつんざく中、ミシリと何かが変質する音が聞こえた。目を凝らせばゆらりと執行者の周囲を取り巻く漆黒の炎が見える錯覚を見えた。
 凶悪な威圧感が、全身から発せられる。燃え盛るような、漆黒の殺気。

 恭也の本能が危険をひしひしと、焼け付くように感じ取る。今までの執行者とは別人のような圧迫感だ。
 恭也は執行者が殺音を恐れているのだと言った。それは間違いなく事実だ。事実なのだが……。
 
 実際の所、執行者と殺音が戦えば五分五分。殺音が獣人化すれば殺音に軍配があがるという判断をもっていたのだが、それが覆りつつあった。
 執行者の放つ圧力が増大していく。自然と鳥肌がたった。喉が渇く。びりびりとした嫌な空気が肌をうつ。

 本能がニゲロと言い放つ。勘がニゲロと言い放つ。ただ、心だけが退くなと叱咤する。
 冥の死を無駄にするのか、と。忍の命を賭けた戦いを無駄にするのか、と。
 嘲笑が止んだ。どろりとした粘つくような、殺意が輝く。ミシリと再び風に乗って、ナニカの音が聞こえる。

「強きヒトよ―――貴様に敬意を表す。我が真なる力、とくと見よ!!」 

 執行者の宣言。何かが弾ける。理性なのか、限界なのか。本人さえもよくわからないナニカ。それは、夜の一族としての、生物としての枷を外した瞬間であった。
 殺す。目の前の男を。己の全てを持って。夜の一族の本能よ!!俺の全てを喰らい、血肉となりて、目覚めろ。
 自分自身に対する狂乱の信仰。それは、夜の一族という殻を食い破り、生まれ出でる超生命の産声。
 周囲を満たす、闇が、血が、肉が、怨念が、殺意が、殺気が執行者に収束していく。

「っ……!!!!」

 想像を遥かに超えた、悪寒。
 国守山に生息していた鳥が、動物が、虫が、恐怖に戦き、逃げ去っていく。周囲の生物が一切居なくなっていく。変質した、執行者の姿を見て、恭也は絶句した。絶句するしかなかった。
 恭也の目の前には、神話や伝承でしか語られないような……恭也のイメージそのままに、ワーウルフと呼ばれる存在が、ギラギラとした殺意の目を輝かせ立ちはだかったのだ。 

 形は確かにヒトに近いのだろう。二本の腕と二本の足。頭部はどうみても狼のそれである。全身はびっしりと銀色の体毛に覆われている。その体長は巨大。恭也の背をゆうに超えている。三メートル近い。
 小さい子供なら一飲みにできそうなその口からは太く、長い牙がいくつも覗いている。真紅の瞳だけは爛々と輝いていた。
 殺意だけははっきりと見て取れる眼差しが恭也を睥睨する。濁ったその瞳で射抜かれただけで、背筋が凍る。

「強きヒトよ。貴様の名を聞かせてくれないか」

 耳を通じて、脳髄に直接響くその声は、それだけで屈服したくなるような圧迫感を秘めていた。

「不破、恭也だ」
「フワか。貴様は強い。信じられんほどにな。他の十人と比べても、純粋な戦闘能力だけでいうならば、貴様は群を抜いている」

 しゃがれたような声の奥、そこには確かに恭也に対しての賞賛が存在した。

「だからこそ、惜しい。もう少しだけ、俺と争うのが遅かったならば、貴様の力は俺の上をいっていただろう。ヒトの身で―――よくぞそこまで練り上げた」

 ズンと、一歩足を恭也に向かってすすめる。その一歩は、退きたくなる恐怖を漂わせている。

「お前は俺が水無月殺音を恐れていると言ったな?その通りだ、だがな……戦ったとしても【確実】には勝てない、というだけだ。第三世界と人の世を守護する砦たるこの俺は、確実に勝たねばならんのだ。だからこそ俺は漂流王を連れてきた―――この状態の俺の力は、【まだ】あの女の上をいっている。それを証明してやろう!!」

 怨念のようなどす黒い気配を身に纏い、執行者が飛翔した。否、地面を蹴って恭也に襲い掛かったそれが、まさに飛翔という言葉に相応しい動きであった。 
 上空から巨体とともに振り下ろされる右腕。力任せに、その右腕は叩きつぶさんと、恭也を狙っている。

 ―――シヌ。

「ぉぉおおおおおおおおおお!!」

 頭に響く直感。両手両足を縛り付けている黒い殺意をひきちぎるように、恭也は雄たけびをあげながら真横に跳躍した。コンマの差で降り注いだ右拳。
 何かが激しくぶつかり合う音。砂埃が舞う。地面には小さいがクレーターが出来ていた。
 その砂埃の中から獣のように飛び出してくる銀色の巨狼。死を招く左手が大振りな一撃となって円を描くように恭也に迫る。その左手の先には爪が薄く光っていた。

 上体を下げることによってその左手の爪をかわす。その爪は恭也の背後にあった木の幹を軽々と叩き切る。ずれるようにその木は横倒しに倒れていく。
 地面を蹴る。前方へと飛び出した恭也がすれ違いざまに執行者の腹部を斬り裂いた。だが、感じるのは不思議な手ごたえ。銀の体毛が想像以上に小太刀から執行者を護っているのだ。
 斬ることができたのはほんの皮一枚。どうみても致命傷には程遠い傷跡。恭也を追うようにして振るわれる右腕。必死になってそれをかわすが、恭也の身体を吹き飛ばすように巻き起こる暴風。

 その暴風を追うように執行者が凄まじい勢いで突進してくる。聞くものの魂を打ち砕くような咆哮をあげ、執行者は恭也に向かって一直線に距離を詰める。
 恭也の顔を狙って放たれた拳。視界から霞むかのような速度。命をすり減らすような思いで、後方に跳躍。執行者が追撃をかけるよりもはやく、飛針を投げつける。狙いは頭部。
 飛針が執行者に突き刺さった。そう見えた瞬間、バキィと耳障りな音をたてて砕け散る飛針。
 恭也の視線の先、執行者を貫く筈だった飛針が砕け舞う。執行者の牙が飛針を噛み砕いたのだ。割れた飛針を吐き捨て、四肢をバネのように弾かせ、飛び掛る。

 まさに狼の如く、獲物を喰らいつくそうと、純粋な殺意とともに襲い来るその姿。恭也の想像を超えて、執行者は強かった。
 これが伝説の王の一人 夜の一族の頂点。百鬼夜行に次ぐといわれるバケモノ。その伝説の通りの強さに偽りはない。
 舌打ちをしながら、執行者の振り下ろされた腕を避けつつ、その腕を切り払う。だが、やはり浅い。

 ただの人間ならば易々とその腕を斬りおとせれただろう。だが、獣人化した執行者の硬質化した筋肉とその筋肉を覆う銀毛は、ただ硬かった。
 しかし、硬いといっても限度があるのを確認できた。逃げ腰になりつつの斬撃ではたかが知れている。致命傷を与えることは出来ないだろうということを手ごたえがはっきりと教えてくれている。

 つまりそれは……当たれば即死。かすっただけでも致命傷と成り得る執行者の超暴力が荒れ狂う近距離で、応酬せねばならないということ。
 仮に近距離で恭也の斬撃を何発、或いは何十発あたえれば執行者の致命傷となるのかはっきりと分からない中で、執行者は一撃でも恭也に攻撃があたればいい。あまりにも理不尽な戦いだ。
 実力がはっきりと離れていればいい。だが今の執行者の実力は、彼が叫んだ通り殺音の実力をほんの僅かにだが、凌駕していた。それを肌で感じる。
 恭也の思考を中断させるように、執行者が疾走する。その速さ、今までをさらに超えていた。恭也でさえも、かすかにしか視認できないほどだ。
 執行者が手を振り下ろすよりも早く、恭也は回避行動をとった。その恭也の眼前を鋭利な爪が通過する。だが。

「っ……」

 額に一筋の熱い痛み。そして、パッと視界に舞い散る鮮血。まさにミリ単位で避けるのが遅れた恭也の額を執行者の爪が抉っていた。
 ズキンと痛む頭部。意識を鋭く、痛みの感覚を外す。ようやく出血をさせたとばかりにニィと哂った執行者を尻目に、恭也の二刀の小太刀が執行者の腕を両横から斬る。手に伝わる感覚。それでもまだ両断には至らない。 
 その斬撃を気にも留めないように執行者は恭也を砕かんと拳を下から突き上げるように振り上げた。
 恭也にはその拳を目で追うことはできなかった。相手の全身の動きからタイミングを測ったようにして、間合いを取る。

 轟風が目の前を通り過ぎる。それに合わせるように、爆発的な力を蹴り足にこめ、間合いを零へと。執行者に密着する。狙いは心臓。
 恭也の鋭い突きが容赦なく執行者の胸を貫く。伝わってきたのは肉を貫く感触。だが、まだ浅い。
 執行者の攻撃が届くよりも速く、恭也が間合いから脱出する。ぽたりと小太刀を伝って地面に滴り落ちる血。
 傷つけられた胸を押さえ、驚いたように傷を抑えた手のひらを見る。血で手のひらが染まっている。胸の周りも少しずつではあるが銀毛が赤く染まりつつある。

「くっく……一体貴様はどこまで外れれば気が済むというのだ。四度も斬りつけられるとはな……見事というしかあるまい」
「……」

 対する恭也は無言。乱れている呼吸を相手に気づかれたくなかった。何度も死ぬ気になって、ようやく四度斬りつけることができた。吐き気がする。
 凄まじいほどの重圧。威圧感。恐怖感。コンマ一秒遅れれば死ぬという世界での応酬。心臓が痛い。両手両足が重い。
 殺音と同じだ。長期戦にもちこまれたら間違いなく、負ける。ならばどうすればいいのか。決まっている。短期戦しかない。
 幸いなことに、ぎりぎりとはいえ準備は出来たのだ。

 その瞬間、ピシリと空気が一瞬で緊張した。
 恭也が小太刀を二刀、鞘におさめ、構えるでもなく立っていた。無形の位。
 空気が変わったのに気づいた執行者の視線が細くなる。その視線は恭也を貫く。

「執行者。次の一撃で決着をつける」
「……いいだろう。それも面白い」

 ミシリと筋肉が膨張する音が聞こえた。執行者が手を握り締める。あの一撃を喰らったら確実に死ぬ。不吉な気配が拳を包む。

「ただ、全力でこい。これは、水無月殺音を打倒した技だ」

 殺音の名前をだした途端、さらに空気が緊張した。熱く燃えるような烈火の殺気が周囲に満ちる。
 その殺気が恭也に届くことはない。恭也の周囲が円形の如く領域ができていた。それはまさに剣の結界。
 執行者はおもわず汗で湿った己の銀毛で覆われた手を信じられないように見た。緊張していたのだ。恭也の無形の位を見て、あろうことか執行者が。完全なる戦闘体型となった、夜の一族の王が、たかが人間相手に踏み込めないでいた。

 斬りつけられた四箇所が僅かにだが痛む。どれもこれも致命傷ではない。数時間もすれば完治するであろう怪我だ。
 全力をだした自分に傷をつけれた相手などどれくらいぶりだろうか。目の前の人間は、こんなときでもない限り尊敬に値する男だったのだろう。別の出会い方をしていればもしかしたら友になれたかもしれない。

 そんなもしもの可能性を思い描いた執行者は薄く笑った。何もかもが遅いのだ。目の前の人間の大切な相手を殺してしまった。それはもう取り返しようがない。
 だからといって黙って殺されるわけにもいかない。そして、自分が死ぬということは数多の悲劇をこれから先の未来にうむことになるのだ。
 人の世に第三世界の魑魅魍魎が手を出さない理由。それは死刑執行者という存在がいるからだ。手を出したならば、殺される。その恐怖が、最後の砦となっている。
 
 ―――もしここで、俺が負けたとすれば……いいや、そんなことを考えても意味がない。

 何故ならば、この戦いは俺が勝つからだ。
 さらに膨れ上がる重圧。両足の筋肉をぎりぎりにまで膨張させ、弾けた。音が後からついてくる、超速度。
 地面を二蹴り、飛び込みざまに、風をまいて恭也の脳天に降り注いだ全力全速の破壊の一撃。
 己の拳が、相手の頭蓋を無残に叩き割る光景を予見した執行者は薄く笑った。それに対応するかのように、刀の化身が動いた。

 僅か一秒にも満たない時間。死ぬかも知れないという、緊張。それが完全に醒めきっていく。目の前に立つ相手を、ただ斬るために。殺すために。心と身体が小太刀と一体となる。 
 世界が凍る。時間が凍る。この世に住まう全ての存在の動きが凍る。
 破神と呼ばれる御神の奥義。神速と呼ばれし、人間を時間外領域へと導く人外の技。
 だが、違う。コレは神速ではない。その【程度】のものではないのだ、コレは。
 視界は確かに一瞬だがモノクロに染まった。それは神速の域に侵入したから。だが今は違う。モノクロの世界は確かに光に包まれ、色を持っていた。

 視認することが困難な超速度の執行者の動きさえ、スローモーションのように見える。世界の空気はただ……痛いように静寂が包む。
 神速を超えた神速。絶対たる空間の支配。時をも操る領域。御神の一族において【御神】しか到達できていないと伝承される世界。

 【神域】と【御神】が呼んだ領域。その領域に恭也はいた。
 振り下ろされる右腕。それよりも速く、抜刀された二刀の小太刀。電流が通るかのように、刹那をもって静から動へと転じる。
 一撃目でその右腕の傷ついた箇所を斬りつけた。二撃目で左腕の傷ついた箇所を斬り裂いた。三撃目で傷ついた腹部を叩き斬った。四撃目で執行者の……胸を貫いた。
 パチンと、音がなった。貫いたと同時に世界は本来の時間を取り戻す。

 心臓を貫かれた執行者は呆然と恭也を見ていた。信じられないように、何故恭也の小太刀が己を貫いているのかと。半ばから両断された両腕を、地面に転がっている己の手を 見る。
 そしてようやく理解した。
 己が負けたのだと。

「くっ……見事、だ」

 激痛に声が震える。狼のようなその顔からは表情などわからない。それでも、何故か笑っているような気がした。
 ずるりと、小太刀を身体から引き抜くように、後方へとゆっくりとさがる。ふらふらと頼りない。
 ぼたぼたと地面を大量の血液がぬらしていく。瞬く間に血の海ができあがった。

「うそだ、うそだうそだうそだ!!!!!」

 狂乱の声があがった。漂流王が理解できないように、悲壮な顔で執行者に抱きついた。それだけでふらりと執行者の身体が揺らいだ。

「なんでなんでなんで!!お前が負けるんだよ!?なんでなんで!!どうして!!」
「あの、人間が、俺よりも、強かった……それだけだ」
「違う違うよ、執行者!!今夜が満月だったら……満月でさえあったならお前は負けなかった!!お前は強いんだ!!誰よりも!!」

 発狂したかのようにすがりつく漂流王。そんな泣きじゃくる漂流王を宥めようと、頭を撫でようとして、すでに撫でる手が無いことに気づいた。笑うしかない。
 執行者が空を見上げる。なるほど確かに半月だ。人狼である執行者の力は月齢で大きく変化する。満月のときの執行者の力は確かに絶大だ。

「……満月であったとしても、俺は勝てなかった、だろうな……」
「そんな、ことはない!!」

 自分に対する嘲笑染みた言葉。ゴポリと大量の血を吐き出す。それが漂流王の顔にびちゃりとかかった。鉄の匂いがする。そして、普段己がばら撒いてきた死の香りが執行者から匂いたつ。
 死ぬ、このままでは確実に。如何に夜の一族の回復力でも限界がある。特に心臓を貫かれて生き延びれる筈が無い。
 漂流王の両手が淡い光で輝く。あまり得意とはいえない回復魔術だ。それを執行者にあてようとして、執行者が首を振った。

「もう、いい。もう、手遅れだ。俺は、死ぬ」

「いやだ!!死ぬな!!死なないでよ!!死んじゃいやだよぉ!! 
「あまり執行者を困らせるものではないですよ」

 駄々っ子のように執行者に縋りつく。その時、ビクンと漂流王の身体が震えた。いつの間にか二人に近づいた天眼が漂流王の首に手を当てて魔術を放っていたのだ。天眼の右腕に紫電が迸っている。   
 意識を失った漂流王を肩にかける。荷物を持つように丁寧さのかけらもない。

「すまん、な。迷惑をかける……そいつの、ことを……頼む」
「はいはい。ところで遺言はありますか?」
「そいつが起きたら、伝えてくれ。戦いから身を引き……お前だけでも、平穏にいきてくれ、と……」
「わかりましたよ、執行者。五百年もの間、本当にお疲れ様でした」
「お前に……そういわれるとは、気味が悪いな……」

 ふ、っといつもとは違う優しげな微笑を執行者に残す。それに意外そうに、クフっと笑った執行者はずりずりと身体をひきながら巨大な湖の前まで歩いて行く。
 そして恭也に向かって振り返った。獰猛な笑みを浮かべて。

「これから先、この世界は揺れる……腐っても、俺は第三世界の、砦だったのだからな……」

 ベチャリと再び大量の吐血をする。歩いてきた地面もまるで血の河だ。

「お前を、認めぬ者も、いるだろう……たかが人間と、侮る者もいるだろう……だが……」

 執行者は尊敬の念を恭也に向けた。新たなる王の誕生を祝うかのように。世界の行く末を恭也に託すかのように。

「第三世界の、バケモノどもの誰が認めずとも、この俺は認めよう……ヒトの身で俺と人形遣いを、滅ぼした……剣士よ。これから先、お前が名乗れ、あらゆる……夜の一族を断罪する、死刑執行者の名を!!」 

 ずりずりと後ろに歩いて行く。ポチャンと足が湖につかる。
 一歩一歩。腰までつかり、さらに湖に沈んでいく。流れ出す血が湖を赤く染め上げた。

「―――感謝するぞ、フワ。あいつを、人形遣いを、殺してくれたことを。……強くあれ、ヒトを外れたる剣士よ……」

 最後にそういい残して執行者は湖に完全に沈んでいった。いくつもの血の花弁が咲き開く。執行者の死を悼むかのように。
 それを見送った天眼は、漂流王を抱えたまま恭也に向き直る。突然現れた天眼に、恭也は驚いていない。何時ものことなのだ。

「また会いましたね、少年。実に見事です。自分で視た未来でありながら驚いてますよ。まさかあの死刑執行者を単騎で打ち破るとは」
「できれば、お前とは会いたくないのだがな……」
「またまたつれない事を言わないでください。私みたいな兎は寂しいと死んでしまうのですよ?」

「誰が、兎だ。それにそれはでまかせらしぞ」
「……それは初耳です。いいことを聴きました」

 天眼がパチンと指を鳴らす。周囲に展開しているあらゆる影が天眼の周りに集結する。

「はてさて申し訳ないですが、漂流王は貰っていきますね。執行者にも頼まれたこともありますが、流石に同時に二人の王が降されるのは状況的に危険ですからね」
「……ああ、分かった」

 天眼の言葉に頷くしかなかった。今の恭也は全身が激痛で身動きがほぼとれない状態だ。神域の領域に入るということは、神速を遥かに超える負担を身体にかけるということだ。
 恭也でさえ、一度使ったらまともに身体がいうことをきかなくなる。故に、まさに奥の手。これで決着をつけれなかったら間違いなく恭也が負けていた。

「ああ、そう言えば一つお聞きしたいのですが?」
「何を聞きたい?」
「三年前に貴方が人形遣いを滅ぼした時に供にいた少女……名前はなんでしたか?」
「……」

 沈黙で返す。わざわざおしえることはない。
 ふむと首を捻ると、ぽんと手を叩いた。何かに閃いたようだ。

「ツバサでしたっけ?確かそのような名前でしたが……あの少女には気をつけたほうがいいですよ?」

 お前に気をつけたほうがよっぽどいいというのをぐっと我慢した恭也だったが、次の言葉で思わず我を失いそうになった。

「あの少女、死相が見えてましたよ?」
「な、に!?」

 待て、と叫ぶ暇もなく天眼の周囲の影が包むように展開する。二人を喰らうように漆黒が包むと、次の瞬間、影が消え去ったときにすでに天眼と漂流王の姿は無くなっていた。
 残されたのは恭也だけ。恐ろしいほどの静寂が周囲を満たしていた。先ほどの騒ぎなど夢幻のように。

 ―――死相が、みえるだと?  

 冗談にしてはたちが悪い。そして、そんなことを言うメリットもない。

「……注意を払っておくしかない、な」

 恭也は悲鳴をあげる身体をおして、幾分か離れた場所にいるノエルと忍の元に近づいていく。忍の頬は砂埃で汚れ、服もぼろぼろだ。
 それよりもノエルを見て恭也は眉をしかめた。肌が破れ、機械の部分が露になっている。その痛々しい姿に、恭也はノエルと視線を合わせて深々と頭を下げた。

「すまない、ノエル。無茶をさせた」
「いいえ、恭也様。恭也様のためならば、これくらいの損傷問題ありません」

 そう、儚い笑みでノエルは微笑む。

「本当に有難う。この礼は必ずする」
「期待しています、恭也様」

 忍は未だぽかんとしたような表情で恭也を見つめていた。ひょいっと忍の目の前で手を振ってみる。全く反応がない。首を傾げる。

 そこで、ハッと忍が我を取り戻した。

「ちょ、ちょっと恭也!?うそ!?何、本当に、クロなの!?嘘よね!?」
「黙っていてすまないと思う。だが、事実だ」
「ぇぇええええええええええええええ!!」

 もう驚くしかない。昨年イレインを倒したときにも驚いたものだ。さらに水無月殺音をたおし驚愕し、さらにさらに執行者を打倒した。
 ありえなさ過ぎる。ただの人間が夜の一族の頂点二人を、王の二人を倒すなど。常識の枠外。人間を外れるにも程がありすぎる。
 特に、人形遣い。死者を操る女王。数百、数千、果てには数万の死者を支配下におき、同じ王でありながら王達に反乱を起こした狂人。その最狂とされた人形遣いを滅ぼすなど誰が信じられるか。

「はぁ……」

 ため息しか出ない。まさに規格外。流石は私と血の盟約を交わしたヒト。
 私と恭也は会うべくして会った。偶然ではない。これはもう、運命なのだ。

「恭也~疲れてて歩けないの。おぶって~」

 熱っぽくなる身体を無理矢理、押さえ込み、若干蒸気したように頬は赤いが、恭也にもたれかかるように抱きついて……二人して盛大にすっころんだ。
 ゴチンと恭也と忍の頭があたる。実に見事なへっどばっとだ。

「す、すまん忍……俺も身体の自由がきかんのだ」
「え、えええ!?ノエルも動けないし、どうやって帰るのよー!!」

 動かない身体で空を見上げる。綺麗な半月を見ながら、忍の声を聞き、ようやく戦いは終わったのだと恭也は実感した。

 ―――冥、仇は取ったぞ。

 そう心のなかで夜の一族の少女に告げる。首を傾け、視界の先で横たわっている冥を見て、悲しみにつぶされそうな心を押さえつけるように、目を瞑った。





























        -----------エピローグ---------------  

  

  











 執行者達との死闘から数日がたち、恭也はだいぶマシになった身体で目的地へと足を向ける。万全とは言い難いが日常生活には問題はない。
 空は気持ちがいいほどの快晴。雲一つない。手に持つ花がいい香りをさせている。
 これだけ身体を酷使してしまったのは随分と久しい。フィリスにどれだけ絞られることだろう。今から考えても憂鬱な気分になる。
 ため息の一つでもつきたくなるものだが、幸せが逃げてもらっても困る。我慢しておかねば。

 目的の場所は、藤見台。海鳴と風芽丘を見下ろす小高い丘。墓地があり、父である士郎が眠っている場所だ。
 一応墓参りは欠かさないようにしてはいるが、今回は士郎の墓参りではない。
 士郎の墓から少し離れた場所。新しい墓石。そこに刻まれている名前は【水無月冥】。
 墓に花を供えると恭也は目を瞑る。

「こんな場所にお前を葬ることになってすまんな。できればお前の故郷に埋めたかったんだが、何せ場所がわからん」

 膝を地面につき、視線を墓石と同じ高さにあわせる。

「それと殺音もお前と一緒に埋めようとしたんだがな……忍の情報網を駆使したが結局見つからなかった」

 一ヶ月前に北斗が居た周辺だろうとあたりをつけて探して貰ったが、まったく発見できなかった。まだ数日しかたっていないので見つかっていないだけかもしれないのだが。

「何時か見つけたらお前と一緒に埋めよう。一人では寂しかろう?」

 返事がないことはわかっているが、語りかけずにはいられなかった。己の弱さ故に死なせてしまった女性。

「いつか、そちらに俺が行ったとき、たっぷり語り合えるように土産話を用意しておく」

 ピリリと携帯の着信音がなった。正確にはメールの音だが。未だ使い慣れていない携帯をあける。届いていたメールの送り主は天守翼と。
 メールを開いてみる。内容は短いが、食事の誘いであった。美由紀希のことも聞きたいので了解した、とこちらも短く送り返す。
 携帯をしまうと、立ち上がる。

「また、来よう。では、な」

 恭也が背を向け歩き去ろうとする。だが、その時風に乗って聞こえた。幻聴かもしれない。だが、確かに聞こえたのだ。冥の声が。

 ―――ボクのこと、忘れちゃ嫌だからね。

 ズキンと心が痛む。それに足を止めないように、振り返らないようにして恭也は歩みを止めない。

「ああ。お前のことはわすれないぞ、冥」 

























「……こ、ここは……」

 生気のない顔色で目を覚ました漂流王は呻いた。ベッドに寝かされているようで、視線の先には天井が見える。
 全身を気だるい感覚が包み込み、指一本動かすのにも苦労する状態だ。
 ガチャリと扉が開く音が聞こえる。少しずつ顔を横に向けて音のなった方向を見ると、扉を開けて入ってきたのは天眼だ。
 漂流王が目を覚ましているのに気づくとパチンと指を鳴らす。それを合図に漂流王の身体中を封じるような気配が消え去った。それでも、身体を動かすのが辛い。

 苦労して上半身を起こすと天眼と向かい合いように座りなおす。
「……ここ、は?」
「船の上ですよ。綺堂家に手を回して貰いましたからここは安全です。ゆっくりまだ休んでるといいですよ」
「あれから、何日くらい……?」
「丁度丸一日ほどですかね。少々強く魔術を叩き込みすぎたようです。すみません」

 漂流王は天眼に何かを聞きたがりそうに見上げるが、まるでそれを聞くのを怖がるかのように俯く。口を開けようとして、口を閉じる。
 そんなことを一分近く続ける。沈黙が周囲を満たす。

「申し訳ありません。まさか私が視た未来を覆されるとは思ってもいませんでした。恐るべきは、あの剣士の実力ですね」

 天眼が視ることができる未来はあくまで可能性が最も高い道筋。つまり、どんな不確定の要素で覆されるか分からない不安定な代物。
 もっとも大体はその通りになるものだが。しかし、実は天眼が視た先は、【執行者】が【恭也】を倒すビジョンではなかった。
 【恭也】が【執行者】を倒すビジョンであったのだ。ただ単に、天眼は邪魔をされたくなかったので漂流王にそう告げただけなのだ。それを知る術は漂流王には存在しない。 

「彼からの遺言があります」
「っ!?」

 弾かれたように漂流王は顔をあげて天眼を見つめる。両手に力がこもった。

「ただしこれを聞いたら後悔することになるかもしれませんよ?」
「かまわ、ない。聞かせてくれよ、お願いだ」

 コホンと咳払いをする天眼。漂流王の様子に仕方ないか、というようにため息をつく。

「【あの人間は強い。今のお前では歯が立つまい。だが……お前は俺を超える才を持つ。もしも、お前が俺のことを少しでも想っていてくれるなら……】」

 ばっと天眼は後ろを向く。ぞわりと見たものを恐怖させるような邪悪な笑み。自然と湧き出るそれを漂流王に見せないために。

「【何時までかかってもいい、あの人間を殺してくれ】だ、そうです」

 俯き、唇を噛み締める。ぽたりと血が流れた。握りしめる両手からも血が滲む。清楚な純白のシーツに赤い染みを作る。

「僕は、憎い。あいつが、憎い。あの剣士が、憎い。逆恨み、だとはわかっていても……この憎悪は消すことは出来ない……」    
「そうですね。憎しみは連鎖します。貴方があの少年の大切な者を殺したように、少年も貴方の大切な者を殺したのです。貴方はどうしますか?」
「……決まっている、殺すよ。あいつを。あいつのことを世界中の誰が認めたとしても、僕は認めない。あいつだけは必ず殺す。執行者に言われるまでもない」
「そうですか。ならば微力ながら私も協力しましょう。貴方に私の全てを伝えます。貴方はまだ頂点の中では最弱です。ですが、最弱だからこそ、後は高みに登ることだけを意識すればいいのです。強くなりなさい、漂流王」
「強くなるよ、僕は。執行者よりも、お前よりも、そしてあの剣士よりも!!」

 泣いていた。漂流王は涙を流していた。だが、その瞳だけはギラギラと輝いている。恐怖など一片もなく、ただ恭也に対しての果てしない憎悪と復讐心。
 それを背中越しに感じ取った天眼は声もなく哂った。

 ―――種は蒔きました。どこまで貴方はかけあがれるでしょうかね?期待していますよ、漂流王。

 天眼はそう心の中で言い残すと漂流王を部屋に残し、外にでる。
 ゆっくりと海を航海する巨大な船。空は暗雲で覆われている。ぽたぽたと雨が降ってくるのを天眼は全身で感じた。

「【彼女】が目覚めるまでに果たして少年はどこまで高みにのぼれるでしょうかね?楽しみですよ……夜の一族の真の頂点と人間の頂点。どちらがより高みに到達できるのか私に見せてくださいね、少年」  

 
























[30788] 旧作 御神と不破 三章 前編
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/06/07 01:23

























「弓華。たまには昼御飯でも一緒しないかい?」

 丁度ビルから出ようと一階のロビーを歩いていた弓華と呼ばれた女性は、気配もなく背後からそう声をかけてきた同僚である御神美沙斗に一瞬ビクリと反応したが、綺麗な笑みを浮かべて頷く。

「えエ。丁度私も昼御飯ニ行こうと思っていましタ。良かったら行きましょうカ」
「一人で食べるのも少し寂しいからね」

 弓華と美沙斗は連れ立つと、ビルから出る。自動ドアの両脇に立っていた警備員が美沙斗と弓華に敬礼をして送り出した。二人はここでは知らない者がいないほどの女性達であるのだ。
 香港国際警防部隊。実力主義の部隊で、世界最強を欲しいままにする非合法ギリギリの法の守護者。その香港国際警防部隊の隊員である二人。

 弓華はすでに入隊してから数年はたっているのだが、美沙斗はまだ一年もたっていない。だが、すでに美沙斗の警防隊での名前は裏表問わず知れ渡っている。
 それも当然だと弓華は思った。
 
 何故なら、御神美沙斗は―――あまりにも強すぎた。世界中を探してもトップレベルの腕前を持つ隊員ばかりがいる警防隊の中でも美沙斗の戦闘力は明らかに群を抜いているのだから。
 並の隊員では軽くあしらわれ、それなりの自信を持っている弓華でさえもまともにやりあえば勝ち目などみつからない。警防隊の中でまともにやりあえる人間がいるとすればただ一人。

 世界最強の名を冠する警防隊。その副隊長を務める陣内啓吾。裏の世界では死神とも称される男性。間違いなく警防隊最強の戦士。その陣内啓吾ととも互角に戦えるのだ。 
 外見だけ見れば全くそうはみえないんですけどネ、と弓華は横を歩く美沙斗を盗み見るように横目でちらりと見やる。
 絹糸のように美しい、流れるような長い黒髪を後ろで縛っている。肌もきめこまかい。一言で言うならば可憐だとか、可愛いとかそういったことになるだろう。

 ほっそりとした身体をスーツで包んでいるのだが、残念なことにボディラインが華奢な男性と見間違えるほどに起伏がない。本人も実はかなり気にしているらしく、シャワー室で自分の胸を見て何度かため息をついている所を見たことがある。
 これで十七になる娘が一人いるのだから世の中分からない。容姿だけならばまだ二十台前半でも通りそうな若作りだが、実年齢は三十半ばとか聞いて耳を疑った。 
 逆算して考えても十六か、十七で子供を産んだことになる。それに驚いて思わず聞いてしまったこともあったが、少しだけ悲しそうな顔をして昔のことを語ってくれた美沙斗を見て申し訳ないと反省したことがあるのも記憶に新しい。

 そんな美沙斗の故郷ともいえるべき場所が海鳴だと聞き、世間は狭いものだと苦笑してしまった。海鳴という共通の話題もあり、弓華と美沙斗は警防隊で最も親しい同僚になったのだ。
 二人が陽光に当てられながらも道路を並んで歩く。周囲は人混みでごった返しており、活気がある。道路も車が途切れることなく通過している。
 人混みを歩くこと数分、ようやく二人のお気に入りのカフェに到着。腕時計を見ると、デジタルの文字盤は昼食の時間帯をやや離れた数字を表示していた。それなのにカフェの中は人で一杯のようで席は空いていない。
 仕方なく二人はそれぞれ注文をすると外にあるテーブルまで戻り、椅子に腰を下ろす。太陽の光が気持ちいいのでこっちの方がよかったかなと弓華はちょっと得した気分になった。  
 コーヒーとサンドウィッチ。二人ともそれほど食べるほうではないのでこれくらいで丁度いい。味も悪くない。というか美味しいと弓華は思っているが、海鳴で食べる物に比べたらやはり味は一段落ちる。

「……翠屋に皆で行きたいですネ」
「ああ、そうだね。今度休暇がとれたら海鳴に一緒に戻ろうか。良かったら紹介するよ」
「それは嬉しいでス。私の友達も一緒でいいですカ?」
「ふふ。大丈夫だよ。桃子さん……翠屋の店長さんなんだけど賑やかなのが好きだからね。歓迎してくれるはずさ」
「それは楽しみでス」

 サンドウィッチをハムスターのように食む。もぐもぐと頬張る。遠い海鳴のこと想像して、懐かしい思い出にひたる弓華。その想像が、ガラガラと音をたてて砕け散った。平穏な日常が崩れ去る。 
 反射的にその場から飛びのきたくなった弓華だったが、まるで神経が繋がっていないかのように両足が動かない。呼吸が苦しい。

 一体何が起きたのか弓華は分からなかったが、一拍を置いて、ようやく分かった。弓華のすぐ横、丸テーブルの周囲に置かれた椅子は四個。そのうち弓華と美沙斗が一つずつ。あいているはずの椅子は後二個あったはずだ。だが、あいている椅子は残り一個。つまり、何時の間にか、弓華が気づかない間に見知らぬ男性が椅子に座っていたのだ。
 美沙斗に似た黒い髪。長さは美沙斗と同じくらいだろうか。歳はいまいち判断するのが難しい。三十過ぎにもみえるし、二十台にも見える。ただ、瞳だけはぎらぎらとしている。そして、男性の放つ雰囲気はあまりにも禍々しかった。
 何故座るのに気づかなかったのだろうか、と自問自答してしまうほど禍々しいオーラ。気の弱い者ならばそれだけで呼吸を止めてしまうのではないかと思えるほどの恐怖があった。

 ―――この人ハ!!

