新年を迎え、寒さが一段と厳しくなっていた1月某日。
学級閉鎖寸前になっていた私のクラスでは猪狩守でさえ体調不良を訴える状況になっており、1限目終了直後に保健室へ消えた彼は、昼休みが終わってもホームルームの時間になっても戻らなかった。
担任も早退するとの報告は受けておらず、立場的に状況を把握しておく必要があったので様子を見に行くと、ベットに横たわったままだった。
容態を確認しようにも何故か校医は不在で、仕方なく本人に容態を尋ねると“ユニフォームに着替えるから手を貸してくれ”なんて言いながらフラフラ立ち上がる始末。呆れた事に、彼はそんな状態でも部活に参加しようと帰宅せずにいたらしいの。
「…構わないけど、その前にチョット良いかしら」
内心どうしようかと戸惑いながら熱を測ってみれば体温計は39.8度を指していて、私は迷わず緊急連絡網代わりに持ち歩いているPHSを取り出し、猪狩守の邸宅に連絡を入れた。そのまま寝かせておくべきだったと本気で後悔したわ。
「余ヶ…ぃゃ…すまない四条クン…後の事は家の者に任せて…キミは部活…戻ってくれたま…ぇ」
この超人的にストイックな求道者は三井・三菱・住友と居並ぶ日本屈指の大財閥である猪狩コンツェルンの跡取りとして育てられたせいか世間一般とは常識的感覚が乖離していて、混沌の中心には大抵彼か十十(若しくは両方)が存在していた。
何しろ己の力量がどれ程のものかを把握しながら周囲にも相応の実力を求め、ソレが認められない相手は同期どころか先輩ですら仲間として扱わないんだもの。
もしも二宮瑞穂が睨みを利かせていなければ、その慇懃無礼な態度が原因で甲子園出場辞退に発展していたケースが何度あった事か?両手の指どころかダース単位で並べ立てられるわ。
それでも誰もが認める実力が物を言い、野手陣からは頼りになるエースとしてそれなりに信頼を勝ち得ていたけれど、彼がいる限り出番の無い先輩・同期の投手陣からは誇張無しに悪鬼の如く嫌われていた。
マスコミを媒介するか、ファンとの交流イベントでしか彼を観た事の無い人には到底信じられられない話でしょうね。
「大丈夫よ、監督が今日は出席者が少ないからってマラソンに切り替えてるから。だから…」
それを聞いて気が抜けたのか“だから今日は休みなさい”と姉か母親にでもなったつもりで窘めようとした時にはもう寝息を立てていて、結局爺やさんが到着するまで待機する羽目になったわ。
それでも弱って大人しくなっている彼は…うぅん、そうでなくても十十に振り回されっぱなしの私には駄々っ子程度で可愛いものだった。
暁大付属に名物は数あれど、その中でも肉体的に最も過酷だと言われているのが42.195kmを走る地獄マラソン。
アウトオブシーズン中、総じて寒風すさぶ年明け頃に千石監督の気まぐれで開催されるのだけど、通常のフルマラソンとは異なり街⇒公園⇒河原⇒神社とアップダウンの激しい順路を巡る上、給水場も無いからその辺は各自で知恵を絞っていたわね。
その上10位以内に入らなければ後日再出場、再々出場を強制されるサバイバルレース仕様なので賞品の出る1~3位に誰が入るのかどうかなんかより、生死を分かつ壮絶な10位圏争いの方が遥かに見応えがある。
内緒だけど、彼らの必死になって走っている姿を観てるとゾクゾクするの。
ちなみにこの日は1位:五十嵐権三 2位:八嶋中 3位:十十となっていて、その他野手レギュラー陣も無難に10位以内にランクイン。意外だったのがヤーベン=Dの好走で、もし仮に猪狩守が平静を装って参加していたとしても途中で倒れるか11位以下になるのが関の山だった筈よ?
もっとも、その後の再レースでは病み上がりの状態で五十嵐権三を超えるタイムでゴールしているけれど。
後年、猪狩守は“天才は1%の才能と99%の努力~”なんて言葉を残しているけれど、正にその通り。例えどんなに努力を積み重ねても残り1%の、ホンの一握りの選ばれた人間でなければ天才と呼ばれるアスリートには成り得ないのだから。
…そういえば、順風満帆と言ったけれど、その中で唯一の躓きがあったのを忘れていた。あれは予選ブロック最終戦、都立パワフル高校との試合だったわ。
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「…何をやってるんだ貴様等は?このまま春季大会の出場権すら掴めんのなら暁で野球をやる資格など無い!レギュラー陣は次が最後のチャンスだと思えッ」
パワ高が誇る尾崎竜介・戸井鉄男・鮫島粂太郎の強力クリーンアップ相手に土壇場で引っくり返された暁は、その後も追い着き追い越されのシーソーゲームを繰り広げていた。
悪戦苦闘の末、どうにか延長15回まで凌ぎ切り再試合に持ち込んだ先に待っていたのは鬼監督の罵倒と、1年生エースに対する批判の嵐。
「いくら素質があっても高校じゃ大した経験も実績も無い1年坊だからなァ」
「ウチのバックなら誰が投げたって勝つだろフツー」
反・猪狩守の急先鋒は暁大學進学後も含め、7年間ズッと控えに甘んじていた2年生投手の洗髪星太と仲次放人。それに、この試合でギリギリの火消し役を務めた1年の抑江久郎左右衛門が追従する。