 弓華は幼い頃から非合法組織の暗殺者として訓練を受けてきた過去がある。数年前に海鳴で出会った多くの友の手によって足を洗うことができ、今では香港国際警防部隊で活動している。
 それ故に、これまでの人生の中で数多の達人を見てきた。【龍】と呼ばれる組織にも人間を極めたかのようなバケモノ達がいたがそれらに匹敵、或いは凌駕する戦闘者も外の世界で数多く見てきた。

 それは陣内啓吾であったり、御神美沙斗であったり、恋人である御剣火影であったり様々だ。
 だが、違う。今、横にいる男性は、明らかに格が違っているのだ。戦闘者としての格。空気を伝わってくる、完全なる漆黒。僅かな澱みもない、真の邪悪。この男は笑いながら人を殺せる。
 その男性を見て最初は訝しげだった美沙斗が、何かに気づいたように呆然と口を開いた。

「まさか……相馬、さんですか?」  
「くっく。十四、五年ぶりだっていうのによく分かったな。久しぶりとでもいうか、美沙斗」

 どうやら男性の名前は相馬というらしい。美沙斗の知人であったのか、と驚いたがが、肝心の美沙斗は十数年ぶりだというのに懐かしさのかけらも表情にうかべていなかった。
 逆に、どこか警戒したかのような雰囲気を醸し出し始めている。証拠に美沙斗は何時でも動けるように体勢を変えていた。
 それに気づいているのかいないのか、御神相馬は禍々しい笑みを口元に浮かべ、美沙斗だけを見ている。弓華のこと眼中にないかのように。だが、違う。もし仮に、相馬に戦いを挑んだならば一瞬で斬られる。それだけははっきりとイメージができた。

「生きて、いたのですか」
「おいおい。あのテロ事件が起きる少し前に追放されたんだぜ、俺は。そりゃ、生きてるに決まってるだろうが」
「……兄さんが一応事件のことを伝えようと四方八方を探したらしいですが、全く足取りが掴めなかったと聞いたのでてっきり……」
「まぁ、ちょっくら裏に潜んでたからな、流石の士郎の奴でも見つけれなかったんだろう」
「そうでしたか……」

 用心する視線はそのままに、美沙斗は警戒したまま頷く。

「なんだなんだ。久しぶりにあったのに随分な対応だな、義妹よ」
「……そういうわけでは、ありませんが」

 言い淀む美沙斗を鼻で笑うとポケットから缶コーヒーをだし、プルタブを開け口をつけるとゴクリと喉を鳴らす。
 相馬は飲みきった缶コーヒーを握り締める。何かが軋む音がして缶コーヒーが握り潰された。顔を動かし、自動販売機とその横にあるゴミ箱を見つけると無造作にそこに向かって投げつける。ガンという音を鳴らし見事に缶はゴミ箱に入った。

「実を言うとな、お前に聞きたいことがあったんだ」
「……何でしょうか?」
「御神の生き残りについてだ」
「……」

 美沙斗は反射的に息を呑んだ。相馬の言葉が、とてつもなく不吉な匂いを漂わせ美沙斗の耳を打つ。
 元々相馬は御神宗家を追放されていた。その行いがあまりに凶悪だったために、御神宗家及び不破の両家全ての人間から良い目で見られていなかったのだ。無論、美沙斗にとっても良い思いではない。だが、強い。それだけは確実であった。

「単刀直入に聞くぜ。御神美由希は生きてるな?」
「……なんのことです、か?」

 一瞬つまりはしたが、声を震わせることだけは避けることが出来た。表情も変化させていない。この男はきっとろくなことを考えていない。そう直感が鳴り響く。
 そんな美沙斗を見ていた相馬が口元を歪める。

「やはりか。これで納得が言ったぞ。全く面倒なことだ」
「……美由希に何をする気ですか」

 隠すことができないと判断した美沙斗が冷たい殺気を混じらせて言葉をつむぐ。思考を一瞬で変化させ、戦闘の時と同じ状態に持っていく。視線を相馬だけに、何時でも隠し持っている小太刀を抜けるように体勢を変化させた。
 もし美由希に害を為すのであらば、容赦なく斬らんとする美沙斗の様子に相馬が眉を顰める。美沙斗のその殺気がまるで想像以上だったかのように。

「まぁ、落ち着けよ。美沙斗?俺に斬りかかるかどうかは話を聞いてからでも遅くはあるまい?」
「……」

 その無言を肯定と受け取ったのか相馬はやれやれと冷笑を浮かべながらお手上げといわんばかりに両手を空に掲げる。

「実を言うとな、俺は昔から考えていたことがある。御神の剣士の限界についてだ」
「御神の剣士の限界、ですか?」

 いきなり全く別の話題に代わったことを訝しげに思いながら聞き返す。
 それが美由希のこととどんな関係があるのか。全く繋がらない。

「ああ。御神の剣士の強さは確かに普通の人間から見れば次元が違う。人を殺すためだけに特化されたバケモノだ。だがな、それでも人間である以上限界ってものがある。そればかりはどうしようもないものだ。だがな、御神流を極めた者が人間じゃなかったらどうなると思う?」

「人間じゃない?それは、人間でありながら人間を超えた者という比喩ですか?」
「いいや、文字通り人間じゃないってことだ。夜の一族、お前も知っているだろ?人間を遥かに超越した身体能力を持つバケモノを。もし仮にだ、夜の一族が御神流を学び極めたらどうなると思う?」
「……それは」

 言葉が詰まる。夜の一族の身体能力は人間とは確かに基本からいって次元が違う。御神流を学んだ者が日々の気が遠くなるような鍛錬をこなす。そんな剣士と生まれ持った身体能力だけで渡り合えるのが夜の一族だ。あまりに理不尽な差がそこにはある。
 だが、夜の一族が御神流を極めるなどということも机上の空論でしかない。彼らはそれぞれに差がありはしても夜の一族ということに深い誇りを持っている。
 そんな夜の一族が誇りを捨ててまで人間が編み出してきた御神流という技を学ぶだろうか。しかも数年程度で習得できるものでもない。十数年。或いは数十年という長きに渡って修練を積まねばならぬ剣術をどの夜の一族が学ぶというのか。
 そんな美沙斗の思考を読み取ったのか、相馬の冷笑はさらに深くなった。

「ああ、お前の考えているとおりだ。夜の一族ってやつに御神流を習得させることは不可能に近い。奴らは無駄にプライドが高いからな。だがな、それが誇りもくそもないガキの頃からだったらどうだ?」
「……まさか……」
「紹介するぜ、美沙斗。【そいつ】が俺が夜の一族の女に【産ませた】ガキだ」
「っ!!」

 あまりに透明な気配。完璧に周囲と同化していた背後のその気配にようやく気づいた美沙斗が椅子から飛びのこうとして、腹部に焼け付くような灼熱の痛みがはしった。
 背中から美沙斗を串刺しにした剣尖が心臓のすぐ脇から突き出ている。綺麗な反りが入ったその剣尖は、確かに日本刀固有の物で、美沙斗が何時も見ている小太刀と同一のものであった。
 自分が刺されたのだと、胸が焼けるように熱くて、血が脈打つ音が脳内を反芻する。刺されたということにようやく気づいた。
 痛い。どうしようもなく熱い。四肢の力も入らない。美沙斗は視界が暗くなっていくのを唇を噛んで我慢する。

「美沙斗!?」

 弓華が悲壮な声をあげる。あの美沙斗が、何の抵抗もなく刺されたという事態。そんな馬鹿なと驚愕する。あり得ない。
 身体がくの字に徐々に折れ曲がっていく美沙斗の背後。丁度後ろにあるテーブルの椅子に美沙斗と背中合わせになるように座っていた少女が脇と腹の隙間から小太刀を通して美沙斗を刺していた。

 美沙斗の胸から突き出ていた小太刀が、肉をこそぎとりながら容赦なく引き抜かれた。小太刀で塞がれていた動脈から、鮮血が血潮のように吹き出る。
 急速に力が抜け視界が回る。感覚がなくなる両手両足。喉からせりあがってくる粘つく血を口のなかで泡立たせながらも、美沙斗は背後をみやった。自分を貫いた人物を確かめるように。
 美沙斗の回る視界に映ったのは、遠い過去の何時だかに出会った事がある容姿をした少女。陽光に輝く白い首筋。美しく長い黒髪。申し訳なさそうな表情で美沙斗を見ている少女を見て、思い出す。そう、この少女はまるで御神琴絵に瓜二つ。相馬を漆黒とするならばこの少女は純白。

「うにゃー。本当にごめんなさいですよ、叔母様。身内は斬りたくないんですけど、とーさまの命令ですし。とーさまとんでもない悪人ですので、言うこと聞かないと乱暴されちゃうのです」 

 小太刀を音もなく隠すと、パチンと音をたてて両手をあわせて美沙斗に頭を下げる。それとなく爆弾発言をかましながら。

「……鍛錬で乱暴するってことだぞ、オィ?変な想像すんなよ」
「きゃっ。鍛錬中にするなんてそんな卑猥ですにゃー」
「テメェは黙ってろ、宴(ウタゲ)!!」

 それとなくゴミを見るような目でみてきた弓華に言い訳をしつつ、ピキィと頬をひきつらせた相馬が何の容赦もなく飛針を宴と呼んだ少女に投げつける。鋭利な切っ先が宴を貫こうと空をかける。

「ノオオオオオオゥ」

 若干本気で慌てながらそれを上体を後方に反らしながらよける。飛んでいった飛針が通行人の男性の尻に突き刺さりあまりの痛さに悶絶していた。
 そして、その光景と血に塗れている美沙斗を見て、通行人たちが悲鳴をあげはじめる。遠巻きに相馬達を見ている野次馬もいれば必死で逃げる野次馬もいる。
 その光景を眺めていた相馬もそろそろ潮時かと腰を上げた。宴も体重を感じさせない動きで軽く跳び、相馬の横に並ぶ。やれやれといった感じで首を振る相馬。

「お前も身を持って味わっただろう?こいつの才覚の高さを。そろそろ【亡霊】が現れてもおかしくはないとおもってたんだが、全くその兆候も見られない。ってことは考えられることはただ一つ。宴以外にすでに亡霊を宿しているということだ」
「っ……」

 美沙斗は何かを言い出そうとしたが、血が喉につまり言葉にならない。  

「色々調べさせて貰ったぜ。士郎の奴が相当いじくりやがったみたいで足取りが全く掴めなかったんだが、お前の反応で確信した。御神美由希は生きているってな。まぁ、そういうわけだ。御神美由希が生きてる限り亡霊は宴には宿らない。だから……」

 相馬が懐から何かを出す。それを軽く放り投げると、凄まじい閃光が周囲を包む。閃光弾だ。その光をまともにくらった周囲の野次馬が苦悶の呻き声をあげる。

「殺させて貰うぞ、御神美由希を。御神宗家を継ぐものは、静馬の血じゃねぇ。俺の娘だ」
「叔母様本当にごめんなさいにゃー。一応致命傷ではないと思うから急いで病院いってねー」

 圧倒的な殺意と敵意を込めた台詞を残す相馬と奇怪な猫ヴォイスを残す宴。その二人は音もたてず、まるで幻だったかのように走り去った。
 二人が消えてから十秒程度たちようやく相馬の禍々しい気配から解放された弓華は慌てて美沙斗に駆け寄る。傷口からあふれ出る血。確かに急所はぎりぎり避けてはいるが急いで病院へいかないと危険なのには違いない。
 弓華は携帯電話をだすと急いで連絡を取る。その姿を霞んでいく視界に映しながら、美沙斗はこの香港から遠く離れた日本にいる美由希に願う。

「……美由……希……逃げて……」

 かすれるような声は、周囲の騒音にまぎれて、弓華の耳にすら届くことなく、空気に消えた。































 そんな騒動が起きている場所から離れた裏道を疾走する二つの影。相馬と宴。

「……美沙斗のことをどう思った?」  

 走る速度を全く落とさずに相馬は真横を走る宴に質問をする。その抽象的な問いに宴はやや困ったような表情で首を捻る。

「んー。はっきりいって、バケモノだよね、あの人」

 そう青い顔で相馬に返した宴は脇腹に手を当てる。そこからは赤い血が流れていた。深くはないが確かに鋭利な刃物で切られた傷跡がそこには残されていたのだ。
 宴が美沙斗を貫いた瞬間、それと同等以上の速度で美沙斗は反撃していたのだ。注意を完全に相馬に向けていたのにも関わらず、完璧に気配を消していた宴の奇襲にも反応をしていた美沙斗を宴はバケモノだと思った。しかも、宴の攻撃を紙一重とはいえあの状況で致命傷を避けた。想像を遥かに超えた反応。

「私じゃ、真正面から戦ったら確実に負けちゃうよー」
「冷静な判断ができるのがお前の強みだな。勝てない相手に立ち向かうのは馬鹿のすることだ。お前はまだまだ強くなる。それに、【今】は勝てなくても、【本気】をだしたらどうなる?」
「うにー、どうかなー。多分、互角かちょっと私の方が上かにん」
「まぁ、そんなもんだろう」 

 それっきり口を閉ざす相馬。
 しかし、変われば変わるものだ、と相馬は美沙斗を見て正直なところ驚いていた。
 十数年ぶりにあった美沙斗は随分と変わっていた。容姿がということではなく心がだ。

 御神宗家がまだ健在だった当時、まだまだ甘い所があり、冷徹になりきれない女性だった。それなのにどれだけの修羅場を潜ってきたのか、今さっき会った美沙斗はまるで日本刀のような冷たさを感じさせた。
 そして背後に見たのはおぞましいほどの殺意。相馬ですらこれまでの人生の中であれほど人を斬ったであろう剣士の心当たりはなかった。

 ―――どうやらあの噂は本当だったってことか。

 乾いた唇を舐めて乾かす。【黒鴉】と呼ばれた暗殺者。この時代において重火器を使用せず、日本刀のみで対象を確実に暗殺する修羅。一年ほど前から裏の舞台から姿を消した鬼人。
 御神美由希を殺すために邪魔だと判断したからさきに美沙斗を行動不能に追い込んだわけだが、少しもったいないことをしたか、と後悔した。

 傷が治ったら一度本気でやりあってみるか、と相馬は冷笑を浮かべる。美由希を殺されて怒り猛っている美沙斗とやりあうのもまた一興か、と。
 二人が疾走すること数分。海が広がっている。埠頭にでると、大きな船が泊まっているのが視界に映った。すでに前もって準備をしていた日本行きの船だ。その船を見つめたまま、二人は足を向ける。

「行くぞ、宴。目的は日本だ」
「はいはーい。頑張りますよーおとーさま」 

























「早くしなさい、葛葉」

 そう冷たい声がとんでくる。葛葉は両手で抱えている巨大なダンボールに入った冷蔵庫を腰が砕けそうになるのを必死で耐えながら翼の後をついて行っていた。
 何でも冷蔵庫が壊れたらしく、急に必要になったということで翼に荷物もちとして借り出されていたのだ。一人暮らしなのだから小さい一人暮らし用のにしろよと何度も言ったのだが全く相手にもして貰えず、結局少し大きめのを買われてしまった。

 はっきり言って重い。細身でありながら相当鍛えてはいるので筋力はそこらの男性の比ではないが、幾らなんでも流石に辛い。脂汗が額から流れ落ちる。
 飯を奢ってくれるからという甘言にのってほいほいと呼び出されるべきではなかったと心底後悔していた。ぷるぷると両腕が限界を伝えてくる。眼鏡がずりおちそうになる。
 必死で運んできたものの翼のマンションまでまだ半分以上は距離がある。ちょっと絶望が葛葉の心を支配した。

 ―――逃げ出してぇ。

 そう思った葛葉だったが、もし逃げたりしたら間違いなく殺される。この女の恐ろしさは骨の髄まで沁みこんでいるのだから、比喩ではなくマジで殺られる。
 海鳴駅の付近のために人通りが多い。そのため大荷物を両手で持っている葛葉は注目の的だ。目立つのはそんなに好きではないこともあるし少し恥ずかしい。

 ―――早くこの地獄から逃げ出してぇ。

 一歩一歩確実に歩くものの、ついに両手に限界がきた。そばにあった噴水の段差に冷蔵庫を下ろす。羽のように軽くなった両腕をぶらぶらと振りながら深呼吸。何も持たないことがこんなに幸せだとは思わなかった。
 一休みしている葛葉を見ると、翼が歩みを止め、葛葉のほうへと戻ってくる。勝手に休憩したことを怒るのかと、やべぇと思った葛葉だったが、翼は意外にも何も言わずに噴水の横に置いてあるベンチに腰をおろす。

「お、おこらねーのかよ?」
「流石にそこまで鬼じゃないわよ。少し休憩しなさい」

 震える声で質問した葛葉に、呆れたように返す翼。マジかよ!と心のなかを驚愕が響き渡る。
 天守に魔物在り。天守史上最強の剣士。時間外領域の剣士。永全不動八門の頂点に立つ者。  
 等々。永全不動八門の間でその名を轟かせる少女。血も涙もないと噂されていたが、実際会った当時はそう葛葉も考えていた。

 だが、最近は本当にそうなのか、と思うことも多くなってきている。それもこれも不破と会った時のあの乙女っぷりの翼を見てしまったからなのだが。今でもあれは夢か幻ではないのかと思うときもある。
 その時翼の携帯が音を鳴らす。メールでも来たのだろうかと葛葉が段差に腰をおろし、ぼけーと考えていると翼が凄まじい勢い、というか葛葉の目にも映らない速度で携帯をジーンズのポケットから取り出し開く。メールを見ながら微笑む翼をみて少し不気味さを感じる葛葉。

 無論、他の人間がみたら見惚れたのだろうが、葛葉は翼にそんな感情を持ってはいない。というか、むしろ怖い。カカッと音がするような勢いで携帯を指が叩き、メールを入力する。
 随分と長いこと打っているようで凄い長文になっていそうだ。その雰囲気からなんとなくメールの相手を予想できた葛葉。

「んだよ。不破からでもメールきたのか?」

 瞬間、背筋が凍った。瞬きをした一瞬で、今まで二、三メートル先のベンチに座っていた翼が片手に携帯を、片手に小型のナイフを持って葛葉の喉元に突きつけていたのだから。喉にわずかに刺さっているのかチクチクとした痛みとたらりと一滴血が流れ落ちた。

「次は刺すわよ?」
「い、いや!!刺さってるだろーが!?」
「気のせいよ」

 そう言い張る翼。ナイフを喉元に突きつけながらも携帯をもった片手の方はメールを打ち続けている。なんてシュールな光景なのだろうか、と葛葉が目尻が熱くなった。

 ―――もう故郷に帰りたい。

 そんな翼はスゥとナイフを音もなく隠すとベンチへと戻っていき、座りなおす。ようやく、打ち終わったのか送信ボタンを押して一息。携帯をポケットに戻す。

「にゃーにゃー、ちょっと其処のおねーさん。ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいかにん?」

 空を見上げていた翼に話しかけてきたのは長い黒髪に紅色のリボンを結んだ少女。まるで妖精のように可憐な少女であった。その少女に目が釘付けになる葛葉。方向性は違うが翼にも匹敵する美少女である。
 そんな少女に呼びかけられた翼の目が鋭くなる。まるで自分と同格の存在を目にしたかのように。 
 天守翼と御神宴。運命に導かれた二人の道が、今ここに交差する。
 
 翼は自分を邪気の無い笑顔で見つめている宴に内心驚きながら髪を右手でつまむようにして弄る。
 反射的に取ったその行動は、自分が緊張したときに行ってしまう癖のようなものだ。目の前に立たれただけで、髪を弄ってしまうという行動を取ったことは過去一度しかない。三年前の永全不動八門の会談において、初めて恭也に出会ったときだけだ。

 眼前の少女をもう一度しっかりと見てみる。年の頃は良い所十五か十六。自分よりは二か三くらいは下だろうか。外人のような白い肌というわけではないが日本人特有の白い肌。黒い髪と瞳。翼と同じくらいの白い肌を後ろで結んでいる。向日葵のような笑顔で、翼のようにどこか冷たいところが一切ない。見ている者を安心させる包容力が感じられる。

 容姿は、成る程。大変可愛いらしい。葛葉が見とれるのも翼は納得した。
 しかし、翼は一瞬で宴の異様な気配に気がついた。透明すぎるのだ。一般人よりもさらに希薄。気を抜いたら目の前にいるということさえ忘れそうになるほどの希薄さ。
 宴にもし声もかけられずに、万全の準備をされ奇襲をかけられたとしたら一体どうなったことか。

「何の用かしら?」
「おお、綺麗なおねーちゃんは優しいですにん。実は聞きたいことがあるんですけどーここら辺で御神って苗字の家か人知らないかにゃー?」
「ミカミ?どんな字をかくか教えてくれる?」

 内心の揺らぎを一切表情に出さずに、翼が質問を返す。

「えーと、御神の御に御神の神ですにゃん」
「……さて、行くわよ。葛葉」
「うああああん!!冗談!!冗談!!待ってよ、綺麗なおねーさん!!」

 真面目に答えたのか、おちょくってきたのか判断が難しい所だが、翼が席を立とうとする振りをすると、慌てて謝ってくる宴。翼の右手を掴んで行かせないように踏ん張る。

「で、本当はどんな字なの?」
「えーとですねぃ……こんな字ですにゃー!!」

 ポケットから手帳を出すと空白に【御神】と書いて翼に見せる。その予想通りの字に翼がため息をつきそうになるが、抑えて首を横に振った。

「残念ながら知らないわ。この海鳴もそれほど大きくないとはいえ全ての苗字を知っているわけじゃないし、どこかにはいるんじゃないかしら?」
「そっかー残念。手当たり次第聞いてくことにするよーありがっとーおねーさん」
「力になれなくて申し訳ないわね」

「あ、もう一つあった。こっちはどうかにゃー?不破って苗字なんだけど」
「……不破?」
「そそ、こういう字なんだけどねー」

 シャっという音をたてて手帳に【不破】と書く。歳のわりに達筆である。それを見た翼の瞳に剣呑な光が混じった。

「……一つ聞きたいんだけど探してどうするのかしら?その御神と不破を」
「にっしっし。ぶちのめしにいくんだにゃー!!」

 全くといっていいほど隆起していない胸を反らしながら高笑いをする宴。他の人間が聞けば冗談に受け取ったであろうその返事が翼の耳を通る。
 その一言で―――翼のスイッチが入った。

「そう。恭也の敵なのね、貴方」    

 ピシリと空気が罅割れたような錯覚。周囲の空気が変化したことに、目の前の翼の変化に驚愕しつつ、宴は後方へ飛んだ。その頬を一筋の汗が流れ落ちる。
 身体の奥底から寒気が這い上がってくる。これまでの人生でこれほどの圧迫感を受けたことは数えるほどだ。明らかに常人の域を二歩も三歩も超えていた。
 もはや隠す必要はないと言わんばかりの漆黒の闘気。強烈な存在感。その禍々しい気配は己の父である相馬を思い出させるほどである。

「おねーさん、何者?」
「……来なさい。案内してあげるわ」

 宴の質問には答えようとせず、翼はベンチから立ち上がると高町家がある方へと足を向ける。宴は用心深く翼の背中を見つめていたが、歩き去っていく翼に仕方なく止めていた息を深く吐き出す。
 緊張した表情のまま宴は翼の背中を追った。

「ちょっ!?お前ら……俺を置いていくなよ!!」

 残された葛葉が怒声をあげつつ近くのコンビニにダンボールを持って突撃、凄まじい勢いで宅急便の手続きをすると飛び出し、すでに見えなくなった翼を追いかけて全力で走った。
 方向からいって間違いなく高町美由希が住んでいる家の方向だと判断してそちらのほうに走っていく葛葉だったが、その予想が見事に当たった。
 だが、翼は視界の先で大通りから逸れるように横道に入る。どうやら素直に高町家に連れて行くわけではないらしい。

「くっそぉぉおおおおおお!!あいつ完璧に俺のこと忘れてやがる!!」

 雄叫びをあげながら道路を駆ける。そろそろ日も翳ってくる時間帯。太陽が沈みつつあった。生憎と葛葉は気配を感じ取るのは苦手だ。どちらかといったら真正面から何の策もなくぶつかりあうのを好む。バトルマニアだとよく言われる。だから、ここで翼を見失うとどうしようもない。故に必死にもなるものだ。

 大通りから逸れた狭い通路を走っていく。幸いに一本道のようで迷いようが無い。数分も走っただろうか、住宅街の中にぽっかりと空き地があった。そこで翼と宴が向かいあっている。
 息を乱しながら到着した葛葉を二人とも見ようとすらしない。少し寂しい葛葉であった。

「ここが御神の家かにゃん?流石に空き地に住んではいないと思うんだけどにゃー」
「心配しないでもいいわ。ちゃんと教えてあげる。ただし―――」

 パチリと音をたててポケットからナイフを取り出し、宴に向ける。生憎と今日は買い物をしたらすぐに帰る予定だったので日本刀は家に置いてきている。というか、流石にあんな物騒なものを日常的に持ち歩くことはできない。仕込み杖にでもしようかしらと頭の片隅で思考する。  

「貴方が【不破】の敵ならば、ここが墓場になると知りなさい」

 周囲に人がいないこともあって、翼の殺気が膨れ上がる。数千の黒い羽虫がはばたき、襲ってくるような幻視。並の者ならば気を失い、許しを乞うただろう。

「おねーさんは知ってるってことでいいのかに?じゃあ……両手両足くらい切り取ったら教えてくれるのかなー」

 だが、宴は哂った。翼の殺気をまともにその全身に浴びても、涼風を受けた程度の如く。口元を歪めて、背中から小太刀を取り出す。
 鞘から小太刀を抜く。しかも二刀。その二刀の小太刀に翼が訝しげに眉をひそめた。

「じっこしょーかいー。私は宴。御神宴。御神正統伝承者候補ですよー」
「そう。貴方が誰であれ些細なことよ。貴方は恭也の敵。それだけで充分」

 翼が飛翔した。純粋なスピードは翼は美由希に劣る。だが、それはあくまで美由希のスピードが異常すぎるだけであり、翼の速度も十分人間離れをしている。
 ナイフで宴の喉元を狙って突く。疾風となって放たれたその突きを、宴は口元を歪めながらあっさりと上体をさげて避ける。そのまま小太刀で翼の腹部を切り裂こうとして、悪寒を感じ後ろの跳躍した。
 後ろへ逃げると同時に翼の前蹴りが空を切る。物騒な音をたてた前蹴りに宴はヒュゥと口笛を吹く。

「鉄板でも仕込んでるんですかー怖い怖い」

 僅か一蹴りで見抜かれた翼は不満気にしつつ、迫ってきた宴を迎え撃つ。地を這う風のように、地面を走る宴。
 跳ね上がるような小太刀の斬撃。ナイフで受け止めようかとしたが、瞬時にその威力を見抜いた翼が後方へと跳躍。小太刀が空を切ると同時に気づく。翼と宴の間合いの長さ。そして、宴の片手を引くような構え。

 その構えはまるで高町美由希が放ったあの……。

 翼の脳裏をかける美由希。その想像をなぞるかのように、宴が一矢となった。地面を激しく蹴りつけて、捻るように繰り出された小太刀。
 翼を貫かんと放たれた突きを横へ転がるようにして避ける。その射抜を避けられたことに多少意外そうに翼を横目で見る宴だったが、その瞬間、地面を蹴って横薙ぎへ変化。
 その横薙ぎをナイフで下から叩くように反らして、受け流す。今度こそ本気で驚いたように目を大きく見開く宴だったが、顎を狙って跳ね上がった翼の蹴りに慌てて間合いを外す。互いに一足刀の間合いから少し距離を取る。
 小太刀を片方だけ翼に向けたまま、もう片方の手でぽりぽりと頬をかく。

「困ったにゃー。おねーさんちょっと強いや。大抵今の一撃で決着がつくんだけどさー」
「そう。褒められたと思っておくわ」
「褒めてる褒めてる。ちょー褒めてるよ。だからさ、ここらで手打ちにしない?おねーさんのこと気に入っちゃった」

「……恭也に手を出さないのなら別にいいわよ」
「きょーや?誰ですかにゃー、その人」
「貴方が探している不破の剣士のことよ」

 むむ、と首を捻るようにして考える。そして数秒。おお、と思い出したかのように小太刀を空に向けてぐるぐると振り回す。

「きょーや君かー。とーさまから話は聞いたことあるある!!そっかー、あの子まだ生きてるんだ」

 その宴に翼が疑問を持った。まるで恭也がこの海鳴にいるのを知らなかったような様子。嘘をついている印象は全く無い。
 つまり、それは不破恭也が狙いではない?

「もう一度聞くわ。貴方の狙いは何かしら?」
「んー。まぁ、おねーさんになら話てもいいかなー。おねーさんはその不破恭也って子に随分と御執心みたいだけどー」
「べ、別にそういうわけじゃないわよ!!」
 
 顔を赤くして怒鳴りつける翼を見て、宴がニシシと邪悪な笑みを浮かべた。

「いやーん。おねーさん可愛いにゃー!!なになに、その恭也君って格好良かったりするの?」
「そ、そうね……ちょっと無表情なのが……って、何聞いてるのよ!?」
「ぉおう。おねーさんがらぶになるくらいの人かー。ちょっと興味わいたにゃー」
「……話を戻すわ。貴方の狙いは?」  
  
 はぁと首をふりながらため息をつく翼。何とも掴めない少女だ。 
 多少強引にでも話を戻さないと話題が逸らされ続けると判断した翼がもう一度質問する。
 
「んーとね。御神正統伝承者になるために御神美由希って人をぶちのめしにきただけ。実際は不破には用はないんだにゃー邪魔さえしなければだけど」
「……そう」
 
 その嘘偽りのないであろう答えを聞いて翼が考え込む。それが本当ならば翼にとってはどうでもいいことだ。高町美由希が狙いというなら放置しても構わない。
 だが、美由希に手をだすならば恭也が黙っていないだろう。いや、もしかしたら恭也ならば丁度いい鍛錬になると美由希とぶつけるかもしれない。

 ―――どうしたものかしらね。

 一度の交差で分かったが、互いに全力を出していないとはいえ御神宴は強い。底が知れないといってもいい。翼の想像以上の力を持っていた。
 ナイフ一本でははっきり言って分が悪い。相手の小太刀に比べればこんなもの玩具のような物だ。
 幸い宴の戦意もすでに失せているようで、後は翼の返事を待っているだけのようである。

 そんな翼の思考を妨げるように宴から携帯の着信音が流れる。その着信音が誰かの断末魔の叫び声のようで翼は少し引いていた。
 宴が翼とポケットに入っているであろう携帯を交互に見る。ふぅ、と翼が再度ため息をつき、ナイフを仕舞う。有難うとジェスチャーをした宴が小太刀を地面に突き刺すと携帯を取り出して電話に出る。

「やっほっほー。宴ちゃんですにゃー。どうしたの、おとーさま?」

 ふんふんと携帯に返事をする宴。そして、おおぅ、と驚きの声をあげる。

「あら、本当かにん?じゃーすぐそっち向かうねー」

 携帯を切ると、ポケットにしまいなおす。小太刀を地面から抜くと鞘に納めた。

「いやいや、ごめんねーおねーさん。本当に悪いんだけど逃げるとしますにゃー私」
「……そう。恭也に手を出さないのならもういいわ、行きなさい」
「にゃっはっはー。あ、そーだ。おねーさんの名前なんていうの?教えてほしいにゃー」
「翼。天守翼よ」
「翼さんですかー。多分、私達縁があるよー。また会おうね」

 ニシシと笑いながら翼に背を向ける。そのまま凄い速度で空き地を駆け抜け、姿を消した。
 その姿を見送っている翼に葛葉が頭をかきながら近寄ってくる。

「何だったんだよ、アイツ?」    
「さぁ?」

 翼は適当に返事をすると首を手で押さえた。ツゥとその手からあふれ出るように赤い血が流れ落ちる。首の皮一枚を持っていかれていたのだ。
 恐らくは射抜を避け、横薙ぎを放ってきたその瞬間。一撃は防いだが、追撃に放っていたもう一閃。

 面白いと、翼は思った。御神流にはまだまだとんでもないバケモノがいたのだ。焼け付くような痛みが響く首を押さえながら翼は笑みを浮かべる。
 ようやくその傷に気づいた葛葉が頬をひきつらせた。先ほどの戦いを見てとんでもない腕前だとは思ったが翼に傷をつけることが出来るほどだったとは思ってもいなかった。むしろ、翼に怪我おを負わすことが出来た人間を葛葉は美由希しか知らない。

「お、お前その怪我……さっきの女、なんて奴だ……」
「そうね。正直舐めてたわ。しかも、あの御神宴は全く本気をだしていなかったし」
「……マジかよ」
「ええ。さっきで全力のいいとこ七割程度じゃないかしら」
「あれで七割か……」

 自分と宴が戦う場面をイメージする。どう考えても勝ち目などない。

「でもね―――」

 翼が哂った。何時ものように自分以外を見下すように。宴が去っていった方向を見つめたまま。

「―――私は全力のせいぜい五割程度よ」  





















「あ、あいたた……な、なんなのさ、もう。翼さんってなんて極悪な……」

 宴が数分も駆け、完全に翼から距離を取ったのを確認すると鈍痛が響く脇腹を押さえて蹲った。骨は折れていないようだが、鈍痛が止まない。ヒビが入ったくらいだろうか。
 時間にして一分にも満たない戦いの交差。いってしまえばただの小手調べ。互いの実力の一端しかだしていない死合い。

 その戦いの中で確かに宴の小太刀は翼の首の皮一枚を斬っていた。だが、そのお礼と言わんばかりに脇腹を蹴られていたのだ。
 しかも、ご丁寧に衝撃が内に響くような蹴り方。御神流で言えば徹を込めた一撃。完全に決まったのではなく、軽く入っただけなのだろうが無傷では済まなかった。
 それに翼が使っていたナイフ。どう考えても本来の得物ではない。おそらくただの護身用の武器だったのだろう。つまり、それは護身用の武器一つで自分と渡り合ったということ。恐ろしい、と宴は翼を評価した。

「何蹲ってるんだ?拾い食いでもしたのか」
「実の娘に対してそれはひどいとおもうにゃー」

 いつのまにか宴を見下ろすように正面に立っていた相馬が可哀相な人を見るような瞳を向けて見下ろしていた。それに即座に反応する宴。  
 宴が脇腹を抑えているのに気づくと、ほぅと興味深そうな視線に変わる。

「お前に怪我をさせるほどの使い手がいたのか」
「あー、うん。天守翼だってさー。強いよ、でたらめに」
「……天守?そいつは刀を使ってたか?」
「んにゃー。ナイフ一本だったよ。あ、でも本来の武器じゃなかったと思う」
「そうか。まぁ、間違いねぇな。そいつは永全不動八門の奴だ。なんでこんな辺境の町にいるのか知らんが」

 厄介なことにならなければいいが、と相馬がもらす。痛みが徐々におさまってきた宴が立ち上がる。
 かといって暫くは全力でいけそうにもない。こんなことなら最初から全力で翼に向かって行けばよかったと後悔する。確かに恐ろしいまでに凶悪な気配だったがナイフ一本ということで甘く見ていた。

「まぁ、とっとと行くぞ。それらしい場所が分かった」

 ガシと宴の襟を掴むと引っ張るように歩いて行く。引っ張ると同時に足を払われ引き摺られるまま荷物のように連れて行かれる姿を周囲の通行人が気味悪そうに見ていた。

「なんか物扱いされてるんですけどにゃー」  
「気にすんな。で、だ。少し調べたんだが御神美由希のことが大体のことは分かった」
「ほほぅ。よく調べれたよねー」
「蛇の道は蛇っていってな。多少苦労はしたが。御神美由希の今の名前は高町美由希になっているらしい。士郎の野郎は随分と昔に逝っちまったようだ。後は恭也って兄がいるという情報なんだが……」
「ああ。不破恭也君?」

 まさか宴の口からその名前がでると思わなかったのか相馬が驚いたような気配を醸し出す。引き摺られているのでよく分からなかったが。

「ああ、そうだな。まさかあの不破の小僧がまだ生きてるとは思っていなかった。こいつは無視しても構わん。もし剣を向けてくるようなら―――俺が相手をしてやる。お前は御神美由希をやれ」
「あいあいさー」

 































 

 レンの視界に広がるのは染み一つない天井。自由にならない四肢。胸がズキズキと痛む。
 レンは病院の天井をベッドに寝ながら見上げていた。そばには母の小梅が心配そうにレンを看病している。それを横目に見て分かった。これはあの頃の夢なんだと。
 随分と昔の夢。まだ、神奈川の病院でお世話になっていた時代。外で遊ぶなど出来ずに友達も作れず、寂しい日々を過ごしていたあの幼少の頃。

 運動はおろか、日常生活を過ごすのさえ苦労してたレンにとって病院だけが自分の世界だった。
 その時、コンコンと病室のドアを叩く音が聞こえた。小梅が椅子から立ち上がりドアに向かう。開けて、外にいた人物を見て顔を綻ばせる。

「桃子ー来てくれたんや。ありがとなー」
「レンちゃん大丈夫?あ、これうちで作ったお土産だから良かったら食べてね。味は保証できないけど」
「ややわー。あんたの作った物が保証できへんかったらうちのはどうしようもないやんか」

 わはは、と明るく笑う小梅と桃子。
 そんな二人がしばらく談笑していたが、少し飲み物を買ってくると部屋を後にする。後に残されたのはレンと桃子について見舞いに来ていた恭也。
 レンがベッドから上半身を起こし、座るように腰掛けた。

 ……この頃のお師匠かわええなぁ……。

 夢を見ているレンはまだ幼い恭也の姿を見てほんわかとした気分に包まれる。今の恭也と見比べるとやはり随分と違う。もう数年も前の話なのだ。確かに、この頃でも大人びて見えはするが、やはり可愛い。

「……久しぶり。身体の方は大丈夫、かな?」
「……わざわざ見舞いにきてくれてありがとー恭也君」
「いや、丁度休みだったし気にしないでくれ。残念だが美由希は少し用があって来れなかったが」
「……そっかぁ。美由希ちゃんにも、会いたかったなぁ」
「今度は首に縄をつけてでも連れてこよう。楽しみにしておいてくれ」
「あはは。おもろいなぁ、恭也君は……」

 恭也はレンの傍に行きテーブルに荷物を置く。甘いにおいがレンの鼻に届く。桃子の持ってくる洋菓子をレンは何よりも好きだった。
 手ぶらになった恭也はレンから少し距離を取る。それにレンは首を傾げる。

「以前言っていた、中国拳法の型を修得してきた。まだまだ未熟ではあると思うが見てくれたら嬉しい」
「ほんまー?恭也君、うちのためにわざわざ覚えてきてくれたん?」
「……あまり期待しないでおいてくれ」

 少しだけ照れたようにそういう恭也にレンは嬉しそうに笑顔を向ける。そして、恭也はレンの前で演舞をおこなった。それは文字通り舞とも見えただろう。それほどに、流れるように美しい。完璧とは言えないまでも、そう表現しても構わないほどに洗練された動き。
 普段は使える時間ほぼ全てを御神流を極めるために費やしている。その合間を縫っての中国拳法の型の修得。二ヶ月ほど前にレンの見舞いに来たときに、彼女がその中国拳法の型が格好いいと言ったのを覚えていた。

 レンを少しでも喜ばせようと恭也は死に物狂いの鍛錬の間に、型を飽きるほどに繰り返していたのだ。

「かっこええなぁ……恭也君、かっこええわぁ」

 そう眩しげに恭也を見つめるレン。それは尊敬の眼差しであった。
 レンは目を瞑る。そして、自分の想像のなかで恭也の型を何度も反芻するように思い出す。

「こうして、こうして、こう……うん、こんな感じ」   

 足元が覚束ないようだが、レンは腰掛けていたベッドから立ち上がる。それに驚いたのが恭也だ。
 ベッドに戻そうとする恭也だったが、レンは首を振る。

「一度だけ、やらしてほしいんや……そしたらベッドに戻るよー」
「……無理は、するんじゃないぞ」
「うんー」

 そして、恭也は真の天才というものを見た。天才という言葉すら生温い。才能という言葉さえ生温い。絶対的で圧倒的な天からの才能。努力などでは塗り替えられない、決して届かぬ絶壁の頂点に戴く幼き武神の一端を見せられた。
 レンは恭也が行った演舞を、一寸の狂いもなく、やり遂げてしまった。型を完璧にこなしたわけではない。恭也の少しだけ失敗したであろう部分さえも同じように、ビデオのリプレイを見るかのように、全くもって完璧にこなしてしまった。  

 恭也の動きを再現しただけ。言葉にすればそれだけだが、実際それがどれだけのことだったのか、この時のレンは知らなかった。そして、それを見た恭也の衝撃を予想することはできなかった。
 無論、それは無理なかろう。まだ幼い少女がそんな相手の、恭也の心情まで考えることなどできはしまい。レンが悪いのではない。誰かが悪いのではない。

 ただ、この時に恭也は気づいてしまった。どうしようもないほどの才能の差というものを。恭也が例え本気で取り組んだことではないにせよ、二ヶ月の間かかって昇華させたその演舞を、たった一度だけ見たレンが同等のことを再現させてしまったのだから。
 レンに対して不思議と嫉妬の感情はわかなかった。もはや嫉妬というものさえ感じられない。そんな感情を置き去りにするほどの天才を見たのだから。

 























「懐かしい夢やなー」

 レンは高町家の縁側に寝転がりながら転寝をしていたようで、目を開ければ幼い頃の病院ではなく、夕陽が全身に降りかかっている光景であった。
 起き上がってみれば視界の端にはなのはと晶が遊んでいるのが見える。どうやら転寝をしてそれほど時間がたったわけではないらしい。数分か、十数分程度のようだ。

 欠伸をする。目尻から流れそうになった涙を指で拭う。すでに晩御飯の準備はできているのであとは皆が帰ってくる時間帯に合わせて調理すればいいだけだ。
 ぼーと二人の遊んでいる姿を見ながら夢を思い出す。あの頃の苦痛しかない夢。時々きてくれる恭也だけが唯一の楽しみであった頃。
 
 そこに幼かった自分の愚かさを見ながら―――恥ずかしく思った。
 あの時、恭也が自分の目の前で型を披露してくれた時に何故自分は、それを再現してしまったのかと。
 ただ、恭也の型はこんなにも格好よかったのだ、と。見せたかっただけだ。だが、それがどれだけ恭也の努力を踏み躙った行為だったのか。どれだけの無力さを恭也に味あわせてしまったのだろうか。

 きっと恭也はそのことを気にしていないだろう。だが、レンはそんな自分が決して許せなかった。恭也に対しての返しきれない恩と、自分が決して赦さない咎。レンはそのことを決して忘れなかった。
 その時、呼び鈴の音が高町家に響き渡る。それに気づいたなのはと晶が玄関の方へ足を向けた。

「はーーい」

 なのはがそう声をあげて玄関へと向かう。
 だが、レンは感じた。あまりにおぞましいほどにどす黒く染まりきった気配を。恭也と似た、しかし、明らかに最後の一線をとっくの昔に踏み出してしまった禍々しい気配。
 鳥肌が立つ。この気配を放つ者は、人間というのすらおこがましい。ナニかいけない存在だ。

「アキラァアアアアアアアアアアアアアアアアア!!なのちゃん、止めぃ!!」
「え?」

 突然の雄叫びに、レンを振り返る晶。それが逆に晶の足を止めてしまう結果となったことに、しまったと舌打ちをする。縁側から飛び上がると、玄関に向かうなのはの元に疾走する。
 視線の先、玄関と庭にの間。そこに立っているなのはの前に一人の男性と少女が歩いてきた。相馬と宴だ。

「あ、あのどなたさまでしょうか?」

 相馬の目に怯えながらもそう聞いたなのはを、あろうことか相馬は―――。

「邪魔だ」

 何の容赦もなく、蹴り飛ばした。鈍い音が聞こえる。ボールのように弾き飛ばされたなのが地面に激突する瞬間、レンが滑り込むようになのはを抱きとめた。
 慌ててなのはの様子を見る、レン。幼い頃から病院通いだったために一般人よりは知識はある。それでも難しいことは分からない。

 骨が折れたとかそういう怪我はないようだが、意識がない。そんななのはを見て、レンの心に黒い感情が音をたてて広がる。
 殺気が篭った目で射殺さんばかりに相馬を睨んだ瞬間、さらに強大で巨大で凶悪な、漆黒の殺意が周囲を包む。相馬が面白そうに戦闘体勢を取っただけ。明らかな格の違いというものを相手に叩き込む。
 血臭がする。すでに体臭に染み込むほどに人を殺し続けた殺戮者。平和とは対極に位置するであろう、バケモノが眼前には居た。

「う、あ……」

 怯えるように、晶が声を震わせた。心の全てを塗りつぶすほどの殺気にガタガタと身体を濡れた子犬のように震わせた。ガチガチと歯がなる。師である巻島十蔵とは異なる絶対者。何度闘っても、決して勝てない。そう思い込まされてしまうほどの力量差。

 心が、折れた。
 そう晶を判断したレンが、抱いていたなのはを晶に託すように渡す。怯えたような目でレンを見る晶。

「今すぐ、なのちゃんを、病院へ連れていくんや」
「で、でもよ。お、お前は―――」

 なのはを晶に渡すとレンは相馬と宴に向き直る。そして、構えを取った。

「アキラァアアアア!!はよ、行くんや!!」

 レンの無言の決意を受け取った晶は、なのはを抱いて走った。庭先の塀に走っていき、手をかけ、足で蹴り上げ乗り越える。
 それを見ていた相馬が宴を見る。あいつを追って来いというように視線だけで合図を送る。
 なのはを蹴った相馬に不満気な視線を送りつつも、晶を追うように走り出す。そして、レンの横を通り過ぎようとした瞬間。
 ドン、という大地が揺れる音を聞いた。地震がおきたのか、とすら勘違いするような振動。背筋を這う、冷気。寒気がする。鳥肌が立った。

 考えるまでも無く、本能がその場から飛びのくという反射行動を起こしていた。間合いを取り、その音を発生させた原因……レンに目を向ける。
 レンが地面を踏んだ音。ただの震脚。それは宴を威嚇するかのように踏み込んだだけの音だった。 

「いい判断や。もし、もしもあのまま晶追っとったら……次に眼を覚ますのは病院のベッドの上やったで」

 そうレンが言い捨てる。何を馬鹿な、と一笑できない本物の言葉がそこにはあった。そして、もし晶を追っていたら確かにその通りになっていただろう。それほどの気配を今のレンは漂わせていた。
 空気が振動する。相馬の殺気を飲み込むように、弾き飛ばす。目の前の宴よりも幼く、小柄なレンが相馬の圧力に屈しないことに二人は驚きを隠せなかった。

「―――名を聞いておこうか」

 相馬がそう言った。それに宴は今日何度目になるかわからない衝撃を受ける。。相馬が相手に名を聞くのは相当な手練れのときだけだ。宴と長い間一緒に居るが両手の指で足りるほどだ。  

「姓は鳳。名は蓮飛。高町恭也を師に持つ、武術家や」

 孤高の天才は―――威風堂々、二人の怪物を前にしながら何の揺らぎも無く、恐怖もなく、躊躇いもなく宣言した。 

 









 海鳴市西町の辺鄙な一画にある場所。
 八束神社と呼ばれる神社。ゆうに百段を超える階段を登らなければならず、若干住宅から離れているために訪れる人が少ないと思われがちだが安産祈願の神社ということもありそれなりにお参りに来る人は多い。

 階段を登りきった先、幾つかの鳥居を越えて神社が存在する。ここの神主はすでにかなりの高齢で滅多に顔をだすことはないという。代わりに、境内の掃除を普段からやっているのが可愛いと評判の巫女である。
 少々どじなところがあり何もない場所で転んでいるのを幾人かの参拝客が目撃したという。ようするに、神咲那美のことであるのだが。

 その那美が今日も八束神社の境内にいた。普段なら箒で境内を掃いているのだが、今日は珍しく掃除をするでもなく、神社の奥にある鬱葱とした木々の奥を黙って見つめていた。

「くぅん」

 そんな那美と若干離れた場所に小さな子狐がいた。金色の毛並みが夕陽に映える美しい子狐だ。首に小さな鈴をつけている。その子狐も那美と同じく森の奥を心配そうに伺っていた。
 子狐があげた声。それが那美の耳に届き、那美は森の奥へと向けていた視線を子狐にあわせた。

「美由希さんの邪魔をしちゃ駄目だよ~久遠」
「……くぅん」
 
 少しだけ苦笑したようにそう言った那美に呼びかけられた久遠という名の子狐は不満そうに一鳴きして野生動物らしい俊敏な動きで那美のもとへと駆け寄ってくる。
 すりすりと那美の足に頬をすりよせる久遠の瞳は揺れていた。
 そんな久遠を持ち上げて自分と同じ目線まで引き上げると、那美はにこりと一切の不安も感じさせない笑みを浮かべる。

「大丈夫だよ、久遠。美由希さんは強い人だから」
「……くぅん」

 久遠を力いっぱい抱きしめると那美は森を見つめた。
 今は見えないが、その先にいるであろう自分の親友を思い描いて、祈るように。
 それに倣うように久遠もまた、木々の先を見つめるのであった。



























 那美と久遠が居る神社の境内から離れること数百メートル。
 鬱蒼とした木々を抜けた先、美由希と恭也が鍛錬を行う場所に美由希は居た。
 そこは他の場所とは異なり直径にして数メートルほどではあるが、木々は取り除かれた空間となっている。二人が素振りや筋力トレーニングを行うために整理した場所だ。
 
 勿論、実戦を想定した試合もそこで行うが、大抵はこの広々とした森全体を使用する。常にひらけた空間で戦えるわけではないからだ。というか、御神流は元は暗殺を生業としていた一族。
 それが時代の流れに乗って暗殺業から護衛の仕事へとシフトしていったのだから基本的には室内での戦闘を想定していることのほうが多い。
 それ故に小太刀を扱っている。屋内の狭い空間で刀をふるうことは難しい。少しでも戦いやすいようにと小太刀へと変化し、暗器なども取り入れてきたのだ。

 美由希は地面に正座をしていた。その膝の前には二刀の小太刀を並べている。
 もし美由希を見ている者がいたならば思わず見惚れてしまうような美しい姿であった。容姿ではなく、その正座をしている姿が美しいのである。……無論美由希自身大変可愛らしい女性であるのだが、なにぶんやぼったい眼鏡をかけているのでその魅力に気づいている人間は身内のみに限られている。
 それと恭也の唯一の親友とも言うべき赤星勇吾も加えなければならないだろうが。
  
 そんな美由希は彫刻のように僅かな動きもなく、瞑想していた。僅かに聞こえるかすれるような呼吸音。それさえなければ美由希が本当にいきているのかどうか不安に見えることだろう。
 チチチッとどこかで鳥の鳴く声が聞こえる。カサカサと小動物が茂みを揺らす音が響く。風が巨大な木々の葉を揺らす。
 そんな世界で美由希は自然と一体になっていた。美由希は動物に好かれにくい体質である。だが、今ならば何の不安もなく、動物達は美由希のもとへと寄ってくるだろう。

 瞑想をしている美由希の心の底。深い深い心の中。
 漆黒が支配するその世界に美由希は居た。周囲は一切の闇。光一つとない空間。

 そこに降り立った美由希は確かめるでもなく、理解していた。ここに彼女がいるのだということを。
 あの、桁外れというに相応しい人外なる存在がいるということを確信していた。

 そう確信を持った瞬間、闇が収束していく。音もたてずに、美由希の眼前に集まっていった闇が人の形を取り始める。
 そして、美由希の僅か一メートル程前に彼女が現れた。

 艶やかで長い黒髪。それとは正反対の白磁のような肌。氷のように冷たい表情。だが、本能的に見惚れてしまうような顔立ち。この闇なる世界では場違いのように感じる大きめの和服姿。
 見かけだけでは想像できないような剣士。絶対的なる強者。美由希の知る限り最強の存在。師であるあの恭也さえ上回るであろうその次元が異なる技量。
 御神流を体言すると豪語する言葉も納得せざるをえないほどの存在。神速のさらなる先の世界へと足を踏み入れた天守翼を一蹴した者。
 その瞳で睨まれただけで美由希は体が竦んだように動きが取れない。吐き気がしてくるほどの威圧感。気を抜けば気を失うことになるのは火を見るよりも明らかであった。

 そんな【御神】が突如としてその氷の表情を崩す。
 嬉しそうに笑みを浮かべ、両手を広げた。

「素晴らしいのぅ。御神宗家の娘よ。否、そろそろ御神美由希と呼ばねばなるまいて」
「……」

 コロコロと鈴がなるような美しい声。思わず魅了されてしまいそうになるほどの魅力をその声に宿していた。
 それに美由希の想像していたのとは全く異なる【御神】の反応に少し気味が悪いものを感じる。

「妾は嬉しいのよ。齢十七にしてこの妾と対話できる存在がいるとは夢にもおもわなんだ。そのような者、御神の歴史を遡っても存在せぬよ。お主は知らぬかもしれんが、かの才媛、御神琴絵でさえも二十を越えてようやくといったところであったのにのぅ」
「御神琴絵、さん?」

 【御神】の口から出た人物に美由希が辛うじて反応する。その名前に聞き覚えがあったからだ。
 恭也から聞いたことがあるその名前。父である静馬の姉である女性。御神流最盛期であったとされるその時代において、体さえ病弱でなかったならば歴代最強の御神の剣士の称号を掴み取れたであろう女性。
 あの恭也がかつて語った四人の天才。その四人を凌駕しかねないと言った事がある。幼き頃の恭也では琴絵の全てを把握できなかったと苦笑して語ったのだ。

「あ奴もまた随分と外れた娘ではあったがのぅ。生きていればどうなったものか……今更想像しても仕方のないことではあるが」

 額に手をあてて、ふぅと疲れたようにため息をつく【御神】。
 外見とは裏腹になんとも人間臭い【御神】に正直少しだけ安堵する。
 漫画や小説では大抵このような霊とは憑いている人間を呪い殺すなど、縁起でもないことをしでかすものだからだ。

「貴方にどうしても言いたいことがあったんです」
「ふむ。何かのぅ?妾に答えられることならば偽らず答えようぞ。ほかならぬ妾の宿主の問いなのだから」

 妖艶に笑う【御神】に対して、美由希は息を深く吸う。下腹に力をいれて、一気に全てを吐き出すように、美由希は高らかに叫んだ。、

「……私は、貴女を超えてみせる!!」
「……」
「私と天守さんの戦いのときは確かに救われました!!感謝します!!でも、あれは私の戦いです!!私は、私は、私は!!私はーーーーーーーーーー!!」

 ズズズッと音が聞こえるほどの、禍々しい質量をもった気が美由希の周囲を漂いはじめる。周囲の闇を打ち払うほどの鬼気。
 反射的に【御神】が顔を歪めるほどの歪んだ威圧感。先日の天守翼との戦いとは明らかに質が異なっている。
 美由希もまた、翼との戦いでその世界を引き上げられたのだ。翼が【御神】と戦い、新しい扉を開いたように。

「私は、私の弱さを打ち倒し、貴女の世界を超えてみせる!!」
「……」

 【御神】が返すのは沈黙。まるで予想外のことを言われたように、呆けた顔で美由希を見返していた。
 対する美由希は視線鋭く、【御神】を射抜いている。二人の視線がぶつかりあうこと、十数秒。周囲の沈黙が支配する空間に響くように妙な声が聞こえた。

「……くっ……ふっふっふ……」

 それは押し殺すような笑い声だった。

「くはははははははははっ!!あははははははははははははは!!」

 やがてそれは周囲を満たす狂笑となった。我慢できないといわんばかりに、【御神】は腹を押さえて笑っていた。
 こんな愉快なことはない。御神流の歴史のなかで、楽しいことや悲しいことなどいくらでもあった。だが、これほどまでに面白いと思えたことなどあっただろうか!!
 【御神】にとって、自分は御神の者達に畏怖され、崇められるのが常であった。崇拝の対象。一種の信仰の象徴ともいえる自分にたいして、このような発言とも暴言ともとれることを真正面から言われたことなどあっただろうか!!
 あるはずがない!!考えたことさえもない!!在り得るはずがないのだ!!
 だというのに……そうだというのに、この少女は、御神美由希は……!!

「くふふ……!!良いのぅ、お主は最高じゃよ!!だがのぅ、力を伴わなければ所詮お主のそれは理想に過ぎぬよ」
「……分かっています。だからこそここで宣言します。私は貴女を必ず超える、と」
「……全くもって、この時代は外れた逸材ばかり存在するのぅ。いやはや、実に素晴らしいよ」

 そういって【御神】は目元に浮かんでいた涙を拭う。これだけ笑ったのは何時以来であろうか。いや、むしろ初めてかもしれない。
 笑うことはあっただろう。だが、ここまで我を忘れたかのように、声を上げて笑うことなどなかった。
 
 そんな【御神】を置いて、美由希は眼をつぶった。これで自分の言いたいことは終わりだと、そういう態度であった。
 それに若干慌てたのは【御神】だ。

「まさか、それだけを妾に言いにきただけだではあるまい?妾に何か聞きに来たのではないのか?」
「私は貴女の歴史にも、貴女の存在理由にも興味はありません……というのは少しだけ嘘ですけど。貴女を超えたその時に、全てを教えてください」
「……なんともはや面白い娘よ」

 苦笑。それしかできない【御神】であった。
 自分に戦いを任せればそれだけで戦闘というものはこと足りるのだ。最強というに相応しい、自分にさえ頼れば美由希は今すぐにでも、文字通り世界最高峰の存在になれるのだ。
 過去、御神の長い歴史において、【御神】を宿したが故に、驕った者もいた。御神に頼りきる者もいた。

 だがしかし、美由希は違う。【御神】に頼ることなど僅かたりとも考えてはいない。
 【御神】を超えることを目標に、自分を鍛え続けるつもりだ。無理だとか無茶だとか、そのようなことを一切感じていない。
 できる、と信じているのだ。必ず超えられると。
 愚直なまでに真っ直ぐでありながら、どこか禍々しいその気配。正か負か。一歩間違えればどちらに転ぶかも分からない。その純粋さ。

「……愉しみにしておるよ、御神美由希よ。それと不破の子倅にも宜しく頼むよ」

 そう苦笑気味にもらした【御神】の言葉が美由希に届いたその瞬間、世界は光に包まれた。
 眼を空けたその時、焼け付くような太陽の光が美由希を満たす。思わず反射的に薄めになる。数秒で目が慣れ、太陽の光が僅かにオレンジ色をさしているのに気づく。

 周囲は薄暗い木々。その隙間から差し込むのは夕陽の光であった。もう冬も近い季節のせいか、太陽が沈むのも随分と早くなったようだ。
 それに加えて、肌寒い。今年は異常気象のせいか、夏は真夏日ばかりで鍛錬も苦労した嫌な日々を思い出す。秋も例年に比べて暑かったが、流石に冬になるとそのようなこともなく、息が白くなってきている。

「……ふぅ」

 肺のなかにたまっていた息を吐き出す。寒いはずなのに頬を伝っていた汗を手で拭った。
 【御神】に会ったのはほんの短い時間だ。だというのにかなりの体力を消耗していた。【御神】には強きの態度を取ったが、それは虚勢であった。
 あのバケモノを前にして声も震わせずに相対することができた自分に少しだけ美由希は満足する。

 まだまだ自分程度の腕ではあの存在には届かない。
 それでも、上を見て歩かなければならないのだ。自分はあの高町恭也の弟子なのだから。
 だれよりも強くあらねばならないのだ。師が望むように、誰よりも何よりも、最強に近づかなければならないのだ。
  
 ゆっくりと正座から立ち上がると、両手を合わせて空に向かって伸びをする。
 ポキポキと骨がなる音がして少し気持ちいい。
 深く深呼吸をすると地面に置いてあった小太刀を拾い袋に入れた。

「そろそろ帰ろうかな。今日の晩御飯はレンだったっけ。楽しみだな~」

 



























「俺の、馬鹿!!俺の、大馬鹿!!」

 辺りは既に太陽が沈みつつあり、暗闇が支配するようになる時間帯。街灯が道路を照らす。
 その道路を晶は走っていた。背中に背負うのは高町なのは。彼女の妹ともいえる存在。
 普段は天真爛漫というに相応しい笑顔をふりまき、高町家に安らぎを与えてくれる少女が今は意識がなく、ぐったりとした様子で晶に背負われている。

 晶の耳に届くのは弱弱しい呼吸音。
 ギリギリと奥歯を噛み締める。砕けても構うものかといわんばかりに。そうでもしなければ我慢できなかった。
 
 このような惨劇を招いたあの男を晶は呪っていた。なのはのような年端もいかない少女を容赦なく蹴り飛ばすなど、明らかに正常な人間ができることではない。
 そして、もう一つ許せない者がいた。それは……。

「ん?どうした、晶?」
「っ……ゆ、勇兄ぃ」

 突如として声をかけられて反射的に晶は止まった。そして振り向いてみればそこにいたのは風芽丘学園の制服をきた人の良さそうな青年。
 激走している晶を呼び止めたこの青年の名前は赤星勇吾。
 恭也とは数年来の腐れ縁であり、そして間違いなく親友であり、剣の友である。晶とも長い付き合いであり、草間一刀流という剣道を習っている。

「俺は今日の鍛錬が終わった帰りなんだけど、どうかしたのか?」
「勇兄ぃ……なのちゃんが、なのちゃんが……」
「なのはちゃんがどうかしたの―――っ!?」

 薄暗いせいで赤星も晶に背負われているなのはの様子に気づいていなかったようだが、晶の尋常ではない様子と、近づいて見たなのはの意識がない姿を見た途端、ただ事ではないことにようやく気づいた。

「なのはちゃんは一体どうしたんだ!?高い所からでも落ちたのか!?」
「……勇兄、なのちゃんのこと頼みます」

 晶はおもいっきり首を横に振る。
 そして晶はなのはを赤星に託すように渡す。壊れ物をあつかうかのように優しく慎重に。
 赤星はわけも分からないままなのはを受け取ると、元きた道を戻ろうとする晶の肩に手をかけて引き止めた。

「待つんだ、晶。お前は……」

 肩に手をあてて赤星は気づいた。晶はガタガタと小刻みに震えていることに。
 寒いからではない。良く見ればガチガチと歯が鳴っている。それは……赤星にも経験があることだからすぐに理解できた。

 晶が抱いている感情。それはつまり……恐怖。決して拭えぬ、人の根源に染み付いた感情。
 かつて自分が願い、本気の恭也と打ち合い、叩きのめされ、味わったそれ。だが、自分の親友がそれほどの高みにいるのだと、人はどこまでも強くなれるのだと、身を持って教えてくれたあの時に、感謝とともに身に刻んだ感情。

「やめるんだ、晶。今のお前では……」

 そこで赤星は言葉を飲み込んだ。晶の怯えた瞳と向かい合い、だが、怯えながらも退かぬであろう光を奥底に見たから。
 自分がかつて恐怖を覚えたとき、克服するのにどれだけかかっただろうか。少なくとも一週間や二週間では足りなかったはずだ。
 
 悩んで苦しんで、師に教えを請いて、夜も眠らずに自分を見つめなおして……。
 いっそのこと剣を置こうと何度考えたことか。

 そんな自分を立ち直らせてくれたのはやはり己の友であった。恐怖を刻み込んだ恭也が、赤星に立ち直る道へと導いてくれた。
 経験したからこそ分かるのだ。心が折れた状態で、何が出来るというのか。戦うことなどできはしまい。
 晶になにがあったかわからない。なのはの様子からただ事ではないのはわかる。きっと誰かに傷つけられたのだろう。
 晶はそれに向かっていこうとしているのだ。こんな状態で!!

 無茶だとしかおもえない。どのような相手かわからない。それでもきっと相当な兵なのだろう。
 そんな相手に今の晶が立ち向かってどうかなるとは思えない。
 だからこそ、赤星は晶を止めようとした。引き止めようとする言葉が喉からでようとした瞬間に、晶が口を開いた。

「おれ、は……俺が許せないんだっ!!」
「あき……ら?」

 吐き出すような熱量を持った言葉だった。
 晶は呪っていた。相馬を。そして自分自身を。

 なのはが蹴り飛ばされたとき一番近くにいたのは誰だ?
 自分だ。

 なのはが傷つけられたとき何をしていた?
 相手の殺気に怯えていただけだ。

 レンが二人相手に戦おうとしたとき何をした?
 なのはをつれて逃げ出すことしか出来なかった。

 晶は恐怖に負けたのだ。相馬の禍々しい殺気に怯えたのだ。
 恐怖に負けてなのはを守れなかった!!
 レンを置き去りに逃げ出した!!

「俺、は……いくよ、勇兄。だからなのちゃんのことをお願いします」

 泣きそうな顔で、そう赤星に願う晶。普段とは正反対のその晶の様子に赤星が止めようとして……言葉を呑んだ。
 俺では止められない……そう赤星は感じた。
 無力感。それが赤星を包み込む。
 
 赤星をその場において走り出す晶。遠目にでも分かる。
 怒っていても、憎しみを抱いていても、晶は怯えているのだ。恐らく戦っても決して勝てぬであろう相手だと分かっているというのに。

「ああ、くそっ。お前はなんでそんなに真っ直ぐなんだよ!!」

 外見には似合わない台詞を吐き捨てて、赤星は海鳴大学病院の方向へと走る。なのはを抱いて。
 そして制服のポケットから器用に携帯電話をだすと操作して電話帳に登録している番号へとかける。

「高町ぃいいいいい!!今日は一回で出てくれよ!!」




  

 
 
   



















 海鳴大学病院という病院がある。海鳴に住む者にとってはいきつけの病院であり、様々な人が通っている。
 高町家でも長女的存在であるフィアッセ・クリステラが遺伝子科に通院していた。最近は本業のシンガーのほうで世界中をかけまわっているため通っていないのだが。
 他にもレンが心臓外科でお世話になっていたのだが、去年ようやく手術で完治。その後の術後経過を見るたびに稀に通っているくらいだ。
 そして恭也と美由希は整体科。尋常ではないハードな鍛錬を行う二人にとって、整体は欠かせない。
 そんな海鳴大学病院の一画にて……修羅があった。

「ぅぐぅううぉおおおおおお……!!」

 バキィバキィと骨が軋む音が病室に響き渡る。
 悲鳴とも苦悶の声とも判別つかない音が恭也の口から漏れ出ていた。

「せーの♪」
「っっ……!!」

 可愛らしい声とともに再びメキメキという不気味な音が高鳴る。
 診察室の隅。白いベッドの上に寝転がっている恭也の上に跨るように銀髪の妖精が少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべて整体を行っていた。
 
 あの恭也があまりの痛みに声を押し殺すのがやっとである。その痛みはおしてしるべし。
 美由希は初めてこの銀髪の妖精……フィリス・矢沢医師の整体を受けたときあまりの凄まじさに悶絶したほどである。

 身長およそ153センチ。その小柄な体のどこからそんな力がでてくるのかと疑問を覚える余裕もなく、この地獄の整体は続いていく。
 ルンルン気分で恭也にマッサージする姿は銀髪の悪魔の方がある意味相応しいかもしれない。
 この光景を初めて見た看護師は大抵、怯えて逃げ出してしまう。が、なれてくるとすでにある種の名物ともいえる光景になっている。
 流石にこのような整体は恭也と美由希にしかしていない。というか、普通の人にしたら全身の骨が折れそうである。
  
「はーい。お終いですよ。お疲れ様です、恭也くん♪」
「あ、有難うございました……」

 
 跨っていた恭也から降りると、スリッパを履いて部屋の隅っこにある机へと向かうフィリス。
 対して恭也は息も絶え絶えという感じで、ベッドからよろよろと立ち上がろうとするが、まだ痛むのか腰掛けるにとどまった。
 ぜぇぜぇという激しい呼吸を整えるように深呼吸をする恭也。

「恭也くん、ココア飲みますか?それとも何時もどおりお茶のほうが良いです?」
「……何時も有難うございます。緑茶のほうをお願いします」
「はーい。少し待っててくださいね」

 フィリスは機嫌良さそうにそう答えると恭也専用に置いてある湯飲みに急須からお茶を注ぐ。
 湯飲みを両手で大切そうに抱えて、恭也の元へと寄ってきた。
 恭也はそれを受け取ると一口だけ口をつける。入れたばかりなので熱いが……恭也にとってはそれくらいで丁度いい。
 喉を刺激する緑茶。鼻に香る匂い。

「ふぅ……美味しいです」
「そうですか?よかったです、恭也くんに喜んでもらえて」

 ふふっと嬉しそうに笑うフィリス。
 だが、熱い緑茶を飲む恭也を見ているフィリスがぶぅと不満そうに頬を膨らませた。

「どうしてそんな熱い飲み物を飲めるんですか。ちょっと羨ましいです」
「……そういえば俺はあまりきになりませんね」
「私なんか凄い猫舌なんですよ……だからココアもちょっと冷やさないと飲めないんです」

 そうフィリス言うとふぅふぅと湯気を立てているコップのココアに息を吹きかけるとコクリと口に含む。

「……っ」

 それでもまだ熱かったのかビクリと慌ててコップから口を離すフィリス。
 舌を少し口からだして涙目になる姿は小動物っぽくて庇護欲をかきたてる。流石に看護師の間でも海鳴大学病院で一番妹にしたい女性に選ばれただけはある。

 ようやく飲める熱さになったのかちびちびとココアを飲んでいくフィリスに対してすでに恭也は緑茶を飲み干していた。 
 視線で恭也におかわりする?と聞いてきたフィリスに首を振って恭也は答えた。
 すでに一年以上の付き合いである恭也とフィリスはアイコンタクトもお手の物だ。
 ……いや、たった一年でそれだけできるようになったのならば、逆に凄すぎるのかもしれない。

「最近は恭也くんもきちんときてくれるようになって嬉しいです」

 コップを机に置くとにこりと綺麗な笑みを浮かべて恭也に語りかける。
 そして自分がいった言葉に気づいて慌てたように両手を振った。

「あ、あの違うんです。嬉しいというのは、あの病院嫌いの恭也くんがきちんと整体を受けに来てくれるからであって、あの、深い意味はないんです。あ、でも恭也くんがきてくれて一緒に居られるのは心が落ち着くといいますか、あのそのー」
「……落ち着いてください、フィリス先生」
「は、はい!!そ、そうですね、落ち着きます」

 フィリスと会った初めてのときは落ち着いた女性だと思ったが付き合いが深くなるにつれて、子供っぽい所が多いことに気づいた。
 何時ごろからか突如として暴走しはじめるフィリスに最初は面食らったが、最近ではフィリスの扱いもお手の物になった恭也である。

 身体中の痛みが取れた恭也が立ち上がる。コキコキと首を鳴らし、軽く身体中を動かしてみるが、先ほどまでの痛みはもうなくなっていた。
 それどころか整体を受ける前まで感じていた違和感も消失している。これがフィリスマジックとも言う整体の不思議な所だ。
 どこをどうみても骨が折れたかのような衝撃と痛みを伴う整体のくせに、終わった後に残るのは健康な状態そのもの。こればかりは首を捻るしかない。
 
 ふと外を見ると窓からみえるのは薄暗い世界。
 随分と日が落ちるのも早くなったものだと、少しだけ季節の移り変わりに感傷を感じる。

 時計を見ると18時を若干回ったところのようだ。恭也の前に居た他の患者を待ってたために遅くなってしまったのだ。
 今日は早く帰るとなのは達と約束していたので、かけておいた制服を着る。

「では、そろそろ俺は帰りますね」
「あ、はい。また来てくださいね、恭也くん」
「……はい。またお願いします」
「その間が気になりますが、待ってますよ」

 笑顔のフィリスに見送られ、恭也は軽くなった身体と次回の整体のことを考えて重くなった肩で海鳴大学病院を後にした。
 もう時間も時間なので病院へと向かう人は少ない。

 一人病院から遠ざかっていく恭也。
 そんな恭也の首筋にチリチリとした嫌な感覚を覚えた。
 第六感ともいうべきもの。恭也の様々な死地を救ってきた勘。それが最大限に恭也に警鐘を告げていた。

 死刑執行者との戦いの後、ここ一ヶ月は何も危険なことなどなかったために緩んでいたその気を引き締めた。
 何時でもどのような奇襲をかけられても対応できるように周囲を警戒。周囲の気配を油断なく窺うが、差し迫った危険がないことに息をつく。

 そして……新たなる戦いの火蓋をきることになる、携帯の着信が周囲の静寂を破るかのように高鳴った。


















  










[30788] 旧作 御神と不破 三章 中編
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/06/07 01:29

「くっく……すげぇな、小娘」
 
 相馬と宴と幾らかの距離を取って構えているレンを評価するのならば素晴らしいの一言だろう。相馬とて例外ではなく、レンのことを素直にそう賞賛した。
 見たところ年の頃良いところ十三か十四。大きく外していることはないはずである。
 その歳の少女が相馬をここまで驚かせ、立ち姿に見惚れさせることなど今までの生涯を思い返してもあったであろうか。
 正直な話、たった一人だけだ。御神琴絵ただ一人。己の姉であり、天性の才能をもった御神の異才。

 レンはその琴絵を思い出させるほどのモノであったのだ。
 見るだけで分かる絶対的なまでの才。あらゆる凡人の夢や願い、そして努力を奈落に突き落とすであろうほどの極み。
 それをこんな日本の片隅で見つけることになろうとは予想だにしていなかった。

 恐らく後数年もすれば間違いなくその名を世界に轟かすことができるだろう。
 近いうちに五指拳に数えられてもおかしくはない。あの、巻島十蔵をも凌駕しかねない素材。
 そんなレンを前にして相馬の口元に浮かんだのは皮肉気に歪んだ笑みであった。
 
 確かに凄まじいまでの才能だ。
 剣才と武才。方向性が違うので比べることは可笑しいのかもしれない。
 それでもレンから感じるのは、或いはあの琴絵をも凌駕しかねない圧倒的なまでの才覚。
 凡人が一をいくあいだに百をいけるほどの天才。
 まさに……神に愛された才能。

 だが、俺の前に立つにはまだ早すぎる!!