「ちょっと待って下さい。今日の試合は引き分けだったんです、そもそも彼1人の責任じゃ無いでしょう?」
延長6イニングは懲罰降板だった為に注ぎ込まれた彼ら3人の失点は合計で4。それに対し槍玉に挙げられているエースは9イニングを投げて3。猪狩守個人を糾弾するには、かなり微妙な数字だったと言える。
「だけどな澄香ちゃん。コイツが今日みたいなピッチングを絶対しないなんて、誰が保証出来る?」
「そーそー、監督の言った通りパワ高に負けたら次の公式戦は俺達にとっちゃ最後の夏になるんだぜぇ」
それでも高まる誹謗中傷の声に誰1人として猪狩守を擁護せず、堪り兼ねて兄の方を見遣っても公正な立場である筈のキャプテンでさえ、静観を決め込んでいた。
「それは…だからって彼を責めて何の意味が…」
「いやいや結構、どうぞご自由に。ただ、ボクはロードワークの時間なので愚痴を聞かせたいのでしたら走りながらにして貰えますか?」
周囲の罵詈雑言を他人事の如く聞き流し、部室から猪狩守の姿が消える。誰も彼の後を追おうも呼び止めようともしなかった。
「どうして誰も庇ってあげないの?抑江君は同期じゃない…どうして兄さん?!」
「――澄香の言いたい事は解る。だが、彼自身の態度に問題があるのも事実だ」
こういった話には一切関わろうとしない九十九宇宙が“たしかにまぁ…アカンのちゃうか?”と兄に同調すると、甲子園では猪狩守を気遣い励ました八嶋中も“アイツ、少しダメだぞ”と不満の色を隠さず、五十嵐権三に至っては“奴は気にいらん!”と露骨そのもの。
恐らく3点差で迎えた8回2アウトからの投球がそうさせたのであろう。クリーンアップとの力勝負を楽しもうと云う魂胆が見え見えのフォアボールで打順を調整し、9回も先頭打者をツーナッシングまで追い込みながら二宮瑞穂のサインに逆らい、振り逃げを許したのだ。
「マ、このまま腐るようじゃお話にならないナ」
「…彼が僕らを失望させないでくれる事を祈るよ」
どうだって良いと云う感の七井アレフトの発言に三本松一が“全くだ”と頷き、その遣り取りに六本木優希までもが加わる。一方で常日頃、最も猪狩守と衝突している人物は何も語らなかった。
せめて、何も出来なくても誰か1人ぐらいは。若さ故の独善的な義憤から部室を飛び出すと、私は猪狩守の後を追った。彼の捨てゼリフ通りなら、大体居場所の察しは付いていたから。
「Wait ! Just a Moment, Please でヤンース」
「何?今急いでるんだけど…」
でも、校門を出た付近で待ち構えていたヤーベン=Dに呼び止められてしまった。彼が言うには十十から授けられた秘策が有り、私が追って来たのなら手伝わせる様に言付かっている、と。
応じるべきか迷ったものの、結局は説得する自信の無かった私が言われるままに準備を済ませて現地へ急行すると、球川沿いの土手には案の定、独りで佇む猪狩守と素知らぬ顔で彼に近づく十十の姿があった。
「よぉ、こんな所でイメトレか?暇なら付き合えよ」
「おや、誰かと思えば確か一応ベンチに居た横田手抜だっけ?…ハハっ、同情?哀れみ?それとも本当に愚痴でも聞かせに来たのかな?」
何を言っているかまでは聞こえないが、彼の注意を引くのには成功したらしい。
後は十十の出す合図が待って、私とヤーベン=Dが登場するだけだ。
「ほ…本当にやるの?」
「Exactly でヤンース」
躊躇する私にチアガール姿で恭しく頭を垂れるヤーベン=Dのニヤついた顔を思い出すと、今でも不愉快になる。
「そーそー、勘違い野郎の泣きっ面でも拝んでやろうと思ってなァ~…とでも言って欲しいかマゾ野郎めが щ(゚Д ゚щ)」
「だっ…黙れぇッ!! ベンチウォーマー如きがこのボクに意見する気か?! 」
十十の策とは彼の合図で私達が飛び出し“フレー、フレー、マ・モ・ル!”と、猪狩守が希望したフレーズで応援し、勇気付けると言う至極単純な物。問題なのは、私までヤーベン=Dと同じ格好をさせられている事だった。
通行人に見られたら、もしもソレが学園の関係者だったら恥かしくてもう登校出来ない。タイミング次第では他の運動部が団体で通り掛かる危険性も充分考えられる。合図はまだなのか?誰もこないうちに早く!そんな事ばかり考えていたわ。
「ヲィヲィ、何処に行くんだょ猪狩=」
「何を言っているんだ?休憩が終わったからトレーニングを再開するまでさ…付いて来い十。キミがチームの足を引っ張らないで済む様にボクが直々に練習のやり方を教えてやる」
だけど幸か不幸か十十の呼び掛けだけで持ち直した猪狩守は彼を連れて何処かへと去ってしまい、私達は秋風沁みる河川敷で出待ちのまま作戦は終了した。
それからと言う物、2人は部活後に揃って出掛ける機会が格段に増え、何をしているのかを訊ねても“スマンが今は未だ言えないょ。アイツがオレに心を開くとしたら、こんなパターンぐらいしか無いからなァ”と煙に巻くだけだった。
「ったく、人騒がせなコゾーめ…何が可笑しいんスか?」
「まぁまぁ、無事解決したみたいで良かったじゃないか瑞穂。意外と後輩思いなんだね?」
なお、後日行われた再試合の結果は13-0の5回コールドゲーム。監督に代打出場を直訴した十十のサヨナラ満塁ホームランで幕を閉じている。