「運がなかったな。今のお前では俺にはおよばねぇよ」
「……」

 相馬の嘲笑に対してレンは無言。
 僅かな隙も作らぬように、僅かな隙も逃さぬように、レンは極限にまで集中していた。
 そんなレンを面白そうに窺う相馬が、足を踏み出そうとして何かを思いついたように視線を横にずらした。
 その隙を狙うかのようにレンが動き出そうとしたが、足が踏み出せない。

 確かに視線をレンからずらしてはいるが、あれは隙ではない。
 もし踏み込み相馬にむかっていたならば、斬り倒される。そんなイメージがレンの頭に浮かんだ。

 相馬の視線の先にはポリポリと頬をかいている宴の姿があった。
 視線が自分に向いたと分かった宴が不思議そうな表情で首を捻る。
 疑問符が周囲に浮かんでいそうな表情であった。

「丁度良い。宴、お前あいつとやれ」
「ええ?いいのかにー?おとーさまの相手取っちゃって?」
「構わんよ。確かに面白そうな相手ではあるが……まだ青い」
「よーし!!宴ちゃん頑張っちゃうぞー」

 左手を右肩において、ぐるぐると回す。芝居がかったその様子に相馬は失笑した。
 そして、相馬はもう一つ宴に付け加える。

「ああ。武器は使うな。無論暗器もな」
「……ハィイ?」
「素手でそいつを倒して見せろ」
「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや!!何その罰ゲーム!?」

 首を激しく横に振るう宴。
 勿論武器を使わない戦闘方法は嫌というほど叩き込まれている。だが、結局の所宴の得意とするのは小太刀を使った剣術だ。
 それに対してレンは一目見れば分かるが無手の、恐らく中国武術を得意としている。
 つまり相馬はこういっているのだ。
 ハンデありでレンを倒せ、と。

「それはちょっと厳しいかなー、なんて宴は思っちゃうわけなんですが?」
「いいからさっさとやれ。安心しろ、骨は拾ってやる」
「全然安心できないんですけどぉぉぉぉおおお!?」

 宴の反論を一蹴すると相馬は近くにあった庭石に腰掛ける。
 そんな相馬の様子に幾ら反論しても無駄だと悟った宴はため息をつくと改めてレンに向き直る。
 視線鋭いレンの姿に宴は再度ためいきをつくと、首を軽く捻った。

「おとーさまは相変わらず何考えてるかわかんないんだけど……こうなったら仕方ないですかねー。私が相手しますよ。私は御神宴。よろしくですよ、異端の天才さん」
「……み、かみ?」

 反射的に聞き返すレン。
 今目の前の少女はなんと言ったのか。聞き間違いなのか?
 違う。本当はしっかりと聞き取れたのだ。
 確かに目の前の少女はこう名乗ったのだ、御神と。

 これは偶然なのか。そんなわけがあるはずがない。
 御神などという苗字がそこらに転がっているほどありふれたものではない。
 それに、向かい合うだけで分かる桁外れの強者。

 なのはへの暴行に加え、この吐き気を催すかのような血の匂い。
 相馬から感じるのはどう見ても友好的な態度ではない。
 明らかにこちらを……殺しに来ている。宴のほうは正直良く分からないのだが。

 考え付くことの結論は唯一つ。
 この二人は恭也の敵ということだ!!

「っ……」

 宴が息を呑む。
 レンが確信を持った瞬間、さらに気配の質と量が変化したのだ。
 恭也の敵だと理解した瞬間にレンの意識は極限にまで研ぎ澄まされた。
 ここで止める、と。自分がここから先には行かせるものか、と。

 太陽が沈みつつあり、薄暗くなった周囲。
 だがはっきりと二人は互いを感じ取っていた。
 分かるのだ。実力が下手に拮抗しているぶん、僅かでも集中力を切らしたほうが負けると。

 そんな二人を離れた場所から見ている相馬は口元をゆがめている。
 二人の力は確かに拮抗しているように見えるかもしれない。例え武器を使用しないとはいえ、無手の宴の実力は桁外れだ。
 その宴に匹敵するレンの方こそ異常なのだと相馬は評価する。

 それでも、宴のほうが確実に強い。そして全力で十回戦えば九回は宴が勝つ。
 それだけの差が二人の間には横たわっているのだ。

 だからこそ相馬は宴とレンを戦わせようとしたのだ。
 油断すれば負ける。僅かな油断もなく、集中力を切らさずに戦ってようやく勝ちを拾える相手。それほどの敵。
 その戦いでの経験値は計り知れない。百度の格下の敵との戦いよりよっぽど経験となる。

 睨み合う事一分。
 二人は互いに牽制しあって動こうとしない。
 それに痺れをきらしたのは向かい合っている宴とレンではなく、腰掛けている相馬であった。
 服のポケットに手を突っ込むとジャラジャラという金属音が聞こえた。先ほど自販機で飲み物を買ったときのお釣りを入れていたのをふと思い出す。
 
 その中から百円を取り出すと右手の親指で弾く。奇妙な音をたてて空へ弾き飛ばされる。
 クルクルと幾度も回転を繰り返し、放物線を描きながら宴とレンの丁度中間へと落ちていく。

 その落ちていく速度が二人にはスローモーションのようにも見えた。
 そして、その百円が重力に負けて地面に落ちた丁度その瞬間、二人が動いた。

 聞こえたのは地面を蹴った音だけだった。
 二人が丁度中間で交差する。放たれた拳を二人とも防ぐわけでもなく、紙一重でかわして見せた。

 互いの耳に聞こえたのは拳が空気を引き裂く音。ミリ単位で互いの拳が自分の顔の真横を通ったのに全くの躊躇いもなかった。
 拳を引き戻す間もなく、宴の蹴り足が跳ね上がる。狙いは一目瞭然。レンの顎先に襲い掛かる剣のように鋭い蹴り足。
 それを予想通りといわんばかりに上半身を反らして避ける。そのままレンは宴に踏み込もうとして、その場にとどまった。

 それはレンの本能がなせる勘だったのか。跳ね上がった蹴り足が踵落しとなって同じ軌道を描いて落ちてきたのだから。
 ゾクリとレンの背筋が泡立った。普段晶と戦っているときとは全く異なる戦闘。
 一歩間違えれば確実に死ぬ。それだけの気迫と力が宴の攻撃には宿っていた。

 そんなレンの思考を押しつぶすように、流れるような動きで振るわれる裏拳。
 その裏拳を受け止めようとして、再度本能が警鐘をあげた。その一撃を受け止めるな、と。そう頭の中で叫んだような気がした。

 やや強引に上体を下げる。頭の上を通り過ぎる拳。
 見るだけならば、受け止めることなど容易いかもしれない。だが、その拳に秘められた威力にレンは気づいた。
 幾度となく見た、恭也と美由希の戦い。その中で使われていた技術。
 衝撃を相手に完全に徹す技。徹と恭也達が呼んでいたそれが、宴の拳に眠っていたのだ。

 ガードは不可能。例え打撃を防いだとしても、防いだその上から伝わる衝撃までは防ぎきれない。
 なんともはや、レンにとって随分と不利な状況であった。
 だが、レンの瞳に揺らぎはない。その視線は鋭く宴を射抜いたままだ。

 防ぐこともできないのならば、全てかわしきればいいだけ。
 それがレンの辿りついた答えであった。

 高町家の空間を打つのは、二人の無言の気合。
 地面の土がめくれ、上に向かって弾けとんだ。それはレンが地面を蹴った衝撃だった。
 瞬間移動というに相応しい速度で肉薄したレンにたいして、宴は僅かな驚きとともに、レンの顔に向かってカウンターとなる正拳を放った。

 しかし、レンはその拳を再度首の脇へと流しつつ、その宴の腕の半ばに片手をあてる。
 その瞬間、がくりと宴が体勢を崩したかのように前のめりとなった。それはレンが片手をあてたと同時に服を引いたからだ。

 そのままレンは宴を引き寄せるように引っ張る。そのまま空いている片手で宴の喉に向かって突き上げた。
 常人では何が起こったか理解できるはずもない一瞬の攻防。その一撃が宴に決まるかと思われた。
 その瞬間、レンの世界が回った。比喩ではなく現実に、だ。
 
 空が下に。大地が上に。宴の姿も上下逆に。視界の端に映る高町家もまた普段とは正反対に。
 一拍の間もおかずにレンは理解した。自分が投げられたのだと。

 どちらが地面なのか普通ならば分かるはずもない。しかし、レンの常人離れした平衡感覚が平常な世界を取り戻そうと、反射的に両足が大地を掴んだ。
 それに驚いたのは宴だ。まさか受身を取るどころか、一瞬で体勢を整えるとは思ってもいなかった。

 地面に蹲ったような状態から、レンが後ろへと僅かに跳んだ。
 追撃にと放った回し蹴りがレンの居た空間を薙ぎ払っていた。その動きに舌を巻く。

 そして、その薙ぎ払った回し蹴りに手を当てたレン。嫌な予感が宴を襲った。
 まさか、と宴がそんなレンの動作に驚く間もなく―――宴の世界が回転する。
 先ほどのレンと真逆。今度は宴の世界が上下へと変化した。

「っこの程度ぉぉお!!」

 リプレイを見るかのように宴もまた空中で回転。ざざっと地面をこする音をたてて宴が地面に降り立つ。
 ほっとする間もなく宴の背筋を悪寒が襲う。視界には居ないのだ。己と戦っているレンが。
  
 とんっと軽く何かが背中に押し当てられる音と感覚。
 反射的に強張る全身の筋肉。

「これで―――終いや」

 爆発的な踏み込みとともに打ち出される拳。あまりに強く踏み込んだために地面に靴がめり込んでいた。
 その拳が宴の背中を穿ち貫こうとした刹那、レンは信じられないものを見る。
 レンが放とうとした、否、はなった拳よりなお速く、宴がその場から姿を消していた。

 いや、見える。その場から跳躍。突き出されたレンの腕を後ろ手に掴むと、空中で華麗に回転して、そのまま蹴り足がレンに向かって降り注いだ。
 レンは強引に宴の手を切ると前方に転がるように逃れた。

 宴は追撃をするでもなく、転がって即座に体勢を整えたレンを見ていた。
 その胸中にあるのは、純粋な尊敬。
 自分よりも年下であるにもかかわらず、ここまで己と渡り合える相手はこれまで存在していなかった。
 それは、刀を使わない状況でも例外ではない。
 相馬に叩き込まれた武は、それほど安っぽいものではないのだ。

 或いは目の前の少女は自分よりも過酷な鍛錬を行っているのか……と疑問がわく。
 そしてそれを宴は否定した。
 確かに鍛錬は行っているのだろう。だが、それはあくまで常識の範囲内で、だ。
 この少女は、鳳蓮飛は、単純な才能だけで自分と渡り合っているという事実。

 その事実を知ってなお、宴はレンのことを凄いと思った。
 宴もまた、恭也と同じように、レンの底知れぬ才に、嫉妬ではなく尊敬を覚えたのだ。

「さぁ、続きをしようよ!!キミの力を!!私に見せつけてよ!!」
「……!!」

 嬉しそうに笑い、誘うように両手を広げた宴に対して、レンは無言のまま立ち向かった。
 そんな二人の戦いを見ている相馬から笑みが消えていた。それとは逆に訝しげな表情で首を捻る。

 ……おかしい。

 そう相馬は考え込むように掌で口元を隠すようにして視線をレンに向ける。
 目の前で行われる高速の戦い。
 二人の戦う姿が昇華され、演舞にも見える美しい戦い。
 宴の攻撃を悉くかわしきる、レンの見切り。それは素晴らしいの一言だ。
 
 宴の攻撃を避け、受け流し、一撃たりとももらってはいない。勿論それだけではない。さらには僅かな隙ともいえない間に反撃まで加えている。
 それに対して宴は悔しがるでもなく、レンのその行動に嬉しそうに反応している。顔は笑っているが、手を抜いてるとかそのようなことは一切ない。

 正真正銘の全力。
 無手とはいえ御神宴の全力をレンは捌ききっているのだ。
 相馬の読みでは、レンはここまでではなかったはずだ。
 確かに強いが―――宴の猛攻をあそこまで完全に捌くことができるとは予想もしていなかった。
 
「俺が、読み間違えた、か?」

 ぽつりと思わずもらしたその言葉。
 それは確かに珍しいかもしれない。この十数年、数多の猛者と戦い続けてきた相馬が相手の力量を見誤るなど滅多にない。
 大概の相手は力量をかくしていることも多いが、それでも相手がどれくらいの力を隠しているかそれなりにわかる。
 だが、レンは最初から全力だったのだ。隠す必要もないと、宴と相馬の前に立ち塞がったのだから。

 だというのにレンの力量を見誤ったということは腑に落ちない。
 何か、何か大きな落とし穴を見過ごしているのではないか、という不安が相馬を襲う。
 宴とレンの戦いを視線でおっているその時、レンの動きが明らかに、確実に速く鋭くなっていく。

 戦いの最初は宴のほうが確実に上回っていたというのに。
 攻めの比率も宴のほうが遥かに勝り、レンは防戦を主においていたというのに。
 今では互いの攻防比は互角になりつつあった。

 そんなレンの動きを見ていた相馬は信じられない光景を、視界に捉えた。
 レンは、一瞬。それこそ数コンマ一秒とはいえ視界の端に相馬を映していたのだ。
 何時相馬が自分に攻撃をしてくるか分からない。だからこそレンは宴と戦っている最中にもかかわらず、相馬に注意を割いていたのだ。

 ドクン、と相馬の心臓が胸を打った。
 そして理解した。
 この不可思議な光景が何故うまれたのかということに。

「……ありえねぇ、だろうが」

 相馬が知る限り、そして認める限り、天才と呼ぶに相応しい人間は生涯において十人いるかどうかだ。
 それを少ないと見るか多いと見るかは人にもよるだろう。
 といってもその殆どはすでにこの世には居ない。
 当然だ。その大部分をあげるとすれば、今は亡き御神の者達であったからだ。
 不破士郎。不破一臣。不破美影。不破美沙斗。御神静馬。それに―――御神琴絵。

 別に相馬は相手の才能や実力を認めない、ということはない。逆に強き者、才ある者には好意を抱く。
 だが、それは勿論、自分の方が強いという前提があってこそなのだが。

 相馬は強い。それだけは事実であり、確かなことだ。
 才能だけではなく、意外かもしれないが鍛錬も怠ることはなかった。
 恭也が語ったように、相馬は才能だけではなく努力も行う人間であった。人間性は認めることはできないのだが。

 そんな相馬が己より確実に才能が上だと思った相手はただ一人。それが姉である御神琴絵。
 病弱の身であったために鍛錬などほぼできなかったその身で、数分とはいえあの御神静馬や不破士郎と渡り合えるなど、どれだけ常軌を逸した戦闘能力だったことか。
 御神の天才達が努力に努力を重ね、長い年月を経てようやく至れるその境地に、苦もなく踏み込んでいるふざけた剣才。

 それでも、やはり努力というものは大きかった。
 剣才で劣ってはいても、努力を重ねた相馬のほうが琴絵を上回っていたのだから。
 だが、内心は琴絵の剣才を疎ましく思ったのもまた事実。

 だというのに、それだというのに―――。

「お前は、一体なんだ、鳳蓮飛!!」

 怨嗟のような声が相馬の口から漏れた。
 相馬の読みは正しかったのだ。全くもって完全にレンの力量を読んでいた。
 宴とレンが戦えば確かに十中八九、宴が勝っただろう……そう、それは戦いの最初までの話だが。

 レンは宴と戦っている最中に成長していったのだ。いや、それはすでに進化とも呼べるだろう。
 一分、否、一秒単位でレンは凄まじい勢いでその実力をあげていっていた。
 
 そのレンの才能は、相馬の知る天才達を遥かに凌駕している。
 相馬はレンのことを凡人が一をいくあいだに百をいくと、称した。 
 だが、そんなレベルではない。桁が違う。こいつは、凡人が一を行く間に、千をいく!!

 御神琴絵に匹敵?
 馬鹿が、そんな話では既になくなっている。
 神に愛された才能?
 違う。こいつのこの武才は……。

 神をも恐怖させるほどの、武才!!

「理解したぜ。何故今更こんな所で馬鹿げた小娘に会ったのかな」

 相馬は一人ごちると座っていた庭石から立ち上がる。
 ゴキリと、手を鳴らして、禍々しい笑みを浮かべた。

「今ここでこいつを殺せっていうことか。未だ未熟なこのときに、完膚なきまでに殺しつくせと、そう世界が望んだわけか」

 そういう意味で相馬は感謝した。
 今ならば確実に相馬はレンを殺すことが出来る。
 確かに凄まじい勢いで力をつけていっているが、それでもレンの力量は相馬には及ばない。
 殺すならば、今が好機であるのだ。

 相馬が戦っている二人に近づこうとした瞬間、黒く鋭い殺気が弾丸となって突撃してきた。
 今の今まで全くといっていいほど気配を感じさせなかった存在の奇襲。それに舌打ちをして瞬時に抜いた小太刀を背後に向かってきた相手に斬りつける。

 刀と刀。金属が弾きあい、耳障りな刃鳴りが響き渡った。
 予想外の手ごたえにピクリと頬をひきつらせる相馬。
 一刀のもとに斬り伏せるつもりだったが、防がれるのは少々意外であった。

 相馬と小太刀を噛みあわせているのは、美由希だ。
 すでに眼鏡を外し最初から戦闘態勢に入っている。

 高町家に帰ってきてみれば、その随分と手前から感じる異常なまでの気配。しかも知らない気配が二つ。
 片方は明らかに不吉な匂いを漂わせていた。そう、あの天守翼よりもなお、深く暗く、血に濡れた殺意に満ちた気配。

 だからこそ美由希は気配を消して、慎重に慎重を重ねて、高町家にまで忍んできたのだ。
 窺ってみればレンと戦っている見知らぬ少女が一人とそれを見物している男性が一人。一目見るだけで分かった。
 その座っている男性はナニかいけない存在だと。確実に敵だということが確認するまでもなく分かった。
 そして玄関の手前から、男性が立ち上がったところを狙って、完全に気配を消してからの奇襲。

 だというのに、その一撃を容易く防がれた。
 美由希を襲う動揺。
 皮肉にも、相馬と美由希の両者とも互いの一撃を防がれたことに驚愕していたのだ。

 美由希は動揺を消すと、二刀めの小太刀を抜き相馬を斬りつけようとした瞬間、言いようのない悪寒に襲われて、飛びのいた。
 その行動は正解であった。美由希が小太刀を抜くよりも早く、相馬の小太刀の方が抜かれていたのだから。

 向かい合う相馬と美由希。
 相馬が纏う禍々しい殺気に対しても美由希は怯むことはなかった。
 質は異なるが天守翼のあの凶悪な殺気でを散々浴びたせいで、このような異常な気配にも耐性ができていたようだ。
 感謝するかどうか微妙なことではあるが。

 相馬は自分に斬りつけて来た美由希を一睨みして、眼を細めた。
 細めること数秒、口元を楽しそうに歪める。

「くっ……そうか、お前がそうなんだな。一目見てわかったぜ。確かにお前はあいつの娘だな、御神美由希」
「……貴方は?」

 楽しそうな相馬に向かって、敵意を剥き出しにして美由希は答える。
 それも当然だろう。御神の名を知っているものは数えるほどだ。ましてや相馬の只ならぬ気配。明らかに友好的とは言い難い。

 先日の戦いもあったので、もしかして永全不動八門の手の者かとも頭に浮かんだが、首を振る。
 相馬が両手に持つのは小太刀。一合とはいえ刃を合わせ、対峙したからこそわかる。目の前の男は……御神流の使い手なのだと。

「俺のことを聞いたことはないか?と、自分で言っておいてなんだが、そういえば俺が御神の一族を追放されたのはお前がまだ物心つく前だったか。覚えているはずもねぇな」
「つい、ほう?」
「ああ。もう十数年も前の話さ。まぁ、美沙斗が俺のことを話すわけもないし知らないのも当然か」
「まさか……御神、相馬さんですか?」
「……なんだ、知ってたのか」

 美由希の答えに心底意外そう顔をする。
 対する美由希もその予想外すぎる相手に一瞬とはいえ呆けた顔になる。
 それもそうだろう。まさか何時ぞやに恭也に聞いた、かつて御神流最強をほしいままにした剣士が目の前に居るのだ。
 本物かどうか美由希では判別つけることなどできるはずもない。
 ただ……確実に言える事はがある。
 それは―――目の前の御神相馬を名乗る剣士がとてつもなく強いということだけだ。

 弓から放たれる寸前の矢のように、限界まで引き絞った射抜きを、奇襲される寸前まで気づかなかった筈の相馬が軽々と小太刀を抜いて弾いたのだ。
 そんなことができる剣士が果たしてどれだけいるだろうか。
 恭也ならば可能だろう。美沙斗でもできるだろうか。水無月殺音だったら笑ってこちらが弾き飛ばされそうだ。では天守翼ならばどうだろうか?
 あの少女もまた底が知れない。できても不思議ではないだろう。
 
 つまりは、それだけの力を持った剣士。
 美由希では掴みきれないが、かの剣士達に匹敵すると見ても可笑しくはない。

「美沙斗からでも俺の話を聞いていたのか?」
「……貴方のことは師から聞いています」
「師、だと?士郎の奴か……?」
「……いいえ。高町恭也。いえ、不破恭也といったほうが分かりやすいですか?」
「不破、恭也?あの小僧が……お前の師だと?」

 何を言っているんだ、とそう目が語っていた。目は口よりもモノを言うというが、実にそれを表現している。
 相馬が驚くのも当然だろう。相馬が覚えている限り恭也と美由希の歳の差は三つか四つ程度のはずだ。
 その程度の年齢の差で、恭也のことを師を呼ぶのかと。疑問に思っても仕方のないことだろう。
 だが、それを裏付ける事実をすでに相馬は調べていた。
 
 すでに不破士郎は亡くなっている。
 それはもう十年近い昔の話だ。
 だからこそ相馬は恭也と美由希の腕前はたいしたことがないと踏んでいたのだ。
 当然だ。不破士郎という師が亡くなり、一体どうしろというのだ。
 年端もいかない少年少女がどう強き剣士になるというのだ。
 そう相馬が考えるのが普通なのだ。まさか、十歳を越えたばかりの少年が地獄の道を歩き続けるなど誰が想像しえるだろうか。
 それも強制されるのではなく、確固たる己の信念の下にて。

 そしてたった一合の打ち合いで分かった美由希の腕前。恐るべきもの。 
 かつての御神の剣士達をも上回るほどの力量。この歳で、これほどの境地に達しているのは驚愕に値する。
 娘である宴と戦ったらどうなるか……。
 そう考えた相馬の頬を冷たい汗が流れ落ちた。

 そんな相馬がふと周囲の暗闇に気づく。すでに陽は落ちて、世界は闇に包まれていた。
 どうやら海鳴にきて随分と時間が経っていたようだ。
 その暗闇を見て、相馬はやれやれと安堵のため息をつく。

「ぎりぎりセーフといったところか。まさか御神美由希、お前がこれほどとは正直思っていなかった。世の中は分からんもんだな」
「……?」
「おい、宴。何時まで遊んでやがる。前言撤回だ。刀と暗器の使用を許可してやる。さっさとそいつを片付けろ」

 意味がわからない相馬の発言に疑問を抱きつつ、美由希は相馬と、戦っている宴とレンの戦いを視界の端におさめる。
 相馬の声が聞こえていないのか、宴とレンの戦いは止まる事を知らず、逆に加速していく。
 宴の放つ拳をかわし、蹴り上げられる足を捌き、その猛攻全てを避けきるレン。

 その光景を見て、再度背筋を粟立たせる相馬。
 そして……美由希。

 先日までのレンとは次元が異なっているその動き。
 恭也が語った天才。純粋なまでの才能。それが完全に開花したのだと美由希は悟った。
 美由希はレンのことを天才だと認めている。だが、それは甘かったようだ。甘すぎたようだ。レンの天性の才を甘く見すぎていた。
 
 確かに恭也の言うとおりだ。レンの才能は、桁が違う。
 そう理解できるほどにとびぬけた絶対の才能。

 レンと戦っている少女―――相馬がいうには宴というらしいが、その少女は強い。はっきりいって美由希と同レベルと判断しても差し支えはないだろう。
 だというのに、レンは宴と互角に渡り合っているのだ。驚愕以外どうしろというのか。

「宴、聞こえているのか!?そいつを―――」
「五月蝿い、よ!!おとーさま!!私とこの娘の戦いを汚すんじゃない!!」

 相馬に対して怒鳴り返す宴。その表情はぎりぎりの戦いをしているというのに逆に活き活きと輝いていた。
 レンも先ほどまでは相馬に注意を払っていたが、美由希が相馬と向かい合っているおかげで、完全に宴に集中することができ、さらに動きに鋭さが増していく。
 そんなレンに、嬉しくてたまらないのか宴は嬉々として拳を振るう。

 レンもまた、宴の猛攻を凌ぎつつ、感じるものがあった。
 自分の力が段飛ばしで跳ね上がっていくのをはっきりと実感していた。
 晶との手合わせとはまた異なる、たまらない高揚を確かにレンは感じているのだ。
 それにこの少女は……御神宴は真っ直ぐなのだ。武器を使えば形勢はあっさりと逆転するだろう。相馬の言うとおりだ。
 だというのに使おうとしない。全力で打ち合えるのが楽しいのだろう。きっとこの少女は強すぎたのだ。全力で戦えることなどなかったのだろう。だからこそ楽しいのだ。
 レンと戦えることが。全力をだしても、その悉くをかわしきる、レンと戦うのが。
 そう。晶のように真っ直ぐなのだ。戦いということに正直すぎるのだ。
 
 そんな二人の様子に舌打ちをする相馬。
 言うことを聞かない宴に多少の苛立ちを覚える。

「ああ、もうめんどくせぇ。本当は宴と御神美由希、お前を戦わせる予定だったんだがな……狂いっぱなしだ」
 
 ごくりと美由希は唾を飲んだ。
 相馬の放つ威圧感がさらに膨れ上がっていったからだ。

「もう当初の予定など、どうなろうが構わん。お前が死ねばあの亡霊は宴に宿るだろう」

 それは深い深い影のように、黒い殺意だった。
 禍々しいという言葉さえ、相応しくない。どこまでも呪われたかのような黒い気配。
 美由希の視界に映るのは奇妙な光景であった。
 相馬の周囲に展開する黒いカーテン。そう錯覚するほどに濃密な殺気の幻覚。
 
「とりあえず、お前は死ね」

 そう相馬は酷薄な表情のまま、美由希に向かって絶望を告げた。
 それと同時に相馬の身体がぶれて消える。
 果てしない悪寒。かつてない死への予感。美由希の全身をそれらが包み込む。

「っ……!?」

 夜の闇を斬り裂くのは一条の銀光。
 超高速の踏み込みとともに振り払われた相馬の斬撃はあまりにも速かった。
 横薙ぎにて、自分に迫ってきたその一撃を美由希は反射とも言える動きで弾き落とそうとして、その斬撃の重さに逆に弾き飛ばされた。
 正確には美由希がその場から相馬の力を利用して跳んだのだが。

「御神美由希。せめて三十秒は持ちこたえろよ」

 冷たい声だった。
 慈悲の欠片など一片たりとも存在しない、絶対零度の声。
 機械のように淡々として、人を斬ることに僅かな躊躇いも持たない。
 その冷たさは―――天守翼を上回る非人間的なものであった。

 必死になって距離を取ろうとする美由希の前髪が剣風で揺れる。
 ハラッと幾つかの前髪が宙を舞う。完全には避け切れなかったようだ。

 ダンッと地面を叩く音を残して跳び下がる美由希の眼前に、冷笑を浮かべた相馬が迫る。
 たたみかけるように小太刀を振るう相馬。それから死ぬような思いで逃げ下がる。

 相馬の斬撃は、力任せに振るっているわけではない。
 その口調とは裏腹に緻密に連携して、台風のように荒れ狂う。
 美由希を軽々と圧倒して小太刀による反撃はおろか、鋼糸や針を使う隙すら与えない。
 
 その太刀筋の速さたるや、並の剣士では一太刀のもとで切り伏せられることは明白。
 ある程度腕に自信があるものとて視認することさえできはしまい。

 息つく間もない斬撃の嵐に押し込まれ、後退する一方だった美由希は気がついたら高町家の壁を背負わされていた。
 相馬は単純に小太刀を振るっていたわけではない。巧妙に美由希の逃げ道を誘導していたのだ。

 右か左か。どちらへ逃げるか一瞬の逡巡。
 だが美由希は、どちらも選ばなかった。
 真正面。無言の気合を発しつつ、小太刀を相馬に向かってはしらせる。

 美由希のその判断に意外そうに、相馬は目を僅かに見開いた。
 ぶつかり合う二人の小太刀。美由希の腕に激しい衝撃が伝わってくる。
 ―――徹。

 自分を上回るその見事な技術に、美由希は唇を噛む。
 手が痺れ、たった一合切り結んだだけで、勝算の薄さを美由希に叩き込んでくる。

 その痺れからまともに斬りあうことはできないと判断した美由希が横っ飛び。逃げに徹しようと相馬から距離を取る。
 相馬は逃げる美由希に視線を合わせ、滑るような動きで追い詰めてくる。

「良い動きだ。だがな、本気を早く出せよ。さもなくば死ぬぞ?」
「……ッ!!」

 直後、美由希は上体を反らす。眼前を小太刀が薙いだからだ。
 瞬く間に踏み込んできた相馬は、流水のように滑らかに小太刀を振るってくる。
 美由希は、その斬撃を弾くでもなく、切り払うのでもなく、相馬に明らかに届かぬ距離で小太刀で空を払う。

 闇夜に溶け込むようにして、美由希の服の袖から飛び出してくる飛針。
 隠し持っていたその二本の飛針を普通ならば防ぐことはできなかっただろう。実に見事な暗器の技であった。
 
 その二本の飛針を相馬は目を軽く細めただけで、特に驚くでもなく小太刀で叩き落した。
 相馬が飛針に注意を払った一瞬の間に、美由希が間髪いれず、鋭く踏み込み、二撃を相馬に叩き込む。
 美由希の斬撃もまた見事。
 華麗な剣舞のように理想的な弧を描いた銀閃だ。、
 
 しかし、相馬はその銀閃をことごとく弾き、防ぐ。相馬は冷静に美由希を観察していた。
 弾きながら冷静に、美由希の太刀筋を見極める。

 相馬が見る限り、美由希の腕前は相当なものだ。
 戦う前に感じていた予想通りに、その力量は宴と互角か、それ以上。
 御神の剣士としては一流。今まで戦ってきた裏世界の住人と比較しても上位に位置するであろうほどの剣士。
 
 そう、予想通りに強い。あくまでも予想通り。
 予想以上では決してなかった。自分にはあと一歩、いや二歩も及ばない腕前だ。

 美由希の太刀筋は華麗だ。流麗だ。御神の剣士として余程の鍛錬を積んだのだろう。
 才能もなければこれほどの剣士になることもなかったはずだ。レンと同じで素晴らしいとは思う。
 だが―――怖くはない。

 背筋を凍らせるような氷刃のような一撃が存在しない。
 お前を殺す、という殺意の刃がそこにはないのだ。

「軽いな、お前の剣は。人を殺したこともないだろう?」
「っぁぁあああああああああ!!」

 美由希はこれが返答だと言わんばかりに裂帛の気合を乗せて、縦横無尽に小太刀を振るう。
 疾風の如く荒れ狂うその斬撃を、相馬は若干冷めた目つきのまま、無造作にも見える動きで、弾き続ける。

 ギィンという耳障りな音をたてて幾度となく弾かれる美由希の小太刀。
 歯を食いしばらねば今にも小太刀を落としそうになる。それほどに手の力が入らなくなってきている。
 同じ徹でも質が違う。相手のほうが随分と上手なのだ。

 短い呼吸音とともに繰り出された相馬の一太刀。
 幾度目になるかわからないが、美由希はその一太刀から大きく跳び下がって逃れた。
 
 その時、美由希を追撃しようとした相馬の動きが止まる。
 尋常ではない殺気。いや、或いは鬼気と呼んだほうがいいのか。
 美由希がこの戦いで初めて醸し出すその気配が相馬の動きを縫い付けたのだ。

 別に相馬がその気配に恐れたわけではない。臆したわけでもない。
 ただ、美由希が何かをするということを確信した。
 恐らく、奥の手を出そうとしているのか。
 そう読んだ相馬は警戒するように、美由希から距離を取るように軽く後ろに跳んだ。

 軽い跳躍。ほんの十数センチ宙にうかび距離を取ろうとした相馬。
 それを、その一瞬を美由希は見逃さなかった。

 地面を蹴りつける音が凶暴なまでの爆音となって響く。
 その音を相馬が聞いた瞬間には、すでに美由希の姿は幻のように霞み、消えた。
 
 思わず目を見張った相馬の頭を、危険だという直感が鳴り響く。
 空気を裂く音も聞こえず、超速度で迫ってきていた美由希の放たれた一矢の如き突きを、相馬が貫いた。
 と、見ている者がいたならば誰もがそう確信をもてるほどの一撃を、相馬は首を捻ることで、かわしていたのだ。

 そのまま美由希は残像を残しつつ、地面を抉りながら相馬の後方で止まり、体勢を整え第二撃へと映ろうと四肢に力を入れた。
 その人外ともいうべき超速度。人の域を外れた領域に、相馬は本当に感心したかのように美由希へと振り返った。

「お前も、神速の領域の住人か!!」

 返事をするまでもなく、美由希は意識を相馬だけに集中。
 全身の力を爆発させ、夜を引き裂く飛影となって、駆け抜けた。
 狙いはただ一人。相馬を打ち倒すために―――。

 そんな美由希の突撃を止めたのは、重い斬撃だった。
 神速の領域から弾かれるように、美由希は後方の地面に激突し、バウンド。
 跳ねるようにして、体勢を整えた美由希だったが、ゴホゴホと幾度も咳き込む。
 霞むような視線の先に、小太刀を横薙ぎに払った姿の相馬が見えた。

「無意識にしろ、今の一撃をも防ぐか。大したものだわ、お前は」
「今の、は、一体なん―――」

 語尾は唇からあふれ出た吐血の中へと消えた。
 ぽたぽたと水音をたてて地面を汚す。真っ赤な血が生理的嫌悪を引き起こす。
    
 とてつもなく重い衝撃だった。そしてとてつもなく速い斬撃だった。
 相馬の言うとおり防ぐことが出来たのは無意識が為した偶然。確認して防げたわけではない。
 
「別にたいした種や仕掛けがあるわけじゃないぜ。単純にお前より俺の方が神速を有効に使えるってだけだ」
「……っ」

 なんでもないようにそう語る相馬は息を乱すわけでもなくゆっくりと美由希に近づいてくる。
 だが、そこに油断は全くといっていいほどない。
 美由希が付け入る隙は、相馬にはなかった。

「お前は強いな。御神宗家の名に恥じぬ、立派な剣士だ。だからこそ、誇って―――死ね」

 相馬は一切の慈悲もなく、美由希に向かって小太刀を振り下ろした。
 自分に振り下ろされるその白刃が、スローモーションのように見える。
 とてつもなく速いはずのその一撃が、いつ自分を切り裂くのだろうかと思えるほどに鈍い。

 それは神速の世界。
 御神の一族の中でも限られた者しか到達できなかったといわれる破神の域。
 身体中が水のなかにいるように重い。
 それでもそれを引きちぎるように横に転がるようにして、相馬の一撃から逃れる。

 一秒にも満たぬその瞬間で、美由希は神速の世界から抜け出した。
 いや、正確には強制的に抜け出されてしまったのだ。
 神速は身体中に多大な負荷をかける。多用できるような技でもない。

 万全の状態でも一日に使えて数度。神速の域に入れるのは良い所二秒程度。
 現在の美由希の状態では、神速の世界に入れただけでも御の字の状況だ。

「驚かせてくれるな。まさか、まだ神速の域に入れるか」

 再度逃げる様に相馬から距離を大きく取る。
 恐らく今の自分の状態ではもう神速を発動させることはできない。さきほどの神速で打ち止めだろう。

 普通に考えれば勝ち目などもはやなし。
 力も技も速度も、美由希は相馬には及ばなかった。
 絶望して戦いを辞めても可笑しくはないこの状況で―――美由希は笑った。

 力も技も速度も相手が上だからどうだというのだ。
 私が何時も戦っているのを誰だと思っている。
 高町恭也―――至高の剣士だ。
 
 戦いを諦めるなど、師の教えにはありはしない。
 自分より強き者と戦う術は、日常で幾万回も叩き込まれている。
 何よりも、我が家族に害を為して―――無事ですむと思うなっ!!

 そう、相馬は言葉にならぬ美由希の声が聞こえた気がした。
 意気消沈するどころか、戦う前よりさらに膨れ上がる美由希の戦意。
 
 相馬の数メートルほど前方にて、美由希は小太刀を鞘に納め、腰を落としやや前傾姿勢になった状態で相馬を睨みつけていた。
 氷の視線で自分を見据えている相馬に、美由希は納刀したまま悠然と語りかける。その口元からはかすかに血が流れているのがわかった。

「どうしましたか、御神相馬さん?たかが十七の手負いの小娘如きに何を臆することがありましょうか」

 くすりと馬鹿にするような笑みを浮かべて、口元から垂れる血を右手の親指で弾くように拭う。
 そして、その掌を上に向け、誘うように優雅に差し招く。

 それに、相馬の目が少しだけ据わった。躊躇いもなく、地面を蹴り、美由希に向かって飛び込んだ。
 速い。速すぎる。風を纏って踏み込んでくるその速度は、すでに人と呼んでいいのか分からない。
 一陣の風。疾風。まさしくそう表現するに相応しいものであった。

 風を引き裂き、相馬は美由希の脳天に白刃を降らせた。
 小太刀が美由希の頭蓋を無残にも叩き割る光景を予見していた相馬は、言い様のない激しい悪寒に襲われた。
 小太刀には人の体を斬る感覚は無く―――感じたのは不快な金属音。
 
 流れるような小太刀が舞った。
 相馬が振り下ろされるより速く、抜刀された美由希の小太刀が頭上に迫ってきた小太刀を受け流し、ほぼ同時に引き抜かれたもう一刀が相馬にはしる。
 到底防ぐことが出来ぬと思われたその抜刀術を、相馬は冷静に弾き落とした。

「ぁああああああああああああああああああ!!」

 ビキィと筋肉が悲鳴をあげる。獣のような雄叫びとともに、強引にさらなる追撃を美由希は放った。
 抜刀からの四連撃。
 薙旋と呼ばれる、御神流奥義之陸。
 恭也が最も得意とする斬撃奥義。

 美由希の決死の覚悟で放った残りの二撃は、それでも相馬には届かなかった。
 元々美由希は抜刀術が得意ではない。女性ならではの体の柔軟さを利用した突技を最も得意とするのだ。
 恭也に基本だけ教えてもらった薙旋。完成度では射抜と比べるまでも無い。

 相馬は追撃の斬撃も容易く弾き、美由希から距離を取った。
 正直な話、相馬は驚いていた。
 今の薙旋は明らかに未熟といえただろう。
 それでも今までで一番相馬へと迫った一撃であった。それほどの思いと気合が込められた攻撃だったのだ。

「お前もやればできるんじゃないか、御神美由希」
「……ふふ」

 相馬の褒め言葉に美由希は不気味な笑みで返した。そして相馬の右腕を指でさす。
 その指された右腕を見て、絶句する。
 相馬の右腕は、服を裂かれ、肌が露出していた。
 見つめるさき、腕に入ったスゥとした線が斬られたことをようやく思い出したかのようにパクリと開き、血が滴り落ちた。
 傷といっても深くは無い。幅も数センチ程度の切り傷……というには大きいが別に死ぬような大怪我でもない。
 だが、それはこの戦闘で初めて美由希が相馬に与えた一撃だった。
 傷つけられたのが信じられないのか呆然と己の腕を見続ける相馬。

「貴方は言いましたね。私の剣が軽い、と。人を殺したことがない剣だ、と。後半は認めるしかありません。私は人を斬ったことは確かにないのですから。ですが―――」
「……」

 相馬が返すのは沈黙。
 聞いているのかいないのか。どちらか分からないが美由希は 構わず続ける。

「私の師は言いました。強さとは、人を殺せるかどうかではない。人を殺せるから強い?人を殺せないから弱い?そんな馬鹿な話があるはずがない、と」

 小太刀についた血を振り払うように軽く振る。

「人を斬ったことがあろうと無かろうと、強い者は強い。唯、それだけではないのですか?」

 身体中は未だ重い。
 鉛をつけているかのように、動きが鈍い。
 神速の影響と、先ほどの強引にはなった薙旋のせいだろう。

「私は確かに人を斬ったことがありません。好んで斬ろうとは思いません。ですが、【覚悟】あります。人を斬る【覚悟】だけは常にこの胸に」

 だが、戦える。
 例え身体の動きが万全ではなくても、自分は戦えるのだ。
 心が、体を突き動かす。

「ただ本能の赴くままに人を斬るだけの貴方と、私。果てさて、軽いのはどちらの剣でしょうか?」

 ニィ、と美由希は不敵な笑みを浮かべたまま、相馬に向かって問いかけた。 
 
 
 
 






















  






「ぁぁあああああああああ!!」
「せぇぁぁあああああああ!!」

 宴とレンの咆哮が空気を震わせ、響き渡る。
 紫電のように鋭い宴の上段蹴りが斜め下へと振り下ろされ、レンの足に直撃する瞬間、足を引きやり過ごす。
 その蹴りが地面に激突。その力を利用して体を回転。胴回し回転蹴りがレンへと襲い掛かる。

 蹴りをかわし、踏み込もうとしていたレンが顔を歪めながら必死に避けた。
 かわされた宴が慌てるでもなく着地。一瞬で体勢を整えレンへと向かう。
 
 たまらない!!
 この娘との戦いはとてつもなく楽しい!!
 戦い始めた時とは明らかに動きが違う。すでに別人といっても過言ではない!!
 なんという成長速度!!私が気分で呼んだ異端の天才。まさかそれの呼び名がこれほどに合うとは思ってもいなかった!!

「あっはっはっはははははははははは!!」

 狂ったように笑いながら宴は攻撃の手を休めない。
 二人の戦いを見ていると、互いの力量は互角とも見えた。
 もし相馬がこの戦いを見ていたら再び首を捻ったであろう。

 レンの成長速度は異常である。
 戦えば戦うほど目に見えて跳ね上がっていく。
 すでにレンは初期の宴を超えていても可笑しくは無いというのに、二人の攻防比は同等から変わらない。

 その答えは至極簡単なものであった。
 宴もまた、戦いの中で成長していたのだ。
 レンという好敵手を前にして、手を合わせて、その身に刻んで、宴も爆発的に成長していた。
 
 宴もまた天才である。
 ただの天才ではない。かつての御神流最強の剣士、御神相馬の血をひく完全なるサラブレッド。
 確かに才能だけならばレンには劣る。
 だが、十数年にも及ぶ弛まぬ鍛錬。相馬に課せられた御神流を継ぐという目的。
 そのために積み上げられてきた努力の結晶。
 それが、レンと戦うことによって目覚めたのだ。
 幼き少女達の華麗なる戦いは今まさに、完全に拮抗していた。
 
 このままでは一生決着がつかない。
 見ている者がいたらそう錯覚するほどに互いに一撃も決まっていない戦いであった。
 だが、宴だけは感じていた。この永遠に続くのではないかという楽しき戦いに感じる不協和音を。

 それが何なのか宴には最初は分からなかった。
 そしてそんなことを気にしている余裕もなかった故に、忘れていた。いや、忘れるふりをしていた。
 戦っているうちに気づき始め、今ははっきりとその正体が分かってしまったのだから。
 気づきたくなかった、その事実。

 レンの呼吸が少しずつではあるが―――乱れてきたことに気づいてしまった。

 宴は知らない。
 相馬も知らない。
 レンが昨年まで心臓を患っていたことを。 
 
 レンは幼い頃からの持病で入退院を繰り返し、長時間の運動さえできなかったのだ。
 手術の結果ようやく完治に至ったとはいえ、そう無理もできない身体なのだ。
 たった一年でどれだけの体力を作れるというのか。それこそ無茶な話である。
 宴との戦いは凄まじいほどの集中力、精神力、そして体力をレンから奪い取っていた。
 
 他を寄せ付けない天才である鳳蓮飛の唯一の欠点それは―――体力の少なさであった。

「ん、ちょっと残念かな。もっとキミと戦っていたかったよ?」
「……っく」
 
 本当に残念そうに宴はレンに語りかける。
 既に戦いの情勢は宴に傾きかけていた。
 先ほどまでは、確かに互いに互角の勝負を繰り広げていたのだ。
 それが今ではレンは防戦一方であった。余裕もなく、宴の攻撃を捌くことで精一杯の様子だ。
 ぜぇぜぇという激しい呼吸が宴の耳にも届く。
 
 ズキンとレンに響く頭痛。視界が霞む。
 身体中が鉛のように重い。構えることだけで一苦労だ。
 だというのに、身体が勝手に動く。
 宴の蹴りを、拳を、最小限でかわす。

 ―――まだ、まだ戦える。

 それは悲壮なまでのレンの決意であった。
 負けるわけにはいかない。なのはを傷つけた、この二人に。
 それにもし自分が負けたら相馬と戦っている美由希にどれだけ不利になることか。

 そんなレンを嘲笑うかのように下段の蹴りがレンの足をすくった。
 ガクンという軽い衝撃とともに身体が崩れ落ちそうになる。そんなレンの腕を宴が掴み、軽々と投げ飛ばす。
 
 くるくると独楽のように投げ飛ばされたレンが体勢を整えようとして、回転する視界がぐにゃりと歪んだ。
 ドンという激しい音をたてて、レンは地面にぶつかり、ごろごろと音をたてて転がっていった。
 背中に硬い壁のようなものがぶつかり止る。
 歪む視界に映るのは高町家を囲う壁。どうやら壁にぶつかってようやく止まったようだ。

「……っ……はぁ……はぁ……」

 歪む視界。平衡感覚を失っている今は、立ち上がることさえ苦労する。
 ダンと地面を震脚で揺らし構えるが、それでもふらりと身体がぶれる。

「レンフェイちゃんと言ったよね?キミとの戦いは凄く楽しかったですよー。本当の本当に楽しかったです」
「……はぁ……はぁ」

 返事はしない。する暇があったら少しでも呼吸を取り戻す。
 それしかこの状況を打破する方法は無い。

「だから、これで終わりになるのは残念です。また、やりましょうーね?」
「っく!!」

 そして、呼吸を取り戻す間ももらえずに、宴はこの戦いに幕を降ろそうと今まで以上の速度で踏み込んできた。
 防ぐこともできない。よけることもできない。さばくこともできるはずがない。
 つまり―――詰みである。
 
 勝者は、御神宴でこの戦いは終わりを告げる―――筈だった。
 彼女がここに帰ってこなければ、終わるはずだったのだ。

「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 それは咆哮だった。
 少女の気高き遠吠えであった。

 高町家の塀を飛び越え、レンへと迫っていた宴へそのまま蹴りを見舞う。
 その奇襲に驚きつつも宴はその蹴りを防ぐが、なにせ勝負を決めようと突撃した状態からカウンターを喰らったのだ。
 ドンという肉を打つ音が響き、宴が後方へと弾き飛ばされる。

 距離が開いた宴とレンの間に立ち塞がるように舞い降りたのは……城島晶。
 ミシリと音が鳴るほど強く握り締めた拳を宴に向けて晶はそこに居た。

 そんな晶の登場に一番驚いたのは、意外にもレンであった。
 晶は心が折れたのだ。
 相馬のあの禍々しい殺気を浴びて、戦うことに恐怖したのだ。
 なのに何故戻ってきているのか。
 そして何より、信頼して預けたなのはをどうしたというのか。

「あほぅ……なのちゃんはどないしたんや……?」
「なのちゃんは、勇兄に任せてきた。だから安心しろよ」

 その答えを聞いて僅かに安堵するレン。
 赤星になら任せても大丈夫だろう。信頼できる先輩なのだから。
 
「そんなら……なんで戻ってきたんや……」
「お前を、置いて、にげれるかよ!!」

 そう晶が吼えた。
 だが、晶の声は震えている。
 レンでなくても分かる。誰が聞いても分かるほどにかすれていた。

「……震えてるや、ないか……お猿」
「……ああ、こええよ!!びびってるよ!!こんなバケモノみたいな奴らと戦って勝てるとはおもってねぇよ!!」

 ガチガチと晶の歯が鳴っていた。
 今にも地面に尻餅をつきそうになるほど、足は震えている。

「そんでも、お前をうしなっちまうかもしれない恐怖に比べたら―――こいつらと戦う恐怖なんかたいしたことない!!」
「……あほぅ」
 
 そんな晶の叫びに、不覚にも言い様のない感動をレンは覚えた。
 零れ落ちそうになる涙を我慢するので精一杯であった。
 何時もは感じない、頼もしさが晶の小さな背中から感じる。

「それに……お前はなんで負けそうになってるんだよ!?お前を倒すのは、俺だろう!?勝手に負けそうになってるんじゃねーよ!!」
「……」

 台無しである。
 零れ落ちそうになる涙はすぐさま消えた。
 もうちょっとどうにかならないのだろうか、この馬鹿猿は。
 
「……負けそうになってるんやない……ちょっと休憩しとっただけや」
「嘘つけって。呼吸がすげぇ乱れてるじゃねーかよ」
「……少しばかり……過呼吸なだけや」
「ダメじゃん!!」

 そんな二人の様子を興味深げに見ていた宴だったが、わしわしとその美しい黒髪をかきながら晶へと一歩近づく。
 その一歩にビクリと大げさに反応する晶。
 宴の無意識に放つ威圧に、ガクガクと膝が揺れる。

 ―――力量の差がありすぎる。

 晶とてかなりの腕前の少女だ。
 だからこそ分かる。宴の力というものが。
 文字通り次元が違う。決して敵うはずも無い、圧倒的な差。

 震える唇を血が出ても構うものかと深く噛み締めた。
 ガンっと音がなるほど強く震えている両足に拳を叩きつける。
 その決して引かない様子に宴が参ったなぁと漏らしたのが聞こえた。
 完全に舐められている。だが、舐められても仕方ない。

「……晶。三分……二分でええ。もたしてくれへんか?」
「……」

 二分。それがどれだけ絶望的な時間なのか。
 果たして一分もつだろうか。それが正直なレンの予想であった。
 レンから晶の顔は見えない。だが、晶はニヤリとひきつった笑みを浮かべた気がした。
  
「ばーか。二分だって?けち臭いこというなよ!!五分はもたせてやるからよ!!お前はさっさと体力を戻しやがれ!!」

 晶の身体の震えはまだおさまっていない。
 それでも、彼女は、恐怖をその身に感じながらも、宴へと向かっていった。


























 
 格下である自分にこうまで言われた相馬はどうでるであろうか。
 激昂するのではないか、という美由希の予想を覆すように、相馬は至って冷静であった。

 外見も、そして内面も。
 己の腕から滴り落ちる血を眺め、美由希に注意を払うことも無く拭った。
 その隙をつき、踏み込もうとした美由希は、得体の知れない重圧を感じて、踏み込むことが出来なかった。
 
「見事だ、御神美由希。流石はあの静馬と美沙斗の娘だけはある。俺に血を流させた奴などそうはおらんぜ」

 相馬は相変わらず冷たい視線のまま、美由希へと視線を戻す。
 先ほどよりも険しくなった表情のまま美由希を見据える相馬だったが、美由希が感じ取れてないだけで、彼の内心は踊り猛っていた。
 怒りではなく、喜びでなのだが。
 自らの口角が吊り上るのを、本能的といってもいいその反応を抑えることが出来なかった。

 こいつは―――剣士だ。
 本物の―――御神の剣士だ。

「手段を選ぶな。意地やプライドなどで勝負を捨てるな―――手段を選ばず、お前の全てを俺に見せてみろ」

 血の気の無い緊張した表情の、それでも勝利を見つめる美由希と視線が交錯。
 そんな美由希の姿に、相馬は己の直感を確信する。

 すでに日常においてさえ、決して忘れることができず、拭い去ることも出来ないほどに、心の芯にまで染み付いてしまった戦いへの渇望。
 強くなりたい―――それだけを目的とした、生きながらにして修羅の道を歩き続ける剣の鬼。
 そう、お前も所詮俺と同じ穴の狢だ。
 
「……厄介な、人だね」

 美由希は自分にしか聞こえないような低い声で呟きながら、相馬の指先一つの動きをも見落とすまいと集中する。
 相馬は本当に厄介な敵であった。身体中が鈍いというのに、今の相馬は先ほどまでよりはるかに危険だ。
 
 先ほどまでの相馬は言ってしまえば淡々と獲物を狩る狩猟者のように攻め立ててきただけであった。
 だというのに今の相馬は、美由希のことを敵として認めていた。
 恐らくは、全力で来る。
 びりびりと肌をうつ相馬の容赦のない殺気がそれを証明している。

 美由希は己の現在の状態を瞬時に把握。
 攻勢にでることは、ほぼ不可能。当分は体力を回復させることに専念するしかない。
 せめて神速を一度でも―――贅沢を言えば二回は使えるようになるまで。

 警戒を高める。
 精密に自分の間合いを測り、静寂を孕んだ気配のまま、相馬の動きに対応しようと待ち構えた。
 相馬がそんな美由希の様子に薄気味悪い笑みを浮かべ、疾走する。
 
 直後、蠢くような黒き刃が無慈悲なまでに鋭く、味気なく、ゾブリと音をたてて相馬の胸を背後から貫いた。
 
「―――な、にぃ!?」

 美由希が初めて聞く、相馬の慌てた声が周囲に響く。
 美由希へと迫っていた相馬は地面を蹴りつけ、強引に方向を転回させる。
 今までより遥かに遠い間合いを取り、相馬が己の胸に手を当てた。

 しかし、そこには何の傷もない。
 傷一つどころか血の一滴さえも胸からは流れていなかったのだ。
 それに疑問を感じつつ、自分の経験から先ほどの原因を探す。そして、その原因を瞬時に理解した。

 ―――殺気の刃、か。

 自分を貫いたと錯覚するほどに濃密な殺気。
 収束され、殺すという確かな意思の元に相馬に向かって放たれた形無き刃。

 誰が放ったのか、と疑問に思う相馬。
 ちらりと横目に宴と戦っている晶を見やるが、即座に否定した。
 どうみても違う。あんな馬鹿正直な少女が相馬を退かせるほどに凶悪な気配を放てるものか。
 ならば、今戦っている目の前の御神美由希かと視線を向ける。

 帰ってきたのはこちらを訝しげに見返す美由希だ。
 無意識のうちに放ったわけでもないだろう。一体だれがあれほどの殺気を放つことが出来るというのか。
 そんな相馬の意識に割り込むように、耳に響くかすかな音。タンという音が高町家の屋根から聞こえた。
 
「―――天落(そらおとし)」

 鈴が鳴るような美しい声。
 それは、相馬に死の予感を感じさせる程のものであった。
 上空から叩きつけられる殺気の大波。
 巨人の腕で押しつぶされる様な圧迫感を受けながら、相馬は前方へと跳躍する。
 
 その言葉通り、上空から飛来した黒影が放つ空をも断ち切るかのような抜刀からの一撃。
 相馬の判断が僅かにでも遅かったならば、間違いなくそのまま涅槃の彼方へと送られていただろう。

 何者が襲ってきたのか確認しようと振り返るが、そこにすでに人影はいなかった。
 ぞわりと粟立つ背筋。相馬の第六感が、危険を告げ、首を右へ向ける。
 地面を擦るかのような低姿勢で突撃してきた影は、三日月を描くかのように白銀が夜を照らす。
  
 振り上げられたその刃を小太刀を交差して受け止める。
 相馬の腕にはしる強い衝撃。
 単純に受け止めたから感じた衝撃ではない。体の芯にまで残るような、強い衝撃。
 非常に完成度の高い―――徹。
 自分には及ばないものの、美由希にも匹敵、凌駕するほどの。

 決められかったことに舌打ち一つ残して、影は相馬から距離を取った。
 相馬はその影を追わずに、用心深く小太刀を構えたまま影を凝視する。
 
「……天守、翼さん……どうしてここに?」
「これだけ派手に殺気がぶつかってたら普通わかるわよ。それにあそこにいる御神宴とも少しばかり因縁があったしね」

 その影の正体を明らかにしたのは呆然と翼に魅入る美由希であった。
 黒いコートを羽織ってる以外は、夕方に宴と戦ったときの服装のままである。 

「刀を取りに戻ってたから少し遅くなったのは申し訳ないわね。ああ、私は今回は貴女の味方よ?」
「……信じられない、ですけど」
「それも当然かしらね、と言いたい所だけど……恭也から聞いてないのかしら?」
「……聞いてます。貴女の目的も、師が貴女に頼んだことも」
「気に食わないのは分かるわよ?言いたいこと聞きたいことは後にしましょう」

 前回戦ったときとは明らかに違う、柔らかな笑み。
 それを美由希に一瞬だけ向けると、相馬にしっかりと向き直る。
 本当は翼はここに来るつもりはなかったのだ。
 葛葉と別れ、家に着いたときに突如として悪寒を感じた。このままでは取り返しのつかなくなるような悲劇が産まれるような予感を。
 三年前のような悲劇が恭也にふりかかるのではないかという漠然とした不安が心のなかを支配した。

 そこで夕方に戦った宴のことを思い出した。
 宴は強かったが恭也には全くといっていいほど及ばない。
 良い所美由希と互角ほどではないかという実力だったので放置したのだが―――そこで思い出した。

 あの時、御神宴は電話をしていた。
 恐らく仲間と―――。
 宴と同レベルの相手ならば流石にまずい。
 考えにくいがましてやそれ以上の使い手ならば……。
 だからこそ翼は武器だけ持つと、高町家へと急いだのだ。 
  
 そしてその予感は正しかったようで……目の前の剣士は、翼の知る限り、数えることができるほどに強き者だった。
 恭也がいないこの状況でよくぞ自分が来るまでもたせたものだ、と翼は美由希を言葉に出さなかったが褒め称える。

「あまのかみ、だと……?まさか、お前は永全不動八門の……」
「あら?自己紹介が省けて助かるわ。初めまして、御神の剣士さん」
 
 にこやかに翼は相馬に一礼してみせる。
 それだけの動作だが、底知れぬ存在感を相馬には示していた。
 そんな翼を横目で見たのか、うげぇと蛙が車にひかれたかのような妙な呻き声を宴があげる。

「気をつけてよ、おとーさま!!翼さん、本気で強いから―――!!」
「……成る程。こいつか。お前が戦ったという天守は」
「ええ。世話になったわよ、その娘にはね」

 私の方がお世話になったんですけどぉおおおおおおお―――という宴の突っ込みを無視して翼と相馬は対峙する。
 相馬の目から見て率直に評価するならば、自分と同族。
 その一言で事足りる。

 歳は美由希と変わらないだろう。
 それだというのに、それだというのに、この小娘は―――。

「何故天守が御神美由希の味方をするのか、とは聞かん。理由も知る必要はねぇしな。だが、それとは別に聞きたいことがある」
「何かしら?答えれることならば答えてあげるけど」

 相馬は翼の返答を聞き、大きく息を吸う。
 そして―――。

「何故、お前のような存在がここにいる?」
「……」
「おかしいだろうが?ありえんだろうが?何故お前のようなイカレタ人斬りが―――こんな日本という平和な国で生まれ出でる!?」

 美由希でも分からなかった。
 レンでも分からなかった。
 晶でも分からなかった。
 宴でも分からなかった。
 数え切れないほどの人を斬り、命を奪ってきた相馬だからこそ分かった。 
 
 相馬ですら、眉を顰めるような、咽返るような血の香り。
 相馬のように身体に染み付いてしまっている。笑うしかないほどの闇を翼の底に垣間見た。
 極東の、世界で最も平和だと称されるこの国にて、自分の同族が存在するなど、一体全体これはどんな悪夢なのか。

「……失敬ね。初対面の相手を人斬り呼ばわり?貴方の程度が知れるわよ」
「茶化すな、人斬り。イカレタ人斬りよ。何をどう繕おうが、俺にはわかる。お前、一体どれだけの人を斬ってきた?俺がいうのもお門違いだが、正気の沙汰じゃねぇ。まともじゃねぇ。狂ってやがるな、剣に狂った人斬りよ」
「お門違いと思うのならば、黙っていなさい。それ以上その口を開かないでくれるかしら?」
「っは!!黙ると言って黙る奴がいるか。歳は幾つだ?十六か?十七か?十八か?二十を超えているということはあるまい。その若さでお前はどれだけの命を奪ってきた?悪いがお前と同じ歳の頃の俺が可愛く見えるぞ。常軌を逸した悪鬼羅刹よ」
「……ふぅ」

 翼の瞳に剣呑な光が混じっていく。
 相馬の嘲笑うかのような言葉に、翼は苛立ったように肩にかかっている黒髪をパシリと後ろに弾いた。

「百か二百か。一体自分が何人斬ったか覚えてないわ。友だったモノ。家族のように接してくれたモノ。剣を指導してくれたモノ。数え切れない人【だった】モノを斬って私はここにいる」
「やっぱりな。お前は俺と同じだ。人を斬ることに躊躇いを持たない頭のイカレタ人斬りだ。俺と限りなく近い同族だ。だからこそ、お前の心を俺は理解できるぞ」
「―――もういいわ。喋るな。囀るな。口を開くな。貴方と話すのは不快を通り越す。私の心を理解できる?笑わせるな―――私の心を理解できるのは不破恭也唯一人」

 ぽたりとどす黒く濁った湖面に水滴が落ちたようなイメージを美由希は感じた。
 その水滴が波をおこし、広がっていく。
 深い深い闇を垣間見た。それは、以前戦った天守翼を遥かに凌ぐ。
 あの時の翼は強かった。だが今の翼は……怖かった。 

「貴方如きが理解できるはずも無い。恭也だけが私の罪を、咎を理解している。彼だけが私とともに……永遠に消せない贖罪の道を歩んでくれる。私と恭也の絆を汚すな。それは、それだけは―――万死に値する」

 切っ先を相馬に向け、蔑んだような視線を浮かべ、翼はリズムを取るように一度だけ軽く跳躍した。
 そして、足が地面についた瞬間、消えた。

 超速度の刺突。音もたてずに迫ったそれを、相馬は身体の外側へと弾き流す。
 そのままの速度で放たれた、身体ごとぶつかっていくように体重の乗った前蹴りが相馬の鳩尾に繰り出された。
 その蹴りを後ろに跳び下がることによってかわす。 

 絡みつく蛇のように、斬り上げられた日本刀。
 半身になって避ける相馬。避けると同時に横薙ぎにされる小太刀。
 その一撃が翼の胴を切り裂いた。だが、手ごたえは無し。残像を叩き切っただけだということに気づいた時には既に翼は相馬の背後に回りこんでいた。

 翼は相馬の背後から容赦なく太刀を振ろうとして、仕掛けることが出来ない。
 踏み込めない。相馬の背中は鏡のように翼の一挙手一投足を映しているかのような不安を味合わせてきたからだ。
 踏み込みを戸惑った一瞬で、相馬は翼から離れるように距離を取る。

 踏み込めなかった自分に内心で舌打ちをする翼。だが、隙がなかったのだから仕方ない。
 僅かな対峙だけで嫌がおうにも理解できる。
 相馬の実力の高さを。尋常ならざる剣の腕を。
 
 互いに一撃必殺を可能とする武器を扱うもの同士。
 息が詰まる膠着状態が続く。

 中断に構え、相手の出方を窺う翼だったが、突然膠着に飽きたようにゆっくりとした動きで歩いてくる相馬。
 無造作に、そして何の注意も払わないような歩法で、翼の間合いに踏み込んでくる。

 その行動に僅かにうまれた動揺。
 短く吐かれた呼吸とともに真っ向から太刀を斬り下げる翼だったが、言いようのない怖気を感じ取って咄嗟に手を引いた。
 手を引かなければ手首の先を切り落とされたかもしれない。それほどの小太刀の刃が空気を刈るように視線の先を通り過ぎる。

 間一髪で斬られることを回避した翼だったが、その斬撃に続く小太刀。
 左右から迫った小太刀が翼を断ち切るかと思われたが、翼はふわりと重力を感じさせない動きで飛び上がり、足下に流す。
 即座に空中に浮かんだ翼に追撃しようとした相馬は、驚愕のあまりに目を見開いた。
 
 小太刀が翼の足元を潜った刹那―――、一秒を遥かに短くした一瞬であったが、翼はその小太刀に確かに乗ったからだ。
 重さを感じる間もなく、翼は軽やかな音を残して、その小太刀から跳び下がり、距離を取った。
 その動きに見惚れていた相馬だったが、嬉しくて堪らないという様子で笑いを噛み締める。

「なんだ、その身のこなしは。動きの所々に、神速を散りばめやがって……人の為せる技かよ、それが」
「別に褒めても何もでないわよ」

 相馬の最大限の賞賛に翼は素っ気無く返す。
 だが、翼の瞳は言葉とは正反対に煮えたぎるマグマのようにどす黒く、殺意にだけ燃えていた。
 相馬の先ほどの発言が相当に気に入らなかったのだろう。

 相馬と向かい合っていた翼だが、ちらりとそのさらに後方で相馬との戦いを呆然と見ていた美由希へと視線を向ける。
 美由希本人に向けられたわけではないその殺意に、反射的に逃げ出したくなる恐怖を感じた。

「六、七割程度の体力は回復したかしら?そろそろ加勢してくれると嬉しいのだけど」
「……え?」

 翼のその台詞に思わず聞き返す美由希。
 それも当然だろう。互角以上に渡り合っているように見える翼が加勢しろと言い出したのだ。
 プライドの高そうな翼が自ら助力を請うとは予想外も良い所であった。

「手段を選ぶ必要はないわ。だってその男との戦いでは私の心は―――震えない」
 
 大人しく二人のやりとりを見ている相馬の前で、翼はそう事実だけを静かに告げる。
 再度肩にかかっていた髪を後ろに弾き、ポケットから取り出したゴムで片手で器用に縛り、ポニーテイルにする。
 勿論、もう片方の手を持った刀で相馬を牽制するのを忘れていない。

「それに、二対一くらいでその男には丁度いいのよ。その男―――底が知れないわ」
 
 空気が冷たいというのにポタリと翼の頬を一筋の汗が流れる。
 それに美由希が翼から視線を相馬に戻そうとして、ぞわりと全身を襲う今まで以上の悪寒。
 禍々しい、オーラ。どす黒い、いや、血が混じったような不気味な赤黒。
 
「ああ、そうだな。お前の言うとおりだ、天守。美由希には言ったが、手段は選ぶな。さもなくば、死ぬぞ。お前ら」

 ズズズっと影が実体化したかのように相馬に宿る。
 幻覚だというのにそれを直視するだけで魂を引き込まれそうになる。

「精々俺を楽しませろよ。それが、お前らが生き残れる時間となるのだからな」

 翼は強い。美由希は強い。
 だが―――相馬は更に強かった。
 御神流最盛期の時代において最強の名を欲しいままにした剣士の強さは二人の上をいっていた。
 
 それを認識した美由希が小太刀を構えなおす。
 狙いは相馬だ。
 翼の言う通り、手段など選んでいられない。
 二対一というのは美由希としては後ろ髪をひかれるおもいではあるが……。

「合わせなさい、御神」
「……紛らわしいから名前で呼んでください」
「あら、良いのかしら?それでは遠慮なく呼ばせてもらうわ―――美由希」
「……合わせます、天守さん」

 永全不動八門として戦った相手と共同戦線を張る。
 それに妙な感情を抱きながらも美由希は気を引き締める。
 相馬を挟むように二人はじりじりと間合いをはかる。
 そんな二人を鼻で笑い―――相馬は踵を返し、一直線に美由希へと突撃した。

「っな!?」
「っ……!!」

 二人の驚きの声が上がる。
 一切の躊躇いも無く翼に背を向ける度胸。
 その背に追いすがり斬りつけようとする翼だが、相馬のほうが圧倒的に速い。

「時間を、稼ぎなさい!!」

 翼の叫び声が聞こえた。
 それを聞きながら美由希は相馬を迎え撃つ。
 頭を低く、弾丸のように美由希に迫った相馬の一振りを、驚きながらも小太刀で受けとめるが、今まで以上の衝撃と重さ。
 金属音が響き、その衝撃を逃がそうと後ろに逃げる美由希。
 
 それを追撃する間も与えず、背後から肉薄した翼が容赦なく首元を狙って斬りつける。
 背中に目があるかのように、あっさりと片手の小太刀を引き上げて弾く。
 
 全力による一太刀を片手で受け止める相馬の膂力に舌打ちする翼。
 翼の一撃を弾き返すと、振り向きざまに小太刀を払った。
 
 その軌跡は弧を描き、翼の鼻っ面をかすめる。
 のけぞってかわしていた翼の腹部に、続けざまに見舞われる刺突。

 その刺突を、刀で弾き落とすが、生き物のように多様に変化する小太刀が翼へと襲い掛かる。
 歯を食いしばりながらその連撃から逃れたが、翼の視界のなかで、美しい黒髪が幾本か舞ったのが見えた。

 無言の殺気が相馬を打つ。
 背後から踏み込んできた美由希が滑るように仕掛けた一撃は火花をうんだ。
 火花が散らしただけで美由希は跳びのいた。
   
 片手の小太刀を翼に向け、もう一方を美由希へと向けて威嚇している相馬。
 二対一だというのに迂闊に攻撃にでれない。相馬の周囲は結界を張っているかのようであった。

 美由希と翼は先ほど以上に集中力を高める。
 少しでいい。髪の毛一筋程の隙でいい。
 それだけあれば、勝負を決めれる。
 二人の腕さえあれば、それが可能だ。

 だというのに―――その隙さえ相馬にはない。

「いい集中力だ。だが、攻勢にでないと俺を倒すことはできんぞ」
「……せかす男は嫌われるわよ?もっと悠然と構えなさい」
「下らん。時間をかけて俺の体力が底をつくのでも狙うか?……下策だな。俺の体力とお前たちの集中力、果たしてどちらが長続きするか分からんのか?」

 翼の策を見破ったかのような物言いの相馬に、翼は返答をしない。
 翼の瞳に迷いはなく、己を信じている光がそこにはあった。

 その翼の様子に、美由希を持つ。
 翼をよく知っているわけではない。だが、剣を交えたことがあるからこそわかるのだ。
 彼女がこのような待ちを好むような剣士ではないということが。
 圧倒的な才能で相手を押しつぶす。
 だというのに翼は何故仕掛けないのか?相馬の隙のなさに仕掛けることが出来ないだけなのだろうか。
 それも少しおかしい。隙がないのなら翼ならば、隙を作ろうと自分から動くはずだというのに。

 翼はまるで時間を稼いでいるような―――。

「言ったでしょう、美由希?時間を稼げ、と―――私の、私達の勝ちよ」

 笑うのを我慢できない。そんな翼が、厭らしい笑みを浮かべ、美由希に、相馬に高らかに宣言した。
 

























「ぁぁああああああああああああああああああ!!」

 晶が吼えながら地面を蹴って宴へと疾走する。
 その動きは速い。レンと普段戦っている時以上の速度だ。

「威圧?うーん、違うかな。虚勢ってところかにん」

 そんな晶を冷静に評価する宴は、迫ってきた晶が放つ拳を赤子をあやかすかのように優しく手の甲で受け流す。
 それと同時にミシリと腹部に発生した激痛に、晶が声にならない声をあげて肺にたまっていた酸素を吐き出した。

 いつのまにか繰り出したのか分からない前蹴りが晶の腹部に突き刺さり、そのまま晶の腕を掴むと投げ落とす。
 地面に激しく衝突し、その衝撃と突き刺さったままの足が気の遠くなるような激痛を晶に加えた。

 ―――猿落とし。

 恭也が闇討ちしてくる晶によく使用する御神流の技の一つ。
 恭也と同じ技でやられるとは皮肉としかいいようがない。
 足を地面に倒れている晶からどかすと、壁にもたれかかっているレンへと向き直る。
   
「うーん。素質は悪くない、というか凄い娘なんだけどねー。まだまだ青いかな」

 私の歳でいう台詞じゃないけどー、と笑う宴に対してレンは少しでも体力を取り戻そうと呼吸を繰り返す。
 結局晶が稼ぐことができたのは三十秒足らず。だというのにレンの瞳には諦める色は見えない。
 宴はそんなレンに対して首を捻る。
 レンは口元に笑みを湛えて首を振った。

「そいつは……晶は死ぬほどしぶといで?」
「っ、いててて……」
 
 レンの台詞を肯定するかのように、転がっていた晶が腹部を抑えてゆったりとだが立ち上がる。
 ふらつきながらも再び拳を構える晶。

「……へ?」

 立ち上がった晶に対して不可思議な生き物を見るかのように、宴は間の抜けた声をあげた。
 まじまじと晶と、蹴ったはずの足を交互にみやる。

「えーと……まともに決まったはずなんだけど……」
「この程度で、俺は倒れるわけには、いかねーんだよ!!」

 熱く燃える晶はダメージを感じさせずに再度、宴に突撃する。
 片足で地面を踏み込み、鋭い回し蹴りが宴の胴に炸裂する一歩手前で、その蹴りに片手を合わせた宴。

「な、う、ぁあああ」

 何が起こったかわからない。
 そんな悲鳴をあげて晶はぐるりと回転。激しく地面に叩きつけられる。
 投げられたと気づいたのはぐにゃりと揺れる世界が見えたときであった。
 後頭部を激しく地面に打ち据えながらも、ふらふらとまた立ち上がる晶。
   
「いやいや、おかしいでしょう?頑丈すぎるのにも程があるんですけど」 

 呆れたような宴は頭をかきむしる。
 無論、晶も効いていないわけではない。むしろ、今にも倒れこみたいくらいに効いている。
 だが、約束したのだ。五分は持たせると。
 それならば例え死んだとしても―――その約束だけは守る。

「はぁあああああああああああああああああ!!」

 喉がつぶれるかのように雄叫びをあげ、晶は揺れる世界を走る。
 晶の拳が届く前に、宴の前蹴りが晶に叩き込まれた。
 顔面蒼白になって膝をついた晶の顔面に、薙ぎ払われる回し蹴り。

 必死になって腕をあげ、受け止めようとする晶。
 そんな晶を嘲笑うかのように蹴り足が、消えた。
 骨と骨。硬いものがぶつかりあい、鈍い音が響き渡る。
 
 途中で軌道をかえ、側頭部に蹴り込まれた晶は、耐え切れないように晶は横様に倒れた。
 ふぅ、とためいきをもらした宴は油断なく倒れた晶を見下ろす。

 流石にもう立ち上がってこないだろう。
 そう判断した宴の耳が聞き覚えのある声を拾った。

 うげぇと下品な呻き声をあげてしまった。
 それもそのはず。相馬と向かい合っている女性は―――先ほど自分がやりあったばかりの剣士。天守翼だったからだ。

「気をつけてよ、おとーさま!!翼さん、本気で強いから―――!!」
    
 とりあえず相馬にそう注意を促しておく。
 あの相馬ならば大丈夫だとは思うが、万が一ということもありえる。
 そんな宴の視界の端で、動く影を見つけた。

「ちくしょう……つえぇな、やっぱり……」

 擦れるような、だが意識ははっきりしている声で、晶は呟きながら、立ち上がった。
 まだ立ち上がる晶に、頬をひきつらせる宴。

「打たれ強いのにも程があるんだけど……」

 幾ら全力で攻撃してないとはいえ、まともに攻撃が何度はいったと思ってるのか。
 宴は別に殺すことを目的とはしていない。
 だから、晶の将来を考えて後遺症の残るような一撃、徹などをこめて打ってはいないのだが、それでも異常である。

 もはや突撃してくるだけの力もないのか、構えたまま宴を睨みつけるだけの晶。
 宴は、少しだけ真剣に晶に踏み込むと掌底で晶の顎を揺さぶった。
 顎を揺さぶられた晶は、ガクンと腰が砕けたように地面に尻餅をつく。
 これでもう立ち上がれないだろうと宴が一息つくが―――。

 晶は震える両足を自分の拳で叩き、無理矢理に立ち上がる。
 ぐらぐらと身体を揺らしながらも宴と向かい合う姿は、幽鬼のようだ。

「キミは―――何故そこまで立ち上がるの?」
「……レンはな……言いたくないけど、とんでもなく強いやつなんだよ……」
「え?」

 宴の問いに全く答えになってない答えを返す晶。

「そんなレンが、な……言ったんだ……頼んだんだ……俺に」

 ミシリと音がなるほど強く拳を握り締める晶。
 焦点の定まっていない瞳で、宴を睨みつける。
 だが、そこには光があった。レンの瞳にもあったような光。決してあきらめることのないだろう光が。

「腕が折れようが……足がおれようが……その頼みだけは、死んでも守って、やらなくちゃ駄目だろう!!」

 恐怖の震えはすでに止まっていた。
 折れたはずの心は―――さらに強く蘇っていた。
 
「……詫びるよ、キミに。その強き心。今までの全てをキミに詫びる。キミは―――強い。力も技もスピードも、何もかもが足りなくても、心が誰よりも―――強い」

 宴が頭を下げた。
 晶の魂の咆哮に、心の底から頭を下げた。
 
 甘く見ていた。侮っていた。
 力が劣るからといって。相馬の殺気に怯え、逃げたからといって。この少女のことを。

 確かに怯えた。恐怖に逃げた。心が折れた。
 だが、それがどうだというのだろうか。
 例え一時そうだったとしても、この少女は立ち向かってきたのだ。
 
 負けるとわかっているのに。圧倒的な力量差を理解していたというのに。
 きっとそれは―――誰にも真似できない、勇気ある者の行動だ。

「全力でいくから……せめて安らかに、眠ってよ」

 レンと戦っていたときと同じほどに集中しはじめた宴が地面を蹴った。抉るほどに強く踏み込んだ。

 疾風となった拳の一撃が晶を吹き飛ばす。
 だが、倒れない。

 先ほどの遊びではない、正真正銘の全力の蹴りが腹部に決まる。
 だが、倒れない。

 遠心力を加えた裏拳が晶の側頭部に決まる。
 だが、倒れない。

 幾度も幾度も幾度も幾度も。
 一撃決まれば、大人でも気をうしないかねない一撃を幾度浴びても晶は倒れなかった。
 意識がとんでいるのではないか、と怪しむ宴だったが、瞳に宿る光は失われていない。

「……まだ、まだぁぁ……!!」
 
 呟きが漏れる。
 そんな晶の様子にビクリと宴が気圧された。だが、すぐさま連打を再開する。
 拳が。掌底が。肘が。膝が。蹴りが。
 マシンガンのように晶に浴びせられる。

 だが―――倒れない。

 その光景を、今にも飛び出しそうになる自分を必死でおさえ、レンは唇を噛み締めながら見ていた。
 今すぐにでも晶を助けに飛び出したい。だが、飛び出してどうする。
 晶はレンのために戦っているのだ。レンの体力を回復させるために、勝てない敵に立ち向かったのだ。
 少しでも時間を稼ぐために。一分一秒を命を削って、晶は稼いでいるのだ。

 そうや。それがお前や。それが城島晶や。
 心が折れても、恐怖に怯えても―――最後にはそれを克服する真っ直ぐな気持ち。
 
 ―――勇気。

 それがお前の強さや。

 涙が出る。
 その光景をレンは涙を流しながら心に刻んでいた。

「もう倒れてください、って!!これ以上は……これ以上は!!」

 追い詰めてるはずの宴が悲しみを堪えるように叫んだ。
 これ以上はまずいのだ。如何に晶が打たれ強くとも限界は存在する。
 これだけの攻撃を受けてただで済むわけがない。
 それに加えてこれ以上攻撃を加えてしまえば、本当にどうなるか分からない。
 この素晴らしい可能性を秘めた少女の将来を―――壊すことはしたくない!!
 
 右横腹に決まった宴の拳に、不快な感触を伝えてくる。
 宴はその感触に眉を顰める。
 
 まずい―――本当にこれ以上は―――。

 そう判断した宴の動きが止まる。
 それを、その一瞬を晶は見逃さなかった。
 もう立っているだけがやっと。そう思っていた宴は確実に虚をつかれた一瞬だった。
  
「うぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 残り全ての力を込めた一撃。
 全身の筋肉に溜め込んでいた最後の力。全身の筋肉を躍動させ、全体重を乗せて放った正拳。
 踏み込み、放たれた拳は宴に着弾。さらにそこからの踏み込み。
 地面に足がめり込むほどに強く踏み込んだ。
 その拳は、確かに宴の胸を穿ち、貫いた。

「かっ……はっ……」

 普段の宴ならば決してあたることのなかっただろう拳。
 晶の気迫におされ、避けることができなかった。

 その一撃は―――新吼破と晶が呼ぶ我流の奥義。

 空手の師である巻島が教えてくれた吼破。それを改良したのが吼破改。
 そして、それを昇華させたのが新吼破。

 それは、恭也や美由希が戦っている時に見た技術。徹とよばれる衝撃を伝える技法。
 それを見たときに考え付いた技だ。
 吼破に徹の技術を加えて放つ、外と内の両方を破壊する必殺の一撃。

 その一撃が確かに宴に決まった。
 全身の筋肉が、今の一撃でもう限界だ、と伝え悲鳴をあげる。
 だが、晶は止まらない。

 無理矢理に身体を動かし、返す刀で―――もう一撃が放たれた。
 全てがスローモーションに見える世界で、ゆっくりと宴に迫っていく晶の拳。

 その拳が宴に直撃する瞬間―――宴はその一撃をあっさりとかわした。

「……そんな、ばっ……かな……?」

 避けられたことを信じられないかのような呆然とした晶の声。
 何故、確かに新吼破は決まったのに?
 何故、動ける?
 
 ぐるぐると頭をまわる疑問。
 そんな晶を見据えて宴は晶へと密着する。
 そして、お返しといわんばかりの三連撃。腹部、鳩尾、そして顎。

 その三連撃は一瞬の遅れも無く同時に打ち込まれたのだと晶は錯覚を覚えた。
 何の容赦もないその連打を受け、晶はその衝撃で弾き飛ばされた。

 新吼破は力も技もタイミングも完璧だった。
 唯一つ足りなかったものは、技術。

 徹とは一朝一夕で修得できるほど甘い技術ではない。
 御神流では基本とされるが、それを修得するのにどれだけ気が遠くなる時間がかかるだろうか。
 極めるまでいかずとも、自由自在に扱うまでにも相当な修練を要する。

 晶も天才だ。努力と才能の天才だ。
 だが、新吼破を編み出してから僅か半年。その程度の期間では―――徹を修得することはできなかった。
 万全の状態であったならば或いは決まったかもしれない。それでも今の状態で、決めることが出来るほど甘くは無かった。
 晶は、賭けに負けたのだ。
   
 晶はすぐ後ろにあった壁に激突する勢いで、後方へと弾き飛ばされた。
 上下逆に見える世界で、晶はその壁を呆然と見ている。

 ああ……あの壁にあたったら痛いだろうなぁ……。

 そんな思いを漠然と抱きながら迫ってきた壁を見ないためにも目を閉じた。
 目を閉じた瞬間、ドンという硬い何かにぶつかったのが分かった。

 確かに硬い。だが、不思議と痛くない。
 それどころか、全身を包む暖かい空気。
 
 疑問に思い、目をおそるおそるあけてみる。
 目をあけた晶の目に映ったのは―――自分が最も尊敬し、敬愛する男の姿。
 誰よりも強く、優しい師匠の姿。唇が震える。痛みではなく、苦しみではなく、恐怖でもなく、ただ嬉しくて。

「……し、師匠……?」
「すまなかった。遅くなったな、晶」

 魂が震えるような安堵に包まれて、晶は意識を手放した。




 

 

 


 


 




[30788] 旧作 御神と不破 三章 後編
Name: しるうぃっしゅ◆be14bceb ID:c2de4e84
Date: 2012/06/07 01:31






























 宴は―――逃げた。
 その場から距離を取った。
 正確には現れた恭也から離れるように動いたのだが。
 
 恭也との距離は、普段戦うときの倍、いや三倍近くの間合いを取って宴は油断なく恭也の全てを見逃さないように集中した。
 さもなくば、相手の動きに反応することができないという、漠然とした予感を感じたのだ。
 すでに先ほど戦っていた晶とレンのことを忘れたかのように、ただ恭也だけを凝視する。
 晶やレンなどが比較できない。圧倒的な―――脅威。
 
 口の中が乾く。唾液すら出てこない。
 喉もからからに乾き、呼吸も苦しい。
 
 宴をして、その実力を掴めない。
 あまりにも巨大すぎる威圧感。頂が見えない山の麓から、空を見上げたような……。
 自分が、どれだけちっぽけなのか理解できる―――真の強者の中の強者。

 翼と戦ったとき強いと思った―――だが、本気をだせば負けるとは思わなかった。
 レンと戦ったとき強いと思った―――だが、楽しかった。

 だが、目の前のこの男は、駄目だ。
 勝てるとか、楽しいとか、そういう問題の話ではない。
 この男と戦えば間違いなく。確実に。絶対に。

 ―――コロサレル。

 そう認識した瞬間、ぶわっと冷や汗が全身から流れた。
 初めて感じる死への恐怖。
 蜘蛛の巣にかかった虫のように―――己に忍び寄る死。
 死神がその鎌を首元へとつきつけているような、実体化したかのよう死の体現者。

 桁が違いすぎる。格が違いすぎる。次元が違いすぎる。
 闇が蠢く。一切の光も無い。真の漆黒。
 目の前の男に比べたら相馬でさえも霞む。相馬は影だ。光がなければ存在しない影。
 なれど、この男は違う。単体で存在しえる闇。光を塗りつぶす、原初の漆黒。

 ガチガチと歯がぶつかり合う宴の背後で―――押し潰されそうな、殺気が膨れ上がった。
 振り向かなくても分かる。物心ついたときから、傍にいた相馬の、感じなれた気配だからだ。
 先程までの、美由希と翼との戦闘とは明らかに異なるレベル。別人ではないかと錯覚するほどの殺気。

 恭也が来た事により、一瞬とはいえ緩んでいた美由希と翼は、宴が恭也と距離を取ったと同じように相馬から間合いを外した。
 二人は完全に自分達の気が緩んでいた。そう実感していたのだが、それが逆に不思議であった。
 今の一瞬の間を持ってすれば、どちらかは確実に斬られていた。相馬ならばそれが可能だったろう。
 だというのに相馬は二人には一切の注意を払うことなく、ゆっくりと恭也に近づいていく。
 隙だらけに見えるその背中を二人は斬りつけることができなかった。
 相馬を包む、不吉なオーラ。例えこちらに注意を払っていなかったとしても、間合いに入った瞬間、一刀両断にされる。それほどの気配を相馬は纏っていたのだから。

 それは、随分と久しぶりとなる、相馬の全力の威圧。
 相馬とともに裏の世界で生きてきた宴でさえ、本気をだした相馬を見たことは、ただの一度だけ。
 香港国際警防部隊最強の男―――陣内啓吾との戦いの時だけだ。
 
 周囲の人間たちを問答無用で、怯えさせ、恐怖させ、跪かせる。剣鬼と剣鬼の、圧死しそうなまでの殺気のぶつかり合い。
 そんな重圧を全く感じていないのか、その剣鬼の一人である恭也は晶を壊れ物を扱うかのように抱きかかえると後ろに居るレンに預けた。

「お前も大丈夫か、レン?」
「……大丈夫です、お師匠……うちより、なのちゃんが……」
「……そのことは赤星から聞いた。なのはのことは―――あいつに任せてある。心配するな」
「……すんません。お師匠……すんません」
「何を詫びる必要がある、レン?お前には感謝しかない。よく、よくあれほどの相手からなのはと晶を守ってくれたな」

 守れてなど、いない。
 謝るレンは恭也を泣きそうな顔で見上げる。
 しかし、恭也はそんなレンに首を振る。そして、優しく肩を叩いた。

「分かるさ。でなければあんな、外れた敵を前にして、なのはの命は―――」

 なかっただろう、とは続けなかった。その台詞を最後までは言わなかった。言えなかった。
 仮に仮定であったとしても、なのはが死ぬなどということを口にだしたくはない。
 ゾクリと、レンは恭也の静かな怒りを感じた。
 
 その怒りを封じている楔も、何か切欠があれば今すぐにでも崩壊しそうな、そんな危うさ。
 これほどまでに怒っている恭也を、レンは見た事が無い。
 自分達に見せるのとは全く異なる―――敵へと送る本当の憤怒。

 レンは晶を受け取ると―――生憎抱いていられるほどの体力もまだ戻っていなかったので邪魔にならないように壁際へと下がり寝かす。
 恭也は、宴と同じ場所で止まり激しくこちら睨みつけている相馬へと向き直った。

「……何が目的だ?」

 ドクンとその場にいた全員の心臓が胸を打つ。
 普段は見知らぬ相手ならば敬語を使う恭也だが、今回ばかりはそんなことはない。
 明らかな敵。なのはを、晶を、レンを傷つけた、憎むべき敵。
 許すことなど―――できるものか。

「理由はただ一つだ。御神当主の座を受け取りに来た」
「御神当主……お前は……」
「俺のことを忘れたのか?生憎と俺はお前のことを一目見てわかったぜ?士郎に似て―――そしてあの頃の面影があるな、お前は」
「……ま、さか」

 ズキリと頭痛がした。
 その声。その姿。その殺気。
 幼き頃に見て、感じたあの頃の剣士の姿。

「ああ、俺だ。御神相馬だ。十数年ぶりか、恭也。まさかあの小僧が生きているとは思わなかったぞ」
「それはこちらの台詞だ。それに今更一体何の用が―――」
「言ったはずだ、恭也。御神当主の座を―――いや、御神宗家を継ぎにきた、といったほうがいいか。あの亡霊を、宴に宿しにきた」
「……宴?」
「俺の娘だ。どうだ?なかなかの剣士だろう?」

 宴という名前に眉を顰め聞きなおす恭也。相馬は隣にいる宴を親指で指すと、ニヤリと笑う。
 相馬に指差され、恭也に見つめられた宴は、頬をひきつらせる。
 恭也の圧倒的な気配に、普段の軽い反応を返すことさえできやしない。

 宴を見た恭也の反応は意外なものであった。
 先程まではしっかりと視界にいれてなかったということもあっただろう。
 相馬に言われ、直視した恭也は、呆然とした表情でとなり、その瞳が揺らいだ。

「まさか……琴絵、さん?」
「似てるだろう?幾ら俺とは血を分けた姉だったとはいえ、俺の娘がここまで似るとは思わなかった」
「……」
「若い頃のあいつに……瓜二つだ。勿論、剣の腕の方も、な」
「……確かに」

 こちらを緊張して窺っている宴は、相馬の言うとおり強かった。
 恭也の見立てでは、恐らく美由希とほぼ互角。いや、僅かながら美由希のほうが上か。
 年齢のことを考えるならば、その評価は逆転する。年齢の分だけ美由希の力量の方が上といったところか。

「お前に一つだけ聞きたい」
「……」

 そんな恭也の思考に割って入ってくる相馬の真剣な問い。
 それに答えない恭也だったが、相馬は気にせずに口を開く。

「お前は、何を捨て、何を失い、何を持ってそこまでの域に達した?」
「―――全てを」

 相馬の問いに恭也淀むことなくそう答えた。
 
「不破恭也としての全てを。高町恭也としての全てを。ただ一振りの刀として―――今の俺はここにいる」
「くはっは……そうか、そうか、そうか!!俺の予想を覆したか!!俺の想像を遥かに超えたか!!俺の領域の上に逝ったか!!」

 嬉しくてたまらない。そういった相馬の様子に皆が皆呆れる。
 美由希と翼は特にそうだ。
 二人は恭也の力というものを知っている。誰よりも深く心に刻んでいる。
 自分達では到底及ばぬ、絶対たる世界に住む剣士。
 そんな恭也を前にして、相馬は全くの恐れを知らず、正面から向かい合っていたのだから。
 有り得ないだろうが、万が一恭也と敵として戦うことになったら、二人は恭也にたいしてこのような態度をとれるだろうか―――答えは否だ。

「今日は驚かされることばかりだ。神をも恐怖させる武才。御神宗家の名に恥じぬ剣士。血塗られた人斬り。そして―――極めつけはお前だ、恭也」

 バチリと黒い稲妻が二人の間で散った気がした。
 二人の鬼気のぶつかり合いはとどまる所を知らない。
 この場にいるのは全員が強者だ。とてつもない武人達だ。
 それでも、気圧された。二人の異様な気配に。全身を襲う、圧倒的なまでの悪寒。

「全く、お前は尋常じゃねぇ。生きながらにしてカミの域にまで達したか?ヒトの身であの亡霊にも匹敵するかよ、バケモノめ。ああ、ヒトというのも生温い。修羅。鬼人。剣神。いや、真なる破神よ。御神宗家のジジイどもが生きてたならば狂喜乱舞するだろうよ。奴らが願った理想の果てがお前だ、恭也」 

 その場に居る誰も気づかない。
 恭也と相馬の殺気。それには決定的に違う所がある。
 恭也の殺気は言ってしまえば、威嚇。
 だが、相馬のそれは―――追い詰められたものが放つ虚勢であった。
 つぅと相馬の頬に汗が一筋流れる。
 ここまでの力の差を感じたことは【御神】と向かい合ったときだけだ。

「強いな、恭也。お前はどれだけの修練を積んできた?どれだけの死線を越えてきた?どれだけの強者と戦ってきた?どれだけの人を斬ってきた?ヒトを外れたヒトよ。はっきり言ってやろうか?お前はすでにヒトという域を越えている。お前は間違いなく真なる破神となれる剣士だ。この俺が見てきた裏の世界の猛者どもが―――子供に見えるぞ」

 勝てない―――相馬は確信をもった。
 美由希と翼を二人同時に相手をしたとしても相馬は勝てるだろう。
 だが、恭也と戦ったならば、勝てるイメージがわかなかった。 
 
「全く持って信じられんが、認めるしかあるまい。恭也―――お前が御神の宿願、破神の域を目指したということを。士郎が、静馬が、美影が聞いたら大層驚いただろうな。いや、それとも喜んだか?あの小さかった小僧が、それを目指し、そして叶えようとしているのだからな」
「御神の、宿願?」

 聞きなれぬ単語に美由希が思わず話に割ってはいる。
 そんな美由希には一瞥もくれずに、相馬は続けた。

「なんだ恭也から聞いていないのか?まぁ、いい。教えておいてやろう。御神流とは文字通り神を御する者達。即ち【御神】を宿すが故についた名だ。知ってるか?そもそも永全不動八門とは……遥か昔一つの流派だったということを」
「……そんな、馬鹿なこと……」
「……聞いたことないわね」

 驚く美由希と翼。互いにそのような話を聞いたことはない。
 想像もしたことが無い。
 確認するように二人は恭也を見ると、恭也は静かに頷いた。

「永全不動の創始者は、武技に優れ、智に優れ、霊力にも優れていたという。時代の闇に潜み、己を鍛え上げることに全てを費やした。そんな創始者には八人の弟子がいたが―――その全ての武を継ぐことは誰一人できなかった。それ故に、それぞれの弟子は一つずつの技を受け継ぎ、生まれたのが永全不動八門だ」

 初めて知るその事実に美由希と翼は呆然とする。
 まさか自分達の源流が同じものであったとは。

「その創始者は、死の間際最も優れた弟子に、全ての霊力を込めて精神を移した。それが―――【御神】だ。永全不動八門全ての祖。全ての源流。全ての武の頂点に立つ者」
「故に御神流は―――御神宗家は特別な存在だ。永全不動の開祖たる【御神】を宿しているのだから」

 続けるように恭也は語った。
 相馬はやはり知っていたか、とでも言いた気に笑みをこぼす。

「ここで疑問に思うだろう?御神流の―――破神とは何なのか、と。自分達の神ともいえる開祖【御神】を宿しているというのに、神を破るための技とはなんなのかということだ。それは―――」 
「―――【御神】が望んだことだからだ」

 御神が望むとはどういうことか。
 美由希と翼は首を捻る。続きの言葉を逃すまいと、相馬と恭也の話に集中する。
 ちなみにレンは全くといっていいほど話についていけていない。

「【御神】はな、超えてほしいのだ。自分が生み出したその技で―――自分を凌駕して欲しいのだ。だからこそ、我らは破神を名乗る。我らが頂点である開祖【御神】が望むがゆえにな」
「―――【御神】は死を恐れたわけではない。人は死ぬ。それは真理であり、覆してはならない。だが、全てを犠牲にして手に入れたその力を見つめなおしたときこう思ったらしい。なんと無様なことか―――と。この程度では、斬ってきた相手に合わせる顔がない―――と。そう、【御神】は最強になって死ななくてはならない。それだけを目的に数百年の時を生きてきたんだ」
「真なる破神、それは【御神】の望みを叶えるもの。最強となった御神を打ち倒し、最強を超える最強として存在することになる者だ。所詮、それはただの伝承だがな。当然だ、己の開祖でもあり、決して手の届かぬ果てに居る亡霊を越えようなど誰が考えるだろうか」
「何時しかそれはただの建前となってしまった。決して超えることが出来ない存在。無駄だと諦めたのだろうな、他の永全不動八門は。それ故にもはや伝承も彼らには伝わっていない。だが、【御神】は未だ信じている。何時か御神の一族が自分を超えてくれると」
「あれは……バケモノだからな。この俺とて勝てると思ったことなどありはしねぇ。ネズミが獅子に戦いを挑むようなものだ。御神の一族でさえ、誰もがそんな者が未来永劫現れるなど思ってもいなかった。だが―――」

 手で口を塞ぎ、笑いを噛み殺すように、相馬は目を見開き恭也を睨みつける。
 
「ついに、ついに現れたということだ。予言してやる、恭也。お前は間違いなく、御神の歴史に幕を降ろす者だ。古き時代は終わりを告げ、新たなる御神の歴史が幕を開ける。【御神】もそれに確信を持っているのだろう……だからこそ【御神】はそこいる!!」
「……俺の武ではまだ、あの人には及ばない」
「人、か。アレを、あの亡霊を人と呼ぶか。確かにお前はまだ及ばぬだろう。だがあと五年か十年。それくらいの年月があれば、お前は超える。あの亡霊を必ずな」
「……」
「おっと、随分と話込んでしまったな。俺達は口で語るよりもこちらで語ったほうがいいだろう」

 相馬は小太刀を叩いてそう語る。
 話す時間はもう終わりだと。残りは剣で語るとしよう、と。
 勝てない。それが分かっているというのに相馬は本当に嬉しそうだった。殺されるということが分かっているというのに相馬は剣を交えることを望んで居るかのようだった。
 
 二人は―――相馬と恭也は小太刀を納刀したままじりじりと互いの間合いを詰めていく。
 それこそ注意して見ていなければ近づいているのが分からないほどに少しずつ。
 すり足で、短く呼吸を繰り返しながら、二人の剣の間合いが近づいていく。

「動くなよ、小娘。斬るぜ?」

 恭也に加勢しようと動こうとした美由希にそう告げる相馬。
 背後にいたというのにまるで見えているかのような物言いに足が止まった。
 相馬の言うとおりだ。もし相馬に攻撃を加えようとしたら確かに、斬られるであろう。それは確信でが持てるほどの鬼気。

 そんな美由希を制したのは意外にも翼であった。
 相馬に向かって構えていた小太刀を抑えるように、美由希の手に自分の手を重ねる。
 まるで、手をだすなという無言の行為に美由希が抗議の視線を送るが、翼は首を振った。

「分かっているでしょ?私達は―――【今】の私達は邪魔よ。恭也の足を引っ張るだけ」
「……そう、ですね」

 美由希とて本当は分かっていた。
 相馬は―――強い。強すぎる。今の自分達では到底及ばぬ剣士だ。
 水無月殺音と戦ったときのように、恭也を見守り、己の無力さを嘆くことしかできない自分。
 それが美由希は悔しかった。

 じりじりと近づいていった恭也と相馬。
 すでに二人の剣の間合いはあと一息で重なる。
 周囲の空気が止まったかのように、見ている者が息も忘れてその二人に魅入っていた。
 
 ―――抜刀が、くる。超速の―――。

 相馬がゴクリと唾を飲み込んだ瞬間、互いの間合いは重なった。
 その抜刀術がくると理解できたのは相馬だからこそだろう。その体勢、その状態から己へと迫るその技は―――虎切。
 間違いない。あまりに完璧すぎる、完全すぎる、完成された御神流の抜刀術。
 相馬の耳に聞こえたのは澄んだ鍔鳴り。
 視界に映るのは、己の腕を一刀のもとで切り伏せんと抜き放たれた小太刀。相馬の想像通り、生涯見たどの虎切よりも、美しく、死を告げる軌跡を描く。
 その虎切を防ぐことが出来たのは意識しての行動ではなかった。無意識のうちの防衛本能。それが恭也の抜刀からの一太刀を防ぐことに成功させた。

 追の太刀を浴びせようとした恭也の瞳に映ったのは相馬の後方にいた宴が懐から何かをこちらにむかって投げる姿。
 そして、それは世界を埋めつくすような閃光を発した。閃光弾、そう理解した恭也は瞬時に目をつぶって距離を取る。
 向きが悪かった。相馬はその閃光弾に背を向けていたのでめくらましにはならない。浴びたのは恭也と、レン。そしてこちらを宴と同じ方向から見ていた美由希と翼。

「逃げるよ、おとーさま!!」
「……くそが」
「手段を選ぶなっていったのはおとーさまでしょうが!!」

 そんな二人の声が聞こえる。
 必死な宴と苦々しげにはき捨てる相馬。
 逃がすものかと、恭也はその場から離れようとする二つの気配を感じ取るように集中する。
 例え視界が覆われていたとしても、気配くらいは掴み取れる。
 
 それを予想していたのだろう。
 空気を裂く音が聞こえた。それは、飛針だろう。鋭利な飛び道具が迫っていた。
 恭也にならば、容易く防ぐことはできた。だが、その目標となっていたのは―――レン。
 
 レンならば避けることができるか、という信頼はある。
 だが、今は気を失った晶を庇わなければならない。
 
 恭也の取った行動は―――敵を追うことよりも、レンを庇うことだった。
 レンに向かって投げられた飛針に向かって隠し持っていた飛針を飛ばす。
 一寸の狂いもなく、レンへと迫っていた飛針を弾き落とした。

 これ以上の攻撃はないと安心して恭也は相馬と宴の気配を探索するが―――遠すぎる。
 この僅かな時間で二人はすでに高町家から随分と逃げ去っていたのだ。
 
 追うことを諦め、恭也はふぅと肺の中の空気を吐き出した。
 小太刀を鞘におさめ、じわりと汗が滲んでいた掌を見る。
 
 ―――乗り越えた。

 それが恭也の率直な感想だった。 
 幼き頃に嫌というほど叩き込まれた恐怖。存在感。相馬という人間を。
 恭也は確かに乗り越えることが出来た。
 トラウマともいえる、幼い頃の壁を、己の手で打ち壊すことができたのだ。臆することなく、恭也は小太刀を振るうことが出来た。
 汗で滲んだ手を力強く握り締め、恭也は倒れている晶へと近づいた。
 











 
 
 
 










 



「もう、おとーさまの超大嘘つき!!なにがたいしたことないの!?あれって本当にヒトですか!?」
「……いうな、宴。一番驚いてるのが俺だ」
「いやいや、私の方が十倍は驚いてる自信があるよ!!」

 周囲はすでに暗闇に覆われている。
 道路を照らすのは薄暗い街頭。道を歩く人ももういない。
 そこを二人は疾走していた。少しでもあの剣鬼から遠ざかるように。
 なんとか奇襲ともいうべき方法で逃げ出すことができた。相馬が注意をひきつけていたからこそ、宴の放り投げた閃光弾で視界を塞ぐことができた。
 まさか、こんな無様にも逃げ出すことになろうとはこの海鳴に来た時は思ってもいなかった。

 相馬と宴。
 二人の予定は完璧に壊されていた。それに頭を抱えたくなる。
 ある程度の戦闘は予想していた。それなりの使い手だろうとは思っていた。
 だが、どこがある程度だったろうか。
 レンも晶も、美由希も翼も。誰一人として舐めてかかれる相手ではなかった。油断をすれば地に伏すことになったのはこちらのほうだ。それほどの力をもった相手。
 
 まだそれだけならばよかっただろう。十分に相手をすることができた。
 だが―――恭也だけは完全に予想の遥か上をいっている。
 あんな馬鹿げた剣の腕。一体どうすればあそこまでとち狂えるというのか。

 足を止めることなく二人は海鳴の町を駆け抜ける。
 横目でちらりと相馬を見るが、斬られそうになったというのにその顔は何時もどおりだった。
 この男もまた、恭也には及ばないだろうが剣に狂った御神の剣士。
 常人とは一線を駕する精神構造をしている。
 ハァと深い深いため息をついて宴はぽつりと呟いた。

「それにしてもおとーさま。よくあの抜刀術……虎切かな?よく見えなかったけど、防げたね?」
「……まぁ、俺も自分で少し驚いている。あの一刀は、正直言うと防ぐことなどできないと思ったんだがな」
「ええ、いやいや。ならなんで防げてるの?」

 その頼りない相馬の返答に宴が逆に驚かされる。
 後ろから見ていた宴だからこそ分かることもある。
 恭也が放った虎切。あれは、凄まじいものだった。完全に完成された、理想ともいえる抜刀からの一太刀。
 あれを見てしまったら、自分の虎切がどれだけ未熟だったのかと実感させられる。
 相馬でさえも、無駄が多く思われてしまう。

 だが、相馬はあの一撃を防いでいた。
 宴の目からみてだが、あの防ぎ方は、カンや一か八かの賭けによる結果ではなかったはずだ。
 確実に、確信を持って、小太刀で防御していたのだ。
 宴は相馬が己の意思と判断で防いだと思っていたのだが……肝心の相馬の返答がこれだ。

「おとーさま、絶対嘘ついてるでしょう?あの防御は、絶対に確信を持って防いでたってば」
「……」

 宴の責めるような言葉に相馬が考え込むように視線を明後日の方向に向けた。
 そう言うが相馬は虎切を防げたのは無意識のうちの判断だ。
 恭也のあの構え、そして体勢から放たれるのは、虎切だと分かったがゆえに防ぐことができただけだ。
 完成された虎切故に、全てを一刀のもとにて切り伏せんと相馬に向かってきた。
 だからこそ―――長年に渡って身体に染み付いていた動きだったからこそ、命を拾うことが出来たのだ。

 そこで相馬は気づく。
 頭の隅でひっかかっていたことに。
 完成されていた―――。
 あの虎切は間違いなく、相馬より、宴より、静馬より、士郎よりも完全に完成されていた―――。
 だからこそ―――。

「……」
「ん?どーしたの?どっか斬られてた?」

 足を止めた相馬に不思議そうに首を傾げる。
 相馬は―――笑っていた。
 禍々しく。どす黒く。嘲笑うかのように。
 ゾクリと宴の背筋に冷たいものがはしる。
 こんな父を初めて見た。こんなにも、狂いそうなまでに、恐ろしい笑みを浮かべる父を―――。

「逃げるのは、止めだ。あいつと―――恭也との決着をつける」
「え?いやいやいやいや、無理無理無理!!止めておこうって、おとーさま!?多勢に無勢だし!!」
「安心しろ。恭也の相手は―――俺がする。残りは宴、お前がやれ」
「ええ!?いや、どっちも無理そうなんですが」
「……できるか、できないか。それだけをお前に聞くぞ?」
 
 真剣な相馬の問いに宴は本気ななのだと感じ、諦めたように幾度目になるかのため息をつき空を見上げた。
 宴の視界に映るのは美しい月。
 夜の支配者だと無言で語っているかのようだ。
 
「【本気】でいっていいの?」
「無論だ。ああ、あのレンとかいう小娘は頭数にいれなくていい。失った体力、集中力はそう簡単には戻るまい」
「……ん」

 トントンと道路を足で叩く。
 美由希と翼のことを思い出す。
 素晴らしい剣士達。尋常ならざる剣士達。圧倒的ともいえる剣腕を持つ剣士達。

 だが―――。

「勝てるよ。あの【程度】があの子達の本気なら―――私の相手じゃない」

 自信満々にそう宣言する宴。
 あの美由希と翼を相手にしてなお勝てると言い放つその大言は、誰もが聞いても呆れ果てることだろう。

「そうか。ならば任せた」
 
 だが、相馬はそれを信じた。
 まるでそれが当然のことだといわんばかりに。
 
「疲れるから本当はあまりやりたくないんだけどねー。それよりおとーさまのほうこそ大丈夫なの?あの人、多分私が【本気】になっても無理だよー」
「ああ、任せろ。むしろお前の言うとおりだ、お前では勝てん。静馬だろうが、士郎だろうが、美影のババアだろうが、あいつには勝てん。あいつに勝てるのは―――」

 一瞬、宴は見惚れた。
 あまりにも禍々しい相馬の笑みに。
 だが、絶対の自信を持って言い放つその姿に。
 
 あの、バケモノというのも生温い。真なる破神を可能とするであろう剣士と戦うというのに―――相馬は自信に満ち溢れていた。
 自分でさえ到底及ばぬ、完成された御神の剣士と戦うだというのに―――。

「この世界でただ一人。この俺だけだ!!」

 月が夜を照らしていた。
 静かに。禍々しく。不吉を告げるかのように。
 剣鬼と戦う相馬を祝福するように―――月は輝いていた。

































 気を失っている晶の診察を終えた恭也が深く息を吐く。
 それは安堵のため息であった。外傷はかなり酷く見えるが、どうやら後遺症が残るような怪我は無いようだ。
 これも晶の柔軟な肉体のおかげであったか、と晶の髪を梳いてやる。
 レンとの戦いで数え切れないほど倒されてるのもあるかもしれないという考えはこの際置いておく。 

 何度も地面に倒れ付したのだろう。綺麗な髪が砂と埃に塗れている。
 戦っていた宴は強かった。晶では到底及ぶぬ相手であった。
 晶とてそれは分かってい筈だ。それでも戦ったのだ。自分の意思で、戦って遂には一矢を報いた。
 
「お前は……強いな、晶」

 愛おしそうにゆっくりと幾度も晶の髪を梳く。
 ぼろぼろで、小さなその身体が恭也にはとてつもなく大きく映る。

「お前はゆっくりと成長していけ。お前はきっと―――計り知れないほどに強くなる」 

 その光景を羨ましそうに見るレンと美由希。そして翼。
 子供が欲しがっている玩具を見る光景にも見える。そのうちレンならば指を咥えて見そうな勢いだ。

 じーと見つめる翼の視線に気づいたのか、美由希が不思議そうにちらりと横目で翼を見る。まさかあの翼がそんな物欲しそうに恭也を見るとは思ってもいなかった。
 その気配に気づいたのか慌てて視線を明後日の方向に向ける翼。心なしかその頬は赤くなっている。
 ちらりと窺うように美由希へと視線を戻し、目が合う。
 それにビクっと反応をして、唇を尖らす。

「な、なによ。何か言いたいことでもあるのかしら?」
「……いえ、別に」
「……言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」
「んーと。天守さんって意外と可愛い人なんだなーて思っただけです」
「ば、馬鹿じゃないの?寝言は、寝てから言いなさい」

 慌てたようにそう言うと、ふんっと再度そっぽを向き恭也の方へと近づいていく。
 冷たい人かとおもったがどうやらそれだけではないらしい。
 仲良くなれるかもと、苦笑すると美由希も固まるように握っていた小太刀を鞘に納め翼の後を追った。

「お師匠。晶は大丈夫ですか……?」

 恭也に撫でられるという至高の褒美を与えられている晶に蹴りの一つはくれてやりたい気分のレンだが、流石に今回ばかりは晶の頑張りを知っているだけにそのようなことはしない。
 逆に心底晶の身体のことが心配だ。幾ら頑丈なのは身を持って知っているとはいえ、あれだけ攻撃を受けて無事ですむはずがない。
 特に晶を認めてからの宴の連撃はまさに苛烈の一言。もし仮にあれだけの攻撃を自分が受けていたとしたら―――。
 背筋が凍るような気持ちのレンに恭也は頷く。

「ああ。見かけは酷く見えるが、後遺症が残るようなことはないだろう。医者に見てもらわないと安心はできないが」
「そうですか……よかったです……」

 胸を撫で下ろすレン。
 恭也がそう言うならば恐らくは大丈夫だろう。
 怪我になれているせいか恭也はこういったことには滅法詳しい。
 美由希の鍛錬も我武者羅にしているのではなく、科学的な根拠に基づいた鍛錬も混ぜて指導しているのだ。
 それに比べて自分には滅茶苦茶な鍛錬を強いているのだが……。

「その娘の容態は……大丈夫のようね」
「ああ、翼か。すまなかったな。どうやらこちらの身内同士の争いに巻き込んでしまったようだ。面倒をかけた」
「気にするほどのことでもないわ。興味深い話も聞けたことだしね」
「永全不動のことか……。天守で聞いたことは無かったか?」
「父ならもしかして知ってるかもしれないわね。本当に知らないのかもしれないけど」

 肩をすくめる翼に恭也は晶を抱きかかえて高町家の縁側へと歩いていき寝かせる。
 晶の横へと腰を下ろすと小太刀を鞘ごとはずし、床に置く。

「遥か昔の話だからな。【御神】が存在する御神宗家以外はすでに言い伝えが途切れても仕方の無いことだろう」
「それもそうね。それにしてもあの【御神】が永全不動八門の開祖だったなんてね……。通りで強いはずよ」
「ああ。あの人は―――強い」
 
 翼の言葉に少しだけ嬉しそうにする恭也。
 翼は【御神】のことを評価したのだというのに、まるで自分のこと以上に喜んでいるようだ。
 あの感情を見せにくい恭也だというのに、誰が見てもわかるほどに―――。

「ところで恭ちゃん。あの人……相馬さんはどうするの?」

 話題に入れていなかった美由希が、翼に割り込むように問いかけてくる。
 恭也との会話を邪魔されて少しだけ不機嫌そうに眉を顰める翼。
 その美由希の質問に、恭也は横に置いていた小太刀に手をやり握り締める。ミシリという音が聞こえた。

「俺達の家族に手を出したんだ。それなりの報いは受けて貰う」
「うん……そうだね」

 コクリと力強く頷く美由希だったがふと思い出したように恭也に慌てたように詰め寄る。

「そういえばさっき聞こえたんだけどなのはがどうかしたの?」
「……美由希ちゃんあの時おらんかったね。あの男がなのちゃんを……」

 恭也の代わりにレンが苦々しげにもらす。
 相当後悔しているのだろう。最後まで言う事はできなかった。
 そのレンの言葉に驚いたのが美由希だ。まさかなのはまで傷つけていたというのかという驚き。

「な、なのはは大丈夫なの!?」
「俺は診てないからなんともいえん、が。生死に関わるというほど酷い怪我ではないらしい。今は赤星が海鳴病院へ連れて行ってくれている」
「……そっか。でもなのはまで傷つけるなんて……許せないよ」

 ぎゅっと唇を噛み締める美由希。
 本当に悔しそうにかすれる声で呟いた。
 自分たちならば剣に生き、剣に死ぬ覚悟はできている。
 だが、なのはは違う。ただの小学生なのだ。あんな小さい少女を痛みつけるとは―――。
 
「ああ。だから言ったはずだ。それなりの報いは―――受けて貰うと」

 ぞっとした。
 恭也の声は平坦だ。冷静だ。いつもと変わらない。
 そう思っていた美由希は、自分の考えが甘かったと認識した。

 恭也が冷静?
 そんな訳がなかった。
 
 なのはの父である士郎はなのはが産まれた歳に命を落とした。
 だからこそ恭也はなのはのことを、時には父として、時には兄として見守ってきたのだ。
 父としての恭也。兄としての恭也。二人分の愛情を持って接してきたといってもいい。傍目には分かりずらいかもしれないが―――最大限の愛情をもって接してきたといってもいい。

 そのなのはが傷つけられたのだ。大切な娘が、大切な妹が―――。
 怒っていないわけがない。憎んでいないわけがない。冷静でいられるわけがない。
 平坦な声の裏に隠されていたのは、沸々と煮えたぎるマグマのような熱き怒りであった。

「……何?」

 そのとき、突然不可思議な顔をして恭也は縁側から立ち上がると遥か遠方へと視線を向ける。
 すでに薄暗く遠くなど見えるはずもない。見えるのは家々と、空に浮かぶ月。そして星々。

 立ち上がった恭也を不思議そうに窺う美由希達。
 次に気づいたのは翼であった。
 ピクリと眉を顰めると恭也と同じ方向に身体を向ける。先程までの気が抜けた空気はすでに存在していなかった。
 遅れること数秒。美由希もようやく気づき、驚いたように目を大きく見開く。
 そんな三人の行動に首を傾げていたレンだったが―――ようやく理解できた。何故そんなに皆が驚いていたのか。

 高町家から遥か遠方。
 どれくらいの距離か分からないが、確かに居る。
 彼が。御神相馬が。

 気配を隠すわけでもなく、禍々しい気配をこちらに察知させるかのように振りまいている。
 攻撃的な気配。肉食獣のように、今にも爆発しそうなまでの荒々しさ。

 その気配を放つ相馬は高町家から離れるわけでもなく、近づくでもなく、同じ位置を保っている。
 相馬のその行為。明らかにそれは―――。

「誘っている、な」
「ええ、そうね。しかもこれは恭也をご招待したいらしいわ」
「うん。恭ちゃんのことを―――挑発してるね」
「……なんかお師匠だけでなく美由希ちゃんまで人間離れしてきましたなぁ」

 レンの呆れたような物言いに美由希が本気で嫌そうな顔をする。
 それは無言の反論であった。
 恭ちゃんみたいな人間離れした人と一緒にしないで、と美由希の目は語っている。

「……目は口よりもモノを言うとは上手くいったものだ」
「あ、あははは」

 それを見破った恭也の冷たい視線が美由希を貫く。
 笑って誤魔化そうとした美由希だったが、恭也の視線は冷たいままだ。
 
 ―――二人とも、というか三人とも十分人間離れしとります。
 そう内心で呟いたレンだったが、もし晶が起きていたらこういっただろう。

 お前も人間離れしてるっつーの―――と。 

「仲良いわね。貴方達」

 翼の語るその言葉は褒めているようだったが―――少し棘々しさがあった。
 それに少し居心地の悪さを感じながら美由希が気を引き締めるように小太刀の柄に手をかける。

「さっきは逃げたのにどうしたのかな……」
「考えられることは二つね。仲間がいた。つまりは戦力増強で勝ち目がでてきたからこその挑発。もう一つは―――バンザイアタックといったところかしら」
「後者は考えにくいな。俺が覚えている限り、あの人は勝ち目のない戦いはしない筈だ。御神の一族が健在だった時代……あの人は【御神】に決して戦いを挑むような真似はしなかった」
「……ということは前者かな?」
「恐らくは……そうだと思うけど。確信は……もてないわ」

 相馬の恐れることのない気配が逆に不気味だ。
 勝ち目などないのは分かりきっているだろうにこれほど力強く挑発してくるとは余程の使い手の仲間がいたのか。
 
 だが、幾ら手だれの仲間がいたとしても恭也相手ならばどうだろうか?
 相馬クラスの使い手など言いたくないがそうはいない。
 はっきりいって相馬の戦闘能力は―――十分に常人とは次元が違うといっても過言ではない。
 今まで見てきた誰よりも、強者。人間という種族の枠組みの中での話しでだが。

「……もしかしたら恭也の注意を自分達にひきつけておいて、他の仲間がこちらを強襲するということもありうるわね」 
「仲間がいたら……うん、そうだね。有り得るかもしれないよ」

 それならば、こちらには翼と美由希が残り、恭也が一人で相馬達に向かうという方法を取るかと考えた翼だったが即座に首を振る。
 確かに翼と美由希が高町家に残れば相馬以外ならば十分に相手ができるだろう。だが、万が一恭也に相馬と宴。それに仮に仲間が居たとして、複数人で襲い掛かられたらどうする。流石の恭也とて厳しい。
 恭也が負けるわけがないと信じてはいるが、不安なことに変わりはない。
 下手に自信満々な気配で挑発しているだけに、相馬の考えを読めず、反射的に髪の毛を指で弄くる。

「……俺が行こう」
 
 そんな翼の葛藤を見かねた恭也が口にだす。
 俺一人で行くと。
 恭也の提案にから翼が考え込むように髪の毛を弄っていたがそれも僅かな時間。
 ふぅとため息をついて、指を髪の毛から離す。

「仕方ないわね。美由希―――貴女が恭也と一緒にいきなさい」
「え?で、でもそうしたらこっちは……」
「相馬以外ならば私一人でもどうにでもできるし、それとこの娘達は海鳴病院へ連れ行くわ。相手もあんな人が多い病院ならうかつに手はだせないでしょう」
「それはそうですけど……」
「あら、私一人で不安なのかしら?」
「……そういうわけじゃないですよ」

 からかうような翼の返しに、美由希が狼狽するように否定する。
 確かに翼ならば並大抵の使い手では相手になるまい。
 慌てる美由希にクスリと笑みをこぼす。

「援軍をよぶからこちらのことは心配しなくても大丈夫よ」
「……援軍?」

 訝しげに聞き返す恭也に頷く翼。
 
「他の永全不動八門よ。皆がそれなりに使える連中だから戦力として数えても良いと思うわ」
「……俺が知っているのは如月さんと鬼頭さんの二人だが、確かに強いな」
「あら、何時の間に会ったの?まぁ、いいわ。あの二人は別格だけどね。他の連中もそこそこできるわよ」
「助かるが……良いのか?」
「どうせどこかで鍛錬でもしてる暇な連中ばかりでしょうしね。この娘達のことは―――任せて」
「すまんな。恩にきる」
「いいのよ。今度御飯でも奢ってくれれば」
「……それだけでいのか?」
「ええ。十分よ」

 それとなく御飯の約束をした翼に末恐ろしいものを感じる美由希。ついでにそこそこ扱いされた葛葉にそっと涙する。
 それでも確かに以前見た永全不動八門の使い手達―――紅葉に葛葉が居るだけでも随分と違うだろう。
 翼はポケットから携帯電話を取り出すと素早くボタンを押して耳に当てる。しばらくコール音が続く。 

『もしもーし。て、天守から電話って珍しいねー。どうしたの?』
「恭也……不破の家まで車をだしてくれないかしら?」

 電話にでたのは水面であった。
 対して翼は恭也と名前を呼んで、それではわからないと思ったのだろう。すぐさま不破と言い直して水面に伝える。
 
『……んと、めんどーとか言える様な雰囲気じゃないみたいだね。すぐ行くからまってなさいなー』
「ええ。如月も拾ってきてくれない?ついでに葛葉も拾えたらお願いね」
『葛葉はついでかい!りょーかい。なにやらワクワクするよーな事態になってるみたいね。血がさわぐよ』
「騒がないでいいから速く来なさい」
『つれない娘だね。それじゃあ、切るから』

 携帯電話をポケットに戻し、恭也に向かって頷く。
 
「こちらは気にしないで―――決着をつけてきて」
「ああ。感謝する」

 恭也は置いていた小太刀を持つと玄関の方へと足を向ける。
 それに続くように美由希も後を追う。

「お師匠……ご武運を」
「勝ちなさいよ、恭也」

 翼とレンに見送られて二人は夜の街へと飛び出した。
 実は恭也の背を追う美由希は、二人に声もかけられなかったことに少し悲しかった。
 どうせ私はおまけなんですよーと心の中で呟く。夜の街が滲んでみえるのは気のせいだった。気のせいと思いたかった。

 恭也と美由希が夜の街を走る。尋常ではない速度で相馬が放つ気配へと近づいていく。
 そんな時、相馬の気配が動いた。
 恭也と美由希が近づいてくるのがわかったのだろう。先程までは同じ場所にとどまっていたのに今度は二人から遠ざかるように逃げ去っていく。
 
 いや、逃げるというのは適切ではない。
 その荒々しい気配は僅かな淀みもなく、恭也を挑発していた。
 恭也が近づいてきた分引き離している。

 時折通りすがるサラリーマン風の男達が驚きながら恭也と美由希の背中を振り返るが、すでにその次の瞬間には二人は夜の闇へととけている。
 走る。走る。走る。
 相馬の気配を追って。憎き敵を追って。
 
 何時までたっても止まることのない相馬に、こちらを疲れさせる気なのだろうかと疑いを持ち始めた頃―――相馬の気配が止まった。
 その気配のすぐ傍に覚えがある気配。間違いなく宴だろう。 
 そこがゴールだと言わんばかりに、一際相馬の気配が燃え上がった。

 周囲は見覚えがある景色が続き、家々も少なくなっていく。
 街灯の光も心細くなっていく。だが、この道は二人にとっては馴染み深い。
 そう。この道が行き着く果ては―――。
 
「よう。遅かったな。あまりにもこちらに来ないんで俺の挑発を見逃していたのかと思ったぜ」

 相馬は笑いながらそう語りかけてきた。
 恭也と美由希の視界に映ったのは、先が見えないほどの長く続く階段。
 その階段に腰掛けて恭也と美由希を待ち構えていたのは相馬と宴であった。

 周囲を見回すが誰か隠れているというわけでもないようだ。
 だというのに相馬の自信の溢れようは一体なんだというのか。

「……二人?」
「なんだ?何を言っている?見ての通りの二人だが……」

 美由希の思わずもらした呟きに相馬が言い返す。
 その顔には疑問がありありと浮かんでたが、ふと何かに気づいたように、ああと呟いた。

「まさか伏兵でもいると思っていたか?お前達の立場ならば思っても仕方ない、な。安心しろ。俺と宴だけだ。そもそも他の連中など連れてきても仕方ない」
「……」
 
 疑っている美由希だったが、恭也は相馬の言うことが正しいのだと理解した。
 そもそも相馬は恭也達がこれほどの使い手だったということを知らなかったのだ。
 自分ひとりでもどうにでもできる。その程度の予想で海鳴にきたはずだ
 それが当然の予想のはずだ。たかだが二十になったかならないか程度の青年と、二十にも満たない少女が自分を凌駕するなど誰が考えるだろうか。
 元々相馬が人とつるむことが好きではなかったはずだ。仲間自体いるかどうか分からないが確実に勝てるであろう相手に態々仲間を連れてくることは考えにくい。
 自分達の考えすぎだったかと恭也が安堵する。
 それはレンや晶。それに翼達に敵の手が忍び寄ることがないのが分かったからだ。これで全力でいける。
 だが、疑問がもう一つある。何故、相馬は真っ向から向かってくるのかということだ。

「不安の種は取り除かれたか?そろそろ始めるとするか」

 よっこいしょと、親父臭い掛け声を上げて立ち上がる相馬。
 親指を階段の上へと向けてついてこいうというジェスチャーをする。

 階段をゆっくりとあがっていく相馬に続く宴。
 その二人から少し距離をあけて続くのは恭也と美由希だった。
 いきなり上から斬り付けられるかもしれない。それくらいの注意をはらって二人は続く。

 そんな注意を払っている二人を全くきにかけずに相馬と宴は一足先に階段を登りきる。
 それに幾ばくか遅れて恭也達も到着した。
 見なくても分かる。そこは恭也と美由希が何時も鍛錬を積んでいる場所―――八束神社だった。
 相馬達が選んだ決戦の場所が八束神社とは皮肉としか言いようがない。

 境内の丁度中心で相馬と宴が向き直る。
 ピシリと音をたてて空気が緊張した。先程までの宴は恭也に対して恐怖を抱いていた。
 だが、いまの宴は全くといっていいほど普段通りだ。
 宴もまた乗り越えていた。恭也という名の恐怖を。

「……美由希。彼女を頼むぞ」
「うん。任せて」

 恭也は信頼を乗せて美由希に託す。
 それに嬉しそうに―――しかし、緊張を解かずに頷いた。
 相馬の相手は自分がする。そう言ってのけた発言に等しいこの言葉に相馬はおかしそうに口元をゆがめた。

「良いのか?俺の相手が恭也、お前で?悪いが俺の娘は―――俺より強いぞ?」
「……戯言を」

 そうきって捨てる恭也。
 それも当然だ。確かに宴は強いが、どう見ても相馬より格下だ。
 ある程度の力を隠しているようだが、それを加算しても相馬には遠く及ばない。
 美由希なら十分勝てる相手だと確信を持てる。

 確信が―――。

 チリっと恭也の首筋に焼きつくような痛みを覚えた。
 夕方に感じた悪寒と似たような不吉を孕んだ―――。

「まぁ、いい。こちらとしてもお前とは俺がやりあいたかったからな。丁度いい。お前が選んだ道と俺が突き進んだ道……交わることのないこの道のどちらが正しいか確かめて―――」
「にひっ。いくよー美由希さん!!私と遊んで貰うからね!!」

 相馬の台詞の途中で我慢できないという様子の宴が飛び出した。
 地面を蹴る音が夜の境内に鳴り響く。

 残像を残すかのような速度で美由希との距離を一気に縮めると、抜刀。
 煌くような輝きが美由希へと襲い掛かる。

 その牙を美由希も抜いた小太刀で払い落とす。
 だが、宴の猛攻は留まるところを知らない。
 息もつかせぬ連続の斬撃。一瞬の間もなく続いていくその連撃は無限に続くかと思わせる。
 それでも、宴の小太刀は美由希へとかすることも許さず、完全に防がれていた。

「これはまた凄いね!防御だけなら翼さんよりも遥かに上だよ!」

 翼が使う獲物は刀。美由希は小太刀。
 攻撃力に劣る分圧倒的な防御を誇るのだからそれも当然の話なのだが。
 それを差し引いても美由希の小太刀による防御は鉄壁といっても良かった。

 埒が明かないと思ったのだろう。
 宴は美由希から大きく距離を取ると神社の後方へと続く巨大な森の入り口へと陣取った。
 にひひと笑うと手招きするように美由希を誘う。

「視界の効かない闇夜の森の中を追って来る自信はあるかにゃん?」
「……」

 気の抜けるような語尾を残して宴は森の中へと進入していく。
 それを追おうとした美由希は一瞬だけ恭也へ振り返る。相馬と向き合っている恭也と視線が合う。
 
「恐れるな。迷うな。普段通りのお前ならば必ず勝てる―――だが、気をつけろ」
「有難うございます。師範代……ご無事で!!」

 恭也に背を向けて宴を追跡する。
 確かに視界が悪い。たださえ鬱蒼としている森だというのに、夜ということもある。
 しかし、それは相手も同じ条件だ。
 それならば、何時もここを鍛錬場所に使っている美由希の方が遥かに有利。
 大体の自分の居場所、遮蔽物の感覚などはある程度掴んでいられる。

 短く呼吸を繰り返す。随分と走っているのにもかかわらず息切れはしていない。
 この程度で疲れがでるほど軟な鍛え方はしていないのだ。
 
 薄暗い視線の先に、葉っぱを舞い上がらせ、先を駆けている宴の姿が微かに見える。
 この視界の悪さの中、身軽に走る宴に舌を巻く。
 駆ける。駆ける。駆ける。
 何時まで走るのかと美由希が疑問に思う。もうすでに相馬達からどれほどはなれただろうか。
 こちらに攻撃をしかけるでもなく、引き離すでもなく。一定の距離を保って宴は森の中を疾走している。

 ―――これはまるで相馬と恭也から距離を取っているような―――。

 美由希のその考えが相手に伝わったのか、宴の走る速度が徐々に落ちていく。
 軽く流す程度の速度になった宴がクルリと美由希へと向き直った。
 美由希も宴から一足一刀の間合いで足を止める。
 周囲を油断なく見回すが、他に誰か居るというわけでもない。単純にこの場所が周囲に木々はあるが、比較的障害物の少ない場所だったから止まったようだ。

「ここまで離れればいいかなー。あまり近いと邪魔になっちゃうしね。あの人外コンビの」
「……それもそうですね」

 相馬と恭也のことを人外コンビという宴に少し納得してしまう。
 だが、わざわざここまで離れなくてもいいのではないかと首を捻る。
 何か他に魂胆があるのではないかと―――。

「んじゃ。御神美由希さん。ちゃちゃっと決着をつけましょうかー」

 あまり真剣味を感じさせない宴が軽くそう言って来る。
 それは明らかに自分の勝利で決着がつくと暗に語っているようなものであった。

 それに自然と、宴に向ける視線が鋭くなる。
 確かに宴は強い。だが、恭也の読みどおりその実力は美由希より若干下である。
 
「不思議そうだねー?確かに美由希さんの読みどおり、私と貴女が戦ったら多分私負けるかなー」

 美由希の内心を読み取ったように宴は笑った。
 自分が勝てないとはっきり口にだしておきながら、その態度に変わりはない。
 その宴の態度にドクン、と心臓が胸を打った。
 不吉な、何かよくないことが起きるような―――そんな予感。
 宴がゆっくりと目を瞑る。

「予想外だよね。貴女に会うまで絶対私の方が強いとおもってたのに―――困ったものです」

 グラリと眩暈がした。
 風邪をひいたときのような眩暈がする。
 逃げ出したくなるような、悪寒。宴から立ち昇るようにみえる気配が変化していく。
 圧倒的なまでの―――強者の気配。
 相馬に匹敵しかねない、暗い―――殺気。

「だから、【本気】でいきますねー。大丈夫。痛いのは一瞬です。決して超えられぬ―――種族の壁というものをみせてあげますよ」

 宴が笑いながらそう告げた。
 そして、ゆっくりと目を開けたときその瞳は―――真紅に輝いていた。
 御神相馬と夜の一族の間に産まれた御神宴。
 その彼女が―――夜の支配者としての力を解放した。 
 

 
 
  
  
    
 

 

 
 


 
    

 
  





「ガキどもはガキどもで遊ばせておくとして―――こちらも始めるとするか」

 相馬が気負いもなくそう言い何の予備動作もなく、恭也との間合いを詰めた。
 神速とは異なる御神の歩法。その動きから抜刀された小太刀は相手の虚をつき、絶命させる。
 だが、恭也をそう簡単に斬れる筈もない。苦もなく小太刀で受け止めた二人の鍔迫り合い。
 
 互いに全力で押し合うが―――力は互角。
 拮抗したかのようにその場から動かない。動けない。

 相馬は鍔迫り合いを止め、距離を離す。
 もとより、先程の虚を突く一撃で恭也に一撃入れれるとは思っていない。

 次に攻勢にでたのは恭也だった。
 相馬と似たような動きで間合いを詰めると、流れるような踏み込みから叩き込まれる恭也の連続突き。
 恐ろしいほどに―――速い。
 
 刀身が残像に次ぐ、残像を生み―――防ぎきることなど不可能に思われた。
 恭也自身も相馬が左右か後方のどちらかに逃げると予想していたのだが―――。

 金属音が高鳴った。
 少しだけ恭也の眉毛がピクリと動く。

 相馬はその場から一歩も動かず恭也の連続突きを流すように弾いていたのだから。
 相馬の口元の歪みが濃くなったような気がした。

 亡霊のように今度は相馬が恭也へ向かって踏み込んだ。
 相馬の踏み込みに恭也は嫌な予感を覚え―――その場から大きく飛びのいた。
 恭也の予感がつげている。
 この男は―――何かが危険だと。

 抜刀して恭也を窺っている相馬は、先程見たよりも遥かに大きく見える。
 得体の知れない威圧感に満ちていた。
 
 集中力を高めた恭也に向かって、相馬が油断なく突撃する。
 真正面から振り下ろされた小太刀を恭也は半身になってかわすが、続くもう一方の小太刀。
 その小太刀を受け止め、跳ね上げた。
 
 ―――押し返す!!

 相馬の威圧感に不気味なものを感じつつ、恭也がその威圧感ごと飲み込もうと小太刀を振るう。
 それは、重く鋭い斬撃の乱舞。一撃で武器を断ち、二撃で身体を斬り、三撃で心を砕く。
 御神流の斬術の一つ―――虎乱。

「な、にっ!?」 

 珍しい。本当に珍しく恭也が上ずった声をあげた。
 それもそのはずだ。相馬を打ち倒すためのその技は、かわされたわけではない。防がれたわけでもない。
 放たれるかどうかという前の刹那の瞬間、相馬が虎乱がくるのがわかっていたかのように、割り込むようにして止めたのだ。
 互いに無言のまま弾き、距離を取る。 
 結局どちらの攻撃も互いにかすることもゆるさなかった。まさに息も詰まる攻防戦。 
  
「バケモノめ。一瞬でも間違えれば、それで終わる。その歳でよくぞそこまで上り詰めた」

 相馬が賞賛した。
 それにこめられたのはたった一つの感情。
 御神の一族のなかで確かに才能はあったほうだろう。それでも自分達には遠く及ばなかったあの小さな少年が、自分を超えた御神の剣士として成長をとげたことへの尊敬。
 相馬は純粋に恭也の剣士としての力を褒め称えた。
 
「不思議な顔をしているな?何故俺がお前と戦えるのか。何故虎乱を出す前から潰されたのか」
「……」
「なぁ、恭也。俺はな、【御神】に勝てると思ったことはねぇ。数百年の年月を精神だけとはいえ生きてきた亡霊に……俺の剣が及ぶわけがない。そう思っていた」

 突如相馬が語り始めた。
 恭也に向かって、弱音ともいえることを吐き出し始めた。
 
「一体何を……」
「まぁ、聞け」

 恭也の疑問を一蹴し、相馬は油断なく構えたまま、口を開く。

「御神の一族が健在だった頃からそう思っていた。だが、ふと思った。【御神】に御神の剣士として戦うのならば勝てるはずもない。ならば―――御神の剣士ではなかったらどうだ?」
「……なんだと?」
「【それ】が形になるまで十年はかかった。残りの年月はひたすら【それ】を昇華するのに費やした」

 ぞくりと恭也の背筋が粟立った。
 淡々と語る相馬は、一体どこを見ているのかわからないような―――虚無のような目つきで恭也を見ていた。そして、それ以外の誰かを……。

「俺はな、【御神】を倒すことを諦めたわけじゃない。いや、むしろ逆だ。【御神】を上回ることだけを考えてこの十数年を生きてきた」

 相馬の動きが―――止まった。
 一切の動きを絶ち、揺らぎのない湖面のような気配。
 先程までの荒々しさなど全く残っていない。

「【御神】を倒すためだけに創り上げた対御神流剣術。それは常に【御神】を相手することを想定して創った。なぁ、恭也。お前は凄い御神の剣士だ。完成度でいえば俺をも遥かに超える。地獄ともいえる鍛錬を積んできたのだろう?幼き頃に見た【御神】を目標として―――」 
「……対御神流、剣術?」

 恭也が思わず聞き返した。対御神流剣術。まさかそんなものを……いや、御神流を修得した相馬だからこそ、最強の名を欲しいままにした相馬だからこそ可能としたのか。
 相馬の言ったことはまさしく的を射ていた。そうだ。恭也は憧れた。尊敬した。
 あの存在を。【御神】を。
 誰よりも強き御神の剣士を。完成された御神の剣士を。

「お前の動きは―――【御神】とそっくりだ。あいつを目標として練り上げられたのだ、それも当然か。だが、それが仇となったな」
「……」

 恭也は無言だ。
 黙ったまま……相馬の言うことを聞いている。

「理解しろ、恭也。お前の目の前に居る俺は―――お前と【御神】の天敵だということを」
 
 温度を感じさせない、その瞳が恭也を貫く。

「戦う前にも言ったな。【御神】を尊敬し、背を追ったお前と―――【御神】を超えようとした俺。どちらの道が正しかったのか―――決着をつけよう」

 静謐な気配を漂わせ、相馬はそう宣言した。
 相馬のその気配が周囲を満たし、恭也は初めて―――緊張したようにゴクリと唾を飲み込んだ。


























 恭也は間違いなく気圧されている。そう確信を持った相馬がその隙を逃すはずがない。
 今まで以上の速度で速く、深く踏み込むと先程恭也が放った連続突きに匹敵する突きを繰り出した。
 その速さ、恭也にも勝るとも劣らず。

 神速の域から放たれる連続突きを、恭也は辛うじて捌き、受け流す。
 動揺しているのか、その動きには普段の洗練さは失われている。
 
 対して相馬の動きは打って変わっていた。
 猛獣のように荒々しく、攻め立てるというわけではない。
 相馬の動きはまさに静と動の調和。虚像入り混じり、相手を翻弄する。

 幾ら恭也といえど、かわしきるのは不可能と思われた。
 だが、恭也は僅かな焦りのようなモノを感じさせつつも、相馬の攻撃をかわし、防ぐ。
 その攻勢の合間を縫って恭也が反撃にでようとするが、相馬がそれを許さない。

 恭也が攻勢に転じようとする瞬間が分かっているかのように絶妙のタイミングで、攻撃の起点となる動きを牽制し、潰す。 
 前触れもなく、相馬の足が恭也の腹部を狙って蹴り出された。

 音をたてて、空気を打ち抜く。
 見るだけでその威力は理解できただろう。
 その蹴りが恭也の腹部に直撃した。
 
 顔を歪めて後ろに吹き飛ばされる恭也。
 それを相馬は追おうとしなかった。
 理由は単純。自分の足に残った感触はあまりにも軽いものだったからだ。

 自分から後ろに跳んで、衝撃を逃がしていた。
 確かに直撃はしたがダメージなどそうはあるまい。
 恐らく恭也の様子は……芝居。相馬を無理に攻勢に出させようとする恭也のブラフ。

 そう判断した相馬はその場で足を止め、恭也の出方を窺う。
 その予想は正解だったようで、吹き飛ばされた恭也は、あっさりと体勢を整えていた。

 二人の剣気が、気合が、殺気が、ジリジリと音をたててぶつかり合う。 
 僅かな隙も命取りとなる。そんな息も詰まる戦い。

 優勢なのは―――相馬。

 相馬の攻撃は確かに恭也に届いてはいない。
 だが、相馬は恭也に攻勢にでることさえ許していない。
 見事なまでに相馬は恭也を封じていた。

 そんな戦いの中で相馬の内に渦巻いていたのは……歓喜だ。
 自分が【御神】と戦うために考え出した対御神流剣術が確かに通用している。
 十数年かかって練り上げたこの剣技は全て【御神】を斬るためだけに作り上げ、練磨したといってもいい。

 相馬の人生の全て。
 それをかけて高め上げた剣技が【御神】の剣の分身ともいうべき存在に―――恭也に通用している。
 これを喜ばずにどうしろというのか。

 今は戦いの最中だ。
 先程相馬が口に出したとおり僅かでも間違えれば全てが終わる。
 今まで戦ってきた相手とはレベルが一桁も二桁も異なる戦いの次元。

 だというのに、相馬は心の奥底から湧き出る喜びを抑えきることが出来なかった。
 全てを捨てて己の突き進んだ道が正しかったことを天が証明してくれたのだ。

 相馬が地面を蹴る。
 土が抉れ、宙を飛ぶ。

 土が地に落ちるよりなお速く、相馬の剣が空を舞う。
 美しく、流麗で、冷たい。
 人を斬ることを全く躊躇わない、人斬りの剣。

 圧倒的だった。
 あの恭也を相手にして相馬の剣技は凄味を、切れ味を増していった。

 防戦一方の恭也。
 なすすべもなく、追い詰められるだけであった。

 小太刀が、夜風を切り裂いて、爆ぜるような連撃。
 幾度も。竜巻のように。止むことのない超速度の嵐。

 だというのに。それだというのに。 
 相馬が気づいた。いや、ようやく気づけた。

 恭也に掠り傷一つつけることができていないということに。
 ゾワリと、今までの幸福感を吹き飛ばす、吐きそうになるほどの悪寒。
 相馬の剣は確かに恭也を押さえ込んでいたはずだ。
 押さえ込んで……。押さえ込んでいたというのは、相馬の勘違いだったとでもいうのか?

 己を襲う疑問。そして続く悪寒。
 相馬の斬撃を弾き飛ばすような、一振り。
 相馬の想像通りの軌跡を描き、迫ったその一撃を、受け止めようとして弾き飛ばされた。
 今までの比ではない、衝撃。文字通り桁が違う徹のこもった剣撃。
 
 小太刀が悲鳴をあげ、手から零れ落ちそうになった小太刀を歯を食いしばって握り締めなおす。
 だからこそ相馬は逃げた。攻撃の手をやめ、大きく距離を取った。

「お前は、お前は何だ……恭也、お前はなん、だ!?」

 言葉にはならなかった。
 取りとめもない、自分でも何を言っているのか分からない何かが口から飛び出す。
 
「……貴方は凄い、な」

 慌てる相馬とは裏腹にぽつりと恭也は静かに漏らした。

「御神流をベースとしているとはいえ十数年でよくそこまで……」

 恭也の言葉には怒りは存在していた。
 それも当然のことだろう。家族を傷つけたのだ。
 だが、その裏には隠しようのない尊敬の念があった。
 
「もし、もしも貴方がこの十数年ただひたすらに御神流を極めようとしていたならば……俺の上を行っていただろう」

 だからこそ、惜しかった。悔しかった。
 この目の前の男が、御神の道を踏み外してしまったことに。

「たかが十数年で何を誇ることがある?御神流は―――その数十倍もの年月を受け継がれてきた」

 相馬が恭也に見た焦りにも似た感情。
 それは、焦燥ではなかった。
 その感情は―――憐憫。

 御神相馬という御神流の天才剣士が、御神の道を踏み外し、自分と戦っていることへの。
 恭也の言うとおり、もし相馬が恭也と同じように御神流を極めんとしていたならば、或いは恭也に匹敵、いや確かに上回っていただろう。
 かつての相馬はそれほどまでに強かった。士郎達を上回る剣士として恭也の思い出に嫌というほど叩き込まれていたのだから。
 
 だが、相馬は曲がってしまった。
 御神流とは違った道を歩んでしまった。
 全ては【御神】を超えるために―――いや、違う。
 そう、違うと恭也は首を振る。それは【御神】を超えるためではない。

「貴方は【御神】から、御神流から逃げただけだ。御神の底は貴方が考えているほど―――浅くはないぞ」

 ぞっとした。
 真冬に裸で外に居るような、脊髄を抜かれ変わりに氷柱を突っ込まれたかのような。
 完全に相馬は気圧されていた。
 たかが二十の若造に。かつてせせら笑った幼き剣士に。

「貴方に御神の真髄をお見せしよう」

 限界だった。
 これ以上恭也の言葉を聴くことなど出来なかった。
 己が積み上げてきた十数年の努力が無駄だとは、思いたくはなかった。

「あぁああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」

 相馬は叫ぶ。
 喉が焼けても構うものかと。
 狂気と殺意を乗せて、生涯最高最速となる踏み込み。
 疾風となった一陣の風。烈風を纏って神速で横薙ぎにされる二刀の小太刀。

 相馬の視界の中で未来を予知したかのように恭也の動きを読み取ることが出来た。
 両脇から迫る二刀を、恭也も両の小太刀で受け止める。両手が塞がったその状態になった瞬間、蹴りを放つ。
 そう相馬は予測した。
  
 相馬の予想の通りに、恭也は小太刀で受け止めた。
 だが―――。

 耳障りな金属音が鳴り、耳を打つ。
 蹴りを打つ暇もなく、相馬の腕を伝わる衝撃。

 ―――徹。

 ただ、それだけだ。
 あまりにも完成された、完全なる徹。
 完成された基本の徹は、相馬の攻撃を防ぐことはおろか、逆に相馬の腕を数秒とはいえ使い物にならなくさせた。

 そして、その数秒で決着はつく。
 恭也の小太刀が閃き、相馬は身動きする間もなく―――。

「がぁああっ!?」

 恭也の腕に伝わってくる人の肉と骨を断つ嫌な感触。
 遅れて聞こえる相馬の悲鳴。
 地面にぶちまけられる鮮血。
 ボトリと音をたてて、境内に落ちる、相馬の右腕。

 恭也の小太刀は、相馬の片腕を何の躊躇いもなく半ばから断っていた。
 声にならない声が相馬の口から漏れる。
 痛みのあまりに、悲鳴すらこれ以上あがらない。

 あふれ出る血を押さえ込むように、ハンカチを取り出すと器用に口ともう片方の腕を使って脇をきつく締める。
 対して恭也は追撃をするでもなく、そんな相馬を見下ろしていた。

 決着はついた。
 片腕が使えなくなった以上、もはや相馬に勝ち目はなし。
 地面に膝をつき、俯いている相馬。それを見下ろす恭也。そんな光景が暫しの時間続いた。

「……くっ……はっはっは……無駄、だったか。俺の、やってきたことは、無駄だったか……」

 痛みで朦朧としているのだろう。
 相馬は薄ら寒い笑い声をあげながら、地面をみつめたまま自嘲する。
 ボタボタと腕から流れる血が少しずつ少量になっていく。

「おれ、は……そうだな。【御神】を、倒すために……御神流を捨てたんじゃない、ってことか……そう、俺は逃げたんだ……【御神】を倒すためという理由で、御神流から……逃げたんだ……」

 相馬が顔を上げた。
 虚ろな瞳が恭也と交錯する。
 
「俺は、諦めたんだ……俺の道は、そこで終わっていたんだ……続いていたと思ったのは、俺の見ていた、幻だった……」

 ゆらりと相馬は痛む身体をおして立ち上がった。
 片方しかない腕で小太刀を握る。
 まだ戦う気かと眉を顰める恭也。
 例え片手しかなくなったとしても向かってくるならば容赦はしない。
 そんな表情の恭也に気づいたのか相馬は我慢できないように笑みを浮かべた。

「……片手で、お前に勝てるかよ……この勝負、お前の勝ちだ、恭也……」

 どこか清清しいような笑みを浮かべた相馬にもはや戦意はない。
 それに恭也も構えたままだった小太刀を下ろす。
 勿論、鞘に納めるまではしないが。

「……貴方に聞きたいことがある」
「くっ……なんだ?勝者は、お前だ……何でも答えてやるよ……」

 痛みを堪えながらも相馬は皮肉気に笑ったままだ。

「……昔、貴方は随分とまともだったと聞く。とある事件に遭遇してから酷くなったと……琴絵さんが教えてくれた。あの人は貴方のことを気にかけていた。その理由は……」
「ああ、なんだ……そんなことか。出会っただけだ……決して覆すことができない差をもった、絶対の化け物に……」

 恭也の質問に簡単に答える相馬。
 思い出す。御神流こそが最高だと、【御神】こそが最強だと信じていた時代。
 それを覆す超生物にであってしまったのだ。その時に、数多の友を殺された。
 だが、その悲しみよりも、そんな感情を全て吹き飛ばすほどの、圧倒的な暴力を見てしまったのだ。魅入られたといってもいい。
 圧倒的な原始の暴力に魅入られて相馬は曲がった。外れた。【人】が扱う御神流の限界を感じてしまった。
 そのためだろう。夜の一族の女との間に子をもうけたのは。
 生まれついての、人を遥かに超える身体能力と再生能力。そして異能力を持つ存在に御神の技を受け継がせ、百鬼夜行を超えさせようとしたのだ。
 そして御神流を修得し、全てを超えた宴に宿った【御神】を……最終的には自分が創り上げた対御神流の剣術で凌駕するつもりだった。
 そう、つもりだった……。
 言葉では【御神】を倒すと幾度も言っていた。だが、心の奥底のどこかでは考えていたのかもしれない。
 人では超えられぬ壁がある、と。

「……お前も、知っているだろう……闇夜に生きる、夜の一族の頂点……王の中の王……百鬼夜行……アレは、アレは、御神流を上回る暴力の化身、だ」
 
 乾いた笑み。
 相馬は失った血液が相当の量に達しているのだろう。
 青ざめた顔のまま、だが、両足だけは震えずにしっかりと立っていた。
 そんな状況だというのに相馬は、何かを思いついたように笑みを深くした。

「お前は、強いな。本当に、たいしたモノだ。だからこそ、お前が宴と戦い……美由希を俺にぶつけたならば……あいつは死ななかっただろうに……」
「な、に!?」
「戦う前に言った……宴が俺より強い……それを冗談だとでも思った、か?」
「……何を、何を言っている!?」 

 血を流しすぎて正気をうしなったのかと勘ぐる恭也。
 だが、相馬の瞳はしっかりと恭也を射抜いている。

「お前には、言ってなかったな……あいつには半分だが、夜の一族の血が流れている……」

 恭也の首筋がチリっと痛んだ。
 心臓が早鐘のように胸を打つ。
 何度も恭也を襲った悪寒。
 それの正体がようやく分かったのだ。

「ハーフの、せいだろうな……あいつが、本気をだせるのは……夜だけだ……あいつの歪みは、夜中に頂点に達する……夜の一族の力を解放した宴は……俺より、強いぞ?」
「……くっ!!」

 恭也が反射的に走り出した。
 美由希の気配を探るが―――遠すぎる。
 普段の自分の察知できる範囲内にはいなかった。範囲を意識的に広げてようやく二つの気配を捕まえた。
 集中して気配を探っている今だからこそ分かる。宴の異様とも言える気配。
 ……強い。或いは獣人化していない時の水無月殺音にも匹敵するのではないか―――というほどのレベル。
 だというのに、美由希と宴が居るであろう場所。そこは数分もあればたどり着けるであろう場所だ。
 それでも、遠すぎるのだ。僅か数分がどれだけ絶望的な時間なのか。
 
「まて、よ……」
 
 その声で……恭也は足を止めた。
 止めざるを得なかった。
 その声にはそうしなければならない何かが込められていたのだから。

 振り返った恭也が見たのは、蒼白になりながらも小太刀を構える相馬の姿であった。
 流石に苦虫を噛み潰したような表情になる。

 恭也は人を斬ったことは……ある。
 だが、喜んで斬ったことなど一度としてない。
 やらねばやられる。そのようなどうしようもない状況でのみ斬ってきたのだ。
 片腕を斬られるという、剣士としての生命が終わる、ある意味死ぬことよりも辛い状態の相馬とこれ以上剣を交えるというのは多少なりとも気が引ける。

「今すぐ医者にかかれば命だけは助かるはず、だ」
 
 そんな恭也の言葉も無視して、相馬は小太刀を己の目線の高さまで持っていく。
 自分の血で真っ赤に染まっている小太刀を目を細めて眺めると。

「いい勝負だった、と。俺の中ではそう思っている、が……お前からしてみれば、取るに足らない相手だったの、だろうがな……」

 ギラギラとした野獣のような目つきに戻り、小太刀から恭也へと視線をうつす。

「……相手にも、ならなかった……お前は……強すぎる……」

 相馬の言葉とは真逆に、どこか嬉しそうな口調で語る。

「……これ以上の、戦いなど……お前以上の相手など、望むことはできまい……片腕を失った今の俺ではなおさら、な……」
 
 今度は正反対の絶望が入り混じった吐息が漏れた。
 そんな相馬は小太刀を己の首元へともっていき―――。

「……例え、無駄だったとしても……意味がなかったのだとしても……」

 ぷつりと首の皮が一枚切れた。
 つぅと糸のような赤い血が首から垂れていく。

「俺は、俺の道を……貫き通した!!俺が歩んできた道に……僅かたりとも後悔はねぇ!!」

 ぞぶりと音をたてて小太刀が首を切り裂いていく。
 相馬の放つ得体のしれない狂気に恭也は言葉を失った。

「……永遠と続く、戦いの螺旋から……先に降ろさせて貰う。涅槃で、お前を待っているぞ……恭也ぁあああああああああ!!」

 それは断末魔ともいえるだろう。
 相馬の雄叫びが響き渡り、怨念のような悪意が周囲を満たした。
 
 直後、相馬の頭がずれるように地面へと落ちて音をたてた。
 暫くして思い出したように頭を失った胴体は足元へと湖を作っていた血の池へと倒れ付す。

 恭也は不覚にも魅入られてしまった。その凄惨な光景に、嫌悪を抱くよりも。
 一瞬とはいえ、相馬の行動に。
 確かに、人としては最悪ともいえる人間だったのかもしれない。

 だが、剣の道にこれほどの命をかけることができた人間を知っているだろうか。
 かつて見た御神の一族の誰よりも、相馬は剣に命をかけていたのかもしれない。・
 
 全てを捨てて己の信じた剣の道を歩いた。文字通り剣に生き、剣に死んだ。
 家族が居る。護りたい者がいる。
 相馬を真似することなど決して出来ない恭也にとって、少しだけ、ほんの少しだけ―――羨ましかったのかもしれない。
 恭也がもし、復讐に生きたのならば……或いは相馬の歩んできた道と交差したのかもしれない。

 だが、首を振った。
 羨ましいという気持ち以上に、家族が大切なのだ。
 ただ一振りの刀として覚悟を決めたとしても、桃子が、なのはが、美由希が、レンが、晶が、フィアッセが―――大切なのだ。
 
 最後に一瞥だけ相馬に視線を向けると、恭也はそれ以上振り向くことなく、美由希と宴の戦っているであろう場所へと疾走した。



























「はぁ……はぁ……」

 ぼろぼろだった。
 あの美由希が、全身の至るところに傷を負い、小太刀を構える姿さえ、頼りなく見える。
 美由希の鋭い視線の先、月の光を浴びてこちらを窺っているのは御神宴。
 夜の一族の血を受け継ぐ、闇夜の剣士。
 美由希とは正反対に、宴は全くといっていいほどの無傷。
 それどころか余裕も見て取れる。

「凄いですねー。まさかまさか、本気の私と五分も戦える相手がいるとは思わなかったですよー」

 口調は軽い。
 本気になる前と一切変わっていないように見える。
 しかし、美由希はその裏に賞賛を込められているのを感じ取った。

 成る程。確かに宴のその気持ちも分かるだろう。
 本気になった宴は強い。これほどまでに強い相手を美由希とてそうはしらない。宴が生きてきた中で互角に渡りあうことができる力持つものがいなかったとしても仕方ない。
 当初の予想通り、水無月殺音にも匹敵する。 
 だが―――獣人化した殺音には到底及ばない。

 だからこそ美由希は覚悟を決めた。この少女を、御神宴を倒すという覚悟を。
 この少女を倒すことができれば、自分が目指す恭也に一歩近づけるのだから。

「これだけの差を見せられて心が折れませんか……」

 心底呆れたような、尊敬したような、二つの感情が入り混じったため息がもれる。
 美由希の姿は確かに傷だらけで敗北の淵が開きかけているかのようにみえる。
 それでも心は宴の言うとおり全く折れてはいない。
 逆に先程より一層、強くなっている。

「……では、そろそろ終わりにしましょうか」

 宴の身体がぶれた。
 神速を使っていないというのにその速度は視認することさえ難しい。
 人とは明らかに異なる超速度。
 一瞬で間合いを詰めてくると力任せに小太刀を振るう。
 美由希はその斬撃を受け止めようとはしない。
 すでに宴の膂力は人を遥かに超えているといっていい。
 あの恭也でさえ、水無月殺音と剣をまじえる際には、刃筋を逸らせて受け流していた。
 それはまともに打ちあってはあっさりと刀ごと叩き切られることになったからだ。それほどまでに力の差があった。
 生憎と今の美由希はそこまでの域には達していない。 

 恭也のお株を奪うかのようなミリ単位の見切りをもって宴の刃をかわす。
 いや、かわしきれてはいなかった。頬をかすめたのか、僅かに血が流れる。斬られた髪の毛がはらりと風に乗って飛ぶ。
 ミリ単位でかわしているのではなかった。ミリ単位の差でしかかわすことができなかったのだ。それほどまでギリギリの世界で美由希は命を繋いでいたのだ。

 力も速度も相手の方が遥かに格上。
 それも埋めようがないほどの圧倒的なほどの―――差。

 美由希の視界から一瞬にして姿を消す。
 なんという理不尽なまでの、速度なのか。
 師は、恭也はこれほどまでの、いや、これ以上の相手との戦いで勝ちを拾ってきていたのか。
 見ている側ではなく、戦ってようやくわかったのだ。
 これが、人外の中でも最高峰に位置するであろう、真の夜の一族。バケモノと呼ぶに相応しき、夜の剣士。

 だが、気持ちだけは負けてなるものか。
 無言の気合が、空気を打つ。

 何の前触れもなく感じた背後からの殺気。
 地面を蹴って、前に跳ぶ。
 宴の蹴りが美由希の頭があった場所を刈っていた。
 蹴りが起こした風が美由希に届く。

 幾ら月が照らしているとはいえ、周囲は森だ。
 木々が鬱蒼としていて視界が悪い。
 だというのに宴は何の迷いもなく周囲を駆け巡る。
 その動きは高町家で見たときと速度が段違いで異なる以外は変わらない。
 地面を蹴った後、忘れていたかのように地面に落ちている枯葉が飛び散る。

 凄まじい速度で、美由希を撹乱するかのように駆け回る宴の瞳だけが、爛々と赤く輝いている。
 宴の動きを予測して飛針を投げる。
 だが、それは全く見当違いのように木々に突き刺さるだけだ。
 
 今度は真正面から踏へとみ込んできた宴の小太刀が舞った。
 美由希は横っ飛びに転がって、宴の突進をかわす。
 即座に方向を変え、美由希へと迫ってくるが、反射的に美由希は回し蹴りを放つ。
 
 反射的といっても、その蹴りは実に見事であった。
 切れるような美しさを秘めた蹴りを、宴は軽く飛び上がってかわし―――美由希を唖然とさせた。
 
 瞬時に蹴った足を引き戻そうとした美由希の足の先に、宴が確かに乗ったからだ。
 重さを感じさせる前に、宴が薄く笑って跳躍。美由希から距離を取った。
 その動きはまさに……天守翼が、相馬にしてみせた動きそのものであった。
 それに驚くなというほうが無茶であろう。
 
「っ……!!」

 息を呑みながらも美由希は、意識を宴から外すというような真似はしない。
 霞むような速度の宴から、一瞬でも意識をそらすと言う事は、待っているのは呆気ないほどの死だろう。

 美由希はからからに渇ききった唇を軽く舐めて湿らす。 
 その時グラリと眩暈がした。ズキリと頭痛がする。
 何故そんなことがおきたのか。集中力を使いすぎたのか。普通ならばそう思っただろうが、美由希はその理由がはっきりと分かっていた。
  
「……っさい……」
「うん?」

 宴の聴覚でさえ聞き取れないほどの小さな呟き。
 それに思わず聞き返す。

「……うるさい!!貴女が、でてくるな!!これは、私の戦いだぁぁあああああ!!」

 烈火の雄叫び。
 決して譲らぬ、美由希の鋼鉄の意志がそれには込められていた。
 強く、気高い。荘厳さを感じさせる。
 高町美由希の魂の咆哮。

 ビリビリとその雄叫びは空気を揺るが、宴をうった。
 それが自分に向けられたものではないのは一目瞭然。
 だというのに、宴は心を直接揺さぶられたかのような衝撃を受けた。  
 
 美由希は持っていた小太刀の柄で力いっぱい己の額を打ち付けた。
 ゴンという激しい衝突音が響き渡る。
 相当強く打ち付けたのだろう。グラリと一瞬体が揺れるが、すぐさま体勢を整える。
 額が真っ赤に染まっているのが少しばかり間抜けであった。
 その光景を唖然としてみていた宴だったが、面白そうに笑った。
 それは、馬鹿にしたような嘲笑ではなく、友達に向けるかのような屈託のない笑顔であった。

「あははははは!!美由希さんって面白い人ですねぇ……うん、素敵な剣士です」
「有難うございます。でも、その言葉はそっくりお返しします」
「にひっ。ちょっと嬉しいかも」

 二人は剣を交えている。
 だというのに、笑うことなど場違いだというのに……二人はそれが当たり前であるかのように笑っていた。
 そこに憎しみはなかった。悲しみもなかった。怒りもなかった。
 美由希と宴の間にあったのは―――強いものと戦いたい。
 単純な、ただそれだけの純粋なまでの剣への欲求。渇望。

「何時までも貴女と剣をまじえていたけど……」
「そうですね……そろそろ終わりにしましょう」

 クスリと二人は笑って……空気が凍った。
 互いに次の一撃で決めようと、全ての残された力をその小太刀に込めて―――。

 空気が張り詰めている中、美由希は一筋の勝利への光を見ていた。
 宴は強い。自分では到底及ばぬ圧倒的な身体能力。
 だが―――。

「……御神美由希。参ります」

 大地が爆ぜた。
 今までを超えた速度で迫ってくる宴。
 風を従えて、黒く瞬く流星となって、放たれる一刺。
 その姿はなんと美しく、なんと眩い姿であったことか。
 宴は己の小太刀が美由希を貫く予見をしたのだが―――。

 バサリと、衣服がはためく、不思議な音を宴は聴いた。
 それは、幻聴だったのかもしれない。だが、確かに聴いたのだ。
 己の脇腹に走った、理解できない痛みとともに。 

「なん……で……?」

 美由希と宴。互いに交差した瞬間、倒れたのは―――宴だった。
 切り裂かれた腹部を押さえて、膝をついた宴の後方で、小太刀を振り切った体勢のままの美由希がいた。
 美由希の握る小太刀には確かに宴を斬った証明として、赤く流れる血を纏っている。

 そこでようやく止めていた呼吸を、いや忘れていた呼吸を激しく繰り返す美由希。
 極限にまで研ぎ澄まされた集中力。一瞬とはいえ、先程の美由希は、遥か遠い世界に踏み込んでいた。
 もし、恭也が見ていたならば驚きのあまり言葉を失ったであろうか。それとも喜びで、言葉を失ったであろうか。
 ハァハァと息切れしている美由希は、膝をついている宴に振り返ると流れ落ちている汗を拭った。 
 
「貴女は凄かった、です。人を遥かに超えた身体能力……脅威の一言でした。ですが―――」

 少しだけ悲しそうに、宴を見下ろす。

「夜の一族の力を解放してから貴女はそれに頼り切っていました。圧倒的な力に。絶対的な速度に。ですが……御神の技はそんなモノに負けるほど安くはありません」
「あ、あは……は……。そうか、そうだったね……力に溺れちゃったの、か……」

 美由希の発言に宴は力なく笑うと、ドサリと音をたてて地面に身を投げ出した。
 思い出す。確かに美由希の言うとおりだった。
 驕っていたのだろう。自分の人間を超えた超身体能力に。
 本気をだせばどんな人間にも勝てると。その力だけで、あらゆる存在を打倒できるという慢心。
 そんな驕りを―――御神の技で打ち砕かれた。
 
「ちょっと、残念ですかに……ここが、私の終焉……ですかー」

 仰向けになると丁度見下ろしてくる美由希と目が合った。
 力強い眼だった。
 恐怖に負けない。どこまでも先を見ている。例え、躓いても立ち上がり未来へと歩いて行く。
 そんな、強き剣士の眼だった。

「貴女に、負けたのならば……満足、ですかに……」

 儚げに笑うと、宴は眼を閉じた。
 その姿は、言葉には出さないが止めを刺してくれと、そう語っていた。
 眼を閉じて広がる黒一色の世界。
 ふとその黒一色の世界に今までの思い出が蘇ってくる。
 
 ああ。これが走馬灯ってやつですか―――。

 そのどれもが相馬とのろくでもない思い出ばかりなのが悲しいことだが。
 物心ついたときから剣に生きてきたのだから仕方ないかもしれない。
 友達も、恋人も、なにもなかった。あったのは相馬と、そして剣。
 
 ……本当にろくでもない人生だった。

 でも―――後悔はない。

 何時までたっても来ない最後の時を不思議に思っていた宴だったが、そんな宴の耳に聞こえたのは小太刀を鞘に納める音だった。
 眼を開けてみればこちらに背を向けて立ち去ろうとしている美由希の後姿が見えた。
 その光景を理解できずに固まるが、反射的に美由希の足を止めようと声をかけた。

「なんで、とどめをささないん、ですか?」
「……貴女を斬りたくない、そう思っただけです」

 それに宴が眉を顰める。
 
「あまい、ですよー。私は……貴女の家族をどれだけ、傷つけたと思って、いるんですか?」
「そうですね。別に貴女のことを許したわけではありませんよ?ですけど、命まで奪う気はありません。だって、貴女だって晶とレンを殺さなかったでしょう?」
「あれ、は……素手で戦っていた、からですし……」
「うん。そうですね。でも、貴女ほどの御神の使い手だったならば……素手でも人を殺せたはずです」
「……」
「でも、貴女はそれをしなかった。レンと戦っていたときもそうです。小太刀を使えば幾らレンが相手だったとしても、貴女は勝利を容易くつかめたのに。晶との戦いもそうです。あれだけ攻撃を受けた晶が何の後遺症もない?そんな馬鹿なことがあるはずがないです」
「それ、は……」
「貴女は真っ直ぐなんですね。気持ちのいいくらい……剣を交えた私だから分かります」

 詰まったように言葉が出ない。
 目の前の美由希に圧倒されて、何を言えばいいか分からない。
 
「でも、貴女の妹を……」
「なのはのことですか?確かに許せない気もちはあります。でも、貴女は―――やってないはずです。貴女がなのはみたいな子供を傷つけることはできません。それくらいわかります」
「……」

 まるで見ていたかのようにそう語る美由希。
 宴は―――黙るしかなかった。

「憎しみも怒りも……消すことは出来ません。でも、貴女みたいな剣士をこんなところで失いたくない。そう思ったんです。ですから……」

 宴を振り返る美由希。
 
「また、戦りましょうね?」

 にこりと屈託のない笑みを宴に送り―――美由希は森へと姿を消した。
 残された宴は呆然と美由希の後姿を見送り、諦めたかのように空を見上げた。
 
 鬱蒼とした木々が乱立するこの空間で、何故か空だけは綺麗に見えた。
 星々が煌き、月が輝く。

 ぐにゃりとそんな世界が歪んだ。
 疑問に思って指で眼をこすると理由が分かった。

 泣いていた。
 涙が眼から溢れかえっていた。

 宴は初めて涙を流す。
 それは美由希の優しさと大きさに触れたためか―――。
 子供のように宴は涙を延々と流していた。
 




  



























     ----------エピローグ--------------





 


 
「大丈夫ですカ?美沙斗……」
「ああ。お蔭様で随分と身体も動くようになったよ。こういうのも変だけど、うまく斬られていたらしいね。傷の治り方も早いみたいだよ」
「そうですカ。それはよかったデス」

 警防隊がよく利用する病院。
 その一室でベッドに横になっているのは御神美沙斗であった。
 ベッドのすぐそばに置いてある椅子に座っているのは弓華だ。

 宴に貫かれたときは慌てたものだったが、どうやら重要な臓器を傷つけていなかったようで、回復のあまりの早さに美沙斗自身が驚いていた。
 隊の仲間も暇があれば見舞いにきてくれたようで少しこそばゆかったが、それ以上に嬉しさがあった。
 特に弓華は仲も良かったこともあるが、美沙斗が襲われたとき傍にいながら何も出来なかったことを悔やんでか仕事がない日はほぼ毎日といっていいほど来ていた。
 
「林檎でも剥きましょうカ?」
「いや、今はいいかな。弓華もゆっくりしてくれるといいよ」
「有難うございマス」

 二人の間にゆったりとした空気が流れる。
 入院するまでは仕事仕事でゆっくりする間もなかった。
 だからこそ、こんな時間も少しいいかなと美沙斗はふと思ったが……。

「……ノックくらいはしたほうがいいと思うよ?」
「……っえ?」

 美沙斗が入り口の方に顔をむけて諭すようにそう言葉を投げた。
 それに疑問の声をあげたのは弓華だ。誰かが入ってきたような物音はしなかったというのに。

 弓華の視線の先には―――美沙斗を刺した張本人である御神宴の姿があった。

 弓華は反射的に椅子から立ち上がり隠していた武器を持って宴を威嚇しようとするが、それを抑えたのは他ならぬ美沙斗だった。

「敵意はないみたいだけどどうしたんだい?私に止めをさしにでもきたのかい?」
「……今日は、謝罪にきました」

 宴がそう搾り出すように返した。
 そして、何の躊躇いもなく、床へと座り美沙斗に向かって土下座をした。
 ガンッと音が成る程強く額を床に叩きつける。

「謝ってすむ問題だとは思いません。私が殺されたって仕方のないことだと思います。ですが―――申し訳、ありませんでした」

 頭を上げることなく、宴はただ美沙斗に向かって謝罪をし続ける。
 そこには何の裏もなく、心の底から美沙斗に謝っているのが誰であろうと一目でわかった。

 弓華はどうしたらいいかわからず美沙斗と宴を交互に混乱したかのように繰り返して見るだけだ。
 美沙斗はそんな宴を見ていたが、どこか納得したかのように、優しい笑みを浮かべた。

「君は……会ってきたんだね。戦ってきたんだね。私の娘と……そして恭也と」
「……はい」
「私の娘を……美由希をどう思った?」
「……凄い、剣士でした。私の、目標です」

 宴の嘘偽りない答えに美沙斗は嬉しそうに笑った。
 自分の娘がこの少女を―――御神宴の目標になったことを喜んだ。
 暫く見ない間にまた随分と大きく、強くなったようで、美沙斗は美由希のことを誰よりも誇りに思った。

「……君も、真っ直ぐ生きなさい。今からでも遅くはないよ……手遅れだなんてことはきっとない」

 ポタリと音がした。
 美沙斗と弓華からは見えないが、それでもわかった。
 少女が泣いているということを。
 ポタリポタリと雫が床をぬらす。宴は―――。

「……はいっっっ!!」

 ただ、そう答えることしか出来なかった。































「……と、いうことがあってね」
「何処に行ったかと思ったら宴さんって、かーさんのところまでいってたんだ」
「……なかなか行動力がありますね」

 高町家の縁側にて、美沙斗と美由希、そして恭也がお茶をのみながら団欒に興じていた。
 恐るべきは御神美沙斗。どこからどうみても姉兄妹の兄弟にしかみえやしない。
 御神の一族は若作りの血筋であるのだろうか。

「でも、暫くたってまた香港から姿を消してしまったみたいだよ。今はどこにいるかわからないね」
「そうなんだ」

 美味しそうに手に持っていた湯飲みを啜る美沙斗。
 それに相槌をうつ美由希だったが、意地悪そうな美沙斗の視線に首を傾ける。

「あの娘は……強くなるよ。きっと、とんでもなく、ね」
「……うう。あの時は本当に運が絡んだ勝利だったのに……一歩間違えば私負けちゃってたよ」
「ふふ。美由希も強くならないとね」
「……精進します」

 そんな二人を温かい眼でみていた恭也だったが、ふと視線を外にずらす。
 広がっているのは晴天。
 雲ひとつない、清清しいまでの青。

 そんな空にふと宴の姿が浮かんできた。
 琴絵に似た、だが違う少女。
 また近いうちに会うことになるかもしれない……そう、理由もなく恭也は感じていた。
















「早くしなさい、葛葉」

 そう冷たい声がとんでくる。葛葉は両手で抱えている巨大なダンボールに入ったテレビを腰が砕けそうになるのを必死で耐えながら翼の後をついて行っていた。
 前回は冷蔵庫だったが今回はテレビだ。もう暫くたつと地デジ化とかよくわからない状況のせいでテレビが映らなくなるらしい。それで新しいテレビを買うために翼に荷物もちとして借り出されていたのだ。
 今度こそ小さいテレビにしろよと何度も言ったのだが全く相手にもして貰えず、結局凄まじい大きさの画面のテレビを買われてしまった。
 
 前回と一緒で飯を奢ってくれるからという甘言にのってほいほいと呼び出されるべきではなかったとまたまた後悔していた。
 馬鹿だ馬鹿だと鬼頭水面に散々言われるのはここらへんが関係しているのだろう。

 ズシンズシンと音がたちそうなくらい震えながらゆっくりと歩いている葛葉だったが、翼が足を止めているのに気づき、目線をやって、固まった。
 翼の視線の先、そこは海鳴駅から降りてきた人ごみのなか―――、一際人々の視線を集める少女。

 何時ぞやに見た、妖精のような美少女……御神宴。

 自分を見ている翼に気づいたのか、大きく手を振って答える。

「やっほー。翼さーん!!暫くこの町にお世話になるからよろしくねー」

 天真爛漫な宴は、向日葵のような笑顔で笑っていた。

 






















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